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中空
鳥飼否宇
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人皆有七竅、以視聴食息、此獨无有、
嘗試鑿之、日鑿一竅、七日而渾沌死
[#地付き]――『荘子』応帝王篇
人にはさあ七つの穴があって、そいつでもって見たり聞いたり食べたり呼吸したりしてるというのに、あいつ(渾沌《こんとん》)だけはこれをもってないんだ。だから試しに穴開けてやろうよ。
ということで、毎日ひとつの穴を開けていったところ、七日目にして渾沌は死んでしまったとさ。
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最初に断っておくが、この作品を読まれた読者の皆さんが竹茂《ちくも》村を探そうと思って地図帳を開かれても無駄である。国土地理院発行の大隅《おおすみ》半島付近の二万五千分の一地形図でも同じである。縮尺の問題ではない。この作品が作者の頭の中で組み立てられたフィクションだからだ。したがって万が一、竹茂という集落が現実にあったとしても、本作品とはいささかも関係がない。
同様に登場人物その他の名前が、作者の友人知人の名前によく似ていることがあっても、それはたまたまの偶然である。だから、自分によく似た名前を見つけたといって作者に肖像権を訴えても意味がないし、仮にその登場人物が殺されたからといって作者がその名の主を憎んでいるわけでもない。
信じて欲しい。
[#地付き]鳥飼否宇
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プロローグ
――莫逆《ばくぎやく》の友
七月七日の夜十時、東京は西荻窪《にしおぎくぼ》にあるバー≪ネオフォビア≫には客がひとりもいなかった。マスターの神野良《じんのりよう》はターンテーブルに新しいLPをセットすると、自らのために用意したラフロイグのオン・ザ・ロックのグラスをゆっくりと口元に運んだ。そのとき、重い扉が静かに開き、高階甚平《たかしなじんべい》が顔をのぞかせた。
「どげんしたと、金曜の夜だというのに、しけとうねえ。マスターが寂しくひとり酒ね? 七夕の夜だというのに、お気の毒さまですたい」
高階は博多弁でまくし立てると、カウンターのスツールに腰をおろした。
「そういうあんたも独り身の所在なさを紛らわせにきたんだろ。なに飲む?」
「ったく、口の悪いマスターばい。そげな調子で客商売しようっちゅうけん気が知れんたい。大体なんね、この選曲。ホークウインドの≪ホール・オブ・ザ・マウンテン・グリル≫げな。こげなセンスやけん、若い客が入らんとよ」
神野は笑みを浮かべながら、「若い客に来て欲しくって店をやっているわけじゃない。好きな酒を舐《な》めながら、好きな音楽に身を委《ゆだ》ねる。嫌いなら来なければいい。それより、なに飲む?」
「って言うてもくさ、ここ、ほとんどスコッチしか置いてなかろう。そやね、タリスカー十八年をストレートで頼みまーす」
「いい選択だ。ウイスキーはシングル・モルトに限る。タリスカーはスカイ島産の甘い香味のある逸品だ」
この店はバーといっても、カクテルの類《たぐい》を一切置いていない。酒はほとんどがスコッチ・ウイスキー、あとは数種類のアイリッシュ・ウイスキーとギネス・ビールのみ。非常に偏った品揃えといえる。
偏ったといえば、高階が指摘した通り音楽の趣味もかなり筋金入りだ。一千万円近くかかったという音響設備はこの店の呼び物のひとつだが、絶えず流れているのは六〇年代から七〇年代にかけてのブリティッシュ・ロック一辺倒。壁一面を埋めたLPレコードのコレクションは五千枚をくだらない。
商売というより道楽に近く、それだからマスターの神野は客が入らなくても一向に困った様子でもない。何人かの常連が気の向いたときに顔を出す程度で、どうやって店が維持できているのか不思議である。
高階もそんな常連客のひとりで、週に二、三回の割合で律儀にやってきては無駄口を叩《たた》いている。神野よりも三、四歳若い彼は、高階甚平という古風な名前に似合わず、イラストレイターとしてはそこそこ名前が売れており、そうと知っていればスキンヘッドに黒縁眼鏡、詰襟のスーツという奇抜なファッションも理解の範囲内かもしれない。スリムならばそれなりに似合うのだろうが、小熊のようで愛くるしくさえ感じる体型にはいささか不釣合いである。
神野と高階は大学時代からの知り合いだった。野生生物研究会という、現在のふたりからはおよそ想像がつかないサークルの先輩後輩であった頃から数えると、十五年近い付き合いになる。
「甚平、『竹取物語』って読んだことがあるか?」と、タリスカーのグラスの脇にチェイサーを置きながら神野が訊《き》いた。
「『竹取物語』っちゃ、かぐや姫の話のこと? そりゃ小さか頃におふくろから読んでもらったような気はするばってん、自分で読んだ記憶はなかねえ」
「じゃあ、話の筋書きを覚えているか?」
「マスター、いきなりどげんしたと。今晩が七夕だからっちゅうても……あ、七夕は織姫と彦星たい。かぐや姫は……そうたい、じいさんが山で竹を切ったら、中から小さなお姫様が出てくる話やろうが?」
「それから?」
「えっと、どげんなったかいね。最後は月からの使者が来て、一緒に月に帰るとじゃなかったやろか」
高階は注文した酒を一口|啜《すす》りながら、戸惑い気味に答えた。
「そう、かぐや姫の話では最初と最後のシーンの印象が強烈で、肝心の中心部分はすっかり忘れられがちだ。光り輝く竹の中から小さくてかわいいお姫様が出てくるシーンや、月から絢爛《けんらん》豪華な使者の一行が舞い降りてきて成長した姫を連れ帰るシーンが際立っていれば、子供向けのお話としては、上出来なのかもしれない。
しかし実際に『竹取物語』の大部分を占めるのは、美しい姫をめぐって時の権力者たちが繰り広げる争奪戦の様子と、それをかわす姫の機知にとんだ振る舞い、その滑稽《こつけい》な顛末《てんまつ》なんだ。この部分はわれわれが現在読んでもなかなか面白い」
「どげんしたとね、いったい。『竹取物語』がなにかマスターの琴線に触れたわけ?」
「ああ、これを見てくれ」神野はそう言って、一枚の紙切れを高階に手渡した。「今朝来たメールをプリントアウトしたものだ」
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神野良さま
相変わらず流行《はや》らない飲み屋などやっているのでしょうね。たまにはお邪魔したいのですが、こちらには珍客到来。猫田《ねこた》くんと一緒に竹取物語の旅に出ることになりました。なかなか興味|津津《しんしん》な展開になりそうです。
さて、どんなお宝に出会えますやら。戻ったら、また連絡します。
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[#地付き]観察者 トビ
「なんね、これは。トビって鳶山《とびやま》さんのことやろ? 鳶山さんがネコと一緒にどうしたっていうとね。そもそもネコ――あの写真屋――がなんで鳶山さんのところにおると?」
「詳細はオレにもわからない。ただ、トビが連絡してくるのは、興味深い事件に出くわしたときと相場が決まっている。この文面だけからではわからないけれど、なんか思わせぶりで楽しそうだなと思ってさ」
「確かに鳶山さんはいっつも腹の中でよからぬことばっかり企《たくら》んどうけんねえ。それにしても『竹取物語』の旅ってなんやろか?」
「わからないから、さっそくこれを買ってきて、読んでいたのさ」
神野がカウンターの隅から持ち上げた本こそ、文庫版の『竹取物語』であった。
「それで、なんかわかったと?」
「いや、さっぱり。さっきも言ったように、どれだけ実際の『竹取物語』を知らなかったかはわかったけど……」
「マスター、この本借りてもよかね。ひとつ小生が鳶山さんの悪巧《わるだくみ》を看破しちゃろうたい」
高階はそう言って、文庫本を詰襟スーツのポケットに無造作につっこんだ。
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第一章
――発端から第一夜、竹茂村の概観を知る
歩けども歩けども目的の集落が見えてこない。カメラにレンズ、三脚などの撮影機材だけで十キロ近くある。それに最低限度寝泊りに必要な野営道具や着替え、食料などで荷物の総重量は十五キロ程度にはなっているはずだ。
しかし弱音は吐いていられない。先導する鳶《とび》さんの荷物は確実にもっと重い。肩越しに背負った頭陀袋《ずだぶくろ》だけで優にわたしの荷物の重量は超えているだろう。中にはツァイスの双眼鏡やらスワロフスキーの望遠鏡やら、なぜかピンチョンの翻訳本(ハードカバーで上下巻!)までもがつめこまれている。それだけならまだしも、わざわざクーラーボックスまで持ち運んでいる。ビールの五百ミリリットル缶とドライアイスがびっしりつまっているのだ。いくらキャスターがついているとはいえ、未舗装の山道を引きずって歩くのは無謀の挙だ。
それなのに鳶さんは飄飄《ひようひよう》と前を歩いている。息があがっている様子もない。悔しい。悔しいからわたしも歩き続けている。
山麓《さんろく》に車を駐《と》めてからかれこれ小一時間は経っただろうか。昨日の雨を含んでむっと香るスダジイやアラカシの照葉樹の重たい林が切れ、周りはいつしか清清《すがすが》しい竹林だ。ほどよい疲れが原因で脳内麻薬が放出されたのか、夢心地になってきた。圧倒的な竹林によって仙境に誘われた気分。
(竹林、写真《え》になる。撮らなきゃ)と思ったとき、前から声が聞こえてきた。
「ようやく竹茂《ちくも》村に着いたようだね、猫田《ねこた》くん」
わたしの名前は猫田|夏海《なつみ》。性別女性、二回目の大厄を迎えているが、信心深くはないのでお祓《はら》いなどはしていない。大学に現役ストレートで入学したところまでは順調だったが、途中で挫折《ざせつ》し退学してからは植物写真家を生業《なりわい》にしている。女性を売り物にはしたくないので、女性写真家と呼ばれるのは遺憾だ。かといってカメラマンと呼ばれるのにも抵抗が残る。カメラウーマンと呼べというのではない。カタカナで呼びたければフォトグラファーでお願いしたい。
さて、今回の竹茂村へ行くことになった経緯を説明しておこう。
出版社の発想がいかに画一的かという証左でもあるが、某雑誌から「世界遺産をめぐる旅」などという二番|煎《せんじ》どころか百二番煎くらいの企画がもちあがり、その仕事の一部がわたしに回ってきた。屋久杉《やくすぎ》の撮影の仕事だ。屋久杉からすれば、いわばわたしは百二番目の写真家ということになる。いささか幻滅。
ともあれ、屋久島で実際に目にした縄文杉や紀元杉、万代杉などの巨木には神神しささえ感じた。屋久杉とは屋久島に自生する樹齢千年以上の杉のことをいう。平安時代の頃から刻み込まれた年輪の厚みに圧倒されながらも、わたしはなんとか百二番手のプロの沽券《こけん》にかけて撮影を終えた。おかげでかなり気力を消耗したわたしは、久しぶりに鳶さんに会いたくなった。
鳶さん、本名は鳶山久志《とびやまひさし》。三月生まれの三十七歳。
彼は同じ大学のサークル、野生生物研究会の三つ先輩にあたる。歳の差は計算してもらえばわかるはずなので、彼が大学に入るまで何年苦労したかなどわたしがあえて告げ口する必要はないだろう。
大学卒業後十年以上も東京の出版社に勤務した鳶さんは、数年前に急に会社勤めに嫌気がさして鹿児島に移住した。もっと人間らしい生活を取り戻すためというのが彼の言い分だが、本当は百二番煎の企画しか会議で通らないような日本の出版社の体質に飽き飽きしたのではないだろうか。
こちらに移り住んでからの鳶さんは、ひたすら野鳥や昆虫を眺めて暮らしている。自称プロの「観察者《ウオツチヤー》」だという。観察ばかりの毎日でどうやって生計を立てているのか、そんな生活が彼の言う人間らしい生活なのかどうか、はたまた包丁が嫌いな彼がちゃんと自炊などできているのか、わたしには謎であるが、酒飲みの相手として不足はない。
鹿児島一の繁華街、天文館《てんもんかん》の場末の小料理屋で五年ぶりくらいの再会の乾杯を交わしたあと、わたしは梅雨に煙る屋久杉の威厳に満ちた美しさや、それを写真で表現することの難しさなどをつれづれに語っていた。鳶さんは長い手で頬杖《ほおづえ》をつきながら終始にこにこしてわたしの話に聞き入ってくれていた。なにしろ彼は手足が存分に長い。テーブルの下で組まれた足は、知恵の輪みたいにもつれている。
(ところで鳶さん、どうやって生活しているんですか)と、話題を変えようとしたちょうどそのとき、カウンターでひとり肴《さかな》をつまんでいた男が、右手に箸《はし》を持ったままくるりとこちらを振り返り、突然話しかけてきたのだった。
「お聞きするところ、植物写真家の先生でいらっしゃるようで」
歳の頃は四十代半ばか。小柄だが、代赭《たいしや》色というのだろうか、レンガのように日に焼けた精力的な風貌《ふうぼう》。よく動く大きな瞳《ひとみ》が内面に渦巻く好奇心を物語っている。
もらった名刺によると男の名は池旅庵《いけりよあん》。本名なのだろうか? なんでも南九州各地の村村を回って、医薬品を中心とした生活必需品を行商しているらしい。頼まれると本や雑誌なども届けるのだとか。融通のきく置き薬屋さんといった感じの商売だ。
で、話というのはこんな内容だった。
大隅《おおすみ》半島の先端近く、肝属《きもつき》郡|佐多《さた》町と田代《たしろ》町、それに内之浦《うちのうら》町の境あたりに竹茂という集落がある。このあたり、稲尾岳《いなおだけ》を筆頭に千メートル弱の山が連なる肝属山地と呼ばれる一帯で、日本有数の照葉樹の原生林は国の天然記念物にも指定されている。山は高度こそそれほどでもないが重畳と深く、道もろくに整備されていない。そのため交通の便ははなはだ悪く、さながら陸の孤島といった趣であるらしい。竹茂という名前の通り、集落の周囲には竹が生い茂っており、住人は筍《たけのこ》、竹細工に竹炭、山で獲《と》れる猪の肉などを収入源として細細と暮らしているという。
その竹茂村に池旅庵の友人の恵光《めぐみひかる》という人物がいる。その人物の話によると、竹茂村では現在、珍しいことに竹の花が見られるというのだ。
ご存知だろうか、タケ類は通常地下茎で増えていく(無性生殖という。地下茎が地上に頭をのぞかせたのが筍だ)ため、めったに開花しない。それが数十年に一度、一斉に開花(有性生殖)するのだ。開花周期ははっきりわかっていないが、マダケやハチクでは約百二十年おきとも言われている。竹の花はそれだけ珍しい。
話が本当ならば、植物写真家としてこんなチャンスを逃すわけにはいかない。
「村人に頼まれた品物を持って、わたしは明日から竹茂に出かけるのですよ」
見ると、名札がついた商品が行李《こうり》にぎっしりとつまっている。上になっている荷物には名札がかかっていて、〈明さん〉宛ての名札は入れ歯の洗浄剤、〈匠さん(たくみさん?)〉宛ての名札は立派な書籍だ。『阮籍《げんせき》の詠懐詩とその時代』とある。〈柳さん〉宛ての名札がついた生理用品もある。これらに隠れた下のほうにも風邪薬や鎮痛剤などの常備薬、除草剤や殺鼠剤《さつそざい》などの薬品、最新号の雑誌や漫画などの書物も見える。
旅庵は鹿児島市内で一泊し、翌日から竹茂村に出かけるとのこと。こちらは幸いひと仕事片づいたばかりのところ。依頼元の出版社に撮影した屋久杉のフィルムを送ったり、取引先の編集部に東京の自宅に戻るのがしばらく遅れる旨の連絡をしたりの段取りをつけたあと、一日遅れで旅庵のあとを追うことに決めたのだった。さしせまった予定のない鳶さんも同行してくれることになった。
張り切って出かけてきたのはよいが、旅庵が残してくれた地図によると、竹茂村は想像以上に辺鄙《へんぴ》な山奥の集落であった。〈竹茂へ7kmの標識が立った、村の入り口と思《おぼ》しき集落から先は、いきなり道幅が二メートルにも満たないような未舗装の山道なのだ。生い茂った雑草の間に轍《わだち》のあとらしき痕跡《こんせき》はあるが、軽の四駆でもない限りこれ以上車で突進するのは無理だと判断。仕方なく鳶さんの車から荷物を降ろして、ここまで歩いてきた。
昼前に鹿児島市を出発したのに、もう陽が傾き始めている。夏至が過ぎて約二週間。まだ日は長いが、それでも日没まではあと二時間あまり。
周囲は、竹、竹、竹。気がつくと一面の竹林だった。
タケ類は、分類上はイネ科に属しており、もともとアジアの熱帯から温帯にかけて多く分布している。温暖な気候の鹿児島県はタケ類の生育に適した土地柄だといえる。
竹といって多くの人がまず思い浮かべるのは、稈《かん》が太く食用の筍としても最もポピュラーなモウソウチク(孟宗竹)だろう。現在日本での栽培面積が一番多い。モウソウチクは中国原産の竹であるが、江戸時代に琉球《りゆうきゆう》を通って薩摩《さつま》藩に伝来したという。
モウソウチクよりやや小振りで竹細工などに幅広く用いられるのがマダケ(苦竹)やハチク(淡竹)。これらは日本原産ともいわれているが、定かなことはわからない。やはり鹿児島県下では普通に見られる。佐多岬の南西約三十キロメートルのところには竹島という島もある。全島がメダケの一種、リュウキュウチク(琉球竹)で覆われた島だ。この竹は別名デミョウチク(大名竹)ともいい、食用筍の王様と呼ばれる甘い風味を持っている。
このほかにも鹿児島県ではカンザンチク(寒山竹)、ホテイチク(布袋竹)、ヤダケ(矢竹)、ナリヒラダケ(業平竹)など多種のタケ類を見ることが可能だ。ま、あまりくわしく述べても退屈だからやめておこう。
話を戻すと、そこはモウソウチクとハチクの混生林のようで、青青と垂直に屹立《きつりつ》するモウソウチクの間に、ふた回りほど細めで淡い緑のハチクが混じる。濃淡あざやかな緑のコントラストをひきしめるべく、林床には無数の枯れ葉が敷きつめられ、差しこむ午後の陽光に黄金色に染まっている。いましも蕭蕭《しようしよう》と吹き始めた風にさわさわと竹葉が靡《なび》き、額にかいた汗が冷えて心地よい。いつのまにか夢見心地だ。
どこまでも視界一面に立ち並ぶ竹林は異界への入り口のようで、見つめるうちに現実感は薄らいでくる。この先にどんな世界が待ち受けているのか。(写真《え》になる)胸中ではすでに構図が決まり、(撮らなきゃ)いざカメラをザックから取り出そうとしたときに、現実に引き戻された。
「ようやく竹茂村に着いたようだね、猫田くん」
鳶さんが指さすほうを見てみると、こちらに向かって大きく手を振る人影がある。旅庵のようだ。村人らしき人影も見えた。
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「こんな遠方まで、ようこそいらっしゃいました。迷いませんでしたか」
旅庵が快活に声をかけてきた。そして、両脇の村人を紹介してくれた。
「こちらが竹茂集落の自治会長の源隻《みなもとひとつ》さん、この小さな村の村長さんみたいなものです。源隻を音読みにして、ゲンセキ村長で親しまれています。そして、こちらが前にも話をした恵光さん。ゲンセキ村長のサポート役で、みんなからはメグミどんと呼ばれています」
源隻と紹介された男、年|恰好《かつこう》は五十代初め。頭の後ろで束ねた長髪に、ところどころ白髪が混じってきている。長髪に藍染《あいぞ》めの作務衣《さむえ》がよくマッチしており、人懐っこそうな笑顔を浮かべ、迎えてくれた。
「旅庵さあから話は聞いちょりもす。おまんさあたっ、わざわざ竹ん花ば撮りにごじゃりもしたか。おやっとさあ。さあゆっくいしやったもんせ」
薩摩弁である。正確にはヒアリングできていないと思うが、意味は大体わかる。
「旅庵さんから話は聞いています。あなたたちは、わざわざ竹の花を撮りにいらっしゃったのですか。大変ですね。どうぞゆっくりしてください」ということであろう(村人の方言はなまりが強かったが、以降はわたしが理解できた範囲で記述していくことにする)。
一方、恵光なる人物は旅庵と同じくらいの年齢か。大きい。百八十センチはあるだろう。加えて土気色の顔にこけた頬、頑《かたく》なそうな太い眉《まゆ》が近寄りがたさを醸し出している。短く刈り込んだ精悍《せいかん》な頭から突き出た先のとがった耳が居丈高だし、頬骨から急角度で落ち込んだ眼窩《がんか》から発せられる眼光はよそ者を焼き殺さんばかりだ。メグミどんの愛称と裏腹、お世辞にも親しみやすいとはいえない。右の腰から下げた大ぶりの刃物も威圧的だ。
それでも、重たそうな唇の端がわずかに緩んだのは、一応わたしたちに対する挨拶《あいさつ》だったのだろうか。
「突然お邪魔して申し訳ありません。相棒がどうしても竹の花を撮影したいと言うもので。わたくしが鳶山久志で、こちらがその相棒です」
鳶さんが臆《おく》することなく自己紹介をすべりこませたのに乗じて、わたしも、「植物専門の写真家で、猫田夏海といいます」と名乗った。
「もう日も翳《かげ》ってきちょるで、お望みの竹の花は明日にでもゆっくり撮影するとよかでごあそう。外からのお客などめったになか村ごあすで、今晩は村人を集めて宴席を開きもす。それまでどうぞ、村でも見て回りやんせ」
ゲンセキ村長はそう言うと、旅庵にわたしたちの案内を任せて去っていった。
「では、のちほど」
去り際に初めてメグミどんが口を開いた。
それからしばらくは旅庵の案内で村を一周した。
竹茂は時代に置き去りにされたような集落だった。送電線こそ数年前にようやく通じ、電気と電話は使えるようになったが、水道やガスは当然のごとくひかれていない。水は井戸、火は竈《かまど》という生活スタイルがいまでも残っている。
集落は、おおむね小学校の校庭ぐらいの広さで東西に開けている。北側には山が迫り、南側にはわたしたちがのぼってきた林道が通じている。それが集落外と結ぶ唯一の道だそうだ。小さな閉空間に民家は七軒。たったそれだけが肩を寄せ合うように集まっている。
民家の西のはずれに神社がある。朽ちかけた鳥居のむこうの参道は急斜面に石段が刻んであり、先は薄暗くて窺《うかが》い知れない。
「業盛《なりもり》神社といいます。境内にあがってみましょうか」
旅庵に誘われたが、さんざん山道を歩いてきたあと、過酷な急坂に挑戦する気にはならない。わたしの弱腰の姿勢を読みとったのか、鳶さんが、「いまは遠慮しておきます。ところで業盛というと、平家ゆかりの神社ですか?」
「平業盛の墓はこの南の鬼界《きかい》ケ島《しま》にありますが、壇《だん》ノ浦《うら》で破れて逃走する途中に立ち寄ったとかなんとか。わたしも詳しいことはよく知らないのですが」
鬼界ケ島は正式には三島村|硫黄島《いおうじま》。さきほどふれた竹島の隣の島だ。この島には平家の落人《おちうど》伝説が多く残っていて、平業盛以外にも平|経正《つねまさ》や安徳帝などの墓所がある。それよりもむしろ俊寛僧都《しゆんかんそうず》が流刑にあった島としてのほうが有名かもしれない。
「業盛ゆかりの神社があるということは、この村ももともとは平家の落人が隠れ住んだ村なのかな。そのわりにはさっきの村長さん、源って姓だったけど……」と、わたしが疑問を発した。
「南九州の山間部には落人伝説が多いからそれもありうるね。でも、平家を追ってきた源氏の末裔《まつえい》の村という可能性もある。子守唄で有名な熊本の五木村にも、村人のルーツは平家の落人という説と源氏の末裔というふたつの説が混在しているようだし、平家も源氏も末端のほうになると意外と表裏一体なんじゃないかな。ルーツなんて厳密にはたどれないことのほうが普通さ」鳶さんが考えながら答えてくれた。
わたしもそんなものだと思う。後世の人が伝説や伝承を利用して、適当に神社を祀《まつ》ったり、姓を名乗ったりすることは珍しくはないだろう。とはいえ、この山峡《やまかい》の集落はいかにも平家の落人にふさわしく感じられる。
「でも待てよ、ひょっとしたら一字姓の影響かもしれないなあ」鳶さんが言う。
「一字姓って?」
「鹿児島県には池さんとか恵さんとか一字姓の人が多いんだけど、もともとは奄美《あまみ》由来の姓らしいんだ。薩摩藩が南西諸島を支配下に置いていた頃の一種の隔離政策で、姓を一字に限定したんだって。現在でも奄美に行って電話帳をめくれば、加《くわえ》さんとか中《あたり》さんとか一字の聞き慣れない姓が驚くほど多い。また、勇《いさむ》さん、高《たかし》さん、元《はじめ》さんといったまるで下の名前のような姓が多いのも特徴的で面白い。源と元って、音も意味も似ているから、そんなことを思い出した」
神社から逆方向、集落の東に向かうと、途中に井戸があった。村人の生活を支える大切な水源だ。〈天池《てんち》の井〉というらしい。とても大仰な名前だ。
さらに東に進み、民家の前を横切る。
「まわりが竹だらけなので、当たり前と言えばそれまでですが、ここまで竹にこだわった建築物はそうはないでしょう。文化財級ですよ。もっとお役所にアピールしたほうがいいと、わたしは言っているのですが」
旅庵はそう言い、博識をひけらかすように説明をしてくれる。
「民家を囲う垣根は、竹をぶっちがいに斜めに交差させ棕櫚《しゆろ》縄で結びとめた光悦寺垣《こうえつじがき》に近い豪快な組み方で、竹茂独特のものです。
屋根も竹で葺《ふ》かれているでしょう。十センチくらいの径の竹をふたつに割り、表裏を交互に葺いていく大和葺《やまとぶき》という技法です。九州では永く伝えられた技術らしいのですが、いまではほとんど見ることはありません。家の中に入るとわかるのですが、天井は煤《すす》竹で……」
旅庵の説明は続いているが、わたしは垣根越しに透けて見える人影のほうに気を惹《ひ》かれていた。
太い竹に邪魔されて、部分部分しか窺《うかが》えないが、七十歳は超えているだろうかなり高齢の老人が若い女性と手をつないで、母屋の縁側から奥の別棟のほうへ向かってゆるゆると歩いていく。親子以上に年齢差があるようだ。
わたしの視線に気づいたのか、旅庵が説明を中断して教えてくれた。
「……床に竹を敷きつめ……あれ、猫田さん、なにを見ているのですか。あ、柳玲《やなぎあきら》さんだ。みんなアキラさんと呼んでいます。アキラさんは若くして視力を失い、ああして介添えがないと外を歩けなくなってしまったのですよ。奥の建物は厠《かわや》です。猫田さん、だからあまり見つめると失礼ですよ」
たしなめられてしまった。
(あの女性のほうは誰だろう。アキラさんの孫だろうか。美しいひとだ……)
ふと、旅庵の行李《こうり》に〈柳さん〉の名札がついた荷物が入っていたことを思い出した。名前を確かめたかったが、すでに家屋の説明に戻り、口角泡を飛ばしている旅庵の話の腰を折るのはちょっと気がひける。
「……特に珍しいのが梁《はり》の部分で、すのこ状に細竹を並べ……」
鳶さんは飽きもせず、旅庵のことばに頷《うなず》きながら聞き入っていた。
旅庵の案内はそのあとも続き、わたしたちが宿泊用にあてがわれた集会場に着いたのは、それから一時間以上も過ぎたあとだった。
「旅庵さんは物知りだねえ、ずいぶん勉強しちゃったよ」
缶ビールを片手に、鳶さんが寛《くつろ》いでいる。苦労して運びあげたクーラーボックスの中で冷えていたものだ。わたしも一本、お相伴にあずかり、「鳶さんは熱心だったけど。こっちはいいかげん疲れちゃった」と、本音をもらす。
あのあと旅庵に案内してもらった場所をかいつまんで説明しておこう。
民家の裏手、北側の斜面にはひとすじの道が庵《いおり》と炭焼き小屋に続いている。
庵は茅葺《かやぶき》のなんでもないつくりに見えるが、このあたりにも自生しているリュウキュウチクの小枝で葺いている様式は琉球の民家に共通する特徴で、大変珍しいとか。〈胡蝶亭《こちようてい》〉という風流な名前がつけられている。
炭焼き小屋のほうでは、村人が交代で竹炭を焼いているらしい。健康ブームのおかげで需要が伸び、村の一番の収入源になっているそうだ。
集落の東には、これもまた竹で組んだ柵《さく》があり、猪が数頭飼われている。筍を掘りにやってきた猪を仕掛けた罠《わな》で生け捕りにしたもので、村の共有財産だとか。通常外部と取引されるが、祝祭があると村人の食卓にものぼるという。
「今晩の宴会用にもこのうち一頭が供されるはずですよ」
旅庵はうれしそうにそう言ったが、生きている姿を見たばかりのわたしはどうも食欲が湧かない。
罠の実物も見せてもらったが、これがなかなかに大掛かりだった。弾性に富む三センチ径くらいのハチクをぐっと枉《ま》げ、先端を地面に固定している。その先端に針金で作った輪がついている。筍に誘われた猪が輪っかを踏み抜くと、留め金が外れて針金が絞られ、あわれ猪は竹の弾力で空中高く撥《は》ね上げられる寸法。西部劇などの映画では目にしたこともある撥ね上げ式の罠だ。
猪飼育場の脇からさらに東に伸びた踏み分け道は、谷をくだって川に通じている。井戸以外にも水源はあるわけだが、こちらは険しい斜面を二十分も降りなければならないということで、もっぱら魚獲り場や洗濯場として利用されているそうだ。
最後にここ集会場が〈大鑪堂《たいろどう》〉。わたしたちが寛いでいるのは、二十畳敷きの床の間つきの和室で、真中あたりに衝立《ついたて》が立ててあり、簡単な仕切りとなっている。仕事柄野営や車中泊も多いわたしは顔見知りの男性と同じ部屋に泊まることに別段抵抗はないが、こうした配慮はそれでもありがたい。
隣はかなり広い土間の作業場になっており、炊事ができる設備も整っている。村人が竹細工をしたり筍の加工をしたりする場所として使われているらしい。
以上が竹茂集落の概観だ。
「結《ゆい》だな」
ビールを喉《のど》に流し込みながら、鳶さんがぽつんと言った。彼の発言は時として唐突過ぎて意味がつかめない。解説を求める。
「竹茂村という共同体を支えるしくみだよ。竹林資源全体を村人が全員の共有財産として管理し、炭焼きや竹細工などの労働も全員で提供しあう、そういう組織運営のしくみを結と呼ぶんだ。昔から、稲作農家では田んぼこそ私有地でも、労働力や農業用水は村人共通のものという暗黙の了解があった。だから、田植えのときには全員で力を貸しあったし、我田引水は軽蔑《けいべつ》の対象となった。竹茂村では、もっと強く結の力が働いているような気がするね。竹林やそこで取れる筍、猪はもちろん、ひょっとしたら、土地や家まで私有財産ではなく、村の共有物なのかもしれない」
「それじゃあ、まるで共産主義みたいじゃない?」
「いやいや、そんなイデオロギー的なものではなくって、小さな共同体が存続していくための知恵のようなものだよ。実際、日本各地の村落で似たような習慣は残っているわけだし。ただ村内部の結束が強い分、外部に対する排斥感情も強いかもしれない。気をつけて行動したほうがいいかもしれないな」
鳶さんはそう言い置いて、ハードカバーの翻訳本に向かった。『重力の虹《にじ》』――この場の雰囲気にそぐわないことおびただしいと思いつつ、わたしは、残ったビールを一気に呷《あお》った。
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酒宴は午後八時から始まった。
集落から二十メートルほど斜面をのぼった高みに設営された胡蝶亭が会場だ。このあたり、山の肩にあたるのだろうか、南側が大きく開けて展望がきく。足下に見渡せる竹茂村の先には、わたしたちが車を置いてきた麓《ふもと》の集落の灯も見える。折しも上弦を三日ほど過ぎた銀杏《ぎんなん》のような月が南中している。
胡蝶亭は八畳敷きほどの広さの広間と襖《ふすま》で仕切られた三畳程度の奥の間、さらに簡単な煮炊きができる炊事場からなる小振りな庵であった。その広間に集まった村人は、すでに挨拶《あいさつ》を交わしたゲンセキ村長、メグミを含めて五人。それに旅庵と鳶さん、わたしを加えた八名で宴が始まった。
「竹茂には現在七つの家がありもす。ここにはその当主が集まりもした」
ゲンセキ村長が口火を切った。
「村の長老で今日は寝込んじょる杉《すぎ》家の当主|透《とおる》さんと、目が不自由な柳家のアキラさんには、残念じゃが出席いただけんじゃった。おい(=おれ)の名は源環《みなもとたまき》ごあす。ゲンセキ村長と区別するために、ゲンカンと呼びやんせ」
いきなり握手を求めて右手を突き出してきた。鳶さんもわたしもあわてて握手に応じた。そのゲンカンはゲンセキ村長の甥《おい》だという。まだ三十歳代だろう。恰幅《かつぷく》のよい体格で、声も大きく押し出しのきくタイプ。黒黒と繁った口ひげが豪放そうな印象を強めている。
対照的に隣の男性はやけに痩《や》せていて、背が高い。というより首が長い印象か。眼鏡をかけたキリンのような蒼褪《あおざ》めた顔。想像通り神経質そうな細い声で自己紹介をした。
「はじめまして、匠周《たくみあまね》です。巨匠や師匠の匠でたくみ、世界一周の周であまねと読ませます」
「みんな、タクミ先生と呼んどる」とゲンカン。
(あの難しげな本を注文した人だな)と心の中で呟《つぶや》く。
最後のひとりは若い。見た目は高校生くらいの感じで、大人たちの中でひとり退屈そうな様子。ウェイブのかかった黄褐色の髪が眉《まゆ》も耳も覆っている。隅の柱に背中を持たせかけて、どことなく不貞腐《ふてくさ》れた物言いである。
「旺《さかえ》家の充《みつる》じゃ」
「旺家にはこのミツルしかおらんとでごあす。村一番の若者じゃって」
すかさずゲンセキ村長がフォローした。
みんな一字姓だ。頭で顔と名前を復習する。
(リーダー格が長髪の源隻=ゲンセキ村長、
強面《こわもて》の大男がサポート役の恵光=メグミどん、
口ひげを生やし快活な源環=ゲンカン、
眼鏡キリン顔の秀才タイプが匠周=タクミ先生で、
茶髪のすねた高校生みたいな旺充=ミツル。
ここに来てないけれど杉透=長老に、
さっきみた盲目の老人が柳玲=アキラさん)
なんとか覚えられそうだ。
そのうちに、女たちが用意した料理が座敷に並べられた。当主の男たちだけが寛ぐ中、女性は名前を紹介されることもなく黙黙と働いている。九州の山奥ともなると、男女の立場の格差がまだ強く残っているのだろうか。女性としてひとり宴《うたげ》に参加しているわたしはいささか居づらい思いをした。
並べられた料理は、筍の煮物、山菜のてんぷら、川魚の佃煮《つくだに》に、メインはやはり猪|鍋《なべ》だ。猪の刺身もある。新鮮な肉でなければ刺身には向かないという。
いかにも山奥の田舎料理のオンパレードであるが、材料が新鮮なためか、とても食べやすい。敬遠していた猪鍋もこくがあって美味《おい》しい。
「しし刺しも食べやんせ。しし肉ばずんばっと食べると体がほかほっかして寝付けんど」源環のそんなことばにも性的な差別意識が潜んでいるように勘ぐってしまい、刺身には手を伸ばす気になれない。
鳶さんのほうはうまいうまいと舌鼓を打ちながら勧められるままに箸《はし》を進めている。焼酎《しようちゆう》も大分入ってきた様子だ。
最初は植物写真家の仕事についてなど、問われるままに答えていたのだが、一通り話題が尽きたところで、こちらから質問を繰り出した。ずっと訊《き》きたかったことだ。
「どうしてこの席には女性の方が参加なさっていないのでしょうか?」
和やかだった場に微量の電流が走ったような気がした。少し間があってゲンセキ村長が答える。
「外から客人を迎えるのは昔から家の当主たちの務めじゃ。じゃっで当主が女じゃったら参加する場合もある」
「ボクも気になっていたことをお訊きしますが、竹茂村は昔からずっとこんな小さい共同体で続いてきたんですか?」鳶さんが発言した。
「現在は七世帯あるが、最初こん村ができた頃は八世帯じゃった。おまんさあがたは老荘《ろうそう》思想をご存知かい?」
「老子や荘子という中国の思想家たちの?」高校時代に習った覚えはあるがうろ覚えである。「それがなにか?」
「わしらの祖先、こん村の創始者たちは小国寡民の考え方を理想とし、それを実践するため集まったちゅうことじゃ」
「小国寡民、老子の説いた理想郷ですね。小さな国で人口も少なく、他国との出入りもなくすれば競争のない平和な国が実現できるという。驚いた、そんな夢のようなユートピアを求めている人たちがいたとは」と、鳶さんは本当に眼を丸くしている。
ゲンセキ村長が続ける。「理想を言えば外の村との行き来を遮断して、完全自給自足の生活をするのが一番なのじゃが、現実にはそうはいかん。外から多少なりとも食糧や生活必需品を仕入れる必要があるし、そのために村でも生産活動が必要じゃ。最低限度の経済活動は行っておる」
さらに驚くような説明が続いた。
商品が流通すると同時に人も行き来することになる。人口の流入や流出もあるが、村の秩序が保てないほど人が増えても困るし、村が存続できないほど人が減っても都合が悪い。それで、理想郷作りに賛同する八人の男が集まって竹茂村を作ったときに、村を運営する規範が決められたという。
その定めによると、各家とも実子養子にかかわらず、また嫡子庶子にかかわらず、最初に婚姻関係を結んで子供を儲《もう》けた男性が継嗣《けいし》となり、その家の家督を相続する。他の子は村を去り、外の世界で暮らして行くのだという。こうして絶えず八世帯のみを維持していくのだ。要は生殖能力の高い男が家を継ぐしきたりではないか。
「二十年ほど前にちょっとした事件が起こって、七世帯十二人になってしもうたが、それ以来人口は変わっちょらん」ゲンセキ村長はそう言った。
「都合のよい男系社会のように聞こえますけど」わたしは本音をぶつけてみた。「当主の男性の皆さんは配偶者の女性をどうやって探されるのですか?」
「はっは、手厳しい意見ごあす。かかあは村の中で調達する場合もあっどん、外から娶《めと》る場合も多か。例えばタクミ先生のかあちゃんは指宿《いぶすき》の出じゃ。それに当主が男とは限らんど」
わたしの不機嫌を笑い飛ばすように言うゲンカンのことばを受け、村長が駄目を押すように、「猫田さんには不満もござるかもしれんどん、こん村はそうやって現在まで存続してきもした。女衆も別にいやいや村に残っとるわけじゃなか。嫌じゃったら自由に出て行ってんよか。現に杉家の和子《かずこ》はよか女子《おなご》じゃっど、名古屋に嫁いだが」
「わかったぞ」空気が気まずくなりかけたところで突然鳶さんが声をあげた。「この庵が胡蝶亭というのは『荘子』からの引用ですね?」
「そうです、斉物論《せいぶつろん》篇に胡蝶の夢という有名な一節があるでしょう」いままで沈黙していたタクミ先生が答えた。
高校の漢文でも習ったことがある。ある日荘子が蝶になって遊んだ夢を見た。目覚めたあと、果たして自分が蝶になった夢を見たのか、蝶が自分になった夢を見ているのか迷うという逸話だ。
「なるほど、天池の井とか大鑪堂とか聞き慣れない単語だと思ったら、そうするとこれらも『荘子』からとったのですか?」
鳶さんが問うと、「察しがいいですね、その通りです。天池は逍遥遊《しようようゆう》篇に出てくる大魚|鯤《こん》の住む海のことです。想像できないくらい大きな海のこと。これに対照的な井という語を合わせて名づけたところが妙味です。もう一方の大鑪は大宗師《だいそうし》篇からとりました。ここでいう大鑪とは、万物を生み出するつぼというような意味です」
タクミ先生が嬉嬉《きき》として答えた。
さらに、メグミどんが断定的な口調で主張した。
「わしらは祖先に倣《なら》って道家《どうか》、特に荘子の唱える万物斉同《ばんぶつせいどう》の思想、恬淡《てんたん》無為の生き方を範としちょるとじゃ」
これに対して、タクミ先生が口をはさんだ。
「万物斉同には異論はないですが、恬淡無為というのはいかがなものでしょうか。それは荘子の考えというより、むしろ無為自然を訴えた老子の考え方に近いような……」
「タクミ先生がそう言うならそうかもしれん。ばって、『荘子』の内篇だけに真実があるちゅうのは、狭義に捉《とら》えすぎでごあそう」という意見がゲンカンから出たところで、場をとりなすようにゲンセキ村長が説明してくれた。
『老子』と並んで老荘思想の源となった、中国春秋戦国時代の思想家|荘周《そうしゆう》の著作が『荘子』である。この書物、時代によって内容に異同があるらしい。現在に伝わっているのは郭象《かくしよう》本と呼ばれ、内篇七、外篇十五、雑篇十一の全三十三篇からなる。四世紀|西晋《せいしん》の時代に学者の郭象が編纂《へんさん》したものだ。この他にも五十二篇本や二十六篇本など、いろいろな『荘子』があったという。
いずれにしても、もともとの荘子の中心的な思想は内篇にあり、外篇や雑篇は後に荘子一門の手で加筆されたものであるというのが、おおかたの学者の見解であるらしい。荘子と同じく周を名乗る匠も、自ら『荘子』を研究し、話題に出た逍遥遊篇、斉物論篇、大宗師篇などを含む内篇こそが『荘子』の本質と考えているという。
(つまり、タクミ先生の立場は荘子原理主義か)という思いは胸中にしまったまま、わたしは、「道教というのか道家思想というのかわかりませんが、なぜ皆さんは荘子にこだわっておられるのですか」と、誰にともなく尋ねた。
「道教と道家思想はまったく違うものです。道教なんてものは、老荘の思想を換骨奪胎して宗教のように見せかけたもの。不老不死や神仙術なんて怪しげなものと、荘子の思想を一緒にしないでもらいたいですな」
学者肌のタクミ先生が目を白黒させて抗議を炸裂《さくれつ》させる。どうやら、地雷を踏んでしまった。
「まあ、そうむきになりやんな。客人の質問はそげん意味ではなかでごあそう」と、ゲンカンがなだめる。このふたりのかけあいは、対照的な見た目も手伝い、なかなかいいコンビネーションだ。
そのときミツルが突然割って入ってきた。
「つまり、山間の貧しく小さな村で、みんなが肩寄せあいながら慰めあってきたわけだ。そんときに救いとなるスローガンが必要だったんだろう。荘子だか老子だかの無私無欲なんて高邁《こうまい》な理想は旗印に掲げるにはもってこいだもんな」
「それは言い過ぎじゃ。物質的には決して豊かではなかったかもしれんどん、おいはなんも心まで惨めに思ったことなどなかど」と、ゲンカンが一喝する。
「いつもそうやって自己を正当化している。それこそ、井の中の蛙《かわず》だろうが」
「なんだとこん若造が、知ったような口をききおって」ゲンカンがグラスを持ったままの右手をどんと床に叩《たた》きつけたため、中の焼酎が飛び散った。
「万物斉同なんて達観したようなこと言っているけど、結局みんな目先の欲に惑わされっぱなしじゃねえかよ。ちょうどお客さんもいるし、いい機会だから教えてくれよ、なぜみんなで荘子荘子って大切に崇《あが》め奉っているんだ?」
ミツルは戦闘意欲満満だった。
「ミツル、おまえは未成年じゃっで、わかっておらんとじゃ。わしらが荘子にこだわる本当の意味を」静かにゲンセキ村長が言った。
「未成年だからわかんねえって、いつもそればっかりじゃねえか。ばかばかしい。酒も飲ませてもらえねえし、もう寝るわ」
吐いて捨てるように言うと、ミツルは胡蝶亭を去った。
「困ったものでごあす。これもあいつのせいじゃ。まずはあいつの性根を叩き直さんといかん。ともあれここはおいが行ってミツルを宥《なだ》めてくる」
メグミどんはそう言い、ミツルを追いかけるように辞していった。
どうやらこのような応酬は今夜始まったものではないらしい。傍《はた》から見ると、ミツルのような若者がこんな辺境の田舎の集落に、しかも一家の当主として居残っていることのほうが不思議であり、あの歳頃を考えると毎日の生活に退屈を覚えて焦れる気持ちもわかるような気がする。鄙《ひな》びた山奥で維持が大変だろうにわざわざ髪を染めているのも、そんないらだちの現れだと思われる。
(ミツルの言うように、村人はなぜ荘子にこだわっているのか?)
いつのまにかミツルの側に肩入れしており、疑問は膨らむばかりである。
ともあれ、わたしの不用意な質問に緒を発し、酒宴の場が気まずくなってきてしまったのは間違いがなく、このうえ重ねて事情を探るような言動は慎んだほうが無難であろう。
鳶さんに目配せをして、助けを求める。こういうときには、抜群に頼りになるのだ。
「ところで皆さん、床の間に置かれたあの笛はなんですか?」
なるほど、隅の床の間に大小ふたつの笛が見える。大きいほうは尺八、これはわたしにもわかる。小さいほうは雅楽の笛だろうか?
