不夜城
馳星周
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)歌舞伎《かぶき》町。
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)上海|訛《なま》りの北京語は
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暗闇の中に浮かび上がる銀幕で
誰よりも輝いている袁詠儀に
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黒い夢の中
おれは安らかに眠る
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竇唯「黒色夢中」
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1
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土曜日の歌舞伎《かぶき》町。クソ暑い夏の終わりを告げる雨がじとじとと降っていた。
区役所通りを職安通りに向かって歩いていた。手にさげたスポーツバッグがわずらわしかった。土曜と雨が重なった区役所通りは、平日の半分の人影もなかった。狭い歩道を占拠しているのは、ミニから伸びた足をこれみよがしに突きだしている女たちと客引き、それに中国人たち。ときおり、南米や中東の顔も見えるが、数えるほどでしかない。日本語よりも北京語《プートンファ》や上海語の方がかまびすしい歩道の脇では、客待ちのタクシーが延々と列を作っていた。
客引きや女たちの手を擦り抜けて、風林会館前の交差点を左に。学生らしき一団が、群れをなして道路一杯に広がっていた。
しばらくそのまま歩き、果物売りのヴァンが止まっている角を右に曲がった。ガキどものやかましい嬌声《きょうせい》が消えた。香ばしい匂いと、キムチの強烈な刺激臭が鼻をついた。ここらあたりには韓国《かんこく》人の屋台が多い。
目当ての雑居ビルの前に、目つきの鋭い中国人が二、三人固まってまわりをうかがっていた。
「よう、健一《ジェンイー》さん」
そのうちの一人がおれに気づき、北京語で叫んだ。
「遅かったじゃないか。女たちが待ち侘《わ》びてるぜ」
「でかい声でしゃべりたいんなら、国へ帰れ」
じろりとチンピラを睨《にら》み、北京語で囁《ささや》いた。こんなやつらをいつまでも使う気でいるなら付き合いを考えると、一度、元成貴《ユェンチョンクィ》にはきつくいっておかなきゃならない。もっとも、元成貴がおれの言葉に耳を貸すとも思えないが。
「そんなにおっかねぇ顔するなよ。北京語がわかる日本人なんて、ここらにゃいないだろう」
「おれだ」
そいつの目に顔を近づけていってやった。
「おれは日本人だが、北京語を話せる」
「け、健一さんは特別じゃないか……」
そいつはおれから視線を外すと、逃げるように肩を引いた。
「いいか、おれたちは遊んでるんじゃない。仕事をしてるんだ。危ない橋を渡ってな。日本人にはわからなくても、北京《ペイジン》や福建《フージェン》のやつらはどうだ? マレーシアは? あいつらには、おまえの上海|訛《なま》りの北京語は通じないか?」
チンピラは上海語でぶつぶつと文句をたれた。おれはあいている方の手でそいつの髪を掴《つか》み、引き寄せた。
「いいたいことがあるなら、北京語で話せ」
静かにそういい、じっとやつの目を見つめてやった。油膜がかかったような濁った目が逃げ場所を求めて動きまわり、やがて、力なくおれの目を見つめ返した。
「わかったよ。この雨ん中でずっと外で待たされてたから気が立ってたんだ。これからは気をつける」
「いい子だ」
そいつの肩を叩《たた》き、横にいた別のチンピラにスポーツバッグを手渡した。
「今日のブツだ。たいしたものはないが、早く女たちに見せてやれ」
バッグを受け取ったチンピラを先頭に、おれたちはビルの中へ入っていった。
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2
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先頭のチンピラが〈紅蓮《ホンリェン》〉の扉を開けた。透きとおった声のカラオケが通路にこぼれてきた。目ざとくおれの姿を見つけた女たちが、客をそっちのけで立ちあがり、歓声を上げた。腹を空かして主人の帰りを待ち侘びていた犬のような声。
おれは愛想笑いを浮かべて女たちに手を振り、一番奥にある目立たないボックス席に腰をおろした。チンピラたちは反対の奥にある従業員の控え室に姿を消した。
煙草に火をつけ、店内を眺めまわした。客は半分ほどの入り。ほとんどが日本人。脂でぎとついた顔をてかてかに光らせて、日本語をよく理解できないホステス達を口説いている。
正面に視線を移した。カラオケを歌っているのは李桂梅《リーグイメイ》。この店に三人いるママのひとりだ。王成香《ワンチョンシャン》、黄秀紅《ホヮンシウホン》は、それぞれ馴染《なじ》みの客のテーブルについている。
三人のママはそれぞれに個性的だ。共通しているのは金にがめついことぐらいしか思いつかない。ママたちは家賃、仕入れなどの経費を折半でまかなう。店に来ている従業員やホステスもそれぞれのママが調達し、給料を払う。要するに、ひとつの店の中で三軒のクラブが営業しているのだ。市場みたいなものだと思えばいいのかもしれない。バブルが弾けてからこっち、こんなシステムで店をやりくりしている中国人や台湾人の店はかなり多い。黙っていても金が転がりこんでくる時代は終わったのだ。
黄秀紅が客になにかを囁いて、立ちあがった。尻のつけ根までスリットが入ったチャイナ・ドレスをくねらせて近づいてきた。
「遅かったじゃない」
きれいな北京語。秀紅は、おなじだけきれいな日本語を操ることもできる。数年前に失脚した党幹部の娘で、北京大学から東京大学へ国費留学し、そのまま新宿に居着いてしまったという経歴は伊達《だて》じゃない。だが、客と話す時以外は、決して日本語を使おうとはしなかった。身内で話す時は、上海語しか使わない。つまり、おれは身内じゃないってことだ。
「雨が降ってるからね」
いいわけにもならない言葉を口にして、秀紅がくわえた煙草に火をつけてやった。視界の隅に、女たちがひとり、またひとりとカウンターの横の薄いカーテンで遮ってあるだけの奥の部屋へ消えていくのが見えた。すぐに、子供じみた嬌声が聞こえてくる。
今回はなかなかいいブツが回ってきた。おおかた、どこかの倉庫で眠っていたものだろうが。
「わたしの甥《おい》がエアコンを欲しがってるの」
秀紅が誘うような眼差《まなざ》しをこっちへ向けた。
「もう、夏も終わりだぜ」
「夏の間は国に戻ってて、ついこのまえ帰ってきたばかりなのよ」
「いくら出せるんだ?」
「五万」
舌打ち。五万ぽっちじゃ、おれの懐へはほとんど入らない。
「甥が住んでいるのは1Kのマンションだから、それほど大きいのはいらないの。メーカーにもこだわらないわ」
「あたりまえだ」
ソファに背を預け、天井に向けて思いきり煙を吐きだした。こんな馬鹿げた仕事を引き受けていたら、そのうち足元が覚束なくなるに決まっている。だが、秀紅との関係を密に保っておくのは、おれのような根なし草にはそれなりの意味がある。
「二週間ぐらいかかるぞ」
天井を見上げたまま、いってやった。秀紅がほっとしたように息をもらす気配が伝わってきた。
「助かるわ、健一。なにかあったら、わたしにいってね」
元成貴の情婦にそういわれるのは、思ったよりは気分のいいものだった。
奥の部屋へ消えていた女たちが戻ってきた。新しい装飾品を指や手首、首に巻きつけ、口もとをゆるめながら。
「もうすぐ、毛皮が欲しいっていいだすわよ。あの子たち」
秀紅はろくに吸ってもいない煙草を灰皿に押しつけた。もはや若くはなく、かといってくたびれきったわけでもないというような目で、客の相手をしはじめた女たちを眺めていた。
「いいさ。金さえきちんと払ってもらえるならな」
おれがとっちめてやったチンピラが、カーテンの仕切りから姿を現した。おれの視線に気づいたのか、秀紅が腰を上げた。
「ゆっくりしていってね。お金はいらないから」
あたりまえだ。ふたたび口に出そうになった言葉を、喉《のど》で押し潰《つぶ》した。
「健一さん、今日の分です」
秀紅の色っぽい尻を眺めていると、チンピラが恐縮したようにおれの前に立ち、茶色い封筒を差しだした。
五十万というところか。シケた金だ。今の日本じゃ、五十万なんてはした金にもならない。だが、おれのような商売をしている人間には、女たちがもたらしてくれる情報は必要不可欠だ。たまにはこうして、機嫌を取ってやらなきゃならない。
封筒の中から十枚ほどの札を引き抜き、チンピラに手渡した。
「たいした額じゃないがおれの奢《おご》りだ。今夜はみんなでパーっとやろう。手のあいてる女を呼べよ」
チンピラの顔がぱっと輝いた。
「ありがとうございます、健さん」
おれはなんでもないというように軽く手を振った。別に大物ぶりたいわけじゃない。ただ、この雨の中、ねぐらへ戻ってひとり酒を啜《すす》る気になれなかっただけだ。
ケチな故買屋にだって、たまにはそんな夜がある。
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3
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夢を見ていた。いつもの夢。ナイフがきらめき、肉が裂け、血が飛び散った。
携帯電話が鳴った。隣で、女が寝返りをうった。名前を思いだそうとしたが、途中で諦《あきら》めた。おれは床に脱ぎ捨てたままだった上着を拾い上げ、内ポケットから電話を取りだした。
受話器から飛びこんできたのは乾いた女の声。日本語だった。
「劉《りゅう》さん……ですか?」
電話を切った。
間を置かず、また電話が鳴った。舌打ちして、電話を手に取った。
「王《おう》さんから紹介してもらったんです。劉さんなら力になってくれるかもしれないって」
女は早口でまくしたてた。微かな訛りがあったが、どこのものかはわからなかった。
煙草に火をつけ、王《ワン》という名前の人間の顔を思いつくだけ頭に浮かべた。
「もしもし?」
「どこの王だ?」
「元《げん》さんのところの……」
歌舞伎町には王という名の中国人は腐るほどいる。元だってそうだ。だが、歌舞伎町にはひとりだけ特別な元がいる。元成貴《ユェンチョンクィ》という男だ。そいつの機嫌を損ねたら、歌舞伎町はとんでもなく暮らしにくい街になる。女のいっている元が元成貴かどうかはわからないが、とりあえず話を聞くことにした。
「それで?」
「買っていただきたいものがあるんです」
また舌打ち。歌舞伎町の中国人社会の人間からしかかかってこないはずの携帯電話から日本人の声が流れてくる。おれは不安を覚えていた。おれはこの携帯電話を仕事には使わない。探偵や強請《ゆす》り屋、それに頭のイカれた盗聴おタクどもがありとあらゆる電波を拾おうと夢中になっているってのに、携帯電話で重要な話をするのはカモってくれと大声で宣伝しているようなものだ。
「ブツは?」
「直接、見せたいんだけど」
煙草を吸い、間を取った。嫌な感じがぷんぷん匂った。だが、このままうっちゃっておくには足元が涼しすぎる。
「明日、昼の三時。だいじょうぶか?」
おれはいった。最悪の場合、女を尾行して身元を確認するつもりだった。
「え、ええ」
「風林会館の前にいろ」
「わかりますか? わたし、髪は……」
「こっちで見つける。もし、劉と名乗る男が現れなかったら、手違いがあったと思って諦めてくれ」
「でも……」
「あんたの名前は?」
女がごちゃごちゃいいだす前に口を開いた。
「……夏美です」
「じゃぁ、明日な。夏美ちゃん」
電話を切った。
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4
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ベッドで眠りこけている女をそのままにして、ホテルを出た。腕時計は午前四時を指していた。靖国通りや新宿通りが鴉《からす》たちの王国になっている時間。残飯や反吐《へど》を狙《ねら》って集まってくる鴉の群れが人間を襲いだすのはいつのことだろう、いつものようにそう考えて、怖気《おぞけ》をふるった。
職安通りを横切り、コマ劇場の裏手を回ってさくら通りに出た。
その薬屋は、さくら通りの片隅にひっそりとたたずんでいる。看板の文字も、ウィンドゥに描かれた文字もすっかり色あせ、はげかかり、判読することもできない。もう、百年も前からそこにあるような店だ。おれたち――おれと歌舞伎町を根城にする台湾人――は、ただ、〈薬屋〉とだけ呼んでいる。
がたのきたドアを開け、薬屋の中へ。楊偉民《ヤンウェイミン》は分厚い眼鏡《めがね》越しにこちらをちらっと見ただけで、すぐに朝刊に目を落とした。勝手に店の奥に入りこみ、透明な冷凍ケースから漢方のスタミナドリンクを取りだして、一息に飲み干した。
「なにか変わったことはないかい?」
台湾の流氓《リウマン》が新宿の流行から遠ざかって、もうかなりになる。国にいた方が稼ぎになると、女たちが帰国してしまったからだ。強持《こわも》ての台湾マフィアも、異国の地では女なしではやっていけない。ヴァイタリティに溢《あふ》れる女たちが金とねぐらを用意してやってはじめて、男たちも心おきなく暴れることができるのだ。日本のやくざすら入りこめない歌舞伎町の裏の裏の甘い汁は、台湾人の手から、ほかの中国系マフィアの手に移ってしまっている。
楊偉民。台湾人。流氓じゃないが、羽振りがよかったころの台湾マフィアも、楊偉民には一目置いていた。歌舞伎町にどっかりと根をおろしたこの老人は、流氓どもがやってくる遥か以前から自前の自警団を組織していて、流氓といえどもおいそれとは手を出せなかった。それは、いまでも変わらない。一度、事情を知らない北京のチンピラがみかじめ料をよこせと楊偉民に詰めよったことがあった。そのチンピラは、その日のうちに歌舞伎町から姿を消した。噂《うわさ》は瞬く間に新興のマフィアたちの間を駆け巡り、楊偉民に横槍《よこやり》をいれる阿呆《あほう》はどこにもいなくなったというわけだ。
時偉民のもとには毎夜、いろんな情報が集まってくる。どこそこの飲み屋で麻雀《マージャン》の賭場《とば》が立っている、福建のだれかが上海のだれかを血眼《ちまなこ》になって探している――そんな情報だ。楊偉民はその情報を売ることで、ほとんどの中国系社会に――堅気にも流氓にも――恩を売っている。
そんなわけで、おれは自分の足元がよく見えなくなると、必ず楊偉民のところにやってきて、ご機嫌うかがいをすることにしているのだ。
「ちょっと前に、どこかで死体が見つかったそうだ」
朝刊に目を落としたまま、楊偉民がいった。流暢《りゅうちょう》な日本語。口を動かすたびに、瞼《まぶた》と頬《ほお》のたるんだ肉がひくひく震え、猛禽《もうきん》の爪のような深い皺《しわ》が三本、両の目尻にできた。
「だれの?」
日本語で聞き返した。
「死体は死体だ。死ぬ前にそいつが何者だったかなど、いまとなっては意味がない。違うか?」
眼鍵の奥で楊偉民の目玉がギョロリと動いた。深い海の底で何百年もの間、他の魚の生き死にを見守りつづけてきた老魚のような、濁り、暗く落ちこんだ目だ。
とりあえずうなずいた。楊偉民の言葉を通訳すれば、おれたちの社会とは接点のない日本人が死んだだけだ、気にするな、ということになる。
「他には?」
おれは煙草に火をつけた。楊偉民は悪霊を追い払うように激しく煙を振り払った。生きたまま死にかけている魚の目がおれを睨《にら》んだ。
楊偉民は一度、肺癌《はいがん》でくたばりかけたことがある。それまでは重度のヘヴィスモーカーだった。いまでは、楊偉民の側で煙草を吸う馬鹿はいなくなった。おれを除いては。楊偉民はまず、おれに目くじらを立てたりはしない。
「呉富春《ウーフーチュン》が戻ってきたそうだ」
煙草を落としそうになった。胃の真ん中にでっかい石が生じて、その石の重みが下腹部にずしりとのしかかっているようだった。楊偉民は、老人を大切にしないからそうなるんだといいたげに、唇を意地悪く歪《ゆが》めていた。
「まだほとぼりは冷めてないだろう。元成貴が黙ってないぜ」
「あいつの考えていることなど、だれにもわからんよ。それとも、おまえならわかるのかね、健一?」
おれは黙って首を振った。頭の中がショートしそうだった。夏美という女からの電話だけでも頭が痛いというのに、富春までもがトラブルを携えて帰ってきている。さっきまで、おれは足元に大きな穴が開きかけていると感じていた。実際には、すでにその穴に落っこちてしまっているのかもしれない。
「この近辺をうろついているのを元成貴の手の者が見かけたらしい。元成貴は血眼になっている」
楊偉民はどこかで珍しい動物が見つかったというよぅな口調で告げた。
呉富春――精神異常のチンピラだ。それも、始末におえないタイプの。ちょうど一年前、富春は福建のやつらから金をもらって、上海の男を殺した。歌舞伎町を根城にする中国人ならだれでも知っていることだったが、そいつは元成貴の右腕だった。薬関係のトラブル。気の短い福建野郎が暴発してしまったのだ。頭のねじがゆるみっぱなしになったやつでも、元成貴の右腕を片付けようなんて馬鹿な考えはおこさない。福建野郎はその馬鹿なことを考え、富春が、たかが数十万の金で請け負ってしまったのだ。元成貴の怒りは凄《すさ》まじかった。富春に殺された右腕の後を継いだ銭波《チェンポー》という男が、元成貴の怒りを受けて歌舞伎町に嵐を運んできた。いっとき、通りという通りから福建人の姿が消えたほどだ。後先を考えられなかった福建野郎は全身をめった切りにされて殺された。だが、富春は元成貴の手をするりとかわして逃げた。名古屋へいっただとか、親のいる田舎へ帰ったのだとかいう噂が流れた。本当のところを知っている人間はだれもいなかった。
「元成貴はおまえに話を聞きにくるだろう。どうするつもりだ?」
楊偉民がいった。目は新聞に戻っていた。
おれは黙っていた。煙草をふかし、薄汚れた窓の外を見つめた。雨は小降りになっている。新品のスーツを着た若いサラリーマンが、自分の親父ほどの年齢の上司に肩を担がれ、よろめく足どりで、わかってんのかよじじい!? と叫んでいた。じじいと呼ばれた上司は、苦笑いを浮かべながらなにかをいい返すでもなく、ただ黙々と若造を担いでいる。
おれと楊偉民の間にもそんなときがあった。もちろん、上司が楊偉民で、若造がおれだ。おれは自分がよれよれの千鳥足であることも気づかずに、歌舞伎町の中国人社会を渡り歩けるつもりで有頂天《うちょうてん》だった。
「元成貴は諦めの悪い男だ。おまえ、歌舞伎町にいられなくなるかもしれんぞ」
おれは楊偉民の声にはっとして振り向いた。それは慈悲深い年寄りの声だった。まるで、おれの心の裡《うち》を見透かしたような。
「もうそろそろ意地を張るのはよして、わしの身内から嫁をもらえ、健一。そうすれば、おまえを守ってやれる」
楊偉民の目は今度はまっすぐおれを射抜いていた。
おれは煙草の煙を天井に向けて吹き上げ、にやりと笑ってみせた。
「おれの都合ってものもあるんだよ。また来る。じゃぁな」
楊偉民に背を向けてドアに手を伸ばした。静かに頭を振り新聞に視線を戻す楊偉民の小さな姿が窓ガラスに映っていた。もう、その頭からは、おれのことなんかすっかり抜け落ちているに決まっていた。
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5
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楊偉民とおれを引き合わせたのは、おれのおふくろだ。正確にいうと、親父ということになるが。
おれの親父は台湾人だった。おふくろは、最低のくず野郎と呼んでいた。おれにはなんともいえない。親父はほとんど家によりつかなかったし、おれが自分の確固たる意見を持つようになる前に死んでしまったからだ。とにかく、おふくろは親父のことを嫌っていた。憎んでいた。親父を通して垣間見《かいまみ》える台湾人社会を毛嫌いしていた。親父の死がきっかけになって、おふくろが台湾人社会に頼らざるをえなくなったのは、だから、おふくろにとっては歯噛《はが》みするほど皮肉な結果だった。
親父は家によりつかない代わりに、金だけはきちんと入れていたらしい。詳しく聞いたことはないが、おふくろが働いているのを見た記憶がないのだから、たぶん、確かだろう。おれとおふくろは、そのころ、初台《はつだい》のマンションに住んでいたのだが、おふくろは日がな一日原稿用紙に向かい、創作と称する文字をだらだらと書き連ねているだけだった。何度か盗み読みしたことがあるが、原稿に書かれているのは親父に対する呪詛《じゅそ》だとか、ポルノまがいの滞れ場だとか、要するに、ただの暇潰しとしか思えないような代物《しろもの》だった。食事はすべて外食だったし、下着以外の汚れ物もすべてクリーニング屋に出していた。時折思いだしたように掃除される部屋には、いつも埃《ほこり》が舞っていた。おふくろは、心底忌み嫌っていた親父が送ってくる金で暮らしを立てながら、生活というものをいっさい放棄していた。
親父は大阪で死んだ。ナイフで腹を抉《えぐ》られたのだ。酒に酔った上での喧嘩《けんか》が原因だったらしいが、それでおふくろは窮地に立たされた。親父が送ってくる金が、おれたちの生活費のすべてだった。親父の骨を受け取りに大阪へ出向いた直後から、おふくろは仕事を探しはじめた。だが、まともに社会生活を営んだことのないおふくろは給料生活になじむことができず、かといって手に職があるわけでもない。おれたちが食うのにも困るようになるのは時間の問題だった。
悩みに悩んだ末の結論――おふくろは忌み嫌っていた台湾人社会に救いを求めることにした。自分がこうなってしまったのは、ろくでなしの台湾人が酷《ひど》い仕打ちをしたせいだし、半分台湾人の血を引くおれのためにもなんとかするべきだ、というわけだ。
スーツケース二個と、ばかでかいスポーツバッグを抱えた十三歳のおれを連れて、おふくろは初台のマンションを出た。その足で歌舞伎町の楊偉民の元を訪れた。いまよりもずっと血色がよく、こってりと太っていた楊偉民はおおげさな笑顔でおれたちを迎え入れた。親父が死んだことは大変に不幸なことだった、親父は自分にとって息子《むすこ》も同然だったのだから、なにも気にせずに世話になればいい、といいながら。薄汚れた薬屋の――そのころでも、楊偉民の薬屋は薄汚れていた――親父なんかを、どうしておふくろが頼りにしようと思ったのか、おれは疑問を感じたが、それは後になってすぐに解消された。
楊偉民はおふくろにナイトクラブのママの地位と大久保のマンションを差しだした。おふくろはただ、日に何度か店に顔を出すだけでよかった。いっさいの業務は、店のマネージャーが仕切っていた。おれとおふくろは大久保のマンションに荷物を運び、その日の内に歌舞伎町の住人になった。簡単だった。手品師のシルクハットからいつでも鳩《はと》が飛びでてくるようなものだ。
何日かして、昼間の歌舞伎町をぶらついていたおれに楊偉民が話しかけてきた。おれのことを、孫と呼びながら。
「我々台湾人は、ことのほか身内を大切にすることを信条としている。おまえのお母さんとおまえは、この楊偉民の身内になった。お母さんはわしの娘、おまえは孫だ。わかるか?」
「おじさんが親父のお父さんってことかい?」
おれの言葉に、楊偉民は微笑《ほほえ》みながら首を振った。
「血は繋《つな》がっておらん。だが、台湾人はみな、同胞なのだ。血が繋がっていなくても、同じものを食べ、同じ言葉を話し、同じ故郷を持っている」
「おれは中国語を話せないし、台湾にいったこともないよ」
「だが、おまえの身体には台湾人の血が流れている。そうだろう?」
そういって楊偉民は薬屋の奥へ姿を消し、すぐに分厚い本を持ってきた。北京語の辞書。
「悲しいことだが、おまえのお母さんは心の奥で我々台湾人を嫌っている。おまえのお父さんに騙《だま》されたと思っているんだ。わしの身内の中にはそのことを知っていて、おまえのお母さんを快く思っていないものもいる」
おれは黙って楊偉民の顔を見つめていた。なにをいわれているのか、さっぱりわからなかったのだ。
「わしにも目の届かぬときがある。そんなときにお母さんを守るのはおまえの役目だ。おまえがしっかりと身内の中に根を張れば、お母さんのことをとやかくいいだすものもいなくなるだろう。そのためには、おまえも母国の言葉をしゃべれるようにならなければいかん」
おれは北京語の辞書を受け取った。
「時間があるときに、わしのところへ寄るんだ。北京語を教えてやろう。それ以外の暇なときにでも、その辞書に目を通しておくとよい」
「わかったよ」
楊偉民は目を細めておれの髪の毛をくしゃくしゃにした。
「いい子だ、健一。おまえの日本名は高橋健一だが、おまえのお父さんの名字は劉《リウ》だった。今後、わしや身内のものの前では劉健一《リウジェンイー》と名乗るといい」
楊偉民は手ぢかにあった紙きれに「劉健一」と書き記した。おれは、おれの新しい名前の響きにうっとりした。聞きなれない北京語で発せられたその名に、おれは自分が異世界の住人にでもなったような気にさせられた。
それまでのおれは、くすんでうらぶれたガキだった。自分の中に流れている台湾人の血をほかのガキどもから必死になって隠し、目立たぬよう、ただそれだけを念じて生きてきた。だが、新しい名前を得たことで、目の前に広がる世界が劇的に変化したのだ。
「おじさん、おれ、頑張るよ」
「おじさんではないぞ、おじいちゃんだ」
「わかったよ、おじいちゃん」
おれは小躍りしたい気持ちだった。
だが、すべては嘘《うそ》っぱちだった。おふくろはもとより、おれも楊偉民の身内にはなれなかった。
おれは必死で北京語を学んだ。おかげで、数ヶ月後には、日本語を話せない台湾人とでもなんとか不自由なく会話を交わせるようになった。そして気づいた。楊偉民の身内のやつらが、おれに聞かれたくない話をするときには、台湾語(※[#「門+虫」、読みは「びん」、26-7]南語)を使って会話していることに。北京語と台湾語じゃ、英語とフランス語ほどの違いがある。
それでもおれは、いつかは台湾語も教えてもらえるのだろうとたかを括《くく》っていた。だが、おれが台湾語を教えてもらうことはついになかった。
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東《あずま》通りの端っこ、深夜営業のスーパーの斜め向い、助平《すけべえ》客目当ての精力剤を売りにしている薬屋とヤクザが経営しているポルノショップに挟まれた路地――とりあえずセンター街という名がついているが、お笑いだ――を入ってすぐに、おれの店はある。戦後建てられた古い木造の三階建て、一階は焼き鳥屋、その上二階がおれの店だ。焼き鳥屋の入り口の脇に蛍光色のけばけばしい看板が〈カリビアン〉という店名を派手に宣伝しているが、容れ物の割にはつくりが頑丈なスティール製のドアには店名はもちろん窓もなく、「会員制」という素気のないプレートが張ってあるだけだ。看板に引き寄せられた酔っぱらいは、たいてい、このドアを見て中に入ろうとすることを諦める。このあたりはまだ物騒な雰囲気がありありと残っているし、看板だけでは〈カリビアン〉がどんな店なのか見当をつけることすらできないのだ。それに、ふり[#「ふり」に傍点]の客は絶対に中に入れないようになっている。
おれはドアの脇に目立たないように設置されたインタフォンを押した。一拍間を置いてから「今、開けるっすぅ」という志郎の声と、ドアのロックが開錠されるカチリという金属音が同時にした。
この店を手に入れたとき、最初にやったのがこのドアを改装することだった。分厚いスティールのドアは青竜刀を持った喧嘩《けんか》っぱやい福建人が何人おしかけようとビクともしない。二階の窓の外に、ドア付近をアングルに収めた隠しカメラがセッティングされてあり、インタフォンが鳴るたびにおれか志郎がモニタをチェックしてドアを開けるかどうかを判断するようになっている。絶対に安全だとはいいきれないが、少なくとも逃げる算段をつけるまでの時間稼ぎにはなるはずだった。
おれは重いドアを開け、階段をのぼった。階段は人ひとりがやっと通れるという狭さで、何人もの人間が一気に駆け上がることなど到底できない。左側の壁はぶち抜いてボトルの棚をつくり、吹き抜け風に改装してある。歓迎されない客が来たときには、頭の上にラムのボトルを落としてジッポのライターを投げてやれはいいことになっている。薄ぐらい店内には、陽気なラテンのリズムがやかましいほどに鳴り響き、がたのきた階段がたてるきしんだ音をかき消していた。
「おはようっす」
志郎はカウンターの――といっても、二、三人が座れるスペースしかないが――ストゥールに腰かけ、なにやら雑誌を読んでいた。短く刈りこんだ頭はいつものようにツンツンと跳ねあがり、左の鼻の穴と耳に突き刺した安全ピンが店の照明を受けて七色にきらめいていた。どんよりと濁った目と、その下にできた隈《くま》がなければ、とても三十路《みそじ》を超えた男には見えない。
客は二人。二丁目の店がはねた後にときどき顔を見せるおカマだ。志郎が仏頂面をして雑誌と睨《にら》めっこしているわけがそれでわかった。志郎は寛大な心というのを持ち合わせたことがない。おカマが心底嫌いなのだ。当のおカマたちは溶けてくっついちまったんじゃないかと思えるぐらいに身体をぴたりと寄せ合い、トロンとした視線を宙にさまよわせていた。おれは鼻をひくつかせてみたが、煙草の匂いしか嗅ぎ取れなかった。
「健ちゃん、おかえんなさぁい」
小太りのおカマがダミ声――おカマの世界ではハスキィな声というらしい――を出し、海藻のように手を振った。痩せた方のおカマはちらっとこちらに視線をよこしただけで、すぐにマリファナがつくりだした桃源郷の世界に戻っていった。
「葉っぱはやらせるなといってるだろう」
志郎の隣に腰をおろしながらいった。他人がどんな薬をやろうがおれの知ったことじゃない。だが、店の中では厳禁にしている。いまはガキどもが平気で薬に手を出す時代だ。ガキどもはちょいと脅《おどか》されればすぐに歌いだす。ろくでもないガキどものドラッグ・パーティに店を使われ、おまわりたちに痛くもない腹を探られるなんてまっぴらだ。
「またそうやってすぐおれのせいにする。冗談じゃないっすよ、来たときにはすっかりへろへろだったんっすから。だいたいっすね、健一さんはろくに店に顔を出さないくせに文句だけ多すぎるんっすよ。他に客がいたら、あんなおカマ、叩きだしてやってもいいんすよ」
志郎の目。赤く濁っていた。それでも、視線ははっきりしていた。いつものように、不必要なほどに舌を口の外に伸ばすしゃべり方だったが、声もはっきりしていた。なんでも、舌を長く突きだすのはパンク・ロックのヴォーカリストには必要不可欠なテクニックだそうで、志郎はそのテクニックに磨きをかけることをなによりも大切にしている。見ているこっちが疲れてしまうのでやめろといっているのだが、志郎は気にとめる素振りすら見せない。一度、身体障害者みたいだとからかったことがあったが、そういう差別的な発言を続けるんなら仕事やめるっすよ、と酷い剣幕で叱《しか》られた。
おれはカウンターの端に手を伸ばし、アブソリュートをグラスに注いだ。
「暇だったのか?」
グラスに氷を放りこみながら、志郎を見た。
「あいつらで五人め。シケてますよ」
志郎はおカマたちの方に首を傾《かし》げた。目が不機嫌そうだった。〈カリビアン〉の客足は確実に下降線を辿《たど》っている。ほとんど客の来ない店に、夜の七時から明け方までいなければならない志郎のストレスは反比例的に上昇線を描くばかりだ。だが、志郎には気に入らなければいつ辞めてもいいといってある。志郎の不機嫌をおれが受け止めなければいけない謂《いわ》れはない。
「電話は?」
「変な中国人から一本。名前は聞き取れなかったっす」
ウォツカの入ったグラスを見つめた。胃の奥に不快な感覚が込み上げてきた。
「どんな感じだった?」
「健一はいるか、って。すげー訛った日本語で、聞き取りにくいったらなかったすよ。で、いないって答えたら、いきなり中国語でわめきはじめて……めんどくせぇから、途中で切っちゃいました」
富春に違いなかった。あの馬鹿は、本当に戻ってきたのだ。ウォツカを一気に飲み干した。不快な感覚が増しただけだった。おれはその感覚の正体を知っている。恐怖、だ。
「なんか、ヤバいことでもあるんすか?」
志郎がおれの顔色を覗《のぞ》きこんでいた。
「いや、なんでもない。どうせ、頭のイカれた中国人だろう」
おれは恐怖を押し殺していった。グラスに触れる指の先がかすかに震えていたが、目立つほどじゃなかった。
「健一さんが中国人と付き合うのをやめれば、もっと客だって来ますよ」
志郎は視線を正面に向けた。唇が尖《とが》っていた。おれは自分が中国人社会と抜き差しならない関係にあると客に宣言したことはない。暗闇の海を漂う海月《くらげ》のようにひっそりとやっている。おれが中国人と付き合っていると客にいいふらしているのは志郎なのだ。
「生きるためだ。しかたないだろう」
おれはとぼけた。志郎のこのて[#「て」に傍点]の話にいちいち付き合っちゃいられない。
「この店を真面目《まじめ》にやってけばいいじゃないっすか。ここは日本なんだ。中国人とつきあわなくったってちゃんと生きていけますよ。だいたいっすね、健一さんは台湾人かもしれないけど、日本で生まれて日本の国籍を持ってるんじゃないっすか。ちゃんとした日本人なんっすよ」
「どうだっていいじゃないか、そんなこと」
笑いながら酒を注ぎ足した。志郎は日本人にしてはずいぶんとマシな方だが、なにもわかっちゃいなかった。歌舞伎町は歌舞伎町だ。日本人が思っているような「日本」じゃない。少なくとも、日本の法律は歌舞伎町じゃほとんど無意味だ。おまわりたちは中国人たちの組織に関してまったく無知だし、ヤクザたちもいまじゃ怯《おび》えながら暮らしてる。歌舞伎町に台湾マフィアしかいなかったころは、やつらもそれなりの顔をして歩いていた――ってことは、おまわりたちもヤクザから情報を得ることができてたってことだ。だがそれも、国にいた方が金を掴みやすいと悟った台湾マフィアの連中がいなくなるまでだ。台湾の連中が消えた後には、大陸と香港、それにマレーシアのやつらが大挙して押し寄せた。連中には上海人と香港の人間の区別もつきはしない。はした金で人を殺すやつらとまともにやり合っちゃいられない。ヤクザだって命は惜しいし、バブル時代の楽な生き方がすっかり身体にしみ込んでいる。おまけに新法がやつらをがんじがらめに縛っちまった。遠からず、夜の歌舞伎町のルールは中国人のルールに置き換えられるだろう。つまり、日本じゃなくなるってことだ。
「おれは、中国人ってなに考えてんのかわかんなくて、嫌いなんすよ」
「おまえが好きなのはアメリカ人とヨーロッパ人だ。あとは、中国人も朝鮮人もフィリピンもタイも嫌いだ。はんとのことをいえば、ラテン・アメリカも嫌いだ。そういうことだろう? いわれなくったってわかってるよ、右翼のパンクだもんな」
「バッドだよなぁ。からかわないでくださいよ。おれは天皇制には反対なんっす。絶対、右翼なんかじゃないっすからね」
もちろん、志郎は右翼なんかじゃない。骨の髄までパンク野郎だ。ただ、他の日本人と同じで、自分自身の目で物事を見る方法を教わってこなかっただけなのだ。
「わかったよ。おれが悪かった。中国人との件は考えておく」
おれは腰を上げた。
「適当に上がっていいからな」
「健一さん」
志郎は慌てたように立ちあがった。なんだ、というように見てやると、唇に愛想笑いを張りつけ、曇った伏し目がちの目をおれに向けてきた。
「今月苦しいんすよ。少し、いいですか?」
志郎には毎月三十万を給料として渡してある。志郎はその金の大半をバンド活動と薬に注ぎこんでいた。薬をやることは体制に反抗するパンク・スピリットの現れなのだそうだ。初めてあったときにそう聞いた。トルエンをやりすぎて前後不覚になった志郎が店の前に倒れていたのを拾ってやったのだ。以来、志郎はよく店に顔を出すようになった。その時の店の名前は〈カリビアン〉じゃなかった。おれがオーナーになる前は、この店はジャズの古いレコードを聞かせるバーだった。「ジャズなんてださいっすよ」という志郎に店を任せてみる気になったのは、おれ自身、「健一さんは好きっすけど、中国人は嫌いなんす」というなにかの映画の台詞《せりふ》をそのまんまパクって平然としている志郎を気に入っていたせいだ。
ロックはガキが集まるようになるからだめだといったおれの言葉に、「じゃ、ラテン・ミュージックなんかどうっす? ノリがいいんっすよ、ノリが」と答えた志郎の節操のなさが無性《むしょう》に好ましく思えたのだ。おれは節操のない人間が好きだ。それが日本人であれば、なおさらだ。
おれは上前のポケットに手を突っ込み、くしゃくしゃになった金を掴みだした。金額を確かめもせず、その金を志郎の手に押し込んだ。
「すんません」
志郎の目は相変わらず暗かった。歌舞伎町を歩いていれば、同じような目をした男たちにいくらでも出くわすことができる。中途半端にヒモをやっている男たちは、みんなこんな目をしている。傲慢《ごうまん》と自己憎悪と開き直りが入り混じった複雑な目。中国人に金を恵んでもらうことの屈辱と、それを当然のことなのだと開き直る自己弁護。自己弁護は心の奥底に沈んでいき、屈辱だけがそこに残る。屈辱はやがて憎悪へと簡単に変貌する。志郎は、暗く沈んだ憎悪の目でおれを見つめていた。
志郎に、鏡を見ろよ、といってやろうと思ったが、やめた。
「明日も頼むな」
代わりにそういって、店の奥に足を進めた。そこには、もう一つ階段がある。階段の上には、トイレと、おれのねぐらがあるのだ。
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〈カリビアン〉の三階には、トイレと四畳半ほどの小部屋がある。この一帯が赤線地帯だった頃の名残だ。前の店主はこの小部屋を倉庫代わりに使っていた。おれがこの店を譲り受ける気になったのも、結局はこの部屋のせいだ。昔読んだ小説で、アル中の私立探偵が行きつけの飲み屋の奥に自分専用の部屋を持っていた。探偵はへろへろに酔っぱらうとその部屋で前後不覚になって眠るのだ。まだ世の中の仕組みがよくわかっていなかったおれは、その探偵に妬みに近い感情を覚えたものだった。この小部屋を見たとき、もう長いこと忘れていたその感情を思いだした、というわけだ。なんの意味もない感傷だが、だれに文句をいわれるわけでもない。それに、おれが前後不覚になるまで酔うということは滅多にない。単に、休息を取るための部屋。そういうことなのだ。
部屋に入ると、むっとする空気に全身を包まれ、汗でシャツが張りついた。手探りで電球の位置を探りあて、スウィッチを入れた。裸電球に照らされて、部屋の様子が視界に飛びこんできた。目をしばたたきながら、部尿の隅に置いたソファ・ベッドに腰をおろした。指先は相変わらずかすかに震えていたし、心臓の鼓動も早かった。
「富春が戻ってきた」
指先に視線をあてて、そう口に出してみた。目の前に死神が現れたような気がした。
おれと富春は似た者どうしだった。少なくとも、身体の中に流れる血が半分は日本人、もう半分は中国人のもの――といっても、おれの場合は台湾人だが――という点では兄弟のようなもので、どちらもそれまで自分が属していた世界とは別の世界に受け入れてもらおうとして、手厳しく拒否されたという点では同じコインの裏表みたいなものだった。
富春は、いわゆる残留孤児二世だ。戸籍上の名は、たしか坂本富雄とかいう名前だと聞いたことがある。八二年だか三年だかに、大陸の吉林《ジーリン》省から、親父、お袋、二人の兄妹と共に帰国してきた。お袋が残留孤児だったのだ。おれが富春と初めてあったのは、八九年の冬。そのときにはすでに富春はほとんど自暴自棄になっていた。
富春とは、区役所通り沿いにある台湾クラブでであった。おれはいつものように宝石や衣類を捌《さば》いていた。富春はカウンターの端っこで、ひとりグラスを傾けていた。口の中でなにやらぶつぶつとつぶやき、視線に触れるすべてのものを徹底的に破壊しつくしてやるといった目を、落ち着きなくあたりにさまよわせていた。
その視線がおれの顔の上でとまった。面倒なことになるのかとおれはうんざりした。だが、違った。富春はおれの顔を見て、懐かしいものにであったように目を細めたのだ。富春は北京語で、中国人かと聞いてきた。おれは、半々《パンパン》だ、と答えた。狼の群れの中に聞違って紛れこんでしまった野良犬同士が、お互いの存在を敏感に察知したようなものだ。
それから、おれたちは組んで仕事をするようになった。ヤバい仕事の時は、富春が必ずおれの横にいた。富春の凶暴さはあまねく響き渡っていたので、おれたちが何かを企まないかぎり――おれはいつだってまっとうに商売をしてきた。つまり、そんなことはなかったということだが――おれをカモろうとする阿呆はいなかった。楊偉民の後ろ盾を失っていたおれは強力な支え棒を手に入れたようなものだったし、富春は生まれて初めて得た「相棒」というものの存在にすっかり舞いあがっていた。
おれたちは精力的に仕事をこなした。立ち止まってしまったら、ふたたび走りだすことができなくなるというように。よくやったのは、「同胞《トンパオ》」からかっぱらうことだ。目星をつけた中国人留学生の背後を、おれが調べあげる。まずい点がなにもないとわかると、富春が出かけていって、哀れなカモを殴り倒し、財布をかっぱらってくる。
金はたいした問題じゃない。良家の子弟たちの持つクレディットカードが、おれたちに金の卵を運んでくれるのだ。富春が財布を手に入れると、おれはまず、クレディットカードを使って買えるかぎりの新幹線や飛行機のチケットを買った。そのチケットを金券屋へ持っていけば、八割から九割の率で換金してくれる。その次はデパートだ。いくつものデパートの子供服売り場へいって、店員に怪しまれない程度に子供服を買ってくる。電化製品なんかに手を出すと、必ずパクられる。子供服というのがミソなのだ。だれも、子供のことは疑わない。子を持つ親のことも疑わない。二、三日してから、前もって話をつけておいた女にその服を持たせてデパートへいかせる。子供の誕生日に知人から送られたのだが、サイズがあわない、引き取ってもらえないだろうか。そういわせる。大抵のデパートは、ろくに商品を調べもせずに引き取り、代わりに金額分の商品券を女に手渡す。
もちろん、その商品券は金券屋に直行することになる。女に手数料を渡した残りが、おれと富春の取り分だった。おれたちはその金を四分六分で取り合った。おれが六分だ。富春は別に不平をいわなかった。この世界では腕力よりも頭を使う方が大事だということを知っていたのだ。
おれたちはいいコンビだった。仕事のとき以外は極力顔を合わせないようにしていたが、富春の考えていることは顔を見なくたって手に取るようにわかった。富春は、おれがなにを考えているかなど気にしたこともなかった。そのころにはすっかり落ち目になっていたおれの運もようやく上向いてきたような気がしたものだ。
だが、やがて、おれは富春を持て余すようになった。富春の暴力衝動がおれの予想を超えて暴走しはじめたのだ。ある日、富春はカモを殴り殺した。そんな必要はまったくなかったのだ。一度殺してしまうと、富春には歯止めが効かなかった。おれがどれだけいさめても、富春は殺すのをやめなかった。そのうち、おまわりたちが街をうろつくようになって、おれたちは逼塞《ひっそく》を余儀なくされた。
おれは富春との仕事で貯めた金でこの店を手に入れ、頭を低くして嵐が過ぎ去るのを待とうとしたが、富春は違った。金で殺しを請け負うようになったのだ。中国人だろうが日本人だろうがおかまいなしだった。金をもらえなくても、富春は殺しをやったんじゃないかと思う。富春の心の中にはなにかが欠落していた。それを削り取ったのは日本人と中国人なのだ。
富春は中国にいたころの話をよくしたが、日本に来てからのことはほとんど口にしなかった。
「日本でかよった最初の学校はクソ溜めだった」
一度だけ、酔った富春がおれにいったことがある。
「徹底的にいじめられたぜ。日本人のくせにどうして日本語がしゃべれないんだとか、くせぇ匂いがするのはどうしてだってな。悔しかったらなにかいい返してみろよ。どいつもこいつも同じだった。クソだ。だから、おれはいい返してやったんだよ。日本語じゃなくって、この拳でな」
富春は握り拳をうっとりした目で眺めながら話を続けた。
「もちろん、学校はクビになった。おふくろは大慌てさ。せっかく、天国のような日本に帰ってこれたのに、なんだっておまえは問題を起こすんだってな。おふくろはなんにもわかっちゃいなかったのさ。自分だって親戚から冷たい目で見られ、ろくに日本語が話せないせいで仕事にもつけなかったってのにな。これでもおれはおふくろ思いの孝行息子だったんだぜ。おふくろを悲しませちゃいけねぇと思って、必死で日本語を勉強した。役所が新しい学校を世話してくれることになったんだ。次の学校じゃ、同じようなヘマは絶対にするもんかって思ったんだよ。おれが残留孤児の二世だってことは、生徒には隠してくれって頼んだんだ。だが、だめだった。新しい学校じゃ、おれはいないも同然だった。先公以外だれもおれに話しかけてこなかった。おれが訛り丸出しの日本語をしゃべったって、だれも気にもとめなかった。変な言葉をしゃべる新入りなんて、どうだってよかったんだ。受験勉強の邪魔にさえならなきゃな。おれはとんだ道化《どうけ》だったのさ。前の学校の方がまだマシだった。やつらにはさんざん馬鹿にされたが、それでも相手をしてもらえたからな。あるとき、隣に座ってたやつに、中国に行ってみたくはないかと聞いたんだ、なにをトチ狂ったんだかな。そいつは迷惑そうにおれを見ただけで、すぐに参考書に視線を戻した。その瞬間、おれの頭の中でプツンと音がしてなにかが切れちまったんだ。気がついたら、そいつはおれの目の前で頭から血を流してぶっ倒れてた。おれの手は椅子《いす》を握ってた。ほら、学校によくあるあのパイプ椅子だ。おれはその椅子をしっかり握り直して、そいつの頭に叩きつけてやった。何度も何度もだ。それで、少年院に行くことになったのさ」
おれが富春《フーチュン》から聞いたのはこれだけだ。おれには富春の頭の中でなにが起こったのか、正確に分析することができた。ヘマさえしなけりゃ、富春をうまく飼い馴らすことができるとさえ思っていた。そんなのは、おれの思い上がりにすぎなかった。おれは富春を遠ざけるようになった。
そして、富春は元成貴《ユェンチョンクィ》の怒りを買うことになったのだ。
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電話のベルで目がさめた。また電話だ。
強張《こわば》った首筋を揉《も》みほぐしながら、壁にかけた電話の受訴器をとった。
「おれだ。昼飯を食おう」
一番聞きたくないやつの声だった。おれは腕時計を見た。九時を少しまわっていた。
「これから人とあう用事があるんだが」
「咸享酒家《シェンシァンジゥジァ》。十二時半でどうだ?」
「ちょっと待ってくれよ。今日はスケジュールが詰まってるんだ。明日なら……」
「健一、おれをなめてるのか? おれがなんの話をしたいのか、見当はついてるんだろうが」
オペラ歌手でもつとまりそうな低く太い声。そいつが、青竜刀のようにおれの神経をズタズタに引き裂いた。元成貴は人を脅すのがうまい。それでのしあがってきたようなものなのだ。
「富春のことはなにも知らないぜ」
おれは眠っている竜を起こさないよう小声で囁《ささや》いた。
「ふざけるな。おまえたち、実の兄弟みたいに仲がよかったじゃないか」
「昨日、楊偉民から聞いてはじめてあいつが戻ってることを知ったんだ」
「おまえが嘘をついてないと、どうしておれにわかる? 日本人がおれたち中国人に嘘をつかないと、どうしておれにわかるんだ?」
受話器の向こうで唾《つば》を飛ばしながらわめいている元成貴の大写しの顔が脳裏に浮かんだ。
「一時半でよかったら、飯をおごってもらうよ」
おれはいった。元成貴に逆らっても無駄だが、へいこらしながら従っているわけじゃないというところをきちんと示しておかないと、あとあと面倒なことになる。
「最初からそういえばいいんだ。必ず来いよ。逃げでもしたら、若い者におまえのみすぼらしい店を壊させるからな」
「行くって。じゃなきゃ、富春とまだつるんでると思われちまうからな」
元成貴がなにかを怒鳴った。上海語だったのでなにも聞き取れなかった。じゃぁなという言葉を放りこみ、おれは電話を切った。
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〈カリビアン〉を出ると、目を血走らせた元成貴のチンピラたちがいやでも目についた。手を出すなといい含められているのだろう、おれを見ると顔を強張らせるが、こんなやつにかまっている場合じゃないとでもいうように血走った目を左右に走らせ、どこへともなく歩いていくやつが多かった。
風林会館脇の通りに出、大久保病院の跡地に建ったビルに入った。健康プラザ・ハイジアという顔が真っ赤になりそうな名前のビルだ。中にスポーツクラブがあって、おれはそこに毎月なにがしかの金を払っている。富春の出現で混乱していたおれの頭は、さっきの元成貴からの電話ですっかり怖気《おじけ》づいていた。こういうときには身体を目一杯こき使って、頭の中を真っ白にするのがいい。
ロッカーから水着を取りだして着替えると、プールに向かった。おれは泳げない。肩までつかる深さのプールに入って、両手で水をかき分けながらひたすら歩くのだ。このスポーツクラブに通いはじめたころは他の利用客の笑い声が気になったが、視線を水中の足もとに固定させ、一心に歩いているとすべての雑念が頭から消え失せてしまう。
一時間ほど歩きつづけると、空腹を感じはじめた。シャワーを浴び、バスローブに着替えてリラクゼイション・ルームでオレンジ・ジュースとハム・サンドをぱくついた。それで、ようやくものを考えることができるようになった。
まずは〈薬屋〉だ。元成貴とあうことを、楊偉民に伝えておかなければならない。おれになにかがあった場合、手を下したのは元成貴だということを富春に伝えてくれるぐらいのことは、いくら業突くばりなあの爺さんだってやってくれるだろう。
ロッカールームで着替え、エレベータに乗ろうとしたところで、脇にある公衆電話に気づいた。おれの知るかぎり、このスポーツクラブに北京語を理解する人間はいない。おれは受話器を取り、カードをスリットに押し込んだ。
「はい?」
黄秀紅《ホヮンシウホン》の濡れたような上海語が電話に出た。
「健一だ。いま、ひとりかい?」
北京語でいった。
「ええ。こんな時間に、いったいなに?」
ふたたび受話器から聞こえてきたのは非の打ちどころのない北京語だった。口調の端に警戒の色がうかがえた。
「昨夜は元成貴と一緒だった?」
おれは明るく訊《たず》ねた。こういうときのために、秀紅の店の女たちには特別に安くブツをおろしているのだ。せいぜい利用させてもらわないと割にあわない。
「あなたにどういう関係があるの?」
「元成貴に昼飯を食おうって誘われてるんだ」
喉の奥で、ああ、という声が漏れるのが聞こえた。
「呉富春のことね。あの人、ずいぶんカッカしてたわよ。逃げた方がいいんじゃない」
「おれもそうしたいんだけどね、歌舞伎町以外で食っていける自信がないんだ」
秀紅は少女のようにけらけらと喉を震わせて笑った。彼女のそんな笑い声を聞くのは初めてだった。おれたちはいつだって薄ぐらい店の中で顔をあわせている。
「おれのこと、なにかいってたかい?」
「呉富春の居場所を絶対に吐かせてやるって……そうね、楊偉民には話をつけてあるから多少痛めつけても大丈夫だっていってたような気がするわ」
「くそ!!」
電話の側にあったゴミ箱。思いきり蹴りつけた。ゴミ箱は派手な音を立てて床に転がった。ちょうどエレベータから出てきた中年男が悪魔に出くわしたとでもいいたげな顔でおれを見、慌ててエレベータのドアを閉めた。
楊偉民のやりそうなことだ。恐らく、おれが殺されることはない、と踏んだのだろう。おれを生贄《いけにえ》に差しだして、元成貴に貸しを作っておく腹づもりなのだ。
「だいじょうぶ?」
秀紅がいった。おれを気遣っているのではなく、ゴミ箱のたてた音に驚いたような声。
「あ……ああ」
おれは煙草を取りだし、火をつけて煙を深く吸いこんだ。
「逃げなさい、健一。元成貴を怒らせて、楊偉民にまでそっぽを向かれたら、歌舞伎町にあなたのいる場所はないわよ」
「富春とおれとはもう無関係なんだ」
自分でも声が上ずっているのがわかった。それでも、いわずにいられなかった。
「あんたから元成貴に説明してやってくれ」
「元成貴は信じないわよ、そんなこと」
突き放すような声だった。冷ややかなその声は、おれにいくぷん冷静さを取り戻させてくれた。
「そうだな……自分でなんとかするさ」
「殺されはしないと思うけど。怪我が治ったら、店に来てちょうだい。わたしのおごりで飲ませてあげるわ」
電話が切れた。おれは静かに受話器を戻し、秀紅の言葉に思考を巡らせた。最悪の展開。だが、どこかに道はあるはずだ。細い、蜘蛛《くも》の糸のように頼りない道だとしても。おれはいつだってそんな道を見つけては生き延びてきた。今度だってなんとかなるはずだ。
おれは煙草を踏み潰し、エレベータの下降ボタンを押した。
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〈薬屋〉の前――若い台湾人が数人でたむろしていた。おれに気づくと、通せんぼをするように立ちはだかった。
「楊偉民に用があるんだ。通してくれ」
やつらは口々になにかを叫んだ。
「北京語で話してくれ。台湾語はわからないんだ」
そういうと、やつらはぴたりと口を閉じ、人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべた。おれが睨み返してやると、やつらの内の一人が吐きだすように叫んだ。その台湾語なら理解できた。昔、嫌になるほど浴びせられてきた言葉――本省人の子供のくせに台湾語が話せないなんて情けなくないのかよ、そんな意味の台湾語だ。
台湾じゃ、国民党政府と共に台湾に渡ってきた中国人を外省人、それ以前に住んでいたやつらを本省人と呼んで区別している。第一世代の外省人はもちろん北京語しか話せないし、国民党が北京語を国語に制定したせいで、若い本省人も今じゃ北京語を日常会話に用いている。しかし、それは家の外での話で、身内の間では台湾語を使っているのだ。台湾語を話せない台湾人は、肩身の狭い思いをするしかない。おふくろと一緒に歌舞伎町にやってきた当初は、そのことで同じ年ごろの台湾人にさんざんいじめられたものだ。台湾語を話せないことと、楊偉民の庇護を受けていることがやつらの癇に触ったのだろう。
もちろん、おれは楊偉民に台湾語も教えてくれとせまった。だが、楊偉民はやんわり首を振り、台湾語は台湾出身者にしか通じない、北京語を身につけていれはそれでことたりるのだともっともらしくいうだけだった。それなら自分で学んでやろうと思ったが、ガキどもがおれを罵るとき以外、楊偉民の息がかかっている台湾人は、おれが近くにいるときは台湾語を滅多に使わなかった。ある程度年を食ってから知ったのだが、楊偉民がおれに台湾語を教えるなと釘を刺していたのだ。
だから、おれが理解できる台湾語は半々を馬倒する言葉だけだ。
「ガキには用はない。どけ」
おれはいった。日本語だった。頭のてっぺんあたりから足もとに向かって、血がすーっと降りていった。ズボンのポケットの中に突っ込んだ両拳がじっとりと汗に濡れていた。おれを罵倒したやつが懐に手をさし入れた。次に出てきたときには、ナイフがその手に握られていた。
「やめんか!! 通してやれ」
〈薬屋〉の奥から、楊偉民の嗄《しわが》れた声がした。ガキどもの顔に動揺の色が走った。
「わしは大陸の人間が来ないように見張っていろといったのだ。馬鹿者どもめ!」
中国系の人間は、厳格なまでの家父長制度に身も心も縛られて育っている。楊偉民の一喝はガキどもをビビらせた。ナイフを手にしたガキは、いまにも小便をもらすんじゃないかと思えるぐらいに怯えてしまっていた。
「またな、くそガキども」
おれは汗まみれの手でナイフを手にしたガキの胸を小突き、〈薬屋〉に足を踏み入れた。
「子供はものの道理がわからんから困るんだ」
楊偉民は眼鏡の奥の瞳を吊りあげながら、おれに手招きした。
「富春が戻ってきたと教えてくれたときには、もう元成貴におれを売ってたんだな」
手招きを無視して、おれは日本語でいってやった。
楊偉民は肩をすくめるような仕種《しぐさ》をしていつもの椅子に腰をおろした。おれのことなど意に介してもいないといいたいのだ。
「しかたあるまい。元成貴は怒らせてもかまわないという相手ではない。呉富春を殺すためなら、なにをしでかすかわからん。先手を打って、我々台湾人に火の粉がかからんようにした。わしには責任があるからな」
楊偉民は日本語で答えた。多分、表にいるガキどもに話を聞かれたくないのだろう。
「おれに対する責任はどうなったんだ? あんた、おれが十八の時までおれの保護者だったろう」
楊偉民はじろりとおれの顔を覗きこんだ。間抜けなカモを見つけたハイエナを思わせる視線だった。
「おれが元成貴に殺されても、あんたは眉一つ動かさないってわけか」
「馬鹿をいうな。元成貴がおまえを殺すはずはない。あいつはそこまで愚かではない。痛めつけられるだけだ」
「ふざけるなよ、爺さん。たしかに、おれはもうあんたの身内じゃない。いや、最初からあんたの身内なんかじゃなかったのかもしれないさ。だけどよ、今まで持ちつ持たれつでやってきたんじゃないか。そのおれを売るってのはどういうことだ? それこそ、あんたらが嫌いな信義に反するってことじゃないのか?」
おれはショウ・ケースの上に身体を乗りだしてまくしたてた。藁《わら》にもすがりたい気持ちだった。ここで楊偉民に見放されたら、元成貴の追及をかわすために、かなり危ない橋を渡らなきゃならなくなる。
「呉富春はおまえの荷物であって、わしらのではない」
にべもない言葉。楊偉民はそれで話は終わったとでもいうように、小さく折り畳んだ新聞に目を通しはじめた。
「わかったよ」
おれは諦めていった。こうなっては、だれも楊偉民を動かすことはできない。別のアプローチを探るしかない。
「爺さん、あんたのいい分はよくわかった。たしかに、富春の件はあんたの身内にはなんの関係もないよな」
楊偉民は背を丸めて新聞に見入ったままだ。その小さくなった背中を見つめていると、時が楊偉民の周りだけ止まってしまったような錯覚を覚えた。
「だけど、元成貴におれが痛めつけられるのが楽しいってわけじゃないだろう?」
おれは煙草に火をつけ、天井に煙を吐きだした。
「おれだってできることなら、あんたの身内の手をわずらわせたくはない。ただ、二つ三つ頼みたいことがあるだけなんだ」
「いってみろ」
楊偉民は相変わらず新聞に顔を向けたままだった。それでも、楊偉民から言葉を引きだしたことはおれにとってささやかな勝利を意味した。
「崔虎《ツイフー》に顔をつないでもらいたいんだよ」
北京話に切り替えた。楊偉民がゆっくりこっちに顔を向けた。おれのいったことが耳に入らなかったというような顔だった。
「だれだって?」
楊偉民の言葉も北京語だった。
「崔虎」
「やめておけ」
楊偉民はすっかりおれに向き直った。膝《ひざ》を左右に開き、両手をその上に置いて前屈みになった。身内に説教をするときの癖だ。
「あいつは狂人だ。かかわるとろくなことにならない」
「元成貴の気を引くには、あいつを利用するのが一番だと思わないか、爺さん」
楊偉民は薄い膜がかかったような目を自分の足もとにじっと注いでいた。おれは煙草を吸って待った。楊偉民の考えがまとまるのを。
崔虎――おそらく本名じゃないだろう。北京出のインテリ崩れが考えそうなはったりにもならない通り名。北京の流氓《リウマン》は上海のやつらに対抗しようと最近じゃまとまってることが多い。ただ、崔虎のグループは別で、ことあるごとに元成貴とぶつかり、血の雨を降らせている。ここのところ歌舞伎町で起きている中国人同士の殺し合いの六割は、崔虎が絡んでいるといってもいいほどだった。
「おまえが上海のやつらにブツを捌いているのを崔虎は知っている。こころよく思っていないかもしれん……それに、やつを巻きこむと上海と北京の戦争になるかもしれん」
楊偉民が顔をあげた。おれは煙草をショウ・ケースの上の灰皿に押しつけた。
「そのへんはうまくやる。崔虎が五丁目あたりに部屋を借りたがってるという噂を聞いたことがあるんだ」
楊偉民がなるほどというようにうなずいた。こういうときにこそ、おれの日本国籍と高橋健一という名前が威力を発揮することを知っているのだ。最近じゃそういうことも少なくなってきたが、それでも、外国人、特に東南アジア系の人間に部屋を貸すことを嫌がる大家はあとを断たない。とある中国人がどこかにいい物件を見つけたとする。そいつは、不動産犀に駆け込む前におれに電話を入れて、条件の折り合いをつける。話がつけば、戸籍謄本、住民票、印鑑登録証明その他諸々の書類を片手に、おれがその物件を扱っている不動産屋を訪れてやることになる。契約は大抵スムーズに運ぶ。盛り場|界隈《かいわい》の物件の大家は、よほど派手に騒ぎたてたり家賃を滞納したりしないかぎりは住人の動静に目くじらを立てたりはしないものだ。おれと契約をかわした中国人は、郵便受けに高橋健一と書いた紙を張りつけ、あとは静かに寝起きするだけでいい。なにか問題が起こりそうなときは、おれが泊まりこみに行って大家をたぶらかす手はずになっているのだ。
もちろん、おれを利用するだけしておいて、部屋に住みはじめたら家賃も払わなきゃ、大勢の仲間を呼んで騒ぎはじめるという間抜けもいることはいる。そういうときは、楊偉民にひとこといえばガキどもを送りこんで丁重に脅しをかけることになっている。
崔虎が部屋を探しているという噂はどこからともなく漏れてきた。それも、自分が住む部屋ではなく、子分どもを侍《はべ》らせておく事務所のような物件を探しているというのだ。住居用のマンションより、そうした物件の方が審査基準は厳しいものだ。おれが崔虎につけいるとしたら、うってつけの足がかりだった。
「なるほど、そういう手があったか」
「元成貴も、崔虎たちと戦争をしようなんて考えは起こさないんじゃないか? それに、もし戦争になったとしても、上海の馬鹿どもと北京の阿呆どもが殺しあったところで、あんたの身内やおれにはどうだっていいことだ。そうだろう、爺さん?」
深い皺《しわ》が刻まれた顔がかすかに動いた。笑ったのだ。笑うと、色素が薄くなった目が無気味に光った。
「よかろう。崔虎におまえがあいに行くことを伝えておこう」
「元成貴と約束したのは一時半だ。十二時には崔虎と打ち合わせておきたいんだけどな」
楊偉民は壁にかけられた時計に視線を走らせた。
「いまの時間なら、天楽苑《ティエンローエン》で飯を食っているだろう。電話をいれておいてやる」
「もう一つ。表のガキどもを貸してくれないか」
おれは夏美と名乗った女からの電話のことを楊偉民に話した。富春が戻ってきた直後に電話があったということがどうにも気に入らない。偶然なんてものを信じてろくなめにあった例《ため》しがない。夏美にあうには慎重にも慎重を期すつもりだった。元成貴との昼食が簡単に終わるとは思えない。ガキどもに女のねぐらを調べさせ、こちらの足もとに余裕があるときに――つまり、向こうがなにかを企む怖れのないときに出向くのだ。
おれの話が終わるのを待って、楊偉民は表のガキの一人に声をかけた。反応したのはナイフを取りだしたガキだった。教師に悪さを見つかった小学生のようにおどおどしながら、そいつは店の中に入ってきた。
「徐鋭《シウルイ》だ。血の気が多いのとそのくせ臆病なのが欠点だが、頭はよくまわる」
徐鋭という名の発音以外は、楊偉民は日本語でそういった。それから、今度は台湾語で教え諭すように徐鋭になにかをいい聞かせた。
「どうすればいいのか話してやれ。おまえのいうとおりに動く」
徐鋭は胡散臭《うさんくさ》そうな目をこっちに向けて、おれの言葉を待っていた。
「午後の三時。風林会館の前で女がおれを待ってる。おれはいかない。おまえたちはその女の後を尾《つ》けて、どこに住んでるのかをおれに教えるんだ」
徐鋭は台湾語でなにかをほざいたが、楊偉民の一喝が飛び、慌てて北京語でいいなおした。
「どの女? 風林会館の前には女はいっぱいいるよ」
「そわそわしている女を探せ。人を待ってる女だ」
「日本人?」
「わからん。日本人と変わらない日本語を話したが、中国人かも知れないし、朝鮮人かもしれない」
「そんな女がいっぱいいたら?」
おれはため息をもらした。
「楊偉民は、おまえの頭は回転が早いといったが、でたらめだな、小僧」
楊偉民の顔色をうかがっていた徐鋭の目の奥に険しい色が浮かんだ。確かに、血の気は多そうだ。
また楊偉民が、台湾語でなにかをいった。徐鋭は渋々といったようすで、肩を尖《とが》らせながらおれから視線をそらせた。
「もしそんな女が何人もいたら、手分けしてその女たちの後を尾ければいい。そうだろうが、小僧」
「わかったよ」
それで満足することにした。おれは上着のポケットに手を突っ込み、くしゃくしゃになった万札を二枚、掴みだした。
「小遣いだ。うまくいけば、あと三万出してやる」
徐鋭はひったくるようにして札を手にすると、なんの挨拶《あいさつ》もよこさずに外へ出ていった。
おれは肩をすくめながら楊偉民に顔を向けた。
「おまえは昔から若い者の受けが悪い」
楊偉民はにこりともせずにそういった。
「ガキはガキだ。どう思われようと知ったこっちゃない」
「人徳がないからそういうことになるんだ。若い者に慕われなければ、年をとってから辛い目にあうぞ」
「爺さん、おれが長生きすると本気で思ってるのかい?」
楊偉民はなにもいわなかった。感情をうかがえない目で、じっとおれを見つめているだけだった。
おれは軽く目礼をして、店を出た。
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区役所通りを北へ向かい、風林会館の手前を右に折れ、パワーステーションへと続く道の途中に、天楽苑はある。屋台に毛がはえたような食堂だ。〈薬屋〉から歩いて五分とかからない。楊偉民《ヤンウェイミン》の電話が終わるのを待つために、おれはことさらのんびり歩いた。店の前についたときには、時計は十一時半を指していた。
崔虎《ツイフー》は麺《めん》をすすっていた。取り巻きの連中が虎の檻《おり》の中に入れられた猫のように身体を強張らせている中、ひとり悠然としていた。黒い髪を中途半端に伸ばし、銀縁の眼鏡をかけていた。濃い赤のポロシャツにカーキの綿パン、足もとは薄汚れたスニーカー。日本人の目には留学生ぐらいにしか見えないだろう。
おれが中に入ると、崔虎は麺をすする手を止めておれをまっすぐに見た。その目を見れば、だれも崔虎を留学生だとは思わない。どろどろとした感情が渦巻いた、見つめられるだけで頭が痛くなりそうな独特のきらめきがその目の中にはあった。
取り巻きの何人かが椅子《いす》を蹴倒して立ちあがった。崔虎はそれを手で制し、目の前の椅子に座るように顎《あご》でおれに促した。
「楊偉民から電話はもらった。話があるそうだな」
これまで聞いたこともないようなきれいな北京語。崔虎が北京大学出だという噂があるが、本当なのかもしれない。
「あんたが事務所を構えたがってるという噂を聞いた。力になれると思う」
おれは煙草に火をつけた。
「見返りはなんだ?」
間を置かずに崔虎はいった。おれをよく知っているということだ。
「今日、元成貴《ユェンチョンクィ》に痛めつけられることになっている。そうなると、あんたの役に立つにはしばらく時間がかかることになっちまう」
「おれに、元成貴に喧嘩を売れっていってるのか?」
「いや、そんなことはない。こっちとしては、ちょっと話を通しておいてもらいたいだけだ」
崔虎は笑った。とんでもなくおかしい冗談を聞いたというように取り巻きの連中の顔をひととおり眺めまわした。空々しい笑い声が店内に響き、おれの肝っ玉は縮こまった。
「面白いことをいう男だな、おまえ」
笑い終えた崔虎は、テーブルの上に身を乗りだし、おれを覗きこむように顔を突きだしてきた。
「そりゃ、どうも」
「おまえ、元成貴とは仲がよかっただろう。それがなんでまた、そんなことになったんだ?」
「いろいろと誤解があってね」
「なるほど……」
崔虎はゆっくりおれから顔を遠ざけ、椅子に深く腰をおろした。
「いろいろ誤解があった、と。それで、今までは鼻も引っかけなかったおれのところに助けを求めに来たってことか」
「ちょっと待ってく……」
崔虎の手が素速く動いた。よけることはできなかった。生あたたかい液体が顔中を濡らした。丼が床に転がる乾いた音。一斉に笑い声が起こった。中にはおれを指さしているやつもいた。おれは煙草を吐きすてて掌で顔をぬぐい、黙って崔虎の目を見つめた。
「どうだっていいんだよ。おれは、おまえがおれたちを腹の中で馬鹿にしてることを知ってる。北京のやつらはみんな意気地なしの豚野郎、そう思ってるんだ」
崔虎はにやにや笑いながら口を閉じた。おれの返事を待っている。とんだ誤解だ。おれはなにも、北京野郎だけを阿呆だと思っているわけじゃない。この世界で一番阿呆なのは日本人で、あとはどこの人間も一緒だ。
「半々《パンパン》のくせに、ふざけるんじゃねぇってんだ」
崔虎の目。ギラついた光を帯びはじめていた。怜悧《れいり》さを感じさせる眼鏡とギラついた目のコントラストが、崔虎の凶暴さを増幅させていた。おれは新しい煙草に火をつけた。
「おまえを脅して不動産屋と契約させることもできるんだぞ」
「だが、あんたはやらなかった」
「どうしてだと思う?」
おれは拳を握りしめた。ここが踏んばりどころだ。
「楊偉民と元成貴が恐いからだ」
殴られた。顎《あご》だ。おれは真後ろに吹き飛んだ。
「おれはだれも怖れちゃいない!」
ガンガンする頭を振りながら、肘《ひじ》をついて体を起こした。崔虎が仁王立ちになって吠えていた。
「楊偉民はただの老いぼれだし、元成貴は度胸もなにもねぇ。いいか!?」
崔虎は人差し指をおれに突きつけてきた。層が奇妙な形にねじ曲がり、目が大きく吊《つ》りあがっていた。
「二度と同じことをいうんじゃねぇ。次は、殺すぞ」
崔虎のはったりを聞きながら、ゆっくり立ちあがった。左手で顎をさすり、骨が折れていないことを確かめた。倒れていた椅子を起こし、腰かけた。
「さて、と。ビジネスの話をしようじゃないか」
崔虎は何事もなかったかのように両手を広げた。
「おれはおれの名義をあんたに貸す。トラブルは起こさないと約束してくれれば、どんな物件でもおれが借りてこよう。それに、これは一回こっきりの約束じゃない。今後も、おれの名義が必要になればいってくれればいい」
口の中に血の味。下顎の内側がひりひりと痛んだ。苦痛を堪えて崔虎の目をじっと見据えた。
「それで、おれはおまえの名義を借りるために元成貴に電話しなきゃならんというわけか。劉健一《リウジェンイー》には貸しがあるんだ、よろしく頼むぜ、ってな。そういうことだろう?」
おれは崔虎の目を覗《のぞ》きこんだままうなずいた。崔虎の唇の端にはあるかなしかの笑みがへばりついていた。まるで、おれの視線を楽しんでいるかのように。
「元成貴も、いま、あんたとことを構える気はないはずだ」
「根性なしなんだよ、あの野郎は」
崔虎は大袈裟《おおげさ》に頭を振ってみせた。それから、おれの方に身を乗りだし、親友にだけ悩みをうちあけるといった感じの声を出した。
「おまえが来る前に楊偉民から電話があった。この件にあのじじいが噛んでると考えてもいいのか?」
恐いものなしの崔虎でも、楊偉民の動向は気になるらしい。楊偉民の影響力は堅気たちのネットワークの上に成りたっている。流氓《リウマン》は堅気の生き血をすすらなければ生きていけないのだ。楊偉民の懐に潜りこむことができれば、崔虎にとってこれ以上に都合のいいことはない。
おれは静かに首を振った、崔虎の目の色が変わった。それに気づかないふりをして、口を開いた。
「楊偉民は元成貴におれを売ったんだ。それがうしろめたくておれをあんたに紹介した。それだけのことさ」
崔虎は疑り深そうな視線をおれに向けてきた。煙草に火をつけ、その視線をかわした。
「おまえのいうことを信じるが、この件でおれが楊偉民に貸しを作ることは確かだ。そうだろう?」
崔虎はおれを見つめたまま、しゃがれた声でいった。
「楊偉民にいっておくよ」
「よし、元成貴には電話をしておこう。事務所を借りる件に関しちゃ、そのうち、若いもんをおまえのところにやらせる」
崔虎が立ちあがりかけた。おれは慌てて手を振った。
「もう一つ、頼みがあるんだ」
「なんだ?」
もう興味は失せたといいたげに、崔虎は眠そうな目をおれに向けた。
「拳銃の都合してもらえないかな――」
崔虎の目がきらりと光った。
「いや、元成貴に使うってわけじゃない。楊偉民にも見捨てられて足もとが覚束なくなってるんだ。護身用に持っていたいだけだ」
崔虎はふと笑い、傍らにいた取り巻きの一人に顎をしゃくって小さな声でなにかを命じた。取り巻きは上着の奥に手を突っ込み、黒光りするオートマティックをおれの前に差しだした。銃把に黒い星が刻まれていた。
黒星《ヘイシン》。中国製のトカレフ。
「これはサービスだ。弾丸も余計にいるか?」
首を振った。何発弾があったところで、元成貴が本気でおれを殺す気になれはひとたまりもない。念のために銃が欲しいだけなのだ。
「おまえが元成貴と仲よくしていようが、おれは見えないふりをしてやる。その代わり、おれが借りたいときにおまえは名義を貸すし、どうしても手に入れたいブツがあったときには必ずおれにさしだす。それでいいな?」
おれはうなずいた。崔虎――というか北京のやつらとはできればかかわりたくなかったのだが、背に腹は替えられない。
崔虎が、会見は終わったというように、小さく顎をしゃくった。
おれは黒星を慎重に手にとりセイフティが作動しているのを確認して、ベルトと腹の間に突っ込んだ。
「そいつを、おれの身内に使うんじゃねぇぞ」
「まだ死にたくないからこいつが欲しかったんだ」
崔虎は笑った。自分の持ち物を誉められた子供のような、誇らしげな笑いだった。
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元成貴と約束した時間までまだ間があるのを確認して、おれは〈カリビアン〉へ戻った。麺の汁を吸った上着とシャツが不快だった。それに、黒星。こいつを持ったまま元成貴とあうわけにはいかない。
自分の部屋にあがる前に、オウディオのスウィッチを入れ、崔健《ツイジェン》のCDをセットした。ヴォリュームを目一杯にあげて、スタートさせる。小気味のいいリズムと崔健の嗄れた声が狭い店内をいきなり圧倒した。
大陸から逃げだしてきた連中にとっちゃいまでも語り草になるほどの大串件だが、天安門でのことに、おれはことさらな感慨を抱いたことはない。祖国≠ヘ、おれにとっちゃガキどもが目をひんむいて夢中になっているファミコン・ソフトの中の架空の王国のように遠い存在だ。だから、テレビの画面が映しだす光景を、おれは漫然と眺めていた。顔見知りの中国人たちが、ひっきりなしに電話をかけてくるのがわずらわしく、単に「おれもテレビで見てるよ」ということを伝えるためにテレビをつけていたのだ。学生どもが戦車に轢《ひ》き殺されるのを見ても、なにも感じなかった。おれの生きている世界の方がよっぽど残酷で非情だったからだ。
それでも、画面を見ていて引っかかるものがあった。広場に集まった学生どもが口ずさんでいた歌。その歌は針でつつかれた無数の風船が立てる音のようにおれの心を揺さぶった。おれは画面をじっと見つめていたが、目にはなにも映っていなかった。学生どもの口ずさむメロディが何度も頭の中でリフレインしていただけだ。
その歌が、崔健という名のロック・ミュージシャンの『一無所有《イーウースォヨウ》』という歌だと知ったのは、数日後だ。おれはあらゆるつてを総動員して、崔健のミュージック・テープを手に入れた。それ以降はことあるごとにそのテープに耳を傾けた。しまいには、テープが擦りきれて、裏面の音が混じってくるほどになった。日本で崔健のCDが手に入るようになったのは最近のことだ。店が暇なとき、おれはよく歌詞を志郎に訳して聞かせてやった。酔ったときには曲にあわせて歌いさえした。おれに、祖国≠想う気持ちがあるとしたら、それは崔健の声の中にある。
曲が『這兒的空間《ヂョールダコンジェン》』に変わった。この狭っ苦しい場所という意味のタイトルだ。おれは曲を聞きながら、狭っ苦しい自分の部屋へあがった。小さなクローゼットの奥に銃を隠し、放り投げるように服を脱ぎ捨てた。身体中、汗まみれだった。まともに顔を合わせて交渉ごとをするには、崔虎はおれには重すぎる相手だ。
タオルを滞らして頭と体を拭い、ソファにへたりこんだ。アコースティック・ギターが優しくメロディを奏で、崔健が『一塊紅布《イークァイホンプー》』を歌いはじめていた。
あの日おまえは一枚の 紅い布きれで
おれの両目を覆い 天を覆った
おまえは聞いた なにが見える?
