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馳 星周
生誕祭(上)
目 次
第一部(1〜12)
第二部(13〜40)
[#改ページ]
第一部
1
土地を探してこい──齋藤美千隆《さいとうみちたか》はいった。探し方を教えてくれた。必要なものは金。金は人の視線を引きつける。
落合斎場が視界に入る。新宿区と中野区の境界近くの住宅街のど真ん中。葬儀があることを示す黒と白の垂幕。故人の名は佐藤重吉。しげきちと読むのかしげよしと読むのかはわからない。ただ、老人の匂いがする。
堤彰洋《つつみあきひろ》は車を降りた。暦の上では春だったが、黒のソフトスーツだけでは肌寒さを覚える。
斎場の斜め前に煙草屋があった。萎《しな》びた老婆が店番を務めていた。
「マイルドセブン、ちょうだい」自動販売機を無視して、彰洋は老婆にいった。「悪いけど、小銭がないんだ」
財布から一万円札を引き抜く。分厚い財布──分不相応。老婆の目が財布の上を横切っていく。驚きは感じられなかった。今どき、見た目で懐具合ははかれない。煙草屋の婆さんもそれぐらいのことは知っている。
「申し訳ないから、一《ワン》カートン買ってくよ」
彰洋はつけ加えた。老婆の顔がほころんだ。
「まだ冷えるね。これじゃ、葬式も大変だ」
「そうだね。佐藤さんとこも、若い人がいないから……」
彰洋は煙草と釣り銭を受け取った。
「佐藤さんね……なにやってた人なの?」
「なにも……もともとは学校の先生でね。校長まで勤めあげたんだけど、十年ぐらい前に退職して、後は年金暮らしよ。ほら、先生って公務員だから、年金もいいのよ。家だって自分の持ち家だし、悠々自適に暮らしてたのよ。毎朝この辺を散歩して、午後は碁会所に行って……それがこんなにあっさり逝っちゃうなんてねぇ」
土地を探してこい──見つけた。地道に暮らしてきた老夫婦。おそらく、質《たち》の悪い紐はついていない。
「ふーん、家持ちなんだ。この近所?」
「ほら、この先の商店街の八百屋の裏だよ。そんなに広くはないけどさ」
「若い人はいないっていってたけど、お子さんとかいないの?」
「子供さん、みんな早死にしちゃってさ。奥さんの方も、親戚が少ないらしくてね、大変だよ。旦那の葬式の苦労が祟《たた》って自分も逝っちゃうんじゃないかってみんなで話してたのよ──」
老婆は突然、口をつぐみ、彰洋の反応をうかがうように目を細めた。
「こう寒くちゃ、お年寄りにはきついよね、確かに。じゃあ、お婆ちゃん、ありがとう」
彰洋は煙草屋に背を向けた。気が急《せ》いている──落ち着け。自分にいい聞かせた。
車に戻り、ネクタイを替えた。黒のソフトスーツ、白いシャツ、黒のネクタイ。弔問客として不自然ではなかった。スーツを買うなら黒にしておけ──齋藤美千隆はいった。美千隆のいうことにはいつだって意味がある。財布から札を抜いた。札を数えた。三十枚。グラヴボックスに手を伸ばした。用意しておいた香典袋──切らしたことはない。中に金と名刺を入れた。
車を斎場の駐車場にいれた。車を降り、受付に向かった。
「この度はご愁傷さまで」
受付の人間に頭を下げ、香典袋を渡した。袋の厚さに男が目を瞠《みは》る。男はどこか教師然としていた。故人の後輩なのかもしれなかった。彰洋は男の視線に気づかないふりをして記帳した──MS不動産、堤彰洋。もう一度礼をする。
告別式は一時からということだった。喪服を着た人間たちの姿はまだまばらだった。彰洋は手早く焼香をすませた。喪主の席に座った老婆を盗み見た。背中の曲がった小柄な老婆だった。連れ合いを失くした悲しみと不安をにじませていた。こちらの投げだした釣り針に簡単に引っかかってくれそうだった。
彰洋は老婆に頭をさげた。老婆は彰洋に気づかなかった。
車に戻り、ネクタイを外した。車を出した。ルームミラーの中の斎場がどんどん小さくなっていく。
「これでよし」
彰洋はひとりごちた。見ず知らずの人間が置いていった香典──大金。受け取った人間は不思議に思う。故人に対してそれだけの香典を持ってくる人間の存在をいぶかる。金と一緒に入れた名刺。二、三日後には必ず電話がかかってくる。その後は口八丁手八丁。土地の値上がりは続いていた。土地は大金を意味した。土地がもたらす儲けの前では、三十万など鼻紙ほどの意味しか持たなかった。たとえ、領収書が発行されない金であったとしても。
金を使え──美千隆はいった。金の使い方は美千隆が教えてくれた。美千隆はなんでも知っていた。
* * *
狭い路地を進んで早稲田通りに出た。さらに、山手通りを左折。しばらく進むと、落合斎場へ続く細い路地の入り口が見えてくる。彰洋は路肩に車をとめた。サングラスをかけ、斎場に向かって歩いた。道の両脇は小さな商店街になっていた。三十メートルほど進むと、道の左側に八百屋があった。八百屋の先は路地になっていた。路地を曲がる。木造塀に囲まれた古い平屋が視界に飛び込んでくる。表札には佐藤重吉・竹子と書かれていた。
歩調を落として家を観察した。想像していたより広い土地だった。ざっと見積もって八十から百坪。頭の中で計算器が働きはじめる。周囲は住宅街で、四、五階建のマンションがちらほらと見えた。マンションを建てても、地元住民のクレームがつくとは考えにくい。転がすだけでもかなりの金になる。彰洋はソフトスーツの内ポケットからメモ帳を取りだし、佐藤重吉の家の住所を書き取った。
商店街に戻り、公衆電話で会社に連絡をいれた。電話に出たのは美千隆本人だった。
「どうした?」
「落合の斎場で葬式に出くわしました。身寄りの少ない年寄りです。死んだのは旦那の方で、喪主は今にもくたばりそうな婆さんです」
「土地持ちか?」
「上落合三丁目の平屋です。八十坪はあると思います」
「香典は置いてきたか?」
「三十万」
「よし、法務局に行って登記簿をあげてこい」
「わかりました」
「彰洋、うまくいけば、ボーナス出すぞ」
「よろしくお願いします」
彰洋は電話を切った。歩きながら記憶の小径を辿《たど》った。
半年前。彰洋は六本木のディスコで黒服のバイトをしていた。ビートのきいたリズムと大音響。インカムをつけてだだっ広いダンスフロアを行き来する。派手なだけで意味のないオブジェ、インテリア。片言の日本語しか喋《しやべ》れない黒人たち。ワンレンにボディコンの女たち。その女たちに群がる男たち。金があればどんな女でもなびいてきた。金がなければドラッグ。ドラッグは黒人たちが持っていた。セックスとドラッグ。空虚なエネルギーが満ち溢れる夜。
秋風が吹きはじめた夜──いつもの喧騒の中。肩を叩かれた。若い女が懐かしそうに笑っていた。はじめはだれだかわからなかった。他の女たちと同じワンレンにボディコンシャスなスーツ。違うのはプロポーションが飛び抜けていることと、着ているスーツが超高級なブランド物だということだった。
「彰洋ちゃん」
女はいった。それでも、わからなかった。
「マミよ。忘れちゃったの?」
記憶が炸裂する。忘れるわけがなかった。幼|馴染《なじみ》。初恋の女。初めての女。のめり込み、捨てられた。初めて憎んだ女。三浦麻美──あさみ≠ニ呼ばれることを嫌っていた。自分のことをいつもマミ≠ニ呼んでいた。
麻美は変わっていた。驚くほど変わっていた。昔から綺麗ではあった。上昇志向が強い女だった。だが、小学生のころの麻美の家は貧しかった。高校になったころには貧しさは脱していたが、裕福とはいえなかった。目の前の女は金にあかして全身を飾りたてていた。
「三年ぶりね」
麻美はいった。同時にインカムから怒鳴り声が聞こえてきた。
「後で」
彰洋はいった。コースターの裏に手早く電話番号を書き込み、麻美に渡した。
翌日、麻美から電話がかかってきた。日曜のディナーを約束した。麻美が口にしたレストラン──目の玉が飛び出るほどの金をぼられる。わたしが奢《おご》ってあげる──麻美はいった。それで了承した。
麻美はゴージャスな女になっていた。身につけているものはすべてヨーロッパのブランド品だった。指輪のダイヤは本物だった。ワインの味を品評した。
パパができたの──麻美はいった。麻美の家は母子家庭だった。だが、それが本当の意味での父親でないことはすぐに察しがついた。
彰洋ちゃんはなにをしてるの?──麻美はいった。
見てのとおりだ──彰洋はいった。
つまらなそうね──麻美はいった。
ドラッグにも女にも飽きていた。軽薄なやつらの軽薄な物言いに付き合うのも飽きていた。死ぬほど飽き飽きしていた。
なにかおもしろいことないかな──彰洋はいった。
おもしろいことは知らないけど──麻美はいった。おもしろい人なら紹介してあげられるかも。
次の日曜。麻美は齋藤美千隆を連れてきた。
* * *
上落合三丁目の土地はまっさらだった。なにも問題はなかった。美千隆の声がよみがえる──ボーナス。うまくいけば。あの傷ついて小さくなった老婆をうまく引っかけることができれば。
彰洋は頭を振った。引っかけるわけではない。老婆にはそれ相応の金を支払う。ただ、MS不動産がそれに倍する金をあの土地を使って手に入れるだけだ。何億、何十億という金を。
二十歳そこそこで大金を動かすのは快感だった。官能的だった。スリルに満ちていた。六本木のディスコでは決して味わえない興奮だった。
佐藤重吉の戸籍謄本と住民票を手に入れてから会社に戻った。美千隆はいなかった。他の社員も出払っていた。電話番の女子社員──山田美佐子がいるだけだった。美千隆は社員が会社にいることを嫌った。足を棒にして歩き回ることを望んだ。美千隆自身がそうしていたからだった。
彰洋は美佐子には声もかけずに自分のデスクに腰をおろした。閲覧した登記簿の内容と戸籍謄本、住民票を元に美千隆に見せる報告書を作成した。
佐藤重吉には妻の竹子以外の身寄りがなかった。思わず、口笛を吹いていた。
電話が鳴り、山田美佐子が受話器を取った。事務的な声が媚《こび》を含んだ口調に変わった。彰洋は手を止めた。電話の主は美千隆だ。間違いはない。
「堤君、社長から」
保留ボタンを押しながら、美佐子がいった。彰洋は電話に出た。
「登記簿はどうだった?」
美千隆はいきなり切り出してきた。
「まっさらです。戸籍と住民票も当たってみましたけど、死んだ爺さんに身寄りはいません」
「問題があるとしたら、婆さんの方か……」
「まだ告別式ははじまってなかったんですけど、親戚らしい人間は見ませんでしたから、たぶん、だいじょうぶじゃないですか」
「馬鹿野郎」押し殺した怒鳴り声──背筋が伸びる。「確実になるまで甘く見るんじゃない。なんどいったらわかるんだ。そこら辺のガキどもがやってるサークル活動とはわけが違うんだぞ」
「すみません」
「まあいい。その土地、なんとしてでも手に入れろよ、彰洋」
「頑張ります」
「よし。ところで、話は変わるが、この後の予定はどうなってる?」
「もう一回外を回ってこようと思ってただけですけど」
「じゃあ、晩飯を一緒にどうだ? 波潟昌男《なみがたまさお》と飯を食うんだけどな、おまえも興味があるんじゃないかと思うんだが」
受話器を握る掌に汗が滲《にじ》んだ。波潟昌男。地上げの神様。
「おれが行ってもいいんですか?」
「うちに若くていきのいいのがいるって話したら、連れて来いってよ」
「麻美も来るんでしょうか?」
「来るかもしれないし、来ないかもしれない。どうする?」
波潟昌男──麻美のパパ。波潟の娘と麻美は大学で知りあった。麻美は娘に取り入り、次に父親に取り入った。ありあまる金を持った中年男に。
「行きます」
彰洋はいった。
「じゃあ、七時に銀座まで来てくれ」
美千隆はレストランの名前を口にした。再会したあとで、麻美と初めて行ったレストランだった。
* * *
麻美は来なかった。波潟昌男は秘書のような男をひとり、連れているだけだった。連れの男は席に着かなかった。波潟の真後ろでじっと立ち尽くしていた。
波潟は巨漢といっていい体躯《たいく》をしていた。腹の出た大きな身体をよれのきたスーツで覆っていた。頭髪はほとんどが白く、変な寝ぐせがついていた。頬と鼻の頭が赤らんでいた。田舎者にしか見えなかった。事実、田舎者だった。だが、波潟は巨額の金を動かす田舎者だった。
だだっ広い個室に男が四人。贅《ぜい》を尽くした料理に年代物のワイン──味がわからない。美千隆と波潟は笑いながら話をしている。土地と株と金と人の話。だれかがどこそこの土地を買った。だれかがどこそこの土地を手放した。だれかがどこそこの株を買った。だれかがどこそこの株を売った。だれかが億単位の金を儲け、だれかが億単位の金を失った。どこかの銀行がだれかに十億単位の金を融資した。どこかのノンバンクがだれかに百億単位の金を融資した。
六本木の宮殿ディスコでは決して聞けない話だった。いや、VIPルームでなら聞けたのかもしれない。VIPルームには立ち入ることを禁じられていた。
いずれにせよ、肌が粟立った。脈が速まった。
波潟は元をただせば東北の片田舎の不動産屋にすぎなかった──今でも東北|訛《なまり》が強く残っている。美千隆はいかにも切れ者に見えたが、まだ三十代の半ばにしかすぎなかった。そんなふたりが百億の金を動かす話をしていた。
皿が片づけられるたびに、波潟昌男は席を立った。連れの男と一緒に個室を出ていった。戻ってくるたびに美千隆に頭をさげた──この年になると、小便が近くてね。
デザートとコーヒー、それにコニャック。波潟の連れの男が波潟と美千隆に葉巻を差しだした。
「おまえもやってみるか?」
美千隆はいった。彰洋はうなずいた。受け取った葉巻の吸い口にはシールが貼ってあった。シールに印刷されたスペイン語──おそらくロミオとジュリエット=B見よう見まねで煙を吸いこんだ。濃厚な煙が放つ香り。思わず咳込む。
「馬鹿だな。煙草と違って、口の中で味わうんだよ、葉巻は」
「すいません」
頬が赤らむ。波潟が笑った。
「気にせんでいいよ、堤君。だれにだって初めてはある。おれなんか、初めて葉巻を吸ったときは、吸い口を歯で噛みきって、周りの顰蹙《ひんしゆく》を買ったもんだ。ほれ、向こうの映画であるだろう? 渋い俳優が葉巻を噛みきってぺっと捨てるんだ。葉巻というのはそういうもんだと思っててね。いつか成功したら、映画の俳優みたいに葉巻を吸ってやるんだと思ってたんだが、とんだ道化者だよ」
「そうだ、波潟さん、この堤はマミちゃんの幼馴染なんですよ」
「本当か?」
波潟は大量の煙を吐きだした。
「ええ。ぼくが彼と知り合ったのも、マミちゃんに紹介してもらったおかげでして」
美千隆は微笑んだ。
「そうか、マミの幼馴染か……あれと付き合うのは大変だったろう、堤君」
美千隆に視線を走らせる。美千隆は小さくうなずいた──行けという合図。なにか考えがあるのだった。だから彰洋をここに呼んだのだ。美千隆は決して気まぐれで行動を起こしたりはしなかった。
「いえ、そんなことは……どっちかというと、ぼくはガキ大将タイプで、よく麻美を泣かしてました」
彰洋はコニャックを口に含んだ。コニャックは甘かった。
「君はマミのことを麻美と呼ぶのか?」
「昔から、そうです」
「おれなんかが麻美と呼ぶと怒られるんだな、これが」
波潟は忙《せわ》しなく葉巻をふかした。
「麻美って名前をつけたのは父親なんですよ。失礼ですけど、波潟社長、あいつの家のことはご存じですよね?」
「ああ。親父が女を作って家を出ていったという話なら、耳にタコができるほど聞かされておるよ。だから、パパも浮気しちゃだめよってな、無理なことを要求されるんだ」
波潟の赤ら顔がさらに赤くなった。のろけている。麻美が波潟に組み敷かれる光景が脳裏をよぎった。
「あいつのお母さんがそのせいで麻美って名前で呼ぶのを嫌がるようになったんですよ。それで、字の読み方を変えてマミ≠ニいうようになったんです」
「なるほどな。だが、堤君は麻美で通してるわけか」
「それまで麻美と呼んでたのに、いきなりマミなんていえるかって突っぱねてましたから」
「当然だな。そういうことをしているから、どうしようもない我が儘《まま》に育ったんだ」
なにがそういうことなのかはわからなかった。彰洋は口をつぐんだ。
「それで、今日はマミちゃんは?」
美千隆が口を開いた。
「誘ったんだがな、先約があるからといって断られた。まったく、ものをねだるときだけ甘えてくるんだから困ったもんだ。おかげで、こんな馬鹿高いレストランで男三人、味気のない食事をするはめになった」
「申し訳ありません。ぼくが気をきかせればよかったんですが」
「いや、そういう意味でいったんじゃない。どっちにしろ、今日は堤君に会えただけでもよかったよ。マミの幼馴染だからな。今後は、あれの弱みでもじっくり教えてもらいたいもんだ……」波潟は葉巻の灰を灰皿に落とした。「今でも、マミとはよく会ってるのかね?」
彰洋はまた美千隆に視線を走らせた。美千隆は微笑んでいる──本当のことを話してやれ。
「月に一度食事をするぐらいです。高校を出たあとは疎遠になってまして。あいつは大学に行ったけど、ぼくは受験をしくじって予備校に通ってたんですけど、なんだか恥ずかしくて電話をしづらくなりまして」
嘘。真実──高一の夏に捨てられた。それ以来、口をきくこともなくなっていた。
「それが、去年、六本木で偶然出くわしまして、それでまた友情が復活したというか」
「君はあれのことが好きなのかね?」
波潟はコニャックを呷《あお》るように飲んだ。視線は彰洋から離れなかった。
「麻美は綺麗ですからね……初恋の女といえば麻美になるんだと思います。だけど、相手にされませんでした」
彰洋は葉巻を吸った。煙を吐きだす──薄い煙幕。視線を走らせる前に、美千隆に脛《すね》を蹴られた。彰洋は唇を舐《な》めた。ゆっくり口を開いた。
「社長の前でこんなことをいうのはなんですけど、麻美には昔から男のタイプがあるんです」
「ほう。それはどんなのだ?」
「金のある男です」
一気にいって、波潟の反応を待った。波潟は苦笑した。
「父親に出ていかれたあと、あいつの家、大変だったんですよ、経済的に。そのせいだと思うんですけど」
「それで、堤君はお金がなくてマミにふられたわけか?」
「そういうことです」
「それはいい」波潟は口をあけて笑った。「いかにもあれらしい話じゃないか。あれだけの器量の娘が、おれなんかをパパと呼ぶのは、おれに金があるからに決まってる。自分に魅力があると自惚《うぬぼ》れてるわけじゃないからな、堤君のいうことはよくわかるよ」
「わかっていてもやめられないのが女遊びですか」
美千隆がいった。
「そのとおり──ちょっと失礼するよ」
波潟は腰をあげた。連れと一緒に個室を出ていった。
「よくやったぞ、彰洋」
美千隆はうまそうに葉巻を吸った。
「なにをどうしたらいいのか、最初に教えておいてくださいよ。焦ったじゃないですか」
彰洋は抗議した。
「これぐらいのアドリブをこなせないようじゃ、一緒に仕事はできないからな。とにかく、今日のところは合格だよ」
「なにを狙ってるんですか?」
「波潟昌男の力さ。決まってるだろう。あのエロ親父、鷹揚《おうよう》そうに振る舞っちゃいたが、マミにぞっこんなんだ。そうじゃなきゃ、てめえの娘のダチに手をつけるか?」
「そりゃそうですけど……」
話の先が見えなかった。美千隆がなにを望んでいるのか想像することもできなかった。
「ま、見てろ。あの親父、戻ってきたらおまえに頼みごとをするからな。きっちり引き受けてやれよ」
「頼みごとって?」
「すぐにわかる」
聞いても無駄なことはわかっていた。美千隆は嬉しそうに笑うだけだった。
「それにしても、トイレ近いですね、あの人」
彰洋はいった。
「小便じゃないさ」
「ウンコですか?」
「馬鹿」美千隆は彰洋の頭を小突いた。「クスリに決まってるだろう。あんな真っ赤な鼻で、しょっちゅう鼻水たらして……」
「コークですか?」
「他になにがある? 朝一から働きまくって、夜は銀座や六本木のクラブをはしごして、週に三日はマミのところに泊まってるんだ。クスリの助けがなきゃ、あの年じゃきついだろう」
「どこで手に入れてるんですかね?」
「おまえも欲しいのか?」
彰洋は首を振った。
「もう、飽きました」
嘘ではなかった。クスリが与えてくれるのはまがい物の興奮だ。美千隆の仕事が与えてくれる興奮には遠く及ばない。
「おれが紹介してやったんだ。だから、こんなどこの馬の骨かわからん若造に時間を割いてくれてるわけだ」
「売人までやってるわけですか」
おどけた口調──意外だったが驚きではなかった。美千隆にはどこか険呑《けんのん》な雰囲気があった。
「なんだってやるさ、金のためならな。いいか、彰洋、これだけはいっておくぞ。金を稼ぎたかったら、だれのことも信用するな。信用していいのは金だけだ」
「社長のことも信用しちゃいけないんですか?」
美千隆は薄笑いを浮かべた。
「社長──」
口を開きかけたとき、波潟たちが部屋に戻ってきた。
「いや、すまんすまん。せっかく、話が盛りあがっていたのに」
波潟の鼻は濡れていた。出ていく前より瞳が潤んでいた。
「こちらこそ、先生に長々とお付き合いいただいて感謝していたところです」
美千隆は如才なくいった。
「もう、こんな時間か」波潟は腕時計を覗いた。金無垢《きんむく》のロレックス。文字盤にはダイヤモンド。「どうだね、齋藤君、どうせ銀座にいるんだし、この後軽く酒でも」
「もちろん、ご相伴にあずかります」
「堤君も一緒にいいだろう。ちょっと頼みたいこともあるしな」
脛を蹴られた。彰洋は口を開いた。
「なんでしょうか? 社長のお頼みごとなら、なんだって引き受けますけど」
波潟は腕を組んだ。視線をテーブルの上に落とした──らしくない。
「波潟さん、遠慮はいりませんよ。堤君はまだ若いですが、そこらの学生よりよっぽど気が利きます」
美千隆は静かにいった。波潟が視線をあげた。
「ちょっと頼みにくいことではあるんだがな……マミと会うのは月に一度ぐらいだといってたな?」
「ええ」
彰洋はうなずいた。
「もう少し、頻繁に会ってもらいたいんだ」
いいにくそうな喋り方。煮えきらない態度。さっきまでの波潟とは明らかに違う。コカインで気分が昂揚している人間の態度ではない。閃き──美千隆の態度がそれを裏づける。
「わかりました」彰洋はいった。「頻繁に麻美と連絡を取って、麻美に悪い虫がつかないように見張ればいいんですね?」
波潟の目を見据えていった。視界の外では美千隆は微笑んでいるに違いない。美千隆はときどき麻美と寝ている。麻美が美千隆に接する態度でそれがわかる。彰洋を波潟のスパイに仕立てあげれば、自分の情事がばれる恐れがなくなる。
「それほど大袈裟《おおげさ》なことじゃない」波潟は両手を振った。「ただな、さっきの君の話じゃないが、マミがおれと一緒にいるのは金のためだ。おれに惚れてるからじゃないのはわかっている。それだけにな、おれと一緒じゃないときにあれがなにをしてるか、気になってしょうがないんだ。できれば、常にあれをそばにおいておきたいぐらいだが、こんな仕事をしてるとそういうわけにもいかんし、あれに嫌われたくもない……わかってくれるかな、堤君?」
麻美は金が好きだ。麻美は束縛されるのが嫌いだ。女王様になりたい──十何年も前、麻美が口にした言葉をはっきりと覚えている。子供のたわごとではなかった。
「わかりました、ぼくに任せてください」
彰洋はいった。美千隆を振り返った。予想どおり、美千隆は微笑んでいた。
* * *
座っただけで十万以上の金をぼったくられるクラブ。口をあけただけで数十万の金をぼったくられるウィスキィが振る舞われる。シャンパンが音をたてる。女たちが波潟の周りに群がる。美千隆の周りに群がる。彰洋と波潟の連れの男の周りにはだれも来ない。
蝶は知っている。蜜をたくわえている花を。金を持っている人間を。
波潟はたびたびトイレに立った。酒にはほとんど口をつけなかった。
美千隆は両脇に陣取った女たちの腰に両手をまわしていた。たまに酒を啜《すす》った。
波潟の連れの男はなにも口にしなかった。喋りもしなかった。
彰洋は酒を飲んだ。飲む人間は彰洋しかいなかった。
同じことが三軒の店で繰り返される。
朦朧《もうろう》とした頭、視界──波潟は女と一緒に車に乗った。美千隆は自分の車で帰った。
彰洋と波潟の連れの男が路上に取り残された。男は彰洋になにも告げずに立ち去った。彰洋はビルの間の路地で吐いた。
何十万もした食事と酒──ただの吐瀉物《としやぶつ》。
2
「信じられない」受話器から聞こえてくる声は甲高《かんだか》く尖っている。「どうしてそういうことできるわけ?」
「どうしてって、みんな似たようなことしてるじゃない」
三浦麻美は寝返りをうった。素肌に絹のシーツが心地よかった。暖房が効いているせいで寒くはない。麻布の二DKのマンション。去年の秋、波潟昌男に買ってもらった。買った当初は八千万の値がついていた。今はとうに一億を越えている。それだけのものを買ってもらった代償は精液を飲みくだすことだけだった。
「だれもしないわよ、そこまで酷《ひど》いこと」
麻美はうつ伏せになった。サイドボードに左手を伸ばし、マニキュアの小瓶を取った。受話器を肩と耳で挟んだ。爪にマニキュアを塗りはじめた。
「ちょっと、聞いてるの、マミ?」
「聞いてるわよ」
人差し指の爪──ヴァイオレット。気に食わない。今日の気分にはあわない。麻美は除光液でマニキュアを拭き取った。別の瓶をあけた。
「暢久、泣いてたわよ。せっかくマミの誕生日にあわせてホテルの部屋取って、レストランまで押さえたのにって」
「別口で約束がはいっちゃったんだもん」
「別口って、暢久の方が先約でしょう?」
「そうだけどさ……」
麻美は刷毛《はけ》を動かす手をとめた。人差し指──ショッキングピンク。自然に笑みが浮かんだ。
「全日空ホテル飽きたもの。別口の人が取ってくれたの、ホテル西洋だし、レストランはオテル・ドゥ・ミクニだよ。マミが生まれた年のワインもオーダーしてあるって」
「そんなことするの、どうせオヤジでしょ?」
「わたし、お金のない若いのと、お金のあるオヤジだったら、オヤジの方が好き」
他の指にも丁寧に塗っていく。爪の色が変わるたびに、気分が晴れやかになっていく。
「マミ……そんなことばっかいってるから、みんなに嫌われるんだよ。暢久君だって、別に貧乏ってわけじゃないじゃない。車だってBMWだし、服のセンスだって悪くないのに」
「そんなにいうんだったら、千春、暢久とデートすれば」
「なにいってるのよ、マミ?」
千春の声のオクターヴがあがる。麻美は眉をしかめた。
「だって、まだ全日空キャンセルしてないんだし、もったいないじゃん。それに、わたし知ってるよ。千春、暢久に気があるでしょ?」
「冗談やめてよ」
「だったら暢久のことなんかどうでもいいじゃん。電話、切るよ、この後、約束があるんだ」
「ちょっと、マミ──」
麻美は電話を切った。左手の指に取りかかった。電話が鳴った──舌打ち。爪がなにかに触れないように気をつけながら受話器を持ち上げた。
「もういい加減にしてよ、千春──」
「殺してやる」
押し殺した声──若い女。電話が切れる。
麻美は肩をすくめた。男を寝取っただれかからの嫌がらせ。はじめのうちは気味が悪かった。今は慣れてしまった。
流行の歌を口ずさみながらマニキュア塗りを再開する。小指に塗りはじめたころには嫌がらせの電話のことは頭から綺麗に消えていた。
* * *
スポーツジムで汗を流した。ジムが入ったビルの別のフロアにあるエステサロンに行った。三浦様はいつもお綺麗で羨《うらや》ましいですわ──商売用のお世辞がお世辞には聞こえない。ジムとマッサージの費用は東日本不動産研究所にまわされる。波潟が経営する会社のひとつだった。
青山に出て、ショッピングとお茶を楽しんだ。支払いはすべてカード。カードの名義は波潟昌男。麻美が波潟の名をサインしても、だれもなにもいわない。
気分が軽かった。望んでいた生活にはほど遠いが、近づきつつあるという実感があった。
どうしてそんな酷いことができるわけ──酷いことをしているという実感はなかった。しなければならないことをしているだけだった。
「こちらのバッグはいかがでしょう?」
マヌカンがクロコダイル革のバッグを持ちあげた。形が気に入らない──麻美は首を振った。
「また今度にするわ。今日はあまり時間がないし」
ブティックを出ると日が暮れかけていた。それでも、空気はほんのりと暖かかった。昨日よりは確実に気温があがっている。春が近づいている。
麻美は右手を空にかざした。ショッキングピンクのマニキュア──この色にしたのは間違いではなかった。たぶん、彰洋も褒《ほ》めてくれるだろう。
* * *
時間前に待ち合わせの場所についた。二人掛けの小振りのテーブルが路上に張り出したカフェ。彰洋の姿が目に留まった。麻美は舌打ちした。いつだって、彰洋は先にいる。たまには驚かせてやろうと思って早めに着いたのに、それでも彰洋は先にいる。
「ちょっと」麻美はテーブルの上に乱暴にバッグを置いた。「まだ約束の十分前よ。彰洋ちゃん、いつ来たわけ?」
「五分ぐらい前かな」
彰洋はいった。つまらなそうな声だった。麻美は椅子に腰をおろした。
「なによ、マミとデートなのに、そんな顔して」
「疲れてるんだよ」
「マミと会うときぐらい、仕事休めばいいじゃない」
「馬鹿いうなよ」
「美千隆さんにいえば、それぐらい許してくれるわよ」
「おまえがなにしようとどうでもいいけど、麻美、男の仕事に口挟むなよ」
あさみ──うなじの肌が粟立つような感覚を覚える。子供のころの知り合いとはほとんど付き合いがなくなった。麻美のことをあさみ≠ニ呼ぶのは彰洋しかいなかった。
もし彰洋が麻美のことをマミ≠ニ呼んでくれていたら──今でも思う。あれほど手ひどく袖にすることはなかっただろう。金がない男は嫌いだった。無神経な男も嫌いだった。彰洋は好きだったが、彰洋には金がなかった。麻美をあさみ≠ニ呼んだ。
「なにが男の仕事よ。美千隆さんも彰洋ちゃんも、わたしを利用してパパに取り入ろうとしてるくせに」
「ちゃん≠ヘやめろよ」
「あさみ≠チて呼ぶのをやめたら考えてあげる」
「いいじゃないか。おまえの名前は三浦麻美なんだから」
「なんであさみ≠チて呼ばれるの嫌がるか知ってるくせに」
麻美は唇を尖らせたが、彰洋を睨《にら》む目に力が入らなかった。昔ほど彰洋の呼びかけに不快感を感じなくなっている。例えば、大学の教授がなにげなく口にするみうらあさみ君≠ニいう呼びかけよりははるかにましだった。
十代のころとはなにかが違っていた。おそらく、波潟昌男と波潟が持つ金の力のせいだった。波潟の娘の早紀《さき》に蔑《さげす》まれ、妻の紀子に蛇蝎《だかつ》のごとく嫌われても波潟を落とした価値はあった。昔にくらべて気持ちに余裕があった。金は金を呼ぶ。金のあるところに人は群がる。波潟の愛人になってから、麻美の周りに集まってくる人間の数は飛躍的に増えた。麻美はそれを楽しんだ。麻美を持ち上げる人間たちが腹の底で麻美を侮蔑していたとしても、それ以上の侮蔑のこもった目で彼らを見ることを楽しめた。
「今日の予定だけどさ、もう、フレンチも飽きただろう?」
彰洋がスーツのポケットからメモ帳を取りだした。ページをめくった。
「そんなこといって、ほんとは懐がヤバいんじゃないの?」
「馬鹿、給料日は一昨日《おととい》……たまには中華なんかどうだ? 築地にある店なんだけど、好きなだけフカヒレ食わせてやるよ」
「予約しなくてもだいじょうぶなの?」
「美千隆さんの名前出せば、満員でも他の客を追いだしてくれるさ」
彰洋は朗らかに笑った。麻美はその笑顔を見ながらうなずき、思った──彰洋も変わった。変わったことに気づいていない。
同じ団地に住むガキ大将。どちらかというと、正義感の強いタイプだった。そのせいで、彰洋と麻美はたびたび衝突した。父の武雄が家を出ていった後ではそれが顕著になった。麻美は自分のことを棚に上げて他人を詰《なじ》るのが好きだった。周りの人間を蔑むことでアイデンティティを支えていた。彰洋にはそれが許せなかった。
繰り返される口論。わたしのことは放っておいてよ──麻美が叫ぶ。なんでそんなこというんだよ、おれたち友達だろう?──彰洋が喚《わめ》く。
彰洋は嘘つきだった。友情などなかった。だれかに友情を感じたことはなかった。彰洋が自分のことを好いているのは知っていた。悪い気はしなかった。空想の中、自分を女王の位置に置いて他人を蔑んでみても、孤独であることに変わりはなかった。彰洋だけが、真摯《しんし》に麻美に関わってくれた。
中学に行っても、高校に進学しても──だから、身体を許した。だから、捨てた。
彰洋は明らかに十代のころとは違った。半年ほど前、六本木のディスコで偶然再会したときにそう思った。あのときよりさらに彰洋は変化している。美千隆の影響力が彰洋を変えている。
美千隆の名前を出せば──昔の彰洋なら、他人の褌《ふんどし》で相撲を取れるかといっていたように思う。だが、今の彰洋は美千隆の影響力を利用して恥じ入るところがない。
最近の彰洋はいつも疲れた顔をしている。だが、目は輝いている。なにかに中毒している人間の目──金の魔力に取り憑《つ》かれた者の目。
彰洋は自分の変化に気づいていない。彰洋の変化は麻美には好ましかった。
「じゃあ、行くか? 車、この先の駐車場に停めてあるから」
彰洋が腰をあげた。麻美のショッピングバッグを肩に担いだ。
「乱暴にしないでよ」
「わかってるって」
彰洋の笑顔は屈託がない。笑顔だけは変わっていなかった。
* * *
マハラジャに行きたい──麻美はいった。彰洋は嫌そうな顔をした。一瞬の睨み合い──折れるのは彰洋。最初から勝負は決まっていた。麻美が女王で彰洋は下僕だった。昔は違った。麻美が女王なら、彰洋は王様だった。どちらも引くことを知らず、結局、口喧嘩をして別れることになっていた。
六本木のディスコ──きらびやかな女たちが集う夜の宮殿。女を求めてやってくる男たち。必需品は高級車。ディスコの周りはまるで外車の見本市のようだった。
入り口で服装チェックをしている黒服が彰洋に気づいた。
「堤じゃねえか」
「どうも……」
彰洋は曖昧《あいまい》な笑みを浮かべた。
「仕事がなくなって戻ってきたのか?」
「今日は遊びに来たんですよ」
彰洋は身体を半分開いた。左手で麻美を示した。黒服の態度が一瞬で変化した。
「いらっしゃいませ」
「VIPルーム、あいてる?」
返事を聞く前に歩きだす。だれにも文句はいわれない──いわせない。
「どうなってんだよ、堤?」
「出世したんですよ、おれも」
背後で交わされる声──彰洋の傲慢《ごうまん》さ。去年まで、彰洋はこのディスコで働いていた。酒を運び、食事を運ぶ。華やかな宮殿の裏で働く黒子。宮殿のきらびやかさにはほど遠い地味な仕事。楽しみといえば、間違って宮殿に入りこんできた田舎の娘を誑《たぶら》かすこと。
半年前、彰洋は厭《あ》いていた。仕種《しぐさ》の一つ一つが投げ遣《や》りだった。今は違う。日に日に視線が鋭くなっていく。金がそうさせる。
マハラジャの中はいつものように混んでいた。耳を聾《ろう》するビート。お立ち台の上で踊る女たち。その下で、スカートの中を覗こうとする男たち。夜ごと繰り返される宴。なにもかもを消費し尽くす。この宮殿では出自は問われない。若い女か否か。金を持った男か否か。それがすべてだった。
VIPルームに入ると喧騒が遮断された。席は半分ほどが埋まっていた。有名企業の創設者一族の御曹司。ブラウン管を賑わせているタレントとその取り巻き。四、五人の若い女を侍らせている中年は職業不詳──おそらく、不動産屋か株屋。
麻美は見知った顔に挨拶した。空いたソファに座った。
ガラス張りの壁の向こうは広大な空間が広がっている。その下では一般の客たちが踊っている。
「なあ」彰洋が耳元で囁《ささや》く。「前から思ってたんだけど、わざわざディスコに来てるのに、こんなとこでくつろいでてなにが楽しいんだ?」
「そのうち彰洋ちゃんもわかるようになるわよ」
麻美は笑った。事実、彰洋はわかりかけているのだ。
黒服がすぐに駆けつけてきた。カクテルをふたつオーダーした。
「おい、おれはあんまり飲めないぞ。今夜は車だからな」
「がばがば飲まなきゃだいじょうぶよ。彰洋ちゃん、男でしょう?」
「男も女も関係ないだろう」
「いいから、早く座って」
彰洋が肩をすくめて腰をおろした。
「彰洋ちゃん、ここにどれぐらい勤めてたんだっけ?」
「一年弱かな」
彰洋はソファの背にもたれかかった。身体をかすかにねじって、下のダンスフロアを見おろした。
「じゃあ、VIPで働いたことないのね?」
「今日が初めてだよ、ここに入ったの」
「どう?」
「どうってことないな。さっきもいったけどさ、どうせディスコに来たんなら、下で踊ってた方が楽しいんじゃないのか」
「馬鹿ね」
麻美はいった。彰洋が振り返った。
「ここのコンセプトは宮殿でしょ? VIPに入れるのは王族なのよ。下で踊ってるのは庶民たち。王族は優雅に庶民を見おろすの。それが楽しみなのよ」
「くだらねえな」
「そうかしら? 彰洋ちゃんだって、もう、王族の仲間入りしてるのよ。さっきの中華レストランだってそうでしょう? 予約で一杯だっていわれたのに、美千隆の名前出したら、本当に店に入れてもらえた。どうして? 答えは簡単。美千隆が王族で、彰洋ちゃんはその王族に繋がってる特権階級だから」
彰洋は指の関節を鳴らした。昔からの癖──不機嫌になると出てくる。
「マミたちが席に着いた代わりに、追いだされた人がいるのよ。でも、彰洋ちゃん、そんなこと気にしなかったでしょ? ディスコのVIPで踊りもしないで他人を見おろしてるのだって同じことよ」
「そりゃそうかもしれないけど……だれが王族でだれが庶民かって、どうやって決めるんだよ」
「お金よ」麻美はきっぱりといった。「お金を持っていれば、だれでも王族になれるの。それがこの世の仕組みなの」
「おまえは王族にまで成り上がったってわけか?」
「そう、この身体でね」
麻美は大袈裟にしなをつくった。ミニスカートがずりあがり、太股《ふともも》が露《あらわ》になった。彰洋の視線が太股をかすめた。彰洋は横を向いた。
「王族だかなんだか知らないけど、おれはなりたくないね」
「どうして? 言葉は違うかもしれないけど、彰洋ちゃんが美千隆さんのところで働いてるのも、お金稼ぎたいからでしょう? お金を持つってことは、結局王族になるってことよ」
「金がほしいわけじゃない」彰洋は首を振った。「ないよりはあった方がいいってのはわかってるけど、おれがしたいのは……なんていうのかな、ひりひりしたいんだよ。のんべんだらりと暮らすんじゃなくて、燃えてたいんだ。わかる?」
麻美はうなずいた。彰洋は変わった。だが、変わっていない部分もある。青臭い思いこみは確かに昔の彰洋に特有のものだった。
「美千隆さんと一緒に働いてると、そのひりひりした感じがあるんだ。大金が動くだろう。そうすると、みんな必死なんだよ。気が抜けないんだ。嫌なこともいっぱいあるけど、それが楽しい。そりゃ、おまえのいうとおり、前より金回りはよくなった。昔は行けなかったところにも行けるようになった。だけど、別に楽しんでるわけじゃない。酒なんて、ホワイトでいいし、食い物だってカップ麺で充分だ」
「そう」
麻美は微笑んだ。馬鹿げているとは思ったが口には出さなかった。気持ちに余裕があるというのは、つまりはそういうことだった。
「なんか、偉そうだな、おれ」
彰洋は照れ笑いを浮かべた。
「そんなことないよ」
「別にさ、おまえのいったこと、否定しようとは思ってないんだ。おまえは昔、女王様みたいになるっていってた。で、なりつつある。すげえと思うし、おまえがそうなってなかったら、美千隆さんと知り合うこともなかったんだからな。感謝してるよ」
「本当に? 金のために身体売ってる最低な女だと思ってるんじゃない?」
黒服がカクテルグラスを持ってきた。麻美と彰洋はグラスを重ねた。
「あのな──」カクテルを啜って、彰洋は口を開いた。「他の女だったら軽蔑してるかもしれない。だけど、おまえは別だ。そんなこと思うぐらいだったら、小学生んときに友達やめてる」
彰洋は嘘つきだった。だが、その嘘を責める気にはならなかった。
「ありがと。だから好きよ、彰洋ちゃん」
麻美はいった。言葉に偽りはなかった。
* * *
飲み干したカクテル。尽きた話題。マハラジャは今では退屈な宮殿だった。
「そろそろ、場所替えようか?」
麻美はいった。
「どこに行く?」
「そうね……Jトリップにでも行く?」
「おれはどこでもいいよ。女王様のお気の向くまま、どこにでも──」
突然、ダンスフロアの喧騒が飛びこんできて彰洋の言葉をかき消した。VIPルームのドアが開き、新たな客が入ってきたところだった。男がひとり、女がふたり。男に見覚えはなかった。女ふたりはいやになるほど知っていた。
麻美は舌打ちした。
「知り合いか?」
彰洋がドアの方に顔を向けた。
「天敵よ」
ふたりとも腰を絞ったボディコン姿だった。右側が淡いピンク。左側がブルー。右側が浅田祥子。左側が室井美香。麻美と同じゼミの学生だった。
祥子と美香は、麻美に気づくと足をとめた。険のある目で麻美を睨んだ。すぐに、視線を逸らし、麻美たちの席とは一番離れたテーブルに腰をおろした。
「相当嫌われてるみたいだな、麻美」
彰洋がいった。おもしろがっているような口調だった──気に入らない。
「早紀の取り巻きよ」
「早紀って、波潟昌男の娘だっけか?」
「そう」
「それじゃ、嫌われるよな」
「余計なお世話よ」
麻美は吐き捨てるようにいった。
早紀に近づいたのは、はじめから父親の昌男が目的だった。波潟昌男の名は、麻美が大学に入る前から知れ渡っていた。地上げの神様──金の匂いをぷんぷんまき散らす新聞や雑誌の見出しと記事。麻美はすべてに目を通していた。金の匂いがする記事を読むのが好きだった。同じ授業を受けている学生が波潟昌男の娘だと知ったときは卒倒しそうになった。
世田谷にある大学。幅をきかせている付属組。入学金を工面するのに母親に苦労をかけた。入学したあとも、付属組とはそりが合わなかった。波潟早紀も同じだった。早紀は成り上がりの娘だった。いつも付属組と張りあっていた。
人に取り入ろうとしたことはなかった。常に自分が一番でないと気がすまなかった。だが、波潟早紀に取り入るために努力を惜しまなかった。努力はすぐに報われた。家に誘われるようになった。元赤坂にある波潟の家はそれこそ宮殿のようだった。一緒に海外旅行に行くようになった。渡航費用はすべて早紀──昌男が持った。母親の紀子に可愛がられるようになった。昌男にマミ≠ニ呼び捨てにされるようになった。早紀の誕生日に招かれて、そのまま宿泊するように勧められた。
露出の多い服を着ていくたびに、昌男が舐《な》めるような視線を向けてくることにも気づいていた。
後は簡単だった。
昌男との関係は、すぐに早紀と紀子の知るところとなった。昌男は無神経な人間だった。家庭内でも暴君のように振る舞っていた。愛人の存在を否定するどころか誇るような素振りさえみせた。
早紀と紀子は麻美を非難した。麻美は動じなかった。
早紀と紀子は麻美を憎悪するようになった。麻美は動じなかった。そのころには昌男にマンションを与えられていた。
ときどき、大学に顔を出す。噂が耳に飛びこんでくる。早紀が麻美の行動をいいふらしている。それを聞かされる取り巻きたちも麻美に対して怒りを募らせている。
麻美は動じなかった。昌男が与えてくれる金の前では、すべてはなにほどのこともなかった。
「どうする?」
彰洋がいった。
「すぐに席を立つのは癪《しやく》だから、もう少しいるわ」
麻美は答えた。横顔に祥子と美香の視線を感じた。
「おまえがそれでいいなら、いいけどさ」
彰洋は首を振った。
「ねえ、あいつらが連れてる男、どんな感じ?」
「どっかのぼんぼんって感じだな。間抜け面して、女たちの太股見てるよ」
「じゃあ、彰洋ちゃんの勝ちだね」
「なんだよ、それ?」
気分が落ち着いてくる。あの女たちより金はある。高い服を着ている。いい男を連れている。負ける要素はなにもない。
「彰洋ちゃん、もっとこっちに寄って」
「なんだよ、急に?」
「恋人同士のふりするの。お金のためにパパと寝て、それ以外にかっこいいボーイフレンドがいるとわかったら、早紀、怒るでしょう」
「趣味悪いぞ、麻美」
「いいから。さっき、女王様の気の向くままにっていったじゃない」
「わかったよ」
彰洋が腰をずらした。麻美の肩に手をまわしてきた。身体と身体が密着する。彰洋の筋肉が強張《こわば》っているのがわかった。それもまた、麻美の自尊心をくすぐった。
泥棒猫、身の程知らず──言葉の断片が耳に甦る。麻美は彰洋の胸に顔を預けた。高校生のときより、彰洋の身体は逞《たくま》しくなっていた。
彰洋の胸の真ん中に堅い物があった。十字架のペンダントヘッド。彰洋の祖父の形見。
「まだ、これ身につけてるんだ?」
彰洋の手がシャツの下の十字架を隠すように動いた。なにかを恥じているような仕種だった。
「嘘をついてはいかん。人を騙してはいかん。人の物を盗んではいかん。そうだったよね?」
彰洋の祖父は熱心なクリスチャンだった。彰洋に入信を強要しようとはしなかったが、いつも説教くさい口ぶりで彰洋に語りかけていた。
彰洋の身体は強張ったままだった。
「最近の彰洋ちゃんがやってること、お爺ちゃんの教えに背くことばっかりなんじゃないの?」
「うるさい」
彰洋は唇を噛んだ。触れられたくない話題に触れられて戸惑っている。
「ごめんね。もういじめないから」
麻美は彰洋の胸に顔を埋めた。
十分──二十分。口も開かずに身体を寄せあいつづけた。祥子と美香の声も聞こえなくなった。
「そろそろ行こうか」
麻美は顔をあげた。
「ああ」
彰洋は怒ったような顔をしていた。可愛い──唐突にそう思った。
「この店出るまで、恋人のふり続けてね」
彰洋の手が腰にまわされた。祥子たちを無視してVIPルームを出た。
部屋を出ると、喧騒が耳を聾した。彰洋の耳に口を近づけて叫んだ。
「入り口で待ってて。トイレに行ってくる」
彰洋がうなずいた。麻美は彰洋に背中を向けた。人をかき分けて、従業員通路へ。首をめぐらす。探していた人間を見つける。
長身の黒人。名前は忘れた。たしか、マイクかアレンといったはずだった。体格が良くて英語が喋れるというだけで雇われた店のインテリア。
「ハイ」
麻美は黒人に笑いかけた。黒人の目尻が下がった。
「ちょっと来てくれる」
英語でいった。勉強は好きではなかったが、英語だけは必死で勉強した。
麻美は従業員通路を奥に進んだ。喧騒が遠ざかっていく。通路の奥に食べ残しの皿がつまれた大きなワゴンがあった。その裏にまわった。
「なに焦ってんだよ、ベイビィ。そんなにおれのディックが待ち遠しいのか?」
黒人がいった。下品な英語だった。
「馬鹿いわないでよ。わたしとやりたかったら、お金持ってきなさい。高いわよ」
黒人は目を剥《む》いた。
「お願いがあるのよ。VIPルームに、女がふたりいるの。ひとりはピンクの服を着てて、もうひとりはブルー」
「それで?」
「強姦して」麻美はいった。「仲間がいるんでしょう。みんなであの女たちをめちゃくちゃにしてやって」
「なあ、いったいなんの話を──」
麻美はバッグから財布を出した。財布から札を抜いた。黒人は口をつぐんだ。
丁寧に札を数えた──二十万。
「どう? やってくれる?」
黒人の目が血走ってくる。
「めちゃくちゃにするのよ。怪我をさせてもかまわないわ」
黒人が金を受け取った。血走った目が、金をもらえておまけに黄色い猿のプッシィもいただけるというなら、こんなにおいしい話はないと語っていた。
3
「MS不動産です」
受話器を持ち上げながら会社名を告げる──頭は別のことを考えている。
「あの……堤彰洋さんはいらっしゃいますでしょうか?」
力のない年老いた女の声──神経が切り替わる。壁にかけられたカレンダーに視線が向く。
「堤はわたくしですが」
「わたし、佐藤と申します……佐藤重吉の妻です」
佐藤重吉の初七日は昨日だった。香典袋に包んだ金が威力を発揮しはじめたということだった。
「この度はご愁傷さまでした」
彰洋は神妙な口調でいった。
「いえ、こちらこそ。わざわざ告別式にいらしていただいて、過分な香典までいただきまして」
土地を見つけろ、見つけたら手に入れろ──美千隆はいった。やり方は教わった。
「いえ、生前、佐藤さんには大変お世話になりましたもので、仕事があって告別式に出席することができなかった代わりに、ご無礼かとは思いましたが、包ませていただきました。それぐらいしか、佐藤さんの生前の恩義に報いる方法を知らなかったもので」
「失礼ですが、堤さんは主人とはどのような……?」
私立探偵を雇って、生前の佐藤重吉の行動パターンを探らせた。碁会所通いの毎日。月に一度、中野にある居酒屋に顔を出す。夫婦仲は良くも悪くもない──傲慢な夫に気弱な妻。近隣の人間が重吉が妻を怒鳴りつける声をたびたび聞いている。
「中野の居酒屋で偶然隣同士になりまして……わたくしはまだ若輩者で、仕事に悩んでおりましたところ、佐藤さんには人生の先輩としていろいろアドバイスをいただいて、それ以来、ときおりお酒をご一緒させていただいていました」
「さようですか……」
「佐藤さんには過分に可愛がっていただきました」
「主人からは一向にそんな話を聞かされていなかったもので、失礼しました。お気を悪くなさらないでいただければ……」
「とんでもないです。奥さんこそ、そうかしこまらないでください。わたしはおふたりのお孫さんのような年の若輩者ですから……そうだ、奥さん、今日はお暇ですか?」
相手に考える時間を与えるな──美千隆はいった。
「え、ええ。初七日も昨日すませまして、ほっとしているところなんですけど」
「これからお伺いしてもよろしいでしょうか? 仕事でばたばたしておりまして、ご葬儀のときに顔を出したっきりになっておりますので、一度、ゆっくりご焼香させていただきたいと思っていたんです」
「わたしはかまいませんけれど……」
自然に笑みが浮かぶ。
「カモが見つかったのか?」
隣りのデスクで書類仕事をしていた同僚がいった。彰洋は笑みを浮かべたままうなずいた。
* * *
口八丁手八丁。美千隆の下で働くようになるまでは、自分がこんなに口を動かせるとは思わなかった。それまではどちらかといえば口下手だった。無口な方だった。言葉で自分の感情を表現するのが苦手だった。
今はなんでもできる。熱に浮かされたように飛び回って、でたらめを口にする──苦ではなかった。
佐藤竹子はお人好しだった。彰洋の嘘をすべて信じた。
わたしには父がいないんです。ですから、佐藤さんはわたしにとっては父のような人でした──そうですか、と竹子は涙ぐむ。
去年の夏あたりからですかね、中野の居酒屋で月に一度はお会いしてました。学校の先生だったせいか、佐藤さんはお話が上手で飽きませんでしたよ──あの人はお喋りでしてねえ、と竹子が微笑む。
佐藤さんからはよく、不動産に関する質問をされました──そうですか、と竹子はうなずく。
そろそろ死に際も考えなければならないから、家屋と土地を処分して奥さんにまとまった金を残したいとおっしゃって──そうですか、と竹子はうなずく。
そうだ、奥さん、今度、うちの社にお出でになりませんか、遺産相続の件でもなにかとお力添えができると思います──竹子の顔が不安に曇る。
これだけの土地となれば、相続税もばかになりません。佐藤さんがせっかく奥さんのためにと考えていたプランを実行に移した方がいいですよ──助けになっていただけますか、と竹子は訴える。わたし、こういうことには疎《うと》いもので。
任せてください。佐藤さんが遺したものを国に取られてたまるもんですか。奥さんにまとまったものが残るように、わたしがなんとかしてみます──竹子はほっとしたように頭を下げる。
なんとかする──二束三文の金で土地を買いあげて放りだす。
はじめのころは罪悪感を覚えた。胸の十字架がちくちくと肌に刺さるような違和感を覚えていた。今はなにも感じない。熱に浮かされている。熱のせいで神経が麻痺している。二十歳そこそこの年齢で億の金を動かすスリルに比べれば、罪悪感など取るに足りない。そんなものは酒と一緒に飲みくだしてしまえばいい。ボトル一本が数十万もする酒と一緒に。
公衆電話で会社に電話をかけた。美千隆は社に戻っていた。
「社長、近々に時間を空けてくれませんか」
「声が上ずってるぞ、彰洋。いい金儲けのネタを見つけたのか?」
「例の落合の土地です。さっきまで、後家の婆さんと話をしてました。軽く落とせますよ」
「だったら、おまえひとりで仕切ってみろ」
「ですが、社長……」
「簡単に落とせるんだろう? それぐらいできなきゃ、この世界で一旗揚げることなんてできやしないぞ」
電話が切れる。体温があがる。自分ひとりで億単位の金を差配する──背筋を顫《ふる》えが駆けあがる。
時間を無駄にするな──美千隆はいった。彰洋は電話をかけなおした。
「堤です、奥さん。先ほどは失礼しました」
「あら、堤さん。なにか忘れ物でもしたかしら?」
「いえ。ちょっと急な話なんですが、明日、お時間取れませんか?」
「明日?」
「ええ、歩きながら考えてたんですけど、こういうことは早く処理してしまった方がいいと思うんですよ。もし、明日来社していただけるんでしたら、こちらの方で、いろいろと情報を仕入れておこうかと思いまして」
「そんな、堤さんもお忙しいでしょうに……」
「いいんです、佐藤さんのためですから」
「でも、赤の他人のためにそこまでしていただかなくても」
竹子の声のトーンがさがる──急ぎすぎたかもしれない。
「奥さん、そんな他人行儀なこといわないでくださいよ。さっきもいったように、佐藤さんはわたしにとっては父親代わりのような人だったんです。父親のために息子が一肌脱ぐのは当然でしょう」
胸元の十字架が揺れる。祖父が肌身離さずにつけていた十字架。祖父は熱心なクリスチャンだった。日曜には必ず教会に通い、聖書を暗唱し、道を外れたといっては懺悔《ざんげ》する。父も彰洋も宗教には無頓着だった。祖父は自分の信仰をいたずらに一族に押しつけることをしなかった。だが、なにかがあるたびに、諭された──嘘をついてはいかん、人を騙してはいかん、人の物を盗んではいかん、それさえ彰洋が守ってくれれば、お爺ちゃんは安心して天国に行ける。
彰洋が十四歳のときに祖父は肝臓癌で死んだ。病院のベッドの上、かさかさにひからびた手で十字架を握り、それを彰洋に渡そうとした。受け取らないわけにはいかなかった。
嘘をついてはいかん、人を騙してはいかん、人の物を盗んではいかん──祖父の声が耳の奥で谺《こだま》する。
彰洋は首を振った。祖父の声を耳から追い出した。
「ありがとうございます、堤さん。本当に親身になっていただいて、主人も喜んでいると思います」
「奥さん、わたしのことは彰洋と呼んでください。わたしの母はまだ存命ですが、奥さんもわたしのお母さんだと思っていますから」
竹子の啜り泣く声が聞こえた。
「奥さん、明日の午後一時にお待ちしておりますから。いいですね?」
「うかがいます。必ずうかがいますから」
電話を切る。体温がまた一度あがる。
* * *
竹子はおどおどしていた。西新宿の高層ビルにある近代的なオフィス。値の張った調度品が揃えられた応接室。にこやかな顔の弁護士と税理士。
慣れないものに囲まれて、竹子は小さな身体をさらに縮めている。
「そんなに緊張なさらなくてもだいじょうぶですよ、奥さん。弁護士さんも税理士さんも、うちが長くお付き合いいただいている信用できる方々ですから」
竹子は渡された名刺とふたりの男の顔を見比べる。
弁護士も税理士も一流の看板を背負っている。それなりの金を渡せば、平気で嘘を口にする。ふたりとも波潟が美千隆に紹介した。
次から次へと渡される書類。マシンガンのように繰りだされる言葉。竹子は縋《すが》るような視線を彰洋に向けてくる。
彰洋は優しくうなずく──だいじょうぶ、わたしに任せてください。悪いようにはしませんから。
二時間の軟禁──竹子は軟禁されていることに気づきもしない。
竹子が帰った後には、仮土地売買契約書が残った。
佐藤竹子の署名。佐藤竹子の実印。売却代金はきっちり二億円。
よくやった──美千隆はいった。最後の詰めが終わるまで気を抜くなよ──美千隆はいった。おまえひとりで数億の儲けになる話をまとめたんだ、たいしたもんだ──美千隆はいった。
体温があがる。竹子の姿が脳裏から消え失せる。祖父の声はもう聞こえない。
* * *
波潟昌男に連絡を入れた。麻美の行状報告──犬の仕事。波潟は尻尾《しつぽ》を振ってくる犬に甘いんだ──美千隆はいった。せいぜい尻尾を振ってやれ。あいつから金を引きだすことができれば、もっとでかい仕事を仕切ることができるようになる。
でかい仕事──魔法の言葉。
「おお、堤君か。どうだ、マミの様子は?」
「今週は一度会っただけですけど、ろくな男がいないといってぼやいていました」
「あれも困ったもんだな……堤君も大変だろうが、お守《も》りをよろしく頼むよ」
「なんでもおいいつけください」
思いきり尻尾を振ってやる。
「ところで、美千隆君は社におるかね? 今夜、飯でもどうかと思ってるんだが」
「少々お待ちください」
彰洋は送話口を手で押さえた。美千隆は自分のデスクで書類に目を通していた。
「社長、波潟さんですが」
美千隆がうなずいた。彰洋は保留ボタンを押して受話器を戻した。横目で美千隆の様子をうかがう。美千隆は笑っている。快活な声で波潟に応じている。電話はすぐに切れた。美千隆が席を立ち、応接室へ足を向けた。
「彰洋、ちょっと来い」
振り返りもせずに声をあげる。彰洋は椅子を蹴立てて後を追った。
「今夜、八時、キャンティ≠セ」
応接室に入るなり、美千隆はいった。老舗のイタリアン・レストラン。麻美と一度だけ行ったことがあった。
「ぼくもご一緒していいんですか?」
「あっちの要望だ。マミも来るらしい」
「わかりました。外回りに出たあと、そっちに向かいます」
彰洋は美千隆に背を向けた。肩を掴まれ、引き戻された。
「そう焦るな。話はまだ終わってない。座れよ、彰洋」
振り返る──美千隆の顔がかすかに曇っている。
「なにかまずいことでも?」
「ここんところ忙しくておまえとろくに話もできなかったからな」
美千隆は応接セットのソファに腰をおろした。彰洋はそれに倣《なら》った。
「おまえ、女はいないのか?」
「は?」
「女だよ、女」
「今はいません」
女が欲しくないわけではない。朝一からあちこちに飛び回り、夜は得意先の接待でネオンの海を泳ぎ回る。女を探す時間も口説く時間もない。
「業務命令だ。なんでもいいから女を作れ。なんなら、おれが紹介してやる」
美千隆は煙草をくわえた。反射的にライターを差しだす。接待で身につけた条件反射。犬の仕事──それができなければはじまらない。
「どういうことですか?」
「おまえ、あの狸《たぬき》親父の言葉を真《ま》に受けてるだろう?」
「は?」
自分が間抜けに思えてくる。だが、美千隆の真意はこれっぽっちもわからなかった。
「波潟はな、マミのことはよくわかってるんだ。無理に押えこめば引っかかれるのがオチだからな。性悪の牝猫だよ、マミは。だから、多少のわがままには目をつぶってるんだ」
美千隆が煙を吐きだす。
「でも、ぼくに麻美を見張ってくれって……」
「だからあいつは狸親父だっていうんだよ。二十歳そこそこの女に手玉に取られるようで、何千億の金が動かせるようになると思うか?」
美千隆は言葉を切った。煙草を吸う。視線は彰洋に当てられている。視線の意味──テスト。美千隆の言葉の真意を百字以内にまとめよ。
「ぼくもいいですか?」
彰洋は煙草を取りだした。ゆっくり火をつけながら考える。答えが浮かぶ。半年前ならわからなかった。
「つまり、こういうことですよね……波潟さんがおれに麻美の見張りを命じたのには裏がある」
美千隆がうなずく。美千隆は麻美と寝ている。波潟は自分に尻尾を振る犬に甘いと美千隆はいった。つまり、飼犬に裏切られると激怒するということだ。
「美千隆さん、疑われてるんですか?」
美千隆の目尻が緩む──テストは合格。
「はっきりと疑われてるわけじゃない。あの狸親父が疑り深い性格だってだけなんだがな。おまえに麻美を見張れっていったのは、おれに対する牽制だよ」
彰洋は首をひねった。返ってきたのは想像していたとおりの言葉だった。だが、あの夜の美千隆の合図──美千隆は明らかに波潟が彰洋にお守り役をいいつけるように誘導していた。
「でも、どうして……」
「リスクは分散させた方がいいからな。おまえ、昔はマミのことが好きだったといったろう」
頭の中に明かりが灯る。
「おれも疑われてるんですか?」
思わずおれ≠ニいう言葉が漏れる。
「疑り深いといっただろう。見張り役を命じておいて、おまえやマミの言動に目を光らせてるんだよ。おかしなところがなければよし。もし、ちょっとでもおかしいと思えば……」
美千隆は煙草を乱暴に灰皿に押しつけた。煙草はほぐれてばらばらになった。
「だから、女を作れってことなんですか?」
「山田美佐子から聞いたんだがな、先週、おれとおまえが外出してるときに波潟から電話があったそうだ。おまえのこと、根掘り葉掘り聞かれたらしいぞ。礼儀正しい若者で気に入ったから、できれば嫁さん候補を紹介してやりたいんだが、彼に決まった女性はいるのかね──」美千隆は波潟の口調を真似ていった。「女を作れ、彰洋。どっちにしろ、おまえの年だったら溜まってしょうがないだろう」
彰洋は苦笑した。
4
「ねえねえ、マミ、知ってる?」
受話器を握りながら、麻美は壁にかけた時計に視線を向けた。午後五時──そろそろ支度をはじめなければならない。だが、電話の向こうの声はやみそうになかった。
「祥子と美香っているじゃない。いつも早紀に金魚の糞みたいにくっついてる」
金を受け取った黒人の血走った目が脳裏に浮かんだ。
「こないだ六本木でちらっと顔見たよ」
「ほんと? ねえ、あいつらなんか変じゃなかった?」
「別に、普通だったけど……なんかあったの?」
「それがおおありなのよ。あいつら、六本木で黒人に輪姦されちゃったんだって」
「へえ」
「なによそれ。興味ないの、マミ? いい気味だと思わない?」
「別に。マミには関係ないもん」
「だって、あいつら、学校でマミの悪口いいまわってんのよ」
「まあね」
麻美は気のない返事を続けた。だが、電話口の相手には通じなかった。
「なにしろ、相手は黒人でしょう。ふたりともあそこが裂けてひどいことになったんだって。おまけにさ、祥子のやつ、妊娠させられちゃったんだって。今ごろ、実家に戻って堕ろしてるって噂だよ」
「産んじゃえばいいのに」
目を閉じる──瞼《まぶた》の裏に光景が映しだされる。祥子と美香の傲慢な顔が苦痛に歪んでいる。泣き叫ぶふたりを無視して黒人たちが彼女たちの腰を抱える。
笑いの衝動が込み上げてきた。
「そんなわけにいかないじゃん……とにかくさ、最近はその話題で大盛り上がりなの。マミもたまには学校に顔出しなよ」
「早紀はどうしてる?」
「相変わらず、お高くとまってるわよ。最近は、付属組のやつらとも仲良くしてるみたい。地上げ屋の娘のくせに、なに勘違いしてるんだろうね。あ、それからさ──」
電話の声はとめどもなく続く。麻美はもう一度目を閉じた。瞼の裏のスクリーン。黒人たちに強姦されるふたりの女──やがて、ふたりの顔は早紀の顔に変わった。
「次はあんたの番かもね」
目を開いて呟《つぶや》く。
「え? マミ、いまなんかいった?」
「いってないよ。悪いけどさ、時間ないから切るね。またゆっくり電話するよ」
相手の声が聞こえる前に受話器を置いた。
* * *
美千隆はアルマーニのスーツ。彰洋はDCブランド系のソフトスーツ。彰洋は昔から服装には無頓着な方だった。
今度のデートのときには食事の前にショッピングに連れていこう──麻美は彰洋の足元に視線を走らせる。大金を動かそうとする男は、ファッションにも敏感でなくてはいけない。
波潟はいつものよれたスーツを着ていた。去年の誕生日にプレゼントしたエルメスのネクタイにはいくつもの染みがついている。
こんな田舎親父が大金を持ってるからいいんじゃないか──波潟はいう。麻美にはそれが不満だった。
男三人は土地の話をしている。ビルの話をしている。金の話をしている。口を動かすのは波潟。美千隆が合いの手を入れる。彰洋は二人のやり取りにじっと見入っている。
麻美は頬杖を突いた。つまらなかった。何百億の話をされても、実際に現金が目の前にあるのでなければ実感することができなかった。黒人に強姦される祥子たちのことを想像する方がよっぽど楽しかった。
いつからこうなったのか──麻美は思う。昔は違った。波潟が寝物語にする金の話を聞くのが好きだった。億≠ニいう言葉の響きに胸躍らせた。
美千隆に視線を走らせる。美千隆は熱心に波潟の話に耳を傾けている。神経のすべてが波潟に──金に集中している。その横顔は獲物を狙う肉食動物を思わせる。その視線が牝に向けられるのは、獲物の匂いが遠くに去ったときだけだ。
ウェイターが空になった皿をさげていく。グラスにワインを注いでいく。新しい料理を運んでくる。美味しい料理、美味しいワイン、金の話──退屈極まりない。
美千隆と会うのは丸一週間ぶりだった。美千隆のために新しい服を用意した。アクセサリィも下着も新品だった。だが、美千隆は見向きもしない。
「ねえ、パパ」
麻美は波潟の話の腰を折った。波潟が不愉快そうな視線を向けてくる。
「なんだ?」
「パパたちの話、まだ終わりそうにないし、マミ、お腹いっぱいになっちゃった。彰洋ちゃん借りて、ドライヴに行ってきてもいい? どうせ、食事のあとは銀座のクラブでしょう。マミ、行ってもつまらないし」
美千隆は微笑みを浮かべている──神経に障《さわ》る。
彰洋と寝たことがあるのか──一週間前、美千隆はいった。あるわよと答えると、美千隆は今と同じような微笑みを浮かべた。
「おれはかまわんが、堤君の予定も聞かないとな」
しかめっ面のままの波潟。その表情はこう語っている──今夜はやるつもりだったのに。
「ぼくはだいじょうぶですけど、今日は、車じゃないんで……」
彰洋が答えた。
「おれの車を使えばいい」
美千隆がいった。
「でも──」
「どうせ今日は波潟さんと飲むんだから、車は置いて帰るつもりでいたんだ。明日、会社まで運んでもらえればOKだよ」
「わかりました」
美千隆は彰洋にベンツのキィを手渡した。
「じゃあ、行こうか、彰洋ちゃん」
麻美は席を立った。彰洋が従ってくる。肩ごしに振り返る──波潟と美千隆は金の話を再開していた。
* * *
急発進と急ブレーキの繰り返し。乱暴なハンドル捌《さば》き──彰洋は怒っている。
「そんなに乱暴に運転しないでよ」
「これが普通だ」
彰洋は無愛想に答えた。昌男や美千隆に向けられる声とは大違いだった。
「なに怒ってるのよ?」
わかっている。麻美が邪魔をしたからだ。彰洋は美千隆たちの仕事にのめりこんでいる。麻美とドライヴするより、美千隆のそばにいて、仕事の話に耳をそばだてていたいのだ。
「怒ってなんかいないよ」
「嘘ばっかり」
「麻美こそ、なに苛《いら》ついてるんだよ?」
「別に……ちょっと退屈しただけ」
「確かに、女には退屈な話だったかもしれないけどな。しょうがないだろう。波潟さんも美千隆さんも仕事の打ち合わせ兼ねて飯食ってるんだから。美千隆さんとは別口で会ってるんだろう?」
行くあてのないドライヴ──彰洋は首都高に車を乗りいれた。
「ちょっと退屈だっただけっていったじゃない」
声が尖っていく。抑えようとしても抑えきれない。美千隆の話を聞きたかった。麻美と会っていないときの美千隆がなにをしているのか。だれと会い、だれと話をしているのか。他にもいるに違いない女たちの話を聞きたかった。自分より綺麗なのか聞きたかった。自分より金になる女たちなのか聞きたかった。
だが、口を開くことはできない。彰洋は勘がいい。美千隆のことを聞けば、すぐに理由を察する。そんなことには耐えられない。そんなことはゆるせない。
彰洋が舌打ちした。
「また工事やってやがる。これで高速道路だっていうんだから笑うよな」
彰洋の目は真っ直ぐ前を向いていた。工事中だということを示す赤い光──それに続く、無数のブレーキランプ。
「しばらく動かないぞ、これ」
「いいじゃない。どこかに行くわけじゃないんだし」
「そうだな……銀座のクラブで死ぬほど高い酒を飲まされてるよりこっちの方がましかもな」
「ね、なんか話してよ。退屈紛らせるような話」
「そんな話、簡単に転がってたら世話ないさ」
「仕事はどうなの?」
麻美が聞いた瞬間、彰洋の目が輝いた。
「そういえば、今日、でかい仕事まとめたんだ」
彰洋は勢いにのって喋りはじめた。夫を失ったばかりの身寄りのない老婆を騙して土地を安く手に入れた話だった。
彰洋は自慢げだった。昂揚していた。罪の意識は微塵も感じていないようだった。
記憶が逆流した。
美千隆とのつかの間の逢瀬《おうせ》。身体を重ねあったあとに交わされる枕詞。
最近、パパの仕事にまつわるお金の話を聞いても昔みたいにわくわくしないの──麻美はいった。
金は麻痺させるからな──美千隆は答えた。
麻痺させるってなにを?──麻美は訊いた。
全部をだ──美千隆は笑った。
彰洋は麻痺しはじめている。自分でそのことに気づいていない。
「その話、うまくまとまったら彰洋ちゃん、いくらもらえるの?」
「うちの規定だと、固定給の他に儲けの五パーセントのボーナスだから……いくらになんのかな、わかんねえや」
彰洋は面倒くさそうにいった。金には麻痺しはじめているが、自分のものになる金には無頓着なのが彰洋らしかった。
「じゃあ、その仕事がまとまったら、なにかプレゼントしてよ」
「欲しいものなんてあるのか? なんだって波潟さんに買ってもらえるんだろう?」
「それとこれとは別よ。彰洋ちゃんが初めて大きな仕事をした記念に買ってもらうんだから」
「なんだよ、それ。普通、逆じゃねえのか」
車の列は遅々として進まない。だが、彰洋はすでに苛立ちを忘れたようだった。
「じゃあ、マミもなにかプレゼントしてあげようかな……なにがいい?」
いくつものインポートブランド・ショップが頭をよぎった。彰洋に着せてみたいブランドはいくらでもあった。
「そうだ。プレゼントはいらないから、今度、麻美の友達でも紹介してくれよ」
彰洋はいった。無邪気な口調だった。
「なに、それ?」
声が尖る。盛りあがっていた気分が、空気の抜けた風船のように萎《しぼ》んでいく。
「美千隆さんにいわれたんだ。女のひとりやふたりぐらいいなきゃ、なめられるからって。だけど、仕事は忙しいし、夜は接待ばかりでさ、顔見知りの女って銀座の女しかいないんだよ。あいつらが金に群がるところ、嫌になるぐらい見てるから、あいつら引っかけるってのも癪に障るし」
麻美は窓の外に視線を向けた。目の前の車のブレーキランプが明滅した──頭の中を光が照らす。
早紀を彰洋に紹介する──正攻法で攻めるのは難しいが、うまく立ち回れば、なんとかなるかもしれない。早紀と彰洋がくっついたあとに、彰洋を奪い取る──退屈が消し飛ぶ。
「考えてもいいわよ」
麻美は微笑みながらいった。
5
でかい仕事がまとまりつつある──雰囲気で感じる。美千隆は家に帰らなくなった。センチュリーハイアットに部屋を取り、そこから会社に通ってくる。
夜。彰洋は何度も美千隆の部屋に呼び出された。いいつけられるのはメッセンジャーの仕事──子供にでもできる。美千隆の指示に耳を傾けながら、部屋の豪華さに目を瞠《みは》る。
巨大企業の会議室のようなリヴィング。キングサイズのベッドがふたつ置かれたベッドルーム──彰洋が住んでいる部屋よりスペースがある。シャワールームが独立したバスルーム。バスタブからは泡が噴きでる。
「いくらするんですか、この部屋」
初めてスイートを訪れたときに聞いた。
「たいしたことはない」
美千隆は面倒くさそうに答えた。彰洋は眩暈《めまい》を覚えそうになった。美千隆のようになりたい──痺《しび》れるような願望に卒倒しそうになった。
「そのうち、おまえもホテル暮らしぐらい屁《へ》とも思わないようになる」
美千隆はいった。なりたい──彰洋は思った。金を儲けたいわけではない。ただ、他人には思いもよらない存在になりたかった。
夜になると、新宿のホテルと銀座のクラブを往復する。クラブにいるのは得体の知れない連中ばかりだった。ときには波潟昌男が待ち構えていることもあった。彰洋はその連中に美千隆からのメッセージを伝える。連中は美千隆に対する返答を彰洋に託する。
返事はいつも決まっていた──わかった。明日の昼までに振りこんでおく。
美千隆は金策に励んでいる。膨大な金をかき集めている。
なんのために? 決まっている。土地を手に入れるためだ。
昼間は会社にいることが多くなった。電話番──山田美佐子だけでは捌ききれないほどに電話が鳴る。社員十人の不動産屋だとは思えないほどの電話の量。吐きだされるファクシミリ。ほとんどすべては美千隆宛。残りのわずかが専務の加藤と常務の高橋宛。
会話とファクシミリの断片からでかい仕事の全貌が見えてくる。
中野坂上の土地の地上げ。駅裏の一画の再開発計画。情報は波潟から美千隆に伝えられた。地上げをまとめることができれば、数百億の儲けになる。数百億を手に入れるために、美千隆と加藤と高橋は数十億の金をかき集めている。他の社員たちは買うべき土地の持ち主たちとの交渉に明け暮れている。
体温はあがりつづけている。落合の土地売買の話は目処《めど》がついた。それ以外にろくな仕事はしてない。電話番とメッセンジャーの役目しか回ってこない現実に苛立ちを感じる。あと五年早く生まれていたら──受話器を握りしめながら歯ぎしりする。脳が、身体が新しい刺激を求めている。まるでヤク中のように。
電話が鳴る。
「はい、MS不動産」
「彰洋か?」
電話は美千隆からだった。
「仕事ください、社長」
反射的にそう口にしていた。苦笑が返ってきた。
「わかった、仕事をやるから今すぐホテルに来い」
* * *
寝ぐせがついた髪の毛。落ちくぼんだ眼窩《がんか》。かさかさに乾いた顔の皮膚──こんな美千隆を見るのは初めてだった。
「座れ」
美千隆が指し示したソファの上には書類が散乱していた。テーブルの上には地図が広げられていた。彰洋は書類をひとまとめにして腰をおろした。
「まずいことでもあるんですか? 酷い顔色ですよ、社長」
「ふたりのときは美千隆さんでいいといってあるだろう」
美千隆は不機嫌そうに答え、煙草をくわえた。彰洋はライターを差しだした。美千隆は火のついた煙草をすぐに消した。
「吸いすぎだな。まずくてたまらん。そのくせ、気がつくとくわえて火をつけてるんだ……おれが今手がけてる仕事の内容、わかってるか?」
彰洋はうなずいた。
「だれに聞いたんだ?」
「だれも社にいないから、聞きようがないですよ。いろんなことから推理したんです」
美千隆は微笑んだ。
「マミが一番好きなのは金持ちの男だが、その次に好きなのはなんだかわかるか?」
彰洋は首を振った。
「頭のいい男だよ。その次が顔だ。おまえは両方とも満たしてる。だから、おまえはあいつのことを麻美≠ニ呼んでも許してもらってるんだ。ただ、幼馴染だからってわけじゃない」
「美千隆さんは三つとも満たしてるじゃないですか」
「おれが持ってるぐらいの金じゃ、あいつは満足しないよ。もう、波潟を知ってるんだからな……まあ、マミのことはいい。要は、おれもおまえの頭のいいところを気に入ってるってことだ」
「人から頭がいいと褒められたのは初めてです」
美千隆はまた微笑んだ。落ちくぼんだ眼窩の奥で瞳が暖かい光をたたえた。彰洋は落ち着かない気分になった。まるで実の兄かなにかに見つめられているかのようだった。
「いいから、おれがやってる仕事がなんなのかいってみろ」
「中野坂上の地上げです」
「正解だ」
「うまくいってないんですか?」
「だいたいの話はついた。金策もなんとかなりそうだしな……ただ、ひとつだけ問題がある」
美千隆は目の前のテーブルの上の地図に指をさした。中野区の住宅地図──指先は中野坂上を示している。
「このあたりはほとんど話がついた。あとは金を渡して出ていってもらうだけなんだが、問題はここだ」
美千隆が指し示した場所には『バーバー桜井』と明記された建物があった。
「さえない床屋なんだがな。親父がとんでもない石頭なんだ」
「もっと金をよこせっていってるんですか?」
「だったら話は簡単だよ、彰洋。父親から受け継いだ土地を手放す気はないの一点張りなんだ。太田や鈴木が何度も足を運んでるんだがな」
太田と鈴木──ふたりとも美千隆が別の不動産屋から引き抜いてきたベテランだった。
「高橋にも挨拶に行かせたんだが、けんもほろろの応対で追い返された。高橋から聞いたところじゃ、おれが出張っても逆効果らしい」
「じゃあ、どうするんですか?」
「どうしたらいいと思う?」
美千隆は挑発するような口調でいった。目は笑っていた。つまり、これもテストということだった。
「正面突破が無理なんだから、他から攻めなきゃだめってことですよね」
「そういうことだ。その書類を見てみろ」
美千隆は、彰洋がひとまとめにして脇に置いておいた書類に顎《あご》をしゃくった。彰洋は書類の束を手に取った。
興信所からの調査報告書。調査対象は桜井茂則とその家族。一枚めと二枚めの紙が家族それぞれの写真がついた身上書だった。
桜井茂則は四十五歳。白髪が混じった短く刈り上げた頭といかつい風貌は博徒を思わせる。
妻の幸子は四十二歳。名前とは裏腹に幸せに縁がなさそうな顔つき。実際の年よりも老けて見える。
息子は勝也、二十歳。写真の勝也は髪を肩まで伸ばし、革ジャンを着ている。身上書には、勝也が高校を中退したあと、友人たちとバンドを組んで活動していると書いてあった。
身上書の下の書類は素行調査をまとめたものだった。桜井茂則は風貌とは裏腹に堅物といっていいほどに真面目な人間だった。酒も煙草もやらず、外に女がいる様子もない。唯一の趣味はパチンコだが、それにしても店が休みの日に出かけるだけだった。
妻の幸子も似たようなものだった。昼間は茂則とともに客の髪の毛を切り、夕方になると主婦の仕事をはじめる。趣味はといえば、近所の主婦連中とたまに出かける温泉旅行。
日本中を覆い尽くしている好景気とはまったく無縁の暮らし。日々の生活の中に埋没し、ただ生きているというだけの人種。自分がなんのために生まれてきたのか、自分になにができるのかを考えたこともないだろう。
息子の勝也は少しは考えているらしい。バイトに明け暮れる日々。バイト代のほとんどはバンド練習のための貸しスタジオ代と練習があけたあとに繰りだす渋谷や新宿の居酒屋代に消えている。毎週のようにどこかのレコード会社にデモテープを送りつけてはいるが、色よい返事が来たことは一度もない。
彰洋は書類から顔をあげた。美千隆がじっと様子をうかがっていた。
「おまえならどうする、彰洋?」
「社長の……美千隆さんの考えはもう決まってるんでしょう?」
「おまえの意見を聞きたいんだ」
彰洋は腕を組んだ。少し間を置き、口を開いた。
「攻めるなら息子ですよね。こういう連中、よく知ってるけど、けっこう鬱屈が溜まってるんですよ。美味しい話をぶら下げてやれば、すぐに飛びついてくるんじゃないですか。何千万もの金が入ると聞けば、必死で親を説得しますよ」
「それじゃだめだ」美千隆はにべもなくいった。「桜井と息子は同じ屋根の下で暮らしちゃいるが、ほとんど絶縁状態だそうだ。当たり前だろう。親父はがちがちの堅物だ。ロックバンドをやろうなんて息子をゆるせるはずがない。息子がなにをいおうが耳を貸しゃしないよ」
「じゃあ、どうすれば……」
彰洋の問いに美千隆は答えなかった。ソファから腰をあげ、冷蔵庫に向かった。白ワインのハーフボトルを取り出し、栓を開けはじめた。
「初めて会ったときにおれがいったこと、覚えてるか、彰洋」
「もちろんですよ」
彰洋は答えた。記憶が奔流となって押し寄せてきた。
麻美と三人で飯を食った夜──はじめは美千隆が気にくわなかった。麻美の態度でふたりができていることを察したからだった。美千隆はアルマーニのスーツを着ていた。金を持っていた。麻美と寝ていた。嫉妬を抱くには充分な相手だった。
だが、マイナスのイメージはすぐにかき消された。どこの馬の骨ともわからぬ彰洋を相手に、美千隆は熱っぽく語った。仕事の話を、土地の話を、金の話を。
彰洋はすぐに引きこまれた。自分の知らない世界。未知なる世界。途轍《とてつ》もない世界。美千隆の話は魅惑的で香ばしかった。
それでも、どこか他人事として聞いていたのは確かだった。魅力に溢れた世界ではあるが、自分とは無縁だと。それが劇的に変化したのは、美千隆が口にした言葉のせいだった。
おれはおれの王国を作りたいんだ──美千隆はいった。
身体を稲妻が貫いた。
その王国が具体的にはなにを指すのかは聞かなかった。聞く必要はなかった。
王国≠ニいう言葉は黄金のように光り輝いていた。その言葉を口にした美千隆自身も輝いて見えた。眩《まばゆ》い煌《きら》めきは、彰洋の身も心も麻痺させた。
おれにも手伝わせてください──思わずそう口走っていた。
「あの話はな、だれにでも聞かせるわけじゃないんだ」美千隆は彰洋に背を向けたまま、ワインをグラスに注ぎはじめた。「王国を作りたいなんて、ガキじゃあるまいし、普通のやつに話しても笑い飛ばされるだけだからな」
「どうしておれには話してくれたんですか?」
「おまえを連れてきたのがマミだからだよ。おれはあいつを気に入ってるんだ。相当にひどい女だが、金に関しては純粋だ。その純粋さが好きなんだ。それに少し話をしただけでおまえのことも気に入った。なにかをしたくてうずうずしてるのにやりたいことが見つからないっておまえの目は訴えてたよ、彰洋。おれは飢えてるやつが好きなんだ。なにかに満足して、それでのほほんと暮らしてるやつを見ると、ぶち殺したくなる」
美千隆が振り向いた。両手にワインで満たされたグラスを持っている。白いワインは部屋の照明を受けてきらきらと輝きながら波打っていた。
「おれの王国の基礎になるのはな、彰洋、おれの会社だ」美千隆は歌うような口調で続けた。「今はちゃちな不動産屋でしかないが、おれの力で会社をでかくする。日本だけで勝負するつもりはない。世界に進出して、世界中の不動産を取り扱ってやる。ニューヨークのど真ん中に自社ビルを建てて、そこから世界を眺めて暮らすんだ。眺めるだけじゃない。目一杯両手を拡げて世界を手にしてやる」
「美千隆さんならできますよ」
美千隆はソファに腰を落ち着けた。自分と彰洋の前にグラスを置きながら何度もうなずいた。
「そのためには金がいる。一億や二億なんて端た金じゃない。何千億、何兆って金だ。それだけの金を手にしようと思ったら、綺麗事だけ抜かしてるわけにはいかない。汚い世界に片足を突っこんでおかなきゃならないんだ」
「わかります」
美千隆の目は光を帯びていた──あの夜のように。彰洋は美千隆の目に引きこまれた。体温があがるのを感じた。
「だが、会社の名を汚すことはできない。社員に汚れ仕事をやらせるのもなしだ。王国ってのはな、彰洋、栄光に彩られてなきゃだめだ。嘘でもいいから、光り輝いてなきゃとおれは思ってる。だから、汚れ仕事はおれひとりでやる。高橋も加藤も多少は裏との繋がりを持ってるが、堅気の人間だ。他の社員たちもな。あいつらは、おれの会社が伝説になるための礎《いしずえ》だよ。みんなで必死になって働いて、会社をでかくする。あいつらを気持ちよく働かせるためにも、汚れ仕事から遠ざけておきたいんだ。汚い世界を見せる必要はない。だけどな、彰洋──」
美千隆は言葉を切った。天井に顔を向け、目を閉じた。目の輝きが消えた途端、美千隆は十も老けたように見えた。
「ひとりでは限界がある。悔しいが、限界はあるんだ」
絞りだすような声──必死の叫びのように聞こえる。
体温がまたあがる。|尾※[#「骨+低のつくり」、unicode9ab6]骨《びていこつ》のあたりから痺れが広がっていく。
美千隆が助けを求めている──この自分に助けを乞うている。
「おれ、美千隆さんについていきますよ。なんでもいってください。なんだってやってみせます」
汚れ仕事だろうがなんだろうがかまいはしなかった。体温があがる感覚──美千隆が与えてくれた。体温があがり続けるかぎり、どんなことにも耐えられる。あの感覚はなにものにも代えがたいものだった。
「おまえは優しい男だからな」美千隆は目を開けた。「辛いぞ。逃げだしたくなるかもしれない。そうなって普通なんだが、おれはこういう人間だから、途中で逃げだしたら、おまえを絶対にゆるさない」
「逃げませんよ。おれ、見たいんです。美千隆さんがどんな王国作るのか、この目で確かめたい……」
彰洋は口を閉じた。もどかしさが襲ってくる。そうじゃないだろう──だれかが耳元で叫んでいる。
「いや、違う……そうじゃないんだ。おれも、美千隆さんと一緒にその王国を作りたいんだ」
美千隆が微笑んだ。
「さっきもいったが、マミが取り持った縁だ。おまえにはとことん付き合ってもらおうと思っていたよ」
美千隆はグラスを掲げた。彰洋はそれに倣った。
「親分に盃をもらうやくざみたいですね、これ」
美千隆が首を振る。
「親分子分じゃない。これは義兄弟の盃だ」
美千隆は彰洋のグラスに自分のグラスをぶつけた。一気に中身を飲み干した。彰洋もそれに続いた。ワインは酸味が強すぎ、冷えすぎていた。それでも、これまでに飲んだどのワインより美味だった。
「これでおれたちは義兄弟だ。おれを裏切るなよ、彰洋。地獄の底までついてきてもらうからな」
「裏切りませんよ、絶対に」
「おれたちがふたりだけでする話は、だれにも聞かせられない話だってことを忘れるな」
「わかってます。いったでしょう。なんでもいってください。なんだってやります」
「よし。それじゃあ、早速仕事をしてもらう。桜井の息子をはめろ。やり方はなんだっていい」
美千隆はいった。淡々とした口調だった。
6
久しぶりのキャンパス。埃っぽい風が吹く中をおそろいのスタジャンを着た男女が三々五々の塊《かたまり》になって歩いている。テニスにスキー、イヴェント。名前は違っても実態は変わらない。サークルの名前をロゴにしたトレーナーやスタジャンを揃え、他のサークルと合コンをし、年に数度、ディスコパーティを企画する。女と金が目当ての男たち。男をあしらうことに快感を覚える女たち。波潟が象徴する世界のミニチュア──涙が出るほどスケールが小さい。
すれ違った顔見知りが声をかけてくる──マミ、久しぶりじゃない。イヴェントサークルのロゴが入ったスタジャンにリーヴァイスのヴィンテージ・ジーンズ。足元はナイキのスニーカー。流行を先取りしたつもりでいて、なにかが微妙にずれている。
ここがキャンパスでよかった──麻美は思う。青山や六本木で声をかけられたら、恥ずかしさより先に怒りを覚える。
ゼミの教室に顔を出す──早紀はいない。早紀の取り巻きもいない。
マミ、久しぶりじゃん、どうしたの、学校に来るなんて──ひとしきり声が飛び交う。適当にあしらって学食に足を向ける。学食は混雑していた。人いきれでむっとしていた。安物の調味料の匂いが充満していた。
この大学に入学したときは学食の抑えられた値段とその割に安定している味に感激した。朝も昼もこの学食で腹を満たした。母親の節子のためにも、生活費はできるだけ切り詰める必要があった。今では匂いを嗅いだだけで吐き気を覚える。
人間ってのはな、一度階段をあがってしまったら、簡単には下に降りられないようにできてるのさ──美千隆がいった言葉を思いだす。美千隆のいうとおりだった。美千隆が間違うことは滅多にない。
食堂の片隅に、同じゼミの女が三人、固まって座っていた。ランクの低いDCブランドで頭のてっぺんから爪先までを飾りたてている。サークル活動より付属組に媚を売る方が楽しいと考えている女たち。かつての麻美と同じ匂いをふりまく女たち。
麻美は三人が座るテーブルに近づいた。
「あら、マミじゃない。珍しい。どうしたの?」
三人の内のひとりが皿から視線をあげる。顔は覚えていた──名前は思いだせなかった。早紀の取り巻きでないことだけは確信が持てた。
「ちょっとね……たまには顔を出さないと卒業できないかもしれないし」
「うそ。マミ、卒業する気あるの?」
最初に声をかけてきた女の隣りの女がいう。その女の名前も麻美は思いだせなかった。
「当たり前じゃない」
「だって、お金持ちのパパ捕まえたから、もう学校なんてどうでもいいんだってみんないってるよ」
三人めの女──麻美が視線を向けると、失言したことに気づいて顔を歪《ゆが》ませた。
「だれがそんなこといってるのよ?」
三人が顔を見合わせた。気まずそうな沈黙──麻美は笑い飛ばす。
「黙ってたってわかるわよ。早紀たちでしょ?」
「そうだけど……」
最初に口を開いた女がいった。
「遠慮しなくていいわよ。マミ、気にしないから」
麻美はいって、自分の服と三人の女たちの服を見比べた。麻美のファッションの方が五倍は金がかかっていた。女たちの表情にはかすかに嫉妬の色があった。三人が三人とも、自分もお金持ちのパパが欲しいといっていた。
「そういえば、早紀見ないけど、最近、学校に来てないの?」
三人がまた顔を見合わせる。
「どうしたのよ?」
麻美がいうと、三人めの女が口を開いた。
「マミ、知らないの?」
「なにを?」
「祥子と美香知ってるでしょう? あの子たち、六本木で黒人にレイプされたんだって」
麻美は視線を落とした。笑いがこみあげてくる。必死でそれを押さえた。
「知ってるんだ?」
「この前、聞いたよ。可哀想にね」
「それでね……これ、噂なんだけど、気にしないで聞いてくれる?」
麻美はうなずいた。
「もちろん。変な噂、一々気にしてたら、マミ、学校来れないもん」
「早紀ね、ふたりを黒人に襲わせたのはマミだってお父さんにいったんだって。それで、お父さんが怒って、早紀のこと殴っちゃって……早紀、顔が酷く腫れちゃって、それでしばらく家から出てないんだって聞いたのよ」
初耳だった。黒人に祥子と美香をレイプするように依頼してからもう、二週間は経っている。その間に、波潟とは三度は顔をあわせている。波潟はそんなことはおくびにも出さなかった。
「早紀の取り巻きがそういってたの?」
三人が同時にうなずいた。早紀のお父さん──マミのパパ。六つの瞳の奥で輝く下卑《げび》た好奇心。噂は瞬く間にキャンパス中に広まったに違いなかった。
「なんでマミがそんなことしなきゃなんないのよ」麻美はいった──憤ったような口調。芝居ならお手の物だった。「早紀がマミにそういうことするならわかるけどさ」
「わたしたちも噂聞いただけだからよくわかんないけど」
「とにかく、そういう噂になってるわけね……わかったわ」
麻美は腰をあげた。
「帰っちゃうの?」
「うん。今の話聞いて気分悪くなった」
「だって、マミ、気にしないっていったじゃない」
「そこまで酷い噂だと思わなかったもん」
麻美は三人に一瞥《いちべつ》をくれた。ふたりが目を伏せた。最初に麻美に声をかけてきた女だけが羨ましそうな視線を麻美の手元に向けていた。
「マミ、それ、ケリーでしょ? もちろん、本物だよね?」
「当たり前じゃない。早紀のお父さんに買ってもらったの」
麻美はこれみよがしにエルメスのケリーバッグを手に取った。
* * *
受話器を握り、置く──何度も繰り返す。その気にはなっているのに、決心がつかない。
早紀と最後に言葉を交わしたのはいつだったろう?