「どちらもアキラさんが作ったものです。どうです、すばらしい出来でしょう」
ここまで借りてきた猫のように黙っていた旅庵はそう言うと、小さいほうの横笛を手にとって見せてくれた。
「アキラは目が不自由な分、人一倍手先が器用で耳がよか。じゃっで丁寧に竹笛を作って自作自演をしもす」ゲンセキ村長が説明をしてくれる。「雅楽の横笛では竜笛《りゆうてき》が有名ごあすが、これはお神楽なんかで使う横笛に近かと思いもす。神楽笛は普通メダケで作るどん、このあたりではどうしたことか良質のメダケがとれんで、アキラはこれをヤダケで作りよる」
神楽笛は吹口のほかに六孔が穿《うが》たれており、竜笛に比べると音域がやや低いそうだ。ヤダケは材質が硬く、その名の通り、ふつう弓矢の矢などに使われる。硬い材で作った笛は、音質のほうもやや硬めだという。
「どうぞ吹いてみやんせ」という村長の勧めにしたがって、吹口から息を吹き込むが、まったく音は鳴らない。
「竹笛は難しかで、アキラでなければ演奏できん。かわりにひとつおいが尺八でも吹いてみよかい」
そう言って、ゲンカンが立てかけてあった尺八に手を伸ばした。そして、ためらうこともなく吹き始めたのであった。
尺八は長さが一尺八寸というから、約五十五センチであろうか、この長さに七つの節を持ち、表に五孔、裏に一孔が開けてある。こちらは、良質のマダケから作られるという。
そんなタクミ先生の説明を聞きながら、ゲンカンの奏でる尺八の乾いた音に身を委《ゆだ》ねるうちに、さきほどのゲンセキ村長のことばを思い出した。
――二十年ほど前にちょっとした事件が起こって……
「ゲンセキ村長、二十年くらい前にこの村で起こった事件とはどんなことですか?」結局長くは我慢できずに詮索《せんさく》してしまった。好奇心が旺盛《おうせい》なのは自分では美点だと思っているのだが。
村長は一瞬(余計なことをしゃべってしまった)という風に顔をしかめたあと、「あまり聞こえのよか事件でもなかでごあすが」と、前置きしたうえで、これもまた信じられないような事件を語り始めたのだった。
「いまでこそわしが村の代表みたいな役目をしちょるが、昔は違っちょった……」
竹茂村には当時、もうひとつの家系があったのだという。歴代集落を統治してきた、いわば領主にあたる宋《そう》家である。少し大げさに言えば、宋家の当主は小国寡民政策をとる竹茂国の国王のような存在であった。
宋家は歴代男児に恵まれ、村の外から嫁をもらって家系が続いてきたが、生憎《あいにく》当時の宋家には男の子供ができなかった。そのかわり香《かおり》という美しいひとり娘がいた。当主の宋|一《はじめ》は香の婿を村外からではなく村内で探す意向であった。
(嫁なら村外から迎えるが、婿は村内で調達という考え方がいかにも男系集団の論理だ)わたしは少なからず反感を覚えた。
「宋香の婿どんになるのは旺家のひとり息子|貢《みつぐ》か、恵家の長男光かどちらかじゃろちゅうんが、村人にとって恰好《かつこう》の話題の種ごあした。なにしろ宋家に籍を入れることは、この竹茂の集落で誰もが憧《あこが》れちょったことじゃっで」
領主である宋家は他の七つの家系よりも一段上の立場にあったらしい。したがって村の定めの例外になるが、旺貢、恵光のいずれが婿になっても、子供ができた時点で(旺家、恵家ではなく)宋家の家督を相続することになる。それは同時に竹茂村の首長になることを意味した。
ちょうど同じ歳の旺貢とメグミは、宋香よりふたつ年長であった。
旺貢は神童と呼ばれるほど賢い青年であった。メグミが中学卒業後、村に残って竹刈りや猪狩りなどのきつい仕事に従事したのに対し、貢は鹿児島市内の高校へ進学し、さらには大学に入学した。竹茂初めての大学生ということで、学費は村人全員で出し合って祝ったという。
「宋一さんもたいそうお喜びになり、旺貢の大学卒業後、娘の香の婿どんにさせると村人に宣言されもした」
結局花嫁争奪合戦は簡単に決着がついたわけだ。
旺貢はその後も怠ることなく勉学を重ね、農学部でタケの有効活用について研究するようになった。タケ類の驚異的な生長パワーに着目し、これをなんとか他の農産物の生育に導入できないか考えていたという。
順風満帆の貢が、東京の某化学会社からの就職の引き合いを断り、卒業論文に着手していた頃、誰もが恐れていた事態が起こった。
貢の父親、旺|満志《みつし》がアルコール中毒で倒れたのだ。
満志はもともとまじめな性格であったが、体の弱かった妻が貢を産んで間もなく亡くなると、次第に酒に溺《おぼ》れるようになってきた。それでも息子の貢だけは育てあげるべく、村人全員に支えられながら働いていた。
しかし、貢が大学に入り宋家への婿入りも約束されると、急に安心したのか、終日大酒を浴びるように飲むようになった。満志が極度の倦怠《けんたい》感に見舞われ、不断の幻覚に襲われるようになるまで、時間はいくらもかからなかった。
卒業論文の合間を縫って正月休みに貢が竹茂に帰省したときに、悲劇が起こった。精神に異常をきたした満志が、貢の許嫁《いいなずけ》の宋香を、無理やり犯してしまったのだ。
「実家に戻った貢が目にした光景は、あまりにもむごいものごあした。実の父親がこともあろうに、自分の許嫁を陵辱しておる最中じゃったんじゃ」
あまりの惨劇に頭に血がのぼった旺貢は、土間に置いてあった竹割用の鉈《なた》をつかむと、力任せに父親の首を――刎《は》ねた。
「首はぽーんと飛んで、障子を鮮血で染めると、部屋の外に転がり出て天池の井にぽちゃんと落ちた。井戸をのぞき込むと狂相を浮かべた血まみれの満志の顔が、月の明かりを浴びてぷっかぷっか浮かんじょった」
悲劇はそれだけではすまなかった。
父親を手にかけたことで、旺貢の正気の糸がぶち切れてしまったのだ。全身に返り血を浴びた貢は、納屋に駆け込み、父の散弾銃を持ち出した。
「そのころようやく異変に気づいたわしら村人は、家から飛び出して旺家のほうを恐る恐る窺《うかが》っちょりもした」
そこへ貢が飛び出してきて、手にした銃を乱射した。真っ先に駆けつけた恵|信《まこと》、朋子《ともこ》夫妻――光の両親――が銃弾を至近距離から浴びて即死。近くにいた柳家の主《あるじ》、武《たけし》も胸部に銃弾を無数に受けて死亡。その際に流れ弾を運悪く頭部に受けてしまった玲は重体。
さらに貢は宋家に踏み込み、眠っていた宋一、由佳《ゆか》夫妻を射殺し、最後に自ら銃口を口にくわえ、引金を引いて自害したという。
この間、たかだか十分くらいのできごとであった。
「十分間で、旺貢、旺満志、宋一、宋由佳、恵信、恵朋子、柳武の七名が死亡。なんとか一命はとりとめたもんの、アキラは両目を失明してしまいもした」
両親と恋人を同時に失った宋香は、事件の後遺症で生ける屍《しかばね》も同然の生活を送っていたが、しばらくすると赤ん坊を身籠《みごも》っていることがわかった。
「香は心神|耗弱《こうじやく》状態が続いちょったで、うちの女房がつきっきりで面倒を見ちょった。どうやら、自分が妊娠していることにもはっきりとした自覚はなかようでごあした」
そんな状態で出産させるべきかどうか、村人の意見は分かれたが、最終的には自然のままになるように任せようという結論に落ち着いた。
(それって、無為自然ということなんだろうか……)不謹慎な考えが浮かんだ。
香はなんとか男の子を産み落とした。ちょうど中秋の名月の晩であったという。生まれた男の子は周囲の心配をよそに大変元気であった。その代わり、母親の香のほうがまるで満月にかどわかされるように、出産のショックで数日も経たないうちに命を落としたという。
「そうして、母親の命と引き換えに生まれてきたのがミツルごあす」
「それで、ミツルくんの父親は誰なんですか? 旺満志さんか旺貢さんのどちらかなんでしょうか?」
鳶さんが遠慮もなく質問した。
「香さんは最期まで正気に戻らんじゃった。じゃっで、本当のことは誰も知らん。じゃっどん言えるとは、いまはなき宋家の血を引くただ一人の子孫がミツルちゅうことごあす!」
いつの間にか月は西の空に傾き、尺八の音はやんでいた。
胡蝶亭からの帰路、鳶さんが呟《つぶや》いた。「この村は宋家をどうしてあんなに特別視しているんだろう……」
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第二章
――二日目、竹について考える
竹・竹・竹、どこまでも竹林が続いている。目印に乏しい竹林は、一度入り込むと方向感覚を失ってしまう。
(こっちのほうだったろうか?)
三脚とカメラがずっしりと肩に重い。もう随分長い間さまよっている気がする。喉《のど》が渇いてきた。
(水筒くらい持ってくればよかった)
軽い後悔の気持ちに陥る。
と、十メートルくらいさきに井戸が切ってあるのが見える。安堵《あんど》して駆け寄り、中をのぞくと、
――血まみれの生首が、目玉を剥《む》いてこちらを睨《にら》んでいる!
(ギャ――――――――――ッツ!)
自分の叫び声で夢から覚めた。
どうやら、昨晩のゲンセキ村長の話が、脳のひだにこびりついているらしい。いやな目覚めだ。
「猫田くん、おはよう。朝から大声出して、元気だね。でも、読書の邪魔はしないで欲しいな」
衝立《ついたて》のむこうから声がした。鳶さんだ。起き上がってのぞくと、朝から『重力の虹《にじ》』。おそれいる。
腕時計を見ると八時半。昨晩|大鑪堂《たいろどう》に戻って蒲団《ふとん》に入ったのが十二時過ぎだったから、八時間は眠っていたことになる。十分休養がとれた。
「さっきゲンセキさんの奥さんのあき子さんがやってきて、朝食を置いていってくれたよ、ほらそこ。ボクはもう食べちゃったから、残っているのは猫田くんの分」
すでに冷えてはいるが、キノコの味噌汁《みそしる》がなかなかおいしい。あとは白飯と山菜の和《あ》え物と目玉焼き。素朴な和食がうれしい。
しっかり食べて、食後のお茶を啜《すす》っていると、メグミどんの家に泊まったという旅庵が迎えにきた。
「では、竹の花を見に行きましょうか。川へくだる途中の竹林だそうです」
旅庵は長い釣竿《つりざお》を担ぎ、腰には魚籠《びく》を下げている。
「メグミどんに借りてきたんですよ。猫田さんが竹の花を撮っている間、わたしは鳶山さんとアユでも釣っていようかと思いまして」
そのほうがありがたい。こちらも気兼ねなく撮影に集中できる。
猪小屋の脇から川に向かってしばらく斜面をくだる。鳶さんは細い道も気にせず、ひょいひょい降りていく。竿と魚籠が邪魔なのか、よたよた歩く旅庵は一歩一歩慎重に、しんがりについている。
十分ほど降りたあたりで、先を行く鳶さんが声をあげた。
「これが花かな?」
このあたりにはきれいなハチクの林が広がっている。そのハチクの一部が、なるほど開花している。
旅庵も追いついてきて、「これが噂の竹の花ですか。なんか花というより若葉みたいで、あまりさえませんねえ」
めったにお目にかかれない竹の花であるが、旅庵の言う通り決して見映えのする花ではない。イネ科の植物らしく枝から房状の花穂が伸び、先端が割れて一本のめしべと三本のおしべが顔を出している。花弁《はなびら》や萼《がく》にあたる花被《かひ》が退化しているために非常に地味なのだ。田んぼで見られる稲の花によく似ている。おしべの先の花粉がわずかに黄味がかっているため、遠くから眺めると、竹林全体に黄色い霞《かすみ》がかかったよう。
竹は不思議な植物だと改めて思う。
草なのか木なのか、まずその段階から疑問が生じる。タケ、チクと呼ばれる種類に関しては、木質のしっかりした稈《かん》を持っているが、ササと呼ばれる種類に関しては、むしろ草のような外観である。
一般に木本は形成層を持ち、その部分から伸長・肥大しながら年年生長をしていく。だから、樹木を横断面で見てみると、生長のあとが年輪で確認できる。
一方、形成層を持たないタケは三か月くらいでいきなり生長しきってしまい、あとは枯死するまでその大きさのまま。モウソウチク、マダケ、ハチクなどは高さが十メートル以上になるわけだから、ひと月に三―四メートルも伸びる。驚異的な生長力だ。おまけに、横断面は空洞なのだ。
形成層を持たないことと、一度花をつけると枯れてしまうことからタケは木本ではなく草本と考えられる。しかし木本は木の同義語ではなく、草本は草の同義語ではない。草、木は生物学的な厳密性を欠いた曖昧《あいまい》な分類の概念だ。だから草か木かという議論自体が虚《むな》しいのかもしれない。タケは竹であり、それ以外のなにものでもないのだ。
わたしは夢中になって、撮影をした。花をクローズアップして接写したり、黄色のフィルターをかけたような竹林全体を引いて収めたり、何十回何百回とシャッターを切った。
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ぼちぼち戻ろうかと声をかけられ、時計を見るといつの間にか三時間近くが経っている。正午を回っていた。
鳶さんと旅庵は川で漁獲があったようだ。旅庵の魚籠をのぞいてみると七、八匹ほどのアユが、敷かれた竹葉の上で尾びれを振っている。鳶さんは魚を獲《と》るための罠《わな》の一種、筌《うけ》をぶら下げており、「これ、しかけてあったんだけど、立派なウナギがかかっているんだ」と、子供のように笑った。
釣竿はいうまでもなく、魚籠にしても、筌にしてももちろん竹製である。村人の自家製なのであろう。
獲物の魚をどうやって食べようかなどと楽しい相談をしながら、のんびりと猪小屋まで戻ってきたとき、先頭を行く旅庵が叫んだ。
「んっ、なんでしょう、あれは?」
旅庵の指さすほうを見てみると、飼育場に猪が一頭ごろんと転がっている。
猪飼育場は広さが縦横それぞれ十五メートルくらいであり、先を斜めに切り落とした大人の背丈ほどの竹で組んだ柵《さく》で、周りを囲んである。敷地の奥に小屋があり、猪が中で休めるようになっている。隣にあるのは納屋だろうか。
飼育場のほぼ中央にひときわ大きな猪がこちらに背をむけて横たわっている。それだけならば注意を引く光景でもないが、体の下には血だまりが広がっている。他の猪たちが怯《おび》えたように倒れた猪を遠巻きに囲んでいる。異変が起きたようだ。
「どういうことでしょうか。悪いですがゲンセキ村長とメグミどんを呼んできてもらえませんか。多分炭焼き小屋にいるはずなので」
旅庵に頼まれ、わたしと鳶さんは民家の脇を抜けて、胡蝶亭《こちようてい》の裏手にある炭焼き小屋のほうへと走った。ゲンセキ村長とメグミどん、それにゲンカン、タクミ先生がのんびり竹炭を焼いている。
「大変です、猪が……」
「ししがどうした、客人。罠《わな》にでもかかりもしたかい?」
「そうじゃなくて、飼育場で猪が……」
事情を説明し、みんなを引き連れて飼育場に戻ってきたときには、旅庵が柵の中に入り、検分しているところだった。
「心臓のあたりに矢を撃ち込まれています。完全に死んでいます」
大鑪堂の作業場から女衆も集まってきたようだ。気がつくと飼育場の周りに人だかりができている。
その中から七十歳手前くらいの男性が前に進み出てきた。アメンボを思わせるほど痩《や》せており、白髪がたてがみのようで見事。その人物は、「おお、ノブヒデがかわいそうに……。おいが一番かわいがっちょったとに。こげんことした不届き者はどこの誰じゃ!」と、大声でみんなに問い質《ただ》した。
「長老、ちょっと待ちやんせ。わしらもいま発見したばっかで、まだ状況が十分に把握できとらんじゃっで」ゲンセキ村長が答える。
「ししは村人全員の財産じゃ。それを、いったい誰がこんな悪さをしよるな!」
長老と呼ばれた人物の握り締めたこぶしに浮き上がった血管と筋張った二の腕の小刻みな震えから、憤りが伝わってくる。
(この白髪の硬骨漢がどうやら杉透さんらしい。寝込んでいるというからもう少しくたびれたご老体かと思っていたのに……、まだまだ血気盛んなじいさんじゃない)
あとで聞いたところ、風邪をこじらせたために昨晩は床に臥《ふ》せていたが、今日はすっかり回復し体調にも問題はないとのこと。
スギ長老は猪の世話を任されているらしい。ノブヒデというのは犠牲になった猪の名前であった。
「長老、他のししは大丈夫かどうか一応確認してたもんせ」
ゲンセキ村長がそう言うと、スギ長老は小屋の中に入って一頭一頭右手の人差し指で点呼していった。
「きのう修《おさむ》がヒロエをつぶし、ノブヒデがこのざまじゃから、残りは六頭じゃ。テツヤ、ケン、モトコ、キョウコ、ユリコにクミコ。残りは雄二頭、雌四頭で間違いなかど」
長老はそう言いながら、囲いの中からノブヒデの死体を担ぎ出してきた。前肢の間あたりに深深と矢が刺さっている。
「なんでこんな首飾りをしちょるとじゃ?」
見ると、首から鈴が下げられている。大振りの鈴でヂリンヂリンと重い音がする。
「殺したうえに鈴までつけて、ノブヒデを弄《もてあそ》んじょるつもりか!」
「へええ、どうやら今日もまたしし肉にありつけそうだな」
その声に振り返ると、いつ現れたのか、ミツルだった。
「この矢は、わい(=きさま)の遊び道具じゃろ? さてはわいのしわざじゃな!」
スギ長老が突き刺さった矢を引き抜いて、ミツルにつめ寄る。矢から血しずくが滴る。
ミツルは目をそらすようにして、「いかにもおいらは弓矢も作るが、こんな矢くらい、誰でもこしらえられるだろう? そもそも、おいらはいままでヤダケを刈りに行っていた」
確かにミツルの家の軒下には刈ったばかりと見える真新しい竹の束が山をなしている。
「ウソこけ、こんな残酷な真似をするのはわいしかおらん! ここに矢が撃ち込まれたのも初めてじゃなか。これまでは被害がなかったで黙っちょったが、もう我慢ならんど」
「待ちやんせ、ふたりとも」
メグミどんが止めに入る。
「いいや、今日という今日こそミツルに釘《くぎ》をさしとかんといかん。わい以外に誰がこんな悪さができるっちゅうんじゃ。ほかの大人はみんな働いちょるど」
「そうです。ぼくたち四人は炭焼き小屋で朝から竹炭を焼いていました。ミツルくんの分まで働いていたので、怠けるひまなんかなかったですよ」
タクミ先生が炭焼き四人組を代表してそう言った。もっとも、呼びに行ったときの様子ではとても忙しそうには見えなかったが。
「ほれみろ、おいはここにおる女衆と竹細工の最中じゃった。アリバイのないのはミツル、わいだけじゃ」
長老のことばに、集まった四人の女性陣が大きく頷《うなず》く。
「じゃあ、旅庵さんや写真家のお客さんはどうなんだよ?」
ミツルの敵意がこちらに飛び火してきた。
「わたしはずっと竹の花を撮影していました。旅庵さんと鳶山さんのふたりは川で魚をつかまえていました」と、答える。
「どうだか怪しいもんだぜ」
「バカを言うな。客人が意味もなくししを殺すわけなかでごあそう!」ゲンカンが一喝した。
「なるほど、みんなぐるになって、おいらをはめようって魂胆だな。いいよ、そんなに犯人が欲しいんだったら、おいら犯人になってやるよ」
ミツルは目をそむけたままそう言うと、肩を落として去って行った。その後ろ姿が寂しく見えた。
「メグミどん、おはんはいつもミツルをかばい過ぎじゃ!」
行き場のなくなった怒りをぶつけるように、スギ長老が叫んだ。
メグミどんの顔が少し曇った。
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「鳶さんは誰の仕業だと思う?」
昼食後、突然雨が降ってきた。今日の撮影は中止にして、わたしたちは大鑪堂に戻っていた。
「やっぱりミツルくんが容疑者候補の筆頭かな」
「でも、みんなのアリバイだって極めて曖昧《あいまい》だよ。一緒にいたと言っても、ひとりひとり裏付けをとったわけでもないだろう。仮に三十分くらい席をはずしてもわからなかったんじゃないかな。それに、ボクは旅庵さんと一緒だったことは証言できるけれど、猫田くんがほんとにずっと竹の花を撮っていたのかどうか、実際のところは知らないわけだし……」
(もしかして、疑われている?!)
不満が顔に出たのだろう。鳶さんはあわてて付け加えた。
「いや、だ、だから、その猫田くんが怪しいなんて思っているのではなくて、疑おうと思えばいろいろ考えられるってことだよ。
それに誰がやったかということもさることながら、なぜ猪の首に鈴なんか下がっていたのかという謎のほうにも興味があるよ、ボクは。元からついていたものではないらしいし」
「そういえばあの鈴だけど、なにか意味があったのかなあ?」
「人間がやったことなら、なんらかの意味はあるはずさ。極端な話、それは無意味という意味かもしれないけれどね」
「それにしたって、猫でもあるまいし猪に鈴つけるなんて、変だよ」
「じゃあ聞くが、そもそも、なぜ猫には鈴をつけるんだろう」と、鳶さん。
「猫は気分屋ですぐに家から出て行って迷子になる。だから鈴をつけて居場所がわかるようにするんじゃないの」と、わたし。
「みんなが自分の飼い猫に鈴をつけたらかえって混乱しちゃうじゃない? 鈴の音の細かい違いなんてヒトには聞き分けられないよ、たいがいの場合。仮に鈴の音が聞こえたとしても、それが自分んちのミケなのか、お隣の為五郎なのか区別はつかないだろ?」
「まあ、そうだけど」
「だから実際には鈴をつけた飼い猫なんてほとんどいない。ほとんどいないのに、〈飼い猫に鈴〉はいつの間にか日本人にとって子供でも知っているシンボルになってしまった。それで……」
「それで?」
「それで、ドラえもんも磯野家のタマも鈴をつけているのさ」
「…………」
「つまりね、猫の鈴はもはや本質的な意味など失っており、そこには形骸《けいがい》化した記号としての意味しかない」
鳶さんは缶ビールをクーラーボックスから取り出し、一本開けるとごろんと横になった。そして『重力の虹《にじ》』の続きに戻った。
自分の世界に入ってしまった鳶さんを振り向かせるのは、西郷どんの銅像を振り向かせるよりも難しい。わたしは隣の作業場をのぞいてみることにした。
ここはもともとは竹茂の領主|宋《そう》家の屋敷であったと後に聞いた。それで周りの家屋よりも格段に大きいのだろう。「事件」により、宋家が消滅した後、村人の集会場兼作業場として、改築し名前も大鑪堂と改めたのだ。
作業場では長老と四名の女性たちが車座になって竹細工の最中であった。女性の名は杉たか江、源あき子、源みのぶ、匠洋子といい、それぞれ、杉透、源隻、源環、匠周の妻だ。つらい炭焼きや力仕事の竹伐採は男衆の仕事、手先の器用さと根気が要求される竹細工は老人と女衆の仕事と分担されている。
ここで作られているのは、竹で編んだ籠《かご》や箱、笊《ざる》などである。最初にハチクの伐材を鉈《なた》で薄く細く削り、竹ひごにする。それを丹念に、それでいて流れるように編み上げていく。見ていて心地よい。
売り物として作っている籠、箱、笊。先ほど魚をつかまえるのに旅庵たちが使った竿《さお》も筌《うけ》も、昨晩見せてもらった笛にしろ……全部〈たけかんむり〉だ。
他に身の回りの生活用品では、筆、筒、箒《ほうき》などもそうだ。現在でこそ竹製ではない代用素材の製品も多いが、〈たけかんむり〉の品物は日常で普通に目にすることができる。
材としての竹は剛直である反面、割裂性に富む。だから、横方面の力にはとても強いにもかかわらず、細かく割くことが可能なのだ。加えて、しなやかな弾力性もあわせ持っている。非常に使い勝手のよい素材だといえる。
このため、建築物から生活用具にいたるまでさまざまな用途に応用可能なのだろう。さらに、食料としても利用できるのである。
日本人の生活、文化と竹は長く深いつきあいなのだ。そんなことを尋ねるともなし、答えるでもなしというやりとりの中で、語り合った。
長老も女性陣に囲まれると、先ほどの憤怒もどこ吹く風。気さくな好好爺《こうこうや》に変身して、冗談交じりにいろんなことを教えてくれる。
昨日は男衆に隠れて影が薄いように感じた女性たちもこの場では明るく活気がある。女衆の中で最年長の杉たか江は夫同様痩せて髪も真っ白。似た者夫婦の掛け合いで終始場に笑いを提供している。ふたり合わせても匠洋子の体重には及ばないのではないだろうか。
その匠洋子は堂堂とした体格にぴったりの快活な女性で、なにしろ声が大きくよく笑う。これでは夫のタクミ先生は家では尻《しり》に敷かれっぱなしだろう。対照的に小柄な源あき子は気が回るタイプの女性。内輪の話を補足し方言を翻訳して、部外者のわたしを話の輪に加えてくれる。落ち着いた雰囲気の源みのぶは一歩引いたところから座を見ている感じ。口数は少ないが、皆のことばにいちいち頷《うなず》いている。
ようやく初めて村の女性たちとゆっくり世間話に興じることができた。昨晩は村の男にはぐらかされたが、実際にはこの境遇をどう感じているのか訊《き》いてみた。口をそろえて満足しているとの答えが返ってきたのには驚いた。
杉たか江は鹿屋《かのや》の出身らしい。鹿屋は鹿児島県第二の都会だが、すべてが鹿児島市に一極集中しているこの県では、二番目であることにさして意味はない。あくまで地方の中都市に過ぎない。それでもたか江は、「こん村はすべてのんびりしちょるで暮らしやすか」と言う。心から満足しているらしい様子は仲睦《なかむつ》まじい夫婦のやりとりからも伝わってくる。もっとも夫婦の自慢だった器量よしの娘和子は十九年前に三十三歳にしてこの村から出て行ったらしい。「貢の事件で村に嫌気がさしたとじゃ。さっぱり連絡がこんのが寂しか」
源あき子の実家は竹茂集落からさほど離れていない農家だそうだ。三十年程前結婚が決まったときには、あんな閉鎖的な村に嫁に行くのかと親戚《しんせき》や知人から反対されたが、いざ住んでみると、「労働も男女でちゃんと公平に分担しちょるし、ひとりひとりがまじめに生きちょる」ことがわかり、村長の妻という気苦労の多そうな地位にも辛《つら》さは感じないそうだ。「ミツルをきちんと育てられんかったことが唯一の後悔じゃ」
匠洋子は昨夜ゲンカンから聞いたように薩摩半島は指宿の産。観光温泉旅館を営む家の末子として生まれたという。名のある旅館らしく、「あん家では末っ娘なんて下働きと変わらない扱いじゃったが。それに比べるとここは平等じゃし、なにしろ平和じゃが。それが一番。いまは指宿に戻ることもまずなかね」と朗らかに言い切った。杉和子と入れ替わるように竹茂村に来て、もう十九年になる。
村外から竹茂に入ってきた女たちは三人とも村を心底愛している。では、竹茂に生まれ、結婚後もこの地で暮らしている女性はどうか。
「好き好んで村を出たいとは思いません。ここにいれば人間が優しいですし。皆さんに高校まで行かせてもらい、そのときには下宿生活も経験しましたけど、ずっと緊張していたように思います、外の人たちは素直じゃないから」と、源みのぶは寂しく笑った。この女性、意外なことにメグミどんの妹だという。例の事件で両親を亡くし、恵家の兄妹はお互いを支えあいながら暮らしてきた。兄が取りつく島もない突慳貪《つつけんどん》な性格なのに対して、妹のほうは人当たりがよく、まだ若い(三十歳にはなっていまい)のにしっかり者の印象。こんなに純真|無垢《むく》に育つのなら、村の生活も満更でもないのかもしれない。相当疑り深くヒアリングを重ねたが、わたしはそう結論せざるを得なかった。
みんな気のいい人たちだから、いつまででも話が続きそうだった。が、あまり作業の邪魔をするわけにもいかない。会話のきりのいいところで腰を上げた。
所在なくなったわたしは、昨日は行かなかった業盛《なりもり》神社にでも行ってみようと、傘をさして表に出た。ふと顔を向けると、柳家の庭先に老人が立っている。スギ長老よりも確実に老けて見える。
(あ、柳さん。アキラさんだ)
昨夜盲目だと聞いたが、眼窩《がんか》が小さく窪《くぼ》んだ金壺眼《かなつぼまなこ》ながらきちんと瞳《ひとみ》は開いているし、とても光を失っているようには見えない。それにたとえ相手には見えないからといって、鼻先を黙って通り過ぎるのは失礼だろう。そう思って、「あのお、失礼ですが、アキラさんですよね?」と、声をかけた。
「そうじゃっど。おまんさあ、どなたごあすか?」
莞爾《かんじ》とした笑顔で、そう問い返された。自分の名前とここに来た経緯を手短に語り、そそくさと辞去して神社に向かう。普通にしゃべればいいのに、相手の目が見えていないのかと思うと、妙におどおどとした対応になってしまった。
(それにしてもすばらしい笑顔……)と、思ったところで疑問が湧いた。どうして笑という字も〈たけかんむり〉なのだろう?
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急なうえに壊れかけた歩きにくい石段を五分ほどかけてのぼりつめ、ようやく境内に出ると、そこにはメグミどんの姿があった。きちんとした二礼二拍手一礼の所作でお祈りをしている。
後ろから眺める形になり、なんとなくばつが悪い。敬虔《けいけん》なしぐさは、軽軽しく(なにをお祈りだったのですか)とも聞きづらく、メグミどんがこちらを振り返ったタイミングで軽く会釈を交わし、「この神社はやはり平業盛を祀《まつ》ってあるのですか、なにか言い伝えでもあるのですか?」と、問うてみた。
「ああ、そうらしか。昔、業盛さまの一軍が落ち逃げる途中でこの地にお立ち寄りになったちゅう話じゃ。そんときの縁にちなんだ神社じゃろうのう。おいのうちにも業盛さまにいただいたっちゅう宝物があるで」
「それは……?」
「刀じゃ。日本刀。うちの家宝じゃ」
平業盛の刀というと本物であれば相当な値打ちがあるのではないだろうか。しかし気難しげなこの男を相手に根掘り葉掘り問い質《ただ》すのもためらわれた。ましてや、今日の彼は昨日以上に顔色が悪い。油粘土のよう。眼窩《がんか》を取り巻く隈《くま》がますます黒ずんで見える。
それで、話題を転換した。
「作業場をのぞかせてもらったのですが、竹って本当に便利な植物だと認識を新たにしました。硬くて弾力があるので細工にはもってこいのうえに、生長も早くて」
「植物写真の先生のおはんがいまさらそんなことを言われるとはのう。では訊くが、竹の本質はなんじゃと思うな?」
唐突の質問に戸惑ってしまう。
「本質……ですか? いや、ちょっと……」(考えたこともない!)心中で叫ぶ。
「竹の本質は中空であることじゃ」
メグミどんはそう言い、いきなり左手で腰の刃物を引き抜いた。この大振りな刃物は匕首《あいくち》と呼ぶべきなのであろう。脇差ほどの長さがあるが、鍔《つば》はなく、柄は竹製で精緻《せいち》な細工が施されている。その匕首を掲げて、「おはん、この刃先をように見てたもんせ」
「この刃物も業盛ゆかりの品ですか?」
「なにをバカなことを言うちょるか。これはおいが作ったもんじゃ。いいからこん刃をよう見て」
刃物の切っ先には危険な魅力がある。じっと見つめていると、すーっと吸い込まれるように意識が遠のく感触を覚える。しばらくして、メグミどんの声が心なしか遠くのほうから聞こえてきた。
「今度はこの柄のほうじゃ」と言って竹製の柄を掲げると、雄弁に語り始めた。「竹はこん通り細工に向いちょる。曲がりやすいし、割けやすか。そのくせ硬い。では、なして曲がるのか、なして割けるのか。それは竹の繊維がしなやかで強いからでごあす。そんな繊維がみっしり集まっちょるで、曲がるし割ける。そいで、なぜしなやかで強い繊維が集まっちょるかっちゅうと、中空じゃからじゃ。中心の支えがなか分、周囲の繊維が協力し合ってしっかり支えんとならん。そもそも中心が空洞の植物など、めったになか。竹は体内に空を抱えとるんじゃ」
「なるほどそうですね。つまり中空であるから、筒として利用できるし、笛にもなるということですね?」素直に答えている自分がおかしい。
「それもある。からっぽじゃっで筒は中に物を入れることができるし、からっぽじゃっで笛は無限の音を出すことができる。しかし筒も笛も人間にとっての価値に過ぎん。竹にとっての意味はなか。『荘子』の櫟社《れきしや》の樹という話を知っておるか?」
(また、荘子だ)と、内心思いながらも、「すみません、知りません」謝ることもないのだが、ついつい頭を下げている。
メグミどんは面倒くさがらず、丁寧に説明してくれた。
――大工の石《せき》の一行が、旅の途中に大きな櫟《くぬぎ》の樹がある社を通りかかった。なにしろその櫟は山を見おろすような大木で、幹は百かかえもあり、木陰に数千頭の牛を隠せそうなほど。
弟子が立派な樹だと見とれているのに石はよく見ようともせずに通り過ぎてしまう。弟子が理由を問うと、「あの櫟という木は材としてまったく役に立たない。舟を作ると沈む、棺《ひつぎ》を作ると腐る、門や戸にしてもやに[#「やに」に傍点]が出るし、柱にすると虫がわく。まったく役に立たないから放っておけ」石はそう答えた。
さて、旅から帰って石が寝ていると、先日の櫟が夢に出てきて、言った。
「おまえはわしを役に立つ木と比べているのだろう。梨も橘《たちばな》も柚《ゆず》も人の役に立つから、実をもがれ枝を折られる。わしは役に立たない木になろうと願ったおかげで、誰にも邪魔されずにここまで大きくなれたのだ」
石は知ったかぶりの知識で櫟を評価したことを恥じた。――という趣旨の話だ。
「無用の用という教えごあす。一見無用に見えるもんが、実は大きな意味を持っちょる。そもそも人間の役に立つことが、竹にとって本望かどうか。無用に見える竹の空洞。じゃっどん空洞であることによって、竹は竹としての存在を主張できる」
竹に本望があるのだろうか。竹に主張があるのだろうか。力説されるのでわかったような気にもなってくるが、最初の質問に戻って、なぜ竹の本質が中空であることか自問自答すると、やっぱりわからない。メグミどんの論旨では、竹は中空であるから竹なのだ――これは詭弁《きべん》ではないか? しかし意志に反して口が重く、反論は出ない。
「煙に巻かれたような顔をしちょるど。もうすこし説明してみよかい。おいは空虚であることに、空っぽであることに意味があると言うちょるんじゃなか。空っぽじゃったら、そこになにかを入れられるとか、小賢《こざか》しく考えてしまうのが人間じゃ。そうじゃなか。空っぽであることを、竹の身になってそのまま受け入れることが大切じゃと言うちょる。そもそも、なぜ竹は空洞なのか説明できるもんじゃなか。別に中がつまっていたってよかったはずじゃ。造物主の気まぐれで、できあがった結果がたまたま空洞じゃった。じゃからこそ、本質的に竹は中空ごあす」
「まだ十分には理解できませんが、確かに中空であるということは竹の極めて著しい特徴だとは思います。ところで、あなたは小賢しく考えるのが人間だとおっしゃいましたが、それは人間の本質ではないでしょうか? 考えるからこそ人間なのだと思いませんか?」なんとかこれだけのことばを言い返すことができた。
「人間の本質は……考えることじゃなか。じゃのうて、考えが及ばんことじゃとおいは思うちょる。人間より下等な生き物はもともとものを考えん。人間より優れた存在が考えたら間違えることなどなかろう。つまり、考えるくせに正解がわからんとが人間ごあす」
落葉に火を放つと煙が立って噎《む》せる。先ほど巻かれた煙がそんな焚火《たきび》クラスのであったとすると、今度の煙は桜島の噴煙クラス。巻かれて息もできなくなり、しばし呆然《ぼうぜん》の態《てい》。麻酔をかけられたような朦朧《もうろう》たる非現実感。
正気に戻ったときには、メグミどんは石段を降りていくところであった。雨の中を一歩一歩確実に踏みしめて。
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その夜の夕食はゲンセキ村長の家に呼ばれた。甥《おい》のゲンカンも同席し、鳶さんとわたしの四人で囲炉裏を囲んだ。
源あき子と源みのぶが腕によりをかけてこしらえた料理をつまみに放談だ。飲み慣れない焼酎《しようちゆう》に酔いかげんのわたしは、午後のできごとを話した。
「竹の本質は中空であること、人間の本質は考えが及ばないことか、逆説っぽくて、なかなか面白いね」
鳶さんは楽しそうだ。
「いかにもメグミどんの言いそうなことでごあす。おいに言わせりゃ、なんでも難しく考えるのがメグミどんの本質ごあすな。あんな、怖い顔して考え込まんでもよかろうに、ははは」
ゲンカンが笑い飛ばした。
「そういえば、この前も死ぬとか生きるとか、ゲンセキ村長と言い合いしちょったねえ」
「うむ、あんときはメグミどんがわしに議論を吹きかけてきもした」
ゲンセキ村長の話は以下のようなものであった。
数日前のこと、炭焼き小屋近くの雑木林で矢が刺さった兎が見つかった。ミツルが飼っていた兎であった。重体ではあるが死にきってはおらず、目は閉じているものの耳は震え鼻はひくついている。時折後肢を強く伸ばすのだが、空を蹴《け》るばかり。哀れを誘う情景を前に、ゲンセキ村長が呟《つぶや》いた。
「いっそ殺してやればよかものを……かわいそうにのう。死ねばもっと楽になるど」
メグミどんが兎を抱きかかえて言った。
「村長は死ぬことの意味をなんと思うな?」
「メグミどん、そりゃまたいきなり難しい質問でごあすのう」
「万物斉同の考え方では、生きることと死ぬことの間に大きな差はなかものでごあそう。生きるもよか、死ぬもよか。生死を含めた全肯定の立場が、荘子の思想の立脚点じゃと思いもす」
「確かにそうじゃ。仏教のように輪廻《りんね》転生、カルマが回るという因果律で生と死をとらえてはおらん。生と死を善悪の尺度で語ることはせず、幸福の絶対量のみを問題にしちょる。
この兎、前世は弓矢で無用な殺生を行った兵士じゃったのかもしれん。その業により今度は兎に生まれ変わって自分が矢で貫かれる目に遭った。ちっと単純すぎるが、こげん風に考えるのが仏教的な考え方じゃろう。矢が刺さって自由がきかないのを〈悪かこと〉として考えちょる。悪いことは悪いことで報われる、因果応報じゃ。荘子じゃったら、ちょっと違う。矢が刺さっていることが〈よか〉か〈悪か〉かはどちらでもよく、この兎にとって、中途半端に不自由に生きるよか、自由に死んじょるほうが幸福と考えるはずじゃ」
「≪髑髏《どくろ》との対話≫の逸話を思い出すど。そこまではおいもわかる。しかしのう、村長、そうすると生きる意味がますますわからんくならんかい。荘子はお仕着せの制度や無意味な慣習をひどく嫌っちょったが、生きていく以上、どうしてもなんらかの制度や規則に縛られてしまうのは仕方なかこと。あらゆる束縛から逃れるには死ぬより他に方法はなくなりもす。それはあまりに悲しい逃避主義ごあそう?」
「メグミどん、がちがちに忠実に考えすぎじゃっど。荘子はそこまで論理的に考えをまとめちょらんが。大切なのは、既成の価値観にとらわれんで、どれだけ自由に心を解放できるかでごあす。制度が窮屈であれば、そげん制度から外れればよか。慣習に意味がなかなら、そげん慣習には従わなければよか。それが荘子の教えごあそう」
「されば再び問う、死の意味はなんぞ?」
「生を生であらしめるための装置じゃなかかのう。死はあくまで未知、じゃっでわしは死を怖れる。死を怖れるゆえに、より幸福に生きようとする。そげん意味での装置じゃ。メグミどんはどう思うのじゃ?」
「まだ、わからん。答えが出んのじゃ。じゃっどん、おいは別に死を怖れてはおらん。じゃっで、むしろ死の積極的な意味を模索しちょるとじゃ。自分の死によって自分も喜び、他人も喜べれば、そんほうが意味は大きか。そういう死に方があってもよかとじゃなかろうか。例えば、こん兎は死ぬことによって、自由になるばかりか、おいの腹も満たすことになる……」メグミはそう言って、抱えた兎の首をひねった。「……じゃっで、こん兎の死は意義深い死じゃ」
「昼間も長老が言うちょったが、矢など作って遊んじょるのはミツルしかおらん」
ゲンカンのことばは一瞬文脈がつながらなかった。(兎を撃った矢のことか)と気づいたときには、話が続いていた。
「ミツルの言うように、弓矢くらい材料さえあれば誰でも簡単に作れるが、大人は実際にそんなもので遊んだりはせん!」
「わしら夫婦が親代わりになってここまで育ててきたつもりごあしたが、ミツルには心から愛情を注いでくれる母親も、本気で叱《しか》ってくれる父親もおらんじゃっで、あげん風に冷めた目で世の中を見るような若者に育ってしもうたのかもしれもはん。弓矢なども、誰に教わるでもなく自分で作って、ひとりで勝手に遊ぶようになりもした」
ゲンセキ村長は左手で弓を押さえ右手で弦を引く真似をする。自分たちの教育が足りなかったことを反省しているのか。昼間のあき子と同じ自責の念か。
「ミツルくんは矢を射るのがうまいのですか?」
鳶さんが尋ねたのに対し、ゲンセキ村長は首をひねりながら、「腕前はどうじゃろうのう? あまり獲物を捕らえたところを見たことはなかどん……」
弓矢はミツルがひとりで遊んでいるらしく、目撃者はあまりいないということであった。しばらく間を置いて、改まった口調でゲンカンが呟いた。
「おいやタクミ先生はあの事件があった当時、いまのミツルの歳よりまだ若かった。貢さんはおいどんのヒーローでごあした。その貢さんが惨劇を引き起こしたと知ってから、しばらくは人を信じられんくなった。ミツルにはなんも関係なかこととは知っちょっても、あの事件の落し児《ご》のように思えて、ついついそっけなか態度をとってきたのかもしれん。子供は大人の態度に敏感じゃっで、ミツルはそれに気づいてわしらを恨んどるのかもしれん……」
「それを言うんじゃったら、メグミどんのショックはおはんたちの比じゃなか。親友に両親を殺され、同時にその親友まで失うことになったわけじゃっど。傷つかんほうがおかしか」
「メグミさんと旺貢さんは、宗香さんをめぐる花嫁争奪合戦のライバル関係ではなかったのですか?」
昨晩の話を思い出しながら、わたしは訊いた。
「そげん言うとメグミどんと貢が争っていたように聞こえるかもしれんばって、二人は親友ごあした。メグミどんははなから貢にはかなわんと悟っておったようでごあした。そのうえでなお、貢とは誰よりも親しくしちょった。事件のあと、メグミどんもずっと腑抜《ふぬ》けたような生活を続けちょったどん、長か時間をかけてようやく元の自分を取り戻しもした。村にひきこもりきりなのもよくなかろうって村の皆で相談して、気分転換に二、三年ほど鹿児島の町に働きに出しもした。旅庵さんとはそんときに知り合うとる。貢がいなくなって同世代で話が合う友人がおらんかったから、ちょうどよか相談相手になったわけごあすな」
「おいも小さか頃はよくメグミどんに遊んでもらったもんじゃっど。面倒見は貢さんよりもメグミどんのほうがずっとよかった。あの事件のせいで、気難しい性格に変わりやったどん、妹のみのぶには心を砕いてよか女に育てあげやったが。自分のかかあを誉めるんもなんじゃがのう」
(メグミどんという親しげなあだ名はきっと幼少時からのものなんだ)と、ゲンカンのことばに納得する。
「メグミどんが苦しみながら、おのれ自身を見つめ直しておったときに、心の支えとなっておったのが『荘子』じゃ。じゃっで、あん人は村の誰よりも荘子的な生き方にこだわっておるかもしれんのう」
「ところで、矢兎の犯人はやっぱりミツルくんだったのですか?」
鳶さんが蒸し返した。ゲンカンが答える。
「なんちゅうても、子兎だった頃にミツルが拾ってきて飼っちょったやつじゃったでのう。おそらく、育てるのに飽きたんじゃろ。あまり追及しても大人げなかかと思って、ミツルを問いつめたわけではなかどん」
「その兎に鈴はついていませんでしたか?」と、鳶さん。
「ついちょったよ。そいでミツルの兎じゃとわかった。名前もあった。ピョンタじゃ。猫でもないのに鈴などつけてとわしらは笑っちょった」ゲンセキ村長は苦笑いを浮かべた。
(やはり鈴というと、誰でも猫を連想するんだ)わたしは気がかりだったことを尋ねてみることにした。
「ノブヒデを撃ったのもやはりミツルくんのしわざだとお考えですか?」
「それはどうだかわからん。ミツルはああ見えても嘘はつかん男じゃ。ミツルが竹を取りに行っちょった言うのじゃっで、信じてやりたい気もする」
――いいよ、そんなに犯人が欲しいんだったら、おいら犯人になってやるよ。
去り際のミツルの寂しげな後ろ姿を思い出しながら、わたしはさらに、「そうすると誰が?」
「さあ誰じゃろうのう」興味なさげに、ゲンセキ村長が言った。
それからしばらくし、雨があがったのを潮時に、鳶さんとわたしは村長の家を辞去した。帰路、風に乗って悲しげに鳴る笛の音が聞こえてきた。
「きっとアキラさんだね。新しい笛でもできたのかな」と、鳶さんが言った。
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第三章
――三日目、推理の基本を学ぶ
三日目の朝が明けた。障子越しに陽が当たっている。雨はすっかりやんだようだ。
鳶さんの蒲団《ふとん》はすでに蛻《もぬけ》の殻だ。彼は決まって朝が早い。豆腐屋にだって勤まるに違いない。
汲《く》み置きの盥《たらい》の水で顔を洗っていると、鳶さんが引き戸を開けて戻ってきた。
「猫田くん、おはよう。あんまり寝てばかりいると、そのうち朝ということばを忘れてしまうよ」
そんなこと言われたって、まだ七時半なのだ!
「そんなところで怒ったフグみたいに膨れていないで、外に出てみなよ。すごいから」
さっそく、靴をひっかけて外に出てみると、周りの竹林の様子がなにかおかしい。鳶さんご自慢のスワロフスキーの望遠鏡が三脚の上にセットされている。
「これをのぞいてみなよ」と言われ、踵《かかと》をあげ加減にしてわたしには少少高すぎる接眼レンズに片目を近づける。
(あ、これは)竹が開花し始めている。昨日の開花は谷をかなりくだったところだったのに、今朝は集落を取り巻く竹林が一斉に開花し始めている。しかも、ハチクだけではなくモウソウチクの枝先にも花が見える。
種類の違う竹がまったく同じタイミングで花を咲かすのはどういう現象なのだろう。学者ではないからわからないが、誘引作用などがあるのだろうか。
「朝起きて鳥を探しに行ったんだ。このあたり、コシジロヤマドリがいるんじゃないかと思って。そしたらこのありさまさ」
なるほど、鳶さんはバードウォッチング帰りらしく、ツァイスの双眼鏡も首から下げている。
昨日の比ではない開花状況だった。今日一日は撮影で潰《つぶ》れることになりそうだ。特にいつまでという予定を決めて来たわけではないので、日程はいかようにも調整可能。とはいえ鳶さんをつきあわせるのは悪い気がする。退屈に違いない。その旨を訊《き》くと、「なーに、気にしないで。ちょうどスロースロップ中尉がゾーンに入っていくところだから。ようやく佳境なんだ」
『重力の虹《にじ》T』と表示された重たい書物の後半部を開いて見せながら彼はそう答えた。
「それに、ビールもまだまだ残っているし」
勝手にしてくれ。気にするのはやめにした。
撮影を始めて二時間くらい経った頃だろうか。ミツルが人目を忍ぶように家から出てくるのが見えた。
よもや竹林の中でわたしが撮影中だとは思いもよらなかったのであろう。戸の隙間から顔をのぞかせ、左右を見渡したうえで、こっそり出てくる。よほど他人に見られたくない様子。手にはなにか細長い棒状のものを持っている。遠目でしかとわからないが、一メートル以上はある。
ミツルはするすると歩き出し、三軒隣の柳家の玄関先にたどり着いた。そしてやはり周囲を気にしながらノックをしている。
(あ、そういえば柳家には若い女性がいたんだ!)
