鎮魂歌《レクイエム》―不夜城U―
馳星周
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)真っ黒な闇《やみ》の中、
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)張|道明《タオミン》。
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あいつは頭の単純な、血も涙もないモン
スターなんかじゃなかった――本当はま
っとうな人間だったはずなのに、どこか
ですっかり狂っちまったんだ。ほとんど
はあいつの自業自得だった。それは認め
るよ。でも全部が全部あいつのせいじゃ
なかった。そんなことあるものか。
『心臓を貫かれて』
マイケル・ギルモア
村上春樹・訳
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黒い夢を見る。真っ黒な闇《やみ》の中、おれの傍らに女が寝ている。おれはただその女を見つめている。女には顔がない。黒く塗り潰《つぶ》されている。
小蓮《シァオリェン》。おれは小蓮の顔を思い出せない。写真すら持っていない。
小蓮。おれが殺した。楊偉民《ヤンウェイミン》が殺させた。
たったひとりのおれの女。おれと同じ世界に生きていたたったひとりの女。
小蓮は顔を失って眠っている。失くした顔でおれに訴える――なにかを。
小蓮が死んだ。歌舞伎町が変わった。北京の崔虎《ツイフー》が力をつけた。ボスとナンバー二を失ってばらばらに散っていた上海の連中も新しいボスを得てまとまりはじめた。いまじゃ、歌舞伎町は崔虎と朱宏《ヂューホン》――上海の老板《ラオバン》のものだ。二人で仲良く餌《えさ》を分けあっている。互いの腹を探りながら。
そして、楊偉民。楊偉民だけは変わらない。おれに小蓮を殺させた夜、やつはしこたま儲《もう》けた。汚れた金、血まみれの金――金は金だ。楊偉民は崔虎と朱宏を上手に手なずけている。その金を使って。おれも金を貯めた。汚れた金を。
黒い夢を見る。小蓮がおれに微笑《ほほえ》みかけることはない。おれはただじっと、小蓮を見つめている。ぴくりとも動かず、おれは小蓮を見つめている。
黒く塗り潰された顔。なにかを訴えている。だが、それが形になることはない。顔すら思いだせない小蓮を、おれは見つめている。
そうやって、身体の内側に冷気が溜《た》まるのを待っている。
楊偉民を殺すために。小蓮との約束を果たすために。
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楊偉民から電話があった。雪の札幌から、生暖かい風が吹く東京への呼び出し。一年振りの新宿。
郭秋生《グォチウション》は旅行ケースに荷物をつめ、千歳《ちとせ》へ向かった。
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羽田からはタクシーを使った。四谷のマンションはきれいに掃除されていた。楊偉民が家賃を払い、しっかり管理していた証拠だった。秋生は冷蔵庫から冷えた烏龍《ウーロン》茶の缶を取りだし、ベッドに腰かけた。なにもすることがない。旅行ケースから本を取り出した。擦りきれた犬の図鑑。何度眺めても飽きることがない。いつか、必ず犬を飼う。
烏龍茶が空になった。図鑑は最後のページ。もう一度はじめから読み直した。アイリッシュ・ウルハウンドの写真が目に飛び込んできた瞬間、電話が鳴った。
「楊偉民《ヤンウェイミン》だ。一時間後に香妃園で」
電話が切れた。久しぶりに耳にする台湾語だった。楊偉民が相手でなければ使うこともなくなった。
秋生はシャワーを浴びた。
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楊偉民は先に来ていた。個室に案内され、楊偉民の向かいに腰を下ろした。すぐに料理が運ばれてきた。
「元気だったか?」
「元気だったよ」
会話はそれだけで終わった。秋生は黙々と食べた。楊偉民は視線を秋生に向けたまま茶をすすっていた。
「北京のやつらだ」
秋生が食べ終えると、楊偉民がまた口を開いた。
「何人?」
「わからん……」
楊偉民が紙片を滑らせてきた。住所と部屋の番号が書かれていた。マンションの住所は大久保だった。頭の中の地図で場所を確認した。
「明日の夜、十一時。そこにいる人間すべて」
「道具は?」
「まかせる」
「人数がわからないなら、銃がいい」
「今夜中に届けさせる」
「終わったあとは?」
「四谷にいればいい」
それ以上聞くことはなかった。楊偉民が封筒をテーブルの上に置いた。金が入っている。百万はありそうな分厚さだった。秋生は封筒に手を伸ばした。御馳走《ごちそう》さまもいわずに個室を出た。
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四谷のマンションに戻って犬の図鑑を眺めた。飽きることはない。
アイリッシュ・セッター、アフガン・ハウンド、ジャーマン・シェパード、ドーベルマン、ピット・ブル……どこか山奥で犬と暮らす。それだけを夢見て生きてきた。
玄関で物音がした。人が立ち去る気配があった。郵便受けに包みが落ちていた。厳重に梱包《こんぽう》された黒星《ヘイシン》――中国製のトカレフ。弾倉が三つ。弾丸五十発。
黒星を分解し、また組み立てた。弾倉を押しこむ。黒星が生き返った。黒星をテーブルの上に置いて、秋生は犬の図鑑に目を戻した。
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人いきれをかきわけた。アルコール、胃液、小便の混じった匂《にお》い。ざわめき、静寂、ざわめき。ネオンの明かりと暗闇――暗闇を選んで歩いた。歌舞伎町から職安通りを渡って大久保へ向かった。
ホテル街に入ると売女たちの視線が飛んできた。金髪のコロンビア、褐色の東南アジア、そして、とうの立ったおカマたち。群れ、孤立しカモを待っている。売女の影でポン引きやヒモが息をひそめている。売人もいる。だれも秋生には声をかけない。気がつきもしない。
紙切れに書かれたマンションを見つけた。中に入ると空気が変わった。エレヴェータは使わず階段をあがった。手袋をはめた。耳に綿をつめた。黒星を抜く。弾丸を薬室に送り込む。
乾いた金属音が響いた。
ジャケットのポケットに入れた予備の弾倉を確かめた。使うことはないだろう。
秋生は五〇四号室の前に立った。表札はない。ドアをノックし、待った。
「なんだ?」
北京語が聞こえた。
「崔虎の兄貴に頼まれたお届けものです」
卑屈な声で答えた。間があって、シリンダーの回る音がした。ドアの隙間《すきま》に手を突っ込んで思いきり引いた。怪訝《けげん》な顔の男。そいつの腹を蹴《け》って部屋の中へ飛びこんだ。
一DKの部屋に男が三人――一人は腹を抱えてうずくまっている。他の二人は小さなテーブルを挟んでなにかを仕分けしていた。
「てめえ、どこのもんだ!?」
「なんの真似だ?」
右の男を撃った。頭が弾けて血と脳漿《のうしょう》が飛び散った。左の男が腰を浮かした。銃身を振って引き金を絞った。男が真後ろに吹き飛んだ――テーブルの上のものを撒《ま》き散らしながら。
股間《こかん》が熱い。固く猛《たけ》っている。
「上海の豚野郎……」
ドアを開けた男が足にしがみついていた。蹴った。男は仰向けに転がった。撃った。男の身体が痙攣《けいれん》した。
「おれは台湾人《タイワンレン》だ」
秋生は台湾語で静かにいった。残りの弾丸を三人にぶち込んだ。血と肉とプラスティックのカードが舞った。カード――パチンコのプリペイドカードだった。
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売女、ポン引き、売人、酔っぱらい、ガキども、ミニスカートの女たち、客引き、やくざ、流氓《リウマン》、おまわり。歌舞伎町の真ん中を突っ切った。腰に黒星。ポケットに薬莢《やっきょう》。靴には血痕《けっこん》。勃起《ぼっき》した男根。
だれもなにもいわなかった。
マンションに戻り、シャワーを浴びた。冷えた烏龍茶と犬の図鑑を手に取った。あるのはそれだけの部屋。他に必要なものはなかった。
秋生はうっすらと笑みを浮かべて犬の写真に見入った。
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2
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「話がある。今すぐ出てこい」
「わかりました」
下手な北京語を受話器に送り込んで、滝沢《たきざわ》誠《まこと》は電話を切った。酷《ひど》い二日酔いだった。頭がぶよぶよに膨らんでいる。冷蔵庫のミネラルウォーターをあおった。
「電話、だれから?」
ベッドから宗英《ゾンイン》の声がした。布団がずり落ちたベッドの上で裸体をくねらせていた。
「おまんこぐらい隠せ、馬鹿が」
ベッドは乱れていた。ゴム紐《ひも》、鞭《むち》、蝋燭《ろうそく》、バイプ。昨夜を思い出して股間が疼《うず》いた。頭が痛んだ。胸焼けがした。
「だれからなの……女?」
「崔虎からだ。用事があるらしい」
「お金になればいいね」
「そうだな……」
滝沢はベッドの縁に腰を下ろし、宗英の手首をさすった。鬱血《うっけつ》した肌。所々に蝋がこびりついている。林《リン》宗英――北京からやって来た。不細工だが、滝沢を嗤《わら》ったりはしない。崔虎――新宿を根城にする北京の流氓どものボス。だれも崔虎を嗤ったりはしない。まともな神経の持ち主なら、崔虎に近づこうとはしない。
金。要するに金だ。ここのところ、毎日のように杜《ドゥ》から催促の電話がかかってくる。
おっかない虎の口。とんでもない牙《きば》が生えている。その中に飛び込まなければ金は手に入らない。
「とにかく、出かけてくる」
滝沢は着替え、部屋を出た。宗英は素っ裸のまま手をふっていた。
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不機嫌な顔が滝沢を出迎えた。天楽苑という名のしけた中華屋だった。崔虎にはそぐわない。だが、崔虎は昔からこの店を使っている。
崔虎は店の真ん中のテーブルに腰を据えて麺《めん》をすすっていた。こめかみの血管が浮き出ていた。周りには取り巻きのチンピラがいるだけだ。幹部連中の姿は見えない。滝沢は崔虎の向かいに腰を下ろした。
「昨日、うちのやつらが三人殺られた」
それを待っていたように崔虎が口を開いた。きれいな北京語だった。通訳なしでも意味をつかむことができる。
「だれですか?」
殺し。予想にはなかった言葉だ。背中がチクチクした。
「張《ヂャン》の野郎だよ。後の二人はどうでもいい」
張|道明《タオミン》。顔が脳裏に浮かんだ。北京の四大天王の一人。金の扱いがべらぼうにうまい。
「やったのは上海のやつらですかね?」
「決まってるだろうが」崔虎が吠《ほ》えた。「他にだれがいる、え?」
「どういうことなんですか?」
「張はパチンコのプリペイドカードを仕切ってた。おれはそっちのことは全部あいつに任せてた。大損だぜ」
「そりゃそうでしょうけど、おれになにをしろと?」
「張のやつらがあの日のあの時間にあの場所に集まるってことは身内しか知らねえことなんだ」
滝沢はそっと舌打ちした。
「身内を上海に売った裏切り者がいるってこった。どう思う、え?」
「なんとかしなきゃなりませんな」
「おまえになんとかしてもらいてぇんだよ」
「無理だ」
「無理なもんか。おまえ、元刑事だろうが。日本のおまわりは優秀だって話だ」
「それとこれとは……」
「おれの頼みが聞けねぇってのか?」
滝沢は口を閉じた。頭の中では天秤《てんびん》が揺れていた。崔虎が与えてくれる金と恐怖、それに不便、不快な思い。金と恐怖が勝った。いつだってそうだ。
「どうしてほしいんですか?」
「裏切り者を探し出して、おれの前に連れてこい」
「心当たりは?」
「夕べ張がなにをしてるか知ってたのは、おれと魏《ウェイ》、陶《タオ》、陳《チェン》だけだ」
魏|在欣《ザイシン》。陶|立中《リーヂョン》。陳|雄《シォン》。三人とも崔虎が育て上げた流氓の精鋭だ。張道明を入れて四大天王と呼ばれていた。
「まさか……」
「おれだって信じたくはねぇ。だが、それ以外考えられねぇんだ。この内の誰かが上海とつるんでる。あるいは、楊偉民のクソ爺とだ。ぶっ殺してやる」
崔虎がだれかを殺すといったら、必ずだれかが殺される。間違ったことをしたやつ。あるいはヘマをしでかしたやつ。ヘマをする方にだけはまわるな。滝沢は自分にいい聞かせた。
「通訳代わりになる男をつけてやる。好きに使っていいぞ」
貧相な男が奥のテーブルから腰をあげた。崔虎は麺をすすりはじめた。話は終わったのだ。滝沢は慌てて口を開いた。
「老板、人から話を聞くには金がかかる」
崔虎の目が冷たく光った。掌にじっとりと汗が滲《にじ》んだ。待つこともなく崔虎がうなずいた。
「裏切り者を見つけたら二百万、くれてやる。それとは別にこれを持っていけ」
鰐《わに》革の財布がテーブルの上に無造作に投げ出された。滝沢は手を伸ばした。厚みを探った――五十万はありそうだった。
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3
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〈薬屋〉に電話を入れる時間だった。
「はい?」
日本語が聞こえた。
「秋生だ」
秋生は北京語でいった。
「昨日はご苦労だった」
「それで、どうすればいい? また札幌か?」
「いや。しばらくはそのマンションで暮らしてくれ」
動悸《どうき》がした。今までこんなことはなかった。殺す。姿を隠す。それが変わらぬパターンだった。
「おれ、ヘマをしたか?」
「そうではない。今回は少々込み入っている。またおまえを必要とするかもしれない」
「その時にまた戻ってくる」
「だめだ。おまえはそこにいるんだ」
「老爺《ラオイエ》、おれは――」
「わかったのか? おまえはそこにいて、わしの連絡を待つ。必要なものがあればいえ。届けさせる」
「老爺――」
「心配するな。すべてわしに任せておけばいい。おまえの悪いようにはせん」
電話が切れた。
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犬の写真も目に入らなかった。胸の裡《うち》で不安と恐怖が渦巻いていた。なにが起こった? 楊偉民はおれになにをさせようとしている?
わからなかった。不安だった。恐かった。殺しの現場ですら感じたことのない感情に身体が震えた。身体の芯《しん》が凍えている。思考が千々に乱れた。
秋生は目を閉じた。女の顔が脳裏に浮かんだ。
「真紀……」
真紀の手が明夫の頬《ほお》を打擲《ちょうちゃく》する――中国人の癖に生意気なんだよ。風呂《ふろ》上がりに覗《のぞ》いた真紀の裸身。輝いていた。そして、あのろくでなしに犯された真紀。あそこから白濁した精液が溢《あふ》れていた。それを見て、欲情した。我を失った。
真紀を愛していた。真紀は蔑《さげす》んでいた。台湾人の秋生を。日本語をうまく話せないからという理由で血の繋《つな》がらない弟を心の底から憎んでいた。
真紀はもういない。死んでしまった。鬱血した顔。迫《せ》りでてくる眼球。血――飛び散る血と脳漿。大久保のマンション。昨日の殺しが頭の中のスクリーンで再現された。
震えが大きくなった。
こんなはずではなかった。いまごろは新幹線か飛行機に乗って犬の図鑑を眺めているはずだった。殺しのことはすっかり忘れて。
秋生は目を開けた。ズボンのポケットからナイフを取り出した。よく手入れされたスウィッチブレイドを広げ、鋼に映る自分の顔に見入った。血の気を失い、脂汗に濡《ぬ》れていた。唇を噛《か》み、ナイフを枕《まくら》に突き立てた。何度も何度も。綱に映った自分の顔をこそげ落とすように。
それでも震えはとまらなかった。
秋生は震える身体を持て余しながら、死体のような足取りで部屋を出た。
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4
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「おれはどうしたらいい?」
男の額に汗が浮いていた。蔡子明《ツァイズーミン》。滝沢の通訳兼使いっぱしりに崔虎がよこした男だ。街で何度か見かけたことがある。日本語ができることを鼻にかけているが、地位も度胸もない。いつもヘラヘラ笑って上の連中の顔色を窺《うかが》っている。要するにチンピラだ。
「連絡先を教えろ。用ができたら電話する」
「崔虎の兄貴に、滝沢さんにくっついてろっていわれたよ」
「連絡先だ」
滝沢は蔡子明を睨《にら》みつけた。言葉遣いと態度は卑屈だが、目はなにかに飢えて光っている。こんなやつを信用するわけにはいかない。やっかいなやつを押しつけられた。
蔡子明は目をそらし、電話番号を口にした。携帯電話――流氓ならだれでも持っている。番号を頭の中に叩《たた》きこんだ。
「じゃぁな」
滝沢は手を振って蔡子明を置き去りにした。
滝沢は部屋へ戻った。宗英の姿はない。恐らく華聖宮《かせいきゅう》にでも行ったのだろう。欲の皮が突っ張った台湾の老婆がやっている寺院だ。わけのわからない神様を祀《まつ》ってお布施と称する金をふんだくる。なにが嬉《うれ》しいのか、宗英は毎朝お参りにいってなにがしかの金を捨ててくる。
ベッドはきちんとメイクアップされていた。昨夜の痴態の面影もない。縄で身体の自由を奪われ、あそこに張形を突っ込まれて苦痛に顔をしかめる宗英。鞭《むち》と蝋燭《ろうそく》を手に息を荒げる滝沢――頭の中にすべてが甦《よみがえ》った。昨夜は久しぶりに時間をかけて宗英をいたぶった。しこたま酔っていた。そうしなければ、股間《こかん》のものが役に立たなかった。
倦怠《けんたい》感が日ごとにひどくなる。中国の流氓に顎《あご》で使われる毎日。中国の金貸しにはした金を催促される毎日。だが、出口はどこにもない。
キッチンのコンロに鍋《なべ》がかけてあった。中を覗《のぞ》いた。鳥|粥《がゆ》だった。あたためて食べ、電話をかけた。
「鈴木だが」
「おれだよ、滝沢だ」
「おまえか。なんの用だ?」
「昨日、大久保で殺しがあっただろう。中国人三人が殺された」
「なにか知ってるのか?」
とたんに、鈴木の声が用心深くなった。
「いや、なにも知らない。どうも、殺されたうちの一人が女房の知り合いらしいんだ」
「もっとうまい嘘《うそ》にしろよ」
「話を聞かせてくれ。情報が欲しいんだ」
滝沢は開き直った。鈴木は昔、コンビを組んでいた相手だった。性格も癖も知り尽くされている。
「馬鹿いえ。おれにデカやめさせたいのかよ」
「五万だ。悪いバイトじゃないだろうが」
ため息が聞こえた。滝沢と鈴木はいいコンビだった。二人とも金に汚かった。
「今夜、十時。宮田の店で」
「恩に着る」
滝沢は電話を切った。服のまま清潔なベッドの中に潜り込んだ。
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二年前。滝沢は新宿署防犯課――いまでは、生活安全部保安課という名前に変わっている――の刑事だった。コンビを組んでいたのは鈴木正光巡査部長。二人で歌舞伎町を練り歩き、売春婦、ポン引き、やくざ、売人を痛めつけ、たかって生きていた。
旗色が変わったのは三年前だ。ただでありつけるセックスを求めて、区役所通りの裏手にある中国人バーに入った。タイやフィリピンの褐色の肌はごめんだった。日本人相手では気を遣わなきゃならないことが多すぎる。タイもフィリピンも日本も手荒に扱えば駄々をこねる。だから中国娘を求めた。顔はほとんど日本人と変わらないが、言葉が違う。多少乱暴に扱ってもどうということはない。やることをやって、それでおしまいだ。
勤務外。だが、内ポケットに警察手帳が入っていた。店を仕切っている中国人は露骨に顔をしかめた。それでも、警察手帳を無視することはできなかった。滝沢を怒らせれば手入れを食らう。
男が連れてきたのが宗英だった。店で一番ブスな女を連れてきやがった。宗英を見た瞬間、滝沢は舌打ちした。それでも、文句はいわなかった。なんにせよ、ロハなのだ。あそこさえちゃんとしていれば、文句を垂れる筋合いはない。
その夜から、滝沢は宗英に溺《おぼ》れた。はじめは恐る恐る、そして徐々に大胆になっていく滝沢の暴力的なセックスを、宗英は厭《いと》わなかった――浣腸《かんちょう》とアナル・セックスを除いては。片言の北京語と日本語で交わされる欲望の宴。
宗英はいった。
「父さんにはいつも撲《ぶ》たれてた。それに比べれば、あんたは優しいよ」
それまで付合いのあった女たちは、縄を持ち出しただけで滝沢を罵《ののし》った。裏の世界に顔を知られている防犯課のデカともなれば、SMクラブに出入りすることもできなかった。宗英と出会ってはじめて、滝沢は自分の昏《くら》い欲望を満足させることができるようになった。宗英の心と身体に、滝沢は執着した。昼も夜も、考えるのは宗英との秘め事だった。
そして、崔虎。宗英が勤める売春バーには崔虎の息がかかっていた。崔虎から連絡があったのは、宗英と出会って三ヶ月目のことだ。
崔虎は、うちの商品に傷をつけてもらっちゃ困る、といった。そういう趣味を満足させたいなら、そういう店へ行け、と。どうしてもうちの商品がいいというなら、買い取れ、と。ただし、うちの商品は金じゃ売れない。情報と引き換えだ。
でたらめだ。宗英はまともな商品じゃなかった。父親に殴られつづけたせいで鼻が潰《つぶ》れていた。殴られて折れた歯の治療を受けさせてもらえなかったせいで、歯並びがぐちゃぐちゃだった。こんな女を買う日本人がいるとしたら、変態だけだ。
滝沢は変態だった。倒錯者だった。身体の自由を奪い、蹂躙《じゅうりん》し、許しを乞《こ》わせる。暴力衝動が癒《いや》される。身体が震える。頭の中がスパークする。
だから、崔虎のイヌになった。中国マフィアに関する新宿署の情報をすべて崔虎に流した。宗英は売春バーから身体を売らない飲み屋に勤めを変えた。顔はともかく、その気立ての良さと歌のうまさで、宗英はまずまずのホステスとして新たな人生を歩みはじめた。ねぐらは滝沢の北新宿のマンションだった。
破滅はすぐにやって来た。
二年前。歌舞伎町の入口、靖国通りのど真ん中で派手な殺しが起きた。派手な銃撃戦だった。殺されたのは、当時の上海マフィアのボスの元成貴《ユェンチョンクィ》、元のボディガードたち、そして、身元不明の中国人たち。チャイナ・マフィアの抗争が勃発《ぼっぱつ》した。
同じ日の夜、東京医大近くの墓地でまた銃撃戦が起こった。死んだのは元成貴の側近のボディガードだった孫淳《スンチュン》。元成貴の情婦の弟。残留孤児二世の坂本富雄――中国名は呉富春《ウーフーチュン》。
さらに深夜。今度はパチンコ店を経営する台湾人、葉暁丹《イェシァオダン》が自宅で殺された。そばには上海マフィアのナンバー二である銭波《チェンポー》の死体も転がっていた。
そして、別の場所では北京マフィアのボス、崔虎が謎《なぞ》の一味に襲撃されていた。
警察は色めきたった。チャイナ・マフィアを壊滅させるための絶好の機会だとキャリアの連中は捉《とら》えたのだ。上海マフィアの内部抗争か、あるいは上海、台湾、北京のマフィア間の抗争か。いずれにせよ、このまま終わるとは思えなかった。上海のやつらはボスとナンバー二を殺されている。警官が大量に動員され、徹底的な捜査が行われた。
滝沢も鈴木と一緒に駆りだされた。だが、街にあれだけ溢《あふ》れていたはずの中国人たちの姿は煙のように消えていた。希《まれ》にひっかかるのは、正規の労働ヴィザを持った中国人だけだった。堅気の連中はなにも知らなかった。知っていても決して口を開かなかった。警察が使う通訳は民間のボランティアだ。連中には、したたかな中国人の口を割らせるテクニックも根性もない。
犯人は掴《つか》まらなかった。抗争の動機すら警察は掴《つか》むことができなかった。チャイナ・マフィアが蠢《うごめ》く歌舞伎町の裏世界は、もはや警察の手すら届かない魔窟《まくつ》と化していたことがわかっただけだった。その証拠に、捜査本部が縮小されると同時に、歌舞伎町に中国人どもが舞い戻り、なにもなかったかのようにしのぎを削りはじめたのだ。
捜査が空振りに終わって面子を潰された上層部はスケープゴートを求めた。内務関係のイヌが、中国人と付合いのある警官を調べるために調査をはじめたという噂《うわさ》が流れた。そして、滝沢は上司に呼び出された。
辞表を出せ。上司の言い分はそれだけだった。滝沢と宗英の関係はだれもが知っていた。上司にはそれだけで充分だった。上司はまだ三十代半ばのキャリアだった。滝沢になんらかの処分が下れば、自分の出世にも響く。だから辞めろ。神経質な顔が雄弁にそう語っていた。
滝沢は逆らわなかった。歌舞伎町に警官が溢れているころ、崔虎は笹塚に住まわせていた女の部屋に逃げ込んでいた。四谷署の防犯の刑事がどこからか、崔虎の女の情報を掴んできた。張り込みが行われ、女の部屋に多数の中国人が出入りしていることが確認された。家宅捜索令状と逮捕状。捜査員たちが崔虎をバクるために本部を出た直後、滝沢は携帯で電話を入れた。崔虎は間一髪で逃げ出し、刑事たちは唇を噛《か》んだというわけだ。
刑事を辞めるのは苦痛だったが、宗英と別れることはできない相談だった。崔虎がすんなり滝沢を解放してくれるはずもない。痛い腹を探られる前に、退職金をもらっておさらばする。それが最善の方法だった。
滝沢は警察を辞めても崔虎のイヌだった。一度イヌになった人間は一生イヌでありつづける。崔虎に便宜を払い、崔虎に金を貰《もら》った。いつしか、日常会話程度の北京語なら、理解し話すことができるようになっていた。宗英の日本語は滝沢の北京語など足元にも及ばぬほどうまくなっていた。
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暗くなるのを待って歌舞伎町へ出た。警官の数が異様に多かった。神経を尖《とが》らせて街を見張っている。二年前の再現を怖れている。だが、欲望に絡めとられた男たちはそんなことはおかまいなしに歌舞伎町に集まってくる。
バッティングセンターの裏の雑居ビルに滝沢は入った。エレヴェータで四階へあがった。〈美麗《メイリー》〉という看板が目に飛び込んできた。宗英が勤める中国バー。ドアを開けると、テレサ・テンのカラオケが聞こえてきた。北京語の曲だ。客はまばら。滝沢はカウンターの一番奥に腰をおろした。
「老板、なんの用だった?」
すぐに宗英がやってきた。
「昨日、張道明が殺されたそうだ」
「そうそう。もう、噂よ。張さんが殺されたって」
「だれかが上海に売ったらしい。裏切り者を探せっていわれた」
「ふーん……だいじょうぶ?」
「わからん。だが、崔虎に直々に命令されたんだ、やるしかないだろう。それに、金も必要だ」
「杜から電話があったよ。あんたが早く金を返さないと、わたしを売り飛ばすって。そんなことしたら、老板が黙ってないよっていってやった。でもね、こんなブス買ってくれる人、いる?」
笑い飛ばせなかった。滝沢は宗英の頭を撫《な》でた。
「心配するな。それより、おまえ、ちょっと聞いてまわってくれないか?」
「いいよ、ちょっと待っててね」
壁際のボックス席に、あぶれてお茶をひいているホステスたちがかたまっていた。宗英がその中に入っていく。
宗英が席を離れるのと入れ違いに、冷えたビールが目の前に置かれた。顔見知りのウェイターにうなずき、北京語で、いつもの、と告げた。
ビールを飲みながら、考えた。
魏在欣、陶立中、陳雄、それに張道明。北京の四大天王。魏はドラッグの売買、陶は金のロンダリング、陳は揉《も》め事と麻雀|賭博《とばく》、張は縄張りの中で動く金をそれぞれが仕切っていた。みんな、崔虎の持ち物だ。
張が死んだ――殺された。張を殺《や》ったのは恐らく、上海の連中だ。残った三人のうちの誰かが裏切ったのだ。だが、なぜ?
崔虎は面倒見がいい。気前もいい。やつの猜疑《さいざ》心をつつかないかぎりは。崔虎はだれが怪しいとはいわなかった。つまり、裏切り者はこれまではうまくやっていたということだ。そして、張を殺すことでいきなり崔虎を刺激した。なぜだ?
わからなかった。
鶏肉の炒《いた》め物と水|餃子《ギョウザ》。いつものやつが目の前に置かれた。ビールで胃に流し込む。カラオケの歌は張學友《ヂャンシュエヨウ》に変わっていた。中国語圏で一番売れている歌手だ。曲は『一千個傷心的理由』。チャイナドレスのホステスが声を張り上げている。
千もの傷つく理由――千じゃきかない。この世界には幾億ものガラスの破片がいたるところに埋めこまれている。
料理をすべて平らげた。宗英はまだ話し込んでいた。ビールをもう一本注文した。携帯電話を使って杜に電話を入れた。
「滝沢さん、お金できたか?」
陽気な声にまじって、麻雀|牌《パイ》をかき混ぜる音が聞こえた。
「いま北京の老仮の仕事をしてる。近いうちに金が入る。借りはいくらになってる?」
「二百三十万よ」
滝沢は素速く計算した。利子をあわせれば妥当な額だ。
「全部は無理だ。だが、仕事が終わったらまとまった金を入れる」
「北京の老板は金払いがいいね。期待して待ってるよ。でもね、滝沢さん、はやくしてくれないと、わたし、殺し屋雇うよ。嘘《うそ》じゃない。あなたの命、十万円もしないのよ」
「わかってる。それよりな、杜、おれの女にくだらねぇことを喋《しゃべ》るな」
「わたし、なにもいってないね」
「くそったれが」
電話を切った。宗英が戻ってくる。収穫なし。顔を見ただけでわかった。
「だれもなんにも知らない。噂《うわさ》だけは凄《すご》いけど」
「その噂を聞かせろ」
「張さんが老板の金を取った。張さんが老板のやり方に文句をつけた。とにかく、張さんが老板を怒らせた。それから、魏さんが老板を裏切って張さんを上海に売った――」
「なんで魏在欣が崔虎を裏切るんだ?」
「魏さんが薬の売り上げを盗んでるって……噂だよ」
「だれがそんな噂をばら撒《ま》いてるんだ?」
宗英は不思議なものを見るように滝沢に目を向けた。
「あんた、ここら辺のガイジンのこと、知ってるでしょ?」
うなずくしかなかった。不良外国人たちの情報伝達能力は日本人の想像を遥《はる》かに越えている。新宿で外国人同士のトラブルが起これば、一時間もしないうちにその話は上野あたりの外国人の耳に入っている。異国の都会という名のジャングルで、連中が生き残るための最大の武器が情報だ。凄《すさ》まじいスピードで飛び交う情報――話に尾鰭《おひれ》がつき、やがて噂となる。噂の大元を辿《たど》るのは不可能だった。
「四大天王の中に、崔虎と仲が悪いって噂がたってるやつは他にいるか?」
宗英が首を振った。
最初にマークするべきなのは魏在欣。収穫はゼロじゃなかった。滝沢は立ち上がった。
「とにかく、いろいろと話を聞いておいてくれ」
「今夜は?」
「たぶん、戻る。遅くなるけどな」
「話があるよ」
「今夜じゃなきゃだめなのか?」
「大切な話」
滝沢は宗英の顔を見つめた。なにもなかった。真剣なだけだ。
「ゆうべあれだけ可愛がってやったのにまだ足りないのか」
「ばか」
滝沢は宗英のうなじを撫《な》でた。
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滝沢は美麗を出た足で、風林会館の脇《わき》の薄汚れた雑居ビルに向かった。地階へ降りる階段のそばの看板には〈さち〉と店の名が書かれていた。十日前は〈K〉という看板だった。
客引きに手を振って階段をおりた。ドアを開けると「いらっしゃいませ」の声がした。でかいだけで愛想もサービスも感じられない。足元も覚束《おぼつか》ないほど暗い照明。女が寄ってくる。幽霊のように痩《や》せた腕――シャブの打ちすぎだ。女を押しのけて、滝沢はボックスのシートに腰を落ち着けた。
「てめえ、なんのつもりだ!?」
白いYシャツに蝶《ちょう》ネクタイ、黒いベストが目に映った。初めて見る顔だった。精一杯凄んでいるが用心棒にもなりはしないチンピラだった。
「宮田はまだか?」
滝沢は煙草に火をつけた。チンピラが動きをとめた。宮田――武藤組の若頭だ。組も小さければ、宮田の器も小さい。だから、こんなシケたぼったくりバーでしのいでいる。
「宮田さんのお知り合いですか?」
滝沢は答えず腕時計を見た。十時を五分すぎていた。
「もうすぐ連れがくる。客を入れるな」
チンピラの顔に戸惑いが浮かんだ。
「文句があるなら宮田にいえ」
「わかりました……」
チンピラが引いた。煙草の穂先が赤く輝いた。
煙草を吸い終える前に鈴木がやってきた。二年前より額が後退していた。目尻《めじり》の皺《しわ》が増えていた。他人の弱みを探るような視線だけが変わっていなかった。
「歌舞伎町にいるプロを知ってるか?」
鈴木は腰をおろすなり滝沢の煙草のパッケージに手を伸ばした。使い捨てライターの炎が闇《やみ》に浮かんだ。紫煙が渦を巻いて昇っていく。パッケージは鈴木のジャケットのポケットに消えた。中には煙草の他に万札が五枚入っている。
「プロの仕業なのか?」
「殺されたのは張道明、任達亮、黄光榮。三人とも銃を持っていた。トカレフだが、弾丸は一発も発射されてなかった。逆にホシが撃った弾丸は頭と腹に集中してる。銃声を聞いた隣の住人が通報してきた。最寄りの警邏《けいら》が駆けつけたのは五分後だが、ホシは消えていた。指紋もない。薬莢《やっきょう》も拾ってやがった。青龍刀を持って暴れるやつらにこんなことができるはずがねえ。どう考えたってプロの仕業だ」
鈴木は中国名を日本語で発音した。頭の中で北京語に置き換えた。思い出した。任《レン》と黄《ホァン》――張道明の子分に違いない。
「歌舞伎町にプロがきてるって話は聞いてないな」
ふいに二年前を思い出した。東京医大のそばで死んでいた孫淳――上海のボスのボディガードは正真正銘のプロだった。元人民解放軍の兵士だ。孫淳は、坂本富雄に殺された。警察の捜査ではそうなっている。だが、歌舞伎町には別の噂が流れていた。劉健一《りゅうけんいち》――チンケな故買屋が孫淳を殺した。噂だ。
「おまえ、なんだってこの件に首を突っ込むことになった?」
「北京マフィアの崔虎《さいこ》だ。あいつに調べろと命じられた。だれかが張道明《ちょうどうめい》を上海に売ったってことらしい」
「つまり、北京と上海の抗争か?」
「わからん。北京の内輪もめかもしれん。北京に喧嘩《けんか》を売るほど上海は安定してない。噂だけどな」
「上の方じゃ、抗争だと見てる」
「あんたは違うのか?」
「現場にはパチンコの変造プリペイドカードが散乱してた。数千万分だ。……よくわからん。中国のやつらの考えることなんてみんなでたらめだ」
「おかしいな。殺ったのが北京のやつらにしろ、上海のやつらにしろ、プリペイドカードをそのままにしておくはずがない」
「上のやつらは持ち運ぶ時間がなかったといってる」
「あほくさい。……プロが使った銃は?」
「トカレフだ。前はない」
まっさらなトカレフ。今では素人でも手に入れることができる。殺し屋が部屋にあがりこみ、三人をすばやく撃ち殺す。薬莢を拾い、部屋を出る。滝沢は想像してみた――うまくいかなかった。
「他にわかってることは?」
「ない。中国マフィアがらみの殺しだ。お手上げだよ。聞き込みも満足にできやしねえんだ。なにをいっても、わたし、日本語わからないね、だからな」
鈴木は煙草を取り出した。自前の埋草だった。煙を薄暗い店内に盛大に吐きだした。
「おまえみたいに中国語がわかるやつが現場にいりゃ、多少は違うんだろうがな」
「いたって変わらんさ。ここの中国人社会には日本の法律は通用しない」
「かもな。ま、なにかわかったら連絡するよ。あんたの方も――」
「これからはバーターってことだな」
「そういうこと」
鈴木が立ち上がった。チンピラ崩れのウェイターに、宮田によろしくなと手を振って出ていった。
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行くあてはなかった。なにかに引き寄せられるように歌舞伎町へ向かった。靖国通りと職安通りの間をぶらついた。〈薬屋〉の前は避けた。
テレクラ、ヘルス、ソープ。客引きがよってきては退いていく。居酒屋、映画館、着飾った女たち、目の濁った男たち。秋生の目はすべてを素通りしていた。
マンションを出たときの恐怖は消えていた。代わりに残ったのは違和感だ。なぜ、楊偉民はいつものやり方を今回に限って変えたのか。どれだけ考えてもわからなかった。濃い霧の中を、目を閉じて歩いているような感覚があった。目を開いてもなにも見えない。霧に覆われた視界の中に、名前が浮かび上がった。劉健一《リウジェンイー》。周天文《ヂョウティエンウェン》。楊偉民の息子たち。二人の居場所は知らない。楊偉民が教えてくれない。だが、歌舞伎町にいることだけはわかっている。彼らなら、楊偉民がなにを考えているのか、教えてくれるかもしれない。
真紀の死体。ろくでなしと秋生の精液にまみれて、少しずつ腐っていった。ろくでなしの死体は風呂《ふろ》場に放り出した。真紀の死体は居間で秋生が殺したままの格好で転がっていた。秋生は見ていた。真紀の死体が腐臭をはなちながら崩れていくのを。水も飲まず、なにも食べず、ただ見つめていた。
楊偉民が突然やってきて、秋生を連れ出した。楊偉民。漢方薬局の店主。歌舞伎町の台湾人のボス。がっちりと根を張り、目を光らせている。台湾人なら、堅気も流氓も楊偉民には逆らえない。
母の口から楊偉民の名前を聞いたことがあった。困ったことがあったら、楊偉民という人を頼りなさい、台湾人のためならなんでもしてくれるから、と。
楊偉民は真紀の死体から秋生を引き離し、風呂、粥《かゆ》、清潔な服、新しい部屋、新しい生活をくれた。
なぜ、あの部屋に死体が転がっていることを知ったのか――秋生は楊偉民に訊《き》いた。楊偉民は微笑《ほほえ》むだけで答えなかった。後になって知った。日本人とくっついた水商売の台湾女がいると、楊偉民は配下の者を使って定期的に様子を探らせる。女が酷《ひど》い目にあわされていないか知るために。あるいは、女の相手が、楊偉民にとって利用できる人間であるかどうか知るために。
秋生は吉祥寺で小さな中華屋を営む台湾人夫婦の元に預けられ、学校に通った。数年後に台北《タイペイ》までの航空券を渡された。
台北で軍に入隊し、三年後に除隊。楊偉民に呼び戻されて歌舞伎町へ向った。楊偉民に命じられたのは殺しの仕事だった。標的は台北でしくじった流氓。台北の老板たちは怒っていた。楊偉民が怒りを鎮める役を請け負った。得物はナイフ。大久保の暗がり――待ち伏せて、頸動脈《けいどうみゃく》を切った。恐怖は感じなかった。男の首から血が噴き出た瞬間、股間《こかん》が痛いぐらいに勃起《ぼっき》しただけだった。
凶手《シォンショウ》。楊偉民だけが知っている。殺し、金を受け取り、姿を隠す。歌舞伎町で。横浜で。台北で。犬の図鑑を片手に、人を殺す。そんな生活をくり返していた。
そのうち、名前が耳に入ってくるようになった。劉健一と周天文。楊偉民の息子たちだ。二人とも日本人との半々《パンパン》で、楊偉民に楯《たて》突いた。
二人と楊偉民の関係を知ったとき、憎悪と羨望《せんぼう》がごちゃごちゃになって渦を巻いた。秋生は凶手。健一は故買屋。天文は堅気。なにが違うのか。なにが違わないのか。なぜ秋生だけが楊偉民の側にいることができないのか。楊偉民は答えてくれなかった。二人の居場所も教えてくれなかった。秋生はしつこくは訪ねなかった。二人に会ってどうしたいのか、それすらもわかっていなかった。
秋生は区役所通りを歩いていた。すぐ側にバッティングセンターがあった。金属バットがたてる鈍い音の後ろから上海語が聞こえた。秋生は振り返った。女が二人。お互いに相手をなじるような勢いで喋《しゃべ》っていた。
「すいません。劉健一さんに会うにはどうしたらいいでしょう? 買ってもらいたいものがあるんだけど」
言葉が勝手に口をついた。女たちは驚いて口を閉じた。秋生の顔を見て媚《こび》が浮かんだ。女たちは秋生を見ると媚を売る。時にはある種の男たちも。
「今の時間だったら店にいるかもね」
店――カリビアンの場所を教えてもらった。
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終夜営業スーパーの斜《はす》向かいの路地を秋生は見つけた。分厚いスティールの扉に〈会員制〉のプレートがあった。原色がきらめく看板。すぐ横の東通りには人が溢れている。路地に人けはない。
スティールのドアの脇《わき》にインタフォンがあった。手を伸ばし、躊躇《ためら》った。顔を上げる。開いた窓からカメラのレンズが秋生を見下ろしていた。
秋生はインタフォンのボタンを押した。
「会員制だ」
固い調子の日本語がスピーカーから流れてきた。秋生の様子を探っている。
「劉健一さんに会いに来たんです」
秋生は北京語でいった。
「劉健一はおまえを知らない」
北京語の答え。ほんのかすかな訛《なまり》があった。
「おれは……」
秋生はいいよどんだ。混乱していた。言葉をうまく整理できない。なにをいえばいい? なにを頼めばいい? なにをすればいい? なにも浮かばない。真紀の罵声《ばせい》が聞こえた――なんでそんなにグズなのよ!?
ドアのノブの辺りで小さな音がした。
「上がってこい」
インタフォンがそう告げた。ノブに手をかけると苦もなくドアが開いた。
ラテンのリズムが降りかかってきた。狭い階段。カビの匂《にお》い。暗い照明。ポケットの中のスウィッチブレイドをきつく握り締めながら階段をのぼった。
狭い店だった。カウンターと小さなボックス席があるだけだ。若い女がふたり、クスクス笑いながらリズムに合わせて身体を揺らしていた。カウンターの中に男がいた。暗く冷めた目が秋生を見つめていた。
「ポケットの中のものを出せ、坊主。ゆっくりだ」
目と同じ冷たい声だった。両手はカウンターに隠れて見えなかった。銃を握っている。銃口は秋生に向けられている。
秋生はカウンターに近づいた。スウィッチブレイドをゆっくりカウンターの上に置いた。男の左手が伸びてきた。スウィッチブレイドの重みを確かめている。
「他には?」
冷めた目はじっと秋生に注がれていた。秋生は首を振った。小さく、すばやく。男の右手がカウンターの上にあらわれた――空っぽだった。
「銃を持ってると思ってた」
「バーテンが持つのはアイスピックだ。なにか飲むか?」
「烏龍《ウーロン》茶、あるか?」
男がグラスを取りだし、氷を放り込んだ。秋生はゆっくり店内を見回した。壁にボトル棚。ラムがほとんどだった。少しバーボンが混じっている。大量のCDケース。赤と縁の照明。天井で東南アジア風の扇風機が回っていた。奥に上にあがる階段があった。トイレは見当たらない。上にあるのかもしれない。ボックス席の女たちは相変わらずタスクス笑っていた。秋生にはこれっぽっちの興味も示さない。女たちの頭の上にはテレビ・モニタがあった。店の前の路地が映しだされていた。
液体の中で氷がぶつかる音に、秋生は視線をカウンターに戻した。目の前に烏龍茶の入ったグラスが置かれていた。
「あんたが劉健一?」
「そうだ。おまえは?」
「郭秋生」
もう一度店内を見回した。
「この店、ひとりでやってるのか?」
「ひとりで充分な狭さだ」
「そうだけど……あんたの本職はこれじゃないんだろう」
宝石、毛皮、家電製品、薬、女。中国人たちが持ち込んでくるものを安く買い叩《たた》いて高く売る。歌舞伎町で何度も聞いた。劉健一の本職は故買屋だ。
「だれに聞いた?」
「噂《うわさ》だ」
「あったこともない人間の噂を集めてたのか? そのなりを見ると、おれの本職に関係のあるものを持っていそうには見えないがな。それともなにか、でかいブツでどこかに預けてあるのか?」
「おれは――」
「普段はここは人に任せてる。頭のおかしい日本人に。用があってそいつは東京を離れてる。そいつが戻ってくるまで、おれが店をやる。おれがオーナーだからだ。わかったか?」
秋生は烏龍茶に手を伸ばした。相手のペースにはまりすぎていた。なんとかしなければ――どうにもならなかった。劉健一が口を開いた。
「楊偉民に頼まれておれを殺しにきたのか?」
劉健一の目に光が宿った。ギラギラと燃えている。抑えても抑えきれない狂気が漏れだしていた。死を望んでいる。だれかの死を、熱烈に。
「歌舞伎町じゃときどき中国人の奇麗な死体が見つかる。銃、ナイフ、ロープ……殺され方は色々だが、殺すやつは同じだ。どれもこれもプロの仕業だ。見事なもんだ。だが、だれもそのプロを知らない。顔も名前も。北京のやつらも上海のやつらも知らない。それどころか、そんなプロがいることにも気づいてない。すると、おれにとって答えは一つだ。楊偉民がだれも知らないプロを飼っているってことだ。昨日、北京の人間が殺された。知ってるか?」
秋生は首を振った。
「三人殺されたそうだ。みんな銃を持っていたが、一発も撃っていない。つまり、プロに殺《や》られたんだ。その次の夜、劉健一に会いたいと知らない男がやって来る。おまえならどう思う?」
「なにも思わない」
「おれは思うんだよ。臆病《おくびょう》だからな。おまえがそのプロだ。おまえはきのう、北京の張道明を殺した。今夜は楊偉民に命じられて、おれを殺すためにやってきた」
「違う。おれは……あんたに会いたかっただけだ」
「なぜ?」
「あんたが、昔、楊偉民の息子だったからだ」
劉健一が笑った。どこか歪《いびつ》な笑いだった。
「秋生、だれに聞いたのかしらないが、そいつは間違いだ。おれは楊偉民の息子だったことなんか一度もない。ただの道具だったんだ」
「周天文も?」
「あいつだけだ。楊偉民の息子はな」
劉健一が身を乗りだしてきた。ぎらぎらと燃える目が近づいてくる。
「昨日、張道明を殺ったのはおまえだろう?」
劉健一の目。黒い瞳《ひとみ》の中に真紀の顔がぽつんと浮かんで消えたような気がした。
「どうしてそう思う?」
殺しのこと。真紀のこと。脚が震えた。震えは少しずつ広がっていった。手が震え、視界がぼやけた。
「おまえからはおれと同じ匂《にお》いがする」
震えがとまった。秋生はまじまじと劉健一を見た。同じ匂い――。
「おれは……」
頭の中がまばゆい光に満たされた。ラテンのリズムもクスクス笑う女たちの声も遮断されていた。見えるのは劉健一の黒い瞳だけだった。まるで催眠術にかけられたように、秋生は劉健一の目から視線を外せなかった。劉健一の目は誰かに似ている。
「家に帰って、これを飲め。それからベッドに潜り込むんだ。ぐっすり眠れる」
手の中に何かが押し込まれた。錠剤のシートと数字が書かれた紙切れ――携帯電話の番号が書いてあった。スウィッチブレイドも一緒だった。
「おれは……」
「帰るんだ。それから、ここにくる時は電話を入れろ。歌舞伎町にはどんなところにも楊偉民の目が光ってる。わかったな?」
劉健一の目は楊偉民に似ていた。他人から考える力を奪う眼光を放つ目。
「まだなにかあるのか?」
「あんた、楊偉民に似てるよ」
健一の顔が歪《ゆが》んだ。
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まっすぐ四谷のマンションへ戻った。頭の中で劉健一の言葉と目つきが繰り返し蘇《よみがえ》っていた。悪夢は消えた。真紀は暗がりに姿を隠した。
おまえからはおれと同じ匂いがする
確かに感じた。あの言葉を聞いた瞬間、震えがとまった。真紀が消えた。楊偉民が使う魔術と同じだ。楊偉民も劉健一も、人が心の底に抱えている恐怖を吹き飛ばす言葉を知っている。
錠剤を二粒。ぬるくなった烏龍茶で流し込んだ。紙に書かれた数字を記憶して紙を燃やした。裸になってベッドの中へ潜りこんだ。すぐに眠りが訪れた。
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滝沢は歌舞伎町と大久保の飲み屋と賭場《とば》を往復した。北京語とへたくそな日本語にときおりの英語が混じる会話に耳を傾けた。へつらいや媚の混じった笑顔、罵声《ばせい》、冷えた視線にさらされた。だれも何も知らない。噂だけが飛び交っていた。
崔虎の粛正がはじまる。上海が北京を攻撃する。張道明殺しのホシがだれであれ、抗争が起こる。二年前のように。人が殺され、金の動きが滞る。歌舞伎町を根城にする中国人たちは怯《おび》え、興奮していた。
四大天王に会うのは後回しだ。滝沢が裏切り者を探しまわっていることを、三人はもう知っている。クソ面白くもない。そう考えているだろう。手持ちの札を整えておかなければやっかいなことになる。手にある札――パチンコの変造プリペイドカードしかなかった。
噂に耳を傾けるのを切り上げて、滝沢は百人町に向かった。どこにでもあるマンションの一室。だだっ広いリビングに卓が三つ。埋まっているのは二つだった。胴元と金庫番、用心棒、それに客。牌《パイ》をかき回す音、叩きつける音、らちもない無駄話と十枚にまとめられた札束が飛び交っていた。
奥の卓に目当ての男がいた。太った犬のような顔で牌をめくっている。蘇信輝《スーシンホイ》という名の華僑《かきょう》の二世。親父は大久保でパチンコ屋と不動産屋を経常している。
胴元の羅義順《ルオイーシュン》が近づいてきた。
「滝沢さん、だめよ。杜さんがあんたに打たせちゃだめだっていってるからね」
元京劇の役者はホモのように身体をくねらせた。甲高い声のへたくそな日本語だった。羅を見るたびに、滝沢は発作に襲われそうになる。狂暴な発作――細い手首に手錠をうち、思う存分痛めつけてやりたくなる。血まみれの羅。汚れた血を撒《ま》き散らしながら許しを乞《こ》うホモ野郎。
滝沢は頭を振った。崔虎の仕事は半端ではつとまらない。くだらないことを考える暇があったら、少しでも多く情報を仕入れるべきだった。
「今日は打ちに来たわけじゃない」
「博奕《ばくち》をやらないなら、なんだってこんなところに来たんだよ?」
蘇信輝が牌から顔をあげた。きれいな日本語だった。
「あんたに話があるのさ」
「おれに? 金なら貸せないぜ」
「金の話じゃない。だが、あんたには貸しがある」
四年前。歌舞伎町でチンピラたちが蘇信輝を探していた。華僑のお坊ちゃまでろくでもない女たらし。蘇信輝はマンションと服と車――親父の金を使ってやくざの女とねんごろになった。それがやくざにばれた。蘇信輝は指を詰めるか、べらぼうな金を払うしかないという窮地に立たされていた。
ちょうどその頃、滝沢と鈴木はそのやくざを内偵していた。覚醒剤《かくせいざい》取締法違反並びに売春防止法違反。金を出せと滝沢はいった。やくざは拒否した。そこに蘇信輝の話が聞こえてきた。
滝沢は蘇信輝を見つけだし、話をつけた。おれたちがやくざを排除してやる。蘇信輝は裏があることに気づきもしなかった。怯えていた。やくざの報復より、親父にいたずらが見つかってどやされることを恐れていた。
報酬は五百万。三百万は滝沢に、残りは鈴木の懐に。二人は強引な捜査でやくざを挙げた。チンピラたちが姿を消し、蘇信輝が歌舞伎町を徘徊《はいかい》しはじめた。
「あれはもう五年も前の話だろう。いまさらなんだってんだ?」
「まだ、四年しかたってない。それに、面倒なことじゃない。ちょっと話を聞きたいだけだ」
「なんの?」
「張道明とプリペイドカード」
蘇信輝と羅義順が凍りついた。日本語がわかるのは二人だけだ。他の男たちはなにごとかという顔で滝沢を見ていた。
「うちの親父はまっとうな商売をやってる。流氓がらみのプリペイドカードなんか、これっぽっちも関っちゃいない」
「でも、噂は聞いてるはずだ」
ため息を漏らして蘇信輝は卓の上に手をのばした。ツモってきたのは九萬。河に放り投げる――対面が嬉《うれ》しそうに手牌を倒した。札束が卓の上を飛んだ。中国人の麻雀は一局清算だ。点棒は必要がない。
「なにが知りたいんだよ?」
不機嫌な声で蘇信輝は椅子《いす》から腰を浮かせた。周りからは不満の声があがった。
「プリペイドカードが北京と上海の間をどう流れてるのか」
「こっちで話そう」
蘇信輝が奥の部屋に足を向けた。休憩室代わりに使われている部屋だった。休んでいる人間はいなかった。
羅義傾が割り込んできた。
「困るよ、卓が割れる。わたし、商売にならない」
発作が起こりそうになった――滝沢は煙草をくわえて鎮めた。
「おれは崔虎の命令で動いてるんだ。文句があるなら北京野郎にいえ」
滝沢は羅の顔に煙を吹きかけた。
「プリペイドカードを変造してるのは日本のやくざだ。それは知ってるな?」
滝沢はうなずいた。コンピュータ狂いの世間知らずどもを、金と女、ときには薬で手なずける。やくざの常套《じょうとう》手段だ。
「北京と上海はやくざからそれを買う。額面の一割程度でな。それから、そのカードを華僑が経営してるパチンコ屋で使うのさ。もちろん、店もグルだ。まっとうなカードだろうが変造だろうが、店の懐は痛まないからな。
北京の方は張道明、上海の方は賈林《ジァリン》ってやつが変造カードを仕入れて動かしてた。カードを換金する店は結構ダブってたはずだ。きっと暗黙の同盟みたいなのができてたんだな。出入りをやるより、お互い黙って儲《もう》けようってな感じでさ」
賈林の顔を滝沢は思いだした。出っ歯の上海人。金にあかせて日本の女を漁《あさ》っている。
「ところがだ、最近、妙な噂が流れてるんだ。北京のやつらが自前で変造のカードを作りはじめたって――」
「そんなに簡単にできるものなのか?」
滝沢ははじめて口を挟んだ。
「コンピュータを上手にいじくるやつがいれば、カードを解析するのは割と簡単だ。後は、カードを変造する機械をなんとかすればいい。金と時間をやれば、コンピュータ・マニアは大抵のことをやってのけるぜ」
「それで?」
「上海のやつらはその噂を聞いて涎《よだれ》を流したって話だよ。やくざに高い金を払う必要がなくなるんだからな。カードの磁気情報を解析したやつを北京の連中がどこに匿《かくま》ってるのか、それを必死になって探してたらしい」
頭が音をたてて回転した。コンピュータ狂いは留学生? 張道明を殺した上海の連中はコンピュータ狂いを掴《つか》まえたのか? 鈴木のとの会話を思いだす。プロの仕業。見事な手際。拷問の話は出なかったはずだ。
情報が足りない。滝沢は小さく舌を鳴らした。
「張道明がそのコンピュータ狂いを押さえてたんだな?」
「知らないよ。でも、まっとうに考えれば張道明か崔虎ってことになるよな」
「上海のやつらが、張道明を殺してそのコンピュータ狂いを手に入れたって話は聞いてないか?」
「昨日の今日だぜ。もしそうだとしても、噂が流れるまでは時間がかかるさ」
滝沢は蘇信輝を残してトイレへ向かった。便器には向かわず携帯電話を取り出した。崔虎はすぐに出た。
「滝沢です。老板、張道明がどうやってプリペイドカードを変造したか知ってますか?」
「電脳《ディエンナォ》に詳しいやつがどうのこうのとかいってたな」
電脳――しばらく意味が掴めなかった。すぐに神経が繋《つな》がった。コンピュータを意味する北京語だ。
「よくは知らねえ。ある日、張が金をよこせといった。くれてやると、しばらくして張は大金を稼ぐようになった。やくざに金を払う必要がなくなったっていってな。張の稼ぎがよくなれば、おれの懐も潤う。金をきちんと納めるかぎり、詮索《せんさく》する必要はねえだろう」
「そいつがどこにいるかは?」
「電脳に詳しいってやつか? 知らん。なにか関係があるのか?」
「張道明の手下たちに聞いてください。そいつがどこにいるのか」
「三十分後にもう一度連絡しろ」
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滝沢は再び街へ出た。だれかれかまわず聞いてまわった。
電脳に詳しいやつを知らないか?
空振り。流氓やチンピラは電脳に縁がない。縁がありそうな堅気の連中はまだ眠りを貪《むさぼ》っている時間だった。空は黒く、街は輝いている。異臭が立ちこめている。ざわついている。
街に飛び交っているのは噂《うわさ》だけだった。だれかが消えた。だれかがやって来た。だれかが儲《もう》けた。だれかが損した。だれとだれとがくっついた。別れた。だれかが殺された。だれかが殺した。
歩きまわり、耳を傾けた。
張道明。女なら一目で涎を垂らすような男前だった。いろんな女が張道明に接近した。だが、張道明はすべて跳ねつけた。噂だ。張道明は女より金が好きだった。噂だ。それでも――女絡みという線は消してもよさそうだった。
約束の時間があっという間に過ぎた。滝沢は職安通りに立っていた。香辛料の匂《にお》いが立ちこめ、漢字とハングルのネオンがアスファルトを照らしていた。電信柱によりかかって携帯電話を取り出した。崔虎はすぐにつかまった。
「だれも知らん。張のやつがひとりで仕切ってたんだ。そいつは堅気らしいが、名前もヤサもわからん」
滝沢はため息をもらした。
「ここ数日、張の周辺に変わったことは?」
「おまえを呼ぶ前におれもいろいろ調べては見たんだ。なにも変わったことはなかった。張だけじゃねぇ。魏も陶も陳も普段どおりだ」
「わかりました。とにかく、その電脳に詳しいやつを上海の連中がさらおうとしてたらしいんです。噂ですけどね。その辺からいろいろ探ってみます」
「急げよ」
張しか知らない電脳マニア。消えてしまった。上海のやつらが手に入れたなら、張は慌てふためいたはずだ――その兆候はない。だが、張は殺された。上海の雇ったプロに。なぜ? あるいは、プロを雇ったのは上海ではないのかもしれない。だとすれば、時間がかかる。
〈急げよ〉崔虎の声が耳元で谺《こだま》した。
蔡子明を使うしかない。使えそうにないやつでも、いないよりはましだ。
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午前四時。くたびれ果てていた。居間で宗英がテレビを見ていた。昼の粥《かゆ》の残りを胃に流し込み、焼酎《しょうちゅう》の水割りで喉《のど》を潤した。胃が満たされ、眠気がやってくる。
「寝る前に話聞いて」
宗英がいった。
「なんだ?」
「人民戦線《レンミンヂャンシュン》、知ってるでしょ?」
予想外の言葉だった。うなずきながら、滝沢は宗英の目を覗《のぞ》きこんだ。
天安門での惨劇。その後の粛正。学生や民主化運動家が日本にも逃げてきた。そいつらが作った民主化組織が人民戦線だった。歌舞伎町に事務所がある。バックアップしてるのは組合――歌舞伎町華人商店組合だ。
「最近はあいつらも大変らしいな」
天安門は記憶の彼方に消えた。改革解放路線で大陸の表面は見違えた。巨大なマーケットに、アメリカも日本もへいこらしている。人民戦線――人戦の活動も尻《しり》すぼみだ。良識ある日本人からのカンパは年々減るだけ。民主化運動に精をだす前に、まず、自分の食い扶持《ぶち》を稼がなければならなくなっている。
「謝圓《シェユェン》って人がいなくなったの。あんた、探してくれない?」
「だれだ、そいつは?」
頭の中に小さな点が生じた。それがだんだん大きくなる。
「人戦の人よ。一週間ぐらい前から姿が見えないって。みんな心配してる」
思い出した。噂だ。だれかが消えたという噂――その中に、人戦のメンバーの名前があった。
「どこかの女のところに転がり込んでるんだろう」
「謝圓はそんな人じゃないよ」
「どんなやつだろうが、おれは崔虎の仕事で手一杯だ。わけのわからねえ堅気を探してる暇なんかあるか」
「お願い」
宗英が懇願する。頭の中の点がさらに大きくなった。こめかみが痙攣《けいれん》した。
「いいかげんにしろ。おれはくたくたなんだ。明日も早くから動きまわらなきゃならない。稼がなきゃならないんだ」
「わたし、あんたにこんな風にお願いしたいことないよ。そうでしょう?」
宗英は引き下がらなかった。滝沢は煙草に手を伸ばした。グラスの底に残った焼酎を喉に流し込んだ。宗英が新しい水割りを作りはじめた。ベッドに行かせる気はないらしい。
「その謝圓ってのは、おまえの何なんだ?」
「英雄」
滝沢はまじまじと宗英を見た。
「人戦の人たちはみんな英雄だよ。天安門であの人たちは闘った。戦車を相手に闘ったんだから。それに、今はオーヴァーステイの人とか、不法入国してきた人たちのために活動してる。歌舞伎町にいる中国人はみんなあの人たちのこと、英雄と思ってる。だから、北京の老板だって上海の老板だって、ときどき人戦にお金をあげてる」
嘘《うそ》ではなかった。だが、ポーズだ。天安門の勇士をバックアップする大立て者。そいつを気取って箔《はく》をつけたいだけだ。崔虎や上海の朱宏が本気で人戦の活動家どもを持ちあげるはずもない。
「人戦の人たち、みんな困ってるよ。謝圓、会計係やってたんだよ。お金の出入りがわからなくなって……」
「組織の金を持ってトンズラしたんだろうが。いいかげんにしてくれよ、宗英。おれは日本人だ。人戦のやつらがどうなろうが知ったこっちゃない」
あくびが出た。涙で視界が滲《にじ》んだ。グラスに手を伸ばす――その手を払われた。
「なにしやがる!」
「真面目《まじめ》に聞いてよ! わたし、ずっとあんたのいうこと聞いてきた。なにされても黙ってた。だから、たまにはわたしのお願い聞いて。いいでしょ」
頭の中の点がどんどんでかくなる。視界が隅の方から赤く染まっていく。発作の前兆。滝沢の手が動いた。肉を打つ鈍い音。ひっくり返る宗英。
宗英のすすり泣きが聞こえた。ふいに、昔見た光景が頭の中でフラッシュバックした。
キュウリというあだ名の同級生がいた。見ているだけで胸がむかついた。殴りつけては金を巻きあげた。滝沢君、もう許してよ――キュウリは泣いて懇願した。宗英のように。
滝沢は呷《あお》るように水割りを飲んだ。煙草をふかした。煙の動きを目で追った。発作を抑えこんだ。目に焼きついて離れないイメージをふり払った。
宗英は床に突っ伏して泣いていた。力ではどうやっても滝沢にはかなわない。宗英はそのことを知り尽くしている。恨みがましい視線を向けてすすり泣くだけだ。
「金はだれが払うんだ?」
すすり泣きがやんだ。
「金だよ。おれをただで働かせる気か?」
「わたしが払う」
「馬鹿野郎。おまえの金はおれの金だ。その謝圓ってのをどうしても探してほしいんなら、金を出してくれるやつを連れてこい」
「そんなお金持ってる人いないよ。歌舞伎町でお金持ってるの、流氓だけ。知ってるでしょ。だから、わたしがあんたに頼んでるんだよ。みんなが、あんたならきっと見つけてくれるって。おまわりなんだからって」
赤みがかった視界は変わらなかった。頭の中の点――今では芯《しん》のようになってずきずきと脈打っていた。煙草や酒ではこの鈍痛を抑えることはできそうにもなかった。
「宗英――」滝沢は優しい声でいった。「服を脱げ」
「探してくれるの?」
「ケツの穴にぶち込んでやる」
「あんた――」
宗英の顔に怯《おび》えの色が浮かんだ。滝沢の身体が震えた。肛門《こうもん》の襞《ひだ》にペニスを押しつけるたびに、宗実は激しく抗《あらが》った。今夜はそうはいかない。
「ケツの穴だけはいやだっていってたな、宗英。だけどな、今夜からはおれがやりたいってときには、ケツの穴をてめえで広げるんだ。そうしたら、その謝圓ってやつを探してやる」
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湿った音が響く。後ろ手に縛られた宗英が股間《こかん》に顔を埋めている。ときおり顔を上げて宗英が懇願する。それを無視して快感に身を委ねた。
頭の中には、滝沢に殴られて許しを乞《こ》うキュウリの醜い顔が浮かんでいた。
家の中はつまらなかった。世間体しか頭にない母親、家庭内の出来事にすっかり興味を失っている父親。笑いもなく、会話もない。外に出て不良連中とつるんでいる方がよっぽど楽しかった。キュウリのような連中を痛めつけている方がよっぽど興奮した。
興奮――キュウリを殴ると、決まって勃起《ぼっき》した。そのうち、怯えるキュウリの顔を見るだけで勃起するようになった。クラスメートが持っていたエロ雑誌の中の縛られたヌードモデルの怯えに歪《ゆが》んだ顔。キュウリの顔が重なった。それで納得がいった。いつしか、SM雑誌を眺めては妄想にふけるようになっていた。
相手の自由を奪って痛めつける。妄想の中で縛られるのは父親、母親、気に入らない教師、クラスメート、お高くとまった女たち。男でもかまわなかった。妄想は妄想だった。実行に移すことはなかった。
大学を出て警察の試験を受けた。手錠の感触が就職の動機だった。警察学校を出て派出所勤務。デパートで万引きをした主婦にはじめて手錠をかけた。背中に電流が走った。引き立てられる主婦は滝沢の獲物だった。次の日から妄想を現実に変えることだけを考えていた。
滝沢は宗英を四つん這《ば》いにさせた。
「お願い、あんた――」
宗英が懇願する。滝沢は鞭《むち》を手にした。
「ケツの穴にぶち込まれるのはそんなにいやか?」
宗英がうなずいた。
「だったら、本当のことをいえ」
「なんのこと? わたし――」
尻に鞭を打ちつけた。容赦なく。宗英の身体がのけぞる。白い皮膚が赤く染まっていく。
「英雄だと? ふざけたことぬかしやがって。そんなたわごとでおれを騙《だま》せると思ってたのか? 本当のことをいえ。なんだって、人戦の野郎なんか探したがるんだ?」
宗英が北京語で答えた。早口すぎて聞き取れなかった。滝沢は鞭をもう一発ふるった。
「金か? それとも、そいつのちんぽをしゃぶって味が忘れられなくなったのか?」
鞭を打ちつけた。尻に、背中に脇腹《わきばら》に。
宗英は声を殺して叫んでいた。苦悶《くもん》に歪む顔。目尻に浮かぶ涙。あらゆるものが滝沢の興奮をかきたてた。
宗英の長い髪を掴《つか》んで引き寄せた。
「本当のことをいえ。そうすりゃ、そいつを探してやる」
「お、お金を貸したの……」
「いくらだ?」
「……百万」
「どこにそんな金、隠してやがった?」
「ごめんなさい。あんた、許して」
許さなかった――許せなかった。鞭を振り上げた。押し殺した悲鳴が宗英の口から漏れた。痛みにのけぞる身体。肌に広がるみみず腫《ば》れ。
うなじのあたりから熱感が広がっていった。思考が麻痺《まひ》しはじめていた。呼吸が荒くなった。滝沢は鞭を放り投げた。宗英はぐったりして動かない。
腰を抱えあげペニスを肛門にあてがった。
「わたしの金を取り戻して……お願いよ、あんた。あんたのいうこと、なんでも聞くから」
宗英が譫言《うわごと》のようにつぶやいた。滝沢はゆっくり、引き裂いた。
宗英が獣のような悲鳴をあげた。
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ゆるやかな目覚め。記憶が徐々によみがえった。真紀。劉健一。薬。
頭が重い。唇がかさかさに乾いている。
ベッドを抜け出してキッチンへ。烏龍《ウーロン》茶の缶。冷蔵庫の中に腐るほどある。
テレビをつけた。くだらないワイドショー。くだらないドラマ。大久保での殺人事件を報じるニュースは無かった。烏龍茶を飲みながらリモコンをいじくっていると、電話のベルが鳴った。
「わたしだ」
楊偉民の声が耳に飛びこんできた。
「昼飯を食おう。十二時に〈台南好吃《タイナンハオチー》〉。場所はわかるか?」
「いや。初めて聞く店だ」
「昔、〈桂林《グイリン》〉があった場所だ」
鼓動が速くなった。これまで、新宿で楊偉民とおおっぴらに顔を合わせたことはない。歌舞伎町では秋生は幽霊のような存在だった。それなのに、桂林に来いと楊偉民はいった。歌舞伎町のど真ん中にあったはずだ。
「そこならわかる」
声が震えることはなかった。真紀の幻影が現れることもなかった。楊偉民が何を企《たくら》んでいるのかはわからない。不安が膨らんだ。
「それじゃ、十二時に」
電話が切れた。秋生の不安は置き去りにされた。
秋生はアドホックビルの前でタクシーを降りた。区役所通りを歩いて、風林会館を左に折れる。人の数はまばらだった。警官の姿がやけに目につく。なにをするというわけでもなく、ただ通りを歩いている。恐らく、夜になれば私服の刑事たちとともに、人狩りを始めるのだ。
アシベ会館の手前に台南好吃があった。小奇麗なエントランスの前に、胡散《うさん》臭い目をした中国人が数人たむろしていた。
「今日は貸し切りね」
秋生が入ろうとすると、中の一人がいった。へたくそな日本語だった。他の連中は秋生の行く手を遮っていた――懐に手を入れながら。
秋生は後ろに目を向けた。警官がふたり、路地の角に立ち止まって秋生たちの方を見つめていた。
「交番のおまわり、怖くない」
もう一度下手な日本語が聞こえた。男の口許《くちもと》が歪《ゆが》んでいた。
「楊偉民と約束してるんだ」
秋生は台湾語でいった。通じなかった。北京語でいい直した。男たちの緊張がとけた。促されるように店の中へ入った。
店の真ん中、十人掛けの円卓に楊偉民が座っていた。ひとりだった。秋生は後ろを振り返った。男たちは動かない。胡散臭い目で通りを見つめていた。
上海か北京の連中――北京じゃないだろう。秋生が一昨日殺したのは北京の人間だ。
「あいつらを気にすることはない」
楊偉民が北京語でいった。この場では台湾語は使わないという合図だ。
「だれが来る?」
秋生は楊偉民の横に腰をおろした。楊偉民がお茶を注ぐ。
「そのうちわかる」
「老爺《ラオイエ》、なんで今回はいつもと違うんだ?」
「色々と事情があってな。わたしもおまえのことは隠しておきたい。だが、わたしのような年寄りも、流氓《リウマン》連中はそっとしておいてくれん。難儀なことだ」
楊偉民の言葉。答えはどこにもない。いつものことだ。
表が騒がしくなった。男たちがしきりに頭を下げている。自動ドアが開いて男と女が入ってきた。男はでっぷり太っていた。その身体を似合わないスーツで覆っていた。脂ぎった顔、小さな目が小狡《こずる》そうな光を放っている。女は金がかかっていた。きれいにセットされた髪、ナチュラルなメイク、ブランドものの衣装、アクセサリ。顔立ちも身に着けたものに劣らず派手だった。目だけが退屈にくすぶっている。
楊偉民が立ち上がった。秋生も椅子《いす》を引いた。
「朱先生《ヂューシェンション》、お待ちしておりました」
「台湾の老爺にそんな挨拶《あいさつ》をしてもらえるほどの人間じゃありませんよ、わたしは」
男が答えた。まんざらでもなさそうな笑みを浮かべていた。楊偉民を見ながら、ちらりと秋生に視線を投げかけてきた。女は楊偉民と秋生に目をくれようともしなかった。
「とりあえず座りましょう。勝手ながら、料理はもう注文してあります」
「ここは台湾料理の店だ。老爺に任せておけば間違いないでしょうが」
男が笑った。どこまでも下品な笑いだった。
すぐに料理が運ばれてきた。前菜とスープ、それにビール。広いテーブルがあっという間に埋め尽くされる。楊偉民と男はビール、秋生と女は茶に口をつけた。とりあえずの乾杯。楊偉民と男が話を続ける。女は無言で箸《はし》を使っている。秋生は黙って三人を見つめた。
男は上海流氓のボス。名は朱|宏《ホン》のはずだ。女は朱宏の情婦だろう。秋生は首をひねった。なぜ、自分がここにいる? 楊偉民は何を考えている?
「それで、こちらの若いのが、例の……?」
朱宏が小さな目で秋生を値踏みするように見つめてきた。
「そう。郭秋生《グォチウション》です。秋生、こちらは上海の老板《ラオバン》、朱宏先生だ」
「はじめまして、朱先生」
「優男だな。本当に大丈夫なんですか?」
朱宏の目は動かなかった。朱宏は一昨日、秋生が北京の流氓を殺したことは知らないのだ。
「秋生は三年間、台湾の軍にいた。海軍の特殊部隊だ。知っているように台湾の軍は大陸からの侵攻に備えて、どんな兵隊でも精鋭に仕立てあげる」
楊偉民が自慢げに秋生の肩を叩《たた》いた。
「しかし、老爺のお言葉だが、この歌舞伎町には荒っぽいやつらが腐るほどいる」
「試してみるかね」
朱宏がにやっと笑った。楊偉民がそういいだすのを待っていたのがわかった。
「それじゃ、老爺、お言葉に甘えますよ」
朱宏のぷっくりと膨らんだ手――金の台に翡翠《ひすい》をあしらったリング――が振られた。ドアが開き、男が入ってきた。へたくそな日本語で秋生をとめた男だった。左の頬《ほお》に薄っすらと刃物|疵《きず》。身長も体重も秋生より上回っている。
秋生は立ち上がった。
朱宏が上海語で男になにかをいった。残忍な響きがあった。楊偉民との会話では見事に隠していた地。それだけで意味は掴《つか》める――この小僧をいたぶってやれ。そんなところだ。
男がつまらなそうな顔で向かってきた。怯《おび》えてもいなければ見下してもいない。喧嘩《けんか》なれした人間の目。その目にテーブルの上の茶碗《ちゃわん》を投げつけた。
熱い茶が男の目を灼《や》いた。男が顔を抑えてうずくまる。そのときにはもう、秋生は動いていた。
顔を爪先《つまさき》で蹴《け》りあげた。もう一度、爪先。今度はひっくり返った男の脇腹《わきばら》。肋骨《ろっこつ》の砕ける感触があった。
獣じみた唸《うな》り声をあげて男が突っ込んできた。腰を抱えられ、バランスを崩した。腰をひねって逃れようとした。できなかった。背中になにかが当たった――テーブル。男は止まらなかった。秋生を抱えたまま前に突っ込んできた。食器がぶつかって派手な音をたてた。楊偉民たちが立ち上がるのが視界の隅に映った。女の顔が笑っていた。秋生が男にぶちのめされるのを想像して笑っていた。
両手で頭を抱えながら後ろに倒れこんだ。テーブルがひっくり返って食器が降ってきた。大振りの皿。宙にあるうちに拾い上げた。男の横顔に叩《たた》きつけた。男の力が緩んだ。膝《ひざ》を突きあげた。男が悲鳴をあげて横に転がった。
立ち上がる。男の脇腹を蹴りあげた。のけぞる顔――髪の毛を掴んで背後に回った。右手の中に残った皿の破片を男の喉《のど》に突き立てる――。
「秋生《チウション》、そこまでだ」
楊偉民の台湾語が聞こえた。秋生は動きをとめた。朱宏が呆然《ぼうぜん》と秋生を見つめていた。女はつまらなそうな顔で腰をおろした。エントランス――秋生を睨《にら》みつけるいくつもの血走った目があった。
「こいつはまた……」
朱宏の北京語には怯えと驚愕《きょうがく》、感嘆が入り交じっていた。
秋生は席に着いた。朱宏が興奮を隠しきれずに口を動かしている。
「こいつは李《リー》といって、喧嘩じゃ一目置かれてるやつなんだ。それを……」
「だけど――」女が割り込んできた。初めて聞く艶《つや》のあるソプラノが秋生の耳朶《じだ》をとおりこして背筋をくすぐった。「お茶を投げつけたわ。卑怯《ひきょう》者の使う手よ」
女が顔を向ける。斜めに曲がった口許。冷たい視線。全身で秋生を侮蔑《ぶべつ》していた。秋生の背筋が震えた。
「おれはボクサーじゃない。一番簡単にカタがつく方法を選んだだけだ」
やめろ――思う間もなく口を開いていた。意味のない自己弁護だった。女の口がさらに歪んだ。
「秋生のいうとおりだ。秋生はスポーツマンではない。ましてや街の喧嘩屋でもない。プロフェッショナルだ。確実に仕事をする」
楊偉民の自慢げな声に女がそっぽを向いた。
「いや、老爺。この坊や、気に入りましたよ。本当に貸してくれるんですか?」
楊偉民がうなずいた。秋生は衝撃を覚えた。そんな話は聞いていない。楊偉民のために殺してきた。楊偉民のために血を浴びてきた。他人のためにやるつもりはない。叫びたかった。だが、秋生の目は女に釘《くぎ》づけだった。
「上海とわしらの付合いは長い。朱先生がお困りなら、助けてあげるのが筋というものだ。違うかな?」
「さすがは台湾の老爺だ。器がでかい」
「秋生」楊偉民が秋生に顔を向けた。「今日からしばらくの間、朱先生のお世話になるんだ。いいな?」
楊偉民の目。楊偉民の声。楊偉民の仕種――逆らうことはできなかった。
「いつまで?」
「長くて二、三ヶ月。それ以上にはならん」
楊偉民が目を伏せた。それ以上の説明を期待しても無駄だった。
「郭秋生、そう心配するな。だれかをバラせとか、そんなことを命じるつもりはねえんだ。実はな――」
朱宏の手。くすんで、ごつごつした指に翡翠のリング。それが女の肩にまわされた。
「こいつは楽家麗《ロージァリー》。おれの女なんだ。いい女だろうが? 最近、わけのわからねえやつらがこいつの後を尾《つ》けまわしてるらしいんだ。ま、上海の朱宏の女にちょっかいをだそうなんて馬鹿なことを考えるやつは歌舞伎町にはいねえと思うんだが、こいつが怯えちまってな。優秀なボディガードを探してたってわけだ」
朱宏の鼻の下が伸びていた。目が輝いていた。だが、女――楽家麗はそれに反応しない。唇に笑みを浮かべただけだった。
「おれが……」
「そうだ。おまえがおれの探してた優秀なボディガードだ。風呂《ふろ》と便所、それにおれと乳繰り合ってるとき以外は、ベッタリ家麗にくっついててもらいてえ」
秋生は楊偉民の目を見た。楊偉民はなにも反応しない。断れ。頭の中で危険を告げるアラームが鳴り響いた。家麗に目を移した。心ここにあらずといった様子で腕のブレスレットを弄《もてあそ》んでいる。アラームの音が遠ざかった。
「わかりました、朱先生。なんでも命じてください」
「おまえに命令するのはおれじゃねえ。家麗だ」
その声に家麗が反応した。視線がぶつかった。レイザー・ビームのような視線が秋生を引き裂いた。
「よろしく頼むわ、郭秋生。秋生って呼んでもいいかしら?」
家麗が手を差し出してきた。細くしなやかな指。爪《つめ》には真紅のマニキュア。秋生は握りかえした。
「小姐《シァオジェ》、どう呼んでくれてもかまいません」
「そう。秋生、あなた、外省人なの? それとも、本省人」
外省人――国民党といっしょに大陸から渡ってきた。本省人――それよりも前に台湾の土着民を征服していた。秋生の母は本省人。父は征服された土着民の末裔《まつえい》だ。
「おれは台湾人です。おふくろは本省人。親父は高山族」
「そう――半々なのね、秋生は」
冷たい声がよみがえる。美紀によくいわれた――中国人の癖に。それが家麗の声と重なった。
半々なのね、秋生は。
氷のような声が秋生の身体の内側でいつまでも谺《こだま》していた。
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歪《ゆが》んだ夢を見た。宗英《ゾンイン》が呪詛《じゅそ》を呟《つぶや》きながらナイフを突き立ててくる。何度も何度も。濡《ぬ》れた感触に目覚めた――宗英が濡れタオルでペニスを拭《ぬぐ》っていた。狂った夜の残滓《ざんし》。宗英の肛門《こうもん》を犯し、そのまま寝てしまった。精液と糞にまみれたペニス。シーツや布団が、ところどころで変色していた。
「どうするの、これ。恥ずかしくてクリーニング、出せないよ」
宗英の怒った声を聞いているうちに血が下半身に流れ込んだ。
「口で奇麗にしてくれよ」
滝沢は身体を起こし、宗英の頭を股間《こかん》に押しつけた。
宗英の口の中にぶちまけて、シャワーを浴びた。朝飯を食べ終える。時計を見た。起きてから一時間もたっていなかった。
「早く謝圓《シェユェン》を探しにいって。昨日、わたしになにをしたか、絶対、忘れないから」
宗英の呪詛を背中に街へ出た。日はすでに高い。蔡子明《ツァイズーミン》へ電話した。大久保の喫茶店で待ち合わせた。
蔡子明はすぐに現れた。腫《は》れぼったい顔に血走った目。夜遊びしすぎたガキのような顔だった。
「どうしますか?」
「おまえ、何人ぐらいなら動かせる?」
蔡子明は薄笑いを浮かべた。なにかを値踏みする目――神経が苛立《いらだ》ってくる。
「おい」滝沢は蔡子明の胸倉をつかんだ。「おまえたち中国人の駆け引きにはうんざりだ。聞かれたことに答えろ」
「考えてただけだよ。いま、手が空いてるやつらのこと」
ちゃちな強がりだった。
「で、何人なんだ」
「二人。金が使えるなら、五人」
崔虎《ツイフー》からふんだくった五十万。滝沢はその中から十万を抜き出した。蔡子明の手が伸びてくる。そいつを払いのけた。
「金を使う三人には、魏在欣《ウェイザイシン》、陶立中《タオリーヂョン》、陳雄《チェンシォン》たちを尾行してもらう。ぴったりくっついて、どこにいってなにをしたか、毎晩おれに報告するんだ」
「四大天王を尾行するなんて、だれもやりたがらないよ」
「だから金を出すんだろうが」
不服そうな目を無視して話を続けた。
「残りの二人は、街に出て噂《うわさ》に耳を傾けるんだ。張道明は変造プリペイドカードを仕切ってた。どうやら、堅気のコンピュータ・マニアを使ってたらしい。その辺の噂を徹底的に洗うんだ。脈がありそうな噂は必ずおれに報《しら》せろ」
十万を渡した。蔡子明がすばやく数える。
「ピンハネなんかしたら、ぶち殺すぞ、子明」
「わかってる。ちょっと、話をつけてくるよ。二時間したら、ここで。いいかい?」
広東、上海、四川《しせん》、マレーシア。飯屋をまわった。少しずつ料理をつまみながら、噂に耳を傾けた。昨日と代わり映えしない噂を耳にしただけだった。広東とマレーシアの連中――連中は広東語で話す。滝沢は広東語はまったく理解できなかった。北京語と広東語は英語とフランス語以上に違う。同じアルファベットを使いながら違う言葉。同じ漢字を使いながら違う言葉。行くだけ無駄だった。蔡子明の弟分たちにまかせるしかないだろう。
飯屋をはしごしながら歌舞伎町へ向かった。そのうち、妙なことに気づいた。上海の連中が噂を撒《ま》き散らす側に回っている。
張道明殺しを手配したのが朱宏なら、上海の連中は口を閉じているはずだ。それなのに――張を殺したのは上海じゃない。だれが殺したのか。だれがプロを雇ったのか。
上海のやつらの噂――北京は揉《も》めている。四大天王の勢力争い。魏在欣が張道明を殺した。魏在欣。崔虎の金をくすねている。本当なら、魏在欣は生きた死人だ。だが、崔虎はなにも匂《にお》わせなかった。
滝沢は電話で崔虎を呼び出した。
「老板《ラオバン》、街の噂じゃ魏在欣が怪しいそうです」
笑い飛ばされた。
「魏在欣は老板の金をくすねてる。みんな、そういってます。本当ですか?」
「馬鹿野郎。おまえも知ってるだろうが、おれは二年前、くたばるところだった。香港《シァンガン》のやつらに、手下を大勢殺された。生き残った手下も、おれから離れていった。みんな、おれを落ち目だと見限ったんだ」
崔虎の声が震えはじめた。単語が聞き取りにくくなった。滝沢は必死で意味を追った。
「そんなときでもな、在欣はおれを見捨てなかった。在欣ってのは、そういう野郎なんだ。その在欣がおれの金をくすねてるだ!? その噂を撒いてるやつを連れてこい。二度とものがいえねえようにしてやる」
「老板――」
「いいか、日本のクソ野郎め。在欣が怪しいってんなら、ちゃんと証拠を持ってこい。くだらねえ噂をかき集めるためにてめえに金をくれてやったわけじゃねえんだからな」
電話が切れた。ため息をついた。
崔虎の凋落《ちょうらく》と再起。歌舞伎町に集まる中国人の間では伝説になっている。香港|三合会《トライアッド》とのトラブルで、崔虎は壊滅的な打撃を受けた。その時、崔虎の元を離れなかったのは、魏在欣、張道明、陶立中、陳雄――今の四大天王だ。たった五人の流氓。潰《つぶ》されるのは明らかだった。だが、崔虎はしぶとく生き残った。当時は上海の連中もへろへろだった。そして、台湾の大立て者、楊偉民が救いの手を差し伸べた。楊偉民が認めたという事実。それに、楊偉民がくれた金。その二つをうまく使って崔虎は息を吹き返した。
楊偉民。漢方薬局〈誠漢堂〉――中国人たちは、単に薬屋≠ニ呼んでいる――の主人。台湾流氓は歌舞伎町ではもはや流行遅れだ。だが、楊偉民はいまだに力を持っている。歌舞伎町の中国人のことを知りたかったら楊偉民に聞け。だれもがそういう。
楊偉民はナンバー一と二を失ってへろへろになっていた上海にも同じことをした。そこでのしあがってきたのが朱宏だ。そして、歌舞伎町は北京と上海で分けあうようになった。現在、勢力的には北京がやや優勢になっている。だが、明日のことはだれにもわからない。
なぜ台湾人の楊偉民が上海と北京に金を使ったのか。新宿にいる中国人はみな同じように答える。
――そりゃあ、上海と北京の連中が睨《にら》みあっていた方が台湾の連中には都合がいいからさ。
楊偉民の後ろ楯《だて》のおかげでボスになれたのに、崔虎も朱宏もそれほど楊偉民に恩義を感じているふうもない。そのことについても、新宿の中国人たちの見方は同じだ。
――楊偉民はああいう獣のような連中に恩を売りつけたかったわけじゃない。
要するにこういうことだ。チンピラまがいの流氓たちがそれぞれに勝手なことをしはじめたら、新宿は大変なことになる。北京の崔虎と上海の朱宏が睨みをきかせているおかげで新宿の黒社会はとりあえずの安定を見せている。楊偉民が作りたかったのはそういう世界だ。自分が甘い汁をたっぷり吸える世界を、楊偉民は作り上げたかったのだ。
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蔡子明と合流した。滝沢には断片しか聞き取れない噂を蔡子明が掘り下げていく。
魏在欣の噂の根元。張道明と魏在欣がいい争っているのを見たやつがいる。質問。だれが見た? 答えは返ってこない。質問二。どこでいい争っていた? 答えは返ってこない。
別の噂をあたった。魏在欣が崔虎の金をくすねている。根拠は? 魏在欣は最近じゃめったに崔虎のもとに顔を出さなくなっている。
これには蔡子明が答えを出した。
「それは魏在欣さんだけじゃない。四大天王はみんな忙しいからね。老板はきちんと金さえ持ってくればなにもいわない。老板と四大天王は月に一回、顔をあわせるかどうかだよ。でも、電話ではよく話してる」
質問をつづける。なぜ、魏在欣の噂だけが飛び交っているのか? 陳雄や陶立中の噂はなぜ聞こえてこない?
