長恨歌 不夜城完結編
馳星周
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)楊偉民《ヤンウェイミン》は窓の外を眺めた。
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)もう一度|呻《うめ》くようにいい、
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楊偉民《ヤンウェイミン》は窓の外を眺めた。分厚い雲に覆われた空の下に朱雀門《すざくもん》が見える。歌舞伎《かぶき》町から古い親戚《しんせき》を訪ねて横浜にやって来て以来、空はいつもぐずついている。天と地との境目が曖昧《あいまい》になっている。中古マンションの部屋から見おろす中華街の光景も、どこかくすんだままだった。
「健一のやつめ……」
台湾の言葉でひとりごち、窓を離れて粗末なリビングセットに腰をおろした。春にしては気温が低い。古いエアコンはがたがた震えるだけで部屋の空気はなかなか暖まらない。固い椅子と寒さのせいで神経痛が出る。楊偉民は目を閉じて痛みに耐えた。なんの前触れもなしに訪れた楊偉民に、親戚が用意してくれた部屋だった。調度に文句をいえる筋合いではない。
「健一め……」
楊偉民はもう一度|呻《うめ》くようにいい、電話に手を伸ばした。
「わたしだ」北京語で送話口に語りかける。「いつまで待たせるつもりだ?」
相手の言葉に耳を傾けながら、楊偉民は目を細めた。目を閉じてはいけない。目を閉じると、瞼《まぶた》に劉健一《リウジェンイー》の横顔が浮かぶ。そうすると血圧があがり、心臓が不整脈を打ちはじめる。年老いた肉体に、目も眩《くら》むような怒りは禁物だった。怒りや憎しみをうまく飼い慣らす方法は熟知している。そうやって、歌舞伎町で生き抜いてきた。
歌舞伎町は異郷であり、故郷でもあった。人生の大半を歌舞伎町で過ごし、喜びも悲しみも憎しみも、あの街と分かち合ってきた。その歌舞伎町も今では遠い彼方《かなた》にある。なにもかもが劉健一のせいだった。
楊偉民は小さく頭を振った。怒りを鎮めようとしているのに、脳細胞が反乱を起こす。年のせいだ。年を取り、思考が曖昧になり、劉健一に足下をすくわれた。
相手の言葉が途切れた。
「三日後で間違いないんだな?」
念を押すと、肯定の返事がかえってきた。
「それで、わたしがおまえに預けた金は全部でいくらになるんだ?」
三億円――相手はいった。楊偉民は吐息を漏らした。想像していたよりは少ない。かといって少なすぎるわけでもない。
「そうか。ならば、三日後、その三億をきっちり用意しておいてくれ。例のものを持ってそっちに行く」
楊偉民は電話を切った。くすんだグレイのジャケットの内ポケットに手を突っ込み、半分に切り裂かれた古い一万円札をつまみ出した。
今の紙幣に切り替わる前の、聖徳太子が印刷された一万円札だった。札は皺《しわ》ひとつないが、中央から乱暴に引き裂かれていた。割符だ。歌舞伎町で稼いできた金を預けているのは戦後の華僑《かきょう》が頼っていた地下銀行だった。八十年代に入ってから雨後の筍《たけのこ》のように現れた流氓《リウマン》は相手にせず、昔ながらの華僑を相手に地道にやってきた地下銀行だ。サインも印鑑も信用せず、取り引きをはじめるときにピン札の一万円を半分に引きちぎり、それを割符にして取り引きに応じてきた。しかし、それも先代までの話で、跡を継いだ息子は年寄りだけを相手にしていたのでは商売にならないと派手に顧客を増やしている。
それに、楊偉民の持っている割符はその地下銀行から渡されたものでもない。
三億。歌舞伎町でかつての地位を取り戻そうとするには少なすぎる。上海や北京のがめつい流氓たちは三億程度の金では満足しないだろう。それどころか、金を巻きあげられた挙げ句に殺されるのがおちだ。歌舞伎町は諦《あきら》めるしかない。
しかし、現金の他に、この割符があれば話は違ってくる。かつての威光は消え失せたが、それでもこの割符が持つ力は劉健一に打撃を与えることができるだろう。
「健一め……」
楊偉民は一万円札の割符を指先で弄《もてあそ》んだ。
電話が鳴った。楊偉民は顔をしかめながら電話に出た。
「爺々《イェイェ》?」
若い女の声が楊偉民を「お爺《じい》ちゃん」と呼んだ。親戚の孫娘だった。名前は麗美だ。日本語で「れいみ」と呼び、北京語で「リーメイ」と呼ぶ。どちらでも不都合がないようにと両親がつけた名前だが、麗美自身は北京語もろくに話せず、地元の日本人の不良たちと付き合って、一族の頭痛の種になっている。
「どうしたんだね、麗美?」
楊偉民は日本語で訊《き》いた。
「パパが爺々のところに食事を持っていけって。今から上がっていくよ」
「おまえが食事を運んでくれるのか。珍しいこともあるものだな」
「今日、暇しててさ。家でぶらぶらしてたらパパにたまには働けって怒られちゃった」
楊偉民は声を出さずに笑った。麗美の嘘を指摘するのも馬鹿らしい。どうせ、食事を運ぶことを口実に、小遣いをせびる腹づもりなのだ。
「晩飯にはまだ早いんじゃないのかな」
「だって、爺々、寝るの早いじゃん」
「わかったよ。待っているから、早く運んできなさい」
「じゃあ、すぐ行くね」
電話が切れた。楊偉民は苦笑しながら受話器を置いた。割符を内ポケットに戻し、テーブルの上に置きっぱなしだった茶碗《ちゃわん》に口をつけた。台湾からわざわざ取り寄せた最高級の烏龍《ウーロン》茶は冷めても滋味に溢《あふ》れている。この茶の味が忘れがたくて、ずるずると横浜に居続けているといっても過言ではなかった。
チャイムが鳴った。
「ずいぶん早いな。そんなに金に困っておるのか」
台湾語で呟《つぶや》きながら、楊偉民は腰をあげた。かすかな痛みが腰から背骨に走って、顔をしかめた。その間もチャイムは鳴り続けている。
「わかったよ。そう急《せ》かすもんじゃないだろう」
腰に手を当てながら玄関に向かった。腰を患ってから飲み続けていた漢方薬は、自分が営んでいた歌舞伎町の薬屋に置いたままになっていた。その薬屋も劉健一が勝手に売り払ったと聞いている。
「健一め……」
何度目かの繰り言を口にしながら、玄関の鍵《かぎ》を開けた。待ちかねていたというようにドアが開き、麗美が薄笑いを浮かべながら入ってきた。麗美は手ぶらだった。
「食事はどうしたんだ?」
そう口にして、麗美の背後の人影に気づいた。
人影はなんの予備動作もなく麗美を突き飛ばした。麗美がよろめき、楊偉民にしがみついてきた。楊偉民は麗美の体重を支えきれずに靂美と一緒に後ろに倒れ込んだ。腰に激痛が走った。
「なにすんだよ!?」
麗美の叫びが耳に飛び込んできた。楊偉民は顔をしかめながら人影に視線を向けた。
「徐鋭《シウルイ》……」
麗美を突き飛ばした人影は、間違いなく徐鋭だった。楊偉民を頼って台湾からやって来た男の息子だ。なにかと目をかけてやったのに、楊偉民を裏切って劉健一の手先になった男だ。
「申し訳ない、楊爺々。どうしても健一の兄貴が爺々の首が欲しいといってきかないんだ」
徐鋭は銃を構えていた。中国製のトカレフ――黒星《ヘイシン》。大陸から大量に流れてきて、歌舞伎町に溢れている拳銃《けんじゅう》だった。
「なによ、銃なんか持って。話が違うじゃない!」
麗美が素早く起きあがり、徐鋭に掴《つか》みかかろうとした。徐鋭は銃を握った手で容赦なく麗実の頬を張った。麗美が小さな悲鳴をあげて床に転がった。
「おれは爺々を裏切ったけど、爺々、親戚にも裏切られるようじゃ、おしまいだ。わかるだろう?」
徐鋭の目は冷ややかだった。跳ねっ返りだったころの若さや愚かさとは無縁の光をたたえている。夏美という娘を自分の手で殺した後の劉健一の目と似ていた。
「健一は来ないのか?」
楊偉民は床に腰をついたまま、台湾語で訊いた。
「大哥《ダーゴー》は忙しいんでね」
徐鋭は北京語で答えた。
「あいつが自分で来るものと思っていたんだがな」
「爺々ならそうするかい?」
徐鋭の声は目と同じように冷ややかだった。楊偉民は首を振った。そう、自分が劉健一と同じ立場だとしても、自ら手を下そうとは考えまい。どうやって殺そうが、死は死だ。変わりはない。リスクを冒すことの方が馬鹿げている。
「思い残すことはないかい、爺々?」
徐鋭の言葉に、楊偉民は反射的に内ポケットの割符をジャケットの上から押さえた。自らの愚行に気づいたときにはすべては手遅れだった。徐鋭の目が、獲物の匂いをかぎつけた獣のそれのようにきらめくのを楊偉民はしっかりと見た。
楊偉民は歌舞伎町の中国人社会を牛耳ってきた五十年を思い起こした。数え切れない人間がやって来て、去っていった。かつては歌舞伎町は台湾人のものだったが、それも上海人や北京の人間に取って代わられた。だが、それも数年の栄華にすぎないだろう。福建や東北部の中国人がねずみ算式に増えている。数は力なのだ。やがて、上海人も北京人も歌舞伎町から駆逐される。
「健一に伝えろ」楊偉民は口を開いた。「おまえも終わりだ。もう、台湾人の時代じゃない。ましてや半々《パンパン》のおまえには生きていく場所などどこにもない」
「爺々、大哥はそんなこととっくにわかってるよ」
徐鋭が笑った。楊偉民は唇をきつく結んだ。
徐鋭が構えた銃の銃口から炎が噴き出るのを楊偉民は見た。銃声は耳に届かなかった。
楊偉民は血と脳漿《のうしょう》を床にまき散らしながら、ゆっくり倒れた。
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最初の記憶はなんだと訊かれたことがある。母親の胎内から外に出て、脳に刻み込まれた最初の記憶だ。
明確に覚えているのは白い布だ。ところどころが黒く薄汚れた白い布。それを思い出すと気分が滅入《めい》る。消毒薬の匂いが鼻腔《びこう》の奥でよみがえる。病院、看護婦、医師、注射針、舌下に塗られた苦い薬。
最初の記憶は病院だ。母はいつもベッドに横たわっていた。母が退院すると、今度はおれが病院の世話になった。白い布はベッドとベッドを遮断するカーテンだった。カーテンが揺らめくと、看護婦か医師か母親が顔を覗《のぞ》かせる。看護婦のとき、おれは笑った。医師のときは泣いた。注射と薬が嫌だったのだ。母のときは――おれは眠っているふりをした。母はいつも涙で顔を濡《ぬ》らしていた。
三歳か四歳のときだったと思う。病名は忘れた。とにかくおれは重い病気を患った。おれの治療費は家計を圧迫した。それ以前から母の治療費を借金で賄っていたのだ。金があれば――母は泣きながらいつもそういっていた。おれも金が欲しいと思った。この国の外になら金はある、と祖父がいった。おれは幼心に外国に行きたいと思った。
今でもおれは病院が嫌いだ。白い布を見ると気が滅入る。おれの最初の記憶は耐えがたい。死ぬ前に思い起こす記憶は、美しいものであって欲しい。おれはとりとめもなくそう考え、考えたあとで自嘲《じちょう》の笑みを浮かべる。
おれは記憶のほとんどを封印して生きている。記憶はおれの敵だ。
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仕事――銃を受け取り、韓豪《ハンハオ》に届ける。
韓豪は今度の取り引きでやくざたちとトラブルになる可能性があると考えている。そのために自衛手段が必要だと考えている。本当は頭にきているだけだ。
日本のやくざ相手に銃を持ち出す必要はないとおれは主張した。韓豪はかたくなだった。銃の運び役にはおれが指名された。
おれの経歴は真っ白だ。おれは日本国籍を持っている。おまわりに呼び止められて外国人登録証を見せろといわれるおそれがない。しんどい仕事はいつもおれがやることになる。それなのに、分け前は悲しくなるぐらいに少ない。
韓豪はいった――大久保《おおくぼ》のマレーシア人が経営しているしけたレストランに行け。銃を持ってくるのは福建の流氓。連中はものの考え方が短絡的で気が短い。連中とひとりで渡り合うのはぞっとしない。
おれは携帯で矢島《やじま》茂雄《しげお》に電話をかけた。
「どうした?」
矢島の声は間延びしていた。麻取《まとり》の事務所でふんぞり返っているに違いない。
「韓豪のやつに銃を受け取ってくるようにいわれた」
「銃? やばいことでも持ち上がりそうなのか?」
「明日、韓豪は東明会の連中と会うことになっている。先月の取り引きの精算のためです。だが、雲行きが怪しいらしい。韓豪は警戒してる」
「先月の取り引きというと、揺頭の件だな。内偵してみたが、取り引きに関わっているのは下っ端ばかりだった」
矢島の声がおれを難詰するような色を帯びる。もっとまともな情報を流せ――言外に匂わされる脅し。おれは煙草を吸って押し寄せてくる怒りをなだめた。
揺頭《ヤオトウ》――揺頭|丸《ワン》ともいう。ここ数年中国人の間で流行《はや》っている合成ドラッグ。成分はエクスタシーと同じだ。こいつを飲んで、アップビートの曲に合わせて激しく頭を振れば天国に行ける。
「韓豪のような連中ややくざの幹部たちがブツの受け渡し現場に現れるはずがないでしょう。あいつらがするのは儲《もう》けた金を勘定することだけだ」
「そりゃそうだろうが、それだけじゃおまえを飼っている意味がないんだな」
煙を思いきり吸い込む。つけたばかりの煙草がもう根元近くまで灰になっていた。
「今夜、銃を受け取ることになっているんですよ。背中を見張ってくれませんか?」
「おい、おれは麻取だぞ。銃は管轄外だ。武《たけ》基裕《もとひろ》、あるいは李《り》基《き》と呼んだ方がいいか? どっちにしろ、おれが欲しいのはクスリに関する情報だ。おまえはそのためにどぶの中を這《は》いずり回るんだし、おれはそのために口をつぐんでる。おれが一言漏らせば、おまえは死人だ。忘れちゃいないだろうな?」
忘れてはいない。忘れることはできない。
「おれはいつまであんたの奴隷でいればいいんだ?」
押し殺した声――溢れ出てくる記憶。絶望と憎悪の混沌《こんとん》。逃れられない悪夢。
「おれがもういいというまでだ」
矢島の蔑《さげす》みに似た声がおれの記憶を断ち切る。電話も切れていた。指先を焦がす煙草を捨てる。背後を振り返る――歌舞伎町にネオンの明かりが灯《とも》りはじめていた。
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狭い歩道に溢れかえる人。ネクタイを緩めた赤ら顔は日本人。鋭い視線を路地に向ける学生風は中国人。浅黒い肌はタイやシンガポール、マレーシアの連中。醤油《しょうゆ》の香りではなく、ナンプラーや五香粉、唐辛子の匂いが強く立ちこめている。
日本であって日本ではない場所。かつては歌舞伎町がそう呼ばれていた。今では大久保近辺の方がその感触を増している。道を行く人間の大半は外国人だ。日本人よりも我が物顔で歩いている。だがそれも平時に限る。事件が起こり街に警官が溢れると、あるいは入管の捜査の情報が入ると、大久保|界隈《かいわい》の人通りは半減する。
人ごみをかき分ける。抑揚のある言語が耳をすり抜けていく。中国の標準語は普通話《プートンファ》――北京語だが、聞こえてくるのは地方の言葉が多い。数年前までは新宿界隈は上海人の縄張りだった。今では福建人や中国東北部出身の人間が幅をきかせている。長引く不景気に嫌気をさした都会の連中は故郷に戻っていった。長引く不景気でも、故郷にいるよりはましだと考える連中が次から次へと海を渡ってきた。昔から歌舞伎町に根を張っている連中は眉《まゆ》をひそめている。だが、現実は動かせない。おれもその流れに身を委《ゆだ》ねて食い扶持《ぶち》を稼いでいる。
マレーシア人が経営する料理屋はJR大久保駅を小滝橋通りに向かって歩き、五つ目の路地を入ったところにあった。店内は閑散としている。夜の十時――こういう店を好む日本人は腹を満たして場所を変えている。真夜中を過ぎてこういう店に集まってくる中華系の連中はまだ働いている。暇な店の一番奥のテーブルに、流行遅れでサイズが合っていないジャケットを着たふたり組がいた。福建の連中――間違いはない。
まっすぐテーブルに向かう。ふたり組は福建の方言で話し合っている。おれに気づいているのに顔を向ける素振りはない。先に名乗れば嘗《な》められると思っている。馬鹿な連中だ。
「韓さんの使いの者です」
おれはテーブルの脇で足をとめた。ふたり組が芝居気たっぷりに振り返る。
「韓の使いだ?」
おれの右手の男がいう。訛《なま》りの酷《ひど》い北京語だった。
「そうです。李基《リージー》といいます。よろしく」
舌打ち――左の男がわざとらしく顔をしかめた。おれの北京語が気に入らないらしい。福建の連中はいつもそうだ。東北の人間はもともと巻き舌を多用する方言を喋《しゃべ》っていた。北京語も巻き舌を多用する言語だ。だが、南方の中国人にはこの巻き舌がうまく使えない。綺麗《きれい》な巻き舌の北京語を話す人間と対面すると、連中は小馬鹿にされたような気分になる。東北の連中は連中で、訛りのきつい北京語しか話せない福建人を頭から馬鹿にしている。今では新宿を二分する勢力になっている福建と東北の人間が、常に角突きあわせているのはこうした馬鹿げた理由からだ。
「まあ、座れよ、李先生」右の男がいった。おれの身なりをチェックしている。「おれは何《ハー》だ。こいつは萬《ワン》」
「よろしく。何|先生《シェンション》、寓先生」
おれは何の隣――萬の向かいの椅子に腰をおろした。
「いい服を着てるな。センスもいい」萬が煙草をくわえた。「日本には長いのか?」
「十五年以上になりますね」
おれも煙草をくわえ、萬の煙草に先に火をつけてやった。萬はそれだけで満足そうに喉《のど》を鳴らした。おれは煙草を吸いながら、さりげなく背後を見やった。相変わらず客が来る気配はない。何と萬以外の福建流氓がどこかに潜んでいるという気配もない。店の人間もおれたちには素知らぬ顔だ。関わり合いになりたくないという気分がよく見て取れる。
「早速ですが……」
おれは韓から預かった茶封筒をテーブルの上に置いた。中身は二十枚の一万円札。何がさっと茶封筒を手に取り、中身を覗きこむ。
「韓とは長い付き合いだ。金は確かに入ってるんだろう」
萬が煙を吐き出した。開いた口からヤニで黄色く染まった歯が覗いていた。歯並びは不揃いだった。ろくに歯を磨いたこともないのだろう。
「なら、例のものを」
テーブルの下に手を伸ばす。さすがに金とは違って銃をテーブルの上で受け取るのはためらわれる。
「まあ、そう急くなよ」何がいった。「十五年もここにいるんだって? じゃあ、おれたちと違って密入国したわけじゃないのか?」
ハイエナの目つき――ピラニアの体臭。ふたりの福建野郎はおれのプロフィールから金の匂いを嗅《か》ぎ取ろうと躍起になっている。それだけ、まっとうな身分で日本社会を泳ぎ回っている中国人は少ない。
「密入国はしていない。じゃなきゃ、十五年もこの国にはいられない」
「密入国じゃなきゃ、なんだ? 親が党の幹部かなにかか? それとも金持ちか?」
萬が身を乗り出す。ハイエナの口臭――煙草と食い物の残り滓《かす》が入り交じった臭気が鼻をつく。
「それのどっちかだったら、今ごろあんたたちとこんなことはしてないよ。留学のために就学ビザを申請して日本に来て、大学を卒業した後は就労ビザをもらってる」
おれはでたらめをふたりの耳に吹き込んだ。いつ襲いかかってくるかわからない連中に本当のことを教えてやる必要はない。ジャングルの掟《おきて》は日本でも十分通用する。日本人を狙って警察に追われるより、立場の弱い同胞を狙って美味《おい》しい餌にありつこうとする流氓は腐るほどいる。
「まっとうなビザを持ってる李先生が、なんだって韓豪みてえな流氓とつるんでるんだよ?」
「同郷のよしみで世話になってるんですよ。いってみれば、アルバイトみたいなもんです。道ばたでおまわりに呼び止められても、おれなら外国人登録証を持ってますからね」
おれは日本のパスポートを持っている。免許証を持っている。保険証を持っている。身分証明は免許だけで事足りる。武基裕。本籍、埼玉県|朝霞《あさか》市。現住所、東京都新宿区四谷。出生地、中国|黒龍江省《こくりゅうこうしょう》。現在、無職。月に一、二度ハローワークに通っている。黒龍江省にはもう十五年以上帰っていない。朝霞にはもう十年近く足を踏み入れていない。でたらめの足跡。何重にも糊塗《こと》された経歴。両親は共に中国人だった。祖父は日本語の教師だった。関東軍の庇護《ひご》のもと、中国人に日本語を教えていた。敗戦後は日帝の手先として迫害された。共産党を毛嫌いしていた。若くして死んだ息子を思い、孫だけはなんとかして日本に送り込もうと画策した。無知な農民の戸籍を買い上げ、改竄《かいざん》し、息子を日本人に仕立て上げた――残留孤児に。祖父に日本語を習っていた孫も、日本への憧憬《どうけい》を膨らませていた。
あのころは知恵があれば大抵のことができた。今は金がなければなにもはじまらない。
おれは残留孤児二世として日本の土を踏んだ。あの矢島ですら、おれを日本人だと信じて疑わない。
「小遣い稼ぎで銃を運ぶのか? おめえも立派な流氓だぜ」
萬が吐き出すようにいった。反論はしない。萬のいうとおりだ。だが、何が口を開こうとしたのを制して、おれはいった。
「もうそろそろいいだろう。韓豪が待ってるんだ」
何と萬は顔を見合わせた。何が唇を歪《ゆが》めて舌打ちする。萬が懐からくしゃくしゃになった紙袋を取りだし、テーブルの下に差し出す。
紙袋を受け取る――ずしりとした重さ、冷たさ。紙袋ごと銃を腰に差し、ジャケットで隠す。ごつごつとした感触に違和感を覚えた。
「アメリカ製のオートマティックだ」
萬がいった。
「そこらの黒星とはわけが違うぜ」何がいった。「二十万って値段は特別サービスだ。そこのところを、韓豪にちゃんと伝えておけ」
「弾丸は?」
「きっちり入ってる。心配するな」
「じゃあ、おれはこれで」
おれは腰をあげた。何と萬はまだ話したりなそうだったが、おれの知ったことではない。早く銃を韓豪に渡して肩にのしかかる重圧とおさらばしたい。でたらめの足跡――何重にも糊塗された経歴。ふとしたことで崩壊する可能性をいつも秘めている。おれはいつもなにかに極端に怯《おび》えている。
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風林会館の喫茶店――やくざ者どもの溜《た》まり場。そこで東明会の連中と話し合うと韓豪はいった。連れていくのは手下がふたり。その中におれは含まれなかった。おれには便利な使い道があると韓豪は考えている。
「阿基《アージー》、おまえは外で見張り役だ」
韓豪はおれの方を見もせずにいった。視線は両手で弄んでいる銃に向けられている。阿というのは、中国語で親しいものを呼ぶときの愛称だ。おれが阿基なら、韓豪は阿豪《アーハオ》。だが、韓豪に阿豪と呼びかける者はだれもいない。
韓豪はいつもいう。阿基、おまえはおれたちとは違う。流暢《りゅうちょう》な日本語を操り、頭の中でものを考えるときも日本語で考えている。日本人と変わらぬ髪形をし、変わらぬ服を着ている。どこからどう見ても中国人には見えない。そういうやつが側にいると重宝する。
重宝などされたくはない。だが矢島の命令がある。矢島に逆らえない理由がある。何重にも糊塗された経歴をさらに糊塗するために、おれは独楽《こま》のように回り続けなければならない。
韓豪と東明会が揉《も》めているのは、要するに金の分配だ。韓豪が大陸の仲間に連絡を取って、揺頭密輸の手配をする。東明会の下部組織が日本海側のどこかで大陸から来た船と連絡を取り、揺頭を受け取って東京に運ぶ。韓豪はその揺頭を同胞の中国人に売りつける。これまでは揺頭の売り上げは五分五分で分け合うことになっていた。それが、東明会の方から四分六分に変えろとごねてきはじめた。そこには言外の恫喝《どうかつ》がある――揺頭を仕入れることができるのはおまえだけじゃないぞ、韓豪。
それで韓豪は頭にきた。韓豪は頭が切れる。だからこそ、二十人からの流氓を束ねている。だが、韓豪は頭が切れると同時に短気でもある。面子《メンツ》を極端に気にする。韓豪は東明会のいいがかりが自分の面子を潰《つぶ》したと思いこんでいる。
「脅すだけなんだろう?」
おれは韓豪に訊いた。
「当たり前だ」
韓豪は素っ気なく答えた。視線は銃に釘《くぎ》づけになっている。危険な目の光り――剣呑《けんのん》な空気。韓豪を止めることはできない。矢島に助けを求めても、銃や殺しは管轄外だというだけでまともに取り合ってはもらえない。
あやふやな立場。今にも崩れ落ちそうな足許。なにも起こらないことを願う自分がいる。そんな自分を嘲笑《あざわら》うもうひとりの自分がいる。
中国人のおれ。何重にも糊塗した経歴で日本人を詐称するおれ。
「よし、行くぞ。日本人におれたちの肝っ玉を見せつけてやるんだ」
韓豪が威勢よく立ち上がる。手下たちが追従の声をあげる。
韓豪が死んだり、警察に追われるようなことになれば、おれのこれまでの苦労は水の泡だ。それぐらいのことでおれをゆるしてくれるほど、矢島は甘くはない。
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区役所通り――風林会館。陽がまだ高い午後の歌舞伎町は瞼を半分開けたまま朦朧《もうろう》としている。区役所通りは車で混雑しているが、通りを歩く人間は暇な若者か夜の仕入れのために奔走している飲食店の人間ばかりだ。
おれは区役所通りを渡ったところで、風林会館一階の喫茶店を眺めた。東明会の人間はとっくに席についている。韓豪とふたりの手下が悪びれるふうもなく向かいの席に腰をおろすのがガラス張りの壁越しに見えた。
いつでも電話をかけられるように右手に携帯を握る。左手には煙草。ここ数ヶ月、煙草の分量が増えている。胃の違和感に真夜中に目覚める回数が増えている。覚めることのない悪夢が続く。おれは喘《あえ》ぎながら深い水底をあてどもなくさまよっている。
韓豪と東明会の話し合いは続いていた。通りに怪しい気配はない。秋の深まりを感じさせる乾いた冷たい風が頬に吹きつけてくる。
歌舞伎町花道通りをコマ劇場の方から歩いてくるふたりの男が目にとまった。歩き方と髪形で中国人と知れる。ふたりは薄いコートを着ていた。秋とはいえ、コートを羽織るにはまだ早い。目を細める――にやけた笑顔を確認する。危険な空気は感じられない。仕事に向かう堅気か。兄貴分のところに向かうちんぴらか。南方の中国人なら、この季節にコートを羽織っていてもおかしくはない。連中は極端なほどの寒がりだ。
おれはふたりに集中させていた神経を緩めた。短くなった煙草を投げ捨てた。ふたりが風林会館の喫茶店に入っていくのが視界の隅に映る。
腹に響くエンジン音が近づいてきた。バイクが二台、靖国《やすくに》通りの方からこちらに向かって走ってくる。どちらも大排気量。区役所通りには似つかわしくない。
火薬に似た匂いを嗅いだような錯覚を覚えた。バイクに向けていた視線を喫茶店に走らせる。
例のふたり組が韓豪の座っているテーブルに向かって歩いている。足取りに淀《よど》みはない。空席を探しているわけでもない。にやけた笑顔は消え、思い詰めたような眼差《まなざ》しで韓豪の横顔を射貫いている。
おれは携帯のボタンを押した。韓豪の携帯に電話する。呼び出し音が鳴る。視界に映る韓豪が顔を落とし、携帯を耳に当てた。
ふたり組がコートを翻す。コートの下からショットガンが姿を現す。
「阿基、どうした――」
「危ない――」
おれと韓豪の声を轟音《ごうおん》がかき消した。ふたり組が構えたショットガンから火が噴き出る。韓豪と手下、東明会のやくざたちが硝煙に包まれる。
銃声は途切れることなく続いている。喫茶店にいる他の客たちが雪崩を打つように逃げまどう。バイクが近づいてくる。
「韓豪! 韓豪!!」
おれは携帯に向かって叫び続ける。
ふたり組が身体を反転させる。走り、客を殴り、店の外に飛び出る。バイクがふたりの目の前で停まる。ふたりはそれぞれのバイクに飛びつく。二台のバイク――けたたましいエンジン音。耳の奥にこびりついたままの銃声。韓豪からの返事はない。
おれは走り去るバイクを呆然《ぼうぜん》と見送った。だれかの悲鳴に我に返った。
危険だ。逃げなければ。意味もなく首を左右に振る。驚愕《きょうがく》に立ち尽くす連中。悲鳴をあげて逃げまどう連中。惨劇に気を取られた車が別の車のおカマを掘る。
おれは身体を反転させた。歌舞伎町からできるだけ遠ざかりたい――本能に身を委ねていた。走り出したいのを堪《こら》え、足早に明治通りを目指す。
遊歩道から出てきた人間と正面衝突しそうになった。バランスを崩した。
「おっと」
ぶつかりそうになった男がおれの腕を取って身体を支えてくれた。
「だいじょうぶか?」
男がおれの顔を覗きこんでくる。黒い目がおれを見ている。底がうかがえない、どこまでも黒く深い海のような目だった。
「失礼。急いでいたもので」
おれは男からとっさに目をそらす。腕を振りほどいてそのまま歩き去る。
明治通りに辿《たど》り着いてやっと、男に顔を見られたこと、男がなにがあったのかと訊かなかったことに思い至った。
ショットガンの銃声――聞こえてないはずがない。銃声が聞こえてきた辺りから足早に去ろうとする男を不審に思わないはずがない。
振り返る。男の姿はどこにもなかった。
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自分の部屋で二日間、逼塞《ひっそく》した。歌舞伎町界隈は警察、東明会、韓豪の身内たちでごった返しているだろう。うかつに近寄れば、どんな騒動に巻き込まれるかわからない。テレビはつけっぱなし。新聞は朝夕刊とも隅から隅まで熟読した。やくざと中国マフィアの抗争――テレビのニュースも新聞の記事もお笑いぐさだった。あの席についていた全員が死亡している。襲撃したのは東明会でも韓豪の手のものでもない。揺頭丸のマーケットを狙った他の中国人グループの仕業だ。やったのは福建人のグループか、それとも他の東北人グループか。それこそ考えられるシナリオは無数にある。
九十年代から歌舞伎町界隈で飯を食っていた連中は異口同音に嘆く――昔は良かった。台湾人、上海人、北京人、歌舞伎町の中国人社会を牛耳っていた連中にはルールがあった。日本人の目から見れば無謀なことでも、そこには確かに掟があった。今はそれがない。中国人犯罪者は多様化し、拡散した。日本全国、どんな中小都市でも中国人犯罪者が出没しない街はない。かつては限られた地域で棲息《せいそく》するしかなかった連中がねぐらを捨てた。それとともに、だれにも共通だったルールは霧散した。己と身内以外に恃《たの》むものがない福建人と、残留孤児とのコネクションで勢力を拡大する東北人。中国の辺境から押し寄せてきた連中には仁義もルールもない。それぞれが徒党を組み、好き勝手に歌舞伎町というパイを食い荒らし、小金を稼いではいきがっている。無秩序と混沌が歌舞伎町を支配している。
そんな街ではなにが起こっても不思議ではない。日本のやくざを敵に回しても屁《へ》とも思わない跳ねっ返りがそこかしこで肩で風を切って歩いている。韓豪がそうだった。おれが銃を受け取った何と萬も同じだろう。群雄割拠といえば聞こえがいいが、要するにちんぴらたちが秩序を無視して勝手放題に暴れているにすぎない。
多くの中国人が歌舞伎町を嫌悪している。かつての黄金の街はいまや完全に色褪《いろあ》せた。それでも、歌舞伎町にしがみついているしかない人間がいる。おれのような連中が。
韓豪たちを襲撃したのがどこのだれかと考えるのは無意味だ。おれが考えるべきは保身の方だ。韓豪が死んだとなれば、矢島がまたおれの尻《しり》を叩《たた》きはじめる。別のグループに媚《こ》びを売れ、接近しろ、懐に潜り込め、情報を収集しろ、犬の仕事に励め。おれは矢島に逆らえない。矢島を呪いながら、矢島に尻尾《しっぽ》を振る。何重にも糊塗された経歴を守るために。それにしがみつくために。
矢島だけではない。東明会は血眼になって韓豪の身内を捜し求めているだろう。韓豪の手下たちもおれを捜しているはずだ。なにがあったのかを知るために。どちらも猫なで声で近寄ってくるわけではない。問答無用でおれの口を割らせようとする。おれがなにも知らなくても、それは連中の知ったことではない。面子と復讐心《ふくしゅうしん》の前では論理は無力だ。
二日目の夜――切っていた携帯電話の電源を入れた。留守電のメッセージを確認する。
「連絡をよこせ」ぶっきらぼうな矢島の声が五回、繰り返された。「阿基、どこにいるんだ? すぐに連絡をよこさねえとぶっ殺すぞ」下品な北京語のメッセージが八回。韓豪の手下の胡明《フーミン》という男の声だった。「武さんかい? あるつてでこの電話番号を知ったんだが、東明会の村上というもんだ。一度連絡をもらえねえか。悪いようにはしねえ」低い声が一件。村上はメッセージの最後に自分の携帯の番号を吹き込んでいた。
警察からの伝言はない。ふたり組がショットガンをぶっ放す直前、おれは韓豪に電話をかけた。韓豪の携帯電話が残っているなら、警察は通話記録からおれの携帯の番号を割り出すはずだ。襲撃の直前に被害者に電話をかけてきた人間に興味を抱くはずだ。それなのに――ショットガンの銃弾が韓豪の携帯を粉々に砕いたのか。それとも――警察は静かに探っているのか。電話番号がしれたところでおれの足取りは掴めないはずだ。おれの携帯は錦糸《きんし》町のインドネシア人から銀行口座と一緒に買ったものだ。本当の持ち主はとっくに日本を離れている。月々の使用料を口座に入れておけば、NTTドコモから文句をいわれることはない。
警察の動きをあれこれ想像しても埒《らち》はあかなかった。東明会の人間におれの携帯の番号を売ったのはだれかと考えながら、矢島に電話をかけた。
「丸二日もなにしてたんだ、おい」
矢島の声は殺気立っていた。
「隠れてたんですよ。あんな派手な殺しがあったんだ、当然でしょう。おれでなくたって、息を殺して身を潜めてますよ」
「今度こんなふざけた真似をしやがったら、ただじゃおかねえぞ」
「殺される前にあんたに連絡を入れろってことですかね」
「なにがあったんだ?」
おれの軽口は完壁《かんぺき》に無視された。矢島に聞こえないように吐息を漏らし、見たことを報告する。
「韓豪たちを襲った連中は何者だ?」
報告が終わると、矢島が訊いてきた。
「わかりませんよ。歌舞伎町にどれだけ中国人がいるか知ってるでしょう?」
「調べろ。どうせ、束明会関係のクスリの売買を横取りしようと考えた馬鹿な中国人だろう」
「すぐにっていうわけにはいきませんよ。新宿界隈は警察や東明会関係の連中でいっぱいだろうし、ほとぼりが冷めるまでは悪党どもは身を潜めてるはずです。おれだってすぐに動きだすわけにはいかない。韓豪が死んだからってすぐに別のやつに尻尾を振るようなことをしたら、信用ががた落ちになる」
「おい、武。これだけ世間を騒がせてる事件だ。おれが麻薬絡みでホシを挙げてみろ。どうなると思う?」
矢島は思わせぶりにいった。おれは返事はしなかった。どうせ、すぐに解答が与えられる。矢島は抑制するということを知らない男だ。
「おれたち麻取には殺人事件の捜査権も逮捕権もないが、麻薬は別だ。クスリ絡みで挙げたやつが殺しのホシだとしても、おれたちには逮捕権がある。どうだ、武、わかってきたか?」
おれは再度、矢島に聞こえないようにため息を漏らし、口を開いた。
「これだけ世間を騒がした事件の犯人を挙げれば、あんたの評価はあがるし、麻取は警察の面子を潰せる。一石二鳥。多分、あんたは昇進する」
「そういうことだ。その後はどうなる?」
矢島は含み笑いを漏らした。自分より立場が弱い者をいたぶる快感に顫《ふる》えている。おれは瞼を強く閉じた。瞼の裏になにかが浮かぶことを期待したが、無駄だった。
「あんたは現場を離れる。おれはあんたが昇進するのに必要な情報を持っていく代わりに、解放される」
矢島は今度は声に出して笑った。
「よくわかってるじゃないか、武。情報屋にしておくのはもったいないと前から思っていたんだ。やるだろう? やってくれるな?」
矢島の言葉はなにひとつ信用できない。麻薬取締官という職業に長年従事した挙げ句、矢島の精神は何重にも捻《ねじ》れ、歪んでいる。わかっている。それでも、おれには矢島の言葉以外に縋《すが》れるものがない。
「わかった。やってみましょう」
おれは矢島の返事を待たずに電話を切った。
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行動を起こさなければならない。自由を手に入れるために。悪夢から解放されるために。
韓豪の身内に連絡を取るのはためらわれる。根ほり葉ほり訊《たず》ねられ、疑心暗鬼の渦の中で裏切り者に仕立て上げられる可能性がある。うまく立ち回って連中を歌舞伎町から遠ざけなければならない。その後で、韓豪を襲った連中に接触する。
頭で考えるのは簡単だが、現実には難問が待ちかまえている。だれかに接触しないわけにはいかなくなるはずだ。その前にまず、歌舞伎町での行動の自由を確保しなければならない。だれを味方につけるか――考えるまでもない。
留守電に吹き込まれていた東明会の村上という男の番号に電話をかけた。
「村上だ」
呼び出し音が鳴る間もなく相手が出た。まるで待ちわびていたとでもいうような勢いだった。
「武基裕です。留守電のメッセージ、聞きました」
「待ってたぜ。ちょっと面貸してくれねえか。悪いようにはしねえ。あそこでなにが起こったのか、詳しく知りてえんだ」
村上の声からは殺意や憤怒といった感情はうかがえなかった。どちらかといえばビジネスライクだ。ある程度の信用は置いてもいい。
「ひとつだけ教えてもらえますか?」
丁重な言葉で訊ねる。
「なんだ?」
「おれの携帯の番号、だれから聞いたんですか?」
「黄《こう》ってやつがいるだろう。おまえさんの仲間だ」
黄賢《ホヮンシェン》の脂じみた顔が脳裏を横切っていく。韓豪の身内といっても下っ端で、いつも上の人間の顔色をうかがっていた男だ。
「そいつを捕まえて、いろいろ訊きだしたんだよ。その中におまえの携帯の番号もあったし、おまえが何者なのかも、あのとき喫茶店の外で見張りをしてたのもわかった」
村上の声は相変わらずビジネスライクだった。しかし、それこそ遣《や》り手の営業マンのように、相手に契約させるまでは食いついて離れないという執念も感じさせる声だ。
やくざに睨《にら》まれたままでは歌舞伎町を自由に歩き回ることもままならない。
「村上さん、お会いするのは構わないんですけど、お願いがあります」
「今度はなんだ?」
「ひとりで来ていただけますか?」
「ふざけんなよ、おい。おまえがひとりだって保証もねえのにのこのこ出かけていく馬鹿がいるか。あんなことが起こった直後だぞ」
「怖いんですよ」
哀願する。村上が靴を舐《な》めろというのなら、それをすることも辞さない――声に感情をこめる。
「黄からおれが荒事に向かないっていうことも聞いてるんじゃないですか? 東明会の人をどうこうしようなんて、これっぽっちも考えてません」
「おまえら中国人は信用できねえんだよ、悪いがな」
「おれは日本人ですよ」
何重にも糊塗された経歴――足跡。祖父から学んだ日本語を、日本で磨き上げた。日本で最初に買った本は広辞苑。名作と呼ばれる文芸作品にはすべて目を通した。ラジオをつけっぱなしにして流れてくる日本語に耳を傾け、訛りを直し、語彙《ごい》を増やし、日本語で思考する癖をつけ、日本人以上の日本語を操るようになるのに三年もかからなかった。
「ああ、そうか。すまん」
村上がどもるようにいった。やくざ者ですら瞬間あらわになる日本人特有のナイーヴさに噴き出しそうになる。もちろん、おれは噴き出したりはしない。
「しかしな、ひとりで出向くってわけにはいかん」
取り繕うような声が続いた。おれは唇を舐めた。ここまでは織り込み済みだ。
「それじゃ、ふたりで来てもらえますか――」
飯田橋《いいだばし》の喫茶店を指定して電話を切った。
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飯田橋に向かう前に、地下鉄とJRを乗り継いで新宿に足を延ばした。携帯の液晶は午後六時を示していた。繁華街が目を覚ますにはまだ中途半端な時間だった。それでも、靖国通りを渡って歌舞伎町に一歩足を踏み入れると、尋常ではない空気が全身を一気に包み込んできた。セントラルロードの入口からコマ劇場の方角を見渡すと、普段の数倍の制服警官の姿が目についた。
人通りの多い道を嫌って路地に入ると、今度はやくざの姿がやけに目につく。警官とやくざたちが捜しているのは中国人だ。おれは中国人には見えない。やくざたちの殺気だった視線もおれを素通りしていく。
なにげない顔をしてさくら通りを北へ進み、花道通りを右に折れた。途端に、パトカーの赤色灯が目を射抜いた。風林会館は「立ち入り禁止 新宿署」と書かれたテープで封鎖されており、立ち番の制服警官が鋭い視線を周囲にまき散らしていた。
とんでもない事件――やっと実感した。ふたり組の銃撃も、その後のバイクを使った逃走劇も、どこか芝居じみていておれの頭の中ではきちんと焦点が結ばれていなかった。だが、歌舞伎町に溢れる警官とやくざの姿に、背中をどやしつけられたような気がした。白昼のショットガンによる銃撃。日本では滅多に起こらない犯罪だ。風林会館の周辺は静電気を帯びたようなぴりぴりした空気に覆われている。
携帯電話を使うふりをして足をとめた。警官の視線に注意を払いながら身体を反転させ、来た道を戻る。鼓動が早まり、うっすらと汗をかいていた。
福建のふたり――何と萬は、おれも流氓と変わらないといったが、おれは小心で臆病《おくびょう》な人間だ。そんな流氓の行く末など考えるまでもない。足を洗いたい。この泥沼から脱けだしたい。かつての暮らしに戻りたい。朝七時に起き、八時には満員の列車に飛び乗り、夜の九時には帰宅する暮らし。長引く不況がおれからすべてを奪い取った。十年勤めた会社は倒産し、ハローワークで見つけた仕事は惨めなものでしかなかった。歌舞伎町には金になる仕事があった。北京語を流暢に話す日本人なら仕事は選《よ》り取り見取りだった。あちこちに落とし穴があいているのはわかっていた。自分には落とし穴を避《よ》けて歩く才覚があると思っていた。北京や上海の人間には道理が通じた。東北の人間とは話があった。福建の連中は――避けて通れば問題はなかった。美L《メイチー》に出会うまでは。
何重にも糊塗された経歴――矢島に掴まれた尻尾。狂おしく痛切な想いが胸を締めつける。今にも警官が追いかけてくるのではないかという疑念に足がすくみそうになる。
プリンスホテルから地下街のサブナードに抜け、JR新宿駅に戻った。十メートル歩くたびに振り返ってみたが、おれを追いかけてくる警官の姿はなかった。
総武線を飯田橋で降り、村上と待ち合わせた喫茶店に三十分前に到着した。通りを見渡せる席に腰をおろし、待った。
約束の時間に十五分遅れて、馬鹿でかいベンツのSクラスが喫茶店の近くの路肩に停車した。チンピラ然とした運転手が周囲を睨みながらおりてきて、リアのドアを開けた。リアシートから姿を現したのはやくざの幹部というよりは大企業のエリート課長といった風貌《ふうぼう》の男だった。短く刈った髪を軽く逆立て、高級だが下品ではないスーツをさりげなく着こなしている。両手の指にも金色に光るアクセサリーはなく、変わりにゼロ・ハリバートンのアタッシェケースをぶら下げていた。年のころは四十前後。やはり運転手役のチンピラがいなければやくざだとは思えない。
村上はチンピラを従えて喫茶店に入ってきた。入口を抜けたところで足をとめ、さりげなく店内を見渡す。目当ての人間――つまり、おれを認識できずに眉をひそめた。その瞬間、やくざ者特有の卑俗さが顔を覗かせた。だが、村上が隙を見せたのはその一瞬だけで、卑俗な表情はするりと村上の内部に引っ込んで、エリート課長の態度がすべてを支配する。
おれは腰をあげて村上の注意を促した。村上は鷹揚《おうよう》にうなずいて、おれの席に足を向けた。
「あんたが武さんか?」
腰をおろすより先に、村上は口を開いた。
「武基裕です。はじめまして」
「本当に普通の日本人じゃないか」
「日本人ですから。中国人とつるんではいますけど」
「まあ、助かるわ。日本人ってことは、話が通じるっていうことだからな」
村上はアタッシェケースをテーブルの上に置いて腰をおろした。チンピラがすかさず店の人間を呼んでコーヒーをオーダーする。
「なんだって中国人とつるんでるんだ?」
村上は煙草をくわえた。チンピラを待たずに自分で火をつけた。
「成り行きです。たまたま中国語ができるもので、なんとなく。本当はまっとうな仕事に就きたいんですが、今の状況じゃなかなか……」
「向こうの言葉はどこで勉強した? 大学か?」
「向こうで、です。おれ、残留孤児二世なんですよ。母親が置いてけぼりくらって、そのまま。父親が中国人です。十五のときに日本に来ました」
つき慣れた嘘はなめらかに喉の奥からほとばしってくる。
「親御さんは?」
「母は向こうで死にました。父は中国人ですからね。あっちに残ったままです」
「兄弟は?」
村上は忙《せわ》しなく煙草を吹かしながら矢継ぎ早に質問を放ってくる。おそらく、黄賢から聞いたおれの話と、おれが自ら語る話の齟齬《そご》を見つけ出そうとしている。
何重にも糊塗された経歴――そう簡単にはほころびない。
「ひとりっ子政策が徹底されていた時期に生まれたんですよ」
「そうか。いろいろ訊いてすまんな。あんたが本物の武基裕かどうか確かめなきゃならんのだ。ところで、中国にいたときの名前は?」
「我叫《ウォージャオ》李基。李基です。李は中国人に多い李、基は基地の基です」
まず正式な北京語で自己紹介し、日本語で説明した。歌舞伎町でしのいでいるやくざなら、中国の流氓との付き合いも多い。村上も日々中国語と接しているはずだ。おれの北京語の能力がどれほどのものか、発音を聞けば多少は理解できるだろう。
「武ってのはお袋さんの名字かい?」
「親戚の名字です。母の姓は中村ですが、向こうで死にましたから……いろんな手続きの問題で、親戚の戸籍に入ったほうがいいということになって」
祖父の作ったでたらめの書類。まったくの他人を自分の親族だと信じて疑わなかった武家の人間たち。嘘をつきつづけることに耐えられなくなって、家を飛び出た。それ以降、連絡を取ったことはない。おれは書類上は日本人だった。日本語を流暢に扱えた。食うに困ることはなかった。
「なるほどな」
村上は煙草を灰皿に押しつけた。左手の甲に小さなミミズ腫《ば》れのような刃物傷があった。村上が装っている擬態の下に隠されているものが、その一センチほどの傷からとめどもなく溢れ出てきている。おそらく村上自身はそのことに気づいていない。だからこそ、無防備に傷をおれに晒《さら》している。それとも、おれに同類の匂いを感じないから油断しているだけなのか。
灰皿の中の煙草がまだくすぶっているうちに、無表情なウェイターが村上とチンピラのコーヒーを運んできた。チンピラがウェイターからカップを受け取って村上の前に置いた。チンピラは黒いスーツを着ていたが、カップを受け取る仕種《しぐさ》がどこかぎごちなかった。腰に拳銃をぶら下げているのだろう。落ち着きがなさそうに見えるのもそのせいだ。普段から銃を持ち歩いているとは思えなかった。
「さて、話を聞かせてもらおうか」
ウェイターが去るのを待って、村上は口を開いた。
「話すことなんてほとんどありませんよ。おれは風林会館の外で見張ってました。まあ、韓豪にいわれたからそうしてただけで、本当になにかが起こるとは思ってなかったですから」
おれは口を閉じたが、村上は押し黙ったまま目で先を促した。
「韓豪とそちらの話し合いがはじまって十分ぐらい経ってからですかね、花道通りを二人連れの中国人が歩いてきて――」
「待て。なんで中国人だとわかった?」
村上がおれを遮った。下から睨《ね》めつけるような視線は、左手の傷から溢れてきているものと同じ匂いを漂わせていた。村上は韓豪を襲った連中とおれがグルではないかと疑っている。
「わかりますよ。顔つきだとか、着てるものだとか……村上さんだって歌舞伎町をぶらついてるのが日本人か中国人か、それとも韓国人かぐらいのことはわかるでしょう?」
「話の腰を折って悪かったな。先を続けてくれ」
おれは咳払《せきばら》いをし、コーヒーに口をつけた。ぬるくなったコーヒーでは喉の渇きは癒《いや》せなかった。
「どうっていうことのないふたりでした。着ているものもださくて、田舎から出てきたばかりの福建人って感じでしたよ。危険な匂いはなにもしませんでした。そのふたりがあの喫茶店に入っていったときも、ただお茶でも飲みに立ち寄ったんだろうぐらいにしか思いませんでしたから。そんなに寒いわけじゃないのにコートを羽織ってたんで、それが気になるといえば気になりましたけど。その後は――」おれは肩をすくめた。「あっという間でした。状況がおかしいのに気づいて韓豪に電話したんですが、韓豪が電話に出た途端、どかんです」
「やった連中の顔を見てるんだな?」
村上は相変わらず下から睨めつけるような目でおれを見ていた。堅気の人間を擬態することはとっくに放棄していた。
「遠目ですが」
「知った顔か?」
おれは力強く首を振った。何度も考えたのだ。何度も頭の中であの光景を繰り返したのだ。あのふたり――記憶の隅々を探ってみても見覚えはなかった。
「もう一度面を見りゃ、わかるか?」
「多分」
村上の視線が緩んだ。どうやら、おれと連中がグルだという疑惑は晴れたらしい。
「バイクに乗って逃げたんだったな?」
「最初から打ち合わせてたんだと思います。ちょうどそのふたりが喫茶店に入るのを見計らっていたように、バイクが二台、区役所通りをゆっくり進んできましたから」
「バイクに乗ってたやつらの面は?」
「フルフェイスのヘルメットを被《かぶ》ってました」
村上は唸《うな》り、腕を組んだ。
「うちと韓豪のしのぎを横取りしようとした連中に違いねえんだがな。心当たりは全然ないか?」
「ないといえばないし、ありすぎるといえばありすぎますね」
「歌舞伎町にいる中国人なら、だれにでも可能性はある、か」
「歌舞伎町だけとは限りませんよ」
「だな。昔と違って、今は日本中いたるところに中国人がいて、好き放題にやってやがる。みんなひとまとめにしてぶち殺してやりてえぐらいだ」
村上がまた煙草をくわえた。チンピラが差し出したライターで火をつける。紫煙があがり、村上の表情がかすんだ。
話は終わった。だが、それで村上がおれを解放してくれるとは思えない。おれが見たことぐらいなら、警察が調べ上げているはずだし、束明会ほどの組織なら警察内部に情報提供者がいるはずだ。つまり、村上はすでに知っている話をおれに補足させただけにすぎない。
「けじめ[#「けじめ」に傍点]はつけなきゃならねえ。あんたも日本人だ、おれたちの世界のルールはいわなくてもわかるだろう?」
うなずきたくはなかったが、うなずく他はなかった。ほくそ笑む矢島の顔が脳裏を横切っていった。
「けじめはつけなきゃならねえ」村上は同じ言葉を繰り返した。「ならねえが、中国人を捜すのは、おれたち日本人には至難の業だ。連中はおれたちみたいにきちんとした組織を作ってるわけじゃねえ。てんでばらばらに好き勝手をやってる。協力するといってきてる中国人のグループがいくつかあるんだが、連中の魂胆はわかってる。金が欲しいんだ。それだけだ。そんな連中は信用できねえ。中国人はだれひとり信用できねえ。わかるな?」
「おれになにをさせたいんです?」
うなずく代わりにおれは訊いた。
「わかってるんだろう?」
答える代わりに村上はいった。村上のやり方はどこからどう見ても日本人の流儀だった。
「勘弁してください。おれには無理です」
「勘弁してやりてえがな、おれたちのルールを弁《わきま》えて動けそうな人間なんてそうはいねえ。おまけに中国語ができるとなるとな。ところがおれの目の前にひとりだけそういう人間がいる。不運だと思って諦めろ」
「無理ですよ」
おれは力無く繰り返した。こうなることは村上のメッセージを聞いたときからわかっていた。村上と会う約束をしたときからこうなると確信していた。それでも抗《あらが》うポーズを崩すことはできなかった。
「無理でもやってもらうさ。うちの連中を殺《や》ったやつらを見つけて、おれの前に連れてこい。こいつは命令だ。わかるな? ――おい」
村上はチンピラに顎《あご》をしゃくった。チンピラがスーツの内ポケットから茶封筒を取りだした。おれの目の前に置かれた茶封筒にはそれなりの厚みがあった。
「必要経費ってやつだ。足りなくなったらいつでもおれの携帯に連絡しろ。忠告しとくが、おれから金だけ掠《かす》め取ろうなんて考えるな。わかってるとは思うがな」
おれは茶封筒を見つめた。やくざから金を受け取るのは愚の骨頂だ。一度受け取れば、それは終身の奴隷契約書にサインしたのと同じことになる。おれは躊躇《ちゅうちょ》していたが、頭の中の矢島がおれの背中を押していた。中国人のグループだけじゃなく、東明会にも食い込むことができれば、矢島の掴めるネタはどんどん美味しくなっていく。
「見つけることができなかったらどうなるんです?」
「どうもしねえさ。だが、その場合、この金は必要経費じゃねえってことになる。貸し金だな。あんたがしくじったら、その金を返してもらうだけだ。利子をたっぷりつけてな」
おれの返事を待たずに村上は腰をあげた。煙草を灰皿に放り投げ、アタッシェケースを手に取った。アタッシェケースのどこかにスウィッチがついてでもいるかのように、その瞬間、村上から剣呑な雰囲気が消えた。ここに来たときのように、遣り手の堅気という擬態をまとっておれに背を向けた。
「飲み代は払っておけよ」
チンピラが捨て台詞《ぜりふ》のように吐き捨てて村上の後を追った。その物言いは、おれがすでに東明会の最下級構成員になってしまったのだということを雄弁に語っていた。
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茶封筒の中には一万円札が五十枚入っていた。おれがしくじれば、この五十万が五百万になって、村上に返済しなければならないことになるのだろう。
村上の乗ったベンツの後ろ姿が見えなくなると、おれはすぐに矢島に連絡を取った。東明会の村上の命令であの事件の犯人を捜すことになったと伝えると、矢島は狂喜した。だが、おれの会いたいという願いは却下された。大きなオペレーションが進行中で、あと三日は身体が空かないといい張られた。まめに状況を報告しろと高圧的にいって、矢島は電話を切った。
おれは舌打ちし、途方に暮れた。
歌舞伎町は狭い。だが、大久保を含めた界隈に棲息する中国人の数は目眩《めまい》を覚えるほどに多い。夜の闇に身を潜めている連中にいたっては、いったいどれほどの数になるのか想像すらつかない。それにしたって韓豪を襲撃した連中が歌舞伎町の住人だと仮定した話だ。もし連中が別のエリアからやって来たのであれば、おれにはどうすることもできない。
考えあぐねた末に、おれは王華《ワンファ》に接触することにした。韓豪の手下のひとりだ。韓豪とは同郷で、その分結びつきも強かった。剛胆さに欠けるきらいがあるので韓豪は仕事に王華を重用することはなかったが、可愛がってはいた。王華は復讐を願っているに違いない。他の連中と違って、王華なら御しやすい。
いったん部屋に戻った。五十万もの金をもったまま歌舞伎町をうろつくのはぞっとしない。腐臭を嗅ぎつけるのに長《た》けたハイエナがあの街にはうようよしている。
五万円だけ財布に入れ、残りはジップロックに放り込んで冷凍庫の奥深くに押し込んだ。この四十五万はもしものときの保険だ。なるべくなら手をつけたくなかった。
王華はすぐに捕まった。電話の相手がおれだと認識すると、この二日間どこでなにをしていたのかと詰問し、韓豪の死を嘆き、復讐してやると喚《わめ》き立てた。
おれは王華をなだめすかし、韓豪がよく利用していた中国クラブで落ち合う手筈《てはず》を整えた。
時間が余っていた。シャワーを浴び、ビールを飲んだ。村上のことを考え、矢島のことを考え、韓豪を殺した連中のことを考えた。なぜこんなことになったのかと神様だかなんだかに毒づき、すべては自業自得だといういつもの結論に達して漆黒の闇の中に落ち込んでいった。
闇の中を漂っていると、美Lの顔が浮かんでは消えた。美Lの死に顔がおれの後をどこまでも追いかけてきた。
かつて、美Lはいった。
「阿基、あなたは臆病で愚かな男ね。でも、わたしも馬鹿だわ。そんなあなたが好きなんだもの」
美Lがそういうたびに、おれは複雑な気持ちになった。美Lはおれが残留孤児だと信じ込んでいた。自分の目に映るおれという存在が幾重もの擬態を施した偽りの存在であることを知らずにおれを愛した。それでも、美Lはおれの本質をしっかりと把握していた。愚かで臆病な男。
美Lは死んだ。おれが殺したようなものだ。保身のために、何重にも糊塗された経歴にしがみつくために、意味もないことのために、おれは美Lを見捨てた。
救われたかったのだ。美Lと共に救済されたかったのだ。それなのに、目の前にあった救済をおれは自ら放り出してしまった。
別なものになりたい。おれ以外のものならなんでもいいからそれに成り代わりたい――いつもの馬鹿げた欲望が鎌首をもたげた。
空になったビールの空き缶を握りつぶし、壁に叩きつけ、おれは出かけるための支度をはじめた。
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〈深更半夜《シェンゴンバンイェ》〉は歌舞伎町の外れ、職安通りからほんの少し歌舞伎町側に入った路地沿いにあった。雑居ビルの四階で、真夜中を意味する北京語の店名が示しているように、夜が更けるまではいつも閑散としていた。店のオーナーは台湾人だが、店を切り盛りしているのはハルピン出身の男だった。ホステスと客のほとんども中国の東北部出身者で、一種の同郷会の様相を呈していた。東北部出身者がこれほど増えたのも、結局は残留孤児との繋《つな》がりのせいだ。元は日本人だとはいえ、残留孤児の多くは思春期、青年期を大陸東北部で過ごしてきた。日本語ができない人間の方が圧倒的に多かったし、ものの考え方も中国人と変わらない。同郷の中国人が助けを求めてくれば進んで手を貸す。留学ビザ、就労ビザ取得時の身元引受人になる。そうやって日本にやってきた東北の人間は、さらに自分に連なる親族、同郷の者を日本に呼び寄せる。東北部の人間は残留孤児との結びつきで一大勢力になり、日本における中国人犯罪の一翼を担うようになったわけだ。おれもその末端に連なっている。
〈深更半夜〉には日本の暮らしや慣習に馴染《なじ》むことができずに流氓化した残留孤児二世や三世もよく顔を出す。おれは連中と顔を合わせるのが嫌で、この店には滅多に足を向けなかった。連中と――本当の残留孤児と面と向かっていると、おれの何重にも糊塗された経歴に罅《ひび》が入り、すべてが剥落《はくらく》していくかのような不安感を覚えるからだ。偽物の足許《あしもと》はいつも不安定に揺れている。
だが、今は選り好みができる立場にはなかった。王華と約束した時間は午後九時ジャスト。店内は例によって閑散としていた。日本人と思《おぼ》しき客がひと組。ふたりの日本人に十人近いホステスがまとわりついている。
おれは入口のそばに陣取っていた黒服に目で挨拶《あいさつ》し、店の一番奥のボックス席に腰を落ち着けた。店の人間は韓豪が殺されたこと、おれが韓豪の手下だったことを知っている。人死にのあった流氓のグループと関わることの危険性も知っている。だれも、おれに近づいてこようとはしなかった。
煙草に火をつけ、王華が来るのを待った。日本人客の席ではカラオケがはじまった。日本人が経常するクラブでカラオケがある店は見たことがない。中国人クラブでは逆にカラオケがない店は流行らない。多分、言語の問題だ。日本人はもちろん北京語を話さない。中国人でも、田舎育ちの人間には北京語を話せないやつが多い。カラオケは言語の隙間を埋める道具として設置されている。
がさつな歌声になんとはなしに耳を傾けていると、どこからか店のマネージャーが現れた。おそらく、入口の黒服が連絡を入れたのだろう。災厄をもたらすかもしれない客に、こうした手合いは敏感だ。
「お久しぶりですね。どうも、大変なことになったようで……」
如才のない笑顔が近づいてくる。おれは煙草を消した。
「なにか聞いてるかい?」
おれはマネージャーを手招きして向かいの席に座らせた。歌舞伎町界隈でこうした仕事をしている連中は情報に敏感だ。韓豪を襲った連中の噂ぐらい聞きつけているかもしれない。
「特にこれといったことは……」
「噂のひとつやふたつ、耳に入ってきてるだろう。どんなくだらないことでもいいから、聞いたことを教えてくれ」
「いや、本当にね――」
マネージャーはテーブルの上に身を乗り出しながら顔の前で手を振った。
「今回の事件に関してはなんにも聞こえてこないんですよ。あなたたちのお仲間もいろいろ聞き回ってるようですけどね。わたしが思うに、新宿の人間の仕業じゃないってことじゃないですかね」
「新宿じゃない、か。だったらどこの連中だ? 池袋? 錦糸町? それとも名古屋や大阪か?」
マネージャーは息苦しいのか、喉元に手をやった。ネクタイの結び目に指を押し当てたまま目を細めた。
おれは新しい煙草をくわえた。ゆっくり火をつけながら考える。あのふたりは韓豪の顔を知っていた。迷うことなく韓豪に近づき、間髪を入れずにショットガンを撃った。あそこで韓蒙がだれとなにをしていたか、知っていたということだ。別に、韓豪と東明会が話し合いを持つことは秘密というわけではなかった。それでも、歌舞伎町にコネクションを持っていない流氓が、あの日、あの時、あの場所に韓豪がいることを知るのは難しい。
だが、歌舞伎町に関わりのある人間があの襲撃を計画したのなら、どこかで噂が流れるはずだ。
「わたしを苛《いじ》めないでくださいよ。聞かれたことに答えただけなんですから」
「本当になにも耳に入ってこないのか?」
「本当ですよ。この二日間は、あの事件の話で持ちきりでしたけどね、だれもなにも知らないんです。わたしらより、福建の人間に訊いた方が早いんじゃないですかね」
マネージャーはいった。この男もあの襲撃をしでかしたのは福建人だと考えている。日本人客のカラオケが終わり、ホステスたちの歓声が響き渡った。マネージャーはホステスたちに教師のような視線を向け、そのままその視線を入口に滑らせた。すると、まるでマネージャーがそれを予期していたとでもいうように、黒服が北京語で「いらっしゃいませ」と声を張りあげた。
入ってきたのは王華だった。腕時計に目を落とすと、約束の時間を十五分ほどまわっていた。
「お連れ様がお見えですね。飲み物と女はどうしますか?」
「なにもいらん。お茶だけ出してくれ」マネージャーの苦り切った表情を無視して続けた。「とにかく、なんでもいいから噂が耳に入ってきたら連絡してくれないか」
「連絡先は?」
おれは携帯の番号を伝えた。マネージャーはそれを頭に刻み込んだ。携帯の番号、生年月日、パスポートナンバー、その他もろもろ、数字をなにかに書き写すのは、金を引き出すための暗証番号だと疑われかねない。元もと中国人は数字に強いが、歌舞伎町で飯を食っている人間は、数字を記憶する癖がついている。
「わかりました。それでは、ごゆっくり」
マネージャーは軽い身ごなしで立ち上がり、その反動でこっちに向かってくる王華に頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
ここまで如才がないと、却って嫌味だった。王華は露骨に顔をしかめ、マネージャーを脇に押しやるようにして席についた。
「くそ野郎め。日本人みたいなやり方しやがって」
王華の鼻息はそれでなくても荒かった。韓豪の死が相当|応《こた》えている。
「あいつにも訊いたんだが、噂がほとんどないらしいな」
おれはいきなり切り出した。王華の憤りや愚痴に付き合う気分ではなかった。
「それだよ、それ。あそこにいた連中はみんな死んだし、おまえとは全然連絡がつかなかった。おれたちみんなであちこち聞き回って歩いたんだが、これっていう情報はなにもない。こんなことがあった後は、いろいろ噂が飛び交うもんだろう。それなのに、みんな首を傾げてるんだぜ。どう思う、阿基?」
また日本人客の席でカラオケがはじまった。マイクを握っているのは中国人ホステスだった。王華は舌打ちしながら騒がしい席に一瞥《いちべつ》をくれたが、王華の視線にはだれひとり気づく様子がなかった。王華の唇が「日本人め」という形に動き始める。おれはそれを遮った。臆病なくせに、王華には喧嘩《けんか》っ早いところがある。そのせいで周囲の人間がトラブルに巻き込まれるのを嫌というほど見てきた。
「おれは全部見てた。韓豪を殺った連中は、韓豪の顔を知ってたよ。迷うことなく突っこんでいったからな。ていうことは、あいつらはこの辺のことを知ってるっていうことだ。それなのに噂ひとつ耳に入ってこないっていうのは、おかしい」
「おまえ、殺《や》ったやつらの顔見てるのか」
王華は注意をおれに戻した。
「ああ。見た。もう一回見れば、すぐにわかる」
「それならなんだって二日も雲隠れしてやがったんだ? 韓豪の仇《かたき》を討つのに、おれたちおまえを捜してたんだぞ」
「だからこうやって会ってるじゃないか。おまえたちはあの現場にいなかったからわからないんだ。死ぬほど恐ろしかった。韓豪を襲ったやつらが、おれたちのことも狙ってたらどうなる?」
そんなことはありえない。大事なのは韓豪だけだ。おれを含めて韓豪の周りに張りついていたのは雑魚《ざこ》ばかりだ。ちんけなかっぱらいや強盗を繰り返していた連中が、韓豪というリーダーを得て、もっとましな儲《もう》け仕事にありついていただけだ。揺頭を仕入れるためのコネクションも方策も、すべて韓豪がひとりで握っていた。それがこの世界のルールだ。どれだけ深い付き合いをしていたとしても、身内以外の人間を信じてはならない。ときには、身内さえ信じてはならない。金儲けのための秘密は、だれにも漏らさずに地獄へ持っていかなければならない。自分だけの秘密。自分だけの方策。ひとりでは稼げないから仲間を増やす。仲間は仲間であって身内ではない。
おれには身内はいない。おれはだれも信じず、だれからも信用されない。
「その可能性はあるけどな」
王華は考え込むように腕を組んだ。王華はなにもわかっていない。王華だけではない。多くの人間がなにもわからずに、だが、わかったふりをして生きている。
「だけどよ、そんなことにいちいちびびってちゃ、復讐なんてできないぜ、阿基。おまえが韓豪を殺ったやつらの顔を覚えてるってんなら、捜そうじゃないか」
王華が腰を浮かした。
「まあ、待てよ。闇雲に歩き回ったって、そう簡単に見つかるもんじゃない。手当たり次第にやってると、連中の耳に入って警戒されるかもしれないし……」
「だったらどうしろっていうんだ?」
「焦らず、ゆっくり情報を集めるんだ」
「だから、どうやって?」
王華は苛立《いらだ》たしげに歯を剥《む》いた。考えるのは苦手なのだ。
「情報屋を見つけよう」
「情報屋?」
「そう。だれかから聞いたことがある。歌舞伎町には昔から情報を売り買いするのを商売にしてる人間がいるってな。そういうやつなら、なにかを知ってるかもしれない」
「それじゃ、金がかかるじゃねえか」
「韓豪の仇を討ちたいんだろう?」
王華は唇を噛《か》んだ。おれは舌を舐めた。村上からもらった五十万だけでは軍資金としては少なすぎる。王華の――韓豪の手下たちの義侠心《ぎきょうしん》を煽《あお》って金を引き出したい。
「本当に情報屋なんかが必要なのか?」
「相手は新宿の人間じゃないかもしれないんだぞ。おれたちだけで日本中を捜しまわるっていうのか? 無茶だよ。多少金がかかっても、プロを使った方がいいんだ」
「情報屋にあてがあるのかよ?」
しばらく考えてから、王華はいった。おれに反論したかったのだが、どうやったらいいかがわからなかったのだろう。不満そうに唇を尖《とが》らせている。
「もちろん、あるさ」
でたらめだった。おれはなにも知らない。矢島の意に添うようにしながら、それでも新宿の暗闇の奥底にはなるべく関わらないようにしてきた。おれが知っていることは、王華が知っていることと大差ない。
だが、矢島なら、村上なら、おれの知らないことを知っている。
「信用できるやつなんだろうな?」
「信用できるかどうかはわからないさ。だけど、こいつは商売だ。取り引きを反故《ほご》にしたらどうなるかは、歌舞伎町で食ってる流氓ならだれだって知ってる」
「いくらかかる?」
「ひとり、二十万も出せば足りるだろう」
「二十万?」
韓豪となんらかの関わりを持っていた流氓は、十人はくだらない。そのうちの三分の二が金を出せば、おれは百万を超える軍資金を手に入れることになる。充分な金ではないが、ないよりはましだ。
「韓豪のためだよ。高くはないだろう?」
おれは王華の退路を塞《ふさ》いだ。王華にはうなずくしか方法がない。
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仲間に声をかけて金を集めてくるという王華と別れ、おれは歌舞伎町をぶらついた。相変わらず警官と東明会絡みのやくざが溢れている。昼間は恐怖に顫えたが、夜の暗さとそれをはじき飛ばそうとしてどぎつい光を放つネオンの下ではなにもかもがあやふやに見えてくる。恐怖でさえ、曖昧になる。
あちこちにいる警官のせいで、街を歩く中国人の数は皆無に近かった。ビザを持っていない連中――不法入国者、不法就労者はどこかに隠れて息を潜めている。こんな状況では、情報収集もままならない。やはり、プロが必要だった。
一通り歌舞伎町を歩き回って、その後は大久保に向かった。職安通りを渡った先のホテル街で、歩きながら矢島に電話をかけた。手持ちぶさたに歩いていると、たちんぼうの娼婦《しょうふ》に声をかけられて鬱陶《うっとう》しいと思ったのだが、そもそも娼婦の姿を見ることがなかった。
「なんだ?」
矢島は苛立たしそうに電話に出た。矢島の声の奥から、騒がしい音が聞こえてくる。どこかの居酒屋にいるのだろう。大事なオペレーションというのも、実は同僚との宴会のことをいっているのかもしれない。
皮膚の内側でなにかが蠢《うごめ》く。それはホテル街の闇と同化しておれを呑みこもうとする。
「ちょっと聞きたいことがあって」
おれは突発的な衝動をこらえながらいった。
「明日じゃだめなのか?」
「新宿の中国人社会に詳しい情報屋を知りませんか?」
矢島の問いを無視して訊いた。矢島はため息らしきものを漏らした。
「ちょっと待て」
矢島の声がして、喧噪《けんそう》が遠ざかっていく。席を外して人目のつかないところに移動しているのだろう。
「今すぐ知りたいのか?」
一分ほど待たされた後で、矢島の声が戻ってきた。
「できれば」
「中国人社会に詳しい情報屋だな? そんなものがいるのかどうか怪しいもんだが、ちょっと調べてやる。三十分後にもう一度電話をくれ」
いつもなら明日にしろといったはずだ。クスリ絡みの派手な殺人事件、東明会と接触したおれ――矢島は興奮している。でかい魚を釣り上げる感触に自分を見失っている。
「じゃあ、三十分後に」
おれは電話を切った。ホテル街を突っ切って何と萬から拳銃を受け取ったレストランに向かった。もちろん、何と萬はいなかった。店の人間にふたりのことを訊いても有意義な答えは返ってこない。歌舞伎町や大久保で暮らす中国人とはいっても、堅気と流氓の世界には天と地ほどの開きがある。流氓のことは流氓に訊かなければならない。堅気はなにも知らない。なにかを知っているのは堅気を騙《かた》っている流氓だ。店の人間はただの堅気だった。
焼きそばとビールを注文し、それを平らげた後で再び矢島に電話をかけた。
「劉《りゅう》健一《けんいち》って男がいるそうだ」
「劉健一?」
「劉備玄徳の劉。健康が一番の健一。台湾と日本のハーフだそうだ。元々は故買屋なんだが、情報も扱ってるらしい。歌舞伎町で知りたいことがあったら、そいつに訊けとよ」
劉健一――記憶がかすかに刺激された。どこかで聞いたことのある名前なのだが、それ以上のことは思い出せない。肛門《こうもん》の近くにむず痒《がゆ》さを感じた。
「そいつの連絡先は?」
「知らん。名前はくれてやったんだ。そこから先は自分で調べろ。それがおまえの仕事だろうが」
「これが仕事だというんなら、矢島さん、おれに給料を払ってくれるんですか?」
「調子に乗るなよ、武」
「だったら、あんたもこれがおれの仕事だなんていわないでくれ。虫酸が走る」
「ふざけるなよ、おい。だれがおまえに頼んだ? おれはちょいとおれの仕事を手伝ってくれといっただけだ。その気になりゃ、どこにでも逃げることができるんだぞ、おまえは。国内ならともかく、国外に逃げられたらおれもお手上げだ。だが、おまえはそれをしなかったんだ。嫌なら逃げればいい。おまえは犬の仕事が好きなんだよ。だったら黙ってやってろ」
唐突に電話が切れた。目の奥が熱くなって、反射的に電話をかけ直そうとしたが、なんとか思いとどまった。
レストランを出て、大久保通りを小滝橋通りに向かって歩く。
逃げようと思えばいつでも逃げられる。言葉が頭の中で氾濫《はんらん》している。北京語ではなく日本語が。唐突な思いつきとしてではなく、いつもいつも考え、しかし、考えることを自ら遠ざけようとしていた行為。
逃げればよいのだ。なぜ、おれはすべてを放擲《ほうてき》して逃げ出さないのか。罪悪感。美Lへの償い。未知の世界で新たに生きていくことへの徒労感。
理由はいくらでも挙げられる。だが、どの理由も確固とした論拠にはならないこともわかっている。
なぜ逃げないのか。なぜすべてを放擲できないのか。おれは日本のパスポートを持っている。台湾に行けばいい。世界中の大都市には必ず中華街がある。そこへ逃げ込めばいい。なぜできないのか。なぜそれをしようとしないのか。なぜ、この国で、この街で、重く湿った徒労感に囚《とら》われながら生きているのか。
わからなかった。おれにはなにかがわかったためしがない。
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限定されたコネクション――東北出身の連中の連なりの中に「劉健一」という名前を流し込む。
最初のうちは反応がなかった。そのうち、ディープな場所からリアクションが返ってくるようになった。
劉健一――情報屋、故買屋、日本人と台湾人のハーフ、かつての大物。
かつての大物という話を耳にして、思い出した。大陸本土から歌舞伎町に流れ着いてきた中国人なら、劉健一の名はだれでも一度は耳にしたことがあるはずだ。
かつて――五年以上も前、上海や北京の連中が大手を振って通りを闊歩《かっぽ》していたころ。歌舞伎町の中国人社会を裏で仕切っていたのが劉健一という男だった。情報と金の流れを掌握して、流氓たちを自分の思惑通りに動かし、勢力の均衡を保ち、歌舞伎町の実権を握っていた。台湾の勢力がすっかり衰退したというのに、日本と台湾のハーフである劉健一がそれほどの力を握った理由は、それこそ無数の噂が流れていた。
曰《いわ》く、父親が元々から歌舞伎町の実力者だった。曰く、上海勢と北京勢の抗争の際にうまく立ち回ってとてつもない利権を手に入れた。曰く、歌舞伎町の実力者で後見人でもあった男を殺してその地位を奪った。曰く、たまたまつきに恵まれただけの男。曰く――。
真実は噂の影に隠れてぼやけてしまっている。実際、真実などは噂をまき散らす人間にはどうでもいいことだ。なぜ、劉健一という人物が歌舞伎町の実力者にまで昇りつめたのかなど、だれも気にしてはいない。それは昔話であり、今ではそのころとはまったく趣の違うルールが歌舞伎町を――日本の中国人社会を牛耳っている。劉健一も、福建人や東北の人間が爆発的に数を増やす中で、いくつもの昔話の中に埋もれていってしまった。
それでも、おれにも聞き覚えがあったように、歌舞伎町で暮らす中国人が劉健一の名を脳裏に刻んでいるのは、伝説のせいだ。伝説、あるいは悪名。
劉健一は自分がのしあがるために、愛していた女をその手で殺した。女を殺《あや》めたその瞬間、劉健一は人としての心を失い、悪鬼になった。劉健一が後見人を殺してその地位を奪ったという噂も、この伝説に根ざしている。悪鬼になった劉健一は、恋人が死ななければならないきっかけを作った後見人をその手で殺し、後見人が手にしていたすべてのものを奪い尽くして復讐を果たしたのだ、と。
劉健一が恋人を殺したというその瞬間を、まるでその場にいたかのように話す中国人がいる。大抵は食い詰めた上海人だが、彼らの話は妙にリアルで、そのせいで、劉健一の悪名は人々の心に刻み込まれる。
おれもその話を聞いた。そしてせせら笑った。復讐を望むのは人間だけだ。もし劉健一が本当に恋人を殺し、悪鬼になったのだとしたら、復讐など望むわけがない。悪鬼はただ、人々に呪いをもたらすために存在する。
じっとしているのが息苦しかった。劉健一は今も変わらず歌舞伎町で暮らしているという。風林会館の近くで、流行らない飲み屋を経営しているという。
「会員制だ」だれかがいった。「劉健一の顔見知りじゃないと、その店には入れないらしい。入口に監視カメラがついているんだとよ」
そういった声には揶揄《やゆ》の響きがこめられている。かつての大物――今では無名に等しい存在。それが、監視カメラで自分を訪ねてくる者の姿を確認している。
「知り合いはいないか? 劉健一に紹介してもらいたいんだが」
おれは訊いた。嘲笑《ちょうしょう》が返ってきた。
「情報屋なんかに使う金があるぐらいなら、押し込み強盗なんかやってねえぜ」
コネクションはそこで途切れた。相変わらず、じっとしているのが息苦しい。おれは肚《はら》を括《くく》り、歌舞伎町に向かった。
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警官の数は減っていた。それでも風林会館の周囲には物々しいテープが張り巡らされている。劉健一の経営する飲み屋は、花道通りを挟んで、風林会館の真向かいに位置する古い一画にあると聞いていた。
下水の匂いのする狭くて暗い路地を入ると視界に映る景色が一変した。歌舞伎町の華やかで猥雑《わいざつ》な色がかすみ、うらぶれて胡散《うさん》臭く、粘ついた空気が身体を押し包む。今にも朽ちそうな木造二階建ての建物が軒を連ね、中華料理屋と風俗店、ゴールデン街を髣髴《ほうふつ》させる飲み屋の看板が無秩序な光を放っている。
昔――今とは違う意味の混沌が歌舞伎町の中国人社会を覆っていたころ、この近辺で上海流氓と北京流氓の大がかりな抗争が起こったことを思い出した。北京の人間が経営する中華料理屋に、上海流氓が大挙して押し寄せ、青龍刀で店の人間を殺戮《さつりく》したのだ。あの事件はその残虐さと大胆さで日本人を震撼《しんかん》させたが、今ではそんな馬鹿をやる流氓はいない。だれかを殺さなければならないのなら、ひっそりと殺し、ひっそりと葬る。
すべては変わってしまった。流転してしまった。
L字にくねった路地をあずま通り方向に向かうと、〈カリビアン〉という看板が目についた。ミッドナイトブルーの下地に白抜きの文字が、周囲の空気とは不釣り合いな雰囲気をまき散らしている。東通りから一つ奥に入った建物の二階で、一階は大人の玩具《おもちゃ》を売る店だった。玩具屋の入口の脇に見るからに分厚い鉄扉があって、鉄扉の上の方に〈カリビアン〉の看板が輝いている。その看板のさらに上にカメラが設置されており、無機質な光をたたえながら訪問者を睨みつけていた。おそらく、鉄扉の内側に二階へと続く階段があるのだろう。
鉄扉の前に立って、カメラを見上げた。二階の窓からは明かりが漏れていて、ベースとドラムが刻むリズムが流れてきていた。息苦しさはまだ続いていた。喉が渇き、掌が汗ばむ。ちょうど右肩の高さに据え付けられたインタフォンに伸ばそうとした指先が細かく顫えていた。
自嘲しながらインタフォンのボタンを押した。自意識過剰もいいところだ。おれがなにを思おうと、追い返されるか迎え入れられるか、二つに一つしかない。
しばらく間があって、スピーカーから声が聞こえてきた。