麻美は唇を噛み、電話をじっと睨んだ。
泥棒猫──記憶が鮮明によみがえる。早紀の声は甲高かった。
友達だと思ってたのに、よくそんなことができたわね、あなたは恥知らずよ──早紀は泣いていた。
麻美は顔を伏せて早紀の罵詈雑言《ばりぞうごん》に耐えていた。反論したかった。勝ち誇ってやりたかった。だが、それが波潟の耳に入るのが恐かった。あのときは、麻美は大勢いる波潟の女の中のひとりにすぎなかった。
最初からそのつもりでわたしに近づいたのね、性悪女《しようわるおんな》──早紀は叫んだ。
早紀は間違ってはいなかった。最初からそのつもりだった。それでも、心は激しく傷ついた。金さえ手に入れることができるなら、だれになんといわれてもかまわない──そう思っていたのに、早紀の口から発せられる言葉は麻美の心をずたずたに切り裂いた。
あのときの屈辱は忘れられない。忘れることができない。
それに、今はなによりも退屈だ。波潟も美千隆も彰洋もマネーゲームに血眼《ちまなこ》になっている。
麻美は受話器に手を伸ばした。記憶に残っている番号をダイヤルした。
「もしもし?」
最初の呼びだし音が鳴り終わらないうちに相手が出た。早紀──思ったよりも明るい声。
「早紀?」
「そうですけど……どちらさまですか?」
早紀の声のトーンが変わった。
「わたし……マミよ」
沈黙──麻美は慌てて叫んだ。
「待って、早紀。切らないで。話したいことがあるの」
また沈黙──だが、今度は電話が切られる雰囲気は消えていた。
「もしもし? 早紀、聞いてる?」
「よく電話なんかかけてこれたわね」
冷たい声が返ってきた。声には怒りと憎しみがこめられていた──昔と違って受け流すことができた。心に余裕があると、人は格段に強くなれる。
「ごめんね──」麻美はしおらしい声を出す。「電話できた義理じゃないのはわかってるんだけど……」
「だったらどうしてかけてきたのよ」
早紀の声の冷たさが変わることはない。麻美は微笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「今日、久しぶりに大学に行ったの。そうしたら、変な噂を耳にしたから」
「どんな噂?」
冷たかった声に警戒の色が加えられた。耳に神経を集中させた。
「……マミのせいで、早紀がお父さんに殴られたって」
三度の沈黙──主導権は麻美が握っていた。
「ちょっとびっくりしちゃって」しおらしい声を続ける。自責の念を演出する。「昌男さん、そんなこと一言もいわなかったし……本当か嘘かはわからなかったけど、本当だったらどうしようと思って」
「本当だったら、なにをどうしようと思ったわけ?」
早紀は咳込むようにいった。語調が微妙に変化している──戸惑っている。
「今さらなにいってるんだって思うかもしれないけど……マミのせいだから、謝らなきゃと思ったの」
「あなたが? わたしの家庭をめちゃくちゃにしたくせに、わたしがパパに殴られたからって、それだけで謝ってくれるわけ?」
今度は麻美が口を閉じた。沈黙を演出しながら、麻美は部屋を横切った。クローゼットを開け、吊るした衣服に視線を走らせる。
「黙ってないでなにかいいなさいよ」
先に焦《じ》れたのは早紀の方だった。
「……ごめんなさい」
麻美はサンローランのスーツを手に取った。波潟のカードで買ったスーツ──早紀も同じものを持っているはずだった。
「急にしおらしくなってどうしたの? あなたらしくないじゃない」
早紀の声からは怒りと憎しみの色が消えはじめていた。
「早紀やお母さんがマミのことどう思ってるかは知ってるけど、マミだって悪魔じゃないんだから、マミなりに傷ついてるのよ。確かにマミは早紀たちを不幸せにしたのかもしれないけど、だからって、マミのせいで早紀が殴られて嬉しいわけじゃないのよ。ごめんね、変なこといって。一言謝りたかっただけだから、迷惑だったら、電話切るよ」
早紀がなにに対して強く、なにに対して弱いのかはわかっていた。偽りの友情を育んでいた時期にじっくり見極めていた。世間知らずのお嬢さま。波潟は成金と呼ばれるようになる以前から、サラリーマン家庭には望めない金を動かしていた。早紀は箱入り娘として育てられていた。
早紀を動かすのは簡単だった。今までそれをしなかったのは、する必要を感じなかったからだけにすぎない。
「本気なの、マミ?」
早紀の声からは冷たさも消えかかっていた。マミ──波潟と麻美が寝ていることを知られてから、早紀に名前で呼びかけられたことはなかった。
「じゃなかったら、電話なんかしないよ。ごめんね、早紀。マミさえお父さんのこと好きにならなかったら、こんなことにならなかったもんね」
隙を見せておいてから、もう一度早紀の弱点を突く。波潟とのことを匂わせた瞬間、受話器から伝わってくる雰囲気が一変した。
「だったら、マミ、わたしに会える? わたしの目の前で謝ることできる?」
高をくくった声──できないだろうと言外に伝えてくる。麻美はスーツを吊るしなおしながら微笑んだ。
「いいわよ。マミのことゆるしてくれるっていうなら、今すぐ会いに行ってもいいわ」
沈黙──早紀は逡巡している。あとひと押しがいる。
「どうしてもっていうなら、土下座だってできるわよ。マミ、本当に申し訳ないって思ってるんだから」
「電話番号教えて。今は人前に出られないから、あとで、わたしから連絡するわ」
麻美は笑いを噛み殺した。間があく──早紀には麻美が絶句したように伝わるはずだった。
「人前に出られないって……」タイミングをはかって口を開いた。「本当に殴られたの?」
「いいのよ、悪いのはわたしなんだから。それより、早く電話番号教えて」
麻美は教えた。電話を切り、大声で笑った。笑いながらベッドに身を投げだした。
「頭が悪いにもほどがあるわよ、早紀」
シーツに顔を埋めて呟いた。
* * *
初めて言葉を交わしたときから早紀が嫌いだった。母親の紀子も同じようなものだった。
東京のど真ん中の豪邸──広い家、広い庭、きらびやかな家具にきらびやかな衣装。だれもが夢見、だれもが実現させることのできない環境を、早紀と紀子は当然のことだと思いこんでいた。波潟昌男の妻であり娘であるという偶然がもたらした貴族のような生活を、あの母娘は当然の権利のように享楽していた。そのくせ、昌男の外見の醜さや女癖の悪さを詰《なじ》ってやむことがなかった。
たぶん、麻美が最初に感じていたのは嫉妬だった。自分が望む生活をいともたやすく手に入れた人間に対する醜い嫉妬。波潟家の人間たちをよく知るようになって、その嫉妬は激しい怒りに変わった。
あれは、紀子の誕生日の夜だった。麻美は波潟家に招かれた──麻美だけが招かれた。波潟はいなかった。急な仕事が入って戻れないと連絡が入ったと紀子がいった。豪勢な料理とワイン。飽食と酔いが母娘ふたりの化けの皮を剥《は》いでいく。ふたりは波潟の悪口をいいあった。金儲けに奔走する世間の人間たちを嘲笑《あざわら》った。
麻美はふたりの会話に耳を傾けた──ふたりはなにもわかってはいなかった。
めちゃくちゃにしてやるから──ねえ、マミちゃんもそう思うでしょうと紀子に話を振られた瞬間、そう決めた。
紀子が話していたのは、麻美たちの大学の付属中学に自分たちの子供を入学させようと奔走する親たちのことだった。紀子は彼らのなりふり構わないやり方を眉を顰《ひそ》めて笑い飛ばしていた。
みんな幸せになりたいから必死なのよ。傍《はた》から見れば馬鹿げたことでも、その人たちは真剣なのよ。あなたたちにはわからないみたいだから、わたしがわからせてあげる。
紀子に微笑み返しながら、心の底で唱えた誓い。
昌男を虜《とりこ》にすることには成功した。だが、あの誓いが果たされたわけではなかった。
* * *
電話が鳴った。笑いの発作はまだ続いていた。麻美は咳込みながら電話に出た。
「麻美か?」
彰洋の声が鼓膜を震わせた。
「どうしたの、彰洋ちゃん?」
「風邪でも引いたのか? 声がおかしいぞ」
「違う、違う。ちょっと楽しいことがあって、笑いすぎちゃっただけ」
「なんだよ、腹抱えて笑うほど楽しいことって?」
一瞬、すべてを彰洋に教えてやりたいという欲望が頭をもたげた。馬鹿げている──彰洋は露骨に嫌悪感を示すだろう。
「内緒」
麻美は甘えたような声を出した。
「なんだよ、教えてくれてもいいじゃないか」
「そんなことより、彰洋ちゃんこそなによ。まだ勤務時間でしょう?」
「頼みがあるんだ。今日、会えないか?」
彰洋の声の調子が変わった──このうえなく真剣な声。
「なに?」
「会ってから話すよ」
「でも、急にいわれても困るな。マミにだって予定はあるんだから」
「頼む。時間がないんだ。今日付き合ってくれたら、お返しはなんだってする」
彰洋に貸しを作っておくのは悪い話ではなかった。今夜のデートの相手は自称カメラマン。一方的にキャンセルしたところで痛くも痒《かゆ》くもない。
「マミにものを頼むと高いわよ」
「わかってる。それでも、麻美にしか頼めない」
「いいわ、じゃあ、夕方の六時にいつものところでいい?」
退屈だった日々に魔法使いが魔法をかけた──そんな気がしてきた。それもこれも、早紀に電話をかけたせいに違いない。
ありがとう、早紀──彰洋の声に耳を傾けながら、麻美は心の中で呟いた。
7
午前十時から午後七時まで──休憩時間は午後二時から三時までの一時間。月曜から金曜まで──休日は土日だけ。新宿の喫茶店でウェイターのバイト。土曜日に赤坂のスタジオにバンド仲間と集合し、二時間の練習に明け暮れる。日曜日は原宿の歩行者天国で路上ライヴ。ライヴが終わったあとは渋谷近辺の居酒屋で飲み明かす。時に新宿へ繰りだすこともある。
桜井勝也の日常──興信所がまとめてきた報告書。
バンドの名前はホット・ロッド=Bヴォーカルが尾崎慎平。ベースが吉永和人。ドラムスが小林真一。ギターが桜井勝也。尾崎と吉永にはガールフレンドがいた。勝也は半年前に恋人と別れていた。週に二、三日、バイト帰りにレンタルヴィデオ屋に寄ってアダルトヴィデオを借りている。
連中がレコード会社に送ったデモテープを手に入れて聞いてみた。ラウドネスの下手なコピーでしかなかった。テクニックはそれなりに、だが、ハートはかけらも感じられない──ホット・ロッドはそんなバンドだった。売れるはずがなかった。うまくいけば、だれかひとりぐらいはスタジオ・ミュージシャンへの道が開ける程度のバンド。だが、歩行者天国での集客率はそこそこに高い。ヴォーカルの甘いマスクがその理由。
毎週日曜日の夜に催されるホット・ロッドの宴──バンドの方向性に関する議論が交わされる。ベースとドラムスは自分たちの信じる音楽を貫こうと気勢をあげる。ヴォーカルと勝也は売れなきゃ話にならないと水を差す。
要するに、ホット・ロッドはちゃちなアマチュアバンドだった。桜井勝也が求めているのは金と名声だった。六本木のディスコには似たような連中が大勢いた。連中のことなら、彰洋にはたいていのことがわかっていた。
興信所の連中が盗み撮りした勝也の写真──長髪に革ジャン、革のパンツ。斜に構えた視線は、床屋の二代目で終わってたまるかと叫んでいる。
次の水曜日──ホット・ロッドは新宿のライヴハウスで演奏をする。いくつものアマチュアバンドの中のひとつとして。
時間は限られている。水曜日にきっかけを掴まなくてはならない。
昔の仲間に連絡する。ディスコに入り浸っていたやつら。ディスコでイヴェントパーティを打っていた学生たち。ギターを弾くことより女を口説くことに夢中だったバンドマン。
バンドマンがホット・ロッドを知っていた。バンドマンは売れないバンドのギタリストだった。売れているバンドにくっついて飲み歩くことで有名だった。若い連中に先輩風をふかすのが好きなことで有名だった。
水曜の夜──ライヴ後の打ち上げをやる場でホット・ロッドのメンバーに紹介してもらう段取りをつけた。
「しかし、おまえ、目鼻が利くよな」
バンドマンがいう。
「どういうことですか?」
「あいつら、デビューできるかもしれねえらしいぜ」
「本当ですか?」
「ああ、まだ本決まりってわけじゃねえらしいが、最近のレコード会社の連中は、ホコ天のやつらに目をつけてるからな。あんなバンドでも、とにかくデビューさせてみようって話が多いんだよ」
体温があがる──デビューを目前にしたロックバンド。スキャンダル作りのお膳立てが整っている。
* * *
歌舞伎町のセンターロード沿いにあるお好み焼き屋──異様なファッションに身をくるんだ連中がほとんどのテーブルを占領していた。焼けた鉄板の上で水分が蒸発する音と若い男たちの話し声が攪拌《かくはん》されて、お好み焼き屋はライヴハウスの喧騒をそのまま持ちこんだようになっていた。
「あそこのテーブルに座ってんのがホット・ロッドだ」
バンドマン──沢田が突きだした指の先に八人掛けのテーブルがあった。ホット・ロッドの四人と、他のバンドの四人がお好み焼きを貪り食っていた。彰洋と沢田は人の間を縫ってそのテーブルに近づいた。
「ところでよ、彰洋。さっきの話、マジで頼んでいいか?」
沢田が足をとめた。彰洋はうなずいた。沢田の卑屈な声が耳の奥でよみがえる──おまえ、最近景気がいいんだってな? 金、少しまわしてくれねえか?
沢田に金がないことはわかっていた。無心されるだろうという予想もしていた。未曾有の好景気に沸いていても、いつも懐に余裕のない人間がいる。銀座の高級クラブに通い、株と土地を買わないやつは馬鹿だと気勢をあげている連中と、沢田や桜井のような連中──同じ国に住んでいるとは思えない。
「明日、電話ください。すぐに振りこませますよ」
「悪いな──おい、慎平」
沢田はホット・ロッドのヴォーカルに声をかけた。
「博さん、今日のライヴ、来てたんすか?」
テーブルについていた全員の視線が沢田に向けられた。ホット・ロッド以外のバンドのメンバーが椅子の間を詰めてスペースを作る。桜井勝也が横のテーブルの空いていた椅子をそのスペースにずらした──見事な連携プレイ。バンドというよりは体育会の乗り。沢田はそれが当然というように椅子に腰をおろした。
彰洋に注意を向ける者は皆無だった。彰洋は自分のいでたちに視線を走らせた。エンポリオ・アルマーニのスーツ──麻美に勧められて買った。麻美はジョルジオ・アルマーニがいいといったが、たかが服にそこまで金をかける気にはなれなかった。エンポリオは妥協の産物。腕にはオメガのドレス・ウォッチ。いずれにせよ、この場にはそぐわない。
沢田と若いバンドマンたちは近況報告をしあっていた。最近はどの小屋に出ることが多いんだ? あのバンドの連中はどうした? あいつはまだクスリにはまってるのか? そして、おまえらデビューするって話、マジか?
マジだった。その話題になった途端、ホット・ロッドの四人は顔を見合わせた。同じテーブルについていた他のバンドの連中が目を丸くした。
「なんだ、まだ秘密なのか?」
「いや、秘密っていうか……」ヴォーカルの尾崎──歯切れの悪い言葉。「レコード会社の方から口止めされてて。沢田さんなんで知ってるんすか?」
「馬鹿野郎、おれがこの業界に何年いると思ってんだよ」
「とにかく、この話、内緒にしておいてもらいたいんですよ。頼みます、沢田さん。おまえらも、頼むよ」
尾崎は他のバンドのメンバーにも言葉を向けた。だが、それで終わるはずがなかった。好奇心と嫉妬に彩られた会話が延々と続く。
ホット・ロッドのデビューはほぼ決まっているようだった。尾崎と勝也はそれを喜び、ベースの吉永とドラムスの小林は戸惑っている。
話がやむ様子はなかった。沢田は彰洋の存在をすっかり忘れ去っているようだった。
待っていても埒《らち》はあかない。まず行動しろ──美千隆の口癖。
そばを通りかかった店員をとめ、自分と沢田の分の生ビールを注文する。ビールはすぐにやってきた。店員の手からジョッキを奪い、沢田と桜井勝也の間に身体をねじこんだ。
「お待ちどおさま」
朗らかにいって、沢田の前にジョッキを置く。沢田が顔をあげる──邪魔臭いといわんばかりの目が瞬きを繰り返す。ばつの悪そうな表情が広がる。
「彰洋……悪い、悪い、話に夢中になっておまえのこと忘れてた」
沢田は悪びれない口調でいった。沢田の言葉に真っ先に反応したのは桜井勝也だった。
「沢田さん、この人は?」
勝也の視線──スーツと腕時計の間を行ったり来たり。羨望と嫉妬が入り交じっている。
「こいつは彰洋っていうんだ。六本木で遊んでるときに世話になったやつでな、ホット・ロッドの音が好きだなんて抜かしやがるから、連れてきてやったんだ。可愛がってやってくれよ」
「おれたちのファン? マジで?」
ヴォーカルの尾崎慎平が甲高い声をあげた。
「マジっすよ。元々ハードロックが好きなんだけど、ホット・ロッドってなんか、力入ってるじゃないっすか。最初に聞いたときにパンチ食らったって感じですよ」
「嬉しいな、おい。ホコ天以外にもおれらのファンがいるなんてよ」
尾崎は他の三人に言葉を振った。勝也がうなずいた。他のふたり──ベースの吉永和人とドラムスの小林真一は胡散《うさん》臭そうな視線を向けてきた。
「突っ立ってないでさ、座って、座って。大事なファンなんだからさ」
勝也が如才のない笑顔を浮かべながら、空いている椅子を引きずってきた。
「すいません、わざわざ──」
彰洋は遠慮しながら椅子に腰をおろした。
「じゃ、とりあえず、ライヴが無事終わったことと、ホット・ロッドに新しいファンができたことを祝って乾杯しようぜ」
沢田がグラスを掲げた──彰洋はその肩に手をかけた。
「それだけじゃダメですよ、沢田さん」彰洋は声を細めた。「ホット・ロッドのデビューを祝って」
「そうだったな。それ忘れてちゃ、話にならないもんな。よし、それじゃ、あらためて、ホット・ロッドのデビューを祝って乾杯」
沢田は声をひそめながら、もう一度グラスを掲げた。全員がそれに倣った──勝也と尾崎は破顔していた。吉永と小林は落ち着きのない笑みを浮かべた。
グラスを空にしたあとは質問攻め──どこでおれたちを知ったんだ? おれたちのどこがいい? おれたちのルックスはどうだ? おれたち、デビューしたら売れると思うか?
質問するのは尾崎と勝也だった。彰洋は慎重にそれらの質問に答えた。口八丁手八丁──褒めるのは七割、けなすのが三割。必要な情報は頭に叩きこんである。不動産絡みの連中にくらべれば、ホット・ロッドのメンバーは赤ん坊のようなものだった。はじめは猜疑《さいぎ》の表情を浮かべていた吉永と小林も次第に身を乗りだして彰洋の言葉に耳を傾けはじめた。
「なんか、すげえな」
彰洋がひととおり喋り終えると、勝也が感にたえないという声を出した。
「そんなことないっすよ」
「いやぁ、そこまでおれたちのことに詳しいファン、おれ、見たことないぜ。褒めるだけじゃなくて欠点も指摘してくれるし……なあ?」
勝也は三人のメンバーに相槌を求めた。
「好きなだけですよ」
「おれ、すげえ感激したよ、彰洋さん」うなずきながら、勝也が口を開く。「こう見えて、おれたちさ、自分たちのやってることにけっこう自信なかったりするわけよ。このままでいいんだろうかとかさ、メジャーでデビューするためには自分たちをもう少し殺した方がいいんじゃないかとか、いろいろね」
「わかりますよ」
「でも、彰洋さんみたいにおれらの音が好きだっていってくれる人がいるなら、おれたちも捨てたもんじゃねえよな」
「さん付けなんかしなくてもいいですよ。彰洋って呼んでくれれば」
四人が顔を見合わせる。勝也が沢田に問いかけるような視線を向けた。だが、沢田は別のバンドの連中と話しこんでいて勝也の視線には気づかなかった。
「タメ年か年下だったらそれでもいいんだけどね。おれら、けっこう体育会だから。彰洋さん、年いくつ?」
質問してきたのは勝也だった。
「二十一ですよ」
彰洋はいった。ホット・ロッドのメンバーは全員が二十なのは確認済みだった。
「一個上か……難しいところだなぁ」
「みんな、二十なんですか」
「そう。年下に呼び捨てにされんの抵抗あるでしょう?」
「全然」
彰洋はとっておきの笑みを浮かべた。土地を持っている年寄り連中を安心させるために、家の鏡で何度も練習した笑み──下心を完全に覆い隠す。
「だけどさ、二十一でそんなスーツ着られるなんて、どういう仕事してるんですか? いくら景気がいいっていっても、おれらぐらいの年で稼げる金なんてたかがしれてるでしょう?」
彰洋の年齢を知ったせいか、勝也の口調が変化していた。
「店をいくつかやってるんです」用意しておいた嘘──沢田にも聞かせてある嘘。「去年まで、六本木のマハラジャで黒服やってたんだけど、ある人と縁ができて、その人が金を出してくれて……まあ、雇われですけどね」
「おれらとたいして違わない年なのに凄いなぁ」
勝也の瞳──羨望の眼差し。彰洋は微笑んだ。
「今度、飲みに来てくださいよ。ホット・ロッドのみなさんだったら、御馳走しますから」
体温があがる。作り物の微笑みが、いつしか本物の笑みに変わっていく。
「ホット・ロッドがデビューして売れてくれれば、うちとしてもいい宣伝になりますしね」
嘘をつくときは真実を織り交ぜろ──美千隆はいった。嘘を土台にした真実。吉永と小林がしたり顔でうなずいた。
* * *
美千隆の力──金の力。西麻布の小さなバーがMS不動産関連会社の持ち物になった。彰洋はその店の内装を変えた。勝也のような連中が気おくれしそうな内装──基調は黒。かける音楽は最近海の向こうで流行りはじめているハウス・ミュージック。出す飲み物は原色のカクテル。店にけぶる煙──大麻。客層は金を持った二十代と三十代。常に新しいものを求め、忙しいという言葉を連発し、株価の動向を気にかける連中──美千隆が集めてきた。
三ヶ月──期間限定の営業。スタッフにはそう伝えてある。実際の営業期間はもっと短縮される。
舞台は整った──あとは役者を揃えるだけ。
役者──ホット・ロッドのメンバー。それに女たち。プロは使えない。ホット・ロッドのホットなスキャンダル。素人臭い女を集める必要があった。
彰洋は麻美に電話した。
* * *
いい店じゃない──西麻布のバーに連れていくと麻美はいった。
「おれが手がけたんだ」
カウンターの隅で彰洋はいった。
「彰洋ちゃんがこの店を? なんで? ぜんぜん雰囲気違うじゃない。あそこの人たちなんか──」麻美は店の奥のボックスシートを指差した。「葉っぱ吸ってるよ。この店、いい感じだけど、そのうち警察に踏み込まれるかもよ。まずいでしょう、それじゃ」
「今やってる仕事に必要だから買ったんだ。それが終われば、だれかに売りつけて、おれたちは知らん顔さ」
「仕事?」麻美はカクテルグラスに手を伸ばした。カクテルを啜り、眉をしかめる。「店の雰囲気はいいけど、カクテルはまずい。なんとかしなさいよ」
「酒の味がわかるやつなんて、ここには来ないよ。新しい店と期間限定って言葉に弱い馬鹿な連中が客なんだから」
「そんな店を作らなきゃならない仕事って、なに?」
彰洋はロックグラスのウィスキィで唇を湿らせた。酔いがまわった視線で自分の内部を覗き見た。
デビューを目前に控えたロックバンド──自分と変わらぬ年の夢見る若者たち。桜井勝也をはめる。後味の悪い仕事だが、抵抗感はなかった。美千隆が口にした王国という言葉の輝きが影を吹き払う。彰洋の体温をあげつづける。
「麻美だから教えるけど、秘密だぞ」
麻美の目が輝いた。
「マミ、秘密大好き。だれも知らないことを自分だけが知ってるのって、なんだか素敵じゃない?」
麻美はいろんな秘密を知っているに違いない。波潟の秘密。美千隆の秘密。それに堤彰洋のちゃちな秘密が加わったぐらいではどうということもない。
彰洋は順を追って説明した。すべてを説明する必要はなかった。麻美は途中ですべてを理解した。
「つまり、息子をはめて、お父さんを締めあげようとしてるわけね?」
「そうだ」
「美千隆って意外と優しいのね。波潟だったら、もっと酷い手使うわよ。やくざ使ったりとかさ」
「美千隆さんはそういうやり方はしないんだ」
ホテルのスイートで聞いた言葉が鮮やかによみがえる──美千隆が作る王国は栄光に包まれていなければならない。
「そういうのが好きそうよね、あの人。でも、綺麗事ばかりいっててもしょうがないと思うな」
「だから、おれが汚れ仕事を引き受けるんだ」
「彰洋ちゃんには無理よ。向いてないわ」
彰洋は煙草をくわえた。乱暴にライターで火をつけた。
「そんなこと、わかるもんか」
「怒った?」
「なんで怒るんだよ?」
「態度が怒ってるもん」麻美は小さく笑った。「そういう子供っぽいところが向いてないっていうのよ」
「向いてなくてもやる。決めたんだ」
「彰洋ちゃんがそういうならいいけど……でも、大変みたいよ。波潟が地上げのときにやってること、教えてあげようか? わたしも全部知ってるわけじゃないけど、やくざ使うのなんか序の口なんだから」
カクテルに酔った麻美の目──からかうような光。彰洋は煙草を吸って気持ちを落ち着かせた。腹を決めたはずなのに、麻美の言葉にいちいち気持ちがぐらつく。そんな自分が腹立たしかった。ゆるせなかった。
「そのうち、教えてもらうかもしれないけど、今はいい」
「本当に大変なんだよ。波潟ぐらいにお金を動かそうと思ったら、普通の人でいることやめなきゃならないんだから。彰洋ちゃん、優しいから耐えられないかもしれないよ」
「おれは耐えられる」
「美千隆のため?」
からかうような光は消えてはいない。彰洋は首を振った。
「おれのためだよ、麻美。普通に暮らしたいんだったら、美千隆さんのところにはいない。だれのためでもないんだ。おれがやりたいからやる。それだけのことだし、おれがおまえに頼みたいのは、おれに説教することじゃなくて、おれに手を貸してくれるかどうかだけだ」
麻美は肩をすくめた。
「だったらいいけど……それで、マミになにをしてほしいわけ?」
「女の子を四、五人、集めてほしいんだ。普通の女子大生がいい。適当に男がいて、適当に遊んでって女だ。心当たり、あるだろう?」
「今どきそんな女、腐るほどいるわよ」
「頼んでいいか?」
「いいけど……」
語尾が濁る──なにかをねだろうとするときの麻美の癖のようなもの。彰洋は身構えた。
「その代わり、マミの頼みごとも聞いてくれる?」
「おれにできることならなんでもしてやるよ」
頭の中で計算器が働きだす。冬のボーナスはまだ残っている。麻美がよほどのものを欲しがらないかぎり、それで足りる。足りなければ、美千隆に頭をさげればいい。麻美の御機嫌伺いだといえば、経費として処理してくれるはずだ。
「約束だよ。次に会うときまでに、なにを頼むか考えておくから」
「次って、なんだよそれ……高くつきそうで怖いな」
「いいじゃない。とりあえずこれで取引成立なんだから」
麻美は右手を差し伸べてきた。芝居じみている。だが、それを厭《いと》う理由はなかった。彰洋は麻美の手を握った。麻美の手は氷のように冷たかった。
「それで、女の子は何人集めればいいの?」
麻美はいった。瞳の奥の輝き──悪巧みを打ち明けられた小悪魔が見せる輝き。
「最低四人、できれば五人」
「いつまで?」
「できるだけ早く」
「けっこうお金かかるわよ。今の女の子って、うるさいから」
「金の心配はしなくていい。何百億の金がかかってるんだ。経費をけちってる場合じゃない」
麻美は声をあげて笑った。
「なにがおかしい?」
「だって、今の彰洋ちゃん、波潟の周りにいる悪い人たちみたいな顔してるよ。彰洋ちゃんがそんな表情見せるようになるなんて、人も変われば変わるね」
彰洋は手の中のグラスに視線を向けた。水滴が付着したガラスの表面に彰洋の歪んだ顔が映しだされていた。
8
彰洋の求める女はいくらでもいた。
「要するに、その店に行って、バンド風の恰好をした男を引っかけて、葉っぱキメながら寝ればいいわけでしょう?」
「そうだけど、できれば乱交みたいにやってくれると助かるんだって」
「簡単じゃん。それで、いくらもらえるわけ?」
「ひとり二十万だって。ただし、絶対に秘密厳守」
電話の相手は嬌声をあげた。
「やるやる。他の友達にも声かけとくよ。何人必要なの?」
「できれば五人。最低でも四人」
「それぐらいの人数だったらすぐに集まるよ。待ってて。あとで折り返しかけるから」
一本の電話が芋蔓《いもづる》式に繋がっていく。
三十分後──電話が鳴る。
「マミ? 五人揃ったよ。みんなやる気満々」
「ありがとう。じゃあ、二、三日後に電話するから」
麻美は電話を切った。
* * *
波潟は午前二時過ぎにやってきた。波潟の身体からは酒と香水の匂いがした。波潟は憔悴《しようすい》した顔をしていた。
「どうしたの、パパ? なんだかすごく疲れてるみたい」
バスタブに湯を張りながら麻美は訊いた。波潟はセックスをする前に必ず湯を浴びる。麻美にも同じことを強要する。シャワーではゆるしてもらえない。一種の潔癖症──外観からは想像もつかない。
「今日の接待の相手が一筋縄でいかんやつでな、さすがにくたびれたよ」
波潟は酔うといつも同じことを口にする──一番あくどいのは銀行屋と大蔵省の連中だ。あいつらにくらべれば、おれたち地上げ屋なんて可愛いもんだ。
今日、波潟は大手都市銀行本店の融資担当部長と酒を飲むといっていた。
麻美はバスルームからリヴィングに戻った。ヘネシーの栓を開け、ブランディを注いだグラスを波潟の前に置いた。
「忙しいのはわかってるけど、気をつけてね。パパが倒れちゃうと、マミ、ほんとに困っちゃうから」
「金がなくなるからか?」波潟は笑った。「心配するな。もし、おれがポックリ逝くようなことがあっても、このマンションだけはおまえに残るように手配してあるからな」
それだけじゃ全然足りないわよ、馬鹿──麻美は声に出さずに毒づいた。
「今こいつを売り飛ばしても、五億にはなる。それが一年後には七億、二年後には八億だ。まともに働く気にはなれんよな。プラザ合意さまさまだ。低金利政策さまさまだ」
疲れている割に、波潟は饒舌だった。
「それ、いつまで続くの?」
「それってなんだ?」
「土地の値上がり」
波潟は腕を組んだ。頭を傾げて目を細めた。やがて、口を開いた。
「いいか、マミ、おれたちがやってるのはババ抜きのようなもんだ。土地がババだ、わかるか? このババ抜きが他のババ抜きと違うのは、みんな最初はババを欲しがるってことだ。ババを持っていれば、銀行がいくらでも融資してくれる。ババは金になる。だからな、おれたちは顔見知りの間でババを回してるんだ。ババが動くってことは、大金が動くってことだからな。だがな、マミ、どんなことにも落とし穴があってな、このババ抜きじゃ、最後にババを掴んだやつが破滅するようにできてるんだ。考えてもみろ。一億で土地を買って、それを半年抱えているだけで買い値の数倍の儲けが出るんだ。そんな馬鹿なことがいつまでも続くはずがない。だれか破滅するやつが出てきたときが、土地の値上がりが終わるときだ」
波潟の声は熱を帯びていた。珍しいことだった。波潟はいつだってなにもかもを笑い飛ばす。そうやってのしあがってきた。熱を帯びた声は、なにかに怯《おび》えているようにも響いた。
「今にもだれかが破滅しそうな口ぶりだね、パパ」
「もう、破滅しかけてるやつがかなりいるからな」
波潟はいくつかの名前をあげた。去年から今年にかけて、脱税や背任、国土利用計画法違反で逮捕され、話題になった大金持ちの名前だった。そのうちのひとりは、波潟が懇意にしていた男だった。一時期、波潟はその男と毎晩のように飲み歩いていた。
「パパはだいじょうぶなの?」
不安が広がっていく。波潟がこんな話をすることはなかった。波潟は永遠に金を儲けつづける気でいると思っていた。
「そろそろな、みんなこのババ抜きゲームから足を洗った方がいいんじゃないかと考えはじめてる。ここが難しいんだ。このババ抜きは、近いうちに必ず終わりを迎える。だけど、今やめると、せっかく稼げる大金をみすみす他人にくれてやることになる。いつ、終わるのか……みんな疑心暗鬼でな、他人の出方をうかがっておるのさ。まあ、中には美千隆君のように、行け行けどんどんの若い連中もいるがな──おい、マミ。風呂はだいじょうぶか?」
麻美は弾《はじ》かれたようにバスルームに駆け戻った。バスタブには八分ほど湯が満たされていた。手で湯かげんを探った。まるでソープ嬢みたい──いつもの自嘲がやってくる。それを振り払って、波潟の言葉に思考を向ける。
波潟がいったことは、つまりこういうことだ──この異常な好景気も遠くない将来必ず終わりを迎える。それまでにどれだけ稼ぎ、終わりが来る寸前にゲームから足を洗えるかどうかが勝負だ、と。
美千隆の顔が脳裏に浮かぶ。美千隆はこのことを知っているのだろうか?
「パパ、お風呂だいじょうぶよ。すぐ入る?」
「ああ、いま行く」
波潟の声が返ってくる。ついさっきまでの熱を帯びた口調ではなかった。くたびれた中年男の声だった。
波潟がバスルームに入ってくる。麻美は甲斐甲斐《かいがい》しく波潟の衣服を脱がせた。
「美千隆さんはだいじょうぶなのかな?」
麻美はさり気なく訊いた。
「だいじょうぶだとは思うがな、若いもんはリスクっちゅうものを軽視する傾向があるからなぁ……彼も、あと五年早く生まれていればよかったかもな」
波潟の声は寒々しく響いた。美千隆がどうなろうと自分の知ったことではないと告げていた。
もしかすると──ふいに頭に考えが浮かぶ。もしかすると、この人は美千隆に最後のババを押しつけようとしているのかもしれない。
背筋に顫《ふる》えが走った。麻美は波潟から顔を背《そむ》けた。
* * *
偽りの愛の囁き。偽りの荒い吐息。偽りの絶頂。
波潟はいつもより執拗に麻美の身体を舐《な》めまわした。麻美に自分の分身を愛撫することを強要した。
まるでソープ嬢のよう──麻美は懸命に舌を這《は》わせた。
「もういい」
波潟はいった。波潟のペニスはみにくく萎んだままだった。
「今日は飲みすぎたな。今度、思いきり可愛がってやるから、今夜はもう寝よう」
波潟はいった。すぐに、麻美に背を向けて横になった。鼾《いびき》が聞こえてくるのに、それほどの時間はかからなかった。
不安と恐怖──波潟が挿入しなかったことはない。勃起しなかったことはない。あんな話をしたことはない。あんな口調で自分の仕事の話をしたことはない。
飽きられ、疎《うと》まれ、棄てられる。数年先だと思っていたことが、急に現実味を帯びて迫ってきた。
麻美は自分の肩を抱きしめた。全身の肌が粟立っていた。
* * *
波潟は午前八時きっかりに部屋を出ていった。たいていのことには無頓着だが、時間と金の管理は厳しい男だった。
机の上には帯封をされた札束が無造作に載っている。昨日は本当に悪かった──波潟はそういって札束を置いた。勃起できなかったことへの詫びのつもりらしかった。
ただ、それだけのための百万。笑いが漏れる。笑いはすぐに不安に取って代わられた。
麻美は電話に手を伸ばした。センチュリーハイアットの番号をプッシュする。ホテルのスタッフに美千隆の部屋番号を告げる。
お客様はお休みになっておられるか、お出かけになっているようでございます──ホテルマンの声が虚しく響く。
美千隆のポケベルに電話をかけた。一時間待っても返事はなかった。
居ても立ってもいられなかった。漠然とした焦燥感が思考をかき乱した。部屋を出て、タクシーで新宿へ向かった。
美千隆の部屋のドアを乱暴にノックする。ドアが開く──険しい顔つきの美千隆に睨まれる。
「こんなところを人に見られたらどうするんだ?」
美千隆は怒っていた。憔悴していた。美千隆はパジャマを着ていた。半年ほど前にプレゼントしたエルメスのシルクのパジャマ──あちこちに皺が寄っていた。
「だって、ポケベルに連絡入れたのに、返事がないから」
「寝てたんだ」
美千隆は不機嫌そうな声でいった。諦めたというように首を振り、麻美を中に迎えいれた。
最高級のスイートルーム──脱ぎ散らかされた衣服。ライティングデスクの上に積み重ねられた書類。女の影はない。女の匂いもしない。
美千隆が取り憑かれているのは女ではなく金だった。
「自分の立場をもう少し自覚しろよ、マミ。この部屋にはいろんな連中が出入りするんだ。中には波潟の側近もいるんだからな」
美千隆はソファに身体を投げだした。テーブルの上の時計を手に取り、ゼンマイを巻きはじめた。金無垢のパテック・フィリップ。文字盤とベゼルにはダイヤが埋めこまれている。手巻きの時計なんて安っぽい──そういったことがある。本物の時計ってのは手巻きなんだ──そういい返された。
「まだ十時前だぞ。こんな早い時間にお嬢様が血相を変えてやってくるなんて、なにがあったんだ?」
麻美は美千隆の横に腰をおろした。美千隆の腰に両腕をまわした。身体をもたせかけた。美千隆の体臭が鼻孔をくすぐった。美千隆はしばらくシャワーを浴びていないようだった。それでも、美千隆の体臭は甘美だった。
「昨日ね、波潟がババ抜きの話をしてくれたの」
甘えた声を出す。美千隆の手が頭の上に置かれる。美千隆のしなやかな指が髪の毛を梳《す》いていく。
「ババ抜き?」
麻美は波潟に聞いた言葉をすべて話した。波潟がくたびれきっていたことも話した。勃起しなかったことも話した。そのときに自分が感じた不安も話した。
美千隆は笑った。
「それで、おれのことが心配になったのか、マミ?」
美千隆の腹に顔を押しつけながら麻美はうなずいた。
「おまえらしくないな」
美千隆は笑いつづけた。他の人間が自分のことを笑ったらゆるすことはできない。だが、美千隆は別だった。不思議と、美千隆のすることはゆるすことができた。なぜ美千隆なのかはわからなかった。波潟の周りには、美千隆と同じぐらいの年代で美千隆と同じか、あるいはそれ以上の金を持っている男が大勢いた。美千隆でなければならない理由はどこにもなかった。
「マミ、そのババ抜きはな、みんな知ってる話だよ。去年あたりからかな、みんながそういいはじめたのは。土地と株価が天井知らずであがりつづけるのは、あと一、二年なんじゃないかって話すやつもいるし、もっと先だっていうやつもいる。どっちにしろ、いつかは終わりが来るだろうってことは、目端の利くやつならみんな考えてることさ。だから、心配しなくてもだいじょうぶだ。おれだって、最後のババを掴まされないよう考えてるしな」
「波潟はね、美千隆は生まれてくるのが五年遅かったっていってたわ」
髪の毛を梳く美千隆の手が止まった。麻美は顔をあげた。美千隆は宙の一点を睨んでいた。充血した目──かすかに膨らんだ鼻の穴。美千隆は興奮していた。
「そうかもしれないな」美千隆はいった。「あと五年早く生まれてれば、プラザ合意のときには自分の会社を持っていたかもしれない。そうなってりゃ、土地をばんばん買い漁《あさ》って、今の何十倍……いや、何百倍の金を手にしていたかもしれない。昭和六十年っていえば、おれはまだ不動産屋の使いっ走りだったからな。ちょうど、今の彰洋みたいな立場さ。地価があがるのはわかりきっていたのに、肝心の金がなかった。必死で働いて、コネを作って、やっと土地を買う金を作ることができるようになったと思ったら、今度は、ババ抜きの話だ」
「ついてないって思う?」
麻美は訊いた。美千隆は首を振った。
「いいや。おれはついてるよ、マミ。確かに、おれは生まれるのが五年遅かったかもしれない。でも、おれは間に合った。現実に、こうやって金を稼いでる。見ろよ、この部屋を。おれと同い年で、一ヶ月以上ぶっ続けでこんな部屋に泊まれるやつがいるか?」
「いっぱいいるような気がする」
美千隆は麻美の鼻を摘んだ。
「まったく、嫌な女だな、マミ」
「嘘いったって、しょうがないでしょう? 少なくとも、波潟や美千隆の周りって、お金持ちばっかりじゃん」
オークラクラスのホテルのスイートを常宿どころか、住まいにしている人間を、麻美は何人も知っていた。
「とにかく、おれは間に合った。間に合ったからには、とことん儲けてやる。ついてないのは、おれたちの下の世代のやつらさ。おまえや、彰洋と同世代かそれ以下のな」
「どうして?」
「土地や株の値上がりが終わるってことは、不景気が来るってことだ。これだけ無茶苦茶なことが続いたんだ。その不景気ってのも半端な不景気じゃないぜ。おまえたちが大学卒業して社会に出るころには、なにも残っちゃいない──そんな社会になってるに決まってる。おれたちが無茶をして荒稼ぎをしまくったツケを払わされるのは、おまえたちの世代だよ。間違いない」
「自信たっぷりね」
「自信がなきゃ、ここにはいないよ」
「美千隆に自信がなかったら、マミもここにはいないかも」
返事はなかった。代わりに、美千隆の指が頭から首筋に降りてくる。うなじへの愛撫──くすぐったさをこらえていると、やがて微かな快感に変わっていく。
「彰洋がおまえになにか頼んだだろう?」
美千隆がいった。麻美はうなずいた。
「今の仕事をうまくまとめれば、おれのババ抜きはまだ先まで続くことになるんだ。そのためには、彰洋が今やってることがうまくいくかどうかが決め手になってくる。きちんと協力してやってくれよ」
「わかってるよ」麻美は美千隆の腕に手を絡《から》めた。「でも、ああいう仕事、彰洋ちゃんには向かないと思うな。美千隆はどう思ってるの?」
「向かないだろうな」
美千隆はあっさり答えた。
「それでだいじょうぶなの?」
「向かないなら、向くように変えてやるだけさ。それがおれのやり方だ」
「極悪人」
「おまえにいわれたくはないな。勘違いしないようにいっておくが、おれは彰洋を気に入ってるんだぞ」
「自分のいうことをなんでも聞いてくれるからでしょう?」
「それに、頭がいいからだ。頭がいいことに、自分で気づいてないからだ」
麻美は美千隆の股間に手を伸ばした。美千隆のそこは、波潟のとは大違いだった。硬く、熱い。
「こんなになってる」
麻美は硬くなったものをさすった。
「おまえのせいじゃないか」
美千隆がいった。麻美は体勢を入れ換えた。パジャマをおろし、硬く猛ったものを口に含んだ。
9
ボディコンで全身を固めた女たち──麻美の選択に狂いはない。五人が五人ともそこそこのルックスにそこそこのプロポーションを誇示している。
ひとりあたり二十万の報酬──女たちは真剣に彰洋のレクチャーに耳を傾けた。写真撮影にも神妙に付き合った。
用意したのは店と女だけではない。カメラマン三人にライター、印刷屋。手配したのは美千隆。金を払うのも美千隆。だが、場を仕切るのは彰洋に任されている。
写真を現像に出し、原稿にするべき内容をライターに伝える。すべての準備が整うのに丸一日が費やされた。決行の日は金曜日。
ホコ天ライヴの前に、うちに来てくださいよ──彰洋は電話でいった。
マジでいいんすか?──桜井勝也がいった。疑うことを知らない子供の声だった。
彰洋は目を閉じた。美千隆の言葉に想いを馳《は》せた──おれはおれの王国を作るんだ。
彰洋は胸の十字架をシャツの上から握った。祖父の声がよみがえることはなかった。
* * *
「なんか、すげえなあ」
桜井勝也がいった。
「おれたち、場違いじゃない?」
ヴォーカルの尾崎慎平が店内を見回した。ホット・ロッドは浮き足立っていた。
「そんなことはないですよ。ぼくの店なんだから、遠慮なんかしないで、好きなものを飲んで食べてください」
彰洋は慇懃《いんぎん》な笑みを浮かべた。
無表情なスタッフが四人を一番奥の席に案内した。他の客は高価なスーツを着こなした男たちとブランドを身にまとった女たち。無遠慮な視線がホット・ロッドの四人に注がれる。
「とにかく、座ろうぜ、おい」
桜井勝也が他のメンバーを促した。ホット・ロッドは席についた。八人掛けの広いテーブル。テーブルの上ではキャンドルが燃えている。キャンドルの炎が四人の顔を薄暗く照らしだす。
「じゃあ、最初はうちのお薦めのカクテルで乾杯しましょう」
四人の返事を待たずにスタッフに合図する。特製カクテル──口当たりは軽いが、アルコール度数は極めて高い。
「しかし、堤さん、すげえよなぁ。おれらとたいして違わねえのに、こんな店経営してるなんてさ」
尾崎慎平がいった。
「持ち主は別にいるんですよ。ぼくは雇われですから」
「おれたちなんか、居酒屋しか行ったことないから、なんか、びびっちゃいますよ」
桜井勝也がいった。吉永和人と小林真一の顔はまだ強張っていた。
「デビューして、曲ががんがん売れれば、これぐらいの店、いつでも行けるようになりますよ」
「だといいけどねぇ」
吉永和人──勝也と尾崎慎平が睨みつける。
「吉永さんと小林さんはデビューに乗り気じゃないんですか?」
彰洋は訊いた。
「そんなことないっすよ」
尾崎慎平が答えた。彰洋はそれには応じなかった。落ち着いた視線を、吉永和人と小林真一に向けたままにしておいた。
「乗り気じゃないってこともないんだけど……」
小林真一が口を開いた。
「レコード会社がイマイチ信用できないんですよ」
吉永和人が言葉を引き継いだ。さらに言葉を続けようとする吉永和人を尾崎慎平が遮《さえぎ》った。
「おまえら、その話はもう納得済みってことにしたじゃないか」
「だけどよ……」
険悪ではないが和やかでもない空気がホット・ロッドを取り巻いていく。
「なんか、問題がありそうですね」
彰洋は朗らかにいった。
「いや、問題ってわけじゃないんだけど……」
桜井勝也──歯切れが悪い。
「もしぼくでよかったら、相談に乗りますよ。音楽業界には素人みたいなもんだけど、これでも十八のときから水商売の世界にいるんで、いろんなこと知ってますから」
四人が顔を見合わせた。彰洋は待った。やがて、吉永和人が口を開いた。
「だったら、聞いてもらおうかな……」
ホット・ロッドの抱える問題は調査済みだった。レコード会社が欲しているのはホット・ロッドの楽曲ではなかった。尾崎慎平の甘いマスクだった。レコード会社はソロでデビューすることを尾崎慎平に打診した。尾崎慎平はホット・ロッドでデビューすることにこだわった。
折衷案が取られた。ホット・ロッドはバンドとしてデビューする。その代わり、レコード会社が提供する楽曲を演奏する──尾崎慎平のために作られた曲を。吉永和人と小林真一はそれに反発した。桜井勝也はレコード会社に靡《なび》いた。
ホット・ロッド──空中分解しそうなポンコツ車。
彰洋は四人の話に辛抱強く耳を傾けた。分別臭い顔──しかし、決して偉ぶったりはしない。素人から土地を買い叩くときの仮面を被るだけでよかった。
「そうか……いろいろあるんですね」四人の言葉が途切れるのを待って、彰洋は口を開いた。「ぼくの意見が参考になるかどうかはわからないけど、聞いてくれます?」
「お願いしますよ」
小林真一がいった。彰洋に対する意固地な態度は消えていた。
「デビューするべきですよ。はじめのうちは嫌な思い、たくさんさせられるでしょうけど、売れてしまえば話は別なんだから。ぼくにも何人かミュージシャンの知り合いがいますけど、売れてる人はレコード会社を顎で使ってますよ。この業界は売れれば勝ちなんですから。最初は我慢して、ホット・ロッドが売れてから、レコード会社のやつらを見返してやればいいじゃないですか」
「ほんとにそう思います?」
吉永和人がいった。
「思いますね。ね、吉永さん、ホコ天でライヴしてるバンド、いくつあると思います?」
吉永和人は首を傾げた。
「その内のいくつのバンドにデビューの話が持ちかけられると思います? これはチャンスなんですよ。尾崎さん以外の三人の気持ちはわかるけど、ぼくから見れば、嫉妬に見えますよ」
「そんなつもりはないよ」
小林真一が唇を尖らせた。彰洋は畳みかけた。
「それは自分を誤魔化してるだけでしょう。せっかくデビューできるっていうのに、おもしろくない。なぜか? レコード会社が必要としてるのは尾崎さんだけだから。違いますか? これ、嫉妬ですよ。子供が駄々をこねてるようなもんでしょう」
「そうじゃなくってよ」小林真一はむきになってきた。口調が乱暴になっていた。「おれがこだわってんのは、おれらの音楽が認められてるわけじゃねえってことなんだよ」
「だったら、認めさせてやればいいだけのことじゃないですか」彰洋は両手を広げた。「みんな、この店を凄いっていってくれたよね? まだ若いのに、こんな店を任されてて凄いと思うでしょう?」
シフトを入れ換える──他人行儀な口調から、仲間うちを意識した言葉づかい。四人は真剣な眼差しを彰洋に向けていた。
「だけどね、ぼくだって簡単にこの店を任せてもらったわけじゃないんだ。さんざん苦労して、嫌な思いもいっぱいして、やっとこの店を任せてもらえるようになったんだ。最初からすべてを手に入れる人間なんていないんだよ。自分のやりたいことを貫き通すためには、ときには、やりたくないこともやらなきゃ」
四人を誑《たぶら》かすために口を開いた。いつしか、自分にいい聞かせる言葉になっていた。
やってやる──話しながら、彰洋は自分に向かって叫んだ。やってやる。どんなに辛いことでも、やり通してやる。
「堤さんのいうとおりだよ。そう思わねえか、おまえら?」
勝也が吉永和人と小林真一に声を飛ばした。狂騒的な声──すぐに伝染する。
「そうだな。やるっきゃねえか」
吉永和人が叫んだ。
「うじうじ悩んでてもしょうがねえしな」
小林真一がよく響く声でいった。
「お待たせいたしました」
背後から声──トレイにカクテルグラスを載せたスタッフ。グラスの中に満たされているのは薔薇を思わせる色をした液体。最高のタイミング──彰洋はスタッフからグラスを受け取り、四人に手渡した。
「これがうちのオリジナルのカクテル。まだ名前は付けてないんだ」
彰洋は言葉を切る。もったいぶった視線を四人に向けた。
劇的効果を大切にしろ──美千隆はいった。人間ってのはドラマチックなものに弱いんだ。
四人の目は興奮と期待に光を帯びていた。
「みんなにお願いがあるんだけど、このカクテルにホット・ロッドって名前を付けてもいいかな?」
尾崎慎平が奇声をあげた。
「もちろんかまわないですよ。こっちからお願いしたいくらいですよ」
勝也が喚いた。
「ほんとにいいんですか?」
吉永和人がいった。感極まったような声だった。
「なんでおれらにここまでしてくれるんですか?」
小林真一がいった。ただ、信じられないという面持ちだった。
「ホット・ロッドの成功を祈って」
彰洋はグラスをかざした。ホット・ロッドの四人もそれに倣った。
「乾杯」
彰洋は赤い液体を飲み干した──ただのグレープジュース。四人のグラスとは中身が違う。四人はカクテルを一気に飲み干していた。店に入ってきたときのおどおどした様子は消えていた。
* * *
女たちがやってきたのは午後十時近くになってからだった。
ホット・ロッドの連中はほとんどできあがっていた。アルコール度数の高い酒が増幅させる興奮に浸りきっていた。彰洋がさり気なくテーブルを離れたのにだれも気づかないぐらいに酔っていた。
女たちはまず、ホット・ロッドの近くのテーブルに案内された。色とりどりのボディコンスーツ。色とりどりのトロピカル・カクテル。若い女特有の嬌声がBGMに重なって弾ける。
尾崎慎平の視線が女たちに頻繁に注がれるようになる。桜井勝也がそれに続く。桜井勝也は吉永和人と小林真一に目配せをする。ホット・ロッドの興奮が性欲に転化されるのが手に取るようにわかる。
女たちは気づかないふりをしている。金が絡んだ恋のゲームに長《た》けた女たち。ホット・ロッドは子供のようにあしらわれる。
三十分が経過する。彰洋はスタッフに合図を送った。スタッフはその合図をバーテンダーに伝えた。
薔薇色のカクテルが作られはじめた。
スタッフがそのカクテルを女たちのテーブルに運んだ。スタッフが女のひとりになにかを告げる。
告げる内容は彰洋が決めておいた。──こちらのカクテルは当店のオリジナルで、ホット・ロッドといいます。
「あ、思いだした!」
女のひとりが叫ぶ。ホット・ロッドのテーブルを指差す。
「この人たち、ホット・ロッドだよ」
女たちの顔に不審な表情が浮かぶ──うまくはないが下手ともいえない演技。ホット・ロッドの連中は驚きを隠せない──迫真の表情。
「原宿のホコ天でライヴやってんのよ。わたし、好きでよく見に行くんだ──ねえ、ホット・ロッドのみなさんですよね?」
尾崎慎平が真っ先に反応する。勝也がそれに続く。言葉の応酬──やがて、女たちがホット・ロッドの席に移動する。
ホット・ロッド──強いカクテル。次第に女たちはホット・ロッドの連中に身体をよせていく。しなだれかかっていく。
彰洋はもう一度スタッフに合図を送った。
スタッフが新しい客をカウンター席に案内した。その客はショルダーバッグを大事そうに抱えていた。ショルダーバッグをカウンターの上に置いた。ショルダーバッグの位置を神経質に動かした。ショルダーバッグからはコードが伸びていた。コードは客が右手に握ったシャッターに繋がっていた。
ホット・ロッドと女たちの饗宴は続いていた。
ショルダーバッグの客の親指が小刻みに動いた。その度にシャッターが切られる音がした。その音は店のBGMにかき消された。BGMがなかったとしても、ホット・ロッドの耳に届くことはなかった。
ホット・ロッドは舞いあがっていた。ホット・ロッドは幸福そうだった。
午前一時──予め決められていた時間。女たちがホット・ロッドを促しはじめる。
勝也が席を離れる。彰洋の元にやってくる。
「すんません、堤さん。おれら、そろそろ行きます。相談に乗ってもらったりしたのに、おれらだけで盛りあがっちゃって」
勝也の呂律《ろれつ》は怪しかった。
「気にしないで。ぼくも仕事しなくちゃやばいから」
彰洋は笑顔を浮かべた。勝也は逆にばつの悪そうな笑みを浮かべた。
「もうひとつ、お願いごとがあるんですよ」
「勘定ならいいよ。今夜は店の奢りだから。オリジナル・カクテルに名前もらったのに、お金取るわけにはいかないだろう?」
「あ、それ助かりますけど、それとは別に……」勝也は肩ごしに背後を振り返った。「あの子たち、いい感じなんですよ。このあと、どっか行ってなんとかしたいんだけど、おれら、あんまり金なくって」
彰洋は砕けた感じの笑みを浮かべた。勝也の耳元で囁いた。
「それはかまわないけど……あの子たちね、桜井さん、金持ってるから。そうじゃなきゃ、こんな店に女だけで来ないでしょう。この辺じゃけっこう有名でね、ああやって、女だけで遊び回って、有名人や芸能人を見つけると、やっちゃうらしいんだよ」
「そうなの?」
「ホテルの部屋でもなんでも、あの子たちがなんとかするよ。気にしなくてもだいじょうぶ。貢がせちゃえばいいんだよ、ああいう馬鹿女はさ。やるだけやって、あとは知らんぷり。これが、今夜最後の先輩からのアドバイス」
「本当にそれでいいんすかね?」
半信半疑の顔──ウィンクをしてみせてやる。一万円札を数枚、手の中に押しこんでやる。
「大丈夫だって。ああいう女たち、最近多いんだから。デビューしたら、もっと寄ってくるんだからさ、予行演習だと思って行っておいでよ」
勝也の尻を叩く。勝也はすぐその気になった。
「じゃ、そのアドバイス、ありがたく拝聴します。今日はごちそうさまでした。また、来ますから……この金、そんとき必ず返します」
「楽しみに待ってるから。デビュー、頑張って」
勝也はステップするような足取りで席に戻った。五分もしないうちに、ホット・ロッドと女たちは帰り支度をはじめた。それぞれの女の腰に手を回すホット・ロッド──カウンターで客になりすましたカメラマンが何度もシャッターを切った。
ホット・ロッドはなにも気づかずに店を出ていった。
* * *
確認を取る──ホテルに。ホット・ロッドと女たちはスイートルームに入った。
確認を取る──店に来たのとは別のカメラマンに。スタンバイは完了。ホット・ロッドと女たちがホテルを出てきたら派手にストロボを焚く用意はできている。
確認を取る──ライターに。原稿は書きあがっている。
確認を取る──印刷屋に。原稿と写真が届けば、すぐにでもレイアウトを起こし、写植を打つことができる。
確認を取る──女のひとりに。ポケベルにメッセージを入れる。折り返し電話がかかってくる。ホット・ロッドは浮かれている。高級ホテルの高級な部屋で高級なシャンパンを飲み、葉っぱを吸い、女たちの身体を貪ろうとしている。女たちはカメラを用意している。ホット・ロッドと写真を撮ることが契約の中に盛りこまれている。
すべての確認はすんだ。あとは待つだけだった。
* * *
午前四時二十分。勢いよく店のドアが開く。蒼ざめた顔のホット・ロッド。アルコールの酔いも、大麻の効き目も消えている。たった数時間で十年も年をとったようにやつれている。
「どうしたの?」
彰洋はドアに足を向けた。ここが正念場だ──疑われてはいけない。
「ヤバいんすよ」
尾崎慎平が顫《ふる》える声でいった。
「写真撮られちゃったんです」
勝也が地の底に沈んでいくような声でいった。
「写真って、なんのこと? そこにいてもあれだから、こっちにおいでよ」
彰洋は四人を戸口に近いテーブルに誘った。
「ちゃんとわかるように説明してよ。写真を撮られたって? あの子たちに?」
「それもそうなんだけど……」
吉永和人が煮えきらない声を出す。
「あいつら、腹が減ったとかいうから、なんか食いに行こうってことになって、ホテル出たんですよ。そしたら、いきなりストロボが光って……」
尾崎慎平が言葉を引き継ぐ。
「それって、写真週刊誌じゃないですか?」
彰洋は声を低めた。
「やっぱ、そうなのかよ」
小林真一が腹立たしげにいった。他の三人が顔を見合わせた。
「だけどよ、おれらを写真に撮ってどうすんだよ。まだ、デビューもしてねえんだぜ」
「なあ」
四人の表情──不安が色濃い。彰洋は首を傾げてみせた。
「それに、ホテルから女の子と出てきたところを撮られただけだろう? アイドル歌手ならまだしも、ロックバンドじゃ、あんまりスキャンダルにならないんじゃないの?」
「それが……」
勝也が言葉を濁した。彰洋は畳みかけた。
「それがってなんだよ? なにかマズいことでもしたのか?」
「実は……ホテルの部屋にガンジャがあって、それ吸っちゃったんですよ」
尾崎慎平の声は相変わらず顫えていた。
「ガンジャ?」
それがどうした?──態度で現す。店に煙が漂っている。だれかが吸った大麻の香りが溶けこんでいる。
四人は視線を落とした。
「吸ってるところを写真に撮られたわけじゃないんだろう?」
「それが撮られちまったんだよ」
小林真一──開き直った声。
「どういうことだ、それ? 外で吸ったわけじゃないんだろう? 部屋の中にカメラマンが忍びこんできたっていうのか?」
「あの女たちが記念に写真撮ろうっていいだして、それで──」
勝也がいう──最後まで喋らせなかった。
「撮ったのか?」
四人が一斉にうなずいた。
「つまり、みんな同じ部屋にいたってこと?」
「そうです。スイートっていうんですか? 凄い広い部屋で、ベッドもでかいやつが二つあって……あの女たちが用意してた部屋みたいなんですけど」
彰洋は唇を噛んだ。沈んだ視線を宙にさまよわせた。
「それで、あの女たちは?」
彰洋はことさらに間延びさせた口調で訊いた。
「ホテルの前で写真撮られて、カメラ持ったやつと揉めてたら、いつの間にかいなくなっちまってて」
吉永和人──長髪と革ジャンでカモフラージュされた素顔が覗き見える。吉永和人の目は途方に暮れた少年のそれだった。
良心が疼《うず》きはじめた。やり通すと決めたんだろう──自分を叱咤《しつた》する。彰洋はテーブルの下で両手をきつく握りしめた。
「まずいよ、それは……」
「まずいですよね、やっぱり」
「計画的って感じがするからね」
「計画的ってどういうことですか?」
勝也が割って入ってきた。
「君たちとのスキャンダルを写真週刊誌に売って、金にするってことだよ。ホテルにガンジャがあった? 一緒に写真を撮った? ホテルを出たらカメラマンが待ち構えていた? これが偶然なわけないだろう。かなりいい金になるって聞いたことがあるよ」
「だって、堤さん、あの女たち、金を持ってるっていったじゃないですか。なんで、金持ってる女がそんなことするんですか? おかしいじゃないですか?」
正念場──善意の第三者を装え。
「そういいはしたけど……たまに来る客だし、よく知ってるわけじゃないんだよね」
「無責任じゃねえのかよ、それ」
小林真一が怒鳴った。目が怒りに吊りあがっている。彰洋は小林真一を睨んだ。
「確かに無責任かもしれないけど、こっちはよかれと思っていったんだよ」
「そのよかれと思ったあんたの一言のせいで、おれたち、ヤバいことになるかもしれねえんだぜ」
「あの女たちとなんとかしたいっていってきたのは桜井君だし、やりたい一心で女たちを連れだして、ガンジャまで吸ったのは君たちだ。君たちの責任はどうなるんだよ?」
彰洋は声を荒らげた。憮然とした表情──小林真一はなにもいわなかった。
「なんだよ、そんな顔するなよ。いいかい、おれは君たちのファンなんだ。ちょっと小林君のいい方にムカついたけど、おれにも責任はあると思ってるから」
「すんません。おれら、ちょっとパニックになってるから、わけわかんないことばっかいっちゃって、すんません、本当に」
勝也が頭をさげた。他の三人はただ、呆然としている。
「そんなことしなくてもいいって。そんなことより、どうしたらいいか考えよう」
「どうしたらいいんですか?」
「まだわからないよ。だけど、デビュー直前のロック・バンドが大麻を吸って女の子たちと乱交してたなんて記事が写真誌に載ったら、大変なことになるだろう」
「デビュー、おしゃかですか?」
尾崎慎平──弱々しい声、弱々しい態度。
「たぶんね」彰洋は答えた。「少なくとも、尾崎君以外の三人をレコード会社は切るよ。尾崎君は……レコード会社がどこまで君に期待してるかにもよるけど、ほとぼりが冷めてからソロか他のバンドでデビューってこともあるから」
「頼みます、堤さん。なんとか、おれらを助けてください」
悲痛な叫び──勝也。吉永和人と小林真一は俯《うつむ》いたまま。尾崎慎平以外の三人で、もっともデビューに執着しているのは勝也だった。
「問題は、どこの写真週刊誌に売られたのかってことだよな」
彰洋は腕を組んだ。考えるふりをして、タイミングを見はからう。
「わかった」充分な間を取ってから口を開いた。「知り合いに、出版業界に詳しい人がいるから、その人を通して調べてみるよ。うまくいけば、雑誌が出る前に記事を押さえられるかもしれないから」
「本当ですか?」
勝也が身を乗りだしてきた。わらにも縋《すが》りたい──表情がそう訴えていた。
「約束はできないよ。おれにいえるのは、手は尽くしてみるってことだけだよ」
「そ、そうですよね」
勝也は肩を落とした。打ちひしがれた顔──絶望に歪んだまなじり。
良心が疼く──ねじ伏せる。
「レコード会社にも話通した方がよくないですか?」尾崎慎平がいった。「会社の方でも手を打ってくれるかもしれないし……」
「売れるかどうかもわからないバンドのために?」
彰洋は尾崎慎平に視線を向けた。尾崎慎平は顔を背けた。
「さっきもいったけど、助けてもらえるのは尾崎君だけだよ。それだって、可能性は低いんだ。それでも、なにもしないよりはましだって思うんなら、いってみるといい。ただし、月曜日まで待ってほしいんだ」
「どうして?」
勝也がすぐに反応する。
「あまり多くの人間が動くと、話がこじれることがよくあるんだよ。明日、明後日でぼくは最大限の努力をしてみる。それでだめだったら……そのあとのことは君たちで判断すればいい」
四人が顔を見合わせる。やがて、勝也が口を開く。
「すんません。おれら四人だけで相談してもいいですか?」
「もちろんかまわないよ。君たちの運命がかかってるんだから、決めるのは君たちだ」
大仰な言葉──切羽詰まっている人間の耳には大きく響く。
彰洋はテーブルを離れた。カウンターで煙草に火をつけた。煙を勢いよく吐く。ホット・ロッドは深刻な顔をして額を寄せあっている。胸の十字架が肌を刺激する。
祖父の声がよみがえる。
──いいか、彰洋。お爺ちゃんはおまえのことはなにも言わん。人様に迷惑をかけないように育ってくれれば、おまえがなにを信じようがかまわん。これだけは忘れるなよ、彰洋。嘘をついてはいかん、人を騙したりしてはいかん、人の物を盗んではいかん。天に在《ましま》す主なる父はすべてを見ておられるからな。
子供のころ、何度も聞かされた言葉だ。主なる父のことなどどうでも良かった。祖父が悲しむ顔を見たくないと思い、いつだって祖父の言葉にはまじめに耳を傾けた。
「堤さん!」
勝也の声が響いた。ホット・ロッドの四人がテーブルの周りで直立していた。
「堤さんに全部お任せします。お願いですから、おれらを助けてください」
彰洋がテーブルに戻ると、勝也がいった。四人が一斉に頭をさげた。
「顔をあげて」彰洋はいった。「おれたち、もう、ダチだろう? ダチがダチにものを頼むのに、頭をさげる必要なんかないよ。おれにだって責任はあるんだから、精一杯やるから」
四人は頭をあげた。尾崎慎平と勝也の目に涙が浮いていた。
嘘をついてはいかん、人を騙してはいかん──祖父の声が何度も耳の奥で谺《こだま》した。
10
彰洋からの連絡はない。美千隆も捕まらない。自分が手配した女に電話をかけた。乱痴気騒ぎの顛末《てんまつ》をはしょらせながら、なんとか首尾を聞きだす。
すべてはうまくいった。
なのに、彰洋からの連絡はない。美千隆は捕まらない。
「男なんていつもそうよ」麻美は憤懣に満ちた声をあげた。「いつもは女、女って目の色変えてるくせに、大金が絡んだ仕事になると女のことなんかそっちのけなんだから」
苛立っていた。理由はわからない。そのことがまた苛立ちを増幅させた。
電話が鳴った。麻美は反射的に受話器に手を伸ばした。彰洋か、美千隆か──
「もしもし?」
受話器から聞こえてきたのは予想に反して女の声だった。麻美は舌を鳴らした。
「あら、機嫌悪そうね、マミ」
早紀の声だった。麻美は眉をしかめた。
「ごめん、早紀……ちょっと嫌なことがあって」
「へえ、そうなの? マミにも嫌なことなんてあるんだ」
「皮肉は勘弁して……舌打ちしたのは謝るから」
「まあ、いいわ。わたしも別に名乗ったわけじゃないから」早紀の声によそよそしさはなかった。「それより、マミ、このあいだ、学校でわたしのこと探してたって本当?」
頭の中をいくつもの顔がよぎった。早紀に告げ口したのはだれだろう?──だれにだって可能性はあった。
「本当よ。早紀と仲直りしたくて探してたの。そのとき、早紀の友達のだれかからマミのせいで早紀がパパに殴られたって聞かされたのよ。それで、慌てて早紀に電話したってわけ。なにか問題でもあるの?」
「マミがわたしのこと探してたから気をつけたほうがいいよって忠告してくれた子がいたのよ」
つまり、早紀は学校へ行った──顔の腫れはもう引いている。早紀の腫れあがった顔を一度でいいから見てみたかった。
「馬鹿みたい」
「マミが学校に顔出すこと自体、珍しいじゃない。それに、ちょうど電話をくれた日だったから、なにか企んでるのかなと思って」
「なにも企んでなんかいないわよ」拗《す》ねた声を出す──早紀に効果的だということはわかっている。「マミはただ、早紀のことが心配だっただけなんだから」
返事はなかった。唇を噛んでいる早紀の顔を思い描くことができた。早紀は誰《だれ》かに傷つけられることを嫌う。だれかを傷つけることも嫌う。今この瞬間、早紀は確実に自責の念に苛《さいな》まれている。
「どうしたの早紀?」
水を向けてやる。そうしなければ、早紀はいつまでも悩みつづけているに違いなかった。
「なんでもないわ……マミ、今夜、暇?」
土曜の夜──普段なら波潟と食事を取ることになっている。早紀と仲直りするチャンスだといえば、波潟との約束はキャンセルできる。波潟にしても、妻と娘の頑なな態度には弱りきっている。
「今夜ならだいじょうぶだけど」
「会える? 会って、わたしに謝ってくれる?」
「もちろん。この前の電話でもそういったでしょう?」
「あの時、マミは土下座でもするっていったわ。わたし、土下座しろっていうかもよ」
麻美は微笑んだ。早紀にそんなことはできない──わかっている。
「早紀がそうしろっていうなら、なんでもするよ」
一瞬、間があいた。早紀は感激しているに違いない。
「じゃあ──」
ためらいがちな声が受話器から聞こえてきた。
「どこにでも行くからいってよ」
早紀の背中を押してやる。
「七時に銀座まで来てくれる? いいバーがあるの。食事もそこそこに美味しいところよ」
ボードウォーク──早紀が口にしたのは、銀座と築地の中間あたりにできたばかりのバーだった。波潟に連れられて行ったことがあった。カクテルは上品で、料理もまずまずだったが、静かすぎた。波潟は賑やかな店が好きだった。波潟がその店に行こうといいだすことは二度となかった。
「知ってる、マミ?」
「知らない」反射的に口にしていた。「でも、だいたいの場所はわかると思うよ」
「じゃあ、七時にそこでね」
「わかった。必ず行くから」
電話が切れた。笑みがもれた。抑えることができなかった。
* * *
うまくやるんだぞ──波潟はいった。早紀と仲直りできたらなんでも欲しいものを買ってやる。
波潟の声は上ずっていた。自分の発した言葉がどれだけ歪んだものであるかに気づいてもいなかった。波潟の棲む世界ではすべてが金に換算される。愛情ですら例外ではなかった。金に溺れ、中毒し、感情を麻痺させていく。
だが、波潟を侮蔑しようとは思わなかった。ありあまる金を持っているから波潟は金に中毒している。六本木や銀座を夜ごとうろつくあぶく銭を掴んだだけの連中にくらべればよっぽどましだった。あぶく銭で金に中毒した連中の末路は簡単に想像することができた。どうせ中毒するなら、波潟のようになりたかった。
歌舞伎座の近くでタクシーを降りた。タクシーで店に乗りつけるところを早紀に見られたくなかった。憐れさを装えばいい。金では満たされないのだと装えばいい。早紀が腹の奥に抱えるわだかまりはすぐに同情に変化する。
晴海通りを渡って昭和通りを新橋方面に向かって歩いた。若いサラリーマンやOLたちは一様に黒革のハーフコートを着ていた。他人と同じものを着て何が楽しいのか、理解できたためしがない。高級ブランドならまだしも、安物の似たような衣服に群がる神経は鼻持ちならなかった。人並み外れた成功を夢見るつもりもなく、流行に乗り遅れることに恐れおののくだけの人生。考えるだけで胸がむかついてくる。
波潟の染みの着いたネクタイが脳裏をよぎった。美千隆の皺ひとつないアルマーニのスーツ姿が脳裏をよぎった。醜くあれ、美しくあれ、ふたりは黒革のハーフコートに身を包むような連中とは明らかに違う体臭を発していた。その匂いを嗅《か》げば、大抵の人間は噎《む》せ返る。麻美はその匂いが好きだった。自分もそういう匂いを発したいと願った。群集に埋没することを願って身体を小綺麗に保つぐらいなら、薄汚れていた方がよっぽどましだった。
麻美は鼻を鳴らして黒革のハーフコートの群れから視線を外した。ヒールを高く鳴らして歩いた。
胸を張って歩きなさい──子供のころ、母親にそういわれた。俯いて歩くぐらいなら出かけるのをやめなさい。
俯いたことはない。他人から目を逸らしたことはない。これまでも、これからも。
* * *
ボードウォークは静かだった。空いているわけではなかった。慇懃《いんぎん》なスタッフと上品な客たち。好景気で賑わっている他の店とは違う趣がボードウォークの売りだった。
客の大半は三十代の男と二十代の女のカップルだった。株かなにかではしたなく儲けている男と、そのおこぼれに与ろうとしている飢えた女たち。上品さを気取るには地金が透けて見えすぎている。店自体も、上品さを装いながら得体のしれない連中の金を貪欲に狙っている。
波潟が嫌ったように、麻美もこの店が嫌いだった。金を使いたいなら派手に使えばいい。金を儲けたいなら目の色を変えて儲けに走ればいい。変にもったいぶるだけ不効率で不健全だ。
こんな店を好むから、早紀にはなにもわからない。それとも、なにもわかっていないからこんな店を好む。本当に上品な連中なら──生まれついての金持ちなら、とうの昔に自分たちの居場所を与えられているに違いないのに。
早紀はもう来ていた。慇懃なスタッフに案内されたのは一番奥のテーブルだった。早紀は所在なげにうつろな視線をあちこちにさまよわせている。
「ごめん。遅れちゃった」
麻美はスタッフが引いた椅子に腰をおろしながら謝った。
「そんなことないわよ。わたし、早く着いちゃったから」
麻美は腕時計に視線を走らせた。カルティエの時計は午後六時五十八分を指していた。遅れたわけではないことはわかっていた。
「よかった。早紀がもういるから、てっきり遅れたのかと思ったわよ」
早紀の目をまっすぐ見つめた。
「だいじょうぶよ。マミが遅刻するとは思ってなかったし」早紀は目を逸らし、メニューに手を伸ばした。「ね、なにか飲もう。マミと会うの久しぶりだから、なんだか緊張しちゃう」
「そうね──」間をはかる。「まず、乾杯しようか。そのあと、土下座でもなんでもするから」
さりげない口調──早紀の表情が凍りつく。
「マミ、わたしは別に──」
「マミはその気で来たんだよ、早紀」
麻美はテーブルの上に身を乗りだして早紀の目を覗きこんだ。早紀が目を逸らそうとしたが逃がさなかった。
でかい取引をまとめようと思ったらな、最初に一発かましてやるのがいいんだ──波潟の口癖を思い起こす。
「わかってるから」早紀の声は上ずっていた。「でも、その前に、とにかくなにか頼みましょう」
「じゃあ、マミはシェリィをもらう。早紀は? 昔と好みが変わってない? キールロワイヤルでいいの?」
言葉を畳みかけるんだ、相手に喋らせちゃいかん──波潟はいう。そうやっておれは大金を掴んだんだと自慢する。口八丁手八丁ってことだ──美千隆が解説してくれたことがある。力がある、金があると思わせる。実際にそうである必要はない。相手にそう思わせることが肝腎だ。口のうまいやつ、手の早いやつがのしあがれる。今はそんな時代なんだ、と。
「あ、うん」
早紀がうなずくより早く、麻美はフロアの間をうろついているウェイターに手をあげた。ウェイターが飛ぶような足取りでやってくる。
「彼女にキールロワイヤル、わたしはシェリィね。それと、なにか美味しい料理ある?」
「本日は鴨がお薦めでございますが──」
「じゃあ、それをふたつ。それから、サラダかなにかを持ってきて。あなたにお任せするから。飲み物は早く持ってきてね」
囁くような声でまくしたてる。まるでサイレンサー付きのマシンガンのようだ。ウェイターは目を丸くした。それには取り合わず、早紀に顔を向けた。
「あ、ごめん。勝手に注文しちゃったけど、かまわない?」
舌を出し、微笑む。早紀は呆れたように表情を崩した。
「変わってないね、マミ」
「そう。貧乏人はせっかちなのよ」
麻美はメニューを閉じた。
相手のやる気をなくさせたらこっちの勝ちだ──波潟はいう。闘う前から勝負をつけてやるわけだ。
早紀の顔に険しさはない。波潟のいうとおり、闘う前から勝負はついている。
* * *
「本当のこと話してくれる、マミ?」
ためらいがちに早紀が口を開く。キールロワイヤルのせいで頬がほんのり赤らんでいる。
「もちろん」
麻美は答えた。シェリィはシャトー・ラトゥールに変わっていた。ふたりの目の前にはシーザーサラダが盛られた皿が置かれていた。麻美も早紀もサラダには手をつけなかった。
早紀がグラスに残っていたキールロワイヤルを一気に飲み干し、意を決したように喋りだした。
「本当にパパのことが好きなの? お金のためじゃないの?」
お金のためよ、決まってるじゃない。麻美は声に出さずにそう答えた。ワインを口に含み、物思いに耽るように天井に視線を向けた。
「マミ──」
「早紀にはわからないかもしれないけど」口を開きかけた早紀の機先を制する。「マミ、本当に貧乏な家庭に育ったのよ。母ひとり子ひとりの母子家庭。食べるものも着るものもずっと我慢してなきゃならなかった」
「わたしにだってわかるわよ。うちだって、パパが成功するまではそれほど裕福だったわけじゃないんだから」
麻美は小さく首を振った。置かれたままだった早紀のワイングラスにデキャンタのシャトー・ラトゥールを注いだ。
「早紀のはね、普通の家庭っていうの。うちのはど貧乏」
「そんなことないわよ」
「そんなことあるのよ。マミがどうして麻美≠チて呼ばれるのが嫌いか話したことあるでしょう? 父親に捨てられて、マミとお母さん、本当に酷い目に遭ったんだから」
早紀は口ごもった。早紀がこの話に弱いのは計算済みだった。
「だからね、マミ、小さいときから決めてたの。大人になったら、絶対にお金持ちと結婚するんだって」
早紀はうつむいていた。グラスに注がれたばかりの赤ワインを揺らす指先が白くなっていた。
「昌男さんのことが気になったのは、お金持ちだったからだと思う」
ワインを揺らす早紀の手がとまった。
「でも、それは最初だけ。早紀のお父さんだってことは、マミの父親と同じような年だってことだし、いくらなんでも恋愛の対象にはならないでしょう? お金持ちと結婚するって決めてたっていっても、お金のためだけってことじゃないからね。ちゃんと恋をして結婚したいんだから」
「じゃあ、パパのことは……」
早紀が顔をあげた。
「マミね、きっとファザコンなのよ。自分を捨てた父親のことが嫌いで嫌いでたまらなかったけど、そのくせ、父親が恋しかったのかもしれない。ね、早紀、覚えてるでしょう? ゴールデンウィークにハワイに行ったときのこと」
「もちろん。忘れるはずないわ」
波潟家のおこぼれに与るような海外旅行にはその時点で何度も行っていた。遠慮しなくていいのよ──旅行に誘うたびに早紀はそういった。わたしはもちろん、パパもママもマミのことを家族の一員のように思ってるんだから。
金持ちの傲慢とそれに気づくことのない無神経。麻美は反感を押し隠して旅行についていった。
そのハワイ行きは麻美にとって二度目だった。波潟はハワイにコンドミニアムを持っている。正月休みやゴールデンウィークにそこでよく家族と過ごしていた。ハワイ行きを持ちかけてきたのは早紀だ。大学二年目のゴールデンウィーク。いつものハワイ旅行。いつもと違うのは麻美がいること。両親と三人だけだと息が詰まると早紀はいった。二人だけで先に行って、思いきり遊びましょうよ。
「楽しかったよね、あれ。四月の二十九日だっけ? 早紀がべろべろに酔っ払っちゃったの?」
二十九日の朝。早紀がシャワーを浴びている間に波潟から電話があった。波潟はこれから成田を発ち、母親の紀子は五月一日にこちらに来るという電話だった。チャンスが来た──そう確信した。麻美と早紀と波潟の三人で過ごせる二日間。早紀さえなんとかしてしまえば波潟と二人きりになることができる。波潟が自分に気があることは、それまでの付き合いでわかっていた。
「カクテル飲みすぎちゃったんだよね……それで、わたしが倒れて、マミ、パパに叱られたのよ。本当にすまないとおもったわ」
「そう。若い娘ふたりがハワイみたいなところで正体をなくすまで酔っ払ってどうするんだって……男の人にあんなふうに叱られたの、久しぶりだった。お父さんに叱られてるみたいでさ……叱られてる間は、情けないし悔しいし、なんでマミだけ怒られるのとか思ったりして。だけどね、早紀。マミ、きっとあのとき昌男さんのことを好きになったんだと思う。マミ、ずっと父親のことを憎んでたけど、それとは逆に、ちゃんとしたお父さんに愛されたいと思ってたのかも。最初はね、昌男さんみたいなお父さんがいたらいいなと思ってただけ。だけど、気がついたら好きになってた」
予め用意しておいた作り話。実際はこうだった──早紀を酔い潰したあと、波潟がやってくるのを待った。波潟はくたびれた顔をしていた。早紀が酔い潰れてしまったと告げると、心配そうに様子を見に行った。その間に麻美はシャワーを浴びた。全裸にバスタオルを巻いただけの姿でリヴィングに戻った。波潟はビールを飲んでいた。あんなになるまで早紀に飲ませちゃってごめんなさい、でも、マミも酔ってるから──波潟にしなだれかかった。タオルが床に落ちた。波潟の顔から疲れの色が消し飛んだ。波潟はすぐに麻美に抱きついてきた。それをうまくあしらった──ここじゃ、いや。早紀や紀子さんがいるところじゃいや。東京に戻ったら、二人きりで会って。
「だから、紀子お母さんや早紀にいわれたように、お金のためじゃ絶対にないの。それだけはわかってほしいのよ。それさえわかってくれたら、マミ、本当に土下座でもなんでもする。早紀の気持ちよくわかるし、早紀たちの気持ちより自分の感情を選んじゃったことは確かだから……」
麻美はテーブルの上に腕を伸ばして早紀の手を握った。早紀は拒否しなかった。
「ずっと悩んでたんだよ、早紀。謝りたいって。でも、マミから電話して、また罵《ののし》られたらどうしようとか、いろんなこと考えて……悪いのはマミなのに、傷つくのはいやだって、自分勝手だとは思うけど」
「そんなこと、ないわ」早紀がいった。早紀の目は潤んでいた。「わたしが本当に酷いこといったのがいけなかったのよ。まさか、パパがマミとそんなことをするなんて思ってなかったし、ママのことを考えると……」
泥棒猫──早紀はそういった。性悪女──早紀はそういった。
あれは七月に入ってすぐのことだった。麻美は早紀に呼びだされた。元赤坂の波潟家に行くと、早紀と紀子が怒りに顔を歪めて待ち構えていた。
あのときのことを考えると今でも身体が熱くなる。早紀はゆるせない。ゆるせるはずがない。
「早紀は悪くないわ。早紀と紀子お母さんのことを考えなかったマミが馬鹿なの。早紀が昌男さんに殴られたって聞いて、マミ、本当に泣きたくなった」
早紀の手を強く握る。早紀の目を覗きこむ。心の通いあった友人の役を演じる。
演技をするのは心地よかった。自分で脚本を書き、演出し、主役を演じる。全能になったような気分すら味わうことができる。
「本当のことをいうとね──」早紀がためらいがちに口を開いた。「まだ、しこりはある。パパとマミのことを考えると、どうしても割りきれないの。わかってくれる?」
麻美はうなずいた。
「だけど、マミのこと憎むのはやめる。パパのこと、理解するように努力してみる」
「ありがとう、早紀」
「ママはマミのことゆるさないと思うけど、わたしは……」
「早紀さえゆるしてくれるなら、それで充分よ。こんなことになっちゃったけど、マミ、早紀が好きだったから友達になったの。その友達がたまたま昌男さんの娘だっただけ。紀子お母さんには今でも申し訳ないと思ってるし、ゆるしてくれるはずがないこともわかってる」
麻美は口を閉じた。早紀は眉間に皺をよせて麻美の言葉に聞き入っている。間《ま》を計る。演技にはタイミングの計算が重要だ。
「自分勝手な言い草だってことはわかってるけど、また、昔のように早紀と遊べたらいいなって、いつも考えてた」
決め台詞──早紀の顔が歪み、頬を涙が伝った。麻美はバッグからエルメスのハンカチを取りだし、早紀に渡した。
「泣かないで、早紀。早紀に泣かれると、マミ、困るよ」
早紀はハンカチで涙を拭った。エルメスに涙と鼻水がついた。昔なら卒倒しそうになった。今は平気で眺めることができる。
「ごめんね、マミ」
早紀がいった。
麻美はこみあげてくる笑いを押し殺した。その言葉を聞くためなら、ケリーバッグをドブに捨てることになってもよかった。
11
仕事の仕上げ──印刷屋が青くくすんだ紙に印刷された記事を持ってくる。
記事は見開きの二ページ。どちらも上三分の二は写真で埋められている。
最初の写真──だだっ広いベッドの上、ホット・ロッドの四人と、四人の女たちがピースサインを作っている。撮影役の女は写真には写っていない。女たちは胸元までをシーツで覆っている。ホット・ロッドの四人は全裸。ホット・ロッドの四人は笑っている。その笑い方はどこか浮き世ばなれしている。女たちは無表情──指示どおり。写真の右横には見出しが躍っている。
「すでに大物気取り!? デビュー前のロックバンド、六本木深夜のご乱行」
次のページの写真──背景は全日空ホテル。ストロボが尾崎慎平と桜井勝也の驚愕に歪んだ顔を浮かびあがらせている。そのすぐ後ろに吉永和人と小林真一の顔が見える。女たちは背景に溶けこんでいる。だが、そこに女がいることは如実にわかる──注文どおり。
ふたつの写真にはふたとおりのキャプションがついている。キャプションの内容は扇情的で辛辣だった。
彰洋は下段の記事に目を通した。
〈まずは上段の写真をご覧いただきたい。ホテルの一室らしき場所で、若い男女が仲睦まじく写真におさまっている。だが、目を凝らしてよく見ると、彼らが全裸であり、記念写真にしては女性陣の表情が固いことにお気づきになるだろう。それに、四人の男性の表情にどこか締まりのないことも……。
この写真に写っている女性陣の名前はわからないが、男性陣は知るひとぞ知る存在なのである。その名はホット・ロッド。原宿の歩行者天国、いわゆるホコ天で人気をあつめるストリートバンドのメンバーで、その人気の高さからいくつかのレコード会社が獲得に動いているという噂があるほど……〉
原稿はキャプション以上に挑発的だった。扇情的だった。辛辣だった。ホット・ロッドの存在を的確に表現し、彼らの女遊びをあげつらい、大麻吸引を匂わせて終わっている。
完璧だった。
彰洋は電話に手を伸ばした。
「美千隆さんですか? 彰洋です」
「どうした?」
美千隆の声は低い──そばにだれかがいる。
「ものがあがってきました。これを桜井勝也に見せれば震えあがりますよ。記事を握り潰してやるといえば、なんだってするんじゃないですか」
「ホテルまで来てくれ」
電話は切れた。
* * *
日曜日の朝。金曜から一睡もしていない。眠気は感じない。寝ようとしても眠れない。昂揚感が身体を支配している。百億近い金が動く仕事の仕上げを任されている──細胞が蠢《うごめ》いているのを感じることさえできる。
電話に手を伸ばす。脳味噌に刻みこんだ数字をダイヤルする。
「もしもし?」
桜井勝也の憔悴した声──意気消沈のホット・ロッド。胸が痛む。胸元で十字架が揺れている。
「勝也君? 堤だけど──」
「堤さん! どうなりました?」
勝也は悲鳴のような声をだした。
「君たちの写真を撮った週刊誌がわかったよ。〈シャッター〉だ」
「マジですか?」
悲鳴が嘆息に変わる。写真週刊誌の元祖。そこに写真が載ればホット・ロッドの命運は尽きる。
「うん。なんとか手をまわして、雑誌になる前の校正刷りを見たよ。酷いことが書かれてる」
「見たって、本当に?」
「嘘はつかないよ。雑誌っていうのは、本にする前に誤字脱字のチェックをするために見本を刷るんだけど、それを手に入れた」
「どんなことが書いてあるんですか?」
彰洋は口を閉じた。胸の痛みが強くなる。
「堤さん、〈シャッター〉にはどんなことが書いてあるんですか?」
覚悟を決めろ。
「〈シャッター〉によると、ホット・ロッドのメンバーはどうしようもない女好きで麻薬中毒でデビュー前から天狗になってる馬鹿野郎だってことになってる」
「なんですか、それ?」
「この手の雑誌っていうのは、一あることを十にして書くのが普通だからな」
「勘弁してくださいよ。たまたまあの晩そうなっちゃっただけじゃないですか」
「連中にはそれだけで充分なのさ」
「そうやって人の人生めちゃくちゃにしてなにが楽しいんだよ……」
勝也が呻《うめ》くようにいった。勝也は自分では気づかないまま踊っていた。勝也を踊らせているのは彰洋だった。このままうまく誘導していけば勝也を思うまま踊らせることができる。怒らせることができる。笑わせることができる。泣かせることができる。
恐ろしい快感──眩暈《めまい》すら覚える。
「そんなに落ちこむなよ。今、いろいろ手を打ってるから」
「なんとかなりそうなんですか? そんな記事が載っちゃったら、おれら、終わりですよ」
「〈シャッター〉に顔が利きそうな人をひとり知ってるんだ。不動産屋なんだけどね、どういうわけか顔が広いんだよ。まだ若いんだけどね」
陶酔感が増していく。胸の痛みが遠ざかっていく。祖父の戒めは霧の彼方に消えていく。
「お願いしますよ、堤さん。おれら、堤さんしか頼れる人いないんですよ」
「わかってる。こうなったことにはおれだって責任感じてるから、任せてよ」
「ほんと、すいません。おれらがスケベ心起こさなきゃよかったのに」
「若いんだからしょうがないよ……それでさ、勝也君、急で悪いんだけど、今日の午後一ぐらいに、他のメンバー集めておれの部屋に来てくれる。うまくいけば、その時間にさっき話した不動産屋がつかまるかもしれないんだ」
「場所はどこですか?」
「六本木」
彰洋は住所を口にした。美千隆が用意した青年実業家に相応《ふさわ》しい二LDKのマンション。不動産屋であることを悟られてはいけない。
「わかりました。必ず行きますから」
「マンションが見つからなかったら、電話くれれば迎えに行くよ」
「だいじょうぶです。和人のやつが昔六本木でバイトしてたことがあって、その辺の地理、めちゃくちゃ詳しいですから」
電話が切れた。
* * *
一時三分──インタフォンのチャイムが鳴る。ホット・ロッドの揃い踏み。四人が四人とも憔悴した顔つきをしていた。
「いらっしゃい。散らかってるし、狭いけど、とにかく中に入って」
彰洋は四人を中に招きいれた。
「いい部屋ですね」
尾崎慎平がお世辞をいう。他の三人はうつむいたままだった。彰洋はダイニングテーブルの上に広げておいた偽の記事を指差した。
「あれが〈シャッター〉の記事だよ」
四人の顔が一斉に同じ方向を向く。真っ先にテーブルに足を踏みだしたのは桜井勝也だった。
「なんだよ、これ!?」
四人はでたらめな記事の校正刷りを手に取る。写真と記事──尾崎慎平の口から呻きが漏れる。ホット・ロッドはテーブルに集まった。食い入るような視線を記事に向けた。
「それ、青焼きっていって、雑誌になる直前の見本刷りなんだ。その写真じゃ見にくいかもしれないけど、実際の雑誌にはもっと鮮明な写真が掲載されるそうだよ」
彰洋は四人の背中に声をかけた。小林真一が振り向いた。
「こんなのでたらめじゃねえかよ!」
「それがその手の雑誌のやり口なんだよ。読者の興味をそそりそうな事件がなかったらでっちあげる。君たちだって、そういう雑誌、読むことあるだろう?」
小林真一は口をつぐんだ。左右に泳ぐ視線が彰洋の問いかけを肯定する。その視線は他人の不幸を喜んだことがあるといっている。だが、自分がその対象になるのは御免だといっている。自分の身勝手さを認識しつつ、それでも耐えられないと訴えている。
小林真一を詰《なじ》ることはできない。だれだって同じ反応を示す。美千隆の言葉を思いだす──日本人は想像力が足りないんだ、自分が大金持ちになれるってことが想像できない、だから、こんな時代でも会社に真面目に勤めてせこせこ暮らしてるんだ。
ホット・ロッドには想像力が足りない。憧れていた華やかな世界の入り口に足をかけながら、実際に世間の注目を浴びるだろう自分たちの姿を想像できなかった。桜井勝也は自分の親が持つ土地の力を想像することができなかった。土地のために、自分の人生を弄《もてあそ》ばれる可能性を想像できなかった。
だが、それが彼らの罪なのか? 美千隆なら、罪だと断じる。自分は?