答え――昔、魏在欣は崔虎のために特別な仕事をした。崔虎は魏在欣を特別に可愛《かわい》がった。嫉妬《しっと》。四大天王の中で魏在欣だけが浮いてしまった。自分を守るため、魏在欣はなんだってしなければならない。
質問。特別な仕事とは? 答えは返ってこない。
苛立ちが募った。崔虎に訊《たず》ねるという手もあったが、答えてくれるという確証はない。
魏在欣にまつわる他の噂――どれも似たり寄ったりだった。噂の出所も同じだった。質問をプリペイドカードと電脳マニアに切り替えた。
区役所通り。東通り。さくら通り。セントラル。職安通り。ホテル街。大久保。夕方前、堅気の姿はまばらだ。その代わり、中国、台湾、マレーシア、タイ、フィリピンのチンピラ、女たち。警官の数が増えるのに反比例して、新宿の闇《やみ》に生きる連中は数を減らしている。それでも、明日の食い扶持《ぶち》にも困っている連中がよろよろと街に溢《あふ》れてくる。
プリペイドカード。ここ一ヶ月で大量に出まわるようになった。北京のやつらにいえばいくらでも手に入る。蔡子明が肯定する。昔はそんなわけにはいかなかった。日本のやくざに数をコントロールされていた。ある日、張道明がいった。これからはいくらでも回してやる。売り値は額面の一割。千円で一万円が買える。
間の抜けたカモ以外、上海のやつらからは買わなくなった。上海のやつらは苛立った。やくざからは額面の一割でカードを降ろしてもらっている。儲《もう》けを出そうと思えばイロをつけなければならない。だが、それではだれも上海から買おうとはしない。上海の賈林《ジァリン》が卸《おろし》もとのやくざにねじこんだ。らちが明かなかった。北京はやくざからカードを買うのをやめていた。
「蔡子明、あんたもそうだけど、北京の連中、すごく懐があったかいらしいじゃないか。うらやましいよ」
褐色のマレーシア人が広東語|訛《なまり》の北京語でいった。蔡子明はまんざらでもなさそうな表情を浮かべた。兄貴風を吹かせて悦に入っている。
大久保のマレーシア・レストラン。目覚めたばかりの売女やヒモたちが腹を膨らませに集まりはじめていた。
「そんなことはねぇよ、おれもピーピーだ。やっぱり、出世しなくちゃ――」
早口の北京語。ついていけない。聞き取れるのは七割といったところだ。滝沢はあきらめてビールをすすった。煙草を吸った。歩きづめでくたくただった。質問は蔡子明に任せていた。
「そんなことないでしょう、蔡さん」売女のひとりがいった。「うらやましいな。こないだ、人戦の人たちと飲んだけど――」
目が覚めた。ビールが零《こぼ》れた。宗英の肛門の狭さが唐突によみがえった。
「滝沢さん、どうした?」
「いま、なんていった!?」
「別に、なにも――」
滝沢は蔡子明を押しやって女に詰め寄った。
「おい。いま、なんていった?」
「なによ、この人――」
「ゆっくり喋《しゃべ》れ。いま、人戦のやつらがなんとかいっただろう」
女の目が左右に動く。好きにさせた。
「滝沢さん、どうしたのよ?」蔡子明の声。
「おまえは黙ってろ」
むっとした顔が返ってきた――かまう気にもなれなかった。
「なあ、小姐。教えてくれ。人戦のやつらがどうしたって?」
「十日ぐらいまえに、人戦の古逸和《グーイーホー》って人に食事を奢《おご》ってもらったのよ。それがどうかしたの?」
「なにがうらやましいんだ?」
「なんのことよ?」
「おまえ、そういっただろう? 人戦のやつらのなにがうらやましかったんだ?」
女が北京語でまくしたてた。蔡子明に目で訊ねた。ふくれっつらが返ってきた。向こう脛《ずね》を蹴飛《けと》ばした。蔡子明は渋々口を開いた。
「その古逸和ってやつは、金を持ってたらしいよ。いつもはピーピーしてるのに、飯を奢ってくれた。それから、仕事休めって、小遣いくれた。おまんこしてないのに。そういってる」
宗英の金が頭に浮かんだ。百万。そいつと崔虎からもらえる二百万。借金が返せる。久しぶりにまっさらな身体に戻れる。なんとしてでも取り返してやる。
「なんで金が入ったのか、いってなかったか?」
「とくに聞かなかったから」
今度は聞き取れた。
「人戦の謝圓ってやつが消えちまったそうだが、なにか知ってるか?」
女だけではなく、男にも目を向けた。口を開いたのは女だった。それを蔡子明が日本語に直した。
「いなくなったって話は聞いてるけど、他はなにも知らないって」
男を見た。首を振っている。
「わかった。プリペイドカードのこと、電脳マニアのこと。それから、人戦の謝圓ってやつのこと。なにかわかったら、ここに電話してくれ。礼はたんまりはずむ」
滝沢は男に名刺を渡して、店を出た。
「滝沢さん、なによ、人戦って? なにか関係あるのかい?」
蔡子明の声が耳を通り過ぎた。
人戦の男。金回りがよかった。宗英の金? それとも? 人戦のやつらを締めあげるしかない。
「蔡子明。ちょいと用事ができた。おれがいなくても大丈夫だろう。ひとりで聞いてまわってくれ」
「困るよ。どういうこと?」
蔡子明の目をじっと覗《のぞ》きこんだ。
「出世したいんだろう? こいつを片付けりゃ、崔虎の覚えがよくなる」
「老板が知ったら、怒るよ」
いやみったらしい反発。滝沢は笑い飛ばした。
「今夜だけだ。なにかあれば、携帯に電話すればいい」
ふくれっつらの蔡子明を残して、歌舞伎町へ向かった。
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* *
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職安|脇《わき》の路地、大久保公園を越えた先の雑居ビルの中に人民戦線本部はあった。滝沢はビルの近くの電話ボックスに入った。
呼び出し音。一回、二回、三回。たどたどしい日本語が電話に出た。女だった。
「中華人民戦線でございます」
「謝圓《しゃえん》さんをお願いします」
息をのむ気配が伝わってきた。
「どちらさまでしょうか」
「田中といいますが、謝圓さんの友人です」
「どんな友人ですか?」
探るような声だった。
「そんなの、おまえには関係ないだろうが。謝圓をだせよ」
滝沢はやくざの声音を真似た。
「申し訳ございません」女はひっかからなかった。「ただいま、謝圓は外出です」
「急ぎの用なんだ。あいつ、携帯電話持ってただろう。電話番号、教えてくれよ」
「申し訳ございません。教えられません」
「おい――」
電話が切れた。滝沢はボックスを出た。駆け足でビルの中――階段を駆けのぼった。ドアの造りに不釣り合いな「中華人民戦線」のプレートが見えた。滝沢はノックもせずにドアを開けた。
狭っ苦しい部屋の中に化粧っけのない女がひとり。受話器に早口の北京語をまくしたてている。
「やくざだと思うわ。謝圓の友だちだっていってたけど。やっぱり、謝圓はやくざにさらわれたのかしら?」
ドアを閉めた。やっと、女が気づいた。驚いた目が滝沢を射抜いた。受話器が反射的に置かれた。
「あなた、だれ!?」
北京語だった。滝沢はさりげなく眉《まゆ》をしかめてわからない振りを装った。女が日本語でいい直した。
「どなたですか?」
「失礼。わたしは新宿署の鈴木と申しますが」
内ポケットから手帳を取り出した。警察オタクがあつまる店で仕入れたダミーだ。素人にはまず偽物だとはわからない――開いて中を見せない限り。
「なんでしょう?」
「あなたは?」
「林明季《りんめいき》です」
「お仕事は?」滝沢はすぐに質問を放った――刑事の流儀だ。有無をいわさず質問をぶつける。相手に考える暇を与えないために。
「どうしてそんなこと聞きます? わたし、なにもしてません」
不安と怒りが林明季の顔をまだらに染めていた。
「これは失礼。実は、中国の方に金を騙《だま》しとられたという訴えがありましてね。調べてみると、どうもここのメンバーが事件に関っているようなんですわ」
「それ、嘘《うそ》です。わたしたち、真面目《まじめ》な民主化運動してます。犯罪、関係ありません」
「失礼ですが、外国人登録証とパスポートはお持ちですか?」
反発の視線を滝沢は黙って受け止めた。女の視線がたじろいだ。手が机の上のハンドバッグに伸びた。
林明季《リンミンジー》。北京出身。三十四歳。現住所は東中野。住所と電話番号を頭に叩《たた》き込んだ。
「失礼しました」刑事の流儀を貫く。脅すだけ脅して、態度を翻す。「まあ、我々も人戦のメンバーがそんなことをするとは思っていないんです。ま、仕事ですので、ご勘弁を」
登録証を返した。林明季の手が震えていた。
「謝圓さんにはどこに行けばあえますかね?」
「いま、東京にいません」
答えが早すぎた。林明季はなにかを際している。
「おや、どこに?」
「大阪です。向こうの民主運動家と、会合してます」
「なるほどね。東京へはいつ?」
「今週いっぱいは向こうです」
「それじゃ、来週にでもまたうかがいます。あ、警察が来たということ、内緒にしてもらえますね。ただ、話をうかがいたいだけですから」
「わかりました」
女の言葉はすべてでたらめだ。だが、滝沢は微笑《ほほえ》んだ。
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渋谷《しぶや》。青山。六本木。台南好吃を出た足でショッピングに連れまわされた。家麗は秋生を空気のように扱った。試着の時だけ、声をかけてくる。
「これ、どうかしら?」
思ったとおりを口にしてやる。
「センスいいのね、秋生は」
家麗の口許《くちもと》がほころぶ。だが、目は冷めている。その目にぶつかるたびに、頭の中に真紀の亡霊がよみがえる。
――勉強ができるからって、調子に乗るんじゃねえよ。どんなに頑張ったって、おまえは中国人なんだから。
――文句があるなら台湾に帰れよ。清々する。
憎しみ、侮蔑《ぶべつ》、怒り。ありとあらゆるものを真紀は秋生にぶつけてきた。秋生が血を流していることも知らないで。
六本木交差点で家麗が手をあげてタクシーをとめた。秋生は真紀の亡霊を振り払った。家麗は真紀じゃない。これっぽっちも似ていない。
ショッピング・バッグをトランクに載せて、家麗の隣へ腰をおろした。目は絶え間なく周囲へ動かしている。心臓のあたりが冷えている。おれは荷物持ちなんかじゃない。両手が塞《ふさ》がっていてはボディガードなんかできない――家麗は耳を貸さなかった。
「わたしに持てっていうわけ?」
奴隷を見る目で家麗は秋生を見た。秋生は逆らえなかった。
タクシーが滑らかに動きだした。新宿へ。家麗はいったんマンションへ戻る。身仕度をととのえてから晩飯。そして、仕事に出る。家麗の仕事は少しばかり値の張るバーのマダムだと聞いた。ホステスは大陸、台湾、香港、それに東南アジアの女たち。みんな着飾っている。金をかけられている。家麗は金を持っている日本人にその女たちを売りつける。
昔はわたしも売られる方だったのよ――青山の喫茶店で家麗はそういった。秋生のなにかを試すように。
「秋生は日本語が上手ね。日本は長いの?」
タクシーはゆっくり新宿へ向かっていた。進んではとまる車の流れ。退屈を紛らわすような声。家麗の目は窓の外に向いていた。
「十歳ちょっとの時におふくろと一緒にこっちへ来た。軍にいた間は台湾に戻ってたが、もう、二十年近く日本にいる」
「二十年って、秋生、三十過ぎてるの?」
「今年で三十一だ」
大きく見開かれた家麗の目がまじまじと秋生を見つめた。
「年下だと思ってたわ」
「おまえは貫禄《かんろく》がないとはよくいわれる」
「そういう問題じゃないわ。二十歳をちょっと越えた坊やにしか見えないもの」
「小姐だって若く見える」
「いくつに見えるの?」
「二十二、三」
家麗が嬉《うれ》しそうに笑った。
「嘘をつくならもっとうまくつかなきゃ。わたし、二十八よ」
「でも、二十五ぐらいにしか見えない」
「歳の話はやめましょう。悲しくなるわ――どうして日本に来たの?」
「親父が癌《がん》で死んだ。流氓だったから、生命保険にも入ってなかった。おふくろとおれは一文無しだ。その頃は日本は黄金の国だっていわれてた。おふくろはなけなしの金を集めて日本行きの航空チケットを買ったってわけだ」
台北《タイペイ》から東京、新宿へ。お決まりのコース。母――李美娜《リーメイナー》は三十三。化粧をすれば二十台半ばで通じる容姿だった。歌舞伎町の台湾バーで働きはじめた。そして、真紀がやって来た。
ある日、李美娜があのろくでなしを連れてきた。井上昭彦。やくざにもなれなかったろくでなし。その娘が真紀だった。秋生より三つ年上。赤い髪に薄い眉。制服の長いスカート。ぺらぺらになるまで押し潰《つぶ》された革の鞄《かばん》。中には煙草しか入っていなかった。いつも、貼《は》りあわせた二枚の剃刀《かみそり》の刃を持ち歩いていた。シンナーの匂《にお》い――アンパンでラリっている時だけ、真紀は秋生に優しかった。
「片道だけのチケットね。それで? 日本ではどんな暮らしをしたの?」
真紀の顔がよみがえる。
「昔の話はやめよう。悲しくなる」秋生は話題を変えた。
「だれかに尾《つ》け回されてるっていってたな。心当たりはあるのか?」
「ないわ」
答えるのが早すぎる――嘘。
「どんなふうに尾けられた?」
「たいていは夜ね。若い子に後を任せて、店を出た後。遊びに行っても、家に帰ってもだれかに見張られてるような気がしたの」
「はっきり尾けられてるって意識したのは、いつからだ?」
「さっき、あんたが殴った李って男がね、街でわたしを見かけて、声をかけようとしたら、わたしを尾けてる男たちに気づいたのよ。李はその男たちを掴《つか》まえようとしたけど、逃げられたわ」
「その後も尾けられてる?」
「わからない。朱宏が何人かボディガードをつけてくれたけど、見張られてるような気味悪さはなくならないわ。気のせいかもしれないけど」
「本当に心当たりはないのか?」
家麗が目を覗《のぞ》きこんできた。
「ないわ」
嘘に塗り潰された目。信じなくてもかまわないといっていた。
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区役所通りのど真ん中の真新しい雑居ビルに家麗は入っていった。エレヴェータで四階にあがった。〈魔都《モードゥ》〉。ドアのプレートには「会員制」の文字があった。
午後九時。客の入りは五分というところだった。ひとりの客につき、二、三人の女がついている。暗すぎない照明。落ち着いた雰囲気。均整のとれたプロポーションの女たち。訛《なまり》はあるが淀《よど》みのない日本語の会話。ときおりのカラオケ――典型的な売春クラブだった。
店の一角、サラリーマン風情の三人組のテーブルだけが下品な声をあげている。
家麗は濃いめのメイク、真っ赤なチャイナドレスで適当なリズムを保って客の座ったテーブルを回遊していた。
カウンターの隅で烏龍《ウーロン》茶をすすりながら、秋生は家麗だけを見つめていた。深いスリットから覗く筋肉質の脚。豊かに盛り上がった胸。目を逸らすことができなかった。
家麗。笑う時に顎《あご》を突きだす。真紀もそうだった。家の中ではほとんど笑わなかった。家にいるときは酔っているか寝ているかだけのろくでなし。台湾からやって来た日本語のできない義母と義弟。
――あんたを見てると苛々《いらいら》する。思いっきりいじめてやりたくなるよ。
真紀は一日中顔をしかめていた。友だちから電話がかかってきたときだけ、真紀は笑った。笑い声を受話器の向こうの誰かに聞かせていた。秋生はトイレに行く振りをしてその笑顔を盗み見た。
夜、狭いマンションにろくでなしが酔って帰ってくる。それと入れ違いに真紀は出かける。秋生は真紀の部屋に閉じこもる。ダイニング・キッチンにろくでなしと母の寝室、それに真紀の部屋。秋生の部屋はなかった。秋生はダイニング・キッチンで寝起きしていた。
やがて母親が帰ってくる。日本語と北京語の怒鳴りあいがはじまる。暴力。そしてセックス。真紀の部屋で真紀の匂《にお》いに囲まれながら、耳を傾けた。母さんに酷《ひど》いことをしたら、殺してやる――呪詛《じゅそ》を呟《つぶや》きながら。
明け方になると真紀は帰ってきた。自分の部屋に無断で入り込んだ秋生を見つけると、真紀の目尻《めじり》が吊《つ》りあがった。平手が飛んできた。
――あたしの部屋でなにしてんだよ!!
なにもしていない。真紀のものには手を触れていない。秋生は訴えた。真紀は信じなかった。変態を見るような目。険しい視線が秋生の心臓に穴を空けた。
――あいつが母さんを殴って、やりはじめるんだ。おれはどこにいればいいのさ。
精一杯の叫び。真紀が怯《ひる》んだ。抱きすくめられた。真紀の身体からはアルコールの匂いがした。心臓が飛び跳ね、神経が麻痺《まひ》した。
――どうしてこうなんだろう。あたしたち、なんにも悪いことしてないのにね。
朝まで、ふたりで泣いた。たった一度の優しい記憶だ。
次の夜。ふたたびの暴力と夫婦間のレイプがはじまった。秋生は真紀の部屋に逃げ込もうとした――部屋には鍵《かぎ》がかかっていた。
カウンターの内側で衣擦れの音がした。下卑た目をしたバーテンが近づいてきた。
「なあ、うちのママ、いい女だろう」
目と同じ、下卑た囁《ささや》き。上海訛の強い北京語だった。秋生は顔を上げずに烏龍茶をすすった。
「すかさなくてもいいだろう。あんた、さっきからずっとママを見てるじゃねえか。わかるよ、あんたの気持ち。なあ、ママも昔はこの店で働いてたんだぜ。ただの売女だったんだ。それがよ、たまたま朱老板の目にとまって、次の日から女房気取りさ。老板が買ったマンションに転がり込んで、前のママを追い出しやがった。よっぽどあそこの具合がいいんだよ。それで老板も参っちまったんだ。くそっ、一度でいいからやらせてもらいたいもんだぜ。いい声でよがるんだろうな」
「仕事、しろよ」
「カッコつけるなって。あんたもあの女とやってみてえんだろうが。てめえのマラをよ、あの女のおまんこに突っ込んで――」
視界が急に赤く染まった。こめかみの血管が脈動した。真紀――ろくでなしに犯され、秋生に犯された。白濁した体液があそこから溢《あふ》れていた。バーテンの声はろくでなしの声に似ていた。
バーテンの喉《のど》に手刀を叩《たた》きこんだ。バーテンが真後ろにひっくり返った。グラスとボトルが砕けて派手な音をたてた。秋生はカウンターを飛び越えた。喉を抑えて悶絶《もんぜつ》するバーテン――手の上から喉を蹴《け》った。
「声が出せなきゃ、くだらないことを喋《しゃべ》ることもないだろう」
冷えた声。自分のものとは思えない。ダメージを測りながら蹴りつづけた。
「秋生。やめなさい!」
振り返った。家麗の蒼白《そうはく》な顔が秋生を見つめていた。
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どこかに穴があいた。閉じこめた過去。閉じこめた真紀の横顔。その穴から溢れてくる。こんなことは今までなかった。
不安。いつもと違う仕事。いつもと違う楊偉民。なにが起こっているのか――見当もつかない。ただ、地獄へ片足を突っ込んでいるような感覚が不安を増幅させる。
不安。そいつが家麗と真紀を重ねる。真紀と家麗。これっぽっちも似ていない。だが――。
「どういうことなのよ」
強張った顔。冷えきった目。家麗は怒りに肩を震わせていた。
「あの男が小姐のことを侮辱したんだ」
「だからなんなのよ。教えてあげたでしょ。わたしも売女だったのよ。新宿にいる中国人ならだれだって知ってるわ。馬鹿にされたからっていちいち腹を立ててたら、商売にならないわ。わかってるの? あんたはわたしを危険から守るのが仕事なんでしょう。わたしの商売の邪魔をしろなんて、だれも頼んでないわよ」
「悪かった。つい、頭に来て」
「何様のつもりよ。楊偉民はあんたのこと、プロフェッショナルだっていってたけど、とんだ眉唾《まゆつば》ね。文句いってやるわ」
閃光《せんこう》が頭の中を駆け抜けた。この調子を続ければ楊偉民が秋生の様子がおかしいことに気づく。秋生を歌舞伎町から追い出そうとするだろう。いい考えのように思えた。一刻も早く、歌舞伎町を離れたかった。
「小姐。本当に申し訳ないと思ってる。これからはきちんと自分の仕事をする。小姐の商売の邪魔は絶対にしない。だから、もう一度チャンスをくれ」
心にもない言葉を口にするのは慣れていた。
「しょうがないわね」家麗の口許《くちもと》がかすかに緩んだ。
「割れたボトルやグラス、弁償してよ」
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午後八時。滝沢は事務所を閉めた女――林明季を尾けて東中野へ向かっていた。新宿寄りの改札を抜け、早稲田通りへ向かって数十メートル先にある中華料理屋に林明季は入っていった。
滝沢は斜《はす》向かいのゲームセンターに腰を落ち着けた。電子音とガキどもに囲まれて、店を見張った。ゲームのモニタの中ではストリート・ファイトが繰り広げられていた。ポリゴンの筋肉をまとった大男が、チャイナドレスを着た女の現実ばなれしたスープレックスで叩きつけられている。適当にレバーを動かしながら、外の様子をうかがった。百円玉が次々に消えていった。
一時間半。林明季が出てきた。連れは男が三人。おそらくは、人戦のメンバーだ。三人ともくたびれたジャケットにジーンズ姿だった。浅黒いのがふたり――片方は長身、片方はデブ。色白がひとり。金回りがよかったという男の人相を聞いておくべきだった。
四人の中国人は早稲田通りに向かって歩きだした。あたりをはばからない会話が耳に届いた。もちろん、北京語だ。日本人には理解できないと高をくくっている。
「やくざと刑事ってのが気になるな」
色白の男が頭を振った。
「だけど、謝圓が……ってそんなはず、ないよ」
デブが答える。早口の北京語のせいで肝心な部分が聞き取れない。
「なんにせよ、謝圓がどこにいるのか、突き止めなきゃ」
これは林明季だった。
「やっぱり、上海の女から聞きだすしかないな」
長身の男がいった。
上海の女――滝沢は頭の中に刻みこんだ。
「詳しい話は部屋に戻ってからにしよう」
色白の男が話にけりをつけた。こいつが他の三人を仕切っている。
沈黙。やがて、四人は古ぼけたアパートに消えた。林明季の外国人登録証にあった住所と同じだった。滝沢は新宿へ戻った。
上海の女が頭にひっかかる。だが、上海にツテはない。
歌舞伎町――他に行く場所はなかった。歩き、考える。なにも浮かばない。ミニスカートの女たちが強張った笑顔を振りまいている。客引きが滝沢に気づいた。凍りついた笑顔。その顔が雄弁に物語る。元刑事に昔の借りを返したい、と。だが、滝沢はまだ完全に警察とは切れていない。相棒――鈴木が残っている。だから、手を出せない。客引きたちの顔はそういってるように思えた。
電子音――携帯電話が鳴っていた。
「どこで、なにしてる?」
蔡子明だった。声に苛立《いらだ》ちが混じっていた。
「歌舞伎町だ。なにかわかったか?」
「なにもないよ。四大天王の三人も、いつもどおり。街に出て、飯食って、酒飲んで、女からかってる」
「ヤサに戻るまでしっかり張りついてるようにいっておけよ」
「わかってるよ」
上海の女。蔡子明なら知っているかもしれない。
「なあ、北京の人間が上海の女っていってるのを聞いたんだがな、だれのことだと思う?」
「上海の女? そんなのいっぱいいるよ」
「おまえだったら、だれのことだと思う?」
「わからない。ただの知り合いかもしれないし、もしかすると、朱宏の女のことかもしれない」
「わかった。また明日、あの喫茶店で。遅れるなよ」
上海の女。朱宏の情婦。人戦との繋《つな》がり――なにも思いつかない。謝圓と宗英の百万。上海の女が握っている。
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滝沢はさくら通りを歩いた。薬屋の前を通り過ぎた。くすんだガラス戸の向こうに眼鏡をかけた老人がいた。新聞かなにかに目をとおしている。楊偉民《ヤンウェイミン》。古ぼけた薬屋の中から新宿中に睨《にら》みをきかせている。
踵《きびす》を返して、滝沢は薬屋のドアを開けた。楊偉民が眼鏡を外した。海の底で何百年も生きてきた魚のような目がじっと滝沢に注がれた。
「滝沢さんといったかな」
「おれを知ってるのかい?」
「何度も噂《うわさ》を聞いた。外ですれ違ったこともある。なんの用かね?」
年寄りが喋《しゃべ》る日本語だった。よどみがない。楊偉民は他に北京語、台湾語、英語、それに少々の広東語ができるという噂だった。
「情報を買いたいんだよ」
「わしのは高いぞ」
「前借りはだめかな? 仕事がうまく行けばまとまった金が入ることになってる」
「なにを聞きたいかによるな」
「張道明」
「それならキャッシュだ」
「わかった。そっちは自分で調べる。謝圓はどうだ?」
「人戦の謝圓か? そういえば、ここ最近姿を見ん」
堂にいったとぼけぶりだった。刑事時代のやり方が頭をよぎる――脅し、すかし、それでも駄目なら殴りつけて歌わせる。だが、滝沢は手帳を失った。ポケットにあるのは偽物の手帳だけだ。
「老爺、とぼけてないで知ってることを教えてくれよ」
「なぜ、あんたが謝圓なんかを探しているのか。わしはそれが知りたい」
「おれの女が謝圓って野郎に金を貸した。そいつを取り戻したい」
「自分の命じた仕事を放り出して、あんたが金の回収に動きまわってると知ったら、崔虎はいい気がせんだろうな」
滝沢はズボンのポケットに突っ込んだ手を握り締めた。
「うまくやるさ」
「金が必要なら貸してやってもいいぞ」
「それで、利子はいくらなんだ?」
「杜のような悪徳金貸しよりはマシだと思うが」
「遠慮しておくよ。杜の野郎はたしかにクズ野郎だが、貸した金を取り立てるだけだ。あんたに借りれば、返すのは金だけじゃなくなるって噂だ」
楊偉民は老眼鏡をかけなおした。
「あんたのような人間からもらえるものなど、たかが知れておる。わしは親切でいったのだ。宗英は気立てのいい娘だ。幸せになってもらいたい」
嘘《うそ》っぱち。喉が渇いた。背中にシャツがへばりついた。
「謝圓の話だ。爺《じい》さん」
「民主化がどうのこうのといったことに、わたしは興味がない。人戦のことを知りたければ桃源酒家の周天文《しゅうてんぶん》に聞くがいい。あんたも知っているだろうが、あれは組合の理事だ。人戦とも付合いが深い」
楊偉民は新聞に目を落とした。
「あんたから聞けといわれた。そう伝えていいのかい?」
周天文《ヂョウティエンウェン》――新宿近辺の堅気の中国人の代表のような男だ。流氓《リウマン》と違って、滝沢がおいそれと会いに行くには気後れがする。おそらく、向こうは滝沢が元警官だということを知っているはずだ。下手に接すると人権問題だと騒がれる。だが、楊偉民から会うことを勧められたとなれば、話は違ってくるはずだ。
「わたしのいったことが聞こえなかったのか?」
新聞に目を落としたまま楊偉民がいった。滝沢は楊偉民に背を向けた。
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頭の隅っこにこびりついている噂を拾い集める。
周天文は台湾人と日本人のあいのこだ。跡を継がせるために、楊偉民が横浜から連れてきた。だが、周天文は、楊偉民の流氓との付きあいを嫌った。楊偉民の庇護《ひご》をはねつけたのだ。
それでも、楊偉民は周天文を見捨てなかった――見捨てられなかった。楊偉民は周天文を溺愛《できあい》している。だれもが知ってる噂だった。ときおり、ふたりは会って飯を食っている。
二年前。周天文は楊偉民に絶縁状を叩きつけた。理由は不明。それでも、噂だけは流れる。劉健一がふたりの仲を裂いた。
劉健一。けちな故買屋だ。周天文と同じ、日本人と台湾人のあいのこ。周天文が歌舞伎町にやってくる前は、劉健一が楊偉民の跡を継ぐと目されていたらしい。
楊偉民と劉健一と周天文。滝沢のような部外者にも、この三人の噂は伝わってくる。二年前、劉健一が周天文をそそのかして、楊偉民との仲を裂いた。怒った楊偉民が上海マフィアに劉健一を殺させようとした。その結果、あの抗争事件が勃発《ぼっぱつ》した。
噂。二年前、合同捜査本部の刑事たちはその噂の尻尾《しっぽ》もつかまえられなかった。だが、中国人たちの間では、噂はしっかり根を張っている。
劉健一。楊偉民に追い詰められ、自分が助かるために自分の女を殺した。
周天文。楊偉民と劉健一を死ぬほど憎んでいる。
楊偉民。いまだに周天文を溺愛している。劉健一を憎んでいる。
噂。歌舞伎町の台湾人は年々数が減る一方だ。それでも、この三人に関する噂は後を絶たない。
滝沢はさくら通りから靖国通りへ出た。真向かいに見える雑居ビルの側壁に〈桃源酒家《タオユェンジゥジァ》〉の派手なネオンがきらめいていた。階段を三階分昇るとチャイナドレスの女たちに出迎えられた。笑顔とスリットから覗《のぞ》く脚が健康的で艶《なま》めかしい。
時間が時間だけに客の入りはまばらだった。個室を希望し、周天文を呼んでくれと伝えた。それほど待たされずに周天文が現れた。
「わたしが周天文ですが」
小太りの身体、それに似合った柔らかな髪、柔らかな声。目だけが怪訝《けげん》な光を放っている。ホモ野郎――神経にピンとくるものがあった。
「滝沢というもんだが」
「なんの用だ?」うんざりした声だった。「あんた、崔虎の犬だろう。確か昔は刑事だったはずだ。おれは堅気だ。お門違いだよ」
「まあ、座れよ」
周天文は動かなかった。滝沢は笑った。
「おれみたいなのが、好みじゃないのはわかってるけどな」
周天文の顔から血の気が引いた。
「おい――」
「気にするな。ただのジョークだよ。座れよ」
周天文が用心深く近づいてきた。射るような視線は滝沢から外れない。
「下衆《げす》野郎め」
「なぁ、カマをかけただけだってのに、いちいちそんなに反応してたんじゃ、そのうち新宿中の人間にばれちまうぜ」
「用件をいえ。いっとくが、おれは歌舞伎町の流氓のことはなんにも知らんぞ」
「知りたいのは人戦のことだ」
「人戦?」
「謝圓ってやつがいなくなった。どこにいる?」
「なんだっておれに聞きにきたんだ?」
「おまえに聞けって、楊偉民に教えてもらったんだよ」
周天文は顔を歪《ゆが》めた。
「あの爺さんとおれはなんの関係もない」
「そう吠《ほ》えるなって。あんたたちのことはどうだっていいんだ。おれが知りたいのは、謝圓ってやつがどこにいるのかってことだ」
「知らんよ」
素っ気ない答え。
「じゃ、質問を変えよう。あんた、組合の理事だろう。正式にはなんていうんだった? 新宿――」
「華人商店組合」
「あんたら組合はずっと人戦をバックアップしてる。やつらのことを話してくれ」
「それをあんたに話して、おれにどんなメリットがあるんだ?」
「あんたがホモ野郎だってこと、黙っててやるよ」
沈黙。冷えきった目が滝沢を見つめていた。
「おれは堅気だ。この店で働いてる連中も堅気だ。だが、中には血の気の多いやつもいる。あんたをぶちのめすぐらい、わけはない」
ちゃちな脅しだった。滝沢は笑い飛ばした。
「おれの口を塞《ふさ》ぎたいなら、殺すしかないんだぜ」
周天文は目を伏せた。
「どうして謝園を探してるんだ」
「金の取り立てだよ」
「金か」
わざとらしいため息。茶々を入れたくなった。周天文のすべてが滝沢の神経に触った。いばりくさったホモ野郎。地べたを這《は》いずっているべきなのに、奇麗な服を着て人を見下している。
滝沢は煙草をくわえた。ぶちのめすのはいつでもできる。今は、話を聞く時間だ。
「だれもかれもが、金、金、金だ。人戦の連中もそうだ。民主中国。天安門の悲劇を忘れるな。お笑いだよ。連中の大半は真面目《まじめ》に運動に取り組んでいる。だが、腐った連中はどこにでも潜りこんでくるんだ。そういうやつらは他の中国人と変わらない。金を稼ぐことに血眼になってる。理想も気概も持ちあわせちゃいないんだ」
「だからなんだってんだ? おまえ、この国で生まれたんだろう? 見てみろよ。昔は革命だなんだと騒いでた連中が、今じゃ自民党に票を入れて、ガキどもを塾に通わせて、金|儲《もう》けに四苦八苦してるぜ。人間なんてそんなもんだ。腹が減りゃ飯をよこせと騒ぎ立てる。腹がくちくなったら、今度はデザートをよこせって騒ぐだけだ」
「あんたに、おれたち華僑《かきょう》の気持ちはわからんよ」
「わかりたくもないな。おれが知りたいのは、謝圓ってやろうがどこにいるのか。それだけだ」
「知らん」
「とにかく、知ってることを話せよ。謝圓がいなくなったのはいつだ?」
「おれはなにも知らん」
周天文はテーブルの上で指を組んでいた――関節が強張っていた。
「なあ」滝沢は煙草を灰皿に押しつけた。「時間を無駄にするのはやめようぜ、周さん。あんたがおれにムカついてるのはわかる。おれはホモ野郎が嫌いだから態度に出ちまうんだ」
「おい――」
「まあ聞けって。おれたち、お互いに虫がすかない。それはしょうがない。だがな、あんたが意地を張ったってどうにもならないんだぜ。おれは知りたい話を聞かせてもらうまで帰るつもりはない。たとえあんたが若い連中を使っておれを叩《たた》き出したとしても、今夜中に街に噂《うわさ》が流れるだけだ。組合の理事の周天文は男のあれをしゃぶるのが好きだそうだ、ってな」
「もっと酷《ひど》い噂を流されたこともある」
周天文は動じなかった。滝沢は拳《こぶし》を握った。
「だったらこういうのはどうだ? これからおれは毎日あんたを尾行する。元々刑事だからな、尾行は得意なんだ。それであんたが若い男の腰に手を回しているところを写真に撮って街にばら撒《ま》く」
周天文は組んでいた指をほどいた。
「いい加減にしろよ、きさま」
「いい加減にしたいんだよ、おれも。ホモ野郎と個室にふたりっきりってのは、どうにも気分が良くないからな」
周天文が椅子《いす》から腰をあげた。赤らんだ顔で滝沢を睨《にら》みつけた。滝沢は薄笑いを浮かべた。周天文は折れる――刑事の経験がそう告げていた。小奇麗なホモはなによりも体面を重んじる。
「老爺はなんだっておまえみたいなクズをここに寄越したんだ」
「なにか考えがあるんだろうよ」
楊偉民はあっさりと周天文に会えといった。なにか企《たくら》みがあるのかもしれない。
「楊偉民がなにを考えてるかなんて、この際置いておこうぜ。それより、さっさと決めてくれ。知ってることを教えてくれるのか? それとも、おれに付きまとわれるのを選ぶのか? 話してくれりゃ、おれはあんたの目の前からぱっと消えてやる」
「五日ほど前に謝圓が失踪《しっそう》したという話を聞いた」周天文は腰をおろした。「いついなくなったかは知らない。恐らく、人戦の連中も知らないだろう。気がついたら、いなくなってたんだ」
「それで?」
「謝圓は人戦のメンバーの中でも、ちょっと風変わりな男なんだよ。メンバーとつるんでるより、留学生やなんかと付き合ってる方が多かった。一週間ぐらい謝圓を見かけないことなんかざらにあったんだ。だから、今度の失踪騒ぎにしても、いつ謝圓がいなくなったのか、だれも知らない」
「あいつは人戦の経理担当だったそうだな」
「まあ、そういうことにはなってた。実際のところは、人戦の肩書きは意味がない。手の空いてるやつがなんでもやるんだから」
「じゃぁ、なんだって人戦のやつらは謝圓がいなくなったって騒いでるんだ?」
「それは……」
「おれが聞いた話じゃ、やつがいなけりゃ、人戦の金が動かせない、それで探してるってことだった。別に謝圓が経理をひとりで仕切ってたってわけじゃないんなら、元々、姿を見かけないことの方が多い野郎が十日ぐらい消えたからって、それほど騒ぐ必要はない。違うか?」
「人戦の全員が謝圓を探してるわけじゃない」
「腐った連中ってことか?」
周天文がうなずいた。
「それじゃ、謝圓とつるんでたっていう、留学生やなんかの名前は?」
「知らない」周天文はあっさりと否定した。「人戦の連中とはたまに顔をあわせるだけだ。プライヴェイトなことはなにも知らない」
絞った雑巾《ぞうきん》なみになにも出てこない。滝沢は質問の矛先を変えた。
「上海の女はどうだ?」
「なんだって?」
「上海の女と聞いて心当たりはないか? 人戦の連中が話してるのを小耳に挟んだんだがな」
周天文の目が細くなった。ふいに目に光が宿った。
「一年ぐらい前かな。謝圓が、顔見知りの女とばったり出くわした、といってたのを聞いたような気がする」
「新宿でか?」
「たぶん」
「だが、あんたはその女の顔も名前も知らない」
「そう、知らない」
だが、推測はできるはずだ。
「留学生か、堅気か、売女か……どう思う?」
「水商売だろうな」
いずれにせよ、たいした手がかりにはならなかった。上海から来た売女など新宿にはごまんといる。たった百万ぽっちの金のために、どれだけの労力を払わなければならないのか。だが、宗英の百万――滝沢の金。金をかっぱらわれて黙っているわけにはいかない。それに、今は切実に必要な百万だ。
そして、崔虎から入るはずの二百万。あわせて三百万。はした金。しけた人生にはお似合いの金額だった。
「魏在欣を知ってるか?」
「北京の四大天王のひとりだろう。彼がどうした?」
「二年前、崔虎が香港の連中に襲われたときのことだ。その時、魏在欣が崔虎のために特別な仕事をしたって話が聞こえてくる。なにか、知らないか?」
「おれは堅気だ。知るわけがない」
「二年前だぞ。あのゴタゴタを覚えてるだろう?」
「知らん」
「劉健一が原因だと聞いた。だとしたら、おまえが知らないわけがない」
沈黙。周天文はテーブルの上の一点を見つめたきりだった。
諦《あきら》めるしかなかった。滝沢は名刺を取り出した。
「なにか思い出したら、連絡をくれ」
「冗談だろう」
名刺を差し出した手が宙に浮いた。周天文は鼻にもひっかけない。
思わず、名刺を握り潰《つぶ》した。
落ち着け。
煙をくわえながら、もう一枚名刺を取り出した。
「おれに押し掛けられるより、電話をかける方がいいだろう」
「話を聞かせたらおれの目の前から消えていなくなるといっただろうが!」
「崔虎のところの張道明が殺されたのは知ってるか?」
周天文が動きを止めた。胸ポケットに名刺を放り込んだ。
「北京の動きも物騒になってる。あんた、なにか聞いてないか?」
「いっただろう。おれは堅気だ。流氓のことを知りたければ、おれじゃなく、劉健一のところへ行けよ。金さえ出せばなんだって教えてくれる。劉健一だ、知ってるだろう? 知らなけりゃ教えてやるが、あんたと同じ下衆な匂《にお》いのする男だよ」
ホモ野郎が得意げに吠えている。
例の発作がぶり返した。視界が急速に赤く染まる。落ち着け。今じゃない。こいつをぶちのめすのは今じゃない。
滝沢は煙草の煙を周天文の顔に吹きかけた。
「あんたがクソったれのホモ野郎だってことは黙っていてやる。楊偉民を怒らせると怖いそうだからな。だが、おれはおまえたち中国人とはわけが違う。いつだって歌舞伎町を出ていけるんだ。わかるか?」
周天文は口を真っ直ぐに引き締めていた。くすんだ目で滝沢を睨《にら》んでいた。
「なにか知りたいことがあったら、おれはおまえに電話をかける。つかまらなかったらここに押し掛けてくる。おまえはおれが知りたいことに答えるんだ。わかるか?」
周天文は口を開こうともしなかった。ただ、滝沢を睨みつけるだけだ。
「北京のことでなにか聞いてないのか?」
「劉健一に聞けよ。おれはなにも知らん」
滝沢は周天文を押しのけて外に出た。
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午後十一時半。家麗《ジァリー》は店を出た。真紅のチャイナドレスが歌舞伎町をふわふわと蝶《ちょう》のように漂って職安通りへ向かった。家麗《ジァリー》は手をあげてタクシーをつかまえた。
秋生《チウション》は影のように家麗に従った。神経を尖《とが》らせて周囲を探る。酔っぱらい、ガキ、ポン引き、ホステス、おカマ、チンピラ、ヤクザ、流氓、おまわり――いつもの光景。家麗を尾《つ》けるやつの姿はない。
明治通りから新目白通りへ。タクシーの流れは空車が目立った。尾行車はなかった。
「わざとバーテンを殴ったんでしょう?」家麗が口を開いた。「トラブルを起こせば、わたしがあなたを馘《くび》にする。そう思ってるのね?」
「考えすぎだ、小姐《シァオジェ》。楊偉民はおれの親代わりなんだ。楊偉民に命じられたことなら、おれはなんでもする」
「たとえそれが、わたしみたいな嫌な女のお守りでも?」
からかうような声。秋生は目を閉じた。
「小姐は奇麗だ。嫌な女だとは思ってない」
「秋生――」
手を握られた。秋生は目を開けた――目の前に家麗の顔があった。真剣な眼差し。計算も侮蔑《ぶべつ》も感じられなかった。
「わたし、生きていくために色んなことしてきたわ。身体も売ったし、人を騙《だま》したりもしてきた。嫌な女よ、わたし。あなたがわたしのことどう思おうとかまわない。でもね、秋生。お願いだからわたしを守って。最近、歌舞伎町はおかしいわ。怖いのよ。わたし、ほんとうに怖いの」
狂おしいほどの懇願――芝居のように思えた。真実にも思えた。秋生にはなにもわからなかった。
「安心しろ、小姐。おれは仕事で手を抜いたりはしない。その代わり、仕事でおれがすることに口を挟まないでくれ」
「わかったわ」
家麗は秋生の手を放した。なにごともなかったかのように窓の外に視線を移した。その横顔からはなにも読み取れなかった。
タクシーは下落合の路地を走っていた。見るからに高そうなマンションの前で家麗がタクシーをとめた。
「わたしはここで降りるわ。お疲れさま」
家麗の手に一万円札が握られていた。それを押し返して外に出た。
「秋生、もういいのよ。このままタクシーに乗って帰りなさい」
「部屋まで送る。それが仕事だ」
「だいじょうぶ。ここ、朱宏《ヂューホン》のマンションなのよ。朱宏はまだ帰ってきてないかもしれないけど、子分がいるわ」
「部屋まで送る。仕事ですることに口を挟まないでくれといっただろう」
マンションの前は歌舞伎町とは比べ物にならない暗さだった。神経を砥《と》ぎすました。
「オーケイ、行こう」
家麗の腕を取ってエントランスに駆け込んだ。ドアを開けて待ち受けていたエレヴェータに乗り込んだ。
「何階?」
「七階よ」
八階のボタンを押した。
「七階っていったでしょ。聞こえなかったの?」
「わかってる。これがおれのやり方なんだ。黙って従ってくれないか」
家麗は眉《まゆ》をしかめた。だが、なにもいわない。
扉が閉まる。空間が閉じられる。家麗の香水、家麗の体臭。鼻をくすぐられた。
真紀の部屋への逃亡――なにもしなかった。明かりもつけず、耳を押えてすべてが終わるのをただ待っていた。やがて、母親の悲鳴と罵声《ばせい》がすすり泣きに変わると、身体から力を抜いて部屋の香りを吸い込んだ。真紀の香りを胸いっぱいに。
鍵《かぎ》のかかった真紀の部屋。ろくでなしが母親を殴り、犯している間、秋生はトイレにこもって耳を塞《ふさ》いだ。明け方――真紀が帰ってくる。秋生は真紀に抗議した。なぜ、鍵をかけたのか。真紀は勝ち誇るように笑った。
――だって、あそこはあたしの部屋だよ。
ときおり見せる優しさと、残酷なまでの冷たさ。秋生はその冷たさに惹《ひ》かれた。真紀に冷たくされればされるほど、真紀への執着は増していった。
――八階。静寂に浸った通路。家麗の手を引いて非常階段へ出た。
「ねえ、ほんとにこんなこと必要なの?」
「必要だと思えないんなら、おれを馘《くび》にすればいい」
家麗を踊り場に残して、非常口をあけた。八階と同じ光景が広がっていた。尾行者も不審者もなし。手招きをした。しかめっ面の家麗が秋生を押しのけて歩きはじめた。
家麗の身勝手さ――真紀の冷たさと似ているような気がした。
七〇八号室が朱宏の部屋だった。家麗を後ろに下がらせてドアをノックした。しばらく間があってドアが開いた。男がふたり――中年と若造が、胡散《うさん》臭い視線を秋生に向けてきた。
「小姐、おかえりなさい。お疲れでしょう」
中年が家麗に丁重に頭を下げた。もう一度、秋生に厳しい視線を向けてきた。
「わたしの新しいボディガードよ、気にしないで」
若造にバッグを渡しながら、家麗がいった。中年と若造はそれでも緊張をゆるめなかった。
「お疲れさま、秋生。明日は十一時に迎えにきて」
ドアが閉まった。秋生は静寂の中に取り残された。
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* *
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仕事は終わった。だが、行くあてはない。タクシーを拾って歌舞伎町へ。
道は混んでいた。歌舞伎町へ向かう空車の列。赤い光を闇《やみ》に浮かべながらのろのろと進んでいた。
少しずつ、歌舞伎町に近づいていく。なにかに引き寄せられるように。磁石に吸い寄せられる砂鉄のように。
職安通りでタクシーを降りた。交番の前におまわりがふたり、楽しそうに喋《しゃべ》っている。目の前に殺し屋がいることも知らずに。
公衆電話を見つけた。昨日記憶したばかりの番号を押す。
「はい」
「郭《グォ》秋生だ」
「どうした?」
「これから行ってもいいか?」
沈黙。受話器から流れてくるのはラテンのリズム。秋生は待った。
「やり方はわかってるな?」
それほど待たずにすんだ。
「わかってる」
受話器を置いた。
監視カメラに顔を向け、インタフォンを押した。すぐにドアが開いた。
薄暗い照明、湿った匂《にお》い――昨夜とまったく同じ。違うのは客がいないことだけだった。
「早かったな」
カウンターの中から浴びせられる劉健一《リウジェンイー》の視線。カメラのレンズのように秋生の身体を探っていた。両手はカウンターの下に隠れていた。
「音楽が違う」
秋生は劉健一の前のストゥールに腰をおろした。耳に飛び込んでくるのはどこか懐かしいリズムだった。
「崔健《ツイジェン》だ。知ってるか?」
「知らない。音楽にはあまり興味がない」
「大陸のロック・ミュージシャンだ」
「すぐそこの通りで、若い台湾人がたむろしてた。あいつらもこんな音楽を聞くのか?」
「顔、見られたか?」
「まさか。いなくなるのを待ってた」
「楊偉民の小僧どもだ。ときどき、この店の様子を見にくる」
劉健一は煙草をくわえた。苛立《いらだ》たしげに火を点《つ》けた。「どうして老爺《ラオイエ》と喧嘩《けんか》したんだ?」
薄笑い。憐《あわ》れむような視線が秋生に向けられた。
「そんなに知りたいのか?」
秋生は曖昧《あいまい》にうなずいた。
「ひとつ教えてやる。ここら辺りで他人からなにかを聞こうと思ったら、そいつはただじゃないんだ」
「金ならある」
内ポケットの中に楊偉民からもらった金があった。
「おれが欲しいのは金じゃない」
「なにが欲しいんだ?」
「おれが話したら、おまえも話せ」
劉健一は薄笑いを浮かべたままだった。嫌なら帰れ――そういっていた。
劉健一は餌《えさ》をまいている。秋生の過去を聞きだしてなにかを見つけようとしている。健一と楊偉民の過去。健一は本当のことを喋らないかもしれない。
席を立って帰れ。なにかが頭の中で叫んでいた。だが、足はぴくりとも動かなかった。
「話す。だから、聞かせてくれ」
劉健一が嘘《うそ》をついていると思ったら、席を立てばいい。
「あのくたばりぞこない、おれに人を殺させたんだ」
「おれは何人も殺してる」
「おれが殺したのはおれの女だ」
薄笑いは消えていた。劉健一の目はくすんで、ぎらついていた。嘘だとは思えなかった。
口が動く――とめられなかった。
「おれが初めて人を殺したのは義理の父親だった。次に殺したのは、義理の姉だ。父親の方はろくでなしだった。いつも、殺してやろうと思ってた。姉は――」真紀の顔がよみがえった。心が痛んだ。「好きだった。その姉をおれは殺した。あんたが自分の女を殺したからってそれがなんだっていうんだ?」
心にあいた穴から封印した過去が流れ出てくる。
十五歳の秋。母が死んだ。李美娜《リーメイナー》、三十七歳。子宮癌《がん》。やつれた身体。皺《しわ》のきざまれた顔。日本に来る前の美しさは面影にも残っていなかった。病院の霊安室。死体の前で誓った。あのろくでなしを殺してやる。
誓いを実行する時――それほど長くはかからなかった。李美娜の葬儀が終わって数日後。真紀が荷物をまとめて家を出ていこうとした。ろくでなしがそれをとめた。怒鳴りあいと暴力。秋生はろくでなしの腰にうしろから抱きついた。派手な立ち回りと真紀の悲鳴。気がつくと、ろくでなしはフライパンを持っていた。それで思いきり頭を殴られた。
聞こえてきたのはうめき声。自分の声だった。それに別の声が重なった。目を開けた。ろくでなしが真紀を犯していた。
「さんざんっぱら、他の男のあれをくわえこんでいやがるんだろう。ふざけやがって。おまえはおれの娘だ。おれのもんだ」
ろくでなしは狂ったように叫びながら腰を振っていた。
真紀。死んだようにうつろな表情。顔の右半分が血でまだらに染まっていた。
「真紀、秋生ともやってたんじゃねえだろうな? なんとかいえ。おとうちゃんのあれは気持ちいいだろうが」
痛む頭を押さえながら立ち上がった。ろくでなしは気づかずに腰を振っている。真紀が目を開けた。目があった。
殺して。真紀はそういっていた。
床に投げ棄てられた血まみれのフライパンを手に取り、振りかぶった。ろくでなしがうめいた。腰の動きがとまっていた。フライパンを叩《たた》きつけた。
フライパンの重みに耐えきれなくなるまで殴りつづけた。ろくでなしの頭は空気が抜けたサッカーボールのようになっていた。床にへたりこみ、真紀を見た。剥《む》き出しの下半身。あそこからあふれる白濁した液体――真紀は目を開けたまま、ぴくりとも動かなかった。
長い間押し隠していた欲望が頭をもたげた。股間《こかん》が固く猛《たけ》っていた。目は真紀の性器に釘《くぎ》づけになっていた。
「あんたも同じよ」
真紀の声。
「あんたもあたしとしたかったんでしょ。男なんて、みんな同じよ」
真紀の声。それでも、視線を外すことができなかった。ろくでなしに汚された真紀。真紀のあそこからあふれてくるろくでなしの精液。視界が歪《ゆが》んだ。身体が震えた。なにがどうなってもいい。ろくでなしに汚された真紀のあそこに固く猛ったものを突っ込みたかった。
血まみれの真紀の顔を見下ろしながら腰を振った。
「あんたも同じよ」
呪詛《じゅそ》のように繰り返される真紀の言葉。
「秋生、お願い。頭が痛いの。なんとかして」
繰り返される真紀の懇願。
秋生は真紀の首に手を伸ばした。力を込めて絞めた。真紀の膣《ちつ》が痙攣《けいれん》した。秋生は真紀の中で果てた――。
「おれが殺したのはおれの女だったんだ」
劉健一の声がした。繰り返される呪詛。秋生は我に返った。
「楊偉民が殺させた。おれが殺すように仕向けた」
「どんな女だった?」
「忘れた」
劉健一はふいに興味を失ったというように背を向けた。カウンターを出て、CDをかけかえる。大陸のリズムがラテンのリズムに取って代わられた。
「あんたが話し、おれも話す。そういう約束だったはずだ」
「おまえ、いつも他人との約束を守るのか?」
黙るしかなかった。知りたいことを知った――だから劉健一は口を閉じたのだ。
劉健一が秋生の隣のストゥールに腰をおろした。
「音楽には興味がないといったな。なんになら興味があるんだ?」
「犬」
劉健一の目が光った。
「本物の犬だ」愚にもつかない弁明だった。だが、いわずにいられなかった。「いつか、犬を飼いたいと思ってるんだ」
「なにを飲む?」
「烏龍《ウーロン》茶」
「どんな犬を飼いたいんだ?」
グラスに烏龍茶が注がれる。冷えた氷が音をたてた。
「決めてない。大型犬がいいとは思ってる」
「おれも犬を飼ってる。何匹もだ」グラスが目の前に置かれた。「どいつもこいつも腹をすかせた野良犬だがな」
劉健一の目にふざけた光はなかった。
「種類は?」
「北京、上海、福建、台湾。なんでもござれだ。香港、マレーシア、それに日本の犬もいる」
「金を食べる犬のことをいってるんだな」
「犬の飼い方は楊偉民に教わった。ま、あの爺さんが手取り足取り教えてくれたってわけじゃない。爺さんのやり方を見ながら覚えたんだ」
秋生はうなずいた。
「他にもいろいろ覚えたがな。おれみたいなやつに一番役に立つのは犬を飼うってことだ。なぜだかわかるか?」
「情報が大切だからだ」
「おれは故買屋だ。しかも、ひとりでやってる。そうなると、すぐに捌《さば》けないブツを扱うわけにはいかない。おれをカモろうと考えてる連中はうようよいるし、サツにも気をつけなきゃならない。犬を飼っておけば、どこのだれがおれをカモりたがってるのかがわかるようになってくる。どこのだれがどんなブツを欲しがってるかがすぐにわかる。おれは周りに目を配って、その時々に必要なブツだけを仕入れる」
「リスクをできるだけ少なくするんだ。おれの仕事も同じだよ」
劉健一は薄く笑った。
「まあ、いい」薄笑いは続いている。「とにかく、おれは犬をたくさん飼ってる」
「おれが飼いたいのは本物の犬だ」
「聞けって。今夜、一匹の犬がおれに餌をもらいにきた。なんでも、上海の老板《ラオバン》が自分の女のためにボディガードを雇ったっていってな」
「おれのことだ」
「楊偉民はずっとおまえのことを隠してきた。おれだって、楊偉民が子飼いの凶手を使ってるってことに気づくまでずいぶん時間がかかったんだ。それだってのになぜ、楊偉民はおまえを朱宏に貸した? 楊偉民はなにを考えてる? なにを企《たくら》んでる?」
「なにも知らない。老爺がなにを考えてるかなんて想像したこともない」
心臓が不規則に脈打っていた。身体が震えていた。すべてを押し隠して、劉健一の顔を静かに見据えた。
「楊偉民はなにかを企んでる。それだけは確かだ。そんなときに、おまえがやって来た。おれはどう考えればいい? 楊偉民の動きとおまえは繋《つな》がってるんだ」
「違う。おれがここに来たのは、あんたに会ってみたかった。それだけだ」
「おれと周天文にか?」
秋生はうなずいた。
「境遇が同じだからか?」劉健一の薄笑い。顔中に広がっていた。「会ってみて、どうだった?」
「わからない。おれは――」
「魔都のバーテンをぶちのめしたそうじゃないか。おまえ、プロだろう。なにをトチ狂った?」
質問の矛先が変わる。劉健一の流儀。意味深な質問で目をくらませ、ふいに急所を突いてくる。
こめかみが疼《うず》いた。バーテンの件をもう劉健一は知っている――楊偉民の耳にも届いているはずだ。
「トチ狂った振りをすれば、老爺はおれを仕事から外す」
「なるほど」
劉健一はカウンターの上に身を乗りだした。グラスとボトル――ラベルにはアブソリュートと書かれていた。ボトルの中身をほんの少しグラスに注ぎ、一気に呷《あお》った。
「うまくこじつけたもんだな」
「こじつける?」
「おれの犬の話じゃ、おまえはバーテンを殺しかねなかったそうだ。おまえは本気でトチ狂ってたんだよ」
いいわけは通じそうにもなかった。バーテンの下卑た囁《ささや》き。突如襲ってきた怒り。確かに秋生はトチ狂っていた。
「おれは殺して消える。いつもはそうなんだ。だが、老爺はこのまま新宿にいろといった。理由を聞いても答えちゃくれなかった」
「それで?」
「不安だった。いろんなことを思い出した。気がついたらこの店の前に立ってた。あんたか周天文に会ってみたかった。そうすれば、老爺がなにを考えてるのか、教えてもらえるかもしれないと思った」
「おれにも天文にも、楊偉民がなにを考えてるかなんて、わかったためしがない。おまえは馬鹿だ。腕のたつプロかもしれんが、楊偉民にすっかり丸め込まれたガキだ」
「おれは凶手だ。一度も仕事をしくじったことがない」
「だからなんだっていうんだ。おまえは甘ったれたガキだよ、秋生。楊偉民がお膳《ぜん》立てしてくれなきゃなにもできやしない。殺しだってそうだ」
胸が痛んだ。頭の中、どす黒いなにかが渦を巻いている。真紀のうつろな顔――家麗の笑顔が二重写しになって溶けていく。
「おまえは凶手には向いちゃいない。楊偉民にいいように使われてるだけだ」
「おれになにをいわせたいんだ!?」
叫んでいた。劉健一のなにもかもを見透かすような目。楊偉民の目と同じだ。逆らえそうにもなかった。
「話せ。昨日はなにが不安だったんだ? 今日はなにが不安だ?」
「今日は別に――」
「そんなことはない。なにかがあったから、おまえはここに来た。おれに不安をやわらげてもらいたいんだ。話せ」
唾《つば》を飲み込んだ。話せば健一に尻尾《しっぽ》を握られる。だが、話せば楽になることもわかっていた。
「昨日、急に思い出した。ろくでなし父親と姉のことを。ずっと忘れてた。忘れようとしてた。だが、老爺が電話をかけてきて、まだしばらく東京にいることになって、それで急に思い出した」
「ふたりともおまえが殺したんだ」
確認のための言葉。うなずいた。くすんで、ぎらついた目を見たまま。
「姉の名前は?」
「真紀」
「惚れてたのか?」
声が出なかった。ただ、劉健一を見つめていた。
「それで、今日はなにがあった?」
「老爺の命令で、上海の老板の情婦のボディガードをすることになった」
「知ってる。魔都で起こったことを話せ。バーテンをぶちのめしたときのことだ」
「家麗――小姐を侮辱したんだ」
「バーテンがか?」
うなずく。劉健一は首を振った。
「楽家麗はあばずれだ。だれだって知ってる。おまえ、あの女を天使だとでも思ってるのか?」
「小姐は……真紀に似てる」
口に出してみてはじめて、それが真実なのだということを悟った。真紀と家麗――似ている。いや、似ていると思いたがっている。
「なるほど」
ラテンのリズムに機械的な金属音が混じった。カウンターの奥の柱に吊《つ》るされたインタフォンの受話器。劉健一がそれを取り上げた。背中の方のモニタに男と女が映っている。
「今日はもう終わりだ。悪いな」
無愛想な声。モニタの中で男が顔をしかめた。だが、劉健一は取り合わない。
「おまえは、おまえが殺した姉に似てる家麗を侮辱したバーテンをぶちのめした」受話器を置いて、すぐに話を続ける。「ここまではわかった。それで、どうしてここに来たんだ?」
「そのことが老爺の耳に入ったら、おれは仕事を外されるかもしれない――いや、最初は問題を起こして仕事から外れたいと思ったんだ。だが……」
「おまえは突然、自分が家麗に惹《ひ》かれてることに気づいた。となると、バーテンをぶちのめしたのは大きな間違いだ。楊偉民がおまえをこの仕事から外すかもしれない。そういうことか?」
「どうしてそうなったかがわからない。こんなことは……今まではなかった」
「おまえは決められたことは正確にやり抜く。だれかをぶちのめすのも殺すのも簡単にやってのける。だが、突発的なことが起こると、どうしていいかわからなくなる。凶手なんか辞めるべきだな。おまえには向かない」
「おれには他にできることがないんだ」
「それが楊偉民のやり口だ。なにも知らないガキを自分の使いたいように変えていくんだ」
劉健一の顔には笑みが浮かんでいた。夢見るような笑みが。
身体が震えた。
「おれの話を聞きたいか?」
「ああ」
「おまえは楊偉民を恐れてる。楊偉民を恐れるのは間違いじゃない。だが、恐れすぎるのは間違いだ。いいか、楊偉民が力を持ってるのは歌舞伎町の中だけだ。もし、楊偉民がおまえを今の仕事から外したら、家麗をさらってどこか他の場所へ逃げればいい。それだけの話だ。違うか?」
「小姐はおれのことをなんとも思ってない。それに、老爺を裏切ることはできない。恩があるんだ」
嘲笑《ちょうしょう》が返ってきた。
「楊偉民はおまえを便利な道具だと思ってるだけだ。おれがそうだったようにな。恩を感じる必要なんかない」
「だけど――」
「いいか、これだけは肝に命じておけ。もし、おまえが仕事をしくじったら、楊偉民は容赦なくおまえを切り捨てる。あの爺はそういう人間なんだ。あの爺に義理立てしたいって思うのはおまえの勝手だ。だが、もしもの時があったら、おれの言葉を思い出せ。楊偉民はくたばりぞこないの爺だ。おまえがナイフを使えば、楊偉民はあっという間にくたばる」
「あんた、おれに老爺を殺させたいんだ。そんなに老爺のことが嫌いなのか?」
「そのうち、おまえもおれと同じように考えるようになる。請け合ってもいい」
夢見るような笑み――消えることはなかった。
いたたまれなかった。秋生は席を立ち、店を出た。
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〈カリビアン〉
派手な色彩の看板が薄暗い路地に場違いな光を投げかけていた。分厚いスティールの扉が入口を塞《ふさ》いでいた。インタフォンを押す前に、だれかが階段を降りてくる気配がした。
音もなく扉が開く――出て来たのは若い男だった。滝沢は目を奪われた。
背は高くも低くもない。ほっそりしている。猫科の肉食獣を思わせる足取り。艶《つや》のある髪の毛は汗で額にへばりついていた。大きな目は暗く沈んでなにかを見つめていた――おそらくは、空虚ななにかを。
背筋に痺《しび》れが走った。拳を固く握って震えを押さえた。
男は滝沢に目もくれずに歩み去った。
劉健一はカウンターの外で飲み物をすすっていた。
「いま降りていった客はだれだ?」
「あんたには関係がない」
背筋の震えを思い出した。強烈だった。いろんな犯罪者を見てきたが、あんなに震えたことはない。
「教えてくれよ」
「聞きに来たのは別のことだろう?」
取りつく島もなかった。滝沢が刑事だったころ、劉健一は笑みを浮かべてへつらってきたものだ。
「名前だけでも教えろ」
「焦るなよ、滝沢さん。そのうち出くわすさ。歌舞伎町をぶらついてればな」
滝沢は諦《あきら》めてストゥールに腰を下ろした。こうなった劉健一からはなにも引き出せない。
「聞きたいことはふたつだ。北京の張道明。それから、人戦の謝圓」
「張のことはあんたが調べてるんだろう。おれはなにも知らない」
「だれに向かって口をきいてるんだ、健一。知ってることを話せ。おれは崔虎の命令で動いてるんだ」
「だからなんだっていうんだ? おれは商売人だ。買いたいってものがあるなら、売ってやってもいいぜ」
「金はない」
「じゃ、帰るんだな」
「腕ずくで聞きだしてもいいんだぞ」
「やってみろよ」
劉健一は滝沢に目を向けようともしなかった。
眩暈《めまい》がした。拳を握った。
落ち着け。おれはもう刑事じゃない。落ち着け。
「後払いにしてくれ。仕事が終わったら、崔虎から金が入る」
「しょうがないな」健一はにやついた顔を向けてきた。
「杜《ドゥ》より先にこっちに払ってくれよ」
「張道明は電脳マニアにパチンコのプリペイドカードの磁気情報を解析させていたらしい。電脳マニアってだれだ?」
「おれも知りたいね。金になる」
「健一――」
「なあ、滝沢さんよ、おれも知りたいんだよ。だれが張の野郎をバラしたのか。あんたも知ってるように、おれは北京と上海の間を泳いで生きてる。そうするとだ、今の歌舞伎町は居心地がいいんだ。崔虎と朱宏がお互いを牽制《けんせい》してるからな。おれみたいな連中にちょっかいをかけてる暇がない。だが、このバランスが崩れてみろ、勝った方は歌舞伎町をまるごと自分のものにしようと躍起になる。ちんけな故買屋にだって、目を光らせるようになる。息苦しくてしょうがない。そうならないためには、崔虎に頑張ってもらわなきゃならない。四大天王のだれかが崔虎を裏切ってるなら、とっととそいつを見つけてもらいたい。本気でそう思ってるんだ」
「だったら、知ってることを話せ」
「だから、なにも知らないんだよ。おれの知ってることを聞けよ」
嘘《うそ》だ。劉健一はなにかを知っている。
「街の噂《うわさ》じゃ、魏在欣が怪しいってことになってる」
「噂は噂だ」
「なんでも、あいつは二年前に崔虎のために特別な仕事をしたそうだ。崔虎に可愛《かわい》がられて、他の三人の嫉妬《しっと》を買った。それで四人の中であいつだけ浮いている。特別な仕事って、なんだ?」
「さてね。おれも初耳だよ、その特別な仕事ってのは」
劉健一が目をそらしたような気がした。店内に響き渡るラテンのリズムが邪魔だった。声の調子を聞き取ることができない。
「二年前のごたごたはおまえが原因だったって話も聞いた。こっちはどうだ?」
「滝沢さん、現実を見なよ。おれはちんけな故買屋だ。流氓《リウマン》じゃない。そんなおれになにができる?」
滝沢は目を閉じた。カビの匂《にお》いが鼻をついた。目を開けた。劉健一は変わらず目の前に立っていた。
口八丁。それが劉健一の武器だ。こいつの口から出る言葉の九割はでたらめ。だが、情報が少なくてはほころびを見つけることもできない。
「まあ、そっちの方はおいおい調べてやる。それより、北京の裏切り者を焙《あぶ》りだす方が先だからな。どうすりゃいいと思う?」
「おれもいろいろと耳をすませていた。だが、なにも聞こえちゃこない。つまり、裏切り者はうまくやってるってことだ。そうなると、あとはびったり張り付くしかない。魏在欣、陶立中、陳雄。この三人を二十四時間見張るのさ。どこに行くのか。だれと話すのか。電話の盗聴も必要だな。そうすりゃ、必ずボロを出す」
「そんな金も人手もない」
「遠沢を覚えてるか?」
滝沢はうなずいた。遠沢賢治。元は雑誌記者という名のゴキブリでギャンブル狂いだった。今ではシャブ中になっている。
「あいつなら、尾行もお手の物だ。盗聴に関する知識も持ってる。人手を集めることもできる」
「いっただろう、金がない」
「遠沢に金は必要ないさ」
「シャブか……おれがそんなもの、持ってるはずないだろう」
「いまじゃ、シャブなんてそこらに落ちて転がってる。ガキどもを脅せば、いくらでも手に入るさ」
喉《のど》が渇いた。劉健一の目の前のグラスをひったくって中身を飲み干した。薄められたウォッカ。胸がやけた。
ミュージシャン気取りのガキども。歌舞伎町を支配してるのがだれかも知らずに踊っている。財布の中にコンドームとシャブ、葉っぱを忍ばせて。そいつらをぶちのめす。シャブをかっぱらう。
ガキどもをぶちのめす。そう考えただけで渇きが癒《い》えた。
「もうひとつ。人戦の謝圓って野郎が姿を消した。どこに消えた?」
「消えたって噂は知ってる。だが、なんだってあんたがあいつを探すんだ?」
「おれの女の金を持ち逃げした」
「いくら?」
「百方」
「はした金だ」
「おれには大金だ」
「刑事を棒に振って、小金にも困る。滝沢さん、宗英ってのはそんなにいい女か?」
呼吸がとまった。かびの匂いが消えた。
滝沢は劉健一の顔を穴があくほど見つめた。見つめかえしてくる視線。なにかをほのめかしているようにも、そうでないようにも見えた。
縛られた女。目を血走らせた滝沢。それを覗《のぞ》き見している劉健一。
歪《ゆが》んだ光景が頭に映った。縛られた女の顔が、ふいに変化した。入口の前ですれ違った、あの男の顔。脈が乱れた。
「おまえの知ったことじゃない。それより、上海の女ってだれのことだ?」
話題を変えた。頭の中のイメージを握り払った。
「上海の女?」
「人戦のやつらが話してた。上海の女が謝圓の居場所を知ってるってな」
「ここいらには、上海から来た女なんて腐るほどいるぜ」
「だから、誰のことかわからなくて困ってるんじゃないか」
「聞き耳を立てておくよ」
「人戦のやつら、金回りがいいらしいな。金づるはなんだと思う?」
「薬、売春、殺し――金になるものはなんだってある。なにが金づるだろうと驚かないね」
どこかに綻《ほころ》びがあるはずだ。だが、相変わらずボタンの位置すらわからなかった。刑事だったころなら、いくらでもしゃべらせることができた。だが、ポケットの中にあるのは偽の手帳だ。どうすることもできない。
滝沢は立ち上がった。足元を見られたままではなにも覚束《おぼつか》ない。そのうち、弱みを見つけてこっぴどく痛めつけてやる。
「たいしたことは話せなかったな。金はいいよ、滝沢さん」
「金は払う。さっきの客は何者だ?」
「あんたも相当しつこいな」
「教えろ」
「そのうちわかる。本当だ。ただ、おれがあいつの名をばらまいたことがわかるとヤバいんだ」
「だれが怒るっていうんだ?」
「楊偉民さ。決まってるだろう」
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そんなにいい女か?
劉健一は知っている。滝沢が変態だということを。劉健一はなんでも知っている。
昔、何度かパクろうとしたことがあった。そのたびに、劉健一はするりと身をかわした。劉健一はでかい耳とよく見える目、犬のような鼻を持っている。楊偉民と同じだ。似た者同士。憎みあいながら、同じことをして生きている。
そんなにいい女か?
劉健一の声が谺《こだま》する。
女をいたぶるのはそんなに楽しいか?
聞こえなかった声が聞こえる。
滝沢は逃げるように歌舞伎町の雑踏の中に潜りこんだ。コマ劇場を一周する。知った顔を三つ見つけた。一人に目をつけた。
マイク。縮れた毛を肩まで伸ばし、臍《へそ》を出した女の腰に手を回していた。黒人とのあいのこ。レゲエ・クラブ〈NO CRY〉でDJをやっている。左手にシャブ――連中はスピードと呼ぶ。右手に女。
滝沢はふたりを尾《つ》けた。マイクは職安通りへ向かっていた。甲高い声、はしゃいだ仕種。シャブをキメている。薬で固くなった一物を女のあそこに突っ込むためにホテルへ急いでいる。
職安通りを越えたホテル街の暗がりで後ろから襲いかかった。
女の腰に蹴《け》りを入れた。引きずられてマイクがよろめく。髪を掴《つか》んで投げ飛ばした。嫌な音。嫌な感触。手の中に縮れた髪の毛の束。
女が腰を押えて喚く。立ちん坊たちの視線が集まる。マイクを引きずり起こして腹を殴った。屈みこんだところに膝《ひざ》。それだけで息があがった。
ジーンズのポケットに財布。背中にリュック。そいつを剥《は》ぎとって走り出した。
「なにすんのよ、クソおやじ!」
女の罵声《ばせい》。顔を蹴った。柔らかくて堅い感触が伝わった。折れた歯を吐き出しながら、女が仰向けにぶっ倒れた。
財布の中身――三万五千円ほどの金、コンドーム、テレカ、キャッシュカード、クレジットカード、ビデオ屋の会員券、免許証――どれにもマイクとは似ても似つかない本名が書かれていた。
リュックの中身――ウォークマン、CDが数枚、音楽雑誌、それに時計のケース。中にはビニール袋で小分けにされたシャブ。十二袋。
たいした量ではない。だが、シャブ中をひっかけるには充分な量だ。
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女をいたぶるのはそんなに楽しいか?
劉健一の声が聞こえる。今では本当に聞いた気になっていた。
目の前にシャブのパケがあった。シャブ中の末路は嫌になるほど見てきた。それでも――酒はあまり飲めなかった。杜のせいで博奕《ばくち》もままならない。苛立《いらだ》ちだけが募っていく。
ベッドの上に縛られた宗英が転がっていた。今夜は、その上に目隠しと猿轡《さるぐつわ》をかませてあった。
初めて買ったSMクラブの女――わざわざ横浜まで出張った。太目の女だった。縛り方からいたぶり方まで、丁寧に教えてくれた。教えながら、あそこを濡《ぬ》らしていた。二時間で五万。べらぼうな金だ。ボーナスを受け取るたびに、横浜へ通った。そのうち、プロじゃ飽きたらなくなった。
女をいたぶるのはそんなに楽しいか?
楽しい、というわけではなかった。女を縛っていたぶって、理性のひとしずくまで蒸発させて――それではじめて、脳|味噌《みそ》の奥の奥、そこでちろちろと燃える昏《くら》い炎を抑えることができた。
小さな結晶を折り畳んだアルミフォイルの上にのせ、火で焙《あぶ》った。気化した煙を吸い込んだ。
光が弾けた。劉健一の声が消えた。
小さな結晶を宗英の濡れた膣《ちつ》の中に押しこんだ。くぐもった声。宗英の身体が痙攣《けいれん》した。溢《あふ》れ出た愛液がシーツに染みをつくった。
猛《たけ》り狂った男根を挿入する。滝沢は獣の声を放った。
朝まで、時間を忘れて宗英をいたぶった。
劉健一の声は聞こえない。代わりに宗英の顔に他の顔が重なった。
暗く沈んだ目。カリビアンの入口ですれ違った男の顔――。
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犬の図鑑。時間をかけてページをめくる。最後のページを眺め終わったら、また最初のページへ。飽きることなくくりかえす。
台北《タイペイ》では犬を飼っていた。小さく薄汚れた雑種だ。秋生が物心ついたときから犬はいた。好きでも嫌いでもなかった。ただそこにいたから受け入れた。
真紀にその犬の話をした。真紀は羨《うら》やましいといった。大きな犬を飼ってみたい。秋生たちは古ぼけたマンションで暮らしていた。犬を飼うなど夢のまた夢だった。真紀はその話をすぐに忘れた。秋生は忘れなかった。忘れられなかった。翌日、本屋で図鑑を買った。
ニューファンドランド。真っ黒な大きな犬、泳ぎが達者で人命救助に使われる――電話が鳴った。
「秋生? わたし」家麗だった。「三時になったら来てくれる? 昨日のマンションよ」
「わかった」
シャワーを浴び、軽く食事を取った。クローゼットと箪笥《たんす》の中に、楊偉民が用意した衣類がつまっている――動きやすい紺のコットンパンツ、白いTシャツ、紺のジャケットを選んだ。ジャケットのポケットにはスウィッチブレイド。柄に触れる。劉健一の言葉がよみがえった。
おまえがナイフを使えば、楊偉民はあっという間にくたばる=@
スウィッチブレイドのスティールの輝きを覗《のぞ》きこんだ。劉健一の言葉を振り払った。
黒星を腰に差して部屋を出た。
池袋にあるホテルの中のアスレティック・クラブ。クロールで家麗が水を掻《か》く。スゥイミング・キャップにゴーグル、地味な競泳用の水着。それでも家麗は家麗だった。水着がぴったりと体に張りついていた。
プールを十往復。五百メートル。きっちりそれだけ泳いで家麗はプールをあがった。
「凄《すご》いな」タオルを手渡す。「毎日泳いでるのか?」
「まさか。でも、なるだけ週に三日は来るようにしてるわ。努力しなきゃ、すぐにおばさんになっちゃう歳だもの」
「そんなふうには見えないな。まだ、充分きれいだ」
「あら、ありがとう。でも、ほら」脇腹《わきばら》から下腹――家麗の濡《ぬ》れた手がすべりおりた。「この辺、すぐに肉がついちゃうのよ」
誇らしげな声だった。自分の肉体が男に与える影響を知り尽くしている女の声だ。
真紀もこんな声を出すことがあったのだろうか。
「ねぇ、秋生。ほら、プールサイドの反対側に陣取ってるおばさんたち。わかる?」
秋生は家麗が示した方に視線を移した。太った身体を水着でつつんだ女たちがいた。
「さっきからずっと秋生のこと、話してるわよ」
「そう」
「声をかけてあげれば、あの女たち、すぐにこのホテルに部屋を取るわよ」
「興味ないね」
「もったいない。あなた、ボディガードなんかよりジゴロの方がよっぽど似合うのに」
水に濡れた顔がほころんだ。背中に汗が流れた。
「あんなおばさん相手に立とうと思ったら、それこそプロフェッショナルな自制心が必要だ。おれには無理だ」
「秋生もプロでしょう」
「意味が違う」
「人を殺すのって、どんな気持ち?」
秋生は家麗を見つめた。
「どうしておれが人を殺しただなんて思う?」
「血の匂《にお》いがするわ」家麗は意味ありげに笑った。「ね、教えて。どんな気持ちがするの?」
家麗は人を殺したことがある――唐突にそう悟った。
「別に。なにも感じない」
真紀の死顔がよみがえった。あのとき感じた恐怖。あのとき感じた絶望。あのとき感じた自責の念。ろくでなしを殺した時には感じなかったもの。すべてはどこかに消えてしまった。
「お腹がすいたわ。食事をしてから店に行きましょう。ホテルの中に美味《おい》しいレストランがあるのよ」
タオルを受け取った。立ち上がった家麗の後ろを執事のようについていく。視線は絶え間なく動く。怪しい影はどこにも見えない。
「ねえ、あのおばさんたちじゃなくて、わたしが部屋を取るわっていったら、秋生、どうする?」
足が震えた。からかうような笑みが秋生をとらえた。
「かわいいわね、秋生」
家麗はなにごともなかったかのように歩きはじめた。
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ホテルで食事をとって、〈魔都〉へ向かった。酒とカラオケ、欲望の囁《ささや》き、女たちの嬌声《きょうせい》。カウンターの中のバーテン――昨日とは違う男。恐怖に淀《よど》んだ目で秋生の顔を盗み見ていた。
秋生はカウンターの端で烏龍《ウーロン》茶をすすりながら、家麗を見て時間を潰《つぶ》した。
十時半。ドアが開いた。入ってきたのは朱宏、それに手下が三人。女たちが客を放り出して擦り寄っていった。
朱宏たちは店のど真ん中のボックス席に陣取った。すぐに家麗がやって来て朱宏の右隣に腰をおろした。スリットから覗くふくらはぎ。朱宏の手が家麗の腰に回された。
胸が痛んだ。烏龍茶をすすった。ジャケットのポケットの中のスウィッチブレイド、腰に差した黒星《ヘイシン》――位置を確かめる。痛みが遠退いた。
楽しげな家麗。満足げな朱宏。視線の隅で眺めていた。手下の一人が立ち上がって近づいてきた。
「郭先生、老板がごいっしょにどうぞとおっしゃってます」
うなずく――布地の上からスウィッチブレイドを押さえた。
「よく来てくれた。どうだ、一杯?」
赤らんだ顔から汗とアルコールの匂いが漂ってきた。家麗は秋生を見ようともしなかった。
「仕事中は酒は飲まないんです」
「おお、そうか。じゃ、なにを飲んでるんだ?」
「お茶を」
手下どもにくっついていた女の一人がバーテンに手を振った。
「どうだ。家麗はわがままで扱いに困るだろう?」
「そんなことはありません」
朱宏の左側のスペース。秋生はそこに腰を下ろした。
「さすがだな。老楊《ラオヤン》が推薦してくれたプロだ。愚痴ひとついわねえ。おまえらにも見習ってほしいぐらいだ」
手下たちの卑屈な笑いが起こった。
「もう、まるでわたしがわからずやのバカ女みたいじゃないの」
家麗が朱宏の太股《ふともも》をさすりながら媚《こ》びるような笑みを浮かべた。
「本当のことだろうが」
「老板、太々《タイタイ》はこれでなかなかしっかりした女性ですよ」
手下のひとりが追従する。太々――人の妻を意味する言葉に、朱宏の目尻が下がった。
馬鹿馬鹿しさを通り越した会話。意味のない笑い。秋生は運ばれてきたお茶に口をつけた。
「どうだい、郭先生。こいつらに、プロの心構えというもんを教えてやってはくれんか」
「別になにも……お茶を飲むように仕事をするだけです」
「そこなんだよ。平常心というやつか? プロとおまえらの違いはそこなんだ。いつでも頭に血をのぼらせりゃいいってもんじゃねえ」
「でも、秋生だってたまには頭がカッとすること、あるでしょう?」
家麗。普段はすました顔をしているのに、朱宏が側にいるときは別人に変わる。
「昔は、そうでしたね」
「郭先生、初めて人を殺したのはいくつの時ですか?」
朱宏から一番離れて座っていた男が口を開いた。歳も一番若い。秋生を小馬鹿にしたような笑みが唇に張りついていた。
「十五の時だ」
「おれは十三です。いつも威張りくさってた近所のチンピラを、ナイフで刺してやった。冷静なもんでしたよ」
「名前は?」
「おれの名前ですか? 江軍《ジァンジュン》ですよ」
「すぐばれる嘘《うそ》をつくのはやめた方がいい、江軍。おれが初めて人を殺した時は、怖くて小便をチビりそうだった。わけもわからず相手に襲いかかって、相手はもう死んでるってのに、気が狂ったように殴りつづけてた」
しゃべるつもりはなかった。お茶に手を伸ばした。
「おまえもそうだろう?」
「おれを嘘つき呼ばわりする気ですか、郭先生?」
江軍の細い目――険呑《けんのん》な光。
「落ち着け、江軍。郭先生はおまえの面子を潰《つぶ》すつもりでいったんじゃない」
朱宏が取り成すようにいった。
「老板――」
「怖くて当たり前なんだよ、江軍。人を殺すのは怖い。そいつがわかってれば、いつか、その恐さを乗り越えることができるようになる。なにも怖いことはないなんてうそぶいてるやつは必ず早死にする」
「そう。そのとおりだ、郭先生」
朱宏。派手に秋生の肩を叩《たた》いてきた。
江軍。納得したわけじゃないという顔。
家麗。そして他の男たち、女たち。じっと秋生たちのやりとりに聞き入っていた。
「ひとつ聞いていいですか、郭先生?」
「なんだ?」
「あんたが殺した相手ってだれだったんですか?」
真紀。それでも言葉は溢《あふ》れてくる。わかっていた。プールでの家麗の問い――人を殺すのって、どんな気持ち? それに答えたかった。家麗がどうやって人を殺したのかを知りたかった。
「義理の親父と姉だ」空気が凍った。かまわずつづけた。
「ふたりを殺した後、おれは腰が抜けたようになってた。身体が動かない。動こうって気にもなれない。おれはふたりの死体といっしょに床に横になっていた。何日も何日もだ。そのうち、死体が腐りはじめる。死体に蛆《うじ》がたかりはじめる。それでも、おれは動けなかった」
「もう、やめましょうよ、こんな話」
家麗が叫んだ。やめなかった。やめることなどできなかった。
「覚えてるのは匂《にお》いだ。ひとが腐っていく匂い。阿片の煙のようだった。その匂いを嗅《か》いでると、思考が麻痺《まひ》していくんだ。それから、蛆。どこからわいてくるんだろう。気がつくと死体の周りにたかって、腐った肉を食っている。そのうち、まだ生きてるおれにも蛆はたかりはじめる」
「秋生、やめて!」
「おれは死にかけてた。ある人がおれを救ってくれた。おれが恐怖と腐臭と蛆のせいで気が狂いかけてたのを、その人は知ってる。だから、おれは虚勢をはったりはしなかった。怖いことは怖い。そいつを忘れたりはしなかった。そして、気がついたらこうなってたんだ。わかるかい、江軍?」
沈黙が返ってきた。秋生は肩をすくめた。
「朱老板。せっかくの酒の席に場違いな話でした。申し訳ない」
「い、いや。郭先生こそ、江軍のせいでいやなことを思い出させてしまった。こちらこそ、申し訳ない。――江軍、おまえも謝らんか」
「郭先生、すみませんでした」
お茶をすする――大人の態度を見せる。緊張がほぐれ、くだらない戯れ言が復活した。下品な笑い。煙草の煙。アルコールの匂い。カラオケ。
家麗――秋生を見ようともしない。
石ころのように、秋生は待った。朱宏が飽きるのを。
頭の中で渦巻いているのは、家麗の言葉だった。
わたしが部屋を取るわっていったら、秋生、どうする?