「ここは会員制ですが」
日本語だった。抑揚が完全に消されたつかみ所のない声に、おれの息苦しさはますます強まっていった。
「劉健一さんにお会いしたいんですが」
「会員制だといってるんです」
「だったら、会員にしてください」
押し殺したような笑い声が聞こえてきた。
「ずいぶん勝手ないいぐさだな」
それに続いた口調もくだけたものに変わっていた。息苦しさが少しだけ和らいだ。
「どうしても劉健一さんにお会いしたいんです」
「五万だ」
「は?」
「入会金だよ」
慌ててポケットを探った。村上から受け取った金の一部が財布に入っているのを思い出してため息をついた。
「わかりました」
おれがいうのと同時に、鉄扉の上の方で鍵が外れるような金属音が響いた。取っ手に手を伸ばし、下にひねる。重い鉄扉が音もなく開いた。鉄扉の奥は人ひとり通るのがやっとという狭さの階段だった。空気には黴《かび》とアルコールの匂いが微妙に入り混じっている。階段をのぼりきったところがそのまま店になっているらしく、暗い照明の光とラテンミュージックのリズムが降り注いでくる。階段に足をかけると木材が軋《きし》んで湿った音をたてた。
狭い店だった。客はひとりもいなかった。壁際に沿って四人掛けのテーブルが三つ、並んでいた。申し訳程度のカウンターがあり、その奥に店の人間がいた。
「まず、五万だ」
男が口を開いた。おれの視線は男に釘付けになった。年齢不詳の顔の上にぽつんと開いた穴のような目――深い海の底を思わせる真っ黒な瞳《ひとみ》。あのとき出会った目。遊歩道から飛び出てきた男。
「会ったことがある」
おれは譫言《うわごと》のように呟いた。
「ああ、そうだな。おまえは風林会館の方から逃げるように走ってきたっけ」
間違いなかった。あのとき――銃撃の後で鉢合わせした男だ。
「あんたが劉健一なのか?」
「劉健一はこの店にいると聞いてきたんだろう? この店に、他にだれかいるか?」
店内を見回すまでもない。劉健一がいるカウンターの奥は半畳ほどのスペースしかなく、冷蔵庫とガス台の間に挟まれた空間で、男――劉健一の顔は青白い光に照らされていた。冷蔵庫の上にモニタがあり、店の前の路地が映し出されていた。モニタから放たれる薄い光が劉健一を幽鬼のように浮かびあがらせている。劉健一の双眸《そうぼう》は変わらず黒く、底が見えず、おれは魍魎《もうりょう》に魅入られたかのように動けない。
「韓豪が殺された。おれは殺した連中を見つけなきゃならない」
喉を顫わせながらやっとの思いで口にした。
「まず、五万。話はそれからだ」
劉健一の反応は素っ気なかった。おれは財布から金を抜き出し、カウンターの上に置いた。
「韓豪か……」
劉健一は金を数えながら北京語で韓豪の名を発音した。特徴的な訛りはない。かといって、生まれながらに話している言語のように滑らかだというわけでもない。
「あいつの手下っていうことは、あんたは武基裕だな」
劉健一は金をポケットにしまいこんだ。言葉は日本語に戻っている。
「おれを知ってるのか?」
「大抵のことは知ってるさ。武基裕。中国名李基。中国残留孤児二世。黒龍江省出身。生年月日もいった方がいいか?」
おれは首を振った。うなじの辺りに粘ついた汗が流れ落ちた。おれにまとわりついて離れないいつもの不安――何重にも糊塗したはずの経歴に罅が入ることへの恐れが、じわじわとおれの喉を絞めていく。
わかるはずはない。書類に目を通しただけですべてが白日のもとに曝《さら》されることはない。
何度自分にいい聞かせても、不安が和らぐことはない。
「どうやって?」
「おれは情報屋だ。そう聞いてきたんだろう? 新宿界隈で飯を食ってる中国人のプロフィールなら、大抵のことはこの中に入ってる。それじゃなきゃ、仕事にならないからな」
劉健一は自分の頭を指さした。脳|味噌《みそ》の中に詰まっているものを掻《か》きだして、おれに関する情報をすべて消去したい――埒もない思いに囚われる。不安は今では粘ついた感触を伴っておれの背中にべったりと貼りついている。疲労に似た倦怠感《けんたいかん》が肩にのしかかり、喉が渇き、息が詰まる。
「他にはなにを?」
「ただでおれからなにもかもを聞きだすつもりか?」
「いや……ちょっと気味が悪くなっただけだから」
「そう感じるのが普通だな。とりあえず、座れよ。突っ立ったまま商談をするのは好きじゃない」
劉健一に促されて、おれは入口に近いテーブルに腰をおろした。劉健一はモニタの角度を変えてカウンターの奥から出てきた。おれの位置からでもモニタに映し出される映像がはっきりと確認できる。
「あんなものがなにかの役に立つのかい? あの重い扉だけで充分だと思うが」
おれはいった。不安に苛《さいな》まれて、黙っているのが怖かった。
「昔、な。この辺りがもっと物騒だったころには必要だったんだ。おれも若くていろいろ無茶をやった。おれをぶっ殺してやると公言する流氓《リウマン》がたくさんいてね。そのころからの癖だ。意味がないのはわかっているが、やめられない」
カウンターの隅に置いてあったノートパソコンを手にして、劉健一はおれの向かけに腰をおろした。パソコンを開き、電源を入れる。
「韓豪を殺した連中を捜さなきゃならないって?」
「ああ」
「仇討ちっていう柄でもなさそうだ。訳ありか?」
「東明会の連中も殺されただろう? 村上っていう男がおれに接触してきて、あの襲撃を企てたやつらを見つけろと脅された」
「なるほど。日本のやくざじゃ、無理だからな」
「なにか知ってるか?」
劉健一はおれには答えず、指を忙しなく動かしてパソコンを操作した。無線LANでネットに繋がっているらしく、キィボードの脇のインジケータが目まぐるしく明滅している。B5判の小さなコンピュータだ。その中に、膨大な量の情報が蓄積されているのだろう。おれに関する情報も入っているに違いない。またぞろ、強迫観念が鎌首をもたげてくる。このパソコンを破壊したい。中に入っているデータをリセットしてやりたい。
「今のところ、なにも情報は入ってないな」
キィボードを叩く指をとめて、劉健一は独り言のようにいった。
「歌舞伎町でなにか事件があると、メールで情報が入ってくるのかい?」
落胆を表情に出さないように努めながら質問した。劉健一のコンピュータを魔法の箱のように考えていたのだ。そのせいで強迫観念にも晒された。落胆はそれなりに大きなものだった。
「情報提供者が何人かいるんでね。それ以外にも、金目当てでいろんなネタを送ってくるやつがいる。今回の件に関していえば、入ってきた情報は限りなくゼロに近いな」
別の落胆がおれを襲う。プロの情報屋ですらなにも掴《つか》めない事件の概要をどうやって調べろというのか。
「いくら用意できる?」
劉健一はパソコンを閉じた。ノートパソコンに対する強迫観念は薄れている。問題はやはり、劉健一の頭の中身だ。おれに関してなにを知っているのか、どこまで掴んでいるのか。
小さく頭を振った。ここが中国ならいざ知らず、日本でおれの本当の経歴を調べることなど不可能に近い。くだらない考えに囚われている暇はない。なにか収穫を上げなければ、おれは矢島と村上に食い殺される。
「金を出せばなにかがわかるとでもいうのか?」
「やってみなけりゃわからんさ。だが、やってみなけりゃなにも出てこないっていうのも事実だ。一銭にもならないことに、人を使うわけにはいかないからな」
「相場は?」
「手に入れたい情報の中身によるな。ま、あんたが知りたいことなら、手付けに五十万、後はおれが手に入れた情報をそれぞれ買い取ってもらうことになる」
劉健一の顔には薄笑いが浮かんでいた。その笑いが意味するところは明白だった。
「五十万払って、空振りっていうこともあるわけだ」
「そう。わかるだろうが、こういう商売はなにかを約束したりはしないんだ」
「五十万払うから、あんたより安くて優秀な情報屋を教えてくれといったら?」
「少なくとも東京にはいないな、そんなやつは」
劉健一の顔から薄笑いが消えることはなかった。傲慢《ごうまん》とは違うレベルの絶対的な自信が笑いの向こうに透けて見える。
五十万プラスアルファ。おそらくは、百万を軽く超える金が必要になる。村上からもらった五十万。韓豪の手下たちが出すだろう金。おれの取り分がほとんどなくなる。
「金は明日、用意する」それでも、おれにはそういうしかなかった。「必ず持ってくるから、今から情報を集めてくれないか」
「もう、はじめてるよ」
劉健一は席を離れ、カウンターの中に戻った。背をかがめ、冷蔵庫を開けている。
「どういうことだ?」
「さっき、何人かにメールを打っておいた。二、三日中にはなにかリアクションが返ってくるだろう」
「おれが言い値を払うと確信してたのか?」
「あんたにはおれ以外に頼る人間がいないということを確信してたのさ」
劉健一は背をかがめたままカウンターの奥から出てきた。右手にビール瓶、左手にグラスを二つ持っている。席につくとグラスをテーブルの上に置き、ビールを注いだ。
「店の奢《おご》りだ。ま、入会祝いっていうところだな。飲めよ」
劉健一はグラスを掲げた。おれはグラスに手を伸ばした。グラスはひんやりと冷たく、汗で濡れた掌に心地よかった。グラスの縁を軽くあわせ、ビールに口をつけた。劉健一はビールを飲む様子もなく、じっとおれを見つめていた。
「なにかまだ話があるのか?」
「韓豪を襲ったやつらを見つけて、そいつらを東明会に売って、その後はどうするつもりなんだ?」
「あんたには関係ないだろう」
「おまえは匂いが薄い」
「匂い?」
劉健一はグラスを置いた。白い泡が少しずつ減っていく。
「そうだ。流氓やクズどもはもっと生々しい匂いを発散させてる。おまえの匂いは……希薄だ。理由があってこの世界に片足を突っこんでるんだろう。好きこのんでいるわけじゃない」
不安が背筋を駆けあがっていく。この男はなにを知っているのか。なにを掴んでいるのか。
「推測か? それとも、なにか情報を持ってるのか?」
「直感だよ。それと、好奇心だ。いろいろあったといっただろう? 耳にしてるかもしれないが、数年前はこの辺りじゃおれもいい顔だった。今じゃご覧の通りだ。落ちぶれた日本人と台湾人の半々《パンパン》が生き抜いていこうと思ったら、とにかく手に入る限りの情報を手に入れて正確に分析するしかなかった。そんなことをずっと続けてるとな、どんな情報でも手に入れなきゃ気が済まなくなる。おれの目の前に現れたやつがどんな人間なのかを知らなきゃ、心配でおちおち眠れなくなる。一種の偏執狂だ。わかっちゃいても、やめられない」
さざ波のような音が聞こえた。幻聴だ。音をたてているものの正体はおれの不安。ざわざわと音をたてながら、劉健一の一言一言に鋭く反応している。
「おれの目の前にひとりの男がいる」劉健一はおれの不安など意にも介さず言葉を続けた。「流氓のくせに、流氓の匂いが全然しない。この男は何者だ? なぜ流氓の世界に身を置いている? 知りたくなるんだ。知りたくてたまらなくなる。気分を害したか?」
「いいや」
おれは理性を総動員して答えた。シャツが汗でべったりと背中に張りついている。なのに、他人の目に触れる部分は乾いている。取り憑《つ》いて離れない不安と手を取り合って生きていくために身につけた特技ともいうべきものだ。不安を表に表してはいけない。不安を相手に悟られてはいけない。
「じゃあ、教えてくれ。どうしてこの世界に身を置いてる?」
「それに答えるのも入会金の一部なのかい?」
「いいや。ただの好奇心だ」
「だったら、あんたの知ったことじゃないと答えておくよ」
おれはビールを飲み干して腰をあげた。劉健一のグラスは泡が減っているだけだった。一口も中身を飲んではいない。
さざ波のような音が耳にこびりついて離れない。背中を流れ落ちていく汗が、今ではトランクスまで濡《ぬ》らしていた。
「ビール、ご馳走《ちそう》様」
「帰る前に携帯の番号を教えてくれ。なにかわかったら、すぐに連絡を入れる」
流れた汗が体温を奪っていく。耐えがたい寒気に襲われながら、おれは番号を告げた。
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眠れぬ夜を過ごし、ぼんやりとした朝を迎えた。劉健一と会ったことによって芽生えた不安はいつまで経っても消える気配さえ見せず、おれの神経を消耗させた。消耗した神経はそれでも間断なく電気信号を送り続け、おれの脳味噌をオーバーヒート寸前まで回転させ続ける。強迫観念に似た切実な想いが、おれを捉《とら》えて放さない。
劉健一はなにをしているのか。どこにいるのか。おれの過去を調べ回っているに違いない。何重にも糊塗した経歴を暴こうと動き回っているに違いない。
居ても立ってもいられなかった。知り合いに電話をかけ、歌舞伎町に古くから根を張っている台湾人の名前をいくつか訊《き》きだした。みんな老人か、女だった。働き盛りの台湾人が日本を目指したのは遠い昔の話だ。男どもは地元に戻るか、香港や東南アジア方面に流れていった。一部の女たちだけが、なんとか踏ん張って日本に根を張り、店を構えて生きている。
老人たちは地主か、料理店を経営している人間がほとんどだった。今では店の経営を他人に任せ、優雅な老後を送っている。物騒な歌舞伎町には近づかない。それでも、まっとうな店はまっとうな店だ。長年勤めている従業員なら、長く歌舞伎町を見ている可能性がある。
シャワーを浴びて寝不足の頭をすっきりさせると、まだ昼飯にちょうどいい時間だった。おれは歌舞伎町に繰り出した。
西武新宿駅の向かいの路地を入ってしばらく歩いた雑居ビルの一階に、〈台南飯店《たいなんはんてん》〉はあった。昔ながらの中華レストランの佇《たたず》まいを残していて、メニューも台南とは関係のないものが並んでいた。おれは支那《しな》そばと餃子《ギョウザ》を注文し、時間をかけて食べた。昼食時ではあったが、店は混みもせず、かといって閑古鳥が鳴くわけでもなかった。どこまでも中途半端な店だった。
一時を過ぎると、客足はぱったりと途絶えた。無愛想に客が残した食器を片づけている中年男の背中に、おれは北京語で声をかけた。
「この店には長いのかい?」
男は無愛想な表情のまま振り返った。
「もう、七年だよ」
訛りのきつい北京語だった。おそらくは福建あたりの出身か。台湾には福建から流れていった人間が多い。台湾人が話す言語も、福建の言語とよく似ている。
「そりゃ大変だろう。こういっちゃ悪いが、給料がいいとは思えないしな」
「しょうがねえさ、おれには他にできることもないしな。もっと稼ぎたいと思ったら流氓にでもなるしかないけど、そんなのはごめんだ」
「休憩は何時からだ?」
「そんなこと訊いてどうする?」
男の表情にはじめて変化が訪れた。好奇心と警戒――眠たげな目が活気を帯びる。
「ちょっとアルバイトをしないかと思ってさ。別に危険なことじゃない。五、六年前のこの辺りのことを教えてもらいたいんだ」
「なんだ、そんなことか……」
男はまた無愛想な表情に戻った。
「一時間ぐらいでいい。そこらの喫茶店でお茶でも飲みながら……そうだな、おれの知りたいことを話してくれたら、二万円払おう」
男が目を剥いた。喉から手が出てきてもおかしくはない――それほど劇的な表情の変化だ。おれは笑いながらうなずいた。男はなんでも話してくれるだろう。不安が薄れ、強い確信がおれを支配した。
「休憩は三時から五時までだ」
「じゃあ、三時に――」
おれはすぐ近くにある喫茶店の名を告げて店を出た。
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三時ちょうどに男は姿を現した。おれのコーヒーはすっかり冷めていた。
「本当に二万もくれるのか?」
席につくなり、男はうわずった声でいった。台南飯店でのフロアの仕事――月二十万にもならないだろう。男にとって二万は大金のはずだ。おれは財布から万札を二枚抜き取り、コーヒーカップの皿の下に置いた。
「あんたの名前は?」
「丁友《ディンヨウ》」
男は二万円の行方を見つめていた。まるで念力でコーヒーカップを壊そうとでもしているかのようだった。
「おれは武基裕《ウージーユイ》だ」
「日本人なのか?」
丁友はやっと顔をあげた。
「残留孤児二世だよ」
「ああ、そういうことか。あんたが何者だろうとどうでもいいよ。それより、なにを話せばいいんだ?」
おれは手を挙げて店のウェイターの注意を引いた。丁友のコーヒーをオーダーしながら、煙草に火をつけた。丁友は居心地の悪そうな顔でおれの仕種を見守っている。
「七年前からあの店で働いてるんだって?」
「ああ。安月給でこき使われながらな。遠い親戚《しんせき》のコネを頼ってきたから文句はいえないけど……あの手の店で働いてる限り、不法就労で捕まる恐れも少ないし……」
「じゃあ、上海や北京の連中がこの辺を牛耳ってたころのことも知ってるはずだ」
「ああ。おれが歌舞伎町に来たころはとんでもなかったよ。流氓たちが青龍刀や銃を持ってその辺をうろついてたからな。あんたは日本に来て何年だ?」
「十五年以上になるかな」
「だったら、新聞やテレビのニュースで見たことがあるだろう? 殺しがしょっちゅうあったんだ。とんでもない時代さ。今とは違った意味でね」
丁友は物欲しげにおれの手元を見た。煙草の煙が揺らめきながら立ちのぼっている。おれは煙草の箱を丁友の方に押しやった。丁友は感謝の言葉を吐きながら煙草をくわえた。
「最近は煙草もままならなくてね。日本はなんといっても物価が高すぎる」
「だけど、福建に帰るよりはまし、だろう?」
「あそこはど田舎だからな」
「劉健一って名前に聞き覚えはあるかい?」
おれは不意に爆弾を投げつけた。煙草に火をつけていた丁友は噎《む》せるように咳き込んだ。
「劉健一だって? あいつは鬼さ。関わらない方が無難だぜ」
「鬼だって? 冗談だろう。いまどき鬼の話を出したって、子供だって恐がりはしないぜ」
「本当なんだよ」丁友はテーブル越しに身を乗り出してきた。「あいつは自分が生き延びるために自分の女や弟を殺したんだ」
「弟?」
自分の恋人を殺したという話はまことしやかに流れていたが、弟を殺したというのは初耳だった。
「弟同然に育った男だよ。劉健一は容赦なく殺したんだ」
「どういう状況で?」
「そんなこと、おれが知るかよ」
丁友は盛大に煙を吐き出した。
「じゃあ、ただの噂だな」
「違うって。みんなただの噂だと思ってるけど、おれは知ってるんだ。うちの店のオーナーは台湾人の爺《じじい》なんだよ。それで、台湾人どもが集まって話してるのを聞いたんだ」
「どんな話だ?」
「困ったもんだ、ってさ。劉健一の後見人みたいな爺さんがいたんだ。確か、名前は楊偉民といったっけかな。とにかく、その爺さん、歌舞伎町じゃ凄《すご》い力を持ってた。上海や北京の連中でさえ一目置いてたって話さ。その爺さんが誰よりも可愛がってた弟分を、劉健一が殺したんだ。台湾人どもは顫えあがってたよ。このままじゃ収拾がつかなくなるとか、怒った楊偉民がなにをしでかすかわからないといってさ」
コーヒーが運ばれてきた。丁友は口を閉じ、煙草を灰皿に投げ捨てた。
「それで、楊偉民は怒ってとんでもないことをやったのかい?」
丁友は悲しげな表情で首を振った。まるで自分の祖父のことを嘆いているかのようだった。
「劉健一に歌舞伎町から追い出されて、最後には殺された。それで、劉健一は歌舞伎町を牛耳ることになった。爺さんのコネクションと金を握ってね。ほんの一、二年の間だけどさ。その後はほら、おれたち福建の連中や、あんたら東北の人間がわんさかやって来て、昔の権力だのコネだのを無茶苦茶にしちゃったから」
「楊偉民も劉健一に殺されたのか?」
「他にだれが殺るっていうんだよ? 横浜の隠れ家みたいなところで反撃の機会を窺ってたんだけど、その前に殺されたのさ。台湾人どもは大慌てだったよ。楊偉民がいたから、落ち目の台湾人でも歌舞伎町でなんとか食っていくことができたのに、これでおしまいだって。爺さんが死んだ後は、かなりの台湾人がここからいなくなったよ」
「金を手に入れたっていってたな?」
「それも、うちのオーナーたちが話してるのを聞いたのさ。楊って爺さんは、何億円だかの金を地下銀行に貯めこんでたらしいんだけど、それも劉健一がかっぱらっていったって。もっとも、今のあいつの暮らしぶりをみたら、ガセネタだって気がするね。そんな金があるんなら、こんな街とはとっととおさらばして、どこか別の場所で悠々自適で暮らせるだろう?」
恋人を殺し、弟同様に育った男を殺し、後見人を殺し……劉健一の黒い瞳が脳裏に鮮やかに浮かびあがった。
「なるほど、非道な男みたいだな。だけど、それぐらいのことなら、他にもやってるやつがたくさんいるだろう。鬼呼ばわりするには弱いんじゃないか?」
「だからさ、あいつが自分の手を下したのは女を殺したときだけなんだよ。そのときは、殺らなきゃ自分が殺されるって状況だったらしいけどな。弟と爺さんは、策略を巡らせて、人を使って殺させたんだ。わかるだろう? 頭に来てぶち殺したっていうんならまだ理解できるさ。だけど、劉健一は冷静に頭を働かせて、策略を使って家族同然の人間たちを殺したんだ。だから、鬼なんだよ。感情がないんだ。どこかに置き忘れてきたんだよ。それとも生まれたときから感情なんてなかったのかもしれないな」
「恋人を殺したんだろう? 女を好きになったというんなら、感情はあるはずだ」
おれはいった。頬が紅潮する。なにをむきになっているのだろう。
「恋人を自分の手で殺して、それから鬼になったのかもしれないけどさ」
丁友は、今度はおれに断らずに煙草を抜いた。コーヒーにはまったく口をつけていなかった。
「今の劉健一に仲間はいるのか?」
「さあね。関わり合いになるのはごめんだし、そんなことに興味はないよ。あいつは終わった人間だ。それでも、鬼は鬼だからさ、近づかないに越したことはない」
丁友が持っていた情報は微々たるものだった。おれは落胆のため息を押し殺し、丁友の掌に金を押しつけた。
「ありがとう。助かったよ」
「こんな話で良かったのかい?」
「ああ、充分だ」
「どうして劉健一の話なんか訊きたがるのかは知らないけど、あいつには近寄らない方がいい」
「そうするよ」おれは腰をあげた。「じゃあ、またな」
丁友におざなりの礼をいい、レジで金を払った。煙草を置き忘れたことに気づいて振り返ると、丁友が携帯電話でメールを打っていた。背筋を冷気が駆けあがる。丁友が劉健一の情報提供者のひとりだったら――ありえない話ではない。おれは噴き出る汗を拭《ぬぐ》った。丁友がおれの視線に気づき、顔をあげた。屈託のない笑顔を浮かべ、おれの煙草を振りかざす。
「もらっておくぜ、これ。いいだろう?」
おれは小さくうなずいた。レジの人間から釣りを受け取ると、乱暴な足音をたてながら店を出た。
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丁友が劉健一の情報提供者だったら――妄想じみた疑念が頭から離れない。丁友の仕種や物腰はまっとうに働いている人間のもので、後ろめたさはなにひとつ感じられなかった。それでも、疑念を振り払うことはできない。おれの最初の記憶である白いカーテンのように、揺らめいては元に戻っておれの神経を刺激する。
王華に連絡を取った。王華は百五十万の金を集めたといった。この金で韓豪の仇を討とうぜ――もちろんだとおれは答えた。王華は大金を懐に抱えている。街をうろつくハイエナどもは金の匂いに敏感だ。繁華街を離れながら、それでも人目の多い場所が必要だった。神保町《じんぼうちょう》の三省堂の中にある喫茶店を落ち合う場所に決めて携帯を切った。
神保町にはタクシーで向かった。混雑した電車や人ごみの中にいると、だれかに見張られているのではないかという妄想がとめどもなく広がっている。たった一度、それも三十分ほど話をしたに過ぎないというのに、劉健一の存在はおれの中で、とてつもなく巨大なものになっている。あの黒い目のせいだ。白いカーテンと対をなすような、あの黒く深い目がおれを不安に陥れる。
神保町の交差点でタクシーを降り、三省堂に向かって歩いているところで携帯が振動した。靖国通りからひとけのない路地に進みながら携帯を取りだした。発信通知はなかった。
「おれだ。進展はあったか?」
矢島の声は電波のせいか不安定だった。
「まだなにも」
「えらく間延びした声じゃないか。昨日はあんなに熱くなってたのによ」
「朝から歩き回ってくたくたなんですよ」
「せいぜい気張ってくれよな。それが、おまえのためにもなるんだ……ところで、明日の昼飯、一緒に食えるか?」
「オペレーションとかいうやつはどうなったんですか?」
「それが意外と早くに片づいてな」
矢島はしゃあしゃあといってのけた。
「わかりました。どこで会います?」
「高輪《たかなわ》プリンスでどうだ? あそこら辺りなら、歌舞伎町の筋者も中国人のチンピラにも顔を合わせる可能性は少ないだろう?」
「十二時でいいですか?」
「ああ。ロビィで待ってる。いつもと同じだ」
「わかりました」
刺々《とげとげ》しい気分で電話を切った。矢島と話した後はいつも同じような感情に襲われる。嫌悪でもない、侮蔑《ぶべつ》でもない。憎しみですらない。風邪の引きはじめに感じる悪寒のような感情だ。
すずらん通りを左に折れ、裏から三省堂に入った。三省堂は適度に混んでいる。日本のやくざや流氓には場違いな場所だ。だれかに見られているという妄想も薄れていく。
王華はすでに席についていた。中国語の新聞を器用に折りたたみながら読んでいた。
「百五十万ってことは、渋ったやつが何人かいるんだな?」
おれが声をかけると、王華は新聞の横から顔を覗《のぞ》かせた。
「死んだやつのことを考えてもしょうがねえだろうってよ。くそったれどもが」
王華は新聞をテーブルの脇に置いて乱暴にコーヒーをすすった。
「まあ、しょうがないさ。世知辛い世の中だからな。やる気がある連中だけで行くしかないだろう」
おれは向かいの椅子に腰をおろし、王華の煙草に手を伸ばした。丁友に煙草を取られてから一本も吸っていなかった。身体がニコチンを欲していた。
「それで、情報屋ってのと話はついたのか?」
「ああ。なんとかな。着手金はおれの金で払っておいた」
「信用できるのか?」
「仕事はできるやつだ。とりあえずそいつにいろいろ探らせるつもりだが、おれたちも、できるかぎり情報を集めた方がいい」
「それだけどよ、阿英《アーイン》がどこかでうわさ話を耳に挟んだっていってやがってよ」
阿英――|周《ジョウ》英という若い男のことだ。下っ端でもかなり下にいる男だが、その分、若い流氓たちの間に流れるうわさ話を拾ってくるのに長けていた。
「阿英がなんだって?」
「錦糸町の方で、最近、粋《いき》がってる若い連中がいるんだそうだ。残留孤児三世ってやつ、知ってるだろう? 千葉の方の暴走族ややくざとつるんで力を伸ばしてる連中だ」
おれは煙を吐きながらうなずいた。残留孤児二世、三世――日本での暮らしや社会の仕組みに馴染むことができず、拒まれ、脱落し、アウトロゥの道に足を踏み入れた連中はごまんといる。
「そいつらがどうしたっていうんだ?」
「最近、羽振りのいいのがいるらしいんだ。普段はでかい口叩いてるくせに、どうしてそんなに金回りがいいのかって訊いても、訳あり顔でにやついてるだけだそうだ」
足を踏み外した残留孤児二世、三世は歌舞伎町にもいるし、錦糸町にもいる。いや、今では日本全国至る所にいる――中国人と同じように。連中は日本を憎んでいる。中国をも憎んでいる。憎悪に縛られた感情は容易に爆発するし、爆発の凄《すさ》まじさも形容しがたい。あの襲撃をやったのが残留孤児二世か三世だったとしても、だれも驚きはしないだろう。
「錦糸町か……だれか、知り合いがいるか?」
「何人かいるぜ。行ってみるか?」
おれは腕時計を覗きこんだ。意味のない仕種だ。考える時間が欲しかっただけだ。今夜は歌舞伎町に繰り出すつもりでいた。いくつかの中国人クラブを回って、昔のことを――劉健一のことを知っている台湾人の女に話を訊きたかった。しかし、丁友と話した後でおれの脳裏にこびりついた疑念は消えずに残っている。背景が曖昧《あいまい》な場所にのこのこ出かけていって、あれやこれやと劉健一のことを探るのは危険だった。
「行ってみるか」
「だったら、阿亮《アーリァン》を呼ぼうぜ。あいつがいてくれりゃ、なにかあっても安心だ」
程光亮《チョングァンリァン》は強面《こわもて》のする大男だった。身体が大きいから喧嘩が強いとか凶暴だということはないのだが、大抵の人間は程光亮がそばにいるときはおとなしくしていようと決めこんでしまう。
「そうだな、阿亮がいれば安心だ。阿華《アーファ》、その錦糸町の知り合いに連絡を取って、阿亮と一緒に錦糸町に向かってくれ。八時頃、向こうで落ち合おう」
「その間、おまえはなにをしてるんだ、阿基?」
「金をしまってくる。大金を持って、縄張りの外に出るのはまずいだろう?」
おれは掌を上にして手を王華に差し出した。王華の目が嫌な光を放つ。
「おれたちの金だ。それを忘れるなよ、阿基」
「韓豪の仇を討つための金だ。忘れはしないさ」
王華は上着の内ポケットから厚い茶封筒を取りだした。おれはそれを受け取り、中を覗いた。不揃いの一万円札がぎっしり詰まっている。本当に百五十万あるかどうかは疑わしいが、だからといって、王華がいくばくかの金をくすねたとも思えない。十年も前なら、十万、二十万の金は中国からの不法入国者には大金だった。今でははした金だ。
おれは茶封筒を内ポケットに押し込み、ようやくやって来たウェイターにオーダーはしないと手を振った。
「じゃあ、あとでな、王華。八時前に携帯に電話する」
そういって、王華の返事を待たずに席を立った。
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茶封筒の中に入っていたのは百五十万ではなく、百四十二万円だった。六十万を抜き取り、残りを架空名義の銀行口座に入金した。印鑑と暗証番号込みの自分名義の銀行口座をアルバイト感覚で他人に売り渡す日本の学生から買ったものだ。印鑑や暗証番号を変えられたら、残金をすべて引き出されるという恐れはあるが、自分の口座に振り込むよりは安心だった。繁華街をうろついているハイエナどもより、国税局の方がよっぽど質が悪く、始末に負えない。
いったん部屋に戻り、シャワーを浴びてから、駅前のハンバーガー屋で腹を満たし、電車に飛び乗った。電車や人ごみが嫌いでも、さすがに錦糸町までタクシーを飛ばすほどの経済的余裕はない。総武線を錦糸町で降り、マルイ側の改札を出たのが午後七時半。おれは王華の携帯に電話をかけた。
「今、駅前だ。どこに向かえばいい?」
「反対側だ。東武ホテルの斜め向かいの雑居ビルの中に〈夜来来《イェライライ》〉って店がある。そこで八時半に待ち合わせだ。目立つ看板だからすぐにわかる」
「〈夜来来〉? クラブか?」
「おれの知り合いってやつがさ、酒を飲みながら話したいっていうんだよ。しょうがねえから、そこにした」
王華の口調は歯切れが悪かった。大方、酒を飲みたい、それも女がいる店でといったのは王華の方に違いなかった。歌舞伎町では知り合いが多くて悪さができなくても錦糸町なら、という悪知恵が働いたのだろう。
「東北出身の女を集めた店だっていうからよ、おれたちもリラックスできるだろう?」
また、悪寒が背筋を襲った。東北の連中が多くたむろする場所にはなるべく近づきたくない。おれを知っている人間がいるかもしれない。おれを知っている人間を知っている人間がいるかもしれない。幾重にも糊塗《こと》した経歴に罅が入るかもしれない。絶えることのない強迫観念に囚われて、どこまでも落ちていってしまう。
「わかった。八時半だな?」
「おれと阿亮はもう少し早く行ってる。この辺りをぶらついてたって、楽しいことはないからな」
王華は口を滑らせたが、もはやおれにはどうでも良かった。
「わかった。じゃあ、八時半前にはそこに行くようにするよ」
電話を切って、足早に道を急いだ。錦糸公園の交差点を左に折れ、しばらく歩くと東武ホテルが視界に入ってくる。ホテルの右斜め向かいに雑居ビルがあり、赤地に黒い文字で書かれた〈夜来来〉の看板が見えた。たしかに目立つ看板だった。
しばらく反対側の歩道に突っ立って、雑居ビルに出入りする人間を眺めた。飲食店であれ、水商売であれ、風俗店であれ、男たちはすでに店の中で仕事をしている時間だった。ビルの中に吸い込まれていくのはほとんどが若い女たちだった。当然だが、どの顔にも見覚えはない。水商売で稼ぐ女たちなら二十代だろう。おれが日本に向かったときは、彼女たちはまだ小学生だ。
煙草を三本灰にしたところで、そこに突っ立っていることの無意味さに腹立たしくなり、雑居ビルに背を向けた。そのまま東武ホテルに直行し、ラウンジで生ビールを一杯注文した。ビールと煙草でざわめいていた神経をなだめ、考えをまとめあげると、ちょうどいい時間になっていた。勘定を払い、ホテルを後にして〈夜来来〉へ向かった。
オープンしたばかりということもあって、客の姿はまばらだった。王華と程光亮は、店の一番奥のボックス席に女たちを侍《はべ》らせている。黒服に先導されながら、こちらに気づいた程光亮に手を振ってやった。王華もおれに気づき、長くしていた鼻の下を元に戻した。
「早かったじゃないか」
「そんなことはない。時間通りだ」
ボックス席はコの字形になっていて、王華は中央に陣取っていた。間にホステスをふたり挟んで左側に程光亮が座っている。王華たちふたりに、ホステスが八人ついている。店が混んでくれば数も減るのだろうが、王華は嬉《うれ》しそうに左右の女の腰に腕を回していた。
おれは右端に腰をおろした。ホステスたちの挨拶を適当に受け流し、王華に声をかけた。
「向こうは何人来るんだ?」
「ふたりだ」
「話が済んだら、すぐに帰るぞ」
王華は顔をしかめた。
「お話にはどれぐらいかかるんですか?」
おれの横のホステスが口を開いた。緩くウェーヴのかかった艶《つや》のある黒髪がなまめかしい。肩が剥き出しの赤いロングドレスを身につけている。化粧は控えめだったが、目尻《めじり》にかすかな皺《しわ》があった。二十代後半といったところだろうか。他の娘たちにはない落ち着きがあった。
「さあな。三十分か一時間。そんなところだろう」
「一時間で帰っちゃうんですか?」
「仕事で来てるんだ。遊ぶためじゃない」
「お連れさんは違うみたいですけど」
女は声を潜めて王華の横顔を盗み見た。王華は左右のホステスとの話に夢中になっている。ここに来た目的をすっかり忘れているかのようだった。
「最初にあの人の横に座ったんだけど、年増《としま》はいらないっていわれたわ」
憤っているという口調ではなかった。王華の愚かさを嗤《わら》いながら、しかし、年下の男を見守るような母性を感じさせる声だ。
「あんたが年増なら、この世の中の女の大半は婆あだな」
「ありがとう。お世辞とわかってても嬉しいわ。新宿辺りなら、わたしもまだ若い方なんでしょうけど、ここじゃあね。わたしは小慈《シャオズー》。あなたは?」
「武基裕だ」
「日本人なの?」
「残留孤児だよ。二世だ」
「黒龍江? 吉林?」
小慈は身体を傾けて、下の方からおれを見上げた。顔にかかった髪の毛をかきあげる仕種は、それまでの印象と違って幼さを感じさせた。赤いドレスの胸元から覗ける膨らみは豊満とはいえないが、瑞々《みずみず》しい果実を思わせる。
「田舎は黒龍江だ」
「わたしもよ。ハルピンの近くの農村出身だけど」
「おれも同じようなものさ。おふくろが日本人だったおかげで、あのど田舎からさっさと逃げ出すことはできたけどな」
おれたちの向かい――程光亮の脇のホステスが水割りの入ったグラスを差し出してきた。それを受け取って飲む。安いウイスキーのいがらっぽい味が喉《のど》を刺激した。
「武先生って呼んだ方がいい? それとも――」
「阿基でかまわないさ」
「よかった」
小慈が微笑んだ。薄暗い照明の中で、そこだけぱっと輝いたかのようだった。その笑顔は昔の記憶を刺激する。貧しい農村で日々の食事にも事欠くような暮らしを送りながら、それでも屈託なく笑っていた子供たち。おれもそうだったろうか。おれも笑っていたのだろうか。
「昔、近所に阿基っていう人が住んでたのよ。わたしより――」
入口の方が騒がしくなって、小慈は口をつぐんだ。王華が勢いよく腰をあげ、ここだというふうに手を振る。
「ご到着か?」
「ああ、約束どおり、ふたりで来たようだぜ」
おれは首を捻《ひね》って入口に視線を向けた。ふたりとも下半身はジーンズで、先頭を歩いている方が革ジャン、後ろの男が赤いスイングトップを羽織っていた。一見しただけでは日本人と見分けがつかない。そんな中国人も最近は増えている。程光亮が腰をあげる気配があった。おれも続いて腰をあげた。
「紹介するぜ、阿基。陳漢良《チェンハンリァン》と伍海《ウーハイ》だ。阿良、阿海、こっちが阿基。そっちは阿亮だ」
王華だけではなく、仲間たちにはおれを他人に紹介するときは絶対にフルネームは使うなといってあった。過剰反応だということはわかっているのだがやめることはできないし、どのみち、おれのような人間のフルネームを知りたがる人間はあまりいない。
革ジャンが陳、スイングトップが伍だった。ふたりはおれと王華の間のスペースに腰を落ち着けた。女の数がもうふたり増え、陳と伍の間に割り込んだ。それでボックス席は満杯になった。蟻一匹入り込む隙間もない。いくつもの挨拶が交わされ、愛想笑いが飛び交い、水割りが作られ、乾杯の声があがった。最初の酒を飲み干すまでは他愛のない世間話に終始した。小慈とおれの会話も途切れたままだった。
陳と伍は要するにこそ泥だった。ピッキングにガラス窓破り――東京近郊のあちこちに出かけては留守宅に侵入し、金品を奪う。現金はそのまま彼らの収入になり、品物は闇マーケットに流れていく。闇マーケットでも捌《さば》けないものは、錦糸町|界隈《かいわい》の中国人たちにあってないような値段で売りつけている。
ふたりの仕事を知った女たちが、目の色を変えてブランド品や化粧品が欲しいと訴えはじめた。おれは苛立ちを抑えて、酒をちびちびと飲んだ。
「ご機嫌斜めみたいね」
小慈がおれに身体をもたせかけながらいった。
「仕事の話をしに来たといっただろう? これじゃまともに話もできやしない」
「もう少し待ってあげてよ。女の子って、こういう話には目がないの」
「おまえは違うのか?」
「三、四年前までは同じだったかしら。でも、もうそういうことからは卒業したの」
「いいことだ」
「でしょう? 本当にそう思うなら、いい子の小慈を撫《な》で撫でしてくれる?」
甘え方のうまい女だった。おれは話の流れのままに、小慈の肩に手を回し、剥き出しの二の腕を優しくさすってやった。小慈の肌はおれの掌にしっとりと吸いついてくる。
「暖かいわ。ここ、冷房が効きすぎなのよね」
「どこだって似たようなもんさ」
小慈の腕をさすりながら、おれは店内を見回した。いくつかの席が埋まっていた。黒服がやって来て、数人のホステスを呼んで、別の席に着くように指示を出した。
それで、ブランド品の話はおしまいになった。おれは王華に目配せをした。
「阿良、そろそろおれのダチの話を訊いてやってくれるか?」
「いいぜ、なんでも訊いてくれ」
王華の問いかけに応じたのは伍だった。伍はおれの方に身体を向けて煙草をくわえた。左手は女の太股《ふともも》の上に乗っていた。
「おれたちのボスが殺されたのは知ってるだろう?」
「ああ、ひでえ事件だったよな。この辺りにもおまわりがうろついて、おれたちもとばっちりを受けたよ」
陳が答えた。
「おれたちはやった連中を捜してる。多分、歌舞伎町の人間じゃない。そうだったら、おれたちの耳にも噂ぐらいは入ってくるはずだが、なんにもないからな。で、こっちに羽振りのいい人間がいるという話を聞いてやって来たんだ」
「例の連中のことだな?」
おれたちは一斉に、そして静かにうなずいた。ホステスたちはぴたりと口を閉じ、おれたちの話に聞き耳を立てている。だから、こういうところで仕事の話をするのは嫌だった。どこでだれに話が漏れていくかしれたものではない。
「小西《こにし》由浩《よしひろ》っていうのがボスなんだけどよ。中国名は趙浩《ヂャオハオ》だ。要するに残留孤児三世のグループだ」
陳が口を閉じると、伍がその後を引き取った。
「ここ一年ぐらいかな、この辺りに出没するようになって幅を利かせはじめた。四、五人のグループでガキばかりなんだが、わかるだろう? 連中は残留孤児だ。バックに日本のやくざがついてるって噂が流れてて、だれも連中を止められねえ」
「それは噂だけなのか?」
「だれがそんなことを確かめるっていうんだよ? あんたも残留孤児二世かなんかだってな。だったらよく知ってるはずだ。日本の警察は連中には及び腰だし、日本のやくざ組織に流れ込んだ人間も大勢いるじゃねえか」
伍のいうとおりだった。八十年代からはじまった中国残留孤児の日本への帰国。親や親戚が見つかった連中はまだましだったが、そうじゃなかった人間の日本での暮らしは最低と呼べるものだった。一世のほとんどは壮年の域を通り越しており、日本語を学ぶのにも苦労する始末だったし、二世や三世は比較的容易に日本語を身につけても、大陸では絶対的な権威を誇っていた親の失墜を目の当たりにした。生活は苦しく、差別に翻弄《ほんろう》され、多くの二世、三世たちは暴力を駆使して金を稼ぐ道を選ぶようになったのだ。
「その趙浩たちってのはどうも暴走族崩れでな」陳が語りはじめた。「千葉の方で相当荒っぽいことをやってたらしいんだな。で、親の方が困り果てて、こっちでやくざをやってる親戚に預けたって話なんだ」
趙浩という男のバックグラウンドはだいたいわかった。要するに、どこにでも転がっていそうな生い立ちの男というだけのことだ。おれが知りたいのは趙浩が韓豪襲撃に関わっている可能性だった。
「その趙浩が最近、羽振りがいいんだって?」
「そうなんだ」乗ってきたのは伍の方だった。「ここ何日か、子分どもを連れ歩いちゃ、こういう飲み屋や風俗を遊び回ってる。もう百万は軽く使ってるんじゃねえかな。そのくせ、なにをやって儲けたんだって訊いても、なにひとつ答えねえ。普段ははったりばかりの野郎でな、でかい仕事をこなしたんなら、自慢気に吹聴するに決まってるんだ」
「あんたたちには心当たりはないのか?」
「なんの心当たりだ?」
「その趙浩ってやつがやったでかい仕事。この辺りでそういう話は?」
「ねえよ」陳が答えた。「ここしばらく、この辺りは静かなもんだ。そりゃ、盗った盗られたって話はあるけど、大金が動くような事件があったって話は聞いてねえ」
「臭いと思わないか、阿基?」
王華が煙草の煙を吐き出しながらいった。自慢気な表情が鼻につく。
「まだわからん」おれは王華に素っ気なく答え、伍に問いかけた。「趙浩の住んでる場所や出向きそうなところに心当たりはあるかい?」
陳と伍は顔を見合わせた。光速に近いスピードで意思疎通がはかられる。ふたりはほんの一瞬、下卑た笑みを浮かべた。
「調べてみようか?」
陳がいった。
「できるか?」
「時間をくれりゃ、なんとかしてみるよ」
伍がいった。
「いくら必要だ?」
「二十方」
伍が続けた。
「そりゃ、ぼりすぎじゃねえか」
王華が声を荒らげる。
「しょうがねえだろう。あっちはとんでもねえ暴れん坊なんだぜ。自分のヤサを探られてるとわかったら、なにをしでかすかしれたもんじゃねえ。二十万は危険手当も込みなんだよ」
「だけどよ――」
王華はなおもいい募ろうと口から唾《つば》を飛ばした。おれはそれを制した。
「待て、阿華」
「なんだよ、阿基?」
「いいからちょっと待て」
おれは両手の指を組み合わせて、その上に顎を乗せた。ある考えがひらめいたのだが、それは危険と隣り合わせでもあった。不安に心臓が締めつけられ、例のねっとりとした汗がうなじを濡らしていく。その不安を振り切らなければ、一歩たりとも前に進めないことは充分にわかっていた。
「二十万、出してもいいが、もうひとつ頼みがある」
おれは肺に溜《た》めていた息を吐き出した。
「なんだよ?」
「この辺りで劉健一という男の名を聞くようなことがあったら、すぐにおれに連絡してくれ」
小慈がかすかに動く気配が伝わってきた。空になりつつあった王華のグラスに手を伸ばし、新しい水割りを作りはじめていた。
「劉健一? だれだ、そいつは?」
陳が首を傾げた。
「あんたたちが知る必要はない。その男はこの件とは無関係なんだ。ただ、おれが個人的に知りたいだけだ」
陳と伍はまた顔を見合わせた。今度はすんなり意思を疎通するというわけにはいかないようだった。陳が渋り、伍は乗り気になっている。
「それも心に留めておいてくれるというなら、前金で十万払おう」
おれは間を置かずにいった。それで、陳も折れたようだった。
「わかったよ。小耳に挟んだら、あんたに連絡する」
「ありがとう」
財布から金を抜き出し、丹念に札の枚数を数えてから陳に手渡した。陳が金を自分の財布にしまいこむと、それまでの多少張りつめていた空気が一気に緩んでいった。
「それじゃあ、仕事の話はここまでにして、ここから先は、お互いの親睦《しんぼく》を深めるために愉《たの》しもうじゃないか、え?」
伍が声を張りあげてグラスを掲げた。陳がすぐにそれに続く。王華は不満げに渋々と、程光亮は無造作に、おれは掌の汗を拭いながらグラスを掲げた。女たちの嬌声《きょうせい》がよみがえり、おれたちのボックス席は華々しい雰囲気に包まれていった。
「なんだかきな臭い話をしてたわね」
小慈が小声で囁《ささや》いた。
「いろいろあってね」
「他の人たちは別だけど、あなたは黒社会の人には見えないわ」
なんと答えていいかわからなかった。おれは煙草をくわえた。小気味よい音がして炎が目の前に現れた。小慈がライターを差し出していた。おれは礼をいって火をつけた。ライターは古ぼけた銀のデュポンだった。
「こういう店で百円ライター以外のライターを見るのは珍しいな」
「祖父の形見なの。日本軍の将校さんからプレゼントされたんだって」
頭の中で火花が飛び散ったような気がした。火花は無数の小さな棘《とげ》になっておれの脳細胞をちくちくと刺激する。
「見せてもらってもいいかい?」
上擦った声で訊いていた。小慈はためらうこともなく、銀のデュポンをおれの掌の上に落とした。細長い格子縞《こうしじま》の彫りの入ったオーソドックスなデュポンだった。彫り込まれた溝はくすんで黒く変色し、メッキがところどころ剥がれて真鍮《しんちゅう》の地金が覗いている。喉が渇いていた。汗もすっかり引いていた。息を詰めながら、デュポンをひっくり返した。ガスの注入口の脇に、はっきりとわかるへこみ傷があった。
身体が顫《ふる》えるのを感じた。幾重にも糊塗した経歴に罅が入っていく。崩れ落ちるのは時間の問題だ。
「どうしたの? 顔色が悪いわよ」
ライターに集中しすぎて気づかなかったが、小慈はおれの頬と自分の頬をくっつけるようにして、おれと同じようにライターを見ていたようだった。
「なんでもない。ここのところ、寝不足だったからな。それで調子が悪いんだろう」
おれは小慈にライターを返し、煙草を吸った。煙の塊が喉を刺激して噎せた。嘔吐《おうと》感すら覚えはじめていた。
「だいじょうぶ?」
小慈の手がおれの背中をさすった。おれは煙草を消し、水割りに口をつけて一気に飲み干した。失敗だった。嘔吐感が増していく。
「阿華」
ホステスの太股を触りながらにやけている王華に声をかけた。
「どうした?」
「ちょっと具合が悪い。あのとき以来、寝不足だったから身体にきているようだ。このふたりのことはおまえに任せるから、しっかりやっておいてくれ」
おれは財布の中から金を抜き出し十万円を王華に渡した。それで、劉健一に支払う五十万を除けば、おれの財布はほとんど空っぽになった。
「帰るのか?」
王華は唖然《あぜん》とした顔をしていた。おれの体調が心配なのではなく、十万でこの店の勘定に足りるのかと顫えている。
「足りない分はおまえが立て替えておいてくれ。後で、おれが払う」
それだけいうのがやっとだった。おれはよろめくように立ち上がり、嘔吐を堪えながら出口を目指した。小慈が後をついてくる。
「本当に大丈夫、阿基?」
「一晩ぐっすり眠ればよくなるさ」
肩に置かれた小慈の手を、おれはさりげなく外した。
「送る必要はない。おれの連れの面倒を見てやってくれ」
「でも……」
「大丈夫だといってるだろう」
「わたしのこと、気に入らなかった? だったら、もっと若い娘を――」
「そういうことじゃない。ありがとう、小慈。また来るよ」
所在なく立ち尽くす小慈に手を振って、おれは出口に向かった。戸口で立ち止まり、振り返る。声が顫えないように注意しながら小慈に訊《たず》ねた。
「フルネームを教えてくれ」
「藍文慈《ランウェンズー》よ。それがどうかした?」
「いい名前だ」
辛うじてそういって、おれは逃げるように店を出た。
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「小文《シャオウェン》だ。小文だ。間違いない。おれの可愛い小文だ」
譫言のように呟《つぶや》きながら錦糸町の街をあてもなく歩きまわった。いつもは寒気に包まれている身体が、今は熱を持って確たる実体のないものに変化していた。己が本当にこの世に存在しているかどうかもあやふやだ。幾重にも糊塗した経歴が罅割れ、罅が剥がれ落ち、おれは素っ裸のまま世界に放り出されていた。
間違いない。あの銀のデュポンは藍文樂《ランウェンロー》のものだ。ガキのころ、何度も見せられた。その謂《いわ》れも耳にタコができるほど聞かされた。デュポンは藍文樂の宝物だった。
おれの祖父の親友。五軒隔てた藍家の家長。戦中はおれの祖父と同じように日本軍のために働き、デュポンを手に入れた。戦後はおれの祖父と同じように酷《ひど》い目にあった。李家と藍家は村の異端児だった。他の村民の目を盗むようにして、ふたつの家は交流を続けた。
デュポンの底にある傷は、藍文樂ががた[#「がた」に傍点]が来た穀物庫の壁を直すときに、金槌《かなづち》の代わりに小さな釘《くぎ》を打ち付けたときにできたものだ。あのときの老人の悲しげな表情は今でも鮮明に覚えている。あのデュポンを、藍文樂がなによりも大切にしていたデュポンを小慈と名乗る女が持っている。藍文慈と名乗る女が持っている。
「小文だ。あの娘は小文だ」
錦糸町の駅が後方に遠ざかっていく。遠く前方には国技館があった。熱に浮かされたように歩き続ける。
藍文樂にはふたりの息子とひとりの娘がいた。藍文樂の畑は長男が受け継ぎ、次男はハルピンに出て行った。娘は別の農村に嫁いでいったが、夫が死んだ後で嫁ぎ先から追い返されてきた。娘はひとりの子宝にしか恵まれなかったし、生まれてきたのは女の子だった。大陸の農村では男子を産まなかった後家にはなんの意味もない。その子が小文だ。おれたちは、おれと祖父は彼女のことを小慈ではなく、小文と呼んでいた。藍文樂の長男は何年も前に嫁を娶《めと》り、ふたりの男子に恵まれていた。小文の従兄弟《いとこ》だ。ふたりとも、揃いも揃って乱暴だけが取り柄の愚か者だった。横柄なふたりの従兄弟を避けるように、まだ幼かった小文は李家の畑に遊びに来た。遊び相手はおれだ。李家には子供はおれしかいなかった。
とことこと、今にも転びそうな覚束《おぼつか》ない足取りでおれの後をついてきた小文。大人になったら、おれのお嫁さんになるといってはばからなかった小文。
藍文樂の長男は人がいいだけが取り柄の人間だった。ふたりの子供たちに手を焼いていた。藍文樂が矍鑠《かくしゃく》としている間は、ふたりの悪ガキどもも表面上はおとなしくしていたが、藍文樂がボケはじめると、本性を露《あら》わにするようになっていった。おれの祖父は、もう藍家の子供たちとは付き合うなといった。おれの親父は戦後すぐに死んでいた。李家で絶対の力を持つのは祖父だったし、母は病弱で、祖父のいうことに逆らったことはなかった。それでも、おれは小文との繋《つな》がりを断ち切ることはできなかった。
愛くるしい小文。人形のような小文。なにもない貧しい農村で、無条件で慕ってくる小文はおれにとって肉親以上の存在だった。春夏秋冬、大陸東北部の厳しい四季をおれは小文とともに過ごした。小文とともに成長していった。小文はおれより七つ年下だったが、年の差などは関係がなかった。おれには同じ年頃の親戚がいなかったし、小文にいるのはくそったれなふたりの従兄弟だけだ。李家も藍家も、村からは除《の》け者にされていた。藍文樂は無惨にも衰え、伯父《おじ》は話にならず、小文にはおれしか頼るものがなかった。おれには、自分の鬱憤《うっぷん》を別のなにかに変えてくれる存在は小文しかいなかった。
おれたちは本当の兄妹のように時を過ごした。本物の兄妹よりも強い絆《きずな》を作りあげた。小文はその絆は永遠に続くものと思っていた。幼いながらに、本気で将来はおれと結婚するつもりでいたのだ。
その絆を、おれは平然と断ち切った。母が死に、寂しいすきま風が吹くようになった家にいたたまれず、やがて祖父から日本へ行くかといわれたとき、おれの脳裏には確かに小文の入り込む余地はなかった。田舎の農村で他人に後ろ指さされながら生きていくのと、日本で己の可能性に賭けることとは、天秤《てんびん》にかけるまでもないことだった。
祖父が人から買い取って作りあげたでたらめの書類――母は日本人の中村菊子。おれはその唯一の子供。おれは政府が用意した飛行機に乗って日本へ行き、中村菊子の伯父だという人物と対面した。その人はおれを見るなり、妹に生き写しだといった。武家の血筋はA型の血液型が多く、おれもA型だった。おかげでDNA鑑定をすっ飛ばして、おれは日本人と認定された。武家に引き取られることになった。
村へ戻り、移住の支度を整える。小文はいつも泣いていた。「阿基、わたしを置いて日本に行っちゃうの?」といっておれに縋《すが》りついた。罪悪感に苛まれながら、それでもおれはおれの前に開かれた新たな道を見続けることしかしなかった。おれは日本人じゃない、おれの持っている書類はでたらめだ。そう一言いえば、小文は救われるはずだった。おれは小文を救わなかった。
北京へと向かう列車を待つ駅のホームにも小文はついてきた。小文はそのころは十二歳になっていたはずだ。小文は唇をきつく結んでいた。肩がわなわなと顫えていた。目は涙で潤んでいたが、小文は懸命に堪えていた。
おれは小文の目をまともに見ることができなかった。小文の目を見たら気持ちがぐらつくからというわけではない。小文の悲しみに彩られた目を直視しても、それでも日本へ行くことに対する信念を曲げないだろう自分が嫌だったのだ。だが、到着した列車に乗り込み、空いている座席を確保して窓を開け、ホームに佇む祖父と小文に向かって身を乗り出すと、おれは小文を正面から見据えないわけにはいかなかった。
小文は泣き言はいわなかった。愚痴も、おれへの恨みも口にはしなかった。
「待ってるから、阿基。阿基のこと待ってるから、必ず迎えに来て。わたしを日本に連れていって」
「わかった」とおれは心にもないことをいった。「必ず日本で成功して、おまえを迎えに来るよ、小文」
おれの言葉を信じたのかどうかはわからない。小文は無言で、じっとおれを見つめているだけだった。まるでおれの顔を脳裏にきつく刻み込もうとしているかのように。
列車が動きだし、おれは祖父と小文に別れの言葉を告げた。小文の悲しみを振り切るように、おれはすぐに座席に腰を沈め、前方を見据えた。振り返れば、小文がおれを見つめているだろうことはわかっていた。いつまでもおれを見送っているだろうことがわかっていた。頭の中で数を百までかぞえ、振り向いた。ホームの一番端に小文が立っていた。両手に口を添え、なにかを叫んでいる。声は列車までは届かなかったが、おれには小文の叫びをはっきりと聞き取ることができた。
「約束だよ。待ってるから。迎えに来てよ、阿基」
心が痛んだ。本当に心は痛みを訴えるのだと、そのときはじめて実感した。必ず迎えに来る、待ってろよ、小文。おれは心の中で何度も繰り返した。それまでにない誠実さで、心の中の小文に約束した。
その約束を、おれはあっさり抛擲した。新しい環境に慣れるためにあくせくし、慣れた後では金を稼ぐためにあくせくし、小文と交わした約束は埃《ほこり》にまみれ、形を変え、やがては忘却の彼方《かなた》へと押しやられた。おれが、自分の立場を恐れるあまり、過去の記憶を封印しようとしたせいもあるだろう。だが、なにをとってもいい訳にはならない。おれは小文との約束を反故にした。自分の人生の中でもそれ以上にないほどの誠実さで交わした約束を反故にした。
「あれは小文だ。間違いない」
小文は変わっていた。幼い愛くるしさがなによりの特徴だった少女は、匂い立つ女に変貌《へんぼう》していた。おそらく、おれはもっと変わっただろう。がりがりに痩《や》せていた農村の素朴な少年は、都会の垢《あか》にまみれ、自らの罪に怯《おび》えおののき、若さを喪って醜悪な表情を浮かべるようになった。頭髪は薄くなり、加齢が追いつかないほどの皺が顔を覆っている。鏡を見て愕然《がくぜん》とすることがある。鏡の中のおれはいつだってくたびれた中年男だ。実際の年齢より五歳は老けて見える。
おれは目の前にいる女が小文だとは気づかなかった。小文も同じだろう。おれたちは変わってしまった。黒龍江の大地からは遥《はる》か隔てた場所におれたちはいる。
土地勘のない場所をあてどもなくさまよい歩き、喉の渇きに耐えきれなくなって足を止めた。遠ざかったはずの錦糸町の駅が驚くほど近くに見えた。どうやら道をぐるりと回って元の場所の近くに戻ってきたらしい。自販機で冷えた烏龍《ウーロン》茶を買って一気に飲み干した。辺りは〈夜来来〉があったのと同じような歓楽街で、毒々しいネオンが月光を嘲笑《あざわら》いながら自らの存在を主張していた。雑居ビルに酔った男たちが姿を消していき、淫猥《いんわい》な雰囲気をまき散らした男女が雑居ビルから出てくる。中国人が経営する中国人向けのクラブは大抵が「お持ち帰り」の店だ。客はホステスと交渉し、交渉がまとまれば店から連れだして近隣のラブホテルにホステスを連れていく。ホステスは身体を売って稼いだ金の一部を店に納める。
「小文も客を取っているのか」
呟いて、愕然とした。ああいう店に勤めているからには、本人の意志に関わりなく客を取ることを強要されるのは当たり前だ。手足に痺《しび》れが走った。下腹部の奥の方で、ごつんという鈍い音がしたような気がした。おれの身体を覆っていた熱気が蒸発したかのように消え去り、馴染《なじ》みの冷気が背筋を這《は》いのぼってくる。
空き缶を投げ捨て、携帯電話を手にした。顫える指にもどかしさを覚えながら劉健一に電話した。
電話はすぐに繋がった。
「おれだ。武基裕だ。なにかわかったことは?」
おれは北京語でまくし立てた。
「そう焦るなよ。こういうことは一朝一夕にいくというわけじゃないんだ」
「錦糸町に趙浩という男がいる。日本名は小西由浩。残留孤児三世の若い流氓だ。名前を聞いたことは?」
「いいや。そいつがどうした?」
「最近、急に羽振りがよくなってるらしい。なにかでかい仕事をこなしたらしいんだが、なにをやったのかについては本人も口をつぐんでるし、周りの人間も知らない」
「そいつが怪しいとおまえは思ってるんだな?」
「わからない。ただ、気になることは確かめておきたい」
「わかった。調べてみるよ。趙浩だな?」
「そうだ。それと、もうひとつ頼みがある」
「なんだ?」
「錦糸町に〈夜来来〉っていう中国クラブがある。そこの経営者がだれなのか、調べてもらえないか?」
いつもの不安は焦燥感に押し流されていた。小文が客を取っている、そう考えるだけで切迫した感情に突き動かされる。
「その店も韓豪の件と関係しているのか?」
「いや――」
口を開きかけて、言葉を呑みこんだ。おれが〈夜来来〉に執着するわけを劉健一はすぐに察知するだろうか。おれと小文の関係を掴むだろうか。そうなれば、おれがこれまで必死に守ってきた経歴は音を立てて崩れていくかもしれない。
かまうものか――頭の中でおれではないおれが叫ぶ。小文を救え。彼女との約束を守れ。おまえは美Lを守れなかった。その償いをしろ。
「どうした、阿基?」
劉健一の声がおれを促す。
「いや、これは個人的な件だ。調べてもらえるか?」
「別件ということだな。だったら、金も別でもらうぞ」
「いくらだ? 韓豪の件では仲間からある程度の金を預かってるから余裕がある。だが、おれ個人の問題だと、それほどの額は払えないかもしれない」
「おれから情報を買うのに、必ずしも金が必要だというわけじゃないさ」
「金じゃなかったら、なんで支払えと?」
「等価交換だ。おれが必要としている情報を、もしおまえが知ってたら、それと交換できる」
「おれがなにも情報を持ってなかったら?」
「そんなことはありえないさ」劉健一はしゃっくりのような笑い声をたてた。「錦糸町の方は二件ともすぐに調べる。昨日話した五十万は、次に会うときでかまわん。じゃあ、またな」
唐突に電話が切れた。脱力感を覚え、その場に呆然《ぼうぜん》と立ち尽くす。毒々しいネオンの明かりが、おれを嘲笑っているように思えた。
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迷子になった子供のように、心細い想いを抱きながら錦糸町をあてどもなくうろついた。こんなことをしていても無駄だと理性は告げる。だが、おれの感情は理性を黙殺し、歓楽街の猥雑な空気と同化して中空を漂っていた。
気がつくと〈夜来来〉の入っている雑居ビルの前に立っていた。暗がりに身を潜め、ビルに出入りする人間を観察する。小文が客と一緒に出てきたら自分はなにをするのか、なにをしないのか。すべては曖昧|模糊《もこ》としたままだ。アルコールと残飯の匂いが入り混じった空気と暗がりが、おれの神経を密《ひそ》やかに侵していく。小文との別れのとき、美Lとの出会い、空を見つめて息絶えた美L。分厚いコンクリで塗り固めたはずの過去が、臭気をともなって噴出する。
時刻は午前三時を回っていた。中国人というのは宵っ張りな民族だ。十二時をすぎてからの方が人の動きが多くなる。だが、それも平日の三時ともなれば多少は話が変わってくる。日本の標準時間に、さすがの中国人も無意識のうちに馴らされている。
何組もの男女が雑居ビルから出て行き、ホテル街の方へと消えていった。小文の姿はなかった。おれは暗がりで待ち続けた。世界の裂け目に潜り込んで、固唾《かたず》を呑んで世界の崩壊を待ち受けているかのように。
午前三時半。〈夜来来〉の看板が消えた。
ほどなくして、ホステスと思《おぼ》しき女たちがかしましい声をあげながらビルの外に出てきた。その中に、小文もいた。女たちはなにかを食べに行く相談をしていた。小文は少し離れたところに立って、携帯電話を耳にあてがった。食べる場所が決まり、ぞろぞろとその場を離れていく女たちに手を振り、電話で話し続けている。小文は私服に着替えていた。ブラウスにジーンズ。少し強張《こわば》った横顔に昔の面影はなかった。短かった手足はすらりと伸び、まな板のようだった胸は豊かな丸みを帯びている。あれが本当に小文なのか。人形のようだった小文なのか。おれの後をどこまでもついてきた小文なのか。
小文は電話を切って歩き出した。おれは暗がりから抜け出して後を追った。小文は女たちが去っていったのとは反対の方角に向かっていた。東武ホテルを通りすぎ、その先を左に折れ、川沿いに南に下っていく。背筋をぴんと伸ばして歩く後ろ姿は夜目にも鮮やかだった。周囲にひとけは少なかったが、小文は後ろを気にする素振りも見せずに大股《おおまた》で歩いていく。
いくつかの交差点を横切り、新大橋通りを渡った先の小さなマンションに小文は入っていった。六階建て。戸数にして二十戸前後。そこら辺にいくらでも建っているごく普通のマンションだった。入口はガラス張りの戸で、入ってすぐ右手に郵便受けが並んでいる。その先がエレベータホールで、小文がエレベータの到着を待っていた。マンションの前を通りすぎ、煙草を一本灰にしてから身体を反転させた。小文の姿はすでになかった。住人のような振りをして中に入る。エレベータは六階でとまっていた。郵便受けを見る。一フロアに三部屋というのがこのマンションの構造のようだった。六〇一号室と六〇二号室の郵便受けには日本人の名前が書きこまれている。六〇三には住人の表示がない。郵便受けには鍵《かぎ》がかかっていたが、ダイレクトメールと思しき大量の郵便物が受け口から溢《あふ》れそうになっていた。その中のひとつを引き抜く。ダイエット用品のダイレクトメールだった。コンピュータで刷り出された宛名にははっきりとした文字で「藍文慈 様」と印字されていた。
「間違いない」
おれは呟いた。動悸《どうき》が激しくなる。あの小文がおれの目と鼻の先にいる。だが、自分の正体を明かすことはできない。今さら、どんな顔をしておれがおまえの阿基だと告げられるだろう。ダイレクトメールを郵便受けに押し戻し、おれはマンションを出た。膝《ひざ》に力が入らない。まるで地面が消え去ってしまったかのようだ。底なしの闇の中に落ちていく感覚。地獄から這い出てきた無数の怨霊《おんりょう》に足を引っ張られているような恐怖。
新大橋通りまでの数メートルが、おれには無限の距離に思えた。
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眠れない夜を悶々《もんもん》として過ごし、矢島との待ち合わせ場所に向かった。電車の窓に映るおれの顔はまるで幽鬼のようだった。やつれ、くすんで、実体が感じられない。
矢島は高輪プリンスのロビーで佇んでいた。いつもと同じ手順を踏むことになるのだろう。矢島が携帯電話を取りだし、ほどなくしておれの携帯が鳴った。
「〈若竹〉っていう天ぷら屋の座敷を、須藤の名前で予約してある」
それだけで電話は切れた。矢島は素知らぬ顔をしているし、おれも矢島の方に視線を走らせたりはしなかった。
ロビーを横切り、天ぷら屋で須藤の名前を告げた。四畳半ほどの座敷では、すでに料理の準備が進められていた。お茶に口をつけ、煙草をくわえたところで矢島がやって来た。
「酷い顔色だな。ちゃんと寝てるのか?」
矢島はおれの真向かいであぐらをかいた。
「最近は、会う人間に必ずそういわれる。今回の仕事は、矢島さん、はっきりいってかなりきついよ」
「その話は、まあ、後にしよう」
仲居がやって来て料理の説明をはじめた。要するに天ぷら懐石というやつだ。矢島が別に頼んでおいたのだろう、できた料理から順に運ばれてくるのではなく、すでに揚げられた天ぷらが卓の上に置かれている。矢島は慣れた口調で用があったら呼ぶから、それまではだれも座敷には近寄るなと念を押していた。矢島が話している間、おれは矢島のグラスにビールを注ぎ、自分にはお茶を注ぎ足した。アルコールを口に入れる気分ではなかった。
仲居が出て行くと、矢島は早速グラスに口をつけた。ため息をひとつ、グラスを置いて料理に箸《はし》を伸ばしながら口を開く。
「なにか進展は?」
「歌舞伎町はなにも。多分、外から来たやつらの仕業でしょう。それで、今は他の場所から情報を集めようとしているところです」
趙浩の件は伏せておいた。手札をすべてさらけ出す必要はない。
「難しいのはわかっているが、急げよ。この件じゃ、警視庁も目の色を変えているらしいからな。あいつらを出し抜けなかったら……」
矢島は言葉を濁して肩をすくめた。ビールで紅潮した頬が生えはじめた髭《ひげ》の青さと相まって、矢島を極彩色の皮膚をまとった爬虫《はちゅう》類のように見せている。
「村上とはどんな話をしたんだ?」
天ぷらを咀嚼《そしゃく》しながら矢島は問いを放つ。おれは聞かれたことに淡々と答えた。
「うまくいけば、東明会の舎弟になれるな、武」
「この仕事がうまく片づいたら、解放してくれる約束でしょう?」
「歌舞伎町を離れてどこへ行くんだ? いまどき、ろくな仕事は見つからないぞ」
「自分でなんとかします」
「おまえなら、いい仕事を続けられると思うんだがな」
「対価が少なすぎますよ」
「それをいっちゃおしまいだぞ、おい……まあ、いい。韓豪が仕切ってた揺頭のルート、今度はだれが引き継ぎそうだ?」
三十分も経たないうちに、矢島は料理のほとんどを片づけていた。おれの料理はまだ半分以上残っている。物欲しげな矢島にまだ手をつけてない皿を押しやった。矢島は下卑た笑いを浮かべながら、すまんな、といった。
「正直、わかりませんね。韓豪殺しの情報を追いかけるので手一杯で……韓豪の手下たちが引き継ぐっていうことはないと思います。そこまでの器量がある人間はひとりもいない」
「韓豪が生きてたら、おまえを指名するんじゃないか」
矢島は冗談ともつかぬ口調でいった。
「矢島さんはおれのことを買い被《かぶ》ってますよ」
おれは居住まいを正した。この数年、おれは矢島のいいなりになって生きてきた。言葉や態度ではそれを厭《いと》っていても、どこかで「矢島に命令されたから」といういい訳に縋っていたような気もする。多分、どうでもよかったのだ。自分の人生など、もうどうでもよかったのだ。美Lが死んでからのおれは、自分でも気づかぬままに抜け殻として生きていた。そのくせ、死ぬこと、殴られること、弱みを握られること――そうした恐怖には敏感だった。どこまでも中途半端な人間だ。唾棄《だき》すべき存在だ。
だが、おれは小文と再会してしまった。幼い日のおれの片割れ、おれの分身。おれという存在を形づくった記憶と分かちがたく結びついた少女。あの日の約束を果たしたい。たとえ、埃にまみれ、綻《ほころ》び、形をなさなくなった約束だとしても、おれの最大の誠実さでもってそれに報いたい。客を取ることを強要される店から救い出し、まっとうな暮らしを送らせてやりたい。一晩寝ずに考えて、おれはそういう結論をくだした。
そのためには金がいる。矢島の呪縛《じゅばく》から逃げ出す必要がある。
「おまえこそてめえのことを見くびってるんじゃないか。ずぶの素人が、麻取の情報屋としてだれにも疑われずに三年も活動してるんだ。それなりに目端がきくってことだろう」
「運がよかっただけだ。これからも運が続くとは限らない」
「ま、いいさ。これはおまえの女のための弔いなんだ。もう少し頑張ることだ」
美Lのことを持ち出せばおれが黙ると矢島は経験則から知っていた。だが、今は違う。すべては変わってしまった。
「おれが教えた情報屋は役に立ってるか?」
「昨日の今日ですよ。まだわかりません」
「ちょいと調べてみたがな、昔はかなりの顔だったらしいなあ、歌舞伎町でもよ」
「そうみたいですね。噂なら耳にしましたよ」
「当時はおれたち麻取も警察も、新宿の外国人組織犯罪の全貌をまったく掴んでなくてな。資料もそれほど残っちゃいないんだが……」
矢島はスーツの内ポケットから茶封筒を取りだした。
「なんですか?」
「うちに残ってた劉健一って男に関する背景調査のコピーだ。たいしたことは書かれちゃいねえが、気になる様子だったから持ってきてやったんだよ」
「ありがとうございます」
矢島はあぐらを崩し、爪楊枝《つまようじ》で歯の間をほじりはじめた。これで用件は済んだということだった。電話でも済むような内容だが、経費を使って飯を食うことを矢島は無上の楽しみにしている。卑しい精神だが、それを嗤うことはおれにはできなかった。
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* * *
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高橋健一――通称、劉健一。一九六二年二月十三日、渋谷《しぶや》区役所に出生届が提出されている。母親は高橋信子。父親の名は書類には記されていない。本籍は渋谷区本町。一九七五年に現住所が新宿区に移り、それ以来、書類上の住居変更はない。学歴は中卒。賞罰はない。運転免許は十八歳のときに取得しており、今ではゴールド免許を持つ身分だった。税務署に申告している年収は過去五年、五百万から七百万の間を行き来している。職業は歌舞伎町の飲食店経営者。
味も素っ気もない履歴だった。新宿で暮らすものなら必ず経験しているはずの行間に埋もれた苦悩が見事にかき消されている。
もどかしい思いを抑えながら書類をめくった。劉健一の履歴の次は、いかにも役人然とした文字で書かれた報告書のようなものだった。記述は一九九九年からはじまっていたが、そのほとんどは、現実の世界で紡がれた物語をほとんど無視して、無機的な情報が羅列されているだけだ。それも九割方が伝聞による情報。噂の域をまったく出ていない。大麻、覚醒剤、エクスタシー、揺頭。一時期、麻取は中国人犯罪者と日本の暴力団の橋渡し役として劉健一に目をつけていた時期があったらしい。だが、すべては空振りに終わった。劉健一は単なる情報屋であると報告書は断定していた。
矢島はもったいぶっていたが、くその役にも立たない代物だった。
劉健一と錦糸町のふたりからの連絡がなければ身動きが取れなかった。無為の時間は脳細胞を暴走させる。それが嫌で部屋を出た。気づくと、菊川の駅で地下鉄を降りていた。小文のマンションはすぐそばだ。小文のマンションの裏手は川に面しており、土手が小さな公園のように整備されていた。その公園のベンチに腰掛け、煙草を吸いながら小文のマンションをぼんやり眺め、記憶の奔流を受け止めた。
農村の暮らしはいつだって惨めだったが、おれの家はとりわけ貧困を極めていた。祖父の日本びいきでただでさえ近隣の連中から疎まれていた上、農作業に必要な人手がおれたちの家には決定的に足りなかった。年老いた祖父とおれ、そして病弱な母。自分たちの食う分を収穫するのがやっとだというのに、人民公社は容赦なくおれたちからなけなしの作物を奪っていった。育ち盛りのおれはいつも腹をすかしていた。手があけば、近くの山に分け入って果物やキノコを探し、腹に詰めた。
山は――森はおれの唯一の憩いの場所だった。冬の間は暗く沈み込むように佇んでいた森が春の訪れとともに目に眩《まぶ》しい緑の葉をつけ、夏に森の中に入っていくと噎せるほどの匂いと穏やかな空気でおれを包む。秋の紅葉はおれの目には寂しく映ったが、自然の恵みがそこかしこに転がっていた。
はじめのうちは、おれは森にひとりで入っていた。小文が大きくなると、小文の手を引いて入っていった。おれは自分の知識を自慢気に小文に披露した。樹木や花草の名前、虫たちの習性。食べられるキノコとそうでないキノコの見極め方。小文はいつも目を輝かせていた。おれにとっては理想の生徒だった。小文とふたりで森を探索しているのがあまりにも愉しすぎて、時間を忘れ、農作業を忘れ、祖父や藍文樂にこっぴどく叱られたことは一度や二度では済まなかった。叱られたあとはしゅんとする。だが、空腹は容赦なく襲ってくるし、森に行きたいとおれを見上げる小文の無垢《むく》な視線を無視することはおれにはできなかった。
おれも小文も冬が嫌いだった。森は雪に閉ざされ、農閑期の家はいつも重苦しい雰囲気に包まれる。大人たちは乏しい食料を憂い、次の年のいつもと同じ厳しさ、苦しさを思ってため息をつく。おれたち子供には居場所がなかったが、かといって外に出ることもかなわなかった。ラジオから流れてくる共産党の宣伝番組に耳を傾け、祖父からあてがわれた中国語と日本語の本に目を通し、じっとしていることに倦《う》むと、牛小屋にいって牛に身体を押しつけて暖を取る。思い出すだけでもやりきれない。
あれはいつのころだったろうか。おれと小文はおれの家の牛小屋にいた。吐く息は雲よりも白く分厚く、手に吹きかけても暖まるどころか瞬時に凍りついてしまうような寒さの中だった。おれは牛の背に跨《またが》って忍び寄ってくる寒さに耐えていた。いつの間にか牛の足許《あしもと》に小文がいて、自分も牛の背に乗りたいと訴えた。おれは小文を抱えて乗せてやった。おれもずいぶん痩せていたが、小文は体重がないのかと錯覚するぐらい軽かった。おれたちは凍えないように互いの身体を押しつけ、じゃれ合い、牛の嫌がるのも構わずにはしゃいだ。多分、おれは性的な興奮も覚えていただろう。まだ幼い小文の身体は、しかしはっきりと男とは違う弾力を備えていた。
そうだ。あのときもおれたちは約束を交わした。吹き込んでくる北風に顫えながら、小文が「冬は嫌い」と呟いた。その声はあまりにか細く頼りなく、そのくせ抗《あらが》いがたいほどの魔力を秘めておれの心を鷲《わし》づかみにした。
冬の来ないところへ行こう。おれとおまえとふたりでこの村を出て、暖かい場所へ向かっていこう。おれが必ず連れていってやる。小文が寒さに顫えることのない国に、必ず連れていってやる。
記憶の奔流は止めようがない。固くきつく閉ざしていただけに、押し込められ、圧迫されていた記憶は氾濫《はんらん》を起こした河川のようにすべてを呑みこみながら流れ続けていく。
自分の記憶に打ちのめされ、おれは呆然とベンチに腰掛けていた。携帯電話が鳴らなければ、いつまでその調子でいたかわからないほどだった。おれは怠《だる》さを覚えながら携帯電話を手に取った。非通知に設定されているらしく、相手の電話番号はわからなかった。
「※[#「口+畏」、103-1]《ウェイ》?」
おれは北京語で電話に出た。
「劉健一だ」劉健一は日本語で名乗った。「〈夜来来〉の持ち主がわかったぞ」
霧がかかったようになっていた頭の中がスイッチが切り替わったかのようにいきなり鮮明になった。
「教えてくれ」
「徐鋭――」劉健一は男の名前だけを北京語で発音した。「台湾人だ。まだ三十代の前半で若いが、手広く商売をやっているみたいだな」
「住所や電話番号は?」
「メモの用意はいいのか?」
「記憶力には自信があるんだ、かまわないから続けてくれ」
劉健一は携帯電話の番号と住所を告げた。それを脳裏に刻みつける。
「後ろにだれかついてたりするのかな?」
「そこまではまだ調べがついてない。若い台湾人だってことを考えると、まっとうな商売人か裏でだれかとつるんでるかのふたつにひとつだな」
「わかった。じゃあ、引き続きこの徐鋭って男の背後関係を調べてくれ。それから、徐鋭という男の顔写真が手に入れば助かる」
「なにをしようとしてるんだ?」
「あんたには関係ないことだ」
「まあ、そういうことにしておこうか。今夜か明日の夜、うちの店に来いよ。この件の支払いの話もしたいし、もうそろそろ韓豪の事件の情報も入ってくるはずだし、徐鋭の写真もなんとかなるだろう」
「時間があいたら顔を出すよ」
「待ってる。じゃあな」
電話が切れた。おれはベンチから腰をあげ、もう一度小文のマンションを見上げた。マンションの壁面はくすんで汚れていた。それでも、故郷の村のように凍えることはもうないだろう。
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江東区東陽三−×−×、ビューパーク東陽九〇一。劉健一が告げた住所にはタクシーで向かった。ビューパーク東陽は周囲の建物から頭ひとつ分突き抜けた感のある新築マンションだった。最近のマンションの相場は知らないが、一戸五千万ということはありえない。劉健一の言葉どおり、徐鋭はそれなりに稼いでいるらしい。
ここまでやって来たはいいが、途方に暮れた。マンションのエントランスは最新のセキュリティシステムが施されているようで、暗証番号を入力するか住人に与えられるカードキーをスリットに通さなければあかない仕組みになっていた。万一、中に滑り込めたとしてもエントランスのすぐ内側は管理人室になっていて、制服を着た警備員が睨《にら》みを利かせていた。周囲は人の通りもまばらで、時折、住人らしき人間がマンションに出入りするぐらいだった。徐鋭の顔がわからない以上、マンションを出入りする人間をチェックしても意味がない。
迷いながらマンションの周囲を行きつ戻りつし、結局は諦《あきら》めてその場を去ろうとしたとき、エントランスの方で動きがあった。男が三人、マンションから出てこようとしているところだった。
三人とも三十代。三人ともブランド物のスーツを身につけていた。三人ともビジネスマン風で中国人――台湾人とは断定できない。迷っている暇はなかった。三人が向かうのとは別の方角に歩きながら携帯電話に劉健一から聞いた番号を打ち込んだ。口の中に溜まる唾液を飲み下しながら発信ボタンを押す。