彰洋は唇を舐《な》めた。四人がやってくる前まで感じていた高揚感はすっかり色|褪《あ》せていた。
捏造《ねつぞう》した記事。それに踊らされ、傷つき、絶望する四人の若者──良心に蓋をしろ。美千隆と共に作る王国のことだけを考えろ。
「だけど、それとこれとは別でしょう?」
尾崎慎平が訴える。
「そう。それとこれは別だ。この記事が掲載されたら、ホット・ロッドは終わりだ。君たちもそう思うだろう?」
無言の賛同。ホット・ロッドの八つの目は昏《くら》く沈んでいる。
「ちくしょう」
吉永和人が呻く。
「なんとかならないんですか、これ?」
尾崎慎平がまた訴える。
「なんとかできそうな人を知ってるって、堤さんいってましたよね?」
桜井勝也が他のメンバーを鼓舞するようにいう。三人の視線が勝也と彰洋の間を行き来する。
「なんとかなるって決まったわけじゃないよ。その人が動いてくれれば、なんとかなるかもしれないって話だから。誤解して期待されすぎても困るよ」
四人が顔を見合わせる。桜井勝也がうなずく──合図。四人が一斉に彰洋の方向に身体を向けた。床に膝を突き、土下座する。
「お願いします、堤さん。おれらのために、なんとかしてください」
桜井勝也が懇願する。
おれらのために──おろかな若者たちの真摯な願い。気持ちがぐらつく。蓋をしたはずの良心がどこからか漏れ出てくる。嘘をついてはいかん、人を騙してはいかん、人の物を盗んではいかん──くそったれ。
ホット・ロッドは土下座を続けている。
みんな、顔をあげろ。その記事はでたらめだ。土下座なんかする必要はない──言葉が喉まで出かかる。
電話が鳴る。
ホット・ロッドが顔をあげる。彰洋は弾かれたように電話に足を向けた。受話器に手を伸ばした。腕が顫《ふる》えていた。とめようとしてもとまらなかった。
「もしもし?」
「なんだ、その声は? びびってるのか、彰洋?」
美千隆の声──顫えがとまった。罪悪感が消えた。まるで魔法の呪文を聞かされたようだった。
「いいえ、だいじょうぶです。約束の時間より早いようですが……」
含み笑いが聞こえた。笑い声はなんでもお見通しだぞといっていた。
「敵を騙すにはまず味方からだ。連中はどうしてる? 記事を見て泡食って、おまえに土下座でもしてるんじゃないか?」
実際、美千隆はなんでも見通している。
「お忙しいのに、お手を煩わせてしまってすいません。はい、もうすでに、みんなわたしのマンションに集まって、齋藤さんからの連絡をお待ちしていたところです」
「よし、今から連中をホテルまで連れてこい」
「ありがとうございます」
彰洋は肩越しに視線を飛ばした。ホット・ロッドの八つの目が彰洋を注視している。ホット・ロッドの八つの耳が彰洋の声を聞き逃すまいと集中している。
「おまえには黙っていたが、こっちには高橋もいる。おれひとりじゃ格好がつかんからな」
高橋──MS不動産常務。人を安心させる風貌の中年男。その実、筋金入りの不動産営業マン。
「わかりました。これからお伺いいたします」
彰洋は受話器を置いた。振り返った。
「その記事を握り潰してくれるかもしれない人だ。今から来てくれって」
張りつめていたホット・ロッドの神経がほぐれていくのが手に取るようにわかった。
* * *
「どちらさまでしょうか?」
部屋のドアを開けたのは高橋だった。彰洋と目が合っても表情ひとつ変えなかった。会社にいるときとは別人のようだった。
「堤と申します。齋藤さんと約束があるんですが」
「そちらの方々は?」
高橋が彰洋の背後に視線を向ける。彰洋は振り返った。ホット・ロッドの四人は高橋の雰囲気に呑まれている。
「この人たちのことで、齋藤さんにご相談にうかがったんですが」
彰洋はいった。
「では、こちらへどうぞ」
高橋はうなずいて背を向けた。彰洋はその後を追って、部屋に足を踏み入れた。
「この人が齋藤さんじゃないんですか?」
耳元で桜井勝也の囁き声がした。
「齋藤さんはもっと若いよ」
彰洋が答えた次の瞬間、勝也は息をのんだ。目の前に広がる部屋の広さと調度にど肝を抜かれたらしかった。
美千隆はそのだだっ広い居間の真ん中のソファに座っていた。足を組みながら、なにかの書類に目を通していた。着ているのはアルマーニのスーツ。組んだ足の先はぴかぴかに磨きあげられたジョンロブ。首から下はばっちり決まっているが、顔はやつれて見えた。目の下に隈があり、髪の毛がかすかに乱れている。皺ひとつないスーツにやつれた顔──いかにもやり手に見える。
「社長、堤様がお見えになりました」
高橋が美千隆に声をかけた。美千隆は書類をテーブルの上に置いて腰をあげた。
「君が堤君か。話には聞いていたけど、なかなかいい面構えじゃないか」
「ありがとうございます」彰洋は差しだされた美千隆の手を握った。「お忙しいのに、お手を煩わせてしまってすみません」
「気にしなくていいよ。おれは若いのに頑張ってるやつを応援するのが好きなんだ」
美千隆は微笑んだ。その視線が彰洋からホット・ロッドに移動する。自然な仕種だった。
「で、こっちの四人がそのバンドのメンバー?」
「ええ、そうです。ホット・ロッドといって、今度デビューすることが決まってるんですが、ちょっとトラブルがありまして……」彰洋はホット・ロッドの四人に視線を向けた。「齋藤さんだ。君たちを助けてくれる」
「お願いします」
声をあげたのは尾崎慎平だった。わずかに遅れて、残りの三人が一斉に頭をさげた。
「そんなにかしこまるなよ。とにかく、座って……おい、高橋、コーヒーを取ってくれ」
美千隆は高橋に声をかけた。ひとり掛けのソファに席を移し、自分が座っていたソファを指差した。
「さ、座って」
「それじゃ、座らせていただきます」
彰洋はホット・ロッドを促した。四人が窮屈そうに身を縮めながら席につく。
「だいたいの話は耳にしてるんだ」全員が腰を落ち着けると美千隆が口を開いた。「葉っぱを吸って女と寝て、ホテルから出てくるところを写真に撮られた。慌てた君たちは堤君に泣きついて、堤君はおれに相談してきた。それで間違いないね?」
「それがこの記事です」
彰洋は雑誌の青焼きを広げて美千隆に見せた。
「それなら、今朝見せてもらったよ。出版社に手をまわしたんだ」
「本当ですか?」
桜井勝也が身を乗りだした。他の三人も驚きと納得の表情を浮かべた。驚きは美千隆の行動の速さに向けられたもの。納得は、それほどの人間ならなんとかしてくれるかもしれないという身勝手な思惑。
「それぐらい、わけないさ」美千隆はいった。「この出版社、去年の暮れに、四谷に新社屋建てたんだけど、その土地を斡旋したのがぼくの師匠筋に当たる不動産屋なんだ。それにこの〈シャッター〉って雑誌、五年ぐらい前に自民党のある大物代議士のスキャンダルを記事にしようとしたことがあってね、その代議士さん自分の持ってる力で記事は潰したんだけど、その後でかんかんになって編集部に怒鳴り込んで編集長を土下座させたんだ」
ホット・ロッドの四人はぽかんとした顔をしていた。美千隆は四人の反応を楽しんでいるかのように話を続けた。
「相当な剣幕だったらしくて、みんなびびっちゃってね。それ以来、その代議士には当たらず触らずって感じだ。で、ぼくは、二、三年前からその代議士先生に献金してるわけだ」
「じゃあ、記事、潰してもらえるんですか?」
口を開いたのはまた桜井勝也だった。ホット・ロッドの四人の中で、だれよりもデビューに拘泥《こうでい》しているからだった。
美千隆は声を出して笑った。小さく首を振った。
「気持ちはわかるけど、そう焦るなよ」
「すみません」
「そんなにデビューしたいのか、君?」
美千隆は桜井勝也の顔を覗きこんだ。
「もちろんです」
「たとえデビューできたとしても、売れるかどうかもわからないのに?」
「デビューしなきゃ、話にならないじゃないですか」
「いい答えだな。野心を感じる」
勝也は救いを求めるような視線を彰洋に向けてきた。彰洋は小さく肩をすくめた。
「話を元に戻そう。確かに、ぼくは代議士先生に献金してるし、代議士先生はその出版社に顔が利く。だけど、ぼくが献金してる額はそんなにたいしたものじゃない。政治家っていうのは、よっぽどの金額じゃなけりゃ、わざわざ人のためになにかしてやろうなんてしないもんだ」
美千隆は言葉を切った。ホット・ロッドの四人に順番に視線を走らせた。口を開く者はなかった。完全に美千隆の独り舞台だった。
「もちろん、金を出せば動いてくれる。だけど、君たち、そんな金あるか?」
だれも口を開かない。蒼ざめた四つの顔が美千隆を見つめるだけだった。
「ぼくにしたって、今日初めて会っただけの君たちのためにそんな金を使わなきゃならないいわれはない。そうだろう?」
四人の顔がさらに蒼ざめていく。
「代議士の方はだめだとしても、不動産屋の方は……」
おずおずと口を開いたのは尾崎慎平だった。
「土地を斡旋しただけじゃ、便宜をはかってもらうことはできても、記事を潰すことはとてもじゃないけどできないよ」
「だったら、なんでおれたちを呼んだんだよ!?」
叫んだのは小林真一だった。顔は蒼ざめている。
「君たち次第でなんとかしてやれるかもしれないからさ」
美千隆は涼しい顔をしていた。
「おれたち次第?」
「というより、桜井君次第だな」
美千隆は穏やかな視線を勝也に向けた。
「おれ?」
勝也の目が丸くなる。他の三人の視線が勝也に集中する。
「そう、君だ。ぼくがなんの仕事をしてるのか、堤君から聞いてるよな?」
「若いのに、すごいやり手で儲けてる不動産屋だって……」
「そう。ぼくは不動産屋だ。慈善事業をしてるわけじゃない。ぼくが見ず知らずの人のためになにかをするときは、それが自分の商売に結びつくからだ」
「さっきからなんの話してんだよ?」
吉永和人が顔を歪めて叫んだ。それを桜井勝也が制する。
「ちょっと待てよ、和人」
「なんだよ? どうしたんだよ、勝也?」
「いいから、ちょっと待てって」
桜井勝也の視線が忙しく左右に動いた。なにかを思いだそうとしている表情だった。
「心当たりがあるだろう、桜井君?」
美千隆がいった。唇の両端がかすかに吊りあがっている。美千隆はこの舞台を楽しんでいた。
「あんた、地上げ屋か? お袋がいってたよ、土地を売れってうるさくいってくる地上げ屋がいるって」
「なんと呼ばれてもかまわないが、確かにそうだ。ぼくは、君のお父さんが持ってる土地を売ってもらいたいんだよ」
「どういうことだよ、これ? あんた、はじめから知ってたのかよ?」
桜井勝也は彰洋にきつい視線を向けた。彰洋は首を振った。
「おれはなにも知らないよ」
顔が強張ることはなかった。声が顫えることもなかった。心が痛むこともなかった。胸元の十字架も沈黙したままだ。
「落ち着けよ、桜井君。堤君は、ただ君たちのためになればと思ってぼくを頼ってきただけだ。地上げ屋というと聞こえが悪いかもしれないが、別に君のお父さんの土地を騙し取ろうとしてるわけじゃないんだ。こっちはそれ相応のお金を払うから土地を譲ってくれと頼んでる。なのに、君のお父さんはうんといってくれないんだ。どうしようかと悩んでるときに、堤君に困ってるバンドがあるから助けてやってくれないかと相談された。普段ならそんな話には耳も貸さないんだが、堤君があんまり熱心だったんでね、どういうことになってるのかと聞いてみたら、運のいいことに、そのバンドに桜井君がいた。だから、時と場合によっては手を貸してやってもいいと思ったんだ。このことは堤君には話してなかったし、馬鹿をしでかした君たちのためにこんなに親身になってくれる人をそんな目で睨むもんじゃないよ」
美千隆は饒舌だった。口八丁手八丁──手品でも見ているかのようだった。
「問題は堤君やぼくじゃなくて、君なんだ。君がどれだけデビューしたがってるかだよ。結論からいおう。もし、君が土地をぼくの会社に売るようお父さんを説得してくれたら、ぼくはすぐに代議士先生のところに使いをやろう。段ボール一杯に金を詰めてさ。そうすりゃ、記事は握り潰せる。絶対に、だ──おい、高橋、この子たちにあれを見せてやってくれ」
美千隆は部屋の隅でかしこまっていた高橋に声をかけた。高橋は無言で立ちあがり、奥の部屋に姿を消した。両手で段ボール箱を抱えながら戻ってきた。
「どうぞ」
高橋は段ボール箱をテーブルの上に置いた。美千隆が無造作に段ボール箱を開けた。中には札束が詰まっていた。ホット・ロッドが息をのむ。美千隆は札束の一つを手に取り、ぱらぱらとめくってみせた。口八丁手八丁──口で相手を圧倒したら、金で追い打ちをかける。素人を相手にするときの鉄則だった。
「偽物じゃない。全部本物だよ」
「いくらあるんですか?」
訊いたのは尾崎慎平だった。声が上ずっていた。
「数えたわけじゃないから正確にはわからないが、二、三億はあるんじゃないか」
「これ、全部代議士にやっちまうんですか?」
「これだけじゃないさ」美千隆は笑った。「代議士先生に渡すのはこの箱があと、ふたつか三つってところかな」
尾崎慎平は口をつぐんだ。
「君たちもデビューして曲が売れれば、これぐらいの金、すぐに貯めることができるさ。そうなったら、ぼくに相談するんだな。確実に値上がりするマンションや土地を紹介してやるよ。まあ、その前にデビューしなきゃ話にならないんだが……どうする、桜井君?」
「おれ……わかんないよ。おれ、堤さんに連れてこられただけだし、あんたがどういう人かもわかんないし──」
「悩むのはわかるけど、時間ないんじゃないか? この雑誌は水曜日発売だろう? 今夜中に印刷されて、明日には製本される。明後日にはトラックに積みこまれて、その次の日は、君たちのバンドデビューはおじゃんだ。今日中にけりをつけなきゃならないし、決めるのはできるだけ早い方がいい。別に焦らせるつもりじゃないけど、のんびりしてるわけにもいかないよ」
「訊いていいっすか?」
桜井勝也はいった。顔全体にうっすらと汗をかいていた。
「なんだい?」
「親父には、いくらで土地を売ってくれっていってるんすか?」
「三億五千万。嘘偽りのない金額だ。実際の地価にかなり上乗せしてある。その金額で土地をぼくに売っても、お父さんは絶対に損はしない。それどころかまる儲けだよ。どこか別の場所に土地を買って家を建ててもお釣りがくる」
桜井勝也の喉仏が鳴った。三億五千万という金額が脳裏にこびりついているに違いなかった。
「おれが親父説得したら、ほんとに記事、潰してくれるんすね?」
「約束するよ。こういう大金が動く世界じゃ、嘘はご法度なんだ。約束を守らないやつは必ず弾きだされる。だから、億を越す大金を任せてもらえるんだ」
「親父が受け取るのはほんとに三億五千万なんすね?」
「その他に、新しく住む土地やマンションを格安で紹介するといってあるよ」
「ちょっと、おれらだけで相談してもいいっすか?」
「いくらでもどうぞ。そっちが寝室になってるから、そこで相談するといい」
美千隆は居間の一番奥にあるドアを指差した。
「おい、行こうぜ」
桜井勝也が他のメンバーを促した。ホット・ロッドは寝室に消えていった。
「相談するだけ無駄なのにな」
美千隆が囁いた。ホット・ロッドに喋っていたのとは違って落ち着いた口調だった。
「三億以上の金が入るのに、なに迷ってるんだって顔してましたよ、他の三人」
高橋も小声で応じた。
「たとえ、おれを胡散《うさん》臭いと思ってても、ゲンナマを見ちゃ、おしまいだ。金が頭にこびりついて離れない。自分はデビューできて、家にも大金が転がりこんでくるんだ。あのガキ、どんな手を使っても親父を説得するぜ」
チャイムが鳴った。高橋が応対に出た。ルームサーヴィスだった。
「おまえ、あいつらにコーヒー持ってってやれよ」
「そうですね。様子、見てきます」
彰洋は高橋からトレイを受け取り、カップにコーヒーを注いだ。トレイを左手で持って寝室のドアをノックした。ドアを開ける。ホット・ロッドの四人──三人が桜井勝也にすがるような眼差しを向けていた。
ホット・ロッドは折れる──桜井勝也は必ずおれる。彰洋は確信した。微笑みながら部屋の中に入った。十字架が揺れる──気にもならない。
12
早紀と仲直りした──電話口でそう告げると、波潟は子供のように喜びの声をあげた。仕事をキャンセルして部屋にやってきた。火曜日の夜、普段なら波潟は夜の六本木や銀座を飛び回っている。一晩に何百万という金を使い、代わりに、億単位の儲けに繋がる人脈を築いている──自分の娘と愛人の和解がよほど嬉しかったに違いない。
ご褒美《ほうび》はダイヤの指輪──プラチナの台に巨大なダイヤが鎮座している。値段は五百万前後──麻美はそう値踏みした。悪くはない。だが、飛びあがって喜ぶほどのものでもない。売りに出せば半値以下で叩かれる。
波潟は指輪の他にドン・ペリニオンのロゼを持参していた。ろくな食べ物がなかった。寿司を取れ──波潟はいった。麻美が近所の寿司屋に電話をしようとすると、波潟は電話を取りあげて銀座の寿司屋に電話した。遠距離の出前を渋る相手を一喝し、特上の握りを出前するよう恫喝した。金ならいくらでも払ってやる──波潟はいった。金が欲しくて馬鹿高い寿司を客に食わせてるんだろう、気取るんじゃない。
波潟のそんなところを麻美は気に入っていた。飾らない、気取らない。自分が傍若無人に振る舞えるのは、金のおかげだということを充分に弁《わきま》えている。
寿司は三十分で届いた。波潟は出前の人間に十万を渡した。出前の男はしきりに恐縮したが、金を返すことはなかった。
寿司はうまくなかった。ドン・ぺリも似たようなものだった。波潟が早紀との和解の様子を根掘り葉掘り聞きたがったからだった。麻美は適当に受け答えた。腹が満ち、酒がまわれば波潟は風呂に入りたがる。そのあとは麻美を抱く。それまでの辛抱だった。
「そういえば、美千隆君が大きな仕事をまとめたらしいぞ」
寿司桶があらかた空になったあたりで、波潟が話題を変えた。
「美千隆さんが?」
麻美は身構えた。話の変わり方が突然すぎた。
「ああ、中野坂上で地上げを成功させたんだ。元々は、別の業者が手がけてたんだが、何人か、手強い連中がいたらしくて、美千隆君が全部まとめて自分のところで引き受けたんだ」
彰洋から聞いた地上げのことだった。麻美は何食わぬ顔で波潟の話に聞き入った。
「途中までは順調にいってたらしいんだが、最後のひとりが大きな壁になってな、苦しんでたよ。大きな金を動かしてたようだし、かなり危険な金までかき集めてたからな。この地上げが失敗すれば、彼も永遠に浮かびあがれなくなるところだった」
ババ抜きの話がよみがえる。美千隆はババを抜きかけ、危うく回避したということだろう。美千隆はそんな素振りは微塵も見せなかった。そもそも、もう三日以上も連絡が取れない。ホテルに電話を入れてもいつも留守だった。何度もポケベルを鳴らしたが返事が来ることはなかった。会社に電話しようと思っても、それは禁止されていた。美千隆だけではない。彰洋からも連絡はなかった。
「パパもお金を貸してたの?」
「十億ほどな」
波潟はドン・ぺリに口をつけた。表情に不自然なところはなかった。
「美千隆さん成功したのね? パパのお金も返ってくるんでしょう?」
「熨斗《のし》をつけて返してもらうさ。昨日、その最後のひとりと正式に土地売買契約を交わしたらしい。あとは時期を待って、しかるべきところに地上げした土地を売れば──」
波潟は悪戯小僧のような笑みを浮かべた。麻美は波潟に抱きついた。美千隆に対する不満を押し隠して演技に徹する。
「美千隆さん、どれぐらい儲けるの?」
「うまく立ち回れば、三百億は稼げるだろう。この地上げの成功で、業界内での美千隆君の株も大きくあがるし、彼の会社はどんどんでかくなるぞ」
「でも、パパにはかなわないわ」
「当たり前だ、年季が違うんだからな。いくら美千隆君がやり手でも、おれから見れば、まだ小僧っ子だ」
波潟の顔が一瞬、紅潮した。麻美には波潟の気持ちが理解できた。後見人を気取っていい顔を見せているが、小僧と思っていた美千隆が大金を儲けたことが我慢ならないのだ。
「そうだ、パパ。今度、美千隆さんたちと食事でもして、そのとき、早紀も呼ぼうよ」
「早紀を?」
波潟は怪訝《けげん》そうに顔を歪めた。
「だって、マミたち、仲直りしたっていっても、パパとマミがふたりでいるところに早紀を呼ぶのって、やっぱり居心地悪いでしょう? だけど、美千隆さんだったら若いし、彰洋ちゃんも呼べば、早紀もマミとパパに気を遣わなくてすむんじゃないかな?」
「彰洋というと、美千隆君のところの若い子か……そうだな、考えてみるか」
波潟は腕を組んだ。
「美千隆さんの成功のお祝いもしなきゃいけないから、特別なお店にしましょうよ」
麻美は甘えるような声を出した。
「おまえに任せるよ。おれはもうくたびれた。風呂の用意をしてくれ」
腰にあてがわれた波潟の手がいやらしく動きはじめた。
「ちょっと待ってて。すぐ用意できるから」
麻美はその手を外して立ちあがり、波潟に微笑んでみせた。
「一緒に入ろうね、パパ」
波潟は下卑た笑みを浮かべた。いつもなら嫌悪感を覚える笑みだった。今夜は違った。ダイヤの指輪に会食のお膳立て──今夜は思いきりサーヴィスしてあげてもいい。
麻美は鼻歌を歌いながらバスルームに向かった。なにかを思いだしたように立ちどまり、振り返る──計算し尽くした立ち居振る舞いだった。
「そうだ、パパ。美千隆さん、そんなに大儲けするんだったら、なにか買ってもらってもいいかな?」
「おお、なんでも好きなものを買ってもらうといい」
波潟は胸をそらせた。
「どうせだから、高いもの買ってもらっちゃおう」
麻美は微笑んだ。今までは波潟に気兼ねして美千隆になにかを買ってもらうのは遠慮していた。これで、美千隆のプレゼントを堂々と身につけることができる。
なにを買ってもらおうか──そう考えるだけで足取りが軽くなった。
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第二部
13
「おまえを見直したよ、堤」
高橋がいった。彰洋の前のグラスにビールを注いだ。
「ありがとうございます」
彰洋は頭をさげた。グラスを手に取り、高橋と乾杯した。香ばしい匂いがあたりにたちこめている。カウンターの奥で、気難しい顔をした男が串に刺した鶏肉を焙《あぶ》っていた。原宿と千駄ヶ谷の中間あたりに位置する小さな焼鳥屋だった。客の入りは半分というところで、その大半が中年のサラリーマンだった。店内の柱や梁《はり》は長年煙に燻《いぶ》されているせいで黒ずんでいる。近ごろ流行の店とは縁遠い。
「社長が床屋の件はおまえに任せると決めたとき、おれ、反対したんだ。社運がかかってる仕事を、あんな青二才に任せるつもりかってな」
「当然だと思います」
彰洋はさり気なく腕時計に視線を走らせた。七時十五分。美千隆が来るのは早くても七時半を過ぎたころだろう。今日は内々の祝勝会ということだった。
「もし、失敗してたら、社長、どこかに埋められるか、海の底に沈められるかしてたところだ。ヤバい方面の金も引っ張ってたからな。金を返す期限も迫ってたんだ。だけど、あのあたりであれだけまとまった土地を手に入れたんだ。あれを担保にすれば、どこからでも金を引っ張れる。腐るほどの金をな。もう、ヤバい金に手を出す必要はないし、もっと大きな取引をするための体力もできた。おまえのおかげだよ、堤」
まだビールを二杯飲んだだけだというのに、高橋の顔はほんのり赤らんでいた。会社では見たことのない表情だった。
「無我夢中だっただけですよ」
彰洋は謙遜した。高橋のグラスにビールを注ぎ足そうとした。
「もういい。おれはあんまり飲めないんだ。社長が来る前に潰れちゃ、面目が立たんよ」
銀座や六本木に繰りだしても、高橋が酒を飲まないことを彰洋は思いだした。
「すいません、うっかりしてて」
「まあ、今日はお祝いの日だからな、適当に飲むさ」
「無理しないでくださいよ」
「だいじょうぶだ」高橋は小さく首を振った。「しかしなあ、おまえには見事に騙されたよ」
「もういいですよ、その話は。それより、高橋さん、教えてください。桜井の家で、どんな感じだったんですか?」
あの日──日曜日。桜井勝也はホット・ロッドの仲間と、美千隆と高橋を連れて自宅へ向かった。彰洋は同行しなかった。彰洋の立場は曖昧だった。そんな人間を勝也の父親のところへ連れていけば話がこじれるだけだと美千隆はいった。結果が出たら、すぐにおまえに知らせるからな──美千隆は耳元でそう囁いた。
ホテルを出て六本木のマンションに戻った。電話が鳴るのをまんじりともせずに待った。電話が鳴ったのは、夜の九時をまわったころだった。
美千隆には、しばらくは会社に顔を出すなといわれている。連中のデビューが本決まりになるまで、あの店の雇われ店長としてふるまっていろ、急におまえに連絡が取れなくなったら、いくら頭の悪い連中でもなにかがおかしいと思うだろう?
昨日も今日も会社には出なかった。ホテルを出てから起こったことはなにも聞かされなかった。昨日の夜、美千隆から電話がかかってきて、今夜、地上げがまとまったことに対する祝勝会をやると告げられただけだった。
「考えてもみろ、堤。息子が神妙な顔して、何度も顔をあわして、さんざんこき下ろしてきた不動産屋を連れてきたんだぞ。普通、驚くだろう? しかも、おれだけじゃなく社長も一緒だ」
「そうですね」
「で、あの息子が、親父、なにもいわないでおれを助けてくれっていって、おまえが作ったあの記事を親父に見せたんだよ。そこからは修羅場だな。この恥さらしめって感じで息子を怒鳴りつけて、殴りはじめてさ。すごい剣幕だったよ。息子の方も最初は黙って殴られてたんだが、そのうち、頭にきたんだろう、いきなり親父を蹴りたおして馬乗りになってさ。慌ててみんなで止めたよ」
「そうだったんですか……」
「息子に反撃された親父は、今度はおれと社長に矛先を向けてきてな……さすがに手は出さなかったけど、その辺のものを手当たり次第に投げつけてきやがった。右も左もわからないガキを騙しやがってとか人でなしとかな、さんざんいわれた。しかし、社長もたいしたもんだよ。おれはな、堤、この年だし、大抵のことは我慢できるようになってるけどな、社長、あの若さなのに、じっと我慢してるのさ」
美千隆が他人からの罵詈雑言を黙って受け止めている図は想像できなかった。美千隆は気位の高い人間だった。自分がその場にいることを想像してみた。罵詈雑言には耐えられるかもしれない。だが、ホット・ロッドの連中を見てなにも感じずにいられるかといえば、頭をひねるしかなかった。
「それで、親父が息があがったのを見はからって、落ち着いて話を切りだすんだ。ああいうのはだれかに教えてもらってできるもんじゃないよ。ほんとにたいしたもんだ」
「あとはうまくいったんですか?」
「そんなわけにはいかないよ。息子の窮地に、地上げ屋がタイミングよく現れたんだ、だれだって疑うだろう。社長がいくら筋を通して説明しても、聞く耳持たないって感じだったよ。だけどな、いくら突っ張ってみても、勝負ははじめから決まってるようなものさ。あのガキどもも親父も、おまえが仕組んだあの記事が雑誌に載るもんだって頭から信じてるんだからな。女遊びはともかく、大麻の件がかなり効いてるらしくてな、お袋さんの方がこっち側についてくれた。最後は、息子とガキどもが親父の前で一斉に土下座しておしまいだよ。ただ、あの親父も結構な玉でな、駄々を捏《こ》ねて、結局、三億五千万に五千万上積みして、四億で手を打つことになったよ。安いといえば安い買物だが、あんな猫の額みたいな土地にそれだけの値がつくんだからおかしな話ではあるな」
高橋は他人事のようにいって、腕時計を覗いた。
「お、もう七時半か。社長と専務もそろそろ来るころだな。マスター、そろそろ焼きはじめてよ」
高橋がカウンターの中に声をかけると、入り口の引戸が開いた。専務の加藤と美千隆だった。
「まるではかったようなタイミングだな。運を持ってる人間ってのはみんなこうなんだ」
高橋は小声で彰洋に囁き、腰をあげた。彰洋もそれに倣った。
「待たせて悪かったな。ちょっと打ち合わせ先で引きとめられたんだ」
「いつものことじゃないですか。業界の寵児はどこでも引っ張りだこなんですから」
高橋は愛想笑いを浮かべた。彰洋に向けていたのとはまったく違う口調だった。
「仲間うちでよいしょはなしにしようよ、高橋さん──彰洋、店の調子はどうだ?」
美千隆は満面の笑みを浮かべていた。
「やめてくださいよ、社長。あの店は臨時営業で、ぼくはMS不動産の社員なんですから」
「怒るなよ。きちんと報告しなかったのはおれが悪かったから」
美千隆の笑みは消えなかった。なにかを成し遂げたという達成感があった。
「さあ、今日は祝いの席だ。飲んで食おう」
そういって美千隆は彰洋の右隣に腰をおろした。加藤はカウンターの一番端に腰をおろす。
「あ、専務、こちらへどうぞ」
「なにをいってるんだ。今日は社長と君のための席だぞ、堂々と真ん中で胸を張ってるといい」
「そのとおりだ、彰洋。遠慮する必要はないぞ。おまえの夏のボーナス、このぶんで行くと、専務や常務よりはるかに多くなるからな」
自分の懐に入る金──今の今まで考えもしなかった。いくらになるのか計算しようとしてやめた。今回の仕事で億単位の金が動いたことはわかっている。それでも、百万を超える金は現実感を持たなかった。
美千隆と加藤はにこやかに話している。高橋がそれを微笑ましく眺めている。新しいビールの瓶が現れ、グラスが掲げられる。乾杯──美千隆の朗らかな声。美千隆の嬉しそうな顔が現実感をさらに薄れさせていく。美千隆のあんな顔を見たことはなかった。それはここにいたるまでの美千隆の苦闘ぶりを物語っているようにも思えた。ヤバい金──高橋はいった。それがどんなものか、彰洋にも想像はつく。裏社会に流れている、汚れた熱い金だ。利子は途方もなく高く、取り立ては容赦がない。高橋は冗談めかしていったが、土地の買い取りに失敗していれば、美千隆が生命の危険にさらされる可能性は高かったのだ。
体温がさがり、あがる。現実の冷酷さに心が怯《ひる》み、逆に負けん気が湧き起こってくる。六本木のディスコにいたのでは決して味わえない感覚──背中の皮膚がざわざわと音をたてて粟立っていく。
「今週の金曜、波潟と飯を食うことになった。向こうはおまえも連れてこいといってる。どうせ、マミがそうしろっていったんだろうがな。スケジュール、空けておけよ」
興奮を噛み締めていると、美千隆がいった。現実が一気に押し寄せてきた。金曜の夜から、麻美に連絡を取るのを忘れていた。六本木のマンションに寝泊まりして自分の部屋には戻っていないし、ポケベルは会社に置いたままになっている。
麻美は怒っているに違いない。
* * *
酷い二日酔いだった。激しい喉の渇きと尿意にいやいやながら目を開けた。目覚まし時計は午後一時半を指している。何時に帰ってきたのかを思いだそうとして、後悔した。頭痛と吐き気が襲ってくる。記憶は濃い霧に覆われている。
焼鳥屋の後は銀座に繰りだした。馴染みのクラブをまわるはしご酒だ。美千隆は浮かれていた。ホステスが腹が減ったといえば、銀座で一番高い寿司屋から出前を取った。ワインが飲みたいといえば、ロマネ・コンティを開けさせた。最後は金をばら撒いていた。
浮かれ、騒ぎ、正体を失くす。五軒目の店に移動したことは覚えていたが、そこから先はいくら思いだそうとしても無駄だった。
冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターのペットボトルを飲み干し、トイレで吐いた。熱い風呂に入り、もう一度同じことを繰り返すと、いくらか気分がましになった。
頭が働きはじめる──麻美のことを思いだす。彰洋は電話に手を伸ばした。受話器を握る前に電話が鳴りはじめた。心臓が凍りつく。ここの電話番号を知っているのは、美千隆とホット・ロッドの連中だけだった。美千隆はまだ潰れているに違いない。電話をかけてきたのはホット・ロッドのだれかだ。
「もしもし?」
おそるおそる電話に出た。
「堤さんっすか?」
桜井勝也の咳込むような声が聞こえてきた。
「すんません、連絡が遅くなって。親父に外出禁止と電話禁止食らってたもんで」
「別にかまわないよ──」
「今日の〈シャッター〉見ました?」
一瞬、勝也がなにをいっているのか理解に苦しんだ──すぐに思いだした。今日は水曜日。〈シャッター〉の発売日だった。
「もちろん、見たよ。齋藤さん、約束を守ってくれたんだね」
口からでまかせの嘘──言葉がつかえることもない。
「朝一に慎平から電話があったんすよ。すぐに真一と和人からも電話があって……記事、載ってねえって。よかったっす。親父もやっと納得してくれたみたいで、早速引っ越し先見つけなきゃなんていってるし……齋藤さんにお礼いおうと思って会社に電話したんですけど、つかまらなくって。堤さんなら、齋藤さんの連絡先、わかるかなと思って」
勝也は舌を噛みそうな勢いで喋った。
「おれも会社の電話番号しか知らないんだよ」
「そうですか……じゃあ、また後で電話してみます。堤さん、ありがとうございます。堤さんがいなかったら、おれら、どうしていいかもわからなくて──」
「おれはなにもしてないよ。記事を握りつぶすようにしてくれたのは齋藤さんなんだから、お礼はそっちにいいなよ」
「おれら、デビューしたら、最初のライブには必ず堤さんを招待しますから、必ず来てください」
「楽しみにしてるよ」
だが、そのときは永遠に来ない。ホット・ロッドがデビューするころには、あの店はだれか他人の手に渡り、このマンションも引き払っている。
「本当にありがとうございました」
力のこもった言葉だった。電話の向こうで頭をさげている勝也をありありと思い浮かべることができた。胸が重くなる──二日酔いのむかつきだと自分にいい聞かせた。
同情など必要はない。勝也の父親が損をしたわけではないし、ホット・ロッドは無事デビューできるだろう。あの楽曲でヒットするとは思えないし、おそらく、二、三年でバンドは解散し、尾崎慎平がソロか他のバンドで再出発を果たすことになる。それでも、勝也は自分の望みを果たす。自分がやったのはそれにほんの少し手を加えただけで、彼らの人生をめちゃくちゃにしたわけではない。それに、今でこそ勝也は感謝しているが、彰洋のことなどすぐに忘れてしまうだろう。
昨日のあの感覚を思いだしてみろ。熱に浮かされ、寒気に顫《ふる》える、あの複雑な感覚。美千隆のこぼれんばかりの笑顔を見た瞬間、頭の芯が痺れたように感じた。想像もできないような金が会社の懐に転がりこんでくる──自分がそれに加担した。そう考えたときの興奮。あれを忘れることはできない。ちゃちな同情で、あれをふいにすることはできない。
「デビューが正式に決まったら、教えてよ」
「もちろんです。今度、四人で堤さんの店に行って、ちゃんと挨拶しますから、そのときはまた、よろしくお願いします」
「おれの店、縁起が悪いんじゃないの?」
「そんなことないですよ」
勝也の声はどこまでも生真面目だった。
「じゃあ、また」
彰洋は電話を切った。胃の中のものを吐き、熱い風呂に入ったおかげでよくなっていた気分が起きたときの状況に戻っていた。勝也のせいか?──そうではなかった。自分自身の問題だった。電話のプッシュボタンに指を伸ばし、麻美に電話をかけた。
「麻美? 彰洋だけど──」
「ずいぶんじゃない。彰洋ちゃん、人にものを頼んでおいて、それで知らんぷりなわけ?」
麻美の声は尖っていた。無理もなかった。
「悪い、悪い。けっこう、立てこんじゃってさ。罪滅ぼしになにか買ってやるから、今から会えないか?」
「今から? 夜じゃだめなの?」
「しばらくは、夜は動けない。昼間の方が楽なんだ」
「転職したわけ?」
「似たようなものかな。例の仕事、片づいたんだけど、ほとぼりが冷めるまで会社に顔出すなって美千隆さんにいわれてるんだ」
「ほとぼりが冷めるまでなんて、やくざの会話みたいだね」
「時間、あるのかよ?」
思わずきつい声になっていた。
「なによ、そのいい方」
「悪い……ちょっとナーバスになってるのかもしれない」
「なんだ。真面目な彰洋ちゃんはなぜだか知らないけど落ちこんでて、それでマミに慰めてもらおうと思って電話してきたんだ。マミをほったらかしにしたことを悪いと思ってるわけじゃないのね」
「麻美──」
「いいわ。悩み、聞いてあげる。ちょうど、欲しいスーツがあったし、カウンセリング料にそれ買ってもらうから」
麻美の声は楽しげだった。電話に出たときのつんけんした感じは消えていた。
* * *
「甘いよ、彰洋ちゃん」
麻美はレモンティをスプーンでかき混ぜながらいった。
「その子はうまくいけばデビューできるんだし、お父さんにはお金がちゃんと入るんだし、別に同情する必要なんかないじゃない」
「それはわかってるけど──」
「わかってるんだったら、もういいじゃない。彰洋ちゃん、こないだマミになんていったか忘れたの? そんな仕事、彰洋ちゃんには向いてないっていったら、向いてなくてもやるって決めたっていったじゃない」
「ああ」
彰洋はコーヒーを口に運んだ。コーヒーは唇を湿らすだけにした。飲みこむと、吐き気がぶり返す。昨日のあのひりつくような高揚感はどこかに消え去っている。今の気分は惨めだった。心臓に刺《とげ》が刺さっていて、その刺が不快な痛みを伝えてくる。その痛みを忘れるには、昨日の高揚感や、日々、美千隆のもとで働いているときに感じる、体温があがるようなあの感覚が必要だった。
「だったら、余計なこと考えないで自分のしなきゃいけないことをやりなさい」
「それはわかってるって。おれがいいたいのは、仕事がんがんやってりゃそういうのも忘れられるんだろうけど、今はそういうわけにいかないからきついってことだよ。美千隆さんはさ、例の麻布の店、一ヶ月は続けろっていうんだ。つまり、この先一ヶ月は会社の仕事、できないんだよ」
「昔はそれで食べてたくせに、夜の仕事、つまんないの?」
「つまらないなんてもんじゃないよ。美千隆さんとやる仕事の方がよっぽどやり甲斐があるさ」
「だったら、波潟に頼んでみようか?」
「波潟さんに? なにを?」
麻美はもったいぶるような笑みを浮かべた。
「なんだよ、麻美?」
「あの店、スタッフがけっこうしっかりしてそうだし、別に儲ける必要もないんだから、彰洋ちゃん、遮二無二働かなきゃならないわけじゃないんでしょう?」
「まあな」
「じゃあさ、昼間はあいてるわけじゃない。そのあいてる時間で、波潟の仕事手伝ってみれば? 美千隆さんだって、彰洋ちゃんが経験積むの喜ぶと思うし」
麻美の提案は魅力的だった。
「できるのか?」
「波潟、今度のことで美千隆さんのこと凄く気にするようになったみたいだから、彰洋ちゃんがぜひっていえば、OKだと思うよ。その代わり、美千隆さんのこと根掘り葉掘り聞かれると思うけど」
「スパイみたいな真似事しろっていうのか?」
「適当にはぐらかしておけばいいのよ」
彰洋は腕を組んだ。六本木と麻布を往復するだけの無為の一ヶ月。波潟の元で経験を積む一ヶ月。くらべるまでもなかった。
「頼んでくれるか?」
「明後日、みんなでご飯食べるじゃない? そのとき、さり気なく話してみるわ。それでいいでしょう? なにも関係ないときに、彰洋ちゃんの話すると、波潟、変に勘繰るかもしれないから」
「それでかまわないよ」
彰洋はコーヒーカップを口に運んだ。今度はコーヒーを啜った。吐き気はかなりおさまっていた。
「でね、金曜は波潟の娘も来るの」
「波潟の娘って、おまえ、嫌われてるんじゃなかったのか?」
「仲直りしたのよ」麻美は片目をつぶってみせた。「彼女、早紀っていうんだけど、美千隆さんも彰洋ちゃんも初対面じゃない? けっこう気疲れすると思うのね。だから、食事の席で彼女の面倒ちゃんとみてあげてくれる? それだけで、波潟の彰洋ちゃんに対する評価、ぐんとあがるから」
「それぐらい、どうってことはないけど」
「じゃあ、お願い。ここの紅茶、美味しくないわ。買物に行きましょう」
麻美は腰をあげた。自分がこうと思ったらそれをせずにいられない。麻美は昔から変わらない。それにくらべておれは──彰洋は首を振った。精算をすませるためにレジに足を向けた。
「あ、それからもうひとつ」
麻美の声に振り返る。悪戯好きの少女のように麻美が微笑んでいる。
「波潟のやり方って、美千隆さんみたいに優しくないからけっこうしんどいかもよ。彰洋ちゃん、それでもだいじょうぶ?」
「当たり前だろう」
彰洋は答えた。麻美の笑みが大きくなった。
14
美千隆は上機嫌だった。ここしばらくは顔色も悪かったが、シャンパンで赤らんだ顔には艶があった。
「どうした、マミ? おれの顔になにかついてるか?」
麻美は美千隆の顔から視線をそらした。
「別に。ただ、嬉しそうだなと思って」
「久しぶりにマミとゆっくりできるんだ、嬉しくもなるだろう」
「嘘つき」
ソファの背もたれに体重をあずける──手に持ったグラスの中のシャンパンが揺れる。ルームサーヴィスの食事は味気ない。だが、美千隆とふたりでおおっぴらに出歩くことはできない。新宿、六本木、青山、銀座──盛り場には土地成金や株成金が溢れている。彼らの多くは波潟昌男に繋がっている。
明日は早紀を交えた会食が控えている。その前にどうしても会いたいと駄々を捏ねたのは麻美だった。
「でも、よかったよね。ババを掴まされなくて」
「危うく掴まされるところだったさ。タイムアップぎりぎりのところで、彰洋がうまいことやってくれた」
「だれに紹介された仕事だったの?」
麻美はシャンパングラスをワゴンの上に置いた。代わりに、美千隆が注いだばかりのワインを口に含んだ。ワインはシャトー・シュヴァリエだった。
「おまえのパパだよ」
美千隆はいった。麻美は口の中のワインを噴きだしそうになった。
「波潟が? マミ、なにも聞いてないよ」
波潟は自分が関係していたことはおくびにも出さなかった。
「いちいちおまえに話すようなことじゃないだろう」
「だけど、きつい仕事だっていってたよ。他の業者が音《ね》をあげて、それを美千隆が引き継いだって。そんな仕事、どうして美千隆に紹介するのよ?」
「おれにババを掴ませようとしてたのかもしれないな」
美千隆は平然としていた。もう一つのワイングラスにシャトー・シュヴァリエを注ぎ、優雅な手つきでそれを飲んだ。
「どうして?」
「そんなこと、おれが知るか。おれが気に食わないのかもしれない。おれとおまえの仲を疑ってるのかもしれない。あるいは、おれの器量を見極めようとしたのかもしれない。波潟昌男がなにを考えているかなんて、だれにもわからないさ」
寒気が背筋を駆けぬける。美千隆との仲を気づかれたら、波潟がどんな態度に出るのか想像もつかなかった。
「波潟、マミたちのこと疑ってるのかな?」
「疑ってるに決まってる。ああいう連中は猜疑心が強いんだ。別になにかをほのめかすような事実がなくても、とりあえず疑ってかかる。そうやってのしあがってきたんだ。だから、おれとおまえのことも、特に理由がなくても疑ってるはずだ。だから、おれに目をかけてるふりをするのさ。しょっちゅうおれを呼びだして、おれの素振りを観察してるんだ」
「美千隆もそう?」麻美は訊いた。「美千隆も猜疑心が強い?」
「ああ。おれはだれのことだってまず疑ってかかる。マミのことだって、最初は波潟がおれの様子を探らせるために近づけてきたのかと思った」
「酷いじゃない」
「そうじゃなきゃ、おれの金が目当てだ」
「もっと酷い」
麻美は唇を尖らせた。美千隆は真剣な眼差しをしていた。
「どうして酷い? おまえが好きなのは金じゃないか。金のある男以外好きにならないって、自分でいったぞ」
「それはそうだけど──」
美千隆は違うの──喉まで出かかった言葉を麻美は飲みこんだ。それを口にすれば、美千隆は笑いだすに決まっていた。笑う美千隆をゆるせなくなるに決まっていた。
もどかしさがこみあげてくる。だが、どうにもなりはしない。自分が変わらないかぎり、美千隆との仲も変わらない。それなのに、自分が変わるとは思えない。
「気をつけなきゃね」
麻美は呟《つぶや》くようにいった。
「いつもいってることじゃないか。だから、おまえがどんなに不満そうな顔をしても、こういうところでしか会えないんだ」
「マミ、別に不満じゃないよ」
「だったらいいけどな」
美千隆はステーキを食べはじめた。どんなときでも、美千隆の食欲は旺盛だった。
「そういえば、昨日、彰洋ちゃんに会ったんだけど、腐ってたよ」
「そうだろうな」美千隆は苦笑した。「だが、しかたがないんだ。明日、ボーナス弾んでやるから、どこかに行って遊んでこいとでもいってやるさ」
「彰洋ちゃん、嫌だっていうと思うな」
「なにか企んでるのか?」
「どうしてそう思うのよ?」
「おまえがなにかしようとしてるときは顔に出るんだよ」
麻美はワイングラスに自分の顔を映した。グラスに映っているのはいつもと変わらない顔だった。
「あんまり寂しそうだから、波潟のところで働いてみたらっていってあげただけ」
「波潟のところで?」
美千隆は肉を切る手をとめた。
「彰洋ちゃん、自分では気づいてないみたいだけど、ちょっとハイになってるのよ。美千隆の仕事ってかなり刺激的でしょ? それに、自分のしたことで何百億もの儲けが出る仕事を軌道に乗せたばっかりだし……普通、マミたちの年で、そんなお金と関わることないんだから」
「そうかもしれないな」
「いい?」
「なにが?」
「彰洋ちゃん、波潟のところで働かせてみても」
「おれはかまわないよ」美千隆は微笑んだ。「あいつが仕事を覚えてくれて、波潟のやってることをおれに報告してくれれば一石二鳥だしな」
「だけど、波潟だよ。彰洋ちゃん、ボロボロになっちゃうかも」
「そうなったら、彰洋の器量がそこまでだったというだけの話さ」
美千隆の声には暖かみがなかった。かといって冷たいわけでもない。
「彰洋ちゃん、美千隆のお気に入りでしょう?」
「そうだよ」
「冷たいじゃない」
「かもな」
美千隆はまた肉を貪りはじめた。
「マミが彰洋ちゃんでも同じ態度取るんでしょう」
「おまえは別だよ」
「嘘つき」
麻美はワインを呷《あお》った。空になったグラスを美千隆に突きだした。
「自分で注げよ」
美千隆はいった。冷たくはないが暖かくもない声で。
他の男なら絶対にゆるさないのに──麻美は自分でワインを注いだ。怒りたい。だが、怒りは湧いてこない。つかみ所のない悲しみがあるだけだった。
美千隆は冷たいわけではない。あまりにも多くのことをこなさなければならないせいで、他者を思いやっている余裕がないだけのことだ。その証拠に、美千隆は仲間うちには同じような態度を取る。融資を受けるために媚を含んだ笑みを浮かべる美千隆を見たことがあるが、あんなふうに笑いかけられるぐらいなら無視された方がいい。
「ねえ、この前、彰洋ちゃんにこの仕事は向かないんじゃないっていったのよ」
「あいつ、なんて答えた?」
「向かなくてもやるって決めたって。彰洋ちゃんにどんな魔法かけたのよ?」
「男同士、腹を割って話をしただけだ」
「どんな話?」
「内緒だ。知りたかったら、彰洋に聞けよ」
「話してくれるわけないじゃん」
美千隆は肩をすくめた。皿に載っていた分厚い肉はほとんど姿を消していた。
「ねえ、どうして彰洋ちゃんなの? 美千隆のまわり、仕事できる人いっぱいいるじゃない。どうして彰洋ちゃんなのよ?」
「ここで感じたんだ」美千隆は自分の胸をさした。「波潟と一緒にいるおまえを見たとき、この女と絶対に寝てやると思った。どうしてかはわからない。ただ、そう思ったんだ。彰洋も同じだよ。あいつなら、おれのためになんでもしてくれる……そう思ったのさ」
麻美は彰洋を美千隆に紹介したときのことを思い浮かべた。宮殿ディスコの黒服だ?──美千隆ははじめは面倒がっていた。それを強引に説き伏せて、マハラジャの近くの中華レストランに連れていったのだ。
なにができる?──彰洋に会うなり、美千隆はいった。
なにもできません──顔を真っ赤にして彰洋は答えた。
屈辱が彰洋の怒りをかきたてていくのが麻美にはわかった。あのころの彰洋は錆びたナイフのようだった。日々の鬱屈が鋭利で光沢のあった刃を錆びつかせ、曇らせていた。そのくせ、ナイフはナイフなのだ。錆びて刃がこぼれていても人を傷つけることはできる。
ひとつぐらい得意なことがあるだろう?──美千隆は重ねて訊いた。
なにもありません──彰洋は歯を食い縛るようにして答えた。
そうか、そいつはいいな──美千隆は破顔した。それまでの不機嫌さが消え、美千隆は饒舌になった。彰洋に酒や食事をすすめ、自分の仕事の内容を事細かに説明する。
麻美は呆気に取られた。美千隆が彰洋を気に入ったのは明らかだった。だが、美千隆が初対面の人間に、それも、彰洋のような若造にそんな態度を取るのを見たことがなかった。
「おれには昔からわかるんだよ」
美千隆の声で麻美は我に返った。
「なにがわかるのよ?」
「だれかがおれに好意を持つか悪意を持つようになるか、おれにはわかるんだ。彰洋がおれを好きになるのはわかってた。だから、あいつを選んだんだ」
「マミも?」
「おまえは見当がつかなかったよ。だから、寝たくなったんだ。波潟の女だってのにな」
美千隆はワインと油にまみれた唇をナプキンで拭った。
「そこらにいる女とは違うんだから、当たり前じゃない」
麻美はソファを降りて、美千隆の膝の上に尻を乗せた。ふたつの感情が気持ちを昂《たか》ぶらせていた。優越感と嫉妬──彰洋に対する嫉妬。
美千隆のいうとおり、彰洋はすぐに美千隆に対して好意以上の感情を持つようになった。崇拝──彰洋にとって美千隆は神に近い。
だが、麻美は知っていた──感じていた。それとは逆に、美千隆も彰洋に魅かれている。彰洋のナイーヴさに、美千隆が目を細めているのがわかる。
「舐《な》めて」
美千隆の耳元で麻美は囁いた。
「食事が終わったばかりだぞ」
「いいの。すぐに舐めてほしいの」
麻美はブラウスのボタンを外した。美千隆の股間をさすった。美千隆はすぐに反応した。
「先にマミをいかせて。そのあとで、美千隆のいっぱい可愛がってあげる」
美千隆が胸に顔を埋めた。すでに固く尖った乳首が、美千隆の舌に嬲《なぶ》られる。
押し寄せてくる快感に顫えながら、麻美は口に出さずに呟く。
彰洋ちゃん、大変なことになるかもよ、知ってる、美千隆?