そして、真紀の顔が浮かんでは消えていた。
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朱宏が重い腰をあげたのは十一時過ぎだった。十一時半になる前に、家麗は帰り支度をはじめた。
家麗を後ろに従えて、秋生はビルの外に出た。いつもの区役所通りの光景が広がっていた。酔っぱらい、ポン引き、女たち。アンテナにひっかかるものはない。タクシーを止めようとした手を引っ張られた。
「タクシーはいいわ。歩いて帰れる距離だから」
「老板のところへは行かないのか?」
「今日みたいに飲む日は、どこかで売女を拾うか、酔いつぶれて寝るだけなのよ。わたしは必要ないわ。自分の部屋に帰るの」
家麗の部屋は明治通りを渡った先のゴルフガーデンの裏手にあった。
流行のマンション。エントランスで暗証番号を入力するタイプだった。家麗の肩越しに、秋生は番号を覗《のぞ》きこみ、記憶した。
七八九一――なにを意味する数字かはわからなかった。
エレヴェータ。家麗の香り。秋生はいつもの手順を守って一階上で降りた。廊下を調べ、階段を使って下へ。鍵《かぎ》を受け取り、黒星を握ってドアを開けた。待ち受けていたのは暗い部屋だった。
「銃を持ってるのね。知らなかったわ」
家麗が明かりをつけた。白い壁。疵《きず》一つないフローリング。一LDKの間取り。
「お茶でも出すわ。あがって」
「いいのかい?」
「信用してるわ、秋生のこと」
家麗のいたずらっぽい笑み――逆らえなかった。
ソファ、テーブル、テレビ、ヴィデオ・デッキ、電話、食器棚、冷蔵庫。女の一人住まいにしてはあまりにも寂しいインテリアだった。
「適当に座って」家麗は冷蔵庫を開け、ペットボトルの烏龍《ウーロン》茶を取り出した。「お茶っていっても、こんなのしかないけど」
「かまわない」
家麗の仕種は外を歩いている時や店にいる時と違って、どこか投げやりだった。
「疲れたわ」家麗はソファに腰をおろし、足を投げ出した。「週に一度ぐらい、ああやって店に顔をだすの。従業員にボスがだれかを思い出させるためだっていってるけど、本当はわたしが浮気してないかどうか探りにきてるのよね。あいつが来てる間は他の客の相手もできないし、うんざりよ」
秋生は黙って烏龍茶をすすった。
「ねえ、さっきの話、本当なの?」
「ああ」
「どうして?」
「なにが?」
「義理のお父さんとお姉さん。どうして殺したの?」
「理由を他人にいったことはない」
家麗は不満気に顔を歪《ゆが》めた。
「知りたいわ。秋生がどうして――」
「だめだ」
「そんなに辛《つら》い話なの」
「辛い話なんて、そこらへんにいくらでも転がってる」
「教えてくれないなら、どうしてわたしにあんな話、聞かせたのよ」
「小姐が聞きたがっていたからだ」
「そんなこといった覚えはないわ」
「いった。ホテルのプールで」
家麗は腕を組んだ。苛立《いらだ》たしげに肩をゆすった。
「あれとこれとは――」
「人を殺すのはどんな気持ちだと小姐は聞いた」家麗の言葉を遮ってつづけた。「おれはなにも感じないといった。それは嘘《うそ》だ」
「嘘? 怖いの、やっぱり?」
「いや。興奮するんだ。いつも、あそこが固くなる。カチカチに」
「へえ。意外ね。でも、わたし知ってるわよ。秋生、わたしを見ながら固くしてる時、あるでしょう」
からかうような目つきが秋生を射抜いた。喉《のど》が渇いた。烏龍茶をすすった。渇きは癒《い》えなかった。
ソファの上。家麗との距離はほんのわずかだった。家麗の身体が傾いてきた。肩に体重がかかった。耳に吐息。家麗の体温を強く感じた。
「ねえ――」
電話のベルが鳴った。家麗が舌打ちした。肩が軽くなった。
「はい?」
家麗の背中が強張った。ちらりと視線が飛んでくる。邪魔者を見つめる視線。家麗は声を落として話しはじめた。
「いま、お客さんがいるのよ。またにしてくれる?」
秋生は立ち上がり、キッチンへ向かった。だが、耳はしっかりと家麗の言葉を捉《とら》えていた。
食器棚。抽斗《ひきだし》を開けた。三つ目の抽斗の中で鍵を見つけた。部屋の合鍵のようだった。秋生はポケットにいれた。
「何度いったらわかるのよ。わたし、なにも知らないって……」
家麗の怯《おび》えが伝わってきた。スウィッチブレイドを手に取った。喉の渇きは消えていた。
家麗はだれかに脅されている。そいつを殺す。相手がだれであっても。
上海語でなにかを叫びながら家麗が受話器を叩《たた》きつけた。秋生はリヴィングに戻った。またベルが鳴った。動かない家麗の代わりに受話器を取った。
「はい?」
電話が切れた。受話器を置き、振り返った。家麗――じっと秋生を睨《にら》んでいた。
「だれからの電話?」
「秋生には関係ないわ」
「いってくれれば、そいつを殺してやる」
「もう、帰って」
冷ややかな言葉。冷ややかな態度。狂おしい感情が込み上げてきた。
「いつでもいってくれ」
秋生は背中を向けて、部屋を出た。
――おまえは凶手には向かない。
劉健一の言葉が頭の中で谺《こだま》していた。
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「昨日、わたしになにした!?」
宗英《ゾンイン》の罵声《ぱせい》が聞こえた。完全に目が覚める前に、鳩尾《みぞおち》をしたたかに殴られた。
「なにしやがる」
宗英は裸だった。髪を振り乱し、涙を流しながら滝沢にむしゃぶりついてくる。
「あんた、鬼よ、ひとでなしよ。どうしてわたしにあんなことする?」
ベッドの周りに散乱した縄、鞭《むち》、バイブ、そして、アルミフォイル。思い出した。シャブを使ったセックス。滝沢も宗英も我を忘れてお互いを貪《むさぼ》った。
「馬鹿野郎」宗英を突き飛ばした。「おまえだってヒイヒイいって喜んでたじゃねえか」
「わたし、なにも知らなかったよ。縛られて、目隠しされて。気がついたらあそこが熱くて……あんたがそんなことするなんて、思ってもいなかったよ」
「うるせぇ」
「わたし、あんたのこと信用してたよ。あんただったら、縛られてもだいじょうぶ。あんたがわたしのこと、本当に傷つけるはずがない。そう思ってたよ」
頭の中にクソが詰まってるような気分だった。宗英の甲高い声がクソをこね回す。滝沢は煙草をくわえ、火をつけた。
「あんなことされるなら、もう、わたし、縛られない。絶対にいや。みんなに変態とかいわれるの我慢して尽くしてるのに、どうしてあんな酷《ひど》いことするの――」
目が覚めた。
「いま、なんていった?」
滝沢は宗英の腕をつかんだ。くぐもった悲鳴があがった。
「だれがだれのことを変態っていってるんだ?」
「し、知らないよ」
「いえ!」首に手をかけた。「しらばっくれてると、本気でぶっ殺すぞ」
「みんな、いってるよ。滝沢って日本人は女をいじめて喜ぶ変態だって。わたしのウンコ食べて喜ぶんだって。その変態と暮らしてるわたしも変態だって。みんな、わたしのこと馬鹿にしてるんだから」
視界が赤く染まった。発作――抑えようがなかった。宗英の首にかけた手に力をこめた。
殺してやる――。
「あ、あんた……」
「だれがそんなでたらめをほざきやがった!?」
宗英の顔――震えていた。血の気が引いていた。
殺してやる――。
「あ、あんた……やめ……」
「だれだ!? だれがいった!?」
「……杜光啓《ドゥグァンチー》」
杜。南京から来た金貸し――殺してやる。
手の中で何かが震えた。宗英の白い顔が目に飛び込んできた。慌てて手を離した。
「人殺し……」
宗英は激しく喘《あえ》ぎ、憎悪のこもった視線を向けてきた。
「本当に杜の野郎がいったのか。おれを変態だと」
「そうだよ。あんたがいつまでたっても、お金、返さないから。あいつ、わたしに電話かけてきて、あんたのこと、変態だっていった。わたしも変態だっていった」
「殺してやる」
「杜だけじゃないよ。みんな知ってる。あんたが、女をいたぶるろくでなしだってこと、みんな知ってて陰で笑ってる。知らないの、あんただけよ」
息が荒くなった。視界が赤く染まった。
落ち着け。
「悪かったな、宗英。もう、二度とこんなことはしない」
精一杯の謝罪。宗英を失うわけにはいかない。滝沢の昏《くら》い欲望を満たしてくれるのはこの女しかいない。
滝沢は手を伸ばした。宗英がするりと逃げた。
「触らないで。わたし、もう少しで死ぬところだった」
蛆虫を見るような目つきだった。変態を見る目つきだった。
一気に血がのぼった。
滝沢は宗英を引きずり倒した。馬乗りになって、顔に拳《こぶし》を叩《たた》きこんだ。宗英が動かなくなるまで、殴りつづけた。
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* *
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逃げるように部屋を出た。春の風が身体にまとわりつく。宗英の呪詛《じゅそ》のように。
携帯電話を取り出した。手に血がこびりついていた。真っ赤な、宗英の血。ぎりぎりと歯を噛《か》み締める。
殴るつもりはなかった。だが、それをいうなら、宗英にシャブを使うつもりもなかった。劉健一――あいつに会って、あいつと話して、なにかが狂いはじめた。
杜に電話した。
「はい?」
愛想のいい声。罵声でかき消した。
「おれのことを変態だっていいふらしてるらしいな」
「滝沢さんかい? 朝っぱらからどうしたの」
「ぶち殺してやるからな」
「その前に金、返してよ。そうしたら、殺されてもいいよ。滝沢さんが女をいたぶって喜ぶ変態だってこと、忘れてもいいよ」
血が逆流した。
「てめえ、何様のつもりだ。たかだか数百万の金で――」
「そのたかだかのお金返せない滝沢さん、何者よ? 偉そうな口きくなら、金を返してからね」
「おい!」
「うるせえな」
受話器の向こうの声が北京語に切り替わった。愛想のかけらも消えた。
「おれは一人で商売してるがな、北京にも上海にも知り合いはたくさんいるんだ。そいつらにいってやろうか? 日本の変態野郎をぶち殺してくれって?」
滝沢は携帯電話を握り締めた。
「やってみろ。その前におれがおまえをぶち殺してやる――」
電話が切れた。行き場のない憤怒。鈍い頭痛。荒れた息。リダイアルボタンを押した。留守番電話に切り替わっていた。
「くそっ」
もう一度リダイアルボタンを押そうとしたとき、着信音が鳴った。
「滝沢さん、おはよう」蔡子明《ツァイズーミン》だった。「老板《ラオバン》が飯を一緒に食おうっていってる」
「どこでだ?」
「天楽苑。他にどこがある?」
「時間は?」
「すぐ」
「わかった」
公衆便所を見つけた。水を出しっぱなしにして何度も手をこすりあわせた。血を流し落とす――落ちない。皮膚の隙間《すきま》に染み付いている。
鞭《むち》を使ったことはある。尻《しり》をひっぱたいたことも何度もある。だが、宗英の顔を殴ったのは初めてだった。シャブのせいでまだ神経が興奮している。
滝沢は頭を振った。やらなければならないことが多すぎる。まず、崔虎《ツイフー》の話を聞く。次に、杜を探し出してぶちのめす。それから、仕事だ。
十分で天楽苑についた。崔虎――例によって麺《めん》をすすっていた。蔡子明と手下どもが崔虎の食事を眺めていた。昼飯どきだというのに、他に客はいなかった。
「おう、座れや」
崔虎が顔をあげた。滝沢はその向かいに腰をおろした。
「好きなものを食え」
食欲はなかった。だが、崔虎の好意を無にするわけにはいかない。餃子《ギョウザ》とビールを頼み、笑みを浮かべた。
「それだけでいいのか。食わないと身体がもたねえぞ」
「ちょっと軽く食ってきちゃったんで」
「宗英のお粥《かゆ》はうまいそうだな、え?」
血まみれの宗英――イメージを振り払った。
「あいつの作るものはなんでもうまいですよ」
早口の北京語が返ってきた。崔虎の顔にはにやついた笑い。滝沢は蔡子明を見た。
「あんなブスでもひとつやふたつの取り柄はある、そういってる」
こめかみがひくついた。
落ち着け。蔡子明がいったわけじゃない。
「それで、仕事はどうなってる?」
「まだはじめたばかりですから」
ちらりと蔡子明を見た。蔡子明は顔をそらした。
「昨日、どこかへ消えたらしいじゃないか、あ?」
「ちょっと野暮用がありまして」
「おい」崔虎の目。ぎらぎらと光っていた。「おまえが歌舞伎町で暮らしていけるのはだれのおかげだ?」
「老板――」
「おれだけだぞ、おまえみたいな……」
聞き取れなかった。もう一度、蔡子明に目をやった――決まり悪そうに突っ立っている。他の手下どもの顔に下卑た笑みが浮かんでいた。
「ちゃんと通訳してやれ」
蔡子明が口を開いた。
「老板だけが、あんたみたいな変態の面倒も見てやれるんだ、っていってる」
顔から血の気が引くのがわかった。
「なんだ、その面は? 文句でもあるのか。いってみろよ。変態野郎」
滝沢は立ち上がった。後ろから手が伸びてきて羽交い締めにされた。もがいた。崔虎へ向かって手を伸ばした。こめかみに冷気。金属音。目の隅に黒光りする銃身。火薬の匂《にお》い。手下の一人が銃を押しつけてくる。力が抜けた。
崔虎がゆっくり近づいてきた。いつもの残忍な笑みが浮かんでいた。獲物をいたぶる獣の笑みだ。
「なあ、人戦のやつらが張を殺したのか?」
「違います」
「だったら、なんだっておれの仕事を放り出して、人戦のやつらの尻《しり》を追ってるんだ? わかるように話してみろ」
ゆっくりとした話し方、明確な発音。聞き間違えるはずもなかった。
蔡子明が密告したのだ。滝沢を見ようともしない小心者。だが、日本人を売ったところでやつの心は傷つかない。
「宗英が金を騙《だま》しとられたんです」
「いくらだ?」
「百万」
「たったそれだけのはした金でおれの仕事を放り投げたってのか!?」
「老板」負けずに声を張り上げた。「確かにおれは昨日、人戦のやつらを追っかけた。だが、それだってほんのちょっとの間だ。すぐに切り上げて老板の仕事に戻った。楊偉民や劉健一に会って情報を集めてたんだ。嘘《うそ》じゃない」
「楊偉民に健一だと? あいつらになにがわかる。これはおれたち身内の問題だ」
「身内だから見えないことも、外にいるやつなら見えるってこともある――老板、おれが悪かった。きちんと仕事をするよ。許してくれ」
崔虎がうなずいた。銃口の感触が消えた。身体が自由になった。
「おれは素直なやつが好きだ。たとえそいつがろくでなしの日本人で最悪の変態野郎だとしても、素直なら許す」
拳を握った。きつく。爪《つめ》が掌に食い込んだ。痛み――変態野郎という言葉を聞き流した。
「滝沢《ロンゾー》。近々、でかい金が動く。それまでに、だれがおれを裏切りやがったのか、なんとしても知りてえんだ。わかるか、おれの北京語?」
「わかります」
「百万だといったな? この仕事をきちんとやり遂げたら、その百万も上乗せして払ってやる。だから、しっかりやるんだ。わかるな?」
「わかりますよ、老板」
痛み――掌から全身に広がっていく。くそったれの崔虎。口から出るのはでまかせばかりだ。いつか、殺してやる。
背後で蔡子明の足音がした。恐る恐るついてくる。
「おい。そんなに離れてないで、こっちに来いよ」
滝沢は煙草をくわえた。掌に血。舌先で舐《な》めとった。うなじのあたりがくらくらと痺《しび》れた。怒りと怖れが渦を巻いていた。いずれにしろ、じっとしているわけにはいかない。
「滝沢さん、怒ってるかい?」
「なんでおれが怒るんだ」
「老板にはなんでも正直に話さないとヤバいよ。だから、話した。悪いと思ってるよ」
作り笑い。腰がひけている。じっと睨《にら》みつけた。
作り笑いが消えた。蔡子明の怯《おび》えがしっかり伝わってくるまで睨みつづけた。
「四大天王に見張りはつけてあるんだな?」
「も、もちろん。三人とも、昨日は酒飲んで家に帰った。今日は朝からおれの手下が張りついてるよ」
「どこにいるのか教えろ」
「どうして」
「話をしに行くんだ」
陳雄《チェンシォン》――北京の狂犬。崔虎がだれかを殺したいと思ったら、陳雄が手を下す。
「てめえが老板に飼われてる犬か」
陳雄はむっつりした顔で滝沢を睨んできた。
「許してください、陳|先生《シェンション》。老板はどうしても張《ヂャン》先生を殺したやつを見つけ出せっておっしゃってるんです」
「それがおれになんの関係があるんだ」
「張先生のことをお聞きしたくて」
昼過ぎの喫茶店。客はまばら――ほとんどが陳雄の手下たちだった。陳雄は床に唾《つば》を吐いた。
「てめえのことはいろいろと聞いてるぜ。おれたちの同胞の女をいたぶって喜ぶ変態のヒモ野郎だって話だ」
細かいニュアンスはわからなかった――それで充分だった。滝沢は拳を握った。痛みがよみがえった。
「だれに聞いたんですか?」
「知るか。こんな変態を使って、張|道明《タオミン》の仇《あだ》を討とうなんてよ、老板もヤキが回ったんじゃねえのか」
蔡子明に向けられた言葉だった。
「兄貴、滝沢先生は昔、刑事だったんです。それで老板は――」
「変態は変態だ。そいつがおれたちの同胞を食い物にしている。許せねえだろうが」
「どうしたいんですか、陳先生?」
「なんだと?」
「あんたの同胞って女は、老板がおれにくれた女なんですよ。老板のやり方が間違ってるっていうなら、おれにじゃなくて、老板にいってください」
「てめえ、おれに喧嘩《けんか》売ってるのか?」
「話を聞きたいだけですよ」
「おれになめた口をきくと後悔するぞ」
「話を聞かせてください」
重く湿った視線。滝沢はしっかりと受けとめた。陳雄――崔虎の小型版だ。ちゃちな安全弁しかついていない。滝沢の肝っ玉はなんとか持ちこたえていた。
「なにを聞きてえんだ?」
「張先生を殺したのはプロの凶手です。歌舞伎町にプロが入ってきてるという話、聞いてませんか?」
「ここんとこ、出入りはねえからな。聞いちゃいない――そういえば、上海の朱宏の野郎がてめえの情婦のために用心棒を雇ったらしいな」
「そいつがプロ?」
「いや、プロはプロでも凶手じゃねえ。なんでも、楊偉民の爺がどっかから連れてきたらしい」
顔が浮かび上がった。カリビアンの入口ですれ違った若い男。劉健一はすぐにわかるといった。
「そいつの名前は?」
「それぐらい、てめえで調べろ」
「だれが張先生を殺させたと思います?」
「上海のやつらに決まってる」
らちもない戯言だった。
「じゃあ、どうして上海のやつらと戦争を起こさないんですか?」
「それは――」
「張先生を殺したのは上海のやつらじゃない。だから、老板はおれに調べさせてるんです」
「それならだれが道明を殺したってんだ? おれが殺《や》ったとでもいうつもりか? だったら、覚悟してものをいえよ、変態野郎が」
拳。乾きはじめていた傷口から血が流れた。
「だれが殺ったにしろ、そいつに情報を流したやつがいるはずなんですよ」
「おれたち四大天王はな、実の兄弟より強い絆《きずな》で結ばれてるんだ。だれが、兄弟を売るってんだ? 犬っころとは違うんだぞ、おれたちは――」
陳雄は身を乗りだしてきた。酸っぱい口臭が鼻をついた。
「街の噂じゃ魏《ウェイ》先生が怪しいそうです」
「在欣《ザイシン》が怪しいだと? 馬鹿いえ。あいつがなんだって道明を殺さなきゃならねえんだ?」
「魏先生は他の四大天王から浮いていたから。なんでも、二年前に特別な仕事をして、それで老板に可愛《かわい》がられて――」
「それでおれたちが嫉妬《しっと》したってか。まったく、くだらねえ」
「特別な仕事に心当たりはあるんですか?」
「特別もなにも、だれにだってできるくだらねえ仕事だ。それをいうなら、おれの方が在欣なんかよりよっぽど老板のために特別な仕事をしてる」
「魏先生はなにをしたんです?」
「女の死体を海に沈めたのよ。それだけだ」
「女ってのは?」
「劉健一って知ってるか? あのけちな故買屋の女だよ」
心臓が高鳴った。二年前の事件。今回の事件に繋《つな》がるのかどうかはわからない。だが、知りたかった。
「魏先生が劉健一の女を殺した?」
「馬鹿野郎。だれがそんなことをいった。在欣は死体を埋めただけだ。もっとも、その前に顔を叩《たた》き潰《つぶ》して、指を切り落としたりもしたがな」
身元を隠すための死体損壊。中国の流氓《リウマン》は苦もなくやってのける。
「じゃあ、だれが殺したんですか?」
「劉健一だ。あの豚野郎は、てめえが生き延びるために、自分の手で自分の女を殺したんだ」
「それで?」
「それでって、それだけのことよ。それぐらいのことで、老板が在欣を特別扱いするわけねえだろうが。噂なんてそんなもんだ」
「なんだって、劉健一が殺した女を、魏先生が処分することになったんですか?」
沈黙。陳雄の顔にはしゃべりすぎたと書いてあった。
「あの当時は事情がこみいってたんだ。たいしたことじゃねえ」
これ以上突っつくのは危険――そんな気がした。滝沢は質問の矛先を変えた。
「張先生はパチンコのプリペイドカードを偽造するのに、電脳に詳しいやつを使ってたらしいんです。なにかご存じないですか?」
「知らん。おれはもっぱらこっちが専門でな――」ナイフを持つ仕種。「商売のことはとんとわからねえんだ」
「張先生からはなにも聞いてない?」
「おれとあいつが話すのは女のことだけよ。ここ数年、ほかの話をしたことはねえ」
陳雄はシロだ。これほど単純な男に崔虎を裏切るという絵図が書けるはずもない。
「わかりました。また、聞きたいことができたらお伺《うかが》いします」
「変態野郎の面なんざ、二度と見たくねえ。今度はそっちのやつに質問に越させろ」
滝沢は拳を握って微笑《ほほえ》んだ。
「蔡子明というんです。老板の世話になってるんですよ。今度はこの蔡子明に越させます」
席をたった。陳雄の嘲《あざけ》りと、それに同調する手下たちの下卑た笑い。滝沢は振り返らずに店を出た。
「滝沢さん、よく我慢したよ。いくら四大天王だからって、陳の兄貴、よくないよ」
「おまえも知ってたのか?」
「なにを?」
「おれが変態だって話だ」
「知らないよ」
決定的だった。知らないやつはいない。知らなかったのは滝沢だけだ。
変態。自分でもわかっている。どこかが絶対的に他人とは違うのだ。だが、それを中国人に指摘されるのは我慢がならなかった。
「だれに聞いた」
「知らないって。ほんとだよ、滝沢さん」
蔡子明は怯《おび》えた目を向けてきた。だが、その奥で滝沢をじっくり値踏みしている。
必ず聞きだしてやる。そのうち、必ず。
「次は魏在欣か陶立中《タオリーヂョン》だ。どこにいるか探せ」
蔡子明が携帯電話を取り出した。幾度かのやり取り。煙草を吸いながら聞き流した。掌の痛み。足が震えていた。血が逆流しはじめていた。目の前が昏《くら》くなる。胸の奥でなにかが燃えていた。
「ここは日本だ。てめえら中国人にでかい顔をさせてたまるか」
つぶやいてみた。お笑いぐさだった。滝沢は日本の社会に馴染《なじ》めなかった。おためごかしの世界、腐ったやつらがのうのうと暮らす腐った世界から弾き出された。そんな人間に行くべき場所はない。少なくともこの国にはない。崔虎がちらつかせるはした金に尻尾《しっぽ》を振る以外、滝沢にできることなどなにもない。
「滝沢さん、魏の兄貴も陶の兄貴も新宿にいないね。車で移動してるよ」
魏在欣は六本木。陶立中は赤坂。二人とも商売の最中らしい。歌舞伎町に戻ってくるのは夜になってからだろう。
自分の携帯電話を引っ張りだした。頭の隅っこに埋もれかけていた番号を押した。
「はい、遠沢です」
「滝沢だ」
わずかの沈黙。それから口笛が聞こえた。
「滝沢って、防犯の滝沢の旦那《だんな》かい?」
「そうだ。頼みたいことがある。どこかで会えないか」
「久しぶりですね。警察を辞めて以来ですか。いいですよ。ちょうど今、飯を食おうと思って外に出てるんですけど」
「奢《おご》るよ」
「悪いなぁ――」
抜け目のない口調で遠沢が告げたのはバッティングセンター裏のタイ料理屋だった。
ジャケットのポケットを探った。シャブのパケ。掌の中に握りこんで電話を切った。
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ほぼ二年振りに会う遠沢は病人のように痩《や》せていた。真っ赤に血走った目。シャブをキメたばかりというのが顔に出ていた。防犯の刑事に出くわせば一発で職質を食らう。それすら気にかけられないほど遠沢はシャブにどっぷり浸かっているらしかった。昔を偲《しの》ばせるのは歪《ゆが》んだ唇だけだ。
遠沢の前にはビールとカレー――大量の唐辛子が置かれていた。シャブ中兼辛み中毒。神経が麻痺《まひ》している証拠だ。
蔡子明が背中をつついてきた。
嘲りと不安がいっしょになって押し寄せてきた。滝沢はシャブ中の末路を嫌になるほど見てきた。遠沢の肩越しに死神が微笑んでいた。
「ひさしぶりだな。最近はどうしてるんだ?」
滝沢は刑事の口調で声をかけた。遠沢が悪びれずに微笑んだ。
「ぼちぼちとやってますよ。ま、金には年がら年中困ってますけどね」
「博奕《ばくち》の方はどうだ?」
「この辺りの賭場《とば》はほとんど出入り禁止をくらってましてね。最近は自転車やボートだけで。それも、負けてばかりですが」
「仕事は?」
神経に触る忍び笑い。遠沢の肩が震えていた。
「もうずっとまともな仕事なんかしてませんよ。知ってるでしょう? たまにやるのはヤー公が回してくる強請《ゆす》りたかりのための探偵まがいの仕事だけです。それだって、しょっちゅうあるわけじゃない。金を借りるあてもないですしね、あとは野垂れ死にするだけです。ま、博奕とシャブにどっぷり浸かってるんだから文句もいえませんがね」
「おれの仕事を手伝う気はあるか?」
「やりたいのは山々なんですけどね。噂《うわさ》は耳に入ってくるんですよ、滝沢さん。杜のクソ野郎に金を借りたらしいじゃないですか。それもたかだか百万ぽっちの金を。さんざんいいふらしてますよ、元刑事だかなんだか知らないが、借りた金を返そうともしないふてえ野郎だってね」
遠沢が見透かしたような笑みを浮かべた。顔の表面の皮膚が波打つような錯覚を覚えた。目の前が赤くなる。煙草をくわえた。蔡子明が差し出してきたライターで滝沢は時間をかけて火を点《つ》けた。
「杜の野郎の催促は厳しいですからね、だれもあいつから金を借りたがらない。それでも、あいつが左うちわなのは、逃げ場がなくなったやつが結局あいつから金を借りていくからなんだ。あいつに金を借りるようになったら、もうおしまいだ。滝沢さん、気がついたらおれみたいになってたってことになりますよ」
「余計なお世話だ。仕事をする気があるのかないのか。それだけ答えろ」
「だから、金、あるんですか?」
ポケットの中からパケを掴《つか》んでテーブルの上に放り投げた。日本人の来ないレストラン。人目を気にする必要はなかった。
「あんまり質はよくないが本物だ。これだけありゃ、二、三日はもつだろう。次はもっと大量にくれてやる」
「これだけじゃ話にならないな。どんな仕事をさせようとしてるのかは知らないけど、現金も必要だ」
精一杯の強がり――遠沢の目はパケに吸い寄せられていた。
「わかってる」
滝沢は財布から十枚の札を取り出した。崔虎から受け取った金がどんどん減っていく。
「話を聞かせてくださいよ」
滝沢は話した。パケと札を懐にしまいながら、遠沢は黙って聞いていた。
「魏在欣、陶立中、陳雄の家に盗聴器を仕掛けてもらいたい。もちろん、盗聴した中身のチェックも頼む」
「その前に、その三人の昼間の行動パターンを知りたいな」
滝沢は蔡子明を促した。
「陳の兄貴は、だいたい歌舞伎町を離れません。昼頃起きだして、夜まで歌舞伎町を見回ります。あの人の役目は睨《にら》みを利かせることですから。魏の兄貴と陶の兄貴は車で移動することが多いです。商売してますから。夜になると歌舞伎町に戻ってきて酒を飲んで、家に戻ります。それと、陶の兄貴は西口に事務所を構えてます。陶貿易公司っていって、ちゃんと表の商売をやってるんですけど」
「となると、マンションの中だけじゃなく、車と事務所にも盗聴器をしかける必要がありますよ。もう少し金をもらわないと……」
「部屋の中と事務所だけでいい」
「じゃ、そいつらの家族構成とマンションの間取りを教えてもらいましょうか」
「子明、教えてやれ」
滝沢は立ちあがった。
「滝沢さん、どこ行く?」
「ここから先はおれがいても無駄だ。遠沢が聞きたいことを知ってるのは、おまえだ。おれはまた聞き込みに行ってくる」
「老板に叱《しか》られたばかりだよ」
ちゃちな恫喝《どうかつ》だ。滝沢は気にもとめなかった。
「だから、老板の仕事をしにいくんだよ。遠沢、二日後にまたここで会おう。その時にまたシャブは用意しておく」
「滝沢さん」
「子明、遠沢が盗聴器を仕掛けるまで付き合うんだ。終わったら携帯に電話を入れてくれ」
ドラッグ・ストアで買い物――安物のサングラスとベイスボール・キャップを買った。その足で紀伊國屋へ向かった。一階のナイフ屋で警棒を手に入れた。これに銃があれば完璧《かんぺき》だ。銃を手に入れる方法は知っている。一番簡単で安全な方法だが金がかかる。金はない。
路上に立って胸の裡《うち》を探った。ビビっている。だが、逃げ出したくなるほどではない。
人戦へ。
崔虎の約束――百万上乗せされた報酬。でたらめだ。仕事が終われば、なんのことだととぼけられる。宗英の金。なんとしてでも取り返す。
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昨日と変わらない一日。家麗《ジァリー》の顔だけが曇っていた。
昨日の電話。だれからかかってきたのか、どんな内容なのか。家麗は口を閉ざしている。
退屈な仕事。ときおり漂ってくる家麗の体臭。時間がのたのたと進み、夜になった。
魔都――女たちが客と一緒に消えていく。ひとり、ふたり……。電話がかかってくる。バーテンが家麗を手招きする。
家麗。憂鬱《ゆううつ》そうに電話に応じていた。昨日の電話の相手――違う。怯《おび》えが伝わってこない。わずらわしく思っているだけだ。
昨日の電話。だれからかかってきたのか、どんな内容なのか。
「秋生《チウション》。帰るわ。支度して」
秋生は時計を見た。十時四〇分。いつもより一時間は早い。
「今日は早いんだな」
「呼び出しがかかったのよ」
不機嫌な声だった。
「だれから?」
「朱宏《ヂューホン》よ。他にだれがいるっていうの」
下落合のマンションの周りには朱宏の手下たちの姿が目立った。
「朱老板が部屋にいる時はいつもこうなのか?」
「そう。あの人、肝っ玉の方はてんで小さいのよ」
いつもの手順――中を探り、それから家麗を呼ぶ。エントランス、エレヴェータ、通路。家麗は文句もいわずに従っていた。
「昨日の電話のこと、朱老板には話すのか?」
「なんのことかわからないわ、秋生」
もどかしさがこみあげてきた。殺せといえばいい。わたしのために殺して、と。家麗を怯えさせる人間――決して許さない。真紀を犯したろくでなしを許さなかったように。
鍵《かぎ》を受け取り、ドアを開けた。中から声が飛んできた。朱宏の声。上海語だった。秋生には意味不明の音の羅列だ。
家麗が上海語で答えた。
秋生には理解できない会話がかわされた。足が重くなった。胸が苦しかった。真紀の話す言葉の意味がわからなかったあの頃も同じ気持ちを味わった。真紀と話がしたくて必死で日本語を覚えた。
部屋の中にいるのは昨夜と同じ顔ぶれの手下たちだった。
朱宏が家麗を抱き寄せてうなじに顔を埋めた――真っ黒な霧のようなものが意識を覆いそうになる。
家麗がなにかをいった。朱宏が顔を上げた。
「郭《グォ》先生、今日もごくろうさまでした。明日もこいつをよろしくお願いします。おい、郭先生をお送りしろ」
手下たちが立ちあがった。
「郭先生、それじゃ、わたしらがお送りしますんで」
秋生は部屋を出た。ドアが閉まる寸前、楽しげに笑う声が聞こえた。今日一日で初めて聞く家麗の笑い声だった。
エレヴェータの中――朱宏の部下たちが話す上海語。真っ黒な霧が少しずつ頭の中に広がっていった。
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犬の図鑑をひととおり眺めた。黒星を分解して組み立てた。シャワーを浴びた。イメージが頭から離れなかった。
意味不明の上海語。楽しげに笑う家麗。淫靡《いんび》に笑う朱宏。絡み合う肉体。濡《ぬ》れたシーツ。顔を歪める家麗――真紀。ろくでなしに犯される真紀。秋生に犯される真紀。秋生の下で苦痛に顔を歪めていた。血まみれの顔。首に手を伸ばし、絞めた。膣《ちつ》がペニスをきつく締めつけてきた。真紀の唇の端から涎《よだれ》が垂れた――秋生はその涎をすすった。真紀が失禁した――秋生はかまわず腰を振りつづけた。
眠れそうにもなかった。枕許《まくらもと》に睡眠薬があった。劉健一からの贈り物。頭を振って部屋を出た。
タクシーで下落合へ向かった。
マンションの前。上海人たちの姿は消えていた。静まり返った闇《やみ》と街灯の明かり。あてもなく、マンションの周囲を歩いた。七階の朱宏の部屋を見あげた。明かりは消えていた。イメージがよみがえった。言葉がよみがえった。
家麗をさらってどこか他の場所へ逃げればいい
劉健一の言葉。
朱宏を殺す。家麗を連れて逃げる。
どこへ? 家麗が納得するはずもなかった。秋生には金がない。仕事の報酬はそれほど高くはなかった。代わりに楊偉民は秋生の暮らしの面倒を見る。
坂道。車が停まっていた。ブレーキランプが赤く輝いていた。運転席に男がひとり。窓を開け、携帯電話を使っていた。
「ああ、雑魚《ざこ》どもはいない。静かなもんだ。退屈でしょうがないよ。朱宏はあれは小さいが絶倫だって話じゃないか。朝までやりまくって出てこないぜ、きっと。あの女も大変だな」
男が話しているのは北京語だった。背筋が強張った。足がとまった。凝視した。運転席の男が話すのをやめて振り返った。その顔から血の気がひいていくのがわかった。
「おいっ、待て!」
エンジンの音。ギアが入る。
走った。甲高い音をたてて車が動きはじめた。ゴムの焦げる匂《にお》い。黒星を抜いた――遅かった。車は坂をのぼりきって見えなくなった。
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滝沢は大久保公園のベンチに座った。そこからなら、人戦の事務所が入ったビルの入口が見えた。一時間の間に四人がビルの中へ消え、三人が出ていった。
五人目――鼓動が速くなった。浅黒いデブの中国人。東中野で見た男だった。女一人に男三人で、謝圓《シェユェン》と上海の女のことを話していた。
デブがビルの中へ消えた。
昔から張り込みは好きではなかった。無為の時間。ろくでもない考えが頭の中を駆け巡る。苛立《いらだ》ちながら待った。三十分。デブが出てきた。
デブは職安通りを突っ切って大久保へ向かった。大久保通りを左折して、牛丼屋と煙草の自動販売機に挟まれた路地を右へ折れた。屋台村。滝沢はベイスボール・キャップとサングラスを身につけた。
五分待って、屋台村へ入った。デブは初老の男と話し込んでいた。側のテーブルに座った。初老の男は日本人だった。五十過ぎというところ。ジャケットにノーネクタイ。さりげないが金のかかったファッション。テレビで見た顔だった。良識派の社会学者かジャーナリスト――そんなところだろう。
腸詰とビールを注文した。聞き耳を立てた。とりとめのない会話が交わされていた。デブのたどたどしい日本語。学者のでたらめな北京語。頭が痛くなった。ちびちびとビールをすすった。
話が一段落したところで、学者が小さな紙袋を取り出した。
「ところで、これが今月分だ」
「謝謝《シェシェ》。坂上《バンシャン》先生」
デブが紙袋を受け取った。中を覗《のぞ》いて失望のため息を洩《も》らした。
「少なくて申し訳ないんだがね。カンパを集めるのも日がたつにつれ苦しくなるというのが現状だよ」
「坂上先生にはよくしてもらっています。同志も感謝してます。本当です」
「天安門事件が起こった直後は、カンパはいくらでも集まったんだ。在日の華僑《かきょう》、市民運動家、学生、一般市民――君たち大陸の活動家を応援して、民主中国の実現にわずかでも寄与する。熱気があった。今はもうだめだ。世界のあちこちで圧政や戦争、餓えに苦しんでいる人々がいるというのに、この国の人間は飽食に金をつぎ込んでばかりだ」
「先生、それは日本だけじゃないです」
デブの目がつまらなさそうに淀《よど》んでいた。学者――坂上《さかがみ》はそれに気づきもせずに演説を続けた。
「いやいや、この国は特別だ。島国根性がしみついていて、隣国で起こっていることですら対岸の火事としか捉《とら》えられない。火の粉《こ》が飛んできていることにも気づかないんだからな。しかも、自分たちが過去にしでかしたことにも知らぬ顔を決め込んでいる。大陸はやがて世界を席捲《せっけん》する。もう、アメリカの顔色をうかがうのはやめて、大陸と話し合うべきなのだ。きちんと過去を清算して未来を見つめるべきなのだ。そして、共産党独裁の中国ではなく、民主中国のよきパートナーとして、これまで欧米主導だった世界構造、史観を打破し、アジア主導による――」
馬鹿野郎のお笑いぐさだ。しばらくはつづきそうだった。ビールをすすった。腸詰をつまんだ。
「坂上先生、申し訳ないです。まだ仕事があります。これで失礼します」
デブが腰をあげた。
「ああ、長い間引き止めて悪かったかな、鄭《てい》君」
デブの名前――鄭《ヂョン》。頭に刻みこんだ。
二人より先に金を払い、滝沢は屋台村を出た。鄭と坂上が出てきた。鄭は歌舞伎町の方向へ。坂上は大久保駅の方向へ。坂上の後を尾けた。
中央線。坂上は中野と国分寺で乗り換え、国立で下車した。新築の一戸建。坂上という表札。飽食を呪《のろ》った学者の飽食を象徴する家。苦笑いするしかない。
滝沢は新宿へ戻った。蔡子明へ電話をいれた。蔡子明と遠沢は電気工事を装って、三人のマンションへ出向いた。盗聴器の取りつけは成功した。
一時間後に例の喫茶店で待ち合わせることにして、滝沢は電話を切った。
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* *
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夕方。滝沢は蔡子明とともに街に出た。噂《うわさ》の海を漂った。
張道明。崔虎。魏在欣。陶立中。陳雄。プリペイドカード。電脳マニア。殺し屋。
収穫はなかった。
新たな餌《えさ》を撒《ま》いた。朱宏が雇ったボディガード――なにか知らないか?
女たちが囀《さえず》った。
いい男。影がある。クール。
間違いない。秋生という名前らしい。
蔡子明の目を盗んで拾った噂。
人戦――特になし。
謝圓――なにもなし。
デブの鄭――フルネームは鄭孟達《モンダー》。東中野を歩いていた他の二人の名前もわかった。
浅黒い長身の男が唐平《タンピン》。
色白の長身の男が古逸和《グーイーホー》。
杜光啓――あちこちで見かける。金を貸している。取り立てている。だが、今夜は姿を見ない。
「あんた、杜を怒らせたらしいな」
しけた上海レストランのコックがいった。
「だったらなんだ?」
「殺し屋を雇ってあんたを殺してやるっていいふらしてる」
いいふらしている――滝沢が変態だと。コックの目つきが気にかかる――変態を蔑《さげす》む視線にいつ変わるのか。
理不尽な怒り。目を閉じた。目を開けた。コックは愛想よく笑っていた。
「気をつけた方がいい。あいつ、金を取り立てるためならなんでもするから。それに、殺し屋の話だってわからないよ。福建《フージェン》あたりから出てきた血の気の多いやつは、はした金で人を殺すからね」
遠沢に電話した。興奮した声が出た。シャブがすっかり回っている。
盗聴器と連動させたレコーダー。音がすると録音し、音がなくなると止まる。ホームレスを雇った。レコーダーは盗聴器の側じゃないと動かない。金がかかった。十万じゃ割に合わない。遠沢はそう吠《ほ》えた。
シャブを与えるからと念を押した。いずれにせよ、金がいる。それに、シャブが。
今度は崔虎に電話した。経費をもう少し上乗せしてくれ――怒鳴られた。電話が切れた。蔡子明を怒鳴りつけてささくれ立った神経をなだめすかした。
それ以上、収穫はなかった――仕事を切り上げた。
家に向かい、足を止めた。怒りに歪《ゆが》んだ宗英の顔――滝沢に殴られてさらに歪んでいるはずだ。家に帰る気にはなれなかった。
駐車場から車を引っ張りだした。中古のカローラ。甲州街道を国立へ向かった。駅前でハンバーガーを買った。ときどき、車を動かしながら味気ない晩飯を食った。くだらないラジオを聞いた。
十時半。坂上が姿を現した。スウェットの上下にジョギングシューズ。首にタオルを巻いていた。
世界のあちこちで人が飢えている。飽食の国では正義を説く男が高カロリーの食い物で腹を満たし、健康に気を遣っている。
充分に間を置いて車を出した。坂上は多摩川に向かって走りだした。
滝沢はタイミングをはかった。サングラスをかけた。ベイスボール・キャップをかぶった。警棒を膝《ひざ》の上にのせた。
坂上は甲州街道を突っ切って谷保へ向かう途中で信号にひっかかっていた。通行人はなし。車の数もまばらだった。
滝沢は助手席に身体を滑らせた。ドアを開けた。坂上は気づかない。残酷な衝動がわき起こった。坂上のうなじに警棒を叩《たた》きつけた。
呻《うめ》き。
坂上を車に押しこんだ。グラヴコンパートメントから手錠を取り出した。左手と手すりをつないだ。信号が青になった。運転席に戻って、アクセルを踏んだ。
呻き。金属の擦れる音。
「なんだ? これはなんだ? 君はだれだ?」
滝沢は坂上の質問を無視した。
「わたしがだれだかわかっているのか? 金はないぞ」
不安げな吐息が聞こえてくる。バックミラーに映る坂上の顔は緊張にひび割れていた。
スーパーマーケットの駐車場に車を乗り入れた。エンジンを切る。坂上の息遣いが荒くなった。
「な、何をする気だ!?」
滝沢は外に出て立ち小便をした。窓ごしに引きつった坂上の顔が見えた。薄笑いを浮かべながら、バックシートに乗り込んだ。
血走った目。わななく唇。
滝沢は坂上に警棒を突きつけた。
「き、君……こんなことをして――」
震える坂上の声を遮った。
「聞きたいことに答えてくれれば、家まで送り届けてやる」
「聞きたいこと?」
「あんたと人戦の繋《つな》がりは?」
「な、なんなんだ、いったい?」
警棒で喉《のど》を軽く突ついた。
「聞いたことに答えるだけでいい」
咳《せき》。涙。
「わたしは――」
警棒で鎖骨を叩いた。
「人戦との関係は?」
「わたしは、た、ただのシンパだ」
「どれぐらいの付き合いになる?」
「これにはなんの意味があるんだ?」
警棒。鳩尾《みぞおち》にめり込ませた。
「やめてくれ、話すから……彼らが天安門後の粛正を逃れて日本にやってきたときからの付き合いだ」
「謝圓《しゃえん》って男を知ってるな?」
間があいた。滝沢は警棒を揺らした。
「やめてくれ。知ってる。謝圓がどうしたっていうんだ?」
「いなくなったそうだ」
「ああ」
「どこにいる?」
「知らん」
警棒。額に押しつける。
「本当に知らないんだ。やめてくれ。殴らんでくれ。頼む……」
「人戦のやつらは知ってるのか、謝圓のいどころを?」
「知らん。知らないんだ、本当に」
「謝圓ってのはどんな男だ?」
「インテリだ。あっちでは情報工学を専攻していたらしい。ただ、性格的に弱いところがあって、民主運動家としてはいまひとつ、信用ができなかった」
「それで?」
「彼は組織で会計を担当していたんだ。だが、いつの頃からか、組織の資金を使い込むようになっていたらしい」
「やつはなぜ姿を隠した? 使い込みが仲間にばれたからか?」
「知らん。ある日気がつくといなくなっていたという話だ。組織の資金もごっそり消えていた。それで人戦のメンバーが必死になって探している。わたしが知っているのはそれぐらいだ。もう、解放してくれ」
「上海の女ってのはだれのことだ?」
「なんだって?」
「上海の女だ」
戸惑いの眼差し。警棒を振った。
「やめてくれ。本当に知らないんだ」
インテリぶった馬鹿野郎の懇願と涙。残酷な衝動がこみあげてきた。
「上海の女だ」
「知らない。本当だ。許して――」
肋骨《ろっこつ》を小突いた。向こう脛《ずね》を叩いた。坂上が身をよじった。
「上海の女だ」
「知らないんです。許してください」
「女だ。思い出せ。謝圓と繋がりのある女だ」
「やめて……お願いだ」
「思い出せ」
強く――弱く。警棒の乱れ打ち。弱々しい声。燃え滾《たぎ》る血。勃起《ぼっき》する股間《こかん》。
イメージが交錯した。殴られて滝沢に許しを乞《こ》う坂上。縛られて悶《もだ》える宗英。鞭《むち》で真っ赤に染まった宗英の肌。父親に殴られて歪んだ宗英の鼻。シャブを埋めこまれ、洪水のように濡《ぬ》らしながら滝沢を求める宗英。
眩暈《めまい》がした。
「やめてくれ……」坂上が呻いていた。「思い出したから……」
血まみれで歪んだ顔。威厳もくそもなかった。
「話せ」
「しゃ、謝圓が女と話していた……」
「どんな女だ?」
「き、きれいな女だ……」
「なにを話していた?」
「知らない。見かけただけなんだ。声は聞いてない。本当だ。信じてくれ」
震える声。鼻水と血が混じって湿っている。
「どこで見たんだ?」
「小田急デパートだ。三省堂が入っている階の喫茶店……珍しいところにいるもんだと思って……それで思い出した」
「いつ?」
「に、二週間ぐらい前だ。頼む、もう、殴らんでくれ」
残酷な衝動がわきおこった。
坂上は人戦のやつらにこのことをチクるだろう――愚にもつかないいいわけだった。目の前の醜悪な生き物をぶちのめしてやりたい。ただ、それだけだ。
めちゃくちゃにしてやる――残酷な衝動。もう、抑えがきかなくなっていた。
警棒を脇腹《わきばら》に叩きつけた。そして、顎《あご》。骨が折れる感触。漏らしてしまいそうなほどの快感に襲われた。ペニスの先が濡れていた。
手錠を外し、坂上を外に放り出した。顎の骨の骨折。坂上が人戦の連中に詳しい話を聞かせるには時間がかかる。
滝沢は車を出した。手が震えていた。
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きれいな女――上海の女。
上海から来た女は新宿には腐るほどいる。
手が震えていた。呼吸が浅かった。滝沢は煙草をくわえた。血は熱くなるばかりだった。シャブの煙を吸い込んだ時のように。
シャブ――金。遠沢に渡す、金の代わりのシャブを手に入れなければならない。
滝沢はアクセルを踏んだ。地獄の穴に吸い寄せられるように新宿へ向かった。
午前二時。歌舞伎町はいつもと変わらぬ喧騒《けんそう》に包まれていた。
サングラスにベイスボール・キャップ姿ででたらめに街をぶらついた。
ポケットに薬を隠しもっているガキどもがいた。暗がりにたたずむイラン人がいた。若い女をひっかけている黒人がいた。我が物顔で練り歩いている流氓がいた。
やくざを見つけた。
伊藤――新誠会の売人。金のないガキは相手にしない。水商売の女たちに相場より高く質のいいシャブを売りつけている。
伊藤は雑居ビルを出たり入ったりしていた。訪問先は風俗の店だ。小金を持った女たちに薬を届けている。両手は空だった。たいした量は持っていないということだ。どこかに隠してある。そこを見つけて、ぶんどる。
脈が跳ねあがった。新誠会のシャブをかっぱらう。伊藤の上は尾崎という若頭だ。中国人で溢《あふ》れ返った歌舞伎町を肩で風を切って歩いている。肝の据ったやくざ。怒らせればただではすまない。歌舞伎町にはいられなくなる。
かまわなかった。崔虎からの報酬二百万。謝圓を見つけて百万。杜をぶちのめして、少しばかりの金をいただく。その金を持って歌舞伎町を出る。宗英を連れて。
札幌、仙台、名古屋、大阪。どこでもいい。贅沢《ぜいたく》さえしなければ半年は暮らせる。仕事も見つかるだろう。警察をやめてからの暮らしは犬の暮らしと同じだった。犬に与えられるのはわずかな餌《えさ》だけ。歌舞伎町には――中国人にはもう、うんざりだった。
伊藤の歩調が早くなった。後ろを振り返る回数が多くなった。ブツの隠し場所が近いという合図だった。
伊藤は歌舞伎町をでたらめに歩いた。滝沢は距離をあけて尾行した。張り込みは苦手だが尾行は得意だった。
伊藤はたっぷり三十分、歩き続けた。そして、後ろを振り返るのをやめた。滝沢はひっそりと笑った。
終夜営業のスーパーマーケットの裏路地。伊藤は立ち止まって周囲をうかがった。その先にゴミの集積所があった。チンピラがふたり、現れた。伊藤の指図でチンピラの片方がポリバケツに手を突っ込んだ。かき分けられたゴミ。中から黒いポリ袋が出てきた。袋の口を開く。なにかを取り出す。伊藤が受け取った。
ポリバケツ――シャブの隠し場所。冴《さ》えたやり方だ。生ゴミの奥にシャブが隠されているとはだれも思わない。
チンピラがポリ袋をバケツに戻した。伊藤がなにか指示をして立ち去った。チンピラたちはしばらくぼやいていた。
滝沢は待った。すぐに、チンピラたちの姿が消えた。
深く息を吸い込んだ。音が消えた。聞こえるのは鼓動だけだった。チンピラたちは近くでポリバケツを見張っているはずだ。
――かまうもんか。
腰に差した警棒を抜きやすい位置にずらした。歩きはじめた。カウントを取った。
一、二、三、四――走った。ポリバケツを蹴飛《けと》ばす。ぶちまけられた生ゴミ。黒く光るポリ袋。引っ掴《つか》んだ。
「てめえ、なにしてやがる!!」
怒鳴り声。警棒――振り向きざまに一閃《いっせん》した。確かな手応えがあった。うめき声。倒れこむチンピラを蹴った。肋骨の感触。爪先《つまさき》に痛み。チンピラの額から流れる鮮血――
「このクソが!」
怒声がした。光が見えた。もう一人のちんぴらが両手でドスを握っていた。顔の筋肉に力が入らなくなった。
「なに笑ってやがる!」
笑っているわけではなかった。心臓が暴れていた。息があがりそうだった。
チンピラが突っ込んできた。かわした。警棒を腕に叩きつけた。鈍い感触。痺《しび》れ。警棒が手から離れた。
丸腰の恐怖。なにかが弾けた。チンピラを壁に押しつけた。殴る。チンピラの頭が揺れた。殴る。唇から血が飛んだ。殴る。手に痛み――すぐに麻痺《まひ》する。殴る。殴る。殴る。
息があがった。腕が垂れ下がった。チンピラがくずおれた。肉の塊と化した顔。路上に血に染まった歯が転がっていた。右手の甲――ざっくり切れて骨が覗《のぞ》いていた。
警棒とポリ袋。拾い上げて立ち去った。
鉛のように重い足。ハンカチを巻いた右手が発する断続的な痛み。ポリ袋の中身――シャブのパケが三十二。七十万円分のシャブ。
あらゆるものを抱えて滝沢はマンションに戻った。宗英が待っている家には帰りたくなかった。だが、他に行く場所もなかった。
部屋の明かりは消えていた。宗英が部屋の角でうずくまっていた。
「宗英」
「来ないで」
腫《は》れ上がった顔。血がこびりついたままの唇。絞めたあとの残る首。憎悪に血走った目。
「わたしに近寄ったら、これで殺す。本気だよ。嘘《うそ》じゃないよ」
宗英はステンレスの包丁を握っていた。本気だった。
「あんたも父さんと同じ。けだものだよ」
拳《こぶし》が痛み、心が軋《きし》んだ。怒り、そして哀《かな》しみ。眩暈《めまい》がした。滝沢はなにもいわずに部屋を出た。
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眠れないまま朝を迎えた。ぬるくなった烏龍《ウーロン》茶と犬の図鑑。ほとんど役に立たなかった。頭の中で、昨夜の光景がスクリーンに映しだされていた。
家麗を抱きすくめる朱宏。上海語の会話。坂道に停まっていた車――朱宏のマンションを見張っていた。
この数日、家麗の周りに怪しい影はなかった。一本の電話を除いては。あの車は朱宏を見張っていたのか? 運転していた男は北京の一味か? それとも、家麗にかかってきた電話と関係があるのか?
頭の中に霧が立ちこめていた。距離感が掴めない。
秋生は部屋を出て歌舞伎町へ向かった。さくら通りに出て薬屋を目指した。楊偉民がシャッターをおろしているところだった。
「老爺――」
「秋生か。どうした?」
「聞きたいことが」
「飯でも食いながら話そう」
狭い路地の先に年老いた夫婦がやっている小さな定食屋があった。わずかばかりの惣菜《そうざい》とお粥《かゆ》。老夫婦は繰り返し楊偉民に頭をさげた。
「それで、なにを聞きたい?」
「昨日、朱宏のマンションをだれかが見張ってた」
「捕まえなかったのか?」
「逃げられたよ」
「おまえがか……珍しいこともあるものだ」
粥をすする音。楊偉民は顔を上げようともしない。
「この仕事を初めてから、楽小姐の周囲に変わったことはなかった。それで、油断していたのかもしれない」
「いい訳にはならんな」
「老爺。なにが起こってるんだ? 昨日の男は何者なんだ?」
「わたしが知るはずがなかろう」
「嘘だ。老爺が知らないことはない。話してくれ。どうしておれを朱宏に貸したりしたんだ? なにを企《たくら》んでる?」
「朱宏が腕のたつボディガードを知らないかといってきた。自分の女がおかしなやつらに付きまとわれてるらしいとな。ちょうど、おまえを仕事で呼び寄せた後だった。上海の頭目に貸しを作っておくのは悪いことではない。それだけのことだ」
「老爺――」
「なぜそんなに気にするのだ? 殺しに比べれば楽な仕事だろう」
「老爺――」
「今までわしがおまえのことで間違ったことをしたか? ないはずだ。おまえはわしにとって息子のようなものだ。安心しろ、秋生。おまえにはなにも起こらない。ただ、この年寄りを信じていればいいのだ」
劉健一の言葉がよみがえった。
あいつの息子は周天文だけだ
「おまえの気持ちはわからんでもない。これまでとは随分と違う仕事を急にいいつけられたのだからな。しかし、秋生、わしもそろそろおまえを自分の側に置いておきたくなったのだ」
あいつの息子は周天文だけだ
椀《わん》の底に残った粥を口に運んで、楊偉民が眼鏡をかけた。眼鏡の奥――どんよりと濁った目。じっと見つめた。なにも返ってくるものはない。
あいつの息子は周天文だけだ
周天文を殺したら、楊偉民はどうなるのだろう? 唐突な疑問。恐ろしい疑問。目を閉じて振り払った。
「わかったよ、老爺。仕事に戻る」
「まあ待て、秋生。あの上海の女の店でひと暴れしたそうだが――」
身体が凍りついた。
「なにがあったのかは聞かんが、自重しろ。それから、劉健一は人間のクズだ。あの店に顔を出すのもやめた方がいい。ああいう人間と付き合ってると思われると、おまえの足元まで低く見られる」
眼鏡の奥――瞬きひとつしない目。言葉がよみがえる。
あいつの息子は周天文だけだ
劉健一の憎悪。楊偉民の憎悪。頭が痛んだ。
「気をつける」
どちらの憎悪が深いのか。秋生にはわからなかった。
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下落合のマンションにつくと、家麗がはしゃいでいた。朱宏は九州へ行くという。蛇頭《ショートゥ》との会合。密入国と密輸の打ち合わせ。数日は東京を留守にする。
部屋にいたのは、いつもの中年と若い者が二、三人。
上海語の会話――昨日ほどは気にならなかった。
マンションを出て、ショッピング、プール、食事、そして魔都。退屈で幸せな仕事の時間。尾行者はなし。車の男も見かけなかった。
家麗ははしゃいでいた。ショッピングには時間をかけた。この前よりも長い時間水に浸かっていた。中華ではなくフレンチで腹を満たした。いつもより酒の量が増え、笑い声が響き、何度もカラオケのマイクを握った。
午後十一時半。アルコールの匂《にお》いとふらつく足取り――恋人同士のように寄り添いあって家麗のマンションへ向かった。家麗のぬくもり、肉の柔らかさ、吐息の甘さ。無視しようとしても神経が刺激された。
殺しの時と同じ興奮――押さえつけて周囲に目を配る。怪しい影はなし。車の男もなし。
「わたしたち、恋人みたいね」
どきりとする言葉。しかし、意味はない。あとにつづく忍び笑い。
エントランス――暗証番号、七八九一――恐らく、家麗が来日した年を逆さまにしたものだろう。あのころ、大勢の人間が中国を後にした。
エレヴェータ、通路。異状なし。いつもの手順で変わり映えのしない空虚な部屋に辿《たど》りついた。
「お茶、飲んでいくでしょう?」
うなずきそうになる――こらえた。車の男のことが脳裏から離れなかった。
「この後、楊老爺と会う約束があるんだ。残念だけど」
「朱宏はいないのよ」
家麗は意味ありげな視線を向けてきた。
「老爺との約束を破るわけにはいかないんだ」
「わたしより、楊偉民の方が大切ってわけ?」
「あの人は恩人なんだ。おれのパトロンでもある」
「昨日、秋生は怖い顔をしてたわ。朱宏に嫉妬《しっと》してたんでしょ」
「小姐、今夜は許してくれ」
「いいわ」
さっと変わる表情。冷めた声。二度とお茶に誘われることはない。
「行きなさいよ。恩人のところに」
ドアが閉まった。秋生は立ち尽くした。
ドアを開け、家麗を追う。抱きしめる。キスをする――妄想が頭の中を駆け巡った。マンションの前、車に乗りこんだ男の姿。男を排除する。根を断つ。家麗を守る。なによりも優先させなければならない仕事――現実。
そう。家麗を守る。真紀のようなめにはあわせない。
急にドアが開いた。家麗が抱き付いてきた。キス。舌が絡み、唾液《だえき》が溶けあった。家麗をきつく抱きしめた。身体を押しつけた。身体の震え。喘《あえ》ぎ。とめられなかった。
唇が離れた。
「凄《すご》く固いわ」家麗の指が股間《こかん》を滑った。「今夜は許してあげる。おやすみ、秋生」
ドアが閉まった。
今度は立ち尽くしたりはしない。マンションを出て暗闇《くらやみ》に溶けこんだ。
ゆるやかな時間。静寂に満たされ闇。目と耳だけの存在と化す。
車のエンジン音が遠くで止まった。ドアが開き、閉まった。足音――近づいてくる。昨日の男だった。緊張し、怯《おび》えている。
黒星は使えない。スウィッチブレイド。音をたてずに刃を開く。だが、ここで殺すわけにはいかない。家麗を守らなければならない。
男はマンションの周りを何度も歩いた。三周してやっと緊張をといた。電信柱の陰にかくれて、携帯電話を取り出した。
「おれだ、唐平《タンビン》だ。……ああ、マンションの周りにはいない。仕事を終えて帰ったか、あの女にくわえこまれたかだろう。……ああ、わかってるって。なんとかあの男を女から引き離す方法を考えないとな」
仕事の手順が浮かんだ。男を拉致《らち》する。男の車で遠くへ。尋問。家麗を見張っている理由、仲間の数、名前を聞きだす。それから、スウィッチブレイド。
足音が聞こえた。男の身体が強張った。
「だれか来た。切るぞ」
秋生は息を殺して道路の先をうかがった。
「洪行《ホンシン》じゃないか。なんであいつが……」
男がつぶやく前に、秋生は気づいた。足音の主は朱宏のマンションにいた中年だった。
中年――洪行がマンションのエントランスに入っていった。
「おもしろくなってきたな、こりゃ」
男はつぶやいて電信柱を離れた。来た道を戻り、車に乗りこむ。
ドアが閉まる音に合わせて秋生は走った。マンションへ。男の死角をついてエントランスへ。暗証番号――七八九一を押した。エレヴェータは五階で止まっていた。家麗の部屋は五〇三号だ。間違いない。洪行は家麗を訪ねてきた。
疑問の渦。それを無視して非常階段を駆けのぼった。
合鍵《あいかぎ》を取り出して躊躇《ためら》った。ドアに耳を当てた。くぐもった声――上海語。意味をなさない音の羅列。いい争っている。家麗は声を荒げて。洪行は声を殺して。
恫喝《どうかつ》。
拒否。
嘲笑《ちょうしょう》。
憤怒。
肉を撲《ぶ》つ音――すすり泣き。声が消えた。
合鍵でドアを開けた。衣擦れの音。下卑た笑い。湿った音。ベッドルーム。ドアは開いていた。
家麗が洪行をしゃぶっていた。真っ赤な口紅とどす黒い肉のコントラストが目を射た。小刻みに震える洪行の尻《しり》に吐き気を覚えた。
音が消えた。聞こえるのは鼓動。沸騰する血の流れ。全てが消え、全てが現れた。
家麗。目があった。家麗はなにも見ていなかった。視線は秋生を素通りした。
真紀の顔がよみがえる。人形のようにろくでなしに犯されていた真紀。身体が震えた。心が痛んだ。
やめろ。家麗は真紀じゃない。
スウィッチブレイド。考える前に身体が動いた。足音を消す。気配を消す。
洪行の上海語が聞こえた。勝ち誇っている。家麗は反応しない。ただ、くわえているだけだ。洪行の尻が動いた。
左手で洪行の口を押さえた。延髄に刃を突き立てた。痙攣《けいれん》。家麗の口に精液が溢《あふ》れた。洪行は動かなくなった。
バスルームからうがいをする音が聞こえてきた。ベッドルームには死体が転がっている。
家麗が戻ってきた。青白い顔。左の頬《ほお》がかすかに腫《は》れていた。そして、醒《さ》めた視線。
「なにがあったんだ?」
「どうやって鍵をあけたの?」
質問が同時に放たれた。負けたのは秋生だった。
「昨日、黙って合鍵を借りた。すまなかった」
「電話に出ているときね」
怒っているようには見えなかった。家麗はただ納得しただけだった。
「なにがあったのか、教えてくれ」
「なにも。お楽しみの最中に秋生がやってきて、いきなりこの男を殺しただけよ」
にべもない返事。心はどこか別の場所へ飛んでいる――この状況をどう切り抜けるか。怒りも、哀《かな》しみも、感謝もない。
「それは嘘《うそ》だ。この男は小姐を脅していた。ドアの外で聞いてたんだ。上海語はわからないが、すぐにわかった」
家麗が振り返った。剃刀《かみそり》のような視線が飛んできた。
「それじゃ、あんたはドアの外でわたしがこの男の薄汚いものをくわえさせられるまでじっと待ってったってわけ!? どうしてすぐに助けに来てくれなかったのよ。わたしのボディガードでしょう!」
「すまない。だけど、おれにはなにもわからなかったんだ。こいつはあんたたちの身内だ。なにか用事があったのかもしれない。もしかすると、小姐の大事な男なのかもしれない。おれにはわからなかった。確かめなきゃならなかったんだ」
「こいつがわたしの男だって? ふざけるのもたいがいにしてよ。わたしが――」
涙と甲高い声、震える身体――家麗は初めてまともな反応を見せた。
「小姐がなにも話してくれないから、おれにはわからなかったんだ。小姐はなにかに困っている。だけど、なにに困ってるのかがわからなきゃ、それから守ってやることなんかできない。教えてくれ。こいつになにを脅された? 他にだれに脅されてる? なにを脅されてるんだ?」
秋生は待った。家麗の顔にはいくつもの表情が浮かんだ。怯《おび》え、躊躇い、決断。部屋が揺れたような気がした。
「考えすぎよ、秋生。わたしは朱宏の女よ。わたしを脅したりしたら、ただじゃすまないわ。こいつは、昔からわたしに色目を使ってたのよ。朱宏が東京を離れた隙《すき》を狙《ねら》って、わたしをくどきにきたのよ。それだけ」
「こいつは小姐を脅してた。いったろう。聞いてたんだ」
「上海語、わからないんでしょう。こいつはわたしを抱きたいっていった。ふざけるなって答えたわ。そしたら、殴られたの。殺されると思った。だから、あいつのいうとおりにしたのよ」
固く閉ざされた心。こじ開ける術はない。それでも、抗《あらが》わずにいられなかった。
「なぜあいつを部屋にいれた? そんな必要はなかったんだ。脅されて、仕方なく部屋にいれた。そうだろう?」
微笑。網にひっかかった獲物に向けられた蜘妹《くも》の笑み。家麗はゆっくり口を開いた。
「チャイムが鳴って、すぐにエントランスを開けたわ。相手がだれなのか、確かめもしなかった。どうしてかわかる?」
「小姐――」
「秋生が戻ってきてくれたと思ったのよ」
死体をこのままにしておくわけにはいかなかった。外へ運びだし、どこか遠くへ捨てなければ。
この辺りは人通りも少ない。だが、外には車の男がいる。マンションの中で死体を引きずるわけにもいかない。ひとりでは無理だ。
助け――楊偉民。話にならない。上海の人間を秋生が殺したとなれば、楊偉民もただではすまない。秋生を逃がして、知らぬ存ぜぬを決め込むだけだ。
逃げるつもりはなかった。家麗のそばを離れるつもりはなかった。
秋生は電話を手にとった。すでに頭に刻みこまれた番号を押した。呼び出し音。回線が繋《つな》がり、陽気なリズムが耳に飛び込んできた。
「はい」
「秋生だ。助けてほしい」
「どこにいるんだ?」
劉健一は、なにをやった、とは聞かなかった。
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滝沢はマンションを出た足で、再びおんぼろのカローラに乗りこんだ。いくあてもなく真夜中の街をゆっくり流した。ポリ袋の中のシャブ。いまごろ歌舞伎町は目の色を変えた新誠会の連中が溢れているはずだ。
歌舞伎町を離れる。新誠会から遠ざかる。警官の目をすり抜ける。頭にあるのはそのことだけだった。
青山、六本木、芝浦と移動した。車をとめて仮眠をとった。腕が痛んだ。寝つかれなかった。宗英の醜く変形した顔を思い出した。
コンビニで絆創膏《ばんそうこう》とガーゼ、消毒液を買った。手の傷に消毒液を吹きかけ、ガーゼを絆創膏でとめた。痛みは消えなかったが、気休めにはなった。
喫茶店のモーニングセットで朝食を取った。新聞を読み、テレビのニュースを見た。新誠会の奪われたシャブ、駐車場に投げ棄てられた血まみれの坂上。新聞でもテレビでもニュースにはなっていなかった。
車に戻り、電話をかけた。蔡子明と一時間後に待ち合わせた。魏在欣と陶立中が仕事をはじめる前につかまえる。
新宿へ向かった――朝の渋滞。苛立《いらだ》ち、疲れ、妄想が入れ代わりたち代わり現れては消えた。
泣いて許しを乞《こ》うた坂上の血まみれの顔。醜く変形した宗英の顔。宗英の手に握られたステンレスの包丁。蔑《さげす》みと憎悪に彩られた宗英の目。
眩暈《めまい》。車が揺れるような錯覚を覚えた。
ポリ袋の中にはシャブがある。渋滞は遅々として進まなかった。グラヴコンパートメントの中のアーミーナイフを取りだし、刃の上にシャブの結晶を乗せた。
使い捨てライターで火をつけた。結晶が焙《あぶ》られ、煙がたちのぼる。煙を吸い込む。妄想が消え、苛立ちと疲れと痛みが吹き飛んだ。
「滝沢さん、昨日、たくさん飲んだのか?」
蔡子明がいった。心臓が跳ねあがった。シャブを使っていることを知られるわけにはいかない。
「いや。昨日はぐっすり寝た」
「彼女と頑張ったか。それでニヤニヤしてるんだ」
宗英の顔。打ち消して、蔡子明の胸倉を引っ掴《つか》んだ。
「おれと女の話は二度とするな。ぶち殺すぞ」
「わ、わかったよ」
「与太話はどうでもいい。昨日の三人の行動を話せ」
「陶苛《タオゴー》は一昨日と同じ。遅くまで仕事して、女のいる店で酒飲んで家に帰った。問題は陳《チェン》哥と魏《ウェイ》哥だよ」兄貴分を意味する「哥」をつけた二人の名前を北京語で発音して、蔡子明は意味ありげに笑った。「ゆうべ遅く、二人は歌舞伎町の飲み屋で会ってたよ。どう思う、滝沢さん?」
滝沢は煙草をくわえた。昨日の陳との会話を思い返す。陳は魏に忠告を与えたのだ。犬が動きまわっていて、おまえのことを疑っているぞ、と。どうということはない。問題は、それで魏|在欣《ザイシン》がどう動くかだ。
「二人の話は聞けたのか?」
「まさか。おれたちには縁のない店だよ。おれのダチも外から見張ってただけよ。話なんて聞けるはずがない」
そこまでがチンピラの限界だ。崔虎にチンピラしかあてがってもらえなかった滝沢の限界だ。苦々しい思い。シャブの力でも消えなかった。
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新宿中央公園|脇《わき》の小さなビル。その五階に〈陶貿易公司〉はあった。タイトなスーツを着た女に応接室に案内された。蔡子明がキョロキョロと落ち着きのない視線を辺りに向けていた。
五分で陶立中が現れた。長身|痩躯《そうく》。半分白くなった頭。クールな視線。イタリア製のスーツ――どこから見てもエグゼクティヴといった外見だった。歌舞伎町の流氓には見えない。
「十五分だ」
陶立中《タオリーヂョン》は時計を指差した。
「老板の仕事なんですがね」
「おれも老板の仕事をしている。おれの時間が無駄になれば、老板の金が無駄になる。早く話を終わらせろ、日本人」
クールな視線。クールな語調。取りつく島もない。だが、気にならなかった。シャブがまだきいている。
「張道明《ヂャンタオミン》先生のことです。なぜ殺されたのか、心当たりは?」
「考えられるとしたらプリペイドカードの線だろうな。あいつは、自前でカードを変造することに成功した。そのやり方をだれにも教えようとしなかった。おれたちは別にして、妬《ねた》んでるやつは多かったはずだ」
滑らかでゆったりとしたリズムの北京語。余裕をもって聞き取れた。
「だれが妬んでたんです?」
「上海のやつら、それに日本のやくざ。他にもいたかもしれんな」
「上海の連中が殺したと思いますか?」
「いや」クールな視線。「連中が張を殺すなら、それなりの覚悟が必要なはずだ。戦争になるからな。だが、連中にはそんな様子が見えない」
「じゃあ、だれが殺《や》ったと?」
「それを調べるのがおまえの仕事だ、日本人」
「身内の人間だと思いますか?」
「可能性はある」陶立中は笑った。「しかし、おれじゃないぞ」
「魏先生か陳先生が殺ったという可能性は?」
「ほとんどゼロだ。おれたち四大天王はいってみればひとつのチームだ。それぞれチーム内の分担が決まっている。だれかが欠ければ、負担が重くなる。老板は厳しい人だからな、今までの倍は働かなきゃならなくなる」
「しかし、あの日のあの時間に、張先生があそこにいることを知っていたのは、老板と四大天王の方々だけだとうかがってます。身内が殺ったのだとしたら――」
「日本人、おまえの考え方は馬鹿げている」クールな視線は押しても引いても変わらない。「情報は漏れるものだ。おれ自身、漏らした記憶はないが、なにかの拍子に口を滑らせたかもしれない。張にしたって、自分の手下には居場所ぐらい教えていただろう。もし仮りに情報漏れがなかったとしても、根気よく張を尾行していれば、あの日あの時間のあの場所に張がいることを知ることはできる」
「街に噂《うわさ》が流れてるんですよ。張先生を殺したのは魏先生だって」
「馬鹿げているな」
「魏先生は昔、劉健一の女の死体を海に沈めたそうですね。なんだってそんなことになったんですか?」
「それは初耳だな。だが、なにかの間違いだろう。おれたち北京の人間が、なんだって劉健一のような半々のために働かなきゃならないんだ?」
滝沢は茶をすすった。陶立中のガードは崩れそうにもなかった。刑事のやり方に切り替える――相手が予想もしていない質問をぶつけてみる。
「張先生を殺したのはプロの凶手ですよ。手口から考えるとかなり優秀だ。部屋にはかなりの量のカードがあったのに、手をつけてもいない。プロを雇うにはそれなりの準備が必要です。前もって張先生の行動を知っておかなけりゃならないんです。わかりますか?」
「情報を漏らしたやつがいるということだ、日本人」
「だれが漏らしたんですか? なんのために?」
「だれがやったのかは知らん。なんのためかは、それこそ無数に理由が考えられるだろう」
「陶先生の考えを聞きたいんです」
「日本人、自分の仕事は自分でするものだ」
陶立中は腰をあげた。
「まだ五分残ってます」
「これ以上は話しても無駄だ。日本人、おまえはおれたちを疑ってる。自分を疑うやつと楽しく話ができる人間がいるか?」
「いないでしょうね」
「次におれと話したい時は、おれがやったという証拠を持ってくるといい。その時は好きなだけ付き合ってやる」
「わかりました……最後に、ひとつだけ教えてください」
「なんだ?」
「張先生はどこかの電脳《ディエンナォ》狂いを使ってカードを変造する機械を作ったという話です。その電脳狂いのこと、なにか知りませんか?」
「張は割とせこい男だったんだ、日本人。おれはやつから商売の秘密を聞いたことは一度もない」
退場――最後まで陶立中はクールだった。
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シャブが切れかけていた。腕の傷が痛みはじめた。頭痛と不安に苛《さいな》まれた。それでも動きつづけるしかなかった。
西新宿の次は百人町のマンションだった。魏在欣のヤサだ。三DKのリヴィングに手下たちが詰め込まれていた。女っけはなし。魏在欣は侠気《きょうき》のある大哥《ダーゴー》だと思われている。
険のある若者に通された奥の部屋。魏在欣が滝沢を待っていた。禿《はげ》た頭。剃刀《かみそり》のような目。唾液《だえき》に濡《ぬ》れた分厚い唇。
「おまえ、おれを疑ってるらしいな」
煙草の灰を撒《ま》き散らしながら、魏在欣がいった。陳雄の忠告。つまり、魏在欣が他の三人から浮いているという噂はでたらめということだ。それでも、噂で攻め込むしかない。
「そんなことはないですよ、魏先生。話をお伺《うかが》いにきただけです。気に入らないかもしれませんが、老板の命令なんです」
蔡子明はしきりにリヴィングの様子を気にしていた。魏在欣の手下たち――険呑《けんのん》な空気が流れてくる。
「気に食わねえ。が、道明を殺したやつは知りてえ。なんでも聞け」
魏在欣は煙草をくわえながら話した。滝沢には語尾が聞き取れなかった。蔡子明に通訳させた。
「失礼ですが、街の噂だと、張先生を殺したのは魏先生だということです」
「なんだっておれが道明を殺さなきゃならないんだ?」
「じゃ、魏先生はやってない?」
「あたりまえだ」
恫喝《どうかつ》するような声。だが、目許は涼しげだった。
「噂では、魏先生は四大天王の他の三人と仲が悪いとか」
「でたらめだ」
「昔、老板のためにある女の死体を始末したそうですね?」
「それがどうした?」
「その女というのは、劉健一の女だったそうですが、なんだって、老板があんな故買屋に力を貸さなきゃならなかったんですか?」
「それと道明を殺したやつと、どう関係があるんだ?」
行き止まり。違う噂を投げつける。
「魏先生が老板の金を盗んでいるという噂もありますよ」
魏在欣の顔色が変わった。細い目がさらに細まる。滝沢は息が詰まりそうな凝視にさらされた。
「だれに聞いた?」
「噂ですよ。老板は、そんな噂はでたらめだといってましたがね」
「あんまり調子に乗るなよ、日本鬼《リーベングィ》が」
魏在欣の手の中で煙草が根元から折れた。握り拳《こぶし》に血管が浮かんでいた。
なにかが滝沢の肩に触れた――蔡子明の手だった。蔡子明は部屋の入口をしきりに気にしていた。若いやつらが滝沢を睨《にら》んでいた。魏在欣の許しがあれば、いつでも飛びかかってくる。麗しき義兄弟の絆《きずな》。どいつもこいつも狂っている。
「しかし、魏先生、噂が流れるってことは、なにか元ネタがあるということです」
息が荒くなっていた。蔡子明の怯《おび》えが伝わってきた。
「どういうことだ? なにをいいてえ?」
「魏先生、最近、老板と揉《も》めたことはありませんか? そういうことに尾鰭《おひれ》がついて、噂というのは膨らんでいくんです」
「昔も今も、おれが老板に楯《たて》突いたことなんかねえ」
でたらめだ。勘がそう告げる。これ以上深追いするな。本能がそう告げる。
「わかりました。この質問は終わりです。張先生を殺したのはだれだと思いますか?」
「さぁな」魏在欣から怒気が消えた。「上海のやつらか……いや、それはねえな。だとすると、道明の身内がトチ狂ったか、薬屋≠フ爺がなにか企《たくら》んでるか……」
「薬屋って、楊偉民のことですか?」
「他にだれがいる」
「なんだって楊偉民が?」
頭の中で顔と名前が渦を巻いた。劉健一の店ですれ違った男の顔。秋生という名前。楊偉民が連れてきた。
魏在欣の長口舌が続いていた。蔡子明が怪訝《けげん》な顔をしている。
「早く通訳しろ、馬鹿野郎が」
思わず叫んだ。魏在欣が身構える。リヴィングから殺気が忍びこんでくる。
「昔から歌舞伎町が変なことになるときは、どっかであの爺がなにかをしてるって。あの時もそうだった。あの爺とろくでもない半々《パンパン》のせいで、老板は死にそうな目にあった……そういってるよ」
ろくでもない半々――劉健一。あの時――二年前。脳細胞が音をたてて回転する。だが、回転するだけでなにも浮かんではこなかった。
「なにがあったんです?」
警戒の表情と探るような視線。魏在欣は新しい煙草をくわえた。
「昔の話だ。今度の件には関係がねえだろうよ」
行き止まりだった。
「張先生はどこかの電脳狂いにプリペイドカードを変造する機械を作らせてたらしいんです。そのへんのことで、なにか聞いてませんか?」
「聞いてねえな」
「謝圓って男に心当たりは?」
「だれだ、それ?」
「ありがとうございました」
刑事の勘。魏在欣は真っ黒。張を殺したかどうかはともかく、薬の売り上げをはねている。陳や陶に比べて手下の数が多すぎた。養うには金がかかる。
楊偉民と劉健一。二年前、そして現在。繋《つな》がりがあるかどうかはわからない。魏在欣が話をそらすために名前を出した可能性もある。だが、知りたかった。二年前になにがあったのか。
自分の女を殺した劉健一――宗英を殺す自分。シャブが見せる幻影が交錯した。脚が震えた。
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遠沢と会う前に蔡子明をどうにかしなければならなかった。シャブを見られたくはない。謝圓を追いかけるにも蔡子明は邪魔だ。
「子明、悪いが、魏在欣のところから薬を買ってる連中に話を聞きまわってくれ」
「どういうこと?」
「魏在欣は老板の薬をかっぱらってる」
「そんなのないよ」
不審の眼差し。滝沢はせせら笑った。
「混ぜ物を多くして量をごまかしてるに決まってるんだ。シャブ中たちの話に耳を傾けろ。あいつら、質が悪くなってるって喚いてくるぞ」
「滝沢さんは来ないのか?」
「おれは遠沢と会って、盗聴の様子を聞いてくる。なにかわかったら電話をくれ」
遠沢のヤサは上落合の古ぼけたアパートだった。どこからかモスレムの祈る声が聞こえてきた。ドアを開けると饐《す》えた匂《にお》いが鼻をついた。ゴミ溜《だ》めのような部屋。遠沢はベッドの上に座っていた。足元にウォークマンが転がっている。
「散らかってて悪いね。身体を動かせるのはここしかないんだ」
滝沢はベッドの上にあがりこんで胡座《あぐら》をかいた。
「どんな様子だ?」
「ゆうべの分のテープをひととおり聞いてみたけど、ほとんど北京語だ。おれには理解できない。あんた、持ってってくれよ」
「盗聴用のデッキやなんかは大丈夫なんだろうな?」
「ああ。仕掛けたマンションの配電盤のなかに隠してある。電気工事があれば別だが、まず見つからないね。何人かのホームレスに声をかけてときどき目を光らすようにいってあるしね」
「ホームレス?」
「安心しろって。あいつら、二、三千円の日銭でなんだってやる。いまどき、これだけ人件費を押さえられる手はそうないんだ。それに、まとめ役には次郎をつけてるしな」
「次郎って、昔、四谷署にいた次郎か?」
「そう。マンモス交番のノッポの次郎。テープの回収とセットもあいつに頼んである」
次郎――女で警察をしくじった元おまわりだ。自分を騙《だま》した女とヒモを刺してムショへ入った。昔は痩《や》せていた。今はプロレスラーのような身体をしている。西口に段ボールのヤサをつくり、夜になると中央公園での覗《のぞ》きに精をだしている。
「あいつなら、大丈夫だろう。テープをくれ」
「その前にあるでしょう、滝沢の旦那《だんな》」
遠沢が思わせぶりに笑った。滝沢はシャブのパケを放ってやった。
「そんなに質は悪くないはずだ。まだいくらか残ってる」
遠沢の目の色が変わった。涎《よだれ》を垂らしそうな表情でパケをかき集めた。遠沢はまだこのシャブが新誠会のブツだということを知らない。
「遠沢、聞きたいことがあるんだ」
「なにを?」
「二年前の話だ。流氓たちの戦争があっただろう。本当のところ、なにがあったんだ?」
シャブ中の目がじっと滝沢をうかがっていた。ジャケットのポケットから残りのシャブを取りだしてみせた。遠沢が笑った。皺《しわ》に埋もれる表情。欠けた前歯。長い間病に冒された老人のような顔。近い将来の自分。
滝沢は目をしばたたいた。イメージを振り払った。
「おれも人から聞いただけだぜ。ま、話によると、呉富春《ごとみはる》って馬鹿が元成貴《げんせいき》の右腕を殺したのが発端だ」
記憶を掘り返す。呉富春《ウーフーチュン》――東京医大裏の墓地に転がっていた死体。元成貴《ユェンチョンクィ》――当時の上海マフィアのボス。
「呉富春は名古屋にふけた。だが、なにをトチ狂ったんだか、一年後に歌舞伎町に舞い戻ってきた。で、元成貴は劉健一に呉富春を捕まえるように命じたんだ」
「ちょっと待て。劉健一がなんだって出てくるんだ?」
「あいつは昔、呉と組んで商売をしてたんだよ。そこんところを元成貴につつかれたのさ。劉健一はまず、呉富春の女をつかまえた。呉富春はその女を追いかけて歌舞伎町に戻ってきたんだ。あとは、呉富春をおびき寄せるだけでよかったのに、劉健一は狂っちまった。その女に惚《ほ》れちまったんだな。北京の崔虎を巻き込んで、元成貴と呉富春の両方を殺そうとしたんだ。それが、こそこそ動きまわるやつらがいたり、楊偉民が劉健一に含むところがあったりで、とんでもない銃撃戦に発展したって話だ」
「劉健一が惚れた女ってのはどうなった?」
「あいつが自分の手で殺したそうだ」
「どうして?」
「呉富春は歌舞伎町に戻ってくる前に、名古屋の中国マフィアを襲って金をパクったらしい。名古屋の連中を納得させるにはどうしても女の死体が必要だったんだ」
女の死体。魏在欣が海に沈めた。
「それはわかるが、なんだって劉健一が自分で手を下したんだ?」
「さあね。あいつらの考えてることがわかれば、おれも苦労はしない。とにかく、そういうことだ。すべてが終わった時には楊偉民ががっちり歌舞伎町を押さえてたってわけだ。あの甑争で一番得をしたのはあの爺さんだな」
「楊偉民が劉健一を後ろから操ってたのか?」
「それはないな。化かしあいをやって、楊偉民が勝ったってところだろう」
おおまかなところはわかった。二年前の戦争。今回の北京の内紛との関係は薄そうだ。なぜ執着するのか。自分でもわからなかった。
自分の女に手をかける劉健一――宗英の首を絞める自分。イメージだけが膨らんでいく。喉《のど》が渇いた。滝沢は頭を振った。
残ったパケを放り投げてやった。テープを四本、受け取った。
「あの時の戦争の現場で実際に何が起こったのかを知ってるのは、楊偉民と劉健一、それに崔虎だけじゃないのか。これ以上詳しいことを知りたかったら、やつらに聞くんだな」
遠沢はシャブの結晶をスプーンに載せていた。蒸留水と一緒に火で焙《あぶ》り、注射器で吸い上げる。
ドアを閉める前に、遠沢の深いため息が聞こえてきた。
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テープの内容はほとんどがくだらないおしゃべりだった。
家族からの電話。何人もの女からの誘いの電話。手下たちからの報告。ビジネスの話。無心の電話。
すべてに耳を傾ける時間はない。グラヴコンパートメントにテープを押しこんだ。テープの下敷きになったシャブのパケ。万一の時のための用心に――滝沢は頭を振ってカローラのアクセルを踏んだ。
行くあてはない。行くべき場所もない。
滝沢は駐車場でカローラをおりた。新誠会の影に怯《おび》えながら歌舞伎町で噂《うわさ》に耳を傾けた。
収穫はなかった。垂れ流される下水のような無駄話。上海が北京の縄張りを狙《ねら》っている。崔虎は歯牙《しが》にもかけていない。戦争が始まるかもしれない。だから朱宏は情婦のためにボディガードを雇った。
朱宏の情婦――楽家麓。〈魔都〉という売春バーを切り盛りしている。上海の女となにか繋《つな》がりがあるのか。それに秋生という名のボディガード。現れるタイミングが良すぎた。もしかすると、張道明を殺したのはそいつなのかも知れない。だが、仕事が終わった後も歌舞伎町に残っているというのが腑《ふ》に落ちない。
いずれにせよ、一度楽家麗に話を聞いてみるべきなのかもしれない。
シャブ中どもの姿が見えなかった。代わりに目につくのは新誠会の連中だった。疲れ、怯え、苛立《いらだ》ち、殺気立っている。連中の癇《かん》に触った堅気が袋|叩《だた》きにされていた。遠巻きに見守る無名の市民。警官がやって来る。だれもいなくなる。残っているのは血まみれの男。戦場に紛れ込んでしまった能天気な日本人。
杜を探した――見つからなかった。
大久保では聞き込みの刑事たちの姿が目についた。知った顔がちらほらと見える。痛い腹を探られるのが怖い。足早に立ち去った。
人戦の事務所を見張った。七時すぎ、事務所の明かりが消えて、林明季が姿をあらわした。尾行。林明季はまっすぐ東中野のアパートに向かった。謝圓の影すら掴《つか》めない。
すべてが徒労に思えた。これまでの人生のすべてが徒労だった。弱いやつを痛めつけ、小金を掠《かす》めとることしか考えてこなかった。
蔡子明からの連絡がない。シャブ中が見つからないのだ。新誠会の連中を怖れて部屋にこもっている。
鈴木に電話した。宮田の店で一時間後に待ち合わせることにした。
看板が変わっていた。前に来た時は〈さち〉。今夜は〈まりこ〉。おおかた、どこかからかっぱらってきた看板だ。
滝沢は薄暗い階段を降りた。内装は変わっていない。靄がかかったかのような照明。シャブ中の女。チンピラのウェイター。
「いらっしゃいませ」
チンピラは滝沢を覚えていた。慇懃《いんぎん》に頭を下げた。宮田からの忠告が行き届いている――元デカのクズ野郎だが、抑えろ、やつの相棒はまだデカだ。
その相棒がすぐにやってきた。くたびれたスーツ、くたびれた顔。その目に見えるのは人の弱み。その鼻が嗅《か》ぐのは金の匂《にお》い。滝沢の同類だ。コンビを組まされたその日からうまが合った。
「なにかわかったか?」
温いビールを注いでやりながら訊《き》いた。