しばらくの間があって、ローリング・ストーンズのメロディが聞こえてきた。「Satisfaction」――携帯の着メロ。おれは携帯を切って肩越しに振り返った。中央の男が携帯を耳に当てようとしていた。
徐鋭――間違いない。後を追いたかったが、危険を冒すことは避けたかった。
徐鋭が他のふたりに声をかけている。風に乗って聞こえてきた言葉はどうやら台湾の方言のようだった。
エントランスを出てくるときの徐鋭の顔を、おれは瞼《まぶた》の裏に焼きつけた。
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片っ端から電話をかけまくって無為の時間を潰《つぶ》した。記憶の奔流は耐えがたく、じっとしていることなどできそうにもない。
陳と伍からの連絡はまだない――王華はいった。なにも変わった動きはない、新たにわかったことはなにもない。おまわりたちがうようよしていて、歌舞伎町をただ歩くにも危険な状況は続いている。情報集めなんかできるか。
一時間おきに電話をかけるおれに、王華は最後に切れて叫ぶようにいった。
確かに、不法入国、不法就労の外国人には、歌舞伎町はこれ以上ない危険地帯と化していた。職務質問をされただけで、国に送り返されることになる。歌舞伎町での情報収集など望むだけ無駄だ。
静かに確実に夜が更けていく。錦糸町へ向かいたいという想いが狂おしく喉元までせり上がってくる。歌舞伎町のそこここの路地の暗がりから無数の腕が伸びてきておれの四肢を掴み、それぞれにでたらめな方角に引っ張っていこうとしている――そんな錯覚に襲われる。身体がばらばらに引き裂かれてしまいそうだ。
苦痛に耐えて、夜の歌舞伎町を彷徨《さまよ》った。まっとうな中国人たち――ビザを持っている中国人たちが集まる店をはしごする。口さがない連中が韓豪の死を弄《もてあそ》んでいる。耳をそばだてても、新しい情報は得られない。夜の歌舞伎町で飛び交っているのはらちもない噂ばかりだ。韓豪の死は路地の暗がりに打ち捨てられてかすんでいく。おれが自由になる道もそれとともに絶たれていく。
腹を決めて劉健一の店に足を向けた。記憶の奔流に押し流されていたはずの不安が足許にまとわりついてくる。分厚い鉄扉の前で、その足が動かなくなった。インタフォンを押そうにも腕が持ち上がらない。石像のように佇んでいると、頭上で窓が開く音がした。
「いつまでそうやってそこに突っ立ってるつもりだ?」
劉健一の声だった。監視カメラで見られていることを忘れていた。
「ドアを開けてくれ」
上を見ずにいった。含み笑いがして、ドアの鍵が外れる音がそれに続いた。身体の芯《しん》が一気に燃え上がっていた。すべてを見透かされている――不安よりも屈辱感の方が強い。狭い階段を駆けあがるようにして階上を目指した。
相変わらず客の姿はなかった。劉健一は窓際の席に座ってパソコンを広げていた。パソコンの傍らには大振りのマグカップと灰皿が置かれている。劉健一の左手では葉巻が燃えていた。
「葉巻を吸うのか」
何気なく口に出してみた。他になにをいえばいいのかわからなかったからだ。
「葉巻を吸うようなスノッブな人間だとは思わなかったか?」
劉健一の声は朗らかだったが、それが皮肉であることはだれの耳にも明らかだった。
「葉巻についてなにを知ってる? 高い? 煙が凄い? 匂いが煙草よりいい? ジャイアント馬場が吸っていた?」
おれは曖昧に首を振った。葉巻に関する知識は皆無だった。ジャイアント馬場が一世を風靡《ふうび》したプロレスラーだということは知っていたが、彼が葉巻を嗜《たしな》んだというのは初耳だった。
「おまえが葉巻に関してなにを知っていようがいまいが、そんなことは関係ない。おれにとっては、葉巻は旨《うま》い、それだけだ」
劉健一は葉巻をふかした。大量の煙が渦を巻く。煙はほのかに甘い香りがした。
「おまえもいろいろ耳にしてるだろう? おれは昔はこの街をこの手の中に握りこんでいた」劉健一は右手で拳《こぶし》を作った。「今じゃ、おれにあるのはこの店だけだ。福建人と東北人が、おれからすべてを奪っていった。昔なら福建野郎なんてのはくそにも劣る存在だったんだがな」
パソコンのモニタの光が劉健一の顔を彩っていた。頬は青く、目は黒く、唇は赤く、冥界《めいかい》からさまよい出てきた幽鬼のように劉健一は揺らめいて見える。
「ついて来いよ」
劉健一は立ち上がり、マグカップを持って店の奥にある階段をのぼりはじめた。入口にあるのと同じような狭さで、踊り場にトイレがあり、階段はさらにその上に続いていた。階上は屋根裏部屋になっていた。四畳半ほどのスペースに低い天井、ソファベッドが一脚、衣装|箪笥《だんす》が一|竿《さお》、ガラス張りの巨大なキャビネットが設置されていた。キャビネットの中は葉巻の箱で埋め尽くされている。正面の扉の上の方にデジタルの温湿度計が設置されていて、気温は二〇度、湿度は六八パーセントを示していた。かすかなモーター音がする。キャビネットの下の段に黒い筐体《きょうたい》のようなものが置かれてあった。多分、その筐体が発している音だ。
「これがおれのすべてだ」
劉健一は右手を前に突きだし、身体を反転させながらいった。葉巻の煙がまた渦を巻く。
「みすぼらしいもんだろう?」
確かにみすぼらしい部屋だった。葉巻を詰めたキャビネットの偉容が部屋のバランスをぶちこわしている。
「おれの住んでる部屋も大して変わらないよ。まあ、ここよりは若干広いけどね」
劉健一の唇が吊《つ》り上がった。笑ってみせたつもりなのだろうが、あの海の底を思わせる真っ黒な瞳《ひとみ》はなんの感情も宿さずにただおれを見つめていた。
「優しい男だな、あんた」
劉健一はいった。
「そんなことをいわれたのは初めてだよ。それに、あんたは多分、優しい男なんて大嫌いに違いない」
おれは唇を舐《な》めた。劉健一は今度は身体を顫わせて笑った。黒い瞳はもうおれを見つめてはいない。
「おれはあんまり酒は飲まない。女に対する欲望も元もと強い方じゃなかった。だからといって、男が好きだというわけでもない。仕事以外の愉しみといえば、これしかないのさ」
劉健一はマグカップを床に直に置いてキャビネットを開けた。モーター音が心なし大きくなった。床は板敷きで、マグカップの他に下にあったのと同じような大振りの灰皿が置かれていた。劉健一は葉巻の箱をひとつ開け、細身の葉巻を一本取りだした。ポケットの中からカッターらしきものとライターのようなものを取り出す。葉巻の吸い口を切り落とし、ライターをつけた。青く細長い炎が噴き出す。劉健一が使っているのはライターではなく、小型のバーナーだった。細長い炎の先端で葉巻を器用に焙《あぶ》っていく。先端が赤くなり煙が立ちはじめたところで劉健一はバーナーを消し、その葉巻をおれに差し出した。
「吸ってみろよ。肺には入れずに口の中だけでふかすんだ」
おれは葉巻を受け取り、吸った。紙巻き煙草とは桁《けた》違いの量の煙が口の中に入ってくる。頭ではふかすだけと理解していても、普段煙草を吸い慣れている身体は無意識のうちに煙を肺に送り込んだ。
噎せることも咳《せ》き込むこともなかった。ニコチンの多さに衝撃を受けはしたが、それ以上に煙の香り、味に衝撃を受けた。甘みの勝った煙は香ばしくスムーズで、おれの葉巻に対するイメージとは正反対のものだった。
「どうだ?」
劉健一が首を傾げておれを観察していた。
「うまい」
おれは答えた。
「ラファエル・ゴンサレスというブランドだ。キューバ産だが、キューバの中でも甘い。これが意外とプーアル茶にあう」
劉健一は床に置いておいたマグカップを再び手にした。カップの中身を飲み、葉巻を吸う。劉健一の吸っている葉巻はおれの葉巻とは色も長さも太さも違った。
「これでおまえは葉巻に対する偏見から解き放たれた。違うか?」
「ああ、こんなに旨いものだとは思わなかった。これなら、葉巻を吸う人間の気持ちがよくわかる」
「だからといって、おまえは葉巻に関するすべてを知ったわけじゃない」
おれはもう一度葉巻を吸った。今度は肺には入れず、口の中だけで香りを味わう。最初の一服では甘みと香ばしさしか感じなかったが、甘みの奥に幾種類もの香りが複雑に絡み合っているのがわかった。信じがたいほどに多様な香りが絡みあい、溶けあい、バニラを思わせる甘みへと昇華している。煙を吐き出しながら、おれは劉健一の言葉を待った。
「人間っていうのは、一を知っただけで十を知ったつもりになる馬鹿が多い。おまえが吸ってるその葉巻は、おれがここで――」劉健一はキャビネットを指さした。「丹念に熟成させたやつだ。だから、うまい。その辺の洒落《しゃれ》たシガーバーで同じ葉巻を吸ってみろ。まずくて最後まで吸えたもんじゃない」
「まずいものを吸ってはじめて、本当にうまい葉巻の味がわかるというわけか? これだけでわかった気になるなと」
「それだけじゃだめだ。葉巻っていうのは、それ自体で味が決まるわけじゃない。そいつを吸う人間の体調、精神状態……些細《ささい》なことで味が変わる。それに、同じ箱に入っている同じ銘柄の葉巻でも、一本一本味わいが異なるときもある」
「要するに――」
「要するに、たった一本吸っただけじゃわかったことにはならないってことだ。十本吸っても、百本吸っても、千本吸っても、結局はわからない。だから、こいつにはまる人間はとことんまではまっていくんだ」
「あんたみたいに?」
「そうおれみたいに、だな」
劉健一はそういって葉巻を口にくわえた。葉巻を吸うだけで言葉を発しようとはしない。おれも自分の葉巻を吸い、その味わいにさらなる感激を覚えながら、この話の行き着く先に思いを巡らせた。おれに葉巻の味を教えるために劉健一が滔々《とうとう》と喋《しゃべ》ったのだとは思えない。なにか思惑があるはずだった。
葉巻を味わいながら劉健一が再び口を開くのを待った。中年に差しかかった男がふたり、薄暗い部屋で一言も交わさずに葉巻をくゆらしている姿はどこか不気味であり、どこか滑稽《こっけい》でもあった。劉健一が口を開く気配はなかった。試されていると感じ、その手には乗るかと思いながら、それでも気持ちは焦れていく。葉巻はすでに三分の一が灰になっていた。
「結局、今までの話はなんの教訓なんだ?」
焦れったさに耐えきれず、おれは訊いた。
「人間は馬鹿だってことだ。なにかを知りたいと思ってもその対象のすべてを知ることはできない。そんな単純なことをだれもわかっていない。おまえはどうだ? おまえは自分が他人より頭がいいと思ってる。実際、そうなんだろう。だが、そういうやつが一番始末に負えない」
「なんの話だ?」
「いろいろ嗅《か》ぎ回っておれのことを調べようとしても、結局はおまえにはなにもわからないってことだよ」
濃く漂う煙のせいで劉健一の顔色は読めなかった。冷気が忍び寄ってくる。葉巻の煙が霧のように思えてくる。台南飯店の丁友の顔が脳裏に浮かぶ。錦糸町の陳と伍の顔がそれに重なっていく。だれが劉健一の情報屋であってもおかしくはない。
「もういいだろう。下へ行こう。いくつか情報が入ってきてる」
劉健一は階段の方に顎をしゃくった。逆らう気にもなれず、おれは悄然《しょうぜん》と踵《きびす》を返した。軋《きし》む階段をおりていく。おれと劉健一の階段を踏むリズムが同調して奇妙なメロディを奏でた。階段を下りきったところで劉健一がおれを追い越し、パソコンの前の椅子に腰をおろした。パソコンのモニタは真っ黒だったが、劉健一がキィボードに触れると白く輝いた。
「韓豪を襲った連中は新宿界隈の人間じゃないな。断言してもいいだろう。かなりはっぱをかけてるんだが、なにひとつそれらしい情報が引っかかってこない」
パソコンのモニタを覗きこみたかったが、劉健一の肩に拒否の空気が乗っかっていた。不安は葉巻の煙と同化しておれの身体にまとわりついている。劉健一の拒否を無視できる精神状態にはなかった。おれは真向かいの席に座った。
「襲ったやつらがここらの連中じゃなくても、裏で糸を引いているのが新宿の住人なら、なにかが必ず引っかかる。今回はそれもない。外から来て、襲って、また外に帰っていったんだ。それしか考えられない」
劉健一は立て続けにキィボードを叩《たた》いた。左手の指に挟んだ葉巻の先端は灰が二センチほどになっていたが堅牢《けんろう》な外観どおり、落ちる素振りを見せなかった。
「なにか、それ以外の手がかりは?」
言葉を舌に乗せてから、やっと喉がからからに渇いていることに気づいた。喉の奥が干涸《ひか》らび、舌が強張り、スムーズに喋ることができない。
「今日の午前中、新宿界隈で情報を集めても無駄だと決めて、手を広げた。池袋、渋谷、六本木《ろっぽんぎ》、上野、錦糸町……そっちの方から少しずつ情報が入りはじめている。例の趙浩の情報もその中に混じってた」
「金になる仕事をしたらしいって?」
「そう」劉健一は灰を灰皿の上に落とした。「この二、三日、かなり派手に遊び回ってるらしいな。他にもいくつか気になる情報はあるんだが、今のところこの錦糸町の線を追っていくのが一番だろう。もちろん、他からの情報も拾っていくがな」
「趙浩の住所は?」
「今、調べさせてる。錦糸町にはいくらかコネがあるんでな、明日にでもわかるだろう。それから、これだ――」
劉健一の背中と階段の間に黒いカラーボックスがあった。劉健一はカラーボックスに手を伸ばし、一葉の写真と何枚かの書類を取った。
「徐鋭の写真だ」
おれは写真を受け取った。男の顔のアップが映っている。短くカットした髪に、鋭利な目――今日、東陽町で見た男に間違いない。
「錦糸町と新小岩《しんこいわ》で〈夜来来〉のような店や風俗店をいくつか経営しているようだな。半分|流氓《リウマン》、半分堅気といったところだ。東北系の流氓を何人か手なずけているという情報もある」
劉健一は淡々とした声でいった。
「資金源は? この若さでそれだけ手広く商売しているなら、なにかがあるはずだ。違うかい?」
おれは訊《き》いた。劉健一は首を振った。
「まだそこまでの調べはついてない。知りたいなら調べておこう」
知りたかった。徐鋭という男がどんな人間なのか、背後にだれがいるのか、御しやすいのかそうではないのか。小文を助け出すときに障壁になる人間なのか。知り得ることはすべて知りたかった。
「さてと、おれの報告はこれで終わりだ」劉健一は静かにいった。「次はあんたの番だ」
「おれの番?」
冷水を浴びせられたような気分になった。
「まず、金をよこせ。五十万だ」
「あ、ああ」
おれは慌てて財布を取り出した。十万ずつのずくにした札束を五つ、劉健一に手渡した。
「これは韓豪の件に関する手付け金だ。そういうことだったな?」
答える必要はなかった。劉健一は質問を放っているのではなく、念押ししているだけだった。
「〈夜来来〉と徐鋭の件はまた別の話だ。こっちも着手金は五十万だ」
「電話でもいったが、そっちの方はしばらく待ってくれ」
「あんたの仲間たちが韓豪の仇《かたき》を討つために集めた金が百五十万。違ったか?」
浴びせられた冷水が熱湯に変わって背中を伝っていく。劉健一はなんでも知っている。この男に隠し事は通じない。
「どうやってそれを?」
「何度もいってるだろう。これがおれの商売だ。だれかがちょろっと口を滑らせる。それを聞いた誰かが誰かに話を伝える。それが巡り巡っておれのところにまで伝わってくる。そういう仕組みになってるんだ」
おれは唇を舐めた。唇はかさかさに干涸らびていた。
「あの金はみんなで集めた金だ。おれのものじゃないし、おれが個人であんたに頼んでることに使うわけにはいかない」
「じゃあ、支払いはどうするんだ? 悪いがあんたの懐具合も調べさせてもらった。五十万、払えないわけじゃないだろうが、簡単に払えるとも思えない。街金にでも駆け込むか?」
「なんとかするよ」
声が顫える。とめようとすればするほど顫えは拡大していく。どうやって知った? どこまで知った? 頭の中でおれではないおれの声が響く。声の音量はどんどんあがっていく。
「電話でもいったように、別に金じゃなくてもおれはかまわん。等価交換だ。そういったよな?」
「なにを差し出せというんだ?」
「まずひとつ。おれのことを探るのをやめること」
劉健一の顔から笑み――あるいは笑みらしきものが消えた。あのどこまでも黒い瞳がじっとおれを見据えている。それはまるで虚無への入口のようだった。
「わかった」
顫える声でおれは応じた。
「ふたつめ。この件でおまえはいろいろ動き回っている。その間に見聞きしたものを、おれに報《しら》せてほしい。もちろん、おまえにとって都合の悪いことは伏せてもかまわない」
おれにとって都合の悪いこと――幾重にも糊塗した経歴に罅《ひび》が入るような事実。汗がとめどもなく流れ落ちていく。
「三つめ。麻取の情報をおれに流してくれ」
頭を丸太ん棒でぶん殴られたようなショックを覚えた。矢島とおれの関係は慎重に秘せられてきたはずだ。だれも知らない。知りようがない。おれか矢島が口を滑らせたのではない限り。矢島が? いや。矢島が劉健一の情報提供者なら、わざわざおれに麻取の情報を教えろという必要はない。足許の床に裂け目ができ、そこから恐怖が噴き出てくる。
「どうして……」
「どうして知った、か。最初に会ったときに、おまえのことを少し教えてやっただろう? いくらおれでも、会ったことのない男の、それも韓豪なんかの下っ端にいるやつの背景を調べたりはしないさ。必要があったから、おまえのことは調べてあった。麻取の犬だってことはわかってたからな」
「最初からわかってるなら、おれから麻取の情報を引き出す必要だってないじゃないか」
言葉を口にするのがもどかしい。圧倒的な恐怖にさらされ、おれは目の前の男を殺すことを考えはじめていた。幾重にも糊塗された経歴――一度罅が入れば、崩壊するのはあっという間だ。そうなる前に、手を打たなければならない。
「おまえのことをおれに教えてくれた人間が死んでね。おまえを操ってる麻取は矢島茂雄といったか。その矢島の上司だったんだ。顔色が悪いぞ、武基裕。自分のことは自分と矢島しか知らないとでも思ってたんじゃないだろうな?」
「違うのか?」
「なんだかんだいったって、連中は役人だぞ。出世が第一の目的だし、出世のためなら上司にも媚《こ》びを売る。上司が情報提供者の名前を教えろといったら、ほいほい応じるやつだって腐るほどいるのさ」
矢島の顔が脳裏を横切っていった。あの男が上司におれの名を売ったとしてもなにも不思議はなかった。掌に痛みを感じた。いつの間にかきつく握りしめていた拳――爪が掌に食い込み、血が滲《にじ》んでいる。鮮血のどぎついまでの赤さがおれの感情を煽《あお》り立てる。怒りと殺意が恐怖を塗りつぶしていく。この男はなんの権利があっておれの秘密を暴き立てるのか。おれを追いつめるのか。おれをないがしろにするのか。
「やってくれるというのなら、どうしておまえが矢島の犬に甘んじているのか、その理由を調べるのを中止しよう」
劉健一がいった。怒りと殺意がおれの掌をするりと通り抜けていった。
「なんだって?」
「おまえみたいな人間のことはよくわかる。金のためなんかじゃない。理由があるんだ。それも特別な理由がな。じゃなきゃ、麻取なんかのために身を危険にさらしたりするもんか」
劉健一の黒い瞳は瞬《まばた》きもせずにおれのことを見つめ続けている。恐怖がぶり返す。その瞳はこう語っていた――おれはすべてを知っているぞ。おまえと美Lのことも、なにもかも。おれは劉健一の瞳から溢れ出てくる漆黒の闇に呑みこまれていく。美Lとの想い出も、美Lの死ぬ間際の声もすべて闇に呑みこまれていく。おれに襲いかかる闇は、おまえの誠実さなどは塵《ちり》よりも軽いと嘲笑う。おまえは保身のために愛する女を見殺しにしたのだ。おまえは自らの愚行のために、本物の妹よりも強く愛した小文との約束を反故《ほご》にしたのだ。
「なにが望みなんだ?」
おれは訊いた。声の顫えはとまっていた。機械が発するような平板な声が出ただけだった。
「なにも。おれはおれの商売を充実させたいだけだ」
劉健一は答えた。劉健一の声もおれに劣らず平板だった。
汗が頬を流れ落ち、顎を伝って落ちていった。おれは顔を拭《ぬぐ》った。それは汗ではなく、目尻からこぼれ落ちるおれの涙だった。
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恐怖が心臓を鷲づかみにしている。闇が足許にまとわりついている。脳細胞は熔《と》け崩れ、うつろな抜け殻となって歌舞伎町をさまよい歩く。
劉健一は知っている。たぶん、知っている。知っていることを隠さずに、おれを恫喝《どうかつ》している――おれのいうことを聞いた方が身のためだぞ、と。
嫌な男だ。いやらしい男だ。
不意に、丁友の声がよみがえった。
「あの男は悪鬼だ。近寄っちゃいけない」
おれは近寄ってはいけないものに、自ら近寄ってしまった。触れてはいけないものに触れてしまった。いつものように、すべては自業自得だ。
自宅に帰る気にはなれず、かといって歌舞伎町をうろつくのも心が痛んだ。ビルの谷間を風が抜けていく音が、美Lがおれを恨む声のように聞こえていたたまれない。流しのタクシーを捕まえ、気がつくと錦糸町に降り立っていた。
前夜と同じように〈夜来来〉が入っている雑居ビルの出入口が監視できる場所に立ち、漫然と煙草を吸って時間を潰した。煙草はまずかった。劉健一にもらった葉巻の後ではなおさらにまずい。客に見初められたホステスの幾人かがあからさまに媚びを売りながらビルを出て行った。いちゃつきながらホテル街を目指していく。小文の姿はその中にはない。やはり、幾分|薹《とう》が立っているから客に敬遠されるのか。そう考えると、少しだけ気分が落ち着いた。
午前四時過ぎに〈夜来来〉の看板が消えた。さらに三十分後、ホステスたちが姿を現した。小文の私服は昨日とは違って、黒いミニのスーツだった。ドレス姿よりこっちの方がホステス然としている。例によって、なにを食いに行くかと相談しているホステスたちに手を振って、小文はひとり、別方向に歩き始めた。
小文のスーツは夜の景色にとけ込み、白く長い足がなまめかしくくねっている。
小文は通りかかったタクシーに手をあげた。この時間は空車のタクシーがよく目立つ。おれは小文が合図したタクシーが止まるのより先に、路肩で客待ちをしていたタクシーに乗りこんだ。
「あのタクシーの後をついていってくれ」
そう告げても、運転手は疑念を表情に浮かべることさえしなかった。不景気はなにもかもを吹き飛ばす。
加速のせいで背中をシートに押しつけられながら、おれは首を捻った。自分のマンションに帰るのなら、タクシーに乗る必要はない。小文はどこへ行こうとしているのだろう。小文の乗ったタクシーは錦糸町駅前の大通りを真っ直ぐ南下していく。新大橋通りを右折すれば小文のマンションはすぐそこだ。だが、タクシーは右折しなかった。新大橋通りを横切り、そのまま南を目指して走っていく。
小文の今日の出で立ち、なまめかしい白い脚が脳裏にぼんやりと浮かびあがる。その光景は、おれの確信を強靭《きょうじん》に補強する。
小文は男に会いに行くのだ。それが恋人であれパトロンであれ、あの黒いスーツは男のための出で立ちに違いない。
脳|味噌《みそ》が熔け崩れた頭蓋骨《ずがいこつ》の空洞に黒い霧が立ちこめていく。それが悲しみのせいなのか嫉妬のせいなのか絶望のせいなのか、おれにはよくわからない。
東陽町が近くなったところで、小文の乗ったタクシーのスピードが落ちた。タクシーに道を指示している小文の後ろ姿がリアウィンドウ越しに見える。
目眩《めまい》を覚えた。吐き気すら覚えた。
「お客さん、だいじょうぶですか?」
運転手がいった。
「ああ。ちょっと飲み過ぎたみたいだ。ここで止めてくれ」
「いいんですか、前のタクシーは?」
「ああ、行き先はわかってる」
ルームミラーに運転手の怪訝《けげん》な表情が映っていたが、おれは構わずタクシーを降りた。小文の乗ったタクシーは大通りを外れて住宅街の中に入って行った。おれはのろのろとした足取りでその後を追った。タクシーのスピードにはかなわない。それでも、行き先はわかっている。タクシーのテールランプがどんどん小さくなっていく。小さな赤い光点になっていく。それが大きなマンションの前で停止した。小文がタクシーを降り、そのマンションの中に消えていく。
おれはよろめいて、電信柱にしがみついた。
小文が入っていったのは、おれが予想していたとおり、徐鋭が住んでいるあのマンションだった。
不快な音が早いリズムを刻んでいる。おれの歯がぶつかり合っている音だった。耐えがたい寒気に襲われていた。身体の芯から冷え込み、顫えがとまらない。歯の根があわない。
覚束ない手つきで携帯電話を握った。ボタンを押すのももどかしい。なんとか操作して携帯を耳に当てた。呼び出し音が鳴り始める前に、留守番電話のメッセージがはじまった。
「くそっ」
毒づきながらメッセージが終わるのを待った。待ちきれなくて叫びはじめていた。
「どうして電話に出ないんだ? まだ宵の口だぞ!」
留守番電話のメッセージを告げる合成音はおれを嘲笑いながら続いた。やっとメッセージを吹き込めるようになって、おれはまくしたてた。
「おれだ。武基裕だ。徐鋭には女がいる。その女のことも調べてくれ。徐鋭と女の関係を調べてくれ。頼む」
電話を切り、徐鋭のマンションを見上げた。あそこに小文がいる。徐鋭に弄ばれる小文がいる。耐えがたかった。今この瞬間、おれを襲い続けている寒気のように、なにもかもが耐えがたかった。
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完全に疲弊していた。立っているのもやっとという有様で、なんとかタクシーを捕まえて自分の部屋に戻った。カップ麺《めん》を腹に詰め込み、強い酒を呷《あお》り、湯船に浸かると、泥のような眠りに埋没した。
夢を見た。生まれ育った故郷の畑、山。笑い転げる小文。おれの祖父と藍文樂。おれの母。穏やかな光景が暗転すると、そこは歌舞伎町だ。どぶネズミが道ばたを走り抜け、酔っぱらいやホステスややくざや流氓がおれの傍らを通りすぎていく。その先に、美Lの笑顔。再び、暗転。小文と美Lの笑顔。それが真っ黒な、どこまでも黒い闇に塗りつぶされていく。おれの目に映るのはただひたすらに闇。時の流れすら停止して、おれは動くことも呼吸することもままならない。あまりの闇に恐怖を覚え、なにかに縋ろうと手を差し伸べても、そこにはただ真っ黒な虚《うつ》ろがあるだけ。頭の中すら真っ黒で、小文や美Lの笑顔を思い起こそうとしても闇に阻まれる。ただひとつの拠《よ》り所である記憶すら闇に塗りつぶされて、おれは絶望の声をあげる。その声すら、闇に呑みこまれて反響することはない。
脂汗にまみれて目を覚ました。携帯電話が鳴っていた。おれを闇の奥底から救い出してくれたのはその携帯電話だった。携帯に手を伸ばす前に時計に視線を走らせた。午後七時をまわっている。驚いた。十二時間近く眠りこけていた計算になる。そのくせ、疲れは抜けてはいない。鉛のような疲労感が胃の底にしつこくとどまっている。
額の汗を拭いながら携帯を手に取った。村上からの電話だった。
「そっちから連絡を寄こしてもかまわないんじゃねえのか、武さんよ?」
着信ボタンを押すとすぐに、村上の押し殺した声が耳に流れ込んできた。
「すみません。あちこち動き回っていたもんで」
寝間着代わりに着ていたTシャツは汗でべとべとだった。拭っても拭っても汗は噴き出てくる。
「そんなのはいい訳にはならんだろうが、ああ?」
「これからは、もっとまめに連絡を入れるようにします。すみません」
「わかってくれりゃあいいんだよ、わかってくれりゃあな」村上はいきなり声音を変えた。「それで、なにかわかったかい?」
「やっぱり、やったのは新宿の人間じゃないと思います。それで、あちこちに聞いて回ったところ、錦糸町を根城にしてるチンピラが引っかかってきました」
「錦糸町のチンピラ?」
「残留孤児二世、三世の不良グループらしいんですが、ここ数日、かなり派手に遊んでるらしいんです。で、その金の出所が不明で」
「怪しいな、そりゃあ」
「今はそいつらを調べてる最中です。ただ、やったのは連中だとしても、計画を立てたやつは別にいるんじゃないかと思いますけど」
「そりゃそうだろうな。チンピラ風情にできる仕事じゃねえ」
弛緩《しかん》していた四肢がやっとおれの意思に従うようになってきた。おれはキッチンに向かい、冷蔵庫の中から水のペットボトルを取りだした。中身は飲まずに、冷えたボトルを額に押しつける。
「錦糸町にいる中国人の話だと、そのチンピラグループを束ねてるやつの背後には組がついてるらしいんです。日本の組織の方は疎いんですが、村上さんならわかるでしょうか?」
「そいつの名前は?」
「小西由浩。中国名は趙浩。漢字の方は後でメール送っておきましょうか?」
「頼むわ」村上はそういって、自分のメールアドレスを告げた。「錦糸町の組なんだな?」
「多分、そうだと思います」
「よし、早速調べておいてやる。さっきの話、忘れるなよ」
「これからは、毎日連絡を入れますよ」
「そうした方が身のためだ」
電話が切れた。おれはその場に腰をおろし、ペットボトルの水を飲んだ。きつく目を閉じ、目を開く。視界の隅に、夢の残滓《ざんし》の闇がこびりついているような気がした。水を飲みながら村上にメールを送った。無性に小文の声が聞きたかった。小文のことを思った瞬間、昨夜のことをまざまざと思い出した。徐鋭のマンションに消えていった小文。半狂乱になったおれ。劉健一の留守番電話に吹き込んだメッセージ。
汗が引いていく。相手は劉健一だ。おれが徐鋭の女――小文に固執していることをすぐに見抜くだろう。その先はあっという間だ。おれという人間の本質を、幾重にも糊塗《こと》した経歴の下に隠されているものを暴き出す。
無理だ。劉健一がどれだけのネットワークを構築しようと、劉健一がたとえ本物の悪鬼だとしても、おれの経歴を壊すことはできない。祖父は死んだ。祖父が戸籍を買い取った農夫も死んだ。黒龍江のあのひなびた農村に行けば、おれのことを覚えている人間はいるだろうが、そこまでの手間暇をかけるとは考えられない。
だれもおれの経歴に罅を入れることはできない。小文を除いては。
胃が痛んだ。胸が苦しかった。まるでありとあらゆる病巣に冒された病人のようだ。
携帯電話が鳴った。王華からだった。
「阿基か? さっき、伍から電話があった。例の、趙浩って野郎が手下を連れて派手に遊んでるらしいんだ」
「錦糸町か?」
「ああ。どうする?」
「行こう。伍たちも錦糸町にいるんだろな?」
「ああ。この前の〈夜来来〉で待ってるってよ」
小文。逢《あ》いたい。逢うのが怖い。声を聞きたい。徐鋭とのことを問い質《ただ》したい。そんな資格が自分にはないことはわかっていても、欲望を抑えることはできなかった。
「わかった。おれもすぐに向かう。向こうで落ち合おう」
おれは電話を切った。そのまま出かけようかとも思ったが、身体があまりにも汗くさかった。小文に嗅がれたい匂いではない。忸怩《じくじ》たる思いを抱きながら手早くシャワーを浴び、電車に飛び乗った。
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陳と伍はこの前と同じ席に陣取っていた。若いホステスを二人ずつ脇に侍《はべ》らせている。小文は別のテーブルについていた。
「いらっしゃいませ」黒服が心得顔でおれをふたりの席に案内する。「お客様、ご指名の方はいかがいたしましょう?」
「小慈を呼んでくれ」
反射的におれは答えていた。
「かしこまりました」
去っていく黒服の後ろ姿を追う振りをして、接客している小文を盗み見る。小文はこの前と同じ、赤いドレスを身にまとっていた。
「早かったじゃねえか、阿基」
陳が勝手におれを「阿基」と呼んだ。怒るほどのことではないが、だからといって気分のいいものでもない。おれは黙って空いている席に腰をおろした。
「阿華もおっつけやってくるよ。それで、趙浩はどこにいるんだ?」
「落ち着けよ」伍がいった。「今、近所のレストランでホステスらしい女たちと飯を食ってるんだ。そいつらが移動したら連絡が来ることになってる」
おれは腕時計を覗《のぞ》いた。午後九時前。同伴ということなら、そろそろ店に移動しなければならない時間だ。
「趙浩ひとりか?」
「いや、手下を三、四人連れ歩いてる」
陳が答えた。おれは煙草をくわえた。横にいたホステスが差し出したライターで火をつけた。趙浩が連れ歩いているという手下の中に、あの日、韓豪たちを襲った連中がいるだろうか。顔をさらして襲撃を行った連中を手元に置いておくほど趙浩は愚かだろうか。とりとめのない疑問が頭をよぎっていく。
「どうしたの、難しい顔をして? またお仕事の話?」
頭の上に軽やかな声が降りかかってきた。目を上げると、静かに笑みを浮かべた小文がおれを見おろしている。シャワーを浴びてきてよかった――馬鹿げた安堵《あんど》がとりとめのない思考を吹き飛ばした。
「いろいろとあってね」
「阿基は笑った方が素敵だと思うわ」
小文はおれの左隣に腰をおろし、身体を寄せてきた。かつての小文――幼かった小文の肉の感触を思いだそうとしたが、無駄だった。おれは過去を捨てた男だ。脳に刻まれたはずの過去の感触はおれを素通りしていく。
「もう何年も笑ったことはない」
「そうね。そんな顔をしてるわ。可哀想」
おれの水割りを作りながら、小文はいう。大きく開いた背中に生えた産毛が照明を受けてきらきらと輝いている。
「おまえは? おまえは可哀想じゃないのか?」
「わたし? わたしは幸せよ。日本で働いてお金を稼いで、住むところにも食べるものにも困らないし、好きな服だって買えるわ。東北にいたころは、こんなこと夢でしかなかったもの」
おれの約束を忘れなかったのだろうか。あの貧しい農村で、おれが迎えにやって来るのをずっと待っていたのだろうか。訊きたい――訊けない。おれはこの店に来たことを、小文を指名したことを後悔しはじめていた。そんな自分にいいしれぬ自己嫌悪を感じた。
胸に残るわだかまりを押し込み、小文が作った水割りのグラスで陳と伍とともに乾杯した。ホステスたちが若く弾《はじ》けるような笑い声で陳と伍を囃《はや》したてる。ふたりは、水割りを一気飲みしはじめた。緊張感はまったくない。ふたりにしてみれば、すべては割のいいアルバイトだ。金をもらえるだけでなく、こうしたクラブでの遊び代もおれたちが持つことになる。飲まなければ、楽しまなければ損だと考えたとしてもしかたがない。
「あなた、いつ、日本来た?」
小文が不意に日本語で訊いてきた。
「二十年ぐらい前だ」
考える前に、嘘が口をついて出ていた。それも、日本語で。
「そう」小文は北京語で応じた。「だからそんなに日本語がうまいのね。前に来たときにちょっとだけ話したでしょう。わたしの幼馴染みにあなたと同じ阿基っていう人がいて――」
心臓が激しく脈打った。小文はそれに気づかずに言葉を続けた。
「その人も残留孤児で、十五年前に村を出て行ったの。その人があなただったらいいなって思ったんだけど、そんな都合のいい偶然なんてありっこないわよね」
口の中が急激に渇いていく。おれは煙草を消し、水割りで舌を湿らせた。もっと飲みたかったが、酔ってしまえばおれは均衡を失う。確信があった。
「そいつが好きだったのか?」
もつれそうになる舌を叱咤《しった》して、なんとかそれだけを口にした。小文はなんの衒《てら》いもなく大きくうなずいた。
「本当の兄妹より親密だったの。わたしよりずいぶん年上だったけど、ずっとわたしのことを可愛がってくれたわ。わたし、本当に子供だったけど、自分は大人になったら阿基と結婚するんだって信じてた」
胃が痛む。痛みは胃から心臓、首、目へとずり上がっていく。まるで風邪を引いたときのように喉《のど》の奥が痛み、目の奥にちくちくする刺激を感じる。できることなら、この場からすぐにでも逃げだしてしまいたかった。逃げる代わりに煙草をくわえた。小文があのデュポンを差し出してくる。小さく礼をいって火をつけた。だが、煙は口の中でふかすだけにした。肺まで吸い込めば、間違いなく咳き込んでしまう。
「そっちの阿基は、おまえを捨てて日本に来たのか?」
「そう。酷い男。ずいぶん恨んだわ」
視線を小文の横顔から外すことができなくなった。しかし、言葉の中身とは逆で、小文の顔にはさっぱりとした表情が浮かんでいる。
「でも、昔の話よ。今はしょうがないなと思ってる。だれだってあんな田舎の農村より、日本がいいに決まってるわ」
「そうか――」
それしかいえず、おれはつけたばかりの煙草を消した。いたたまれなく、やるせなく、小文の態度からそれが過剰な自意識なのだとわかっていても、おれにはどこにも居場所がないように感じられる。
入口の方が騒がしくなって、おれは苦役から解放された。王華が程光亮を伴って姿を現したところだった。王華は黒服を無視しておれたちの席に突進してきた。
「悪いな、遅れて。阿亮を捕まえるのに手間取ってよ。それで、どうなってる?」
口を開くのが億劫《おっくう》で、おれは陳と伍に視線を向けた。ふたりがおれの代わりに王華に状況を説明した。
「なんだ、焦れってえな」
王華は忌々しげに舌を鳴らした。
「焦ってもしかたがないだろう。どうせ三十分か一時間の話だ。酒でも飲んで待とう」
おれはいった。途端に王華の相好が崩れた。
「そうだな。こんなところでしけた顔しててもしょうがねえよな。待ってる間、楽しくやろうぜ」
王華がおれの向かいに腰をおろす直前、伍の胸元で携帯が鳴った。電話に出た伍の顔つきが変わる。
「いよいよお出ましだぜ。連中、この近くの〈堕落天使《ドゥオルォティエンシー》〉って店にいるそうだ」
華やかだったおれたちの席の空気が急に湿り気を帯びて重くなった。
「行くか?」
王華がおれに視線を向ける。おれは曖昧に首を振った。小文のそばから離れられる。いたたまれない気持ちから解放される。頭の隅にあるのはそのことだ。
「ぞろぞろ出かけていったんじゃ目立ちすぎる。おれと……伍先生だけで偵察に行ってくる。おまえたちはここで待機しててくれ。おれは韓豪を殺《や》った連中の顔を見てるからな」
おれの言葉に異議を唱える者はいなかった。おれは伍を促し、席を立った。小文がおれの手をさりげなく握ってきた。掌の中に硬い紙片が握り込まれていた。おそらく、名刺だろう。ここが徐鋭の店で小文が徐鋭の女なら、他のホステスとは違って大っぴらに名刺を配ることもはばかられるに違いない。
「すぐに戻ってくる」
だれにともなくそう呟き、おれは受け取った名刺をジャケットのポケットに落とし込んだ。
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〈堕落天使〉は〈夜来来〉から歩いて五分ほどの雑居ビルの三階にあった。〈夜来来〉よりもどぎつい看板が、〈堕落天使〉という店とそこに集う客の下品さを端的に表している。
伍を先頭にしておれたちは店の中に足を踏み入れた。照明は〈夜来来〉より暗く、淫靡《いんび》な空気が充満している。クラブというよりはキャバクラ、それも今流行の抜きキャバを思わせる雰囲気だった。
黒服に案内されて、おれたちは細長い間取りの店内の、ほぼ中央のボックス席に通された。注文やホステスの指名は伍に任せて、おれは店内を見渡した。指摘されなくてもすぐそれと知れる連中が店の一番奥の席を占領していた。渋谷あたりをうろついていそうな身なりの若い連中が五人。見た目は日本人とほとんど変わらない。中央に陣取っているのが小西由浩――趙浩だろう。
黒服が去っていくと、伍がおれの耳許で囁いた。
「連中がそうだ」
「真ん中で偉そうにしてるのが趙浩か?」
「ああ。韓豪を殺ったやつはいるか?」
おれは小さく、素早く首を振った。趙浩を含めた五人に、見覚えは全くない。
ホステスがふたり、やって来た。〈夜来来〉より露出した肌、短いスカート、やつれた顔。荒廃した雰囲気を色濃く身にまとっている。ふたりは席につくなりおれたちの股間《こかん》に手を伸ばしてきた。伍は拒まなかったが、おれはホステスの手を押さえた。
「今日はそういうサービスはいい」
女の耳許で囁く。
「じゃあ、なにしに来たのよ?」
険のある口調と目つきは、女が日本に来てからの歴史を雄弁に物語っている。おれはあらかじめ用意しておいた一万円札を女の手に握らせた。
「あそこの連中、よく来るのか?」
一万円を握り込んだ女の目は柔和になった。おれの肩に手を回し、抱きついてくる。首筋にキスする素振りを見せながら早口でいった。
「この二、三日はね。なんだか凄《すご》い羽振りがいいの」
「それ以前にこのあたりで見たことは?」
「安い飲み屋で酔っぱらっちゃ、だれかれ構わず喧嘩《けんか》をふっかけてたわね。近づかない方がいいわよ。みんな下品なチンピラだから。今は羽振りがいいけど、どうせすぐにお金使い果たして、また元に戻るだけよ」
「連中の名前を知ってるか?」
女はおれの肩に頬を押しつけたまま首を振った。
「連中の住んでる場所は?」
また、否定の仕種《しぐさ》。当然だろう。その場だけの付き合いというのがこの種の店の鉄則だ。
「あの人たちのお金狙ってるの?」
女が囁いた。今度はおれが首を振る番だった。
「いいや。ちょっと気になることがあって訊いてみただけだ」
「ふーん」
女はおれの言葉などこれっぽっちも信じてはいなかった。彼女が住んでいるのは弱肉強食の世界だ。同胞が同胞を食らい、力の強い者だけが生き残る。同じ中国人だからという理屈はうっちゃられ、ジャングルの掟《おきて》だけがすべてを律する。他人の言葉を真に受けるのは愚か者のすることだし、愚か者を待ち受けているのは死へ続く門だ。
おれは伍を盗み見た。伍についたホステスがズボンの上から伍のものをさすっている。伍はにやついた笑みを浮かべながら酒をすすっていた。おれが探りを入れていることを劉健一は知っていた。だれかが劉健一にご注進に及んだのだ。おれが劉健一のことを直接訊いたのは丁友と伍と陳の三人だけだ。伍が密告屋だとしてもなんの不思議はない。伍が劉健一の飼い犬だったとしても驚くには当たらない。
待て――頭の中でおれではないおれが叫ぶ。伍や陳が劉健一の飼い犬だとしたら、ふたりは劉健一の意を受けて動いていることにはならないか? 劉健一に命じられて、おれたちに情報提供していることにはならないか?
おれではないおれの声は、おれを震撼《しんかん》させた。可能性は大いにある。だが、なんのために? 劉健一の動機だけが、淫靡な店内の空気中を漂って漠としている。
おれではないおれの声が正しいのだとしたら、劉健一の目的はなんだ? 一介の情報屋がなにを企《たくら》んでいるというのだ?
おれが発する問いは堂々巡りを繰り返すだけだった。
「伍先生、しばらくここで遊んでいてくれ。おれはちょっと打ち合わせをしてくる」
おれは伍に金を渡して腰をあげた。
「もう行っちゃうの? せっかくお金もらったんだから、サービスしてあげるのに」
「今度ゆっくり来るよ」
まとわりついてくる女を振り払って足早に店を出た。ジャケットのポケットに手を突っこむと、小文の名刺に触れた。顫えそうになる指で名刺をつまみ出す。表に日本語、裏に北京語で小文と店の名前、それに住所と電話番号が印刷されている。中国語が書かれた面の余白に、ボールペンで小文の携帯電話の番号が書きこまれていた。街灯の下に立って、手書きの数字を凝視する。滑らかで几帳面《きちょうめん》な文字だった。昔の小文を髣髴《ほうふつ》とさせる。おれが知っている小文は漢字が書けなかった。学校にも行っていなかった。時々おれの祖父が読み書きを教えていたが、小文は幼すぎた。
ポケットの中を探り、メモ用紙の代わりになるものを探した。くしゃくしゃに丸めたコンビニのレシートがあるだけだった。おれはそのレシトトを広げ、自分の携帯の番号を苦労して書きこんだ。
自分から小文に電話するのは恐ろしい。だが、向こうからかかってくるのなら――。
意気地なしめ、不誠実な男め――おれではないおれがおれを詰《なじ》る。
「黙れ」
おれは小さく叫んで歩き始めた。
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王華は酔いはじめていた。陳と程光亮はまだそれほどでもない。小文は席にはいなかった。
「あいつはどうした?」
おれが戻ると、陳が口を開いた。
「そのまま残してきた。ふたりでやって来て、すぐに帰ったんじゃ怪しまれると思って」
陳は鼻を鳴らした。多分、〈堕落天使〉がどういう店なのかを知っていて、伍を羨《うらや》んでいる。
「それで、いたのか?」
王華が赤らんだ顔をおれの方に突き出してきた。
「いいや。趙浩が連れている連中の中にはいなかったよ」
「なんだよ。それじゃせっかくここまで出張ってきた意味がねえじゃねえか」
「いいや。全く無意味じゃないさ」おれは陳に顔を向けた。「陳先生、あんたの知り合いでアルバイトをしてくれる人間はいないだろうか?」
「アルバイト?」
「そう。この後、趙浩の後をつけて、あいつの住んでいる場所を突き止めてもらいたいんだがな」
陳は腕を組んだ。もったいぶっている。おれたちからいくら引き出したものかと考えている。席を離れていた小文が戻ってきておれの左隣に座った。縋りつくような仕種でおれの左腕に自分の腕を巻きつけてきた。
「お帰りなさい」
かすかな囁《ささや》きが鼓膜を顫《ふる》わせる。
「心当たりがないことはないな。ただし、みんな忙しい連中だから、ある程度奮発してもらわないと」
「五万出そう」
「もうちょっとなんとかならんか」
「おい、趙浩の家を調べるのに、こっちは金払ってるんじゃねえか。それをまだ金をよこせだって!?」王華が口を尖《とが》らせた。止める間もなくまくし立てる。「こっちは親分の仇討ちをしようってんだぜ、あまりがめついこというなよ」
「阿華!」
「なんだよ?」
王華は振り返り、おれの剣幕にたじろいだ。やがて、自分の失言を悟ってふて腐れたようにソファに背中を押しつけた。
「ちぇっ」
ホステスたちはだれひとり、口を開こうとはしなかった。親分の仇討ち――殺しの計画。勘違いしようがない言葉を耳にして、どう振る舞うべきか困惑している。おれの左腕を抱いた小文の身体が強張《こわば》るのを、おれはしっかりと感じていた。
「とにかく、陳先生。アルバイトをしてくれそうな人間に当たってみてくれないか?」
「わかった。ちょっと待っててくれ」
陳は席を外して電話をかけにいった。もったいぶっているというのではなく、はした金の上前をはねるところを見聞きされたくないのだろう。
「阿基」陳が姿を消すと王華が口を開いた。「悪かったな。不注意だった」
「死んでしまえ、馬鹿野郎。韓豪が生きてたら、おまえ、真っ先に地獄行きだぞ」
おれは声を荒らげた。仲間の流氓たちにそんな物言いをしたのは初めてのことだった。王華は驚いて目を見開いた。
「阿基――」
「おまえはもう口を開くな」
おれはもう一度、吐き捨てるようにいった。身体を起こそうとした王華を程光亮が太い腕で制した。
「調子に乗って飲み過ぎたんだよ、阿華。阿基のいうことが正しい。少しは反省しろ」
「なんだよ。よってたかってよ」
「阿基も口の利き方に気をつけた方がいい。まるで今のはおれたちの大哥《ダーゴー》みたいだった」
「悪かった。気が立ってたんだ」
おれは程光亮に謝罪した。実際、自分で自分の語調に驚いてもいた。小文が、小文の皮膚の下で顫える肉の感触が、おれを苛立《いらだ》たせている。触れたくても触れられない存在がおれを苦しめている。
「済んだことは忘れて、飲みましょうよ」
小文がおれの腕をほどいて酒を作りはじめた。他のホステスたちもその言葉に縋るように声のトーンを張りあげた。まだ陳が電話を終えて戻ってくる気配はない。王華はふて腐れたままで、程光亮はむっつり押し黙っている。
自分の感情を持て余しながら、おれは小文から受け取ったグラスを手で弄んだ。酒を飲む気分ではない。だからといって素面《しらふ》でもいられない。グラス一杯に詰められた氷が溶けて、小さな音を立てた。氷のように溶けて消え去ることができたらどんなに楽だろう。
「よかった」
小文がいった。
「なにが?」
「だって〈堕落天使〉に行ったんでしょう? どういう店か知ってるの。阿基があそこに行くって聞いて、どうしようかと思っちゃった。だけど、阿基はすぐに帰ってきた。わたしが考えてるとおりの人みたい」
「ただの早漏かもしれないじゃないか」
おれの軽口に、小文は天を仰いで笑った。剥《む》き出しの喉元があまりにも無防備で愛らしい。
「阿基はそんな人じゃないわ」
「わからんさ」劉健一の呪文《じゅもん》のような言葉が頭の中によみがえる。「だれにも他人のことはわからない。わかったつもりになるのは危険だ」
小文はまたおれの左腕に自分の腕を絡ませた。
「別な人に同じことをいわれたことがあるわ。みんな、辛《つら》い世界に生きてるのね」
おまえもそうだろう――喉まで出かかった言葉を呑みこんだ。小文におれと同じことをいったという未知の男に、おれは激しい嫉妬を覚えていた。徐鋭なのか。それ以外のだれかなのか。約束を自ら抛擲《ほうてき》したくせに、あまりにも未練がましい。消え入りたい、消え去りたい――抑制の利かない思いがおれを圧迫する。
陳が戻ってきた。
「後をつけるのは趙浩ひとりでいいのか?」
「とりあえずは」
「よし。おれの知り合いふたりに話をつけた。ふたりともあいつの顔はよく知っている。今ごろは〈堕落天使〉に向かっているはずだ」
「ありがとう、陳先生。恩に着るよ」
おれは財布を取り出し、陳に五万円を渡した。二重取りされるのは癪《しゃく》だったが、他に選択肢はなかった。王華がかき集めてきた金は確実に減っていく。どこかでまた資金調達をしなければ、そのうち身動きがとれなくなるだろう。
「それで、この後はどうする? ここで待つのか?」
程光亮がいった。おれは首を振る。趙浩たちは店に着いたばかりだ。宵っ張りの文化を引きずっている連中が一軒で遊んだだけで家路につくとは思えない。明け方までのどんちゃん騒ぎが続くだろう。それに付き合って酒を飲んでいる体力は今のおれにはない。
「いったん引き揚げよう。朝までここで飲んでる金もないしな」
王華と陳は露骨に顔をしかめた。
「自腹で遊んでいたいやつは好きにすればいい」
そういって、おれは腰をあげた。程光亮ものっそりと立ち上がった。王華と陳は自腹で飲んでいくらしい。
「何時でもいい、あいつのねぐらがわかったらすぐに電話をくれ」
王華と陳がうなずくのを待って、おれは出口に足を向けた。小文と程光亮の横についていたホステスが従ってくる。
「今度は仕事と関係のないときに来てね」
小文の声が耳朶《みみたぶ》をくすぐった。
「ああ、そうしよう」
携帯の番号を書きこんだレシートを小文の手に押し込んだ。小文は一瞬、戸惑うような表情を浮かべたが、すぐに笑顔を振りまいてレシートを手の中に握りこんだ。小文の指先は冷たく、掌は暖かかった。
支払いを済ませ、エレベータに乗りこんだ。程光亮とホステスが囁きを交わしている。おれと小文は無言のまま、エレベータを降りた。
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程光亮は四ツ谷で電車を降りた。抜弁天のマンションまで、地下鉄を乗り継ぐかタクシーで帰るのだろう。おれはそのまま新宿に向かった。身体はくたびれているが、部屋に戻って眠っても、またあの黒い夢を見るような予感があった。
冷たい雨がアスファルトを濡《ぬ》らしていた。新宿駅東口の雑踏に降り立ち、どこへ向かおうと思案に暮れていると携帯電話が鳴った。
小文からだと思った。そんなはずはないとわかっていても身勝手な希望はいたずらに膨らんでいく。携帯を開き液晶を覗きこんで、深いため息を漏らした。電話の主は劉健一だった。
「もしもし?」
「今、どこにいる?」
「新宿だよ。駅のそばだ」
「ちょうど良かった。いろいろわかったことがある。おれの店に来られないか?」
「葉巻を恵んでくれるかい?」
「美味《おい》しそうなやつを見繕っておく」
含み笑いとともに電話が切れた。駅構内に戻って地下から歌舞伎町に向かった。サブナードを突っ切り、靖国通りの歌舞伎町側に出る。急に降りだした雨のせいか、人の姿はまばらだった。雨に打たれながらさくら通りから歌舞伎町に入っていく。上着を傘代わりにしたサラリーマンがおれの脇を駆け抜けていく。ビニール傘を差したポン引きが愛想笑いを浮かべている。客引きに立っているホステスたちが寒さに顫えながら剥き出しの二の腕をさすっている。髪を濡らした雨が鼻先に滴ってくる。
初めて歌舞伎町に足を踏み入れたときもこんなふうに雨が降っていた。そのときもおれは傘を差さずに濡れていた。流氓社会の末端に連なり、日本語を駆使して日本人相手の窓口係を務め、やがて――。
制服警官の姿が視界にとまり、おれは追憶を振り払った。数日前より数は減ったとはいえ、相変わらず連日の取り締まり強化は続いている。歌舞伎町のあちこちに監視カメラが設置された当初は、流氓たちは戦慄《せんりつ》していた。これじゃあなにもできないと恐れおののいていた。それも、カメラには死角があると気づくまでだ。今では歌舞伎町を根城にする犯罪者たちは監視カメラを嘲笑っている。カメラなどよりも、現実の警官の方がよほど恐ろしい。
警官を避けるようにしてさくら通りからあずま通りに移動した。そこにも警官がいた。区役所通りに出ることも考えたが、結局はやめにした。区役所通りにも警官はいるだろう。なによりも、区役所通りにはおれと美Lが出会った店がある。韓豪が殺されるのを見守るしかなかった場所がある。区役所通りには嫌な思い出が多すぎる。
あずま通りを直進して、路地を右に折れた。劉健一の店はいつもと同じようにそこにあった。インタフォンを押す前に鉄扉の施錠が解かれ、おれは狭い階段をあがった。葉巻の匂いが濃く立ちこめている。劉健一は店の一番奥の席に腰掛けて、いつもと同じようにパソコンの画面を睨んでいた。まるで一日二十四時間、一年三百六十五日、ずっとそうしているかのように。
「意外と時間がかかったな」
パソコンを睨んだまま劉健一はいった。両手を忙《せわ》しなく動かしてパソコンを操作していた。葉巻は専用の灰皿に置かれて、濃い煙をあげている。
「まだ警官がうようよしてる。職質されないようにと歩き回っていたから――」
「職質されたって問題はないだろう」
「問題はないけど、気分がいいものでもない」
「そのとおりだな」
劉健一は破顔した。瞼が下がり瞳が見えなくなる。それでも、あの真っ黒な瞳がこれっぽっちも笑っていないだろうことは容易に想像がついた。劉健一がエンターキィを叩くように押した。背後のカラーボックスの一番上に置かれたプリンタが動き始めた。性能のいいプリンタらしい。あっという間に吐き出されたプリントアウトを手にして、劉健一はおれに座るように促した。おれは劉健一の向かいに座った。
「まず、これだ」
劉健一が一枚のプリントアウトをテーブルの上に滑らせた。住所と携帯電話の番号が印字されている。葛飾区東新小岩――小岩近辺も中国人の多いエリアではあった。
「趙浩の住所だ」
おれは黙って劉健一を見つめた。趙浩の住居を探すようにおれが陳に依頼したその一時間後に、劉健一が趙浩の住所をおれに告げる。そこに作為がないとは考えがたい。
「どうした? 不服か?」
「陳から連絡が入ったのか?」
「陳? どこの陳だ? 陳某っていうのは腐るほどいるぞ」
「ふざけるなよ」
劉健一は葉巻に手を伸ばした。煙を吸い、ゆっくり吐き出す。
「ふざけてなんかいないさ。おまえがいってる陳がどこのだれなのかがわからなきゃ、話にならない。陳の下の名前は?」
おれは首を振った。名前を告げたところで適当にはぐらかされるに決まっている。
「この住所をおれに教えてくれたのは、章伯達《ヂャンボーダー》という男だ。小岩|界隈《かいわい》でろくでもない仕事をしてる男だよ。おまえ、章のことも知ってるのか?」
「おれが知ってるのは陳と伍という男だ」
「伍っていうのも、腐るほどある名字だな……今日、どこでなにをしてきたのかを話せよ。約束だろう」
劉健一はまた葉巻を吸った。葉巻の煙はかすかに湿って、穏やかな木の香りがした。
「おれにも葉巻をくれ。それも約束だったはずだ」
「もちろん、用意してあるさ」
劉健一は内ポケットから細長い革製のケースを取りだした。中には葉巻が入っていた。この前と同じ手順が繰り返される。カッターで吸い口を切り落とし、バーナーで穂先を焙る。手渡された葉巻がかすかにあげる煙は、劉健一が吸っている葉巻と同じ香りを放っていた。
「こないだ吸った葉巻より甘みは薄い。その代わり、他の旨味がある」
葉巻を受け取って口にくわえた。煙を吸いこんだ途端、小文と戯れていた牛小屋の牧草の匂いをまざまざと思い出していた。
「あんたはどこまで知ってるんだ?」
煙を吐き出しながら訊いた。
「おまえとあの女のことなら、大抵のことはわかってるつもりだがな」
前夜ははぐらかされた言葉が、明瞭《めいりょう》な響きを伴って劉健一の口から漏れてきた。
「あの女というのは、だれのことだ?」
「任《レン》美Lといったかな。唐真《タンジェン》の女だったが、三年前に殺された」
葉巻の湿った煙と、劉健一の低い声がおれを過去に誘っていく。忘れ去ろうと努めていたものをおれの目の前にさらけだしていく。おれはつけたばかりの葉巻を灰皿に押しつけた。
「もったいないことをするなよ。ここまで旨味を引き出すのに四年はかかってるんだぞ」
劉健一は軽やかな声でいった。葉巻を惜しんでいるのではなく、おれをからかっている。からかわれていると知りつつも、不思議と怒りは湧かなかった。深い悲しみが心の奥底を包んでいくだけだ。記憶がとめどもなく溢れてくるだけだ。
美Lは唐真の女だった。唐真は当時の歌舞伎町でそれなりの力を持った福建人だった。おれと美Lは偶然出会い、惹《ひ》かれあい、危険な逢い引きを重ねた。美Lは大連の出身だった。流氓の情婦が似合う女ではなかった。だが、それ以外の道を日本では見つけられなかった――他の大勢の女たちと同じように。おれは美Lを救いたかった。自分だけの女にしたかった。だが、唐真は恋敵《こいがたき》としては危険にすぎた。警戒心と猜疑心《さいぎしん》が強く、狡猾《こうかつ》で目端がきく。半端な覚悟ではとてもじゃないが太刀打ちはできない。それでも――。
「うまくやっていたみたいだな。決して新宿近辺じゃ逢わず、だれにも気づかれないようにしてた。だけどな、人の口には戸は立てられない。おまえひとりならともかく、任美Lは目立ちすぎた。ちょっと探りを入れただけで、おまえたちのことを覚えてる人間が引っかかったよ」
おれたちが逢うのは夕方に限定されていた。唐真が眠りこけている時間。唐真の手下たちが寝ぼけ眼で朦朧《もうろう》としている時間。五反田のホテルで慌ただしく身体を重ね、名残を惜しむ暇もなく別れた。人目を避け、人通りの多い場所を避け、それでも――。
「唐真は今じゃあ名古屋の方に逃げていってるが、任美Lを殺した人間がわかったら、必ず復讐《ふくしゅう》してやると周りにいってるらしい」
「美Lを殺したのは唐真だ」
おれはいった。
「いいや。おまえだ」
劉健一がいった。低く静かな声で断言した。その声のトーンにおれは視線をあげた。黒い瞳がおれを凝視していた。口から吐き出したばかりの濃い煙が劉健一の顔の周囲を覆い、まるで異界と現実の境目に劉健一がいるかのような雰囲気を醸し出している。たしかに、劉健一は悪鬼だった。劉健一のどこまでも黒い瞳は悪鬼の瞳だった。
「おまえはおれのことを調べた。おれのうわさ話を聞いた。昔、おれがなにをしたかを知った。そうだろう?」
劉健一に見つめられたまま、おれは動くことも答えることもできずにいた。
「わかるんだよ。おまえはおれと同じ匂いがする。任美Lはおまえが殺したんだ。その現場を見られたか、感づかれるかして、おまえは麻取の犬になったんだ。ちょっと考えれば馬鹿にでもわかる」
「違う……違うんだ」
状況がよみがえる。あれだけ気をつけていたのに、唐真はおれたちのことを疑っていた。おれのことを手下に調べさせていた。調べられていることを知ったおれは理性を失った。幾重にも糊塗した経歴に罅が入ることへの恐怖。唐真はおれの過去を調べていたわけではない。それでも、おれが感じた恐怖が減じることはなかった。でたらめの経歴を身にまとって以来、おれは不安と恐怖に怯《おび》えながら生きてきた。
劉健一は間違っている。美Lを殺したから、矢島に尻尾《しっぽ》を握られたわけではない。矢島は最初から情報提供者の候補のひとりとしておれに目をつけていた。おれへの接近をはかっていた。おれをずっと観察していた。理性を失いつつあったおれが、矢島の存在に気づくこともなかった。
恐怖は高まっていく。おれという存在を内側から食い散らかしていく。歌舞伎町はジャングルだ。密生した樹木の陰からいつ腹をすかした肉食獣が飛び出てくるかわからない。おれは逃げることを決意した。美Lを連れて歌舞伎町から――東京から離れる。行き着く先はどこでもよかった。唐真の目を逃れることができるのなら、どんな田舎に暮らすことになろうともかまわなかった。
唐真が縄張りの見回りに出かけている隙をついて、おれは美Lに会いに行った。逃げようと迫った。
美Lは悲しそうに首を振った。どうして来たのかと呟《つぶや》くようにいった。その瞬間、唐真の仕掛けた罠《わな》にはまったのだということに気づいた。唐真は出かけたふりをしただけだった。おれがのこのことやってくるのをじっと待っていた。
「直接手を下したわけじゃないといいたいのか? 女を撃ったのは唐真で、自分はただそれを見ていただけだと? 女を見殺しにしただけだと?」
劉健一は嗤《わら》っている。顔に浮かんでいる表情はとりとめのないものだ。それでも、劉健一は確かに嗤っている。おれには劉健一の笑顔をはっきりと見て取ることができた。
「黙れ」
あのときの恐怖と嫌悪と屈辱と絶望がよみがえって、おれの身体は顫えはじめていた。
「直接手を下そうが、ただ見殺しにしただけだろうが、変わりはない。だから、おまえはそんなふうに顫えている」
「黙れ」
「だから、矢島なんていう下種《げす》野郎にいいようにあしらわれている」
「黙らないと――」
「おれを殺すか? 無理だ。くだらないことをいって、おれをがっかりさせるなよ」
劉健一は葉巻に口をつけた。煙を口の中に溜《た》め込み、恍惚《こうこつ》に近い表情を浮かべてゆっくり吐き出す。濃密な煙が劉健一の顔の近くでたゆたい、時間をかけて薄れていく。
「自由になりたいか?」
劉健一はいった。
「なんだと?」
「楽になりたいかと聞いてるんだ」
「なれるものなら……だれだってそうだろう?」
劉健一は笑った。頭蓋骨にへばりついている皮膚が引きつったように痙攣《けいれん》しただけだが、それは紛れもない笑顔だった。
「なにがおかしいんだ?」
「人間ってのは、決して手に入らないとわかってるものを手に入れたがる。あるいは、すでに手の内に入れているものを、そうとは気づかずに手に入れたがる。そうじゃないか?」
「いってることがよくわからん」
「忘れてくれ。ただの戯言《ざれごと》だ」
マジシャンが指を鳴らしてものを一瞬で消してみせるように、劉健一の顔から笑みが消えた。煙に巻かれたようだというのは、多分こういうときに使う言葉なのだろう。呆《ほう》けているおれを尻目に、劉健一は別のプリントアウトを指でつまみ、おれに差し出した。
「次は徐鋭の件だ。まず、最初の一枚めが徐鋭が手がけている店のリストだ」
劉健一に促されて、おれはプリントアウトに目を通した。いくつもの店の名前とその業種、住所が印字されていた。七割が〈夜来来〉のようなクラブ。三割が風俗店。所在地は錦糸町界隈と小岩界隈が半々だった。リストの中には〈堕落天使〉の名前もあった。徐鋭と趙浩、それに韓豪の顔がおれの頭の中で結びつき、絡み合う。こんなことになるとは想像もしていなかった。
「徐鋭のバックにだれかがついているということはないらしい。すべてを自分と手下たちだけでまかなってる」
「若い台湾人でそういうのは珍しいんじゃないのか」
「台湾人だろうが大陸の人間だろうが関係はないさ。問題はそいつに能力があるかということだけだ」
劉健一は淡々と語った。表情にも変化は現れない。
「徐鋭にはありそうだな」
「そういうことなんだろう。一番最初に手がけた店が〈夜来来〉だ。六、七年前にオープンしている。そこから徐々に手を広げていったようだ」
「手下たちっていうのも台湾人なのか?」
「いや」劉健一はゆっくり首を振った。「ほとんどは東北人だな」
「金で手なずけた連中か?」
「他には考えられないだろう」
おれはもう一度プリントアウトに視線を走らせた。営業店舗の数を考えれば、それなりの数の人間を手足のように動かす必要があるはずだ。ホステスたちを管理し、金をたかりに来る流氓たちをあしらい、なにかにつけて独立したがる大陸の人間たちをうまく飼い慣らす。相当の遣《や》り手でなければすべてをやりこなすことはできない。徐鋭はそういう男なのだろう。小文はそういう男の情婦なのだ。趙浩たちはそういう男に繋《つな》がっている。
唐真が徐鋭に、美Lが小文に重なっていく。恐怖と絶望に歪《ゆが》んだ美Lの顔が小文のそれに変化していく。
もうあのときと同じ過ちは繰り返さない。約束を違《たが》えたりはしない。
「この徐鋭が韓豪を襲わせたと疑ってるのか?」
劉健一の問いに、おれは反射的に首を振った。
「まだよくわからん。ただ、さっきまでおれは錦糸町にいたんだ。趙浩が姿を現したという連絡が入って……やつらはこの〈堕落天使〉っていう店で遊んでいた」
劉健一はプリントアウトを覗きこんだ。
「なるほど。容疑濃厚というやつだな。どこから徐鋭に辿《たど》り着いたんだ?」
頭の中で警報ベルが鳴り響く。徐鋭に辿り着いたのは小文のせいだ。小文はおれの過去に繋がっている。幾重にも糊塗した経歴を支える土台を揺るがす力を持っている。
「たまたまだよ。錦糸町でいろいろ情報を集めている内に、徐鋭の名前が耳に入ってきたんだ」
「そうか……じゃあ、この女はどうなんだ? この前の留守電に入っていたおまえの声を聞く限り、かなり執着しているようだが」
劉健一は別のプリントアウトをおれに押しつけた。小文のフルネーム――藍文慈という文字が視界一杯に広がっていく。印字された現住所と出身地が滲んでぼやけていく。
「日本に来たのは五年前だ。蛇頭がらみの密航というところだろう。三百万の密航代金のうち、五十万だけ前払いして船に乗ったそうだ。二百五十万の借金は少しずつ返済していたんだが、三年前に残金を一括払いしている。そのころ、徐鋭の女になったんだろうとおれは睨んでる」
劉健一の言葉が鋭い針のようにおれの脳に突き刺さる。ほんの短期間でどうしてそこまで調べ上げることができるのか。こんな調査能力があるのなら、おれの偽りの経歴を見破るのも時間の問題だ。
「教えてくれないか。どうしてこの女に執着してるんだ?」
「美Lに似ているんだ」声が顫えないよう、ありったけの理性を総動員して答えた。「初めて見たときから気になって仕方がなかった。それが、徐鋭の女だということがわかって……美Lと唐真のことを思い出さされたよ。それで、留守電にあんなふうにメッセージを吹き込んだんだ」
「なるほど、そういうことか」
劉健一の唇が吊り上がった。笑ったわけではない。劉健一は普通の人間が想像するようには笑ったりはしない。
「徐鋭は唐真とは違うぞ。おれが聞いた話じゃ、女は別に金や暴力で縛りつけられているわけじゃない。自分で望んで徐鋭のそばにいるんだ」
「別にどうこうしようと思ってるわけじゃない」
「そうだろうとも。だが、藍文慈の名前を見たときのおまえの顔は尋常じゃなかったぞ。あれは愚かな男の顔だ。おれが嫌いな種類の人間の顔だ」
「あんたに気に入られたくてここにいるわけじゃない」
「おれはおまえを気に入りたいんだがな」
劉健一は静かにおれを見据えた。真っ黒な瞳の奥で奇妙な光が踊っていた。
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逃げるようにして劉健一の店を出た。恐怖は足許《あしもと》にへばりついたまま、頭の中は混乱している。
ひとつの確信だけがおれの身体を一直線に貫いている。
劉健一はおれの言葉をなにひとつ信じてはいない。小文が美Lに似ているから惹かれたなどという戯言には一片の関心も持ってはいない。
劉健一を殺さなければならない。幾重にも糊塗した経歴のでたらめぶりを暴かれる前に、あの口を、あの目を、あの耳を塞《ふさ》いでしまわなければならない。
雨はあがっていた。雲の切れ目から綺麗《きれい》な半月が顔を覗かせていた。闇が口を開け、おれを嘲笑《あざわら》っているかのようだ。月は冷え冷えとした光でおれを照らしている。おれは歌舞伎町の通りにぽつんと突っ立って、歯を食いしばりながら、内なる殺意に目を向けていた。
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浅い眠り――疲労が身体の中に蓄積していく。それでも容赦なく朝は訪れ、眠りは引き裂かれる。墜《お》ちていく感覚の中に取り残されている。飛翔《ひしょう》する喜びはどこを探しても見つからない。這《は》うようにベッドを抜け出し、携帯電話の電源を入れた。留守番電話のメッセージをチェックする。
保存されているメッセージは一件。再生して立ち尽くす。
「阿基? わたし、小慈よ。もう、寝てるのかしら。そうね、もう朝の六時だもの。今日はお店に来てくれてありがとう。わたしみたいなおばさんが横にいても、阿基は嫌がらないから嬉《うれ》しいわ。また、来てね。待ってるから」
ただの営業電話だ。ホステスが客を呼び寄せるためにかけてくるあの電話だ。そう思っても、心は千々に乱れていた。まるで十代のガキのころのように頬が火照っている。朝の六時に営業電話をかけてくるホステスなど聞いたことがなかった。だからといって、小文の声に特別な響きがあったわけではない。
どうしていいかわからなかった。自分の感情を制御することができなかった。おそるおそる小文からもらった名刺を取りだし、そこに書かれた電話番号を押した。呼び出し音がなり、やがて回線が繋がる音がした。
心臓は激しく脈打っていた。それでも、小文が眠っているだろうことは容易に想像できた。電話に出たのは、留守を告げる無機質な声だった。
おれは電話を切り、ため息を漏らす。なにをしているんだと自嘲《じちょう》する。笑いは次第に大きくなり、なにかの発作のようにとまらなくなった。
笑いながら電話をかけ、韓豪の手下たちを呼び出した。
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おれの呼び出しに応じてきたのはたったの五人だった。揃った面子《メンツ》を見て、王華がいきり立った。
「他の連中はどうしたんだよ!? 韓豪が殺されたんだぞ。おれたちの面子が潰されたんだ。わかってるのかよ?」
他の連中は逃げた。あるいは未来に向かって足を踏み出した。韓豪の仇を討ったところで、失われたものが戻ってくるわけではない。揺頭の商売は韓豪がいなければ成り立たないものだった。韓豪がいたからこそ、おれたちは美味しい思いを味わえた。死ねばすべてが無に帰す。韓豪のために金を出したじゃねえか――ここに来なかった連中のいい分はそれだろう。過去にしがみついて無駄な労力を費やすより、明日の糧を求めて新たなボスを捜した方がましなのだ。
「落ち着けよ、阿華。これだけ集まってくれただけでも御の字だ」
おれは心にもない言葉を口にした。おれの呼びかけに応じたということは、要するにうまく立ち回ることができなかったということだ。新しいボスを捜すあてもなく、かといって自ら商売を興すこともできず、途方に暮れていた連中。まともな仕事には使えないが、単純労働なら使いでがある。なにより、自分の頭でものを考えられないのはありがたい。
王華は不機嫌そうに唇を尖らせて腕を組んだ。これ見よがしに椅子に座り直す。
「趙浩の住所がわかった」
おれは静かにいった。途端に王華が身を乗り出してきた。
「陳と伍のやつらがもう調べてきたのか?」
「違うルートから仕入れた情報だよ」
「じゃあ、やつらにくれてやるのは無駄金じゃねえか」
「阿華――」おれが口を開く前に程光亮が王華を睨んだ。「最後まで阿基の話を聞こう」
「陳と伍はそれほど信用できない。保険をかけておく必要があったんだ。おまえたちの――おれたちの金を無駄に使ってるわけじゃない」
王華は相変わらずふて腐れていたが、他の連中は黙っておれの言葉に耳を傾けていた。
「阿華や阿亮から話は聞いているだろう?」
五人が無言でうなずく。
「おれたちは錦糸町の趙浩って男が怪しいと睨んでいる。だが、実際に韓豪を殺したふたり連れはまだ見つけていない。そいつらを見つけなきゃならない。趙浩が韓豪を殺ったんだという確実な証拠がいる」
「どうしようっていうんだよ?」
王華が痺れを切らしたように口を開いた。おれはその言葉を無視した。
「韓豪を殺ったのが趙浩だとしても、あいつが自分の考えで事に及んだとは思えないんだ。裏で糸を引いているやつが必ずいる」
王華がさらにいきり立つ。無視されたことを怒っている。面子を潰されたという目でおれを睨んでいる。くだらない男だ。韓豪の周りにいたのは、いつも王華のような連中ばかりだった。韓豪は死ぬべくして死んでいった。
「なんとしてでも裏で糸を引いているやつを見つけたい。手伝ってくれるか?」
「もちろんだ、阿基。おれたちにできることはなんだってやってやるさ」
答えたのは程光亮だった。反論する者はいない。
「おれたち六人で、趙浩を交代で見張る。あいつがだれと接触してるのかを調べ上げる。絶対に、趙浩の後ろにはだれかがいる」
「自信ありげだな」
王華が鼻を鳴らした。おれは薄笑いでそれに応《こた》えた。いなければ困る。韓豪襲撃の実行部隊が趙浩とその部下たちでなければ困る。
「ふたりずつ、三交代で趙浩を見張ろう」
朝八暗から午後四時まで、午後四時から真夜中まで、真夜中から朝八時まで。二十四時間を三つに区切り、それぞれの受け持ちを決める。
「王華、おまえはいつがいい?」
王華に花を持たせてやるために、おれは最初に訊いた。
「この時間割、もう少しなんとかならねえのかよ?」
王華の問いに、おれは首を振った。
「一番楽なのは朝から夕方の時間帯だろう。たぶん、趙浩はこの時間は寝てるはずだ。だが、楽な分、退屈になる」
王華は舌を鳴らし、決断した。
「じゃあ、夕方から夜までだ」
「よし、じゃあ、阿華と阿亮でその時間を頼む」
おれは程光亮の目を見た。王華と他の人間を組ませれば、王華が仕事をサボるのは明白だった。程光亮ならば、ある程度睨みを利かせることができる。朝から夕方までの時間を崔《ツイ》と林《リン》というふたりに任せ、おれは真夜中から朝までの時間帯を請け負った。相棒は宋鐘《ソンジョン》といううだつの上がらない男だ。いつもだれかに依存していなければ不安になるタイプの人間で、とても操り易い。いい換えれば、どうにでも扱える男だった。
「早速今日からはじめよう。辛いと感じるかもしれないが、一ヶ月これを続けるわけじゃない。早けりゃ二、三日で片がつく。なにより、韓豪の仇を討つためだし、失ったおれたちの面子を取り戻すための仕事だ。なにかあったら連絡をくれるのは当たり前だが、なにもなくても、四時間に一度、おれの携帯に連絡を入れてくれ。金が必要なときも遠慮なくいえよ。みんなから預かった金はまだ余ってるからな」
反論や質問はなにもなかった。王華を除いた四人が真剣な眼差《まなざ》しでおれを見ているだけだ。
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宋鐘と一緒に外に出た。歩きながら待ち合わせの場所や時間を決めていると、後ろから程光亮が追いかけてきた。
「ちょっといいか、阿基」
おれにいいながら、程光亮は宋鐘をちらりと睨んだ。それだけで宋鐘はおれたちと距離を取った。
「あいつらのおまえを見る顔に気づいてるか、阿基?」
程光亮は肩越しに顎《あご》をしゃくった。
「なんのことだ?」
「みんな、おまえを韓豪の代わりだと思ってる」
「馬鹿いえ」
「素直になれよ、阿基。逃げていった連中は韓豪の代わりのボスを探そうと躍起になってる。あの三人はそれもできなくて、おまえに縋《すが》ってるんだ。おれも正直、おまえにここまでの器量があるとは思っていなかった」
「阿亮――」
「いいんだ。文句をいってるわけじゃない。おれは韓豪の仇を討ちたい。そのためにはおまえのいうことを聞いていた方が得策だと思うから、こうしてる」
「そりゃありがたい」
程光亮はかすかに背を丸め、声を落とした。
「阿華に気をつけろ。あいつはおまえのことをよく思っていない」
「本当は自分が仕切りたいんだろう」
「そうだ。だけど、あいつにはそんな器量はない。あいつは韓豪の代わりに自分がボスになりたがってるがな。だれもあいつについていくやつはいない。いいか、阿基。あいつと一緒にいるときは、おれが目を光らせてる。だけど、二十四時間一緒にいるわけにはいかないからな――」
「阿華がおれたちを裏切るとでもいうのか?」
「あいつはなにをしでかすかわからないといってるんだ。背中に気をつけろ。おまえになにかあったら、韓豪は犬死にのままだ」
わかったという代わりに、おれは小さく手を振った。程光亮は足をとめ、踵を返した。たぶん、王華にはおれにいい忘れたことがあったとでもいって出てきたのだろう。あまり長く席を外していると、王華の猜疑心を刺激する。
王華はろくでもない男だが、程光亮はおめでたい男だ。
振り返らずに歩き続けていると、宋鐘が小走りでおれを追いかけてきた。
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宋鐘と別れて部屋に戻った。極限の疲労――脳細胞が眠ることを拒否する。程光亮たちに熱弁をふるっていたときには薄れていた恐怖が、ひとりになった途端におれを縛りつける。
劉健一の目。劉健一の声。劉健一は必ずおれのでたらめの経歴を打ち壊すという確信めいた信念。妄想めいた信念といえばいいのか。劉健一を殺さなければならない。あの男の目を、口を、耳を塞がなければならない。
おれにはその力がない。だが、力を持つ人間を知っている。
矢島に電話をかけた。電話は繋がらなかった。村上に電話をかけた。電話はすぐに繋がった。
「ちゃんと電話してきたな。いい心がけだ」
村上の声は低く、重い。寝不足か二日酔いを思わせた。おれは唇を舐《な》め、頭の中で組み立てた物語をもう一度なぞった。穴はない――ないはずだ。
「小西とかいう野郎のこと、少しばかり調べておいたぜ」
「なにかわかりましたか?」
「ああ。錦糸町にうちの系列で谷岡組っていう組がある。そこの組員に伊取《いとり》秀樹《ひでき》ってのがいるんだが、小西はそいつの親戚《しんせき》筋に当たるらしい。まあ、親戚といっても、顔も滅多に会わせないような遠縁でな。その小西ってガキのぐれっぷりに親が手を焼いて、伊取に面倒を見てくれないかと泣きついてきたらしい」
「じゃあ、別に谷岡組の構成員というわけじゃないんですね?」
「そうだ。伊取も手を焼いて、ほとんど縁切り状態らしい。困ったときだけ泣きついてくるんだとよ。でまあ、親戚筋で面倒見役ってことなら、それとなく小西ってガキに探りを入れてくれないかといってある。おっつけ連絡があるだろう」
光明が灯《とも》ったような気がした。村上の筋から真相が暴かれるなら、それに越したことはない。小西――趙浩の名を教えたということでおれへの覚えもめでたくなるだろう。だが――劉健一がいる。あの男がいる限り、おれは安らかに眠ることができない。小文との約束を果たすことができない。
「もし小西が口を割ったときは、おれにも真相を教えてください」
「もちろんだ。こんな馬鹿なことが二度と起きねえようけじめはつけなきゃならないが、おまえらも関係者だからな。全部教えてやるよ」
「もし、そっちの線からなにも出てこなかった場合は――」
「そんなことはないように願ってるんだがな。しかし、その口ぶりじゃ、ものになりそうなネタを掴《つか》んでるみたいだな」
おれはもう一度唇を舐めた。唇は完全に干涸らびてざらついていた。
「少しばかり気になる情報があるんです」
「なんだ?」
「村上さん、劉健一っていう名前を耳にしたことはありますか?」
一瞬、間があいた。ほんのわずかな空白がまたぞろおれの心を蝕《むしば》んでいく。