背骨に沿って痺れが頭の先まで駆けあがる──麻美は甲高い声をあげた。
* * *
食事の場所は三田のフレンチレストラン。味は文句なし、サーヴィスもよく店の雰囲気も落ち着いている。波潟の好みの店ではないが、早紀にはぴったりくる店だった。
クローゼットの前で思案した末に、麻美はイヴ・サンローランのスーツを選んだ。バッグはケリーバッグと迷ったが、結局はグッチにした。高価な組み合わせだが高すぎるということはない。今は早紀の神経を刺激しないことを優先させるべきだった。
左手に波潟からプレゼントされたダイヤの指輪をはめた。早紀はこの指輪に気づくかしら──気づくだろうが、外すことはできない。波潟はこの指輪をはめている麻美を見て喜ぶはずだ。
タクシーで広尾へ向かう。まだ気温は低いが、穏やかな陽射しがアスファルトを照らしている。気持ちが昂ぶってくる。彰洋は早紀を気に入るだろうか? 早紀は彰洋を気に入るだろうか? 彰洋はわからない。だが、早紀が彰洋に好意をよせるだろうということには確信があった。早紀が好きになるのは決まって清潔で正義感溢れるようなタイプだった。彰洋ならお誂《あつら》え向きだ。
外苑西通り沿いのカフェは春めいた陽気に誘われた若いカップルで混雑していた。空いている席はない。麻美は舌打ちし、ギャルソンを手招きした。
「いらっしゃいませ」
慇懃《いんぎん》なギャルソン──目が素速く動く。麻美を値踏みし、上客だと踏むと丁寧に頭をさげる。
「友達とここで待ち合わせしてるの。席、用意できない?」
「生憎《あいにく》、満席でございまして。しばらくお待ちいただければ、席もあくかと思いますが」
「わたし、待たされるの嫌いなのよ」
麻美はグッチのバッグから一万円札を抜きだした。ギャルソンの目が動く──札をギャルソンに押しつける。
「席、あるでしょう?」
「ただいまご用意させていただきます。少々お待ちください」
ギャルソンは受け取った札を黒いパンツのポケットにねじこんだ。麻美に背を向け、歩道に張りだしたテーブルを縫って歩いていった。
車のとまる気配に麻美は振り返った。タクシーから早紀が降りてくる。腕時計は五時きっかりを指している。相変わらず、早紀は時間に正確だった。
「遅くなってごめんね」
「なにいってるのよ、時間どおりじゃない」
「だけど、待たせたでしょ?」
「わたしも今着いたところよ」
早紀はシャネルのスーツをまとっていた。その上には洗練されたデザインのシルヴァーフォックスのコート。上品で優雅だった。手に持っているのはケリーバッグ──グッチを選んだのは正解だった。
「お店、いっぱいなの?」
早紀は混みあっているカフェに顔を向けて眉をひそめた。
「だいじょうぶ。いま、ギャルソンに頼んだから」
「だけど、テーブルあいてないじゃない」
「あけてもらうのよ。それぐらい、簡単なんだから」
麻美はさっきのギャルソンを視線で追った。ギャルソンは歩道の一番端のテーブルで頭をさげていた。テーブルについているのは若い男がふたり。同じデザインのスタジャンを着て煙草をふかしている──滑稽なのを通りこして薄気味が悪かった。
ふたりは唇を尖らせてギャルソンに文句をいっていた。だが、ギャルソンは頑なに首を振り続けていた。やがて、男たちは諦めたように首を振り、席を立った。
「ほら、あそこあくみたいよ、早紀」
「なんだか、無理矢理追いだしたみたい。マミ、あのギャルソンになにかいったの?」
「別に、友達と待ち合わせてるから席を用意してってお願いしただけ」
麻美は甘えるような笑みを浮かべた。
「お金渡したのね?」
咎《とが》めるような表情──声に切迫感はない。
「だって、久しぶりに早紀とお茶を飲むのに場所替えるの嫌だったのよ」
「しょうがないわね」
早紀の表情が緩んだ。早紀を操縦するのは車の運転より遥かに簡単だった。
ギャルソンが戻ってくる。卑しい目が今度は早紀を値踏みする。
「お待たせいたしました。こちらへどうぞ」
ギャルソンの声には張りがあった。金を持った若い女がふたり──卑しかった目はある種の興奮に輝いている。
「すみません、無理をいって」
早紀が謝るとギャルソンは大袈裟に首を振った。
「とんでもありません。さあ、どうぞ」
ギャルソンは麻美たちの先頭に立って歩きはじめた。
くだらないと思う。それでも、優越感がわきおこってくるのをとめることはできない。金があれば無理がとおる。貧しかったころからわかってはいた。だが、実際に自分が金を持ち、金の力を誇示するとき、その効果の大きさには驚かずにいられない。それは性的興奮さえ伴って麻美の自尊心をくすぐった。
早紀はダージリンのレモンティを、麻美はエスプレッソをオーダーした。レモンティとエスプレッソはすぐにやってきた。
「千三百円になります」
麻美が財布を取りだそうとすると、早紀がそれを制した。
「お釣りはけっこうです」
早紀は千円札を二枚テーブルの上に置いた。ギャルソンは最敬礼しそうな勢いで頭を下げ、金を持っていった。
「チップなんてあげることなかったのに」
「だって、わたしたちのために席を用意してくれたのよ」
「そのためのお金ならもうあげてあるもの」
「七百円ぐらい、いいじゃない。マミって、お金づかいが荒いのかケチなのかわからないわね」
早紀はくすりと笑った。麻美は一瞬早紀を睨みつけ、視線を素速くそらせた。
ケチなわけではない。金づかいが荒いわけでもない。金の使い方に神経を尖らせているだけだった。
確かに麻美には金がある。だが、それは波潟の寵愛を受けているからだった。波潟が麻美に飽きれば、金は消えていく。無駄づかいなどできない──できるはずがない。
麻美はデミカップに口をつけた。エスプレッソは苦いだけだった。
「ねえ、マミ。今日はわたしたちの他にだれが来ることになってるの?」
「パパから聞いてないの?」
「うん。マミと食事をしようって。他にも知り合いが来るから気を遣わなくていいだろうっていっただけ」
「そう。パパ、なに考えてるのかしら。ちゃんと教えてあげればいいのに」
パパ──麻美がその言葉を口にするたびに早紀の目尻がぴくりと動く。危険はある。だが、そのうち早紀は慣れていくだろう。
「パパの業界の人って、変な人が多いじゃない? だったらやだなぁと思って」
早紀はカップの中の紅茶を乱暴にかき回した。
「一応、業界の人だけど、若くてカッコいい男の人だよ。齋藤美千隆さんっていうの。それと、齋藤さんの部下で、わたしの幼馴染の男の子」
「マミの幼馴染?」
「うん。家が近所で、小学校から高校まで一緒だったの。けっこうハンサムだし、性格も悪くないから、安心して」
「へえ。その人、名前なんていうの?」
「堤彰洋」
「堤さんに、マミの小さなときの話とか聞いてもだいじょうぶ?」
早紀は勝ち誇ったようにいった。嬉しそうに細められた目──麻美の尻尾を握ったと勘違いしている。
「いいよ。彰洋ちゃん、わたしのことだったらなんだって知ってるから」
麻美は涼しい顔で答えた。早紀の目が丸くなる。
「彰洋ちゃんって呼んでるの?」
「そうよ。彰洋ちゃんはマミのこと麻美って呼ぶの。わたしのこと、本当の名前で呼ぶの、彰洋ちゃんだけ」
「仲がいいのね」
「一番長い友達だし、ほんのちょっとの間だけど、付き合ってたこともあるしね」
早紀の目がまた細くなる。
「それ、いつのこと?」
「高校生のときよ」
「今は付き合ってないの?」
「うん。マミ、ファザコンだから年上じゃなきゃダメみたい。マミが彰洋ちゃん、ふっちゃって、それで一時付き合いがなくなったこともあるんだけど……」
「どんな人なのかしら?」
「焦らなくってももうすぐ会えるよ」
「焦ってなんかいないわよ」
麻美は早紀と視線をあわせた。どちらからともなく笑いだした。仲のいい友達同士──芝居は続いていく。
「それで、齋藤さんっていうのはどんな人なの?」
「パパと似たような仕事してるわ。まだ若いのにやり手だっていって、パパが可愛がってるの」
「パパと似た仕事って、地上げのこと?」
「そうよ。わたしも詳しいわけじゃないんだけど、背も高くてカッコいいけど、危ない人かもね」
「でも、あなたの幼馴染はその齋藤さんのところで働いてるんでしょう?」
「わたしが紹介したから。仕事がなくって腐ってたの。それで」
「ふーん」早紀は頬杖を突いた。「なんだか、そのふたりに興味が湧いてきたな」
「実際に会えば、もっと湧くわよ」
麻美はカップの底に残ったエスプレッソを飲み干した。
15
六本木のマンションから三田のレストラン──タクシーは使わず、歩いて向かった。この四日間、鬱屈が溜まり続けていた。身体を動かせば、少しは気が紛れるかもしれない。
日が暮れるのと同時に気温がさがりはじめていた。アルマーニのソフトスーツが風になびき、襟元から冷気が忍びこんでくる。
あの感覚があれば──彰洋は思う。美千隆のもとで働いているときに感じる、体温が高くなるような感覚。あの感覚があれば、寒さを感じることもない。だが、ホット・ロッドのメンバーをはめる仕事が終わったあとでは、あの感覚は消え失せていた。
レストランに着いたときにはほんのりと汗ばんでいた。時刻は六時五十分。待ち合わせの十分前には現場に着いていろ──美千隆の言葉は身体に染みこんでいる。
彰洋はドアマンに波潟の名を告げた。
「お連れ様がお待ちです」
ドアマンは丁寧に頭をさげ、彰洋をウェイティングバーに案内した。
お連れ様──バーカウンターにはふたり連れの若い女がいるだけだった。
「あちらへどうぞ」
ドアマンがいうと、カウンターのふたりが同時に振り向いた。右が麻美、左の女がおそらくは波潟早紀。
「彰洋ちゃん」
麻美が嬉しそうに手を振った。波潟早紀は遠慮がちに会釈しただけだった。
「早いな、麻美。おまえが待ち合わせ時間より早く来るなんて珍しいじゃないか」
彰洋はドアマンを置き去りにしてカウンターに向かった。
「早紀がいるからよ。早紀は時間にうるさいの」
麻美は笑顔を波潟早紀に向けた。波潟早紀はストゥールから降りて頭をさげた。
「波潟です。いつも父がお世話になって──」
「やめなよ、早紀。そういうの、流行らないんだから」
麻美が波潟早紀の手を引いて頭をあげさせた。
「でも──」
「でもじゃないの。はい、こちらが堤彰洋さん。彰洋ちゃん、彼女が早紀よ」
「はじめまして」
波潟早紀はぎごちなく微笑んだ。麻美の話に出てくる波潟早紀は、根性のねじ曲がった鼻持ちならない娘だった。目の前にいる波潟早紀は清楚ささえ感じさせる美しい娘だった。
「どうもはじめまして。堤彰洋です」
彰洋は右手を差しだした。掌が汗ばんでいるのを思いだし、その手を途中で引っこめた。スーツの裾で掌を拭った。
「なにしてんのよ、彰洋ちゃん?」
麻美がきつい声を出す。
「いや、六本木からここまで歩いてきたから、手が汗ばんじゃってて──」
「ハンカチぐらい持ってないの?」
彰洋は慌ててスーツのポケットを探った。入っているのは財布と煙草だけだった。
「忘れてきたみたいだな」
「まったく、せっかくいいスーツ着てても、それじゃなんにもならないじゃない」
麻美がハンカチを差しだしてきた。彰洋はそれを受け取り、手と額を拭った。波潟早紀の態度が気になった。波潟早紀はうつむいて笑っていた。
「すみません、みっともないとこ見せちゃって」
「いいんです。マミの幼馴染だっていうから、どんな人かと思ってたら、意外と楽しそうな人なんで……すみません、こちらこそ笑ったりして」
「ちょっと、彰洋ちゃん、女の子ふたりをいつまで立たせておくつもり?」
麻美の口調はきつい──だが、機嫌がいいのは手に取るようにわかった。
「悪い、悪い。波潟さん、座りましょう」
彰洋は掌をカウンターに向けた。
「彰洋ちゃんは真ん中に座ってよ」
麻美のいうとおり、ストゥールに腰をおろした。
「ハンカチ、悪かったな」麻美の耳元に囁いた。「洗って返すよ」
麻美の冷ややかな視線が返ってくる。
「馬鹿いわないでよ。マミのものを使ったら倍返しって決まってるでしょう」
「マミ、そんなの可哀想よ」
「早紀は心配しないでいいの。彰洋ちゃん、今度凄いボーナス入ることになってるんだから。こう見えても、将来を有望視されてるのよ」
「そうなんですか?」
波潟早紀は無邪気な眼差しを彰洋に向けた。彰洋は咳払いをして答えた。
「そんなことはないです。おれなんか、まだぺーぺーだから」
「柄にもなく謙遜しちゃって」
「ちょっとうるさいぞ、麻美」
「だって、マミにそんな態度取ったことないじゃない」
彰洋と麻美のやり取りを見て、波潟早紀が再び笑いはじめた。笑い声は彰洋の耳の奥で何度も谺《こだま》した。
* * *
定刻に美千隆が現れ、十分遅れて波潟昌男が到着した。
たわいない話を肴に、すきっ腹に流しこんだ二杯のドライマティーニ──いくぶん酔いがまわっている。麻美と波潟早紀の頬もほんのり赤く染まっていた。
波潟のいつもの鞄持ちはいなかった。車の中で待機しているのか。あるいは、娘との食事のときは連れ歩かないのか。
案内されたのは小人数用の個室だった。小人数用といっても、五人には広すぎる。だが、彰洋以外の四人はそんなことには無頓着だった。
はしゃいでいる麻美が五人の席順を決めた。テーブルの右側に波潟、早紀、彰洋。波潟の向かいに麻美、その隣りに美千隆。椅子に腰を落ち着けるや否や、シャンパンが抜かれ、オードブルが運ばれてくる。メニューはなし、ワインリストもなし。波潟が格式張ったマナーを嫌っていることを店側は熟知している。
美千隆君の成功を祝って──乾杯の音頭は波潟が取った。グラスがあわされ、中身が飲み干される。小部屋付きのウェイターが新たなシャンパンを注いでいく。
美千隆の成功話。波潟が質問し、美千隆が答える。麻美が質問し、美千隆が答える。早紀が質問し、美千隆が答える。
彰洋は黙ってフォークとナイフを動かした。
「しかし、美千隆君もぎりぎりのところでよく踏んばったよ。もしかして潰れてしまうのではないかと思ってひやひやして見ておったんだが」
魚の皿が運ばれてきたときに波潟がそういった。
「いや、周りから見ていればそうだったかもしれませんが、ぼくはなんとかなると踏んでたんです」
そう答えた美千隆の目が鋭く光った。
彰洋は口許に運びかけていたワイングラスを途中でとめた。美千隆の目の光はすぐに消えた。他の三人は気づきもしなかった。
「若いときというのはえてしてそういうもんだ。根拠のない自信に満ち溢れている」
「パパ、失礼よ」
早紀が波潟をたしなめる。
「いいんですよ、早紀さん。お父さんのいうとおりですから。我々若手にとっては、その根拠のない自信がなによりの財産なんです……というか、他にはなにもない。その自信を頼りに、一攫千金を狙ってるんです」
美千隆の目は穏やかだった。鋭い光は跡形もなく消え失せていた。
「そうとも。年を取った連中なら諦めてしまうところを、美千隆君は諦めなかったんだ。それで、大金を懐に入れた」
波潟が口をあけて笑った。口の中の物が皿の上に飛び散った。早紀が眉をひそめる──波潟は気づかない。
「でも、彰洋ちゃんが頑張ったから、美千隆さんの根拠のない自信が現実になったんでしょう?」
「そうだな。彰洋には感謝してもしたりない」
美千隆が穏やかな視線を彰洋に向けた。
「堤さんが?」
早紀が小首を傾げるようにして彰洋を見た。
「そうよ、早紀。彰洋ちゃん、けっこうやるのよ」
「具体的にはどんなことをなさったんですか?」
邪気のない問い──心臓を抉《えぐ》る。体温がさがっていく。
「たいしたことじゃないです。体力に任せてあちこち走り回っただけで……」
嘘は滑らかに口をついて出てくる。口八丁手八丁──第二の本能になりつつある。胸元で十字架が揺れている。天国の祖父が嘆いていると伝えてくる。
「さっき、彰洋ちゃんはすごいボーナスをもらうのっていったじゃない。意味がわかったでしょ、早紀?」
「うん……」
早紀の口調は歯切れが悪かった。波潟の娘──現実を知ることはなくても推測はできる。
「だけどね、彰洋ちゃん、腐ってるのよ。せっかく大きな仕事したのに、美千隆さんに仕事干されてるの」
「そんなことはないよ。疲れが溜まってるだろうから、しばらく休息を取れっていっただけさ」
美千隆は肩をすくめた。顔は笑っている。おそらく、麻美から話が伝わっているに違いない。
「そうなのか、堤君?」
波潟が驚いたように目を剥いた。
「ええ。せっかく休みをいただいても、身体がなまっちゃいそうで……」
「それでね、パパ──」
麻美が波潟に顔を向ける。麻美が波潟を「パパ」と呼んだ瞬間、早紀の表情がかすかに曇るのを彰洋は見逃さなかった。
「この前彰洋ちゃんとデートしたとき、あんまり暗いから、パパのところで働いてみればっていっちゃったのよ」
「おれのところで?」
「だって、パパ──」
早紀の表情がまた曇る。麻美はそれに気づかず話を続ける。
「松井さんが胃潰瘍で入院して困ったっていってたじゃない。松井さんが退院するまでの間、彰洋ちゃんに代わりを務めてもらったらどうかなと思ったの。彰洋ちゃんだってこの業界でこれからもやっていくんだから、いい勉強になるし」
推測──松井は例の鞄持ち。だとすると、今日、姿が見えない理由がつく。
「それもそうだな……美千隆君、堤君はどれぐらい休んでなければならんのかな?」
波潟は腕を組んだ。娘の横顔を盗み見た。彰洋が会社に顔を出せない理由を察していた。それを娘に知られまいと表情を取り繕っていた。
「一ヶ月ほど休ませようと思っていますが……もし、波潟さんにその気がおありなら使ってやってくれませんか。堤はまだ若造ですが、いいものを持ってます。なにかご迷惑をおかけするようなことがあったら、ぼくが責任を取りますから」
「しかしなあ……いくらなんでも堤君じゃ若すぎる」
「お願い、パパ。彰洋ちゃん、なんとかしてあげて」
麻美はテーブルの上に身を乗り出した。
「なんだ、おまえ。まるで堤君の恋人みたいじゃないか」
波潟の表情が歪む。だが、麻美は気にしない。真剣な眼差しで波潟に訴える。
「だって、パパも知ってるでしょう? マミ、こんな性格だから、友達がいないの。彰洋ちゃんは、子供のときからずっとマミの友達でいてくれたのよ。マミ、ずいぶん酷いこともしたの。でも、彰洋ちゃん、絶対にマミのこと見捨てたりしなかった。その恩返しがしたいのよ。マミのお母さんとパパがいなくなったら、マミのこと心配してくれるの、早紀と彰洋ちゃんだけなんだから」
迫真の演技──波潟は目尻をさげ、早紀は驚いたように麻美の横顔に食い入っている。
「いいだろう。堤君、早速明日からうちの会社に来なさい。一ヶ月だけのアルバイトとして雇ってやろう」
「ありがとうございます」
彰洋は深く頭をさげた。
* * *
メインディッシュが終わると、早紀が席を立った。
「美千隆君、頼みがあるんだがな」
波潟が小声でいった。
「なんでしょう?」
「このあと、君と堤君で早紀をエスコートしてくれんか。おれはマミとな……早紀を連れていってもいいんだが、さすがに気詰まりがするんだよ。あれも、自分の父親が自分の友達といちゃいちゃしてるのを見せつけられるより、君らといた方が楽しいだろう」
波潟は麻美にいやらしい視線を向けた。麻美は嬉しそうに舌を出した。
「わかりました。早紀さんはお任せください」
美千隆は微笑みながら答えた。その笑顔を彰洋に向けた。
「いいだろう、彰洋?」
「早紀さんがそれでいいなら、ぼくはかまいません」
「じゃあ、そうしてくれ。早紀にはおれからいっておくから」
波潟はスーツの内ポケットから葉巻ケースを取りだした。
「やるかね、美千隆君?」
「いただきます」
「堤君は?」
「ぼくはけっこうです──ちょっと失礼します」
彰洋は席を立った。個室を出てトイレに向かった。用を足していると、すぐに美千隆がやってきた。
「波潟の仕事、うまくやれよ」
彰洋の隣りに立ちながら美千隆はいった。
「いいんですか?」
「ああ。せいぜいあの親父のご機嫌を取ってやれ」
「どうして波潟のことを睨んだんですか?」
「睨んだ? おれが?」
「ええ、一瞬でしたけど」
「波潟のやつ、おれをはめようとしたのさ。あの地上げの話をおれに持ってきたのはあいつだ。それをいけしゃあしゃあと、心配していたといいやがるんだからな。本当は、おれがしくじるのを待って、おれが手がけてる不動産を一切合財自分のものにしてしまう腹だったんだ」
波潟はそんな素振りはおくびにも出さなかった。この世界は魑魅魍魎《ちみもうりよう》がうようよしてるからな──昔、美千隆はいった。その代表格が波潟だ。
「もう行け」美千隆はいった。「いつまでもふたりでいると、よからぬことを企んでるんだろうと疑われるからな」
「わかりました」
彰洋はトイレを出た。向かい側の女性用トイレからはかったように早紀が出てきた。
「あら、堤さん。マミのハンカチ、大活躍ね」
彰洋がポケットにしまおうとしていたハンカチを見て、早紀は笑った。
「高くつきますけどね──食事、退屈じゃなかったですか? 仕事の話ばかりで」
「全然。父の仕事の関係の人とお話するの、滅多にないから。父も嫌がるの。あんまり綺麗な話は出てこないからって」
確かにそのとおりだった。百億単位の金が飛び交う世界で早紀の耳に心地よい話が聞けるはずもない。
「席に戻りましょう」
彰洋は早紀に促した。
「堤さん、今度、マミの子供のころの話、聞かせてくれる?」
「あいつ、怒るかもしれませんよ」
「かまわないっていってたわよ」
早紀はいった。声がかすかに顫えていた──早紀の複雑な感情を現しているかのようだった。
* * *
静かなところに行きたい──波潟早紀はそういった。
美千隆は運転手に銀座のコリドー街へと告げた。金曜の夜の道は混んでいた。銀座に近づけば近づくほど混雑は酷くなった。
波潟早紀は口が重かった。憂鬱そうな視線を窓の外に向けていた。
「お父さんとマミのことが気になりますか?」
美千隆が波潟早紀に優しい声をかけた。
「別にそんなことないわ」
美千隆は微笑んだ。
「頭では割りきったつもりでいる。だけど、どこかにわだかまりがある。そうでしょう?」
「齋藤さんには関係のないことだと思いますけど」
波潟早紀は冷ややかな表情で答えた。美千隆の微笑が苦笑に変わる。
「確かに、あなたのいうとおりだ」
美千隆の声に車載電話の呼びだし音が重なった。美千隆は受話器に手を伸ばし、彰洋に目配せをしてきた。
翻訳──おれはお嬢さんに嫌われた、おまえがなんとかしろ。
彰洋は頭を掻いた。どうすればいいのかわからない。彰洋が知っている若い女は、宮殿ディスコに夜毎やってくる刹那《せつな》的な連中ばかりだった。ボディコン姿で踊りまくる女たちに難しい言葉は必要がなかった。身体の線を浮かびあがらせた服と男たちの視線、それに激しい踊りが彼女たちの理性を麻痺させる。顔を見て気に入れば寝る。そうでなければ無視する。そんな関係の中でしか女とかかわりを持ってこなかった。
美千隆は電話で話をはじめた。口調から察するに、相手は銀行の融資係。自分の金を貸しているわけでもないくせに、偉そうにふんぞり返って美千隆にたかっている。
「車、動かなくなったわね」
波潟早紀が口を開いた。
「そうですね」
彰洋は車外に視線を向けた。新橋の手前。銀座へ向かう車がひしめきあっている。
「今日は金曜ですから夜明け近くまで道は混んでますよ」
「そうまでしてみんな銀座に来たいのかしら?」
波潟早紀の口調には皮肉が込められていた。だれに対する皮肉か──父親か、それとも美千隆や彰洋か。憂鬱そうな表情からはなにも読み取れなかった。
「来たいんでしょうね」彰洋は答えた。「なにが楽しいんだか、みんな、土地や株で儲けた金をばら撒きにくるんです。たぶん、自分が成功者だってことを見せびらかしたいんでしょう」
「堤さんは違うの?」
「ぼくは成功者じゃありませんから」
「成功したら、そんなふうに遊びたい?」
彰洋は首を振った。
「わかりませんね。今はまだ若いから、水商売の女たちに金をばら撒いてなにが楽しいのかわからないけど、年をとったら、金がなきゃだれも振り向いてくれなくなるのかもしれないし。ただ──」
彰洋はいいよどんだ。
「ただ……なに?」
ルームミラーに波潟早紀のつぶらな瞳が映っていた。その目からは憂鬱な沈んだ光が消えていた。
「ぼくがやりたいことっていうのは金を儲けることじゃないんで、きっと、自分で成功者になったと思っても、銀座には来れないでしょうね」
「やりたいことってなにかしら?」
「笑わないでくれます?」
「そんなことしないわ」
「それに、すごく抽象的なんです」
「そこまでいっておいて教えてくれないの、ずるいわ」
「ぼくは、でかいことがしたいだけなんです。なんでもいいからでかいことがしたい。それだけなんです。馬鹿馬鹿しいでしょう?」
いってしまってから恥ずかしさが込みあげてきた。初対面の女に向かって口にするようなことではなかった。ドライマティーニとシャンパンにワインが口を軽くさせている。
「堤さんって、変わってるのね」
波潟早紀は目を丸くしていた。当然だろう。今どきの若造でそんなことを思い、口走る馬鹿はいない。
「かもしれません」
彰洋はルームミラーから視線をそらした。外の景色は変わらない──車はほとんど動いていない。
「わかりました。できるだけ急いでお伺いしますよ」
美千隆が電話を切る音が聞こえた。
「早紀さん、すみません。急用ができてしまいまして……堤にしっかりエスコートさせますが、嫌だったらこの車でお家までお送りしますよ」
「わたしのことなら気にしないで。堤さんとふたりでだいじょうぶ。聞きたいこともあるし」
聞きたいこと──麻美のこと。それしか考えられない。波潟早紀に対して嘘をつかなければならない。そう思うと気が重くなった。
「そうですか。じゃあ、この車、今夜は早紀さんにお貸しします。帰りたくなったらいつでも使ってください──彰洋、任せたぞ」
「わかりました」
「コロネル、わかるだろう? そこに早紀さんを連れていけ。早紀さんがそこを気に入らなかったら、あとはおまえの才覚次第だからな」
「わかってますよ、社長──じゃあ、波潟さん、そんなに遠くないですから、歩きましょうか。このまま車に乗っていてもしょうがないですから」
「そうね。その方がいいわ。齋藤さん、それじゃ、失礼します」
波潟早紀は美千隆に丁寧に頭をさげた。
「お気をつけて」
美千隆は微笑んだ──目は鋭い光を宿していた。仕事に向かう時の目つき。美千隆の思考はすでにたかり屋の融資係に飛んでいる。
これは仕事だ──言葉には出さずに自分にいい聞かせた。下卑た中年男たちを接待するのと同じだ。適度に酔い、くだらない話に相槌を打ち、相手の機嫌を取る。波潟早紀相手にそれができないはずもない。
彰洋は車を降りた。波潟早紀が車を降りるのに手を貸した。
波潟早紀の指は細く滑らかだった。
* * *
コロネルはすいていた。どこかの金持ちが趣味ではじめたバー──自慢話をするのと金を見せびらかすのが好きな成金どもは近よろうともしない。美千隆は女のいる店ではしゃぐのに飽きると、よくこのバーにやってくる。
彰洋はボックス席ではなく、バーカウンターに早紀を案内した。彰洋はワイルドターキィのソーダ割り、早紀はマルガリータを注文した。
「まだ寒いけど、好きなの、マルガリータ」
早紀は恥ずかしそうにつけ加えた。バーテンダーは微笑んだだけだった。
酒はすぐに運ばれてくる。彰洋はグラスを手にしながら早紀に語りかけた。
「なんに乾杯します?」
「そうね……」早紀は首を傾げた。「堤さんに乾杯しましょうよ」
「おれ……ぼくに?」
早紀が苦笑した。
「普段どおり喋ってくれていいわよ。わたし、確かに波潟昌男の娘だけど、堤さんのお得意さんでもなんでもないんだから」
「そういわれても、簡単にはいかないよ。これでもくだけて話してるつもりなんだ。この仕事に入ってから、付き合うようになった人たちって、みんなぼくより年上だし、ぼくより──」
「大きな仕事をしてる?」
早紀は彰洋の言葉を遮った。目がいたずらっぽく笑っていた。
「まあ、そうだね」
「わたしはなにもしてない。ただの学生よ。酷《ひど》い口の利き方をしたって、父にいいつけたりもしないし」
「もう少し酔っぱらえば、早紀って呼び捨てにしちゃうかもしれないけどね」
「だったら飲まなきゃ。早く乾杯しましょう」
「だけど、なんでぼくに乾杯するわけ?」
「だって、ひとつ大きな仕事をしたんでしょう?」
ホット・ロッドの四つの顔──早紀の微笑みの向こうでぼやけている。
「それほど大袈裟なものじゃないよ」
「いいの。とにかく、乾杯」
早紀がカクテルグラスを掲げた。それに倣うしかなかった。彰洋はグラスをあわせ、中身を呷《あお》った。グラスの半分以上を一気に飲みくだした。
「美味しい。いいお店ね、ここ。静かだし、だれもでしゃばらなくって気持ちがいいわ」
早紀のマルガリータはほとんど減っていなかった。
「こんな店、他にもいっぱい知ってるでしょう?」
「そんなことないわ。きっと、マミの方がいっぱい知ってる。パパ──父とは滅多に出歩かないし」
「パパでいいよ」
彰洋がいうと、早紀は唇を尖らせた。だが、すぐに笑顔に戻って言葉を続けた。
「さっきもいったように、わたしはただの学生なの。たまにママと美味しいレストランに行ったり、友達とお洒落な店に行ったりはするけど、基本的には普通の場所にしか行かないのよ」
「そういうもんかな」彰洋はまたグラスに口をつけた。「今の仕事やってると、周りに普通の人がいないんでわからなくなるよ。昔はそうでもなかったんだけど」
「齋藤さんのところで働く前はなにをやってたの?」
「ディスコの黒服だよ。それこそ、女子大生やOLさんに囲まれてたんだ」
「ディスコの黒服? 想像もつかないわ」
早紀が身を乗りだしてきた。好奇心を隠そうともせず、不躾《ぶしつけ》な視線を彰洋に向けてくる。
早紀の視線は気にならなかった。アルコールが気分を持ちあげ、舌を滑らかにしている。彰洋は視線でバーテンダーにお代わりを告げた。バーテンダーはさり気なく待ち構えていた。
「六本木の宮殿ディスコ。頭にインカムつけて、フロアを走り回って、ボディコンの女たちに色目使って……そんな仕事してたんだよ。こう見えても黒服、意外と似合うんだよ。この店でだってやっていけるぐらい。いま、齋藤さんに任されてる仕事も飲み屋のマネージャーみたいなものだし」
「そんな人がどうして齋藤さんの下で働くようになったの?」
早紀の目は輝きを増している。表情を読む──早紀は経緯を知っている。知っていて、彰洋が本当のことをいうかどうか確かめようとしている。
「麻美に紹介してもらったんだ。黒服の仕事がつまらなくて腐ってたら……その前にも仕事を変えようと思ってたんだけどね。浪人してる間に悪い遊び覚えて、そのままドロップアウトした口だから、潰しがきかなくて」
「堤さん、マミのこと麻美って呼ぶのね」
早紀はいった。彰洋に向けていた視線を落とし、グラスに手を伸ばした。テストにはパスしたということだった。
「あいつが他人に自分のことをマミって呼ばせるようになったのは父親が家を出ていってからで、おれはその前から麻美の友達だったからね。小学校も中学校も高校も一緒だった。小学校からずっと一緒だったのはおれしかいないんじゃないかな。おれの他にもそういうやつがいたら、きっと麻美って呼びつづけてると思うよ」
おれ──口が滑った。だが、早紀は彰洋の言葉遣いなどこれっぽっちも気にしてはいないようだった。
「他にマミを本名で呼ぶ人っていないのかしら?」
彰洋は首を振った。
「母親にもマミって呼ばせてたからね……もしかすると、あいつを麻美って呼ぶのはおれだけかもしれない」
バーテンダーが空になったグラスを新しいそれと取り替えた。彰洋はグラスに手を伸ばした。
「幼馴染って凄いわよね。だけど、それだけじゃないんじゃないかな。そういえば、今日、マミに聞いたけど、高校のとき、付き合ってたんでしょう?」
「昔の話だよ。ふたりとも子供だったし──」
「どうして別れたの?」
早紀は彰洋の言葉を遮った。好奇心に輝いた目は訴えている──教えて、全部教えて。
真実の答え──麻美の目には金持ちしか映らないから。聞かせてやるべき答え──口当たりはよく、かといっておとぎ話ではないストーリィ。
「大学受験に失敗して、かなり腐っててね」酒で口を湿らせながら彰洋はいった。「それで、麻美に八つ当たりしちゃったんだ。あいつは希望校にすんなり受かってたし、悔しかったんだろうね」
「そんなことが理由で別れたの?」
早紀は失望したようだった。彰洋は小さく肩をすくめた。
「いっただろう? ふたりとも子供だったんだ。それに、早紀さんも知ってると思うけど、麻美はめちゃくちゃ我が強い。自分が悪いわけでもないのに八つ当たりされて、それでおれをゆるしてくれるような女じゃないのさ」
この話は早紀の気に入ったようだった。早紀の目に輝きが戻った。
「マミって昔からきつい子だったの?」
「そうだね。昔からきつい女だったよ」
「どんな感じだったの?」
早紀のグラスの中身は減らない。しかし、輝きを増す目はなにかに酔っている。なにに?──麻美を知ることに。麻美は早紀と仲直りをしたといった。早紀の態度もそれを裏づける。だが、自覚しているにせよそうでないにせよ、早紀が麻美に敵意を抱いているのは間違いなかった。
酔いが急激に引いていく。早紀の敵意がどれほど強いのかを見極める必要があった。
「麻美の父親が家を出ていったのはおれたちが小学校六年生のときなんだけど──」
彰洋はわざと口を閉じた。早紀が先を急かすように身体を寄せてくる。早紀の口臭さえ嗅げそうな距離──早紀はなにも気にしていないようだった。
「麻美はその前から女王様然としてて、けっこう周りから煙たがられてたんだけど、そのせいでいじめに遭うようになったんだ」
「いじめ? 麻美が?」
「そう。だけど、いじめは長く続かなかったよ。先頭に立って麻美をいじめてた女の子がいたんだけど、あるとき……あれは理科の実験の最中だったかな、麻美がいきなりその子を突き飛ばして、馬乗りになった。麻美は鋏を持ってて、みんながなにが起こってるか理解する前に、その子の髪の毛や服を切り刻んだんだ」
「うそ」
早紀は口を丸くした。
「本当だよ」
彰洋はグラスに口をつけた。あのときのことはよく覚えている。教室中が大混乱に陥る中、麻美は彰洋に視線を向けて得意げに微笑んだ。あの微笑みは強烈だった。あの瞬間、彰洋の中で麻美は幼馴染から別の存在へと変化した。
「もう、学校中大騒ぎだったけど、それ以来、だれも麻美をいじめなくなった。凄い女だろう?」
「本当ね……」
早紀は自分で自分の肩を抱いた。
「麻美を怒らせると怖いんだよ。だからおれも、八つ当たりなんかするべきじゃなかったんだ」
彰洋の言葉に早紀は反応を見せなかった。なにかを考えこむような目つきで、マルガリータをじっと見つめていた。
「どうしたの? 凄い話を聞いて、気分でも悪くなった?」
「そうじゃないわ」
早紀は首を振った。言葉を続けようとして躊躇《ちゆうちよ》するように唇を震わせた。彰洋は穏やかな眼差しを早紀に向けた。無理に話を聞きだそうとするな、話したい連中は勝手に口を開くもんだ──美千隆の言葉が耳の奥で谺する。
「堤さん……もしかすると気分害するかもしれないんだけど──」
それほど待つ必要はなかった。
「けっこう忘れっぽい質《たち》だから、少しぐらい気分が悪くなってもだいじょうぶだよ。なんの話? 麻美に関係があるの?」
「それがよくわからないんだけど……わたしの友達が……ふたりとも女の子なんだけど、つい最近、マミとディスコで会って、その帰りに何人かの黒人にレイプされたの」
彰洋は眉に皺を寄せた。話が想像もしていなかった方向に向かっている。
「酷い話だね」
「マミがやらせたんじゃないかしら……」
「麻美が? どうして?」
早紀はグラスに手を伸ばした。ほとんど口をつけていなかったマルガリータを半分近く喉に流しこみ、いいづらそうに口を開いた。
「パパとマミがあんなふうになってから、わたしとマミ、ずっと仲が悪かったのね」
「そのことなら聞いてるよ」
「それで、わたしと仲の良かった子たちが、マミがゆるせないって……いじめまではいかないんだけど、いろいろあって」
「その仕返しに麻美が黒人を使って強姦させたってこと?」
早紀は小さくうなずいた。
「それはないんじゃないの」
早紀の表情を読みながら口を動かす。思考が目まぐるしい速度で回転する。
ディスコの帰り、黒人にレイプされた女がふたり──一ヶ月ほど前、麻美と一緒にマハラジャへ行った。VIPルームに入ってきた二人の女。麻美を露骨に睨んでいた。早紀の取り巻きよ──麻美はいった。恋人のふりをさせられた。泥棒猫、身のほど知らず──女たちの不愉快な声。ディスコを出る前に麻美はトイレへ行くといってどこかへ消えた。
麻美が女たちをレイプするようにだれかに頼んだ可能性──寒気がするほど高かった。
「確かに麻美は気が強いし、自分をないがしろにした相手には容赦ないけど、それはガキのころの話だし、まさか、強姦させるようなことまではしないと思うよ」
「本当にそう思う? 信じてもいい?」
縋《すが》るような視線──早紀は麻美に敵意を抱いている。だが、目も眩《くら》むような憎悪を抱いているわけではない。彰洋が自分の考えを否定してくれることを本気で願っている。
「信じてかまわないよ。多分《たぶん》、あいつの母親を除けば、おれが一番麻美のことをわかってるんだと思う。麻美はそんなことはしないよ」
空々しい言葉が口をついて出る。
「よかった」早紀が肩から力を抜いた。「ごめんなさい。変なこと考えて、嫌な女だと思うでしょう?」
「そんなことないよ。確かに楽しい話じゃなかったけど、早紀さんにそう思わせるような態度、あいつよく取るからね。よくいえば気位が高いし、悪くいえば傲慢だから」
「パパにはね、その話をしたら撲《ぶ》たれたわ。いっていいことと悪いことがあるぞって。生まれて初めて殴られたの。ショックだった。わたしよりマミが大切なのかと思って頭にきたり、確かにパパのいうとおりだと思ったりして、頭の中、ずっとパニックだったの。マミと仲直りしたあとでも、疑いが消えなくって、自分のこと、なんて嫌な女だろうって。でも、堤さんのいうことなら信用できるような気がする」
早紀が微笑む──胸が痛む。彰洋を信頼しきった開けっぴろげな笑み。ホット・ロッドの連中も同じように微笑んでいた。グラスに残っていた酒を飲み干す。酔いは百万光年の彼方に去っていった。このあと、どれだけ飲んでも酔うことはないように思えた。
「なんだかすっきりしちゃった。ね、堤さん、もう一杯付き合ってもらってもいい?」
「一杯でも十杯でも。波潟さんにエスコートを任されたんだから、とことんお付き合いしますよ」
「また仕事の口調に戻ってる」
「あ、ごめん」
彰洋は苦笑した。胸につかえたわだかまりは消えない。だが、切迫感が消えた早紀の表情を再び曇らせたくはなかった。
早紀は笑いながら新しい飲み物を注文した。ピニャコラータ──真夏に似合うトロピカルカクテル。早紀があまりバーに足を向けないのは確かなようだった。
「どんなふうにマミと再会したの?」
バーテンダーの動きを見守りながら早紀がいった。
「おれの働いてたディスコに、たまたま麻美が来たんだよ。それでね」
「びっくりした?」
「うん。驚いた。麻美、昔はそういう遊びはしなかったっていうか、したくてもできなかったからね。それに、身につけてるものが高いものばかりだった」
バーテンダーが音もなく近よってきて、早紀の目の前にピニャコラータの入ったグラスを置いた。早紀はすぐに口をつけた。嬉しそうに微笑んだ。
「マミに惚れなおしちゃった?」
いたずらっぽい視線──その裏に隠された感情。早紀が麻美に抱いている感情は、単に若くて美しい女同士のジェラシィなのかもしれない。
「いや」彰洋は首を振った。「もう、気持ちの整理はついてたっていうか、おれと麻美が合わないことはわかってたから」
「そうなんだ……」
早紀は疑うように彰洋の顔を覗きこんできた。彰洋はその視線を受け流した。高速で回転する思考──麻美が早紀にいいそうな言葉を探る。それはすぐに見つかった。
「麻美の気が強すぎるっていうのもあるし、なにより──」
「なにより?」
「あいつ、ファザコンなんだよ。同い年の男じゃだめなんだ、きっと」
早紀の顔がぱっと輝く。
「堤さんって、ほんとにマミのことよく知ってるのね。ちょっと嫉妬しちゃうな」
皮肉っぽい口調──だが、その声に刺々《とげとげ》しさはなかった。
* * *
コロネルを出たのは十二時を過ぎていた。早紀はかなり酔っていた。踊りに行きたいと駄々を捏《こ》ね、踊り疲れると気持ちが悪いといいだした。
美千隆の車で元赤坂の家まで送った。車の中で、早紀は彰洋の肩にもたれかかって眠っていた。早紀の寝顔は無邪気だった。麻美もこんな顔で寝ることがあるのだろうかと思った。早紀の身体から漂ってくる香りは控えめだった。麻美はいつもブランド品の香水かトワレをつけていた。
さめていたはずの酔いがぶり返す。しばらく女と接していなかったことを思いだした。女を作れ、彰洋──美千隆の声が何度も谺した。股間が熱を持ち、急速に固くなっていく。
この女は波潟昌男の娘だ──何度も自分にいい聞かせた。六本木から元赤坂までの道のりが途方もなく長く感じられた。
早紀を家に送り届け、美千隆の運転手に別れを告げた。公衆電話に飛びこみ、麻美の家に電話をかけた。電話は留守電になっていた。
「おまえ、早紀さんの友達を強姦させただろう? なに考えてるんだ? 明日、電話よこせ、ばか」
怒鳴るようにメッセージを入れ、電話を叩ききった。
砕けたガラス片の上を転がっているような気分──仕事が恋しかった。体温があがっていく感覚を取り戻したかった。
16
留守電に入っていた彰洋からのメッセージ──久しぶりに聞く怒鳴り声。子供のころはよく怒鳴られ、怒鳴り返した。そのうち、彰洋は怒鳴らなくなった。口では決して麻美に勝てないことを悟ったからだ。
「こんなに怒ってるってことは──」メッセージを消去しながら麻美は微笑んだ。「彰洋ちゃん、早紀に惚れちゃったかな?」
麻美は床の上に服を脱ぎ捨て、バスルームに向かった。鏡に映る自分の裸体を観察するように見つめた。身体のあちこちについたキスマーク──昨日の波潟の激しさを物語る。
美千隆たちと別れたあと、波潟と麻美はホテルオークラに向かった。インペリアル・スイート。セックスをするといえば、麻美の部屋か旅先のホテルがほとんどだったが、そのスイートはわざわざ波潟が押さえた部屋だった。
娘と愛人の和解──波潟は舞いあがっていた。部屋に入るなり、波潟はコカインを鼻から吸いこみ、麻美に抱きついてきた。
麻美も、いつもより自分が興奮していることを自覚していた。自分と波潟がなにをするのか早紀は知っていて複雑な表情をしていた。レストランで見た早紀の横顔を思いだすだけで背骨に沿って痺れが走った。
麻美は波潟に媚を売り、挑発し、焦らした。SMの女王になったような気分──数百億の資金を持つ男を思うようにあしらっている。感情は昂ぶり、五感は麻薬に酔ったように刺激に敏感になっていた。
頼むから入れさせてくれ──波潟が懇願したときは軽い絶頂に達していた。
すべてが終わったあとの満ち足りた気分も格別だった。太股のあわせ目から流れ落ちてくる波潟の精液さえその気分を壊すことはなかった。しかし、いったん眠りに落ち、再び目を覚ますとすべては激変する。鼾《いびき》をかき、口をあけて眠る波潟はどこまでも醜かった。そんな男に抱かれ、喜びを感じる自分が呪わしかった。自己|憐憫《れんびん》と自己嫌悪が入れ代わり立ち代わり襲いかかってくる。
波潟の鼾を聞きながら、麻美は波潟の持っている金のことを考えた。金が自分に与えてくれる喜びのことを思った。ベッドを抜けだし、暗闇の中、インペリアル・スイートの調度品を眺めてまわった。お金がなければ、あんたなんかすぐ殺してやるのに──ベッドの傍らで、波潟に向かって呟いた。そうすると、呪わしい気分が薄れていった。
再び眠りに落ち、また目を覚ます。波潟はまだ眠っている。涎《よだれ》で濡れた口許が目に入る。それでも、気分は晴れていた。
麻美はバスタブに湯をためた。ホテルでシャワーは浴びてきたが、それだけでは物足りなかった。ゆっくり湯船に浸かった。波潟に駄々をこねて買わせたバスタブはジャグジー付きだった。泡立つ湯船の中、身体と気持ちがほぐれていく。
気がつくと鼻歌をうたっていた。それがなんの歌かに気づき、麻美は眉間に皺をよせた。昔、父親がよくうたっていた歌だった。
嫌な記憶がよみがえった。ちゃらんぽらんな父。気丈にすぎる母。諍《いさか》いの絶えない家。父の出奔。極貧の母子家庭。ぎすぎすして女らしさを失っていく母。思いだしたくはない。すべてを封印したい。
麻美は荒々しい仕種で湯船を出た。泡立てたスポンジで身体を乱暴に洗いはじめた。
* * *
最初の呼びだし音が鳴り終わらないうちに彰洋が電話に出た。
「おはよう、彰洋ちゃん」
「麻美、おまえ──」
「留守電、聞いたよ。あんなに怒鳴らなくてもいいじゃない」
彰洋の機先を制する。彰洋に後手を取らせることが勝利の秘訣だった。
「やったんだろう、おまえ?」
彰洋の声は怒気を帯びている。だが、留守電に入っていたメッセージほどではない。
「マミはやってないわよ」
「ごまかすなよ。おまえが早紀さんの友達を黒人に襲わせたんだ」
「証拠もないくせに」
「証拠なんかいるかよ。おれにはわかってる。それだけで充分だ」
「ずいぶん一方的じゃない」
「おまえのやったことだって一方的じゃないか」
彰洋は勝ち誇ったようにいった。麻美は小さく笑った。負けず嫌いの堤彰洋──子供のころからなにも変わってはいない。だが、彰洋は麻美にだけはかなわなかった。それも変わってはいない。
「もしマミがやらせたんだとしたらどうだっていうわけ?」
「なんでそんなことしたんだよ?」
「大っ嫌いなのよ、あの子たち」
麻美は間を置かずに答えた。彰洋が絶句した。いつもと同じだ。彰洋は麻美のしでかしたことを詰《なじ》る。麻美は最初はしらを切るが、突然、自分の罪を認める。そうすると、彰洋は決まって途方に暮れたような表情をしたものだった。
「おまえ……」
「なによ?」
「やっていいことと悪いことがあるだろう」
「初めて知ったわ、そんなの。マミや彰洋ちゃんの周りにいる人たちって、お金さえあればなんでもしていいと思ってる人たちばっかりじゃない」
「それは特殊な状況の話だろう──」
「特殊なんかじゃないわよ」麻美は彰洋を遮った。言葉をまくしたてた。「波潟も美千隆も、人よりたくさんお金持ってるけど、やってることは普通の人と変わらないわ。ちゃんと目をあけて世の中を見てみなさいよ。みんなずるく立ち回ってるじゃない。だれだって、お金が欲しいし、そのためにはなんだってしたいと思ってるのよ。ただ、頭と度胸がないからやらないだけ。やっちゃいけないことなんかないんだから」
「麻美──」
「彰洋ちゃんだって、マミに偉そうな説教できる立場じゃないでしょう。このあいだ、なにをしたのよ? 世間知らずの馬鹿な連中を騙したのはだれよ?」
「あれとこれは──」
「違わないわよ。マミは波潟からもらったお金を使って黒人にあいつらを襲わせた。彰洋ちゃんは美千隆さんの力とかお金を使ってなんとかっていうバンドの人たちをうまくはめた。全然違わない。違うっていうんだったら、天国のお爺ちゃんに訊いてみなさいよ。嘘をついてはいかん、人を騙してはいかん、人の物を盗んではいかん。あれはどうなったのよ?」
彰洋の返事はなかった。受話器を握りしめて蒼ざめている彰洋の表情を脳裏にありありと思い浮かべることができた。頬の筋肉が緩んでいく──とめることなどできはしなかった。
「いい、彰洋ちゃん? 波潟や美千隆さんはもしかすると、悪人なのかもしれない。でも、マミたちも仲間なのよ。美千隆さんのためならなんだってするっていったでしょ? だったら、胡散《うさん》臭い常識だとか道徳なんて捨てちゃいなさいよ」
「だけど……波潟さんにバレたらどうするんだよ?」
最後の足掻《あが》き──彰洋の声には力がなかった。麻美が突きつけた現実に打ちのめされている。
「バレないわよ。それにバレても平気。波潟はマミに夢中なんだから」
本当にそうだろうか?──突然、不安が鎌首をもたげた。今はいい。今は波潟は自分に夢中になっている。昨日の波潟を思い起こせばいい。地上げの神様と呼ばれ、やくざじみた連中を顎で使っているような男が、焦らされ、辱められ、それでも麻美が欲しいと泣き喚いた。だが、それがいつまでも続くと考えるほど麻美は世間知らずではなかった。麻美が二十五になれば、三十になれば──波潟は若い女を求めるようになる。麻美は捨てられる。ゴミくずのように。いやになるほどわかっていた。だから金に執着する。そうなる前に、波潟から絞れるだけの金を絞り取りたい。
「わかった、彰洋ちゃん? もう、マミに説教しようなんて考えるの、やめてよ」
麻美は頭を振って不安を追い払った。電話を持って寝室に移動した。
「わかったよ……」
彰洋は不満そうだった。だが、彰洋は自分の負けを認めている。
「じゃあ、この話は終わり。いい?」
喋りながら、麻美はクローゼットを開けた。目立たない場所に据えつけさせた隠し棚から銀行の預金通帳を取りだした。
「ああ。だけど、麻美、もうこういうことはするなよ」
「しないわよ。早紀とは仲直りしたんだし、気分すっきりしたから」
預金残高──二千万。多いといえば多く、少ないといえば少ない金額。波潟から受け取った金を貯めた額。おそらく、使ってしまった金はこの額を上まわるはずだ。ほんの一年ちょっとの間に波潟から絞り取った金は四千万強──少ない。少なすぎる。
「だったら、もうこの話はしないよ」
「ねえ、なにむきになってるのよ?」
「むきになんかなってねえよ」
麻美は通帳を閉じた。棚に戻した。あと二年か三年、波潟の愛人をしていて手にできる金額はたかがしれている。兆しが見える前になにかをはじめなければならない。
「なってるわよ。もしかして、早紀にほだされたの?」
「なんの話だよ」
「早紀、いい子でしょ? 顔も綺麗だし、プロポーションもいいし」
「ああ、おまえに聞かされてどんなに嫌な女かと思ってたけど、全然違ったな」
「ごめん、ごめん。前に早紀の話をしたときは喧嘩したあとだったから、頭にきてたのよ。で、どう? 早紀、気に入った?」
「そんな気になるかよ。相手は波潟昌男の娘だぜ」
ほんのかすかに言葉が澱む。彰洋は可愛い──麻美は思う。ただ頭の悪いだけの男ならゆるせないが、彰洋は違った。
「早紀の親がだれかなんて関係ないじゃない」
麻美は突き放すようにいった。
「そりゃそうだけどよ……」
彰洋と早紀をくっつける──もうひと押しが必要なのかもしれない。
* * *
「これはなんだ、マミ?」
美千隆の細くて長い指が、乳房の脇のキスマークの上をなぞっていく。
「知らない」
麻美は切れ切れに答える。
「波潟の爺に舐《な》められた痕だろう?」
「いわないで」
麻美は美千隆の胸に顔を埋める。ソファがかすかな音をたてる。
美千隆に触れられるたびに電流が走る。自分が濡れていくのを感じる。美千隆に詰られるたびに心が痛む。
これでは逆──麻美は思う。マミと波潟、マミと美千隆。波潟に対しては強気で、美千隆に対しては弱気にしかなれない。美千隆と一緒にいられるのなら、金がなくてもいいとすら思える。そう思う自分がゆるせなくなる。
美千隆の指が脇腹から脚の方へ滑っていく。
「こんなところにもキスマークがあるぞ、マミ」
美千隆の指が微妙なタッチで内腿《うちもも》のつけ根のあたりを動き回る。
「あの爺、昨日はかなり頑張ったようだな。娘がいたんで興奮したのか?」
美千隆の声に非難するような響きはない。ただ、自分の言葉と指が麻美に与える影響を楽しんでいる。
美千隆は冷たい男だった。その冷たさが憎らしく、またいとおしくもある。矛盾している──わかっていても、美千隆を忘れることはできない。
「ねえ」美千隆にしがみついたまま麻美は口を開いた。「美千隆、パパにはめられそうになったんだよね?」
「まあ、そこまで露骨なもんじゃないけどな」
美千隆の指は動きつづける──吐息がもれる。麻美は歯を食い縛って言葉を続けた。
「パパに仕返ししたくないの?」
美千隆の指が動きをとめた。麻美はそっと視線をあげた。表情の失せた美千隆の顔が目の前にあった。
「なにを企んでるんだ、お嬢ちゃん?」
美千隆は麻美を信じない。麻美が麻美であるかぎり、美千隆は麻美を可愛がりこそすれ、愛してくれることはない──わかっていても美千隆を忘れることはできない。自分を変えることもできない。
「昨日、考えたの」
麻美は努めて冷静な声を出した。そうしなければ泣きだしてしまいそうだった。
「なにを?」
「波潟がマミに夢中でいるのも、もってあと二年ぐらい。あれだけの大金持ちなんだもん、女なんかいくらでも手に入るでしょう? マミはただ、娘の親友だった女っていう飾りがあるから可愛がられてるだけだし」
「よくわかってるじゃないか、マミ。おまえは本当に頭がいいよ」
美千隆の表情が緩んだ。麻美は救われたような気持ちになった。
「あと二年で波潟からいくら貢いでもらったって、たかがしれてるわ。だったら、トライしてみてもいいかなって」
「おれと一緒にあの狸親父をはめようってか?」
麻美はうなずいた。美千隆が苦笑した。
「頭がいいといったのは取り消すぞ、マミ。おまえは身近にいすぎてわからないのかもしれないが、あの爺はある種の怪物だ。はめるのは並み大抵のことじゃできないし、はめようとしてるのがバレたら、おれもおまえもこの世から消されてしまう」
「でも、明日から彰洋ちゃん、波潟のところでしばらく働くんだよ。波潟、なにも疑ってないから──」
「そりゃそうだろう。おれみたいな若造が自分に歯向かうなんて、これっぽっちも考えちゃいないのさ」
「だから、そこにつけ込めば──」
「相手が普通のやつだったらな。それに彰洋は若すぎる。なにかさせようとしたって、すぐに波潟に感づかれるのがおちだ」
麻美の言葉はことごとく美千隆に遮られた。美千隆の顔からは苦笑が消え、苛立ちとも諦めともつかない表情が浮かんでいた。
「彰洋ちゃんと早紀、くっつくかもよ」
麻美は美千隆から視線をそらしながらいった。この言葉すら遮られるのなら、美千隆に頼っても無駄だった。
「それは本当か?」
一拍遅れて、美千隆の声が返ってきた。麻美は逸らしかけていた視線を再び美千隆に向けた。美千隆の顔色に変化はない。だが、視線にはかすかな熱気が感じられた。
「彰洋ちゃんは早紀を気に入ってる。電話でちょっと話したんだけど、あの口ぶりだと間違いない。早紀の方は今度確かめてみる。ね、早紀をうまく使えたら、なんとかなると思わない?」
美千隆は答えなかった。じっと麻美を見つめたままだった。
「聞いてるの、美千隆?」
美千隆の口がゆっくり開いた。
「なにを買ってほしい?」
「え?」
「おまえ、波潟にいってただろう。おれが地上げに成功して大金を稼いだんだから、なにか買ってもらってもいいかって……」
「買ってくれるの?」
眩暈を覚えそうなほどの歓喜──美千隆がその気になった。
「ああ、買ってやるよ。なにがいい?」
「よく考えてみる。凄く高くつくと思うけど」
「そうか……波潟の娘が彰洋のことどう思ってるのか、急いで確かめろよ、マミ」
「うん」
麻美は美千隆にしがみついた。美千隆の指がまた動きはじめた。
17
北上地所──波潟昌男の不動産会社は恵比寿と三田の中間あたりに聳《そび》えたつ近代的なインテリジェントビルの最上階の一フロアを占めていた。元々は新宿御苑近くに古い自社ビルをかまえていたのだが、地上げを成功させた土地をコネの強い建設会社に売り払い、そこが建てたビルに格安のテナント料でもぐりこんだと聞いていた。波潟は土地を売り買いするためには金を惜しまないが、それ以外ではすこぶる吝嗇《りんしよく》だというもっぱらの噂だった。
最上階でエレヴェータを降りると、自然に足がとまる。フロアにはほとんど間仕切《パーテイシヨン》りがなく、三方の壁が全面ガラス張りになっていて東京の街並みを見渡すことができる。ここには何度か足を運んだことがあるが、そのたびにため息をもらす。
いつの日か──MS不動産が世界に進出する日を夢見る。美千隆が熱く語った王国の夢が実現すれば、美千隆と彰洋は東京ではなくマンハッタンを見おろしているはずだった。
彰洋は顔見知りに挨拶しながら社長室に足を向けた。社内は活気に溢れていた。一見してやくざと見紛うような中年がいれば、渋谷や六本木で遊んでいる方がお似合いのような若い女性社員もいた。社員の顔を眺めていただけでは、ここがなんの会社なのか見当をつけるのも難しい。社員に共通しているのは着ているもの、身につけているものがどれも高価なものばかりだということだった。
社長室はフロアの一番奥にあった。分厚い木製の扉を開ければそこは秘書の執務室、さらにその奥で波潟は巨額の金を動かしている。
ドアをノックすると女の声で中に入るように指示された。彰洋は扉を開けて中に入った。
「いらっしゃい、堤さん」
波潟の秘書──川田はるかが書類仕事から視線をあげていった。もう四十に手が届きそうな年齢のはずだが、川田はるかの肌は二十代の女のように若々しかった。
「おはようございます、川田さん。社長はいらっしゃってますか?」
「さっき来たところよ。今日はなんの御用かしら? アポは取ってないでしょう? 社長はこのあとすぐに予定が入ってるんだけど……そちらの社長さんからのご伝言かなにか?」
川田はるかは首を傾げた。彰洋は慌てて首を振った。
「いえ、今日からここで働くように、うちの社長と波潟社長からいわれてるんですが」
「あなたがうちで働くの?」
「ええ。詳しいことはあとで決めるから、とにかく、今日、会社に来いといわれてまして」
「なにも聞いてないわ……」
川田はるかの表情がきつくなる。
「申し訳ありません」
彰洋は頭をさげた。
「ちょっと待ってて。社長に聞いてみるから」川田はるかは机の上のインタフォンを押した。「社長、MS不動産の堤さんがお見えです。今日からここで働くことになっていると仰《おつ》しゃって……」
「おお、そうだ、そうだ」波潟のしゃがれた声がスピーカーを通して聞こえてきた。「いうのを忘れていたよ。彼のいうとおり、堤君は今日からしばらくおれのところで預かることになってるんだ。通してやってくれ」
「でも、社長、十分後には中塚建設の池尻専務がお越しになる予定が入っていますけど」
「かまわん。おれがどういうふうに仕事を進めるのか、黙って見てるだけでも彼の勉強になるんだ」
スピーカーの音声が途切れた。川田はるかは溜め息をついた。軽く首を振った。上目づかいに彰洋を見た。
「勉強ってなに? 堤さん、うちでなんの仕事するの?」
「社長の鞄持ちです」
彰洋は答えながら肩をすくめた。川田はるかはもう一度首を振った。
「入っていいわよ。社長の声、聞こえたでしょう?」
「失礼します」
彰洋はもう一度頭をさげ、社長室に足を向けた。扉をノックし、中に入った。
「おはようございます、社長」
「おお、よく来たな。この前はご苦労。早紀は我が儘だから、付き合うのは大変だったろう」
波潟は応接セットのソファにふんぞり返るように座っていた。細く短い葉巻をふかしていた。鼻の下が赤く濡れていた。目には強い輝きが宿り、なにげない仕種にも威圧感が感じられた。
「そんなことありません。早紀さんは行儀よくしてくれてました。きっと、ぼくのエスコートじゃ信用できなかったんじゃないですか」
彰洋は戸口に立ったままでいった。
「かなり酔って帰ってきたと聞いたぞ。うちのカミさんなんかは、あんなに酔っぱらった若い娘を丁寧に送り届けてくれるんだから、できた若者だと君のことを褒《ほ》めておった」
「恐縮です」
彰洋は曖昧に微笑んだ。波潟は笑っているが、視線は威圧的だった。もしあの夜、早紀に手を出していたら八つ裂きにされてもしょうがないといわれているようだった。
「親のおれがいうのもなんだが、早紀は綺麗な娘だからな、変な虫がつかんか心配でたまらんのよ。それはそうと、美千隆君からはなんといわれているんだ?」
「昨日、電話で話したんですが、すべて波潟社長に任せるんで、しっかり勉強してこいといわれました」
「それだけか?」
波潟の顔に笑みが広がっていく。
「はい、それだけです」
彰洋は静かに答えた。波潟にぴったりくっついていろ、波潟のしたことはすべて報告しろ──美千隆にはそういわれた。おそらく、波潟の方も察しはつけている。なにもいわないのは、波潟と美千隆の力関係の差に自信を持っているからだ。まさか、美千隆が自分に牙を剥くことはない──もしそうなったとしても、簡単に叩きつぶしてやる。波潟の笑みはそう語っていた。
「よし。じゃあ、徹底的にしごいてやる、といいたいところだが、生憎《あいにく》、今日はスケジュールが詰まってるんだ。今日一日、そこにいて、おれがだれと会ってどんな話をするのかを見てろ。退屈かもしれんが、これも仕事のうちだ」
波潟は部屋の隅を指差した。椅子もなにもないただの空間──一日中そこで立っていろということだった。
「わかりました」
彰洋は指示された場所に移動した。苦痛を感じることもない。退屈などするはずもない。地上げの神様と呼ばれた男の仕事ぶりを生で見ることができる──体温がじりじりとあがっていく。
* * *
目まぐるしく人が入れ代わる。中堅の建設会社専務、都市銀行の幹部、株屋、やくざか右翼とおぼしき男、代議士の秘書、そして、素性の窺い知れない連中。
波潟に金を借りようとする連中もいれば、波潟に金を貸しつけようとする連中もいた。波潟を訪れる男たちが口にする金額は決まって億単位、十億単位だった。波潟はあるときはそれを受け入れ、あるときには容赦なく突っぱねた。
体温はあがりつづける──ありとあらゆる神経がざわめいている。
波潟は社長室を一歩も出なかった。来客の合間に電話をかけて社員に指示を出す。すべては土地にまつわる報告。波潟が出す指示はひとつ──買える土地があるなら買え、それが高いかどうかはおまえが見極めろ。
波潟の昼休みは十五分。川田はるかが買ってきた安物の弁当を安物の茶で飲みくだす。食後、一度だけトイレに立ったがコカインを吸引した様子はない。
三時を過ぎると来客が途絶えた。波潟は机上のインタフォンに手を伸ばした。
「これで全部こなしたことになるのか?」
「はい」スピーカーから川田はるかの声が流れてくる。「事前にアポイントメントがあった方々の分は終わりです。他に、大蔵省の──」
「飛び入りは全部断ってくれ」
「でも、大蔵省の──」
「総理大臣が来ようがなんだろうがダメなものはダメだ。このあとは予定を入れてある」
「わかりました」
川田はるかの諦めに似た声──波潟は太い息をもらした。
「どいつもこいつも、ハイエナみたいにたかってきやがる」
「お疲れ様です」
彰洋は波潟に声をかけた。かれこれ六時間近く立ちっぱなしだったが、疲れは微塵も感じていなかった。
「金山に車の仕度をしろといっておいてくれ」
そういい捨てて、波潟はインタフォンを切った。
「お出かけですか?」
彰洋は問いかけた。
「ああ。社員には絶対に任せられん仕事というのもあってな、これもそのひとつだ」
波潟は腰をおろしたまま椅子を回転させた。背後の壁に据えつけられた光沢のある重厚な造りのキャビネットを開けた。馬鹿でかい金庫が視界に飛びこんでくる。波潟は金庫のダイヤルを回しはじめた。
「堤、そっちの棚の上にヴィトンのバッグがあるだろう。それを持ってきてくれ」
そっちの棚──戸口の横にあるキャビネット。その上に無造作に置かれたバッグ。よく使いこまれて革が柔らかくなっていた。
「いいか、堤、ここから先、おまえが見聞きすることはいわばトップシークレットだからな。美千隆君に話すぐらいはかまわんが、他のだれかに話したら、大変なことになるという覚悟はしておけよ」
波潟は金庫に向かい合っていた。表情はうかがえなかった。口調も淡々としていた。それでも、掌に汗が滲む。うなじのあたりがちりちりと音をたてて逆立っていく。体温が天井知らずにあがっていく感覚を覚える。
「わかりました」
「覚悟ができてるんだったら、こっちに来るといい」
彰洋はルイ・ヴィトンのバッグを両腕で抱えたまま足を踏みだした。まるで催眠術にでもかけられているようだった。
波潟がまた椅子を回転させた。波潟の大きな背中に隠されていた金庫が見えた。中には帯封をされた札束が詰まっていた。
「その鞄を机の上に置いて広げてくれ」
「は、はい……」
彰洋はいわれたとおりにした。口を広げたヴィトンのバッグに波潟が無造作に札束を放りこんでいく。
「これはいわゆる裏金というやつだ。税務署に知られたら、おれはこうなる」
波潟は首を掻き切る真似をした。
「うちの齋藤も同じようなことしてますよ」
彰洋はいった。声が震えないようにするのに最大限の注意を払った。現金はなによりもものをいう──美千隆はいった。どんなに頑固な地主でも大量の現金を目にすれば気持ちが揺らぐ。書類に記載された三億の金より、目の前に積まれた一億の方が説得力を持つ。しかし──美千隆の金庫に眠っている金と波潟のそれとでは桁が違った。札束ひとつが百万として、波潟の金庫に詰めこまれているのはざっと見積もっても五億はくだらない。下手をすれば十億近くの金があるのかもしれなかった。
「そうだろう。だれだって多かれ少なかれこうした金をいつも用意しておくもんだ」
波潟は金庫を閉じた。彰洋は鞄の中身に視線を落とす──無数の札束。一億はありそうだった。
一億の金。昔は想像したこともなかった。今では札の量を見ただけで、一億前後の金なら金額の見当をつけることができる。
体温があがりつづける。金が欲しいわけではない。金の力にひれ伏しているわけでもない。金を動かす自分に脳が酔っている。金がすべてではない。だが、金は力のバロメーターになる。どんなに鍛えあげた筋肉も、固い拳も金の力にはかなわない。
波潟がバッグのジッパーを閉めた。視界から金が消える。しかし、金が消えたわけではない。
「さあ、しっかり運んでくれよ、堤。なくしました、すみませんじゃ、すまんからな」
波潟はバッグを彰洋に押しつけた。金の重み──鞄の重み。
「どこへ行くんですか?」
彰洋は訊いた。
「黙ってついてくればわかる」
波潟が答えた。波潟は抽斗《ひきだし》を開けていた。指先につままれた口紅サイズの金属の筒。
「これも他言無用だ」
波潟はかすかに微笑んだ。筒の蓋を開け、中身を指先に載せた。白い粉──コカイン。波潟は指先を鼻に近づけた。コカインを鼻から吸いこんだ。吐息が漏れる。陶酔したような表情が波潟の顔を覆っていく。
「君もやるか?」
波潟が筒を差しだしてくる。
いいえ──答えそうになって、彰洋は口を閉じた。波潟の目の奥にある小さな光。こちらの腹を見透かそうとする意思。
試験──コカインを決めれば波潟とは共犯者になる。波潟はそれを求めている。
「いただきます」
彰洋はいった。波潟の相好が崩れた。指先に載せられた粉末──快楽の源。六本木のディスコではよく出回っていた。黒人を見つけて声をかければ、いくらでも手に入れることができた。
「怖いのか? そんなことじゃ、おれの鞄持ちは務まらんぞ」
「いいえ。そんなことはありません。昔はよくやってましたから」
彰洋はコカインを吸いこんだ。頭の中で爆発が起こった。心臓が破裂しかけた。強烈な効き目──六本木でやっていたものとはレベルが違う。
「どうだ、効くだろう」
波潟の声が遠くで聞こえる。
「上物だ。純度が違うんだよ」
爆発はエネルギーを産みだす。激しく鼓動する心臓が身体の隅々までエネルギーを運んでいく。
「さあ、行くぞ。しっかり働いてくれよ」
「はい」
彰洋は勢いよく返事をした。声帯が伸び縮みする感覚がリアルに伝わってきた。波潟の後を追って社長室を出た。
「いってらっしゃいませ」
川田はるかの声がどこからか聞こえる──姿は見えない。見えるのは波潟の背中だけ。
早紀は自分の父親がコカインを使っていることを知っているのだろうか?──一瞬の疑問。コカインが産みだすパワーが押し流す。
頭の中の爆発はいつまでも続いている。
18
ゼミの教室からは若い女たちの甲高い声が漏れてきていた。麻美がドアを開けるとその声がやんだ。驚きの視線が向けられる。
「どうしたの、マミ?」
だれかが声をかけてくる。顔は覚えていたが名前は思いだせなかった。ゼミに顔を出すのは半年ぶりだった。まめに顔を出していたときでも、ゼミの人間たちとの付き合いはおざなりにすませてきた。金のない人間に用はない。
「やっぱり、卒業だけはしようかなと思って」
麻美はそう答え、教室を横切った。窓際の席の一画に早紀がいた。早紀は取り巻きたちに囲まれていた。取り巻きたちは麻美を睨んでいた。浅田祥子と室井美香が黒人にレイプされたのは麻美の差し金だと思っているのだろう。だが、取り巻きたちとは違って、早紀は麻美に気がつくと微笑んだ。
「おはよう、マミ。今日はどうしたの?」
早紀の朗らかな声──取り巻きたちの表情が凍りつく。
「家にいても退屈だったから……学校に来れば早紀がいると思って」
「わたしはマミと違って真面目な学生なんだから、当たり前じゃない」
「だから学校に来たっていってるの」
麻美は取り巻きたちを押しのけるようにして早紀の隣りの席に腰をおろした。取り巻きたちはなにかいいたげだった。早紀の態度に戸惑ってもいた。
「暇つぶしの相手なら他にたくさんいるでしょう?」
早紀は取り巻きたちの態度にはおかまいなしで言葉を続けた。
「そんなことないわよ。つまらない連中ばっかり。早紀と一緒にいる方が楽しいわ」
「そうなの?」
早紀は満更でもなさそうな顔をした。屈託のない笑顔──耳たぶに吊るされたダイヤのピアスが涼しげに揺れる。泥棒猫──早紀の声が脳裏で谺《こだま》する。早紀の笑顔を惨めな泣き顔に変える瞬間を想像する。麻美の顔にも笑顔が広がっていく。
「ちょっと、早紀……どういうことなの?」
取り巻きのひとり──水本智恵が麻美と早紀の間に割りこんでくる。
「どういうことって、なにが?」
「なにがって、マミと喧嘩してるんでしょう?」
「ああ、そのことね。あなたたちにいうの忘れてたわ。わたし、マミと仲直りしたの」
早紀はさらりといってのけた。取り巻きたちの表情が歪んでも、気にする素振りは見せなかった。
「仲直りって、そんな……」
水本智恵が口ごもった。困惑と怒りがないまぜになった表情は取り巻きたち全員の気持ちを代弁していた。
「驚いたかもしれないけど、元々わたしとマミは友達だったんだし」
「だけど、マミは早紀のお父さんを──」
「わたしのパパがなんだっていうの?」
早紀の声が険しくなる──途端に水本智恵が視線をそらす。早紀は女王だった。女王の取り巻きが女王に逆らえるはずもない。
麻美は机の上に頬杖をついた。見世物を楽しむ観客の視線を早紀と水本智恵に向けた。水本智恵が苦々しい視線を向けてくる。麻美は悪意のこもった微笑みを浮かべた──早紀の視界には入らないように、一瞬だけ。それでも、水本智恵には充分すぎた。
「祥子と美香のことはどうするのよ?」
水本智恵は押し殺した声を出す。浅田祥子と室井美香とはことさら仲が良かった。もし、あの夜、あのディスコのVIPルームに水本智恵もいれば、ふたりと同じ運命に出くわしたはずだった。
「マミは関係ないわよ」
早紀は平然とした顔でいった。早紀は麻美の演技に踊らされている。女王が下々《しもじも》の声に耳を貸すことはない。
「だって、早紀だっていってたじゃない──」
水本智恵はなおもいい募った。今にも地団駄を踏みそうだった。ハートを象《かたど》った喉元のティファニィのネックレスが揺れていた。女王と釣り合おうとして買ったティファニィ。安っぽく見えた。水本智恵にはまったく似合っていなかった。
「ねえ、智恵。祥子と美香のことってなんの話? それとマミがどう関係してるの?」
麻美は口を開いた──おもしろすぎて早紀と水本智恵のやり取りに参加せずにいられなかった。
「しらばっくれないでよ」
水本智恵の顔が醜く歪んだ。麻美は吹きだしてしまいそうになるのを懸命にこらえた。
「もうやめてよ、智恵。マミは無関係なの。冷静に考えればわかるでしょう。いくらなんでもマミがそんなに酷いことをするわけないじゃない」
「早紀……」
水本智恵の懇願は女王に撥《は》ねつけられる。水本智恵はやり場を失った視線を足元に落とした。
「マミも智恵を挑発しないで。そりゃ、変な疑いをかけられて頭に来るのはわかるけど」
「頭に来てるわけじゃないわ。ただ、こんな人が早紀の友達なのかと思うと嫌になっちゃうだけ。だって、早紀の友達ってことはマミの友達でもあるわけでしょう」
猫なで声の挑発──水本智恵の顔が赤くなる。
「ちょっと、なによそのいい方」
水本智恵が詰め寄ってくる。麻美は微笑みを浮かべたまま身じろぎもしなかった。
「二人ともやめなさい」
女王の命令──水本智恵が動きをとめる。紅潮していた顔が蒼ざめていく。
「子供じゃないんだから、いい加減にして」
女王の剣幕に取り巻きたちは意気消沈して散っていった。水本智恵だけが恨みがましい視線を麻美に向けていた。
「ごめんね、早紀。みんなを怒らせちゃった」
「いいのよ。すぐに仲直りしてっていっても無理だと思うし……時間をかければ、みんなもマミのことわかってくれるようになるわ」
そんなことあるわけないじゃない──麻美は口の中でひとりごちる。まだ自分を睨みつけている水本智恵に舌を出してみせた。蒼ざめていた顔がまた紅潮した。
麻美は喉を鳴らして笑った。
「なにがおかしいの?」
早紀が顔を覗きこんでくる。
「なんでもない」
麻美は噎《む》せながら答えた。笑いの発作はとまらない。
こんなにおかしい気分を味わったのは久しぶりだった。
* * *
退屈な講義──T・S・エリオットの詩の解釈。そんなものに真剣に耳を傾けたところで金に繋がるわけではない。早紀の惨めな泣き顔を見られるわけでもない。
麻美は欠伸《あくび》を噛み殺した。隣りの早紀を盗み見た。早紀は熱心にノートを取っていた。
「いつもながら早紀の真面目さには頭がさがるわ」麻美は囁いた。「大学卒業したからってどこかに就職するわけでもないのに」
「学生が真面目に講義を受けてなにが悪いの?」
早紀はノートを取る手をとめた。
「別に悪くはないけど……ね、あのあと、どこに行ったの?」
「あのあとって?」
「金曜の夜よ。食事のあと、齋藤さんと彰洋ちゃんにどこにエスコートしてもらったのよ?」
「銀座の静かなバーよ。コロネルって名前だったかな」
「なんかダサくない、それ? 齋藤さんならもっといい店、たくさん知ってると思うけど」
美千隆から金曜の夜の話は聞いていた。知らないふりをするのは早紀の口を滑らかにするためだった。
「わたしが静かなところに行きたいっていったの。それに、齋藤さんは急用ができて、わたしと堤さんだけでいったのよ」
「彰洋ちゃんとふたりで?」
「声が大きいわよ、マミ」
「どうだった、彰洋ちゃん?」
留守電に入っていた彰洋の怒鳴り声──祥子と美香のレイプのことを相談するほど早紀と彰洋は親密に話をしたということだった。
「別に。お酒を飲んで、他愛ない話をして……それだけよ」
早紀の目尻がかすかに痙攣《けいれん》する──嘘をつくときの早紀の癖だった。
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないわよ」
「嘘よ。だって、今、早紀の目尻、痙攣したもの。嘘をつくときはいつもそうなるのよね」
早紀は腕を組んだ。怒ったように鼻から息を吹きだした。だが、本当に怒っているわけではなかった。
「マミのいうとおり、嘘よ。本当はお酒を飲んで、マミの昔の話を聞かせてもらって盛りあがったの」
「彰洋ちゃん、変な話ばっかりしたでしょう」
「そんなことないわよ。マミは子供のときから変わってたけど、そこがいいんだっていってたわよ」
「ほんと?」
「ほんとよ。堤さん、すごくマミのこと思いやってる。ちょっと嫉妬しちゃうぐらい」
早紀の瞳の奥にほんのかすかな翳《かげ》りが見えた。口調は冗談めかしているが、早紀が嫉妬を覚えたというのは本当に違いない。
「幼馴染だからね……それに、彰洋ちゃんは優しいし」
「昔付き合ってたっていったでしょ? 堤さん、今でもマミのこと好きなんじゃない」
早紀の目の奥の翳りが少しずつ広がっていく。麻美はぞくぞくするような興奮を覚えた。人の心を操る──神になったような気分が味わえる。
「そんなことないわよ。彰洋ちゃん、マミとパパのことも知ってるんだし」
「そうかな?」
「そうよ──」
麻美は言葉を切った。首を傾《かし》げ、思わせぶりな視線を早紀に向けた。
「そのあとは?」
「そのあとって?」
「とぼけないでよ、早紀。コロネルでわたしの話を肴にお酒を飲んで、そのあとはどこに行ったの?」
「別にどこにも──」
早紀の目尻がひくつく。麻美は早紀に顔を近づけた。
「嘘をついても、パパに聞けば早紀が何時に帰ってきたかはわかるんだからね」
早紀は何度も瞬きを繰り返した。動揺している証拠だった。
「白状しちゃいなさいよ、早紀」
「覚えてないのよ」
早紀がうなだれるように視線を落とした。
「覚えてないの?」
「コロネルを出て、どこかのディスコに行ったの。そこまでは覚えてるんだけど……」
「早紀がそんなふうになるのって、珍しいじゃない。そんなに彰洋ちゃんのことが気に入ったんだ?」
「そうじゃないわよ」
エリオットに関する講義は続いている。だが、早紀はノートを取ることも忘れていた。
「だったらなによ? 初対面の男の人と記憶がなくなるぐらい楽しくお酒を飲んだんでしょう? 気に入らない男ならそんなことしないじゃない」
「感じの悪い人じゃないのは認めるけど……」
「ねえ、早紀」麻美は早紀の方に身を乗りだした。「もしかして、彰洋ちゃんとマミが昔付き合ってたことが気になるの?」
自分の父親と寝る娘、その娘と付き合っていた男──早紀なら気にして当然だった。
「考えたこともないわ……マミ、どうして堤さんとわたしをくっつけようとするのよ? ちょっとおかしいんじゃない?」
「だって──」
麻美は微笑んだ。あけっぴろげで無防備な笑顔──たいていの人間はころりと騙される。騙すことのできなかった人間は美千隆ひとりだけだった。
「早紀も彰洋ちゃんもマミの友達じゃない。そのふたりがうまくいったら、なんだか楽しいなって……早紀がマミでもそう思うんじゃない?」
「気持ちはわかるけど……」
「なにも無理矢理くっつけようっていうわけじゃないのよ。マミ、早紀のことも彰洋ちゃんのこともよく知ってるから。お互い気に入りそうだと思ったから金曜日にセッティングしたの」
「だったら急《せ》かさないで、マミ。まだ会ったばっかりで堤さんのことよくわからないし。それに……」
「それに?」
「もしかしたらわたしの方が嫌われてるかもしれないし」
「そんなことないわよ。早紀、絶対彰洋ちゃんの好みのタイプだもん」
「わたしとマミは全然違うじゃない」
「昔のことは持ちださないの。マミも彰洋ちゃんも子供だったんだから。どうして嫌われるなんて思うのよ?」
「だって、わたし……記憶がないからなにをしたかもわからないのよ。朝起きたら、頭が痛くて、気持ちが悪くて。口の中に嫌な味が残ってたから、もしかしたら吐いたのかもしれない。初対面の男の人とお酒飲んで吐く女なんて、普通、嫌われるでしょ?」
驚き──記憶を失くすどころか嘔吐までするとは、普段の早紀からは絶対に考えられない。
「驚くでしょう?」
早紀がいった。早紀の顔は耳たぶまで赤く染まっていた。
「ちょっとね……もしかして、彰洋ちゃん、早紀をどうにかしようと思って強いお酒ばかり飲ませたんじゃないの?」
「そんなことない……と思う。ねえ、マミ。悪いんだけど、堤さんに聞いてみてくれない? 金曜の夜、わたしがどうだったのか?」
「自分で訊きなさいよ」
冷たく突き放す──早紀が懇願してくるのはわかっている。麻美は早紀の言葉を待っていた。早紀がその言葉を口にするのは確実だった。
「だって、そんなこと……恥ずかしいし、それに、わたし、堤さんの連絡先知らないから」
待っていた言葉──待つほどのこともなかった。
「なにいってるのよ。レストランでパパと齋藤さんたちの話、聞いてたでしょ。今日から彰洋ちゃんはパパのところで働いてるのよ」
「そうだけど、会社に電話するわけにはいかないわ」
「しょうがないわね」
麻美は手帳を取りだした。数字を書きこみ、切り取り、早紀に手渡した。
「はい、これ。彰洋ちゃんの自宅の電話番号とポケベルの番号。家にかけても滅多に捕まらないから、ポケベルに連絡入れた方がいいと思うよ」
早紀はメモを受け取った。数字を眺めた。
「でも、いきなり電話して失礼じゃないかな」
「そんなことないわよ」
麻美は微笑んだ。早紀が彰洋に電話するのは間違いない。たぶん、今夜にでも電話をかけるだろう。
19
帝国ホテルのスイートルーム。入り口で波潟と彰洋を迎えたのは黒いスーツに身を包んだ男がふたり。物腰は慇懃《いんぎん》。だが、仕種のひとつひとつに威圧がこもっている。やくざ──間違いはない。恐怖は感じなかった。体温があがりつづけるだけだった。頭の中の爆発──コカインが神経を麻痺させている。
「お身体を検《あらた》めさせてもらいます」
絹のような滑らかな声で黒いスーツの片割れがいう。もう片方が波潟のボディチェックをはじめる。
「会長のご機嫌の方はどうですかな?」
身体を探られながら波潟が口を開く。
「いつものとおりです。今日は波潟社長がお土産を持ってこられるのを楽しみにしているようで」
「気に入ってくれるといいんですがな」
「気に入りますよ。会長はわたしら子供の次に金が好きですから……ところで、波潟社長。こちらの若い方は? 初めてお目にかからせてもらいますが」
「いつものやつが胃を患ってしまいましてな、その代わりにわたしの手足になってもらってるんですよ。まだ若いが、よくできた男でしてね。堤というんですが、松岡さんも、可愛がってやってくださいませんか」
「堤さんね……松岡といいます。今後ともよろしく。初対面の挨拶がこれじゃ申し訳ないんだが」
波潟が松岡と呼んだ男が近づいてくる。彰洋は両脇を広げた。
「こちらこそよろしくお願いします、松岡さん」
松岡の手が身体を上から下に沿って走っていく。松岡の指は細く、白く、長い。小指が欠損していることもない。
「堤さん、失礼ですがお年は?」
松岡が顔を覗きこんでくる。手と同様、松岡の顔色は白い。まるで作り物のような白さ──あまり動かない目も作り物のようだった。
「二十一です」
「二十一……本当にお若い」
松岡が笑う。砕けたガラスを連想させる笑い方だった。滑らかな声とはそぐわない。しなやかな指ともそぐわない。
「齋藤美千隆という男を知ってるでしょう、松岡さん。堤は普段は齋藤の下で働いてるんですよ」
波潟がいう。波潟はボディチェックを受け終えていた。
「齋藤というと、先日、中野坂上の地上げを成功させた?」
「そう。堤君はあの件で重要な仕事をやったんですよ」
「なるほど……」
松岡の視線がさがる。波潟の言葉にもなんの感銘も受けていないようだった。
なめるなよ──コカインがもたらす反発。噛み締め、飲みこみ、こらえる。
「その鞄の中身がお土産ですね? 中を検めてもかまいませんか?」
松岡は彰洋が手にしたバッグを見つめている。まるで中をすかし見ようとしているかのようだった。
「ああ、かまわないですよ」
「じゃあ、堤さん、鞄を開けて」
松岡の口調から慇懃さが消えた。
バッグを開ける。指が細かく顫える。感情が麻痺している。
松岡がちらりとバッグの中を覗きこみ、口笛を吹く。
「会長が喜びますよ、波潟社長」
波潟に向ける松岡の声は丁重で慇懃だった。
「そういうわけにはいかんでしょう。ただでくれてやるならともかく、仕事を頼むんだから……」
「仕事を引き受けるのは会長でも、実際に仕事を請け負うのはわたしらなんですがね」
松岡がいう。波潟が笑う。彰洋はバッグを閉める。松岡が彰洋に背中を向ける──おまえにはもう用はない。
麻痺していた感情が一気に燃えあがる。落ち着け──自分にいい聞かせる。おまえはクスリで飛んでいる。いい気になっている。相手はやくざだ。忘れるな。
「それではこちらへどうぞ。会長がお待ちです」
松岡が部屋を横切り、奥にあるドアをノックする。
「失礼します、会長。波潟社長がお見えです」
「おお、入ってもらってくれ」
ドアの向こうから力のないひび割れた声がする。松岡がドアを開けると病院を思わせる匂いが流れてくる。
「どうぞ」
松岡が身体を開く。波潟がその脇を通っていく。彰洋は慌てて後を追う。背後でドアが閉まる──松岡がドアを閉じている。もうひとりの男は門前ばらい。たぶん、松岡の手下なのだろう。
「よく来てくれたな、波潟さん」
だだっ広いベッドルーム──キングサイズのベッド。浴衣姿の老人がベッドの上で胡座《あぐら》をかいている。看護婦姿の若い女がその老人の肩を揉んでいる。本物の看護婦にしては白衣の丈が短すぎる。
「いや、静養中だというのに押しかけてきてすみませんな、会長」
「なに、静養中といっても、このとおり」
男が看護婦の手を掴み、自分の方に抱き寄せる。白衣のあわせ目から手をさしいれ、乳房を揉む。看護婦が顔を紅潮させる。抗《あらが》う様子はない。
「相変わらずお盛んですな、会長」
「これ以外楽しみがなくてな」
男と波潟が喉を震わせて笑った。醜悪な光景──コカインの魔力が薄れていく。
「ところで会長、今日は例のお願いで……」
「ああ、わかってる。松岡に波潟さんの面倒を見るようにいってあるから。なあ、松岡?」
「はい。わたしらに任せていただければ」
松岡が頭をさげた。男は松岡に視線もくれずに看護婦姿の女の乳房を揉みつづけていた。
「おい、堤。バッグを会長にお見せしなさい」
波潟が振り返った。
「かしこまりました」
営業用の声、営業用の笑み。コカインがもたらす偽りの高揚感が消え、緊張に胃が縮みあがる。
「見ない顔だな」
男の視線が彰洋の顔を鋭く射貫《いぬ》いた。看護婦姿の女を後ろに追いやった。
「ええ、わたしが見込んでる者の舎弟みたいな男なんですが、わたしのところで修業を積むことになりまして。堤といいます。まだ若いですが、なかなか優秀ですよ。会長もお見知りおきください」
「波潟さんが使おうというぐらいだから、相当優秀なんだろうな」
「とんでもございません」
彰洋は頭をさげ、松岡と同じように深く腰を曲げた。
「若いというのはいいことだ。波潟さんは厳しいが、きっちりついていくんだぞ」
「そのつもりです──では、失礼します」
彰洋はベッドに足を向けた。慎重な仕種でバッグを男の傍らに置いた。ジッパーを開け、後ろにさがる。
「おい」
男が顎をしゃくる──松岡がさっと歩み寄り、バッグを広げた。
「一億か……ちょっと少ないんじゃないのかな、波潟さん」
静かな声──恫喝の響き。耳にしただけで陰嚢《いんのう》が萎縮する。
「これは頭金ですよ、会長」波潟が慌てたようにつけ加えた。「稲村に因果を含ませれば、金はいくらでも引きだすことができるんですから。そのときには、それ相応のお礼をさせてもらうつもりです」
「二億や三億の端た金じゃ困るよ、波潟さん」
「もちろんです」
緊張する脳に情報だけが刻まれていく。稲村──何者だ?