「五里霧中だ。捜査本部の方じゃ、崔虎と朱宏を引っ張れと喚いてるよ。おまえの方はどうだ?」
「まだ、目処はつかん。この前いったように、上海の連中はシロだ。北京のだれかがプロを雇って殺したってところだろうな」
「動機は?」
「金と権力争い。それ以外にあるか?」
「金になるのか?」
鈴木のくたびれた目がきらりと光った。一枚|噛《か》ませろ。そういっている。
「ホシを見つけたら二百万だ。しけた仕事だよ」
「ここんとこ、ツキがなくってな。金が足りん」
「おれにたかる気か?」
「馬鹿。金のねえやつにたかってどうする。おれがいいたいのは、昔みたいに一緒にやらねえかってことだ」
「なにを?」
「張道明を殺した北京野郎を見つけだす。そいつから金を巻き上げる。その後で殺して、崔虎に教えてやりゃいい。どうだ?」
滝沢はビールを啜《すす》って間を取った。悪くはない。二百万が数千万に化ける可能性がある――しくじらなければ。
「もう少し様子を見よう。やるにしろやらないにしろ、ホシの目星がつかないんじゃ話にならない」
「やろうぜ。おまえだって金が必要だろう。いつまでしけた暮らしをしてるつもりだ? あの中国女とだって、いつまでも続くわけじゃない。違うか?」
包丁を握る宗英の顔。思い出すだけで震えがきた。滝沢は帰る場所を失った。あの顔はそう告げていた。
宗英との日々――ちんけで安っぽい毎日。惰眠を貪《むさぼ》り、昏《くら》い欲望に身を任せる。それでもすべてを奪われたわけではなかった。野心と見栄。ちっぽけな炎がちろちろと燃えていた。もっといい女を。もっとうまい食い物を。もっとましな住処を。もっとましななにかを……。
「滝沢、大丈夫か?」
「ああ」
「その手の傷はどうした? 顔色も悪いぞ」
「女と喧嘩《けんか》して引っ掻《か》かれた」滝沢は苦笑いを浮かべた。「顔色が悪いのは寝不足だ。それより、今夜はやけに新誠会の連中が殺気立ってるな。なにかあったのか?」
「どこかの跳ねっ返りが伊藤のシャブをパクったらしい。まあ、たいした量じゃないんだがな、伊藤は指を詰めさせられた。マル暴の連中が目の色を変えてるよ」
「ホシの目星は?」
「他の組の連中ってことは考えられんからな。中国人かイラン人か……切れちまったシャブ中ってことも考えられるが、伊藤の手下がふたり、ぶちのめされてるんだ。マル暴ははぐれ者の中国人じゃないかと睨《にら》んでる」
「新誠会の動きは?」
「組長の井上は相手が中国人かも知れないと聞いてビビってるって話だ。だが、若頭の尾崎がいきり立ってる。やつらと戦争になったってかまわんと喚いてるらしい」
尾崎。新誠会を実質的に仕切っているのは尾崎だ。度胸があって、頭が切れる。そのうえ、執拗《しつよう》だ。組の――自分の面子を潰《つぶ》したやつを許しはしない。
滝沢はグラスを掴んだ。掌に汗。新誠会のシャブを狙ったのは失敗だった――そんなことは最初からわかっていた。なぜそんなことをしたのか。狂っている。少しずつ、なにかが狂いはじめている。
「今日、新誠会の若いやつらが堅気を袋叩きにしてるのを見たよ。それで引っ張れるんじゃないか? マル暴に貸しを作っておくのも悪くはないだろう」
名前を教えてやった。鈴木が手帳に書き取った。
チンピラふたりを売る。ろくでもないあがきだ。それぐらいのことで尾崎が手を引くはずもない。それでも、なにかをせずにはいられない。鈴木の手帳が羨《うら》やましかった。
「なあ、さっきの話だが――」
鈴木が手帳から顔をあげた。滝沢はそれを遮った。
「もう少し考えさせてくれ。連中にはったりをかますってのは、命懸けの仕事だ。しくじれば、おれたちだけじゃなく、あんたのカミさんや子供たちまで殺されるぜ。連中はおれたちとは違う世界に棲《す》んでるからな」
「それぐらいのことはわかってる。なぁ、滝沢、おれもそろそろこの仕事から足を洗おうと思ってるんだ」
「冗談だろう」
「本気だ。最近、どっかの県警で空出張騒ぎがあっただろう。あれのせいとはいわないが、うちの署もいろいろとやかましくなってる。おれなんぞは、おまえが辞めた時から目をつけられてるからな、息苦しくてかなわんのさ。金を掴んだら、足を洗って故郷へ戻ろうかと思ってる。滅多なやつにはこんな話は持ち掛けられない。だけど、おまえなら……」
滝沢なら金に困っている。しけた暮らしが続いている滝沢なら、一発、賭《か》けに乗ってくるかもしれない。
おためごかしの向こうからそんな声が聞こえてきた。
「考えさせてくれ」
残りのビールを呷《あお》った。煙草に火をつけた。
「近々に連絡するよ。待っててくれ」
鈴木の肩を叩いて、滝沢は席をたった。
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鈴木の声が頭の中で渦を巻いていた。
金が欲しい。新しい暮らしをはじめる。新しい女を探す――金が必要だ。
崔虎の顔が頭の片隅で揺れていた。無慈悲に人を殺す、連中のやり口を滝沢は嫌になるほど知っていた。
切り裂かれた腹から引きずり出された血まみれの胎児。あれは一年前だった。北京の情報を上海に流していたマレーシア人の夫婦がいた。男は高跳びした台湾で殺された。女は妊娠七ヶ月。滝沢が見つけた。崔虎は滝沢の目の前で女を殺した。
嫌悪した。胸が悪くなった。恐かった。興奮した。ぞの夜は執拗に宗英をいたぶった。
鈴木の計画を転がしてみる。中国人への恐怖を推し量る。
頭が痛んだ。女が欲しかった。柔らかい肉。そいつを思う存分|蹂躙《じゅうりん》すれば、他のことはすべて忘れられる。それができないのなら、だれかをぶちのめす。
歌舞伎町はだめだ。新誠会のやつらが目を光らせている。
周天文。お高くとまったホモ野郎。
あいつを痛めつけて、二年前の話を聞きだす――素晴らしい考えに思えた。
滝沢は靖国通りへ足を向けた。携帯電話が鳴った。蔡子明からだった。
「滝沢さん」
「どうだった? 魏在欣のやつ、薬を水増しして売ってただろうが?」
「シャブ中が捕まらなくて困ったよ。それより滝沢さん、おれ、だれかを尾行してるんだけどだれだと思う?」
「魏在欣か?」
「違う違う。これ、貸しだよ、滝沢さん」
「だれを尾《つ》けてるんだ!?」
「唐平。知ってるか? 人戦のやつだよ。大久保で見つけた。仲間と上海の女の話してたよ」
鼓動が速くなった。
「今、どこにいる?」
たかが百万。はした金に執着する自分。どうすることもできなかった。
蔡子明はすぐに見つかった。建物の陰に隠れて前方をうかがっていた。
「やつはどこだ?」
「あのマンションの周りをぐるぐる回ってる。なにをしてるのかな?」
蔡子明が指差したのは、白い外壁のマンションだった。このあたりにはよくある、水商売向けのマンションだ。
「だれが住んでる?」
「知らないよ、そんなこと」
上海の女。それ以外に考えられなかった。
滝沢は闇《やみ》の向こうに目を凝らした。街灯に照らされた道。マンションの脇《わき》に古ぼけた車が停まっている。
浅黒い長身の男が現れた。東中野で見た顔に間違いなかった。男は真っ直ぐ車に向かってくる。
「もう一人いる」
蔡子明の声。滝沢も気づいた。唐平の背後に肉食獣のような足取りの男がいた。
心臓が締めつけられた。カリビアンの入口ですれ違った男だった。朱宏が雇ったボディガード。秋生。
秋生の手にはナイフが握られていた。
「あいつに気づかなかったのか?」
蔡子明の耳元で囁《ささや》いた。
「おれが来た時にはだれもいなかったよ。本当だって」
秋生をもう一度見た。プロの動きに魅入られた。気配を殺し、獲物が現れるのを待っていたのだ。蔡子明が気づくはずもない。秋生は本物のプロだ。
プロ――身体が痺《しび》れた。動けなくなった。張道明を殺したのはあいつだ。刑事の本能がそう告げていた。
上海の連中が秋生を雇って張道明を殺させた。
頭を振った。辻褄《つじつま》があわない。
人戦の男が携帯電話でだれかと話しはじめた。秋生が忍び寄っていく。
ナイフがきらめく。肉が裂ける。血が迸《ほとばし》る――滝沢の頭の中の秋生が先に動いていた。背中の肌が粟立《あわだ》った。
車が停まる音が聞こえた。タクシーが見えた。男がおりた。こっちへ向かってくる。
「子明、隠れろ」
蔡子明の頭を押さえこんで、ビルの陰の闇《やみ》に深く潜り込んだ。
男が通りすぎた。
「あいつ、洪行じゃないか」
蔡子明の北京語のつぶやき。それで思い出した。洪行――上海の男。頭も度胸もないが、上の連中に愛想を撒《ま》くことで生きている。
洪行はマンションに向かっていた。秋生の姿が消えていた。唐平は車の陰に隠れていた。
洪行がマンションの中に消えた。唐平が車の中に乗りこんだ。何かの影が洪行の後を追った。
秋生だった。
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血を吸った毛布とシーツ。それで死体をくるんだ。
家麗。腕を組んで突っ立っていた。煙草の灰が落ちた。生気のない目でなにかを見つめていた。
キッチンにあったブランディのボトルをグラスに注いで飲ませた。
インタフォンのブザーが鳴った。家麗の身体が強張った。
「大丈夫。助っ人だ」
「助っ人ってだれ?」
「さっき、電話しただろう。劉健一さ」
「だめよ。あいつに知られたら骨までしゃぶられるわ」
「小姐、おれだけじゃ死体を隠せない。だれかに手伝ってもらわなきゃ無理なんだ」
「別な人にして。あいつはだめよ」
心の底からの怯えが伝わってくる。なにに怯えているのか。なにを脅されていたのか。
また、ブザーが鳴った。
「あいつしかいない。小姐、おれを信用してくれ。劉健一がもし小姐を脅したら、おれがあいつを殺してやる」
家麗は唇を噛《か》み締めた。
秋生はインタフォンの受話器を取り上げた。
「なにをしてる?」
苛立《いらだ》った声が聞こえてきた。
「死体の後始末をしてたんだ」
「下まで来てくれ。段ボールを運ぶ」
「わかった」
振り返る。家麗と目があった。今にも泣き出しそうな目。すがりつくような目――血がわきたった。
エントランスの前にヴァンが停まっていた。運転席に劉健一がいた。辺りに人けはなかった。例の男の車も消えていた。
「こいつだ」
後部座席に置かれた洗濯機の商品名が印刷された段ボールを劉健一は指差した。中には古新聞が詰まっていた。
段ボールを抱えて部屋へ戻った。シーツにくるまれた死体。家麗の姿がなかった。固く閉じられた寝室のドアから秘めやかな息遣いが伝わってきた。
「小姐――」
「あの女は放っておけ。まず、この死体を始末するのが先だ」
劉健一の有無をいわさぬ口調。秋生は従った。
段ボールの底に新聞紙を敷き詰めた。死体を押しこんだ。空いた空間に新聞紙を詰めた。ガムテープを何重にも張りつけた。
「とりあえず、こんなもんだろう」
劉健一の許しが出た時には二十分近い時間が過ぎていた。
寝室のドア。押し殺した息遣い。ドアに近づいてノックした。返事はなかった。
「小姐、心配しなくてもいい。おれが全部カタをつけてやる」
笑い声がした。劉健一がやってられないというように首を振っていた。
「なにがおかしい?」
「この世の中だ。そんなことより、とっとと運ぶぞ。夜が明ける前に始末しなきゃならん。おままごとはそのあとだ」
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* *
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「死体がだれか、知ってるんだろう?」
すれ違うヘッドライトの光。エンジンの音――中央自動車道。劉健一はつまらなそうにステアリングを握っている。
「ああ、洪行っていってな、どうしようもないクズだ」
「どうして殺したのか訊《き》かないのか?」
「訊かなくても想像はつく」
頭に血がのぼった。なにもかも見透かされている。
「おれは――」
「いいわけはいらん。肝心なのは起こっちまったことだ。それにどうやって対処するかだ。おれたちにはろくでもない死体がある。そいつをきれいさっぱり始末する。この世から消してしまう。それ以外のことは考えるな」
「朱宏は騒ぐだろうな」
「知らんぷりを決め込めばいい。実際の話、洪行があの女の部屋へ行くことを周りにいいふらすはずがないんだ。朱宏の耳に入っただけでおしまいだからな。連中にしてみれば、洪行はただ消えちまうんだ。あいつが消えて喜ぶやつはいても、悲しんだり敵を討とうなんて考えるやつはいない」
「あいつは小姐を脅してた。小姐はなにもいわないけど、その線からたぐられたら――」
「おまえはやっぱり凶手には向かないな。神経が細すぎる。そんなことになったら逃げるしかない。気にするだけ無駄だ」
「あんた、小姐がなんで脅されてたのか知ってるのか?」
「おれが知ってたら、洪行の代わりにおれがあの女を脅してるさ。金を貯めこんでるって噂《うわさ》だからな」
でたらめだ。劉健一の名を出したときの家麗の怯《おび》え――演技ではなかった。
洪行の血を吸ったスウィッチブレイド。そいつを使えば、劉健一の口を割らせることもできる。拷問のやり方は軍隊で徹底的に叩《たた》きこまれた。
凶手には向かない――そのとおりかもしれない。だが、人を殺したり、痛めつける方法だけは嫌になるほど知っている。
秋生はポケットに手を突っ込んだ。ナイフの柄を握った。
「今考えなきゃならないのは、死体を始末することだ。忘れるなよ」
すべてを見透かしたかのような声。劉健一は微笑《ほほえ》みながらステアリングを握っていた。
劉健一は高速を降りて林道へ車を乗りいれた。木々に覆われて曲がりくねった細い間道。「私有地 立入禁止」の看板が見えた。五分ほど走って、劉健一が車を停めた。
「ここに埋める」
「ここで大丈夫なのか?」
「ここは楊偉民の土地だ」劉健一は車を降りた。「昔、葉暁丹《イェシァオダン》って金持ちから楊偉民がただ同然の金で譲り受けた。台湾の流氓が歌舞伎町を牛耳ってたころには、よくここに死体を埋めに来たもんだ」
「あんたも埋めたのか?」
シャベルを手渡された。地面に突き立てた。星明かりしかない闇《やみ》の中、なにかが蠢《うごめ》いているような音が聞こえた。
「ときどき手伝わされた。もしかすると、昔埋めたやつの骨を掘り出しちまうかもな」
シャベルで土を救う。放り投げる。延々とそれだけを繰り返した。
聞こえるのは自分と劉健一の息遣い。シャベルが土を掻《か》く音。夢うつつの時間。汗が滴った。
「なんで手伝ってくれるんだ?」
「なんで電話してきた?」
「あんたしか思いつかなかった」
「おまえは凶手には向かないが、腕だけは確かだ。そういうやつに恩を売っておくのは悪いことじゃない。それが楊偉民の子飼いとなればなおさらだ」
「おれがあんたの弟分だからじゃないのか?」
「そう思いたいなら思ってればいい」
思いたかった。だが、そうとは思えなかった。すべてを見透かされているような感覚が続いていた。苛立《いらだ》ちが募った。
白々と夜が明けてきた。最後の土をかぶせた。落ち葉や枯れ枝をその上に撒《ま》いた。そこに死体の詰まった段ボールが埋まっているようには見えなかった。
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* *
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窓から吹きこんでくる風に汗がひいた。体温が奪われた。
劉健一がカセットデッキにテープを押し込んだ。聞いたことのないメロディ。だが歌い手の言葉はすんなりと頭の中に溶けこんでくる。
「台湾語の歌も聞くのか?」
「台湾語を勉強してるんだ」
「どうして?」
「おれの身体の半分には台湾人の血が流れてるんだぜ。台湾語を覚えたって悪いことはない」
「北京語で充分だろう」
「楊偉民と同じことをいいやがる」
車のスピードが上がった。
「秋生、今夜なにが起こったのか、詳しく話せ」
「台湾語でか?」
「馬鹿野郎」
話した。詳しく。思い出せる限りすべてのことを。
「車に乗って家麗を見張ってた男が引っ掛かるな。どうして呼び出した時に教えなかった?」
「すまない。動転してたんだ」
舌打ち。芝居なのか本気なのか、秋生には見極めがつかなかった。
「そいつが北京のやつならマズいことになるかもな。心当たりはないのか?」
「ない。ただ、昨日の夜もあいつは小姐を見張ってた」
「本当に家麗を見張ってたのか? おまえが見張られてたんじゃないな?」
「携帯電話でだれかと話してた。小姐のことを」
質問が終わった。劉健一はそれ以上口を開こうとはしなかった。なにかがおかしかった。
秋生は劉健一を見つめた。獲物を狙《ねら》う獣の目で――劉健一はヘッドライトの向こうに広がる闇を見つめていた。
すべては茶番だ。家麗は秘密を抱えている。その秘密を洪行と車の男がつついた。
劉健一。その秘密を知っている。間違いはない。
劉健一。車の男を知っている。間違いはない。
台湾語の歌。聞きなれないメロディ。知っていることと知らないこと。頭の中で渦を巻く。
真紀を殺した。真紀以外の大勢の人間を殺してきた。楊偉民の意志で。
昔に戻るのだ。美紀を殺してしまった時に。これからは自分の意志で殺す。家麗を守るために。
聞きなれないメロディに耳を傾ける。新しい世界に足を踏みいれる。恐れるべきものなどなにもないように思えた。
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秋生がマンションの中に消えた。
「お前はここに残っていろ」
滝沢は動いた。唐平に人戦の仲間と連絡を取らせるわけにはいかない。マンションの中で起こるのは修羅場だ。秋生の動きを見ただけでそれがわかる。他のだれかに知られるわけにはいかない。
唐平は携帯電話に齧《かじ》りついていた。
「なにやってんだ、早く出ろよ」
苛立った北京語。滝沢には気づいていない。陰から陰へ。腰に差した警棒を抜いた。ドアを一気に開けた。
唐平が気づいた。口が大きく開いた。首筋に警棒を叩《たた》きつけた。
「来るんだ」
蔡子明が駆け寄ってくる。唐平を助手席に押し込んだ。汗。心臓の鼓動。荒い息遣い。紛《まが》い物の手錠。血まみれの坂上の顔が脳裏に浮かんだ。
唐平の手首と足首に手錠をかました。折り畳まれたまま、唐平がうめき声をあげた。
「子明、運転しろ。適当にその辺を流すんだ。携帯で連絡を入れる」
洪行と秋生、それに上海の女。だれかが死ぬ。おそらく、洪行が。死体を隠すには人手がいる。だれかが来るはずだ。見張るには唐平と車が邪魔だった。
「滝沢さんは?」
落ち着きのない表情。声がうわずっている。腰抜け。
舌打ちをこらえていった。
「おれはこのままマンションを見張っている。落ち着けよ、子明。こいつは動けないし、おれたちのしてることを老板に告げ口するやつもいない」
「貸しだからね、滝沢さん」
「わかってる。早く行け」
テールランプが遠ざかった。マンション――変わりはない。エントランスから中を覗《のぞ》いた。正面にエレヴェータ。五階で停まっていた。郵便受けに目を凝らした。
五〇一――佐藤、五〇二――波潟、五〇三――楽。
楽家麗。上海マフィアのボス、朱宏の情婦。上海の女に繋《つな》がった。
滝沢はマンションを離れた。ビルの陰に身を潜めた。
二十分待った。灰色のヴァンがマンションの前に停まった。降りてきたのは劉健一だった。辺りの様子をうかがい、エントランスの中に消えた――すぐに戻ってきた。やがて、秋生がエントランスから姿を現した。二人はヴァンから段ボールの箱を運びだした。
待ちながら考えた。
唐平が見張っていたのは楽家麗だ。楽家麗が謝圓の行方を知っている。あるいは鍵《かぎ》を握っている。しかし、なぜ、朱宏の女が人戦のやつらと繋がっているのか――わからなかった。
それに洪行。なぜ、家麗を訪ねた。ボスの女だ。こんな時間に訪れたことがばれれば、ただではすまないはずだ。実際、ただではすまなかった。恐らく、洪行は殺されている。なぜ? 恐らく――洪行が家麗の弱みにつけ込もうとした。身体と金を奪おうとした。
家麗の弱み。そいつを探らなければならない。
金の匂《にお》いがした。家麗をうまく追い込めば、謝圓の百万と、家麗の金を手に入れることができる。金。鈴木の提案が頭をかすめた。崔虎の金を盗む。家麗の金を盗む。
ぞっとした。それでも金の匂いは鼻にまとわりついて消えなかった。
三十分。劉健一と秋生が段ボールを抱えて出てきた。中には死体が入っている。間違いない。どこかに捨てに行くのだ。
ヴァンに二人が乗りこんだ。エンジンが息を吹き返した。テールランプが遠退いた。
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ビルの工事現場に車を入れさせた。辺りに人影はなかった。高速を走る車の音。それ以外はなにも聞こえない。唐平を車の外に蹴《け》りだした。蔡子明が蒼醒《あおざ》めた顔に引きつった笑みを浮かべていた。
「おまえたちは誰だ!? なんでこんなことをする?」
唐平が叫んだ。精一杯強がっている。だが、手首と足首を繋がれ、地面に転がっている状態では負け犬の遠吠《とおぼ》えにもならなかった。
「なぜ楽家麗《ロージァリー》を見張っていた?」
滝沢は北京語で聞いた。
「楽家麗? だれのことだ?」
「楽家麗が上海の女なんだろう?」
唐平の背中が強張った。
「おまえ、だれだ? そうか、事務所に来たっていう警官か? 警官がこんなことをしていいのか?」
「質問するのはこっちだ」
強張った背中、肝臓のある辺りを蹴った。唐平がのたうちまわった。
「人戦のお高くとまったやつらが、なんだって上海流氓の女を見張ってるんだ? 答えろ」
「なんのことだか、わからん」
「いや、おまえはわかってるさ」
屈みこみ、髪の毛を掴んで唐平の顔を覗きこんだ。
「おれは気の長い方じゃない。早く喋《しゃべ》った方が利口だぞ」
「あなた、人間違いしてるよ。わたし、普通の中国人。悪いこと、なにもしてないね」
唐平はへたくそな日本語でまくしたてた。
滝沢は警棒を取り出した。唐平の顔に叩《たた》きつけた。欠けた歯が飛んだ。血が唐平の唇を濡《ぬ》らした。
唐平は芋虫《いもむし》のように転がった。声をあげて許しを乞《こ》うた。坂上をいたぶった時のような高揚感はなかった。それでも股間《こかん》は熱く猛《たけ》っていた。頭の奥で昏《くら》い炎が燃え上がっていた。腕に、腹に、足に警棒を叩きつけた。
「滝沢さん、だめだ。死んじゃうよ」
割って入ってくる蔡子明を怒鳴りつけた。
「おまえはすっこんでろ」
立ち上がった。息があがっていた。丸まった唐平の背中を思い切り蹴りあげた。
「どうして、楽家麗を見張ってた? あの女が謝圓に繋《つな》がってるのか?」
くぐもった北京語が返ってきた。蔡子明を見る。
「なにも知らないっていってる」
「くそっ」
視界が赤く染まった。こめかみがひくひくと脈打った。突然の発作に身体が震えた。
「子明、ナイフを持ってるか?」
「あ、ああ」
「寄こせ」
小振りのフォールディングナイフ。蒼醒めた顔の蔡子明からひったくった。刃を開く。冷えた輝き。手錠で繋がれた唐平の手、その小指に刃をあてがった。
「残酷な拷問はおまえら中国人の十八番だがな、おれたちにだってできるんだぜ」
またくぐもった声。今度は意味が取れた。
――日本人の豚野郎。
ナイフの刃を小指の根元に食い込ませた。絶叫。体重をかけて骨を断ち切った。血まみれの小指が転がった。そいつを拾い上げて、唐平の口の中に押し込んだ。
「指を全部切り落とされたくなかったら、知ってることを話せ」
唐平は指を吐きだした。慟哭《どうこく》の間に挟みこまれる言葉。蔡子明が訳した。
「あの女が知ってるはずだって」
「なにを知ってる?」
「謝圓の居場所。謝圓ってだれだ?」
こすっからい蔡子明。餌《えさ》を見つけた栗鼠《りす》のように、目が忙しげに動いていた。
「なぜだ? 流氓の女と人戦の男がなんだって繋がってる?」
蔡子明の問いを無視してつづけた。狂ったような喚き声が戻ってきた。血まみれのナイフ。今度は薬指にあてがった。喚き声がとまった。代わりに早口の北京語が溢《あふ》れてきた。
「幼馴染《おさななじみ》だっていってる。謝圓はあの女にたぶらかされたんだって。なあ、滝沢さん、これ、どういうことよ?」
「おまえは黙ってろ。謝圓はいくら持ってるんだ? なんだって消えた? 上海の流氓と商売をしてたのか?」
「知らない。ほんとに知らないんだ。もう、許してくれ。ああ、おれの指が……」
「まだだ。おまえはもっと知ってるはずだ。いえ」
「知らない。知らない。知らない。本当だ」
唐平が嘘《うそ》をついているとは思わなかった。だが、身体は動きつづけた――唐平の薬指を切り落とした。
絶叫があがる。口を押さえてとめた。
「話せ。謝圓はなにをしてた? あの女とつるんでなにをしてたんだ? なんだっておまえらは血眼になってあいつを探してる?」
「なにも知らないっていってるだろう、日本の豚野郎め。おれの指を返せ」
突き飛ばされた。脇腹《わきばら》に痛み。滝沢はバランスを失ってひっくり返った。
「おれの指を返せ」
唐平がのしかかってきた。狂気に歪《ゆが》んだ顔が目の前にあった。脇腹が痛んだ。
殺せ――視界が真っ赤に染まってなにかが弾けた。ナイフを唐平の背中に突き刺した。
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血まみれの手。ナイフを握っている。唐平は身体を丸めたままぴくりとも動かない。頭がずきずきした。喉《のど》が渇いた。
初めて人を殺した。なにも感じなかった。頭痛と渇きがあるだけだ。
滝沢はよろめきながら立ち上がった。剥《む》き出しの水道で手とナイフを丹念に洗った。服に散った返り血はそれほど目立たない。
蔡子明の足音に振り返った。
「なんで殺したよ?」
「うるせえ」
「死体、どうする?」
蔡子明の顔は真っ白だった。
「黙ってろ」
滝沢は携帯電話を取り出した。うろ覚えの番号をプッシュした。
「はい?」
「宮田さんか? 滝沢だが」
「おお、あんたか。最近、おれの店を贔屓《ひいき》にしてくれてるそうじゃないか。あんたと鈴木の旦那《だんな》とでよ」
「頼みがある。死体をひとつ、始末してほしい」
沈黙。宮田は武藤組の若頭だが頭も度胸もない。それで、必死になってなにかを考えている。
「高くつくぜ、滝沢さんよ」
「わかってる。借りは倍にして返す」
「こりゃ、あんたへの貸しじゃない。鈴木の旦那への貸しだ」
「鈴木は関係ない」
「じゃ、この話はなしだ」
頭がずきずきした。
「わかった。鈴木にはおれから話しておく」
「よし。場所はどこだ?」
滝沢は工事現場の住所を告げた。
車の指紋を拭《ぬぐ》って、逃げるように工事現場を出た。しばらく歩いてから、タクシーを掴まえるつもりだった。
「あのままでいいのか?」
蔡子明が顔を覗《のぞ》きこんできた。
「やくざが始末してくれることになった。安心しろ。あいつの死体は永遠に見つからない」
頭痛が続いていた。蔡子明の視線が気になった。ほんの数分前までは目の前の暴力|沙汰《ざた》に怯《おび》えたチンピラの目をしていた。それが獲物を見つけたハイエナの目に変わっていた。
「ねえ、滝沢さん。人戦と上海のやつらはつるんでるのかい?」
「知らん」
「それはないよ。滝沢さん、あいつに色んなこと聞いてたじゃない。おかしいよ」
「余計なことは考えるな。おれたちには、老板から与えられた仕事があるんだぞ」
睨《にら》みつけた。だが、蔡子明は動じなかった。小狡《こずる》そうな顔。なにかを企《たくら》んでいる。
「今夜のことは老板には全然関係ないよ」
「忘れろ。おれは宗英の金を謝圓ってやつから取り戻したいだけだ」
「無理だよ。金と出世の匂いがする。うまくやれば、老板がおれを認めてくれるかもしれない」
笑い飛ばそうとした――できなかった。蔡子明は真剣だった。
「だってそうだろう? 朱宏の女が絡んでるんだ。なにが出てくるかわからない。調べても損はない。違うかい?」
馬鹿げた問い。答える気にはなれなかった。脚が震えた。鼓動が激しくなった。
殺しの反動。
胃液が逆流してきた。屈みこんで、なにも出なくなるまで吐きつづけた。
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高速を降りたところで劉健一が車を停めた。ライターの炎がゆらめき、紫煙が車内にたちこめた。
「おまえ、あの女をうまくコントロールできるか?」
「どういうことだ?」
「あの女が余計なことを喋《しゃべ》らないように釘《くぎ》を刺しておけるかって聞いてるんだ。洪行があの女のところに来たことを知られなけりゃ、どうってことはない。だが、あの女がだれかに漏らすと……朱宏は馬鹿だが、頭が働かないわけじゃない」
「大丈夫だと思う。小姐も馬鹿じゃない」
「あの女は馬鹿だ」
「あんた、小姐のことを知ってるのか?」
「噂《うわさ》に耳を傾けてるだけだ」
「どんな噂だ?」
煙草の穂先が赤く燃え上がった。吐き出される煙。渦を巻いて後部座席へ流れていく。劉健一の視線はなにかを語り、なにも語らない。
「一番簡単なのは、あの女も殺しちまうことだな」
鼓動が跳ねあがった。腰に差した黒星。思わずグリップを握り締めた。
「そんなことはできない。わかってるだろう」
「あんな女に、命を張るだけの値打ちはないぞ」
「あんたの知ったことじゃない」
「楊の爺もいい顔はしない」
「老爺は関係ない。これはおれの問題だ」
「女は他にも腐るほどいる」
「小姐はひとりだけだ」
劉健一は苦笑いを浮かべて煙草を消した。
「好きにしろ」苦笑いが消えた。「だが、覚えておけ。今回のことは貸しだ。でかい貸しだ。いつか取り立てる。それに、だ。この件で朱宏がおれをつついてきたら、おれはあの女を殺すぞ。いいな?」
「それは――」
「それがいやなら、しっかりあの女にくっついてるんだ」
「健一――」
「降りろ。この車を返してこなけりゃならない」
口を開き、閉じた。いうべき言葉が見つからなかった。
車を降りた。生ぬるい空気、エンジンの音。車が動きだした。振り返る――バックミラーに映る劉健一の顔が笑っていた。
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夜が明けはじめていた。マンションの前に人けはなかった。真っ直ぐ家麗の部屋に向かった。
ブザーを押した。しばらく待たされてドアが開いた。家麗。片手で肩を抱き、もう片方の手で煙草を挟んでいた。着ているのはパジャマだけだ。髪の毛がかすかに濡《ぬ》れていた。
「はやかったわね」
投げやりな言葉を吐いて家麗は背中を向けた。
「死体はだれにも見つからないところに埋めてきた。もう、安心していい」
秋生は家麗の後を追って部屋の中へ入った。テーブルの上にブランディのボトルとグラスがあった。半分溶けかけた氷。底に溜《た》まった琥珀《こはく》色の液体。灰皿には吸い殻の山。
家麗がソファに身体を投げ出した。血走った目が秋生を見据えていた。
「あいつはなんていってたの?」
「あいつ?」
「劉健一よ」
腹の中が冷えていく。あいつ――劉健一のことを家麗は何度もそう呼んだ。突き放すような声だった。口にしたくない相手の名前を口にする時のような声。家麗は劉健一をよく知っている。劉健一を憎んでいる。なにがあったのか? 放たれることのない問い。飲み込むしかなかった。
「別に。なにも問題はないよ」
「嘘《うそ》よ。なにかいってたはずだわ……あいつが、なにもいわないはずないもの。わたしのこと、なにかいってたでしょ」
家麗はひっきりなしに煙草を吸った。なにかを怖れている。劉健一の笑い顔が脳裏に浮かんだ。
「なにもいってない。本当だ。小姐、酔ってるだろう? だからどうでもいいことが気になるんだ。今日はもう、寝るといい」
「秋生」家麗が立ち上がった。切実な眼差しで近づいてくる。秋生は動けなかった。「本当のことを教えて。あいつ、なんていったの? あなたになにをしろっていったの? わたしを殺せって?」
「小姐……」
「いやよ、秋生。わたしを殺さないで。お願い」
掛け値なしの怯えが伝わってきた。眩暈《めまい》に似た感情が襲ってきた。劉健一と家麗の間になにがあるのか。劉健一のなにに、家麗はこれほどまでに怯えているのか。
「そんなことはしない。おれは小姐のボディガードだ。小姐を守るのが仕事だ。殺したりはしない」
家麗の肩が震えていた。手を回した。抱きしめた。肉の柔らかさと温もり。獣じみた欲望が頭をもたげた。真紀の顔がよみがえった。
「小姐、おれが守ってやる。劉健一だろうとだれだろうと、小姐を傷つけるやつはおれが殺してやる。だから、教えてくれ。どうして劉健一にそんなに怯える? あいつになにか弱みを握られてるのか?」
家麗は答えなかった。股間《こかん》を柔らかい手が覆った。すぐに固くなる。真紀を犯した時のように。殺しの仕事をする時のように。
家麗が床に膝《ひざ》をついた。ベルトが外され、ズボンがおろされる。
「怖いのよ、秋生。忘れさせて」
ごまかされている――わかっていた。家麗も劉健一も同じだ。秋生を利用しようとしている。だが、ペニスに覆い被さってくる柔らかく濡れた感触がすべてを消し去った。頭の中にあるのは真紀の顔。洪行をしゃぶっている家麗の姿。
ペニスを覆う感覚が消えた。家麗が顔を上げていた。
「秋生、汗臭いわ。でも、いやな匂いじゃないわね」
押し倒した。パジャマと下着を剥《は》ぎ取った。乳房を握り締め、尖《とが》った乳首にむしゃぶりついた。そのままペニスを濡れた襞《ひだ》の中に突き刺した。
「可愛《かわい》いわ、秋生」
家麗が温かく柔らかく秋生を締めつけてきた。
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腕の中に家麗の寝顔があった。安らかな寝息。肌の温もり。嘘とごまかしは微塵《みじん》もうかがえない。
ごまかし――家麗は劉健一を怖れている。弱みを握られている。弱みとはなにか? 洪行になにをネタに脅されていたのか。そして、車の男。どこの誰で、なんのために家麗を見張っていたのか。
わからないことが多すぎた。
家麗が寝返りをうった。剥《む》き出しの白い背中。無防備にさらけ出されている。
暖かい感情が広がっていく。騙《だま》されていてもかまわない。なにをごまかされてもかまわない。家麗を守る。ただ、それだけのことだ。
電話が鳴った。家麗が跳ね起きた。ベッドサイドに電話の子機。家麗が先に手を伸ばした。
「もしもし? そう。楽家麗だけど……あなた、誰?」
家麗の背中が強張った。
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苛立《いらだ》ちが募る。寝不足のせいだった。唐平を殺した足で、滝沢は大久保へ向かった。朱宏の女――楽家麗の電話番号を探らなければならなかった。それに、盗聴テープ。だれかに、内容をまとめさせなければならない。
盗聴テープは堅気の留学生に任せた。ほんの少し金を握らせるだけでよかった。楽家麗の電話番号は、そう簡単にはいかなかった。脅し、なだめ、金を握らせた。蔡子明がいれば、もっと楽だったはずだ。
蔡子明。小心者のチンピラ。目を輝かせてどこかに消えた。新しい獲物を見つけた気になって有頂天だ。もっときつく釘《くぎ》を刺しておくべきだった。
謝圓と楽家麗。人戦の活動家と上海マフィアのボスの情婦。きな臭い。そこに近づくなと勘が告げている。
サウナで仮眠を取った。清々しいとはいえない目覚め。楽家麗に電話を入れるため、携帯電話を取り出した。バッテリが切れていた。公衆電話を求めて外へ出た。苛立ちが募った。
くしゃくしゃに丸められたメモ。仕事を終えて飯を食っていた売女から聞きだした電話番号が書かれている。女は家麗と同じ店で働いていたといった。かたやマフィアのボスの情婦。かたや、相変わらずの売女。売女は家麗を怖れていた。
小滝橘《おたきばし》通り沿いの電話ボックスで電話をかけた。
「もしもし?」
不機嫌な女の声がした。
「楽家麗さんか?」
「そう。楽家麗だけど」
「夕べ、そちらの部屋で起きたことについて話がしたいんだがな」
「あなた、誰?」
電話の向こうで女が息をのんだ。身震いしたくなるような反応だった。
「もう一つ。人戦の謝圓って男のことも聞かせてもらえると助かるな」
「だれ? そんな人、知らないわ」
弱々しい抵抗。笑い飛ばす気にもなれなかった。
「諦《あきら》めろよ、楽家麗。夕べ、あんたの部屋で洪行って男が殺された。殺したのがあんたなのか、それとも秋生って男なのかは知らないがね。それに、あんたは人戦の謝圓って男が姿をくらましたことにも関係してる。しらを切るならそれでもいいが、その場合、おれは朱宏に話を持っていかなきゃならなくなる」
「あんた、誰なのよ?」
「おれは話を聞かせてもらいたいだけだ。あんたをどうこうしようって気はない。そうだな……」視線を泳がす。周天文の顔が頭に浮かんだ。売女とホモ野郎を同時にいたぶる。悪い考えではなかった。「桃源酒家《タオユェンジゥジァ》を知ってるか?」
「ええ」
「そこに、今夜、六時だ。あんたの名前で予約を入れておく。下手な真似はするなよ。おっかない流氓がぞろぞろやってきたら、おれは逃げる。もちろん、その後であんたのいたずらが朱宏にばれる」
「わかったわ」
苛立ちはおさまっていた。吐きだすような楽家麗の声も耳に心地よかった。
同じ公衆電話で蔡子明の携帯にかけた。繋《つな》がらなかった。テレフォンカードの残り度数が少なくなっていた。携帯電話のバッテリーを調達しなければならなかった。
滝沢は大久保通りを戻ってホテル街へ向かった。コロンビア女たち――立ちんぼの姿はない。あたりをぶらつく。自転車に乗ったコロンビア人を見つけた。
「ロドリゴ」
ロドリゴが自転車を停めて振り返った。怪訝《けげん》な顔。それが嫌悪を伴ったばつの悪い表情に変わった。
「滝沢さん。どうした? ぼく、なにも悪いことしてないよ」
「携帯電話のバッテリを取り替えてくれないか」
ロドリゴ――彫りの深い顔に浅黒い肌。縮れた髪の毛を肩まで伸ばしている。ポン引きだ。しかも、滝沢と同じ型の携帯電話を持っている。
「バッテリの二つや三つ、部屋に帰れば転がってるんだろう。頼む」
ポン引きは顔をしかめた。
「滝沢さんに貸したバッテリ、いくつと思う?」
ママチャリの籠《かご》の中のバッグからロドリゴは器用に予備のバッテリを取り出した。その手が途中で凍りついた。視線は滝沢の背後に注がれていた。
「真っ昼間からこんなところでなにをしてるんですかね、滝沢の旦那《だんな》」
甲高い声でわかった。尾崎――新誠会の若頭。
「尾崎さん、おはようございます」
ロドリゴが何度も頭を下げた。滝沢はゆっくり振り返った。尾崎はひとりだった。ブランド物のシャツとパンツ。首と手首からぶら下がった大量の光物――それがなければ、やくざには見えなかった。
遠沢に渡した新誠会のシャブ。悪寒が全身に広がった。
「もう、旦那はやめてくれ。それより、あんたこそこんな時間になにをしてるんだ?」
「耳に入ってるとは思いますが、ごたごたがありましてね。ストレスが溜《た》まってたもんで、パツキンのねえちゃんを買って、しけこんでたんですわ。ま、パツキンといっても、染めもんですがね」
「若いのもつけずに?」
「買った女とおまんこするのに、若いもんの時間、使うわけにはいかんでしょうが」
尾崎の薄笑いはいつ見ても好きになれなかった。
「滝沢さん、これ、どうする?」
掠《かす》れた声がした。ロドリゴは途方に暮れた顔をしていた。
「悪いな、ロドリゴ」
滝沢はバッテリを受け取った。
「ぼく、これで失礼するよ。尾崎さん、また、よろしくお願いします」
ロドリゴは逃げるように自転車を漕いでいった。
「携帯のバッテリをコロンビアのポン引きから脅し取ってるんですかい?」
「借りただけだ」
また、薄笑い。腹の辺りがちくちくした。拳《こぶし》を握った。
「どうです、旦那。せっかく会ったんだから飯でも食いましょうや。もちろん、奢《おご》らせてもらいますぜ」
値踏みするような目と薄笑い。断れるはずもなかった。
尾崎が案内したのは歌舞伎町の焼肉屋だった。焼けた肉の匂《にお》いが荒れた胃にこたえた。
「……なにいってやがんだ、馬鹿野郎。シャブをパクられてから何時間たってる。指だけじゃなく、首も切り落とすぞ、こら」
尾崎は携帯電話に向かって怒鳴っていた。相手は伊藤だ。
尾崎との遭遇。偶然か? それともなにかを掴《つか》んでいるのか? 尾崎の表情からはなにもうかがえない。冷や汗が流れた。
「まったく。どいつもこいつも使えねえやつらばかりだ」
「伊藤か?」
「あの馬鹿、どこかの馬の骨にシャブをパクられましてね。おかげでこっちは睡眠不足ってやつですわ」
「量は?」
「たいした量じゃないんですがね、こっちにも面子ってやつがある」
「ホシの目星はついてるのか?」
「さてね。旦那、なにか聞いちゃいませんか?」
心臓が収縮した。
「いや。なにか耳に入ったら知らせるよ」
「ま、辛気臭い話はやめにして、ぱーっと食いましょうや」
旺盛《おうせい》な食欲。見ているだけでげんなりしてくる。食欲と性欲、それに闘争本能。この三つは根っこのところで繋がっている。それが尾崎の信条だ。噂《うわさ》で耳にした。食事の席で、尾崎はだれかれかまわず食い物を勧める。物を食わないやつは根性がない。信用できない。事実、伊藤をはじめ、尾崎の周りの若い連中はみな象のような胃袋を持っているという話だった。
「食わないんですか、且那?」
「食うよ」
食欲はなかった。だが、尾崎になめられたくもなかった。くだらないプライド。犬にプライドなど必要ない。餌《えさ》の匂いを嗅《か》ぎ分ける嗅覚《きゅうかく》があるだけでいい。
「ところで旦那、警察を辞めて、どれぐらいになりました?」
「二年だ」
「もうそんなになりますか。防犯の滝沢が警察を辞めるって聞いたときにゃ、ここらの極道はみんな驚いたもんですがね。時が経つのは早いもんだ」
「おれが馘《くび》になった時には、あんたは刑務所の中にいたはずだ」
「そうでしたかね」尾崎は臆《おく》しもせずに肉を口に運んだ。「ま、ムショとシャバを行ったり来たりの渡世ですから、よく勘違いもしますわ」
「そうだな。あんたが刑務所にいる間に、新宿が中国人どもに乗っ取られたんだ」
「まったく、クズ野郎どもが。目障りでしょうがねえや……」
尾崎は箸《はし》を動かす手をとめた。
「しかし、こうなっちまったらもうどうにもならんだろう」
「旦那、ここは日本でしょうが。なんだって外人にでかいツラさせなきゃならねえんです?」
「おれはその外人のために働いてるからな。なにもいえない」
粘つく視線。尾崎はじっと滝沢を見つめていた。目をそらしたかった――堪えた。
「旦那、なんだって中国人なんかのために働いてるんです? 新宿署防犯の滝沢といえば、悪党ってことで随分名が売れてたじゃねえですか。もし旦那が仕事を世話してくれといってきたら、ウチだけじゃねえ、どこの組だって旦那と盃《さかずき》を交わしたはずだ。なにしろ、鈴木の旦那はまだ警察に残ってるんだ。そのパイプはでかい。旦那はね、おれたち極道にとっちゃ、喉《のど》から手が出るほど欲しい人材だったんですぜ」
「いまさらおれにお世辞をいってどうする。怖くなってくるな、尾崎さん」
「正直なところ、話しちゃくれませんか」
「女が中国人だったからだ。それだけのことだ」
「その話には乗れねえな。女なんか、掃いて捨てるほどいるんだ。縛ろうが鞭《むち》で打とうが浣腸《かんちょう》突っ込もうが、絶対逆らわない女、うちら、いくらでも用意できますよ」
滝沢の趣味。だれもが知っている。怒りはなかった。諦めと理解があるだけだった。理解――崔虎に変態と罵《ののし》られた時の怒りは中国人に蔑《さげす》まれたことに対する憤りだったのだ。
「それを旦那は蹴《け》って、中国人なんかに顎《あご》で使われてやがる。だれだって理由を知りたくなる。そうでしょう?」
「警察も極道も一緒だ。日本の社会はおれの肌に合わない。特に上下関係ってやつだ」
「中国人の間にはないんで?」
「表向きはある。だが、流氓の世界じゃなくなってるな。金と力を持てば、へたな小細工や根回しをする必要がない」
「そんなことをいったって、旦那、中国人にへいこらしてるんじゃしょうがないでしょうが」
「意外と楽なもんだよ。それに、少なくとも極道の下で働くよりは金になる」
「今のは聞かなかったことにしますよ、旦那」
尾崎は箸を動かしはじめた。ふいに滝沢に興味がなくなったとでもいうようだった。
「少し聞きたいことがあるんだがな」
滝沢はキムチに箸をのばした。塩辛いだけだった。
「なんですか?」
「こないだ、大久保で中国人が殺されたの、知ってるか?」
「聞いたような気がしますがね」
「殺されたのは、北京マフィアの幹部だ。そいつは、独自にパチンコのプリペイドカードを変造してた。なにか、聞いちゃいないか?」
「そういや、田宮がぶちぶち文句垂れてましたね。中国人のやつらが勝手にカードを動かしてるってね」
田宮。新誠会の中堅どころだ。大学を中退したインテリやくざで金の計算に強いのを買われて出世した。
「田宮はなにか掴《つか》んでそうか?」
「なにを?」
「中国人が変造カードを作ってたルートかなにか」
「さぁてねぇ、今度聞いておきますよ」
「おれが直接|訊《き》くことはできないか?」
「無理だね。いったでしょうが、今、うちはごたごたしてるんだって」
なにをしても無駄だ。そういう口調だった。
「他の組のやつはどうだ?」
「自分で当たってみちゃどうですかい?」
「ああ、そうするよ」
それ以上話すことはなかった。肉の焼ける匂いが神経を逆撫《さかな》でにする。尾崎は熱心に肉をつついていた。尾崎の腹が満ちるのを待った。
「そういえば、旦那。夕べ遅くに、うちの若いのが新宿署に傷害で引っ張られましてね。いやなに、堅気をちょっとど突いただけらしいんですがね」
探るような視線。口には肉の塊。これが本題だったのだ。
「マル暴に探りを入れたら、鈴木の旦那の肝いりらしいんですわ」
「それがどうした?」
「極道はね、けじめをきっちりとらにゃ、生きていけんのですわ。余計なことされると、下手な勘繰りする連中もでてきますわな」
「なにがいいたいんだ?」
「元デカだからって、調子に乗ってるんじゃねえっていってんだよ」
声だけじゃなく顔つきも変わっていた。ぎらついた目。やくざの本性が剥《む》き出しになっていた。
胃が痛んだ。心臓がでたらめな鼓動を刻んだ。すべてを抑えこんで尾崎の視線を受けとめた。
「コロンビアのポン引きを脅してるようなせこいやつがうちのシャブをパクったとはいわねえ。だが、しばらくはこの辺りをうろちょろするなよ、旦那。目障りになると埋めちまうからな」
「ごちそうさん。面白い話だった」
滝沢は席をたった。背中に尾崎の視線が突き刺さった。
金を掴んで新宿を出なければならない。できるだけ早く。
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蔡子明に電話――今度はつかまった。
「なにをしてるんだ?」
「寝てたよ。夕べはずっと起きてたから。寝ないと死んじゃう」
「今すぐ出てこい。シャブ中をつかまえて話を聞くんだ」
電話に向かって怒鳴っていた。神経がささくれ立っていた。怯《おび》えと焦り。シャブのパケが脳裏に浮かんだ。すぐに振り払った。楽家麗から金をせしめるためには、秋生という男を出し抜かなければならない。シャブでラリっている場合ではなかった。
滝沢は地下通路を使って西口へ出た。撤去されたホームレスのねぐら。そこに設置された自動走路。なにもかもが狂っている。次郎は角筈《つのはず》あたりの高架の下をねぐらにしているはずだった。
都庁と、器用に組み立てられた段ボールのコントラストを背景に、次郎はカップ麺《めん》をすすっていた。
「滝沢さん、珍しいじゃないですか。こっちまで出張って来るなんて」
でかくて筋肉質の身体。とても浮浪者には見えなかった。昔警官だったこともうかがえなかった。次郎は四谷署勤務だった――おまわりだった頃の次郎は、顔を何度か合わせたという程度の知り合いだった。
「遠沢から仕事を頼まれてるだろう?」
「えっと、テープの回収をね」
「回収したテープは、今度から遠沢じゃなく、別のところに運んでくれ」
留学生の名前と働いている店の名前を教えた。
「あれ、滝沢さんの仕事だったんですか」
「崔虎に頼まれた仕事だよ」
滝沢は次郎の横に腰をおろした。煙草をくわえた。気分が和んでいた。警察を追われ、堅気の社会にも馴染《なじ》めない者同士――くだらない感傷だった。
「よく中国のやくざなんかのところで働けますね」
「成り行き任せだ。仕方がない」
「なんてのかな、考え方が違うでしょう。おれたちと。疲れません?」
「日本人と仕事をする方が疲れる。それに、歌舞伎町で一番金を持ってるのは中国人だ。あとは、警察だな。おれが中国人とつるんでる分にはやつらは目をつぶる。だが、やくざとつるむと――」
「脅しにかかりますね。元警官が暴力団となんとかってね、新聞やテレビで叩《たた》かれたら困りますもん。あいつら、辞めたおまわりには徹底して冷たいからな……でも、今から考えると、まだマシでしたよ。劉健一って故買崖、いるでしょう?」
煙草の灰が落ちた。
「あいつがどうした?」
「昔ね、よくあいつから仕事回してもらってたんですよ。たいした仕事じゃないですけどね。あいつ、日本人の血が入ってるし、こすっからくて信用できないけど、なんとなくね、大丈夫だと思ってたんですよ」
「それで?」
「何年か前に凄《すご》い抗争があったでしょう? 中国人同士の。あの後あたりからかな。あいつ人が変わったようになってね」
「どんなふうに?」
「すっかりなに考えてるんだかわからない中国人ってやつになっちまったって感じかな。それ見て、思ったんですよ。おれもこうやってずるずるしてると、劉健一みたいになるのかもしれないって。人が信じられなくなるんですよ。人を騙《だま》すことしか考えなくなるんですよ。日本人って、ほら、そこまでいかないじゃないですか。どんな悪いやつでもね。警察だってそこまで酷《ひど》くはない。だけど、あの街で中国やくざとつるんでると、駄目なんですよ」
「なるほどな」
「中国人がみんなそうだってわけじゃないですよ。おれ、堅気の中国人も知っているし、いいやつもいっぱいいる。だけど、やくざはだめですよ。日本のやくざよりずっと質が悪い」
「おれはどうだ? おれも劉健一みたいに変わったか?」
「おれ、昔の滝沢さん、知らないですから。悪だったってのは聞いてますけどね」
どうでもいいような答えだった。滝沢は煙草を踏み消した。
変わってはいない。確信があった。人を信じない、信じられない――昔からそうだった。なにかがあったからそうなったわけでもない。世間体だけを気にする母親、いてもいなくても変わらない父親。他人をこき使う連中と使われるだけの連中。くだらない世界。それを見ていただけだ。
「ま、その話は今度ゆっくり聞かせろよ。それより、劉健一のことでなにかおもしろい噂《うわさ》はないか?」
「死体を埋めたそうですよ」
「いつ?」
「もう、二、三週間前になるかな。龍夫ってのがいたんですよ、ここらの浮浪者でね。そいつがニヤついて大金を持ってた。とっちめたら、劉健一らしい男から仕事を請け負ったっていうんです。龍夫はその次の日、姿を消して、二度と戻ってこなかったんですけどね」
「どうしてそれだけで、死体を埋めたってわかるんだ?」
「龍夫、どこからかシャベルをかっぱらってきてたんです。それを持って出かけるのを見たやつがいるんです」
「なるほどな」
二、三週間前。瞼《まぶた》がひくついた。なにかが繋《つな》がりそうで繋がらない。
「龍夫も殺されたか、それとも東京には戻ってくるなってこっぴどく脅されたか。ま、わかりませんけどね」
「なにもしないのか?」
「なにをですか?」
「龍夫ってのがどうなったのか調べるとか、あるいは、劉健一に問い質すとか」
「どうして?」
「殺されたかもしらんのだろうが?」
「だからどうだっていうんです? 劉健一の仕事だって聞いたとき、おれはとめたんですよ。なのにあいつは行っちまった。自業自得ですよ」
「仲間なんだろう?」
滝沢は唇を噛《か》んだ。くだらない質問だった。次郎に冷めた表情で見返されただけだった。
「ただの顔見知りですよ、龍夫は。みんなそうです。滝沢さんも知ってるでしょう? ここらじゃ、自分の尻《しり》は自分で拭《ふ》くことになってるんです」
腰をあげた。潮時だった。
「つまり、日本人も中国人も変わらないってことだな」
「なんです、それ?」
「なんでもない」ポケットからくしゃくしゃの一万円を取り出した。「少ないが取っておいてくれ。テープの件、頼んだからな」
不満そうな次郎の顔を一瞥《いちべつ》して、滝沢は踵《きびす》を返した。
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蔡子明――荒れた肌。落ち窪《くぼ》んだ目。寝ていたというのはでたらめだ。ハイエナよろしく街をうろついていた。出世に繋がる匂《にお》いを探して。
「なにか見つけたか?」
「なんの話?」
「楽家麗のことを嗅《か》ぎまわってたんだろうが?」
「言いがかりだよ。あれから家に帰って寝たよ。でも、寝不足だから酷い顔している」
滝沢は蔡子明を睨《にら》んだ。弱々しい視線が滝沢からそれていった。
「ひとりのときにおまえがなにをしようと、おれの知ったことじゃない。だがな、子明、おれの仕事をおろそかにしたら、その時はおれも考えるぞ」
「大丈夫だって。滝沢さんは心配しすぎだ」
「だったらいいがな」
「それより、これからどうする?」
こすっからい目がきらりと光った。
「シャブ中を見つけて話を聞くんだ。最近、魏在欣のところでおろしてるシャブの質が落ちてるんじゃないかってな」
「こんな時間に? まだみんな寝てるよ。シャブ中ならなおさら……」
「叩《たた》き起こしてでも聞くんだ」
蔡子明が肩をすくめた。視界の端が赤く染まった。煙草をくわえた。神経をなだめた。蔡子明の背中を押して、滝沢は歩きだした。
乱れた髪。薄汚れたTシャツにスウェットパンツ。くたびれきった売女の顔。どこかで見かけたことがあるかもしれない。売女はドアから不機嫌な顔を覗《のぞ》かせて、蔡子明の質問に答えていた。訛《なまり》の強い北京語だった。滝沢にはまったく聞き取れなかった。
「なんといってるんだ?」
「魏哥に仕返しされるようなことはいえないって。さっきからそればっかりくり返してる」
蔡子明は苦りきった顔を滝沢に向けた。張り切ってはいても阿呆《あほ》は阿呆だ。
「魏在欣より崔虎のほうが恐いだろうといってやれ」
北京語のやり取り。売女の顔が歪《ゆが》む。なぜわたしだけが? そういっている。やがて、諦めが取って代わる。売女は話しはじめた。
「二ヶ月ぐらい前から、魏哥の手下が売ってるシャブの質が悪くなったって」
蔡子明が女の言葉をもどかしそうに訳した。
「みんな文句をいってるけど、日本のやくざから買うのは恐いし、コロンビア人は信用できないって。イラン人はすぐおまんこしたがるからだめ」
「値上がりはしてないのか?」
「それはないって」
三人のシャブ中。みながみな同じことを話した。間違いない。魏在欣はシャブをちょろまかしている。崔虎の金を横取りしている。だれかがそれを嗅《か》ぎつけた――張道明。だから、魏在欣は張道明を殺した。
なにかがしっくりこない。あまりにもうまくはまりすぎる。だが――。
張道明をだれが殺そうと知ったことではなかった。宗英の金を取り戻し、楽家麗から金をかすめとる。歌舞伎町からおさらばする。今動いているのは、下手に崔虎を刺激しないためだ。新誠会の尾崎。考えただけで気が滅入る。尾崎を牽制《けんせい》するためにも、崔虎とはべったりくっついていなければならない。そして――崔虎が怒りはじめたら魏在欣を差し出してやる。
崔虎の拷問を受ける魏在欣。イメージが浮かびあがった。頬《ほお》がゆるんだ。
「三人にはまだ見張りをつけてるんだな?」
「もちろん。おれ、仕事はちゃんとするんだよ」
「よし。陳雄につけている見張りを魏在欣の方に回せ」
「いいのかい?」
「いわれたとおりにするんだ」
陳雄はシロだ。だれにでもわかる。だが、陶立中はわからない。保険をかけておくべきだった。
ドアが閉まった。女が消えていた。鍵《かぎ》をかける音が聞こえた。
部屋に乗り込んで、女を痛めつける。強烈なイメージが頭に浮かんだ。そいつを拳の中に握りこんだ。
「行くぞ。夕べの三人の動きを確認するんだ」
「それは、おれがやるよ。滝沢さんは、別のことをすればいい。携帯電話で報告するから」
妙に素直な言葉。胡散《うさん》くさかった。
「さっきおれがいったこと、覚えてるか?」
「なに?」
「なにをしようとおまえの勝手だが、′おれの邪魔をすると……」
「わかってるよ。おれのこと、信じてよ」
信じられるわけがなかった。だが、楽家麗とのデートがある。楽しいデートとは思えない。蔡子明がいない方が都合がよかった。
「よし、電話はマメに入れろよ」
蔡子明の顔に笑みが浮かんだ。滝沢は肩をすくめた。
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受話器を握り締めた家麗《ジァリー》の背中の肌が粟立《あわだ》っていた。形のいい尻が小刻みに震えていた。
「だれからの電話だ、小姐?」
「友達よ」
家麗は受話器を置いた。ゆっくり振り向いた。顔が蒼醒《あおざ》めていた。
「小姐……」
秋生《チウション》はベッドを出た。家麗を抱きしめた。
「殺して」腕の中で家麗の呪詛《じゅそ》が響いた。「みんな殺して。もう、うんざりだわ」
深い哀《かな》しみ――背骨をとおって全身に広がった。
「だれを殺せばいいんだ? いってくれ、小姐」
家麗は答えなかった。
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再び電話が鳴った。家麗はうなずいて電話を切った。
朱宏《ヂューホン》が戻ってきた。家麗に会いたがっている。
念入りな身仕度――セクシィな下着、タイトなスーツ、化粧。胃の中で何かが暴れた。
「変なことは考えないでね」
「変なこと?」
「朱宏のことよ。変な嫉妬《しっと》はしないで。あいつとのことはビジネスなんだから。前にいったでしょ。あなたがうちのバーテンを殴ったときに。仕事の邪魔はしないで欲しいの」
「わかってる」
タクシーで下落合へ向かった。マンションの周りには胡散臭い中国人の姿が多かった。いつもの手順で部屋に辿《たど》りついた。
「お帰りなさい、あなた」
媚《こび》の滲《にじ》んだ声と仕種。家麗は朱宏に抱きついた。
「めかしこんできたな、小麗」
朱宏は北京語を使った。秋生に見せつけるように家麗の尻を撫でた。
「あなたのためよ。だって、向こうじゃろくな女がいなかったでしょ?」
家麗のビジネス――見ていることができなかった。
「まったくだ。仕事のためとはいえ、あんな田舎はまっぴらだな。うまいのは食い物だけだ。酒も女もどうにもならん」
「でも、わたしには都合がいいわ。あなたが浮気する心配、しなくていいもの」
「なんなら、検査してみるか? おれが浮気してたかどうかをな」
「仕事なんじゃないの?」
「一時間ぐらいどうってことはねえ」
朱宏の手が家麗の腰を抱いた。
「おう、おまえら、ちょっと目と耳を塞《ふさ》いでろ」ニヤついた目が秋生に向けられた。「郭《グォ》先生、すいませんが、こいつらと茶でも飲んでいてくださいや。すぐに終わりますから」
朱宏と家麗が奥の部屋――寝室に消えた。
怒り。嫉妬。妄想。殺意。あらゆるものが渦を巻いていた。
秋生は茶を啜《すす》った。朱宏の手下たちの話に相槌《あいづち》をうった。意識は寝室をさまよっていた。朱宏に組み敷かれる家麗。ろくでなしに犯されていた真紀の姿と重なった。怒りに目が眩《くら》みそうになった。ときおり、押し殺した呻《うめ》きが聞こえた。全神経が耳に集中した。やりきれなかった。頭に浮かぶありとあらゆるものを呪《のろ》った。それでも、妄想は消えなかった。
「郭先生、驚いたでしょう」
応接セットの向かいに座った上海人の声。秋生は我に返った。
「なにに?」
「うちの老板ですよ。なにも、こんなところでおっぱじめなくてもねぇ……」下卑た笑い。打ち明け話をするように、男の顔が近づいてくる。声が低くなる。「うちの老板、本当にあれが好きでね。それこそ時間が許せば四六時中女の尻《しり》を追っかけてるって口でして」
出っ歯の小男。秋生の態度におかまいなしで、話を続けた。
「女好きが悪いってわけじゃないんですがね、こっちの身にもなってもらいたいですわ。ま、我々より大変なのは、老板につきあわなきゃならん楽小姐ですがね」
「あんた、名前は?」
「ああ、わたし、賈林《ジァリン》といいます」
「賈林さん、おれはあんたたちの身内じゃない。そんな男に老板の下半身の話をするのはまずいんじゃないか」
「ま、そりゃそうですが、だけど、こういう話、嫌いな男いますか?」
うめき声が聞こえた。歪《ゆが》んだ世界、歪んだ奴《やつ》ら。もう、うんざりだった。腰に差した黒星。部屋に詰めている人間は五人。撃ち殺す。寝室に押し入る。家麗を連れて逃げる。
手が腰に伸びた――寝室のドアが開いた。さっぱりした顔つきの朱宏が立っていた。
「いや、恥ずかしいとこをお見せしましたな、郭先生。あっちじゃ、女っけがなくってね。溜《た》まってたもんで、もうしわけない」
黒星の銃把を握りかけた手を押さえて首を振った。
「気にしないでください。ボディガードは影のようなものですから」
「そういってもらえるとありがたい。これからも、あいつのことはよろしく頼みますよ」
朱宏が顎《あご》をしゃくる。若い男が小振りの湯呑《ゆの》みを運んできた。
「洪行《ホンシン》はどうした? おれが戻ってきたことは知ってるんだろうが」
洪行のものをしゃぶっている家麗。朱宏の顔を盗み見た。ただ、聞いただけ。他にはなにも見えない。秋生に対する興味も消えていた。
「女のところにでもしけこんでるらしくて、つかまらないんですよ」
賈林が答えた。小狡《こずる》そうな顔。卑しい表情しか浮かんでいない。
「あの野郎、おれがいねえとすぐこれだ。そのうち、やきを入れてやるからな」
北京語はそれでおしまいだった。朱宏たちは上海語で話しはじめた。よそ者には聞かれたくないビジネスの話――売春、博奕《ばくち》、ドラッグ、密入国。すべては金だ。だれもが金を手に入れたがる。秋生――欲しかったものは信頼。楊偉民がいつも与えてくれた。今はわからない。だれも信用できない。今欲しいものは家麗。だが、家麗も信用することはできない。なにかが狂っている。
話し声がやんだ。寝室から家麗がでてきた。入っていったときと何一つ変わってはいなかった。賈林の下衆な目つきをきっぱりと黙殺していた。
「じゃ、わたし、出かけるわ。今夜は店に顔を出す?」
「仕事で忙しい。もう少ししたらたっぷり可愛《かわい》がってやるから、それまで我慢しろ」
「わかったわ」秋生を見た。「秋生、行きましょう」
「朱先生、それでは、失礼します」
「ああ、よろしく頼みますよ、郭先生。そのうち、楊老爺《ヤンラオイエ》にも挨拶《あいさつ》に行きますから、よろしく伝えてくださいや」
「新宿の高島屋まで」
訛《なまり》のある日本語で家麗が告げた。運転手がバックミラーで家麗の顔を盗み見た。狭いタクシーの中、香水の香りがこもった。朱宏の匂《にお》いはきれいさっぱり消えていた。
「よく我慢したわね」
家麗の手が伸びてきた。秋生は握りかえした。
「いつもああなのか?」
「手下たちが側にいるのにわたしを抱くのかってこと? そうよ」
「よく我慢できるな」
「いったでしょ。それがわたしの商売だもの」
「小姐なら、もっとましなことができるはずだ」
「もっとましなこと?」冷たい笑い。「身体を使う商売以外、なにがあるっていうのよ。もっとましなことをいって、お願いだから。じゃないと、秋生のこと嫌いになるわ」
「朱宏を殺してやるよ」
「すぐには駄目よ。もっと金を絞りとってから」
「わかった」
抑えこまれた殺意。腹の底の方でそっと触ってみた。火傷《やけど》しそうなほど熱かった。
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高島屋で買い物と食事をした。〈鼎泰豊《ディンタイフォン》〉の小籠包――台北《タイペイ》のとほぼ同じ味がした。
うんざりするほどの人の群れ。久しぶりに秋生は神経を緩めた。これだけの人ごみの中で、事を起こそうとする馬鹿はいない。
東急ハンズで家麗がナイフを買った。刃渡り十数センチのフォールディングナイフ。シンプルだが、実用的。ハンドメイドで、十万円を超す値段だった。
「秋生、プレゼントよ」
「こんな高価なもの、受け取れない」
「このナイフで朱宏を殺して」
秋生はナイフを受け取った。
「帰りましょう。ちょっと疲れたわ」
部屋に入るなり、家麗は服を脱ぎはじめた。もどかしげな手つき。乱れた呼吸。家麗の興奮が伝わってきた。
「抱いて、秋生」
乳房が揺れていた。乳首が固く尖《とが》っていた。
「あいつはいつもわたしの全身を舐《な》めまわすの。秋生も舐めて。あいつの匂いを消して」
床の上。家麗の全身に舌を這《は》わせた。家麗の肌は昔食べた綿菓子を思い出させた。ただ一度の祭りの想い出。東京に来たばかりのころ、母親に手を引かれて近くの神社へいった。色とりどりの露店、神輿《みこし》のかけ声、盆踊りの和太鼓。なにもかもが驚きだった。幸せだった。幸せは長くはつづかなかった。
乳首を舌で転がした。濡《ぬ》れた亀裂《きれつ》に指を潜り込ませた。
「噛《か》んで、秋生」
家麗が喘《あえ》いだ。噛んだ。股間《こかん》は痛いほどに勃起《ぼっき》していた。
真紀。過去が突然よみがえる。うなじに舌を這わせ、耳に唇を寄せた。
「小姐、おれの初めての女は義理の姉だった……」
喘ぎがやんだ。
「それで、どうしたの?」
「姉は父親に犯された。血の繋《つな》がった実の父親にだ。おれは父親を殺した。それから姉を犯して、殺した」
「だからどうしたの?」
家麗の微笑《ほほえ》み。台北にいた頃の母親を思いだした。泣いてお互いを慰めたときの真紀を思いだした。
「秋生、そのお姉さんのことが好きだったのね」
なにかが弾けた。秋生は家麗の奥深くに突き立てた。
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* *
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気怠《けだる》い時間。ベッドの中、裸で抱き合っていた。
「お姉さんのことが忘れられないのね。どんな人だった」
「嘘つきで自分勝手だった」
「まるでわたしみたいじゃない」
「いや、小姐と真紀はそんなに似てない。それでも、小姐を見てると、真紀を思いだす。不思議だ」
「真紀っていうの?」
「ああ」
「ねえ、秋生。なにか話して」
「なにを?」
「なんでもいいから話して」
目を閉じた。記憶を手繰り寄せた。家麗が求めるものを見つけた。
「もうかなり前になる。台北で人を殺さなきゃならなかった。そいつは新興の幇《バン》のボスだった。ガードが固くてなかなか近づけなかった。そのうち、おれに殺しを依頼したやつらが、幇のナンバー二がホモだってことを探りだしてきた。おれはそいつに近づいた。日本にいてわかったんだ。おれはホモにもてる」
「女にももてると思うわよ」
家麗の目が輝いていた。
「そいつ――林《リン》って名前だった。林はすぐにおれのことが気に入ったみたいだった。おれはそれとない素振りで林の気を引いて、そいつらの幇に潜りこんだ。まだ若い幇だった。ボスが三十そこそこで、林が二十代後半だった。勢いはあったが賢くはなかった。外に対しては疑い深かったが、仲間を疑うことを知らなかった。おれは林にべったりくっついて、幇のために何人かを殺した。おれを胡散《うさん》臭いと思うやつはそれだけでいなくなった」
「待って、秋生。その林って男と寝たの?」
「ああ」
「男とするの、好きなの?」
「いや。仕事だったんだ」
「気持ちよかった?」
「わからない」
林。無口な男だった。いつも、暗い目でじっと秋生を見つめていた。笑うときは含羞《はにか》むように笑った。それが、敵対する幇に殴り込みをかけるときは、別人のように険しい表情になった。
「秋生はする方だったの? それともされる方?」
「両方だ。林ってやつはやられるのが好きだった。だが、殺しの前になると興奮してやりたがるんだ。わかるかい?」
「ええ。よくわかるわ。わたしも、朱宏がだれかを殺す相談をしてると、とても興奮する」
「林に聞かれたことがある。なんだっておれなんかと寝てくれるんだ、ってね。それは林にとっては切実な問題だってことがよくわかった。だから、おれは答えた。おまえが好きだからだ、と。林は子供みたいに喜んだよ。ホモだってことで肩身の狭い思いをしてたんだ。だれにも気づかれないように、自分の欲望を押し殺して生きていた」
「男同士で寝るなんて、信じられないわ」
「簡単だ。なにも考えなければいいんだ。刺激を受ければ勃起する。あとは相手がどうすればいいのか教えてくれる」
林のねっとりとした舌。絡みついてくる足。赤黒く勃起した股間。なにも感じなかった。真紀を殺したときの気持ちに比べればどうということはなかった。
「それで?」
「ある日、林とボスが二人っきりで、話し合いをすることになった。他の幇の風当たりが強くなって、対抗手段を考えなきゃならなかったんだ。おれは林から寝物語に二人が会う場所を聞きだした。それでおれの仕事はほとんど終わったようなものだった」
「殺したのね」
「二人が会ったのは、観光客用のホテルの部屋だった。おれは客室係になりすました。お茶ののったトレイを持って部屋に入って、バン、バン。おしまいだ。ボスは即死だった。頭を撃ったんだ。林は腹を撃った。だから、あいつは信じられないって顔でおれを睨《にら》んでいた」
「どうしてすぐ殺さなかったのよ?」
「教えてやりたかったんだ。おれが何者なのかを。林はいったよ、震える声で。おれを利用したのかって。おれはそうだと答えてやった。なぜ、とあいつはいった。仕事だから、とおれは答えた。おれのことが好きだったんじゃないのか、とあいつはいった。おれはもう一度答えた。仕事だって」
家麗は身じろぎもしなかった。秋生の腕の中、探るような目つきで秋生の顔を見つめていた。
「林は死んだ。絶望して」
「どうして、そんなことしたのよ?」
「知りたかったんだ。林はおれのことを愛していた。心の底から信頼していた。どうしてそんなことができるのか、不思議だった。他人を信じるなんてな。おれはいつも思ってた。だれかに信頼されたい、と。だけど、だれかを信頼したいと思ったことはないんだ。だから、信頼していた人間に裏切られたら、なにを思うのか、知りたかったんだ」
「わかったの?」
「いや。林はなにもいわずに死んだ」
「秋生はわたしのこと、信頼してないのよね。それでも、わたしのこと、好きなの?」
「ああ、小姐に信頼されたいよ」
「矛盾してるわ」
「それなら聞くが、小姐はおれのこと信頼できるか?」
家麗は首を振った。
「そう、小姐は信頼できないおれを利用しようとしてる。それと違いはない」
「わたしが秋生を裏切ったら、どうするの?」
「小姐を殺す。そして、また元の生活に戻る」
「ずいぶん勝手な言い草ね」
怒りのこもった口調。家麗はベッドを抜け出た。
「五時になったら出かけるわ。わたし、シャワーを浴びるけど、秋生も支度しておいて」
美しい背中のラインと柔らかく膨らんだ尻《しり》の曲線が固く強張っていた。
五時。魔都へはまだ早すぎる時間だった。
「こんな時間にどこへ?」
「人と会わなきゃならないのよ」探るような視線が向けられた。「もしかすると、殺してもらうことになるかもしれないわ」
「OK」
秋生は黒星を抜いた。弾丸を薬室に送り込んだ。
「いつでもいってくれ。小姐のためなら、江沢民《ジァンゾーミン》だって殺してやる」
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厨房《ちゅうぼう》からだれかの怒鳴る声が聞こえてきた。がらんとした店の中、チャイナドレスを着た女たちがテーブルの上に調味料のセットを乗せていた。
「いらっしゃいませ」
青いチャイナドレスの女が滝沢に気づいた。スリットから覗《のぞ》く長い脚。欲望をつつかれる。
拘束された女の姿。すぐに宗英のそれに代わる。滝沢は頭を振った。疲れている。目の奥がひりひりと痛んだ。
「周天文《ヂョウティエンウェン》はいるかい?」
滝沢の北京語に女は驚いたような顔を見せた。
「少々お待ちください」
女は厨房の奥に消えた。他の女たち――赤いチャイナドレスがふたり、青いのがひとり――は、ちらりと視線を向けただけ。黙々と働いている。
女を従えて周天文が姿を見せた。目には嫌悪の色。隠そうともしていない。
「なんの用だ?」
「個室を貸してもらいたい」
「だめだ。予約が入っている」
「周。ふざけるのはそれぐらいにしておけ。おれは気が短いんだ」
「知ってる。気が短くて、小心者だってな。女を縛らなきゃ役に立たないそうじゃないか」
視界が赤く染まった。爪《つめ》が掌に食い込んだ。
「もう一度いってみろ」
歯の隙間《すきま》から絞りだした声。自分でも聞き取りにくいほどかすれていた。
「まったく短気もいいところだ。ここでなにをするつもりだ? おまえになにができるというんだ?」
ホモ野郎の勝ち誇った顔。気がつくと、周天文の後ろに男がふたり立っていた。手に中華包丁を握っていた。
「くそ」
「うちの店には、あんた以上に気が短い連中がいるんだ。言葉遣いには気をつけろよ」
――クソ生意気なホモ野郎を殺せ。頭の奥でその言葉だけが谺《こだま》していた。
「個室を借りたいだって? だったら、それなりのいい方があるだろう。それともなにか? おれも縛っていうことを聞かせるつもりか?」
周天文。中華包丁を持った男たち。視界は赤く染まったままだった。滝沢は腰に差した特殊警棒を握りかけた。一対三。勝ち目はない。
「悪かった。いいなおそう。申し訳ないが、個室を貸してもらえないか」
「いやだ、といいたいところだが貸してやるよ。ただし、今回だけだ。二度とおれの前に顔を出すな」
「わかった。六時に女が来るはずだ。楽家麗。上海の朱宏の女だ。個室に通しておいてくれ」
「おまえは?」
「後でまた来る」
「そいつは了解した。一つ聞かせてくれるか? まさか、うちの個室で女を裸にして縛るわけじゃないだろうな?」
嘲笑《ちょうしょう》が響いた。それに耳を閉ざして店を出た――脚が震えていた。
憤怒の炎が内側から身体をじりじりと焙《あぶ》っていた。
腐ったホモ野郎め、殺してやる。心の中で呪詛《じゅそ》をくり返した。
周りを歩く人間たちが顔をしかめてよけていく。それで周天文に対する呪詛を口にだして呟《つぶや》いていることに気づいた。
「くそっ」
アルタの裏のゲームセンターが視界に飛びこんできた。滝沢はトイレに駆け込んだ。上着のポケットに手を突っ込んだ。ビニールの感触――シャブのパケ。結晶をナイフの刃先に乗せ、ライターで焙る。魔法の煙。鼻から思い切り吸い込んだ。
頭の中に光が広がった。力が漲《みなぎ》った。男根が固く勃起《ぼっき》した。
腐ったホモ野郎の周天文。ひとりじゃなにもできない。そのうち、殺してやる。思い切りいたぶりながら殺してやる。
固く勃起した男根がぴくりと痙攣《けいれん》した。
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六時五分前。靖国通りを歩く楽家麗を見つけた。その背後には影のように従う男――秋生がいた。眩暈《めまい》に似た感覚が滝沢を襲った。勃起したままの男根が熱をもってうずいた。
家麗が電話ボックスに入った。受話器を持ち上げる。だが、カードやコインは使わなかった。電話をかけているふり。秋生の鋭い視線がなにかを探していた。なにか――罠《わな》、襲撃者。いずれにせよ、プロの目つきだ。張道明を殺したのは秋生だ。間違いない。つまり、楊偉民が動いたのだ。なぜ? 答えはどこにも見つからなかった。
秋生が顎《あご》をしゃくった。家麗が電話ボックスからでてきた。今度は秋生を先頭に、ふたりは桃源酒家の入っているビルの中に消えた。
秋生の腰が膨らんでいた。拳銃《けんじゅう》を持っている。
恐怖はなかった。シャブがまだ効いている。煙草を取り出してくわえた。時間をかけて味わった。短くなった吸い差しを放り投げて、滝沢はふたりの後を追った。
エレヴェータで三階へあがった。キャッシャーに周天文がいた。
「個室は四階だ」
「わかってる。連中、なにか注文をつけなかったか?」
「注文?」
「楽家麗がひとりで来るはずだった。それなのに、男がついてきた。隠れる場所がないかとか、そういうことを聞かれなかったか」
「なにも。お茶を出しただけだ」
「料理の注文はなしだ。おれが呼ぶまで、だれも部屋によこすな」
「わかったよ」
エレヴェータは使わずに階段をのぼった。三つ並んだ個室の入口。一番手前のドア――秋生が立っていた。
「あんたは?」
柔らかい顔立ちに不似合いな鋭い目。滝沢の皮膚を抉《えぐ》って内側を探っていた。
「楽《ロー》小姐と約束した者だが。あんたは?」
「楽小姐のボディガードだ。悪いが身体検査をさせてもらえるか?」
「ふざけるなよ、おい。おれは楽小姐にひとりで来いといったはずだ。それがボディガード? おまけに身体検査をさせろだと?」
「それがおれの仕事なんだ」
「おれの知ったことじゃないな。どけ、おれは楽小姐と話があるんだ」
「おれがいいといわなければ、あんたは中には入れない」
滝沢は秋生を押しのけた。その手が流れた。秋生が横に動いていた。秋生の右手が動いた。次の瞬間、拳銃の銃口が滝沢にぴたりと向けられた。
「危ないものを持っていないかどうか調べるだけだ」
「そんなものを突きつけられて、信じられるか」
シャブが効いている――恐くはない。
「あんたが……」
秋生の口が動いた。それを遮った。中の楽家麗に叫んだ。
「楽小姐、こいつをどうにかしないと、あんたのいたずらが朱宏の耳に届くことになるぞ」
「秋生、入れてあげて」
冷たく尖《とが》った女の声が聞こえた。秋生が不本意そうに銃をさげた。
「入るぞ」
秋生に向けた言葉。反応はなかった。押しのけた。滝沢の右手と秋生の左肩が触れた。衣服の上から感じられる筋肉の束。足元にぽっかり穴が開いたような感覚に襲われた。
六人がけの丸テーブル。楽家麓は一番奥の椅子《いす》に座っていた。
「楽小姐。おれはひとりで来いといわなかったか?」
「いわなかったわ。わたしと話がしたいって、それだけじゃなかったかしら」
吊《つ》りあがり気味の目、通った鼻筋、薄い唇。着ているものは一流のブランド品。着ているのは一流の売女――楽家麗は平然と茶をすすった。
「それに、わたし、あなたが何者かも知らないのよ。一人で来れるわけがないわ」
ドアの閉まる音に振り向いた。秋生がドアにもたれかかっていた。銃が消えている。
「おれのことを知る必要はない。ことがややこしくなるだけだ」
「日本人でしょ、あなた」見下したような笑みが浮かんだ。「言葉がおかしいもの。調べれば、あなたの名前なんかすぐわかるわよ」
滝沢は楽家麗の向かいに腰をおろした。ポットから茶を注ぎ、口にする。首筋に秋生の視線を痛いほどに感じた。視線にこめられているのは殺意だ。
「調べたけりゃ、勝手に調べればいい。名前が知られたところでどうってことはない。それより、楽小姐、おれはあんたの話が聞きたいんだ」
「どんな話かしら?」
喰《く》えない玉だった。表情一つ変わらなかった。
「おれは昨日、ある男を尾行していた――」
「だれを尾行してたの?」
「そいつは後回しだ。とにかく、その男はあんたのマンションを見張っていた。この坊やもマンションの周りをうろついていたけどな」
後ろを見やった。きつく唇を噛《か》んだ殺し屋の顔が自分のうかつさを呪っていた。
「そのうち、別の男が現れた。洪行という男だ。知ってるだろう?」
「ええ。それで、洪行がどうしたの?」
「洪行はあんたのマンションの中に入っていった。その後をこの坊やが追った。しばらくすると、今度は劉健一《リウジェンイー》が現れた――」
「もういいわよ。洪行はわたしの部屋に来たのよ」
「洪行は死んだ。そうだな?」
「そうよ」
「だれが殺した? あんたか? それともこっちの坊やか?」
「おれだ」秋生の声。「おれが殺した」
「なぜだ? あんたは朱宏の女だ。それがなんだってやつの部下を殺す? あんた、あいつに弱みでも握られてたのか?」
家麗の表情が動いた。秋生にちらりと視線を飛ばした。ほんの瞬間の、無言のやりとり。滝沢は唇を噛んだ。
「そうよ。どうしてかしらないけど、洪行はわたしと秋生――この人の名前だけど――が寝てることを突き止めたらしいわ。それで、あの夜、私の部屋に来てこういったの。朱宏にばらされたくなきゃ、おれにもやらせろ。男のいうことなんかみんな一緒だけど」
でたらめだ。刑事の勘がそう告げた。
「それで?」
「そこに秋生が現れたのよ。秋生と洪行が口論になって、わたしは止めたんだけど……」
「つまり、この坊やはあんたにぞっこんってわけか?」
「そんなこと、わたしに聞かないで」
「あんたの話には穴がある――めんどくさいな、日本語で話してもいいか?」
「難しい話だと、よくわからないわ」
かなり訛の強い日本語だった。
「わからないときはおれが通訳してやる」
背後からの秋生の声。ほんの微かな訛があるだけだった。
「日本語がうまいな」
「長いからな」
張道明《ヂャンタオミン》たちをあっという間に殺した殺し屋。そいつが日本を拠点に活動している。信じられなかった。秋生の言葉が本当なら、日本の警察は中国マフィアに対してあまりにも無力だ。
「死体はどこに埋めた?」
秋生に訊《き》いた。
「知らない。どこかの山奥だ」
「どこだ?」
「知らない。知りたければ劉健一に訊け」
劉健一。なんのためにこの二人に関ったのか? 親切心などではない。なにかを企《たくら》んでいる。
「洪行は上海マフィアの幹部だ。そんなやつが、女の身体目当てだけに危ない橋を渡るとは思えん。本当のところを教えろよ。なにを要求された? あいつにどんな弱みを握られていた?」
秋生の通訳。楽家麗がうなずいて、口を開いた。
「あいつに脅されたのは秋生とのことだけ。他に何があるっていうの?」北京語の答え。「それは別にして、洪行はわたしの身体以外にお金を要求したわ」
「いくらだ?」
「一億」
「あんたの話は全部でたらめだ」
「全部、本当のことよ。洪行が死んだことが知られたら、わたし、朱宏に殺されるわ。どうして嘘《うそ》をつかなきゃならないのかしら?」
足元が覚束《おぼつか》ない嘘。だが、突破口が見つからなかった。
「もう一つ聞かせてくれ。おれが昨日尾行してた男ってのは、人戦のメンバーだ」
秋生の通訳に耳を傾けていた楽家麗の表情が揺れた。
人戦――突破口。
「謝園《シェユェン》という男が数週間前に姿を消した。人戦の連中は謝圓を探してる。それで、あんたに張り付いてたんだ。謝圓はどこにいる?」
「知らないわ」
「謝圓は知ってるんだな?」
楽家麗はうなずいた。
「どういう関係だ?」
「兄の友達よ」
「兄?」
「そう。わたしの兄は北京の大学に行ったの。そこで謝圓と知り合ったのね。兄はときどき謝圓を上海に連れてきたわ。でも、天安門の事件があって――兄と謝圓はあそこにいたの。兄は解放軍に殺されたわ。謝圓は行方不明になった。死んだか牢獄《ろうごく》に繋《つな》がれてると思ってたんだけど、新宿でばったり再会したというわけ」
天安門――こいつは嘘じゃない。そんな気がした。
「それだけよ。懐かしいから……兄の話が聞きたくて、ときどき食事をしたわ」
「最後に会ったのはいつだ?」
遠くを見つめるような目つき。一瞬、無防備な楽家麗がさらけ出された。
「二週間ぐらい前かしら。喫茶店でお茶を飲んだわ」
「どこの喫茶店だ?」
「小田急デパートの中……名前は覚えてないわ」
血まみれの坂上が漏らした言葉と一致する。
「なにを話した」
「世間話よ。景気が悪いとか、だれかが故郷に帰っただとか」
「どこかに行くという話は出なかったか?」
「なにも。いつもと変わりなかったわ。ねぇ、あなたみたいな日本人がどうして謝圓の行方なんか探してるの?」
「借金の取り立てだ」
「いくら?」
「あんたの知ったことじゃない」
「わたしが出してあげる」
「なんだって?」
滝沢は聞き返した。楽家麗の顔を見た。楽家麗は怯《おび》えてはいなかった。焦ってもいなかった。平然と滝沢を見つめていた。
「口止め料を払うわ。それに、あなたが謝圓に貸したお金も。だから、洪行のことも謝圓のことも忘れてちょうだい」
「そんなことをされると、妙な勘繰りを抱きたくなるな」
「どう思っても構わないわよ。わたしはただ、これ以上面倒なことに巻き込まれたくないだけ。それで、いくら払えばいいの?」
考えた。
歌舞伎町を出る金。新しい女を探す金。次の仕事を見つけるまでの繋ぎの金。二千万。欲をかくと命を失いかねない。妥当な金額だ。
「二千万ってところだな」
「それだけでいいの?」
「あまり欲張ると、この坊やに撃たれる。そうだろう?」
楽家麗は微笑《ほほえ》んだ。
「とりあえず、少しでいいから手付け金をもらえるかな。今、ここで」
微笑みが消えた。楽家麗は無表情なまま財布を取り出した。
「今はこれだけしかないわ」
札の厚み――十万から二十万の間というところ。滝沢は手を伸ばして受け取った。
「悪いな、楽小姐。近いうちに連絡を入れる。聞きたいことがまた出てくるかも知れんしな。金の受渡し方法はそのときまでに考えておく。用意だけしておくんだな」
札をしまい込んで立ち上がった。秋生がドアを開けた。視線がぶつかった。侮蔑《ぶべつ》と憎悪。秋生の目の色から読み取れたのはそれだけだった。
哀《かな》しみが胸に満ちた。狼狽《ろうばい》した。滝沢は足早に個室を出た。
闇《やみ》に覆われた新宿。ネオンが空虚に光っている。
哀しみの尻尾《しっぽ》がまとわりついている。
なぜだ? あんな目つきで睨まれたからといって、なぜこんな気持ちにならなければならない?