唐突に初日見た光景を思い出した。老人の手をとって厠《かわや》へ向かう、若くきれいな女性。
(いったいあの女性は誰なんだろう? どうして他の女性と一緒に作業をしていないのだろう……)などと思いをめぐらせるうちに、老人が戸口に出てきた。
(アキラさんだ)
老人は軽くお辞儀をした。そのままふたりは家の中に入ってしまった。
わたしは撮影を続けながらも、なんとなく気になってしばしば顔を上げては柳家の戸口を見張っていた。すると三十分程して、ミツルがひとりで出てくるのが見えた。見送りの姿はない。最初に持っていた棒状の物体も見えない。
またしても周囲を確認し慎重に出てきたミツルは、一目散に自分の家のほうに帰っていく。間にある杉宅と恵宅を通り過ぎ、すぐに自宅に入ってしまった。
どこか訳ありげで怪しい。怪しいとなれば解明したくなるのが人情であろう。なにを隠そうわたしは金田一耕助のファンなのだ。いまのシーンの意味を考えるべく、わたしなりにいくつか仮説を立ててみることにした。
仮説1 ミツルはアキラ老人に用事があった。
この仮説のポイントは、なぜ人目を忍ぶ必要があったかということだ。
@ 他の村人には知られたくない相談事があったら、人目を忍んで行くかもしれない。ここまでのやりとりを総合して考えると、どうもミツルは村人と反りが合わないようだ。誰にも心が許せないが、アキラ老人だけは相談相手になってくれる――そんな関係があるのでは。昨日見た老人の慈愛に満ちた笑顔は彼の心の豊かさを表しているようで、この考えを後押ししてくれそうだ。
となると、棒状の物体はそのお礼の品か? 食用の筍《たけのこ》とか。筍はあんなに細長くないって? いやいやそんなことはない。大体みんな筍といえばモウソウチクのそればかりしか思いつかないのでそんなことを言うのだ。ハチクにしたって、デミョウチクにしたっておいしい筍はみな細長い。しかし、現在は七月、筍の季節は終わったか? だったら山芋なんてどうだ?
A 相談というより、老人に頼まれてあの棒のような物体を届けに行ったと考えてみてはどうだろうか? ミツルが持っていて、アキラ老人が必要とするものだ。これはひとつ有力な候補を思いついている。竹。
アキラ老人は竹笛を作るのがうまいと誰かが言っていた。その笛はヤダケで作るとも聞いた。しかもミツルは昨日ヤダケを刈ってきたのだ。これは自分の目でも確認している。しかるに笛を作る材料として、刈りたてのヤダケを届けに行った。うん、なかなか論理的ではないか。
もっとも笛を作るのに刈りたての竹がいいのかどうかは知らないし(乾燥させてから使うような気がするが)、なぜ人目を忍ぶ必要があるのかは大いに疑問。
仮説2 ミツルは柳家の女性(仮にAとしよう)に用事があった。
こちらの仮説のポイントは女性Aが何者かということ。
@ ミツルは女性Aに恋心を抱いており、村人に知られないようにひそかに通っている。
この仮説では、ミツルと女性Aの関係が村人に知られるとまずいということが前提となる。例えば不倫の関係とか? ミツルが独身者であることは言うまでもないので、わお! すると、女性Aが既婚者でミツルが間男ということに!
ここで考えよう。Aの夫であり、まだ紹介されていない男性がこの村にいるだろうか。人口は七世帯十二人で二十年近く変動がないと言っていた。この間に村を出て行ったのが杉和子、村に来たのが匠洋子。差し引きゼロの勘定。
そこで現在の村人を数えると、ゲンセキ村長にしっかり者の妻あき子。ゲンカンに冷静沈着な妻みのぶ。眼鏡キリンのタクミ先生に威風堂堂の妻洋子。スギ長老に妻たか江の賑《にぎ》やかな老夫婦。メグミどんとミツルで六世帯十人となる。これにアキラ老人と女性Aで十二人ちょうど。つまり、村にはAの夫に該当する未知の人物はいないことになる。
いや待て、アキラ老人が女性Aの夫であるとは考えられないか? いかにも歳の差はある(五十歳くらい?)が、絶対にありえないとは言い切れまい。いやいや、老人がミツルを迎え入れたんだから、それだと不倫説は成立しない。結構盛りあがったが、この説は×だ。
そうでなくて、Aは独身だけれどミツルと会うには人目を忍ぶ必要があるということか? 謎、謎、謎。そもそも棒状のものはなんなのだ。謎、謎、謎。
A ミツルは女性Aに相談事があったとも考えられる。
そもそもAはなぜアキラ老人と二人でいるのか。介添えであることは知っている。老人が盲目なので、Aが老人の身の回りの世話一切をしていると考えられる。とすると、Aは看護婦、ないしその経験があるのかもしれない。どうだろう、ありそうだ。
そうだとすると話は通る。ミツルはなにか体に心配事があって、多少とも専門知識を持っているAのもとに相談に行った! 棒状の物体はそのお礼だ。筍とか山芋とか……あれれ、仮説1の@に逆戻りだ!
結論 全体的に情報量が少なすぎて、推理不能!
いかに思考ゲームとはいえ、お粗末な結論だ。せめてAが誰なのかくらいはわからなければ、考えようにもとっかかりがない――などと悶悶《もんもん》としているとき、「やあ猫田さん、精が出ますね」と、いきなり肩を叩《たた》かれた。突然だったので思わず声が出た。
「ぎゃっ」
「わあっ、これは失礼。お取り込み中でしたか?」
タクミ先生だった。こちらの反応が大げさだったのでむこうもびっくりしたようだ。
「いや、ちょっと考え事をしていたもので。あ、そうだタクミさん、柳家の女性Aは誰ですか?」
「は、A? アキラさんのことですか?」
「いや、Aはアキラの頭文字じゃなくて、不特定の人物という意味のAで……」
「???」
「いやいや、ひとりごとです。つまりアキラさんじゃなくて、もうひとりのほうの、一緒にいらっしゃる女性のことです」
「え、そんな人間はいませんよ。なにか勘違いされていませんか?」
「アキラさんよりずっと若い、きれいな女性ですよ」
「いませんって、そんな若い女性なんて」
「だって、実際に見たんですから」
「狐でも見たんじゃないですか? とにかく、そんな女はいません」
「いますって」
「なにを言うんです。いままでもずっといなかったし、これからだってきっといない。いないと言ったら、金輪際いない!」
完膚なきまでに否定されてしまった。
しかしなにゆえここまで全否定されねばならないのか。きっとどこかで逆鱗《げきりん》に触れてしまったのだろう。どうもわたしはタクミ先生と相性が悪いようだ。質問をするたびに泡を吹かせている。ま、眼鏡キリンが泡を吹こうが火を噴こうが知ったことではないのだが。
それよりも柳家に女性なんかいないとはどういうことだ? 最初の日に旅庵に案内されて集落を回った際にこの目で見たのだ。あとで鳶さんに確かめることにしよう――。
「……猫田さん、聞いているんですか? だから、自分が見たいと思うとそう見えてしまうものなんですよ。『荘子』の斉物論《せいぶつろん》篇にこんな話があります。誰もが美女と認める毛《もう》|※[#「女+嗇」、unicode5b19]《しよう》や麗姫《りき》も、魚が見ると驚いて水に潜るし、鳥が見れば驚いて空に飛ぶし、鹿が見たら驚いて逃げ出す。いったいどの動物が本当の美を見ているのだろうかという話です。つまり、人間誰しも都合がいいものしか見ていないということかもしれません。ましてや猫田さん、あなたの場合はちゃんと心を静めて、目を見開いて見ないと、見えているものまで見間違えることもあるわけですよ……」
都合がいいものしか見ていない――なるほどなかなかに含蓄が深いことばではある。それにしても、後半が余分である。なぜわたしは、この泡吹きキリンから「ましてや猫田さん」呼ばわりされねばならないのか?
きつく問い質《ただ》そうとする気配に感づいたのか、タクミ先生は逃げようとした――と思うと、石にけつまずき転んでしまった。さらに運悪く体を支えようとして左手首を捻挫《ねんざ》したようだ。左手をさすりながら痛そうな顔で起きあがると、無言でとっとと去っていった。
ざまあみろ、と吐き捨てるのははしたないが、確実に溜飲《りゆういん》が下がるのがわかった。
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タクミ先生にペースを乱され、撮影に身が入らない。一旦《いつたん》休んで大鑪堂《たいろどう》に戻ることにした。ちょうど鳶さんも、読書に飽きたのかビール片手になにやら考えごとをしているところ。
さっそく彼にさきほど見かけたミツルの意味ありげな行動について説明をし、わたしの仮説に対して意見をもらうことにした。
「うーん、仮説になってないなあ」
聞き終わった途端、鳶さんがうなった。
「……やっぱ、だめ?」まあ、こちらも最初から誉められるとは思っていない。
「ポイントはその棒状の物体だろう。一メートル強の長さの棒か。それがもう少し絞り込めないの? 色は?」
「いやあ、遠目でわからなかったけれど、目立つ色じゃなかったよ。少なくとも赤とか黄色とかではないと思う」
「ふーん、その棒は包んであったの?」
「いやあ、遠目でわからなかったけれど、包んであったとしたら布を巻きつけたとか、ぴったりのサイズの袋だとかだと思うなあ」
「ふーん、その棒の太さは?」
「いやあ、遠目でわからなかったけれど、ミツルくんは片手でらくらくと持っていたから、握りよいサイズだったと思うよ。あまり重くもなかったはず」
「ふーん、壊滅的だな。それだけならば、無限の可能性が考えられる。釣竿《つりざお》? バット? バトン? スキーのストック? 杖《つえ》? 箒《ほうき》の柄? 掃除機のホース? 一脚?」
「それは違う。職業柄わかる。一脚や三脚だったら形でわかる」
「つまんないところだけ、観察しているんだなあ。そう、それじゃこんなのどう? オーボエ? バスクラリネット? チェロの弓? ギターのネック? あるいは壊れたマイクスタンドとか?」
「あのさあ、なんでそんなもの、持っていかなきゃいけないわけ?」
「それはこちらのセリフ。まだまだあるよ。矢? 銛《もり》? 刀? 竹刀《しない》? 吹き矢の筒? いっそライフルなんてどうだい?」とどまるところを知らない。
「わかったよ。観察力不足を認めるよ」
「推理の基本はまずきっちりと観察することから始まる。猫田くんがどれくらい観察しているか、ひとつ試してみよう。簡単な質問だよ。今回ボクはどうして『重力の虹《にじ》』を上下二冊持ってきたのかわかるかな?」
「え、それは読みたかったからでしょ?」
「だから、それでは観察をもとにした推理になっていない」
「そりゃそうだけど、読みたくなかったら持ってくることもないわけでしょ?」
「そんな表面的なことを訊いているんじゃないんだよ。ボクがこの二冊を袋に詰めて山道をのぼり始めたとき、キミはどう思った?」
「いやあ、まったく物好きな人だと。だってそんなに分厚いハードカバーが二冊だもん」
「そんなことだろうと思ったよ。いかにも呆《あき》れたような視線を感じたから。つまり、推理はそこから始めなければならない。なぜわざわざ重くてかさばるのにわざわざ二冊も持ち運ぶのか? やむにやまれぬ事情があるに違いない。必要なければ車に残してくればいいんだから」
「わかった、体を鍛えてるんだ。重いもの運んで」
「猫田くん、頼むから思いつきで発言するのは止めてくれないか。いまは推理の時間だ。今朝ボクはこう言った――ちょうどスロースロップ中尉がゾーンに入っていくところだから――ってね。このシーンは第三章、上巻の約四分の三、三百六十七ページまで進んだところの描写だ。『重力の虹』は四六判で二段組、一ページに千二百字近くがぎっしりつまっている。昨日から読み始めて、三百六十七ページまで読めるはずがない。原稿用紙で千枚以上はあるんだから」
「それで……?」
「それでって、まだわからないの? だから、上巻の半ばまで読みさしだったので、途中で終わると嫌だなと思って、下巻まで持ってきたのさ。冒頭から読むんだったら、上巻だけで五日くらいはもつはずだから、今回の旅程では下巻は持って来ないだろう。簡単な問いだよ。『重力の虹』を読んだことのある人ならば、今朝のボクのひと言だけで、そこまで推理できる」
「でも……」
「『重力の虹』なんか読んだことないのに当てろというほうが無理って言いたいんだろ? ここまでは常識の問題だよ。猫田くんは残念ながら、これがないからもっと地道な手段を使わなければならない。それが観察さ。キミは今朝ボクが読書を始めるのを見たはずだよ。同時に本の厚さも文字の分量も、ボクの読んでいるおおよその位置も目にしただろう。その結果から組み立てれば、さっきの正解は簡単に出せる」
『重力の虹』が常識の範疇《はんちゆう》かどうかは知らないが、彼の指摘は図星であった。
「話を戻すと、さっきの猫田くんの仮説は主観によって恣意《しい》的に場合分けされているので、ミツルくんの行動を説明するすべての動機が網羅されていないんだよ。例えば、ミツルくんはキミの言うところのアキラ老人にも女性Aにも用はなかったのかもしれない。柳家の奥は実は阿片窟《アヘンくつ》になっていて、ミツルくんは中毒患者だとしたらどうだい。棒みたいなやつは吸引用のキセルだったのさ」
「そんなのわかりっこないよお!」
「その通り、わかるはずがない。ボクは、猫田くんのような恣意的な解釈では正解は導き出せないと言っているんだよ。もっと客観的に分析しなきゃ。推理の基本の二番目は主観を取り除いて、あくまで客観的に分析を加えること。直感や偶然に頼ってはだめだ」
「わかったよ。鳶さんはミツルくんの行動に説明がつくの?」
「いや、もちろんわからない。あまりにもデータが少ない。ただ、猫田くんの勘違いをひとつだけ指摘しておこうか。そもそも女性Aなんて人物は存在しないよ」
タクミ先生と同じことを言われてしまった。
「え、でも竹茂村に来た初日に、老人と女性が一緒にいるのを確かに見たんだよ。鳶さんは見なかったの?」
鳶さんは旅庵の説明に聞き入っていたので、あのシーンを見なかったのだろうか。
「猫田くん、ボクはプロの観察者《ウオツチヤー》なんだから、そんな初歩的な見落としはしないよ。おそらくキミよりたくさんの情報をあのシーンから見てとったと思う。そうだね、ちょっと待って。ヒントを紙に書いてあげよう」と言うと、手帳サイズのフィールドノートを取り出し、なにやら書きつけた。そして、そのページを破りとって、わたしにくれたのだった。
メモにはこう書いてあった。
[#ここから枠囲い]
ヒント
1 八番目の姓。典型的な一字姓は?
2 二十年前に若かったのは誰?
3 竹茂の長老と呼ばれているのは?
[#ここで枠囲い終わり]
「かなりあからさまなヒントだから、これでAの正体もわかるはずさ。いままで竹茂村で見聞きしてきたことを総動員しながら主観を排除して考えてみてよ、じゃあ」と言うと、鳶さんはごろんと横になり、読書を再開した。
黙り込んでしまった鳶さんの口を開かせるのは、素手で牡蠣《かき》の殻をこじ開けるよりも難しい。わたしはもらったヒントを考えながら撮影に戻ることにした。
最初のヒントは……八番目の姓? 現在竹茂には七つの家があるけど、八番目とはそこから漏れている苗字《みようじ》ということだろうか。旺貢の狂乱の犠牲になった宋家のことだろうか? 他に姓は……思いつかない。
次のヒントは……二十年前に若かったのは誰? 二十年前は誰でも現在より二十歳分は若かったことは間違いない。しかし、それでは答えにならない。若かったというのは若者だったという意味だろうか? 子供だったのは恵みのぶ(現源みのぶ)で、若者だったのは恵光《メグミどん》、旺貢、源環《ゲンカン》、匠周(タクミ先生)……宋香! 八番目の姓で二十年前に若者だったといえば、宋香だ!
宋香はミツルの母親だ。そうか、宋香は死んだとゲンセキ村長は言っていたが、本当は生きているんじゃないだろうか。生きて柳家に住んでいる!
つまりAが宋香! 宋香は出産のショックで死んだのではなくて、ショックで精神的に患ってしまったのかもしれない。そのことを村人は外部に秘密にしているんだ、きっと。目を患ったアキラ老人と精神を患った宋香が助け合って生活している! それならば、ミツルが病んだ母親にこっそり会いに行くのもわかる。
でも、生きていたとしたら何歳だろう。メグミどんより二歳下だと言っていたから、現在四十歳くらいか。柳家で見かけた女性はもっと若い、二十歳代くらいに見えたが……。
外見と実年齢は意識的に繕えばごまかせるものだし、そもそも精神的なダメージが大きくて、身体の成長が実年齢に追いつかなくなったなんてことも……あるのかなあ?
三番目のヒントは……長老と呼ばれているのは? これは最初の晩の酒宴の際にゲンカンが言ったのをはっきり覚えている。
――村の長老で今日は寝込んじょる杉家の当主透さんと、目が不自由な柳家のアキラさんには、残念じゃが出席いただけんじゃった。
長老は杉透だ。でもそれがどうしたというのか? なんに対するヒントなのだろうか。答えをスギ長老に尋ねてみろということか。それはいい考えかもしれない。
そのうち長老に会ったら確かめてみよう。
そう思いながら、鳶さんにもらったメモをフィッシングベストのポケットにつっこんだのだった。
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竹の花の撮影を続ける。
竹は被写体としても飽きない素材だ。植物の中では比較的シンプルな構造であるが、シンプルであるだけに表情が豊かであるともいえる。能面と同じ理屈だ。
一般的なイメージはどうだろう。
竹といえば剛直で力強い印象が勝っているのではないだろうか。余分な枝や根に邪魔されず、潔く垂直にすっくと立つ男性的な姿が見る者の襟を正させる。鮮やかな滴るような緑色がおごそかな気分をさらに掻《か》き立てる。
正月に門前に据える門松は、神を招く依《よ》り代《しろ》であるが、主役の松や榊《さかき》よりも、真中にある斜切りにされた三本の青竹のほうが印象に残る。青竹こそが厳粛な正月を演出しているといっても過言ではない。
しかし、竹林を離れたところから塊でとらえ、折り重なるように繁った葉の部分に焦点を当てると、イメージはがらっと変わる。
大きくしなりを打ちながら風にそよぐ細かい葉陰はとても女性的な印象だ。風に抵抗するでなく、吹かれるままに身を預けている。
こちらはそう、七夕祭りの竹のイメージ。しなった竹の枝先に吊《つ》るされた、願いを記した短冊が夜風に静かに揺れている。思いのほか小さくて繊細な葉がカサカサと乾いた音を立てる。竹は叙情も刺激する。
花を咲かせた竹は、稈《かん》の力強さとも葉の優美さとも異なる、幻想的な雰囲気を持っている。竹林全体に霞《かすみ》がかかったようで、妖《あや》しげな感じ。ここは異界か、仙境か? ひとつひとつの花は地味で切なげなのだが、林全体を見渡すと華やいで賑《にぎ》やかだ。
わたしはすっかり竹の花にあてられたようで、次次に連想が膨らんでいく。
竹はシンプルな構造だが、その中で節の存在も無視できない。こんなにあからさまなつなぎ目も自然界ではそうないだろう。
セキツイ動物は体の中心に骨格系を獲得したおかげで自由に動けるようになった反面、あまり大きくはなれなかったという。重力に対して自重を支えるしくみとして、骨格系は脆《もろ》さがある。柱や梁《はり》で組んでいく日本家屋があまり大きくなれない道理だ。
体を大きくしようと思ったら、もっとがっしりと組み立てる必要がある。植物は細胞をひとつひとつ組上げて体を作っていく。西洋の石造りやレンガ造りの建築物と同じような発想だ。これだと体を大きくできる。しかし細胞と細胞の間を固めていくのだから可動性には乏しくなる。
竹は当然植物なので、レンガを組上げた構造には違いない。顕微鏡で見ればきちんと細胞同士がつながり固まって、繊維をなしている。しかしマクロ的な視野で節をつなぎ目だとすると、節と節の間の稈がそのまま成型部品のようだ。ぽんぽんと稈をいくつかつなぎあわせたように見える。これはむしろ成型済みのユニットを組んでいくマンション建築などに近いのかもしれない。非常に現代的な発想だ。
マンション? 思考が飛躍してしまった。わたしはなにを考えているのだろう。稈の中が空洞だからこんな連想が出てきたのだと思う。
――竹の本質は中空であること。
メグミどんのことばが少し理解できたような気がした。
メグミどんのことが頭の隅をよぎったちょうどそのとき、わたしの視野の隅を本物の巨漢がよぎったのだった。
彼は径が十五センチもありそうな大ぶりなモウソウチクを二本ずつ両脇に抱えていた。長さも三メートルくらいはありそうなので、かなりの重さであろう。ずるずると引きずりながらこちらに向かってくる。
「メグミさん、随分立派な竹ですが、どうなさるのですか?」と訊いた。
「結界を敷くのじゃ」
「結界……?」
「そうじゃ。こん青竹は邪悪な力を近づけん。じゃっで、四本の竹で地面に方形を作り、そん四隅に斎竹《いみだけ》を立て、注連縄《しめなわ》を渡す。さればそん中は結界となって、邪魔されずに修行ができる」
斎竹に注連縄ならば地鎮祭でもお目にかかる。それに加えて青竹を敷くとは念が入っている。茶席を広い座敷で催すときに、客席との間に青竹を渡して敷居とするような慣わしにも近いのかもしれない。メグミどんが抱えた竹はきっと地面に敷くものであろう。
「それで、結界を作ってどうなさるのですか?」
メグミどんは心ここにあらずというような顔で答えた。視線の焦点が合っていない。
「ミツルは来月になれば、この村を統《す》べる資格を持つ男じゃ。じゃっどん、いまのままじゃいかん。時間がなか。あいつをどうにかせんといかん。あいつは命の尊さを軽んじ過ぎじゃ。ピョンタじゃノブヒデじゃとむやみな殺生が目立つようになった。放置しておくと、どうなることか先が恐ろしか。じゃっで、おいがあいつの心に巣食う邪《よこしま》なる憑《つ》き物を祓《はら》うことにしたんじゃ」
「結界を敷いて、中で祈祷《きとう》をなさるのですか?」
「よか方法を思いついた。まあ見ちょってたもんせ」
そう言うと、彼は四本の青竹を引いて、神社のほうに向かって行った。
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その晩もまた夕飯はゲンセキ村長の家に招かれた。しかし前夜とちがってゲンカンがおらず、卓を囲んだのは村長、鳶さん、わたしの三人だけだった。陽気なゲンカンがいないので、静かな席となった。
いつものようにゲンセキ村長は焼酎《しようちゆう》を茶碗《ちやわん》で呷《あお》りながら、わたしの質問に答えていた。メグミどんがミツルについて言ったことばが気になっていたのだ。
「前にも言いもしたが、代代この村は宋家の男が首長というのか、いわば村を統括する役割を果たしてきもした。いまはたまたまわしがやっちょるが、それもあくまで代役として臨時にやらせてもらっちょるつもりでごあす」
「ではやはり、ミツルくんが次の村長になるわけですか?」
「旺の姓でここまで育てあげてきたどん、ミツルはなんというても宋家の血を継いじょる。あいつが成年になるのを機会に、姓を宋に改めもす」
「来年の成人式のことですか?」
「いや、あいつも来月には成年になるはずじゃ。そうすれば、いつでも村長の役も引き渡すことができもす。ミツルに譲ることは、もう随分前から宣言しちょるで、村の皆も知っちょることじゃっで」
「なぜ、交代をそんなに急がれるのですか? よそ者の勝手な見方かもしれませんが、ゲンセキさんは村の皆さんから人望も集めていらっしゃるようにお見受けします。それに、ミツルくんがいくら成人といってもこの村では一番若いわけですし……」
「ミツルはまだ人望を得ておらんちゅうことかのう? まあ、それはそうかもしれん。
じゃっどん、この村は宋家の血が流れた人間が引っ張っていくことに決まっちょりもす。村人でそれに反対するもんは誰もおらん」
「猫田くん、われわれ門外漢が村のしきたりについて口を挟んでも意味がないよ。村の皆さんがミツルくんを祭り上げたいとおっしゃるのなら、それでいいんだよ」
「それはそうだけどね……ミツルくんは動物を相手に殺生なんかを繰り返しているって言うし、今日もメグミさんがとても心配しているようだったし……」
「ミツルくんって、そんなにみんなが言うほど冷酷な性格なのかなあ?」と、鳶さんが首を傾げた。
だがその直後、そんな鳶さんの思惑を粉砕するような事件が勃発《ぼつぱつ》したのだ。
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第四章
――第三夜、ついに事件に遭遇する
「大変じゃ!」
ゲンカンこと、源環《みなもとたまき》が血相を変えて飛び込んできた。
「神社の境内で、メ、メグミどんが血を流して死んじょる。とにかくすぐ来てくれ!」
「本当か、そりゃ急いでいくど!」
わたしたちはすぐさま身支度を整え、ゲンカンを追って源隻《みなもとひとつ》宅を飛び出した。膨らみを増した月が村を明るく照らしている。
先頭のゲンカンはもう神社の急坂にかかっている。そのすぐ後に鳶《とび》さんが続く。十メートル以上離されてわたし、最後がゲンセキ村長である。
神社の坂にさしかかった。月明かりは階段には届いておらず、前方は闇。漆黒の闇。
慌てて出てきたので照明を持っておらず、頼りのゲンカンの懐中電灯はすでにかなり坂の上のほうで、行く手の目安にこそなれ、足元を照らす役には立ってくれない。焦る気持ちと裏腹に覚束ない足取りで一歩一歩確実に段を踏みしめてのぼっていくしかない。
やっとの思いで階段をのぼりきり、息を整える。胸の鼓動が静まったところで懐中電灯が照らす光の先を見てみると――それはあまりに凄惨《せいさん》な光景であった。
楠《くすのき》の大木を背にして男が胡座《あぐら》をかいている。異様にバランスを欠いているように感じるのもそのはず、男には首がなかった。本来頭部があるべきその位置には闇が降り、懐中電灯の光暈《こううん》にわずかにぬらぬらと湿った輝きを見せる切断面がなまめかしい。
切断面から噴き出したのであろう大量の血潮がそこらじゅうに飛び散っている。この暗さでは逐一目で確認することは適《かな》わないが、鼻腔《びこう》を刺激する鉄っぽい血の臭いのおかげで飛沫《ひまつ》の量が知れる。
懐中電灯は男の腹部を照らしている。白浄衣《しろじようえ》が鮮血で真っ赤に染まっている。原因は腹に突き刺さった矢であった。先日猪が射抜かれたのと同様の竹の矢が、肝臓のあたりにしっかりと突き立っている。しかも矢は背中を貫通し、背後の大木にまで到達しているようだ。
わたしはそれ以上正視できなくなって、こみあげてきた吐瀉《としや》物を右手で押さえながら、視線を横にはずした。そこではじめて、死体のまわりを青竹が囲んでいることに気がついたのだった。四隅には葉をつけ縄を渡した斎竹《いみだけ》も見える。
わたしは(メグミどんが言っていた結界だ……)だんだん立っているのもつらくなり(やっぱりこの首なし死体はメグミどんなんだ……)地面に膝《ひざ》から崩れ落ちると同時に(昼間は元気そうだったのに……)こらえきれずに胃の中身を戻してしまった。
「猫田《ねこた》さん、しっかりしてたもんせ」
ゲンセキ村長がわたしの背をさすりながら(ちゃんと追いついてきていたんだ……)声をかけてくれた。わたしは声に出して村長に確認する。
「あれは、やはり……メグ」
「そうじゃ、メグミどんじゃ。いくら首がのうても、あのがたい[#「がたい」に傍点]を見れば一目|瞭然《りようぜん》。村であげんよか体つきの男は他におらん」
「昼間はあんなに元気だったのに……」わたしの頭はまだ現実を認める準備が十分にできておらず、混乱している。
そのとき、村長が突然|哄笑《こうしよう》しだした。場違いな笑い声が闇を破る。呵呵《かか》大笑。
死体を見つめていたゲンカンもこちらを振り返り、「ゲンセキ村長、どげんしたとな?」
「はっはっはっ。こりゃあ、めでたかことじゃ。メグミどんが死にやった。はっはっは」
「ゲンセキさん!」鳶さんも戸惑いを隠せない様子だ。
「はっは。わしは今晩から喪に服す。じゃっで、喪が明けるまで村を封印すっど。よかか、ゲンカンよ! はっはっはっ」と言い放つと、ゲンセキ村長は笑いながら暗い坂をひとりくだっていった。
「ゲンカンさん、ゲンセキさんはどうされたんでしょうか?」とりあえずゲンカンに訊《き》いてみる。
「うむ。おいにもようわからん。メグミどんのあまりにむごか死体を見て、錯乱されやったかもしらん」
「喪に服すというのはわかりますが、封印ってなんのこと……」
「村の入り口にゲートを降ろして、下の集落との行き来を遮断しもす」
「なんのために?」
「大事が起こったときにはそうすることになっちょりもす。村長が大事と判断したんじゃけ、命令は無視するわけにはいかん。じゃっで、今晩から村は封印しもす」
「しかし、葬儀の準備とかはどうするのですか? しかもこれは変死事件ですので、警察も呼ばなければいけないでしょう?」と、わたしよりは多少冷静に鳶さんが問う。
この問いは「村のことは全部、村の中で解決しもす。それが村のしきたりごあす」と、一蹴《いつしゆう》されてしまった。
それまで愛嬌《あいきよう》とか剽軽《ひようきん》さを醸し出していた彼の口ひげが突如高圧的に見えてくるから不思議だ。チャップリン演ずる『独裁者』が、ヒトラーを髣髴《ほうふつ》とさせる瞬間。落差があるだけに怖い。
目の前の惨事と村長やゲンカンの豹変《ひようへん》ぶりとのダブルパンチでわたしはノックアウト寸前、まともに口がきけない。いいように翻弄《ほんろう》され、誰になにを訴えればよいのか混乱してしまっている。
このまま議論を重ねてもしょうがないと見切ったのだろう、鳶さんが建設的な提案を出した。
「ともあれ、死体をこのまま放っておくわけにはいかないでしょう。かといって勝手に動かしてもまずい。せめてなにか布のようなもので覆ったらどうですか?」
「そうじゃな。おいが皆の衆に知らせてなにか覆うものを探してくるで、おまんさあがたはふたりでしばらくこれを見張っちょってたもんせ」
ゲンカンはそう言うと懐中電灯を持って村のほうへ駆けおりていった。唯一の照明がなくなり、視覚を補助する明かりは月の光だけである。心細いことおびただしい。
「猫田くん、大丈夫かい? 随分こたえているようだけど」
(いきなりこんなもの見せられて、こたえないほうがおかしい……)と、言い返したいのをぐっと堪《こら》えて、「鳶さん、これはやっぱり殺人事件かな、……だよね?」
「自殺や事故で頭部がなくなることは珍しいだろうからね。少なくとも息があるうちに、頭部が落とされたことは間違いないと思うよ。血の飛び散り方が半端じゃないから」
なんらかの要因で心臓停止後に首を刎《は》ねられた場合は、血流が止まっているわけだからこれほどはでに飛び散ることはない。それはわたしにもわかる。
鳶さんの説明は続いている。
「切り口がとてもなめらかなのは、よく切れる刃物を使って大きな力でもって一刀両断にした結果だろう。間違いなくこの刀が凶器だろう。うわっ駄目だ、とても見られない」
惨死体の前にはひとふりの刀が転がっている。刀身は赤黒く染まり、じくじくと月光に妖《あや》しく輝いている。鳶さんはその刀を見まいと目を瞑《つむ》っている。
「そういえば、メグミさんの祖先が平|業盛《なりもり》から刀を授かって家宝になっていると言っていたから、これがその……」
「ああ、多分その刀じゃないかな。腰にはいつもの匕首《あいくち》じゃなくて、刀の鞘《さや》が差されている。凶器を持ち込んだのはメグミさん自身だってことだ」ようやくそろそろと目を開けて言った。
「頭部は犯人が持って行ったのかなあ?」どうしても気になってしまう。
「うーん、どうだろう。そっちはすぐに斜面になっているから、意外ところころ下まで転がって行ったりして」
血みどろの首が斜面を転がり落ちる場面を想像し、またしても胃からこみ上げてくるものがあった。
「うっ、うう……」
「ごめんごめん、でも満更でたらめでもないんだ。ほら、そちらの斜面のほうに転転と血だまりが残っているみたいだし。頭部がなくなっているのも変だけど、この矢も気になるね。猫田くんは気づいたかな、この矢。矢羽のつくりなど相当ぞんざいだけど、矢の尻《しり》は死体から見てわずかに右に傾いているんだ。つまり矢はメグミさんの正面やや右寄りから突き刺さっている。しかも見事に水平だ」
鳶さんはなにやら考え込んでしまった。
わたしの頭には昨晩のゲンカンのことばが思い浮かんだ。
――弓矢くらい材料さえあれば村人じゃったら誰でも簡単に作れるが、大人は実際にそんなもので遊んだりはせん!
自分が「犯人=旺充《さかえみつる》」という解答を暗算で弾《はじ》き出したことにうろたえながら、理性的になろうと努力する。検算もしないで答えに飛びついてはいけない。鳶さんは言っていた、推理の基本は直感ではなく客観的な観察だと。
(もっとも、ミツルの腕前とて、村人は確認したことがないということだった……)ほら、少し冷静になれた。
おずおずと鳶さんの意見を訊いてみる。
「メグミさんは昼間、ミツルくんの中の邪心を自分が祓《はら》うようなことを言っていたんだけど、どうしてこんな目に遭ってしまったのだろう? ひょっとして犯人はミツルくんってことかな?」
「この矢から推理したんだろうけど、それはまだなんとも言えないな。
ただ、さっき言ったように、メグミさんは首が刎ねられる時点で生きていたことは間違いないから、矢が刺さったのが首を刎ねる前だったとしても、それが死の直接の原因ではないことがわかる。ま、これだけ見事に刺さっていたら、いずれは失血死を招く深手《ふかで》になったとは思うけど……」
しばし考え込んだあと、逆に訊き返された。
「ところでキミが最後に会ったときのメグミさんのことばを正確に思い出せるかな?」
「えーっと……」必死に思い出す。「はっきり覚えているのは、――ミツルは来月になれば、この村を統《す》べる資格を持つ男じゃ。じゃっどん、いまのままじゃいかん。時間がなか。あいつをどうにかせんといかん――という部分くらい。あいつはこの頃、むやみな殺生が目立つようになった。だからあいつの邪心をお祓いする、っていうような口調だったと思うけど……」
「そうするとミツルくんはやはりこの場に同席したのかな。でも、お祓いというには幣束があるわけでもなし、いったいどんな方法で……」
「そうそう、祈祷《きとう》とかじゃなくていい方法を思いついたって言っていたよ」
「邪心を祓ういい方法か。憑《つ》き物落とし……呪術《じゆじゆつ》……調伏……なんか違うなあ」
鳶さんはそんなことを呟《つぶや》いた。
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「あ、ゲンカンさんたちが戻ってきたみたいだよ」
人のざわめきが近づいてきた。暗かった境内がいくつもの懐中電灯で幾分見通せるようになった。先頭を歩いてくるのは匠周《たくみあまね》で、後ろには源環《みなもとたまき》、その隣には杉透《すぎとおる》の白髪も見える。さらに後続には旅庵《りよあん》や三人の女性の姿――源あき子、源みのぶ、匠洋子――もある。よく見ると、源環と杉透にはさまれて、もうひとつ人影が確認できる。旺充《さかえみつる》だ。
「兄ちゃん!」
源みのぶが最初に駆け寄り、死体をじいっと見つめた。そして声を失ったかのように立ち竦《すく》んでしまった。
「メグミどん……」
旅庵も遺体の前に進み出た。こちらもそれ以上ことばが続かない。涙を堪えているようだ。旅庵にしてみれば、親友の痛ましい姿を見るに忍びないのだろう。
「こ、これは確かにむごかのう」
声をあげたのはスギ長老であった。あき子、洋子もただただ目前の悲惨な現実に見入っている。
「ちゃんと成仏して欲しかのう。さ、早く布をかぶせてやりなんせ」
長老が言うと、あき子と洋子がそろそろと近寄って、死体にすっぽりと布をかぶせた。それが合図であったかのように、旅庵が堰《せき》を切ったように号泣し出した。つられるように、みのぶも啜《すす》り泣きを始める。それがあき子や洋子に伝播《でんぱ》する。
「ゲンセキさんはいかがでしたか?」鳶さんが問う。湿っぽくなった場を嫌がったのだろう。
「ゲンセキ村長は言動がおかしくなってしまいもした。ひとり焼酎《しようちゆう》を呷《あお》りながら、大声で歌をうたっちょる。それよりも、こいつじゃ。神社の坂下あたりで丸くなっちょったのをひっ捕まえもした」
ゲンカンはそう言って、ミツルを前に突き出した。ミツルは顔面に血しぶきを浴び、放心したような表情でなにやらぶつぶつ言っている。
「首が、メグミどんの首が……」
ゲンカンはあからさまに不機嫌な顔をして、
「見つけたときからずっとこの調子じゃ。メグミどんの首、メグミどんの首と繰り返すばかりで、他のことはなにひとつしゃべろうとせん」
「ミツルくん、どうしたのですか? メグミさんの首をどこかで見たのですか?」と、鳶さん。
「どうせ、わいがメグミどんの首を刎ねて、どこかに隠したんじゃろ、この罰《ばち》当たりが!」
声を荒らげ右手のこぶしを振り上げたスギ長老を押しとどめて、鳶さんが場を治めるように言った。
「スギさんもそんなに興奮なさらないでください。どうやらミツルくんも相当なショックを受けているみたいです。あまり刺激するとますます自分の殻の中に閉じこもってしまいます。さしでがましいようですが、ここは少しボクに任せてもらえませんか?」
ミツルは相変わらず虚空を見つめたまま、周囲が自分のことを話題にしているのにも気づいていない様子だ。そんなミツルの背中を軽く撫《な》でて緊張をほぐしながら、鳶さんが優しく語りかけた。
「ミツルくん、落ち着いて。もう心配しなくていいから。なにかとっても嫌な目に遭ったんだね。それをボクに教えてくれないかな」
「メグミどんの首が……」
「首がどうしたんだい、ミツルくん?」
それまで間断なく「メグミどんの首」と繰り返していたミツルが、ここでしゃべるのを中断してしまった。わたしも村人たちも固唾《かたず》を呑《の》んで彼の次のことばを待っている。
沈黙が重たい。十秒、二十秒、三十秒……。
「……目が覚めたらメグミどんの首が……首がおいらに襲いかかってきて……メグミどんの教えが、し、の、おしえが……」
しのおしえ? (死の教え、か?)
「それで?」と、鳶さんが先を促すのと、
「なにをたわけたことを言うとるんじゃ!」と、スギ長老が爆発したのがほぼ同時であった。
「うわあああああああっ―――――――」
ミツルは頭を抱えて咆哮《ほうこう》すると、その場に失神してしまった。
「しまった、せっかく口を開きかけたのに。くっそー、だから言わんこっちゃない! もう知らん、勝手にしろ!」
鳶さんにしては珍しく汚いことばで、ののしり吐き捨てるように言った。
(臍《へそ》を曲げてしまった鳶さんの機嫌をとりなすのは、人食い鮫《ざめ》の機嫌をとるより難しいのに……)わたしは思った。
村人は旺充を恵光《めぐみひかる》殺しの犯人として決めてかかっているようであった。意識を失った彼を楽楽と肩に担ぐと、ゲンカンは宣言した。
「逃げ出せんように、しっかり縄をかけておくど」
正直なところわたしもミツルが犯人だろうと疑ってはいたが、天邪鬼《あまのじやく》なものでこう堂堂と言われると反論したくもなる。
「まだミツルくんが犯人と決まったわけではないんじゃないですか? それに誰が犯人にせよ、やっぱり警察を呼ぶべきでしょう」
「よそ者が意見するとじゃなか! ここはわしらの村じゃっで、わしらが裁くんじゃ」
長老が先ほどのゲンカンと同じようなことを言った。周りの雰囲気が相当険悪になってきた。旅庵や女性たちの泣き声がさらに拍車をかける。
「おまんさあがたはミツルの味方かい?」ゲンカンが畳み掛けるように挑発してきた。妻の兄が殺された彼にしてみれば、怒りをどこかにぶつけたい気持ちもわからないではない。
それにしても、もしこの場の緊張度をはかる計器があったら、針はいきなりレッドゾーンに振り切れそうだ。敵方の戦闘準備完了。
(頼みの鳶さんは臍を曲げたままだし、困った……)と、先のひと言を後悔し始めたときに救済の手を差し伸べてくれたのは、意外にもタクミ先生であった。
「まあ、皆さん落ち着きましょう。本来、ここはゲンセキ村長の指示に従うところでしょうが、村長は村長でわれを忘れて酔っ払っておいでです。今晩のところはこれ以上の争いごとはやめましょう。ミツルは今晩はうちで預かりますから、明日改めて善後策を考えましょう」
いつもきまじめで慎重なだけに、みんながオーバーヒートした場面では、その発言が説得力を持っている。
「タクミ先生の言う通りじゃの。身内のことじゃっで、少少頭に血が昇りもした。言い過ぎじゃった。申し訳ありもはんでごあした」
気分転換の早いゲンカンがとりあえず折れてくれたおかげで、緊張度測定器の針はぐーんと下がったのだった。敵方、戦闘命令解除。
(眼鏡キリン、ここは感謝)心の中でわたしはタクミ先生に休戦宣言をした。
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その夜はそれ以上の進展もなく、それぞれ自分の家に引き上げたのだった。いくつか気づいたことを補足しておこう。
旅庵はかなりの衝撃を受けたのか、しばらく泣いていたが、泣き止んでもひと言も口をきかなかった。周囲も気遣ってそっとしておいたが、村の内と外を結ぶ要《かなめ》の人物であるだけに、彼がしっかりしてくれないと、わたしたちとしては心もとない。
今後も先ほどのように村人と諍《いさか》いがおこらないとは限らないが、それを両方の立場で仲裁できるのは旅庵だけなのだ。
ともあれ、宿にしていた主人のいない恵宅へと、無言のまま帰っていく旅庵の姿は哀感迫るものがあった。
ミツルは最後まで気を失ったままであった。顔面に浴びた血しぶきがすでに蘇芳《すおう》色に変色しており、まだあどけなさも残る寝顔に凄《すご》みを与えている。ゲンカンの肩に担がれたまま、匠宅へと運ばれていった。
この血しぶきの意味するところはなにか? いずれにしても、事件の鍵《かぎ》を握っている人物だと考えて間違いないだろう。
大鑪堂《たいろどう》に戻る途中に源隻宅によって様子を窺《うかが》ってみた。座敷をそっとのぞいてみると、聞いた通りゲンセキ村長がひとり焼酎《しようちゆう》を飲みながら歌をうたっている。彼の前の卓には飛び出して行ったときそのままに、わたしと鳶さんの肴《さかな》の小鉢や飲みかけのグラスが残っていて、この場が夢ではなく現実の続きなんだということを生生しく思い出させる。
場面は悲しい自棄酒《やけざけ》という雰囲気ではない。むしろ村長は普段以上に陽気にすら感じられる。それが逆に怖い。鬼気迫る恐ろしさを覚えてしまう。
神社の境内から戻ってきた妻のあき子も同じ思いなのだろうか。障子の陰から夫をのぞく視線は、なにか得体の知れない生き物に恐れをなしているようにも見えた。
やるせない気持ちで大鑪堂に戻ると、鳶さんはすでに蒲団《ふとん》に入っていた。
「鳶さん?」
返事を期待せずに衝立《ついたて》越しにそっと声をかけると、驚いたことに返事があった。
「猫田くん、ボクは今日はもう疲れたよ。すべては明日。おやすみ」
そっけない返事ではあるが、返事があっただけでもラッキーと思い、わたしもそそくさと顔を洗って蒲団に入った。
それにしても蒲団の脇のこの衝立。よく見ると芭蕉《ばしよう》の俳句かなんか記されているのじゃないかと疑いたくなる。
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第五章
――四日目、聞き込み捜査に明け暮れる
寝覚めが悪い。きっとまた嫌な夢にうなされたのだろう。幸いなことに夢の内容までは覚えていない。世の中、知らないほうがいいことや覚えてないほうがいいことは存外たくさんある。
今朝もまた鳶さんの蒲団《ふとん》は空。早早にどこかへ出かけたようだ。わたしも水で顔を洗い、引き戸を開けて表に出た。
昨夜の惨状がまるで嘘だったように青空が抜けている。昨日にもまして竹の開花が進んだような気がする。大鑪堂《たいろどう》の正面にはひときわ太いモウソウチクが一本立っている。その老竹だけはすでに葉を落として泰然と立っているが、周りの若竹たちはまるで浮わついたかのように装いはじめた。
ふと広場の入り口を見ると、いつの間にかゲートが降りている。昨夜のうちに誰かが設置したのであろう。
ゲートは堅牢《けんろう》なつくりの竹垣だった。高さ二メートルほどの斜切りの竹を隙間なく並べて立て、上部と下部の二か所を水平に渡した竹でしっかりとくくりつけてある。たかが竹垣であるが、見事にバリケードの役目を果たしている。
まさに封印ということばがぴったりである。猛猛《たけだけ》しい閉塞《へいそく》感で、青空の爽快《そうかい》感は瞬時に吹き飛ばされてしまった。
となると否応《いやおう》なしに昨夜のことが思い出され、いままで意識的に見まい見まいとしていた努力の甲斐《かい》なく、視線が神社のほうを向いてしまう。
(あ、鳶さんだ)
鳶さんがスワロフスキーの望遠鏡をセットし、なにかをのぞいているのだった。かなりの仰角。竹の冠部の枝先に鳥の姿でも見つけたのだろうか。わたしは駆け寄り、声をかけた。
「鳶さん、なにかいるの? 鳥?」
「あ、猫田くん、おはよう。なにかいるというか、なにかあるというか。見てみるかい。ただし、のぞくのはいいけど、できれば大きな声は出さないでね」
鳶さんがポジションを譲ってくれたので、背伸びして接眼レンズの位置に片目を当てた。
(なんじゃ、これ?)