「新宿のこっち側で飯を食ってる人間なら、必ず聞く名前だぞ、それはよ。噂にいろんな尾鰭《おひれ》がっいて回ってるが、要するに過去の人間だ。劉健一がどうした?」
村上の声に含むところはなかった。劉健一と繋がりがあるわけではない。
「今でも歌舞伎町に棲《す》みついていて、情報屋をやってることは」
「小耳に挟んだことはある」
「今回の件で劉健一に仕事を頼んだんです。韓豪の件でなにか情報を掴めないかと」
「それで?」
村上はさりげなさを装うとしていたが、声の調子がそれを裏切っていた。
「はぐらかされてるような気がするんです」
「どういうことだ? もう少しわかりやすく説明しろ」
「つまり――なにか情報を掴んでいるくせに、おれには隠している。そんな気がするんです」
返事はなかった。村上は押し黙っている。低い息づかいが聞こえてくるだけだった。
「村上さんは過去の人間だといいますが、劉健一は都内にもの凄い情報網を張り巡らせていますよ。中国人に関わることなら、大抵の情報は自分の耳に入るようにしているんです。実際、おれが買いたいといった情報は、遅くても二、三日で手に入れてきます」
「なにがいいたいんだ?」
「韓豪の事件に関しては、肝心な情報はなにも出してこないんです。だからといって値段を吊《つ》り上げるわけでもない。中国人にしては、こういう態度はおかしいんですよ」
「たしか、あいつは日本人と台湾人のハーフだろう」
「同じですよ。歌舞伎町の中国人社会で暮らしてるんですから。相手が欲しがっているものは値を吊り上げる。相手が乗ってこなかったら別の人間に売る。売れるものはなんでも売るっていうのが中国人です」
おれは言葉を切って息を吸った。必要以上に酸素を浪費している。あまり勢いをつけすぎると、村上にいらぬ疑惑を抱かせることになる。
「売れるものを持っているのに売ろうとしないのは、それが自分にとってやばいものだからですよ、村上さん」
「劉健一があれに関わっているというのか?」
「それはわかりません。でもなにかを知っていて、それを隠しているのは確かだと思います」
「ふん。どうしたもんかな」
「錦糸町の線がだめだったら、劉健一の口を割らせてみたらどうですか?」
「それだと、面倒なことになる可能性があるだろうが。過去の人間だといっても、中国人の世界じゃ大物だったこともあるんだ。その辺のチンピラ風情とはわけが違う」
「だれにもわからないように事を進めて、口を塞いでしまえばいいんじゃないですか。あの男は秘密主義です。他人の情報は見境なく集めて売り飛ばしてますが、自分のことはだれにも話しません」
また、唇が乾いていた。乾いているのは唇だけではない。舌も喉も、眼球さえも乾ききっている。
「だれにも知られずにやろうと思えばできるはずです」
「まず、そんなことにはならねえと思うがな。錦糸町の線で片づくだろう。だが、片づかないときは、考えておくか」
村上の言葉が終わるのと同時に力が抜けて、携帯を取り落としそうになった。携帯を持つ右手を左手で支え、手の甲に爪を立てた。
「とにかく、錦糸町からの連絡を待つ。なにかわかったらおまえにも報《しら》せるから、おとなしく待ってるんだな」
「わかりました」
電話を切った。携帯が鉛の塊のように重く感じられた。
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仮眠を取りながら時間を潰した。眠りに落ちてはすぐに目覚め、目覚めてはまた眠る。疲労が癒《い》えることはないが、だからといって不眠不休では動けない。ときおり、矢島に電話をかけてみたが不通のままだった。
午後八時過ぎに、王華から電話がかかってきた。
「野郎、やっとねぐらから這い出てきたぜ」
「どこに向かってる?」
「まだわからんが、錦糸町だろう」
「手下は?」
「ひとりだ。移動先がわかったら、また連絡を入れる」
ベッドから抜け出してシャワーを浴びた。カップ麺で胃袋を満たし、王華からの連絡に備えた。もし、趙浩の行き先が谷岡組――親戚の伊取のところなら、駆けつけて様子を見守りたかった。
次の電話がかかってきたのは一時間半後だった。
「飯を食ったあと、やくざの事務所みたいなところに入っていきやがった」
「なんていう組かわかるか?」
「谷岡組だ」
「錦糸町のどの辺りだ?」
「ラブホテル街があるだろう。あの辺りのマンションだよ」
「今すぐそっちに行く。待っててくれ」
「おい――」
王華の言葉を最後まで聞かずに電話を切った。部屋を出てタクシーに飛び乗る。チップを払うと匂わせ、急がせた。十時ちょうどには錦糸町に降り立っていた。携帯電話で連絡を取り合い、王華と程光亮に合流した。ふたりはラブホテル街の街角に所在なげに佇《たたず》んでいた。その姿は錦糸町辺りで燻《くすぶ》っている中国人そのもので、不思議と風景に溶けこんでいる。
「あのマンションだ」
王華は派手な外観のラブホテルの脇にあるマンションに視線を向けた。一見、どこにでもある普通のマンションだったが、入口の上に大仰な看板が掲げられていた。
〈関東曙光《しょこう》会 谷岡組〉
「趙浩の後に、だれかマンションの中に入っていったか?」
「チンピラ風の男がひとりだけだ。マンションの入口のところに監視カメラらしいのがあってよ、迂闊《うかつ》に近づけねえ」
「ちょっと見回ってくる」
おれはふたりをその場に残してマンションに足を向けた。通行人を装ってマンションの横手を通り、裏を回って元の場所に戻ってくる。マンションの内部を覗くことも推測することも不可能だった。
「中の様子はまったくわからんな」
「だろう。どうする?」
「悪いが、もう少し見張っててくれるか。おれは伍と陳に話をしてこなけりゃならない」
王華が不満そうに唇の端を歪めたが、程光亮が機先を制して口を開いた。
「行ってこいよ。どっちにしろ、おまえの受け持ち時間は十二時からだ。なにか動きがあったらすぐに連絡を入れる」
「頼む」
おれはふたりに背を向けた。伍と陳に会いに行くというのはでたらめだ。〈夜来来〉に行きたかった。小文の顔を見たかった。
歩きながら、そのために錦糸町に来たのだということに思い当たった。あのふたりが見張っているのだから、おれがわざわざ錦糸町に出てくる必要はなかったのだ。それなのに、なにかに急《せ》かされるように部屋を出たのは、無意識のうちに錦糸町に行けば小文に逢えるという想いがあったからに他ならない。
悄然とした。自分の能天気さと身勝手さに寒気すら覚えた。足取りは重くなる。だが、止まることはない。おれは自嘲し、内省し、恐怖の触手に怯え、それでも止まることなく歩き続ける。小文のもとを目指す。
〈夜来来〉は繁盛していた。笑い声と歌声と歓声が飛び交い、まるで春節のときのように賑《にぎ》わっていた。そんなときにひとりで入ってきた客が歓待されるはずもなく、おれは入口近くの小さなボックス席に通された。黒服が女の子はすぐに呼びますからといいながら、自分で水割りを作っていった。しばらくは待たされるということなのだろう。水割りには手をつけず、ホステス用の小振りのグラスに自分で水を注いだ。水を飲みながら、店内を観察する。一番奥の席が一番騒がしかった。五人連れで十人近くのホステスを独占している。その席に小文がいた。ボックスの中央に近い席。女王のような笑顔。小文の腰に手を回している右隣の男は徐鋭だった。グラスを握る手に力が入って、中の水が激しく揺れた。自分でも制御しがたい嫉妬に襲われて目眩を覚える。
おまえにそんな資格はない――自分にいい聞かせながら、グラスの中の水をゆっくり飲み干した。新しい水を注ぐ。乱暴に注いだせいで水はまた激しく揺れた。まるでおれの心の合わせ鏡のようだった。
ちびちびと水を飲みながら心を無にしようと努めた。劉健一はいっていた。小文は自ら望んで徐鋭のそばにいるのだと。それが本当なのだとしたら、あの約束と約束を果たそうとするおれの意志はなんの意味もない。実際、徐鋭の横で楽しそうに微笑む小文の姿は劉健一の言葉を裏づけているように思える。
来るのではなかった――悔恨が波のように繰り返し押し寄せる。胃がしくしくと痛みだし、極度の疲労に神経が悲鳴をあげる。悔恨が嘔吐《おうと》感に変わり、胸のむかつきが耐えがたくなる。
おれはトイレに立った。胃の中のものをすべて吐き出し、それでも嘔吐感は収まらずに黄色く粘つく胃液を吐き続けた。十分もそうしていただろうか。心配して様子を見に来た黒服が個室の外から声をかけてきた。すぐに戻ると応じて最後の胃液を吐き出し、洗面台で顔を洗った。鏡に映るおれの顔は憔悴《しょうすい》し、やつれきっている。劉健一は悪鬼だがおれは幽鬼だ。小文にとっても、おれは亡霊のようなものだろう。過去からよみがえってきたはた迷惑な亡霊だ。
席に戻ると小文がおれを待っていた。
「待たせてごめんなさい、阿基。トイレで吐いてたって聞いたけど、大丈夫なの?」
「寝不足と煙草の吸いすぎだ。吐いたら楽になった」
「まだあの仕事の片がついてないのね?」
「簡単に片づくような仕事じゃないからな。水をくれ」
はい、と軽やかに答えて小文はグラスに氷を入れ、水を注ぎはじめた。その仕種を見つめながら、小文は徐鋭におれたちのことを話しただろうかと訝《いぶか》った。もし、趙浩と徐鋭が繋がっているのなら――韓豪殺しに徐鋭がなんらかの形で関わっているのなら。そのことを小文が知っているのなら。疑問と疑惑は堂々巡りを繰り返す。おれが縋れるのは、小文が昔のままの小文なら、自分が裏切った人間の前で開けっぴろげな笑みを浮かべることなどできないだろうというその一点だけだ。
「わたしは水割りをもらってもいい?」
おれに水の入ったグラスを手渡しながら小文はいった。おれはうなずいた。
「阿基、ちゃんとご飯は食べてるの?」
「おふくろみたいだな、小慈は」
「みんなにいわれるわ。年寄りみたいだって。子供のころ、お爺《じい》ちゃんに毎日のようにいわれてたのよ、ちゃんとご飯は食べてるか、食べなきゃだめだぞって」
藍文樂はおれにも同じことをいっていた。阿基、ちゃんとご飯を食べろ、たくさん食べて大きくなって、お爺ちゃんやお母さんを楽にさせてやるんだ。おれは唇を噛《か》んだ。そうしなければ、記憶の奔流に押し流されてしまう。
あのころのように無邪気な笑みを浮かべながら小文は自分のグラスを掲げた。おれも水の入ったグラスを掲げて乾杯に応じた。グラスの中の氷が揺れる。それに合わせておれの心も揺れ動く。
「阿基はどんな子供だったの?」
「生意気なくそガキだ」
「そうかしら。優しくて素敵な子だったんじゃないかと思うけど――」
奥の席の動きに気づいて小文は言葉を切った。徐鋭たちが席を立とうとしている。
「ちょっとお見送りに行ってくるから、待っててね。帰っちゃだめよ」
小文は慌てたように立ち上がり、徐鋭のもとに去っていった。徐鋭の腕に抱きつき、耳許でなにかを喋っている。徐鋭がおれの方に視線を投げかけて不遜《ふそん》な笑みを浮かべるのが見えた。ふたりはそのまま、おれの方に歩いてきた。
「徐鋭といいます。この店のオーナーです。ここのところ、小慈がお世話になっているそうで、ご挨拶《あいさつ》に伺いました」
徐鋭はおれの目の前で足を止めた。よく通る声だった。一歩間違えれば嫌味に聞こえるところだが、抑制が利いてぎりぎりのところで踏みとどまっている。話したのは北京語だが、巻き舌の発音を一切無視する台湾|訛《なま》りが顕著だった。
「武基裕です」
おれは右手を差し出した。徐鋭が力強く握りかえしてくる。自信に満ちあふれた者にだけできる握手の仕方だ。
「日本人ですか? それにしては中国語がお上手だ」
「残留孤児です。二世の」
「ああ、なるほど。この辺りにも残留孤児の二世、三世は多いですよ。あなたは新宿だとか?」
「ええ。韓豪という男の下で働いてたんですが、今は求職中です」
カマをかけてみた。徐鋭の表情にはなんの変化も現れなかった。
「あの事件のことはこの辺りでも話題になりましたよ。お悔やみ申し上げます」
「その言葉を仲間たちに伝えますよ。みんな喜ぶでしょう」
「この世界には悲しむべき事がよく起こります。あまり気を落とさないで。ところで――」
徐鋭はこれ見よがしに腕時計を覗いた。金無垢の時計が店の照明を受けてきらめいている。
「この後、お時間はありませんか? わたしは別の店に移動しなければならないんですが、お近づきの印に、そこでお酒でも」
おれは小文の顔を盗み見た。小文は複雑な表情を浮かべている。おれと徐鋭が仲良くなるのは嬉しいが、おれが店を出て行くのは悲しい。そんな表情だ。
「お邪魔じゃなければ、喜んで――」
そこまでいったところでだれかの携帯が鳴り始めた。
「失礼」
徐鋭がおれに断りを入れて電話に出た。低い声で話しはじめる。最初は苛立っていたようだが、徐々に表情に緊迫感が浮かびはじめた。視線でおれに合図を寄こし、店の外に出て行った。
「ごめんなさい。せっかくお話をしていた最中なのに」
徐鋭の変わりに小文が謝った。
「気にするなよ。忙しい男なんだろう」
「彼が戻ってくるまで、もう少し阿基に甘えていようかしら」
小文は悪戯《いたずら》を企んでいる少女のように笑って、おれの横に腰をおろした。その瞬間を見計らっていたように、今度はおれの携帯が鳴りはじめた。
「なによ、みんな電話ばっかり」
拗《す》ねる小文に詫《わ》びを入れ、電話に出た。
「大変だ!」
王華の叫びが鼓膜を激しく顫わせた。おれは思わず顔をしかめた。
「なにが起こったんだ?」
声をひそめて聞き返した。小文は乱暴に水割りを飲んでいる。
「銃声がした。あのマンションからだ。それで、すぐにあの野郎が飛び出てきた。おれたちは今、後を追ってる」
王華が動転しているのは声のトーンでわかった。
「阿亮に替わってくれ」
「ま、待ってろよ」
ほんの一瞬だが、おれにはもどかしい時間が過ぎた。
「おれだ」
「なにが起こったんだ?」
「わからん。二、三分前にマンションの中から銃声が聞こえたんだ。すぐに趙浩が姿を現して、タクシーに飛び乗った。おれたちも後から来たタクシーで追いかけてる」
「銃声は一発だけか?」
左手で唇を押さえた。携帯電話から伝わってくる物々しい雰囲気に、小文が水割りを飲む手を止めていた。
「三発だ」
「マンションから出てきたのはあいつだけか?」
「最初はそうだ。おれたちがタクシーを捕まえて、バックミラーを見たら、やくざたちがぞろぞろと飛び出てきたよ」
「今、どっちに向かってる?」
視界の隅に外から戻ってくる徐鋭の姿が映った。紳士然とした表情はすっかり影を潜め、不機嫌な暴君のような荒々しい歩き方になっている。
「ちょっと待ってくれ」程光亮の声がわずかに遠ざかり、すぐに声が聞こえてくる。「亀戸《かめいど》の駅を越えた辺りだ。まっすぐ東に向かっている」
「わかった。おれもできるだけ早くそっちに向かう」
電話を切って徐鋭に向き直った。
「申し訳ない、徐先生。せっかくお誘いいただいたんですが、急用ができてしまいました」
「いや、わたしの方にも急用ができまして。こちらからいい出したのに申し訳ない――そうだ」徐鋭は財布の中から名刺を取りだした。「明日にでも電話をください。遠慮などしないで、必ずですよ。それから、今日のお支払いは結構ですから」
「しかし、それでは――」
「小慈を気に入って通ってくれるお客さんは大事にすることにしてるんです。若い娘の外見に惑わされるんじゃなく、人の本質を見極められる人のはずですから」
くだらないことでいい争っている時間はない。名刺を受け取った。
「それじゃ、失礼します」
「また、お会いしましょう」
「小慈、見送りはいいよ。また、今度」
腰を浮かしかけていた小文を制して、おれはふたりに背を向けた。焦燥と未練が同時に押し寄せてきている。入口で振り返った。徐鋭と小文がおれを見つめていた。徐鋭と目があった。
徐鋭にかかってきた電話は趙浩からのものだという直感に全身を貫かれた。揉《も》め事を引き起こした趙浩が徐鋭に助けを求める。あり得ないことではない。ほとんど同時期に徐鋭とおれの携帯が鳴ったことをただの偶然で済ませることはできそうにもない。
おれは唇を舐めた。相変わらずおれの唇は乾いている。小さく頭を下げ、店を後にした。
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王華たちを追いかける前に谷岡組の事務所の方に回った。パトカーと救急車がマンションの周りを取り囲んでいた。血なまぐさい空気と物々しい雰囲気に野次馬がたかっていた。
野次馬をかき分けて最前列に進んでみる。ちょうど、ストレッチャーに乗せられた男が運ばれてくるところだった。一目見ただけで、男が死んでいることがわかった。苦悶《くもん》に歪んだままの顔からは血の気が完全に失せている。伊取という男だろう。それ以外には考えられない。
現場から離れてタクシーを拾った。京葉道路を東に向かえと指示し、王華ではなく程光亮の携帯に電話をかけた。
「今はどこだ?」
「高速に乗って江戸川を渡ったところだよ」
「おれも後を追いかけている。こっちからも連絡を入れるが、行き先の目処《めど》がついたら、そっちからも連絡をくれ」
「わかった」
王華と違って程光亮の言葉は簡潔だった。その簡潔さが揺れているおれの心を支えてくれた。徐鋭や小文のことを考えるのは後回しだ。今は事態がどう推移していくのかを見守る方が先決だった。
電話を切り、今度は村上にかけた。
「なにが起こった?」
電話に出るなり怒鳴るように村上はいった。
「こっちがそれを知りたいんです。今日、小西が谷間組の事務所に顔を出すのを、こっちの人間が確認してます。それで様子を確かめようと錦糸町に向かったら、いきなり銃声がして――」
「やられたのは伊取だ。間違いねえ。ってことは、殺ったのはそのガキか? てめえの面倒を見てくれた親戚をぶち殺したってのか?」
「多分。まだ村上さんには詳しい話が行ってないんですね? どういう状況だったのかがわかったら、連絡いただけますか?」
「てめえはなにをしてるんだ?」
「小西を追いかけてます」
「見失うなよ。必ずそいつのケツに食らいついて、逃げ場所を教えるんだ。組事務所で事を起こすなんてとんでもねえことなんだぞ。わかるよな?」
「はい」
警察が事務所の中に土足で入り込んでくる。痛くない腹も痛い腹もいっしょくたにして探られる。やくざにとってこれほど頭の痛いことはない。
「必ずとっ捕まえるんだ。いいな」
村上は一方的にいって電話を切った。おそらく錦糸町だけでなく歌舞伎町の方も混乱しているのだろう。やくざの組事務所で銃を撃つなど前代未聞だ。中国人でもそこまではしない。いや、多少なりともまともな頭を持つ中国人ならだ。趙浩はいかれている。とち狂っている。
運転手に高速に乗れと指示を出している最中に、程光亮から連絡が入った。
「船橋で高速を降りるぞ」
「わかった。見失うなよ――船橋で高速を降りてください」
運転手にそう告げながら電話を切った。趙浩は千葉で暴走族まがいのことをしていたはずだ。地元へ逃げようとしているのか。あるいは徐鋭からなんらかの指示を受けたのか。いずれにせよ、やくざ者を、それも親戚筋の人間を殺したとなれば、日本国内に安息の地はないだろう。
窓の外に視線を向けると、ちょうど原木ICを通過するところだった。ものの数分で船橋に到着する。もう一度程光亮に電話をかけた。
「船橋を降りたらどっちに向かえばいい?」
「まず船橋駅に向かって、その後で北だ。今は夏見っていうところを走ってる」
「目印になるようなものは?」
「先の方にでかい公園みたいなのがある。待てよ、公園じゃないな。運動場か、あれは」
「わかった。また連絡する」
電話を切って、運転手に地図を借りた。都内のタクシーが千葉の地図を持っているかどうか不安だったが、渡されたのは関東近郊をカバーする大きな道路地図だった。船橋市のページを開き、船橋駅から北に向かう道路を指で辿った。夏見小室線と書かれた県道の先に船橋市の運動公園がある。おそらく、程光亮がいった運動場はここだろう。
運転手はこの辺りの道には疎かった。地図を片手に道を指示し、程光亮からの電話を待った。船橋の駅前を北上し、夏見小室線に入る。道路の周囲は新興の住宅地といった趣で、高層団地がちらほらと目立つ。残留孤児の一家が帰国して住むにはあまりにもぴったりとした街並みだった。前方に運動公園が見えてくる。それでも程光亮からの連絡はなかった。おれの方から電話をかけてみた。呼び出し音が鳴り続ける。二十回鳴らしても程光亮は電話に出なかった。不安を抱きつつ、王華の携帯にかけ直した。
呼び出し音が鳴り続ける。王華は電話に出ない。もう一度程光亮の携帯に。繋がらずに王華に。
ふたりとも電話に出ない。ほんの数分前は最初の呼び出し音が鳴る前に電話に出たというのになんの音沙汰《おとさた》もない。運動公園はすぐそこまで近づいている。
「この先はどうしますか、お客さん?」
運転手がいった。道路は運動公園の手前で二股《ふたまた》に分かれていた。どちらへ曲がるべきか――。
「あの信号のところで止まってくれ」
運転手にそう告げて、おれは再び電話をかけた。程光亮も王華も電話に出てはくれない。
なにが起こったのか。不安が現実味を増しておれの肩にのしかかってくる。タクシーがスピードを落とした。ルームミラーに映る運転手の表情が曇っている。おれの不安が車内に立ちこめて、それが運転手にも伝染したかのようだ。おれは地図を睨んだ。道を直進すれば、やがて東武線の駅にぶつかる。左に行けば道はどこまでも続いている。趙浩が実家に逃げ帰ろうとしているのだとすれば直進した方がいいような気がした。徐鋭の指示に従っているのなら左折だ。
左へ行ってくれ――運転手に指示を出そうと身を乗り出して、おれは音に気づいた。緊急車両のサイレンが左手から聞こえてくる。音は少しずつ、だが確実に近づいてくる。
もう一度地図を睨んだ。住宅地を挟んで東側に船橋市立医療センターという病院があった。緊急車両は多分その病院から出てきたに違いない。
どこだ。目を凝らす。なにが起こった。不安を押し殺す。サイレンがどんどん近づいてくる。
左側の道路の先に白い車体が現れた。サイレンを鳴らしながら猛スピードで近づいてくる。
「あの救急車の後についていってくれ」
運転手に告げた。運転手は顔を蒼白《そうはく》にしながらうなずいた。救急車が信号を無視しておれたちの目の前を通りすぎていく。
運動公園沿いを北上して次の信号を左折する。その先の路地をさらに左折して住宅街のど真ん中に分け入っていく。
「お客さん、あの……面倒くさいことにはならないでしょうね?」
ルームミラーに映る運転手の顔は蒼白を通り越して血の気を失っていた。まるで死体のままストレッチャーに乗せられていた伊取のように。おれは一万円札を二枚、運転手の肩越しに差し出した。
「これは料金とは別だ。あんたはおれの顔を忘れる。おれが中国語で電話でだれかと喋《しゃべ》っていたということも忘れる。いいな? それであんたには迷惑はかからなくなる」
「わ、わかりました」
百メートルほど先で救急車が停止した。他の緊急車両のサイレンがあちこちで鳴り響きはじめていた。おれはタクシーをとめさせた。
「四、五分で戻る。ここで待っててくれ」
タクシーを降り、救急車に向かって歩いていく。救急隊員が野次馬をかき分けてストレッチャーをタクシーの方に運ぼうとしていた。救急車の先に二台のタクシーが止まっていた。どちらも足立ナンバー。どちらもフロントグラスが木っ端|微塵《みじん》に砕けている。脚が顫えた。二台のタクシーの距離はおおよそ十メートル。
なにが起こったのかを瞬時に理解した。
待ち伏せだ。どこかのだれかが趙浩が馬鹿をしでかしたことを知り、口を塞ごうとした。逃げ帰る先は趙浩の実家。刺客を送り込み、待ち伏せさせる。指令はひとつ――皆殺しにしろ。趙浩のタクシーが実家の前でとまる。その後を追ってきたタクシーは不審車であり、乗っているのは目撃者だ。刺客たちは銃を乱射する。問答無用で撃ちまくる。韓豪を襲った連中がそうしたように。
救急隊員が手前のタクシーのドアを開けた。大量の血がアスファルトの上にこぼれ落ちた。王華も程光亮も死んだだろう。運転手も巻き添えだ。趙浩にいたっては考えるまでもない。
複数のサイレンの音が近づいてくる。警察|車輌《しゃりょう》もこちらに向かっているはずだ。長居は禁物だった。おれは踵《きびす》を返した。視界に映る光景を見て、思わず毒づいた。
おれが乗ってきたタクシーの姿はどこにもなかった。
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* * *
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人の目を引かないように気をつけて現場を立ち去った。タクシーに乗るのは得策ではない。警察は現場から立ち去った人間の足取りを追おうとするだろう。複雑に入り組んだ住宅街の路地を抜けて、東武|野田《のだ》線の線路に行き当たった。線路沿いの道を南下していく。
歩きながら村上に電話をかけた。
「小西が殺されました」
「なんだと? なにがあったんだ?」
「わかりません。おれの仲間が後を追ってたんです。途中で連絡がつかなくなって途方に暮れてると救急車がやって来ましてね。後をついていくと、現場に出くわしました。小西もおれの仲間たちも殺されてました。二台のタクシーの運転手も。たぶん、ショットガンです」
韓豪を襲った連中が使ったのもショットガンだった。趙浩も王華たちもショットガンで殺された。関連はあるのか。ただの偶然なのか。
「どういうことなんだよ、それは?」
「小西の口から秘密が漏れるのを恐れたやつがいるんです。そいつが口封じに出たということでしょう。いくらなんでも、組事務所でやくざを殺したら、逃げ切るのは不可能ですからね」
「だれだ、そいつは?」
「わかりませんよ」
怒鳴るような村上の詰問に、おれも怒鳴るようにいい返した。身体はくたくただったし、頭は混乱の極致にあってオーバーヒートを起こしかけていた。相手がやくざだからといって気を遣う余裕は失せている。
「わからねえじゃ済まねえんだ。なんとかそいつの正体を突き止めろ」
「だから、劉健一が知っているはずです」
疲弊し混乱しながらも、劉健一への恐怖は片時もおれの脳裏を離れない。
「あいつを捕まえて口を割らせてください。でも、おれの名前は出さないでください。どこでなにが起こるかわからないのが、中国人の世界ですから」
舌打ちが聞こえた。村上の苛立ちが手に取るようにわかる。伊取に趙浩から話を聞きだすように頼んだのは村上なのだ。その伊取が殺され、殺した趙浩も殺された。谷岡組が村上を追及するのは必至だろう。下手をうって話がこじれれば小指の一本どころでは済まなくなる。いまどきのやくざ者で小指がないのは嘲笑《ちょうしょう》の対象でこそあれ尊敬されることはない。小指の欠落は無能者の烙印《らくいん》だ。
「あいつがなにか知っているというのは確かなんだろうな?」
「なにかを知ってるはずです。もしなにも知らなかったとしても、どうでもいいじゃないですか。谷岡組はなにも知らないんです。劉健一の死体を黒幕だといって差し出せば引き下がりますよ。その間に、こっちはこっちで本当の黒幕を捜し出せばいいんです」
「簡単にいってくれるじゃないか、武さんよ。どんどん本性が露《あら》わになってくるって感じだな」
本性という言葉が耳に引っかかる。幾重にも糊塗《こと》したおれの偽りの経歴。その奥でじっと息を潜めているおれの本性。姑息《こそく》に立ち回り、常に怯えて人の目を窺い、追いつめられれば牙《きば》を剥《む》く。
「おれだって怖いんですよ、村上さん。こんなのまともじゃない。ここは日本ですよ。中国やアメリカってわけじゃない。それなのに、どんどん人が死んでいく」
「そんなことはどうでもいいがな、今度の件を引き起こしたやつを見つけられなきゃ、おまえも死体のひとつになるだけだぜ」
「わかってますよ」
「とりあえず、警察の事情聴取が終わったら、谷岡組の連中と顔を合わせることになってる。そのときに、なにが起こったのか聞いておく。それと、劉健一をなんとかしておくさ」
「お願いします」
電話が切れた。電車がおれの傍らを通りすぎていく。ため息を漏らしながら空を見上げた。昨日と似たような半月が白けたように夜空を照らしている。歌舞伎町や錦糸町で見る月と、この住宅街で見る月は明らかに表情が違って、おれは深い孤独に包まれた。辺りはひっそりと静まりかえり、ときおり走り去る電車の音以外はなにも聞こえない。虫の音すらなく、まるで世界の終末に立ち会っているかのようだ。
感傷を振り払って矢島に電話をかけた。状況を報告しておきたいし、できることなら警察情報を仕入れるように頼んでもおきたかった。
無機質な音声メッセージが電話が繋がらない旨を告げるだけだった。
舌打ちをし、足許の石ころを腹いせに蹴り飛ばし、やがて、恐ろしい符合に思いが飛んだ。程光亮にも王華にも電話が通じず、ふたりは死んだ。矢島にも電話は繋がらない。もしかすると――そんな都合のいいことが起こるわけがないと自嘲する。
自由になりたいか――ふいに、劉健一の言葉がよみがえった。劉健一を殺すように村上に示唆した自分の声がその後に続いた。
そんなはずはない。いくらなんでも、麻薬取締官を密殺することなどできるはずがない。
思考があちこちに彷徨《さまよ》うがままに任せて歩き続けた。やがて、駅が見えてきた。切符を買っていると終電のアナウンスがはじまった。おれは駆けだし、階段につまずいて転びそうになりながらドアの閉まりかけた電車に飛び乗った。
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船橋でタクシーに乗り換え、錦糸町に戻った。車内で徐鋭からもらった名刺を読み返した。肩書きはジョイエンターテインメント代表取締役。会社の所在地はあのマンションになっていた。名刺の裏にはジョイエンターテインメントが経営する店舗の名前と住所、電話番号が所狭しと印刷されている。中国人と商売をするときに謙遜《けんそん》は必要ない――そう訴えているような名刺だった。
すべての店に片っ端から電話をかけた。
「徐先生はいらっしゃいますか?」
どの店も徐鋭の不在を告げ、伝言を承るといった。おれは急用じゃないのでと言葉を濁し、礼をいって次の店にかけ直す。六軒目の店に徐鋭はいた。〈孫悟空《スンウーコン》〉。店の名前からは営業形態が想像できないが、電話に出た男は丁寧な北京語を話した。
「社長なら来ておりますが、おつなぎしましょうか?」
おれは送話口を手で覆い、声の調子をあげた。
「もしもし? もしもし? おかしいな、なにも聞こえなくなったぞ」
「お客様? こちらには聞こえておりますが――」
男の声は明瞭に聞こえた。
「もしもし? もしもし? だめだな、こりゃ」
白々しく呟いて、おれは電話を切った。徐鋭が趙浩からの電話を受けて刺客を放ったのだとしたら、どこかに雲隠れしているものと思っていたが、現実にはそうではなかった。電話一本で人殺しの依頼はできるが、徐鋭はそこまで肝の太い男だろうか。やくざの組事務所で殺人事件が起こったのだ。錦糸町には警官が溢《あふ》れているだろう。後ろめたいことを腹に抱えている人間なら、ねぐらに戻って息を潜める。韓豪が殺された後のおれがそうだったように。
宋鐘から電話がかかってきた。待ち合わせの時間を過ぎているのにどうなっているのか、と。
おれは王華と程光亮が死んだことを告げた。宋鐘は絶句し、やがて電話を切った。他のふたりと一緒に雲隠れを決めこむのだろう。これで、韓豪の手下たちはすべて、散り散りになってしまった。
残っているのはおれだけだ。おれも逃げるべきなのだろう。すべてを抛擲して一目散に東京を脱出すべきなのだ。
留守番電話サービスを呼び出し、小文のメッセージを再生した。小文の声を繰り返し聞いた。
おれは日本人になりきろうとしてきた。記憶を封じこめ、いつわりの経歴に縋って、過去を振り返ることなしに生きてきた。今ではすべてが徒労だったように思える。この十数年間、おれはただ虚構の中で足掻《あが》いていた。おれは気づいてしまった。気づいたからにはもう後戻りはできない。だが、だからといってどちらに進めばいいというのか。おれの目の前には茫漠《ぼうばく》たる闇が広がっているだけだ。
錦糸町でタクシーを降りた。通りはまだ物々しい空気に覆われている。韓豪が殺されたときの歌舞伎町と同じで、制服姿の警官が街に溢れ、警官の目を盗むように谷間組の構成員と思われるやくざ者たちがぎらついた目で不審な人間を捜しまわっている。おれは〈孫悟空〉の前で徐鋭が出てくるのを待った。〈孫悟空〉は台湾エステと銘打った風俗店だった。人の出入りはあまりない。おそらく、開店休業状態なのだろう。不法就労の従業員たちは、女も含めてじっと息を潜めている。
矢島に電話をかける。電話は繋がらない。留守電にさえなっていない。焦燥感が恐怖や罪悪感を抑えこんで、苦い唾液《だえき》となって込みあげてくる。おれは劉健一に電話をかけた。劉健一は待ちかまえていたかのようにすぐに電話に出た。村上の手はまだ伸びてはいない。
「どうした、こんな時間に」
「おれの仲間が死んだ」
「いつだ?」
「数時間前。趙浩と一緒に殺されたんだ」
「あの男は錦糸町の組事務所で事を起こして逃げてたんだろう?」
「実家に向かって逃げてたようだ。そこで、だれかに待ち伏せされた。おれの仲間は巻き添えを食ったんだ」
「実家ということは、千葉か?」
「船橋の外れだ」
「千葉県警の管轄じゃ、まだ情報は入ってこないな。撃たれて死んだのか?」
「たぶん、ショットガンだ。韓豪のときと同じだよ」
「どっちにしろ、趙浩から黒幕を捜すという線は断たれたということだな」
「まだ趙浩の手下たちが残ってる。大至急、連中の名前と居場所を調べてくれないか?」
「一時間後にもう一度電話をくれ」
「待ってくれ。もうひとつ訊《き》きたいことがある」
「なんだ」
「昨日――自由になりたいかといっただろう? あれはどういう意味だったんだ?」
「意味なんかないさ」
「矢島に連絡がつかない。あんた、なにかしたのか?」
含み笑いが聞こえた。楽しんでいるのでもなく、おれを嘲笑しているのでもない。どこかバランスを欠いたような笑い声だった。
「ただの情報屋が麻取になにをするっていうんだ? 電話に出られない事情があるだけだろう。とにかく、一時間後だ。必ずとはいわないが、できるだけのことはしてみる」
電話が切れた。耳の奥に劉健一の笑い声が残っている。村上はなにをしているのだろう。矢島はどこに消えたのだろう。徐鋭は自らが経営する風俗店の奥でなにをしているのだろう。小文は今、どうしているのだろう。
揺れている。心が波打っているのがはっきりとわかる。危険な兆候だ。だが、おれにはどうすることもできない。
〈孫悟空〉の看板が落ちるのはまだ先のことだろう。徐鋭がいつ出てくるのかもわからない。もしかすると、さっきのおれの電話に警戒してじっと息を潜めているのかもしれない。
十分ほど経つと、〈孫悟空〉の前に一台のベンツが止まった。運転手は東陽町のマンションから徐鋭と一緒に出てきた男のひとりだった。男は車からは降りずに、エンジンをかけたまま携帯電話をかけはじめた。おれはその場を離れタクシーを探した。マンションに戻るのか、他の店に移動するのか。いずれにせよ、徐鋭はあの車に乗る。同じ通りに空車のタクシーは見あたらなかった。少し焦りながら小さな交差点を曲がった。二人組の制服警官と鉢合わせしそうになった。
「失礼」
何事もなかったかのようにその場を去ろうとしたが無駄だった。
「ちょっとお待ちください。あなた、中国の方ですか?」
警官の片割れに呼び止められ、おれは憮然《ぶぜん》とした表情を作って足を止めた。早く振り切らなければ徐鋭に逃げられてしまう。だが、焦りを表情に出せば警官の不信感は一気に強まっていく。
「日本人ですよ」
「免許証かなにか、お持ちですか?」
警官はふたりとも若かった。滅多に起こらないやくざ殺しという事件に昂揚《こうよう》していた。あわよくば手柄を立てて交番勤務から解放されたい――野心が露骨に顔に表れている。
おれは財布から免許証を取りだした。ふたりはそれを隅から隅まで眺め回す。通りの向こうで、ベンツの重いドアが閉まる音がした。間を置かずにベンツが発進していくのがわかった。警官を罵《ののし》りたかったが、自分にできないこともわかっていた。偽りの人生を生きている間に、警官とトラブルを起こさないことが第二の本能になってしまった。
免許を返してもらった後もあれやこれやと質問され、解放されたのは十分後だった。今さら徐鋭の後を追っても意味はない。
目を閉じ、深呼吸を繰り返し、やがて、腹を決めた。徐鋭の名刺で番号を確かめ、〈夜来来〉に電話をかけた。小窓を出してくれと電話に出た相手に告げて、待った。
「もしもし?」
「小慈か? 阿基だ」
「どうしたの、阿基? もう、あなたが帰ってからは大変よ。どこかでやくざが殺されたとかいう話で、お客さんはみんな帰っちゃうし、わたしたちホステスもそのまま店を出ると職務質問に捕まっちゃうからって、四時まで待ってみんなで車で帰ることになったの」
「おれが送っていくよ」
「え?」
「訊きたいこともあるんだ。少しだけでいいから時間を作ってくれ」
ほんのわずかだが、間があいた。
「別に口説こうとかなにかをしようというわけじゃないんだ。王華と程光亮を覚えてるだろう? あいつらが殺された」
小文の返事はない。絶句している様子がありありとうかがえた。
「時間を作ってくれるかい、小慈」
「いいわ。いつ迎えに来てくれるの?」
「五分後。タクシーで店の前に乗りつける」
「わかりました。急いで支度します」
電話を切ってタクシーを探した。さっきの二人組の警官は通りの反対側を歩いている。ふたりの向こうから、空車のランプをつけたタクシーがやって来た。手をあげると、タクシーはUターンをした。
「そこの角を曲がって十メートルぐらい行ったら止まってくれ。ひとり拾うことになってるんだ」
運転手は無言でうなずいた。カーラジオからは演歌が流れている。〈夜来来〉の前で車を停めさせ、訊いた。
「ニュースはやってないか?」
「この時間じゃやってないですよ」
運転手はチューナーに手を伸ばすこともなく断言した。
「今夜、この辺りで事件が起こっただろう? なにか聞いてないかい?」
「なんでも暴力団の組員が殺されたそうで、空気が殺伐としてますよ。ただ、事件が起こったのが遅い時間のせいですかね、ニュースでもほとんど詳しいことはやってなかったですね」
「そうか――」
小文がビルから出てきた。ジーンズに薄手の革ジャンを羽織っている。徐鋭のマンションに向かう日の出で立ちではなかった。その姿を見ただけで心が和んだ。小文は心細げに通りを見渡していたが、すぐにおれに気づいてタクシーに駆け寄ってきた。
「開けてやってくれ」
おれの言葉と同時にドアが開き、小文が軽快な身ごなしで乗りこんできた。
「行ってくれ」
「どちらへ?」
「錦糸町を離れて、どこかでファミレスが見つかったらそこで停めてくれればいい」
タクシーが発進した。小文はおれの腕を掴み、咳《せ》き込むように質問してきた。
「あのふたりが殺されたっていうのはどういうことなの?」
「おれたちが趙浩っていう男を追ってたのは覚えてるな?」
小文はうなずいた。大きく見開いた目は瞬《まばた》きひとつしない。
「今日、その趙浩が日本のやくざを殺した。王華たちは逃げた趙浩の後を尾けていたんだ。趙浩はその途中でだれかに殺された。王華たちもその巻き添えを食った」
「そんな……どこのだれがそんなことを?」
「わからない。わからないから、いくつか訊きたいことがある」
「わたしに? わたしはなんの関係もないわよ」
「君がやったなんてだれもいってないだろう。訊きたいのはそういうことじゃない」
「それじゃあ――」小文は口を開けたまま凍りついたようになった。ひとつ息を吸い、小声で囁く。「徐鋭のことなの?」
「その話は後でだ」
運転手がルームミラーでおれたちの様子をうかがっていた。なんの疑いもなしに日本人だと思っていた人間がいきなり中国語を流暢《りゅうちょう》に話しだすと気持ちが落ち着かなくなる。そんな日本人は大勢いる。
小文は不服そうではあったが、おれの言葉に従った。シートに背中を預け、前方を見据える。目尻《めじり》の皺《しわ》が二十代後半の年に相応《ふさわ》しかったが、肌は十代の少女のように若々しい。小文の母親の肌も同じだった。加齢やきつい農作業ですら、小文の母の肌を荒らすことはできなかった。いつも、山で獲ってきた薬草を煎《せん》じたお茶を飲んでいて、それが美しい肌の秘訣《せんひけつ》だと自慢していた。小文が同じお茶を飲んでいるとは思えない。だが、肌の美しさが母譲りなのは間違いない。
十分ほど走って、タクシーは街道沿いのロイヤルホストの前で停止した。おれたちはタクシーを降りて店に入った。
「腹は減ってないか?」
「ダイエット中なの。コーヒーだけでいいわ」
小文の声は冷ややかだった。故郷を思い出させる上客は、今では自分の男と敵対しようとしている胡散《うさん》臭い犯罪者もどきというわけだ。小文の冷たい声に、おれの心は痛んだ。こんな展開を予想していたわけではない。
入口に近い喫煙席に陣取り、ウェイトレスにコーヒーを注文した。
「店にいたときにかかってきた電話は王華からだったんだ」冷たい空気にいたたまれずにおれは口を開いた。「やくざを殺して逃げた趙浩を追っているっていう連絡だった」
小文はなにもいわずに、ただ眉毛《まゆげ》を上下に動かした。
「おれの携帯が鳴る前に徐鋭の携帯が鳴った」
「だからなんなの?」
「趙浩がやくざを殺した後に指示を仰ぐために徐鋭に電話をかけてきたと考えると辻褄《つじつま》があう」
「馬鹿なことをいわないで。どうして徐鋭にかかってきた電話がそうだっていい切れるの? あなたにかかってくる前にかかってきた。それだけじゃない」
「偶然なのか、偶然じゃないのか、それを知りたいんだよ、小慈」
「どうやって知るっていうの?」
「趙浩は逃げた先で殺された。どこかのだれかが、趙浩の行き先を知っていて殺し屋を差し向けたんだ。おれが店を出て行った後、徐鋭はだれかに電話をかけたか?」
「かけたわ。あの人はいつでも電話をかけてるのよ。仕事が忙しいから、いつでもだれかと電話で話してるわ」
「電話の内容を聞いたかい?」
小文は首を振っただけだった。
「〈堕落天使〉は徐鋭の店だ。趙浩はこの前、あの店で遊んでいた。徐鋭の口から趙浩の名前を聞いたことは?」
「ないわ。ねえ、阿基、本当に馬鹿げてるわよ、こんなこと。徐鋭は堅気の人間じゃないかもしれないけど、人を殺したりする必要はないのよ。充分に稼いでいるんだから」
「あのふたりが死んで、おれはひとりになった。歌舞伎町でおれたちのボスが殺されたんだ。一緒にやくざも殺されてる。だれがやったのかを突き止めないと、おれはやくざの仲間たちに殺される」
「だからって――」
「徐鋭は関係ないとおれに納得させてくれ」
小文は手にしていたコーヒーカップを静かにテーブルの上に置いた。相変わらず冷ややかな目でおれを見つめながら、低い声でいった。
「どうやって?」
「おれが出て行った後、徐鋭はだれかに電話をかけなかったか?」
「いったでしょう? 徐鋭はいつだってだれかと電話で話してるのよ」
「おれが出て行った直後だ」
小文の声に被《かぶ》せて、おれはいった。
「電話はしてないわ。店のマネージャーと少し打ち合わせをして、それから出て行っただけ」
「マネージャーとはなんの話を?」
「今月の売り上げのことだとか、新しく店に入れる女の子の話とか、要するにビジネスの話よ。人を殺す相談なんてしてなかったわ」
小文の皮肉を受け流して、おれは腕を組んだ。店の人間と悠長に話し込んでいて船橋の外れに殺し屋を手配するようなことができるだろうか。否。前もって事態を予期していたのならともかく、迅速に行動しなければ趙浩の口を塞ぐことはできなかったに違いない。あの時、徐鋭は電話で話をしながら席を外した。趙浩に素早く指示を出し、新たに電話をかけ直して殺し屋に指示を送る――だめだ。そんな時間はなかった。徐鋭にかかってきた電話は趙浩からのものではなかったのか。あの惨劇に徐鋭は無関係なのか。だったら、趙浩を殺させたのはどこのだれだ?
視界に靄《もや》がかかったようになって、おれは目頭を指で押した。
「やっとわかってくれたみたいね」
小文の声が耳に届いた。冷ややかさが消え、ある種の柔らかさが戻っていた。
「なにもわからない」
おれは頭を振った。首の関節が嫌な音を立てた。
「ねえ、阿基、よく考えて――」
生暖かいものが頬に触れて、おれは目を開けた。小文の指がおれの頬の上を這い回っていた。
「徐鋭はお金を稼いでいるのよ、それも手広く。それは黒社会の人たちとだって付き合いはあるけど、わざわざ人を殺す必要なんてないぐらいたくさんお金を稼いでるの」
「たいていの人間はかっとして他人を殺すか、金のために他人を殺すんだ」
おれはいった。おれの声が届いたのかどうか、小文はなにかに取り憑《つ》かれたかのようにおれの頬を撫でている。
「ねえ、本当にあなたはわたしの阿基じゃないの?」
心臓が縮んだ。痛みすら感じるような速さで血液が血管を駆けめぐる。
「残念ながら」
痛みを堪えていった。小文の手が離れていく。自分の肌が筋肉から引き剥《は》がされたような気分だった。
「そうよね。わたしの阿基はもっと若いわ。あなたはくたびれて、干涸《ひか》らびて……年はいくつなの?」
「四十二だ」
おれは嘘をついた。だれもおれの嘘には気づかない。
「思ってたより上なのね」
小文はコーヒーカップを両手で包んだ。かすかな落胆の色が見て取れる。儚《はかな》い希望をおれに抱いたというのだろうか。その儚い希望をおれが打ち砕いたというのだろうか。
おれの心臓は縮こまったままだ。痛みは皮膚の奥深いところに居座っておれを苛《さいな》み続けている。
携帯の着メロが鳴った。鳴ったのは小文の携帯だった。電子音が奏でるメロディは、流行の邦楽だった。おれの知っている小文には似つかわしくなかったが、クラブのホステスである小慈には相応しい。
小文は声をひそめて電話に出た。心持ち、背中をおれに向けるようにしている。声も聞き取れないし、口の動きもわからない。横顔から想像できるのは、小文にとって大事な人間――おそらくは徐鋭からの電話ではないかということだった。
皮膚の奥で疼《うず》いている痛みが嫉妬《しっと》に取って代わられた。嫉妬はじわじわとおれの喉《のど》を絞めつける。息苦しさに耐えきれず、おれは自分の携帯を取りだして劉健一の番号を押した。なにか新しい情報が入っているかもしれない。携帯を耳に当てた。小文は込み入った話をしているようだった。電話を切るにはまだ時間がかかるだろう。おれの携帯も回線が繋《つな》がったが、劉健一の携帯は話し中だった。軽く舌打ちして電話を切った。小文がおれに視線を向け、もう少し待てと合図を寄こした。おれは待ちながらコーヒーを飲み干した。時計の秒針が三周したところで、小文の電話が終わった。
「そろそろ行きましょう」
小文は携帯電話をバッグにしまいながら、この店に来たときと同じ冷たい声でいった。
「徐鋭からか?」
湧き起こってくる嫉妬に耐えきれず、おれは訊いた。
「そうよ。馬鹿な男のくだらない与太話に付き合ってないで、早く帰ってこいって」
「彼が正しいな」
おれたちは席を立った。支払いを済ませ、小文のためにタクシーをとめた。小文が身軽に乗りこみ、ドアが閉まる。タクシーが発進する前に窓が開き、小文が顔を突き出した。
「落ち着いたらまた店に顔を出して」
「落ち着くまでは来るなっていうことかい?」
小文は悲しそうな笑みを浮かべ、曖昧《あいまい》に首を振った。
「おやすみなさい。コーヒーをご馳走《ちそう》様」
窓が閉まり、タクシーが動きだした。遠ざかっていくテールランプを見送りながら、執拗《しつよう》にまとわりついてくる嫉妬を宥《なだ》めようとした。無駄な足掻きだった。心はざわめいたままだ。
諦《あきら》めて煙草をくわえ、ふと思い出した。
小文は軽装だった。徐鋭のマンションに行くときはいつも徐鋭の好みに合わせていた。今夜は違う。
そこまで考えて、まだ火をつけていない煙草を足許に投げ捨てた。おれは小文のことはなにも知らないに等しい。何度か後を尾けたことがあるだけだ。彼女が徐鋭のマンションに向かったときも、たまたまそれらしい服装をしていただけのことかもしれない。なにも断言はできない。
苦々しい想いを抱えたまま、おれはやって来たタクシーを捕まえて自分の部屋に戻った。
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錦糸町の事件は、翌日の朝刊の一面に派手に掲載されていた。派手な見出しや写真の割に記事の内容は貧弱で、記事を書いた人間の憶測すら記載されていない。社会面に関連記事があったが、それも同じだ。事件の異様さだけを書き立て、真相に迫る記事はなにひとつない。新聞を折り畳もうとして小さな見出しに気づいた。
「山手線で人身事故」
昨日の午後六時頃、山手線|恵比寿《えびす》駅でホームから転落し列車に轢《ひ》かれた男の記事だった。ほんの数行の小さな記事だったが、おれの目は最後の数行に吸い寄せられた。
『所持していた運転免許証から、死亡したのは東京都あきる野市の矢島茂雄さんと判明した』
身体が激しく顫《ふる》えた。喉の渇きと吐き気を同時に覚えた。矢島が死んだ。その現実に対応できない。顫える手で新聞を掴《つか》んだまま、台所に行った。ミネラルウォーターをボトルから直接飲み、もう一度記事に目を凝らした。
死んだのは矢島だ。年齢も合致している。間違いない。
携帯電話が鳴った。居間に戻り、携帯に手を伸ばした。腕は顫えつづけ、携帯を何度も取り落としそうになった。左手で右手を押さえつけ、なんとか電話に出た。
「はい?」
「村上だ。ちょっと事務所に顔を出してくれねえか」
「わかりました。すぐに行きます」
電話を切り、もう一度新聞に目を凝らした。
矢島は死んだ。どうしていいのかわからなかった。この数年間、矢島はおれの人生の一部だった。嫌い、憎み、呪い、それでもおれ自身の影のように矢島はおれに寄り添っていた。消え去ってくれることを夢想していたのに、縁が切れることを切望していたくせに、自分の身体の一部を切り離されたかのような喪失感に襲われている。
呆然《ぼうぜん》としたまま身支度を整え、部屋を出た。駅に向かう途中で劉健一に電話をかけた。電話は繋がらなかった。昨日とは違って通話中というわけではなく、電源が切られているか、電波の通じない場所にいるというメッセージが流れる。
例の符合が頭をよぎった。携帯電話が通じなくなって、王華と程光亮は死んだ。矢島も死んだ。劉健一も死んだのかもしれない。村上たちに殺されたのかもしれない。足早に新宿に向かい、村上の組事務所に行く前に劉健一の店に立ち寄った。
陽光の下で木造の建物は朽ち果てているように見えた。一階の店からも、二階の劉健一の店からも人の気配はせず、ひっそりとしている。インタフォンを押してみた。返事はなかった。その場に立ち尽くし、煙草を吸った。何度もインタフォンを押し、劉健一に携帯電話をかけた。いくら待ってもインタフォンの応答はなく、携帯電話は繋がらない。
短くなった煙草を投げ捨ててその場を離れた。歌舞伎町を職安通り方向に進み、東明会の事務所が入っているマンションに向かった。初めて訪れるマンションだったが、その場所はすぐにわかった。昼間ののんびりした空気が流れる歌舞伎町で、そのマンションの周囲の空気だけが殺気立っている。マンションの入口の前にはチンピラ然とした若い男がふたり立っていて、近くを通る人間に不躾《ぶしつけ》な視線を向けていた。
「武といいますが、村上さんに呼ばれてきました」
ふたりに詰問される前に、こちらから声をかけた。機先を制されたふたりは露骨に顔を歪《ゆが》めたが、おれにはなにもいわず、携帯電話で村上におれの来訪を告げた。
「あがっていいぞ」
そういわれるまで待って、おれはマンションに足を踏み入れた。エレベータで五階にあがり、東明会という看板が掲げられた部屋の呼び出しボタンを押した。すぐにドアが開き、初めて村上に会ったときに一緒にいた男が顔を覗《のぞ》かせた。
「兄貴が待ちくたびれてるぜ」
男はそういって、おれを促した。短い廊下があってその先に空間が広がっていた。住居用というよりはオフィス用のマンションなのだ。数人の組員が眠たげな眼をしながらあちこちに電話をかけている。剣呑《けんのん》な空気が渦巻く部屋の中を横切りながら、ここに来る必要はなかったのだということに思い至った。
矢島は死んだ。おれを新宿に縛りつける影は消えた。小文は自らの意志で徐鋭の元にいる。王華も程光亮も消えた。韓豪の手下たちは散り散りになった。すべてをうっちゃって逃げ出しても、おれに文句をいう人間はだれもいない。
だが、逃げ出すには遅すぎる。少なくとも、この事務所から逃げ出すことはできない。矢島の死に動揺していたせいで、頭がまともに動いていなかった。
男が奥にあるドアをノックした。「入れ」という村上の声が聞こえた。ドアが開き、男がうなずいた。おれは男の脇を通って中に入った。八畳ほどの広さの部屋で、中央奥に豪勢な机があった。入ってすぐ右手に応接セットがあって、村上はそのソファにだらしなく腰を降ろしていた。背後でドアが閉まり、おれは村上と二人っきりで部屋に取り残された。
「大変な目に遭わされたぜ」
村上はおれを見もせずにいった。
「おれも大変でした」
「おれと張り合おうってのか?」
村上が顔をあげた。目の下に隈《くま》ができている。おそらく、一睡もしていないのだろう。覚醒剤で偽りの活力を稼ぎ出している様子もなかった。
「まずは錦糸町に出向いて、あっちの親分に詫びを入れて、その後もあちこちかけずり回ってよ。だれも詫びなんかしてもらいたがってるわけじゃねえ。なにが起こったのかを知りたいのよ。なのに、おれはなにひとつわかっちゃいねえ」
「錦糸町の事務所で、伊取さんと小西はなんの話をしてたんですか?」
村上は首を振った。くたびれた手つきで煙草をくわえ、なにかを待った。ライターを待っているのだと気づくのに数秒かかった。慌てて差し出したが、村上は露骨におれを無視して自分のライターで火をつけた。
「まったく、どいつもこいつも気が利かねえ」
「すみません。こういうのには慣れてないもので」
「伊取は、今のおれたちみたいに、甥《おい》っ子とふたりだけで部屋にこもってたそうだ。ふたりがなにを話してたかはだれも知らない。突然、銃声がしてガキが部屋から飛び出てきたってことだ」
「そうですか……」
「おまえの仲間が殺されたときのことを、もう一度詳しく話してくれねえか」
「劉健一はどうなったんですか?」
村上は苛立《いらだ》たしそうに煙を吐き出した。
「どうもこうもねえよ。おまえの電話の後ですぐに捕まえようと若い連中を行かせたんだがな、店にも街にも、どこにもいねえ」
落胆と安堵《あんど》の気持ちが同時に押し寄せてきた。なぜ安堵しなければならないのか、自分でもよくわからない。
「まあとりあえず、突っ立ってねえで座れよ」
おれは村上の言葉に従い、昨日目にしたことを説明した。おれが話をしている間も、村上はひっきりなしに煙草を吸い、時々、えずくような咳《せき》をした。
「ということは、ガキが事務所を飛び出てから殺されるのに、一時間ぐらいの時間しかなかったってことだな?」
おれの話が終わると、村上は物憂げな口調でいった。
「そうなります」
「殺しを指示したやつはとんでもない組織を率いてるか、あらかじめガキが伊取を殺した後で実家に逃げ帰るってことがわかってたかのどっちかだ。おまえはどう思う?」
「最初からわかっていたというのは考えにくいと思います。伊取さんに小西から話を聞きだすようにおれがお願いして、村上さんが動くのにそんなに時間はかからなかった。ということは、小西の後ろにだれがいたにしろ、じっくり計画を練る時間もなかったということじゃないですか」
「それが普通なんだがな、武よ。じゃあ、錦糸町で事を起こしたくそガキが船橋に逃げるってことを察知して、一時間以内に殺し屋を差し向けることができるやつってのは、どこのどいつだ?」
おれは答える代わりに首を振った。
「だろうが」村上は勝ち誇ったようにいった。「やったのは中国人に間違いないことだけはわかってる。おれたち、日本人のやり方じゃねえからな。問題は、そこなんだよ。四、五年前ならそれもありだ。北京や上海のやつらが大手を振ってこの街を歩いていたころだったらな。あいつらには組織があった。命令を忠実に実行する犬みたいな連中をたくさん飼っていた」
「劉健一でその時代は終わりました」
「そうだ。今、この辺りで調子に乗ってるのはおまえたちみたいな連中だ。福建だの東北だの、ウジ虫みたいにわらわら湧いてきやがってな。まとまった組織を作るでもなく、四、五人でつるんじゃ、仕事の度に手を組んで、仕事が終わればまたばらばら。そんなことを繰り返してる。新宿も錦糸町も変わらねえ」
村上は言葉を切って咳き込んだ。乱暴な手つきで煙草を消し、ハンカチを取りだして痰《たん》を吐き出した。
「ここは組長の部屋だからな」いい訳じみたことをいいながら言葉を続ける。「とにかくよ、ありえねえんだよ。事が起こってから、ガキの口を封じるために、たった一時間で殺し屋を船橋に待機させるような組織力を持った中国人なんてのは、とっくの昔に消えちまったんだ」
「村上さんのいいたいことはわかります。だけど、こういうのはどうですか……伊取さんを殺して逃げる最中、小西はだれかの指示を仰ぐために電話をかけた。その電話を受けた人間は小西がどこに向かっているか知っているわけだし、電話でだれかに口封じを依頼するのも簡単です。昔と違って、中国人のチンピラはどこにでもいますからね。もちろん、船橋にだっているでしょう。たった一時間しかなくても、元もと船橋にいるんならすぐに行動に移せますよ」
「ガキが電話をかけた相手を知ってるって口ぶりじゃないか」
村上にそう指摘されるまで、その考えはまったく頭にはなかった。無意識の内に考えていたのかもしれない。小文に対する思い、徐鋭への嫉妬が、自分でも気づかない間におれの体内に堆積《たいせき》していたのかもしれない。
「怪しい人間がひとりいます」
おれはいった。不思議なことになんの感情も湧いてこなかった。
「だれだ?」
「錦糸町で商売をしている台湾人です。名前は徐鋭。中国語で発音するとシウ・ルイです。耳にしたことは?」
村上は首を振った。
「きちんと説明しろ」
「錦糸町やあの近辺で飲み屋や風俗店を経営している男です。小西は時々、徐鋭が経営する店で遊んでいました」
村上は新しい煙草を手にした。火はつけずに口にくわえる。
「それで?」
「事件が起こる直前まで、おれはその徐鋭の店にいたんです。錦糸町の〈夜来来〉というクラブなんですが、そこで人と待ち合わせをしていて……そこにおれの仲間から電話がありました。組事務所から銃声が聞こえて小西が逃げて行ったと」
村上は火のついていない煙草を口にくわえたまま、焦れったそうに上下に振っていた。なんとか自分を抑制している。
「その直前に、徐鋭の持っている携帯が鳴ったんですよ。ただの勘なんですが、その電話の相手は小西なんじゃないかと思ったんです。あまりにもタイミングがあいすぎたんです。もし、あの電話が小西からのもので、小西が徐鋭に指示を仰いでいたんなら、船橋辺りにいる中国人の悪に連絡して待ち伏せさせることは可能です」
「そいつにかかってきた電話の相手がガキだって証拠はあるのか?」
「ありません」
「どうしてその徐鋭って男が怪しいと思ったんだ? ガキがその男の店で遊んでたからってだけか? そいつに歌舞伎町でドンパチやらかすだけの理由があるのか?」
おれは静かに村上を見た。村上をうまく乗せることができれば徐鋭は窮地に立たされる。徐鋭に縋ることができなくなれば、小文はどうするだろう。浅ましい考えがいくつも脳裏を横切っていく。
「どうなんだよ?」
「ありません」おれはいった。「手がかりはなにもないんです。だったら、徐鋭が関係しているのかどうか、調べてみても悪くはないと思っただけです」
村上は自分でくわえていた煙草をもぎとるようにして手の中で握りつぶした。
「だったら、おまえが裏を取れ」
「無理です。錦糸町には錦糸町のルールがある。よそ者が乗りこんでいっても成果は望めません。それに、おれはひとりぼっちです。仲間がふたり殺されて、他の連中は怯《おび》えて逃げ出しました」
「おまえは逃げなかったから偉いとでもいいたいのか?」
「村上さんとの約束があったから逃げられなかったんです」
もはや逃亡をためらう必要はない。この事務所を出た足で新宿駅へ向かい、東京から遠く離れる列車に飛び乗ってしまえばいいのだ。王華たちからかき集めた金がまだおれの手元にはある。充分な額とはいえないが、どこか別の場所に腰を落ち着ける間の繋《つな》ぎとしてはそこそこの額だ。
だが、自分が逃げないだろうということはわかっていた。今度逃げ出すときは小文と一緒だ――愚かな考えがおれをがんじがらめにしている。小文がそれを望んでいないとしても、おれは昔のあの約束に執着していた。
村上がおれを見ていた。睨《にら》んでいるわけではない。退屈そうな視線をおれに向けている。
「つくづく情けねえ野郎だな。やっぱり、日本人じゃ中国人みてえにはいかねえか」
「あいつらは根無し草ですが、おれは違います」
実際にはおれの方がよっぽど根無し草だった。だが、それを村上に告げることはない。
「その徐鋭って野郎の住所と経営している店を教えろ」
村上がいった。おれは徐鋭からもらった名刺を差し出した。
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* * *
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東明会の事務所を出て、歌舞伎町を靖国通りに向かって歩いていると携帯が鳴った。液晶に「非通知」の文字が浮かんでいる。普段なら非通知の電話は無視する。だが、このときばかりは妙な予感がおれの全身を貫いた。
「もしもし?」
「東明会の事務所でなにをしていた? おれを拉致《らち》する計画でも練っていたのか?」
反射的に振り返った。低い声で喋《しゃべ》っているのは間違いなく劉健一だった。東明会の事務所が入っているマンションはすでに死角になっていて、組員の姿もなかった。
「どこにいるんだ?」
「安全な場所だ」
相変わらず劉健一の声は、常に笑いを含んでいるように聞こえる。
「おれを東明会に売っただろう?」
頬だけが熱くなり、手足の先から熱が消えていく。
「そんなことをするわけがないだろう。今じゃ、おれが頼れるのはあんただけだ」
「おまえのそういうところが気に入ってるんだよ」
皮肉には聞こえなかった。かといっておれの言葉を鵜呑《うの》みにしているわけでもない。顫《ふる》えがきた。呼吸が苦しい。まるで粘り気のある薄い膜に全身を覆われているかのようだ。
「どこかで会えるか?」
喘《あえ》ぎそうになるのを堪《こら》えながら訊《き》いた。
「参宮橋《さんぐうばし》はわかるか?」
「もちろん」
「そのまま小田急線に乗れ。参宮橋で降りて、駅の左斜め前の二階に喫茶店がある。そこで待っていてくれ」
「わかった。どれぐらい――」
おれの質問が終わる前に電話は切れた。劉健一の携帯にかけ直してみたが通じない。別の電話からかけてきたと考えるべきだった。歩きながらもう一度振り返った。尾行されている気配はない。新宿通りに出たところで地下に降り、地下道を通って西口へ出た。小田急線の普通列車がホームで時間調整をしていた。それに乗って参宮橋へ向かう。
劉健一が指定した喫茶店はすぐにわかった。一階がカレー屋で二階が喫茶店になっている。カレー屋の脇に二階に行く階段がある。歌舞伎町の劉健一の店とほとんど同じような作りだった。違うのは、来訪者を拒む鉄扉と監視カメラがないことぐらいだ。
デジャヴュのような感覚を覚えながら階段をあがった。まさか劉健一が店を経営しているわけではあるまいと思ったが、どこかでそれを否定できずにもいた。ドアを開けて、カウンターの内側に善良そうな中年の女がいるのを見て拍子抜けした。内装も雰囲気も劉健一の店とはまるで違った。
窓際の席に陣取り、カフェオレを注文した。窓からは駅前を通りすぎる人間を観察することができる。どこにも劉健一の姿はない。
じりじりと時間が過ぎていく。カフェオレは美味だったが、胃がむかついてすべてを飲み干すことはできなかった。灰皿に押しつけられた煙草の数が増え、カフェオレが冷め切っても劉健一はやって来なかった。いい加減|痺《しび》れを切らしはじめたときに、また携帯が鳴った。非通知だったが今度はためらわずに出た。
「店を出ろ」劉健一はいった。「店を背にして左手に向かえ。すぐに大きな通りにぶつかるから、そこも左に曲がって真っ直ぐ歩くんだ」
「ちょっと待てよ。これは――」
電話が切れた。唇を噛みながら手早く勘定を済ませ、店を出た。劉健一がこの近くにはいないのだとしたら、だれかがおれを見張っていたということだ。おれに連れがいないか、おれを見張っている人間がいないか、それを確認して劉健一に連絡する。おれは目を凝らして周囲を捜した。駅の近くにはまばらな人通りしかなく、それらしき人間は見あたらない。
劉健一の指示通りに左へ向かい、西参道を甲州街道方面に向かった。十メートルも進まない内に携帯が鳴る。
「ひとつ目の信号の先の路地を左に曲がるんだ。しばらく進むと、右手に赤|煉瓦《れんが》のマンションが見えてくる。グランメゾン西参道っていうマンションだ。エントランスに来客用のパネルがある。五〇二を押してくれ」
「これでゲームは終わりかい?」
「ああ、終わりだ」
劉健一より先に電話を切った。子供じみた優越感を覚えた。くだらないが、溜飲《りゅういん》は下がる。
五分ほど歩いてマンションを見つけた。外装もまだ新しい高級マンションだった。外塀のあちこちにセコムのステッカーがこれ見よがしに貼りつけてある。来訪者に対して冷たい感じを与えるエントランスの脇にタッチパネルがあった。五〇二号室を呼び出すと、スピーカーから劉健一の声が聞こえてきた。
「あがってくれ」
同時に自動ドアが開きはじめた。エントランスホールの脇に管理人室があって、初老の男が胡散《うさん》臭げな視線を露骨におれに向けていた。軽く会釈してその前を通りすぎ、エレベータに飛び乗った。
エレベータのドアが五階で開いた。真向かいが五〇二号室だった。おれがインタフォンを押すより先にドアが開いた。劉健一が薄ら笑いを浮かべておれを迎え入れた。
「ずいぶん手の込んだことをするんだな」
「だれかのおかげで、尻《しり》に火がついたからな」
「おれはなにもしてない」
「そうだろうとも」
劉健一はそういって、部屋の奥に向かった。おれは靴を脱いで後を追った。劉健一は廊下を先に進んでリビングらしい部屋に入っていく。マンション自体の広さは一〇〇平米前後といったところだろうか。間取りは三LDK。住人の匂いは皆無だったが、葉巻の香りが床や壁の隙間に染みこんでいる。リビングも殺風景で、パソコン用のデスクセットがひとつと、部屋にそぐわないソファベッドがひとつあるだけだった。
「なにもない部屋だな」
いわずもがなの言葉が口からこぼれた。
「普段は葉巻の保管庫代わりに使ってるだけだからな」
「葉巻の保管庫?」
おれの問いに答える代わりに、劉健一はリビングの奥に進んでもう一つのドアを開けた。途端にいくつものモーター音と共に煙草の葉っぱの濃密な匂いが流れ出てきた。劉健一に促されるまま、戸口に立って中を覗いた。六畳ほどの部屋で、スティール製の棚が四方の壁沿いに据え付けられている。棚に載っているのはすべて葉巻の箱で、モーター音を発しているのは加湿器だった。部屋の空気はひんやりと湿っている。
「こうまで来ると病気だな」
「ああ、病気だ」
劉健一は嬉《うれ》しそうに肩を顫わせた。
「葉巻には湿気が必要なんだが、日本の夏場は黴《かび》にも注意しなけりゃならない。壁全体に防水加工を施して、その上からマホガニーの板を張りつけた。留守がちだから、加湿器に足す水がなくならないように、浄水器も取り付けてある。医療用の馬鹿高いやつだ。水道水を直接引いて、濾過《ろか》させなきゃならないからな。この部屋だけで、葉巻を除いても数百万の金がかかってる」
「葉巻の話を聞きに来たわけじゃない」
「それはわかってるさ」
劉健一はドアを閉めた。どことなく不機嫌そうだった。
「新宿からこんな近くに潜んでいて大丈夫なのか?」
「このマンションは他人名義だ。元々はある女の持ち物だったんだがな…ここにおれの隠れ家があるってことを知ってる人間はひとりもいない」
「おれは知った」
「そう。お前は知った」
「どうして?」
「いっただろう。おれはお前が気に入ってるんだ」
劉健一はドアを離れた。不機嫌さは消えて、顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。
「あんたがなにを考えてるかはわからないが、おれは多分、あんたが思ってるような人間じゃない」
「人っていうのは、だれよりも自分のことがわかっていないのさ。それより、教えてくれ。東明会の村上となにを話した?」
「東明会の中にもあんたの情報提供者がいるのか?」
ずっと考え続けていた疑問を劉健一にぶつけた。謎めいた笑みが返ってくるだけだった。もちろん、いるのだ。そうでなければ、あれほど迅速に村上の手から逃れることはできなかったはずだ。自称ただの情報屋が暴力団内部からも平気で情報を入手している。空恐ろしい。
おれは溜息《ためいき》を漏らし、劉健一の問いに答えた。
「徐鋭の話だ。錦糸町の方の組に、趙浩から話を聞きだしてくれと頼んだのは村上だから、少しばかりまずいことになってる。それで、おれは問いつめられた」
「そこで、徐鋭の名前を出したのか。その前はおれを売り渡したわけだしな」
「おれは――」
おれが口を開くのと同時に、劉健一は右手を突き出して掌をおれに向けた。なにもかもをはねつけるような断固とした仕種《しぐさ》だった。
「いいんだ。おまえがそうしなけりゃならなかったわけもわかっている」
弁明をしなければという思いはあったが、劉健一の態度はそれをはっきりと拒否していた。おれは口をつぐみ、次の言葉を待った。それしかできることがない。
「しかし、苦し紛れに徐鋭の名前を出したところで、村上はすんなり納得はしないだろう。どんな隠し球を使ったんだ?」
「趙浩が銃を使った直後に、徐鋭の携帯電話が鳴った。おれはその場にいたんだ。直感で、それが趙浩からの電話じゃないかと思った。そうだとすれば、時間的にも辻褄《つじつま》が合う。趙浩が計画的に動いていたとは思えない。だとすれば、殺し屋を待ち伏せさせるには時間との勝負になる。ことの起こった直後に、徐鋭がそれを知ったのなら、殺し屋を手配することも可能だから」
「村上はその話に乗ったのか?」
「いや」おれは首を振った。「半信半疑だと思う。なにも手がかりがなければ、飛びつくかもしれないが」
「なるほど。それで、おまえはどうするんだ? なにをしろといわれた?」
「別になにも……王華と程光亮が殺されたせいで、他の連中は怯えて姿を隠した。韓豪の手下で残っているのはおれひとりだ。ひとりじゃなにもできない」
「じゃあ、歌舞伎町を出るのか?」
なにげない言葉だった。ただ、矢島の死がその言葉を受け流すことをおれに拒否させる。
「矢島が死んだ」
おれはいった。
「矢島?」
「麻取の捜査官だよ。覚えてるだろう?」
「死んだのか?」
劉健一の態度におかしなところはなかった。
「今朝の新聞に出ていた。恵比寿駅で線路構内に落ちて轢《ひ》かれたらしい」
「良かったじゃないか」
どれだけ目を凝らしても、五感を集中させても、矢島を殺させたのが劉健一自身だという兆候を見つけることはできなかった。
「殺されたんだ。酔っぱらってるならともかく、素面で線路に落ちるような男じゃない」
「おれがやらせたとでもいいたいのか? ただの情報屋が麻取を殺したと?」
「あんたが、自由になりたいかといった後に矢島は死んだんだ」
劉健一にというより、自分自身にいい聞かせた言葉だった。
「ただの偶然だよ」劉健一はおれの言葉を意に介する様子も見せない。「なんにしろ、おまえは自由になったわけだ。これからどうするんだ? ここから出て行くのか?」
ここからという言葉がこのマンションを指すのか、歌舞伎町を指すのか、劉健一の語調は微妙だった。おれは曖昧に首を振った。
「わからない」
「混乱しているというわけか。ま、それも当然だろう。どこにも行くあてがないんなら、しばらくここにいるといい」
子供を案じる父親のような声が響いた。それが劉健一の声だとは思えず、慌てて周囲を見渡したが、確かめるまでもなく部屋にいるのはおれと劉健一のふたりだけだった。
劉健一は上着のポケットに右手を突っこんだ。革製の葉巻ケースを取りだし、蓋《ふた》を開けた。カフェオレというよりは、ミルクコーヒーと表現した方がぴったり来る色合いの葉巻を二本抜き出し、カッターで吸い口を切り落とした。いつもと同じように小型のバーナーで一本に火をつけ、おれに差し出した。枯れた香木のような香りが鼻にまとわりつく。おれは葉巻を受け取り、一口吸った。香りは香木だったが、味は乾いた土を思い起こさせた。胡椒《こしょう》を思わせる味わいがあり、その奥にかすかな甘みが潜んでいる。
劉健一も自分の葉巻に火をつけ、吸いはじめた。
「お茶もなにもなくて悪いが、しばらくそうしていてくれ。おれはちょっと仕事をする」
劉健一はそういって、パソコンに向き直った。歌舞伎町の店にあったのとは別の機種だった。慣れた手つきでキィボードを叩く劉健一を見ながら、おれは機械的に葉巻をふかした。何度か煙を吐き出した後で、カッターで切り落とされた吸い口に視線が吸い寄せられた。葉巻がどんな工程を経て作られているのかはわからない。ただ、吸い口を見る限り、何枚もの煙草の葉を束ね、寄り合わせ、一枚の大きな葉でそれをくるんでいることがわかる。吸い口にはそうして作られた葉巻の断面が現れていて、束ねられ、くるまれた煙草の葉の一枚一枚が、まるで指紋のような渦巻き模様を作っていた。人間の指紋がそうであるように、一本一本の葉巻が持つこの紋様も、同じものはひとつとしてないのだろう。劉健一が葉巻に執着している理由の一端を垣間《かいま》見たような気がした。
吸い口を眺めながら、ゆっくり葉巻をふかしていると気持ちが落ち着いてきた。劉健一は葉巻を口にくわえたまま指を忙しなく動かし、パソコンのモニタに食い入るような視線を向けている。
「これはなんていう葉巻なんだ?」
「パルタガスだ。気に入ったか?」
劉健一はモニタを見つめたまま答えた。指も滑らかに動き続けている。その動きがふいに止まった。
「いくつかわかったことがあるぞ」
劉健一は首を曲げておれを見た。くわえていた葉巻を右手に持ち替える。吸い口が唾液《だえき》で濡《ぬ》れてぬめった光を放っていた。おれは反射的に腰を浮かし、劉健一の方に向かおうとした。劉健一のきつい視線がおれを押しとどめた。パソコンの中に詰まっている情報は劉健一ただひとりのものだ――視線はそう語っていた。
「趙浩をやった連中だが――」
憮然《ぶぜん》として睨みつけていたが、劉健一のその言葉に呪縛《じゅばく》が途切れた。
「わかったのか?」
「王克《ワンコー》と孫盾《スンドゥン》というふたりだ。北関東から新潟辺りにかけて盗みや強盗を繰り返してる札付きの悪だ。東京じゃ知ってる人間も少ないが、あっちの方じゃ相当に有名らしい。この一、二週間は船橋でぶらぶらしていたらしい」
「そいつらはどこにいるんだ?」
「雲隠れだよ。もう、船橋にはいない。おそらく、報酬を受け取ってどこかに逃げていったんだろう」
「あんたの子飼いからの情報か?」
「おれの協力者からの情報だ。かなりの金をふっかけられたが、それだけの価値はある。村上に報《しら》せるか?」
劉健一は葉巻の煙を吐き出した。おれは煙の向こうの劉健一から目をそらした。あまりにも簡単すぎる。だれもが混乱している中で、劉健一だけが簡単に襲撃者の名前を手に入れるということはありえるのだろうか。劉健一の言葉が、おれには信じられない。
「まあ、おまえに含むところがあるんなら、好きにするといい」
劉健一の声は嘲笑のようにおれの耳に響く。
「いくつかわかったことがあるといったな? 他にわかったことっていうのは?」
いたたまれなさを取り繕おうとして、おれは訊いた。
「矢島は事故死だ」
息が詰まりそうになった。
「どうしてわかる?」
「警察の発表だ。矢島はバランスを崩して線路構内に転落、轢死《れきし》した。事故の前後の状況に不審なことはなにもない。捜査本部も設置されなかったみたいだな」
「警察内部からの情報か?」
「そうだ。警察と麻取の仲が悪いからといって、人ひとりが死んだ状況でおざなりな捜査はしないだろう。矢島は事故死だよ。安心しろ」
劉健一の吐き出した煙が消えていく。葉巻からは細い煙が立ちのぼっているが、劉健一の表情を隠すほどの量ではなかった。嘘をついている表情ではなかった。それでも、おれには矢島がそんな無様な死を迎えるとは信じられなかったし、劉健一の声が相変わらず耳にこびりついたままでいる。
「矢島がおれに関する資料かなにかを持っていたか、もしあるとして、それが今度どうなるのか、わかるかな?」
「難しいな。そんなものがあるとも思えん。連中は秘密主義だからな」
「だったらいいんだが……他にわかったことは?」
「もう打ち止めだ」劉健一は苦笑した。「だいたい、おまえはまだ金を全部払ったわけじゃないんだぞ」
「金を払ったわけでもないのに、あんたはおれにいろいろ教えてくれる。なにが望みなんだ?」
苦笑が消えた。劉健一は葉巻をくわえ、おれにも葉巻を吸うように促した。おれの葉巻は火が消えかかっていた。何度もふかして火を煽《あお》る。香ばしさや甘さが消え、苦みだけが口の中に強く残った。
「ずっと人を捜してる」
劉健一が煙を吐きながらいった。
「人?」
「そうだ。頭が回って臆病《おくびょう》な人間――おれと似た匂いを持つ人間だ。情報屋稼業も楽な商売じゃない。あちこちに顔を売り、金のためなら親でも売りかねないような連中を見つけて飼い慣らし、束ねていかなきゃならない。ひとりじゃきついんだよ」
「おれを勧誘してるのか? ついこの間会ったばかりのおれを? 確かにおれは臆病な人間だが、頭が回るとは思えないし、あんたと同じ類《たぐい》の人間だとも思えない」
「いっただろう。人は自分のことが一番よく見えないんだ」
「あんたはずっとひとりだったと聞いてる。それがどうして今さら――」
「人間はだれだって年を取るんだよ」
パソコンから電子音が聞こえてきた。劉健一はパソコンに向き直ってキィボードを叩《たた》きはじめる。おそらく、新しいメールが届くかなにかしたのだろう。
「だから、おれがあんたを村上に売ったことも忘れるというのか?」
劉健一の背中に言葉を浴びせた。喋るというよりは吐き出した言葉だ。劉健一はそれには応じなかった。
「東明会の連中が錦糸町で徐鋭のことを聞き回りはじめたそうだ。村上は行動が素早いな。それだけ尻に火がまわってるってことか」
徐鋭を的にして投げた網が少しずつたぐり寄せられていく。その網に小文が搦《から》め捕られないように気をつけなくてはならない。そう思った途端、いてもたってもいられなくなってきた。消えかかった葉巻を灰皿の上に乗せ、上着のボタンを留めた。
「帰るのか?」
「ああ――」
おれはぶっきらぼうに答えて劉健一に背中を向けた。
「ずっと引っかかってることがあるんだがな」
「なんだ?」
「韓豪を殺させたやつはなにを狙ってたんだ? 揺頭の卸しを横取りしたいんだったら、そろそろ動きがあってもよさそうなもんじゃないか」
足を止めて振り返った。
「まだ動きはないのか?」
「まったくない。そろそろ、揺頭の中毒になってるやつらが売値の高騰に音をあげはじめている」
「おかしいな……」
「ああ、おかしい。まったくわけがわからん」
「なにかわかったら――」
「真っ先におまえに教えるよ」
どうして、という言葉がまた喉の奥まで迫《せ》りあがってきた。どうしておれを気にかける? どうしておれに対するときだけ自分のやり方を曲げる? どうして? どうしてという疑問詞はおれの頭の中で明滅を繰り返し、突然、なにをという疑問詞に変化する。おれのなにを知っている?