そのあと、崔健は「幸せが見える」と歌った。
おれは、「なにも見えやしねぇ」と答えた。
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〈咸享酒家〉は、西武新宿駅ぞいを走る通りの歌舞伎町側で派手な電飾をきらめかせている。元成貴が表の顔で経営している高級上海料理屋。堅気の日本人か金のある中国人しか相手にしない。
自動ドアを擦り抜けて店内に入った。待ち構えていたチンピラが両脇から挟むようにして身体を素速く探った。武器を携帯していないことを確認すると、おれを二階の個室へ連れこんだ。
「遅い」
元成貴。相変わらず、金のかかったスーツを一分の隙《すき》もないといった感じに着こなしている。上品なオールバックに撫でつけた髪は一筋の乱れもなく、極力口を動かさないようにと腐心しているかのようなしゃべり方をした。
「たったの二分だ」
おれはわざとらしく腕時計に目をやりながら答えた。元成貴の右脇に侍《はべ》っている孫淳《スンチュン》がじろりと睨んできた。孫淳は、名前を聞くだけでだれもが怖れをなす殺し屋だ。元成貴のために殺した人間の数は五人をくだらないだろう。音もなく現れ、本人が死んだと気づかないうちに立ち去るといわれている。元々は人民解放軍の特殊部隊の兵士だったらしい。天安門事件のときに、市民に発砲しろと命じた上官を殺して脱走したという噂がまことしやかに流れている。噂の真偽がどうであれ、孫淳が剣呑《けんのん》きわまりない殺し屋であることに変わりはない。おれの背中は汗でびっしょり濡れはじめていた。
「二分あればいくら稼げると思うんだ?」
細い目でおれを睨《ね》めつけながら、元成貴は中華商人のお決まりの台詞を目にした。
「おれを呼びつけたのはあんたの方だ」
おれはやつの真向かいの椅子に腰をおろした。テーブルの上にはすでに料理が並べられていた。崔虎に殴られてできた口の中の傷が痛んだ。食欲なんてどこにもなかった。
「崔虎から電話があった」
元成貴がいった。感情をいっさいうかがわせない声だった。
「へえ」
「おまえに貸しがあるそうだ。五体満足でなければ、その貸しは返せない、とな」
「ああ。おれの名義を使ってマンションを借りる仕事、崔虎にも利用させてやることになったんだ」
「北京のやつらとつるむつもりか?」
声が少しばかり尖っていた。鼻の穴がかすかに膨らんでいた。品のいいビジネスマンといった風情を装いたがる元成貴だが、ひと皮剥けば、崔虎と瓜二つのやくざものでしかない。
元成貴が初めて歌舞伎町に現れたときのことはよく覚えている。やつはとうの立った留学生で、てっとりばやく稼ぐためにこの街に足を踏み入れたのだ。親戚筋かなにかから紹介されたのだろう、でたらめな地図が描かれた紙きれを手に、おどおどした視線をあちこちに走らせていた。だれが見たって、ただのカモだった。
ところが元成貴はただのカモじゃなかった。貧乏な留学生の仮面の下に、よく回る冷徹な頭脳を隠し持っていた。その当時は、台湾の流氓たちの姿が減りはじめ、かわって上海や福建のやつらが歌舞伎町に流れこみはじめていた。大陸からやってきた新しい流氓たちは、四、五人で徒党を組んでパチンコ屋を荒らしたり、飲み屋からみかじめを取るぐらいの可愛い存在だったのだが、元成貴がそれを変えた。やつは、ばらばらだった上海人を一つにまとめた。金の力で、だ。やつの頭の中には金を生みだす魔法の設計書が眠っていたのだ。
やつはまず、大陸系の蛇頭《ショートゥ》と話をつけた。不法入国者の受け入れ先になってマン・パワーを確保するとともに、そいつらが後生大事に故郷から持ちこんできた金品を吸いあげるシステムを作りあげた。ついでに、新しくやってくるやつらにドラッグや銃器を運ばせる手はずをつけるのも忘れなかった。そして、ある程度金が溜まったところで、やつは表の世界にも手をのばしはじめた。レストラン経営を手始めに、貿易、人材派遣、金になることはなんでもやった。いまじゃ、銀行のお偉いさんとランチを食いにいくほどの大物実業家という仮面を手に入れている。
昔、やつがまだカモと見られていたころ、おれはやつに飯をおごってやったことがある。別におれに先を見通す目があったというわけじゃない。数が増えてきた上海のやつらと絆《きずな》を深める手はずを模索していてやつにぶつかっただけのことだ。やつは大物になった後でもそのことを忘れなかった。とはいっても、なにかをねだったりしたらおれは即座に死体にされていただろう。やつにとって義理というのは、金を稼ぐシステムが円滑に進行するためにかかわらなきゃいけない面倒ごとというに過ぎないのだ。分をわきまえてさえいれば、おれが上海人の間を巧みに泳ぎ回って小銭を稼ぐことに目をつぶってくれる。やつが恩を忘れないというのはそういうことだ。
「今までずっと仲良くやってきた連中が、いい分を聞こうともしないでおれを痛めつけようとしてるって噂を聞いたんだ。おれも、保険をかけておくぐらいの頭を使わないと生き残れないからな」
おれは煙草に火をつけた。視線はテーブルの上の料理に落としておいた。元成貴は目を見つめられるのを極端に嫌う。
「楊偉民はかまわないといったんだぞ」
「楊のじじいなんかクソ喰らえだ」
元成貴は驚いたような顔でおれを見た。それから小さく首を振り、抑制の利いた声で訊いてきた。
「おれは、呉富春《ウーフーチュン》の隠れ場所を知りたいだけなんだよ、健一」
「知らない。昨日、楊偉民から聞いて富春が戻ってることを初めて知ったんだ。嘘じゃない」
「おまえたちは、実の兄弟みたいに仲がよかった。もし本当に富春の居場所を知らないとしても、連絡はあったはずだし、どこにいるか想像することはできるはずだ」
「一緒に仕事をしていただけだ。おれはあいつの家も知らなかった」
嘘だ。富春とであった翌日には、おれはあいつのねぐらを探りあてていた。だが、おれからは決して連絡を取らなかった。金がなくなると、富春の方からおれに連絡を入れてきたのだ。そのことを元成貴は知っているはずだった。そして、おれが富春のねぐらを知っていたことを元成貴は知らない。
「嘘だ」
元成貴はいった。いってみただけという感じがありありだった。おれはだめ押しをすることにした。
「富春があんたと揉めるずっと前に、おれたちはコンビを解消した。そのことはあんたもよく知ってるはずだ」
やつが渋々とうなずくのを横目で見ながら話を続けた。
「富春があんなことをしでかした後も、おれはあんたに協力してあいつの行方を探したはずだ。忘れたのかい?」
「よし、わかった」
おれの言葉を断ち切るように、元成貴はいった。なにもわかっちゃいないくせにだ。
「崔虎から横槍が入ったこともある。今日のところは帰してやろう。ただし――」
元成貴はものわかりのいい大学教授のようなしゃべり方をしていたが、いきなり立ちあがって、家事をしたことのない女を思わせる指をおれに突きつけた。
「おれはおまえの言葉を信じたわけじゃない。おまえは呉富春の居所を知っているんだ。いいか、三日だけ時間をやる。あいつをおれの前に連れて来るんだ。生きていようが死んでいようがかまわない。三日後の同じ時間に必ず連れて来い。それができなければ、おまえは死んだも同然だ」
「崔虎は気に入らないだろうな」
「北京の根性なしがどうしたというんだ?」
元成貴の目は冷ややかだった。どう転んでも、おれには富春を掴《つか》まえるしか方法はなさそうだった。
「わかったよ。やれるだけやってみるさ。富春を見たという男と話をさせてくれるかい?」
「いま、出張《でぼ》ってる。あとで電話をさせよう」
「いろいろと動いてるから、携帯電話にしてくれ」
おれはそういうと、席を立った。
「慌てるなよ、健一。せっかくつくらせたんだ。飯を食っていけばいい」
「食欲がないんだ」
元成貴は勝ち誇ったように薄く笑った。なにかいい返そうかと思ったが、やめにした。孫淳が刺すような視線でおれを睨んでいた。そういえば、富春は孫淳の目をかすめて元成貴の片腕を殺したのだ。根に持っているに違いない。救いがあるとすれば、孫淳は元成貴の側を決して離れないということだ。こんなやつに周りをうろちょろされた日には、おちおち寝てることもできなくなる。
おれはのろのろとした足どりで個室を出た。来たときと違って、見送りはなかった。
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考えなきゃならないことが山ほどあった。こういう時にはサウナで汗を流すといい考えがひらめくことがある。おれは西武新宿駅沿いの通りを北へ向かった。咸享酒家から行きつけのサウナのあるグリーンプラザ・ビルまでは一分もかからない。
日曜の昼間のせいか、サウナはすいていた。ロッカーに服を放りこみ、備え付けのパンツをはいた。ロッカーの扉の内側に取り付けられた鏡に、引きつれた傷が映った。臍《へそ》から斜め上に向かって三センチほどのびた傷。おれは傷あとを軽く指先で弾いた。タオルですっぽり頭を覆って、スチームの熱気が渦巻くサウナ・ルームに向かった。座禅のように足を組み、ひたすら汗を流すことに専心した。頭の中はめまぐるしい勢いで回転していたが、いい考えは一向に浮かばなかった。おれは富春とはなるべく個人的な関りをもたないようにしてやってきた――富春のことはなにも知らないのだ。
ときおり入ってくる堅気の客が、おれの腹の傷にちらちらと目を走らせ、やくざには見えないおれにどうしてそんな無気味な傷があるのかという怪訝《けげん》な面もちを見せながら、おれからは遠い場所に腰をおろすのを、なんとはなしに感じていた。
堂々巡りする思考に嫌気がさして、おれはいつしか傷のことを考えていた。初めて人を殺したとき、殺した相手にやられた傷だ。おれは十七で、そいつ――呂方《リューファン》は十五だった。
そのころのおれは、進学問題で悩んでいた。おふくろはとっくの昔に――おれが十五の時に男を作って出奔していて、高校の学費は楊偉民が出してくれていた。おれは大学へ行きたかった。自分には腕力も度胸もなく、強持てではなく、頭を使った生き方をする以外ないとわかっていたからだ。楊偉民は台湾大学へ進学するのなら学費をだしてやろう、といった。おれの北京語は会話だけなら充分通じるようになっていたし、なにより、台湾へ行けば楊偉民たちが決しておれに教えようとしなかった台湾語を学ぶことができた。楊偉民もそろそろ本気でおれを本当の身内として迎える気構えになっていたらしい。しばらく台湾で暮らし、台湾の文化や習慣を身につけ、台湾の女を妻に迎えるという線路に、おれを乗せようとしていたのだ。
おれにとっては渡りに船のはずだった。そのころには、自分は日本人ではなく在日の華僑《ファチァオ》なのだという意識が強くなっていた。新宿を根城にする台湾人にとって、楊偉民の身内に入るということはなによりも心強い支えになるはずだった。だが、おれは迷っていた。おれの身体の中に流れるおふくろの血が待ったをかけたのかもしれない。頭のどこかで台湾を異国≠ニ考えるおれがいた。台北には楊偉民の知人がごまんといるという話だったが、十八の若い身空で異国の地でひとり暮らすというのは、どうにも気が滅入《めい》る事件だった。おれは新宿の台湾人社会にやっと慣れ、台湾人がおれに向ける笑顔の中に決して心を許してはいない他所者《よそもの》を見る目が混じっていることを確信しながらも、その空気にじっとりとひたっているのが心地好いと感じるようになっていたのだ。
迷いに迷いながら、おれは昼間は学校、夜は楊偉民の甥が経営している中国料理屋で通訳兼ウェイターのバイトをして、決断までの時間を潰していた。そんなおれに、なにかと因縁をふっかけてきたのが、呂方だった。
呂方。ナイフの名手で、年少だったにもかかわらず、新宿|界隈《かいわい》の台湾人不良グループの頭《かしら》に収まっていた。そのグループは、コマ劇場前の広場にたむろするトルエン狂いの日本人のガキどもに対抗するために作られた組織だった。最初は、おれと同い年のやつが牛耳《ぎゅうじ》っていたが、いつの間にか呂方に取って代わられていた。元のボスは呂方のナイフで手の腱《けん》をズタズタにされ、ママの胸へ大声で泣きわめきながら逃げていったという噂だった。
チビの呂方。顔全体が小づくりで、さらさらの髪の毛と小さな目鼻、色の濃い唇、滑らかな顎の線――遠くから見ると小さな女の子にしか見えなかった。両親は間抜けで、日本人にうまい話をもちかけられ、全財産を騙《だま》し取られていた。呂方の一家は、楊偉民に養ってもらいながら、四畳半のアパートで最低の生活を送っていた。楊偉民は呂一家のような家族を大勢抱えていた。それぞれの家庭に必要最低限の金を与え、残りの生活費は家長の裁量に任せるというのが楊偉民のやり方だった。
貧乏でチビで、女みたいな顔をした呂方はコンプレックスに凝り固まったクソ野郎だったが、残虐さとナイフの使い方に関しては右にでる者がなかった。トルエンでラリった日本人のガキを襲撃しているほかは、いつも子分たちをナイフで嬲《なぶ》っては目を濡れ光らせていた。
呂方が密かに心を寄せていた女に手を出してしまった馬鹿がいた。そいつは顔をボコボコに腫らし、手足の筋を切られて大久保公園に転がっているところを発見された。おれが見つけたのだ。おれはすぐに、そいつのズボンの股間がドス黒く濡れていることに気づいた。はじめは小便を洩らしたのかと思ったが、血だった。呂方はそいつのペニスを茸《きのこ》のように縦に切り裂いていたのだ。おれがそいつを肩に担いで親のところへ運ぶ間、そいつは口の中でブツブツと狂ったように呂方へ許しを乞う言葉をつぶやきつづけていた。糞の匂いがプンプンと立ちこめ、おれはそいつを放りだして知らん顔をするという誘惑と戦うのに精一杯の自制心を喚起しなければならなかった。あとで聞いた話だが、そいつの括約筋はずたずただった。呂方が手下に命じてそいつのおカマを掘らせたのだ。そいつとそいつの一族は数日後に台湾へ逃げ帰った。
問題になった女も、一度だけ見たことがある。髪の毛と眉毛をすっかり剃られた顔を歪《ゆが》めながら、呂方の手下に見張られてたちんぼうをさせられていた。屈んだだけでケツが見えてしまいそうな短いスカートをはかされ、客が交渉をはじめるたびにスカートをめくられ、頭と同じように奇麗に剃りあげられた股間をさらけだされていた。その女は、しばらくして連れこみホテルで殺された。ネイヴィのアメ公の変態にやられたという話だった。女の母親も自殺したが、だれも呂方にはなにもいわなかった。おまわりも来なかった。楊偉民の知るところであれば、呂方は歌舞伎町から叩きだされていただろうが、ちょうどそのとき、楊偉民は仕事の揉めごとをまとめるために台湾へ戻っていた。楊偉民が戻ってきたときには、呂方に焼きを入れられた馬鹿と家族は台北に逃げた後だったし、女と母親は埋葬された後だった。楊偉民に告げ口するやつはひとりとして現れなかった。おれも、ずっと口をつぐんでいた。
呂方はおれを目の敵にしていた。同じ楊偉民に養ってもらっている同士でありながら、おれと呂方の立場はあまりに違いすぎた。しかも、おれは日本人との間の半々《パンパン》だ。呂方はおれを見るたびに怒り狂っていたに違いない。楊偉民とその身内が目をつけているのが、おれという人間ではなく、おれの日本人としてのバックボーンだということに呂方は気がつかなかったのだ。
呂方はいつも、そっとおれの後ろに立った。ナイフを模した指をおれの背中に突きつけ、「これで何回死んだことになるんだ、薄のろの半々め!」と本人はドスをきかせているつもりの甲高いテノールの声で囁くのだ。呂方はおれのことを憎みきっていたが、決して手はださなかった。そんなことをすれば、楊偉民の逆鱗《げきりん》に触れて一家が路頭に迷うことは目に見えていた。言葉でおれをいたぶることで、なんとか自分を抑制していた。
「おまえもおれの手下におカマを掘られたいんじゃないか? え、なにかいってみろよ、半々が」
口を開けばねちねちと嫌みを聞かされることがわかっていたので、おれはいつも薄笑いを浮かべて呂方を無視することにしていた。それが呂方の妬みをたぎらせていることはわかっていた。それ以外にやり方を知らなかったのだ。
呂方のグループが日本人のガキどもの待ち伏せをくらい、壊滅に近い打撃を受けたと聞いたのは、台湾大学へ進学することにしようと決めたころだった。ゲームセンターからの帰り道、金属バットや鉄パイプを持った愚連隊に襲われたのだ。襲撃を予想していなかった呂方たちはひとたまりもなかったらしい。腕、肋骨《ろっこつ》、鎖骨を折られ、口から血を流し、中には頭を割られ、脳漿《のうしょう》を撒き散らしたやつもいたということだ。おれは翌日の新聞を見てその夜に飛び交った噂が真実を告げていたことを知った。酷いありさまだった。いつも呂方たちにやられていたトルエンぐるいたちが、金で武闘派の愚連隊を雇ったのだ。だが、路上に転がった台湾人のガキどもの中に呂方の姿はなかった。仲間を見捨て、ひとり逃げだしたという噂がまことしやかに流れていた。実際そのとおりだったのだろう、事件から二、三日たっても、歌舞伎町で呂方を見かけることはなかったし、やられたガキどもの親や現場に居合わせなかった残りのクループのやつらが血眼になって呂方を探していた。
おれは楊偉民の甥の店のあと片付けをひとりでしていた。時間は十二時を少し回ったところだったろうか。終電を逃すまいと駅へ向かう酔っぱらいと、これからもうひと騒ぎやらかそうとする酔っぱらいたちの声で歌舞伎町の通りは賑やかだったが、店の中はしずまりかえり、テーブルや椅子の足が床を擦る音や食器が触れあう音がおれの鼓膜を震わせているだけだった。
ドアが軋《きし》む音がした。そっちに顔を向けると、赤いスウィング・トップにジーンズ姿の呂方が店の奥をうかがうようにつっ立っていた。いつもロックン・ロールふうのオールバックに撫でつけている髪が何日も櫛《くし》をいれていないというようにぐちゃぐちゃに乱れていた。顔は蝋《ろう》のように白く、目は擦り潰した唐辛子を流しこんだように血走っていた。
「なにしに戻ってきたんだ? みんな、おまえを探し回ってるぜ」
おれは呂方に声をかけた。どこか勝ち誇ったような声になっているのに、自分でも気づいていた。
「台北の大学に行くそうだな」
呂方のそこだけ異様に赤い唇がわなないた。おれの言葉なんかまるで聞こえなかったようだった。
「ああ」
おれはただ立ち尽くすだけだった。呂方の目から視線を外すことができなかった。神田川の水底に溜まっているどろりとした泥のように粘ついた狂気の光が、ドアの外から射してくるネオンの光を圧倒しておれの目をじっと見据えていた。
「半々のくせに……」
「おれのせいじゃない」
おれはいった。膝が震えていた。その場にへたりこんでしまいそうだった。呂方がするすると近づいてきた。おれは逃げることもできなかった。
「どうして楊偉民はおまえだけを可愛がるんだ?」
呂方の言葉は意味をなさなかった。おれの目と思考は、呂方の右手に握られた黒光りするナイフに釘付けになっていた。
「おまえ、あのじじいのあれをくわえてやるのか? ケツの穴を貸してやるのか? だから、可愛がられるのか?」
呂方の左手がおれの胸ぐらを掴んだ。ナイフの冷たい刃が頬に押しつけられた。おれは必死で顔を背けた。呂方はおれを殺すつもりだった。疑問を挟む余地はまったくなかった。
「答えろよ、半々」
「楊偉民が欲しいのは、お、おれの日本国籍だよ。わかるだろう? この国じゃ、日本の国籍があるだけでいろんな美味《おい》しいおかずにありつけるんだ」
ナイフが頬から離れた。おれはほっとしたが、呂方のどこか調子の外れた笑い声に安堵《あんど》の気持ちもかき消された。
「なるほど、そういうことか。じじいの目的はおまえの国籍だってわけか」
「日本国籍を持つやつが身内にいれば、なにかと都合がいいんだ。それだけのことさ」
おれは呂方のナイフを見つめていた。いつ、そのナイフがきらめいておれの喉が切り裂かれるのかと気が気じゃなかった。
「よし」
呂方がいい、鈍い光を放つナイフの刃がぱちんと音を立てて鞘《さや》におさめられた。おれは自分の目に映ったものが信じられなかった。
「おまえを殺すつもりだったけど、やめてやる」
呂方はおれにもたれかかるようにしたまま、おれの顔を睨みあげた。下半身がぴったりくっついていて、呂方の股間が固くいきりたっているのがはっきり感じられた。
「殺す代わりに、おまえに本当の台湾人になるチャンスを与えてやる」
「なんだって?」
本当に聞こえなかったのだ。犬のように荒い自分の息が、耳の中でがんがんとこだましていた。
「明日、おれたちを襲った日本人のボスを殺《や》る。おれと一緒にくるんだ。いいな」
おれは喘《あえ》ぐように首を振った。たった二人で殴り込みをかけるなんて、無茶もいいところだ。へたをすれば、二人とも殺される。あるいは、呂方がおれを見捨てて逃げるかもしれない。
「来なきゃ、いま死ぬだけだぞ、半々」
また、ぱちんという音がした。おれの目はナイフの刃に吸い寄せられた。
「どうするんだよ、半々。今ここで犬みたいに殺されたいか? それとも、おれと一緒に日本人を殺りにいって、本物の台湾人になるのか。ただじゃ殺さないぜ。手足の腱を切って、おまえのおカマを掘ってやる。歯を引き抜いてしゃぶらせてやる。目玉を抉《えぐ》って、そこにおれのをぶちこんでやる。どうする、半々?」
しゃべりながら、呂方は股間のものをおれの太股にぐいぐい押しつけてきた。
「い、行くよ」
おれは答えた。それだけいうのがやっとだった。
「そう来なくちゃな」
呂方はにたりと笑った。弱いものをいたぶるサディストの笑いだ。追いつめられた変態が開き直ったときに浮かべる笑いだ。今じゃそんな笑い方をする人間を大勢知っているが、そのときのおれにとっては、生まれてはじめて見るおぞましさの象徴のような笑みだった。しかも、その笑みはおれに向けられていた。
呂方は笑いながらおれの股間をまさぐった。おれは驚いて視線を落とした。おれの股間は呂方に負けないぐらい猛っていたのだ。
「興奮してやがる。思ったとおりだ。おまえは男にいたぶられるのが好きなんだ」
おれは首を振った。あまりに弱々しすぎて、呂方にはぜんぜん通じなかった。
「しらばっくれることはないさ。なんなら、今ここでおまえのおカマを掘ってやろうか?」
「やめてくれ……」
おれは泣いていた。呂方のナイフを奪いとって、張り裂けんばかりに怒張している男根を切り落としてしまいたかった。
「そうだな……楽しみは後に取っておくか。明日の同じ時間、ここに迎えにくる。逃げるなよ。必ず探しだして、生まれてきたことを後悔するような目にあわせてやるからな」
余計な心配だった。おれには逃げる気などなかった。恐怖と屈辱に打ちひしがれそうになりながら、どうやって呂方を殺すか、そのことだけを考えていた。
呂方が出ていった後も、おれはしばらく荒い息をしていた。落ち着いてくると、大急ぎで店を片付け、夜の街へ出ていった。
呂方を殺すための手を打たなくちゃならないからだ。後ろめたいとか、恐ろしいという感情はまったく浮かばなかった。たった二人で愚連隊を襲うなんて馬鹿げていた。殺されるに決まっている。僥倖《ぎょうこう》に恵まれて生き残れたとしても、呂方は必ずおれを犯すだろう。
目の前に醜悪な怪物が現れたのはおれのせいじゃない。そいつを排除しなきゃ前進できないのだとしたら、なんとしてでも排除しなければならない。おれが避けようとする方向に、その怪物は必ずやってくる。最善の排除方法は殺すことだ。
おれは自分の部屋へ戻り、バイトで貯えた金を懐に入れた。三十万近い金があった。その金で、前から目をつけていた売人に近づき、スタミナ・ドリンクの瓶につめられたトルエンを五本買った。代金の他に一方円を売人に握らせ、シャブを買うにはどうしたらいいかと訊いた。売人は渋い顔をしたが、もう一枚札を握らせると、あっさり口を割った。
「おれの使う分でよかったら、あと二枚で譲ってやるよ」
足もとを見られていることはわかっていたが、抗《あらが》ったりはしなかった。もう二万を差しだして、小さなパケをひと包み受け取った。
その足で部屋へ戻った。夜の内にできることはもうなにもなかった。布団にくるまりながら、おれはまんじりともせずに朝を迎えた。
いつしかうとうとしてしまい、気づくと昼を大きく回っていた。おれは楊偉民の甥に電話をかけ、具合が悪いので今日は休みたいと告げた。ファンシー・ケースの奥から安物のトレンチコートを引っ張りだし、トルエンとシャブをポケットに突っ込んだ。しばらく部屋を見回してから、外へ出た。ヘマをやらかすと二度と戻って来れないかもしれないと思ったのだが、寒々しい部屋にはなんの感慨も持てなかった。
コマ劇場前には、平日にもかかわらず若いやつらが思い思いの午後をすごしていた。おれは広場を見波せる喫茶店に腰を落ち着け、辛抱強く待った。しばらく周囲を観察してから、トルエンで脳みそが溶けだしてしまったようなやつに決めた。そいつは映画館のエントランスの階段に尻を下ろし、筋肉がだらしなく弛緩《しかん》した顔を意味もなく上下に振っていた。
そいつを見たまま、テーブルの上のコーヒーを飲み干した。手は震えちゃいなかった。鼓動が早くなることもない。もう、引き返せないのだ。おれは喫茶店を出た。
「ごきげんだね」
そういってトルエン野郎の隣に腰をおろした。そいつはなにかいったが、呂律《ろれつ》がすっかりおかしくなっていて、なにをいっているのかまったくわからなかった。
上着の懐からトルエンの瓶を取りだし、そいつに笑ってみせた。
「やる? 一緒に?」
そいつは嬉しそうにうなずくと、ひったくるようにして瓶をおれから奪い取った。
そいつのわけのわからない日本語に相槌《あいづち》を打ちながら時間を潰した。頃合をみて立ちあがり、おれの部屋へ来ないか、と誘った。
「そこならおまわりを気にしないでラリっていられるし、トルエンなんかよりもっといい薬もあるんだ」
そいつがいやだというはずはなかった。おれはそいつに肩を貸し、そいつの調子っぱずれな鼻唄《はなうた》にあわせてやりながら、コマの前を後にした。空はすっかり暗くなっていた。
おれの部屋でもう二本ほどトルエンをあてがってやると、そいつは鼾《いびき》を立てて寝はじめた。おれはそっと立ちあがり、そいつの懐を探った。安物のシース・ナイフが手に触れた。台所でシャブの粉末を水に溶いた。用意しておいた注射器でそいつを吸いあげ、居間に戻った。鼾は途切れることなく続いていた。そいつの袖《そで》をまくりあげ、慎重に針を突きたてた。
そいつの目が開いた。口が動き、気持ちいいという言葉が途切れ途切れに漏れてきた。目尻に涙が浮かんでいた。
その涙を見た瞬間、おれの中でなにかが弾けた。獣じみた唸りをあげながらそいつの身体をひっくり返し、薄汚れたジーンズを引きずりおろした。震える手で自分のジーンズとトランクスをおろすと、赤黒く怒張したペニスが勢いよく跳ねあがった。先端が濡れ光っているペニスを、おれはそいつの尻の穴にぶちこんだ。ぶちこんだ次の瞬間、おれはいっていた。
息を弾ませながら風呂場へ行き、精液と糞にまみれたペニスを乱暴に洗った。ティッシュを大量に使ってトルエン野郎の尻のまわりを拭き、パンツとジーンズを引きあげてやった。トルエン野郎はうつろな目をおれに向けて、気持ちよかったか、と聞いた。おれはそいつをぶん殴った。それから、頭を抱えて部屋の隅にうずくまった。
九時を少し回るのを待って、店に電話を入れた。少し具合がよくなったので店の片付けはやっておくよ、といってやると、ぶすっとした声で応対していた店主の声が急に愛想のいいものに変わった。
十時半にもう一度電話をかけた。呼びだし音がなるだけだった。おれはだらしなく意識を失くしているそいつを担ぎあげ、部屋を出た。立ちどまって部屋を振り返るなんて馬鹿な真似はもうしなかった。
おれは目を閉じて呂方を待っていた。鼾の音ももう気にならなくなっていた。ドアが開いて風が舞い込んできたときには、しっかりナイフを握りしめていた。
「よく逃げなかったな」
呂方の人を小馬鹿にしたような声を聞きながら、口の中で三つ数をかぞえた。それから壁のスウィッチを叩いて消した。
「なんだ!?」
目を開けた。目は暗闇にすっかり慣れていた。呂方はナイフを構えていたが、腰が引けていた。おれの居所を探そうと、落ち着きなく顔を左右に振っていた。
「健一《ジェンイー》、なんの真似だ!?」
呂方がおれの名を呼ぶのをはじめて聞いた。いつもは、侮蔑をこめて半々と呼ぶだけなのだ。
おれは素速く呂方に近寄り、腹にナイフを突きたてた。肉に刃が食いこむ感触に、一瞬我を忘れた。手から柄が外れた。
「てめぇ!?」
暗闇の中で呂方が目を剥《む》いた。おれは慌てて飛びすさった。次の刹那、臍《へそ》の脇に冷気が忍びこんだ。氷柱を突きたてられたようだった。悪寒はすぐに激痛に変わった。
「ぶっ殺してやる! 半々のちくしょうめ、おれを刺しやがった。ぶっ殺してやる!!」
痛みを堪えることができたのは、呂方のナイフさばきがおかしかったからだ。まだ闇に目が慣れていないのだ。それに、左手で押さえた腹からはナイフの柄が突きでていた。
おれはテーブルの上に立ててあったスティール製の椅子を掴み、横なぐりに呂方の頭を払った。鈍い音がして、呂方が床に転がった。後を追った。馬乗りになって、ナイフの柄を掴んだ。一気に刺しこんだ。左手で呂方の口をおさえ、右手でナイフを突きたてたまま全体重をかけて呂方を押さえこんだ。釣りあげられた魚のように呂方は激しく暴れたが、やがて動かなくなった。
おれは転がるように呂方の体からおりた。心臓が激しく脈打ち、口の中がからからに乾いていた。刺された傷口から火傷《やけど》しそうな熱感が広がり、背中は悪寒に凍えそうだった。
おれは服をはだけ、傷口を覗きこんだ。暗闇でよくわからないが、呂方のナイフは皮膚と脂肪を切り裂いただけのようだった。
顔をしかめながら、おれは呂方のナイフを探した。テーブルの下に転がっていた。それを取りあげ、太平楽に鼾を立てて眠っているトルエン野郎の髪を掴んで上体を起こし、背後に回った。目を閉じてそいつの喉を切り裂いた。ひゅーっという音がして血が吹きでた。髪を放すと、ごとんと音を立てて頭が床にぶつかり、勢いをなくした血が床に溜まりはじめた。そいつの手足が痙攣《けいれん》しているのを見ると、ふいに笑いが込みあげてきた。
笑いを噛み殺しながら、呂方のナイフの柄を上着の袖で拭った。倒れたままの呂方に近づき、慎重にナイフを握らせた。それから、今度は呂方の腹に突き刺さったナイフを引き抜いた。血が飛びでるかと思ったが、そんなことはなかった。同じように柄を拭い、トルエン中毒の右手に握らせた。そいつが右利きであることは確かめておいた。
そこまでがおれの限界だった。頭の中が真っ白になり、おれは気を失った。
目がさめたのは病院のベッドの上だった。楊偉民がおっかない顔をしておれを見下ろしていた。
「呂方は?」
おれは聞いた。聞いた瞬間にしまったと思った。
「身内に手をかけるとはな」
楊偉民にはなにもかもお見通しだった。他人を見るような冷たい目がすべてを語っていた。
「おれはなにも……」
「黙れ。不良同士の喧嘩ということで警察の方は収まりそうだ。おまえは運悪く巻き込まれただけだとな。だが、わしは知っておる。おまえが呂方を殺したんだ」
静かな声だったが、おれは楊偉民に唾を吐きかけられるんじゃないかと思った。
「まさか、おまえが殺しをやるとはな。このわしを騙し通したとは、たいしたやつだ」
「爺さん、おれの話も聞いてくれよ」
「いや、聞いても無駄だ。おまえはわしの信頼を裏切ったのだ。身内を殺すという最悪のやり方でな。おまえの父親は台湾人の中でも最低の流氓だった。母親は日本の牝犬《めすいぬ》だ。その血がおまえには流れている。わしは教育でその血を正そうと思っていたが、間違いだった。血は購《あがな》えん」
それだけいうと、楊偉民は病室を出ていった。おれは、楊偉民のいう信頼というものがどこにあったのかと考えていた。そんなものはどこにもなかったのだ。おれが呂方を殺したことがばれれば、いくら楊偉民でも立場は悪くなる。呂方の両親は貧乏ではあってもれっきとした本省人なのだ。日本人の血が流れる半々に息子を殺されたとあっては黙っちゃいないだろう。揉めごとが起こる前に、おれを切り捨てた。そういうことなのだ。
楊偉民は高校を卒業するまでの学費は出しつづけてくれた。甥の店も首にはならなかった。台湾大学へ進学する話がおしゃかになり、楊偉民の家での夕食に招かれなくなっただけだ。
他の台湾人にも、そしておれにもそれで充分だった。おれは相変わらず楊偉民の保護下にはおかれているが、身内ではなくなったのだ。
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結局いい考えは浮かばなかった。一時間ほどでサウナを切りあげ、仮眠をとった。目覚めたのは、すでに夕方に近い時間だった。冷えた身体を湯船に沈めて暖めなおし、サウナを出た。
〈カリビアン〉へ戻ると、留守電が点滅していた。あの徐鋭《シウルイ》というガキからだった。メッセージに残されていた番号を押すと、すぐに電話が繋がった。
「見つけました」
「間違いないか?」
「だいじょうぶだと思います」
「よし。いま、どこにいる?」
徐鋭は大久保にある喫茶店の名前を告げた。
「すぐに行く」
おれは〈カリビアン〉を出た。
徐鋭はすぐに見つかった。ガラス張りの喫茶店で、〈薬屋〉の前にいた連中と忍び笑いを洩らしながら楽しげに話をしていた。
おれは店の中へは入らず、歩道につっ立って徐鋭が気づくのを待った。五分かかった。失格だ。おれが楊偉民なら、こんなにトロいガキを大事な仕事に使ったりはしない。
おれに気づいた徐鋭は慌てたように立ちあがり、ほかの連中をそのままにして店の外へ出てきた。
「場所は?」
煙草に火をつけながら訊いた。
「抜弁天《ぬけべんてん》です」
「どんな女だった?」
「水商売です……」
徐鋭がなにかをいい淀んだ。
「なんだ。なにかあるのか?」
「日本語は上手だったけど、大陸《ダールー》の女じゃないかと思うんです」
馬鹿にされるんじゃないかと怖れているように、徐鋭はおれの顔をちらちらと見た。
「間違いないか?」
「歩き方とか仕種が……日本の女らしくなかったです」
「顔は?」
「なんともいえません」
おれは煙草をふかしながら、職安通りを抜弁天へ下りはじめた。夏美が中国の女かもしれないというのは、予想もしていなかった展開だ。携帯電話で聞いた日本語はネイティヴのそれと遜色《そんしょく》なかった。かすかな訛りはあったが、おれはそれを方言の名残だと思っていたのだ。
「髪は短いです。白いブラウスにジーンズ、足もとはサンダルでした。化粧はしてなかったけど、マニキュアとペディキュアをしてました」
徐鋭はおれの後を追いながらまくしたてた。おれの無言を、馬鹿なことをいった自分にたいする叱責と受け取ったらしい。少し間を置いたのは、爪を飾りたてているから夜の女だと推理したのだということを強調したかったのだろう。
「きょろきょろしてました。側によった日本人に、劉さんですか? と聞きました。それで、その女だってわかったんです」
「女は何分ぐらい待ってた?」
「四十分です」
徐鋭はほっとしたように答えた。
十分ほど歩いたところで徐鋭がおれを追いこし、路地を左に曲がった。
「この先のアパートです」
なんの変哲もない街並だった。古ぼけた二階建てのアパートの手前に、見覚えのある顔の若造が、所在なさげに立ち尽くしていた。弁天荘という、身も蓋《ふた》もない名のアパートだ。
「二〇三号室です」
徐鋭はあたりをはばかっているような小声で囁《ささや》いた。
「出入りは?」
見張り役のガキは頭を振った。
おれは音を立てないように階段を上がり、一番奥の部屋に用があるという顔をして、二〇三号室の前を通りすぎた。表札はなかった。二〇五号室の前で立ち止まった。郵便受けに「葉」と書かれた紙が張りつけてあった。ドアをノックした。
「はい?」
間を置いてから返事があった。
「葉《イェ》さん、久しぶりだな。おれだよ。開けてくれ」
おれは北京語で怒鳴った。今度はさほど間を置かずに、ドアが細く開いた。警戒した目がおれを覗きこんでいた。その隙間に、一万円札を突っ込んだ。
「ちょっと聞きたいことがある。これはその謝礼だ」
素速く囁き、もう一度声を張りあげた。
「何年ぶりだろうな、葉さん。懐かしいよ」
戸惑っている葉を押しのけて、部屋の中へ入った。
「な、なんですか?」
葉はドス黒い顔をした中年だった。不法就労でもしているのだろう、他人を容易に信じない卑屈さが骨の髄までしみこんでいるようだった。北京語にも聞き取りにくい訛りがある。福建の出身というところか。
「二〇三号室のことを聞きたい。住んでいるのは女だけか?」
葉はおれからできるだけ遠ざかろうとするように身をちぢこまらせ、大きく見開いた目だけで肯定の意志を伝えた。
「いつごろこのアパートに越してきたかわかるかい?」
「三、四日前だと思う」
「話をしたことは?」
葉は弱々しく首を振った。
「男はいそうか?」
「わからないよ。ろくに顔を見たこともないんだから」
葉の目がかすかに動いた。おれはそれを見逃すほど間抜けじゃない。繁華街に近いとはいえ、木造のおんぼろアパートだ。若い女がひとり住まいすることなど滅多にあるもんじゃない。女が越してきた日から、部屋の中で様子をうかがっている葉の姿が簡単に想像できた。
「葉さん、もう少し正直になろうよ」
おれは部屋の中を見回した。寒々しい部屋だった。
「あんた、日本に来てからどれぐらいになるのか知らないけど、ずっと一人ぐらしだろう。不法入国して、蛇頭への借金を返すために細々と働いてる。入管の目が恐いからペイのいいところで働くこともできない、かといって流氓の仲間になる度胸もない。貧乏臭い福建野郎だ、女ができるはずもない」
「な、なんのことだい」
「ずっと目を光らせてたんだろう? こんなぼろアパートに住む女だ、わけありに違いない、うまいことすりゃ、やらせてもらえるかもしれないと思ってさ?」
葉は目を白黒させて、おれの視線から逃れようとした。
「で、あんたがやれるかもしれないと思ったってことは、あの女も大陸から来たってことだ。日本人の女が金のない中国人に足を開くはずはないし、香港《シャンガン》や台湾の女なら、こんなところに住んだりはしない。そうだろう?」
「こ、公衆電話で話してるのを通りがかりに聞いただけだ。北京語だった。それだけだよ」
葉の声はかすれていた。
「なにを話してた?」
「助けて、って。北京語でそういってるのを聞いたんだ」
「相手は?」
葉は唾が飛びそうなほど激しく首を振った。まあ、そんなところだろう。
「何日前のことだ?」
「一昨日の夜」
それ以上聞きたいことはなかった。おれは葉に携帯電話の番号を教え、なにか変わったことがあったら連絡をくれ、謝礼はたっぷりはずむ、と鼻薬をきかせて部屋を出た。葉は竜巻にでも襲われて財産のすべてを失ったとでもいうような顔をして、おれを茫然《ぼうぜん》と見送っていた。
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助けて。
流暢《りゅうちょう》な日本語を話し、夏美と名乗った中国女は、だれに対して助けを求めたのだろうか。その翌日には、買い取ってもらいたいものがあるとおれに電話をしている。嫌な匂いがプンプン漂ってきそうな女だということは確かだ。
アパートの外で待っていた徐鋭たちに残りの金を渡し、おれは歌舞伎町へ舞い戻った。日曜の歌舞伎町でできることなどたかが知れているが、おれに残された時間は絶望的に短い。しくじれば、元成貴が孫淳を差し向けてくるのは目に見えていた。孫淳が相手と知れば、崔虎も考えを変えるだろうか。
区役所通りに入り、バッティングセンターの脇を曲がってしばらく歩くと、目当ての雑居ビルが視界に入ってきた。いくつものクラブが入った古ぼけたビルだが、タイ人たちの手が加わって、外からはうかがい知ることができない内臓が収まっている。
エレベータで五階まで上がり、一番奥の店のチャイムを鳴らした。〈くるみ〉というなんの変哲もない看板があるが、当然、明かりはついていない。
しばらく沈黙があって、ドアが開いた。ドアは二重になっていて、奥のは分厚いスティール製だ。暗い目をした褐色の肌のタイ人が、黙っておれを招き入れた。やはり日曜のせいか、秘密カジノからはいつものような熱のこもったけたたましい喚声が聞こえることはなかった。
タイ人はムエタイ崩れで、細いが強靭《きょうじん》さを感じさせる身体つきをしていた。こいつは日本語も北京語も、英語すらも話せない。だが、裏の世界に共通の言葉を理解することはできる。おれの身体に素速く視線を当て、物騒なものを持ちこんでいないことを確認したのがそれだ。
ドアの外が映しだされている二台のモニタの前に、このカジノを取りしきっている中年のタイ人がいた。おれはボブと呼んでいる。正式な名前はあるのだが、タイ人の名前を覚えるのは、図鑑と首っぴきで昆虫や草花の学術名を頭に叩きこむのと同じ手間がかかるのだ。
「久しぶりだな、ボブ」
日本語でいった。
「ほんとに久しぶりね、健一さん。博奕《ばくち》からは足を洗ったのかと思ったよ」
「最近は競輪の方で忙しくてね」
「他人に金を張って勝負するの、馬鹿のすることよ。馬に賭けるよりはマシだけど、ね」
ボブは片目をつぶってみせた。その表情は、コロンビア人の娼婦《しょうふ》を相手に、ボディガードをしてやる代わりに一発やらせろと迫っているイラン人のようだった。何気ない素振りを装いながら、目の奥で貪欲《どんよく》な光が輝いている。
「いいんだ。どうせ、博奕で儲けようとは思ってない」
「わたし、日本人の考えること、ほんとにわからないときがあるよ」
「おれもそうさ」
おれはそういい返しながら、賭場《とば》へ視線を送った。
店内は細長い造りになっている。奥にカウンターがあり、手前がボックス席。今は、ボックスがすべて取り払われ、四、五メートルほどの縦に細長いテーブルが置かれていた。そのテーブルの中央には、派手な服を着た中年の女がでんと座り、忙しげにカードを配っていた。賭けに参加しているのは、五人。三人が親と同じ中年のタイ女。ボディコンを着こんだ店に出勤する前の若いタイ人ホステスが一人。もう一人が、おれの目当ての遠沢だった。
「今日は勝負しに来たの?」
おれの視線に気づいたのか、ボブが歯切れの悪い声できいてきた。
「いや、遠沢に用があってね」
ボブは舌打ちした。
「たまには遊んでいってよ、健一さん」
「金ができたらな」
大袈裟に肩をすくめてみせるボブの脇を通り抜け、賭けに興じている遠沢の背後に回った。その瞬間、ボディコンのホステスが罵声《ばせい》を上げ、ミニスカートの尻の下から札束を引っ張りだし、親の中年女に投げつけた。
テーブルと客を取りまくように立っている男たちのうちの、一番年配に見えるやつが、親に手を差しだした。親は自分の取り分の中から数枚の札を抜き、そいつの手に叩きつけるように放り投げた。そいつは素速く札の枚数を確かめると、手元に置いてある金庫からさらに数枚の札を取りだし、手早く数えてからホッチキスで止め、また金庫の中にしまいこんだ。
テラ銭の徴収だ。ここで行われているのは、オイチョカブやバカラに似たトランプ博奕だ。客は二枚のカードを配られる。その手札の合計の一の位が八か九になれば勝ちだ。一回の勝負に二、三分しかかからないし役が多いので、好き者にはたまらない博奕なのだ。また、一勝負ごとにテラ銭を徴収できるので、胴元にとっては笑いが止まらない博奕でもある。
「女は下品だからいけねぇや」
遠沢がぼそりとつぶやいた。おれに向けた言葉だった。
「勝ってるのか?」
「いや。熱いんだよ、これが」
「頼みがあるんだ」
「もう少し待て。このままじゃ、熱すぎてやってらんねぇ」
それを聞いて、いますぐ遠沢を連れだすのを諦めた。風俗関係のルポライターとしては一流だが、博奕狂いのせいで世間を狭めている。そういう男に博奕を途中でやめさせたら、絶対に根にもたれる。
すぐに次の勝負が始まった。遠沢の傍らには、十万でまとめたズクが四つ積んであった。遠沢がいくら用意してきたのかはわからなかったが――百万かあるいは百五十万か。二百万ということはないだろう――負けがこんでいることは確かだ。
札が配られ、歓声が飛んだ。遠沢のズクは七つに増えた。遠沢はおれがいることも忘れたように、背を丸め、真剣な表情でカードを配る親の手元を見つめていた。
歌舞伎町の中国人社会を取材したいと、遠沢からおれに電話がかかってきたのは、もう何年も前のことだ。あちこちに散らばった細い糸をたぐりよせて、遠沢はやっとおれを見つけたのだ。中国人社会のなかにどっぷりと浸かっている日本人の高橋健一を。
遠沢におれの名を教えたのは楊偉民だった。楊偉民の遠い親戚筋に当たる横浜中華街の人間から口ききがあったのだ。楊偉民の紹介とあっては適当な口実をつけて断ることもできなかった。遠沢に何人かの人間と面通しをさせ、おれ自身は一歩引くかたちで遠沢の取材につきあってやった。遠沢と深くかかわるつもりはこれっぽっちもなかった。
それが変わったのは、博奕を通じてのことだった。開設記念競輪を開催している京王閣で、遠沢とばったり出くわしてしまったのだ。一コーナーの金網の裏で、おれを見つけた遠沢は嬉しそうに笑ったものだ。まるでアブノーマルなセックスを嗜好《しこう》する同好の士を見つけたとでもいうように。
「なんだ、劉《りゅう》さんも競輪をやるんだ」
そのころには、遠沢はおれを高橋ではなく、劉と呼ぶようになっていた。
「暇潰しにね」
おれは気のない返事をした。目にうつる遠沢の下卑《げび》た笑顔が、熱心に歌舞伎町を取材して歩いている男のそれと同じものとはとても思えなかった。博奕をする人間には二通りある。博奕で金が儲かると本気で考えている馬鹿と、ケツの穴からすべてが抜け落ちてしまうような博奕がもたらすマゾヒスティックな官能に中毒しているやつだ。遠沢は後者のように思えた。そんなやつとかかわって、ろくな目にあったためしがない。
「決勝はどうなると思う?」
おれの素振りに気づいた様子もなく、遠沢は競輪新聞を握りしめていた。
「三枠からだ」
おれはいった。三番の選手は大本命だった。普段のおれは穴から車券を買うのだが、その年の記念に限っては、世界が破滅したって三番の頭は固いように思えたのだ。
「意外と固いんだなぁ。劉さんなら、もっと遊び心のある車券を買うのかと思ったよ」
相変わらず下卑た笑いを浮かべたまま、遠沢は自分が買うつもりの車券を告げた。三番車とは別のラインの番手につく、神奈川の選手が遠沢の狙《ねら》い目だった。
「七番の捲りに乗っかったとしても、せいぜいヒモが限度じゃないか」
「おれと同じ名前なんだよ。下の名前の字が違うんだけどね」
遠沢は嬉しそうに新聞を指さした。なるほど、その選手は遠沢健二という名で、遠沢の賢治と読み方は同じだった。
「何年か前のダービーの準決勝でさ、こいつのおかげで大儲けさせてもらったことがあるんだよ。あんときは、すげえ脚だったなぁ」
口調がすっかりうちとけていた。長いこと一緒につるんで博奕を打ってきた相棒に語りかけているようだった。少しばかり気に触ったが、咎めるつもりはなかった。遠沢が口にしたダービーのことを思いだしていたのだ。そのレースでおれは遠沢健二という選手のせいで大損をさせられた。
「覚えてるよ。おれはあのレースでパンクして、決勝には来られなかったんだ」
「そいつはご愁傷さま」
遠沢はいって、ぺろりと舌をだした。目が勝ち誇ったように輝いていた。
「ま、あんときの決勝は雨のせいで逃げることしかできない二流の駒が勝っちまったからね、準決でパンクしてよかったのかもしれないよ」
その口調で、遠沢が準決勝で儲けた大金を決勝ですってしまったことがわかった。おれはにやりと笑い返した。
「そいつはご愁傷さま」
おれたちは過去の特別競輪の結果を語りあいながら、決勝までの時間を潰した。違沢はよどみなくしゃべりつづけていたが、決勝のレースが始まった途端、しゃべりすぎで舌がどうにかなったんじゃないかと思えるぐらいぴしゃりと口を閉じた。金網を両手で握り締め、膜がかかったように濁った目を血走らせて、バンクを駆ける選手を睨みつけていた。
レースは、三番車の尻が競《せ》りになったことがすべてだった。地元の選手に遠征組のマーク屋が競りかけていったのだ。そのマーク屋はクズにも劣る野郎だった。先行ラインの間隙をついて、遠沢健二のいる南関ラインが主導権を握った。三番車は捲りを打ったが、尻で競っていた連中はそのスピードについて行けず、見事にちぎれた。凄いスピードで捲りきった三番車の後ろには、南関勢がぴたりと続き、七番車が頃合を見計らって番手捲りにかかった。その瞬間、おれの車券は紙くずになった。
結局、ゴール寸前で遠沢とその後ろの選手が七番車をかわし、結果は4−6。筋にもかかわらず配当は五千円を超えた。三番車の人気で一本かぶりだったのだ。
「よっしゃ」
遠沢が低い抑えた声で気合を発した。さっきまで膜がかかったようになっていた目は、欲しいものを手にいれたガキみたいに曇り一つなく輝いていた。
「いくら取ったんだ?」
払戻し所へ小走りで駆けていく遠沢の背中に、おれは悔しさの入り混じった声をかけた。
「内緒」
遠沢は顔をこちらに向けて、にかっと笑った。
「そこで待っててよ。奢《おご》るからさ、飲みに行こう」
断ろうとして口を開けたが、諦めて言葉をのみこんだ。遠沢はおれの返事も待たずに人ごみの中に姿を消していた。
十分ほどして、遠沢は戻ってきた。ぺしゃんこだったショルダーバッグが外見から目立つ程度に膨らんでいた。
「いくらあるんだ?」
「へへへぇ」
遠沢は悪ガキみたいに笑ってバッグの中を開けてみせた。五百万はありそうだった。
「奢られるよ、遠沢さん」
おれはバッグの中のズクの束に目を吸い寄せられていた。
おれたちは白タクで歌舞伎町に向かい、普段は足を向けることもないバカ高いだけが取り柄の寿司屋で腹を膨らませた。その後は、キャバクラのはしごだ。遠沢は金を文字どおりばらまいた。欲に目が眩《くら》んだ女たちが入れ替わり立ち替わりおれたちにまとわりつき、おれたちは遠慮会釈なしに女たちの下着の奥に手を突っ込んだ。ブランディをガブ飲みし、喉が渇いたといってはドンペリのピンクを浴びた。そんな高級な酒は置いてないという店は、即座に飛びだした。一ブロック離れただけの店に移るのにもタクシーに乗りこみ、嫌がる運転手に札束を叩きつけて大笑いした。
楽しかった。これほど楽しかったのは久しぶりだった。楽しすぎて、気がつくと夜が明けかかっていた。
最後の店で、遠沢はバッグの中身をテーブルの上にぶちまけた。
「これが残りだ」
五百万以上あった金は十分の一に減っていた。
「奢られすぎたかな」
「いやぁ、こんだけ楽しい思いをできるなんて滅多にないからさぁ、気にしなくていいよ。どうせ、博奕で稼いだ金なんてあぶく銭なんだし。それよりさ――」
遠沢は内緒話をするように、テーブルの上に身をのりだした。
「噂でさ、タイ人が秘密カジノを経営してるって話を聞いたんだけど、劉さん、知らない?」
「知ってるよ」
酒のせいで、おれはずいぶん口が軽くなっていた。
「紹介してよ」
「取材か」
「まさか。これから、この金をまた増やしにいくのさ」
声も顔も笑っていたが、目は真剣だった。おれは遠沢の本質を知ったつもりになり、この瞬間に、酒を飲んでいないときでも、遠沢に対するガードを下げる気になった。博奕には波がある。遠沢も今は上昇気流に乗っているのだろうが、いつかは落ち目になる。そのときまでに、なにか使い路を考えておけばいいのだ。
おれは遠沢をカジノへ連れていった。遠沢はそこで、五十万の金を二百万まで増やした。遠沢から紹介料として五十万を受け取り、おれたちはその夜の馬鹿騒ぎを切り上げた。
以来、おれと遠沢は持ちつ持たれつで付き合うようになった。歌舞伎町の裏の世界で取材することが必要になれば、遠沢は必ずおれに連絡を取ってきたし、おれはおれで、遠沢の取材能力を活用させてもらうというわけだ。おれの読みどおり、遠沢には立派な使い路があったのだ。
三十分も待たずに、違沢はパンクした。
「飯でも食おうぜ。奢るから」
放心したようにテーブルの上を見つめている遠沢に、おれは声をかけた。
「ああ」
振り返った目の下には、ドス黒い隈《くま》ができていた。ここ一年ほど、遠沢は落ち目もいいところだった。おれが知っているだけでも一千万以上の借金があるはずだ。雑誌で遠沢の原稿を目にすることもなくなった。借金の取り立て屋が遠沢の出入りする編集部にまで押しかけるようになり、干されてしまったのだ。
おれたちは〈くるみ〉を出、目に止まったラーメン屋ののれんをくぐった。ラーメンと餃子《ぎょうざ》、それにビールを頼んだ。
「ちきしょうめ」
ビールを一息に飲み干して、遠沢は呪いの言葉を吐いた。
「いくらやられたんだ?」
「百五十」
いまの遠沢に百五十万もの金を貸す馬鹿はどこのどいつだろうと思いながら、おれは遠沢のコップにビールを注ぎたした。
「博奕を控えて、おれの仕事をする気はないか」
「やるよ」
遠沢はおれの言葉が終わる前にこたえていた。
「いくらくれる?」
「五十」
「よし。で、なにをすればいい?」
「呉富春《ごとみはる》を覚えてるか?」
「頭がイカれた殺し屋だ。たしか、元成貴《げんせいき》を怒らせていなくなったんだろう」
「戻ってきた」
遠沢はビールを飲む手を止めて、まじまじとおれを見た。
「想像以上に頭がイカれてるんだな」
「元成貴に富春を連れて来いといわれた。三日以内に、だ」
「やれやれ」
遠沢は興味がなくなったとでもいうようにテーブルの上に視線を戻し、ビールに口をつけた。
「富春が見つかったのは昨日だ。元成貴は手下を総動員して探してるが、お手上げってところらしい。富春は新宿以外にねぐらを持ってるってことだ」
「だろうねぇ」
「あんた、池袋や渋谷にも知り合いがいるだろう。聞いて回ってくれないか」
「おやすい御用だ。それで五十万なら、おまえさんの尻を舐《な》めてもいい」
「もう一つあるんだ」
「やっぱりな……」
「たいしたことじゃない。富春は残留孤児二世だ。日本名は坂本富雄。千葉のどっかに両親が住んでる。探しだして、富春から連絡がなかったかどうか確かめてもらいたい」
「残留孤児だったのはどっちだ?」
遠沢は、母親の名前を教えろなどということは聞かなかった。耳を傾けただけで、おれが富春の個人的なことをなにも知らないということをしっかり把握したのだ。
「母親だ」
おれも余計なことはいわなかった。
「どこの省で、何年に帰国したかは?」
「吉林。八二年か八三年のどちらかだと思う」
「なんとかなると思うよ」
「助かるよ」
おれはそこでやっとビールに口をつけた。
携帯電話が鳴った。目で遠沢にことわりを入れ、ポケットから電話を取りだした。
「元さんに、あんたに電話しろといわれた」
富春を見たという男だった。
「富春《フーチュン》を見かけたときの状況をできるだけ詳しく話してくれ」
「十時ちょっと前。明治通りを大久保の方に歩いてた。やたらにきょろきょろしてるんで、おかしいと思ってつけてみたんだ」
「そいつが呉富春だと気づいたのは?」
「職安通りの手前でタクシーに乗ったんだ。車内の明かりで顔がはっきり見えた。あいつは呉富春に間違いない」
「前に富春を見たことがあるのか?」
「あいつが叔父貴《おじき》を殺したとき、おれは側にいたんだ」
押し殺した声だったが、怒りの感情は充分に伝わってきた。あの殺しの現場にいたというなら、見間違うことはないだろう。
「後は追わなかったのか?」
「タクシーが来なかったんだ。もし、後を追えたら、おれが殺してやったんだ」
「タクシーはどっちの方角に走っていったかわかるか」
「明治通りをまっすぐ。見えなくなるまで追ったけど、どこにも曲がらなかった」
富春に、迂回《うかい》しながら目的地に近づくという頭はない。たぶん、まっすぐねぐらへ向かったのだ。早稲田《わせだ》近辺か池袋、富春が隠れているとすれば、その辺りが妥当だ。
「タクシー会社は?」
「個人だった」
タクシーの線から富春を探すのは諦めるしかなさそうだった。おまわりでもないかぎり、個人タクシーを一台ごとに調べるなんてできるはずもない。
「わかった。また、なにか思いだしたら電話をくれ」
おれは電話を切った。
「手がかりはあったかね」
遠沢が餃子を頬張りながら聞いてきた。ラーメンには手をつけていない。食欲がないのだ。げっそりとやつれた遠沢の横顔に、嫌なものをみたような気がした。シャブをやっているのかもしれない。落ち目の博奕打ちにはよくあるパターンだ。
「タクシーで明治通りを北上したそうだ」
おれは疑念を振り払った。遠沢がシャブで身を持ち崩そうが、おれの知ったことじゃない。おれが頼んだ仕事をやっている間だけまともでいてくれたらいいのだ。
「じゃぁ、渋谷や六本木より、池袋を重点的に探ってみた方がいいな」
そういって遠沢はおれに手を突きだしてきた。おれは財布を探り、十万のズクを抜きだした。
「足りないよ。五十の仕事なら、半金で二十五もらわなきゃ」
「それだけ渡したら、あんた〈くるみ〉に戻ってまた博奕をはじめるだろう。あんたがいくら負けようがおれには関係ないけど、明日の朝叩き起こされて、調査費用を貸してくれといわれるのだけはごめんだからな」
遠沢は恨みがましい目でおれを見つめていたが、やがて諦めたようにズクを受け取った。
「ほんとに友だち甲斐がないよな、おまえさんは」
「死に急いでる人間を友だちにしても、ろくなことにはならないからな」
おれはいってやった。遠沢の顔色がほんの少しだけ変化した。
「シャブが切れて仕事にならないようだったら連絡してくれ。元成貴に頼んで安く回してもらうから」
それがとどめだった。遠沢の口もとが激しく震え、濁った目がおれの肌を突き刺しそうな視線に変わった。
「くそったれが。あんた、自分だけが利口だと思ってるんだろうが、そのうち、足もとをすくわれるぜ」
「おれの足もとは泥だらけだよ」
おれはそういって席を立った。遠沢はぽかんとした顔でおれを見つめていた。
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携帯電話が鳴った。
「劉《りゅう》さん? 夏美ですけど……」
「様子が変わったんだ」
おれは女の声を遮った。
「申しわけないが、ほかを当たってくれ。当分、あんたのお役には立てそうもない」
おれはそういって電話を切った。すぐにベルが鳴ったが、おれは電源スウィッチをオフにして無視することにした。
富春が馴染《なじ》みにしていた飲み屋を虱潰《しらみつぶ》しに当たったが、ろくに話もきいてもらえなかった。どの店にも元成貴《ユェンチョンクィ》の手下が張り込んでいたし、店のやつらはみんな、元成貴の逆鱗に触れるのを怖れ、富春などそもそものはじめからこの世に存在しなかったことにしたがっているようだった。
日曜の歌舞伎町は、日本人より在日外国人の姿の方が目立つ。こんな夜には、富春も動こうとはしないだろう。
そう結論を出して、〈カリビアン〉へ足を向けようとしたとき、けたたましいサイレンの音が聞こえた。サイレンは風林会館の方へ向かっているようだった。おれはサイレンに誘われるように、歩く方向を変えた。ここのところ、流氓《リウマン》たちの抗争は鳴りを潜めている。跳ねっ返りの福建野郎や血の気の多いマレーシア系の流氓が喧嘩をやらかすぐらいのものだ。
だが、サイレンの数は尋常じゃなかった。東京中のパトカーが歌舞伎町に集まってきてるようだった。殺し以外にありえない。日曜の歌舞伎町での殺し。腹の底に石の塊が居座っているような不快感が生じていた。
風林会館の脇に出たところで、顔見知りを見つけた。そいつはもの凄い勢いで路上を駆けていた。
「おい!!」
叫んで、そいつの前に立ちはだかった。
「なにがあった?」
そいつはつんのめるようにして立ちどまり、間抜けな視線を送ってきた。
「あ……健一さん。大変です、大変です」
「なにが大変なんだ?」
「〈紅蓮《ホンリェン》〉が襲われたんです。呉富春の野郎に」
そいつを放りだして走った。風林会館裏の路地を折れ、そこで茫然と足をとめた。路上は救急車とパトカーが占拠していた。おまわりたちが慌ただしく動き回り、無線を使ってわめきたてる声が、野次馬の騒音をかき消して湿った空気を震わせていた。
救急隊員たちが、担架を押しながらビルの外へ出てきた。担架に乗っているのは、昨日、おれと寝てくれた女だった。黒いボディコン・スーツの右胸の辺りが濡れて光っていた。顔や手足には血の気がなく、ぴくりとも動かなかった。
ビルの前で不安そうに肩を寄せあっていた女たちの一団が担架に気づき、嗚咽《おえつ》の合唱が始まった。合唱隊の中に黄秀紅《ホヮンシウホン》と他の二人のママの姿はなかった。店の中で事情聴取を受けているのか。それとも、殺されてしまったか。
おれは野次馬の陰に隠れてビルのエントランスを見張りながら、富春の動機はなんだろうと考えた。歌舞伎町に戻ってくること自体自殺行為だというのに、元成貴の女がやっている店を襲うなんてのは、度しがたいにもほどがある。脅しをかければ、元成貴が手を引くとでも考えたのだろうか。
おれが考えをめぐらせている間にも、担架は次々に運びだされた。全部で五回。どいつも、運びだされる間ぴくりとも動かなかった。おれが知っている富春は、どちらかというと銃を使う人間を軽蔑していたように思う。拳とナイフがあれば、人を殺すなんて簡単だと自慢げに話していたものだ。歌舞伎町を離れていた一年の間に、富春になにがあったというのだろう。
救急車が野次馬を蹴散らすように走り去ったあと、私服のおまわりに先導されるように秀紅と他の二人のママがエントランスに姿を現した。三人とも顔が蒼《あお》ざめ強張《こわば》っていたが怪我はなさそうだった。おれはじっと秀紅の顔を見つめた。秀紅の顔がこっちに向いた瞬間をつかまえて目立たぬように手を振り、軽く握った拳を耳のあたりに持っていって、あとで電話すると伝えた。秀紅は曖昧にうなずいた。操り人形のようにぎごちない動作、表情のない顔で、おまわりの指示に黙々と従い、一台のパトカーに他の二人と共に乗りこんだ。
おれは野次馬の群れをそっと離れた。
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公衆電話で何本か電話をかけ、〈カリビアン〉によって銃を持ち出してからタクシーを掴まえて飯田橋《いいだばし》に向かった。自分の女の店が襲われたのだ。元成貴がいつまでも紳士的に振る舞っていると想定しているわけにはいかない。何時間後には〈カリビアン〉は復讐《ふくしゅう》に飢えた若い上海人たちに囲まれているかもしれないのだ。
飯田橋には三年前から借りているマンションがある。狭いワンルームだがこんなときのために、毎月十万の金を払って確保しておいたものだ。この部屋の存在を知る者はいない。たぶん、楊偉民だって知らないはずだ。部屋の名義は堅気のものになっている。手数料を払って契約してもらったのだ。そいつはいま、オーストラリアで貿易の会社をやっている。当分、日本に戻ってくる予定はない。
部屋に入って簡単にシャワーを浴びた。身体はくたくただったが、頭はすっかり冴えきっていた。おれの人生に訪れた未曾有《みぞう》の危機。のんべんだらりと眠ることなどできそうにもない。
なにもない部屋だが、ベッドと電話だけはある。それに、なにがしかの着替えとタオルだ。タオルで濡れた髪の毛を拭きながら〈カリビアン〉へ電話を入れて留守電をチェックした。元成貴から二本、楊偉民と崔虎から一本ずつメッセージが入っていた。どれも、気が滅入《めい》るような内容だった。元成貴と崔虎のメッセージは無視することにし、〈薬屋〉の電話番号を押した。
「はい」
「おれだよ」
おれは日本語でいった。楊偉民の電話を盗聴しようなどという馬鹿はいないだろうが、念のための安全策だ。
「どこにいる?」
楊偉民の声は間延びしていた。一日に何度も職場に電話をかけてくる神経質な古女房を相手にしているような声だった。
「内緒だ。また売られちゃたまらない」
「富春もいっしょなのか」
楊偉民はおれの皮肉をあっさり無視した。
「馬鹿いうなよ。崔虎に殴られ、元成貴にしこたま脅されて一日中歩き回ってたんだ、富春を探してだ」
「〈紅蓮〉に集まった野次馬の中におまえがいたことを元成貴は知っているぞ、健一」
「たまたま通りかかっただけだ。他になにか情報はないか?」
「やったのは富春で間違いないらしい。女はどこだと叫びながら乗りこんできたということだ」
「女?」
「詳しいことはまだわからん。店にいた連中はあらかた警察にひっぱられている。我が身可愛さに真っ先に逃げだした臆病者から聞きだしただけだ」
「わかった。また明日連絡する。徐鋭たちに、もう仕事はいいと伝えておいてくれないか。他の仕事にかまけている暇はどこにもない」
「わかった。伝えよう」
「爺さんも気をつけてくれよ、元成貴がおれを掴まえようと思ったら、まずあんたに目を向けるだろうからな」