折り重なるような竹の葉の合間に黒っぽい球状の物体が見え隠れしている。予想していたような野鳥の姿ではない。
「ズームレンズになっているから倍率をあげて、ピントをちゃんと合わせてごらん」
彼の言う通りに操作して、像を拡大し焦点を合わせる。一本の竹の先が重力の影響で少したわんでいる。重力を竹に及ぼしているのは、竹の先から伸びた針金に垂れさがった物体。黒いのは毛のようだ。毛が生えた塊。
風が吹いたのか針金のよじれのせいか、塊はゆっくりと回転している。黒い毛の塊が回転し、いままでむこう側に隠れていた部分が少しずつこちらに現れてくる。凹凸の激しい赤黒い表面。両側に突き出した突起物のようなものは……(ひょっとしたらこれは……)あれは耳(ということはわたしが見ているものは……)顔! (顔だ!)
「猫田くんも、気づいたようだね。そう、あれは……」
「メグミさんの首! グゲエエエーッツ!」
そう、あの変わった形の耳は見間違えようがない。そうとわかると特徴的な太い眉《まゆ》も確認できる。メグミの首が上下さかさまになって、まるで釣り上げられた魚のように竹の先から伸びた針金にぶらさがっているのだ。高さは四、五メートルはありそうだ。
場所は神社にのぼる階段の中腹から脇にそれて、竹やぶの斜面に十メートルほど踏み込んだあたり。首なし死体が見つかった地点から斜面に向かって血だまりが残っていたが、軌跡をたどると、ちょうどそのあたりに行き着きそうだ。昨晩は明かりがなくて気がつかなかったけれど、被害者の首は中空に吊《つ》りさがっていたのだ。
「どうしてあんなところに?」
「曖昧《あいまい》な疑問文だね、猫田くん。どうしてっていうのはWHYの意味、それともHOWの意味なのかな?」
なぜ、鳶さんはいつもこんなに落ち着いているのだろう。癪《しやく》に障るが指摘はごもっとも。
「HOWのほう。あんな高いところにどうやったら首を吊るせるのだろう?」
「その答えは簡単。あれは罠《わな》だよ」
「わ、なぁ?」
「最初の日に旅庵さんに教えてもらった猪捕獲用の撥《は》ね上げ罠だよ。わざわざあんなに高いところに吊り上げたのではなく、竹の弾力で自動的にあの高さまで持ちあがったんだと思う。人間の頭部ってどのくらいの重量なんだろうね。よくわからないが、猪の成獣に比べれば軽いはずだ。猪だったら体重にかかる重力と竹の弾力のバランスで、もう少し低いところで釣り合うんだろうけど、メグミさんの首はそんなに重くなかったので、あんなに高いところまで持ちあがっちゃったんだろう」
「なるほどね、罠を使ったのか。では、もうひとつの問い。WHY、なぜそんなことをしたのだろう?」
「猫田くん、たまには自分の大脳を使わないと、そのうち萎縮《いしゆく》して頭蓋《ずがい》ががらんどうになっちゃうよ。キミの頭部だったらきっと、メグミさんのものよりも高い地点に吊りさがっていたことだろうね」
つまり、わたしの大脳の重さが軽いってことか? わたしが露骨にいやな顔をしたので多少は気を遣ったのか、鳶さんは言った。
「ま、それは冗談だけれど、WHYとなるといまのところなんとも言えないな」
「犯人が見せしめにやったのかな?」わたしは一応大脳を働かせてみた。
「うーん、それにしては、逆に目立ちにくい場所だね。ボクはたまたま双眼鏡や望遠鏡を持っていたから見つけられたんだけど……。ともあれ、あのまま晒《さら》し首にしておくわけにもいかないだろうし、誰か村の人に知らせよう。ゲンセキさんはまだご機嫌みたいだから、ボクがゲンカンさんに知らせてくるよ」
鳶さんはそう言うと、さっさと源環宅のほうに歩いていってしまった。わたしはひとり取り残されてしまったが、再び望遠鏡をのぞく気にはならない。
(そうだ、旅庵さんに知らせてあげよう)
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メグミ宅の前に立ち、鍵《かぎ》のかかっていない戸を少しだけ開けて土間口から中を窺《うかが》う。障子で隠れ、姿は見えないが、名を呼ぶと奥から暗く沈んだ返事が返ってきた。
「少しお待ちください」
やがて旅庵が座敷から土間奥の板の間へとのそのそ這《は》い出してきた。憔悴《しようすい》を絵に描いたような顔つきで、いつもは商人らしくきちんとした身なりなのに、今日は髪が乱れ無精ひげが目立つ。わたしは三和土《たたき》に靴を載せ、板の間に腰掛ける姿勢で言った。
「旅庵さん、少しは眠られましたか?」
「いや、一睡もしていません。眠ろうとは思うのですが、意識すればするほど目がさえて、まったく眠れませんでした」
「そうですか、メグミさんとは親友でいらっしゃったんですものね。ショックが大きいことはよくわかります」
このことばが呼び水となって、旅庵はぽつりぽつりと話し始めた。身の上話ってやつだ。
「メグミどんは親友の旺貢《さかえみつぐ》さんが亡くなったあと、悲しみでしばらくふさぎ込んでいたことがありました。わたしはそんなときに彼と出会ったのです。ちょうどわたし自身も落ち込んでいるときでした。
わたしはもともと地方の物産品を扱う小さな会社に勤務していたのです。南九州各地の特産品を東京や大阪の市場に卸すような会社です。従業員といっても五人しかいない小さな会社で、わたしは仕入れを担当していました。町村部の田舎を丹念に回って市場のニーズに合ったものを仕入れるのです。収穫量が少なく一般流通ルートに乗らない最高級の玉露茶とか、畜豚農家と直取引の黒豚の肉とか、料亭用の特別なコサンチクの筍《たけのこ》とか、高級食材が中心でした。
当時はまだグルメブームなどということばもなく、決して大きな売上ではありませんでしたが、業績は安定しており、社員五人くらいの規模の会社としては順調でした」
旅庵は伏目がちに、しかし途切れることなく過去を語っていく。こうなっては、わたしは黙って聞くしかない。
「ところがあるとき、とんでもない失敗を犯してしまったのです。わたしが仕入れて東京の料亭に卸した熊本産の馬刺し肉が食中毒の菌に感染していたのです。供した相手が運悪く八十歳を超えた高齢の某一流会社の会長で、抵抗力も弱っていたのでしょう、それが原因で亡くなってしまいました。
食品業にとって致命的なミスです。わたしの会社は信用を一気に失い、東京、大阪の得意先から締め出しを受けてしまいました。あとはお分かりでしょう、小さな会社にとってはひとたまりもありません。結局倒産ですよ」
この手の悲劇は毎日の新聞を見れば事欠かない。いや新聞ネタにすらならない。傍観者の立場からいえば特に珍しいとも思えない。しかし当事者となれば話は別だ。淡淡と語れるようになるまで、きっと長い時間が必要であったはずだ。
「メグミどんと出会ったのは、やりきれない思いで日日過ごしているときでした。鹿児島で一人飲んでいるときに、たまたま同じ飲み屋に居合わせたのです。酒に飲まれてわれを見失い、生意気な口を利く若者とつい喧嘩《けんか》になって……、仲裁に入ってくれたのが彼でした。気がついたら彼のアパートに寝ていて、お恥ずかしい話、前後不覚のままに連れて帰ってもらったらしい。聞くでもなく聞かれるでもないままに、お互いの身の上話になって、意気投合したというか……」
どうやら旅庵は身の上を語るのが十八番らしい。
「その頃のメグミさんはどんな人物だったのですか?」
「出会ったのは十五年程前で、メグミどんもわたしもまだ三十歳前でした。彼はいま以上にとっつきにくい印象がありました。ひげを生やしていましたしね。最近は白髪も混じってきたこともあり髪を短く刈っていたので、猫田さんはお気づきではなかったかもしれませんが、彼はひどいくせ毛なんです。子供の頃はそうでもなかったのが、大人になってから発現したと言っていました。髪の毛もひげも天然パーマで、それはなかなか迫力がありました」
現在よりもさらに迫力があったとは半端じゃない。鍾馗《しようき》の形相か。その顔もいまでは晒し首となって吊るされている。そもそもそのことを知らせにここに来たのだ。どうやって切り出そうかとためらっている間にも、旅庵の述懐は続いていく。
「しかし、ああ見えても心根は優しい人でした。一度友だちになるとなんでも親身になって相手してくれました。心の支えになるから読めと言って、『荘子』を貸してくれたりもしたのですが、わたしはどうもあの漢文調が頭に入らなくて挫折《ざせつ》しました……」
一瞬の中断に割って入った。
「旅庵さん、実はさきほどメグミさんの頭部が見つかりました。猪の罠にかかって宙吊りになって」
「ああ、そうですか。しし罠ですか」
旅庵の返事はいかにもそっけなく、改めて驚いたというよりも諦念《ていねん》に近い。
「親友であった旅庵さんにはうかがいづらいのですが、メグミさんはどうしてあんなことになってしまったのでしょうね?」
沈黙。
しばし静寂。
遠くのほうからかすかに歌声が聞こえる。ゲンセキ村長がうたっているのだろうか。
(いったいこの村はどうしてしまったのか)
長い沈黙のあとに、旅庵はこう言った。
「猫田さんには、メグミどんの死の意味がわかりますか?」
「メグミさんの死の意味、ですか……?」
「そうです、意味があります。無視できない意味が」
「死を、解釈しなければなりませんか?」
「そ、そうせざるをえなかった!」
わたしのなにげない質問に怒ったように、旅庵はいきなり感情を昂《たか》ぶらせた。そして、昨夜と同じように号泣を始めた。しばらく落ち着くのを待つ。(ほんとにこの村はどうしてしまったというのか)興奮を静めてもらうために、きっかけを与えた。
「そういえば、昨夜ミツルくんが死の教えがどうしたとか言いかけていました。どういう意味なんでしょうか? 死の教えって?」
「死の教え……教えではない……わたしが彼の意図を台無しにしてしまった」
泣きながら途切れ途切れのことばは、そう聞き取れた。しかし、なにを台無しにしたというのか? さっぱり意味がわからない。
「わたしがメグミどんを……メグミどんを死に追いやったのです。わたしが……」
死に追いやった? そう聞こえたので、ぎょっとして顔を上げると、旅庵の目には止まらない涙と狂気の兆しがあった。そろそろ辞去すべき潮時だと判断した。
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突然取り乱した旅庵にうろたえてしまったわたしは、次に匠宅へ向かった。慎重|居士《こじ》の眼鏡キリンならば、わたしの混乱した頭の中を少しは整理してくれるかもしれないと期待して。
匠宅を訪れると洋子が出てきた。幸いタクミ先生も在宅中だという。書斎に案内される間に洋子にミツルの容態を問う。
「もう失神状態からは覚めとるが。さっき朝食を運んだら食べちょったで、大分回復しよっちょ」という答えであった。
書斎に通されると、タクミ先生は顔をしかめて文机《ふづくえ》の上に開いた書物に向かっていた。
昨夜は気づかなかったが、左手首には包帯が痛痛しい。そうだった、昨日彼はわたしの眼の前で派手に転倒したのだった。捻挫《ねんざ》した手首がおおかたひと晩あけた今朝|腫《は》れてきたのであろう。あの場面を思い出すと笑いがこみあげてくるが、その話を蒸し返すような愚挙はしない。
「昨晩はどうもありがとうございました。眼鏡キ、いや、タクミさんに仲裁していただいたおかげで、一触即発のあわやという場面から救われました」
「いやなに、そんなことは。困っている人を見れば当たり前ですよ。ははは」
この手の人物は、とにかく持ち上げておけばよいのだ。それで話の主導権を握れる。
「ミツルくんを引き取って預かるなんて、さすがだと思いました。あのままだと、彼はリンチにあっても不思議ではない雰囲気でしたから」
「なあに、ああいう場面こそ、沈着冷静な行動が大切なんですよ。この村には血気盛んな男ばかり多くて」
こころもちタクミ先生の鼻が高くなったような気がした。鼻高眼鏡キリン。
「ところで洋子さんからうかがいましたが、彼はかなり回復したようですね、ミツルくん」
「昨夜の興奮ぶりが嘘のように静かにしていますが、今度はなにを訊《き》いても口を噤《つぐ》んだままです」
「彼、どうしちゃったんでしょうかねえ?」
「あれは多分、狂接輿《きようせつよ》の真似でしょう」
「えっ?」
「狂接輿、知りませんか?」
「はい……知りません。よかったら教えていただけませんか?」
あくまで下手に出る。
「接輿は孔子と同時代の賢人のひとりです。いつも狂ったふりをして世の中をうまく生きぬいた人物で、『論語』や『荘子』などに逸話が残されています」
「狂ったふりをした賢人、ですか?」
「有名なエピソードは、孔子が焦って道徳を説こうとするのに対して、狂接輿がバカのふりをして生き延びることこそ、すぐれた処世術だと喝破するくだりがあります。広い世の中を道徳という規範で区切って自ら枷《かせ》をはめるよりも、もっとおおらかに生きていこうというような意味の教訓です」
「はあ、孔子に意見したんですか。で、ミツルくんが、その狂接輿にならって狂ったふりをしていると?」
「ぼくはそう思います。ミツルはあれでなかなかに賢い青年です。下手に弁解をして身の証《あかし》を立てようとしても、最初から疑いの目で見られていては弁解をすればするほどかえって疑いを招くことにもなりかねない。いっそバカのふりをして、疑惑の嵐が通り過ぎるのを待とうという高等戦術でしょう」
「では、ミツルくんが犯人で、それを隠すために錯乱状態を演じているということですか? つまり精神状態が正常ではない場合は刑事責任を問わないという……」
タクミ先生はあからさまに侮蔑《ぶべつ》の表情を浮かべて言った。
「なにを寝惚《ねぼ》けたようなことを言っているんですか。ここは竹茂《ちくも》ですよ。日本国の刑法にそんな規定があろうがなかろうが、ここでは通用しない。そうではなくて、ミツルは実際に殺人を犯していないからこそ、それをことばよりも雄弁に語るために狂人の真似をしているのですよ。そうすることで狂接輿の譬《たと》えを誰かが思い出す」
「そんな不確かな身の潔白の示し方があるのですか。そもそも誰も狂接輿とやらのことを思い出さなかったらどうするのです」
「だから、ちゃんとぼくが気づいているじゃないですか。ぼくという観客を意識しての演技ですよ、あれは」
気のせいか、鼻がまた高くなったようだ。鼻高高眼鏡キリン。
はっきりわかったことは、この竹茂ではわたしが当たり前と思っている論理はどうやら通用しなさそうだということ。郷に入りてはというが、価値体系や論理体系がこうもずれていると、郷に従える自信はない。
「それでは昨日の事件には、ミツルくんではない別の犯人がいるということですか?」
「そうです。ぼくのにらんだところ、犯人は……」
「犯人は?」
「鳶山さんと猫田さん、あなたたちふたりです!」
驚いた。いきなりの宣戦布告とは。
「はあ?」
あまりの奇襲だったのであっけにとられたというのが正しい。ならばこちらも停戦調停決裂だ。
「どうしてそんな結論になるのですか。そもそも死体の発見者はゲンカンさんで、わたしたちが駆けつけたときにはメグミさんはすでにあのむごたらしい姿だったのですよ」
「それならば、ゲンカンも抱き込まれたのかもしれません。あいつはもともと意地汚い男なので、金でもちらつかせればすぐに抱き込めるに違いない」
「そんな無茶な。そもそもいつわたしたちに犯行ができたというのですか。ゲンカンさんが呼びにきたときまで、わたしたちはゲンセキさんと一緒に夕食をいただいていたのですよ。わたしたちが境内にたどり着いたときにもゲンセキさんは一緒でした。ゲンセキさんまでぐる[#「ぐる」に傍点]だと言うのですか?」
ついついムキになってしまう。
「ゲンセキ村長は足があまりよくないから、一緒に駆けつけたといっても必ず最後になったはずです」
それは確かにそうだった。ゲンカンと鳶さんが先導し、遅れてわたしが続いた。村長はわたしの後ろであったが、どのくらい離れていたのかはわからない。気がついたら、境内にいたのだった。
「ゲンカンが睡眠薬かなにかを盛ってメグミどんを昏睡《こんすい》状態にさせたうえで、あなたたちを呼びに行った。あなたたちはゲンカンと同時に境内に着き、ゲンセキ村長が追いつく前にすばやく彼の首を刎《は》ねたのでしょう」
「なにを妄想めいたことを言っているのですか。なぜわたしたちが出会って間もないメグミさんを殺したりする必要があるのですか?」
「あなたたちは竹の花を撮りにきたなどとでたらめを言って村に潜入し、ほんとうは竹茂に伝わる秘宝を探しにきたのでしょう。そのことがメグミどんにばれたに違いない。だから殺したのです!」
「竹茂に伝わる秘宝? あ、生前メグミさんが言っていた刀のことですか。あれは昨日の凶行に使われて、もう刃だって毀《こぼ》れているでしょう。大切な宝物を奪いにきたのなら、それを自ら壊すわけないじゃないですか」
「とぼけないでください。見つけたら礼をはずむとでも言って、ゲンカンを抱き込んだのでしょうが、ゲンカンは宝のありかなど知らない。あ、ぼくを脅してもだめですよ。ぼくも隠し場所なんて知らないですから、ほんと、ほんとですよ」
最後は怯《おび》え声である。よほどわたしが怖い顔をしていたのだろう。
こんなに人を侮辱した話はない。わたしは思いっきりタクミ先生の左手首を蹴《け》り飛ばしたかったが、すんでのところで自分を抑えた。そんなことをすると村人たちをさらに敵に回してしまうかもしれない。
眼鏡キリンをひとにらみして、席を立った。
話が本当ならば、刀以外にもなにか大切な宝物がこの村のどこかに隠されているらしい。平家の財宝? まさか。こんなみすぼらしい山村に人を殺してでも、手に入れる価値のある宝が眠っているというのか。
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まったく呆《あき》れて物が言えない。怒りのはけ口を一緒に犯人と名指しされた男に求めることにした。
ゲンカンを訪ねると、やつれた顔のみのぶが出てきた。兄を亡くしたショックのあまりいままで床で休んでいたらしい。それでも気丈に起き上がってきて、夫は兄の遺体を安置しに胡蝶亭《こちようてい》に行っていると告げた。その声はさすがに沈んでいた。
胡蝶亭に足を運んだ。
縁側に座ってゲンカンがひとり煙草に火をつけるところであった。口にくわえた煙草の銘柄はハイライト。左手で風を避けるように覆い、右手のマッチで火をつける。
「ご一服中すみません。ちょっと話をさせていただいてよろしいでしょうか」
「おお客人、どうぞこっちに来て、座りやんせ。おいもちょうどひと仕事片づいたところじゃっで」
「ひと仕事ですか?」
「さっき鳶山さんが来んさって、メグミどんの首が見つかったでどうしよかちゅうことじゃった。ついさっき首を罠からおろして安置したばかりのところごあす」
顎《あご》を後ろの部屋のほうに向けるので、そちらを見てみると、畳の上に布をかけられた物体が目に入った。あの中にメグミの頭部が置かれているのだろう。布の盛りあがりはかなり大きいので、頭部だけでなく遺体をすべてこちらに移したということか。
「境内から胴体も運ばれたのですね?」
「そうじゃ、あのまま放置しておくのは不憫《ふびん》じゃっで。中を見たいごあすか?」
「いやいや、とんでもないです。結構です。やはり警察には報《しら》せないのですね」
「電話はゲンセキ村長のうちにしかなかばって、村長は相変わらずあん調子じゃけに」
わたしは携帯電話を持っているが、この村は圏外であり、まるで役に立たない。
「ゲンセキさんも、やはりあの狂接輿とかの真似をされていらっしゃるのでしょうか?」
「ははあ、おはんはタクミ先生になにか吹き込まれもしたな。タクミ先生はようけいろんなことを知っちょるばって、なにしろ視野が狭か。すべてをおのれの知識で解釈しようとするくせがあるで」
(その通り)と、大きく頷《うなず》こうとした矢先、タクミ先生の説と大差ない謎めいた発言が続いた。
「村長はうれしいんじゃ。うれしくてたまらんで、ああして飲みうたっちょる」
「メグミさんが亡くなったことが、そんなにうれしいことなのですか?」
「村長は死体をひと目見て、メグミどんの死の意味がわかったのでごあそう。めでたかことじゃって言いやったんは、おはんも聞きやったろう」
「確かに聞きましたが」ゲンセキ村長は死体を見るなりそう断じたのだった。「首を斬《き》られて殺されて、どこがめでたいのでしょう?」
「かかあの手前、おいが訊くわけにはいかんどん、じきに村長の口から明かされるはずじゃ。それまでは村を封印して待つしかなか」
死の意味……旅庵もそんなことを言っていた。意味を解釈しなければとかなんとか。そんな暇があったら犯人を探すほうが先決ではないのか。この村ではいよいよ世間一般の常識が通用しない。
「ところで、ゲンカンさんは犯人についての心当たりはないのですか」と話を振り、ここでさきほどタクミ先生からわたしと鳶さんが疑われた話をした。ゲンカンも一緒に疑われたことは黙っておく。それはこちらの切り札だ。
「タクミ先生の頓珍漢《とんちんかん》な間違いなど、おいが首根っこつかまえて問いつめれば一発で直る。おはんの無実もおいが証明しちゃるで、心配なか。わはははは」
「それにしても犯人は誰でしょうね。ゲンカンさんがメグミさんの死体を発見したときの様子はどうだったのですか?」
「おいはちょうどノブヒデを解体《さばき》終えて、家のほうに帰る途中でごあした。そしたら神社のほうでなんか人の声が聞こえた気がしたんじゃ。そいで境内に行ってみると、あん有様ごあそう。なにしろびっくりして、すぐに村長んちに駆けつけもした」
「その声に心当たりは?」
「叫ぶような声じゃったし遠かったきに、誰の声ともしれんのう。おいが境内に着いたのはおそらくメグミどんの首が斬られたすぐあとで、まだ斬り口から血が噴き出よった」
「じゃあ、首を斬った犯人はそのときまだゲンカンさんの近くにいたのかもしれませんね」
「おいは一瞬、二十年前の事件を思い出しもした。旺貢さんが父親|満志《みつし》さんの首を鉈《なた》で刎ねたあん事件を」
刎ねられたばかりの切断面から血を噴き出している生生しい遺体。社の陰には血の滴る鉈を持ち薄ら笑いを浮かべる旺貢の姿。想像するだに恐ろしい光景である。
「まさか貢さんの怨念《おんねん》が誰かに乗り移って、メグミどんを襲ったちゅうことはなかじゃろうな」豪快なゲンカンが声を潜めてまじめに問うのがおかしい。
「いくらなんでもそんなホラー映画のような、非科学的なことは起こらないでしょう。そもそも旺貢さんとメグミさんは友人だったのでしょう。だったらたとえ貢さんの無念が霊として残っていたとしても、メグミさんを襲うとは考えられない」
「そうじゃろか……」
「え、どうしたのですか、貢さんとメグミさんの間になにかまだ隠された過去の因縁があるのですか?」
訊いてみたが、ゲンカンは突然表情を硬化させて押し黙ってしまった。
わたしのことばで旅庵は泣き崩れ、タクミ先生は怯《おび》えあがり、ゲンカンは黙り込んでしまった。わかってもらえるだろうか、わたし自身が一番困惑しているのだ。
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一度大鑢堂に戻ろうと歩を進めていると、自宅の前を掃除しているスギ長老の姿が見えた。昨夜の諍《いさか》いを思い出す。ここは早めに和解しておいたほうがよさそうだ。
「スギさん、昨夜はどうも失礼いたしました。考えてみれば、この村のしきたりによそ者の分際で口を出すほうが間違いでした」
まずはこちらから頭を下げる。
「いやいや、猫山さんじゃったか、こちらも我を忘れておったで、失礼をいたしもした。悪気があったわけじゃなかで、許してたもんせ」
「それはもちろんです。それはいいのですが、わたしの名前は猫田といいます」
「おお、それは失礼した。近頃物忘れがひどうなってのう。もうひとりは富山《とみやま》さんじゃったか、あん人は怖か人じゃなあ。昨夜もおいは叱《しか》られるかと思うたど」長老は鳶さんの名前も間違えている。
「あんたバカなこと言うとらんで、猫田さんにあがってもらわんね」と、玄関から出てきたたか江に助けられ、座敷に通された。お茶などいただきながらしばし歓談した後、改めて問う。
「ところでぜひスギさんにお訊きしたいことがあるのですが……」
鳶さんに昨日もらったヒントから、柳《やなぎ》家の女性が実は宋香《そうかおり》であるという推理をし、それを長老に確かめようと思っていたのだった。
「宋香さんはいまでも生きていらっしゃるのでしょうか?」単刀直入に訊いた。
「なにをとぼけたことを言うとるんじゃ。いくら物忘れがひどくなったちゅうても、あれは忘れられん。香は二十年も前にミツルを産み落としてそのまま死んでしもうたど。のう、たか江」即答で否定された。
「あたいたちの娘の和子が三十二歳のときじゃったが。和子は翌年名古屋に嫁に行き、それと入れ替わりで指宿《いぶすき》から洋子さんが来やった。よう覚えとるが」たか江が当時を回想する。
このふたりの話は遠回りになりがちだが、とにかく二十年前に宋香が亡くなったのは間違いないらしい。
「それでは、アキラさんのところにいるもうひとりの女性は誰ですか、教えてください」
「アキラんとこには別に女などおらんが」
昨日のタクミ先生と同じようなことを言う。
「アキラんとこにおるんは修《おさむ》じゃろ」
「修さんって、それは男の人ですか?」
そう言えば聞き覚えがある名前だ。あれは確か猪小屋でノブヒデが殺されたとき……
――きのう修がヒロエをつぶし、ノブヒデがこのざまじゃから、残りは六頭じゃ。テツヤ、ケン、モトコ、キョウコ、ユリコにクミコ。
……思い出した。ここにいる長老がそう言ったのだ。猪の名前と人の名前が一瞬混乱したが、文脈からも修は人の名前だろう。
「おまんさんはうちの亭主の物忘れがひどくなったちゅうて、からこうちょるんかい? もちろん、修は男に決まっちょるが」と、たか江からも返されて、勘違いに気がついた。
ようやく謎が解けた。意外な事実。
(あの女性だと思っていた美しい人物は、男性だったのか!)
言われてみれば服装がとりわけ女性っぽかったという印象はない。野良着のような地味な服装だったか。むしろ丹精に整った美しい顔から女性だと判断したのだ。
(そうか、男性だったのか!)
偏見だとは自覚するが、こんな僻地《へきち》の山村にあれほど整った顔の男性がいたとは驚きである。それにしても、修とは何者だろうか。強烈に興味が湧《わ》いてきた。
「修さんとアキラさんとはどういう関係なのですか?」
「どういう関係って、修はアキラの遠い親戚《しんせき》筋に当たる。旺貢のせいでアキラが失明し、肉親も亡くしてしもうたんで、奄美大島《あまみおおしま》から竹茂に引っ越してきた。それ以来ああやって付き添いでアキラの面倒を見ておるとじゃ。それから村のいろんな力仕事もまかせておる。修はおいの頼みをよう聞きよる」うれしそうに長老が答える。
「それでは、もう二十年も……」
「二十年にもなるのう。あん頃はおいもまだ若くて、物忘れもひどくなかったとじゃが、猫山さん。修が来て二十年も経つんじゃのう。そうじゃ、おかげでミツルももう二十歳じゃ! ミツルはとんでもなか悪《わる》じゃど。メグミどんをあげなひどい目に遭わせてしもうた。ノブヒデを平気で撃ち殺したときに、ちゃんと懲らしめんといかんやったとじゃって」
長老はミツルを一連の事件の犯人と目している。一貫している。というより、頑固で融通が利かないだけなのかもしれない。
「昨日の夜、ミツルくんが見つかったときもやはり、あのうわ言のようなものを繰り返していたのですか」
「そうじゃった。メグミどんの首がどげんしたこげんした言うちょった。どうせ斬り落とした首が襲ってくる幻覚でも見たとじゃろが。自分で首を刎ねておいて、肝の据わっておらん男じゃ」
「もし、ミツルくんが犯人ということになれば、竹茂村の村長はどなたに委《ゆだ》ねられるのですか」
「困ったもんじゃ。そげな事態は想定しちょらんやったで、しばらくはゲンセキさんに続けてもらうしかなかろう」
「皆さんに長老と慕われているスギさんにも相談とかあるんでしょうね?」
「うれしかことを言ってくれるのう、おまんさん、猫山さんじゃったか。おいは長老じゃっど、物忘れがひどくなってきたで……」
喜色満面の長老のことばを遮って、たか江がピシャリと言った。「猫田さん、あんましからかわんでたもんせ。うちの亭主はすぐそん気になるで」
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名前は覚えてくれなかったようだが、長老との会話で、いくらか頭が晴れてきた気がする。それにしても、わたしひとりで随分と多くのことを聞いたため、消化不良気味である。情報を鳶さんと分かち合いたい気分になった。
大鑢堂に戻ると、珍しく彼のほうから声をかけてきた。
「いろいろと嗅《か》ぎ回っていたようだけど、なにか収穫はあったの?」
どうやら好奇心でうずうずしているようだ。ここはひとつ焦らせてみよう。
「うーん、別に。それより鳶さんのほうは新しい情報はないの?」
「ボクはキミのように閑人《ひまじん》じゃないからねえ。ゲンカンさんと一緒にメグミさんの遺体を胡蝶亭に安置してからは、ずっとここで読書をしていたよ」
これは嘘だ。証明してみせよう。
「朝起きたとき鳶さんの『重力の虹』は下巻の五十ページが開いてあった。朝ちゃんと確認したから間違いない。しかるに、いまは五十四ページが開いている。鳶さんがここに戻ってかれこれ二時間近く経つはずだから(わたしがゲンカンに会ったのがそのあたりだったのでわかるのだ)、あまりに進み方が遅い。結論。話を聞きたくて読書に身が入らず、首を長くして帰りを待っていた!」
「ピンポーン、猫田くんもなかなかやるねえ。推理の基本の三番目は相手の気持ちになって、心理状態を正しく斟酌《しんしやく》することだ。ただいまの猫田くんの推理は、この点ボクの胸のうちをかなり正確にトレースしていた。正解の賞品として、最後の一缶となったビールをあげるから、教えてくれよ」
最初からそう言ってくれればいいのに、見栄を張るところがおかしい。たまに鳶さんの鼻を明かすと実に気持ちがよい。わたしは旅庵から始まって、スギ長老に至るまで四人との話の模様を余すところなく、彼に再現してみせた。
もちろん最後の缶ビールはありがたくいただいた。語り部は喉《のど》が渇くのだ。
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第六章
――第四夜、酩酊しつつ第二の事件を体験する
わたしが鳶さんに話し終わった頃、源あき子が訪ねてきて、夕方より胡蝶亭《こちようてい》で恵の通夜が営まれることを告げた。
なるほどどうしても外に知らせずに、竹茂村の内部で事件を処理するつもりらしい。もはや反論する気にもなれない。なしくずしの怒り。
こんな事態に巻き込まれるとは思っていなかったわたしたちは普段着のまま、それでも精一杯の弔意をこめて綻《ほころ》びを繕いほこりを払ったうえで、時間通りに胡蝶亭へ赴いた。
庵《いおり》の広間の片隅に簡素ながら白木の壇が築かれ、その上に棺《ひつぎ》が安置されてあった。遺体はすでに納棺されている。この手回しのよさが不気味だ。
広間にはすでに数人の姿が見える。棺の手前、こちらに向かって胡座《あぐら》をかき、眠ったように目を閉じているのは源隻だ。その隣で正装した源環とみのぶが正座で弔問客を迎えている。村長と故人の妹夫妻の三人が喪主ということなのであろう。
すでに弔問を終えたのであろう杉透・たか江夫妻と源あき子、旅庵の姿が見える。さらに一番奥には、かしこまったように柳家の老人の姿。
(アキラさん、だ)
若者の姿は見えない。(修くん、どうしたんだろう)あの美しい顔立ちの人物が男性だったと知った現在、改めて会ってみたい気持ちが高まっている。
鳶さんに続き、ゲンセキ村長の前ににじり寄って両手をついてお辞儀をする。
「このたびはご愁傷さまで……」
わたしはこんなときの挨拶《あいさつ》をきちんと知らない。口の中でもごもごと慣用句を並び立て語尾を濁してしまう。
そんなわたしに対しても源みのぶは丁寧にお辞儀を返してくれる。まだ顔色が悪い。ゲンカンは先ほどと打って変わって神妙な態度。一方、ゲンセキ村長のほうは目を瞑《つむ》ったまま。酔いが回って本当に眠っているのではないだろうか。
苦手な挨拶が終わったわたしはそそくさと焼香を終え、スギ長老の横に並ぶように座ると、小声で話しかけた。
「修さんは……?」
「棺や壇を準備したのが全部修じゃ」
修はアキラの身の回りの世話のみならず、長老の指示で村の雑務をこなしている。この通夜の場も修が用意したらしい。
(疲れて家に戻ってしまったのだろうか。近いうち、一度ちゃんと話をしてみたい)
そんな思いをめぐらせていると、玄関のほうから物音が聞こえた。新しい弔問客だろうか。
振り返ると匠周と匠洋子にはさまれるようにして旺充が連れて来られていた。
「ミツルめが来おった」
さっそく気づいた長老が聞こえよがしにののしった。
その声は無言でお辞儀をするミツルの耳にも届いたはずだが、ミツルはあくまで静かである。本当に狂接輿のふりでもあるまいと思うが。
狭い庵は緊張に包まれたが、タクミ夫妻に続いてミツルも焼香を終えた。
そのときゲンセキ村長が充血した目をかっと見開き言った。眠ってはいなかったのだ。
「皆の衆、メグミどんの通夜によう集まって来やった。今夜はメグミどんにとって大望のかなっためでたい日じゃっで、思う存分飲みやんせ」
「大望とはどういうことですか?」
すかさず鳶さんが質問した。わたしも同じ疑問を抱いていたところであった。
「メグミどんはついに真人《しんじん》になりやった。前前から憧《あこが》れておったからのう」
「真人とは……何者ですか?」
今度はわたしが質問を投げかけた。
「真の自由を手に入れた究極の存在じゃ」
あっさりしたゲンセキ村長の答えを受け、タクミ先生が周到に補足する。
「荘周《そうしゆう》が理想とした最高の人格を真人、または至人《しじん》、聖人《せいじん》、神人《しんじん》と言います。いずれも真の知恵を獲得した囚《とら》われなき人間です。真人アリテ、而《シカ》ル後ニ真知アリ――真人となることで根源的な知恵を獲得できるのです」
「真の知恵の獲得……つまり悟りのようなものですか?」と、わたし。
「仏教とは違いますが、まあ同じようなものです。その譬《たと》えで言えば真人になるということは、解脱するということに近いですね」
「しかし解脱ならば、必ずしも死ぬことを必要としないでしょう? 十分に修行を積むことで覚悟の道が開かれるのでは?」
これは鳶さんだ。
「真人になることも死ぬことを意味しているわけではありません。真人ハ、生ヲ説《ヨロコ》ブヲ知ラズ、死ヲ悪《ニク》ムヲ知ラズ。ソノ出《ウマレイ》ズルニ説《ヨロコ》バズ、ソノ入《シニイ》ルニ拒マズ。|※[#「修の彡にかえて羽」、unicode7fdb]《ユウ》然トシテ来タルノミ――生きる死ぬはもはや問題ではない絶対的な境地なのです」
タクミ先生の説明に大きく頷《うなず》きながら、続くように村長が言った。
「至人ニ己ナク、神人ニ功ナク、聖人ニ名ナシ、じゃ。真人と同じく、至人も神人も聖人も、私心や功績や名誉を求めることはなか。自然にあるがままを生き、あるがままを死ぬ」
「つまりメグミさんは自然にあるがままに死んで真人になった、と?」と、鳶さん。
「そういうことじゃ」
「くどいようですが、それならやはりメグミさんは真人になるために自ら死んだということですか。何者かに殺された結果として真人の資質を獲得したのではなく、自らの意思で真人になるべく死んだのだということですか?」
「違う。あん人は真人になるために死んだんじゃなか。真人になったと同時に死んだのじゃ。じゃっで、わしはうれしいのじゃ。わははははは」
本当にうれしそうである。
「なるほど、真人になったメグミさんはその瞬間に首を刎《は》ねられたということですね。真人にとっては生も死も同等なので、首を刎ねられようが殺されようが関係ない、と」
鳶さんには村長の主張がわかったのだろうか。納得顔である。
わたしのほうは抽象的な議論に疲れを覚えてきた。
(そんなことよりも誰がメグミどんを殺したのかのほうがはるかに重要なはずなのでは?)
大声で叫びたいくらい、頭の中は疑問符で一杯なのだが、この場は通夜だ。それくらいはわきまえて行動しなければならない。
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そうこうするうちに女たちが奥の炊事場から酒と盃《さかずき》を持ってきた。どうやら本気で飲み明かすつもりらしい。
酒宴の仕切りはゲンカンのお手の物だ。促されるままに場を移動すると、知らず知らず車座になって、焼酎《しようちゆう》の一升瓶を囲んでいた。
わたしの右隣にゲンセキ村長が胡座をかいている。それから右回りにゲンカン、タクミ先生、スギ長老。次がミツルで、旅庵、鳶さん、そしてわたしと続く。村の女たちは料理の準備で座に加わっていない。喪主のみのぶは誘われていたが固辞したようだ。改まった場になるといつでも女性はすっと裏に隠れてしまう。こういうひとつひとつが気に障る。客という立場で、わたしだけが女性の中で優遇されている。正直なところ言い知れぬ圧迫感がある。どうせならわたしも裏方に回りたいくらいだ。
アキラ老人は酒が飲めないのだろうか、輪には入らず、ひとり部屋の隅でお茶など飲んでいる。誰も話題にしないところを見るといつもの習慣なのか。
この酒宴、ゲンカンの提案がまたとてつもなく激しいルールであった。与論献奉《よろんけんぽう》という与論島に伝わる飲み方に似ている。ひとりがメグミの思い出を語りながら、盃を飲み乾すと右隣の人に回し、酒を注ぐ。受け取った人間もまたメグミにまつわるひと言を述べ、盃を乾して右の人へ。こうやってひとつの盃で焼酎を回し飲むのだという。しかもその盃が茶碗ほども容量があるのだ。とんでもない酒宴に参加する羽目になってしまった。
しかし辞去するにはタイミングが遅すぎた。心の準備もできぬままゲンセキ村長が口上を述べ始めた。
「本日の酒宴はいつものメンバーに加えて、池旅庵さんと、鳶山久志さん、猫田夏海さんに加わってもらうことにしもした。それから本当は未成年じゃが、もうそろそろ酒に馴染《なじ》んでもよかろうと思うでミツルにも旺家の代表として参加してもらうことにしもす」
名を呼ばれたミツルは相変わらず無言のまま。参加させて大丈夫なのだろうか。
「それじゃ、まずわしから一献いただこう。メグミどんはわしの片腕として、ようく力になってくれもした。いまや真人の身、これからもわしらを見守って力を貸してたもんせ!」
そう口火を切ると、村長は自ら注いだ焼酎を一気に空けた。そして盃をゲンカンに渡し、一升瓶からなみなみと注ぐ。
「次はおいじゃな。おいは小さか頃ようにメグミどんに遊んでもろうた。ほんまに感謝しちょりもす!」
ぐびっとゲンカンもひと息である。
ゲンカンから注いでもらったタクミ先生はちょっとつらそうである。
「メグミどんは『荘子』をよく読んで、勉強されていましたね。もっといろいろ議論がしたかったのに、残念です」と言いながら、少しずつ盃を口に運び、飲み乾した。
盃がスギ長老に渡り、タクミが焼酎を注ぐ。
「おいより若かとに先に冥土《めいど》に行くとはなにごとじゃ。おいがもうすぐそっちに遊びに行くで焼酎を用意して待ちやんせ。一緒に飲むど!」怒ったように言い放ち、これもまたひと息である。
さて、注目のミツルの番が回ってきた。長老から酒の満ちた盃を受け取ると、しばらくは無言のままうつむいていたが、ようやく喉《のど》から搾り出すように「メグミどん……」と呟《つぶや》くと、盃を口に持っていき、
ぐびっ、ぐびっ、ぐびっ。
三口で空けた。
続く旅庵もなかなかことばが出てこないようであった。声をつまらせながら、「メグミどんの……意図を……台無しに……してしまった……」と言うと、ぼろぼろと涙を流して泣き崩れてしまった。それでもどうにかこうにか飲み終えた。
鳶さんはあっさりとしたもので、「ご冥福をお祈りします」これだけ述べると、押し頂くように丁寧な所作で飲んだ。
わたしの番が回ってきた。なにをしゃべればいいというのか。わたしと死者との接点は……。
「メグミさんから竹の本質は中空であることだとうかがって、そのときはなんだか夢の中で言いくるめられているみたいでしたが、いまでは少し意味がわかってきたような気がします」
なにを言いたいのか自分でもよくわからなかったが、とりあえず乗り切って、焼酎をゆっくりといただいた。予想通り相当ハードだ。
そして二巡目である。
村長はメグミの少年時代の思い出を語り、ゲンカンはメグミに育てられたみのぶのことを褒め称《たた》え、ともに一気に盃を空けた。
タクミはメグミと意見が対立した議論について詫《わ》び、長老はメグミが竹細工もうまかったことに言及して、一巡目よりも時間をかけて飲んだ。
ミツルは「メグミどん……」と繰り返すばかり、一方旅庵は涙声で聞き取れない。ふたりとも飲むことこそが供養だというように、強引に盃を乾した。
鳶さんもわたしも当り障りのないことを適当に述べたあと、自分のペースを崩さずに二杯目をいただいた。すでにかなりつらい。
三巡目。
すきっ腹の焼酎はきく。こんな調子で飲み続けていたら、まもなくダウンしてしまいそうだ。幸い皆同じ気持ちなのか、思い出話に浸る時間が長くなり、その分、次に回ってくるまでの間隔も長くなってきた。
誰かがエピソードを語った。――もう何年も前、村の男が総出で筍掘《たけのこほ》りをしている際に、当時まだ中学生であったミツルが、誤って自分の腕を鎌で切ってしまったことがあった。傷はかなり深く出血は止まらない。そのままミツルは失神してしまった。そのとき、メグミは持っていた手ぬぐいで止血をすると、ミツルを背負って麓《ふもと》の集落の診療所まで駆けこんだ。診療所では止血くらいしかできなかったが、傷が動脈に達していたミツルには緊急に輸血が必要であった。失血のショックで昏睡《こんすい》状態のミツルに付き添ってメグミは鹿屋《かのや》の病院まで救急車で乗り込んだらしい。さらに検査の結果、メグミの血液はミツルに輸血可能だとわかったので、進んで自分の血を提供したのだという。――「まこと、メグミどんは気心の優しいお人じゃった」
これを聞いたミツルは顔を伏せ、しゃくりあげ始めた。右の掌で左腕の肘《ひじ》の下あたりをさすっている。袖《そで》がめくれあがり、引き攣《つ》った傷跡がちらっとのぞいた。
こんな話も披露された。――メグミは『荘子』をいつも持ち歩いていたが、とりわけ雑篇の中の則陽《そくよう》篇「少知と大公調の会話」が好きだった。部分と全体、陰と陽、虚と実などの哲学的な命題を少知が大公調に質問しながら「道」の本質を解き明かそうとする含意に富んだ問答なのだそうだ。そもそも道という概念からして、わたしはよく理解できていない。だからそのエピソードもぴんとこなかったが、ともあれ、メグミどんはとても思索好きだったようだ。知識だけならばゲンセキ村長やタクミ先生のほうが勝っているのかもしれないが、常に考え続けて真理に至ろうとする行動においてはメグミのほうに軍配があがりそうだ。
強面《こわもて》で大柄、頑固な肉体派という印象があったが、実は非常に繊細で頭脳派の一面を隠し持っていた興味深い人物だと知れる。もう少しきちんと触れ合ってみたかったというような趣旨のことをわたしが述べ、鳶さんに少なめに注いでもらった盃をなんとか空けて、三巡目が終わった。
そして、事件は四巡目に起こった。
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ゲンセキ、ゲンカンはめっぽう酒が強い。四杯目もなんなくこなした。タクミはかなり苦労しながら、十分に時間を費やして飲み乾した。
スギはすでにかなり酔っ払っていた。呂律《ろれつ》が回らなくなりながら、持ち前の大声で叫ぶようになにかを語っているのだが、もはや聞き取れない。ようやく空けた盃《さかずき》をミツルに渡すと、定まらない手つきで焼酎《しようちゆう》を注いだ。
ミツルは「メグミどん、おいらが悪かった」と叫ぶと、盃の中の液体を喉《のど》に流し込んだ。そのとき異変が起こった。
「う、うぐぐ、ぐ」
苦しげにうめくと、飲んだばかりのものを畳にぶちまけたのだ。途端にミツルの顔色が変わった。眼が充血し視線が泳いでいる。(これは、なんかおかしいぞ)酔いの回ってきたわたしがそれを認識するのに多少の時間がかかったかもしれない。時間にして三秒くらいか。
「大変だ。ミツルくんが!」
ミツルの隣の旅庵が顔をのぞき込み、叫んだ。
「誰でもいいから水を、水を大量に持って来て!」
突然の事態に胡蝶亭は大混乱に陥った。
鳶さんがものすごい勢いで庵から外へ飛び出していった。
ゲンセキ村長はまた大笑いをはじめた。
ゲンカンは女たちに水を持ってくるように指示を飛ばし、自ら炊事場のほうに走った。
タクミ先生は腰が砕けたのか、座ったまま事態を見つめているが、どうも視線がふらついている。
スギ長老はすっかり酩酊《めいてい》し事態を理解しているのかどうかも疑わしい。
部屋の隅で静かにしていたアキラ老人もおろおろしながら奥の間のほうに向かったみたいだった。
この間も旅庵はミツルの喉に指をつっこみ、背中をさすりながら、飲み込んだものを戻させようと必死のようだ。「毒だ。どうやら殺鼠剤《さつそざい》を飲んだようだ」
わたしも手伝わなければと思うのだが、酔いのせいで体が重い。ようやくふたりのもとにたどりついたときに、手桶《ておけ》に水をもったゲンカンと匠洋子が駆けつけた。
「ミツルくん、この水を飲むんだ!」
旅庵は手桶から水を汲《く》んだ柄杓《ひしやく》を、ミツルの口元に運び、手で開かせた喉に注ぎ込む。
ごほ、ごほっとミツルは噎《む》せ返すが、手足は痙攣《けいれん》を起こしている。普段は顔面を覆っている波打った黄褐色の長髪が後頭部のほうにはねあがり、とがった耳先や意外と広い額が露《あら》わになっている。額には脂汗がじっとり滲《にじ》んでいる。
旅庵は続けて二度三度と柄杓の水を流し込む。しかしミツルは咳《せ》き込む一方で、震えは治まらない。
「吐いて、戻して!」
わたしは彼の耳元で必死に呼びかけるが反応がない。
やがて支える旅庵に体を預けるように、ミツルの全身から力が抜けた。手足の痙攣もなくなっている。
一瞬静まり返った庵に村長の笑い声だけが虚《むな》しく響き渡る。
「旅庵さん?」
「大丈夫、まだ息はあります。とにかく安静にさせて様子をみましょう」
わたしは旅庵と一緒にミツルの体をかかえあげ、奥の間に運んだ。奥の間ではアキラ老人と源あき子、杉たか江が不安気な表情を浮かべて蒲団《ふとん》を延べているところだった。
「あき子さん、すみませんが毛布かなんかをかけて、横についていてもらえませんか」
その場で一番しっかりしていそうなあき子にそう頼んで、広間のほうに戻ってきた。
(そういえば鳶さんはどこに行ったのだろう)と思ったとき、本人が息を切らせて縁側に姿を現した。
「ゲンセキさん、一体電話をどうしたんですか?」
鳶さんは声を荒らげて、村長に詰め寄る。
「ぐは、ぐははは。電話など余計なもの! あん邪魔もんは昨夜わしが葬り去ってやったのじゃ。ぐはは」
「……狂気の沙汰《さた》だ」
「鳶さん、どうしたの?」と、わたし。
「すぐに医者に連絡をしたほうがいいと判断し、ゲンセキさんの家に飛び込んだんだ。そしたら……」
「そしたら?」
「電話機が本体ごと壁に叩《たた》きつけられ、ご丁寧にコードが切断してあったよ」
「そんな……」
「ここは携帯電話も通じない。村に一台だけあった電話は断線されてしまった」
「ということは……?」
「そう、この村は完全に孤立しているってわけだね、猫田くん。ゲートが閉じられても、いざとなったら電話で外部へ連絡すればいいと思っていたボクが愚かだったよ」憤懣《ふんまん》やるかたない様子の鳶さんは、続いて、「ところで、ミツルくんの容態はどんな具合?」と訊《き》く。
「奥の部屋であき子さんたちがつきそっているけれど、素人目にもあまりよくはなさそう。毒を飲んじゃったんじゃねえ」
「え、毒だって?」鳶さんはいまさらながら驚愕《きようがく》の表情を浮かべている。
「そうよ、旅庵さんが叫んだのを聞かなかった? 殺鼠剤だって!」
「殺鼠剤……、いやボクは多分その前に飛び出したんだと思う」そう言うと鳶さんは奥の間にミツルの様子を見に行った。しばらくして戻ってきた彼の顔には深い翳《かげ》りが浮かんでいた。「確かにあまり芳《かんば》しくないようだ。旅庵さん、どうしてすぐに殺鼠剤だってわかったのですか?」
「殺鼠剤もよく注文を受ける商品のひとつで、今回もスギ長老から頼まれて持ってきたのです。実は別の村で幼児が間違えてそれを飲んであやうく命を落としそうになったことがあって、それで扱いには十分注意してもらうように申し上げたばかりだったので、ひょっとしたら、と」
「スギさん、手に入れた殺鼠剤はどうされたのですか?」
「お? この頃しし小屋の餌を鼠どもがように奪うようになったもんじゃっで……。おまんさあ、おいがミツルの盃に毒を盛ったと考えちょるんか!」
文脈を先回りして、長老が怒りで顔を真っ赤にした。いや、顔が赤いのは焼酎のせいかもしれない。声が大きいのもいつものことだ。目が据わっているのもアルコールの過剰摂取のためか。
「わははは。おいが毒を盛ったじゃと? わははは、ははははは。そりゃおかしか」
今度は笑い始めた。感情の抑制がきかない状態に突入している。
「ボクは別にスギさんが毒を盛ったなんて言っていませんよ。ただどこにどうやって保管してあるのかおうかがいしたいだけで」
鳶さんの質問には、ゲンカンが答えた。長老よりははるかに正気を保っている。
「長老が依頼した殺鼠剤はしし小屋の隣の納屋に置いてある。猪の餌や掃除道具なんぞを入れとく納屋じゃ。それは村では誰でも知っとることじゃっで、誰でも欲しければ簡単に手に入れることが可能じゃ」
「なるほど、そういうことですか」
すると、それまで黙っていたタクミが爆弾を落とした。爆撃機なみの破壊力を持った発言だった。
「ミツルは自殺を図ったんでしょう? 盃に口をつける前に『おいらが悪かった』とかなんとか言っていたようですし。昨日のメグミどんを手にかけたのもきっとミツルで、それで懺悔《ざんげ》して覚悟の自殺を……」
わたしにも言い返したいことがあった。タクミには負けられない、酔っているせいかその気持ちはいつに増して強い。地対空ミサイルで応酬。弾頭に秘密兵器を搭載《とうさい》している。
「それはおかしいじゃないですか。だって、さきほどタクミさんは、メグミさんを殺した犯人はゲンカンさんと鳶山さんとそれにわたしの三人の共犯だと言っていませんでしたっけ?」
「いや、あれはちょっとした仮説で……」
「なんじゃと、タクミ先生はおいのことまで疑っちょるんか!」
ゲンカンが吼《ほ》えた。これで彼と共同戦線を敷くことができる。
武装地帯をはさんだ両軍のような緊張の続く関係なので、思わず売りことばに買いことばで応酬してしまったが、タクミ先生の発言にも根拠がないわけではない。酔ってはいてもそれはわかる。
さきほどの状況でミツルの盃に毒を仕組むことができるのは、焼酎を注いだスギ長老か、あとはミツル本人しか考えられないだろう。
すっかり酔漢状態のスギが周囲に気づかれずに毒を盛れたというのも信じがたい。そもそも長老にミツルを殺すだけの強い動機があるのか。長老は恵殺害の犯人はミツルであると決めつけていたようだが、だからといって殺す必要はない。
むしろタクミ先生が言うように、犯人のミツルが悔悟の気持ちから自ら毒を呷《あお》ったというほうがわかりやすい。通夜の席でみんなが語るメグミの思い出を聞くにつれ、良心の呵責《かしやく》を覚えたのではないだろうか。十分に考えられる。
それにしても庵の中は怒号と哄笑《こうしよう》でほとんど常軌を逸した空間となりつつあった。
「ぐふふふふ、ぐふふふふ」と含み笑いを続ける村長に、「わはははは、がはははは」と壊れてしまった長老の笑い声。ゲンカンはすさまじい勢いでタクミ先生を叱責《しつせき》し、ふだんは弁のたつタクミも形勢不利でキリン顔を青くしている。
わたし自身酩酊状態であり、これら一切がなにか大掛かりな冗談のように思え、悲しいのか楽しいのかわからないまま叫びたい気分であった。
そのなかで、鳶さんはなにか一心に考えている様子。喧騒《けんそう》に満ちた空間の中で鳶さんの周りだけが異質の密度を保っている。
――トンッ。
威勢良く襖《ふすま》が開けられた。奥の間からあき子が現れた。
「静かにして! ミツルの様子がおかしいのよ、誰か来て!」
そのことばで場内は静まり、ゲンカンと鳶さんが腰をあげて奥の間に急いだ。わたしもすぐに後を追った。
ミツルは蒲団の上に寝かされていたが、突然毛布をはねのけた。そして物凄《ものすご》い形相でわたしたちを睨《にら》みつけたが、その目の焦点は合っていない。なにかに追いすがるように右手を振り上げるも、虚空を掴《つか》むばかり。
さきほどの小康状態が嘘だったかのように、容態が急に悪化している。見ているのがつらいくらい苦しそうだ。それでもミツルは必死になにかを訴えかけようとしている。
「おいらが……、おいらが……」
「ミツル、どげんしたか!」と、ゲンカン。
「おいらが、メグミどんの教えに……教えに従わ、従わなかった……」
「メグミどんの教え?」わたし。(死の教えか?)