「わかった。今日はこの金を受け取っておこう。細かい話は松岡にしてやってくれ。最近はちょっとしたことでもすぐに疲れてな」
男はまた看護婦姿の女を抱き寄せた。
「波潟さんの面倒は、全部おまえに任せたからな、松岡」
男は女の太股を撫でさすっている。
「承知しております」
松岡が頭をさげた。横顔──虚《うつ》ろなぐらいに表情が消えていた。
* * *
「この男が稲村雅也だ」
波潟が一葉の写真をテーブルの上に置いた。ふたりのホステスに挟まれた男が写っていた。年のころは四十半ば。額が後退した頭部と生っ白い皮膚の色はアルコールで赤らんでいる。度の強い眼鏡の下の目は下品に濁っている。スーツの色は紺で、はだけられた胸元にだらしなくぶらさがっているネクタイは茶色がかったペイズリー。
高級官僚か上場企業のエリート──正常に戻った脳が男の身もとを割りだしていく。
波潟の向かいに腰をおろしていた松岡が写真を摘んだ。松岡の後ろにはもうひとりのスーツの男が微動だにもせずに立っていた。
「だれなんですか、この男は?」
彰洋は訊いた。
「三洋銀行本店の融資部長だよ」
都市銀行大手のエリート──予想は当たった。
「この男がなにか──」
「堤君よ、少し黙っててくれないか?」
彰洋の声を遮って松岡がいった。底光りする目に思わず唾を飲みこむ。
「すみません。出すぎた真似をしました」
「これはおれの仕事なんだ。関係ねえやつは引っこんでりゃいい」
「すみません」
彰洋は頭をさげた。屈辱感が鎌首をもたげる。とどまることを知らずにあがりつづけていた体温がさがっていく。
「松岡さん、そう尖らずに」
波潟がとりなすようにいった。屈辱感が煽《あお》られた。
「別に尖っちゃいませんがね……どれだけ優秀なのかは知りませんが、わたしらの世界じゃ、二十そこそこのガキが目上の話に口を挟んでくることはないもんで」
「これからおいおい覚えていかせるから、もう勘弁してやってくださいよ」
「まあ、波潟社長のところの若い衆ですから……それはそうと、この稲村ってやつを痛めつけりゃ、すべてうまくいくんですか?」
「ああ。三洋の本隊の方はまだ行け行けどんどんなんだ。頭取の渡辺は大阪の人間だしな。ところが、この稲村と大蔵省の連中がびびってるんだな。確かに地価や株価は天井知らずであがってはいるが、一千億近い金を、わたしみたいな山師に融資するんだからな」
「だけど、連中のいい分はもっともなんでしょう?」
一千億。現実離れした金額が頭の中を駆け回る。
「そうとも。この好景気もいつまでも続くわけじゃない。頭の悪い連中は先のことも考えずにただ浮かれているがな……だがな、松岡さん。だからといって、今さら融資を断られても、はいそうですかというわけにはいかんよ。少なくともあと三、四年は三洋さんの金を回させてもらわなきゃ、わたしが押えている土地や株を現金に換えることができなくなるからな」
「波潟社長が飛んでしまえば、うちの会長の懐に入ってくる金も消えてなくなるというわけで」
松岡が苦々しげに笑った。
「そういうことだ。だから、この件は会長に下駄を預けることにしたんだよ」
「わかりました。この件はわたしの方で責任を持って当たらせていただきますわ。二度と波潟社長に逆らう気が起こせないぐらい、痛めつけてやりますよ」
「この手の連中は自分がエリートだってことを鼻にかけてるがな、脅しには滅法弱いんだ。よろしく頼むよ、松岡さん──それで、もうひとつ頼みがあるんだがね」
波潟が声をひそめた。どこか芝居じみた仕種だった。
「なんですか?」
「稲村を痛めつける現場に、わたしを呼んでほしいんだ」
「社長も好きですね」
「おれをなめたやつには、それ相応のお返しをしてやらなきゃすまないんだよ」
波潟が嬉しそうに微笑んだ。
* * *
帝国ホテルから銀座へ向かう間も波潟は車載電話を手放さなかった。会社への指示。どこのだれとも予想がつかない連中との会食の約束、金の貸し借りの約束、土地を売りつける話、株を売買する話。間に女から電話が入る。水商売の女たち──今度はいつ来てくれるの、社長? 波潟は適当に受け流す。ひとりの女と同伴出勤の約束──女は寿司が食いたいと訴えている。
波潟は電話を切り、運転手に行き先を告げる──日航ホテルの前。波潟は現れた女と雑踏に消える。
「マミには内緒だぞ」
そういい残して。
「飯が終わったら電話をするから、そこから合流するんだ」
そうつけ加えて。
車の中で名も知らぬ運転手とコンビニの弁当を食べる。空になったヴィトンのバッグ──波潟が一億をぽんと渡した男のことを考えながら。
波潟たちはあの男を会長と呼んでいた。おそらく広域暴力団のトップなのだろう。松岡はその舎弟──自分で組を構える親分のひとり。波潟が地上げに暴力団を使うという話は聞いていた。金や債権の回収にも暴力団を使うという話は聞いていた。銀行から金を引きだすのに暴力団を使うとは思ってもいなかった。
波潟が松岡に語った背景──三洋銀行本店の融資部長ともなれば、自分の決裁で動かせる金はかなりの額になる。波潟が三洋銀行から引きだすのは何百億もの金。その内の何割かが会長と呼ばれた男の懐に入る。
松岡のせいでさがっていた体温がまたあがりはじめる。
金が欲しいとは思わない。だが、金を動かしたいとは思う。目も眩むような大金を右から左へ。そのとき、自分はどれほどの興奮を覚えるのだろう。
うまくもない弁当の最後の米粒を口に放りこみ、缶のお茶で流しこむ。タイミングを見はからったように上着のポケットの中でポケベルが鳴りはじめた。
「失礼します」
運転手に断って、彰洋はポケベルを手にした。液晶に表示された電話番号には見覚えがなかった。彰洋は首を傾げた。このポケベルに連絡を入れてくるのは、MS不動産の人間か麻美に限られていた。
「そこに公衆電話があるから、使ってくれば?」
運転手が爪楊枝で歯をほじりながらいった。彰洋は首を振った。
「いや、けっこうです。社長がいつ戻ってくるかわからないし」
「あと一時間は戻ってこないよ」運転手が笑う。「あんた、初日で緊張してるのかもしれないけど、波潟社長について回るんなら、もう少しうまくやらないとね。松井さんなんかは、こうして空いた時間をうまく使ってたよ」
松井──入院している波潟の鞄持ち。
「別に緊張してるわけじゃないんです。初日ぐらいはしっかり働いておきたいだけで……」
波潟の目を盗んで電話をかけたとしても、もしそのことがばれれば、波潟は美千隆に連絡を入れていたのだと思うだろう。余計な行動は慎んだ方が無難だった。
「今時の若い人にしては珍しいね。松井さんなんかは、社長のツケでその辺のクラブで飲み歩いてさ、店の女の子とうまいことやってたよ」
運転手は爪楊枝をコンビニの袋の中に放り投げた。苦々しげな態度が自分も同じようにしたかったと語っている。
彰洋はポケベルをしまった。電話番号の相手がだれであれ、明日、出勤前に電話をかけてみればわかることだった。
「でも、あんた、ほんとに若いよね。そのくせ──」
運転手の声を遮るように車載電話が鳴りはじめた。
「もしもし?」運転手が受話器を取った。「はい、社長はただいま所用で車を離れておりまして……は? 堤さんですか?」
運転手の目が動く。彰洋はうなずいて受話器を受け取った。美千隆か麻美──電話の相手はそれ以外考えられない。
「もしもし、堤ですが?」
「彰洋ちゃん?」
「仕事中だぞ」
彰洋は声を落とした。運転手が無遠慮な視線を向けてくる。麻美と波潟の関係を知っているのだろう。好奇心に目が輝いていた。
「なによ、そのいい方。せっかく電話してあげたのに」
「波潟社長に用があったんだろう?」
「ふたりに用があったの。波潟は? どうせ、水商売の女とご飯でも食べてるんでしょう?」
「知らないよ。ちょっと用があるといって車を降りたんだ。もうすぐ戻ってくると思う」
「とぼけなくてもいいの。あいつがどんな人間かはよく知ってるんだから。それより、仕事、どんな感じ?」
「眩暈《めまい》がしそうだよ」
「楽しくなりそうでしょ?」
「まあな」
彰洋は答えた。あがりっぱなしの体温──楽しくないわけがない。ときには眉をひそめたくなるようなことがあっても、この感覚を手放すことはできない。
「でも、気をつけなさいよ。波潟の仕事のやり方、半端じゃないんだから。調子に乗ってるとめげちゃうわよ」
「心配しなくていいよ。おれだって、美千隆さんにそれなりに鍛えてもらってるんだ」
運転手が欠伸《あくび》を噛み殺すのが視界の隅に映った。好奇心はどこかに消えたようだった。
「それはそうとさ、彰洋ちゃん、マミ、今日、久しぶりに大学に行ってきたの」
「珍しいじゃないか」
「ちょっと気晴らしにね。それで、早紀に会ったんだけど」
麻美は思わせぶりな口調でいった。彰洋は返事をしなかった。
「早紀、なんだか落ちこんでて。理由を聞いたら、金曜の夜、記憶がなくなるまで飲んで酔っぱらっちゃったんだって?」
「そんなに酷く酔ってたわけじゃないけど……彼女、なにも覚えてないのか?」
「そうみたい。それで、彰洋ちゃんに失礼なことしたんじゃないかって悩んでたのよ」
「なにもしてないよ。酔っぱらって踊りにいったから、酒が回りすぎただけさ」
金曜の夜。安心したように眠りこける早紀の無防備な寝顔。鼻をくすぐるほのかな体臭──リアルな記憶がよみがえる。彰洋は目頭を揉んだ。
「だったらいいんだけど……でも、早紀ってすごく落ちこんでたから、そんなに心配なら本人に確かめてみたらっていっちゃった」
「確かめるって、おれに?」
「そう。パパの会社には電話しづらいっていうから、彰洋ちゃんの電話とポケベルの番号教えちゃった。かまわないでしょう?」
ポケベル──見覚えのない電話番号。
「別にかまわないけど」
「よかった。ねえ、早紀から連絡来てない?」
「さっきポケベルが鳴ったんだけど、全然記憶にない番号だったから無視したよ」
「ポケベルに入ってた番号教えて」
彰洋はポケベルを取りだした。液晶に表示されたままの番号を麻美に伝えた。
「早紀の番号よ。早紀専用の電話だから、かけてもうちの人は出ないの。連絡してあげてね」
「今は仕事中だから、明日にでも電話してみるよ」
「馬鹿いわないの。すぐに電話すればいいじゃない。波潟はいないんだし」
麻美の声は命令口調だった。
「そんなことできるかよ」
「できるわよ。波潟は早紀を溺愛してるんだから。早紀の機嫌を損ねたら、彰洋ちゃん、すぐ馘《くび》になっちゃうわよ」
そんなはずはない──喉まで出かかった言葉を彰洋は飲みこんだ。波潟が仕事に私情を挟んでくるはずがない。早紀が電話をかけなかったぐらいで気を悪くするはずがない。だが、一抹の不安は残る。
「わかったよ。すぐに電話してみる」
「早紀、喜ぶと思うよ。彰洋ちゃんのこと、かなり気に入ったみたいだから」
「馬鹿いうな。電話、切るぞ」
「また、連絡するね」
「わかった」
彰洋は受話器を置いた。
「今の子、社長のこれだろう?」
運転手が小指を立てた右手を突きつけてきた。
「ええ」
「仲がよさそうだったけど、あんた、どういう関係なの?」
「幼馴染なんですよ。彼女が社長に口をきいてくれて、それでこの仕事をもらったんです」
「なるほど、そういうことかい。なんで社長があんたみたいな若い人を雇ったのか不思議だったんだけど。それにしてもね……幼馴染のこと悪くいいたかないけど、自分の親父みたいな年の男に股開いて金もらってさ、今の若い子はなに考えてんだろうね。あんたもさ、そんな子に職の世話してもらってるようじゃ大成しないよ」
彰洋は憐れむような視線を運転手に向けた。運転手はその視線には気づかず、大きな欠伸をした。
昔は、彰洋も運転手と同じように物事を捉えていた。だが、今は違う。今は知ってしまった。
知ったって、なにを?──金の力を。世の中の仕組みを。金と金を動かすことが与えてくれる快感を。体温はあがりつづける。だれにも止めることはできない。
運転手はなにも知らない。だれもなにも知らない。なにも知らずに、わかったような台詞を口にするだけだ。
「ちょっと電話をかけてきます」
彰洋はいった。
「ああ、行っといで」運転手は拍子抜けしたように答えた。「社長には黙っといてやるからさ」
「すぐに戻ってきますから」
車を降り、ドアを閉めた。晩冬の寒さが足元から忍びあがってくる。歩道は人で溢れていた。銀座の街には無尽蔵のエネルギーが充満していた。
彰洋は電話ボックスを見つけて飛びこんだ。ポケベルに表示された番号に電話をかけた。呼びだし音が鳴る──一回、二回、三回。心臓が高鳴っていく。
なにを興奮してるんだ──自分に問いかける。おれはただ、波潟の娘の御機嫌伺いをするために電話をかけているんだぞ。
胸の高鳴りはとまらなかった。
「もしもし?」
ふいに、早紀の声が受話器から流れてきた。
「もしもし、早紀さんですか? 堤です。ポケベルに連絡をいただきましたよね?」
予め用意しておいたかのような台詞が口をついて出てきた。
「堤さん? ごめんなさい。わざわざお電話をいただいて」早紀の声は昂ぶっているように聞こえた。「ポケベルの番号はマミに聞いたの。勝手なことをしてごめんなさい」
早紀が申し訳なさそうにいった。
「全然かまいません。気にしないでください……それより、ご用件はなんでしょう?」
なんて言い草だ──彰洋は舌打ちしそうになった。
「あ、ごめんなさい。まだ、父と一緒なんですか?」
「社長は打ち合わせです。ぼくは、車の中で待機してるところです」
「仕事中だったのね……ごめんなさい」
「気にしないでください、本当に。電話をかける時間があったからかけたんです。そうでなければ、かけてませんから」
「そうよね」
早紀がくすりと笑った。彰洋は視線を背後に向けた。車の中──運転手が欠伸をしている。
「社長はまだしばらく戻ってきませんから、話す時間はありますよ」
「あの……」
早紀がためらう。じれったさを感じた。早紀の用件は知っている。だが、それを口に出すわけにはいかない。
「どうしました、早紀さん?」
水を向ける。MS不動産で身につけた手管。気のいい男を演じろ。仕事はできる、だが、どこか抜けている、そんな男に素人は気をゆるす。早紀の気をゆるさせて──それでおまえはどうするつもりだ? 内なる声が聞こえる。どうしたいのか自分でもわからなかった。
「この前の夜なんですけど……わたし、堤さんにご迷惑かけなかったでしょうか? 実は、酔いすぎて記憶があまりないんです」
他人行儀な言葉を、早紀はまくしたてるように口にした。そうしなければなにもいえないと思っているかのようだった。
「この前の夜? ああ、みんなで食事をしたときの……別に、なにもありませんでしたよ。ふたりで麻美の昔の話を肴に酒を飲んで、最後は踊りにいって。楽しかったですよ。全然、迷惑なんかじゃなかった」
車の後部座席──安心しきったような早紀の寝顔。かすかに漂ってくる早紀の体臭。記憶がリアルによみがえり、遠ざかっていく。息苦しかった。喉になにかつかえているかのようだった。彰洋はネクタイを緩めた。
「本当ですか?」
「嘘をいってもしょうがないじゃないですか」
「それはそうだけど……」
「まあ、確かに飲みすぎていたかもしれないけど、それはこっちも同じですから」
「よかった。わたし、堤さんに迷惑かけてたらどうしようと思って」
「だいじょうぶですよ。今の仕事に就く前はディスコの黒服をやってたんだから、酔っ払いはお手の物です」
「わたし、そんなに酔ってました?」
「冗談ですよ」
彰洋は笑った。相手を安心させる屈託のない笑い声。この仕事をしていると芝居がうまくなる。自分の心を殺すのがうまくなる。ときに自己嫌悪を感じるほどに。
「からかうのはやめて……本当に落ちこんでたんだから。お酒を飲んで、記憶がなくなるなんて、今までなかったから」
彰洋は電話ボックスのドアを足で押し開けた。冷たい風が吹きこんでくる。
「本当に記憶がないんですか?」
「ええ」
早紀が恥じらうように答えた。
「全然覚えてないんですか?」
「コロネルっていうお店までは覚えてるんだけど……」
「その後は六本木のディスコに行って、四時ごろかな、早紀さんが疲れたというんで車に乗って帰りました。それだけですよ。早紀さんに絡まれたりはしなかったし、殴られもしなかった」
「からかうのはやめてっていったじゃない」
早紀の声のトーンがあがった。怒っているわけではない。喉のつかえが取れたような気がした。代わりにやって来たのは昂揚感だった。なにかの契約をまとめたときに感じる昂揚感。体温があがるような感覚は感じない。あれは大金が絡まないと感じることができない。だが、気分がいいことに間違いはない。
「別にからかってるわけじゃありませんよ。ただ、せっかくふたりで盛りあがったのに、それを覚えていないといわれたんで、意地悪をしたくなっただけです」
昂揚感──口が滑らかになる。次から次へと言葉が流れでてくる。
自分がなにをしているのかわかってるのか?──どこか遠くで声が聞こえる。電話の相手は波潟昌男の娘なんだぞ。ブレーキをかけろ。コカインがまだ効いているのか? だったら、早いところ正気に戻るんだ。
声は遠すぎた。声が届くのは遅すぎた。意志とは無関係に唇が動く。思考のはるか先で言葉が宙を漂っている。早紀の寝顔が頭の中のスクリーンに大写しになっている。嗅げるはずのない早紀の体臭が鼻孔をくすぐっている。
「ごめんなさい」
「謝らなくてもいいですよ。飲ませすぎたぼくが悪いんです」
「でも、なんだか悪くて……」
「だったらこうしませんか? 今度、もう一度仕切り直しをするんです」
「仕切り直し?」
「そう。もう一度ふたりで酒を飲んで、今度は絶対に記憶をなくさないことにするんです」
「わたしはかまわないけど……」
「じゃあ、決まりですね。いつだったら空いてますか?」
「わたしはいつでも」
早紀の言葉が耳の奥で谺《こだま》する。目の前で火花が飛び散る。
「電話します。してもいいですね?」
「もちろん。この電話、わたししか出ないから、いつでも電話して。今週は、大学が終わったらまっすぐ帰ってきてるから」
電話が切れた。受話器を戻した。頭の中で小さな爆発が続いていた。電話ボックスを出た。波潟の運転手が鼻毛を抜いているのが見えた。彰洋は鼻歌をうたいながら車に戻った。
* * *
九時過ぎに食事を終えた波潟は銀座のクラブをはしごした。クラブ巡りが終わったのは午前四時だった。彰洋はタクシーで六本木に戻った。美千隆に電話をかけた。
「どうだった?」
「大変です。入れ代わり立ち代わり人がやってくるんで、顔と名前を覚えるだけでもやっとです」
「みんな、波潟の金に群がる蟻《あり》みたいなもんだからな……なにかおもしろい話は聞けたか?」
彰洋は一億のことを話した。帝国ホテルのスイートにいた老人のことを話した。三洋銀行本店の融資部長のことを話した。松岡のことを話した。早紀のことは話さなかった──話せなかった。
「三洋銀行本店の融資部長か……」
彰洋の話を最後まで聞きおえてから、美千隆が口を開いた。熱に浮かされているような声だった。
「初日からおまえをそんな大事な打ち合わせに連れていくとは、波潟も相当おれのことを舐《な》めてるな。まあ、舐められてもしょうがないが。ホテルのスイートにいたスケベじじいってのは、おそらく、佐久間和臣だろう」
「佐久間和臣?」
「右翼の看板を背負った極道だよ。広域暴力団のトップってところだな。日本中を探しても、佐久間と肩を並べられるやくざは五人ぐらいしかいない。それぐらいの大物だ。それがバックにいるんだから、波潟がおれみたいな若造を舐めるのも当然といえば当然だ」
彰洋は看護婦姿の女の白衣に手を差し入れていた老人の顔を思い浮かべた。一億を受け取ったときの老人の顔を思い浮かべた。欲にまみれた醜い老人の顔──筋金入りのやくざとは思えなかった。松岡の方がよほどやくざらしかった。
「大変だろうが、まだしばらくは波潟にくっついていてくれ。おまえが必要なときはすぐに呼び戻す」
電話が切れた。
20
電話が鳴った。麻美は濡れた髪をタオルで拭いながら受話器に手を伸ばした。
「もしもし」
「マミ? わたしよ」
早紀の声が受話器を通して鼓膜を顫わせた。早紀の声は上ずっていた。
「どうしたの? やけに嬉しそうじゃない」
「別にそういうわけじゃないんだけど」
早紀の声はまだ上ずっていた。
「嘘つきなさい。話を聞いてほしいって声出してるわよ。なにかいいことあったんでしょう?」
麻美はタオルをベッドの上に放り投げた。クローゼットを開けて、扉の裏の鏡に身体を映した。いつものように身体を隅々までチェックする。金曜の夜に波潟につけられたキスマークがまだ残っていた。乳房と脚には問題がない。だが、ウェストにかすかに肉がついているような気がした。麻美は眉をしかめ、脂肪を指でつまんだ。明日は全身マッサージに行こうか──埒もない考えを弄んだ。
「そんなことないってば……ただね、さっき、堤さんから電話があって──」
夢想が消し飛んだ。麻美は全裸のままベッドに腰をおろした。風呂上がりには肌の手入れをすることが日課になっている。波潟を繋ぎとめるための肉体。手入れを怠るわけにはいかない。だが、今はそれどころではなかった。
「口説かれたわけ?」
「そうじゃないわよ。最後まで話を聞いて」
「はいはい、わかりました」
舌打ちしたいのをこらえて麻美はいった。
「それでね、この前の夜は別に迷惑をかけたわけじゃないみたいだったの」
「よかったじゃない」
「だけど、わたしがなにも覚えてないっていうのが堤さんの気に触ったらしくて……」
彰洋が?──そんなはずはない。たとえ本当に気を悪くしていたとしても、態度に出すはずがない。昔の彰洋と今の彰洋は違う。波潟の娘を怒らせるようなことをするはずがない。
麻美は小さく首を振った。それをいうなら、彰洋が波潟の娘に気軽に声をかけるはずもない。小さな不安が鎌首をもたげた。クローゼットのドアは開きっぱなしになっている。鏡には麻美の裸体が映ったままだった。張りのある肌、形のいい乳房、くびれたウェスト、長く伸びた脚──いずれ、形が崩れていく。どれだけ努力を重ねても、やってくるそのときをほんのわずか引き伸ばすだけにすぎない。肌はかさつき、乳房が垂れ、腰まわりに肉がつく。だれも振り向いてはくれなくなる。もうちょっと若けりゃなと陰口を叩かれる。
その日が必ずやってくる。それまでに金を手に入れなければならない。そのためには、早紀と彰洋にくっついてもらう必要がある。どうしてもその必要がある。
「彰洋ちゃん、怒ってるの?」
「違うってば。話は最後まで聞いてっていったでしょう──堤さん、仕切り直しをしようっていうの」
「仕切り直し?」
「うん。またふたりでお酒でも飲みに行って、今度は覚えてるようにしようって」
肩から力が抜けていった。早紀が彰洋に気があるのはわかっていた。彰洋の方は確信が持てなかった。だが、睨んだとおりで間違いはなかった。彰洋も早紀を気に入っている。
「なによ。やっぱり口説かれたんじゃない」
「そうかな?」
白々しい言い草だった。早紀のそういうところが嫌いだった。
「なにいってるのよ。のろけるために電話してきたんでしょう?」
「そんなことないわ。どうしたらいいか、マミに話を聞いてもらおうと思ったんじゃない」
「返事しなかったの?」
「したわ」
早紀の声のトーンが低くなった。照れているときの早紀はよくそんな声を出した。
「なによ、もう。返事しちゃったんなら、マミの意見聞く必要ないじゃない」
そう、そんな必要などまったくない。早紀は見た目より情熱的だった。彰洋は見た目どおり情熱的だった。ふたりは一気に燃えあがる。波潟が家庭で話す言葉が彰洋に伝わる。それに、波潟がこの部屋で話す言葉をあわせれば──波潟を出し抜くための情報が手に入る確率が高くなる。どれだけ早紀に入れこもうと、彰洋には美千隆を裏切ることはできない。いずれ彰洋は自分を呪うようになるだろう。麻美と美千隆を憎むようになるだろう。それでも、彰洋は美千隆を裏切ることはできない。彰洋はそういう人間だった。どこまでも甘くできている。
「そうなんだけど……」
早紀の声は歯切れが悪かった。電話がかかってきたときとは大違いだった。
「なにが問題なの? 早紀、嬉しいんでしょ? 彰洋ちゃんとデートできて」
「そんなんじゃないわよ。堤さんはただ──」
「デートよ。だれがどう見たってデートじゃない」麻美は早紀の言葉を遮った。このまま早紀の話し方に付き合っていては風邪を引く。「で、待ち合わせはいつなの?」
「まだ決まってないの。堤さんが電話をくれるって」
「しょうがないわね、彰洋ちゃん、学生じゃないんだから。でも、いいじゃない。いつかかってくるかわからない電話を待つなんて早紀らしいよ。なんか、ロマンティック」
「からかわないでよ、もう」
早紀の声がまた上ずってきた。早紀は昂揚している。間違いなかった。
「からかってないわよ。マミも嬉しいんだから。こないだいったでしょ」
「そんなふうになるとは限らないんだから……」
「なるわよ。わたしが保証する。それで、早紀、マミにどんな意見をいってほしいの?」
早紀の返事はなかった。電話回線は沈黙を伝えてくるだけだった。
「早紀? 聞いてる?」
「堤さんと会うとき、どんな服着ていったらいいかと思って」
やっと、蚊の鳴くような声が返ってきた。麻美は込みあげてくる笑いをこらえた。
「明日、講義休むつもりある?」
「明日? どうして?」
「洋服買うの、付き合ってあげる。彰洋ちゃんの趣味なら任せておいて」
「ありがとう、マミ」
早紀がいった。心からの感謝の気持ちだということは充分に伝わってきた。麻美は唇を歪めた。
いいわよ、早紀。せいぜいいい友達の振りをしていてあげるから。
クローゼットの鏡──全裸の自分が嬉しそうに微笑んでいる。
* * *
早紀にはグッチのミニのスーツを見たててやった。色は黒──シックだが早紀がそのスーツを着ると華やかさがました。早紀が美しい娘であることは認めないわけにはいかなかった。
早紀はスカートが短すぎると文句をいった。
「彰洋ちゃん、脚の綺麗な女の子が好みなのよ。このスーツだったら、早紀の脚が映えるから、絶対にこれがいいわよ」
麻美は断定するようにいった。早紀はそれ以上抗わなかった。波潟のカードでスーツを買った。
「じゃあ、次に行くわよ」
「次って?」
「ランジェリィ・ショップ。せっかくシックなスーツ買ったんだから、下着もそれにあわせなきゃ」
「下着は別にいいわよ」
「だめ。早紀って、子供っぽい下着しか持ってないんだから。彰洋ちゃんに見られたら恥ずかしいでしょ」
「下着なんか見られないわ。堤さんと会うの、次が二回めなのよ」
「初めてのときに記憶がなくなるぐらいお酒飲んだんだから、二度めにそこまで行く可能性だってあるじゃない」
早紀は顔を赤らめて沈黙した。麻美は早紀をタクシーに押しこみ、銀座に向かった。イタリア製の下着を揃えた店で、レースの淡いバイオレットのブラとショーツを見たてた。
「これ、見えちゃうんじゃない?」
早紀はブラのレースに不安げな視線を向けた。
「あら、下着なんか見られないっていったのはだれよ?」
「意地悪なんだから、マミ」
早紀は頬を膨らませた。子供っぽい仕種だった。早紀にはそぐわなかった。
「そういう顔、彰洋ちゃんの前ではしない方がいいよ。我が儘な女の子、あんまり好きじゃないから」
「でも、マミと付き合ってたんでしょう?」
「だからすぐに別れたの。彰洋ちゃん、ああ見えてかなり頑固なんだから」
早紀はブラとショーツを買った。早紀が自分の意見に従うことはわかっていた。早紀はヴァージンではない。だが、たくさん男を知っているというわけでもない。だから困惑している。自分の身体の中に灯ったかすかな欲望の炎に心地よく焙られながら、その炎をどうやって扱えばいいのかわからないでいる。
麻美はほくそえんだ──せいぜい恋を楽しみなさい、早紀、だけど、わたしを泥棒猫と罵ったことは絶対にゆるさないから。
「じゃあ、早紀、マミは行くね?」
店員から買った下着を受け取っている早紀に声をかけた。
「え? もう行っちゃうの?」
「うん。このあと、約束があるの。まだ用がある?」
「そういうわけじゃないけど……お茶でも飲もうかなって思ってたのに」
「お茶なんかいつでも飲めるじゃない」
「そうだけど……堤さんのことも聞きたかったし」
「彰洋ちゃんのことは彰洋ちゃん本人に聞きなさいよ。そういうのが楽しいんだから。じゃあね、早紀」
麻美は名残惜しそうな早紀を残してタクシーに乗った。自宅近くのスポーツジムで汗を流した。心地よい汗を流したあとは美容サロンで全身マッサージを受けた。
約束なんてなかったんだけどね、早紀、あなたと違って、マミの唯一の武器はこの身体だから、あなたのパパのためにも手入れを怠るわけにはいかないの──マッサージの心地好さの中、麻美はそう思い、満足そうに微笑んだ。
21
波潟の鞄持ち──ゴルフ場でも役目に変わりはない。金の詰まった鞄を持って波潟の後を追いかける。寒風が吹きつけているというのに、ゴルフ場は盛況だった。だれも彼もがゴルフをするご時勢だ。
波潟と一緒にラウンドしているのは大蔵省の官僚と大手証券会社の重役。クラブを振り、金の話をする。三人はいわゆる「握り」をやっている。一打にかけられる金はべらぼうな金額で、勝つのは決まって大蔵官僚だった。一ホールが終わるたびに、彰洋は波潟の元に駆けよった。自分の身体で他人の目を遮るようにして鞄を開ける。中に詰まっている金を波潟が無造作につかみとり、大蔵官僚のゴルフバッグの中に押しこんでいく。接待ゴルフの名を借りた賄賂の授受。大蔵官僚はしきりに彰洋の視線を気にした。彰洋は三人から距離を取ってコースをついてまわった。波潟が満足そうにうなずいていた。
ハーフラウンドが終わるころには、大蔵官僚のゴルフバッグからは札がはみでるようになっていた。クラブハウスに入る前に証券会社の社員たちがやってきて、金をどこかに運び去った。キャディたちは見て見ぬふりをしていた。
プレイの合間に交わされる会話に耳をすませる。金と土地と株の話の三点セット。三人は声をひそめて話しあっていた。だれかが林に打ちこんだボールを探しにいかなければならなかった。会話は断片しか耳に届かない。
「三洋銀行から金をいくらでも引っ張ることができるようになる」波潟が喋っている。
「この会社の株にはまだだれも目をつけていないんですよ」証券会社の重役が喋っている。
「しかし、それはなあ、いくらなんでもやりすぎですよ」大蔵官僚が尊大な態度で応じている。
「フォァー!!」彰洋は叫ぶ。苛立ちを声に乗せて。
冷たい風のせいで身体の表面は冷えている。だが、身体の内部は燃えあがっている。体温が天井知らずであがりつづけている。おそらく、波潟たちが話している株の値段も天井知らずであがるのだろう。
「それだけの金があれば、まとまった株を買い揃えることができますよ」波潟が話している。
「だが、波潟さんたちはそれ以上の大金を手に入れるんだろう?」大蔵官僚が顔を綻《ほころ》ばせている。
ゴルフバッグいっぱいに詰まった金。それでも足りないといわんばかりの大蔵官僚の尊大な顔。
金っていうのはあるところからあるところに流れるようにできてるんだ、あるところからないところに流れていくことは絶対にない、覚えておけ──MS不動産に入りたてのころ、美千隆にいわれた言葉が鮮やかによみがえった。
体温はあがりつづける。さがることはない。
波潟は必ず値上がりする株銘柄を餌に、大蔵官僚からなにかを引きだそうとしている。
波潟が彰洋に視線を向けてきた。彰洋は波潟が口を開く前に波潟の近くに飛んでいった。
「なんでしょう?」
波潟の目が細まった。彰洋は臍《ほぞ》をかんだ。反応するのが早すぎた。三人の言動に目を光らせていたと自《みずか》ら白状しているようなものだった。
「クラブハウスに行って、マミに電話をしてきてくれ。今日は早く終わりそうなんで、江戸川橋のいつもの店に七時に予約を入れて待っていてくれとな」
波潟は低い声でいった。
「この金はどうします?」
「もう、充分な金はくれてやった。残りのホールは本気を出して、少しでも金を回収させてもらうんだよ」
波潟は吐き捨てるようにいった。
「わかりました」
彰洋はクラブハウスに向かった。重役と大蔵官僚に挨拶はしない。この場では彰洋は波潟の犬のようなものだった。犬に挨拶されることを望むものはいない。
麻美に電話をかけた。
「もしもし?」
「彰洋だ。いま、波潟社長と一緒にいるんだけど、伝言だよ」
クラブハウスからコースの方に視線を向けてみた。なにも見えなかった。声を低めた話し声も聞こえなかった。焦燥感が募る。波潟たちの話の続きを知りたかった。
「なんだって?」
「江戸川橋のいつもの店に七時に予約を入れて待っててくれってさ」
「七時ね。わかったっていっておいて」
「じゃあ、またな」
「ちょっと待ってよ」
「仕事中だぞ」
彰洋は声を荒げた。麻美には通じなかった──通じたためしがなかった。
「どうせゴルフでしょ? 少しぐらい戻るのが遅れたってどうってことないわよ。もしなにかいわれたら、マミがぐずぐずしてたっていえばいいんだし」
「いま、重要な話をしてる最中なんだ。早く戻って、波潟たちがなにを話してるのか知りたいんだよ」
「そんなの、今夜マミが波潟から聞いてあげる」
麻美があっさりいった。拍子抜け──受話器を握り直した。
「あいつ、おまえにはなんでも話すのか?」
「そうよ。話を聞きだすにはちょっとコツがいるんだけど」
「わかったよ。おまえに任せる。ちゃんと話を聞きだしておいてくれよ」
「任せなさいって……それより、聞いたわよ」
麻美の声が低くなる。彰洋は身構えた。麻美がこんな声で話すときは気をつけた方がいい。
「聞いたって、なにを?」
「早紀をデートに誘ったんだって?」
体温がさがる。月曜の電話──早紀の声。
「デートってわけじゃない」
「マミ相手にカッコつけなくてもだいじょうぶよ。早紀ね、凄く喜んでるよ。おニューのスーツなんか買っちゃってさ。よっぽど彰洋ちゃんのことが気に入ったみたい」
空気が重くなったように感じた。シャツの襟が汗で濡れていた。おろしたてのスーツを着た早紀の姿がありありと脳裏に浮かんだ。早紀と飯を食う。早紀と酒を飲む。早紀に触れたくなる。
欲望が脳髄を溶かしていく。期待に身体が顫える。だが、その反面、こわかった。おそろしかった。
「そう」
彰洋はいった。
「なによ、その声?」麻美の口調がきつくなった。「あんまり乗り気じゃなさそうじゃない」
「そういうわけじゃ……」彰洋は小さく首を振った。「相手は波潟の娘だぜ」
「関係ないわよ、そんなの。大事なのは、彰洋ちゃんが早紀のことをどう思ってるかじゃない。早紀、すごく楽しみにしてるんだよ、彰洋ちゃんとのデート。今になって尻込みするぐらいなら最初から誘わなきゃいいじゃない」
正論──ぐうの音《ね》も出ない。
「ちょっと、聞いてる?」
「ああ、聞いてるよ」
「だったらなにかいいなさいよ」
「おれのせいでなにかあったら、美千隆さんに申し訳ない」
「そんなこと聞いてるわけじゃないでしょう?」
麻美の追及は容赦がない。昔からそうだった。逃げるには、嘘をつくしか方法はなかった。昔は嘘が通じなかった。今は口八丁手八丁が身に染みついている。早紀に会えばいいのだ。会うだけなら、どうということはない。酒を控え、つまらない男になりきればいい。
「わかったよ。会うよ。会えばいいんだろう?」
彰洋は不貞腐れたような声を出した。
「なによ、そのいい方。まるでマミが悪いみたいじゃない」
「悪いのはおれだよ。わかってる。後先考えずに、早紀さんを誘ったのはおれだからな」
「後先を考える前に、舞いあがっちゃってたんでしょう」
「悪かったな」
「いいのよ。早紀が彰洋ちゃんの好みなの、最初からわかってたから」
「このあと、すぐ電話するよ」
「絶対よ。嘘ついたら許さないから」
「嘘なんかつかないよ」
「デートする場所もちゃんと考えるのよ。早紀、ムードに弱いんだから」
「わかったって。それより、麻美、波潟から話を聞きだすの、忘れるなよ」
「だれに口きいてると思ってるのよ」
電話が唐突に切れた。麻美はいつでも麻美だった。
彰洋は電話をかけなおした。呼びだし音が鳴る。それに合わせて心臓も高鳴っていく。
馬鹿野郎、なにを期待してるんだ?──自分を罵った。それでも、心臓の高鳴りはとまらなかった。
腕時計は午後三時過ぎを指している。早紀は大学に行っているはずだ。電話をかけたが相手が出なかった──麻美にはそれで通すこともできる。
「もしもし?」
早紀の声が聞こえた。心臓が凍りついた。
「あ……堤ですが」
「堤さん? 早紀です」
華やかな声が耳をくすぐった。
「大学じゃなかったんですか?」
間抜けな質問──また、自分を罵る。
「ええ、そろそろリポート提出のシーズンだから、今はうちで資料と格闘中」
「かけなおしましょうか?」
「だいじょうぶよ、別に。ちょうど気分転換したいと思っていたところだし」
早紀の声は弾んでいる。早紀は自分に気がある。凍りついていた心臓が、再びテンポの速いリズムを刻みはじめる。
波潟はゴルフのあと、麻美と食事を取りに行く。その場に彰洋が招かれることはないだろう。今夜は時間があいている。
「あの……いま、社長と一緒にゴルフ場にいるんです。それで、今日はゴルフのあとはなにもないらしいんですが、この前の約束、今夜にしてくださいといったら、怒りますか? 次はいつ時間を取れるかわからないんですよ」
今夜は無理だわ──そういってくれ。彰洋は祈った。
「わたしはだいじょうぶよ」
彰洋の祈りは通じなかった。早紀は嬉しそうに答えてきた。
「じゃあ、七時半に、六本木のアマンドの前でいいですか? 今、いい待ち合わせ場所思いつかなくて」
「七時半にアマンドね? 必ず行くわ」
早紀の声は弾んでいる。浮わついている。早紀の気分が伝染する。
「なにか、食べたいもの、ありますか?」
「堤さんと一緒なら、なんでもいいわ」
彰洋は目を閉じた。波潟の顔を脳裏に浮かべた。美千隆の顔を脳裏に浮かべた。ふたつの顔は浮かんですぐに消えた。あとには雲の上に浮かんでいるような気分が残っただけだった。
22
江戸川橋近くの料亭──波潟は約束の時間に十分遅れてやってきた。麻美はわざと頬を膨らませ、拗《す》ねた振りをした。
「悪かったな、マミ。今日は御殿場でゴルフだったんだが、帰りの道が混んでいてな」
「パパが車に乗ると、いつだって道が混むのよね」
「そう怒るな。これでも急いでやってきたんだ」
波潟は上機嫌だった。仲居に金を渡し、ビールを頼んだ。
「本当に悪いと思ってるんだったら、今度パリに連れていって」
「パリか……」波潟は顔をしかめた。「また荷物持ちをやらされるんだろう。勘弁してくれ。日本で好きなものを買ってやる」
「パリにしかないものがあるの」
麻美は波潟の隣りに席を移した。波潟にしなだれかかり、股間をさすった。波潟は困ったような表情をしながら微笑んだ。
「今すぐは無理だ。近々、大きな取引があるかもしれん。それが終わるまで日本を離れるわけにはいかんのだ。少しは待てるだろう?」
「本当に連れていってくれるんなら待ってもいいよ」
「わかった、わかった」
その声が合図だったかのように襖が開いた。仲居がビールと食事を運んできた。麻美は波潟の股間をさすりつづけた。仲居がそれに気づいたが、すました表情でテーブルに料理を並べていく。麻美は仲居の横顔を睨んだ。
せいぜい馬鹿にしてるがいいわ──声に出さずに毒づく。仲居は無表情のまま座敷を出ていった。
「とりあえず、飯を食おう。腹が減ってはなんとやらだからな」
波潟がビールに手を伸ばした。それを奪い取り、グラスに注いでやる。
「お疲れ様、パパ」
穏やかにいう。飴と鞭──波潟は馬鹿ではない。麻美の魂胆を知っていて、敢えて麻美の掌の上で踊るような態度を取る。いつまでこの状態が続くのだろう──そう考えると背筋が寒くなる。麻美に飽きた途端、波潟は態度を豹変させるに決まっている。
「彰洋ちゃんは帰ったの?」
ビールを一気に呷《あお》る波潟を見ながら麻美は聞いた。
「おお、堤か。今日は帰したよ。せっかくのマミとのデートを邪魔されたくないからな」
「どう、彰洋ちゃん?」
「なかなかよくやっておるよ。美千隆君があれを気に入ってるわけがわかる。飲みこみが早いんだ。おれのとこに来てまだ三日目だが、おれが口に出さなくてもおれがして欲しいことをやってくれるようになっている。まだ若いが、たいしたもんだ」
自分が褒められたような気分に襲われる──麻美は微笑みながら波潟のグラスにビールを足した。
「当然よ。マミのたったひとりの友達なんだから。パパはマミのこと子供だ子供だっていつも馬鹿にするけど、これでも人を見る目、あるのよ」
「確かにそうだな」波潟は笑った。すぐにその笑いをひっこめた。「だがな、マミ、堤にも欠点があるぞ」
「どんな欠点?」
「まず、生真面目すぎる。この世界で生きていくにはしんどいかもしれん。それに、頭がよすぎる。まだ若いし、おれのところで働いているからいいが、頭がよすぎると、人から疎《うと》まれることにもなる」
「パパはどうなの? 彰洋ちゃんが疎ましい?」
「おれをだれだと思ってるんだ? 地上げの神様、波潟昌男だぞ。堤がいかに頭がよかろうが、どうってことはない。ただな……」
「ただ?」
「マミには悪いが、ただの若造だと思って彼のことを引き受けたんだ。しかし、これからは気をつけんと、せっかくの儲け話が美千隆君のところに流れるおそれがある」
波潟は太い息を吐いた。箸を取り、料理に手を伸ばした。
「美千隆さんのところに?」
麻美は驚いた振りをした。
「おまえは純粋に友達を思っておれに堤を預かるようにいったんだろうが、美千隆君は違うぞ。おれに堤を気に入らせて、あわよくばおれのところに入ってくる情報を横取りしようって腹さ」
「美千隆さんがそんなことするの?」
「するさ。あの若さでここまでのしあがってきたのは、なにも彼が二枚目だからなわけじゃない。狡賢《ずるがしこ》く立ち回る方法を知ってるからだ。マミも、ああいう男に気を許しちゃいかんぞ。今のところ、おれの前じゃいい子ぶっているが、いつこっちの喉笛に噛みついてくるかわからんからな」
冷んやりとしたものが胸のうちを流れていった。波潟が気づいているはずはない。それでも、恐れを完全に消し去ることはできなかった。
「どうした、食わんのか?」
波潟がいった。麻美はまた波潟にしなだれかかった。
「今日からダイエットなの。太るとパパに嫌われちゃうから」
「なにをいっとるんだ。多少太ったところで、おれはマミのことを嫌いになったりはせんぞ」
多少──つまりはそういうことだった。二、三キロ太るぶんにはかまわない。だが、それが五キロ、十キロになれば問題になってくる。
「食わないんだったら、これをやるか?」
波潟はスーツの内ポケットから細い金属の筒を取りだした。
「こいつを決めれば、しばらく飯を食わなくてもだいじょうぶだからな。それに、あっちの方も抜群によくなるぞ」
波潟は笑った。下品で醜悪な笑い方だった。
23
午後七時半のアマンド前。無数の通行人。無数の客引きたち。早紀は所在なげに突っ立っていた。ひと目見ただけで値が張るとわかるコートを羽織っていた。コートの裾からは形のいい脹脛《ふくらはぎ》が伸びていた。グッチのバッグを持っていた。それでも、早紀は群集の中に埋もれていた。麻美ならどんなにみすぼらしい恰好をしていたとしても目立つ。早紀は違う。早紀は目立つことよりも周りに溶けこむことを選ぶ。なのに、彰洋はすぐに早紀を見つけることができた。早紀から目を逸らすことができなかった。
たぶん、早紀の仕種。早紀の雰囲気。そして、早紀を取り巻く状況。早紀の父親は波潟昌男だった。それを忘れることはできるはずもない。
彰洋は髪の毛を手櫛で整えた。ネクタイの結び目を直した。人ごみをかき分けながら早紀に近づいた。早紀は腕時計を覗いていた。
「お待たせしました」
早紀が振り向いた。早紀の顔が輝く。
「七時半ぴったり。堤さん、時間に正確なのね」
早紀の声は弾んでいた。彰洋は息苦しさを覚えた。群集のざわめきは耳を素通りし、早紀と自分の声だけがクリアに聞こえる。
「そうですか? 遅れるんじゃないかと思って、ひやひやしてたんですけどね」
早紀の頬が膨らむ。拗《す》ねた仕種にも息苦しさが増していく。
「また他人行儀な口調になってる」
「すみませ……ごめん。どうしたらいいのか、自分でも戸惑ってる。ついさっきまで、お父さんの部下として働いていたところだしね」
強張り、もつれる舌。
「堤さんの立場はよくわかるけど、できるだけ堅苦しい言葉遣いはやめてね。なんだか、堤さんが仕事でわたしと付き合ってくれてるような気分になるの」
「仕事を考えてるんだったら、早紀さんを食事に誘ったりはしないさ。社長にばれたら、大目玉を食うに決まってる」
「パパは……困ったところがあるから」
早紀の表情が曇る。早紀の表情はたえず変わる。
「行きましょう」彰洋はいった。「麻布十番の方に、小さなビストロなんですけど、けっこういける店があるんです」
彰洋は早紀の背中を軽く押すように歩きだした。早紀が腕を絡めてくる。思わず視線を左右に走らせる。知った顔が近くにいないかを確認する。そんな自分に嫌気がさす。だれかの肘が腕にぶつかる。そっちを睨みつける。吐き気を覚えるほどの人の群れ──ぶつかった男の後ろ姿はその中に飲みこまれていく。
「どうしたの?」
早紀の声──振り返り、狼狽する。
「なにが?」
「怖い顔してるわ。怒ってるみたい」
「気のせいだよ」
彰洋は歩きつづける。
* * *
うまい食事とワイン──潤滑油。心と口にブレーキをかけていた箍《たが》が緩《ゆる》む。会話が弾む。早紀の黒いミニのスーツ──目のやり場に困る。
会話をリードするのは早紀だった。早紀は矢継ぎ早に質問を放った。
堤さんの家族は? 子供のころは? 趣味は? 友達は?
両親は川崎に住んでいる。高校生の弟がいる。交渉はない。三年近く前に、自分の部屋でガンジャを吸っているところを母親に見つかった。両親は泣き喚いた。祖父はとっくに他界していた。彰洋は家を出た。両親は止めなかった。弟は有名な進学校に通っている。弟は両親の自慢の息子だった。弟がいれば、両親にはそれで充分だった。
酷いわ──早紀がいう。彰洋は首を振る。悪いのは自分だ。わかっている。祖父の形見の十字架が肩に重い。捨ててしまいたいのに捨てられない。
趣味は仕事。友達はいない。
「どうして?」早紀が驚く。「堤さんぐらいの年の人で、仕事が趣味っていうの珍しいでしょう? そんなに今の仕事がおもしろいの?」
体温があがっていく感覚──うまく説明できない。言葉を濁すほかはない。
「おもしろいよ。ぼくみたいな年のやつが普通に働いていたんじゃ会えない人たちと一緒に仕事ができる。早紀さんのお父さんみたいな人とかね」
早紀が悲しげな顔をする。
「こんなこというと、堤さん嫌な気分になるかもしれないけど、わたし、パパの仕事、好きになれないの。人が住んでる土地を奪って、それでお金儲けしてるのよ」
綺麗事をいっていたのでは体温はあがらない。早紀が高いものを身につけられるのも、波潟が他人を食い物にしているからだ──言葉を飲みこみ、他の言葉を探す。
「きちんと代金を支払ってるんだよ。騙して土地を奪い取ってるわけじゃない」
「それはそうだけど……気分、害してない?」
彰洋は首を振る。早紀の頬が微かに赤く染まっている。黒いスーツとの艶《あで》やかなコントラスト。気分を害するはずもない。
「この前の食事のとき、実はわたし、あんまり乗り気じゃなかったの。パパとマミが是非にっていうから、しかたなく行ったのよ。パパと同じ業界の人と食事したって楽しくないと思ってたの。でも……」
「でも?」
「楽しかったわ。堤さんと齋藤さんは想像と違ってた。だけど思うの。どうして堤さんみたいな人が、あんな仕事を楽しそうにやってるんだろうって」
「楽しいわけじゃないよ」
彰洋はワインに口をつけた。ワインの酔いが口を滑らせる。かまったことじゃない。今さら見栄えを取り繕ったところでどうにもなりはしない。相手はなにより波潟昌男の娘だった。
「どっちかっていうと、嫌になることの方が多いぐらいさ」
「だったらどうしてこんな仕事続けてるの? どうして仕事が趣味だっていえるの?」
儚《はかな》げな箱入り娘の風情は消えていた。見てくれとは裏腹に、早紀は我の強い娘だった。
「前にいわなかったかい? ぼくは……でかいことがしたいんだ。ぼくみたいに学もなくて後ろ楯もない若造がなにかでかいことをしたいと思ったら、綺麗事ばかりいってるわけにはいかないのさ」
「堤さんのやりたいでかいことって、なに?」
美千隆の作る王国に加わりたい。死ぬまで体温のあがる感覚を味わいつづけたい。彰洋は曖昧に微笑む。
「それがわかれば苦労はしないさ」
「そうよね、苦労ないわよね……でも、そういうことを口に出していえる人って羨ましいな」
「どうして? 早紀さんにはやりたいことがないの?」
「ないわ。パパのこと批判するくせに、パパとマミのこと、いやらしいと思ってるくせに、パパのお金でマミと一緒にお買い物するのを楽しんでるの。たぶん、そうやって学生時代を楽しんで、二十五になる前に、パパの仕事に都合のいい相手と結婚させられる。それ以外の未来は考えられない。つまらなくてくだらない女なのよ、わたし」
早紀の暗く沈んだ瞳にテーブルの上のキャンドルが映っていた。
そうじゃない──いってやりたかった。おれは体温のあがる感覚を知った、君にもいつか同じことがないとはだれにもいえない──いってやりたかった。砂糖をまぶしたような甘いだけの言葉は口にするのも憚《はばか》られる。
彰洋はまたワインに口をつけた。二本目のワイン──ボトルはほとんど空になっている。飲みすぎている。酔っている。わかっていても飲むのをやめることはできなかった。
「さっきの質問に戻りましょう」
早紀がいった。作り笑いが顔に浮かんでいた。
「どうして友達がいないの?」
「でかいことがしたいというと、たいていのやつは笑うんだ。笑われると殴りたくなる。だから、友達がいないんだ。笑わなかったのは早紀さんぐらいのもんだよ」
「よかった、殴られなくて」
「もし笑われたとしても、早紀さんを殴ったりはしないよ」
「わたしが波潟昌男の娘だから?」
早紀が挑発的に顔を突きだしてくる。潤んだ瞳、つんと尖った鼻、小さく薄い唇──どうして目が離せないのか。
「違うよ」
彰洋は喘《あえ》ぐようにいった。早紀が求めている言葉はわかっていた。だが、それを口にすれば後戻りができなくなることもわかっていた。
「本当かなぁ?」
「本当だよ」
「じゃあ、もうひとつ質問。もし、堤さんが、わたしが二十五歳になるまでにでかいことをやり遂げたら、パパ、わたしが堤さんと結婚したいっていってもゆるしてくれると思う?」
眩暈を覚えそうだった。
「どうしてそんなことをぼくに訊くんだよ?」
「もし、堤さんがうんっていってくれたら、二十五まで結婚するのやめようと思って」
もし──いくつ並べたところで意味はない。落ち着け──自分にいい聞かせる。今なら引き返せる──自分にいい聞かせる。すべてを笑い飛ばし、早紀を家に送って終わりにしろ。
早紀はじっと彰洋を見つめていた。キャンドルが早紀の輪郭を鮮明に浮かびあがらせていた。彰洋は目を逸らすことができなかった。
「まだ聞きたいことがたくさんあるの。食事の後も付き合ってもらえるかしら?」
退路が断たれる。
「かまわないけど」
考えるより先に口が動いていた。
「静かなところがいいな。ふたりで落ち着いて話せるところ。この前みたいにはしゃぎすぎちゃうと、せっかく聞いた話、また思いだせなくなるから」
早紀が恥ずかしそうにうつむく。六本木近辺のバーが何軒も脳裏に浮かぶ。ディスコで踊り疲れた連中がたむろするバー。ディスコで引っかけた女を連れていくバー。スノッブな連中が集まるバー。静かなバーには一軒の心当たりもなかった。
「静かに飲めるところっていったら、ホテルのバーぐらいしか思いつかないけど」
うつむいたままの早紀──うなじまでが赤くなっていた。さっきまでの挑発的な早紀はどこかに消えていた。
体温があがっていく感覚が突然襲ってくる。早紀は無理をしていた。なにもかもをわかっている女のふりを演じていた。なんのために?──彰洋の気を引くために。
体温があがりつづける。その圧倒的な感覚の前では、波潟昌男の顔すら色あせて見える。
「おれの部屋に行こう」
彰洋はいった。早紀が顔をあげた。
「すぐ近くなんだ。だれにも邪魔されない」
早紀が唇を噛む。思いあぐねたという口調でいう。
「いってもいいけど……最後にもうひとつだけ質問させて?」
「なんだ?」
「マミとわたし、どっちが好き?」
「早紀だよ。決まってるだろう」
彰洋は早紀を呼び捨てにした。早紀の顔が紅潮する。彰洋は早紀の手を握る。早紀が握り返してくる。
体温がとどまることをしらずにあがりつづける。
24
新宿の雑踏は銀座のそれとは明らかに違う。熱気がありながら、埃っぽい。活気に溢れているくせに、どこか貧乏臭さがつきまとう。
こんな街は美千隆には似合わない──麻美は思う。だが、美千隆はそんなことにはおかまいなしに雑踏をかき分けて歩いていく。そのスピードについていくのが麻美にはやっとだった。
「もっとゆっくり歩いてよ」
麻美は刺々《とげとげ》しい声を出した。美千隆のスピードが落ちた。美千隆は振り返らない。
「今日は波潟公認のデートなんだから、人目を気にしなくてもいいでしょう」
食事の席で交わした約束──中野坂上の地上げを成功させた美千隆に好きなものを買ってもらう。波潟には昨日のうちに話を通してあった。知り合いに見られたとしても臆することはない。必要以上にべたべたしさえしなければ。
「別に人目を気にしてるわけじゃない。これがいつものおれの歩き方だ」
「だけど……久しぶりにおおっぴらに外歩けるんだから、もう少し楽しんだっていいじゃない」
「外を歩ける代わりに、今日はあまり時間がないんだろう? 早く用事をすませて、ゆっくり飯でも食った方がいい」
美千隆のいうとおりではあった。今夜は早めに部屋に戻っていないと、波潟のいらぬ疑いを招くことになる。
「次に会うときは、思いっきり可愛がってもらうわよ」
「どうせ、身体中に波潟のキスマークがついてるんじゃないのか?」
麻美は唇を尖らせた。美千隆にだけはかなわない。どんな人間にもそう思ったことはない。たとえ、波潟昌男でもうまく立ち回ればなんとかなると思っていた。だが、美千隆だけは違う。
なぜ、美千隆なのか。どうして美千隆でなければならないのか。それがわからないから、どうしようもなく美千隆に惹かれている。不満な気持ちを押し隠して新宿の街を歩いている。
「しょうがないじゃない。あいつを怒らせることなんかできないんだから」
「我慢しなきゃならないのは今だけだ……彰洋と波潟の娘、どうなったか知ってるか?」
麻美は首を振った。昨日電話したときの彰洋の煮えきらない態度。彰洋は早紀に電話をかけるといったが、なにかに怯えているようだった。波潟に釘を刺されたのか──ありえないことではない。
「まだわかんないわ」
「彰洋は意外と奥手なんだな。その気がないわけじゃないんだろう?」
「どうかな……それよりさ、気になることがあるんだけど、昨日、波潟がいってたのよね」
「なにを?」
「彰洋ちゃんは頭がよすぎるって。これからは気をつけないと、自分のところの情報が美千隆のところに流れるからって、けっこう、真顔だったよ」
「波潟がそんなことを?」
美千隆の口許に白いものが覗いた。美千隆は笑っていた。
「なにがおかしいの?」
「なんだかんだいって、波潟は彰洋を気に入ってるんだよ。そうじゃなきゃ、すぐにおれに突き返してくるはずだ。彰洋は頭がよくて、真面目だ。だれだってあいつを知ったら、自分の思うように仕込んでみたくなるのさ。たぶん、波潟は彰洋を手なずけるつもりでいるんだろう。それで逆におれの握ってる情報を引きだす腹づもりなんだ」
「そんなことされたら、美千隆、やばいじゃない」
「彰洋ならだいじょうぶさ。あいつは生真面目で……おれにぞっこんなんだ。礼をいうよ、マミ。彰洋を紹介してくれてな」
美千隆は嬉しそうだった。麻美は嫉妬を覚えた。
「そんなに彰洋ちゃんのこと信頼してるんだ」
「信頼? 馬鹿いうなよ。あいつの心をがっちり掴んでるっていう自信があるんだ。それだけのことさ」
美千隆は確信を滲ませた声でいった。横顔からは笑みが消えていた。
* * *
デパートのメインエントランスの前は黒山の人だかりだった。デパートに入ろうとする人間、出てこようとする人間、人待ち顔の人間。デパートの前の道路は歩行者天国。有象無象《うぞうむぞう》の顔。
嫌悪感と優越感を同時に感じながら、麻美は美千隆の後についてデパートに足を踏み入れた。エスカレータで四階の貴金属売り場を目指す。奥に進めば、エントランスの前にたむろしていた連中とは無縁の世界が広がる。
美千隆はまっすぐ時計売り場に足を向けた。店員が深々と頭をさげた。美千隆がうなずくと、店員は消えた。すぐに、時計を持って現れた。
炎を思わせる金鎖細工のブレスレット。ダイヤとルビィが埋めこまれた文字盤。パテック・フィリップのラ・フラム。最高級のレディースウォッチ。
パテック・フィリップがどういう時計ブランドなのかは知らない。ただ、だれかが最高だというのを耳にしたことがあるだけだった。最高の時計──高い時計。どうしても欲しかった。波潟にねだった。波潟が買ってくれたのは確かにパテック・フィリップではあったが、見てくれはなんの変哲もない時計だった。値段も三百万そこそこだった。不満だった。そのパテック・フィリップは一度しかはめなかった。
美千隆には最高のパテック・フィリップを買ってもらいたかった。カタログを取り寄せ、検討した。ラ・フラム──ひと目でデザインに魅きつけられた。燃えあがる黄金の炎。きらめくダイヤ、輝くルビィ。値段も一千万を軽く超える。
この時計こそ自分に相応《ふさわ》しい──カタログにはもっと値の張る時計も掲載されていたがラ・フラムしか目に入らなかった。
「どうだ? 気に入ったか? かなり無理をいって、スイスの本社から取り寄せてもらったんだぞ。こういう時計はな、金を払うからすぐよこせっていうわけにはいかないんだ」
美千隆の声が耳を素通りする。麻美の目は時計に釘づけだった。
「はめてみてもいい?」
時計を見つめながら麻美はいった。
「好きにしろ。おまえの時計だ」
美千隆がいい、店員が慎重な手つきで麻美の左手首に時計をはめた。ブレスが若干大きめだった。そんなことは気にならなかった。炎が手首に巻きついている。ダイヤとルビィを埋めこんだ文字盤が手首に吸いつくように収まっている。
この時計はわたしのものになるために作られたんだ──天啓にも似た確信が脳裏をよぎる。
デパートの前の有象無象の顔が脳裏をよぎる。これを自分のものにできる人があなたたちの中にいる? わたしは自分の力でこれを手に入れたのよ。わたしはあなたたちとは違うのよ。
天にものぼる気持ち──ただひたすらに舞いあがっていく。落ちたくはない。このまま天を目指しつづけたい。決して落ちるわけにはいかない。
店員がブレスの長さを調節するために時計を手首から外した。店員を睨みつけそうになった。店員が戻ってくるまでの時間が永遠にも思えた。
お包みしますか? それとも──戻ってきた店員がいった。麻美はラ・フラムを手首にはめた。それまでしていたカルティエの時計を包ませた。
美千隆は支払いをキャッシュですませた。店員の目が丸くなった。札の数をかぞえるのに十分以上の時間がかかった。今度の時間はまるで気にならなかった。手首に巻かれた炎を見ているだけで、時間は瞬く間に過ぎた。
「よっぽど気に入ったようだな」
美千隆がいった。
「本当に素敵なんだもん、これ。ありがとう、美千隆。お礼になんでもしてあげる」
「そうだな。いろいろやってもらいたいことがある」
美千隆の目が光った。ラ・フラムの輝きがその光をかき消した。
* * *
慌ただしいセックス──新宿から麻美の部屋に向かう車の中でのカーセックス。運転席と後部座席が分厚いガラスで仕切られた車内。麻美があげる声は運転席には届かない。だが、向きあうように美千隆の腰に跨がっている麻美の姿はルームミラーに映りこんでいる。
仕事が一段落しているときの美千隆は早い。何度も射精することを楽しむ。そうでないときの美千隆は長い。麻美の方が先に絶頂に達し、それでも美千隆は終わらず、やがて、赦《ゆる》してと懇願する。長く時間をかけた口淫で美千隆を鎮《しず》めることになる。
今日の美千隆は後者だった。先週までは、例の地上げが成功裏に終わったせいで美千隆は早かった。
渋滞する道路をのろのろと進むベンツ。その中で腰をぶつけあうふたり。麻美は美千隆の首に両手を巻きつける。麻美の手首にはラ・フラムが巻きついている。金の鎖細工がやがて本物の炎に変わり、頭の中で踊りはじめる。麻美は腰を美千隆に押しつける。はだけたブラウスから覗いた乳房を美千隆に押しつける。美千隆のものを深く飲みこむ。やがて、頭の中で踊る炎が爆発する。美千隆にしがみつく。ラ・フラムが揺れる。
余韻──美千隆はまだ達していない。麻美の中で固く猛ったまま。
「まだ……いかない?」
麻美は苦しげにいった。美千隆はしっかり麻美を抱きしめたまま、一言も発しなかった。
「もう少し続ける? それとも、口でしてあげようか?」
「今日はいい」
美千隆はそういって、麻美を抱きあげた。美千隆のものが離れていく。敏感になった粘膜が美千隆に絡みつく──無駄な抵抗。麻美は美千隆の隣りのシートに座らされた。美千隆はまだ固いままのものをズボンの中に押しこんだ。
不満と不安──こんなことは記憶にない。抱きあえば、早かろうと長かろうと美千隆は必ず射精した。
「どうしたの? 仕事で問題でもあるの?」
麻美はブラウスのボタンをとめながらいった。股間のあたりに冷気を感じた。大量に溢れた愛液がスカートの生地を濡らしている。エルメスのスーツ──汚れてもかまわない。左手にはラ・フラムが巻きついている。
「さっき、なんでもしてくれるっていったよな?」
ラ・フラム──確かにいった。
「いったけど……」
「頼みがあるんだ、マミ」
「なによ? 今日の美千隆、なんか変だよ」
美千隆は脇に置いてあった革の鞄を開けた。中から大振りの茶封筒を取りだした。茶封筒の中には写真が一葉、入っていた。
麻美は写真を受け取り、眺める。神経質そうな中年男の上半身が写っている。
「だれ、この人?」
「稲村雅也。三洋銀行の融資部長だ。波潟とつるんで、銀行の金を波潟にまわしている。知っているか?」
麻美は首を振った。波潟は胡散臭い連中を麻美に会わせることはあっても、銀行や省庁といった堅い立場の人間を引きあわせることはなかった。
「そうか……」
美千隆がため息をついた。安堵しているようにも苦悩しているようにも見えた。
「なんなのよ? マミになにをさせたいわけ? まわりくどいことしないでよ。いつもの美千隆らしくないよ」
「二、三日前に彰洋から聞いたんだが、波潟はこの稲村にやくざを使って脅しをかけようとしている。たぶん、波潟があまりに多額の融資を申し入れたんで、稲村の腰が引けてるんだ」
麻美は首を傾げた。美千隆のいっていることはよく理解できる。だが、それと自分がどう繋がるのかがわからなかった。
「三洋銀行みたいなでかい銀行の本店の融資部長がびびる金額だぞ、マミ。波潟はそんな金をなんに使うつもりだ?」
閃《ひらめ》くものがあった。昨日、寝物語に波潟から聞きだした話。ある案件に許可を取りつけるための大物官僚への賄賂──株の情報と現金。
「さっきの話に繋がるのね? 役人に金を渡して株を買わせて……」
「それだけなら、波潟のポケットマネーでどうにでもなる。問題は、波潟がだれになにをやらせようとしてるのかってことだ」
美千隆の口調に熱がこもる。夜の街の明かりに照らされて、美千隆の目が妖《あや》しく輝いている。麻美は左手にちらりと視線を向けた。ラ・フラムの輝き。美千隆の目の輝きも劣らない。この目に魅かれたのだ。この輝きに魅かれたのだ。
「ごめんね。マミがちゃんと波潟から聞きだせればよかったんだけど」
「いくら波潟がおまえに惚れてても、そこまでは話さないさ」
美千隆は煙草をくわえた。火をつけた。車内に煙が充満した。
「ババ抜きの話、覚えてるか?」
美千隆が煙を吐きだす。美千隆の顔が煙に霞む。
「もちろん、覚えてるよ」
「波潟は最近、不動産だけじゃなく株にも相当な金を注ぎこんでいるらしい。地価と同じで株価もあがりっぱなしだからな、おれも多少は手を出してるが、聞いたところじゃ、波潟は半端じゃない金を株に注ぎこんでる。その資金源を断ったらどうなると思う?」
「波潟がババを引くことになるわけ?」
美千隆からの返事はなかった。美千隆は忙《せわ》しなく煙草を吸い、窓の外に視線を向けていた。
「美千隆?」
麻美は美千隆の顔を覗きこんだ。美千隆の表情は暗く沈んでいた。
「三洋銀行の稲村のことを人に調べさせた。慶応を出て、三洋に入社して、あとはエリートコースを一直線だ。上司や大蔵省の連中にはおもねって、部下には厳しく当たる。権力欲が強くて見栄っぱりだ。その癖、小心者でもある。家では女房に頭があがらない。女房は何代か前の頭取の末娘なんだ。出世のことを考えても女房に逆らうわけにはいかないんだろうな。十六になる娘がひとりいるんだが、高校にも行かずに遊び歩いてる。この娘の方には、おれの知り合いのつてで若い男をひとり、くっつかせた。今はシャブの味を覚えさせてるところだそうだ」
「この人をはめるの?」
麻美は首をひねりながらいった。美千隆の話は唐突にジャンプする。理解するには数瞬の時間が必要だった。美千隆は普段はこんな話し方はしない。こんな顔つきもしない。いつもとはなにかが微妙に違う。その違いが不安を増幅させる。
「やくざが稲村に目を光らせてるんだ。波潟は近いうちにそのやくざたちを使って稲村に脅しをかけるつもりだろう。その前に手を打ちたいと思ってな。娘がシャブを打って、男とやってるところはもう写真とヴィデオに撮ってある。それだけでも、大手都市銀の超エリートにはとんでもないスキャンダルになるんだが、もう一手押さえておきたいんだ」
美千隆が短くなった煙草を灰皿に押しつけた。煙が消えていく。同時にぼやけていた話の筋道がクリアになって視界に現れる。
麻美は美千隆を険しい目つきで睨みつけた。
「もしかして、この男と寝ろっていってるの?」
「波潟は、稲村をかなり厳しく痛めつける。自分に逆らうやつには容赦しないタイプだからな、あいつは……稲村は波潟に忠誠を誓うだろう。どっちにしろ、もう一蓮托生なんだ。波潟は安心する」美千隆は麻美の詰問が聞こえなかったというように話を続けた。「だけどな、マミ、その前におまえが稲村と寝て、おまえが波潟の女だっていうことを、痛めつけられたあとに稲村が知ったらどうすると思う?」
「知らないわよ、そんなこと」
麻美は握った拳を美千隆の肩に叩きつけた。美千隆はぴくりとも動かなかった。
「稲村があとになって融資を断ってきたら、波潟はどうなると思う?」
美千隆が窓の外に向けていた視線をゆっくりめぐらせた。麻美の目とぶつかった。美千隆の目──暗い瞳。その奥で燃えている暗い炎。ラ・フラム──左手首で燃えている時計の鎖と微妙にだぶる。
「やらなくてもすむことなら、おまえに頼んだりはしない。やってくれるか、マミ?」
「いやよ」
麻美は首を振った。美千隆から目を逸らすことができなかった。
「稲村は日曜にゴルフに出かける。波潟はそのときを狙ってるはずだ。その前になんとかしようと思ったら、あと二日しか時間はないんだ」
「いやだっていってるのよ」
「一度だけでいいんだ。おまえと稲村の写真を撮る。それで終わりだ」
「いやよ」
麻美は首を振った。美千隆の肩を叩いた。力が入らなかった。愛液で濡れたエルメスのスカート──冷気が身体を覆う。身体が小刻みに顫えはじめる。
美千隆の手が伸びてくる。振り払おうとしたが、力の入らない腕はたやすく弾かれた。麻美は美千隆に抱きしめられた。美千隆が耳もとで低く囁く。
「おれをがっかりさせるなよ、マミ。もし、稲村がホモだったらおれがやってる。そうじゃないからおまえに頼むんだ。今までだって、おまえは身体を張ってきた。そうやって波潟の気を引いて、波潟を通しておれと出会った。そうだろう?」
美千隆だけは違う──叫びたかった。だが、言葉は喉の奥で凍りついている。おれをがっかりさせるなよ──美千隆のその言葉だけが頭の中で谺《こだま》している。
「どうしてこんな時計を身につけられるんだ? 金持ちの家に生まれたわけでもないおまえが、どうして何千万もする服や時計や宝石を毎日つけ替えることができるんだ? 身体を張ってきたからだろう。そのためにいろんなものを犠牲にしてきたからだろう?」
美千隆の指がラ・フラムをなぞる。
「波潟にババを引かせるんだ、マミ。そうすれば、あいつの金をおれたちのものにできる。そうすれば、年をとったら捨てられるんじゃないかと怯えることもなくなる。死ぬまで金のことを心配しなくてもよくなるんだ」
寒かった。胸が苦しかった。喉が渇いていた。炎が視界の隅に映っている。美千隆の瞳の奥の炎。ラ・フラムの炎。どちらも麻美が望んで手に入れたものだった。ふたつの炎は暖かさよりも苛烈さを象徴していた。
「一回だけよ」
麻美はいった。
美千隆が微笑んだ。
* * *
明かりを消してラ・フラムを見つめた。暗闇の中でも炎は燃えあがっているようだった。
宝石箱を開ける。宝石を取りだし、ラ・フラムの横に並べる。
波潟に買わせたいくつもの石もラ・フラムにくらべればくすんでいる。
値段のせいではない。石の価値のせいでもない。波潟からもらった石の方が、宝石としては価値がある。
わかっている。波潟には金しか求めない。それ以外のものは欲しいとも思わない。ラ・フラムが輝いて見えるのは、それが美千隆からの贈り物だからだった。
たとえ見返りを求めるためのものだったとしても、美千隆から贈られたことに変わりはない。
泣きたかった。涙は出てこなかった。
ラ・フラムを見つめる。悲しみが怒りに転化する。だれにもぶつけることのできない昏《くら》い怒り。宝石とラ・フラムのどちらかを選べといわれても選ぶことのできない自分への怒り。麻美にはできないとわかっていながらその選択を押しつけようとした美千隆への怒り。美千隆に怒りをぶつけることのできない自分へのさらなる怒り。
怒りは増幅する。すべてを飲みこむ炎のように。
「わたしは売春婦じゃない」
暗闇の中で声を出す。声は闇に飲みこまれる。
怒りだけが増幅する。
電話が鳴る。麻美は電話機が放つ小さな明かりを頼りに手を伸ばす。
「マミか? おれだ」
波潟の下品な声。その向こうから賑《にぎ》やかな音が漏れ聞こえてくる。
「また銀座?」
麻美はいう。声には媚が含まれている。どんな精神状態のときでも変わらない。いつのころからか、波潟に対してはそういう声しか出せなくなっていた。
わたしは売春婦じゃない──声に出さずに繰り返す。
「そう怒るな、いつもいってるだろう、これも仕事なんだ」
「わかってるけど、今日は金曜だよ、パパ。齋藤さんとのデートも早めに切りあげて帰ってきてるのに」
「すまん、すまん。ところで、齋藤君はどうだった? いいものを買ってもらったか?」
「時計、買ってもらっちゃった。ダイヤやルビィがはまってて……ちょっと高すぎたかな?」
「そんなことはない。齋藤君もぼろ儲けしとるんだ。二千万や三千万、マミに使っても罰は当たらん」
波潟が笑う。電話をかけてきたときには麻美が出るかどうか心配だったくせに、そのことはおくびにも出さない。
「だったらいいんだけど」
「それよりな、マミ。最近、早紀とは会ってるか?」
「この前、お茶飲んだけど……早紀、どうかしたの?」
「いや、昨日というか、今日の話だが朝帰りしたらしくてな、うちのが心配しとるんだ」
彰洋の顔が脳裏をよぎる。昏い炎が燃えあがる。
「早紀に男でもできたんじゃないかといいやがってな」波潟の声は続く。「マミ、なにか知らんか?」
「マミの知ってるかぎりじゃ、早紀、ボーイフレンドはいないよ。いつも欲しいとはいってるけど。早紀はなんていってるの?」
「友達の家で酒を飲んでつい眠ってしまったといってるそうだ」
早紀──間抜けな女でもやるときはやる。彰洋は怯えていた。早紀の後ろに見える波潟の影に怯えていた。どんな顔をして彰洋をその気にさせたのだろう。どんな仕種で彰洋の気を引いたのだろう。
「早紀がそういうんなら、そのとおりなんじゃないの。嘘つける子じゃないもん。パパは父親なんだから、それぐらいのことわかってるでしょう?」
「おれはなんとも思ってないんだが、うちのやつがどうも心配性でな。マミ、悪いんだが、近いうちに早紀に会って、ちょっと様子を確かめてくれんか」
麻美は唇を歪めた。心配性なのは波潟の方だった。早紀と同い年の麻美を変態じみたやり方で抱いているくせに、早紀に悪い虫がつかないよう常に目を光らせている。
「それぐらい、お安い御用よ。でも、忘れないでよ、パパ」
「なにをだ?」
「仕事が一段落したら、パリに連れていってくれる話」
「わかってる。早紀のこと、よろしく頼んだぞ。明日はゴルフだが、場合によっては夜、時間があくかもしれん。連絡するから家にいてくれるか?」
「そうするよ、パパ。じゃあ、明日ね」
電話が切れた。麻美は明かりをつけた。ラ・フラムが輝きを増す。宝石たちがきらめきはじめる。デパートの前に群がっていた無数の顔。だれもこの時計を身につけることができない。この時計を気前よく買ってくれる男を捕まえることができない。
「わたしは売春婦じゃない」
麻美はいった。
「わたしは自分の力でこれを手に入れたの」
麻美は繰り返した。ラ・フラムを左手にはめた。炎を見つめながら受話器を手にした。電話をかけた。
「彰洋ちゃんと早紀、くっついたみたい」
「そうか。フォローちゃんとしておけよ」
美千隆はそれだけいって電話を切った。
25
ポケベルの液晶に早紀の電話番号が浮かびあがる。彰洋はそっと七桁の数字を消す。
「さっきからよく鳴ってるじゃないか。女からか?」
後部座席──上機嫌な波潟昌男。心臓が縮みあがる。危険な綱渡り。足元に広がっているのは奈落。
「どうせ遊ぶんなら、いい女を相手にしろ。そこらの女といくらやったところでなんの足しにもならんからな」
縮みあがった心臓が早鐘を打つ。波潟は気づいていない。だが、いつか気づかれるかもしれない。
記憶が逆流する。殺風景な彰洋の部屋。肩を寄せ合って酒を飲むふたり。彰洋は早紀の耳たぶを噛んだ。早紀は嫌がらなかった。ミニのスカートから伸びた脚──ストッキングの手ざわりを楽しんだ。スカートの奥に手をさしいれた。早紀は嫌がらなかった。逆にしなだれかかってきた。
無言の抱擁。熱く激しい貪りあい。夜が明けるまでに三度交わり、一度は早紀の口の中に射精した。早紀は嫌がらなかった。交わっては話し、話しては交わった。なにを話したかは記憶にない。熱に浮かされた時間。あがりっぱなしの体温。鮮明に記憶に残っているのは早紀の姿態。早紀は恥じらう。恥じらいながらときに大胆に振る舞う。
夜明けはすぐにやってきた。シンデレラのタイムリミット。早紀よりも彰洋が慌てた。波潟に気づかれるようなことがあってはならない。波潟に疑いを抱かせるようなことをしてはならない。
慌ただしく服を着た。名残を惜しんで抱きあった。タクシーに早紀を乗せた。早紀はいつまでも振り返っていた。
「そういうところは美千隆君を見習った方がいいぞ」上機嫌な声はまだ続いている。「あれは銀座や六本木でもいい女としか遊ばんからな。そういえばどうだ、最近の美千隆君の会社の方は?」
美千隆──昨日、早紀に会う前にかけた電話。波潟の話に注意深く耳を傾けろ。波潟の動きに目を配れ。波潟が会う人間を頭に叩きこめ。
「社長はここのところは接待酒が続いてるようです」
地上げで手に入れた金を銀行屋や役人にばら撒く。それ以上の金を引きださせる。波潟や美千隆にはお馴染みの手口。
「ということは、また新しい土地を見つけたということか?」
「さあ。そこまでは話してくれませんでした。今のところ、ぼくは部外者ですから」
波潟が笑う。
「おれにとってもおまえは部外者だぞ、堤。いくら給料を払ってるとはいえな」
ルームミラーに映る波潟の顔を盗み見る。悪意は感じられなかった。
またポケベルが鳴った。波潟が舌打ちした。足元が揺れたような気がした。
「すみません、社長。ポケベル、切っておきますから」
彰洋は身体を斜めに傾げて頭をさげた。
「うるさくてかなわんな──おい、そこの電話ボックスのところで車をとめてやれ」
波潟は運転手にいった。彰洋に顔を向けた。
「五分だけ時間をやる。どこの女かは知らんが、仕事中にポケベルを鳴らすのはやめるようにいっておけ」
「申し訳ありません」
彰洋はさらに深く頭をさげる。波潟の鞄持ちをしくじるわけにはいかない。
* * *
早紀の電話番号はすっかり頭に刻みこんでいる。
「もしもし」
「堤さん?」
早紀の声は輝いていた。記憶が興奮を伴ってよみがえる。
「困るんだ、早紀さん」
喜びを押し殺して冷たい声を出す。視線の隅に映る波潟がこちらの様子をうかがっている。
「今、お父さんと車で移動してる。十分置きにポケベルが鳴るんで大目玉を喰らいそうだったよ」
「ごめんなさい」早紀の声から輝きが消える──胸が痛む。「声が聞きたかったの」
「ぼくも同じだ」小さな声で囁く。「だけど、今は仕事中なんだ。あとで電話するから」
「ごめんなさい……」
「怒ってるわけじゃないんだ。困ってるだけ……わかってくれるよね?」
「うん」
「後で必ず電話するから」
「うん……堤さん、ひとつだけいい?」
「なに?」
「次はいつ会えるの?」
小さな声──懇願の声。期待の声。愛を表明する声。
体温があがる。
「ぼくも会いたい。できるだけ早く時間を作るから。じゃあ、あとで」
彰洋は電話を切った。車に戻った。波潟は運転手と談笑していた。それでも、安心はできない。
麻美の助けがいる──彰洋は唇を噛んだ。
* * *
「稲村は今度の土日にゴルフに出かけるってことです」
松岡がいった。松岡は波潟の顔を覗きこむようにしていた。池袋西口の小さな喫茶店。明らかにやくざとわかる男が三人。それに波潟と彰洋。他に客はいず、店のスタッフも彰洋たちのテーブルに近づこうとはしない。
「土曜のゴルフはいろんなところからお偉いさんたちが集まってくる接待ゴルフらしいんで、手荒な真似をするのはどうかと思うんですがね」松岡が話しつづける。「日曜は、どうやら仲間うちだけで集まるゴルフらしいんですわ。当然、家を出るのは早朝で、銀行の部下あたりに迎えにこさせるんでしょうから、そんときにさらっちまおうと考えてるんですがね」
拉致監禁の打ち合わせ。窓からは春を思わせる陽射しが降り注いでいる。
「しかし、その部下はどうするんだね?」
波潟が訊いた。
「どうってことはないですよ。どうせ、上司の命令でしかたなくついてきてるだけなんだ。適当に痛めつけてその辺に転がしておいて、稲村にヤキを入れるところを見せつけてやれば、なにもしなくたって口を閉じてますよ」
「本当にそれでだいじょうぶか?」
「こういうエリートってやつらは、暴力にはからっきし弱いって相場が決まってるんです。社長、心配には及びませんよ」
「そこまでいうなら、松岡さん、あんたに任せますよ」
「で、埼玉の志木の方に、うちがケツ持ちしてる故買屋の倉庫があるんですわ。そこがちょうど、稲村の家からゴルフ場までの途中にあるんで、さらったあとはその倉庫に連れこみます。あたりは倉庫街で日曜だし、多少大きな音が出ても気がつくやつはいませんから」
波潟が身を乗りだす。
「殺すのはもちろんまずいが、大怪我をさせるのもご法度ですからな」
松岡が訳知り顔でうなずく。
「わたしら、こういうことにかけちゃプロなんですよ、社長」
「よし、わかった。もう、口は挟まん。全部、あんたに任せましょう、松岡さん」
波潟が彰洋に顔を向ける。小さくうなずく。彰洋は胸に抱えていた鞄を開けて差しだす。この前の失敗──でしゃばった真似は繰り返さない。
波潟が無造作に札束を掴みだし、それをテーブルの上に置いた。
「これは、会長にお渡ししたのとは別の謝礼だ。若い者にうまいものでも食わせてやってください」
札束はざっと見積もって一千万。松岡の顔に下卑た笑みが広がっていく。
「ありがとうございます、波潟社長」
「なに、今日はこのあともあんたの時間を借りるわけだし、これぐらいどうということはない。遠慮せずに受け取ってください」
松岡が小さくうなずく。松岡の右隣にいた男が札束を持参した鞄に入れる。
「そっちの方はもう、手配がすんでますんで……社長ともうお一方《ひとかた》でよろしいんですね?」
「いや、もうひとり。こいつも連れていきたいんだが」
波潟は彰洋に視線を向けた。松岡がそれにつられる──きつい視線。
「こんな小僧を連れていく必要があるんですか?」
彰洋は面食らったまま松岡の視線を外した。波潟からはなにも聞かされていない。波潟は自分の予定をだれにも話さない。波潟のスケジュールを把握しているのは秘書の川田はるかだけだ。
「なにごとも人生経験だよ、松岡さん」
波潟が薄笑いを浮かべた。
「まあ、社長のご意向がそうなら、こっちには文句はありませんが」
松岡は仏頂面になった。
どこへ行くのか。なにが起こるのか。
体温があがっていく。早紀が無性に恋しかった。
* * *
麻布十番の割烹。波潟と例の大蔵官僚。二時間の車内待機──コンビニの弁当、缶コーヒー。次はいつ会えるの?¢°Iの声が何度も繰り返される。
波潟と大蔵官僚が割烹を出てくる。ふたりは波潟の車に乗りこむ。ふたりの顔は赤らんでいる。彰洋は黒子に徹する。
「六本木に向かってくれ」
波潟がいう。車が発進する。
「おもしろいところにご案内しますよ、出口さん」
上機嫌な波潟の声。大蔵官僚──出口の相好が崩れる。
「それは楽しみだな。波潟さんとはゴルフばかりで、なかなか夜遊びをする機会がなかったから」
「これから行く店、出口さんの趣味にあってると思いますよ。お気に召したら、遠慮せずに、また声をかけてください」
「わたしの趣味にあう?」
出口の目が輝く。好色そうな瞳が左右に動く。
「わたしも人に紹介されて、今夜、初めて行くんですがね。秘密厳守の店だということで……」
「六本木界隈でそんなところの噂、聞いたことないですな」
「だから、秘密厳守だといってるんです。だれもが知っているような店に、出口さんのような人を簡単に連れていけませんわ」
「いや、お心配り、感謝します」
胸くそが悪くなるような会話が続く。だが、その会話が何十億、ときに何百億の金を産みだす。金の動きは体温をあげる。
六本木通り沿いの賑やかな一帯からはやや離れたあたりに建つテナントビル。波潟はその前で車をとめさせた。運転手が素速く車を降り、バックシートのドアを開けに行く。
「堤、おまえも降りろ」
有無をいわさぬ口調だった。鞄持ちは従わねばならない。
「彼も行くのかね?」
彰洋が車を降りると出口がいった。
「まだ若いんですが、なかなかできる男でしてね、いろいろ社会勉強をさせてやりたいんですわ。出口さんがお嫌でなければ、一緒に連れていきたいと思っておるんですが」
「口の方はだいじょうぶなのかい?」
「わたしが保証します」
波潟はいった。ただの口からのでまかせ。
「そういうことなら……」
出口はそそくさとビルに足を向けた。
最上階でエレヴェータを降りる。降りた先が店──なんの店かはわからない。看板はない。店名を示すものはなにもない。黒で統一されたインテリア。黒い制服で身を包んだスタッフ。重々しい雰囲気。ウェイティングバーと革張りのソファセットが並んでいる。その奥に分厚い扉があった。
黒服たちが駆け寄ってきて、三人のコートを脱がせはじめた。
「波潟だ。松岡さんから紹介されたんだが」
「承っております。奥へどうぞ」
年|嵩《かさ》の黒服が先頭に立って歩きだす。分厚い扉が開かれた。じっとりと湿り、饐《す》えた空気が鼻をつく。
「係の者がご案内いたします。ごゆっくりどうぞ」
「いらっしゃいませ」
黒いエナメルのボンデージに身を包んだ若い女が微笑む。女は右手にロープを握っている。ロープの先には首輪。首輪は若い全裸の女の首に巻きついている。全裸の女は四つんばいになっている。
「新しいご主人様に挨拶をおし」
ボンデージの女が鋭い声を出す。
「いらっしゃいませ、ご主人様」
全裸の女が弱々しい声を出す──波潟の靴を舐めはじめる。
体温がさがっていく──どこまでもさがっていく。
* * *
出口が奴隷──マゾ役の女をいたぶっている。ぎらついた目、下卑た口調。出口は人前でするSMプレイに没頭している。醜悪でおぞましい。
「まったく、変態どもにはかなわないな」
波潟がブランディを舐めながら呟く。出口がそれに気づいた様子はない。
「この店を見てみろ、堤」
彰洋は視線をめぐらせた。一見すると、銀座の高級クラブのような店だった。違うのは客とホステスの関係、それに、あちこちから聞こえてくる悲鳴とも嬌声ともつかぬ声。客が全裸の若い女を苛《いじ》めていた。ボンデージ姿の若い女が客をいたぶっていた。
眩暈がする。寒気を覚える。
「どいつもこいつも、金を儲けたはいいが、それをどうやって使ったらいいのかわからないんだ。金を儲けて、家を買って、車を買って、海外に旅行に行って、若い女を抱く。そのうち、なにもかもに飽きがきて、こういうところに出入りするようになる」
波潟はきつい視線を出口に向けていた。出口は鞭の握りの部分を全裸の女の性器に押しこんでいた。
「どうだ、九尾の狐だ。嬉しいか、おい?」
「嬉しいです、ご主人様」
茶番だった。女の顔は苦痛に歪んでいた。喜びなど毫《ごう》も感じていない。本物のマゾでもないのに、金のために心と身体を売っている。
二十五になる前にパパの仕事に都合のいい人と結婚させられるの──早紀の声がよみがえる。出口にいたぶられている女の顔が早紀の顔とダブっていく。金のために心と身体を売る──早紀も目の前の女と変わらない。早紀をそうさせたくはない。
「金を掴んだら、どうするつもりだ、堤? 金が欲しくて、齋藤のところに出入りするようになったんだろう? おまえもこういうところに出入りするようになるか?」
波潟がいった。揶揄《やゆ》するような口調ではなかった。テスト──模範解答のないテストだ。
「まとまった金を手に入れたら、もっと多くの金を手に入れるための元手にします。こんなところに出入りしてる余裕はないと思います」
彰洋は答えた。波潟の口許が歪む。
「それで金を増やしたらどうする? その金も元手にしてもっと稼ぐのか?」
「そうです」
「金は使ってこそ金だ。ただ稼ぐだけじゃ、意味がないぞ。そうは思わんか、堤?」
テストは続く。目の前で繰り広げられるおぞましい光景から気持ちが逸れていく──ありがたかった。
「金は金だと思います。大金は力を生みます」
「その力が欲しいのか? だから金を稼ぐのか?」
「わかりません」彰洋は首を振った。「今はまだ、波潟社長や齋藤さんの下で働くのが楽しいだけです」
「楽しいのか?」
「楽しいですよ。齋藤さんの下で働くようになるまでの自分はいったいなんだったんだろうと思います」
「どう楽しいんだ? 綺麗事をいってて金を稼げるわけじゃない。齋藤はおまえに薄汚いことも教えたはずだ。それで金を稼ぐのが好きだというならわかるが……」
「身体が火照《ほて》るような感じになるんです。社長や齋藤さんが、何億、何十億の金を動かしているのをそばで見ていると、身体が火照るんです」
体温があがっていく感覚──波潟なら理解してくれるかもしれない。
「なるほどな」
波潟の口許がまた歪んだ。今度ははっきりとわかった──波潟は微笑んでいる。
「まだ小僧のくせに、おもしろいことを考えているな、堤」
「生意気をいってすみません」
「謝る必要はないぞ。その身体が火照るってのは大事なことだ。それを感じられないか、感じても勘違いしている連中はこういうところに出入りしてるやつらよ。おれのような人間は、カモをこういうところに連れてくる。この違いは大きいんだ、堤。ここに来ている連中は、確かに金を持ってる。だがな、おれが動かしてる金にくらべれば、こいつらが持ってるのは小金だ。こいつらはその小金の使い道さえわからなくておろおろしてる。そんなやつらの金は、むしり取ってやればいい」
「はい」
「だがな、堤。おれや齋藤のように、すでにある程度の金を掴んでる人間っていうのは、そうじゃない連中より金を集めやすいんだ。わかるな?」
「わかります」
彰洋は姿勢を正した。波潟の真剣な眼差しに吸い寄せられる。
「おまえみたいに、なんの元手も持っていない若造が大金を動かすようになろうと思ったら、なりふりかまわないことだ。虫酸《むしず》がはしるようなことでも積極的にやれ。甘っちょろい心に蓋をしてな。おれも齋藤もそうやってきた」
波潟は凄味のある笑いを浮かべた。鬼を思わせる顔つきだった。
「頑張ります」
彰洋は答えた。
「よし。とりあえず、今夜はあの出口にとことん付き合ってやれ。こういうのがおまえの趣味じゃないのは顔色を見ていればよくわかるが、おまえは好き嫌いをいえる立場じゃないんだ。好きなことだけしたかったら、とにかく、金を稼ぐことだ……ちょっと席を外すぞ。便所に行ってくる」
波潟はにやりと笑って腰をあげた。直感──コカイン。波潟はコカインをきめてハイになった頭でこの乱痴気騒ぎに参加するつもりだ。彰洋も参加しなければならない。
背筋が顫えた。出口の姿が視界に舞い戻ってきた。出口は全裸の女の尻を鞭で打っていた。女は泣きながら許しを乞うていた。
彰洋は波潟の後ろ姿を追った。救いが欲しかった。波潟は、入り口の近くに立っていたボンデージ姿の女に声をかけていた。振り返り、彰洋たちの席を指差した。ボンデージの女がうなずき、彰洋の方に向かってきた。
「退屈そうね。女の子を呼ぶけど、どんなタイプがお好みかしら?」
女が彰洋の耳に囁く。
「奴隷を呼んで奉仕させる? それとも、あなたが女王様に奉仕する?」
彰洋は答えなかった。目で波潟を探した。波潟の姿はどこにもなかった。
甘っちょろい心に蓋をしろ──波潟の声が谺《こだま》する。虫酸が走るようなことでも積極的にやれ。
「さあ、どうするの?」
女の催促──逃げ道はない。
「奴隷を呼んでくれ」
彰洋はいった。早紀の寂しげな顔が脳裏を横切って消えた。
* * *
酒に酔った頭──淫猥な空気に酔った頭。神経は麻痺する。思考が停止する。時間の感覚が狂う。
出口が女を連れてホテルに向かうまで、おぞましい宴は続いた。
「疲れたか」
波潟がいう。彰洋はうなずく。ぼろきれのようになった肉体と心。まともにものを考えることができない。
「おまえはものを真面目に考えすぎるんだ」
波潟がいう。言葉は耳を素通りする。
「まあ、おれのところに二、三年もいれば、筋金が一本入るようになる」
波潟がいう。視界が少しずつクリアになっていく。
「しかし、なんだな。SMってのはそれほど好きじゃないが、女王たちの恰好はそそるものがあるな。マミに着せたら似合いそうじゃないか」
波潟がいう。麻美のボンデージ姿を想像する──悪くはない。早紀のボンデージ姿を想像する──そぐわない。首輪をはめられた早紀の姿を想像する──早紀が悲しそうに彰洋を見る。
「何年か経ったら、マミにこういう店をやらせるのもいいかもしれないな」
波潟がいう。波潟は饒舌になっている。コカインがそうさせている。
麻美に助けを求めなければならない。波潟にくっついてまわる。波潟の動向を美千隆に報告する。早紀と危険な綱渡りを続ける。
ひとりでは負担が大きすぎる。麻美の助けがいる。
「マミの身体を楽しめるのも、もってあと一年がいいところだからな。あれは手切れ金だけじゃ満足せんだろうから、こういう店を持たせてやるのも一考かと思うんだが、どうだ、堤?」
「麻美──マミを捨てるんですか?」
「当たり前だろう。女は年を取るたびに価値が減っていくんだ。目減りする財産なら、金になる内に処分するのが当然だ」
波潟が笑う。波潟の顔には思いやりのかけらも浮かんではいない。
麻美の助けがいる。麻美にも彰洋の助けがいる。
彰洋は目の前にあったブランディグラスの中身を一気に飲み干した。
* * *
解放されたのは午前一時──SMクラブには三時間ほどいた計算になる。だが、身体は二十四時間ぶっ通しで走り続けたかのように疲労していた。手には鞭の感触が残っている。
薄汚れた身体──おぞましい心。
早紀の声が聞きたかった。早紀に会いたかった。早紀のゆるしを乞いたかった。全裸で鞭打たれていた女たちのように。
麻美の助けがいる。麻美にも彰洋の助けがいる。
マンションに戻り、麻美に電話をかけた。繋がった回線はすぐに留守番電話に切り替わる。
「くそっ」
苛立ちながら、留守番電話のメッセージが終わるのを待った。
「麻美、おれだ。彰洋だ。頼みがある。今夜、早紀がおまえのところに泊まってたことにしてくれないか。頼むよ。それから、近々に時間を作ってくれ。話したいことがある」
電話を切った──電話をかけた。
「もしもし?」
早紀はすぐに出た。
「早紀さん? 堤だけど」
「仕事、今終わったの? パパったら人使いが──」
「会いたい。今すぐ」
早紀の声を遮っていった。
「堤さん?」
「会いたいんだ。おれのマンションに来てくれ。頼む」
「もう、一時を過ぎてるのよ。ママもまだ起きてるし……」
「来てくれるのかくれないのか? どっちなんだ?」
彰洋は声を張りあげた。まるで女をいたぶっているときの出口のような声だった。
「行く」早紀の声が返ってくる。「できるだけ早く行くから、待ってて」
彰洋は受話器を電話にかけた。ベッドの上に大の字になった。
行く──早紀の声は毅然としていた。
どっちなんだ?──彰洋の声は駄々をこねるガキのようだった。
「甘っちょろい心に蓋をしろ」
彰洋は天井に向かって声を出した。
「美千隆さんと一緒に王国を作るんだろうが?」
声は天井に吸いこまれていく。彰洋は上体を起こし、ベッドのマットに拳を叩きつけた。
26
ラ・フラム──左の手首で燃えている。選ばれた人間にしか身につけることのできない炎。
炎を見つめ、呟く──わたしは売春婦じゃない。
心が決まった。
* * *
美千隆によると、稲村には波潟が雇ったやくざの監視がついている。やくざは麻美のことを知らない。だが、行動は慎重にする必要がある。
美千隆からの指示──稲村は週に三度、銀座のスポーツジムに通う。ゴルフのための筋肉トレーニングと水泳をする。スポーツジム──暴力団関係者と刺青の方お断り。
ジムで稲村に近づけ。誘惑しろ。ジムの会員登録はすでにすませてある。
美千隆は手際がいい。いつだって手際がいい。
稲村はダンベルを使って腕の筋肉を鍛えていた。鏡の前──神経質そうな顔がナルシシズムにひたっている。Tシャツの袖を捲《まく》りあげて逞《たくまし》くもない筋肉を誇示している。そのくせ、Tシャツは大きめのサイズ──中年太りの下腹を気にしている。
稲村を落とすのは簡単だった。初心者の振りをしてマシンの使い方を訊ねる。稲村は麻美のレオタードに下卑た視線を這わせる。少し頭の弱い女を装おう──金とセックスしか頭にない女を演じる。わたし、中年の人に弱いの──ファーザー・コンプレックスをまぶしてやる。
稲村はすぐに釣り針を飲みこんだ。翌日のランチの約束──ホテルで食べたいと麻美はいった。真昼の東京を見おろすホテルの部屋で、ふたりきりで食事を楽しみたい。
稲村は盛りのついた種馬だった。不審を現すこともなく承諾する。
麻美は部屋に戻り、入念に身体を洗った。稲村の無遠慮な視線──身体にまとわりついているような気がする。
美千隆に電話をかける。
「うまくいったわ」
「よくやってくれたな、マミ」
「まだよ。本番は明日なんだから」
「波潟にババを引かせよう」
「わかってる」
電話が切れた。麻美はラ・フラムを手に取り、手首にはめた。部屋を出た。
六本木界隈を蝶のように舞う。
スノッブなレストランバー、スノッブなディスコ、スノッブな男たち、女たち。
男たちは麻美と寝たがる。女たちはラ・フラムを羨む。
「わたしと遊びたいんならお金がかかるわよ」男たちにいった。
「値段は問題じゃないの。プレゼントしてくれた人の気持ちが大切なのよ」ラ・フラムを見せびらかしながら女たちにいった。
眉を顰《ひそ》める者がいた──怒りが湧いた。目を輝かせる者がいた──女王になったような気がした。
六本木界隈を蝶のように舞いつづける。
色とりどりのカクテル。色とりどりのドラッグ。ハシシの回し吸い。覚醒剤には手を出さない。コカインには手を出さない。ハードドラッグはコカインで異様な興奮状態に陥る波潟を思いださせる。
ヘロイン──最高のブツだぜ──だれかがいう。最高≠ニいう言葉がハシシに酔った頭の中を飛び交う。わたしには最高の物が似合う──麻美はヘロインの包みを受け取り、バッグの中に放りこむ。
蝶のように舞いつづける──疲れ果てて部屋に戻る。電話の留守番メッセージランプが点滅している。
「麻美、おれだ。彰洋だ。頼みがある。今夜、早紀がおまえのところに泊まってたことにしてくれないか。頼むよ。それから、近々に時間を作ってくれ。話したいことがある」
彰洋の声が流れる。彰洋は苛立ち、焦っている。
ハシシの酔いが醒める。
今ごろ、彰洋と早紀は抱きあっている。燃えるような情熱をぶつけあっている。
麻美は明日、冴えない中年男と寝る。金のため──自分の人生を買い取るため。
麻美はラ・フラムを手首から外した。丁寧に時計ケースにしまいこんだ。手近にあった時計ケース以外のありとあらゆるものを壁に向かって投げつけた。
* * *
電話の呼びだし音で目が覚めた。
「マミか? おれだ」
波潟の声が鼓膜を顫わせた。胃がむかつきはじめた。ひどい宿酔《ふつかよい》だった。時計を見る──午前九時。
「どうしたの、こんな時間に?」
「ひどい声だな。昨夜は飲みに行ってたのか?」
彰洋の留守番電話を思いだした。
「うん、酔っぱらって調子に乗って早紀を呼びだしちゃった」
「そうか」波潟が安堵したような声を出した。「早紀のやつ、昨日の真夜中に出かけて、また朝帰りしたらしいんだ。うちのやつがカンカンでな」
「早紀、わたしが寝てるうちに帰っちゃったんだ。相変わらず真面目だね」
頭痛がする。胃のむかつきはこらえがたい。それでも、芝居は続けなければならない。
「おまえと一緒にいたんなら問題はないがなあ……」
「うまい言い訳考えないと、奥さん、気づいちゃうかもね」
「他人事じゃないぞ。それで、どうだ? 早紀に訊いてみてくれたか?」
「彼氏のことでしょう? それとなく訊いてみたけど、あの様子じゃ、早紀、彼氏はいないんじゃないかな。この前朝帰りしたのも、久しぶりに友達に会って、バーで話しこんでるうちに気がついたら朝だったんだって。慌てて家に帰ったっていってたよ」
痛む頭──裸で抱きあう彰洋と早紀の姿が横切る。吐き気がたえがたくなる。
「そうか。それならいいんだがな」
「パパ、ごめん。ちょっと気持ちが悪いから、またあとで電話する」
「今日は電話に出ている暇はない。明日と明後日の夜は家にいてくれ。二日ともというわけにはいかんが、必ずどっちかの夜に寄るからな」
「わかった。明日か明後日ね」
麻美は電話を切った。トイレに駆けこみ、吐いた。吐いている間中、彰洋と早紀の姿が脳裏から離れなかった。
* * *
電話が鳴る──十時半。
「仕度はできてるか?」
美千隆の事務的な声。
「まだだけど……」
吐いて吐いて吐きまくったあとの荒れた喉──声が干からびている。
「なんだ、その声は?」
美千隆の言葉がきつくなる。
「昨日飲みすぎたの」
「馬鹿野郎。やる気があるのかよ?」
「しょうがないじゃない。寝たくもない男と寝なきゃならないんだよ。ひとりでいると、どんどん嫌な気分になってくから、出かけたの。悪い!?」
「気持ちはわかるが、マミ、これは冗談じゃないんだ。おまえに嫌な思いをさせるのも、全部、おれたちの未来のためだ。わかってるだろう」
美千隆の口調が和らいだ。
「わかってるよ。だけど……」
「わかってるならいい。もう、責めないよ。その代わり、あとのことはちゃんとやるんだ。いいな?」
「うん」
「稲村は今朝、ニューオータニに予約を入れた。部屋はタワー館の三〇一五号室だ。もう、隠しカメラを仕掛けてある」
「どうやって?」
「金とコネを使っただけだ。隠しカメラのシャッターはベッドのサイドボードの裏側に取りつけてある。ベッドのすぐ脇にあるから、それほど不自然にならずに押せるはずだ。それと、ベッドに盗聴器も仕掛けてある。チェックインしたら確かめておいてくれ」
美千隆の声が事務的なそれに戻っていた。
「わかった……ねえ、美千隆」
「なんだ?」
「写真、見るの?」
「見る。おまえは見られたくないだろうが、見る。見ない方がおまえに悪い」
「よくわからないよ、それ」
「稲村をせいぜい喜ばせてやれ。その方がおれにもやる気が出る」
美千隆の口調はくるくる変わる。事務的になり、感情的になる。どちらが本当の美千隆なのかがわからなくなる。
「美千隆、嘘でもいいからいって。わたしのこと、愛してるって」
「おまえとおれに愛なんて安っぽい言葉は似合わない。おまえはおれのパートナーだ。それだけじゃ不足か?」
美千隆はいってくれない──わかっていた。だからこそ、惹かれている。
「ううん。その方が美千隆らしいよ」
「頑張れ、マミ。嫌な思いをすればするだけ、見返りは大きいんだ」
「そうだね」
麻美はいった。これまで身体を与えてきた男たちのことを思った。だれもかれもが中年だった。金を持っているのは年を食った男だからだ。ある程度年を取った男たちはいつも執拗だった。その執拗さにおぞましさを覚えた。中でも執拗なのは波潟だった。麻美に一番金を与えてくれたのも波潟だった。
嫌な思いをすればするだけ、見返りは大きい──美千隆との関係に嫌なことはなかった。だが、それだけではだめなのだ。なにも持たない者がなにかを求めるのなら、そこに犠牲がついてまわる。
「頑張るよ、美千隆」
麻美はいい、電話を切った。
* * *
宿酔で蒼ざめた顔をファウンデーションで覆い隠す。ラ・フラムの代わりにカルティエをはめる。スーツはラルフ・ローレン。中年男にたかる女子大生には似つかわしい。
ニューオータニのフロントで稲村の名前を告げると、すぐに部屋に案内された。
三〇一五号室──こぢんまりとしたジュニアスイート。客室係は自慢げだったが、波潟や美千隆の泊まるスイートに慣れている目にはいかにも安っぽかった。
客室係を追いだし、部屋をチェックする。
キングサイズのダブルベッド。両脇にサイドボード。両方のサイドボードのパネルの裏にかすかなでっぱり──隠しカメラのシャッター。
ベッドとマットの間に手を突っこむと指先が小さな突起に触れた。
「聞こえてる、美千隆?」
麻美はベッドに向かって呟く。両脇の三〇一三号室か三〇一七号室、あるいは廊下を挟んだ三〇一四号室に美千隆はいる。息を潜め、麻美と稲村の睦言に耳を傾ける。
「盗み聞きしてて、わたしとしたくなってもしらないから」
麻美はバスルームに向かった。鏡でメイクをチェックする。問題はなかった。いつもよりファウンデーションが濃いが、稲村に普段の自分の顔を見せることはない。
ルージュを塗り直し、鏡に向かって呟く。
「わたしは売春婦じゃない」
麻美は左手に視線を落とした。ラ・フラムをはめてこられなかったのが残念でしかたがなかった。
* * *
稲村は気取ろうとしていた。無駄な努力──麻美は思わせぶりに微笑んだ。稲村の顔が紅潮した。
慌ただしい食事──おざなりな会話。
学校は? 専攻は? 出身地は? ご両親は? ボーイフレンドは?