「ほほう、おまえがそんな殊勝なことをいってくれるとはな。わしのことなど、クソ喰らえなんじゃなかったのか」
おれは受話器を口もとから放し、小声で罵《ののし》った。今日、元成貴の周りにいたのは直属の部下やボディガードたちだった。口が軽いやつなどいるはずもない。ということは、あの連中の中に楊偉民が送りこんだスパイがいるということだ。元成貴は自分が歌舞伎町の支配者だと思っているかもしれないが、とんだ孫悟空だ。楊偉民の掌で踊らされているだけなのだ。もちろん、おれだって人のことはいえないが。
「健一」
楊偉民のぼそりとした声が聞こえた。
「なんだよ」
「逃げた方がよくはないか。なにが起こっているのかはわからんが、どうやら富春は元成貴に喧嘩を売る気らしい。おまえが富春を見つけたところで、おいそれと元成貴の前に顔を出しはしないだろう。おまえは身動きが取れなくなるぞ」
「どこに逃げろっていうんだよ」
「台湾はどうだ。おまえがその気なら手伝ってやろう」
「それで、いくらかかるんだ?」
「五百万というところか」
「じゃあな」
おれは受話器を置いた。楊偉民の顔に唾を吐きかけてやりたい気分だった。
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エドモント・ホテルの前で客待ちしていたタクシーを拾い、抜弁天へ向かわせた。
富春と女というのが、おれにはどうにも結びつかなかった。富春は女遊びをしなかった。どこかの女になびくということもなかった。女に対してあまりにもかたくななので、ホモじゃないかと思うこともあったぐらいだ。
その富春が、女はどこだと叫びながら〈紅蓮〉へ乗りこんだという。元成貴はどこだ、ではなく、女はどこだ。
富春は女を追って歌舞伎町に戻ってきたのだ。どうしてかはわからないが、その女を元成貴が拉致《らち》していると思いこんで――元成貴がそんなことをするはずはない。富春の女を掴まえたということは、富春の居場所を掴まえたというのと同じだ。元成貴なら、女をさらうなどというまどろっこしい手はとらずに、直接、殺し屋を送り向ける。その女が何者であるにしろ、富春は間違った情報に踊らされている。そして、元成貴も、富春が女を探しているということに気づいたはずだ。二人を――特に元成貴を出し抜くためには、おれが真っ先にその女を掴まえなければならない。そんな女が本当にいると仮定しての話だが。
女、と聞いて思いだすのは、夏美と名乗る中国女だ。あの女は富春が歌舞伎町に舞い戻るのと時を同じくしておれに電話をかけてきた。その前の日には、公衆電話でだれかに、助けて、と告げている。
おれは偶然を信じない。偶然を信じるなんて、間抜けなカモのすることだ。夏美は富春に、助けて、といったのだ。それで、富春はやってきた。すべてを仕組んだのは、夏美なのだ。
そう考えると、頭の中がいくぶんすっきりした。本当のところなんてわかるはずもないし、強引すぎる推理だということも認めるが、とりあえずは線が繋がったのだ。
薄汚れた闇の中、弁天荘はすぐに見つかった。もしかすると、徐鋭たちがまだ見張っているかもしれないと思って、大久保通りの方から歩いてきたのだ。徐鋭たちはいなかった。どこかに隠れている気配もない。車の音が響き渡るだけで、あたりは無気味なぐらい静まり返っていた。
建物の裏側に回ってみた。二〇三号室の窓はカーテンがかかり、隙間を縫って漏れてくる光もなかった。昼間脅し上げた葉の住む二〇五からは、煌々とした明かりが漏れている。他の部屋――二〇一、二〇二、二〇四の窓はカーテンもなく、紙の上に落ちたインクの染みのように、ぽっかりと暗い穴を開けているだけだった。
表に戻り、音を立てないように注意してアパートの階段をのぼった。腰を屈めて二つの部屋の前を通りすぎ、二〇三のドアに耳を押し当てて中の様子をさぐった。だれかが中にいる気配はなかった。周囲に視線を走らせて、おれはポケットから道具と手袋を取りだした。知り合いの錠前屋から博奕のかたとして巻き上げた開錠セット。この手のぼろアパートの錠なら、ものの五分で開くことができる。おれは手袋をはめ、仕事にとりかかった。
五分もかからなかった。器具の先端を鍵穴《かぎあな》に突っ込んでいじくりまわしていると、カチリと音がして、ドアが開いた。
もう一度あたりを見回した。おれの神経をかき回すような気配はどこにもなかった。おれは部屋の中に身体をすべりこませた。
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部屋には家具と呼べるものはなにもなかった。葉の二〇五号室と瓜ふたつな六畳の隅に粗末な布団が畳んで積んである。その横に、サムソナイトの旅行ケースが二つ。台所にはガスコンロもなく、紙のコップや皿、それに割《わ》り箸《ばし》の袋が無造作に置かれていた。カーテンは前の住人の置き忘れらしく、煙草のやに[#「やに」に傍点]で薄汚く変色してる。
左手でつまんだペンライトで部屋を照らしながら、土足のまま上がりこんだ。右手には黒星を握っていた。トイレを覗きこんだが、剥きだしの便器の黄ばみが気になっただけだった。入ってすぐ右にある押入を開けた。小さく丸められた下着が山になっているだけで、他にはなにもなかった。
息を殺したまま部屋を横切り、几帳面《きちょうめん》に畳まれた布団の隙間にペンライトを突っ込んでみた。なにもなかった。念のために布団をずらしてみたが、畳の目がすりきれているのがわかっただけだった。
首筋が強張っているのに気づき、大きく息を吐きだした。首をゆっくり回しながら、畳に尻を押し当て、壁に背中をもたせかけてスーツケースを見つめた。
ここまでは拍子抜けもいいところだった。わかったのは、夏美はこの部屋を寝るための場所としか使っていないということだ。
銃を脇に、ペンライトを股間に置いて、手近のスーツケースを引き寄せた。子供だましの鍵がついているありふれたやつだった。針金一本で開けることができる。
二つのケースの中身ははとんどが衣類だった。水商売のユニフォームのようなタイトミニのスーツ数着、赤を基調にしたチャイナ・ドレスが一着。ジーンズが数本に、Tシャツも同じほどの数。二種類のパジャマ、色とりどりの下着――白と黒のガーター・ベルトと、おそろいのストッキングまであった――と化粧品、若干の生理用品、コンドームが三つ。パスポートなし、免許証なし、健康保険証なし、貯金通帳なし。そうしたものは常に持ち歩いているのだろう。こんなぼろアパートに置いていく気になれないのは理解できた。
スーツケースを元どおりに直し、立ちあがった。台所で紙コップに水を張り、煙草に火をつけた。緊張していたせいか喉が渇き、煙がいがらっぽかった。
夏美はクリスチャン・ディオールがお気に入りらしい。それに、服の趣味も悪くはない。喉がからからになるほど緊張を強いられながら、わかったことはそれだけだ。
煙草の先端を水につけ、消えたことを確かめてからポケットに放りこんだ。それから、玄関から死角になる位置を慎重に見極めて、腰をおろした。
待つことはそれほど苦痛じゃない。思春期の大半を、おれは楊偉民の言葉を待つことで過ごしたのだ。平日なら学校が終わったあと、休日なら一日中、おれは〈薬屋〉の前につっ立って、楊偉民がなにかをしてくれといってくるのをずっと待っていた。身体が二つあっても足りないほど用事をいいつけられることもあれば、まったくなにもないこともあった。どんなときでも、楊偉民はおれの姿が見えないかのように振る舞い、ときには露骨に迷惑そうな顔をしてみせた。
家に帰ろうとか、友達とつるんで遊んでいようと思ったことはなかった。おふくろには男がいたし――今度はおふくろは日本人の男を掴まえていた――友達なんてひとりもいなかったからだ。そのときだけじゃない。昔も今も、おれには友達がいたためしがない。もしかすると、友達を欲しいと思ったこともないのかもしれない。一時期の遠沢は、友達に一番近い存在だったかもしれないが、それもあいつが落ち目になると同時にただの幻影だったことがわかっただけだ。おれはひとりでいることを好んだ。孤独だと思ったこともない。それどころか、だれかに友達がいなくて淋しくないか、といわれるまで、ひとりでいることと孤独であることが同じ意味を持っているかもしれないと考えたことすらなかった。おれにとって孤独というのは、所属する場所がどこにもないということだった。そのころのおれはだから、楊偉民の懐の中に自分の場所を確保しようと躍起になっていたのだ。
いまじゃおれは自分が何者でどこに所属しているのかをはっきりと悟っている。おれはアウトロゥだ。ひとりで生き、ひとりでくたばる。中国の流氓たちや楊偉民と付き合っているのは、それがアウトロゥとして生きていくのに都合がいいからというのに過ぎない。もし、歌舞伎町で本当の力を握っているのがやくざだったら、おれは盃を受けるまではいかないにしても、やくざの側に入りこんで生きているだろう。
待つことは苦痛じゃない。孤独を感じることもない。おれは一個の完結した存在なのだ。泣き事をいっていいのは、堅気だけだ。おれは泣き事をいわない代わりに、堅気から金をかすめとる。
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音。だれかが息を殺して階段をのぼってくる気配。おれは黒星《ヘイシン》を握り、ペンライトを消した。上着の内ポケットからサングラスを取りだし、かけた。
足音は部屋の前でとまった。周囲の様子をうかがっている。夏美か。あるいは他のだれかか。黒星の銃口をドアに向けた。
足音の逡巡《しゅんじゅん》は長くは続かなかった。鍵が差しこまれる音がし、おもむろにドアが開いた。次の瞬間、甘い香水の匂いが鼻をついた。足音の主は女だ。
明かりがつけられ、鼻唄が聞こえた。靴を脱ぐごそごそという音が統き、夏美が姿を現した。
夏美はおれに気づかなかったようにくるりと台所に身体を向け、それからはっとしたように振り返った。
「だれ!?」
「静かに」
おれは銃口を夏美に向け、人差し指を唇の前に突きたてた。
「夏美ちゃんだろう?」
夏美はこたえなかった。凄い目でおれを睨んでいた。小鼻が膨らんでいる。髪は茶色がかったショートで、小ぶりな耳が完全に露出していた。目は奇麗なアーモンド型で、力強いラインを描く細い眉といっしょになって意志の強さを感じさせた。鼻は高くも低くもないが、やや潰れた感じがする。唇はふっくらとしていてまるで小さな女の子のようだった。顎は鋭く尖っていた。ひとつひとつのパーツはちぐはぐだったが、全体としてはまとまっていた。淡い色のルージュを唇に塗っているだけで、化粧っ気はなかった。ポップアートが描かれたTシャツに色の抜け落ちたジーンズ。肩からはルイ・ヴィトンのショルダーバッグを下げ、右手にコンビニの袋を持っていた。身長は百七十近く、年齢は二十五、六といったところか。おれの好みからすれば痩せすぎだが、この手の女に性欲をくすぐられる男は多いだろう。
「だれなの?」
夏美がいった。銃を意に介してもいないようだった。
「おれに買いとってもらいたいものがあると電話でいわなかったかい?」
夏美の視線がゆるんで、怪訝そうな表情に変わった。近眼の人間がものをよく見ようとしているような目つき。鼻の頭にかすかな皺がよっていた。
「劉《りゅう》……さん?」
「そうだ」
おれはセイフティをロックして銃をさげた。夏美が一人だと納得がいったのだ。
「ほかを当たれっていったじゃない」
「気が変わったんだ」
「気が変わって人の部屋に忍びこんで、銃を構えて待ち受けてたわけ?」
夏美の方はまだ納得できないようだった。猫背気味に背中を丸め、顔をこっちに突きだしてきた。
「押入の中を覗いたことは謝る。あんなものが入ってるなんて思いもしなかったんだ」
夏美は顔をしかめた。舌の先がぺろりと姿を現した。それから、慌てたように視線をスーツケースに向けた。
「あっちは見てない。鍵がかかってたからな」
「この部屋のドアにも鍵がかかってたはずよ」
おれの嘘はあっさりと一蹴された。夏美は憤然としたように手に提げていたコンビニの袋を台所に放り投げ、ルイ・ヴィトンを足もとにすとんと落として指を玄関に向けた。
「とにかく、靴を脱いで。日本の部屋は靴を脱いであがるものよ。常識でしょう」
「すまない。あんたがごつい男を連れてきたら、窓をぶち破って逃げようと思ってたもんでね」
「銃を持ってるくせに」
「ただのおもちゃさ」
おれはその場で靴を脱ぎ、左手に持って玄関に向かった。おどけたふりを装っていたが、決して夏美に背を向けなかった。
「本当におもちゃなら、しまっちゃえばいいじゃない。わたし、あなたを襲ったりはしないわよ」
「それもそうだな」
おれは銃を腰にさした。
「あらためて自己紹介をしようか。おれは、劉健一《りゅうけんいち》だ」
「佐藤夏美よ」
「本名を教えてくれる気はないのか?」
夏美が、なんのこと、と問うように首を傾げた。
「中国人だと聞いたんだが」
「日本人よ。子供のころは中国にいたけど。免許証、見る?」
「どこに住んでたんだい」
「いってもわからないでしょう。黒竜江省の小さな町よ」
それで納得がいった。
「残留孤児二世か」
「悪い?」
「いや」
夏美はコンビニの袋の中身を台所に並べはじめた。正面からは確かめようのなかった尻が、おどろくほどエロティックな曲線を作っていた。着痩せするタイプなのかもしれない。おれはスーツケースの中のタイトミニを着ている夏美の姿を想像した。悪くはない。
「座布団もないけど、その辺に適当に座って」
夏美の言葉にしたがって腰を落ち着けると、さっき灰皿がわりに使った紙コップと、烏竜茶が注がれた紙コップが目の前にさっと現れた。
「それで、わたしの留守の間になにをしようとしていたの?」
夏美は台所の縁に尻をのせて、おれを見下ろしていた。まるで、悪ガキのいたずらを見咎めた若い女教師という風情だ。
「初対面の人間とあうときは、下調べをするのが癖なんだ。それだけのことさ」
「調べものをしているときにわたしが帰ってきちゃったというわけ?」
「いや。ここには調べるものなんかなにもなかったからな。あとは、あんたが帰ってくるのを待って、話を聞こうと思ってた。水商売でたんまり稼いでるはずの若い女が、家具なしのおんぼろアパートにスーツケース二つだけで転がりこんでる。おれでなくても好奇心はそそられるさ」
「そんなに長いことここにいるつもりはないわ」
「そうだろうな。あんたには似合わない」
そういって、煙草に火をつけた。
「わたしも吸っていいかしら」
おれは煙草の箱を夏美にさしだした。ピアニストのように細くしなやかな指が伸びてきて煙草を抜きとった。マニキュアの色はピンクがかったオレンジだった。
「で、おれに買いとってもらいたいものって、なんだ?」
煙草に火をつけてやりながら、訊いた。夏美は長く煙を吐きだし、心ここにあらずといった感じで、ロールシャッハ・テストに使うような染みが浮かんだ天井を見つめた。それから、薬に酔ったような焦点のあわない目をおれに向けてきた。
「あなたが扱わないのは子供だけだって聞いたわ。薬や銃でも、出所がはっきりしてるものなら買い取ってくれるって」
うなずいた。おれの本職は故買屋だ。安く買い叩けて高く売れるものならどんな商品にでも手を出す。ただし、子供の臓器を売り買いするやつらとだけは取り引きしない。倫理がどうのといったたわごとじゃない。商売に差し障りが出るからだ。最近じゃ、フィリピンやタイから来た娼婦たちが身ごもってしまったガキを買いとる輩が歌舞伎町にも増えている。いい金になるのだ。だが、そいつらは街の虫ケラたちからも、ウジ虫なみの敬意しか払ってもらえない。おれのような仕事をしている人間には、信用がなにより大事なのだ。子供を扱っているという噂が流れたら、長い時間をかけて築いてきた信用も、あっという間に下落してしまう。
「おれは故買屋だ。金にかえられるものなら、大抵のものを扱う」
「――――」
夏美が口を開きそうになったが、おれはそれを遮って言葉をつづけた。
「なにを売りたいのか聞くために、確かめておきたいことがある。あんた、新宿の女じゃないだろう? 王からおれの名を聞いたなんてでたらめだ。おれのことはだれから聞いた? 新宿以外の場所でも名前が囁かれるほどの大物だとは、おれ自身も思ってないんだが」
「呉富春《ウーフーチュン》よ」
夏美はこともなげにいった。しかも、北京語で。
「名古屋から来たの。富春の女なのよ、わたし」
今度は日本語だった。
「驚かないの?」
夏美はおれの顔をじっと見下ろしていた。
「なんとなく、想像はしていた。今夜、富春はある店に拳銃を持って乗りこんだんだ。女はどこだって叫びながらな」
「ある店って?」
夏美は驚いていた。口調に問い詰めるようなきつい響きがあることにも気づいていないようだった。
「あんたは知らないだろう」
夏美の表情が険しくなった。おれは気づかないふりをして、ゆっくり煙草を吸った。
「教えてよ」
「いっても無駄だって」
「あなたが決めることじゃないわよ」
まるで女王様のようないいぐさだった。眉を吊り上げている夏美の顔に、おれは煙を吹きかけた。
「なにするのよ!」
煙草の吸いさしが飛んできた。予想していたので、なんなくかわすことができた。
「短気な女だな、あんた。中国女の欠点だ」
壁に当たって畳の上に落ちた煙草を摘み上げ、灰皿がわりのコップに落としこんだ。
「わたしは日本人よ」
「みんなそういいたがるんだ。でも、根っこには中国の考え方がしみついてる」
「あなたになにがわかるのよ」
おれは肩をすくめてみせた。
「富春はなんの関係もない人間を五人殺して逃げた。さあ、なにを売りたいのか、そろそろ教えてくれてもいいだろう」
「富春よ」
「なんだって?」
夏美は平然と見返してきた。
「おれが歌舞伎町に戻れば、健一に迷惑がかかるって、富春はいつもいってたわ」
「だから?」
おれはなにげなくいったが、夏美の言葉に今度こそ驚いていた。富春がおれのことを気遣うとは、そんな心根があるのなら、元成貴を怒らせる前にくたばってくれればよかったのだ。
「あなた、富春のせいでトラブルに見舞われてるんでしょう。富春をあなたに渡せばいくらくれるの?」
煙草を消した。ずっと夏美の目を見ていたが、変化をとらえることはできなかった。
「富春となにがあった?」
おれは訊いた。
「うんざりなの。逃げたいのよ」
それだけいえばわかるだろうとでもいうように、夏美は唇をきっと結んだ。たしかに、大方のことは想像がついた。おれだって最後には富春に見きりをつけたのだ。富春のねじくれ曲がった性根は、周りにいる人間を極度に疲弊させる。ガタがきた原発の中で寝起きしているようなものなのだ。いつ暴走し、放射能を撒き散らしはじめるか想像もつかない。だが、おれにはそれで夏美を解放してやるつもりはこれっぽっちもなかった。
「どうやって富春と知りあったんだ?」
「お店で」
どんな店なのかは聞くまでもなかった。
「いつ?」
「去年の春先かしら」
おれはうなずいた。富春が元成貴の右腕を殺したのは去年の一月。時間的な辻褄《つじつま》はあう。
「よくあんなやつの女になる気になったな」
「切羽《せっぱ》つまってたのよ。やくざまがいの嫌なやつに付きまとわれてて、富春ならそいつを追い払ってくれると思ったの」
「なるほど」
「一緒に暮らすようになってすぐに後悔したわよ。わたしの店を見張ってて、わたしが送りだした客の後をつけて、二度と夏美に近寄るなって、ぼこぼこに殴るのよ。あいつのせいで、わたし、何度も店をかわったわ。それに、夜になると、今日の客にはどんなことをしてやったんだって、ねちねち問いつめるの。嘘をつくとぶたれる。本当のことをいうと、今度は売女《ばいた》めって殴られる。もう、気が狂いそう」
「逃げればよかったんだ」
「逃げたに決まってるじゃない。富春が金をもらって人を殺す仕事をしてるってこともわかっちゃったしね、これ以上一緒にはいられないし、いたくなかったから。でも、その度に見つかったわ。執念深いのよ、富春は。蛇みたい。それで、蛇みたいな目でわたしを見つめて、もう逃げないでくれ、おれが悪かったからっておいおい泣くのよ。二日もたてば、泣いてわたしにすがったことも忘れてまたわたしをぶつようになるの」
富春が執念深いという点には同感だった。歌舞伎町の台湾クラブに李麗珍《リーリーチェン》という女がいた――香港のヌード女優の名をパクった源氏名で、本名はわからなかったが。おれと富春が東通りのルノアールで仕事の打ち合わせをしていたときのことだ。その麗珍が、客の男と一緒にルノアールに入ってきた。麗珍を見つけた富春は急に顔色をかえ、「おまえ、おれを嗤《わら》った女だな」と叫びながら詰めよっていったのだ。いきなり怒鳴られた麗珍ははじめのうちこそぽかんとしていたが、やがて、あんたのことなんか見たこともない、どこの売女と間違えているんだか知らないがとっとと失せろと反対に啖呵《たんか》を切った。麗珍に殴りかかろうとする富春を、おれは後ろから抱きついてとめた。そして、麗珍の勤めている店に富春は足を踏み入れたこともないってことを思いださせてやり、どこかの女と間違えているんだろうと聞いてやった。富春は、頭を振ってこの女に間違いないと断言した。三年前の寒い雨の日に、びしょ濡れになって道を歩いている富春を暖かそうな毛皮を着て嘲笑《あざわら》ってすれ違ったのは確かにこの女だと。おれは呆れてものもいえなかった。
そのときは、おれが富春をルノアールから連れだすことで収まった。だが、その何日かあと、麗珍はどこかの路地裏で殴り殺された。おれは富春を歌舞伎町から遠ざけ、あの日、麗珍と一緒にいた男を見つけだして口止め料を払ったのだ。富春の執念深さには、何度痛い目にあわされたか、わかったもんじゃない。
「それで、富春ときっちり縁を切る方法を考えたってわけ」
夏美は微笑んでいた。気のある男を誘惑する方法を思いついたときの女の子のような、淫靡《いんび》だがどこかにあどけなさの残る微笑みだった。
「それが歌舞伎町に来ることか」
「富春が歌舞伎町にいられなくなったわけは何度も聞いたわ。元成貴って大物にひと泡吹かせてやったんだって、いつも自慢そうに話してたから。元成貴って人に、富春を殺させればいいんだって、だれにでも考えつくわ。簡単よね」
おれにはそれほど簡単には思えなかった。事実、もう五人の人間が死んでいるのだ。
「その話のどこにおれが絡んでくるんだ?」
「元成貴って、大物なんでしょう? わたしみたいなのがのこのこ出かけていって会いたいといっても、会ってくれるわけないじゃない。で、富春があなたのことをいってたのを思いだしたの。台湾と日本の半々で、富春の元のパートナー、台湾華僑と上海マフィアに顔が利く人だって」
「顔が利くってほどじゃない。迷惑をかけないかぎり見逃してもらえるってだけのことだ」
「そんなこと、わたしにわかるわけないじゃない。とにかく、わたしはその劉健一って男を利用するべきだと思ったのよ。富春を相棒にするぐらいだから、頭の方はたかが知れてるじゃない。わたしの思うように動かせるかもしれないって」
「やれやれ」
おれの皮肉なつぶやきも、自分の言葉に酔いはじめている夏美の耳には届かなかった。
「だったら、富春を新宿におびき寄せて、騒ぎが大きくなったところであなたに売ればいいと思ったのよ。そうすれば、あなたは富春を元成貴のところに連れていくでしょう? 富春は殺されて、わたしは晴れて自由の身。荷物をまとめて新幹線に飛び乗って、新宿に部屋を借りたの。一週間ぐらいあいつをやきもきさせてやってから、電話を入れたわ。新宿にいるんだけど、元成貴って人に掴まったの、いま隙をみて電話をかけてるのよ、みんなであなたはどこにいるんだってわたしを殴るのよ、助けてって。どう?」
電話を再現した部分を、夏美は早口の北京語でまくしたてた。
「あんたは大馬鹿野郎だ」
おれはいってやった。得意げに胸を突きだしていた夏美の顔が、納得のいかない理由で父親に折檻《せっかん》された女の子のように歪んだ。
「なによ」
「そんな小細工を弄《ろう》さなくても、歌舞伎町に戻ってきたってだけで富春は死人も同然なんだ。あんたは、新宿にいると富春に伝えるだけでよかったんだ。歌舞伎町にいて元成貴の目を逃れることなんかできやしない。一週間も待たずに富春は殺されていただろうよ」
「それを早く、確実にしたかったのよ」
「あんたがくだらない芝居をうったおかげで、富春は頭に血が昇っちまった。もう、五人殺してる」
夏美が顎《あご》を引いた。おれが嘘をいっているとでもいうように、大きな目でじっとおれの顔を見つめた。
「富春は、女はどこだって叫びながら元成貴の女がやってる店に乗りこんだんだ。いまごろ元成貴は、その女ってのは何者だと考えてるだろう。もう、子分たちに探させてるかもしれない。名古屋とだって繋がりはあるはずだ。佐藤夏美という富春の女が姿を消したってことは、すぐに伝わる」
「だって……」
「富春が殺したのは、元成貴が可愛がってた男だ。富春に女がいるとしたら、その女も富春と一緒に殺そうとするだろうな。元成貴は、富春に負けず劣らず執念深い野郎なんだ」
「わたしは富春とはなんの関係もないのよ」
「そんなこと、元成貴の知ったことじゃないね。それに、警察もあんたに興味を示すだろう」
「嘘よ」
夏美はいった。おれの言葉を信用しかねている。
「人が死んでるんだ」
おれは辛抱強く言葉を続けた。こんな馬鹿な女など、さっさと放りだしてしまってもいいのだが、ここでいい含めておかないと性懲りもなく事態をかき回す怖れもあった。それに、富春がこの女を追っているなら、もしかするとおれの切り札になるかもしれない。持ち札は多ければ多いほどいい。
「どうせ死んだのは中国人でしょう」
「警察にはそっちの方が都合がいいんだ。あいつらは、歌舞伎町を昔の姿に戻したがってる。外国人を歌舞伎町から追いだしたいんだ。中国人絡みの事件を舌なめずりして待ち構えてるのさ」
おれは煙草を取りだした。苛々《いらいら》して、神経がささくれだってきているのがわかった。
「まあ、警察のことは置いておいてもいい。富春を見つけるとしたら、元成貴の方が先だからな。おまわりにうろつかれちゃ、元成貴だって腹が痛むんだ。さっさと富春を始末して、後腐れをなくそうとするだろう。なんにしろ、元成貴は富春と一緒にあんたのことも探してる。間違いない」
「どうすればいいの?」
夏美は媚《こ》びるような目で見つめてきた。どうやら、やっと事態の深刻さを理解したようだった。
「おれだったら、いまの内に逃げだすね」
「あなたが手助けしてくれれば、なんとかならないかしら」
「ごめんだ」
「意地悪なのね。もっと優しい人だってきいてたわ」
「おつむの悪い女は嫌いなんだ」
「なによ」
夏美は唇を尖らせてそっぽを向いた。子供じみていた。いや、実際のところ夏美は子供なのだ。
「とにかく、ここは歌舞伎町に近すぎる。引き払った方がいい。名古屋に戻ってろ。富春が元成貴に捕まるか殺されるかしたら、連絡を入れてやる」
「だめなのよ」
顔を横に向けたまま、夏美は情けない目をよこしてきた。
「どういうことだ?」
「名古屋に戻るつもりはなかったから、いいチャンスだと思って店の売り上げを持ち逃げしてきたの。いま名古屋に戻ったら殺されるわ」
おれはため息をついた。どうして世の中には後先を考えずに突っ走ろうとする間抜けが多いのか。
「名古屋でなくてもいい。札幌《さっぽろ》、仙台、大阪……とにかく、東京から離れるんだ」
夏美は首をすくめた。
「それもだめ。お金がないの」
「売り上げを持ち逃げしてきたんだろう?」
「マンションの頭金にしちゃった」
口を開けたまま夏美を見た。富春を殺すための穴だらけの計画を練りながら、この娘はのんきに家探しをしていたとでもいうのか。
「参宮橋とかいうところに、掘り出しものがあったのよ。新築じゃないんだけど、内装がきれいで信じられないぐらい安かったの」
夏美は畳に膝を突き、白亜の豪邸を思い描いているかのように目を輝かせた。おれは立てつづけに煙草をふかして、夏美の妄想にちゃちゃを入れてやった。
「それで、あんたは東京というか、新宿を離れるつもりはない。それどころか、残りのローンを払うためにも早く働き口を探したい。それにはさっさと富春にくたばってもらうしかない。そういうことだな?」
「そうね。そうなるわね」
なんとも邪気のない声だった。
「よし、富春を売ってもらう代金は、あんたを元成貴から逃がしてやるってことでチャラだ。いいな」
夏美は不服そうだったが、反論はしなかった。
「いい子だ。今後も、おれのいうことには逆らわないではしい。あんたも知ってのとおり、復讐を誓った中国人には情けなんて通用しないからな」
「いいわよ。わたしはどうすればいいの?」
「とりあえず、ここを出る」
腰をあげて玄関に向かった。
「いますぐ出ちゃうの?」
「そうだ」
「ちょっと待ってよ。スーツケース、ひとつ持ってくれない?」
夏美の声を無視して、おれはドアを開けた。
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口の中でぶつぶつ文句をいいながら、夏美は後をついてきた。おれはタクシーを止め、飯田橋に向かわせた。
「富春はあんたのことをなんて呼んでた?」
不貞腐れて窓の外の景色に目を向けていた夏美は、一瞬、戸惑いの表情を浮かべ、それからぼそりと答えた。
「小美《シャオメイ》」
北京話で「みっちゃん」というような愛称だ。夏美の一瞬の戸惑いに、おれは胡散《うさん》臭いものを感じたが、問い詰めるのはやめにした。
「富春に中国名を教えたことはないんだな?」
「うん、夏美って名前は知ってるけど」
「パスポートや免許証を見られたってことは」
「ないと思うけど?」
「ならいいんだ」
夏美はじっとおれを見ていた。目を閉じてその視線をかわした。
マンションの百メートルほど手前でタクシーをおりた。今度は、スーツケースをひとつ運んでやった。
「どうしてあんな離れたところでタクシーを下りたのよ?」
「いろいろあるんだ」
夏美の小言を適当にあしらい、部屋へ辿《たど》りついたときにはさすがにくたびれきっていた。だが、まだ眠るわけにはいかない。
おれは受話器を取り上げ、楊偉民に電話を入れた。
「おれだ。金がいる」
「いくらだ?」
「二百」
「十日で二割」
「馬鹿いうなよ、爺さん」
「おまえは明日には死体になっているかもしれん。そんな人間にただで金を貸す商人などおらんぞ。いやなら他をあたれ」
呪詛《じゅそ》の言葉を喉元で飲みこんだ。
「わかったよ、使いを行かせる。女だ」
「一時間後でいいな」
「ああ。歌舞伎町はどうなってる?」
「元成貴の手下でいっぱいだ。みな、殺気だった顔をして、ナイフや青竜刀をちらつかせているわ。おまえの店も見張られているぞ」
「富春はまだ見つかってないんだな?」
「当然だ」
「じゃ、一時間後」
電話を切り、別の番号を押した。
「はい?」
寝起きのようなくぐもった声だった。
「おれだ。車を一台都合してもらえないか?」
「いまからかい?」
「悪い」
「車種は?」
「走るんならなんだっていい」
「わかった。じゃ、いつもの場所に置いときますから」
「頼む」
おれは電話を切った。相手は中野の中古車ディーラーの道楽息子だ。バブルのころは親父の景気もよかったらしく、六本木を中心にディスコをはしごしては女を漁っていた。服、車、女と遊びの段階を踏んでいけば、次のステップは薬ってことになる。道楽息子はすぐに薬に溺《おぼ》れた。頭のてっぺんまでどっぷりだ。あんまり溺れすぎて、六本木にはいられなくなった。それで歌舞伎町に流れてきたのだが、六本木と違って、歌舞伎町には道楽息子に薬をめぐんでくれる黒人はいなかった。いるのはやくざか、カモを見つけて身ぐるみはごうとする質の悪いイランやコロンビアの売人だけだ。
おれはこの道楽息子を大久保の国際通りで見つけた。真っ青な顔をして、いまにも眼球が飛び出るんじゃないかという目で通りの脇の暗がりに落ちつきのない視線を送っていた。そのうち、にやけた顔のコロンビア人がやつに近づき、薬をちらつかせた。道楽息子は震える手をポケットに突っ込み、鷲掴《わしづか》みにした札を売人に突きだした。そいつが間違いだった。売人の手がさっとひらめき、ナイフが道楽息子の喉にあてがわれた。売人は道楽息子の金玉を蹴り上げ、ポケットというポケットに手を突っ込んで金目のものを漁った。満足すると、うずくまって苦悶する道楽息子に、
「アディオス、|マリコン《ホモ》」
と嘲りの声をかけて立ち去った。
おれは一部始終をただ見守っていた。道楽息子は顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡らし、「ちきしょう、ちきしょう」とつぶやきながら立ちあがった。その後を尾け、やつが中野の中古車屋の息子であることを突き止めた。それから、顔見知りのコロンビア人に話をつけて、コークを安く卸してもらった。ナイフ好きのコロンビア人も歌舞伎町の中国人には気を遣う。あとは目を光らせてタイミングを見計らうだけだ。
一週間後、コマの近くで道楽息子を見つけた。顔は蒼ざめるのを通りこして死人みたいだった。おれは道楽息子に近づき、取り引きを持ちかけてやった。おれはときおりコカインを用意することができる。金はいらないかわりに、必要なときに車を調達してもらいたい、そんなところだ。道楽息子にとっては渡りに船だった。はじめのうちこそは、おどおどして車は無傷で返してくれるようにと訴えていたが、おれが安全運転を標榜するドライバーであり、契約をきちんと履行する商人だということがわかると、後はただ、文句もいわずに車を用意し、嬉々《きき》として薬を受け取るだけだった。道楽息子はおれの名前も知らないし、車の受け渡しは新宿以外ですることにしている。羽目を外しすぎた道楽息子がパクられても、おれまでたどりつくおまわりはいないだろう。
「シャワー、借りてもいい?」
夏美が退屈さを紛らわそうとしているような声でいった。
「いいけど、さっさと切り上げろよ。すぐに出かけるぞ」
「えー」
「ぐたぐたいうな」
「偉そうに、何様のつもりよ」
おれはわざとらしいため息をもらし、ふたたび受話器を取り上げた。元成貴をなだめておかなければ身動きもままならない。
「はい?」
「健一《ジェンイー》だ。元成貴はいるか?」
受話器の向こうで息をのむのがわかった。内線に切り替わるトーン信号が聞こえ、苛々した元成貴の声がそれに続いた。
「富春と一緒なのか?」
「そんなわけないだろう」
「あいつは秀紅の店を襲ったんだぞ! 秀紅は警察に連れて行かれた。おまえのせいだ」
ヒステリックな金切り声に、おれは耳を塞ぎたくなった。元成貴は普段はものわかりのいい大哥《ボス》役を機嫌よく演じているが、いったん、自分の思いどおりにことが運ばないと知ると、仮面の下から幼児じみたケチ臭い素顔が現れてくる。
「知ってるよ」
「おまえを現場で見たものがいる。おまえが富春を手引きしたんだ」
「落ち着いて考えてくれよ。そんなことをして、おれにどんなメリットがあるんだ?」
おれはむずがっている赤ん坊をなだめる母親のように、辛抱強く元成貴に接することにした。
「楊偉民か崔虎におれを消してくれと頼まれたんじゃないのか?」
「楊偉民なんかクソ喰らえだし、崔虎みたいな狂犬とつきあうつもりはない」
「しかし……」
元成貴のおつむもやっと冷えてきたようだった。
「なあ、今度のことで、おれは心底ビビってるんだ。崔虎と取り引きしてあんたを牽制《けんせい》しようとしたのもそのせいだ。許してくれとはいわないが、察してくれてもいいだろう? おれは今日一日中富春を探して歩き回ってた。で、たまたま襲われた直後の〈紅蓮〉に出くわしちまっただけなんだよ」
「そういえば、そうかもしれないな。だが、信じることはできん」
「信じてくれなくてもいいさ。でも、あんたはおれに三日時間をくれた。おれを切り刻むのは三日後にしてくれないか」
「逃げないという保証はどこにある」
「信用だよ。信用をなくしたら、あんたたちの世界では生きていけない。これまで苦労して築いてきた信用をいっさいがっさい失って、他の土地でまた一からやりなおすなんて、おれにはとてもできない」
「相変わらず口がうまいな。おまえは弁護士にでもなればよかったんだ」
「他に生き方があればそうしてたさ」
「わかった。約束は守ろう。富春をおれの目の前に連れてくるんだ。もし、おれを裏切ったら――」
「裏切らないって」
「明後日の昼だ。忘れるなよ」
電話が切れた。おれは太い息を吐きだした。背中が汗でびっしょりだった。
とりあえず、今夜は――といっても、もう朝まで数時間しかないが――生き永らえることができそうだ。
煙草に火をつけた。滅多にないことだが、うまかった。バスルームからシャワーの水音に混じって夏美の鼻唄が聞こえてきた。ルイ・ヴィトンのバッグは見当たらなかった。バスルームに持ちこんでいるのだろう。食えない玉だ。
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十分ほどで夏美はバスルームを出てきた。パジャマ姿だった。
「小一時間ばかり出かけてくる。やってもらいたいことがあるから、着替えていてくれ」
おれはスーツケースから引っ張りだしておいたミニのスーツを指さした。色は真紅だ。これなら、男の目がいくのは服と脚だけで顔を覚えられる怖れはない。夏美には〈薬屋〉まで金を受け取りにいってもらうつもりだ。元成貴はああいったが、〈薬屋〉に見張りをつけてるに決まっている。おれが現れるのを待って尾行するつもりか、あるいは拉致《らち》することも考えているかもしれない。
「せっかくシャワー浴びたのに」
「後でもう一度浴びればいい」
素気なく答え、作りつけのクローゼットから袖《そで》をカットオフしたジージャンとベイスボール・キャップを取りだした。そいつを身につけ、ジョン・レノンのトレードマークだった丸いサングラスをかけると、深夜にナンパに出かけてきたおつむの軽い馬鹿野郎に見える。
「ジーンズとTシャツでいいでしょう? この服を着るなら、お化粧もしなくちゃいけないわ」
「だめだ」
「こういうのを着てる女が好みなわけ?」
「好きじゃない男がいるか?」
ジーンズのポケットに黒星を突っ込み、おれは玄関に向かった。
「おれが戻ってくるまで外には出るな」
「一時間じゃ、そんな暇もないわよ」
「いい子だ」
ドアを閉めた。
渋谷でタクシーをおり、あとは歩いた。明治通りを原宿方面に少し戻り、目立たない路地を右に折れると青空駐車場がある。明け方が近いせいか、駐まっている車は十台ほどだった。一番奥に紺のBMWがあった。フロントウィンドゥの助手席側に見慣れた熊のぬいぐるみが置かれていた。
おれはBMWに後ろから近づき、タイヤの下の土を軽く蹴飛ばした。乾いた金属音がしてキィが転がった。それを拾い上げ、ドアにさしこんだ。ボンネットはまだ温かかった。道楽息子がやってきて、まだ五分と経ってはいないのだろう。シートの上に紙きれが落ちていた。
「次は、ちょっと多めに用意してもらえると助かります」
みみずがのたくっているような小汚い字でそう書かれてあった。最近、薬の量が増えている。そろそろ、この道楽息子とも縁を切る潮時なのかもしれない。
246から山手通りに入り、職安通りを右折した。小滝橋《おたきばし》通りを横切ってガードをくぐったあたりからスピードを落とし、左右に視線を走らせた。見覚えのある中国人たちの姿がやけに目についた。パトカーのサイレン灯の赤いきらめきが歌舞伎町へ入りこむ路地のところどころに点在していた。上海のやつらとおまわりたちが、歌舞伎町の動脈を詰まらせようとしているのだ。
区役所通りを右折してみたが、結果は同じだった。靖国《やすくに》通りを左折して、おれは車を飯田橋に向けた。
マンションから一ブロック隔てたパーキングメーターの前に車を停め、歩いた。自分でもときおり馬鹿らしくなることはあるが、用心を重ねて損をするということはない。なによりも歩くことは健康にいい。
ドアの前で中の様子をうかがった。鼻唄《はなうた》が聞こえる。中島みゆきの歌だ。もしかすると、香港の王菲《ワンフェイ》がカヴァーした方かもしれないが。
そっとドアを開けた。夏美はクローゼットの鏡に向かって、髪の形を整えているところだった。ぴしっと形が決まった上着と、腰の曲線を浮かびあがらせて柔らかい線を強調しているスカートのコントラストが妙に艶《なま》めかしかった。スカートから伸びた脚には黒いストッキング。後ろから見るかぎり、夏美はばりばりのホステスだ。
「準備はいいか」
夏美の背が強張り、爆弾を投げつけられたとでもいうような勢いでさっとこっちに振り向いた。吊《つ》りあがった目に宿っているのは驚愕《きょうがく》、怯《おび》え、慣れに近い反射的な媚《こび》、そして、抑えても抑えきれずに溢れてくる憎悪。中でも、怯えと憎悪の色がおれの心を瞬間的に捉えた。おれは自分の心を探ってそのわけを掴もうとした。だが、おれの心を捉えた目の色は次の瞬間にはさっと消え失せ、安堵と非難の色にとって代わられた。
「ああ、びっくりした。ノックぐらいしてよね」
屈託のない声だった。怯えと憎悪もそこにはなかった。
「出かけるぞ」
「はあい」
夏美は素直にしたがった。
夏美は三足しか靴を持っていなかった。オーソドックスな黒のピン・ヒールを履くと、晴れやかに微笑んで、女優やモデルがよくやるように片足を後ろに跳ね上げてみせた。
「どう? やりたくなる?」
「ああ」
おれはまじまじと夏美を見つめた。夏美の目に見えたものに気を取られていて気づかなかったが、夏美の変身ぶりはたいしたものだった。きつい印象を与える目と眉がシャープさを残したままなだらかに描き換えられ、クールではあるが、ツボを押しさえすれば可愛い女にも変身できるといっているような、ちょいとお高くとまった女をひいひいいわせてみたいと念じている男なら涎《よだれ》を垂らしてすがりつきそうな顔つきに変わっていた。これなら、元成貴の手下に顔を覚えられたとしても、化粧を落とせば見咎められることもないだろう。
エレベータに乗りこむと、夏美はおれの腕に自分の腕を絡ませてきた。おれは放っておいた。悪い気はしなかった。足元に置いた二つのスーツケースが邪魔だった。
明治通りに出て新宿へ向かい、駅前のワシントン靴屋の角を曲がったところで車を停めた。
「やってもらいたいことがあるんだが」
サングラスをかけた目を靖国通りの方へ向けたまま、夏美にいった。
「どんなこと?」
「あの通りを渡って左側の路地、見えるか? 入り口に、さくら通りってアーケードみたいな看板が出てる」
「うん」
「あの通りを入っていって真っ直ぐ、そうだな、五、六十メートルも歩くと誠漢堂って名の古ぼけた漢方専門の薬屋がある。そこに入って、健一の使いの者だっていうんだ。日本語でいい」
「健一の使いでーす」
夏美はふざけた口調でおれの言葉を復唱した。ムカっ腹が立ったが、なにもいわずに説明を続けた。
「分厚い眼鏡をかけた白髪のじじいがいる。そいつが包みを渡してくれるはずだ。それを持って、紀伊國屋《きのくにや》の前に来るんだ」
「健一は?」
いつの間にか、呼び捨てになっていた。
「ここに車を駐めていて目をつけられるとまずいからな。ここらを流しながら迎えにいくよ」
「わかった」
夏美はドアを開け、尻をシートの上で滑らせながら軽やかに車をおりた。
「まだ話は終わってない。歌舞伎町の中は元成貴の手下とおまわりが目を光らせてるはずだ。目立つような真似はするなよ。それから、できたらでいいけど、上海のやつらの動きを観察して戻ってきてくれ」
「任せなさいって」
夏美は面倒くさそうに手を振って背中を向けた。おれの話を聞いていたかどうか、怪しいものだ。だが、夏美は動きだした。いまから話をしなおしたってどうにかなるものでもないだろう。後は、夏美に任せるしかない。ヘマをして捕まっても、おれの知ったことじゃない。
さくら通りへ消えていく夏美を確認して、おれは車をスタートさせた。
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夜が明けていた。どんよりと垂れこめた雲が太陽の光を遮って、くたばりかけた老人の表面は湿っているくせに中はからからに乾いている肌のように生気のない空気が夜明けの靖国通りを覆っていた。
大ガードをくぐり、交差点を左折した。空車のタクシーがつかえていて、道はなかなか動かなかった。始発を掴まえようと駅へ急ぐ堅気の連中が、恨めしげに空を見上げていた。おれは自分の頭の中に浮かぶ夏美の目を、なにかに取りつかれたように凝視していた。
驚愕に見開かれた目の奥に潜んでいた怯えと憎悪。それはおれにはお馴染《なじ》みの感情だった。物心ついてから歌舞伎町の住人になるまでの間、おれはおふくろの癇癪《かんしゃく》がいつ爆発するだろうかとたえず怯えていた。月経を境にした数日間のおふくろは繊細すぎるガラスの容れ物みたいなものだった。おれの行動が、その容れ物の中に容量以上の水を注ぎこんでいくのだ。容れ物はすぐに壊れた。そうなるとおふくろは夜叉《やしゃ》のような顔になって、ベルトでおれを殴った。一度、逆上しすぎたお袋に金具のついた方で殴られ、背中の肉がべろりと抉《えぐ》れたことがある。おふくろは、自分の感情をコントロールすることができなかった。相手が、台湾にいられなくなって逃げてきた流氓《リウマン》だとわかっていても、惚れればすぐに結婚したし、相手の感情が自分から離れていったと知れば、とことん憎んだ。そいつの血が流れている子供にだって容赦はしなかった。おれはおふくろに怯え、憎み、そして感情をコントロールする術を学んだ。
歌舞伎町にやってきてからは、その対象が楊偉民に変わった。おれは常に楊偉民の顔色をうかがい、飼い馴らされた犬っころみたいに、楊偉民が声をかけてくれれば尻尾を振って駆けつけた。そして、そうまでして仕えていたおれを容赦なく切り捨てた楊偉民を、おれは心の底から憎んだ。とはいっても、すでに感情をコントロールする方法を身につけていたから、それを表に出すことはなかったが。
楊偉民から見捨てられた後でも、おれは歌舞伎町を出ようとは思わなかった。正直な話、どこに行けばいいのかわからなかったのだ。歌舞伎町の中国人社会の中に、おれの働き口はなかった。みんな、呂方《リューファン》を殺したのはおれだということを知っていた。おれは高田馬場《たかだのばば》までいって日雇《ひやと》いをやり、夜はゲームセンターやポルノ映画館で過ごした。ある晩、昼間の仕事に疲れ果て、映画館の座席で眠りこけているおれのモノを狙ったおカマが隣に座ってきた。そのおカマはおれのモノをしゃぶることはできなかったが、おれはゴールデン街のしけたゲイバーに働き口を見つけた。小遣いと寝る場所を提供してくれたらやらせてやる、と思わせただけだ。簡単なものだった。
そうこうしているうちに、台湾から流氓の群れが歌舞伎町に流れこんでくるようになった。流氓たちは、楊偉民に一応の敬意は払ったが、あくまでも自分たちの流儀を押し通した。やっと、おれの出番が回ってきたということだ。おれは、右も左もわからない流氓たちの道案内を買って出た。日本語と北京語を流暢《りゅうちょう》に操り、歌舞伎町の動向に詳しいおれを流氓たちが放っておくはずはなかったのだ。数年後にはそれが大陸から来た流氓に変わった。台湾から来ていようが大陸からであろうが、流氓の本質は変わらない。おれの利用価置も変わらなかった。
それでも、おれは心を安らかにして眠るということができなかった。おれはやつらの身内じゃない。いつ、やつは気に食わない、と思われるかわかったものじゃないのだ。おれは流氓たちの目の色をうかがい、怯え、憎みながら歌舞伎町に根を張っていった。
結局、対象が何回か変わっただけで、おれの人生には常に怯えと憎悪がつきまとっていた。あんまり長いことつきまとわれているので、自分がなにかに怯え、それを憎みながら生きているのだということを忘れがちになるほどだ。だが、どれほど振り払おうとしてみても、怯えと憎悪がおれの魂の根っこに、鋭い牙《きば》を立てて食らいついているということに変わりはない。そして、ときどき鋭い痛みをおれに与えて、おれが自分たちの奴隷であることを思いださせようとするのだ。
おれはもう一度夏美の目を思いだした。
夏美は何かに怯え、何かを憎んでいた。それはあの瞬間だけのことなのか。それとも、たえず夏美につきまとっているのか。
クラクションが鳴らされた。おれの車の前に大きなスペースができていた。車が流れだしたのだ。
おれはアクセルを踏み、くだらない考えにおさらばした。
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紀伊國屋の前に車を停める直前、バックミラーに真っ赤なミニのシルエットが映った。夏美が息を弾ませて、三峰《みつみね》の角を曲がってきたところだった。
おれが助手席のドアを開けてやると、下りたときと同じように滑らかな動作で夏美が乗りこんできた。夏美がドアを閉める前に、おれはBMWを発進させた。
「薬屋のおやじはなにかいってたか?」
バックミラーで後方を確認しながら、夏美に訊いた。怪しい気配は何もなかった。
「えっとね、カリビアンは静かになった。そう伝えてくれって」
元成貴がおれとの約束を守ったのだ。今夜の捜索は空振りに終わったのだろう。富春を掴《つか》まえるには、おれを利用した方が早いと元成貴は決断したのだ。
「それから、ママさんがさっき釈放されたっていってたわ」
それで、黄秀紅に電話しなきゃならないことを思いだした。とりあえず秀紅は元成貴の元へ急ぐだろう。元成貴にしても、〈紅蓮〉で起こったことを詳しく知りたいはずだ。どちらにしても電話できるのは昼以降ということになる。
「はい、これ」
夏美が、デパートの包装紙に包まれた金をおれの膝《ひざ》の上に放り投げた。
「歌舞伎町の様子はどうだった?」
「恐い目をした中国人がいっぱい。店が終わったホステスがけっこう。酔っぱらいの日本人が少し」
ニュース原稿を読みあげているアナウンサーのような声だった。
「わたしにこの格好をさせたのはそのせいなのね?」
「なにが?」
「ホステスだと思わせるため」
「実際にホステスなんだろう?」
「まあ、そうだけど」
夏美はヘッドレストに頭を押しつけ、大きく息を吐きだした。
「疲れたわ。それに、お腹も減った」
車は甲州街道を走っていた。
「買ったマンションってのは、もう入居できるのか?」
「うん。まだ、家具もなんにもないけど」
「参宮橋だったな?」
「そうよ。住所はね、渋谷区代々木四丁目、だったかな?」
それで大体の位置は見当がついた。
「飯を食ってからそこにいく。まだ九月の終わりだ。布団がなくっても風邪を引くことはないだろう」
西参道の交差点を左に折れると、終日営業のプァミリーレストランがあった。
「えー、こんなとこで食べるの?」
駐車場に車を乗り入れると、夏美はいった。心底うんざりしたような声だった。
「まだ朝の四時だぜ。贅沢《ぜいたく》いうなよ」
夏美がガキのように駄々をこねだす前に、おれはさっさと車を下りた。
「百五十万しかない」
おれは金を数えていた手をやすめ、プロレスラーのような勢いでステーキを頬張《ほおば》っている夏美に顔を向けた。夏美はきょとんした顔でおれを見た。すぐに破顔して、おれがおもしろくもない冗談をいったというように笑ってみせた。
「ああ、十万円ね。もらっちゃった」
「おれはやるなんてひと言もいってないぞ」
「いいじゃない、それぐらい。メッセンジャーを務めた報酬《ほうしゅう》よ」
おれは黙って夏美を見つめつづけた。
「なにかいいたいことがあるんなら、はっきりいえば」
「返せ」
「やっぱり」
「富春のせいで、この数日は商売ができない。十万でもおれには貴重な金なんだよ」
「じゃ、ちょうだいとはいわないから、貸してよ」
夏美はフォークとナイフを操る手をとめて、媚びるような表情をおれに向けた。
「おれは十日で二割の利子でこの金を借りた。同じ利子でいいなら、貸してやるよ」
おれはいってやった。
「ケチ」
「商売人といってくれ」
夏美はそれでもなにかを期待するようにおれの顔を見ていた。だが、そこに探していたものが見つからないと悟ると、渋々といった感じでバッグに手を伸ばし、札束を取りだした。おれはその札を受け取った。十六個の束をいくつかに分け、ジージャンのポケットに突っ込んだ。
別に十万の金ぐらいくれてやってもいい。ただ、今は夏美にまとまった金を持たせたくなかった。金があれば自由に行動することができる。おれはしばらくの間、夏美を縛っておきたかった。
「いくら持ってるんだ?」
「三万ぐらいかな。銀行に行けば、まだ五十万ぐらいあるんだけど」
隙を見てキャッシュカードを奪いとっておかなければならないということだ。
「食わないのか?」
「もういい」
夏美の唇が尖っていた。拗《す》ねた女の子そのままだ。
「じゃあ、行くぞ」
コーヒーを飲み干して立ちあがった。
夏美が買ったというマンションは、西参道と山手通りのちょうど中間ぐらいの場所にあった。2DKの間取りで決して新しくはないが、日当たりもよく、悪くはない物件だった。これなら、四、五千万はするだろう。夏美は名古屋の店の売り上げを持ち逃げしてきた金で買ったといったが、どんな店であろうと一日の売り上げなどたかが知れている。貯金をおろしたか、おれには話していないなにかで当てた金を使ったに違いない。
部屋に入るなり、夏美はバスルームへ駆けこんだ。水が流れる音がしたが、シャワーじゃなかった。たぶん、化粧を落としているのだろう。おれは室内をざっと点検し、気に触るものがなにもないのを確かめて、煙草に火をつけた。煙はまずかった。口の中がざらざらで喉がいがらっぽかった。昨日からろくに寝ていないし、ほとんどなにも口に入れていない。ファミリーレストランでサンドイッチを注文したのだが、崔虎に殴られた口の中がいたくて、コーヒーだけで我慢したのだ。
夏美が出てきた。おれには目もくれずにスーツケースを置いた和室に足を向けた。
「着替えるから覗《のぞ》かないでね」
いったんおれに顔を向け、からかうような表情を見せてからぴしゃりと戸を閉めた。鼻唄が聞こえた。足音を殺してバスルームへ向かった。扉を開けて中を覗いた。洗面台の上にルイ・ヴィトンがちょこんと載っていた。
中には、財布、パスポート、免許証、化粧品が入った小さなポーチ、ハンカチ、ポケットティッシュ、ウォークマン。
財布を取りだし、中をざっとあらためた。札で三万二千円。小銭で四百数十円。銀行のキャッシュカードが二枚にVISAのクレジットカードとテレホンカードが一枚。キャッシュカードとクレジットカードを抜きとり、ジーンズの尻ポケットに突っ込んだ。
和室の方の気配をうかがってみたが、鼻唄と衣ずれの音が聞こえるだけだった。財布を元に戻し、今度はパスポートと免許証を取りだした。パスポートは形式が変更される前の、赤い大判のやつだった。今よりほんの少し長い髪の毛の夏美の写真が貼ってあった。発行年月日は一九九二年の五月、本籍地は岐阜県。査証のページはまっさらで、最後のページに夏美の名前と名古屋の住所が書き記されていた。免許の方も同じようなものだ。
パスポートの最初のページをめくり、写真をじっと睨んでみた。薄緑のシールに覆われた写真に、手を加えた跡は見当たらない。日本で偽造されるパスポートは、ほとんどが盗難品に写真を貼り変えたものだ。写真の表面を薄く剥がし、元の写真の上に張りつけて擦り、割り印を浮かびあがらせる。杜撰《ずさん》な仕事だとすぐにわかるが、熟練の職人の手にかかったものだと、素人目にはまったく区別がつかない。
引っ掛かっているのは渡航印がまったくないということだ。普通の人間は、海外へ行くためにパスポートを申請する。身分証明証代わりにパスポートを申請するやつなどまずいないだろう。そもそもパスポートの申請には七面倒くさい手続きが待っている。免許証か健康保険証で肩代わりできるのに、その苦役《くえき》を受け入れる必要はない。そうでないとすれば、そいつは自分の身分に不安を抱えているのだ。
たとえば、おれだ。おれは日本、中国、台湾のパスポートを持っている。本物は日本のだけで、あとは高い金を積んで作らせた偽造パスポートだ。名前もそれぞれ違う。おれはその二つのパスポートを使って国民保険に加入し、外国人登録証と免許を取得している。特に必要があるというわけじゃない。将来、日本人の高橋健一でいられなくなった場合の保険なのだ。流氓と繋がりのある在日中国人なら、だれだってひとつや二つの偽造パスポートは所持している。偽造パスポートを使って入国してくるやつの方が多いかもしれないぐらいだ。
鼻唄が変わった。パスポートと免許証を元の位置に戻し、バスルームを出た。
「出かけてくる。飯を食うのはかまわんが、なるたけ外へは出ないようにしてくれ。夕方には戻る」
和室に向かってそういい放ち、おれはそそくさとマンションを後にした。
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バスの振動で起こされた。時計は十時を指していた。軽く伸びをし、シートの位置を元に戻した。参宮橋のマンションを出、適当に車を走らせて哲学堂の脇に出たところで車を停め、そのまま仮眠を取ったのだ。軽い休憩のようなものだ。お決まりの夢を見ることもない。
哲学堂に隣接している草野球場の施設の中に入り、水でうがいをした。かなりましな気分になった。車に戻り、歌舞伎町に向かった。
〈カリビアン〉は変りないようだった。店の前には酔っぱらいが残した吐瀉物《としゃぶつ》もなければ、野良猫のクソもない。おれを痛い目にあわせようと躍起になっている若い上海人の姿もなかった。しかし、どこかに見張りがついているはずだ。元成貴と、そして楊偉民の。
ドアを開けるとかび臭い匂いが鼻孔に押し寄せてきた。雨が統いたときはいつもこうだ。床や壁にしみついた酔っぱらいどもの思念が腐臭を放つ。
扇風機をまわしてその匂いを追い払い、カウンターの隅に載っかっている電話に手を伸ばした。着信ランプが点滅していた。メッセージは五つ。最初の二つは仕事の電話だ。マレーシア系の窃盗グループのボスがソニーのCDプレイヤーをトラック一台分|捌《さば》きたいといっていた。もう一つは、祖母の形見の翡翠《ひすい》の指輪を買ってくれないかという女から。この女は金に困るといつもこうしておれに電話をかけてくる。おれが電話に出るとくたばれといわれるのがわかっているので、必ず留守を狙ってメッセージを残すのだ。いかれている。だが、この世にはいかれてないやつの方が珍しい。
女の方は放っておくつもりだが、マレーシアはそうはいかない。この商売じゃ信用がなによりもものをいう。
三つ目と四つ目のメッセージは、発信音と同時に相手が受話器を置いていた。五つめは、富春からだった。
「おれだ。まさか、元成貴の豚野郎にとっ捕まっちまったんじゃないだろうな。頼みがある。また電話する」
メッセージはそれだけだった。なにかに尻を蹴飛ばされているかのような早口の北京語。その図体ならトロいぐらいにゆっくりしゃべった方が凄みが出ると何度もいって聞かせたものだが、まくしたてるような富春のしゃべり方はついに変わらなかった。
おれはカウンターの上に身を乗りだし、グラスとアブソリュートの瓶を取った。指一本分をグラスに注ぎ、一気に飲みほした。渇きは癒えなかったが、とりあえずはそれで充分だった。
頼みたいことというのは想像がつく。夏美を探してもらいたいのだ。馬鹿なやつだ。
ウォッカの熱が頭に昇ってきた。目を閉じ、富春が電話をかけてきそうな場所に考えを巡らせた。時間の無駄だった。目を開け、電話を手元に引き寄せた。ここで待っていれはそのうち富春から電話がかかってくる。おれはただ待っていればいい。時間があれば。そして、おれに度胸があれば。残念ながらおれには時間も度胸もない。いつ元成貴の気が変わるか知れたものじゃない。嵐が通りすぎるまで、ここには近寄らない方が無難だった。
「はい、『カリビアン』です。留守にしてます。御用の方はメッセージをどうぞ」
同じ内容を北京話でくり返し、最後にアルファベットの羅列を付け加えた。
「YZYPKSWPWR」
携帯電話の番号を、富春とクレジットカード強盗をやっていたときに使った符丁に当てはめたやつだ。意味もなく並べたアルファベットに〇から九までの数字を当てはめた符丁で、子供だましみたいなものだがそれなりの役には立った。問題があるとすれば富春が覚えているかどうかだ。この符丁をあいつに覚えこませるのに、かなり頭を痛めた記憶がある。
メッセージがきちんと録音されていることを確かめ、テープを交換した。時計に目をやると、十一時をすっかり回っていた。まだ眠っているかもしれないと思いながら、頭の中にある番号を押した。呼びだし音が十回鳴って諦めようとしたところで相手が出た。
「はい?」
寝起きの声だった。
「おれだ、健一だよ。起こしちまったかな」
「寝ようと思ってたところよ」
秀紅の声はもう普通に戻っていた。
「昨夜《ゆうべ》店で起こったことを知りたいんだ」
「成貴に聞いてよ。さっきまでずっと彼に話してたんだから。それとも、仲のいいおまわりがいれば、そっちに聞けば? ずっと同じことを訊かれてうんざりしているの」
「悪い。あんたの口から直接聞きたいんだ。礼ははずむよ、頼む」
「いいわ」
諦めたような吐息が漏れた。
「最初から話してくれ」
「わたしは客と話してたわ。日本人がへたくそなカラオケをがなりたててたけど、店の中は割と静かだった。日曜だしね。そのうち、ドンっ、て大きな音がして、ドアが開いたの。呉富春が立っていたわ。ううん、そのときは呉富春だとはわからなかったんだけど、とにかく、銃を握って、なにか探しものをしてるみたいな目で店の中をひととおり見回したの。そして、わたしを見つけると、元成貴はどこだ!? って吠えるような声で叫んだの」
「ちょっと待ってくれ。女はどこだ、の間違いじゃないのか?」
「それはもう少しあとよ」
「悪かった。続けてくれ」
「呉富春はわたしに向かってきたわ。それで、男の子たちがわたしを守ろうとして……ズドン、ズドン、ズドン。もう、店の中は大パニックよ。男の子や女の子が撃たれて倒れていくし、あちこちで悲鳴が上がるし。どれぐらい経ったのかわからないけど、気がつくと、呉富春がわたしの目の前にいたの。銃口があんなに大きいなんて思わなかったわ。真っ黒なのよ。地獄に通じる穴みたいだったわ」
「わかるよ、その気持ち。匂いまでついてるからな」
「匂い?」
「硝煙の匂いさ」
秀紅の言葉が途切れた。おれの過去について思いかえしているのかもしれない。
「それで?」
おれは先を促した。
「女はどこだ、って……。知らないって答えたわ。成貴がなにかしたって、わたしが知るわけないじゃないのって。答えたというより、泣いて叫んだという方が正しいけど。撃たれるのかと思ったけど、そのとき、だれかが呻《うめ》いたのよ。呉富春ははっとしたように立ちあがって、周りを驚いたようにきょろきょろ見回して……まるで自分以外のだれかが拳銃をぶっ放していったと思ってるみたいだったけど、それから、出ていったのよ。わたしは一一〇番に電話をかけたわ。それでお終いよ」
「富春は本気であんたを殺すつもりだったかい?」
「ええ。そう思うわ。あいつの気が変わったのは、天のお導きよ」
「狂ってる?」
「百パーセント」
「元成貴はなんていってたかな」
「女とはなんのことだって。身に覚えがないみたいだったわ」
おれは受話器から口を離して、そうだろうな、とつぶやき、煙草に火をつけた。
「富春の着てたもの、覚えてる?」
「ジーンズと足首まであるスニーカー、白い無地のTシャツに紺色のブルゾンだったと思う」
秀紅の度胸と記憶力のよさに拍手してやりたくなった。殺されるかもしれなかったというのに、秀紅は目に映ったものをちゃんと記憶しているのだ。
「銃は?」
「成貴のボディガードが持ち歩いてるのと同じやつだったと思う。なんていうんだったかしら……」
「黒星《ヘイシン》。トカレフ」
「それよ。それを二つ、両手に握ってたわ」
「他になにか思いついたことはないかい?」
ためらいが伝わってきた。おれは辛抱強く待った。
「成貴にも話してないの。気のせいかもしれないのよ。さっきあなたがいった硝煙の匂いと間違えたのかもしれない」
秀紅には珍しく、自信のないおずおずとした口調だった。
「かまわないさ」
「呉富春の身体から、お線香の匂いがしたような気がしたわ」
「ありがとう、秀紅。そのうち、見舞いにいくよ」
「そのうち、か。あなた、生き残るつもりなのね」
返事をする前に電話は切れた。目の前が暗くなったような気がした。もともと明るくなんかなかったのだが、それでも、秀紅の口からそんな言葉が出てくるとは思ってもいなかった。元成貴はおれを殺すつもりだ。少なくとも、秀紅はそう感じている。
おれは頭を振って不吉な考えを追い払った。これまでだって生き残ってきたのだ。どうしてそれが続けられないなどと考えなければいけない?