刑事だった頃、あんな視線には慣れっこだった。刑事はただでさえ嫌われる。滝沢は悪徳刑事だった。だれからも好かれなかった。刑事を辞めてからも同じだ。滝沢の本性。だれもが知っていた。どんな目で睨まれようと、どう思われようと知ったことじゃなかった。
それなのに秋生の視線でみっともないほどに動揺している。
なぜだ?
わからなかった。頭の芯《しん》が重かった。
シャブ――束の間の魔力。効き目がすっかり失せていた。
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男が消えた個室には甘酸っぱい香りが漂っていた。シャブの匂《にお》い。あの男は危険だ。
「殺そうか?」
「まだ駄目よ」
細められた目。家麗はなにかを考えている。
「あいつのこと、よく調べなくっちゃ。日本人のくせにわたしたち中国人のこと、知ってるわ。後ろにだれかがついてるのかもしれない」
「劉健一に訊けばすぐにわかる」
「あいつはだめよ」切迫した表情だった。家麗は劉健一に怯えている。「お願い、秋生。あの男をこれ以上関らせないで」
「この街に他に知り合いがいないんだ。老爺に聞くわけにも行かないし……」
「わたしが調べるわ」
「大丈夫か?」
「任せて」
それ以上はなにも訊けなかった。
「その時が来たらいってくれ。確実に殺してやるから」
晩飯の時間――家麗は食欲がないといった。そのまま魔都へ向かった。酔っ払いたちで賑《にぎ》わうにはまだ早すぎる時間の家麗の到着に女たちが驚き、慌てた。
無為の時間が過ぎていく。家麗は女たちと駄弁《だべ》っていた。いつものカウンターの隅。秋生は家麗に目を配りながら考えた。
あの日本人――たどたどしいが、なんとか通じる北京語。落ち着きと苛立《いらだ》ちが入り交じった仕種。シャブの匂い。飢えて追い詰められた野良犬の目をしていた。間違いない。カリビアンの入口ですれ違った男だ。劉健一なら何者なのかを知っている。
情報。
日本人は車で家麗を見張っていた男を尾《つ》けていた。車の男――人戦のメンバー。どこへ消えたのか?
推論。
洪行が現れたのを見て、どこかへ消えた。あるいは、日本人が殺した。理由。情報を得るため。
情報。
日本人は家麗が洪行に脅されていたと考えている。
推論。
日本人の考えは正しい。だが、なにを脅されていたのか、確かめる術はない。
情報。
日本人は謝圓という男を探している。謝圓は人戦のメンバー。家麗と謝圓は顔見知り。
推論。
なにかが起こっている。その中心にいるのは家麗。
情報。
家麗は劉健一を恐れている。
推論。
家麗は劉健一になにかを握られている。脅されている。
結論。
家麗を守る。劉健一に会いに行く。話を聞く。場合によっては劉健一を殺す。たとえ、家麗が反対しても。
顔を赤らめた酔っ払いたちが姿を現した。時計の針は九時過ぎを指していた。間延びしていた店内の雰囲気が、偽りの華やかさに取って代わられた。
女たちに目配せする家麗。客に愛想をふりまく家麗。いつもの顔。いつもの仕事。
秋生はバーテンを呼び寄せた。
「ちょっと出かけてくる。店が終わるまでには戻ると、楽小姐に伝えておいてくれ」
インタフォンを押した。
「はい、カリビアンっすけど……あー、うち、一見《いちげん》さん、お断りなんすよ」
返ってきたのは聞きなれない日本語だった。
「劉《りゅう》さんはいないのか?」
「あ、健一《けんいち》さんのお知り合いすか。いま、出かけてるんすよ。十一時過ぎには戻ってくると思うけど。それでもよかったら飲んでいきます?」
「いや、また来るよ」
風林会館の中で公衆電話を見つけた。頭に刻みこんだ番号をプッシュする。
「はい?」
「おれだ、秋生だよ」
「どうした?」
「聞きたいことがあるんだ」
忍び笑いが聞こえた。
「あの女のお守りはどうした?」
「魔都にいるかぎり、小姐に変なことをしようとするやつはいない」
「たいしたボディガードだな」
「そんなことより、今すぐ会いたいんだ」
「そいつはまずいな。おれとおまえが話し込んでるのを知ったら、楊偉民《ヤンウェイミン》が怒りだすぞ」
「おれの知ったことじゃない。これは商売だ。おれは金を払う。あんたは情報を売ってくれ」
「わかったよ。仲のいいところをせいぜい楊偉民に見せつけてやろうじゃないか」
地の底から響いてくるような笑い声。劉健一の悪意が伝わってきた。
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職安通りを渡って牛丼屋の脇《わき》の路地を入った。劉健一が口にしたマンションが見えた。
エントランスでインタフォンを押す。すぐに北京語が返ってきた。
「劉健一と約束してるんだが」
出入り口のロックが外れた。
なんの変哲もない中級マンションだった。エレヴェータで四階へ。四〇五号室の前に立つと、ノックをする前にドアが開いた。煙草の煙、麻雀|牌《パイ》をかき回す音、歓声と罵声《ばせい》。どこか湿った熱気が押し寄せてきた。
「こちらへどうぞ」
ドアを開けた男がいった。視線で秋生を値踏みしていた。スーツでも隠しきれない筋肉の動き、抜け目のない仕種。賭場《とば》の用心棒にはぴったりの男だった。
男の後についてリヴィングを抜けた。部屋の間取りは二LDK。リヴィングはかなり広かった。そこに麻雀卓が三つ、ミニバカラの卓が一つ、たてられていた。客は二〇人を少し超えたところ。飛び交っているのは北京語。男と女。黄色と褐色。流氓《リウマン》、売女、堅気。みな、血走った目で牌やカードの行方を追っていた。欲望の粘膜に覆われて、部屋は息苦しいほどだった。
通されたのは六畳ほどの広さの部屋だった。ソファベッドと応接セット。応接セットに、劉健一と小柄な中国人が向き合って話し込んでいた。
「ちょっと待っててくれ」
劉健一はそれだけいって、小柄な中国人との話を続けた。
「だから健一よ、おれはこれ以上はごめんだって」
小柄な男が話すたびに、口にくわえた煙草から灰が飛んだ。
「馬鹿いうな。あんなやつになにができるっていうんだ? よく考えろよ。あいつは尻《しり》に火がついてるんだ。うまく切り抜けるか殺されるかしかない。もっと突ついてやれば、それこそどうしようもない状態になる。あんたのことを気にかけてる暇なんかないって」
「しかしなあ……」
「なにが問題だっていうんだ? あんたは、金貸しとしての仕事をまっとうにこなせばいい。それさえやってくれれば、おれが別口で金を払おうっていってるんだ。こんな美味《おい》しい話、他にあるか?」
「口でいうのは簡単だが、あの男、普通じゃないんだぞ。逆上したらなにをするかわからん。現に、あいつの女がそうだったじゃないか。さっきの顔、見たか? 顔を腫《は》らしてた。殴られたんだ」
「その女の話、あんたも聞いただろう。あいつはシャブを使ってる。肥溜《こえだ》めにどっぷり首まで浸かってるのさ。杜《ドゥ》さん、あいつはあんたには手出しできない。おれが請け合う」
根負けしたように、杜と呼ばれた男が首を振った。
「わかったよ、健一。しばらくはおまえのいうように動くさ。だが、ちょっとでもおかしな動きになったら、おれは降りるぞ」
「それでいい」
劉健一は満足そうにうなずいた。杜と呼ばれた男が腰をあげた――秋生の顔に目を止めた。
「こちらは?」
抜け目のない商人の顔だった。秋生の懐具合を探っていた。
「郭秋生。楊偉民の知り合いだ。今は、朱宏に雇われて女のお守りをしている」
「ああ、あんたがそうか。噂《うわさ》を小耳に挟んだよ。李の野郎をぶちのめしたんだってな。あいつ、ここんところ調子にのってたからいいざまだ……おい、楊偉民の知り合いって、おまえ、いいのか?」
杜の顔は劉健一に向いた。
「好きなところでしゃべっていいぜ」
「しかし、おまえ、楊偉民の耳に入ったらヤバいんじゃないのか? それとも、おまえ、あの爺さんを――」
「あんたがそこまで気をまわす必要はない。これはおれと楊偉民の問題だ」
氷のような声――冷たすぎて聞くものを不安にさせる。杜は呆《あき》れたというように首を振った。
「まったく、日本人の考えることはわからんな」
「おれは半々だ。日本人じゃない」
「わけがわからんということじゃ、同じだろうが」
杜は首を振りながら部屋を出ていった。
「何をしてる奴《やつ》だ?」
秋生は訊いた。
「金貸しだ。悪どすぎて、地獄に落ちても追い返される」
「その悪どい金貸しと、なんの相談を?」
「仕事の話だ。おまえとは関係がない。そんなことより、質問をしろ。聞きたいことがあるんだろう? 質問ひとつにつき、五万だ。嫌なら失せろ」
「おれたちは見られた」
劉健一の顔色が変わった。
「だれに?」
「わからない。日本人だ。そいつは小姐を脅してる」
「詳しく話せ」
話してやった。
「おれはその日本人とすれ違ったことがある。あんたの店の入口で、だ」
「滝沢か……」
「滝沢?」
「崔虎《ツイフー》の犬だ。元は刑事だがな、とち狂った野郎だよ。そうか、滝沢に見られたか……」
それっきり、劉健一は口をつぐんだ。質問はなかった。人戦のことも謝圓のことも最初から知っていたのだ。
秋生は腰の黒星を抜いた。セイフティを外した。銃口を劉健一の額に押しあてた。
「なんの真似だ?」
「知ってることを全部話せ。小姐はあんたのことを異様に恐がってる。あんたが小姐の弱みを握ってるからだ。話せ」
「ここでそんなものを使ったら、楊偉民に迷惑がかかるぞ」
「そんなことにはならない。あんたを殺す。バン。一発で終わりだ。居間に出て、連中が騒ぎ出す前に殺す。バンバンバン。一分もかからない。後は、杜ってやつを探し出して殺せば、おれがここにいたのを知るやつはだれもいなくなる。老爺に迷惑がかかることもない」
「馬鹿が」歯の隙間《すきま》から絞りだしたような声だった。
「おまえはこの世界のことがなにもわかっちゃいない。よくそれで凶手がつとまったもんだ。いいか、杜を探して殺すだと? 手遅れだよ。おまえが見つけたときには、杜はもう何十人もの人間に、おれとおまえがこの賭場《とば》で会ってたことをいい触らしているはずだ。あいつの口は蠅《はえ》の羽より軽いからな。杜から聞いたやつらはまた他のやつらに話す。おまえ、歌舞伎町の人間を一人残らず殺さなきゃならなくなるぞ」
「話せ」
「無駄だ。おれはなにも知らない。知っていたとしても、話さない」
「死ぬぞ」
「おまえは撃たないさ。おれがいなくなれば、楽家麗を守る方法を教えてくれる人間がいなくなるからな」
「おれひとりでもなんとかできる」
「無理だ。さっきもいったが、おまえはこの世界のことを知らなすぎる。滝沢にいいように踊らされるのが関の山だ」
秋生は銃をおろした。劉健一に銃の脅しは効かない。次に脅すときはナイフ――音がしない。手首を返すだけで傷つけることができる。血を見れば、劉健一も怯《おび》えるはずだ。
「滝沢の立ち回りそうな場所を教えてくれ」
「知ってどうする?」
「殺すのさ」
「崔虎の犬を殺したら、崔虎が黙っちゃいないぞ」
できの悪い子供に教え諭すようないい方だった。
「だからなんだっていうんだ? あんた、前にいっただろう。おれがナイフを使えば、老爺はあっという間にくたばる。崔虎だって同じだ。違うか?」
「そうだな。楊偉民に崔虎、それに朱宏を殺しちまえよ。そうすりゃ、おまえとあの女がなにをしようと文句をいうやつはいなくなる」
これ以上話しても時間の無駄だった。
「金は払う。教えてくれ。滝沢はどこに行けばつかまる?」
劉健一は煙草をくわえた。煙と一緒に言葉を吐きだした。
「あいつのマンションの住所だ。滝沢は女と暮らしていた。ただ、女と揉《も》めたらしいから、戻るかどうかはわからん。あとは賭場だが、こいつは教えるわけにはいかない。おまえがのこのこ出かけていくと、おれの信用ががた落ちになる」
「他には?」
「崔虎を見張っていれば、そのうち必ず現れるさ」
「滝沢は小姐のことを崔虎に話してると思うか?」
そうであれば、崔虎も殺すしかない。
「金を要求したんだろう? それはない。そんなことが崔虎の耳に入れば、滝沢は死んだも同然だ」
「わかった」
秋生は腰をあげた。
「金はどうした? 質問ひとつにつき、五万。そういう話だったろう?」
「あんたはクソ野郎だ」
薄笑い。秋生は背を向けた。
「なぁ、秋生。相当あの女に入れこんでるな。もう、あっちの方は大丈夫なのか?」
「あっちの方?」
「真紀っていったか? おまえが犯して殺した女だよ。もう、思い出すことはなくなったのか?」
唐突に真紀の顔がよみがえった。黒星を抜いて振り返った。抑えきれない昂《たか》ぶりに身体全体が震えていた。
「おまえ、知ってるか? 真紀の死体、どうなったと思う?」
「死体? なんの話だ?」
「死体を放り出しておくわけにはいかないだろう。楊偉民が死体を始末したんだよ」
真紀の死体――苦悶《くもん》が顔に刻まれて、身体には蛆《うじ》がたかっていた。
「あの山の中だよ、秋生。昨日、おれたちが洪行を埋めたあそこだ。あそこに、おまえの初恋の真紀とろくでなしの父親の死体が埋まってるんだ」
声にならない叫び。昏《くら》い闇《やみ》に思考が覆われた。黒星を握った右手。劉健一に叩《たた》きつけた。
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洪行の死体を埋めた山の中。そこに真紀が埋まっている――考えもしなかった。真紀の死体がどうなったかなど、考えたこともなかった。
真紀の顔がよみがえる。苦悶が刻まれた顔で、秋生を責めていた。
――あんたは、わたしを犯して、殺して、逃げた。
違う。声にならない叫び。届かない。
あの山にいたのは何時間だったか。ただ黙々と土を掘り返した。それなのに気づかなかった。すぐ足の下に、真紀が埋まっていたのに。
覚束ない足取り。肩がぶつかるたびに、酔っ払いたちが睨《にら》んでくる。秋生は走り出したいという衝動をこらえて歩いた。
家麗が待っている。家麗を死なせるわけにはいかない。あの山に埋めるわけにはいかない――見つけられなくなる。感じられなくなる。湿った土の下、真紀を感じられなかったように。
「どこへ行ってたのよ?」
拗《す》ねたような家麗の声。ほっとした。身体に力が戻ってきた。魔都。出ていったときと変わらない光景が広がっていた。下卑た顔の酔っ払いたちと嬌声《きょうせい》を上げる女たち。
「劉健一に会っていた」
「どうして――」
「大丈夫だよ、小姐。おれが守ってやる。おれがみんな殺してやる」
家麗は笑った。見間違いではなかった。
街には光が渦巻いていた。
「今夜は少し遊ぶわよ、いい?」
だめだ――いえるはずもなかった。
家麗と秋生は歌舞伎町を徘徊《はいかい》した。魔都と同じシステムの売春バー、カラオケバー。家麗は一軒の店に三十分も腰を落ち着けはしなかった。飲み、はしゃぎ、歌い、勘定を払う。店を移るたびに家麗に付き従う人数が増えた。最後にたどり着いたのはコマ劇場の裏手の〈玉蘭《ユイラン》〉。北京料理のレストランに、女たちの上海語が飛び交った。
エントランスに近い席――秋生はそこに座って外を見張った。耳は女たちに向けていた。上海語。初めて聞いたときは日本語と間違えた。北京語とはまったく違った言語。それでも、女たちの話は察しがついた。
景気の悪さを嘆く声、歌舞伎町の動向をさえずる声。噂《うわさ》が飛び交う。雇っている売女たちの悪口、そして、男の話。女たちの好色な視線が飛んでくる。家麗が勝ち誇ったように微笑《ほほえ》んでいた。
家麗の微笑み――真紀は滅多に笑わなかった。なぜ、家麗に真紀を重ねてしまうのか。わからなかった。湿った土の下、骨だけの姿になった真紀。頭蓋骨《ずがいこつ》に苦悶の表情が刻まれている。
女たちが腰をあげた。家麗が勘定を持った。朱宏の女は、女たちのボスでもある。すべての女たちを送り出してから、家麗と秋生は店を出た。
「だれを殺してくれるのよ?」
ソファに身体を投げ出しながら、家麗はいった。目に膜がかかっている――酔っている。
かしずくようにして服を脱がせた。
「今日は駄目。わたし、酔っちゃって、秋生を楽しませてあげられないわ。それより、教えて。だれを殺してくれるの?」
「まず、日本人を殺す」
シャツを脱がせた。剥《む》きだしの肩が震えていた。忍び笑いが聞こえた。
「それから?」
「劉健一を殺す」
忍び笑いがとまった。細身のパンツ。脱がすのにてこずった。
「ほんとに?」
「殺すよ」
「それから?」
「朱宏を殺す」
「だめよ。いったでしょ――」
「わかってる。金はおれがなんとかする」
劉健一――金をため込んでいるはずだ。殺す前になんとかすればいい。
「わたし、ちょっとやそっとのお金じゃ満足できないわよ」
家麗はストッキングを穿《は》いていなかった。抱えあげた。寝室へ――ベッドの上に横たえた。
「今夜はしないわよ、秋生」
うなずいた。
「でも、わたしが眠るまで、側にいて」
「小姐、したくないっていうのはわかった。だけど……口でしてくれないか」
微笑み――家麓の手が股間《こかん》に伸びてきた。
「かわいいわ、秋生。気づいてたでしょ、さっきの女たち、みんな秋生を見てたわ」
剥きだしにされた男根。固く猛《たけ》っていた。先端部が柔らかく湿ったものに覆われた。
荒い息遣い、淫靡《いんび》な音――五分もしないうちにぶちまけた。家麗の咽喉が鳴った。真紀の顔は思い出しもしなかった。
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ゆっくりしたリズムの寝息。家麗は安らかな眠りについた。
「おやすみ、小姐」
秋生は部屋を出た。大久保へ、北新宿へ、日本人――滝沢のマンションへ。夜が明けはじめていた。酔っ払いたちの姿は消え、夜の住人たちが疲れた顔を引きずって歩いていた。
寝ぼけた街角にたたずむ古ぼけたマンション。周囲を見回す。険呑《けんのん》な顔つきの男たち――やくざ。秋生の様子をうかがっていた。
滝沢はやくざに追われている。
歩きながら考えた。やくざたちの武器はせいぜいが拳銃《けんじゅう》だ。決めた。秋生はマンションの中に脚を踏みいれた。
郵便受け。滝沢・林――三〇一号室。エレヴェータ・ホールの方から視線が飛んできた。別のやくざの細められた目。左手に包帯が巻かれていた。足が動いた。外のやくざたちが追いついてきた。やくざたちはかすかに息を荒げて入口を塞《ふさ》いだ。
「あんた、滝沢に用か?」
包帯を巻いたやくざがいった。
「そうだけど、あんたたちは?」
「おれたちも滝沢に用があるんだがな。ちょうどいい、上にあがって話をしよう」
「あんたたちと話すことはないけどな」
「なんだとこらぁ!?」
背後で罵声《ばせい》。包帯を巻いたやくざが顔をしかめた。
「そういうなって。おれたちは極道だ。わかるな? 怒らせねえ方が身のためだぞ」
秋生は肩をすくめた。包帯を巻いたやくざがエレヴェータの上昇ボタンを押した。
三〇一号室――やくざが無造作にドアを開けた。途端に匂《にお》った。
血の匂い。
台所は血の海だった。女の死体が転がっていた。血で汚れた黄色いニット。剥きだしの下半身。黒々とした陰毛に凝固した白い液体がこびりついていた。
血と死体以外のものが視界から消えた。死体の上を真紀の亡霊が飛び回っていた。
「どうだ、こういうのは滅多にお目にかかれねえだろう」
勝ち誇ったやくざの声。肩を押されて部屋の中へ足を踏みいれた。ドアの閉まる音。やくざたちの嘲笑《ちょうしょう》。鍵《かぎ》がロックされた。
「この死体は……?」
「滝沢の女さ。中国人だがな。おまえもこうなりたくなかったら、素直におれたちの聞くことに答えるんだ。いいな?」
「犯して、殺したんだな?」
「それがどうした? 顔は不細工だったがな、あそこの具合は最高だった。滝沢も毎晩締め付けられていい思いをしてたんだろうぜ」
「殺す必要があったのか?」
「顔を見られたからな。そんなことより、おまえ、なにもんだ? 滝沢とはどこで知りあった?」
「おれも見たぞ」
「なにを?」
「おまえの顔だ」
黒星を抜いた。セイフティを外した。撃った。包帯を巻いたやくざの腹が破裂した。床に転がりながら後ろを向いた。やくざたちの顔に驚愕《きょうがく》が張りついていた。引き金を引いた。甲高い銃声――悲鳴は聞こえなかった。続けざまに撃った。血と肉が飛び散った。
包帯を巻いたやくざは生きていた。腹を抱えて唸《うな》っていた。
「どうして滝沢を追っている?」
「た、助けてくれ……」
膝《ひざ》を撃った。やくざの絶叫――遠くで響いているように聞こえた。
「滝沢はなにをした?」
「シ、シャブをパクったんだ。う、うちの組の」
「おまえの組は?」
「し……新誠会……痛ぇよ、ちきしょう……」
銃口を頭に向けた。やくざの目が大きく見開かれた。
「ま、待ってくれ。た、頼む……」
女の死体に目を向けた。真紀の顔がよみがえった。ろくでなしに犯されてうつろだった真紀の顔。
秋生は引き金を引いた。やくざの頭が吹き飛んだ。
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26
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楽家麗の金をかすめとる。悪い考えではなかった。だが、秋生がいる。秋生は必ず滝沢を殺しに来る――保険が必要だった。
鈴木に電話をかけた。外出中だった。携帯電話も繋《つな》がらなかった。
シャブの効果は切れた――それでも神経は昂《たか》ぶっていた。明治通りへ出て大久保に向かった。歌舞伎町は避けた。新誠会。尾崎の脅しが効いている。
盗聴テープを渡した堅気の学生に会った。真っ赤に充血した目。徹夜でテープを聞いたのだ、といった。レポート用紙にびっしりと書き込まれた文字。簡体字混じりの日本語。漢字より平仮名が読みにくかった。
タイ人が経営する喫茶店でざっと目を通した。
陳雄《チェンシォン》の電話。下卑たやり取り。暴力と女の話ばかり。魏在欣《ウェイザイシン》と陶立中《タオリーヂョン》から一度ずつ電話が入っている――世間話。なにもひっかかってこない。
陶立中の電話。レポート用紙の片隅に「英語と広東語の会話が多い、わからない」と但し書きがあった。広東語――香港。陶立中は歌舞伎町で稼いだヤバい金を香港で洗濯している。その他の電話は北京語と日本語だった。すべてビジネスの話。プライヴェイトにかかわる電話は一切なし――おかしい。盗聴に気づいているのかもしれない。
魏在欣の電話。魏在欣はだれかれかまわず怒鳴りつけている。ブツをもっとまわせと喚いている――焦っている。苛立《いらだ》っている。売り上げをくすねた売人を殺せという指示。張道明の話はいっさい出ない。陶立中からの電話が一本。世間話のあとの会話。
陶立中。「変な噂《うわさ》が入ってるぞ」
魏在欣。「どんな噂だ?」
陶立中。「おまえが薬に混ぜ物を入れてるって噂だ」
魏在欣。「でたらめだ」
陶立中。「それならいいんだがな。老板にはきちんと説明しておいたほうがいいぞ」
また、世間話。
陶立中の盗聴テープにはこの会話は入っていない。事務所からかけたのか。それとも携帯電話か。
滝沢はレポート用紙を放り投げた。コーヒーをすすった。
魏在欣。限りなく黒に近い灰色の男。だが、なにかがしっくりこない。なにかが欠けている。
携帯電話を手にした。今度はつかまった。
「鈴木だが?」
「滝沢だ。今夜、時間を作れないか?」
「無理だ」
素っ気ない答え。アンテナが揺れた。
「なにがあった?」
「なにも。今夜はカジノバーの摘発がある。身動きは取れないんだ。悪いが、切るぞ」
電話が切れた。昨夜とは一八〇度違う鈴木の声。なにかがあったのだ。鈴木は滝沢を切ろうとしている。
可能性――新誠会。尾崎が鈴木に探りを入れた。それで鈴木がビビった。
目がかすんだ。頭の奥がきりきりと痛んだ。
逃げ出すんだ。
頭蓋骨《ずがいこつ》の中から響いてくる声。
崔虎も四大天王も知ったことか。楽家麗から金をふんだくって、とっととこの街から逃げろ。
正論だった。それ以外に道はない。わかっていてそれができない。この街には磁力がある。それが滝沢を引きつけて離さない。
頭蓋骨の中、別の声が響いてくる。
中国人に馬鹿にされたまま尻尾《しっぽ》を巻いて逃げるのか。
変態のクソ野郎――新しく増えた北京語のボキャブラリー。新しい呪詛《じゅそ》。そいつを唱えただけで脳|味噌《みそ》が溶けはじめる。
恐怖と憎悪、そして混乱。
郭秋生の顔が脳裏に浮かんだ。決心がついた。理由はわからない。それでも決心がついた。
張道明を殺ったやつ、謝圓――嗅《か》ぎまわる。ぎりぎりまで待つ。逃げるのは、それからだ。
喫茶店を出た足で大久保をぶらついた。歌舞伎町には近づかなかった――新誠会の恐怖が足をすくめさせる。
携帯電話が鳴った。
「滝沢さん?」蔡子明《ツァイズーミン》のはずんだ声がした。「いま、電話、大丈夫かい?」
「ああ」
「陳哥と陶哥は、昨日はいつもと同じ。今日も同じ。あちこち出かけてる。でも、魏哥は自分の家から一歩も出てない」
陶立中との電話。そいつが引き金か。
「手下たちは?」
「そこまでは手がまわらないよ。ただ、腕の立つのが二、三人、魏哥と一緒にいるらしい」
魏在欣はトチ狂ったのか? この時期に手下とともに自分のヤサに閉じこもる――崔虎に疑ってくれといっているようなものだ。崔虎の耳に入る前に報告しておかなければとばっちりを食らうことになる。
「他には?」
「特にないよ」
それにしては別れてから電話があるまで間が開きすぎだった。
「楽家麗と人戦の関係はどうだ?」
「なんのこといってる?」
「とぼけるな。嗅ぎまわってるんだろう?」
沈黙。荒い息遣いが伝わってくる。
「怒っちゃいない。おれも好奇心がわいてきたんだ。なにかわかったか?」
「まだなにも。あ、悪いけど滝沢さん、人が来たから電話、切るよ」
「待て……」
電話は切れた。かけなおす――蔡子明は電話の電源を切っていた。
「くそっ」
怒りを飲み込んで、崔虎に電話した。
「滝沢か、なにかわかったか?」
「目星はつきました」
「だれだ? 道明を殺したクソ野郎はどこのどいつだ?」
「電話じゃ、話せません」
「――いま、どこにいる?」
「大久保です――」
滝沢は自分のいる場所を崔虎に告げた。
「そこに突っ立ってろ。五分で着く」
ベンツが見えたのは三分後だった。ベンツは滝沢の前でとまった。後部のドアが開いた。崔虎の不機嫌な顔が見えた。
「だれだ?」
滝沢が乗りこんだとたん、崔虎が口を開いた。
「魏在欣先生だと思います」
「魏在欣だと!? 証拠はあるのか? でたらめをいいやがると、ただじゃおかねえぞ」
「魏先生は、シャブの売り上げをくすねてます。シャブに混ぜ物を入れて、ごまかしてるんです」
「本当か?」
「疑うんだったら、その辺のシャブ中をつかまえて聞いてください。みんな喋《しゃべ》りますよ。最近、老板のところのシャブは質が悪いと」
「あの野郎……」
「これを見てください」
盗聴テープを渡した。
「これは、四大天王の三人の自宅の電話を盗聴したテープです。昨日、陶先生が魏先生に電話で、シャブに混ぜ物がしてあるという噂は本当かと問い質してます」
崔虎は口を結んだまま、じっとテープを睨《にら》んでいた。
「その電話があってから、魏先生は自分の部屋の中から一歩も外に出てません。魏先生が張先生を殺したという証拠はありませんが、限りなく怪しいと思います」
「つまり、こういうことか――在欣の野郎がおれの金をちょろまかしてることに道明が気づいた。それで、在欣は道明を殺した」
張道明を殺したのは秋生だ。魏在欣は情報をだれかに――恐らくは楊偉民に売っただけだ。だが、それを崔虎に教えるつもりはなかった。教えれば崔虎は動く。秋生と、秋生がいつもくっついている楽家麗が襲われる。家麗の金を奪う時間がなくなる。
「恐らく、そうだと思います」
「ふざけやがって」
吐きだすようにいって、崔虎は携帯電話を使いはじめた。巻き舌の北京語。まったく聞き取れない。崔虎は唾《つば》を飛ばしながら、電話の相手に喰《く》ってかかっていた。
崔虎がなにかをいった。聞き取れなかった。崔虎の形相が変わった。獲物を横取りされた虎の顔だった。
「在欣の野郎はまだ部屋にいるのかって聞いてるんだよ」
「まだいるでしょう。蔡子明が見張らせてます」
「蔡子明だ? なんだってあいつと一緒にいねえんだ? あんなチンピラも満足に飼えねえのか。縛りつけておけばいいんだよ。てめえの得意技でな」
視界の隅が赤く染まった。気取られないように、視線を窓の外に移した。赤く染まった新宿の街。歪《ゆが》んで波打っていた。
「在欣のヤサに向かえ」
電話を切った崔虎が運転手に告げた。
「しかし、老板……田中先生との約束が」
「うるせえ、日本のやくざなんかどうだっていいんだよ。在欣が先だ。立中も雄もすぐに来る。在欣の野郎をとっちめてやるんだ」
田中先生――崔虎と付き合いそうな田中ならひとりしかいない。新誠会の幹部だ。若頭の尾崎と、次の跡目を狙《ねら》って争っている。
新誠会。尾崎と田中、田中と崔虎。田中を梃子《てこ》にして尾崎の動きを封じられるかもしれない。もう少し長くこの街にとどまっていられるかもしれない――愚かな妄想。金を奪って逃げる。他に道はない。
二台のベンツと三台の国産車が路上に駐車していた。その後ろに崔虎のベンツは停まった。二台のベンツのドアが開いた。陳雄と陶立中、二人の部下の流氓たちが飛び出てきた。崔虎が車を降りるのを待てずに陳雄が叫んだ。
「老板、どういうことだ? なんだって在欣を……」
「どうもこうもあるか。道明を殺《や》ったのは在欣の野郎だ。落とし前をつけさせる」
「しょ、証拠は……」
「あの野郎は、おれの薬に混ぜ物をして売ってやがるんだ。そうだな、立中?」
「そういう噂は耳にしましたが」
「だったら、なんだっておれに報告しねえ!?」
肉を撲《う》つ音――陶立中が吹っ飛んだ。
「すいません、老板。まさか、在欣が本当にそんなことをしてるとは思わなかったもんですから」
「使えねえやつだぜ、まったく。――おい、雄」
「老板、なんですか」
「在欣をおれの前に連れてこい」
「わかりました。おれに任せてください」
場違いな電子音。空気が凍りついた。滝沢は携帯電話を取り出した。陳雄と陶立中の視線が飛んできた。余計なことしやがって――二人ともそういっていた。
「はい?」
「滝沢さん、おれです」蔡子明だった。「魏哥のマンションの側にどこかの流氓が集まってるって。やばいよ。老板に報告するだろう?」
周囲を見回した。魏在欣を見張っていた連中が慌てて蔡子明に連絡を入れた。そんなところだ。
「老板はここにいる」
受話器の向こう、蔡子明が絶句した。崔虎の手が伸びてきて、携帯電話をひったくった。
「おれが崔虎だ。てめえ……子明か、クソが、どこでなにしてやがる?」
それだけいって、崔虎は口を閉じた。ぎらついた目が忙しげに動きまわっていた。
「よし、わかった。おまえが日本人と一緒にいなかったことのいいわけは後で聞いてやる。事務所で待ってろ」
携帯電話が投げかえされた。崔虎は陳雄に向かって吠《ほ》えた。
「雄、在欣はボディガードを抱えてるそうだ。胡《フー》ってのと董《ドン》ってやつらしい。知ってるか?」
「ああ、在欣が最近どっかから連れてきた連中です。解放軍崩れだって話ですがね」
「たいした武器は持ってねえはずだ。在欣を生きたまま連れてこい。すぐにだ」
陳雄が早口の北京語で手下たちにまくしたてた。手下の一人が陳雄のベンツのトランクを開けた。黒星、ショットガン、青龍刀――武闘派の必需品がぞろぞろと出てきた。
「老板、立中にいてもらえば、大丈夫ですから。老板は事務所に戻っていてください。必ず在欣を連れていきます」
「よし、任せたぞ、雄」
崔虎はベンツに乗りこんだ。滝沢はあとに続こうとした――腕を掴《つか》まれた。
「おい、日本人。おまえはここに残るんだよ」
憎々しげな陳雄の顔。いやだとはいえなかった。
「おれにどうしろというんだ?」
「どうしろだと? おまえも行くんだよ、在欣を捕まえにな」
崔虎のベンツが動きだした。諦《あきら》めるしかなかった。黒星を渡された。黒光りする銃身から凶々《まがまが》しい波動が伝わってきた。
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陳雄の手下たちはよく訓練されていた。恐怖につき動かされていたとしても表情からは読めなかった。
滝沢はサングラスとマスクをかけた。ちゃちな変装だ。だが、なにもしないよりはマシだった。陳雄の後について階段をのぼった。呼吸が浅く、荒い。胃がきりきりと痛んだ。
五階分の階段――息があがった。膝《ひざ》が揺れた。運動不足のせいではなかった。
恐怖。心臓が膨れあがる。なにかが喉元《のどもと》をせりあがってくる。
やっと階段を登りきった。陳雄と手下たちが壁に背中を押しつけていた。陳雄が手招きしていた。磁力に引きつけられるように近づいた。
「インタフォンでおれが話す。おめえは……」
聞き取れなかった。だが、なにをいわれているのかはわかった――まず、おまえが最初に部屋に飛び込むんだ。
足元にぽっかりと穴があいたような気がした。
陳雄の手がインタフォンに伸びた。
「在欣、おれだ。開けてくれ」
返事はなかった。いらだたしげに舌打ちしながら、陳雄はインタフォンを何度も押した。
「何しに来たんだ?」
こらえきれなくなったような魏在欣の声が聞こえてきた。
「なにって、近くを通ったからよ」
「いま、立て込んでるんだ。悪いが、またにしてくれねえか」
「おい、在欣。兄弟に向かってその言い草はないんじゃねえのか」
間があった。陳雄が唾《つば》を飲み込んだ。大量の汗が身体を濡《ぬ》らした。滝沢は銃のグリップを握りなおした。
「おまえ、ひとりだろうな?」
「手下どもは車ん中だ。どうしたってんだよ、在欣?」
「なんでもねえ、今開ける」
腕を引っ張られた。スティールのドアが迫ってくる。干上がった喉が痛んだ。心臓の鼓動が耳を打った――それ以外、なにも聞こえなかった。
ノブが回った。ドアが開いた。背中を押された。
「動くな!!」
叫んだつもりだった――なにも聞こえなかった。銃を構えた男がひとり。滝沢は引き金を引いた。男が吹っ飛んだ。足がもつれた。床に転がった。頭の上をなにかが通りすぎた。
すべてがスローモーションに切り替わった。部屋の奥から男が出てきた――両手に銃を握っていた。銃口から迸《ほとばし》る炎。床を転がりながらバスルームのドアを蹴破《けやぶ》った。タイルの冷えた感触。陳雄の手下たちが脇《わき》を駆け抜けていった。壁に弾丸が食い込んだ。破片が飛んだ。埃《ほこり》が舞った。それでも、銃声も悲鳴も聞こえなかった。
這《は》うようにして玄関へ――陳雄がいた。行く手を遮るように立ちはだかっていた。陳雄の口が動いた。なにも聞こえなかった。
銃を向けた。押しのけた。陳雄は逆らわなかった。
滝沢は階段を駆けおりた。銃を上着のポケットに押し込んだ。マンションの外。新鮮な空気。思いきり吸い込んだ。ベンツのドアが開き、陶立中が降りたった。なにかをいっている――聞こえない。
おかしい。そう思ったとき、吐き気がこみあげてきた。植え込みの陰に吐いた。音が蘇《よみがえ》った。
「おい、日本人、中で何があった?」
「うるせえ、おれの知ったことか」
滝沢は吐いた。叫びながら吐いた。胃液しか出てこない。それでも吐き気はやまなかった。
「北京語で話せ、日本人。おまえ――」
陶立中の声が途中で切れた。振り返る――魏在欣を抱えた男たち、それに陳雄がマンションから出てくるところだった。車の周りの動きが慌ただしくなった。
胃液で汚れた口のまわりを拭《ぬぐ》った。迷わず、陶立中のベンツに乗りこんだ。銃口を向けたことを陳雄が忘れるはずがなかった。
「顔色が悪いな」
陶立中がいった。答える気にはなれなかった。窓の外、ネオンの輝きに目を向けていた。
「出入りは初めてか、日本人?」陶立中は饒舌《じょうぜつ》だった。目が潤んでいた。「昔はよくやったものだ。上海の連中相手にな。上海の連中は腰抜けぞろいだが、なにしろ数が多い。やっかいだった。今でもやっかいなことに変わりはないが――」
「なぁ――」うるさいおしゃべりを遮った。「あんた、べらべら喋《しゃべ》ってるが、兄弟のことは気にならないのか?」
「兄弟?」
丸く見開かれた目――死者が口を開いたとでもいいたげだった。
「魏在欣のことだ。あいつがこれからどんな目にあうのか、わからんわけじゃないんだろう」
「ああ、そうだな。魏在欣も憐《あわ》れなやつだ」
沈黙。陶立中はそれっきり口を開かなかった。
歌舞伎町の外れの焼け落ちたビルの前で車がとまった。一ヶ月前、火事があった。死者が三人出たはずだ。中に入っていたのはしけたポルノ屋、しけたカラオケバー。三階と四階はビルのオーナーが居住用に使っていた。
猿轡《さるぐつわ》をかまされた魏在欣を陳雄と手下たちがビルの中に追い立てた。酔っ払いたちは気づきもしなかった。
陶立中に促されて後に続いた。ビルの中の空気は湿っていた。暗闇《くらやみ》と、焦げ臭い匂《にお》い――廃墟《はいきょ》だけが持つ雰囲気が落ち着きを奪う。
滝沢と陶立中は懐中電灯を頼りに階段をのぼった。四階の細長い廊下に陳雄の手下たちがいた。陶立中に気づくと道を開けた。飲み屋の入口を思わせるドアの奥、懐中電灯に照らされて崔虎の顔が浮かび上がった。
廊下と似て細長い部屋だった。元々、飲み屋にするつもりで設計されていた。カウンターの上には散らばった書類とパソコンが一台。ストゥールの代わりにソファベッドと場違いな腰かけ椅子《いす》――魏在欣が縛り付けられていた。
部屋の中にいるのは、崔虎、陳雄、陳雄の手下がふたり、陶立中。
崔虎がうなずいた。陳雄の手下が魏在欣の猿轡をはずした。
「どうしてこんなことになったか、わかってるな、在欣?」
間延びした北京語だった。
「し、知らねえ。老板、なんだってんだ。おれがなにをしたっていうんだ!?」
「おまえはおれの金をちょろまかした」
「な、なんのことだよ?」
「おれの薬に混ぜ物をして売ってた。そうだろう、在欣?」
魏在欣の身体が震えた。眼球が飛び出そうなほど迫《せ》りだしていた。
「ら、老板……おれが悪かった。許してくれ」
「どうして、道明を殺《や》った?」
「おれが? 冗談じゃねえ。おれは殺ってねえ。本当だ、老板。おれが道明を殺るわけがないじゃねえか、信じてくれよ」
「どうして道明を殺った?」
「おれじゃねえって!」
「在欣、おれは悲しい。こんなに悲しい気分は初めてだ」
「老板……」
崔虎が首を振った。魏在欣を押さえていた陳雄の手下がナイフを取りだした。
「老板!」
「おまえはボディガードと一緒に部屋に閉じこもっていた。こうなることはわかってたんだろうが?」
「薬に混ぜ物を入れたのは認める。子分を養うために仕方なかったんだ。だが、おれは殺っちゃいない。道明とは兄弟同然の付合いをしてたんだ。おれが殺るわけがねえ」
「往生際が悪いぞ、在欣。おまえしかいねえんだよ」
崔虎が指を鳴らした。ナイフが一閃《いっせん》した。悲鳴――魏在欣の右手の小指が床に転がった。
夜の工事現場を思い出した。転がった唐平《タンピン》の指、唐平の叫び。滝沢は両手を握り締めた。
「おまえが人を雇って道明を殺させた。わかってるんだ。いっちまえ、在欣。楽になるぞ」
「知らねえって……畜生、おれの、ゆ、指が……」
「在欣、いい加減にしろ! ここは本当のことをしゃべって老板の慈悲にすがるしかねえんだぞ」
陳雄が割って入った。
「うるせえ、このクソボケが。てめえになにがわかる。陶立中、てめえもだ。おれたちは兄弟じゃなかったのか? おれをこんな目に遭わせて、てめえら、なにも感じねえのか」
「老板の信頼を裏切ったおまえが悪いんだ、在欣」陶立中の静かな声が暗闇に谺《こだま》した。「おれたちは確かに兄弟だが、それ以前に、おれと老板は親子だ。どっちの絆《きずな》が深いかは考えるまでもない」
「立中!」
魏在欣の蒼醒《あおざ》めた顔が醜く歪《ゆが》んだ。陳雄の馬鹿げた言葉、陶立中のなんの感情もこもらない冷えきった言葉、魏在欣の歪んだ顔――胸糞《むなくそ》が悪くなった。
「吐いちまえ、在欣。そうすりゃ、適当に痛めつけるだけで許してやる。だが、強情を張るんなら、てめえの子分どもは皆殺しだ。大陸にいるてめえの一族も探し出して皆殺しにしてやる」
「老板!」
魏在欣の顔に絶望が広がった。
「おまえが道明を殺ったんだな? だれに殺らせた? 子分か? それともよそ者の凶手を雇ったか?」
「おれじゃねえ」
「在欣、てめえ、まだいうか」
崔虎の目が光った。獣じみたうなり。ゆっくり魏在欣に近づいていく。
眩暈《めまい》がした。魏在欣は殺ってはいない。天啓のように悟った。もし殺っていたら、とっくに口を割っているはずだ。
「おい、押さえてろ」
陳雄の手下たちがその言葉に従った。崔虎はナイフを受け取り、魏在欣のベルトに手をかけた。
「ら、老板、なにもそこまで……」
陳雄――顔に戸惑いが浮かんでいた。
「黙れ。てめえも、おれに逆らう気か!」
崔虎はそれには取り合わず、魏在欣のズボンを引きおろした。
「老板、やめてくれ。許してくれ。おれじゃねえ、おれじゃねえんだよ」
「いいや、おめえが道明を殺ったんだ」
しなびた男根――トランクスの中から崔虎が引っ張りだした。ナイフを根元にあてた。
「在欣、いっちまえ。許してもらうんだ。老板に謝れ」
「老板、おれが殺った。殺ったんだ。許してくれ。おれのチンポを切らないでくれ」
「やっぱり、てめえか!」
崔虎は吠《ほ》えて、ナイフの刃を押した。魂消《たまげ》るような絶叫。血が飛んで崔虎の顔を赤く染めた。
胸糞の悪くなる光景――胸糞の悪くなる連中。逃げるわけにはいかない。逃げ場所はない。滝沢も同じ世界の住人だった。
「おい」
崔虎がこっちを睨《にら》んできた。右手にナイフ。左手に血まみれの男根。
「てめえが、こいつの悪さを見つけたんだ。てめえが最後の始末をつけろ」
逃げ場はない――滝沢はうなずいた。ポケットの中の銃を抜いた。セイフティを外した。のたうちまわっている魏在欣に銃口を向けた。
崔虎は激情の去った後の静かな顔で滝沢を見ていた。陳雄は憎しみのこもった視線を向けていた。陶立中はじっと魏在欣を見つめていた。
引き金を引いた。魏在欣の絶叫が消えた。
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* *
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運びだされた魏在欣の死体――どこかに埋められる。魏在欣の血で汚れた床――水で洗い流された。
興奮と悔恨。魏在欣を撃った感触が腕にありありと残っていた。シャブが欲しかった。女を――自由を奪った女を思う存分いたぶって我を忘れたかった。だが、崔虎はまだ解放してくれそうにない。
崔虎と陳雄、それに陶立中。三人でなにかを話し込んでいた。崔虎がうなずき、話は終わった。陳雄と陶立中が出ていった。崔虎がゆっくり近づいてきた。
「てめえ、しくじりやがったな」
拳《こぶし》が飛んできた。滝沢は避けなかった――避けられなかった。頬骨《ほおぼね》の下を殴られた。鋭い痛みがあって腰が砕けた。
「在欣は殺っちゃいねえ。あいつはシャブの量をごまかしただけだ。そうじゃなかったら、もっと早くに口を割ってる。道明を殺ったのは別のだれかだ」
「じゃあ、どうして殺させたんです?」
水だらけの床。ズボンが濡《ぬ》れた。尻《しり》までびしょ濡れだった。どうでもよかった。
「おれに拷問されたことを、あいつは一生忘れねえ。恨みがどんどんでかくなって、そのうち、おれを平気で裏切るようになる。いったん疑ったら、殺すしかねえんだ。いたぶられた方は絶対に忘れねえからな」
滝沢は立ち上がった。震えがきた。背中に氷柱を押し込まれたような感覚がいつまでも消えなかった。
「在欣は使えるやつだった。ほんの少し金をちょろまかしたところで、どうってことはねえ。あいつはそれ以上の金を稼いでくるんだ。その在欣をおまえは殺した」
「それは――」
「黙れ! いいか、変態のクズ野郎。こいつは高くつくぞ。覚えておけ。おれに殺されたくなかったら、早いとこ、嗅《か》ぎ分けてくるんだ。道明を殺ったのは、雄か立中だ。どっちが殺ったのか、一秒でも早くおれに教えろ」
陳雄と陶立中。比べるまでもない。張道明をだれかに売ったのは陶立中だ。電話の盗聴。陶立中は知っていた。滝沢を引っ掛けるために、わざわざ魏在欣に忠告の電話を入れた。
変な噂が耳に入ってるぞ
でたらめだ。滝沢の注意を――崔虎の注意を魏在欣に向けるための芝居。
蔡子明に電話をかける。遠沢に電話をかける。すべての耳と目を陶立中に向ける。崔虎のご機嫌をうかがってやる。その間に楽家麗から金を脅し取る。歌舞伎町から逃げる。
それしかなかった。謝圓――人戦にかまっている暇はない。
電話をかけた。留守番電話に吹きこまれた遠沢の声。舌打ちして電話を切った。肩をだれかに掴《つか》まれた。
振り返る――恐怖に胃が縮んだ。陳雄と手下たち。囲まれていた。
「クソ野郎が。よくも在欣を売ってくれたな」
両腕を押さえられた。口になにかを突っ込まれた。引きずられた。涙が流れた。
薄暗い路地。ゴミを漁《あさ》っていた野良猫が逃げ惑った。腰を蹴《け》られた。ゴミの山に頭から突っ込んだ。
「思いっきり可愛《かわい》がってやれ」
押し殺した陳雄の声。逃げようとした――遅かった。脇腹《わきばら》を蹴られた。痛みを感じる前に、無数の拳《こぶし》が降りかかってきた。
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滝沢は新誠会に追われている。腑《ふ》に落ちない。昨日の滝沢の様子は自信に溢《あふ》れていた。考えられるのはひとつ。滝沢は自分が追われていることを知らない。
ノブをハンカチでくるんでドアを開けた。隣室のドアが開いていた。顔だけ覗《のぞ》かせていた中年女が短く悲鳴を放ってドアを閉めた。
秋生は階段を使った。走ってはいけない。慌ててはいけない。ことさらにゆっくりした足取りでマンションを出た。上着の裾《すそ》に血がこびりついていた。脱ぐことはできない――腰に差した黒星がずしりと重かった。タクシーをつかまえた。
四谷のマンションへ戻って着替えた。テレビのニュース。政治家の汚職事件をだらだらと報道していた。
電話の受話器を持ち上げた――劉健一へ。
「はい?」
眠たげで苛立《いらだ》った声が出た。
「滝沢は新誠会に追われてる。あんた、知ってたな?」
「なんのことだ?」
眠たげで苛立った声の調子は変わらなかった。まるですべてを知っているかのように――すべてを知っているのかもしれなかった。
「とぼけるな。知ってておれに滝沢のマンションを教えたんだろう」
「落ち着けよ、秋生。そんなことをしておれになんのメリットがある?」
「滝沢のマンションはやくざたちに見張られていた。部屋の中じゃ、滝沢の女の死体が転がっていた。連中に輪姦《まわ》されて殺されたんだ」
「おれの知ったことじゃない。なにをとち狂ってるんだ?」
「あんたはやくざが見張ってる場所におれを送り込んだ。おれに死んでもらいたかったのか?」
乾いた笑い声が返ってきた。
「新誠会か……出張ってきたのは伊藤だな。尾崎ってことはないだろう。伊藤は下っ端だ。ついてくる手下も少ないし、おまえが殺《や》られるわけがない。おまえを殺すつもりだったら、もっと確実な方法を使う。おれはそういうやり方しかしないんだ」
「それはわかってる」
混乱した。劉健一は確かに滝沢が新誠会に追われていることを知っていた。わからないのは、なぜ秋生を新誠会の連中の元に送り込んだのかだ。なにかを狙《ねら》っている。間違いがない。だが、その先がわからない。
「滝沢はなにをした?」
かまをかけてみた。
「伊藤から聞いただろう」
引っかからなかった。それでも、押しつづけた。
「なにかを聞く前に殺した。教えろ。滝沢はどうして新誠会と揉《も》めたんだ?」
「シャブをかっぱらったんだよ」
「あいつはシャブ中なのか?」
「そんな話は聞いてないがな」
「少なくとも、今はシャブを使ってる。小姐と話したときの表情がそうだった」
「なるほどな」
含み笑いが聞こえたような気がした。
「滝沢はどこにいる?」
「昨日の夜は崔虎と一緒にいたらしいがな、今どこにいるのかはわからん」
「崔虎?」心臓が暴れた。滝沢は北京の連中になにかを話したかも知れない。「北京の連中になにか動きがあるのか?」
「内輪もめだ。おまえのあの女とは関係ない。安心しろ」
安心などできなかった。女を殺された男。どう反応するか予測できない。できるだけ早く捕まえたかった。
「どこに行けばあいつを捕まえられる?」
「おれはあいつのお守りじゃない――新誠会を見張ったらどうだ? あいつら、目を血まなこにして滝沢を探してる。くっついてりゃ、いずれ滝沢を見つけてくれる」
「そんな時間はない」
「だったら、歌舞伎町や大久保をうろつけ。蔡子明って男を探すんだ」
「そいつは何者だ?」
「崔虎のところのチンピラだ。今は、滝沢の使いっ走りをやってる。そいつに聞けばなにかわかるだろう」
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血腥《ちなまぐさ》い空気が漂っていた。新誠会のやくざたちが走りまわっていた。北京の流氓たちが浮き足立っていた――歌舞伎町は殺気に満ちていた。
秋生は中国人の集まる場所を探して歩いた。レストラン、喫茶店、パチンコ屋。さりげなく蔡子明という名前を挟みこむ。反応はあった。だが、どこにいるかまではわからなかった。挟みこむ質問を増やした。人戦と謝圓。目算はなかった。だが、大きな獲物がすぐに引っ掛かった。
「そういえば、その蔡子明って男が謝圓ってやつのことを聞いてまわってたな」
パチンコ屋で変造カードを使っていた男がいった。胃が収縮した。滝沢だけではない。蔡子明という男も家麗と謝圓の関係を知っている――探っている。
「どんな風に?」
「いちいち覚えてねえよ、そんなこと」
「頼む。思い出してくれ――」
「郭先生」
背後から声が重なった。見知らぬ男が立っていた。
「楊老爺がお呼びです」
男がいった。
「仕事を放り出してなにをしているのだ?」
眼鏡の奥で楊偉民の目がぎょろりと動いた。香菜と五香粉の匂《にお》い。歌舞伎町の真ん中にある台湾家庭料理の店。かきいれ時だというのに、客は秋生と楊偉民しかいなかった。
「おれが間違ったことをしているのはわかってる。だけど老爺――」
楊偉民がれんげで器を叩《たた》いた。
「女の話を聞かせてやろう。その女は上海で生まれた。父親は共産党の小役人だった……父親はろくでもない男だった。貧乏人から金を巻き上げることを生きがいにするような男だ。文化大革命の時分には罪のない隣人を密告しては、ひとり、悦にいっていた」
楊偉民の台湾語にはよどみがなかった。
「なんの話だ、老爺?」
「最後まで聞け。女はそれなりに幸福に育った。家に金はなかったが、顔は奇麗だったからな。それでも、ろくでもない父親の血が身体に流れていた。女には兄がいた。兄はできがよくてな、北京の大学で経済を勉強していた。一六になったとき、女は兄を頼って北京に出た。今でこそ上海は潤っているが、当時はまだ北京に出た方が成功する可能性が強かった。そして、天安門の悲劇が起こった。女の兄は天安門に陣取った学生たちのリーダー格だった。兄は仲間たちと天安門を逃げ出して、北京の同志の家に匿《かくま》われた。女はときどき兄の隠れ家にこっそり立ち寄った。食い物を届けたりするためにな。ところが、ある日、女に公安の人間が接近した」
「老爺、楽小姐の話をしてるのか?」
「公安は女に取引を持ち掛けた」楊偉民は秋生の問いを無視して話を続けた。「兄の隠れ家を教えてくれれば、西側の好きな国に行ける許可を与えてやる。女はその取り引きに乗った。国に対する忠誠でもない。金のためでもない。外国に行きたい、ただそれだけのために、女は血の繋《つな》がった実の兄を売ったのだ。女はこの国を選んだ。女が大陸を出る許可を貰《もら》ったのは一年後だ。この国に着いてすぐ、売女になった。外国で好きなように暮らすには金が必要だからだ。そして、女はすぐ同胞を食い物にする側にまわった」
楊偉民は口を閉じた。れんげでスープを掬《すく》い、ゆっくりすすった。
「くだらない女だ」
ぽつりといった。
なにも感じなかった。くだらないというなら、楊偉民も同じだ。秋生も同じだ。誰も彼もが同胞を食い物にして生きている。
ひとつだけ引っ掛かることがあった。滝沢という男と家麗の会話に人戦の謝圓という名前が出てきた。家麗の兄の友達。大学で知り合った。天安門でのデモに参加した――謝圓は天安門で家麗の兄と一緒にデモに参加した学生なのではないのか? 兄を公安に売った妹が、兄の友達と昔話を懐かしんだりするのか? 家麗の弱み――その辺に隠されていそうだった。
「その話から、おれはどんな教訓を学べばいいんだ、老爺?」
「仕事に専念しろ。くだらない欲望に振り回されるな」
「老爺に助けてもらってから、おれはなにかを欲しいと思ったことはなかった。生きてるだけで充分だった。老爺に必要とされているだけでよかった。だけど、初めてなにかを欲しいと思ったんだ。それが楽小姐だ。許してくれ」
「女が欲しいのなら、おまえに見合う相手をいくらでも探してやる」
「そういうことじゃないんだ」秋生は腰をあげた。「この償いは必ずする。老爺を裏切りたいわけじゃない」
「口ではそういいながら、おまえは健一と陰でこそこそ逢《あ》っている」
「情報が欲しかったんだよ。もし老爺が望むなら、今これから健一を殺してきてもいい」
「おまえにはあれは殺せん」
哀《かな》しげな顔――すぐに表情が消えた。
「王莉《ワンリー》という女に会うがいい」
「王莉?」
「おまえが知りたい情報を知っている。楽家麗《ロージァリー》の古い顔見知りだ。大久保の外れで外国人相手の売女をしている」
外国人というのは中国人、韓国人、イラン人。つまり、中国人売春婦の中では最低ランクという意味だった。
「通りで見つからなければ、馬曼玉《マーマンユイ》がやっておる華聖宮《ファションゴン》に行け。いつもそこで祈っているそうだ」
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痛みと熱――目が醒《さ》めた。悪寒がした。身体を動かすと脇腹《わきばら》が痛んだ。肋骨《ろっこつ》を何本かやられたかもしれない。
「くそったれ」
叫んだつもりだったが掠《かす》れた声にしかならなかった。視界の隅でなにかが動いた――薄汚れた顔のホームレスが手を滝沢の方に伸ばしたままの姿勢で凍りついていた。
「おい。その手はなんだ?」
滝沢は身体を起こした。痛み。顔をしかめて耐えた。饐《す》えた匂い。薄暗い路地。どれぐらい気を失っていたのか。
ホームレスが身を翻した。
「待て」
脳細胞が沸騰しそうだった。手に触れるものすべてを破壊しつくさないとおさまりそうにもない憤怒。視野狭窄《しやきょうさく》を起こしていた。なにかにつまずいて派手に転んだ。
「くそったれ!!」
滝沢は叫びながら視線をあげた。ホームレスの姿はどこにもなかった。
這《は》うようにして駐車場に辿《たど》りついた。車のグラヴコンパートメント。シャブを取りだして、いつものように焙《あぶ》った。痛みが引いた。顔面が熱くなった。バックミラーに映った顔――逃げ出したくなるほど変形していた。
「くそっ」
昏《くら》い怒りが腹の内部を焦がしていた。陳雄を殺してやる。歌舞伎町を出る前に。必ず。
携帯電話が鳴った。
「滝沢さん?」
蔡子明だった。声に張りがない。崔虎に脅されたのかもしれない。
「これからどうする?」
「おまえが使える連中を総動員して陶立中を見張らせろ」
話しながら車を出した。歌舞伎町――新宿から離れたかった。
「もう、滝沢さんからもらった金、なくなったよ」
「おれのいう通りに動けばいいんだ。余計な口を利くな」
「わ、わかったよ。そんなに怒らなくても……」
「夕方、もう一度電話を入れろ。どこかで落ち合わなきゃならん」
「夕方ね。わかったよ」
電話が切れた。
早稲田通りから山手通りに入った。どこといって行くあてはない。適当な場所で車を停めて仮眠を取りたかった。
カーラジオ。ニュースをやっている局を見つけた。官僚の汚職事件。どこかの国でまた飛行機が落ちた。そして、殺人事件――危うく前の車のおカマを掘るところだった。
「今日未明、銃声らしき音がしたという通報があり警察が駆けつけたところ、新宿区北新宿三丁目のハイツ北新宿三〇一号室で、五人の遺体が発見されました。亡くなった五人のうちひとりは女性で、所持していた書類から中国国籍の林宗英《りんそうえい》さんということがわかっています。残りの四人についても、暴力団関係者ではないかとの情報があがっており、警察では捜査を進めるとともに、事件があったマンションに住んでいた男性の行方を追っています」
宗英《ゾンイン》が殺された――身体が震えた。滝沢は車を路肩にとめ、ハンドルにもたれかかった。ニュースは続けて、新宿区内のマンションで起きた銃撃戦のことを伝えた。耳にはなにも入ってこなかった。
なぜ? 疑問が頭の中で渦巻いた。宗英の他に死体が四つ。考えられるのは新誠会。あるいは陳雄――だが、殺された理由がわからない。宗英を殺した四人。その四人はだれに殺された?
遠沢に電話をかけた。呼び出し音が二回。回線が繋《つな》がった。息を殺して相手の出方を待った。
「もしもし? どちらさん?」
遠沢の声ではなかった。滝沢は電話を切った。身体の震えが大きくなった。
遠沢がなにかでヘマをしたのだ。恐らく派手にシャブを使って新誠会に目をつけられた。痛めつけられる前に遠沢は吐いただろう。シャブの出所――滝沢。電話に出たのは新誠会のやつだ。つまり、遠沢は殺された。
歌舞伎町には戻れない。
震える指で電話をかけた。
「はい」
楽家麗の眠たげな声がした。
「昨日話をした日本人だ」
「こんな時間になによ?」
「口止め料の二千万。すぐに用意してくれ」
息をのむ音。すぐに罵声《ばせい》が聞こえてきた。
「そんなすぐに用意できるわけないじゃない。わたし、銀行に預けてるわけじゃないのよ。二、三日はかかるわ」
いっていることはわかった。やくざな中国人はみな、流氓がらみの地下銀行に金を預ける。利子はつかない。出金も自由にはできない。だが、格安の手数料で大陸に送金してくれる。預けた金は必ず保証してくれる。
「いつまでなら用意できる?」
「三日かしら」
「ふざけるな。おまえ、上海のボスの女だろう。無理をいえば大抵のことは通るはずだ。明後日だ。明後日までに用意しておけ」
「待って――」
待たなかった。電話を切った。考えつづけた。シャブと焦りで脳|味噌《みそ》はオーヴァーヒート寸前だった。とにかく、なにか保険が必要だ。
崔虎に電話した。シャブに関するすべてをぶちまけ、新誠会を牽制《けんせい》してくれと泣きついた。
「馬鹿野郎」
罵倒《ばとう》が返ってきただけだった。
「なんでおれがてめえの尻拭《しりぬぐ》いをしなきゃならねえんだ。自分の立場を考えたことあるのか? 新誠会よりも何よりも、てめえは道明を殺ったやつを見つけなきゃならねえんだぞ。それができなきゃ、日本のやくざがやるまえに、おれがてめえを八つ裂きにしてやるからな」
「老板、やつら、宗英を殺しやがったんだ。宗英は身内じゃないですか。敵を討ってください」
虚しいあがき。
「ふざけるな。あいつはてめえの女だ。変態のクズ野郎に股《また》を広げるような女が、おれの身内だと?」
携帯電話を放り投げた。
ふざけてるのはどっちだ。目の前が赤くなる。怒り――恐怖に勝っている。これなら、まだなんとかなるかもしれない。それがシャブが生みだした幻影だとしても。
滝沢はアクセルを踏んだ。頭をフル回転させる――妙案は浮かばなかった。
血まみれの宗英。手に包丁を握っていた。地獄から這《は》い戻ってきたような目で滝沢を詰《なじ》っていた。
おれのせいじゃない――喚く。こうなったのはおれのせいじゃない。
宗英が首を振る。口が開く――あなたのせいよ。凶々《まがまが》しい声が響いてくる。宗英が包丁を振りかざす。逃げられなかった。足が動かなかった。包丁が脇腹に突き立てられた――。
痛みで目が醒《さ》めた。窮屈な姿勢で寝ていた。肋骨が鈍い痛みを伝えてくる。シャツが汗で湿っていた。吐き気がした。頭痛がした。シャブの魔力は消えていた。
惨めだった。すべては自分で招いたことだった。嘘《うそ》をつき、人の弱みに付け込む。そんな人生を進んで辿《たど》ってきた。行き着いた先が今の状況だ。最初から間違った道を歩いていた。くだらない家。くだらない学校。くだらない社会。どこにも愛はなく、憎しみだけを持て余した。
警官になってもなにも変わらなかった。刑事を辞めてもなにも変わらなかった。クソまみれの人生をクソになって転がっていくだけだ。
それでも、死にたくはなかった。
やくざを敵に回し、中国人もあてにならない。頭に浮かぶのはたった一つの名前――劉健一。楽家麗のマンションで殺された洪行の死体を劉健一は秋生とともに運びだした。弱みだ。朱宏に知られれば、劉健一もただではすまない。
電話をかけた。
「滝沢だ。助けがいる」
「金はあるのか?」
商売人の声が返ってきた。
「おまえは上海の朱宏に知られたくないことがあるはずだ」
「思い当たることはないな」
「洪行だ。ふざけるなよ、クソ野郎。おれは見てたんだぞ。おまえと秋生って野郎が死体を運びだす現場をな」
「それで?」
「おれに手を貸せ」劉健一――狡賢《ずるがしこ》い野良犬。餌《えさ》をちらつかせてやらなければ手酷《てひど》いしっぺ返しを食らう。「悪いようにはしない。楽家麗から二千万入るんだ。その金を山分けにしてやる。それに、張道明を殺ったやつもわかっている。そいつをうまく脅せばもっと金が入ってくる」
「二千万で諦《あきら》めておけよ。あんた、もう死んだも同然なんだぞ」
「一千万だぞ。欲しいのかほしくないのか?」
「欲しくないやつがいるか?」
「だったら手伝え」
「そんなにせっつくなよ。おれの方にも話がある。あんたの弱みの話だ」
「弱み?」
「あんた、唐平を殺しただろう?」
滝沢は絶句した――なぜ劉健一が知っている?
「どうした。驚きすぎて心臓|麻痺《まひ》でも起こしたか?」
「唐平? だれのことだ?」
「人戦の唐平だよ。楽家麗を見張ってた」
「どうして……」
「蔡子明っていったか? 北京のチンピラが楽家麗と謝圓のことで色々と嗅《か》ぎまわってる。そいつがおれのとこに来てなにか知らないかといってきた」
「あの野郎――」
蔡子明。信用してはいけなかった。勝手にうろつかせてはいけなかった。
「情報と金をちらつかせてやったら、聞きもしないのにべらべら喋《しゃべ》ったよ。あんたもとんだババをつかまされたな」
「――それで、なにが望みだ?」
「別に。おれとあんたは五分五分だってことを確認しておきたかっただけだ。ビジネスはビジネスだよ。一千万の仕事、させてもらおう。あんた、今どこだ?」
「埼玉だ。新座辺りだと思うが」
「どこかその辺でビジネスホテルに入ってくれ。電話をくれりゃ、おれがそこまで行く」
「人に見せられる顔じゃないんだ」
微かな舌打ちが聞こえた。
「車か?」
「ああ」
「じゃあ、そのまま流しててくれ。後で連絡を入れる」
電話が切れた。
電話が鳴った。
「おれだ」
「ああ」
ホテルの名前とルームナンバー。劉健一の声が告げたのはそれだけだった。
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「これはまた、派手にやられたもんだな。陳雄か?」
部屋は狭っ苦しいシングルルームだった。笑う劉健一のこめかみにもガーゼが貼《は》られていた。
滝沢は不機嫌さを隠さずにベッドの端に腰をおろした。
「新誠会の動きはどうなってる?」
「血まなこさ。シャブを盗まれただけじゃなく、組員を四人も殺されたんだからな」
「あれはおれじゃない」
「尾崎にそういってやれよ」
劉健一は涼しげな顔で煙草をくわえた。
「一本くれるか?」久しぶりのニコチンに舌先が痺《しび》れた。
「だれがやった?」
「秋生だ」
「どうしてあいつが……?」
「あいつはあんたを殺すつもりだった。あんたのヤサを見張っていた新誠会の連中と衝突したんだろうな」
「なんだっておれのヤサを知ってる?」
「おれが教えた」
「てめえ――」
「待てよ。おれだって好きで教えたわけじゃない」
劉健一の指がこめかみのガーゼを指した。
「それぐらい、なんだってんだ。かすり傷じゃねえか」
「おれは暴力には弱いんだ」
煙を肺の奥まで吸いこんだ。腹立ちは収まらない。
「なんで新誠会はおれがやったってわかったんだ? 遠沢がドジを踏んだのか?」
「ラリったまま歌舞伎町に出てきたよ。もう、頭が働かなくなってたんだな」
思い出した――劉健一と遠沢。一時は仲良くつるんでいた。劉健一の冷えた声がすべてはでたらめだと伝えてくる。他人を信用するのは馬鹿だけだ、と。賢い人間はだれかとつるんだりはしない。ただ利用するだけだ。
「殺されたか?」
「今頃はどこかに埋められたか、沈められたかだろう。あんた、次郎にも仕事を頼んでただろう? あいつは逃げたよ。ホームレスの情報網も馬鹿にはできないな」
「おれはどうすればいい?」
「逃げるしかないだろう。新誠会だけじゃない。警察も動いてるんだぞ」
鈴木――向こうからタッグを組もうと持ちかけてきながらあっさり裏切った。こういうことだったのだ。
「金がいる」
懐の中の金は数十万。足りなすぎる。貯えなどあるはずもなかった。ここ二年、宗英の稼ぎで食っていた。時折崔虎からまわされる仕事の報酬はすべて博奕《ばくち》に消えた。
「楽家麗から二千万入るっていってたな? 洪行の件で脅したのか?」
「ああ。もうひとつ裏がある。人戦の謝圓――あいつの失踪《しっそう》に、楽家麗は関係してる。詳しいことはわからんがな。おれが謝圓の行方を追ってると知ると、露骨に怯《おび》えたような顔をしやがった。あの女は、洪行のことも謝圓のことも含めて、おれを追っ払いたいんだ」
「それで二千万か。安すぎないか?」
「欲をかいてうまくいったためしがない」
薄笑いが返ってきた。
「シャブにどっぷり浸かってる割には、ましな選択をしたな。あんまり欲張ると、逆襲される。楽家麗はしたたかな女だ」
顔から血の気が引いた。
「だれがシャブに浸かってるって?」
「あんただよ。ぷんぷん臭う。なぁ、いちいち人のいうことに腹を立てたってしょうがないだろう。そんなことより、二千万をどうやって手に入れるつもりだ? 秋生が黙ってないだろう」
「だからおまえを呼んだんだ。秋生とは顔見知りだろう? あいつを楽家麗から切り離す方法を考えてくれ」
「そんなまどろっこしいことをする必要はないさ。秋生を抱きこんじまえばいいんだ」
劉健一は煙草をもみ消した。唇の端がかすかに吊《つ》りあがっていた。
「どういうことだ?」
「楽家麗を守るためにはあんたが必要だって思わせてやればいい。あいつの頭はあの女のことで一杯だ。すぐに飛びついてくる。秋生を抱きこんでおいて、家麗から金をくすねてやればいいんだ。いい考えだろう? 秋生が側にいれば、新誠会の連中に脅えなくてすむようになる。あいつは頭の巡りは悪いが、こっちの腕は折り紙つきだ。あんた、最高のボディガードを手に入れることになる」
「あいつと一緒に行動するのか?」秋生の顔が頭に浮かんだ――全身の肌が粟立《あわだ》った。「しかし、どうやって?」
「崔虎があの女を殺しに来る。そう教えてやるんだ。崔虎のやり口なら、あんたはよく知ってる。秋生を助けてやれよ」
劉健一の話に頭が追いつかなかった。
「なにをいってるんだ?」
「楽家麗は洪行の死体の件を朱宏に知られるより、崔虎に知られた方がもっとヤバい秘密を持ってるのさ」
勝ち誇ったような声だった。
「おまえ、なにを知ってる?」
「張道明はパチンコのプリペイドカードをばらまいてた。だれが変造したんだと思う?」
「調べたが、あたりはつかなかった」
「謝圓だよ」
「なんだと!?」
「どこかで耳に挟まなかったか? 謝圓は北京の大学で情報工学を専攻してた。コンピュータはお手の物だ」
わからなかったはずだ。電脳狂いの堅気――謝圓。滝沢が調べはじめたときには姿を消していた。人戦の連中の動機もわかった。連中は謝圓がなにをしているか知っていた。恐らくは、謝圓から金を受け取っていた。謝圓が姿を消してやつらは慌てた。金づるがいなくなったのだ。
「待てよ。謝圓ってのは、楽家麗の兄貴のダチだって話だった……」
「北京の大学で知り合ったんだ。家麗の兄は熱心な民主化運動家だったそうだ。謝圓もな。やつらは天安門の抗議集会に参加した。そして、戦車で蹴散《けち》らされた」
「天安門?」
どこか、遠い世界で起こったできごと。テレビで見た映像を思い出した。
「やつらはなんとか逃げ延びた。北京市内の仲間に匿《かくま》ってもらってたんだが、数日後、逮捕された。家麗が公安に密告したんだ」
「実の兄貴をか?」
「あいつはそういう女なんだ。家麗の兄は獄中で自殺した。謝圓は釈放されてから日本に渡ってきたってわけだ」
「日本でばったり出くわして……謝圓はあの女を許せない、そういうことか?」
否定の合図――劉健一は新しい煙草に火をつけた。
「人間ってのは簡単に変わる。謝圓も日本に来て変わった。あいつは、家麗に金と身体を要求しただけだ」
「それで?」
「家麗は謝圓を殺した。あんたも気をつけないと同じめにあうぜ」
「どうして知ってる?」
「おれが死体を処分してやったからさ」
次郎がいっていた。ホームレスの一人が劉健一から仕事をもらった、と。そいつはシャベル片手に新宿から消えてしまった。
「ホームレスを使ったな」
劉健一の眉《まゆ》が持ち上がった。
「よく知ってるな」
「殺したのか? 口封じのために」
「あんたにはどうだっていいことだろう」
劉健一の目が滝沢を見あげた。罪深いほどに黒い瞳《ひとみ》――滝沢は目をそらした。
「つまり……楽家麗が謝圓を殺した。プリペイドカードを作れなくなった張道明が激怒した。それであの女は張道明も殺した。そういうことか?」
「まさか。張道明を殺したのは秋生だ」
「だから、あいつを使って――」
「その時はまだ、秋生と家麗はお互いを知らない。張道明を殺させたのは楊偉民だ」
滝沢はうなずいた。それ以外にはありえない。
「陶立中はどこに絡んでくるんだ? 張道明を殺させたのが楊偉民だとしても、あいつの居場所を楊偉民にチクッたのは陶立中だ。他には考えられん。なんだって陶立中は楊偉民に――」
「簡単だ。あいつは楊偉民の犬なのさ。ずっと昔からそうだった」
言葉が出なかった。裏切りと裏切り。すべてはそれで繋《つな》がっている。正しいことを口にする人間はここでは生きていけない。
「なぜだ?」
「張道明や陳雄と同じに扱われるのが我慢できなかったんだ」
「くだらん」
「人はもっとくだらない理由でも簡単に信念を変えるぜ」
指先に熱を感じた。煙草が根元まで燃えていた。灰皿に放り捨てた。
「ひとつ、腑《ふ》に落ちないことがある。なんだって楊偉民が張道明を殺すんだ? そんな必要がどこにある?」
「楊偉民がなにを考えてるかなんて、だれにもわからんさ」
「おまえがなにを考えているのかも、おれにはわからん」
「わかる必要があるのか? おれがなにかを企《たくら》んでようが、あんたには関係ない。とにかく、謝圓がプリペイドカードを変造していたこと、その謝圓を家麗が殺したこと。そいつを知れば、崔虎は家麗を殺そうとする。家麗が朱宏の女だから、なおさら崔虎は躍起になる。そのことを秋生の耳に吹きこんでやれば、あんたは秋生を自由に使えるようになる。うまく立ち回れば家麗から二千万をふんだくって、この街からおさらばできる。それ以外になにが必要だ?」
苛立《いらだ》ちが募った。劉健一は何かを隠している。だが、なにを隠しているのかがわからない。情報が足りなすぎた。
締めあげる――妄想が頭をよぎった。劉健一をいたぶって情報を絞りだす。
「一千万だ」
「なんだって?」
「二千万は山分けだといっただろう。おれが持っていくのは一千万だ」
劉健一は肩をすくめた。好きにしろといっているようだった――おかしかった。
「それにだ、秋生を丸め込むといっても、実際に崔虎が動かないことにはどうにもならんだろう。影も見えないのに怯《忍び》える馬鹿はいない」
「崔虎は動く」
「どういうことだ?」
「あんたの可愛《かわい》い蔡子明が引き金だ」
「蔡子明がどうした?」
「あとでおれが崔虎にご注進に及んでやるよ。老板、あんたのところのチンピラが、最近なにやら嗅《か》ぎまわってるようですぜ、ってな。崔虎は蔡子明を締めあげる。謝圓の部屋にはパソコンと解析用のプリペイドカードがあるんだ。そういうことに関しちゃ、崔虎の頭の回転は速い。謝圓と家麗の繋がりなんかすぐにわかる。崔虎は家麗をとっ捕まえる。なんとしても、張道明を殺したやつを知りたいんだからな」
囁《ささや》くような声。なにかに取り憑《つ》かれたような目の色。
「ちょっと待てよ。謝圓のアパートにコンピュータと解析用のカードがあるっていったな? だったら、人戦の連中はなんだってそいつを利用しないんだ。謝圓のヤサぐらい、初めから知ってたんだろう?」
「ハードディスクの中のデータがロックされてるんだろう。パスワードがわからなきゃ、解析データを手に入れることはできないんだ。それに、データを解析したからといって、すぐにカードを変造できるわけじゃない。パソコンとは別の機械が必要だし、そいつを持ってたのは張道明だ。だから、連中は必死になって謝圓を探してたのさ。ぴったり口を閉じてな」
「なるほどな」
「おれのいったとおりにしてみろよ、滝沢さん。そうなりゃ、朱宏も黙っちゃいない。戦争になるぜ。昔みたいにな。歌舞伎町は無茶苦茶になる。あんた、うまく立ち回れば新誠会の追及をかわして、金を手に入れられる」
「おまえ、なにが狙《ねら》いだ?」
「あんたがくれるっていう一千万さ」
「くたばっちまえ」
劉健一は腰をあげた。
「このホテルは三日分前払いしてある。好きに使ってくれ。それから――」紙袋が差しだされた。「携帯電話は常にオンにしておいてくれ。随時連絡をいれる」
紙袋の中には大量のバッテリが入っていた。滝沢の携帯電話の型まで劉健一は知っている。バッテリの下には着替えが詰まっていた。
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滝沢はシャワーを浴びて、着替えた。劉健一がしゃべったことを整理した。
筋が通っているようでねじ曲がっている――結論が出た。劉健一はなにかを企んでいる。なにかを隠している。そのなにかがわからない。金の匂いがどこにもしない――血腥い話なのか? 劉健一と血。しっくりこなかった。
滝沢は携帯電話を手に取った。
劉健一の話――すべてに乗ることはできない。危険すぎる。謝圓と楽家麗の関係が崔虎に知られれば終わりだ。家麗は金を引きだせなくなる。劉健一が動きだす前に、蔡子明を確保しなければならない。
「おれだ、滝沢だ」
「もう少ししたら電話しようと思ってたよ」
蔡子明のとぼけた声。怒りを押し殺して話した。
「どこにいる?」
「赤坂。陶哥の後を尾《つ》けてる」
「話がある。尾行は他のやつに任せて戻ってこい」
「どこに?」
「謝圓のヤサだ。おまえ、見つけたんだってな」
息をのむ気配。追い打ちをかけた。
「そのヤサってのはどこにあるんだ?」
震える声が、中野坂上の近くの住所とアパートの名前を告げた。
「怒っちゃいない。逃げようなんて考えずにすぐに来るんだ。わかったな?」
「どうしておれが逃げる。悪いことなにもしてない。滝沢さんに教えるの、忘れてただけだよ」
「わかってる」
電話を切った。
警棒と銃を腰にさした。蔡子明を叩《たた》きのめす。日本人を舐《な》めたらどういうことになるのか教えてやる――少しはましな気分になった。
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毒々しい赤の看板。噎《む》せるような香の匂い――華聖宮《ファションゴン》はすぐに見つかった。
「こりゃまたいい男だねえ」
チャイムに応えて出てきたのはふくよかな老婦だった。皮膚の表面がてかてかとしていて年齢の予想がつかなかった。
「王莉《ワンリー》というひとがここにいると聞いてきたんですが」
「王莉? 知り合いかい?」
「いいえ」
老婦――恐らくは馬曼玉《マーマンユイ》――の人のよさそうな笑顔がかき消えた。
「なんの用だい。あんた流氓《リウマン》かい? 可哀想《かわいそう》な王莉から、これ以上なにを絞りとろうっていうんだね?」
台湾|訛《なまり》の北京語だった。
「おれは流氓じゃない。聞きたいことがあるだけだ」
台湾語でいった。老婦の顔つきがまた変わった。複雑な表情だった。
「あんた、本省人かい?」
「ああ。郭秋生《グォチウション》だ。あんたが馬曼玉《マーマンユイ》かい?」
「じゃ、楊偉民《ヤンウェイミン》のところから来たんだね?」
「楊老爺となにかあるのかい?」
「あたしゃ、あの爺が嫌いなんだよ」
馬曼玉は渋々といった感じで手招きした。広い背中の後に着いていく。香の匂いがますます強くなった。
「王莉、この人があんたと話がしたいってさ」
十畳ほどのダイニングキッチン。五、六人の女が駄弁《だべ》っていた。一見して夜の女。その中の一人が、恐る恐る腰をあげた。
「わたしに?」
艶《つや》のない髪。険のある目、こけた頬《ほお》。夜の闇《やみ》の中でしか男を騙《だま》せない女の顔。
「楽家麗《ロージァリー》のことを聞かせて欲しい」
女の目尻《めじり》が釣りあがった。
「あの女、ヤバいことになってるのかい? いい気味だよ」
祭壇が祀《まつ》られた和室には目を開けていられないほどの煙が立ちこめていた。王莉の細く釣りあがった目が香の煙をはねのけてらんらんと輝いていた。
「あたしとあの女は一緒にこの国に来たんだよ。ふたりで部屋借りてさ、なにをするにも一緒だった。わたしがバーの働き口を見つけて、一緒に働いた。そのうち、家麗が売春の仕事見つけてきて、一緒に身体を売った。ふたりともお金がほしかったからね。初めて身体を売った夜、あの女は家に帰ってきて泣いたんだよ。こんな悔しい思いをしたことはないって。変態に当たっちゃったのさ。大人のおもちゃをあそこに突っ込まれて、嫌がると殴られた。日本人って、ほんとに変態が多いからさ。あたしは慰めてやったよ。耐えるんだ、頑張るんだ。一生使いきれないぐらいの金を貯めて、あとで見返してやるんだってね。あいつは姐姐《ジェジェ》、ありがとうって殊勝なことをいったもんさ」
「それで?」
「あたしたちは人気があった――あたしだって、こう見えても昔はもっと奇麗だったんだよ。どんどん上のランクの店から声がかかって、最後は〈魔都〉。あたしたち、死ぬほど働いたよ。金も溜《た》まった。もうそろそろ身体を売るのはやめて故郷に帰るか、自分の店を持とうかって考えてる時に、朱宏《ヂューホン》が店に来たんだ。朱宏は歌舞伎町の上海流氓の新しいボスになったばっかりだった。いいとこを見せようとして、毎晩豪勢に遊んでいたもんさ。そんな朱宏の目にあたしはとまったんだ。チャンスだったよ。うまくいけば、怖いものなしの姐《ねえ》さんさ。あたし、精一杯サービスしたよ。朱|哥《ゴー》もあたしのこと、可愛《かわい》がってくれた――だけど、あるときから、朱哥はあたしに触れなくなった。あたしが病気持ちだって噂《うわさ》が広がってたんだ。噂を流したのはあの女だった。はじめは信じられなかったよ。あたしのことを姐姐と呼んでた家麗がそんなことするなんて」
姐姐――年上の女を呼ぶ言葉。日本に来た頃は、真紀のことをそう呼んで、よく叱《しか》られた。
「だけど、あの女だったのさ。姐姐が入った後のトイレは変な匂いがする。なにか病気をもらったんじゃないかしら――可愛らしい声で、あの女はみんなにそんなでたらめを話してたんだ。あたしが問い詰めても、あの女はなんのことかしらって顔をして――あたしは、朱哥に訴えたよ。病気なんてでたらめだ。なんなら、ちゃんと病院に行って検査してもらってもいいって。朱哥はわかってくれた。心配するな、もしおまえが病気だとしても、おれのあれで病気なんか吹き飛ばしてやるっていってね。だけど――」
王莉は言葉を濁してお茶をすすった。
「だけど?」
「朱哥に抱かれて、部屋に帰って、あたしはあの女を叩《たた》き出したのよ。姉妹同然に暮らしてたあたしを平気で裏切るような女だよ。当然だろう? あの女は泣いて許してくれって叫んだけどね。だけど、あの女はあたしが考えてた以上に性悪だったんだよ。あたしは次の日、大陸の家族に送金しようと思って地下銀行をやってる男のとこへ行ったのさ。そうしたら、男がいうんだ。あんたの金は昨日、妹妹《メイメイ》がおろしていったよってね。家麗のことさ。あたしは、あの女のこと、妹妹って呼んで、実の妹みたいに可愛がってたのに。なにか困ったことがあったら、あたしのお金を使いなって、あの女にはこっそり暗証番号を教えておいたんだ。あたしはほんとに馬鹿だったよ。二千万以上溜まってたのに、全部、あの女に盗まれたんだ」
「それで?」
「あたしはあの女を探した。仕事も休んで、歌舞伎町中を歩いてまわったんだ。くたくたになって部屋に戻ってきたら、ドアがあいてた。変だなと思って中に入ったら、男たちが何人もあたしに襲いかかってきたのさ。一晩中、あたしは犯された。次の日には、あたしが犯されてる写真が街にばらまかれてた。朱哥はあたしに会ってもくれなくなった。それどころか、手下たちを使って、あたしから金を絞りとるようになったんだ」
「それも楽家麗のせいだと?」
「そうだよ。あの女はすぐに朱哥に取り入ったんだからね。あの女しかこんなことのできる人間いないよ。世話になった人間を平気で裏切る性悪女なんだよ、あの女は」
「だが、ただの娼婦《しょうふ》に、チンピラを雇ってあんたを犯すように命じることができるのか? そのとき、あんたは朱宏に可愛がられてたんだ。下手をすると朱宏に睨《にら》まれることになるのに、あんたに手を出そうっていう度胸のあるチンピラなんか、そうはいないだろう」
「あの女に手を貸したやつがいるのさ」
「だれだ?」
「劉健一《リウジェンイー》だよ。知ってるかい?」
「劉健一がどうして?」
「あいつはよくあの女を買ってたからね」
劉健一――どこにでも名前が出てくる。まるで楊偉民《ヤンウェイミン》のようだ。
「あの女はあたしから盗んだ金を劉健一に渡したのさ。それで、力を貸してもらったんだよ。ふたりともくたばっちまえばいいんだ」
気まぐれか何かで劉健一が動くはずがない。
――おれはたくさん犬を飼っている。
劉健一の言葉。家麗も劉健一の犬なのだ。弱みを握られて上海流氓たちの情報をせっせと運んでくる。
楊偉民がこの女に会えといったわけがわかった。秋生《チウション》に劉健一を殺させたがっている。
秋生は腰をあげた。女が目を剥《む》いた。
「金は? 話を聞いて礼をしないってことはないだろう?」
金――大久保のマンションで上海の流氓を殺した報酬が丸々残っていた。いくら払えばいいのかわからなかった。適当に札を抜き出した。
「ちょっとお待ち」
襖《ふすま》が開いた。馬曼玉がふくよかな身体をゆすって入ってきた。
「いつもいってるだろう、小莉《シァオリー》。ここで金のやり取りは禁止だって」
「でも、曼玉。あたし、金がいるんだよ」
「わかってるよ。あんた、その金、お寄越し」
馬曼玉が札をひったくった。
「わたしがここで寺院をやってなかったら、あんた、この女の話を聞くことはできなかったんだ。手数料をもらうよ。いいね?」
「曼玉、酷《ひど》いよ。それはあたしの金だよ」
「お黙り。あんたの取り分は後で渡してやるよ」
「鬼婆あ」
「もう一度いってごらん。出入り禁止にするよ」
王莉に勝ち目はなさそうだった。秋生は二人の間に割って入った。
「馬|小姐《シァオジェ》、あんたには別に金を出す。だから、その金は王小姐に渡してくれ」
「おや、あたしのこと、小姐って呼んでくれたかい?」不思議なものを見る目が秋生に向けられた。「楊偉民のところの坊やにしては、なかなか人生ってものがわかってるじゃないか」
同じ厚さの札を抜き出した。馬曼玉の手が伸びてくる――それを遮って聞いた。
「謝圓《シェユェン》って男のことで、なにか知らないか?」
「謝圓だって? 知ってるかもしれないよ。あんた、どう思う?」
馬曼玉の目がきらりと光った。
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公衆電話で家麗に連絡を入れた。
「どこにいるのよ!?」
家麗は取り乱していた。
「小姐、なにかあったのか?」
「あの男が電話してきたのよ。すぐに金を用意しろって。殺してくれるっていったでしょ。いつ殺《や》ってくれるのよ」
「日本人のことか? 金ってどういうことだ?」
聞かなくてもわかっていた。滝沢のマンションで血まみれになって横たわっていた女の死体。狂暴な雰囲気を滲《にじ》ませていたやくざたち。滝沢は尻《しり》に火がついていることに気づいた――逃げるには金がいる。
「できるだけ早く金を用意しろって。ふざけやがって。あたしがどれだけ苦労して金を貯めたと思ってるのよ。秋生、早くあいつを殺して」
「わかったよ、小姐。あと二時間ほどで戻る。それまで部屋を出るな。日本人がなにかを企《たくら》んでるかもしれない」
「二時間? そんなに待てないわ。今日はジムで泳ぐ日よ。すぐに来て」
「一日ぐらい泳ぐのをサボったって死にはしない」
「秋生――」
それ以上なにかをいわれる前に電話を切った。
馬曼玉が口にした謝圓のアパートの住所。なにかがあるかもしれない。
タクシーを捕まえた。小滝橋通りから青梅《おうめ》街道に出て西へ向かわせた。神田川を越えたところで降りた。電信柱の住居表示に気をつけながら坂をのぼった。山手通りの手前、路地を左に折れた。中野区本町一の十五。コーポ坂上――洒落《しゃれ》た外装のアパートだった。秋生は階段をのぼった。周囲に広がっているのは平和な光景。二〇一号室。そっとノブをひねった――ドアがあいた。
「滝沢さん?」
訛《なまり》のある日本語が聞こえた。黒星を抜いた。セイフティを外した。部屋の中に飛び込んだ。
「撃つな!」
北京語の叫び。怯《おび》えた顔――両手を挙げていた。突っ込んだ。襟首を掴《つか》み、脚を払った。俯《うつぶ》せに倒れたうなじに銃を突きつけた。
「おまえはだれだ?」
「蔡子明《ツァイズーミン》」
劉健一がいっていた北京のチンピラだった。
「ここでなにをしてる?」
「お、おれは……」
「なにをしてる?」
「ひ、人を待ってる」
「だれだ?」
「日本人」
滝沢。殺すチャンスが向こうからやってきた。
「滝沢《ロンゾー》のことだな?」
銃の下、蔡子明の動きがとまった。
「どうして――」
最後まで喋《しゃべ》らせなかった。考えさせてはいけない。恐怖を徹底的に植え付ける。精神的に制圧する。
「やつはいつ来る?」
「わ、わからない。おれはただ、ここで待ってろと――」
「ここでなにをするつもりだ?」
「知らない。おれはなにも知らない。本当だ」
「楽家麗のことを調べてたな? 上海の老板の女だぞ。ただで済むと思ってたのか?」
「おれはなにも――」
「いますぐ殺してもいいんだぞ」
「た、頼む、許してくれ。おれは――」
「滝沢はここでなにをするつもりだ?」
「知らないって。本当だ。おれは死にたくない。嘘《うそ》なんかつかねえよ。頼むから銃を放してくれ。なんにもしねえから」
引きずり起こした。銃をうなじに押しつけたまま部屋を見回した。ワンルーム。雑然と散らかった部屋。隅に机。パソコンとなんに使うのかわからない機械類。薄いカードの束――なにかを思い出す。銃弾に吹き飛ばされる男たち。飛び散った血。埃《ほこり》とカード類が宙に舞った。
大久保のマンションにいた北京流氓の幹部。秋生が殺した。楊偉民が命じた。宙を舞ったカード――踏み込んだ時、男たちはカードを束ねていた。
蔡子明を促して机に近寄った。
「そこに置いてあるカードを取れ」
「こ、これか?」
震える手がカードの束をつかんだ。
「それはなんだ?」
「パチンコのプリペイドカードだよ。し、知らないのか?」
謝圓はプリペイドカードの磁気データを解析していた――そのデータを北京の流氓たちに流していた。だが、そのことと家麗がどう繋《つな》がるのか。わからなかった。
「謝圓はどこにいる?」
「知らねえ」
「いろいろと調べてたんだろう。なにか気づいたはずだ。どこにいる?」
銃口を強く押しつけた。蔡子明の膝《ひざ》が揺れた。
「し、死んでると思う」
「だれが殺した?」
「…………」
「だれだ?」
「楽家麗」
「なんだと!?」
「た、確かなことは知らねえ。だけど、謝圓は楽家麗を脅してたらしいんだ。おれはさんざっぱら謝圓を探したが見つからなかった。死んでるんだ。それ以外、考えられないじゃねえか。だれが殺したとなったら、あの女しかいないんだ」
家麗が人を殺す――イメージが浮かんだ。家麗なら平気で殺せる。
「滝沢はそのことを知ってるのか?」
「知らねえはずだ。あの日本人はいま、それどころじゃねえ」
「だが、ここに来れば死ぬことになる」
銃を握る手に力がこもった。
「こ、殺すのか?」
「おまえは? おまえはなんだって謝圓のことを調べた?」
「に、日本人に頼まれて――」
「死にたいのか? 滝沢はそれどころじゃないんだろう?」
「か、金になるかと思ったんだ」
蔡子明が首をひねって秋生を見あげた。媚《こ》びるような目が秋生の様子をうかがっている。
「こっちを向くな。おれの顔を覚えたら、死ぬことになるぞ」
蔡子明が息をのんだ。
「滝沢が来たら、なにもなかったように返事をするんだ。入ってくれってな」
「あ、ああ」
「おれは日本語がわかる。下手なことを企んでもすぐにばれるぞ。死にたくなかったら、なにもするな」
「な、なにもしねえ。約束するよ」
「それじゃ、待とう」
五分も待たなかった。スティールの階段をのぼる足音が聞こえてきた。蔡子明の身体が緊張した。
秋生は黒星を握りなおした。足音が近づいてくる。
ドアがノックされた。
「子明、いるのか?」
聞き間違いようのない日本語――滝沢。
銃口で蔡子明の背中を押した。
「あ、ああ。鍵《かぎ》、あいてるよ。入って、滝沢さん」
ノブが回った――ドアが開いた。
「動くな」
蔡子明の肩越しに銃を向けた。サングラスの下の無惨に腫《は》れあがった顔。滝沢が信じられぬものに出くわしたとでもいうように凍りついた。
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蔡子明の肩の上から黒いものが伸びてきた。
「動くな」
銃口が滝沢を狙《ねら》っていた。ばつが悪そうにうつむく蔡子明。その後ろに見覚えのある顔。秋生――鳥肌がたった。
「中に入れ。ゆっくりだ」
銃口はぴくりとも動かなかった。
「おれを殺したら――」
「すぐには殺さない。早くドアを閉めろ」
従うしかなかった。滝沢は後ろ手でドアを閉め、靴のまま部屋にあがった。
なぜここに秋生がいる?