稲村の視線は麻美の太股の上を這う。その視線は、稲村が本当は口にしたかった言葉を雄弁に物語る。
いい身体してるじゃないか。まだ若いのに相当あれが好きなんだろう。あれと金が好きなんだろう。金さえもらえればなんでもするんだろう。
なんでもしてあげるわよ──麻美は口に出さずに呟く。お金のためだから。お金のためだと割りきれるから。ただし、勘違いしないで。わたしが欲しいのは、あなたが持ってるようなちんけな額のお金じゃない。
麻美はルームサーヴィスの皿が載ったワゴンを押しやった。稲村の首に両腕をまわした。
「稲村さん、あんまりお時間ないんですよね?」
芝居の時間──頭が弱くて、金にも弱くて、尻が軽い女を演じる。お手の物の演技。今日はさらに磨きがかかる。盗聴している美千隆にあられもない声を聞かせてやる。美千隆に嫉妬させてやる。
「あ、ああ。そんなにゆっくりもしてはいられないが……」
「ベッドに連れていって」
耳元で囁く──軽く耳たぶを噛む。稲村の身体が、電気が走ったかのように顫える。
稲村は麻美を抱えて立ちあがった。マッチョを演じなければならない貧弱な中年男──よろめきながらベッドルームに向かう。
麻美は稲村の唇を吸った。稲村の口からは嫌な口臭がした。
「服を脱がせて」麻美はいう。
「キスをして」麻美はいう。
稲村はいいなりになっている。荒い呼吸を繰り返している。麻美を全裸にすると溜め息をついた。
「本当に、いいのかな?」
曖昧な笑顔を湛《たた》えた顔──かすかに顫える声。狂乱の好景気の恩恵を受けている中年男──現実を見る目にフィルターがかかっている。
「来て」麻美は稲村に向けて両腕を突きだした。「わたしをぐちゃぐちゃにして」
稲村がうなり声をあげて抱きついてきた。
* * *
稲村のペニスは仮性包茎だった。小さかった。尿の匂いがした。
麻美は稲村のペニスをくわえた。稲村が呻いた。麻美はサイドボードに手を伸ばした。小さなスウィッチを押した。
カシャ──シャッター音は稲村の呻きにかき消される。
稲村は麻美の全身を舐めまわした。特に性器を念入りに。
「凄く濡れてきたぞ」
稲村は嬉しそうに麻美の顔を覗きこんだ。感じてなどはいなかった。稲村の唾液で濡れているだけだった。
「もっと舐めて。いっぱい舐めて」
麻美は稲村の顔を自分の股間に押しつけた。右手をサイドボードに伸ばした。甲高い声をあげた。
カシャ──シャッター音は麻美の声にかき消された。
稲村は闇雲に腰を動かした。
「どうだ? いいか? 感じるか?」
「後ろからして」
麻美はいった。四つんばいにさせられた姿勢で顔だけ稲村に向けた。
「もっと突いて。すごく感じるの」
稲村は目を閉じて腰を動かした。麻美はサイドボードに手を伸ばした。稲村の動きにあわせて声をあげた。
カシャ、カシャ──シャッター音はかき消された。
「出るぞ」
稲村が叫んだ。
「中で出して」
麻美は応じた。波潟は避妊具が嫌いだった。いつもピルを飲んでいた。
稲村が獣じみた声を張りあげた。麻美は太股に力を入れた。括約筋が収縮する──絶頂に達した演技。サイドボードのシャッターを押す。
カシャ、カシャ、カシャ──稲村が麻美に体重を預けてきた。稲村のペニスが麻美の膣から抜け落ちた。
麻美は稲村を押しのけた。バスルームに駆けこんだ。膣から流れでた精液が太股を伝わる──おぞましい感覚。涙腺が緩みはじめる。
麻美はシャワーを浴び、涙と精液を洗い流した。
* * *
「また会えるかな?」
稲村がいった。名残惜しそうな表情だった。自分が立っている現実がまるで見えていない。数日後、稲村は波潟が雇ったやくざに痛めつけられる。そのあとは、今日の写真をネタに、美千隆から脅しをかけられる。
麻美は苦痛に泣き叫ぶ稲村を想像した。閉ざされた自分の未来に絶望する稲村を想像した。
気分が良くなった。
「また連絡するね、稲村さん」
麻美は稲村の頬にキスをした。振り返らずに部屋を後にした。
エレヴェータでロビィに降りると、美千隆が待っていた。
「お疲れさん」
美千隆が口を開いた。
「こんなときにこんなところで待ってるなんて、趣味悪いわよ、美千隆」
「とっとと帰ってればよかったのか?」
麻美は唇を噛んだ。
「稲村を見張ってる連中がいるから、一緒には帰れない。気をつけてな」
美千隆は麻美に背を向けた。
「馬鹿」
麻美はいった。
「本当に頑張ったよ、マミ。よくやってくれた」
美千隆は麻美に背を向けたままいった。美千隆の足はとまらなかった。
「馬鹿」
麻美は美千隆の背中に同じ言葉を浴びせかけた。美千隆は振り返らなかった。
27
「最近、早紀が朝帰りをするようになってなあ」
波潟がいった。心臓が凍りついた。
「ボーイフレンドでもできたんですかね?」
声が顫えないように祈る。
「どうもそうじゃないらしいんだ。昨日はマミと一緒にいたらしい」
麻美の留守番電話に入れたメッセージ──麻美は彰洋を助けてくれた。
「麻美とですか? だったら、なんの心配もないじゃないですか」
「しかしな、今まで朝帰りなどしたことがなかったんだぞ。親としちゃ、心配だ。悪い虫でもついておるんじゃないかと思うと、気が気でなくてな」
凍りついたままの心臓──息をするのもやっとだった。
「早紀さんならだいじょうぶだと思いますよ。見た目よりしっかりしてるみたいですし」
「おまえもそう思うか、堤?」
波潟が身を乗りだしてきた。奇妙な表情がいかつい顔にへばりついていた。娘を思う親の顔だ。情け容赦ない地上げ屋の表情は消えていた。
「ほんのちょっと話をしただけなんで、実際のところはわかりませんが、六本木のディスコなんかに来ている女の子にくらべれば、よっぽどきっちりしてると思いますけど」
「だったらいいんだがな……子供を作るつもりなら男にした方がいいぞ、堤。娘を持つと、悩みが増えてろくなことにはならん」
「だけど、社長は早紀さんが可愛くてしょうがないんじゃないですか」
「当たり前だ」波潟はシートに背中を預けた。「今日は定時にあがっていいぞ。土日もゆっくり休め」
波潟の顔つきが変わって、地上げ屋の表情が戻ってくる。
「ですが、日曜は……」
彰洋は言葉を濁した。ルームミラーに映る波潟が探るような視線を彰洋に向けていた。
「齋藤についていくようにいわれたのか?」
「いえ、そんなことはありません」
彰洋はいった。事実だった。昨日は早紀と一緒だった。ずっと抱きあっていた。美千隆に電話をすることすら忘れていた。
「まあ、おまえが齋藤になにを報告しようと、おれは一向にかまわんがな。おまえも齋藤も、お釈迦様の掌の上で踊る孫悟空みたいなもんだ。なにをどうしようが、お釈迦様にはかなわん」
「うちの社長からは、波潟社長のやり方を盗んでこいとはいわれてます。ただ、だからといって、スパイみたいな真似をしてるわけじゃ……」
「いいわけはいらんぞ、堤。これはな、おれと齋藤でやってるゲームなんだ。お互いにルールはわかっている」
「はい」
彰洋は短く答えた。
「齋藤はスパイごっこをさせるためにおまえをおれに押しつけた。おれはそれを知ってておまえを引き受けた。二十そこそこのガキなどどうにでもできるからだ。だがな、堤、なんでかは知らんが、おれはおまえを気に入った。まだまだガキで覚えなきゃならんことが腐るほどあるが、今どきのガキでおまえほど熱心なやつはおらん。楽して金を儲けようとする馬鹿ばかりだ」
彰洋はうつむいた。なんと答えればいいのかわからなかった。
「今はまだいいがな、堤。おまえが齋藤になにをどうしようと、おれは一向にかまわん。しかし、そのうち決めなきゃならんときがくるからな」
「なにを決めるんですか?」
ルームミラーいっぱいに波潟の笑顔が広がる。
「おれと齋藤のどっちを取るか、だ。堤、そうなったときにおまえが齋藤を選んだら、おれはおまえをゆるさんぞ」
ルームミラーに映る笑顔──鬼の恫喝。背筋に電流が走る。だが、波潟は知らない。早紀のことを知らない。早紀と彰洋が昨日、愛し合ったことをしらない。波潟は万能ではない。
彰洋はルームミラーから目を逸らした。波潟に気づかれないように唇を舐めた。
危険な綱渡りを続けていることにかわりはない──頭を使え。波潟が望んでいる答えを探せ。
答えはすぐに見つかった。
「どうすればいいのかは、まだわかりません」
波潟が声を出して笑った。
「そう切り返してきたか、堤。気に入ったぞ。よし、日曜日はおれと一緒だ。金を儲けるということがどういうことか、おまえにしっかり叩きこんでやる」
波潟は笑いつづけた。彰洋はため息を漏らした。
* * *
早紀に電話をかけた。──必要もないのに小声で囁いた。一時間以上の他愛のない会話。胸が高鳴り、締めつけられる。
まるでガキのようだ──彰洋は思う。おまえはまだガキだ──幻聴が聞こえる。声は波潟のものだった。
名残を惜しみながら電話を切る。電話をかける。
MS不動産──美千隆は留守だった。
センチュリーハイアット──美千隆は不在だった。
美千隆のポケベルを鳴らす──返事は来ない。
麻美──待ち構えていたかのように回線が繋がる。
「麻美? おれだよ」
「なんだ、彰洋ちゃんか」
麻美の声には覇気がなかった。
「どうかしたのか? 声がおかしいぞ」
「なんでもないよ。宿酔《ふつかよい》なだけ。気分最悪に悪いのに、朝から波潟に叩き起こされて、早紀が昨日どこにいたか知らないかって聞かれたせいかも」
「助かったよ、麻美」
「だったら、お礼にどこか連れてって」
「宿酔なんだろう?」
「知らないの、彰洋ちゃん。こういうときは迎え酒飲むんだよ」
麻美は小さく笑った。そぐわない。麻美は無理に明るく振る舞おうとしている。
なにがあったのか──彰洋は言葉を飲みこんだ。麻美は悩みがあれば自分から口にする。口に出さないときは聞かれたくないときだった。
「どこに行きたい?」
「昨日は六本木に行ったから、別なところがいいな」
「だったら、新宿か渋谷かな」
「横浜がいいな。彰洋ちゃん、車出してよ。横浜までドライヴしよう」
麻美は甲高い声を出した。宿酔とはとても思えなかった。
* * *
「例の地上げでボーナス入ったんでしょう? 新しい車買いなよ」
車は首都高を横浜へ向かっていた。麻美ははしゃぎ続けていた。
「なあ、麻美、なにかあったのか? 今日のおまえ、変だぞ」
「別になにもないよ。ねえねえ、フェラーリなんかどう? けっこう、彰洋ちゃんに似合う気がする。ベンツってタイプじゃないじゃない」
「麻美──」
「彰洋ちゃんに相談してどうにかなることだったら相談してるよ」
麻美の横顔が険しくなった。
「美千隆さんとなにかあったのか?」
「その話はやめ。車、なに買う? 買うとき、わたしも連れていってよ。カッコいいの選んであげる」
険しかった横顔が無邪気な笑顔に変わる。まるで手品のようだった。仕掛けがあることはわかっている。だが、仕掛けの実体はわからない。
「麻美──」
「うるさいよ、彰洋ちゃん。気分転換に付き合ってもらってるんだから、嫌なこと思いださせないでよ」
「本当にだいじょうぶなのか?」
「マミはだいじょうぶ。いつだってだいじょうぶなんだから。彰洋ちゃんとは違うのよ」
麻美は強がりをいっていた。そんな麻美を見るのは初めてだった。
「だったらいいけどな……」
彰洋はいった。そういうしかなかった。
「ね、車、なに買う?」
「おれはこれでいいよ」
中古で買ったセリカ──愛着があるわけではないが、不満があるわけでもない。
「だめだよ、こんなダサい車。ボーナス、いくらもらったの?」
「五百万。フェラーリなんか買えっこない」
「たったの五百万? 美千隆もケチだね」
美千隆の名前を出した瞬間、麻美の声がわずかに低くなった。
麻美と美千隆の間になにかがあった──間違いはない。
「馬鹿いうなよ。おれぐらいの年で、定期ボーナス以外に五百万もボーナスもらうやつはいないぜ。元々の給料だって安くはないし、このままだと、おれ、年収一千万超える。そんな会社、他にはないだろう?」
「そんなこと関係ないよ。彰洋ちゃんのおかげで美千隆、何十億も儲けたんでしょう? 五百万じゃ割に合わないじゃない」
「割に合うとか合わないとかで働いてるわけじゃないぜ、麻美」
「ガキなんだから、もう。そんなことばっかりいってると、いつまで経っても大金持ちになれないよ」
「ならなくてもいいよ」
彰洋は思わず呟いた。馬鹿にされそうな気がして、麻美の横顔を盗み見た。麻美は微笑んでいた。
「彰洋ちゃんって馬鹿。だけど、馬鹿だから美千隆とか波潟が気に入るんだよね」
大型のトラックがセリカを追い抜いていった。ヘッドライトが一瞬、麻美を照らしだした。麻美は微笑んでいたが、その微笑みはどこか寂しげだった。
* * *
本牧のバー。アメリカ人たち。アメリカ人に群がる日本の女たち。おカマたち。ビールの匂い。吐瀉物の匂い。マリワナの匂い。ヘロインの匂い。内臓をかき回されるようなヘヴィロック。下卑た英語。たどたどしい英語。店内は喧騒に満ちている。だが、他者の言葉が明確に耳に届くことはない。
どこからともなく紙巻きの大麻がまわされてくる。彰洋は大麻を吸った。麻美は吸わなかった。
「やらないのか、麻美?」
「波潟がコカインやってるの、知ってるでしょう?」
彰洋はうなずいた。
「あれ見てると、なんかドラッグやるのいやになってくるんだよね」
麻美はグラスの中身を指で掻き回した。コカインでぶっ飛んだ波潟、その波潟に抱かれる麻美。妄想が頭の中を駆け抜けていく。
「まあ、やったってたいしたことはないからな」
彰洋は大麻をもう一度吸いこみ、吸い差しをカウンターの中の人間に渡した。
「早紀とはどうなってるの?」
麻美の不意打ち。いつその質問が飛んでくるのかと待っていた。
「うまくいってるよ」
「早紀、可愛いでしょ?」
ふいに、大麻がまわりはじめる。自分の呼吸と麻美の声以外、なにも聞こえなくなる。麻美の顔の筋肉の動きのひとつひとつを、視神経が明瞭に捉えていく。
「ああ」
麻美の横顔──微笑み──左目の下がかすかに痙攣している──麻美は視線をグラスに向けている。
「昨日は早紀と一緒だったんでしょう?」
左目の下の痙攣が大きくなっていく。
「昨日、波潟のお供で、六本木のSMクラブに行った」
左目の下の痙攣がとまる。麻美は視線をゆっくり彰洋に向けた。
「SMクラブ?」
「SMクラブさ。でも、実際は売春クラブだ。内装で清潔さを装っていたけど、薄汚い場所だった」
「彰洋ちゃん、そういうの好きじゃないもんね」
「店を出て、波潟と別れた途端、惨めな気分になった。早紀に会いたくなったけど、波潟が恐くて先に麻美に電話した。おれも薄汚い」
ウィスキィと大麻のダブルパンチ──言葉が口から溢れでる。
「いいよ、別に気にしなくても」
「だけど──」
麻美の視線がまっすぐ彰洋を射ている。言葉が宙に浮く。
「だけど、なによ?」
「たぶん、麻美は昨日、嫌なことがあったんだ。それなのに、おれは自分のことしか考えてなかった」
麻美が笑った。刺《とげ》のある笑い方だった。左目の下がまた痙攣していた。
「なによそれ。彰洋ちゃん、マミのお兄ちゃんとか父親になってるつもり?」
「友達だよ」彰洋はいった。「麻美はおれの友達だ。早紀に訊かれたんだ。どんな友達がいるのかって。考えたけど、おれには麻美しかいなかった」
「彰洋ちゃん、昔から友達が少ないタイプだったもんね」
「友達は数が多けりゃいいってもんじゃない。そうだろう?」
大麻が完全に効いている。饒舌をとめることができない。
「でも、彰洋ちゃんは少なすぎるよ。なんでか知ってる?」
「どうしてだ?」
「彰洋ちゃんは傲慢なのよ。だから、嫌われるの」
「おれは傲慢か?」
「傲慢だよ。勝手に人のこと決めつけて、自分が悪いとかいっちゃったりして。マミだからいいけど、そうじゃない人だったら、何様だよって思うんじゃない?」
「そうか……」
麻美は正しい。いつだって彰洋は反論できない。大麻──意識が酩酊していく。
「たぶん、おれは嫌なやつなんだろう。でも、とにかく、おれには友達は麻美しかいないんだ。今日もさ、波潟がいってたんだ。最近、早紀が朝帰りするようになったって。波潟、おまえに電話したんだろう? おまえ、早紀は自分と一緒だったっていってくれたんだろう?」
「彰洋ちゃん、酔ってるよ。さっきの葉っぱでいっちゃったの? そんなに吸ってないでしょう?」
意識が混濁する──おかしい。さっきの大麻──中にヘロインが仕込んであったのかもしれない。
「SMクラブで波潟がいったんだよ、麻美。あと、二、三年したら、麻美にこんな店をやらせるのもいいなって」
「どういうこと、それ?」
「波潟はそのうちおまえを捨てるつもりなんだよ、麻美」
「うそ」
言葉が耳の奥で反響する。フィルターのかかった視界──意識。麻美の顔のズームアップ。左目の下の痙攣が頬全体に広がっている。
「波潟はコカインをやってたんだ。調子に乗って、はっきりそういった」
「うそよ、そんなの。コカインでハイになっちゃって、思ってもいないこと口にしたんでしょう」
酩酊していた意識が突然、加速する。記憶のフラッシュバック──SMクラブ。ピンヒールで腹を踏ませていた波潟。波潟の口から溢れでていた言葉。
「波潟はこういったぞ、麻美。女は年を取るたびに資産価値が減るんだ。目減りする資産なら、金になるうちに売り払ったほうが得だってな」
言葉がとまらない。なにもかもが加速していく。
「やめてよ! どうしてそういうこというわけ?」
麻美の叫び声が耳の奥底で共鳴する。まるで地獄で足掻いている亡者の断末魔のように聞こえた。
「麻美──」
「彰洋ちゃんはいいわよ。男だもん。波潟や、美千隆さんの下で仕事覚えて、年取ってもそれで食べていける。それだけじゃないよ。うまくいけば、年を取れば取るほどお金を稼げるようになるかもしれないじゃない。マミは違うんだよ」
麻美の声が耳に絡みついてくる。
「だからおれは──」
彰洋自身の声──虚ろだった。加速していたなにもかもが急速に停止したような感覚が全身を包んでいた。はっきりしているのは聴覚と視覚だけだった。麻美の頬の痙攣──皮膚が波打つさまがはっきりと見えた。
「いつも不安なんだよ、マミ。マミのやってること、立派なことじゃないかもしれないけど、マミにはこれしかない。波潟みたいな男に取り入って、お金をもらうしかない。嫌なこととか、嫌な思いとか、全部飲みこんでるんだよ。年を取ったら捨てられるってこと、わかってる。でも、それを考えはじめたら不安でしょうがなくなる。それなのに、彰洋ちゃんにそんなこといわれたら、マミ、どうすればいいのよ?」
波打つ麻美の頬の上を涙が流れ落ちていく。
停止していた感覚がゆっくり動きだしていく。
「麻美──」
彰洋は絶句した。自分が目にしていることを理解するのに時間がかかった。
麻美は泣いていた。彰洋をまっすぐ見据え、瞬きひとつしない目から涙を溢れさせていた。麻美が泣くのを見るのは初めてだった。
動きだした感覚──すべてが心臓に収斂《しゆうれん》する。胸が締めつけられる。
「麻美──」
彰洋は麻美に手を伸ばした。麻美の顔を流れ落ちる涙が彰洋の指を濡らした。
28
エルメスのバッグの中の小さなビニール包み──ヘロイン。持っていることすら忘れていた。だが、彰洋から電話がかかってきた途端に思いだした。
身体には稲村のおぞましい感触がまだ残っている。美千隆からの連絡はない。
汚された身体──踏みにじられたプライド。ラ・フラムを眺めていても癒されることがない。
電話の彰洋ははしゃいでいた。幸せそうだった。妬《ねた》ましかった。
何度も早紀に電話しようとし、その度に思いとどまった。早紀の幸せそうな声を聞けば、すべてをぶち壊しにしてしまいかねない言葉を口にしてしまいそうだった。
電話をする代わりに考えた。
彰洋と早紀はくっついた──思惑どおり。だが、それだけでことがうまく運ぶわけではない。
彰洋は頭が固い。美千隆が彰洋と早紀の関係をなにかに利用しようとすれば、彰洋は戸惑い、悩み、苦しむ。最終的に美千隆の意を汲むとしても、時間がかかる。
波潟がしたババ抜きの話──波潟にババを掴まそうと思ったら、悠長なことはしていられない。
彰洋の首根っこを押さえてやる。その時がきたら、有無をいわせないようにしてやる。
ヘロインが役に立つ。ヘロインと麻美の演技で彰洋はめろめろになる。
麻美は紙巻きの大麻を調達した。大麻の葉をほぐし、少量のヘロインをまぶして紙を巻き直す──準備完了。
作業が終わったときには嫌な気分は消えていた。ラ・フラムはつけずに部屋を出た。
* * *
横浜までのドライヴ──妙に饒舌な彰洋。早紀と持った幸福な時間を後ろめたく思っている。時間が経つごとに、彰洋は落ち着きを失っていく。
麻美は暗い表情を作っているだけでよかった。いつもとは違う態度を時に見せるだけでよかった。
本牧のバーについてすぐ、麻美はトイレに駆けこんだ。トイレの近くにいた、いかれた感じの店員に声をかけた。
「これ、ほしくない?」
手にした大麻に注がれる視線が熱かった。
「マジっすか?」
「ひとつだけ条件があるの。わたしの連れが吸うように、みんなでまわし喫《の》みしてほしいのよ」
店員はうなずいた。大麻を店員に渡し、麻美は席に着いた。相変わらず饒舌な彰洋。後ろめたく思う必要のないことに悩んでいる。
十字架の呪い──麻美は思う。くそまじめだった祖父の影響から彰洋は抜けだせていない。嘘をついてはいかん、人を騙してはいかん、人の物を盗んではいかん。笑わせる。そんなことをいちいち鵜呑みにしていては成功することは覚束ない。
酒を飲み、彰洋に話を合わせた。そのうち、大麻の匂いが鼻孔をくすぐりはじめる。短くなった大麻が彰洋のところにまわってくる。
彰洋は大麻を吸う──ヘロインがまぶされていることを知らずに大胆に。
背筋に鳥肌が立った。大麻とヘロインの成分が、彰洋の体内からワープしてくるような錯覚に襲われた。自分が潤んでいくのを感じた。
彰洋の表情が緩んでいく。それにつれて、饒舌に拍車がかかる。
優しい彰洋。傲慢な彰洋。ときにいとおしく、ときに憎んで余りある──早紀と愛しあっている今は特に。自分が汚れていると感じている今は特に。
彰洋は波潟のことを語りだす。波潟が麻美を捨てるつもりだと喋っている。
なんというナイーヴさだろう。なんという無神経さだろう。いとおしく、憎らしい。
麻美は涙を流した。涙を流すのは簡単だった。
「麻美──」
彰洋の顔に戸惑いが浮かぶ。悔恨の表情が浮かぶ。
「麻美──」
彰洋の手が伸びてくる。しなやかな指先が顔の皮膚に触れる。涙に触れる。
背筋が顫える──快感に我を忘れそうになる。脳裏に早紀の横顔が浮かぶ。
「彰洋ちゃん……」
麻美は彰洋の胸に顔を埋めた。
* * *
山下公園を見おろすホテルに部屋を取った。彰洋は大麻とヘロインが効いているようだった。戸惑い、恐れ、去ることができないでいる。
おれは麻美を泣かした──おそらく、彰洋の脳裏で渦巻いている思考。
ナイーヴで無神経、ときに傲慢。いとおしく、憎らしい。
「一緒にシャワー浴びよう、彰洋ちゃん」
麻美はいった。わたしの身体をきれいにして──本当はそういってみたかった。
「ヤバいよ、麻美」
彰洋の声は上ずっていた。表情は弛緩していた。
「寂しいんだよ」麻美はいい募る。「なんだか寒いの。だれかに側にいてほしい。だれかに暖めてほしいの」
零《こぼ》れおちる涙は彰洋には一番有効な武器だ。
「麻美──」
「今晩だけ。早紀にはなにもいわない。波潟にも美千隆さんにもなにもいわない。マミと彰洋ちゃんだけの秘密。それでもいや? 彰洋ちゃん、マミのことそんなに嫌い?」
「麻美──」
木偶《でく》人形のような彰洋の手を取り、立ちあがらせる。彰洋の手を自分の胸にあてがう。シルクの布地越しに屹立した乳首が疼く。
「ね? こんなにどきどきしてる。彰洋ちゃんだけじゃなくって、マミも怖いんだよ」
実際に、動悸が激しかった。
「麻美──」
彰洋の手は顫えている。麻美は彰洋に身体を押しつけた。彰洋の股間が固くなっているのがわかった。
「彰洋ちゃん」麻美は彰洋の股間をさすった。「こんなになってる。我慢しなくていいよ。本当に今夜だけ。今夜だけ、昔みたいにマミの彼氏になって」
彰洋の目を覗きこむ。顔を近づける。唇を合わせる。そっと舌を差しこむ。
「麻美──」
苦しそうな彰洋の目──無駄な抵抗。
「お願い、彰洋ちゃん」
もう一粒の涙──彰洋は陥落した。
ベッドに押し倒され、服を剥ぎ取られた。麻美は彰洋にしがみついた。
* * *
大麻とヘロインの魔力──彰洋は一度では鎮まらなかった。
絡みあい、舐めあう。度重なる絶頂と、緩やかな失速感。こみあげてくる愛情と、それに比例して増していく憎悪。
彰洋が乳房を揉む──早紀にもしてやるのかと思う。
彰洋がクリトリスに触れる──早紀も同じように感じるのかと思う。
彰洋が入ってくる──早紀よりもきつく締めつけようと思う。
「彰洋ちゃん、気持ちいい?」
思わず訊いてしまう。
「ああ」
彰洋の意味をなさない返事を聞くだけでいってしまいそうになる。
「マミも気持ちいいよ。溶けちゃいそうだよ」
彰洋の動きが速くなる──すべてが濁流に飲みこまれていく。
彰洋を舐める。うなじから乳首、背中から腰、太股の裏から爪先、内腿から股間。彰洋のそれは赤黒く怒張している。
早紀はこんなことしてくれないでしょう?──そう思いながら、彰洋の肛門を舐める。睾丸を口に含む。怒張を吸いあげる。
彰洋が呻き声をあげる。
「出してもいいよ、彰洋ちゃん。飲んであげる。マミが全部飲んであげる」
怒張をさすりながらいう──彰洋が射精する。
彰洋の精液は匂いが薄かった。波潟や稲村のように嫌な匂いはしなかった。美千隆のように──美千隆の精液の匂いを思いだすことができなかった。
悲しみに胸が押し潰されそうになった。
麻美は彰洋の怒張を頬張りつづけた。射精した直後でも、彰洋のそれは張りを失うことがなかった。彰洋に跨がり、腰を沈めた。腰を動かした。
「もっと気持ちよくして、彰洋ちゃん。マミのこと目茶苦茶にして。嫌なこと、全部忘れさせて」
あらゆる思考が溶けきってしまいそうな快楽──あらゆる思考を覆い尽くそうとする悲しみ。
芝居もへったくれもなかった。麻美は彰洋にしがみつき、腰を振りつづけた。
* * *
何度交わったのかもわからなかった。くたびれきって、ベッドに横たわり、ほんのわずかの間、微睡《まどろ》んだ。
目が覚めたのは、彰洋の鼾《いびき》のせいだった。彰洋はだらしなく眠りこけていた。口が開き、涎《よだれ》が垂れていた。
「そんなに気持ちよかった、彰洋ちゃん?」
彰洋の寝顔に問いかける。反応はなかった。
「しょうがないね、もう。自分がなにをしたか、ちゃんとわかってる? 早紀の親友と寝たんだよ。波潟の愛人と寝たんだよ。どっちにばれても地獄なんだよ。彰洋ちゃん、わかってる?」
返事はない。大麻とヘロインとセックス──彰洋は桃源郷をさまよっている。
麻美はエルメスのバッグからインスタントカメラを取りだした。彰洋の身体にかかっていたシーツを剥いだ。
大きな仕事をするときは保険をかけておかんとな──波潟はよくそういっていた。
稲村に抱かれたときに押したシャッター音はまだ耳にこびりついていた。
麻美は彰洋の胸に顔を乗せた。カメラを掴んだ右手を伸ばした。幸せそうに微笑んだ。レンズを自分に向け、シャッターを押した。レンズの角度を変え、何度も繰り返す。
フラッシュが光っても、彰洋は目を覚まさなかった。
麻美は彰洋の股間に顔を移した。彰洋のものを口に含む──彰洋は目を覚まさない。ゆっくり丁寧に、舐め、吸いあげる。萎んでいたものが固くなっていく。
レンズを自分の口許に向け、シャッターを押した。
「なにやってるのよ、マミ」
呟いてみたが、シャッターを押す指はとまらなかった。
固くなったものに、また跨がり、腰を沈める。いつの間にか潤んでいた。思いきり脚を開き、繋がった部分にレンズを向ける。
カシャ──シャッター音とフラッシュ。変態じみた行為に眠りかけていた快楽がぶり返される。稲村のときはなにも感じなかったのに、彰洋が相手ならいくらでも気持ちよくなることができた。
カシャ、カシャ──シャッターを押すたびに濡れていく。彰洋を締めつける力が強くなっていく。
麻美はカメラをバッグにしまった。目を閉じ、腰を振る──快楽を貪ることだけに集中しはじめた。
「彰洋ちゃん、気持ちいいよ。マミ、変になっちゃうよ」
絶頂に達する寸前、麻美は叫んだ。
彰洋の目が開いた──寝ぼけ眼が、困惑の視線に変わる。
「彰洋ちゃん、マミ、いっちゃう。彰洋ちゃんのおちんちんでいっちゃうの!!」
麻美は彰洋の目を覗きこみながら、思いきり締めつけた。彰洋のものが脈動する。子宮の奥に精液がふりかかるのを感じた。
「麻美──」
彰洋の目──恐怖に彩られていた。
29
激しい頭痛──粗悪な大麻の後遺症? それにしては、飛ぶのがはやかった。飛びすぎて麻美と寝る羽目になるほどに。
麻美──恐怖が胃を締めつける。麻美は早紀の友達だった。波潟の愛人だった。早紀との逢瀬を重ねるだけでも綱渡りをしているようなものだった。今では、足元の綱は蜘蛛《くも》の糸並に細くなっている。
大麻には酔っていたが、意識が飛ぶほどではなかった。ほとんどすべてを覚えていた。
獣のように交わる自分と麻美。麻美はなんでも知っていた。早紀のしないことをしてくれた。
「くそったれ!!」
シャワーを浴びながら、大声で自分を罵った。それでも、脳裏に刻まれた麻美の肢体を消し去ることはできなかった。妄想を追い払うことができなかった。
早紀にも同じことをしてもらいたい──同じ言葉が頭の中を駆け巡る。
彰洋は波潟のことを考えた。今日の仕事のことを考えた。
恐怖が妄想を追い払う。
「朝の六時に家に来い。うまくいけば松岡から連絡が入る。それから現場に向かおう」
金曜の夜、別れる前に波潟はそういった。
波潟の家には波潟がいて、早紀がいる。
恐怖が胸を締めつける。ボロを出さない自信がなかった。波潟をはぐらかすことはできても、早紀にはなにもかもを見透かされそうな気がした。
だが、なんとかしなければいけない。美千隆のために──麻美が美千隆と寝ていることを思いだした。
恐怖はどんどん膨らんでいく。
「くそったれ」
彰洋はもう一度大きく叫んだ。
バスルームを出る──麻美がベッドの上に横たわっている。
「もう、行っちゃうの?」
「六時までに波潟の家に行かなけりゃならないんだ」
「仕事?」
「ゴルフのお供だよ」
「早紀にも会う?」
答えに窮した。彰洋は麻美の表情をうかがった。
「そんな顔しなくてもいいよ。ちょっと意地悪いってみたくなっただけ。今夜のことは、ふたりだけの秘密だからね。彰洋ちゃんがもし、マミのこと恋しくなっても、もう、やらせてなんかあげないから」
「当たり前だ、馬鹿野郎」
彰洋は怒ったようにいった。床の上に投げだされていた上着を羽織った。
「じゃあ、行ってくる」
「待って」
「なんだよ?」
「行く前に、最後のキスして」
「麻美──」
「ほんとに最後のキスなんだよ。それぐらい、いいでしょう?」
逆らえなかった。麻美に逆らえたためしがなかった。彰洋はベッドに歩みより、麻美の上に覆いかぶさった。
麻美の舌が唇を割って入ってくる。縦横無尽に蠢《うごめ》く舌──股間のものが勃起した。
彰洋は麻美を突き飛ばすようにして、部屋を出た。
もう一度麻美としたかった。そう思う自分が恐ろしかった。
* * *
赤坂の豪邸。門の脇のチャイムを鳴らす──指が顫える。呼吸が荒くなる。心臓が激しく脈打つ。シャワーを浴びたばかりだというのに身体がべとついている。
「どちら様?」
スピーカーから流れてきた声に心臓が止まりそうになった。早紀に似た声。早紀ではない声。
「堤と申します。波潟社長をお迎えに参りました」
顫え、上ずる声。しっかりしろ──いつもの口八丁手八丁を思いだせ。
「堤さんね。伺っております。お入りなさい。車は家の脇の駐車場にとめるといいわ」
電気仕掛けの門が音をたてて開きはじめた。彰洋はセリカに戻った。ステアリングを握る手が汗でべっとり濡れていた。ルームミラーを覗きこむ──額も汗で濡れている。ハンカチで手と額を拭った。ネクタイの結び目をなおした。
後ろめたいときほど大胆に行った方がいいんだ──美千隆の声を思いだす。
もう一度ステアリングを握った。汗は引いていた。アクセルを踏み、セリカを門の中に入れた。
広大な敷地、だだっ広い庭、贅沢な造りの家屋──総額十億は下らない。脳味噌が金額を弾きだす。体温が少しだけあがっていく。
駐車場にセリカをとめ、玄関までの長い道を歩いた。朝の冷えた空気──胸の奥に巣くっている恐怖も凍りつく。玄関の前で呼吸を整え、もう一度チャイムのボタンを押す。
すぐにドアが開いた。
「おはよう、堤さん。ようこそ我が家へ」
早紀が微笑んでいた。呼吸をするのも忘れた。頭の中が白くなった。
「どうしたの、堤さん?」
「いや、まさか早紀さんが出てくるとは思わなかったから……それに、ちょっと寝不足で」
思考は停止していた。口だけが別の生き物のように動く。
「寝るの遅かったの? 悪い遊びでもしてたんじゃない?」
早紀が拗《す》ねたようにいう。恐怖が胸を締めつける──思考をむりやり働かせる。彰洋は慌てて玄関の中を見渡した。今の早紀の会話と態度を波潟に見られたら、すべてを悟られてしまう。
「そんなことはしてないよ。遅くまで勉強してたんだ」彰洋は早口でいった。「お父さんは?」
「リヴィングにいるわ……勉強って、なんの勉強?」
「不動産売買に関する法律」
麻美の裸体が脳裏をよぎった。視線が泳ぎはじめるのを感じた──意志の力で抑制した。
「大変なのね、彰洋さん」
恐怖が膨らんだ──弾ける寸前のゴム風船。
「早紀さん、人前じゃ、堤さんって呼ばなきゃだめだよ。今、お父さんに気づかれたらとんでもないことになる」
「ちょっといってみただけ」
早紀が微笑んだ。麻美の笑い方に似ているように思えた。恐怖のためか、あるいは後ろめたさのためか。
「さ、あがって。パパ、あんまり待たせると怒りだすから」
早紀に促されて、彰洋は靴を脱いだ。スリッパに履きかえ、早紀のあとに従った。
リヴィングは三十畳はありそうだった。深々とした絨毯にヨーロッパ製の家具。総革張りのソファでふんぞり返っている波潟。波潟はお椀を手に持っていた。ソファの前には純和風の朝食が並べられていた。
「堤さんがいらっしゃったわよ、パパ」
波潟が顔をあげた。目を細めて彰洋を見た。恐怖を押し殺す。波潟は金を持っている。強い力を持っている。だが、万能ではない。
「玄関でなにを長話してたんだ、おい?」
それでも肩に力が入る。
「この前の食事のときのお礼をしてたの。ほら、わたし、酔っぱらっちゃって、堤さんに送ってもらったでしょう?」
どう答えようかと躊躇した瞬間、早紀が助け船を出してくれた。
「そういえば、そうだったな。堤、朝飯は食ったか?」
細められていた波潟の目が緩んでいった。
「いえ、まだです」
彰洋は答えた。昨日の夜の麻美とのデート。酒を飲み、大麻を吸った。それ以外はなにも口に入れていないのに、食欲はまったくなかった。
「よかったら食っていけ。おい、若いもんにも朝飯だ」
波潟がリヴィングの奥の方に声をかけた。
「もう、用意してますよ」返ってきた声は、インタフォンで聞いたのと同じ声だった。「早紀、お客様をこちらにお連れして」
「じゃ、行きましょう。堤さん」
「ちゃんと食っておけよ、堤。今日はしんどい仕事になるかもしれんからな」
「ただのゴルフでしょ。なにいってるのよ、パパ」
早紀が波潟の前を通りすぎた。波潟は笑っていた。
娘を見守る父親の笑顔。娘に悪い虫がついていることを知るや一変する。
彰洋は両手を固く握った。指先が凍えそうなほどに冷えていた。
* * *
「たんと召しあがってね」
波潟の妻──波潟紀子がいった。重厚な感じのする食卓に、そぐわない和食が載っかっていた。白米、みそ汁、塩鮭、卵焼き、酢の物、納豆、お新香。
「最近の若い方は、トーストの方がいいのかもしれないけど、生憎《あいにく》、波潟は和食しか食べないのよ」
「いえ、とても美味しそうです。いただきます」
彰洋は食卓に座り、箸を手に取った。食欲は相変わらずない。だが、食べないわけにはいかない。
早紀が隣りに座った。微笑みながら彰洋を見つめていた。
頭の中で警報ベルが鳴り響く。早紀は危険だ。早紀は自分の父親の恐ろしさを知らない。
「早紀も食べる?」
波潟紀子がシンクの前に立ったまま、いった。洗い物を終え、タオルで手を拭いていた。
「コーヒーだけでいいわ」
「あら、コーヒーは沸かしてないわ」
「自分で淹《い》れるからいいわよ」
「そう。じゃあ、堤さんのお相手しててね。ママはパパのゴルフの仕度をしてくるから。それじゃ、堤さん、ゆっくり召しあがってね。お代わりも遠慮しないで、早紀にいいつけてくださいな」
波潟紀子がキッチンを出ていった。早紀が顔を近づけてくる。
「早紀さん、まずいよ」
「だいじょうぶ。パパは絶対キッチンには入ってこないの。男子厨房に入るべからず──馬鹿みたい。ね、美味しい」
早紀は天真爛漫に微笑んでいる。外で会うときの方がよほど緊張した顔つきをしていた。
「ああ、美味しいよ」
「ママ、料理が上手なのよ。だけど、本当は料理するの、嫌いなのよ。一度、パパにお手伝いさんを雇ってってお願いしたことがあるんだけど、怒られて却下。うちはパパの天下なの。だれもパパに逆らえないの。わたしとママがパパに逆らったのは、パパがマミを愛人にしたときだけ」
麻美──指が顫えはじめる。彰洋は口に入れたものを吐きださないように懸命にこらえた。
「ね、今度はいつ会える?」
早紀の微笑みが近づいてくる。彰洋は口の中のものを飲みこんだ。早紀はなにも知らない。なにひとつ気づいてはいない。
「連絡するよ」
「本当に? この前みたいに、急に会いたいっていうの、なしよ。あのときの彰洋さん、なんだか切羽詰まってるみたいで、ちょっと恐かった」
「ごめん。あんなことはもう二度としない。約束する」
「わかった。じゃあ、なるべく早く連絡してね」
「ああ。夜、時間が取れそうなときを見つけて早めに連絡する」
早紀が思わせぶりに目を閉じた。
「キスして」
早紀の唇がかすかに開く。フラッシュバックに襲われる。彰洋の怒張したものをくわえる麻美の唇。顫え──止めようのない顫え。彰洋はキッチンの入り口に視線を走らせた。人の気配はなかった。
彰洋は早紀を抱きよせた。唇を吸い、尻の肉を荒々しく揉んだ。股間のものが痛いほどに勃起していた。
* * *
波潟のベンツ──運転は快適。だが、危険な綱渡りを演じていることに変わりはない。
「昨日はなにをしていた?」
バックシートから波潟の声がする。
「街をぶらついて、いい物件がないか見てまわってました」
「仕事熱心だな。それで、なにか見つかったか?」
「だめです。もっと系統立てて探さないと」
「美味しい物件ってのは、どんどん数が減っていってるからな。値段も跳ねあがってる。ちょっと前なら、一億、二億の金で買えたものが、今じゃ五億を出さんとどうにもならん。堅気の連中も金が欲しくて血眼になっているからな」
「ええ、そうですね。取引を持ちかけにいっても、みんな、金のことしか話しません」
波潟が笑った。
「みんな精々小銭を取りあってればいいんだ。金は動けば動くほど膨らんでいく。精一杯膨らんだところを、おれみたいな人間がいただくようにできてるんだが、だれもそのことには気づいてない。馬鹿な連中だ。もっとも──」
車載電話が波潟の声を遮った。波潟は電話に手を伸ばした。
反射的に耳を澄ませる。波潟の下で働くようになってからついた癖だった。
「もしもし、波潟だが? おお、松岡さんか。朝早くからご苦労さんですな。それで、首尾の方は?……そうですか、うまくいきましたか。稲村と部下の若いのがひとり?……わかった。いま、車でそっちの方向に向かっているところです。あと、小一時間で着きますから。それまで、せいぜい脅しておいてください……ああ、わかってますよ」
波潟が電話を切った。
「さあ、おもしろい見世物が始まるぞ、堤。人間の本質がどんなものか、よく勉強するんだ。きっと役に立つ。おまえが、この世界で生き残ることができればな」
サヴァイヴァル──なんとしても成し遂げたい。美千隆のため。自分のため。
麻美の顔が浮かんで消えた。早紀の顔が浮かんで消えた。
身体が冷えていく。
彰洋はアクセルを踏んだ。金のことを考えた。金のもたらす力のことを考えた。
いつものように体温があがることはなかった。
30
タクシーを拾って部屋に帰った。身体の奥に、彰洋の残滓《ざんし》を感じていた。
知り合いに電話をかける。
「ちょっと頼みがあるんだけど」
「なんだよ、こんな朝っぱらから?」
新進気鋭のカメラマンは眠そうだった。
「前に、わたしのヌード撮ってみたいっていってたよね」
「ああ、撮らせてくれるのか?」
六本木のディスコで知り合い、たまに酒を飲んだ。寝たことはなかった。
「いいよ。その代わり、頼みがあるの」
「いってみろよ。なんだってやってやるぜ」
「写真を現像してほしいの」
「それぐらいお安い御用だけど、写真屋に頼めばいいじゃないか」
「彼氏とエッチしてる写真なの。他の人に見られたくないから」
「しょうがねえなあ、まったく。でも、裸、撮らせてくれるならやってやるよ」
「じゃあ、頼んだね」
「いつ撮らせてくれるんだよ?」
「すぐ連絡する」
想像する──冷んやりとしたスタジオ。雑然と並べられた機材。全裸の自分。左腕にラ・フラムだけを着けている。
気分が昂揚する。麻美は電話を切り、別の番号に電話をかけた。
「早紀? マミよ。起きてた?」
「どうしたのこんな時間に?」
早紀の声は起きたばかりとは思えなかった。
「早紀こそ珍しく早起きじゃない」
「今日ね、パパのゴルフのお供で堤さんが家に来たの」
幸せそうな声だった。写真を見せたら早紀はどんな反応を見せるだろうか。そう考えると、脚のつけ根にくすぐったいような感覚を覚えた。
「そのためだけに早起きしたんだ? 馬鹿じゃないの」
「だって、パパがこき使うから、滅多に会えないのよ。いいじゃない」
「ま、せいぜいのろけてなよ。それより、早紀。今日、暇?」
「特に予定はないけど……マミ、暇なの?」
「うん。午後から時間空いてるんだ。ショッピングにでも行かない?」
「いいわよ。何時にどこ?」
「じゃあ、一時に銀座。軽くランチして、ブティック覗いて歩こうよ」
待ち合わせ場所を決めて電話を切った。
麻美は鼻歌をうたった。全裸になって、ラ・フラムを着けた。鏡を覗く──若く美しい女が炎を左手に巻きつけて立っていた。
裸のままベッドにもぐりこみ、眠りについた。
31
埼玉の田舎町──川沿いの倉庫街。日曜日のせいで人けはなかった。大牟田興業と書かれた倉庫の前に、車が三台とまっていた。
ベンツが一台、ワゴン車が一台、オンボロの国産車が一台。
彰洋は三台から少し離れたところに車をとめた。素速く車を降り、リアのドアを開ける。波潟が降りて伸びをした。倉庫からチンピラ然とした男が駆け寄ってきた。
「おはようございます、社長。うちのおやじがお待ちです」
チンピラは彰洋には目もくれようとしなかった。
「ご苦労さん」
「こちらへどうぞ」
波潟がチンピラの後について歩きはじめた。彰洋はそれに従った。倉庫に入る前に、三台の車に視線を走らせた。
ワゴンの左側面がへこんでいた。一台の国産車の右側のヘッドライトが割れていた。松岡が稲村を拉致するのにどんな手を使ったのか、想像するまでもなかった。
倉庫の中は薄暗かった。冷んやりしていた。吐く息が白かった。
「おやじ、社長がお着きになりました」
チンピラが倉庫の奥に走っていく。それに呼応するかのように、くぐもった呻き声が倉庫の冷えた空気を震わせた。呻き声はおぞましいなにかを想像させた。
「こちらへどうぞ、社長」
松岡の声が凜として倉庫に響き渡った。
「お待たせしましたな、松岡さん」
「これは仕事ですから。依頼主はあとからゆっくりのご登場でいいんですよ」
歩を進めるにつれて、視界が倉庫の暗さに慣れはじめた。壁に沿って大型の段ボール箱が何重にも積みあげられていた。倉庫の中央に男たちが陣取っていた。松岡を中心に、六人。その足元に、巨大な芋虫のようななにかが転がっていた。呻き声はその芋虫が発していた。
「これがご注文の品です」
松岡が足元を指差した。薄い唇が吊りあがった。
芋虫──稲村とその部下が両手両足を縛られて床に転がされていた。目には目隠し、口にはタオルで猿轡《さるぐつわ》がかまされて。
波潟は無造作に松岡の近くまで歩いていき、芋虫の片方──年を食っている方を蹴飛ばした。芋虫が呻いた。
「怪我でもしてるのか?」
波潟は松岡に訊いた。芋虫には視線を向けなかった。
「そんなことはありませんや。車をぶつけてやったときに、鞭打ちぐらいにはなってるかもしれませんがね。あとは、ちょっと撫でてやったぐらいで」
松岡が笑いながら答えた。
彰洋は自分の腕で自分の身体を抱きしめた。冷気が襟元から急速に忍びこんでくるようだった。
呻きつづける芋虫の方に松岡が顎をしゃくる。松岡の手下たちが芋虫を立ちあがらせる。
「目隠しと猿轡、取ってやれ」
松岡の声が倉庫の中に響き渡る。目隠しを外された芋虫──目が赤く腫れている。
「な、波潟さん。これは、これはどういうことですか?」
芋虫が波潟に気づく。食ってかかる。だが、声は怯えている。顫えている。
「どうもこうもないよ、稲村さん」波潟が嗤《わら》う。「あんたがうちへの融資を渋りはじめてるっていう話を小耳に挟んでな、話をつけなきゃならんと思ったわけだ」
「だ、だれがそんなことを……」
芋虫──稲村の目が泳ぎはじめる。疑心と恐怖が稲村の理性を食い荒らしているのが手に取るようにわかった。
「だれが、ってことはないな。それこそ、数えきれんぐらいの人間が御注進に及んでくれたよ、稲村さん。三洋銀行の融資部長がおれをはめようとしてるってな」
「ご、誤解だ。それは誤解ですよ、波潟さん」
「誤解か……だといいんだがな、稲村さん」
波潟がスーツの内ポケットからなにかを取りだした。小型のテープレコーダー──波潟はそれを稲村の耳の近くにかざした。再生ボタンを押した。
彰洋は波潟の方に近づいた。テープから流れでる音をよく聞きたかった。テープの内容を美千隆に逐一報告しなければならない。恐怖は薄れていた。麻美の淫《みだ》らな裸身も脳裏から消えていた。寒さも忘れていた。
体温があがっていく。少しずつ、確実に。
テープレコーダーから音が流れはじめた。くぐもった声、だれかの咳払い、コーヒーカップがソーサーに当たる音。やがて、明瞭な声が響きはじめた。
『これ以上、波潟昌男に融資を続けてると、あとでとんでもない目に遭いますよ』
稲村の声だった。聞き間違えようがなかった。
波潟は苦笑を浮かべていた。松岡と手下たちは無表情だった。稲村は蒼ざめていた。床に転がされたままの芋虫──稲村の部下が無様に呻いていた。
テープは続く。
『頭取、波潟はやくざみたいなものです。今は順調に儲けてるからいいようなものの、旗色が悪くなればすぐに本性を現しますよ。だいたい、あの男は土地だけじゃなく、最近じゃ株式にも手を伸ばしはじめてるんです。すでにうちは、常識外れの金を波潟に融資してるんだ。ノンバンクを使った迂回融資にしても、かなりの額なんですよ。地上げの神様などと呼ばれて手荒く儲けてるやつに、うちがそれだけ融資を続けているということが公になっただけでもかなりのイメージダウンに繋がります』
テープの稲村の声には熱がこもっていた。自分の声を聞かされている稲村は熱に浮かされているようだった。
『波潟昌男と北上地所への融資を、いっさい断ち切れというのかね?』
稲村とは違う声──稲村の喉仏が大きく隆起した。
『今すぐというわけじゃありません。そんなことをすれば、波潟がなにをしてくるかわかりませんからね。少しずつ、融資額を抑えていくんです。あまった金は、他の人間に融資すればいい。リスクを分散するんです。いいですか、頭取? これはまともな会社に貸す金とはわけが違うんですよ。やくざまがいの山師に融資してるのと一緒なんです』
『わかった。その件に関しては考えておこう。君が本当に波潟昌男への融資額を考え直した方がいいと思っているのなら、次の取締役会議までに資料を揃えておきたまえ』
『わかりました』
稲村の声を最後に、音が聞こえなくなった。波潟が停止ボタンを押した。
「これでも誤解だといい張るつもりか、稲村さん?」
波潟は笑い続けていた。
「あ、あの場には、わ、わたしと頭取しかいなかったはずだ」
稲村は狼狽していた。いわずもがなの言葉を口にしたことにも気づいていなかった。
「渡辺頭取だろう? あの人、絵に目がなくてな。こないだ、モネの絵をプレゼントしたら、えらく喜んでいたよ」
波潟の力──金の力。大手都銀の頭取まで取りこんでいる。
「ゆ、ゆるしてください、波潟さん」
稲村が懇願する。波潟は笑い続けている。
「それにあれだろう、稲村さん。三洋銀行はいま、次期頭取問題で揉めてるんだろう。頭取派と専務派に分かれて? あんた、頭取派だそうだな? だが、渡辺頭取は、あんたのこと、疑っとるそうだ、専務派に寝返ったんじゃないかとな」
「わ、わたしはただ、三洋銀行のためを思って……」
「おれはやくざまがいの男だからな、稲村さん。そう簡単にゆるせるかどうかはわからんな」
波潟は思わせぶりな視線を松岡たちに向けた。松岡を筆頭に、やくざたちはすでに険呑な雰囲気を身にまとっていた。
「お、お願いだ、波潟さん。な、長い付き合いじゃないか」
「それが、人にものを頼むときの口調かな、稲村さん?」
「お願いします。波潟社長、お願いですから、わたしをゆるしてやってください」
「だったら、おたくの専務がだれと手を組んでるのか、話してもらおうか」
波潟がいった。稲村の唇が顫えた。
「な、なんの話ですか?」
「あんたのいうように、おれたちは長い付き合いじゃないか、稲村さん。あんたが頭取を裏切ってまで銀行のためになにかするとは到底信じられんよ。金だ。金が絡んでるのよ。専務に金を出した人間がいて、専務はそれを他人にばら撒いた。その内のひとりがあんただろう?」
波潟は稲村に顔を近づけた。稲村は喘いでいた。
「長い付き合いなんだから、教えてくれてもいいだろう、稲村さん」
「い、いえばゆるしてくれる……ゆるしてくれるんですか?」
波潟がうなずいた。
「か、金田義明」
波潟の顔から表情が消えた。
「もう一度いってくれんか、稲村さん」
「金田義明だ。専務が手を結んだのは、金田義明だ。専務が頭取になったあかつきには、金田義明に多額の融資をする。金田はその金を使って東京進出を目論んでるんだ」
「金田義明で間違いないんだな?」
波潟が念を押した。稲村が何度もうなずいた。
彰洋は両手の拳を握った。あがりつづける体温──掌がすぐに汗で濡れる。
金田義明。この世界で生きている人間なら、だれもがその名を知っていた。波潟が東日本の地上げの神様なら、金田義明は西日本の雄だった。まだ四十代の若さだったが、日本最大の広域暴力団の幹部と兄弟分の盃を交わし、その力を背景にのしあがってきたといわれていた。
「なるほど、それはいいことを教えてもらった」
波潟がいった。表情は消えたままだった。
「そ、それじゃ、波潟社長、わ、わたしはゆるしてもらえるんですか?」
稲村の顔には安堵の表情が広がっていた。だが、波潟が首を振った瞬間、稲村の表情も凍りついた。
「一度人を裏切ったやつは、次からも平気で裏切るらしいじゃないか。そうならんように、あんたに教えこんでおかなきゃならんからな」
「や、約束が違う!」
稲村の悲痛な叫びが谺《こだま》した。
「なに、命までは取らんよ、稲村さん」
波潟は松岡にうなずいた。それを受けた松岡が、手下たちにうなずいた。
「な、波潟さん、頼む、お願いだ──」
やくざたちが稲村の口に再び猿轡をかませた。
「顔には手を出すなよ」
松岡がいった。やくざのひとりが稲村に足払いをかけた。稲村は再び芋虫になった。やくざたちが交互に稲村を蹴りはじめた。
「これに懲りたら、稲村さん、二度とこの波潟昌男を虚仮《こけ》にしようとは思わんことだな」
無表情だった波潟の顔に喜悦の色が浮かんでいた。
「終わったらどうしますか、社長?」
松岡が口を開いた。
「手当てをしてから、家に送り返してやってくれんか。あとで、また礼をさせてもらうから」
「わかりました。しかし、金田義明っていえば、バックには例の代紋の連中が控えてるんじゃないですか?」
「おれにも、あんたらがついているじゃないですか、松岡さん。まあ、その件に関しては、佐久間会長に相談するが、それほど面倒なことにはならんでしょう。要するに、どっちがどれだけ儲けられるかっていう話ですからな」
波潟は松岡に背を向けた。彰洋に視線を向けた。
「堤、行くぞ」
彰洋は車まで走った。
* * *
「たいしたことでもなかっただろう」
後部座席の波潟がいった。
「そうですね」
「今朝、うちに来たときは顔色が悪かったからな、堤、相当びびっておるのかと思ったぞ」
顔色が悪かったのはそのせいではない。あがっていた体温がさがりはじめた。
「二、三年前なら、おれも相当無茶なこともやったんだがな、今は金がある。ただ痛めつけるだけじゃなく、金も使ってやった方がうまくいくんだ」
「稲村に金を出すんですか?」
「治療費ってことで、五百万ぐらい渡してやるさ。ああいう連中はな、堤、怪我が治れば痛かったことや恐かったこともすぐに忘れるんだ。もちろん、金のことだって使いきればすぐに忘れる。だがな、定期的に金がもらえるとわかれば、そのことだけは決して忘れん」
「ですが、稲村には金田義明からの金が入ってくるんじゃないですか?」
「金田は大阪にいる。金田が使えるやくざも大阪だ。その点、おれは東京が本拠地だからな。金田が何十億もばらまくっていうなら話は別だが、それほど心配することはない」
ルームミラーに映る波潟の顔──自分の言葉を裏切っていた。
「このまま御自宅に戻りますか?」
「いや。ゴルフに行くといって出てきたんだ。こんな時間に戻るわけにはいかん」
「では、どちらに?」
「会社に向かってくれ。それから、齋藤に連絡はつくか?」
「はい」
波潟の口から美千隆の名が出ると、常に緊張する。
「齋藤に電話して、話し合いたいことがあるから、悪いがおれの会社まで来るようにといってくれ」
「わかりました」
彰洋は唇を舐めた。この数日、美千隆への連絡を怠っている。早紀を巡る綱渡り──奈落に落ちないように気を使うだけで精一杯だった。おまけに、昨夜は麻美と寝てしまった。連絡を取るどころの話ではなかった。美千隆は怒っているだろうか。不審に思っているだろうか。
綱渡り──途中下車は破滅を意味する。向こう側に辿《たど》りつくまで、なんとしてでも歩き続けなければならない。
ダッシュボードの時計は午前九時を指していた。美千隆は会社にはいない。車載電話で新宿のホテルにかけた。電話はすぐに繋がった。
「社長、堤です」
「なんだ、こんな朝っぱらから?」
美千隆の不機嫌な声が聞こえてきた。
「いま、波潟社長と一緒なんですが、これから波潟社長の会社に来ていただけませんか?」
「なにがあった? 稲村のことで、なにか問題でも起こったのか?」
美千隆の声が変わった。不機嫌さの代わりに触れるものを切り裂くような鋭さを伴っていた。
彰洋はまた唇を舐めた。美千隆は稲村のことを知っていた──他のことも知っているのかもしれない。
「波潟社長が相談したいことがあるそうです」
「わかった。一時間で行く」
「ちょっと待ってください」
彰洋は受話器を口許から遠ざけた。
「一時間でつけるといってますが」
「ちょっとそれを貸せ」
「波潟社長と代わります」
受話器にそう吹きこんで、波潟に渡した。
「美千隆君か、日曜日のこんな時間に悪いな……いや、急を要する話というわけじゃないんだが、ちょっと君の手を借りたいことができてな。昼飯を食いながら、話をするというのはどうだ?……そうだな、十二時前に会社に来てくれるとありがたい。うちの会社の近くに、うまい蕎麦《そば》屋があるんだ。夜はお互いに忙しいだろうから、軽く一杯やりながらどうだ?……ありがとう、じゃあ、待っているよ」
波潟は電話を切った──新たに電話をかけはじめた。
「もしもし、マミか? おれだ」
心臓が停まりそうになる。ステアリングを握る手が滑りそうになる。
落ち着け。波潟はなにも知らない。知っているはずがない。
「今夜、空いとるか?……なに? 早紀とショッピングに行く?」
落ち着きを取り戻しかけていた心臓が激しく跳ね回る。ステアリングを握る手が顫えはじめる。
麻美と早紀──早紀と麻美。恐怖と焦燥感が胸を締めつける。
「夜中まで一緒にいるわけじゃないんだろうが?」
波潟と麻美の会話は続いている。身体全体が鼓膜にでもなったかのような錯覚に襲われる。彰洋は耳に神経を集中させた。
「……だったら、晩飯は早紀と食えばいい。そのあとで、おまえの部屋で落ち合おう。おれはどこかで飯を食う……ん、堤か? 今、一緒だ。車を運転してる……ちょっと待て」波潟は受話器を顔から離した。「マミだ」
差しだされた受話器──手の顫えを懸命にとめた。受話器を受け取り、耳に当てた。
「なんだよ?」
ぶっきらぼうに話す。視線はルームミラーに映る波潟の顔色をうかがう。
「緊張してるんじゃないかなと思って。昨日あんなことがあったばかりなのに、波潟と一緒にいるんだし、マミは早紀とショッピングに行くし」
彰洋はまた唇を舐めた。波潟は彰洋を見つめていた。なにかを喋らなければならない。だが、言葉が見つからない。
「安心していいよ、彰洋ちゃん。早紀にはなんにもいわないから」
「当たり前だろう」
辛うじて声が出た。麻美の含み笑いが聞こえてきた。
「もう、切るぞ、麻美。仕事中なんだ」
「どうしよう……彰洋ちゃんの声聞いてたら、マミ、濡れてきちゃった」
艶《なま》めかしい声が受話器を伝わって鼓膜を震わせた。
「仕事が終わったら電話するよ」
とっさにいって、電話を切った。心臓の鼓動は耐えがたいまでに速くなっていた。掌は汗でびしょ濡れだった。
「すみません、社長。私用に電話を使ってしまって」
「マミはなんの用だったんだ?」
「昨日、高校時代の友達にあったそうなんです」言葉が勝手に口から漏れてくる。「女の子なんですけど、ぼくに会いたいっていってるらしくて、それで麻美が馬鹿なことを……」
「なんといったんだ?」
「やっちゃえば、と」
波潟が顎をのけぞらせて笑った。
「マミらしいじゃないか。しかし、マミのいうとおりだぞ、堤。据え膳食わぬは男の恥だからな。とっとと会って、その同級生とやってこい」
綱渡り──向こう側は遥か彼方にある。気が遠くなりそうだった。
* * *
美千隆は十二時ジャストにやってきた。波潟は美千隆と連れ立って、会社近くの蕎麦屋に入った。
彰洋はお預けを食った。会社で待機する。時間がじりじりと過ぎていく。無為の時間に思考が千々《ちぢ》に乱れる。波潟と美千隆はなにを話しあっているのか。麻美と早紀はなにを話しあうのか。危険な綱渡りはいつまで続くのか。
体温はあがらない。寝不足だというのに、眠りが訪れる予兆もない。
自分の愚かさを呪い、麻美の大胆さを呪う。今日、早紀と会うことになっているくせに、その前夜に彰洋と寝る。普通の神経ではできない。麻美は普通の女ではない。
波潟と美千隆は三時前に戻ってきた。波潟は上機嫌だった。顔が赤らんでいた。息が酒くさかった。美千隆はそれほど酔ってはいなかった。
「今日はもうあがっていいぞ、堤」
波潟がいった。
「社長は? 御自宅までお送りしますよ」
「マミとの電話、聞いてただろう。おれはここで夕方まで仮眠を取る。おまえは同級生に会って、やってこい。それじゃ、齋藤君、よろしく頼んだぞ。もし時間があるんだったら、久しぶりに堤をどこかに連れていってやってくれ」
波潟はそういって社長室に消えた。
「じゃあ、行こうか、堤」
美千隆がいった。彰洋は唇を舐めた。
美千隆の車で新宿に向かう。車は変わっても役目は変わらない。だが、波潟と美千隆では緊張の度合が違った。
「金田義明の話をしてたんですか?」
彰洋は美千隆に訊いた。答えは返ってこなかった。
ルームミラーの中の美千隆──真一文字に結ばれた唇。
「美千隆さん?」
「この三日、おまえから連絡がなかった。理由を説明しろ、彰洋」
美千隆が口を開いた。冷たい声だった。
「すみません。波潟にいろいろやるようにいわれて、ばたばたしてたんです」
「彰洋」美千隆の声は冷たいままだった。「嘘をつくなとはいわん。おれたちの仕事に嘘はつきものだからな。だが、すぐにばれる嘘はやめろ。腹が立つ」
唇が乾く──唇を舐める。
「波潟の娘と付き合ってるんだって?」
舐めても舐めても唇はかさついたままだった。
「麻美から訊いたんですか?」
「他にだれがいる? おまえ、波潟の娘にほだされて、おれより波潟をとろうとしてるんじゃないだろうな」
「そんなことないです」
「本当か?」
「本当です。おれは……おれは、美千隆さんと一緒にでかいことをやりたいんです。信じてください」
「だったら、おれに連絡をしなかった間、なにをしてたのか話してみろ」
美千隆は麻美と寝ている。彰洋は麻美と寝た。知られてはいけない。知られるわけにはいかない。
ごまかす必要のないことは逐一、こと細かに話す。松岡たちとの会合。SMクラブ行き。早紀を呼びだし、麻美の助けを借りたことまで。
ごまかさなければならないこと──慎重に言葉を選ぶ。早紀をダシに使う。早紀と一緒にいた。早紀に溺れていた。だから、連絡を忘れた。
「まったく、波潟の娘に手を出すとは、いい度胸してるぜ、彰洋」
「すみません。そんなことしてる場合じゃないとは思ったんですけど……」
「おまえの年じゃ、やりたくて当たり前だ。それまでのおまえの方がおかしかったんだ。だからいってただろう、女を作れって。まさか、波潟の娘に手を出すとはな」
「すみません」
「別れられるか?」
早紀の笑顔が脳裏をかすめた。早紀の泣き顔を容易に想像できた。
「できません」
彰洋は小さな声でいった。
「ばれたらおしまいだぞ。おまえだけじゃない。おれもとばっちりを受けることになる。わかってるのか?」
「ゆるしてください、美千隆さん」
「ゆるすもゆるさないもない。これはおまえと波潟の娘の問題だからな。だが、これだけは肝に銘じておけよ、彰洋」
緩んでいた美千隆の横顔がまた厳しくなった。
「なんですか?」
「おれはそのうち、波潟を食おうと思ってる」
「はい」
いわれなくてもわかっていた。美千隆が彰洋を波潟のもとに送りこんだのは、そのためだ。
「だけどな、彰洋、波潟は簡単に食えるようなたまじゃない。取れる手段をすべて取っても、もしかしたら、逆におれが食われるかもしれない。だからな、彰洋、おれは波潟を食うと決めたらなんでも利用するぞ。おまえと波潟の娘の関係も、だ。そのときは、おまえが嫌だといっても、おれは聞く耳を持たんからな。それだけは覚悟しておけ。覚悟ができないっていうんなら、どこかに消えろ」
脳裏に早紀の顔が浮かぶ。早紀を悲しい目に遭わせたくはない。だが、体温があがりつづける感覚を忘れることもできない。彰洋は小さく首を振った。早紀の泣き顔を追い払った。
「おれは美千隆さんについていきます」
「よし。その言葉、信じるからな、彰洋」
「信じてください」
彰洋はいった。ルームミラーの中で美千隆が満足そうに微笑んでいる。肩の力が抜けていく。
「それで、波潟の話はなんだったんですか?」
彰洋は訊いた。
「金田義明の件だ。あの狸親父、相当気になってるらしい」
「そんなにやり手なんですか、金田っていうやつは? 噂だけなら聞いたことありますけど」
「ミニ波潟ってところかな。やくざをバックにした荒っぽい手口で、次々と地上げを成功させてる。波潟と違うのは、波潟はやくざじゃないが、金田は実質的にはやくざの身内だってことだ。最近じゃ、フロント企業とか企業舎弟とかいうらしいがな」
「それで、波潟は金田のことでなんていったんですか?」
「金田の動きを無視することはできないが、かといって、波潟が直接動いたんじゃ、まずいことになる」
波潟のバックには東日本でもトップに位置する暴力団がついている。対する金田には西日本の広域暴力団。金田がその暴力団の身内だとするなら、波潟が正面きって動けば、暴力団同士の衝突になる可能性もある。
「戦争にはしたくないっていうことですか?」
「戦争というほど大袈裟なものじゃないがな。他のことに気を取られてる隙に、美味しい餌を他人に取られてしまうこともある。波潟が心配してるのはそっちの方だ。それで、波潟の代わりに、おれが金田の動きを探ることになった」
「だいじょうぶなんですか、美千隆さん?」
「おれも東京じゃ少しは名を知られるようになってきたが、関西の連中はなにも知らないだろう。心配はない。それに、おれは動きを探るだけで、なにか起こったときに矢面《やおもて》に立つのは波潟だしな」
「嬉しそうですね」
彰洋はいった。ルームミラーの中の美千隆は笑いっぱなしだった。
「楽しくなりそうだとは思わないか、彰洋? おれたちのように若い連中がなにかをしようと思ったら、ゴタゴタが起きかかってるときがチャンスなんだ。この件がうまく動けば、意外に早く波潟を食う時期がやってくるかもしれないぜ」
美千隆の目が潤んでいるように彰洋には見えた。
体温があがっているからだ──彰洋はそう確信した。
32
早紀は幸せそうだった。
その幸福そうな顔を歪ませてやりたいと思った。彰洋がどんなふうに自分を抱いたのか、教えてやりたいと思った。
そう思うだけで、麻美も幸せな気持ちになった。
ショッピングの合間の無駄話。早紀はよく笑った。麻美も負けじと笑った。いつもなら意識しなければ出てこない笑みが自然にこぼれた。
「マミ、なんだか嬉しそうね」
早紀がいった。
あなたの大好きな彰洋ちゃんと昨日寝たからよ──声には出さなかった。
「だって、マミ、ショッピング好きだし、早紀のことも好きじゃない。こうやって早紀とショッピングしてるだけで、すっごい幸せ」
「単純なのね、マミったら」
「悪かったわね」
笑いが弾ける。行き交う人々が細めた目を麻美と早紀に向ける。若く美しいふたりの娘の仲睦まじいやり取り。麻美の中に渦巻いている悪意を読み取れる人間はいない。そう簡単に読み取らせはしない。
お金を手に入れるまでは──一生生活に困らないだけのお金を手に入れるまでは。そのために、麻美は身体を張っている。早紀は身体を張る必要がない。だから、憎らしい。破滅させてやりたい。
「その時計、素敵ね」
早紀がラ・フラムを指差していった。
「いいでしょう。プレゼントしてもらったの」
「だれに?」
早紀の表情が曇る。波潟に買ってもらったと思っている。美千隆に買ってもらったの──いいたいが、いえない。人目を気にせずに、美千隆と街を歩きたい。そのためにも、急がなければならない。早く波潟にババを掴ませなければならない。時間はあまりない。時間が経つごとに肉体が衰えていく。資産価値が減っていく。
「早紀も買ってもらえばいいのに、もうすぐ誕生日でしょう?」
麻美はいった。本心から出た言葉だった。彰洋と早紀──もっと深く繋がればいい。ふたりの絆が深まれば深まるほど、麻美が握っている切り札の力も強くなる。
「だけど、悪いわ。そういう時計、高いんでしょう?」
「高いよ。ちょっと、今の彰洋ちゃんには手が出ないかな。だけどね、こないだ電話で聞いたんだけど、彰洋ちゃん、齋藤さんから五百万ボーナスもらったんだって」
「五百万円も?」
「うん。いい仕事したんだって自慢してたよ。聞いてない?」
「あんまり、仕事の話はしないの。彰洋さん、嫌がるから」
早紀が小声でいう。麻美の自尊心がくすぐられる。
「その代わり、別の話したり、別のことしたりするんでしょう?」
「別のことってなによ?」
「照れなくてもいいじゃない。そんなことよりさ、そのボーナスで彰洋ちゃんになにか買ってもらいなよ」
「悪いわ、そんなの。今回は凄くいいボーナスをもらったかもしれないけど……」
「なにいってるのよ。パパのお金で買うものより、彰洋ちゃんが早紀のために無理してでも買ってくれるものの方がよっぽど価値があるんだよ。そう思わない?」
「それはそうだけど……」
「それでね、高いもの買ってもらったら、彰洋ちゃんが早紀に買ってあげてよかったって思うようなこと、してあげればいいのよ」
早紀の顔が赤くなる。
「なに赤くなってるのよ、早紀。なんかいやらしいこと考えてるんでしょう?」
「馬鹿」
早紀がいった。
麻美は微笑んだ。笑顔の裏で、憎悪が増殖していった。
「どうすれば男の人が喜ぶか、教えてあげようか、早紀?」
「教えて」
小さな声で、早紀がいった。
麻美は彰洋にしてやったことを、事細かに早紀に教えた。早紀は顔を赤らめたままだった。だが、目つきは真剣だった。
「最後にね、こういってあげるの。そうすると、男って馬鹿みたいに喜ぶんだよ」
麻美は意味ありげにいった。
「なんていうの?」
早紀が聞き返してくる。麻美は声を落とした。
「彰洋ちゃんのおちんちんでいっちゃうって」
「そんなこと、いえないわよ」
「いえるよ。大好きな人とセックスするんだから、それぐらいいえなきゃおかしいよ」
麻美は断言した。早紀はうつむいた。
早紀はいうだろう──麻美は確信した。その言葉を聞いて、彰洋は恐慌に陥るだろう。
楽しかった。幸せだった。
* * *
「最近、よく早紀と会ってるな」
波潟がいった。
「やっと仲直りできたんだもん、なんだか嬉しくて、つい、早紀を誘っちゃうの。迷惑?」
「迷惑なもんか。おまえと早紀が仲良くやってくれるなら、おれは万々歳だ」
波潟は相好を崩した。土地と金が絡んだ話ならとてつもない洞察力を発揮する波潟も、早紀のことになれば、周りが見えない愚かな父親でしかない。
「今日は日曜だっていうのに、彰洋ちゃんを連れて、なにしてたの?」
波潟のグラスにビールを注ぎながら麻美は訊いた。
「今日はちょっと荒事をな」
波潟の鼻の穴が広がる。自慢話をする前に波潟が見せるお馴染みの兆候だった。
「荒事って?」
「三洋銀行本店に自分を弁《わきま》えない融資部長がいてな、ちょっとお灸を据えてやった」
三洋銀行の融資部長──稲村のにやけた顔がよみがえる。
「酷いこと、したの?」
「たいしたことじゃないさ。それなのに、その融資部長、泣いておれにゆるしを乞いやがってな。ちょっと殴られたぐらいでびびるようなら、最初からおれをなめたりしなきゃいいんだ。そう思わんか、マミ?」
おぞましい記憶が増殖する。麻美の身体を撫でまわし、舐めまわした稲村の手と舌。
「そうだよね。パパに逆らうのなんて、大変なことなんだから、覚悟決めなきゃ」
「最近は、ああいう輩《やから》が多い。金に目の色を変えるくせに、金を手に入れるために身体を張らなきゃならないことがわかってないんだ」
波潟の手が太股に伸びてきた。波潟の指は稲村のそれを連想させた。
不快感がこみあげてくる。波潟にそれを悟られるわけにはいかない。
「ねえ、パパ、あれ持ってる?」
麻美はいった。
「あれ?」
「いつものやつ」
「コカインか? もちろんあるぞ。しかし、どういう風の吹きまわしだ? おまえがコカインをねだるなんて珍しいじゃないか」
コカインで理性を麻痺させなければ、波潟を受け入れることはできない。
麻美は甘えるように波潟の肩に顔を乗せた。
「コカインでもやらないと、マミ、壊れちゃうかもしれないと思って。パパ、いつもだって凄いのに、今日はなんだか興奮してるみたいだし」
波潟の鼻の下が伸びた。
「そうか、そうか。じゃあ、今日はマミがやめてくれっていうまで可愛がってやろう」
波潟の手がスカートの中に侵入してきた。麻美はおぞましさに耐えた。
* * *
「よくこんな写真撮ったよな。現像してて勃起しちゃったよ、おれ」
カメラマンがいった。麻美は写真を覗きこんだ。
一枚めの写真──彰洋のペニスをくわえている麻美の顔のアップ。わずかにピントがぼけている。それがかえってリアリティを醸しだしている。彰洋の右の太股のつけ根の近くに西瓜の種のような黒子《ほくろ》がある。
早紀もこの黒子のことは知っているはずだ。
二枚めの写真──一枚めと似た構図。彰洋を頬張る麻美の表情の向こうに、彰洋の顔がぼんやりと写っている。黒子ははっきりと写っている。
三枚めの写真──結合部のアップ。彰洋のペニスが、半ばまで麻美の中に埋没している。外に出た部分は、麻美の唾液と愛液で濡れ、光っている。黒子はしっかりと写っている。
四枚めの写真──同じ構図。彰洋のペニスは根元まで埋まっている。
五枚めの写真──彰洋の胸に顔を埋める麻美。少しだけ覗いた舌が、彰洋の乳首を舐めている。彰洋の顔と胸の十字架がはっきりと写っている。
これを見せたら、早紀はどんな顔をするだろう──考えた瞬間、全身に鳥肌が立った。自分が潤んでいくのがわかった。
「なあ、マミ、おれにもやらせてくれよ」
カメラマンの手が肩にまわされる。麻美はそれを振りほどいた。
「だめ」
醒めた声でいった。声とは裏腹に、身体は火照っていた。
「わたしがびっくりするぐらい綺麗に写真を撮ってくれたら、考えてもいいよ」
カメラマンの目が耀《かがや》いた。
「よし、じゃあ、早速撮ろうぜ。服、脱いで」
小さなスタジオ──赤い背景を張っただけの壁。撮影機材はすでにセッティングされている。
麻美は服を脱いだ。乳首が固く尖っていた。カメラマンの欲望に彩られた視線が突き刺さる。
「ほんと、綺麗な身体してるよ、マミ。時計も外して、あっちに行ってくれ」
「これは外せないの」麻美はいった。ラ・フラムをいとおしげに撫でた。「これをつけたあたしを撮ってもらいたいの」
「わかったよ」
カメラマンがうなずいた。早く写真を撮りたくてうずうずしているといった感じだった。麻美と寝たくてうずうずしている。そのうずうずが麻美にも伝染する。
カメラマンの命ずるままにポーズを取った。どんなに淫らなポーズでも拒まなかった。
カシャ、カシャ──耳にシャッター音だけが飛びこんでくる。シャッター音は不快な記憶と甘美な記憶を呼び覚ます。
不快な記憶──稲村を相手の吐き気を催すようなセックス。
甘美な記憶──彰洋との濃密なセックス。
甘美な記憶が不快な記憶を圧倒する。
カシャ、カシャ──シャッターが切られる度に、身体が震えていく。はっきりと濡れていく。
麻美は目を閉じた。
シャッター音はいつまでも鳴りやまなかった。
33
なにごともなかったかのように日々が過ぎていく。
麻美から連絡はない。自分から連絡を入れる度胸もない。
美千隆には毎晩連絡を入れている。話すのは彰洋。美千隆は聞くだけ。金田義明の件がどう動いているのか、美千隆は一切話してくれない。
早紀からは毎晩のように電話がかかってくる。一日の終わりに、早紀からの電話を心待ちにしている自分がいる。会いたい──抱きたい。だが、綱渡りには常に慎重さが要求される。波潟の目をごまかすために、麻美の力を借りるのも躊躇《ためら》われる。
早紀との電話が終わる。ひとりだけ取り残されたような感覚に陥る。リアルな感覚を求めて悶々とする。リアルな感覚──麻美との一夜。思いだすだけでペニスが固く勃起する。恐怖に襲われる。
体温があがる感覚は消えてしまった。思いだそうとする努力が空回りを続ける。身体と脳が中毒症状を訴える。
酒を飲む──酒では渇きは癒されなかった。大麻を手に入れたいと望み、望んだ瞬間に、麻美との夜を思いだす。堂々巡りが続く。
鞄持ちの日々──波潟は精力的に動きまわる。あらゆることに耳を傾け、注意を払う。億単位の金の話がなされる。実際に、億単位の金が目の前で飛び交う。
それでも、体温があがる感覚は戻ってこない。
木曜の夜。耐えがたい衝動。彰洋は早紀に電話をかけた。
「会いたい」
彰洋はいった。
「わたしも会いたい」
早紀がいった。
* * *
映画を観た。観たいといったのは早紀だった。ハリウッド製のラヴロマンス。内容は上の空──映画が上映されている間中、早紀の手を握っていた。麻美が自分にしてくれたことを思いだしていた。自分自身への嫌悪と戦っていた。
晩飯はハンバーガー。映画を観終わったあとは、映画館近くのバーへ繰りだした。
「映画、おもしろかったわね」
「うん、そうだね」
彰洋は曖昧に答えた。
「おもしろくなかったの?」
「そんなことないよ。どうしてそう思うの?」
「なんだか、彰洋さん、心ここにあらずって感じよ」
自分の体内に巣くった恐怖を早紀に打ち明けたかった──できるわけがなかった。
「そんなことはないよ。早紀さん……早紀に久しぶりに会えたから、それで舞いあがってるんだ」
「本当に?」
早紀が嬉しそうに微笑んだ。
口八丁手八丁──自分が恨めしい。
「会いたかったんだ」
「わたしも……わたしが電話しても、彰洋さん、全然会おうっていってくれないから、嫌われたのかと思ってずっと気になってた」
「ごめんよ。だけど、波潟社長に気づかれるわけにはいかないから」
「そうね……まだしばらくは我慢しなくちゃ。でも、いつになったらパパの目を気にしなくてもすむようになるのかしら?」
意外に早く波潟を食う時期がやってくるかもしれないぜ──美千隆の声が脳裏に響く。そうなれば、波潟を気にかける必要がなくなる。そうなれば、早紀は悲しみの底に沈むことになる。おそらくは、彰洋を怨《うら》むようになる。
「できるだけ早く、そうなるように頑張る。波潟社長が文句をいえなくなるぐらい、おれが出世すればいいんだから」
彰洋はいった。それしかいえなかった。
「早くそうなれるように頑張ってね」
早紀が微笑む──身を苛む罪悪感。彰洋は唇を舐めた。唇が乾いていた。酒を飲んだ。酒では渇きは癒されない。わかっていても飲まずにはいられなかった。
「彰洋さん、お願いがあるんだけど……無理だったらいってくれればいいから」
「なに?」
「来月の十八日、わたしの誕生日なの」
五百万のボーナスが頭をかすめた。丸々手つかずで残っている。あの金を使えば、早紀の願いを叶えてやることはできる。薄汚れた金だが、金は金だった。
「本当? なにか欲しいものあるんだったら、いいなよ。なんでも買ってあげるよ。おれ、ボーナスが出たばっかりなんだ」
「あのね……」
早紀がいい淀む。彰洋の顔色を窺うような視線──彰洋に媚びるような視線。
「遠慮しなくていいよ。欲しいものをいってごらん」
「マミが素敵な時計を持ってるの」
一瞬にして記憶がよみがえる。麻美の裸身。麻美の痴態。快感に歪む麻美の顔──目の前の早紀とすり替わる。頬が火照り、呼吸が荒くなる。
体温があがるのとは違う感覚──ないよりはましだ。だが、恐ろしい。
「ブレスレットの部分が炎を象《かたど》ってて、宝石がはめこまれてて……」
その時計を見たことはない。麻美が好みそうな時計であることは間違いない。とてつもなく値が張ることも確かだった。
「いくらするの、その時計?」
彰洋は訊いた。早紀が慌てたように首を振った。
「その時計が欲しいっていうわけじゃないの。マミと同じ時計つけるのも、なんだか癪だし……そうじゃなくって、彰洋さんに素敵な時計を買ってもらいたいの」
「服やアクセサリィじゃなくて?」
「いやないい方かもしれないけど、わたし、そういうのたくさん持ってるから。だけど、時計はあまり持ってないの。だから、彰洋さんに最初に買ってもらうのは、時計がいいかなって」
早紀が欲しがる時計──その辺で売っている時計であるはずがない。麻美の持っている時計──炎のブレス、はめこまれた宝石。いくらするのだろう? どの程度の時計を買えば、早紀のような娘を喜ばせることができるのだろう。
「いいよ。買ってあげるよ」
「本当に? 無理してない?」
「本当。あんまり会うことができないから、罪滅ぼし」
「そんなの、いや」
早紀が拗《す》ねる──抱きしめたくなる。
「彰洋さんがわたしのこと好きで、それで買ってくれるのがいいの」
早紀の頬が赤くなる──抱きしめたくなる、きつく、きつく。
「早紀のことが好きだから、買ってあげたいと思うんだよ」
彰洋はいった。恥ずかしさは感じなかった。早紀の表情が後ろめたさも吹き飛ばしてくれる。
「ありがとう」
「どこの時計がいいかな?」
「彰洋さんに任せる。わたしに一番似合うと思う時計を買って」
難しい設問──どうとでもなれ。
彰洋は手を伸ばした。早紀の手を握った。早紀が握り返してきた。
* * *
彰洋の部屋へ──暗黙の合意。
「明かりを消して」
早紀がいった。交わされた言葉はそれだけだった。言葉はいらなかった。お互いに、もどかしげに服を脱いだ。抱きあった。
彰洋は早紀の唇を貪った。乳房に手を這《は》わせた。早紀の乳首は固く尖っていた。
早紀をベッドに押し倒す。乳首を吸う。身体に舌を這わせる。濡れた股間に触れる。
「待って」
早紀が顫える声でいった。
「どうしたの?」
彰洋は早紀の顔を覗きこんだ。暗闇でも、上気した早紀の頬を視認できた。
「仰向けになって」
早紀の声は顫えたままだった。だが、断固とした響きがあった。
彰洋は仰向けになった。早紀が覆いかぶさってきた。早紀の小さな舌が彰洋の耳に触れた。
「大好き」
顫える声──顫える吐息。全身に電流が走る。早紀の舌──ぎごちない動き。麻美のそれを思いだす──勃起していたペニスがさらに固くなる。
早紀の舌が乳首を舐めた。早紀の舌が脇腹を這った。早紀の舌が亀頭に絡みついた。
麻美がするのと同じことを早紀がしていた。舌のぎごちなさだけが、早紀と麻美の違いだった。だが、その違いもすぐに失われていく。
彰洋は呻いた。暗闇に浮かぶ早紀の顔が麻美の顔と入れ代わる。入れ代わったばかりの麻美の顔が、早紀の顔に戻る。快楽と恐怖、現実と妄想が絶え間なく入れ代わる。
早紀は麻美だった。麻美は早紀だった。
彰洋は早紀の頬に触れた。早紀の動きをとめた。これ以上は我慢ができなかった。すぐにでも射精してしまいそうだった。
「待って。動かないで」
早紀が彰洋を制した。彰洋に覆いかぶさったまま、身体をずらす。彰洋と早紀の視線がぶつかる。
「いやらしい女だって思わないでね」
早紀がいった。彰洋の耳には泣いているように響いた。興奮しているように響いた。
「思わないよ」
彰洋は喘ぐようにいった。
「彰洋さんのこと、好きだから……大好きだから」
早紀が腰を沈めた。彰洋のペニスが粘膜に包まれた。
彰洋は腰を突きあげた。早紀が甲高い声をあげた。
「もっとゆっくり……」
早紀が懇願する。彰洋は無視した。激しく突きあげた。早紀の爪が胸の皮膚に食いこんだ。早紀が叫んだ。
「いっちゃう! 早紀、彰洋さんのおちんちんでいっちゃう!!」
絶頂──恐怖。早紀の中で放ちながら、彰洋は顫えた。
どこかで聞いた喘ぎ声。どこかで聞いた台詞。
麻美との爛《ただ》れた夜──麻美が絶頂に達したときに口にした言葉。
早紀はどこでそれを耳にした? 早紀はどこで麻美のやり方を覚えた?