上の部屋へあがって、とりあえず必要なものをボストンバッグに詰めこんだ。後に残ったのは、どうでもいいようなものばかりだった。この店はおれの城みたいなものだったが、たいした感慨もわかなかった。もしかすると、ここには二度と戻ってこれないかもしれない。そう思ってみても、おれの心の中は空っぽだった。おふくろと住んでいた大久保のマンションと同じだ。
店におり、志郎に手紙を書いた。しばらく顔を出せない、店をやるやらないはおまえの勝手だ、もし店を開けるなら、おれがいない分の売り上げはすべてくれてやる、代わりに仕入れも自分の金でやれ。そんな内容の日本語を、思いつくままに書き散らした。
店を出ようとして、ふと、CDラックに目がいった。ほとんどのCDは志郎が集めてきたものだが、なかにはおれが買ってきたものもある。崔健のCDに手を伸ばそうとして思いとどまった。崔健の歌はすべて空で歌える。曲にこめられた魂は、CDの中じゃなくおれの頭の中にある。地図に描かれた祖国と現実の祖国が違うようなものだ。それに、なにかに執着するやつは、必ず墓穴を掘ることになっている。
CDをボストンバッグの中に放りこむ代わりに、AVのメイン・スウィッチをオンにした。ターン・テーブルの上には崔健のセカンドアルバムが入れっぱなしになっている。リモコンで曲を選択し、スタートさせた。
崔健の歌う『南泥湾《ナンニイワン》』。中国の革命歌だ。おれにとっての南泥湾はこの歌舞伎町ということになるのだろうが、そんなことにたいした意味はない。
おれは古いメロディを背中で聞きながら〈カリビアン〉の階段を下った。一度も振り返らなかった。
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サブナードの地下駐車場に駐めてあるBMWにバッグを放りこみ、新宿駅から山手線に乗った。
秀紅に電話をかける前は、どこへ行けばいいのか見当もつかなかったが、今は違う。服に匂いがしみつくほど線香が焚かれている場所といえば、おれの知るかぎり新宿近辺には二ヶ所しかない。大久保駅の裏側にある二階建ての木造アパートの一室と、百人町のマンションの一室だ。似たような顔の台湾人老夫婦が、私設の寺院のようなものをやっているのだ。はじめは、故郷を離れてやってきた人間のために朱色の祭壇をこしらえただけの粗末なものだったが、不景気になってから需要が極端に伸び、台湾人だけじゃなく大陸やタイのやつらまで祈りを捧げにくるようになっていた。特に女たちには人気で、仕事が終わった深夜、仏さまに供えるための花束を抱えた女たちが大久保方面に向かっていく姿が夜毎目につく。休日には、千葉や埼玉からバスを仕立ててお参りにやってくる女たちもいる。もちろん、彼女らが祈るのは商売繁盛だ。金以上に大切なものなどこの世にはないということを、女たちはよく知っている。
大久保の方の寺院をやっているのは人がいいだけの夫婦だが、百人町の方はちょっとばかり事情が違った。張國柱《チャングォチュー》と馬曼玉《マーマンユイ》という夫婦がやっているのだが、馬曼玉がやり手婆の典型のような女なのだ。台湾から出稼ぎにくる若い女が多かったころは手広く売春を組織してたんまり稼いでいた。女の数が少なくなると、商売替えをしたんまりとはいえないがそれなりに稼いでいる。銃器の密輸と密売を手掛けているのだ。寺院には「華聖宮《ファションゴン》」というたいそうな名前が付けられているが、実質は密売の隠《かく》れ蓑《みの》というにすぎない。曼玉婆さんにかかっちゃ、仏さまも慈悲のふるいようがない。富春だって、仏さまに用があったわけじゃあるまい。婆さんが売り捌《さば》く銃に用があったのだ。
そのまま新大久保でおりようかと思ったのだが、時間が早いことを考えてやめた。寺院は早朝まで開放されている。婆さんたちが起きだすのは昼を過ぎてからなのだ。二時間ほど時間を潰さなきゃならない。おれは目的地を目白に切り替え、扉の窓からどんよりと曇った空を見上げた。
目白に出てすぐ、携帯電話の電源を切りっぱなしにしていたことを思いだした。スウィッチを入れるとタイミングを計っていたようにベルが鳴った。
「はい?」
「泥棒!」
夏美だ。声が二オクターブぐらい跳ねあがっていた。
「どうした?」
「どうしたじゃないわよ。カード、返して」
「なんのことだ」
「銀行とカード会社に紛失したって電話いれたから、持ってても使えないわよ。返して」
「なんのことだかわからないって」
「豚野郎」
北京語だった。おれも北京語でこたえた。
「部屋に戻っておとなしくしてろ。そのうち見つかるさ。じゃあな」
夏美がなにかを叫んだが、おれは電話を切った。ベルの音量をミニマムに調節した。すぐにベルが鳴ったが、ポケットに突っ込むとほとんど気にならなかった。
目白通りを西へ進み、ケンタッキーのある角を左に曲がった。十メートルほど歩いた右側に目当てのマンションがあった。超の字を三つぐらい並べたくなる外人専用の豪華マンションで、住んでいるのは外交官、事業家、タレント、それに詐欺師だ。もっとも、ペテンを働かない人間がこの世にいるのかと訊かれると、おれも返事に困るが。
エントランスの中ほどにある側面のパネルから五〇五のボタンを選び、押した。返事はなかった。煙草に火をつけ、ボタンを押しっぱなしにした。二本目の煙草に火をつけたところで、やっと金《キム》のダミ声がスピーカーから聞こえてきた。
「うるせえな。いいかげんにしやがれ」
立派な日本語だった。
「おれだよ。健一だ。仕事があるんだ」
「あんたかよ。何度いったらわかるんだ。午前中は寝てるって」
おれはボタンを立てつづけに押した。
「わかったわかった。今開けるよ。くそ」
金の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ドアの向こう側に人の気配がした。エレベータが開き中から二メートルはあるんじゃないかと思うぐらいの大女が出てきた。なにかの雑誌で見たことがある。日本で人気が出てきたというファッション・モデルだ。二メートルはおおげさにしても、一九〇近くはあるに違いない。モデルは内側からドアを開けると、「COME IN」といった。おれは巨人の国に迷いこんだガリバーのような気分でモデルを見上げ、口笛を吹いてやった。本来ならおれがドアを支えてやるべきなのだが、そんなことをすれば、モデルの気分を害するに決まっていた。
モデルは一瞬だけおれに微笑みを見せると、表情のない能面のような顔で表の通りに出ていった。歩幅がおれの三歩分はありそうな歩き方だった。
おれは首を振りながらエレベータに向かった。大女の後ろ姿と、大金をかけてあるに違いないセキュリティ・システムにはなんの支障も来されずにマンションの中へ入れたことを考えると、おれの人生もまんざら捨てたもんじゃないという気分になってきた。このマンションであの大女に抱かれて眠ったら、さぞかし首筋が寒くなることだろう。
金の部屋はガラクタ置き場だ。リヴィングの床は足の踏み場もないほどコードやパソコンのオプション機器がばらまかれ、その上の空間にはざっと見ただけでも十台以上のパソコンが無秩序に並べられている。おれにはなにがなんだかわからないが、そうしたものすべてがなんらかのシステムの中で密接な繋がりを持っているらしいのだ。パサパサに乾き盛大な寝癖がついた髪の毛をかきむしりながら、金はマッキントッシュの前に座ってモニタと睨めっこをしていた。起きている時間のほとんどを、金はこうやって過ごしているのだ。
「なにか面白い情報はあるかい?」
足の裏を怪我しないように注意しながら、おれはガラクタ置き場の真ん中に進んでいった。
「おまえさんに話したってわからないだろうが」
モニタをスクロールする文字を眺めたまま金はいった。おれもちらっと眺めてみたが、モニタに映っているのは日本語でもハングルでもなく、英語のようだった。
金のフルネームが何というのか、おれは知らない。おれが知っているのは在日朝鮮人で、初めての女にへたくそと嗤《わら》われて以来ずっとインポで、五十近い年になるまでずっとパソコンに囲まれて生きてきた変態だということぐらいだ。パソコンおたくたちの間では「ゴールドマン」という通り名で伝説的なハッカーとして知られている。いま流行のインターネットにも、一般に開放されるずっと前から、金は潜りこんである種の人間や企業に必要な情報をかっさらっていたのだ。
おれは二枚のキャッシュカードとクレジットカード、それに夏美のパスポート番号を書きつけた紙を金に差しだした。
「これを洗ってもらいたいんだ」
金はおれの差しだしたものをつまらなそうに指先で摘みあげた。
「劉さんよ、こんな仕事、わざわざおれに持ってこなくてもいいだろうが」
「他に頼める人間を知らないんだ」
「何度も教えてやっただろう、おれの仲間を」
「みんなガキだ。信用できない」
「ま、そりゃそうだ。あいつら、何度口をすっぱくしていっても遊び気分が抜けやがらねえ」
パンチパーマをかければすぐにでもやくざといって通りそうな顔と声で、金は満更でもなさそうにうなずいた。
「カードの方は紛失届けが出てるかもしれない。頼むよ」
「わかったわかったわかりました。腹のたしにもならない仕事だけど、劉さんの頼みとあっちゃやらないわけにはまいりませんって」
金はキーボードをそっと撫でた。モニタをスクロールしていた文字列が魔法のように消えた。キーボードの上を金の太い指が動くたびに、モニタはぱっぱっと切り替わって金に何事かを伝えていった。
確かにこんなのは金にとっては仕事とはいえないようなたぐいのことだろう。金はアメリカの空軍や中国共産党本部のコンピュータに侵入したこともある凄腕のハッカーなのだ。おれも金の噂《うわさ》を聞いてはいたが、長い間雲の上の存在だった。金がかかりすぎるのだ。クレジットカードをぱくったところで数十万の稼ぎにしかならないのに、いちいち金を使ってカードの汚れを調べていたんじゃ割にあわない。
風向きが変わったのは、四年ほど前のことだ。金はロリコンだった。歌舞伎町のエロ本屋でロリータものに熱心に目を通している金を見かけたやつがいたのだ。子供好きの変態ってのは、日本じゃまだ数が少ない。住処《すみか》を這《は》いでて動き回っていれば、いやでも目につく。いろいろ調べてみると、金が必ず年に数回フィリピンに出かけていることがわかった。ビンゴだ。おれは故郷の母親が急病で、いますぐ大金が必要だというフィリピンの娼帰と話をつけ、まだ五歳になるかならないかだった娘を借り受けることにした。大急ぎでパソコン通信を勉強し、金が出入りしているというネットに入りこんだ。そして、網を張った。
そのパソコンネットは、変態の溜り場みたいなものだった。話題といえばアニメとパソコンのエロゲーム、それにどこそこの幼稚園に可愛い子がいるといった情報ばかりだった。おれは慎重に変態たちの輪に加わり、頃合を見て、歌舞伎町のフィリピン人娼婦で子供を一晩預からせてくれる女がいるという情報を流した。もちろん、おれもやった、最高だった、と付け加えることは忘れなかった。その情報に押し寄せてきた変態は腐るほどいたが、金はなかなか引っ掛かってこなかった。おれは辛抱強く待ちながら、ときおり、餌《えさ》を撒いた。最初の娼婦の口利きで、別の少女を抱くことができた、とか、口が固いのは安心できるのだが少々高くつくのが頭痛の種だといったような餌だ。
しばらくして、金が食いついてきた。電子メールで、おれがやったという女の子の写真を見ることはできないかといってきたのだ。おれは昔、手に入れた写真をスキャナでパソコンに取りこみ、それを電子メールで送信した。アメリカで出まわっていた地下ポルノのビデオから起こした写真で、日本じゃまず目にしたやつはいないはずのものだ。
数日後、金からまた電子メールが届いた。金は相場の倍払ってもいい、絶対に口外しない、だから、紹介してくれないか、と。
おれは待ち合わせの場所と、フィリピン人娼婦の名前――ルナといった――を指定する電子メールを送った。あとは簡単だった。歌舞伎町のミスター・ドーナッツに現れた金を、ルナが自分の娘が寝ているアパートに送りこみ、ことをおっぱじめようとする直前に、ルナのボーイフレンドのチンピラ――日本人だ――に踏みこませたのだ。
金はそれが罠《わな》だったことに気づいた。だが、罠にかけたのが目の前のチンピラじゃなく、おっとり刀でかけつけ中国語でわめきはじめたおれだとまでは気づかなかった。
おれはチンピラとルナを軽く殴りつけ、大声で泣いている女の子を優しく抱きかかえた。それから、金にいってやったのだ。訛りの強い日本語で。
「あんたもこいつらにひっかけられたクチか? 参るなぁ。変態さんは見境がつかなくて」
「お、おれはなにも……」
「いいんだよ、パソコン通信とかなんとか、おれにはわからないんだから。こいつら、しょっちゅうこんなことで稼いでるんだ」
パソコン通信という言葉に、金はたやすく反応した。電子の世界では強持てでも、現実の世界じゃそうはいかない。いくら顔がいかつくても、だ。
おれはうまく話をまとめるふりをして金を解放してやった。その後の二ヶ月は、週に一度ほど目白に出かけていっしょにお茶を飲んだ。はじめは金も嫌がっていたが、そのうちハッキングのことや変態趣味のことをちらほらと話すようになった。金の懺悔《ざんげ》を聞く神父の役目を勝ちとったようなものだ。おれは変態趣味を他人に気づかれないように楽しむ方法をあれこれと考えては、金に教えてやった。そして、三ヶ月後に金に仕事を頼んだ。ある人間のパスポートが偽造である証拠を手に入れたかったのだ。金は格安で引き受けてくれた。
キッチンのどこからか、振動音が聞こえてきた。なぜわざわざそんなものをキッチンに置かなきゃならないんだとぶつぶついいながら、おれはガラクタをかき分けて流しの上のプリンターに手を伸ばした。吐きだされた用紙は二枚。夏美の銀行への出入金がプリントされていた。
片方の銀行は、カードの決済にだけ使っていたらしく、規則性のない金額が毎月四日に入金され、六日に落とされているのがわかるだけだった。もう片方が、夏美のいわゆる取引銀行だった。口座を作ったのが一九九二年の六月。以降、毎月五十万から八十万の金が定期的に入金され、ほとんど同じ額がランダムに引き落とされていた。残金は五十万ほど。でかい金が動いた様子はなかった。マンションの頭金を夏美はどこかで手に入れたのだ。おそらくは、店の売り上げ以上にやばい金だ。
「ちょっと」
金の野太い声に顔を上げた。
「クレジットカードだけどな、奇麗なもんだ。飯屋、宝石屋、ブティック。支払いが滞ったこともなければ、使用限度額をオーバーしたこともない。それでも、プリントアウトがほしいか?」
「もちろん」
おれはこたえた。宝石や服の金額はどうでもいいが、食い物屋で使った金額は、見るやつが見れば価値のある情報に変化する。一人で食ったのか男と食ったのか、それとも大人数でか。特に夏美の場合は水商売の女だ。外食となれば一人ってことはあるまい。
また振動音がして、プリント用紙が吐きだされた。全部でA4の用紙が五枚はあった。
「パスポート番号の方は時間がかかる。そいつと睨めっこでもして時間を潰してくれ」
金に曖昧《あいまい》にうなずき、おれは用紙にチェックをいれはじめた。夏美がカードを取得したのは一九九三年の八月。保証人の名義は佐藤正隆という男だった。兄ということになっていた。本当に兄かどうかは怪しいものだ。当時、夏美が勤めていた店のマネージャーかなにかだろう。
リストにはブティックや宝石店での買い物が続き、ときおりしゃらくさい名前のレストランや、どう考えてもホストクラブとしか考えられない店の支払いが混じってくる。キャッシュやローンのサービスを使用したことは一度もなく、夏美はカード会社にとって上々の顧客だった。
飲食店の利用が増えはじめたのは去年の春あたりからだった。中華が圧倒的に多く、和食やイタリアンやフレンチらしいのは数えるほどしかない。あとは飲み屋。恐らく、そのころ夏美と富春は出会ったのだ。名古屋に逃げこんだ富春に金を稼ぐ目当ても才覚もなく、夏美が支払いを受け持ったということだ。
「出たぁ」
パチンコ屋の椅子に座って数分もたたないうちに当たりが出てしまった親父のようなすっ頓狂な声を金が張りあげた。
「なんだ?」
「劉さん、この番号のパスポートは、取得した翌日に紛失届けが提出されて再発行されてるぜ。盗まれたんだな」
「なるほど」
「名前は佐藤夏美。性別は女。生年月日は一九六七年七月。本籍地は岐阜県。未婚。わかるのはこんなとこだ」
おれは胸の前で組んだ腕で顎の下をぽりぽりと掻いた。
「金さん、悪いんだけど、他のカード会社を調べて愛知県か岐阜県で一九六七年七月生まれの佐藤夏美がカードを取得してるかどうか調べられないか」
「おれをだれだと思ってるんだよ」
気分を害したような顔をして、金はモニタに向き直った。おれは顎を掻くのをやめ、煙草に火をつけた。金が露骨に嫌な顔をした。パソコンというのは煙草の煙に弱いのだ。ひと口思いきり煙を吸いこんでから、蛇口をひねり煙草の穂先を水で濡らして消した。
「悪いね」
「いや、おれが無神経だった」
「すぐ終わるさ。そしたら、外で好きなだけ吸えばいい……ほら、出たぁ」
おれは金の肩越しにモニタを覗きこんだ。金がハッキングしたのはマスターカードのホスト・コンピュータらしかった。モニタの上から下まで隙間なく並んだ文字の中に、佐藤夏美という名前は三つあった。一九六七年七月生まれの佐藤夏美は名古屋市在住ということになっていた。
「その佐藤夏美のカード使用状況を出せるか」
答える代わりに金は太い指でキーボードを叩きはじめた。画面が切り替わり、おれが手にしたプリント用紙と似たようなレイアウトが現れた。
「しけた女だな」
金が洩らした感想のとおりだ。この佐藤夏美は半年に一度カードを使うかどうかだ。それもキャッシングだけ。
「別の女だぜ、劉さん」
「そういうことになるな」
おれは屈めていた腰を真っ直ぐに戻した。夏美は夏美じゃない。わかったのはそれだけだ。だが、なにもわかっていないよりはマシになったような気がした。
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別の身分を手に入れようと躍起になっていたころがある。二十《はたち》ぐらいだったか、楊偉民に見放され、ゴールデン街のゲイバーで働いていたころだ。
百パーセントの日本人か百パーセントの台湾人。おれが欲しかったのはそういう身分だった。新たな自分を仕立てあげて、渋谷でも六本木でも銀座でもいい、どこか別の場所で一からやりなおそうと思っていた。どちらにしろ、堅気になるつもりはこれっぽっちもなかったのだが。
おれはあるおカマから浮浪者が戸籍を売ってくれるという話を聞いた。そのおカマは全共闘世代だが柔道部に所属していて、青臭いアジ演説をぶつ阿呆どもの頭をかち割る役目を大学からおおせつかっていた。そして、やりすぎた。ひょろひょろの学生を思いきりアスファルトに叩きつけて殺してしまったのだ。おカマは逃げた。日本全国を放浪した。そして上野にたどり着き、そこの浮浪者から戸籍を買って新しい身分を手に入れた。おカマになるまでの経緯は決して話そうとはしなかったが、学生活動家を殺し全国を放浪し浮浪者から戸籍を買うまでの話は、酔うと必ず口を割って出るのだ。
新宿には、今ほどじゃないがそのころも浮浪者がうじゃうじゃしていた。おれは店がはねた後の明け方、西口の地下通路や中央公園に足を運んでは目を光らせた。懐に、おれを雇っていたおカマを脅してせしめた五十万を忍ばせて。だが、おれの目論《もくろ》みは呆気《あっけ》なく失敗した。二十そこそこの浮浪者なんてどこにもいなかったのだ。いくら戸籍を買ったところで、年齢が二十も三十も違うんじゃ話にならない。
自分の馬鹿さ加減に腹を立てる気力もなく、おれは中央公園のベンチに座って茫然と空を見上げた。
次に狙ったのは、台湾を食いつめて逃げてきた流氓だった。二十そこそこというのはいなかったが、二十五ぐらいの流氓なら何人でも見つけることができた。おれはその中の一人と話をつけ、パスポートと外国人登録証を譲り受けた。おどおどした目つきの男で、おれから五十万をひったくるようにして受け取るとその夜のうちに歌舞伎町から姿を消した。指紋を取られれば一発で別人とわかるのだが、そのときはそのときというだけのことだ。
おれは新しい身分を手に入れ、有頂天《うちょうてん》だった。雇い主のおカマをそそのかして、渋谷か六本木に店を出せばすべてが変わるのだと愚かにも信じこんでいた。一足先に渋谷の松濤《しょうとう》にアパートを借り、区役所にも足を運んですべての手続きを整え、そこに住みこんだ。
おれの幸せな気分は長くは続かなかった。当然だ。
松濤のアパートに引っ越して一ヶ月ほどしたころだ。数人の流氓が部屋に押しこんできた。そのころの台北では流氓同士の抗争が勃発していた。おれがパスポートと外国人登録証を買った若い流氓は鉄砲玉として敵対する幹部を殺し、日本へ逃げてきたのだ。知らなかったのはおれだけだった。台湾からそいつを追ってきた殺し屋たちはそいつの顔を知らなかった。そいつの名を名乗るおれを殺そうとしたのだ。
おれは必死になって弁明した。やつらが問答無用でおれを殺さなかったのは、おれが後生大事にパスポートと外国人登録証を抱え、日本の正規の手続きを踏んで暮らしていたからだ。逃げ惑っている鉄砲玉なら、よっぽどの馬鹿か度胸があるかでなけりゃそんなことはしない。さっさと偽造パスポートかなにかを手に入れて姿をくらますに決まっている。
「馬鹿なことをしたな、小僧」
おれがただの間抜けだということを認めた首領格の男が、おれを見下ろしていった。真暗な、底なし沼みたいな目だった。
「別の人間になりたかったら、まず内側から変わんなきゃならねえ。外見だけ変えようとしたって、見るやつが見ればすぐにわかっちまうんだよ。おまえは臆病な間抜けだ。だれにだってそうしか見えねえ。名前を変えようが住む場所を変えようが、おまえが臆病な間抜けだってことはすぐに見抜かれる。わかったら、もう二度と馬鹿なことはやめな。臆病なのは変えようがないだろうが、物事を見極めようとする心がありゃ、間抜けでなくなることはできるんだからな」
そいつはそういうと、手下たちに手を振って出ていった。最後に部屋を出たやつが、おれの顔に唾を吐きかけていった。
翌日、おれはアパートを引き払った。だれにもその夜のことは話さなかった。代わりに黙って台湾人の連中がすることを観察するようにした。特に楊偉民と流氓のやり方を。新しい身分を手に入れようなんて気持ちはもうなくなっていた。殺し屋の言葉がおれの耳にこびりついていた。身分を変えようなんて、馬鹿な考えもいいところなのだ。基本的なところで人の内側は絶対に変わらない。おれは半々として生まれ、半々として死んでいく。それだけだ。
一年後、おれに説教を垂れた殺し屋が歌舞伎町の住人として舞い戻ってきた。台北での抗争は終結したが、殺人の容疑で警察に手配され、日本へ逃げてきたのだ。
その殺し犀は歌舞伎町では陳錦《チェンジン》と名乗っていた。偽名だ。だが、中身はまったく変わっちゃいなかった。いつも真暗な底なし沼のような目で周りを見渡していた。
陳錦はおれを覚えていた。おれが陳錦に歌舞伎町の動向を教えるようになるまで、それほど時間はかからなかった。
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百人町へはタクシーを使った。屋台村で知り合いの料理人に軽い飯を作ってもらい、それで腹を膨らませ、華聖宮《ファションゴン》へ向かった。
山手線と中央線のガードに挟まれた大久保通りのちょうど真ん中あたりを右に曲がりしばらく歩いた先に華聖宮が入ったマンションがある。エレベータもない古ぼけたマンション。階段を上がると、線香の香りが鼻についてきた。
初めて訪れたやつでも、華聖宮がどの部屋なのかはひと目でわかる。くすんだスティールのドアが並んでいる中、一番奥の部屋のドアだけ別世界のような色彩を誇っているからだ。中華風の赤を基調とし、名前もよくわからない神様たちが描かれた飾りものが派手派手しくドアを取り囲んでいる。そしてその真ん中に、特大の文字で「華聖宮」と書かれた看板が打ちつけられているのだ。
ドアの脇の呼び鈴を押した。それほど待つこともなくドアが開いた。皺《しわ》だらけの顔がおれを正面から見据えていた。張國柱《チャングォチュー》だ。世界中の苦難を一人で請け負ったってこれほどの数は刻まれないだろうと思えるほどの皺の中で目を瞬かせ、張國柱はおれを招き入れた。
「景気はどうだね、劉《リウ》さん?」
「ぼちぼちだよ」
おれは目の前で手で振りながら答えた。部屋の中は線番の煙で霞んでいた。
トイレとバスルームに挟まれた短い廊下を抜け、ダイニングキッチンを横切って、奥の和室に入った。朱塗りのどでかい祭壇が視界一杯に広がった。無数の仏像があら捜しをしてるような目でおれをじっと見下ろしていた。祭壇のあちこちには線香が立てられ、まるで燃えてるんじゃないかと思えるぐらいの煙を盛大に吐きだしていた。
「神様に線香をお供えしててくれんか。婆さんを呼んでくる」
張國柱はそういうと、おれに背中を向けた。おれは顔をしかめながら祭壇の脇にある線香を三本摘まみ、蝋燭《ろうそく》の火に先端をかざした。神様仏様を信じてるわけじゃないが、表面だけでもとり繕っておかないと、あとで泣きを見ることになる。台湾人社会じゃ、祭壇を前にして鼻くそをほじくるようなやつは同じ人間とみなされない。
先端から煙を立てはじめた線香を両手で持って、おれは三度こうべを垂れた。壺にその線香を突きたてたとき、馬曼玉《マーマンユイ》の耳障りな声が聞こえてきた。
「珍しいことがあるもんだ。仏様が腰を抜かさなきゃいいけどね」
「婆さんがこの祭壇をこしらえたときに、みんなショックで寝込んだに決まってる」
おれは顔をしかめたまま振り返った。この部屋の中じゃ、煙草を吸おうという気にもならない。
「相変わらず罰当たりなことをいいよる」
馬曼玉は不機嫌そうに顔を揺すった。ほつれた白髪が霞のように揺れ、艶と張りのある健康そうな頬の肉がぷるんと震えた。曼玉婆さんは國柱爺さんの精気を吸い取っている、というのは、ここらの台湾人の間じゃ笑えないジョークだ。
「楊偉民《ヤンウェイミン》の狸《たぬき》は変りないかい?」
馬曼玉はおれを押しのけるように祭壇の前に立ち、線香を手に恭しく祈りを捧げた。
「ああ、あと五十年はくたばりそうにないよ」
「そうかい」
馬曼玉は残念そうに肩をすくめた。昔、楊偉民にこっぴどくどやしつけられたことがあるらしい。馬曼玉は楊偉民を嫌っている。
「あの耄碌爺《もうろくじじ》いがいなくなれは、歌舞伎町もずいぶんと風通しのいい町になるのにねえ」
おれと馬曼玉はダイニングキッチンへ戻った。張國柱がお茶をいれていた。張は茶碗にお茶を注ぐと、ひっそりとした足どりで祭壇の隣の部屋に姿を消した。まるで曼玉婆さんにかしずく執事のようだった。実際、この二人は夫婦というより女主人とその使用人といった方がぴったりはまる。
「で、なんの用だい?」
馬曼玉はお茶をすすりながらいった。おれに椅子をすすめる気配もなかった。
「なんだと思う?」
おれは勝手に椅子に腰を下ろし、茶碗に手を伸ばした。
「あんたが銃を買いに来るわけはないし、さて、なんだろうね」
感心して馬曼玉の顔を眺めた。堂に入ったとぼけぶりだ。
「わかったよ」
おれは苦笑いを浮かべた。
「昨日、呉富春《ウーフーチュン》が来ただろう」
「だれだい。その呉富春というのは?」
「とぼけるなよ。そのときの様子を教えてくれ」
馬曼玉はなにも答えなかった。おれの顔から目を逸らさず、音を立ててお茶をすすっていた。
「五万出す」
「知らないね」
「婆さん、強欲すぎるぜ」
「今日、元成貴《ユェンチョンクィ》に電話する約束があるんだよ。そろそろ時間かねえ」
はったりだということはわかりきっていた。それでも、折れて見せるしかなかった。
「七万だ」
「線香やお供え物にかかるお金も最近じゃ馬鹿にならないんだよ、健一や。あたしたちも年だしね」
「お参りに来る女たちからお布施はたっぷり入ってるだろう」
「本職の方が厳しいのさ」
馬曼玉は肩を落として寂しげにつぶやいた。みえみえの芝居だが、この婆さんにそれをやられると誰も何もいえなくなってしまう。それに、馬曼玉の台詞《せりふ》はあながち嘘でもない。歌舞伎町じゃ銃はだぶついている。やくざは新法が怖くて銃から手を引きはじめているし、中国の流氓たちは独自のルートで腐るほど銃をかき集めている。馬曼玉のお得意さんは、流氓の組織からも弾きだされた跳ねっ返りだらけなのだ。
「十万。それ以上は出せない」
馬曼玉の顔がしょうがないねというようにすっとゆるんだ。犬か猫の肉球なみにぷっくり膨らんだ掌がこっちに突きだされた。おれはポケットに手を突っ込み、十万のズクをその手に握らせた。
「最初から十万出す気だったんじゃないか。どっちが強欲だかわかりゃしないよ」
恨めしげな声だったが、指と目は忙しく札の枚数を確かめていた。
「はじめっから話してくれ」
馬曼玉がズクをしまい込むのを待って、おれはいった。
「昨日の六時ごろだったかねえ……たった今人を殺して来たみたいな顔でここに乗りこんできたんだよ。仏さまにお祈りもせずに、銃を売れってね。あの子にも日本人の血が流れてるんだろう?」
富春の礼儀がなってないのは全部日本人の血のせいだといいたげな目で、馬曼玉はおれの顔を見た。おれは顎先を揺すって先を促した。
「しょうがないからあたしは聞いたのさ、どんな銃がほしいんだってね。そうしたら、なんだっていいから二丁よこせって怒鳴るんだ。心臓が止まるかと思ったよ。年寄りを大切にしないと罰が当たるよってよっぽどいってやろうかと思ったけどね」
「それで」
「まあ、礼儀はなってないけど、久しぶりの上客かもしれないと思ってさ、金を見せてくれっていったんだよ。そうしたらあの罰当たり、二十万ぽっちしか出さなかったのさ。あたしは、そんな金じゃ一丁だって売れるもんかっていってやったよ。あたりまえさ、一丁につき仕入れでどれぐらいかかってると思ってるんだい。人を馬鹿にするにもほどがあるよ。でも、日本人はだめだね。目上の人間を敬うことも知らなけりゃ、商売のなりたち方だって知らないんだ。てめぇをぶっ殺して取っていってもいいんだぞ、このくそ婆あって凄むんだよ」
馬曼玉の目尻が悔しそうにひくついた。
「あたしはいってやったよ。そんなことをしてごらん、楊偉民が黙っちゃいないよって。そうしたら、あんな老いぼれになにができるってうそぶいて、あたしの喉を絞めようとしやがるのさ。國柱が間に入ってくれて助かったけどさ、國柱がいなかったら、ほんとに殺されてたかもしれないよ」
おれは張國柱が消えた部屋の方に視線を飛ばした。あのよれよれの爺さんが、血気にはやった富春を御したというのがどうにも信じられなかった。
「國柱は今でこそああだけど、昔は軍人だったんだよ」
おれの視線の意味を察した馬曼玉はどうってことはないという口調でいった。
「今だってその気になればあたしを守るぐらいのことはできるんだ。なにも知らないやつらは口さがないことをいってるけどね」
おれは黙ってうなずいた。馬曼玉が銃の密売をはじめたと聞いたときは、なにをとち狂ったのかと思ったものだ。だが、張國柱の過去がそうさせたのだということがやっとわかった。
「そんなことがあってさ、國柱に怪我でもされちゃかなわないし、あの礼儀知らずにあれ以上暴れられても困るから、中古の黒星を二丁、売ってやったんだよ。二十万ぽっちでね」
「おれから十万巻きあげたんだ。それで我慢しなよ」
「ふん、なんだい、十万ぽっちで偉そうにするんじゃないよ。最近は景気がいいって話じゃないか。知ってるよ、盗品の横流しだけじゃなくて、不法滞在の真面目な子を狙って金を巻きあげてるらしいね」
おれは茶をすすって煙草をくわえた。馬曼玉のいうとおりだった。オーヴァーステイしてる連中の大半は、真面目にコツコツ働いてる。やつらには偽造パスポートを手に入れる知恵もなけれは金もない。そんな間抜けだから、やつらは犯罪の被害にあっても警察に届けることができない。不法滞在がばれて強制送還されてしまうからだ。おれたちにはかっこうのカモだ。
歌舞伎町でちょっと耳をそばだてていれば、どこそこのだれがオーヴァーステイなのかはすぐにわかってくる。福建あたりの流れ者に声をかけて、そんなオーヴァーステイの連中を脅しあげて金を奪うという仕事に、おれは今年になってから手を染めていた。
馬曼玉は責めるような目をこっちに向けていた。ヤクザ同士で金を奪いあうのはいいが、堅気に手を出すなんてとんでもないという目つきだ。おれは煙草の煙を吐きだしながら、その視線を平然と受けとめた。祭壇を隠れ蓑にヤバい商売に首を突っ込んでいる馬曼玉にそんなことをいわれる筋合いはないし、そもそもおれには罪悪感なんかこれっぽっちもない。滞在期限が切れたというのになんの手も打たないやつらが悪いのだ。この件に関してなにか問題があるとしたら、馬曼玉の耳におれがやったという噂が届いているということだ。楊偉民も気づいているのだろう。そろそろ手を引いた方がいいってことだ。
「まだ続きがあるんだろう?」
「十万分は話したよ」
「ふざけるな」
おれはにべもなくいい返した。馬曼玉はあっさりとうなずいた。
「今回は特別サービスだよ、健一。貸しはそのうち返してもらうからね」
「ああ」
「あの馬鹿が帰ったすぐ後に、上海の女の子が四、五人、来たんだよ。外に福建のチンピラがうろついてるって怯えてたね」
「福建だって?」
「あんなダサいかっこしてるのは福建に間違いないっていってたよ。呉富春が連れて来たんだろう」
「上海の子ってのは、なにをしてる女だ?」
馬曼玉は歌舞伎町の上海クラブの名を口にした。そこで働いているということらしい。その店なら、おれも知っていた。元成貴の息がかかった売春専門のクラブだ。そこで働いている女なら、流氓の顔にも詳しいはずだった。
「見たことのない顔だったんだな?」
「そういってたね」
おれは立てつづけに煙草をふかした。ここらあたりにも福建人はいる。真面目に働いてるやつも流氓も、だ。だが、流氓は新宿じゃ比較的おとなしくしている。歌舞伎町は上海と北京の縄張りで、やつらが肩で風を切って歩けるのは池袋|界隈《かいわい》と決まっているのだ。
元成貴の手下の話を思いだした。富春は明治通りでタクシーを拾って池袋方面に消えた。
「婆さん、長居して悪かったな」
煙草の吸い殻を湯飲みの中に放り投げて立ちあがった。
「顔色が悪いよ、大丈夫かい?」
馬曼玉の顔は、その声とはぜんぜんそぐわなかった。
「ちょっと寝不足なんだ」
「今度は夕方においで。たまには台北の家庭料理を食わなきゃ身体がもたないよ」
「婆さんが作ってくれるのかい!?」
まじまじと馬曼玉のふくよかな顔を見下ろした。馬曼玉を知って、もう十年近くになるが、料理をしているところなど一度も見たことがない。
「國柱が作るんだよ」
わたしがなんで料理なんかしなきゃいけないんだい、という目と声だった。
張國柱がこもっている部屋のドアにちらっと視線を走らせた。部屋からはなんの気配も伝わってこなかった。おれは首を振りながら華聖宮を後にした。
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山手線に乗って恵比寿《えびす》でおりた。入れ違いにホームへ入って来た外回りに飛びのって、新宿へ向かった。尾行はついていないようだった。
新宿駅からそのまま地下へおり、車を拾った。靖国通りから明治通りを回って甲州街道にたどり着くまで十分近くかかった。甲州街道はさらに渋滞していた。
おれは携帯電話を取りだし、〈天楽苑〉の番号を押した。
「崔虎《ツイフー》はいるか?」
電話に出た相手が口を開く前にいった。
「あんた、誰だ?」
「劉健一」
「劉? ちょっと待て」
待っている間に信号が変わった。車の列は四、五メートル進んだだけで止まった。京王デパートの正面辺りから、サンルート・ホテルをすぎる辺りまでが、地下鉄の工事で車線の大半が遮られている。渋滞するのもあたりまえだった。
「今はいない」
受話器から突然声が聞こえた。
「どこに?」
「わからない」
「なんとか連絡はつかないか?」
「夜にならなきゃ無理だ。崔さんはいつも忙しい」
「わかった。劉健一が連絡を欲しがってると伝えてくれ」
おれは携帯電話の番号を伝えて電話を切った。続いて遠沢にも電話してみたが、留守だった。携帯電話を助手席のシートの上に放り投げ、頭の後ろで手を組んでシートに背を預けた。じたばたしても始まらないということだ。
夏美のマンションへ戻ったときは、すでに三時近い時刻だった。夏美は逃げ出しているかもしれないという考えが頭をよぎった。それを振り払う。夏美は計算高い女だ。逃げ出してひとりぼっちで東京をうろつくよりは、おれにくっついている方を選ぶだろう。おれがしくじると見切りをつけるまでは――いずれにせよ、買ったばかりのこのマンションを放り出すわけにはいかないのだ。
ドアを開けて部屋の中へ入ると、コンビニのお握りが顔めがけて飛んで来た。
「泥棒!」
夏美はフローリングの床の上にあぐらをかいていた。頬がふてくされた子供のように膨らみ、切れ長の目が剃刀《かみそり》のように鋭い視線を送っていた。
「ちょっと借りただけだ」
ジージャンのポケットからカードを取りだし、夏美の膝《ひざ》の上に放り投げた。
「馬鹿なことをしたもんだな」
抱きかかえるように膝の上の物をかき集める夏美にいってやった。夏美はかみつきそうな顔でおれを睨《にら》んだ。
「なんのことよ!?」
「銀行とカード会社に紛失届けを出しただろう? 新しいカードを受け取るにしても時間がかかる。金をおろすこともできなけりゃ、カードで買い物することもできなくなった」
一瞬、夏美の顔になにかを考えるような表情が浮かんだ。それから、また挑《いど》むような眼差《まなざ》しをおれに向けてきた。
「あなたのせいじゃない」
「おまえが間抜けだからだ」
「よくそんなことがいえるわね。勝手にひとの物を持ちだしたくせに」
うんざりだった。おれは疲れていた。眠りたかった。
「おまえの身元を確かめようとしただけだ」
夏美の身体が強張った。
「なんのこと?」
おれはそれを無視して、奥の和室へ入った。ジージャンのジッパーを喉まで引きあげ、畳の上に横になった。
「二時間たったら起こしてくれ」
おれは夏美に声をかけて目を閉じた。すぐに暗闇が訪れた。暗闇の中、血まみれのナイフが躍っていた。
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「起きて。もう、二時間たったわよ」
肩を揺すられて目がさめた。まだ九月だというのにジージャンなんぞを着て寝たものだから、身体中汗まみれだった。腰に差し込んだままの黒星のせいで、筋肉が強張っていた。
身体を起こすと、夏美が手を差し伸べてきた。濡れたハンカチ。おれはそれを受け取り顔を乱暴に拭った。
「お腹は空いてない?」
夏美はおれの横で畳に膝をついていた。薄いピンクのパジャマを着ていた。まるで、夫より早く起きて家事に精を出している新妻といった風情だ。
「なんの真似だ?」
おれはいってやった。夏美は恥ずかしそうに顔を伏せた。
「今までのこと、反省しようと思って」
「よくいうぜ」
おれはキッチンへ足を運び、蛇口から直接水を飲んだ。その後を、夏美がひっそりといった感じでついてきた。
「金もない、カードも使えない。富春が捕まって殺されるまでおれに頼るしかない。だから、おれに放りだされないようにしようって魂胆なんだろう。見え見えだよ、夏美」
腕で唇を拭いながら振り返った。夏美は唇の右端を心もち吊りあげ、どこか投げやりな視線をおれに向けていた。
「それにこのマンションをあっさり教えてしまったのも失敗だったな」
「勝手にひとの物を持ちだしたあんたが悪いんじゃない」
おれは夏美の肩に手を伸ばした。夏美はびくっと震え、おれから逃げようとする素振りを見せたが、途中でどこにも逃げるあてなどないのだと気づいたというように動くのをやめた。
「いいか、一つ教えておいてやる。盗まれるやつが間抜けなんだ。それがおれたちのルールだ」
夏美はおれの話なんか聞いちゃいなかった。じっと肩に置かれたおれの手を見つめていた。唇がかすかにわなないていた。
「どうした?」
「撲《ぶ》つの?」
「なんだって?」
「あなたもわたしを撲つ?」
おれははっとして手を引っ込めた。夏美は身じろぎもしなかった。底意地の悪い魔女に魔法をかけられたとでもいうように、ただじっと立ち尽くしていた。
ジージャンのポケットから煙草を取りだし、ゆっくり火をつけた。四、五回煙を吐きだすと、夏美がやっと視線をこっちに向けてきた。
「富春にはよく殴られたのか?」
「富春だけじゃないわ」
「おれは殴ったりはしない。気にしないことだ」
夏美は微笑んだ。白目が黄色く濁ってみえた。おれの言葉など、これっぽっちも信じちゃいないという目つきだった。
「いいのよ、撲っても」
夏美はおれに摺《す》りより、蛇のように身体を絡ませてきた。
「わたしを健一の女にしてくれるなら、どんなことをしてもいいわ。その代わり……わたしを守って」
熱に浮かされたような目がおれを見つめていた。黄色い濁りが一段と濃くなっていた。おれは夏美の腰に手を回し、煙草を深く吸いこんだ。そして、煙を夏美の顔に吹きかけた。
「なにするのよ!」
おれは笑ってやった。顎《あご》のあたりが強張っていたが、うまく笑えたはずだった。
「おれの女になりたいなら、本性をさらけだしてくれないとな」
「なんのことよ?」
「おまえは佐藤夏美じゃない」
「それがどうしたのよ。偽《にせ》の身分を持つことぐらい、だれだってやってるわよ」
「そうさ。おれだっていくつもパスポートを持ってる。おまえが通りすがりの女ならそれでかまわない。ただ、おれの女になりたいんなら、隠しごとはなしだ」
「それがルールってわけ?」
夏美は胸の前で腕を組んでせせら笑った。
「それがルールだ」
おれは煙草の穂先を指で押し潰した。熱さは感じなかった。
「馬鹿みたい。押し倒すだけでいいのよ。それであたしとやれるのに」
「おれはそういうやり方はしないんだ。別に女がいなきゃ困るってわけでもない。何を考えてるかわからない女と一緒に寝て、気がつくと喉を切られてたなんてことになるぐらいなら、一人でマスを掻いてた方がましだ」
「臆病なのね」
「だから、たった一人でも生きてこれたのさ」
「わたしも一人よ。でも、あんたみたいに臆病じゃないわ」
「運がよかっただけだ」
「富春に聞いてた話とぜんぜん違うわ」
夏美の目から黄色い濁りが消えていた。熱病は去ったということだろう。
「頭が回って凄いタフだって……」
「富春にはなにもわかっちゃいないんだ。あいつは目の前に金が落ちてたって、糞と見分けることもできないんだからな。それに、富春とつるむようなやつは頭が悪いといったのはおまえだろう」
夏美がくすりと笑った。耳年増《みみどしま》の少女が、何度も聞かされた下品なジョークに反応したような笑いだったが。
「さて、どうする?」
「佐藤摩莉子。中国名は王莉蓮《ワンリーリェン》。どっちでも、好きな方で呼んでいいわよ」
夏美は空中に人差し指で漢字を書きながらそういった。
「小蓮《シャオリェン》か……そっちの身分を証明するものはあるのか?」
「佐藤夏美のパスポートを手に入れたときに全部捨てたわ。生まれ変わったつもりだったのに」
「親父、おふくろ、兄弟。そういったことを話すつもりはあるか?」
夏美は首を振った。一歩も引かないという気迫が顔の皮膚の表面から滲《にじ》み出ているようだった。
「家族のことは思いだしたくないの。みんな、ろくでなしよ」
夏美は昏《くら》い目でおれを見据えた。またあの目だった。抑えきれない憎悪と怯え、そしてどこかに浮かびあがってしまう微かな媚び。その目はおれの目だった。夏美はおれの分身だった。身体が火照《ほて》り、喉が干上がった。夏美を押し倒したいという獣じみた欲望がおれの内部でマグマのように噴きあがった。
新しい煙草をくわえた。ライターを擦る手が震えていた。火をつけ終えると、ジージャンのポケットに手を突っ込み、煙を大きく吐きだした。
「じゃ、そういうことにしておこう。それに、佐藤夏美の身分を棄てることはない。これからも、夏美と呼ばせてもらう」
おれは夏美の目と視線を合わせないようにしてそういった。夏美の顔がぱっと輝いた。
「ありがとう」
微笑みが広がった顔からは、ついさっき夏美が見せた目の色は奇麗に消えていた。おれはなんだか落ち着かない気分になり、立てつづけに煙草をふかした。
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携帯電話が鳴った。夏美がびくっと身体を震わせて、うかがうような視線をおれに向けてきた。なんでもないというように首を振り、電話を耳にあてがった。
「はい?」
「おれだ」
北京語が答えた。崔虎だった。おれは吐息を洩らした。
「なんの用だ?」
崔虎の声は苛立っていた。元成貴の手下どもが歌舞伎町に溢れている。崔虎も仕事がやりづらいのだろう。
「福建《フージェン》の流氓に顔見知りはいないか?」
「今度は福建のやつらに泣きつこうってのか?」
「呉富春が池袋《チーダイ》のやつらとつるんでるかもしれないんだ」
「福建のやつらは間抜けだ。そいつらと手を組もうなんざ、もっと間抜けのすることだ」
「あんたにいわれなくても、そんなことはわかってる」
「おっとぉ、おれにそんな口をきくとは強気だな、健一。やけくそにでもなったか」
「すまん。神経がピリピリしてるんだ」
「おまえだけじゃねぇ。おれのこめかみの血管も、熱いスープに放りこまれたミミズみたいにのたくってるよ」
「悪かった。謝るよ。とにかく、池袋に詳しい人間と話をしたい。だれか、いないかな?」
「いくら出す?」
「三十」
「馬鹿いえ」
「五十だ。これ以上は出せない」
「これ以上出せないだと!? だれと話してるんだ、健一よ?」
「頼む。いじめるのはそれぐらいで勘弁してくれ」
「けっ、半々野郎が。調子にのったのはてめぇだぞ」
「悪かった」
「よし、今夜中に手はずをつけておく。こっちから連絡するから、金を用意しておけ」
「助かるよ……」
おれの言葉が終わる前に電話は切れていた。
「くそっ」
携帯電話を切って、フローリングの床にへたりこんだ。
「おれの運もドツボだな」
「だれだったの?」
夏美がおれと同じように床に腰をおろした。パジャマの胸元に引き寄せられてしまう視線を、おれは無理矢理自分の指先に向けた。
「北京の狂犬さ」
その先を促す夏美の視線を無視して、遠沢の電話番号を押した。留守電のメッセージが流れてきただけだった。おれは舌打ちして、今度はポケットベルの番号を押した。煙草に火をつけ、待った。夏美は黙っておれの横顔を見つめていた。煙草の半分が灰になったところで、携帯電話が鳴った。
「はい」
「遠沢だよ」
「今、どこだ?」
「池袋。ちょっとツテがあってね。こっちの福建マフィアの幹部とあってた。話を聞くのに十万もふっかけられたぜ。なんとかしてくれんかね。おケラだよ」
おれは煙草を消した。遠沢が池袋にいるのなら、崔虎に電話する必要などはなかったのだ。五十万、丸損だった。このゴタゴタのせいで、おれはカモる側からカモられる側におちぶれてしまったのかもしれない。
「わかった。そっちは必要経費ってことでおれが持つ。で?」
「呉富春は昨日までは池袋にいた。今はいない。追いだしたそうだ。元成貴の店を襲ったって聞いてびびったんだろう」
「どこへ行ったんだ?」
「知るか。あいつらのやり方、わかってんだろ? 上海とかのやつらに比べりゃスマートじゃないけど、チャイナ・マフィアはみんな同じ穴の狢《むじな》だ。福建の線は、もう忘れた方がいい」
「わかった」
「それと、あいつの親だけど、名前と住所がわかった。父親は呉富有《ウーフーヨウ》で、五年前に肺癌でくたばってる。母親は中国名が陳秀香《チェンシウシャン》、日本名が坂本香子。千葉の柏《かしわ》の公団に住んでる。国の助成金だけで暮らしてるみたいだ。息子が二人に娘が二人。富春は次男だな。長男は殺人で服役中、長女は中国でくたばってる。末娘は中国名が富蓮《フーリェン》で、日本名が真智子。明日、柏に行ってみようと思ってる」
遠沢は中国名を北京語で発音した。なかなか堂に入っていた。どこかで――たぶん、賭場だろうが――勉強しているのかもしれない。
「頼む。明日の夜、どこかで会おう。そのとき金を渡す」
おれは電話を切った。福建からアプローチする方法は閉ざされた。富春のおふくろの線も期待はできないだろう。手詰まりだ。おれにできるのは、待つことだけだった。
「なにかわかったの?」
夏美は膝を両手で抱えていた。おれが寝ている間に窓でも開けたのだろう、生ぬるい風が吹きこんできて、夏美の短い髪の毛がさらりと揺れた。
「どうやらドツボにはまったらしいってことがわかっただけだ」
がらんとした部屋に視線をさまよわせた。家具のない部屋には、目を止めるべきものが何一つなかった。おれは夏美に視線を戻した。
「着替えろよ。飯を食いに行こう」
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「食べないの? さっきからずっと恐い顔をしてるわよ」
煙草を吸いながらときおりワインを舐《な》め、飢えた豚のように料理をぱくついている夏美を眺めていた。スパイスの効いたシシカバブをひと口食っただけで食欲がなくなった。西参道と代々木へ向かう通りの交差点にあるエスニック・レストランは、まだ時間が早いせいもあっておれたちの貸しきりみたいになっていた。
「尻に火がついてるんだ。へらへら笑ってなんかいられないさ」
「富春が見つからなかったらどうするの?」
「そんなことは考えたくもないけどな……二通りの考え方がある」
「どんな?」
夏美はクスクスをフォークで口へ運び、ワインで流しこんだ。
「逃げる、か、元成貴を殺すかだ」
「そんなこと、できるの?」
夏美がどっちのことをいってるのかはわからなかった。おれは言葉を続けた。
「逃げるのは簡単だ。だけど、面白くない。ぜんぜん面白くない。おれは二十年近く歌舞伎町で暮らしてるんだ。その間に作ったものを捨てて、他の土地でまた一からやり直すには、おれは年を取り過ぎてる」
「まだ三十そこそこじゃない」
「もう三十半ばだ。おれには度胸がない。流血沙汰にはいつまでたっても慣れることができない。それでも、二十代のころはなんとかなった。空元気でも、体力があったからヤバい場面を切り抜けることもできた。もう、無理だ」
「あっちの方も?」
夏美は食べる手を止め、舐めるようにおれを見た。からかいと誘いが半々の目つきだった。
「そうさ。さすがに一晩に五回も六回もってわけにはいかない」
「へえ、そうなの。でも、逃げるのがやだとしても、健一に元成貴が殺せるの?」
「おれがやるわけじゃない。人を雇うんだ。北京のやつでも香港のやつでも、元成貴を殺そうなんて度胸があって腕もある流氓なんか歌舞伎町にはいないが、台湾になら知り合いがいる」
故郷へ帰った台湾流氓の顔を、おれはいくらでも思い浮かべることができた。女たちが引きあげてしまったために日本にいられなくなったやつらだ。台湾へ戻っても、昔のように肩で風を切るというわけにもいかないだろう。そもそも、あいつらは故郷を追われて日本へ逃げてきたのだ。金と航空券を用意してやれば、やつらはすぐにやって来て元成貴を殺し、また帰っていく。血で血を洗う抗争を何十年も繰り広げてきたやつらだ、流血沙汰じゃ上海も北京もかなわない。元成貴を殺したのが台湾の流氓だとばれたとしても、楊偉民にすべてを背負わせてしらを切ることだってできるかもしれない。
夏美が手を上げた。その表情からはおれの言葉に対する反応はこれっぽっちもうかがえなかった。褐色の肌のウェイター――パキスタン人だろう。あるいはイラン人かもしれない――がやって来て、コーヒーとデザートの注文を受けていった。
「ねえ、台湾へは行ったことがあるの?」
夏美は両手で頬杖を突き、興味|津々《しんしん》といった顔つきになった。
「いや。チャンスがなかった」
「行こうと思ったことはあるのね」
「第二の故郷だからな」
「わたしはね、一度帰ってみたことがある」
「どこに……ああ、中国か。黒竜江省っていったっけかな」
「日本へ行けるんだってわかった時は、二度と帰ってくるもんかと思ったわ。肥え溜めみたいな村だったのよ、わたしの故郷は。こんな話、つまらない?」
「いや」
デザートとコーヒーが運ばれてきた。夏美はコーヒーにたっぷりのミルクを入れ、ケーキをつついた。おれはブラックのままのコーヒーをひと口、すすった。
「父親は小麦を作る農民だったわ。でも、人民公社のせいで、作ったものを全部持っていかれるの。農民なのに、家には食べるものがぜんぜんなかった。知ってる? わたしたち、おかずとご飯をいっしょに食べることができなかったんだよ。おかずを食べるんだったらご飯はなし、ご飯を食べたかったらおかずはなし。ご飯とおかずをいっしょに食べていいのは父さんだけ。兄弟は四人いたけど、みんな慢性の栄養失調。母さんもわたしたちも、父さんを憎んでたわ」
「いつ、日本に来たんだ?」
「八三年。八〇年に母さんが日本人だってことがわかって……政府から役人がきたのよ。日本に行って親戚を探すことができるって。父さんも母さんが日本人だとは知らなかったみたい。ずっと黙ってたのよ、母さん。日本人だってことがばれるといじめられるからって。それで、八一年かな、母さんが日本に行って、両親は亡くなってたんだけど、叔母《おば》さんが見つかったのよ。で、日本側の準備が整ったらわたしたち、日本へ行けるんだって、家族中で舞いあがっちゃったわ。父さんは別だったけど。わたしたち、日本人だったんだ。こんな生活、やっぱり間違ってたんだ。黄金の国、日本にいってわたしたち一家、みんな幸せに暮らせるんだって」
夏美は言葉を切り、皮肉な笑みを浮かべた。
「笑っちゃうでしょ? 日本がこんな国だって知らなかったのよ」
「百パーセントの日本人か金持ちでなきゃ、幸せにはなれない国だからな、ここは」
おれは答えた。血だけじゃない、言葉、受けてきた教育、見ていたテレビ番組――そういうものが一パーセント欠けただけで、異邦人として扱われるのがこの国なのだ。
「まあそれでも、いくらなんでも中国よりはましなはずだと思ってたわ。飢えることはなかったし、学校にも行かせてもらった。いじめられたけど。なにより農作業をしなくていいのが嬉しかった。水道なんかないから、毎日井戸から桶《おけ》に水をくんで畑まで運ぶのがわたしの仕事だったの。このまま毎日こうやって水を運んで、村の男と結婚して子供を作って……それがわたしの人生なんだって。わたし、五歳ぐらいの時に自分の人生を悟って絶望してたんだよ、わかる?」
おれは答えなかった。ただ黙って、少しずつ暗くなっていく夏美の瞳を見つめていた。
「日本に来て最初の数ヶ月は幸せだったなあ。でも、すぐに壊れちゃった。まず、父さんが荒れはじめた。それまではさ、一家の大黒柱だったのに、日本語が話せないからただの厄介者に落ちちゃったでしょ、それに父さんだけが日本人じゃなかったのよ。毎日昼からお酒を飲んで、母さんを殴るようになった。それで、次に母さんが壊れたんだよね。母さんも日本語だめだった。ぜんぜんうまくならないの。日本人なのに、家族の中で唯一百パーセントの日本人なのに……。その次が一番上の兄貴、その下の兄貴、わたし……」
夏美はデザートのティラミスに何度もフォークを突きたてた。形の崩れたティラミスは、道端に落ちている干からびた犬の糞みたいだった。おれは欠伸《あくび》を噛み殺した。
「やっぱりつまらなそうだね」
ティラミスにフォークを深く突き刺して、夏美は自分を嗤《わら》うように顔を歪《ゆが》めた。
「帰国してきた残留孤児二世を何人か知ってるが、まあ、だれの話も似たり寄ったりだ。おまえは……そうだな、日本国籍がすんなり取れただけでもマシな方なんじゃないか」
「わたしもそう思う」
おれはカップの底に残ったコーヒーを飲み干した。ぬるくて苦いだけのコーヒー。
「十九の時にね、一度生れ故郷に帰ってみたの」
「へえ」
「あの悲惨な場所をもう一度見れば、幸せな気持ちになれるんじゃないかと思って……十八の時からわたし、風俗で働いてたんだけど、それまでに貯めたお金みんな持って、そのお金で向こうで幼馴染《おさななじ》みに美味《おい》しいものをたくさん奢《おご》ってあげて優越感でも感じようかなって、すっごい馬鹿げたこと考えて。でもね、改革開放路線のせいで、すべてが変わってたわ。人民公社はなくなってた。土で作った粗末な家がみんな消えて、そりゃ日本に比べればぜんぜん田舎くさいけど、煉瓦《れんが》のきれいな家が並んでた。最初はそこが故郷の村だって信じられなかったよ。土にまみれて真っ黒でがりがりに痩せてた友達みんな、ふっくらとした身体つきになってて、学校にも通ってた。まだ貧しい生活だったけど、昔みたいな地獄じゃなかった。みんな、わたしより幸せそうだった。わたし訊いたわ、ごはんとおかずをいっしょに食べてるのかって。当然じゃない、って笑われた……日本みたいな夢の国にいるから、わたしたちのことよっぽど可哀相だと思ってたのねって」
夏美の目が突然輝きを増した。ありあまる憎悪と絶望、すべてをのみこもうとする虚無とがいっしょになって、おぞましく、しかしいいがたい魅惑に満ちた光が、つぶらな目の奥からおれの皮膚を射抜いていた。
「夢の国だって!! みんな、わたしの持ってる服をうらやましがった。わたしが日本人だってことをうらやましがった。でも、わたしは惨めだった。あんなに惨めな気分になったことなかった。憎んだわ。わたし、すべてのものを憎んだ。父さんも、母さんも、兄弟も、日本も、幼馴染みも、中国も、神様も……わたし自身も」
おれは馬鹿みたいに口を開けて夏美の目を見つめていた。慌てて煙草を取りだし、口にくわえた。
「故郷へ戻ったのはとんだ失敗だったわけだ」
「そう。だから、健一も台湾に行かなくて正解だったのよ、きっと」
「なあ」
「なに?」
「おれも昔はおまえみたいに物事をいろいろ複雑にとらえてたんだ」
夏美は首を傾《かし》げた。
「おれがあいのこであることだとか、歌舞伎町で台湾人や大陸のやつらと暮らしていくってことについてだ。毎日のようにうじうじ悩んでだれかを憎んで惨めな気分に打ちのめされてた。で、あるとき気づいたんだ。この世はおれが思ってるよりはずっと簡単な法則で動いてるってことに」
「どんな法則?」
「この世の中にはカモるやつとカモられるやつの二とおりしかいないんだってことさ。自分のアイデンティティがどうだのといったことに頭を悩ますやつは一生だれかにカモられるだけだ。だからおれは悩むのをやめた。カモることに専念したんだ。上には上がいるっていい方、あるだろう? それでいけば下には下がいるんだ。おれはずっと惨めな気分で十代を生きてきた。それだって、おまえの気分にくらべりゃずいぶんマシだったかもしれない。だがな、おまえはおれより惨めだったかもしれないが、アフリカあたりで飢えて死んでいくガキどもより惨めか? アウシュビッツで殺されたユダヤ人より? 他のガキに心臓や腎臓を提供するために生まれ落ちた次の瞬間に腹を裂かれて殺される赤ん坊は? こういうことには果てしがないし、考えたって無意味だ。おれたちには笑うこと以外できないんだからな。だったら、カモることだけに専念してた方がいい。間抜けなカモは腐るほどいるんだ」
「でも……それじゃ、寂しくならない?」
「寂しいだって?」
おれはテーブルの上に身を乗りだし、夏美に顔を近づけた。
「どういうことだ? 毎日繰りごとを聞いてくれるママのおっぱいが欲しいってことか? 新聞じゃおれたちは文明世界に住んでることになってる。でたらめだ。おれたちはジャングルに住んでるんだ。少なくとも歌舞伎町はそうだ。ハイエナが餌を漁るのをやめて寂しいって泣いたりするか? あいつらは生きてくために他人の餌を横取りするのに忙しすぎる。おれも同じだ。そんなこと、考えてる暇もない」
「年を取ったらどうするの? 身体が動かなくなっても、他人をカモることだけ考えてるつもり?」
「だれからも手を出されないだけの金と力を掴んじまえばいいのさ。それができないんなら……くたばるだけだ」
夏美は仮面のように表情のない顔をおれに向けた。おれはにやりと笑ってみせ、伝票を掴んで立ちあがった。偉そうなことをいったが、おれの尻には火がついているのだ。夏美が手を伸ばし、おれの手首を掴んだ。
「ねえ、わたしはどうなるの? わたしもカモなの?」
夏美の顔は真っ青だった。目だけが異様な熱を孕《はら》んで潤んでいた。おれはその目を見下ろして、いった。
「おまえ次第さ。おれがおまえにカモられることもある。そうだろう?」
夏美はしばし考えこんでいた。だが、そんなに時間はかからなかった。夏美はにこっと笑って小さくうなずき、おれの肘《ひじ》に腕を絡ませて立ちあがった。
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夏美はジーンズに青いタイ・シルクのブラウスにパンプス姿だった。左の肩からルイ・ヴィトンを下げ、ブラジャーをつけてなかった。おれの肘に押しつけられた乳房の頂点が固くしこっているのがわかった。故郷に戻った話をした時の興奮がそこに留まっているのだ。
「車を取ってきてくれ」
さりげなく夏美の腕を外し、キィを渡した。
「運転はできるんだろう?」
「ワイン、飲んじゃったけど」
「自信がないのか?」
夏美は大きくかぶりを振った。
「健一は用心深いから、飲酒運転なんか絶対しないと思って」
「ここに持ってくるだけだ。あとはおれが運転する」
おれはにやりと笑って答えた。夏美はしこめば使いものになるかもしれない。
車を駐めてある場所を教えると、夏美は小走りで駆け去った。夏の夕暮れの日の光にシルクが透け身体の線が浮かびあがっていた。そのラインの美しさを充分堪能してから、傍らにある電話ボックスへ入った。
「はい、『カリビアン』っす」
呼びだし音が二度鳴らないうちに志郎が出た。
「おれだ」
「あ、健一さん。なんかあったんすか?」
おれの置き手紙を読んだはずだが、志郎の声は間抜けみたいに落ち着き払っていた。
「ちょっとヤバいことになってる。店を開けるのはおまえの勝手だけど、気をつけろよ」
「えー、マジっすか? やっべぇなぁ」
「そんなことはないと思うが、もしおっかない中国人におれのことを聞かれたら、知ってることを正直に話すんだぞ」
「どこにいるんすか?」
「池袋だ。ホテルを取ってる。しばらくはそこにいるけど、用がある時は携帯を鳴らせ」
「わっかりました。あの……健一さんがいない間の売り上げなんすけど……」
おれは舌打ちしたいのをこらえた。これが中国人なら、店の備品を全部売り払って、いまごろはどこかに消えているはずだ。
「手紙に書いたとおりだ。経費以外は全部おまえが取っていい」
「ありがとうっす。あの……」
「おれに連絡はないか?」
「メッセージなしの留守電が四時ごろ入ってたのと、ついさっき、組合の周さんから電話がありました」
「なんだって?」
「会いたいって。なんか、怒ってるみたいでしたけど」
「わかった。じゃあ、頑張ってな」
志郎がなにかいいかける気配がしたが、かまわず受話器をおろした。周天文《チョウティエンウェン》からの電話というのが気になった。組合というのは、歌舞伎町でまっとうな商売をしている連中の集まりだ。正式には歌舞伎町華人商店組合という。マスコミで歌舞伎町の流氓が取りあげられるようになり、堅気の中国人までもがマフィア同様に見なされる風潮に歯止めをかけるというのが設立目的の組合で、楊偉民の息がほんのわずかだがかかっている。
おれはうろ覚えの組合本部の番号をプッシュした。若い女の声が下手な日本語で組合の名を告げ、おれが北京語で周を出してくれというと、一瞬間があったあとで、これまた流暢《りゅうちょう》な北京語で少々お待ちくださいといった。
「周天文」
少々どころか五秒もたたないうちに天文が出た。四六時中なにかに尻を追われているような早口は相変わらずだ。
「おれだよ、小文《シャオウェン》。電話をくれたそうだが」
「もう子供じゃないんだから小文はよしてくれよ。それよりどうだ。これから飯でも食わないか?」
「生憎だな。たったいま晩飯を食いおわったところだ」
「お茶でもいいよ。とにかく、どうなってるのかを聞かせてもらいたいんだ」
「どうなってるって、なにが?」
「とぼけるなよ、兄さん。呉富春と元成貴のことに決まってるじゃないか」
「富春? あいつは新宿を出たっきりだろう」
「ふざけるなよ! 兄さんが元成貴に脅されて呉富春を探してることは知ってるんだ」
クラクションが聞こえた。ボックス越しに道路に視線をやると、BMWの窓を開けてこっちに手を振っている夏美と目が合った。
「小文、おまえ、何か握ってるのか?」
「小文はやめろって。おれはなんにも知らないよ。ただ、組合の連中から商売にならないからなんとかしてくれって泣きつかれてるだけさ。で、兄さんから話を聞けば、対応策が見つかるかなって……」
「楊偉民に聞けばいい。おれよりはずっと知ってるぜ、きっと」
「爺さんに借りをつくりたくはないんだよ。わかってるだろう!?」
おれはわざとらしいため息を受話器にふきかけてやった。気安めにもならなかった。天文がそれぐらいのことで怯むはずはない。
「わかった。歌舞伎町はマズい。中野まで出てこれるか?」
「いいよ。中野だろうが大阪だろうがどこへでも行くよ」
天文の声が二オクターブほど跳ねあがった。おれは顔をしかめながら、中野ブロードウェイの二階にある喫茶店の名を告げ、一時間後にそこでといって電話を切った。
BMWは道路の反対側に停まっていた。夏美は助手席に座っていた。
「だれと電話してたの?」
おれが運転席に乗り込むと、夏美は飼い主の帰りを待っていた犬のように目を輝かせて聞いてきた。
「古い知り合いだ。気になるのか? 女じゃないぞ、残念ながら」
「別に。ただ、怖い顔で電話してたから気になっただけ」
「だれにだって弱点はあるんだ」
BMWのアクセルを踏みながらおれはいった。周天文は確かにおれの弱点だった。
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天文。おれの後釜《あとがま》。おれに見切りをつけた楊偉民が横浜から連れてきた。
おれと違って天文はエリートだった。北京語はもちろん、台湾語も日本語も流暢に話せた。中国や台湾の文化や習慣をその身体にしっかり刻みこんでいた。
父親は台北出身の料理人で、母親はお嬢さんが集まる短大で中国文学の講師をしている日本人。おれと同じ半々だが、天文はサラブレッドだったのだ。
天文がおれの後釜に座ったのは、たしか十五のときだ。おれより三つ年下だった。楊偉民はおれ以上に天文を可愛がり、天文も楊偉民の期待に充分に応えていた。唯一、天文が楊偉民の意向に逆らったのは、おれになついたということだけだろう。
どういうわけかは知らないが、天文はおれを実の兄貴のように慕ってつきまとった。楊偉民だけじゃなく、歌舞伎町のほとんどの台湾人、そしておれ自身が、おれなんかとつるんでいるとろくなことにはならないと忠告したのだが、天文は頑として聞きいれなかった。おれと天文の関係は、おれが台湾流氓とつるむようになるまでは密接に続き、天文が楊偉民の元を飛び出した後でも――おれとは違って、天文は自分から楊偉民に見切りをつけたのだ――ときおり飯を食うといった感じで続いている。天文と楊偉民のあいだにどんな経緯があったのか、二人ともぴったりと口を閉ざしているのでおれは知らない。もっとも、想像はつくが。
おれは天文が苦手だった。いってみればおれは蝙蝠《こうもり》だ。超音波で周囲を探りながら夜の闇に紛れて飛び回ることしかできない。天文は鷲《わし》だ。青い空を従えて飛び、その鋭い視線はなにごとをも見逃さない。天文の茶色みがかった目で見つめられると、おれは背中のあたりにどうにも落ち着かない感じを味わった。
いちど天文に、なぜ呂方を殺さねばならなかったのかと問い質《ただ》されたことがある。ほかのやり方を選んでいれば、楊偉民もおれを見放しはしなかったはずだ、と。おれは懇切丁寧に教えてやった。呂方が人間の皮をかぶったけだものであったことを。いや、けだもの以下の存在であったことを。先に殺さなきゃ、おれが殺されていたことを。あるいは殺されるより始末におえない状況になっていたに違いないことを。だが、天文には理解できなかった。