銃口はなにも答えてはくれなかった。
「あの男を縛るんだ」
秋生が北京語で蔡子明に命じた。
「縛るって、なにで?」
銃口が動いた。作りつけのクローゼット。蔡子明があけた。ネクタイが何本か吊《つ》るされていた。縛ったことはあっても縛られたことはない。胃が収縮した。
後ろ手に縛られた。きつく。馬鹿野郎――怒鳴りそうになるのをこらえた。
「持ち物を調べろ。銃があるはずだ」
身体の上を蔡子明の手が這《は》いまわった。銃と警棒が抜きとられた。裸にされたような気がした。
「こっちへ持ってこい。変な動きはするなよ」
蔡子明がなにかをするはずもなかった。秋生は警棒を腰に差し、左手で銃を握った。二丁|拳銃《けんじゅう》。東洋のガンマン。蒼醒《あおざ》めた死神。美しく、凶々《まがまが》しい。
「話を聞かせてもらおうか」
秋生はパソコンの乗った机の上に腰をおろした。
「なんの話だ」
声がかすれた。喉《のど》がからからに干からびていた。
「謝圓は北京の流氓と組んで、パチンコのプリペイドカードを変造していた。そうだろう?」
うなずいた。パソコンの側に置かれた機械類とカードの束。パソコンのハードディスクの中に解析された磁気データが眠っている。それなのに人戦の連中には手も触れられない。劉健一の話はある程度信用してもよさそうだった。
「どうして謝圓はいなくなった? 楽小姐がなにか関係してるのか?」
正念場だった。うまく話を運べば生き延びることができるかもしれない。
「人から聞いた話でもいいのか?」
秋生がうなずいた。銃口は動かなかった。
「謝圓は楽家麗を脅して金と身体を要求した。それで、怒った楽家麗が殺した。そういう話だ」
「なにをネタに脅されたんだ?」
「天安門の件だ」
「どういうことだ?」
それほどの驚きはなかった――秋生はある程度のことは知っている。
「おまえはどこまで知ってる?」
「小姐は自分の兄を公安に売った」
「謝圓は楽家麗の兄の仲間だった」
「なるほど……しかし、死体はどうしたんだ? 上海の連中が処理したのか?」
「劉健一だよ。洪行の死体と同じだ。あいつがどこかに死体を捨てたんだ」
秋生の顔色が変わった。噛《か》み締めた唇――血の気を失っていた。隙《すき》。迷わず突っ込んだ。
「おれにも聞きたいことがある。どうして張道明を殺した? 楽家麗と楊偉民はどう繋がってるんだ?」
「なんのことだ?」
「謝圓はとんでもない金づるだったんだ。張道明は必死になって行方を探したに違いない。楽家麗は怯《おび》えただろうな。そんな時に、都合のいいことに楊偉民がおまえを呼び寄せて張道明を殺した。話がうますぎるだろう?」
「老爺には別の理由があったのかもしれない」
「どんな? 楊偉民はパチンコで金を稼いでいるわけじゃないだろうが。張道明を殺すメリットはどこにもない。それどころか、もし崔虎にばれたら面倒なことになる。違うか? 楊偉民はだれかに頼まれたんだ。それしかない」
口からのでまかせ――話しているうちに本当のところが見えたような気がした。
楊偉民。二年前、北京の崔虎《ツイフー》と上海の朱宏に金をばら撒《ま》いた。歌舞伎町のパワーバランスを保つために。そして今――そのバランスが崩れようとしていた。変造プリペイドカードが産みだす金は崔虎の懐に流れる。金は人を集める。人は力になる。
楊偉民。焦っていたに違いない。変造カードのからくりを知っていてもいなくても。もし知っていたとしても、謝圓は人戦の人間だ。うかつに手を出せば、周天文《ヂョウティエンウェン》の怒りを買う。腹黒い楊偉民が溺愛《できあい》してやまない周天文。だが、ある日、謝圓が姿を消したという噂《うわさ》が耳に入ってくる。楊偉民のことだ、謝圓の死をすぐに悟っただろう。そして、秋生を呼び寄せ、張道明を殺させた。
辻褄《つじつま》はあう。
「おれにはわからない……」秋生が苦しそうに首を振った。「老爺の考えていることはだれにもわからない」
「楽家麗を守りたいなら、調べたほうがいい」
秋生の目が滝沢に向いた。銃口のように虚ろな目。
「人から聞いた話だっていったな? だれから聞いたんだ」
「劉健一だ」
「あんたはあいつの話を信用するのか?」
「半分は」
「そうか」
銃を握る手に力が込められたような気がした。見えない手が滝沢の心臓を握り締めた。
「待て――」
「あんたを殺す。それから劉健一を殺す。その後でゆっくり老爺になにがどうなってるのかを聞くさ」
「おれを殺すとまずいことになるぞ」
「もうどっぷりまずいことには浸かってる」
微動だにしない銃口――地獄へ通じる穴。やけに大きく感じられた。
「崔虎が家麗を殺しに来る」
滝沢は叫んだ。
「なんだと? どういうことだ。崔虎がどうして――」
「劉健一が崔虎にチクる。あいつは貸しを作るつもりなんだ」
喋《しゃべ》りつづけろ。口を挟ませるな。引き金を引く時間を与えるな。
「楽家麗と謝圓と張道明の繋《つな》がりを知っただけで崔虎は楽家麗を殺すぞ。大事な金づるを殺されたんだからな。健一とは数時間前にわかれた。今頃は崔虎のところにいるかも知れん」
「殺してやる。おまえらふたりとも、殺してやる」
銃口――目の前が暗くなる。闇《やみ》の中、宗英《ゾンイン》の笑う顔が見えた。
「おまえ一人じゃ無理だ。おれが手を貸してやる。殺すのはそれからにしろ」
「ふざけるな」
いつの間にか、秋生は目の前にいた。眉間《みけん》に突きつけられた銃口の冷たさ。ふいに耐えがたい尿意に襲われた。
「おまえはおれの女の仇《あだ》を討ってくれた。そうだろう? おれにはおまえに恩があるんだ。恩を返させてくれ」
咄嗟《とっさ》のでまかせ。銃口が遠のいた。効き目があったかどうかはわからない。秋生は滝沢の肩越しを睨《にら》んでいた。
蔡子明――及び腰になってドアに手をかけている。
「動くな――」
蔡子明が凍りついた。恐怖に瞳孔《どうこう》が開いていた。
「どこに行くつもりだ」
「お、おれは別に……」
「こっちに来るんだ」
「う、撃たないでくれ」
蔡子明がおっかなびっくり近寄ってきた。
「こいつはなにを知ってる?」
死神の声――殺気立った雰囲気が消えていた。
「知らん。ひとりでこそこそ嗅《か》ぎまわっていたからな」
「滝沢さん、それ、ないよ」
「勝手な真似をするなといっておいただろう。死にたくなかったら、知ってることを喋っちまえ」
「み、みんな滝沢さんが喋ったよ。おれは……上海の洪行《ホンシン》のことでいいかい?」
滝沢には日本語、秋生には北京語で蔡子明は訴えた。媚《こ》びを売る小犬のような目の動き。秋生が銃口で先を促した。蔡子明は喋りはじめた。
「洪行も楽家麗と謝圓のことを調べてた」
「本当か?」
「おれが話を聞いたやつらが覚えてたんだよ。そういえば、上海の洪行も同じことを聞いてたって」
「他にだれが知ってるんだ?」
秋生が口を挟んだ。滝沢に向けられた質問――肩をすくめた。
楽家麗は自信満々にふるまっている。だが、その足元はすっかりぐらついている。恐らく、知らないのは本人だけだ。
銃口が迫ってきた。
「答えろ。他に誰が知ってる?」
「上海の連中の動きがわからん。だが、洪行が知ってたとなると、他にも知ってるやつがいるかもしれん――それに人戦の連中だな」唐平の死体。人戦の連中が黙っているはずがない。「あいつら、ずっと楽家麗を見張っていた。なにか知っていると考えたほうがいいだろう」
秋生はむっつりと黙り込んだ。固く結ばれた唇。見るものを戦《おのの》かせる黒い瞳《ひとみ》がなにかをじっと見つめていた。
「みんな殺すつもりか?」
「どういう意味だ?」
「おれ。蔡子明。劉健一。上海の連中。人戦の連中。それに楊偉民もいるな。楽家麗の弱みを嗅ぎつけた人間をみんな殺すのか?」
答えはない。
「無理だ。数が多すぎる。下手なことを考えるよりは逃げたほうがいい。おれが手を貸してやる」
「なにが望みだ?」
ふいに襲ってくる震え――なにが望みだ? なにを望んできた?
頭を振った。
「二千万。それから、おれのマンションでなにが起こったのかを教えてくれ」
おれの代わりに尾崎を殺してくれ、崔虎を殺してくれ――喉《のど》が震えただけだった。
「あの女を愛していたのか?」
宗英――手に握られた包丁。憎悪の浮かんだ醜い顔。捨てるつもりだった。
「おれの女だったんだ」
「やくざがあんたを探してる」
「知ってる」
「崔虎もあんたを探すことになる」
「どういう意味だ?」
「こいつは殺さなきゃならない」
銃口が蔡子明に向けられた。
「ま、待てよ……お、おれも手伝うよ。な、なぁ。殺さないでくれ」
秋生の左手が動いた。銃が消え、代わりにナイフが現れた。
「おれは女の死体を見た。嬲《なぶ》られて殺されていたよ」
宗英――殺された。伊藤に。伊藤に命じた尾崎に。
殺せ――頭蓋骨《ずがいこつ》の奥でなにかが叫ぶ。
「おまえは今は殺さない。あの女に感謝しろ。だが、こいつはだめだ。信用できない。連れていくにも足手まといだ」
「た、滝沢さん」蔡子明が目をむいて懇願した。「頼むよ。おれ、なんでもしたじゃない。死にたくないよ」
必死の懇願――恐怖がべっとりと顔に塗り込められていた。肩をすくめるしかなかった。力のないやつはくたぱるだけ。それがこの世界の掟《おきて》だ。
「おれにはなにもできん。諦《あきら》めろ、子明。高望みしすぎたんだ」
「おれは――」
蔡子明の言葉が途中で途切れた。秋生が動いた――蔡子明の眼窩《がんか》にナイフが突き刺さった。蔡子明は仰向けに倒れた。断末魔の痙攣《けいれん》。死神がじっと見下ろしていた。秋生の顔からはなんの感情もうかがえなかった。
「張道明を殺った時も、そんなふうに平然としてたのか?」
「あの時は興奮していた」
秋生は蔡子明の死体を足で転がした。眼窩からナイフを抜きとった。刃に血と体液がこびりついていた。
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死体をクローゼットの中に押し込んだ。手の触れた場所すべてをハンカチで拭《ぬぐ》った。
「これからどうする?」
秋生は聞いた。滝沢は腕を組んだ。
殺すつもりだった――気が変わった。頭に浮かんだ滝沢の女の死体。それが真紀と重なった。
そのうち殺すことになるだろう。だが、利用できるあいだは利用する。楊偉民や劉健一なら必ずそうする。
「楽家麗はどこにいるんだ?」
「自分のマンションだ」
「とりあえず、そこへ急ごう」
先に部屋を出た。入った時と同じ光景が広がっていた。異変はない。階段をおり、青梅街道へ向かった。肩越しに後ろを振り返る――滝沢が部屋から出てきた。
タクシーをつかまえた。後に続いて滝沢が乗り込んできた。こめかみに滲《にじ》む汗。滝沢は怯《おび》えていた。
「池袋まで、頼む」
滝沢が運転手に命じた。
「どういうことだ?」
「直で新宿に乗り込むのはまずい」滝沢は横目で運転手の表情を確かめながら北京語でいった。「新誠会のやつらがチェックしてるはずだ」
滝沢は携帯電話を取り出した。
「劉健一に電話してみる。もしかすると間に合うかも知れん」
聞き取りにくい北京語だった。それでも意味は通じた。
「……くそっ、電話を切ってやがる」
今度は日本語だった。滝沢は顔をしかめながら携帯電話を差し出してきた。
「楽家麗に電話しろ。気をつけるようにいうんだ。おまえが行くまで、決して部屋を出るなってな」
電話をかけた。
「秋生?」
「小姐、なにか変わったことはないか?」
「変わったことって……なにかあったの?」
滝沢が顔をよせてきた。耳をそばだてている。
「戸締まりをしっかりするんだ。おれが戻るまで決して部屋を出ちゃいけない」
「なによ。どうしたの、秋生?」
「北京の崔虎が小姐を殺しに来るかもしれない」
「……どうして?」
「人戦の謝圓の件、崔虎にばれるかもしれない」
息をのむ気配が伝わってきた。
「どうなってるのよ? 秋生、わたし、謝圓のことなんてなにも――」
「おれには嘘《うそ》をつかなくてもいいんだ、小姐。落ち着け。だれも小姐には手出しできない。おれがいる。おれが守ってやる」
「秋生、あんた、なにをしたのよ?」
「なにも」
「嘘よ。じゃなかったら、どうして北京の崔虎が出てくるのよ。なにが守ってやるよ。あんたがめちゃくちゃにしたんじゃないの?」
「小姐、おれは――」
滝沢の手が伸びてきた。携帯をひったくられた。
「小姐、おれだ。日本人だよ。ぐだぐだ文句を垂れてる暇はないんだ。金を集める算段をしておけ。あんた、もう、歌舞伎町にはいられないぜ」荒々しくいって、携帯を切った。「くそろくでもない女だな」
「知ってる」
「あんな女のどこがいいんだ?」
「おまえにはわからない」
「わかりたくもないな」
サングラスの下のどす黒く腫れた顔。滝沢の表情はうかがえなかった。だが、声がかすかに震えていた。
池袋でタクシーを乗り換えた。白山を経由して新宿へ。焦りと不安。滝沢は何度も劉健一に電話した――劉健一はつかまらなかった。
「わざと電話を切ってやがる」
毒づきながら、滝沢はリダイアルボタンを何度も押した。
「ん?」
タクシーは靖国通りを走っていた。左手に武道館が見えた。滝沢の横顔に緊張が走った。
「健一か? おれだ、滝沢だ……なんだって電話を切ってた? いいか、さっきの話はなしだ。蔡子明はくたばった。秋生に殺されたんだ。それ以上へたに動くと、おまえ、秋生に殺されるぞ……遅い?」
秋生は耳を近づけた。ノイズに混じって劉健一の北京語が聞こえてきた。
「たった今崔虎と別れてきたところだ。おれの口から本当のところを教えてやったよ。崔虎は頭に血がのぼってた。今更あの話は嘘でしたというのは通じないな、滝沢さん。秋生との間になにがあったのかは知らんが、諦《あきら》めて、最初の計画通り動くことだ」
「崔虎は動くのか?」
「崔虎だぞ。あんたもよく知ってるだろう。今頃、手下どもを呼び出してるさ」
「てめえ、なにを企《たくら》んでやがる?」
日本語――思わず出たという感じだった。運転手がバックミラー越しにこっちの様子をうかがっていた。
「なにも。あんたからもらう一千万のために働いてるだけさ」
電話が切れた。滝沢はリダイアルボタンを押した。携帯電話を耳に押しあてた。顔が歪《ゆが》んだ。
「くそ、電源を切りやがった」
「最初の計画ってなんのことだ?」
秋生は黒星を抜いた。運転手の死角になる位置で銃口を滝沢に向けた。
滝沢は前を向いたままだった。口だけが動いた。
「おまえをうまく手なずけようって腹だったのさ」
「わかるように説明しろ」
「崔虎を動かす。楽家麗を抱えておまえが身動きとれなくなったところで、おれが助け船を出してやる」
「それで、楽小姐から金をもらって逃げるつもりだったのか? 呆《あき》れたな」
くだらない男。だが、殺意も怒りもなかった。どう利用できるのか。考えるべきはそれだけだ。楊偉民のように、劉健一のように。
「小姐の部屋は大丈夫か?」
「劉健一は証拠を持って崔虎のところへ行ったわけじゃない。確認を取るのに時間がかかるだろう。崔虎が動くのはもう少し先だ」
「崔虎が楽小姐になにかしたら、朱宏が黙っちゃいない。そうだろう?」
「それが劉健一の狙いかもな」
「北京と上海の衝突か……なんだってそんなことを?」
「どこかで戦争が起これば、ハイエナのようなやつらが儲《もう》ける仕組みになってるんだ。それに――」
滝沢が口をつぐんだ。新田裏――タクシーがとまった。
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* *
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夕方の新宿。穏やかな風が吹きつける。怪しい気配は感じられなかった。エントランスのインタフォン――何度押しても返事はなかった。
「いないのか?」
背中越しに滝沢の声が浴びせられた。答えずに暗証番号を押した。エントランスを駆け抜けた。エレヴェータは一階でとまっていた。
「電話してからまだ十分もたってないぞ」
滝沢の声。神経を逆撫《さかな》でにした。
「黙れ」
五階のボタンを押した。歯ぎしりしたくなるほどゆるやかな上昇速度。妄想が広がった。血まみれの部屋の中、家麗が倒れている。
「くそっ」
黒星を抜いた。もう一丁の黒星――滝沢に放り投げた。
「いいのか?」
「おまえが変な考えを起こしても、おれより先に撃つことはできない」
「たいした自信だな」
滝沢が銃身のスライドを引いた。金属音――一瞬の後悔。振り払った。家麗がいないのならなにかを望むだけ無駄だ。
エレヴェータがとまった。秋生は廊下を駆けた。五〇三号室。壁に背中を押しあてた。ドア越しに中の雰囲気をうかがった。なにも感じなかった。ノブに手をかけた――鍵《かぎ》がかかっていた。合鍵を滝沢に渡した。滝沢が身を屈めて鍵穴に鍵を差し込んだ。なにも起きなかった。ドアが開いた。
背中を丸めた。両手で握った黒星を突きだした。飛び込んだ――だれもいなかった。
バスルーム、トイレ、リヴィング、ベッドルーム。銃を構えながら進んだ。箪笥《たんす》や食器棚の抽斗《ひきだし》が開けっ放しになっていた。衣類が床に散らばっていた。
「慌てて逃げ出したんだな」
滝沢が黒星にセイフティをかけた。
家麗は消えていた。
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「どこに逃げたと思う?」
「わからない」
力のない言葉――秋生は諦めきれないというように部屋のあちこちに視線を走らせていた。
「無駄だよ。あの女はおまえを信用できなくて逃げ出したんだ」
滝沢はサングラスを外した。散らかった衣類を蹴散《けち》らしてキッチンへ向かった。冷蔵庫の側に洋菓子の箱が転がっていた。拾いあげた。冷んやりとした感触。表面に水滴が張りついていた。
冷蔵庫で冷やされた洋菓子の箱。逃げる時に慌てて持ち出すものではない。中には別のものが入っていた――金。箱いっぱいに詰まっていたとして一千万。
「あの女はな、おれに金がないっていいやがった。地下銀行に預けてるってな。しかし、これだけ服が残されてるってことは、どんな鞄《かばん》を持って出たのか知らんが、その中には服の代わりにどっさり金が詰まってるってことだな。くそ」
箱を放り投げた。
「小姐が自分の意志で出て行ったかどうかはわからない」
「笑わせるなよ」
テレビのリモコンが目に入った。手を伸ばした。テレビにスウィッチが入り、音が流れはじめた。
滝沢は次々にチャンネルを変えた。探していた番組が画面に映った――ニュース番組。
「続きまして、今日未明、新宿で起きた大量殺人事件の続報です。
警察の発表によりますと、新宿区北新宿のマンションで発見された死体は、男性四人、女性一人。女性の身元は中国籍の林宗英さん。男性四人は、新宿を拠点に活動する広域暴力団稲葉会系新誠会の構成員であることが判明しました」
伊藤とチンピラたちの顔が画面に映しだされた。
「また、事件の起きたマンションの借り主が元新宿署の巡査部長だった滝沢誠さんであることが判明。この元巡査部長と殺された林宗英さんは内縁関係にあったことがいくつかの証言から浮かび上がり、元巡査部長が事件の有力な鍵を握っていると思われます。警察では暴力団新誠会を追及するとともに、この元巡査部長の行方を追っています」
モニタの画面が切り替わった。警察の制服を居心地悪そうに着ている若い顔。
画面の中の滝沢――クソまみれの人生を歩いていることに気づいていそうもなかった。
画面が切り替わった。魏在欣《ウェイザイシン》が住んでいたマンションが映しだされた。レポーターが中国マフィア同士の抗争と思われる銃撃戦について語りはじめた。
警察とやくざに追われている。蔡子明が死んだ。秋生が殺した。ばれれば崔虎にも追われることになる。金を手に入れるあてもなくなった――最悪の状況。年貢の収め時というやつだった。
逃げろ。
頭の中で警報ベルが鳴り響く。それでも身体は動かない。別のことを考えている自分がいる。
別のこと――秋生。拳銃《けんじゅう》を握った右手がだらりと垂れていた。虚ろな目が宙をさまよっていた。獣と子供が同居したような男。身体の中に磁石が埋めこまれていた。その磁力に強く引きつけられる。
「おい、楽家麗が行きそうな場所に心当たりはないのか?」
「わからない」
力なく揺れる首。これが殺し屋――なにかが狂っている。
「朱宏のところに逃げたか」滝沢は声に出した。考えをまとめるために。「だが、それもいい考えじゃない。朱宏になんといって説明する? 本当のことをいうのはまずい。下手をすりゃ、北京と戦争になるかもしれないんだからな……」
「本人に訊《き》いてみるか……」
嗄《かす》れた声が返ってきた。よく聞き取れなかった。
「なんだって?」
「朱宏に聞いてみるのさ。楽小姐が来なかったかって」
秋生の目に湛《たた》えられた暗いきらめき――狂気に似た光だった。
「馬鹿なことをいうな。どうやって切り出すんだ? 楽家麗はトラブルにどっぷり首まで浸かって逃げ出しました、こっちに来てませんかってか?」
「銃を突きつければ、たいていの人間はなんでもしゃべる」
「おまえ、朱宏に喧嘩《けんか》を売るつもりか?」
返事はなかった。秋生は暗い目で宙を見つめていた。
秋生は危険だ。警報ベルが鳴り響く。それでも、磁力に引きつけられる。
「とにかく、ここは出るぞ。どこか、別の場所で考えよう」
秋生の背中を押すようにしてマンションを出た。闇《やみ》が街を覆いはじめていた。ささくれだった神経が不審なものを探して蠢《うごめ》いた。
行くあてがない。行くべき場所もない。必要なのは金と情報――あるいは逃げ出そうとする意志。なにもない。傍らに、腑抜《ふぬ》けのような秋生がいるだけだ。
情報――劉健一に聞くのが一番だった。携帯電話は留守電になっていた。呪詛《じゅそ》を吹きこんで電話を切った。劉健一は隠れている。暗闇に潜んでなにかが起こるのを待っている。腐肉を食らうために。餓《う》えた胃を満たすために。ハイエナの流儀。見習うべきだ。食われる側より食う側にいた方がいい。
食う側――金を握る側。金を握るには情報がいる。新宿の中国人社会で情報を腹一杯ため込んでいるのは劉健一。それに楊偉民。
「おい」
秋生に携帯電話を差し出した。
「楊偉民に電話しろよ。あの爺ならなにかをつかんでるかも知れん。そうだろう?」
秋生は携帯電話を耳にあてた。
「もしもし? おれだ、秋生だよ……仕事をしくじった。楽小姐がいなくなった……そうだ。その日本人も一緒にいる……わかってる……十分後にもう一度電話する」携帯電話が耳から離れた。「調べてくれるそうだ」
「どうしておれとおまえが一緒にいることを楊偉民が知っているんだ?」
「老爺はなんでも知ってる。どうやって知るのかは考えたこともない」
愚にもつかない答え。自分で考えるしかなかった。だれかに見られた――とすると、謝圓のアパートしか考えられなかった。見張られていたのか。それとも、アパートを見張っているところに出向いてしまったのか。アパートの中には蔡子明の死体が転がっている。背筋が震えた。
「ああ、そうだ……わかった。伝えておく。それより、小姐の方はどうなんだ?」
十分後。秋生は再び楊偉民に電話をかけた。
「人戦?」
秋生の口から漏れたのは予想外の言葉だった。人戦がなぜ――唐平。指が欠け、背中をナイフでめった刺しにされた死体。今頃は宮田たちがどこかに埋めている。
楽家麗を見張っていた唐平が消えた。楽家麗がなにかを知っている。だれでもそう思う。
「人戦がどうして?……日本人が知ってるのか? わかった。無茶はしない。だけど、小姐を助けなきゃ、老爺の立場だって悪くなる……ああ、そうだ。そうする」
秋生の目――もはや虚ろではなかった。
「楽小姐は人戦の連中に連れ去られたらしい」
「どうやって? それに、たったこれだけの時間で楊偉民はどうやって調べた?」
疑問を口にした瞬間、悟った。タレコミ屋。人戦のだれかが楊偉民の犬なのだ。
「老爺も詳しいことは知らないそうだ。だが、確かに小姐は人戦にさらわれた。理由はおまえが知っているそうだ」
力――触れるものすべてを破壊しつくしてやまない力。秋生の身体からひしひしと伝わってきた。
「おまえが上海の洪行を殺した時だ。マンションの周りをうろついていた男、覚えてるか」
「ああ。そいつは小姐を見張っていたんだ」
「おまえが洪行を追ってマンションの中に消えた後にな、おれはそいつを拉致《らち》した。色々と聞きたいことがあったんでな」
「殺したのか?」
掌が汗で濡《ぬ》れていた。秋生の目はどこまでも暗かった。見つめているのは他人の死だ。腰の銃を抜くことを考えた――振り払った。かなうわけがない。
「ああ。死体はちゃんと始末したが、楽家麗を見張っていた仲間が消えたんだ。連中としちゃ、あの女が関っていると誤解してもしかたがない」
「とんだ疫病神だな」
秋生が視線をそらした。
「殺さないのか? おれのせいであの女はさらわれたんだぞ」
「おれは人戦というのがなんで、どこにあるのかも知らない。助けがいる」
秋生が――死神が自分を必要としている。
滝沢は顔を歪めた。
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事務所のはずがない。肥溜《こえだ》めにどっぷり浸かっているのは古逸和《グーイーホー》、鄭孟達《ヂョンモンダー》、林明季《リンミンジー》の三人だけだろう。人戦には他の人間もいる。まじめに民主化運動に携わっている連中が。
人戦の事務所を訪れた時に頭に刻みこんだ林明李の住所と電話番号を記憶の隅から掘り起こした。
タクシーをつかまえた。明治通りから早稲田通りへ。上落合から歩いた。住宅街の中に建つ古ぼけたアパートの前――張り込みに適した場所はなかった。通りに出て喫茶店に入った。窓際の席に陣取った。林明季のアパートへ続く路地が見渡せた。
アイスコーヒー。冷えていず、甘すぎた。滝沢は一口すすって飲むのをやめた。秋生はグラスに手を触れようとすらしなかった。感情をうかがえない目がじっと滝沢に注がれる――得体のしれない感情が蠢く。恐れとは違うなにか。胃が収縮した。シャブの煙を思いきり吸い込みたかった。
秋生の暗い目に見守られて携帯電話を使った。
「はい?」
柔らかい北京語が答えた。
「謝圓のことで話がある」
「あ、あなたは?」
「古逸和に代わってくれ」
「古逸和はここにいないわ。わたし――」
「代われといったんだ」
沈黙。微かなやり取りが聞こえた。手から手へ受話器が渡される。荒い息遣い。
「おれが古逸和だ。おまえはだれだ?」
「謝圓と唐平、それに楽家麗の件だ」
受話器の向こうで古逸和が息をのんだ。畳みかける。
「謝園と唐平の行方をおれは知ってる。その情報と女を交換してくれ」
「……どこのだれかもわからないやつと取り引きなんかできるか」
「おれが名乗っても、おまえたちにはだれのことだかわからんだろう」
「おまえ、あのボディガードじゃないのか?」
「この北京語を聞けば、おれが中国人じゃないことぐらいはわかるだろう」
沈黙。受話器から口を離してだれかとやり取りしている。さっきよりは声が大きかった。相手は林明李か。それとも鄭孟達か。恐らく、あのデブは楽と一緒に別の場所にいる――勘がそう告げる。
「おまえが謝圓と唐平の行方を知っていると、どうやったら信じられるんだ?」
正念場――でたらめが口をついて出た。
「成子《なるこ》坂下の謝圓のアパートに死体が転がっている」
「なんだと――」
「最後まで聞けよ。死体は謝圓じゃない。北京のチンピラだ。謝圓が殺した。おれはその場にいて、一部始終を見ていた」
「でたらめだ」
「確かめてこいよ。知ってるんだろう、あのアパートだ。パソコンとパチンコのプリペイドカードがあった。パソコンの中にはカードの磁気データが眠っているが、おまえたちはそいつを引き出すことができなかった。そうだろう?」
沈黙。やり取りも聞こえない。
「それに唐平だ。あいつは毎晩、楽家麗を見張っていた。白いワゴン車に乗っていたよな」
「ふたりはどこにいる?」
古逸和が折れた――しょせんは素人だ。
「だから取り引きだといっているだろう。おれが欲しいのは楽家麗と家麗が持っていた金だ。いつ用意できる?」
「それよりまず、ふたりがどこにいるのか知っているという証拠を見せろ」
「だから、謝圓のアパートに行ってみろ。死体は動かないんだからな」
沈黙。そしてやり取り。声がずいぶん甲高くなっていた。
「二時間後に、落合の下水処理場だ。女を連れていく。場所はわかるか?」
「ああ」
「見張りを立てるからな。変な動きがあったら、おれたちは女を殺す」
「民主化運動家が人を殺すのか?」
「おまえの知ったことか」
「金も忘れるなよ」
「金はだめだ。女だけにしろ」
「おい――」
「おれたちにも金は必要なんだ」
歯の隙間《すきま》から絞りだされたような声。簡単には引きそうにもなかった。秋生がじっと見ている。金――奪うチャンスはいくらでもある。
「わかった。二時間後に、落合の下水処理場だな?」
秋生の目がやっと動いた。射るような視線が、今度は路地に向けられた。
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「おれは女に顔を覚えられてる」
滝沢がいった。路地に動きはない。
「やつらが動きはじめたら、おまえだけで尾行しろ。おれは距離をとって後からついていく」
「おまえを信じろというのか?」
「おれにおまえが殺せるか?」
秋生は首を振った。
「おれはまだ死にたくない。おまえを置いて逃げ出すのが一番だが、金がない。楽家麗の金が必要なんだ。それまではおまえにくっついてるよ」
返事はしなかった。家麗の救出を邪魔さえしなければ、滝沢がなにをしようとかまわなかった。
家麗――逃げ出した。秋生を信頼しなかった。空っぽの部屋を見た時は心臓を引き裂かれたような痛みを味わった。
楊偉民も劉健一もいった。ろくでもない女だと。わかっていた。真紀も同じだった。自分のことだけで手一杯で、秋生にかまってはくれなかった。それどころか憎しみをぶつけてきた。それでも、惹《ひ》かれた。なにかが狂っているのかもしれない。
昔、想いを寄せてくれた女がいた。わずらわしいだけだった。玩具のように弄《もてあそ》んでいるうちに姿を消した。楊偉民が女を探してきた。殺せといった。この女はおまえを怨《うら》んでいる。おまえに復讐《ふくしゅう》を考えるかもしれない。笑い飛ばした――楊偉民は真剣だった。禍根を残してはいけない。殺さなければならないときには殺すのだ。救いを求める女を殺した。絶望に縁取られた目をナイフで刺した。なにも感じなかった。なのに、家麗に逃げられただけで傷ついている。なにかが狂っている。
「おい」
滝沢の切迫した声がした。それより先に見つけていた。路地から緊張に顔を強張らせた男と女が姿を見せたところだった。
洪行をしゃぶる家麗の冷たい表情を思い出した。ろくでなしに犯されている真紀の虚ろな視線を思い出した――席を立った。
背の高い男――古逸和。背の低い女――林明季。喫茶店を出る前に滝沢から聞いた。古逸和は右手にスポーツバッグを持っていた。中には金が入っているはずだ。
ふたりは早稲田通りを越えた。下落合へ向かって歩いていく。言葉も交わさず、黙々と。ときおり、怯《おび》えたように後ろを振り返った。
気づかれることはなかった――ふたりとも素人だった。
アパートやマンションが立ち並ぶ住宅街。細い道の入口でふたりは立ち止まった。短いやり取り。古逸和が林明季にバッグを渡した。林明季は細い道に入っていった。古逸和は歩きはじめた。
どうする――秋生は振り返った。滝沢が女を追えと手振りで示した。一瞬の躊躇《ちゅうちょ》。滝沢が女に顔を覚えられているといったことを思いだした。
小さな商店街だった。八百屋、魚屋、食堂、カラオケボックス、銭湯。林明季はコインランドリーに入っていった。通りすぎて中をうかがう。洗濯機と乾燥機が並んだ狭いスペース。奥に簡易コインロッカーがあった。林明季がコインロッカーにバッグを突っ込んでいた。
商店街の終わりまで行って引き返した。滝沢を見つけた。眩暈《めまい》と怒りを感じた――古逸和を見失ったのか?
睨《にら》みつけた。滝沢は肩をすくめただけだった。滝沢はコインランドリーに入っていった。後を追うしかなかった。
滝沢が腰の上で黒星を構えていた。林明季が口を喘《あえ》がせていた。秋生は背中で入口を塞《ふさ》いだ。
女の喉《のど》が隆起した――滝沢が殴った。くずおれた女の身体を滝沢が支えた。
「手伝え」
滝沢の鋭い声に促されて、女の脇《わき》の下に手をまわした。
「あった」
滝沢の手の中で小さな鍵《かぎ》が光った。滝沢がコインロッカーを開けた。中にはバッグ。滝沢がジッパーを開いた。下着――その下に札束がみえた。
「よし」
コインランドリーには乾燥機の熱がこもっていた。滝沢のこめかみに汗の粒が滲《にじ》んでいた。
苦しそうな呻《うめ》きが女の口から漏れた。女は殴られた鳩尾《みぞおち》を押さえていた。
「騒いだら、殺すぞ」
滝沢の北京語は下手な分だけ迫力があった。女の動きが止まった。
「おれたちはもう何人も殺してきた。おまえを殺すのも簡単だ」
「助けて……なんでもいうことは聞くから」
「ここを出よう」
滝沢が黒星をしまった――秋生は代わりに抜いた。女を両側から挟みこんだ。左手で女の肩を抱いた。ジャケットの内に突っ込んだ右手で銃口を女に押しつけた。
「ゆっくり歩け。下手なことは考えるな」
コインランドリーの外に出ると冷たい風が吹きぬけた。女が震えた。
「古逸和はどうしたんだ?」
やっと口にした疑問――あっさり無視された。
「楽家麗はどこにいる?」
「孟達が……」
「その鄭孟達はどこにいるんだ?」
「自分のアパート」
「場所は?」
「この先よ」
「案内しろ」
商店街に人影はまばらだった。北京語を喋《しゃべ》る三人に注意を向ける人間はいなかった。
「滝沢、質問に答えろ。どうして古逸和を追わなかった?」
下落合へ向かう道に戻ったとたん、秋生は口を開いた。我慢できなかった。
「代わりにこの女が手に入った。取り引きに使えるかもしれん」
「小姐になにかがあったら――」
「なにもない。やつらに人を殺す度胸があってたまるか。いいか、よく聞け。この女にやつらの様子を聞けば先手を打てるかもしれないんだ。おまえ、楽家麗を助けたいんだろう? それも無傷で。だったら、古逸和を追うよりこの女を捕まえた方がいいってのはガキにでもわかるだろう」
秋生は黒星を握る手に力をこめた。女が立ちすくんだ。
「大丈夫だ、小姐。静かにしていてくれたら殺しはしない」
女がうなずく。滝沢が忌《い》ま忌ましそうに唾《つば》を吐いた。
「おまえはおれに女を追えと合図した。自分は古逸和を追うからってな。やり方を変えるなら、先にそういえ。おれはおまえを信じてるわけじゃないんだ。次に同じことが起こったら、撃つぞ」
「勝手にしろ」
滝沢の唇――血の気を失って白くなっていた。
女は古ぼけたマンションの近くで足をとめた。エントランスにカーサ高田という文字が彫られていた。四階建――一階は駐車スペースになっていた。
「ここか?」
林明季がうなずいた。
「部屋は?」
「二〇二」
三つあるベランダの真ん中を見あげた。カーテンの隙間《すきま》から明かりが漏れていた。家麗がいる。頭の中に固い芯《しん》ができた。
「鄭がひとりで借りているのか?」
「鄭はここで五人で暮らしてるわ」
「他の連中も中にいるのか?」
「夜にならないと帰ってこない」
「間取りは?」
「一LDK」
「これに中の様子を書け」
滝沢が懐から手帳を取りだした――表紙に警視庁の三文字。
「あなた……」林明季の唇がわなないた。「覚えてる。前に事務所に来た刑事ね」
「余計なことは喋らなくていい」
「警察がこんなことするの?」
「日本の刑事が北京語を喋るか?」苦々しげな声。「そんなことより、早く部屋の様子を書け。嘘《うそ》は書くなよ、すぐにばれるんだからな」
林明季は滝沢を凝視し、ため息をついた。諦《あきら》めたように手帳にペンを走らせはじめた。
秋生は侵入経路を探った。ベランダに忍び込む。滝沢は林明季を使って玄関から。中にいる男たちの神経が玄関に釘付《くぎづ》けになったところで飛びこむ。問題はベランダだ。屋上から――無理。一階の駐車場は地下に少し掘り下げられている。滝沢の肩を借りればよじ登ることができそうだった。
「秋生」
滝沢が食い入るように手帳を睨《にら》んでいた。
手帳に書かれた間取りは縦長だった。玄関、廊下――左|脇《わき》にユニットバス、奥にリヴィングと六畳ほどの和室。
「女はどこにいる?」
手帳から目を放さずに滝沢が聞いた。
「知らないわ」
「恐らく和室だ」
滝沢がうなずいた。
「あいつら、なにか武器を持ってるか?」
「……孟達が拳銃《けんじゅう》を持ってるわ」
「民主化運動家が拳銃片手に女を誘拐《ゆうかい》したのか」
「しかたがないのよ。あの売女が謝圓を誑《たぶら》かしたんだから」
「おまえ、謝圓の女だったのか」
滝沢がからかうような声を出した。林明季はうつむいた。滝沢は首を振った。
「どうする?」
「おれがベランダ、あんたが玄関」
「馬鹿をいうな。おれがベランダだ」
滝沢の唇は血の気を失ったままだった。確実なバックアップが期待できるのかどうかもわからない――かまわなかった。素人がふたりに銃が一丁。簡単に終わるはずだ。
「わかった。肩を貸す。ベランダにあがれ。気づかれるなよ」
秋生は林明季の腕をつかんで引き寄せた。脇腹に黒星を押しつけた。そのまま屈みこむ。肩に滝沢の体重がかかった。見た目より重かった。
「いいぞ」
腰をあげた。目は林明季から離さない。移動する滝沢の体重。腰で支えた。舌打ちが聞こえ、右肩が軽くなる――すぐに靴底で踏まれた。鈍い痛み。歯を食いしばって耐えた。
ふいに体重が消えた。滝沢がベランダの手すりにぶら下がっていた。
音をたてるな――口に出さずに叫んだ。滝沢が手すりを乗り越えた。洗濯機の陰、左肩がかろうじて見えるだけになった。
「行くぞ」
秋生は林明季の肩を押した。狭い階段があるだけのみすぼらしいエントランスを通りぬけた。林明季が不安そうに振り返ってきた。
「いう通りにしていれば、おまえを傷つけたりはしない」
林明季の身体が激しく震えた――泣いていた。
「行け」
背中を押した。白々しい涙。泣くぐらいなら、最初からこんなことに首を突っ込むべきではなかった。
「余計な口はきくな。ブザーを押して、わたしよ、といえばいい」
「わたし、死にたくないわ」
「流氓の事務所に殴り込みに行くわけじゃないんだ。死んだりはしない」
「でもあなた、逸和と孟達を殺すつもりなんでしょう?」
秋生は答える代わりに林明季の目を見つめた。林明季の顔が蒼醒《あおざ》めた。強張った肩から力がぬけた。
ドアの脇にへばりついた。両手で黒星を握った。林明季に顎《あご》をしゃくった。
二〇二号室。林明季の指がゆっくりインタフォンのボタンに伸びた。
音――階下で複数の人間の足音がした。
「待て」
林明季を抱き寄せた。
「日本人がいるかどうかはわからねえんだ。無闇《むやみ》にぶっ放すなよ」
下品な北京語が聞こえてきた。
日本人――滝沢のこと以外考えられなかった。なにかが起こった。
足音が近づいてくる。四人はいそうだった。秋生は黒星を階段に向けた。絶望に打ちひしがれる家麗の顔が浮かんだ。
銃声が聞こえた。
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心臓が喉《のど》から飛び出そうだった。滝沢は洗濯機の陰で呼吸を整えた。下を見る――秋生と女の姿は消えていた。
カーテンの隙間から中の様子をうかがった。なにも見えなかった。カーテンに人影が映ることもない。家麗――縛られて転がされている。男たちはリヴィングにいる。頭の中でそう想定した。
銃を握りなおした。グリップが汗でべとついていた。銃弾は秋生が引き受ける。後ろから撃つだけでいいんだ――何度も自分にいい聞かせた。
車のエンジン音が聞こえた。黒塗りのヴァンが路地を入ってくるのが見えた。咄嗟《とっさ》に身を伏せた。ヴァンがマンションの前で止まった。男たちが降りてくる。銃や青龍刀が目に入った。
流氓――なぜ? 鼓動が激しくなった。秋生に知らせる方法がない。
最後におりてきた男――息が止まった。陳雄《チェンシォン》だった。驚愕《きょうがく》と激情が交錯した。
陳雄――殺してやる。陳雄――なぜここに? そして恐怖。
部屋の中に動きはなかった。秋生はまだ陳雄に気づいていない。滝沢は頭をあげて周囲を見渡した。隣のベランダ。その先は隣家の敷地――逃げ道。腹の下にバッグの感触があった。中には金が入っている。
逃げろ。頭の中で警報ベルが鳴り響いていた。陳雄たちがマンションの中に消えた。四人。魏在欣を襲った時のやつらの手際を思いだした。秋生に勝ち目はない。
逃げろ――足が動かなかった。狂気にも似た激情が頭の中を駆け巡っていた。
――秋生を見殺しにはできない。
そんなことはない――頭を振った。いつも自分のことしか考えてこなかった。他人を気にかけるのは間抜けのすることだ。金を持っているかどうかで他人をふるいにかけていた。ちょろい人間かどうかを見極めて人と関ってきた。計算だらけの人生、感情が爆発するのは暴力を振るう時――それが――
混乱と恐怖に身体を引き裂かれそうだった。涙が唇を濡《ぬ》らした。滝沢はバッグを左手で抱えた。銃を窓に向けた。
撃った。乾いた音がしてガラスが砕けた。悲鳴が聞こえた。意味をなさない雄叫びをあげて部屋の中に飛び込んだ。
擦り切れた畳と飛び散ったガラス片が視界に飛びこんできた。床の上で何かがのたうっていた――楽家麗。スカーフの猿轡《さるぐつわ》、後ろに回された両手と両足を縛られていた。めくれあがったスカート。剥《む》き出しの陰部。陰毛にこびりついた精液の塊。
合板の引き戸の向こうから人の気配がした。撃った。合板に穴が空いた。木片が飛び散った。悲鳴と怒号が交錯した。
「秋生、下だ! 下から別口が来てるぞ!!」
叫びながら引き戸を開けた――伏せた。肩を押さえてうずくまるデブがいた。撃った。
――孟達が拳銃を持っているわ。
林明季の言葉が谺《こだま》していた。デブ――鄭孟達の頭が消えた。頭を失った身体がひくひくと痙攣《けいれん》した。両手は空――銃がない。銃はどこだ!? 顔をあげた。銃声が鼓膜をうった。目の前を何かが通過した。太い鞭《むち》で打たれたような衝撃。床に転がった。
どこだ? どこから撃ってきた?
滝沢は床を転がった。筋肉と皮膚を引き裂いて心臓が外に飛び出ようと暴れていた。壁にぶつかって回転が止まった。視線をあげる――薄汚れたダイニングテーブルの陰。古逸和が銃を向けていた。古逸和の銃口が光った。遅れて銃声。手前の床で爆発が起こった。抉《えぐ》られたフローリング。転がった。銃声が立て続けに起こった。近くで――遠くで。部屋の中で――部屋の外で。
殺せ――なにかが耳元で囁《ささや》いていた。囁きは銃声を圧して鼓膜を震わせた。転がるのをやめた。腰をあげた。左手のバッグを思いきり投げつけた。銃声が途切れた。撃った。でたらめに引き金を引いた。バッグが方向を変えた。古逸和の胸の辺りが内側にめり込んだ。前屈みになった背中が爆発した――血と肉と骨の破片が飛び散った。
足が動かなかった。くそったれ。だれかが罵《ののし》っていた――自分の声だった。廊下の向こうで銃声が響いていた。秋生はまだ生きている。足が動いた。奥の部屋からうめき声――家麗。秋生を助けるのが先だ。
銃の弾倉を外した。何発撃ったかわからない。残り三発。気持ちが萎《な》えそうになった。銃声が立て続けに起こった。警察が来る。その前にカタをつけて逃げなければ。
滝沢はバッグを拾いあげて廊下を進んだ。
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部屋の中から銃声がした――三発。階段をあがってくる足音がとまった。林明季が小さく悲鳴をあげた。秋生は林明季を突き飛ばして床に伏せた。
「秋生、下だ! 下から別口が来てるぞ!!」
くぐもった滝沢の声が聞こえた。銃口を階段に向けた。すぐ横を林明季が駆け抜けていった。
「助けて!」
待て――声をかける暇もなかった。階段までの距離が短すぎた。林明季が階段を駆けおりた。
銃声。悲鳴は聞こえなかった。背中から噴きあがった血――見えたのはそれだけだった。
「女です、大哥《ダーゴー》。丸腰です」
巻き舌の北京語でだれかが叫んでいた。北京の連中が喋《しゃべ》る北京語だ。下にいる連中は北京の流氓――どうしてここに? 考えている暇はなかった。
「様子を見てこい。用心してな」
銃把を握る手に力を込めた。
銃声――今度は部屋の中からだった。滝沢は生きている。
「早く行け。ちょっと覗《のぞ》いてくるだけでいいんだ」
罵声《ばせい》に続いて間延びした足音が近づいてきた。銃が見えた。髪の毛が見えた。額が見えた――目があった。秋生は引き金を引いた。手の中で黒星が跳ねあがった。男の顔が消えた。力を失った身体が倒れる音が聞こえた。悲鳴が聞こえた。でたらめな銃声が聞こえた。仲間の死を目の前にしてパニックに陥っている。
また部屋の中から銃声が届いた。滝沢はまだ生きている――恐らく、家麗もまだ生きている。もし家麗が死んでいたら――この件に関った連中を皆殺しにしてやる。
階段に意識を戻した。銃声はやんでいた。視界に映るステップは血で汚れていた。下にいる連中の恐怖が手に取るようにわかった。
「くそ、どうなってやがるんだ!?」
罵声。引き金を引いた。狙《ねら》ったわけでもない一発。耳を聾《ろう》する銃声が返ってきた。
拳銃の銃声――ショットガンやマシンガンはない。唇がほころんだ。上下の位置関係。下にいる方が圧倒的に不利だ。連中にはショットガンもない。逃げるのか、突っ込んでくるのか。時間がない――いずれ警察が来る。その前に奴らは動く。だが、奴らに勝ち目はない。
二〇二号室のドアが開いた。
「秋生」
滝沢の声は乾いていた。血の気を失った唇が干からびていた。滝沢はスティールのドアを目いっぱい開いた。秋生はその陰に移動した。
「小姐は?」
「大丈夫だ」
胸に開いていた穴が塞《ふさ》がった。
「時間がない」
いった。それだけで滝沢に通じた。
「陳雄! おれだ。日本人だ。人戦のやつらはぶち殺した。次はてめえの番だな!!」
滝沢が叫んだ。
「てめえか、日本人! 待ってろ。在欣の仇《あだ》をきっちりとってやる!!」
「笑わせるな。手下がいなけりゃなにもできない豚野郎が。崔虎のちんぽをしゃぶってるらしいじゃないか。それで機嫌をうかがってるんだってな」
唸《うな》り声がした。階下の動きが慌ただしくなった。意味をなさない怒声をあげて、男たちが突っ込んできた。秋生はドアの陰で身体を丸めた。軍隊時代の教官の声が蘇《よみがえ》った。
――敵を殲滅《せんめつ》したければ、できるだけ引きつけることだ。
銃声。スティールが激しく音をたてた。滝沢が部屋の中に逃げ込んだ。五つ数えた。銃声とスティールの扉がたてる音――耳が聞こえなくなった。ドアの陰から飛び出た。床に腹這《はらば》いになった。
三人。階段のところで腰を屈めて銃を乱射している。撃った。血が迸《ほとばし》って一番手前の男が吹き飛んだ。撃った。もう一人の男の顔が内側にめり込んで破裂した。撃った。最後の男――肩を押さえて階段を転げ落ちていった。
「滝沢、小姐を!!」
叫んだ。左肩に痛みがあった。銃を持ちかえて肩を押さえた。掌にべっとりと血がついた。撃たれた――気づかなかった。肩の肉が抉《えぐ》れていた。
「痛いわ。押さないでよ」
家麗の声が聞こえた。痛みが遠のいた。秋生は掌の血をズボンになすりつけた。
「小姐、怪我は?」
落ち窪《くぼ》んだ目、やつれた顔――それでも家麗は生きていた。
「大丈夫よ」
「全員|殺《や》ったのか?」
家麗の弱々しい声を押しのけて滝沢が怒鳴った。
「まだ一人生きてる。だが、弾丸は当たった」
滝沢が家麗を突き飛ばした。よろけた身体を受け止めた。
「おい」
滝沢の背中が強張っていた。張り詰めた首筋に血管が浮き上がっていた。滝沢は床に転がっていた拳銃を拾いあげた。
「小姐」
秋生は家麗の手を引いた。急がなければ警察が来る。
家麗の手は死体のように冷えていた。その手をきつく握って滝沢の後を追った。
「いいざまだな。陳先生」
興奮に震えた声に秋生は足をとめた。階段の踊り場に肩を押さえて呻《うめ》く男。滝沢が男を見下ろしていた。
「た、助けてくれ……」
「だめだ」
滝沢は銃を男の後頭部に押しあてた。あいた方の手で、腫《は》れた自分の顔を撫《な》でさすった。
「腫れてるだろう、おれの顔? おまえがやったんだ。覚えてるか?」
「わ、悪かった。おれが悪かった。治療費を出す。金でも女でも、おまえの欲しいものはみんなくれてやる。だから、命だけは助けてくれ」
「だめだ」
冷たくいい放った滝沢の唇が吊《つ》りあがっていた。
「地獄に堕ちろ。くそったれの中国人め」
呪詛《じゅそ》のような日本語だった。滝沢が引き金を引いた。銃声。男の顔が破裂した。血、脳漿《のうしょう》、頭蓋骨《ずがいこつ》が辺りに飛び散った。家麗が身体を寄せてきた。蒼醒《あおざ》めた顔がさらに血の気を失っていた。
頭部を失った男の死体。滝沢が上着のポケットを探った。厚みのある財布を抜き取って滝沢は顔をあげた。
「逃げるぞ」
男の血と脳漿――滝沢の顔にべっとりとこびりついていた。
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空気がざわついていた。家に閉じこもった善良な市民たち。息を殺して次の銃声が起こるのを待ち構えている。
マンションの外に人けはなかった。遠くでサイレンの音が聞こえたような気がした。陳雄が乗ってきたヴァンのドアが開いていた。滝沢は運転席を覗《のぞ》きこんだ――キィがついたままだった。
「乗れ」
滝沢は秋生と楽家麗に声をかけた。秋生に寄り添う家麗。慈しむように手を引く秋生――わけのわからない感情が思考をかき乱した。陳雄を殺した反動だ――無理矢理言い聞かせた。
二人が乗り込むのを待ってエンジンをかけた。路地の向かいの民家の窓があいた。疲れた顔の中年女が顔を出した。サングラス越しに顔を向けると悲鳴をあげた。アクセルを踏んだ。膝《ひざ》の上に置いた銃を握った。残った弾丸全てを女に打ち込んでやりたいという欲望。歯を食いしばって耐えた。
「どこへ行くつもりだ?」
新目白通りに出た。耳を澄ませた――サイレンは聞こえない。急げ。内なる声。アクセルを踏んだ。焦るな。内なる声。陳雄の血の嫌な匂《にお》いがした。古逸和との撃ちあいを思い出した。弾丸が当たらなかったのはただの偶然だった。眩暈《めまい》がしそうだった。
「どこへ行くつもりだ?」
「黙ってろ。いま考えてるところだ」
バックミラーの中の秋生を睨《にら》みつけた。蒼白《そうはく》な顔の楽家麗が秋生の肩に布を巻き付けていた。助手席に放り出したバッグ。中に入っているのは五百万ほどの札束。予想していたより少なかった。楽家麗の金――歌舞伎町の地下銀行に預けてある。どうやって手に入れるべきか。
やめろ――頭を振った。今はまず、逃げることが先決だ。警察の追跡から。新誠会から。崔虎から。
朝霞《あさか》駅前の古ぼけたビジネスホテル。劉健一が三日分押さえてある。ルームキィはポケットの中に入っていた。そこへ向かう――間に合えば。警察の非常線がすぐに張られる。こんな時、警官たちは迅速に行動する。
山手通りとの交差点が近づくと車が動かなくなった。どこまでも連なる車の列。山手通りは更に混雑していそうだった。山手通りから川越街道へというルートは避けた方がよさそうだった。
時間がじりじりと過ぎていく――車はじりじりとしか動かない。掌が汗でぬめった。耳慣れたサイレンの音が聞こえてきた。十分もしない内に検問が張られる。経験がそう告げた。間に合いそうにもない。滝沢は車の列を割って強引に右折した。
背中にナイフを突きつけられてるような感覚があった。住宅街の細い路地をでたらめに走った。
「どこか、行くあてがあるのか?」
気持ちを見透かしたような声が背中越しに聞こえた。バックミラーを睨みつけた。人戦の連中を襲う前の顔とは別人のように穏やかな表情が鏡に映っていた。秋生の肩に顔を埋める楽家麗。腹の真ん中で得体の知れない塊がぐらりと揺れた。
昔を思いだした。女――昼は売女、夜は主婦。当時は主婦売春が流行《はや》っていた。滝沢は大久保のホテル街でその女を見つけた。おどおどしていた。小さな獲物の匂いを滝沢の鼻が嗅《か》ぎつけた。声をかけ、手帳を見せた。女はいきなり、泣いて許しを乞《こ》いはじめた。逃がしてたまるか――女の涙を見てそう感じた。女の住まいを見つけるのは簡単だった。
女はよく泣いた。だが、滝沢のする行為を厭《いと》わなかった。色々な形に縛った。あらゆることを試した。ホテルで、女の家で、外で。飽きるほどやりまくった。ことが終わった後、女はいつも、もう許してくださいと泣いた。許してやるつもりはなかった。
三ヶ月も経ったころだったろうか、休日の街の雑踏の中で女を見かけた。男と一緒だった。ふたりはデパートで楽しそうに買い物をしていた。女の夫。そう理解した瞬間、身体が震えた。腹の中にごつごつとした塊ができた――その時と同じ感情が身体を震わせる。
女は死んだ――次の日、女を呼び出して鞭《むち》で打った。夫にばれるから、痕《あと》だけはつけないで。女はいつもそういっていた。なんでもするから、痕をつけるのだけはやめて。滝沢はやめなかった。痕が残るほどきつく縛り、鞭で打ち、身体のあらゆる場所に吸い付いた。
「昨日、旦那《だんな》と歩いてたな」
そういってやると、女は人形のようになった。絶望に縁取られた瞳《ひとみ》からは一滴の涙もこぼれなかった。女をホテルに残して飲みに出かけた。次の日の朝刊の片隅に女の写真と記事が載っていた。女は地下鉄に飛び込んでいた。
主婦殺しの悪徳警官――しばらくは頭の中で新聞の見出しが踊っていた。だが、なにも起こらなかった。くだらない日々がくだらなく過ぎていっただけだ。やくざや売人や売女をいたぶる日々。鈴木と一緒に――。
時間決めの駐車場があった。車を乗り入れた。検問の外にでる方法を思いついた――鈴木。現役の悪徳警官を使え。震える手で携帯電話をつかんだ。鈴木の番号を押した。
「はい、鈴木です」
「おれだ。滝沢だ」
息をのむ音が聞こえてきた。
「どこにいるんだ? かなりやばいことになってるぞ」
「おまえの助けがいる」
「馬鹿をいうな」押し殺した声が返ってきた。「助けてやりたくても無理だ。おまえ、なにをトチ狂ったんだ? 女の身体からシャブが検出されたぞ。伊藤たちはシャブを持っちゃいなかった。つまり、おまえが女にシャブを使ったんだと捜一は見てる」
鈴木がなんの話をしているのか、よくわからなかった。
「なんの話だ?」
「おまえの女だ」
宗英の面影が脳裏に蘇った。滝沢は頭を振った。
「鈴木、今はそれどころじゃない。たった今、人を殺した」
「……なんだと?」
「中国の流氓と撃ちあった。上落合だ。緊急通報が流れてるはずだ」
「どういうことなんだ? おれにもわかるように説明しろ」
「もうすぐ非常線が張られる。検問を突破したいんだ。力を貸してくれ」
「頭を冷やせよ、滝沢」
鈴木は逃げ腰だった。
「力を貸せ」
「そんなことができるはず――」
「あれは五年前だったな。おれたちはシャブ中の売女を捕まえた」
「なんの話をしてるんだ?」
「おれたちは女を署じゃなく、大久保の連れ込みに連行した。シャブで頭がいかれかけてたが、締まりは最高だった。覚えてるか?」
返事はなかった。
「女のバッグにはシャブのパケが入ってた。おれたちはそれを頂戴して六本木で遊んでるガキ共に売りつけた。覚えてるか?」
荒い息遣いが聞こえるだけだった。目を閉じた。瞼《まぶた》の裏、こめかみの血管を浮き上がらせている鈴木の赤黒い顔が映った。
「六年前のことはどうだ? 代々木の公園をねぐらにしてる浮浪者が金をしこたま貯めこんでるってネタをあんたが仕入れてきた。おれたちは公園に出かけた。散々浮浪者を脅して金を巻き上げた。三十万しかなかったっけか。頭に来たあんたは、浮浪者をぶちのめして――」
「やめろ。もういい」
「おれが死体を始末したんだ。覚えてるか?」
「ふざけろよ、滝沢。おれのことをチクれば、おまえだっておしまいなんだぞ」
「おれはもう終わってる。金を作って逃げるしかないんだ。そのためには、あんたの力がいる」
「きさま――」
「鈴木さん、おれたちはツケをため込みすぎたんだ。そろそろ、催促が来てもいいころじゃないか。検問を抜けるのに少し手を貸してくれるだけでいいんだ。うまく金を手に入れることができたらあんたの言い値をくれてやる。引退して田舎に引っ込みたいんだろう?」
「どこにいるんだ?」
ドスを利かせた声――気にならなかった。浮浪者が死んだと知った時の鈴木の顔を覚えている。残酷だが小心者。それが鈴木だ。残酷で無鉄砲な滝沢にいつも言いくるめられていた。
「恩にきるよ、鈴木さん」
「おまえとコンビさえ組まされなきゃ、おれはまともな刑事のままだったんだ」
笑ってやった。滝沢が警察を辞めた後は鈴木もひどい悪さはしなくなったと噂《うわさ》で聞いたことがある。
「できるだけ早く来てくれ」
駐車場の場所とヴァンの車種を教えて電話を切った。
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* *
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「ろくでもない刑事だったんだな」
秋生の声に含まれた感情――よくわからなかった。わかりたくもなかった。
「だからなんだ? おまえも殺し屋じゃないか。それも、だれかにお膳《ぜん》立てしてもらわなきゃなにもできない殺し屋だ」
劉健一がいっていた――秋生は甘ちゃんだ。その通りだ。母親のおっぱいをほしがっている子供。楽家麗を見つめる秋生の顔。その顔で人を殺す。誰も秋生を殺し屋だとは思わない。それだけが秋生の強みなのだ。
「助けが来る。電話の話でわかったろうが、おれの昔の仲間だ。そいつのことはよく知ってる。一人じゃなにもできないやつだ。だが、万一ってこともある」
「外で見張ればいいんだな?」
秋生はドアに手をかけた。
「おい、そんなに慌てなくても――」
「辺りの様子を探ってくる。その間に顔や服をなんとかしろ。酷いことになってる」
顔全体がべとついて嫌な匂《にお》いを発していた。滝沢はバックミラーを覗いた。顔にも服にもどす黒い血痕《けっこん》がこびりついてた。地獄に突き落とされた亡者のような顔。薄汚れ、腐っていた。
「小姐を頼んだぞ」
秋生は出ていった。
「なにか、顔を拭《ぬぐ》うものはないか?」
家麗に聞いた。気怠《けだる》い視線が車内をさまよった。
「これでいい?」
使いかけのポケットティッシュが差し出された。なにもないよりましだった。ティッシュを唾液《だえき》で濡《ぬ》らして顔を拭った。
「そのバッグ、わたしのよ。返してくれないかしら」
「なんだって?」
「バッグよ。そこにあるでしょう」
「これか」
滝沢は助手席のバッグを持ちあげた。家麗の気怠い視線は変わらない。剥《む》き出しになった下半身を思い出した。白い太股《ふともも》。精液のこびりついた陰毛。デブの鄭孟達に犯された家麗。
「下着なら返してやる」
バッグの中に入っているのは金と下着。「だが、金はだめだ」
「下着でいいわ」
バッグの中から、ブラとショーツ、それになんのために使うのかわからない小さな布切れを無造作に引っ張りだして、家麗に渡した。
「見ないで」
きつい声――見ないわけにはいかなかった。家麗は白いショーツを選んで屈んだ。スカートをたくしあげた。白い脚。きっちりと肉がつき、脂がのっていた。言葉とは裏腹な態度で家麗は見せつけるように時間をかけてシヨーツを穿《は》いた。
「わたしの脚、気に入った?」
誘うような微笑《ほほえ》み。たいした玉だった。地獄へ後一歩まで追い込まれたばかりだというのに、自分の意のままになる男をひっかけようとしている。
「ああ、気に入った」
「わたしとしたい?」
「あいつに殺される」
「秋生なんて、ただの子供よ」
殺意がこみあげてきた――理由がわからなかった。
「後にしよう。今はここを逃げ出すことが先決だ」
視線を家麗から引き剥《は》がした。殺意は胸にくすぶっていた。意識を別に向ける――グラヴコンパートメント。中に小振りのリヴォルヴァーが入っていた。手に取り、弾倉を横に開いた。弾丸は六発。弾倉を閉じて上着のポケットに突っ込んだ。
「どれぐらい待たなきゃならないの?」
新宿署からの距離、道路の混雑を考えると、普段の倍はかかりそうだった。
「あと二、三十分だろう」
窓の向こうに人影が見えた。滝沢は銃を握った――秋生だった。住宅街の雰囲気に溶けこんで、とぼとぼと近づいてくる。
駐車場の入口を通り過ぎる秋生が、脇《わき》に垂らした左手を軽く振った。異状なし。秋生が視界から消えた。家麗がため息をついた。
沈黙の時間。バックミラーの中の家麗は目を閉じていた。かすかに開いた唇から白い歯がのぞいていた。
家麗の顔を盗み見ているうちに、銃撃戦の反動がおさまった。頭が音をたてて回転しはじめた。
陳雄はなぜ、あの場所に現れたのか? 目的は滝沢か家麗。崔虎が命令を下した。そこまではわかる。わからないのは、だれがあの場所を教えたか、だ。思い浮かぶのは劉健一。だが、理由がわからない。
「おい」
家麗の目が開いた。
「どうやってやつらに拉致《らち》されたんだ?」
「わたしのマンションの前で待ち構えていたのよ」
「車に乗せられて、真っ直ぐあのマンションに連れていかれたのか?」
「そう――」家麗の視線が動いた。「車よ」
灰色のシーマが駐車場に入ってくるところだった。運転席に鈴木の顔があった。他に人が乗っている気配はなかった。滝沢は窓を開け、顔を出した。シーマが横にとまった。秋生の姿は見えなかった。
シーマのドアが開いた。鈴木の顔が怒りに赤く染まっていた。助手席に、身体を低く伏せた秋生がいた。手の中の銃が鈴木を狙《ねら》ってぴくりとも動かなかった。
「頼むよ、滝沢。こいつに銃をおろすようにいってくれ」
鈴木の顔は蒼醒《あおざ》めていた。
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住宅街。電信柱の陰で隠れているわけにはいかなかった。左肩の傷は家麗が手当てをしてくれた。痛みはあるが耐えられないほどではなかった。問題はジャケットだ。酷いことになっている。
秋生は歩いた。電話ボックスを見つけた。四つ辻《つじ》の角。駐車場へ向かう車を見張ることができる。
秋生は駐車場の周囲を一周した。大蒜《ニンニク》の香が漂っていた。夕餉《ゆうげ》の支度に忙しい主婦たち。銃を手にした殺し屋と元悪徳警官には無縁の場所。だが、他に行くべきところがない。
駐車場の入口に戻ってきた。黒いヴァン。滝沢が見えた。家麗は見えなかった。
電話ボックスに潜りこんで受話器を取った。適当に口を動かす――声は出さない。左肩を電話機の陰に隠した。
動くのをやめた途端、頭が動きはじめた。マンションにやってきたのは北京の連中。だれかが連中に教えた。
やめろ――考えを振り払った。待ち伏せのときに余計なことを考えてはいけない。神経を張り巡らせる。すべての知覚を接近してくるものに向ける。思考は身体の反応を鈍らせる。
紺色のブレザーを着た少女が通りすぎた。短いスカートにルーズソックス。右手に鞄《かばん》。左手にPHS。電話ボックスには見向きもしない。買い物袋をぶら下げた主婦。セールスマンの運転するワゴン。灰色の車――神経がびりびり震えた。間違えようがない。
タイミングをはかった。近づいてくるエンジン音。受話器を戻し、後ろ向きにボックスを出た。そのまま道路を横切る。車がとまった。振り返る。苛立《いらだ》たしげな顔が秋生を睨《にら》みつけた。間違えようがない。突っ立ったままでいると、窓が開いた。
「おい、なにをボケっと突っ立ってるんだ? 轢《ひ》き殺されたいのか」
「ああ、悪い悪い」
秋生は笑いながら車に近づいた。
「おい――」
黒星を抜いた。男の表情が凍りついた。
「動くなよ。この距離じゃ外れないからな。ハンドルから手を放せ」
男の動きは人形のようにぎごちなかった。目は銃口に吸い寄せられていた。秋生は助手席側に回った。ドアはロックされていなかった。
助手席に滑り込み、身体を低くした。
「あんた、滝沢の連れか? だったら、銃をしまえよ。おれは――」
「黙れ」黒星を脇腹《わきばら》に押しつけた。「この先の駐車場だ。ゆっくり出せ」
男の懐を探った。手帳に手錠、特殊警棒。銃はなし。車が動きだした。
「銃はどこだ?」
「そんなもの、いちいち持って歩くか。おれは防犯の刑事だ。わかってるのか、おまえ?」
「黙れ。聞いたことに答えるだけでいい。おまえは刑事かも知れんが。おれは銃を持ってる。忘れるな」
男は口を閉じた。目尻《めじり》が細かく痙攣《けいれん》していた。滝沢の仲間――似たような顔だった。滝沢よりは年を食っている。
車が駐車場にはいった。スピードが落ちる――停まった。すぐ脇に黒いヴァン。滝沢が緊張した顔を向けてきた。
男がドアを開けた。
「頼むよ、滝沢。こいつに銃をおろすようにいってくれ」
静かだが、力のこもった声。滝沢は受け流した。
「おれが頼んで聞いてくれるなら頼んでやってもいいがな」
男が動いた。銃口を押し込んだ。
「勝手に動くな」秋生は滝沢に顔を向けた。「こいつは銃を持っていないといってる。きちんと探す暇がなかった」
「日本の警官は滅多なことじゃ銃を持ち歩いたりはしない」
「これは滅多なことじゃないのか?」
「そいつは銃なんか持っちゃいない。おれを信じろ」
信じられなかった。だが、飲みこんだ。黒星を男の身体から離した。
「くそっ。昔の相棒に脅されてのこのこ出向いてきたら、いきなり銃を突きつけてきやがった。今度はなにをさせられるんだ?」
「さっき電話でいっただろう。検問を抜けさせてくれればいい。あとは口を閉じていてくれるだけで充分だ」
滝沢がヴァンを降りてきた。小脇にバッグ。顔にこびりついていた汚れが目立たなくなっていた。続いて、家麗が姿を現した。強張った表情。秋生の視線に気づくと唇がほころんだ。秋生は車から降りて、家麗の肩を抱いた。
いいたいこと、聞きたいこと。口の端まで出かかった。飲み込むしかなかった。何かを聞けば家麗は答える。嘘《うそ》で塗り固められた答えを。それを聞けば胸に穴が開く。
「こいつら、中国人か?」
「あんたはなにも知らないほうがいい」
男が不服そうに口を歪《ゆが》めた。滝沢は気にする素振りもみせなかった。
「時間がない。急ごう。秋生、車にはどう乗ればいい?」
「おまえは助手席、おれと小姐は後ろだ」
運転席の後ろからなら、二人同時に見張ることができる。
「待って」家麗が口を挟んだ。「秋生の着替えがいるわ。それに、あの車、指紋を消さなくてもいいの?」
訛《なまり》の強い日本語だった。男の表情が動いた。
「あのマンションにはおれとあんたの指紋がべたべた残ってる。いまさら消しても無駄だ。それより、確かに、秋生には着替えが必要だな」
滝沢は男を見た。男が舌打ちした。
「トランクに冬物のコートが入ってる。それを羽織ればいいだろう」
トランクを開けて、男が舌打ちした理由がわかった。フレンチコート――金がかかっているのが一目でわかる。
「防犯の刑事に買えるコートじゃないな」
滝沢がいった。
「おまえにいえる筋合いか」
男が吐き捨てた。
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男の車で渋滞した道路に戻った。滝沢はむっつりと押し黙っている。家麗もほとんど口をきかない。男だけが盛んに口を動かしていた。
「くそっ、なんだっておれがこんな目にあうんだ? ついてねえ。おまえとは縁を切っておけばよかった。中国のやくざを殺しただ? ふざけやがって」
「後ろの女が金を貯めこんでる。そいつが欲しかったんだ。あんただって金は欲しいだろう」
滝沢が面倒くさそうに答えた――煙草をくわえた。
「それとこれとは別だ。おれは臭い飯を食いたいわけじゃない」
「おれだってそうだ」滝沢が首を後ろにねじった。「傷はだいじょうぶか?」
「たいしたことはない」
「もし、我慢できないようならこれを使え」
小さなビニールの包み。中に透明な結晶が入っていた。
「これはなんだ?」
「シャブだ。痛み止めになる」
「シャブだと!?」男が叫んだ。「検問で中を調べられたらどうする気だ?」
「不審に思われたら、シャブがなくったって終わりだ。おれたち、銃を持ってるんだからな。鈴木さん、いい加減|肚《はら》を据えろよ。一世一代の芝居を打つんだ。それで、仲間をごまかせ。あんたが助かるにはそれしかない」
「おまえたちに銃で脅されてるって訴える手もあるぞ。おまえらの道連れになるよりはマシだと思わないか?」
「そんなことをすれば死ぬだけだ。後ろのお兄ちゃんはプロの殺し屋だ。躊躇《ちゅうちょ》せずにあんたを撃つぞ」
バックミラーに男――鈴木の目が映っていた。秋生は黒星を出した。
「わかったから銃をしまえ」
苦虫を噛《か》みつぶした顔。バックミラーから視線が消えた。
「こいつは高くつくからな、滝沢」
「うまく検問を抜けてくれたら、あんたの言い値を払ってやるよ」
似た者同士の会話だった。聞いているのにも飽きてきた。車はじりじりとしか動かない。シャブに興味はなかった。コートのポケットにしまい込んだ。家麗――目を閉じていた。手を握った。握りかえしてきた。
「小姐、もうすぐゆっくり眠れる」
北京語で話しかけた。
「あの世で?」
「柔らかいベッドの上でだ。もう、新宿にはいられない。おれが好きなところに連れてってやるよ。金もおれが稼ぐ。おれは腕のいい殺し屋なんだ。仕事は幾らでもある。小姐が必要なだけ、金を作ってやる」
「ありがとう」
「台北に行こうか? あそこはいい街だ。香港でも大陸でもいい。郊外に家を買って犬を飼おう。大きな犬を」
「犬は嫌いよ」
にべもない声だった。胸に痛みが走った。
「小姐が嫌なら、犬を飼うのはやめよう」
「秋生――」
家麗が目を開いた。真っ黒な瞳《ひとみ》の奥でなにかが燃えていた。
「殺して」囁《ささや》くような声だった。耳を近づけてやっと聞き取れた。「人戦の奴らに犯されたわ。何度も」
「あいつらは死んだよ、小姐」
「殺して。みんな殺して。朱宏を殺して。劉健一を殺して。楊偉民を殺して。崔虎を殺して。この日本人を殺して。みんな殺して」
家麗の呪詛《じゅそ》。強烈な魔力を持っていた。
――頭が痛いの。なんとかして。
真紀の呪詛。秋生は真紀の首を絞めた。
秋生は滝沢を見た。煙草をふかしていた。家麗の呪詛が聞こえたふうには見えなかった。
「わかったよ、小姐。みんな殺してやる」
小声で囁いた。家麗は嬉《うれ》しそうに微笑《ほほえ》んだ。
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秋生と楽家麗のくだらない睦言《むつごと》が聞こえてくる。耳を塞《ふさ》ぐわけにはいかなかった。怒りと悲しみと失望、それにわけのわからない感情がせめぎあっていた。なぜこんな気分になるのか――わからなかった。
「わかったよ、小姐。みんな殺してやる」
秋生は甘ちゃんだった。家麗の考えていることなど手に取るようにわかる。秋生にみんなを殺させる。その後に、自分で秋生を殺す。ガキにでもわかる。だが、秋生にはなにも見えていない。
――犬を飼おう。
笑いたかった。笑えなかった。行き場のない感情が身体を締め付けた。
「おい」
鈴木の声に我に返った。検問が近づいていた。ストーリィを考えなければならない。
「秋生、おれたちは兄弟だ。おまえと楽家麗は夫婦。川口に住んでる親父が交通事故で病院に運ばれた。おれたちはその病院に向かってるところだ。知り合いの鈴木巡査部長が気遣っておれたちを病院まで送ってくれる。わかったか?」
秋生がうなずいた。
「楽小姐は目を閉じているのがいい。日本語がうまくできないからな。車酔いの振りをするんだ。何を聞かれても口を開くな。全部秋生に任せろ」
秋生が北京語でいい直した。家麗は首を縦に振った。
「名前はどうする? 滝沢はまずいぞ」
「佐藤でいいだろう。おれは佐藤誠。交通事故の親父は佐藤忠だ。秋生はそのままでいいな。楽小姐は麗子だ」
車を誘導する交通巡査。いくつもの赤色燈。空気が緊張していた。滝沢は煙草を灰皿に押し潰《つぶ》して、順番を待った。
「免許証を拝見できますか?」
語調は丁寧だが有無をいわせない響きがあった。鈴木は軽く受け流した。免許証の代わりに警察手帳を突きだした。
「新宿署の鈴木巡査部長だ。なにがあった?」
警官の顔つきが変わった。身内だけに見せるほっとした表情が制帽の下に現れた。
「はっ。落合方面で殺人事件です。ガイシャが七人もいるとかで、都内各所で非常検問を張っているところです」
「そりゃ大事件だな。おれは防犯だからあまり関係ないが」
「生活安全課ですか?」警官は鈴木の手帳に目を通した。
「で、ご同乗の方々は?」
「おれの友人だ。なんでも親父さんが交通事故にあったらしくてな。川口なんだが、病院へ送るところだ。今時珍しいことに二人とも免許を持ってないっていうんでな。職務違反になるが、サイレン鳴らして、病院へいってやろうと思ったんだが、この渋滞だ。どんなヤマが起きたのか不思議に思っていた」
「それは大変だ。失礼ですが、お名前は?」
探るような視線が滝沢の顔の上をゆっくり舐《な》めていった。肝が冷えた。だが、嘘は滑らかに口をついて出た。
「佐藤です。後ろは弟夫婦の秋生と麗子」
警官の視線が後ろへ移った。
うまくやれ――祈りにも似た思い。
「奥さんは具合が悪そうですね」
「車酔いなんです。乗り物に弱くて」
秋生の落ち着いた声が軽く警官を丸め込んだ。
「お手数をおかけしました。お通りください」
警官は鈴木に手帳を返した。
「おわかりでしょうが、不審車を発見したら、通報お願いします」
「わかった。この先、道路は混んじゃいないだろうな?」
「大丈夫だと思います」
「お務めご苦労さん」
鈴木がアクセルを踏んだ。警官の視線が消えるまで、だれも口を開かなかった。
車の流れはスムーズだった。緊張と弛緩の繰り返しで神経と身体が参りかけていた。
「で、どこへ向かえばいいんだ?」
鈴木の口許《くちもと》がゆるんでいた。緊張が解け、開き直っている。初めて悪さをした直後も同じような感じだった。小心者。だが、金と暴力の匂《にお》いには弱い。
「川越街道にでも入って朝霞へ向かってくれ」
滝沢はラジオをオンにした。ニュースを探す。見つからなかった。
「ニュースにゃ時間が足りないだろう。焦らなくてもいい。検問は抜けたんだ。警察がおまえらの後を追うのは日が明けてからだよ」
「わかってる」
「それよりな、滝沢。後ろの女、思い出したぜ。薄汚れた感じなんでわからなかった。上海の頭の女だ。違うか?」
煙草をくわえようとして、腕が凍りついた。
「なるほど、金を貯めこんでるわけだ。どうしておまえがこんな女とつるんでるんだ? 例の大久保の殺しに関係あるのか?」
金の匂いを嗅《か》ぎつけた悪徳警官。鈴木は薄笑いを浮かべていた。滝沢はバックミラーを覗《のぞ》いた。秋生の目――死神の目が静かに鈴木の後頭部を見つめていた。
「死にたくなかったら余計なことは喋《しゃべ》るなよ、鈴木さん」
「おまえと違っておれは現役だぞ。おれを殺したら、絶対に逃げきれん」
「あんたはなにもわかっちゃいない」
吐き捨てた。それで鈴木も秋生の視線に気づいた。薄笑いが消え、頬《ほお》が強張った。
「おい、後ろの坊やにもそこんとこ、ちゃんと教えてやってくれよ」
頭痛がした。シャブの煙を吸い込みたかった。代わりに煙草をくわえた。
「おい、滝沢――」
「あんたを殺させたりはしない。黙って運転してろ」
「もらうものはもらうぞ。忘れるなよ」
煙草の煙を吸い込んだ瞬間、吐き気を覚えた。窓を開け、煙草を捨てた。息をするのも苦痛なほど疲れきっていた。
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目についた駐車場に車をとめさせた。直接ホテルまで送らせるわけにはいかない。鈴木を丸め込んで、追い返す。聞き入れなければ、秋生をちらつかせる。死の恐怖に勝てる人間はいない。
「まさか、これであばよってわけじゃないだろうな?」
鈴木が牽制《けんせい》してきた。昔から、損になりそうなことに関しては頭の回転が遠かった。
「金はあとで届ける」
「ふざけるなよ、おい。馘《くび》どころかおまえと一緒にパクられるかもしれないところだったんだぞ」
「感謝してるよ、鈴木さん」
「おれも噛《か》ませろよ。おれは手帳を持ってるんだ。おれがいた方がなんだってやりやすくなる」
バックミラーの中の秋生の目がじっと鈴木を見つめている。
「おれたちはな、鈴木さん。手帳なんて屁《へ》とも思わない連中と揉《も》めてるんだよ」
鈴木。手強い肉食獣に狙《ねら》われていることに気づかない哀れな兎。
「新誠会の方を押さえてやる。それでどうだ? なあ、女がいくら貯めこんでるのかは知らんが、独り占めするってことはないんだろう?」
頭が重かった。
「秋生。こいつは現職の刑事だ。こいつを殺せば、日本中の警察官がおれたちを探しはじめる」
滝沢は北京語でいった。
「おい、日本語で話せ。内緒話はなしだ」
「おれと小姐は日本を出る。日本の警察なんかどうでもいい」
「なんの話をしてるんだ? 滝沢、日本語を使え」
鈴木が目を剥《む》いて吠《ほ》えた。たかをくくっていた顔が蒼醒《あおざ》めていく。
――台北に行こうか? あそこはいい街だ。
秋生の嬉《うれ》しそうな声がよみがえる。
どこにいっても同じだ。頭の中で内なる声が囁《ささや》く。肥溜《こえだ》めの中で生まれたやつは肥溜めの中でくたばるんだ。囁きはどんどん大きくなる。
「滝沢、おまえ、まさか――」
鈴木は似た者同士だった。滝沢の代わりに鈴木が警察をやめてもおかしくなかった。現実は滝沢が警察をやめ、鈴木が残った。
「滝沢、なにかいえよ、おい」
警察をやめてわかったこと――首までどっぷりと肥溜めに浸かっている。鈴木はそのことに気づいていない。秋生と同じだ。
「余計なことは知らない方がいいといわなかったか?」
「勘違いするなよ。おれはなにもおまえらをどうこうしようってわけじゃない。ただ、金を――」
「黙って車を転がしてれば、金を手にして家に帰れたんだよ、鈴木さん。おれたちが生きてるのはそういう世界だ。あんたのは違うのか?」
殺せ――内なる声。どうせくたばらなきゃならないなら、一人でも多く道連れにしろ。
恐怖がその声をかき消した。警官を殺せばただではすまない。鈴木を守らなければ。
「秋生、おれに任せろ」
致命的なミスだった。北京語が鈴木の怯《おび》えに拍車をかけた。鈴木は背中を向けた。ドアにしがみついた。
逃がすな――内なる声。銃を抜こうとした。手が震えてもたついた。靄《もや》のかかったような視界の隅でなにかが動いた。秋生の腕。その先できらめく金属の光――ナイフ。ドアを開けようとした鈴木の指が切り落とされた。
悲鳴は聞こえなかった。身を乗りだした秋生が鈴木の口を手で押さえた。
滝沢は動けなかった。鈴木はなくなった指先を見つめていた。
ふたりで盗んだ。ふたりで痛めつけた。ふたりで同じ女を抱いた。同じ時間を生きた。同じ世界を見た――今は違う。
殺せ――助けろ。矛盾した強迫観念が頭を締めつけた。頭蓋骨《ずがいこつ》が軋《きし》んだ。
スロゥモーションのように秋生の右手が動いていた。血まみれのナイフがじりじりと鈴木の喉《のど》に向かっていく。
「たきざ……」
弱々しい鈴木の声。その喉にナイフの刃が食い込んだ。
サイドウィンドゥに血が飛んだ。気管から空気の漏れる音。意味もなく痙攣《けいれん》する手足。
宗英を思いだした。滝沢に嬲《なぶ》られていかされた直後、宗英の身体は決まって痙攣した。
――もう許して、あんた。
宗英の懇願。許したことはなかった。
鈴木の身体が痙攣する。ぱっくり開いた喉が、毒々しい口紅を塗りたくった女の唇のように微笑《ほほえ》んでいる。
――次はおまえの番だ。
切り裂かれた鈴木の喉がそういって笑っているような気がした。
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滝沢はなにかに魅入られたように死体を見つめていた。
「刑事を殺した……おしまいだな」
放心したような声。
「まだ終わっちゃいない」
秋生は車を降りてトランクを開けた。スペアタイア。工具箱。スポーツバッグ――中には着替えと洗面道具が入っていた。底に敷かれた古びた毛布を取り出した。
「小姐、車の中を丁寧に拭《ぬぐ》ってくれ。血と指紋を消すんだ」
凍りついたように死体を凝視していた家麗に声をかけた。滝沢が死体の懐を探っていた。財布、黒革の手帳、手錠を自分のポケットに移し変えている。ほんの数秒前までは魂を抜かれたような顔をしていたのに、したたかな男だ。
「もういいか?」
滝沢はシートの背もたれに背中をあずけて目を閉じた。
死体に毛布をかけ、肩にかつぎあげた。通り過ぎる車、人。だれも注意は払わない。こんなところで死体をかつぐ人間などいない。大胆に、繊細に。トランクに死体を放り込み、閉めた。フレンチコートの裾《すそ》でトランクの周りを拭った。
車の中に視線を戻した。家麗が布きれで車内を拭《ふ》いている。
ドアが開き、滝沢が出てきた。左手は金のはいったバッグをしっかり握っていた。
「だいじょうぶか?」
「ああ」
滝沢の表情はどこか虚ろだった。
「リラックスしろ。初めて人が死ぬのを見たわけじゃないだろう」
「鈴木はおれの相棒だった」
「昔の話だ。今は違う」
滝沢の視線が動いた。
「殺すことはなかった」
「殺さなきゃならなかった。あいつが金の話をしている時の顔を見たか? ああいうやつらを信じるとろくな目にあわない。おまえもわかっていたはずだ。だから、途中から北京語にしたんだろう? おれに殺してもらいたかったんだ」
「そうかもしれんな」
「死体が発見されるまで時間がある。警察が動きだす前に逃げればいいんだ。違うか?」
「おまえのいうとおりだ」
家麗が車を降りてきた。
「それで、次はどうするの?」
蒼醒《あおざ》めた顔。強張った顎《あご》の線。疲労が家麗から輝きを奪っていた。
「この先のホテルに部屋を取ってある。まず、そこに落ち着こう。やらなきゃならないこと。考えなきゃならないことが山ほどある」
滝沢がいった。口調ははっきりしていたが、目は虚ろなままだった。
最初に滝沢。次に家麗。最後に秋生。時間を置いて、順にホテルへ入った。狭いシングルルームだった。それでも、家麗は嬉《うれ》しそうだった。
「シャワーを浴びたいわ」
滝沢はなにもいわなかった。秋生がうなずくと、家麗はバスルームに消えた。
「いずれ鈴木の死体は見つかる。ここには長くいられない」
いいながら、滝沢はテレビをつけた。リモコンでチャンネルを変える。ニュース番組。ニュースキャスターが原稿を棒読みしていた。
「今日の夕方、新宿区上高田のマンション内で銃撃戦がありました。付近の住民の通報により警察が駆けつけ、銃撃戦により死亡したと思われる死体を八体確認しました。銃撃戦の直後、現場から逃走する黒いヴァンを見たという目撃情報もあり、警察では非常検問を敷いて、黒いヴァンの発見に全力を注いでいます」
画面は現場中継に切り替わった。
「後から来たのは陳雄だ。崔虎の手下だ」
画面に目を向けたまま滝沢が口を開いた。
「なぜあいつらが来た?」
「それを考えてたんだ。劉健一が崔虎と話をしたとしたら、連中は人戦のやつらに話があったのかもしれん。あるいは、人戦のやつらが楽家麗をさらったというのを耳にして、横取りを狙《ねら》ったか……家麗を手に入れれば、上海の内部事情を知ることもできる。朱宏となにか取引することもできる」
「あいつらは、『日本人がいるかどうかはわからない、気をつけろ』といっていた」
画面はまたスタジオに切り替わった。キャスターはなにもわからないということを、持って回った言い回しで告げていた。
「そうか、あいつらの狙いはおれか……だが、おれがあそこにいることをどうやって知った?」
「だれかに教えてもらったんだ」
「劉健一しかいない」
滝沢が顔をあげた。
「理由は?」
滝沢は首を振った。
「おまえは知らないのか? あの野郎はなにを狙ってる?」
「おれはなにも知らない。ついこの前まで、口をきいたこともなかったんだ」他の考えが頭をよぎった。「だいたい、劉健一はおまえがあそこにいることを知っていたのか?」
「いや……わからん。もしやつらの狙いが家麗なら、劉健一が話したってことも考えられる。あいつが崔虎にプリペイドカードのからくりと謝圓を殺したのが家麗だってことを話せば、崔虎は激怒するはずだからな。だが、やつらの狙いがおれなら……」
「おれたちがあそこにいることを知っていたのは楊老爺だ。小姐が連中にさらわれたと教えてくれたのは老爺だからな」
「薬屋の爺が? あいつがどうしておれを売る?」
わからなかった。だが、確信はあった。楊偉民だ。楊偉民が崔虎を動かした。秋生と滝沢を動かしてなにかを企《たくら》んでいる。すべては闇《やみ》の中だ。なにかが蠢《うごめ》く気配だけが伝わってくる。
「それより、北京の連中はおまえにどんな用があるんだ?」
「わからん」滝沢は首を振った。目の下に隈《くま》ができていた。「一番簡単なのは、劉健一か楊偉民をとっ捕まえてきて、吐かせるんだ。なにを企んで、なにをやってるのかをな。だが、そんな時間はない。鈴木は死んだ。早く金を作って逃げ出さなきゃ、死ぬまで刑務所の中ってことになる――いや、これだけ殺しまくってるんだ、まず死刑だな」
自虐的な笑みの下に紛れもない恐怖が巣くっていた。
バスルームのドアが開いた。待ちかねたように滝沢が立ち上がった。
「金はだれに預けてあるんだ?」
濡《ぬ》れた髪。バスローブ。胸元から漂ってくる香料の匂《にお》い。家麗はバスタオルで頭を拭きながら、肩をすくめた。
「なんの話?」
「おれたちには金がいる――」
「我們《わたしたち》?」
堂に入ったとぼけぶり――滝沢が苛立《いらだ》たしげに首を振った。
「おれはおまえの命を助けたんだ。金はだれに預けてある? 歌舞伎町の地下銀行だろう? だれだ!?」
家麗が顔を向けてきた。秋生はうなずいた。
「杜光啓《ドゥグァンチー》よ」
「あの糞《くそ》ったれか……」
「強欲だけど、金をごまかされたことはないわ。大陸への送金もすぐにやってくれるし」
「秋生」滝沢の顔は黒ずんでいた。焦りと怒り、それに疲労。滝沢は死にかけているように見えた。「おれは歌舞伎町には戻れない。崔虎と日本のやくざに狙われている。金を取ってきてくれ」
「小姐になにかあったら、今度こそおまえを殺すぞ」
「おまえたちにも必要な金なんだ。五百万ぽっちじゃなにもできない」
「わかった」
「よし、杜って野郎はいつもは――」
遮った。
「知ってる。劉健一と一緒にいるところを見た」
抜け目のない商売人の顔。よく覚えている。
「劉健一と杜が?」
「あの二人が会うと、なにかおかしいのか?」
「いや……よくわからん。それより急いでくれ。おまえが金を持ってきたら、このホテルを出る。鈴木の死体のそばに、いつまでもいるわけにはいかないからな。あいつの死体が発見されたら、真っ先におれが疑われる」
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電車を乗り継いで新宿へ向かった。死んだ警官のフレンチコート。右のポケットには黒星とぎざぎざに千切られた一万円札の半分が入っている。札の切れ端は家麗が後生大事に持っていた。これを杜光啓に見せれば金が引きだせる。印鑑の代わりになる。
左のポケットには札束――滝沢から受け取った軍資金が入っていた。家麗のバッグの中には五百五十万と少しの金が入っていた。それに、シャブの包みだ。
左肩がうずいた。たいした怪我ではない。わかっていても痛みは消えない。
歌舞伎町のネオンの明かり、人の波。どこか刺々《とげとげ》しい雰囲気が漂っていた。いつもより多い警官の数、殺気立ったやくざたち、そして、流氓たち。だれかがだれかを探していた。だれかがだれかの血を求めていた。復讐《ふくしゅう》を求めていた。
センター通りを若者の群れに紛れて歩いた。杜光啓は歌舞伎町の外れ、〈南京路《ナンジンルー》〉という台湾バーに行けば捕まえられる。滝沢が教えてくれた。
〈南京路〉――台湾バー。台湾人のママが東南アジアの女たちを仕切っている。ドアを開けると、目つきのきつい女が笑顔で近寄ってきた。秋生は用件を告げた。目つきのきつい女――ママが電話をかけた。杜はすぐに来る。ママが日本語でいった。
カウンターの端に座ってプーアル茶を頼んだ。聞こえてくるのはカラオケの歌声、女たちの嬌声《きょうせい》。客の隙《すき》を見つけては、女たちが秋生を盗み見る。
くだらない時間。焦ってもしかたがない――家麗のことを考えた。滝沢のことを考えた。
家麗。愛されていないことはわかっている。車の中の冷めた声、醒《さ》めた視線。その時になったら、家麗は秋生を見捨てるだろう。どうすればいいのか。わからなかった。
滝沢。秋生に向けられる視線、態度。覚えがある。台北の林――ホモの流氓。雰囲気がどことなく似ていた。
いずれにせよ、滝沢は死ぬ。家麗の呪詛《じゅそ》――みんな殺して。その中に、滝沢も入っている。
ドアが開いた。杜光啓。ボディガードのような若い者の影から顔を覗《のぞ》かせていた。劉健一と話していた男に間違いなかった。
「なんだ。楽小姐の代理って、あんたのことか?」
ママがさっと寄ってきて、杜の上着を脱がせた。ボディガードが射るような視線を向けてくる。秋生は受け流して立ち上がった。
「楽小姐は金がいる」
「わかってるよ。だれだって楽小姐の立場になれば金がいるもんだ」
「預けてる金を渡してもらいたい」
「まぁ、そう慌てなさんな」杜はストゥールに腰をおろした。「あんたも座りなよ」
「時間がない」
「おれはまず、あんたが楽小姐の正式な代理人だということを確認しなくちゃならんし、確認したからといって、すぐに金を用意できるわけじゃない。楽小姐がおれに預けてる金はけっこうな額だ。用意するのに時間がかかる。いずれにせよ、あんたは座るべきだと思うね」
はぐらかされているような感じはしなかった。秋生は腰をおろして、杜に向き直った。
「杜先生、そいつは銃を持ってる」
ボディガードが秋生の真後ろに立った。
「それがどうした?」
「取り上げた方が――」
「無駄だよ。こちらの人はな、その気になれば素手でもおれを殺せるんだ。あっという間にな。そうだろう?」
「そうだ」
「だとよ。だからおまえ、ちょっと黄《ホァン》のところに行ってこい」
「杜先生、それは――」
「大丈夫だって。この人のそばにいる限り、おれは安心なんだよ。おまえよりよっぽど恐ろしいボディガードになれる人だからな。それに、だ。この人と話がまとまったら、黄のところから金を持ってきてもらわなきゃならん」
「わかりました」
「電話する」
返事はなかった。不満気に唇を尖《とが》らせて、ボディガードは店を出ていった。
「まったく、自分の力を知らないガキはみっともなくって」
「あんたと無駄話をするつもりはない」
杜は肩をすくめた。
「こっちにも色々事情があってな。北京の連中が、今日の夕方、どこかの連中にぶち殺された」反応をうかがうような視線――無視した。「人戦の連中と一緒にな。それに、上海も妙な動きをしてる。朱宏の女が姿を消したんだ。そこにあんたが現れる。色々とね、頭が働いちまうんだよ」
一万円札の半分を杜の前に置いた。
「楽小姐から預かったものだ。小姐が預けてる金を全額引き出したい」
細く白い指が札をつまんだ。
「こんなもの出されなくても、あんたが楽小姐とつるんでることはわかってるさ」
「急いでるんだ」
「おれとしちゃね、あんたからなにか情報がもらえると嬉《うれ》しいんだよ」
「今すぐ金を渡してもらった方がおれは嬉しい」
秋生は目を細めて杜を睨《にら》んだ。商人の顔。信用できない人間の顔。右手をコートのポケットに滑らせた。黒星の銃把が指に触れた。
「おれを殺したら、金は永遠に手に入らないぜ」
眼鏡の奥の目に浮かぶ怯《おび》えと欲。欲の色の方が強かった。脅しは効きそうにもなかった。
「なにが知りたいんだ?」
杜が笑った。
「そうこなくちゃ。ちょっと待ってくれ」
杜は携帯電話を取り出した。杜の口から意味のわからない中国方言が紡ぎだされた。ほんの数秒のやり取りだけで、杜は電話を切った。
「金は三十分ほどで届く。それまで、たっぷり聞かせてくれ。特に、銭になる話をな。あんたと楊偉民の関係は?」
「楊偉民はクライアントだ」
杜が首を振った。秋生は黙って次の質問を待った。
「楊偉民はあんたになにを依頼した?」
「楽小姐のボディガードだ」
「頼むよ。本当のところ、張道明を殺ったのはあんただろう?」
秋生は答えなかった。
「張が死んでから歌舞伎町はおかしくなったんだよ。ただわからないのは、なんだって楊偉民が張道明を殺さなきゃならなかったかってことなんだ。あの爺さん、ごたごたが起こるのをなによりも嫌ってたはずだ。そうだろう?」
答えなかった――答えられなかった。楊偉民はなぜ張道明を殺させた?