劉健一は微笑んでいた。
「すまないが、頼む。あんたに対する借りは、いつか必ず返すよ」
「期待しないで待ってるさ。それと、もうひとつ。ずいぶん、徐鋭の女に執着してるようだが、回りをよく見て動かないと足許《あしもと》を掬《すく》われるぞ」
劉健一は微笑み続けている。おれは恐怖のせいで発狂しそうだった。
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劉健一は知っている。絶対的な確信がおれを貫いていた。幾重にも糊塗し、でたらめで塗り固めたおれの本当の経歴を、劉健一はどうやってか知った。
矢島は死んだというのに、もはやなにかに怯える必要はないというのに恐怖が渦巻いている。劉健一の幻影に追い立てられるようにして、足早にマンションから遠ざかった。甲州街道に出て、新宿駅のある方角に向かう。
小文の携帯に電話をかけたが、留守番電話のメッセージが流れてきただけだった。電話をくれと伝言を残して電話を切った。
そのまま電車で錦糸町に向かいたかったが、時間帯が最悪だった。夜の住人たちはまだ眠っているだろう。錦糸町は後回しにして、逆に向かう総武線に乗り、大久保で下車した。夜の世界に片足を突っこんだだけの連中なら、この時間でも動きだしている。
料理屋を中心に情報を集めてまわった。揺頭の中毒者。下っ端の売人。寝ぼけ眼の中国人たちが、夜の間に失われた活力を取り戻そうと胃袋に飯を詰め込んでいる。夜の間に耳に入れた噂話を、横に座った連中に吐き出している。
話題に多くのぼっているのは、趙浩が殺された事件のことだ。韓豪の後を追うように死んでいった王華と程光亮のことだ。無数のでたらめが飛び交い、追悼と嘲笑《ちょうしょう》が交互に顔を覗かせる。陰惨な殺人と死者の話題は韓豪の死へと連なっていき、韓豪の死は人々に揺頭を思い起こさせる。
揺頭の値段は高騰している。東明会から揺頭を卸してもらっていた連中は、別の組織に縋《すが》ってより高い値段で揺頭を手に入れるしかなくなっている。揺頭の高騰に音をあげた連中は歌舞伎町を離れ、池袋や六本木、錦糸町辺りで揺頭を手に入れようと悪戦苦闘している。
錦糸町――徐鋭の横顔が脳裏にちらつく。なにも、東明会が殺気だって犯人を捜している歌舞伎町で新たな揺頭の販売ルートを開く必要はないのだ。顧客を奪えば、それで事足りる。
四軒目に訪れた広東料理の店で、名前は知らないが何度か顔を見たことのある揺頭の売人を見つけた。男は荒《すさ》んだ空気を辺りに撒《ま》き散らしながら、ひとりで点心を頬張っていた。
「久しぶりだな。景気はどうだい?」
おれは親しげに声をかけながら、男の向かいの席に腰を降ろした。男はちらりとおれを見て、深いため息を漏らした。
「韓豪の旦那《だんな》が殺されてからは、景気は悪くなる一方だよ。なんとかならねえのかい、武先生」
「なんとかなるならとっくにそうしてるさ。韓豪を殺したやつらは見つからないし、韓豪の代わりに揺頭の仕入れを仕切ろうとする連中も現れない。おかしいと思わないか?」
「そんな難しいことはわからねえよ。おれはとにかく、昔みたいに東明会から揺頭を卸してもらいたいだけだ」
男は東明会の代わりに揺頭を卸してもらっている暴力団に対する愚痴をこぼしはじめた。韓豪が死んでから泣きついてきた売人に、東明会以外の組織は冷たく、法外な値段で揺頭を卸しているらしい。しかし、法外な値段をふっかける方にも理屈はある。揺頭の数が足りないのだ。韓豪と東明会は歌舞伎町|界隈《かいわい》に流通する揺頭のほぼ半数をその手に握っていた。
「あんたが抱えてた客はどうしてるんだ? 揺頭の値段がそれだけあがったら、客も音をあげるだろう」
「他の売人に泣きついても数は揃わないからな、みんな、歌舞伎町以外のところで手に入れてるようだ。このままの状態が続けば、おれたちは失業だよ」
「歌舞伎町以外の場所っていうと、池袋か?」
男は首を振った。
「池袋の揺頭はここから流れていってるのが多いんだ。池袋もアップアップさ。たいていの連中は錦糸町辺りまで足を延ばしてるらしいぜ」
やはり、錦糸町だった。錦糸町の揺頭の流通を徐鋭が押さえているのだとしたら、韓豪を殺す理由は充分にある。
「錦糸町で揺頭を仕切ってる人間はわかるかい?」
「そんなことを知ってどうするつもりだ?」
「韓豪が死んで、おれも失業中なんだよ、なんとかして新しい雇い主を探さないとな」
男はなるほどというように頷《うなず》いた。
「申炎《シェンイェン》って男が幅を利かせてるって話を聞いたことがあるよ。もし、そいつとうまくいったら、おれの方に揺頭を回してくれるかい?」
「覚えておくよ」
男はまだなにかいいたそうだったが、おれはそれには取り合わずに店を出た。
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錦糸町に辿《たど》り着いたときには午後五時をまわっていた。小文からの連絡はない。もう一度電話をかける勇気はおれにはなかった。拒否されるのが怖かったし、昨日から続く符合――おれが電話をかけて不通だった相手は死んでいくという妄想がおれを束縛していた。
昨日の今日ということもあり、錦糸町の繁華街には警官の姿が目立つ。劉健一は東明会の連中が動きだしたといっていたが、それらしい男たちの姿は目につかなかった。おそらく、ひっそりと動き回っているのだろう。
一時間ほど駅周辺をうろついてみたが、めぼしい情報には行き当たらなかった。当然だ。情報を持っている連中は家に閉じこもっている。あの売人が口にした申炎という男が実在するとしても、しばらくは雲隠れを決めこんでいるだろう。となれば、揺頭に飢えた連中は途方に暮れることになる。韓豪を殺した人間が揺頭ルートの横取りを狙っていたのだとしても、これではなにもならない。
なにをしているのか――徒労感が肩に重くのしかかってくる。無駄に無駄を重ねてなにを求めようというのか。矢島は死んだし、小文は徐鋭の加護の下で幸福ではないのかもしれないが不幸なわけでもなく暮らしている。おれが見向きもしなかった約束を、小文は自分ひとりの力で成し遂げた。
おれを束縛する枷《かせ》はなくなった。すべてを放り出して逃げ出せばいいのだ。昔のように。
目を閉じて、美Lの顔を思い浮かべようとしてみた。おれの偽りの経歴に気づきながら、おれを受け入れてくれた唯一の女。緩いウェーブのかかった漆黒の髪。意志の力を表していた切れ長の目。力ある目に反して控えめな鼻。薄い唇。細部から全体を構築しようとして、おれはその作業を諦《あきら》めた。どれだけ強く念じても、おれの頭に浮かぶのは美Lではなく小文の顔だった。それも、幼かった日々の面影を強く残した小文の顔だ。あれほどに強く求め合っていたのに、美Lは死んだというのに、おれは美Lの顔を思い出すことができなかった。
悲しみではなく、凶暴な感情がおれの体内を満たしはじめていた。開き直りなのか、やけくそになっているのか、自分でも判然としない。
意を決して徐鋭の携帯に電話をかけた。呼び出し音が鳴り続け、諦めかけたところで相手が電話に出た。
「知らない電話番号には出ないといってあるだろう」
徐鋭は電話に出るなりそういった。
「すみません、徐先生。昨日お会いした武基裕といいます。〈夜来来〉で――」
「ああ、小慈のお客さんでしたね。これは失礼しました。仕事関係の人間かと勘違いして……ニュースでお聞き及びでしょうが、昨日、錦糸町でとんでもない事件が起こりましてね。そのとばっちりがわたしの経営している店にも来て、対応に苦慮してるところなんです」
「それは、そちらの事情も考えずに軽々しく電話などしてしまって、申し訳ありませんでした」
「気にしないでください。いつでも電話をくれといったのはこちらですから」
徐鋭はそういって口を閉じた。行き場のない沈黙が送話口から滲み出てくるような気がした。
「お願いがありまして」
「なんでしょう?」
「わたしが歌舞伎町でなんの仕事をしていたかは話しましたよね?」
「大まかなところは――」
「揺頭商売の手伝いをしてたんです。ところが、わたしのボスが殺されまして……」おれは畳みかけるようにいった。徐鋭に考える時間を与えたくはなかった。「こんなことを徐先生にお願いするのはどうかと思ったんですが、どうにも身動きがとれなくて」
実際に自らの手を下しているかどうかにかかわらず、韓豪の事件は耳に入っているだろう。韓豪の手下が自分に電話をかけてくる理由を、徐鋭は必死に考えているはずだ。徐鋭が無実なら。そうでないのなら、おれの言動には大いなる疑いを抱くだろう。いずれにせよ、徐鋭はおれを冷たくあしらったりはしないはずだという読みがあった。
「なにが望みなんですか?」
「錦糸町近辺で揺頭の商売をしている人間をご存じだったら、紹介していただけないかと思いまして」
路頭に迷った男が必死で縋ろうとしているように一気に言葉を吐き出した。低い笑い声が聞こえてきた。
「あなたが何者かもはっきり確認していないのに、そんな相談に乗れると思いますか?」
「そうですね。あまりにも不躾でした」
弱々しい声を送り込んでみる。笑い声が消え、徐鋭は慌てておれを引き留めにかかった。
「いや、お断りするといってるわけじゃないんですよ、武先生。こうして電話だけで話しているのでは、通じるものも通じない。お互いに顔を合わせて話す必要があるようですね」
徐鋭は澱《よど》みのない声でそういった。
「どこにお伺いすればいいですか?」
「わたしの部屋に来てください」
もちろん、おれは承知した。
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* * *
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徐鋭とその手下たち、そして小文がおれを待ちかまえていた。予期していなかった小文を視界に捉《とら》えて、おれは緊張した。同じように小文の表情にも緊張が走っていた。
「ようこそ、武先生」
おれたちの緊張をよそに、徐鋭はにこやかに微笑みながら、おれを黒い革張りのソファに誘った。手触りだけでそれが最高級の皮革を使った贅沢《ぜいたく》なソファだということはわかったが、座り心地を楽しんでいるだけの余裕はなかった。おれが通された部屋はダイニングキッチンとリビングが一間続きになっただだっ広い部屋だった。内装にも調度品にも金がかかっている。だが、中国人に特有の下品さは微塵《みじん》もなく、徐鋭の日本での生活の長さを物語っていた。
「小慈、武先生にご挨拶《あいさつ》しなさい」
徐鋭がいうと、小文は強張った笑みを浮かべた。徐鋭の仕種や身振りは中国人とも日本人ともつかない微妙な個性があった。おそらく、それが台湾流なのだろう。
「こんにちは、阿基。お店以外の場所で会うのって、なんだか変な気分だわ」
強張った笑みを浮かべたまま小文がいった。
「おれもだ。少し落ち着かない」
おれはそう答えながら、なにかを問いかけるような視線を徐鋭に向けた。徐鋭はにこやかに微笑んだまま、優雅な手つきで小文の肩を抱いた。
「大事な話があるから、おまえは隣の部屋に行っていなさい」
「わかったわ」
小文は徐鋭の手をさりげなく外して身を翻した。徐鋭の手下ふたりがその後に従っていく。徐鋭は不思議なまなざしを小文の背中に向けていた。男が自分の女に向ける視線とは微妙に異なっている。怒り、悲しみ、慈しみ、嫉妬――無数の感情が複雑に入り混じっている。
判然としない違和感がおれを襲った。徐鋭が金で小文を飼っているなら、そんな視線を向けるはずがない。ふたりが愛で繋がっているのだとしても、徐鋭の視線には疑問が残る。
「錦糸町は大変なことになっているでしょう」
徐鋭の声がおれの思案を断ち切った。
「ええ、街中警官だらけです。韓豪が――わたしのボスが殺された直後の歌舞伎町も似たようなものでしたが」
「そう。あれはショッキングな事件でしたね。昔はともかく、ここ数年、歌舞伎町ではああいう陰惨な事件は起こらなかったというのに」
「昔は……ということは、徐先生は昔は歌舞伎町にいらっしゃったんですか?」
「ええ。遠い昔の話です」
徐鋭はそれ以上この話題に触れたくはないというように、固い響きを伴った声で応じた。
「北京や上海の連中が歌舞伎町を牛耳っていたころですね」
おれは徐鋭の声を無視していった。
「いや、もっと昔です」
徐鋭はおれに背を向けた。表情を読みとられたくないのか、それとも他に理由があるのか。キッチンカウンターに載っていた中国製の急須に手を伸ばし、あらかじめ用意されていた茶碗《ちゃわん》に中身を注ぎはじめた。
「台湾から取り寄せた最高級の烏龍《ウーロン》茶です。お口にあえばいいんですが」
両手に茶碗を持って振り返った徐鋭の顔には再びにこやかな笑みが浮かんでいた。おれは茶碗を受け取り、口をつけた。青く甘い香りが鼻腔《びこう》をくすぐり、舌の上でまろやかな甘みを湛《たた》えた液体が躍った。
おれの表情を見て、徐鋭は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「台湾でもなかなか手に入らない一品です。わたしは事業以外には趣味らしい趣味はないんですが、お茶だけは別です。近所にレンタルルームを借りて、台湾から取り寄せた茶を大量に保管しているほどです。愚かだとは思うんですが、やめられません」
既視感を覚えながらもう一度お茶に口をつけ、その香りで既視感の原因に思い至った。烏龍茶の甘い香りと、葉巻の甘い香り。甘さの質は違うがふたつはとても似通っている。徐鋭にとっての茶は、まるで劉健一の葉巻と同じだった。
徐鋭は立ったままお茶を啜《すす》っていた。目を細め、鼻腔を広げて烏龍茶の香りと味を堪能している。葉巻を味わっているときの劉健一と同じ表情を浮かべて。
おぞましさを覚え、それが表情に浮かぶことを恐れておれは顔を伏せた。
「いかがですか?」
徐鋭の自慢気な声が頭上に響く。
「美味《おい》しいですね」
おれはいった。
「そうでしょう」徐鋭はおれの向かいの肘掛《ひじか》けソファに腰を降ろした。「日本では飲めない銘柄なんですよ、本当に」
「本当に美味しいですよ。大陸にだってこれだけのお茶はない」
「もしよろしければ、お帰りのときに少しお分けしましょう」
「ありがたいことです。それで……さっき電話で話した件なんですが」
徐鋭の表情が曇った。自慢の茶の話を遮られたことが気に召さないのだろう。劉健一とはそこが違った。
「お仕事の話でしたね。歌舞伎町では揺頭の売買をなさっていたとか」
「まあ、そんなものです。韓豪が――ぼくのボスが大陸から揺頭を密輸して、それを日本のやくざに卸す。その手伝いをしてたんです」
「残念ですが、わたしは麻薬の売買を商売にしたことはないんですよ、武先生」
徐鋭の表情にはなんの変化もなかった。嘘をついているのだとしたら、天才的な嘘つきだ。
「もちろんこういう場所で長いこと商売をしてますから、そういう仕事をしてる人間には知り合いがいますがね」
「紹介していただけますか?」
「しかし、武先生。あなたのような人が揺頭の商売に手を出すというのは感心できませんね」
「背に腹は代えられないんです」
「そんなことはないでしょう。あなたは残留孤児二世で、日本国籍を持っている。日本語にも北京語にも堪能で、おまけに頭がいいし、お茶の味がわかる舌を持っている」
徐鋭は滑らかな口調でまくしたてた。
「なにを仰《おっしゃ》りたいんですか?」
「あなたなら、どんな仕事でもこなせるだろうということです。小慈からあなたのことはいろいろ伺っていたんですが、こうしてふたりで話していてもよくわかる。あなたは理想的だ」
予想外の成り行きだった。徐鋭は一方的に喋るだけで、ひとりで悦に入っている。おれはまるで濃い霧の中、ひとりだけ取り残されたような気分だった。
「ちょっと待ってください。話がよくわからない。理想的というのはどういうことですか?」
「ああ、これは失礼。先走ったみたいですね。わたしの悪い癖です――もう一杯、お茶をいかがですか?」
おれの茶碗にはまだたっぷりと茶が残っていた。だが、徐鋭は当然のように待っている。おれは茶碗を差し出した。
「どんなに美味しいお茶でも冷めてしまうといただけません」
徐鋭は席を立って新しいお茶を淹《い》れた。急須は特殊な材質でできているのか、注ぎ口からはお茶の熱さを伺わせる濃い水蒸気が立ちのぼっている。
「歌舞伎町はどれぐらいになりますか?」
お茶を注ぎながら徐鋭は質問を浴びせてきた。
「四年ほどです」
「それ以前は?」
徐鋭が振り返った。両手に持った茶碗を鼻に近づけ、香りを嗅《か》いでいる。
「四谷にある小さな会社で働いていました。中国との貿易を専門にしている会社だったんですけどね」
「どうしてその仕事を――」言葉を途中で切って、徐鋭は納得したというようにうなずいた。「会社が潰《つぶ》れたんですね」
「ええ。不況には勝てなくて」
「それで、歌舞伎町の黒社会に転身したんですか。不思議な人だな」
「手っ取り早く稼ぐにはそれが一番だと思ったんです。その前にはハローワークに行ったりもしてたんですがね。大学を出ていないもので、めぼしい就職先は見つからなかったんですよ」
「歌舞伎町で四年か……」徐鋭はおれの目の前に茶碗を置いて、肘掛けソファに座り直した。「すでに福建人と東北人が歌舞伎町を席巻《せっけん》していたころですね」
おれは新しいお茶には手をつけなかった。徐鋭の話は回りくどすぎる。苛立ちが頂点に達しかけていた。
「それがなんの――」
「劉健一という名前に聞き覚えはありますか?」
おれの声と徐鋭の声が重なった。最後まで言葉を吐き出したのは徐鋭の方だった。おれは絶句しかけて、なんとか表情を取り繕った。
「劉……なんと仰いました?」
「劉健一です」
「ああ、名前だけは聞いたことがありますよ。確か、昔の歌舞伎町で名前を知られていた台湾人ですよね?」
「台湾と日本の半々です」
徐鋭は吐き捨てるようにいった。
「その劉健一がなにか? もう、過去の人間でしょう。聞いた話じゃ、細々と情報屋を営んでいるとかどうとか――」
どんな表情の変化も見逃すまいと徐鋭の顔を注視した。徐鋭の顔から微笑みが消えて、すでにかなり時間が経っていた。
「細々と情報屋をね……あれは、そんなタマじゃないんですよ、武先生」
「どういうことですか?」
「福建人や東北人が大挙して押し寄せてきて、日本における中国人のあり方は大きく変わった。それと同じように、力の使い方というのも変わったんだ。劉健一は一時は歌舞伎町の最大権力者だったんだが、状況の変化にあわせて権力の使い方を変えたんだ」
徐鋭の口調が変わっていた。だが、本人はそれに気づいた様子もなく熱弁をふるい続けた。
「昔ながらのやり方で親分風を吹かせて威張っていれば、跳ねっ返りの福建人や東北人に命を狙われる。日本に来たばかりの悪党は、とにかく名前をあげたがるからな。それで、上海の連中はあらかた消されてしまった」
「待ってください」気分良く喋りつづける徐鋭をおれは制した。「劉健一が今でも歌舞伎町を牛耳ってるというんですか?」
恐怖に裏打ちされた悪い予感におれは打ちのめされそうになっていた。
「牛耳っているという言葉の使い方によるな」徐鋭は薄笑いを浮かべた。「劉健一は情報屋だといったよな? その通り。あの男は情報を握っている。ありとあらゆる情報を握ってるんだ。くずみたいな与太話から、黄金の値打ちに匹敵する情報まで、あいつは偏執狂並みの執念で集め回っている。どこにでもあいつの情報提供者がいるんだ。だれもかれも、おちおち寝てもいられない。今の時代、情報は金と同じだけの重みがある。劉健一は、その情報をひとりで握って、弄《もてあそ》んで、悦に入ってる。たしかに、だれも劉健一のことなんか知らないんだ。なにも知らないで踊らされてる」
徐鋭のいうとおりだった。劉健一はなんでも知っている。おれが小文に執着していることを知っている。幾重にも糊塗した経歴の下に隠された、おれの本当の顔も知っているのだろう。劉健一にはなにも隠せない。劉健一はすべてを知ることで、おれを恐怖で縛りつける。
「徐先生はどうしてそんなことを知っているんですか?」顫える声でおれは訊いた。声の顫えはとめようがなかった。「だれも知らないはずなんでしょう」
「商売を続けている間に、何度かおかしいなと思うことがありましてね」徐鋭は真顔に戻っていた。「いろいろ手を回して調べてみると、商売上の秘密がどこかから漏れてるらしいことがわかったんです」
「漏れた先が劉健一だと?」徐鋭は静かにうなずいた。「どうやって突き止めたんです?」
「蛇の道は蛇というじゃないですか」お茶を啜りながら、徐鋭は続けた。「わたしも歌舞伎町にいたことがありますからね。劉健一という名前を耳にしたことは何度もあった。彼がかつて歌舞伎町でどんな存在だったのかも知ってました。ちょっとは焦りましたね。だが、秘密が彼に漏れていたとしても、それでわたしの商売に支障が出ることはなかったんですよ。劉健一はただ情報を集めているだけで、わたしやわたしの商売に興味はない、そう判断してこれまでは放っておいたというわけです」
「その状況が変わった?」
「昨日の事件ですよ。あなたのボスが殺された事件が歌舞伎町でも数年ぶりの大事件なら、錦糸町であんなことが起こったのは初めてです。少なくとも一週間は商売は無理ですよ、あれだけ警官が街をうろついていたんじゃね。こんなことはだれも望んでいない」
徐鋭は両手を激しく上下させた。右手に茶碗を握っていることも忘れていたようだ。中に残っていたお茶が飛び散って徐鋭のスーツを濡らした。
「これは失礼」
徐鋭はハンカチを取りだして濡れた部分を拭《ぬぐ》った。指先にまで神経が行き届いたような優雅な仕種は、徐鋭の極度に抑制された感情を表しているように思えた。
「だれも望まないことが起きてしまった。あなたのボスの件も同じだ。我々の知らないところで、だれかがなにかを企《たくら》んでいる」
「それが劉健一だというんですか?」
徐鋭は唇を舐《な》めておれに鋭い視線を投げかけた。おれの反応を確かめているようにも、なにかを考え込んでいるようにも見えた。
「あの愚か者が錦糸町でやくざを殺し、今度は船橋の外れでだれかに殺されるまで、ほんの一時間程度しかかかっていない。それほど広範囲に及んでなおかつ強固なネットワークを持っている中国人など、今の日本では存在しません。劉健一を除いてはね」
目の前の現実が窯《かま》の中で熱せられたガラスが溶けていくように融解しはじめた。しかし、完全に溶け崩れるわけではなく、歪《ゆが》み、湾曲しながらも、そこにそのまま存在している。
徐鋭がまた腰をあげてキッチンカウンターに向かった。空になった茶碗に新しい茶を注ぎはじめている。
「劉健一は情報を集めている。徐先生、あなたはそういった」
「ええ、そういいました」
「密告屋だけでなく、殺し屋も飼っているといいたいんですか?」
「ネットワークですよ、武先生。劉健一は情報を集めるために、広範囲に亘る強固なネットワークを築いているんです。特別に殺し屋を飼っておく必要はない。彼に繋がるだれかが必ず便利な人間を知っていて、彼は自分の望みを伝えて金を払うだけでいいんだ。まるで変わっていない」
徐鋭は振り返った。自分の失言には気づいていないようだった。おれもなにも聞かなかったかのように涼しい顔で徐鋭を待ち受けた。
まるで変わっていない――徐鋭が何気なくもらした言葉は、徐鋭の嘘を物語ってあまりある。名前を聞いたことはあると徐鋭はいったが、でたらめだ。劉健一と徐鋭にはもっと深く、確実な接点がある。
「だいたいのところはわかりました」徐鋭が腰を降ろすのを待って、おれはいった。「昨日、殺された趙浩という男が、韓豪を殺した実行犯だったんじゃないかとぼくは睨んでいたんです」
徐鋭はうなずいただけだった。
「趙浩がなにをしたにしろ、あの短時間で殺し屋を手配できるのはどこのだれだろうとずっと考えていました。あなたの仰るとおりなら、劉健一が確かに怪しい。でも、どうしてそんなことをぼくに話してくれたんですか?」
「提案があるんです。あなたに仕事を提供したい」
「仕事?」
「劉健一に近づいて、彼に関する情報をわたしに流して欲しいんです」
唖然《あぜん》として徐鋭を見つめた。徐鋭は真剣なまなざしをおれに向けている。冗談を口にしたようには見えなかった。おれと劉健一の関係を知っているとも思えない。
「ぼくは、劉健一には会ったこともないんですよ」
「その点は大丈夫です」
徐鋭は自信に満ちあふれていた。その自信は、おそらくは劉健一との接点から来ているのだろう。
「ぼくにもわかるように説明してください」
徐鋭の唇の両端が吊《つ》り上がった。
「劉健一はあなたのような人間が好きなんです」
どうしてそんなことを知っているのかとは訊かなかった。芝居を続けなければならない。おれが劉健一と繋がっていることを徐鋭に知られてはいけない。
「意味がわからないな」
「劉健一のことは調べたんです。彼の生活、交友関係。現在と過去と。信用できる人間とかなりの金を使ってね。彼はあなたのような人間が好きなんですよ。頭が切れて、どちらかというと一匹狼的で、暗い影があって、おまけに彼と同じ半々《パンパン》だ」
「それだけの理由で?」
「失礼だが、あなたのことも調べさせてもらった」
徐鋭の言葉に、頭より先に身体が反応した。心臓が大きく脈打ち、首筋に汗が浮かんでくる。恐怖への原始的な反応だった。
「悪く思わないでくださいよ」おれの恐怖には気づかず、徐鋭は言葉を続けた。「最初は小慈にまとわりついてくる男のことが気になっただけなんです。劉健一は必ずあなたのことを気に入りますよ。あなたは自分が生きのびるために愛人を殺している」
違う――喉まで出かかった言葉を必死に押し殺した。
「劉健一も同じことをしているんです。もうずいぶん前のことになりますがね、当時はかなり噂になっていた。それからですよ、劉健一が悪鬼と呼ばれるようになったのはね」
徐鋭は言葉を切っておれの反応を待った。おれはただ徐鋭を凝視した。それを衝撃と受け取ったのだろう、徐鋭は満足そうにうなずいた。
「前金で三百万、払いますよ。劉健一と接触して、わたしのスパイになってください。劉健一が裏で糸を引いているのではないとしても、彼は絶対になにかを知っているはずです」
「しかし……そんなにすんなり劉健一が受け入れてくれると、本気で信じてるんですか?」
「もちろん」徐鋭はテーブルに肘をついて両手を組んだ。「歌舞伎町に戻り、劉健一と繋がりのある人間を探しだして、情報提供者になりたいと申し出ればいいんです。あなたの歌舞伎町での経歴を劉健一は熟知してるはずです。彼はあの街のことならなんでも知ってる。接触してきたのがあなただということがわかったら、彼は喜んであなたと会いますよ」
「劉健一があなたのいうような人間だとしたら、ぼくが彼に取り込まれる可能性もありますよ。その心配はなさらないんですか?」
徐鋭は組んでいた手をほどき、茶碗に手を伸ばした。自信に満ちあふれた態度はまったく変わらない。それが自分の失言に気づいていないせいだとしても、堂に入った態度は徐鋭の成功の裏づけなのだろう。
その自信に裏づけされた態度も、おれが自分を日本のやくざに売ったと知ったら豹変《ひょうへん》するだろう。
「確かに、そのことは考えました。劉健一がわたしより多額の金をあなたに与える可能性はあるし、あなたがわたしより劉健一に引きつけられる可能性もある。なにしろ、あなたたちの経歴は驚くほど似通ってますからね。ただし、わたしにも切り札があるんですよ」
徐鋭の唇は吊り上がったままだった。徐鋭は右手で鼻から下をひと撫《な》でし、小文と手下たちが消え去った方角に人差し指を向けた。
「あれとはもう長い付き合いになります。あれが日本に来たのが四年前で、そのすぐ後に付き合いがはじまったんです。こういういい方をすると気を悪くされるかもしれませんが、そろそろ、次の女を探そうかと思っていたところです」
徐鋭は声をひそめていた。おれは徐鋭の指が指し示す方向を見、ついで徐鋭に視線を戻した。
「彼女をぼくに譲ってくれると?」
あの約束が耳の奥でよみがえる。小文はすでに忘れ去っているのかもしれない。覚えていても、もうなにも望んでいないのかもしれない。それでも、あのとき交わした言葉は耳の奥で明確に何度も繰り返される。
「お気に召しませんか? 見たり聞いたりしている限り、あなたはかなりあれに執着しているようだ」
冷や汗が出た。できうるかぎりの注意を払ってはいたつもりだったが、徐鋭にはすっかり見破られていた。なにをするにしても、もっと慎重に行動しなければならない。
「彼女の意志を無視してまで、なんとかしようとは思ってませんよ」
「あれも、あなたのことを気に入ってますよ。幼|馴染《なじ》みに雰囲気が似ていて、あなたの横に座っていると落ち着くそうです」
徐鋭は相変わらず声をひそめ、淡々と話している。口調にも表情にも嫉妬の色は現れていない。
「どうです? 取り引きする価値があれにはありますか?」
即答すべきではないと勘が告げていた。東京で黒社会に片足を突っこみながら商売を成功させている人間の常として、徐鋭の猜疑心《さいぎしん》も強いと考えるべきなのだ。
「彼女の件は少し考えさせてください」言葉を吟味しているかのようにおれはいった。「しかし、仕事は受けたいと思います。金は、いついただけますか?」
徐鋭の唇がさらに吊り上がった。どうやらおれはテストに合格したらしい。
「今すぐに」
徐鋭は親指と人差し指を弾《はじ》いて乾いた鋭い音を鳴らした。しばらくすると、廊下に通じるドアが開いて、徐鋭の手下のひとりが部屋に入ってきた。手下は札束を剥《む》き出しで持っていた。帯封をされた三つの札束がおれの目の前に置かれた。
「どうぞ」
徐鋭はおれを試すようにいった。
「領収書はどうします?」
おれは札束を上着の内ポケットにおさめた。徐鋭が嬉しそうにおれの仕種を見守っている。
「もし、自分で劉健一に繋がる人間を探し出すことができなかったら、ご連絡ください。心当たりが何人かいます」
「今、教えてもらうわけにはいかないんですか?」
「リスクを冒したくないんです。できれば、あなたの力ですべてを賄ってもらいたい。そうすれば、わたしも安心できる」
「頑張ってみますよ」
おれは腰をあげた。徐鋭がそれに続き、ドアへ向かうおれの肩に腕を回してきた。
「わかっているとは思いますが、わたしたち台湾人も、大陸の人間と同じで裏切りには敏感です。容赦はしません」
「わかっています」おれは内ポケットの膨らみを手で押さえた。「これに対する恩義は感じていますから」
「だったら結構」徐鋭は声のトーンをあげた。「小慈、お客さんがお帰りだぞ」
廊下に出ると、左手の奥の方でなにかの扉が開く音が聞こえてきた。軽やかな足音とともに、小文が姿を現した。
「もうお帰りなの、阿基?」
屈託のない笑顔がおれに向けられる。覚えているか? あの約束を覚えているか? おれを恨んでいるか? 精一杯の念をこめて小文を見つめたが、反応はなにもなかった。当たり前だ。おれはなにを期待しているのだろう。
「この後も予定が入っているんだ。街が落ち着いたら、店に顔を出すよ」
村上がおれの誘導に乗って徐鋭に手をかけるつもりなら、小文にも危険が及ぶかもしれない。タイミングを見計らって、なんとか小文に連絡をつける必要がある。
「楽しみに待ってるわ」
お互いにうなずきあって、おれは小文に背中を向けた。徐鋭が微笑みを浮かべたまま立っている。
玄関で靴を履き、徐鋭と握手をしながら口を開いた。
「お茶をご馳走様でした」
「ああ、そうだ。お茶をお渡しするのを忘れていましたね」
「いいんです。今度、こちらにお邪魔するときにいただきます」
おれは徐鋭の返事を待たずにドアノブに手をかけ、外に足を踏み出した。
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徐鋭の言葉を吟味しながら総武線に揺られた。妄想なのか事実なのかの見極めがつかない。徐鋭が指摘したような力を劉健一が持っているわけがない。今はそんな時代ではないし、この国における無数の中国人犯罪者の世界は入り組みすぎている。しかし――矢島は死んだ。自由になりたいかと劉健一が呟《つぶや》いた直後に死んだ。劉健一は東明会内部にも情報源を持っている。徐鋭のいう通りなのだとしたら、劉健一がそれだけの力を握っているのだとしたら……思考は堂々巡りを繰り返す。わかっているのは徐鋭は嘘つきだということだ。徐鋭が自分で思っているほど頭がいいわけではないということだ。
まるで変わっていない――徐鋭が何気なく呟いた言葉が頭の中でこだましている。劉健一と徐鋭は昔からの知り合いなのだ。おそらくは敵なのだろう。おれをスパイに仕立て上げて劉健一の握っている情報を探らせようというのにも、なにか裏があるに違いない。
徐鋭がなにを企んでいるのかは今の段階では皆目見当がつかない。それよりも気になるのは、劉健一のなにが「変わっていない」のかということだ。
なにを思案するにしても情報が足りなすぎる。堂々巡りをする思考を弄んでいる間に、電車が四ツ谷駅のホームに滑り込んだ。とりあえず部屋に戻り、札束をどうにかしなければならない。
コンビニでジップロックを買い、札束を中に詰めた。いつものように冷凍庫の奥に押し込んで一時的に隠しておくつもりだったのだが、手にした札束から目が離せなくなった。
三百万。充分な額とはいえないが、少ない額というわけでもない。王華たちから預かったままになっている金を足せば、どこか別の場所で一旗あげるための資金に使えないことはない。名古屋、大阪、神戸、福岡。人の海に身を隠すための大都市には事欠かない。このまま東京駅に向かって新幹線に飛び乗るだけで、おれはなにもかもから解放される。
なぜ逃げ出さないのか――矢島にもいわれたし、劉健一にも問われた。すべてを抛擲《ほうてき》して逃げ出してしまえば、少なくとも恐怖や苦しみからは解放される。それができないのは、それをしようとしないのは、おれがくたびれすぎているからだ。新たな場所で一から人間関係を構築しなければならないという現実に、おれは疲れ果て、それを恐怖している。大陸から東京にやって来て、まがりなりにも普通の日本人としてだれからも疑われることなく暮らせるようになるまでには十年近い月日が必要だった。日本語の習得、文化習慣の習熟。日本の歴史を学び、テレビ番組やヒット曲の変遷を頭の中に叩き込む。そこまでする必要はなかったのかもしれないが、おれは恐怖に突き動かされるように遮二無二突っ走ってきた。たぶん、偽りの経歴がおれを縛りつけていたのだろう。あれを二度繰り返すことはできない。精神と身体が保たない。すでに学んだことを忘れることはないが、東京を捨てるということは、これまで後生大事に抱えてきた日本人としての身分を捨てることになる。身元の保証のない人間が、この国で生きていくことの厳しさは骨身に染みている。
札束は軽かった。幻影が手の上に現れているのではないかと訝《いぶか》るほど軽かった。もっと重みがあれば、おれを別の現実に誘ってくれるのかもしれないが、札束はおれには軽すぎた。幾重にも糊塗《こと》したおれの偽りの経歴のように頼りない。おれのこれまでの人生のように覚束《おぼつか》ない。
札束をジップロックごと、冷凍食品が詰まった冷凍庫の奥に押し込んだ。そのまま部屋を出ようと足を玄関に向けたところで携帯電話がけたたましく鳴りはじめた。液晶に小文の携帯の番号が表示されていた。
高鳴る心臓に複雑な思いを抱きながら電話に出た。
「阿基?」
小文の声は低く細く、なんとか引き留めなければそのまま消えてしまいそうだった。
「ああ、おれだ」
慌てて答えた。電話が切れるのが怖くて仕方がなかった。
「びっくりしたわ。突然来るんだもの」
小文の声が元に戻った。いつもと同じように、おれの耳許で跳ねまわる。
「急に招かれたんだ。徐先生は?」
「出かけていったわ。なんの話をしてたの?」
「仕事の話だ。気になるかい?」
「あなたが帰った後の彼、すごく上機嫌だったわ。あの事件のせいでずっと苛々してたのに、なにがあったのかと思ったの」
「特別な話はしてないよ。徐先生に仕事をもらっただけだ」
「どんな仕事?」
「君は知らない方がいい」
「そう……」
また小文の声が低く細くなり、おれは心臓が締めつけられるような息苦しさを味わった。
「危険なことなの?」
「いや、危険なんて全然ない。使いっ走りみたいな仕事だよ。ここのところ失業者同然だったんで、渡りに船で引き受けた」
「じゃあ、徐鋭の疑いは晴れたのね?」
小文は晴れやかな声でいった。消え入りそうな声よりはよっぽどましなはずだったが、おれの心臓はなにかに締めつけられたままだった。
「ああ、多分、あの件に徐鋭は関係していないだろう」
「よかった。わたしのいったとおりだったでしょう。阿基は物事を考えすぎなのよ」
小文の笑いを含んだ軽やかな声が耳の中で反響する。おれは溜《た》めていた息をそっと吐き出した。それでも息苦しさが消えることはない。
「徐鋭は一、二週間の間〈夜来来〉を閉店するといってたわ。ちょっと会えなくなるわね」
「暇なときに電話するよ。もし、君も時間があいてるようなら、一緒に食事でもしよう。新宿に大連から来た人間が開いてるレストランがあるんだ。そこそこの味だし、故郷を懐かしく思い出せる」
「錦糸町にもハルピンの人がやってるお店があるわ。絶対、行きましょうね。歌舞伎町でも錦糸町でもどっちでもいいから」
「必ず電話するよ」
「そうして。店が再開されるまでは暇だから」
小文の声が遠ざかっていく。おれは反射的に声のトーンをあげた。
「小慈――」
「なに?」
「いや……日本に来て、幸せかい?」
なにを訊いたらいいのかもわからず、おれは締めつけられたままの心臓の脇に転がっていた言葉を拾いあげた。
「どうかしら……田舎にいたときより不幸だとは思わないけど、幸せだともいい切れないわ。時々、昔の友達と電話で話したりするんだけど、今は大連もハルピンも大きな都会になってるし、わざわざ蛇頭に高いお金を払って日本に来なくても良かったのかもしれないと思うこともあるわ」
「そうか。徐鋭は君に幸せを与えてくれるわけじゃないのか」
「どうしてそんなことを訊くの?」
徐鋭と同じように、自分を過信して口を滑らせていた。自分を呪いながら、おためごかしの言葉を探した。心臓の脇に転がっていたのと同様、そのための言葉はおれの内部に無数に転がっていた。
「そうだな……多分、自分が幸せだと感じていないからだろう」
「阿基は不幸せなのね。可哀想。慰めてくれる人を探さなきゃ」
おまえだ――情け容赦のない激情がいきなりおれを呑みこんだ。おれを慰めることができるのはおまえだけだ。うっちゃってしまったおまえとの約束を果たさせてくれ。昔のようにおれの横で微笑んでいてくれ。
激情を抑える術《すべ》は、この十年で嫌になるほど学んでいた。空いている左手をきつく握りしめ、深い呼吸を繰り返す。
「どうしたの阿基?」
心配そうな小文の声が携帯から流れてくる。
「そうだな。頑張ってみるよ」おれは爪を掌に食い込ませながらいった。「また、電話するよ」
「待ってるわ」
「そうだ。小慈、変なことをいうと思うかもしれないが、しばらくの間は、徐先生と出かけるのはやめておいた方がいい」
「どうして?」
「あの事件だよ。殺された趙浩には仲間がいるし、おれのように考える人間が他にもいれば、徐先生は連中に狙われるかもしれない」
「そうね……気をつけるわ」
「じゃあ――」
おれより先に、小文が電話を切った。おれは呆然《ぼうぜん》と携帯を見つめながら小さなボタンを押した。左手が痺れていた。掌に食い込んだ爪は皮膚を引き裂き、肉に潜り込んでいる。
血まみれになった左手を目の前にかざした。
唐突に、答えを見つけた。なぜ逃げ出さないのか、逃げ出すことができないのか。その答えだ。
故郷を捨て、祖父を捨て、小文を捨て、おれは日本にやって来た。捨てたといえば聞こえはいいが、実際には逃げ出してきたのだ。おれを受け入れ、おれを育《はぐく》んでくれたすべてのものから、おれは逃げ出した。その挙げ句、地べたに這《は》いつくばるようにして生きている。
故郷が懐かしかった。祖父が恋しかった。小文が哀れだった。その思いを押し殺して、おれは日本人に成りきるためのあれやこれやに勤《いそ》しんできた。バブルが弾け、会社が倒産し、荒野のような街にひとり取り残されて、おれは日本にやって来たのが間違いだったことを悟ったのだ。改革開放路線とそれに付随する劇的な中国の変化。小文がいみじくもいったように、故郷の貧しさに嫌気が差して国を捨てた人間は、だれもが地団駄を踏んでいるだろう。残っていれば良かったのだ。日本ではなく、北京や上海、広州――大|変貌《へんぼう》を遂げた都市は大陸の至る所に点在する。言葉が通じ、文化や習慣の違いに戸惑うことなく金稼ぎに勤しめる場所が、今の中国にはある。
自分の敗北を認めたくはない。自分の過ちに歯噛みしたくはない。だからこそ、おれは今いる場所に踏みとどまっていなければならなかった。不幸なままの自分にこの場所でケリをつけなければならなかった。
「幸せじゃないのか、小文。あんなふうに微笑んでも幸せじゃないのか」
それ以上自分を省みるのが辛《つら》くて、宙に向かって呟いた。おれの言葉はさっきの札束と同じで、どこまでも軽く、空虚だった。
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* * *
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新宿で小田急線に乗り換え、参宮橋で電車を降りた。劉健一にかけられた暗示のせいか、尾行を極端に気にしながら、例のマンションを目指した。
エントランス脇のタッチパネルで劉健一に来意を告げた。
「これからは、ここに来る前に電話を入れろ」
劉健一の不機嫌な声がスピーカーから流れてきて、エントランスのロックが外れた。劉健一に話すことと話さないことを頭の中で選別しながらエレベータに揺られた。
ドアをノックすると、見たことのない男がドアを開け、おれとはすれ違うように外に出て行った。劉健一の出迎えはなく、真新しいスリッパがぽつんと廊下に置かれていた。
劉健一はパソコンに向き合っていた。
「今のはだれだ?」
「仕事仲間だよ」
劉健一はパソコンのモニタを睨んだままいった。劉健一の仕事仲間だということは、情報提供者のひとりということになるのだろう。そんな人間をこのマンションに招き入れているという事実にショックを受けながら、おれは言葉を続けた。
「見かけたことのない顔だな」
劉健一はちらりとおれに目を向け、またパソコンに視線を戻した。唇の端にほのかな笑みが浮かんでいる。
「当たり前だろう。歌舞伎町辺りをうろついてるようなやつだったら、ここに呼んだりはしない」
「錦糸町の人間なのか?」
「そうとは限らないさ。それより、なんの用だ?」
「徐鋭と会ってきた」
おれはわざと間延びした声で告げた。リズミカルにキィボードを叩く劉健一の指が空中で静止した。だが、それもほんの一瞬のことで、白く細長い指はなにごともなかったかのようにキィボードを叩きはじめた。
「それで?」
「仕事を頼まれたよ」
おれは促されるままに言葉を吐き出した。情報を小出しにして劉健一を翻弄《ほんろう》してやろうと思っていた。熱心にパソコンを操作する劉健一を見ているうちに、劉健一はすべてを知っている、おれと徐鋭の会話の中身もすべて知り尽くしているという妄想に囚《とら》われそうになっていた。
「どういう仕事だ? まさか、風俗店を一緒に経営しようというんじゃないだろうな?」
劉健一は勢いよくエンターキィを叩き、動きをとめた。それと同時に、おれを捉えかけていた妄想が霧散した。
「あんたに可愛がられるようになって、あんたをスパイしろと」
モニタ画面に照らし出されて青い色を発していた劉健一の双眸が黒く沈んでいく。パソコンの電源が切れてモニタがブラックアウトしただけのことなのだが、おれには劉健一の顔が悪鬼のそれに変化したように思えた。
「おれをスパイしろだと?」
「ああ。徐鋭の話によると、おれはあんたに気に入られるすべての要素を持ち合わせているらしい。もっとも、まだおれとあんたに繋がりがあることは知らないようだが」
「そうか……その仕事、引き受けたんだな?」
おれはうなずいた。劉健一は腕を組み、横顔に微笑みを浮かべながら目を細めた。
「見返りは? 金か?」
「金と女だ」
「なるほど。徐鋭に見透かされていたというわけか。となると、おれより徐鋭を取るつもり――そんなわけはないな。おまえはここにいるし、徐鋭のことを話している」
「どうすべきなのか、正直なところわからない。あんたはおれに嘘をついた。あんたを信じることはできないが、だからといって徐鋭も嘘つきだ」
「嘘?」
劉健一の顔から笑みが消えることはない。いつでも状況を楽しんでいるようだ。
「あんたと徐鋭は古くからの顔なじみだ。だが、あんたはそんなことはおくびにも出さなかった。徐鋭もだ」
「確かに顔見知りではあるが、接点はあまりないんだよ。同じ一時期、歌舞伎町で過ごしたことがある、台湾の血を引く人間同士だったということだけだ」
「だったら、どうしてこんなに憎みあってるんだ?」
「憎む? おれが徐鋭を?」
劉健一の笑みが広がった。おれを煙に巻こうとしているのだということはよくわかっていた。
「徐鋭は台湾の烏龍茶にのめり込んでる。茶のことを嬉しそうに語る姿は、葉巻のことを喋るときのあんたとそっくりだったよ。まるで、二卵性の双子みたいだった」
「徐鋭にそのことをいってみたか?」
劉健一は間髪を入れずに問い返してきた。動揺している様子は微塵もない。
「いや」
おれは徒労感を覚えながら首を振った。
「話は変わるが、大陸から日本にやって来て、考えるときも日本語で考えるようになるまで、どれぐらいかかった?」
「はっきりとは覚えていない」劉健一の意図を訝りながら、おれは記憶を掘り起こした。「多分、三年ぐらいだろう。できるだけ北京語を話す人間とは接触しないようにしてきたからな」
「おれが北京語に初めて接したのは、十五ぐらいのときだ。頭の中で北京語でものを考えられるようになるのに、やっぱり三年ぐらいかかったよ。日本人社会から突然台湾人社会で暮らすことを余儀なくされてな。必死で勉強した」
劉健一は口を閉じ、血が滲《にじ》んでいるのかと思うほど赤い舌で唇を舐めた。
「なにがいいたいんだ?」
「おれがだれかと双子のようだとしたら、それはおまえだよ」
「おれはだれも殺してはいない」
歯の隙間から絞り出すようにいった。劉健一は笑っただけだった。
「徐鋭はあんたがおれを気に入るということに絶対の確信を抱いていた」
「その点は、やつが正しいな」
「なぜだ? どうしておれなんだ?」
「理由が知りたいのか? それとも恐ろしいだけか?」
劉健一の目がどんどん細くなっていく。ほとんど目を閉じた劉健一は音楽に耳を傾けているようにも見える。たぶん、その音楽は劉健一にしか聞こえない。劉健一にしか楽しめない。
「返事はなしか。まあ、そうだろうな」
劉健一の目が開いた。底無しの漆黒がおれを見据える。おれの身体は金縛りにあったかのようにぴくりとも動かなかった。
「韓豪や趙浩の件はどうするんだ?」
劉健一の唇が滑らかに動いた。
「まだ、村上がいる。調べ続けるか、調べている振りをし続けないと――」
「村上は徐鋭を追いかけてるんだろう?」
「ああ」
「じゃあ、徐鋭がどう村上をあしらうのか、お手並み拝見と行こうじゃないか」
「待てよ」
おれは劉健一の方に足を踏み出した。呪縛はすでに解けている。
「徐鋭とあんたの関係はどうなってる? あんたたちはなにを企んでるんだ?」
「おまえが知る必要はないさ」
「ふざけるな。いいように振り回されて、知る必要はないの一言で済まされてたまるか」
「おれが振り回してるわけじゃない。おまえが振り回されたがってるんだろう。あの女のためにな」
劉健一はパソコンの電源ボタンを押した。青白い光が劉健一の黒い双眸に重なった。どんよりと重く暗い北国の海を思い起こさせる色だった。
「絶対に安全確実な秘密なんて、どこにも存在しないんだぜ」
「なんの話だ?」
おれの声は顫えていた。劉健一の眼球が静かに動いていく。その視線はパソコンのモニタに据えられた。キィボードを叩くたびにモニタの画面が変わり、劉健一の顔を歌舞伎町のネオン管のように照らしていく。
「李基。一九七〇年、黒龍江省生まれ」キィボードを叩く手を止めて、劉健一は画面に映った文字を読みあげた。「父は李修華《リーシウファ》、母は朱静蕾《ヂュージンレイ》。どちらも生粋の中国人で、日本人との繋がりはない」
おれはきつく唇を結んだ。喉《のど》の奥が細かく顫え、それが全身に広がっていく。胃の辺りが溶岩でも飲みこんだように熱くなっているのに、手足の先は凍えそうなほどに冷えている。
「一九八三年に李修基《リーシウジー》という男が、中国名、唐霞《タンシァ》、日本名、中村菊子の戸籍を買い取り、改竄《かいざん》、孫の李基を残留孤児二世として登録する、と」
「どうやって……」
うまく声が出なかった。喉が顫え、身体が顫え、かすれた声はぼろぼろにひび割れている。幾重にも糊塗し、死にものぐるいで守ってきた偽りの経歴が音を立てて崩壊していく。恐ろしかった。これほどの恐怖を感じたことはいまだかつてなかった。
「安全確実な秘密などどこにもないといっただろう。金は世界中のどこにいっても金として通じるんだ。知り合いの知り合いの知り合いを通じて、黒龍江省で調べものをしてもらうことぐらい、お手の物さ。もう少し続けようか――」劉健一はまたキィボードを叩いた。画面が切り替わり、唇が動く。「藍文慈、一九七七年、これまた黒龍江省生まれ。父、藍文榮、母、蘇淑絹《スーシュージュエン》の長女として生まれる。幼いときに父が死に、母親と共に生まれ育った村に送り返された。ふたりの従兄弟《いとこ》とは年が離れすぎていて、近所の李基を遊び友達として幼少期を過ごす。一九九九年、藍家の人間が借金で二十万元を作り――日本円で三百万というところか、連中にすりゃ大金だ――藍文慈を日本に送り出す。おまえの小慈は今でも故郷に毎月日本円で三十万を送金しているな。借金はとうに返したし、文慈の母親や親族は今じゃ、ハルピンの高級マンションで暮らしているぜ」
劉健一の悪意を含んだ声はおれの耳を素通りした。左手が痺れている。知らず知らずのうちに両手を強く握りしめ、そのせいで四谷のマンションでつけた傷口が広がっていた。バンドエイドが血で滲んでいる。
「十代のころの藍家の暮らしはかなりどん底だったようだな。そのころの文慈の口癖は、阿基が必ず来てくれる、阿基が約束を守ってくれる、阿基が――」
「やめろ」
耐えきれなくなって叫んだ。左手は痺れているが痛みは感じない。なによりも痛んでいるのはおれの心だった。
「故郷を捨てて、なりふり構わずにこの国で生きてきたくせに、文慈との約束が忘れられないのか?」
「やめろといったんだ」
「おれとおまえが双子のようだというのはたわごとだったな」劉健一はおれの声など聞こえなかったというように言葉を続けた。「おれとおまえは違う。だからこそ、おれはおまえが気に入ってるんだ」
「黙れ。頼むから、その口を閉じてくれ」
劉健一は腰をあげた。モニタが放つ白い光が横顔を染めあげた。黒い瞳《ひとみ》がきらきらと光を放ち、それがゆっくりおれに近づいてくる。逃げ出したかったが、動くことができなかった。
劉健一がおれの肩を抱いた。
「だれも知らない。おれ以外には、だれもなにも知らない。大陸でおまえやあの女の経歴を調べ上げた連中も、書類や人の話でおまえたちのことを知っただけで、だれがなんのためにその情報を必要としているのかまでは知らない。すべてはおれのここにあるだけだ」
劉健一は自分の頭を指差した。
「おれが口をつぐんでいる取り、おまえにはなにも起こらない。文慈も、おまえがあの阿基だということは知らずにいられる」
身体の顫えはとまらなかった。劉健一にもそれは伝わっているはずだがなにもいわなかった。
「矢島を殺したのか?」
顫える声で訊いた。
「そう思いたいのなら、思っていればいい」
おれとは違って、劉健一の声は平坦だった。一切の感情を放棄しているかのようだ。冷たく、不気味で、掴《つか》み所がない。肩に回された腕からも、劉健一の体温が伝わってくることはなかった。
「韓豪殺しも、趙浩の件も、いずれ片がつく。そのときは、武、おれの仕事を手伝ってくれ。タレコミ屋たちを飼い慣らすんだ。悪いようにはしない」
「どうしておれなんだ?」
含み笑いが聞こえた。
「どうして逃げないんだ?」
劉健一は答える代わりに問い返してきた。答えはわかっている。だが、それを告げるつもりはなかった。
「文慈のためか……それもいいだろう。徐鋭から奪い取って、約束とやらを果たしてやるといい」
劉健一は笑いながら話していた。喉が反り返り、喉仏が細かく顫えている。それを見ているうちに、頭の奥でスイッチが入ったような音がした。熱く燃えたぎっていた胃の周辺が冷えていき、冷えきっていた手足が熱を帯びていく。明確な憎悪と殺意が芽生えていた。燃えたぎるようなそれではなく、凍りつくような憎しみと殺意だ。
劉健一に気づかれないように――それだけを祈って、おれは視線を落とした。劉健一の哄笑《こうしょう》はまだ続いていた。
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頭を冷やす必要があった。偽りの経歴が崩壊したことで生まれた恐怖と、劉健一への憎悪と殺意をなだめる必要があった。このままでは、おれは身動きが取れなくなる。
小田急線を新宿で降り、小田急デパートの地下でウイスキーを買った。そのままタクシーを掴まえて、四谷のマンションに向かった。視線は窓の外に向けていたが、おれの目にはなにも映ってはいなかった。
携帯の電源を切って湯船にゆっくり浸かった。丹念に身体を洗い、左手のバンドエイドを張り直した。ウイスキーを生《き》のままでグラスに注ぎ、口に含んで徐々に飲み下す。恐怖と憎悪の余韻はまだ皮膚に染みついていた。気を抜くと、すぐに顫えがぶり返す。肩を抱きながら、ひたすら酒を飲み続けた。ウイスキーの残りが半分になったころには、身体から力が抜け、恐怖と憎悪も薄らいでいった。消え去ったわけではないことはわかっている。酒の魔力で消えたように思えているだけだ。
ウイスキーの瓶に蓋をし、グラスにミネラルウォーターを満たした。水をちびちび飲みながら、霞《かすみ》がかかったような頭で思案を巡らせた。
劉健一はおれの秘密を握っている。おれも劉健一の秘密を掴まなければならない。この点に関して、疑問を挟む余地はない。おれは恐怖とともに生きてきた。心の奥底にがっちりと根を張った恐れを振り払うことなどできはしない。おれはおれの恐怖を熟知している。おそらく、劉健一はそこを読み違えているのだ。恐怖でおれを縛りつけられると思いこんでいる。おれの恐怖の大きさを過小評価している。
劉健一の秘密――|鍵《かぎ》になるのは徐鋭だ。劉健一と徐鋭の間に漂っている、おぼろだがしかし確実な憎悪。その正体を探ることが劉健一の秘密を垣間見る一番の近道になるはずだ。
部屋の隅を掘り起こし、ノートパソコンを探し当てた。二年前の型落ちだがおれの目的には充分にかなう。電話回線に繋いでインターネットに接続する。「歌舞伎町 新宿 中国人 黒社会 犯罪」というキィワードで日本語と北京語の記事を検索した。気が遠くなるような件数が表示されたが、めげることなく、ひとつひとつ丹念に調べ上げていく。
八年前に起こった北京人と上海人の抗争に端を発した凄惨《せいさん》な事件。その二年後に起こった、元警官が引き起こした奇妙な事件。新聞、雑誌、野次馬たちの四方山《よもやま》話。無数のデータの海にちりばめられた名前を拾いあげていく。劉健一の名前も徐鋭の名前もどこにも見あたらない。だが、いくつかの名前が浮かびあがってくる。どれもこれも、死人の名前だ。
元成貴《ユェンチョンクィ》、呉富春《ウーフーチュン》、佐藤夏美あるいは呉富蓮《ウーフーリェン》、周天文《チョウティエンウェン》――歌舞伎町に今でも流れている噂と名前を付き合わせていく。
とち狂った残留孤児二世がそもそもの引き金を引いた――呉富春。
怒った上海のボスがとち狂った野郎の殺しを命じた――元成貴。
劉健一は自分の弟分を殺した――周天文。
劉健一は自分の女を殺した――夏美。
名前と繋がらない噂がそれに倍してある。しかし、いくつかの名前は確実に劉健一に繋がっている。酔いが覚めていく。恐怖と憎悪は影をひそめている。
劉健一と徐鋭の共通点は、その身体に台湾の血が流れているということだ。検索のためのキィワードを「台湾 台湾人 歌舞伎町」と変えて入力した。箸《はし》にも棒にもかからない記事にさすがに辟易《へきえき》しながら、それでも飽くことのない熱意に促されていた。
戦後すぐに歌舞伎町に移り住み、商売をはじめたという台湾出身の老人の日記に目がとまった。
「今朝の新聞の死亡欄に知人の名前を見つけた。戦後すぐに、歌舞伎町で同じような商売をはじめ、昭和が終わるとともに歌舞伎町から離れていった戦友の如き人物だ。もう、八十歳をはるかに超えていただろうか。わたしの回りで次々に知人が死んでいく。そういえば、歌舞伎町で商売を営んでいた台湾人仲間で、最初に死んだのは楊偉民だった。東通りの片隅で古い薬屋を営んでいたのだが、その人望は厚く、いつしか歌舞伎町で暮らす中国人、台湾人の大親分のような存在になっていった男だ。昭和のころは、それこそ歌舞伎町で楊偉民のことを知らない中国人、台湾人はいなかった。その楊偉民も、年号が平成に変わり、悪辣《あくらつ》な中国人が大陸から押し寄せてくるようになると、背を丸め、寂しそうにしていることがあった。歌舞伎町で起こった悲惨な事件で実の孫のように可愛がっていた男――たしか、天文という名前だったように記憶している――を失い、失意のうちに歌舞伎町を去っていったはずだ。そして、自身も横浜の中華街で何者かに射殺されてしまった――」
唇が干涸らびていた。水で唇を湿らせ、検索エンジンに打ち込むキィワードを変更した。
「楊偉民 横浜中華街 殺人 射殺」
画面に現れた記事件数は、それまでに比べると笑いたくなるほどに少なかった。ある大新聞の過去記事のデータベースを選び、記事を読んだ。
「昨日、午後五時頃、横浜市中区山下町×−×のマンションの室内で、台湾籍の楊偉民さん(83)と日本国籍の林麗美さん(17)の射殺体が発見された。神奈川県警の発表によると、楊さんと林さんは九ミリ口径の自動|拳銃《けんじゅう》で射殺されており、その手際の良さから犯行に携わったのはプロの犯罪者ではないかと思われる――」
記事はその後、神奈川県警の捜査方針を短く記しているだけだった。続報を探してみたが、見つからなかった。捜査は暗礁に乗り上げたと考えるべきだろう。
歌舞伎町で薬屋を営んでいた台湾人の楊偉民――はっきりと覚えてはいないが、かすかに記憶が刺激される。歌舞伎町のどこかで小耳に挟んだことがあるに違いない。
もう一度、老人の日記のページを開いた。老人の名は陳志平《ちんしへい》。トップページに実際の住所とメールアドレスが記載されていた。住まいは国立《くにたち》だった。ホームページ開設の趣旨を記載したページに、娘夫婦と同居しているとある。併設された掲示板には書き込みがほとんどなく、このホームページ自体が、年老いた陳志平の自己満足のためにだけ存在しているのだということを物語っていた。
歌舞伎町で楊偉民のことを聞き回るわけにはいかない。そこかしこに劉健一のネットワークが張り巡らされているはずだ。だが、回りからその存在を忘れ去られ、国立にひっそりと住まう老人なら、劉健一のネットワークからは外れている可能性が高い。
おれは陳志平にメールを書いた。
「拝啓
見ず知らずの者が突然メールをお出しする非礼をおゆるしください。
わたしは日本名を武基裕、中国名を李基という、残留孤児二世です。現在はジャーナリストの真似事のようなことをして食い扶持《ぶち》を稼いでいます。日本に戻ってきて、まもなく十五年めを迎えます。区切りのいい年を迎えるにあたって一念発起、日本に戻ってきた残留孤児一世、二世、三世の辿った道のりをドキュメントでまとめ上げ、一冊の本にして世に問おうと考えております。
つきましては、その補足取材として、新宿、歌舞伎町に長く関わってきた陳志平先生にお話を伺えないものかと思い、拙《つたな》い筆をとりました。差し支えなければ、是非お時間を割いていただきたいのです。
もし許可をいただけるのなら、その旨、わたしのメールアドレスか携帯電話にご連絡ください。
[#地付き]敬具」
書きあげたメールを送信し、パソコンの電源を切った。酔いはすっかり冷めていたが、脳はすっかり疲弊していた。これならぐっすり眠れるだろう。
布団に潜り込んで目を閉じた。瞼《まぶた》の裏の闇にさらに黒い闇が覆い被《かぶ》さってきて意識が闇に呑みこまれていく。
気絶するように眠りに落ちた。
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悪夢がおれの意識を現実に引き戻した。おれの意識を呑みこんだはずの闇が、粘った液体になり、ふたつの球形に分かれ、収縮していっておれを見おろす。それは劉健一の黒い双眸とうりふたつだった。夢の中のおれはその双眸を恐れて必死で逃げ回る。街から街へ、山から山へ。列車に乗り、飛行機に乗り――それでも劉健一はおれを見つめている。どこへ行っても、どこへ逃げても、劉健一の目からは逃れられない。
絶望に悲鳴をあげたところで目が覚めた。全身は汗のせいで水を浴びたように濡れていた。呪いの言葉を呟きながら目覚まし時計に目を映し、愕然とした。ほんの一、二時間しか眠っていないように感じていたし、肉体に溜まった疲労もそれを肯定していた。だが、目覚ましは午前九時を指していて、たっぷり七時間は寝ていた計算になる。
慌ててシャワーを浴び、パソコンを立ち上げてインターネットに接続した。陳志平からの返信メールが届いていた。平日の昼間はいつでも家にいるので好きなときに訪ねてきなさいという簡単な内容が簡潔に書かれている。文末に住所と電話番号も記されていた。枯れ果てる寸前でありながら、あくまでも枯れることを拒否しようとしているようなホームページの文面とは別人のようだった。
すぐに部屋を出れば、昼前には充分に間に合う時間だった。駅に向かいながら携帯の留守電をチェックする。吹き込まれていたメッセージは二件。一件は徐鋭からのもので、昨日の件を念押しする内容だった。もう一件は村上からだった。
「錦糸町の連中の抑えが効かなくなってる。そのうちどこかでドンパチがはじまるぞ。こっちはそうなる前にカタをつけたい。夕方、事務所に顔を出してくれ」
村上の声は漏れそうになる怒りを抑えているかのようだった。携帯をポケットにしまいながら空を見上げた。手を伸ばせば届きそうな低さに、分厚い雪が広がっている。どす黒い雲は緊張を孕《はら》んで、今にも雨が降り出しそうだった。おそらく、歌舞伎町や錦糸町も同じ雲に覆われているのだろう。雲と同じように極度の緊張を孕んで、空気も顫《ふる》えているはずだ。
十一時前には国立駅に降り立っていた。メールに書かれていた番号に電話をかけると、中年の女がお話は承っておりますといった。住所を頼りに駅前の大通りを南に下っていく。十分ほどで陳志平の家は見つかった。この辺りでよく見かける瀟洒《しょうしゃ》な造りの一軒家で、表札には高木と書かれていたが住所は正確に一致していた。インタフォンを押すと、電話と同じ中年女の声がスピーカーから流れてきた。
「さきほどお電話した武と申しますが、陳志平さんのお宅はこちらでよろしいんでしょうか?」
「はいはい、少々お待ちください」
待っている間に家を観察した。建坪は四十坪というところだろう。塀と家の間にこぢんまりとした庭があって、薔薇《ばら》の花が咲き、その向こうに丁寧に並べられたプランターが見えた。プランターに植えられているのは野菜やハーブ類のようだった。玄関の手前に屋根付きの駐車スペースがあり、白いセルシオがとまっていた。どこからどう見てもまっとうな堅気の家だ。劉健一との繋《つな》がりがあるとは思えない。
玄関が開いて、小太りの女が姿を現した。五十代前半というところだろうか、焦げ茶のスーツを着ていて、腰回りの厚い肉のせいでスカートがはち切れそうになっていた。
「すみません。わたし、陳の娘ですが、これから出かけるところなんですよ。父は足腰が弱っていて、ろくにおもてなしもできないんですが、居間のテーブルにお茶の入ったポットが置いてありますから」
女は香水の匂いを辺りに撒き散らしていた。買い物か習い事にでもでかけるのだろう。おれは無理矢理微笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。
「お気遣いなく。突然お邪魔したのはこちらですから」
駅に向かって歩いていく女と入れ替わるように敷地の中に足を踏み入れた。玄関にはすでに来客用のスリッパが用意されていた。スリッパを履きながら、家の中に声をかけた。
「お邪魔します」
「どうぞ、おあがりなさい」
廊下の奥から予想外にしっかりした太い声が返ってきた。廊下を進み、突き当たりのドアを開けると、そこが居間だった。陳志平はソファにどっかりと腰を降ろして、庭の薔薇に視線を向けていた。頭髪はすっかり抜け落ち、剥き出しの頭皮にいくつもの染みが浮かんでいた。衣服に覆われていない皮膚の表面には深い無数の皺《しわ》が刻まれている。外見上は百歳を超えているといわれても不思議ではない。太くよく通る声が陳志平の実際の年齢を示唆しているだけだ。
「突然お邪魔してしまって、すみません。昨日、メールを差し上げた武基裕です」
「そうかしこまらんでこっちへ来なさい。飲み物が必要なら、すまんが自分でいれてくれ。まったく、五十をすぎても娑婆《しゃば》っ気が抜けない娘でな」
「若々しくていいじゃないですか――失礼します」愛想を口にしながら、陳志平の向かいの肘掛《ひじか》けソファに腰を降ろした。「本日は不躾《ぶしつけ》なお願いを快く引き受けてくださって、本当にありがとうございます」
「なに、庭の花を愛《め》でるしかすることのない爺《じい》だ。お客様は大歓迎だよ。それで、昔の歌舞伎町のことを知りたいといってたな?」
「昔といっても、八十年代のお話を中心にお伺いしたいと思っているんですが、そのころから、残留孤児が日本に戻ってきたという経緯がありますもので……」
「八十年代か……確かに、あの辺りからこの国もおかしくなっていったんだ。残留孤児だけじゃないぞ、台湾人や中国人も続々押し寄せてきてな、歌舞伎町はあっという間に混沌《こんとん》の歓楽街になりはてた。それもこれも中曾根《なかそね》の大馬鹿者のせいだ。留学生交換などとおべんちゃらを抜かしおって。あの男が総理になったおかげで――」
「陳先生は歌舞伎町ではどのようなご商売を?」
いつまでも話し続けていそうな陳志平を遮っておれは訊《き》いた。陳志平は嫌な顔ひとつ見せなかった。
「中華料理屋だよ。今でいうシアターアプルの裏手の方で、小さな料理屋を女房とふたりでやっていたのさ。うちの売りは台湾仕込みの腸詰めと小籠包《ショウロンポウ》でな、同胞の台湾人だけでなく、日本人も贔屓《ひいき》にしてくれた。最近の中華料理屋は――」
「八十年代初頭までの歌舞伎町は、比較的安定していたんですよね? 外国人が大挙して押し寄せてくるようになったのは、やはりバブルのころからですか?」
「そうだな。昭和六十年あたりから変わりはじめたんだ。フィリピン人に台湾人、大陸の連中。あまりにも変わり方が凄《すさ》まじかったんで、おれも女房の説得に負けて店を畳んだ。安心して道を歩けんような街に住み続けることはできん。だいたい――」
「陳先生のホームページに、楊偉民という方のことが書かれていましたが……」
陳志平は、ここに来てやって不愉快そうな視線をおれに向けた。動じている暇はない。おれはその視線を無視して言葉を続けた。
「当時の歌舞伎町の重鎮だったとか……八十年代後半になっても、その立場は変わらなかったんですか?」
「そりゃ変わったさ。昭和六十年の前の歌舞伎町といえば、そこで暮らしたり商売をしている外国人は台湾人や朝鮮人、それに戦前から日本にいる中国人だけだったんだ。そりゃ悪さをする連中もいることにはいたが、みんな昔からの決まりを守っていた。決まりを破る連中には、楊偉民が罰を与えていた」
「どんな罰ですか?」
「そりゃ、一口ではいえんな。すまんが、そのポットに入っているお茶を注いでもらえんかな?」
なかなか食えない老人だった。喋《しゃべ》りたくないことを喋らせるには骨が折れそうだ。よくよく頭を使ってうまく誘導していく必要がある。お茶を用意する時間を作って頭の中を整理した。おそらく、目の前の老人は自分でそう見せたがっているほどにはまっとうな暮らしを歌舞伎町で送っていたわけではあるまい。昔は今よりまともだったとはいっても、歌舞伎町は歌舞伎町だ。飲む、打つ、買う。多少なりとも悪事に手を染めない人間はいない。陳志平のそうした後ろ暗い面に触れないように気をつければ、もともと喋りたがっている老人を陥落するのは難しいことではないだろう。
お茶の入った茶碗を陳志平の前に置きながら、おれは含みのある笑いを浮かべた。後ろ暗いことのひとつやふたつ、一人前の男ならだれだってあるでしょう――おれの笑みに、陳志平は満足そうに頷いた。
「話の腰を折って申し訳ありませんでした。続きをお願いします。昭和六十年ぐらいを境に、楊偉民の立場も変わっていったということでしたが」
陳志平はお茶で喉を潤し、満を持していたとでもいうように話しはじめた。
「昔からの決まりなど屁《へ》でもないという連中がどんどん増えていってな、それまでのやり方じゃ埒《らち》があかんようになっていた。楊偉民がどれだけ威厳を持って接しようとしても、威厳の意味がわからん連中には通用せん。それで、楊偉民もやり方を変えたんだ」
「どういうふうに?」
「それまでは表だっていたのを、裏に回るようになったのさ。どこかで揉《も》め事が起こったり、事件が起こったりしたら、裏でいろいろと手を回して決着を計る。表面的には薬屋の親父、裏ではまとめ役。そうやってな、昔から歌舞伎町で暮らしてきた台湾人や中国人を新手の悪辣な連中から守ろうとしてきたのよ」
「しかし、裏に回るといっても――」
「だから、楊偉民に手を貸す人間が大勢いたんだ。自分たちが目にしたり耳にしたりしたことをこっそり伝えたり、楊偉民がそうして欲しいと思うことをしてやったり。楊偉民に任せておけば、すべては丸く収まった。みんなそのことは知っていたし、息子や孫の世代の者たちも、親からそのことを聞かされて育ったんだからな。だれもが積極的に楊偉民に協力した。まあ、いってみれば歌舞伎町の外人社会に自警団があって、団長が楊偉民だったということだ」
「楊偉民はただ、ボランティアとしてその役割を引き受けていたんですか?」
「ノーコメントだ」陳志平の顔に刻まれた皺が深くなっていく。それが笑顔だと気づくのに少しばかり時間がかかった。「ま、あんたの考えているとおりだとは思うがな。台湾人だろうが中国人だろうが、要するにわたしらは商売人だ。金を稼ぐのはいいことであれ、非難されることではない。それに、あの街で綺麗な身体でいろという方が無理だ。そう思うだろう?」
おれは何度もうなずいた。楊偉民の闇の部分をこれ以上つついても、陳志平からはなにも得られないだろう。
「バブルの崩壊以降も、歌舞伎町での楊偉民の役割に変わりはなかったんですか?」
「そのころは、もう歌舞伎町を離れていたからな。詳しいことはわからんよ」
「五年前に楊偉民は横浜の中華街で殺されてますが、彼の役割がその原因だったと思いますか?」
「さてな……そうかもしれんし、そうじゃないかもしれん。平成に入ってからのあそこのことは、なにも知らんのだ」
「楊偉民に家族は?」
「台湾には親戚《しんせき》が大勢いるという話を聞いたことはあるが、日本にはいなかったはずだ。奥さんも若いうちに死んでしまったし……代わりに、人に頼まれて預かって可愛がっていた子供はおったがな。たしか――」
陳志平は腕を組み、目を閉じた。必死で記憶の糸をたぐり寄せている。劉健一の名前が出てくるのではないかという予感に、おれは身構えた。
「天文だ。周天文、そういう名前だった。利発な賢い子でなあ」
陳志平の日記に出てきた名前だった。歌舞伎町の抗争にまつわる事件の中に出てきた名前でもある。楊偉民が実の息子のように可愛がっていた男。おそらく、劉健一が殺した弟分。
「しかし、風の噂では、楊偉民のやっている仕事を嫌って独立したということだった。楊偉民はさぞがっかりしただろう」
「他に思い出せる名前はありませんかね」おれはあらかじめ用意しておいた嘘をここで利用した。「残留孤児の二世が、楊偉民の近くにいたという情報を耳にしたことがあるんですが」
「残留孤児は聞いたことがないな。台湾人と日本人のハーフならいたはずだ。なんといったかな……高橋、そう高橋健一という少年がいたな」
「高橋健一ですか?」
顫えそうになる声を抑えながら口を開いた。
「ああ。母親が日本人で、父親が台湾人の悪《ワル》だった。ただ、父親の方が楊偉民の親戚筋と関係があるとかで、父親が死んだ後で母子ごと楊偉民が引き取ったんじゃなかったかな。ただ、天文とは違って、健一の方は楊偉民に可愛がられていたわけじゃない。どちらかというと、日本人の血が流れているからといって、楊偉民は忌み嫌っていたふしがある。哀れな子供だった」
「楊偉民は民族主義者だったんですか?」
「いや、その点は柔軟な考えを持っていたはずだ。健一にしても、少なくともそうした差別意識を露《あら》わにしたことはなかったよ。ただな……」
陳志平の表情が曇った。
「ただ、なんですか?」
「ジャーナリストには話せんことが起こったんだ。悲しい事故がな。それで、楊偉民は健一を切り捨てたんだ」
「絶対に書かないと約束しますから、話していただけませんか?」
陳志平はソファの背もたれに体重を預けるように身を引いておれを凝視した。
「残留孤児にはなんの関係もない話じゃないか」
「今までのお話を伺って、楊偉民とその周辺の人たちに興味が湧いてきたんです。本には書きませんし、他の媒体で今日聞いたことを書くこともしません。教えてください」
「しょうがないな」満更でもないという表情を浮かべて、陳志平は話をはじめた。「ろくでもないチンピラだったが、これも楊偉民の遠い親戚筋の若い男がおってな、健一がそれを殺してしまったんだ。いいな、絶対に書くなよ」
「殺した……」
「多分、やむにやまれぬ理由はあったんだろうが、楊偉民は激怒してな。それっきり、健一との付き合いはなくなったはずだ」
悪鬼の伝説が、陳志平の言葉によって裏づけられていく。
「警察|沙汰《ざた》にはならなかったんですか?」
「すべて、楊偉民が処理したはずだ。あいつは、そういうことには抜かりのない男だったからな。あの事件のことは、当時歌舞伎町にいた連中でもごくわずかしか知らなかったはずだ」
殺人事件でさえ闇から闇に葬る力を楊偉民は備えていたということになる。徐鋭が熱弁をふるった劉健一の本当の姿と楊偉民の姿が重なっていく。まるで変わっていない――徐鋭の失言は、いったいだれに向けられたものだったのだろう。
「高橋健一は楊偉民から離れ、周天文も確か、五、六年前に歌舞伎町で起きた中国人同士の抗争に巻き込まれて死亡しています。ということは、楊偉民は後継者を残さないまま死んでしまったわけですね。それで、福建人や東北の人間がのさばるようになって、歌舞伎町は今のように混沌とした街になった。辻褄《つじつま》は合いますね」
「台湾人の子弟の何人かが、楊偉民の手足となって動き回っていたこともあったが、後継者というにはなあ。そもそも、歌舞伎町での台湾人の力は落ちていくばかりだった。楊偉民が後継者を望んでも、うまくはいかなかったんじゃないか」
「その台湾人の子弟ですが、名前を覚えているような人はいませんか?」
陳志平はまた腕を組み、目を閉じた。だが、今度は周天文の名前を思い出したときほどの時間はかからなかった。
「そういえば、楊偉民の葬儀には、重い腰をあげて出かけてきたんだがな、何人かの年寄り連中が若い台湾人を吊《つる》しあげておった。もう歌舞伎町のことにはほとんど関心がなかったから、あまり気にも留めなかったが、裏切り者とか、そういう物騒な言葉が飛び交っていたな」
「もう少し詳しく思い出せませんか?」
「年寄りに難儀なことをやらせるな、あんたも――」
陳志平は、突然、耳慣れない言葉を話しはじめた。福建人の言葉に似ているが微妙に違う。おそらくは台湾の言葉だ。おれにはまったく理解できなかった。
「台湾語だ。汚い言葉も混じっている。翻訳すると、身内を裏切ってハーフとくっつくとは言語道断だ、そんな意味だ。たぶん、あれが最後に耳にした台湾語だな。だから覚えている」
「ハーフというのは北京語でいう半々《パンパン》のことですか?」
「そうだ」
「そういわれていた若者の名前は?」
「徐鋭といったかな。よく知らない顔だったが……」
劉健一と徐鋭の接点がやっと見つかった。劉健一はかつては楊偉民の身内同然だった。徐鋭は楊偉民に使われるチンピラだった。身内を裏切って半々についた――楊偉民を裏切って劉健一の側についた、そう考えるのはあまりに無謀だろうか。
「陳先生が離れた後の歌舞伎町や台湾人の変遷を知っている方にお心当たりはありませんかね?」
おれの問いかけに、陳志平は首を振った。
「昔の知り合いはみんな死んでしまったよ。台湾人の一族でも、歌舞伎町に残っているのはほんの一握りだ。年寄りより、若い連中に聞いた方が早いぞ。平成の話はな」
「わかりました。貴重なお時間を割いていただいて、本当にありがとうございました。そろそろ、お暇させていただきます」
おれは腰をあげて、陳志平に一礼した。
「あんたも残留孤児二世だといっておったな? それにしては日本語がうまいし、礼儀もきっちり弁《わきま》えている。だれかに教わったのか?」
「必死で勉強したんです。日本人に成りきるために」
「相当やったんだろうな。子供のころに身についた習慣はそう簡単に抜けるものじゃない。おまえさんはどこからどう見ても日本人だ」
崩壊してしまった偽りの経歴――皮肉な感情を弄《もてあそ》びながら、おれは再び一礼した。
「お褒めの言葉だと受け取っておきます」
「なにを企んでおるのかは知らないが、気をつけてな。久しぶりに昔の話ができて楽しかったよ」
頭を上げて、陳志平の表情を盗み見した。陳志平は窓の外に視線を向けているだけだった。
「ジャーナリストじゃないと気づいていらしたんですか?」
「楊偉民ほどじゃないが、おれも少しは悪さに手を染めたこともあるんだ。必死でなにかを探そうとしている人間は匂いでわかる」
「ありがとうございました」
おれはもう一度、今度は深々と頭を下げた。
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劉健一と徐鋭の接点は見つかった。だが、それだけでは劉健一の弱みを握ったことにはならない。
劉健一と徐鋭――ふたりの嘘つき。おれの推測が正しければ、ふたりは手を組んで楊偉民を殺した。だが、今では反目しあっている。憎しみはどこから生まれたのか。そこに鍵《かぎ》があるに違いない。
遅い昼飯をとり、中央線に乗りこんだのが午後二時。村上は事務所に顔を出せといったが、あの連中の「夕方」は六時以降のことだろう。
三時前には新宿駅東口の雑踏の中に立っていた。インターネットで検索したときに頭に刻み込まれた場所をあてもなくうろついてみる。楊偉民が経営していたという薬局の跡地には、風俗店とポーカーゲーム喫茶が入った雑居ビルが建っていた。周天文の中華レストランはタイ料理レストランに変貌《へんぼう》していて、当時のことを覚えている人間はひとりもいなかった。
年月がすべてを押し流してしまった。おそらく、楊偉民や周天文が生きていたころと同じ形で残っているのは、劉健一の店だけなのだ。
劉健一ひとりが生きのび、ビルの陰の深い闇の奥底でうずくまってよからぬ企みに関わっている。
まるで変わっていない――徐鋭のあの言葉は劉健一自身を指していたのか、あるいは楊偉民から劉健一へ受け継がれたなにかを指していたのか。
五時を過ぎるのを見計らって、村上の事務所に足を向けた。歌舞伎町の空気はいつにも増して重い。警官の数こそ減ったが、事件が起こるまでは我が物顔で街をぶらついていた人間たちが戻ってくるまでにはまだしばらく時間がかかるだろう。人間の体臭が薄れた繁華街というのはかくも味気ない。
門番のようなチンピラに身体を探られてから、事務所の中に入ることをゆるされた。錦糸町の事件のせいでやくざ連中も神経質になっているようだった。村上はソファにだらしなく身体を投げ出していた。ピンストライプのスーツにはあちこち皺が入り、胸元をはだけたワイシャツは薄汚れていた。
「ここで寝起きしてるんですか?」
「本家からの指示でな、この件が片づくまで馬車馬みたいに働けとよ。冗談じゃねえぜ」
村上は上半身を起こし、煙草に火をつけた。煙を吐き出した直後に、えずくように咳《せ》き込んだ。
「煙草の吸いすぎで喉も胃も荒れてやがる。なるべく早くカタをつけないと、おれの身体が参っちまう。劉健一も雲隠れしたままだしな。しょうがねえから、徐鋭といったか? あの男を捕まえようと思ってる。おまえの方でわかったことはなにかあるか?」
小文の顔が浮かんで消えた。
「いえ。いろいろ歩き回ってはいるんですが……警察がここや錦糸町をうろついているせいで、情報源になりそうな中国人の悪党たちが見つからないんです。みんな、どこか別の街に移動して、ほとぼりが冷めるのを待っているんです」
「使えねえ野郎だな」
村上は煙草を乱暴に灰皿に押しつけた。もはや、おれに対する嘲《あざけ》りの感情を隠そうともしていない。
「買いかぶりすぎだったか、おまえをよ」
「だと思います」
「ぬけぬけといいやがる。まあいい、おまえにも役に立つことがねえわけじゃねえ。おれの若い連中と一緒に錦糸町に向かってくれ」
「錦糸町でなにをするんですか?」
「さっきもいっただろう。徐鋭って野郎をとっ捕まえるんだよ。そいつの顔を知ってるのはおまえだけだからな」
「おれが行くんですか?」
背筋を冷気が駆け抜けていった。その瞬間に小文が徐鋭の近くにいたら――そう考えるだけで目眩《めまい》がしそうになる。
「徐鋭って野郎が怪しいといったのはおまえだろうが」
村上の目がぎらりと光った。やくざ者に特有の不機嫌さと猜疑心が混じり合った剣呑な目つきだ。
「こういうことには慣れてないんですよ」
露骨なほどに怯えた声を出し、村上のおれを嘲る感情に訴えた。村上の目の光が薄れていく。
「おまえは徐鋭って男がどいつなのかを知らせるだけでいいんだ。肝心なことは若い連中がやる」
「今すぐですか?」
村上はため息を漏らした。ソファから立ち上がり、額がくっついてしまいそうなほど近くまでおれににじり寄ってくる。
「とっととカタをつけるっていわなかったか?」
「すみません」
「おい。こいつを連れて行け」
村上はおれの目の前に顔を突きつけたまま、部屋の外に声をかけた。唾《つば》がかかり、村上の口臭が鼻の回りに広がった。かすかなニンニクの匂いとほのかな腐敗臭が鼻腔に忍び込んでくる。餃子《ギョウザ》かなにかを食べたのだろうし、胃を悪くしているようでもあった。
「行け。いやなことはさっさと済ましちまった方がいいだろう」
村上に促されて、おれは部屋を出た。ドアの向こうで、若いやくざが三人、おれを待っていた。三人はほとんど口をきかず、おれを両脇から挟み込むようにして事務所を出、あらかじめ用意されていた車に乗りこんだ。車は濃紺のミニバンだった。窓はスモーク仕上げになっている。スモークの窓を除けばどこにでも走っていそうな車で目立たない。だれかを拉致《らち》監禁するには恰好の車だった。三列に並んだシートは中央の列を折り畳むことができ、広々とした空間をうむことに成功している。ひとりが運転席に陣取って、残りのふたりはおれと一緒に最後列のシートに腰を降ろした。
ミニバンは歌舞伎町の狭い路地を這《は》うように進み、靖国通りに出たところでスピードを上げた。おれの両脇のふたりは、懐からオートマティックの拳銃を取りだして点検に余念がない。無表情を保って冷静さを装ってはいるが、ふたりとも銃を扱う指先がかすかに顫えている。
「東陽町でいいんだよな?」
運転席の男がルームミラー越しにおれの視線を捉《とら》えた。マンションに戻るとき、あるいはマンションから出てくるところを狙うつもりなのだろう。
「ああ」
「近くに行ったら、道を教えろよ」
三人とも二十代後半から三十代の前半という年恰好だった。おれに対してぞんざいな口調なのは、三人がやくざだからというより、村上のおれに対する態度が効いているのだろう。屈辱感は感じない。それよりも焦燥感がおれをがっちりと握りこんでいる。
凶々しい金属音をこれ見よがしに立てながら、両脇のやくざは打ち合わせてでもいたかのように点検を終えた銃を腰に差した。
ミニバンは千駄ヶ谷《せんだがや》で首都高に乗った。道は混雑していたが渋滞というほどでもない。ゆっくりと、しかし確実に進んでいる。おれは上着のポケットに両手を突っこみ、右手で携帯電話を握りしめた。
マンションの側で待ち伏せするということは小文が巻き込まれる可能性が高くなるということでもある。ちくちくと胃が痛み、額に汗が浮かぶ。おれの口臭も、村上と同じようにほのかな腐敗臭を漂わせているのかもしれない。
「三人だけで大丈夫なのか?」
おれは右隣の男に声をかけた。男は一瞬、唇の端を引き攣《つ》らせたが、すぐに仏頂面に戻った。
「中国人のひとりぐらい、これで充分だ」
「無駄口を叩くなよ」
左隣のやくざが声を荒らげた。どうやらこいつがリーダー格なのだろう。右隣の男はしゅんとして、恨みがましい視線をおれに向けた。
「高速を降りたら、コンビニかどこかに寄ってくれないか?」
リーダー格におれは懇願した。
「なんだ、便所か?」
「緊張してるせいか、どうにも……」
言葉を濁すと、男たちの顔に嘲りの笑みが広がった。
「こんなことで緊張してどうするんだよ。ドンパチするわけじゃねえんだぜ」
「おれはあんたたちとは違うんだ」
精一杯の媚《こ》び――精一杯の試み。胃の痛みに晒《さら》されたおれの表情は曇っているはずだし、額に浮かんだ汗は男たちの目におれの臆病さを示すものとして映っているだろう。男たちの嘲笑はさらに広がったが、それと反比例するようにおれに対する警戒心は薄れている。
「便所に行っておかなきゃ、いざってときに漏らしちまうか……しょうがねえ、どこかで止めてやれ」
事務所を出たときの緊張感は男たちからは完全に失われていた。おれは小さなため息を漏らし、座席のシートに背中を預けた。
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ミニバンは木場《きば》で首都高を降り、コンビニの前で停車した。
「すぐに戻ってこいよ」
ドアを開けるおれの背中に声が浴びせられる。おれは振り返り、強張《こわば》った笑みを浮かべた。
「でかい方なんだ」
リーダー格の男は舌打ちし、とっとと行けというように顎《あご》をしゃくった。おれはコンビニに駆け込み、店員にトイレの場所を訊《き》いて閉じこもった。携帯を取りだし、小文に電話をかけた。
呼び出し音が四、五回続いて留守番電話に繋がった。おれは舌打ちを堪《こら》え、メッセージを吹き込んだ。
「小慈、阿基だ。徐鋭のマンションにいるのか? だったら、今日は絶対にマンションの外に出るな。違う場所にいるんなら、徐鋭の近くにはいくな。理由は後で説明する。とにかく、おれのいうとおりにしてくれ」
電話を切り、額の汗を上着の裾《すそ》で拭《ぬぐ》った。自分で考えていたより汗をかいていたのか、布地が汗で濡《ぬ》れて黒ずんだ。時間がかかるといった手前、すぐにトイレを出ることはためらわれた。おれは便座に腰を降ろし、うなだれて時が過ぎるのを待った。もし留守電のメッセージを小文が聞かなかったら、やくざどもが徐鋭に襲いかかるその時に小文が傍らにいたら――そう考えると気もそぞろだった。村上は間違いなく徐鋭の口を割らせるための道具として小文を利用するだろう。小文は徹底して陵辱され、ボロ雑巾《ぞうきん》のように打ち捨てられる。すべてはおれのせいだ。おれが賢《さか》しらに行動した結果が小文に跳ね返る。
縋《すが》るような思いで西参道の劉健一のマンションに電話をかけた。
「どうした?」
劉健一の声は罵《ののし》りたくなるほどに落ち着いていた。
「今、村上の手下たちと一緒に徐鋭のマンションに向かってるところだ」
「それはまた急な展開だな。村上は徐鋭をさらって口を割らせる腹づもりなのか」
「ああ。おれが事件の裏に徐鋭がいるとほのめかしたせいだ」
「悔やんでるような口調だな。本当に徐鋭が一枚|噛《か》んでいるかもしれないじゃないか」
「助けがいる」
劉健一の耳障りな声を遮って、おれはいった。
「助け?」
「徐鋭がどうなろうとおれの知ったことじゃない。それであんたがどう喜ぼうと、それもおれの知ったことじゃない」
「女か」
劉健一はぽつりといった。その声は微妙な硬さを含んでいて、小石のようにおれの耳を打った。
「女が巻き込まれるかもしれない」
「それで、おまえは偉そうなことをいいながら、おれに助けてくれと懇願してるわけだな?」
劉健一はおれをいたぶろうとしていた。その手にだけは乗りたくない。
「そうだ。なんとかならないか?」
「開き直ったか。つまらないな」
「助けてくれるのか、くれないのか。どっちなんだ?」
「なんとか手を打ってみよう。徐鋭のマンション……東陽町のマンションでいいんだな?」
「ああ」
「あまり過剰な期待はするなよ。時間が少ないからな」
劉健一はそういって電話を切った。おれはため息を漏らしながら、携帯をポケットにしまった。劉健一と話すときは、それが電話であろうと顔をつきあわせての会話であろうと、きつい緊張を強いられる。
使ってもいない便器の水を流し、洗面台で鏡を覗《のぞ》いた。死人のような顔がおれを見返している。手を水で濡らし髪形を変えた。気休めでしかないが徐銃に気づかれる可能性はできるだけ低くしておきたかった。キシリトールのガムと安物のサングラスを買って外に出ると、運転席のやくざが窓から顔を出しておれを怒鳴った。
「遅いぞ」
駆け足で車に乗り込み、ふたりのやくざの間に腰を降ろした。
「ずいぶん長かったな」
「少し下痢気味で……」
リーダー格の男は舌打ちして、運転席に合図を送った。ミニバンがゆっくり動きだした。
「いざってときに、びびって漏らすなよ」
左側のやくざがおれを揶揄《やゆ》するようにいった。にやけた顔には緊張感のかけらもうかがえない。
「道順を教えてくれ」
運転席からの問いかけに、おれは丁寧に答えた。ミニバンはおれの指示したとおりに動き、やがて、徐鋭のマンションが望める路地の一角で停止した。
「あれだ。あのマンションだ」
おれはマンションを指差した。
「何階だ?」
運転役の男が双眼鏡を取りだした。
「九階だ。九〇一号室。ここからだと、九階の左から二番目のベランダがそうだ」
双眼鏡を小刻みに動かしていた運転手の頭がある一点でぴたりと動かなくなった。
「あれだな……薄いカーテンがかかってる。中は見えねえ」
「中にだれかいそうか?」
「わからねえよ」
双眼鏡を当てたまま、運転役の男は頭を振った。
「おい」
リーダー格の男がもうひとりに視線を送った。おれの左に座ったやくざは携帯電話と小さな紙切れを取りだし、紙切れに書かれた番号に電話をかけた。しばらく耳を傾けた後で、舌打ちしながら電話を切った。
「留守電だ。だれも出ねえ」
「ってことは、お帰りを待つしかねえな。ボディガードは何人ついてるんだ?」
リーダー格のやくざがいった。
「おれが知るかぎりではふたりだ」
「銃は?」
おれは徐鋭のふたりのボディガードを脳裏に思い描いた。ふたりともこぎれいなスーツを身にまとっていた。ボディガードというよりは、ビジネスマンといった方が相応《ふさわ》しい身なりに顔つきだった。
「多分、持っていないと思う」
「ずいぶん不用心だな」
「あの男は堅気なんだ。いつも背後に気をつけなきゃならない生活は送ってない」
「どっちにしろ、用心に越したことはねえからな」
リーダー格のやくざが念を押した。他のふたりは唇をきっと結び、重々しくうなずいた。消えていたはずの緊張感が、車内に重く立ちこめはじめていた。
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なにも起こらないままに二時間が経った。リーダー格のやくざが入れた活によって生まれた緊張も、時の経過と共に薄れていき、今では倦怠《けんたい》が車内を支配していた。おれは買ったばかりのサングラスをかけ、男たちの視線から自分の表情を隠した。
「遅えな」
おれの左のやくざが時計をやたらに気にしはじめている。運転席のやくざは絶えず欠伸《あくび》を噛み殺し、リーダー格のやくざは思い出したように貧乏揺すりを繰り返していた。ときおりだれかの携帯が鳴り出すが、リーダー格のきつい視線が飛んで、だれもが名残惜しそうにしながらそそくさと電話を切った。
マナーモードにしていたおれの携帯が振動しはじめたのは、待機がはじまって二時間半になろうとしていたときだった。おれはリーダー格のやくざに目でゆるしを乞《こ》うた。
「用件を済ませたらとっとと切るんだぜ」
「わかってる」
おれはポケットから携帯を取りだし、液晶に視線を当てた。心臓が止まりそうになった。電話の相手は小文だった。
平静を装って、おれは電話に出た。携帯を強く耳に押しつけて声が漏れないように気をつけながら。
「阿基、留守電に入ってたメッセージはどういう意味?」
「今は取り込み中なんだ、後でこっちから電話をするよ」
おれが北京語を話しだすと、リーダー格のやくざは目を剥《む》いた。おれが何者かを知っていたくせに、おれが日本語しか喋《しゃべ》らないと決めつけていたようだ。
「だけど――」
「あいつと一緒にいるのか?」
「彼の部屋にいるのよ。眠っていたから電話に気がつかなかったわ。それより、阿基、あのメッセージ――」
「絶対に部屋から出るな。いいな? とにかく後で電話するよ」
口早にいって、おれは電話を切った。
「相手はだれだったんだ?」
リーダー格のやくざが訊いてきた。
「歌舞伎町の中国クラブのホステスだよ。営業電話がしつこくて迷惑してる」
「その辺は日本人も中国人も変わらねえな」
左のやくざがそういって、喉を顫わせた。下品な笑い声が轟《とどろ》いて、他のふたりが顔をしかめた。
「静かにしてくれ」
なにかが聞こえたような気がしておれはいった。
「なんだ、てめえ。おれに命令してるつもりか?」
「静かに。車の音が聞こえる」
三人のやくざはぴたりと口を閉じて耳を澄ませた。ゆっくり近づいてくる車のエンジン音が確かに聞こえた。それまでにもたまに聞こえてきた国産車のエンジン音ではなく、徐鋭が乗っているベンツの重々しい回転音だった。
「多分、あいつだ」
おれは唇を舐《な》めた。おれの緊張が三人のやくざにも伝わっていく。思わず、マンションの九階に目をやった。小文がおれのいったことを守って、部屋から出てこないことを痛切に願った。
ミニバンのエンジンに火がともり、細かい振動が伝わってきた。両隣のやくざたちが腰に差していた銃を抜き出し、スライドを引いて薬室に銃弾を送り込む。
「駐車場の前につけろ」
リーダー格のやくざの声を合図にミニバンが発進し、マンション専用駐車場の出入口を塞《ふさ》ぐように停車する。ベンツのエンジン音はすぐそこまで近づいてきている。前方の角を曲がって姿を現すまでに、一分はかからないだろう。
ルームミラーにマンションのエントランスが映っていた。高級マンションに相応しく、人の出入りが少ないそこはひっそりと静まりかえり、薄闇への通路のようにぼんやりと鏡に映りこんでいる。
「来るぞ」
リーダー格のやくざが逼迫《ひっぱく》した声で告げた。それと同時に、ルームミラーを人影が横切った。思わず振り返る。いつからそこにいたのか、徐鋭のマンションの塀の陰に、三人の男が佇《たたず》んでいた。三人が三人とも影のように存在感がなく、周囲の景色に溶けこんでおれたちの乗るミニバンを見張っていた。
劉健一が送ってきた助っ人だろう。小文に危害が及びそうになったら、真っ先に助けてくれるはずだ。
得心して振り返ると、前方の角にベンツの鼻先が現れた。
「準備はいいな。銃で脅して、徐鋭とかいう野郎をとっ捕まえる。さっさと済ませて、さっさとずらかるぞ」
「わかりました」
「どいつが徐鋭って野郎なのか、きちんと教えるんだぞ」
リーダー格のやくざはそういってドアに手をかけた。左側のやくざもおれをまたぐようにしてリーダー格の背中に張りついた。その横顔は極度の緊張のせいで頭蓋骨《ずがいこつ》の形が直に浮かびあがっていた。
ベンツがゆっくり近づいてきて、ミニバンの傍らで停止した。苛立《いらだ》たしげなクラクションの音が響く。
運転席のやくざが窓を開け、笑顔を浮かべながら口を開いた。
「故障してるんだ。悪いな。押すのを手伝ってくれりゃ、すぐに移動できるんだが」
ベンツの内部で男たちが顔をつきあわせるのがわかった。結論はすぐに出たらしく、ベンツのドアが開いて運転手ともうひとりの男が外に降り立った。
「行くぞ」
リーダー格が一気に扉を開けて、外に飛び出ていった。もうひとりがそれに続く。リーダー格は銃をかざして鋭い声を放った。
「動くな! 動いたら、ただじゃおかねえぞ」
ベンツから降りてきた男たちが凍りついた。もうひとりのやくざが銃を構えたままベンツに近寄っていく。窓の向こうで、徐鋭が両腕を頭の上にあげるのが見えた。徐鋭は不愉快そうに唇を結び、粘つくような視線を近づいてくるやくざにぴたりと当てていた。その視線が静かに動き、おれの肩越しになにかを見つけて揺れはじめた。徐鋭は車の中の男がおれだということに気づいてはいない。それなのに動揺している。徐鋭が目にしているものを確かめようとしておれは振り返った。今度はおれが凍りつく番だった。
劉健一が手配した助《すけ》っ人《と》たちがさっきとは違って、獰猛《どうもう》な空気を発散させながら成り行きを見守っている。それはいい。問題は徐鋭のマンションから出てきた人影だ。
カットソウにジーンズ姿の若い女――小文だった。心配そうに左右を見渡し、徐鋭の窮地に気づいて柳眉《りゅうび》を逆立てた。
「阿鋭! どうしたの!?」
小文は叫びながら走り出した。助っ人たちがその動きに真っ先に反応した。どこからともなく現れた銃を握り、銃口を小文に向ける。銃口からは明確な殺気が迸《ほとばし》っていた。
助っ人などではないのかもしれない――そう思った瞬間、身体が動いていた。ミニバンのドアを開け、飛び降りる。恐怖を含むあらゆる感情が蒸発していた。
「小文、危ない!!」
おれの叫びと前後して銃声が鳴り響いた。一発や二発ではない。いくつもの銃声が重なり、混じり合い、周囲の空気を顫わせ、攪拌《かくはん》する。静寂に覆われていた一帯は、突然|阿鼻《あび》叫喚の戦場へと変貌した。銃弾が風を切り裂く甲高い音が耳許《みみもと》を通りすぎていく。
「阿鋭、阿鋭!!」
足を止めて叫び続ける小文にタックルをかますように抱きつき、地面に押しつけた。
「頭を上げるな!」
小文に覆い被さったまま首を捻《ひね》った。おれが劉健一が送ってよこした助っ人だと思っていた連中と村上の手下たちが撃ちあっている。
「阿基!? なによこれ。どういうことなの!?」
おれの身体の下で、小文が激しくもがいた。
「動くな。頼むからじっとしてろ」
銃声は間断なく続いている。ミニバンやベンツのボディに銃弾が食い込む音が銃声の合間に響いてくる。ベンツのエンジンが低く重い回転音を立てるのが聞こえた。次の瞬間、おれたちを見張っていた三人が地面に身体を投げだし、ベンツがおれの視界を猛スピードで横切っていった。だれが運転しているのかも、何人が乗っていたのかもわからない。はっきりしているのは、徐鋭が逃げたということだけだ。
ベンツを避けて地面に伏せていた連中が身を起こし、再び銃を乱射しはじめた。銃声の間隔はさっきより伸びている。村上の手下のどちらかが殺されたのかもしれない。
「マンションに裏口はあるか?」
おれは小文に訊いた。
「ゴミ置き場から裏の道に出られるわ」
「よし。頭を低くしたままでいるんだぞ」
小文の手を引いて立ち上がった。腰をかがめ、小走りでマンションに向かっていく。
「阿鋭は?」
「ひとりで逃げたよ」
振り返ろうとする小文の腰を押すようにしながらマンションの中に駆け込んだ。顔面を蒼白《そうはく》にした管理人がおれたちを待っていた。
「な、なにが起こってるんです?」
「わからん。いきなり撃ち合いがはじまった。警察を呼べ」
おれがまくしたてると、管理人は足をもつれさせながら管理室に戻り、電話の受話器を取り上げた。
「行くぞ」
まだ外の様子を気にしている小文を促して、ゴミ置き場を目指す。
「なにが起こったの? 阿鋭はどうなったの?」
「わからん」
「わからないはずないでしょう。さっきの電話に、あの留守電。あなたはなにが起こってるのかはっきりと知ってるはずよ」
「説明は後だ。今は逃げる方が先決だろう」
小文は不服そうだったが、唇をきつく結んだだけでそれ以上はなにもいわなかった。おれたちは通路を走り抜け、ゴミ置き場を横切って裏口から外に出た。間断なく交わされていた銃声も、今では単発になっていた。弾が切れたか、ほとんどが死んでしまったのか。
「どうするの? どこに行くの?」
小文が挑発するように訊いてきた。
「とにかくここから遠ざかろう」
「いい考えが浮かばないってことね」
小文はおれに対する怒りを押し殺していた。怯《おび》えてはおらず、言動もはっきりしている。微妙な齟齬《そご》を感じた。おれの知っている小文と、おれの知らなかった小文。おれが変わってしまったように、小文も変わっている。
「どこか大きな通りに出てタクシーを捕まえよう」
小文の手を取って走り出す。ひときわ甲高い銃声がして、それ以降、なにも聞こえなくなった。
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確たる当てもなく、菊川に向かうように運転手に告げた。劉健一はともかく、村上は小文の存在にはまだ気づいていないだろう。銃撃戦の余韻はまだしっかりと染みついていて、気を抜くと身体が顫えてしまいそうだった。小文はむっつりと口を閉じている。声をかければ質問の雨を降らせてくるだろう。そっとしておくのが得策だった。
塀の陰にひっそりと佇んでいた三人のことを考えた。連中が劉健一の息のかかった人間ではないのだとしたら、いったい、どこのだれが送ってよこしたのだろう。連中が劉健一の送ってよこした人間だとしても、その行動には疑問が残る。小文が姿を現すより先に、連中は村上の手下たちに襲いかかろうとしていた。あるいは、徐鋭に手を下そうとしていた。
おれは小さく首を振った。徐鋭を殺したいのなら他にもやり方はあるはずだ。あれが劉健一の指示だったとは考えにくい。
劉健一に直に問い質《ただ》したかったが、横にいる小文の存在がそれをためらわせた。劉健一とおれの繋がりは、だれにも知られたくはない。
パトカーや救急車がサイレンを鳴らしながら反対方向に走り去っていく。
「またなにか事件でも起こったんですかね?」
「さあね」
不機嫌な声で答えると、初老の運転手はそれっきり口を閉じた。不機嫌な小文と不安なおれと困り果てた運転手――重い沈黙が車内に充満して息苦しさを覚えるほどだった。
十分と少しで、タクシーは菊川に到着した。無言のままの小文とともに、小文のマンションに向かった。
「あなたもわたしの部屋に来るつもりなの?」
歩いている途中で小文がやっと口を開いた。
「お邪魔じゃないなら。とりあえず一旦《いったん》落ち着いて、これからのことをじっくり考えたい。長居はしないよ」
小文の唇が皮肉を宿して吊り上がった。
「わたしの部屋がこの近くにあること、どうやって知ったの?」
自分の失言――失態を悟っておれは歯噛みした。他に、どんな間の抜けたことをしただろう。銃声に顫えあがり、小文を助けたいと願うあまり、おれは擬態をすっかり忘れていた。
「徐鋭に聞いたんだ」
「徐鋭に? どういうこと?」
「ある仕事を手伝えば、報酬として君をおれにくれると……そのときに、君がどこに住んでいるかも教えてもらった」
とっさの嘘を、おれは小文から視線をそらしながらいった。
「そう……」
小文の短い声からはどんな感情も窺うことができなかった。
「そんなにわたしが欲しかったの、阿基?」
「ああ」
相も変わらず小文の顔を直視できずにおれは答えた。それ以上、小文もおれを問いつめようとはしなかった。
小文のマンションに辿り着き、エレベータに乗りこんだ。
「携帯も財布も、みんな徐鋭の部屋に置いてきちゃったわ」
エレベータに揺られながら、小文はぽつりといった。
「金はおれがなんとかする」
「どうしてそこまでしてくれるの? わたしが欲しいだけなら、部屋の中で押し倒せばいいのよ。その後は、わたしに稼がせて、自分は自堕落に生きてればいい。男なんてみんなそうじゃない。それとも、そうしなけりゃならないわけでもあるの?」
約束がある。覚えているか、小文。あの日、あのときおれたちが交わし、おれが打ち捨ててしまったあの約束を。
激情に押し流されそうになる寸前に、エレベータがとまり、ドアが開いた。
「さあ、着いたよ」
どさくさに紛れるように口の中で呟き、おれは小文に先んじて廊下に足を踏み出した。
「こっちよ」
後から出てきた小文がおれを追い越して自分の部屋に向かっていく。ジーンズの前のポケットから鍵を取りだし、ドアに差し込んだ。
「散らかってるけど――」
小文はそういって部屋の中に進んでいった。おれは玄関に足を踏み入れ、目眩を伴った郷愁に襲われた。祖父がよく飲んでいたお茶の香りが鼻腔を満たしていく。それは、おれが生まれ育った地方に伝わる伝統的なお茶で、独特な土臭さを含んでいる。空間と時間を飛び越えて、二十年前の黒龍江省に降り立ったような気がした。記憶が堰《せき》を切って流れ出し、おれの感情を翻弄する。
「どうしたの? 遠慮しなくてもいいのよ」
玄関の先は短い廊下になっていて、小文の声はその向こうから聞こえてきた。なにかを片づけているような物音も聞こえる。おれは我に返って靴を脱いだ。廊下の右側にはバスルームがある。突き当たりのドアの奥がリビングキッチンだった。小文はドアを開け放したまま、床に散らばっていた雑誌類を集めていた。
「この匂い、気になる? わたしの田舎でみんなが飲んでるお茶の匂いなの。ときどき、送ってもらうのよ。徐鋭は顔をしかめるから、家を出るときは匂いを落としていかないと大変なんだけど」
「おれの田舎でも似たようなお茶を飲んでいたよ」
「そう……近くだものね。適当に座っていて。着替えてから、懐かしいお茶を淹《い》れてあげる」
小文は雑誌を抱え、襖《ふすま》で仕切られた隣室へ消えた。リビングキッチンはフローリングだが、隣室は純和風だった。小文が開け閉めした襖の向こうにまだ新しい畳とソファベッドらしいものが垣間《かいま》見えた。
小文が着替えている間に、部屋の中を見渡した。ソファと小さなダイニングテーブル、AV機器に食器棚があるだけのシンプルな部屋だ。金は他のところにかけているのだということがうかがえる。稼いだ金の大半を故郷に送っているのだろう。
食器棚は上段がガラス張りに下段が引き出しになっていた。ガラス張りの上段のスペースに写真立てがあった。モノクロの写真の中で、小文の家族がはにかみながら微笑んでいる。藍一家の背後にはあの山裾が広がっていた。
記憶の氾濫《はんらん》は止めようがなかった。抑えつけていた力が強かった分、記憶の噴出は暴力的におれを責め立てる。白い布きれが揺らめく。日光と薬品で灼《や》けた病院のカーテンだ。おれの母親は病弱で、おれが物心ついたときにはすでに入院していた。母親の顔はいつもカーテンに遮られていた。おれは病院が嫌いだった。病院に母の見舞いに行くのを嫌い、逃げ回り、村の外れや裏山でひとり、遊んでいた。そのうち、おれ自身も病気を患い、入院した。おれの治療費を稼ぐために父母は自らを鞭《むち》打ち、やがて過労で母が死に、出稼ぎに出た父は音信不通になった。退院したあとでも、裏山はおれの庭だった。悲しさと寂しさを紛らわすためにあてどもなく歩き回ったものだ。道ばたで拾ったライフルの薬莢《やっきょう》。祖父の道具箱からこっそり盗み出した錆《さ》びついたナイフ。山の木の根元に絡みついていた帝国陸軍発行の軍票の切れ端。腹の足しのためにと摘み取っておいた木の実。それを隠していた裏山の洞穴。木の実が腐って異臭を放っていた。そのせいで、おれの宝物は祖父の見つけるところとなり、薬莢とナイフは取り上げられた。
どうでもいいような記憶がうねり、波を打ち、渦を巻く。おれは呆然と藍一家の古びた写真を眺め続けていた。
「わたしの家族よ。珍しい?」
着替えを終えた小文が襖を後ろ手で閉めながら唇の端を歪《ゆが》めた。
「いや、周りに映ってる景色が懐かしくて……おれの村にも似たような山があったんだ」
「あの辺は小さな山だらけだったから……阿基、携帯を貸してくれない。徐鏡に連絡しなきゃ」
「ああ」
おれは自分の携帯を小文に手渡した。まだ記憶の氾濫は続いていて、頭の芯《しん》がまだ霞《かす》んでいる。
「すぐにお茶を淹れるから。この携帯、非通知になってるんだったかしら?」
「いや」質問の意図がよく呑みこめないまま、おれは首を振った。「非通知にしたいんなら、最初に一八四をつければいい」
小文はうなずいて電話番号を押した。左手に持った携帯を耳に当て、ケトルに水を注いだ。水の入ったケトルをコンロに置き、火をつけるのと同時にしゃべり出した。
「阿鋭? わたしよ。どこにいるの? わたし? 自分のマンションよ。怪我はないわ。なにが起こったかわからなくて、とりあえずあなたの部屋を出たの」小文はおれにちらりと視線を向けた。「もちろん、わたしひとりよ」
小文の声に耳を傾けながらソファに腰を降ろした。記憶の奔流はやっとおさまり、脳細胞が普段と同じように動き始める。小文がおれの存在を徐鋭に告げないでくれたことはおれにとっては願ったりだ。だが、小文にどんなメリットがあるというのだろう。非通知設定にして電話をかけたぐらいだから、最初からおれの存在を伏せておく腹づもりだったことに間違いはない。
「そうよ。慌てて出てきたから、携帯もあなたの部屋に置いてきたままなの。……わかったわ。じゃあ、二時間後にまた電話する。それじゃ、気をつけて」
小文は電話を切った。おれに携帯を返しながら、急須に茶葉を入れる。見覚えのある真っ黒な茶葉だった。
「凄《すご》く疑《うたぐ》り深くなってるわ。わたしにも居場所を教えてくれないんだもの」
「あんなことがあった後じゃ、当然だろう。どうしておれのことを隠したんだ?」
「後で説明するわ。少し待ってて」
小文の声には有無をいわせない響きがあった。それ以上口を開くこともためらわれて、おれは返してもらった携帯を手で弄んだ。お湯が沸騰し、ケトルが甲高い音を立てる。小文はなれた手っきで急須にお湯を注ぎ、蒸らしている間に中国風の小さな湯呑《ゆの》みをふたつ、用意した。例の土臭い匂いが強まって鼻の奥を刺激する。またぞろ蠢《うごめ》きだした記憶を、おれは意志の力でなんとか封じ込めた。
「はい。昔懐かしいお茶よ。たんと召し上がれ」
湯呑みを持って小文がおれの横に腰を降ろした。口調は冗談めいていたが、頬が心なしか強張っていた。
「まず、どうしてあなたがあそこにいたのか、教えてちょうだい」
湯呑みをおれにわたしながら、小文はきっぱりとした声でいった。
「新宿に――歌舞伎町に東明会というやくざの組があるんだ。そこは、おれのボスと揺頭の取り引きをしていたし、この前錦糸町で殺されたやくざの組とも繋がってる」
おれは嘘の細部を固めるために一旦言葉を切り、お茶に口をつけた。強い発酵臭と酸味が口の中に広がっていく。子供のころはこのお茶が苦手でしょうがなかった。過去にぶれそうになる意志を制御しながら小文の様子をうかがった。小文はお茶に口をつけることもなく、おれの横顔にぴたりと視線を当てていた。
その視線の強さに動揺を覚えた。自分がとんでもないミスを犯したのではないかという疑念が強まっていく。
「その東明会がどうしたの?」
「そう、その東明会が、おれのボスを殺したのも、錦糸町で事を起こしたのも、徐鋭じゃないかと疑ってるんだ。それで、徐鋭を誘拐して口を割らせようとした」
「どうしてあなたがそこにいるの? 徐鋭が怪しいって告げ口したのがあなただから? あなただって、徐鋭のことを疑ってたわ」
「おれじゃない」
叫ぶようにおれはいっていた。告げ口という言葉が胸に痛かった。だれにどう思われようと構わないが、小文にだけは卑劣な男だとは思われたくない。くだらない感情だが、おれにはそれをとめることができない。
「おれはただ、東明会の幹部に呼び出されただけだ。やくざたちはみんな徐鋭の顔を知らなかった。だから、おれが選ばれた」
「徐鋭の顔を知ってるからって、ただそれだけで?」
「あいつらにはそれで充分なんだよ。おれは吹けば飛ぶような存在だ。やつらに脅されたら、嫌とはいえない」
「それで、徐鋭を殺すのに手を貸すことにしたの?」
「殺す予定じゃなかったんだ。さっきもいっただろう。誘拐して口を割らせるってことだったんだよ」
「じゃあ、あの銃撃戦はなによ? わたしの留守電に徐鋭の側にいるなってメッセージを残したのも、ああなることを予想してたからでしょう?」
小文の詰問は容赦がない。揺らぐことのない声と視線で執拗《しつよう》におれを責め立てる。
「そうじゃない。電話をかけたのは、徐鋭と一緒にいると君まで誘拐されると思ったからだ。相手はやくざだ、君が女だからといって容赦はしない、いや、女だからこそもっと酷《ひど》い目に遭う可能性も強い」
「いい訳はいらないわ。どうしてあんなことが起こったの?」
「おれたちが望んだことじゃない。信じてくれ。おれたちの他にも、徐鋭を狙っている連中がいて、そいつらがいきなり銃を撃ちだしたんだ」
「他の連中?」
小文は皮肉たっぷりに眉《まゆ》を吊り上げた。
「そうだ。あのマンションの周囲で、ひっそりとなにかを待ち構えていた。まさか、徐鋭を殺そうとしてるとは思わなかったよ」
「そんな話をだれが信じると思ってるの?」
「信じるも信じないも、これが真相だよ。東明会以外にも、徐鋭を狙ってる連中がいたんだ」
小文に嘘をついているという思いがおれを苦しめていた。おれの言葉に鋭さがないのはそのせいだ。おれの嘘に冴《さ》えがないのはそのせいだ。小文は眉間《みけん》に皺を寄せていた。おれの言葉をこれっぽっちも信じていないのは明らかだった。
「あなたのいい分はわかったわ。もうひとつ訊きたいことがあるの」
小文の目が鋭利なナイフのように細くなった。小文の本当の目的が他にあることを知って、おれは動悸《どうき》を覚えた。多分、自分でも気づかないところでおれはミスを犯した。確信がおれを貫く。動悸は恐怖となっておれを侵しはじめた。なにをいった? なにをした?