おれと天文は背中合わせに立っていながら、目にしている情景がまったく違っていたのだ。
口に出したりはしないが、おれの暮らしぶりを天文が悲しんでいるのは目を見ればわかった。昔慕っていたおれが、悪の道に染まり堕落していくのが天文には耐えられないのだ。それでも、おれを見捨てられないのが天文の弱さだ。そしてそれは強さでもある。二、三ヶ月にいちど天文は律義にも電話をかけてきておれを飯に誘う。おれが生きていることを確認するためと、おれから情報を引き出すためだ。流氓の毒牙から堅気を守るためにはおれが握っている情報が不可欠なのだから。組合の理事におさまってからは、なおさらその重要性は増していた。
代々木駅前の交差点を左折し、サンルート・ホテルの前を通って甲州街道に出た。夏美が都庁ビルを見て嬌声《きょうせい》を上げた。まるでお上りさんだ。緊張感のかけらもない。
「どこへ行くの?」
「中野だ」
「電話の人――健一の弱点と会いに?」
おれは眉をしかめた。余計なことを口走ったことを後悔したって後の祭りだ。
「そうだ」
「わたしも一緒にいていいの?」
しばらく考えてから答えた。
「ああ、おれの弱点をよく観察しておくんだな」
天文に夏美を引き合わせておけば、いざというときの保険になる。天文もいい顔はしないだろうが、おれに何かあったときに夏美を匿《かくま》うぐらいのことはしてくれるはずだ。
「だめだっていわれると思ってたのに」
夏美は目を丸くしておれを見た。
「せいぜい行儀よく振る舞ってくれよ」
おれはそれで口を閉じた。夏美もシートに背をあずけ満足そうに微笑んでいるだけで口を開かなかった。
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中野公会堂近くの路上にBMWを停め、そこからは歩いた。駅からブロードウェイへと続くサンモール商店街は帰宅途中のサラリーマンと遅めの夕食の買い出しをしている主婦、それに若いカップルで混雑していた。
夏美の肩を抱きよせ、さりげなく周囲に目を配った。中国人らしいやつらが何人か目に止まったが知った顔はなかった。怪しい雰囲気もなかった。ここいらは池袋と同じで福建野郎どもの縄張りだ。よっぽどの事情がない限り、元成貴も崔虎も中野に手下を張らせるようなことはしないだろう。
腕時計は六時を回ろうとしていた。約束の時間までまだ二十分ほどあった。ブロードウェイの入口をはいってすぐにあるエスカレータに乗りながら、おれは夏美の耳に口をよせた。
「おれの弱点≠ヘ台湾人だ。顔は二枚目だが、背が低くて少し太りぎみ。年は三十をちょいと超えたぐらいだが、二十代後半にしか見えない。髪の毛は長くはないが、短いってわけでもない」
「張國榮《チャングォロン》みたいな感じ?」
夏美は香港の映画スターの名前を口にした。たしかに似ていなくもない。
「そんな感じだ」
おれたちは三階のフロアを突っ切り、一番奥にある階段をおり始めた。ブロードウェイのエスカレータは三階直通なのだ。それでこんなめんどくさいルートをたどる羽目になる。
おれは階段の踊り場で足をとめた。
「このすぐ下にある喫茶店が待ち合わせ場所だ。おまえはそこでおれの弱点≠待って、これからおれがいう場所に連れてくるんだ。わかったか?」
「もし健一の弱点≠ェだれだかわからなかったら?」
「そんなことにはならないように祈るんだな」
「わかった。で、どこへ連れていけばいいの?」
「中野通りを新井薬師《あらいやくし》の方へ四、五分歩くと右かたにバイユーって名のバーがある。そこに連れてくるんだ」
「そんなこといわれても、わたし、わからないわよ」
「いいんだ。弱点≠ネら道はわかる」
夏美は口を尖らせて宙を睨んだ。それから、おれにはすっぱな笑みを投げかけた。
「じゃ、行ってくるけど、その前に相手の名前を教えて。まさか、あなたが劉健一さんの弱点≠ウんですかって聞くわけにはいかないでしょう?」
「周天文だ」
「周天文ね。どんな字を書くの?」
「天文学だ。それより、絶対やつの前で北京語ができると悟られるな」
「どうして?」
「おれが他人を信じないからだ」
夏美は何かいいたそうに口を開けたが、おれの顔を見て言葉をのみこんだ。
「それから、そのバーに来るまでは……」
「わかってるって」
夏美はおれの言葉を遮って得意げに胸を突きだした。
「変なやつがいないか確かめるんでしょう?」
おれは苦笑いを浮かべた。夏美はのみこみが早い。少なくともそれだけは誉《ほ》めてやれる。
「もしそういうやつに気づいたら、天文と一緒に新宿へ行け。後で連絡を入れる」
「じゃ、行ってくるね」
夏美はくるりと身体を回転させ、軽快な足取りで階段を下っていった。夏美の背中が視界から消えるのを待って、階段をのばった。また三階のフロアを横切って、反対側の階段をおりなきゃならない。おれは急に疲れに襲われた足を引きずりながら、〈バイユー〉へ向かった。
〈バイユー〉のバーテンはおれのことを覚えていた。中野が福建野郎どもの縄張りになるまでは、何度か仕事の打ち合わせに利用させてもらっていたのだ。何名様ですか? と無意味な愛想笑いを浮かべる女の子を無視してカウンターへ座ると、無言で灰皿が置かれ、「ウォッカですか?」ときかれた。
「悪いけど、烏竜茶に氷を浮かべてくれるかい。くたくたなんだが、まだ仕事の途中なんだ」
眉と額の生え際の区別が判然としないほど毛の濃いバーテンは一瞬、たじろいだように目を剥《む》いたが、唇の端で微笑むと静かにおれの前を離れた。油っけのない豊かな髪の毛はそよとも動かなかった。もう五十に近い年のはずだが頭だけを見ると、十代にしか見えない。
煙草に火をつけ、二、三度煙を吐きだしていると烏竜茶の入ったグラスが目の前に置かれた。バーテンの気配をおれはこれっぽっちも感じなかった。薄暗い照明の中で、烏竜茶は気の抜けたウィスキィのような色を湛えていた。よっぽど目ざといやつじゃない限り、おれは薄い水割りを舐めているくたびれた男にしか見えないはずだ。
ときおりグラスに口をつけながら、煙草をふかし、カウンターの奥に立てかけられたボトルのラベルを読み取る作業に没頭した。天文は意外と時間にルーズだ。夏美と天文が現れるまで、もう二、三十分はかかるだろう。目を細めてラベルを睨みながら、おれの頭はゆっくりと、だが確実に回っていた。
ラフロイグのラベルを眺めているとき、バーテンがカウンターを指で弾いておれの注意を促した。ストゥールに腰かけたまま頭をねじると、天文と夏美が店に入ってくるところだった。
「なんだってこんな回りくどいことをしなきゃならないんだ? おれが兄さんをはめようとしてるとでも思ってるのかい?」
おれを見つけるなり、天文は早口の北京語でまくしたてた。奥の席でいちゃついていた若いカップルが驚いたように視線をあげ、無知でがさつで乱暴な中国人にムードをぶち壊されたとでもいうようにお互いの目を見てうなずきあった。
おれはわざとらしく眉をしかめ、天文を手招きした。
「小さな声でも聞こえるぞ、小文。ここは静かなバーなんだ」
おれが日本語でいうと、傷つけられたとでもいうように口を歪めて、天文は隣のストゥールに腰を下ろした。その後ろで夏美がおれを見ながら肩をすくめていた。おれはやれやれという感じで首を振り、天文とは反対側のおれの隣のストゥールを引いてやった。
「小文はよせっていってるだろう。いつになったらわかるんだよ」
天文が今度は日本語でいった。それでも声の大きさと早さは変わらなかった。
「おれだってのんびりしてる時間はないんだ。それなのに……」
「なにを飲む?」
おれは天文を遮ってきいた。
「ビール」
「わたしはなにかカクテルを飲みたいな」
天文の声に夏美の声が重なった。天文はそこに夏美がいるのに初めて気づいたというようにおれを睨むのをやめ、小声ですいませんと謝った。
「わたしのことは気にしないで。あなたと健一の仲はうかがってますから」
夏美はしゃあしゃあとそういってのけ、おれの肩に甘えるように腕をかけた。おれは内心うんざりしながらバーテンを呼び寄せた。
「こいつにはビール。こっちの女性にはなにかカクテルを頼む」
「かしこまりました」
パーテンは慇懃《いんぎん》に礼をした。やっぱり髪の毛はふわりとも動かなかった。
「兄さん、やっと身を固める気になったのかい?」
バーテンが酒を作りだすのを待って、天文は北京語でおれにきいてきた。夏美を気遣ったのか、声は落としていた。
「なんだって?」
「だから、そっちの女だよ。おれに会わせたんだから、そういうことなんだろう? 違うのかい?」
おれの肩に載せられた夏美の腕が嬉しそうにくねった。ちらりと睨んでやったが、夏美はすました顔でバーテンの作業を見守る振りをしていた。
「そういうことじゃないんだ。ちょっとわけがあってな」
「ふーん。そういうことにしておいてやるよ。兄さんが女と仕事するなんておれは信じないけどね」
「おまえがどう思うかなんて、おれの知ったことじゃない」
バーテンが影のように動いて天文の前にビールの入ったグラスを置いた。天文はひったくるようにしてグラスを口にはこび、一息で半分ほどを飲み干した。バーテンは淀みなく動きつづけ、夏美の前で立ち止まってリズミカルにシェーカーを振った。夏美はおれにしなだれかかりながら楽しそうに微笑んでバーテンの動作を見守っていた。だが、おれと天文の会話にじっと耳を傾けているのがみえていた。
「話は変わるけどさ、呉富春の件は結局どうなってるんだい?」
天文は唇にこびりついたビールの泡を撒きちらしながらいった。今度は日本語だった。
「あの馬鹿はなにをトチ狂ったか歌舞伎町に戻ってきた。おれは元成貴に脅されて探してる。それだけだ」
天文は疑わしそうにおれの顔を睨めつけた。
「ふざけるなよ。〈紅蓮〉を襲ったのはあいつなんだろう? なんで呉富春がそんなことをしなきゃならないんだよ。おかしいよ」
「あいつの考えてることなんかだれにもわからんさ」
「いま話してるのがほかの人間だったら信じるけどね、兄さんじゃだめだ。ほんとのことを話してくれ。歌舞伎町で何が起こってるんだ?」
天文はいいわけの下手な生徒を前にした教師のようにおれの目を見たまま首を振った。いくばくかの愛情と、おまえにはもう騙《だま》されないぞという意思のこもった茶色の目が、暗い照明の中でも浮き上がってみえた。
さり気なくその視線をはずし、グラスの中の烏竜茶をすすった。どこまで話すかはもう決めてあった。ただの時間稼ぎだ。
「おまえはどこまで知ってるんだ?」
「なにも知らないよ。二、三日前から元成貴の手下が目の色を変えて呉富春を探してるってことと、昨日、その呉富春が〈紅蓮〉を襲って人を殺したってことだけさ」
おれはうなずいた。天文は顔色を変えずに嘘《うそ》をつけるような男じゃない。年をとって世間の荒波をかぶり多少は性格が狷介《けんかい》になっているとしても、少なくともおれには嘘はいわないはずだ。
「楊偉民から何か聞いたか?」
天文は唇をかたく結んで首を振った。楊偉民の名前を口にするなとでもいってるような素振りだった。
「いつか聞こうと思ってたんだが、おまえと楊偉民の間になにがあったんだ?」
「別に……ただ、偉民爺さんは堅気の振りをしてるけど、実際には流氓と変わらないってことに気づいただけさ」
「気づくのが遅すぎたな」
「しかたないだろう。おれは子供だったんだ」
「楊偉民が流氓と付き合ってることなんかガキだって知ってるぞ。それに、おれだって流氓と付き合ってる」
「兄さんは別だ。兄さんはおれのことを気遣ってくれる。見返りは要求しない。でも、偉民爺さんがおれによくしてくれたのは、おれを利用したかったからだ……この話はもういいよ。ごまかさないで呉富春の話をしてくれ」
「おまえもとんだ甘ちゃんだな。ちっとも変わっちゃいない」
煙草に火をつけた。煙草の先端がかすかに震えていた。天文は極め付きの馬鹿野郎だった。
「おれは元成貴に脅されてる。富春を連れてこないと殺すってな」
「そんな……偉民爺さんがそんなこと許さないよ。自分が面倒をみた人間を余所者《よそもの》のいいなりにさせるなんて」
おれは煙草の煙を派手に吐き出し、ストゥールをまわしてカウンターのまん前に身体を向けた。そして、充分に間を置いてからいった。
「楊偉民がおれを売ったのさ」
天文は驚かなかった。予想していた最悪の事態が起こってしまったことを嘆いている学者のように蒼《あお》ざめた顔でカウンターの一点を見つめていた。おれの最初の爆弾は見事にターゲットにぶち当たったのだ。
「まさか、兄さんを売るなんて……なにを考えてるんだよ、あの爺さん」
「楊偉民もここ二、三年は大変なんだよ。台湾の人間は減る一方なのに、上海や北京の人間はねずみ[#「ねずみ」に傍点]みたいに増えてるからな」
「それにしたって……」
「いいんだ。おれだって楊偉民に文句をいえた義理じゃないしな。それに、富春みたいな馬鹿とつるんでたおれも悪い。とにかくあいつを見つけなきゃならない。まあ、借金を返さなきゃならないようなもんだ」
「呉富春が見つかれば、すべては丸くおさまるんだな?」
「そうだ。歌舞伎町も静かになるし、おれも助かる。小文、手伝ってくれるか? 楊偉民はあてにならない。おまえだけが頼りなんだ」
「手伝うに決まってるじゃないか。おれをなんだと思ってるんだよ、兄さん? 進む道は違ってるけど、初めて歌舞伎町に来たときから、おれは兄さんの弟なんだぜ。気兼ねなんかするなよ」
おれの爆弾は予想以上の効果を上げていた。天文は楊偉民への敵愾心《てきがいしん》とおれへの憐憫《れんびん》でものが見えなくなっていた。もともと、おれに関しては天文は盲《めしい》も同然だったが。
「富春が紅蓮を襲ったもんだから、元成貴はかっかきてる。なるべく早く見つけ出したい」
「なんだって呉富春はそんなことをしたんだ? 〈紅蓮〉にいる黄秀紅が元成貴の女だってことは知ってたんだろう?」
「あいつは勘違いをしてるのさ」
「勘違い?」
白々しくバーテンの作ったチェリー・ブランディ・ベースの赤いカクテルを飲んでいる夏美の腕をとってこっちに引き寄せた。
「こいつは富春の女だ。あいつは、この女が元成貴にとっ捕まってると思い込んでるんだ」
夏美は訝《いぶか》るように眉をひそめて、視線をおれと天文の顔に忙しく行き来させた。それから、天文に舌をぺろりと出してみせた。
「どうも。夏美です」
天文はそれには応《こた》えず、まじまじと夏美の顔を見つめているだけだった。
おれが煙草を灰皿に押しつけると、天文はやっと夏美から目をそらした。その顔には理解に苦しむといった様子がありありだった。
「なにを考えてるんだ、兄さん?」
「決まってるだろう。富春に元成貴を殺させたいのさ」
何気なく第二の爆弾を放り投げた。もちろん、北京語で。夏美が下手な反応を見せないことを願いながら。
「兄さん……」
天文は絶句して、おれの背後にうかがうような視線を飛ばした。別に夏美がなにかをしたってわけじゃない。夏美はここまではおれのアドリブにきちんとついてきている。天文は、夏美が富春の女だと聞いて気が気じゃないだけのことだ。
「元成貴が死んだ後に、孫淳《スンチュン》あたりが富春を殺してくれれば万々歳だな」
「本気なのかよ……呉富春は友達だったんだろう?」
「おれに友達なんかいない。そのことはおまえがよく知ってるはずだ」
天文はたじろいだ。
「……でも、元成貴を殺すなんてむちゃくちゃだ」
おれは天文の方へ身を乗りだし、小声で囁いた。それも、天文なみの早口の北京語で。
「やらなきゃならないんだ。今度のことで元成貴はおれの尻尾をつかんだつもりになってる。おとなしく富春を引き渡したところで、おれのコネを体よく利用されて用ずみになったところで放りだされるのが落ちだ。おれはそんなのはごめんなんだよ。元成貴は死ななきゃならない」
「兄さん……」
「おまえにはわからないかもしれないが、それがこの世界の掟《おきて》だ。呂方のときと同じことなんだよ、小文。富春も元成貴も疫病神だ。おれのいる場所に立てば、元成貴は殺されなきゃならないんだ。富春の手でな」
天文の喉仏《のどぼとけ》が何度か上下した。天文は残ったビールを飲み干し、怒ったような顔つきで空のグラスをバーテンへ突きだした。バーテンは何事もなかったかのようにグラスを受け取り、新しいビールを注いで天文の前に置いた。そのあいだ、天文はぴくりとも動かなかった。
「どうしてもか?」
ビールの泡をじっと見つめながら、天文はぼそりといった。
「どうしても、だ」
おれはいって、新しい煙草に火をつけた。煙が喉を刺すだけでうまくもなんともなかった。
「酷いな……」
天文はヤケになったようにビールに口をつけた。いつもの早口はどこかに消えうせ、どこかくたびれた間延びした声が続いた。
「おれになにをいってるのかわかってるのかい?」
「もちろん。おれが窮地から脱するのを助けてくれって、兄想いの弟に頼んでるのさ」
天文は救いを求めるような目でおれを見た。おれは黙って煙草をふかしつづけた。天文は簡単に折れた。
「……それで、兄さんはおれになにをやらせたいんだ?」
「元成貴に圧力をかけてくれ」
「圧力? どうやって?」
「簡単さ。揉《も》めごとを早く解決しろ。それから、おれになにかをしようとしてるなら考えがある。そんなことをいってくれればいい。それで元成貴の気持ちが変わるとはおもえないが、やつも一応は焦るだろう」
「わかった。今夜、元成貴と話してみる。他には?」
「緊急事態が起こったら、この女を匿ってもらいたい。頼みたいのはそれだけだ」
天文の薄い眉がなにかを疑ってるかのようにすっとよった。その表情に動かされた振りをして言葉をつぎたした。
「それから……もしおれが死ぬようなことになったら、楊偉民を殺して仇《かたき》を討ってくれないか」
「兄さん!」
「やってくれるだろう?」
「……兄さんはどんなことがあったって死なないさ」
「おまえが直接手を下さなくたってかまわないんだ。やってくれるな?」
天文も伊達《だて》に長い間楊偉民の元で働いていたわけじゃない。金で殺しを請け負う人間の一人や二人は知っているはずだった。
「……わかったよ」
「いい子だ、小文」
天文はいい返さなかった。長生きしすぎた老人のように背を丸め、うつろな目でビールの入ったグラスを見つめていた。
「夏美」
日本語に切り替えて、夏美に声をかけた。
「なに?」
「こいつはおれの義弟の周天文だ。よく顔を覚えておけ。おれに何かあったら、天文を頼るんだ。いいな?」
夏美はおれの背中にぴたっと身体をよせ、肩越しに顔を突きだした。
「わかった。よろしくお願いします、天文さん」
「彼女の名前は佐藤夏美だ。頼むぜ、小文」
「ああ、なにかあったらここに電話をくれ。すぐに連絡がつくようにしておくから」
天文は財布から名刺を抜き取り、夏美に渡した。表には天文の店、裏には組合の事務所の住所と電話番号が印刷されている。
「だいたい店にいる。つかまらないときは裏の組合の方へ電話してくれ」
夏美は名刺の裏表を何度か眺め、大きくうなずいて名刺をブラウスの胸ポケットにしまい込んだ。
「呉富春を見つける手だてはあるのかい?」
ストゥールから腰をあげながら、天文が北京語でいった。
「ああ、なんとかなるさ。いまのところうまく立ち回ってるみたいだが、そのうちにっちもさっちもいかなくなる。東京であいつが頼れるのは、結局おれしかいないんだ。遅かれ早かれあいつから連絡してくるはずだ」
「東京どころか、世界中のどこを探したって呉富春が頼れるのは兄さんしかいないさ。兄さんはそんなやつをはめようとしてるんだぞ」
「だからなんだっていうんだ? あいつのおしめを取り替えてやるか?」
「……兄さんは昔はこんなじゃなかった」
「昔からこうだった。おまえはなにも見てなかったんだ」
「そうかもしれないな。おれは本当に子供だったんだ……でも、おれは兄さんを尊敬してたんだぜ」
天文は力なくおれに背を向けた。その背中に、最後の爆弾を投げつけた。
「いや、それは違うな。おまえはおれを憐れんでたんだ。飼い主に捨てられた犬っころを可愛がるみたいにおれを憐れんで手なずけようとしてたんだ。ただそれだけさ。おれがなかなか懐かないんで、おまえは必死になっておれの気を引こうとしてた。自尊心が許さなかったんだ。そうだろう、小文?」
天文の肩が大きく震えた。天文はおれに背を向けたまま絞り出すような声でいった。
「よく……よくそんなことがいえたな」
「おまえはおれに借りを返すんだ。それだけのことなんだよ、小文。あまり気にするな」
いつのまにか夏美がおれの手をきつく握り締めていた。
天文はしばらく動かなかった。感じのいい薄い黄色のブルゾンに包まれた肩が強張っていた。もしかすると、天文はほっとしているのかもしれなかった。
「約束は守る。だが、あんたとの仲はこれまでだ。二度と顔も見たくない」
おれに背を向けたまま、天文はいった。天文にしては陳腐な捨て台詞だった。死んでしまった両親は、息子に作家か学者になってもらいたくて天文という名をつけたのに。
天文は振り返らなかった。おれの手を握る夏美のぬくもりに意識を集中させようとしながら、おれは天文が出ていったドアを見つめていた。
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「本気なの?」
夏美が口を開いた。おれたちは〈バイユー〉を出て、早稲田《わせだ》通りを歩いていた。夏美はおれの左腕に自分の腕を絡ませ、寄り添うようにおれに従っていた。
「なにがだ?」
「富春に元成貴を殺させるって」
「ああ、本気だ。それ以外に手はない」
「うまくいくかしら……」
「うまくいくさ。富春は元成貴がおまえを捕まえてると思ってる。おれが元成貴の側に誘導してやれば……あとは考えるまでもない」
後ろの方で自転車のベルが鳴らされた。買い物袋をかごにいれた中年女が、歩いた方が速いんじゃないかと思えるスピードでおれたちの横をのたのたと通り過ぎていった。おれたちは歩道の端に身を寄せ合うようにして、ファミリーレストランが角にある交差点を右に曲がった。
「でも、元成貴の手下が黙ってないんじゃない?」
「元成貴の後釜《あとがま》を狙ってるやつは腐るほどいるんだ。すぐに権力争いが始まるだけだ。犯人の富春が死体で見つかれば、それ以上|詮索《せんさく》するやつはいない」
孫淳のナイフのような目が脳裏に浮かんだが、首を振ってそれを追い払った。
「……場合によっちゃ、天文に泥をかぶせる」
夏美が息をのんで立ち止まった。
「どうした?」
「嘘でしょ?」
「本気だよ」
「あなた、どういう人間なのよ?」
「おまえにそんなことをいわれるとは思ってもみなかったな」
「あの人、弟なんでしょ? 可愛がってたんでしょ? 弱点って、可愛くてしょうがないってことなんでしょう?」
「血はつながってない。あいつが勝手におれを兄さんと呼んでるだけだ」
「本当の弟だったら?」
夏美の声は地の底からわきおこってきた呪詛《じゅそ》のようにおれの耳に響いた。
「なんだって?」
「周天文が健一の本当の血を分けた弟だったとしても、同じことを考える?」
夏美は足をとめていた。唇の端がかすかに震えていたが、目は真っ直ぐにおれを見据えていた。
煙草を取り出して火をつけた。目はそらさなかった。それでも、夏美がなにを怖れているのかは見当もつかなかった。ただ、夏美が期待しているらしいことだけはなんとなく察しがついた。煙を深く吸い込み、吐きだし、いってやった。
「そんなことを考えるのは無意味だが……天文が本当の弟だとしても、おれは同じようにものを考える。ほかのやり方は知らないんだ」
「血のつながりとかは考えない?」
「親も兄弟も関係ない。おれ以外の人間は、みんな他人だ」
「そう……」
夏美はうつむきながら小さな吐息を洩らした。その直前、夏美の目になにかから解放されたとでもいうような色が宿ったのを、おれは見逃さなかった。
「なにかあるのか?」
「なんでもない。わたしにも兄弟はいたけど、捨てちゃったから。それだけ」
おれはなにもいわなかった。夏美の腰に手を回しゆっくり歩きはじめながら、たったいま頭に引っ掛かったものはなんだろうと考えつづけた。
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BMWは青梅街道を走っていた。窓を開け、肘《ひじ》を突きだして煙草を吸いながらおれはハンドルを握っていた。夏美は助手席でぼんやりと窓を流れる夜の景色を見つめていた。
なにか目的があるってわけじゃない。ただ、夏美のマンションやおれの飯田橋のマンションへ戻ってもなにもすることがない。いや、夏美と二人きりになるのが恐かったのだ。おれは夏美のことを知りすぎた。夏美が語ったのはたわいのないことだ。それでもおれには充分すぎた。そして、おれは夏美に多くを語りすぎ、見せすぎていた。
夏美とやりたかった。だが、やりたくもなかった。おれは混乱していた。こうやって車を流していれば、少しは冷静でいられるような気がした。それに、中野界隈は福建野郎どもの縄張りだ。富春が池袋の福建野郎たちに追いだされたとしたら、中野へ出張《でば》ってくる可能性もないわけじゃない。
環七を右折し、そのまま流して早稲田通りへ入り、さらに中野通りを右折して中野の駅前を通り抜ける。そのコースをのんべんだらりと巡回することが、いまのおれにできる精一杯のことだった。とんだお笑い草だ。
おれはダッシュボードに手を伸ばし、ラジオのスウィッチをいれた。適当にダイアルを調節すると、何度か聞いたことのあるメロディが流れてきた。中島みゆきの曲だ。原曲とはアレンジが違い、歌われているのは広東語の歌詞だった。
「王菲《ワンフェイ》ね」
夏美が息を吹き返したように身を乗りだし、メロディに耳を傾けた。
「大陸の歌手だよな?」
「北京生まれだと思うけど、たしか、香港でデビューしたの。凄い人気よ。香港の音楽って演歌っぽくて好きじゃないけど、王菲はポップで、わたしも大好き」
夏美はそういってメロディを口ずさみはじめた。どこか子供じみた仕種だった。おれの耳には王菲が歌う中島みゆきもどこか演歌くさく感じられたが黙っていた。
王菲の中島みゆきが終わり、新しい曲がかかった。今度は北京語だ。ただ、ヴォーカルに透明感があり、曲調もずっとポップだった。
「艾敬《アイジン》よ。知ってる?」
「いや」
「この子は中国の歌手。健一は歌は好きじゃない?」
「大陸や香港、台湾の曲はよく知らない。耳だけは完全な日本人なんだ。あっちの曲はあまり馴染まない。崔健《ツイジェン》ならよく聞くけどな」
「わたしは日本の歌謡曲やロックよりあっちの曲の方が好き。やっぱり、子供のころに聞いてた音楽って耳に残るのかな?」
「おまえが子供のころに、大陸でこんな曲が聞けたのか?」
「テレサ・テンなら内緒でよく聞いたけど……でも、同じよ。革命歌も艾敬や崔健のロックも、みんな大陸の歌」
「そうかもな」
うなずきながらウィンカーを点滅させた。早稲田通りと中野通りの交差点が迫っていた。
「健一はどんな歌を聞いて育ったの?」
「アイドルの歌謡曲だ。天地真理とか小柳ルミ子、キャンディーズ……」
「天地真理って、あのオバサン?」
夏美は信じられないというように目を丸くした。
「昔は若かったんだよ、あのオバサンも」
駅前の信号が赤に変わった。ブレーキを踏むと同時に携帯電話が鳴った。
「おれだ」
聞きなれた北京語。つくりものめいたどこか金属的な響きのする声。
「どこにいる?」
助手席で夏美が息をのんでいた。おれは人差し指を唇にあてそのままでいるように指示した。
「あの暗号を思い出すのに手間取ったぜ、ちくしょう。頼みがあるんだ、健一」
富春はおれの質問には答えなかった。
「なんだ?」
「元成貴をぶっ殺すのに手を貸してくれ」
「しばらくあわないうちに頭がおかしくなったのか?」
「あの野郎、おれの女をさらいやがった!」
「そんな話、聞いてないぞ」
「女から電話があったんだ、助けてくれってな」
けたたましいクラクションの音で信号が青になっているのに気づいた。おれはアクセルを踏み込んだ。
「女ってのは何者だ?」
「小蓮《シャオリェン》だ。おれの女だ」
おれは息をのんだ。小蓮。富春は、確かにそういったのだ。夏美の嘘が、またひとつばれた。富春には本名は教えていないはずだったのだ。
「おまえに女ができるとはな。世の中、狂ってる」
「ふざけてる場合じゃねぇ! おまえでもぶち殺すぞ」
「殺してみろ。おまえを助けられる人間がいなくなるだけだ」
沈黙。荒い息遣いだけが聞こえてきた。
「すまねぇ。焦ってるんだ。助けてくれよ、健一」
「どこにいるんだ?」
「サンルート・ホテルだ」
おれは舌打ちした。歌舞伎町とは目と鼻の先のホテルに泊まるとは、救いがたいにもほどがある。
「なんだってそんなとこに? おまえ、死ぬつもりか」
「他に思いつかなかったんだ。しょうがねえだろう」
「馬鹿が。大至急チェックアウトしろ。代々木公園のいつもの場所、覚えてるか?」
「ああ」
「一時間後にそこで。必ずタクシーを使え。いいな」
「わかった」
電話がきれた。
「富春?」
それまで凍りついたように動かなかった夏美が口を開いた。目に、例の怯えと憎悪の色が宿っていた。
「そうだ。あの馬鹿が、やっとつかまった」
新しい煙草に火をつけた。それから、掌をズボンでぬぐった。掌は汗まみれだった。
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住宅街のど真ん中にある時間ぎめの駐車場にBMWをとめた。
「おまえはマンションへ戻れ。おれから連絡があるまで部屋を出るな」
「いや。わたしも行く」
夏美の顔を凝視した。夏美は絶対に退《ひ》かないというように、挑戦的に唇を突きだしておれの視線を受けとめた。
「なんだって?」
「健一の邪魔はしない。ただ、見てるだけだから」
「だめだ。おれとおまえがいっしょにいるのが富春に気づかれたら、おれの計画がおじゃんになる」
「見たいのよ、富春がどんな顔をしてるか」
「おれが後で教えてやる」
「自分の目で見たいの」
「降りろ」
おれはいった。うんざりだった。これ以上議論する気はなかった。
「おれのルールに従えないならそれまでだ。降りろよ。好きなところへ行ってくれ」
「わたしはなにも……」
「おれのいう通りにするか、おさらばするかだ。それ以外はない」
夏美は口を閉じた。ただ、強い光を発する目をおれに向けていた。
「どうするんだ?」
「なにか手違いがあったらどうするの? わたし、いつくるかわからない連絡を待ってなきゃならないわけ?」
おれの肩から力が抜けた。夏美はどうあっても抵抗し通すつもりらしい。
「手違いなんかない。もし、元成貴にばれたら、富春を掴まえてあんたのところへ連れていくところだったといえばすむ話だ。いいか、おれと富春が落ち合う場所におまえはいちゃいけないんだ。元成貴に見つかればあの女は何者だって話になる。おまえの悪知恵のせいで富春が〈紅蓮〉を襲ったと知ったら、元成貴はおまえを許さない。おまえを匿《かくま》ってたおれのこともだ」
「…………」
夏美は上目づかいにおれを見つめていた。反論はできないが、どこか納得できないって顔つきだった。
「富春におまえが見つかった場合もやばい。あいつはおれにはめられたと思うだろう。それにおまえとおれの仲を勘繰る。あいつは銃を二丁持ってるし、腕っぷしも強い。おれは殺されて、おまえはまたあいつに殴られつづける生活に逆戻りだ」
「見つからなければいいんでしょ」
「おれはいつも最悪の場合を想定して動くんだ」
噛んで含むようにいってやった。
「じゃあ……」
「なんだって富春の面《つら》なんか拝みたがるんだ!?」
「あいつがおろおろしてるところを見たいのよ。あいつが……あいつが不幸になるところを見たいの」
夏美は唇を噛み締め、声を絞り出していた。身体全体が細かく震え、その振動で目尻に溜まっていた涙がこぼれ落ちた。
ため息をもらし、夏美の小さな頭を抱きよせた。
「おまえの復讐はおれが請け負った。あいつは死ぬ。必ずだ。だから、それ以上の高望みはするな。失敗するだけだ」
「わたし……わからない」
「わからなくてもいい。おれのいう通りにしてればいいんだ。なにも心配はいらない」
「信用できないのよ。健一のこと信じたいけどできないの。だって、弟同然の人を見捨てようとする人じゃない。わたしなんてぜんぜん関係ないんだよ。見捨てられるに決まってる。富春が見つかっちゃえば、わたしなんか邪魔なだけでしょう?」
夏美はおれの腕の中で震えつづけていた。涙に濡れた声は聞き取りにくくてしかたがなかった。それでも、おれには夏美の声がしっかりと聞こえた。
「おれは戻ってくる」
「信じない……」
「いや、信じるさ。おれはまだおまえとやってない。おまえを抱くために戻ってくる。これならどうだ? それでも信じられないか?」
夏美は顔を上げた。顔はびしょびしょだったが、もう涙はとまっていた。
「健一、わたしとしたいの?」
おれはうなずいてやった。
「ああ、したい」
夏美の目がぱっと輝いた。
「わかった。信じてあげる」
泣くふりをしていただけのような明るさで、夏美は微笑んだ。その微笑みを車内に残して、おれは車を降りた。熱気が押し寄せてきたが、背中に生じた悪寒は消えなかった。
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駐車場から代々木公園までは十分ほどかかった。約束の時間までまだ二十分ほどある。腰にさした黒星《ヘイシン》の感触を確かめて、参宮橋門を通りぬけた。坂道を登りつめた左側にある休憩所が待ち合わせの場所だ。仕事でだれかにあわなきゃならないとき、よくこの場所を利用した。夏場こそ、夜が更けても草っぱらやベンチでペッティングにふける若いカップルや、スケボーの練習をするガキども、健康バカのジョガーたちがうようよしているが、寒くなれば人っ子ひとり見えなくなるし、おまわりの巡回に出くわすおそれもなかった。富春をボディガードに仕立てて連れてきたことも何度かあった。
まっすぐ休憩所には向かわず、舗装されたサイクリング・ロードをぐるりとまわってみた。クソ暑いせいかジョガーの姿は少なかったが、公園の中は若い連中でいっぱいだった。例によってペッティングに励んでるやつら、バンドの練習をしてるやつら、ビールとつまみを持ちよって花火大会をしているやつら……中国人、それも胡散臭《うさんくさ》い中国人の姿は目につかなかった。
照明に照らされて木々の合間にぼんやりと浮かび上がった休憩所に、おれは足を向けた。スケボーを抱えたガキどもがたむろしていた。腕時計を覗きこむと、そろそろ富春が現れる時間だった。ガキどもを追い払おうと思ったが、何かあったときに盾になると考えてやめた。代わりに、隅にあるベンチに腰を下ろして煙草に火をつけた。邪魔者が侵入したとでもいうように、ガキどもが駄弁《だべ》るのをやめた。心地好い静けさと、うざったい緊張感が休憩所を急速に覆った。
「おじさん、ここ、おれたちの場所なんだけどな」
最初の煙を吐きだす前に、ガキどもの一人が近寄ってきた。長髪にベイスポール・キャップを逆にかぶったガキだ。だぶだぶのTシャツに短パン、ナイキのバスケットシューズ。背はそれ程高くないし、体つきも華奢《きゃしゃ》だったが、目つきには危ない光があった。
おれは黙ってそのガキの顔を見つめた。ふいに、呂方《リューファン》の顔が脳裏に浮かんだ。目の前のガキは呂方にそっくりだった。
「ここはおれの場所でもあるんだ。悪いな、邪魔はしないよ」
煙を吐きだしながらいった。ガキの眉間にかすかに皺《しわ》が寄った。
「覗きなら、他でやれよ。ここはおれたちの場所だっていってんだろ」
声にも刺《とげ》が含まれていた。ガキの言葉を無視して煙草を吸いつづけた。
「聞こえねえのかよ!?」
「聞こえてるよ」
ガキの足元に煙草を投げ棄てた。ガキは一瞬鼻白んだが、怒気をあらわにしてがなりたてた。
「ざけんじゃねえよ、ムカつくじじいだな。やっちまうぞ!」
「やってみろよ」
おれは立ち上がった。馬鹿なことをしているとは思ったが、もう身体はとまらなかった。おれの右手には黒星が握られていた。
ガキどもが一斉に息をのんだ。芝居気たっぷりに時間をかけて新しい煙草に火をつけ、ベイスボール・キャップのガキに近づいた。
「ムカつくガキだな。やっちまおうか?」
ガキはおれの顔なんか見ちゃいなかった。ガールフレンドとセックスしている最中に親に踏み込まれたとでもいうような目つきでじっと銃口を見つめていた。
「で、ここはだれの場所なんだって?」
おれはガキの顔に煙を吹きかけて注意を促した。
「あ、あんたの場所……」
それだけいうのに、ガキは何度も唾を飲み込まなきゃならなかった。自己嫌悪が募った。目の前のガキが呂方に似てるからといって、夏美に痛いところを突かれたからといって、こんな馬鹿なことをしてもいいという法はない。少なくともおれが作りあげたルールにはない。だが、一度やりはじめたことは最後までやり通さなきゃならない。銃口をガキの腹に押しつけて、いった。
「違うな。ここはおまえたちの場所でもあるし、おれの場所でもある。そうだろう?」
「そ、そうです」
「よし」
おれは黒星をベルトの間に差し込んだ。
「おれはここにいるが、おまえたちもいなくなる必要はない。友達にもそう伝えろよ」
ガキがうなずいて背後の仲間になにか声をかけようとした瞬間、休憩所の裏手の方から葉ずれの音がし、暗い影が北京語で叫びながら突然姿を現した。
「健一《ジェンイー》、だいじょうぶか!?」
富春。ごたいそうにも両手に黒星を握っていた。
ガキどもは一斉に逃げはじめた。止める暇はなかった。それよりも、ガキどもに銃口を向けようとしている富春を制止するのが先だった。
「やめろ。ただのガキだ」
富春は不思議そうな表情をこっちに向けた。少ししてから両手の銃をおろし、なにごともなかったという面で近づいてきた。
「そこんところでおまえを見つけた。囲まれてた。だから、裏から回って助けようと思ったんだ」
銃を振り回しながら富春は説明した。
「銃をしまえ、この馬鹿野郎」
富春はぽかんとした顔で両手の銃を眺め、一丁を腰に、もう一丁を肩に引っ掛けていたスポーツバッグの中にしまいこんだ。
富春はちっとも変わっちゃいなかった。ウェイヴのかかった豊かな髪の毛は多少長くはなっていたが、適度なオールバック・スタイルで頭のてっぺんを覆っていた。今にも飛び出さんばかりのぎょろ目と、分厚い唇、それに反してすんなりと通った鼻梁《びりょう》。なにも変わっていない。頭の中身だってこれっぽっちも変わっちゃいないだろう。
「歩こう。大丈夫だとは思うが、さっきのガキどもがママに気の狂った中国人が銃を持って暴れてるって泣きついてるかもしれない」
おれは富春を促して歩きだした。久しぶりに富春にあったというのに、感慨はわかなかった。おれの目の前にいるのは、面倒を引き連れてやってきたただの馬鹿野郎でしかなかった。
「だいじょうぶか?」
「ぐるっと回ってみた。おまえを探してるやつは見当たらなかった」
「おまえがいてくれて助かったぜ。おれひとりじゃどうにもならねえ」
「帰ってきたなら、真っ先におれに連絡するべきだったんだ」
「なにいってやがる。おまえの店に電話したんだぜ。電話に出たやつに、あいたいって伝えて時間と場所まで指定したってのに、おまえは米なかったじゃねえか」
舌打ちした。志郎に電話番がつとまると信じるなんて、どうかしていた。
「その連絡は聞いてない。携帯の方にかけてくりゃよかったんだ」
「重要な話に携帯電話を使うなって、おまえ、口をすっぱくしていってたじゃねえか」
富春は得意げに胸を張った。
「で、今日までは池袋に潜んでたってわけか?」
「ああ、昔恩を売っておいた福建野郎がいてな。そいつのヤサを借りてたんだが、おれが元成貴を狙ってるってわかったとたん、これだ」
富春は掌で首をかき切る真似をした。
「まったく、度胸のねえやつらだよ」
「度胸の問題じゃない。だれだってそうする。そもそもなんだって戻ってきたんだ?」
「電話でいっただろう。元成貴の豚野郎がおれの女をさらったんだ」
「今までどこにいたんだ?」
「名古屋《ミングーウー》だ」
「元成貴が名古屋まで手をのばしておまえと女を見つけたっていうのか」
「そんなことおれにわかるかよ!」
おれたちはサイクリングロードに沿って原宿方面に歩いていた。ベンチで抱擁を交わしていたカップルが、富春の怒声に驚いて機械仕掛けの人形のように跳ねあがってこっちを見た。
「声がでかい。北京語で話してるからっていい気になるなよ、富春」
「すまねえ。元成貴がどうやったかなんて、おれは知らねえ。ただ、女から連絡があったんだ。元成貴に捕まってる、助けてくれってな」
「おまえに女ができたか……想像もつかないな。どんな女だ?」
さり気なく餌《えさ》をまいた。夏美に関する情報を富春からしぼり取ってやるつもりだった。だが、おれのまいた餌は想像以上に効果的だった。富春の表情に動揺が走ったのだ。
「どうした? なにかまずいことでも聞いたか」
「いや……なんでもねえ。ただの女だ」
「ただの女ってことはないだろう。なにをしてる女だ? 大陸の女か? それともこの国の女か? どうやって知り合った?」
おれは矢継ぎ早に質問をはなった。富春に考える時間を与えたくなかった。
「あ、ああ。水商売だ。おれたちと同じ半々だよ。日本と大陸のな。おふくろが日本人で親父が大陸だ。知り合ったのは……たまたま飲みに行って気が合ったんだ」
富春の嘘はこれっぽっちも上達しちゃいなかった。富春とたまたま気が合う女なんか、世界中を探したって見つかりはしない。
「水商売ったっていろいろあるだろうが」
「……日本人相手の台湾バーだ。客を取ってた」
「そんな店におまえが足をむけたってのか? おれには話が見えないな。それとも、歌舞伎町を離れてる間に生き方を変えたってのか、富春?」
富春は答えなかった。黄色く濁った目で宙を睨《にら》みながら、怒ったように顔を歪めて黙々と歩いていた。広い額に無数の汗のしずくが浮き上がっていた。
「富春、おれはな、元成貴に脅されてるんだ。死にたくなかったらおまえを連れてこいってな。やつに逆らっちゃ、歌舞伎町じゃ生きていけない。だが、ダチを売ることはできない。信義にもとるからな。そうだろう?」
おれは富春に考える時間を与えてやることにした。富春と夏美の間には男と女以上の何かがある。そいつを確かめたかった。たとえ嘘をつかれたとしても、相手が富春なら綻《ほころ》びを見つけてそこからなにかを知ることができるはずだ。
富春はうなずいた。おれは続けた。
「おれはおまえを助けたい。だが、元成貴を相手にするとなったら、生半可なことはできない。徹底的にやらなけりゃな。そのためには、できるだけ細かいことを知りたいんだ。それがおれのやり方だ。覚えてるだろう?」
富春はもう一度うなずいた。
「おれはおまえの女のことを知りたい。その女がおまえをはめようとしてるわけじゃないって確信が持てなけりゃ、おれは動けない」
「小蓮《シャオリェン》はおれをはめたりはしない!!」
富春は吠えた。目を剥き、唾《つば》を飛ばしておれに詰め寄った。おれはさがらなかった。頭がフル回転していてそれどころじゃなかった。
富春はまた夏美を、小蓮と呼んだ。恐らく、夏美の本名には蓮という字がつくのだ。そして、夏美と富春の間には、ただの行きずりではない、もっと深いなにかが横たわっている。
「健一、ふざけたことを抜かすと、おまえだってぶち殺すぞ!」
「落ち着けよ、富春。おまえが話してくれなきゃ、おれにはなにもわからないっていってるんだ。話してくれるな? その小蓮って女のことを」
富春は喉になにかがつかえたような表情を見せて足をとめた。そしてぷいとおれから顔を背け、足早に歩きはじめた。
「小蓮とは……幼馴染《おさななじ》みだったんだ。名古屋でばったり出くわした。それで……なるようになっちまったんだよ」
また嘘だ。頭に浮かんだことをそのまま言葉にしているのがみえみえだった。
「幼馴染みっていうと、その小蓮も残留孤児二世ってことか?」
「ああ……あいつは、隣村にいたんだ」
日本ならともかく、中国での隣村がどれだけの距離を置いて隣接しているのかはおれにだって想像がついた。開放政策が続いている現在の大陸じゃどうかは知らないが、富春が暮らしていたころの大陸、それも農村部じゃ自分たちの村だけが世界の大半だったはずだ。遠く離れた隣村の人間の顔なんてたとえ見かけたことがあるとしても覚えているはずがない。
――つまり、富春と夏美は同じ村の出身だってことだ。夏美は黒竜江省の出身だといっていたが、嘘っぱちだ。富春と同じなら、吉林省ってことになる。
「あの辺は残留孤児が多いみたいだからな」
おれは富春に助け船を出してやった。
「そ、そうなんだ。お、同じ日本人との半々だってことで、何度か話したことがあったんだよ」
夏美は、自分が半々だと知ったのは八〇年だといっていた。この件に関して嘘をつく理由はない。それに、残留孤児たちは、余計な軋轢《あつれき》を避けるために自分が日本人であることを隠している場合が多かったと聞いている。残留孤児二世の大半は、日中間で残留孤児問題が表面化しはじめた八〇年代に入ってはじめて、自分が日本人の血を引いていることを知らされたのだ。富春だってそうに違いない。鼻たれ小僧の時分には、生粋《きっすい》の中国人として畑仕事に精を出していたのだ。
「それが名古屋でばったりか。すごい偶然だな」
「おれも信じられなかったよ」
富春は夢見るような目つきで夜空を見上げた。富春が感傷にひたることがあるなど、今の今までおれは考えたこともなかった。
「よっぽど惚《ほ》れてるみたいだな」
「おれの家族だからな」
「結婚したのか?」
「まさか。ただ……まあ、おれたち、夫婦みたいなもんだからよ」
夏美の態度からはとてもそうとは思えなかったが、おれはとりあえずうなずいた。
「で、小蓮をどうしても取り戻したいっていうんだな?」
「あたりまえだ」
「助けてくれって以外、なんの連絡もないんだろう? おまえに連絡したことがばれて殺されたって可能性もあるな。だったらどうする?」
「世界中の上海野郎をひとり残らず殺してやる」
富春はいった。冗談なんかじゃなかった。じめじめと湿った底無し沼からわきおこってきたかのような声を聞けば、この世に起こる全てのことをジョークとして笑い飛ばさなけりゃ気が済まない人間でも、それがだれにも汚すことのできない純粋|無垢《むく》な誓いの言葉であることがわかったはずだ。
富春の横顔を盗み見た。全身の肌があっというまに粟立《あわだ》った。
前方に原宿の明かりが見えてきた。まだ話は終わっちゃいなかった。おれたちは適当なベンチを見つけ、腰を下ろした。
「最初にやらなけりゃならないのは、小蓮を助け出すことだな」
煙草に火をつけながらいった。
「できるか?」
「できるか、じゃない。やらなけりゃいけないんだ。そうじゃなきゃ、おまえが元成貴をバラしたとたん、小蓮は殺されるぞ」
「そうだな。元成貴を殺《や》るのはそれからでも遅くねえ」
元成貴を殺さないという考えはおれたちにはなかった。その点ではおれたちの思考ははっきりしていた。
「ところで、どうして黄秀紅を殺さなかったんだ?」
「だれだ、その女?」
「元成貴の情婦だ。おまえが襲った〈紅蓮〉のママのひとりだよ。彼女がいるから襲ったんだろう?」
「ああ、あの女か。あの女をさらって元成貴と取り引きするつもりだったんだが……」
「どうした?」
「あの女をひっさらおうとして目をみた瞬間、やる気がなくなっちまったんだよ」
煙草を吸う手をとめ、富春に顔を向けた。
おれの知ってる富春は、どんな馬鹿げたことであっても、やると決めたことはとことんまでやる性格だった。
「そんな目で見るなよ。おれだって不思議だったんだ。とにかくよ、この女に手を出しちゃいけねえって、そう思っちまったんだよ」
「変わったな」
「そうか? だとしたら、小蓮のおかげかもな」
富春はそういって、照れる様子もなく笑った。おれの心臓の鼓動が速くなった。
「なんにしろ、都合がよかったよ」
おれは煙草を吸いながら、慎重に言葉を継いだ。
「黄秀紅には、おれもいろいろと貸しがある。彼女を通じて小蓮が捕まってる場所を調べられるかもしれない」
「マジか?」
「おまえが秀紅に手を出さなかったことも使えるだろう。大丈夫だと思う」
煙草を投げ棄て、足で踏み消した。
「よし、おれは今夜中に黄秀紅を掴まえて、小蓮の居所を探り出す。それと同時に、元成貴に連絡を入れて、おまえの居所が掴めそうだとはったりをかましておく」
「そんなことする必要があるのか?」
「大ありだ。元成貴は馬鹿じゃない。小蓮を連れ出すためにはあいつの目を他に向ける必要がある。おまえならうってつけだ。あいつがおまえを殺す考えに夢中になってる間におれが小蓮を助ける。すぐに元成貴におまえが見つかったと連絡を入れる。おまえは元成貴を待ち受けて、殺すんだ」
「わかった」
富春はあっさり答えた。疑問も質問もなしだ。自分が騙《だま》されているとは露ほども考えていないのだ。こんなやつが今まで生きてこれたということが、おれには容易に信じられなかった。
ジージャンのポケットから十万のズクと飯田橋のマンションの鍵を取り出した。
「おれはさっそく動かなきゃならない。これはとりあえずの資金と、隠れ場所の鍵だ」
富春に飯田橋のマンションの場所を教えてやった。これでもうあの部屋は使えない。だが、背に腹は替えられない。この件がうまくいったら、新しいマンションを探せばいいだけのことだ。
「元成貴を殺す段取りは今夜中に考えておく。いくらなんでも、元成貴を殺してあとは元どおりってわけにはいかないからな。おまえと小蓮の逃亡経路も考えておかなきゃならない」
「なにからなにまで悪いな、健一」
「気にするなよ」
「小蓮にもいつもいってたんだぜ。おまえは最高の相棒だ」
肩をすくめた。おれの嘘がばれたら、富春は世界中の台湾野郎――あるいは日本人をぶち殺すと誓うのだろうかと考えながら。
「小蓮を助けたら連絡を入れる。それまでは動かないでじっとしてろ」
「わかってるって」
富春は立ち上がって、おれに分厚い手を差し出してきた。おれはその手を握った。
「なあ、健一。これが全部片付いたら、おまえも名古屋へこいよ。それで、昔みたいにつるんで楽しくやろうぜ」
「ああ、そうだな。考えておくよ」
富春はおれに背を向けると、公園の出口をめざして歩きはじめた。公園を出ればすぐに原宿駅だ。富春は何も考えずに電車に乗り、飯田橋で安眠を貪るのだろう。おれに考えることを任せることですっかりリラックスしているのだ。
富春は馬鹿だった。天文よりも愚かだった。馬鹿を通り越して、哀れですらあった。おれの周りにはいつだって富春や天文のような人間しか寄りついてこないのだ。
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夏美のマンションへは原宿でタクシーを拾って戻った。夏美のことを――あいつがおれについた嘘の裏にあることを考えなきゃならなかった。歩きながらそれをやるには、くたびれすぎていた。
夏美は腹をすかせた小犬のようにおれを迎えた。
「戻ってきてくれたんだ」
「そういっただろう」
フローリングの床にへたりこんだ。夏美が少しぬるくなったビールの缶を渡してよこした。まずいビールを喉の奥へ流し込み、煙草に火をつけた。なんの味もしなかった。
「どうだったの?」
「富春は掛け値なしの馬鹿だ。おまえが元成貴に捕まってると信じてる。おれが助けてくれると信じてる。救いようがない」
「富春は深くものを考えたことがないもの」
「だから心配だったんだな?」
飲みかけの缶ビールの中に煙草の吸いさしを放り込んだ。
「なんのこと?」
夏美の演技は堂に入ったものだった。世の中の仕組みなんてこれから学ぶのよとでもいいたげな、小娘のような顔を向けてきた。
「おまえは黒竜江省の生まれじゃない。富春とはガキの頃からの顔見知りだ。たぶん、同じ村の出身だろう」
「まあね」
夏美はあっさりといった。膝《ひざ》を崩しておれの横に座り、どこかなげやりな感じで話しはじめた。
「富春とは家が隣同士だったの。わたしの母さんも富春のお母さんも残留孤児でしょう、わたしたちは知らなかったけど、なにかと助け合ってたみたいで、わたしたちもよく行き来してたのよ。ただ、富春は昔から乱暴もので、わたしは好きじゃなかった。日本に行くんだって決まったときは、嬉しくて舞い上がっちゃったけど、富春たちの一家も行くって聞いて目の前が暗くなったのを覚えてる。日本の同じ村に行くんだと思ってたのよ。取り越し苦労だったけど」
話を聞きながら、ずっと夏美の顔を見つめていた。だが、表情はちっとも助かなかった。これで夏美が嘘をついているのなら、とんでもない役者だってことになる。たぶん夏美はとんでもない役者なのだ。そしておれは、夏美のそんな演技にすっかり魅了されていた。
「でも、それは子供のころの話で、名古屋でばったり出くわしたときは懐かしくって思わずわたしから声をかけちゃった。富春はぜんぜん変わってなかったから。それで……こんなことになっちゃったってわけ」
夏美は顔をあげ、目に映ったものにおののいた。おれの表情はすっかり強張っていた。
「信じてないのね?」
「おまえのいうことなんか、一言だって信じられない」
夏美の手を掴み、引き寄せた。
「おまえと富春が幼馴染みだってことは信じてやってもいい。だが、それだけじゃないはずだ。おまえと富春の間になにがあったんだ?」
「なにいってるのよ。健一になにがわかるのよ。わたしたちが育った村のこと知ってるの? なんにもないところよ。時間がとまってるの。そんなところでなにかがあるわけないじゃない」
おれはさらに夏美を引き寄せ、腕の中に抱いた。夏美は歯を食いしばり、今にも火が吹き出そうなほど激しい視線でおれを睨んだ。視線に射抜かれた皮膚が脳味噌《のうみそ》に食い込んできたような気がした。それでもおれはガードをくずさなかった。
「いえ。なにがあった?」
夏美はおれから顔を背けた。顎をつかんで、逃げようとする夏美の顔をこっちに向けた。
「いえ」
「……犯されたのよ。十二のときに」
「それで?」
「それで? よくそんなことがいえるわね」
「続けろ」
「……いつものように畑仕事をしてたのよ。そしたら、いきなり……事情を知った父さんが富春の家に殴り込みにいった……そして、逆に富春に殴られて起き上がれなくなったの。それ以来、わたしの家と富春の家は憎みあってきたのよ。これで全部。満足した?」
まだ納得がいかなかった。代々木公園で見た富春の表情がひっかかっていた。あれは暴力だけで女を縛り付けている男の顔じゃなかった。まだ何かがあるはずなのだ。その何かを、切実に知りたかった。だが、それを知る方法を、今のおれは持っていなかった。
夏美を解放してやった。
「すまなかったな」
「謝らなくたっていいわよ。隠し事してたのはわたしなんだから」
「おれはいろいろと知らなきゃならないんだ」
「それが健一のルールなんでしょ。いいわよ、いちいち断らなくたって」
おれは立ち上がった。
「どこ行くの?」
「電話をしてくる」
「だめ。わたしとの約束を守ってからにして」
「約束?」
「わたしとしたいっていったじゃない」
「……いまか?」
「いま。ずっと待ってたんだから。それなのにいきなり、なにがあった?」
夏美は顔をしかめた。悲劇を演じる女優のように、どこかに悲しみを引きずった表情だった。
「わたし、もう待たないよ。抱いて。わたしを健一の女にして。そして二度と変なことを聞かないで」
「抱いたからっておまえがおれの女になるわけじゃない。たとえおれの女になったとしても、それがおまえを無条件に信じる証明になるわけでもない。たぶん、どこまでいってもおれはおまえを信じないだろう。信じてやりたいが、信じられないんだ」
「嘘つき。わたしを抱きたいっていったくせに。健一は意気地なしよ」
夏美の目が燃え上がった。瞳の奥にお馴染みの憎悪と怯えが核になった炎がちろちろと燃えていた。その目をみた瞬間、おれの中でなにかが弾け、おれは夏美に腕を伸ばしていた。
「け、健一!?」
夏美のブラウスのボタンを引きちぎった。布の裂け目から大きくはないが張りがあり形のいい乳房がこぼれ出た。おれはその乳房を思いきり握りしめた。
「いたい……痛いよ、健一。優しくして……」
乳房を握り締めながら、夏美を四つんばいにさせた。喘ぎながらジーンズを引き下ろした。限界だった。ペニスをもどかしい手つきで引っぱりだし、夏美のパンティの隙間から押し込んだ。腰にさしていた黒星が固い音を立てて転がった。
夏美の顔に苦痛とも歓喜ともいえない表情が浮かんだ。獲物に食らいついた獣のように激しい息を吐き出しながら、何度も腰を夏美の尻に打ちつけた。すぐに視界がぼやけ、おれは爆《は》ぜた。痺れるような快感が肛門から脳天に向けて走りぬけた。下半身から力が抜け、床にへたった。スポンという間抜けな音がして陰茎が膣からぬけ落ちた。夏美は横顔を床に押しつけ、虚脱したように目を閉じていた。荒い息をつきながら、夏美の女陰から白濁したおれの体液が溢れてくるのを眺めた。
どれぐらい時間が経っただろうか。いつのまにか、夏美がおれの上に覆いかぶさっていた。
「健一、可愛い。ほんとにわたしとしたかったのね」
「悪いな。自分勝手に終わっちまった」
「謝らなくていいの。わたし、乱暴にされるのそんなに嫌いじゃないし……でも、今度は優しくしてね」
夏美は身体の向きをかえた。力を失ったペニスが、生暖かく湿ったものに優しく包まれ、すぐに力を取り戻した。
おれの目の前には夏美の尻と太股があった。膣から溢れたおれの精液が太股に透明な跡をつけていた。なんとも心が安らぎ、そしてエロティックな光景だった。頭を持ち上げ、かすかに濡れ光る夏美の女陰に口を押しつけた。
「あん……健一、汚れてるからいいよ」
「そんなことはない、奇麗なもんさ」
おれはいって、小さな突起を舌で転がした。おれの精液とは別の透明な粘液が肉襞の奥から滲みでてきて、きらりと光った。
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床の上で三回交わった。終わったときには息も絶え絶えだった。おれのペニスはふやけ、夏美のそこは自らの体液とおれの精液とで溢れかえっていた。
おれは夏美のヴィトンからポケットティッシュを取り出し、夏美の股間と床に散らばった粘液の滴を丹念にぬぐった。夏美は糸のきれた操り人形のように床に手足を投げ出して横たわったまま、気怠《けだる》い目でおれの作業を見つめていた。
「健一」
「なんだ?」
「これからどうするの?」
そいつはおれも考えていたことだった。富春に元成貴を殺させるのはいい。その富春を孫淳あたりに殺させるというのも決まった話だ。要は、段取りをどうつけるかだ。元成貴からボディガードをひっぺがすのは、悪魔をちょろまかすより難しい。
「富春と元成貴にくたばってもらう。それだけだ」
「違うよ。そんなことじゃなくって、わたしたちのこと……これからどうするの」
汚れたティッシュを手の中で握り潰し、ゆっくり顔を夏美に向けた。頭の中じゃ、代々木公園で聞いた富春の声が谺《こだま》していた。
「なるようになるだけだ。違うか?」
「そう……」
「富春はおまえを誰に渡すつもりもないらしい。まず、やつをバラさなきゃなにもはじまらない」
「あんなやつ……早く死んじゃえばいいのに」
夏美の目が一瞬のうちに燃え上がった。激しい憎悪と呪いを裡に秘めた魔女の目だった。だが、その目つきも長続きはしなかった。なにかに思い当たったかのように表情がふとうつろになり、新しい玩具を手に入れた女の子のような顔をおれに向けた。
「それって、言い換えれば、健一はわたしを自分の女にする気になったってこと?」
床に散らばった服の中から煙草を取り出し、火をつけた。膝を抱えて床に座り、ゆっくり煙草をふかした。それから、口から吐きだした煙を目で追いながらいった。
「おれは一週間から先のことを考えたことはない。おれみたいな暮らしをしてる人間にはそんなことを考えても無意味だからだ。おれが把握できる時間はいまだけのことだしな。明日になれば状況がどう変わってるかなんてだれにもわからない。とりあえず今日を生き延びる。おれがやってきたのはそういうことなんだ。だから、おれはなにも約束はしない」
「どうしてそんなふうに難しくいわなくちゃならないのよ」
夏美は腕をついて上体を起こした。乳房が軽くはずんだが、形はこれっぽっちも崩れなかった。
「もっとわたしとしたい? それともしたくない? それだけでいいのよ。そうでしょう?」
おれは笑った。それだけなんてとんでもない。おれは夏美のすべてをのみこんでしまいたかった。
おれの気分を察知したのか、夏美がにじり寄ってきておれの股間に顔を埋め、おれのものを口にふくんだ。とたんにおれのものは力を取り戻し、根元のあたりが鈍く痛みはじめた。
「今日はもういい……」
おれが伸ばした手を、夏美はうるさそうに振り払った。
「飲んであげる……健一のを飲みたいの。じっとしてて」
いわれた通りにした。いくらなんでも四回目じゃそう簡単にはいかないだろうと思っていたが、間違いだった。五分も経たないうちに夏美の口の中に思いきりぶちまけていた。
腕時計で時間を確認すると、十二時を回っていた。おままごとの時間は終わり。服をかき集め身支度を整えはじめた。
「どこかへ行くの?」
夏美は全裸のままだった。唇の端におれの残滓《ざんし》がかすかにこびりついていた。
「電話だ。その後出かけることになると思う」
「携帯電話じゃだめなの?」
「おまえが最初に電話をかけてきたときのおれの反応を覚えてるか」
夏美は何かを思い出そうとしているかのように目を細め、それからうなずいた。
「東京には盗聴マニアがうようよいるんだ。秋葉原に行けば、いくらでも見つけることができる。携帯電話なんてあいつらのいい標的だ。無駄話ならかまわないが、仕事の話を携帯電話でするやつは馬鹿だ」
「じゃ、どうして携帯電話なんか持ってるの?」
「ステイタス・シンボルってやつだ。中国人は携帯電話を持ってないやつとは仕事をしたがらないからな」
夏美は興味を失ったという顔で視線を落とし、のろのろと衣服をかき集めた。
「お風呂に入りたいな」
「シャワーなら使えるだろう」
「あったかいお風呂。すっかり汚れちゃったから、きれいに洗いたい。お水じゃあ……」
「そういやがるもんでもないさ」
夏美に顔を近づけ、鼻をひくひくさせた。
「刺激的でいい匂いがするぜ」
夏美はおれの顔をひっぱたく真似をした。まんざらでもない顔つきだった。
「おれが戻るまでに支度をしておけよ」
黒星を拾い上げ、部屋を出た。
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楊偉民の元を叩き出されたおれを拾ってくれたおカマは女を怨んでいた。酔っ払うと、「あたしは元々はノンケだったのよ。ぜーんぶ、女が悪いの」というのが口癖だった。
どういうことかというと、白皙《はくせき》の美青年だった多感な時代に女に手酷く扱われたってことだ。そのときにおカマは誓ったのだ。絶対に女より奇麗になって、他の男を自分がやられたのと同じように扱ってやる、と。男どもを女の手に触れさせてはならない、というのがその誓言の骨子だが、とにかくおカマは徹底して女を嫌っていた。
おカマの店は、ホモや男より女の客が圧倒的に多かった。若いころは厚い化粧と白い肌で酔った男の目なら簡単にごまかすことのできたおカマも年をとり、作戦を変更せざるをえなかったのだ。おカマは自分の店に女を集め、女たちの心を探り、その醜さを見せつけることによって、男たちを守ろうとしていた。
結局、おカマは女憎しの心に凝り固まったパラノイアだったのだが、その庇護の手は当然のことながらおれにものびてきた。おカマはおれをお稚児《ちご》さんにしたかったのだ。絶対に女の魔手に触れさせるわけにはいかなかった。
おカマは女たちに浴びるほど酒を飲ませ、なにかいさかいが起きると必ずといっていいほど両者をけしかけた。酔って、皮膚の代わりに自意識を身体の表面に張り付かせた女たちの争いはほとんど猖獗《しょうけつ》を極めていた。自分と一族のことしか考えない台湾人の争いを側で見てきたおれも、眉をひそめずにはいられないことが多かった。そして、おカマはそんなおれを横目で盗み見しては静かにほくそ笑んでいた。
おカマの目論《もくろ》みはお笑いぐさだった。わざわざ教えてもらわなくても、おれは女の本質というものをちゃんと知っていた。おふくろから学んだのだ。おれにとって女は恐竜と同じだった。いつだって飢えていて、食べたそばから食べたことを忘れてしまう底無しの胃袋と短絡した思考経路を持っていて、飢えを満たすためならどんなことだってやってのける。
だから、おれは流血沙汰すらまれじゃない女たちのいさかいに眉をひそめながら、おカマの女にたいする考察や、同調を求める女たちの声を無視して、ただ黙々と酒とつまみをつくっていた。
そのころ、店にはよく変な電話がかかってきた。夕方の六時、おれが店を開けて仕込みをしていると、その電話はかかってきた。受話器を取り上げても、声は聞こえない。かすかに乱れた呼吸の音が聞こえ、正確に三十秒で切れた。最初は薄気味が悪かった。どこかのおカマがおれを狙っていると思ったのだ。だが、それも度重なるうちに気にならなくなった。おれのジーンズの尻のポケットには、いつもナイフが差しこまれていた。脂ぎったおカマがおれに襲いかかってきたら、そのナイフを使うつもりだった。ナイフの使い方はよく知っていた。呂方とトルエン野郎を刺したときの感触は、まだしっかりと掌に残っていた。
だが、おれのそんな幼稚な決意も、後になってみればただのガキの空回りだった。電話の主はおカマなんかじゃなかった。女だった。
その女は店の常連だった。年は三十前後で黒い真っ直ぐな髪を肩までのばし、化粧っけの薄い顔に丸ぶちの眼鏡をかけていた。いつもグレイや紺のタイトスーツに白いブラウス姿で、女たちの争いにかかわることもなく店の片隅で静かに酒をすすっていた。男たちが女教師という言葉から想起するイメージから抜け出てきたような女で、実際、都立の高校で国語を教える教師だという話だった。
ある夜、おれはその女が電話の主だと気づいた。おカマの店は横に細長く、一番奥にトイレがあった。トイレの横にはビールケースが置かれ、冷蔵庫の中にビールがなくなると、おれはカウンターの外へ出てビールを抜きださなきゃならなかった。その夜は混んでいた。だれがトイレに入っているかなんて、確認する暇もなかった。カウンターの外へ出てケースからビールを抜き出しているときにトイレのドアが開いた。出てきたのはその女だった。女ははっとしたように口を開けていた。それから、喘《あえ》ぐような息を吐き出して「ごくろうさま」といい、おれの横を通りすぎて自分の席に座った。ほんのりといい香りがおれの鼻をくすぐった。そのとき、気づいた。女の喘ぐような吐息と、無言の電話の向こうから聞こえてくる息遣いが似ていることに。
おれはちらっと女の後ろ姿を見てから、カウンターの中へ戻った。女が電話の主であることは確信していたが、そんなことはおくびにも出さなかった。おカマの観察眼が異様なほどに鋭いことを知っていたからだ。おれは黙々と働いた。女が席を立って帰っても、顔すらあげなかった。
翌日、おれは早めに店を開けた。おカマは七時すぎに顔を出す。それまでにカタをつけておきたかった。仕込みを終わらせ、待った。時計の針が六時二分を回ったとき、電話が鳴った。おれは受話器を取った。静寂が流れてくるだけの受話器を。
「……さんだろう?」
おれは女の名字を口にした。あとは一方的なおれのペースだった。女は尻尾をつかまれた牝犬《めすいぬ》みたいなものだった。日曜に女とあう約束を取り付け、電話を切った。その夜、女は店に現れなかった。気にもならなかった。おれの頭の中じゃ、おれに組み敷かれてひいひいよがっている女の裸体が一晩中浮かんでいた。
約束の日曜。女はでかいショルダーバッグをかかえて待ち合わせの場所に現れた。服装はいつもの女教師ルックだ。おれたちは渋谷のラブホテルに直行した。言葉は交わさなかった。お互いの気持ちはわかり切っていた。もっとも、おれの場合は考えが足りなかったのだが。
ホテルに入る前に、女は一瞬だけ足をとめ、濡れた瞳でおれを見上げて、「わたしのいう通りにしてくれる?」と聞いてきた。おれは深く考えずにうなずいた。考えるべきだったのだ。
部屋に入った直後から、女の怯えがおれに伝わってきた。いい年をして、年下の若い男とセックスをするのは初めてということなのだろう。おれは女が可愛くなって、手を差し伸べた。その手を女がさっと掴み、次の瞬間、おれの身体は宙に浮いていた。