「まあいい。話を進めよう。上海の洪行って男が姿を消した。あんた、なにか知らないか?」
首を振った。
「人戦の連中はどんな役割を持ってるんだ?」
洪行はフェイント。杜が聞きたかったのはこっちの質問だ。
「謝圓って男がパチンコのプリペイドカードの磁気情報を解析したらしい。張道明はおかげで日本のやくざに金を払わなくてすむようになった」
「謝圓ね。日本人が探してたな、そういえば」
日本人――滝沢。なにかが頭の隅をよぎった。
「謝圓はばらされたと考えていいのかい?」
うなずいた。
「だれに?」
「知らない」
杜のため息――いちいち付き合ってはいられない。
「楽小姐はどうしてあんたが必要だったんだ?」
「意味がわからない」
「上海のボスの女が、どうしてわざわざ身内じゃない人間をボディガードにしたんだ?」
微妙な質問――うまくはぐらかせ。
「変な連中につけ回されてるという話だった」
「だれに?」
「わからない。おれがボディガードをしてる間は、なにもなかった」
「あんた、嘘《うそ》が下手だな。プロの凶手だとは思えんよ。もう、楽家麗はおしまいだよ。朱宏は、あんたと一緒に逃げたと思いこんでる。捕まえて殺してやるって喚き散らしてるぜ。いまさら、あの女を庇《かば》ったってどうにもなりゃしない」
「それで?」
「朱宏は楊偉民の薬屋を襲わせた。知ってるか?」
秋生は息を飲んだ。
「嘘だ」
「ついさっきだよ。もっとも、楊偉民はとっとと逃げた後だったらしいけどな」
記憶がよみがえる。真妃とろくでなしの死体。腐臭の中から突然現れた楊偉民。暖かい風呂《ふろ》と食事、新しい生活。胸に痛みが広がった。
「まあいい。北京の連中はなんだって人戦のやつらのところに押しかけたんだ?」
「わからない」
「人戦の跳ねっ返りどもが楽家麗を誘拐《ゆうかい》したって話もある」
「小姐はずっとおれと一緒だった」
「ああ、それから、日本人の子守り役をさせられてた蔡子明って男も姿を消してるんだ。なにか知ってるか?」
「知らない。名前も初めて聞いた」
「じゃ、日本人がどこにいるかも知らない?」
「知らない」
「元刑事でね、崔虎の犬だ。張道明を殺した人間を探せって、崔虎に命じられてた」
「知らない」
「その割に、あんた、おれがさっき日本人っていったときには、なにもいわなかったじゃないか」
勝ち誇った笑み。
「聞き流していた」
「あんたと日本人が一緒にいるところを見たってやつがいるんだよ」
はったりだ、と本能が告げる。
「でたらめだ」口にした瞬間、なにかが閃《ひらめ》いた。「――それは、劉健一がいったのか?」
煙草の煙が充満した賭場《とば》。熱心に話し込む劉健一と杜。
「劉健一も姿を消してるんだ。だからこうしてあんたに話を聞いてるんだよ」
――あいつは尻《しり》に火がついてるんだ。うまく切り抜けるか殺されるかしかない。もっと突ついてやれば、それこそどうしようもない状態になる。
劉健一の言葉だ。
「あの博奕《ばくち》場で、おまえと劉健一はだれかをはめる話をしてた。だれをはめようとしてたんだ?」
シャブを使いはじめた男。男に殴られた女――滝沢と滝沢の女。間違いない。
杜は考え込むような表情をみせた。眼鏡の奥で目が狡猾《こうかつ》な光を放った。
「駆け引きはなしだ。おまえが話せば、おれも話す」
狡猾な光が消えた。
「日本人だよ」
滝沢。だが、なぜ?
「あれは張道明が殺された次の日だったかな……劉健一がぼろい儲《もう》け話を持ってきたんだ。おれにその話をくれる代わりに、日本人に圧力をかけろっていってな」
「なぜ?」
「知らんね。劉健一はときどきわけのわからないことをする。楊偉民と同じだ。とにかく、おれは日本人に金を貸してる。二百万ほどのはした金だがな。本人に直接圧力をかけるのはヤバいんで――あの日本人、怒りだすと手がつけられないんだ。知ってるだろう? あいつの女に圧力をかけた。女にも金を貸してたんでな」
滝沢の女――血まみれの死体。
「それから、あいつは変態だって話をばらまいてやった。そういうことには敏感そうな男だったからな。案の定、おれをぶち殺すって喚いてたそうだ」
劉健一が滝沢に圧力をかけた。なぜ? 利用するために決まっている。なんのために? わからなかった。
「なんのためだか、劉健一はいわなかったのか?」
「おれも聞かなかったよ。さて、じゃ、こっちの番だな。もう一度はじめから質問させてもらうぜ――」
杜の質問が続いた。秋生はすべてに答えた。なにがどうなろうとかまいはしなかった。劉健一が滝沢を利用している。そのことだけが、頭の中を埋めていた。
杜のボディガードが戻ってきた。右手にスポーツバッグを携えていた。
「六千万と少し、入ってるはずだ。確かめるか?」
その必要はなかった。バッグを受取り、店を出た。
東通りを歩いた。〈カリビアン〉は看板が消え、ドアには鍵《かぎ》がしっかりとかかっていた。さくら通り――薬屋。割れた窓ガラスと店内に散乱した薬品が目に入った。制服の警官が六人、男を捕まえて質問攻めにしていた。男の顔には見覚えがあった。堅気の台湾人で楊偉民の表の代理人を任されているはずだ。
楊偉民と劉健一。二人とも姿を消した。どこに消えたのかを考えてもしかたがない。なぜ消えたのかを考えるべきだ。
劉健一は滝沢を使ってなにかをしようとしていた。楊偉民は滝沢と秋生の居場所を北京の連中に教えた。なにを企んでいるのか。
さくら通りから靖国通りに向かった。タクシーを探した。空車がなかった。大ガードへ足を向けた。左手にバッグ。肩の傷が疼《うず》いた。
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携帯電話が鳴った。
「てめえ、陳雄《チェンシォン》を殺しやがったな」
怒りにざらついた崔虎《ツイフー》の声。
「老板《ラオバン》。おれがあそこにいるってだれに聞いたんです?」
「てめえの知ったことじゃねえ。おい、おれの仕事はどうなった? 蔡子明《ツァイズーミン》はどこに行った? なにをトチ狂ってやがるんだ、てめえは!? おれはな、陳雄にてめえを連れてこいっていっただけだ。それを殺しやがって。どうなるか、わかってるんだろうな?」
「老板、仕事の件だったらカタはついてますよ。裏切り者は陶立中《タオリーヂョン》です。やつを殺せば四大天王がこの世から奇麗さっぱり消えてなくなりますよ」
「てめえ……」
「おれのことより自分の心配をした方がいいんじゃないですか、老板」
滝沢は電話を切った。安っぽいソファに腰をおろす。すぐに瞼《まぶた》が下がってきた。頭を振った。のんべんだらりと眠っていられる場合じゃない。
生き延びるための算段――だれがどう動こうとしているのかを見極めることだ。
「あんたが捕まってる間、人戦のデブはどこかに電話してなかったか?」
ベッドの上の楽家麗《ロージァリー》に声をかけた。楽家麗は気怠《けだる》そうに顔をあげた。
「三回も犯されたのよ。そんな暇はなかったわ」
縛られた家麗にのしかかるデブ。妄想が広がる。
「ただ、一、二回、デブが側を離れたことがあったわ。わたし、ぼんやりしてたから、その時に電話をしていたかもしれないけど、わからない」
楊偉民《ヤンウェイミン》が情報を得ていた人戦の犬というのは、恐らくデブの鄭孟達《ヂョンモンダー》だろう。
「詳しい話を聞かせてくれ。あんたが自分のマンションを出て、おれたちが現れるまでの話だ。できるだけ詳しく」
家麗はサイドボードの上に手を伸ばし、ミネラルウォータのボトルを口に運んだ。喉元《のどもと》に視線が吸い寄せられた。家麗にからかわれているような気がした。瞬きをしてごまかした。
「あなたたちから電話があった後、まずいと思ったのよ。それで、お金と着替えだけ持って、部屋を出たら、マンションの前にとまっていた車からデブと背の高い男が降りてきたのよ。デブが銃を持ってたわ。脅されて、車に乗せられたの――」
「なんといって脅されたんだ?」
「なんの用かはわかってるだろう。怪我をしたくなかったらおとなしく車に乗れ。そんなことだったと思うわ」
「それで?」
「後ろの席に乗せられて、バッグを取られて、腕を縛られたわ。背の高い方が運転していたのよ。真っ直ぐあのマンションに連れていかれたけど、デブはその間ずっとわたしの胸や足を触ってたわ」
「車の中ではなにも聞かれなかったのか?」
「聞かれたわ。謝圓《シェユェン》はどこにいる? って」
「答えたのか?」
「まさか。ひとことだって口を開かなかったわ」
「他には?」
「謝圓が稼いだ金はどこにあるかって、しつこく聞かれたわ」
家麗の顔に皮肉な笑みが浮かんだ。謝圓の金――愚かな連中。流氓《リウマン》が堅気に大金を使うはずがない。遊ぶのに困らない程度の金を渡してご機嫌をとるだけだ。謝圓が懐に入れた金など、たかが知れている。
「それで?」
「マンションに連れ込まれて、同じことを聞かれたわ」
「謝圓と金のことだけか?」
「他になにを聞かれるっていうのよ」
眉間《みけん》に皺《しわ》がよった。不機嫌な様子を隠そうともしていなかった。だが、楽家麗の気まぐれに付き合っている暇はない。
「例えば、あんたと謝圓の関係なんかはどうだ? あんた、どこで謝圓に出くわしたんだ? 絶対に会いたくない男だったんだろう」
「劉健一《リウジェンイー》が連れてきたのよ」
頭を丸太かなにかで殴られたような気がした。
「劉健一だと?」
なぜだ? なぜここで劉健一が出てくる?
「あいつはわたしのことはなんでも知ってる。調べたのよ、わたしのことを。金を使ってね。それで、ある日わたしの店に謝圓を連れてきたのよ」
あれほど執拗《しつよう》だった眠気が消えていた。
「ちょっと待て。劉健一がおまえの過去を調べたってどういうことだ? 最初からわかりやすく説明してくれ」
遠くを見る目つき。ほんの微かな躊躇《ためら》い。だが、楽家麗の口はすぐに開いた。
「まだ、わたしがそこら辺の売女だったころ、健一はわたしの客だったのよ。金払いがよくてしつこくなくて、いい客だったわ。わたしは色んなことをあいつに相談した。あいつは色んなことを教えてくれたわ。朱宏《ヂューホン》の女になれたのも、あいつのおかげ。でも、後で知ったんだけど、朱宏がわたしに目をつけてるってわかったときから、あいつはわたしの過茸を調べはじめたの。上海のボスの女を自由にできるなにかを見つけるためにね」
憎悪、侮蔑《ぶべつ》、恐怖――ありとあらゆる負の感情。楽家麗の語尾は震えていた。
「それで? やつはあんたが北京でしたことを知っていた。謝圓をあんたのところに連れていった。それで、あいつはあんたになにを要求したんだ?」
「なにも……懐かしい友達を連れてきてやったぜ、って。それだけ。殺してやろうと思ったわ」
数ヶ月前の出来事。どこかでなにかが繋《つな》がっている。
「なぜだ? あいつはなにを企んだんだ?」
「さあね。でも、知ってる? 北京の流氓にもあいつは謝圓を紹介したわ」
「なんだと?」
「謝圓が金が欲しいっていったのよ。なにができるんだって劉健一が聞いて……そう、謝圓は電脳を使ったことなら大抵のことはできるって答えた。そうしたら――」
劉健一。すべてはケチな故買屋に繋がっていく。
「劉健一はなにを企んでる?」
「知らないわよ」
「そんなはずはない。おまえはなにか聞いてるはずだ。思い出せ。どんなことでもいい。あいつはなにを喋《しゃべ》った?」
劉健一が謝圓に変造プリペイドカードを作らせた。楊偉民が秋生に張道明《ヂャンタオミン》を殺させた。ろくでもない中国人――台湾人。すべてはやつらのせいだ。
怒りに視野が狭くなる。滝沢は家麗の肩を揺さぶった。
「なにか思い出せ」
「知らないわよ。あいつがなにを企んでるか知って、それでどうなるっていうの? あんたに出来ることは、わたしの金を取って逃げることだけよ。そうでしょう?」
その通りだった。いまさら劉健一に怒りを滾《たぎ》らせても、歌舞伎町には戻れない。
「金はいくらあるんだ?」
ソファに背を預けた。楽家麗がバスローブの襟元をかきあわせた。
「六千万ぐらい」
「おれが二千万で、あんたらが四千万か……」
「もっと欲しければ、方法はあるわ」
楽家麗の唇が吊《つ》りあがった。魔女の目が輝いている。聞かなくてもその先はわかった。
「秋生を殺すのよ。そうすれば、わたしはあんたを頼るしかなくなる。二千万が六千万になるわ」
秋生の顔が脳裏に浮かんだ――背筋が震えた。
「秋生はあんたのためにしなくてもいいことまでしている」
「それがどうしたの? だれかが生き延びるためにはだれかが犠牲になるのよ。そうでしょう?」
「だが、秋生はただの間抜けじゃない。しくじれば、こっちが殺される」
「わたしが手伝ってあげる。わたしが気をそらしてるあいだに殺れば簡単よ」
「おれにはできん」
家麗のいうとおりだ――内なる声が囁《ささや》く。それでも、脳裏に浮かんだ秋生の顔は消えなかった。
「ひとつ思い出したわ」家麗の顔に浮かぶ笑み――淫売《いんばい》の笑み。「健一から電話がかかってきたの。秋生をたらしこめって」
「なんだと?」
「知ってる? 秋生は義理のお姉さんに恋してたの。そのお姉さんを犯して殺したのよ。そして、腐っていく死体をじっと見てたの。健一が教えてくれたわ。秋生はコンプレックスの塊だって。コンプレックスをうまく突いてやれば、すぐにわたしに参っちゃうからって。その通りだったわ。最初は冷たくあしらって、後でちょっと優しくしてやるだけでよかったのよ。あれで殺し屋だっていうんだから、笑わせるわ」
脳裏の中の秋生の顔が歪《ゆが》んだ。
「あんなやつと一緒だと、みんな死んじゃうわ。狂ってるのよ、秋生は。殺して。できるでしょう?」
「おれにはできん」
心臓の裏のあたりがひりひりと痛んだ。劉健一はなにを企んでいる? 楽家麗はなぜ笑える? 秋生はなにを思っている?
「できるわ」
家麗がバスローブをはだけた。白い乳房が揺れた。
「どう? 聞いたことがあるわ。あんた、縛ってやるのが好きなんでしょう。好きにしていいわ。わたしを抱くのよ。そうすれば、秋生を殺すしかなくなるわ」
家麗はゆっくり足を広げていった。暗い翳《かげ》りの奥、淫靡《いんび》な襞《ひだ》が見えた。
「やめろ」
秋生の顔が消えた。代わりに浮かんできたのは、縛られて鄭孟達に犯される楽家麗、苦痛に喘《あえ》ぐ女の姿だった。
「やめないわ」
ベッドの上の楽家麗がにじり寄ってくる。
「やめろ。秋生は本物の殺し屋だ」
声が震えていた。身体が動かなかった。
「だいじょうぶ。わたしたちならできるわ」
家麗がベッドの下に降りた。四つんばいのまま、ゆっくり近づいてくる。
「おまえは秋生の女だ」
立ち上がった。頭の中の妄想を振り払った。
「嘘《うそ》つき。わたし、知ってるわよ」
家麗が嗤《わら》った。
「なにをだ?」
「あんたが秋生を見る目つき……あんたは、わたしとじゃなく秋生としたいのよ」
「馬鹿をいうな」
「わたしがこんな淫《みだ》らな格好をしてるのに、したがらない男なんかいないわ」
家麗が尻《しり》を向けてきた。自分の指で、股間《こかん》を広げた。しゃぶりつきたくなるような光景。だが、頭の中では、家麗の声が谺《こだま》していた。
――秋生としたいのよ。
「どうして女を縛るのよ? どうして女をいたぶらないとできないの? 普通に女とするのは興奮しないからでしょう?」
「黙れ!」
記憶がよみがえった。まだ子供のころ、母親が法事で家をあけた。暗い家の中で父親と二人きり。父親は酒を飲んでいた。滝沢は風呂《ふろ》に入った。父親が入ってきた。やけに機嫌がよかった。身体を洗われた。父親の身体を洗わされた。そして――
「馬鹿な男よね。自分がおカマだってことに気づいてないんだから。二丁目にでも行って、おカマを買ってみればよかったのよ。男が相手なら、縛らなくても大丈夫だったはずよ」
「黙れ!」
父親のモノをしゃぶらされた。たった一度だけの出来事――固く封印された記憶。今まで思い出したこともなかった。
「違うっていうんなら、あんたのモノをわたしに突っ込んでみなさいよ。できないんでしょう、ホモなんだから」
「それ以上いうと、ぶち殺すぞ」
秋生を初めて見た時に感じた眩暈《めまい》。秋生の声を初めて聞いた時の震え――でたらめだ。
「あんたはホモよ。日本人はみんな、ホモの変態よ」
限界だった。尻を向けた家麗を引きずり起こして、拳《こぶし》を叩《たた》きつけた。髪を掴《つか》んでベッドの上に放り投げた。
「だれがホモだって?」
殴った。家麗の唇が切れて血が流れた。
「てめえは売女だろうが」
家麗の北京語をかき消すように滝沢は日本語で叫んだ。
「ホモ!」
「うるせえ」
家麗の口を塞《ふさ》いだ。首を絞めた。身体の下でもがく家麗。思い出した――宗英をいたぶる時のことを。股間が固くなった。もどかしい手つきでズボンを脱いだ。
「これでも、おれがおカマか」
乾いた襞――押し戻される感覚。かまわず突き刺した。家麗の顔が苦悶《くもん》に歪んだ。
「どうだ?」
「秋生を殺すのよ、ホモ野郎」
頬《ほお》を張った。首を絞めた。家麗が暴れた。膣《ちつ》が締めつけてきた。脳裏に浮かぶ秋生の顔が家麗の顔と重なった。あっという間に果てていた。
家麗が嘲笑《ちょうしょう》を浮かべていた。いたたまれずにバスルームへ逃げた。熱い湯を頭から浴びた。皮膚の表面は火照り、身体の内側は凍えていた。
ホモ――固くそそり立った父親のあれ。自分の欲望に気づいた。目をそらすこともできなかった。涙をシャワーで洗い流した。
「くそったれ」
すべてを呪《のろ》って叫んだ。
しばらくそうやってシャワーに打たれていた。物音が聞こえたような気がした。滝沢はシャワーをとめた。空気がおかしかった。
家麗が逃げようとしている。頭に浮かんだのはそれだけだった。
いきなりドアが開いた。シャワーカーテンが引かれた。
「女をコマしてシャワーか。いい身分じゃねえか、滝沢の旦那《だんな》」
尾崎が嗤っていた――金玉が縮みあがった。
ずぶ濡《ぬ》れのままバスルームから追い立てられた。ベッドの上の家麗が両手と両足をチンピラに押さえられていた。尻を剥《む》き出したチンピラがもう一人。家麗の上で腰を振っていた。
「服を着てもいいか?」
家麗は泣き声ひとつあげない――なにも感じなかった。尾崎が来た。劉健一がチクった。それ以外に考えられない。そして、尾崎は滝沢を殺す。
「てめえの女が輪姦《まわ》されてるってのに、服を着せろだ?」
「おれの女じゃない」
尾崎の顔が歪んだ。拳が飛んできた。痛みを感じる前にバランスを失って床にへたりこんだ。
「まったくろくでもない男だよ、てめえは。あのスケ、おまんこから白いやつを溢《あふ》れさせてたぜ。おめえのだろうがよ? さんざんしゃぶらせて突っ込んだ女がやくざに輪姦されてるんだぞ」
「これから死ぬってのに、おまえみたいなやくざの説教を聞いてられるか」
滝沢は立ち上がった。尾崎を押しのけて服を着た。身体についた水滴で濡れたシャツから血の匂《にお》いが立ちこめてきた。
腰を振っていたチンピラが呻《うめ》いた。足を押さえていたやつが、ズボンの奥から一物を引っ張りだした。埋め物のせいで形がいびつに歪《ゆが》んでいた。
「劉健一に聞いたのか?」
滝沢は尾崎に聞いた。確認のための質問だった。尾崎がうなずいた。
「あいつにいくら払った?」
「ロハだ」
中国人はただで人にものを与えたりはしない。
「どうやってこの部屋に入った?」
「ルームサーヴィスってやつだ。あの女、頭の巡りはよくねえらしいな」
家麗は虚ろな目のまま、チンピラに犯されている。尾崎たちが部屋に乗りこんできたときの状況が目に浮かんだ。
「聞きてえことはそれだけか? じゃあ、今度はこっちが聞かせてもらうぜ。なんだってうちのシャブをパクった?」
「遠沢にくれてやるためだ」
「おまえ、頭がどうかしたのか? 自分がどうなるか考えなかったのか」
「金がなかった。あいつを使うにはシャブをくれてやるしかなかった」
「……まぁ、座れや」
尾崎は首を振りながらソファに腰をおろした。小さなソファだった。男二人が座るには狭すぎた。
「中国人なんかとつるんでるからトチ狂うんだ。まぁいい。落とし前はどうつける気だ?」
「そのバッグの中に金がある」
床に転がったバッグを指で示した。
「いくらだ?」
「五百万」
「あほか、おまえは? こっちはな、伊藤を含めて四人も殺されてるんだぞ」
「殺《や》ったのはおれじゃない」
「じゃあ、だれだ? だれが殺った?」
尾崎は立ち上がった。銃口をこめかみに押しあてられた。
「台湾の殺し屋だ」
「どこにいる?」
「知らん」
咄嵯《とっさ》に出た言葉だった。
「そんなわけはねえだろう」
視界の外で撃鉄が起こされる音がした。流行遅れのリヴォルヴァー。それでも、肝が冷えるのには充分だった。シャワーを浴びたばかりの身体に汗が滲《にじ》み、膝《ひざ》が震えた。
「だいたいの裏はあの故買屋が教えてくれた。そいつはこのスケの金を拾いに行ってるんだろうが。どこで落ち合うんだ?」
「知らん」
秋生と金。どちらも渡すわけにはいかなかった。
「死にてえのか?」
「喋《しゃべ》っても喋らなくても殺される。そうだろう?」
尾崎の手が動いた。滝沢は身構えた――無駄だった。銃把で殴られて、真横に吹き飛んだ。痛みと恐怖と屈辱感。奥歯がぐらぐら動いた。
「てめえみたいなろくでなしが突っ張ったってどうにもならねえんだよ。おい――」
尾崎がチンピラたちに声をかけた。二人目の男がちょうど終わったところだった。
「こいつを押さえとけ」
「兄貴、おれ、まだやってねえんですよ」
家麗の手を押さえていたチンピラが懇願した。
「後で好きなだけやらせてやる」
最初に家麗を犯した男が近づいてきた。手に握っているのは流行のトカレフだった。スライドを引いて、薬室に弾丸を送り込む。銃口がこめかみにあてられた。
「こいつのマラを引っ張りだせ。シャワーを浴びてたから、汚れちゃいねえはずだ」
もうひとり。近づいてきてベルトに手をかけた。
「やめろ」
汗が目に入った。呼吸が荒くなっているのがわかった。
「まあ、黙って見てろって」
尾崎はリヴォルヴァーのシリンダーを横に開いた。弾丸をいったん抜き出し、一発だけ薬室に装填《そうてん》した。
「ロシアンルーレットだ。わかってるだろう?」
「銃声がすりゃ、人が来る」
「その前に逃《フ》けるさ」
チンピラが滝沢の男根を掴《つか》んで引き出した。尾崎がシリンダーを回した。手首を返してシリンダーをはめた。
「さて、どこまで頑張れるかな、滝沢の旦那はよ」
リヴォルヴァー。それしか見えなかった。銃口がみっともないほど萎縮《いしゅく》した男根に押しあてられた。
「やめてくれ」
声がかすれていた。
「殺し屋ってのはどこにいるんだ?」
「知らない」尾崎が撃鉄を起こした。「やめろ!」
「殺し屋はどこだ!?」
「喋っちゃだめよ!」
北京語の叫び。耳に入っただけだった。全ての神経が尾崎の指に集中していた。指に力がこもる。引き金が引かれる――
「歌舞伎町だ。杜っていう中国人のところに行った」
「どこで落ち合う?」
「……ここに戻ってくることになってる」
「最初から素直に喋りゃよかったのにな」
尾崎が勝ち誇った笑みを浮かべた。陰茎に突きつけられていた銃――今度はこめかみに押しつけられた。
「泣かなくていいぜ、滝沢の旦那。マラがなくなっちゃ生きてる甲斐《かい》がない。だれだって歌いだすってもんだ」
「助けてくれ」
声がかすれ、震えていた。
「どうする? これに聞いてみるか」
これ――リヴォルヴァー。尾崎はゆっくり引き金を引いた。
「やめろ!」
もがいた。チンピラにがっちり押さえられて動けなかった。
尾崎の指が引き金を引いた。撃鉄が落ちた。
乾いた金属音――静寂。
腰から力が抜けた。堪えがたい尿意を必死にこらえた。
「よかったな、滝沢の旦那。もう少し生かしておいてやるよ」
尾崎は携帯電話を取り出した。
「おう、おれだ。南雲はいるか?……南雲か? ちょいと頼まれてくれ。杜っていう中国人の金貸し、知ってるな? 探してくれ。そいつんとこに客があるはずだ――」
尾崎が顔を向けてきた。
「そいつの風体はどんなだ?」
「中肉中背の色男だ。見た目で二十代半ば」
「二十代の色男だ。日本人じゃねえ。台湾人だ。そいつを見つけて、もしできるようならさらってくれ。無理なら、あとを尾《つ》けるだけでいい」
秋生の顔が浮かんで消えた。生き延びた――考えられるのはそのことだけだった。
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ぴったりとリズムのあった足音が三つ。何気なく後ろを振り返った。顔に見覚えのある上海人が三人、秋生の視線を気にするふうもなく歩いていた。そのうち二人が銃を持っている――歩き方でわかった。
靖国通りは途切れることのない人の群れで賑《にぎ》わっていた。流氓たちもうかつには動けない。それは秋生も同じことだった。大金と銃、それにシャブの包み。警官に職務質問を受けただけでアウトだ。足をはやめた。大ガードを抜けてどこかの路地に入りこめば、連中を撒《ま》ける。
失敗だった。大ガードに入った途端、反対側から別の流氓たちがやってきた。ひとりに見覚えがあった。朱宏のマンションで馴《な》れ馴れしく話しかけてきた男。賈林《ジァリン》という名だった。
右側は壁、左は車道――ひっきりなしに車が動き、中央はコンクリートで遮断されている。逃げ場がなかった。前から四人、後ろから三人、いたるところに通行人。左肩が痛んだ。弾丸の残りは多くない。七人は相手にできない。
どうする?
考えがまとまらないうちに、賈林たちとの間が詰まった。
「郭先生、うちの老板がお呼びなんですがね、もちろん、いらっしゃってもらえますよね?」
賈林の顔が引きつっていた。他の流氓たちの荒い息遣いが聞こえた。怯《おび》えている。
腹が決まった――チャンスを待つ。
「どこに行けばいいんだ?」
職安通り沿いのビルの中の一室だった。スティームの熱気と湿気、チャイナドレスの女たち。外に向かってつきだされた看板には〈中国エステ&サウナ〉の文字。客はサウナで身体を暖め、女たちのマッサージと特別なサーヴィスを受ける。
銃を突きつけられ、赤い照明に照らされた廊下の奥の個室に案内された。広い個室の中央に幅の狭いベッドがひとつ。朱宏が俯《うつぶ》せになって若い女に身体を揉《も》ませていた。女は白いブラとショーツだけの姿。湿気と汗で濡れた下着の向こう、素肌が透けているのが艶《なま》めかしかった。
賈林がベッドに近づき、上海語でなにかを告げた。朱宏が身体の向きを変えた。
「小麗はどこだ?」
「知らない」
朱宏の目が光った。いきなり膝《ひざ》の裏を蹴《け》られた。バランスを失い、床に膝を突いた。後頭部に冷たい感触。バッグを奪われた。コートのポケット――銃と覚醒《かくせい》剤、フォールディングナイフ、それにズボンの腰に挟んだスウィッチブレイド。すべて奪われた。
賈林がバッグの中を確かめ、朱宏にうなずいた。
「その金はどうした?」
「あんたには関係ない」
朱宏の顔が歪んだ。頭のすぐ後ろで撃鉄のあがる音がした。
「おまえが小麗の金を杜の野郎から引き出したことはお見通しなんだ」
タイミングがよすぎる――杜と別れてそれほどたたないうちに流氓たちが現れた。杜が朱宏に情報を流した。そういうことだ。この街の中国人はだれひとり信じてはいけない。
「小麗はどこにいる?」
「知らない」
銃口が強く後頭部を押した。
「死にたいのか?」
「知らないことは答えられない」
朱宏が首を振った。両手を押さえられた。コートを脱がされた。血にまみれた左肩。朱宏の目が輝いた。
「怪我をしてるじゃねえか。それも、酷《ひど》い怪我だ」
傷口を縛る布がほどかれた。ナイフの刃が光った。上着とシャツが切り裂かれて、傷口がさらけ出された。
「小麗はどこだ?」
「知らない」
火傷《やけど》しそうな熱さ――すぐに痛みに変わった。だれかの指が傷口を抉《えぐ》っていた。涙、汗、涎《よだれ》。身体中の水分が一気に流れ出たような感覚。もがこうとしても、抉られた傷口から全ての力が抜け出ていった。
「小麗はどこだ? あの売女をどこに隠した?」
激痛に神経が麻痺《まひ》していた。首を振ることしかできなかった。
「強情な野郎だ。おい、どこかに辣椒《ラージァオ》があっただろう。持ってこい」
辣椒――唐辛子。なにをされるかわかった瞬間、背筋に悪寒が走った。
朱宏がベッドを降りてきた。煙草をくわえると、マッサージをしていた女が火をつけた。
「話せば楽に殺してやる。話さなけりゃ――どのみち話すことになるんだがな、生まれてこなかった方がマシだったっていうようなめにあわせてやる」
「くたばれ」
赤く焼けた煙草の火口。朱宏は笑いながら傷口に押しつけてきた。絶叫。意志とは無関係に放たれる悲鳴。
「楊偉民の狸爺を信用したのが間違いだった。まさか、人の女を寝取るようなろくでなしを寄越すとはな。いつ小麗をものにした? おれが留守にしてる間か? おれがせっせと働いてる間、おまえはおれの女に小汚ぇものをしゃぶらせてたのか? 台湾のクソ野郎が」
「楊偉民がやれといったんだ」
咄嗟《とっさ》のでたらめが口をついた。朱宏の気を引け。煙草を傷口から遠ざけろ。
「なんだと?」
「楊偉民の命令だったんだ」
「なんのためだ?」
「おれは知らない。あの爺さんはいつも命令するだけだ」
朱宏が咳込《せきこ》んだ。笑っているということに気づくのに、しばらく時間がかかった。
「まったく、てめえの命を惜しんで恩人の楊偉民に罪をなすりつけるとはいい根性してるじゃないか。冥途《めいど》の土産に教えてやろうか。おれはみんな知ってるんだ。今度の歌舞伎町のごたごたはな、おれと劉健一が仕組んだんだ」
痛みを吹き飛ばす衝撃だった。
「ここんとこ、北京の豚野郎たちは図に乗っていやがった。パチンコのプリペイドカードで荒稼ぎしてな。金のあるところには人が集まるもんだ。あまり崔虎の野郎を調子づかせると面倒なことになる。そんなときにな、劉健一の野郎がうまい話を持ち込んできやがったんだ」
神経をひっかきまわすような激痛が、鈍い痛みに変わってきた。
「あいつはな、崔虎と楊偉民をぶつけようといいやがった。楊偉民に張道明を殺させる。それを知りゃ、崔虎だって黙っちゃいない。おれも崔虎も、あの爺さんは目障りだが、よっぽどの事情がなきゃ手を出さねえってことになってるがな、あの馬鹿は頭に血が昇ればなんだってやっちまう。それに、楊偉民の爺は変化を望まねえ。歌舞伎町をおれと崔虎で半分こにしてるってのが、あの爺さんには都合がいいんだ。崔虎が金を儲《もう》けておれを食い潰《つぶ》そうって気になる前になんとかしようとするはずだ。劉健一はそういいやがった。お膳《ぜん》立ては全部劉健一がやった。陶立中をうまいこと誑《たぶら》かして情報を楊偉民に流させたんだ。どうやったのか知らんが、うまくいった。楊偉民はおまえを呼び寄せて張道明をぶち殺した。後は崔虎にちょいと教えてやるだけだ、てめえの舎弟を殺したのは楊偉民だぜってな」
得意げに告白する朱宏。だが、話は穴だらけだった。
「どうしておれを借りた?」
「おまえが爺さんの側にいちゃまずい」
「劉健一がそういったのか?」
朱宏はうなずいた。それがどうしたという顔で。
「おまえの考えてること、当ててやろうか? 崔虎と楊偉民を共倒れさせてえのに、それはおかしいってんだろう? 実際にはいろいろと問題があったんだ。まず最初の問題は、崔虎のアホが日本人を使ったってことだ。元刑事だかなんだか知らんが、よそ者の日本人がおれたち中国人のことを調べて、どれぐらい時間がかかると思う? 日本人がのろのろしてる間に楊偉民はおまえをどこかに逃がしちまう。あの日本人が張道明をぶち殺したのは楊偉民だと突き止めたとしろ。崔虎はすぐに殴りこみをかける。楊偉民の爺は金は持ってるが、荒事に強い台湾人は最近じゃ数が少ない。すぐに殺《や》られちまう。そうなったら、崔虎はますます手がつけられなくなる。だから、おまえを歌舞伎町に置いておくために手を打ったってわけだ。ちょうど、小麗《シァオリー》のやつが、だれかに尾《つ》け回されてるってわめいていたしな」
劉健一――家麗の弱みを握っている。杜を使って滝沢に圧力をかけた。朱宏に取り入って歌舞伎町を混乱に陥れた。すべては楊偉民を殺すためか?
「劉健一はたいした玉だ。日本人をうまく使って魏在欣《ウェイザイシン》を殺させた。崔虎の手駒《てごま》はぼろぼろだ。楊偉民に戦争をしかけても簡単には勝てなくなった。いま、歌舞伎町で一番力を持ってるのはだれだと思う? おれだ。この朱宏だ」
「だが、崔虎も楊偉民もまだ生きてる」
朱宏が舌を鳴らした。
「なにごともすべてうまくいくわけじゃねえ。さっきもいっただろう。薄のろの日本人がトチ狂いやがった。おかげで、崔虎の野郎はまだ、だれが張道明を殺ったのか知りもしねえ。まあ、魏在欣をてめえの手でぶち殺し、陳雄もくたばったとくれば、残りは陶立中しかいねえ。いくら崔虎の頭の巡りが悪くても、いずれ楊偉民に行き着くだろうがな」
「だが、あんたは楊偉民の薬屋を襲った。楊偉民は逃げたんだろう? 崔虎がどれだけ怒り狂っても、相手がいないんじゃ話にならないだろう」
「てめえのせいだ。小麗をてめえがかっさらうからこんなことになったんだ。小麗はどこにいる? どこに隠しやがった?」
「そのトチ狂った日本人と一緒にいる」
事実を小出しにする――時間を稼ぐ。考えなければならないことが多すぎる。
「どこにいるんだ?」
「後で連絡を取り合うことになっている」
「いつ?」
秋生は時計を見あげた。午後九時。
「十時に日本人の携帯に電話を入れることになっている」
「今すぐ電話しろ。小麗をここに連れてくるようにいうんだ」
「だめだ。決めた時間以外の電話はまずいことがあったという印だと決めてある。今電話すれば、日本人は楽小姐を連れてどこかに逃げる」
朱宏の顔が苛立《いらだ》ちに赤く染まった。
「クソ野郎が。てめえも日本人もろくでもないクソ野郎だ」
肩を蹴《け》られた。灼熱《しゃくねつ》の痛み。脳が溶けるような感覚。床にうずくまって激痛に耐えた。
「おい、時間がくるまで、こいつを可愛《かわい》がってやれ。上海の朱宏をなめたらどんなことになるか、きっちり教えこんでやるんだ」
「ひとつだけ教えてくれ――」秋生は叫んだ。「劉健一はあんたになにを望んだんだ?」
「金だ。他になにがある。おれが歌舞伎町を押さえたら、あいつは好きなように商売をしていい。そういうことになってるんだ」
金――そんなはずはない。〈カリビアン〉のカウンターの向こうでなにかに取り憑《つ》かれたようにぎらついていた目。金ではないなにかを望んでいた。それとも、あれも芝居だったというのか。
「小麗が戻ってきたら、命だけは助けてやる。感謝するんだな」
朱宏のたわごと。笑い飛ばそうとした――できなかった。脇腹《わきばら》を蹴りあげられた。いくつもの靴底が襲いかかってきた。
無数の痛み。左肩から先の感覚がなくなっていた。そして、腹の底からこみあげてくる憎悪。
劉健一。すべてを仕組んだ。すべてを利用した。
意識が薄れる寸前の暗闇《くらやみ》の淵《ふち》、劉健一が薄笑いを浮かべていた。
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家麗は四つんばいにさせられていた。後ろから犯され、口にも突っ込まれていた。チンピラどもの短絡した性欲。部屋には精液の匂《にお》いが充満していた。宗英も同じように蹂躙《じゅうりん》されて殺された。
尾崎ともう一人のチンピラに持ち物をあらためられた。銃が二丁、小銭の入った財布、シャブのパケ、携帯電話、鈴木の手帳と手錠――尾崎の顔色が変わった。
「これはなんだ、おい?」
「見ての通りだ」
死の恐怖が通り過ぎた後の虚脱感に冒されていた。なにをするにも気怠《けだる》かった。
「鈴木の旦那《だんな》の手帳じゃねえか。てめえ、いったい――」
「鈴木は死んだよ。近くの駐車場で眠ってる」
「刑事《デカ》を殺しやがったのか!?」
部屋の空気が凍りついた。家麗を嬲《なぶ》っていたチンピラどもも、やっと動くのをやめた。
「おれが殺ったわけじゃない」
「馬鹿野郎。てめえと鈴木の旦那は仲間だったんだろうが」
「仲間? どういうことだ? おれはあいつを利用しただけだ。あいつもおれを利用した。世の中、そういうもんだろう、尾崎よ」
「くそっ、てめえ、本気で狂いやがったな」
尾崎は苛立たしげに部屋の中を歩きはじめた。
「てめえら、いつまでマラをおったててるつもりだ! いいかげんにしやがれ」
低い声――底に怒りが沈んでいた。
「すんません」
飽くことを知らないかのように屹立《きつりつ》していたチンピラたちの男根があっという間に萎《しな》びていく。爬虫《はちゅう》類ほども働かない連中の脳にも尾崎の恐さだけは浸透している。放り出された家麗はぴくりとも動かなかった。
「どいつもこいつも、ろくでなしばかり揃《そろ》いやがって」
尾崎の拳《こぶし》が飛んだ。意味のない八つ当たりだった。殴られたチンピラは怒るかわりに目に怯《おび》えの色を浮かべた。
「滝沢、てめえ、どうするつもりだ――」
尾崎の怒声を遮って、無機質な電子音が響いた。尾崎が携帯電話を取り出した。
「おう、おれだ……なんだと? それで、どこに?……職安通りのあそこか?」
尾崎の眉間《みけん》に深い皺《しわ》が寄った――悪い知らせだ。
「いや、いい。そのまま見張っていてくれ。また連絡する」
尾崎は電話を切った。苦々しげな目。さっきまでの怒りや焦りも消えていた。
「まずいことになったぞ、滝沢。てめえらの殺し屋だがよ、上海の連中にかっさらわれた」
口を開く前に悲鳴に遮られた。家麗。ベッドの上で身体を起こし、口をまん丸にあけていた。
「秋生がさらわれたって、どういうこと? わたしのお金はどこに行ったの!?」
皮膚を切り裂くような北京語の奔流。それでも、言葉の意味するところは正確に把握できた。
「知らん」
「なによ、豚野郎」枕《まくら》が飛んできた。「あんたたち、寄ってたかってわたしの人生、めちゃくちゃにして。ろくでなし! あの金は、わたしが稼いだ金なんだよ。身体を張って稼いだ金なんだ。それを、それを――」
チンピラ二人が家麗の身体と口を押さえた。家麗は激しく抵抗した。乱れた髪、血走った目、赤く染まった肌。毛穴のひとつひとつからとてつもない怒りが噴出していた。
「あのスケ、なにを喚いてるんだ?」
「金の心配をしてるんだ」
「くそろくでもねえ中国人め」
秋生が朱宏に拉致《らち》された――金と一緒に。金もない。秋生もいない。目の前にいるのはやくざたち。あがくだけ無駄だった。クソまみれの人生。終わりもクソにまみれている。
「てめえ、妙に落ち着いてやがるが、どうするつもりだ? 金が手に入らなきゃ、くたばるしかないんだぞ」
「おためごかしはやめろ。金が無事手に入ったって、おれは死ぬ。じゃなきゃ、おまえがヤバいことになるからな。そうだろう、尾崎? 鈴木の死体とは関り合いになりたくないだろうしな」
尾崎は伊藤を可愛《かわい》がっていた。伊藤の不始末は尾崎の不始末だ。組内でも突き上げを食っているはずだ。だから、こんなところまで自分で出張ってきた。金がなければ困るのは、尾崎も同じだ。
「なにか考えろ。じゃなきゃ、生まれてこなかった方がよかったと思わせるぞ」
突きつけられた銃口の暗い穴。死への諦《あきら》めが消え、恐怖がすぐにやってきた。
「考える時間をくれ」
滝沢は銃口から目をそらせた。ベッドの上から唸《うな》り声がした。形のいい乳房を震わせて家麗が身もだえしている。
――家麗。朱宏の情婦。元はといえば売れっ子の娼婦《しょうふ》。劉健一も客だった。秋生は家麗に惚《ほ》れている。
家麗――男を手玉に取る売女。
なぜ朱宏は秋生を拉致した? 楊偉民の口利きで朱宏は歌舞伎町の上海流氓のボスになったと聞いている。楊偉民に逆らうような真似はしないはずだ。
なぜ? 家麗が答えだ。朱宏は家麗を秋生に寝取られたと思った。ぶち切れて、暴走した。ありえない話ではなかった。
「朱宏の目的はあの女だ。取り引きに応じるかもしれん」
「この女と、殺し屋と金を取り替えるってか?」
無理だ――内なる囁《ささや》き。朱宏は秋生を殺したがっている。
「それは無理だ。殺し屋は諦めるんだな。おまえの目的は金だろう」
秋生の顔が脳裏に浮かぶ――身体の内側が引きつれる。
尾崎が腕を組んで天井を見上げた。頭の中で天秤《てんびん》が揺れているに違いなかった。無駄な努力だ。金を手に入れるためには取り引きを持ちかけるしかない。
上海の連中との取引するには通訳が必要だ。やくざに北京語のできる人間がいるはずもない。取り引きが終わるまでは生き延びることができる。
「よし。女と金を交換だ。おい、上海のクソ野郎に電話しろ」
尾崎が携帯電話を突きつけてきた。
「組に報告しなくていいのか? 新誠会は北京の連中と組んでるんじゃなかったのか?」
「だれのせいでこうなったと思ってやがる」
尾崎の口許《くちもと》が歪《ゆが》んだ。堅気なら小便をちびりそうな面構えだった。だが、目は落ち着いた光を湛《たた》えている。短気なだけでは、極道の世界でも出世は覚束《おぼつか》ない。
「朱宏を捕まえるには、どこに電話すればいい?」
滝沢は携帯電話を受け取って、家麗に訊《き》いた。
「知らないわよ」
「金を取り戻したくないのか?」
「冗談じゃない。朱宏に掴《つか》まったら、嬲《なぶ》り殺されるわ」
「こいつらと一緒にいても殺されるだけだぞ」
家麗の笑み。皮肉と侮蔑《ぶべつ》に満ちていた。
「中国の流氓に比べれば、日本のやくざなんて屁《へ》みたいなものよ」
返す言葉がなかった。
「なにを喚いてるんだ、このスケは?」
「中国の連中に嬲られるぐらいなら、おまえらの玩具にされた方がマシだそうだ」
「中国人ってのは、どうなってやがるんだ?」
答えようがない質問だった。滝沢は肩をすくめて、劉健一の番号に電話をかけた。
「はい?」
コール音がなる前に北京語が聞こえた。
「いろいろやってくれるじゃないか、健一」
「あんたか……」
声の奥から聞こえてくるのはラテンのリズムだった。
「なにを企《たくら》んでる?」
「朱宏を捕まえたいんだろう?」
背筋を寒気が走りぬけた。
「なんでもお見通しってわけだ」
「犬をたくさん飼ってるんだよ。金はかかるが、みんな貴重なネタを運んできてくれる。そこのホテルのフロントにも今日からおれの犬が加わったぜ。あんたらがホテルについた途端、涎《よだれ》を垂らして電話をかけてきた」
「殺してやるぞ、健一」
「無理だな。その前に、あんた、尾崎に殺《や》られるって。だけど、感謝してくれよ。すぐに殺すな、使いみちがあるはずだって、尾崎に忠告してやったのはおれだからな」
「てめえ……」
呼吸が自分でもそれとわかるほど荒かった。目も眩《くら》むような怒りと屈辱に言葉が出なかった。
「朱宏を捕まえなきゃならないんだろう? あの金がなきゃ、あんたもどうにもならんしな――」
劉健一は十|桁《けた》の数字をいった。
「賈林ってやつの携帯の番号だ。朱宏にべったりくっついてるやつだからな、そこにかければ確実に朱宏はつかまるはずだ」
「もう一度だ」
ベッドのサイドボードの上のメモとボールペンを引っ掴んだ。劉健一の口にする数字を叩《たた》きつけるように書き留めた。
「じゃぁな。うまく立ち回ってせいぜい生き延びてくれ。あんたにはもう少しやってもらいたいことがあるんだ」
「なんだと? おい、それはどういうことだ!?」
電話は切れていた。リダイアルボタンを押す。呼び出し音が四回鳴って、留守番電話サーヴィスに切り替わった。
「くそっ!」
滝沢は携帯電話を睨《にら》みつけた。床に叩きつけようとして腕を振り上げた――その腕を掴まれた。
「散々|虚仮《こけ》にされたうえに、携帯まで壊されたんじゃたまったもんじゃねえぜ」尾崎が苦々しげに顔を歪めていた。「まったく、短気なのは変わらねえもんだな、滝沢の旦那」
腕を振りほどいた。
「連絡先はわかった。で、どうやって取り引きを持ちかければいいんだ」
尾崎の唇が吊《つ》りあがった。
「上海の連中と取引するのはおまえだ。わかるか?」
わかった。尾崎たちは影に隠れる。うまく行けば儲《もう》けもの。そうならなかったら、不意打ちをしかけて金を取り戻す。
「一人で行動させてくれるのか? おれが逃げたらどうするんだ?」
思わず口をついて出た言葉だった。尾崎は鼻にもかけなかった。
「取り引きの場所は花園神社だ。マンモス交番も近いし、連中だって無理はできねえ」
「連中は嫌がるだろうよ」
「てめえの命がかかってるんだ、なんとかしろよ、滝沢の旦那」
滝沢はメモ用紙の番号を親指で押した。電話に出たのは甲高い男の声だった。意味不明の言葉の羅列――上海語。
「朱先生はいるか?」
滝沢は北京語で訊《き》いた。
「おまえは?」
声が訛《なまり》のある北京語に切り替わった。言葉の底に警戒する響きがあった。
「滝沢《ロンゾー》だ。崔虎のところで働いている日本人だ」
息をのむ気配が伝わってきた。
「老板になんの用だ?」
「女のことで話がしたい」
「楽小姐か? どこにいる?」
「朱宏に話す」
忌《い》ま忌ましげな舌打ち。
「少し待て」
気配が遠のく。上海語のやり取りがかすかに聞こえてきた。
「どうなってるんだ?」
尾崎が顔をよせてきた。
「電話に出たのは下っ端だ」
「下手な小細工、打つなよ」
小細工――なにも浮かばない。
「朱だ。小麗を連れてこい。そうすれば、命だけは助けてやる」
いきなり傲慢《ごうまん》な声が聞こえてきた。
「金がいる。女と取り引きだ」
「いくら欲しいんだ?」
返事が早すぎた。金をよこすつもりはハナからない。
「郭秋生が持っていた金、全部だ」
「あれは小麗の金だ」
「その小麗が殺されてもいいのか?」
「こっちにも人質がいることを忘れるな」
「人質? 郭秋生のことか?」嘲笑《ちょうしょう》を浴びせた。「好きにしろよ。ろくでもない殺し屋がどうなったって、おれの知ったことじゃない」
言葉とは裏腹に、頭の中では秋生を救う方法を考えていた。
「上海の朱宏をなめると、どういうことになるのかわかってるのか?」
言葉の合間に荒い息遣いが聞こえた。
「わかってる。おれは金が欲しいだけだ。楽小姐には指一本触れてない」
「小麗を電話に出せ」
「ここにはいない。楽小姐は生きてる。信用しろ」
家麗を電話に出す――乗るわけにはいかない危険な賭《か》けだった。今の状況では、なにを口走るかわからなかった。
「もし、おれを騙《だま》したら――」
「騙さない。おれは別に楽小姐をさらったわけじゃない。郭秋生と楽小姐の駆け落ちに巻き込まれただけだ。秋生があんたに捕まって、なんだっておれが楽小姐を殺さなきゃならないんだ。おれは金が欲しいだけだ。崔虎がおれを探してる。金をもって、東京から逃げたいだけだ」
「……金は用意する。小麗を連れてこい」
中国流氓のやり口――相手を安心させて後ろから刺す。
「のこのこ出かけていって殺されるのはごめんだ。二時間後に花園神社だ。あそこなら交番も近いし、あんたたちもおれも変なことはできない」
「おれをひっかけようとしても無駄だぞ」
「おれは一人だ。なにができるっていうんだ?」
「よし、二時間後に花園神社だな」
さりげなく尾崎を見た。意味もわからないのに、熱心に耳を傾けている。
「郭秋生に伝えてくれ。おまえも日本の流氓もくたばれ、ってな」
一か八かの賭け。心臓が大きく脈打った。
「日本の流氓? やくざのことか?」
尾崎の顔――変化はない。高低のある北京語の声調に紛れた「やくざ」という日本語を尾崎は聞き取れなかったのだ。
「そうだ。そういってくれれば、意味は通じる。おれの女は日本の流氓に殺された。郭秋生はその現場にいたんだ」
「おれは心の広い人間だ。伝えておいてやる。必ず、おまえと小麗だけで来るんだぞ。いいな?」
「わかってる」
電話が切れた。
「どうなった?」
待ち切れないというような表情で尾崎が聞いてきた。
「二時間後に花園神社だ」
「そうか……電話をよこせ」
尾崎はひったくるように受け取ると、電話をかけた。
「おれだ、尾崎だ。ちょいと兵隊を調達してくれ。……いや、出入りってわけじゃねえ……」
全身に疲労感があった。滝沢は壁にもたれた。
「おれたちのでべとべとだぜ。拭《ふ》かなくてもいいのか?」
チンピラの卑猥《ひわい》な声に顔を向けた。ベッドの上で家麗が下着に足をかけていた。
「死んじまえ、豚野郎」
恐ろしく野卑な北京語の罵声《ばせい》だった。滝沢はそれが自分に向けられたような気がした。
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濁った意識の底。真紀の死体が腐っていく。家麗が助けを求めている。台北――貧しかった暮らし。楊偉民が出してくれた粥《かゆ》。
「おい、起きてるか?」
脇腹《わきばら》を靴で小突かれた。痛みはなかった。秋生は目を開けた。朱宏の顔が視界に飛び込んできた。
「日本人から電話があった。金と小麗を取引したいだとよ。なめられたもんだ、おれたち中国人もな」
全身に熱を感じた。左肩には鈍痛。
「日本人は腕の方はどうなんだ? かなりやるのか?」
「日本のおまわりは滅多に銃は撃たない」
舌がなにかに張りついている。くぐもった声しか出なかった。
「そんなもんだろうな。日本の警察にもっと頭と度胸があれば、おれたちがこんなに幅を利かせることもなかったってわけだ」
「日本人は殺すのか?」
「当たり前だ。その後、小麗の目の前でおまえを殺してやる。楽しみにしておけ――そういえば、日本人から伝言を預かったぞ。おまえも日本の流氓もくたばれ、そういってたな」
意味がわからなかった。日本の流氓――やくざ。
「おかしな野郎だ。やくざといえばわかるのに、わざわざ日本の流氓だとよ」
滝沢はやくざに追われている。
「おまえ、あいつの女が日本のやくざに殺されたとき、現場にいたんだってな? 日本人はそれを根に持ってるようだったな」
ぼんやりとした考えが形を取り始めた。滝沢と家麗はやくざに捕まった。滝沢の伝言――おれたちはやくざに捕まった。この取り引きは罠《わな》だ。確信は持てない。だが、それ以外に滝沢が意味不明の言葉を伝えてきた理由がわからない。
日本のやくざと上海の流氓。撃ちあいになる――家麗が危ない。
「老板。頼みがある」
「いまさら、なにを頼むってんだ? 命|乞《ご》いなら無駄だぞ」
朱宏の醒《さ》めた目――なんとしてでも気をひけ。
「おれに日本人を殺させてくれ」
「なんだと?」
「あいつは……おカマなんだ」突然、頭の中でなにかが閃《ひらめ》いた。「あいつはおれとやりたがった。おれの尻《しり》を触った。おれのあれをくわえようとした。あんな屈辱、受けたことがない。おれに、殺させてくれ」
朱宏が身体を震わせて笑った。
「日本人は薄汚いホモか。そいつはいい。おまえ、色男だからさんざん言い寄られたんだな」
滝沢はホモ――閃きは確信に変わった。滝沢の視線、態度。台北の林と同じだ。男を好む男のそれだ。
「老板、おれはこれまでいろんなやつに泥をかけられてきた。だが、ホモだけは耐えられない。老板を男と見込んでお願いする。おれを殺す前に、おれにホモ野郎の日本人を殺させてくれ」
「面白いじゃないか。人の女を寝取る犬野郎がホモの豚野郎を殺す。よし、おまえの頼み、聞き届けてやる」
取引現場でやくざたちが待ち伏せているとすれば、混乱が起きる。混乱を味方につければ、家麗を救い出せるかもしれない。
「よし。おい、賈林。手下どもを呼び寄せろ。銃や青龍刀も忘れるな。ホモ野郎の日本人に上海の流氓をなめたらどういうことになるか、思い知らせてやるんだ」
上海流氓たちの高揚した叫びを耳にしながら目を閉じた。少しでも体力を回復しておかなければならない。
熱い塊が顔に押しあてられた。秋生は反射的に払いのけた。目を開ける。バスローブ姿の若い女――朱宏をマッサージしていた女が蒸しタオルを手に、戸惑った目を向けてきた。
「朱先生が、外を歩ける顔にしてやれって」
きつい訛《なまり》の北京語だった。だが、訛は耳に馴染《なじ》んだ。
「福建の出か?」
「そうです」
台湾と海を挟んだ福建。内省人と呼ばれる台湾人のほとんどが、福建にルーツを持っている。馴染みがあるのは当然だった。
「ありがとう。拭《ふ》いてくれ」
全身の熱と腫《は》れぼったさ、それに左肩の鈍痛はよくなるどころか悪化していた。それでも、身体を動かすことはできた。
「立てます?」
「ああ」
秋生は苦労して起きあがった。女の手を借りて椅子《いす》に座った。
女の手つきは優しかった。子供のように顔を拭《ぬぐ》ってもらった。汚れ――血と汗が拭われるたびに、意識がはっきりしてきた。
「酷《ひど》い怪我……」
白い布きれで、女は肩をきつく縛ってくれた。
「福建の女がどうして上海の連中の下で働いてる?」
「借金、返さなきゃ……いろいろ話を聞いたけど、上海の老板が一番気前がいいって聞いたから」
「蛇頭《ショートゥ》に頼んで密航してきたのか?」
女がうなずいた。蛇頭――金で人を運ぶ。大陸から日本へ。新宿辺りの流氓は、みんなこのビジネスに深く関っている。楊偉民から、一度このビジネスがらみの仕事を命じられたことがある。
「故郷に帰りたいか?」
女が首を振った。
「まだ、お金貯まってないもの」
「そうか」
指を動かしてみた。左――動かない。神経がいかれているのかもしれない。右――動いた。意識したとおりに。引き金は引ける。
奥の部屋のドアが開いた。スーツ姿の朱宏が出てきた。
「そろそろ時間だ。ホモ野郎の日本人から、小麗を取り戻しにいこうじゃないか」
ベンツは明治通りを流れるように走っていた。後部座席。右に朱宏。左に賈林。運転席と助手席には鍛えた上腕筋をこれ見よがしに剥《む》き出しにした若い男たちが座っていた。バックミラーの中に車が三台映っていた。上海流氓たちが乗り込んでいる。手に手に武器を持って。
「おい。小麗はほんとに無事だろうな?」
朱宏がいった。車に乗るまでの自信は消えうせていた。目に落ち着きの色がなく、額に薄っすらと汗をかいていた。
「おれが別れるまでは無事だった。それに、日本人はホモだ」
「もし小麗の身体に傷ひとつついててみろ。ただじゃすまさないからな――おい、渡してやれ」
朱宏が賈林に顎《あご》をしゃくった。賈林がポケットから黒星を取り出した。
「弾丸は後でくれてやる。いいか、変な真似は考えるなよ。おまえがおれとの約束を裏切ったら、おまえの家族、皆殺しにするからな」
「おれには家族はいない。もしそんなものがいるとしたら、楊偉民だけだ。楊偉民を殺すのか?」
「殺してもいいな。あの爺も長生きしすぎだ」
楊偉民。どこに隠れているのか。劉健一と朱宏に面子を潰《つぶ》された。このまま黙っているとは思えない。
秋生は黒星を右手で受け取り、コートのポケットにしまった。
ベンツがとまった。
「着いたぜ」
バックミラーの中の車のドアが開いた。腰や脇《わき》の下を銃で膨らませた流氓たちが花園神社に向かっていった。
「ここで取引するというのは、あんたが決めたのか?」
「いや。日本人だ。交番が近いし、お互いに下手なことはできないからな」
「だが、あんたはおれに日本人を殺させる。警官が来るぞ。どうするつもりだ?」
「ここでは殺《や》らん」
運転席と助手席の男たちが車から降りた。後ろに回ってドアを開ける。先に賈林、次に朱宏。秋生は最後に降りた。両脇を男たちに挟まれた。
「日本人は銃を持ってるぞ。下手に脅すと楽小姐が危ない」
それに――やくざが待ち伏せしている。
「こんなとこで銃は使えないというのは、日本人も承知してるはずだ。これだけの人数に囲まれりゃ、いくら阿呆《あほ》のホモ野郎だって諦《あきら》めるしかないだろう」
そんなはずはない――口にはしなかった。花園神社の境内は静まり返っている。だが、暗闇《くらやみ》の中でやくざたちが目を光らせているはずだ。
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ガタの来たハッチバックに押しこまれた。夜の道路を新宿へ。尾崎は助手席で携帯電話を使っていた。ひっきりなしにだれかに怒鳴っていた。楽家麗と手錠で繋《つな》がれた右手。家麗の横に陣取ったチンピラが家麗の股間《こかん》をまさぐっていた。バックミラーに映っているのは小型のワゴン。残ったチンピラが運転していた。危ない仕事をするときにベンツに乗るやくざはいない。
「人数を集めてるらしいが、まさか、花園神社で撃ちあいをするつもりか?」
携帯電話の合間を縫って尾崎に訊《き》いた。
「冗談じゃねえ。あんなとこでドンパチはじめたら、うちの組は終わりだ。いいか――」尾崎は顔を後ろに向け、身を乗りだしてきた。「中国人のやりくちはよくわかってる。やつら、人数を集めて、おまえの脅しにかかる。こっちはよ、それ以上の人数集めてやるのよ。いくらやつらが血の気が多いったって、あそこで撃ちあいはできねえ」
「やつらが金を持ってきてなかったらどうするんだ?」
「そんときゃ、連中の頭をさらうさ」
「出入りになるぞ」
「結構だね。やつら、のさばりすぎだ。ここらでガツンと一発食らわせてやるのもいいんじゃねえか。ここが日本だってことを叩《たた》き込んでやる」
尾崎も現実を見誤っている。連中に日本のルールは通じない。
「組の方はそれで納得するのか?」
「てめえの知ったことじゃねえ」
尾崎の目に宿る危険な光――野心だ。今度の件をうまく処理して、新誠会内部の勢力争いで有利に立とうとしている。危険すぎる賭《か》けだった。
生き延びるための算段――すべては秋生が握っている。
約束の時間の三十分前。ハッチバックは花園神社の前にとまった。尾崎が車を降りた。走りよって来る人影――広川という名の尾崎の舎弟だった。
「何人集まった?」
「二十人ちょっとです。みんな、兄貴のために一肌脱ぐって」
「くだらねえこといってるんじゃねえ。で、どうなってるんだ?」
「はい。もう、みんな境内に入って、物陰で待機してもらってます」
「よし。おまえ、連中に伝えてこい。煙草一本吸わず、じっとしてろってな。もし、だれかがドジって中国のやつらにばれたら、ただじゃおかねえ。おれが合図するから、そうしたらみんなで取り囲むんだ。いいな? それからな、チャカは見せるだけだ。絶対に撃つな。そう伝えておけ」
広川の返事を待たず、尾崎は再び車に乗りこんだ。
「おい、靖国通りにまわせ」
車が動きだした。
「滝沢の旦那《だんな》。もうすぐだぜ。連中が馬鹿なことをしねえように祈るんだな」
なにがあっても――なにも起こらなくても、殺される。秋生がなにかをしてくれなければ。
隣で家麗が身じろいだ。
「わたしたち、殺されるの?」
「おれは殺される。あんたは大丈夫だ」
しばらくの間は――言葉を飲み込んだ。
「おい、中国語はやめろ。そっちの女も、日本語できるんだろうが」
尾崎の罵声《ばせい》が飛んできた。余裕が失われていた。家麗の隣のチンピラも家麗を嬲《なぶ》るのをやめていた。緊張に喉《のど》が渇いた。
死にたくない――身体が震えた。
携帯電話が鳴った。
「おれだ……人数は? よし、ありがとうよ」
尾崎の顔に笑みが広がった。
「連中がこっちに向かってる」
「人数は?」
反射的に尾崎に尋ねていた。
「十ちょっとだそうだ。旦那、安心しな。二十対十じゃ、やつらも馬鹿な真似はできねえよ。おい、手錠を外してやれや」
自由になった手。その上に、尾崎が銃を置いた。
「弾丸は入ってねえ。おれたちが囲むまで、そいつをこのスケに突きつけて、中国人どもを牽制《けんせい》するんだ。命がかかってるんだからな、うまくやれよ」
空っぽの銃だが、ずしりと重かった。
「じゃあ、出るぞ」
靖国通りに面したビルの隙間《すきま》に作られた参道を滝沢は家麗を抱えるようにして歩いた。逃げようとする気配が直に伝わってくる。
「無駄なことはするな、小姐。あんたには生き延びるチャンスがある。だが、ここで逃げ出すと殺されるぞ」
「わかってるわよ」
痣《きず》だらけの顔が歪《ゆが》んだ。この顔を見たら、秋生は逆上するかもしれない――騙《だま》されているとも知らずに。
「小姐――」
「滝沢、中国語はやめろ。ぶち殺すぞ」
後ろから尾崎の声がした。滝沢は口を閉じた。
「よし、ここからはおまえら二人だ。いいか、変な素振りがちょっとでも見えたら、頭、ぶち抜くからな。これは脅しじゃねえ」
「わかってる」
空っぽの銃を家麗の腰に押しつけた。
「五分もしねえうちにやつらは来る。それまで、しっかりやるんだ」
尾崎の声に押されるようにして足を踏みだした。夜の花園神社。いつも出没するアヴェックの影も形もない。物陰に潜むやくざたちの野卑な匂《にお》いが結界を作っている。
「恐いわ」
家麗の体臭が強く匂う――恐怖の匂い。
「おれも怖い」
「逃げられないの?」
「物陰にやくざたちが隠れてる。無理だ」
家麗がため息をもらした。家麗の腰をだいて境内を進んだ。そそり立つ木々の陰。たしかに、なにかが蠢《うごめ》いている。
「どうしてこんなことになったのよ。あんたたちのせいよ」
「おれたち、みんなのせいだ。おれとあんたは金にこだわった。秋生はあんたにこだわった」
「あんたは金と秋生にこだわったのよ」
「黙れ」
「いいこと教えてあげましょうか」異様なほどの早口だった。家麗は喋《しゃべ》ることで恐怖を紛らわそうとしている。「秋生、男と寝たことがあるのよ」
唾《つば》を飲み込んだ。死に勝る欲望が頭をもたげた。
「どういうことだ?」
「昔ね、仕事のためにおカマとつきあわなきゃならないことがあったのよ。秋生、その男と寝たの。信じられないわ。いくら仕事のためだからって」
頭の中に広がる妄想――やめろ、今は生き延びることが先だ。
「薄汚いホモ同士。あんたたち、お似合いよ」
「黙れっ!」
滝沢は手を振りあげて、止めた。正面の参道を駆けのぼってくる足音。上海の流氓たちの姿が見えた。上海語の叫びがあがる。銃を家麗の頭に突きつけた。
「近寄らせるな」
「弾丸は入ってないくせに」
「いいから、やつらをとめろ」
家麗が上海語で叫んだ。流氓たちの動きがとまった。
「朱宏はどうした?」
滝沢は北京語でいった。
「老板は今来る」
「早くしろ」
流氓たちの人垣が割れた。
こざっぱりしたスーツを着た男――朱宏。脇《わき》に、顔を引きつらせた男を従えていた。そして、両脇を流氓に挟まれて秋生が続いた。
夜目にも秋生が酷い状態なのがわかった。
「秋生……」
どす黒い怒り。決して触れられない相手への深い悲しみ。憐《あわ》れみ。恐怖。すべてがごっちゃになって襲いかかってきた。
「小麗を返してもらおうか、日本人」
朱宏が近づいてきて、足をとめた。家麗の顔をまじまじと見つめていた――秋生も同じだった。
秋生の顔に浮かぶ色――怒り。恐怖が足元に打ち寄せてくる。生き残ることができたとしても、家麗がすべてをぶちまける――滝沢はホモよ。ホモのくせにわたしを犯したわ。反論する――家麗は健一に命じられておまえを誘惑したんだ。秋生は信じない。信じたとしても、家麗を取る。わかっていた。
――家麗を殺せ。内なる声が囁く。
「金はどうした?」
滝沢は叫んだ。
「あれはおれが小麗に稼がせた金だ。おまえに渡すいわれはない。くそっ、どうやったらそんな顔になるんだ」
「金と女を取引する約束だ」
――家麗を殺せ。
「くそったれの日本人が人の女をいたぶりやがって。金だと? 二度とふざけたことが抜かせないようにしてやる」
朱宏が足を踏みだした。後ろの流氓たちが壁のように迫ってくる。
「この女を殺すぞ」
滝沢は家麗の頭に突きつけた銃を揺らした――その瞬間家麗が叫んだ。上海語だった。流氓たちに動揺が広がった。あちこちに視線を走らせている。やくざが潜んでいることを家麗が告げたのだ。
「どういうことだ、日本人? おれをはめやがったな!」
朱宏の罵声《ばせい》。それが合図だったかのように、暗闇《くらやみ》からやくざたちが姿を現しはじめた。
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境内は濃密な気配に満ちていた――昂《たか》ぶった感情、殺気。境内のあちこちから噴きでている。やくざたちが暗闇に潜んでいる。だが、朱宏たちは気づかない。
歩きながら確かめる――朱宏は銃を持っていない。賈林と両脇の流氓、それぞれ一丁ずつ持っている。奪い取る機会がいずれやって来る。
聞きなれた声がした。甲高い上海語――家麗の声。心臓が高鳴った。
「朱宏はどうした?」
滝沢の北京語が聞こえてきた。朱宏が流氓たちをかき分けて前に進んだ。
暗闇に浮かび上がったのは家麗。その頭に突きつけられた黒星。蒼醒《あおざ》めた顔の滝沢。逸る足――両脇の流氓たちに押さえられた。
朱宏と滝沢のやり取りは耳を素通りするだけだった。黒ずみ、腫《は》れた家麗の顔に視線が吸い寄せられた。胃をねじ切られるような怒りに呼吸が荒くなり、視界が狭まる。
やくざども――皆殺しにしてやる。
家麗が口を開いた。上海語の叫び。朱宏たちが動揺した。
「どういうことだ、日本人? おれをはめやがったな!」
暗闇からいくつもの人影が踊り出てきた。次々に増えていく。流氓たちが銃を抜く。
「撃つな」
朱宏の怒声に、流氓たちが動きをとめた。
「日本人、これはどういうことなんだ?」
「見ての通りさ」
滝沢の背後にたった人影が前に進み出てきた。声に嘲笑《あざわら》うような響きがあった。
「てめえはだれだ!?」
朱宏の問い――滝沢が通訳する。
「おれの顔、覚えてねえか? 新誠会の尾崎ってもんだがよ」
「新誠会? なんだって新誠会が?」
暗闇から溢《あふ》れてくる人影は、ざっと二十人。無言のまま上海流氓たちを取り囲んでいた。
「うちの組員がそこの殺し屋――」尾崎が指を秋生に突きつけた。「四人も殺されてね。ケジメとらなきゃならねえんだ。言葉は違っても同じ極道だ。おれの立場、わかるだろう、朱先生?」
「こいつは楊偉民の手下だ。おれとはなんの関係もない。こんなことをしてどうなるかわかってるのか? 下手をすれば、中国流氓と日本のやくざの戦争だぞ」
「そんなつもりはねえ。こっちは、その殺し屋と金をもらいたいだけだ」
「金だと?」
「四人も殺されたんだ。面子立てるためにゃ、殺し屋の命だけじゃ足りないんだよ」
尾崎の言葉を通訳する滝沢――視線はずっと秋生に向いていた。なんとかできるか? そう訊《き》いている。秋生は小さく、静かにうなずいた。
家麗は尾崎と朱宏のやり取りに気を取られていた。無惨に腫れあがった顔。怒りが身体の真ん中に芯《しん》を作っていた。熱くはない。冷めている。凍てついた大地のように固く、冷たく。
「金などないぞ。あれはおれの金だ」
「そいつは困ったな、朱先生。これだけの人数集めたんだ。ただで帰るってわけにはいかねえんだよ」
「お、おれを脅す気か? 喧嘩《けんか》を売るなら買うぞ。おれたち上海の人間はな、これぐらいのことでびびるほど柔にできちゃいないんだ」
「落ち着けよ。なにも今すぐドンパチはじめようってんじゃねえ。すぐそばは交番だ。忘れたのか?」
「警察が恐いんだったら、最初からなめた真似をするんじゃねえ」
朱宏の北京語を滝沢が日本語に変えた。尾崎の顔色が変わった。
「いってくれるじゃねえか。サツが怖くて極道、やってられるか!」
金属音――やくざたちが一斉に銃のスライドを引いた音。賈林が慌てて銃を引き抜いた。痛いほどの緊張が境内の空気を引き裂いた。
もうすぐ緊張が弾ける。その時が唯一の機会だ。秋生は膝《ひざ》を曲げて腰を落とした。
「落ち着けよ、尾崎。てめえの目的は殺し屋と金だ。朱宏の目的はこの女だ。喧嘩することじゃないだろう?」
滝沢が叫んだ。
「野郎がなめたことを抜かすからじゃねえか」
「朱先生、あんたも落ち着いてくれ。こんなところで日本のやくざと戦争おっぱじめても、なんのメリットもない」
「おれを罠《わな》に掛けたのはそっちが先だぞ。卑怯《ひきょう》な真似をしやがって」
緊張が緩んだ。賈林の右手――黒星が目に入った。秋生は倒れこんで銃を奪った。左手は動かない。銃身を口にくわえてスライドさせた。転がって――立ち上がった。目の前に朱宏の背中。後ろで流氓が叫んだ。撃った。朱宏が前のめりに吹き飛んだ。
前屈みになって走った。家麗と滝沢に向かって。
滝沢が銃を尾崎の頭に叩《たた》きつけていた。零《こぼ》れ落ちた銃を滝沢が拾い上げた。秋生は頭を押さえて屈みこんだ尾崎に黒星を向けた。撃った。尾崎の頭が消し飛んだ。
流氓たち、やくざたち。動かない――動けない。虚を衝いた。
「馬鹿野郎!」
滝沢の顔が引き攣《つ》っていた。
「撃て!」
秋生は叫んだ。
考えている暇はなかった。やくざたちの手薄な場所。見当はつけてあった。撃ちながら、そこを突破する――それ以外に、家麗を救う術はない。
秋生は家麗の腰を抱えた。
「小姐、走るぞ!」
「わたしのお金は?」
険しい顔が秋生を睨《にら》んでいた。
「金より助かることが先だ」
走った。境内の真ん中――やくざたちが中国人を取り巻いている。尾崎の背後。社《やしろ》から靖国通りにぬける参道。そこだけ人数が少ない。
銃声。身体を低くした。秋生は走りながら振り返った。滝沢がすぐ後ろにいた。流氓とやくざたちが動きはじめていた。流氓たちが追ってくる。やくざたちは逃げはじめていた。先頭を切る流氓に黒星を向けて撃った。見えない壁にぶち当たったかのように流氓が吹き飛んだ。滝沢が秋生を追い抜いていった。
「真っ直ぐ走るんだ。この先にやくざどもの車がある」
滝沢が叫んだ。銃声に家麗の足が鈍っていた。
「走るんだ。足をとめるな」
秋生は家麗の腰を抱えて走った。飛び石が敷き詰められた道。家麗の足元はヒール。分が悪い。
「滝沢、小姐を頼む」
家麗を走らせて、振り返った。飛び交う銃声。だが、弾丸は当たらない。この状況で当たるはずがない。銃を突きだして走ってくる流氓。秋生は引き金を引いた――流氓がいきなりくずおれた。続けて二発。狙《ねら》うのは身体の度真ん中。どこかに当たれば、それで動けなくなる。
流氓たちの動きが鈍った。身体を反転させて走った。家麗が倒れていた。
「小姐!!」
体温が一瞬で奪われた。滝沢が家麗を抱え起こした。追いついた。秋生は滝沢から家麗の身体を奪いとった。
「小姐、小姐!」
血の気を失った顔、虚ろな目。それでも生きている。
滝沢が銃を後ろに向けて撃った――銃声が聞こえなかった。自分の声と心臓の鼓動以外、なにも聞こえなかった。悪夢が蘇《よみがえ》る。徐々に腐っていく真紀の死体。腐臭が漂い、蛆《うじ》が身体をくねらせる。
「小姐」
家麗の身体が冷えていくのがわかった。
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心臓が喉元《のどもと》をせりあがってくる。後ろから流氓たちが迫ってくる。銃声が何発も谺《こだま》して聞こえる。全ての神経が背中に集中する。
「滝沢、小姐を頼む!」
滝沢は秋生の声に振り返った。秋生は足をとめ、追ってくる流氓たちに銃を向けていた。
秋生が連中を止めてくれる。一瞬の安堵《あんど》。滝沢は家麗に手を伸ばした。家麗はそれを無視して滝沢を追い抜いていった。
殺せ――頭の中で声が爆発した。ホモと罵《ののし》られ、犯した。家麗は秋生に喋《しゃべ》る。その前に殺せ。
考える前に手が動いた。尾崎のリヴォルヴァー。滝沢は引き金をひいた。家麗がのけぞって吹き飛んだ。
全ての銃声が途絶えた。硝煙のたちのぼる銃口――秋生が振り返って凝視していた。
錯覚だった。秋生は背中を向けている。流氓たちは銃をぶっ放している。だれも滝沢を見てはいない。
震える足を無理矢理動かして家麗の上に屈みこんだ。まだ生きていた。
とどめをさせ――頭蓋骨《ずがいこつ》の中でだれかが喚く。銃を握る手に力をこめた。
「小姐!!」
秋生の叫び。今度は本物だった。心臓が見えない手に握り潰《つぶ》された。滝沢は吐き気をこらえながら家麗を抱え起こした。駆け寄ってきた秋生が滝沢を押しのけるようにして家麗の身体を受け取った。
「小姐、小姐!」
秋生の悲痛な声が迫ってきた。耳を塞《ふさ》ぎたくなった。後ろから銃声。リヴォルヴァーを後ろに向けて撃った。
「秋生、走るんだ、走れ!」
「小姐」
秋生は動かなかった。
「秋生。このままじゃ家麗は助からないぞ」
秋生が反応した。家麗を抱えて走りはじめた。
滝沢は引き金をひき続けた――弾丸が切れた。秋生の後を追って走った。すぐに追い抜いた。
目の前に靖国通りが見えていた。ハッチバックとワゴンが停まっている。見張り役のチンピラの怯《おび》えた表情が目に飛び込んでくる。
「な、なにがあった? お、叔父貴はどうした?」
チンピラの声は震えていた。滝沢は弾丸の切れた銃を突きつけた。
「どけ!」
ハッチバックはエンジンがかかったままだった。銃口をチンピラの鳩尾《みぞおち》にめり込ませた。
「秋生、急げ!」
銃声は途絶えない。通行人が潮が退くように逃げていく。後数分で靖国通りはパトカーで埋めつくされるだろう。
運転席にまわりこんで、乗った。後ろのドアが開いた。秋生が家麗を押しこみ、自分も乗りこんできだ。
「行くぞ」
返事はない。秋生は家麗の顔色を覗《のぞ》きこんでいる――泣きそうな顔で。
滝沢はアクセルを踏んだ。銃声が遠ざかった。靖国通りを東へ向かった。行くあてのないドライヴ。もともと、どこにも行くあてなどなかった。
「小姐、頑張るんだ。おれが助けてやる。必ず。小姐、聞こえるか?」
バックミラーの中で秋生が叫んでいた。家麗の顔――蒼醒《あおざ》めるのを通り越して土気色。助かりそうもない。安堵と自己嫌悪が交錯した。
「滝沢、小姐を病院へ連れ行かなきゃならない」
「馬鹿いうな。捕まるだけだぞ」
新宿のど真ん中での銃撃戦。まるで、二年前の再現だ。警察は躍起になって動くだろう。
「小姐を死なせるわけにはいかないんだ!」
秋生は北京語で怒鳴っていた。自分を失っている。目が血走っている。なにか手を考えなければ殺してやる――そういっている。
滝沢はグラヴコンパートメントを開けた。尾崎に取り上げられていた鈴木の手帳、手錠、シャブのパケ、それに携帯電話が入っていた。シャブのパケに手を伸ばした。
「このパケを開いて中の結晶を家麗の口に押しこめ。強心剤の代わりになるかもしれん。それからこの携帯で楊偉民か健一に電話しろ。あいつらなら、もぐりの医者を知ってるだろう」
家麗が生き延びる――考えたくもない未来。だが、よりよき未来などあるはずもない。たった一日で数え切れないほど銃を撃った。現役の刑事を殺した。それなのに、金もなく、逃げ場もない。
もどかしげな手つきで秋生がシャブを家麗の口の中に押し込んだ。
グラヴコンパートメントの奥に弾丸のケースがあった。38口径。震える手でリヴォルヴァーのシリンダーに装填した。
滝沢は秋生に携帯電話を渡した。
「楊偉民はいるか? 郭秋生だ……どこにいる? くそっ!」
苛立《いらだ》ちが伝わってくる――楊偉民が捕まらない。秋生は別の番号を押した。
「おれだ、秋生だ。あんたの助けがいる。小姐が撃たれた。死にかけてる。なんとかしてくれ」
パトカー二台。けたたましくサイレンを鳴らして新宿に向かっていた。
「医者が必要なんだ、頼む……天文? 周天文のことか? わかった。番号をいってくれ」
周天文。気取ったおカマ。なぜここでその名前が出てくるのか?