とめどなく溢《あふ》れてくる疑問にパニックを起こしかけたところで、右手に握ったままだった携帯電話が鳴りはじめた。安堵《あんど》のため息を漏らして、携帯電話に視線を走らせた。表示された電話番号は村上のものだった。おれは目で小文を制し、電話に出た。
「なにがあったんだ、こら!?」
村上の罵声《ばせい》が耳を打った。
「わかりません。いきなり、わけのわからない連中が出てきて銃を撃ち始めたんです」
「だれだ、そいつらは?」
「わかりませんよ。おれだって、命からがら逃げ出してきたんです」
「うちの連中は? 徐鋭って野郎は?」
「わかりません。徐鋭が逃げたのは確認してます。だけど、他の人たちは――」
「とんでもねえ疫病神だな、武。おまえのいうとおりに動くと、次から次へと死人が出てくる。どう説明するつもりだ、おい」
「さっきからいってるじゃないですか、わかりませんって。おれだって、なにが起こってるのか、さっぱり見当がつかないんです。頼むから、冷静になってください」
おれは懇願した。このままでは、おれが村上のターゲットにされる。
「冷静になれだと? おお、なってやるよ。てめえ、今、どこにいるんだ?」
「上野です」
とっさに嘘をついた。
「上野だと?」
「とにかく現場を逃げ出して、電車に飛び乗ったんですよ。パニックになってたみたいで、気がつくと上野で電車を降りてました」
「すぐにこっちに戻ってこい」
「わかりました」
おれは電話を切った。もう、歌舞伎町には戻れない。おれはお茶に手を伸ばした。茶は冷えきっていた。
「嘘が上手なのね、阿基」小文がいった。「目の前でやくざ相手に平然と嘘をついてるところを見せられると、あなたのこと、なにひとつ信じられなくなるわ」
小文の目は湯呑みの中のお茶と同じように冷たかった。
「小慈――」
「さっきはそうはいわなかったわ」
「なんだって?」
小文はやりきれないというように首を振った。冷たい視線の奥に苦悩と絶望が見え隠れする。
「さっき……あの銃撃戦の真っ最中よ。あなたわたしのことを小文≠ニ呼んだわ。覚えてない?」
胸がきりきりと痛んだ。まるで銃弾を撃ち込まれたかのようだ。打ち捨ててしまった約束がずしりと肩にのしかかる。その重みに押し潰《つぶ》されてしまいそうだった。
「君は文慈だ。小文と呼ばれることもあるだろう」
喘《あえ》ぎながらおれはいった。おれの声ははっきりと顫えている。
「わたしのことを小文と呼ぶのは家族だけよ。それととても親しい人。日本ではみんな小慈って呼ぶし、徐鋭だって例外じゃない」
「あのときは気が動転していたんだ」
「動転してるときこそ、普段呼び慣れたいい方をするはずよ、阿基」
阿基≠ニおれに呼びかけた小文の声は静かだった。厳かに響いたといってもいい。おれはすべてを諦《あきら》めて、小文に顔を向けた。
「わたしのことを小文と呼ぶのは、わたしの家族とわたしの阿基だけ」
「おれは――」
小文の表情がおれの喉を凍りつかせた。懐かしさもなく、昔を偲《しの》んでいるわけでもなく、怒っているわけでも憎んでいるわけでもなく、小文はただおれを見ていた。
「嘘つき」
「おれは――」
「迎えに来ると約束したくせに、阿基は来なかったわ。わたしがあの小文だと気づいてたくせに、自分の正体も明かさなかった」
「小文――」
手を伸ばしたかった。小文の頬を撫で、すまなかったと頭を下げたかった。だが、小文がゆるしてはくれない。彼女は静かに、詰《なじ》るでもなく激昂するでもなくおれを見つめつづけている。
「わたしは全然気がつかなかった。阿基――同じ名前だし、同じような空気を身にまとった人だけれど、あの阿基だとは思わなかった。わたしの知ってる阿基はもっと若くて溌剌《はつらつ》としてたわ」
食器棚のガラスにおれの横顔が映っている。髪には白髪が混じり、皮膚がかさついて全体的にくたびれている。四十代だといえばだれもがうなずき、まだ三十代の半ばなのだといえばだれもが驚く。そんな男が小文の前でうなだれている。
「おれは中国人だ。残留孤児なんかじゃない。偽の書類で入国して、日本人になりすました。いつばれるんじゃないかとびくびくしながら暮らしているうちに、みすぼらしい中年男になっていったんだ。気がつかなくても仕方がないし、実際、おまえに気づかれなくておれはほっとしていたよ」
「本当の自分を明かすつもりがないのなら、どうしてわたしに近づいてきたの? 知らんぶりをして、なにもしなければよかったのに。そうしたら、わたしだって気づかないままでいたわ」
「ゆるしてくれ」
それしかいえなかった。約束のことをおれが持ち出すのはあまりに傲慢《ごうまん》に思えた。
「わたしの身を気遣ってくれたのは、わたしが小文だからだったのね? わたしに嘘をつくのも、わたしが小文だからなのね? わたしは――」
小文は絶句した。表情は相変わらず平然としていたが、目の奥でいくつもの感情が交錯している。
「わたしの家族はハルピンにいるわ。わたしが日本で稼いだお金でマンションを買って、そこに住んでるの」
「知ってる」
「お爺ちゃんはもういない。あなたのお爺ちゃんも……肺癌で亡くなったの、知ってる? 動けなくなって、ハルピンの病院に入院して……入院するときに見送りにいったけど、あなたのお爺ちゃんは阿基がきっと迎えにくるから、それまで頑張るんだよ≠チていってくれたわ」
知らなかった。なにも知らなかった。小文との約束を打ち捨て、家族も記憶も捨て去っておれは生きてきた。はじめのうちこそ、夜になれば祖父や小文のことを考えたが、それもやがてなくなった。祖父が生きていようが死んでいようが、おれにはすべてがどうでもいいことだった。そのくせ、今になって悔恨が押し寄せてくる。日本で過ごしたおれの十五年はまったくの無意味だったという苦い思いが込みあげてくる。空虚なまま、闇に包まれて抗《あらが》いつづけてきただけの十五年。
笑い声が聞こえたような気がした。笑っているのは劉健一だ。深い闇の奥底から湧いてくる嘲笑。あの男なら苦しむことはないのだろう。伝説の中で語られる悪鬼は、愛する女を殺すと共にすべてを、自らさえ闇の奥深くに沈めて深海魚のように悠然と泳いでいる。怒りも悲しみも後悔も、劉健一には無縁だ。おそらくは憎しみさえも。ならば、劉健一はなにを糧に生きながらえているのだろう。
「あなたは迎えには来なかった」
小文はそういった。おれの頭の中では劉健一が笑いつづけている。
「すまない」
おれはうなだれた。劉健一の哄笑が甲高く響く。なにもかもを、小文も劉健一も打ち捨てて逃げ出したかった。だが、それではなにも変わらない。歌舞伎町から――矢島から逃げ出さずにいた意味すら失われてしまう。これ以上逃げることはできないのだ。故郷から逃げ、小文と交わした約束から逃げ、ありとあらゆるものから逃げつづけて今のおれがある。塵芥《ちりあくた》よりも軽く、意味のないおれがいる。ごめんだった。どれほどの苦痛がこの身を貫こうとも、もう、逃げるのはごめんだった。
「もういいわ。昔のことより、これからのことを考えなきゃ」
「おまえはどうするつもりだ?」
「徐鋭のところへ行くわ」
「それは危険だ。彼の殺害を企《たくら》んだ連中が何者かもわからないのに――」
「わたしには他に行くところがないのよ。それとも阿基、あなたがわたしをどこかへ連れていってくれるの? 昔のように約束してくれるの? 守ってくれるつもりもない約束を?」
小文の声は耳に痛く、心に突き刺さる。
「なにも約束はできない。おれは……他人となにかを約束できるような人間じゃないんだ」
「だったら、わたしのことは放っておいて」
放っておくことはできない。かといって、小文になにがしかの言質《げんち》を与えることもおれにはできなかった。
「わかった。気をつけてくれ」
「阿基もね」
小文はそういって口をつぐんだ。おれを引き留める言葉が小文の口から発せられることはなかった。懐かしいお茶を飲み干し、おれは腰をあげた。
玄関に向かい、靴を履く。鉛を飲んだように身体が重く、なにをするにも億劫《おっくう》だった。
「阿基――」リビングキッチンから声が響いてきた。「あなたが変わったようにわたしも変わったわ。あなたの記憶にあるのは、まだ子供のころのわたしでしょう? どうしてわたしがあの小文だと気づいたの? 田舎の話から?」
「文樂爺さんのライターだよ。子供のころはあれが欲しくてしかたがなかった。文樂爺さんは、おれが二十になったらあのライターをくれるといっていた」
間があいた。小文の用事は済んだのだと思い、ノブに手をかけたときにまた声が聞こえてきた。
「あのライターも徐鋭のマンションに置いてきちゃったわ」
むせび泣く声がそれに続いた。慰めの言葉を思いつくこともできず、おれは後ろ髪を引かれる思いで部屋を出た。
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マンションを出て道を横切り、向かいの建物と建物の間の隙間に身を隠した。他人の好奇の目に晒《さら》されないように身を縮め、それでも小文のマンションの入口が視界に入り続けているように首を突き出す。まるで亀のようだ。小文にはああいったが、やはり放っておくことはできない。だれだか知らないが、あの殺し屋たちを雇った連中はまだ徐鋭を狙っているはずだ。小文がそれに巻き込まれるのはなんとしても避けたい。
入口を見張りながら、劉健一に電話をかけた。小文は徐鋭に二時間後に電話をかけ直すといっていた。まだ楽に一時間以上の余裕がある。
劉健一はすぐに電話に出た。
「あんたの差し金か?」
「いきなり、なんの話だ?」
「徐鋭のマンションを見張っている男たちがいた。てっきり、あんたが手配してくれた連中だと思ってたんだが、いきなり銃を乱射しはじめたんだよ。徐鋭は逃げたが、東明会のやつらは死んだか重傷を負っただろう。あんたの差し金だとしたら、東明会が黙っちゃいないぞ」
「おれがそんなことをするわけがないだろう。おまえに頼まれた件は、結局手配ができなかった。時間が足りなすぎたんだよ。あんな短時間で殺し屋を手配するなんて、それこそ無理だ」
徐鋭が話したことが事実なら、劉健一にはそれだけの力があることになる。だが、淡々と喋る劉健一の声からはなにかを見つけることはできなかった。徐鋭は逃げたと告げても、劉健一の声に変化はなかった。劉健一は闇に包まれ、闇は混沌に包まれている。
「派手な銃撃戦が起こったことは、さっき聞いたばかりだ。おれはなにもしていないよ。おまえが信じるかどうかは別だが……おまえの大切な女も無事だったのか?」
「ああ」
「一緒にいるのか?」
「いや、途中で別れた。東明会の連中と一緒にいるところを見られたんだ。おれも徐鋭の命を狙った連中の一味だと思われている」
「それは災難だったな」劉健一は乾いた声で笑った。悪意も歪んだ喜びも感じられない。芯まで乾ききった空虚な笑い声だった。「大急ぎでだれがあんなことをしでかしたのか調べさせている。すぐにどうこうということはないと思うが、なにかわかったらすぐに報せるよ」
「本当にあんたじゃないのか?」
「徐鋭を殺したければ、とっくにやっているさ。こんな派手なやり方じゃなく、こっそり、静かに」
電話が切れた。携帯をマナーモードに切り替えてポケットの中に押し込んだ。劉健一の言葉は一理ある。あれほど派手な銃撃戦を引き起こしてメリットを得る人間などありはしないのだ。警察が動き、やくざが徘徊《はいかい》し、マスコミが群がる中で、だれがなにを得るというのだろう。
普通に考えればあり得ないことが起こった。それはつまり、だれかがなにかの目的のために引き起こしたということだ。おれの知り得ないなにかがある。深い深い闇の奥底で、劉健一と徐鋭、それに他の連中が蠢き合っている。
相変わらず身体は重い。怠さは時が経つにつれて強まっていく。だが、弱音は吐けなかった。小文を守らなくてはいけない。小文に笑い飛ばされた約束を果たさなければならない。
街はすっかり夜に覆い尽くされていた。空を見上げても、星ひとつ瞬《またた》くことはない。満天の星が輝いていた故郷の空をありありと思い出しながら、おれは小文を待った。
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* * *
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ちょうど一時間後に、小文が姿を現した。ジーンズに複雑な柄の入ったカットソウ、その上に丈の短い赤い革の上着を羽織っている。色の薄いサングラスをかけ、右肩からグッチのバッグを提げていた。
小文は大通りに出、左右に視線を泳がせてから左へ向かった。後ろを気にする素振りはなかった。おれは隙間から這いだして後を追った。歩いていく小文の先に電話ボックスがあった。電話ボックスに入り、電話をかけはじめた小文に気づかれないように道の端を歩き、バス停で足を止めた。携帯電話を開き、メールを打つ振りをして横目で小文の様子をうかがった。
小文の横顔は固かった。握りしめた右の拳《こぶし》を電話本体に押し当ててなにかを話し、相手の言葉に耳を傾けている。サングラスをかけているのは、涙で腫《は》れた目を隠すためだろう。そのせいで表情はまったく読めなかった。
十五分を過ぎても小文の電話は続いた。なにかがおかしい。徐鋭と落ち合う場所を決めるだけなら時間はそれほど必要ない。電話ボックスの中の小文は、バッグを開けて小銭を電話に投入していた。あれが百円玉なら、電話はさらに続くということになる。
バスが近づいてきた。一旦バス停を離れ、今度は携帯を耳に押し当てて来た道を戻った。小文の電話はまだ終わりそうにない。信号で大通りを渡り、反対側のバス停の前で小文を見張ることにした。煙草を二本灰にする――口の中がいがらっぽかった。劉健一の葉巻が懐かしい。あれを吸っているかぎり、口の中が荒れるということはなかった。腕時計を覗いた。小文が電話ボックスに入ってから、優に二十分が過ぎようとしていた。遠目でわかりづらいが、小文は悲嘆するでも激昂するでもなく電話をつづけている。
こちらのバス停にもバスが近づいてきたので、そのまま歩道を歩き、次の交差点でもとの側に戻って電話ボックスにゆっくり近づいていった。視界に、やっと受話器を戻した小文の姿が映る。安堵の吐息を漏らそうとしたが、それを呑みこんだ。小文が戻した受話器をもう一度手にして、別の相手に電話をかけはじめたからだ。
今度の電話は短かった。時間にすれば二分というところか。電話だというのに小文は媚《こ》びを含んだ仕種《しぐさ》で身体をくねらせている。この電話の相手が徐鋭だと確信するには充分だった。では、最初の電話の相手はだれだったのだろう。今のこの状況で三十分近くも話し込まなければならなかった相手。家族ではな――百円硬貨で国際電話をかけるはずがない。友達とも思えない。おれの知らないだれかと小文は繋がっている。
小文が電話ボックスを出た。左右を見渡して少し考え込みながら、やがて森下に向かって歩き出した。
小文は森下の駅で大江戸線に乗り、両国で総武線の下りに乗り換えた。車内はすいている。おれは小文が乗った車輌《しゃりょう》の三つ後ろの車輌で連結部近くの吊り輪に掴まった。小文はあいている席に腰を降ろして自分の膝の辺りに視線を落としていた。時々、なにかを思い出したように顔をあげたが、それも一瞬のことで視線はすぐに元に戻った。サングラスで隠された表情には憂いが含まれている。
なにを考えているのか。なにを憂えているのか。その憂いにはおれがなにがしかの形で関わっているのだろうか。
上着のポケットの中で携帯電話が振動した。電話の主は村上だった。振動が収まるのを待って、村上の携帯の着信を拒否するように設定し直した。別の携帯を手に入れる必要がある。それ以前に、四谷のマンションに隠してある金を回収しなければならない。おれの住処《すみか》を村上が知っているとも思えないし見つけることができるとも思えない。だが、用心は必要だ。
小岩が近づいてきたところで小文が腰をあげた。他の客と一緒にホームに出、迷う様子も見せずに進んでいく。南口を出て繁華街に向かい、どこにでもありそうな雑居ビルの中に姿を消した。ビルに掲げられているいくつもの看板の中に、徐鋭の名刺の裏に印刷されていたのと同じ名前があった。店名の下に〈中国エステ〉という文字が記されている。
徐鋭がここにいるとは考えにくい。それほど用心深くない人間でも、自分の立ち回りそうな先に刺客が潜んでいる可能性を捨て去ることはできないだろう。おそらく、小文は徐鋭のために金を――逃亡資金か、あるいは当座の活動資金を調達するためにここに立ち寄ったのだろう。
小文が再び姿を現すまでにはまだしばらくの余裕があると判断して、ビルの周囲を探ってみた。あたりは人の流れがあって賑《にぎ》わっていた。刺客と思《おぼ》しい人影はどこにもなく、いささか拍子抜けしながらビルの正面に戻ってきた。ビルから出てくる小文と鉢合わせしそうになり、慌てて身を翻し、その場を離れた。心臓が早鐘を打っている。気づかれてはいないと思いながら振り返った。同時に押し殺したような悲鳴が聞こえた。
四、五人の男たちが小文を取り囲み、引きずっていた。男たちが目指している先では灰色のミニバンがドアを開けて待っている。周囲の通行人は呆然と突っ立って、ただ成り行きを見守っている。
「小文!」
叫びながら走り出した。思考は停止し、激した感情が身体を支配する。視界が狭まり、小文と男たちの姿しか映らない。抗う小文を、男たちは力ずくでミニバンの中に押し込もうとしていた。
おれの叫びに男たちが反応した。ひとりが振り返り、もうひとりが仲間たちを急《せ》きたてる。振り返った男が上着の奥に手を突っこむ。
黒光りする鉄塊――銃。銃口から噴き出るオレンジ色の炎。銃声が一瞬遅れて耳に飛び込んでくる。アスファルトに身を投げ出す。頭のすぐ上を銃弾が飛んでいくのを感じた。錯覚ではない。死を具現した力がおれの頭の上を横切っていった。恐怖が激情を押し流す。動けと命じる脳に身体が拒否反応を示す。両手で頭を抱え、次なる銃弾の恐怖に怯えるほかおれにできることはなかった。
銃弾は飛んでこなかった。銃声もしなかった。聞こえてきたのは通行人の悲鳴。そして、小文の悲痛な叫び。
「阿基、助けて!!」
恐怖に抗って顔を上げた。ミニバンのドアが重々しい音を立てて閉まるところだった。銃を構える男の姿も車の中に消えている。
「小文」
おれが立ち上がるのとミニバンが急発進するのはほとんど同時だった。追いかけようとしたが膝が笑って脚が動かない。細かく顫える両膝は、恐怖に怯え我を忘れたおれを嘲笑《あざわら》っているかのようだ。
「小文!」
自分を呪いながらもう一度叫んだ。おれの叫びは通行人の悲鳴や怒号にかき消され、ミニバンのテールライトは赤い軌跡を残して遠ざかっていくだけだった。
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約束を果たせなかった。小文を守れなかった。ふたつの思いが頭の中でぐるぐるまわっている。小文を守ると約束したわけではない。だが、それは当然の事実としておれの胸に刻み込まれでいた。なのに、おれは恐怖に竦《すく》んだ。小文より、自分自身の誓いより、己の生存を優先した。生き続けたところでなにかが変わるわけではないのに、空っぽで無価値なままなにかに怯えつづける人生に意味などないことを痛いほど承知しているくせに、それでもなお、本能に身を委《ゆだ》ね、小文を救うチャンスをふいにした。
ゆるせなかった。できることなら自分自身を消滅させてしまいたかった。だが、消えてしまうことはできない。まだ、小文は生きている。おれに助けを求めている。自分を呪いながら、おれには成すべきことを成す義務がある。
パニックに陥っている小岩駅前の群衆をかき分けて走りつづけ、息が切れたところでタクシーを掴まえた。四谷のマンションに到着するのに四十五分かかった。冷凍庫の奥の金を取り出そうとして、すっかり忘れていた金の存在を思い出した。徐鋭から受け取った三百万が凍りついている。そのうち徐鋭から電話がかかってくるだろう。劉健一の件はどうなったかと問いつめられるだろう。面倒ごとがどんどん増えていく。なにもかもがおれ自身で招いたことだ。上着のポケットというポケットに金を詰め込んだ。もしものときのことを考え、百万だけは残しておいた。再びタクシーを掴まえ、今度は大久保を目指した。歌舞伎町には近づけない。だが、大久保は歌舞伎町と多くを共有しながら独自の結界を張っている。村上の――東明会の目もそうそうすべてには行き届かない。明治通りから大久保通りに入ったところでタクシーを降りた。
中国人、台湾人、マレーシア人、シンガポール人――中華系の人間が集まるレストランやダンスクラブを虱潰《しらみつぶ》しにしていく。見知った顔を見つけると挨拶《あいさつ》も抜きで訊《き》いてまわった。銃を売ってくれる男、あるいは手に入れられる場所を知らないか? 思い詰めていたせいだろう、ほとんどの連中がおれを鼻であしらった。懇願しても食らいついても知らないの一点張りだ。中には親切なやつやお節介な連中もいておれの言葉に真剣に耳を傾けてくれたが、韓豪の事件以降、その手の商売をする連中は歌舞伎町や大久保近辺から姿を消したといわれるのが落ちだった。疲弊し、途方に暮れ、それでも諦めきれずに大久保|界隈《かいわい》を歩き回った。
その間にも、上着のポケットの中で携帯が振動する。発信者非通知の電話。村上か、あるいは徐鋭か。村上の携帯は受信拒否にしてるが、他の電話がある。ほとんど十分置きに携帯をかけてくるその執拗さは、電話の相手が村上であることを雄弁に物語っているように思えた。だが――|一縷《いちる》の望みがおれを迷わせる。小文からの電話だったとしたら。おれに助けを求めるための電話だったとしたら。なんとか窮地を脱した小文が公衆電話かどこかから電話をかけてきているのだとしたら。
悪魔の囁《ささや》きにも似た思いに逆らえず、おれは電話に出た。
「ぶっ殺すぞ、武――」
かすれた村上の声が耳障りに響く。おれは自分の迂闊《うかつ》さを呪いながら電話を切った。間髪を入れずに携帯が再び振動する。声を聞くまでもなく村上は猛《たけ》っていた。怒り狂っていた。今この瞬間にも、村上の命を受けたやくざたちがおれを探し回っているだろう。見つかれば、ただではすまない。絶え間ない拷問の後に待っているのは無意味な死だけだ。
十分置きに振動する携帯はやがておれの神経を苛《さいな》みはじめた。苛立ちが募り、集中力が失われていく。おれは劉健一からの電話以外の着信をすべて拒否するように設定し直した。これで携帯に患わされることもない。
すっかり疲弊しながら、それでもおれは街を歩き続けた。人の目に怯え、抑えきれない焦燥に鞭打たれながら、だれかれとなく訊いてまわった。希望が見えたのは、二十軒目に訪れた広東人が経営する店だった。五十をとうに過ぎたと思しき上海人が飯を食っていて、流氓《リウマン》に銃を手に入れる方法を問い質していたおれの言葉に反応を見せた。金を握らせると、男は口を開いた。
『華聖宮《ファションゴン》』という台湾人の夫婦が造った私設の寺院があるという。今では寂れてしまっているが、かつてはこの界隈で暮らす中華系の人間が集まって繁盛していた。神を祀《まつ》るその裏で、台湾人夫婦は銃の密売にも手を染めていた。
今でもその商売をしているかどうかは知らないと男はいった。おれにはそれで充分だった。
男に聞いたとおりに路地を進んだ。路地の突き当たりに古びたアパートがあり、そこの部屋の一室に『華聖宮』という手書きの看板がぶら下がっていた。長い間手入れもされていないようで、木製の看板は縁の方が腐食し、今にも崩れ落ちそうだった。
呼吸を整えながらドアをノックした。すぐに不機嫌な老婆の台湾語が聞こえてきた。
「台湾の言葉はわかりません」
「だれだい、こんな時間に不作法な」
老婆の声は北京語に切り替わった。訛《なま》りが強いが聞き取れないことはない。
「お願いがあるんです」
「明日、出直しておいで」
「急用なんです。お願いします。開けてください」
「こんな物騒な世の中で、見ず知らずの他人を家にあげるとでも思ってるのかい」
老婆の不機嫌さはどんどん増していく。このままでは埒があきそうにもない。
「劉健一先生に紹介してもらったんです」
とっさに口にした。老婆の台湾語のせいだろう。あるいは他に理由があったのかもしれない。だが、おれにはなにもわからなかった。藁《わら》にも縋りたい気持ちだっただけだ。
「健一? あの人でなしが、今度はなにを企んでるんだい?」
声が近づいてきて、ドアの鍵を外す音がそれに続いた。いくつものチェーンロックが取り付けられているようで、ドアが開くまでにはしばらく時間がかかった。
「用心しなくちゃならないからね。昔はこんなことをする必要はなかったんだけど、福建や東北の流氓は年寄りだろうがなんだろうが関係なく盗みに入る。ろくなもんじゃないよ」
老婆の声が終わると同時にドアが開いた。皺だらけの老婆が微笑んでいるのか怒っているのか判然としない表情で立っていた。
「劉健一に紹介されたんだって?」
「ええ。ここに来れば欲しいものが手に入ると――」
「もう、あの商売はやめたんだよ。大陸からどんどん物が入ってきて、さっぱり儲《もう》からなくなったからね」
激しい落胆がおれを襲った。それが表情に出たのか、老婆の顔の皺が波打った。顔をしかめたのか、表情を緩めたのか、相変わらず判別はできなかった。
「商売はやめたといっただけだよ。物がないとはいってないんだ。お入り」
老婆の後に続いて部屋に上がりこんだ。部屋の中は線香の匂いが充満していた。
「昔は旦那《だんな》がいろいろやってくれたんだけどね、それも死んでしまって、わたしのやる気もなくなってね。だいたい、最近の大陸の人間っていうのは神様を拝むことも知らないんだからさ。しばらく人が訪ねてくることもなかったんだよ。わたしゃ、日本の年金もらってるから、それで充分なんだけどね」
老婆は居間を横切って奥の台所に進んでいった。居間の隅には関羽を祀った小さな廟《びょう》があり、老婆の亡夫だろう男の写真が飾られていた。関羽の廟は外の看板同様、今にも朽ち果てそうなほどにくたびれている。
「お茶を淹れるから、こっちへおいで」
老婆に促されて台所に足を踏み入れた。古びた机があっておれのために椅子が引かれていた。老婆は湯を沸かしながら急須に茶葉を入れていた。徐鋭に飲ませてもらった茶と同じ香りがした。
「いい香りですね。ついこの前、似たような香りのお茶をある人に飲ませてもらったばかりです」
老婆の機嫌を損ねたくなくて愛想を口にしただけのつもりだった。だが、老婆は年に似合わない素早さで振り返った。
「ある人? このお茶はね、台湾でもとても珍しくて日本ではなかなか手に入らないものなんだよ。あんた、まさか阿鋭のところにでも行ったのかい?」
予想外の言葉に不意をつかれた。
「徐先生をご存じなんですか?」
「ご存じも何も、このお茶は徐鋭からもらったんだよ。あいつが洟垂《はなた》れ小僧だったころから、わたしはここいらで暮らしていたんだからね」
銃を手に入れたくてここに来ただけだった。だが、目の前の老婆は劉健一と徐鋭の両方に面識があるという。単なる偶然か、それとも誰かが仕掛けた周到な罠なのか。
「あんたこそ、健一も阿鋭も知ってるなんて不思議だね。どういう経緯だい?」
話をしたかった。話を聞きたかった。だが、小文の身に危険が降りかかっている。今は銃を手に入れることが先決だ。老婆の話は別のときに聞けばいい。
「いろいろお伺いしたいこともたくさんあるんですが、今は時間がないんです。金はあります。銃を売ってください」
「まったく、あんたはまともに見えたんだけどねぇ、年寄りに対する礼儀を知らないし、健一やら阿鋭やらと関わってるなんて……人は見かけによらないね。近頃じゃ、だれのことも信じられないよ。あんたにこのお茶を飲ますのはもったいないね」
老婆はそういって、シンクの上に設置された棚を指差した。
「わたしじゃ椅子にのぼらなきゃならないからね。あんた、あそこを開けて、中にあるお菓子の缶を取ってくれないかね」
募る苛立ちをなんとか抑えこんで棚を開けた。古いがよく手入れのされた中華|鍋《なべ》の脇に洋風クッキーの平べったい缶があった。それに手をかけ、思いの外の重さに驚いた。
「開けてごらん」
老婆に促されるようにして蓋《ふた》を開けた。黒いオートマティックの拳銃と金色の銃弾が入っていた。
「最後の一丁だよ。死んだ旦那がね、なにかあったときのためにって、それだけ取っておいたんだ。わたしがいくら売ろうっていっても、うんといわなかったね。なにかあったときにおれがおまえを守らなきゃならないんだとかいってね。男ってのはほんとに馬鹿な生き物だよ。こんな年寄りを殺そうとする連中なんかいるもんかね。おかげで、あれが死んだ後も、わたしが手入れをしてたんだよ。何十年もこの商売をやって来たからね。女でもお手の物さ」
老婆の話を聞きながら銃を手に取った。表面には薄くグリースが塗られ錆びはどこにも浮いていない。弾倉を外し、銃身をスライドさせる。掌に伝わる冷たさと重さが、その銃の性能を証明しているようにも思えた。
「きちんと使えるよ。大陸製の黒星っていう銃さ。今どきはだれもそんなもの欲しがらないけどね、どうしてもっていうなら、売ってやるよ」
「いくらですか?」
撃鉄を静かに降ろしながら訊いた。老婆の皺《しわ》に埋もれた目が小狡《こずる》い光を放った。
「弾丸込みで、百万。びた一文まからないよ。あれの形見でもあるんだからね、その拳銃は」
銃を置いてポケットに手を突っこんだ。まだ凍っている札束を掴みだし老婆の目の前に突きつけた。
「これでいいですか?」
老婆はちらりと金に視線を走らせ、満足そうにうなずいた。
「札を数えて確認したいところだけどね、あんた、急いでるんだろう? 信用するよ。持っていきな。もっとも、もしわたしを騙《だま》してたら、ただじゃ済まないからね」
「わかってます」おれは弾倉に弾丸を詰めた。「用事が済んだら、また戻ってきますよ。この銃もお返しします。そのときに、劉健一と徐鋭の話を聞かせてください」
弾丸を一杯に詰め込んだ弾倉を銃に差し込んだ。弾丸を薬室に送り込み、セイフティをかけて腰に差した。
「深いわけがあるんだろうけど、あんたもあわれな男だね。いいかい、阿鋭はともかく、劉健一には気をつけるんだよ。あんた、昔のあいつにちょっと似てるからね」
それはどういう意味かと問い質《ただ》したかった。だが、急いている気持ちを制御することはできそうにもない。
「できるだけ早いうちに、またお邪魔します」
そういって、おれは老婆の部屋を飛び出た。
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* * *
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腰に差した銃の重みが活力を与えてくれる。くたびれた身体に鞭打っておれは突き進む。耳にはおれに助けを求めた小文の叫びがこびりついている。
助けたい、救いたい。かつて打ち捨てた約束を果たす代わりに、小文に幸せを与えたい。
参宮橋のマンションの前で劉健一に電話をかけた。電話に出た劉健一は素っ気ない口調で上がってこいといった。上着の上から銃の感触を確かめ、エレベータに乗りこんだ。劉健一がドアを開け、おれを招き入れた。
「小文がさらわれた――」
「徐鋭を襲った連中だが、どうやら揺頭に関わっているらしい」
居間に戻りながら劉健一はいった。小文のことなど耳に入らないというようだった。
「揺頭?」
焦りはあった。だが、徐鋭を襲った連中と小文を拉致した連中が繋がっているとしたら――繋がっているに違いないが、劉健一の情報には耳を傾けるべき理由があった。
「そうだ。そもそも、韓豪はどうして殺された? 揺頭のせいだろう?」
「ああ」
「おれの情報網にほとんどなにも引っかかってこないのが気になってたんだが、どうやら、大陸からの差し金だ」
「大陸? しかし――」
「死んだ韓豪の代わりを見つけるより、自分たちの息のかかった人間を日本に送り込もうと考えたやつがいるらしいんだ。仲買を取っ払えば、実入りも大きいからな。だが、それには徐鋭が邪魔だ」
「徐鋭が揺頭の商売に手を染めてるとは思えないな」
劉健一はそれには答えず、開いたままのパソコンの前に座った。
「錦糸町の揺頭の元締めのひとりに、蓮達《リェンダー》という男がいる。小岩には温勇《ウェンヨン》というのがいる。ふたりとも福建人で、揺頭の仕事をする前は徐鋭に雇われていた」
劉健一は喋りながらキィボードを叩いていた。部屋の中は薄暗く、モニタからの明かりが劉健一を照らしているだけだった。焦燥感を抑えこむには理性を総動員しなければならなかった。
「歌舞伎町に王堅《ワンジェン》という男がいる。知ってるか?」
「名前は聞いたことがある。二十人ぐらいの流氓を束ねてる男だろう? 韓豪が死んだ後は姿を見てないな。ほとぼりが冷めるまで、どこか別の場所で稼いでいるんだろうが……」
「二週間前に徐鋭と王堅が錦糸町で飯を食っているのを見たやつがいる。ふたりが韓豪のことを話し合っていたんだとしても、おれは驚かないね」
劉健一は顔を上げた。青白い色に照らされたその顔に、恐怖に歪んだ小文の顔が重なっていく。助けて、と小文は叫んだ。その叫びを、おれはしっかり耳にした。いや、おれだけがそれを受け止めたのだ。
「証拠はどこにもない」
「証拠が必要か? 大事な女がさらわれたっていったよな? みんな徐鋭のせいさ。大陸から雇われた連中にさらわれたんだとしたら、今ごろ、酷い目に遭ってる。ああいうやつらにはこっちの常識は通じないからな」
「今すぐ、小文がどこにいるのか突き止めてくれ」
「無茶いうなよ。歌舞伎町だけならなんとかしもするが、どこから来たのかもわからない連中のことを調べるには時間がかかる」
「調べるんだ」
腰に差していた銃を抜いた。安全装置を外し、撃鉄を起こして劉健一に向ける。劉健一は笑っていた。
「大久保でおまえが銃を探して歩き回ってるっていう話はさっき耳にしたが、まさかおれに向ける銃を探していたんだとはな。女を助けるために手に入れようとしてるんだと思ってたよ」
「女のためだ。あいつを助けるためなら、なんだってする」
劉健一の顔から笑みが消えた。笑みだけではなく表情が消えたといった方がいいのかもしれない。ガラスのようになんの感情も映さない黒い目が静かにおれを見つめている。
「どうやら、本気のようだな」
「ああ。あんたがなにもしなかったり、でたらめをおれに掴ませようとしたら容赦なく撃つ」
「女はどこでさらわれたんだ?」
「小岩だ。徐鋭の店から出たところを狙われた。たぶん、徐鋭と落ち合う前に金を手に入れるつもりだったんだと思う」
「少し待ってろ」
劉健一は再びキィボードを叩きはじめた。おれは銃を構えたまま、劉健一の作業が終わるのを待った。銃はずしりと重かったが苦痛は感じなかった。銃自体の力感と耳にこびりついた小文の叫びがおれを支えつづけている。
パソコンがメールの着信を告げる電子音を立て続けに発しはじめた。そのたびに、劉健一の指が動く。
「女はミニバンに押し込まれたのか?」
「そうだ。情報が入ってきてるのか?」
「そう、慌てるな。たまたま小岩の駅の近くにいたってやつが目撃したと連絡してきただけだ。ミニバンはどっちの方に走っていった?」
「南口の駅前を南の方角だ」
「なるほど、そうなると、途中で千葉街道に入った可能性が強い。ミニバンを追いかけていく線は薄いな」
話している間も、劉健一の指は忙《せわ》しなく動きつづけ、メールの着信を告げる音も途絶えることなく続いた。
おれは畏怖《いふ》に近い感情を抱きはじめていた。劉健一があることを調べろとメールを発信する。すると、数分の間も置かず次々とメールの返信がやって来る。どれだけの数の情報屋を雇っているというのだろう。徐鋭の言葉が真実味を伴って迫ってくる。
「どこのミニバンかわかるか? ナンバーもわかれば助かるんだが」
劉健一の問いかけに記憶を辿《たど》った。走り去っていくミニバンの後ろ姿――|曖昧《あいまい》にぼやけている。だがエンブレムははっきりと覚えていた。
「日産だ。たぶん、エルグランドかなにかだと思う。ナンバーは覚えていない」
「レンタカーだろうな?」
首を振るしかなかった。劉健一は落胆も見せずに作業をつづけた。
「レンタカーなら、簡単に見つかるかもしれん。借りるときに日本の免許と、おそらくクレジットカードの提示を求められる。不法滞在の中国人なら、だれかに助けてもらわなきゃならないはずだ」
劉健一は言葉を終えると同時に勢いよくキィボードを叩いた。手を休め、皮肉に満ちた表情をおれに向けた。
「いつまでそうやってるつもりだ? おまえの脅しは充分に効いてるんだぞ」
おれは銃を降ろした。両腕が強張《こわば》ってまるで自分のものではないかのようだ。その間も、メールの着信を報《しら》せる音は鳴り続けている。
「メールをチェックしなくてもいいのか?」
「大半はクズ情報だ。金目当ての連中がなんでもかんでも送りつけてくる」
「だが、中には本物もあるかもしれないじゃないか」
「長いことこの仕事をしてきてるんだ。そういうのは匂いでわかるのさ――立ってもいいか? 朗報を待つ間、一服したいんだが」
「好きにしろ」
「おまえも吸うか?」
「いらん」
劉健一は悲しそうな表情を浮かべて腰をあげた。壁際のサイドボードに載せてある保管箱を開けて葉巻を取り出した。小振りだが充分な太さのある葉巻だった。
「あっちの部屋にわざわざ改装した葉巻置き場があるのに、そんな小さな箱も必要なのか?」
葉巻の話などしたくはなかった。だが、他愛のないことでも喋りつづけていなければ、おれのろくでもない脳|味噌《みそ》がろくでもない妄想を生み出していく。
「あっちの部屋は湿度を若干低めに設定してある。吸いごろになったやつはこっちに移して、少し加湿する。そうすると風味が増すんだ」
「あんたも徐鋭も壊れてる」
「たしかにそうだろうな。人がぼかすか死んでるのに、おれや徐鋭が気にするのは葉巻や茶葉の状態だ」
劉健一は保管箱の脇に置いてあった専用の鋏《はさみ》で吸い口を切り落とし、葉巻に火をつけた。
「銃を突きつけて脅された後には、軽く爽《さわ》やかな葉巻がよく合う」
「皮肉はやめろ。あんたはどう思っているか知らないが、こっちは追いつめられているんだ」
「女と田舎を出るときに交わした約束を破って、日本でひとりで暮らすことを選んだんだろう。今さらその女がどうなろうと、気にすることはないんじゃないのか?」
「黙れ」
今度は片手で銃を突きつけた。銃身の先がおれの怒りと銃自身の重みで顫《ふる》えている。それでも、この距離なら外すことはない。
「おまえは過去から逃げつづけてきた。本当の自分から逃げつづけてきた。それが今になって心変わりするのか? 女を助けて、おまえになにが残る? 本当はもう、韓豪のことだってどうでもいいんだろう? 東明会のことも、徐鋭のこともどうでもよくなってる。ただ、女を救いたいとそう願ってるだけだ」
「おまえには関係ないだろう」
「女を救えば、おまえも救われるのか?」
「黙れといってるんだ」
引き金にかかる指に力が入った。あとほんの少し力を加えるだけで撃鉄が落ちる。それはだれの目にも明らかなはずだった。だが、劉健一は一向に怯《ひる》む様子を見せなかった。ゆったりとした仕種で葉巻を吸い、呪文に似た響きを持つ言葉を発しつづける。
「そんなのはまやかしだぞ、武基裕、いや、李基。おまえがなにをしたって、だれも救われない。救いなんかどこにもない。ただ、過去を悔い、自分を呪って生きていくしかないんだ」
「それはあんたの選んだ道だろう。おれにはおれの考えがある」
「女を助けられなかったらどうするんだ? 今よりもっと酷い苦しみを引き受けることになるだけだ」
「うるさい!」
激昂していても、劉健一を撃ち殺すことはおれにはできなかった。無造作に近寄り、振り上げた銃で葉巻を持つ手を薙《な》ぎ払った。劉健一は手首を押さえ、葉巻が床に転がって灰が辺りに散らばった。劉健一の頭髪を掴み、銃口を脳天に押しつける。
「それ以上なにかをいうと、本当に撃つ」
「もったいないことをするなよ。この葉巻が旨《うま》く吸えるようになるまで、どれだけ手間をかけたと思ってるんだ」
劉健一は平然と顔を上げた。劉健一の吐息がおれの頬にかかる。闇よりも黒い双眸《そうぼう》がおれの目を覗き込む。劉健一の目の奥には、ただ深淵《しんえん》があるだけだった。
「そろそろ、まともな情報が返ってくるころだ」
劉健一は銃を持つおれの手を押しのけ、葉巻を拾いあげた。葉巻を口にくわえてパソコンの前に座り直す。おれはそれを呆然《ぼうぜん》と見守っていた。息が荒く、両手が細かく顫えている。どれほどの激情に駆られようが、小文に対する想いがどれほどのものであろうが、おれはおれでしかない。そのことを劉健一に見透かされて、おれは打ちのめされていた。
メールをチェックする劉健一の手が、やがてとまった。
「亀戸に住んでる堅気の中国人が、今日、知り合いに頼まれて自分の名義でミニバンのレンタカーを借りたそうだ」
「本当か?」
「ああ。その男は学生なんだが、日本で免許を取っている。小遣い欲しさに、名義を貸したそうだ」
「亀戸のどこだ?」
「そう慌てるな」
劉健一は携帯電話をかけはじめた。
「ああ、健一だ。だれに名義を貸したのか、いったか? 堅気なんだ、金をやって口を割らせればいい。近くにいるんだろう……ああ、このまま待ってる」
劉健一は携帯を耳に当てたまま葉巻をふかした。煙を口に溜《た》めている間、目を閉じてうっとりとした表情を浮かべる。じりじりしながらおれは待った。待つことしかおれにはできなかった。
「わかったのか? よし、名前をいえ……わかった、ありがとう。また知りたいことができたら連絡する」
劉健一は携帯を切り、パソコンになにかを打ち込みはじめた。
「郎志森《ランヂーセン》という男だ。二、三ヶ月前に日本に来た広東人で、香港の黒社会と強い繋がりがあると吹聴してるそうだ。子分のような連中を三、四人従えている」
「そいつはどこにいるんだ?」
「今、調べてる」
キィボードがマシンガンのような音を立てた。葉巻をくわえっぱなしにしているせいか、劉健一は右目を半分閉じている。劉健一の指の動きがとまるたびにおれは息を呑み、それが再び動くたびに落胆した。
劉健一が再び携帯電話に手を伸ばした。低く抑えた早口の北京語で会話を交わし、電話を切り、また別の相手に電話をかける。五人目との会話を終えて電話を切ったところで、劉健一はおれに視線を向けた。
「かなり金を使った」
おれは上着の内ポケットに突っこんでいた金をパソコンの脇に置いた。
「足りない分は後で払う」
劉健一は金には目もくれなかった。今度はキィボードではなく、マウスを動かしはじめた。パソコンに繋がっているプリンタが起動し、色づけされた紙を吐き出した。
「早稲田《わせだ》だ。郎志森は鶴巻町の中古マンションに住んでる。そこに女がいるかどうかはわからないが、三十分ぐらい前に、郎の子分が出入りするのを見たやつがいる」
プリンタから吐き出されたプリント用紙を手に取った。地図ソフトを印刷した物で、早稲田鶴巻町の一画に丸印がついていた。早稲田通りと早大通りに挟まれた住宅街だった。
「鶴巻《つるまき》ハイツとかいうマンションの三〇二号室だ」
玄関に向かいながら劉健一の説明を聞いた。気持ちが焦っている。逸《はや》っている。右手に握ったままの銃のこともすっかり忘れ去り、靴を履く段になってやっと気がつくありさまだった。
「おい。まさか、その銃を構えて押しかけようとしてるんじゃないだろうな?」
「放っておいてくれ」
「相手は流氓だぞ。荒っぽいことにはおまえよりよっぽど慣れてる」
「だったらどうしろっていうんだ!?」
思わず振り返っていた。廊下の向こうの劉健一は葉巻をふかしながら涼しい顔をしている。
「女を助ける役目は徐鋭に任せればいいじゃないか」
「だめだ。小文は徐鋭にとっちゃただの女だ。命を張る価値はない」
「そうか……生き延びることができたら、残金の清算、よろしく頼む。東明会の連中と徐鋭の息のかかったやつらが血眼でおまえを探してるそうだ。背中には気をつけろ」
血が沸騰していくような怒りが込みあげてきた。おれは無言で部屋を出、荒々しくドアを叩きつけた。
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早稲田に向かうタクシーの中で携帯の留守電をチェックした。数十件のメッセージが残されていて、その大半が村上のものだった。村上以外は二件。どちらも徐鋭からのものだった。内容はうりふたつといってもいい。
『小文が何者かにさらわれた。劉健一のことで話がある。至急、連絡を。おまえはおれに三百万の借りがあるはずだ』
ビジネスマン然とした口調はすっかり陰をひそめていた。徐鋭は地金を剥き出しにしておれに圧力をかけようとしている。
村上も徐鋭もくそ食らえだ。小文がおれの助けを待っている。おれの意識を占領しているのはその事実だけだ。
早稲田の地下鉄出入口近くでタクシーを降り、そこからは歩いた。辺りは静寂に覆われていた。早稲田通りを行き交う車の音も、すぐそばにある中規模の公園が孕《はら》む闇に吸いこまれていく。鶴巻ハイツはすぐに見つかった。鶴巻図書館の裏手のふたつ先の路地沿いに、左右の建物に挟まれるように建っている。五階建ての細長いマンションで、ベランダのような物は一切なかった。
劉健一にいわれるまでもなく、正面から押しかけることの愚は心得ていた。だからといって、いいアイデアも思いつかない。焦燥感と小文を救うのだという強い気持ちがあるだけだった。とりあえず、エレベータで最上階にあがり、マンションの部屋割りを確認した。細長いマンションに相応しく、フロアには三つしか部屋がない。廊下の左の端に非常口があり、壁伝いに非常階段が設置されていた。階段で屋上にのぼった。マンションの背後には別のマンションが建っていて、二棟の間には二、三十センチ程度の隙間しかなかった。屋上から下を覗くと、各フロアに三つ入っている部屋のそれぞれの窓が確認できる。採光しようにも空気を入れかえようにも意味のない窓だがおれには好都合だった。
塀を乗り越えてぶら下がり、隣のマンションの壁に背中を、鶴巻ハイツの壁に両手両足を押しつけた。腕と脚の筋肉がぶるぶると顫えたが、身体を支えることは充分にできた。足と手を交互に動かして、少しずつ身体を下に降ろしていく。三〇二号室まではおよそ五メートル。焦らずじっくり構えればやれるはずだ。
芋虫のように身体を動かし、なんとか三〇二号室の窓の脇にたどり着いた。窓枠の外には申し訳程度の鉄筋製の手すりのようなものがついている。窓には当然カーテンがかかっていた。鶴巻ハイツの構造から考えると、部屋の広さはせいぜいが五十平米。一LDKもしくは二DKがいいところだろう。この窓の向こうがリビングになっていて、そこに郎志森と手下たち、それに小文がいる可能性が高い。
酷使した筋肉が酸素を求めていた。荒い呼吸を繰り返しながら、無理な体勢で窓に顔を近づける。カーテンの生地は厚く、中の様子をうかがうことはできない。会話も漏れては来なかったが、人の気配は伝わってくる。何人いるのかはわからない。小文がいるかどうかも確認は取れない。それでも、小文はそこにいるという確信がおれにはあった。ただ、いて欲しいと望んでいただけかもしれないが。
逡巡《しゅんじゅん》しながら腰の銃を抜いた。足の裏と背中だけで身体を支えながら安全装置を外す。連中は予期していないはずだと、口には出さずに自分にいい聞かせた。窓を割って中に飛び込み、銃を突きつければ連中は身動きが取れなくなるはずだ。その間隙を縫って小文を連れだす。小文がいなければ、銃の威力で居場所を聞きだす。
銃を握る手が顫えていた。筋肉が疲弊しているせいではなかった。恐怖にわなないている。自分から荒事に飛び込んでいったことはこれまで一度もない。銃を撃ったこともない。日本人の武基裕にはそんな経験は必要なかった。中国人の李基のままでいたのならあるいはそういう経験を積んでいたのかもしれない。あるいは、田舎で野良仕事に忙しく、結局はそんな経験とは無縁で過ごしたのかもしれない。
目を閉じ、祈った。おれが祈りを捧《ささ》げるべき相手は天にはいない。神など信じたことがない。祈りを聞き届けてくれそうな相手は、結局のところおれの過去に住まう人間たちだった。祖父に祈り、父に祈り、母に祈った。近隣の住人たちに祈り、村の畑に実った作物に祈り、山に住む栗鼠《りす》たちに祈った。
小文を救う力をください。小文との約束を果たすチャンスを与えてください。おれが打ち捨ててしまったすべてのものを取り戻す機会を与えてください。
身体の位置を上にあげ、鉄筋の手すりに右足をかけた。おれの体重を支える分には問題はなさそうだった。左手と左足を後ろの壁に突き、体重の半分を右足にかけて、銃を握った右手を振りあげる。手の顫えは止まっていた。酸素を求めて喘いでいた筋肉も、今では正常に戻っている。
息を止め、銃を窓ガラスに叩《たた》きつけた。乾いた音がして窓ガラスが砕け散る。身体を屈《かが》めたまま、部屋の中に飛び込んだ。
「動くな! 動くと撃つぞ!!」
銃を前方に構えた。そこは八畳のリビングで、床に腰を降ろした男がふたりと、安っぽいソファの隅で膝《ひざ》を抱えるようにして座っている小文が視界に入った。小文をさらったのは四人組だった。おれに銃を撃った男ともうひとりの姿がない。
「動くな」
床に座っていたふたりに銃口を向け、小文に首を振った。
「小文、こっちに来るんだ」
小文は動かなかった。悲しそうに首を振るだけだ。
「なにをしてるんだ、小文。早くこっちに――」
後頭部に硬いものが押しつけられ、おれは凍りついた。背後に人の気配はまったく感じなかった。
「威勢のいい兄ちゃんだな」
中国南部特有の訛りが強い北京語が耳を打った。どこからか現れた手が咎《とが》める暇もなく銃を奪っていった。おれは凍りついたまま動けなかった。
「まったく、あんな音を立てて壁伝いに降りてくれば、おれたちでなくても気がつくぜ」
最初のとは別の声がおれを嗤《わら》った。おれが飛び込んでくるのを予期して、窓の両側で待機していたのだろう。自分の迂闊さを呪ったが、すでに手遅れだった。後頭部にあてがわれた銃口は微動だにしない。流氓《リウマン》どころか、この連中は正真正銘のプロだった。床に腰を降ろしていた男たちが立ち上がった。そもそものはじめから、この男たちの顔にも驚愕《きょうがく》の表情は浮かんではいなかった。あれだけの苦労をしたというのに、すべては徒労だった。
「兄ちゃん、手を後ろに回しな」
最初の声がいった。動かずにいると、銃口で頭を小突かれた。
「強がったって無駄なんだよ。それともなにか? ここで脳|味噌《みそ》ぶちまけて死ぬか? 英雄気取りであの女を助けに来たんだろう? 無駄死にすると、二度と突っ込めなくなっちまうぜ」
男の声の後に、他の四人の下品な嘲笑が続いた。
「まあ、そのときは、兄ちゃんの代わりにおれたちがやらせてもらうけどな」
後ろに回した両手に冷たい金属が食い込んできた。手錠だ。枷《かせ》を繋ぐ鎖が短いのか、おれの両手はほとんど動かせなかった。
「ねえちゃんの隣に座りな」
銃で背中を押され、おれは小文の隣に腰を降ろした。
「阿基――」
「すまない。おまえを助けるつもりで来たのに、このありさまだ」
「ここに来たのは無駄じゃねえよ、兄ちゃん。こっちにしてみれば、丁度いいときに来てくれたよ」
おれに銃を突きつけていた男――最初に口を開いた男は、小岩でおれに発砲した男だった。おそらく、郎志森というのはこの男なのだろう。他に四人いた。郎志森の後ろに立って、にやついている。五人が五人とも短髪で日に灼《や》けた精悍《せいかん》な顔つきをしていた。五人ともついこの前まで人民軍の兵士だったといわれても驚きはしないだろう。小文を襲ったのは四人だと思っていたが、どこかにもう一人が隠れていたのだ。真ん中にいるのがおれに手錠をかけた男だろう。左右にいるのが床に座りこんでいた連中だ。にやけている連中を睨みつけ、やがて、おれに手錠をかけた男とその右隣の男の顔の上におれの視線は釘《くぎ》付けになった。見覚えがある。
「徐鋭の連絡先を教えろとこのねえちゃんにさっきから聞いてるんだが、脅してもすかしても答えちゃくれねえ」
郎志森の声はおれの耳を素通りした。見覚えのあるふたりの顔――間違いはない。韓豪を襲撃したあのふたりだった。足許にぽっかり穴があいたような気がした。趙浩はなんだったのか。趙浩に殺された伯父《おじ》のやくざはなんのために死んだのか。だれがなにを企んだのか。なにがどうなっているのか。混乱し、目眩《めまい》を覚え、おれはソファにぐったりと沈みこんだ。王克、孫盾、蓮達、温勇、王堅――劉健一に告げられた名前が輪郭を失った文字となっておれの頭の中を駆けめぐる。すべてはでたらめだったのか。だが、なんのために? なんのために、劉健一はそんなことをする必要があったというのか。
「おれの声、聞こえてるか、兄ちゃん?」
郎志森がおれの顔を覗きこんでくる。
「すまん、なんだって?」
「徐鋭の連絡先を教えろっていってるんだよ。このねえちゃんの身体と引き替えに、取り引きがしたいんでな」
「徐鋭がその取り引きに乗るとは思えないね」
他人事《ひとごと》のようにおれはいった。混乱はまだ続いていてまともに物を考えることもできない。
「それを決めるのは兄ちゃんじゃないだろうが。野郎の居場所を教えてくれりゃ、命を助けてやってもいいぜ」
「携帯電話の番号なら知っている。徐鋭が電話に出るかどうかは知らないが」
「阿基! 阿鋭が殺されるわ」
小文がおれの上着を引っ張った。不安と恐怖に表情が引きつっている。切迫したその表情が、おれの混乱を吹き飛ばした。なにがどうなっているのかは後で考えればいい。なにより大切なのはこの場をどう切り抜けるかだった。目配せで心配するなと小文に告げた。
「電話番号か、そりゃいいな。教えてくれよ」
「携帯電話だ。上着のポケットに入っている」
郎志森が顎《あご》を動かした。韓豪襲撃には加わっていなかった男が近づいてきておれのポケットを探った。
「こんなものまで入ってたぜ」
携帯の他に金を見つけて目を輝かせ、郎志森に金を見せた。
「他にも入ってるかもしれねえ。探してみろ」
ポケットというポケットを探られ、金という金を奪われた。
「ちょっとした金持ちじゃねか、兄ちゃん。遠慮なくいただいておくぜ」郎志森は紙幣にはちらりと視線を送っただけでおれの携帯電話を手にした。「発信履歴を見ればいいのか?」
「ああ」
「何番目だ?」
「こっちに見せてくれ」
郎志森は液晶画面をおれの方に向けた。ボタンを操作して画面を切り替えていく。
「それだ」
徐鋭の電話番号が表示されたところでおれはいった。
「なるほど……おまえの携帯からかければ、あいつは電話に出ると思うか?」
「出るさ。あいつはおれと連絡を取りたがっている。その金も、もとはといえばあいつのものだからな」
おれは男たちが手にしている札束に顎をしゃくった。
「そりゃ好都合だ」
郎志森は発信ボタンを押して、携帯を耳に押し当てた。なにをするにしても、郎志森の目は動かずにじっとおれを見据えている。右手に握ったままの銃も動くことはなかった。しばらくして、郎志森の口が動きだした。
「もしもし……いや、武じゃねえ。郎というもんだ……待てよ。慌てるな。こっちはおまえの女を預かってる……もちろん、女が持ってたものもだ。大事なものなんだろう、あれはよ。どうだ、取り引きしねえか。女とあれ[#「あれ」に傍点]を一千万で買い取ってもらいてえんだ……馬鹿、人民元でだ。日本円なら一億五千万ってところだな、安いもんだろう……」
郎志森の声に耳を傾けながら、視線を小文に走らせた。気がつかなかったが、バッグが消えている。小岩の店に立ち寄った小文が徐鋭のために受け取ったのは、金以外のなにかなのだ。
「そんなに長くは待てねえぜ……そうだな、一時間くれてやろう。一時間後にあんたから電話がかかってこなけりゃ、女は死ぬし、あれ[#「あれ」に傍点]は灰になる……わかった、よく考えて電話をかけ直してくるんだぜ」郎志森は電話を切り、にやりと笑った。「脈はありそうだったぜ。安心しな、ねえちゃん」
「あれというのはなんだ?」
口を開きかけた小文を制しておれは訊いた。
「驚いたね、どうも。兄ちゃん、自分の立場がわかってるのかい? 人にものを訊けるような立場じゃねえんだぞ」
郎志森の背後では、子分たちがおれから巻きあげた金を数えていた。郎志森はちらりとそちらに視線を走らせ、ほんの少し肩をすくめた。
「まあ、金もいただいちまったしな。しょうがねえ、見せてやるか」
そういっておれの携帯を上着のポケットに押し込み、代わりに自分の財布を取り出した。財布の中から紙切れをつまみ出し、おれにかざして見せた。
半分に千切られた、古い紙幣だった。見覚えはないが、それが日本の紙幣だということはわかった。おそらく、現行の紙幣の前に流通していたものだ。古くはあるが、皺ひとつなかった。刃物で切断したのではなく、手で無造作に千切ったのだろう。切れ目が雑で、紙の繊維が毛羽立っている。
「なんだ、それは?」
「さあな。大方、割符かなにかだろう。そのねえちゃんが、後生大事にバッグの底に押し込んでたよ。今どき、こんなやり方で大事なものをどこかに預けるような馬鹿がいるとは驚きだがね」
おれが日本に来たときは、すでに今と同じ紙幣が流通していた。ということは、郎志森が自慢気に見せびらかしている紙幣は、二十年以上も前に流通していたものだということになる。二十年前といえば、徐鋭は十代だ。大金に代えてでも取り返したいと思うほど大事な物を、割符などという大時代なやり方で他人に預けるとは思えない。
「これはいったい何なんだってねえちゃんにも訊いてみたんだけどな、ただ取ってこいといわれただけで詳しいことは知らないんだとよ。まあ、どっちにしろ大事なもんであることに違いはねえ」
おれは小文の顔を盗み見た。顎を自分の首に埋めるようにして、上目遣いで郎志森の手の中の割符を見つめていた。その表情からはなにもうかがうことはできなかった。
「さあ、あとは野郎から電話がかかってくるのを待つだけだな」郎志森は割符を上着のポケットの中に丁寧にしまいこんだ。「暇だけど、しょうがねえな。ねえちゃんには手を出すなって約束だしよ」
郎志森のにやけた笑いに、他の男たちが不満そうな態度を見せながらうなずいた。微妙な違和感をおれは覚えた。郎志森たちは雇い主に対する忠誠を守っているようには見える。だが、小文が持っていた割符を使って徐鋭から金をせしめようとするのは逸脱行為に違いない。それがだれであれ、連中の雇い主が割符のことを知っているはずがないからだ。
忠誠と裏切りと。連中は矛盾する行為を行って平然としている。
「韓豪を殺したのも、彼女をさらったのも、同じ人間に命じられたのか?」
おれは郎志森に疑問を向けた。
「韓豪? なんのことだ?」
「とぼけるなよ。そこのふたりが韓豪を殺したんだ。全部この目で見ていたよ」
「見られてたのか」
郎志森は舌打ちし、韓豪を殺したふたりを睨みつけた。空気が急に冷えたような気がした。おどけたしぐさや口調でごまかそうとしているが、郎志森の本質は見間違えようがなかった。
「その韓豪を殺《や》ったのが、おれたちだとしてもよ」郎志森は笑いを浮かべようとしながらおれを見た。笑いは途中で凍りついて、郎志森のこめかみが細かく痙攣《けいれん》していた。「だれに雇われたかなんてのは、兄ちゃんには関係ないことだろう」
「どうせおれたちも最後には殺せといわれてるんだろう? だったら、教えてくれてもいいじゃないか」
「そうはいってもな……」
郎志森は頭を掻《か》いた。おれの言葉を否定しようとはしなかった。
「韓豪はおれのボスだった。仇《かたき》を取ろうとしておれはこれまであくせく動き回ってきたんだ。だれが韓豪を殺そうとしたのか、知らなけりゃ死にきれない」
「おれも知らねえんだよ、兄ちゃん。まあ、待てって。おれの話を最後まで聞け」口を開こうとしたおれに掌を向けて郎志森は言葉を続けた。「人を介して雇われたんだよ。だれが金を払ってるのか、本当に知らねんだ」
「そんな……だれに雇われてるのかも知らないで、こんな危険な仕事に手を出したっていうのか?」
「おれたちは金を稼ぐために日本に来たんだぜ、兄ちゃん。危険もクソもあるか」
「間に立った人間ていうのはだれなんだ?」
おれは必死で食い下がった。郎志森は子分たちに向き直った。
「おい、おまえたち。ちったぁ、この兄ちゃんの執念深さを見習えよ。そうすりゃ、伍長《ごちょう》にでも軍曹にでもなれたんだ」
子分たちはうなずくだけで口は開かなかった。規律が徹底されている。よく訓練された集団だということは、おれと小文が生き残れる可能性は限りなく低い。
「おれたちに仕事を持ってきたのは馬遠《マーユェン》っていう男さ。上海人だ。四谷でレストランを経営しているおっさんだよ」
馬遠なら知っていた。おれのマンションからほど近いところにある〈華南飯店〉という上海料理店のオーナーだ。店で何度か飯を食ったこともあるし、馬遠と言葉を交わしたこともある。すでに五十歳を過ぎていて、二十年前に来日し、歌舞伎町で金を蓄え、四谷に店を出したのだと自慢気に語っていた。後ろめたいことが皆無とはいえないだろうが、地下社会にどっぷり浸かっているようにも見えなかった。
「あの人が……」
「よくあることだろうが。日本に長くいすぎて、頭がぼけちまったんじゃねえのか、兄ちゃんよ」
郎志森はおれを嘲笑った。その嘲笑はおれの耳をすり抜け、壁にぶつかって消えていった。
「馬遠から、雇い主のことをなにか訊かなかったのか?」
「どうして? そんな必要ねえだろう。そりゃ、最初は半信半疑だったし、仕事も慎重にやったけどな。いわれたとおりのことをやりゃ、いわれただけの金を払ってもらえた。金さえきっちりもらえりゃ、金の出所がどこかなんてどうでもよくなるもんだ」
「だけど……」やりきれなさにまとわりつかれて、おれは駄々をこねるようにいい募った。「少しはなにかあるだろう」
「やべえやつだって話は小耳に挟んだかな」
根負けしたというように郎志森はいった。
「やばい?」
「おれたちみてえな連中、結構いるだろう、その辺に。そん中に昔の顔見知りがいて、一度飯を食いに行ったことがあるんだよ。昔話に花を咲かせて、日本のくそったれ加減を罵りあって、そのうち、仕事の話になった。そいつもおれたちと同じような仕事をしてたんだ。今は東京にはいねえけどな」
「それで?」
「おれの仕事の話をしたら、そいつの顔色が変わってな。相当にやばいって話を聞いてるから気をつけろっていわれたんだ」
「その知り合いはあんたの雇い主のことを知ってたのか?」
郎志森はおれを憐《あわ》れむように首を振った。
「噂だよ。噂を耳にしてるんだよ。なんでも、そいつは金払いはいいし、細かなことに口を出したりはしねえけど、怒らせるとやばい、ってな。昔、金をちょろまかそうとしたやつらがいたんだとよ。仕事をしてもいねえくせにしたといい張ってな。やったかやらなかったかなんて、どう考えてもわからねえような状況だったらしい。そうなりゃよ、ろくでもない了見になってもしかたねえってもんだろう? ところがな、なんでかしらねえが、それがばれちまったらしい。これよ、これ」
郎志森は水平にした掌で自分の首を掻き切る真似をした。
「殺されたのか?」
「全員な。なんでも、五、六人のグループだったらしいが、ひとり残らず消えちまったとよ」
「だけど、それもただの噂なんだろう?」
「ああ。おれも最初は笑い飛ばそうかと思ったんだがな。そいつがあまりにも真剣な顔でいうんで、信じることにした」
「噂を? あんたたち兵隊は、上官の言葉か自分の目で見たことしか信じないように訓練されてるんじゃないのか?」
郎志森は肩をすくめた。
「そのときのあいつの顔を見たら、兄ちゃんだって信じるに違いないって。どこのだれかはわからねえし、本当にいるのかどうかもわからねえようなやつだが、やばい。これだけは確かだ。修羅場をくぐった者同士だからな、わかるんだよ」
あまりにもとらえどころがなかった。韓豪を殺した人間は、その目的も明らかにしないまま、亡霊のように辺りを漂っている。
「そんなにやばいと思っている相手を裏切るつもりなのか?」
「裏切る?」
おれの言葉に郎志森は目を剥《む》いた。
「そうだ。女をさらって徐鋭をおびきだすというのが雇い主のシナリオなんだろう。その後で殺すのか、それともなにか話を聞きだすのかはわからないが、あんたが徐鋭から金を奪うという筋はそのシナリオにはないはずだ。雇い主を怒らすんじゃないのか?」
「かもしれねえな」
「だったら、それほどやばいとは思ってないんだろう?」
「やばいとは思ってるさ。そりゃ、間違いねえ。ただな、こんなものを見つけたら、悪い虫がもぞもぞ動き始めるってもんじゃねえか」
郎志森はまた、割符を取りだした。
「これがよ、キャッシュカードだとかなんかだとまた話が違ってくるんだがな。こんな大時代的なものを見せられたら、そこにはとんでもねえお宝が眠ってると考えるのが普通だ。違うか、兄ちゃん?」
おれはただ唇を舐めただけで、郎志森の次の言葉を待った。
「一千万元といったら、あいつはあっさり承諾しやがった。一千万元だぞ。日本にいるならたいした金じゃねえかもしれねえが、大陸に戻れば大金だ。みんなで分けたってお釣りがくる。一か八かの賭《か》けに出たって、別に神様は怒らねえだろう? その金持って、おれたちは故郷に帰る。いくらやばい男だっていったって、大陸のど田舎までは追ってこられねえ」
郎志森はそういって、おれにだけわかるように片目で瞬《まばた》きを繰り返した。小文にその意味を悟られたくなかったのだ。
金を受け取った後で、小文もろとも徐鋭を殺せば雇い主も文句はいわないはずだ――郎志森の目はそう語っていた。小文は殺される。間違いなく殺される。なんとかしなければ。手首に食い込んだ手錠が煩わしい。おれは多少でも動きが取れるようにと身体を動かした。郎志森が中途半端に押し込んだポケットの中の携帯が床に落ちた。
携帯――受信拒否設定。あるいは。もしかしたら。
「そうやって待っていても、徐鋭からの電話はかかってこないぜ」
おれは努めて冷静な声を出した。
「どうしてだ?」
「着信拒否設定がしてある。徐鋭からの電話があまりにもうるさいんで、電話を受けないことにしたんだよ。こちらからかけることはできるが、向こうからの電話は繋がらない」
郎志森は瞬きもしない目でおれを見た。瞬きする代わりに、立て続けに舌を鳴らした。
「なんだってそんな面倒なことをするんだよ、兄ちゃん。どうすりゃ、電話を受けられるようになるんだ?」
郎志森は携帯を手に取った。おれは設定を解除する方法を教えてやった。郎志森の指の動きがとまるのと同時に携帯が振動しはじめた。
「番号が出ねえ」
ディスプレイとおれの顔を交互に見つめながら郎志森はいった。おれは肩をすくめた。おそらくは、村上からの電話だ。郎志森が電話に出れば、村上になにがしかの情報を伝えることができる。このマンションの名前を口走るだけでもいいのだ。おれは殺されるかもしれないが、状況は変化する。小文が逃げ出す隙が生まれるかもしれない。
「徐鋭からの電話なら、番号が出るはずだ。もっとも、徐鋭も緊急事態のようだから、いつもと同じ携帯を使ってかけてくるかどうかはわからないが……」
おれが話している途中で携帯の振動が止まった。留守番電話サービスに転送されたのだ。これで十分は電話はかかってこない。そう思った瞬間、また携帯が振動しはじめた。
「しつこい野郎だな。それとも、急いでるのか。徐鋭かもな」
郎志森は携帯を見つめながら呟《つぶや》いた。横顔に迷いが見て取れる。電話に出るべきか、無視するべきか。前者が勝った――郎志森は受信ボタンの表面に左の親指を這《は》わせた。だが、おれの期待は見事に裏切られた。
「やっぱり、やめておこう」
携帯が音を立てて畳まれた。携帯はしばらく振動を続け、やがて動かなくなった。
「兄ちゃんは意外と物騒な連中と繋《つな》がってそうだしな」
郎志森は嘲笑《ちょうしょう》とも自嘲ともつかぬ笑みを浮かべておれの携帯を手の中に握りこんだ。
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徐鋭からの電話がかかってきたのはほぼ一時間後だった。郎志森がうんざりしたような顔で携帯のディスプレイを覗《のぞ》きこんだが、次の一瞬、その横顔に緊張が宿った。村上からの執拗な電話ではなく、徐鋭の携帯の番号が表示されたのだ。ボスの緊張に感応したように、弛緩《しかん》しながらテレビを見ていた男たちの背筋がぴんと伸びた。郎志森は全員の顔を見渡してから電話に出た。
「徐鋭さんか、決心はついたかい?」郎志森はにやついた笑みを浮かべた。「五百万にまけろ? 馬鹿いうなよ。こっちも危ない橋を渡ってるんだ。びた一文でもまけられるか」
郎志森は語気を荒らげたがにやけた笑いはそのまま顔に張りついている。子分たちは忠実な犬のように郎志森の一挙手一投足を見守っていたが、それはおれと小文も同じだった。
「まあ、あんたの気持ちもわからないじゃねえがな。これまで築いてきたもんを失うかどうかの瀬戸際だ。だけどな、瀬戸際に立ってるのはおれたちも一緒なんだよ。そこのところをよく考えでくれりゃ、無駄な血も流れねえし、あんたの大事なものが灰になることもねえ……ああ、わかってるって。足許《あしもと》を見たりはしねえ。こっちも引き際は心得てる……ちょっと待ってくれ」
郎志森は子分のひとりに顎をしゃくった。どこからかメモ用紙とペンが調達され、郎志森に手渡される。
「いいぜ」
ペン先がメモ用紙の上を滑らかに動く。郎志森ががさつなだけの男ではなく、それなりの教育を受けていることを物語っていた。
「わかった。二時間後だな。下手な小細工はお互いになしだぜ……安心しろ、ものはちゃんとおれが保管してる……なに?」
郎志森がゆっくり身体の向きを変え、小文に感情の読めない視線を向けた。
「三十秒だけだぞ。もう一度念を押すが、下手な小細工はなしだ……よし。ちょっと待ってろ」
差し出された携帯を小文はひったくるように手に取った。その仕種《しぐさ》はテレビで見た飢えた難民を思わせた。両手で携帯を持ち、きつく耳に押し当てたが、その両手は細かく顫えていた。
「うん、わたしよ……大丈夫。乱暴なことはされてないわ」
囁くように喋る小文の言葉に、部屋の中にいるだれもが耳を傾けていた。とりわけ、おれと郎志森は耳だけでなく、小文のどんな仕種も見逃すまいと目を凝らしてさえいた。
「うん……うん、うん」
小文の声がどんどん低くなっていく。途中からは、ただうなずいているだけのことの方が多くなった。さすがにこれには郎志森が痺《しび》れを切らした。
「時間切れだ」
そういって、小文から携帯を奪った。
「女も無事だってことはこれでよくわかっただろう? 早く金を用意して、この後に備えろよ」
電話を切って、郎志森は再び小文に向き直った。
「あいつはなにをいった?」
「別に……心配しなくてもいい、必ず助けてやるからって、そういっただけよ」
「それだけにしちゃ、ちょっと話が長かったんじゃないか?」
「無事にあの人のもとに戻れたら、一度、田舎に行こうっていってくれてたの。両親に紹介したいからって。こんなときにそんな話しなくてもいいのに……」
小文は恥じらうように目を伏せた。郎志森は舌打ちし、それ以上問いつめるのをやめた。
「おい、この辺りの場所、詳しいか?」
差し出されたメモ用紙には住所が記されていた。江東区青海二−×−×。お台場の方だという見当はついたが、詳しいことはさっぱりわからなかった。
「暁|埠頭《ふとう》公園とかの近くだそうだ。そこの路上で金を受け取る。これは――」郎志森は上着のポケットを叩いた。「女に渡して、金と交換だ」
「おれはどうなるんだ?」
「あいつはおまえのことはなにもいってなかったな。それより、場所だ。わからねえのか?」
「地図はあるか?」
おれは訊いた。郎志森が指示を出す前に子分のひとりが動いた。部屋の隅に積み上げられた雑誌や新聞の山を動かし、よく使い込まれた都内の道路地図を引っ張り出してきた。手錠が外され、地図を手渡された。おれは地図をぱらぱらとめくった。赤いボールペンの書き込みが目についた。不慣れな東京の道路をこの地図を駆使して駆け回ったのだろう。徐鋭のマンションのある辺りも赤い丸で囲まれていた。
「余計なことはするな」郎志森の一喝が飛んできた。「おれたちだって地図を見りゃ、それがどこなのかはわかるんだ。おまえに訊きてえのは、そこがどんな場所なのかってことなんだよ」
「わかってる」
おれは江東区のページを開き、お台場の周囲に目を凝らした。青海二丁目はお台場のさらに先、鍵《かぎ》状に突き出た埠頭の先端近くだった。
「この辺りなら多分、倉庫街だ。お台場の辺りはフジテレビもあって人通りが多いけど、こっち側は夜も更ければ人の動きはほとんどないだろう」
「周囲は開けてるのか?」
「高い建物はないはずだ。ただ、周りは倉庫だらけだから物陰はいくらでもあると思う」
「やっぱりな……」郎志森は深くうなずいた。「すんなり金を渡すわけがねえ。おい、支度しろ。すぐに出かけるぞ」
部屋の空気が途端に慌ただしくなった。ふたりの男が部屋の外に出て行く、残りの人間は押入を開けて中に隠してあった銃器を引っ張り出した。拳銃だけならまだ可愛いが、中には二丁のショットガンもあった。韓豪や船橋でタクシーを襲撃したときに使ったショットガンなのだろう。まだ真新しく輝いているが、ところどころについた無粋な指紋がくすんだ痕《あと》を残している。銃を手にした男たちの背中にも剣呑《けんのん》な空気がぴったりと張りついていた。
男たちを見て、小文の顔色も変わった。おれの腕にしがみつき懇願するように口を開いた。
「あの人たち、わたしたちを殺すつもりなの?」
おれは首を振った。嘘をつくのは心苦しいが、小文を救うためならなんでもするつもりだった。
「いいや。ただ万一に備えてるだけだろう。金を受け取れば、徐鋭やおまえにもう用はないはずだ。連中も余計な血を流して事を大きくはしたくないだろう」
おれは囁いた。おれの声は男たちが操作する銃が発する金属音に呑みこまれた。
「本当ね?」
「絶対とはいえないよ。それに――」
おれは言葉を呑みこんだ。声にならない声が、おれの視線の後を辿って小文の脳裏に染みこんでいくのを待った。徐鋭との電話の後の、郎志森の詰問に対する小文の答えは噴飯ものだった。無事に事が終わったら、田舎へ行こう? 両親に会わせる? あり得ない。徐鋭の心は小文にはないし、おそらく、小文もそのことは心得ている。小文はでたらめを口にしたのだ。なら、徐鋭は小文になにを語ったのか。
この窮地を脱するための算段だ。それ以外には考えられない。
小文はおれの沈黙の意味をすぐに悟った。小さく、一度だけうなずき、その後はすべてに対する興味を失ったという目で、殺気立っていく男たちの姿を見守った。
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* * *
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マンションの前に車が二台、とまっていた。一台は古びたカローラで、もう一台は旧型のエスティマだった。どちらもレンタカーではない。おそらく、中古車だろう。
おれと小文はエスティマに押し込まれた。人目を気にしてか、連中はもう一度手錠をかけようとはしなかった。だからといって気を緩めているわけではなく、韓豪を殺した二人組の片方が常におれたちを見張っていた。郎志森が助手席に乗りこんできて、エスティマが動きだした。郎志森は携帯を取りだした。おれのではなく、自分自身の携帯のようだった。携帯を耳に当てながら振り返り、おれの膝の上にさっきの地図を放り投げた。
「首都高に乗って東雲《しののめ》あたりで降りる。そこから先の道案内をしてくれや」
そういって正面を向き、電話でだれかと話しはじめた。
「おれだ。郎だよ……ああ、これからやりに行く。二、三時間後には全部片づいてるはずだと伝えてくれ。それから、ボーナス弾《はず》んでもらえると嬉《うれ》しいってな。それぐらいの働きはしてるだろう、おれたちはよ」
電話の相手は馬遠なのだろう。馬遠は郎志森たちがただ徐鋭を殺すだけだと思っている。割符のことはなにも知らないに違いない。おれは郎志森の言葉に耳を澄ませながら、さりげない素振りで地図を開いた。
地図に書きこまれた赤いボールペンは古いものと新しいものが入り混じっている。新宿区や渋谷区のページだけがまっさらだった。郎志森たちがこのふたつの区の近辺に土地鑑があるということだ。最近の書き込みと思《おぼ》しい赤インクが多いのは、やはり江東区のページだった。道順を調べるふうを装って、赤インクで囲まれた地域を調べた。錦糸町――徐鋭の経営する店が点在する地域が小さな丸で囲まれている。東陽町――徐鋭のマンションのある辺りにも赤い丸囲み。ご丁寧にも小文のマンションにも印が打ってある。
「全部終わったら、また連絡を入れる。よろしく頼むぜ」
郎志森の電話が終わった。おれは慌ててお台場の辺りを指で押さえたが、それは杞憂《きゆう》だった。郎志森は運転席の男と小声で話しはじめていた。
隣の男の目を盗んで、葛飾区のページを開いた。小岩駅の近くにも赤い丸囲みがあった。小文が立ち寄った徐鋭の店がある辺りだ。
郎志森の雇い主がだれであれ、その男はとんでもない情報網を有しているということになる。渡された地図は東京都内だけのものだが、おそらくこのエスティマか後ろをついてきているカローラのグラブボックスには千葉県の地図も入っていることだろう。そして、趙浩の実家がある周囲も真新しい赤インクで囲まれているに違いない。
思わず、ため息が漏れた。おれの知っているかぎり、これだけの情報を短時間で集めることができるのは――趙浩が錦糸町から実家に逃げていくだろうと予測し、それを郎志森に告げることができるのは――劉健一しかいなかった。劉健一と徐鋭は憎しみあっている。とするならば、劉健一が郎志森を雇って徐鋭を殺そうとするのは理解できる。わからないのは、なぜ、こんなまどろっこしいやり方をとっているのかということだ。直接、郎志森を送り込んで殺した方がよっぽど簡単だ。
それに、劉健一が裏で郎志森を操っているのなら、なぜそこにおれをわざわざ送り出したのか。
すべてが霧に包まれている。おれには見えないからくりが深い霧の中のどこかに隠されている。おれはそのからくりを解きほぐすための駒として劉健一に利用されている。いや、からくりを構成する駒のひとつとして利用されているのか。ふとした思いつきが確信へと変貌《へんぼう》していくのにそれほどの時間はかからなかった。
それでも、なぜ? なんのために? という疑問は消えない。劉健一はなにを考えているのだろう。あの真っ黒な瞳《ひとみ》でなにを見つめているのだろう。
喉の渇きを覚えて唇を舐めた。その拍子に、小文がじっとおれの横顔を見つめているのに気づいた。そうだ。劉健一のことなどどうでもいい。おれにとってなによりも大事なのは小文をこの窮地から救うこと。この薄汚れた世界から救い出すことだった。
「だいじょうぶか?」
おれは小声で訊いた。小文はうなずいただけで口は開かない。なにか思惑があるのはわかったが、以心伝心というわけにはいかなかった。徐鋭との電話で、なにかを伝えられたのだろう。小文のつぶらな瞳は、注意しろと訴えているように感じられた。
エスティマはすでに首都高を走っていた。車の流れは順調で、神田橋の出口があっという間に後方に遠ざかっていった。
携帯電話が鳴りはじめた。郎志森が首を傾げながら自分の身体を探った。
「兄ちゃん、あんたの電話だぜ」そういいながら、おれの携帯を開き、液晶を覗きこんだ。「徐鋭からじゃねえな……それにあのしつこい電話でもねえ。出るぜ」
おれの返事を待つつもりもなく、郎志森は携帯を自分の耳に押し当てた。
「悪いが、この電話の主はしばらく出られねえんだ。あとでかけ直してくれ――おまえ、だれだ?」
間延びしていた郎志森の声が電気を帯びたように緊張した。その緊張は瞬く間に車内に広がっていった。
「どうしておれの名前を知ってるんだ? それより、なんだってあいつの電話におれが出るとわかったんだ?」
郎志森は立て続けに質問を放った。それで、電話の相手が劉健一であることがわかった。脳よりも先に身体が反応した。拳《こぶし》をきつく握りしめ、背筋を強張《こわば》らせてシートから身を乗り出していく。郎志森と劉健一の会話の詳細をなんとしてでも知りたかった。
「なんだって? ちょっと待てよ、おい。おまえがなんだって……マジかよ?」
郎志森はルームミラーに視線を走らせた。おれを見たのか、小文を見たのか、鏡越しではなにも断定できない。
「どういうことだ、それはよ? ふざけたことぬかしてるとただじゃおかねえぞ……」
左の肘《ひじ》の辺りに違和感を感じた。小文がおれの肘を右手で掴《つか》んでいた。まるで岩壁をよじ登るロッククライマーが、あるかないかの突起を見つけて必死で指をかけているような掴み方だった。指先だけに力をこめておれの肘に縋《すが》りつこうとしている。郎志森の声に含まれる緊張が、小文の不安を煽《あお》っている。だいじょうぶだ、なにも気にすることはない、おまえのことはおれが命に代えてでも守る――声には出さずに、小文の手に自分の手を重ねて優しく握った。それでも小文の指先に込められた力は変わることなくおれの肘を圧迫し続けた。
「だから待てって。どうしておまえがそんなことまで知ってるんだよ?」
ルームミラーに映る郎志森の顔が歪んでいる。得体の知れないものと向き合うことになった人間の恐怖が滲《にじ》んでいる。郎志森を使っているのが劉健一だとしても、郎志森自身はそのことを知らないということなのだろう。すべては馬遠を通してやり取りされているという言葉は真実なのだ。
「あ、ああ。わかった。そこまでいわれちゃ、信じるしかねえ。おまえの話に乗ってみるぜ……なに? そりゃだめだ。あいつとおまえの関係もわからねえのに、話なんかさせられるかよ」
劉健一はおれを電話に出せといっているらしかった。訊きたいことは山ほどある。だが、この状況ではそれもかなわないだろう。劉健一の言葉を黙って聞くしかないのだ。
「おまえのいったことが全部本当で、ことが旨く運んだら、全部終わった後でゆっくり話させてやるよ。それまで我慢するんだな」
吐き捨てるようにいって、郎志森は電話を切った。携帯が再び鳴りはじめることはなかった。
「だれだ、こいつは?」
郎志森は背もたれから身を乗り出しておれに詰め寄った。
「劉健一という男だ。有名な情報屋だよ。あんたも名前ぐらいは聞いたことがあるだろう?」
「劉健一……」
郎志森は舌先で転がすように、劉健一の名前を発音した。左肘の圧迫感が痛みに変わりはじめていた。小文は指先の血の気がなくなるほど強くおれの肘を掴んでいる。
「なるほど、聞き覚えはあるが、情報屋ってことじゃねえ。伝説の悪鬼だ。ふざけた話だと思ってたが、本当にいるんだな」
「ああ。その伝説の悪鬼だよ。今はしがない情報屋をやってるんだ」
劉健一の思惑がわからず、おれはとりあえず方便でこの場を凌《しの》ごうとした。
「しがない? なんでも知ってるような口ぶりだったぜ。しがないどころの話じゃねえ――おい、箱崎の方には行くな。湾岸線通ってお台場で降りるんだ」
郎志森は最後の方の言葉を運転手に向けた。江戸橋のジャンクションが目の前に迫っていた。運転手は慌てて隣の車線に割り込んだ。後ろのカローラも急な動きでそれに続く。道をふさがれた車がクラクションを鳴らしたが、だれも気にする素振りは見せない。
「どうして道を変えるんだ? 罠《わな》がしかけられてるとでもいうのか?」
「ただの用心だよ」
郎志森はあっさりといって、座席に座り直した。筋肉が盛りあがって血管が浮き出た首が、郎志森の言葉を裏切っていた。
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* * *
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エスティマはお台場で首都高を降りた。おれは地図を片手に運転手に指示を出した。指示というほどのこともない。最初の交差点を右折し、フジテレビの手前を左折して直進すれば、やがて目的地にたどり着く。
郎志森がやたらとルームミラーで背後を気にしていた。カローラはしっかり後をついてきている。気にしているのはカローラの後ろだ。おれたちを尾行しているような気配の車はどこにもなかった。郎志森は見えない影に怯《おび》えている。劉健一に告げられた言葉が郎志森をがんじがらめにしている。
フジテレビの手前を左折し、しばらく進むと道路はゆりかもめの高架の下に入った。左手に公園が見えてくる。看板には青海埠頭公園と書かれていた。目的の場所はすぐ先のはずだ。
「あの信号を左折しろ」
郎志森がいった。交差点の信号の下にはテレコムセンター前と書かれた標識がぶら下がっていた。左折した先は巨大な倉庫が並ぶ一画で、点在する倉庫の向こうに海と有明《ありあけ》埠頭が広がっていた。海に浮かぶ作業船は巨大なオブジェとして背景に溶けこみ、ときおり走り去っていくトラックのヘッドライト以外に動くものはなにもなかった。
「そこの細い道を入っていけ。適当なところを見つけたら車を停めるんだ」
運転手に指示を飛ばしながら、郎志森は相変わらず後ろを気にしていた。後をついてくるのはカローラだけだった。
エスティマがスピードを落とし、ふたつの巨大な倉庫で挟まれた路上でとまった。エスティマとカローラのエンジンが止まると、おれたちの息づかい以外に聞こえてくるものはなくなった。波の音すら聞こえない。街灯も町中とは比べられないほどの数しかなく、薄暗い闇に覆われて、おれたちは郎志森の言葉を待った。
「よし。怪しいところはねえみてえだな。みんな、車を降りろ」
郎志森の言葉におれと小文を含めた全員が従った。カローラにも言葉は通じていたというように、男たちが降りてくる。だれもが無言だった。いや、今だけではない。早稲田のアパートにいるときから、郎志森を除いた男たちは無駄口というものを一切叩かなかった。ただ黙々と郎志森の指示に従うだけなのだ。訓練された兵隊というより、飼い主に盲従する猟犬という言葉が男たちには似合っていた。郎志森のいうことに間違いはない。郎志森に従っていれば、食いっぱぐれることはない。だれもが頑《かたく》なにそう信じ込んでいる。軍隊時代からそうだったのか、あるいは日本に来てからそうなったのか。いずれにせよ、郎志森は王様だった。だからこそ、あの自信に満ち溢《あふ》れた態度も貫けていたのだ。だが、劉健一からの電話以降、その自信も揺らいでいるようにおれの目には映っていた。
小文がおれの腕にしがみついてきた。小文の恐怖が直に伝わってくる。真の闇とは違う黒さがおれたちを覆っている。薄暗く侘《わ》びしい空気が恐怖を増殖させるのだ。いっそのこと、なにも見えない方がましなのかもしれない。
「おい、こいつらを見張ってろ」
エスティマを運転していた男に郎志森は命じて、おれたちから少し離れた場所に移動した。後に従おうとした男たちを視線で制し、もう一度口を開く。
「ショットガンはまだ必要ねえ。トランクにしまっておけ。そんな目立つものを抱えてこの辺りをうろつくわけにはいかねえからな」
韓豪を殺したふたりが顔を見合わせた。
「早くしろ。時間はそんなにねえんだからな」
郎志森が追い打ちをかけた。ふたりはカローラのトランクにショットガンをしまいこんで、郎志森の近くに駆け寄った。
「よし。おまえら、よく聞けよ。これからの人生、なんの苦労もなく生きていけるかどうかの瀬戸際だ。クソみてえな上官どもにぺこぺこ頭を下げながら、それでも歯を食いしばって生きてきたご褒美がもらえるんだからな。しくじらねえようにしろよ。もう、あんなところに戻るのはおまえらもごめんだろうが」
男たちは一斉にうなずいた。
「この先に――」郎志森は腕を伸ばして埠頭の先を指差した。「徐鋭って野郎が一千万元の金を持ってやって来ることになってる。一千万だ。すんなりもらえるとは思うな。おれたちみてえな田舎もんは、身体を張らねえと美味《おい》しい思いはできねえようになってるんだ。いいな?」
男たちはまたうなずいた。おれと小文を見張っている男も、つられるようにうなずいている。
「まず、手分けしてなにか罠がしかけられてないかどうか確かめる。待ち伏せされそうなところは、徹底的に調べるんだ。なにもなけりゃ、今度は用心のために、こっちが罠をしかける。徐鋭って野郎がすんなり金を渡せばそれでいいし、そうでなけりゃ――」
郎志森は腰に差していた銃を抜き、引き金を引く真似をした。男たちの間に一瞬、緊張が走ったが、郎志森がにやけた笑いを浮かべると、それも闇に溶けこんでいった。
「こいつにものをいわせるだけだ。いつもと同じだよ。腹をくくってかからなけりゃならねえが、だからって、緊張することはねえ。おまえらなら、できる。そうだろう?」
男たちの目に精気が溢れてくるのが遠目からでもよくわかった。郎志森はよき下士官だっただろう。それだけは確信が持てた。
郎志森は拳銃の先端に筒状のものを取り付けていた。見るのは初めてだが、消音器なのだろう。
「あんたたちは特殊部隊にいたのか?」
背後でおれたちに銃を突きつけている男に、おれは小声で訊いた。
「黙っていろ」
男の鋭い声に、冷たい金属音が重なった。郎志森が銃のスライドを引いた音だ。男たちは緊張することもなかった。郎志森の鼓舞に勢いづいている。気分はすでに戦闘モードに入っているのだろう。
「そういや、仕事をはじめる前にすることがあったんだ。今、思い出した」
郎志森はそういって、銃を握ったまま腕を水平に伸ばした。手首の内側の筋がかすかに動いたと思った瞬間、消音器から四方に炎が噴き出て、エスティマの車内でおれの横に座っていた男が真後ろに吹き飛んだ。くぐもった音がしただけで、実際にこの目で見ていてもそれが銃声だとは思えなかった。
小文が自分の口を自分で塞《ふさ》いだ。漏れかけた悲鳴が潰《つぶ》れ、奇妙な音となっておれの鼓膜を顫わせた。男たちが身構えるより先に、郎志森は銃口をもうひとりの男――韓豪殺しの残った片割れに向けた。
「大哥《ダーゴー》!」
おれの背後で甲高い声が発せられた。
「黙ってろ!」
郎志森はぴしゃりといった。男たちは凍りついたように動くのをやめた。おれは小文の肩に腕を回し、おれの方に引き寄せた。小文の身体は細かく顫えていた。
「このふたりは裏切り者だ」
郎志森は平板な声で告げた。銃を向けられた男が激しく首を振る。
「おれたちを背後から襲うつもりだったんだろう? 徐鋭からいくらもらうことになってたんだ? いや、それより、いつから犬に成り果てやがった?」
「大哥、聞いてくれ。おれは――」
「そんな時間はねえんだよ。おかしいとは思ってたんだ。てめえらがドジを踏まなけりゃ、あいつのマンションの前で仕事は終わってたはずなんだからな」
「大哥――」
「黙れ」
郎志森は男に向かってゆっくり足を踏み出しながら、隣の男にうなずいた。指示された男は首を振り続けている男の背後に回って腕をねじ上げた。
「どうやっておれたちをはめる手筈になってるんだ?」
銃口を額に押しつけられて、男は首を振るのをやめた。
「聞いてくれ、大哥。おれたちはただ――」
「楽に殺してやる。だから、素直に喋《しゃべ》れ」
「大哥……」
「金が欲しかったんだよな。わかるぜ、おまえの気持ちは。だがな、国を出たときのおれたちの誓いを忘れたってのはいただけねえ。生きるも死ぬも一緒だっていっただろう。おまえらがそういうから、おれは面倒を見てやることにしたんだぞ、阿飛《アーフェイ》」
郎志森は初めて男の名前を口にした。それは郎志森の小隊から正式に外されたということを意味するのだろう。互いの名を口にしないことが暗黙の了解なのだ。男――阿飛はがっくりとうなだれた。
「どういう手筈になってるんだ?」
郎志森は静かに訊いた。その声は厳かで、慈愛すら感じられた。
「と、取り引きの最中におれたちが大哥たちを後ろから撃つことになってた」
「どうやって連絡を取ったんだ?」
「ミニバンを返しにいってる間に……」
「なるほどな。いつからだ?」
阿飛が顔をあげた。
「いつから徐鋭の野郎とつるんでたんだ? っていうかよ、どうやって徐鋭と知り合ったんだ? そんな暇も時間も、おめえらにはなかっただろうが」
「それが……韓豪って野郎をばらした後、おれたちふたりで、しばらく隠れてたじゃないですか。そこに、あいつらが来たんです」
「来たっていったって、おまえらが隠れてたのは吉祥寺のアパートだったろうが。あそこはおれたちと馬遠のやつしか知らねえは――」
はずだ、という言葉を呑みこんで、郎志森は宙を睨《にら》んだ。困惑がその表情に浮かんでいる。徐鋭に情報をリークしたのは馬遠以外に考えられない。だが、「やばい」雇い主を裏切ってまで馬遠がそうした理由が見つからないのだろう。
小文はまだおれの腕にしがみついたままだった。身体の顫えはもう止まっていた。口をきつく結び、男たちのやり取りに見入っている。
「いくらでおれたちを売ったんだ?」
「大哥――」
「いくらでおまえの兄弟を売ったのかって訊いてるんだよ、阿飛」
「ご、五百万」
「人民元か?」
阿飛は首を振った。
「日本円かよ。たったそれだけの金で――」
「しょうがねえだろう、大哥。だれも知らねえはずの隠れ家に、あいつらどやどやとやって来たんだ。いうことを聞かねえと殺される。大哥だってあの場にいれば――」
また、火花が散った。阿飛の腕をねじ上げていた男が小さな声を発して横に飛び退いた。阿飛の身体が崩れ落ち、アスファルトの上に横たわる。小文の身体が強張るのを感じた。
「おい、兄ちゃん、ちょっと手伝ってくれや。人手が足りなくなっちまった」
郎志森はおれにいった。いつもと同じ快活な声だったが、精気はなかった。小文を見張っている男を別にして、おれたちは手分けして阿飛ともうひとりの死体をエスティマに乗せた。死体の周囲には血と脳漿《のうしょう》の匂いが濃く漂っていて噎《む》せてしまいそうなほどだった。徐々に冷えていく肉体は虚無を現してあまりある。死と生をわかつものの脆弱《ぜいじゃく》さがおれを捉《とら》えて奈落《ならく》へ連れ込もうとする。
小文を見た。小文は身を固くして立っている。その存在自体の危うさがおれと現実を繋ぎとめた。小文を救わなければならない。おれはそのために生きてここにいる。
小文と見張りの男をその場に残して、エスティマで岸壁に移動し、死体を海に捨てた。
「こんなのでいいのか? 死体はすぐに発見されるぞ」
頭に浮かんだ疑問を、おれはそのまま口にした。
「かまうことはねえ。明日の夜にはおれたちは機上の人だ。大陸のど田舎まで日本の警察が追っかけてくるか?」
首を振るほかはなかった。
「なあ、兄ちゃん。おまえは頭の巡りが良さそうだから訊くんだがな、馬遠のおやじがやばい雇い主を裏切って、どんなメリットがあると思う?」
「わからん」おれは率直にいった。「わからないことが多すぎて、なにがわからないのかもわからないぐらいだ」
「高尚な意見だな」郎志森は肩をすくめた。「嫌な匂いがぷんぷんしやがる。かといって、ここで引き返すわけにもいかねえ」
「今夜の取り引きは中止にした方がいいんじゃないのか? 主導権はあんたにあるんだ。やり直しはいくらでも利くだろう」
「いや」郎志森はきっぱりと首を振った。「おれたちはずっと五人でやって来たんだ。除隊してからこっち、ずっとな。てめえでいうのもなんだが、本当の兄弟以上に固い絆《きずな》で結ばれてた。それが、今じゃふたりがいなくなった。なんでもそうだが、物事が崩壊するときってのは加速がつくんだ。明日、明後日と引き延ばしてると、疑心暗鬼が増して、まただれかがおれを出し抜こうとしはじめる」
郎志森の焦りは手に取るようにわかった。韓豪が殺された後の仲間たちのことを思う。加速がつくという生やさしいものではなかった。韓豪のグループは、ボスを失ってあっという間に崩壊したのだ。
「ぐちゃぐちゃ考えるのはもうやめだ」郎志森は自分にいい聞かせるようにいった。「後は行勤あるのみ。兵隊にはそれが相応しいってもんだぜ。そう思うだろう、兄ちゃん?」
「あんたたちが死ぬのはおれの知ったことじゃない」おれは努めて平静な声を出した。「おれの命もどうでもいい。ただ、彼女だけは生かしてやってくれ」
「そんなにあの女が大事か? 他の男のものなんだろう?」
「自分に誓ったんだ。なにがあっても彼女を守る。だから、無謀だろうとあんたのところへ押しかけた」