「従わなかったら、首が……首が飛んできて……」
「大丈夫か、ミツルくん!」鳶さん。
「メグミどん、ごめんなさ……い」
それが旺充の最期のことばであった。
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メグミの通夜は中断された。
突然息を引き取ったミツルを前に、一同はしばらくことばもなかった。重苦しい空気が庵に満ちていた。
わたしにはミツルの死はこたえた。
メグミの死様《しにざま》のほうがはるかに痛痛しいとも言えるが、彼の周りには、生前からなにか死の臭気とでも呼べそうな幽《かす》かな予兆を感じていたように思う。
ミツルにはそんな気配はこれっぽっちもなかった。メグミの死後、精神的に不安定になってしまったが、わたしにとってのミツルは、粋《いき》がってみせようという言動がむしろ健気《けなげ》な若者であった。
ひょっとしたら、自分の昔の姿を重ね合わせて見ていたのかもしれない。
わたしもミツルの歳頃には、随分と肩に力が入っていた。大学に入って間もなくわたしは変わった。それまではどちらかというと家庭に恵まれ過不足なく幸福に育ってきたと思う。生き物が好きで、その手のサークルに入って毎日を楽しく過ごしていたときに、世の中には悪事がはびこっていることを初めて知った。罪もない動物たちが毎日虐待されている事実に慄《おのの》いた。世の中の事象に疎かったわたしは何の疑問も持たずに行動できたのだろう。とにかくわたしはそのときから変わった。
過激な抗議行動で知られる動物愛護団体の活動に触発され、ひとり動物虐待反対の運動に身を投じ、学生生活を犠牲にして戦った。自分ひとりで世の不正をすべて変えられると信じていた。
そんな行動をしたところでなんにも変わりはしない。それがわからないおまえは融通の利かないバカ女だ。――当時付き合っていたボーイフレンドにそう窘《たしな》められ、即座に別れた。自分が納得のいくまでは戦いたかった。わたしの戦術は徹底した広報作戦であった。捕鯨船や毛皮工場、大学の実験室。カメラを片手にそれら現場に潜入し、動物虐待の瞬間をフィルムに収め、アジビラにして配った。報道機関にも幾度となく送りつけた。そうすることでクジラやイルカが、ミンクや実験動物たちが救われると思っていた。自分の抗議行動が間違っているなんて微塵《みじん》も思っていなかった。
講義にはほとんど顔を出さなくなり、結局大学は四年目の夏に退学した。そんなわたしの履歴は明らかに就職活動にはマイナスだった。気がついたら慣れ親しんだ愛機ニコンF3とともにプロの写真家への道を歩んでいたという次第。
現在でこそ、当時の活動がいかにも青臭く独善的ですらあったように思うが、自分にとっては必要な体験であったし、後悔もしていない。
いや、わたしの回顧談などどうでもよいのだ。なぜこんな話になったかというとミツルを見ていると、ついついあの当時の自分を思い出したのだった。
自分ひとりではどうにもならない無力感も、しだいに状況に流されていく倦怠《けんたい》感も、大人たちに理解されない疎外感も一通り経験し、よくわかる。ミツルの姿を最初に目にした酒宴の夜以来、どことなく同類の親しみを覚えていたのだ。
わたしの運動はひとりきりではあったが、理解者はいた。わたしが大学のサークルに入ったときに四年生で部長をしていた鳶さんや、あと数人のサークルの仲間たち。鳶さんの同級生で歌がうまかった神野《じんの》先輩、同じ学年なのに妙に態度が横柄なジンベー……彼らは少なくともわたしの話に耳を傾けてくれたし、わたしの行動を黙認してくれた。それだけでも孤立無援ではないという勇気が湧いてきたものだ。
とりわけ鳶さんには何度となく愚痴を聞いてもらった。鳥の雛《ひな》は生まれて初めて見た生き物を親と認識するという。その意味で初めて親元から離れ大学という新しい世界に飛び込んだわたしにとって、鳶さんは刷り込まれた親のような存在だった。いつでも頼りにしていたし、常に憧《あこが》れていた。
ミツルも同志を求めていた。わたしならば少しは力になれるのではないかと自負していたのだ。
それだけに悔しい。腑甲斐《ふがい》ない。
「猫田くんはミツルくんの死が悔しくてたまらないんだね。自分を責める必要はないけど、思う存分泣くがいいよ」
いつでも鳶さんにはすっかり見透かされている。
わたしは十年ぶりくらいの大泣きをした。声をあげて泣いたのは、大学の部室でそうして以来のことだった。そのときにもそばに鳶さんがいた。
いけない。迸《ほとばし》る感情に歯止めがきかない。
今晩はずっと鳶さんにそばにいて欲しかった。
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第七章
――五日目、荘子を論ずる
どうしたことだろう、体が重い。
寝汗もかいたようだ。
いまはいつだっけ?
腕にはめた時計の針を見る。
十時二十分。
障子を通して薄明かりが見えるから、夜ではない。朝というには遅い。
竹茂《ちくも》に来て五日目の午前だ。
五日目……。
もうそんなになるんだ。なぜこんなことに巻き込まれてしまったのだろう。
で、ここは?
いつも寝起きしている大鑢堂《たいろどう》ではない。
蒲団《ふとん》から身体を起こし、周囲を見渡してみる。隅の床の間に尺八と篠笛《しのぶえ》が置いてある。その横に片づけられた焼酎《しようちゆう》の一升瓶と皿の山。湯飲みのような盃《さかずき》には見覚えがある。
胡蝶亭だ。
そこで気がつき、首をひねって反対側を振り返る。
壇上にメグミどんの棺《ひつぎ》があった。
昨晩、大鑢堂へ戻らずにここで眠ってしまったらしい。前後のことを思い出そうと頭を絞る。
……痛い。
どうやら二日酔いだ。微熱もあるかもしれない。さえない目覚め。
いくつかのことを思い出した。
ミツルが倒れたのが、酒を回し始めてから四巡目だった。通夜が始まって二時間くらい経っていただろうか。ということは、午後八時の見当だ。
あれから十四時間も経ったのか。
改めてびっくりする。というか、呆《あき》れてしまう。
それにしても、よく寝たものだ。
わたしはミツルの死にショックを覚え、酒の勢いもあり感情が爆発するままに大泣きをしていた。そこまでは覚えている。
その後は、おおかた泣き疲れて眠ってしまったのだろう。子供のようだ。
鳶さんがそばにいてくれたような記憶があるが、あれは夢だったのか。薄情な鳶さん。
われながら情けない。
ミツルの遺体はどうしたのだろう。
襖《ふすま》のむこう、奥の小部屋に安置されたままなのだろうか。
とすると、現在この建物にはふたりの死者とひとりの生者がいることになるわけだ。わたしは夜通しふたりの死者のそばで寝ていたのか。文字通り通夜の番だ。思わず背筋が寒くなる。置き去りの刑。本当に薄情な鳶さん。
つまらないことを考えていないで、早く起き上がって、現実の世界に戻ったほうがいい。
しかし、これは本当に現実なのだろうか。ちっともリアリティが感じられない。
いま頃は現像のあがった屋久杉の写真でも持って、出版社の編集部で打ち合わせでもしていたはずだ。それがどうしてこんな事態になってしまったのだろう。
人里離れた辺鄙《へんぴ》な集落に閉じ込められ、あまつさえ死者の番までしているのだ。
なぜこんなことに巻き込まれてしまったのだろう。なぜこんなことに巻き込まれてしまったのだろう。なぜこんなことに……わかっている。それは竹の花のせいだ。
竹の花の導きで、わたしはこの村に誘《おび》き寄せられた。そして、竹の花が咲き始めてから村が狂い始めたのだ。
竹の花は魔力を秘めているのかもしれない。人を狂わせる魔力を。
なんだかんだと邪魔されたり、自分が集中できなかったりして、まだ満足のゆくショットが撮れていない。さっさと撮り終えて、東京に帰ろう。これ以上この村に関わっていたら、一生村から出られなくなってしまう。そんな想像がふくらむ。迷妄に過ぎないとはわかっているのだが。
竹の花、まだちゃんと咲いているだろうか。
わたしは立ち上がり、障子を開けた。
満開であった。
胡蝶亭は集落の民家の建ち並ぶあたりから二十メートルほど上がった、見晴らしのよい高台にある。そこから見渡せる竹林が全面開花したのだ。
あたかも薄黄色のフィルター越しに世界を眺めているかのように、視界のすべてが黄ばんで見えた。
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大鑢堂に戻ると、予想にたがわず鳶さんが読書をしていた。しかし開かれているのは例の大部の小説ではない。古びた書物であった。
活字を追う目を止めて、彼が言った。
「おはよう、猫田くん。キミはいったいどこまで大きくなるつもりなのかい?」
寝る子は育つにかけた洒落《しやれ》だろうが、面白くない。まだ頭が痛むというのに。
「少少寝過ごしちゃった。それは認めるけど、かよわい女子をひとりぼっちで置き去りにすることはないんじゃない? 連れて帰ってくれてもいいと思うんだけどなあ」
「キミがかよわいかどうかは別にして、ボクだって精一杯起こそうとはしたんだ。でも、揺すったって叩《たた》いたって起きなかったんだよ。冬眠したのかと思った」
「冬眠って……」
「キミは冬眠も知らないのかい。冬眠とは摂食行動や運動をやめることで、体の代謝を不活発な状態にしてエネルギー消費も減らし、動物が冬期を乗り切る方法だ」
「それくらいは知っているけど、なにも冬眠なんて言わなくても……」
「そうだ、冬眠ってことはないね。いまは七月だから夏眠だ」
「…………」
「担ぎ上げて夜中にあの坂道を降りるのも大変だし、連れ帰ってもどうせ眠るだけだから、そのまま夏眠させておいたほうがキミのためかと思ってね」
「そこまで考えていただいて、どうもありがとうございました」と、思いっきり皮肉をあてこすったあと、気になっていたことを質問した。
「それで、昨日はあのあとどうなったの?」
「ああ、いろんなことがあった。猫田くん、キミはどこまで覚えているの?」
「ミツルくんの突然の死が悲しくて、泣いたことまでは覚えているけど……」
「そうそう、キミは畳に突っ伏して泣いていたかと思うと、いつのまにか寝息を立てていたよ。変わり身の早さに驚いた。一瞬、キミも毒を盛られたかと思ったくらい」
「そんな……」
「キミが寝込んだあと、メグミさんの通夜は中止になって、急遽《きゆうきよ》その場に残った村の各当主たちで善後策が検討されたんだ。ボクと旅庵さんもオブザーバーみたいな感じで参加していたんだけれど、なにしろタクミさんとスギさんはすっかりへべれけで参加していないのも同じ。ゲンセキ村長とゲンカンさんのふたりの話も噛《か》み合わず、明日――つまり今日だ――改めて話し合おうということになり、そうこうするうちに、場はお開きとなった。ボクはキミのために蒲団《ふとん》を用意して、最後に胡蝶亭を出た。そしてここに戻ってきたら、旅庵さんがいた」
「へえ、旅庵さんは鳶さんになにか用事があったの?」
「大鑢堂に戻ってきたら、玄関のあたりに人が倒れていたんだ。それは旅庵さんで、すでに事切れていた」
まだ二日酔いで頭の芯《しん》が疼《うず》いている。鳶さんのことばの意味がとれない。
「なんて言った? 事切れていたって?」
「キミは事切れるってことばも知らないのかい。事切れるとは、亡くなる、息絶える、昇天する、などと同意語で、死ぬってことだよ」
「わかってるわかってる。わかってるけど、それじゃあメグミさん、ミツルくんに続いて旅庵さんも亡くなったってことなの?」
「そういうことだね」
「いったいどういうこと?」
口の重い鳶さんから辛抱強く聞き出した内容は次の通りだ。
鳶さんが胡蝶亭から戻り、引き戸を開けると玄関のあがり框《かまち》付近に人がうつぶせに倒れているのが月明かりでわかった。持参していたペンライトで顔を確認してみると、池旅庵であった。すでに心臓の鼓動はなく、息もない。旅庵は絶命していた。
仰向《あおむ》けにして起こすと喉元《のどもと》に刃物が深く刺さっていた。見覚えのあるその柄はメグミの所有物のようであった。さらに首の左側にも刃物による切り傷のようなあとが見受けられた。
鳶さんは事態をゲンカンに知らせに行き、相談のうえ現在空き家となっている恵宅に一旦《いつたん》遺体を運んだのだという。すでに夜が遅かったので、後のことはミツルの問題とともに、今日考えることになったらしい。
「メグミさんの家に行ったときに、この本があったので、失敬してきて、いま読んでいるところなんだ」と、鳶さんは読み止《さ》しの本の表紙をわたしに見せてくれた。
――『荘子』
なるほどメグミの愛読書に違いない。
「昔ひと通り読んだ覚えはあるんだけれど、すっかり忘れていて、改めて読み直すとなかなか啓発される部分も多いよ、確かに」
「よくこんなときに落ち着いて読書などできるね。感心するわ。それより、今朝はなにも進展がなかったの?」
「うん。村全体が死んだように静まり返っている。善後策の検討会が何時から開催されるのかもよくわからない。もっともそれだってわれわれが出席しても仕方ない気がするけどね」
「それにしても旅庵さんまで死んじゃうなんて、どういうことかなあ。この村、竹の花が咲き始めてから、次次とおかしなことが起こってない? 竹の花が竹茂村に凶事を持ち込んだのかも。百二十年に一度の大凶事を」
「まさか直接的な因果関係はないと思うけれど、ことによると、ボクたちがこの集落にやってきたことが一連の事件の引き金になった可能性はある」
「え、それじゃ責任はこちらに……?」
「閉鎖された生態系に別の系から生き物が導入されると、大混乱が起こるだろう?」
外来種問題。生物学では当たり前の常識だ。ブラックバスが移入された湖沼で日本産の弱い魚類がことごとく食い尽くされる例を思い浮かべていただければよい。
「それと同じように、ボクたちが来たことで、この村の統制を保っていた力関係のバランスが微妙に傾《かし》いでしまったような、そんな気がしてならないんだ」
「単に写真を撮りにきただけで、いわば傍観者にすぎないのに?」
「そう、ボクたちは傍観者、つまり観客だ。観客がそろったところで、悲劇の幕が開いてしまったのかもしれない」
考えすぎだと思うが、実はわたしも同じような思いにとらわれていたのだ。鳶さんにすっきりと否定して欲しかったのに、むしろ罪悪感が募る結果になってしまった。
(わたしたちが来たことで悲劇が開幕してしまった……)
そして、なぜわたしたちが来ることになったかというと、竹の花が咲いたからなのだ。
(やはり、竹の花がわたしたちと同時に悲劇を誘き寄せた……)
それにしても、なぜ部外者の旅庵まで?
村人も部外者も無作為に命を狙われるゲームなのだろうか、これは?
だとすると、わたしたちも安全とはいえないのか?
そもそも旅庵の死は他殺なのだろうか、それとも自殺なのか。鳶さんの話ではそこのところがはっきりしない。
「ねえ、旅庵さんの遺体はまだメグミさんの家に置いてあるの?」
「そうだと思うけど、なにか?」
「ちょっと見に行ってきてもいいかな?」
「そりゃ構わないよ。鍵《かぎ》もかかってないはずだし。しかし、物好きというか好奇心|旺盛《おうせい》というか、ご立派な行動力だ」
(鳶さんも一緒に行かない?)と誘うつもりが機先を制された形になった。
仕方なく、「じゃあ、ちょっと行ってくる」と言い残して、わたしは大鑢堂を飛び出した。行動力と好奇心には仕事柄自信がある。ひと晩死体と過ごしたせいか、あるいはまだ頭が正常に回転していないのか、死体を見ることに抵抗はなかった。むしろ、どうしても自分の目で旅庵の姿を確かめたかった。
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外は噎《む》せ返るような竹の花、花、花。
もうじき正午になろうかというのに人の気配は少しも感じない。
噎せ返るような竹の花、花、花。
黄色い霞《かすみ》越しに、村がとっても遠くに見える。
噎せ返るような竹の(わたしは現実の世界にいるのだろうか)返るような竹の花(踏みしめる地面の実感がない)うな竹の花、花、花。噎せ(それでもなんとか交互に足を出す)返る(恵家は大鑢堂から三軒目)ような(柳家の隣が杉家で)竹の(杉家の隣が目的の恵家)花、花(むこう隣は旺家だ)、花。
気がついたら旺家の前まで来ていた。
行き過ぎてしまったので戻ろうと思ったが、同時にミツルの生前の家をのぞいてみたいという誘惑が沸沸《ふつふつ》と湧きあがってきた。行動力と好奇心には仕事柄自信があるのだ。
(誰も見ていないし、いまがチャンス)
明確に意識する間もなく、わたしはミツルの家にあがり込んでいた。
青年がひとりで質素に暮らしていた家だけあって、殺風景なものである。八畳間に六畳間と四畳半、土間には簡単な流しと竈《かまど》があり、その隣が厠《かわや》のようだ。
八畳間は使われておらず、長い間閉め切られていたのか、うっすらとほこりがたまっている。四畳半のほうは寝室だったようで、蒲団が敷きっぱなしである。小さな箪笥《たんす》も置いてある。
普段の生活は六畳間で営まれていたのだろう。部屋の真中に座卓(というよりも蒲団をはずした炬燵《こたつ》)が置かれ、本や書類が乱雑に積まれている。脇にポータブルCDラジカセが置かれ、その存在がかろうじてこの部屋が二十歳前の青年の部屋であったことを想起させる。カラーリング剤なんてのが転がっているのもちぐはぐな感じ。きっとここで髪を染めていたんだ。
六畳間と土間の境のあたりが作業場だったようで、伐《き》ってきた竹が土間の脇に積み上げられ、六畳間の隅にはナイフや削りかすも散らばっている。そして、できあがったものは奥に無造作に投げ出されている。
弦がピンと張られた弓は竹を削って作ったものだ。たくさんある矢は一応|鷹《たか》の羽を矧《は》いでいるようであるが、鏃《やじり》は使っておらず、単にヤダケの先端を斜めに削り落としただけである。遊び道具だからか、全体に大雑把な仕事だ。継ぎ目を合わせていく組み立て式の釣竿《つりざお》も作っていたようで、それらしき断片がみえる。さらに直径二センチくらいのまっすぐな竹の筒も見えるが、これは作りかけなのか、できあがりなのか判然としない。
家全体から、改めてミツルの若者らしからぬ抑制された生活ぶりが窺《うかが》い知れる。都会では同年代の若者が過剰な情報に溺《おぼ》れ、極度の刺激に麻痺《まひ》しているのと対照的な世界。悲しいくらいストイックで、怖いくらいスタティックな空間。
わたしは無断でミツルの家に侵入したことで自分自身に気がとがめ、人目をあやぶんでそうそうに辞去すると、最初の目的である隣の恵家に急いだ。
昨日も旅庵を訪ねてこの家に来た。そのときは土間奥の板の間で話をしただけだったので、あがり込むのは初めてだ。
ここに来てさすがに躊躇《ちゆうちよ》した。中には旅庵の死体があるのだ。先ほどの気分の盛り上がりは冷めつつある。しかし、くどいようだがわたしは行動力と好奇心には仕事柄自信があるのだ。自分にそう言い聞かす。
メグミの家も、部屋の構成はミツルの家とほとんど同じである。ただ住人の几帳面《きちようめん》な性格を反映して、こざっぱりと使いやすそうに整理|整頓《せいとん》されている。かなりの読書家であったらしく、大きな本棚にきちんと本が詰まっている。『老荘思想と禅』『淮南子《えなんじ》における死生観』『宇宙生成論』『竹林七賢の思想』『諸子百家の言説比較』などという固いタイトルの間に『男の筍料理』『誰でもできる催眠術入門』『鹿児島県の川釣り(初級編)』などというハウツウ本も混じっているのが人間臭くておかしい。そしてちょっと悲しい。鳶さんの持ち出した『荘子』もこの本棚に収まっていたのだろう。
小さいながらも床の間があり、古びた山水の水墨画が掛けられている。その前には立派な刀架が置いてあった。例の平|業盛《なりもり》ゆかりの刀、持ち主の首を刎《は》ねた刀はここに飾られていたのだろう。現在は魚のいない水槽のようにもの寂しい。
この家の本来の住人はすっかり冷たくなって現在は胡蝶亭の棺の中だ。かわりに囲炉裏を囲む八畳間には池旅庵の骸《むくろ》があった。
おそるおそる近づく。
わたしが覚えている旅庵は、昨晩毒にやられぐったりしたミツルに必死に水を飲ませている姿が最後だ。一晩のうちに旅庵までもが鬼籍に入ってしまった。
思えば、天文館《てんもんかん》の小料理屋で旅庵に出会ったことが、ここに来る最初のきっかけとなったのだ。彼こそがわたしたちに竹の花の話をもたらし、竹茂村と引き合わせた張本人と言える。
昨日の朝には死んだメグミどんを悼み、悲しみに堪えるかのように自分の過去を語っていた。さらに、悲痛な面持ちでメグミどんの死を悔やんでいた。
その彼がここに静かに横たわっているのが不思議だ。場面展開が急なスパイ映画を観ているようで、状況についていけていない。だから悲しいというよりも、途方にくれたというのが素直な感情だ。
喉元に刺さっていたという刃物はすでに抜かれ、血も拭《ぬぐ》われて遺体の脇に置いてある。この禍禍《まがまが》しい凶器には見覚えがある。メグミがいつも腰に下げていた。間違いなく彼の匕首《あいくち》だ。
勇気を出して傷口を改める。
おそらく血まみれであったろう首の回りも誰かがきちんと拭《ふ》き取ったらしく、予《あらかじ》め聞いていなければ傷口もわからなかったに違いない。そうと知ってみると、確かに首のつけねの柔らかくなったあたりに三センチほどの傷口が縦にあいている。
こんな部位を刺されたらいかにも痛そう。痛いうえに声が出ないだろう。声が出なければ助けも呼べないだろうし、呼吸だって漏れていくんじゃないだろうか。わたしだったら仮に自殺をするとしても、こんな場所は刺したくない。
視線を横にずらすと、旅庵にとって首の左側にあたる場所にも創傷がある。後ろから前に向かって切りおろしたかのような斜めの傷跡で、こちらも結構深い。
所謂《いわゆる》ためらい傷というやつだろうか。左の首筋を切りつけたものの頸動脈《けいどうみやく》までは届かず、いっそひと思いに喉を突いたという絵が浮かんだ。であればやはり覚悟の自殺か。
予想はしていたことであるが、わたしの知識では、傷跡だけでは自殺とも他殺とも決めきれない。せめて死んだときの現場がそのまま残されていたのなら他にも推論の材料はあるかもしれないが、ここまできれいに痕跡《こんせき》が消されていると、もはやお手上げである。
わたしの検分は新発見もなく、旅庵がメグミどんの匕首を喉に刺した状態で死んだという事実を追認したに終わった。
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これ以上この場にとどまっていても仕方ないので帰ろうかと思ったときに、玄関の戸が開けられた。思わず飛びあがってしまいそうになる。
スギ長老だった。
「あ、スギさん、どうも」
向こうも先客がいることなど想定もしていなかったようで、びっくりした様子である。
「こ、これは猫山さんじゃったか。こげんところでなにをしとるんかい?」
別にやましいことをしていたわけではないが、なぜか防衛反応が働き、強張《こわば》ってしまう。
「昨晩はすっかり酔いつぶれていたので、旅庵さんがこんなことになったのを知らなくって、さっき鳶山に聞いてご冥福《めいふく》をお祈りにきただけです。ちなみにわたしは猫山ではなく猫田です。スギさんはどうしてこちらに?」
「猫田さん、そうじゃったな、最近物忘れがひどくなってのう。おいは、ちょっと気になることがあるで、それをつまり確かめにきたんじゃが……」
「気になることですか?」
「そうじゃって。昨日はおいも随分と酔っ払っちょった。誰かと口論したような気がするが、ように覚えちょらん。最近物忘れがひどくなってのう」
そうだった。口論というよりも鳶さんの指摘に興奮して、怒ったり笑ったり、ひどい状態であった。
「そいで、メグミどんの通夜が解散になってもしばらくは胡蝶亭で休んじょった。また口論になるのがいやじゃったきに。じゃっで、みなが立ち去ってからようやく腰をあげたんじゃ。富山さんだけは、まだおはんの介抱をしちょったようじゃったが」
「つまり、鳶山[#「鳶山」に傍点]とわたしを除いて最後に胡蝶亭を出たということですね」
「そういうことじゃ。まだ若いから物分かりがよかのう、猫山さん。お、猫田さんじゃったか? 最近物忘れがひどくなってのう。おいも若い時分は記憶力は他人よりよかったんじゃ、猫山さん。信じてもらえるかのう」
「言われなくてもよくわかりますよ。それでどうなったのですか?」
「そうじゃった。そいで帰る途中に旅庵さんの姿を見たんじゃ……」
長老の話をそのまま記すと長くなって混乱するばかりなので、多少ショートカットして要約する。
酔いの回った覚束ない足取りでどうにか家に帰り着くと、隣で人の声がする。長老の家の隣はこの恵家、むこう隣は柳家である。人の声が聞こえたのは柳家からのようであった。
「旅庵さんが修と話しておったんじゃ」
(修さん……あの美青年のことか!)
「で、どういう話だったのですか?」
「うむ、話の内容までは聞き取れんかったどん、修が旅庵さんに例の鈴を渡しているのは見えた」
「例の鈴?」
「ノブヒデの首から下がっておった、あの大きな鈴じゃ」
「よく遠目に鈴が見分けられましたね。夜だったし、暗かったでしょうに」
長老はさんざん酩酊《めいてい》していたはずだし、証言には眉《まゆ》に唾《つば》をつけて臨んだほうがよいと思ったのだ。
「そうじゃっど、あのヂリンヂリンいう音は忘れられん」
そうだった、ノブヒデという猪につけられていた鈴を見つけたのは、スギ長老であった。酔いつぶれて視覚は定かでない場合でも、聴覚は意外と正常なものだ。泥酔状態の人間でも、話しかければ応じようとすることからもわかる。聞こえてはいるが、往往にして言語中枢のほうが働かないのだ。
この証言はにわかに信憑性《しんぴようせい》を増してきた。
「それでは、スギさんは、旅庵さんの死体のどこかに鈴が隠れていないかどうかを確認しにこられたわけですか?」
「そういうことじゃ、猫山さん」
長老は旅庵の身体をボディチェックの要領で調べ始めた。皮肉なことに、BODYには死体という意味もある。
長老の右手が旅庵の左胸のポケットに触れ、予期していたものを探り出した。
――見覚えのある大振りの鈴であった。
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修が旅庵に鈴を渡していた。考えてみればわたしはあの若者と話を交わしたことが一度もない。スギ長老の話では、修はアキラが失明して以来、親戚《しんせき》として世話をしているということであった。
この機会に修と会見し、鈴のことも聞いてみようと思い、わたしは長老に別れを告げて、鈴を持って柳家に向かった。
一歩外に出ると竹の花に圧倒される。ひとつひとつは微小な花でもそれが数十万数百万と集まると、景色を変える力を持つ。竹茂村はすでに竹の花に侵されていた。
柳家の玄関の扉を少し開け、中に向かって案内を乞《こ》うた。
「あのう、猫田と申しますが、どなたかいらっしゃいますか、修さんに用があって参りました」
しばらく待っていると、老人のほうがにこにこしながら出てきた。
「これはこれは猫田さま、なにか御用でも」
足取りもはっきりしているようであるし、窪《くぼ》んだ小さな瞳《ひとみ》もわたしをとらえているように見える。前に会ったときにも感じたことだが、とても盲目だとは信じられない。
「あ、アキラさん、こんにちは。突然で恐縮ですが、今日は修さんに話をしたいと思ってうかがったのですが」
「はいはい」と、老人の返事は温かい。
「それで、修さんはいらっしゃいますか、柳修さん?」
「はあ、……柳修はおりませんが、わたくしが話をうかがいもす」
残念、修は不在のようだ。わたしとはよほどタイミングが合わない人物のようだ。ハレー彗星《すいせい》とヘール・ボップ彗星くらい周期がずれている。
それにしても、老人に鈴のことを聞いても意味がなさそうだ。またの機会にしようかと思ったが、もののついでだ。
――ヂリン、ヂリン。
「この鈴を旅庵さんが持っていたんですが、ご存知ありませんよね。スギさんによると、昨晩、修さんが旅庵さんに渡す場面を目撃したということだったのですが……」
眼が不自由な老人のために、鈴を振って尋ねた。
――ヂリン、ヂリンヂリン。
すると、一瞬のうちに老人の顔色が蒼白《そうはく》に変わり、つかみかからんばかりの勢いでこう言った。
「その鈴は、その鈴は呪われた鈴じゃっで、返しやんせ!」
老人の豹変《ひようへん》振りに茫然《ぼうぜん》となっているうちに、見事に鈴を奪われてしまった。聴覚が発達しているのだろう。狙いは正確で、一撃で鈴を持つわたしの左手に老人の右手が伸びてきたのだ。瞬く間のできごとであった。
「呪われた鈴とは……どういうことですか?」
「もうお帰りくだされ。お帰りくだされ」
わたしの問いに答えることもなく、奪った鈴を大切そうに胸元に抱え込むと、老人はそう繰り返すばかりであった。
アキラ老人に追い立てを食らった形のわたしは、自己嫌悪をいやというほど味わった。もともとは部外者に過ぎない自分がなんの権限で、村人の私生活を嗅《か》ぎ回っているのだろうか。メグミどんを殺したのが誰であろうが、ミツルの死が自殺であろうが他殺であろうが、また旅庵がなぜ鈴を持って死んでいたかについても、極端な話、部外者のわたしにはどうだっていいのだ。少なくとも自分が手をくだしたわけではないことは明瞭《めいりよう》だ。鳶さんだって無関係のはずだ……よね?
さきほど鳶さんに指摘された、わたしたちの訪問が悲劇のきっかけとなったという説には論理的な根拠はないだろう。そのくせ、閉鎖された空間の秩序を乱す要因のひとつになったのではないかという、心理的負担のようなものがわたしたちを責めている。
ならば、一刻も早く竹茂村から脱出したほうがいいに違いない。村だって異物を吐き出すことで元の秩序を回復するだろうし、わたしたちも妙に思い悩む必要はなくなる。バリケードが築かれているが、本気になれば逃げ出すことはわけないだろう。
理性はわたしにそう囁《ささや》きかけるのだが、いかんせん心のもっと奥の部分、本能のようなものが断固として反応しない。たとえ危険に見舞われようとも、いかにいやな結末が待っていようと、ここにとどまって見届けていたいようなのだ。竹茂村だけではない、わたしもすでに竹の花に侵されているのかもしれない。
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「鳶さん、竹茂村のことは村人の言う通り彼らにまかせて、もう帰ろうか」
大鑢堂に戻るなり、開口一番わたしはそう言った。返事がないので、視線を鳶さんに向けると、彼は恐ろしいほど思いつめたような顔をして『荘子』を読んでいる最中であった。本文は読み終えたのか、紙背に眼光を通す勢いで巻末の解説部分に取り組んでいる。
集中しているときの鳶さんの邪魔をするのは、眠ったライオンを叩き起こすよりも無謀だ。次のことばを継ぐことができず、しばらくわたしはそのままの姿勢で立ち尽くすより仕方なかった。どうせすぐ終わるだろう。
十五分も経っただろうか、ようやく鳶さんが顔をあげて言った。
「おや、猫田くん帰ってきていたんだ。授業中に暴れて先生に叱《しか》られた小学生でもあるまいし、どうしてそんなところで立ちんぼうしているの?」
彼には悪気はないはずだと、自分に言い聞かせ、「いやほら、ただ立ってみたくなることもあるじゃない。圧倒的な風景とひとりで対峙《たいじ》しているときとか、次の電車がいつ来るかわからない待ち時間とか……」と、返した。
「あとは、真剣に読書をしている人間を邪魔しないように気を遣ったときとか?」
「そうそう」大きく頷《うなず》く。(なんだ、ちゃんと気づいていたんだ)
「いやー、ボクにはそんな趣味はないね。少なくともぼっけーと待っているより、本を読むなり飯を食うなり、なんでもいいから自分の仕事を進めたほうが、幾分か生産的だ」
いつだって、割を食うのはわたしのほうなのだ。(ぼっけーと、だって!)