背中をしたたかに床に叩きつけられ、おれは肺の中の空気を丸ごと吐きだした。何が起こったのかを考えようとしているうちに、女の腕がおれの首に巻きついてきた。いつもはスーツに覆われている腕が意外に筋肉質だということに気づいたが、それだけのことだった。おれの目の前が真っ暗になった。
気がつくと、真っ裸でベッドに横たわっていた。手足の自由がきかなかった。おれはベッドにくくりつけられていた。
「リンコは十八だっていってたけど、本当なの?」
声がした方を振り向くと、黒い革の下着を着た女が――今でいうボンデージってやつだが、当時はそんな言葉も知らなかった――鞭《むち》を片手に薄笑いを浮かべながらおれを見下ろしていた。その顔には女教師の風情も感じられなかった。剥き出しになった腹は切り立った崖《がけ》みたいに平らで、太股まであるブーツから覗ける脚はしなやかな筋肉に覆われていた。国語教師の身体じゃなかった。
「なんなんだよ、これ!?」
おれは叫びながら、手足をばたつかせた――動かなかった。おれの四肢はしっかりとベッドに固定されていた。
「リンコのいってたことは本当なの」
女はうっとりとした微笑みを浮かべたままだった。リンコってのはおカマの源氏名だ。
「ああ、おれは十八だよ。そんなことより、これ、ほどいてくれよ」
「だめよ」
女はいって、屈みこんできた。
「君は、わたしがリンコから買ったんだから。一日で五万円。高い買い物にならないようにしなくっちゃ」
そして、女は鞭でおれを打ちはじめた。
おふくろにベルトで殴られたことは何度もあったが、生まれてはじめて食らう鞭の味は強烈だった。最初は無感覚。やがてそれが耐えがたい痛みに変わった。身体の表面全体が痛みを増幅するツボになったようだった。最初は女を罵《ののし》っていたが、そのうち頭が働かなくなった。おれはただうめくだけのボロクズと化していた。
女は鞭をふるいながら、ありとあらゆる言葉でおれを――いや、男という生き物全般を罵倒していた。そして、自分がどういう人間であるかを、声を大にしてわめいていた。
女は国語じゃなく体育の教師だった。学生時代は柔道の選手で国際強化選手に指名されたこともある逸材だったそうだ。おれを投げ、締め落とすぐらい、女には朝飯前だった。女は練習中に膝を痛め、選手を引退した。そして、高校の体育教師になった。
女は男が嫌いだった。柔道のコーチにレイプされたことがあるのだ。坊主頭の腋臭《わきが》くさいデブだったそうだ。そのデブに、女は三度犯された。抵抗しようとしたが無駄だった。体重差が八十キロもあったのだ。とにかく、女は男を憎むようになった。特に、力のある男を。女は女子高への赴任を希望したが、叶えられなかった。
失意のうちに都立高校へ赴任した女だったが、そこで女の心と身体に劇的な変化が起きた。青臭いガキどもの肉体と匂いに欲情する自分に気づいたのだ。まだ線のできあがっていない華奢《きゃしゃ》な身体と健康的な汗の匂い。それは、女を犯したデブとは似ても似つかないものだった。はじめて男子生徒の体育の授業を受け持ったとき、女は気絶してしまうんじゃないかと思えるぐらい激しい快感に身を貫かれた。
だが、女は自分の欲望を実現することができなかった。生徒に手を出すわけにはいかなかったのだ。女は生徒たちのトレーニング・ウエアを盗み、布に染み付いた匂いを嗅ぎながらマスターベイションにふけった。それでも、脳裏にこびりついた欲望の火を消すことができずに、同じ志を持った同士を求めて夜の街にさまよいでた。その過程でSMにも出会い、今にいたっているというわけだ。
自分のことを語り終えると、女は鞭を放り投げた。おれの股間に革の手袋で覆われた手を伸ばしてきた。信じられないことに、おれのペニスはいまにもはちきれそうに猛っていた。おれの頭の中は、鞭によって与えられた苦痛と、女の口から吐き出されたおぞましい呪詛《じゅそ》のせいで使いものにならなくなっていたっていうのに。
「清潔そうな顔をしてるくせに、こんなになっちゃって。恥ずかしくないの?」
女は聞いているこっちが恥ずかしくなるような台詞《せりふ》を口にして、おれの股間に顔を埋めた。女の舌先が先端に触れた瞬間、おれは爆ぜていた。
「もういっちゃったの。悪い子ね」
女はまんざらでもなさそうに顔にかかったおれの精液をぬぐった。
「でも、まだ、元気なまんまね」
女はまた身を屈めた。両手でおれのものをもみながら、臍《へそ》のあたりに口をつけ、ちろちろと舌先をおどらせながらおれの顔の方にせりあがってきた。裂けた皮膚に舌が触れるたびに、痛みがおれを苛《さいな》んだ。それでも、おれの怒張は力を失う様子を見せなかった。
「一晩中、可愛がってあげる。君もわたしをいい気持ちにさせるの。だけど、わたしのおまんこに触っちゃだめ」
女はおれの顔をなめまわしながらいった。卑語を口にしたその瞬間だけ、女の身体はひくひくと痙攣《けいれん》した。
「わたしのおまんこは、君みたいなおカマにやらせるほど安っぽくないの。君がやってもいいのは、わたしのお尻の穴だけ。いいわね」
そういうと、女はおれの腹の上で体を起こした。右手はベッドの脇にのび、おれの耳元でなにやら蓋《ふた》を開けるような音がした。女の右手が再びおれの視界に現れたとき、革に包まれたその指先はぬめった光を帯びていた。グリースのような匂いがした。女は腰をあげ、グリースにまみれた指先を尻の方へ持っていった。そして、おれからは見えないどこかにそれを塗りたくった。
「できるだけ我慢するのよ」
女はそう囁《ささや》き、おれの股間に腰を落としはじめた。おれのものは女の左手で支えられていた。膣のそれとは違う圧迫感に、おれのものはあっという間に包みこまれた。
「君はお尻が好きなの。男でも女でも関係なく、お尻の穴が好きなの。そうでしょう? わたしのお尻が味わえて幸せでしょう?」
女は譫言《うわごと》のように口走り、腰を上下に動かしていった。
おれの頭の中じゃ、呂方といっしょに殺したトルエン野郎の姿が浮かんでは消えていた。あいつの薄汚い尻。あいつのクソにまみれたおれのペニス。おれはおれの上で腰を動かしている女を心の底から呪った。
都合六回女に犯された。最初に爆発しちまったのは別にして、だ。おれは心の底から女を憎んだが、女がおれを打擲《ちょうちゃく》し、おれを言葉で嬲《なぶ》るたびに、おれのものは力を取り戻し、女の口の中に、尻の穴の中に熱い精液をぶちまけた。だが、だからといっておれが快感を覚えていたわけじゃない。ペニスの根元で快楽を伝える神経が遮断されちまったかのように、おれはなにも感じなかった。ただ、ペニスだけがおれの意志とは無関係にいきり立っていたのだ。
すべてが終わると、女はまた臆病な女教師の仮面をかぶった。ボンデージを脱ぎ捨てて例の女教師ルックに身を固めた。おれの縄をほどくとショルダーバッグから軟膏の入った瓶を取りだし、血まみれのおれの身体に塗りたくった。おれは女に促されるままのろのろと服を着た。ポケットの中に入れておいたナイフはなくなっていた。そのことに気づいた瞬間、やっと自分を取り戻した。
女はSMの道具をショルダーバッグに詰め込んでいる最中だった。冷蔵庫の前にあった小さなパイプ椅子に手を伸ばした。女は気づかなかった。おれは椅子を女の頭に叩きつけた。
女は気絶もしなければ、取り乱したりもしなかった。血でべっとりした髪の毛をおさえながら、低い声で呻《うめ》いていた。おれはショルダーバッグを拾って中を覗いた。奥の方におれのナイフが転がっていた。フォールディング・ナイフの刃を開いた。スティールの冷たい輝きが、おれがなにをすべきかを教えてくれた。
女の横にしゃがみこみ、髪を引っ張ってこっちをむかせた。女の目は今にも飛び出そうだった。ナイフを女の喉に突きつけ、おれのものをしゃぶらせた。根元が痛んだが、なんとか役に立つ状態にはなった。それから女を四つんばいにさせ、スカートをめくって下着を引き下ろし、女が絶対に触らせないといっていた部分におれのものを突き立てた。
いくまでには長い時間がかかった。おれは機械的に腰を振りつづけた。はじめのうちは恐怖に怯え、闇雲に許しを乞うていただけの女の口から、いつしか明らかにそれとわかる喘ぎ声が漏れはじめていた。おれが激しく腰を打ちつけていった瞬間、女は断末魔のような叫びをあげて気絶した。
女のスーツでペニスをぬぐい、パンツの中に仕舞いこんでから、気絶している女を仰向けにさせた。何度か頬を叩いてみたが、女は意識を取り戻す様子がなかった。おれは舌打ちをしながら女の頬にナイフの刃をあて、すっと引いた。さっきまでナイフの刃が当たっていた皮膚から血の滴が溢れ、やがて、真っ赤な線になっていくのを眺めた。女は顔を切られたことにも気づかず、安らかとさえ取れる呼吸を繰り返していた。
反対側の頬にも同じことをして、おれはホテルを後にした。
あの時以来、女教師にはあっていない。噂をきいたこともない。ただ、おカマがおれを怯えた目で見るようになっただけのことだった。おカマはあの女におれを任せることで、おれに女に対する憎悪を植え付けようとしたのだ。だが、おカマの目論《もくろ》みは外れた。逆に、おれがおカマのボスになったのだ。それだけだ。
参宮橋の駅へと続く坂道を下りながら、なぜ変態の女教師のことなどを思い出したのかと考えていた。考えるまでもない。夏美のせいだ。おれは夏美とやりながら、自分がやっているのではなく、やられているという感覚しか得られなかったのだ。
――そして、女というもの。
おれは女を愛したことがない。たぶん、愛されたこともないだろう。こっちが信頼しなきゃ、むこうも信頼を寄せてくれるわけがない。愛と信頼はわかちがたいものだ。
おれが夏美を信頼するなど、とんでもない話だった。質の悪いジョークにもならない。夏美は大嘘つきだ。
問題は、おれが自分を見失ってるってことだ。富春はおれの手の内に入った。普段のおれなら、さっさと元成貴に話をつけて、富春と夏美を厄介払いするだけのはずだ。すべてが落ち着いてから、元成貴を排除する方法は考えればいい。
それなのに、おれは暴走しようとしている。夏美と手に手をとって乗り切ろうとしているのだ。馬鹿な話だ。そんなことを好んでするのはカモだけだ。そして、おれはそれを承知でカモになろうとしている。
もちろん、おれをカモるのは夏美だ。
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天文はすぐにつかまった。最初は不機嫌な声だったが、電話の相手がおれだとわかるとさらに不機嫌な声になった。
「今度はなんの用だ? 二度と顔を見たくないといったのをもう忘れたのか」
「ついさっき富春とあった」
「なんだって!?」
「状況が変わった。元成貴に圧力をかけるのはやめてくれ」
「もう遅い。さっき電話しちまったよ」
「それならそれでかまわない……明日、富春に元成貴を殺させるつもりだ」
電話の向こうで天文が息をのむのがわかった。
「……どうやって? 元成貴が一人で呉富春にあうとでも思ってるのか」
おれは受話器から口を離し、煙草に火をつけた。
「聞いてるのか、兄さん?」
おれはにやりと笑った。その言葉を聞きたかったのだ。
「まだおれのことを兄さんって呼んでくれるのか」
「……しかたないだろう」
「ありがとうよ、小文。考えがあるんだ。そのためにはおまえの助けがいる」
「なんだよ?」
「楊偉民を立会人にしようと思ってるんだ」
再び天文は息をのんだ。
「楊偉民を立会人にして、おまえの店であう段取りをつける。そうすりゃ、いくら元成貴でもボディガードをうじゃうじゃ連れてこようって気にはならないだろう」
「気は確かかよ、兄さん。偉民爺さんがそんなことを引き受けるわけがないだろう」
「引き受けるさ。まず、楊偉民は今度の件でおれに借りがある。それに……おまえが説得するんだからな」
「説得って……おれになにをやらせる気だ?」
「頼むよ、小文。おまえだけが頼りなんだ」
「…………」
「おまえがおれに力を貸すように説得すれば、あの爺さんはきっと折れる。おまえのことが可愛くてしようがないんだ」
「わかった。やってみる。だけど、偉民爺さんには本当のことを話さないと……」
「わかってる。なにもおまえ一人であいつを説得しろといってるわけじゃない。その場にはおれも行く。おまえはおれの後押しをしてくれればいい」
「偉民爺さんに話してみる。五分後にもう一度電話してくれ」
「助かる」
電話を切った。半分ほどの長さになっていた煙草を根元まで吸い、新しい煙草に火をつけた。その煙草をゆっくりふかし、吸いおわったときには五分が経っていた。受話器を持ち上げ、スリットにカードを差し込んでボタンをプッシュした。
「はい、桃源酒家でございます」
天文の声だった。
「おれだ」
「オーケイだ。一時間後に、おれの店で。いいかい?」
「わかった。恩に着るよ、小文」
「兄さん」
「なんだ?」
「これが最後だぞ。今後、あんたはただの流氓だ。おれとはなんの関係もない」
「小文、おれはおまえが羨《うらや》ましいよ」
天文がなにかをいう前に、電話を切った。
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マンションに戻ると、夏美は例の赤いボディコン・スーツに身を包んで待っていた。
「すまん。いい忘れてた。普通の格好でいいんだ。ジーンズにTシャツとかな。もう一度着替えてくれ」
おれの言葉が終わらないうちに、夏美の表情はさっと不機嫌になった。まるで映像が切り替わったようだった。
「悪い」
もう一度謝った。
「これから行くのは、まあ、いってみれば家族会議みたいなもんだ。おまえに目のやり場に困るような服を着られると、まとまるものもまとまらなくなる。相手は頭の固い中国人なんだ」
「キスして」
夏美はいった。表情は少しも変わらなかった。
「なんだって?」
「キスして」
夏美は辛抱強く繰り返した。肩をすくめるしかなかった。夏美を抱きよせ、静かに、だが激しく唇を貪《むさぼ》った。
「機嫌は直ったか?」
「うん」
夏美は少女のように微笑むと、おれの腕の中からぱっと離れ、スーツを脱ぎはじめた。おれを誘うように。
煙草を取りだし、夏美のストリップティーズを眺めた。いい眺めだったが、おれの心は穏やかじゃなかった。こいつはおれのペースじゃない。全然違うのだ。
〈桃源酒家《タオユェンジゥジァ》〉は靖国通りに面した、サンパーク・ビルの隣の雑居ビルの三、四階を占拠している。三階が一般客席、四階には厨房と団体用の個室がある。天文のパトロンになった旦那衆はかなりの金を注ぎこんだはずだが、それなりの見返りは得ている。天文は一流のマネージャーなのだ。夕方の五時から朝の五時まで、〈桃源酒家〉には客がひっきりなしにやって来る。
おれたちは地下駐車場にBMWをとめ、地上には出ずにサブナードの〈ドトール〉に腰を据えた。
「この前と同じだ。このあたりをぶらついてくる。なにか変なことがなけりゃ、ここに戻ってきて、おれといっしょに夜食を取りにいく」
コーヒーに口をつける前にいった。夏美はすかさずうなずいた。
「変な中国人が待ち伏せしてないかみてくればいいのね」
そういって勢いよく店を出ていった。
安いだけが取り柄のコーヒーをすすりながら、地下街をゆっくり観察した。本来なら、待ち合わせの場所にこんなに近いところで様子をさぐるなんてことはしない。だが、この期におよんで楊偉民がおれをはめようとするなら仕方がないという気持ちがどこかにあった。おれは賭けに出たのだ。楊偉民が天文を思う気持ちは欲よりも深いという目に、有り金を全部ぶち込んだのだ。いまさらじたばたしたってはじまらない。それに、本当にやばいと思っているなら偵察に夏美を使ったりはしない。香港かマレーシアあたりの、危険の匂いに敏感な奴等ならいくらだって知り合いがいるのだ。つまり、これは癖ってやつだ。必要ないとわかっていても、いつもどおりにやらなきゃ尻のあたりがむず痒《がゆ》くなってくる。
コーヒーをあらかた飲み干し、三本目の煙草に火をつけたところで夏美が戻ってきた。
「ノー・プロブレム」
夏美の息はかすかに乱れていた。それだけだ。おれをまっすぐ見つめる目にはなんの動揺も映ってはいなかった。
「なにも気づかなかったよ」
「座れよ」
夏美に椅子をすすめた。
「いいか、これから会うのは天文と、あの薬屋の爺さんだ。天文はともかく、爺さんは重要な話の席に女が加わるのを嫌う。だが、おれはおまえにも話を聞いておいてもらいたい。おれの女だといえばなんとかなるが、ただの女ってわけじゃないと爺さんに思わせることができればもっといい。できるか?」
「あの人、何者?」
夏美はすっかりぬるくなって湯気も立たないコーヒーをすすった。コーヒーカップの縁の上で、黒く輝く瞳が探るようにおれを見ていた。馬鹿げたことを聞くなといっているのだ。
「おれと天文の昔の保護者だ。人によって堅気と流氓の顔を使い分ける食えない爺さんだよ」
「今じゃ仲が悪いわけ? 三人とも」
「難しいな。おれは楊偉民が嫌いだ。楊偉民も同じだろう。問題は天文なんだ。あいつは楊偉民のやり方やおれの生き方を軽蔑してる。だが、嫌っちゃいない。で、楊偉民の方は天文にベタ惚れなのさ。今だって手元に帰ってきてもらいたいと思ってるだろう。その天文がおれのことを兄貴と慕ってる。それを知ってるから楊偉民もおれを追いだすことができない。そんなところだ」
「でも、もう二度と顔も見たくないっていわれてなかった? 楊偉民て人がそれを知ったら?」
「楊偉民は元成貴におれを売った。おれがそれを知ってるってことは天文にもいずれ伝わるとあいつは踏んでたはずだ。何もしないさ。今のところはな」
「よくわかんない」
「おれも最初はわからなかった。勉強したんだ。人生って試験でいい点を取るために」
夏美はまたコーヒーをすすった。眉間に皺《しわ》がよっていた。おれの言葉を考えているようだった。やがてカップをテーブルの上に置き、頬杖《ほおづえ》を突いた。
「で、健一はいまのところ何点だと思ってるの? 自分の人生」
「五十点ってとこだろう。おれにもうちょっと才覚があれば、いまごろはビルの一つも建ててるはずだ。そうしたら、こんな目にあうこともなかった」
「だいじょうぶ。健一は絶対百点とれる。今はちょっと運がないだけだよ。わたし、わかるんだ。健一は百点をとる。健一と、わたしのために」
夏美は微笑んだ。その目には永遠に続くトンネルのようにどこまでも黒い闇が広がっていた。おれはその闇をじっと見据えた。ただで手に入るものなんてどこにもないんだということを教えてやらなけりゃならなかった。
しばらくすると、闇が消えた。夏美の顔に戸惑いが浮かんだ。
「昔はおれも百点を狙ってた」
夏美の目を見つめたまま口を開いた。
「必死こいてな。だけど、そのうち気づかざるをえなかった。おれはどう転んだって楊偉民や元成貴みたいにはなれっこないってことに。百点をめざしてもいいやつとそうじゃないやつがいる。そういうやつらは、百点をめざしてあがいてる内に周りが見えなくなって結局カモにされちまう。おれもそうなりかけてた。だが、運よく立ち止まることができたのさ。そして周りを見た。たいして長く生きてるわけじゃないが、おれの人生にはそんなにいいこともなけりゃ、悪いこともなかった。おれの身体の中に流れてる二つの血がおれをそうさせてた。つまり、おれが半々であるかぎり、おれには半々の人生しか与えられないってことだ。よくもなく、悪くもない。それが嫌だったら血を流さなきゃならない。おれにはできない。できなかった。それから、おれはせいぜい頑張って五十点をめざすことにしたんだ」
「それはおかしいよ。だって、半々だって成功してる人はいるじゃない。百点取ってる人、いっぱいいるよ」
「いいや。そういうやつらはただ勘違いをしてるだけさ。口じゃ、自分はハーフだとか抜かしていても、心の中じゃ自分は日本人か中国人のどっちかだと思ってるんだ。いいか、夏美。血ってのはただ身体の中を流れてるだけじゃそれほど意味のあるものじゃない。意識しなきゃだめなんだ。血を意識し、そいつの意味を毎日毎晩考えたことのないやつはどうだっていいんだ。本当の半々ってのは、おれやおまえみたいなやつらのことだ。どこにも受け入れてもらえないやつらのことだ。おれは半々として生まれたんじゃない。半々である自分に気づいたんだ。日本人と台湾人のあいのこだから半々だってわけじゃない。おれ自身が自分のことをそう考えてるから半々なんだ。この違いはでかい。わかるか?」
「なんとなく」
夏美はテーブルに視線を落とした。たぶん、日本に来てからの自分に起こったことを考えているんだろう。
「健一が絶対正しいとは思わないけど、健一の考え方はわかったと思う」
夏美はコーヒーカップを見つめたまま、いった。
「それでいい」
「だから、五十点でもいいよ。わかったから」
「それだっておまえのためじゃない。おれのためにやってるんだ」
おれは立ち上がった。そろそろ約束の時間だった。
「さ、行くぞ。楊偉民《ヤンウェイミン》は時間にはうるさいんだ」
夏美はなにもいわずについてきた。
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おれたちはエレベータに来り、三階を素通りして四階でおりた。まだ若いが背筋がピンと張った店長が待ち受けていて、おれたちを一番奥の個室へ案内した。楊偉民が一人で茶をすすっていた。天文《ティエンウェン》の姿は見えなかった。
おれたちが入っていくと、楊偉民はじろりと顔を上げた。その目はおれを素通りして夏美に張りついた。無表情だったが、楊偉民が戸惑っているのは手に取るようにわかった。やがて楊偉民はおれに視線を向け、どういうことだと聞いてきた。
「迷惑をかけるな、爺さん」
楊偉民の無言の問いかけには答えず、向かいの席に腰を下ろした。夏美はおれの左隣に座り、すぐに馴れた手つきでテーブルの中央に置かれた茶器をとっておれに注いだ。
「その女性はどういう理由でここにいるんだ?」
蜥蜴《とかげ》のような目でじっと夏美を見つめていた楊偉民が口を開いた。囁《ささや》くような北京語だった。
「富春《とみはる》の女だった。今はおれの女だ」
日本語でかえした。夏美は北京語ができないという合図だ。だが、楊偉民は騙《だま》されなかった。
「中国の女性だな。茶を入れる手つきでわかる」
相変わらず北京語で楊偉民はいった。
「おれと同じだ。半々《パンパン》だよ。大陸で子供時代をすごしたんだ」
「なるほど」
楊偉民はふいに興味を失ったというように手で弄《もてあそ》んでいた湯飲みに視線を戻し、それきり口を閉ざした。おれの手札を見切ろうとして頭を働かせているのだ。
夏美はすました顔で座っていた。おれは茶を飲んだ。喉がからからだった。ほんのちょっと前になれない演説なんかをぶったからだと思いたかったが、そうじゃないことは自分でも承知していた。
煙草に火をつけた。待つことには慣れている。つまり、沈黙にも慣れている。だが、今この個室を覆っている沈黙はおれを妙に息苦しい気分にさせた。
楊偉民が咳払いをした。それで少しばかりほっとした。息苦しさを感じているのはおれだけじゃないのだ。よく考えれば、おれたち三人が顔を突き合わせるのはこれがはじめてだった。
天文が歌舞伎町へやってきたのは、おれがゴールデン街のおカマのところにいる間だった。おれが台湾の流氓、陳錦《チェンジン》の下っ端をやるようになったころには、天文はすっかり楊偉民の身内として歌舞伎町に溶けこんでいた。
だれかから噂《うわさ》を聞きつけたのだろう、天文はおれに会いにやってきた。そして、すぐにおれを「兄さん」と呼ぶようになった。おれは天文が嫌いだった。妬ましかった。傍目《はため》にも楊偉民が天文を可愛がっているのが見て取れたからだ。それでも天文に「兄さん」と呼ばせていたのは、楊偉民の痛いところを押さえておくのは悪いことじゃないって判断が働いたのと、ここで天文に辛く当たったら、それこそ呂方と変わらないと思ったからだ。そのころのおれは自分がなにになりたいのか見当もつかなかったが、なにになりたくないのかはよくわかっていた。嫉妬や妬みという感情をできるだけ自分から遠ざけたかった。おれはいつも天文の前じゃにこにこしていた。それに、おれがじたばたしなくても、すぐに楊偉民が天文をおれから遠ざけようとするはずだった。
おれの読みは見事に外れた。ことおれに関する限り、楊偉民は天文のすることに口を挟まなかった。天文は暇を見つけるとおれのところへやってきて、どうでもいいことを駄弁っては帰っていった。それは、おれにすればちょっとした驚きだった。楊偉民が天文に意見しないはずがないのだ。百歩譲って、本当に天文にはなにもいわなかったとしても、人を使っておれに天文に近づくなと警告することぐらい楊偉民には朝飯前だったのだ。
おれは考えた。答えを見つけなきゃおちおち眠ることもできそうになかった。納得のいく答えは、楊偉民が耄碌《もうろく》したってことだ。天文が可愛すぎて、ものが見えなくなっているのだ。だが、その答えはおれにはどうしても信じられなかった。もう一つの答えは、おれが天文を嫌っているのを知っていて、天文を見るたびに自分を殺しているおれを弄《もてあそ》んでいるというやつだった。あまりにばかばかしすぎて自分でも笑ってしまった。
結局、答えは見つからなかった。仕事やトラブルが起こった際の楊偉民の考え方は知っていた。だが、心の底で楊偉民がなにを考えているのかなんて、わかったためしがないのだ。
答えが見つからないまま、おれは天文を受け入れつづけ、陳錦の組から与えられる仕車に没頭した。陳錦が歌舞伎町のど真ん中で対立する組織の鉄砲玉から数発の銃弾をくらってくたばったときにはおれもそこそこの信用を得るようになっていた――下っ端の流氓を引き連れて盗みをしたり、パチンコ屋を荒らしたりしていたのだが、おれには盗みはどうにも割があわないように思えてならなかった。頭のいいプロなら、直接自分では手を下さない故買屋がぴたっとくる。盗みは頭の悪いやつのする仕事だ。だから、おれは故買屋になりたかった。それも、ヒモのつかない。陳錦の死はいいきっかけだった。独立してフリーで仕事をしたいといっても文句はどこからもでなかった。
おれが独立すると――別に事務所を構えたわけじゃないが――天文がやってきた。そして、おれの独立を祝って三人で宴を設けようといった。三人てのは、もちろんおれと天文、それに楊偉民のことだ。天文はおれが流氓の世界から足を洗ったと信じこんでいたのだ。
おれは天文のおめでたさを笑ってやった。そして、楊偉民がうんというか先に聞いてこいといって追い返した。もう、天文にはうんざりだった。案の定、天文はうなだれて戻ってきた。その夜、天文と酒を酌み交わし、もうおれのところへは来るなといった。楊偉民が喜ばないと。天文は反論したが耳は貸さなかった。天文は戻ってきたときと同じように、うなだれて帰っていった。おれは有頂天だった。おれはなにかをやり遂げたのだ。おれひとりの手で。そして、楊偉民と天文との腐れ縁を断ち切った。もう、おれが気にかけなきゃならない人間はいなかった。
楊偉民からあいたいと連絡があったのはその数日後だ。釈然としないまま、〈薬屋〉を訪れたおれに、楊偉民は天文を可愛がってやってくれといった。ここ数日の天文は見る影もないほどしおれているのだ、天文を立ち直らせることができるのはおれだけだ、と。そして、もしおれが今までどおり天文との関係を続けるなら、おれの仕事に便宜をはかってもいい、とまでいったのだ。
つまりはそういうことだ。楊偉民はすっかり耄碌していた。天文のことになるとものが見えなくなるのだ。おれはうなずいた。楊偉民に逆らえるはずもなかったし、おれにとって楊偉民が与えてくれる便宜は金塊よりも価値のあるものだったからだ。
〈薬屋〉を出ると、その足で天文を捕まえ、おれたちの仲はこれからも続くといってやった。前にも増して天文が妬ましかったが、それを平然と口にすることができた。
そうやっておれたちは十年以上のときをすごしてきたが、三人がそろうことは有り得なかった。特に、天文が楊偉民の元を飛び出した後ではなおさらだった。それでも、天文はときおり思い出したように、楊偉民が死ぬ前に三人で飯を食わなきゃと口にした。おれがそれに答えることはなかったし、楊偉民も同じだろう。
おれは三人で顔を合わせるとしたら、天文をてこ[#「てこ」に傍点]にして楊偉民を動かさなきゃならないときだと決めていたし、楊偉民はそれを怖れていた。
その時が、今やって来たのだ。
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煙草を灰皿に押しつけたとき、天文が入って来た。
「遅れたね。すまない」
天文は夏美にふと目をとめたが、なにもいわずにおれと楊偉民の間の椅子に腰を下ろした。
「さて、そろそろわたしを呼び出したわけを聞かせてもらおうか、健一」
待ち侘びたというように楊偉民が口を開いた。おれは楊偉民と天文の顔を見渡した。天文がうなずいた。
「簡単な話だ――」
「ああ、その前に、そこの女性は本当にこの場にいる必要があるのか?」
おれの言葉を遮って、楊偉民は皺だらけの手を夏美に向けた。相変わらずだ。こうやってこの場の主導権を握ろうとする。
「ああ。彼女はすべてを目に焼き付けなきゃならないからな。だれかがおれをはめたら、彼女はおれが教えた香港の人間にあって、おれをはめたやつにきっちりお返しをすることになってる」
楊偉民と天文が夏美に視線を合わせた。が、夏美は動じるふうもなく、二人に微笑みをかえした。
「だれがおまえをはめるんだね?」
楊偉民がいった。
「あんたに決まってるじゃないか」
「兄さん!」
天文が目を剥いておれを睨みつけた。
「ここではそんな口のきき方はやめてくれ。おれも兄さんも恩がある人なんだぞ」
「いっただろう、天文。この爺さんはおれを元成貴《ユェンチョンクィ》に売ったんだ。次も売らないって保証はどこにもない」
天文はかすかに首を振った。それから、おれに話しても埒《らち》が明かないというように楊偉民に視線を転じて訴えた。
「爺さん、なんでそんなことをしたんだよ?」
「呉富春《ウーフーチュン》などという馬鹿なやつとつるんで仕事をしていたのは健一だ。自分の過ちは自分で償わなければならん」
「それとこれとは別だろう。兄さんはおれたちの身内じゃないか」
楊偉民がちらっとおれの顔を見た。道端に落ちている犬の糞を見るような目つきだった。
「違う。健一は身内ではない。かつてはそうだったが、わたしの面子《メンツ》を潰して身内から去ったのだ」
何千年もの間、凍てついた風にさらされてきた氷河を思わせる声で楊偉民はいった。これには、天文も取りつく島がなかった。
「天文、そのことはもういい。おれと爺さんの間でかたがついてるんだ。問題は、爺さんがおれに借りを返すつもりがあるかどうかだ」
おれは天文の左手に右手を重ね、軽く叩いた。反応はなかった。天文は化け物を見るような目で呆然と楊偉民を見つめていた。
「借りとはなんだ? わたしはおまえに借りなどないぞ」
「その辺のところは天文に聞いてくれ、楊偉民」
楊偉民の顔が曇った。
「天文、どう思う? おまえの意見を聞かせてくれ」
「おれは――」
天文はなにかをいいかけたが、途中でそれをのみこんだ。自棄になったように湯飲みに手を伸ばし、中身を乱暴に口に放りこんだ。それから、楊偉民とおれの顔を見つめ、もう一度視線を楊偉民に戻して口を開いた。
「爺さんのしたことは信義にもとる。少なくとも兄さんは爺さんを裏切るような真似はしてない。昔の件だって、殺したのはやりすぎにしても不可抗力だったんだ。兄さんは他にはどうしようもなかった。それなのに……爺さんは兄さんに償うべきだとおれは思う」
沈黙が流れた。天文は魅入られたように楊偉民を見つめ、楊偉民は切り立った崖を思わせる表情を手元の湯飲みに向けているだけだった。夏美がテーブルの下でおれの左手を握ってきた。おれはそっと握りかえした。
「健一は呂方を罠《わな》にはめて殺したのだよ、天文。健一がどう言い訳しようと疑いの余地もない。この男は身内を平然と殺したのだ」
楊偉民がいった。神父が説話を語るような口調だった。だが、天文には通じなかった。
「おれはいろんな人に話を聞いたんだよ、爺さん。呂方ってのがどんな人間だったのか。知りたかったんだ。どうして兄さんが、あんな目にあわなきゃならなかったのか。だから、おれにはわかってる。呂方ってのは獣だったんだ。兄さんは獣に襲われて反撃した。それだけだ」
「獣は健一の方だ。たしかに呂方にも問題はあったが、わたしに話せばすべては丸く収まった。健一はそれをする代わりに呂方をおびき出し、殺したのだ。関係のない日本の若者まで殺してな」
天文がはっとしたようにおれに顔を向けた。
「あれは……呂方が殺したんだろう?」
楊偉民が仮面のような表情の下でほくそ笑んでいるのが手に取れるような声だった。おれは、なんだそんなこと、という顔で天文の視線を受けとめてやった。呂方の話になったときから、楊偉民があのトルエン狂いのことを持ち出すのはわかっていた。あとは天文を動揺させてやるだけだ。天文は周りの世界がはっきりとした輪郭を持っているときは強い。だが、周囲がぼやけはじめると、ただの子供みたいにわけがわからなくなってしまう。
おれは舌で唇を湿らせ、いった。
「ああ、おれが殺した」
「なんで……」
「わかるだろう、天文。ただ呂方を殺すだけじゃだめだったんだ。裁判も刑務所もごめんだ。大手を振って外を歩けないんなら、逃げた方がましだった」
天文は天を仰いだ。
「あんたたち、二人とも糞だ!」
「その糞の間で泳いでたのはおまえだぞ、天文」
天文の肩に手を置いた。
「なあ、天文。おれはここんとこのごたごたで疲れてる。楊偉民も同じだろう。そろそろ本題に進ませてくれないか」
天文はうつろな目をおれに向けた。それから、力なくうなずいた。
「爺さん……おれはもう、なにがなんだかわからない。だけど、今回だけは兄さんの頼みを聞いてやってくれないか。おれからも頼む」
それだけいうと、天文は自分の殻に閉じこもった。うつむいて、二度と顔を上げようとしなかった。
「さて、と。天文はこういってるが、どうする?」
楊偉民にいった。楊偉民は死んだ魚の目を、その場に百年も座っていたんだぞといわんばかりの姿勢でおれにぴたっと向けていた。
「どうしてほしいんだ?」
「明日、元成貴を殺す。おれじゃない。富春が殺《や》るんだ」
楊偉民はなにもいわなかった。ただ、黙って先を促すだけだ。ちろりとも動かない死んだ魚の目は、おれがちょっとでも隙を見せればたちどころに食い殺してやると語っていた。
「おれは明日、元成貴に電話をかける。富春を手渡すってな。ただし、条件を付ける。手下をぞろぞろ連れてこられたんじゃたまらない。せいぜい、二、三人でお出ましくださいってとこかな」
言葉を切ってみんなの顔を眺めまわした。楊偉民は相変わらずの目でおれを見つめていた。天文はうつむいたままだった。夏美は、おれを信じきったような澄んだ目をこっちに向けていた。だれもなにもいわなかった。
「元成貴はそんな状況を嫌うだろう。そこで、おれが提案する。場所はこの店で、楊偉民が立会人になると。元成貴は来る。そう思わないか?」
楊偉民はおれから視線を外して、なにやら考え込むように眉をよせた。
「渋るかもしれんが、おまえの言葉次第では来るだろう」
「おれは口がうまい。あんたもそれは知ってるだろう」
「ああ」諦めたような口調。楊偉民はうなずいた。「来るだろう。元成貴はきっと来る」
おれは満足の笑みを浮かべて先を続けた。
「あいつらがここへ来る途中で、富春に襲わせる。富春を動かすねじ[#「ねじ」に傍点]はおれが持ってる」
ちらっと夏美に視線を走らせた。
「店の中じゃ絶対に何もしない。だから、あんたにも天文にもそれほど深刻な問題にはならないはずだ」
「失敗したらどうなる?」
「させないよ。失敗したら、おれまであの世行きだからな」
楊偉民は喉の奥で乾いた昔をたてた。笑っているのだ。
「よかろう。それで、元成貴を殺した後はどうなる? 上海のやつらが黙ったままでいるとでもいうのか?」
「富春をくれてやるよ。ただし、死体で。富春のかたさえつけば、あいつら、元成貴の後釜争いが忙しくなって、他のことを考えてる暇がなくなるはずだ」
「わかった」
楊偉民がいった。囁《ささや》くような声だった。
「好きなようにするがいい。ところで、一つ聞きたいことがある」
おれは、なんだというように眉を上げた。
「呉富春はなんだって元成貴を狙っているのだ。〈紅蓮〉を襲ったときに、女はどこだと叫んだそうだが、そちらの女性のことなのか?」
「ああ。富春はこの女が元成貴に捕まってると信じてるんだ」
「おまえが考えたのか?」
楊偉民の顔は無表情だったが、声は冷ややかだった。
「まさか。富春は歩くトラブルだ。わざわざ下手な手を使ってまで呼び寄せる価値なんかない。それに、あいつが戻ってくるまでおれはうまくやっていた。そうだろう?」
楊偉民は冷ややかな笑みをおれに向けただけだった。おれの背中に緊張が走った。こんな時の楊偉民は腹の底でなにかを企んでいるのだ。
「なにかいいたいことがあるのかい?」
「いや。さっきもいったように、好きにやるがいい。だが、これはおまえの唯一のチャンスだ。しくじるなよ。おまえがしくじって、わしらに火の粉が降りかかるようなことがあれば――」
楊偉民はいったん口を閉じて、まだうつむいたままの天文に顔を向けた。沈痛な視線だった。
「ただではおかんぞ、健一。おまえはもうすでに天文を傷つけた。わしは天文を傷つける者は絶対に許さん。わしとかかわったことを一生後悔させてやる」
「後悔ならとっくにしてるさ」
楊偉民の声に負けない冷ややかさで答えた。
「とりあえず、おれが頼みたかったのはそういうことだ。明日の夜七時にここへ来てくれ」
楊偉民がうなずくのを待って、おれは天文の肩に手を置いた。
「天文、そういうことだ。明日は頼む」
「おれに触るな!」
天文はおれの手を撥《は》ねのけて叫んだ。
「あんたも爺さんも、二度とおれに触るな。いいな!?」
個室の入り口の方がざわめいた。天文の怒声に、従業員たちが集まってきていた。天文がなんでもないというように背後に手をかざした。その間も、おれと楊偉民の顔を交互に睨《ね》めつけていた。
「おれの馬鹿さかげんを償うために、明日はなんだってあんたのいうことを聞いてやるよ。だが、それだけだ。あんたとは縁を切る。絶対にだ」
「かまわない。だいたい、昔からおれたちの間に縁なんかなかったんだ、小文」
夏美の肘を取って立ち上がらせた。
「おれはおまえが嫌いだった。おまえはそれを知ってておれにまとわりついた。おれに嫌がらせがしたかったんだ。そうだろう?」
「違う」
天文の顔は真っ赤だった。
「おれはあんたが……兄さんが好きだった」
「なあ、あれは何年前だったかな……二丁目でおまえが若い男と手を繋いで歩いてるのを見たことがあるぜ。あのおカマ、おれに似てたかな?」
天文の手がさっとひらめいて、湯飲みが飛んできた。かつんと音がしておれの目の前でなにかが弾けた。一瞬置いて、するどい痛み。
「なにすんのよっ!?」
夏美が北京語で叫んだ。さっと身体を躍らせ、天文につかみかかろうとしていた。まるで、生まれたばかりの子供を殺された女虎のような剣幕だった。満身の力を左手に込めて、なんとか夏美を抱きよせた。
「だって、あいつ、健一に……」
夏美はおれに訴えた。瞳が爛々《らんらん》と輝いていた。
「いいんだ」
額に手を当てた。生暖かいものが掌に広がった。見た目は派手だが、たいした出血量じゃない。おれはその掌をジージャンになすりつけた。
顔を正面に向けると、震えながらつっ立っている天文が目に入った。楊偉民は平然さを装っていたが、おれの発言が与えたショックに気もそぞろなのがありありだった。二人を見ると痛みが遠のき、残酷な喜びが身内に溢れてきた。
「豚め」
天文がいった。
震える天文に微笑んでみせた。
「じゃあな、小文。明日は頼んだぜ。爺さんをちゃんとここに来させておくんだ。元成貴を信用させないとな。――それから、変な誤解を招かないように早く嫁をもらえ」
おれは夏美の腰に手を回し、個室を出た。だれもおれたちを呼び止めなかった。
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エレベータの扉が閉まると同時に夏美がむしゃぶりついてきた。喘《あえ》ぐような息を吐き出しながらおれの唇を吸い、自分から舌を差し入れてきた。不自然な体勢のまま夏美の乳房を乱暴に揉《も》みしだいてそれに応《こた》えた。
鈍痛を伴った快感が股間に集中しはじめたとき、やっと夏美が唇を離した。
「だいじょうぶ?」
「少し痛いが、役にはたつと思う。今、試してみるか?」
「馬鹿」
夏美は軽くおれの股間を手でさすって、甘えるような目つきでおれを見た。
「ここじゃなくって、額の傷」
「ああ、なんともない。もう、血も止まってるだろう」
「そう……一時はどうなることかと思ったけど、よかった。これから帰って、する?」
首を振った。
「いろいろと動かなきゃならない。明日の夜まで我慢してくれ」
「なんだ。つまんないの」
夏美は不貞腐れたように唇を尖らせて背中を向けた。だが、形のいいヒップがおれの股間に押しつけられていた。
「いいわ。我慢してあげる」
エレベータが静かに停止し、扉が開いた。勢いよく外に飛び出ようとした夏美の脚がなにかに張りついたようにぴたっと止まった。
夏美の肩越しに、崔虎《ツイフー》のにやついた笑い顔が広がっていた。
「よお、長い会合だったな」
崔虎は笑ったままおれを手招きした。
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崔虎の車は古ぼけたベンツだった。運転手のほかにボディガードが助手席に乗っていた。夏美を真ん中に挟む形で、おれと崔虎はバックシートに座っていた。ベンツは新宿通りを四谷《よつや》方面に向かっていた。
「いい女じゃねえか」
崔虎がからかうような顔をおれに向けた。夏美は肩を強張らせて崔虎から身を遠ざけようと必死になっていた。おれの位置からでも、崔虎の白く細長い手が夏美の太股の上を這いまわっているのが見えた。おれはなにもいわなかった。黒星はまだおれの腰に差したままだったが、おれの腕と三対一という状況じゃ、勝負は目にみえている。
「どこで拾ったんだ?」
崔虎は夏美の膝の上に身を乗りだし、おれの顔を覗きこんできた。右の肩で夏美の乳房を押し潰していた。拳を握り締め、答えた。
「呉富春の女だ。あいつを捕まえるために抑えたんだ」
「ほお、おまえの女じゃないってのか。エレベータから出てきたときには、てっきりそうだと思ったがな」
崔虎は身体を元に戻した。
「でもよ、劉健一《リウジェンイー》、おまえの唇に口紅がついてるのはどういうわけだ?」
動かなかった。ただ黙って窓の外の景色を見ていた。これぐらいのはったりにいちいちひっかかっていちゃ商売にならない。いまはそんなことより、なんだって崔虎が現れたのかを考えなきゃいけないときだ。
「ふん。おまえの女じゃないってなら、おれがいただいてもいいってことだな」
「明日以降ならな」
「どういうことだ」
「明日、元成貴に呉富春を引き渡す。そのときにこの女が必要なんだ」
「そこだよ、おれが知りてえのは」
崔虎はいった。もう、夏美をいたぶるのはやめていた。
「ほんのちょい前、おまえは今にも死にそうな声でおれに手助けを求めてきた。それがよ、数時間後の今じゃ、楊偉民と周天文を交えてなにやらおっぱじめようとしてやがる。なにがあったか、知りたくなるじゃねえか」
「おれたちがあうってことはどこで知ったんだ?」
「なに、楊と周のやつを見張らせてたのさ。おまえが動くときはあの二人も動くだろうと思ってな。今日の夕方、周をつけてたやつがドジ踏みやがってよ、それで見張りを強化してたとこなんだ。ついてたぜ」
崔虎の話しぶりには淀みがなかった。
「それで?」
おれは訊いた。
「ぶちまけちまいな。呉富春はもう見つけちまったんだな。元成貴の野郎をどうするつもりだ?」
「どうもしない。呉富春をやつに渡す。それでおしまいだ」
「ふざけんなよ、おい」
崔虎はまた身体をこっちに乗りだしてきた。街のイルミネーションに照らされた息苦しい空間の中で、崔虎の目はそこだけが場違いのように赤々と燃え上がっていた。
その目をじっと見つめた。煙草が吸いたくなった。ポケットに手をのばしたが、煙草のパッケージは空だった。
「わかってんだろう。おれは気の長い方じゃねえんだ。このねえちゃんが嫌な思いをしないうちに吐いちまいな」
「その女はおれには関係ない」
「ふざけんなってんだろうが」
崔虎はおれを攻撃目標にするのをやめ、夏美の顎に手をかけて強引に自分の方へ向かせた。
「なあ、ねえちゃん。薄情な野郎だと思わねえか、ん?」
「放してよ!」
「威勢がいいな。よし、おれの質問に答えたら放してやる。おまえは健一の女だ。そうだな?」
夏美はおれの方を見ようとした。だが、崔虎が手に力を入れたのだろう。苦痛に顔をしかめ、視線を崔虎の顔に戻した。
「そうよ。わたしは健一の女よ。それがどうかした!?」
「何回やった?」
「なんですって?」
「健一とだ。何回やった。覚えてるだろうが」
崔虎の、なにかに取り憑《つ》かれたかのような目が、下の方からじっと夏美をうかがっていた。夏美は気丈にも顎を掴《つか》まれたままその目を見返していた。だが、その抵抗も痛みのために目尻から涙がこぼれ落ちるのと同時に崩壊した。
「四回……」
「よかったか?」
夏美は答えられなかった。崔虎の手は力が入りすぎて痙攣《けいれん》するように震えていた。崔虎の指に押さえられた夏美の顎は赤く変色し、いったん堰《せき》を切った涙は途切れることなく夏美の顔を濡らしていた。
「よかったかって聞いてるんだぜ!」
「よかったわよ! 健一は最高なんだから。あんたなんかめ[#「め」に傍点]じゃないわよ!!」
夏美は叫び、涙でいっぱいの目を大きく見開いて、崔虎の病的な顔を睨みつけた。たいした女だ。
「へえ、そうかよ」
崔虎は急に興味がなくなったという顔で夏美を解放し、シートの背凭《せもた》れに背中を預けた。
「おれなんかめじゃねえってよ、健一。どうする?」
そのときには腹も固まっていた。夏美の肩に手を回し、空いた手で変色した顎をさすってやりながら、答えた。
「富春に元成貴を殺させる」
崔虎がため息をもらした。満腹になったハイエナが漏らすようなため息だった。
「もう女には手を出さねえから、詳しく話せ」
話してやった。元成貴がくたばれば、崔虎は確実に行動を起こす。そうなれば、歌舞伎町で上海と北京の戦争が勃発することになるだろう。どっちが勝つにしろ、おれにかまってる暇はなくなるはずだ。
「だいたいわかったが、まだ解《げ》せねえことがあるな。周の野郎はわかるが、なんだって楊の老いぼれまでおまえに手を貸すんだ?」
「あの爺さんはおれを元成貴に売った。その貸しを返してもらうだけだ」
「まったくよ、時代は変わってるってのに、老いぼれどもはどうにもならねえな。信義だの面子だの、そんなものがまだあると思ってやがる」
「そんなもの、昔からどこにもなかったんだ」
おれがいうと、崔虎は嬉しそうに笑った。
「気が合うな、え、健一」
それっきり、崔虎は口をつぐんだ。ベンツは内堀通りを左折し、九段に向かっていた。おれは夏美をしっかり抱きしめ、皇居の壕《ほり》を眺めた。かすかなエンジン音と夏美が鼻をすする音が車内に立ちこめるすべての音。夏美の目は憎悪に満ち満ちていた。その目はおれに崔虎を殺せと訴えていた。おれは小さくうなずいた。夏美にいわれるまでもない。おれの腰のど真ん中でも冷たい憎悪が燃え盛っていたのだ。
「おまえにそれほど度胸があるとは思わなかったよ」
ベンツが靖国通りに入って再び新宿に鼻先を向けると、やっと崔虎が口を開いた。
「いい計画だ。嬉しくって小便をちびりそうだ。上海のやつらはのさばりすぎだ。そろそろ、おれたちにつき[#「つき」に傍点]がまわってきてもいい。だが、問題がある。呉富春とかいう馬鹿野郎が確実に元成貴を仕留めるって保証がねえ」
「それはおれも考えていたよ。頼みがある。ショットガンを調達できないか?」
「街のど真ん中でショットガンをぶっぱなすってか? 通行人が巻き添えを食うぞ」
「車に轢《ひ》かれて死ぬのも、銃の流れ弾にあたって死ぬのも同じ事故だ」
おれはいった。自分で望んだとおり、綱のように冷たく固い声だった。
「いうじゃねえか。確かにそのとおりだ。いつだったかテレビのニュースでこの国は五十年の間戦争に関与してないってほざいてたが、この国の人間は馬鹿か目が見えないかのどっちかだな。もうずいぶん前から新宿じゃ戦争がおっぱじまってるってのによ。戦場にのこのこやってきて撃たれたって、そいつはだれのせいでもねえや」
ベンツが赤信号にひっかかってとまった。隣の車線は家族乗りのホンダ。頭にピンクのリボンを巻き付けた子どもがウィンドゥに顔をへばりつけてこっちを見ていた。崔虎がそれに気づき、顔をくしゃくしゃにして手を振った。子どもが手を振り返してくると、崔虎の相好《そうごう》はさらに崩れた。その表情からは、たった今までの殺伐とした会話は微塵《みじん》もうかがえなかった。
「馬鹿みてえだと思うか?」
子どもに愛想を振りまきながら崔虎がいった。おれはなにも答えなかった。もう、一年も前のことになる。崔虎を裏切ったやつがいた。崔虎はそいつとそいつの家族をとっつかまえた。裏切り者にはガキがいた。生まれたばかり。崔虎は裏切り者の目の前でその赤ん坊を殺した。有名な話だ。
「部下たちにもやめてくれっていわれてるんだが、どうにも子どもを見ると我慢できなくてな。可愛いもんだ」
信号が青に変わった。おれたちのベンツは右折の車にひっかかってとまったままだったが、子どもを乗せたホンダは流れにスムーズに乗っていった。崔虎はホンダのテールランプを名残り惜しそうに見つめていたが、やがてくたびれたようにシートに身体を埋め、気怠《けだる》そうな声で話をつづけた。
「ちょうどいい、おれんとこに銃身をぶった切ったショットガンが一丁あるはずだ。持っていけ」
「弾丸は?」
「なんていうんだっけ? 九粒の、あのとんでもない代物だよ。アメリカで暴れてたやつがお近づきの印にってくれたやつだ」
うなずいた。崔虎が話したのは鹿撃ち用のダブルオー・バック弾のことだろう。ショットガンに詳しいわけじゃないが、とんでもない殺傷能力を持った弾丸だってことは聞いていた。ボディガードといっしょに元成貴を吹き飛ばしてしまえるはずだ。銃身を詰めたショットガンにその弾丸なら、富春がいくら馬鹿でもしくじることはないだろう。
話し合いはそれで終わりだった。崔虎はむすっとしたまま口を開く素振りも見せなかった。夏美は、いつのまにか眠っていた。
ベンツは戸山にあるマンションの前で止まった。運転手が崔虎から鍵を受け取って、マンションの中に消えた。五分ほど待つと、運転手は紙袋を手に提げて戻ってきた。
「おれたちは明日……おっと、もう今日だったな。今日は手出しをしない。しっかりやれや。しくじったら、おれじゃなくて元成貴の野郎がおまえを許さねえぜ」
助手席に座っていたボディガードが車を降り、崔虎の側のドアを開けた。
「わかってる」
「適当なところまで送らせてやる。あとは、自分の足でしっかり歩くんだな。まあ、そんないい女がいるんだ。無様なことはできねえだろうが」
夏美はまだ眠っていた。ここまでタフだと、なにもいえなかった。
「ほんとにいい女だ。横取りしたくなっちまうぜ」
崔虎の顔は笑っていたが、おれは気を抜いたりはしなかった。目はちっとも笑ってなかったからだ。
「そのうちな。おれがなにかをしなくても、おまえじゃその女は扱えねえよ。気がつくと肝を食われてるってやつだ。その後で、おれがゆっくりいただいてやるからよ」
崔虎はそういってベンツから降りた。ドアがしまり、音もなくベンツが動き出すと、夏美がぱっと目を開けた。昔映画で見た復活した吸血鬼のように。
夏美はおれの首に腕を巻きつけ、おれを抱きよせた。耳たぶに軽い痛みが走り――夏美が噛んだのだ――次の瞬間、生暖かい息が鼓膜を震わせた。
「あいつを殺して」
夏美は囁《ささや》くような小声で、しかしはっきりとそういった。
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「はい?」
最初の呼び出し音が鳴り終わらぬ内に富春が電話に出た。
「おれだ。黄秀紅《ホヮンシウホン》と話がついたぞ。なんとかなりそうだ」
「ほんとか!?」
富春の鼓動が聞こえてきそうな勢いだった。
「ああ。彼女は元成貴にうんざりしている。それに、おまえが撃たなかったことにも感謝してる。手を貸してくれるそうだ」
「あいつは……小蓮は無事なんだな?」
「そこまではわからない。だが、死んじゃいないはずだ」
受話器から口を離し、新しく買った煙草に火をつけた。代々木駅前の通りは人影もほとんどなく、通り過ぎる車の数もたかが知れていた。数メートル先に駐めてあるBMWの窓が開き、夏美が顔を出してこっちに手を振った。
「もし、小蓮になにかあったら、ただじゃおかねえ」
「わかってるよ……ところで、おまえ、ショットガンは使えるか?」
「ショットガン? 引き金を引きゃあいいんだろう。馬鹿にするな」
「使ったことはあるのか?」
「ねえよ。なんだってそんな……」
「元成貴は確実に仕留めないとな」
「ああ、そういうことか。任せとけって。ガキじゃねえんだ。しくじりゃしねえ」
「だといいがな。また電話する。おとなしくしてろよ」
富春がなにかをいい出す前に電話を切った。テレフォンカードをもう一度スリットに差し込み、別の番号を押した。
「はい?」
「元成貴と話したい」
「あんたは?」
「劉健一だ」
それっきり返事はなかった。おれは時間をかけて残りの煙草を吸った。根元まで吸いつくし、短くなった吸い殻を足元に捨てた。夏美が目いっぱい開いた窓枠に両肘を広げ、その上に顔を横にしてのせて目を閉じていた。気持ちのいいメロディに耳を傾けているようだった。夏美がどんな音楽を聞いているのか、おれには想像もつかなかった。わかってるのは、ラヴ・ソングなんかじゃないってことだ。
「おれだ」
おれの物思いを断ち切るように元成貴の声が受話器から流れてきた。
「富春を掴まえた」
「どこだ?」
「焦るなよ。電話で話したってだけのことだ。明日、あう約束になってる。そのあとで、引き渡す」
沈黙があった。電話の向こうで必死に頭を回転させているのだろう。
「おれがあいつを掴まえたことは、まだだれも知らない。楊偉民もだ」
いってやった。元成貴が確認を取ろうとしても、楊偉民はしらを切るだろう。楊偉民だって元成貴にはくたばってもらいたいのだ。後のことは別として、この段階でおれを売るとは考えられなかった。
「なにか企んでるんじゃないだろうな?」
「なにを?」
「ふん、まあいい。で、明日のいつごろ、おれはあのクソ野郎にお目にかかれるんだ?」
「まだわからん。昼より早いってことはないだろう。夜だな。わかりしだい連絡を入れる。予定しておいてくれ」
「健一」
「なんだよ?」
「よくやってくれた。さすが、おれの見込んだ男だ」
思わず舌打ちしそうになって、危うくとどまった。
「おまえなら必ずやってくれると思ってたよ」
「そうかい。じゃあな」
受話器を静かにおろした。意識して。そうしないと叩きつけてしまいそうだった。
煙草に火をつけ、ゆっくりとした足取りで車へ戻った。ステアリングを握るころには、いくらかましな気分に戻っていた。
「まだどっか行くの?」
窓にもたれた格好のまま、夏美が聞いてきた。曖昧にうなずき、BMWのアクセルを踏んだ。まず、ショットガンをどうにかしなけりゃならなかった。ここで詰めを誤るわけにはいかない。
真っ直ぐBMWを走らせ、新宿駅西口へ向かった。スペースのあるところに適当に車をとめ、ショットガンの入った紙袋を掴んで夏美を車内に残したまま地下道へ降りた。
饐《す》えた匂いが鼻を突いた。酔っ払いたちの体臭と、あちこちにばらまかれた吐瀉物《としゃぶつ》、それに小便の匂いが新宿の地下にはたちこめている。おれは匂いのきつい方を目指した。その先に、へべれけになったやつらでさえ眉をしかめて通り過ぎようとする薄汚い段ボールの山に囲まれた一画がある。浮浪者――最近じゃホームレスと呼ばれてるやつらのねぐらだ。
段ボールの山にたどり着くと、隙間から顔を突っ込んだ。むっとする空気がまといつき、すぐに顔中に汗の珠が浮かびはじめた。山の中は外からは想像もできないほどの空間が広がり、思い思いの格好をした浮浪者たちが寝転がって漫画や雑誌を読んでいた。おれの方を見ようとするやつらは一人もいなかった。
「次郎はいるかい?」
声をかけると、一番手前にいたやつが面倒くさそうに手を振った。
「今の時間なら、どの辺にいそうかな?」
「知らねえよ」
「そうとんがるなよ。教えてくれりゃ、さっさと消えるんだ」
「うるせえなあ」
そいつはおれに背を向けた。他のときだったら引きずり出して蹴りの一つもくれてやるところだが、拳銃とショットガンを抱えていたんじゃそれもできない相談だった。
「だれか、知ってる人はいないか?」
手前の男を諦めて、もう一度奥に声をかけた。今度は反応があった。
「その声は健一さんかね?」
がらがらに潰れたダミ声だった。
「康さんかい?」
ダミ声の男は、他の浮浪者たちの間をたくみに縫っていざりながらこっちへ近づいてきた。皺と皺の間にごっそり垢《あか》が詰まったような老いた顔だったが、汗一つかいちゃいなかった。だれも本名は知らないが、康さんと呼ばれているこの辺じゃ古株の浮浪者だ。
「なんだよ、健一さんならそうだっていってくれなきゃ」
康さんは垢まみれの顔をくしゃくしゃにして笑った。
「ここいらも顔ぶれが変わったね。知らない顔ばかりだ」
「そりゃあさ、しょうがねえよ。これが時代ってもんだ。この一年でここから動かなかったのはおれと次郎ぐらいなもんだ」
「その次郎なんだけど、どこでつかまるかな?」
ポケットから万札を取りだし、康さんに渡した。おれに背を向けたやつが、驚きと悔しさの入り混じった顔を康さんの手元に向けていた。
「いつもいってんだろ、人様には親切にするもんだってなあ」
康さんはそいつに小馬鹿にしたようなお説教を垂れた。そのあいだも、視線はおれに向けられたままだった。犬にだってこれほど忠実なやつはいないって風情だ。
「いつもありがとうよ、健一さん。次郎のやつだったら、ついさっき涼んでくるって出かけたよ。おおかた、中央公園で覗《のぞ》きでもやってんだろう」
「ありがとう、康さん。元気でな」
おれは慌ててそういい、段ボールの山から顔を引き抜いた。康さんが口を大きく開けて笑おうとしていたのだ。虫歯だらけの真っ黒な口の中から飛び出してくる唾を甘んじて受けなければならない理由はなかった。
段ボールの一画を後にして、地下道を歩いた。終電がなくなったせいか、人の数もそれほど多くはなかった。京王プラザの脇で地上に出、センチュリー・ハイアットの前の道路を横断して中央公園に入った。
中央公園のベンチの半分ほどは、目の前のホテルに入る金はないが火がついてしまった性欲だけはどうにもならないといったカップルが占領し、人目も憚《はばか》らずにペッティングに励んでいた。そいつらの身体が放つ熱で、公園の気温は周囲より二、三度高いような気がするほどだった。
目を細めて周囲を見回しながら、ゆっくり歩いた。おれの視線に気づいたカップルが露骨に睨みつけてきたが無視した。おれの目的は覗きじゃない。覗きをしてるやつらだ。おれを睨みつけてるやつらのすぐ後ろにも覗きはいた。知らないのは股間をふくらませたり濡らしたりしてるやつらだけだ。
十分ほど歩いて、やっと次郎を見つけた。ミニスカートをまくりあげた女が、スーツのパンツを膝までおろしたサラリーマン風の男にまたがって腰を上下させていた。その一メートルほど後ろに幹の太い木がある。そこで、カップルの行為を食い入るように見つめているのが次郎だった。灰色の作業服のような上下に包まれたプロレスラーなみの身体、後ろで結んだ長髪。見聞違えるはずもなかった。
道を横切ってカップルたちの視界から消え、背後の木にそっと近寄った。熱い喘ぎ声がすぐ耳元で聞こえた。次郎の肩を指でつついた。ぴくんと身体が震える反応はあったが、次郎自身は動かなかった。あっちへ行けここはおれの場所だとでもいうように尻のあたりでうるさそうに手を振るだけだった。
そのまま次郎といっしょに覗きを続けるのも一興だったが、疲れていたし、夏美と何度も交わったせいでセックスには食傷していた。息を吸い込んでわざとらしいくしゃみを吐きだした。
キャッ、という小さな悲鳴があがり、カップルたちの動きが一瞬とまった。最初に女が次郎に気づいた。すぐに男が振り返り、凝固した。
「なんだこら、覗きか!?」
男は凄《すご》んだが、次郎の体格に気づくと急に顔をそらした。女を膝からおろしてパンツを引き上げ、女を小脇にかかえるようにして逃げていった。女の足首には白く小さい布きれが絡み付いていた。
「てめえ!」
やっと次郎がこっちを振り返った。顔が怒りのために赤く染まっていた。だが、それも一瞬のことで、目の前にいるのがおれだと気づくと照れ笑いを浮かべながら首を振った。
「なんだ、健一さんか。人が悪いな」
「すまん。終わるのを待ってる暇がなかった」
「っきしょー。久しぶりだったんすよ、生を見るの」
次郎はそれほど悔しそうでもない口ぶりでいって立ち上がった。そうすると、次郎の目を見るのに空を見上げるようにしなけりゃならなかった。次郎はおれより確実に頭ひとつ分背が高い。一八五以上はあるだろう。
次郎は元はといえば四谷署のおまわりだった。まだ今ほど肉がついていなく、ただ背が高いだけのひょろっとした若者がゴールデン街裏のマンモス交番に勤務しはじめたころは、ゴールデン街中のおカマたちがなにかと差し入れを届けていたものだ。もう、四、五年前の話だが。
次郎はまじめなおまわりだった。信号無視ひとつ見逃せないような――つまり、最悪のおまわりだ。だが、その次郎も今じゃ新宿の地下街で段ボールにくるまれて眠る境遇になっている。中央公園での覗きが唯一の楽しみの、どこからどう見ても立派な浮浪者だ。
次郎の転落の物語は今時のドラマだって取り上げないような陳腐なものだった。女にひっかかったのだ。それも、札付きの性悪女に。女には男がいた。ヤクザから杯をもらうこともできないチンピラだ。トルエンやシンナーの売人をしていたが、本職はヒモだった。女はヒモのために次郎に近づいた。次郎にはそれがわからなかった――いや、わかってはいたが、認めたくなかったのだ。次郎は女に警察の情報を流しはじめた。交番勤務のおまわりが手に入れることのできる情報なんてたかが知れている。だから、次郎は無理をした。そして、ばれた。懲戒免職。おまわりじゃなくなった次郎に、女はこれっぽっちの興味も示さなかった。次郎は女を刺した。その足でヒモのマンションへ行き、ヒモを刺した。そしてムショへ行った。
警察はこの事件を表沙汰にしたくなかった。当然だ。身内の恥をさらすようなものだし、下手をすれば幹部の首が飛ぶ。次郎の裁判はだれも知らぬ内に行われ、二人の人間を刺したにもかかわらず――ヒモも女も死なずにはすんだのだが、懲役二年というクソみたいな判決が言い渡された。
おれは次郎の裁判を傍聴にいった。なにか魂胆があったわけじゃない。おれは次郎と顔見知りだった。次郎が大学出で、中国文学を専攻していたことを知っていたってだけのことだ。いつか、次郎は役に立つかもしれない。それぐらいの心づもりだった。
次郎が新宿へ戻ってきたのは二年前のことだ。刑務所の中でもっぱらウェイト・トレに励んでいたのだろう。かつての線の細い若者の面影はなく、拗《す》ねた顔をしたマッチョの浮浪者になっていた――午前中の中央公図へ行けば、ジョギングをしたり腕立て伏せをしたりしている次郎を見ることができる。そして、おれのことを、おれが裁判の傍聴をしていたことを次郎は覚えていた。
次郎の北京語は酷《ひど》いものだった。ブロークンな北京語をさらに砕いてしまったようなものだ。それでも、他の日本人よりははるかに使えた。おまわりの考え方をよく知っているし、歌舞伎町のルールもよく心得ていたからだ。おれはいくばくかの謝礼を払って、次郎を使うようになった。
「これでストリップにでも行ってこい」
おれは五枚ほどの万札を次郎に渡した。
「ごっつぁんです。それで、なにを?」
「明日の夕方六時から六時半の間、こいつを持って〈サンパーク〉の前に立っていてくれないか」
おれは紙袋を次郎に渡した。
「〈サンパーク〉って、靖国通りの?」
いいながら、次郎は紙袋の中を覗きこんだ。すぐにその顔が汚物を覗きこんだかのように歪んだ。
「これ、健一さんが使うんすか?」
「いや。中国人が取りに来る。そいつに渡してくれ」
おれは富春の人相を説明した。
「わかったけど、まずいことになんないでしょうね?」
「そいつを持ってるときに職質を受けなきゃ、問題はないはずだ」
「外国からお偉いさんが米ない限り、浮浪者に職質するおまわりなんかいないっすよ」
次郎の顔に自嘲気味の笑みが浮かんだ。
「時間厳守だ。いいな」
「おれ、しばらく新宿を離れた方がいいっすかね?」
おれは首を振った。
「中国人同士の殺しだ。ヤクザ以外の日本人に目をつけようとするおまわりなんかいないよ」
次郎に手を振り、踵《きびす》を返した。しばらく歩いて後ろを振り返ると、次郎は紙袋を手にしたまま別のカップルの背後に音もなく忍び寄ろうとしていた。
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BMWには鍵《かぎ》がかかっていた。周囲を見渡したが、夏美の姿はなかった。路地の陰に身を隠し、夏美が現れるのを待った。煙草が吸いたかったが、唇を軽く噛み締めることで耐えた。
京王デパート前の横断歩道を小走りでわたっている夏美を見つけるまで、それほど時間はかからなかった。夏美は息を弾ませながらBMWに近づき、鋭い視線を四方に放ってからドアを開けて乗りこんだ。両手はあいていた。車のキィを持っているだけだ。だが、ジーンズの尻ポケットには財布が入っているはずだった。それに、電話をかけるには充分な時間もあった。
頭の中でゆっくり百を数えて、車に近づいた。ドアを開け、シートに尻を滑らせた。夏美が探るような視線をちらっと向けてきたが、気がつかなかったふりをした。エンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。
大ガードをくぐって靖国通りに出、明治通りを右折した。そろそろこのBMWを返却する潮時だった。
「長かったね」
新宿パークホテルの前を通りすぎたあたりで夏美が口を開いた。
「ああ」
おれは機械的にハンドルを操りながら答えた。
「途中でトイレに行っちゃった。ずっと車の中にいた方がいいと思ったんだけど、ごめんね」
「かまわないさ」
夏美は身体をひねっておれの横顔を見つめていた。おれが信じてないことに気づいていた。そのままなにもいわずに運転を続けていると、小さなため息を洩らした。
「怒らないの? 本当のことをいえって」
「本当のことを教えてくれるのか?」
「トイレに行ってたのよ。なかなか見つからなくて大変だった」
「そうか」
「わたし、東京に知り合いいないもん」
挑発するようないい方だった。その挑発には乗らずに煙草に火をつけた。
「なにかいってよ」
「おれの考えはこうだ。さっきの話し合いでおれが天文をなじったやり方を見ておまえは怖くなったんだ。女としての魅力だけじゃおれを縛れないと気づいたんだろうな。おまえは保険をかけたくなった。いつおれがおまえを捨て駒にするかわかったもんじゃないからな。そこに、崔虎が現れた。おれより強い男だ。そこそこの権力だって持ってる。おまえは崔虎に電話をかけに行ったんだ。おれから乗り換えるためにな」
「わたし、あの人の電話番号なんて知らないよ」
夏美はおれの痛いところを突いてきた。
「電話番号も知らないのにどうやって電話するのよ。それとも、あの人、電話帳に名前載ってるの?」
おれは窓を開けた。生暖かい風が吹きこんできて冷房で冷えた空気を追い払った。
「それに、わたしいったでしょ。崔虎を殺してって。嘘じゃないわよ。本気なんだから」
「言葉に意味なんかない」
おれがいい終えるのと同時に夏美がさっと身体を翻した。
「おい、なにをする気だ!?」