「長い話がありそうだな。だが、あの女を生かすか殺すかは、徐鋭の出方次第だ。見ず知らずの他人のために、こっちの命を危険にさらすわけにはいかねえ。というより、こっちが楽になるように積極的に利用させてもらう腹づもりなんだがな」
郎志森は歯を剥いて笑った。情の欠片《かけら》も感じられない凄みのある笑みだった。
「どこもかしこも戦場と一緒だよ、兄ちゃん。てめえの尻《しり》はてめえで拭《ふ》かないと、この世におさらばすることになってるのさ」
そういいながら、郎志森はエスティマのドアを閉めた。車内にはまだ血の匂いが色濃く漂っていた。郎志森は鼻をひくつかせ、また凄みのある笑みを浮かべた。
「この匂いを嗅《か》ぐと、獰猛な気分になる。兄ちゃんはどうだ?」
おれは答えなかった。血の匂いを嗅いでいると、気分が滅入っていくだけだった。
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エスティマはもとの場所でカローラと合流した。小文がエスティマに押し込まれ、小文を見張っていた男がカローラを運転してエスティマの後をついてくる。右手に巨大な倉庫が見え、前方にはトンネルの入口が待ち構えている。エスティマは側道に逸れ、埠頭の先端にある公園の周囲をゆっくり走った。辺りは暗く静まりかえり、待ち伏せが可能な場所は皆無だった。
「取り引きの場所はどこなんだ?」
エスティマが停止せずに公園の周囲の道路をもう一度走りはじめたとき、おれは訊いた。
「この先だよ」
郎志森はエスティマの右手を指差した。公園がふたつに分断され、中央を太い道路が走っている。公園の終わりの辺りで、道は左右に分かれる。その先は暗い海が広がるだけだ。
「あと三十分ってところか。連中は、阿飛たちの働きに期待して、ゆっくり現れようって魂胆だろう。冗談じゃねえぜ」
そういって、郎志森は口を閉じた。おれもそれ以上口を開きたい気分ではなかった。沈黙に包まれたままエスティマは静かに走り、やがて、取り引きの場所で停止した。
「みんな、車を降りろ。ショットガンの用意も忘れるな」
郎志森の号令のもと、おれたちは車を降りた。海から吹きつけてくる湿った風が体温を奪っていく。
「やつらは向こうから来るんだろう」郎志森は公園を分断する道路を睨みつけた。「兄ちゃん、あんたたちにはここに立っててもらう。変なことは考えるなよ。真後ろに、ショットガンが控えてるからな」
おれと小文は道路の端に、海を背にして立たされた。おれたちのすぐ後ろにはエスティマを運転していた男がショットガンを構えて立っている。男がショットガンの銃身をスライドさせた。間近で聞こえる禍々《まがまが》しい金属音に、おれと小文は身を竦《すく》ませた。
「生き残れるかどうかは兄ちゃんたちの運次第だぜ。おれたちが請け負ったのは徐鋭を殺すことだけだからな」
郎志森は公園の方を睨んだままでいった。いつの間にか、右手には拳銃《けんじゅう》が握られている。郎志森は消音器を外そうとしていた。もう、音を気にする必要はないということなのだろう。
「どうするの?」
小文が小声で囁《ささや》いた。日本語だった。強い海風が、小文の声を前方に押し流す。後ろの男は気づいていないようだった。
「わからん。徐鋭は電話でなんといってた?」
「さっき殺された人たちのことよ」
小文は今度は北京語で答えた。風が一瞬、やんだ。おれたちは何事もなかったかのように口をつぐみ、お互いの手を握りあった。小文の手は氷のように冷たい。おれの手は燃えるように熱かった。
「日本ではもっと普通に暮らしてるんだと思ってたわ」
風が再び吹きはじめたわけでもないのに、小文はまた口を開いた。背後の男がわざとらしくショットガンを揺らすのがわかった。
「死ぬかもしれないのよ。話ぐらいさせて」
小文は怯まなかった。もともと芯《しん》の強い娘ではあったのだ。背後の男もそれを認めたのか、それ以上威嚇してくることはなかった。
「普通にって、おれがか?」
「そうよ。普通の中国人と違って、残留孤児二世の書類を持って日本に行ったんじゃない。こんな世界に首を突っこまなくても、他の日本人と同じようにできたんじゃない?」
「昔はそうしてた。ところが、勤めていた会社が倒産したんだ。日本は今以上に不景気だった。新しい職を探すこともできなくて、結局、金を稼ぐためには選《え》り好みはしていられなくなった」
「そう。阿基もいろいろ苦労していたってわけね……わたしのことは、ずっと覚えていた?」
「ああ」
咄嗟《とっさ》に嘘をつき、そんな自分を激しく呪った。おれはすべてを忘却の彼方《かなた》に置き去りにしていた。幾重にも糊塗《こと》した経歴に執着するあまり、本当の自分自身さえ偽って生きてきた。その結果が今の状況だ。
「わたしとの約束も?」
「ああ。約束を守れなかったことをずっと悔いて生きてきたよ。迎えに行きたくても、そんな情況じゃなかったんだ。自分ひとりで生きていくのがやっとで……」どれだけ激しく自分を呪っても、まやかしの言葉をとめることはできなかった。「こんなのはおためごかしでしかないだろうが、約束を守らなかった代わりに、どんなことがあってもおまえを守る」
もしものときはおれがおまえの盾になる――そう付け加えたかったが、それには後ろの男が邪魔だった。小文の手を握る自分の手に静かに力をこめ、おれは自分の意志を伝えた。
「昔話はそこまでだ」
郎志森が凛《りん》とした声で告げた。前方に小さな光点が見える。車のヘッドライトに違いない。光点は徐々に大きさを増し、それにつれて排気量の大きなエンジン音が風に逆らって聞こえてくるようになった。
男たちの雰囲気が一変した。それまでも、緊張した空気を漂わせてはいた。それが、今では静電気を思わせるぴりぴりした空気を発散させている。周囲の大気までそれに同化しているように思えた。気圧が増しておれの肩にずっしりとのしかかってくるような錯覚さえ覚えた。
近づいてくる車はベンツのゲレンデバーゲンだった。ヘッドライトの向こうに車内の人影が見える。四人は乗っていそうだった。
郎志森が銃の撃鉄を起こした。カローラを運転していた男がショットガンの引き金に指をかけた。振り返らなくても背後の男が同じことをしているのがわかる。
ゲレンデバーゲンは速度を落としながら近づいてきて、郎志森の手前、五メートルほどのところで停止した。ヘッドライトが消え、四つのドアが同時に開く。スーツ姿の男が四人、路上に降り立った。
「時間通りだな。徐先生はどちらかな?」
郎志森が沈黙を破った。徐鋭は三人の男に囲まれるようにして立っている。右手にはボストンバッグをぶら下げていた。だれが徐鋭なのかはわかっていても、そうした口の利き方をとめることはできないらしい。
「わたしだ」徐鋭がいった。「約束のものは?」
「ここだよ」
郎志森は上着のポケットを叩いた。
「実物を見せてくれ」
「金が先だ」
郎志森はにやついていた。郎志森の手下たちも、徐鋭の護衛たちも顔を引きつらせている中で、郎志森の態度は主導権を握るのにうまく作用しているように見えた。だが、徐鋭だけは郎志森の呪縛《じゅばく》からは無縁だった。
「金はこの中に入っている」徐鋭はボストンバッグを掲げた。「鞄《かばん》を開けるから、撃たないでくれよ」
「ああ。さっさとやってくれ。時間がかかると、思わず引き金を引いちまうかもしれねえ」
徐鋭の護衛たちもそれぞれの手に銃を握っていた。見知った顔はひとりもいない。マンション前で襲撃されたのに懲りて、腕利きをつれてきたのかもしれない。
徐鋭は足許にバッグを置き、早すぎもせず遅すぎもしない仕種《しぐさ》でジッパーを開けた。郎志森に中が見えるようにバッグの底を持って角度をつけた。確かに、帯封をされた一万円札の束が見えた。
「それに詰まってるのが全部本物の金だっていう保証はあるのか?」
「君が持ってるものはわたしにとって本当に大切なものなんだ。騙《だま》したりはしないよ」
「おい」郎志森は顎をしゃくって隣の男に命じた。「中を確かめるだけだ。無理矢理鞄を取ろうなんてことはさせねえから、安心しな。こっちも命は惜しい」
郎志森の子分がショットガンを斜めに構えたままじりじりと歩み寄っていく。徐鋭の護衛たちも、銃を握った手を心持ちあげていた。郎志森の子分がバッグの中に手を突っこみ、札束をかき分けた。
「全部、本物みたいです」
「よし、こっちに戻ってこい」
男は徐鋭たちに顔を向けたまま、後ずさりしながら戻ってきた。その間に郎志森は上着のポケットから割符を取りだした。
「よく見えるか?」
郎志森の声に、徐鋭は重々しくうなずいた。
「お互いにものを持ってきたってことはこれで確認できたと……さて、この後はどうする?」
「彼女に割符を持たせてくれ。わたしがこの鞄を持って、君が彼女を連れて、お互いに歩み寄ろう」
「いいだろう。念を押すまでもないとは思うが――」
「下手な小細工はなし、だろう?」
「そういうことだ」
郎志森は振り返り、小文を手招きした。小文はおれの顔を見上げた。手を握りかえしてやる――大丈夫だ、なにがあってもおれがおまえを守る。小文は小さくうなずき、唇を固く結んだまま、おれのそばを離れた。
相変わらず海からの風が強い。寒さに顫えてもいいほどだったが、おれの身体は火照っていた。首筋と掌に大量の発汗がある。この取り引きがすんなり終わるはずがないという確信に、心臓が踊るように脈打っている。
自分の横に来た小文の手に、郎志森は割符を握らせた。右手に握っていた銃を子分に手渡し、これ見よがしに両手をかざした。
「おれは丸腰だ。そっちも同じように頼むぜ」
徐鋭の顔つきが厳しくなった。蒼白《そうはく》というよりは、頬に朱が差したように見える。スーツの裾《すそ》を引っ張り、意を決したように足を踏み出した。阿飛ともうひとりの男がいないことに驚愕《きょうがく》と失望を感じていたとしても、表情にはなにも浮かんでいなかった。
徐鋭とほとんど同時に、郎志森も小文の背中を押しながら足を踏み出した。波と風の音、それに小文のパンプスと徐鋭の革靴の足音が響く。郎志森はゴム底の靴を履いていた。おれの後ろにいた男がショットガンの銃身でおれを脇に押しやり、前に出た。郎志森の横にいた男の背中の筋肉が大きく盛りあがっていた。徐鋭の護衛たちも同じだ。両陣営の間にぴんと張りつめた緊張が大気を歪《ゆが》ませている。それは圧縮と弛緩を繰り返しながら、徐々にその間隔を狭め、崩壊の瞬間を目指して確実に高みへとのぼりつめている。
郎志森と徐鋭の距離が片手を伸ばせば届きそうな間合いになった。郎志森が小文の背中を強く押した。不意をつかれた小文はバランスを崩して徐鋭の方に倒れ込んでいった。郎志森の右腕が鞭《むち》のようにしなった。上着の裾が捲《めく》れあがり、腰に差してあったおれの銃が鈍い光を放った。郎志森の右手が銃把を握り、滑らかに銃を引き抜いていく。
徐鋭も徐鋭の護衛たちも虚をつかれた。それほど郎志森の動きは唐突で、計算し尽くされていた。町中でいきがっている男たちと、よく訓練された兵隊の差はあまりにも明瞭《めいりょう》だ。
「小文!」
叫びながら足を前に踏み出した。徐鋭と小文の身体は重なっている。郎志森が銃を撃てば、弾丸は間違いなく小文の身体を貫いてしまう。恐怖と焦りで心臓が口から飛び出てしまいそうだった。
郎志森の銃口から炎が噴き出るより先に、轟音《ごうおん》が空気を揺らした。郎志森の身体が見えない巨人に蹴飛《けと》ばされたように真横に弾け飛んだ。郎志森の横にいた子分のショットガンの銃口から煙があがっていた。
なにが起こったのかを考えている暇はなかった。目の前にいた男の腰にタックルをぶちかまし、一緒にアスファルトの上を転げ回った。
「待ってくれ。おれは――」
だれかが叫んだ。それをいくつもの銃声がかき消した。無我夢中で拳を男の身体に叩き込む。ショットガンが男から離れて転がった。それを掴んで立ち上がった。
徐鋭の護衛たちと、郎志森を殺した男が撃ちあっていた。いくつもの甲高い銃声とショットガンの重い銃声が間断なく続いて耳鳴りがする。徐鋭の護衛たちはゲレンデバーゲンを盾にしていた。郎志森を殺した男はカローラの陰に隠れていた。銃弾が飛び交うど真ん中で、徐鋭と小文が頭を抱えてうずくまっている。
その構図が、おれの怒りに火をつけた。息苦しいほどの怒りが理性を吹き飛ばす。小文を救わなければ。小文を殺そうとしている連中に思い知らせてやらなければ。
アスファルトに転がったままだった男がおれの足にしがみついてきた。その顔に、ショットガンの銃床を叩きつけた。嫌な手触りが伝わってくる。男の手から力が抜け、おれの足は自由になった。ショットガンを腰だめに構え、引き金を引いた。予期していた以上の反動に尻餅《しりもち》をつきそうになった。徐鋭の護衛たちの銃声が一瞬、やんだ。郎志森の子分の絶叫がその間隙を突いた。
「待て。落ち着いておれの話を聞いてくれ!」
郎志森に銃弾を撃ち込んだのは、咄嗟の思いつきだったのだろう。そのことを訴えようとしているのだ。男に時間を与えるつもりは、おれにはなかった。ショットガンを立て続けに二発、護衛たちに向けてぶっ放す。銃弾の行方など知ったことではない。その二発で、護衛たちのさらなる反撃がはじまった。郎志森の子分が絶望的な視線でおれを睨んだが、それも一瞬のことで、すぐに反撃のためにショットガンを構え、撃ち返しはじめた。
おれは腰を屈めたままエスティマの運転席に這い上がった。キーはささったままだった。エンジンをかけ、アクセルを踏んだ。弾丸が車体に食い込む鈍い音が立て続けに起こった。フロントウィンドウにひびが入り、ガラスが真っ白になった。ショットガンの銃身を叩きつけ、ガラスを薙《な》ぎ払った。頭を低くしたままステアリングを握り、飛び交う弾丸を遮るようにして小文と徐鋭の真横にエスティマを止めた。
「乗れ! 早く乗るんだ!!」
小文に声をかけただけだった。だが、真っ先に乗りこんできたのは徐鋭だった。貴様はどうでもいい――言葉を呑みこんで、小文が乗ってくるのを待った。小文の華奢《きゃしゃ》な身体が車体に収まった瞬間、強くアクセルを踏み込んだ。タイヤがアスファルトに擦れて断末魔の獣のような音を発した。ゴムが焦げる匂いが車内に充満する。徐鋭の護衛たちはどうしていいかわからず戸惑っている。郎志森の子分のショットガンがエスティマの後をしつこく追いかけてきた。だが、それも数秒のことで、バックミラーに映る連中の姿は見る見る小さくなって、やがて消えた。
思わずため息が漏れた。なんとか急場は凌いだが、だからといって安心するわけにもいかない。弾痕《だんこん》だらけのエスティマでいつまでも走り続けているわけにはいかない。どこかで車を捨てなければならない。ゆりかもめに乗るのはいい考えだとは思えなかった。あまりにも本数が少なく、移動範囲が限定されすぎている。いくらひとけのない場所だったとはいえ、あれだけの銃声が飛び交ったのだ。警察が動きだしていると考える方が賢明だ。できることなら、新木場まで移動して電車に乗り換えたかった。
「いや、助かったよ。武先生」
徐鋭の声がした。ルームミラーに映る徐鋭はスーツの汚れを払っていた。
「まだ助かったと決まったわけじゃない」
「いや、助かったも同然さ。あんたに金を払ったのは間違いじゃなかった。ずっと裏切られたと思っていたんだが……電話で援軍を呼ぶよ。二、三十分もあればやって来るだろう。いつまでもこんな車に乗っているわけにもいかないしな。どこか適当な場所で車を停めて、待とうじゃないか」
徐鋭は落ち着き払っていた。あれだけの銃弾も徐鋭の理性を吹き飛ばすだけの力を持ってはいなかったということだ。劉健一に徐鋭――どちらも空恐ろしい。
「小慈、あれを――」
徐鋭は小文に割符を渡せと迫った。
「なんなの、あれは? あんなもののせいで、わたし、とんでもない目に遭ったのよ。わけを話して」
「今はそんな場合じゃない。あとで説明してやるから、とりあえずそれを渡すんだ」
「いやよ」
小文は徐鋭から身体を遠ざけた。
「小慈――」
顔をしかめる徐鋭の背後にヘッドライトが映りこんだ。違和感を感じたのは光量があまりにも少ないからだ。すぐに、ショットガンで片方のヘッドライトを破壊されたゲレンデバーゲンが追ってきているのだということに気づいた。
「内輪|揉《も》めは後にしてくれ」
おれはさらにアクセルを踏み込んだ。人目の多い通りはなるべく避けたかった。信号は赤だったが、青海一丁目と表示された交差点を強引に右折した。徐鋭が首を捻《ひね》り背後から追ってくるゲレンデバーゲンを確認した。
「あれはわたしの手下たちだ。慌てて逃げる必要はないよ」
「あんたにはそう思えても、こっちにはその必要があるんだ」
「なにをいってるんだ、君は――」
右手で握ったままでいたショットガンの銃口を、肩越しに後部座席に向けた。狙いをつけるというわけにはいかないが、引き金を引くことはできる。もっとも、その場合は小文に銃弾が当たることを覚悟しなければならない。
「なんの真似だ?」
「見ればわかるだろう。おれはあんたを助けようとしたわけじゃない。あんたの子分につきまとわれるのは迷惑だ」
「劉健一に誑《たぶら》かされたのか?」
「あんたも劉健一もクソ食らえだ」
ゲレンデバーゲンは相変わらずこっちの後を追いかけてくる。排気量には差があるはずなのに、距離はそれほど縮まってこない。ショットガンの銃撃でどこかが壊れているのかもしれない。
「頭を冷やした方がいい。こんな状況で、どこへ行こうというんだ? わたしのコネを使えば、すぐに安全なところに移動できる」
「あんたにとっては安全な場所なんだろうが、おれと彼女にはそうじゃない」
「おい――」
「いいからしばらく口を閉じてろ。小文、そいつはどこかに銃を持ってるはずだ」
エスティマを操作しながらショットガンを徐鋭に向け続けているのは苦痛だった。少しでも隙を見せれば、徐鋭はショットガンを奪おうとするだろう。ゲレンデバーゲンとの距離は相変わらず狭まっても広がってもいない。
小文が徐鋭の腰の辺りをまさぐって、拳銃を抜き出した。おれが手に入れた黒星とは違う、高級感と重みが漂う拳銃だった。
「使い方はわかるか?」
ルームミラーの中で小文がうなずき、銃をスライドさせた。弾丸が薬室に送り込まれ、撃鉄が起きあがった銃を徐鋭に向ける。
「こんなことをして――」
「阿基は口を閉じてろといったのよ」
小文はぴしゃりといった。反論しても無駄だということは明らかな口調だった。徐鋭は不満を露《あら》わにしながら口を閉じた。
右前方にビッグサイトが見えている。道は真っ直ぐなままだ。対向車の姿はない。おれはショットガンを左手に持ち替え、窓の外に突き出した。バックミラーを見ながら引き金を引いた。ステアリングを握った右腕にショットガンの反動を制御しきれなかった左腕がぶつかった。エスティマが蛇行する。なんとか態勢を立て直し、バックミラーを覗いた。ゲレンデバーゲンは何事もなかったかのように走り続けている。向こうからの反撃はない。徐鋭を傷つけるかもしれない博打《ばくち》に打って出ることはできないのだろう。
「くそっ」
舌打ちしながらショットガンを引き寄せ、股《また》の間に挟んでポンプ状の作動部をスライドさせた。煙を上げた空薬莢《からやっきょう》が床に転がり、新たな弾丸が装填《そうてん》される。何発装填されているのかはわからない。ただ、弾丸がなくなるまで撃ち続けるつもりだった。
フェリーの埠頭が右手に迫っていた。ビッグサイトまでの距離も縮まっている。ビッグサイトの手前で道は三方に分かれている。そこに辿り着く前にかたをつけたかった。もう一度ショットガンを窓の外に突き出し、今度は慎重に狙いをつけた。銃床を握る左手に力をこめ、ゆっくり引き金をおろしていく。抵抗がなくなったと思った瞬間、銃身が跳ね上がり、低く重い銃声がおれの耳を打った。バックミラーに映るゲレンデバーゲンが右側に傾いた。次の瞬間、ゲレンデバーゲンはタイヤのグリップを失って対向車線をはみ出し、耳に障る音を立てながら横転した。車体とアスファルトが擦れて火花が散っている。
「よし」
ショットガンを助手席に放り投げ、両手でステアリングを握った。交差点を直進し、緩やかなS字を描く道を走り抜けた。橋を越えてもそのまま走り続け、夢の島公園の駐車場にエスティマを乗り入れた。エンジンを切って、グラブボックスを開けた。車検証や道路地図と一緒に鍵がひとつ、転がっている。早稲田のマンションの鍵だ。郎志森がグラブボックスに放り込むのを、おれはしっかりと目に焼きつけていた。とりあえずの避難場所として、あのアパートは最適のように思えた。住人はすでにいない。劉健一は知っているが、おれがあの場所に舞い戻るとは考えもしないだろう。頭のいい人間は、得てしてそういう見落としをするものだ。
「降りよう」
後ろに声をかけて、おれは車を降りた。お台場の方からパトカーや救急車のサイレンが聞こえてくる。あまりにも遠くて、まるで幻聴のようだ。
「これからどうするつもりなんだ?」
徐鋭の詰問を無視して、おれは辺りを見回した。駐車場にひとけはなかった。小文から銃を受け取り、銃口を徐鋭に向ける。
「訊《き》きたいことが腐るほどある」
「そんなことより、逃げる方が先決だろう。すぐに警察が来るぞ」
「あんたが駄々をこねずに喋ってくれれば、すぐに移動するさ。あの割符はいったいなんなんだ?」
「説明するのは難しいな」
落ち着き払った徐鋭の鼻に、銃口を強く押しつけた。怒りや恐怖、動転、そうしたものはすべて遠くに流れ去っていた。皮膚が透けてしまいそうな透明な感覚がおれを支配している。
「長い話なんだ。嘘じゃない。いちから説明していると明日の朝になる」
「おれが訊いたのは、あの割符はなんなんだということだけだ」
「金とあるものを引き出すのに必要なものだ」
「あるもの?」
「台湾にいるある一族の正式な代理人だということを証明するものだ。いや、それだと正確な説明にはならないな。その割符を持っている人間が、その一族の代理人だということになるんだ」
透明な感覚はすぐに消えた。代わりに混乱がおれの頭を占めはじめた。
「ある一族?」
「だから、長くなるといっているだろう」
「台湾の一族だといったな? 劉健一もこの割符を狙っているのか?」
徐鋭が口ごもった。銃撃戦の最中でも見せなかった動揺が表に現れている。
「その割符を持っている人間が楊偉民の後継者だという証《あかし》になるのか?」
徐鋭はなんとか表情を取り繕おうとした。だが、そうした努力自体が、おれの言葉を裏づけるのだということまでには考えがまわらないようだった。
「あんたはその割符を持っていたから急激に力をつけた……台湾の勢力が日本では落ちていく一方なのに、我が世の春を謳歌《おうか》できた。そういうことなんだな?」
「まるでお伽話《とぎばなし》だな」
強がることで徐鋭はバランスを保とうとしているようだった。おれは深く息を吸いこんだ。巨大な迷路に迷いこんでいたのに、突然、目の前に出口が現れた。あまりの唐突さに、脳味噌がオーバーヒートしかけている。小文に視線を送った。小文は掌を開いて、くしゃくしゃになった割符を凝視していた。
「あんたと劉健一は割符の奪い合いをしていたんだ。憎みあっているとかそういうことじゃなかったんだ」
韓豪の死がキックオフの笛だ。おれは――おれたちはまったく気がつかなかったが、韓豪は、そこに本人の意志が介在しているかいないかにかかわらず、どこか深いところで徐鋭と繋がっていたのだろう。韓豪の死で開いてしまった穴を塞ごうと、徐鋭は動きだした。だが、劉健一が先手を打ち続け、開いた穴は徐々に大きくなっていったに違いない。韓豪の死によって動き始めた東明会。趙浩が起こしたろくでもない事件によってどよめいた錦糸町。徐鋭自身の事業も危機にさらされ、後始末に奔走しなければならなかったろう。追い打ちをかけたのは郎志森たちの襲撃だ。徐鋭に安住の地はなくなった。後手に回り、追いつめられ、やがて割符を手に再起を果たそうとする。劉健一はすべてを読んでいたのだろう。何年もの間、息を殺し、身を潜め、強靭《きょうじん》な情報網を作りあげて、その瞬間を待っていたのだ。
劉健一の黒い瞳が瞼《まぶた》の裏に浮かぶ。その瞳の奥に湛《たた》えられている虚無の深さを思った。
多くの人間が、おれは劉健一に似ているといった。おれも道を踏み違えれば、劉健一と同じ虚無に囚《とら》われていたのだろうか。もし小文を失ったら――そう考えると、劉健一と同じ暗がりにひそむ自分を容易に想像することができた。
「その割符は君たちが持っていても意味がない」徐鋭が小文を見据えながらいった。「台湾の血がその身体に流れている者が手にして、初めて意味をなすんだ。もういいだろう。返してくれないか」
「いやよ。あなたにはなにも渡さないわ」
小文の口調は激しかった。おれが見たことのない深い憎悪が目尻に刻まれていた。
小文の憎悪が夜の闇を塗り潰していく。憎しみの波動がすべてを呑みこんで世界を覆っていく。おれの記憶すら、その波動の前では脆《もろ》くも崩壊していく。記憶の中の小文。愛くるしく、いつでもおれに縋ってきた小文は、もうどこにもいない。おれがないがしろにしてきた年月が、おれの大切なものをすべて変質させてしまった。
「なにもかもを失って、絶望に悲嘆するといいわ」
「後悔することになるぞ」
「後悔なら、死ぬほどしてきたわ」
小文は割符を強く握りしめた。強い海風にも感じることのなかった寒気におれは身震いした。遠くで聞こえるサイレンの音が増えている。徐鋭に訊きたいことはまだまだあった。小文の憎悪をなだめてもやりたかった。だが、時間が絶望的に足りない。このままここでぐずぐずしているのはあまりにも危険だった。
「小文、もう行こう。時間がない」
「あいつを殺して」
小文は徐鋭を睨《にら》んだまま動こうとはしなかった。
「小文――」
「あなたが昔のままの阿基なら……わたしに少しでも申し訳ないと思ってるなら、殺して。約束を守らなかった代わりに。お願い」
小文はおれに顔を向けた。憎悪に彩られていても、小文は充分に美しかった。憎しみのために唇が歪んでいたとしても、深く刻まれた目尻の皺が小文の若さを損なっていたとしても、耳から顎にかけてのラインは、幼い小文の面影を充分に残していた。
徐鋭を殺すつもりなど毛頭なかった。だれを殺すつもりもなかった。自分にそんなことができると考えたこともない。だが、小文が発散する憎悪の波動に、おれはすっかり囚われていた。小文を守るのだという頑なな気持ちがおれの手足を縛っていた。
「本当にそれがおまえの望みなのか?」
意志とは裏腹に口が開いた。
「そうよ、阿基」
「わかった」
おれは銃を持ち上げた。徐鋭が首を振りながら後ずさった。
「ま、待て。おれを殺しても、なんの得にもならんぞ。劉健一ひとりが美味《おい》しい思いをするだけだ。よく考えろ。おれと手を組んだ方がいい。その割符があれば、再出発はいくらでも可能なんだ。金では買えないものが手に入る。手を組んでくれるというなら、おれが手に入れるものの半分を、必ずあんたにも与えよう。こんないい取り引きはないぞ。そうだろう? あんたほど頭の回転が速い人間ならよくわかるはずだ」
「おれの望みは小文だけだ」
「小慈なら――小文なら、君のものだ。そういったはずだぞ」
「早くやって!」
徐鋭の言葉を、小文の叫びがかき消した。憎悪がまぶされた悲痛な叫びだった。なにがそこまで小文の憎悪をかき立てたのかを考える前に、指が動いていた。手の中で小さな爆発が起こった。青みがかかったオレンジの炎が銃口から噴き出、わずかに遅れながら銃声が空気を切り裂いた。徐鋭の右胸が陥没するのが見えた――見えたような気がした。徐鋭はなにかに驚いたような表情を浮かべながら真後ろに倒れた。両手は前に差し出されていた。弾丸を受け止めようとでもしたのだろうか。なにもかもが滑稽《こっけい》だった。滑稽であるはずがないのに、おれは笑いの衝動に駆られた。なにかが崩壊しようとしている。
視界の隅を影がよぎった。影はおれから銃を奪うと、倒れたままの徐鋭のところに駆け寄っていった。影は小文だった。小文は徐鋭に銃口を向け、立て続けに撃った。空気が顫え、地面が震動した。おれは我に返り、小文のもとに駆け寄って後ろから抱きしめた。
「もういい。もう終わったんだ、小文」
小文は顫えるというより、身体を痙攣させていた。銃を握った両手は石のように強張っている。小文の足許で、徐鋭は間違いなく息絶えていた。
「もういいんだ、小文。おれが悪かった。おれがちゃんとしていれば、おまえにこんなことをさせる必要はなかった」
小文を抱きしめながら、おれは謝罪した。ゆるされることはないとわかっていながら、そうすることしかできなかった。
少しずつ、小文の身体から力が抜けていく。おれたちは抱き合ったままその場に膝をつき、声を出さずに泣いた。
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新木場で京葉線に乗り、東京駅でタクシーに乗り換えて早稲田に向かった。マンションに辿り着くまで、小文は一言も口をきかなかった。
郎志森たちの部屋には、生活必需品がひととおり揃っていた。冷蔵庫に食器、電子レンジ、バスルームにはくたびれてはいるが丁寧に洗濯されたバスタオルもあった。キッチンの収納棚にはカップ麺《めん》がぎっしり詰め込まれていた。お湯を沸かし、焼きそばを作って小文の目の前に置いた。おれはくたびれ果てていた。その点は小文も同じだろう。食欲はなくとも、なにかを胃に詰め込んでおく必要はある。
「食べた方がいいぞ」
「そうね」
小文は力無くいって、割り箸《ばし》に手を伸ばした。湯でのばしただけの麺を無理矢理口の中に押し込んでいく。おれも、自分のカップ焼きそばを機械的に口に運んだ。
「この後は、どうするつもりなの?」
「おれの部屋に百万ほどの現金がある。それでおまえのパスポートを調達しようと思ってる。日本人のパスポートは高くつくが、香港か台湾のものなら、なんとかなるだろう。パスポートを手に入れたら、香港でも台湾でもアメリカでも、おまえの好きなところに行けばいい」
「ちょっと待って」小文は箸を動かす手を止めた。「たったの百万円? パスポートの代金を引いたらなんにも残らないじゃない」
「なんとか金を作って、あとで送る」
「お金を作る? 阿基になにができるっていうの?」
小文の詰《なじ》るような声をおれは聞き流した。小文の心配はよくわかる。結局、裏社会にいてもおれはうだつの上がらないままだった。矢島の飼い犬になり、そこから抜け出せぬままにいたずらに時間を空費し、結局は何者でもあり得ないままにここにいる。金を稼いで送ると約束したところで、おれの才覚では小銭を得ることしかできないだろう。
だが、劉健一がいる。ろくでもない策謀を巡らして割符を手に入れようとしたあの男がいる。割符はおれたちの手の中にあった。大それた金額を望むのでなければ、劉健一は血を流すことよりそちらを望むのではないかという気がしていた。劉健一が望んでいたのは、おそらく、徐鋭の血だけだったのだ。
「わたしの部屋に、預金通帳があるわ。これまで稼いできたお金が入ってるの。五百万円はあると思う」
「諦《あきら》めろ」おれは冷たい声で応じた。「徐鋭の手下があの部屋を知ってる。ということは見張られている可能性が高いということだ」
「だけど、わたしが身体を張って稼いだお金なのよ」
「金ならおれが作るといっただろう」
語気が荒くなった。徐鋭を殺したことで神経が昂《たか》ぶっている。
小文は口を閉じた。
「おれを信頼できないのはわかっている。だが――おまえのためならなんだってすると決めてるんだ。そのことだけは信じてくれ」
小文は空になったカップ麺の容器を見つめていた。その様子からはなにも読みとれない。おれは割符を取りだした。なんの変哲もない古い一万円札だ。聖徳太子の鼻の先で札が半分に切り裂かれていることを除けば。劉健一に足元を見られないためにも、この割符にどんな謂《い》われがあるのか、正確なところを知っておきたかった。徐鋭が死んだ今、おれが頼れそうな台湾人はひとりしかいない。
もう一度、部屋の中をくまなく探索した。押入の奥に使い古したスーツケースがふたつ、押し込まれていた。引きずり出してみたが、スーツケースはふたつとも拍子抜けするほど軽かった。両方とも黒いサムソナイトだった。鍵はダイアル式で、適当に回してみたが、開くわけもない。
「一九九七」
小文が口を開いた。
「なんだって?」
「一九九七よ。あいつらが話してるのを聞いたの。香港が中国に戻ってきた年だって」
「ふたつともか?」
「そこまでは知らないわ」
おれは手前のスーツケースのダイアルを回した。一九九七――あっけなく開いた。丁寧に折り畳まれたバスタオルが隙間なく詰め込まれていた。どうりで軽いわけだ。右角に詰められていたバスタオルの端をつまみ、引き抜いた。タオルにくるまれていた携帯電話が音をたてて床の上に転がった。タオルにくるまれていた携帯は三つだ。おれは他のタオルも同じように引きずり出した。携帯電話が都合、十個。拳銃の弾薬が詰まった紙箱が三つ。刃が厚く長いサバイバルナイフがふたつ。掌にすっぽり収まる折りたたみ式のフォールディングナイフが三本。
もうひとつのスーツケースに手を伸ばす。一九九七では開かなかった。七九九一で試してみる。スーツケースは開いた。中には同じようにバスタオルが所狭しと詰められている。タオルにくるまれていたのは書類だった。五人分のタイ製のパスポート。十通以上に及ぶ外国人登録証――登録証に記されている人物の出生地は中国、香港、台湾、シンガポール、マレーシア、タイ、インドネシア。東南アジアの全地域をほとんど網羅している。最後に出てきたのは、五通の郵便貯金通帳だった。印鑑とキャッシュカードは見つからない。五つの口座に残されている金額を合わせると、百万を超えた。おそらく、それが郎志森たちの活動費金だったのだろう。連中が得た報酬の大部分は地下銀行を通して大陸に送られているはずだ。
ふたつのスーツケースに収められていたものを畳の上にぶちまけて、おれは腕を組んだ。パスポートに外国人登録証。すべては偽造だがこれだけのものを用意できるのは限られた人間にすぎない。大陸や東南アジアから流れてきた流氓たちは、このうちのどれかひとつを手に入れるために苦労をしているのだ。
劉健一がこのすべてを揃えたのだとしたら、その人脈、金脈には畏怖《いふ》を覚えるしかなかった。
「紙袋かなにかを探してきて、この書類を全部詰めてくれ」
小文にそう告げて、おれは十個の携帯電話に目を向けた。重い犯罪に手を染める中国系の人間が複数の携帯電話を持つのは常識だが、この数は異常だった。郎志森たちはひとりにつきふたつずつの携帯を所持していたことになる。十個の携帯はすべてプリペイド方式のものだった。そのうちのひとつを手に取り、電源を入れた。着信履歴も発信履歴も、すべて削除されている。当然、アドレス帳にはなにも記載されていない。メールの受信箱にもなにも残されてはいなかった。痕跡は残すな――郎志森が手下たちに口酸っぱく告げている姿を容易に想像することができた。
それでも、ひとつずつ携帯を確かめていく。どんな人間でもうっかりするということはある。七つ目の携帯で、そのうっかりを見つけた。アドレス帳も受信着信履歴もメールの受信箱も綺麗《きれい》に削除されていたが送信箱に数通のメールが残されていた。すべて漢字で書かれた中国語の短いメールだ。
「女は殺さない。おれたちの仕事は女と男を会わせること。すべて了解した」
日付は昨日のものだった。ということは、女は小文を指すのだろう。男は――おれか? これはどういうことだ?
メールの宛先は、携帯会社のサーバーではなく、ホットメールのアドレスになっていた。だれにでも取得できる匿名性の高いメールアドレスだ。アドレスの持ち主は馬遠だろう。郎志森の口調で、あいつが劉健一を知らなかったということには確信があった。
小文を殺してはいけない。小文とおれを会わせろ。おれは劉健一からの情報を経て、このアパートに辿り着いた。すべてを自分でお膳立《ぜんだ》てしながらなお念を入れるその執念。
おれと小文を会わせて、劉健一はなにを企《たくら》んでいたのだろう。
目を閉じ、考え、悩み、決断を下した。ホットメールの主に日本語でメールを書いた。
「割符のことで話したいことがある。そう雇い主に伝えてくれ」
躊躇《ちゅうちょ》しながら送信ボタンを押した。
「これでいいかしら?」
台所で捜し物をしていた小文が戻ってきた。コンビニの買い物袋をかざしていた。
「それで充分だ。そこに散らばってる書類を全部ひとまとめにしてくれ」
「そのあとは?」
「ここを出よう」
あのホットメールアドレスの持ち主が馬遠なら、どうやっておれがアドレスを知ったのかと訝《いぶか》るだろう。その結果、郎志森たちの携帯に行き着くのは時間の問題だ。このアパートはすでに安全とはいえなくなっている。
「どこへ行くの?」
「大久保だ」
おれは答えながら、床に落ちたままのフォールディングナイフを拾いあげ、ジャケットのポケットの中に押し込んだ。歌舞伎町に近づくのは避けたかった。おそらく、路地という路地に東明会の連中が目を光らせているだろう。村上の怒りは想像するまでもない。面子《メンツ》を潰された上に、電話を無視されるという屈辱まで受けている。東明会の人間に見つかればただではすまないだろう。もちろん、それはおれだけの話ではない。おれと一緒にいる小文も同類と見なされる。やくざ者にまっとうな理論は通じない。
それでも、大久保に向かわないわけにはいかなかった。割符の秘密を探らないわけにはいかなかった。それが、おれたちが――小文が生き延びるための唯一のチャンスだ。
おれは自分の胸に手を当てた。なにも感じ取ることができなかった。手の位置を何度も変えて、やっと鼓動を感じた。小さく溜息《ためいき》をもらし、おれは部屋を後にした。
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大久保に向かうタクシーの中でメールを受信した。
『いつ? どこで?』
必要最低限のメッセージ――すべては弁《わきま》えているという意味を成す。
『あとで連絡する』
そう返信して、おれは携帯を閉じた。
大久保通りから狭い路地に入るように指示し、適当なところでタクシーを降りた。冷や汗が生き物のように脇の下から腰まで伝ってきた。路地を行き来するわずかな人影が、どれも東明会の人間に見えてくる。恐怖は理性に勝る。心の奥の暗がりから這《は》い出てきた触手は理性などすぐに握りつぶしてしまう。恐怖に打ち克《か》つには、理性で対抗しようとしても無駄だ。小文を救う、果たせなかった約束の代わりの約束を果たす。妄執に似た気持ちだけが今のおれを支えている。
華聖宮の周囲にひとけはなかった。おれは小文の手を引いて古いアパートの階段をあがった。小文の手は小さく、冷たかった。老婆はもう寝入っているのだろうか。華聖宮の窓は暗く閉ざされていた。
小さく、しかし鋭くドアをノックした。最初は反応がなかったが、しつこく叩きつづけている内に、部屋の奥で人が動く気配が伝わってきた。深夜の不躾《ぶしつけ》な来訪者を口汚く罵《ののし》りながら歩いてくる姿を想像していたのだが、部屋の中は静かなままだった。
ドアが開き、老婆が顔を覗かせた。真っ赤な下地に薔薇《ばら》の花をあしらった派手なパジャマを着ていた。
「やっぱりあんたかい」老婆は細い目を精一杯見開いた。「昨日の今日だからね、あんたに違いないと思ってたんだよ。おや? 別嬪《べっぴん》さんを連れてるね」
「中に入れてもらえますか」
「明日来なといっても無駄なんだろう? おあがりよ」
おれと小文は老婆に礼をいって中に入った。
「こんな時間だから、お茶もなにもないけどね」
「おかまいなく。少しお伺いしたいことがあるだけです。それが終われば、すぐに帰りますから」
腰に手を当てて居間に向かっていた老婆が振り返った。
「まったく、近ごろの若い連中は道理ってものがわからないんだから。こんな時間に、血の匂いをさせながら人の家にやってくるなんて、どういう神経なんだい?」
反射的に鼻をひくつかせていた。血の匂いなどしない。おれが鈍感になっているだけか、あるいはおれがまとっている雰囲気が老婆に血の匂いを思い出させたのだろうか。
「本当におっしゃるとおりです。代わりといってはなんですが、お土産を持ってきました」
「土産?」
「ええ」老婆の後に従って居間に上がりこみ、小文が持っていた買い物袋を受け取った。「これです」
老婆はものもいわずに袋を受け取り、真剣な眼差《まなざ》しで中身を吟味した。
「へえ。偽造パスポートに外国人登録証かい。偽造たって本物を作り替えたもんだから高くつくよ。これをわたしにくれるのかい?」
「それを売ってください。代金の七割があなた、三割がこちらでどうですか?」
「大陸の人間はがめついね。とりあえず、これは預からせてもらうよ」
老婆は書類を袋の中に戻し、口を丁寧に結んで壁際の食器棚の抽斗《ひきだし》にしまいこんだ。
「それで、聞きたいってのはなんの話だい?」
「劉健一と徐鋭――それに、これです」
おれは割符を取りだした。途端に、眠たげだった老婆の表情が一変した。顔中を覆っていた皺《しわ》がいっぺんに伸び、目鼻が飛び出てくる。老婆は食い入るように割符を凝視した。
「どこで手に入れたんだい、それを?」
「これはなんですか? 台湾のある一族の後ろ盾を得るために必要なものだということは聞いたんですが、もっと詳しいことが知りたいんです」
「あんたが持ってたって意味はないよ。台湾の血を引いてる者にだけ使い道があるんだ」
老婆は話をはぐらかそうとしている。直感的にそう感じ、おれは断固とした口調でいった。
「教えてください」
老婆は鼻を鳴らした。顔つきももとに戻っている。おれの必死さが伝わったのか、あるいはただ中断された眠りを求めることの困難さより、昔話をして時間を潰した方がいいと考えただけなのかもしれない。諦めというよりはくだらないことに巻き込まれた自分の不運を自嘲しているようにも見える。
「まあ、座りなよ。戦後の話からだから、少し長くなるよ」
老婆に促されるまま、おれと小文は居間の片隅に置かれたテーブルについた。
「どこから話そうかねえ」
老婆は頬杖《ほおづえ》をつき、遠くを見つめるような眼差しになった。
「わたしは馬曼玉《マーマンユイ》。戦前に台湾で生まれて、戦中に日本にやって来たのさ」
老婆――馬曼玉は話しはじめた。
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終戦直後の新宿の主人公は日本人ではなかった。戦前、戦中は三国人と蔑称されていた中国人、台湾人、朝鮮人がそれまでのくびきから逃れて新宿近辺の土地を買い漁《あさ》り、我が物顔で闊歩《かっぽ》した。隆盛を極めはじめていた闇市、歌舞伎劇場建設の発表。新宿には金がころがり込み、当然、衝突が起こった。不意打ち、闇討ち、リンチ、拷問。血が血を呼び、憎悪が憎悪を産む。
このまま外人同士でいがみ合っていたのでは日本人を利するだけだとまとめ役を買って出たのが、当時、新宿界隈で自警団を組織していた林文雄《リンウェンシォン》という台湾人だった。卓越した腕力と度胸で台湾人をまとめ上げ、激昂《げっこう》する中国人と朝鮮人をなんとかなだめて基本的なルールを作り新宿に安定をもたらした。
だからといって、中国人も朝鮮人も現状に満足していたわけではない。林文雄の気骨と人望に押されて、しぶしぶ和平協定を結んだだけのことだ。だれもが林文雄がいなくなれば、またぞろ牙《きば》を剥《む》こうと身構えていた。林文雄はまだ四十代だったが、戦中戦後の食糧不足で体力を衰えさせ、結核を患っていたという。自分のところにつけ届けられた白米や野菜を身内の貧しい台湾人にすべて回していたということだった。昭和二十年代も半ばを過ぎるころには、林文雄の体力はいよいよ怪しくなっていた。このまま日本で土に還るか、それとも故郷に戻るか。
林文雄は後者を選択した。だが、日本を立ち去る前にけじめをつけることだけは忘れなかった。中国人と朝鮮人のリーダー格を呼び出し、必死の気迫で外人同士の取り決めを守ることを約束させた。もし、約束を違《たが》えた場合は自分が死んでも一族のものが必ず制裁を加えるために戻ってくる――その場で林文雄は自分の身分を明かした。台北でも一、二を争う勢力を誇る黒社会の頭目が林文雄の叔父《おじ》だったのだ。
林文雄はその会合の場に連れてきた葉暁丹《イェシァオダン》という青年を自分の後継者だと宣言した。新宿でなにか揉め事が起こったときに葉暁丹が林文雄の代理としてとりまとめの任に当たる。葉が死ねば、その後継者が任を引き継ぐ。
自分と林一族の総意を引き受ける者の証だとして、林文雄はその場に集まった人間たちの前で一円札を引き裂いた。
それが割符の始まりの物語だった。
「そういう時代だったんだよ」馬曼玉は目を細めたままでいた。「混乱に次ぐ混乱。みんな、なんでもいいから縋るものが欲しかったのさ。それが林文雄だった。あいつがいなくなってからは、割符の持ち主。葉暁丹は台湾の林一族から援助を受けてさ、町のあちこちにパチンコ屋を建てて大儲けしたね。林一族の後ろ盾に大金。これで、葉暁丹に逆らう者はひとりもいなくなったよ」
「林一族って、そんなに凄《すご》い力を持ってたの?」
小文が口を挟んだ。早稲田のアパートを出て以来、ずっと沈黙を保っていたのだが、馬曼玉の語る昔話に夢中になったようだ。
「そんなことはないさ。その昔は台北じゃ知らぬ者はないってくらいだったけどね、黒道は黒道さ」
馬曼玉は黒社会を台湾風に黒道といった。
「ただ、あのときこのあたりにいた外人たちには恐ろしい一族のように思えたんだよ。数は力っていう時代だったからね。林一族は今では黒道から足を洗っているよ。阿漕《あこぎ》な真似をして稼いだ金で会社をこしらえて、今じゃ実業家集団さ。台湾の政界にも影響力を持ってる」
小文は考え込むように腕を組んだ。
「でも、そのとき割符に使ったのは一円札なんでしょう? 阿基が持っているのは昔の一万円札よ」
「時代はどんどん変わっていったんだよ」馬曼玉は出来の悪い生徒を諭す教師のような辛抱強い口調でつづけた。「昭和三十年代に入ったら、林文雄が作った新宿のルールなんて有名無実さ。日本のやくざも力をつけてたしね。ただ、なにか揉め事が起こったときは葉暁丹が仲裁を買って出るってことが、暗黙の了解になってたんだよ。その葉暁丹も金儲けに忙しくてね。仲裁役なんて馬鹿馬鹿しくてやってられるかといって、その役を楊偉民に譲ったんだ。そのとき、楊偉民は林一族の了承を取り付けるために台湾に戻ってね。新たな割符として当時、出回りはじめたばかりの一万円札を使ったのさ」
「今でもこの割符にはなにかの意味があるんですか?」
おれは訊いた。馬曼玉は曖昧《あいまい》に首を振った。
「歌舞伎町のボスの証っていうことじゃ、もう二十年も前から意味がなくなってるね。ただ、この割符を持ってりゃ、林一族からの援助が期待できる。それと――」
「それと?」
おれと小文は同時に口を開いた。お互いに顔を見合わせ、苦笑した。
「楊偉民はこの割符に別の意味も持たせたのさ。地下銀行の印鑑の代わりとしてね。林一族が持ってる残り半分をコピーして、それをある地下銀行に預けてる。金が必要になったら、その割符を持って地下銀行の窓口業務を請け負ってる人間のところに行けばいいのさ。徐鋭はそうやって楊偉民の金を引き出して、今の立場の礎を築いたんだ」
「楊偉民を殺してその割符を奪ったということですね?」
馬曼玉は重々しくうなずいた。
「徐鋭はね、もともとは楊偉民に可愛がってもらってたんだ。それが楊偉民を裏切って劉健一の下についた。劉健一の命令で楊偉民を殺したんだけど、その割符を手に入れてね、今度は劉健一を裏切った。礼節って言葉とは最も縁遠い罰当たりだよ」
「金を引き出したあとなら、なおさらこんな割符に意味はないでしょう。どうして、徐鋭と劉健一はこんなものの奪い合いを――」
「だからさ」馬曼玉は苛立《いらだ》たしげに顔をしかめた。「徐鋭は劉健一の策にはまって窮地に立たされたんだろう。だからこそ、その割符が必要だったんだ。それがあれば林一族からの援助が引き出せる。やり直しが利くんだからね。劉健一はそれをさせまいとした。そういうことだろう」
馬曼玉のいうとおりだった。徐鋭は割符を小岩の自分が経営する店に置いていた。その時点で割符にはそれほどの意味がなかったということだ。ところが、郎志森たちの襲撃に遭い、警察|沙汰《ざた》を免れないと悟った瞬間、小文を使わせて割符を手元に戻そうとした。窮地を脱し、劉健一に復讐《ふくしゅう》を果たさなければならない段になってやっと、割符を必要としたのだ。おれが予想したとおりだ。劉健一はずっと時を待っていた。徐鋭を絶望の淵《ふち》に立たせ、奈落に突き落とすために。ほくそ笑みながら待っていたのだ。劉健一が抱えた暗闇の深さに、おれは戦慄《せんりつ》した。
小文の横顔にちらりと視線を走らせた。小文は物思いに耽《ふけ》っている。この割符で劉健一と取り引きをし、小文に必要な金を作ってやるつもりだったがそれも今では水泡に帰してしまった。劉健一は割符など必要としていない。林一族の援助とは無縁のところで、劉健一は歌舞伎町を支配してきたのだ。
「どうして――」ずっと頭に引っかかっていた疑問が、その瞬間、意志に逆らって噴き出しはじめた。「どうしておれなんだ? 徐鋭を殺すのは簡単だったじゃないか。状況をかき回して、徐鋭を慌てふためかせて、あとは兵隊を雇って銃弾を撃ち込んでやるだけでよかった。どうしておれを使った? おれをあちこちに走り回らせた理由はなんだ? 特別に頭が切れるわけじゃない。荒事になれてるわけじゃない。おれはそのへんにいる中国人と同じだ。それなのに、あいつはおれに便宜を図った」劉健一はおれのために矢島まで排除した。「どうしておれなんだ?」
「わたしに訊いたってしょうがないだろうに。劉健一にしか理由はわからないよ。いろんなことのやり方を、劉健一はみんな楊偉民から学んだんだよ。わたしには詳しいことはわからないけど、劉健一がわざわざあんたを利用したっていうんなら、絶対に理由はあるさ。おそらく、吐き気を催すぐらい陰険な理由がね」
劉健一のなによりも黒い瞳を思い出した。底無しの虚無と憎悪が同居した透明な黒。その奥では冷たい炎が燃えさかっている。おれはその目に捉えられた。韓豪が殺されたその直後に。
「ちょっとお手洗いをお借りしてもいいですか?」
小文が立ち上がった。顔が青ざめている。おれの視線には気づかずに、小文は馬曼玉が指差した方角に歩いていった。
「陰険な理由ですか」
おれはうなだれながら、馬曼玉が口にした言葉を繰り返した。
「みんながあいつのことをなんと呼んでるかは知ってるだろう? 悪鬼だよ。その呼び方があってるかどうかは知らないけどね、あいつは人の心を捨てたんだよ、ずいぶん昔にね。さて、訊きたいことはもうないのかい? 年寄りには夜更かしがなによりも応《こた》えるんだよ」
「劉健一と劉健一が殺した女の話を聞かせてください」
おれはいった。馬曼玉は深いため息を漏らした。
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馬曼玉の話を聞き終えるのに、さらに三十分が経過した。小文がトイレから出てくるのにも気づかないほどおれは馬曼玉が語る三人の物語――劉健一、楊偉民、小蓮《シャオリェン》という女たちの物語に呑みこまれていた。
劉健一がおれに目をつけた理由はわかっている。おれが自分の女を殺したという噂が劉健一の興味を惹《ひ》いたのだ。だが、劉健一が引いた複雑な図面の上で、おれがどんな役割を担わされていたのかはわからない。なぜこれほどまでにおれに執着したのかもわからない。すべては霧の中だ。
理由を知りたかった。だが、それよりも先におれにはやらなければならないことがある。小文のために金を作らねばならない。割符を後生大事に持っていることが無意味だとわかってしまった今では、金を引き出せそうな先はひとつしかなかった。
東明会――村上にこのごたごたを引き起こした張本人を売り渡すのだ。
新宿近辺をうろついているのは危険だった。だれの目にとまるかもしれず、その目が東明会や劉健一に直結している可能性は高い。とりあえずタクシーで安全な地域まで移動し、そこから村上に電話をかける――それが今夜の大雑把な計画だった。小文と一緒に歩きながら路地を抜け、大久保通りに向かった。物思いに耽っていたせいで、足音にも影にも気づかなかった。
「動くな」
路地の角を曲がったところで、南部|訛《なま》りの強い中国語が耳に響いた。男が三人、おれたちの行く手を遮るように立っていた。そのうちのひとりが黒光りする銃を握っていた。三人が三人とも郎志森と同じような空気を身にまとっていた。
目眩《めまい》と同時に疑問が襲いかかってきた。華聖宮にいることはだれも知らなかったはずだ。
「手をあげろ。いわれたとおりにしてくれりゃ、怪我をさせることもねえ」
おれは両手をあげた。その間も、脳細胞はフル回転で働いている。華聖宮に行くことは、直前に決めたのだ。だれにもおれがそこに行くとは予想できない。馬曼玉はおれとずっと一緒にいた。だれかに連絡を取ることは不可能だった。小文はトイレに立った。ずいぶん長いこと戻っては来なかった。だが、小文は携帯を持っていない――そこまで考えてあることに思い至った。
郎志森たちの携帯。おれがひとつ持っている。残りの数は確認しなかった。小文がおれの目を盗んでそのうちのひとつを持っていたのだとしたら――。
おれは小文に目を向けた。小文は無表情におれを見返した。
「ごめんね、阿基」
無慈悲な声だった。おれが必死になって縋りつこうとしていた想い出やふたりの間の約束を根こそぎ否定するような冷たい声だ。膝《ひざ》が顫《ふる》えた。顫えは全身に広がっていった。
「なぜだ?」
小文に問いかける声まで顫えていた。
「拳銃を持ってるわ」
小文はおれには答えずに男たちに告げた。三人のうちの右にいた男が寄ってきて、おれの腰から拳銃を奪い去った。
「あれは?」
真ん中の男が小文に訊いた。
「彼が持ってるわ」
「じゃあ、一緒に連れていこう。手を下ろしてもいいぞ」
あげていた手をおろした。顫えはとまらない。あまりに顫えが激しくて背中に痛みを覚えた。手足の指先から体温が奪われていく。目の奥がしくしくと痛んだ。泣きたいのかどうかは自分でもわからなかった。ただ、おれの両目はすっかり乾ききっていて、泣こうにも涙は出そうになかった。ただ、涙腺《るいせん》が涙を押し出そうとするたびに目の奥が痛む。それだけだ。
銃を取っていった男に腰を押されて、おれはぎくしゃくとした動きで歩き出した。男たちの動きに無駄はない。劉健一のやることに抜かりはない。わからないのは小文の気持ちだけだ。小文はおれの目の前を歩いていた。長い髪が風になびいている。なぜだ――胃も食道も喉《のど》も口も顫えている。声が声にならない。絶望は人からすべてを奪う。おれは声すらも奪われてしまった。
すべては芝居だったのか? すべては劉健一のためだったのか? なぜだ? なぜだ、小文? 教えてくれ。
声にならない声でおれは叫びつづけた。小文が振り返ることはなかった。
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大久保通りにとまっていた黒いセドリックに押し込まれ、目隠しをされた。両手両足は自由なままだ。男たちも小文もむっつりと黙りこんでいる。聞こえるのは静かなエンジン音だけだった。
暗闇の中にひとり置き去りにされた気分だ。顫えは徐々におさまっていったが、代わりに脱力感がおれを支配していた。
男たちは劉健一の配下だし、小文も劉健一に繋がっている。それは明白だ。あの無慈悲な声、すべての感情を捨て去ったかのような顔つき。劉健一の二卵性の双子のようだった。おそらく、徐鋭の情婦になったのも劉健一の指示によるのだろう。嬲《なぶ》られ、弄《もてあそ》ばれ、虚仮にされ、それでも数年間をじっと耐えて待っていたのだ。時期が来るのを。劉健一と同じように。
劉健一がおれに目をつけたわけがやっとわかった。おれが小文と繋がっていたからだ。最初はろくでもない噂が気に入っていたのだろう。だが、詳しくおれのことを調べていくうちに、おれが小文の幼|馴染《なじ》みだということに気づいたのだ。挙げ句に、おれは韓豪の手下でもあった。劉健一はおれに関してならなんでも知っていた。知り得るはずのないことまで知っていた。当然だ。大陸でのできごとはすべて、小文の口から聞いたのだろう。果たされることのなかったあの約束のことも。
「最初から気づいていたのか?」
助手席にいるはずの小文に声をかけた。絶望に奪われていた声が戻っている。すべては束の間の出来事だ。怒りも、悲しみも、憎しみも。時が経てばすべては風化していく。風化するとわかっているものに縋りつこうとするのは、おれのような愚か者だけだ。
「あの店におれが初めて行ったときから、おれだと気づいていたのか?」
「最初は半信半疑だったけど、あなた、お爺《じい》ちゃんのライターを見て顔色を変えたわ。それで確信したの。あなたはあの阿基だって」
静かな声が返ってきた。おれの知っている柔らかで涼やかな声ではない。辛《つら》い経験を繰り返し、心がすり切れ、最後にはなんにも感じなくなってしまった者の声だ。
「それで、韓豪を殺したやつを探している連中の中におれがいると劉健一に教えたんだな?」
「わたしが頼んだのよ。あなたを苦しめてやってくれって。あなたがいなかったら、もっと簡単に終わってたわ」
憎しみや恨みにまみれていて当然のはずの言葉ですら平坦《へいたん》だった。
「そんなにおれが憎いのか」
徐鋭の殺害計画におれを組み込むことで、死ななくてもいい人間が大勢死んだはずだ。劉健一ならそんなことはしまい。
「憎いですって? 馬鹿いわないでよ」小文の笑い声が聞こえた。乾いた笑いだった。「顔を見るまであなたのことなんてすっかり忘れてたわ。ただ、まるで保護者みたいな目でわたしを見ていたから、それがゆるせなかっただけ。何様のつもりよ、阿基。なににもなれずに燻《くすぶ》ってただけのくせに」
「なにも知らないおれはおまえには間抜けに見えただけかもしれないが、おれはただ、おまえを守りたかっただけだ」
「それが何様のつもりだっていうのよ」
小文の声のトーンがあがった。平板だったはずの声に紛れもない憎しみの色が濃く混ざりはじめている。
「わたしを守りたかった? あのときの約束の代わりのつもり? ふざけないで。あなたは捨てたのよ。故郷も、家族も、想い出も。自分のお祖父《じい》さんがいつ死んだのかも知らないくせに。あれだけあなたを日本に行かせるために骨を折ってくれたのに。あなたは手紙ひとつよこさなかった。最後は枯れ木みたいに痩《や》せ細って、それでもあなたが日本で幸福に生きてるって信じて、そんな幻想に縋って苦しみに耐えてたのよ」
返す言葉がなかった。おれは唇を噛《か》み、おさまったはずの顫えがぶり返そうとするのをこらえた。
「あなたが出ていった後の村のこと知ってる? 飢饉《ききん》が続いたの。全然雨が降らなくて、作物が育たなくなった。みんな村を出て行ったわ。都会で働き口を見つけなきゃって。でも、全員を連れていくことはできない。働き盛りの人間だけ。老人やわたしみたいな女の子、もっと小さな子供たちは村に残された。お金と食料が送られてくるのをただただ待つ毎日。みんないってたわ、阿基はよかったって。こうなる前にここを抜け出せて、阿基は幸せだって。それなのに、あなたはなによ? 他人より全然有利な立場にいたのに、幸せをその手で掴《つか》めたはずなのに、食いつめて故郷を捨ててきた中国人と同じように地面に這いつくばって生きてる。ゆるせないわ。絶対に、ゆるせない」
男たちはだれひとりとして口を開かなかった。車内にいるのはおれと小文のふたりだけのようだ。
「たくさん死んだわ。真冬にもの凄い寒波がやって来て、体力のない老人たちがいっぱい死んだ。残された子供たちもがりがりに痩せて、春になってやっと親が迎えに来るまで、自分たちも死ぬんだと思いながら顫えてたの。あなたはなにも知らなかったでしょうけどね。それなのに、今さらおまえを守るなんて、お笑いぐさよ」
最後の言葉はもとの平板な声に戻っていた。小文の憎悪は突風のように吹き荒れ、一瞬で消えた。
おれだって苦しかったんだ、辛かったんだ、必死で生きてきたんだ――おれの声は喉の奥で凍りついている。あまりにもエゴイスティックで、あまりにも独善的だ。
車が停止した。おそらく、信号に引っかかっているのだろう。もう、どこを走っているのか見当をつけることさえできない。
「劉健一はおまえのなんなんだ?」
どうしても知りたかったことだ。小文のために劉健一は計画を変えた。劉健一が他人のためにそんなことをするとはどうしても思えなかった。
「さあ」素っ気ない声が戻ってくる。「わたしの保護者。でも、彼がなんのつもりでそんなことをやってるのかはわからないわ。彼が考えてることなんてだれにもわからないのよ」
そういって小文は口をつぐんだ。もう、口を開く者はいない。おれですら言葉を見失って途方に暮れていた。
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車がとまった。サイドブレーキを引く音が信号のための停止ではなく目的地に到着したのだということをおれに告げた。ずいぶん長い間走り続けていたような気がする。考えることすら億劫《おっくう》で、おれはなにもかもを放棄してリアシートに身体を委《ゆだ》ねていただけだった。
「降りるぞ」
耳許《みみもと》で声がして目隠しが外された。車の左側に倉庫が並んでいた。お台場とは違ってどの倉庫も規模が小さい。並んだ倉庫の向こうに広がっているのは海ではなく河だった。人の気配はまったくなく、辺りは暗闇に沈みこんでいる。
おれを左右から挟み込むようにして座っていたふたりが先に車を降りた。ふたりは目の前の倉庫に向かい、鍵を使って巨大な観音開きの扉を開けにかかった。運転席の男が外に降り立ち、銃口をおれに向けた。
「おまえも降りるんだ」
「こんなところに劉健一が来るのか?」
「黙って降りろ」
劉健一が来るはずはない。おれはここで殺され、段ボールかなにかで梱包《こんぽう》され、どこかの山奥に埋められるのだ。秘められていたはずの劉健一の秘密の一端を覗いた罰として。
瞬きを繰り返しながら、おれは車を降りた。男の銃口が倉庫に向かって緩やかに動いた。歩け――これ以上はない命令だった。
倉庫の中はひんやりとしていた。いくつかの段ボール箱が片隅に積み上げられているだけで中はがらんどうといってもいい。入口の脇にフォークリフトと梱包用の機械がぽつんと置かれている。
男たちが扉を閉めた。小文はフォークリフトの横に立って腕を組んでいた。
「あれを出せ」
銃を握った男が口を開いた。
「劉健一にはもう必要はないだろう」
おれはいった。抵抗というほどのことでもない。小文がおれの助けを必要としていないとわかった時点で、おれはすべてを抛擲《ほうてき》していた。自分が死のうが生きようが、それすらもどうでもいい。小文のいったとおり、おれは地面に這《は》いつくばって生きてきた。どうでもいいものに縋りつき、自分を見失い、精神を磨り減らし――日本に来た意味すらわからぬままに、ただその日を送ってきた。生きていても意味がない。死んだところでだれも嘆いてはくれない。それがおれだ。
「出せといってるんだ」
男は辛抱強い口調でいった。おれに向けられた銃口はぴくりとも動かない。諦《あきら》めてポケットに右手を突っこんだ。割符とナイフが指先に触れた。万一のことを思って持ってきたナイフだが、今となっては必要もない。割符を指先でつまみ、抜き出した。
「そのまま足元にそれを落とせ」
男は傲慢《ごうまん》なほどに落ち着き払っていた。反撃のチャンスを与えるつもりなど一切ないらしいが、おれにはそんな気力もなかった。いわれるままに割符を落とした。
「下がれ」
前を向いたまま五歩ほど後退したところで男はうなずき、視線をおれの後方に向けた。
「小姐《シャオジェ》、こっちへ」
「わたしが?」
「そう。おれたちが請け負った仕事にはあんたも含まれている」
男がそういい放った瞬間、萎《な》えていた気力がよみがえった。郎志森たちの携帯に残っていたメール――女と男を会わせる。おれは小文に会った。真実の一端を垣間《かいま》見せられて絶望の淵に沈んだ。もう、おれにも小文にも用はない。
「健一がそんなこと命じるはずがないわ」
小文が叫んだ。声が天井に反響して淀《よど》んでいた空気を攪拝《かくはん》する。
「おれたちはそう命じられてるんだよ。諦めな、小姐」
小文は男たちの顔を順番に凝視した。男たちの目的をはっきりと悟ると、いきなり扉に向かって駆け出した。銃を握った男の視線が反射的に小文に引き寄せられる。おれはポケットのナイフを掌に握りこんだ。
「往生際が悪いぜ、小姐」
男は薄笑いを浮かべて銃を小文に向けた。おれは銃弾を避けるふりをしてしゃがみ込んだ。ナイフの刃を開き、反動をつけて男に飛びかかった。
銃声がした。ナイフの刃が男の腹に食い込むのとほとんど同時だった。小文の悲鳴が聞こえた――聞こえたような気がした。男の腹にナイフを何度も突き立てた。男が崩れ落ちる。拳銃《けんじゅう》が転がり落ちる。耳鳴りがしていた。目の奥にガラスの破片が埋まっているかのような痛みを覚えていた。男の血が目に入っていた。拳銃を拾いあげ、両手で握った。
小文が倒れていた。ふたりの男が銃を抜きながら小文に駆け寄ろうとしていた。
「動くな」
叫んだ――男たちはとまらなかった。撃った。闇雲に撃ちまくった。男たちとの距離は五メートル。当たってくれと祈りながら引き金を引き続けた。引き金が軽くなった。銃身が後退したまま停止している。弾丸を撃ち尽くしていた。硝煙の向こうで男たちが倒れ伏している。
「小文!」
男たちの生死を確認する余裕もないまま小文に駆け寄った。小文は左の肩を押さえて呻《うめ》いていた。
「大丈夫か?」
「あ、熱い。熱いわ、阿基。肩が灼《や》けるように熱いの」
小文の手をどけて傷口を覗いてみた。左肩の鎖骨の下から血が溢れている。皮膚が内側にめり込んでいるような傷口だ。弾丸は貫通しているようだった。肩の方の傷口は肉が爆《は》ぜたようになっていた。目を覆いたくなるような光景だが、早く病院に運ぶことができれば命に別状はないだろう。
背後で呻き声が聞こえた。倒れていた男のひとりが身体を折り曲げていた。その傍らに銃が転がっている。
銃を拾い、男のうなじに銃口を押しつけて撃った。男は痙攣《けいれん》しながら絶命した。もうひとりの男は息絶えていた。殺したばかりの男のシャツを引き裂き、それで小文の傷口を縛った。
「しっかりしろ、すぐに病院に運んでやる」
そこまでいって、自分がどこにいるかも知らないことに気づいた。小文を普通の病院に連れていくことはできない。不法滞在に加えて、銃弾の傷だ。必ず警察に通報される。新宿なら、もぐりの医者がいる。だが、新宿までの距離が遠すぎれば命取りになりかねない。
「ここはどこだ?」
小文に訊いた。
「志木《ヂームー》よ」
小文の中国語が頭の中で意味を成すのに時間がかかった。志木――志木《しき》市。埼玉県。気が遠くなりそうだった。
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小文を後部座席に横たえ、セドリックを発進させた。ナビはついていない。この辺りの道には不案内だった。不安と焦燥がおれを駆り立てる。小文が死んだら、劉健一をゆるしはしない。拾いあげた割符は再びおれのポケットの中にある。劉健一がなにを考えているにせよ、この先割符は切り札になるのかもしれない。
広い街道を目指して車を走らせ、なんとか首都高に向かう標識を見つけた。セドリックの窓はスモークになっている。料金所で見咎《みとが》められる可能性は低いだろう。ダッシュボードの時計は午前三時を指していた。首都高はすいていた。東京近郊の夜景をバックにしたサーキットが目の前に広がっている。オービスが光ろうがNシステムがあろうが、かまわずアクセルを踏み続けた。ときおり振り返って小文の様子を確かめた。眠っているのか、小文はぴくりとも動かない。顔中に噴き出た汗が小文の容体を語っている。
高松出口で高速を降り、山手通りを南下した。新目白通り、明治通り。職安通りを左折して抜弁天の交差点で路地に入った。古びたマンションの二階で吉林省出身の外科医がもぐりの病院を開いている。患者として世話になったことはないが、出身が同じ北部だということで、何度か言葉を交わしたことがある。誠実そうな印象を与える医者だった。
マンション前の路上に車をとめて飛び降りた。階段を駆けあがり病院のドアをノックした。待ち構えていたかのようにドアが開いた。青ざめた顔の医師が早口にいった。
「阿基、ここはだめだ」
「だめって……どういうことだ?」
わけがわからず問い返した。
「十分ぐらい前に電話がかかってきた。武基裕と女が来たら教えろと……来たことは黙っていてやるが、治療はできない。わかるだろう?」
戦慄に背筋が寒くなった。おれはセドリックを飛ばしに飛ばした。あの倉庫を出て、まだ一時間は経っていない。おれを拉致《らち》した三人は確かに死んでいた。それなのに、劉健一はすべてを把握している。いったい、どんな情報網を確保すればそれほど正確で素早い情報を手に入れられるというのか。昔を知っている人間は劉健一のことを悪鬼と呼ぶ。おれの目には化け物と映る。尽きることのない悪意で形づくられた化け物だ。
「撃たれてるんだ。なんとかしてくれ。助けてくれ」
「無理だよ、阿基。おまえは聞いてないからわからないかもしれないが、あの電話の脅しは本当だった。来たことを黙っていたことは当然、治療してそのまま返したということがばれたら、おれはなにをされるかわからない」
「おまえのところにそんな電話がかかってきたっていうことは、この辺りのもぐりの医者はだれも信用できないってことじゃないか」
おれは医者の両肩を掴んだ。縋りついた。
「頼む。身内同然の女なんだ。おれにとってなによりも大切な存在なんだ」
医者は唇を噛んだ。身勝手なことを頼んでおきながら、おれはこの医者の名前も知らないのだ。
「連れてくるといい」医者が苦虫を噛みつぶしたような顔でいった。「ただし、治療するだけだ。治療が終わったらすぐに立ち去るんだ。いいな?」
「ああ。約束する」
いいながら、おれは身体を反転させていた。逸《はや》る気持ちをなだめながら階段を駆けおり、車に戻る。
「小文、医者が治療してくれる。起きあがれるか?」
小文が目を開けた。発熱しているのか、目が潤み、焦点を合わせるのに時間がかかるようだった。
「大丈夫……」
顔をしかめながら小文は上半身を起こした。おれは肩を貸して小文をなんとか車の外に出した。そのままマンションに向かい、エレベータに乗りこむ。エレベータは旧型で動きがやけに鈍かった。
「もう少しの辛抱だ。ここの医者はモルヒネを持ってる。痛みはすぐに感じなくなるからな」
「阿基――」
小文は潤んだ目でおれを見つめた。血の気を失って顫える唇が開きかけ、また閉じる。間歇《かんけつ》的な悪寒に襲われているらしく、やがて目を閉じて苦悶《くもん》の表情を浮かべた。エレベータがとまった。
「すぐそこだ。頑張れ、小文」
「ありがとう……阿基」
小文はおれにもたれかかっていた。傷に負担をかけないように気をつけながら、小文の両足をかかえて抱きあげた。思っていたより小文は軽かった。小文をおんぶして山を歩いた記憶が痛みを伴って甦《よみがえ》る。
感傷を押し殺して足を進めた。医者がドアを開けたままで待っていた。
「急いで。だれかに見られると困る」
医者は白衣に着替えていた。おれは小文を抱きかかえたままマンションの中に入った。二DKの部屋で居間に患者用のベッドが置かれていた。そのベッドに小文を横たえる。
「弾丸は貫通してる。後のことはわからない」
「洗面所に行って、手を洗ってきてくれ。消毒液が置いてある。この時間じゃ助手を呼び出すわけにもいかん。あんたに手伝ってもらう」
医者はマスクをかけ、ゴム手袋をはめた。手際よく、小文の衣服をメスで切り裂いていく。
「急いでくれ」
医者の声に促されて、おれは洗面所に向かった。
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抗生物質に痛み止め、そしてモルヒネ。医者がくれたのはそれだけだった。
「無理な動きをすると傷口が開く。一、二週間は安静にしていることだ……もっとも、そんなのは無理なんだろうがな」
「すまない。この借りは必ず返す」
「期待しないで待ってるよ」
医者は笑おうとしたのだろう。だが、表情は悲しげに凍りついていた。おれたちの命が風前の灯火《ともしび》だと信じている。
そうはいかない。少なくとも小文だけは、なにがあっても救い出す。おれの記憶に刻まれている幼い小文と目の前にいる小文の間に横たわる溝などどうでもよかった。おれはおれのために、あの約束を遵守する。おれが捨て去ってきたもの、ないがしろにしてきたものへの、それがおれにできる精一杯の償いだった。他のなにものでもない、おれ自身に対する償いだ。
麻酔が効いて眠っている小文を再びセドリックの後部座席に横たえた。傷口は包帯できつく固定されている。切り裂かれた服の代わりに、医者がくれた男物のワイシャツとジャケットを羽織らせていた。おれは運転席に乗りこんだ。一刻も早く新宿を離れる必要がある。どこに劉健一の目が光っているかわからない。
新宿から遠ざかりたい一心で車を東に向けた。飯田橋で首都高に乗り、環状線を経由して四号線に合流した。そのまま中央高速を目指して走り続けた。昔、勤め人だったころに社員旅行と称して社長の八ヶ岳《やつがたけ》の別荘に連れていかれたことがある。こぢんまりとした別荘だが、ひと通りの設備はそろっていた。合い鍵が郵便受けの奥にテープで貼りつけてあることも覚えている。今はシーズンオフだ。別荘は無人だろう。そこなら小文を休ませ、体力の回復を待つことができる。
肉体は疲労を訴えていたが、頭は冴《さ》え渡っていた。走れ、走れ、走り続けろ。劉健一の巨大な腕の外へと走り続けろ。倒れたとしてもかまいはしない。リアシートには傷ついた小文がいる。小文が望まなかったとしても、救うことができれば、おれ自身も救われる。
談合坂《だんごうざか》のサービスエリアで給油し、コーヒーを飲んだ。熱いだけで味もなにもないコーヒーだったが、その熱さのせいで身体がしゃきっとした気がした。再び高速に合流すると、リアシートで小文がもぞもぞと動きだした。
「傷はどうだ? 痛むか?」
「なんだかぼうっとするわ」
「まだ麻酔が効いてるんだ。無理はするなよ」
小文は身体を起こしてシートに座り直した。とろんとした目を車窓の外に向け、何度か瞬《まばた》きを繰り返した。
「ここはどこ?」
「談合坂――山梨県だよ」
「どうして……」
「とりあえず、おまえの傷を治さなきゃならない。新宿は――都内は劉健一の目が光っていて安心して休めるところがないんだ。この先に、おれが知ってる別荘がある。そこで、傷が治るのを待とう。その間におれはなんとしてでも金を作る。おまえのパスポートも手に入れる。傷が治ったら、おまえは安心してこの国を出て行けるんだ」
「どうしてそこまでしてくれるの? わたしはあなたを裏切ったのよ」
「最初に裏切ったのはおれだ。また何様のつもりだといわれるかもしれないが、おれはそう思ってる。約束を守っておまえを迎えに行けばよかった。爺さんに手紙を書いてやるべきだった。だが、おれは日本人として生きていくのに必死で、すべてをないがしろにしてきた。大切なものをすべて切り捨ててきた。その結果が今のおれだ。おまえのいうとおり、地面に這いつくばっていきるしかないろくでなしだ。だが、おまえを救うことができれば、おれも救われる」
ルームミラーの隅に口を開きかける小文が映っていた。
「わかってる。おれは身勝手な人間だ。今までもそうだったし、これからもそうだろう。おまえにどれだけ馬鹿にされても蔑《さげす》まれても、おれはおれでしかない。自分のやり方でしか生きることができないんだ」
痛烈な批判の言葉を聞かされるのがいやで、おれはまくしたてた。
「昔のあなたは身勝手じゃなかったわ。少なくとも、わたしにとって阿基はだれよりも優しくて頼りになる人だった。変われば変わるものね。当たり前だわ。わたしだって変わったんだから」
小文は自嘲《じちょう》するようにいった。劉健一に殺されかかったという事実が小文を弱気にしているのかもしれない。
「いつ、日本に来たんだ?」
「五年前よ」
「なにがあった?」
「話したくないわ。少しスピードを落として。少し痛くなってきたわ」
いわれるがままに、おれはアクセルを緩めた。それっきり小文は口をつぐんだ。次に口を開いたのは大月《おおつき》ジャンクションをすぎた辺りだった。周囲には緑に覆われた山々が広がっていた。
「あの村に帰りたいと思ったことはある?」
「いや」
おれは静かに首を振った。
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別荘の表札が変わっていた。売りに出したか、差し押さえられたのか。いずれにせよ、合い鍵はおれの記憶した場所にあり、別荘は無人で、床に埃《ほこり》が積もっていた。少なく見積もっても、半年以上は使われていない。寝室を手早く掃除し、ベッドに小文を横たわらせた。小文の身体は熱かった。大量の発汗もある。医者にもらったモルヒネを注射してやった。小文が眠りに落ちるのを待って、別荘を出た。車で清里《きよさと》に出、食料や日用品、小文の着替えやパジャマを買った。
別荘に戻って来たときには目が霞《かす》みはじめていた。疲労の極致。ソファに横たわって目を閉じた。眠れない。羊を数える代わりに、知り合いの顔をひとつひとつ思い浮かべてみた。東京でトラブルを抱え、地方に散っていった同胞たち。横浜、宇都宮、前橋――関東は危険だ。劉健一の手が伸びていないとはいいきれない。名古屋、大阪、神戸――使えそうな人間を思い出した。張夏《ヂャンシァ》。日本人と組んだ金庫破りを専業にしていた男だ。一緒に仕事をしていた日本人とそのバックにいたやくざと揉め事を起こし、神戸に逃げていった。信条もなにもない悪党だ。金さえ積めばなんでもやってくれる。
神戸にはまっとうに働いている中国人の知り合いも何人かいた。記憶を掘り起こし、電話をかけた。張夏の携帯の番号を知らないか? 調べられないか? 折り返しの電話で番号を突き止めた。すぐに電話をかけた。
「歌舞伎町の阿基だ。覚えてるか?」
「韓豪の下で働いていた残留孤児だろう? 覚えてるぜ。なんの用だ?」
張夏の声は低い。警戒している様子がありありと伝わってきた。
「そっちの方で偽造パスポートを手に入れられないかと思ってるんだが」
「なにもわざわざおれに電話しなくても、東京ならいくらでもツテを持ってる連中がいるだろう」
「韓豪が殺された。こっちは滅茶苦茶な状態になってるんだ」
「そういえばそんな話を小耳に挟んだな……パスポートならなんとかなるぜ。金はかかるがな」
張夏は含み笑いをくわえていった。
「いくらだ?」
「日本人のパスポートなら百万。おれへの手数料に二十万ってとこかな」
実際にはパスポートが七十万、張夏が自分の懐にしまおうと考えているのが五十万というところだろう。東京よりは相場は低いはずだ。
「台湾や香港のパスポートは?」
舌打ちが聞こえた。自分の取り分が安くなるのが癪《しゃく》なのだろう。
「なら、パスポートは五十万だ」
「準備にどれだけかかる?」
「さてな……おれのパソコンのメールアドレス教えるから、デジカメで写真撮って、添付ファイルで送れよ。そうすりゃ一週間もかからねえ」
「パスポートが欲しいのはおれじゃないんだ」
「女か?」
間髪を入れずに張夏は訊いてきた。悪党はこのあたりの感覚が研ぎ澄まされている。
「ああ。それにわけありでな。手元にはデジカメもパソコンもない。一週間後にこっちが神戸に行くから、そのとき写真を撮ってパスポートを仕上げてもらいたいんだ」
「いろいろ厄介なんだな。よし、これからいう銀行口座に頭金として三十万振り込みな。入金が確認されたら手配してやる。連絡を取るのはこの携帯の番号でいいんだな」
「ああ」
張夏は都市銀行の支店名と口座番号を伝えてきた。それを控えておれは電話を切った。三十万――手元にそんな金はない。おれの部屋に残してきた百万も今では幻影とほとんど同じだった。劉健一の手の者が必ず見張っている。そんなところにのこのこ姿を現すことはできない。なんとしてでも金を作る必要がある。それも、早急に。
割符を引っ張り出した。これはもはや劉健一にはなんの意味もなさないと決めつけてきたが、おれたちを拉致した三人組はおれを殺そうとする前にこの割符を出させ、足元に捨てさせた。連中の態度から察すると、おれと小文を殺した後でこの割符を燃やすか引き裂くかするつもりだったのだろう。
つまり、この割符にはまだ意味がある。これがだれかの手に渡ることを劉健一は恐れたのだ。だれか――この割符を手に入れて林一族の援助を仰げる台湾人。新宿にも他の場所にも、東京にはそんな台湾人はいない。多くの悪党はバブルの崩壊を機に台湾に戻っていってしまった。
だれか――この割符は徐鋭の手に渡る前は楊偉民が持っていた。徐鋭は楊偉民を殺して割符を手に入れた。楊偉民。横浜で殺されたはずだ。なぜ楊偉民は住み慣れた歌舞伎町を離れて横浜に向かったのか。親族、親類、友人がいたからだ。
おれは跳ね起きた。華聖宮――馬曼玉の電話番号は知らない。陳志平の電話番号を思いだし、電話をかけた。
「陳先生ですか? 先日お話を伺いにお邪魔した武というものですが」
「おお、君か。どうしたのかね? また訊きたいことでもできたか?」
電話に出た陳志平は機嫌がいいようだった。
「先日の楊偉民のお話の中に割符のことは出てきませんでしたね?」
「割符?」
芝居をしているという声ではなかった。おそらく、陳志平の記憶からは割符のことはすっかり欠落しているのだろう。
「そうです。林文雄という人物が自分の後継者に託したという割符です。最初は葉暁丹という人物が所有して、後に楊偉民がそれを手にした」
「ああ、あの割符のことか。確かにそういうものはあったが、あれは途中から意味を失ったはずだが」
「割符はいま、ぼくが持ってるんです」
陳志平は絶句した。
「劉健一がこの割符を狙っています。彼には渡したくないんです。陳先生、楊偉民の親族か親類を知りませんか? できれば、この割符の意味を知っている人物がいいんですが」
答えはなかった。陳志平は沈黙している。おれは辛抱強く待った。
「横浜に郭昌明《かくしょうめい》という男がいる。訪ねてみるといい」
回線が切れたのかと思うほど待たされて、やっと陳志平の声が聞こえてきた。
「何者なんですか?」
「楊偉民のはとこかなにかの息子だ。たしか、楊偉民が殺されたとき、郭昌明の娘も一緒に殺されていたと記憶してるんだが……あの事件の直後、息子とその不良仲間を連れて娘の仇《かたき》を討つために歌舞伎町までやって来たと聞いたことがある。結局、なにもできずに萎《しお》れて帰っていったらしいが」
胸が高鳴った。逸る気持ちを抑えて静かな声で訊いた。
「どこに行けば――」
「中華街の〈龍鳳《りゅうほう》〉という店に行くといい。郭昌明の店だ」
「龍鳳ですね? ありがとうございます。このご恩は決して忘れません」
重ねて礼をいい、おれは電話を切った。胸の高鳴りはまだ続いている。娘を殺された男。殺したのは徐鋭だろうが、命令を下したのは間違いなく劉健一だ。割符の謂われを説明し、劉健一に復讐するチャンスが到来したのだと告げれば――金にはなるはずだ。
携帯を腿《もも》の上に置き、割符をポケットに戻した。携帯が振動した。メールが送信されていた。
「どこにいる? 話し合うことがあるんじゃなかったのか、李基?」
差出人の名前はなかった。メールアドレスも別のホットメールだった。馬遠ではなく、劉健一が自ら打ったメールだという確信があった。おれは携帯の電源を切り、再びソファに身体を横たえて目を閉じた。
今度は速やかな眠りが訪れた。
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* * *
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泥のように眠っていた。人の気配を感じて目覚めた。なにもかもが呪わしい――そんな目覚めだった。小文がおれを見おろしていた。おれが買ってきたパジャマに着替えている。肩をあげるのも苦痛だろうに、ひとりで着替えたのだ。その精神力の強さは敬服に値した。
「どうした?」
目をこすりながら身体を起こした。腕時計は午後七時を指している。
「お腹が減ったわ。それに、モルヒネが切れたみたい。痛くてしょうがないの」
「さっき、サンドイッチを買ってきた。それを食ってから抗生物質と痛み止めを飲もう。それでも痛みが治まらなかったら、またモルヒネを注射してやるよ」
医者からはモルヒネを頻繁に使うことは厳禁だといわれていた。しかし、苦痛に歪《ゆが》む小文の顔を間近で見せられるとそうもいってはいられない。
「着替えるの大変だったろう?」
キッチンに向かいながらおれは訊《き》いた。
「でも、服が汗で濡《ぬ》れてて気持ち悪かったのよ」
「もし嫌じゃなければ、あとで濡れたタオルで身体を拭《ふ》いてやるよ」
おれが寝ていたのはリビングダイニングだった。間仕切り代わりの食器棚の向こうがキッチンだ。冷蔵庫を開け、サンドイッチとオレンジジュースを取りだした。
「別に嫌じゃないわ」
小文のかすれた声を聞きながらコップを探し、水で軽く洗ってからオレンジジュースを注いだ。サンドイッチとコップを持ってもとの場所に戻った。
「あなたは食べないの?」
「さっき軽く食べたんだ」
「そう」
小文は顔をしかめながらサンドイッチにかぶりついた。食欲があるというのはいい傾向だ。小文の食事を横目で眺めながら、おれは薬の支度をした。痛み止めが二錠、抗生物質も二錠。胃が荒れる可能性があるから、そのときは市販の胃薬を飲ませるといいと医者はいっていた。その胃薬も清里で調達してある。
「いつまでここにいなきゃならないのかしら」
最後のサンドイッチを口に放り込んで、小文はいった。
「傷口が完全に癒着するまでだ。四、五日ってところかな。おまえが静養してる間に、おれはいくつかの仕事を片づける。パスポートも手配した。傷が治れば、おれが用意した金を持ってこの国を出て行けばいい。行き先は自由だ。アメリカでもヨーロッパでも」
「アメリカがいいわ。日本はもううんざり」
おれが手渡した錠剤を小文は一息で飲み下した。
「テレビはないの?」
「寝なくてもいいのか?」
「ずっと寝てたのよ。ちょっとぐらいいいじゃない」
リモコンでスイッチを入れた。NHKが映った。ニュース――埼玉県志木市での発砲・殺人事件。
「思い出したくもないわ。チャンネルを替えて」
「ちょっと待て」
小文を制してニュースに耳を傾けた。アナウンサーが単調な声で原稿を読み上げている。殺されたふたりの身元は不明。重傷を負って病院に運ばれたもうひとりの被害者の回復を待って、警察は事情を訊く予定。もうひとりの被害者――では、おれが腹を刺したあの男は死んではいなかったのだ。
これで、なぜあんなにも早く劉健一がおれたちの行き先を察知し手配できたのかがわかった。生き残った男が連絡を入れたのだ。
アナウンサーの声はまだ続いていた。現場には発見された三人以外の血痕が残されている。他にも被害者がいる可能性を含めて、埼玉県警は捜査に全力を挙げている――要するに、警察はなにも掴んでいない。
チャンネルを切り替えた。野球中継にバラエティ――ろくな番組がない。旅番組が映ったところで小文がうなずいた。石和《いさわ》温泉を特集している番組だった。小文は口も開かずに画面に見入りはじめた。おれはサンドイッチの包装ビニールとコップを持ってキッチンに向かった。ゴミを捨て、コップを洗い、お湯を沸かす。ティーバッグで烏龍《ウーロン》茶を淹れ、リビングに戻った。
「この温泉ってここの近くなの?」
「車で一時間と少しってところかな」
「傷が治ったら行ってみたいわ。わたし、日本で一番好きなのは温泉宿。日本のいいところだけが凝縮されてるような気がして……でも、もう二年近く行ってないけど。阿基は温泉にはよく行った?」
おれは首を振った。
「勤め人だったころに、社員旅行で行ったことがあるだけだ。酷《ひど》い旅館だった。二度と温泉になんか行くかと思ったよ」
「わたしよりずっと長く日本にいるのにもったいないわね。温泉に浸かれば傷も早く治るかしら?」
「どっちにしろ、傷口がくっつくまではどこにも行けないよ」
小文は不機嫌そうに口を閉じた。おれからリモコンを奪うように取り、テレビを消した。挑みかかるような視線をおれに向けてくる。
「つまらないことばかりいうのね。昔の阿基はそうじゃなかったわ」
「昔のおまえももっと素直だった」
おれは小文の視線を受け止めた。おれたちは見つめ合ったまましばらく動かずにいた。記憶が溢れ出そうとしている。小文も同じなのだろうか。
「身体を拭いて。汗でべとべと」
先に目を逸らしたのは小文だった。
「痛みは?」
「少し引いてきたみたい」
おれはうなずき、今度はバスルームを目指した。洗面台の下に棚があり、丁寧に畳まれたバスタオルやフェイスタオルが詰め込まれていた。フェイスタオルをふたつ取り、お湯に浸して軽く絞った。リビングに戻ると、小文はパジャマのボタンをすっかり外していた。肩に巻かれた包帯が痛々しい。
「傷口に響くようだったらいってくれ」
おれの言葉に小文は小さくうなずいた。おれは剥き出しの肌や乳房に目がいかないように顔を背けながら濡れたタオルを握った手をパジャマの下に差し入れた。
奇妙な時間が流れる。性的な空気はどこにもなかった。小文はおれに身を委《ゆだ》ね、おれは小文を裏切るまいと機械的に身体を拭いていった。
「昔もこうやって身体を拭いてもらったことがあったわ」
小文はいった。目は穏やかに閉じられている。
「そうだったか?」
「わたしが熱を出して倒れたの。収穫の季節だったから大人たちはみんな畑に出なきゃならなくて、それで阿基がずっとわたしのそばにいて、こうやって身体を拭いてくれたのよ」
そんなこともあったのかもしれない。小文との想い出はあまりにも多すぎて、すべてを思い出すにはそれなりの時間が必要だった。
「昔のようにずっとそばにいてくれるの? 傷が治るまで?」
「そうしてやりたいが、片づけなきゃならない仕事があるといっただろう? 金を作るために、明日は出かけてくる。夜までには戻るよ」
「危険なことをするの?」
「新宿には――劉健一には近づかない」
劉健一の名を出した途端、小文の目がぎらりと光った。裏切りに対する怒りが目の奥で燃えている。
「わたしの代わりに劉健一を殺してくれる?」
おれは首を振った。
「おれはそういうタイプの人間じゃない」
「自分を裏切ったわたしのためにここまでしてくれてるのに?」
「おれは変わった。おまえも変わった。だが、そんなことはどうでもいい。おれの頭の中にあるのは昔の小文だ。いつも微笑みながらおれの後をついてきたあの可愛い小文のためにおれは自分のことも顧みずにこんなことをやってる。あの小文はもういない。わかっていても、おれの心はあのころに縛りつけられてる。さっきもいったように、故郷に帰りたいと思ったことはない。実のところ、おまえのことだってあの店でおまえに会うまで思い出しもしなかった」
なんとか上半身を拭きおえた。パジャマのボタンをとめてやりながら、目で下半身はどうするかと訊いた。小文は躊躇せずにうなずいた。裾から手を差し込むというわけにもいかない。おれはパジャマのズボンを脱がせた。小文は下着も替えていた。おれが買ってきたのは木綿の普通のショーツだ。しなやかに伸びた脚を眩《まぶ》しく思いながら、おれはもうひとつの濡れタオルで拭《ぬぐ》いはじめた。
おれの告白は、その流れの中で宙を漂い、行き場を失って惨めに消えていった。あのときおれが口にした嘘に、小文は気づいていたのだ。
「話を続けてよ」小文がいった。「わたしに会うまで思い出しもしなかった。それなのに?」
「おまえに会って、想い出がよみがえった。想い出だけじゃない。忘れよう、封印しようとしていたものが噴き出てきた。なんのことはない。日本で暮らしてきた十数年をいきなり否定されたようなものだ」
右脚を拭い終え、左脚に持ち替えた。
「日本でどうやって過ごしてたの? 話して」
小文の声は穏やかだった。拉致された車の中での激昂した口調はすっかり消えている。
おれは何度も言葉をつかえさせながら語って聞かせた。偽りの経歴を補完するためにやってきた血の滲《にじ》むような、しかし無益だった努力。幾重にも糊塗した経歴に縋りつきながらなにかの影に怯えながら生きていた日々。バブルの狂乱とその崩壊。首を切られ、路頭に迷い、歌舞伎町に流れ者いた経緯。美Lとの出会い、美Lの死。歌舞伎町に流れた噂――おれが自分が生きのびるために美Lを殺した。矢島の出現、犬としての暮らし。韓豪たちと手を染めた揺頭稼業。韓豪の死。劉健一との出会い――。
「なるほどね」
すべてを語り終えると、小文はしたり顔でうなずいた。脚はすでに拭いおえていた。
「なにがなるほどなんだ?」
「劉健一があなたを気に入って、でも結局見限って殺すことにした理由」
「噂のせいだろう」
「そうよ。あなたのこと褒めてたもの。臆病《おくびょう》でいいって」
「臆病っていうのが褒め言葉なのか?」
「劉健一にとってはね。自分と同じ過去を辿《たど》ってきた人間だと思ってたのに、そうじゃなかった。だから失望したのよ。激しくね。自分はそんなタイプじゃないってさっきいってたけど、そんなこといってる場合じゃないわよ。あの人は必ずあなたを見つけ出して殺すわ」
理由は訊かなくてもわかっていた。そうせずにはいられないのだ。そうすることが劉健一にとっての摂理なのだ。
「おれのことはすべて話した。今度はおまえの番だ。話してくれ」
「聞いてもつまらないわよ」
小文はそういって唇を結んだ。頬が頑なさを現して強張《こわば》っている。
「そうか……」
おれは諦めて腰をあげた。小文のパジャマをはき直させ、濡れタオルを手に取った。
「よくある話よ」小文は横を向いたまま口を開いた。「男に騙されて売り飛ばされそうになって、逆上してその男を殺したの。それを耳にした劉健一が逢《あ》いに来たのよ。それから……いろいろ教育されたわ。そして、徐鋭の女になるようにいわれたの」
「劉健一を愛していたのか?」
「そんなんじゃないわ。あの人はそんなもの必要としてないもの。ひとりで生きていけるの。完結した世界の中で生きてるから、ひとりでも寂しくないのよ。一度訊いたことがあるわ。寂しくないのって。あの人はぽかんとしてた。きっと、わたしのいってることが理解できなかったんだわ。ひとりぼっちでわたしたちの世界に戦いを挑んでるのよ。だれもそこに入り込む余地はないの。あの人に裏切られて殺されかかったからってわたしが恨んでも、きっと鼻で笑い飛ばしてるわ」
まくしたてるように喋《しゃべ》り、小文は唐突に口を閉じた。表情に頑なさが残っている。だが頬から目尻にかけてのラインに、力強さはもうない。小文の中でなにかが崩れはじめている前兆だった。崩壊は一度はじまれば、すべてを呑みこんでいくだろう。
「劉健一のようになりたかったんだな?」
小文を見おろしながらおれはいった。小文は堰《せき》を切ったように泣き出した。
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小文を抱いて寝た。感情を制御できずに泣き続ける小文にモルヒネを打ち、ベッドに運び、そのままおれの腕の中に抱え込んで眠った。小文はときおり寝言をいった。
「阿基……」
弛緩《しかん》した口から流れてくる声はあのころの小文のものと寸分違わぬようにおれには聞こえる。
「まだ帰りたくないよ……もっと遊ぼうよ」
暗闇の中で、おれは飽きることなく小文の寝顔を見つめていた。小文に頭の中で語りかけつづけていた。
あの山はおれの記憶にあるのと同じ姿でまだあそこにあるのだろうか。あの畑は、牛小屋は、村人たちの家々は。小文、おれたちはあまりに遠くに来すぎてしまった。金のため、豊かな暮らしのため。だが、ここにはなにもない。あるのは空虚な繁栄だけだ。小文、帰ろう。いつの日か、あの村に帰ろう。暮らすわけじゃない。一目見るためだけに帰るんだ。自ら捨て去ったつもりでその実失ってしまったものを胸に刻もう。自分たちの愚かさを噛みしめよう。小文、小文、おまえはどれだけ覚えている? おれと同じようにすべてを鮮明に思い浮かべることができるか?