「そんなことより、この『荘子』はやはりとても暗示的だよ」と、鳶さんが言った。
「今回の事件、とくにメグミさんの死を読み解く鍵《かぎ》にもなりそうなので、ちょっと勉強してみようか。少なくともぼっけーと突っ立っているよりは生産的だよ。まず、猫田くんは、道家思想の道っていう概念について、どう理解している?」
「え、どう理解しているって、……道は、つまり、人が生きていく上での規範でしょ。仁義とか……」
「それがすでに勘違いなんだよ。キミの言う道は、孔子を祖とする儒教の捉《とら》え方だ。確かに儒教的な人の道は、仏教や神道とも合体して、ボクたち日本人の精神に大きな影響を及ぼしている。でも、老子や荘子の唱えた道は意味がまるで異なる」
廊下で立たされていたのが、席に戻されたのは歓迎すべきことだが、できの悪い生徒であることに変わりはなかった。
「どう異なるんだっけ……?」
「老荘では、道とは宇宙の万物を貫く唯一絶対の法則のようなものだ。『老子』の冒頭で――道ノ道トス可《べ》キハ、常ノ道ニ非《アラ》ズ――と力強く宣言されている。現代訳にすれば、――人にかくあるべきと示す道など、永遠の道ではない――って意味だ」
「宇宙の法則かあ、なんだか超越的なんだね。それじゃあ神のようなものかな、道って」
「道を神格化して考えるべきではないだろうね。荘子は神が世界の一切を主宰しているとは考えていなかったようだ。『荘子』の知北遊《ちほくゆう》篇に面白い記述がある。東郭子《とうかくし》という人物が、荘子に道はどこにあるのかと訊《き》いた際、荘子は――道ハ在ラザル所ナシ――と答えた上で、オケラやアリの中にも、稗《ひえ》や瓦《かわら》の中にも、さらには糞尿《ふんによう》の中にもあると言っている」
「糞尿の中にも、宇宙の理《ことわり》があるってこと? それはなんともまた極端な話じゃない」
「荘子一流の人を煙に巻くような表現だけれど、要は事物の外側に神(=超越者)が存在して司《つかさど》っているのではなく、すべての事物の内側に理法(=道)が存在しているってことだ」
「ふん、それで道は在らざる所なしってわけか。神になど頼らなくても、どこにだって道はあるというのは、なかなか現代的な考え方だよね」
「まさに。事物の存在根拠はそのもの自身の中にあるということだから、西洋ではニーチェが『神は死んだ』と叫んだときに始まる実存哲学を、荘子は二千二百年も前に唱えていたと言えなくもない」
「ニーチェかあ。彼は神の後釜《あとがま》としてその座に超人を据えようとしたけれど、……それじゃ、荘子が理想とする真人こそ、つまり超人というわけなんだ!」
わたしはメグミの死で、ゲンセキ村長があれほど喜んでいたことを思い出した。
――メグミどんはついに真人になりやった。
「猫田くん、そう一足飛びに結論を急いではいけない。ニーチェの超人は自律的に人間の可能性を追究した超越的人格だけど、真人の目指すベクトルの方向はまるで逆だ」
そういえば、メグミの通夜のときに、真人は根源的な知恵を獲得した究極の自由人という説明を聞いた気がする。超人が絶対的な権力を志向するのとは違うようだ。
「それはそうと猫田くん、キミは生物がなぜ生きているのかということを考えたことはないかい? 人間はなぜ生きているのか、昆虫はなぜ生きているのかって? 竹のような植物は、プランクトンのような微生物は、なぜ生きているんだろう?」
「それは、進化によって、環境に適応した生物がそれこそ無数に生まれてきたからでしょう? だから水中にも地上にもあらゆる形態のさまざまな生物が生息している」
「いや、違うんだ。生物の多様性の理由ではなく、個個の生物の存在理由。こう言い換えてもいい。地球上で最初に生まれた生物は、どうして生命なんてものを獲得したんだろうか?」
生命の本質に関わる深遠な質問ではないか。思わず答えが慎重になってしまう。
「神意だって言ってしまえればラクなんだけれど、違うんでしょ? 生命の始原にあった有機体のスープみたいなものが次第に反応して生物が誕生した……結局は偶然」
鳶さんは大きく頷いて言った。
「現在のところ、そう考えられているよね。少なくともなんらかの意思が介在した根拠はない。そして、さっきキミが言ったように、現在地球上に数百万種類もの生物が繁栄しているのは、生物が自らを環境に適応させて生きてきた結果だ。生物の外部から進化を司る意思が作用したのではなく、生物が自らの道理にしたがって生きてきた結果と言える。このことからも、生物の存在理由はその生物自身の中にあることがわかる。道は在らざる所なし、だ」
「ふうん、つまり荘子は実存哲学だけでなく、進化論も遥《はる》か昔に見抜いていたってこと?」
「さすがにそこまで言うと拡大解釈に過ぎるだろうね。むしろ大切なのは、荘子が万物は道において斉《ひと》しいと考えていたことだよ」
「有名な万物斉同説ね」と、実体を知らないわたしは、とりあえず聞きかじったことのある単語を口にした。
「斉物論篇にこんな一節がある。――物ハ彼ニ非ザルハ無ク、物ハ是ニ非ザルハ無シ――カレでないものは存在しないし、コレでないものも存在しない。その根拠として、こんな記述が続く。――彼ハ是ヨリ出デ、是モ亦《マタ》彼ニ因《ヨ》ル。彼ト是ト方《マサ》ニ生ズ――カレはコレから出たもので、コレはカレに起因している。カレとコレは一緒に生まれる、というわけだ」
「つまりカレとコレは相対的な呼称なので、片方だけでは存在しえないって意味かな」
「そうだね。ボク鳶山(=コレ)にとっては猫田くんはキミ(=カレ)であっても、キミにとってはキミ猫田があくまでコレであり、ボク鳶山のほうがカレであるということだ。コレとカレの例に限らず、人間はいろんなものを対立概念で弁別したがる。美と醜、正と悪、優と劣。しかし、どれも相対的な価値観にすぎない」
「なるほど、そう言われてみると、大と小も広と狭も相対的な尺度に過ぎない」
「うん、だからともすると、こんな逆説も成り立つ。――天下、秋毫《シユウゴウ》ノ末ヨリ大ナルハ莫《ナ》ク、而シテ大山ヲ小ト為ス――この世に動物の毛先よりも大きいものはなく、こう考えると大きな山と言ったって小さなものだ」
「そりゃあ、微生物から見れば毛先だって十分に大きいだろうし、宇宙から見ればどんな大きな山も小っぽけな存在に過ぎないかもしれないけれど、いくら相対的な尺度とはいえ、そこまで言うと強引なのでは?」
「実際、論理学派と呼ばれる恵施《けいし》や公孫竜《こうそんりゆう》はこの論をさらに追究して、奇怪な命題をたくさん残している。例えばこんな命題だ。鶏は三足。犬は羊と為すべし。火は熱からず……」
「え、火は熱からずというのは、熱い冷たいも人間の主観的な感覚に過ぎないから必ずしも熱いとは言えないということかな。しかし鶏が三本足だとか、犬は羊であるというのは意味不明」
「鶏には実際の足が二本と、それとは別に足という概念が存在するので、合わせて三本。犬という名が示しているものは本当の犬かどうかわからないし、羊という名が示しているのも本当の羊かどうかわからない。こう考えると同類である」
「…………」沈黙するしかない。
「こんな命題もある。嚆矢《こうし》は疾《はや》し、しかも行かず止まらずの時あり――矢はすばやく飛んでいるのに進みも止まりもしない瞬間がある。一尺の捶《むち》、日日その半ばを取りて、万世尽きず――一尺の長さの鞭《むち》を毎日半分取り除いても、万代かかってもなくならない」
「それらはギリシアのゼノンの逆説とまるで同じじゃない。飛ぶ矢は静止しているとか、アキレスは亀に追いつけないとか」
「うん、因果関係はよくわからないけれど論旨はほぼ一緒だ。で、極めつけに難解なのがこれ。指は至らず、至れば絶たず。わかるかい?」
「指は至らず……?」
「公孫竜の指物論によると、指さしてもその実体には届かないし、届いたとしたら指さしていることにはならない。だから指さす対象と実体はおのずから別物である」
「ふうん、わかったようなわからないような……どうも論理学派とやらの命題は逆説というより、もはや詭弁《きべん》でしょ。真理が含まれているというより、論旨の奇抜さを競っているみたい」と、わたしは正直な感想を述べた。
「そうなんだよ。荘子も論理だけが一人歩きすることを警告して、斉物論篇の中でこう言っている。――指ヲ以《モツ》テ指ノ指ニ非《アラ》ザルヲ諭スハ、指ニ非ザルヲ以テ指ノ指ニ非ザルヲ諭スニハ若《シ》カズ。……天地モ一指ナリ。つまり、指と指さすものが同じかどうかなんて現実にとらわれた議論にいくら終始していても、それを超えた真実、天地が一本の指であるという悟りの境地には至らないということ。論理学派が目先の奇抜な論理で人を言いくるめようとしたのを否定して、もっと本質を見据えた議論を求めたんだと思う」
「それで本質に戻ると、世の中の相対的な差などないに等しく、つまるところ同じだということなのかな?」
「荘子はその本質を道枢《どうすう》と呼んでいる。先ほどのカレとコレに関する考察はこう続く。――果タシテ彼ト是ト有リヤ、果タシテ彼ト是ト無キヤ。彼ト是ト其ノ偶《アイテ》ヲ得ルコト莫《ナ》キ、之ヲ道枢ト謂《イ》ウ――果たしてカレとコレはあるのか、それともないのか。カレとコレが対立する相手をなくした境地を道枢という」
わたしは思った。「相対的な区別がなくなった境地ねえ、哲学的だあ……」
「道を究めると、相対的な価値なんてものは取るに足らないってことだろうね。自分の判断を捨てて、身を任せていけばそのことが自然とわかると荘周は結論づけている。これが道の境地。唯《タダ》達者ノミ通ジテ一タルヲ知ル――道に達した者だけがすべてが一つの同じものだと知るわけだ」
「相対的な価値は消えてなくなるといっても、絶対的な尺度は残るのかな?」疑問に思った。
「猫田くん、絶対的な尺度ってなんだか考えてみたことがあるかい?」
「え、例えば、絶対温度っていうから温度はそうだよね、絶対的な尺度。長さや時間なんかのように、基準になる値があって計測するものは全部そうじゃない、五メートルとか一時間とか。これは絶対的な尺度でしょう」
「さっき自信満満に、熱い冷たいも人間の相対的な感覚に過ぎないなんて言ってなかったっけ? であれば長い短いも早い遅いも同じじゃないかな。同じ五メートルでも走れば短いし、飛び越えるには長い。同じ一時間でもただ待っているだけなら遅いだろうし、楽しみに熱中していれば早い。絶対値が同じでも、人間の主観はそれに新たな価値を付加してしまう。したがって、客観的には同じ価値も、主観が介在することによって相対化されてしまう」
「あ……」
「つまりねえ、相対的か絶対的かという対立概念自体、相対的な捉《とら》え方だと言えるんじゃないかな? その程度の差異なんて荘子には一蹴《いつしゆう》されてしまうだろう」
「わかった。これはどうかな――あるとなし。これは絶対に同じとは言わせない。この判断には主観も入り込むことができないはずだから」
「なるほど、アルとナシの二者択一ね。いまこの瞬間に世界を凍結させたとしたら、存在しているものと存在していないものは画然と峻別《しゆんべつ》されるだろう。あり、且《か》つなしなんてものは、少なくとも物質レベルでは考えにくい。しかし、ほんの一瞬でもいい。時間を解凍してみよう。すると、いままでここにあった物が次の瞬間には壊れてしまいなくなってしまうかもしれない。万物が生成し流転することを考えると、ここでも道は通じて一たり、さ」
「それはつまり、生物に置き換えると、生も死も同じということになるのかな?」
「察しがよくなってきたね、猫田くん。いままでここにいた人も次の瞬間には死んでしまっているかもしれない。――方《マサ》ニ生ズレバ方ニ死シ、方ニ死スレバ方ニ生ズ――生まれることは同時に死ぬことであり、死ぬことは同時に生まれること。生と死は表裏一体、等価値という考えがここではっきりする」
「だから、メグミさんは覚悟の自殺だったということ?」
「どうだろうねえ……」鳶さんは答えをはぐらかし、ひとりで表に出て行ってしまった。
まったく勝手な人だ。
しばらくじっと帰りを待っていたが、帰ってくる様子がない。退屈、実に退屈。わたしは鳶さんのように準備よく読書用の本など持参していなかった。なにげなしに、鳶さんが読んでいた『荘子』を手元に引き寄せた。
(こんなときにビールがあればいいのに)と思う反面、こんなにビール禁断症状が出るなんて、軽いアル中じゃないかと自嘲《じちよう》する。(アル中!)頭の中でなにかがはじけた。
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インターミッション
――蝸牛《かぎゆう》角上の争い
七月十一日の夜九時半、東京は西荻窪《にしおぎくぼ》にあるバー≪ネオフォビア≫にはこの日も客がいなかった。マスターの神野《じんの》はターンテーブルに新しいLPをセットすると、自らのためにザ・マッカランのオン・ザ・ロックを用意しようとしていた。
そこに高階甚平《たかしなじんべい》が重い扉を開けて現れた。
「ひえー、このペナペナの上ずったようなキーボード、懐かしかねえ。ユーライア・ヒープの≪ルック・アット・ユアセルフ≫やろが」
「そうだ。この銀色のレコード・ジャケットが鏡の役目を果たすしかけで、≪ルック・アット・ユアセルフ≫と洒落《しやれ》ていた」
「ばってん邦題は『対自核』。なんか意味ありげで、結局意味のないタイトルたいね。マスター、今日はラガヴーリン十六年をストレートで頼むけん」
「アイラ・モルトならばラフロイグがお薦めだが。ラガヴーリンはピート香が強く、かなりくせがあるぞ」と言いながらも、神野はうれしそうにボトルから琥珀《こはく》色の液体を注いだ。
高階はそれをちびりと舐《な》めて、「そやね、舌を刺すようなこの感じがよかね。ところで、例の『竹取物語』読んでみたったい」と言った。
「どうだい、なかなか面白いだろう?」
「そやね、結婚を避けるためにかぐや姫が求婚者たちに課す難題がおもしろか」
『竹取物語』では、かぐや姫が五人の求婚者(石作皇子《いしづくりのみこ》、車持皇子《くらもちのみこ》、阿倍御《あべのみ》主人《むらじ》、大伴大納言《おおとものだいなごん》、石上中納言《いそのかみのちゆうなごん》)のそれぞれに、天竺《てんじく》にある仏の石の鉢、東方浄土の蓬莱《ほうらい》山に生える木の枝、唐土《もろこし》にある火鼠の皮衣、竜の首で光る玉、燕《つばめ》が持っているという子安貝を持って来てくれと頼む。持ってきてくれた貴族の求婚に応じると約束するが、もちろんどれも空想上の宝物だ。
「で、五人五様のやりかたで、この難題に臨む。部下に探しに行かせたり、財力に物を言わせて買い集めようとしたり、最初から探さずに偽物を作ろうとしたり。この辺りの奸計《かんけい》の巡らせ方は現代でもまるで一緒たい。そしてどれもあえなく失敗してしまうっちゅうのが痛快ばい」と、高階は感想を述べた。
物語はこう続く。ついに帝《みかど》が噂を聞きつけかぐや姫を見に来るが、なかなか会えない。ようやく策を弄《ろう》してひと目見た途端、かぐや姫を忘れられなくなり、なんとかして連れ帰ろうとする。ところが、いざ捕まえるとかぐや姫は影となってしまい、どうしても連れ戻せず、あきらめざるをえない。
「帝の権力をもってしても、かぐや姫を手に入れられないんだから、いかに貴公子とはいえ、帝より格下の相手では、もとより勝負にならないわけだな。ところで甚平、かぐや姫はなんのために地上に降りてきたんだと思う?」
神野がカウンター越しに高階に質問した。
「それは作中に書いとったよ。えっと……」高階は『竹取物語』のページをめくった。「あ、ここたい、これこれ。月から迎えにきた天人のせりふ。――かくや姫、罪を作り給へりければ、かく、賤《いや》しきをのれが許《もと》に、暫《しば》しおはしつるなり――かぐや姫は罪を犯したので、このように貧しいおまえ(竹取の翁《おきな》)のところに、しばらくの間身を寄せられたのだ。要は、かぐや姫は月でなにか罪を犯したっちゃろうも」
帝はかぐや姫を忘れられず、時折手紙をやりとりして気を紛らわせているうちに、年月が経ち、ある年の八月十五日、ついに月の都からの使者がやってくる。帝は二千人の兵で立ち向かうが、雲に乗り、空飛ぶ車を従え、美しい衣をまとった天人たちをちらっと見ただけで、兵は戦意喪失する。そこで天人の代表が翁に向かって、前のことばを述べるのだ。
「問題はそこだ。いったいどんな罪を犯したのか。地球に流謫《るたく》されるなんて、生半可に軽い罪ではないはずだ」
大まじめな顔で神野が言った。
「そう言うてもくさ、なんか推理の材料があるとね? この物語は作者不詳やけど、そこまで考えて書かれたわけじゃなかろうも?」
「作者があからさまに書き記さなかった部分の意図を読むのが優れた読者だ。限られた材料でどこまで推測できるか挑戦してみよう。まず、『竹取物語』の書かれた時代をおさえておかねばならない」
「えっと、平安時代の初期やて書いとったよ、この文庫本に。平安時代に数数生み出された物語文学の嚆矢《こうし》たる作品げな」
「そうだ。『源氏物語』を頂点に、『伊勢物語』『宇津保《うつほ》物語』『堤《つつみ》中納言物語』『今昔物語集』など、平安時代には多数の物語が生まれたけれど、平安初期に成立したとされる『竹取物語』こそが物語の祖と呼ばれている」
「小生は自慢じゃなかばってん、日本史はさっぱりやけん教えて欲しいっちゃけど、だいたい西暦何年くらいの頃?」と、高階が訊《き》いた。
「九世紀後半頃だろうと言われているので、大雑把に言えば西暦八五〇年から九〇〇年頃だな」
「ひえー、いまから千年以上も前の話たい。そう考えると、すごかねえ」
「『竹取物語』の登場人物の大伴大納言、石上中納言などは実在の人物だ。大納言|大伴御行《おおとものみゆき》、中納言|石上麻呂《いそのかみのまろ》ともに奈良時代以前の白鳳《はくほう》時代あたりに活躍した人物だから、『竹取物語』自体、昔話として書かれている」
「なるほど、そういえば冒頭は≪今は昔≫で始まっとうしね。じゃあ時代背景は、その白鳳時代ってわけたい」
高階のあいづちに対して神野は首をひねりながら、「右大臣阿倍御主人も大伴御行や石上麻呂とほぼ同時代の実在の人物だけれど、彼が火鼠の皮衣を買い求めようとした唐土船《もろこしぶね》が日本に来航するのは九世紀の半ば以降のことだ。ここで、時代考証は大きく矛盾してしまう。たぶん実在の有名人を登場させることで、物語にリアリティを持たせようとしたのに、つい物語が書かれた当時の最新の風俗まで描写してしまったのだろう。唐土船はその例だと考えられる。だから、舞台は七世紀頃を想定されているけれど、その物語世界を支配している社会制度は九世紀後半のものだと考えていい」
「ふうん、時代背景はわかってきたばってん、それでかぐや姫の罪状がわかると? 流謫っていうのはなんね?」
「流罪と同じだね。要は島流し」
「そしたら、時代劇で〈遠島に処す〉なんて言うのと同じかいな」
「正確に言えば、遠島は江戸時代の刑罰だけれど、意味は同じようなものだ。死罪よりは軽いが、徒罪《ずざい》よりは重い」
「徒罪って?」と、高階。
「律令制度のもとの刑罰は、軽いほうから笞《ち》、杖《じよう》、徒、流《る》、死の五段階に分かれていて、五刑と呼ばれた。笞と杖は鞭打《むちう》ちの刑、徒はいわば懲役刑だ」
「そやけど、かぐや姫は月の住人やろう。月にも流罪なんて制度があったとかいな?」
「それを言ってしまったら元も子もない。月に人が住んでいるわけがない、で終わってしまう。そうではなくて、舞台は架空のものでも、物語の世界には一定のルールがあって、それがさっきも言ったように、平安時代初期の社会制度に則《のつと》っていると考えるべきだろう」
「そしたら、そのころ実際に流罪が適用されたのはどげなケースかわかれば、かぐや姫の罪状も想像がつくって寸法たい!」
「そう思って、さっきインターネットで調べてみたんだ」神野はホームページをそのままプリントアウトしたらしい用紙を何枚かカウンターの上に投げ出して、続けた。「例えば、この小野篁《おののたかむら》の場合……」
「ちょっと待ってん、小野篁って地獄の閻魔《えんま》大王に仕えた人物やなかったかいな。陰陽道《おんみようどう》とか昨今|流行《はやり》やし、聞いたことあるばい」
「ああ、そういう言い伝えもあるね。昼間は宮仕え、夜は六道|珍皇寺《ちんこうじ》の井戸から冥界《めいかい》に降りて閻魔に仕えていたとか。その一方で小野小町の祖父という説もあったり、詩人としては唐《とう》の白楽天《はくらくてん》に比べられたほどの才人でもあったそうだ。いずれにしろ、いろいろと伝説の多い平安初期の碩学《せきがく》の学者だ。この小野篁は八三八年に遣唐副使に任じられたが、遣唐大使の藤原常嗣《ふじわらのつねつぐ》を批判して船に乗らず、嵯峨上皇の怒りを買って隠岐《おき》に流罪になったらしい。そのときに詠《よ》んだ歌が――わたのはら 八十嶋《やそしま》かけて 漕出《こぎいで》ぬと 人にはつげよ あまのつりぶね――で、参議篁作として小倉《おぐら》百人一首に選ばれている」
「ふうん、じゃあ流罪になったおかげで、後世まで歌を残せたわけたいね」
「ま、そうもいえるかもな。流罪は一年で許され、参議にまでなった。それから、大納言|伴善男《とものよしお》の場合。こちらは八六六年に平安京の応天門への放火の罪で、伊豆《いず》へ流罪になっている。応天門の変として有名で、絵巻物にもなっている」プリントを見ながら神野は言った。
「遣唐使への不服従に都への放火かいな、あまり共通点がなかみたいやけど」と、高階が言った。
「これ以外の例を見ても、基本的には宮中の高位の官吏が、朝廷に対して反抗の態度を示したときに、流罪に処されるケースが多いようだ。『竹取物語』に登場する大伴御行の孫にあたる大伴駿河麻呂《おおとものするがまろ》も七五七年の奈良麻呂《ならまろ》の乱に連座し流罪になっている。ちなみに首謀者の参議、橘《たちばな》奈良麻呂は死罪に問われている」
「ちゅうことは、かぐや姫も反逆罪やったとやろうか?」いまや高階も真剣である。「ばってん、かぐや姫は女やしなあ。反逆を首謀するような大胆な性格にも思えんばってん」
「確かに、作中、かぐや姫が月に帰る場面で、愛情を注いでくれた帝や育ててくれた翁|嫗《おうな》に対して、心を痛めて別れを惜しむ心情などは、いかにもこまやかな女性らしさを感じる。その一方で、求婚者の貴族たちを一片の感謝もなく打ち捨てる様は、非常にわがままな性格を表しているようでもある」
「まるでお姫さまのごたる振る舞いやね。あっ、かぐや姫やけん当然かいな」
「オレもそこがポイントだと思う。かぐや姫という名前は、斎部秋田《いんべのあきた》という神官が名づけたことになっているが、≪ひかりかがやくかわいい女の子≫という意味だ。≪かぐ≫はかがやくの≪かが≫と同じ語源、≪や≫は感動をあらわす間投助詞、≪ひめ≫は日女で女子の美称。出生時の状態から名づけたに過ぎない。しかしながら、かぐや姫は天界では実際に王女だったと考えられる」と、落ち着き払って神野が言った。
「え、そげな描写がどこかにあったと?」
「甚平、さっきあんたが読み上げたせりふ、かくや姫、罪を作り給へりければ……云云《うんぬん》、これを言ったのは誰だ?」
高階は再びページをめくり、確認した。
「あ、≪王と思《おぼ》しき人≫と書いとるばい!」
「現代語訳では、王を≪天人の中心人物≫と訳してあったりもするが、素直に≪月の都の王≫と考えてみればどうだ。普通、王様自らが罪人を出迎えには来ないだろう?」
「ばってん、相手が王女、つまり自分の娘やったら、迎えに来ても不思議はなかっちゅうことかいな。マスターの言うとることがようやくわかってきたばい。で、かぐや姫が月の都の王女やとしたら、どげんなるとかいな?」
神野はザ・マッカランのグラスをひと舐《な》めして、「ここからは完全にオレの空想だが、歌にしてみたんだ。まあ聞いてくれ」そう言うと、レコードを止めて、静かにギターの弾き語りを始めた。
月の王女は十六歳
恋に目覚める歳頃
宮中飛び出し出会った青年
竹竿《たけざお》売りの長躯《ちようく》に焦がれ
王女は訊いた
その竹竿をどうするの
男は答えた
こいつで星を落とすのさ
月の王女は十七歳
恋に乱れる歳頃
夜毎忍んで通った青年
竹竿削り狂気を宿す
王女は訊いた
その竹槍《たけやり》をどうするの
男は答えた
こいつで王を落とすのさ
月の王女は十八歳
恋に怯《おび》える歳頃
いつしか謀反の主役の青年
竹竿持って反旗を掲げ
王女は逃げた
あの青年はどうなるの
王は答えた
そいつの首を落とすのさ
「うひゃあ、ロマンチックやねえ。つまり、逆賊の青年は打ち首となり、青年に心を寄せた姫は遠く地球に島流し。あわれ竹の牢獄《ろうごく》に閉じ込められたっちゅうわけたい」
高階の評を聞いたマスターはにんまりと笑って、無言で新しいレコードを取り出した。キング・クリムゾンの≪イン・ザ・コート・オブ・ザ・クリムゾン・キング≫。『クリムゾン・キングの宮殿』で知られる名盤である。いきなりB面に針を落とす。静かな哀感を帯びたメロディがふたりを包んだ。
「マスター、酔い痴れとんしゃあところ悪かっちゃけど、実は小生、鳶山さんの企《たくら》みの正体がわかったような気がするとよ」
唐突に高階が言った。
「え、トビの意図がわかったって? それなら、もったいぶらずに早く言えよ」
「こっちもしゃべりたくてうずうずしとったんやけど、マスターが気分よく自説を繰り広げとんしゃあ途中で割って入る訳にもいかんし……。でも面白かったばい、かぐや姫の流罪説。よくもあれだけ話を広げたもんばい。感心感心」
「恥ずかしくなってきたな。さ、オレの前座は終わったから、甚平、次はあんたの番だ」
「そしたら僭越《せんえつ》ながら。鳶山さんは竹取物語の旅に出ると、メールで送ってきたっちゃろう?」
「そうだ」
神野は鳶山から届いたそっけない文面を思い出した。
[#ここから2字下げ]
――猫田《ねこた》くんと一緒に竹取物語の旅に出ることになりました。なかなか興味|津津《しんしん》な展開になりそうです。
さて、どんなお宝に出会えますやら。
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「ちゅうことは、彼らは不死の薬を探しに行ったっちゃろうと思うとよ」自信に満ちた口調で高階が言った。
「はあ、そのまんまじゃん?」
『竹取物語』のラストシーン。かぐや姫は形見として、不死の薬に手紙をそえて帝に残し、天界に戻ってしまう。帝は悲しみに暮れ、天に最も近い山に薬を持っていくよう使いに言い渡す。それ以降、駿河国のその山を不死の山(富士山)と呼ぶようになった、と結ばれている。
「ちょっと待ってん。この結論に至るまでに、小生なりの深遠な考察があったとやけん、まずはそれを聞いちゃってん。ご意見ご批判はその後にお願いいたします」
「はいよ、謹聴《ヒア》謹聴《ヒア》!」
「まずは、ワシのかぐや姫に対する解釈から話そう。かぐや姫はひと言で言えば、オホン、竹の象徴なのじゃよ」
「なんじゃそれ? それにどうしていきなり博多弁からフェル博士口調になっちゃうんだ? しかも翻訳調」
「マスターがヒアヒアなんて言うから、つい乗ってしまったわい。なんて、閑話休題。よかね、かぐや姫は竹の中から発見された当初、≪三寸ばかりなる人≫やったとやろう。十センチに満たない大きさ。それが一人前の大きさになるのに、どれくらいかかったか覚えとるね?」
「最初のほうに、三月ばかりとあるね」神野はすかさず答えた。
「その通りたい、成長しきるのにわずか三か月。これは竹の生長速度と同じばい! 大きくて見映えもするマダケの仲間は一か月で数メートル伸びて、三か月でほぼ生長しきってしまうと。これで明らかくさ、かぐや姫は竹の隠喩《いんゆ》表現やったとたい! とすると、かぐや姫が翁に見つかる冒頭のシーンは文学的な出生の表現。つまり竹林での筍《たけのこ》の発見にあたるとやろ。かぐや姫を見つけてしばらくの間、翁は次次と金の入った竹を発見して裕福になる。これは食用の筍を見つけてお金になったことを意味しとるとよ。
マダケの仲間は日本に三種あるばってん、モウソウチクが日本に伝来したのは江戸時代やけん、かぐや姫の竹はハチクかマダケやと考えられろうが。で、筍が美味なのは間違いなくハチクくさ。そやけん、かぐや姫はハチクに決定たい! ところで、かぐや姫は何年後に月に帰るんやったかいな?」
滔滔《とうとう》とまくしたてる高階に圧倒され、神野は唖然《あぜん》としながらも、質問に答えた。「月からの使者に対して、翁は≪かくや姫を養ひ奉る事廿余年になりぬ≫と言っている。少なくとも二十年は地球にいたことになる」
「かぐや姫が月に帰るシーンは、文学的な死の表現たい。竹の死、そう竹は数十年に一度開花し、その後枯死すると言われとうとよ。月からの使者が迎えに来るきらびやかなシーンは竹の開花を推測させろうが。であれば、その後のかぐや姫の帰還、つまり竹の枯死と引き換えに残される不死の薬とは……」
「とは?」
「言うまでもなか、竹の実たい! 鳳凰《ほうおう》の食物と伝えられるあの竹の実たい。タケはイネ科やけん、当然竹の実は人も食べることができるとよ。資料によると麦に似た味げな。一日に一メートル伸びることもあるという、爆発的な生長力を秘めた竹の種子である実こそ、ほかでもなか不死の薬たい!」と、高階は決然と言い放った。
「なんだか知らんが、食い気の張ったあんたが言うと、妙に説得力があるなあ、甚平。それじゃ、トビは竹の実を集めに行ったと言うんだな?」
「たぶんね。あの写真屋が一緒だってことも小生の推理を裏付けとるとよ」
「ネコのことか? そりゃまたどうして?」
「ネコの専門は植物写真やろが。おおかたどこかで竹が開花するなんて話でも聞きつけたとやなかろうか。竹の開花は相当珍しいっちゅうことやけん、写真屋としては見逃せんやろうも。鳶山さんはそれを嗅《か》ぎつけてついていったとやろうね。面白そうなところにはどこでも顔を出す人やから。そういや、あのあと鳶山さんから連絡があったと?」
「いや、なしのつぶてだ。そうだ、いま電話してみようか」
神野は鳶山の携帯電話の番号をプッシュしたが、聞こえてきたのはお馴染《なじ》みのアナウンスであった。お客様がおかけになった電話は……。
「圏外なのかな、つながらないや」
「ヘンな事件になんか巻き込まれてなければよかけど」
「どういうことだ?」
「数十年に一度の竹の開花は、凶事の前兆とも言われとるけん」と、高階が言った。
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第八章
――第五夜、ついつい顰《ひそみ》に倣《なら》う
鳶《とび》さんはどこかに出て行ってしまった。わたしは鳶さんが投げ出した『荘子』をパラパラめくりながら考え続けていた。そうこうするうちに、時刻はいつしか夕刻である。
昨晩の恵光《めぐみひかる》の通夜からまだ一日しか経っていないことが、とても信じられない。その長い一日の間に、旺充《さかえみつる》と池旅庵《いけりよあん》のふたりが命をなくしてしまったのだ。
さきほど時間の進むスピードのことを議論したが、今日一日の時間はまさに止まってしまったかのように遅い。土台人間は主観的な判断しかできない生き物なのだろう。機械ではないのだから、自らの感覚に頼るしかない。
自分の主観を押し殺してでも、いかに客観的に判断できるか、理性を働かせるとはそういうこと。考えてみれば学校ではずっとそんなことばかり教わってきた。でも、それにどれだけの意味があるだろう。自分の主観で捉《とら》えた世界のほうが、現実において間違いなく支配的だというのに。へんに客観化することなく、主観を大切にしよう。『荘子』はわたしにそう語りかけているようにも思えた。
さきほどゲンセキ村長から招集がかかった。胡蝶亭《こちようてい》で緊急集会が開かれるのだという。実はわたしはその集会を待ちわびていたのだ。考え続けたことで成果があった。一連の事件の真相がはっきりと見えたのだ。
ワトソン役は必ずいつも狂言回しだと思われがちだが、とんでもない。ワトソン役のほうがホームズよりも先に真相に到達することがあってもいい。今回のキャスティング、鳶さんがホームズでわたしがワトソンであることに異論はない。観察眼においてわたしは鳶さんには及ばない。そして、なるほどここまでのところ、常に鳶山ホームズのほうが先に進んでいた。しかし彼は、わたし、ワトソン猫田《ねこた》のことを甘く見過ぎていたのだ。よもやわたしが気づくはずはあるまいと、彼はさまざまな示唆や暗示を与えてくれた。それらのヒントに助けを仰いだことは事実だが、おかげでわたしのほうが先に真相にたどり着いた自信がある。だから早く鳶さんを出し抜きたかった。
そんなことを思っていると、ようやく鳶さんが戻ってきた。わたしは彼を促すように言った。
「鳶さん、なんでも緊急集会が行われるらしい。そろそろ時間のようだから、行ってみようよ」
「あまり気が進まないんだけどなあ。緊急集会って、例の善後策の検討だろう?」
「そう言っていたよ。メグミさんが亡くなっただけでも、この小さな共同体にとっては大変な痛手だったはず。おまけに次期のリーダー候補のミツルくんまであんなことになってしまったので、早急に決めなきゃいけないこともいろいろとあるんだって」
「それなら部外者のわれわれが出席しても邪魔なだけじゃないのかなあ」と、鳶さんはあくまでも及び腰だ。
「それだけじゃなくって、なにを決めるにしても、一連の事件の真相を解明しないことには始まらないから、ゲンセキさんから今回の事件に解決編が示されるらしい。それに立ち会って、真相を聞くべきだと思う」
「猫田くん、妙に張り切っているねえ。なにかあったの?」と、鳶さんが問うた。
「えへっ、わたしにも一連の事件の真相がわかっちゃった。だから、ゲンセキさんがちゃんと真実を言い当てるかどうか裁きに行かなきゃ」
「え、キミ、真相がわかったの? そりゃあ一聴の価値がありそうだね。よし、それじゃあ行くとするか」
鳶さんもわたしの推理が気になっているのだろう。もはや足踏みしている場合ではないといった様子で勢いよく扉を開けた。
外に出ると、陽が落ちたばかりの西の空に夕焼けが残っていた。
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胡蝶亭にはすでに村人が集まっていた。どうやらわたしたちが最後だったようだ。着いた途端に源《みなもと》あき子から声がかかった。
「あ、おまんさあがた、皆がお待ちしちょりもしたよ。さあさ、どうぞこちらへ」
案内されるままについていくと、参集した村人の前でひとりこちらを向いた村長、源|隻《ひとつ》の隣に連れて行かれた。村人たち全員を見渡せる特等席。というより、気分は晒《さら》し者だ。
顔をあげて部屋の中を眺めると、見知った顔がなぜかよそよそしく感じられる。今日は一家の代表だけではなく、男も女もすべての村人が集まっている。一番前の列に源|環《たまき》と杉透《すぎとおる》、匠周《たくみあまね》の三人が、続いてその妻たち三人が、最後の列には源あき子、それに柳《やなぎ》家の老人が、そして例の若者の姿も見える。
この九人に村長を加えた十人が竹茂《ちくも》村の全構成員ということになる。長い間変わらなかった七世帯十二人が、ここ数日で五世帯十人になってしまったわけだ。村にとっては大きな変化に違いない。
ゲンセキ村長がようやく口を開いた。表情に疲れが浮いている。自慢の長髪も勢いなく垂れ下がっている。この一日で随分老け込んでしまったように感じる。さすがに今日は酔っ払っていないようだ。
「鳶山さんと猫田さんもお見えになったところじゃっで、いまから緊急集会を始めもす。ご存知の通り、わしの右腕として村の運営を支えてきやったメグミどんが亡くなりもした。そればかりか、わしの後を継いでもらう予定じゃったミツルまでいなくなってしもうた。昨日の通夜でも言うたように、メグミどんの死自体はわしはそんなに悲しいこととは思いもはん。じゃっどん、ミツルの死は予想外じゃった。これには参りもした。わしは昨晩一睡もせんで、今後の村をどうするべきか考えもした。そして結論を出したんじゃ。竹茂集落には存続する希望がなくなりもした。じゃっで、村を解散してはどうかと思いもす」
突然の発表だったのであろう。村人の顔に驚愕《きようがく》が走った。村を解散するとはどういう意味なのか。俄《にわ》かに座がざわめき始めた。そんな中、村人の思いを代弁するかのように、ゲンカンが声をあげた。
「希望がなかとはどげんことじゃ、ゲンセキ村長!」
「そうですよ、相談もなしに村を解散するなんて、突然言われても……」タクミが続く。
「相談もせずに考えた結論を押し付けるつもりはなか。じゃっで、ここで皆の衆の意見を聞こうと思いもす。じゃっどん、ゲンカンもタクミ先生も本当はわかっちょるはずじゃ。口にするんが怖いんで、気づかぬふりをしちょるだけじゃろう!」
ゲンセキ村長に名指しされたふたりは狼狽《ろうばい》を隠し切れない様子である。心当たりがあるのか。
しかしながら、わたしにはいまひとつ状況が把握できない。かといって、しゃしゃり出て質問をできるようなムードではない。重要な構成員ふたりを欠いて、村としての機能がストップしてしまったということなのか。それだけで村の将来の希望がなくなってしまうものなのか。
わたしの疑念をよそに、村長の話は続いていた。
「……じゃっで、現在集落にある財産を皆で分配して、あとは家ごとに好きにすればよかと思うちょる。山を降りるなり、ここに残るなり、自由じゃ。この会合の最後に、村を存続させるか解散するか、多数決を採ろうと思いもす。それまでに考えてみて欲しかとじゃ」
村長は脂汗の滲《にじ》んだ額を手の甲で拭《ぬぐ》うと、ひと息ついてさらにこう言った。
「それでは、皆の衆も気になっちょると思うで、メグミどん、ミツル、それに旅庵さんの三人の死の真相を話しておこうと思いもす」
こう言うと、村長は三人の死の顛末《てんまつ》を語り始めた。
メグミどんが真人《しんじん》に憧《あこが》れちょったことは、通夜の席でも言うた通りじゃ。『荘子』の世界に心酔していたメグミどんにとって、いかにして真の自由を手に入れるかは人生の最大の関心事じゃったと言うてもよか。
『荘子』の中には、真人、または同義語の至人や聖人とはどげん人間か、それについてはさまざまな記述がある。利害関係から超越している(至人ハ固《モト》ヨリ利害ヲ知ラズ)とか、それじゃっで多か少なかなどの物質的な価値を誇ることもなか(真人ハ寡《トボ》シキニ逆《サカラ》ワズ、成《サカ》ンナルヲ雄《ホコ》ラズ)とか、まるで愚鈍のようにいつまでたっても純粋じゃ(聖人ハ愚《グ》|※[#「くさかんむり/屯」、unicode829a]《トン》、万歳ニ参《マジワ》リテ一ニ純ト成ス)とか、いくらでも挙げられるくらいじゃ。
じゃっどん、どげんしたら真人への道が拓《ひら》かれるかを教授するような記述はなか。――道ハ受クベクシテ伝ウベカラズ、得ルベクシテ見ルベカラズ――じゃっでメグミどんは、いつか最終的に無為無心の境地に達することができるごと、ことさらに自らを律して毎日を生活しちょった。過ぎ去った昨日を悔やんでも仕方がなかことじゃし、未《いま》だ見ぬ明日に過大な期待をしても詮《せん》なきことじゃ。そう言うて今日をきちんと生きることが真人への道じゃとあん人は信じちょった。
もともと旺|貢《みつぐ》の死後、あん人の生活態度はまるで喪に服すかのようじゃったが、そげな自律的な振る舞いが加速したのには実は理由があるとじゃ。
あん人から固く口止めをされていたのじゃが、いまとなっては本当のことを知ってもらったほうがよかろうと思うて告白するが……最近のメグミどんの顔色が優れんことに皆の衆は気づかんかったじゃろうか? あん人は実は悪性の脳腫瘍《のうしゆよう》を患っちょった。
皮肉なもので、腫瘍が発覚したのはもう六、七年前になろうか、あん人が鎌で大怪我をしたミツルを麓《ふもと》の村の診療所に運んだのがきっかけじゃった。診療所では応急の止血をしただけで、ふたりは救急車で鹿屋《かのや》の総合病院に運び込まれたのは知っちょるじゃろう。じゃっどん、そこでミツルのために志願の採血をしたあと、メグミどんは激しい頭痛に襲われて倒れてしもうたことは知られちょらんと思う。ミツルも昏睡《こんすい》状態じゃっで気づいちょらんはずじゃ。倒れた本人は過労のせいじゃと思うちょったようじゃが、念のために診てもろうたら、腫瘍が見つかったらしい。
そんときは腫瘍も小さく、症状もすぐに回復したので、定期的に経過を観察するっちゅう約束で解放されたそうな。じゃっどんそれ以後、メグミどんはしばしば頭痛や吐き気を覚えるようになった。本当は定期的に検診を受けねばならんところじゃが、メグミどんはうすうす気づいちょったんじゃろう、あれこれ理由をつけて通院を避けちょった。それがどうにも我慢できんくなって、先月病院に行って調べてみると、思った通り腫瘍が成長しちょったっちゅうことじゃ。
すぐに入院しろっちゅう病院から、一旦《いつたん》荷物をまとめてくるとか言うて、あん人は戻ってきた。そいでわしも初めて経緯を聞き、びっくりしたわけじゃ。
自分の体の具合は自分にしかわからん。口には出さんかったどん、メグミどんは少しずつ腫瘍が悪化しちょる自覚症状があったはずじゃ。日日不安にあおられながら、それを表に出さず、毎日自分を律して過ごす。それこそがあん人にとっては、真人への試練じゃった。ことばで言うのはたやすかどん、実際には大変な意思の力を要することじゃ。自分の病気もあるがままに受け入れて平然と過ごしながら、真人へ解脱する機会を窺《うかが》っておったとじゃ。
そしてついにそん機会がやってきた。
メグミどんから打ち明けられたとき、わしはすぐに病院に戻ったほうがよかと説得したんじゃが、親友の旅庵さんに一度会ってから入院するつもりと言い張るで、見逃しちょった。思えばあんときにはすでに覚悟を決めちょったんじゃろ。
結論ば先に言おう。
そうじゃ、あん人は自殺しやった。そうすることで大望をかなえやった。これがメグミどんの死の真相じゃ。
昨晩のゲンセキ村長の発言からも、またさきほどの鳶さんの示唆からも、メグミが死を恐れていないことは想像できた。だから、この真相はことさら意外ではなかった。改めて自殺の背景がわかったに過ぎない。脳腫瘍のことなどはここで初めて聞いて、より納得がいった。
あとわからないのは、なぜ自殺することが解脱につながるのかという心理的な動機と、どうやって首が落とされたのかという物理的な方法くらいか。
村長がどう説明するか、わたしは彼の話に集中し、耳をそばだてた。
メグミどんがなんで自殺する気になったんか、脳腫瘍を患っており、具合が思わしくなかったことは自殺の原因じゃなか。それはむしろ日日を無心に生きていくための原動力じゃった。
あん人にとって、病院に入院することは、見苦しく生にこだわっちょるように思えたとじゃろう。病気によって命が削られるのなら、それはそれで受け入れたうえで自分がなにをなすべきか考えちょった。
そんなあん人が一番心配しちょったのは、自分のことじゃなか。ミツルのことじゃ。最近、ミツルの行動がことさらに残忍性を増してきたことがあん人の心に暗い影を落としちょった。この後の竹茂村を引っ張っていくべきミツルの社会性に大いに不安を感じておったようじゃ。
じゃっで、メグミどんは自分の命を賭《か》けて、ミツルを更生させようとしたとじゃ。
動物殺しを繰り返すミツルに心を痛めたメグミどんは、ちょっと変わった方法で諫《いさ》めようとしたんじゃ。自分の命を投げ出すことで、死ぬっちゅうことの苦しさ、惨めさ、悲しさを見せつけ、命の意味を再確認させる。いちかばちかのショック療法のように思うかもしれんどん、まだ一度も人の死を体験したことがなかミツルには有効――わしも後にそう思った。
白装束に身を包んだあん人は、結界を敷いたうえでミツルを呼び寄せ、そげん命を弄《もてあそ》びたいなら自分を殺してみよと迫った。
「わいは兎じゃ猪じゃと抵抗もせん小動物ばかり手にかけて喜んじょるようじゃが、それでも男かい? わいの肝《はら》がどれだけ据わっておるか、おいがひとつ相手ばしちゃる。さ、そん矢でおいの腹ば射抜いてみい、男やったらできるはずじゃ。わいにはできんかもしれんばってのう」
挑発されたミツルはメグミどんに向けて矢を射た。それが腹に突き刺さっちょった矢じゃ。じゃっど、あれくらいで命を落としてしまうメグミどんじゃなか。逆に薄笑いを浮かべながら最期のことばを述べた。遺言じゃ。
「どげんしたか、ミツル。これしこでくたばるおいじゃなかど! わいは粋《いき》がっておるばって、ほんとは殺しのひとつもようにできん意気地《いくじ》なしじゃ! ように見ちょれ、男っちゅうのはこげんもんじゃ。目を見開いて見ちょれよ。これがおいからわいへの最後の教え、死の教えじゃ!」
そう言うとメグミどんは、目の前のロープを切りやった。ロープは十分に撓《たわ》ませた竹の先と地面をつないでおり、そん竹からはさらに別の針金が伸びちょった。なんとそちらの針金の先はメグミどんの首に巻きつけてあったんじゃ。あん人はしし罠《わな》を自分の首に回し、もう一本ロープを地面につないで、罠の撥《は》ね上げを制動するように留めておったわけじゃな。
さて、あん人は持参した家宝の刀を抜いて、目の前のロープを切りやった。するとどげんなるかな。曲げられちょった竹はまっすぐに伸びようとする。そん拍子にメグミどんの首をぎりぎり絞めあげる。さながら自動絞殺装置じゃ。
ミツルもさすがに驚いたはずじゃ。目の前でメグミどんの首が絞めつけられる。メグミどんは苦痛の表情を浮かべて醜く無様に死につつあるとじゃ。そげんもんを見せつけられると怖くもなろう。死の苦しみもリアルに伝わってくる。メグミどんの思惑は当たったわけじゃ。
ミツルはメグミどんをなんとか助けようと考え、首の針金をほどこうとするどん、ピンと張り切った針金をほどくのは無理じゃ。針金を切るしかないと考えたミツルはメグミどんの刀を奪って一振りする。
その手元が狂ってしまったわけじゃ。針金を切るべき刀は大きくそれて、メグミどんの首を直撃した。力任せに振り下ろされた刃は勢い余って首を刎《は》ねる結果になった。胴体から解放された首は、鮮血を撒《ま》き散らしながら、竹の弾力によって空中高く飛び上がった。
返り血をたっぷり浴びたミツルは自分の過ちに茫然《ぼうぜん》自失し、ふらふらとそこから逃げ出した。逃げるっちゅう意識はなく、ただその場を去りたかっただけかもしれん。ちょうどそん後にゲンカンが現場にやってきて、首なしの死体を発見したっちゅうわけじゃ。
メグミどんにとっては自らの命を犠牲にして、ともあれミツルの心を引き寄せることができたことになる。これは真人の行為と呼んでさしつかえなかように思う。前にも言ったように、あん人は真人になり、同時に死にやった。
ここまでがわしが考えるメグミどんの死の真相なのじゃ。
時折メグミの声色を交えながら話すゲンセキ村長の鬼気迫る推理には、聞き手を引き込む力があった。正直なところわたしも少し怖くなってきてしまった。
さて、メグミどんの死には説明がついた。わたしの感想は……まあいい、それは後からのお楽しみだ。
隣の鳶さんをのぞいてみる。彼は目を閉じてじっと村長の話を聞いていた。なにを感じているのだろうか。
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ゲンセキ村長の話が再開された。集まった村人は物音ひとつ立てずに聞き入っていた。
さて、次はミツルの死について話そう。
メグミどんの死はそういうわけでめでたい死じゃった。じゃっで、わしはひとりであん人のために、祝福の酒宴を開いちょった。そんときには、わしはミツルの変化に気づいちょらんかった。知っちょったら死を食い止められたかもしれんかったんに、返す返すもそれが残念じゃ。
ひとしきりメグミどんの祝福をすませたわしは通夜を招集した。通夜の席の最後に死の真相を皆の衆に話し、来月予定通りミツルに村長を引き継げそうか、そん覚悟を問おうと思うたのじゃ。メグミどんの荒療治がどれくらい効いたのか確かめてもみたかった。
皆で酒を飲みながらメグミどんの思い出を語り始めたときに、誰じゃったかがあん人が怪我をしたミツルを背負って診療所まで走った話をしたのう。そう、あん人の腫瘍が発覚するきっかけになった事故のことじゃ。あの話の際にミツルは声をあげて泣いちょった。そん姿を見て、メグミどんの作戦は成功したのじゃと思った。
酒を飲み続けながらも、わしは観察しちょったんじゃ。じゃっどんやっぱり、酒が回り過ぎちょったんかもしれんのう。判断を間違えてしもうた。あれは薬が適度に効いちょったのではなく、効き過ぎちょったんじゃ。
ミツルは結果的に自分がメグミどんの首を刎ねてしまったことで、わしの想像以上に自分を責めちょった。考えてみればミツルはまだまだ人生経験があまりに少な過ぎた。当然といえば当然の反応かもしれん。
メグミどんは自殺をする意思のもとに首をくくった。じゃっで、自殺じゃと言うてよか。ミツルの行動は最悪の場合、自殺|幇助《ほうじよ》には該当するかもしれんが、殺意のない過失じゃから殺人罪にはならんじゃろう。動機はメグミどんを救おうとしちょったわけじゃで。
じゃっど、ミツル自身は最後まで自分のことを気にしてくれたメグミどんを手にかけてしまった自責の念で、もはや錯乱状態にあった。初めて体験する人の死が自分の引き起こした殺人とはショックが大き過ぎた。
そげん状況じゃったから、ミツルが毒を呷《あお》ったんも理解できようが。
ゲンセキ村長はミツルの死までも自殺だと断じた。あの場でタクミ先生が即座に述べた見解もミツルの自殺説であった。
初めて経験する人の死の驚愕《きようがく》、それが自分の恩人であることの衝撃、さらにはその死は自分がもたらしたものであることの嫌悪感。これらが重なってミツルの精神的なダメージは相当なものだった。
事件の直後にタクミの口から聞いたときには思わず反論してしまったが、こうして村長の話を追っていくと、自殺説はそれなりに説得力を持っている。わたしは正直なところそう思った。
ミツルが毒を飲んだ場面を思い出してみやんせ。盃《さかずき》は長老から渡されたが、長老は異常を訴えんかった。そして盃を充に渡すと、すぐに焼酎《しようちゆう》を注いだんじゃ。一升瓶も盃も長老が持っちょって、両手が塞《ふさ》がっちょった。鳶山さんは長老を疑いやったようじゃが、皆の衆も見ておった中、そん間に毒を混ぜることなどできんど。そうすると結局、ミツルが自分で毒を飲んだとしか考えられん。
あの場で問題になったごと、毒は誰でも手に入れることができた。ミツルもこっそりとしし小屋に行って盗《と》ってきたとじゃろう。
それから盃を空ける前のミツルのことばも思い出して欲しか。ミツルは「メグミどん、おいらが悪かった」と言うた。死ぬ直前のことばも「メグミどん、ごめんなさい」じゃった。これらのことばがミツルの自殺をなにより雄弁に物語っちょるわけじゃ。
そう言うと村長は鳶さんのほうを窺《うかが》った。
「いや、ボクは別にスギさんを疑っていたわけではないです」と、鳶さんは涼しい顔で受け流している。「殺鼠剤《さつそざい》の保管場所と管理方法を確認しただけですよ」
他の人間はひと言も発する様子がない。邪魔されることなく、村長は話を続けた。
メグミどんとミツルの死はわしら村人にとって衝撃的なできごとじゃった。それは間違いなかどん、旅庵さんの心にも大きな傷跡を残すことになったはずじゃ。
なにしろ旅庵さんはメグミどんの一番の親友じゃったが。いつもそうじゃが、今回も旅庵さんはあん人の家に泊まりやったほどじゃ。
じゃっで、ひょっとしたらメグミどんは自分の計画を旅庵さんに話しておったんじゃなかかと思う。
メグミどんは入院する前に一度、旅庵さんに会いたいと言うちょった。実際には入院するつもりもなかったと、いまになってはわかるどん、あのことばは自殺を決行する前に最後に一度、旅庵さんに会いたいちゅう意味じゃったような気がする。じゃとすると、病気のこともミツルの問題も旅庵さんに直接打ち明けたんじゃなかろうか。
旅庵さんとしてはメグミどんを説得するじゃろう。じゃっど、あん人の決意は揺るがんかった。実際にあん人の死体に遭遇したとき、旅庵さんは親友としての無力感に苛《さいな》まれたはずじゃ。
続いて旅庵さんはミツルの死に直面することになってしもうた。隣の席でミツルが毒を呷ったわけじゃで。旅庵さんは必死でミツルを助けようとしちょった。飲み込んだ毒を吐かせようとしたり、水を飲ませようとしたり誰よりも真剣じゃった。
わしはと言えば、面目なかことに、なにもできん状態じゃった。ミツルが毒を飲んでしもうて、せっかくのメグミどんの行為が無駄になってしもうたわけじゃし、考えておった村長の引き継ぎも適《かな》わんくなってしもうた。そげん思うと腰が砕けたごとなってしもうて、へらへらと笑うしかなかったとじゃ。まこと情けなか自分が嫌になる。
思えば、あんとき旅庵さんも同じような気持ちを味わっておったとじゃ。メグミどんが自分を犠牲にしてまでミツルを更生させようとしたことを旅庵さんも知っちょったわけじゃからのう。なんとしてもミツルを死なせてはならんと思うたとじゃろう。しかもミツルが飲んだその毒は自分がこん村に持ち込んだものじゃちゅうことも気になっちょったかもしれん。
じゃっで、あんだけ必死になってミツルを救助しようとしたとじゃと思う。結果は伴わず、ミツルは死んでしもうた。旅庵さんは、自分が殺したかのように感じたとじゃなかろうか。
そいじゃっで、悲観した旅庵さんは自害しやった。
恵光、旺充に続いて、池旅庵も自殺だというのか。なんということだ、玉突き事故のような三重自殺! 人の心はそんなに簡単に連鎖反応を起こすものなのか。
わたしが見た旅庵の死体はすでに刃物が抜かれていたが、凶器の匕首《あいくち》は恵光のものであった。首の側面にはためらい傷のような跡も確認した。やはり自殺だったのか。
さっきも言うたが、旅庵さんが一生懸命になってミツルを救おうとしている間、わしはただ惚《ほう》けておっただけじゃ。とてもこの後、竹茂をまとめていく能力はなか。誰かわしの代わりに村長を引き受けてくれる人はおらんじゃろうか?