「助かるよ、健一。後で礼はきちんとさせてもらう」秋生は電話を切った。「周天文の知り合いに医者がいるそうだ」
「医者が……」
不法入国の中国人にも腐るほど医者はいる。大陸で医者になるより、日本での一攫千金《いっかくせんきん》を求めた連中だ。医者は使いようによっては金になる。健一には医者の知り合いが何人もいるはずだ。
「周先生? 郭秋生といいますが……楊偉民のところの者です。先生の助けがほしくて電話しました。連れが上海の連中に撃たれたんです。医者に見せなければ……お願いです、周先生。あなたはどう思ってるか知りませんが、おれは……おれたちはいってみれば兄弟でしょう。おれたちみんな楊偉民に育てられた。お願いです。力を貸してください。医者を紹介してくれるだけでいいんです。それ以上の迷惑は決してかけません」
必死の懇願――すぐに秋生の顔に朱がさした。
「ありがとうございます……はい……わかりました、すぐ向かいます」
秋生は電話を切った。目に強い光が戻っていた。
「四谷に向かってくれ。周天文が医者を手配してくれる」
家麗が助かるかもしれない。首筋にしこりができた。家麗。だれが自分を撃ったのか。気づいているだろうか。
秋生が告げた住所は文化放送の近くだった。コンクリートが剥《む》き出しの素っ気ないマンション。脇《わき》に駐車場があった。
「どういうことだ?」
秋生が怪訝《けげん》な顔でマンションを見上げた。
「どうした?」
「楊偉民がおれに与えてくれたマンションがこれだよ。すぐそばに住んでいたとはな……」
秋生が指差したのは、路地を挟んで斜め向かいのマンションだった。
「楊偉民のことだ。なにか企みがあったのかもな」
グラヴコンパートメントから鈴木の手帳と手錠を拾い上げて外に出た。新誠会のハッチバック。すぐに警察に手配されるだろう。近くに置きたくはなかったが、背に腹はかえられない。滝沢は秋生とふたりで家麗を抱えてマンションの中に入った。
「だれかに見られなかったか?」
チャイムを押した途端、ドアが開いた。周天文。刺すような視線が向けられた。
「なんでおまえが……」
「詮索《せんさく》はあとだ。医者は?」
「手配した。三十分以内に来ることになってる」
秋生とふたりで家麗を運びこんだ。リヴィングのソファベッド。真新しいシーツが敷かれていた。
「酷《ひど》いな……」
家麗の傷を見て、周天文が口を押さえた。生気のない家麗の顔。呼吸が早く、浅い。もし生き延びたら――考えたくもなかった。
「小姐、しっかりするんだ。もうすぐ医者が来る」
秋生は家麗の手を握った。祈るような眼差し。背中全体で絶望を拒否していた。
「これが郭秋生だ。知ってるだろう?」
「この前、うちの店に来ていたな。その時は知らなかった。……詳しいことは劉健一に聞いたよ。朱宏の女に手を出すなんて、楊偉民はなにを教えたんだ?」
「楊偉民に直接聞けよ」
周天文が首を振った。
「爺さんは行方不明だ。健一がさぞ喜んでるだろうよ」
吐きだすような言葉だった。なにかが引っ掛かった。
「どういうことだ?」
「今度の件だよ。全部健一が仕組んだに決まってる。爺さんからなにもかもを奪い取るためにな」
「全部仕組んだだと?」
「そうだ。あんたもそこの坊やも、崔虎も朱宏も、みんなあいつに嵌《は》められたんだ」
劉健一――家麗が朱宏の女になるのに手を貸した。家麗に謝圓を引きあわせた。謝圓を北京の連中に紹介した。そもそもの初めから、劉健一はこの件に首を突っ込んでいる。
「この坊やから電話があった後、あいつに電話したんだ。どういうことなのか知りたくてな。あいつ、笑ってたよ。腹の底から笑ってた。あの時以来、あいつの笑顔なんてみたことなかったのにな」
「あの時?」
周天文の顔が曇った。
「あんたには関係ない話だ」
「二年前だな? 撃ちあいがあって、上海のトップが交代した。何があったんだ?」
「ただの抗争だ」
「劉健一はなにをした?」
ため息――周天文は秋生と家麗に視線を移した。気取ったおカマ野郎。今では笑う気にもなれない。滝沢も同じ穴のむじなだ。
滝沢は待った。天文の強張った肩。そこから力が抜けるのを。
「劉健一がむかしつるんでたチンピラがいた。そのチンピラははした金で上海の流氓を殺して歌舞伎町から逃げた……ところが戻ってきたんだ。健一は上海から圧力をかけられた。そのチンピラをとっ捕まえろってな。健一は爺さんを頼ろうとしたんだが……爺さんは健一を切り捨てた。健一は自分が生き延びるために上海のボスを殺すことにしたんだ。その頃、上海の流氓を束ねてたのは元成貴という男だ。健一はうまくやったよ。おれや爺さんをうまく利用して元成貴を呼び出した。撃ちあいがあって、元成貴は死んだ。それだけのことだ」
「それと今回のごたごたと、どう関係があるんだ?」
「二年前――すべてが終わった後、死体がひとつ、必要だということになったんだ。健一が自分の女を殺して死体を作った。健一がそうしなきゃならないように仕向けたのは爺さんだ。爺さんはあの件でしこたま儲《もう》けた。ひとりだけいい思いをしたんだ」
「それで?」
「健一は爺さんを虚仮《こけ》にするためならなんでもする。じっと待ってたんだ。金をため込んで、そこら中の人間を手なずけて、チャンスが来るのをずっと待ってたんだ」
「それが今回のこのでたらめだっていうのか?」
叫んだ。その声にチャイムの音が重なった。周天文が壁に吊《つ》るされたインタフォンを取った。北京語のやり取り――医者が来た。
「医者か?」
秋生が立ち上がった。家麗が生き延びる――足がふるえるほどの恐怖。そして、混乱。劉健一。なぜだ?
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周天文と滝沢の話が耳に入ってきた。だが意識は家麗に集中していた。苦しげな呼吸、血の気を失った顔色。
「死ぬな」
何度も呟《つぶや》いた。祈るように。
滝沢の罵声――チャイムが鳴った。心臓が跳ね上がった。周天文がインタフォンを取った。
「遅かったじゃないか」
医者が来た。立ち上がり、玄関へ向かった。
うらぶれた中年男が手にボストンバッグを携えて立っていた。医者には見えなかった。
「患者は?」
「奥だ」
周天文が医者を案内した。秋生はなにもできず、ただその後をついて歩いた。
「怪我の具合は?」
「右肩の下を撃たれた。弾丸は多分九ミリだ」
秋生は答えた。医者がちらりと視線を送ってきた。
ソファベッドに屈みこんで、医者は家麗を見下ろした。
「重傷だな」
そういって、床にバッグを置いた。バッグの中に入っているのは手術道具。どれもこれも使いこまれているのがよくわかった。
「患者を仰向けにして、このメスで服を切り裂け」
口を動かしている間も、医者はじっと家麗を見ていた。黙ってメスを受け取った。
「滝沢、手伝ってくれ」
呆然《ぼうぜん》と突っ立っていた滝沢が弾かれたように近寄ってきた。
「それから、周先生、バケツや洗面器をよく洗って、熱いお湯をたっぷり汲《く》んできてくれないか」
周天文がバスルームに消えた。秋生は滝沢とふたりで家麗を俯《うつぶ》せにした。メスで服を切り裂く――血まみれの肌。弾けて肉が飛び出た背中。
医者はキッチンで念入りに手を洗っていた。
「後はどうすればいい?」
答えはなかった。医者はしみの目立つ白衣を着て、家麗の傷を調べはじめた。
「弾丸は貫通していない。生きるも死ぬも天命しだいだ」
周天文が洗面器に湯を汲んできた。
「そこに置いてくれ。それに、お湯はもっと必要だ」
消毒液の臭いが漂った。消毒液を滴らした洗面器の中に、医者はメスやら鉗子《かんし》やらを落としこんだ。そして――注射器。
「ひとつ断っておく。おれは大陸の医者の免許は持ってる。だが、それは外科の免許だ。おれは麻酔医じゃない。だから、麻酔の量はいつも勘で打ってる。勘が外れれば、患者は一生目を覚まさんかも知れん。が、そうなったからといっておれを責めるな。じゃないと手術はできん。それを納得してくれ」
「わかった。だが、先生。小姐には――患者には覚醒《かくせい》剤を飲ませてある」
「飲む?」
「鎮痛剤の代わりになるかと思ったんだ。注射もなかったんでね、とりあえず飲ませた」
蒼醒めた滝沢の顔。北京語の発音がどこかおかしかった。なにかに怯《おび》えているようだった。
「馬鹿どもが、勝手な真似をしやがって」
注射器の中の液体――麻酔の量が調節された。針が家麗の身体につき刺さった。家麗の呼吸の間隔が少しずつ長くなる。
「助かるか?」
思わず聞いていた。返ってきたのは冷たい視線だった。
「おれは手術をするだけだ」
消毒液に浸った手術器具。医者は奇麗な布で丁寧に水気を拭《ぬぐ》った。
一時間半。医者が家麗の体内からひしゃげた鉛の塊を取り出した。
「肺をやられていたら危なかったが、よかったな。多分、この小姐は助かる」
家麗に包帯を巻きながら、医者がいった。
「どれぐらいで目覚める?」
滝沢が家麗を凝視しながら聞いた。
「一時間から二時間というところだな。麻酔が切れたら痛みを訴えるはずだ」
注射器とアンプルを渡された。
「これは?」
「モルヒネだ。打つのは一日二、三回だけにしろ。あんまり打つと中毒になる」
「どうやって手に入れるんだ?」
滝沢の声。
「周先生や楊先生が用意してくれる。どんな世界にも、医者は必要だ」
無表情なまま医者は帰り支度をはじめた。
「先生、ありがとう。いくら感謝してもしたりない。このお礼は必ずする。名前を教えてくれ。おれは郭秋生だ」
「おれが欲しいのは金だけだ。あんたらと友達づきあいをする気はない」
「しかし――」
「秋生」周天文に遮られた。「あまり詮索《せんさく》するな。それがおまえたちの世界のルールだろう」
うなずくしかなかった。
「周先生、金はいつものようにお願いする。今回は――」探るような視線が飛んできた。「五百万ってところだな」
「わかった。おれが責任を持つよ」
うなずいただけ。医者はそのまま部屋を出ていった。
「天文さん、おれには五百万もの金はない」
「気にするな。貸してやる」
「しかし――」
「最初に電話があったとき、逃げようかと思ったよ。爺さんがおまえみたいなのを飼っているとは知らなかったからな。きっと、爺さんや健一と同じ種類の人間だと思ったからな。だが……おまえは爺さんにも健一にも似ていない。だったら、少しぐらいの手なら貸してやる」
「秋生が気に入ったのか、周先生よ?」
悪意のこもった声。滝沢が周天文を睨《にら》みつけていた。
「おまえは本当に下衆《げす》野郎だな」
「もう一度いってみろよ」
「滝沢、やめろ。天文さんはおれたちを助けてくれたんだぞ」
滝沢の挑むような視線――それがいきなり弱気な視線に変わった。
「そうだな。おれがどうかしている。悪かったな、天文。許してくれ」
周天文は憮然《ぶぜん》とした顔のまま。それでも、なにもいわずに滝沢の謝罪を受け入れた。
「さっきの話の続きをさせてくれないか? 劉健一の話だ。あいつは楊偉民を引っ掛けるためにこのごたごたを起こした。それはわかったが、やり方がわからない」
「いいか、おれは事実を知ってるわけじゃない。多分そういうことだろうと思ってるだけだ」
「それでかまわない。聞かせてくれ」
「あいつはまず、崔虎をはめようとしたんだと思う。人戦の電脳に強い男を張道明に紹介したのもそのせいだ」
「ちょっと待て。どうして崔虎なんだ? あいつは崔虎とは仲がいいはずだ」
「健一が自分の女を殺したとき、側にいたのが崔虎だった。崔虎は手下に女の死体の顔を潰《つぶ》させ、指を切り落とさせてから海に沈めた。健一はその間、ずっと見ていたそうだ。自分の女の死体がめちゃくちゃにされるのをな。健一は爺さんの次に崔虎を憎んでるんだ」
――おれは自分の女を殺した。楊偉民がそうさせたんだ。
劉健一の声が頭の中で谺《こだま》した。なにかに取り憑《つ》かれたかのようなぎらついた目で健一は語った。叩《たた》き潰された顔、切り落とされた指――健一の考えていたことが想像できた。徐々に腐り、蛆《うじ》虫にたかられていった真紀の死体。心のどこかにぽっかりと穴が開く。そこから、わけのわからない感情がなだれ込んでくる。
「とにかく、変造プリペイドカードのせいで、北京の連中に金が流れはじめた。不良連中がみんな崔虎におべっかを使うようになった。崔虎は得意の絶頂だよ。金にあかして不動産を買ったり、堅気の仕事に手を伸ばした。バブルだな。健一は泡を膨らむだけ膨らませておいて針でつついたんだ」
「この女に謝圓を殺させた。つまり、プリペイドカードの変造ができなくなるようにしたんだな?」
滝沢は昏《くら》い目で家麗を見下ろしていた。
「この女が謝圓を殺したのか?」
「自分でそういってた」
「なるほどな……健一の使いそうな手だ」
「それで? 謝圓を殺させて、それからどうしたんだ?」
「張道明がまず、慌てたんだ。謝圓がいなくなっても、変造のノウハウは聞きだしていたから、それほど困りはしなかったはずだ。だが、警察が腰をあげただろう? 来年からまたシステムが変わって、今の変造カードは便えなくなる。だからといって、もうカードじゃ儲《もう》けられませんといったところで、崔虎が耳を貸してくれるはずもない。崔虎ってのはそういうやつだ」
「もしかすると、張道明は逃げようとしていたのか?」
「張道明は健一に泣きついたんだと思う。謝圓を紹介したのは健一だからな。あるいは、健一が唆《そそのか》したか……どっちでもいい。張道明が裏切れば、崔虎の組織は崖《がけ》っぷちにたたされる。それだけは確かだったんだ」
「そうか。だから、崔虎の野郎は目の色を変えてたのか」
「ところが、健一の計画もうまくいかなかった。爺さんが動いたんだ。爺さんは恐らく、健一が裏で動いてるとは知らなかったと思う。健一も爺さんの情報網の裏をかいて動いたはずだ。北京と上海のバランスが崩れるのを爺さんは一番嫌っていた。爺さんは陶立中から張道明の居所を聞きだして、殺し屋を差し向けた」
なんの変哲もないマンション。飛び散った血と肉。薄っぺらなプラスティックのカード。いつものと何一つ違わない仕事のはずだった。
「秋生がその殺し屋だ」
周天文の視線。冷たくも温かくもなかった。
「ちょっと待ってくれ」滝沢が口を挟んだ。「それじゃ弱すぎないか」
「弱い? なにが?」
「北京の連中と上海の連中のバランスを保つ。そのために楊偉民は張道明を殺させた――最初はおれもそう思った。だが、それなら別に殺す必要はないんじゃないのか? 謝圓が消えたことを楊偉民は知っていた。つまり、崔虎の金づるがいなくなったんだ、そのまま放っておけばバランスはまた元に戻る」
「そのとおりかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。いっただろう。おれは想像で話してるだけだ。本当のところがどうだったのかは、きっと爺さんしか知らないんだ」
周天文は吐き出すようにいった。額に汗が浮かんでいた。
「わかった。続けてくれ」
「張道明が殺されたと聞いた瞬間、健一にはそれが爺さんの差し金だということがわかったはずだ。そして、おれは知らなかったが、爺さんが秋生を養っていることを知ってたんだ。健一は計画を修正した。崔虎だけじゃなく、一気に爺さんを葬ろうとしたんだと思う」
「それは違う」滝沢と周天文の視線が集まった。「朱宏がいっていた。もっと前から、健一は朱宏に崔虎と楊偉民をぶつけようと話を持ちかけていたんだ」
得意げだった朱宏を思い出す。でたらめをいっていたとは思えなかった。
「爺さんがおまえを呼ぶことも計算済みだったんだな」
「陶立中という男が老爺に情報を漏らすように仕向けたのも健一だと朱宏はいっていた。おれが道明を殺した後、健一たちはタイミングを見計らって、老爺が裏で糸を引いていたことを崔虎に告げるつもりだった」
「なるほどな。崔虎のあの性格だ。なりふりかまわず楊のじじいに喧嘩《けんか》を吹っ掛けただろうな。だが、やつらはそうしなかった。なぜだ? それどころか、朱宏はおまえを自分の女のボディガードに雇った。話が噛《か》み合わない」
「崔虎がおまえを使ったからだと朱宏はいっていた」
「おれが? どういうことだ?」
「いくらなんでも崔虎に直接爺さんがやったんだ、とはいえなかったということだろう」周天文が腕を組んで天井を見上げた。「証拠はないんだ。崔虎が身内に調査を任せていれば、そいつをうまく誘導してやることができたかもしれんが、あんたじゃ無理だ」
「おれをボディガードに雇ったのは、喧嘩になればいくら老爺でも勝ち目がないからだといっていた。力だけでいえば、崔虎の方が上だからと」
「それは、朱宏が健一にいいくるめられただけだろう……」
周天文がいい淀《よど》んだ。
「どういうことだ?」
「確かなことはわからん。だが、結果から見れば、健一はおまえがこの女に首っ丈になると睨《にら》んだんだよ。おまえがこの女を寝取る。怒った朱宏が楊偉民を襲う。健一が書いたのはそういうシナリオだ」
カリビアン――薄暗い照明の中の会話。劉健一になにを語った? 劉健一はなにを語った?
「思い当たることがあるって顔だな」
滝沢が見つめている。暗く湿った目がなにかを語ろうとしている。
「おれは――不安だった。いつもと違った。いつもは、仕事が終われば、現場を離れる。それが鉄則だ。だが、老爺はおれに残れといった。恐かった。どうすればいいのかわからなかった。それで、おれは劉健一に会いにいった」
「どうして健一に?」
「あんたでもよかったんだ。劉健一と周天文。いつもその名前が頭の中にあった。おれと同じ、老爺に育てられた兄弟。だが、おれはあんたたちに会ったことがなかった。老爺が会わせてくれなかった」
「それが爺さんのやり方だ」
哀《あわ》れむような声。わかっていた。今でははっきりとわかっていた。楊偉民。人を利用するだけ。
「おれは話した。健一に、おれのことを」
「世間知らずの子供が、腹黒い悪党に利用されに行ったようなものだな」
沈黙がおりた。周天文と滝沢――なにかを考え込んでいる。家麗の掌――脈が確実に伝わってくる。
健一への憎しみ――目が眩《くら》みそうだった。あの時、健一も真実を語った。溢《あふ》れかえる憎悪を外にさらした。すべては芝居だった。
「まだわからないことがある」滝沢が呟《つぶや》いた。「どうして楊偉民はなにもしなかった? あの食えない爺が、健一のやることを黙って見てたというのか?」
「そんなはずはない。爺さんも色々と動いていた。それは耳に入っている」
「じゃあ、なんだって――」
「あんたたちを崔虎に売ったのは爺さんだ」
「どういうことだ?」
「下落合の人戦のマンションで、北京の連中と撃ちあいになったな? ニュースで事件を知る二、三時間前に、爺さんからおれに電話があった。人戦の跳ねっ返り連中に朱宏の女がさらわれた。どこに連れ込んでるか、心当たりはないかってな」
「教えたのか?」
「ああ。連中には頭を痛めてたんだ。ほとんどの人間が真面目《まじめ》に民主化運動に取り組んでるのに、やつらのような人間のせいで、中国人といえば悪いやつらと睨まれる。上海の連中がお灸《きゅう》をすえてくれるなら、それでいいと思った。ところが、ニュースや噂《うわさ》に耳を傾けると、撃ちあいが起きて、死んだのは人戦の三人と北京の連中だという。爺さんがなにか企《たくら》んだんだ。間違いない」
「しかし、なんのためにだ?」
「北京の連中はあんたのことを話していた。日本人がいるかどうか、確かめろ。そういっていたよ」
「おれを崔虎に売って、なにが買えるんだ?」
「考えられる理由はひとつだ」
周天文がいった。そう、理由はひとつ。秋生は周天文の言葉を引き取った。
「あんたと小姐を殺したかったんだ。もしかすると、おれもだな」
家麗はろくでもない女だ――直接いいはしなかったが、楊偉民の目はいつもそう語っていた。秋生が骨抜きにされる前に家麗を殺す機会をうかがっていたのだ。手遅れだと知って、二人まとめて殺すことにした。楊偉民――劉健一。真紀の死体が埋められた山の中。楊偉民が埋め、健一が掘り起こした。
「おまえと家麗はわかる。だが、おれはなんだ? おれは日本人だぞ。今度のことにはたまたま関っただけだ。そんなおれを殺してどうなるというんだ?」
金貸しの杜光啓と劉健一の会話――日本人に圧力をかけろ。なぜ、劉健一は滝沢を必要とした?
「劉健一だ。あいつは杜啓光におまえに圧力をかけるように指示した。杜にも直接聞いたから確かだ。あいつはおまえがトチ狂うように、取り立てを厳しくして、おまえだけじゃなく、おまえの女にも圧力をかけた。おまえが変態だとかそういう噂をばら撒《ま》いた」
滝沢の顔色が変わった。どす黒く、赤く。血走った目が強い光を湛《たた》えた。
「なんのためだ?」低い声。「なんだって……」
語尾が消えた。舌がもつれてうまく喋《しゃべ》れないという感じだった。
「かき回すためだろうな」周天文が滝沢の疑問に答えた。「歌舞伎町の中国人のことだったら、爺さんはなんだって知っている。だれがどう動くか、なにをするか。大抵のことは読めるんだ。健一のことだって例外じゃない。情報がなくても、爺さんは健一がなにを企んでるか、すぐ察したに違いない。健一がどう動くかもわかっていたんだ。だから、健一はあんたを使った。さっき自分でいったように、あんたは部外者だ。日本人だ。しかも、途中から狂ったようになった。さすがの爺さんも、あんたがなにをするのか読めずに対応が遅れた。それで、最後には殺すことにした。そんなところだろう」
滝沢の顔――狂気と憎悪に彩られて泣き顔のように歪《ゆが》んでいた。
「それだけのために……?」
「他に理由があるなら別だが」
「宗英もそれだけの理由でくたばったってのか!?」
「あんたは陶立中と魏在欣を間違えた。魏在欣が死んで、崔虎の組織はがたがただ。それにあんたは日本のやくざも巻きこんだ。上海と北京、人戦の跳ねっ返り、それに日本のやくざが入り乱れたんだ。爺さんじゃなくても、情況を読むのに忙しすぎて、先は見えない。健一の望んだとおりにあんたは動いたんだ」
「だから、おれの目をシャブに向けさせたのか? だから宗英を殺させたのか?」
地の底からわきおこる呪詛《じゅそ》――語った本人以外に意味を持たない言葉の羅列。滝沢の血走った目だけがらんらんと輝いている。
「健一の野郎、ぶち殺してやる」
右手に握られたリヴォルヴァーが小刻みに震えていた。哀れな男。初めて共感を抱いた。
「小姐が動けるようになるまで、時間がかかる。その間に、楊偉民と劉健一を殺そう」
滑らかな言葉――憎しみは深く沈殿していく。家麗を傷つけたやつら。必ず、殺してやる。
「おまえにひとつ、教えてやる」滝沢が暗い声でいった。「この女はな、おまえをたぶらかすように健一に命じられていたんだ」
滝沢を見た。滝沢の顔は能面のように無表情だった。
「それで?」
驚きはなかった。怒りも哀《かな》しみも感じなかった。
「なにも感じないのか?」
「そんな気がしてたよ。ずっとわかってたんだ。それでも、おれは小姐を守ってきた。そういうことだ」
滝沢の顔が歪んだ。今にも泣き崩れそうだった。
「おい」
周天文が驚愕《きょうがく》を浮かべてソファベッドを見下ろしていた。握っていた家麗の手――力が感じられた。
「……ろして……」
かすれた北京語。慌ててソファベッドに視線を向けた――薄っすらと開いた家麗の目。秋生の肩越しになにかを見つめていた。
「殺して……あいつ、わたしを犯したわ」
苦痛に歪む顔。それでも、家麗は腕を伸ばした。宙を指す指の先――滝沢の蒼醒《あおざ》めた顔があった。
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思い当たることが多すぎた。突然の杜からの催促の電話。変態だという噂。そして――遠沢に連絡を取れといったときの健一の態度。
「だから、おれの目をシャブに向けさせたのか? だから宗英を殺させたのか?」
宗英――新誠会に殺された。健一が裏で糸を引いたに違いなかった。すぐ目の前の秋生の顔がぼやけていく。視界の周囲が赤く染まっていく。
「健一の野郎、ぶち殺してやる」
身体全体が小刻みに震えた。とめることができなかった――とめる気もなかった。住む場所を失い、仕事を失い、女を失った。手に入れようとした金さえどこかへ消えた。なによりも欲しいと願うもの――秋生。何億光年もの彼方。背負いこんだものは、警察とやくざ、それに中国流氓から追われる身体。
劉健一――滝沢がトチ狂うように仕組んだ。秋生が家麗にトチ狂うように仕組んだ。殺してやる。
「小姐が動けるようになるまで、時間がかかる。その間に、楊偉民と劉健一を殺そう」
秋生がいった。すんだ眼差しで家麗を見つめていた。嫉妬《しっと》と怒りに身体が震えた。
「おまえにひとつ、教えてやる」残酷な欲望が背筋を走りぬけた。「この女はな、おまえをたぶらかすように健一に命じられていたんだ」
おれだけじゃない、秋生、おまえも同じだ。おまえも健一に利用されただけだ――最後の言葉は飲みこんだ。
「それで?」
秋生は感情のない目で見返してきた。
「なにも感じないのか?」
「そんな気がしてたよ。ずっとわかってたんだ。それでも、おれは小姐を守ってきた。そういうことだ」
望んでも決して手に入れられないもの。目の前にあって、どれだけ手を伸ばしても触れることは叶《かな》わない。怒りが消えた。深い悲しみが滝沢の全身を覆った。
「おい」
周天文が目を剥《む》いていた。なにかが擦れる音。秋生の背後で家麗が薄っすらと目を開けた。その目ははっきりと滝沢を見つめていた。心臓が凍りついた。恐怖が蘇《よみがえ》った。
家麗の口が開いた。
「……ろして……」
くぐもった声。秋生が家麗に視線を向けた。
「殺して……あいつ、わたしを犯したわ」
ゆっくり持ち上がる家麗の腕――伸ばされた指。秋生が振り向いた。視線があった。
恐怖と混乱。周天文を後ろから抱きよせた。天文の肩越しにリヴォルヴァーを秋生に向けた。
「動くな!」
「なんのつもりだ!?」
周天文が叫んだ。肘《ひじ》の関節を逆にとって固めた。周天文は動けない。動けば肩の関節が外れる。
「滝沢……」
秋生が立ち上がった。
「動くな、秋生。頼む」
「なぜだ? おれはおまえを信用した。それなのに、なぜ裏切った? なぜ小姐を傷つけた?」
秋生の右手。だらんと垂れ下がっている。鈴木のコートのポケットが膨らんでいる――銃が入っている。
「おれは――」
言葉が出なかった。視線が秋生のポケットに釘《くぎ》づけになったままだった。
秋生の顔が強張った。なにかを思い出したというように。
「おまえが撃ったのか? 口を塞《ふさ》ぐために、おまえが小姐を撃ったのか!?」
「おまえは騙《だま》されてるんだ!!」腹の底から叫んだ。「その女は、おまえを殺して金を山分けにしようといった。おまえのことなんか、なんとも思っちゃいない」
「それがどうした」
秋生の顔――表情が消えていた。
「いっただろう、そいつは健一に命じられておまえを誑《たぶら》かしたんだ。自分の口でそういった。おまえが命を張ってやるようなタマじゃないんだ」
秋生の顔――表情が戻った。ゆっくり家麗に振り返った。家麗は目を閉じていた。
「健一の野郎だ。ぜんぶ、あいつが仕組んだ。おれを追い詰めたのと同じように、おまえも追い詰めようとしたんだ」
家麗の唇が動く。
「……日本人……みんな、嘘《うそ》つきよ……信じて、秋生……あいつ、わたしを犯したの。わたしを殴ったの……」
「嘘じゃない。よく考えろ、秋生。その女の頭の中にあるのは、保身と金だけだ。他人を愛せるような女じゃないんだ」
撃ちたくない――祈るような想い。引き金にかかった指が強張っていた――撃て。頭の中でだれかが執拗《しつよう》に囁《ささや》いている。
秋生の顔がゆっくり動いた。正面に向いた目には憐《あわ》れみが湛《たた》えられていた。
「おれもいっただろう、滝沢。小姐がなにをしようが、なにを考えていようが、そんなことはどうでもいい。おれは――おれの意志で小姐を選んだんだ」
絶望が胸に広がった。
「秋生――動くな。頼む。おれに撃たせないでくれ」
「撃てよ。動きはじめたら、おれの方が速いぞ」
「秋生――」
「どうして小姐を傷つけた。小姐は腹黒いかもしれないが、女だ。なにもできなかったはずだ」
「おれは――」
風呂《ふろ》場で触らされた父親の勃起《ぼっき》したペニス。カリビアンの入口で初めて見た秋生の顔。桃源酒家の個室で初めて聞いた秋生の声。家麗におカマと罵《ののし》られたときの目が眩《くら》む怒り。すべてを忘れてしまいたかった――できるはずもなかった。
「おれはおまえに惚《ほ》れている。それを家麗に見抜かれた。おカマと罵られた」周天文の身体が凍りついた。「頭に来て、わけがわからなくなった」
報われることのない告白――弱々しい声。死にも等しい辱め。それでも、いわずにいられなかった。
――秋生、おれを救ってくれ。声にならない祈りだけが、虚ろな身体の中を駆け抜けた。
「そんなくだらないことで、小姐を犯したというのか!」
「秋生、動くな!」
「痴話|喧嘩《げんか》なら他でやれ。おれはおまえたちに手を貸したんだぞ」
天文が抗《あらが》う。滝沢は脇腹《わきばら》に銃口を押しつけた。
「黙れ」
「まったく、貴様もホモか? あの時、おれになんといった?」
「黙れ、天文! おまえから先にぶち殺すぞ!!」
「ふざけるな! おれは――」
秋生が動いた――気づいたときには、秋生の右手に銃が握られていた。黒光りする銃口が真っ直ぐこっちに向けられている。天文がもがくのをやめた。
「おまえがおれを見る目にはとっくに気づいていた。おまえがホモだからなんだっていうんだ!?」
知っていた、知っていた、知っていた!!
「いったはずだぞ。小姐になにかあったら、今度こそおまえを殺すと」
知っていて顔に出さなかった。心の底で嘲笑《あざわら》っていた。
黒く濁った泥濘《でいねい》が頭の中に溢《あふ》れかえった。身体を二つに引き裂かれるような痛み――恥辱、怒り、悲しみ。
秋生が動いた。
「秋生ぉっ!!」
引き金を引いた。反動。銃声。一瞬遅れて胸に衝撃――真後ろに吹き飛んだ。意識が途切れ――戻った。胸に鈍痛。身体は動いた。滝沢は身体を起こし、銃を前に突き出した。耳がおかしかった。硝煙に室内がくすんでいた。
目の前に天文が転がっていた。白いYシャツが真っ赤に染まっていた。血の気を失った唇が痙攣《けいれん》していた。
「秋生!」
硝煙の向こう、秋生が倒れていた。駆け寄った。
「秋生!」
秋生の鳩尾《みぞおち》の下が血で濡《ぬ》れていた。ぬめった内臓がはみでていた。
「秋生……どうして外した?」
白い顔、生気を失った瞳《ひとみ》。吐き気を覚えた。肩を抱え起こし、揺すった。左胸に固い感触があった――銃。恐怖はなかった。哀しみに似て哀しみではないなにか――心臓を圧迫していた。
「……滝沢……」
「なにも喋《しゃべ》るな。おれが悪かった。おれを許してくれ」
「小姐の……そばに……」
「わかった。だから、もう、喋るな」
秋生を抱いた――心の片隅で夢見ていた行為。喜びはなかった。家麗の横に、秋生の身体をよこたえた。
「ほら……ね……あんた、秋生を……殺せたじゃない……」
家麗――蒼醒《あおざ》めた顔の魔女が笑った。
「……滝沢……腕が……動かない」
秋生のかすれた声。それだけでなにを望んでいるのかがわかった。右手に握られた銃――家麗の頭に銃口を向けてやった。
「指は大丈夫か?」
秋生がうなずいた。家麗が身体を反転させた。苦しげな喘《あえ》ぎ声。激痛に身体を苛《さいな》まれながら、家麗は逃げようとしていた。
「撃てよ、秋生」
銃声――秋生の右手から銃が吹き飛んだ。家麗の後頭部――西瓜《すいか》のように弾けて消えた。
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腕に力が入らなかった。痛みと寒さ――それだけのせいではなかった。
「秋生!」
滝沢の声が遠くに聞こえた。赤く染まった視界――家麗を探した。すぐそばに横たわる家麗。腕を伸ばした。届かなかった。わかっていた。この腕が家麗に届いたことは一度もない。
鍵《かぎ》がかかった真紀の部屋。閉ざされた家麗の心。拒絶されればされるほど、狂おしい感情が渦を巻く。
「秋生……どうして外した?」
外したわけではなかった。滝沢に盾にされた周天文。その顔に、楊偉民と劉健一の顔が重なった。憎むべき男たち。考える前に、指が引き金を引いていた。
赤く染まった視界――滝沢の顔が迫ってくる。肩を抱かれた。
「……滝沢……」
喉《のど》の奥から声を絞りだした。
「なにも喋るな。おれが悪かった。おれを許してくれ」
滝沢が求める許し――決して与えられることはない。
腕が動かなかった。力が抜けていく。痛みと悪寒が広がっていく。
「小姐の……そばに……」
家麗――逃がしはしない。ひとりだけ、行かせはしない。
「わかった。だから、もう、喋るな」
身体を持ち上げられた。滝沢の荒れた息。振動が傷を抉《えぐ》る。
「ほら……ね……あんた、秋生を……殺せたじゃない……」
赤く染まった視界――家麗の横顔。家麗は笑っていた。
「……滝沢……腕が……動かない」
黒星を握った右手に滝沢の指が触れた――氷のようだった。
「指は大丈夫か?」
うなずいた。家麗が身体を反転させるのが見えた。激痛に苛まれる身体、それを無視してまで生き延びようとする意志――家麗。絶望に負け、死を望んだ意志――真紀。家麗と真紀はまったく別の生き物だった。
「撃てよ、秋生」
滝沢の声。低く落ち着いていた。指に力を込めた。腕に衝撃。銃声は聞こえなかった。家麗の頭部が消えた。
耐えがたい痛みと寒さ。それとは別に、身体の隅々にまで行き渡った透明な感情――憎悪。一瞬の激情ではなく、身体の一部と化してしまった憎悪。弄《もてあそ》ばれた人生。弄ばれた感情。犬を飼いたかった。だが、飼うことは許されなかった。
腕を動かさなくては。身体を起こさなくては。
「秋生、もういい。家麗は死んだ」
滝沢の声。滝沢を探した。見つけられなかった。赤かった視界――ぼんやりと薄暗くなっていた。その視界の中、嘲笑《ちょうしょう》を浮かべる楊偉民と劉健一の顔が見えた。いつか飼うはずだった犬の顔が見えた。
「楊偉民と……劉健一……を……」
「わかった。おれに任せろ」
滝沢の声。何かが唇に触れた。滝沢の唇。押し返そうとして――暗闇《くらやみ》。すべてが消えた。
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秋生の唇。氷のように冷たかった。押し返そうとする力が途中で消えた。
「秋生……」
無駄だということはわかっていた。秋生は死んだ――殺してしまった。
目の奥に痛み。指先に痺《しび》れ。悪寒が全身に広がり、胸に言葉が刻まれた。
――おれに任せろ。
楊偉民と健一。秋生の願い。いつまでもこうしているわけにはいかない。警察が来る。
周天文のズボンのポケットを探ってキィリングと財布を抜き出した。財布の中には二十万ほどの金とカード類。金とクレジットカードを自分のポケットに収めた。
クローゼットを開けた。染みひとつないレインコート。上着とズボンはサイズがあわなかった。奥に黒いビニールの包みを見つけた。銃――黒星と呼ばれる中国製トカレフと弾丸が入っていた。周天文。堅気のふりをしたホモ。結局は楊偉民の息子ということか。
バスルーム、濡《ぬ》れたタオルで身体を拭《ふ》いた。そのタオルであちこちを拭いた。指紋の消去――意味がない。もう指名手配されているはずだ。まだだとしても、いずれされる。
レインコートを羽織った。右のポケットに真新しい黒星。左のポケットに鈴木の警察手帳と手錠。
ドアを開ける前に、もう一度部屋に視線を向けた。血と肉で汚れた床――死体が三つ。
「おれに任せろよ、秋生」
死体は答えない。滝沢は部屋を出た。
住人たちは息をひそめていた。見咎《みとが》められることはなかった。マンションの脇《わき》の駐車場におりた。ベンツに囲まれたボルボ。キィリングのキィがあった。路地を抜けて外堀通りへ。道が混んでいる――検問。また路地へ入った。あちこちから聞こえるサイレンの音。かき消すためにラジオをつけた。ニュース――歌舞伎町の銃撃事件。アナウンサーは大袈裟《おおげさ》に喋るだけで詳しいことはなにも伝えなかった。
路地から路地。埼玉方面へは向かえない――鈴木の死体が待っている。横浜もだめだ。東京から出ていこうとする車は目をつけられる。上野で車を捨てた。地下鉄で浅草へ向かった。徒歩で山谷へ。ドヤ街。金を払いさえすれば、うるさいことはいわれない。四軒目で空き部屋を見つけた。腫《は》れた顔を睨《にら》まれただけだった。かび臭い匂《にお》いの毛布にくるまって、死んだように眠った。
目が醒《さ》めたときは昼を過ぎていた。麻痺《まひ》した感情――うまく考えがまとまらない。それでも腹は減る。ドヤ街で食事をとって、浅草へ出た。周天文のクレジットカード。滝沢は旅行代理店で新幹線の回数券、デパートで商品券を買った。それをディスカウント屋へ持っていった。昔、せこい詐欺師から聞いたやり方。数日に分けて――場所も変えて、天文の二十万を五十万に増やした。他の時間――眠るか、質屋で手に入れたラジオのニュースに耳を傾けて過ごした。
ラジオのニュース。
落合と花園神社で起こった銃撃戦で、新宿署は新誠会の幹部と、数人の中国人を勾留《こうりゅう》したが、依然として詳細は闇の中。新宿署と四谷箸が共同で歌舞伎町の不法残留外国人の摘発に乗りだした。埼玉で見つかった新宿署鈴木正光巡査部長の死体。事件と関りがあるのかを調査中。滝沢誠元巡査部長――殺人及び殺人教唆の容疑で全国指名手配。
四谷のマンションで発見された死体が三つ。死体のひとつはマンションの持ち主であり、新宿華人商店組合理事の周天文。残りふたつの死体――男と女。身元は不明。女の指紋が先日、新宿区落合で起きた銃撃戦の現場のマンションにあった指紋と一致。警察はここ数日の間に新宿近辺で立て続けに起こった事件との関連を捜査中。
要するに、劉健一と楊偉民はまだ生きているということだった。
ドヤ街にはいろんな人間が集まる。
元ミドル級のボクサー。滝沢は酒を飲ませ、金を握らせ、顔を殴らせた。鼻が曲がった。歯が欠けた。人相が変わった。
元理容師。酒臭く、腕が震えていた。長かった髪を坊主頭に。何度か鋏《はさみ》を突きたてられただけですんだ。
年老いたおカマ。金を払って部屋に呼んだ。萎《しな》びた肌、たるんだ肉。しゃぶらせても立たなかった。縛り上げて殴った――立った。自分の指でしごいて出した。罵《ののし》るおカマを足腰が立たなくなるまでぶちのめした。
そのうち、噂《うわさ》が立ちはじめた――あいつはおかしい。噂を耳にしたその日のうちに滝沢はドヤ街を出た。
変形した顔、短く刈った髪、サングラス、鈴木の手帳。新宿に戻ってもだれにも気づかれなかった。三丁目にあるビジネスホテルに宿を取り、夜の歌舞伎町に足を向けた。
歌舞伎町の匂い――秋生の匂い。家麗の匂い。健一の匂い。中国人たちの匂い。日本であって日本でない場所。そこですべてを失くした。
街のあちこちに警官の姿があった。やくざ、チンピラ、売人、それに中国人。みんな姿を消していた。くり返される職務質問。酔ったサラリーマン風の男が若い警官に絡んでいた。警官たちはうんざりした顔をしていた。
さくら通りを歩いた。薬屋が営業していた。薄汚れたガラス張りのドアの向こう、淀《よど》んだ沼を泳ぐ魚のような楊偉民がいた。東通りを歩いた。カリビアン。会員制と記された看板が皓々《こうこう》と輝いていた。秋生は死んだ。だが、奴《やつ》らは生きている。
歌舞伎町から大久保――路地から路地へ。だれにも気づかれない。職質もされなかった。ホテル街の外れのマンション。五階の一室で賭場《とば》が開かれている。麻雀とバカラ。胴元は堅気の中国人。仕切っているのは上海流氓。中国人はなにが起こってもギャンブルだけは忘れない。
分厚いカーテンに閉ざされて、窓は真暗だった。滝沢は電信柱の陰に立ってマンションのエントランスを見張った。ひとり、ふたり――見覚えのある中国人がマンションの中に消えていった。
「そんなところでなにをしているんだね?」
スウェットの上下を着た老人が滝沢を胡散《うさん》臭げに見ていた。町内会長といった趣きの老人だった。
「内偵中なんです」
鈴木の手帳を差し出した。老人がわかったというようにうなずいた。
「中国人だね? あいつらが来てからこのあたりも物騒になった。どんどんとっ捕まえて、国に送り返してやりなさい」
送り返してやる――あの世へ。
老人が立ち去った。生暖かい風が吹いた。なにも考えず、なにも感じず。電信柱に同化して見張った。
十時半。マンションのエントランスに人影。杜啓光とボディガード。下卑た顔に下卑た笑いが張りついている。滝沢は銃を抜いた。セイフティを外し、待った。
杜がくっちゃべっている――南京の言葉。ボディガードが神妙な顔をしてうなずいている。聞きなれない言葉と足音。近づいてくる――杜がこっちを見た。怪訝《けげん》な顔。銃を向けると凍りついた。
「動くな」
ボディガードがやっと気づいた――間抜け。近づき、銃身を鳩尾《みぞおち》にめり込ませた。崩れ落ちるところに膝蹴《ひざげ》り。飛び散る鮮血とうめき声。振り返って銃口を杜に押しつけた。
「久しぶりだな、杜」
「おまえ、だれだ?」
上擦った声。狂暴な喜びに身体が震えそうになった。
「おれだよ。忘れたのか?」サングラスを外した。「変態の日本人だ。覚えているだろうが?」
「滝沢……か?」
小さな目に戦《おのの》きが走る。
「話がある。おまえの店に行こう」
杜は逆らわなかった。
〈南京路〉。杜がドアを開けた。北京語の歌が流れてくる。しけた客の入り。お茶をひいた女たちの嬌声《きょうせい》――目つきの悪い女がカウンターのストゥールから立ち上がった。
「今日は早いじゃない。蔡はどうしたの?」
「大事なお客だ。奥で話がある。だれも近寄らせるな」
「あんた……」
女の視線が杜の肩越しに飛んできた。滝沢は銃を見せた。女が息をのんだ。
「小姐、あんたを困らせるつもりはないし、あんたの男を殺すつもりもない。話をするだけだ。だが、あんたがおれを苛《いら》つかせれば、どうなるかわからない」
女は答えなかった。助けを求めるように視線を杜に向けた。
「いうとおりにしろ」
面倒くさそうにいって、杜が歩きはじめた。薄暗い店内を淀《よど》みなく進んでいく。カラオケの機材の向こう、奥まったところにボックス席。他の客席からは死角になっていた。
「話ってのは?」
足を投げ出して、杜がソファに座った。その足に銃身を叩《たた》きつけた。
「死にたいのか、杜?」
足を押さえる杜の目に涙が浮かんでいた。
「こ、こんなことをして、ただで済むと思ってるのか?」
「とっくにただじゃ済まなくなってる」杜の向かいに腰をおろした。「劉健一はあの店にいるのか?」
「ここはおれの店だぞ。カウンターの向こうに命知らずの若いもんが何人もいるんだ」
「命知らずならおれも同じだ」
杜の髪の毛を掴《つか》んで引き寄せた。銃口――口の中に押しこむ。杜の黄色い歯が欠けた。目を大きく見開いて杜がもがいた。
「上海と北京の連中に追われてる。やくざに追われてる。警察にも追われてる。それなのに、なぜおれがここにいると思う?」
引き金にかけた指――震えていた。歯を食いしばらなければ引き金を引いてしまいそうだった。
「おまえら、中国人をぶち殺すためだ」
日本語でいった。それで意味は通じた。杜がもがくのをやめた。
「おれのいったこと、わかったか?」杜がうなずいた。
「おまえは殺さない。おれの聞いたことに答えろ」
銃口を抜いた。杜が口を押さえて呻《うめ》いた。静まり返った空気――カラオケがやんでいた。
「劉健一はどこにいる?」
「逃げた」
「逃げただと?」
「楊偉民が怒ってる。半端じゃない。集められるだけの台湾のチンピラを集めて劉健一を探してるんだ」
通りすがりに覗《のぞ》きこんだ薬屋の店内。淀《よど》んだ空気の中の楊偉民。
「なにを怒ってる? 劉健一にはめられたからか?」
「周天文が死んだからだ」
「周天文を殺したのは秋生だぞ」
「そうなるように仕向けたのは劉健一だ」
「どういうことだ?」
「あいつはあんたかあの殺し屋に周天文を殺させたかったんだ。そのために色んなことを仕組んだんだ」
いくつものひらめき――浮かんでは消えた。何一つ形を取らなかった。
「どういうことだ? わかるように説明しろ」
「おれにだってわからねえよ!」
杜の叫び。ざわめきが起こった。
「黙れ。叫ばなくても聞こえる。いったろう、おまえは殺さない。落ち着くんだ、杜」
「おれはただ、あんたへの取り立てを厳しくしろと劉健一に頼まれただけだ。あいつは楊偉民と同じやり方をするんだ。肝心なことはなにもいわない。おれはただ推測するだけだ」
「その推測を話してくれ」
テーブルの上に置かれたままの水割りのセット。アイスペールは空だが、ミネラルのボトルには水がたっぷりつまっていた。杜はボトルを掴《つか》んで傾けた。
「口の中が血まみれだ」
泣き事――耳を傾ける価値もない。
「話せ」
「最初は崔虎と楊偉民をはめたかっただけだと思う。パチンコのカードを使って……具体的にあいつがなにを考えていたかはわからねえ。確かなのは、あいつはこの二年、ずっと崔虎と楊偉民をはめることだけを考えてたってことだ」
「二年前の事件のせいで?」
「そうだ。あいつは楊偉民に自分の女を殺すように仕組まれた。崔虎の目掛前でてめえの女を殺した。それから狂っちまったんだ。知ってるか? あいつは今じゃ、しこたま金を貯めこんでる。その金を使って、いろんな連中を手なずけてる。あいつは慎重にやってるから目立たないが、あいつが声をかければ集まってくる流氓は三十人はくだらない。上海だろうが北京だろうが関係なしにだ。二年前までは、しがない故買屋だったんだ。上海や北京の連中に媚《こび》を売って生きてるだけのチンピラだった。そんなやつがどうやって今みたいになったと思う」
「なにをやったんだ?」
「ガキを売るんだ。ここらあたりには戸籍のないガキが腐るほどいる。金がなくてガキの扱いに困ってるやつらが腐るほどいる。健一はそいつらからガキを安く買い叩いて、高く売りつけるんだ」
戸籍のない子供――北京語で黒戸《ヘイフー》。不法入国者が生んだ子供には戸籍がない。守ってくれる法律もない。薄汚れたマンションの一室で日の当たらない場所の住人として育てられる。
「ガキは昔から需要がある。変態や、内臓がおかしくなった金持ちが買っていくんだ。だが、昔は健一もそんな商売には手を出さなかった。ルール違反なんだ。ガキに手を出すのはな」
「だが、健一はルールを破った」
「そうだ。みんな白い目であいつを見た。生き延びるために自分の女を殺した男だ。そいつが今度はガキを売り買いしてる。最低のクズ野郎だろうが? だがな、健一がガキを売って稼いだ金をばら撒《ま》きはじめたら、みんなそんなこと気にしなくなった。どうやって稼ごうが、金は金だ」
「それで?」
「金は金を産むんだ。あいつは金で手なずけた連中をうまく使ってさらに金を稼いだ。だいたいが盗みだ。車や家電製品――日本のものは大陸じゃ馬鹿みたいに高く売れる。稼いだ金でまた人を手なずけて、それで、健一は動きだしたのさ」
「楊偉民に復讐《ふくしゅう》するためか?」
「他になにがある? とにかくあいつは動きはじめた。状況が考えていたように進まないと、あんたを使ってかき回させた。なにがどうなろうとどうでもよかったんだ。楊偉民を地獄に叩き落とすためならなんだってやるつもりだったんだ」
周天文の話と同じだ。微妙にディテイルが違うだけ。
「それで?」
「その前に聞きたい。あんたたち、なんだって周天文のところに行った?」
「医者が必要だった。警察と繋《つな》がらない医者だ。秋生が健一に電話したら、周天文に頼れといわれた」
「やっぱりな……あんた、男が好きなんだって?」
目の前が真っ赤になった。
「どういうことだ?」
声が震えた。
「何日か前に健一が話してたよ。あんたはおカマで殺し屋に惚《ほ》れてるってな。周天文もおカマなんだそうだな。あんたと周天文が殺し屋の坊やを取り合ったら面白いと思わないか……そういってたんだよ」
「健一……」
こみあげてくる吐き気――歯を食いしばって耐えた。
「健一がなにを企んでたかは知らん。だが、あんたに周天文を殺させるつもりだったんだろうな。楊偉民は周天文を異常なぐらい可愛《かわい》がってた。楊偉民から周天文を奪うってのは、最高の復讐だ」
「殺したのは秋生だ」
「だったらもっと最高じゃないか。楊偉民は自分の子飼いの殺し屋に、自分の息子みたいな男を殺されたんだ」
目がまわった。どこまでも落ちていく感覚。知られていた。秋生に魅かれていることを知られていた。
「楊偉民に復讐したいなら、なぜ、直接楊偉民を狙《ねら》わせなかった?」
「恨みがある相手は、財産も家族も心もすべて奪ってから殺す。それが中国人の考え方だぜ。人を殺したいほどの恨みってのは、それぐらい深いんだ」
折れた鼻が疼《うず》いた。傷が塞《ふさ》がったばかりの目尻《めじり》――血が滲《にじ》んできたような気がした。
「健一はどこにいる?」
「知らん」
「考えろ。健一はどこにいる?」
銃を杜のこめかみに押しつけた。
「やめろ。本当に知らないんだ!」
「考えろ。答えられなかったら引き金を引くぞ。健一はどこにいる?」
「知らない」
「カリビアンの看板がついていた。あそこじゃないのか?」
「あんなところにいるわけがない。店は日本人のガキがやってるんだ」
「じゃぁ、健一はどこにいる!?」
引き金にかかった指――関節の周りが白くなっていた。
「やめろ、撃つな!!」
女の金切り声が聞こえた。滝沢は杜の胸倉を掴み、引きずるようにして立ち上がった。
「大哥《ダーゴー》!」
罵声《ばせい》がした。振り返る――中華包丁を持った男が三人。引き金を引いた。耳をつんざく銃声。右手前の男が吹き飛んだ。
「動くな! こいつをぶち殺すぞ」
銃を杜の顎《あご》に押しつけた。悲鳴と怒声。目つきの悪い女が必死で他の女たちをなだめていた。
「健一はどこだ?」
「知らねえ。本当だ。勘弁してくれ」
「どこだ? 考えろ」
銃を押しつける。強く、きつく。
「楊偉民に聞け。あいつも劉健一を探してるんだ。あの爺に聞きに行けよ」
秋生の声が頭の中で谺《こだま》した。
――楊偉民と……劉健一を……
わかっている。銃を前に向けた。泣き叫ぶ女たち。撃たれた仲間に屈みこむ男たち――撃った。二発。男たちが血を噴いて倒れた。
「なにをしやがる!?」
杜がもがいた。
「ほんとに舐《な》めた真似をしてくれたな」
日本語の呟《つぶや》き。どこか遠くから聞こえた。杜の血走った目が大きく開いた。
「やめろ――」
引き金を引いた。血と脳漿《のうしょう》が飛び散った。
杜の死体を探った。財布の中に三十万と少し。目つきの悪い女を銃で脅して店のレジを開けさせた。十万にちょっと足りない金。あわせて四十万。懐に入れて店を出た。
杜の血と脳漿で汚れた顔をおしぼりで拭《ぬぐ》った。それでも皮膚が強張っていた。サングラスにコート。ポケットの中にトカレフ。四月の歌舞伎町。脇《わき》の下に汗が滲《にじ》む。警官たちの視線が背中につき刺さる――錯覚だ。言い聞かせて歩きつづけた。
さくら通り――薬屋が近づいてくる。淀《よど》んだ空気、淀んだ匂《にお》い。一歩ごとに濃くなっていく。滝沢は朽《く》ちかけたドアを開けて中へ足を踏みいれた。新聞を読んでいた楊偉民が目をあげた。
「なにか御用ですか?」
奇麗な日本語で楊偉民がいった。腰の低い商売人の顔。滝沢は銃を出してみせた。楊偉民の目つきが変わった。
「健一はどこにいる?」
「……滝沢といったか? 随分顔つきが変わったな」
「聞いたことに答えろ。健一はどこだ?」
「探しているところだ」
「目星はついてるんだろう?」
「知ってどうする?」
「殺す」
「たくさんの人間があんたを探している」
「知ってる」
「それでも逃げんのか」
「秋生に頼まれた。あんたと健一を殺してくれ、とな」
「あれも憐《あわ》れな子供だった」
「だれが秋生をそうしたんだ!?」
「秋生は健一を頼ったんだ。それなのに、健一はあれを利用した。蛆《うじ》虫にも劣る男だ」
「あんたはどうなんだ? あんたも秋生を利用したんじゃないか」
「わしがあれを育てたのだ」
「ふざけるな」
叫んだ瞬間、楊偉民が微笑《ほほえ》んだ。楊偉民の眼鏡に映る景色――振り返った。店の外にまだ幼さを感じさせる中国人が数人、命令を待つ犬のようにじっと佇《たたず》んでいた。
「あいつらが動くより先に、おれがてめえを撃つぞ」
「健一の居所がわからなくなるが、それでもいいのかね?」
「あいつはどこにいるんだ?」
「わしと健一を殺してどうする? 警察に追われ、やくざに追われ、流氓に追われ……どこにも行く場所はないぞ。これは中国人の問題だ。日本人の出る幕ではない。変なことは考えんで、逃げる算段をする方が賢いやり方だとは思わんか?」
「おれは秋生と約束したんだ」
「その約束がそんなに大切かね?」
うなずいた。
「自慢じゃないが、おれは人とかわした約束なんて屁《へ》とも思ってこなかった。だが、秋生は特別だ」
「ひとつ質問に答えてくれんか? 答えてくれれば、わしの命は無理だが、健一はくれてやろう」
「なんだ?」
「あんたと秋生、どっちが天文を殺したんだ?」
楊偉民の濁った目の奥でなにかが蠢《うごめ》いていた。
「秋生だ。おれと秋生が撃ちあった。秋生の撃った弾丸が天文に命中した」
楊偉民の片手があがった。ドアが開き、男がひとり入ってきた。楊偉民と男は台湾語で話しはじめた。
「北京語で話せ。このガキも北京語はできるんだろうが」
「そう苛《いら》つかなくてもいい。いまさらあんたをはめても意味がないからな」
楊偉民の涼しい顔――男の険しい顔。
「それで、健一の居場所は?」
「まだ確認はしてません。でも老爺、中野の譚《タン》のところです。間違いありません」
「あのろくでなしは福建の連中を頼ったのか……」
「どうします、老爺?」
「この日本人を譚のところに案内しろ。健一を殺すところを見届けるんだ。それが終わったら、殺せ」楊偉民が笑った。「それでかまわんな、滝沢さん? もしあんたに運があれば、この徐鋭《シウルイ》をなんとかしてわしを殺しに戻ってくるといい」
「今、撃つ方が簡単かも知れないな」
「すると、あんたは健一を逃がすことになる」
睨《にら》みあった。楊偉民の濁った目はぴくりとも動かなかった。
「ひとつ、教えてくれ」
「なんだ?」
「なぜ秋生に張道明を殺させた?」
「それを知ってどうする」
「おれにはすべてがそこから始まったんだ。秋生が張道明を殺して、崔虎がおれに調べろと命じた。あんたは上海と北京のバランスを崩したくなかったんだとだれもがいったよ。だが、おれには信じられない。別に理由があったんだ。違うか?」
「話したくないといったら?」
「今すぐあんたを撃ち殺してやる」
楊偉民が目を閉じた。滝沢は待った。楊偉民が目を開けた。
「徐鋭、ちょっと外に出ておれ」
「老爺――」
「だいじょうぶだ。すぐに呼ぶ」
徐鋭はちらりと滝沢を見た。すぐに背中を向けて店を出た。
「これから話すことを胸にしまったまま地獄に落ちると約束できるか?」
「ああ」
「天文に頼まれたのだ」
「天文だと?」信じられなかった。「嘘《うそ》をつくならもうちょっとましな嘘にしろよ」
「謝圓が消えて、張道明は追い詰められた。それで天文に泣きついたのだ。電脳に詳しい男を紹介しろとな」楊偉民は滝沢の声が聞こえなかったかのように話し続けた。「天文はまっとうな堅気だ。だれからも好かれた。特に若い連中には人気があった。その中には電脳を学んでおるものも大勢いる」
「待ってくれ。張道明がなんだって天文に泣きつくんだ?」
「張道明に関してはなにをしっておる?」
街で拾った噂――金にがめつい二枚目。女嫌い。いろんな女が言い寄った。張道明はすべて跳ねつけた。
「まさか……」
周天文はおくびにも出さなかった。
「張道明はホモだ。天文とときどき寝ておった」
どいつもこいつも狂っている――滝沢は首を振った。それしかできなかった。
「張道明の頼みを天文は断った。すると、やつは、二人ができていることみんなにバラすと脅したのだ」
「それで、天文はあんたに張道明を殺してくれと頼んだのか」
ホモではないかとかまをかけた時の周天文の異常なほどの反応――周天文は自分がホモだということがばれるのを極端に恐れていた。張道明のせいだった。
――張道明は劉健一に泣きついたんだと思う。
四谷のマンションで周天文はいった。泣きつかれたのは自分だった。周天文のせいで張道明は死んだ。だが、周天文はおくびにも出さなかった。
気取った堅気のホモ――腹の中は楊偉民や劉健一と同じで真っ黒だった。
「なんとかならないか、と天文はいった。だから、なんとかしてやったのだ」
楊偉民の無表情な顔に亀裂《きれつ》が走った。苦悩に心を引き裂かれ、くたびれきった老人の顔。天文を守るために秋生を呼び寄せ、秋生に天文を殺された。すべては自業自得だ。
「おまえら、みんな地獄に堕ちろ」
滝沢は吐きだすようにいった。
「この世が地獄なのだ。まだわからんのか?」
楊偉民には通じなかった。
徐鋭の他にガキが二人。尖《とが》った目つき、荒い息遣い。ざっと点検する――銃を持っているのは徐鋭だけ。ガキどもはナイフ。そう目星をつけた。
ガキの一人が運転する古いセリカで小滝橋通りを北上した。大久保通りを西へ折れる。
「老爺があんたにいわなかったことがある」
徐鋭が北京語でいった。
「なんだ?」
「できるだけ苦しめてから健一を殺せ」
「いわれなくてもそうする。だが、あいつは福建の連中に匿《かくま》われているんだろう?」
「今頃、老爺が譚と話をつけているはずだ」
楊偉民はたいていの中国人に顔がきく。楊偉民を恐れない連中もいる。だが、楊偉民を軽く見るやつらはいない。
「おまえも健一を知ってるのか?」
「当然だ」
「おまえもあいつに死んでもらいたいのか?」
徐鋭は答えなかった――代わりに、助手席のガキが笑った。耳障りな笑い方だった。
セリカが停まった。堀越学園のそばの住宅街の中、白い外装の瀟洒《しょうしゃ》なマンションの前だった。
「待ってろ」
徐鋭が車を降りて、マンションのエントランスに向かった。徐鋭の背中が視界から消えた――不安が広がる。
「徐鋭ってのは頭が切れるのか?」
ガキどもに訊《き》いた。
「鋭哥《ルイゴー》を馬鹿にしてんのか、おっさん?」
助手席のガキの目が光る。
「そういうわけじゃない」
「健一さんが老爺と喧嘩《けんか》して、天文さんもおっ死んだ。老爺はもう、自分の後釜《あとがま》に鋭哥を据えるしかねえもんな」
運転席のガキがいった。助手席のガキが耳障りな笑いで答えた。チクチクと神経が刺激される。今時のガキの態度――日本も中国も同じだ。
「なあ、おっさん」助手席のガキ。「あんた、人を殺しまくってるんだって? どんな感じよ? 人を殺すときってのはさ?」
シートから身を乗りだしてきたガキの顔には品もなく、知性のきらめきも感じられなかった。銃を抜いた。ガキの額に銃口を押しつけた。
「今、殺してやろうか?」
ガキの顔から笑みが消えた。
「やめろよ、おっさん。なに熱くなってんだよ」
「口を閉じろ。楊偉民から仕事のときは無駄口を叩《たた》くなと教えられなかったのか?」
「わかったよ。黙ってりゃいいんだろう?」
白々しい沈黙。二人の敵意が突き刺さる。滝沢は銃を膝《ひざ》の上に置いて、マンションに目をやった。
じりじりと過ぎていく時間。狂おしい想い。宗英が死んだ。遠沢が死んだ。流氓たちが大勢死んだ。やくざも死んだ。家麗が死んだ。天文が死んだ。鈴木が死んだ。秋生が死んだ。滝沢が殺した。
それなのに劉健一と楊偉民が生き残っている――我慢ならなかった。
動きがあった。エントランス――徐鋭が出てきた。その後ろに劉健一。三人の男に囲まれていた。
「健一……」
口の中で呟《つぶや》いた。健一の顔に疲れは見えなかった。焦りも見えなかった。怯《おび》えも見えなかった。膝の上の銃をきつく握り締めた。
健一が近づいてくる。
睨《にら》みつけた――健一は気づかない。
徐鋭が車のドアに手をかけた。健一が気づいた。唇が吊《つ》りあがる。その口が動いた。
――あんたか。
殺意が膨れあがる。
ドアが開いた。
「乗ってくれ」
徐鋭の声。それに続いて健一が乗りこんできた。
「まだ生きてたんだな、滝沢さん。顔が変わってるんで最初はわからなかった」
銃を握った手――健一の顔に叩《たた》きつけた。くぐもった呻《うめ》き。健一が顔を押さえてうずくまる。険呑《けんのん》な雰囲気が頭上に降り注ぐ。
「馬鹿野郎!」
徐鋭の罵声《ばせい》。右手を押さえられた。
「車を出せ!」
ドアの閉まる音――タイアのスキッド音。急激な加速にバランスを崩した。それでも、目は健一から離れなかった。
「老爺がなんとか話をつけて、こいつをもらいうけたんだ。それなのに連中の目の前でこいつを痛めつけてみろ。連中の面子を潰《つぶ》すことになるんだぞ」
「どっちにしろ殺すんだろうが」
「別の場所でだ」
叩きつけるような言葉。徐鋭は銃を持っている。従うしかなかった。
「まったく、頭に血が昇ると手がつけられなくなるのはちっとも変わらないな、滝沢さんよ」
健一が顔をあげた。ひしゃげた鼻。真っ赤な血が口の周りを汚していた。
「殺してやるからな、健一。秋生も死んだ。天文も死んだ。みんな死んだ」
「わかってる」
健一はハンカチで口を拭《ぬぐ》った。
「みんなおまえが仕組んだんだ」
「そのとおりだ。おれは家麗をたぶらかした。朱宏をたぶらかした。あんたをたぶらかした。秋生をたぶらかした。みんな、楊偉民に思い知らせるためだ。どうだ? 告白が聞けて満足か?」
健一の目――怖れも怯えもない。銃を押しつけた。
「殺してやる――いや、すぐには殺さん。嬲《なぶ》り殺しだ。おまえら中国人のお得意の方法で殺してやる」
「みんないつかは死ぬんだぜ、滝沢さん」
見返してくる二つの目――はったりだ、なにかが叫ぶ。
「いつまでそんな口がきけるか、試してみようじゃないか、健一」
「その前にひとつ教えてやろうか?」
健一の唇が吊りあがる――なにかがおかしい。
「あんたは崔虎に命じられて動きはじめた。それと同じときに、なんで宗英があんたに謝圓を探してくれなんて頼んだと思う?」
徐鋭と二人のガキども――口をつぐんでいる。
「あいつは謝圓に金を貸してたんだ。それを取り立てろと――」
笑い声が車内に谺《こだま》した。ひしゃげた鼻、血まみれの口――健一が顔をしかめながら笑っていた。
「あの女は貯めた金はまめに故郷に送金していたぜ。人に貸すような金を持ってるはずがないじゃないか」
「じゃぁ、なんだって――」
「一ヶ月ぐらい前だったかな、あの女、おれのところに来たんだよ」
健一のペースに巻き込まれている。喋《しゃべ》らせるな、口を開かせるな。銃を持ち上げる――土手っぱらからこめかみへ。
「おれに頼みがあったんだ」遅かった――健一の喋りはとまらなかった。「子供を買ってくれないかってな」
息が止まった。
「なんだと?」
「あの女、あんたのガキを孕《はら》んでたんだよ。三ヶ月だといってた」
健一の言葉――日本語なのか北京語なのかもわからなかった。
「でたらめだ」
妊娠――宗英はそんなことは一度も口にしなかった。
「いくらで売ってくれるの?」健一が北京語でいった。「あの女、まずそういった」今度は日本語だった。
「でたらめだ」
宗英とのセックス――最後はいつも口の中にぶちまけていた。
「おれはいってやったよ。胎児ならいくらでも金を出そうっていう気の狂った金持ちが腐るほどいるってな。あの女、目をぱっと輝かせやがった」
思い出した。去年の暮れ、宗英がたまには普通に愛してくれと駄々をこねた。手元にコンドームはなく、宗英も中に出しても大丈夫だといった――。
「でたらめだ!!」
健一のこめかみに押しあてていた銃を振り上げた――手首をだれかに捕まれた。助手席に座っていたガキ。目の前に黒い穴――健一の向こう側に座っていた徐鋭の銃。
「動くな、日本人。銃を捨てて、大哥の話をちゃんと聞け」
「おまえたちは楊偉民の――」
「あんな老いぼれにいつまでもくっついてたって先は見えてるってことよ」
助手席のガキの耳障りな笑い声。銃をもぎ取られた。
「宗英はな、あんたのガキをおれに売った金で故郷に帰るつもりだったんだ。もうあんたにはうんざりだ、そういってた。あんたがどうやってあの女をいたぶるのか、じっくり聞かせてもらったよ」
「きさま……」
頭蓋骨《ずがいこつ》の中でなにかが燃えていた。視界が赤く染まり、健一の顔が歪《ゆが》みはじめた。
「腹の中の子供を買い取る代わりに、おれは条件を出した。あんたをはめるのに一役買えってな。あの女は喜んで応じたぜ」
宗英のために道を踏み外した。中国人社会で暮らすことを選んだ。だが――わかっている。すべては自分のため。自分の欲望を満たすため。人を騙《だま》し、人を殴り、人を殺し――その結果、肥溜《こえだ》めでくたばりかけている。
「殺してやる」
「もう、無理だな。あんたのガキ、いくらで買ったと思う?」
「殺してやる」
すべてを塗り潰《つぶ》す憎悪――呪詛《じゅそ》。健一に殴りかかろうとした。背後から首を絞められた。口の中に銃身を押し込まれた。
「二百万だ。あんたみたいな男のガキにしてはいい値だと思わないか?」
車がとまっていた――車の外に引きずり出された。公園。人気もなく、静まり返っている。
「計画通りとはいかなかったが、あんたのおかげで天文がくたばった。感謝してるんだぜ、滝沢さん」
健一は車を降りながら、喋りつづけていた。
「楊偉民ももう終わりだ。口喧《くちやかま》しい年寄りたちは台湾に帰っちまったし、若い連中はあいつのやり方にうんざりしてる」
羽交い締めにされた両腕。首筋にナイフ。二人のガキどもの、血に餓《う》えた獣のような荒い息。徐鋭の銃口がいつも滝沢を狙《ねら》っている。
「北京と上海はしばらくはなにもできない。こいつらは楊偉民よりおれを選んだ。知ってるか? 陶立中が崔虎を襲ったらしい。崔虎は陶立中を返り討ちにしたが、重傷を負って新宿から逃げ出した。後は、楊偉民に引導を渡すだけだ」
「それで復讐が完了するってわけか?」
「復讐?」乾いた笑い声。「馬鹿いうなよ。こいつは……サバイバルってやつだ。おれと楊偉民。どっちかが生き残り、どっちかがくたばる。そういうことになってるんだ」
乾いた健一の目――一瞬、果てしない憎悪が覗《のぞ》いたような気がした。
「おまえたちのその生き残りゲームのために、何人死んだと思ってるんだ?」
「あんたは日本人の癖に、勝手におれたちの世界に入り込んできた。秋生も、おれが呼んだわけじゃないのにおれのところにやって来た。みんな、自分たちが見つけた道を自分たちの足で歩いてるんだ。てめえがクソにまみれてるのを人のせいにしたってしょうがないんじゃないか、滝沢さん」
秋生の願い――健一と楊偉民を殺す。叶《かな》えられそうもなかった。
生暖かい風、虫の音、遠くにマンションの明かり。
「なあ、なんで逃げなかったんだ?」
健一がいった。心から知りたがってるような口調だった。
「秋生と約束した」
「なにを?」
「おまえと楊偉民を殺す」
健一は笑わなかった。醒《さ》めた目がじっと滝沢を見つめていた。
「それで、秋生とは寝たのか?」
声にならない唸《うな》り。立ち上がろうとして、地面に引き倒された。喉《のど》に氷を突き立てられたような感触――真っ赤な飛沫《しぶき》が飛んでいた。
「そうか。てっきり、あんたと天文が秋生を取り合ったのかと思ったんだがな」
「殺してやる!」
叫んだ――なにも聞こえなかった。ひしゃげた鼻をさすりながら、健一が踵《きびす》を返した。
「待て! ぶち殺してやる!!」
チューブから空気が漏れるような音。健一の背中が遠ざかり、徐鋭の銃口が近づいてきた。
「待て!」
健一に手を伸ばした――届かなかった。視界の端でなにかが煌《ひら》めいた。
「地獄に落ちな、おっさん」
ガキの声――ナイフが振りおろされた。
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黒い夢を見る。真っ黒な闇《やみ》の中、おれは横たわっている。傍らに女が寝そべっている。女は闇に塗り潰《つぶ》されている。苦しげな吐息が聞こえるだけだ。今ではどうしてそんな夢を見るのかも忘れてしまった。おれは小蓮《シァオリェン》の顔をすっかり忘れてしまった。身体の芯《しん》から凍えてしまいそうな喪失感――それだけがおれの思い出せるすべてだ。
薬屋――何十年も居座り続けた持ち主が姿を消して廃屋のように佇《たたず》んでいる。楊偉民は消えた。老いぼれても嗅覚《きゅうかく》だけは敏感だ。滝沢を殺した後、おれと徐鋭が戻ってきた時には、薬屋はもぬけの空だった。
楊偉民――横浜にいる。横浜から様子をうかがっている。おれがミスを犯すのを待っている。それほど待たせるつもりはない。徐鋭が横浜に向かっている。楊偉民を殺すために。楊偉民の生首をおれに持ってくるために。徐鋭はうまくやるだろう。徐鋭はおれに心酔している。おれのやり方をクールだと思っている。まるで昔のおれのようだ。
薬屋――所有権はおれにある。汚いやり方で手に入れた。おれは薬屋を潰《つぶ》すつもりだ。すべてはここから始まった。もう、二十年近く前、おれとおふくろはこの薬屋を訪れた。おれは楊偉民に気に入られようと躍起になった。薬屋を潰して土地を売り払う。儲《もう》けはいくらになるだろう。
崔虎――陶立中に襲われた。返り討ちにあわせたが、深手を負った。今は池袋にいる。傷の痛みを紛らわせるためにシャブを使っている。シャブ中を尊敬する流氓はいない。北京の流氓は息をひそめている。崔虎はもう終わった。
上海――ほとんどの連中がおれについた。おれがばら撒《ま》く金を涎《よだれ》を垂らして待っている。
台湾――楊偉民に忠誠を誓った連中はみんな殺した。おれの犬どもに殺させた。
歌舞伎町――おまわりたちがうろついている。箸《はし》にも棒にもかからないような連中を片っ端から逮捕している。シャブ中どもの悲鳴が聞こえる。
警察は滝沢の死体を見つけた。中国マフィアと深い関りのあった元悪徳警官。警察は死者にすべてを押しつけようとしている。
歌舞伎町のほとんど半分がおれのものになった。だれかが楊偉民の跡を継ぐのはやっぱりあんたしかいなかったといった。おれはそいつを殺した。おれの犬に殺させた。
楊偉民のやり方だ。楊偉民は歌舞伎町を出た。だが、楊偉民の亡霊は未だにおれの頭の中をさまよっている。
おれは黒い夢を見る。真っ黒な闇の中、おれはどこまでも落ちていく。一人で。
身体は十分に冷えている。
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底本
単行本 角川書店刊
一九九七年八月三一日 第一刷