自分の身勝手さはよくわかっている。自分の思いを小文に押しつけることの愚もよく弁えている。それでも、心の深いところから湧き出てくる言葉を押さえつけることはできなかった。
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昨日の内に買っておいた炊いた白米を使って大量に炒飯《チャーハン》を作った。小文が空腹を感じれば、これを電子レンジで温めればいい。傷への負担にもならないだろう。炒飯に飽きれば、冷蔵庫の中にはまだサンドイッチがあるし、カップ麺も用意してある。
「本当に大丈夫なの?」
ベッドから抜け出てきた小文がリビングの入口に立っていた。
「ああ。危険なことはなにもない。金をかかえて戻ってくるさ」
「心配だわ。阿基、あなたが持ってる携帯の番号教えて」
おれたちが持っている携帯はお互いに自分たちのものではなかった。番号を調べ、お互いに電話をかけ合って番号を登録した。
「痛みが耐えられなかったらモルヒネを使うといい。ただし、あまり使いすぎると――」
「大丈夫よ。まだ熱くてじくじく痛むけど、昨日ほどじやないわ。我慢できる」
「そうか。じゃあ、飯は――」
「昔の小文と今の小文は違うのよ。いちいち説明されなくても自分でちゃんとできるわ」
小文は拗《す》ねた口調でいった。
「すまん。おれは昔のことに縛られすぎてるようだな。とにかく、二、三時間置きに連絡を入れる。戻ってきたら、包帯も取り替えてやるよ」
「戻ってくるときに買ってきてもらいたいものがあるのよ」
小文は視線を足元に落としていいにくそうだった。
「なんだ?」
「生理用のナプキン。もう少しではじまりそうなの」
小文よりおれの方の顔が熱くなった。
「わかった。買ってくるよ」
おれは逃げるように別荘を出た。セドリックに乗りこみ、エンジンをかける前にグラブボックスを開けた。昨日は逃げるのに必死でなにも調べなかったが、セドリックはレンタカーではなかった。ということは所有者がいるということだ。グラブボックスの中を改めて驚いた。セドリックはレンタカーでもだれかの所有者でもない。東京郊外にある中古車販売業者の名義になっている。つまり、このセドリックは買い手を待っている車なのだ。
劉健一のコネクションの大きさをまざまざと見せつけられたような思いだった。しがない情報屋などとはとんでもない。ありとあらゆる暗がりで目を光らせている闇の世界の支配者だ。
戦慄《せんりつ》に顫《ふる》えながらエンジンをかけた。車を替えたかったが、レンタカーを借りるのは危険にすぎた。他人の車を盗むノウハウもおれにはない。どこまでも中途半端だと自嘲しながらアクセルを踏んだ。バックミラーに窓越しにおれを見つめている小文が映っていた。
中央道をゆっくり走り、八王子で一般道に出た。標識を頼りに八王子バイパスを経由して国道十六号を南下した。朝が早いせいか、別荘を出て二時間しか経っていない。信号での停止時間を利用して、携帯のiモードで〈龍鳳〉の電話番号と住所を調べた。便利な世の中だ。劉健一の情報網もその多くを携帯電話に頼っている。
山下町の地下公共駐車場にセドリックをとめ、徒歩で中華街に向かった。〈龍鳳〉はすぐに見つかった。こぢんまりとした家庭的な店を予想していたのだが、五階建てビルの大きなレストランだった。準備中の札は出ているが、ぴかぴかに磨き上げられた自動ドアの向こうで黒いスーツに身を包んだ男が予約リストに目を通している。先に電話で連絡を取るべきかと迷ったが、結局、それはやめにした。
「すみません。営業は十一時半からなんですけど」
店の中に入ると、スーツの男が顔をあげた。
「それはわかってます。郭昌明さんにお会いしたいと思って訪ねてきたんですが……」
「おやじにですか?」
男は右の眉《まゆ》を吊《つ》り上げた。ドア越しに見たときに感じたよりはずっと若い。かつては不良だったという話もうなずけるほど目つきが鋭かった。
「武基裕といいます。楊偉民さんの割符のことでお話がしたいと伝えていただけませんか?」
もともと鋭かった男の目つきが途端に険しくなった。
「楊偉民だって? あんた、何者だ?」
「郭昌明さんにわたしが来たことを伝えてもらえませんか?」
おれは辛抱強くそういった。目の前の男の覇気はなぜかは知らないがおれを苛立たせる。
「親父は病院だよ。話があるならおれが聞く。おれは郭昌信《かくまさのぶ》。郭昌明の息子だ」
「重い病気なんですか?」
「膵臓《すいぞう》癌だよ。まだ五十代なのにな。酒の飲み過ぎさ。やめろったって聞きやしない――」
「お父さんに会いに来たんです。病院を教えてもらえませんか?」
郭昌信を遮っておれはいった。この男と取り引きするつもりには到底なれなかった。郭昌信は舌打ちしておれを睨めつけた。おれが動じないと悟ると、再び舌打ちして上着を脱ぎはじめた。
「おい。ちょっと出かけてる」
だれにともなく声を張りあげ、出かけようというように店の外に顎《あご》をしゃくった。
「この先におれの車がとめてある。それで病院に行こう」肩を並べて歩きながら郭昌信はいった。「あんた楊のおじさんとどういう関係だったんだ?」
「関係はない。ただ、楊偉民が大切にしていたものが、たまたま今おれの手元にあるというだけの話だ。それに関して、君のお父さんと話し合いたいと思ってる」
「おれの妹は楊のおじさんと一緒に殺された。知ってるか?」
おれはうなずいた。
「うちの爺さんはそれがショックで後を追うように死んじまった。親父は酒浸りだ。もう、何年も厨房《ちゅうぼう》に立ってない」
おれはもう一度うなずいた。
「あんたがここに来たのは、楊のおじさんと妹の死に関係があるんだろう?」
おれはうなずかなかった。ただ真っ直ぐ前を見つめ、淡々と歩いた。
「おれのことを若造だと思って舐《な》めてるのか? 今でもおれが一声かければ、この辺りの若い連中が二十人は集まるんだぜ」
「君のお父さんと話をするためにおれはここに来たんだ」
郭昌信は不服そうに唇を尖《とが》らせたが、それ以上はなにもいわなかった。
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病床の郭昌明は幽鬼のように痩《や》せていた。鼻の穴や腕から何本ものチューブが伸び、虚ろな目で息子を見あげている。失望がおれの胸に広がった。この様子では郭昌明にはなにも期待できない。
おれの来意を告げ終えた郭昌信が振り返り、おれを手招きした。
「あんた、あの割符を持ってるのか?」
郭昌明はひび割れた声で訊いてきた。一言発するだけでも体力が消耗していくようだ。おれは黙ってうなずいた。
「あれの意味も知ってるのか?」
「割符があなたか息子さんのものになれば、台北の林一族からの援助が期待できます。つまり……あなたたちは娘さんの復讐《ふくしゅう》を果たす機会を得ることができる」
おれは郭昌明の耳に口を近づけ、低く抑えた声で告げた。郭昌信が話を聞き取ろうとしていたが、多分、彼の耳には届かなかったはずだ。
「あんたの持ってるものが本物だという証拠はどこにある?」
「徐鋭が後生大事に持っていたものです。おれがやつから直接奪いました。あなたの娘さんを殺した男から、です」
郭昌明は目を剥《む》いた。浅く早い呼吸を繰り返しながら宙の一点をじっと見つめる。布団の下で胸がゆっくり隆起しては沈む。まるで穏やかな発作を起こしているかのようだ。
「なにをいったんだ? おい」
郭昌信が父親を見つめながらおれに詰め寄ってきた。おれはそれを無視して郭昌明の返答を待った。
「おい、おれの話を――」
「待て――」
なおもおれに詰めよろうとする息子を、郭昌明は萎びたミイラのような腕を伸ばして制した。痩せ細った腕に無数の血管が浮かびあがっている。まるで骨にまとわりつく小さな蛇のようだ。郭昌明の皮膚の内部に潜り込み、肉を食い荒らして骨をしゃぶっている。
「いくら欲しいんだ?」
即答はしなかった。龍鳳の店構えを思い、郭一族が蓄えているだろう金額を想像した。
「一千万」
ゆっくり口を開いた。郭昌信が驚愕《きょうがく》のせいで目尻《めじり》を吊り上げた。父親の方はやっとわかる程度にうなずいた。
「昌信、この人に金を渡してやるんだ」
「なに考えてるんだ、親父? 一千万だぞ。そんな大金を見ず知らずの男にくれてやれっていうのか?」
「それだけの価値はある。金と引き替えにこの人からあるものを受け取ったら、すぐここに戻ってこい。銀行にはおれから話をしておく」
そう話す郭昌明の顔に血色が戻っていた。消えかけていた命の灯が、復讐の機会を得たことで再び激しく燃え上がっている。
「だけど――」
「ぐずぐずいわずに早く行ってこい」
父親の剣幕に、郭昌信は驚きと嬉《うれ》しさを露《あら》わにしながら踵《きびす》を返した。
「わかったよ。だけど、後できっちり説明してもらうからな」
息子の血気盛んな捨て台詞《ぜりふ》も、父親の耳に届いているとはいい難かった。郭昌明は宙を睨んだまま微動だにせずになにかに思いを巡らせていた。
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父親との会話の真意をしつこく問い質《ただ》してくる郭昌信をおれは無視し続けた。親父さんに後で聞けよ――その一点張り。やがて郭昌信も諦めた。だが、横顔に宿る不満は隠しようもない。おそらく、本人も隠すつもりはない。
途中で郭昌信の携帯電話が鳴った。郭昌信は相手を確かめもせずに電話に出た。
「もしもし? どうしたんだよ――ん? ああ、わかったよ。それで?」
郭昌信はおれをちらりと見ただけで、電話を続けた。会話はすぐに終わった。
中華街の近くに横浜銀行の支店があった。郭昌信はさも当然という顔で「職員専用」と書かれた駐車スペースに車をとめ、乱暴な足取りで銀行に乗りこんでいった。郭昌明が電話で指示を出していたのだろう。おれたちはすぐに応接室に通された。
「郭様、お父様から電話がありまして……すでにお金の方は用意してあります。通帳と印鑑はお持ちになっていただけてますでしょうか?」
いかにも銀行の中間管理職といった中年がおれたちを待っていた。郭昌信は脇に抱えていたセカンドバッグから通帳と印鑑の入った小さな巾着《きんちゃく》を取りだした。
「ちょっと手続きを済ませてくる。ここで待っていてくれ」
郭昌信はそういい残して、銀行員と一緒に応接室を出て行った。煙草を吸いたかったが、灰皿はどこにも見当たらなかった。ふたりはすぐに戻ってきた。金は予《あらかじ》め用意されていたのだろう。郭昌信が銀行の手提げ袋を持っていた。
郭昌信は挑むような眼差しでおれに向かってきた。手提げ袋をテーブルの上にわざとらしく置いて口を開いた。
「一千万ってのは大金だ。わかってるか?」
「小さい額じゃないが、多すぎる額ってわけでもないだろう」
おれはいった。
「これが欲しかったら、なにがはじまったのか説明しろ」
「親父さんに訊けといっただろう」
「あんたの口から聞きたいんだよ」
「妹さんの弔い合戦をするチャンスをおれが持ってきてやったのさ。これ以上は話せない。さ、金を渡してくれ」
「本当にそんなことができるのかよ? あれから何年も経ってるのに、結局なにもできなかったんだぞ」
「できると信じたから、親父さんはおれに金を払うことにしたんだろう」
郭昌信は唇を噛《か》んだ。歯の当たった場所から血の気が失せていく。おれは郭昌信が決断を下すのを待った。郭昌明があの状態なら、この数年、店を切り盛りしてきたのは郭昌信なのだろう。自分が苦労して稼いだ金を理由もわからず他人に与えるために、自分を納得させるなにかが必要なのだ。
「わかったよ。持っていけばいい。おれが受け取るものってのはどこにあるんだ?」
応接室の壁時計の短針が一回りする直前に、郭昌信は口を開いた。おれはポケットから割符を取りだし、郭昌信の手に押しつけた。
「なんだ、こりゃ?」
「あんたたちが復讐行をはじめるための切符さ」
おれはいい、手提げ袋に手を伸ばした。郭昌信は割符を凝視している。
「こんなものが? こんなものに親父は一千万も払えといったのか? 呆《ぼ》けちまったんじゃないだろうな?」
「それのためにもう何人も死んでる。あんたの親父さんの頭はしっかりしてるよ。それと、親父さんに伝えてもらいたいことがもうひとつある」
眉をひそめた郭昌信に、おれは参宮橋にある劉健一のマンションの住所と部屋番号を告げた。
「なんだ、それは?」
「ある人間の隠れ家だ。そこにだれもいなければ、大久保の華聖宮へ行ってみるといい」
早口でいって、おれは紙袋を手にしたまま応接室を出た。郭昌信の声が追いかけてくることはなかった。
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駐車場の車の中で金を改めた。帯封をされた札束が十個。ぱらぱらとめくってみただけだが、すべては本物のようだった。シートの背もたれに身体を預けて目を閉じた。小文のパスポートを作るのに百万を引いたとしても九百万がまるまる残る。小文にしてみれば充分な額だとはいえないかもしれないが、日本以外の場所で再出発をする資金としては少なすぎるわけでもない。これがタイやマレーシア、インドネシアなら大金だ。
駐車場から車を出して携帯で小文に電話をかけた。一回目の呼び出し音が鳴り終わらない内に回線が繋がった。
「もっと早く電話をくれると思ってたのに」
「すまん。少し立てこんでたんだ。傷の具合はどうだ?」
「まだ痛むけど、モルヒネは使ってないわ。ちょっと寝て、痛くて起きて、その繰り返し。早く帰ってきて、阿基」
「これからそっちに向かう。道が混んでなければ三時間ぐらいで戻れるはずだ。小文、金が手に入ったぞ。一千万だ。充分じゃないだろうが、これでなんとかなる」
「ありがとう、阿基。やっぱり阿基はわたしの阿基だわ。待ってるから。はやく帰ってきて」
どことなく湿った言葉を残しながら、小文は電話を切った。甘い感情は湧いてこない。寂蓼感《せきりょうかん》があるだけだ。いや、寂蓼というよりは空虚か。小文はこの金を持って新天地に向かう。だが、おれは? おれはどこに行けばいいのだろう?
答えの見つからない問いを持て余して、おれは車を発進させた。
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* * *
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国道は混雑していたが中央道は比較的すいていた。小淵沢《おぶちざわ》のインターチェンジを降りたのは午後五時過ぎだった。一度も休憩を取らずに運転をし続けたせいで背中の筋肉が強張っていた。街道沿いのガソリンスタンドに車を乗り入れ、隣接していたコンビニで買物をすませてからもう一度小文に電話をかけた。
「もう少しでそっちに着く。ナプキンの他になにか欲しいものはあるか?」
「お金を作ってくれただけで充分よ。早く帰ってきて」
小文の声は軽く響いた。まるでクスリかなにかで飛んでいる者のような声だ。もしかすると、痛みに耐えかねてモルヒネを使ったのかもしれない。
「すぐに戻る。ベッドで横になって待ってるんだ」
電話を切り、ガソリンの代金を支払う。意志に反して足がアクセルペダルを床まで踏みつけそうになる。なんとか制限速度を遵守しながら八ヶ岳の別荘を目指した。陽が落ちかけた空に分厚い雲が垂れこめはじめている。夜には雨になりそうな雰囲気だった。
別荘が建ち並ぶ一画に入り込んだときには陽はすっかり落ちていた。季節外れの別荘地は闇にくるまれて息をひそめている。ヘッドライトに浮かびあがるのは枯れた樹木だけだ。車を駐車スペースに停め、手提げ袋を両手で抱えた。斜向かいの別荘にミニバンが一台停まっていた。建物からかすかに明かりが漏れてきている。季節外れの別荘ライフを楽しむ人間か。酔狂な連中はどこにでもいる。枯れ葉を踏みしめる度にかさついた音がする。雨の予兆の風がその昔を運び去っていく。インタフォンも押さずにおれは玄関を開けた。廊下は暗かったが、リビングの方から漏れてくる光がフローリングの床を照らしていた。リビングから漏れてくるのは明かりだけではなかった。テレビの音も聞こえてくる。どうやらニュース番組のようだった。
「小文、戻ったぞ」
声をかけながら廊下を進んだ。明かりはつけなかった。小文からの応答はない。さっきの電話の声――モルヒネの効果でテレビをつけたまま眠っているのかも知れない。小文を起こすのが躊躇《ためら》われて、おれは無言でリビングのドアを開けた。煌々《こうこう》とした照明に目が眩《くら》んだ。ソファの肘掛《ひじか》けの上に小文の豊かな髪の毛があった。やはり、テレビをつけたまま眠っている。手提げ袋を足元に置いてソファに向かおうとした。なにかが不自然なことに気づき、視線を下に落とした。影が三つ、フローリングの床に張りついている。おれの影ともうふたつ。斜向かいの家に停まっていたミニバンが脳裏を掠《かす》めた。偶然がそんなに簡単にあるわけがない。あれは――
顔をあげる前に後頭部に銃を突きつけられた。驚きや怒り、恐怖といった感情は湧かなかった。ただ、失望と落胆があるだけだった。この場所を劉健一が知る手だてはない。ということは、小文が劉健一に教えたのだ。それ以外にはあり得ない。四肢から力が抜けていく。冷気が忍び込んでくる。真冬の路傍に転がっている石のように、おれはゆっくりと確実に冷えていく。感情さえ凍りついていく。
最初の電話に出た小文の湿った声。あれはおれに対する後ろめたさだったのだろうか? おれよりも劉健一を選んだ自分を憐《あわ》れんでいたのだろうか?
今となってはそんなことはどうでもいい。おれは小文との約束を果たせなかった。おれが小文のためにしたあれやこれや、すべてが無意味なことだった。
「殺したのか?」
凍りついたままの姿で背後の男たちに訊いた。もちろん、中国語で。
「寝ているだけだ。クスリを打ったんだ。ふたりとも生きて連れてこいという命令なんでな」
低い中国語が右の方から聞こえてきた。
「もちろん、命令したのは劉健一なんだろうな?」
今度は答えがない。後頭部に突きつけられた銃口もまったく動かなかった。
「おまえが持っているものを最初に受け取っておけといわれた」
左から聞こえてきた中国語は女のそれのように細く高かった。
「出せ。ゆっくりとな」
低い声が聞こえた。
「残念だが、あれはもう他人の手に渡ったよ。劉健一にそう伝えるといい」
おれはいった。割符がないということになれば、劉健一はおれを殺させるかもしれない。それでもかまわなかった。おれ自身の生死はもうどうでもよい。この十数年、空虚な生を歩んできた。このまま生きながらえたとして、おれにどんな世界が用意されているというのか。小文はおれの希望だった。おれに差し出された救いの手だった。無間地獄のような世界から抜け出すための。偽りの経歴にしがみついて空っぽになっていたおれ自身を取り戻すための。
だが、そんなものはおれの勝手な思いこみにすぎなかった。すべてを捨てて顧みもせずに、日本へやって来たときから、おれはあらゆる救いから見放されていたのだ。煉獄《れんごく》で暮らすことのみを約束されていたのだ。
「無駄な足掻《あが》きはやめてすんなり渡した方が自分のためだぞ」
甲高い声がさらに高くなった。
「信用できないというなら、自分で確かめたらどうだ。おれを殺してからゆっくり探せばいい。だが、ないものはない。あそこの手提げ袋を見てみろよ。あれがその証拠といえば証拠だ」
銃は相変わらず後頭部に突きつけられたままだった。怒気を漂わせていた濃密な人の気配がふっと薄れた。足音はしなかった。ただ、手提げ袋が持ち上げられる音がしただけだ。
「金が入ってる」
低い声がそう告げた。後頭部に押し当てられた銃口の圧力が増した。
「どこにやった? だれに渡したんだ?」
「おれに訊くより、劉健一に連絡した方が早いぜ。おれは絶対になにも喋らない」
「おれたちに根性を見せつけようってつもりか? ふざけるなよ。拷問の手口ならおまえが想像もつかないぐらい知ってるんだ」
うなじに甲高い声の男の唾《つば》が飛んできた。激昂した声を聞くまでもない。すぐに興奮する質《たち》なのだ。
「好きにしろよ」
おれはいった。拷問に耐える自信などもとよりない。ただ、すべてがどうでもいいだけだ。
「この野郎――」
「やめろ。無傷で連れてこいっていわれてただろう」
甲高い声を低い声が制した。
「だけどよ――」
「命令を無視した連中がどうなったか、おまえもよく知ってるだろう」
低い声に続いて携帯のボタンを押す電子音が聞こえてきた。音がしたのは二度。着信か発信の履歴を出し、目的の番号を見つけて発信ボタンを押す。電話はすぐに繋がったようだった。
「おれです……はい、確保しました。ただ、問題が……ええ、やつはなにも持ってないといっています。だれかに渡したと。代わりに金を持ってました。一千万はあるんじゃないかと……わかりました。そうします。この時間帯だと、そっちには十時前には到着できると思います」
電話を切る音と甲高い声の男が舌打ちする音が同時に聞こえた。
「すぐにそのふたりを連れていくぞ」
「わかってるよ」
怒りと不満を露わにした甲高い声が耳許で響き、銃口が頭から離れていった。反射で肩から力が抜ける。その瞬間を見計らったように、鳩尾《みぞおち》を殴られた。耐えがたい激痛が全身を貫き、床に倒れ込んで身体を丸めた。頭を抑えられ、尻を蹴飛ばされた。首筋に冷たい感触――かすかな痛み。注射だと気づいた直後、おれは暗闇に呑みこまれていた。
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黒い夢を見た。おれの脳裏に映るモノクロの映像。ところどころが真っ黒に塗り潰《つぶ》されている。背景は故郷の山々だ。雪の代わりに真っ黒な煤《すす》に覆われている。祖父が山裾からゆっくりこちらに向かってくる。祖父の顔は真っ黒に塗り潰されている。目と鼻と口のない真っ黒なのっぺらぼう。服の袖《そで》から伸びている干涸《ひか》らびたような両手のディテイルがそれが祖父だとおれに教える。
祖父はなにかを喋っている。目と鼻と口のない顔でおれを詰《なじ》っている。なぜだか、おれにはそれが明瞭《めいりょう》にわかっている。
「どうして戻ってきてくれなかったんだ?」祖父はいう。「どうして迎えに来てくれなかったんだ? どうして死に目にすら会いに来てくれなかった?」
抑揚のない声が、壊れたレコードのように同じ内容を繰り返しながら近づいてくる。祖父の真っ黒に塗り潰された顔。その顔を思い出しさえすれば、祖父の声は消える。理由もなくそう理解し、おれは思い出そうと努める。
思い出せない。なにも思い出せない。祖父の髪の毛の生え方も、顔の皮膚の色も、目や眉の形も、耳の位置も、鼻の大きさも、唇の色も、すべては闇に塗り潰されている。
やめてくれ――おれは懇願する。爺ちゃん、頼むからやめてくれ。だが、おれの声はのっぺらぽうには届かない。のっぺらぼうには耳がない。耳があるはずの場所にはただ漆黒の闇があるだけだ。
のっぺらぼうの祖父は少しずつ、確実に近づいてくる。おれは耳を塞《ふさ》いでしゃがみ込む。聞きたくない。見たくない。だが、わずかな隙間を見つけて祖父の声は耳に流れ込んでくる。閉じた瞼《まぶた》を突き抜けて祖父の真っ黒な顔が網膜に焼きつく。
おれは顫える。胎児のように丸まって、がたがたと顫え続ける。祖父の声は近づいてくる。祖父は確かに近づいてきている。だが、その声が耳のすぐそばで聞こえることはない。近づいてきているはずの祖父の気配を間近に感じることもない。
おそるおそる顔をあげる。祖父は近づいてきている。だが、決しておれまで辿り着くことはない。無限に続く道を、永遠におれの方に向かって歩き続けている。祖父の後ろに別ののっぺらぼうが現れる。女ののっぺらぽう。祖父と同じように目と鼻と口のない顔は真っ黒に塗り潰されている。ぴったりとしたTシャツが浮かびあがらせる身体の線が、それが美Lだとおれに告げる。
祖父の声に美Lの声が重なる。
「どうしてわたしだけが死んだの? どうして阿基はひとりでそこにいるの? どうしてわたしのことを忘れたの? どうしてそんな酷いことができるの?」
美Lの声は呪詛《じゅそ》に満ちている。おれを語る祖父の声とおれを呪う美Lの声が二匹の蛇のように絡み合い、のたうち回っておれの耳を直撃する。おれの心を締めつける。
ゆるしてくれ、ゆるしてくれ、ゆるしてくれ――おれは叫ぶ。もちろんおれの声はだれにも届かない。美Lの顔にも耳はない。だれにも聞かれず、だれにも理解されず、だれにも受け入れられないおれの言葉がモノクロの世界を漂っている。
美Lの背後にまた影が現れる。小文だ。確かめなくてもおれにはわかる。小文の顔も真っ黒に塗り潰されている。
「阿基、どうしてわたしとの約束を守ってくれなかったの? どうして迎えに来てくれなかったの? どうしてわたしのことを忘れていたの? どうしてそんなに身勝手なの?」
ゆるしを乞《こ》うことも、恐怖に顫えることもできず、おれは呆然《ぼうぜん》と立ち尽くす。どれだけ記憶に意識を集中させても、祖父の顔も美Lの顔も、小文の顔すらおれは思い出せない。おれはなにもかもを忘れ去り、都合のいいことだけを記憶のプールに貯めこんでいる。
小文の背後にまた影が現れる。その影の後ろにまた影。その影の後ろにまた影。真っ黒に塗り潰された顔の無限の列。おれが打ち捨てた人々の呪詛。おれが切り捨てた者どもの絶望に歪んだ声。影はとどまることなく増えていく。おれの視界を漆黒の闇で塗り潰す。視界いっぱいに広がった闇がおれを呑みこもうと巨大な顎を広げる。顎の奥も漆黒の闇。
闇の中心に劉健一がいる。闇と同化しながら、たしかにそれとわかる意識がそこにある。漆黒の劉健一はおれを嘲笑《あざわら》っている。祖父の声が、美Lの声が、小文の声が、無数の人々の声がおれに襲いかかる。
「やめてくれ。おれはおれにできることをしてきただけだ。おれはおれでしかない。おれに他になにができたというんだ!?」
おれは絶望の叫びをあげた。
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自分の声で目覚めた。険が重い。まるで糊《のり》かなにかでくっつけられたようだ。無理矢理目を開けた。小文がおれを覗《のぞ》きこんでいた。悲鳴をあげかけて、呑みこんだ。小文の顔には目と鼻と口がついている。黒く塗り潰されたりはしていない。
「だいじょうぶ、阿基? すごくうなされていたわ」
それで自分が夢を――悪夢を見ていたことを認識した。全身が汗で濡れている。後頭部と鳩尾、尻に鈍痛がある。肩の筋肉が強張っていた。
「大丈夫だ。なんでもない」
身体を起こそうとして、両手の自由が利かないことに気づいた。後ろ手に手錠のようなものをかけられている。かすかな振動を感じた。おれは車の中にいた。八ヶ岳で見たミニバンの中だ。おれは座席に横たわっている。運転席と助手席に男がふたり座っているのが見えた。
もう一度、拘束された両手に気をつけながら身体を起こそうとしてみた。ほんの少し身体を持ち上げただけで力尽きた。手足が不自然に怠《だる》い。注射されたクスリの影響がまだ色濃く残っている。
「ここは?」
声がかすれていた。喉に異物が押し込まれているような感覚がある。これもクスりのせいなのだろう。車窓を淡い光が流れている。高速道路の誘導灯のようだった。
「さっき八王子をすぎたところよ」
小文は怪我をした方の腕を身体にぴったりくっつけていた。おれへの裏切りに対する罪悪感はどこにも見えない。ただ、悪夢にうなされていたおれを心配している。
「怪我の具合は?」
声を無理矢理絞り出した。億劫だが、話せないわけではない。
「少し痛むけど、大丈夫」
「なんのクスリを打たれたんだろう?」
「わたしはなにも知らない。この人たちが来て、全部任せろといわれただけだから」
おれは起きあがろうとする努力を放棄して、持ち上げていた頭を降ろした。
「劉健一に電話したんだな?」
身体に力が入らないのは、なにもクスリのせいだけではないのかもしれない。絶望がおれを形づくるすべての細胞を支配している。
「うん」
小文はやっとおれから視線を逸《そ》らした。
「なぜだ? おれが信用できなかったからか? おれに金が作れるはずがないと……おれが用意する金じゃ足りないからか?」
「違うわ。お金なんか考えたこともなかった」
「じゃあ、なぜ?」
「あの人は魔法使いなの。わたしは永遠の魔法にかけられてるのよ。逃げられないの」
「殺されるかもしれないのに?」
「あの人に殺されるなら――」
小文は遠くを見つめるような目で宙の一点を見つめた。恋をしているのではない。劉健一を愛しているのではない。依存している。小さな子供が親に縋《すが》りつくように劉健一に縋りつこうとしている。かつて、どこまでもおれの後ろをついてきたように、劉健一の後を追おうとしている。
無数の黒い顔。暗闇に塗り潰された視界。おれの絶望。小文の希望。闇を切り裂く誘導灯。おれを覆う闇は粘ついている。なにものにも切り裂かれることはない。
「おまえを殺させたりはしない」
おれは呟いた。小文に聞かせるつもりはなかった。だが、おれの声はしっかりと彼女の耳に届いていた。のっぺらぽうとは違って――。
「あなたにはあの人は殺せないわ。だって、阿基は阿基だもの。優しい阿基、いつもわたしのそばにいてくれた阿基、わたしを見守ってくれていた阿基、わたしのためならなんでもしてくれた阿基」
小文は宙を見つめたまま微笑んだ。夢見る少女のような横顔――昔の小文を髣髴《ほうふつ》させる横顔。だが、昔とは違い耳から顎にかけてのラインには強い意志が宿っている。
「好きよ、阿基。日本に来てわたしのことを忘れていたとしても、すべてを捨てて平然としていたとしても。昔のように阿基はわたしのためになんでもしてくれる。だけど、今のわたしに必要なのはそういう人じゃないの」
「劉健一はおまえになにを与えてくれるんだ?」
「強さよ」
小文は間を置かずに答えた。まるでおれの質問を待っていたというように。
「強さ?」
「そう。どんなことにも動じない強い心。悲しみも喜びも憎しみも超越した世界があるの。あの人はそこに住んでいるのよ。どんなことにも心乱されることなく、超然と世界を見下ろしているの。わたしもそんな強さが欲しい。傷つくことのない強い心が欲しい。それを手に入れられるなら、どんな犠牲を払ってもいいわ」
小文はなにもわかってはいない。劉健一は強い存在ではない。ただ、心を闇でくるんで閉ざしているだけだ。徐鋭に対する長い時間をかけた復讐――見せしめ。超然としたように見える姿の奥でちろちろと燃えているのは憎しみの炎だ。自分に牙を剥く人間に対する激しい敵意だ。人の心を弄んで嘲笑する底無しの悪意だ。暗がりに潜み、闇に同化し、飽くことのない欲望を育《はぐく》み、巨大な胃に獲物を送り続けるためだけに存在している。
そのことを小文に告げるつもりはなかった。悪足掻きだと思われ、聞き流されるのは目に見えている。代わりにおれはこういった。
「おれはおまえを救いたかった」
「わたしを救えるのはあの人だけよ」
「おまえを救うことができれば、おれも救われると思った」
「あの人は他人になにかを頼ったりはしないわ」
「おれはおれにできることをやっただけだ」
「そうね。それはその通りだわ――もう少し眠ったら、阿基。あっちに着いたら、嫌でも起きていなきゃならなくなるから」
小文は掌をおれの額の上に置いた。ひんやりとして氷のように冷たい。おれは目を閉じ、車の振動にすべてを委ねた。
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車がスピードを落としはじめた気配に再び目が覚めた。小文は身体を丸めるようにして眠っている。窓の外に見える景色は参宮橋のものではなかった。もっと猥雑《わいざつ》な街並み――歌舞伎町か大久保のようだ。ミニバンは狭い路地に進入し、いまにも停まりそうなスピードで走っている。ラブホテルのけばけばしいネオンが目につくようになってきた。ミニバンはそんなラブホテルのひとつの駐車場に入っていく。
完全に停止すると、ふたりの男がミニバンを降りた。小文も目を覚ましたようで、軽く頭を振ってからドアを開け、外に出た。小文と入れ替わるように男たちが乗りこんできて、おれを車から引きずり降ろした。自分で立とうとしてみたが、膝に力が入らない。手錠が外され、自由になった両腕がふたりの男の肩に回される。男たちは無言でおれを運んだ。後から小文がついてくる。
男たちが向かったのはホテルのフロントではなく、従業員用の裏口だった。錆《さび》の浮いたドアを開け、ゴミ袋が雑然と並べられた廊下を抜けて従業員用のエレベータに乗りこむ。だれに命じられたわけでもないのに、小文は黙って最上階――七階のボタンを押した。黴《かび》臭さと精液の匂いの入り混じった空気が鼻をつく。
七階でエレベータが止まった。客室らしきドアはどこにも見当たらない。リネン室、洗い場、ゴミ袋を収納する部屋、従業員のための待機室。欲望を満たすためにラブホテルを訪れる者たちの目には決して触れることのないものの数々。うらぶれ、薄汚れた現実がひっそりと息をひそめている。
コンクリートが剥き出しの廊下をおれは引きずられていった。廊下の奥に、そこだけ場違いのような重々しいスティール製のドアがあった。おれたちの前を歩いていた小文がドアノブに手をかけた。かって知ったる者の足取り、仕種《しぐさ》、手つき。ドアの向こうには別世界が広がっていた。お互いがLANケーブルで繋がった何台ものノートパソコン。無数の携帯電話。葉巻が保管されているキャビネット。大型のプラズマテレビ。業務用の冷蔵庫。質素だが作りのしっかりしたダブルベッド。部屋の広さは十数畳。その中央に劉健一が腕を組んで立っている。
「割符はだれに渡したんだ?」
劉健一がいった。おれの背後でスティール製のドアが重い音を立てて閉まった。一方通行の地獄へと続く道。退路は完全に断たれている。
「想像はついているんだろう?」
両肩を支えてくれていた男たちが離れていった。膝が折れ、おれは床の上にしゃがみ込む。床もコンクリートが剥き出しだった。固く、冷たいコンクリートの感触がおれを浸食していく。
「郭昌明は病院で死んだ。死因は癌じゃなく心筋|梗塞《こうそく》だそうだ。体力が落ちているのに、不必要に興奮したのが原困らしい。父親が死んだというのに、息子の郭昌信は行方がわからなくなっている」
「だったら、おれに聞くことはないじゃないか」
おれはわざとらしく部屋の中を見渡した。頭は重い。だが、首の筋肉はおれの意志を受け入れた。
「秘密基地か? 大仰だな」
「ここに来る人間はほとんどいない。おれもたまに使うだけだ」
小文が劉健一の横に立った。飼い主の愛撫《あいぶ》を待ち受ける犬のように劉健一の横顔を見つめている。劉健一は小文の存在を意に介さずに言葉を続けた。
「万一のときのために用意しておいただけでね。おれも滅多に来ない」
「だが、小文は何度も来ているような足取りだったぞ」
劉健一はあるかないかの笑みを浮かべて視線を小文に向けた。
「怪我は酷いのか?」
「大丈夫。でも、撃たれるとは思ってなかったわ」
「恨んでないのか?」
小文は首を振った。
「わたしがあなたでも同じことをしたと思うから」
「そうか」
劉健一は小文の頭を撫《な》でた。それこそ、飼い犬を撫でる飼い主のように。小文が今にも喉を鳴らすのではないかとさえ思えた。すべてが歪んでいる。劉健一の周囲では重力も地場も歪むのだ。ブラックホールがそうであるように。
「やっぱり、だめか」
劉健一は小声で呟いた。
「え? なにがだめなの?」
その言葉が終わるのと同時に、劉健一は小文の傷ついた肩を激しく突いた。くぐもった悲鳴が不自然に乾いた部屋の空気を顫わせた。小文は肩を押さえて床に倒れた。
小文――喉まで出かかった言葉が途中で消失する。萎えた四肢が痙攣する。意志の力で己自身におれは強く命じた。動け。小文のところまで。這ってでもたどり着け。
ゆっくりと筋肉が反応する。右手を伸ばし、爪をコンクリートに突き立て、身体を引っ張る。次に左手を伸ばし、同じことを繰り返す。ほんのわずかしか身体は動かない。あの夢の中でおれを呪っていた黒い顔の人間たちが永遠の道を歩き続けているように。それでも、おれは同じ行為を際限もなく繰り返す。もはや、小文を救うとか、自分が救われたいという気持ちはない。それしかできないからおれはそれをする。
「自分を殺そうとした人間は殺さなきゃだめだ。禍根が残る」劉健一はちらりとおれを見、すぐに足元の小文に視線を戻した。「自分以外は信じるなといっただろう。自分で見たもの以外信じるな。他人の心になにも期待するな。ずっとそういってきたはずだ」
小文の肩に血が滲みはじめていた。医者が縫いつけた傷口が開いたのだ。小文は顔をしかめ、苦痛にのたうっている。劉健一の醒《さ》めた声がおれの耳に虚ろに響く。あの夢の中で聞いた永遠に続く呪詛のように。黒い顔。真っ黒に塗り潰された顔。真っ黒に塗り潰されたおれの視界。聞こえるのはおれを呪う声ばかり。
くそ食らえ。萎えそうになる意志に鞭打って、おれは床を這い続けた。おれが打ち捨ててきたもの。おれが振り返りもしなかったもの。そんなものはどうでもいい。今、おれの目の前で小文が苦しんでいる。苦痛に身をよじっている。
おまえを殺させたりはしない――おれはそういった。約束した。小文は歯牙《しが》にもかけなかったが、言葉はまだおれの中で響いている。
小文のためではない。悔恨のためでもない。おれのために、おれの身体よ、動け。
「健一――」
小文がか細い声でいった。顔はすっかり青ざめて、額に細かい脂汗が浮かんでいた。劉健一の名前に続く言葉はひび割れた唇の中に閉じこもったまま漏れてくることはない。だが、だれの耳にもそれは聞こえた。
どうして? どうして? どうして?
小文は苦悶《くもん》している。傷ついている。悲しんでいる。
「おまえは失格だ。まあ、最初からわかっていたことだが……」
劉健一は小文の肩を蹴った。魂消《たまぎ》るような悲鳴が起こった。苦痛のせいだけではない。絶望の悲鳴を小文は漏らしていた。
身体がかっと熱くなった。燃えるような憎悪と焦燥。大丈夫だ、小文、おれがおまえを守ってやる、絶望することなどない。
筋肉がはっきりと収縮する。意志の力が化学薬品の効力を打ち破る。その気になればできないことはない。小文はすぐそこで身体をくねらせている。あと少し手を伸ばせば、小文の脚に触れることができる。
劉健一が意外だという顔をしておれを見ていた。
「クスリを打ったのはいつだ?」
「三時間前です」
後ろで男が答える。
「六時間は効き目があるはずだといっていたよな?」
返事はない。劉健一も質問したわけではない。
手を伸ばす。身体を引きずる。すべての意識を指先に集中させて、おれは小文のもとへと向かっていく。永遠にも思える距離――永遠など存在しない。
劉健一がうなずいた。何者かがおれの行く手を遮る。ミニバンを運転していた男たち。おれの意志を嘲笑い、蹂躙《じゅうりん》し、足蹴《あしげ》にする男たち。後ろから襟首を掴まえられ、上半身を引き起こされ、別荘と同じように後頭部に銃口を突きつけられた。永遠など存在しない。だが、おれと小文の間には永遠に等しい距離がある。どれだけ足掻いても、おれは小文のもとにたどり着けないのだ。
顔が濡れていた。湿った液体が鼻を塞いだ。
おれは泣いていた。
「おまえに打ったクスリを合成したやつは信用できるやつなんだ。そいつがクスリは普通の人間なら六時間は効くと請け合った。それなのに、おまえはクスリの力に逆らっている。たいした意志の力だ。おれが見込んだだけのことはある」
「おれは優柔不断な男だ」
泣きながらおれはいった。鼻水が垂れ、口の中に涙のしょっぱさを感じる。
「おまえは自分のことをだれにもなにも語らなかった。麻取の犬にされても、辛抱強く耐えていた。意志の力が強くなければそうはいかない。どこかで口を滑らせて、墓穴を掘るのが普通だ。おまけに、おまえは臆病だ。素晴らしい」
劉健一は歌うようにいった。
「小文を助けてやってくれ」
おれはいった。涙で視界がぼやけている。それでも苦悶に歪む小文の顔だけははっきりと見えた。顔を黒く塗り潰された人間どもが抗議の声をあげる。おれたちの顔を思い出せないくせに、なぜ小文だけが――闇からの声に耳を閉ざす。
劉健一はおれには応じず、おれを押さえている男たちに顎をしゃくった。次の瞬間、目の前の床に黒い鉄塊が落ちてきた。拳銃だった。丁寧に磨き込まれ、スライド部分の表面に涙で歪んだおれの顔が映りこんでいる。
「それでおまえの小文を楽にしてやれ」
劉健一がいった。男たちがおれを自由にした。おれは跪《ひざまず》き、銃を間に置いて両手を突いた。身体は自由になったが、後頭部には相変わらず銃が押しつけられている。
「銃を取れよ」
劉健一がいった。呆然と銃を見つめていると、後頭部に押しつけられた銃の圧力が増した。
「その銃を取っても取らなくても、おれはどっちでもいいんだぞ」
おれは銃を手に取った。ひんやりとした鉄の感触。禍々しい重さ。何度も手にしたことがあるというのに、畏怖《いふ》に近い感情を覚える。
「おまえには三つの選択肢がある。その銃で小文を殺して生き残る。その場合、おまえはおれの片腕になる。ふたつめは、その銃をおれに向ける。その場合、後ろのふたりがおまえを即座に撃ち殺す。三つめは、その銃を自分に向ける。その場合、後ろのふたりはおまえの脚を撃つ。おまえは気が遠くなるような時間をかけて嬲《なぶ》り殺されることになる」
「なんのためにそんなことを――」
「これを見ろ」劉健一は部屋の中を見渡した。「この商売をはじめたころは、パソコンが一台と携帯がひとつあればそれで済んだ。携帯にもメール機能はなかったしな。ところが、今じゃこのありさまだ。ハイテクの進歩。インターネットの充実。情報の洪水。さすがに、おれひとりですべての情報を取捨選択するには苦しくなってきた。ずっと、おれの手足になってくれる人間を探してたんだ」
「でたらめだ」おれは叫んだ。「おまえは疲れただけだ。たったひとりで闇に潜んでいることに疲れて、仲間が欲しくなったんだ。おれがおまえと同じように惚《ほ》れた女を自分の手で殺したと聞いて、おれならおまえの分身になれるかもしれないと思ったんだろう? それがただの噂だったと知って、今度は本当に大切な女をおれに殺させようとしてるんだ。やらないぞ。そんなことは絶対にしない。おまえはただ、道に迷って途方に暮れているだけだ。そもそも、おまえが歩く道なんかどこにもなかったんだ。おまえはだれからも見捨てられた哀れな存在だ」
小文に聞かせたかった。だが、小文は苦痛と絶望に苛《さいな》まれている。おそらく、おれの言葉は耳に届いてすらいないだろう。
「おまえは意志が強くて、臆病だ。そういう人間をずっと探していた」
劉健一もまた、おれの言葉を涼やかに聞き流していた。おれの言葉が真実の一端をいい当てていたとしても、これっぽっちの動揺も示さない。動揺していたとしても強靭な意志の力でそれを抑えこんでいる。真っ黒な瞳がおれをひたと見据えている。闇のような黒。夢の中で見た漆黒の無数の顔。闇の中心で笑っていた劉健一。おれを呑みこもうと触手を伸ばしてくる闇。おれの夢。打ち捨てられた想い出。顧みられることのなかった約束。身勝手な切望。空虚な生。
ここに至っておれは己の成すべき事を知り、おれの無力さを痛感する。劉健一のいうとおりにすれば、劉健一が作る影の中に潜り込めば、劉健一の庇護《ひご》下に入れば、この無力感から逃れることができるのか――。
「このためか?」唐突におれは悟った。「この瞬間のために、おれや小文を巻き込んだのか? おれたちを……おれたちを――」
思考が渦を巻き、猛スピードで頭の中を駆けめぐる。言葉がその速さに追いつけなかった。
「最初はただ、徐鋭を排除するためだけの計画だったんだがな。おまえが現れて、小文とおまえに繋がりがあるとわかって計画を修正した。偶然は信じないことにしているんだが、おまえたちの繋がりはおれには僥倖《ぎょうこう》だった。もう気がついてるだろうが、あの店で小文がおまえの隣に座ったのは、もちろんおれの指示だよ」
何人もの人間が死んだ。何人もの人間が絶望の淵《ふち》に追いやられた。おれは完璧《かんぺき》に疲弊するまであちこちに駆け回された。小文は撃たれ、傷つき、絶望している。割符にも意味などなかった。郭昌信と台湾の林一族が手を結んでも劉健一は歯牙にもかけないだろう。劉健一は歌舞伎町の暗がりを支配する帝王なのだ。すべては茶番にすぎなかった。それもこれも、劉健一が自分の分身を追い求めたためだ。たったそれだけの理由だ。怒りと悲しみに目が眩んだ。可哀想な小文。絶対の忠誠を誓っていたのに、とうの相手は虫けら程度にしか見なしていなかった。目が眩む――目が回る。怒りと悲しみと、悲しみと怒りとで息ができなくなる。怒りと悲しみはおれの中で混じり合い、混ざり合い、やがてどす黒い憎悪となって噴出する。闇がおれを呑みこもうとする。
「さあ、そろそろ時間だ。どれを選ぶのか、決めろよ」
劉健一の声に、おれの憎悪が滾《たぎ》る。闇がざわめく。憤怒《ふんぬ》の炎が燃え上がる。炎は闇を焼き払う。
小文は殺さない。絶対にそんなことはしない。ならば、劉健一を撃つか、おれ自身を撃つか。後ろのふたりより早く動く必要がある。うしろのふたりはこうした状況に慣れている。なのに、おれはクスリの効用で間延びした動きしかできない。
絶望的な状況だ。行き場を失った憎悪がおれの内部で荒れ狂う。胸が苦しい。息が苦しい。
「そういえば、もうひとつ選択肢があったな。おまえが三つのどれも選ばなかったときだ。その場合は、おまえの可愛い小文も嬲り殺されることになる」
劉健一は笑っている。漆黒の瞳だけがなんの感情も宿さずにおれを見つめている。
おれは銃を両手で握って持ち上げた。重い。重力が異常を来したのではないかと思えるほど、重い。胸の苦しさ、息苦しさは続いている。荒れ狂う憎悪が劉健一を撃ち殺せと喚《わめ》き立てている。
どの選択肢も選べない。どれを選んだにせよ、小文は殺されるのだ。
「時間がないぞ」
劉健一がいった。頭のすぐ後ろで、撃鉄を起こす金属音がした。
「どうしても小文を助けてくれるつもりはないのか?」
「おれが欲しいのは、小文を殺したおまえだ」
劉健一の声は揺るぐことがない。孤独に喘《あえ》ぎ、くたびれきっているのだとしても、自分の拠って立つところを見誤ることはない。小文が劉健一に憧《あこが》れたわけがわかる。
よかろう。結局、おれはなにもできなかった。日本人に成りきることもできず、悪党の世界に染まることもできず、どこまでも中途半端で、挙げ句、だれよりも大切な人間を救うことすらできなかった。
よかろう。せめて、小文と共に地獄に堕《お》ちよう。ひとりよがりな想いだとしても、おれにできることはそれしかない。
銃を持ち上げ、銃口を自分に向ける――その直前に携帯電話の着信音が鳴り響いた。劉健一が舌打ちしながら電話に出た。
「どうした? なんだって?」
劉健一の漆黒の瞳から放たれていた冷徹な光が一瞬だけ揺らいだ。
「なんだって報告がこんなに遅れたんだ? フロントに押しかけてきてる? とめろ。なんとしてでも阻止するんだ。人を呼べ。足りなかったら警察に通報しろ」劉健一は携帯を切って、笑った。「そこまでできるとは思ってなかったよ」
「なんの話だ?」
「郭昌信が仲間を連れて下で喚いているそうだ。おまえに尾行をつけてたんだろう。おまえの考えか?」
病院から銀行への車の中で郭昌信にかかってきた電話。出金のために席を外した郭昌信。父が指示し、息子が忠実に従った。金を手にしたことで安堵《あんど》し、おれはなにも気づかなかった。
「ショーは延期だ。連中は正面から入ってきたそうだ。ここまでは昇って来られない。やつらが追い返されるのを待って、移動する」
チャンスだ。これを逃せばおれたちに希望が訪れることはない。後頭部に押しつけられた銃がずれるその瞬間に、持てる力を一気に爆発させなければならない。神に祈り、仏に祈り、おれを呪う真っ黒に塗り潰された顔の死人たちに祈った。
おれに力を――化学薬品の効力に打ち克つ力を。
「台湾から助勢が来るまで待っていればいいものを……」
だれにともなく呟《つぶや》きながら、劉健一は携帯に視線を落とした。おれの背後にいた男がひとり、小文に近づいていく。低い声の男なのか甲高い声の男なのかはわからない。おれはそのときを待って、筋肉をたわめた。いつもの力強さは感じられない。それでも、筋肉はおれの意志に従おうと収縮した。
「急げよ」劉健一はそういって携帯を耳に押し当てる。「おれだ。どうなってる? 裏に回った? どうして止めなかったんだ? すぐに、警察に通報しろ。武器を持った中国人が大勢集まってるといってな」劉健一は電話を切った。「計画変更だ。四階の部屋が空いている。とりあえず、そっちに移動しよう。連中は真っ直ぐこの階に向かってくる。おれたちを探している間に、警察がやって来るはずだ」
男たちに指示を与えて、劉健一はまた携帯を使いはじめた。後頭部に押しつけられていた銃口が離れていく。代わりに男の息づかいが近づいてくる。
「立て」
耳のすぐそばで声がした。おれは収縮した筋肉に蓄えられていた力を一気に解放した。真後ろに上体を振る――後頭部に衝撃があった。悲鳴が聞こえて、男の気配が遠のいた。手にしていた銃のスライドを引いた。銃口をもうひとりの男に向けようとした。男はおれの方に身体を反転させながら腰から銃を抜こうとしていた。
間に合わない。絶対に間に合わない。
男が銃を完全におれに向けた瞬間、背後で大きな音がした。だれかがスティール製のドアを叩いている。
男の注意が逸れた。おれの重い腕がやっと銃を持ち上げた。
撃った。轟音《ごうおん》と硝煙が視界を遮る。もともと涙で曖昧《あいまい》になっていた視界だ。おれはかまわず撃ち続けた。一発、二発、三発。手の中で銃が躍り、掌を痛めつける。硝煙の向こうで男が倒れた。劉健一は平然としている。
「いつか結末が来ることはわかっていたんだが、こんなにあっけないとは思ってもいなかったな」
劉健一は笑っている。おれは銃を握りなおし、銃口を劉健一に向けた。ドアがさらに激しく叩かれている。おれは振り返った。おれに銃を押しつけていた男が顔を押さえて呻いている。ドアが揺れている。声が聞こえる――ここを開けろ、劉健一。間違いなく郭昌信の声だった。
「おれが楊偉民をここから追い出したように、おれみたいなだれかが来るんだとばかり思っていた。それがおまえとはな」
劉健一は話し続けている。ドアの向こうの喧噪《けんそう》には一切興味がないというように。漆黒の瞳がおれを見つめている。黒く塗り潰された世界がその瞳に映っている。
引き金にかけた指に力をこめる。だが、指は動かない。おれは劉健一に魅入られている。撃て、撃て、撃て――荒れ狂う憎悪が喚き立てる。
「おれを殺しても、おまえにはどこにも行き場はないぞ。それはわかってるな? おれを殺すということは、おまえがこれを引き継ぐということなんだ。おまえが嫌でも、それがルールだ」
撃て、撃て、撃て。劉健一の言葉は呪文だ。聞けば、呪文にとらわれる。
「おれはなにもしない。おまえを殺して、ここを出ていく。それだけだ」
憎悪の声に逆らって、おれはいった。劉健一は天井を向いて喉を顫わせた。
「おまえにはどこにも行き場はない。わかっているくせに抗《あらが》うのか? どこにいても同じだ。おまえの目の前に広がる世界はいつだって煉獄だけなのさ」
撃て、撃て、撃て――撃った。手の中で銃が弾ける。劉健一が真後ろに吹き飛んで倒れる。もどかしさを覚えながら立ち上がり、倒れた劉健一のもとに向かった。
劉健一の鳩尾の下から血が溢れている。劉健一は笑いながら倒れている。漆黒の瞳がおれを見あげている。
「どこにも行き場はないんだ。おまえにも、おれにも」
顔を黒く塗り潰された連中がよみがえる。永遠に続く道をおれに向かって歩き続けながら呪いの言葉を、怒りの言葉を、憎しみの言葉をおれにぶつけ続けている。
「これで、黒い夢とはおさらばだ」
「黒い夢?」
「真っ黒な世界だ。そこにおれと小蓮だけがいる。おれは小蓮に触れたいのに、小蓮の顔は真っ黒に塗り潰されている。どれだけ望んでも、おれは小蓮の顔を思い出せない」
劉健一は譫言《うわごと》のように呟いていた。黒い世界、黒い顔という言葉がおれの耳の奥でこだまする。
劉健一が笑った。
「その顔つきからすると、おまえも見るんだな、黒い夢を。やっぱり、おれの勘は外れてなかった。おまえはおれの同類だ――」
おれは劉健一の漆黒の瞳に銃口を向けた。漆黒の瞳。闇を湛えた瞳。虚無を照らし出す瞳。すべてを見、なにも見ない瞳。悪意と憎しみを糧に膨張する漆黒の闇。
撃て、撃て、撃て――撃った。劉健一の身体が顫えた。右目があった部分が空洞と化した。左目を撃った。劉健一は動かなくなった。どこまでも黒い、深淵《しんえん》を湛《たた》えたような瞳は永遠に消え失せた。
発作のように断続的に身体が顫える。
「健一、健一、健一……」
小文が劉健一の死体に腕を伸ばそうとしていた。その身体をなんとか抱え、おれは部屋の出口に向かった。呻き続けている男を撃ち殺した。
「いや! いやよ!!」
小文の叫びが耳に残る。小文の目におれが映ることはない。昔のように小文がおれを頼ることはない。
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「とりあえず横浜へ向かおう」
郭昌信はそういって、運転席の男に行き先を指示した。小文はおれの腕の中で顫えている。ときおり、痙攣するように嗚咽《おえつ》を漏らした。
「あんたを尾行させたのは親父の指示だ。その親父は興奮しすぎてくたばっちまった。よっぽど、麗美の仇討ちができることが嬉しかったんだろうよ。親父が死んだとなれば、あの割符とやらの使い道もおれにはわからねえ。だから、若いもんを揃えたんだ」
訊いてもいないのに、郭昌信は事の成り行きを話しはじめた。おれにはどうでもよかった。なにもかもがどうでもよかった。小文は生きている。生きて、おれの腕の中で顫えている。それがすべてだ。
「日本に来て悪さをしてる中国人はなにも、東京だけとは限らないからな。横浜にも腐るほどいるし、なにより中華街には台湾人も相当いる。おれの親父が目をかけてたやつらの悪ガキどももおれに付いてくるといってくれた」
郭昌信は車の窓を少しだけ開けた。乾いた風が吹き込んでくる。
「親父の弔いってわけじゃねえが、絶対に今夜中にあの野郎をぶっ殺してやろうと思ってた。今までは居場所を突き止めることもできなかったからな。あんたを尾行するのは簡単だったらしいが、八ヶ岳からの帰りには気を遣ったってぼやいてたぜ」
郭昌信の声は風に乗っておれの耳を素通りする。小文の顫えと嗚咽の感覚が少しずつ長くなっている。
「あの界隈《かいわい》を徒党を組んで歩けば、すぐに劉健一に知られると思ってよ、作戦を練って、あのラブホの前で一気に集合することにしたんだ。うまく行ったぜ。あいつを殺したのがおれじゃなくてあんただったってことを除けばな」
あいつを殺した――その言葉に小文が反応した。顫えと嗚咽が止まり、静かに顔をあげておれを見る。小文の瞳も黒かった。劉健一と同じように真っ黒だった。
なにがあったのだろう? なにがあの可愛かった小文をここまで絶望させたのだろう。訊いても小文は答えまい。わかっているのは、おれがあの約束を守ってさえいればこんなことにはならなかっただろうということだけだ。そして、おれがなにをしようと小文を救うことはできないという事実だけだ。
「あんたたちのことはおれに任せてくれ。きっちり面倒を見る。横浜にいてくれてもいいし、海外に行きたいっていうのなら、その手配もする。なにしろ、あんたは恩人だからな――」
小文の漆黒の瞳がおれを見あげている。少女のように。あのころの小文のように。ただ、瞳だけが黒い。かつては夢と希望に輝いていた目が、闇に沈んでいる。
「阿基は健一になるの?」
少女のような声で小文はいった。
「いや」おれは首を振った。「小文もいったじゃないか。阿基は阿基だって。おれはおれのままでいるよ。だれかの代わりにはならないし、なれない」
「だめよ。健一は逝っちゃったもの。だれかが代わりをしないと。健一を殺した阿基が代わりをしないと」
「無理だよ、小文。だれもあいつの代わりにはなれないんだ」
疲れていた。くたびれていた。活力という活力を劉健一の漆黒の瞳に吸い取られてしまったかのような脱力感がある。劉健一は死んだ。あの黒い瞳は両方ともおれが吹き飛ばした。眼窩《がんか》を失ったデスマスクが脳裏に焼きついている。かすかに残っていた力も、劉健一と同じ小文の瞳に吸い取られていく。
「だめよ、阿基。阿基が代わりを務めなきゃ」
「わかってくれ、小文。おれには無理なんだ」
おれと小文は囁くように会話を交わしている。窓から吹き込む風の音と郭昌信の独り言ににた言葉も、おれたちの間に割って入ることはできない。
記憶が鮮明によみがえった。熱を出して寒気に顫える小文を抱きかかえて看病した。いつものように大人たちは畑仕事。隙間風が吹き込む粗末な家で、おれと小文はふたりきりだ。小文が母親のところへ行きたいと駄々を捏《こ》ね、もう少し待たなきゃだめだとおれが説き伏せる。
永遠に失われてしまった時間。取り戻すことはできない。おれは変わった。小文も変わった。それを認めることができずに遮二無二かけずり回り、そして――。
車がとまった。窓の隙間から怒声が飛び込んでくる。いくつもの影が車に張りつき、ボディや窓を叩き、蹴り、車体を揺らす。一見してそれとわかるやくざたちだった。東明会――ラブホテルでの騒ぎを聞きつけ、そしておれを見つけた。憎悪と殺意にぎらついたいくつもの目が車内を覗きこんでいる。郭昌信が怒鳴っていた。やくざたちも怒鳴っていた。怒声はおれの耳を素通りした。聞こえるのは小文の吐息だけだった。
「阿基にできないなら、わたしがやるわ」
小文がいった。おれの耳が小文の声しか捉《とら》えないのなら、小文の目はおれしか捉えていない。やくざたちに揺すられて激しく上下動を繰り返す車中にあっても、小文の視線は揺るぐことがなかった。
「おまえにも無理だ。まだわからないのか? 劉健一に殺されかけたんだぞ? おまえは失格だと詰られたんだぞ」
「それでもいいの」
小文はいった。頑《かたく》なな顎の動きに頑なな声だった。おれの腕の中で小文はもぞもぞと動いた。腰に差していた銃の感触が消えた。銃は小文の両手に握られていた。
「健一はね、この世でただひとり愛していた人を自分の手で殺したんだって。その女は健一とそっくりだったんだって」
「小文――」
小文は劉健一と同じ黒い瞳でおれを見あげている。昔の小文と同じように、おれの腕の中で身体を丸めている。どちらも本物の小文だった。
おれは目を閉じた。暗闇が――黒い夢に出てきたあの闇がおれに襲いかかる。顔を黒く塗り潰されたのっぺらぽうの中に劉健一が混じっている。吹き飛ばされた眼窩すら黒く塗り潰されて――。
劉健一は笑っている。すべては無駄だと笑っている。救いなどどこにもないのだと笑っている。世界のどこにいたとしてもなにも変わったりはしないのだと笑っている。死してなお、この世界に安らぎは訪れないのだと笑っている。
「おい、なにをしてるんだ!?」
郭昌信の声が響いた。おれは目を閉じたままでいた。
「さよなら、阿基」
小文の声が聞こえた。おれは目を閉じたままでいた。
劉健一が笑っている。吹き飛ばされた眼窩の奥に、さらなる闇が広がっている。おれは目を閉じたままでいた。
少なくとも小文がおれを殺せば、東明会の連中の目の前でおれを殺せば、小文が助かる可能性は高くなる。それが、劉健一に対するおれのせめてもの抗いだった。
「おい、止めろ!!」
郭昌信が叫んだ。銃声がすべてをかき消した。胸に衝撃を感じ、そこから冷気が広がった。おれは目を閉じたままでいた。
劉健一が笑い続けている。劉健一は正しいのかも知れない。おれにはなにもわからない。おれにはなにもかもがどうでもよかった。
[#改ページ]
本書は「野性時代」二〇〇四年二月号〜二〇〇四年十月号に連載された作品を改題し加筆修正したものです。
[#改ページ]
底本
単行本 角川書店刊
二〇〇四年一一月三〇日 第一刷