ゲンセキ村長の呼びかけは村人には届いていないようだ。皆三人の死の真相を聞いて石になってしまった。
そいじゃあ、わしは冒頭に言うた通り、村を解散して後は各自各家ごとに好きなように生きていくことを提案する。
よかじゃろうか、多数決を採るど。わしの意見に賛成の村人は挙手をお願いしもす。
最初はパラパラと、しかし何人かの手が挙がるとそれに後押しされるように次次に、最終的には九人全員の手が挙がったのだった。
ゲンセキ村長がそれを確認した。「全員賛成ということじゃな。じゃっで……」
そのときを逃さず、わたしは言った。「村の存続のことは皆さんで決めればよいと思います。わたしたち外部の人間がとやかく言う問題ではありませんし。しかし、三人の死の真相については異論があります。まずはそれをはっきりさせたほうがよいのではないでしょうか」
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「ほう、猫田さんはわしの推理が間違っちょると言わるっとじゃな。そりゃ面白か。ぜひ聞かせやんせ」ゲンセキ村長は自説に異議をさしはさまれても一向に気にするそぶりもなく、むしろ楽しそうである。
それでもわたしは周囲の目が集まるのを感じていたし、正直なところ、その視線は気持ちよかった。
「ありがとうございます。それでは少し時間をいただいて、わたしの推理を皆さんに聞いていただきたいと思います。とはいえ、わたしの推理がゲンセキさんのそれと全然違うというわけではありません。むしろ非常に似通っていると言ってもいい。ゲンセキさんの説を補足するに過ぎません。あまり前置きが長くなっても退屈ですのでさっそくわたしの推理をお話ししましょう」
そう切り出すと、わたしは自説を述べ始めたのだった。まずは一発、かましてみることにする。
「ゲンセキさんに倣《なら》って、メグミさんの死の真相から述べましょう。結論から言うと、メグミさんは……自殺されたのです」
どうだ。
集まった人人は、一瞬、呆気《あつけ》にとられた様子。「なにを言い出すかと思えば、なんのことはない、村長と同じ結論じゃないか」そんな声が聞こえる。周りからもくすくすと忍び笑いが漏れる。場の緊張が一気に緩んでしまった。
こちらの作戦なのだ。よそ者がいきなり威張ってはならない。まずは笑いをとり、場を和ませる。耳を傾けてくれるムード作りが大切なのだ。ワトソン猫田の心理作戦。
鳶さんはわたしに右目を瞑《つむ》ってみせた。どうやら、彼はわたしの作戦に気づいたようである。さすが腐っても鯛、出遅れてもホームズである。
あはっ、すみません。なにかご期待を裏切っちゃいました? 最初に言ったじゃないですか、ほとんどゲンセキさんの推理と同じですって。でもね、微妙に違うのですよ。だからよく聞いておいてください。
メグミさんがミツルくんのことを心配していたのは事実です。よそ者のわたしたちですらわかるくらいですから、当然皆さんも気がついていらっしゃったでしょ?
事件のあった日の午後、わたしはメグミさんに会いました。彼はミツルくんに憑《つ》き物がついていて、それがむやみな殺生を繰り返させていると言いました。よい方法を思いついたので、憑き物を祓《はら》うと。
祈祷《きとう》ではない別の方法とは、どんなものかと考えたのですが、このあたりはゲンセキさんの分析と同じです。おそらく自分の死ぬ姿を見せることで、人の死の無残さ、悲愴《ひそう》さをわからせようとしたのだろうなと。
普通なら予想もつかない方法ですが、『荘子』に親しんでいるメグミさんなら、とりわけ死を恐れていないだろうと想像はつきました。それにしても自分の命を惜しげもなく投げ出すものだと驚いていたら、悪性の脳腫瘍だったのですね、それで納得できます。
お待たせしました。ここから先がちょっと違うんです。そう、自殺の方法がですね。
まずゲンセキさんの推理で違うなと思う部分を挙げます。メグミさんは最初ミツルくんを挑発して矢を撃たせたという点、自動絞殺装置とでもいうべきしかけで首を絞めて自殺したという点、それから首を刎ねたのはミツルくんだという点。この三点です。
順に説明していきましょうか。
ゲンカンさんが皆さんを呼びに行かれた間にわたしは、メグミさんのお腹に刺さった矢を観察しました。矢はきれいに水平に刺さっていました。
これは不自然です。あのときメグミさんは楠《くすのき》の大木を背にして胡座《あぐら》をかいていました。だから、矢が刺さっていた位置は地面から三十センチくらいの高さです。その高さに水平に矢を撃ちこめるものでしょうか。矢が射られたときにはメグミさんは立っていたんだ、撃たれたあと辛《つら》くなってしゃがんだという反論があるかもしれません。それもありえません。矢は後ろの楠の幹まで貫通していたのです。間違いなくメグミさんは座った姿勢のまま撃たれたことになります。とりあえずそのことを指摘しておきましょう。
次に首吊りのことです。猪罠に首を突っ込んだメグミさんが、自分で支持ロープを切ったとゲンセキさんはおっしゃった。確かに使ったといわれる刀はあの場に落ちていた。それでは切ったロープの残りはどうなったのでしょうか。ロープを地面に留めてあったのならば、切れたロープの端と地面に留めた杭《くい》かなにかが残っているはずでしょうが、痕跡《こんせき》もなかった。
首を斬ってしまったミツルくんが後始末で持っていったのでしょうか。それにしてもおかしい。地面に残ったほうの切れ端は持っていけても、空中に持ち上げられたほうの切れ端は回収のしようがない。メグミさんの頭部は鳶山さんがゲンカンさんと一緒におろしたのですが、そのとき余分なロープの切れ端などがあればご両人がお気づきのはずです。しかしそんな話は聞いていない。
だから、ゲンセキさんの推理にあった独創的な絞殺装置は成立しないということです。
それから、ミツルくんが誤ってメグミさんの首を刎ねたということでした。いったい首を刎ねるのにどれくらいの力が必要でしょうか。生憎《あいにく》わたしには首斬り役人の知り合いがいないので実際にはわかりませんが、十分な力と気合が必要だと思います。ロープを切るはずみであの刀を首に振り下ろしたくらいで、生首が胴体から斬り落とされることはまずないでしょう。間違って首に刃を打ち込んでしまい、どうしようもなくて何度も滅多切りにして頭部を切り離したというなら別ですが、これもわたしは現場で確認しましたが、首の斬り跡は一刀両断というのか、とてもきれいなものでした。
まずはここまで反論を述べましたが、なにか質問などあればどうぞ。
「猫田さんが言いやったように、メグミどんの首をおろしたときには、余分なロープなどは見かけとらんど」ゲンカンが補足するように言った。
「いまの猫田さんの話では、メグミどんのお腹に刺さっていたように矢を射るのは難しいということでしたが、それではいったいどうやったのでしょうか。現実に刺さっていたことは間違いないのですから」これはタクミ先生である。もっともな質問だ。
「そうなんですよ、すると考え方を変えなければならなくなる」
この時点で、観客はわたしの話に釘付《くぎづ》けである。声のトーンを一段あげて、自説を開陳した。
矢が刺さっているのを見れば、誰でも弓で射たものと思ってしまう。ここに落とし穴があるのではないかと考えたのです。
射る以外に矢を刺す方法は……突き刺せばいい。突き刺すのだったら、射るよりも矢の先の狙《ねら》いを正確に定めることができるでしょう。威力は弓で射るより落ちるかもしれないけれど、体重をかけて勢いよく押し込めば深く刺すことだって可能でしょう。
そう思ったわたしは誰がこの矢を刺すことができたのか考えてみたのです。矢はメグミさんの右脇腹に水平に刺さっていた。このことには鳶山さんが相当こだわっていたから、彼もきっと同じ結論に達しているのではないかと思います。一見なんでもないように思いますが、この位置が問題なのです。自分のお腹で確かめてください。相手のこの部分に力いっぱい突き刺すのは右利きの人間にとってはかなり難しいことなのですよ。
矢を自分の体の前に保持しながら体当たりをする要領で突き刺すことはできます。ただその場合は弓で射るのと同じで、位置が低すぎる。こちらも座った姿勢で、体重をメグミさんに預けていくしかありませんが、これだとまず相手の不意をつくことができない。メグミさんは相手に刺されるまま、待っていたのでしょうか? 不意をつくにはすばやく動ける立ち姿勢でなければなりません。
メグミさんの後ろに回って刺せば、右利きのほうがむしろやりやすい。しかしさきほど指摘したように、彼は大木を背にし、矢の先はその幹にまで刺さっていたのです。ということは、メグミさんばかりか楠の幹の背後から巻き込むようにして刺すことになります。いかにも不自然でしょう。この方法も却下です。
だから素直に考えればいい。左利きの人が犯行に及んだのだと。そこでわたしは失礼ながら、皆さんの利き手を思い出してみたわけです。
最初の酒宴の席での箸《はし》を持つ手でも観察していればすぐにわかったはずですが、記憶に残っているのは断片的な場面ばかりです。
最初の酒宴ではゲンカンさんから握手を求められたことを覚えています。通常利き手を出すものでしょ、握手って? 右手でしたよね。断っておきますが、鳶山さんもわたしも右利きです。ふたりともゲンカンさんの右手をためらうことなく握り返したのを覚えていらっしゃるとわたしたちの容疑が晴れてありがたいのですが。さらに、ゲンカンさんは右手でマッチを擦っていらっしゃったのを目撃した覚えもあります。
箸を持つ手を覚えているのは旅庵さん。天文館の小料理屋で最初に会ったとき、右手に持ってらっしゃいました。
ゲンセキ村長は右手で弓の弦を引く真似をされていましたね。あれはミツルくんの弓矢の腕前を鳶山さんが尋ねたときでしたっけ。
スギさんはノブヒデが死んだあとの猪の点呼をするのに右手を使っていらっしゃったし、メグミさんの死のあと、ミツルくんに右手で殴りかかっていこうとされた。
ミツルくん、彼は左の二の腕に鎌の傷跡があった。自分で誤ってつけた傷だということは鎌を右手で持っていたに違いない。
ここまでは右利きだと考えて問題ないでしょう。したがって犯人でもない。
あいにくタクミさんの利き手は思い出しませんでした。しかし考えるまでもなく、タクミさんは犯人になりえません。あのときタクミさんは左手を捻挫《ねんざ》されていましたから。
最後のことばはいわば面当てである。なにしろタクミはわたしを虚仮《こけ》にしていて転んだのだから。
タクミのほうを見ると、心底ほっとしたような様子である。ひょっとすると、彼は本来左利きだったのかもしれない。
残りの方の利き手はどうだったでしょうか。女性の皆さんや柳家のおふたりについては利き手に関する記憶がありません。
消去法ではここまでしか絞り込めない。この中に犯人がいるのでしょうか。
ここで、あることに気がついたのです。メグミさんの利き手はどうだっただろうかと。
メグミさんは確か、匕首を右の腰に下げられていたし、左手でその刃物を抜かれた場面も見ています。彼は左利きだったのではないでしょうか。
だとするとどうなるか。左利きの人が自分の右脇腹に矢を突き立てることができるか。答えはイエス。自分自身であれば利き手にあまり関係なく右にでも左にでも矢を突き刺せそうです。
もしかしてお腹の矢は自分で突き刺したもの? ということは自殺じゃないかと思いついたのです。しかもこの自殺の方法、なにかに似ていませんか? そうです、切腹です。
だってそうでしょう。切腹であれば首が斬られたことにも説明がつくじゃないですか!
わたしはここで話をとめ、ゆっくりと周囲を見渡した。観客の驚きの反応を期待したのだ。ワトソン猫田の晴れ舞台。
「いやしかし」思惑通りにゲンカンが口をはさんだ。「切腹であれば、矢を刺すのではなく、刃物を突き立てて横に掻《か》っ捌《さば》くのが筋ごあそう? しかもメグミどんはおあつらえ向きに丁度よか大きさの匕首をいつも持っておったのじゃっで」
そうなんです。刃物で腹を切っていない点が疑問ですが、さっきの消去法で残っている女性や柳家のおふたりを犯人と考えるよりもメグミさんの自害だと考えるほうが納得がいきそうです。白装束を着けて身を清めていたり、結界を敷いて邪魔が入らないようにしたり、そんな行動が裏付けています。
だとすると、なぜ匕首を使わなかったのか。導かれる結論はそのとき匕首を持っていなかったということです。これについては一旦《いつたん》保留し、後ほど述べます。
さて、メグミさんはなぜ切腹なんかしたのでしょうか。答えは明らかです。繰り返しになりますが、メグミさんはミツルくんに憑いた邪心を祓おうとしていたのですから。
ミツルくんに自分の死に様を見せることで、逆に生命の尊厳を教えようとしたのでしょう。この動機はさきほど見事にゲンセキさんが推測された通りです。
ここで考えて欲しいのです。自らの死をもって生命の尊さを伝えようとしたメグミさんが、自分の腹に矢を突き立てた後、仕上げとしてミツルくんに望んだことを。
それは多分、介錯《かいしやく》です。
メグミさんはなぜ刀を持って来ていたのでしょうか。家宝だという大切な刀を。もちろん介錯のために決まっています。切腹の末、ミツルくんに首を刎ねさせることで、人を殺すということを擬似的に体験させる必要があった。
首を刎ねるなんて生半可な行為ではない。極限の倫理観を伴う行為だからこそ祓えになりうる、メグミさんはそう考えられたのだと思います。しかもあくまで介錯なので、死の責任はメグミさんのほうにある。そういう状況を作りたかったのだと思うのです。
ゲンセキさんの推理のように、矢を撃たせることで死に加担させることもできたかもしれない。しかし、自分のひと太刀でいままで一緒に生活をし、苦楽を共にしてきた人間が死んでしまう――そこまでぎりぎりに追いつめてこそ「死の教え」はミツルくんの心に浸透するのではないでしょうか。
これがメグミさんの計画だった。しかし、計画は頓挫《とんざ》したのです。ミツルくんはメグミさんの首を刎ねることができなかった。
自らの腹に矢を立て、凄《すさ》まじい形相で死を希《こいねが》うメグミさんを前にして、ミツルくんは立ち竦《すく》んでしまったのだと思います。メグミさんの首を落とすなど思いもよらず、あまりの恐怖にその場から逃げ出してしまったのです。
「ほほう、それでは誰がメグミどんの首を刎ねたというんじゃな。まさかあん人が自分で斬ったわけではなかろう」ゲンセキ村長が余裕のある口調で問うた。
もちろん、旅庵さんです。
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「もちろん、旅庵さんです」と、わたしは答えた。「メグミさんと旅庵さんは親友同士でした。だからきっと、今回の計画のことも旅庵さんには打ち明けていたのだと思います」
「わしの推理と同じじゃな」と、村長。
「そうですね。先ほどの計画を打ち明けられたとき、親友はどういう行動をとるでしょうか。少なくとも自殺だけはなんとか阻止しようとするのではないでしょうか。たとえ脳腫瘍《のうしゆよう》が進行しているにしても、それでもう望みがないと決まったわけではないのですから。
ところが、その時点でメグミさんの決意は固かった。いくら説得しても聞き入れられなかった。だから、旅庵さんはメグミさんの匕首《あいくち》を隠したのです。凶器を隠すことで、少しでも決意を鈍らせようとしたのだと思います。同じ家に寝泊りしていたのですから、刃物を奪うのも造作ないことだったでしょうし」
「メグミどんはそれでもためらうことなく、匕首の代わりに矢で自らの腹部を突き刺したというわけですか」
「そうですね。その様子を旅庵さんはじっと物陰から見ていたのだと思います。刃物は奪ったとはいえ、メグミさんの決意は、旅庵さんがそばで一番敏感に察知していたはずですから。
で、見ていると、心配した通りメグミさんは自殺を図った。しかも介錯人のミツルくんは怯《おび》えて逃げてしまった。メグミさんは死にきれず苦しみもがいている。いまさら救える見込みはなさそうだ。
そんな場合、どうするでしょう。メグミさんの苦しみを少しでも短く終わらせるために、自分が介錯人の代理を務めるのは不自然な行動でしょうか。むしろ、当然の行動と考えられます。なんといっても、メグミさんがそう望んでいるのですから。
ですから、旅庵さんは刀を拾うと、それを大上段に振りかざし、一気にメグミさんの首を斬り落としたのです」
「猫田さんの説明を聞いていると、情景が目に浮かぶようじゃが、その推理には根拠はなかとじゃろう。あくまでおはんの推測じゃろうに」
「ちゃんと根拠があるのですよ。旅庵さんの自供証言をわたしは聞いていたのです。実は最初はわたしも気づかなかったのですが。その場面を再現しましょう」
メグミさんの首が見つかって、わたしがそのことを旅庵に報告に行ったときのことだ。あのときのやりとりで、旅庵はわたしにメグミの死の意味がわかるかと訊《き》いた。
――「猫田さんには、メグミどんの死の意味がわかりますか?」
「メグミさんの死の意味、ですか……?」
「そうです、意味があります。無視できない意味が」
「死を、解釈しなければなりませんか?」
「そ、そうせざるをえなかった!」――
(あのときの解釈は、介錯だったんだ!)と気づいたのだった。そう言えば、そのあと旅庵の調子がおかしくなった。突然精神状態が不安定になり、号泣し始めたことを合わせて考えると、介錯ととらえたほうが話の流れがスムーズではないか。そして、このひと言が決め手になって、次次に事件の真相が明らかになったのだ。
「わたしは最初勘違いしていたのですが、旅庵さんは、自分が介錯せざるをえなかったと告白し、さらにメグミさんの意図を台無しにしてしまったと泣き崩れてしまったのです」
話を先に進めましょう。
旅庵さんは首を斬り落とすと、刀をその場に残してメグミさんの家に戻りました。結果的に自分がメグミさんを手にかけてしまったことに対し、自責の念でうちひしがれていたことでしょう。
ここで偶然が驚くような奇跡を演じてみせたのです。斬られた頭部のほうは、ごろごろと地面を転がったあげく、広場の隅にまで到達したのです。そこで勢いを増して山の斜面を転がり落ちる。そしてその途中で猪罠の留め金に触れてしまった。加速度のついた頭部は留め金を外すのに十分な力を持っています。その結果、罠が発動しメグミさんの頭部を空中に高く撥《は》ね上げたわけです。
頭部は本来掛かるはずの猪よりも軽いために、竹の弾性により遠くまで放られることになります。そしてその放られた落下地点に、ミツルくんがちょうど逃げてきていたのです。
ミツルくんはメグミさんの期待を裏切って逃走したわけですから、どこかに負い目を感じていたはずです。そこに血まみれの首がびゅーんと飛んできて、血しぶきを浴びせかける。彼にとっては、自分を懲らしめるために首が襲いかかってきたように感じたでしょう。これであのうわ言に説明がつきます。
ミツルくんを恐怖の淵《ふち》にたたきこんだメグミさんの首は針金でつながれていたため、次の瞬間には反動で逆方向に引き戻される。そうやって何回か振り子のように揺れたあと、罠の高い位置で釣り合ってぶらさがっているのを、翌朝鳶山さんが見つけたわけです。
このあたりの推理は、メグミの首が転がった形跡と思われる血だまりの話を鳶さんがしていたことから積み上げた。ミツルの恐怖に怯えた証言を説明するにはこのような偶然が起こったとしか思えない。
「そこまではようわかった。それでミツルは、メグミどんの遺志に報いることができんかったで、服毒自殺を図ったちゅうことごあすな」と、ゲンカンが言った。
「ゲンセキさんの説ではそういうことになります。しかしわたしは違うと思います。ミツルくんは自殺したのではなく、殺されたのです」
「誰がどうやって殺したというのでごあすか? さっきゲンセキ村長が説明した通り、誰にもミツルの盃《さかずき》に毒を盛ることはできんかったど」
「ちょっとしたトリックがあったのです。順に説明します」
すでにこの場の主導権は完全にわたしが握っていた。
通夜の席に臨んだときには、まったく真相を見抜いていませんでした。だからメグミさんは殺されたと思っていました。それでなんとか犯人を見つけたいと、あの場ではそれなりに注意を払っていました。最終的には酔い潰《つぶ》れてしまってお恥ずかしい限りでしたが、酔っ払う前のことはよく覚えています。
席上で焼酎《しようちゆう》の回し飲みが始まったとき、ゲンセキさんから説明がありました。――本当は未成年じゃが、もうそろそろ酒に馴染《なじ》んでもよかろうと思うでミツルにも旺家の代表として参加してもらうことにしもす――とのことでした。わたしは一瞬なにか違和感のようなものを感じました。ミツルくんがお酒を飲むのはひょっとして初めてのことではないのかと思ったのです。未成年の飲酒は禁じられていますが、祭りや祝事のときに少し嗜《たしな》むくらいは通例、見逃されているものでしょう。しかし、思い返せば初日にわたしたちの歓迎会を催していただいたときにも、ミツルくんは一滴もアルコール類を口にしなかった。ずいぶんきちんとしているなと思い、記憶に残っていたわけです。それが通夜の場では禁が解かれるらしい。
それで飲み会が始まったわけですが、なにしろピッチが早かった。あの短時間に四巡目に突入するペースでしたから。しかも盃だって大きかったし、すきっ腹に焼酎ですからね。ゲンセキさんゲンカンさんのおふたりは平気そうでしたが、わたしを含め他の参加者にはかなりこたえていたようです。
初めて酒を飲むという人間がそんなハイペースについていくとどうなるか。結果は見えています。急性アルコール中毒です。飲み慣れない若者がよく一気飲みなどで陥る症状です。心配していると、案の定ミツルくんは四杯目を空けたとたんにぶっ倒れた。
そう、ミツルくんが昏睡《こんすい》状態になったのは毒を飲んだのではなく、急激にアルコールを摂取したからなのです。振り返れば二巡目くらいからすでに呂律《ろれつ》が怪しかった。そのあたりから泥酔状態に入りつつあったのでしょう。ただ、前夜の彼の錯乱ぶりもあり、わたしたちにはそれがアルコールに起因するものというより、心因性の失語状態に思われたわけです。
で、この時点ではわたしも急性アル中のことには気づいていませんでした。気づいたのはわたしではなく、鳶山さんです。
ここからしばらく鳶山さんの気持ちになって事件を再現してみます。ミツルくんが倒れこんだことで、事態の緊急性に気がついた鳶山さんは、念のため電話で医者に連絡しようとします。急性アルコール中毒といっても決して侮ってはいけません。それで命を落とす若者が毎年何人もいるのですから。
ところが電話が通じない。胡蝶亭を出るときに旅庵さんが水を持ってくるように指示をしていたから、きっと大事には至っていないだろうと思って戻ってみると、どうも様子がおかしい。ミツルくんはいつの間にか、毒を、殺鼠剤《さつそざい》を飲んだことになっていたのです。
あのときの鳶山さんのそんなはずはないという、意外そうな表情を覚えています。おかしいと思って奥の部屋に行って確かめると、全身|痙攣《けいれん》が起こっている。激烈な症状です。これは急性アルコール中毒ではないと彼にはすぐにわかったはずです。彼は酔いのおかげで、判断力が鈍っていたのかと自身を納得させるよりなかったのです。
わたしもさんざん酔っ払っていたのですが、鳶山さんが非常に驚いていたことにはずっと引っ掛かりを覚えていたのです。それでふとしたことからアル中のことを思いつき、ようやく今日になって、あのときの鳶山さんの思考を追体験することができたのです。
最初に倒れたときには急性アルコール中毒の様相だったのに、いつのまにか毒が盛られている。それだったら酔っている自分が最初の判断を間違っていたのだろうと鳶山さんは思った。しかし、鳶山さんは間違ってなどいなかった。こう考えれば犯行の機会は限られます。急性アル中の介抱に偽装して毒殺が実行されたのだと。
その通り、犯人は旅庵さんです。
彼は吐き戻させようとみせかけながら、指をミツルくんの口に入れた際に、毒物を押し込んだのでしょう。そのあと多量の水で毒物を流し込んだ。大胆な犯行でした。
口を半開きにしたままの者、目を見開いている者。どうだ、驚いただろう!
そっと隣を窺《うかが》うと、鳶さんはうっすらと微笑んでいた。自分の行動を言い当てられて、もっとびっくりしてくれると踏んでいたのに。まあよい、この場の主役はわたしなのだ。
「しかし、旅庵さんはなぜまたミツルを殺したのですか? 動機がよくわからない。旅庵さんとミツルの間になにか確執があったというのですか」タクミが疑問を発した。
「動機はかなり珍しいものです。少なくともわたしは他では聞いたことがありません。ミツルくんがメグミさんを殺さなかったので[#「ミツルくんがメグミさんを殺さなかったので」に傍点]、旅庵さんがミツルくんを殺した[#「旅庵さんがミツルくんを殺した」に傍点]のです。わかりにくい表現ですね、言い直しましょう。ミツルくんは、メグミさんを殺さなかったがために殺されたのです」
「殺さなかったから殺された、って矛盾していませんか? じゃあ、旅庵さんにしてみれば、殺さなかったから殺した、ということですか?」
「タクミさん、その通りなのです。普通に考えれば、自分の親友を殺されたので、復讐《ふくしゆう》のためにその犯人を殺す、これは心情的に理解できます。しかし今回の場合は、自分の親友のとどめを刺さなかったので、義憤に駆られて殺さなかった相手を殺したのです」
「とんでもなか逆説ごあす」ゲンカンが言った。
逆説。まさに逆説。この逆説ぶりこそ、荘子的世界だといえる。常識では考えられないような屈折した論理が、この村には働いている。
わたしはさらに説明を続けた。
こんな逆説が成り立つのも、元はといえばメグミさんの死の動機がすでに逆説に満ちていたからです。言ってみれば、殺しはよくないことを教えるために殺しを体験させる、ということですからね。
ところが思惑がはずれて、殺しを体験させたい肝心の相手、ミツルくんは逃げてしまった。その間の事情を知っていた親友の旅庵さんは、そんなミツルくんを許すことができない。メグミさんが自らの命までなげうって伝えようとしたことを、足蹴《あしげ》にされた気分だったのでしょう。だから親友の無念を晴らすべくミツルくんの殺害を実行したことになります。
こうして、人を殺さなかったので殺した、という逆説が成立したわけです。
おそらく旅庵さんはミツルくん殺害を思いつき、機会があれば使おうという気持ちで、毒物を持参して通夜に臨んだのだと思います。それで、ミツルくんの隣に座って機会を窺《うかが》っていたところ、幸運にも彼が倒れこんだ。ここを千載一遇のチャンスとばかりに利用して、持参した毒を先ほど述べた方法で嚥下《えんげ》させたのでしょう。
ミツルくんは数分後には死んでしまったわけですから、激烈な症状です。ですから、使われた毒物は多分殺鼠剤ではないと思います。市販の殺鼠剤を多少飲んだくらいでこんなに劇的な反応は起こさないはずです。青酸化合物でしょうか。詳しくは知りませんが、いずれにしろ強力な毒物が使用されたのでしょう。そんな毒物を手に入れられそうな人物は、旅庵さんくらいでしょう。自殺に見せかけるために、誰でも手に入る殺鼠剤だと言って急場をしのいだのだと思います。いずれ調べられて、違う毒物が検出されようが構わなかったのです。旅庵さんはこのときには既に自殺の意思を固めていたと思いますので。
ということで、旅庵さんの死は自害によるものです。ここはゲンセキさんと同じ考えです。いくつか補足だけをしておきたいと思います。
ゲンセキさんの推理では親友のメグミさんを失い、助けようとしたミツルくんも死んでしまい、悲観した旅庵さんは自刃するしかなかったということでした。いわば後追い自殺ですが、どうも動機が弱いように感じませんか。それに、メグミさんの匕首を使ったところの説明もなされていない。
いうまでもなく、わたしの推理ではそこの部分の説明も可能です。メグミさんの自殺を阻止できなかった旅庵さんは罪悪感に苛《さいな》まれ、失意のどん底にあったことでしょう。しかも最終的に首を刎ねたのは自分なのですから。手元にはメグミさんの切腹を阻止しようとして奪った匕首がある。この匕首で自殺しよう、ただ死ぬだけでは悔しい。だから、憎きミツルくんを道連れにしてから自分も死のうと思ったのです。
旅庵さんの行為が正しいものとは思えませんが、彼の気持ちはわたしにはよくわかります。皆さんはどうでしょうか!
わたしの推理はここまでであった。さっそくゲンセキ村長がねぎらいの声をかけてくれた。
「猫田さん、見事な推理じゃ。わしは自分の推理にまだ弱いところがあると思っちょった。メグミどんの首が斬られた理由や旅庵さんが死んだ理由などは、自分でしゃべっていても収まりが悪かように思っちょったが、おはんの説明ですっきりしたように感じもす。それにしてもミツルは旅庵さんに殺されたわけじゃな。残念なことじゃ」
次期のリーダーを失ったことを悔いているのであろう。ミツルさえ無事であれば、この村も解散することはなかったのに。村長の苦渋が浮かび出た顔は、そう語っているように見えた。
しかし、わたしの関心はそんなところにはなかった。わたしの推理を鳶さんはどう受け止めてくれたのか、鳶山ホームズからの賛辞を待っていたのだ。
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第九章
――引き続き第五夜、そして第六夜、蟷螂《とうろう》の斧《おの》を思い知る
ぱちぱちぱち。
力のない拍手の音が隣から聞こえてきた。鳶さんだ。
「猫田くん、なかなか見事な演説だったよ。ゲンセキさんの説よりも説得力があった」
「そう思ってくれる? ありがとう」
「いや、礼を言うのはまだ早い。だって、キミの推理はまったく間違っているのだから」
「え、まったく違っている?」しばらくの間言われたことの意味がとれなかった。
「うん。だいたいキミの大演説で明らかになったことはなんだい? 大筋において、ゲンセキさんの結論と変わらないじゃない。ゲンセキさんの説の弱かった部分を一部修正補強した感じかな。もとがあっての補修だから説得力が増したのも当然のことだ。大山鳴動して鼠一匹。このことばをキミの推理に対する評点として贈ろう」
「大山鳴動……鼠一匹だって?」
「うん、殺さなかったから殺したという旅庵さんの犯行動機のくだりはなかなか聞き応《ごた》えがあった。キミにも荘子的な世界観が根づいてきたみたいだね。あそこが鼠一匹だな」
「ってことは、それ以外の部分は大山が鳴動しているだけってこと?」
「まあ、そうだ。残念ながらほとんど間違っている。しかも、なぜ間違えたのかの理由がまだおわかりでないようだ」
「なぜ間違えたのか……」
「キミはゲンセキさんに嵌《は》められたんだよ。ゲンセキさんはわざとぼろの出るような推理を披露することで、ボクたちの注意がそのぼろの部分に向くように仕向けたのさ。そうすれば、本当に隠しておきたいことを隠しおおせるわけだ」
「騙《だま》されていたの?」わたしの全身から力が抜けていくのがわかった。もし立っていたらしゃがみこんでしまったところだと思う。
「鳶山さんは、わしがわざと誤った推理を述べて、真相がみなに知られないように謀ったとおっしゃるんかい?」ゲンセキ村長が鋭く言った。わたしの推理を聞いていたときとは別人のように顔つきが厳しくなっている。
ということは鳶さんの指摘が正しかったということだろう。不本意ながらわたしはゲンセキ村長の計略にまんまと引っ掛かっていたようだ。しかしどこで推理の道筋を見誤ってしまったのだろう。慎重に足場を確かめながら歩を進めてきたつもりだったのだが。
「そんじゃあ鳶山さん、わしや猫田さんの推理のどこが間違っちょるんか、わしがなにを謀ろうともくろんだちゅうんか、おはんの推理を聞かせてたもんせ」村長が挑発するように促した。
「よそ者のボクが村の秩序を乱すような真似をしたくはないのですが、どうやらゲンセキ村長ご自身が竹茂集落を引き払ってしまおうとされていらっしゃるみたいだし、村人の皆さんもそれに同意されようとしていらっしゃる。このままでは村の消滅とともに真相も闇に葬り去られることになる。真実を知る権利はここにいる皆さん全員にあるでしょう。わかりました、ボクの推理をお話ししましょう。ボクは最初の夜に二十年前の事件の話を聞いたときからずっと疑問に思っていたことがありました」
「それは?」ついつい促してしまう。
「皆さんがことさら宋《そう》家を大切にされているのはなぜだろうということです。宋|一《はじめ》さんが当主でいらっしゃった頃までは、まさに首長のような存在であったようです。また、現在のリーダーのゲンセキさんはあくまで代理職だと言い張り、宋家の血を受け継ぐミツルくんがリーダーを務めるべきだと譲らない。なぜなのか? ボクはここに竹茂村の秘密が隠されているように思いました」
村人の間に動揺が走った。気にする風でもなく、鳶さんが続ける。
「まずなにから説明していこうか。そうだな、わかりやすいところから、ミツルくんの父親は旺満志さんでも旺貢さんでもない! 本当の父親は恵光さんですね?」
「えっ、なんだって? メグミどんとミツルくんは親子だったって言うの?」
村人の間に驚きは走らない。どうやらわたしだけがそのことを知らなかったようだ。
「さすがに大口を叩《たた》くだけのことはある。簡単に見破られたようじゃな。鳶山さん、どこでそんことがわかったのかい?」
「ミツルくんが怪我をしたときに、メグミさんが病院まで運んでいって、輸血用に自分も採血したという話がありましたね。このときおやっと思ったんです。ふたりの血液は少なくとも同種血で適合性も高いんだと。輸血の場合はABO型、Rh型が同じ同種血で、副作用が起こらないよう適合性検査をパスする必要があります。子供の血液型は両親の遺伝子を受け継いで決まります。片親だけに由来するわけではないので、適合したからといって親子関係が立証されたことにはならないですが、疑いを抱くきっかけにはなった。
確信したのはミツルくんの耳の形を見たときです。ご存知の通りメグミさんの耳は先のとがった珍しい形をしていた。ミツルくんは長髪だったのでいつもはわからなかったけれど、死の苦しみでのたうちまわっているときに髪の間からのぞいた耳は、メグミさんの耳と同じ形だったのです」
そうであった。わたしは苦しむ彼の耳元で励まし続けたので、記憶に残っている。ミツルの耳も上端がつぼみ、先がとがっていたのだ。
「そうとわかれば毛髪もあやしい。旅庵さんが猫田くんに話したところでは、若い頃のメグミさんは髪はくせ毛のうえにひげも生やしていたので、相当いかつい顔だったらしいですね。ミツルくんは髪を染めていたので、ついでにパーマもかけているのかと思っていましたが、自分で染めていたようですね。ということは、ウェイブのかかった髪のほうもパーマではなく、くせ毛だったのではないでしょうか。
適合性の高い血液型、とがった耳の形、くせのある毛髪。こういう具合にいくつも遺伝的な傍証がそろってくると、いやでも気になってくるじゃないですか。血がつながっているんじゃないかと」
「でも、ミツルくんの父親は、宋|香《かおり》さんの婚約者だった貢さんか、その父で卑劣な満志のどちらかだと思っていた。だって旺という姓だし」わたしは叫んだ。
「旺貢さん、旺満志さんの可能性はもちろんあったが、恵光さんだって十分に可能性はあった。許嫁《いいなずけ》に貢さんを選んだのは宋香さん自身ではなく、父親の宋一さんという話だった。宋香さんとメグミさんの仲が想像以上に深かったとしても不思議ではない」
「そうか。ミツルくんが生まれたときに、メグミさんと宋香さんの間にできた子ではないかと、皆さんは疑ったりしなかったのですか?」と、わたしは村人に向かって問いかけた。ゲンカンとタクミ先生は明らかにうろたえている。顔色ひとつ変えずにゲンセキ村長が静かに語り始めた。
「出産直後に香が亡くなってしもうたで、最初は誰も本当の父親など知らんかった。じゃっで、旺の姓にしたんじゃ。メグミどん自身も気づいちょらんかった。じゃっどん、ミツルが歩き始めた頃には、顔立ちがメグミどんの幼か頃にそっくりなことは誰の目にも明らかじゃった。
それが原因でメグミどんは運命を嘆き人生に悩むようになったんじゃ。あん人にしてみれば、自分の不義によって、あん惨劇が起こったように思えたわけじゃ。じゃっで、残りの人生を事件の犠牲者の供養にささげる決意をしやったわけじゃ」
「それでは、この事実は皆さん全員ご存知だったわけですね?」
「狭い村のことでそげな隠し事はできん。じゃっどこんことはみなで口裏を合わせ、ミツルには伏せちょった。ミツルには父親は旺貢、母親は宋香じゃと話して聞かせた。他人が見たら一目|瞭然《りようぜん》のそっくり顔でも、自分ではなかなかそれに気づかないもんじゃ。念のために、昔の写真はほとんど処分した。じゃっで、ミツルが貢の写真を見て、自分の相貌《そうぼう》との相違点を指摘したり、若い頃のメグミどんの顔との類似点を発見する恐れもなかったのじゃ。
メグミどんも自分が父であることは打ち明けることなく、誰よりも熱心にミツルの教育、指導に力を注いだのじゃ。実の父親であることを隠し、あくまでも人生の師として、ミツルを一人前の男に育てる言うて臨んでおった」
わたしには疑問であった。「どうして父親であることを名乗り出なかったのでしょうか? メグミさんが自戒の念にとらわれる気持ちもわかりますが、別に罪を犯したわけじゃないでしょう」
答えてくれたのは鳶さんだった。
「きっと宋家の家系を汚すことができなかったのさ。ミツルくんはメグミさんの子供であると同時に宋香さんの子供でもあった。村にとっては、単なる無名の一個人ではなく、宋家の跡取であることの意味が大きかったんだと思う」
「家を継ぐことがそんなに大切なのかなあ」
「そんなに大切だったんだよ、竹茂村の場合には。ここで最初のボクの疑問がようやく氷解する。なぜなら、宋家の家系こそ荘周《そうしゆう》の末裔《まつえい》なのだから!」
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「な、なんだって?」わたしは耳を疑った。「まさか、荘周って『荘子』の著者のこと?」
対する鳶さんの答えは平然としたものであった。「そうだよ。荘周の一生は謎に包まれている。生まれは紀元前四世紀、孔子や老子よりほぼ一世紀半遅れ、儒家の孟子《もうし》と同時代の人物だ。同じ頃古代ギリシアではプラトンやアリストテレスが活躍していた。宋の国の生まれで青年時代に漆園の役人をしていたこと、結婚していたこと、魏《ぎ》の国の宰相になった恵施《けいし》と親交が深かったことなどが、後の『史記』などの記述でわずかに知られるだけだ。この知識はメグミさんちの『荘子』の解説部分から借用したんだけどね」
「そんな大昔の人の子孫が現代に生き延びていると言うの?」
「別に仰天することではないよ。人間が生殖活動を続ける限り、遺伝子ってやつは死ぬことがないのだから。荘周に妻がいたのならば、その子孫が現代まで脈脈と続いていたとしても一向に不思議ではない。子供ができ、孫ができ、曾孫《ひまご》ができと子孫が増えていくにしたがって遺伝子が薄く広く継がれていくことになるだけの話だ」
「しかし、二千三百年以上も前の人の遺伝子が……」
「試しに荘周の子孫がそれぞれ二十五歳で子供を残したとしよう。2300÷25=92。
だから、わずか九十二代目で現代に到達するんだ。そう考えると、驚くほどのことではないだろう? 正当な跡目決めのルールさえあれば、天文学的な数へと膨れ上がっていく子孫の中で家系が曖昧《あいまい》に絶えていくこともない。宋家の規則では、簡単に言えば一番最初に宋家の遺伝子を子孫に残した男性が後継ぎというわけだから、いたってシンプルなルールだ」
「でも中国のはるか昔、春秋戦国時代の偉人の末裔が日本の、しかもこんな片田舎に暮らしていたなんて、やっぱり信じられない」
「信じるかどうかは猫田くんの勝手だ。キミは知らないかもしれないけれど、日本には孔子の子孫の方も実在している。孔健《こうけん》という人で現在七十五代目だそうだ。孔子の子孫がいるから荘子の子孫も、というのは短絡だが、ボクが言いたいのは、それは不可能ではないし、少なくともこの竹茂の村人はそれを信じてきたということだ」
張り詰めた空気が少し緩んだような気がした。ゲンセキ村長が言った。
「鳶山さん、ようわかったのう。ばれてしまえばこれ以上隠しても意味がなか。わしらは荘子の直系の子孫である宋家を中心にして、今日まで生き長らえてきた≪荘の族≫なのじゃ」
「≪荘の族≫ですって?」
「その通りです。古代中国は周の時代、弱小侯国のひとつに宋の国がありました。その十六代の王、荘公を始祖とする一族のことです。もちろん荘周も一族の一員で、荘公の十三代目の直系嫡子にあたります」タクミ先生が説明役を買って出た。
「しかし荘周は王族ではなく、平民ですよね。下級役人にはなったようだけれど」わたしの乏しい知識では、荘子が王家につながる貴人には結びつかなかった。
「荘公は王の座をおりた後、宋の二十四代の王文公により、一族もろとも滅ぼされてしまいました。なんとか助かった数名だけが王族を捨て平民となって、生き延びたということです」
時代は戦乱の世、親戚《しんせき》友人は言うに及ばず、親子兄弟の間で覇権が争われていた。憎悪が弑逆《しいぎやく》が行動原理であり、策略が陰謀が行動規範だった時代のこと。≪荘の族≫はいち早く王公たちの争いごとの惨めさと虚《むな》しさに気づいて、庶民に混じって生活をする中で、正しい人生とはいかにあるべきかを考えるようになった。それらの蓄積が荘周による『荘子』なのだろう。荘周の知識と教養は王族の嫡子ならではの賜物《たまもの》であり、知恵と経験は庶民生活から学んだ財産なのだ。
村人の顔に生気が戻ってきたような気がする。語り継がれた歴史が、彼らに誇りを与えたのだろう。
ゲンカンが後を続けた。「≪荘の族≫は『荘子』的な人生を実践しながら、慎《つつ》ましく平穏に暮らしておりもした。老荘の哲学も晋《しん》の時代には玄学としてもてはやされたりもしもしたどん、時代がくだるにつれ、怪しげな玄学家が出てきたり、道教の神仙思想色が強まったり、正道をいくおいどんの祖先たちはいつのまにか邪魔者扱いされるようになったとでごあす。いくつもの土地から排斥され、追い立てられもした。そいで、故郷を捨て新天地を求めて海を渡ったちゅうことごあす。こちらに着いてからは、環境が故郷に似ちょるっちゅうことでこの山奥に居を定め、密《ひそ》やかに、過不足なく生活してきもした」
「皆さんはとても贅沢《ぜいたく》な生き方をしてきたのかもしれない。ところで、日本に渡ってこられたのはいつぐらいなのですか?」と、鳶さんが訊《き》いた。
即座にタクミ先生が答える。「わたしの先祖が日本に渡ってきたのは十二世紀のことであったと聞いています」
「平安時代末期か。それで納得がいく。平氏が各地の戦で敗走している頃ですからね。あなたがたの祖先はそれで平家の落武者の一行を騙《かた》ったに違いない。それで周囲の村落の人間からの余計な詮索《せんさく》や干渉をかわしてきたのでしょう」
「伝承によると、この地には実際に深手を負った平|業盛《なりもり》の一軍が立ち寄ったそうです。わたしたちの先祖が手厚く看病して、食料と休養を与えてもてなしたと伝えられている。業盛はそのお礼にと、特にお世話になった恵家に刀を授けたらしい。そんないきさつで、あの業盛神社ができたのです」
「平業盛からいただいたのが、例の刀ですね。大切に手入れしていたものだ。しかし、八百年以上の時を隔て再び白刃を翻すことになろうとは」
「それにしても鳶山さんの慧眼《けいがん》には恐れ入った。どこで宋家が荘周の子孫じゃとわかったのかい?」改まった口調でゲンセキ村長が尋ねた。
「最初の説明では、小国寡民の理想を実現するために八人の男たちがこの地に入植し、村を築いたということでしたが、それにしては宋家だけが特別視され過ぎているような気がしたんです。宋香さんの婿取りの話を聞けば、宋家を残すためには他の家系が犠牲になってもやむなしという感じがします。それだけ宋家は他の七家族よりも上に位置していた。これがずっとひっかかっていた。
もうひとつ皆さんが大事にされているものがある。『荘子』です。誰もが『荘子』の文言を金科玉条のごとく扱っていらっしゃる。そこで宋家と『荘子』の間になにか関係があるんじゃないかと疑うようになった」
わたしも疑問には思っていたが、ふたつを結びつけては考えなかった。
「ボクたちはもともと竹の花を撮影にきたのです。荘子、竹林、とくれば三題話のオチがわかるってものでしょう。猫田くん、わかるよね?」
「荘子、竹林……? ひょっとして七賢人とか?」
「ご明察、竹林七賢だ。晋の時代に世塵《せじん》を逃れ、竹林で清談を重ねた七人の思索家たちだ。奇《く》しくも竹茂村にも七つの家があるという。奇遇じゃないか。それで苗字《みようじ》を照合してみた」
「竹林の七賢人の名前なんて知っていたの?」
「全員は知らないが、詩人でもあった阮籍《げんせき》と|※[#「(禾+尤)/山」、unicode5d46]康《けいこう》は有名だから知っている。それから『荘子』の研究者として著名な向秀《しようしゆう》。この姓は源、恵、匠の音読み、ゲン、ケイ、ショウと同じ音じゃないか! 竹茂の住人の苗字は一字姓の影響を受けているのかと思っていたが、どうやら違うらしい。竹林七賢を模倣《もほう》しているのだと気づいた」
「七賢の残り四人は阮咸《げんかん》、山濤《さんとう》、王戎《おうじゆう》、劉伶《りゆうれい》じゃ。ゲン、サン、ワウ、リウで源、杉、旺、柳と音が重なるようになっちょる」と、村長が補足する。
「でも、中国語の発音と日本語の発音は違うんじゃないですか。王はワンじゃなかったっけ? 王監督がワンちゃんって呼ばれるのはそういうことでしょ。それにイントネーションだって四声とかあって複雑なのでは?」
「もちろん違う。じゃっどん四声というのは現代中国語の発音じゃ。祖先が渡来した当時の中国語の読み方に倣《なら》った発音が漢音じゃ。現在の日本漢字の音読みは、多くが漢音に由来しておる」
わたしはよく知らなかったが、漢音より古い呉《ご》音、新しい唐《とう》音が混ぜ合わさって、日本では漢字の音読みができたのらしい。
「わしらの祖先は日本にたどり着いて、新しい名前を名乗らねばならんかった。そんとき荘家を除いてちょうど七家族じゃったから、竹林七賢にあやかったっちゅうことじゃ。ばってん阮や※[#「(禾+尤)/山」、unicode5d46]ではいかにもおさまりが悪か。日本人になりすますわけじゃから、日本語の語彙《ごい》の中から、音だけを合わせて日本人らしい姓を名乗ったちゅうわけじゃ。ちなみに王は現在では猫田さんのおっしゃる通りワンで、日本語の音読みではオウじゃが、漢音ではワウというのが正しく、それで旺という妙な姓になってしもうた」
「ぼくの姓もショウというよりシャウという発音のほうが近いですね」タクミ先生が言った。
鳶さんが推理を再開した。「最初、皆さんは遊んでいるんだと思いました。せっかく小国寡民を作るのだから竹林七賢を気取ったのかと。しかし宋家だけは様子が違う。他は皆、姓を訓読みにして日本人らしく振舞っているのに、宋というのはほかでもない荘周の祖国の名をそのまま使っている。またしても特別扱いです。ここにいたって、宋家は荘家、つまり荘周の家系じゃないかと考えたのです」
「見事じゃ。宋一さんは、荘周から数えて九十五代目の荘家の当主じゃった。荘公から数えると、実に百八代続いちょる。九十六代目は正式な婿入りはなされなかったどん、宋香との間に子供を儲《もう》けたで、メグミどんっちゅうことになる。そのメグミどんが頑《かたく》なに固辞しやったために家系図上は、旺貢が宋貢の名で九十六代目として記載されちょる。そして来月、ミツルが宋充として九十七代目を継ぐことになっちょったのじゃ」
鳶さんがわたしに言った。「ほとんど推測通りだったよ。これが竹茂村の皆さんが頑なに守り抜いてきた秘密だったんだよ」ここで村人のほうに顔を向け、「皆さんが大切にされてきた村の秘密を暴いてしまうことになって、申し訳ありません。しかし、今回の事件の犯人を特定するためには、背景を明らかにしておく必要があったのです」
場がわずかにどよめいた。そうだ、まだ犯人の名前は知らされていないのだった。
しばし間をおいて鳶さんが続けた。
「それではいまから、犯人の正体を考えていきましょう」
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「ゲンセキ村長は来月、ミツルくんが成年になるので村長を引き継ぐとさかんに公言していた。ついさっきもおっしゃっていた。しかし、ここで疑問が生じるんだ。猫田くんは不思議に思わなかったようだけれど、彼は来月にはまだ二十歳になるはずがないんだから」
「えっ、だってミツルくんは二十年前に生まれたのだから……あ、彼、何月生まれだっけ?」
「彼が中秋の名月の日に生まれたことは以前聞いたよね。旧暦の八月十五日だ。ということは太陽暦では九月ないし十月にあたる。いまは七月だから、少なくとも来月、八月に旺ミツルくんの誕生日がくるはずはない」
「ミツルの誕生日は昭和五十五年の九月二十三日じゃった。おいと同じ誕生日じゃっで。おいのほうは昭和八年生まれじゃ」スギ長老がことばをはさんだ。
「あんたは七年生まれじゃろが。黙って聞いとかんね」たか江が窘《たしな》める。
「どういうこと? こちらがかつがれていて、ミツルくんが宋家の跡取となり、村長に就任する日取りが本当は再来月だったってこと? それがひと月ずれたとして、なにが変わるのかなあ?」
「ボクも最初はそう思った。たいして意味がないことのように思ったので、その意味を深く考えもしなかった。しかしメグミさんの死ぬ前の発言は気にかかっていた。猫田くんが聞いたことばだよ。
――ミツルは来月になれば、この村を統《す》べる資格を持つ男じゃ。じゃっどん、いまのままじゃいかん。時間がなか。あいつをどうにかせんといかん――
ここで、メグミさんも来月と言っているし、しかもかなり焦っている様子だ。自分でなんとかしようというメグミさんの発言だから、嘘とも思えない。
それからこの発言にはもうひとつひっかかるところがある。≪あいつ≫という表現だ。このことば、よくよく吟味するとミツルくんと≪あいつ≫が別人のようにも思えないだろうか。それでまた思い出した。最初の晩に口論になって、ミツルくんが胡蝶亭《こちようてい》を飛び出したあとにメグミさんが言ったことばだ。
――困ったものごあす。これもあいつのせいじゃ。まずはあいつの性根を叩《たた》き直さんといかん――
ここでも≪あいつ≫の影がちらついているように感じないかい? しかもどうやらメグミさんは≪あいつ≫をどうにかしなければ、ミツルくんに悪影響が及ぶと考えているみたいじゃないか!」
指摘されれば、確かにミツルと≪あいつ≫は別人のようだ。しかし、「≪あいつ≫って誰なの?」一同を見回してみたが見当がつかない。
「少なくとも同じ場所に同席している人のことを≪あいつ≫呼ばわりはしないだろう。最初の晩の酒宴で同席していた人間は除外できると思う」
「あのとき一緒にいたのは、ミツルくんが去ったあとだったから……わたしたちふたりに旅庵さん、ゲンセキさん、ゲンカンさん、タクミさん、あとは本人のメグミさん。それだけだね」(この人たちを除いて残る人間は……)
「ところで猫田くん、どうして来月、ミツルくんに後継ぎの資格ができるんだろう? 二十歳が成年であることは真だけど、逆は真ではない。成年ならば二十歳とは限らない!」
「え、どういうこと?」(残る人間はここに集まったスギ長老、アキラさん、修くん、あき子さん……)
「成年とは、人が完全に行為能力を有するとみなされる年齢だ。民法では満二十歳に定められているが、未成年者でも婚姻することで成年とみなされる!」
(いつだったかタクミ先生がこの村には刑法なんて通用しないと言っていたっけ。ということは民法だって。村人はもっと慣例的に成年をとらえていて……)「ということは……」(結婚? 相手の女性!)