なにもかもを放りだして逃げたくなる。早紀が身体にしがみついてくる。
彰洋は我に返った。恐怖を押し隠しながら早紀を抱きしめた。
早紀の呼吸は荒かった。早紀の体温はあがっていた。最後の台詞が芝居ではないことを物語っていた。
「どうして?」
早紀の呼吸が落ち着くのを待って聞いた。
「恥ずかしい」
早紀は彰洋から顔を背けた。
「早紀……」
「あんなこと口にする女、嫌い?」
嫌いではない──ただ、恐かった。
「そんなことないけど、突然だから、びっくりした」
「じゃあ、もういわない」
早紀のうなじは真っ赤だった。早紀は恥ずかしがっていた。
麻美だ。いたずら好きの小悪魔。早紀になにかを吹きこみ、早紀はそれを実践した。早紀にはとてつもなく恥ずかしい行為だったに違いない。それなのに、彰洋が冷たい反応を見せたことに傷ついている。
麻美──なにを考えている?
彰洋は早紀を抱く腕に力を入れた。
「怒らないで、早紀。本当にびっくりしただけだから。でも、嬉しかったし、興奮したよ」
「嘘」
「嘘じゃないよ。その証拠に、ほら」
彰洋は腰を突きあげた。まだ勃起したままのペニスが早紀の身体に当たった。
「まだ固いだろう? 早紀のせいでこうなってるんだぞ」
「嘘じゃないの?」
早紀が顔を向けてきた。
「嘘じゃないって」
彰洋は早紀にキスをした。
危険な綱渡り──足元のロープは激しく揺れている。
34
電話は美千隆からだった。
愛を囁く言葉はない。会えないことを嘆く言葉もない。
「明後日の夜、あいてるか?」
「たぶん、だいじょうぶ」
「八時半にホテルの部屋に来てくれるか?」
喜びに胸が顫える──声が弾む。
「行ってもいいの?」
「時間厳守だ。それに、いつものことだが──」
「ひと目には気をつけること」麻美は美千隆の言葉を引きとった。「晩ご飯、一緒に食べられる?」
「食ってきてくれ」
不満が鎌首をもたげた。左手首のラ・フラムを撫でて不満を押し殺した。
「明後日、八時半ね」
「待ってるよ」
引き留めるまもなく電話は切れた。
* * *
新しい下着。お気に入りのスーツ。お気に入りのバッグ。左腕にはラ・フラム。タクシーは使わずに、電車で新宿へ。電車で移動する人生には我慢がならない。道が混んでいようと運転手付きの車で移動する。タクシーでもハイヤーでも、リムジンでも。今日、電車に乗っているのは美千隆のためだった。自分のためだった。
新宿で電車を降りた。小田急デパートで時間を潰す。シャネルの新作のスーツ──衝動買い。エルメスのバッグ──衝動買い。フェラガモのパンプス──衝動買い。一着のスーツを買うかどうかで頭を悩ませているOLたちのそばで、無造作に買物をするのは快感だった。
時計売り場にはきらびやかな時計が並んでいる。ラ・フラムに勝る時計はない。気分が昂揚する。同じ階の貴金属売り場を見てまわる。若い娘には見向きもしない慇懃無礼な店員が、麻美のラ・フラムに目をとめて愛想笑いを浮かべる。──自尊心がくすぐられる。
この境遇を手放したくはない。女王のように振る舞いつづけるためにはなんでもすると誓う──世界中の神々に誓う。
神様はお金を愛している──そうでなければ、金を使えることがこんなに気持ちのいいはずがない。彰洋の祖父が祈りを捧げていたのは、間違った神様だ。
今度、彰洋にその話をしてみよう。
時間を見計らって美千隆の住むホテルに向かう。周囲に神経を配りながら。五十歩あるくごとに後ろを振り返りながら。
ホテルの手前でサングラスをかける。荷物を持とうと呼びかけるベルボーイを振りきる。ロビィを横切ってエレヴェータに乗りこむ。
八時半──ドアをノックする。
「いま、開ける」
美千隆の声がする──胸が締めつけられる。
「だ、だれが来たんだね? ふたりきりという約束だったじゃないか」
慌てふためく男の声が続く──冷水を浴びせられたような気持ちになる。
男の声には聞き覚えがあった。思いだしたくもない声だった。
ドアが開いた。美千隆が冷たい微笑みを浮かべていた。
「よく来てくれましたね。さあ、入ってください」
他人行儀な口調で美千隆が招き入れる仕種をする。麻美はぎごちない足取りで部屋に入った。背後でドアが閉まるのと同時に、呆然と自分を見つめる男の姿が視界に飛びこんできた。
「き、君は……」
稲村だった。いやらしくにやけていた顔が、蒼ざめている。脂汗が額に浮かんでいる。
「こちらのお嬢さんをご存じでしたか、稲村部長?」
美千隆がいった。芝居がかった口調だった。
「き、貴様……」
「若い女性の前で、そんな口のきき方はいただけませんよ、部長。なんでも部長は、若い女性を口説くのがお得意だそうじゃないですか」
美千隆に背中を押された。麻美は促されるままに足をすすめた。
ショックが薄れる。美千隆の狙いが見えてくる。怒りが膨れあがる。だが、神に誓った──女王のように振る舞えるのならなんでもすると誓った。
「わ、わたしを脅すつもりか、齋藤君? だったら、お門《かど》違いだぞ。浮気のひとつやふたつぐらい、お、男の甲斐性だよ」
「まあ、普通はそうでしょうけどね……マミさん、さあ、ここに座って」
美千隆が応接セットを指差した。稲村の正面にあたる位置。麻美は稲村の目を見つめながら腰をおろした。
「なにをどう脅されても、君のいい分には乗らんぞ、齋藤君。き、君はあの男の恐さを知らないんだ」
「先日、ゴルフに行く途中で、波潟昌男に拉致されたそうですね」
美千隆が涼しい声でいった。稲村の顔が赤くなり、白くなり、青くなった。まるで信号のようだった。
「ど、どうしてそれを……」
「波潟に脅されて、やくざたちに殴られたんでしょう? そんなことをされたら、稲村部長でなくても波潟が恐くなりますよね」
「し、知らん。わたしはなにも知らん」
美千隆が麻美の隣りに腰をおろした。稲村は立ったままだった。麻美は買物袋とエルメスのバッグを無造作に足元に置いた。ソファの背もたれに身体を預けた。足を組んだ。少しすれた女を演じた方がいい──経験がそう告げる。
「じゃあ、彼女が波潟の愛人だということも知らなかったんですか?」
「な……なんだって?」
「彼女はこの世界じゃ有名な女性ですよ。なにしろ、もう二年近くもあの波潟を虜にしてるんだから」
「き……君は……」
稲村が蒼白な顔を向けてきた。麻美は微笑んだ。
「三浦マミです。この前はどうも」
「自分の愛人をなぶり者にされたと知ったら、波潟はどう出てくるでしょうね?」
美千隆が煙草をくわえた。麻美はその煙草を奪い取った。
「わたしも吸ってもいい?」
「どうぞ。お好きなように」
美千隆がライターを手に取った。麻美の煙草に火をつけた。稲村は美千隆と麻美の顔を交互に見比べていた。
「知らんぞ。わたしはなにも知らん。この女性とも、今日が初対面だ」
無益な抵抗──麻美は鼻で笑った。
「よくそんな嘘がつけるわね。無理矢理わたしのこと抱いたくせに」
「む、無理矢理だと!? 先にいいよってきたのは……」
「わたしだっていいたいの? わたしとは初対面なんでしょ?」
稲村の青かった顔が赤くなった。額に浮かんでいた汗がしずくになって流れ落ちた。恨みがましい目──身のほど知らずの視線。自分が崖っぷちに立っていることを認めようとしない愚か者。
徹底的に嬲《なぶ》ってやればいい。わたしの身体を味わう代償がどれほど高くつくか思い知らせてやるといい。
美千隆の横顔を盗み見る。美千隆は冷たい目を稲村に向けていた。美千隆は麻美の期待を裏切らない──ほとんどのことでは。だから美千隆に惹かれる。だから、不安になる。
「稲村部長、彼女とは初対面だと、この先もいい張るつもりですか?」
「あ、当たり前だ。絶対に認めんぞ」
「しかたがないですね。じゃあ、あれをご覧いただきましょうか」
美千隆はそういって腰をあげた。ライティングデスクに歩み寄った。机の上に出してあった茶封筒を手にして戻ってきた。
「本来なら、こんなものはお見せしたくはなかったんですが……」
美千隆は茶封筒を稲村の前に置いた。
「座ってください、稲村部長。立ったままじゃ疲れるでしょう?」
美千隆は揶揄するようにいった。稲村はその声が聞こえなかったというように立ち尽くしていた。
「な、なんだね、これは?」
「自分の目でお確かめください。おもしろいものが入ってますから」
稲村が茶封筒を手に取った。顫える手で中のものを抜きだした。
「こ、これは……」
稲村の手が激しく上下した。稲村の手から一葉の写真がこぼれ落ちた。
全裸で絡みあう麻美と稲村。プロが設置した隠しカメラは稲村の貧弱なペニスを鮮明に写し取っていた。彰洋と自分を撮った写真が脳裏をよぎる。インスタントカメラで適当に撮った写真は淫猥だが綺麗だった。稲村と麻美の写真はただ醜悪なだけだった。
「どうです、稲村部長? これでもまだ、彼女を知らないといい張るんですか?」
「グルだったのか……最初からわたしを罠にはめるつもりで……」
稲村がまた恨みがましい目を向けてきた。麻美は煙草の煙をわざとらしく吐きだした。
「当たり前じゃない。あなたみたいなちんけな中年男に、わたしみたいな女がいいよるわけないでしょう。恨むんなら、わたしじゃなくて身のほど知らずだった自分を恨むのね。それがあなたにはお似合いだわ、稲村部長さん」
「き、貴様っ!」
稲村の顔がどす黒く変色しはじめた。
「怒る前に、あなたの下手くそなセックスに感じてるふりしなきゃならなかったわたしのことも考えてよ。吐きそうなの、必死でこらえてたんだから」
稲村が怒声をあげた。テーブルを乗り越えて麻美に躍りかかってきた。麻美は動じなかった。稲村の手が麻美にかかる直前、美千隆が稲村の襟首を掴んだ。稲村が苦しげに顔を引き攣《つ》らせた。
美千隆は稲村を自分の方に向き直らせた。一瞬の間も置かずに、稲村の顔に頭突きを入れた。眼鏡が割れた。稲村の鼻から血が噴きでた。美千隆は稲村を反対側のソファに押しやった。稲村はみっともなくソファの上に転がった。鼻を押さえ、呻いた。
「大人げない真似はよしなよ、稲村さん。はめたのはおれたちだが、さかりのついた犬みたいに鼻の下を伸ばしたのはあんただろう?」
美千隆の口調が一変していた。
「す、すみません。ゆるしてください。つ、ついかっとなって……」
稲村の口調も変わった。金と暴力はひとの本性を剥きだしにする。
「痛かったかい、稲村さん?」
稲村がうなずいた。
「だけど、波潟に拉致されてやくざたちに殴られたのよりはましだろう?」
稲村はうなずき、首を振った。
「どっちなんだよ?」
「ゆ、ゆるしてください。わ、わたしが悪かった。だから、な、殴るのだけはやめてください。お願いです」
稲村はぶざまだった。醜悪だった。こんなふうにはなりたくない。力が弱くても金があれば他人の力を借りることができる。女であっても、金さえあれば男を屈伏させることができる。
「この写真を見たら、波潟は稲村さんをゆるすと思うかい?」
「お、お願いです。そ、それだけは……」
稲村はソファの上で正座した。土下座した。
「見返りは?」
美千隆がいった。麻美は思わず振り向いた。美千隆の声はそれほど冷酷だった。固く凍った氷のような声だった。
「さ、齋藤君の……齋藤さんのおっしゃることなら、なんでも聞きます」
「そうか。おれの頼みは、三洋銀行が波潟に融資を続けることだよ。簡単だろう?」
「そ、それだけでいいんですか?」
「ただし、その融資は三洋銀行本店からじゃなくって、系列のノンバンクからということにしてもらいたいんだ」
「な、なぜ?」
「あんたが理由を知る必要はない」
美千隆が稲村を睨んだ。稲村が竦《すく》みあがる。
「わ、わかりました」
「他にもお願いしたいことがいくつかあるんだが、それはまた、あとであんたにお願いするよ、稲村部長」
「あ、ありがとうございます」
稲村は土下座の頭をさらに低くした。割れた眼鏡と鼻血──稲村はどこまでも滑稽でぶざまだった。
「じゃあ、今夜はもういい。彼女に謝罪して、帰ってくれ」
「謝罪?」
稲村が頭をあげた。
「当然だろう? あんたはいい思いをしたくせに、今日ここで、彼女を侮辱したんだぜ」
「そ、それは……」
「あんたも頭が悪いね。また痛い目を見たいのかい?」
稲村が飛びあがるようにして立ちあがった。麻美の目を見ずに頭をさげた。
「す、すみませんでした」
稲村の声は顫えていた。稲村は泣いていた。
* * *
「悪かったな」
美千隆がいった。肩を抱かれた。撥ねつけたかった。できなかった。
「酷いよ。美千隆と久しぶりに会えると思って、わくわくしながら来たのに」
「悪かった。おまえも驚いた方がリアリティがあって、稲村を落としやすいと思ったんだ」
「いってくれた方がよかったよ。マミ、お芝居うまいんだから。知ってるでしょう?」
「絶対に失敗したくなかったんだ。わかってくれよ、マミ」
わかりたくはない。ゆるしたくもない。だが、気持ちとは裏腹に、身体が美千隆の体温を求めていた。
麻美は美千隆に抱きついた。
「今夜はいっぱい可愛がって。そうしたらゆるしてあげる」
美千隆が笑った。麻美は美千隆に抱えあげられた。
「波潟の様子はどうだ?」
美千隆がいった。顔は笑っている。目は笑っていない。
「馬鹿」
麻美はいった。美千隆を憎みたかった。だが、できないこともわかっていた。美千隆は金と力を求めている。麻美は金を求めている。心は二の次──美千隆と麻美はできの悪い双子のようだった。
「マミと寝るときは波潟のことは忘れて。お金のことも忘れて」
麻美は懇願した。麻美に懇願させることができるのは美千隆だけだった。
美千隆の唇が麻美の唇に触れる。舌が絡みあう。美千隆の唇が麻美の耳たぶに触れる。暖かい吐息──冷めた声。
「彰洋と波潟の娘はどうなってる?」
「やめてっていったじゃない」
「彰洋と波潟の娘はどうなってる?」
美千隆は麻美の言葉に取りあわない。
「熱々よ」
麻美はいった。その唇をまた塞がれた。美千隆はそれ以上口を開かなかった。
35
株価がまた高値を更新した。波潟が電話をかける相手が増えた。証券会社に相場師。
波潟は動かない。情報を集めるだけだった。集めた情報を選別するだけだった。
熱せられた鉄板の上で焙られる猫の気分だった。踊り続けていなければ燃えてしまう。揺れるロープの上を歩く綱渡り──足を動かし続けていなければ落下してしまう。
夜ごとの電話──深夜に囁く愛の言葉。早紀が会いたいという。体温があがる。危険な綱渡りを演じていることに想いを馳せる。冷水を浴びせかけられたかのように体温がさがる。
株価はあがり続けている。波潟が動きだす気配はない。
* * *
「堤」
波潟が受話器を自分の肩に押しつけながら声をあげた。波潟の執務室。今では部屋の片隅に彰洋のデスクが置かれるようになっていた。出社すると、秘書の川田はるかの手書きのメモが机の上に載っている。メモにはその日の波潟のスケジュールが書きこまれている。そのメモに夜の波潟のスケジュールを書き足すのが彰洋の日課になりつつあった。
川田はるかが管理するのは午後六時までの波潟のスケジュール。夜のスケジュールは波潟が自分で決める。決めたことを彰洋に告げる。
「なんでしょう、社長」
「今夜、銀座にはおまえがひとりで行ってくれんか」
脈が早くなる。今日の夜、銀座──波潟は三洋銀行の稲村と会うことになっていた。
「しかし、今夜の相手は……」
「わかってるんだがな」波潟は受話器を指差した。声を落としていった。「与党の代議士の秘書からでな、今夜中にまとまった金を用意できんかといってきてるんだ。無下《むげ》にはできん」
「しかし、ぼくみたいな若造ひとりでは……」
「なに、稲村には、このあいだのことを思いださせてやるだけでいい。近々にでかい融資をさせるから、釘を刺しておくだけでいいんだ。少し話をして、あとはおまえの知ってる店にでも行って、女でもクスリでもあてがってやれ。それぐらいのことはできるだろう?」
久しぶりに体温があがる。三洋銀行の融資部長と膝を詰めて話をする。二十そこそこのガキにできることではない。稲村を適当にあしらえば、時間が余る。早紀に会えるかもしれない。
体温はうなぎ登りに上昇する。
「わかりました。やらせていただきます」
彰洋はいった。波潟はうなずき、電話での会話に戻っていった。
* * *
綱渡り──トイレに行くふりをして電話をかける。早紀は電話に出ない。留守番電話のメッセージだけが聞こえてくる。電話を切る。
綱渡り──不必要な危険は冒せない。
極限まで昇りつめた体温。せつなく、狂おしい。
鞄持ちの仕事に戻る。波潟の後について回る。黒子に徹する。波潟の訪問先で、ひそひそ話を耳にする。
夜がやってくる。波潟の移動が終わる。
「じゃあ、頼んだぞ、堤」
波潟がいう。波潟は赤坂の料亭に向かう。
綱渡り──電話をかける。
「もしもし。早紀?」
「彰洋さん、今夜あいてる?」
「まだわからない。でも、なんとか時間を作ろうと思ってる」
「時間、作って。お願い」
「状況が見えたら、電話するよ」
「ポケベルに連絡して。ママには友達の家に泊まるっていうから」
「わかったよ」
「会いたい。待ってる」
早紀の言葉は短い。その短さが早紀の思いを代弁する──せつない、狂おしい。
「必ず電話するから」
電話を切って仕事に向かう。
* * *
稲村はひとりでボックス席に座っていた。稲村の鼻には絆創膏が貼ってあった。稲村は落ち着きのない視線を忙《せわ》しなく動かしていた。成金紳士たちで賑わうクラブの中で、稲村が座るボックスだけが浮いていた。
案内しようとするホステスを振りきって、彰洋は稲村の席に向かった。
「お待たせしました。稲村部長」
稲村が顔をあげた。怯えた視線、怯えた態度。稲村は彰洋のことを覚えている。あの倉庫で自分になされたことを忘れられずにいる。絆創膏を貼った鼻のまわりがかすかに黒ずんでいる。
殴られた痕のように思えた。疑問が生じる。松岡たちは稲村の顔には手をかけなかった。腹部や下半身を殴り、蹴っただけだ。だれに殴られた?──だれが殴った? 金田義明──名前が浮かぶ。
「な、波潟さんは?」
稲村は上ずった声でいった。
「申し訳ありません。社長は急用ができまして、代わりにわたしが参りました」
彰洋は丁寧に頭をさげた。
「か、代わりにって、君のような若……」
稲村は声を途中で飲みこんだ。ばつの悪そうな表情を浮かべ、水割りに口をつけた。
わかっている──彰洋は拳を軽く握った。微熱に冒されているような感覚が続いていた。この感覚があるかぎり、心配はいらなかった。頭に血がのぼることもない。目上の人間が相手だからといって呑まれることもない。
「ぼくのような若造ですみません、稲村部長。しかし、波潟は直前までここに来るつもりだったんです」
「ま、まあいい。とにかく、かけなさい」
稲村は威厳を取り繕おうとしていた。芋虫のように縛られ、嬲られた姿を見たあとでは、彰洋はなにも感じなかった。
「失礼します」
彰洋は頭をさげ、稲村の向かいに腰をおろした。ホステスが飛んでくる。業務用の笑顔とおしぼり。自信に溢れた態度は、そのホステスが稲村のお気に入りの娘であることを語っていた。
「ちょっと席を外してくれないか? 込み入った話があるんだ。それが終わったら呼ぶから」
彰洋はおしぼりを受け取らずにいった。ホステスが鼻白んだ。稲村は口を挟まない。
「でも、お飲み物は……」
「自分で作るからいい」
「お若いのに貫禄があるのね」
皮肉──屁でもない。麻美に比べれば、この程度のホステスは子供にしか見えない。
「美奈、いいから席を外しなさい」
稲村がいった。
「じゃあ、お話が終わったら呼んでね、稲村さん。美奈、飛んでくるから」
「ああ、あとでな」
ホステスが席を立った。稲村は困ったように言葉を続けた。
「ここはわたしが馴染みにしてる店なんだ。あまり、勝手なことをされると困るんだよ……」
懇願するような視線──問うような視線。
「堤です」
「堤君か……まあ、いい。とっとと話をすませよう」
「その鼻はどうされたんですか?」
彰洋は訊いた。稲村の手が自分の鼻の上に伸びた。絆創膏に指が触れ、稲村の顔が歪む。
「こ、これか? ちょっと、酔っぱらって転んでしまってね」
稲村はわざとらしく笑った。
「あのときは顔は殴られなかったはずです」
彰洋はかまをかけた。稲村の笑顔が凍りついた。
「な、なんの……」
「だれに殴られたんですか? なぜ殴られたんですか?」
矢継ぎ早に質問を放つ。稲村の視線が助けを求めるかのように左右に泳ぐ。
「よ、酔っぱらって転んだといっただろう。殴られるのはもう、懲りてるんだ」
「金田義明に殴られたんじゃないんですか?」
稲村の瞼が痙攣した。
「いい加減にしてくれ」
稲村を殴ったのが金田義明なのかどうかは確信が持てなかった。
「と、とにかく、波潟さんの代理だというなら、早く話をすませてくれ。できることなら、波潟さんの関係の人とは一緒にいたくないんだ。き、君もあそこにいたんだから、ぼくの気持ちはわかるだろう?」
「芋虫のように転がされて、いいように殴られたらだれだってそう思うでしょうね」
脅す。
「き、君……」
「だれに殴られたんです?」
「知らん。転んだだけだ」
「どうして嘘をつくんですか? 知られたら困る理由でもあるんですか?」
揺さぶる。
稲村は唇を噛んでうつむいた。
「稲村部長、ぼくみたいな若造は人を殴るのも得意なんですよ。だから、殴られてできた傷はすぐにわかるんです。酔っぱらって転んだ? 勘弁してください」
「本当なんだ」
稲村はうつむいたままいった。どこかかたくなさを感じさせられる口調だった。ガードは固い。稲村を殴った人間──あるいは殴らせた人間は、波潟が与えたのと同じかそれ以上の恐怖感を稲村に与えているのかもしれない。
「本当に、もう勘弁してくれ。波潟社長のいうことはなんでもきくよ。このあいだ、約束したとおりだ。金田義明にだって、会ってはいない。だから、これ以上わたしをなぶり者にするのはやめてくれ。頼む」
稲村が頭をさげた。目尻が細かく痙攣していた。稲村の目が痙攣するのは嘘をついているからではない。なにかを極度に恐れているからだ。
これ以上押すのは危険だった。ここから先は波潟に任せた方がいい。押しすぎて、稲村が開き直れば取り返しのつかないことになる可能性もある。
それに、早紀。ことを早く終わらせて、早紀と会いたかった。早紀を貪りたかった。
「わかりました」
彰洋はいった。空だったグラスを手に取り、水割りを作りはじめた。
「申し訳ありません、稲村部長。つい、その鼻のことが気になったものですから」
水割りを作ったグラスを稲村の目の前に突きだす。
「波潟は近々、稲村部長に大きい額の融資を申しこむつもりです。そのときはよろしくお願いしたいといっておりました」
「あ、ああ。もちろん、融資させていただくよ。それが我々の仕事だからね」
稲村がほっと息を吐きだす。彰洋が掲げたグラスに自分のグラスを当てる。
「乾杯」
彰洋はいった。
「乾杯」
稲村の小さな声が返ってきた。もう、稲村は彰洋のことを若造だとは思っていないようだった。脅し、揺さぶり、すかす──稲村の身に沁みたはずだ。
彰洋はグラスの中身を一気に飲み干した。食道が灼け、胃が燃えあがった。
「それじゃあ、ぼくはこれで失礼します」
「え?」
「ぼくがいると気詰まりでしょう、稲村部長。うちの社長の頼みをきちんと聞いてくださるという言質《げんち》をいただければ、ぼくの仕事は終わりです。若造ですから」
「そ、そんな……」
「今夜の飲み代は北上地所にまわしてください。この店だけじゃなくてもけっこうですから」
彰洋は微笑んだ。一人暮らしの老人たちを安心させるために鏡を見ながら何度も練習した笑顔。
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えさせていただくよ。わ、悪いね、堤君」
「会社の金ですから。稲村部長、本当に遠慮なさらずに遊んでください」
彰洋は腰をあげた。稲村に深く頭をさげた。
「それでは、失礼します」
「あ、あの……」
稲村がものいいたげな視線を向けてきた。
「なんですか?」
「き、君は波潟社長の愛人を知っているかね?」
「社長の愛人ですか?」
頭の中で警戒警報が鳴りはじめる。疑問符が飛び跳ねる。
「い、いや。このあいだ、なにかの場所でその話が出て……波潟社長の愛人がかなりいい女だと聞いて、う、羨ましく思ってね」
稲村の言葉には実がない──口からの出まかせ。だが、なぜ? なぜ、今この場所で稲村は麻美のことを話題にのぼらせる必要があったのか。
「彼女なら、何度かお目にかかったことがありますよ。少し生意気だけど、確かにいい女ですね」
「な、波潟さんはよっぽど気に入っているんだろうね?」
「ええ、目の中に入れても痛くないというほどに可愛がってるようです」
「そうか……」
稲村は呟いた。稲村の身体が一回り小さくなったような気がした。
彰洋は稲村を凝視した。稲村は決して彰洋と視線をあわせようとはしなかった。
* * *
六本木の部屋に飛んで帰り、早紀のポケベルに電話をかける。すぐに電話がかかってきた。待っていると告げる。三十分で行くという答えが返ってくる。
麻美に電話をかけたが捕まらなかった。
美千隆に電話をかけた。これ以上美千隆の信頼を損ねるわけにはいかない。それに、稲村の鼻の傷が頭にこびりついて離れない。
「もしもし、彰洋です」
「どうした?」
「さっきまで、この前話した三洋銀行本店の融資部長と会ってたんです」
「稲村だな……波潟と一緒にか?」
「いいえ、おれひとりです。波潟は急用ができまして。脅しをかけるだけだから、おれひとりでも充分だろうといわれたんです」
「出世したな、彰洋」
「からかわないでください」
「からかってるわけじゃない。照れなくてもいいから、先を続けろよ」
美千隆は笑いながらいった。
「それで、稲村と会ったんですけど、様子がおかしいんですよ」
「どんなふうにだ?」
美千隆の声が固くなった。
「鼻の頭に絆創膏を貼ってました。酔っぱらって転んだといってましたが、明らかに殴られた痕ですよ、あれ。波潟が使ったやくざたちは、顔には触れてないんです。だれか別のやつに殴られたんだと思います」
「心当たりがありそうな声だな」
「金田義明じゃないかと思ったんです。波潟が稲村に圧力をかけたことを知って、それで──」
「それはない。人を使って関西の様子を探らせてるんだが、金田義明はずっと大阪に張りついたままだ」
「だったらだれが……」
「だれだろうな」
美千隆の声が低くなった。考えを巡らせているときの美千隆の癖だった。
「よし、その件はおれが調べておく。波潟は稲村の顔の傷のことは知らないんだな?」
「ええ。それに、この先一週間ぐらいは波潟はスケジュールが一杯で、稲村に会うこともないと思います」
「その間に消えそうな傷か?」
「たぶん」
「だったら、稲村の傷のことは波潟には黙っていろ」
「わかりました……それと、もうひとつ気になったことがあるんです」
「なんだ?」
「別れ際に、稲村が急に麻美の話題を持ちだしたんです」
「マミの?」
「ええ。波潟の愛人のことを知っているかって。切りだし方がどことなく不自然で、なにかあるのかと……」
「マミと稲村か……釣り合わないな。マミは金のある男にしかなびかないだろう。稲村にマミの目をくらませるほどの金があるとは思えないしな」
美千隆の口調は赤の他人の話をしているような響きがあった。他人事なのに、心が疼く。麻美はおそらく、美千隆に麻美らしからぬ感情を抱いている。だが、美千隆はなにも感じていない。美千隆は、麻美が波潟の愛人だから麻美と寝る。麻美の機嫌を伺う。麻美を利用する。
いつも不安なんだよ、マミ──麻美の声が頭の奥にこびりついてる。彰洋ちゃんのおちんちんでいっちゃうの──麻美の痴態が瞼の裏に刻まれている。
美千隆に麻美の話題を振ったことが悔やまれた。受話器を握る手が汗でじっとりと湿っていた。
麻美と寝た──美千隆にそう告げるとどうなるのだろう。
「どうした、彰洋?」
「なんでもないです。麻美の件も、ただ気になったっていうだけですし」
「そんなに気になるんなら、本人に聞いてみろよ。三洋銀行の稲村って男を知ってるかってな」
「そうですね。そうしてみます」
「彰洋──」
美千隆の声のトーンが変わった。
「なんですか?」
「おまえのおかげでいろいろ助かる。ありがとうな。面倒をかけるが、もうしばらく波潟のところで頑張ってくれ」
体温があがる──受話器を強く握り締める。
「わかってます」
彰洋はきっぱりといった。
「明日の電話はいい。夜通し、出かけてる予定だ」
「美千隆さん、あとひとついいですか?」
「まだなにかあるのか?」
「個人的なことなんですけど……」
彰洋はいいよどんだ。早紀へのプレゼント──どのブランドのどの時計を選べばいいのか見当もつかない。
「なんだよ?」
「女性に時計をプレゼントするとしたら、どこのブランドのがいいですか?」
「値段は?」
「五百万ぐらいと考えてるんですけど」
美千隆が口笛を吹くのが聞こえた。
「この前のボーナス、全部注ぎこむつもりか?」
「え、ええ。おれが持ってても、使わない金だし……」
「相手は波潟の娘だな? おまえ、だいじょうぶか?」
「ばれないように、最大限の努力は払ってます」
「時計を買ってやるのはいいが、波潟の前ではしないようにいっておけよ。五百万もする時計を娘がしてたら、不思議に思う。金のかかったものには目ざといやつだからな」
「気をつけます」
「そうだな……あの娘ならピアジェなんかがいいんじゃないか。元々アクセサリィで有名なブランドだし、時計の機能がどうこうというわけでもないんだろう?」
「ピアジェですね。わかりました、探してみます」
「おれが普段使ってる時計のブローカーに話をしておくよ。そいつなら、市価の八掛け以下で買える。五百万出せるなら、七百万ぐらいの時計が買えるからな。いくつか用意させるから、その中からおまえが選べ」
「お願いします」
「のろけるのはいいが、波潟にだけは気づかれるなよ、彰洋。それさえわかってるんだったら、波潟の娘をおまえが喜ばせてやるのは、おれも大歓迎だ」
「はい、わかってます。おれも、いつまでもガキじゃないですから」
彰洋はいった。美千隆と麻美、麻美と早紀──三つの顔が視界を塞いでは消えていった。
* * *
早紀が来た。
抱擁と口づけ。なにもかもがもどかしい。
心と身体が飢えている。麻美のような痴態を演じる早紀。おののく自分──興奮する自分。焦燥感を伴った情欲がすべてを忘れさせる。
危険な綱渡り──くそ食らえ。
「好き」
早紀がいう。
「好きだよ」
彰洋は答える。この前みたいにしてくれ、いってくれ──声に出さずに懇願する。麻美のようにやってくれ──張り裂けそうなほどに勃起したものを早紀に押しつける。
「どうしよう、わたし、変になっちゃう」
首を振りながら、早紀がいう。その声に急かされるように彰洋は腰を振る。
早紀の顔と麻美の顔が重なり、溶ける──彰洋は射精する。
同じことを朝まで繰り返す。
明け方──朦朧とした意識。シャワーを浴び、テレビをつける。早紀の安らかな寝顔を見守る。
株価がまたあがった──ニュースキャスターがそう告げる。
* * *
寝不足──散漫な思考。あちこちに飛ぶ意識。
ありがとうな──電話での美千隆の声を思いだす。
ありがとう──約束の時計を近いうちに買いに行くと告げたときの早紀の顔を思いだす。秘書の川田はるかが書いたメモを自分の手帳に書き写すことすらまともにできない。
しっかりしろ──自分を叱りつける。このままでは綱から足を踏み外してしまう。
午前八時半きっかりに社長室のドアが開く。波潟が姿を現す。
「昨日はどうだった?」
自分の机に座りながら波潟がいった。
「特に問題はありませんでした。この前の件が相当こたえてるようで、社長の代わりにぼくみたいな若造が現れても、怒られることもなかったですし」
「そりゃそうだろうな……遅くまで飲んだのか?」
「いえ、やっぱり、ぼくが相手だと飲んでいてもつまらなさそうだったので途中で退散させていただきました。飲み代はうちにまわってくるはずです」
「それにしては目が赤いじゃないか、堤」
心臓が早鐘を打つ。足元の綱が激しく揺れているような錯覚を覚える。
「すみません。飲み足りなくて、その後、別なところに行ったもので……」
考えるより先に言葉が口をついて出てきた。波潟の表情が険しくなった。
「遊び半分で仕事をやってるんじゃないんだぞ、堤」
「申し訳ありませんでした」
彰洋は直立して頭をさげた。冷や汗が流れる。
「ですが、稲村はだいじょうぶです。心の底から怖気《おじけ》づいてますから」
「そんなことははじめからわかっとるんだ。問題はな、堤、おれがやれといったことを、おまえがきちんとやらなかったということだ。違うか?」
「そのとおりです」
彰洋は叫ぶようにいった。頭はさげたままだった。
「ちょっとこっちへ来い」
彰洋は静かに頭をあげた。仏頂面の波潟──後先も考えずに舞いあがっていた自分を呪う。唇を舐め、波潟の机に足を向けた。
「飲み足りなかっただと?」
彰洋が近づくと、波潟は上目遣いで睨んでいた。鼻を蠢《うごめ》かせた。
「酒の匂いなんかちっともせんじゃないか。大方、女のところにでもしけこんでいたんだろうが?」
女──早紀。否定しろ──否定してはだめだ。
支離滅裂な思考──奥歯を噛み締める。女だ。女といたことにしなければならない。早紀以外の女。麻美以外の女。
記憶が唐突によみがえる。
「すみません。例の女と会ってたんです」
かつて波潟に話したでたらめ──活用するなら今しかない。
「例の女?」
「前に話したと思いますが、麻美とぼくの高校時代の同級生で、麻美を通じてぼくに会いたいと──」
「ああ、あのとき話していた女か。もう、やったのか?」
波潟の仏頂面が下卑た顔に変わった。
「はい」
「おまえもなかなか手が早いな、堤。どうだ、いい女か?」
「まあ、悪くはないですけど、特別いい女というわけでもありません」
「おまえやマミと同級生ってことは、二十一か。どうだ、それぐらいの年の女で、だれか知らんか?」
「ですが、社長には麻美が……」
「マミもいいんだが、たまには他の料理も食べたくなるだろうが? 飲み屋の女はなにかとうるさいしな。若い素人でいいのがおったら、なんとかしてくれんか、堤」
口八丁手八丁で演じた失態のツケ──鞄持ちからポン引きへの降格。
「心当たりにあたってみます、社長」
思い当たる女はいない。そもそも、美千隆の下で働くようになってから、同年代との付き合いはほとんどなくなっている。だが、なんとかしなければならない。
「そうか。なら、今回のことは大目に見てやろう。今日のスケジュールを教えてくれ」
波潟がいった。今にも鼻歌をうたいだしそうだった。
36
ポン引き稼業──麻美には頼れない。かつての黒服仲間に連絡を取る。
「金が好きな女を紹介してくれ」
パートタイムの売春婦たちのリストができる──ポケベルの番号付き。夜な夜なディスコやクラブに集う女たち。愛しているのは金と自分の見栄え。肉体の代償に金を得、ブランド物で肉体を飾りたてる。
麻美と似て、麻美とは異なる女たち。
リストのはじめから順番に女たちを波潟にあてがう。一晩で十万のインスタント売女。相手を喜ばせれば特別ボーナスがつく──鼻薬を嗅がせる。
早紀の顔が瞼の裏にこびりついている。自分の父親のためにポン引き稼業に精を出す男。早紀が知ったらどう思うだろう。なんというだろう。
給料が手取りで五十万から七十万にあがる。ポン引き稼業への波潟の評価。
「今夜、なんとかなるか?」
鞄持ちをしている彰洋に波潟が耳打ちする。彰洋は女たちのポケベルを鳴らす。波潟がホテルで女を抱いている間に、早紀との短い逢瀬を楽しむ。早紀を抱きながら波潟を思う。自分を思う。早紀の顔をまともに見られなくなる。
美千隆に報告する──美千隆はいう。
「おもしろいじゃないか。どんどん女をあてがってやれ」
「でも、こんなことをしてても──」
「腐る気持ちもわかるが、彰洋、ここが我慢のしどころだ」
「はい……」
「おれのためだ。おれとおまえで作る王国のためだ」
かすかに体温があがる。
「わかりました。もう少し、頑張ります」
澱んだ声が出る。自分を偽る気力がない。
「そうだ、彰洋。この前頼まれてた時計の件だがな、ブローカーと話をつけた。おまえの都合のいいときに会いに行くといい」
瞼の裏の早紀が微笑むことはない。
* * *
「素敵」
早紀の顔が輝く。穏やかな気持ちがよみがえる。
「つけてみてもいい?」
「もちろん。早紀のために買ってきたんだ」
早紀が時計をつける。輝いていた顔がさらに輝く。早紀の白い腕にブラックオパールが映える。ピアジェの時計。文字盤がブラックオパール。小さなダイヤがちりばめられている。美千隆に紹介されたバイヤーから買った。しめて五百万。
「似合う?」
早紀が左腕をかざす。
「とてもよく似合うよ」
彰洋は微笑んだ。早紀といるとき以外に笑うことは少なくなっている。
「高かったんでしょう、これ?」
彰洋は曖昧に首を振る。金などどうでもいい。欲しいのは金ではない。
「借金して買ったわけじゃないから、気にしなくてもいいよ」
「本当に素敵よ、この時計」
「早紀に似合うと思ったから買ったんだ。気に入った?」
「とっても」
早紀が抱きついてくる。唇を貪りあう。
「大好きよ、彰洋」
早紀がいう。体温があがる──ほのかに、かすかに。
もっとだ──頭の奥でなにかが呻く。もっとだ、もっと熱を高めろ。これじゃ足りない。こんなものじゃ満足できない。
焦り、怒り、畏れ──早紀の身体にぶつける。早紀が身体をくねらせる。押し殺しきれない声をあげる。もうゆるしてと懇願する。
まだだ──なにかが呻く。こんなものでは満足できないと訴える。
麻美を思う。麻美を抱きたいと思う。麻美なら、自分を満足させてくれるに違いないと確信する。
そんな自分を恐ろしく思う。おぞましく思う。早紀の身体を抱きながら、絶望の呻きを放つ。
もっとだ──頭の奥に巣食ったなにかは、満足するということを知らない。
* * *
地価と株価はあがり続けている。だれもかれもが狂奔している。波潟も方々に飛び回る。
耳に飛びこんでくる会話の断片──波潟は南伊豆に一大リゾート地を建設しようとしている。そのための資金繰りに株で儲けを出そうと企んでいる。リゾート建設に必要な資金は最低で三千億。株購入の資金を三洋銀行に融資させ、それを増やす。
ピラニアのような連中がおこぼれにあずかろうと波潟の周りにまとわりつく。
波潟は東奔西走する。情報を求めて。すでに手にしている情報の信憑性を求めて。
その合間に女を抱き、コカインをきめる。波潟の瞳はいつも潤んでいる。鼻の下は赤らんでいる。
「堤、悪いが、六本木までひとっ走りしてくれんか?」
社長室で波潟がいう。
「なんでしょう?」
「あれを買ってきてくれ」
波潟が札束をよこす。
「あれ?」
「コカインだ。六本木通り沿いに、フラッシュっていうバーがある。そこにな、武富っていうマネージャーがいる。そいつに金を渡せ。全部段取りはついてる」
六本木へ飛ぶ。フラッシュは知っている。客の大半が外人の店。黒服たちの噂──フラッシュへ行けばたいていのドラッグは手に入る。
武富は肌の浅黒い小男だった。おそらく、黒人の血が混じっている。
金を渡す──鍵と紙片を受け取る。終始無言。新宿駅東口──紙片に殴り書きされた文字。542──鍵のタグに彫りこまれた数字。
新宿駅へ向かう。東口のコインロッカーを当たる──ビンゴ。中に入っていた伊勢丹の紙袋を引っつかんで車に戻る。他人の視線がやけに気になる。紙袋の中──偽物のルイ・ヴィトンのセカンドバッグ。セカンドバッグの中──ビニールに包まれた白い粉。
美千隆に電話をかける。
「波潟は最近は六本木のフラッシュって店でコカインを仕入れてるようです」
「どうしてわかった?」
「たった今、ぼくが波潟に頼まれて買ってきましたから」
笑い声が響く。
「ずっと不貞腐れてたようだが、今までのことも、まんざら無駄なわけじゃなかったな。波潟はおまえを信用しはじめてるじゃないか」
「クスリを扱ってるのは、武富っていうバーテンです。そいつに金を払うと、コインロッカーの鍵を渡してくれるんです。だれかを店に張りつかせておけば、そのうち、波潟が自分でコカインを買ってる現場を押さえられますよ」
波潟とコカイン──いつか、切り札になるかもしれない。
「考えておく。波潟、苛々しながら待ってるんだろう。早く戻ってやれ」
「わかりました」
会社に飛んで帰る。波潟は電話をしている。真剣な眼差しと熱っぽい口調で。
「仕手筋が動くっていうのは確かなんだな? それがガセネタだったら、おまえさん、大変なことになるぞ」
波潟は彰洋に気づく。電話を切る。相好を崩す。
「ちゃんと手に入れてきたか?」
波潟にコカインを渡す。
「おまえを齋藤のところに返すのがもったいなくなってきたな」
波潟が笑う。
彰洋は不意に襲ってきた吐き気をこらえた。
37
疑惑──波潟が部屋による回数が減った。数えたわけではないが、そんな実感がある。
確信──ある夜、波潟が訴えた。
「マミ、尻の穴に舌を入れてくれんか」
波潟は他の女を抱いている。自尊心が損なわれる。ラ・フラムを腕に巻いて傷ついた心を癒す。
「ポン引きまがいのことをさせられてるって、彰洋がぼやいてる」美千隆がいう。「さすがに、彰洋もおまえには相談できなかったようだな」
「馬鹿みたい。いえばいいのに。マミ、波潟のことなんか、なんとも思ってないんだから」
麻美はいいながら美千隆の顔色をうかがう。自分の心を見透かされているような気がする。美千隆は微笑んでいる。見て見ぬふりをしている。
「そこでいえないのが彰洋じゃないか」
心の奥につけられた小さな傷が膿《う》んでいく。波潟を絞め殺したい。彰洋を罵倒したい。美千隆を──美千隆に慰めてもらいたい。そんなことは死んでも口にできない。
ラ・フラムに視線をやる。ラ・フラムの価値は衰えることがない。時計としての機能が落ちたとしてもプレミアがつく。
自分の身体を見おろす。肉体という資産は目減りするのが早い。
時間がない。波潟は麻美に飽きはじめている。急がなければ、雀の涙ほどの手切れ金を渡されただけで放りだされる。
「笑ってる場合じゃないよ、美千隆。もし、波潟がマミを捨てたら、美千隆だっていろいろやりにくくなるんじゃないの?」
「波潟がおまえを捨てたら、人目をはばからずにおれと会えるようになるぞ、マミ」
甘美な言葉だが、うなずくことはできない。他人の目を気にせずに会えるだけでは充分ではない。金がなければならない。金がない生活は恐ろしい。
「早く波潟にババを掴ませて」
「焦るなよ、マミ。波潟は食えない男だ。慎重にやらなきゃ、すべてがおじゃんになる」
わかっている。わかってはいるが、心に芽生えた焦燥感を押さえることができない。
時間がない──膿んだ傷口が急きたてる。時間がない。美千隆を急がせろ。美千隆の背中を押せ。
美千隆を動かすためには梃子《てこ》になるなにかが必要だった。
「だけど──」
「マミ、心配するな。おれだってなにもしてないわけじゃない。少しずつ、計画を動かしてるんだ」
抱き寄せられ、唇を吸われる。美千隆の胸にしがみつく。
「波潟は株に手を出そうとしてる。どの株を買おうとしてるのか、なんとか聞きだしてくれ。いいな、マミ?」
「うん」
麻美はうなずく。
* * *
波潟は食えない男だ──美千隆の言葉に間違いはない。それとなく株のことを聞いても波潟は言葉を濁す。直接株のことを聞くことはできない。そんなことをすれば波潟は疑心を抱く。
搦《から》め手──波潟に奉仕する。波潟を喜ばせる。甘える。拗《す》ねる。
「パパ、浮気してるでしょう?」
波潟の精液を飲み干したあとで、唐突にいってみた。
「なにをいいだすんだ、いきなり」
「だって、最近、パパのこれ、薄いもん」
不貞腐れたようにいう。波潟に背を向けてベッドに倒れこむ。
「そんなのは気のせいだ」
波潟の手が肩に伸びてくる。麻美はそれを邪険に払いのけた。
「気のせいなんかじゃないよ。マミ、もうずっとパパのしか飲んだことないんだから。パパのことだったらなんでもわかってるんだから」
背中で気配を探る──波潟がうろたえているのがわかる。
「年を取ったからだよ。それに、最近は働きすぎて疲れておるしな」
波潟の声は気配とは裏腹に落ち着いている。
「嘘つき。パパ、絶対に浮気してるんだから。最近、一緒にいる時間も少ないし……マミ、わかるんだよ」
涙よ流れよ──自分に呪文をかける。涙が溢れだす。鼻がぐずつく。声が湿る。
「マミ、捨てられちゃうんだね、パパ……」
「馬鹿なことをいうんじゃない」
「馬鹿じゃないもん」波潟に向き直る。波潟の胸に顔を埋めて泣きじゃくる。「パパ、絶対他に女がいる」
「女などおらんよ」
「嘘つき。早紀にいいつけてやるから」
早紀──切り札。波潟がみっともないほどに動揺する。
「落ち着きなさい、マミ。マミのほかに女なんかいない。誓ってもいい。疲れてるだけなんだ。嘘じゃない」
「だったら、なんの仕事してるの? 前はなんだってマミに話してくれたじゃない」
波潟がいい澱む。
「今やっとるのは難しい仕事なんだ、マミ。我が儘はいわんでくれ」
麻美は身体を起こした。泣きはらした顔を波潟に見せつける。波潟の目を見たまま、ベッドサイドの電話に手を伸ばす。
「どこに電話するんだ?」
「早紀」
「やめなさい」
波潟が受話器を奪いとろうとする。麻美は受話器の上に身体をかぶせた。かぶりを振った。
「だって、パパに嫌われちゃったら、マミのこと心配してくれるの、早紀しかいないもん」
「電話をよこすんだ、マミ。おまえのことを嫌ったりはしてないし、浮気もしておらん。本当に仕事が忙しいんだ」
「だったら、なんの仕事してるのか教えて」
波潟はベッドの上に胡座《あぐら》をかいた。たるんだ腹。萎んだペニス。醜悪な男でも金があれば王様にさえなれる。
「どうしてそんなことを知りたがるんだ?」
波潟の目玉がぎょろりと動く。相手を疑っている時の表情だった。だが、ここで引きさがることもできない。
麻美は顎を引いた。挑むように波潟を睨む。
「パパが浮気してないって思いたいの。さっきもいったけど、前はなんでも話してくれたじゃない」
波潟は腕を組んだ。麻美の表情を窺いながら、話しだす。
「南伊豆にな、リゾートを作ろうと思ってる。ただのリゾートじゃないぞ、首都圏から一時間ちょっとで行ける、世界最高のリゾートエリアだ。うまくいけば、数千億以上の儲けになる。だが、作るのにも金がかかる。それで、今は資金繰りに奔走してるんだ。デリケートな連中がからんでおってな、それ以上のことは、マミにだけじゃなく、家族にも腹心の連中にも話しておらん。信じてくれ」
波潟のガードは想像以上に固い。これ以上押すのはかえって藪蛇になるおそれがある。
「本当に?」
マミは甘えた声を出す。波潟に芽生えた疑心を打ち消す必要がある。
「本当だ」
「浮気してない?」
「当たり前だ。忙しすぎて、他の女を口説いてる暇なんかない」
麻美は波潟の腰に抱きついた。
「信じてあげる、パパ。でも、これだけはわかってね。最近、パパと会う時間が少なかったから、マミ、死ぬほど寂しかったんだよ。だから、変なことも考えちゃったの。わかる?」
萎《な》えたままの波潟のペニスをさする。波潟の腰が顫える。
「おれも悪かったな、マミ。もっとちゃんと説明しておくべきだった」
「もういい。変なこといって、ごめんね、パパ。代わりに、もっとサーヴィスしてあげる」
麻美は波潟のペニスをくわえた。
「マミ、もういい。いっただろう、疲れておるんだ。今夜はゆっくり眠ろう」
もう一度、涙を流す。涙は簡単に流れ落ちる。
「マミのこと、気持ちよくしてくれないの、パパ?」
「そういう意味じゃないんだ、マミ……そうだな、おまえのことを嫌ってなんかいないという印に、明日、会社に行く前になにか買ってやろう。どうだ?」
泣きながら微笑む──波潟がこの表情に弱いのは知っている。
「ありがとう、パパ。でも、マミ、なにか買ってもらうより、パパともっと一緒にいたいの」
「マミ……」
「忙しいのわかったけど、もうちょっとだけ、仕事の合間にマミのこと思いだして。ね?」
「ああ。なるべくマミと会う時間を作るようにするさ」
麻美は波潟の背後に回った。肩を揉みはじめた。
「ありがとう、パパ。大好き」
波潟が嬉しそうに肩を揺すらせた。
波潟の凝った肩を揉みながら思案を巡らせる。株の情報を波潟から聞きだすことはできない。
どうする?──彰洋と早紀の顔が脳裏を横切った。
* * *
「マミ、これ見て」
早紀がこれ見よがしに左腕を突きだしてきた。手首に巻かれた時計。ダイヤとブラックオパールが目に飛びこんでくる。
彰洋の五百万──昏い感情が沸き起こる。それを押し隠して微笑んだ。微笑むのは簡単だった。彰洋と寝たときのことを思いだせばいい。彰洋がどうやって自分を抱いたのかを、早紀に告げることを想像するだけでいい。
「素敵な時計じゃない。どうしたの?」
「彰洋さんに買ってもらったの。ピアジェだって」
「不思議。彰洋ちゃん、その手のセンス、全然ないのに、早紀、凄く似合ってるよ」
実際、時計は早紀によく似合っている。盤面のブラックオパールが早紀の肌の白さと清楚な雰囲気を引き立てている。
「でしょう? とても気に入ってるの、これ」
早紀は屈託なく笑う。彰洋がどうやって五百万ものボーナスを手に入れたのかを考えることもなく。
「本当によかったね、早紀」
「でもね」早紀の顔がかすかに曇る。「彰洋さん、この時計をパパのいるところじゃしないでくれっていうの」
麻美は笑いそうになるのを堪《こら》えた。どうやって波潟の話題を持ちだそうかと考えあぐねていたのに、早紀の方から振ってくれた。幸先がいい。
「しょうがないんじゃない、それは」
いいながら瞳を伏せる。さり気ない仕種だが、早紀は必ず気づく。
「それはそうだけど……ねえ、マミ、なにかあったの? 今日のマミ、なんだか元気がないみたい」
すぐには答えない。焦点の合わない目を左右に向ける。すぐにうつむき、小さく溜め息をつく。早紀を焦らす。
「マミ……」
「悩みはあるんだよね。でも、早紀にはいえないんだ。友達が少ないと、こういうとき困っちゃうね」
「水臭いじゃない。わたしだったらだいじょうぶよ。どんなことでも聞いてあげる」
「だって、早紀、怒るもの」
「どうしてわたしが怒らなきゃならないの?」
早紀が怪訝そうな顔をする。その表情がすぐに変わる。早紀は勘がいい──父親譲りなのかもしれない。だが、それもある種のことに限定される。早紀は鈍感なことに関してはとことん鈍感でもある。
「パパのこと?」
目を伏せたまま、麻美は答えない。
「ねえ、マミ。パパとなにかあったの?」
小さくうなずく。
「なにがあったの? 教えてよ、マミ」
「パパ……浮気してるみたいなんだ」
早紀が絶句する──畳みかける。
「だから、早紀にいうのやだったんだ。マミだってパパと浮気してるわけだし、こんなの馬鹿げてるし……だけど、パパ、これまでマミ以外の女と浮気したことなかったんだよ、早紀。マミ、悲しくて、悔しくて、だけどだれにも相談できなくって……」
呪文を唱える──涙よ流れよ。麻美は口をつぐむ。両手で顔を押さえる。
「マミ……」
「ごめんね、早紀。こんなこと、早紀に相談できた義理じゃないよね」
指の隙間から早紀の様子をうかがう。早紀は周囲を気にしていた。落ち着いた雰囲気の喫茶店に若い娘が泣きじゃくる修羅場は似合わない。
「マミ、ねえ、泣かないで。わたし、怒ってないし……マミ、お願いだから、泣かないで」
「マミだって泣きたくなんかないよ」麻美はバッグを掴んで席を立った。「こんなとこで馬鹿みたいに泣いてちゃ、早紀に迷惑だよね。帰る」
帰るつもりはない。早紀の罪悪感を煽りたてる──早紀は必ず引き止めるはずだ。
「待って、マミ」
予想より早く早紀の手が伸びてくる。
「早紀、ほんとにごめんね」
「迷惑じゃないから、とにかく座って。話して」
「だって、パパのことだよ。早紀、聞きたくないでしょう?」
「あんまり聞きたくはないけど、聞く。だって、マミがそんなに傷ついてるのに、放ってはおけないわよ」
麻美はあげた腰をおろした。バッグからハンカチを取りだして涙を拭う。
「話してっていわれても……パパが浮気してるってだけだから」
「確かなの?」
早紀が熱っぽい口調でいう。もう、早紀の視界には周囲の客やスタッフのことは入ってこない。
「確かめたわけじゃないの。だけど、最近、会う機会が少ないし……この前、パパを問い詰めたんだけど、仕事が忙しいだけだって嘘つくのよ。パパ、いつだって忙しいのはわかってるんだから。忙しくても、マミと会う時間だけはきちんと作ってくれてたのに……」
「でも、パパが浮気してるかどうか、まだはっきりしたわけじゃないんでしょう?」
「わかるのよ。態度とかいろんなことで。早紀だって、彰洋ちゃんが浮気したら、すぐにわかるようになるよ」
「彰洋さんは浮気なんかしないわ」
吹きだしそうになるのを堪えた。早紀にあの写真を見せてやりたい。
「とにかく、パパは浮気してるの。絶対に」
「もしパパが本当に浮気してるとして、マミはどうしたいの?」
「わからないよ」麻美は首を振った。「毎晩、考えて悩んで、苦しくなって……」
「別れるつもりはないの?」
「好きなの。パパと別れなきゃならなくなるぐらいなら、死にたい」
声を落とす。目尻に涙が溢れるのを感じる。
「困ったわね……」
早紀が腕を組む。首を振る。早紀を手玉に取るのは呆気ないぐらいに簡単だった。
「パパを問い詰めても、浮気なんかしてないっていわれるだけだし……マミ、どうしていいかわからなくって」
「でも──」早紀は開きかけた口を閉じた。また、首を振った。「わたし、わからない。パパが本当にマミの他に女を作ってるのかどうか……」
「だったら、調べて」
「え?」
「マミ、パパと一緒にいられるの、週に二日ぐらいしかないのよ。それも、夜だけ。だけど、早紀は毎日顔を合わせてるでしょう? それとなく訊いてよ。パパがその日なにをしてたか。マミも同じようなこと訊く。それで、早紀が聞いた話とマミが聞いた話が食い違ってたら、怪しいでしょう?」
波潟がどこへ行き、なにをしたのかがある程度わかれば、波潟が買おうとしている株の銘柄を推測することが可能になる。そうなれば、美千隆の背中を強く押すことができる。美千隆が動きだせば莫大な金が転がりこんでくる。
「でも、そんなスパイみたいな真似……」
「お願い、早紀」早紀の両手を握りしめて懇願する。「このままじゃ、マミどうにかなっちゃう。もしかしたら、全部思い過ごしなのかもしれないけど、確かめたいの。お願い、協力して、早紀。早紀しか頼れる人がいないのよ」
「パパがわたしとマミに話すことだけで結論出すわけでしょう?」
「だったら、彰洋ちゃんにも訊くよ。彰洋ちゃんは、普段、パパと一緒に行動してるんだから、彰洋ちゃんの話とも違ってきたら──」
「マミ」
早紀が麻美の言葉を遮る。
「なに?」
「本当にパパのことが好きなの? お金のことだけじゃないの?」
涙が零れおちる──呪文を唱えるまでもない。泥棒猫──かつて早紀に浴びせられた言葉がよみがえり、谺《こだま》する。溢れかえる怒りと憎悪。早紀はゆるさない。ゆるしてはおけない。
「酷いよ、早紀」
涙はとめどもなく溢れる。自制できなかった。噴出しようとする憤怒と憎悪の炎を押さえるだけで精一杯だった。
「ごめんね、マミ。マミを傷つけるつもりじゃなかったの。ごめん。本当にごめんなさい」
取り澄ました早紀の顔を掻きむしってやりたい。麻美はハンカチを瞼に押しつけた。左手のラ・フラムが視界に入る。誓いを思い出す。聖なる誓いを思い出す。
「いいよ、もう」涙に濡れた声でいう。「疑われたってしかたないもんね」
「そうじゃないのよ、マミ──」
「お願い、早紀。マミを助けて」
炎が消える。冷徹な心を取り戻す。
「わかったわ、マミ。パパがもし本当に浮気してたら、わたしがパパをとっちめてあげる」
早紀がいった。
あとは、彰洋を追い詰めるだけだった。
38
くたくたになって部屋に帰る。留守番電話のメッセージランプが明滅している。
メッセージは二件。早紀と麻美。
電話してください。待ってます──早紀の声。
彰洋ちゃん、すぐ電話ちょうだい──麻美の声。
ふたりの対照的な女の対照的な台詞。
彰洋は先に麻美に電話をかけた。プッシュフォンのボタンを押しながら疚《やま》しさを覚えた。早紀に対する疚しさか、波潟に女をあてがっていることを麻美に隠していることに対する疚しさか──わからなかった。
「麻美か? 彰洋だけど、なんの用だよ?」
「早紀から電話あった?」
「いや、留守電に電話をくれってメッセージがあるだけだけど、なにかあるのか?」
忍び笑いが聞こえてくる。艶《なま》めかしい声がそれに続く。
「だめじゃない。マミに先に電話しちゃ。早紀、あの腕時計凄く喜んでるのに」
「留守電に入ってる声、おまえの方がおっかないからさ」
どぎまぎしながら応じる。麻美と早紀が彰洋の知らないところで会っている。どこで綻びが生じるかわからない。綱渡り──危険度は時間が経つごとに増している。
「そういうことにしといてあげる。ね、近いうちに会えない? ちょっと相談したいことがあるんだけど」
「早い方がいいのか?」
「うん。できるだけ早く」
波潟にあてがった女たちの顔が、次から次へと浮かんでは消えていく。
「わかった。なるべく早く時間を作って連絡するよ」
「OK。じゃあ、早紀によろしくね」
麻美は思わせぶりにいって電話を切った。麻美の声の余韻が耳朶《じだ》を顫わせる。
彰洋は水を飲み、煙草を吸った。麻美の声が消え去るのを待った。
早紀に電話をかける。
「彰洋さん? ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
早紀の声は歯切れが悪かった。
「なに?」
「うん……あのね、今日はパパとどこに行ってたの?」
「どこって……あちこちいろんなところを飛び回ってたよ。いつもそうだけどさ」
「夜は?」
疑念が頭の中を飛び交った。早紀はなにを望んでいる? なにを知りたがっている?