車内灯が車内を照らした。夏美がドアを開けていた。開いた隙間から風が大量に流れ込んできた。ブレーキを踏んだ。夏美が身体を外に投げ出すのとほとんど同時だった。
「夏美!」
タイヤと路面が擦れる嫌な音が耳に響いた。アスファルトの上を転がる夏美の身体がバックミラーに映っていた。車を飛び出し、夏美の元へ駆け寄った。
「馬鹿野郎!」
もちろん、夏美は死んじゃいなかった。それほどスピードをだしていたわけじゃない。それでも、右のこめかみと両手のあちこちがすりむけて血を滲ませていた。
「なんてことをするんだ」
抱き起こすと、夏美は血の気を失った顔に笑みを浮かべた。
「言葉に意味はないっていうから、身体で証明しようと思ったの。崔虎を殺して。本気だよ」
「馬鹿が……」
「あーあ、顔に傷ができちゃった。責任とってよ、健一」
夏美はこめかみの傷に手をやりながらいった。にきびができたとでもいってるような口調だった。
なにもいえなかった。すっかり肝が冷えていた。夏美は嘘つきだが、身体を張っておれになにかを証明しようとしたのだ。
数台の車からけたたましいクラクションが鳴らされた。BMWを車道のど真ん中にとめたままだった。夏美を抱きかかえ、歩道に座らせた。BMWに走りより、路肩にとめなおした。BMWのすぐ後ろにいたシーマの運転手が凄い形相でおれを睨んでいった。
おれは夏美の様子を子細に確認した。白い肌にこびりついたどこまでも赤い血が艶《なま》めかしかった。ジーンズやシャツのあちこちがほつれ、手の先はすっかり冷えていたが骨折はしていないようだった。眼球の動きもしっかりしていた。
「立てるか?」
そう聞くと、夏美はおれの腕を振り払って自力で立ちあがった。
「もっと酷い怪我をするかと思ってたのに、たいしたことないみたい」
他人事《ひとごと》のような口調。
「スピードが出てなかったし、後ろの車との距離もあいていたからな……運がよかっただけだ。二度とこんな馬鹿な真似はするなよ」
夏美の手を引いて車に戻ろうとした。だが、夏美は足を踏んばって動こうとしなかった。
「わたし、トイレに行ってただけだよ。ほんとに」
おれはその場に立ちつくした。足の裏に根がはえてしまったようだった。
夏美は静かにおれを見つめていた。闇の中に浮かぶ黒曜石のような目で。おれが魅かれた怯えと憎悪の色はどこにもなかった。ただ、自分を貫きとおそうとする強い意志の炎が静かに燃えているだけだ。
なにかに衝き動かされるように夏美を抱きよせた。夏美のうなじに手を回し、顔を近づけてこめかみの傷口をぺろりと舐めた。犬がそうするように。夏美の血はおれの舌を焼き、食道を焦がした。
「おれの負けだ」
夏美の顔がぱっと輝いた。おれの腰に抱きつき、頬を胸に押しつけてきた。
「おまえは女優か詐欺師になればよかったんだ」
おれは夏美の腰に手を回し、車の方に足を踏み出しながらいった。夏美の身体がほんの一瞬強張った――きっと、おれの身体が震えているのに気づいたんだろう。夏美は抗いもせずにおれに従った。
例の青空駐車場につくまで、おれたちは一言も口をきかなかった。
いつものスペースにBMWをとめ、グラブ・コンパートメントからセーム革を取り出した。目で降りろと合図すると、夏美は素直にしたがった。おれは小さく息を吸い込み、念入りに車内を拭いはじめた。
「血はついてないよ。わたし、気をつけてたんだから」
夏美は腰の後ろに手をまわしておれの作業を覗きこんでいた。
「指紋を拭いてるんだ」
ダッシュボードを拭いながら答えた。
「そんなことまでしなくちゃいけないの?」
「この車を貸してくれたのはヤク中のガキだ。逮捕されればなんだってぺらぺらしゃべりまくる。後をたどれないようにしておかないとな」
「ふーん」
夏美は興味をなくしたように車から離れた。空を見上げながら、車の周りをぶらぶらと歩き回っていた。
「ねえ、さっきは焦った?」
「ああ。肝が冷えたよ」
「わたしのこと、見直した?」
「おまえが馬鹿だってことがわかったな」
「健一が傷を舐めてくれたとき、すっごく興奮しちゃった」
それには答えず、作業をつづけた。夏美は口が軽くなっていた。おれが返事をしなくても、ひとりでぶつぶついいながら車の周りを歩き回っていた。いまごろになってさっきの反動が来ているらしかった。
「天文さんがゲイってほんと?」
助手席の外を通り過ぎようとしていた夏美がふいに立ち止まって腰を屈めた。
「たぶんな」
「たぶんって、男と手を繋いで歩いてるところを見たんでしょう」
「でまかせだよ。かま[#「かま」に傍点]をかけたんだ」
夏美は考え込むように目を丸めた。
「よくそんな酷いことができるわね」
「あいつはゲイだよ。必死になって隠してたけどな」
「迫られたこと、あるの?」
「いや。でも、おれのことを頭に浮かべてマスをかいてたことは知ってる」
「そっか、あの人も、とんだ男を好きになっちゃったわけね」
「あいつが歌舞伎町にやってきたとき、おれはゲイバーで働いてたからな。きっと、勘違いしたんだ。で、おれがノンケだとわかっても後の祭りだ。あいつは苦しんでたよ」
「それを陰で笑ってたんだ。陰険だよ、健一は」
「わずらわしかっただけだ。気持ちがいいなら、おれは男でも女でもかまわないんだ。ただ、一度だけ男とやったことがあるんだが、最悪だった。それで、おれは男と寝ようって気にはならない。それに中国人社会じゃ、まだゲイは御法度《ごはっと》だしな」
指紋をつけないように注意して車を降り、ボディにとりかかった。取っ手の部分は念入りに磨かなきゃならない。
「男と寝たことあるの? どうやって?」
「シャブを打ってから犯したんだ」
夏美はなにかをいいかけたが言葉にならなかった。大きく口を開けたまま、呆然とおれを見つめていた。
あとはセーム革が金属を擦る音がするだけだった。夏美はそれまでのしゃべりすぎを取り返そうとしているかのように口をつぐみ、黙っておれの作業を見守っていた。一通り拭い終えると、拭い残しがないかどうかをざっとチェックした。BMWは奇麗なものだった。生まれ変わったようだった。
おれはキィをセーム革で包んでドアをロックした。キィは後日郵送で送ればいい。明日の朝にはヤク中のガキが車を回収しているだろう。そして、約束の薬が車内のどこにもないことを知って、パニックに陥る。
「さあ、行くか」
おれが声をかけると、夏美はおれの左横にさっと並んで歩きはじめた。ずっと前からそこが自分の場所だとでもいうような仕種だった。
駐車場を出たところで夏美は口を開いた。
「これからどうするの? わたしたち、どうなるの?」
おれは肩をすくめた。これからどうするのかはわかっていたが、おれたちがどうなるのかなんて、おれの知ったことじゃないからだ。おれだってたまには夢を見る。だが、夢なんかにはこれっぽっちの意味もないことを、この長い年月でおれはいやというほど思い知らされてきたのだ。そのことを夏美に伝える気も、今のおれにはなかった。
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参宮橋のマンションへは戻らなかった。道玄坂のラブホテル街に空室が見つからなかったので、東武ホテルにチェックインした。フロント係は暗い目で満室だといったが、デポジットの他に二万円を握らせるとツインの部屋を用意してくれた。
部屋に入るなり、夏美はベッドの上にダイヴした。なにかをつぶやいていると思ったら、次の瞬間には寝息を立てていた。おれはキィを持ったまま部屋を出、ロビーに降りた。崔虎の動きがどうにも気になるのだ。保険をかけておかなきゃならない。
ロビーの公衆電話で記憶していた電話番号を押した。すぐに相手が出た。若い女の広東語だ。
「程《チョン》さんをお願いしたい」
北京語で訊ねた。
「そちら様は?」
相手も北京語に変わった。へたくそな北京語だったが、広東語でわめかれるよりはよっぽどましだった。
「陳錦《チェンジン》」
おれは偽名を名乗った。一時期おれの面倒を見てくれた台湾流氓の名前。程|恒生《ホンション》はこの名前に反応するに違いなかった。
電話の相手は、陳錦という発音を二度くり返し、ちょっと待てと告げた。おれは煙草に火をつけた。
程恒生は日本の映画を香港に流しているプロモーターだ。まだ三十代半ばで業界ではけっこう名が売れはじめているらしい。だが、程恒生の本職を知ってる人間は日本じゃ数が少ない。
程恒生の親父は香港で映画会社を経営するビジネスマンだが三合会《トライアッド》の大立て者でもある――つまり、程恒生も流氓だってことだ。日本に来る前は、親父の会社の映画の出演を渋る人気俳優を銃で脅すというような仕事をしていたらしい。ドジを踏んで香港にいられなくなったのだという噂がまことしやかに流れていた。
程恒生と陳錦の間には直接の関係はない。陳錦がくたばったのは十年も前の話だし、程恒生が来日したのは三年前のことだ。だが、程恒生の親父と陳錦の間には根強い敵対関係があった。日本のマーケットを狙って進出しようとしていた三合会の前に、陳錦をはじめとする台湾流氓が待ったをかけたのだ。
三合会の動きを掴んだ台湾流氓たちの動きは素速かった。やつらが日本に上陸する前に、香港でかたをつけようとしたのだ。流氓たちはヒットマンを香港へ送った。凄まじい抗争が勃発し、程恒生の親父が足を撃たれて終結した。その殺し屋たちの大哥《ボス》格を務めていたのが陳錦だった。抗争を勝利に導いたことで陳錦はすこぶる羽振りがよくなった。おれもそのおこぼれをいただいたくちだ。
とにかく、新宿という縄張りを取り合った抗争は台湾側が勝った。陳錦が一年後にくたばったときには、香港のやつらが動いたのだと断定する台湾流氓が山ほどいたものだし、事実、程恒生の親父が陳錦をつけ狙っていたのは本当だった。
「程恒生だ」
滑らかな北京語がおれの回想を断ち切った。香港辺りのハイソサエティになれば、広東語に英語はもちろん、北京語を話すのも教義の内だ。これに上海語が加われば、ビジネスマンとしては超一流になる。
「崔虎のねぐらを知りたくはないか?」
ブラフ抜き。真っ直ぐ本題に入った。
程恒生は香港ルートのドラッグを握っているというもっぱらの噂だ。それで、半年ほど前に北京の流氓たちとトラブった。おれの店の近くで香港の男が青竜刀を持った北京人に滅多斬りにされて殺された事件があって、マスコミが大々的に報道したことがある。銃やナイフじゃなく、青竜刀を使った殺しというのは、日本人の背筋を寒くするインパクトがあったのだ。この事件は表向きは、中国バーのホステスに売る弁当の値段で揉《も》めたということになっていたが、裏にはドラッグの密売をめぐる揉めごとがあった。暗闇に片足を突っ込んでいる歌舞伎町の中国人ならだれだって知っている話だ。事件を歌舞伎町から流氓を一掃するためのいい口実にした警視庁が重い腰をあげて、新宿清掃作戦などという一連の重点警戒措置を取ったために、それ以上の抗争には発展しなかったが、程恒生が崔虎に面子を潰されたまま黙っているはずがないのだ。
崔虎もそれを知っていた。表向きは怖いものなんてないって面をしていながら、ねぐらを転々と変えていた。程恒生側の襲撃を怖れているのだ。おれもしばらくアンテナを張っていたことがあったが、崔虎側のガードが固くてどうにもならなかった。それが今日、わかったのだ。元成貴を仕留めることに夢中になりすぎて、崔虎はおれに尻尾を掴ませてしまった。あるいは、崔虎の頭の中じゃおれはとっくに死体になっていて、そんなことはどうでもいいと思っただけかもしれないが。
「陳錦と名乗ったそうだが、おまえはだれだ?」
おれの言葉を吟味するかのような間があって、再び程恒生の北京語が受話器から流れてきた。
「だれだっていいさ。あんたを電話に出すためにはそうした方がいいと思っただけのことだ。崔虎のねぐらを知りたくないのかい?」
また間があった。ゆっくり考えさせてやった。
「せめておまえがどこの組の人間か教えてくれないか。そうじゃなければ、おまえの言葉を信用することができん」
「おれは新宿の中国人さ。おれの言葉を信じないのはあんたの勝手だ。おれにはどうだっていい。要は、知りたいのか、知りたくないのか。それだけだよ、程さん」
「見返りは?」
「おれは善意の第三者だよ」
「歌舞伎町はいま、きな臭いことになってるらしい」
程恒生は考えをまとめるような口調でいった。
「おまえは上海の人間か?」
「どうでもいいって――」
突如、程恒生は北京語でも広東語でもない言葉を発した。上海語だったが、おれには意味が取れなかった。おれにわかる上海語は挨拶《あいさつ》の言葉ぐらいのものだ。
「わからんようだな……そうか、おまえ、劉健一だな」
北京語に切り替えて、程恒生がいった。どこか勝ち誇ったような声だった。おれはなにも応えなかった。いずれにしろ、いつかはばれるはずだったのだ。
「どうでもいいだろう、そんなこと」
「よくはないさ。おまえは今上海と揉めているという話だ。それがなぜ崔虎とおれたちの間に割って入ってくる?」
「いろいろと事情があるんだよ」
「その事情を話してくれないかね」
「わかったよ、程さん。この話はなかったことにしてくれ」
おれは受話器から口を離した。
「待て! 慌てるな」
「おれの名前や立場なんてどうでもいいんだよ。さっきもいったように、おれは善意の第三者としてあんたに情報を提供したいだけなんだ」
「……いいだろう。教えてくれ。そっちの善意は忘れずに覚えておく」
「ひとつだけ条件があるんだが」
「いってみろ」
「崔虎をバラすにしろ襲うにしろ、明日の――もう今日だが、夜以降にしてもらいたい」
「そんなことか。てっきり歌舞伎町から逃げ出す手助けをしてくれといわれるものと思っていたのに」
「どうなんだ? それができるなら教えてやるよ」
「ああ、どちらにしろ崔虎は昼間は動きまわっているだろう。それに、今日は六合彩《リウホーツァイ》の日だ。忙しすぎて崔虎にまで手が回らん」
思わず自分を呪った。今日が火曜で六合彩の抽選日だということをど忘れしていた。
六合彩ってのは、一種のナンバーズ賭博だ。三|桁《けた》から六桁の任意の数字を選び、その数字が抽選で決定した数字と同じなら大金を得られる。毎週、火曜と木曜に香港で抽選が行われ、この二日間は歌舞伎町でも外を出歩く中国人の姿が激減する。ほとんどの流氓も賭け金の回収に駆りだされる。六合彩には、台湾の人間も大陸の人間も香港の人間も関係がなくなる。中国人はギャンブル好きだ。歌舞伎町だけでも億を超す金が動くのだ。
「一度しかいわない。よく聞けよ――」
おれは崔虎と別れたマンションの名前と大雑把《おおざっぱ》な住所を伝えた。
「部屋番号まではわからない。だが、そのマンションで間違いはないはずだ」
「わかった」
「それじゃあな」
「劉健一」
「なんだよ」
「最後にひとつ。この電話番号はだれに訊いた?」
「情報を集めるのがおれの仕事のひとつなんだよ。野暮なことは聞くな」
「そうだな……なにか困ったことがあったらこの番号に電話をくれ。偽名を使わなくても通じるようにしておく」
「今がその困ったときなんだよ。あんたたちが崔虎をびびらせてくれるだけで充分だ」
受話器を置いた。崔虎とかかわっただけでもくたくたなのだ。香港のぼんくらと付き合うなど、考えただけでもぶっ倒れそうだった。
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夏美は布団もかぶらずに熟睡していた。冷房のきいた室内はほどよい温度に保たれていた。ざっとシャワーを浴び、素っ裸のままでベッドに潜りこんだ。頭の芯に粘土の塊を押し込まれたような疲労感。睡魔が訪れる気配はなかった。
よく、枕が替わると眠れないというが、おれもそのくちだ。こんな商売を続けていながら、おれは〈カリビアン〉の上階の部屋以外では熟睡できたためしがない。
昔、流氓たちも恐れる殺し屋とチームを組まされたことがある。陳錦の差し金だった。台北で組の幹部を殺した馬鹿野郎が日本に逃げて潜伏していたのだ。その馬鹿野郎は恵比寿《えびす》の高級住宅街で息をひそめていた。貿易で成功した親戚を頼っていた。陳錦はすぐにおれを使うことを思いついた。台湾人が周りをうろつけば、すぐに馬鹿野郎が気づいて逃げ出してしまう。それに、取り澄ました住宅街に顔色の悪い台湾人はあまりにも場違いだった。おれだってそれほど変わりはなかったが、日本人ならどうってことはないのだ。おれは陳錦から預かった金で、馬鹿野郎の隠れているマンションの向かいの部屋を借り、そこでじっと見張る役についた。
殺し屋がやってきたのは、おれがそのマンションに張り付いて二日目のことだ。満面に笑みを湛えた小太りの中年男。前もって聞かされていたってそいつが殺し屋だとは信じられなかった。どこからどう見ても気のいい屋台の親父という感じだった。殺し屋は白天《パイティエン》と名乗った。
白天は昼間は無口だった。糸のように細い目をさらに細めておれの動作を見守るだけで一言も口を開かなかった。あまりに無口なので、口がきけないんじゃないかと思ったほどだ。
だが、夜になると白天は一変した。陽が落ち、夜の闇が忍び寄ってくると、糸のような目から眼球がぱっと迫《せ》り出してきて、いきなり別人のような顔つきになるのだ。そして、昼間の分を取り戻そうとでもするようにのべつまくなしにしゃべりつづけた。話の内容は殺しだ。白天は自分の殺しを細部にいたるまですべて覚えていた。それを、狂ったような顔でおれに話しつづける。最初のうちはおれも興味津々だった。表情と手振りが無気味だとはいえ、陳錦でさえ一目を置く殺し屋の手腕がどんなものかを知りたいという好奇心がおれの身体に漲《みなぎ》っていた。しかし、それは一晩ももたなかった。
白天は殺し屋なんかじゃなかった。ただの変態だった。殺し屋なら、いくら腕が立とうが修羅場を潜りぬけてきた流氓たちがそれほど恐れるわけがないのだ。白天が、自分たちには理解できない変態だからこそ、彼らは恐れた。おれはすぐそのことに気づいた。
白天はナイフ使いだった。身体には常に五本のナイフが隠されていた。そして、白天はナイフで他人の皮膚を切り裂くのがなによりも好きだった。眼窩《がんか》から飛び出した目を輝かせて白天は語った。ナイフの切っ先が自分にもたらしてくれる至福の境地を。ナイフの刃が他人の体内に潜りこんだ瞬間に得られる至高の快感を。その熱心さは、布教活動を続ける宗教屋でさえ足元にも及ばないようなものだった。おれは辟易《へきえき》し、そして白天を恐れた。白天がおれを切り刻みたがっているように思えた。おれは夜の間はなるべく白天の視線を避け、窓にへばりついて馬鹿野郎が隠れているマンションを見張ることに専念した。
四日目の夜。さすがのおれも三日三晩の徹夜がこたえ、白天に見張りを代わってもらってソファに倒れこんだ――仕事が終わったらすぐに出るつもりだったので布団やベッドなんてものはなかった。それこそあっという間もなくおれは眠りに引きずり込まれた。
目が覚めたのは首に圧迫感があったからだ。白天がおれの上に屈みこんでいた。荒い息をなんども繰り返していた。右手に握った細いシース・ナイフを刃を立てないようにしておれの首筋に押しあて、左手は自分の股間をまさぐっていた。手の中で赤黒く怒張した性器が視界の片隅にうつっていた。
おれが声をあげようとすると、白天はにたっと笑った。笑いながら、すぐに終わるから動くな、といった。こういうことはお手の物なんだ、と。おれはいわれたとおりにした。目にうつる光景は地獄を思い起こさせたが、実際に死ぬよりはましだった。なによりも恐怖で身体が麻痺《まひ》していた。指一本動かせそうになかった。
白天は少なくとも嘘つきじゃなかった。すぐにうっという声が漏れ、おれの腹の上に生暖かいものが落ちてきた。白天は身を起こすともう一度、にたりと笑った。そそくさと身支度を整え、バスルームを指差した。
おれは人形のような動作で立ち上がり、バスルームへ入った。濡れたシャツを脱ぎ捨てた。鏡にうつった首筋に赤い線が引かれていた。いった瞬間、白天の手元が狂ったのだ。だが、その血を見てもおれの心にはなにも浮かばなかった。白天に魂を抜き取られちまったようなものだ。おれは水で腹を洗った。パッケージごと放り出してあったヘインズのTシャツを着て居間に戻った。
白天は見張りの位置に戻っていた。窓の外に目を向けたまま、もうなにもしないから眠れといった。信じられるわけがなかった。ソファに身体を横たえたが、決して眠らなかった。三日後に、白天が馬鹿野郎をナイフの餌食《えじき》にして台湾へ帰るまで、一睡もしなかった。
白天が台湾へ帰った後も悪夢は続いた。なにを血迷ったのか、白天はおれに手紙を送ってくるようになったのだ。殺しの詳細をつづった手紙を。おれは北京語の読み書きの勉強を兼ねながらその手紙を読んだ。直接話で聞くと怖気《おぞけ》をふるうだけのものも、文章になると違った側面があった。そこにはある種の真実が描かれていた。おれは手紙の内容を忌避しながらも、行間に漂う官能の微かなうねりに身を委ねる楽しみを知った。妄想の中で、おれは白天の代わりに人間たちを切り刻んでいた。おれと白天にはほとんど違いはなかった。白天とおれがいる世界を隔てるものなんて、薄皮一枚ほどのものでしかなかった。白天は選ばれ、おれは選ばれなかった。
あるときを境に、白天からの手紙はぱたっとやんだ。白天は台北でドジを踏み、刑務所に送られたのだ。そこで白天の変態さかげんを知っていた囚人連中に集団リンチを受けて死んだ。あっけない死に様だったらしい。それを聞いたとき、死ぬ瞬間白天はなにを見たのか知りたいと痛切に思った。かなわぬ願いだったが。
白天とであって以来、おれは自分のねぐら以外で熟睡できたためしがない。酒を飲んで女とホテルにしけこんでも頭の片隅が常に目覚めている。その片隅さえ寝込んでしまったときには夢を見る。白天の夢だ。白天がおれを切り刻む。おれはわくわくしながらそれを待っている。悪夢は決しておれを解放しようとはしなかった。おれは死に魅入られつつあった。それに気づいて無理に眠るのをやめた。最近じゃ、眠れなくて辛いと思うこともなくなった。何度も途切れる浅い眠りで充分なのだ。
だから、おれはベッドの上で目を開いていた。ぴくりとも動かずに眠りつづける夏美を見ていた。夏美をナイフで切り刻んだら、いったいどんな気持ちがするのだろうと考えながら。あるいは、夏美に切り刻まれたら、いったいどんな気持ちがするだろうと考えながら。
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夏美は一時間ほどして目覚めた。俯《うつぶ》せになったままで目だけを動かしておれを見た。
「どうしたの?」
「なにも」
「怖い目だよ」
「心配事がありすぎるからだろう」
「話して」
夏美は体操選手のように身軽に起きあがった。両手を上にあげて背筋を伸ばし、腹をすかした小犬みたいな仕種でおれのベッドに飛び込んできた。おれの腹の上に顎《あご》をのせ、いたわるように股間をまさぐった。
「こっちも元気ないね。ずっと起きてたの?」
「ああ」
「元気にしてほしい?」
夏美の手の中で、おれのものは少しずつ力を蘇らせつつあった。
「いや、後でいい」
「わかった。今日のことがうまくいくかどうか、心配なのね」
「そうだな……」
「わたしに話してみてよ。力にはなれないと思うけど、考えをまとめる役には立つかも」
「まず元成貴と楊偉民に電話をいれなきゃならない。時間を決めるんだ」
「楊偉民にも?」
「ああ、元成貴は必ず楊偉民の動きに目を光らせてる。爺さんが約束の時間になっても天文の店にいかないとしたら、なにかがあると感じるだろう。楊偉民には約束の時間に〈桃源酒家〉にいてもらわなきゃならない」
「それから?」
「今度は富春だ。まず、おまえの声を聞かせてやる……うまく騙《だま》してくれよ。それから、元成貴を殺《や》る手はずをおれが説明する」
「うまくいくかしら?」
夏美の口調で、おれの計画じゃなく富春がドジを踏まないかと尋ねているのがわかった。
「大丈夫だ。富春がしくじったとしても、崔虎の手のやつがバックアップしてるだろうからな。崔虎にはうってつけの状況なんだ。あいつはなにもしないといったが、必ず手下をよこす。しくじったときの保険にな」
「でも、元成貴って人が約束を破ってたくさんボディガードを連れてきたら?」
「それはない。今日は六合彩《リウホーツァイ》の抽選の日だ。賭け金の回収で手一杯だろう。連れてきたとしても、せいぜい五、六人だ」
六合彩と聞いて、夏美は目を開いた。名古屋でも六合彩は人気なのだろう。
「だいたいわかったけど、崔虎ってやつ、なにか企んでないかな」
「保険をかけた」
「保険?」
「おまえは知らなくてもいい」
「ふーん……話を聞いてるだけじゃ心配なことなんかなさそうじゃない」
「緊急事態だからな、計画が杜撰《ずさん》すぎるんだ。普段なら、おれはもうちょっとましなことを考える。人を殺さなきゃならないなら、富春なんかじゃなくちゃんとプロに渡りをつける。きちんと根回しをして、どこからも後ろ指をさされないように気を使う。今回はそれができてない――どこかに落とし穴があるような気がするんだ」
「でも、しかたないじゃない」
「それに――」
サイドボードの煙草に手を伸ばし、火をつけた。
「おれにはまだおまえの本質がつかめない。おまえと富春の仲がどうだったのかがわからない」
「なによそれ。まだわたしのこと信用してくれないってこと?」
「ああ」
おれは煙草を吸った。
「おまえは天性の女優だ。おれを信用させるためならなんだってやってみせるだろう。だが、殺しはどうだ?」
丹念におれの股間をまさぐっていた夏美の手がとまった。まるで瞬間冷凍されたかのように、それまでの温もりがさっと消え冷たい掌がおれに伝わる唯一の感触になった。
「どういうこと?」
「襲撃のときに富春が殺されれば問題はない。そうじゃないときは、おまえが富春を殺すんだ」
「どういうことよ?」
「殺しの直後であいつは気が高ぶってる。知ってるんだ、あいつがどうなるかは。ただのゴリラになっちまう。おれだって近づけない。だが、おまえなら話は別だ」
「わかったわよ」
夏美はおれの上に馬乗りになった。下唇を噛んでいた。歯が当たる部分が血の気を失っていた。あともう少し力を加えただけで皮膚が裂けそうだった。そして、あの目でおれを睨んでいた。憎悪と怯えがごちゃまぜになった目で。
「富春を殺さなきゃ信じてくれないんでしょう。だったら、やる」
「いい子だ」
煙草をつまんでない方の手で夏美の頭を撫でた。夏美はその手を振り払った。視線で焼き殺してやるとでもいうようにおれを睨みつけ、北京語でおれを罵った。それから、ぷいとおれから顔を背け、バスルームに姿を消した。
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「おれになにをさせたいんだ、健一?」
電話回線の向こうで元成貴がいった。声ははっきりしていた。まだ朝も早いのに、しっかり目覚めているらしい。
「今日の夕方、富春を連れていく」
おれは煙草の煙を受話器に吹きかけた。
「どこにだ?」
元成貴の声がかすかに緊張した。元成貴の疑り深い目が脳裏に浮かんで消えた。
「〈桃源酒家〉を知ってるか?」
「ああ、組合の周天文がやってる店だろう。それがどうした」
「今日の七時に、そこに富春を連れていくよ」
「おい、健一、頭がいかれたのか? 周天文はおまえの弟分じゃねえか。そんなとこに、おれがのこのこ出かけていくと思ってるのか」
また煙草を吸った。少し、間を取りたかったのだ。
「天文は組合の理事だ。下手なことはしない。それに、楊偉民が立会人になる」
楊偉民の名前を出した瞬間、元成貴が息をのんだ。
「おれの方からあんたのとこへ出向くわけにはいかない。わかるだろう? 富春と一緒に撃たれたんじゃ、洒落《しゃれ》にならないからな」
「そんなことをおれがするか」
「するかもしれない」
おれはすかさずいった。返事の代わりに、唸り声みたいなのが聞こえてきた。
「楊偉民と天文がいるところでなら、あんたも富春だけで諦めるはずだ」
「健一、なにを誤解してるのか知らんが、おれはおまえを殺すつもりはないぞ」
「保険だよ。おれのやり方はわかってるだろう。心配なら、楊偉民に確認を取ればいい。あの爺さんは立会人を請け負った。やばいことはなにも起こらないはずだ」
「それで、おれひとりで来いっていうんじゃないだろうな」
「まさか」
鼻で笑ってやった。
「天下の元成貴にボディガードも連れてくるなとはいえないだろう。二、三人だな。ボディガードがそれだけいれば、あんたも安心だろう」
「少なすぎる。おれは――」
「見張りを立てておく。あんたが大人数でぞろぞろやってきたら、おれは富春を連れて逃げる」
おれは元成貴の声を遮った。微妙な間があいた。元成貴がため息を漏らすのが聞こえてきた。
「楊偉民は本当に請け負ったんだな?」
「ああ。あの爺さんが面子にこだわるのは知ってるだろう? 自分の目の前で面倒ごとが起こるのを黙ってみてるタイプじゃない。おれも、小細工をするなって釘を刺されたよ。安心してくれ。おれはなにもしない。ただ、あんたに富春の馬鹿を渡すだけだ」
元成貴は迷っていた。受話器の向こうからそれが伝わってきた。
「楊偉民と周天文に確認を取るぞ」
「いいとも」
「呉富春はどこにいるんだ?」
「馬鹿な質問をするなよ」
「あいつがのこのこ〈桃源酒家〉にやって来るって保証は?」
「そんなものはない。おれはあんたを怒らせたくはない。そこんところを信じてもらうしかないな」
「七時だな。必ずあの馬鹿野郎を連れてくるんだ。健一、おまえはこの元成貴をいいように振り回してるんだ。いいか、もし、今夜、呉富春がおれの手に入らなかったら、歌舞伎町におまえの居所はないぞ」
「そんなに脅すなよ。それぐらい、おれにだってわかってるさ」
おれはいった。遅かった。元成貴は電話を切っていた。
指に挟んだ煙草が根元まで燃え尽きていた。受話器を戻した拍子に、灰がぽとりと落ちた。煙草を投げ棄てた。それから、ベッドの上に倒れこんだ。
八時にはホテルを出た。タクシーで参宮橋のマンションへ戻った。夏美の荷物を手にしただけですぐにマンションを出、参宮橋から小田急に乗って新宿へ向かった。京王プラザのクロークに夏美の荷物をあずけ、ついでにツインの部屋を予約した。ホテルのエントランス付近でタクシーをつかまえ、四谷四丁目の交差点の喫茶店に入った。夏美は文句もいわずについてきた――文句どころか、一度も口を開かなかった。
おれはコーヒーを、夏美はモーニングセットを頼んだ。煙草を吸い、コーヒーをすすりながら夏美の旺盛な食欲を眺めた。夏美が食いおわると、いった。
「今からいう番号に電話をかけてきてくれ」
黄秀紅《ホヮンシウホン》の電話番号を伝えた。
「北京語で話すんだ。相手は黄秀紅って女だ。宝石屋の高橋の使いの者だが、どこかでお話はできないでしょうかって聞いてくるんだ」
「宝石屋の高橋?」
「あまり知ってるやつはいないが、おれの本名は高橋健一なんだ」
「へー。ぜんぜんイメージじゃない。ちょっと待ってて」
夏美はそそくさとコーヒーを飲み干して立ち上がった。おれは夏美の様子を見守った。ときおりこっちをうかがいながら、流暢な北京語を受話器に送り込んでいた。
別にこれといった考えがあるわけじゃなかったが、黄秀紅には今夜起こることを伝えておきたかった。秀紅が元成貴と切れたがっているのはわかっていた。元成貴がくたばることを教えてやれば、おれに必要な情報が引き出せるかもしれなかった。
夏美はすぐに戻ってきた。
「一時間後に弟さんのアパートでだって。意味わかる?」
うなずいた。そのためにここでタクシーをおりたのだ。
「出るぞ」
おれは伝票を掴んで立ち上がった。
「ねえ、黄秀紅って健一とはどういう関係?」
勘定の支払いが終わるのを待ちきれないというように夏美がきいてきた。
「関係なんかない。あいつは元成貴の女だ」
「ふーん」
まだなにか聞きたそうな夏美を促して外へ出た。新宿通りを新宿に向かって戻り、丸ノ内線の御苑前駅へ下る階段の手前の路地を折れた。花園公園を右手に見ながら直進し、少し先の路地を左に曲がった。真新しい白いマンションが見えた。最近じゃすっかり評判が悪くなったワンルーム・マンションだ。相場はすっかり下落したが、それでもここらじゃ月十万は取られる。
おれは一階の一番奥の部屋を乱暴にノックした。秀賢《シウシェン》――秀紅の弟がこんな時間に起きているはずがなかったし、ブザーの電源を切っていることも知っていた。
しつこくドアを叩いている内に、猫が喉を鳴らしてるようなくぐもった音が部星の中から聞こえてきた。ノックするのをやめて、待った。ドアが開いた。眠そうに目を擦った秀賢がつっ立っていた。
「なんだ、あんたか」
欠伸《あくび》といっしょに秀賢は言葉を吐きだした。賢姉愚弟の典型だ。秀賢は姉にたかって生きている。毎日毎日働きもせず、昼は競馬新聞と首っ引き、夜は酒場で女の尻を追いかけまわしている。秀紅はこの馬鹿な弟のために千万単位の借金を肩代わりしていた。そのせいで、秀紅は元成貴に飼われることになったのだ。
肩で秀賢を押しやるようにして部屋の中に入った。秀賢の部屋は煙草と酒と安いコロンの匂いがまじり合っていた。部屋は意外と片付いている。最近引っかけた女の中に掃除好きがいたのだろう。普段の秀賢の部屋はゴミ溜めと変わらない。
「こんな時間になんだよ?」
秀賢はいったが、眠たげな眼は夏美に釘づけだった。
「秀紅と待ち合わせだ」
秀紅には大抵の場合お供がついていた。もちろん、そいつらには元成貴の息がかかっている。ボディガード兼監視係というやつだ。自分の部屋と店にいるとき以外、そいつらはぴったり秀紅にくっついている。元成貴の猜疑心《さいぎしん》を象徴して。だが、なんにだって例外がある。秀紅とお供に関しては秀賢がその例外だった。いくらなんでも身内の話――秀賢が絡んでいる場合は大抵は身内の恥に関する話題になる――を他人に聞かれたくはないと秀紅が泣きつき、元成貴がしかたなしにうなずいたのだ。それ以来、弟のマンションは秀紅にとって、監視の目を気兼ねしないでもすむ三番目の場所になった。
おれはキッチンの横に立てかけられていたパイプ椅子を持ってきて腰を掛けた。夏美が興味深そうな表情でおれと秀賢の顔を交互に見比べていた。
「もうちょっと時間を考えてくれないかなあ」
秀賢は夏美を見つめたままだった。口調とは裏腹に、その顔からは眠気が失せていた。
「お茶でも出せよ」
ぶっきらぼうにいった。正直な話、秀賢のような手合いは好きじゃない。秀紅の弟じゃなかったら絞るだけ絞ってげっぷも出ないようにしてやるただのカモだ。
秀賢は軽く舌打ちした。おれの方へ視線を向けるのを避けながらキッチンに立って湯を沸かしはじめた。
夏美がおれに向かって肩をすくめてみせた。それから、シーツと布団がごちゃごちゃに絡み合ってるソファベッドの端っこを手でぽんぽんと払い、そこに腰を下ろした。
「なあ、健一さん」
秀賢がいった。おれには背を向けたままだった。
「なんだ」
「ちょっと金を都合してくれないかな。すぐに返すからさ」
「ふざけるな。返ってこないとわかってる金を貸すやつなんかいないぜ」
「そこをなんとかしてくれよ。おれとあんたの仲じゃないか」
秀賢はこっちを向いた。手には湯気の立つ茶碗をふたつ持っていた。おれの前のテーブルの上にそれを置いた。露骨に媚びをふくんだ表情だった。
おれは煙草に火をつけた。
「おれとおまえがどんな仲なんだ?」
「そんなにいじめるなよ」
「おまえになんかいじめる価値もない」
煙草を指で叩いて灰を床に落とした。
「おい、なにしてるんだよ。灰皿を使えよ」
秀賢の表情に怒気が宿った。
「悪いな。どこに灰皿があるかわからなかった」
おれが醒めた声でいうと、秀賢の怒気もすぐに消えた。調子のいい笑みを浮かべ、悪いのは自分の方だったといわんばかりに頭を掻いた。
「ああ、灰皿を忘れてたね。ごめんごめん」
秀賢はキッチンの流しからコカ・コーラの空き缶を取っておれの前に置いた。
「これを使ってくれ……金、なんとかならないかな?」
「おれは商売人だ。おまえに売るものがあるなら、買ってもいいぞ」
「そんなものがあるなら、あんたに頼んだりはしないよ……」
秀賢は救いを求めるように夏美に顔を向けた。夏美は素知らぬ顔で部屋の中を見渡していた。ときおりちらっとおれを見る。いつまでここにいなけりゃならないのかと聞いているのだ。
「そりゃ残念だな」
夏美を無視して、秀賢に小さく笑ってみせた。秀賢は金のためならなんだってする。追い詰められたら姉の秀紅だって売るだろう。そんなやつに金になる情報を流すやつなんているわけがない。
「商談不成立ってとこだが、ゆっくり秀紅を待たせてもらうぜ」
おれが秀紅の名を口にした途端、秀賢の表情になにかがよぎった。
「そうか! 売り物ならあるぜ」
「なんだ?」
秀賢は小狡《こずる》そうに眉をひそめた。
「健一さん、これは高い売り物だよ。値は張ってもらわなきゃ」
秀賢の変わりようが気になった。秀賢は頭のめぐりが遅けりゃ度胸もないといったろくでなしだが、金の匂いにだけは敏感だ。その秀賢がこれだけ大きな態度を取るとしたら、やつが持っている情報にはそれだけの意味があるってことになる。
「ふざけるな。おまえの売り物なんてたかが知れてる」
「それがそうでもないんだよな。おれしか知らないはずだし」
それでぴんときた。秀賢が握ってる情報は姉の秀紅に関するものなのだ。おれの勘がなんとしてもその情報を聞き出せとわめきたてた。まるで頭の中で警報ベルが鳴り響いてるようだった。
「いくらなら話す?」
短くなった煙草をコーラの缶の中に放り投げた。興味があるという素振りをちょっとでも見せたら、秀賢はどこまでもつけあがる。
「これぐらいはほしいな」
秀賢は片手を広げた。五十万だ。ずいぶんと吹っ掛けたものだ。おれは腰に手を回し、黒星を秀賢に向けた。
「な……」
秀賢は顔を背けながら両手を前に突き出した。
「動くな」
秀賢は電池の切れたロボット人形のように動きをとめた。おれは立ち上がり、黒星をしっかり秀賢に向けて近づいた。
「話せ」
「汚ぇぞ」
「いいから話せ。金はあとでくれてやる」
「お、おれを殺せば、姉貴が――」
銃口を秀賢の脇腹に押しつけた。セイフティはかけたままだった。秀賢がそれに気づくとも思えなかった。
「おまえがくたばれば秀紅は悲しむだろう。だが、それだけだ。元成貴はおまえの仇を取ろうとはしない。わかりきったことだ」
秀賢は目を剥いて黒星を見つめていた。
「さあ、話せ」
「姉貴に……男がいるみたいなんだ」
「まさか」
おれは笑い飛ばした。秀紅は頭のいい女だ。必ず露見するとわかっている隠し事を元成貴に対してするはずがない。
「ほんとだってば。おれ、聞いたんだよ。姉貴が電話してるのを」
「どこで?」
「ここでさ。姉貴がここに来てて、おれ、シャワーを浴びてたんだ。途中で石鹸《せっけん》がないことに気づいてドアを開けたらさ、姉貴、こんな顔になって電話でのろけてた」
秀賢はしなをつくってみせた。
「相手は?」
「知らない。ほんの二、三秒だったんだ。おれがいるのに気づいたら、姉貴のやつ、慌てて電話を切ったから」
秀賢の目を覗きこんだ。怯えに多少の期待が混ざった瞳があるだけだった。秀賢は嘘はついていない。
「なにか、言葉を聞いたのか?」
「大丈夫よ、あなた=B聞こえたのはそれだけだよ」
「相手が元成貴じゃないってどうしてわかる」
「なんでおれんところから元成貴に電話しなくちゃならないんだよ? 姉貴は一度もあいつに電話したことなんかないよ。それに、あいつといっしょにいたってあんな話し方はしたことない」
おれは黒星を腰に戻した。秀賢はほっとして息を大きく吐きだした。その横っ面に拳を叩きつけた。秀賢はぶっ飛んだ。背中をキッチンの流しにぶつけ、その反動で正面から床に倒れこんだ。
「な、なにを……」
秀賢は左頬に手を当てておれを見あげた。顔が苦痛に歪んでいた。
「いまのが代金だ」
おれは右手の関節をさすった。人差し指の根元の皮がすりむけ、感覚が鈍くなっていた。人を殴ったのは二年振りだった。だからといって、興奮してるわけでもなかった。これは一種のポーズだ。大部分の中国人は、身内を売ったやつはそれなりの償いを受けなきゃならないと信じてる。おれはその中国人のルールにのっとって行動しただけだ。本音のところじゃ、こんな馬鹿をいつまでも抱えている秀紅の愚かさを笑い飛ばしたかったし、貴重な情報を与えてくれた秀賢になにがしかの金を払ってやってもいいと思っていた。
だが、おれは中国人社会の中で生きている。そこじゃ、ルールがなによりもものをいう。健一はルールを守らないという噂が流れれば、商売どころか生きていくのさえ難しくなるのだ。
「金はあとで届ける。だが、身内を売るのはこれぐらいにしておけ」
秀賢の手を引いて立たせてやった。秀賢は恨みがましい目でおれを見たが、なにもいわなかった。
おれは元の椅子に腰を下ろした。そして、秀賢の話を吟味した。
ドアがノックされたのは、約束の十分前だった。おれはさっと立ち上がり、夏美の手を引いてバスルームに隠れた。秀賢がそれを待ってからドアを開けた。夏美はおれの腕の中で小さくなっていた。どうするべきかはすっかり心得ていた。それどころか、この状況を楽しんでいるふしさえあった。
玄関でふたことみことのやりとりが交わされ、ドアが閉まる音がした。
「もういいよ」
秀賢が声をかけてきた。おれたちはバスルームを出た。秀紅はひとりだった。お供はマンションの外で待っているはずだ。
今日の秀紅は赤地に様々な花をあしらったサマードレス姿だった。剥き出しになった鎖骨がひ弱さと被虐的な官能美をかもしだしていた。真夏の日光の下にさらされた氷の造花――そんな風情だ。
「あなたが殴ったの?」
秀紅はいきなりきいてきた。鼻孔がかすかに開き、目が潤んでいた。おれは秀賢に目をやった。殴られた痕がドス黒く変色しつつあった。
「おれが来たときにはあんなだったよ」
秀紅に視線を戻した。
「……そう。ならいいわ」
秀紅は諦めたように首を振り、さっきまでおれが座っていた椅子に腰をおろした。
「それで、なんの用かしら?」
おれはちらりと秀賢を見た。秀賢はわかっているというようにうなずいた。布団とシーツを丸めて脇に置き、ソファベッドをソファの形に組み立てた。それから、床に転がっていたウォークマンと競馬新聞を取り上げ、大型のヘッドフォンをかぶって部屋の隅に行って腰を下ろした。ヘッドフォンから金属的なリズム音が漏れてきた。
普段なら秀賢はトイレにこもる。そうしないのは、おれに対するあてつけってわけだ。
「見張ってろ」
早口の日本語で夏美に告げた。夏美は秀賢が組み立てたソファの端に腰を下ろした。その目は秀賢にじっと注がれていた。
おれもソファに腰を下ろして秀紅と向き合った。
「今夜、元成貴を殺すことに決めた」
「そう」
秀紅はバッグから煙草を取り出した。煙草の先端が震えていた。
「気にならないのかい」
「気になるわよ。わたしのパトロンですもの」
男、とはいわなかった。
「でも、あなたにできるの?」
「殺《や》るのはおれじゃない」
「そうよね。あなたはいつも他人を使うことしか考えない人だもの」
「臆病だからな」
「違うわ。世の中の仕組みをよく知ってるのよ、あなたや、楊偉民のような人は。元成貴はだめ。威張り散らすだけで、足元を見ようとしない。自分の力に酔ってるだけなんだもの。いつか別の力を持った人間に殺されるんだわ」
「今日はやけに悲観的じゃないか」
「どうしてわたしに話したの? わたし、あなたを助けたりはしないわよ」
「今日の元成貴の動きと、元成貴がくたばったあとの上海のやつらの動きを知りたいんだ」
「元成貴がくたばったら――」
秀紅は言葉を切ってふっと笑った。
「嫌ないい方ね、くたばるなんて……とにかく、元成貴が死んだら、だれもわたしなんて見向きもしなくなるわ」
「聞こえてくる範囲のことだけでいい」
「それで、わたしになんの得があるの?」
「元成貴と切れられる」
「そして、借金だらけの弟が残るわけね」
「好きな男といっしょに暮らせるさ」
かまをかけてみた。どんぴしゃりだった。秀紅は柳眉をきっと立てて弟を睨んだ。
おれはだれにもわからないように首を振った。秀紅は頭の回転がよくて律義な女だ。その秀紅が男を作っている。どっちにしろ、元成貴はくたばる時期だったのかもしれない。
「今夜は、元成貴のそばに寄るなって、伝えておいた方がいい」
「いいたいことはそれだけ?」
秀紅はおれに視線を戻した。吐きだすような声だった。
「ああ」
「じゃあ、わたしはいくわ」
秀紅は立ち上がった。一度玄関の方へ足を踏み出し、思い出したように振り返って夏美に声をかけた。
「あなた、自分の男がどんな人間かわかってる?」
夏美はゆっくり振り返った。
「わかってるわよ」
挑発的な声だった。
「どうだか……いい、この人の頭にあるのは自分が生き残ることだけ。そのためだったら、身内どころか自分の女だって平気で利用するわ。あなたもいつ利用されて捨てられるかわからないわよ。気をつけなさい」
「なによ、偉そうに。そんなこと知ってるわよ。わかってないみたいだから教えてあげるけど、わたし、健一の女なのよ。知り合ってからは短いけど、健一のことは私が一番知ってるの。余計なことしゃべってる暇があったら、自分のこと考えなさいよ。ボスの女を寝取る男なんてろくなもんじゃないわ」
夏美と秀紅はしばらく睨みあっていた。やがて、秀紅が大きく息を吐きだし、踵を返した。
秀紅はなにもいわずに出ていった。
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おれたちは秀賢の部屋を出た。
「健一、あの女とやったの?」
「馬鹿いうな」
おれは夏美のたわごとは取り合わなかった。
「おまえはさっきの喫茶店に戻れ」
「健一は?」
「おれは富春にあってくる」
夏美に飯田橋のマンションの電話番号を教えた。
「きっかり一時間後にここに電話してくれ。富春をひっかけなきゃならない。どうすればいいか、わかるか?」
夏美は当たり前だというようにうなずいた。
「任せてよ。富春を騙すのなんて、簡単なんだから」
「秀紅といっしょに行動してるように思わせるんだ。元成貴に追われて逃げ回ってるが、とりあえず無事だって感じで。元成貴を殺っちまえばすぐにでもおまえにあえると思わせてやれ」
夏美はさっきより大きくうなずいた。
「後で迎えにくる。退屈だろうが、それまで喫茶店を動かないでくれ」
おれはちょうど通りかかったタクシーに手をあげた。
「じゃ、後でな」
タクシーに乗り込んだときには、夏美はもう喫茶店に向かって歩きだしていた。
タクシーをまず曙橋に向かわせた。フジテレビ通りの路上で、屋台で点心を売っている男がいる。屋台はまだやっていた。タクシーをおり、屋台へ近づいた。
「もう、おしまいよ」
屋台を片付けていた男がイントネーションがおかしい日本語でいった。男は中国系のマレーシア人だ。おれは阿明《アミン》という呼び名しか知らない。元は六本木の有名な香港レストランで点心を作っていた。そこを追いだされて屋台を引きはじめた。阿明のつくる点心は抜群にうまいが、それ以外にも使いみちがある男なのだ。
「別の商売だ」
北京語でいってやると、阿明は顔を上げた。
「健一さん」
「まっさらな排帯電話がいる。今すぐ」
「はいよ」
阿明は大きな笑顔を浮かべて、腰を屈めた。なにやらごそごそとやっていたが、立ち上がった時には、両手に五種類ほどの携帯電話が握られていた。
「ドコモ、イドー、PHSなんでもあるよ。どれがいい?」
一瞬考えてから、ドコモの携帯を手に取った。肝心な時に電波が届かないんじゃ話にならない。
「ドコモね、二十万だよ」
「ふざけるな」
「健一さん、いま、マズイことになってるんだろう? ふっかけられるときには高く売る。商売のコツだよ」
「ふっかけすぎだ」
「嫌なら買わなきゃいいじゃないか」
しばらく阿明の顔を睨みつけた。阿明はこれっぽっちも怯まなかった。勝ち目はありそうにない。中国人の商売感覚を呪いながら、二十万を渡してやった。
「使い終わったら買い取るからね、健一さん」
携帯の電話番号が書かれた紙をおれに渡しながら、阿明がいった。にやついた笑いが顔にへばりついていた。その目には、おれは死人として映っているのだ。
もう一度タクシーを掴まえ、今度こそ飯田橋に向かった。時間が早いせいか、道路はそれほど混んじゃいなかった。タクシーは外堀通りを通ってあっという間に飯田橋駅へ辿《たど》りついた。駅前でタクシーを降り、周りに注意しながらマンションへ急いだ。おれに目をとめるやつは誰もいなかった。
富春は眠りこけていた。ベッドは使わず床の上に死体のように転がっていた。頭の上の方に二丁の黒星が無造作に投げ出されているのと、足元に散らばったコンビニの弁当の箱が死体としてのリアリティを強調していた。
「起きろ」
北京語でいって、富春の肩を蹴飛ばした。富春はバネ仕掛けの人形みたいに飛び起きた。手で黒星を探し、焦点の定まらない目でおれを見あげた。すぐに闖入者《ちんにゅうしゃ》がおれだと気づき、照れたような笑みをざらついた顔に張りつけた。
「おどかすなよ。あぶなく撃つところだったぜ」
「起きたばかりのおまえじゃ、目の前に鯨がいたって当たらないさ」
だいいち、富春はまだ銃を握ってさえいなかった。おかしなものだ。おれの知ってる富春は腕っ節にものをいわせることしかできなかった。考える前に拳が飛んでいる――そんな男だったのだ。それがいったん銃を手にした途端、殴りかかるより前に銃を探すようになった。そのうち、銃を探す前におれになんとかしてくれと泣きついてくるようになるだろう。生きていればの話だが。
床に腰を下ろして煙草に火をつけた。富春の手が伸びてきた。おれは煙草をパッケージごと放り投げてやった。
「それで、どうなってる?」
富春は煙草の煙を目で追いながらいった。
「計画がうまくいってれば、いまごろおまえの女は無事逃げ出してるはずだ」
「ほんとうか?」
富春は身を乗りだしてきた。こめかみの血管が浮き出し、血走った眼球がせり出してきていた。荒くなった息が煙草の灰をそこら中にまき散らしていた。
「もうすぐ連絡があるはずだ。安心しろよ」
「ありがてぇ。やっぱり、おまえに頼ったのは正解だった」
「問題は元成貴だ。女が逃げ出したと知ったら、あいつは目の色を変えて追いかけるだろう」
「ぶっ殺してやるよ。どっちにしろ名古屋にはうんざりしてたんだ。あいつをバラして、昔みたいに歌舞伎町で商売をしてやる」
「ああ、昔みたいにな」
相槌を打った。代々木公園で富春はおれに名古屋へ行こうと誘った。そんなことはもうすっかり忘れ去ってる。こういうところはちっとも変わっていなかった。
おれたちは無言で煙草を吸った。富春の顔が妙に和んでいるのが目障りだった。
電話が鳴った。煙草の吸いさしをキッチンの流しに放り込んで受話器を取った。
「はい?」
北京語でいった。
「わたし」
夏美だった。おれはちらりと富春を振り返り、小さくうなずいてみせた。
「うまくいったんだな? 怪我は?……そうか、で、元成貴は?」
おれのすぐ後ろで富春がじっと息を殺しているのがわかった。
「よし、いま富春に代わる。彼女の声を聞かせてやってくれ」
受話器を差し出すと、富春は飢えた犬が骨にかぶりつくようにひったくった。
「小蓮! 小蓮か!? 無事なのか!?」
受話器を握る富春の関節が白くなっていた。
「ああ、ああ。わかってる。おれが仇《かたき》を取ってやる。心配するな。あの豚野郎は必ず殺してやる」
夏美はうまくやっているようだった。おれは静かに富春の背後にまわった。腰に差した黒星の銃把を握り、セイフティを解除していつでも抜けるようにしておいた。夏美がしくじって富春が疑念を抱いたら、即座に撃ち殺すつもりだった。心臓が皮膚を突き破って飛び出してきそうなぐらいに躍っていた。突如として湧き出てきた汗のせいで、シャツが肌にへばりついていた。
「ああ、わかった。健一に伝えりゃいいんだな。……大丈夫だ。おれを信じろって。必ずおまえを幸せにしてやる。……ああ、後でな。元成貴をぶっ殺したら、死ぬほど可愛がってやる」
富春が受話器を置いた。黒星のセイフティを素速くロックし、銃把から汗まみれの手を離した。
「健一、元成貴はどこにいる!?」
「慌てるなよ」
富春の脇に転がっている煙草のパッケージを拾い上げた。ことさらゆっくりした動作で一本抜き出し、火をつけた。
「おまえの女が監禁されてる場所を探すだけで昨日は手一杯だったんだ。黄秀紅が手を貸してくれなかったら、なにもわからなかっただろうよ。元成貴はその辺は抜かりがない」
「そんなことはわかってるって。おまえと黄秀紅って女にはいくら感謝しても足りねえ。だがな、健一、小蓮は元成貴の野郎に追われてるらしいんだ。あの跳ねっ返りの小蓮がすっかり脅えてた。元成貴を早くぶっ殺さねえとならねえんだよ」
肩をすくめた。富春から顔を背け、煙草を吸った。
「なんだよ。なにか気に食わねえのか?」
「おまえ、おれを信じるか?」
「当たり前じゃねえか」
おれはここでやっと富春を見た。
「よし、だったら段取りを教えてやる。おれは元成貴に電話して、おまえを引き渡すって話をつける」
富春の眉が跳ねあがった。だが、富春はなにもいわず、黙っておれの続きを待った。
「もちろん、元成貴におまえを渡してやる気はさらさらない。裏があるんだ。楊偉民と周天文を覚えてるだろう?」
「ああ」
「あいつらと話をつけた。元成貴を追っ払おうってことになったんだ。おれがおまえを引き渡すといっても、元成貴は簡単に信じたりはしないだろう。裏があるって勘繰る。実際、裏はあるんだ。だから、おれは楊偉民と周天文を立会人に指定する。天文の店でおまえを引き渡すってな。いくら元成貴でも、楊偉民と堅気の天文がいる場所にぞろぞろとボディガードを連れてくるわけにはいかない。それに、だ。楊偉民は食えない爺さんだが、昔気質の人間だから自分の面子をなによりも大切にする。その楊偉民が面子を潰してまで自分をはめるはずがないと元成貴は考えるだろう。そこが狙い目だ」
言葉を切った。富春は餌を目の前にしておあずけをくわされている小犬のようにじっとおれの口元を見つめていた。
「それに、おれたちはついている。今日は六合彩《リウホーツァイ》の抽選日だ。ほとんどの流氓が集金に駆けずり回ってる。元成貴が連れてこれるのはせいぜい、二、三人ってとこだな。おまえは待ち伏せして、やつらにショットガンをぶっ放すんだ。天文の店は覚えてるか?」
「ああ」
「あのビルの前に、サブナードへはいる階段がある。おまえはそこにいるんだ」
おれは阿明から買った携帯電話を取りだし、富春に手渡した。
「階段の出口のすぐ先が横断歩道だ。歩きにしろ車にしろ、元成貴たちはそこらへんに現れる。おれが見張るよ。元成貴が見えたらその携帯電話で状況を知らせてやる。どうだ?」
「よくわかんねえけどよ、元成貴は本当に来るのか? あいつは蛇みたいに狡賢《ずるがしこ》いぜ」
「来るさ。あいつが蛇みたいだったのは昔のことだ。今じゃ、力を持ちすぎて不死身だと思ってるんだろう。自分を狙うやつはおまえみたいな馬鹿だけだと思い込んでる」
富春の目がぎろりと動いた。
「おまえもおれのことを馬鹿だと思ってるのか?」
「おまえはおれが知ってる中でも一、二を争う馬鹿野郎さ」
富春のねっとりした視線を受けとめたまま答えた。富春を御すには絶対に弱みを見せちゃいけない。いつだって自信満々だってふうを装うのだ。
富春がふと視線を外した。鼻から口にかけての線が強張ってはいたが、その姿はまるで若いやつに居場所を奪われた年老いた犬だ。富春のそんな表情を、おれは初めて見た。
「まあ、おまえにかかっちゃ、だれだって馬鹿野郎だよな」
富春はそうつぶやき、煙草を口にくわえた。ライターで煙草に火をつけ、おれの方を見たときには、もう弱気な表情は消えていた。
「どっちにしろよ、考えるのはおまえの役目だ。おれはおまえのいうとおりにするさ。それで、ショットガンてのはどこにあるんだ?」
「サンパーク・ビルってのがあるだろう?」
「ディスカウント屋の入ってるビルだな」
「そこの前にでかい浮浪者がいるはずだ。そいつが持ってる。健一の使いだっていえば、渡してくれる手はずになっている」
「でかいって、おれよりでかいのか?」
富春は煙草を噛み締めた。フィルターにきつく歯の痕《あと》がついていた。
「ちょっとばかし向こうの方がでかいな」
次郎の体格を思い出しながらいった。富春は面白くもなさそうな顔で舌打ちをし、煙草の灰を床に落とした。
「なんでそんなやつが乞食をしてるんだよ」
「乞食じゃない。浮浪者だ」
「同じだぜ……それで、健一の使いだってのは、日本語でいわなきゃだめなのか?」
「いや、ゆっくり喋れば北京語でも通じる」
「時間は?」
「そいつは六時からいることになってる。六時半までには受け取っておけ」
「わかった」
「ショットガンは二連発だ。二発ともぶっ放せ。手下もろとも吹き飛ばすんだ」
「わかってるって」
「おまえがしくじったら、おれたちは終わりだ」
「うるせえな。おれが今までドジを踏んだことがあるかよ」
踏みっぱなしだといってやりたかったが、こらえた。富春がしくじれば、恐らく崔虎の手のやつらが元成貴に引導を渡してくれるに決まっている。
「よし。全部終わったら、おとめ山公園で落ち合おう。おれはおまえの女を拾って連れていく」
「おとめ山公園って、高田馬場から目白に行く間にあるあの公園か?」
「そうだ。何度か仕事で使ったことがあるだろう」
わざとらしく腕時計を覗きこんで立ち上がった。
「おれはまだいろいろと動かなきゃならない。連絡を入れるにしてもあと一回ぐらいのもんだろう。段取りを忘れるなよ。その黒星じゃなく、必ずショットガンを使うんだ」
「わかってるって。小蓮を取り戻せるかどうかの瀬戸際なんだ。慎重にやるよ、健一」
富春は笑った。頭の中に薔薇色《ばらいろ》の未来ってやつが広がっているのだろう。どこか子供じみて憎めない笑顔だった。間抜けなカモってのは、みんな同じだ。一歩先が底無しの泥沼だってことに気づかずに、笑みを浮かべたまま沈んでいく。
「じゃあな」
踵を返して玄関に向かった。富春の笑顔が背中に張り付いてるような気がして、思わず振り返った。富春は難しい顔をして黒星を弄んでいた。おれの存在なんてきれいさっぱり忘れてしまったとでもいうような表情だった。おれはドアを開け、部屋を出た。
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中央線と丸ノ内線を乗り継ぎ、四谷三丁目で降りた。靖国通りを新宿に向かう途中で、なにか嫌な感じがした。昼前の靖国通りにはこれといって気になるものがあるわけじゃなかった。立ち止まったり、急に振り返ったりしてみたが、尾行の気配もない。それでも、嫌な感じは消えなかった。
これまでのところ、おれはなんとかやってきた。時間に追われているせいでかなりいいかげんに動いていたが、運に恵まれていた。そろそろ、なにかが起こりはじめたとしてもちっとも不思議じゃない。おれの勘なんて滅多に当たったためしはないが、用心しすぎたって死ぬわけでもない。
四丁目交差点のふたつ手前の路地を左に折れ、パチンコ屋に入った。客は四分の入りだった。モーニング設定のない台の並ぶ列には客は一人も居なかった。適当に玉を弾きながらぴったり一万円分を玉に替え、それを計量器でレシートに換えて景品交換所へ持っていった。安物のサングラスと黄色地の派手なプリントTシャツ、ヤクルト・スワローズのベイスボール・キャップ、なにかのテレビ番組のロゴが入ったぺらぺらのスタッフ・ジャンパーを手に入れ、トイレで着替えた。鏡でチェックしてみたが、生地の薄いジャンパーだと、腰に差した黒星の形が丸見えだった。それまで着ていたTシャツで銃を丹念に拭った。それから、Gジャンにシャツと銃をくるみ、ゴミ箱に捨てた。もう、物を惜しんでる暇はない。
パチンコ屋を出、靖国通りを三丁目へ戻り、信号を渡ってもう一度四丁目へ向かった。交差点の信号待ちを利用して夏美が待っている喫茶店の周囲をざっと観察したが、不審な点はなにもなかった。信号が青になった。おれは人の波に紛れるように横断歩道を渡り、喫茶店の前を通りすぎた。
ガラス張りの喫茶店は中まで見通すことができた。夏美はレジからそう遠くない窓際の四人掛けの席に座っていた。眠そうに目をしばたたかせながら、外の景色を漫然と眺めていた。おれには気づかなかった。夏美のほかに客は五組いた。営業中のサラリーマンらしいのが二組、水商売とその情夫らしきのが一組、学生風が二組。
そのまま喫茶店を通りすぎた。新宿御苑の駅に降り、公衆電話で夏美を呼び出した。
「おれだ。店を出て新宿御苑の駅に向かえ。さっき、秀紅の弟の部屋へ向かったのと同じ方向だ」
「わかった。その後は?」
夏美は如才なく応じた。秘書にしたらさぞかし優秀になるだろう。
「新宿でおりて黄色い中央線の中野か三鷹行きに乗り換えろ。後ろの方にだ。東中野まで行くんだ。改札を出たら左に進め。階段をおりたら、左手の方にうらぶれた飲み屋が並んだ路地がある。そこに入るんだ」
「黄色の中央線。東中野でおりる。改札を出たら左」
「後であおう」
おれは電話を切った。販売機で切符を買い、改札を抜けた。階段の手前にあるゴミ箱を漁ってスポーツ新聞を拾い上げた。ホームの途中まで進み、キオスクの裏手の壁によりかかって新聞を広げた。ベンチや案内板が邪魔だが、階段をおりてくる人間をチェックするのに支障はなかった。競輪欄に目を向けながら、待った。
夏美。五分ほどで現れた。自信に満ちた足取りで階段をおりてきた。確実に階段のステップをとらえる長い脚が夏美の存在感を引き立たせていた。夏美は左右にチラッと視線を走らせ、電車の進行方向を確認すると、おれの方へ大股で近づいてきた。すれ違うときにおれに視線を飛ばしてきたが、表情には毛ほどの変化もなかった。
水商売とヒモが階段をおりてきた。女の方はローズピンクのタンクトップに白いサマーパンツ、足元はサンダル、手に小さなポーチを持っていた。ウェイヴのかかった長い髪の毛を後頭部の方で巻き上げ、ファウンデーションと口紅を塗っただけの細長い顔に薄く色のついたサングラスをかけていた。くちゃくちゃとガムを噛んでいる姿は、太陽の光が象徴するすべてのものに対する嫌悪感で溢れていた。
ヒモの方は、薄汚れたスニーカーに色あせたジーンズ、青地に赤や黄色の花をプリントしたアロハ。どこといって特徴のない顔だが、鼻が左右に潰れていた。
二人とも日本人とも中国人ともつかない顔立ちだった。それをいうなら、朝鮮の人間だっていうこともありえた。
二人はホームの端の方で立ち止まった。ヒモがひょいと首を傾げるようにして夏美の位置を確認した。
決まりだ。おれも腹を据えなきゃならない。煙草が無性に吸いたかった。
蒸し暑い空気を攪拌《かくはん》するように荻窪行きの電車が入ってきた。半袖姿のサラリーマンやOLがドアから吐き出され、さらにホームの空気を濁らせた。
夏美が電車に乗った。それを確認して女とヒモも最後尾の車両に乗りこんだ。おれは新聞を畳み、発車のベルが鳴り出すのを待って電車に飛び込んだ。閉じたドアに背をあずけ、再び新聞を開いた。車内は満員じゃなけりゃ、がらがらでもないといった程度の混雑だった。隣の車両の真ん中あたりでつり革につかまっている夏美の姿が確認できた。
すぐに、女とヒモが乗客をかき分けながらこっちへ向かってくるのが見えた。ヒモの方はさり気なさを装うのをやめていた。首を前に突き出し、目を細めて夏美の姿を探していた。おれの前を通り過ぎ、隣の車両との連結部へと続くドアへ手をかけたところでヒモは夏美に気づいた。
ヒモは後ろに手を突き出して女を止めた。もう一度夏美の姿を確認してから振り返り、女の耳に何事かを囁いた。騒音のせいで言葉は聞き取れなかったが、口の動きからして日本語じゃなさそうだった。女が唇を尖らせて頭を巡らせた。視線がきつい。
おれは新聞に視線を戻した。恐らく、夏美が囮《おとり》じゃないかと疑っているのだ。そのとおりなのだが、二人には頭も経験も不足していた。土台、たった二人で一人の人間を尾行しょうとする方が無理なのだ。二人に夏美を追えと命令した人間も、かなり慌てていたに違いない。
電車のスピードが落ちた。ヒモが前の車両を覗きこんだ。電車が完全にとまり、夏美になんの動きもないと知るとほっとしたように首を振った。そのヒモに、女はどこか馬鹿にしたような顔を向けていた。サングラスに隠された目は、もっときついなにかを物語っているのかもしれない。
どう考えても二人の顔は記憶になかった。おれだって出入りの激しい新宿にいる中国人すべての顔を覚えてるわけじゃない。それでも、自分にかかわってきそうな人間は別だ。おれの脳味噌はほとんどの流氓の顔がインプットされているし、流氓にかかわりのある人間だって例外じゃない。情報はいつだって金になるのだ。だが、二人はおれの知らない顔だった――つまり、おれの知らない誰か、あるいはおれが予想もしていない誰かが動いてるってことだ。おれの身体は汗まみれだったが、それは冷房の効いていない車内の空気のせいだけじゃなかった。
客がどっと降り、ちょぼちょぼと乗ってきた。女が空いた座席に腰を下ろした。ヒモは女の前のつり革にぶら下がり、落ち着きのない視線を何度も前の車両に向けた。
電車は動きだしたと思った途端にスピードをゆるめた。おれは新聞を畳んでドアに向き直った。暗いトンネルの端の方に薄ぼやけた光が生じ一気に広がった。ドアが開くと同時にホームへ身体を滑らせた。さっと後ろを振り向き、まだ二人が電車から降りていないのを確認して、階段に向かって走った。人を突き飛ばしながら全力でJRの十四番ホームを目指した。階段を登りきったときには息が切れていたが、発車寸前の電車に飛び乗ることができた。少しずつスピードを上げる電車からホームを眺めたが、夏美も、尾けてくる二人の姿もまだ見えなかった。
東中野駅の左斜め前には、小便横丁を思わせる、小さな飲み屋が集まった一画がある。おれはその中の一軒の鍵を開けて中へ入った。〈貞さん亭〉という一杯飲み屋で、山岡貞男という六十に手が届きそうな日本人が経営している店だ。
山岡貞男は間違って〈カリビアン〉へ入ってきた。おれが買い取る前の店のママとかなり昔にいい仲だったらしい。喧嘩《けんか》別れをやらかして数十年、なんとなく懐かしくなって立ち寄ったという口だったのだが、山岡貞男はなぜか志郎を気に入って、月に一度は顔を出すようになった。志郎の受け売りを丸呑みにしてラテン・ミュージックを肴《さかな》に酒を飲む山岡は、店に出入りするおカマに妙に評判が良かった。そのせいじゃないが、おれはまっとうな日本人の山岡が店に出入りすることにとやかく口出しはしなかった。
その山岡の父親が死んだ。山岡の田舎は熊本だった。山岡はおれに志郎を一週間ほど貸してくれないかといってきた。家族係累はすべて死に絶え、父ひとり子ひとりの親子だったらしい。せめて一週間は父親と一緒にいたいのだということだった。おれに否やはなかった。ちょうどおれも暇な時期だったのだ。志郎がいなくても〈カリビアン〉なんかおれひとりでも充分にやっていける。だが、志郎には食い物がつくれなかった。それで、おれが〈貞さん亭〉に行くことになった。おれは少なくとも簡単な中華料理ならつくることができた。慣れない仕事でずいぶん辛い思いをしたが、それなりの見返りはあった。山岡はおれから鍵を取り戻そうとはしなかったのだ。昼間なら好きに使ってくれ、と。
もちろん、これまでおれは〈貞さん亭〉を使おうなんて思ったこともない。堅気を巻き込んだらろくでもないことになるのが落ちだからだ。だが、おれは鍵を返したりはしなかった。おれのような人間は、保険をたくさんかけておくものなのだ。
店の中はおれが一週間働いていたころとほとんど変わっちゃいなかった。おれは明かりをつけ狭いカウンターの中へ入った。まな板の上に並べられた包丁類の中からプティナイフを拾いあげた。七センチほどのステンレスの刃がきらりと光った。これで充分だった。持っていた新聞の一ページを引き裂いて刃をくるみ、ジャンパーの袖に差し込んだ。それから手が触れたところをジャンパーの裾《すそ》で丁寧に拭いて店を出た。路地に積み上げられていた空のビールケースを持ち出して腰を下ろした。新聞を広げ、再び待った。
路地に人影はなかった。焼けつくような日差しがアスファルトにこびりついた小便や反吐《へど》の匂いをじりじりと焙《あぶ》っているだけだ。小便横丁に似てはいるが、ここは新宿じゃない。ほんのちょっとしか距離は離れていないが、ここらには昼間から飲み屋に入り浸って酒をあおる人種は存在できない。