「あぶない!」
鳶さんの叫び声。
同時に撥《は》ね飛ばされる。
ビュン!
耳元。
なにかが通り過ぎた!
(なんだ、いったいどうしたのだ)
後ろを振り向く。
壁に矢。
いましがたまでわたしの頭があったあたり。
冷や汗。
矢。矢。矢!
「今度はこっちだ!」
再び鳶さんの叫び。
ビュン!
「ぐえっ」
潰《つぶ》れた悲鳴。悲鳴? 悲鳴!
(鳶さんが、やられた!)
真っ白。白。
空白。
そして暗転。
「ゲンセキさん、しっかりしてください!」
鳶さんの声が聞こえる。ほんの一瞬、気を失ったようだ。
「ぐえっ、ぐふっ……」
やられたのは鳶さんではないようだ。ようやく視界が鮮明になってきた。ぐったりした村長を鳶さんが抱きかかえて支えている。
「誰かその人を取り押さえてください!」
鳶さんが指をさす。その先を追っていくと……(修くん?)竹の筒をくわえている。
「その人が真犯人の、柳玲さんです!」
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それからがひと騒動であった。
ゲンカンが犯人を取り押さえたところで、ばたばたと警察官が侵入してきたのには心底驚いた。その日の午後、鳶さんが麓《ふもと》の村まで降りて、電話で通報していたのだ。わたしが夢うつつで推理を組み立てている最中に、彼は現実的に事件を収束させる行動をとっていた。行動力には自信があったのに、お株を奪われてしまった。おまけに慣れない推理などして事態を混乱させてしまい、ワトソンの本分をわきまえていないと叱責《しつせき》を受けてもしょうがあるまい。
もう少し早く到着してくれると思った、とは鳶さんの弁である。彼は事件を警察の手に委《ゆだ》ねて、それ以上のかかわりになるのを避けたかったようだ。なかなか警察が来ないので仕方なく自説を述べたのだという。できれば村の秘密など暴きたくなかったらしい。わたしに先に推理を語らせたのも、時間稼ぎのためだったのだろう、きっと。
警察の言い分もわからないではない。麓の村からの山道は、前から知っていたって、大変な悪路だ。パトカーが入れないことに驚き、暗い山道を十分な照明もなしでのぼってきたというのだから、それなりの努力は認めてあげるべきであろう。鳶さんは通報の際、連続殺人事件で三人の被害者が出たと言ったらしい。決して嘘ではないのだが、よほどのインパクトがあったに違いない。
ただもうひと足早かったらというのは、わたしも同感である。数分の遅れでゲンセキさんまで命を落としてしまった。犯人が放った吹き矢(!)の先端に毒がたっぷり塗られていたのだ。トリカブトから抽出した毒だったらしい。
警察による検分は長いこと時間がかかった。あの後竹茂村で事情聴取が行われたが、あまりにも込み入った事件の全体像を把握することができなかったのであろう。詳しいことは署に戻ってからということで、深夜のうちにここ鹿屋《かのや》署まで連れてこられたのだ。任意同行の参考人扱いである。今朝も早くから丸十時間取調べが続いて、ようやく先ほど無罪放免、釈放されたという次第。心身ともにげっそりくたびれ果てて署の前で待っていると、意外に元気な様子で鳶さんが現れた。
気分直しに一杯という自然の流れで、こうして鹿屋のしょぼくれた繁華街の片隅の飲み屋で鳶さんと向かい合っているのだ。話題はおのずから事件のこと以外に考えられない。
生ビールのジョッキが届き、乾杯した直後に、さっそく質問の一矢を放った。
「つまり、ミツルくんは来月アキラさんと結婚する予定だったんだね?」
鳶さんの推理が突然中断されてから、いままでふたりでゆっくりと話す機会もなかったので、話はあの時点までプレイバックだ。
「そういうこと。ゲンセキさんから村長を継ぐことが頭にあると気づきにくいんだけれど、それは前提として宋家の家督を継ぐことでもあった。そのためにはまず結婚して子供を作ることが条件となる。ゲンセキさんが成年にこだわったのは、婚姻関係を結ぶことを意味していた。メグミさんが来月にはミツルくんも村長になる資格ができると言ったのも同じ意味だった」
「それにしても、柳玲さんがあの若い女性だとは。すっかり勘違いしていたよ。てっきりあの老人のほうがアキラさんかと思っていた。あの老人が修さん?」
「猫田くんは前からちぐはぐなことを言っていたもんね。面白かったからあえて誤解を正さなかったんだけど。キミは最初っから間違えていたよね?」
お恥ずかしい。「旅庵さんが、アキラさんは外出の際には介添えが必要なんて言うから、てっきり老人のほうかと思った。老人のほうが介添えだったんだね」
「だって、旅庵さんは、アキラさんは若くして視力を失ったとも言っていた。覚えているかな、アキラさんは二十年前の惨劇のときに失明したんだよ。あの老人は二十年前でも五十歳は越えていただろう。さすがに若くしてとは言えない年齢だろう。いつだったか、キミが柳家の女性は誰だなんて訊くから、ヒントを出したことがあったよね。亡くなった柳家の当主は武《たけし》さんだった。そして若くして失明したのが娘の玲さんだった。こう考えると、うまく収まる。いまのはヒントの2の答えだ」
「そういえば……あった!」
あのときの紙切れがフィッシングベストのポケットから出てきた。
[#ここから枠囲い]
ヒント
1 八番目の姓。典型的な一字姓は?
2 二十年前に若かったのは誰?
3 竹茂の長老と呼ばれているのは?
[#ここで枠囲い終わり]
「改めて見ても、ヒント1の意味がわからないなあ。これはなにを示しているの?」
「源、恵、匠、杉、旺、柳、宋に続く八番目こそ、あの老人の姓だよ。だって、キミは直接老人に会って話をしたんだろう? 名前くらい訊かなかったの?」
思い出す。初対面のときにとても盲目だとは思えなかったのも、いまになって納得がいく。失明していたのは女性のほうだったのだから。
「あのときは……『アキラさんですよね』と話しかけたら、『そうじゃっど』と答えられたので、てっきりあの老人がアキラさんだと間違えちゃったんだよ。ひどいよね、騙すなんて」
「騙されてなんかいないさ」
「えっ?」
「だから、あの老人はアキラさんなのさ。日偏に月の明。それが苗字で名前が修。明修《あきらおさむ》さんだよ。奄美《あまみ》地方などで実際に見かける典型的な一字姓さ」
明? 頭の隅で記憶の残滓《ざんし》が疼《うず》く……それも確かいまと同じように鳶さんと飲んでいるときだった。
「あっ!」
「思い出したようだね。天文館で旅庵さんが竹茂村の人たちに頼まれた品物を行李《こうり》の中に入れていた」
そうだった! 明さん宛ての入れ歯の洗浄剤、匠さん宛ての『阮籍の詠懐詩とその時代』、柳さん宛ての生理用品……。
「柳さんへの品物も思い出していれば、まさか男性だと勘違いすることもなかったろうに」
「…………」赤面するのみである。
「ちなみにヒント3の答えはスギさんに決まっている。どう見ても明老人のほうが年配なのに、スギさんを長老と呼ぶのはどうしてか、という問いかけだ」
「明老人はもともと竹茂の人間ではなく外部の人だからだね。アキラさんの介添えのために来た遠い親戚《しんせき》で≪荘の族≫ではない」と答えながら、わたしは長老のことばを思い出していた。
――アキラんとこには別に女などおらんが。
――アキラんとこにおるんは修じゃろ。
――もちろん、修は男じゃ。
愚かな勘違いをしてしまった。スギさんは「柳アキラさんの家にはアキラさん以外には女などいない。いるのは男の修老人だ」と言っている。それをわたしは「アキラ老人の家には女などいない。だからあの美しい若者は実は修という男なのだ」と思ってしまったのだ。
その後柳家でも恥の上塗りをしている。
――「それで、修さんはいらっしゃいますか、柳修さん?」
――「ははあ、……柳修はおりませんが、わたくしが話をうかがいもす」
会話が噛《か》み合っていない。相手の明修を柳玲だと思い込んでいたのだから、どうしようもない。とはいえ、相手の名前を間違えることほど恥ずかしいことはない。わたしはスギ長老ではないのだ。穴があったら入りたい気分をごまかすべく、話を本筋に戻した。
「それで、事件の犯人がアキラさんだというのは、つまりどういう真相だったの?」
「メグミさんの死の背景から考えていこう。ゲンセキさんやキミの説のように、メグミさんはミツルくんを更生させるために自殺したわけじゃない。前にも言いかけたようにメグミさんは≪あいつ≫を更生させようとしていたんだ」
「要するに、一連の動物虐待事件はアキラさんのしわざだったんだ」
「そうなんだ。ボクはもともとミツルくんがそんなに残虐な嗜好《しこう》を持っているとは思えなかった。ノブヒデという名の猪が殺されたとき、彼は目を反らすようなそぶりだった。正視できないという感じにボクの目には映った。鎌で怪我したときもすぐに失神したという。まるで血を見るのが苦手みたいじゃないか。ボク自身、先端恐怖症だ。尖《とが》ったものとか刃物をまともに見られない。同じような症状だからよくわかるんだけど、ミツルくんには人間はおろか動物の殺生だってできないんじゃないかと思う。自分がやったみたいに嘯《うそぶ》いていたのは、強がりの気持ちが半分と、真犯人をかばう気持ちが半分というところかな」
「で、その真犯人というのがアキラさん? でも彼女は目が見えないよね」
「そう。だから標的には目印が必要になる。いや、目印というより耳印と言ったほうがいいのかな、音による目標さ」
「もしかして、兎のピョンタについていた鈴や猪ノブヒデの首飾りの鈴が、標的の役割だったとか……」
「つじつまが合うだろ。ゲンセキさんは、ミツルくんは両親の愛を受けていないので醒《さ》めた性格になってしまったなんて言っていたけれど、当の親代わりはゲンセキ夫妻だったんだ。あえてあんなこと言ったのは、同じ境遇のもうひとりを庇護《ひご》するためだと思うんだ」ここでふたりのジョッキが空いた。「おやじさん、生中ふたつおかわり、それから豚足! それがアキラさんさ。アキラさんも幼い頃、親を亡くしている。失明した当時、まだ三、四歳かそこらだったはずだ。彼女の目に映った最後の光景は父親の柳武さんが銃で撃たれたシーンなんだ。現在でも彼女のまぶたの底には血みどろの父親の亡霊が住んでいるのだと思うね」
「ゲンセキさんは知っていたんだね……」
「もちろん知っていたと思う。それを隠すためにわざわざ虚偽の推理でボクたちを誤導しようとしたのさ。メグミさんとミツルくんも知っていたはずだ。そしてついに悲劇の幕が開いた」
目の前で父親が撃たれたのである。意味さえ理解できたかどうか怪しいその光景を最後にアキラの目は光を失った。トラウマなんてことばは軽率に使うべきではないが、幼い心に植え付けられたあまりにも凄惨《せいさん》な記憶。繰り返し立ち現れる血の記憶は人を狂気に呼び込むものか? 邪心を育てるものなのか?
わからない。人の心なんて測りようがない。
わたしは口をはさまずに鳶さんの話の続きを聞いた。
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恵光《めぐみひかる》はどうにか柳玲《やなぎあきら》を更生させたいと思っていた。自分の息子でもある旺充《さかえみつる》の結婚相手として、いまの彼女の性格には不安が残る。
そこで恵は催眠療法を思いついた。玲に催眠術をかけることで、おぞましい記憶の一切を封印できるのではないだろうか。それで催眠術のかけ方を紹介した本を何度も熟読した。とりわけ特別な技術が必要というわけでもない。何日か前の昼、この境内で偶然会った猫田という客人に試してみたところ、意外なほど簡単に成功した。要は施術者の自信の問題だろう。玲は盲目というハンディがあるが、催眠をかける自信は……もちろんある。
月明かりの中、人影がふたつ、手を携えて近づいてきた。旺充と柳玲、約束の時間通りだ。周囲を闇が支配するこの時刻、玲を神社の境内まで連れてくるよう、充に命じてあったのだ。
「玲、よう来たな。おはんは最近、充の飼っておった兎や、飼育場のししを立て続けに射殺したじゃろう。おいはおはんが充に弓矢を作らせて、それで悪か遊びをしよることをよう知っちょるど」恵は背後から弓と矢を取り出すと、玲の前に投げ出した。「これがその証拠じゃ。修さんを脅して奪ってきた」
「恵どん、この弓はおいらが玲さんにプレゼントしたもので……」
「充は黙っちょけ。玲、おはんはなんでそんなに残酷なことばっかりするとじゃ? ペットが欲しゅうなった言うて充からピョンタを奪ったらしかのう。修さんに頼んでノブヒデに鈴をつけさせたのもおはんだったらしか。どうしてじゃ?」
「…………」
「武さんが知りやったら、どう思わるっかのう?」
「父さんの名前を出さないで!」玲が叫んだ。「わたしだって、好きで殺しているわけじゃありません。でも充さんとの結婚が決まってから、あの二十年前の事件が蘇《よみがえ》ってきて、父さんが……それまですっかり忘れていたのに!」
「あん事件と動物を殺すことがどう関係あるとじゃ?」
「血だらけの父さんがわたしの頭の中に住み着いているんです。それでときどき、生贄《いけにえ》を欲して命令するの! 玲、殺せ! って。殺せ!」
「そいで動物を殺すとどうなるんじゃ?」
「とりあえずその場は、父さんの亡霊から解放されてらくになります。でも決して父さんは去ったわけじゃなくて、またしばらくすると……。そんなことより恵さん、今夜はあなたが父さんの亡霊を追い払ってくれると充さんから聞いたんです。それで修じいの付き添いもなくわざわざ出てきたの。どうするのですか、早く始めましょう」
「そうじゃ、過去の記憶をそのまま封じ込めるために今日はおはんに催眠術をかけようと思う。さ、らくな姿勢になってそこに座りやんせ」
恵は右前のほうに柳玲を座らせた。旺充も左前方に腰をおろした。
「そいでは始めるど。さあ気持ちをリラックスさせて、おいの言うことをよく聞きやんせ。まずはゆっくりこっちを向いてたもんせ。なにか感じるかの?」
恵は催眠に誘導する小道具として家宝の刀を持ち出していた。刀をおもむろに鞘《さや》から抜くと、その刀身に静かに月の光を集める。晧晧《こうこう》たる光が冷たい鋼の表面で反射され、周囲の空気が瞬時に凜《りん》と張り詰める。静寂。ぴりぴりと緊張感を増す空気。さらに静寂。エネルギー伝導率が高まったのか。恵の思念がそっと玲に染み込んでいくようだ。
刃物を見つめさせる入眠は目が見えない玲に通じるかどうか不安であったが、彼女は敏感に空気を察知したに違いない。
「そうじゃ、もっともっと気持ちをらくーにして、怖がることはない、そうそのままそのまま。さあー、おいがハイ言うたら、体が気持ちよく前後に揺れだすど。いち、にの、さん、ハイ!」
柳玲の体が小刻みに震え始めた。その隣では旺充が船を漕《こ》ぐように大きく体を揺すっている。恵に全幅の信頼を寄せている充は手もなく催眠にかかってしまったようだ。一方玲はどうなのか。かかりつつあるようではあるのだが……。
「玲、おはんの記憶をたどってみることにすっど。事件のことを、なにをどこまで覚えておるんじゃ? ひとつひとつ思い出しておいに教えてたもんせ」
「あたいは……おとうちゃんと遊んでいたの。そしたら、家の外から喚声《わめきごえ》が聞こえてきて……おとうちゃんが扉をあけて外に出ていって、あたいもそれを追いかけた……」
「そうそうゆっくり思い出して」
「そしたら大きな音がして、風船が割れたような音がして、おとうちゃんが振り返ったの。でもそれはおとうちゃんじゃなくて……血みどろの……ぐっぐぐっ」
玲の体の震動が激しくなった。額には汗が浮かんでいる。
「どうした玲、それからどうしたんじゃ?」
恵の声も届かないのか、玲は見えない両目をくわぁと開いて、搾り出すように叫んだ。
「殺せ! 玲、そいつを殺せ!」
それはもはや玲の声ではなかった。野太い男声。柳武の亡霊が玲に取りつき、命令したのだ。
玲はまるで見えているみたいに正確に弓を拾いあげ、弦に番《つが》えたかと思うと、矢を解き放った。
――ビュン
至近距離からの瞬く間の一撃。座ったままの姿勢で射られた矢は、胡座《あぐら》姿勢の恵光の右脇腹を容赦なく破り、脂肪や内臓を突き通した後、大楠《おおくす》の幹に刺さってようやく止まった。
恵がしまった失敗したと悟ったときにはすでに矢が体内を貫通していた。楠に食い込んだ矢は抜くこともできない。痛みよりも驚きの感情のほうが先立っている。どうしておいのお腹に矢が!どうしておいのお腹に矢がどうしておいのおなかにやがどうしておいの……すさまじい疼痛《とうつう》を感じる。お腹が燃えるように熱か!お腹が燃えるように熱かおなかがもえるようにあつかおなかが……そして激痛に変わる。痛い、息ができん!痛い息ができんいたいいきができんいたいいたいいたいいたい!!!
「充、苦しか……なんとかしてくれ!」
旺充はそのとき催眠状態にあった。血が苦手な彼は普段だったら、絶対に刀なんか手にしないはずだった。ところが催眠が効いて、血も刃物も平気だ。なんとかして恵どんの苦しみを除去しなければ。朦朧《もうろう》とした頭を支配していた考えはそれだけだった。そして恵が落とした刀を見たとたんになにをすべきかを悟った。
「恵どん、おいらがらくにしてあげる」
充は刀を拾い上げると、恵の苦しみを大本から断つべく、ひとふりで首を斬り落としたのだった。
――ごとっ。
首が地面に落ち、切断面から大量の血液が噴き出した。その血を全身に浴びて、旺充は突然われに返った。
「恵どん! うおおおおおおおー、おいらが恵どんの首を、首を刎《は》ねてしまった! 師の、師の教えを無駄にしてしまった。ぐわあああああああ!」
動転した彼は、ともあれこの場を去らねばならないと考えた。柳玲を家に連れて帰らねば。彼女は恐怖の表情を凍りつかせたまま、片手にはまだ弓を持ったまま硬直している。充は玲の手を引いて立ち上がらせると、足早に境内から逃げ出した。立ち去り際に結界として敷かれた竹に足をかけバランスを崩した玲ははずみで恵の生首を蹴飛《けと》ばしてしまった。
恵の首は斜面を転がり落ちて……
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「斜面を転がり落ちて、猪|罠《わな》にかかってしまった。そこの部分は猫田くんの推理が正しいと思うよ、ボクも」
鳶さんの話もここでひと段落らしい。
「それじゃ、メグミさんの死に旅庵さんは関与していなかったの? 翌日あんなに自分を責めていたのに。死の意味がわかるか、とか死を台無しにしたとか言って」
「旅庵さんはメグミさんから計画の概略を聞いていたんだよ。それで気になって、あの晩も境内に潜んでいた。茂みでか社の陰でか知らないが、そこで事件を目撃していたんだ。彼はよもやメグミさんが殺されるなんて思わないので、油断していたんだろうね。ついうとうとしてしまい、気がつくとメグミさんが矢で射られたところだった。驚いた彼は助けに出ようとするが、足が震えて動けない、叫ぼうにも声も出ない。なにもできないままに見ていると、あろうことか無残にも首が刎ねられてしまった。想像に過ぎないが、そんなことだったんじゃないかな。とすれば、旅庵さんを襲った感情は想像がつく。怯懦《きようだ》を恥じ、慙愧《ざんき》にまみれ、卑屈に溺《おぼ》れる。あらゆる自己嫌悪の嵐だ。彼にとって、メグミさんの死は犬死に過ぎなかった」
「犬死……」切ないことばだ。「死の意味は無駄死だったということか!」
「メグミさんを自分が殺したという意味のことを呟《つぶや》いたのもそういう背景からだ。助けられたはずなのに、むざむざと見殺しにしてしまった自分の腑甲斐《ふがい》なさを自嘲《じちよう》した表現だ。そんな情けない自分を鼓舞して、旅庵さんは通夜の席に臨んだ。そこでミツルくんに毒を盛り、せめてメグミさんの無念の仇《あだ》を晴らそうと考えた」
「それじゃ、ミツルくん殺しの犯人は当たっていたんだね」いまさら真相のひとつを言い当てたとて、別にうれしくはなかったが、わたしとしてもワトソンの意地がある。
「いや残念ながらそれも違う。キミの≪殺さなかったから殺した≫仮説は面白かったけれど、事情がこうなると≪殺したから復讐《ふくしゆう》で仇討ちした≫という凡庸な動機に戻ってしまった。凡庸な動機の卑小な企《くわだ》ては結局成功しなかった。毒を盛る前にミツルくんが自殺してしまったのだから」
「つまり、ゲンセキさんの説のほうが正しかったというの?」
「そういうことだ。キミが推理したように、人間の口から毒物を飲み込ませることは実際には非常に難しい。無理やり嚥下《えんげ》させようにも、咽頭《いんとう》壁が異物を認識した時点で異常信号が出て、嘔吐《おうと》中枢が働くからだ。この反射は延髄がコントロールしているので、相手が少少意識を失っていても正常時と変わらずに反応が起こる。
あのときは、旅庵さんがミツルくんの盃《さかずき》に毒を投げ込むタイミングを計っている間に、当のミツルくんが自分で毒を呷《あお》ってしまったのさ。アキラさんから奪っておいたトリカブトの毒を。ミツルくんにしてみると、いくら催眠状態であったとはいえ、自分がメグミさんの息の根を最終的に止めてしまったわけだ。それは悔やんでも悔やみきれないし、自分の命をもって贖《あがな》うより罪を償う方法はない。そういう風に自分を追いつめてしまう心理状態だったんだろう」
「ミツルくんは最後までメグミさんが父親だということを知らなかったんだね。それが唯一の救いのような気もする」
わたしのことばに鳶さんは冷たい声で返した。
「唯一の救いと言ったって、誰が救われるんだ? キミの気持ちの負荷が少しばかり軽くなるに過ぎないんじゃないかな。殺されたメグミさんや自殺したミツルくんが救われるわけでないだろう。猫田くん、感傷的に過ぎるようだ。そんなことだから真実を見極める目が曇ってしまうんだ」
少しくらい感傷的になっても構わないではないか。反論したい気もしたが、わたしが議論に勝てる見込みはなかった。それはキミの感情の問題だと、一蹴《いつしゆう》されるに違いない。それよりも訊いておきたいことがある。
「旅庵さんはどうして死んでしまったの? 旅庵さんが鈴を持っていたことは、死の真相に関係ある?」
「猫田くん、正しい方向を向いているよ」
「ということは、アキラさんが……兎や猪と同じように殺したの?」
「そう、殺そうとした。でも心配しなくても、アキラさんは別に殺人|淫楽《いんらく》症というわけではない。そう考えていたのはゲンセキさんだ。だから彼はアキラさんをメグミさんの通夜には呼ばなかった。それで代わりに明修さんが出席したわけだ。修老人は飲み会の輪には立場上入れなかったが、一部始終を見ていた。それでキミと同じ間違いをしてしまった」
「旅庵さんがミツルくんを毒殺したと思ったんだね?」わたしと同じミス!
「家に戻って、当然そのことをアキラさんに報告しただろう」
「アキラさんは、婚約者のミツルくんの仇《かたき》を取ろうとしたわけだね」なるほど構図が見えた。「だから、修老人に頼んで、旅庵さんに鈴が渡るようにした」わたしは旅庵さんのつけていた鈴を修老人に見せたときのことを思い出していた。(あのときはまだ老人を柳アキラさんだと勘違いしていたのだ!)鈴を見るなり、(そう、目だってちゃんと見えていたのだ!)呪《のろ》われた鈴だと叫んだ意味がようやくいまわかった。
「老人はアキラさんの言いなりだったのだろう。ノブヒデに鈴をつけたのだって、きっと修老人のしわざだ。とにかく、鈴の音色を標的に、アキラさんは吹き矢を放った」まるで見てきたように鳶さんが言う。
「それ、おかしいよ。死因は喉《のど》に刺さった匕首《あいくち》でしょ?」
「いや、首の左側に創傷があったのを見なかった?」
「見たよ、ためらい傷かと思ったんだけど」
「それは偽装で、あそこに吹き矢が刺さっていたんだ」本当に見てきたように言う。
「鳶さん、なぜそこまで自信満満なの? さっきからずっと見てきたように話しているよね」
「そりゃそうさ、実際に見たんだもん。断末魔の旅庵さんの姿を」
「なんですって?」
「ねえ猫田くん、ボクのここまでの推理はすべて根拠のない絵空事だと思っていたんじゃないかな? 確かに物的証拠は少ない。メグミさんの部屋に催眠術に関する本があったとか、キミがいつぞや目撃したミツルくんが柳家に持ちこんだ棒状の物体が吹き矢であったとか状況証拠らしいのはいくつかあるんだけれどね。
でもね、ボクは証言を聞いたんだよ、旅庵さんから。彼はメグミさんの死やミツルくんの死について、見てきたことの一切をボクに告白するために大鑢堂《たいろどう》にやってきたのさ。その途中でアキラさんに狙われたわけだ。ボクがひと足遅く戻ったとき、彼はまだ生きていた。虫の息ではあったが、ひと通り話し終えるまではちゃんと生きていたよ」
「じゃあ、話し終えてから匕首で喉を突いて自殺したの? でも、鳶さんずるいよ、この前は、発見したときには旅庵さんはすでに死んでいたって言ったじゃない。あれ、嘘だったんだ」
「だって推理小説の規則上、犯人は自分に不都合がある場合には嘘をついていいことになっているだろう?」
「えっ?」
「そう、旅庵さんにとどめをさしたのはボクさ。すべてを告白し終えたときにはもう力が残っていなくて苦しそうだった。アキラさんが悪いわけじゃないから、自分が罪をかぶると言うものの自殺する余力もない状態だった。だから代わりにボクが吹き矢を抜いて、匕首で偽せの傷をつけ、最後に喉を突いてあげたのさ」
「殺したの?」
「うん。彼の望み通りにね」
「殺人なんて、なぜ? え、どうして?」
「メグミさんの死は不遇に終わった。ミツルくんの死は失意に果てた。旅庵さんの死は無力に尽きた。どれも等《ひとし》なみに死だ。死には救いはないし、感傷なんて入り込む余地などない。いたずらに卑小化する必要はないけれど、美化するなんてもってのほかだ。それがわかって粛粛と当たり前に死ねたときに人は真人《しんじん》になれるのかもしれない」
目の前が真っ暗になった。
「告発するかい? そしたらボクはすべてを否定する。少しばかりの状況証拠はあるが、残念ながら物的証拠はほとんどない。果たして、万人を説得させるだけの論理をキミが展開することができるかどうか……」
鳶さんの声が遠くで聞こえる。
「猫田くん、どうだい?」
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エピローグ
――渾沌《こんとん》、七竅《しちきよう》に死す
事件からひと月以上が過ぎた。
わたしは事件の後遺症からしばらくは立ち直れなかった。人間不信というのか、誰とも顔を合わせたくない状態に陥り、狭い自分のマンションにひきこもっていたのだ。外出先は近くのコンビニと飲食店だけ、そんな毎日が続き、なんの出会いもないままに夏が過ぎ去ろうとしていた。
久しぶりに他人としゃべってみたいと思ったのは、夜風に秋の気配を感じたからか。わたしは知り合いの経営するバーをのぞいてみることにした。西荻窪《にしおぎくぼ》まで中央線でふた駅。お盆休みのせいか、街は人通りが少ない。みんなが先祖の霊を敬っているわけではないだろう。若者たちはおおかた海外や南の島かなんかではしゃぎまわっているのだ。
バーの名前は≪ネオフォビア≫という。鉄製の無愛想な扉に名刺大の鉛色のプレートが張ってあり、英語で小さく店名が刻印されている。地下なので店内の様子は窺《うかが》えないし、かといって地上に案内が出ているわけでもない。近づきがたさは防衛庁並みだ。
重い扉を開けた途端、やけに陽気な音楽が襲い掛かってきた。鬱《うつ》な気分が一度に吹き飛ぶ、やけに躁《そう》的なメロディだ。
「これ、スパークスの≪キモノ・マイ・ハウス≫だっけ?」
わたしの質問にマスターの神野良がようやく振り向いた。
「おやおやネコか、これは珍しい。惜しいが違う。≪プロパガンダ≫だ」
カウンターには一人先客があった。高階甚平というイラストレイターだ。
「よお、写真屋!」と、挨拶《あいさつ》代わりに片手を挙げた。
わたしは高階の隣のスツールに腰掛け、アードベックを水割りで注文した。
「ネコ、トビと一緒に宝探しに行ったんだって?」注文の酒とつまみのナッツを差し出しながら、マスターが訊《き》いてきた。
マスターの神野も先客の高階も大学時代からのつきあいになる。同じサークルの仲間たちであった。神野先輩は鳶さんと同級生で、特に仲がよかったから、現在でも連絡があるのだろう。ちなみにジンベーは神野先輩の三級下で、わたしと同級生だ。ともあれ話のきっかけを与えられたことを幸いに、胸につかえていたものを一気に吐き出した。
「実はね……」
「こりゃあ、想像以上に辺鄙《へんぴ》なところばい。おい写真屋、ちょっと待たんね」
偉そうな口を利く割には、ジンベーはからっきし体力がない。体脂肪率が飽和点に達しているんじゃないかと疑いたくなる彼には、竹茂集落への山道がアイガーの北壁にでも見えるのかもしれない。
あの夜、わたしは神野先輩とジンベーに竹茂村で遭遇した一連の事件についてしゃべった。東京に戻ってから初めて口外したのだった。
わたしの長い長い話を聞き終えた神野先輩は開口一番こう言った。
「それで、ネコはトビが旅庵さんを殺したと思ったわけだ?」
「だって、本人がそう供述したんだから……」
「ははははは、そりゃ傑作だ。甚平、どう思う?」神野先輩は腹を抱えて笑いながら、高階に意見を求めた。
「バカたれやねえ、写真屋。バカバカバカバカ! ひひひひひひひっ、おまえは鳶山さんに嵌《は》められとうとよ、ったくバカたれくさ、ひひひひひっ」こちらは腹を揺すっている。
「でも、どうしてふたりともそんなに確信をもって言い切れるの? 鳶さんが殺人犯じゃないって」
度し難い愚か者だと言わんばかりの目つきでジンベーが答えた。
「鳶山さんは病的に刃物がニガテやろが。そんな人が匕首《あいくち》で他人の喉《のど》を突くなんてできるわけなかろうも」
「あっ!」そうだった。鳶さんは極度の先端恐怖症だった。包丁から剃刀《かみそり》まで一切の刃物が駄目で、注射針や尖《とが》った鋏《はさみ》にも恐怖を浮かべるくらいなのだ。大学の解剖実習でカエルの腹をさばけずに単位を落としたという逸話を持っている。
「じゃあ、誰が旅庵さんを殺した犯人? 鳶さんの言う通り、アキラさんが吹き矢を使ったとしても、事後工作した人がいるはずでしょ」
「おまえの話から推測するんやったら、村長のゲンセキっちゅう人が一番怪しか。その人は少なくともメグミ殺しの真相を知って、犯人のアキラをかばっとったっちゃろう?」
「そうか、ゲンセキさんの事後工作が終わった後に鳶さんは大鑢堂《たいろどう》に戻ってきたのか。そして真相を見破った。それにしても、どうして鳶さんは自分がとどめを刺したなんて露悪的な嘘を言ったの?」
「ネコを追い払うために決まっているだろう」涼しい顔で神野先輩が言った。
「追い払うって……」
「おそらく追い払って宝物を独り占めにしようって魂胆だろう」
「宝物?」そういえば、いつだったかタクミ先生が言っていた。
――あなたたちは竹の花を撮りにきたなどとでたらめを言って村に潜入し、ほんとうは竹茂に伝わる秘宝を探しにきたのでしょう。
「じゃあ、鳶さんはひとりで宝物を探すために、あんな嘘までついたってこと?」
「多分トビは最初から竹茂村に宝があることの目星をつけていたのさ。出発前に思わせぶりなメールが来たから」
「おい写真屋、花が咲いたのはひと月ほど前だって言うたね? そしたらまだ間に合うかもしれんばい。今度の週末やったら小生も休みが取れるけん一緒に行こうや、その竹茂村に!」ジンベーが言った。
という次第で、いままたおよそ一か月半ぶりに山道をたどっている。ジンベーが後ろで性懲りもなく悲鳴をあげている。わたしのことをさんざんバカたれ呼ばわりした罰だ。
ようやく村の入り口が見えてきた。
しかし、なにかが違う。このあたり一帯に生気がないのだ。その理由は……
竹が枯れている! 見渡す限りの竹が枯れてしまっている!
そうなのだ。数十年に一度花を咲かせた竹は、その後枯死する運命にある。通常無性生殖で増える竹は一生に一度だけ有性生殖をして、次世代に子孫を託す。
ゲンセキ村長が村を解散させようと焦った理由もわかったような気がする。後継者のミツルが亡くなったばかりか、村の経済を支えてきた竹林自体が壊滅的な被害を受けてしまったのだ。モウソウチクとハチクの両方が開花した奇跡の年はモウソウチクとハチクがともに枯死する絶望の年でもあったのだ。
村には人影がなかった。生き残った村人たちは全員山をおりてしまったようだ。どの家も夏草で覆われている。たったひと月半だというのに自然というやつは貪欲《どんよく》で容赦がない。
わたしが半ば呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていると、神社の階段をおりてくるひとりの人物がいた。
鳶さんだった。
「やあ猫田くん、ぼちぼちやってくる頃かと思っていたよ。おや、あのまん丸に膨らんだ動きづらそうな物体は、よく見ると高階くんじゃないか」
ようやく追いついたようだ。
「高階甚平、遅ればせながらただいま参上|仕《つかまつ》った。鳶山さん、お久しぶりです」すかさず握手を求める。「それにしてもすごかねえ、この竹の実! こいつがお目当ての宝物なんでしょ?」
確かに一面に楊枝《ようじ》を短くしたような竹の種子が散らばっている。
「この種子が宝物だって?」
「また、しらばっくれてくさ。これが不死の薬なんでしょうが?」
「不死の薬って……? まあ、イネ科の植物だし、種子の栄養価は高いんじゃないかな。飢饉《ききん》のときに竹の実で飢えをしのいだって話も聞いたことがある」
「やっぱりそうたい! 小生の睨《にら》んだ通りばい」と言うと、ジンベーは持参した袋を広げて、竹の実を集め始めた。
「猫田くん、高階くんはいったいどうしちゃったの?」
「さあ。彼はこの実が竹茂村の宝物だと考えていたみたいで、鳶さんに独り占めさせるものかと、遠路はるばるやってきたみたい」
「粋狂だなあ。もっとも食通の高階くんにとってはこれこそ宝物なのかも」
「そんなことより、鳶さん、探していた宝物は見つかったの?」
「え、なんのこと?」彼はとぼけたふり。
「もう騙《だま》されないから。竹茂に伝わる宝物ってやつ。それをひとりで探すためにわたしを追い払ったんでしょう?」
「ちぇっ、どうせ神野がチクったんだろう。ああ、ようやく見つけたよ」
「宝物ってなんだったの? 最初から宝を探しに来たの?」
「まず謝っておこう。あの晩天文館で旅庵さんと偶然会ったように装ったけれど、ボクはあの日が二度目だったんだ。数日前に同じ小料理屋で偶然彼と会い、そのとき竹茂村の話は聞いていたんだ。彼は村にはなにか貴重な宝物が隠されているらしいとも教えてくれた。それでボクは興味を持ったんだ」
「ひどい、芝居を打ったなんて!」
「どっちにしても猫田くんは竹の花のほうに惹《ひ》かれるに違いないと思ったし、実際そうだったろう?」
「それはそうだけど、で、宝は?」
「その前にボクの苦労話も聞いてくれよ。宝物の隠し場所は村の首長しか知らなかったようだ。つまり本来は宋家の跡取にしか知らされない秘密ということだ。いずれミツルくんに伝えられるはずであったが、それまでは代理の伝達係としてゲンセキさんだけが隠し場所を知っていた。ボクはさんざん彼を酔っ払わせてありかを探ろうとしたんだけれど、〈竹の中じゃ〉と言うだけで、一向にわからない。そうこうするうちにゲンセキさんまで亡くなってしまった。竹茂にある何万本もの竹の中から宝が隠された一本を探すのは至難の業だった。キミを東京に帰したあともここに残って探したんだが、見当もつかずに、一度はあきらめた」
「それで?」
「竹が枯れるのを待った。枯れれば見つけやすくなるかもしれないと思ってね。そして一昨日から再び探し始めて、さっきようやく見つかったばかりなんだ」
「どこにあったの?」
「なんの事はない、ボクたちがいつも眺めていた大鑢堂の玄関先の太い竹の中だった。見てごらん、周囲の竹は枯れて黄色くなりつつあるのに、あの竹だけは青青としている。あれは地面から生えているんじゃなくって、切った竹が埋めてあるだけなんだ。だから枯れることもない。葉がついていないのも、そのためだ。あの竹の下から三番目の節のところに切り込みがあって、ちょうど茶筒のような要領で上と下が嵌め込まれていた。見事な隠し場所だ。前置きが長くなったね。これが宝物だよ」
それは古びた巻物のようであった。相当な年代もののようだ。
「これは?」
「うん、宋家の系図だ」
「えっ、じゃあ荘周《そうしゆう》や荘公につながる系図? それは凄《すご》い!」
「広げて中を見てごらん」
鳶さんは紐《ひも》をほどくと、地面の上に慎重に巻物を広げ始めた。しばらく白紙の部分があって系図の末尾に小さな文字でふたつの人名が記されている。巻物の最初に読み取れる名前は宋貢で、脇に妻香とあった。本来ならば白紙部分に宋充、つまり旺充の名前が玲とともに続いていたはずだ。宋貢の前が宋一、その前が宋卓、さらにその前が宋聡、宋崇、宋毅……。
思い切ってずっと広げる。すると見知った名前がある。
荘周だ!
この前後によく読めないが荘姓の名前が連綿と書き綴《つづ》られている。これこそが、竹茂の秘宝。世紀の発見だ。
が……
「なんねこれは? また時代がかった巻物やねえ」ジンベーも戻ってきてのぞきこんだ。「あれ、でもこれ、途中が飛んどるばい」
そうなのだ、わたしも気づいていた。こともあろうに系図の荘姓と宋姓をつなぐあたりに、無残にも大きな穴が空いてしまっているのだ。周囲には焼け焦げた跡が残っている。
「これは……?」
「そうだ、猫田くん。肝心の荘家と宋家のつなぎ目が焼失してしまっている。いわば空白の系図だ!」
「ということは、この系図は贋物《にせもの》?」
「わからない。少なくとも証拠になるはずの系図は故意にか事故でかはわからないが破損している。だから真偽は判定できない状態だ」
「宋家が荘周の家系だということは嘘だったの?」
「どうだろうね、猫田くん。本当のことはもはや誰にもわからない。でも大切なことは、竹茂の村人が心から荘周の家系を信じていたという事実だ。何百年にもわたって信じ続けてみろよ、そのうち嘘だって真実になる。たとえ本当は信じる実体なんて存在しなくても、彼らにとっては立派な真実なんだ。
空白の系図に空白の真実。それを信じてきた竹茂は、言ってみれば中空の村だったわけだね」
――中空の村。
日は確実に短くなってきていた。すでにもう夕闇が迫っている。
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〔参考文献〕
・『荘子(全四冊)』 金谷治訳注/岩波文庫
・『荘子』 福永光司/中公新書
・『阮籍の「詠懐詩」について』 吉川幸次郎/岩波文庫
・『竹取物語 全訳注』 上坂信男/講談社学術文庫
・『竹を語る』 高間新治/世界文化社
・『「竹」への招待』 内村悦三/研成社
・『竹類語彙』 室井綽/農業図書
・『ゾウの時間ネズミの時間』 本川達雄/中公新書
・『ボランタリー経済の誕生』 金子郁容・松岡正剛・下河辺淳/実業之日本社
・『鹿児島県のことば』 木部暢子編/明治書院
*作中の『重力の虹』は国書刊行会(越川芳明他訳)版を参考にしています。
角川文庫『中空』平成16年5月25日初版発行