「赤坂の料亭でお得意さんと食事して、そのあとはみんなで銀座だよ。おれはそこで解放してもらったけど」
「そう……」
「なにかあったのかい?」
優しい声を出す。疑念を露にしてはいけない。
「あのね……今日、マミと会ってたんだけど」
麻美の声がよみがえる──マミに先に電話しちゃだめじゃない。喉が渇く。彰洋は唇を舐めた。
「パパが浮気してるっていうの」
「社長が?」
反射的にそれだけを口にした。後の言葉は続かなかった。
「そう。マミ、泣いちゃって……あのマミが、人がいる喫茶店で泣いたの。それで、わたし……約束しちゃったの」
「約束って、何を?」
金で波潟にあてがった女たちの顔が脳裏をよぎる。罪悪感が襲いかかってくる。
「パパが浮気してるかどうか確かめるの、手伝ってあげるって。パパがわたしとマミにいうことが食い違ってたら、おかしいでしょう?」
「そりゃそうかもしれないけど……」
「約束はしたんだけど、どうしたらいいかわからなくて。いきなりパパに今日はどこでなにしてたのって訊くのも変だし。それで、彰洋さんにちょっと訊いてみようかと思って」
麻美が人前で泣いた──強烈なイメージが頭の中をかき乱した。
「おれも社長に二十四時間張り付いてるわけじゃないから、本当のところはわからないけどさ……」
喉は渇き続けている。声がかさついている。早紀に気づかれないようにと念じた。
「そうよね。彰洋さん、パパの監視役じゃないものね」
「だけど、なにかあったら気にとめておくよ」
「ごめんね、変な話しちゃって」
「謝らなくてもいいよ。早紀じゃなくても、麻美に人前で泣かれたら気が動転するもんな。ちょっと、想像がつかないよ」
「でしょう? わたしのパパの浮気相手に、パパが浮気してるって泣きつかれるの、なんか変だなと思うんだけど、あのマミが泣いちゃったから、つい……」
「わかるよ。とにかく、気にかけておくから。社長、いま、めちゃめちゃ忙しくてそんなことしてる暇、ないと思うんだけど」
疼く罪悪感を押し殺していった。
「でも、マミは確信してるみたいだったわ」
「あいつは猜疑心が強いんだよ」
「ただの思い過ごしだったらいいんだけど……ねえ、彰洋さんもいつか、浮気するのかな」
心臓が停まりそうになった。
「しないよ。なんでいきなりそんなこというんだよ?」
「マミがいってたの。彰洋さんが浮気したら、わたしにもすぐわかるって」
麻美の肢体がありありと瞼の裏に浮かんだ。麻美とのセックスを渇望している自分の浅ましさを思った。自己嫌悪と恐怖に身がすくんだ。
「しないよ」
彰洋はかすれた声でいった。
「信じるわ。馬鹿なこといって、ごめんなさい」
「おれが好きなのは早紀だけだ。約束する。浮気なんて絶対にしない」
早紀にこれまでについてきた嘘に、もうひとつ嘘が塗り重ねられていく。彰洋は胸元の十字架を握った。だれにともなくゆるしを乞うた。
「今日はもう、遅いから……近いうちにまた連絡するよ」
「待ってるわ。愛してる……おやすみなさい」
「おやすみ」
電話を切って、ソファに腰を落とした。左手が痛む──十字架を握りしめたままだった。掌に十字架の出っ張りが食いこんでいた。彰洋はもう一度受話器を手にして麻美に電話をかけた。
最初の呼びだし音が鳴り終わらないうちに麻美が出た。
「麻美か? 早紀に変なこと吹きこむなよ」
とげとげしい声が出た。
「なによ、それ?」
返ってきた麻美の声もとげとげしい。
「おれが浮気するとか、早紀にいっただろう」
「ほんとのことじゃない」
麻美がうそぶく。彰洋は反論できない。
「ほら、ぐうの音も出ない。だいたいなによ、いきなり電話かけてきて、怒鳴ったりして」
「怒鳴ったわけじゃない」
「怒鳴ってたわよ。どうせ早紀からパパの浮気の話聞いたんでしょう? だったら自分のこと考えるより先に、マミに同情してくれる方が先なんじゃないの、普通」
「悪かった」彰洋は呼吸を落ち着けた。「頭の中が真っ白になってた」
「子供じゃないんだから。彰洋ちゃんと寝たことは早紀には絶対にいわないよ。早紀だけじゃない、だれにもいわないから安心して」
麻美の口調が一転した。物わかりの悪い子供をあやすかのようだった。
「とにかく、早紀に変なことを考えさせるようなことはいわないでくれよ、頼む」
「なにかいわれてもしら切っちゃえばいいのに。得意でしょう?」
「仕事ならできるけどな」
「ふーん、早紀のことは仕事じゃないんだ」
「麻美──」
「いちいち怒らないでよ、もう。そんなことより、パパのことでマミに話すことあるんじゃないの、彰洋ちゃん」
不意をつかれた。ポン引き稼業──麻美に知られたくはない。
「なんのことだよ?」
「とぼけないでよ。なんとなく察しはついてるんだから。波潟に女、あてがってるでしょう?」
「おい……」
「波潟、水商売の女は金目当てなのがはっきりしすぎてるからって好きじゃないし、かといって、マミみたいな女の子が出入りするところ嫌いだし……そう考えると、彰洋ちゃんしかいないじゃない」
「おれしかいないってどういうことだよ」
「だから、波潟に女をあてがってるんでしょうっていってるの」
麻美は断言した。口にすべき嘘がなにひとつ思いつかなかった。
「ほら、なにもいえなくなった」
「違うんだよ、麻美。おれは別に──」
「ね、彰洋ちゃん、電話で話してても埒あかないから、マミの部屋に来ない? いろいろ訊きたいことがあるし、パパも今夜は来ないし」
反射的に腕時計を覗く。文字盤を覆うガラスの表面に麻美の裸体が躍る。
「こんな時間に、まずいだろう……」
声がかすれる。喉が渇く。
「なにがまずいのよ? 彰洋ちゃん、いっておくけどね、この前のことは、この前だけのことだからね。早紀と寝て、マミとも寝続けたら、それこそとんでもないことになるわよ。わかってるんでしょう?」
「別にそんなつもりでいったわけじゃない」
「じゃあ、来てもかまわないでしょ。待ってるから、早く来て」
* * *
車を飛ばす。早紀のことを考える──麻美のことを考える。
早紀をいとおしいと思う。早紀といると体温があがる。ときに、心がいやされる。
麻美が欲しいと思う。心ではなく、身体が麻美を求めている。
くたびれたとき、苛立ちが募ったとき、自分が汚れていると感じるとき。早紀といると心が安らぐ。その反面、麻美にすべてをぶちまけたいと思う。どす黒い欲望を、麻美ならすべて受け止めてくれる。
「いい加減にしろ」
彰洋はステアリングを叩いた。煙草をくわえ、火をつけた。
自分に必要なのは早紀だということはわかっている。麻美は身体でこそすべてを受け止めてくれるが、心は自分だけに向けられている。麻美の心は大いなる虚空だ。
煙草の灰がスーツの上に落ちる。汚れた布地──汚れた自分。ホット・ロッドの連中をはめたときから、自分は薄汚れはじめた。体温があがる感覚を得るために、すべてを唾棄《だき》しながら突き進んできた。
汚れに汚れて、汚れきったその先になにがあるというのか。汚れた手で作られた王国はなにを具現するのか。そこでなにを得られるというのか。
彰洋は路肩に車をとめた。ステアリングに顔を埋めた。
体温があがっていくあの感覚は忘れがたい。そのために手が汚れていくのだとしても、あれを捨て去ることはできない。二十一歳の若造が手にすることのできる最大の快楽──セックスですら、それを越えることはない。
麻美にはセックスしかない。ならば、どちらを選ぶかは考えるまでもない。
彰洋は顔を起こした。アクセルを踏んだ。
* * *
麻美はガウン姿だった。髪にタオルを巻きつけていた。左右の手にはワイングラスを持っていた。
「いらっしゃい。お酒、飲むでしょう?」
シャトー・ラトゥールとローストビーフにサラダ。麻美は肉には手をつけない。サラダを頬張り、高いワインをがぶ飲みする。
「パパの秘蔵のワインなのよ、これ。家に置いておくと、奥さんが勝手にパーティを開いて飲まれちゃうからって、マミの部屋に隠してあるの」
「飲んでもいいのか?」
「いいわよ。同じ銘柄が二十本以上あるんだから、一本ぐらいなくなっても気づかないわ」
彰洋はワインに口をつけた。味はまったくわからなかった。
「それで、パパのことなんだけど」
麻美が口を開く。足を組む。ガウンの間から白く長い足が覗く。彰洋は口中に溜まる唾液をそっと飲みくだした。早紀を思う。力を貸してくれ──早紀に祈る。
「おれは──」
「黙って聞いて。彰洋ちゃんを責めるつもりはないの。彰洋ちゃんの立場ならしかたがないの、わかってるから。早紀のことも心配しなくてもだいじょうぶ。マミがちゃんとしてあげる」
「麻美──」
「だから、彰洋ちゃんもマミに手を貸して」
麻美がテーブルの上に身を乗りだす。胸の膨らみが見える。
彰洋は目を閉じた。瞼の裏で早紀が微笑んでいた。麻美に対して燃えあがった欲情の炎が消えていく。
「手を貸すって、なんに?」
「波潟、さかりのついた犬みたいに浮気してまわってるでしょ。そのうち、マミ、捨てられるわ」
そんなことはない──いおうとして口が凍りつく。
「一千万ぐらいの手切れ金を渡されてポイ。マミ、そんなの我慢できない」
麻美は腰をあげた。腕を組んで天井を睨む。
「美千隆にはいってあるのよ。波潟をはめて、あいつの持ってるものを全部もらっちゃおうって。美千隆はそのつもりなんだけど、焦っちゃだめだっていうの。だけど、焦るわ。いつ捨てられるかわからないんだもん」
「どうするつもりなんだよ?」
彰洋は訊いた。麻美の真意がはかりかねた。
「波潟が株で一儲けしようとしてるのは知ってるでしょう?」
「ああ」
「株を買う資金を、三洋銀行に融資させようとしてるのも?」
「知ってるよ」
芋虫のように縛られ、転がされ、殴られていた稲村の姿が自分に重なる。早紀とのことがばれれば、似たような目に遭わされる。松岡たちは稲村の顔を殴らなかった。痛めつけすぎないように気を配っていた。彰洋がそうされるときは、だれもそんなことには頓着しないだろう。
「美千隆はね、波潟がどの株に手を出そうとしてるかを知りたがってるの。それがわかれば、きっと動きだすわ」
「株の銘柄を知って、どうしようっていうんだよ?」
「波潟が動く前にその株をまとめて買っておくのよ。それに、もしかすると、波潟がその株に手を出そうとしてるって噂を流すつもりなのかもしれない」
「株価を吊りあげるのか?」
「波潟が予測しているより、ちょっとだけ高めにね。あまり株価があがっちゃうと、早めに手を引かれちゃうかもしれないし……彰洋ちゃんも、そろそろ波潟の性格がわかってきたでしょう? ちょっと高いぐらいだったら苛々しながら、それでもなんとかなるって思うわ。三洋銀行がバックについてるんだし」
「そうだろうな」
波潟のことはわかる。わからないのは、美千隆だ。波潟の買おうとしている株価を少しだけ吊りあげる──その先に、なにを企んでいるのか。
「予測していたより株価が高いってことは、集めようとしていた数よりもっと株を買わないと儲けが予測より低くなるっていうことでしょう? もっと株を買うってことは、もっとお金がいるっていうことでしょう?」
「三洋銀行が貸してくれるさ」
芋虫のようだった稲村──波潟の操り人形。
「途中まではね」
麻美が笑った。自信に溢れた笑顔だった。
「どういうことだ? あそこの融資部長が──」
「稲村でしょ? 美千隆はね、稲村の痛い所を押さえてるの。稲村は波潟のこと恐れてるけど、だからこそ、美千隆には逆らえないわ」
「稲村はなにをしたんだ?」
「マミを抱いたの」
麻美はさらりといってのけた。自信満々の笑顔は変わらない──だが、麻美の滑らかな顔の表面に、一瞬だけ亀裂が入ったような錯覚を彰洋は覚えた。
「そのときの写真と、声を録音したテープを美千隆は持ってるのよ。それを波潟が知ったら、稲村、どうなると思う?」
麻美の声が耳を素通りする。稲村のことを電話で告げたとき、美千隆はなにもいわなかった。なにも知らないふりをして白ばっくれた。美千隆はなにを考えているのか。なにを企んでいるのか。汚れた手がつくりあげる王国はなにを具現するのか──車の中で頭に浮かんだフレーズが繰り返される。
「美千隆さんがさせたのか?」
彰洋はいった。部屋の温度が急激に低下したような気がする。
「そうよ」
麻美は微笑んだままだった。亀裂の痕はどこにもなかった。
部屋の温度はさがりつづける。それに引きずられるように、体温もさがっていく。
「なに変な顔してるのよ? もしかして、わたしたちのこと、穢《けが》らわしいとか思ってる?」
「いや」
彰洋は消え入るような声でいった。美千隆はなぜ白を切ったのか。いくら考えても、理由はわからなかった。
「相手は波潟なんだよ。綺麗事いっててもかなう相手じゃないんだから」
「わかってる」
「わかってないよ、その顔。ほんとに彰洋ちゃんは甘ちゃんなんだから。美千隆があの若さであれだけ成功してるの、どうしてだかわかってるの? 手を汚してきたからだよ。彰洋ちゃんだって、あのロックバンドの若い人たちを騙したじゃない。それで、美千隆の会社、大儲けしたんでしょ?」
麻美は正しい。疑問を挟む余地もない。だが、自分にまで嘘をつく理由はなんなのだろう。
「もういいよ、麻美」
彰洋はいった。グラスに残っていたワインを一気に飲み干した。考えるのに疲れていた。空になったグラスを、麻美が奪いとった。
「よくないわよ」
硬い質感の声──頑なな眼差し。彰洋は麻美に睨まれて凍りついた。
「マミだって、好きであんな男と寝たわけじゃないのよ」
「わかってるよ」
「本当に?」
麻美がいった。麻美の顔を正視することができなかった。乾いた音がした──麻美がグラスをテーブルの上に置くのが視界の隅に入った。
「本当だ。それより、話を続けてくれよ。美千隆さんはどうするつもりなんだ? 稲村に、波潟への融資を途中でやめるようにいうのか?」
「たぶん、そう。いくら波潟でも、何百億円もの現金を持ってるわけじゃないのよ。どうなるか、わかるでしょう?」
「波潟は株を手放すよ。それで終わりさ。なにも変わらない」
「馬鹿ね」麻美は嬉しそうだった。「波潟が動く前に、美千隆が自分で集めていたその株を売りにだすのよ。株価がさがるわ」
からくりは読めた。波潟はかなりの数の株を集めるつもりでいる。それだけの資金もある。だが、大量の株式は諸刃の剣だ。株価があがればぼろ儲けができる。株価がさがれば、莫大な損失を蒙《こうむ》る。下手をすれば、再起不能に追いやられる。たとえそれが、波潟のような大物であったとしても。
だからこそ、波潟は旺盛に動き回っている。慎重にことを運ぼうとしている。
「波潟が株で痛手を負ったあとは? 美千隆さんはどうするつもりなんだ?」
彰洋は訊いた。麻美が首を振った。
「美千隆は全部話してくれるわけじゃないもん。でも、いろいろ画策してるのは確か。波潟にばれると、すぐに潰されちゃうから、慎重にやってるみたいだけど。でもね、彰洋ちゃん、波潟がどの株に手を出そうとしているのかがわからないとだめなのよ。それも、できるだけ早く知らないと、美千隆が先に株を買い集める時間がなくなっちゃうでしょ」
美千隆に信用されていないのだろうか──悲しみが広がっていく。自分の若さが呪わしい。
「だけど、波潟はそこまで甘くないぜ。株の件に関してはひとりで動いてるんだ。社内のだれにも、一言だって漏らしてない」
「会社の人にはね」
思わせぶりな麻美の笑顔──不吉なものが胸に宿る。麻美がこんなふうに笑うのは、いつだってよからぬことを企んでいるときだった。
「早紀を巻きこむのはよせよ」
考えるより先に口が動いていた。
「もう遅いわよ。早紀には頼んじゃったし、早紀も喜んでやってくれるって」
「頼んだって、なにを?」
声のトーンが高くなる。麻美は小悪魔のように微笑むだけで、表情は変えなかった。
「簡単なことよ。パパがだれに電話をかけるのか、だれと会うのか、できる範囲でいいから、マミに教えてって頼んだの」
浮気の確認──早紀は麻美の涙にほだされて引き受けた。裏にそんなからくりがあるとは考えてもいない。
彰洋は麻美を凝視した。
「なによ?」
「早紀の前で泣いたのは芝居か?」
「半分はね。だけど、これだけ尽くしてきたのに、飽きられて捨てられて、雀の涙みたいな手切れ金しかもらえないと思ったら、悔しくて本当に涙が出てきたよ」
麻美は頭に巻いていたタオルを取った。濡れた髪がバスローブで覆われた肩の上に広がった。
「それでね、早紀、心配じゃない。なんてったって、世間知らずのお嬢様だし……変なことで波潟に疑われるかもしれないでしょう。だから、彰洋ちゃんに、うまく早紀の手綱を握っていてほしいの」
汚れた手でつくりあげられた王国はなにを具現するのか──言葉が反響する。体温があがっていくあの感覚も、昔のように頻繁に訪れることはない。
早紀の笑顔。波潟が破滅し、その理由の一端を、騙されていたとはいえ自分が担っていたと知ったら、早紀は泣き崩れる。あの笑顔を見ることができなくなる。
「いやだ」彰洋はいった。「おまえたちで勝手にやれよ。おれは、もうおりる」
「また馬鹿なことをいうんだから。早紀だってお金のない人にはついていかないよ」
「それでもいい。もううんざりだ」
麻美は微笑み続けている。
背筋を寒気が駆けあがった。麻美のやり方──散々いたぶってから急所を突く。麻美はまだ彰洋の急所を突いていない。まだ、なにかを隠している。
「ちょっと待ってて。いいもの見せてあげる」
麻美が立ちあがった。これ見よがしに腰をくねらせながら、壁際の飾り棚に歩みよる。抽斗《ひきだし》から茶封筒を取りだして戻ってきた。
「はい」
差しだされた茶封筒──凶々《まがまが》しい空気。受け取りたくはなかった。受け取らずにはいられなかった。指先が、中に入っているものが写真であることを告げた。彰洋はおそるおそる写真を抜きだした。
写真を見た瞬間、吐き気がこみあげてきた。絡みあうふたつの裸体──彰洋と麻美。見間違えようがない。麻美の急所狙い──的確で、容赦がない。
「早紀にそれを見せたらどうなると思う?」
麻美が笑う。麻美の姿は目に入らない。写真しか目に入らない。記憶がリアルに甦る。横浜のホテル。大麻で理性を失った脳。彰洋ちゃんのおちんちんでいっちゃう──麻美の声。
「これも、盗み撮りしたのか?」
彰洋はいった。滑稽なほど声が顫えていた。
「失礼なこといわないでよ。彰洋ちゃん、寝ちゃって全然起きないから、マミ、退屈だったの。それで、いたずらで写真撮ってみただけ。おもしろかったよ。舐めてあげたらすぐに立つくせに、彰洋ちゃん、寝たまんまなんだもん。起きたのは、マミの中に入ってきてからだったよね。すごく気持ちよかったな、あのときは」
「麻美──」
喉が顫える。思考が混乱する。思いはまとまらず、声帯に意思が伝わることもない。
「マミのこと、恨んでも憎んでもいいよ、彰洋ちゃん。だけど、これだけはわかって。マミだって必死なんだから。美千隆だって必死なんだから。そうじゃなきゃ、お金なんか手に入らないのよ。彰洋ちゃんがいってた、体温があがるような感覚っていうのも、手に入らないの。本当はわかってたんでしょう? わかってるくせに、自分をごまかしてただけなんでしょう?」
反論できなかった。視線がただ写真の上を這《は》いまわる。吐き気が断続的に襲ってくる。指の間から、写真がこぼれ落ちた。
彰洋は頭を抱えた。目を閉じた。早紀のことを思い浮かべようとした。早紀とのセックスを思いだそうとした。頭の中に映るのは、写真の映像だけだった。麻美のいやらしくくねる身体だけだった。
麻美が横に腰をおろすのがわかった。彰洋は頭を抱えたまま動かなかった。
「早紀のことお願いね、彰洋ちゃん。この写真、だれにも見せないから。美千隆にも見せないから」
彰洋は子供が駄々をこねるように首を振った。
「汚いよ、麻美。汚すぎる」
「彰洋ちゃんだって、写真使うじゃない。それで人を騙すじゃない」
ホット・ロッドの連中を写真ではめた。彰洋の手はすでに手首までどっぷりと汚れている。
「だから、おれと早紀をくっつけたんだな? 最初からこれを狙ってたんだな?」
麻美は正しい。麻美は間違ってはいない。それでも、抗わずにはいられない。
「マミ、神様じゃないんだから、そこまで考えてたわけじゃないよ」
「おまえと美千隆さんで最初から狙ってたんだ」
「でも、早紀を好きになったのは彰洋ちゃんでしょ? 早紀だって、だれかになにかをいわれたからじゃなくって、自分の意志で彰洋ちゃんを好きになったんだよ」
「おまえら、汚ねぇよ」
「早紀のこと、失いたくないでしょ?」
「ひでぇよ。酷すぎるよ、麻美」
「だって、マミはマミだもん。他の人にはなれないよ、彰洋ちゃん」
麻美がいった。奇妙に優しい声だった。その声を聞いた瞬間、抑えていた感情が弾けた。
彰洋は頭を抱えたまま泣きはじめた。
嘘をついてはいかん、人を騙してはいかん、人の物を盗んではいかん──祖父の声が谺《こだま》する。祖父は穏やかな顔をしている。彰洋を詰ったりはしない。いつも同じ声で同じことを語るだけだ。
彰洋は耳を塞いだ。聞こえるはずのない祖父の声を耳から追いだした。
「彰洋ちゃん──」
麻美が覆いかぶさってくる。彰洋の背中で麻美の乳房が押し潰される。
「やってくれる?」
麻美の声も湿り気を帯びていた。
彰洋はうなずいた。
「本当に?」
彰洋はうなずいた。糸の切れた操り人形のように、何度も何度もうなずいた。
「泣かなくてもだいじょうぶだよ、彰洋ちゃん。嫌なこと、マミが忘れさせてあげる。彰洋ちゃんのこと、死ぬほど気持ちよくさせてあげる」
うなじに、柔らかく濡れたものが触れた。麻美の舌先だった。撥ねつける気力もなかった。涙がとめどもなく溢れてくるだけだった。
麻美に抱き寄せられた。麻美のバスローブがはだけていた。剥きだしの乳房に彰洋は顔を埋めて泣き続けた。
* * *
「休ませてください」
電話に出た川田はるかにいった。芝居をする必要はなかった。自分の耳に届く声は死者が発したかのように弱々しい。
「だいじょうぶなの、堤君?」
「たちの悪い風邪にかかったらしくて。これから、病院に行ってきます。波潟社長には、急用があればポケベルを鳴らしてくれれば飛んでいくと伝えてください」
「そんなことしないわよ。社長にはわたしがちゃんといっておくから、きちんと養生しなさい。いいわね? 最近、若い人の過労死が増えてるんだから」
彰洋はシャワーを浴びた。鏡に映る身体──キスマーク、歯形、爪痕。すべて、麻美がつけた。昨夜の麻美は異常なほどに激しかった。
しばらくの間は早紀には会えない。会うのが怖い。だが、会わなければならない。
裸のままベッドに横たわる──眠りが訪れる気配はない。頭の中で渦巻く映像──昨日見せられた写真。美千隆の嘘。気が狂いそうになる。嗚咽《おえつ》がこみあげそうになる。
キッチンの戸棚にウィスキィがあった。初めて土地の商いを成功させたときに、美千隆からもらったシングル・モルトだった。
一九六八年物だ。おまえと同じ年に生まれた酒だぞ──美千隆はそういっていた。
大切にとっておいた。もう、その必要はない。なによりも、今は切実にアルコールを必要としていた。
封を切り、ラッパ飲みをする。酒は滑らかだった。洗練されすぎている。喉を灼くような強烈な刺激が欲しかった。
他に酒はなかった。彰洋はベッドに腰かけた。滑らかな酒を飲み続けた。どれだけ飲んでも、酔いがまわることはなかった。身体は火照らず、冷えていく。服を着た。寒気は消えなかった。
チャイムが鳴ったが無視した。この部屋を訪れるのは早紀だけだった。こんな時間に早紀がやってくるはずもない。他に考えられるのはなにかの勧誘ぐらいのものだった。
チャイムはしつこく鳴り続けた。
「うるせえ!」彰洋は怒鳴った。「留守だよ。とっとと帰れよ。しつこくやってっと、ぶち殺すぞ!!」
必要以上に大きな声が出た。呂律《ろれつ》が怪しかった。自分で思っているより酔っていた。
「おれだ。帰ってもいいが、できれば入れてくれないか」
ドアの向こうから美千隆の声がした。
彰洋はベッドから飛びおりた。よろめきながら玄関に向かった。
「酒臭いな。朝っぱらから飲んでるのか?」ドアを開けるとすぐに、美千隆がいった。「それに顔色も悪い。寝てないんだろう?」
「美千隆さんこそ、こんな時間にどうしたんですか? 麻美になにかいわれてきたんですか?」
美千隆は嘘をついた。麻美に騙された。麻美に裏切られた。麻美と寝た。言葉が喉元までせりあがってくる。
「おまえのことを心配して電話をかけてきたんだ」
「心配してるのはおれのことじゃなくて、自分のことでしょう」
美千隆が肩をすくめた。
「中に入れてくれるのか? それとも出直してきた方がいいのか?」
美千隆は寂しげな笑みを浮かべていた。口八丁手八丁──わかっている。だが、少年のようなその笑顔を視界から遠ざけることはできない。
「入ってください。この部屋は会社の持ち物ですから」
彰洋はいった。美千隆が寂しげな表情を浮かべたままうなずく。
「じゃあ、遠慮なくあがらせてもらうぞ」
美千隆が入ってくる。柑橘系のコロンが香る。彰洋の酒臭さがいっそう際《きわ》だった。
「おれも一杯もらおうかな」
「いいんですか?」
よほど重要な接待が入っていないかぎり、明るいうちから美千隆がアルコールを口にすることはなかった。
「ああ。たまにはおまえのやけ酒に付き合うのも悪くはない。波潟の方には休むといってあるんだろう?」
「なんでもお見通しなんですね」
「だからおれはのしあがってこれたんだよ、彰洋」
美千隆はまた寂しげな笑みを浮かべた。
「グラスを持ってきます。氷はないですけど、かまいませんか?」
「この酒は、ストレートで飲む酒だよ」
美千隆はウィスキィのボトルに視線を落とした。寂しげな横顔──胸が締めつけられる。
彰洋は逃げるようにキッチンに足を向けた。
おれはおれの王国を作りたいんだ──美千隆の言葉が頭の中で反響する。その話を聞いたのがいつのことだったのかは思い出せない。まるで、この半年で何十歳も年をとったような気分だった。記憶さえ曖昧になりかけている。だが、言葉を忘れたわけではない。交わした約束を忘れたわけでもない。
綺麗事だけで王国は作れない──美千隆はいった。
汚いことは自分が引き受ける、だが、ひとりでは限界がある──美千隆がいい、彰洋が手伝うといった。ふたりはワイングラスを兄弟分の盃の代わりにした。
なんだってやる、どれだけ辛くても、逃げだしたりはしない──彰洋はいった。
彰洋は蛇口をひねった。勢いよく迸《ほとばし》りでる水流の下に頭を突っこんだ。
どれだけ水で頭を冷やしても酔いは覚めなかった。怒りと恐怖は消えなかった。失われてしまったものが元に戻ることもなかった。
何者かになりたかった。何者でもない自分を考えるのが恐かった。美千隆と一緒なら、自分も何者かになれるかもしれないと思った。ポン引きでも、クスリの運び屋でも、スパイでもない何者かに。
ロックグラスを片手にリヴィングに戻った。美千隆はソファに腰をおろしていた。濡れたままの彰洋を見ても、美千隆はなにもいわなかった。
彰洋はグラスにウィスキィを注いだ。黙って美千隆に渡した。
「今日だけでそれだけ飲んだのか?」
美千隆がボトルに顎をしゃくった。
「はい」
「なるほどな」美千隆がグラスに口をつけた。中身を一気に飲み干した。「こいつはうまい。これなら、いくらでも飲めるな」
美千隆はボトルに手を伸ばした。彰洋のグラスに酒を注ぎ、自分にも注ぐ。
「おれはもういりません」
彰洋はいった。美千隆が微笑み、グラスを彰洋に押しつけた。
「いいから飲めよ、彰洋。おまえとこうやって差しで飲むのは久しぶりじゃないか。最後に飲んだのは、ワインで兄弟分の契りを交わしたときだな」
美千隆も覚えている。忘れるわけがない。彰洋はきつく唇を噛んだ。そうしなければ、全身が顫えてしまいそうだった。
美千隆がウィスキィを一口、飲んだ。琥珀色の液体が揺れる。その揺れを見ていると眩暈を覚えそうだった。彰洋はグラスの中身を呷《あお》るように飲んだ。
「ひとつだけ聞かせてくれよ、彰洋」美千隆が静かな声でいった。「やめたいのか?」
「わかりません」
彰洋は答えた。視線を美千隆に向けることができなかった。両手で握りしめたグラスの中身を見つめるのが精一杯だった。
「そうか」
美千隆がいった。それっきり、美千隆は口を閉じた。沈黙が部屋を支配した。聞こえるのは、美千隆が酒を飲むときの小さな音だけだった。
彰洋は美千隆を盗み見た。どうして嘘をついたのかと問いつめたかったが、言葉は喉の奥で凍りついていた。美千隆は焦点の合わない視線を中空に向けていた。いつもの、自信に溢れた笑顔はなかった。無防備ですらあった。雑踏の中で迷子になった少年のようだった。
口八丁手八丁──わかっている。だが、美千隆は彰洋にだけ、協力を求めた。
美千隆の手が汚れ、腐臭を放つ寸前だったとしても、王国の話を──自分の夢を他人に語るとは思わなかった。
彰洋だから話したのだ。右も左もろくにわからないガキが相手だったからこそ、話したのだ。あのころの美千隆も、ガキが相手でなければ自分をさらけだせないほどに汚れていたのだ。
「自分が卑怯なのはわかってます」
彰洋はいった。いわずにいられなかった。
「卑怯? どうしてだよ?」
美千隆が怪訝そうな顔をした。
「おれはなんでもやるっていいましたよね。どんなに辛くても、絶対に逃げだしたりはしないって」
「いったかもしれないな」
「あのときは本気だったんです。でも、今は──」
「わからない、か」
美千隆が笑みを浮かべた。表情を凝視していなければ、見逃してしまいそうな小さな笑みだった。
「はい。すみません」
「謝ることはないさ、彰洋。人間ってもんは、しょっちゅう変わるもんだからな。特に、若いときはそうだ。とことん惚れた女に出くわしたら、変わって当然なんだよ」
「そうじゃないんです」
彰洋は呻くようにいった。早紀は好きだ。だが、早紀を抱きながら麻美のことを考えている自分がいる。麻美のように早紀にも淫らになって欲しいと思う自分がいる。
早紀のせいではない。自分がおかしくなっているのは、あの感覚が消えてしまったからだ。天井知らずで体温が上昇していく、あの感覚。あの感覚を再現できるのなら、なんにでも耐えられる。だが、波潟のもとでは得られない。自分の卑小さを噛み締めることしかできない。
彰洋はうつむいた。どうやって説明すればいいのかがわからなかった。
「波潟の娘に汚い真似をさせるのがいやなんだろう? マミのやり方が気に食わないんだろう。だから、酒を飲んでるんじゃないのか?」
「違います。それもあるけど……違うんです」
彰洋はいった。酒を呷った。美千隆に視線を向けた。美千隆は穏やかな表情を浮かべていた。
「おれが、どうしてここまでのしあがれるようになったかっていう話、おまえに聞かせたことがあったかな?」
美千隆が口を開いた。彰洋は首を振った。
「そうだよな。だれにも話したことがないから、当然か……もう、五年以上前になる。あのころ、MS不動産は高円寺にあったんだ。小さな不動産屋で、社長のおれと事務の女の子がひとりいるだけだった」
美千隆が酒を飲んだ。グラスが空になった。彰洋は美千隆のグラスに酒を注ぎ足した。美千隆が嬉しそうに微笑んだ。グラスを大袈裟に掲げ、話を続けた。
「おれは焦ってた。土地はどんどん値をあげていく一方なのに、おれには金がない。うまい儲け話は、大手が吸いあげていくだけなんだ。土地を売りたがってるやつらの目の前に、現金を積みあげられる連中がな。金さえあれば……何度そう思ったかわからんよ。どれだけおれの口がうまくても、二十代のちんけな不動産屋だ。だれがまともにとりあうっていうんだ?」
彰洋はウィスキィをすすった。美千隆がなぜこんな話をはじめたのかを見極めたかった。だが、酔ったように喋りつづける美千隆の表情にはつかみどころがなかった。
「働き盛りの連中はだめだ。おれのことなんか相手にしてくれない。しょうがないから、おれは年寄り連中のところを歩き回った。すぐには金にならないが、少し長い目で見れば、土地持ちの年寄りってのは美味しいかもしれないと思ったんだ。年寄りってのは寂しがり屋が多い。おれみたいな若いのが訪ねていくと喜ぶんだよ。ずっと続けてると、おれに親身な話をするようになっていく。そんな年寄りの中にな、高円寺の駅の近くで煙草屋をやってる婆さんがいた。小さな土地に小さな家を建てて、一階を煙草屋にして住んでるんだ。婆さんには息子がひとりいた。だが、どこでなにをしてるかはわからなかった。なんでも、七〇年安保のときに学生運動にのめりこんだらしくてな。運動が下火になったあとでも、まともに社会復帰できなくて、あちこちの飯場を転々としてるらしいのさ……こんな話、退屈か?」
美千隆がいった。美千隆のグラスの中の酒が揺れた。
「いえ、そんなことないです。続きを聞かせてください」
彰洋はいった。
「おれはその婆さんを大切に扱った。わかるだろう? 天涯孤独の上に、土地を持ってる」
彰洋はうなずいた。MS不動産に入って、美千隆に真っ先に教わったのは年寄りの家をまわれということだった。
「そうこうしてるうちに、チャンスが来た。高円寺駅周辺の再開発だ。婆さんの土地は狭いが、再開発エリアのど真ん中にあった。うまく立ち回れば、婆さんの懐に数億の金が転がりこんでくる。おれはさ、婆さんのためにその土地を高く売りつけて、儲けた金で融資をしてもらおうと考えたんだ。そのころには、婆さんはおれに自分の孫のように接するようになってた。おれも婆さんを騙すつもりはなかった。まっとうなビジネスをするつもりだったんだ。で、おれは婆さんに話を持っていった。長年住み慣れた家を手放すのはいやだろうが、こんなにいい話はない。仕事も辞められるし、年金の額を気にしながら余生を過ごすこともないってな。婆さんもその気になったよ。だけど、ごねた。土地と家は息子に残してやりたいんだっていってな。おれも必死で説得した。こんなチャンス、もう二度と巡ってこないかもしれないからな。それでも、息子が生きてるんなら、土地と家屋は息子に譲るといって婆さんはきかなかった。おれが引きだせた譲歩は、息子が死んでると証明されたら、なにもかもをおれに任せるという委任状を、婆さんが書いてくれるっていうことだ」
「それで、息子さん、見つかったんですか?」
彰洋は訊いた。美千隆の滑らかな語り口にいつの間にか話に引きこまれていた。
「探させたんだよ。興信所に大金を払ってな。息子は山谷にいた。アル中の労務者だった。なんでも、内ゲバで頭を叩き割られたことがあったそうだ。病院にも行かずに自然治癒に任せてたんだが、偏頭痛持ちになって、酒が手放せなくなったらしい。頭の方もかなりやられていて、自分の名前もよく思いだせないぐらいだった。周りの連中にはよっさん≠ニ呼ばれていたがな。本名は吉雄というんだ」
美千隆が言葉を切って唇を舐めた。部屋の空気は乾燥している。乾ききっている。美千隆はグラスに口をつけた。彰洋も同じように酒を飲んだ。うまいとは感じなかった。味がわからなくなっていた。わかったのは美千隆の話の行き着く先だけだった。
美千隆の手は、彰洋など及びもつかないほどに汚れている。おそらく、そういうことだ。
「息子が生きていたのはろくでもない報《しら》せだったが、自分の名前も思いだせないほどアル中が進んでいるというのはもっけの幸いだった。ドヤ街で暮らしてる連中も、息子の過去のことはなんにも知らなかった。息子が生きてることを婆さんに知らせれば、それまでのおれの苦労は水の泡だ。興信所に払った金も戻ってこない。だが、息子が死ねば、悪くても五億近い金を使うことができるようになる。おまえならどうする、彰洋?」
意地の悪い質問──質問にすらなっていない。
「どうやったんですか?」
彰洋は訊いた。美千隆が笑った。目尻に皺がよった。破顔した顔は、寂しげだったときと同じように少年のようだった。
「酔っぱらってるところを車に押しこんだ。もっと酒を飲ませて、隅田川の土手で放りだした。酒の量がある線を超えたら、完全に酩酊して意識がなくなるのはわかってたんだ。あれは二月だ。今でも覚えている。ヴァレンタインデイだったよ。雪が降っていたな。綺麗な雪だった。すぐに逃げだすつもりだったんだが、息子が思ったより酔っぱらってなくて自分の足で歩きだしたらと思うと、恐くて動けなかった。それで、車の中で、あいつに飲ませた酒の残りを飲みながら待った。雪見酒だ。おれは雪が降りやむまで車の中にいたんだ」
「それで、どうしたんですか?」
「家に帰って寝たよ。次の日の朝刊にはなにも載ってなかったし、テレビでも隅田川の土手で酔っ払いの死体が見つかったっていうニュースはやってなかった。死ななかったんだと思ったよ。雪を見ながら酒を飲んで待ってた時は、なにがなんでも死んでくれと祈っていた。朝目覚めると、すべてが一変していた。恐くなったんだな。自分のしでかしたことが恐くなって、今度は、昨日起こったことを消し去りたいと祈ったんだ。だけど、すべては無駄だった。午後になって、婆さんから電話がかかってきた。婆さんは取り乱していた。警察から、あんたの息子の死体が見つかったっていう連絡が入ったんだ」
美千隆はまた言葉を切った。酒には口をつけなかった。微笑みながら、焦点の合わない眼差しを宙に漂わせているだけだった。
彰洋は待った。
「おれは婆さんに付き添って病院に行った。死体を一緒に見た。息子はおれが放りだしたときのままの格好でくたばってたらしい。泣き喚く婆さんを連れて帰った。二日ぐらい、煙草屋に寝泊まりして面倒をみてやったっけ」
「疑われなかったんですか? 息子さんが死んでたら、土地の売買のことは美千隆さんに任すって約束した直後じゃないですか」
「おまえはおれのことを知ってるからそう思うんだ。婆さんにとっちゃ、おれは若いのに面倒見のいい、よく働く不動産屋だ。金のためになんでもする人間とは違うんだ。少なくとも、婆さん、おれにはなにもいわなかった。もちろん、警察にもだ」
彰洋はウィスキィに視線を落とした。美千隆に自分の汚れ加減を指摘されたような気がした。自分も汚れているから、相手も汚れていることがわかる。相手の清潔さの中に染みを見つけようとする。
「おれは婆さんの土地を売った。買ったのは波潟だ。再開発の話を聞きつけて、真っ先に高円寺に乗りこんできた地上げ屋が波潟だったんだ。波潟は気前よく六億払ってくれたよ。猫の額みたいな土地に六億だ。おれはその金を元手に、別の不動産を買った。その不動産も波潟に売った。たった二回、土地を転がしただけで、おれの懐には十億近い金が転がりこんできた。地上げの神様と呼ばれていた波潟にもコネができた。それまで、目の前を流れていくだけだった金が、おれのところに集まりはじめたんだ」
美千隆が唇を舐めた。横顔には微笑みがへばりついたままだった。
「婆さんを騙したことだとか、息子を殺したことなんか、屁とも思わなかったよ、彰洋」
微笑は、美千隆の顔に刻まれた刺青のようだった。決して消えはしない。なんの意味もなさずに、ただ、そこにある。
「そのお婆さんはどうしてるんですか?」
「八王子の方にある、完全介護の老人ホームにいる。税金を払っても、二億以上の金が婆さんには残ったんだ。ホームの連中に身の回りの世話をさせて、自分は悠々自適の老後を楽しんでる。たまに連絡があるよ。自分が死んだら、遺産はおれに残してくれるそうだ。もしかすると、おれが息子を殺したことを知ってるのかもしれないな」
美千隆はグラスに残っていた酒を飲み干した。それ以上、口を開く気配はなかった。告白は終わった。
聞かなければよかった──後悔が襲いかかってくる。
「どうしておれに話したんですか?」
「どうしてだろうな……おれにもわからんよ。だれにも話すまいと決めていた。だが、その実、だれかに話したかったことも確かだ。おれがクリスチャンなら、神父に懺悔してたかもな」
クリスチャン──胸の十字架。懺悔したことはない。したいと思ったこともない。祖父の声はいつも彰洋を苦しめるだけだった。
「麻美にも話してないんですか?」
「話すわけがないだろう。マミに弱みを握られたら、その男はおしまいだ」
弱み──写真。がっちり握られている。ホット・ロッドの連中をはめたのとほとんど同じやり口で、今度は自分がはめられた。笑うしかない。だが、喉が強張り、表情が凍りつく。笑うこともできない。
「おれは神父じゃない。ただのガキですよ」
「そうだ。おまえは甘ちゃんのうざったいガキだ。それでも、どうしてかおれはおまえが気に入ってる。だから、話したのかもな」
「おれが裏切ったらどうするんですか? この話を波潟にしたら……波潟だって麻美と変わりませんよ。弱みを握られたら、とことん甘い汁を吸われるだけだ」
「裏切ったら、おまえを殺すさ」
美千隆の声は静かだった。美千隆は微笑み続けていた。
「婆さんの息子を殺したあとで、おれが一番心配してたのはなんだと思う?」
美千隆の目が訴える──考えろ。口を開く前に考えろ。
「興信所のことですか?」
「そうだ。あいつらは知ってるんだ。おれが息子を探させたこと。消息が知れたことをおれに報告した直後に息子が死んだこと。興信所の所長は、しょっちゅう金を要求してくるようになった。しかたがないから払った。それほどべらぼうな金額じゃなかったしな。だけど、そのうちなにもいってこなくなった。なぜだかわかるか?」
考えろ──美千隆の目が探るように彰洋を見つめる。
「殺したんですか?」
美千隆の目が失望に曇る。
「そう度々人を殺してたら、いくらおれだってどこかでボロを出すさ。そうじゃない。おれが大物になったからだ。おれ以上の大物にコネを持つようになったからだ。その中には、波潟みたいなのもいれば、やくざみたいな連中もいる。それで、興信所の所長はおれにこういったんだ。もうお金はけっこうです。その代わり、これからもうちを贔屓にしてくださいってな。いきなりやくざに襲われるより、おれの機嫌を取っておいた方がいいと判断したんだろう。その判断は間違っちゃいなかったよ。おれはその興信所を使い続けたからな。他よりもいい金を払ってやってだ。そうじゃなきゃ、たぶん、おれは知り合いのやくざ者に連中をなんとかしてくれと頼んでただろう」
口を開く前に考えろ──これは脅しじゃない。美千隆の態度がそうではないと語っている。美千隆は微笑みつづけている。微笑みながら、悲しそうな視線を宙にさまよわせている。
美千隆は酔っている──彰洋は気づいた。だから、浮かべる表情に脈絡がない。だから、饒舌になっている。だから、話があちこちに飛ぶ。怒りと不安と恐れと、自分自身の酔いのせいで気づくのが遅れた。
たった二、三杯のウィスキィで美千隆が酔うはずはない。酒場で乱れる美千隆を見たことはない。だが、美千隆は酔っている──間違いはない。
「だけどな、彰洋、おまえがおれを裏切ったら、やくざは使わないよ。おれがこの手で殺してやる。覚えておけ」
「美千隆さん、酔ってますよ」
彰洋はいった。美千隆は不思議なものを見るような目で、彰洋と自分の手の中のグラスを交互に見た。
「酔ってるか、おれ?」
「酔ってます」
「おまえだって酔っぱらってるくせに、おれが酔ってるってわかるのか?」
「いつもの美千隆さんじゃありませんから」
「くそっ」美千隆はグラスをテーブルの上に置いた。二本の人差し指でこめかみを揉んだ。「ホテルに戻ったのが明け方だ。銀座と六本木をはしごしてな。シャワーを浴びて、会社から送られてきたファックスに目を通して、寝ようと思ったら、マミから電話がかかってきた。彰洋ちゃんがヤバいのって。馬鹿な女だ。男はみんな自分の好きなように操れると思ってる。それで、慌てて飛んできたんだ。夜の酒がまだ残ってるんだな」
美千隆は顔をあげた。空のグラスに酒を注ぎ足した。
「どうせなら、もっと酔っぱらうか。とことん酔って、おれもおまえみたいに会社をずる休みだ」
「いいんですか、そんなことして」
「かまうもんか。会社はおれがいなくたって動くようにできてるんだ。おれがやらなきゃならないのは、でかい取引をまとめるために大物連中と顔を繋いでおくことだけだ。今、なんとしてでも顔を繋いでおきたい大物はおれの目の前にいるしな」
「おれは大物なんかじゃないですよ」
「おまえは大物さ。おれは波潟を食いたいんだ。そのためには、おまえの助けがいる」
美千隆が酔っていることに気づいた瞬間から、怒りと不安が薄らいだ。寒気も消えた。口八丁手八丁を叩きこんでくれた男。他人を容易に信じてはいけないと口を酸っぱくして力説した男──おれのことだって簡単には信じるなよ、彰洋。
信じてはいけない──理性が囁く。しかし、自尊心がそれに反発する。美千隆がこんな醜態を晒《さら》すのは自分の目の前でだけだ。麻美ですら、こんな美千隆を見たことはないだろう。
「どうして波潟をそんなに気にするんですか?」
「あいつが、今日本で一番の地上げ屋だからだよ。おれが一番になりたいんだ。一番じゃなきゃ、王国を作るなんて話も、ただのたわ言だ」
波潟が消えれば、美千隆のもとに戻ることができる。波潟が消えれば、美千隆が動かせる金はもっと大きくなる。美千隆の下で働ければ、体温はあがりつづける。
「どうしておれなんです? おれなんて、本当にただのガキじゃないですか」
彰洋は訊いた。
「知るか。理由があるんなら、おれが知りたいぐらいだ。波潟もおまえのことを気に入っただろう? 波潟の娘もおまえに惚れてるんだろう? あの親子に理由を聞いてみろよ」
彰洋は目を閉じた。早紀を思った。麻美を思った。自分を思った。体温があがるときの、あの感覚を思った。
自己嫌悪が襲いかかってきた。自分があれを忘れられないことが恐ろしかった。
目を開ける。両手を凝視する。日焼けした手の甲──すでに汚れてしまった掌。酒を呷る。早紀に許しを乞う。美千隆にいう。
「おれは、美千隆さんについていきます」
「ありがとう。彰洋」
美千隆は笑ったまま泣いていた。
39
美千隆は怒っていた。それほど露骨に怒りをあらわにする美千隆を見たことはなかった。
「なんのためにあいつを波潟のところで働かせてると思ってるんだ!?」
「わかってるわよ、そんなこと」
美千隆が恐ろしい。だが、恐怖を抱いていることを知られる方がより恐ろしい。麻美は唇を尖らせた。
「だったら、どうしてぶち壊しにするような真似をしたんだ?」
「だいじょうぶだと思ったからよ」
「だいじょうぶじゃなかっただろうが。おれが行かなきゃ、どうなってたと思う? 思いつめた彰洋の顔、おまえにも見せてやりたかったよ。あいつ、波潟の娘に全部ぶちまける腹でいたんだぞ。酔った芝居をして、やっと納得させたんだ」
彰洋──名前を聞いただけで憎悪が湧いてくる。わたしを抱いたくせに。わたしの口の中で固くなったくせに。わたしの中でいったくせに。
「だから、悪かったって謝ってるじゃない。マミだって、悪気があってやったわけじゃないんだから」
「彰洋だったら、自分の思いどおりに操れると思ったんだろう?」
美千隆が詰め寄ってくる。いつもはキスをするために、麻美の身体を味わうために、美千隆はそうする。今日は違った。美千隆に詰《なじ》られるのは初めてだった。恐ろしかった。悲しかった。恐怖と悲しみの感情が深い分だけ、早紀と彰洋への憎悪が募った。
「覚えておけ、マミ。人は変わるんだ。昔の彰洋なら、おまえの考えたとおりになったかもしれん。だが、彰洋は変わった。変えたのは、おれとおまえだ」
「わかってるって」
麻美は後ずさった。身体の向きを変えてベッドに倒れこむ。今日は美千隆の好きなタイトミニのスーツを着ている。少しだけ脚を開く。甘えるように微笑む。もうゆるして、わたしを抱いて──媚びを浮かべる。無駄だった。美千隆は麻美を見てさえいなかった。
「いいか、おれと彰洋はだいじょうぶだ。彰洋はおれのいうことはなんだってする。だが、おまえは違う」
美千隆は腕を組んでいた。唇を噛んでいた。怒りに燃える視線で壁を睨みつけていた。
「おまえの本性は彰洋に見抜かれてるんだ。彰洋とは距離を置け。波潟の娘の方からなんとかするんだ。いいな?」
彰洋、彰洋、彰洋──美千隆が彰洋の名を口にするたびに、なにかが傷ついていく。壊れていく。
「彰洋ちゃん、マミを抱いたわよ。何回も何回もマミとしたくせに、マミを裏切ろうとしたのよ」
麻美は叫んだ。美千隆が振り返った。
「稲村のときみたいに、いやいや抱かれたわけじゃないだろう」
美千隆の目は醒めていた。美千隆の目はいつだって醒めている。だが、これほどまでに醒めた視線で見つめられたことはなかった。
「美千隆──」
「もう二度と馬鹿なことはするな。今度おれを失望させるようなことをしたら、終わりだぞ」
美千隆は冷たくいい放った。抱くそぶりすら見せなかった。
* * *
恐怖──焦りを増幅させる。
屈辱──怒りと憎悪を育む。
美千隆がゆるせない。彰洋がゆるせない。早紀がゆるせない。
波潟を潰すまでは──波潟の金を手に入れるまでは、自分の感情を押し隠さねばならない。彰洋と早紀はともかく、美千隆に見捨てられればすべてを失う。
聖なる誓いを唱える──金のためならなんでもする。どんなことにでも手を染める。
「どうしたの、マミ? なんだか元気ないみたい?」
早紀がいう。早紀の手首にはピアジェの時計がおさまっている。
「パパのことが心配で、最近、あんまり眠れないの。ねえ、早紀、なにかわかった?」
波潟は浮気の回数を減らした。だが、浮気をやめたわけではない。捨てられる。いつか、確実に捨てられる。
「それがね……パパ、朝早く出て、遅くに帰ってくるでしょう。わたしがあんまり遅い時間まで居間にいるの変なのよ。休日はゴルフだし……なんとか、パパと話をしようとは思ってるんだけど、時間が作れないの」
申し訳なさそうに早紀の睫毛が下を向く。
「そう。それじゃ、しかたないね」
声を湿らせる、落胆を滲ませる。それとなく、さりげなく。憎しみと侮蔑は押し隠す──巧みに、完璧に。
「もう少し待って、マミ。必ずなんとかするから。ね?」
早紀ではあてにならない。早紀ひとりではなにもできない。彰洋と対《つい》になってはじめて、早紀には使い道ができる。だが、彰洋に接触することは美千隆に禁じられている。
「そんなに心配そうな顔しなくてもだいじょうぶだよ、早紀。マミ、早紀のこと信頼してるから」
時間がない。そのときは──破滅のときは確実に近づいている。金のない人生。金から見放された人生。耐えられない。想像しただけで気が狂いそうになる。なんとしてでも早紀を動かさなければならない。早紀を通じて彰洋を動かさなければならない。
「ねえ、早紀、汗流しに行かない?」
「汗?」
「うん。じっとしてると落ちこんじゃうから、ジムに行って身体動かすの。付き合って」
「でも、わたしなんの用意もしてきてないわ」
「そんなの、どこか途中で買えばいいじゃない」
そう、買えばいい。必要なものはその場その場で買えばいい。金があるなら、それができる。
早紀を急《せ》きたててデパートへ行く。早紀のカードでレオタードと水着を買う。エアロビクスに水泳──日ごろからケアしている身体は音をあげたりはしない。だが、いつか、近い将来、思うように身体が動かなくなる日がやってくる。時を経るごとに目減りしていく資産。恐ろしい。呪わしい。
サウナに入る。本場仕込みの美容マッサージ>氛泄ヌに貼られたポスターが目にとまる。
「早紀、あれやってみようよ」
「本当に効果あるのかしら?」
「ものは試しだから、ね?」
マッサージを申しこむ。最初は早紀、次に麻美。早紀がマッサージを受けている間に電話をかける。
ディスコの遊び友達。セックスとドラッグのことしか頭にない男たち。
「エクスタシィとエスが欲しいの」
麻美は甘い声でねだった。
「マミだったら、いくらでも譲ってやるぜ」
男たちが一様にいう──麻美はほくそ笑む。
「帝国ホテルのフロントにわたし宛に預けておいてくれない。お金はあとで払うから」
イエスといった男はひとりだけ──それで充分。帝国ホテルに電話をかけ、部屋を予約する。取ったのはデラックスツイン。自分が早紀ならばスイートを予約する。だが、麻美は早紀ではない。波潟の娘ではない。無尽蔵の金を持っているわけではない。
憎悪──身体の奥底に溜まっていく。発酵していく。異臭を放ちはじめる。憎悪を弄びながらマッサージを受ける。活性化される細胞──心地よい刺激。憎悪は薄まらない。却って強まっていく。
マッサージを終えて受付に戻ると早紀が顔をあげた。早紀はファッション雑誌を手にしていた。
「早紀、晩ご飯なんだけど、人の大勢いるところには行きたくないんだ。ホテルの部屋予約したから、そこでルームサーヴィスで食べるっていうのでもいい? たまには早紀とふたりでそういうのもいいかなと思うんだけど」
「ルームサーヴィス? わたしはいいけど、マミ、だいじょうぶなの?」
「マミはだいじょうぶ。ちょっと落ちこんでるだけで、食欲はあるの。じゃ、行こう、早紀」
タクシーで銀座へ向かう。車中で早紀のおしゃべりに付き合う。憎悪を当たり障りのない笑顔で覆い隠す。苦痛ではない。いつか確実に破裂する憎悪を弄ぶのは快感ですらある。
ホテルのフロントでキィと封筒を受け取る。封筒の中身──エクスタシィが十錠、ビニールに包まれた覚醒剤がふたつ。メモ──出血大サーヴィス、全部で五万、なるべく早く頼むぜ。
幼稚な文章に幼稚な文字。くしゃくしゃに丸めて捨てる。早紀に気づかれることはない。
ルームサーヴィスで食事を頼む。シャンパンを頼む。ワインを頼む。
食事を待つ間──早紀が喋り続ける。彰洋のことを喋りつづける。彰洋とふたりでしたいと思っていることを喋り続ける。
写真を見せつけてやりたくなる。彰洋がどんなふうに自分を抱いたか、こと細かに説明してやりたくなる。
なにもかもをぶち壊しにする代わりに錠剤を取りだした。
「早紀、これ飲んでみようよ。さっき、マッサージのあとでもらったんだ。ダイエットに凄く効くんだって」
「食事の前に飲むの?」
早紀は屈託がない。
「うん。ご飯を食べる直前がいいんだって」
麻美は早紀にエクスタシィの錠剤を渡す。食後では効き目が薄れる。空腹時には一気に飛んでしまう。食事と一緒に飲めば、徐々に、だが確実に効いていく。
食事が届いた。早紀がエクスタシィを飲む。麻美は飲んだふりをした。シャンパンで乾杯──キャビアでご満悦。隙を見て、早紀のグラスに覚醒剤を垂らす。酒を注いで溶かす。早紀は気づかずに中身を飲み干す。エクスタシィと覚醒剤のダブルパンチ──早紀の顔がとろけていく。目が潤んでいく。饒舌に拍車がかかる。シャンパンとワインのボトルが空になる。
「わたし、酔っちゃったみたい。だけど、変。全然眠くならないの」早紀がいう。「どこかに出かけない、マミ?」
「マミはだめ。酔っぱらっちゃった。早紀には付き合いきれないよ。彰洋ちゃんにでも電話しなよ」
「そうする」
早紀の声は必要以上に大きい。ひとつひとつの仕種に力感がある。早紀は薬の影響下にある。コカインを摂取している波潟と、エクスタシィに酔っている早紀──似ている。親子そろってジャンキーになったとしても、だれも不思議には思わない。
電話が通じる。早紀が彰洋と話しだす。幸せなカップル──いつか、引き裂いてやる。ずたずたにしてやる。屈辱と絶望を同時に味わわせてやる。
「ごめんね、マミ。わたし、彰洋さんのところに行ってくる。パパがなにかいったら、また、アリバイ工作お願い」
「それぐらい、任せてよ」
麻美は笑顔を浮かべる。苦痛ではない。錠剤のシートを早紀に手渡す。
「これ、あげる。でも、彰洋ちゃんに見せちゃだめだよ。あいつ、遮二無二ダイエットする女って嫌いみたいだから」
「ありがとう」
早紀が錠剤を受け取る。早紀には屈託がない。人の心を見透かす能力がない。愚か者はそれなりの報いを受ける。だれも、それに同情したりはしない。
早紀が部屋を出ていく。麻美はひとり、笑う。笑いつづける。
40
情報収集──波潟は一日中、あちこちへ飛び回る。彰洋は車の中で待機させられる。尻尾の掴みようがない。神経だけが疲弊していく。
このままでは埒が明かない。麻美の言葉に耳を傾けるべきなのかもしれない。早紀の手を借りるべきなのかもしれない。
「堤、今日はもうあがっていいぞ」
波潟がいった。反射的に腕時計に目を走らせる──午後六時。
「もういいんですか、社長?」
「ああ、今夜会う約束になってる人間がな、他の人間がそばにいることをいやがるタイプでな。今日はもう帰って休め。その代わり、明日は死ぬまで付き合ってもらうからな」
お役御免──途方に暮れる。空いた時間になにをすればいいかがわからない。ディスコ巡り、酒場巡り──気が滅入る。
早紀に会いたい。だが、身体には麻美が遺したキスマークや爪の痕がまだ残っていた。
酒屋に立ち寄り、一番高いウィスキィを買った。部屋で飲む。美千隆が買ってくれたウィスキィには遠く及ばない。だが、あの酒は、あの日、すべて飲み干してしまった。
まずい酒が空腹に染みる、酔いがまわる。酔いは美千隆のことを思いださせる。美千隆の話を思いださせる。
なにも考えたくはなかった。機械のようになりたかった。なれないことはわかっていた。だれかに助けを求めたい。だれかに優しく抱きしめてもらいたい。おまえはだいじょうぶなのだといってもらいたい。
早紀に会いたい。
電話が鳴った。彰洋は電話に見向きもしなかった。こんな時間に電話をかけてくる相手は麻美しか思いつかない。麻美にはもううんざりだった。
電話が鳴りつづける。留守番電話機能が作動する。無機質な合成音が留守を告げる。
「もしもし、彰洋さん……早紀ですけど」
彰洋は立ちあがった。
「留守ですか? じゃあ、また電話して──」
奪うように受話器を握った。
「彰洋だよ。ごめん。ぼんやりしてたから、電話が鳴ってるのに気づかなかった」
「よかった。こんな時間だから、パパに付き合わされてまだお家にはいないんじゃないかと思ってたの」
早紀の声はいつもより大きかった。いつもより弾んでいた。
「今日は珍しく早めにお役御免になったんだ……、で、どうしたの?」
「わたし、今日ちょっと酔ってるの。このまま家に帰りたくなくて、彰洋さんがもし時間空いてたら、会いたいなと思って」
彰洋も早紀に会いたいと念じていた。シンクロニシティ──どこかで聞いた言葉が頭の中で踊りまわる。
「時間ならいくらでも空いてるよ」
そういった直後、麻美につけられたキスマークを思いだす。首を振る。早紀に会いたい。セックスは必要ない。ただ、早紀にそばにいてほしい。
「じゃあ、今からお部屋に行ってもいい?」
「うん。待ってるよ」
「すぐ行くね」
彰洋は受話器を置いた。電話がかかってくる前に抱えていた寂寥感は跡形もなく消えていた。
* * *
早紀は三十分も経たないうちにやってきた。いつもの早紀とは雰囲気が違った。饒舌、底抜けの陽気さ、自信に満ち溢れた表情。目は潤んだように輝き、頬は紅潮している。クスリをきめた連中に特有のあり方。だが、早紀とクスリはそぐわない。
「ジムに行って身体を動かしたあとにお酒飲んだから、それで酔っちゃったみたい」
早紀がいう。疑いが幾分薄れた。
「まだ飲む? それともお茶かなにかにする?」
「もう少し飲みたい」
彰洋は早紀のためのグラスを用意した。氷の上に酒を注ぐ。彰洋の一挙手一投足を早紀がじっと見つめていた。また、疑いが鎌首をもたげる。
早紀とクスリはそぐわない。だが、麻美なら──波潟なら。
グラスを早紀に渡した。立ったままグラスとグラスを重ねあわせる。早紀がウィスキィを舐めるようにすすった。彰洋を見て嬉しそうに微笑んだ。
早紀の笑顔を見れば幸せになれるはずだった。なのに、疑念だけがどんどん膨らんでいく。
「だれと飲んでたんだい?」
それとなく探りを入れる。
「マミよ。ジムに行ったあとで食事して。マミはもっと遊びたそうだったけど……わたしは、どうしても彰洋さんに会いたくて」
早紀は屈託がない。膨らんでいた疑念が、空中で弾け飛ぶ。早紀は酔っているだけだ。酔って開放的になっているだけだ。
彰洋は早紀の隣りに腰をおろした。トワレの香り──その奥に隠された早紀の体臭。暖かい気持ちが広がっていく。
「彰洋さん、酔っぱらった女、嫌い?」
早紀が潤んだ目で彰洋を見つめた。声は弾んでいた。
「そんなことないよ。相手にもよるけど、早紀は酔ってても綺麗だから」
声が上ずる。波潟が破滅すれば、早紀も苦汁を味わう。そのとき、彰洋が差しのべる手を、早紀は握ってくれるだろうか。
くだらないことを考えるな。先のことを考えても埒はあかない。今を考えろ。早紀のことを考えろ。
早紀が目を閉じている。彰洋を待っている。彰洋は早紀の唇に自分の唇を重ねる。股間が疼く。キスマークが頭をよぎる。
舞いあがっては落ちていく──繰り返す。このままではおかしくなる。狂っていく。早く手を打たなければならない。波潟を破滅させ、美千隆のもとに戻らなければならない。体温があがっていくあの感覚を取り戻さなければならない。
「大好き」
早紀がしがみついてきて、耳元で囁いた。
おれも好きだ──口に出せば後戻りがきかなくなる。
早紀の手がシャツの上から彰洋の胸をまさぐった。その動きが十字架の上でとまった。
「前から訊こうと思ってたんだけど、彰洋さん、クリスチャンなの?」
彰洋はさりげなく早紀の手を十字架から外した。十字架に触れられると、自分の恥部に触れられたような嫌な気分に襲われる。
「いや。お祖父ちゃんの形見だよ、これ」
「じゃあ、お祖父さまがクリスチャンだったのね?」
嘘をついてはいかん、人を騙してはいかん、人の物を盗んではいかん──祖父の声がよみがえる。麻美につけられた爪痕が疼く。
「熱心なクリスチャンだったよ。だけど、親父もおれも宗教には見向きもしなかった。たぶん寂しかったんだろうけど、文句一ついわなくてね……だから、これだけはつけとこうと思って。安物なんだけど」
若いころは、祖父の教えだけは守ろうと思っていた。だが、その結果手に入れたのは、退屈でくだらない人生だった。今はあの感覚を知ってしまった。もう後戻りはできない。嘘をつき、人を騙し、人のものを盗みつづける。そうしなければ、すべてが終わってしまう。
「素敵……」
早紀がまた十字架をシャツの上からまさぐった。
「もっと彰洋さんのこと知りたい……ねえ、マミみたいに、彰洋ちゃんって呼んでもいい?」
「別にかまわないよ」
「彰洋ちゃん」
早紀が嬉しそうに口にする。彰洋ちゃん──早紀の声と麻美の声が重なって溶けていく。早紀が彰洋の首筋に唇を押しつけてくる。
そのまま押し倒したい──欲望が燃えあがる。やめろ──理性が悲鳴をあげる。見られるぞ、気づかれるぞ!!
「彰洋ちゃんの心臓、すごくドキドキしてる。わたしのせい? わたしと一緒にいるから? わたしがキスしたから?」
「そうだよ。早紀のせいで興奮してるんだ」
理性が導火線のように燃焼する。欲望が爆発する。
「嬉しい」
早紀の身体は熱かった。早紀の仕種は艶《なま》めかしかった。それなのに、早紀は愛らしく、無邪気だった。
彰洋は早紀の唇を吸った。早紀の手が彰洋の身体をまさぐった。心地よい感触──舞いあがる。どこまでも舞いあがっていく。
「彰洋ちゃん、ちゃんと食事取ってる?」
彰洋は曖昧に首を振った。彰洋ちゃん──早紀と麻美の声が重なる。
「すごく痩せた気がするわ……ねえ、今度の土曜日、家に来ない?」
舞いあがって、落ちる。欲望が凍りつく。
「無理に決まってるじゃないか」
「だいじょうぶ。ママは朝から出かけてるし、パパもゴルフなの。夕方までだれもいないのよ。わたし、彰洋ちゃんのためにお昼ご飯作ってあげるわ。それとも、パパのゴルフのお供?」
波潟の家に入りこめば、なにか手がかりを見つけられるかもしれない。波潟の家に入りこめば、なにもかもが露見するかもしれない。頭の中のスケジュール表が音もなくめくられていく。土曜日──与党の大物代議士とのゴルフ。波潟のお供をするのは重役連中。鞄持ち兼ポン引き兼クスリの運び屋には声がかからない。
美千隆の表情が脳裏を横切る。
「土曜日は空いてるよ」
彰洋はかすれた声を出した。
「本当? じゃあ、約束よ。土曜日はわたしの手料理を食べるの」
早紀がはしゃぐ。スカートの裾がまくれあがる。太股を覆うストッキングがきらめく。彰洋は早紀の脚に手を伸ばした。ストッキングの上から撫でさすった。早紀がびくんと顫えた。早紀の身体は熱い。火照っている。
「彰洋ちゃん、じっとしてて……動かないでね」
早紀が身体を預けてくる。彰洋の足の間に身体をねじこませる。早紀の顔がどんどんさがっていく。
「今日のわたし、おかしいの。彰洋ちゃんに触られたらおかしくなっちゃいそう……だから、今日はわたしがしてあげる。彰洋ちゃんがいつもわたしのこと気持ちよくしてくれるから、今日はわたしが彰洋ちゃんを気持ちよくしてあげたいの」
ジッパーが降ろされる。固く勃起したものが掴みだされる。早紀の唇が先端に触れる。電流が背骨を駆けぬけた。
早紀を貪りたい。早紀を屈伏させたい。
首を振る。キスマーク──フェラチオだけなら気づかれることはない。土曜になれば、キスマークも爪の痕も消えている。
彰洋は早紀の顔を両手で挟んだ。
「彰洋ちゃん……」
早紀がペニスを舐めながらいった。彰洋ちゃん──早紀の声が麻美の声になる。早紀の舌が麻美の舌になる。
彰洋は早紀の顔を股間に強く押しつけた。
* * *
一週間が瞬く間に過ぎ去っていく。地価と株価はあがりつづける。波潟の多忙さにも拍車がかかっていく。ポン引きとクスリの運び屋稼業は開店休業。鞄持ち一筋に邁進する。
夜ごとの電話──美千隆との密談。早紀との囁きあい。麻美からの電話はない。
美千隆には鞄持ちをしていて知りえた名前を告げる。人の名前、会社の名前、株の銘柄。もっと探れと美千隆はいう。彰洋が耳に入れた株の銘柄に価値はないと言外にいう。美千隆は急げとはいわない。なんとかしろともいわない。ただ、言外に圧力をかけてくる。
早紀は土曜日のことを話す。自分が作るつもりの料理のことを話す。毎晩、話題が変わることはない。早紀の声はいつも弾んでいる。不自然なほどに明るい。クスリへの疑惑──波潟のコカイン。波潟は早紀を目に入れても痛くないほどに溺愛している。波潟のコカインの線はありえない。残るは麻美──麻美に電話をかける勇気はない。それとなく早紀に探りを入れる勇気もない。
金曜の夜──波潟のお供で銀座を徘徊する。しこたま酒を飲まされる。明日のことが気になって酔えない。深夜すぎに帰宅し、ベッドにもぐりこむが、寝つけず、眠れない。
頭の中で渦巻く思考──どうやって早紀の目を盗む? どうやって波潟の家の家捜しをする?
ベッドを抜けだし、知り合いに片っ端から電話をかける。
「睡眠薬、手に入らないか? 今夜中にいるんだけど」
昔の黒服仲間──ドラッグならお手の物。明け方の六本木でハルシオンを受け取る。自己嫌悪は押し潰す。
「睡眠薬なんか、なんに使うんだ? その気になりゃ、エスでもエックスでもエルでも売ってやるぜ」
相手がいう。エス──覚醒剤。エックス──エクスタシィ。エル──LSD。ディスコでの流行言葉は半年ごとに変わる。
「最近、眠れないんだよ。仕事が忙しすぎてさ」
彰洋は嘘をつく。
「たまには遊びに出てこいよ。昔みたいに楽しくやろうぜ」
相手への憐れみと自分自身への憤怒が突如わきおこってくる。ディスコとクスリで遊びほうけている間抜け。かたや、薄汚いことを平然とやろうとしている自分。
「いま、エス持ってるか?」
彰洋は相手に訊く。そんなことを口にした自分に驚く。相手がにやりと笑う。
「そうこなくっちゃな、彰洋」
覚醒剤を買って帰途につく。睡眠薬と覚醒剤を眺める。寝つけず、眠れず。覚醒剤をスプーンの上に広げる。スプーンをライターで焙る。煙を吸いこむ。強烈なキック──頭を蹴飛ばされる。冷気が身体を包んでいく。苦悩が消える。自己嫌悪が消える。なにもかもがたやすく思えてくる。すべてはまやかしだとわかっていながら、まやかしに身も心も委ねていく。
気がつくと、約束の時間が迫っていた。まやかしは跡形もなく消えていた。
* * *
ふらつく足取りで車に飛び乗った。引き返せ──車を運転している間中、警告の声が聞こえた。今ならまだ間に合う、破滅の淵から引き返せ。
強い磁力が警告を弾き飛ばした。磁力──体温があがるあの感覚への飢え。波潟の家での早紀との密会──恐怖とスリル。なによりも焦り──一刻も早く、波潟が勝負に出ようとしている株の銘柄を知る必要がある。
近所の駐車場に車をとめ、徒歩で波潟邸へ向かった。何度も後ろを振り返った。ポケットの中の睡眠薬を握り締めた。極度に緊張しながら門の脇のインタフォンを押した。
「彰洋ちゃん?」
待ちかねていたかのような早紀の声がスピーカーから聞こえてきた。早紀の無邪気さは彰洋の緊張を笑っているようにも思える。
「うん、来たよ」
「入って。玄関の鍵は開いてるから」
音もなく門が開く。長い、長いアプローチ──心拍数があがる。腹を決めろ──もう後戻りはきかない。なら、やるべきことをやるだけだ。
早紀の言葉どおり玄関は開いていた。ドアを閉めて鍵をかける。玄関にはスリッパが用意されていた。用心──靴を下駄箱に隠す。特大サイズの下駄箱──眩暈がするほどの数の靴。波潟の靴。波潟の妻の靴。早紀の靴。彰洋の靴は膨大な量の中に埋没する。
「キッチンに来てくれる?」
廊下の奥の方から早紀の声がした。以前、ゴルフに行く波潟を迎えに来たときの記憶をたよりに足を進める。ガーリックの匂いが鼻孔を刺激し、なにかを炒める音が耳朶をくすぐった。
「いらっしゃい。もうすぐできるから、座って待ってて」
キッチンに入ると早紀が振り返った。早紀はフライパンを握っていた。エプロンをつけていた。エプロンの下はトレーナーにデニム地のショートパンツだった。太股の白さが目に痛い。
彰洋はダイニングテーブルに腰をおろした。テーブルの上には食事が並べられていた。サラダが盛られたボウル。パンが入れられたバスケット。シーフードのマリネが盛りつけられた皿。ワイングラス。白と赤のワインのボトル。
この二週間ほど食欲は減退していた。朝食は抜き。昼飯は牛丼。夜は銀座や六本木のクラブで出されるおつまみ。早紀が指摘したように、体重は確かに減っている。
「お腹、減ってる?」
早紀はパスタを炒めていた。パスタをかき混ぜながら訊いてきた。
「すごく減ってるよ」
彰洋はいった──嘘ではない。少なくとも、早紀が用意してくれた料理の香りは空腹を刺激する。
「よかった。マリネなんか、昨日から用意してたのよ。昨日の夜、パパの帰りが遅かったから、彰洋ちゃんもそれに付き合わされて宿酔《ふつかよい》で食事どころじゃないなんていわれたらどうしようかと思って」
早紀の声は相変わらず弾んでいる。だが、この前彰洋の部屋に来たときや、深夜、電話で話しているときに感じた不自然さはない。
「ワイン、開けておいてくれる? オープナーもあるから」
「最初は白でいいね?」
平静を装っていう。
「彰洋ちゃんのお好みでどうぞ」
早紀は背を向けている。ポケットの中には睡眠薬の錠剤が入っている。心拍数が跳ねあがる。彰洋はワインを開けた。早紀のグラスに睡眠薬を入れ、ワインを注ぐ──早紀が振り向くまでに睡眠薬が溶けるだろうか?
「はい、できあがり」
早紀がいった。身体中の血が凍りつきそうになった。彰洋はポケットの中で握りしめていた睡眠薬のシートを離した。早紀がフライパンの中のパスタを皿に盛りつけはじめた。白いパスタの中に細かく刻まれたニンニクと鷹の爪が見えた。
「あとでお肉も焼くから、パスタはシンプルな方がいいと思って。ペペロンチーノ、好き?」
「たぶん、早紀の作ってくれるものならなんでも好きだと思う。すごくいい香りだ」
「お世辞は食べてからいって」
早紀が微笑む。キッチンに光が差しこんできたかのような錯覚を覚える。その笑顔を睡眠薬で消そうとしている自分がおぞましい。
早紀がパスタの皿をテーブルに運んでくる。彰洋はグラスにワインを注いだ。
「さあ、召しあがれ」早紀はいって、エプロンを外した。「こんな恰好でごめんなさい。昨日、どきどきして眠れなくて寝坊しちゃったの。急いでお料理作らないと、間に合わないと思ったから──」
「だいじょうぶ。おれは全然気にならないよ……というか、そういう恰好の早紀も新鮮でいいかもしれない」
「本当?」
「嘘なんかつかないよ」
口八丁手八丁──嘘をついて生きている。空気のように嘘を呼吸している。嘘がなければ生きていけない。祖父の教えなど、どこかに転がって苔《こけ》が生えている。
「彰洋ちゃんって本当に優しい。大好き」
頬に口づけ──満面の笑み。自己嫌悪を押し殺して食事に手をつける。ワインに口をつける。食事もワインも美味だった。
「美味しい?」
早紀が訊いてきた。
「うん」
彰洋はあっさり答えてサラダを頬張った。言葉よりも態度が有効なことはわかっている。早紀が彰洋を満足そうに眺めている。満面の笑みが翳ることはない。
食べ、飲む。寝不足の身体にワインが効いてくる。満たされた食欲──わきおこる性欲。波潟の家にいるのだという恐怖を酔いが蹴散らしていく。酔った脳は恐怖よりスリルを渇望しはじめる。
「ああ、食った」
パスタの最後の一本を口に放りこんで彰洋はフォークを置いた。
「お肉も焼く?」
「もう、食えないよ。早紀の分まで食べちゃった」
「わたしはいいの。いつでも食べられるから。ちょっと待ってて。コーヒー淹れるから」
早紀が席を立つ。その腕を掴んだ。膝の上に早紀を乗せ、抱きすくめる。
「そんなに急がなくていいよ。食事のあとは少しゆっくりしよう」
早紀の唇を吸う。胸を揉む。トレーナーの下──ブラはなし。
早紀の目が潤む。首を振る。絶え絶えに声を絞りだす。
「ここじゃいや。わたしの部屋に連れていって」
早紀を抱いたまま、彰洋は立ちあがった。
* * *
濃密なセックス──愛撫するたびに、突きあげるたびに、早紀が「彰洋ちゃん」と口走る。麻美を思いだす。麻美とのセックスを思いだす。
いってくれ──言葉に出さずに念じる。早紀、気持ちいいといってくれ、おれとするから気持ちいいといってくれ。
早紀はいわない。恥じらいながら、快楽を貪る。麻美のように積極的にではなく、受動的に彰洋を受け入れる。もどかしい思いに苛立ちながら、それでも射精する。
食欲と性欲が満たされたあとには、恐怖が再びよみがえった。舞いあがっては落ちていく、その繰り返し。
早紀は彰洋の腕の中で満足そうに目を閉じている。胸と脚を彰洋に押しつけてくる。溶けあってひとつになりたい──そう意思表示しているように思える。早紀は愛おしい。だが、恐怖はなににも勝る。サイドボードの上に置かれた目覚まし時計は午後二時を指していた。五時前にはここを出なければならない。どうにかして早紀の目を盗み、家捜しをすませてしまわなければならない。
上着のポケットの中の睡眠薬──どうやって早紀に飲ませるか。
「彰洋ちゃん。ちょっと相談に乗ってもらいたいことがあるんだけど、いい?」
早紀が目を開けた。あさましい考えを見透かされたような気分になった。彰洋は唇を舐め、小さくうなずいた。
「相談ってなに?」
「マミがパパの浮気を疑ってるって話したでしょう?」
「うん」
「パパに探りを入れてみようと思っても、なかなかうまくいかないの。普段、仕事のことなんか訊いたことないのに、急にそんなことしたら疑われちゃうかもしれないし……」
「そうだな……社長、そういうところには勘が働くから」
「でね……今日、パパの書斎、調べてみようかと思うの」早紀の声が低くなった。「だけど、ひとりじゃ怖いから、彰洋ちゃんに手伝ってもらえないかなって思って」
「そんなことして、だいじょうぶかい?」
心臓が高鳴る。どうしようかと思い悩んでいた問題に、早紀の方から解答を出してくれようとしている。
「スパイみたいな真似で嫌だけど、わたしもパパがマミ以外の女と浮気してるんならゆるせないから……手伝ってくれる? 彰洋ちゃんも嫌だと思うけど」
「早紀のためならなんでもするよ」
早紀がベッドの上で上体を起こした。形のいい乳房が揺れた。
「ありがとう、彰洋ちゃん」
彰洋は早紀を抱きしめた。上着のポケットの中の睡眠薬は必要がなくなった。
* * *
波潟の書斎兼私室。呆れるほどに広い。部屋は巨大な書棚でふたつのエリアに分けられている。左手には黒光りする木製の机とテレビが置かれている。右手には簡易ベッドとマッサージ椅子。椅子の横には八ミリの映写機が据えつけられている。ドアの真向かいの壁には大きなスクリーンが張られていた。
「まず、こっちからだ」彰洋は机のある方を指差した。「おれが机を調べるから、早紀は本棚を調べて」
「本棚って、なにを調べるの?」
「ページの間になにか挟まってるかもしれないだろう? 無駄かもしれないけど、調べておいても損はないと思うんだ」
「わかった」
スパイごっこの開始。撤退へのカウントダウンの開始。午後二時半。四時半にはすべてを終えて、この家を後にしなければならない。
整頓された机の上──ブックエンドに挟まれた書類の束。片っ端から目を通す。会社から送られてきた決済書類のコピー。ゴルフ会員権のパンフレット。大学の同窓会の名簿。土地売買に関する弁護士の覚え書き。役に立つものはなにひとつない。机の上には他に、五十センチ四方の木箱があるだけだった。似たような木箱を波潟に連れられていったレストランのバーで見たことがあった。葉巻の保存ケース──鍵がかかっている。
抽斗を上から開けていく。一番上の抽斗──文房具に葉巻関連の小物。めぼしいものはない。二番目の抽斗──ブックエンドに挟まれていたのと似たような書類の山。株の銘柄を示唆するものはなにもない。一番下の抽斗──ファイルホルダーに収められた書類。書類の中に隠すようにして押しこめられていた小銭入れ。メモはない。手帳もない。小銭入れ──数百円分の硬貨と小さな鍵。鍵を葉巻の保存ケースの鍵穴に差しこむ。鍵を開ける。葉巻と一緒に、小さな手帳が視界に飛びこんできた。
顫える手で手帳を掴み、中をあらためる。前半の五ページ──アルファベットと電話番号がぎっしりと書きこまれている。残りのページ──真っ白。もう一度最初の五ページに目を通す。強い筆圧で書かれた数字に見覚えがあった。波潟の筆跡に間違いない。N・M、Y・Tなどのアルファベットはおそらく電話番号の主のイニシャル。ページをめくっていくたびにインクの痕が新しくなっていく。
探し物はこれだ──考えるまでもない。
時計──午後三時四十分。書類に目を通すのに思いのほか時間がかかっていた。
早紀は書棚を調べている。本を一冊ずつ取りだしては、中をあらためている。
「早紀」彰洋は早紀を呼んだ。「これを見て。この中に隠してあったんだ」
手帳を見せる──電話番号をこれ見よがしに見せつける。
「電話番号の先頭に書いてあるアルファベットは、たぶん、相手のイニシャルかなんかだと思う」
「パパの浮気の相手?」
「それはわからないよ。仕事関係の電話番号かもしれないし、ゴルフ仲間とか、そういったプライベートな関係のものかもしれない。でも、もしかしたら、社長の浮気相手がこの中にいるのかもしれない」
そんなことはありえない。波潟の浮気相手は彰洋が調達する。波潟は相手の電話番号どころか、名前すら知らないこともある。
「そうだとしても、どうやってそれを確かめるの?」
「ここに書かれた電話番号がだれのものなのか、調べるんだ。やり方はおれが知ってる。だけど、今日は時間がない。とりあえず、この電話番号を書き写して、家に持って帰る。それで、調べよう。書き写すのを手伝ってくれるかい」
「もちろん」
早紀が部屋をいったん出て、ペンと紙を持って戻ってきた。ふたりとも無言のまま、アルファベットと数字を書き写す。
すべてが終了する──午後四時十分。余裕を持って撤退することができる。
「本当にそれでなにかわかるの?」
早紀の顔には複雑な表情が浮かんでいた。父親の秘密を覗き見ることへの興奮と自己嫌悪。早紀も穢れていく。彰洋と共にいることで、確実に穢れていく。
「わかるかもしれないし、わからないかもしれない。とにかく、確認してみなきゃ」
「そうね……」
「おれ、そろそろ帰るよ」
「もう?」
早紀の表情が沈む──心が痛む。
「家の人が戻ってきたら困るだろう?」
早紀は目を伏せ、唇を尖らせた。だが、それ以上なにも口にはしない。
「寂しいのはわかるけど、我慢してくれ。おれたちのためだから」
「わかってる。ごめんね、困らせて」
彰洋は早紀を抱き寄せ、唇を吸った。
「彰洋ちゃん……」
早紀が喘ぐ。スパイごっこの余韻──過敏になったままの神経。
早紀の身体を裏返す。机に両手を突かせ、腰を突きださせた。ショートパンツを下着ごとおろす。
早紀は充分に潤っていた。
固く猛ったものを慌ただしく外に出す──突き刺す。
波潟の部屋で波潟の娘と交わる──ただでさえ過敏だった神経がさらに刺激される。
彰洋と早紀は同時に声を放った。
* * *
名残を惜しむ抱擁、キス。
「ひとつだけ約束して」
早紀がいう。
「なに?」
「この前も話したけど、絶対に浮気しないで」
「しないよ」声が顫えていることを悟られないように小声でいった。「早紀がおれのことを好きでいてくれるかぎり、絶対に浮気なんかしない」
おためごかし──早紀は気づかない。抱きついてくる。喜びを身体全体で表現する。
「大好き、彰洋ちゃん」
「おれもだよ。もう、行かなきゃ。あとで、電話する」
逃げるように早紀の抱擁を振りほどき、波潟の家を後にした。駐車場までの道のりは気が遠くなるような長さだった。
車に乗りこみ、ステアリングの上に突っ伏す。十字架を握り、祖父に懺悔する。
祖父ちゃん、おれは嘘をつく。好きな女にも平気で嘘をつく。おれは約束を破る。好きな女と交わした約束も平気で反故《ほご》にする。おれは人を騙す。好きな女を騙してなお、さらに騙すことを考えつづける。おれは好きな女を抱くときに、他の女のことを考える。おぞましい女とのセックスを考える。期待する。
おれは何者だ? おれはなぜここにいる? なぜこんなことをしている?
頭の中の祖父は静かに微笑んでいる。答えを与えてくれることはない。祖父の代わりに、美千隆と麻美の顔が脳裏を占める。美千隆と麻美は同時に口を開く。
「泣き言をいっても、だれも助けてはくれないぞ」
ふたりの声はユニゾンのハーモニーを奏で、彰洋の頭の中でいつまでも谺《こだま》しつづけた。
[#地付き](下巻へ続く)
単行本 二〇〇三年六月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十八年四月十日刊