駅を電車が通過する低い音が足元からわきおこってきた。息を深く吸い込んだ。新聞を持つ手が震えていた。煙草を取りだし、くわえた。火をつけようとしたときに、路地の向こうから影がのび、夏美が姿を現した。
夏美は問いかけるような視線をおれに向けてきた。顎《あご》をかすかに動かし、後ろからだれかが来ていることを告げる。おれが新聞に目を向けたまま答えずにいると、夏美は大股でおれの前を通りすぎていった。
夏美が四、五メートルほど進んだところで二人が現れた。ヒモが険しい視線を向けてきたが、おれはなにも気づかずに新聞を読みふけっている真似をしつづけた。
夏美が路地の向こうに姿を消した。それだけで、ヒモの頭からはおれの存在が消えうせた。ヒモは女の手を引き、はやる足取りでおれの前を通り過ぎようとした。おれは足を突きだしてその足を引っ掛けた。
ヒモは両手を前に突き出してアスファルトに転がった。おれはプティナイフを抜き出しながら立ち上がり、ヒモの脇腹を思いきり蹴った。それから口を開けて叫ぼうとする女の手を引いて抱きよせ、左手で口を覆ってナイフを喉元に突きつけた。
「駐ぐな。殺すぞ」
北京語で女にいいながら、もう一度ヒモの脇腹を蹴った。ヒモは身体を丸めて逃げようとした。口からはくぐもった呻《うめ》きが漏れてくるだけだ。逃がさなかった。もう一度蹴った。
路地の向こうに消えた夏美が戻ってきた。顔が引きつっていた。
「こっちへ」
声を抑えて叫んだ。叫びながらヒモを蹴りつづけた。夏美が駆け寄ってきた。おれは女を突き飛ばし、夏美にナイフを渡した。
「見張ってろ。叫ぼうとしたり逃げようとしたらすぐに刺せ」
夏美にも北京語でいった。女の顔が蒼ざめた。北京語を完璧《かんぺき》に理解しているのだ。夏美はうなずいた。眉間に深い皺ができていた。
おれはヒモに向き直った。ヒモは脇腹を抱えてうずくまっていた。その襟をつかみ、強引に引きずり起こした。店の引き戸を開き、中に引きずり込んだ。
「夏美」
外に声をかけながら、ヒモの腹に膝を叩きつけた。ヒモは胃液を吐きながらコンクリートの床をのたうちまわった。
夏美が女にナイフをつきつけながら入ってきた。夏美はドアを閉めた。それだけで、店内は息苦しいほどになった。
「だれに頼まれた?」
床に転がったヒモを立たせた。
「な、なんだってんだよ」
ヒモは顔をしかめながらとぼけた。その顔に額を叩きつけた。ごつんと鈍い音がしてヒモが腰から崩れ落ちた。最初から潰れていた鼻がさらにひしゃげ真っ赤な血を噴き出していた。その血を見た瞬間、背中の肌がぞくりと粟立《あわだ》った。
「だれに頼まれた」
おれの声は震えていた。はっきりそれとわかるほどに。
ヒモは左手を地面につき、右手で鼻を押さえたまま首を振った。その顔を蹴った。ヒモの顔がかくんとのけぞり、血を撒き散らしながら真後ろに倒れた。
「だれに頼まれた。いえ」
ヒモは動かなかった。おれは屈みこみ、ヒモの肩をゆさぶった。ヒモは気を失っていた。前歯が二、三本欠け、鼻が完全に陥没していた。やりすぎたのだ。ふだん、暴力に慣れていないとこういうことになる。
夏美と女に顔を向けた。女は脅えきった目を夏美とおれに交互に向けた。おれの腹の中になにかが生じていた。飢えた猫が爪をたてて暴れまわってるようだった。
「だれに頼まれた?」
おれはゆっくり足を踏み出した。女の目が大きく見開かれた。薄暗い照明に照らされた顔は、ホラー映画の中の化け物に出くわした女そのものだった。
「いえ」
女は首を振った。
「わたし、なんにも知らない。あの人が……」
女の頬を張った。乾いた音がして女の顔が弾けた。
「だれに、頼まれた?」
女は頬を押さえてしゃくりあげていた。おれに顔を向けるとまた殴られると思っているようだった。女の髪を掴んだ。強引にこっちを向かせ、髪を掴んだまま頬を張った。
「やめて!!」
「だれに頼まれた」
「…………」
「いっちゃいなさいよ。あんた、殺されるわよ」
夏美がおれと女の間に割って入った。ナイフをおれに押しつけ、女の両手首を掴んで顔を覗きこんだ。
「嘘じゃないんだから。あんたの男を殴るところ見たでしょ。この人、女だからって容赦しないのよ」
女は惚《ほう》けたような顔で夏美を見つめた。それからおれの顔を見、諦めたようにうなだれた。
「葉暁丹《イェシァオダン》」
震える声で女は答えた。おれの身体から一気に血の気が引いた。腹の中で暴れていた猫も、どこかへ消えてしまった。
葉暁丹というのは、歌舞伎町の数店のパチンコ屋を経営している老いた台湾人だ。もう、九十近い年になっているはずだった。あまり表には出てこないし、税金をごまかしているほかにはあくどいことはしていない――だからといって堅気とはいいかねる――が、年に一度、必ず楊偉民と一緒に食事をする。楊偉民の父親の代から付き合いのあったという古狸で、しこたま金を溜めこんでいる。楊偉民が歌舞伎町に君臨できたのも、葉暁丹の金を自由に使うことができたからだ。
おれも一度だけ楊偉民と葉暁丹の会食に相伴させてもらったことがある。それまで食ったこともないようなご馳走が出たはずだが、味わってる余裕なんかはなかった。食事の間中、葉暁丹は見透かすような視線をおれに向けつづけていた。そして、冷たい声でぽつりといったのだ。
「半々なんかをどうするのだ、偉民」
と。楊偉民はそれに対してなにも答えなかったが、葉暁丹の冷たい声はおれの耳にこびりついた。
その葉暁丹が動いている――楊偉民の肝いりだ。天文のせいで表立って動けなくなった楊偉民が、葉暁丹に話を持ち掛けたのだろう。なんにしろ、おれにとっちゃいい報せじゃない。楊偉民はかんかんに怒っているはずなのだ。天文を巻き込んだおれを、絶対に許したりはしないだろう。葉暁丹を動かしたことがそれを物語っていた。
「葉暁丹が直接おまえたちに命令したってのか」
自分でもうんざりするほど小さな声だった。おれの変調に気づいて夏美が振り返り、不思議そうに小首をかしげた。
「うちの人、葉|先生《シェンション》に借金があるんです」
それでわかるだろうというように女が答えた。それで日本に来てまだ日が浅いということがわかった。おれが顔を知らなくても無理はない。日本に腰を落ち着けた中国系の人間なら、だれだって葉暁丹に金を借りる愚かさを知っている。文字どおり尻の毛まで抜かれるのだ。
葉暁丹は見てくれはくたばりかけたじじいだ。パチンコ屋以外にはほとんどなにもせず、荒事を厭わない手下がいるわけでもない。ただ、気が遠くなりそうな額の金を持ち、その使い方を熟知している。
これは聞いた話だが、ある男が葉暁丹に金を借りたままパンクした。男は夜逃げを企んだが、葉暁丹の動きの方がはやかった。だれかがチクったのだ――おれは楊偉民だと踏んでるが。葉暁丹は台湾の流氓に命じて男と男の家族をかっさらった。流氓だって金で動いている。葉暁丹の頼みをきけば、楽に大金が転がり込んでくるのだ。相手が尊大で傲慢《ごうまん》なだけのじじいであったとしても、手足となってがむしゃらに働く。
男が葉暁丹から借りたのは一千万ほどだ。おれたちにとっちゃ大金だが、葉暁丹には雀の涙にもならない。それでも、葉暁丹は男を許さなかった。男に自分の手で家族を殺させ、その肉を食らわせたのだ。
おれにその話を聞かせてくれた流氓は心の底からブルっていた。葉暁丹には逆らっちゃいけない。それどころか、近づいたっていけない。葉暁丹は生ける災厄なのだ、と。
年のせいか、葉暁丹はここ数年自宅に引き籠ったまま滅多に表には出てこない。もっとも、その前から葉暁丹は基本的には自分の金にしか興味がなかったから、よっぽどのことがない限り流氓同士の争いに口を挟むこともなかった。だが、金と、昔ながらの中国人の残忍さでもって、葉暁丹は新宿に相変わらず睨みをきかせてるというわけだ。
「どうしておれの女があの喫茶店にいるってわかった?」
脳裏に浮かんだ葉暁丹の顔を振り払いながら訊いた。
「電話で、葉先生が教えてくれたわ」
目を細めて女の顔を見つめた。嘘をいってる感じはなかった。それでおれは混乱した。今日は朝早くから動きまわっていた。尾行には注意していたが、そんな気配はまるで感じられなかった。立ち寄った先も普段のおれからは予想もできない場所ばかりだ。唯一可能性があるのは、黄秀賢のマンションだが、あそこを出るときには最大限の注意を払っていたのだ。夏美の居場所を知るには偶然を頼るしかなく、おれは偶然を信じない質だった。
「台湾から来たのか?」
女は突然の質問に戸惑いを見せながらうなずいた。
「なんだっていまごろ?」
「あの人がちょっとしくじっちゃって、台北にいられなくなったのよ」
よくある話だった。ジーンズのポケットから札を取りだし、五枚数えて女に渡した。
「悪かったな。こんなに痛めつけるつもりじゃなかった。足りないかもしれないが、あんたの男の治療費だ」
女は感謝の言葉を吐くわけでもなく、受け取った金にじっと目を凝らして数を数えはじめた。
「なにか困ったことがあったら連絡をくれ。新宿の台湾人に劉健一と聞けば連絡先はすぐにわかる」
おれはカウンターの向こうに身を乗りだした。グラスを取り、それに水を張ってぶっ倒れているヒモの顔にかけた。ヒモの顔が歪み、目が開いた。定まらない視線があちこちを動いた。おれに気づいて敵意をみせたが、すぐに鼻を押さえて顔をしかめた。
そいつの肘を掴んで立ち上がらせた。
「行け」
女に顎をしゃくった。女は金を仕舞いこむと、ヒモに肩を貸し、うかがうような視線をおれに向けた。
「葉先生には何ていえばいいかしら」
「失敗したとでもいっておけよ。怪我をしたから金を上乗せしてくれぐらいのことはいっても損はないかもしれないぜ」
女はそれは気づかなかったとでもいうように顔を輝かせた。無知は哀れだ。葉暁丹が無駄な金を出すはずもない。
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二人は店を出ていった。ヒモの呻きが聞こえなくなると店の中は急に静まり返った。
夏美がおれの横にやってきて、ビニールが剥がれたストゥールに腰かけた。おれの手に自分の手を重ね、甘えるように身体を預けてきた。
「このまま帰しちゃってもいいの?」
「ああ、大体のからくりはわかったからな」
「どんなからくり? わたしにも教えてよ」
「おまえは知ってるさ」
夏美はきょとんとした表情でおれを見返した。
「どういうこと?」
「なんだって楊偉民に電話をしたんだ? なにを企んでる?」
できるかぎり静かな声で訊ねた。それでも夏美の表情は動かなかった。
「なにそれ」
夏美はいった。とぼけ方も堂に入っていた。
「それしかないんだよ」
煙草に火をつけた。
「おまえがあの喫茶店にいることを知ってる人間はだれもいない。おれかおまえが教えない限りはな。おれはだれにも教えてない。ってことは、おまえが教えたんだ。昨日、車を離れたのも楊偉民に連絡するためだったんだろう。へまをやったな。車から飛び降りた一世一代の演技もだいなしだ」
「わたし、楊偉民の電話番号なんて知らないよ」
夏美はおれにもたれかかったままだった。顔には成り行きを面白がってるような微笑みが浮かんでいた。
「とぼけたって無駄だ。おれにはわかっちまったからな。金を受け取りにいったときだ。たぶん、楊偉民の方から教えてきたんだな。小姐《シャオジェ》、健一はそれほど頼りになる奴ではない。困ったことがあったら連絡しなさい」
楊偉民の声を真似て北京語でいった。夏美は相変わらずとぼけた顔をしていたが、そうに違いなかった。なにをするにもまず保険をかけるというやり方を――たとえその保険が役に立ちそうになくても――おれは楊偉民から学んだのだ。
「いっちまえよ、夏美。おれだってしょっちゅう人を騙してる。怒ったりはしないから」
「健一がなにも教えてくれないからよ」
夏美は勢いよくおれから離れ、肩を抱えるようにしてカウンターに両肘を突いた。
「待ってる間ってずっと不安なの。いろんなこと考えちゃうのよね。それで、あのお爺さんに聞けば、健一が何を考えてるのか教えてくれるかもしれないと思って」
「それだけじゃないだろう。おまえが不安なのは、待つことじゃなくておれがうまくやれるかどうかだ。それで楊偉民の方にも渡りをつけて二股をかけようとしたんだ」
「だったらどうだっていうのよ」
夏美はさっと顔を向けてきた。おれはその顔に煙草の煙を吹きかけた。だが、夏美は瞬きもせずにじっとおれを見つめていた。闇に浮かんだ黒曜石の瞳は怯《ひる》むということを知らないのだ。
「なんでもない。ただ、おまえと楊偉民がどういう取り引きをしたのか知りたいだけだ」
「世間話をしただけよ。今どこにいるのかって聞かれたから、喫茶店の場所を教えただけ」
「そんなたわごとをおれが信じると思ってるのか」
夏美は小さく首を振った。
「健一の動きを教えてくれたら、それなりのお金を払ってくれる。それだけよ」
「そっちの嘘の方がまだいい」
「やっぱりね。健一は一度疑ったらほんとのことをいったって信じてくれないんだから」
「今度はどうするんだ。また車から飛び降りるか?」
夏美の手が伸びてきた。避けようと思えば避けられたが、おれはじっとしていた。夏美はおれがくわえていた煙草をもぎとり、それを自分の左手の甲に押しつけた。夏美の目尻に涙が溜り、肉の焦げる嫌な匂いが立ちこめた。おれは黙って夏美の黒曜石の瞳を見つめていた。憎悪と憤怒にぎらつく目を。
「わたしにはわかってる。今度のことが全部終わったら、健一は絶対わたしを捨てる。だから、一人になっても大丈夫なようにお金が欲しかった。それだけ」
夏美は身じろぎもせずにそういった。お笑いだったが、肉の焦げる匂いは本物だった。
「おまえを捨てようと思ったことは一度もない」
「思ってなくてもそうするのよ。わたしにはわかってるんだ」
夏美の瞳が微笑に変化した。そこに生じたのは、たしかに怯《おび》えの色だった。
夏美はなにに怯えているのだろう。おれに捨てられることか? まさか。
これ以上考えても無駄だった。夏美をいま切り捨てるのが最上の策だ。だが、夏美を手放したくなかった。頭が夏美を切れといっているのに身体が動かない、そんな感じだった。こんなことははじめてだった。
なんにしろ、夏美は必ずおれを裏切る。夏美を切ることができないのなら、これからは、それを頭に叩きこんで行動しなけりゃならない。
夏美の手から煙草の吸い殻をむしりとった。灰にまみれ、肉が焼けた手を取ってきいた。
「また、舐めてほしいか? 昨日したみたいに」
夏美はうなずいた。おれは舌を押しつけた。灰の苦みが口中に広がった。
「また、楊偉民に電話するんだろう?」
傷口に舌を這《は》わせたまま、きいた。夏美はうなずいた。
「それなのにおれはこんなことをしてる。おれがおまえを捨てるはずがない。おまえがこっぴどくおれを裏切らないかぎり……」
「健一……連れてってくれる?」
「どこに?」
「わたしがわたしじゃなくなれる場所。健一を裏切ろうとか、健一より他の人の方が頼りになりそうとか、そんないやらしいことを考えなくてもすむ場所。連れてってよ」
夏美は表情の失せた顔をおれの背中越しの空間に向けていた。はじめての子供を流産で失ってしまった母親のような顔だ。他人の哀れみを受け入れることもできずに、ただ呆然とそこにいる。
「いやなのよ。わたし、健一を信じたい。健一がちゃんとわたしを守ってくれるって信じたい。でも、それを嗤《わら》うわたしがいるのよ。小娘じゃないんだから、馬鹿なこと考えるのはやめなって。健一だってわたしを信じてるわけじゃないんだからって。健一はわたしの身体が欲しいだけなんだって。今までずっとそうやって生きてきたから……ほんとはいやなのよ、そういうの。そんなこと考えなくてもすむところに行きたいの」
傷を舐めるのをやめて夏美を抱きよせた。子供をあやすように背中を撫で、小さいがしっかりした声で夏美の耳に言葉を送り込んだ。
「夢を見たけりゃ見せてやるさ。おれにだってなにが欲しいのかなんかわかりゃしない。でも、おまえの身体なんかじゃないのは確かだ。世の中にはおまえよりいい身体をした女は腐るほどいるからな。そういう女どもはおまえよりも安全だし……おれにわかってることは、今すぐここを出て行かなきゃならないってことだ。おまえを置いて。実際、そうしようかと思った。おまえが煙草を手に押しつけたときにな。だけど、できなかった」
夏美が顔を上げた。鈍く光る目がじっとおれの目を覗きこんでいた。
「おれはおまえを連れていきたい。おまえが望む場所にだ。だけどな、そんな場所はどこにもないんだよ、夏美」
夏美の背が悪寒に襲われたように震えた。おれたちはしばらくの間、お互いの寒気を暖めあうように、なにもいわずにただ抱き合っていた。
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手が触れた場所をくまなく拭って〈貞さん亭〉を出たときには二時を回っていた。無駄な時間をずいぶんと過ごしてしまったというわけだ。酷《ひど》い話だ。おれはすっかりいかれてしまっていた。女とヒモがおれたちの居場所を知っている。楊偉民が何を企んでいるかはわからないが、へたをすれば襲撃されていたかもしれない。一刻も早くこの場所を離れるべきだったのだ。
おれを狂わせているのはもちろん夏美だ。おれが知っている中でも最悪の嘘つき女だ。だがおれは夏美を振り切ることができない。夏美の口から出るでまかせよりも、夏美が身体を張って示すはったりにがんじがらめにされている。そして、あの目……。たぶん、夏美の中にある狂気が、おれ自身が裡に秘めている狂気とシンクロしてしまうのだ。
おれは他人を愛したことがない。自分自身すら愛したことがないんじゃないかと思えるぐらいだ。だから、おれのこの気持ちが愛なのかどうか、よくわからない。愛するということに関して、おれはまったくの無知だ。おれ自身の言葉で語るなら、これはやっぱり狂気なのだ。おれは夏美を手放したくなかった。あの台湾の殺し屋、白天のようにナイフを手に夏美の身体を切り刻んで、すべての肉をおれの胃の腑に納めたかった。あるいは、逆に夏美にそうされたかった。夏美の手でおれのちんけな人生に終止符が打たれるのなら、それほど悪態をつかずに地獄へ行けそうな気がする。
そして、これがなによりも厄介なのだが、おれは夏美にとって必要な人間でありたかった。これが愛だというのなら、人間てのはどこまで愚かにできあがっているんだろう。
「どこへ行くの?」
夏美がいった。おれたちは東中野駅のホームに立っていた。
「銃を買いに行く」
「持ってたやつは?」
夏美はおれの新しいファッションにいまさら気づいたというように後ろへ下がっておれの上半身を見た。
「捨てた。この上着じゃ目立つんだ。……そうだな、銃を買う前に上着を手に入れなきゃならない」
「わたしに選ばせてよ」
夏美は嬉しそうにいって、おれの肘に腕を絡めてきた。
風が舞って電車がホームに滑り込んできた。おれたちはその電車で新宿まで行き、マイシティ・ビルで上着を買った。夏美が選んだのはポール・ステュワートのネイヴィ・ブレザーだった。おれにはトラッドが似合うらしい。文句もいわずにヘインズのTシャツとそれを他人名義のクレディットカードを使って買った。目白の金《キム》がときおりこしらえてくれる一回こっきりの使い捨てのカードだ。店員はにこやかな笑顔でおれたちを送り出しただけだった。エレベータ脇のトイレで着替え――サングラス以外のパチンコの景品はゴミ箱に捨てた――また電車に乗った。
迷ったのだが、結局、華聖宮《ファションゴン》には夏美も連れていくことにした。馬曼玉《マーマンユイ》はとんでもないおしゃべりだが、どっちにしろ今夜ケリがつかなきゃおれはおしまいなのだ。いまさら慌てたってしかたがない。
華聖宮は相変わらず香の煙と匂いでむせ返っていた。馬曼玉はチャイムを鳴らしたのがおれだとわかると、肉に埋もれた目を大きく見開いた。馬曼玉の目がそれほど広がるとは驚きだったが、夏美に視線を移したその目はさらに大きく見開かれた。
「おやおや、健一が続けてここに来るほど信心深くなったとは信じられないけど、こんな奇麗な小姐《シャオジェ》を連れてるって方はもっと信じられないね」
馬曼玉は嬉しそうに笑って、おれより先に夏美を中に招きいれた。ここの祭壇に際限なく金をばらまくのは決まって女だ。馬曼玉の目には女は金にうつるのだろう。
中には三人の先客がいた。タイ人らしいのが二人、大陸が一人。三人とも歌舞伎町で顔を見る淫売だ。三人はキッチンのテーブルに座っていた。張國柱《チャングォチュー》がつくったらしい麺《めん》の入った器がテーブルには置かれていた。
馬曼玉とは違って、淫売たちは険しい視線を夏美に向けた。だが、夏美はそれを相手にせず、珍しそうに部屋のあちこちに視線をさまよわせていた。奥の祭壇に目を止めると、かしこまった仕種で近づき、線香をあげはじめた。
「信心深い小姐だね。あんたにしてはいい娘を見つけたよ」
馬曼玉は夏美の動作を見守っていたが、ふいにおれに顔を向けた。
「それにしたってどうしたってんだい。あんたが立て続けにここに来るなんて。いっとくけど、こないだ話した以上の情報はないよ」
「今日は買い物にきたんだよ、婆さん」
「あんたが買い物だって!? まったく、世の中どうなってるのかね。商売替えでもする気かい。余計なお世話だろうけど、やめといた方が無難だよ。あんたはどう見たって銃が似合うって柄じゃないんだから」
「わかってる。護身用に欲しいだけなんだ」
顎《あご》をしゃくって夏美を示した。
「あの女のためにな」
馬曼玉は納得がいったというように深くうなずいた。
「そういうことならうるさくはいわないよ。近ごろは物騒だからね」
おれの手を引きながら、馬曼玉は祭壇の隣の部屋へ入った。
「で、どんなのがいい?」
「小さいやつだ。だが、小さすぎても困る」
「だったらあれがいいよ」
馬曼玉はおれに背を向けて、押入を開いた。中に潜り込み、なにやらごそごそと動いていたが、やがて右手に黒光りする鉄の塊を持って這い出てきた。
「どうだい。なかなかお目にかかれるものじゃないよ」
馬曼玉が手にしていたのは、黒星より一回り小さいオートマティックだった。グリップの中央にベレッタのマークが刻まれていた。コピーじゃない、本物のベレッタだ。口径は、恐らく三十二だろう。
おれは馬曼玉からベレッタを受け取って、ざっと点検してみた。作動状態は悪くなかった。
「弾丸はあるのか?」
聞いてみた。日本じゃ、銃より弾丸を手に入れる方が難しい。昔はリヴォルヴァー用の三十八口径が主流だったが、大陸から黒星が大量に出まわるようになってからオートマティック用の九ミリが市場を席捲《せっけん》している。なんにしろ、三十二口径の弾丸は滅多に手に入るものじゃない。
「当たり前さね」
馬曼玉はそういって、キッチンの方へ顔を向けた。
「國柱、あれを持ってきておくれ」
台湾語だったが、それぐらいの単純な言葉ならおれにも理解できた。
すぐに、張國柱がやってきた。張國柱は、手に持っていた平べったいクッキーの缶をおれに差し出し、なにもいわずに蓋を開いた。缶の中身はおびただしい銃弾だった。二十二口径からはじまって、三十八、四十五、四十四マグナムまでが揃っていた。もちろん、大小の銃弾の中には三十二口径のものもあった。
「銃は二十、弾丸は一発につき二万だよ」
三十二口径の弾丸を選り分けているおれに、馬曼玉がいった。
「馬鹿いうなよ。銃が十五で、弾丸は一万がいいところだ」
「なんだって!? 健一、あんた自分が何をいってるのかわかってるのかい? その銃は滅多にない掘り出し物なんだよ」
「婆さん、今時こんな銃を買おうなんてやつはいないんだ。需要と供給の関係で行けはおれの言い値がせいぜいだろう」
ベレッタのグリップからマガジンを外して弾丸をこめはじめた。八発。マガジンがいっぱいになった。
「呉富春といい、あんたといい、年寄りを飢えさせる気かい。まったく罰当たりめ。まからないよ。ビタ一文まけるもんか」
「売り時ってもんを考えろよ。こんなもの、後生大事に抱えてたって腐らせるだけだ」
「國柱、なんとかいっておくれよ」
馬曼玉は黙ってつっ立っていた張國柱に泣きついた。張國柱は細い目をしばたたかせ、唇を舌で湿らせて、躊躇《ためら》いがちにおれに声をかけてきた。
「健一君、曼玉の無礼な物言いは許してくれ。しかし、曼玉もこれが商売でな……わかってくれんか」
おれは弾丸を装填《そうてん》したベレッタを腰に差した。それから、首を傾けて張國柱の哀しげな顔に視線を合わせた。張國柱の目はしきりになにかを訴えていた。
「老張《ラオチャン》、できることなら曼玉婆さんの言い値を払ってやりたいんだ。だが、ここんとこのゴタゴタのせいで、金がない。銃に十五、弾丸が一万。それ以上は払えないんだよ」
張國柱はため息をついて、馬曼玉に向き直った。
「ない者からはもらえん。諦めるんだな。それで充分じゃないか」
「あんた、気でも狂ったのかい。あたしは……」
「曼玉!」
張國柱はいきなりドスの効いた声で馬曼玉の言葉を遮った。はらわたが痺れるような、性根の据わった声だ。張國柱の枯れ枝のような身体のどこから、こんな声が出るというのだろう。
「な、なんだよ……」
「わたしらは世間様に胸を張れるような商売をしているわけではない。分をわきまえんと、そのうち天罰が下るぞ」
張國柱の剣幕に、さすがの馬曼玉も度肝を抜かれたようだった。柄にもなくしおらしい態度でうなだれていた。
「よかろう、健一君、困ったときは相身互いだ。十五万でその銃を譲ろう。弾丸はサーヴィスだ」
「あ、あんた」
「これでいいんだよ、曼玉。健一君は今日のことを忘れたりはしない。そのうち、必ずなにかでわしらに報いてくれるはずだ」
「助かるよ、老張。今はなにもお返しできないが、そのうち、必ず……」
ポケットから札を取りだし、十五枚数えて不満そうに唇を突きだしている馬曼玉に差し出した。
「謝謝《シェシェ》」
張國柱は悟りを得た聖者のように微笑んだ。
隣の部屋にいた夏美に声をかけ玄関に向かった。馬曼玉はすっかり不貞腐れているのだろう、部屋から出てこようともしなかった。代わりに、張國柱がおれたちをドア先まで送ってくれた。
「助かったよ、老張」
馬曼玉に声が届かないことを確認して、おれはいった。
「あの婆さんから値切るのは骨が折れるからな」
「なに。お安い御用だ。それより、健一君、頼みがあるのだが」
「わかってるよ。いくらだ?」
「値引きした弾丸の分、八万でどうかな?」
おれは苦笑しながら八万を手渡した。
「最近、華聖宮の老張がタイの女に首ったけだって噂が流れてるぜ。気をつけないと、曼玉婆さんの耳に入る」
張國柱は照れたように耳の後ろを掻いた。年をとってからの女遊びは見境がつかないというが、この真面目を絵にかいたような痩せた老人も、その轍《てつ》を踏んでしまったのだ。おおかた、祭壇を拝みにくるホステスとなるようになってしまったのだろう。年をとれば欲望も減っていくというのは嘘八百だ。人間は幾つになったって、心の奥のどろどろした欲望の沼の中で淀んだまま生きているのだ。
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「はい」
呼び出し音がきっかり三回鳴った直後に、楊偉民《ヤンウェイミン》のひび割れた声が聞こえてきた。
「おれだよ」
「どうした?」
「いろいろやってくれるじゃないか。まさか、葉暁丹《イェシァオダン》を動かすとは思ってもいなかったよ」
「なんのことだかわからんな」
「まあいいさ。じたばたしたくなる気持ちはよくわかる」
「用がないなら切るぞ」
「黄秀紅《ホヮンシウホン》に男がいる。誰だか知らないか?」
電話回線に沈黙が降りた。煙草に火をつけ、待った。
「初耳だ」
ぼそりといった感じの、楊偉民の声がやっと聞こえてきた。
「調べられるかい?」
「やってみる。二時間後にもう一度電話をくれ」
「わかった。なにをしてもいいけど、今夜の約束だけは忘れるなよ」
「くどい」
「なんなら、夏美と電話をかわろうか?」
楊偉民はなにもいわずに電話を切った。馬鹿げているとはわかっていたが、してやったりという爽快感があって、顔に浮かぶ笑みを抑えることができなかった。
いったん受話器をおろし、今度は〈カリビアン〉のダイアルを押した、呼び出し音が二回鳴って、留守録のメッセージが流れ出した。暗証番号を押して、メッセージを確認する。
遠沢からだった。
「呉富春の件で千葉にいる。これから東京に戻るが、早く話を聞きたいっていうなら、携帯に電話をくれ」
その後に携帯の番号が吹きこまれていた。遠沢が携帯電話を手に入れたとは知らなかった。故買屋をやめて盗聴屋になった方がよっぽど儲かるかもしれない。
電話が入った時は一時ちょっとすぎ。おれは腕時計を見た。もうすぐ、二時を回るところだった。富春の居場所は掴んでいるのだから、もう遠沢の情報はいらなかった。だが、情報はときには金よりも価値を持つ。夜になれば忙しくて遠沢の話を聞いている暇もなくなるのは目に見えていた。
おれは受話器を置き、後ろを振り返った。道路一本隔てた向かいのマクドナルドのガラス越しに、夏美が手を振っていた。身振りでもう少し待てと伝え、おれは遠沢の携帯電話を呼び出した。
「はい、遠沢」
「劉健一だ。なにかわかったか?」
「もう参ったよ。坂本香子はとんでもないアル中のくそ婆ぁだった。日本語もよくできないし、話を聞き出すのに一苦労だったよ」
「坂本香子?」
「ああ、呉富春のおふくろさ。中国名は陳秀香《チェンシウシャン》……こないだ話しただろう?」
「ああ。そうだったな」
「坂本香子は呉富春にはここ十数年あったこともない。あんなけだものはわたしの子なんかじゃない、みたいなことをいってたよ。酒を飲ませていろいろ聞いたところじゃ、典型的な帰国残留孤児家庭だな。あんたの気に入りそうな情報はほとんどなかった。父親の死因は肺癌で疑いようがないし、長女は大陸で病死してる。刑務所に入っている長男も、やくざになったってだけの話だ」
「もうひとり、妹がいるんじゃなかったか?」
「それだよ、旦那」
遠沢の声が嬉しそうに弾んだ。
「坂本家のガキどもは死んだ長女を除いて、そろいもそろってクズぞろいらしいが、中でも末娘の呉富蓮《ウーフーリェン》が極め付きだ。日本名は坂本真智子。おれがその娘のことを聞きはじめたら、おふくろさん、悲しいぐらいに取り乱しやがった」
「勿体《もったい》つけるなよ」
「坂本香子は最後までなにも話しちゃくれなかった。しょうがないから近所で調べたんだ。坂本真智子はこの辺じゃ有名人だ。悪ガキどもに股を開いちゃ取り巻きにして、女王様気取りで肩で風をきってたらしい」
おれは新しい煙草に火をつけた。ときおり雑音が入るが、遠沢の楽しげな声は途切れることなく続いていた。
「高校に入ったころには、中国帰りのヤンキー娘ってんで、ブイブイいわせてた。万引き、かっぱらい、トルエン遊び、リンチ、暴行、売春……なんでもありだ。まあ、ただこれだけじゃどうってことはない。田舎に行けばいくらでも転がってる話だよな。問題はな、坂本真智子は二人の兄きとも寝てたってことだ」
急に遠沢の声が遠くなった。電波がおかしくなったわけじゃない。おれの心臓が跳ねまわりはじめていた。
「あの頃悪ガキだったやつらには有名な話みたいで、みんな知ってたよ。最初は長男と乳くりあってたそうだ。その長男が懲役を喰らったら、今度は富春。どうも、自分の方から誘ってた節がある。どうだ? 狂暴な兄貴が二人バックについてる上に、平気で近親相姦をするような娘だ。田舎の暴走族なんかすぐにビビっちまうぜ。しかも、ただでやらせてくれるんだ。だれも真智子に逆らうやつはいないよ」
「で、その真智子はいま、どこにいるんだ?」
おれは立て続けに煙草をふかしながら聞いた。受訴器を握る手が粘つく汗に濡れていた。
「噂を聞いただけで確認したわけじゃないが、名古屋にいるそうだ」
遠沢は屈託のない声でとどめの銃弾をおれの心臓に撃ち込んだ。
「わかった」
おれは煙草を唇に張りつかせたままいった。道端に落ちている新聞紙が風に舞ったときに立てる音のような声だった。
「詳しい話は戻ってきたときに聞くよ。手間をかけたな」
「じゃあ、またあとで」
受話器をおろした。根元まで吸い尽くした煙草が、ちりちりと唇を焦がしていた。その煙草を吹き飛ばしながら、ゆっくり身体を反転させた。
夏美がコーラのストローをくわえてまっすぐこっちを見ていた。
王莉蓮《ワンリーリェン》。夏美はそれが本名だといった。小蓮《シャオリェン》。富春は夏美のことをそう呼んだ。王莉蓮に呉富蓮。どちらも小蓮だ。富春と交わした会話が次々に蘇ってきた。へたくそな富春の嘘。そして、とらえどころのない夏美の嘘。ようやく繋がった。
夏美は坂本真智子。呉富蓮。富春の妹だ。実の兄と寝る女だ。
おれは両方の掌をジーンズにこすりつけた。それから、軽やかな微笑みを浮かべて、手招きで夏美を呼び寄せた。
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「ねえどうしたの?」
夏美がいった。ツインの片割れのベッドに腰かけ、両足をぶらぶらさせて、眉を寄せた顔をおれに向けていた。
「なんでもない。ちょっとナーバスになってるだけだ」
窓越しに新宿の街並みを見下ろしながら答えた。京王プラザの二十二階から眺める新宿は、デッサンが微妙に狂ったスケッチみたいなものだった。どこがどうだとはいえないのだが、見る者を不安にさせる。
「チェックインしてから、ずっとおとなしいから……」
夏美は最後までいわずに言葉を濁らせ、勢いをつけてベッドから立ち上がると、おれの腰に抱きついてきた。
ちらりと腕時計を覗いた。三時半。チェックインしてから三十分ほどが過ぎていた。
背中に夏美の乳房の感触を感じながら、おれは考えるのをやめなかった。夏美と富春のことを。おれが生まれて初めて味わう不思議な感情のことを。
夏美の過去はおれになんの打撃も与えなかった。そんなこと、おれにはまったく関係がない。夏美がやはり嘘をついていたということも同じだ。おれは初めて会ったときから、夏美が病的な嘘つきだということを知っていた。そして、近親相姦。これもどうってことはない。
おれのおふくろは母親としては最低だったが、女としてはかなりいい線をいっていた。四十近い年になっても三十前後にしか見えないという類の女だ。初台《はつだい》にいたときは家にこもりがちで男の影もなかったが、楊偉民の肝いりで大久保に越してきてからは何人もの男をくわえこむようになった。おふくろは酒が入るととてつもなく淫らになるということを、おれは初めて知った。
そのころのおれは思春期の真っ只中というやつで、自分の意思ではどうにもならない股間の猛りを持て余していた。夜毎男を連れ込んでくるおふくろの喘ぎ声に、おれは悶々としながら聞き耳を立てていた。
あれは今みたいな蒸し暑い夏の終わりの夜だ。おれはベッドを抜け出して、おふくろの寝室を覗きにいった。薄暗い部屋の中で睦みあうおふくろと男。男の脇の間から天井に向かって伸びるおふくろの白い足が今でもおれの網膜に焼き付いている。おれはパジャマの中に手を突っ込んで痛いほどに膨張している男根をこすった。ほんの二、三秒でおれは爆ぜていた。
罪悪感に悩まされながら、おふくろの濡れ場を覗くことをやめることができなかった。毎晩のように息を殺しておふくろの寝室を覗いては、マグマのように熱く粘つく精液をティッシュの中に撒き散らしていた。
そのうち、勘のいいおふくろがおれの覗きに気づいた。おふくろはなにもいわなかったが、態度でおふくろが気づいていることにおれも気づいた。それで、おれは夜マンションに戻ることをやめた。明け方まで歌舞伎町をぶらつき、太陽が昇ってからこっそり部屋に戻り、眠りに就いた。
そんな生活が五日ほど続いたときだ。夕方、学校から戻ると、おふくろがキッチンで酒を飲んでいるのに出くわした。普段、おふくろは家では一滴も飲まなかった。今から考えれば、酒が入ったときの自分の淫乱さを自覚してセーブしていたに違いない。
おふくろの目は真っ赤に充血し、濁っていた。アルコールの瘴気《しょうき》がおふくろの身体全体にまとわりついていた。おふくろはじっとおれの顔を見つめ、なめくじのような舌で唇をねっとりと湿らせた。おふくろは、ここはおれの家なのだからいてもいいのだ、というようなことを呂律の怪しい口調で囁いた。わたしの裸を見たいなら、いつでもそういえばいいのだ、と囁いた。ヒステリックなおふくろはそこにはいなかった。鬼の顔でおれの背中を打擲《ちょうちゃく》するおふくろはそこにはいなかった。ただの酔っ払って淫らになった女がおれの目の前にいるだけだった。
おれはなにかに魅入られたようにおふくろに近づいた。おふくろの手が伸びてきて、おれの学生服のズボンをおろしていくのを、息をのんで見守っていた。おふくろの唇がおれのものを包みこむまで、おれは阿呆のように立ち尽くしていた。
それからは数え切れないぐらいおふくろの口の中で果てたが、おふくろは最後の一線を踏み越えることだけは決して許さなかった。おれはそんなことにはこれっぽっちの意味もないと感じていた。やりたくてしかたがなかった。おれはおふくろを憎んでいた。おふくろは母親なんかじゃなかった。憎み、侮蔑し、ボロ切れのように使い捨てる類の女でしかなかった。顔も知らぬ親父はおふくろを嫌って家に寄り付かなかったのだとおれは思っていた。おれが楊偉民以外の台湾人から白い目で見られるのは、おれの身体に流れる日本人の血のせいだと思っていた。それは、おふくろの血なのだ。おふくろの血のせいで、おれは親父から見捨てられ、台湾人社会でも異端児としかみなされなかった。おれは心の底からおふくろを憎み、侮蔑し、そして、怖れていた。
おふくろはおれのものに舌を這《は》わせながら、いつも譫言《うわごと》のようにさえずっていた。この中国人に監視された中でおふくろを守れるのはおれしかいないのだ、と。おれに見捨てられたら自分は死ぬしかないのだ、と。だが、その舌の根も乾かぬうちに、おふくろは男とともに出奔した。相手の男は大阪のやくざだった。喧嘩が強いのと、股間に真珠を埋めこんでいるのだけが自慢というような、ちんけで安っぽいやくざだった。おふくろはそのやくざを一週間連続して家に連れこんだ。その一週間、おふくろのよがり声はいつになく凄まじかった。そして、八日目におふくろはいなくなった。置き手紙ひとつなかった。さよならもいわずに、おふくろはいなくなったのだ。
おれは世間のやつらが口にするモラルほどあやふやなものはないことを知っている。最初にそれを教えてくれたのはおふくろだ。欲しいもの、必要なものは暴力で、それができないのなら口八丁で奪い取ればいい。
夏美が血の繋がった兄たちと寝たのは、決して性欲からなんかじゃない。狂暴な兄たちを手なずけ、奴隷のように従えるには自分の肉体を差し出すのがベストだと判断したのだ。兄であろうが、街の不良であろうが、夏美の判断には迷いがなかっただろう。夏美は打算で動く生き物なのだ。
おれにはわかる。夏美は常に怯えながら生きていたに違いないのだ。常になにかを憎みながら生きていたに違いないのだ。夏美の目の色が持つ意味を、おれはやっと理解した。夏美は、おれと同じ場所で生まれた生き物だったのだ。
「ねえ、さっきの電話でなにかあったの?」
夏美の息の温かさが、背中から身体全体に広がっていった。その温かさが、歓喜となっておれの身体の中を駆け抜けていった。
「わかったのさ、小蓮」
北京語でいった。夏美の身体がぴくりと震えた。
「なにが?」
「おまえは呉富蓮。富春の妹だ」
夏美がさっとおれから離れた。おれは振り返り、遠退こうとする夏美の腕を掴まえた。
「小蓮と呼んでもらいたいか? それとも真智子の方がいいか?」
「……小蓮」
夏美――小蓮は顎を引いておれの目を見つめていた。怯えたふりを装って、おれの目の色を探っていた。
おれは小蓮を抱き寄せた。
「実家を調べさせたのね?」
小蓮は身体の力を抜いておれの胸にもたれかかった。
「おれには嘘なんかつかなくったってよかったんだ」
「だって……わたしがなにをしてたか、知ってるんでしょ? ほんとのことなんか、いえないよ」
「おれに嘘をつく必要なんかなかったんだ」
「健一……」
「おれがお前だったら、同じことをする」
「だけど……」
「言い訳もしなくていい。小蓮、必要にかられたら、おまえ、今でも同じことをするだろう?」
小蓮は顔を上げておれの目を覗きこんだ。昏《くら》く輝く小蓮の目が、すばしっこい栗鼠《りす》のように動きまわっていた。おれは心配するなといってやりたかった。おれとおまえは同じなんだ、と。だが、口で伝えても、小蓮は信じないだろう。だから、おれは聞いてやった。小蓮が納得するように。
「名古屋で富春と出会ったのはほんとうに偶然なのか?」
「わたし、十七の時に千葉の家を飛び出たの」
おれの質問の仕方が間違っているとでもいいたげな口調で小蓮は話しはじめた。
「いやでいやでしょうがなかった。わたし、自分を守るためには身体を使うしかなかった。最初は学校のいじめから逃げるため。中国人、中国人っていじめられて、まるで地獄みたいだった。だから、いじめのボスみたいな男の子と寝てあげたのよ。次の日からいじめはなくなったわ。でも、わたし、ボスの取り巻きの男の子たちみんなと寝なきゃいけなくなっちゃった。ただでやらせてやるのがしゃくだったから、いろんな注文をつけたの。そのうち、みんなわたしのいうことを聞くようになったわ。だって、わたしの気に入らないやつをちょっと痛い目にあわせてくれば、あそこをしゃぶってもらえるんだもの。でも、いうことを聞けばやらせてくれる女だって噂が広まって、暴走族や地元のチンピラがまとわりついてくるようになったの。いくらわたしでも体が持たないわ」
小蓮の口からしゃがれた笑いが漏れた。
「一番上の兄を誘惑したの。わたしを抱きたかったら、あいつらをみんなやっつけてって。おかげでその兄は暴走族を三人殺して刑務所に行ったわ。次は富春。簡単よ。二人とも実の妹のわたしを、獣みたいな目で見てたんだから。でも、そのうち耐えられなくなってきた……わたしと富春がセックスしてるのを、お父さんとお母さんがじっとうかがってるのよ。なんにもいわないで。家でするのはいやだっていっても、富春はお金がなかったし、あそこが立っちゃったらいつでもどこでもやりたいって具合だったから……それで、お母さんのためてたお金を盗んで、スポーツバッグに服をつめて飛び出したのよ。最初は東京に行こうかなと思ってたけど、あまりに近すぎるから名古屋に行ってみたわけ。名古屋はいいところだったよ。富春に偶然出くわすまではね」
小蓮はいたずらっぽくおれに微笑みかけてきた。
「ここまででなにか言いたいことはない?」
「ない」
小蓮の目を見つめたまま、おれは答えた。
「好きよ、健一」
小蓮は少しだけ身体を起こし、おれの頬にキスした。すぐにおれの胸に背中を押しつけ、続きを話しはじめた。
「店がはねて、同僚の女の子と中華レストランにご飯を食べにいったの。そこに、富春がいたのよ。小蓮、って……富春の声を聞いた瞬間地獄に叩き落とされたような気がしたわ。その晩のうちに富春はわたしのマンションに転がり込んできて、わたしは犯された。ほんとよ。千葉にいた時と違って、わたし本気で抵抗したんだから。でも、無意味よね。一度犯されてからは、もうどうでもいいやって思っちゃって……後はね、だいたい前に話したような感じ。毎晩のように富春に犯されて、稼いできたお金は勝手に使われて、なにかあるたびに殴られて、怯えて暮らしてた」
「どうして今になって富春を殺したくなったんだ?」
「妊娠したの。わたしがいくらゴムをつけてってたのんでも、富春は聞かなかったから……妊娠がわかったその日に、堕胎したの。そして、富春を殺すことにきめたの。わかった?」
「わかった」
おれは小蓮を抱えあげ、ベッドの上に放り投げた。
「おれと知り合う前におまえが誰と寝ようと、おれの知ったことじゃない。おれが手に入れることができるのは今目の前にいるおまえだけだ。いいか、小蓮、おれを利用したけりゃ、すきなだけしろ。おまえになら、利用されてやる」
小蓮の目を見たまま、おおいかぶさった。
「だが、おれから逃げようとしたら、殺してやる」
いいながら、ペニスを引っ張り出し、小蓮のスカートをめくって下着の横から突き刺した。小蓮は一瞬顔をしかめたが、なにもいわずにおれを見返していた。
「まず富春を殺してやる。いいな」
小蓮はうなずいた。深く、強く。そして、おれの首にきつく抱きついてきた。
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「最初はね、健一も死んじゃえばいいと思ってた」
おれの左腕を枕にしながら、小蓮が口を開いた。おれも小蓮も、裸でシーツにくるまれていた。
「富春はね、ほんとに健一のこと自慢してたんだよ。頭の切れる最高のダチだって。富春が人のこと誉めるの、聞いたことなかった。きっと、酷いやつなんだろうと思ってた。富春みたいな」
「おれにはダチなんかいない」
「知ってる。健一はわたしとおんなじだもん」
首をひねって小蓮を見た。小蓮はこれまで見たことのないような穏やかな笑みを浮かべていた。無償の愛情か、それとも素晴らしい演技。どっちでもよかった。
「あのぼろアパートで初めて会ったときに、あ、この人わたしとおんなじだって、びびっときたのよ。絶対に信じちゃいけないって、何度も思った。健一がわたしのカードやなんかを持っていった時は、ほんとに悔しかった。あんなに気を許しちゃいけないって思ってたのに。何度も、あのまんま逃げ出しちゃおうかと思ったわ。どうして逃げなかったか、わかる?」
「おまえが馬鹿だからだ。おれに気を許しちゃいけないってのに、おまえはあっさりマンションの場所をおれに教えた。金がかかってるからな、おまえはどうしたってあのマンションから離れられない。逃げたって、いつかはおれに掴まるんだ」
「疲れてて、うまく頭がまわらなかったのよ」
「いいわけにはならないぞ」
「わかってる。でもね、それだけじゃないんだよ」
小蓮はそういって勢いよく身体を回転させた。脇のすぐ下に小蓮の鼻がきて、吐息がおれの腋毛《わきげ》をくすぐった。
「健一は信じないだろうけど……わたし、考えたの。もし健一がわたしと同じだったらって。もしそうなら、わたし、もう一人じゃなくなるのかもしれないって」
おれはなにも答えなかった。黙ってホテルの部屋のうそ寒い天井を見つめていた。
「だから、しばらくの間は健一と一緒にいようって決めたの……やっぱり、信じない?」
「信じるさ」
天井を見つめたまま、いった。身体中の神経が麻痺してるような感覚に襲われていた。おれはここでなにをしてる? この女となにを喋《しゃべ》ってる? ずっと胸のうちでくすぶり続けてる疑問。だが、唇は動きつづけた。
「おまえはおれという人間に自分と同じ匂いを嗅いだ。怖れと希望を抱いた。だから、おれにくっつき、同時に楊偉民と連絡を取って保険をかけた。おれの知らないところでもいろいろやってるのかもしれないが、前にもいったように、おれがおまえでも同じことをする。信じちゃいけない理由なんか、どこにもない」
沈黙がおりた。おれたちは肌をくっつけあったまま、身じろぎもせずにいた。
「わたしたち、ほんとはずっと一人でいるべきなんだよね」
やがて、ぽつりと小運がいった。その通りだった。だが、おれたちはであってしまった。いつだって、現実は後戻りがきかない。
小蓮の手が股間に伸びてきた。すぐにかたくなる。そう、頭で考えることなどどうでもよかった。小蓮があいてなら何度だっておっ立つことができた。身体が小蓮を求めている。それだけが信じられるすべてだ。
小蓮がシーツの中に潜り込み、おれの先端に軽く歯を当てた。おれたちは、二匹のけものだった。
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いつの間にか眠っていた。夢も見なかった。こんなのは初めてだった。
むず痒《がゆ》さを覚えて目を開けると、俯《うつぶ》せになった小蓮がおれの頭を撫でていた。その手を払いのけて起き上がり、時計を見た。
五時ちょっと前。楊偉民に電話をしなけりゃならない時間をかなり過ぎていた。
床に転がっていたベレッタを拾い上げて、バスルームに向かった。むかっ腹が立っていた。
よくはわからないが、おれは小蓮を愛しているのだろう。だが、それと小蓮を信じることは別だ。小蓮が何をするかわからないのに、薄汚く眠りを貪るなんて、間抜けにもほどがある。
熱い湯をひねってその下に立ち、目を閉じた。肌がひりひりする熱湯が、おれの弛緩《しかん》した神経をきりきりと巻き上げていくようだった。
五分ほどそうしてから、おれはシャワーを冷水に切り替えバスルームを出た。手荒く身体を拭い、服を身に着けた。その間、小運はベッドの上で黙っておれを見つめていた。
「シャワーを浴びて、着替えろ。おれはその間、電話をかけてくる」
小蓮は小さくうなずいて起きあがった。
「なにを着ればいい?」
「動きやすけりゃ、なんだっていいさ」
「わかった」
そう答えると、小蓮はおれに見せつけるように尻をくねらせて、バスルームへ消えていった。おれはルームキィを手にして部屋を出た。
エレベータでロビィまでおり、空いている電話を見つけた。五時二十分。急がなきゃならない。
「おれだ。遅れて、すまない」
楊偉民が口を開く前に、おれはいった。
「大勝負の前だというのに、余裕だな、健一」
「いろいろとしなきゃいけないことがあるんでね」
楊偉民の皮肉に、そう応じた。おれがいろんな保険をかけていると思わせるためのはったりだ。
「で、わかったかい?」
「わからん。ガセねたではないのか?」
楊偉民は間をおかずに答えた。
「確かな筋から聞いたんだ。あんたでもわからないとなると……」
言葉を濁した。なにかがひっかかる。だが、それがなんなのかはわからなかった。
「できるだけのことはした。それでわからんのだ。諦めるしかなかろう。どっちにしろ、あと少しで元成貴はこの世からいなくなる」
「わかった。もう、どうしようもないからな」
おれはもどかしさにかられていたが、抑揚のない声を受話器に吹きこんだ。
「じゃあ、小文の店でもよろしく頼む」
「わかっておる。元成貴はついさっき〈咸享酒家《シェンシァンジゥジァ》〉に入った。あそこから天文の店に向かうつもりだろう。おまえはうまくあいつをはめたというわけだ」
楊偉民は乾いた笑いを立てて電話を切った。楊偉民の最後の言葉を噛み締めながら、天楽苑の電話番号をプッシュした。
「はい?」
「劉健一だが、崔虎を頼む」
「おい、今日は六合彩《リウホーツァイ》の日だぜ。明日にでもかけ直しな」
「急いでるんだ」
「知ったことかよ」
いい返す暇もなく、電話は切れた。舌打ちしながら受話器を置いた。楊偉民はおれになにかを隠している。確信があるわけじゃないが、楊偉民のやり方を、おれは骨の髄まで知り尽くしているのだ。
エレベータに乗りながら、焦燥感にじりじりと焙《あぶ》られているような感覚を味わっていた。黄秀紅に計画を打ち明けたのは失敗だった。いや、それをいうなら、今回のすべてのことが失敗だった。小蓮にであって、おれの勘は狂ってしまった。やることなすこと、ドジばかりだ。
今日の計画は中止にすべきなのかもしれなかった。だが、もう、遅い。おれが眠りこけている間に時間は流れ、もう後戻りはきかなくなってしまっている。
重い足取りでエレベータホールから部屋に向かいながら、肚を決めた。こいつはギャンブルだ。自分が負ける目に賭ける馬鹿はいないだろう。問題は崔虎の動きだ。あいつはおれと富春のことを信用していない。必ず、バックアップ要員を配置させているはずだ。富春がしくじっても、崔虎の手下どもが元成貴にとどめを刺す。それを信じることしか、おれにはできないのだ。
部屋に戻ると、小蓮は下着姿で着替えの最中だった。薄いブルーのブラとショーツが、湯上がりの肌に薄く張り付いていた。
「ちょっと待って。すぐに着るから」
小蓮は旅行ケースの中から新しいTシャツを取りだした。近づいていって、その手を押さえた。
「なに?」
おれはその問いには応えず、尻をこっちに向けさせたまま小蓮をベッドの上に押し倒した。
「シャワー浴びたばっかりなのに」
「かまうもんか」
小蓮のショーツを膝まで引き下ろし、おれはベルトを外した。さっきと同じように、なんの愛撫も加えないまま、一気に貫いた。
小蓮は熱かった。肌の表面も、中も熱かった。その熱さの中で、おれはあっという間に果てていた。
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夕暮れの靖国通りは、忘却と欲望の夜を過ごすために歌舞伎町へ向かう人の波が、徐々に、そして確実に溢れ返りはじめていた。サングラスを通してその光景を眺めると、昔テレビで見た強制収容所に連行されるユダヤ人の群集を目にしているようだった。
おれと小蓮はホテルを出ると地下道を通って新宿駅の東口に出、駅から吐き出される人の流れに身を任せて靖国通りに出た。時刻は六時前。
サンパーク・ビルの前に次郎がいた。歩道の端につっ立って、漫然と人の流れを見送っていた。おれに気がつくと、空っぽの両手をかざし、荷物が無事富春の手に渡ったことを知らせてきた。おれは小さくうなずいた。次郎は一瞬、人懐っこい笑顔を浮かべると、巨体の背中を猫のように丸めて、大ガードの方向へ歩み去っていった。
「今の人は?」
その背中を目ざとく見つけながら、小蓮が聞いてきた。ホテルを出てから初めて聞く声だ。
「知り合いだ」
「そればっかり」
小蓮は声を尖らせて、次郎の背中から視線を剥がした。
おれは抑えきれない苦笑を浮かべながら、目の隅で富春を探した。いま時分から天文の店の前に出張って元成貴を待ち構えているなどという馬鹿げたことを、富春ならしかねない。だが、おれの心配は杞憂《きゆう》だった。富春の姿はどこにも見つからなかった。うまく、人の波に紛れているのだ。
「渡るぞ」
ちょうど、松屋の前の信号が変わったところだった。小蓮の背中を押しながら横断歩道を渡り、西武新宿駅へ向けて足を進めた。サングラス越しに左右に目を走らせた。いつもの歌舞伎町のいつもの夕方の光景が広がっているだけだった。違いがあるとすれば、中国人と思しき連中の姿が少ないことだ。みんな、ねぐらにこもって六合彩の番号当てに夢中になっているのだ。
「健一、お願いがあるんだけど」
小蓮が北京語で話しはじめた。
「なんだ?」
おれも北京語で答えた。
「素敵な温泉知ってる?」
「いや。おれはほとんど歌舞伎町からでないからな。おれが知ってる風呂はソープランドとサウナだけだ」
「そっか」
「それがどうした?」
「明日、健一と温泉に行きたい」
「今夜が無事に済んだらな」
おれの言葉は小蓮の耳に届いてはいなかった。小蓮はなにかに取り憑《つ》かれたようにしゃべることに夢中になっていた。
「温泉に入って、美味しいもの食べて、それからね、ずっと部屋にこもってやりまくるの。今日みたいに乱暴なのじゃなくって、時間をかけて優しく優しく愛しあうの」
「おまえがそうしたいってなら、そうするさ」
「都会にいるから、わたしたちこうなんだよ、きっと。温泉にこもってれば、わたし、健一がなに考えてるのかって緊張してなくてもすむような気がするの。普通の男と女になれるような気がする」
「その時はそれでいいかもしれないが、戻ってくれば同じことなんじゃないのか」
「それでもいいじゃない。お互いの腹の底を探り合うのに疲れたら、また温泉に行けばいいんだよ。温泉じゃなくっても、旅行に行くんでも」
小蓮の声は乾いていた。からからに干上がった砂漠を何日もさまよった遭難者のようにひび割れていた。一滴の水を口にするためなら、平気で大切な人間すらも裏切ってしまう者の声だった。その声はおれの胸にきりきりと穴を開けた。だが、おれの胸からは血が出たりはしない。干からびた砂がこぼれ落ちるだけなのだ。
おれは小蓮の腰に腕をまわして抱き寄せた。
「おまえの好きなようにしてやる。だけど、今はそんなことを考えてる暇はない。集中しろよ、小蓮。今夜が無車に終わらなけりゃ、おれにもおまえにも明日なんか来ないんだ」
「わかった。ごめんね、変なこといって」
小蓮はおれを見上げて口元に小さな笑みを浮かべた。
「あれが〈咸享酒家〉だ」
おれは赤と緑の電飾で飾られたレストランを指差した。おれたちがいるコーヒーショップからはかなり角度があるが、電飾を遮るほどの遮蔽物はどこにもない。
「あと三十分もしたら、あそこから元成貴が出てくる。そうしたら、おれの携帯電話を鳴らすんだ」
「でも、わたし、元成貴って人の顔、知らないよ」
小蓮がコーヒーカップをテーブルの上に置きながらいった。
「くだらないことをいうなよ」
顔を知らなくたって嗅覚《きゅうかく》が敏感なやつなら、見分けることぐらいはできる。小蓮にその嗅覚がないはずはないのだ。
「なにも問題がなさそうだったら、呼び出し音を一回鳴らして切るんた。問題ありなら二回だ」
「健一は?」
「おれは別の場所で待機してる。富春がしくじらないように見張ってなけりゃならないからな。元成責が店を出てから十分ほどで片がつく。なにもなけりゃ、ホテルでおれを待て」
「わかった」
おれはカップの底に残ったコーヒーを飲み干して、立ち上がった。
「じゃあ、行くぞ」
「健一……」
小蓮はおれのジャケットの袖を引っ張って、もの問いたげな顔を向けてきた。
「うまくいくよね?」
「ああ」
小蓮はまだなにかをいいたそうだったが、それに気づかなかったふりをして背中を向けた。そのまま小蓮に見つめられていると、馬鹿なことを口にしそうで恐かった。
「小蓮、おれを裏切るなよ」
店の外に出ると、おれはその馬鹿なことを口にしてみた。本当に意味のない、馬鹿な言葉だった。
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富春がサブナードへ通じる階段の陰から顔を覗かせているのが見えた。おれが指示したとおり、天文の店の前の階段だった。
ゆっくりそっちへ近づき、親指を立てた手をさっと振って、なにも問題はないということを伝えてやった。富春は落ち着き払った素振りで軽く顎《あご》を引き、階段の下の方におりていった。右手には重そうな紙袋が握られていた。その中身が、おれと小蓮の命綱だ。
天文の店の角を右に折れ、アルタの裏をぐるっと回って、もう一度靖国通りに出た。信号を渡り、さくら通りの入り口にある雑居ビルの脇に立って、携帯電話を取り出した。
サングラスを少しずらし、靖国通りに目を凝らした。六時半をちょっとまわったところだ。遅い夕闇が歌舞伎町を覆いはじめていた。サラリーマン、OL、学生、ギターを抱えたミュージシャンもどきたちが、途切れることなく靖国通りを横切って歌舞伎町に吸い込まれていた。
靖国通りを挟んで、ちょうどおれの正面の松屋の角のあたりで、中国人らしいやつらが二人、立ち話をしていた。ときおり、ちらりちらりと四方に視線を走らせている。元成貴の斥候か、あるいは崔虎の手下だ。間違いはない。おれとしては、やつらが崔虎の手下であることを願うばかりだった。
サングラスを元に戻し、携帯電話で天文の店に電話をかけた。
「はい?」
「健一だが、天文はいるかい?」
「おれだよ」
「爺さんは来てるか?」
「ああ。お茶を飲んでる」
「わかった。助かったよ、小文」
「なあ……」
天文は一瞬、舌を噛んだかのように口ごもった。恐らく、おれに兄さんと呼び掛けようとして思いとどまったのだ。
「どうした?」
「店の前で殺人なんかが起こったんじゃ、今日一日商売にはならない。損額を、あんたに請求してもかまわないかな?」
天文は「あんた」と呼び掛けるときにもいいよどんだ。おれは軽く笑って天文の躊躇《ちゅうちょ》を打ち消してやった。
「ああ、しかたがない。払うよ」
「すまないな」
「ふん、小文よ、楊偉民に商売のコツを教わっておいてよかったな」
いい終えるのと同時に電話が切れた。だれにともなく肩をすくめた。
時計を見た。六時四十分。携帯電話を握る手が汗で濡れはじめていた。おれは煙草に手を伸ばした。口の中は粘ついて、煙草どころじゃなかった。だが、煙草をくわえずにいられなかった。
腕時計の秒針が二周半したとき、携帯電話が一度鳴って切れた。小蓮からだった。元成貴が〈咸享酒家〉を出たという合図だ。
靖国通りをよく見渡せるように身体の向きを変えた。〈咸享酒家〉から天文の店までは約五分というところだ。富春に渡した携帯電話にかけた。呼び出し音が一回鳴ったところで富春の荒い息遣いが耳に飛び込んできた。
「おれだ。元成貴は自分の店を出た。そろそろ支度をしろ」
「わかった」
その声と同時に、通りの向こう側で富春が階段の陰からひょいと顔を覗かせるのが見えた。
「馬鹿野郎。見つかりたいのか! 顔を引っ込めろ」
「ああ、すまねぇ」
「元成貴が近づいてきたら、おれがきちんと教えてやる。おまえはショットガンをぶっぱなすだけでいいんだ」
「わかってる。そんなにがなる[#「がなる」に傍点]なって」
富春の声は意外なほど落ち着いていた。まるでおれの緊張をたしなめるような声だった。
「とにかく、必ず仕留めろよ」
「わかってるって」
信号待ちの人垣ができて、おれからは富春の位置が死角になっていた。呼吸を整えて、大ガードの方向へ視線を向けた。
いた。小太りの身体をシルクのスーツで包んだ元成貴が、こっちに向かって歩いている。その斜め後ろ左右に、これまた高そうなスーツで決めた男が二人、ぴったりくっついていた。
「米たぞ」
おれは正体を悟られないように身体の向きを変えた。
「くっついている手下は二人だ」
受話器にそう囁《ささや》いたとき、目の前の信号が青に変わった。元成貴に視線を送った。元成貴も向こう側の信号を渡りはじめたところだった。
「やつらは手前の信号を渡った。サンパークの方から来るぞ」
「わかった。あとは任せておけよ、健一」
電話が切れた。
「富春!? なんだって切るんだ、馬鹿野郎!」
毒づいてみたが、もう手後れだった。何の反応もなかった。かけ直している暇はない。携帯電話をジャケットのポケットにおさめ、元成貴を視線で追った。元成貴は悠々とした足取りで、ゆっくり天文の店へ近づいている。ときおり、背後のボディガードに声をかけながら。
なにかがおかしかった。なにかがいつもと違う――孫淳《スンチュン》がいないのだ。いつも元成貴にべったりとくっついていたあの機械のようなボディガードが、今日に限って持ち場を離れている。
一瞬にして悟った。黄秀紅の男は、孫淳なのだ。秀紅から今日のことを聞いた孫淳は、おれの忠告どおり元成貴の側を離れた……。
そこまで考えて、急に悪寒に襲われた。
元成貴はサンパーク・ビルの正面を通りすぎていた。階段の陰から富春が飛び出してきた。おれはショットガンが元成貴を吹き飛ばすのを予測して身桃えた。
次の瞬間、乾いた銃撃音が靖国通りに谺《こだま》した。ショットガンの銃声なんかじゃなかった。何丁もの拳銃から発射された銃弾が発する音だ。それまで松屋のカウンターで牛丼をかっ喰らっていた男たちが一斉に外へ飛び出し、富春に銃撃を浴びせたのだ。
一瞬の静寂。そして、割れんばかりの怒号や悲鳴、車のクラクション。その合間を縫うように、乾いた銃声が断続的に響いてくる。歌舞伎町へと向かう人の波が砕けた。
拳を固く握って震えを抑えながら、富春の姿を追った。富春はゴールした直後のマラソンランナーのようにつんのめりながら、なんとか体勢を立て直そうとしていた。左の上腕部が濡れていた。右手に握ったショットガンが宙に浮いていた。
おれの鼓動はトップギアに入ったままだった。元成貴は松屋から飛び出てきた連中を驚いたように見ていた。知らないやつらだったのだ――つまり、やつらは、楊偉民の差し金だ。楊偉民は元成貴に恩を売るつもりなのだ。おれを裏切って。
汗に濡れる額を拭いながら四方に視線をさまよわせた。逃げなきゃならない。しくじったのだ。
野太い銃声が一瞬、拳銃のそれを打ち消した。富春がやっと引き金を引いた。松屋から飛び出て来たやつらの一人が真後ろに吹っ飛んだ。そいつは逃げようとしていた元成貴の背中にぶつかって、路上に転がった。元成貴も腰を抜かしたようだった。返り血で真っ赤に染まった手を宙に突き出しながら、ボディガードの二人に大声で助けを求めていた。だが、今日のボディガードは孫淳じゃなかった。二人ともセミ・プロだ。慌てていた。何度も元成貴を引き起こそうとして失敗した。背後から近づいてくる影に、二人は気づきもしなかった。
そいつらは、ついさっきまで、おれが目をつけていた中国人だった。松屋の角の歩道で立ち話をしていた二人連れ。二人はジャケットの裾を跳ねあげて腰に手をまわした。二人とも流れるような動作で黒星を元成貴に向け、無造作に引き金を引いた。二丁の黒星はリズミカルに弾丸を吐きだし、元成貴とボディガードたちの身体から血飛沫《ちしぶき》が舞った。
富春を銃撃していたやつらがやっと背後で起こっていることに気づいた。だが、遅すぎた。そいつらが振り向くより先に、これ以上元成貴に銃弾をぶち込む必要がないと判断した二人が銃口を向けていた。
銃声、悲鳴、断末魔の絶叫。そのすべてが絡まり合いながらおれの鼓膜をいたぶっていた。脳味噌を絞られるようなノイズのかたまりを、おれはしかし、他人事《ひとごと》のように聞いていた。
富春を襲ったやつらはあらかじめそう決められていたというように、次々と吹っ飛んでいった。黒星の銃弾をでたらめな方向に撒き散らしながら。悲鳴と怒号が一段とトーンを上げた。
ふいに、銃声が途切れた。弾丸を撃ち尽くした二人は、惜し気もなく銃をその場に捨て、くるりと身を翻して駅の方へと走りはじめた。その動きに刺激されて、おれはやっと我に返った。
こんなところでぐずぐずしている暇はない。いまこの瞬間にも、孫淳がおれを探して目を血走らせているはずだった。
考える前に足が動いていた。四谷の方向に向かって歩きはじめていた。目は富春の姿を――富春の死体を求めていた。富春はいなかった。路上に転がったショットガンが見えただけだった。
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区役所通りの手前で、だれかが追いかけてくるのに気づいた。おれは振り返らずに走りだした。飛び交う悲鳴と怒号に混じって、上海語で「待て」と叫ぶのが聞こえた。
交通は完全に遮断されていた。クラクションをがなりたてる車の間を縫って、区役所通りを突っ切った。背後で銃声がし、なにかが耳元をかすめていった。鞭《むち》のようにしならせた木の枝で横っ面をはたかれたような衝撃。足元がよろけた。それでも、立ち止まったり振り返ったりはしなかった。鼓動は激しく、長く続く一つの音のようにおれの身体を揺らしていた。鳩尾《みぞおち》のあたりに不快感があって、睾丸は縮こまり、尻の穴がすぼまっていた。
目の前の通行人をなぎ倒しながら、ゴールデン街へとつづく遊歩道に入った。走りながら、腰のベレッタを抜いた。遊歩道を駅へ向かうサラリーマンたちが、何事だという顔で立ち止まる。映画の撮影だとでも思っているのだ。
上海語の罵声が追ってきていた。振り向き、でたらめにベレッタの引き金を引いた。乾いた銃声。おれを追っていた上海のやつらが足をとめて地面に伏せた。四人。名前は知らないが、顔には見覚えがある。みんなチンピラだ。幹部はいない。だが、おれにはなんの慰めにもならない。
伏せているやつらにもう一発撃ち込んで、走りはじめた。上海語は聞こえなくなった。代わりに通行人の口々から悲鳴があがりはじめた。
口の中がからからに干上がっていた。硝煙の匂いが鼻にまとわりついて呼吸がままならない。二、三歩、走るたびに足がもつれた。こんなことでくたばってたまるか。呪文のように心の中でつぶやきながら、走った。
遊歩道を途中で抜け、ゴールデン街を奥へ。すぐ近くにはマンモス交番がある。できるだけ遠ざかりたかった。入り組んだ路地をジグザグに駆けながら、とにかくゴールデン街の奥を目指した。おれの後ろじゃ、上海語が復活していた。日本語に似たリズムの言葉が、おれの心臓を鷲掴みにしようと迫っていた。おれを仕留めれば、組織内での出世が約束される。やつらも必死なのだ。
花園五番街の看板が見えた。おれはゴールデン街を抜けるところだった。立ち止まり、振り返った。上海語は耳に届いているが、まだ姿は見えない。おれは銃を構えた。上半身が激しく震えて銃を安定させることができなかった。すぐそばの店のドアが開いて、濃い化粧を施した中年のおカマが顔を出した。おカマはおれと銃を見ると、ふんと鼻を鳴らしてドアを閉めた。
おれの位置からは一番奥になる路地からやつらが飛び出てきた。引き金を引いた。やつらが再び伏せるのを視界の隅に入れて踵を返し、おれはいったん、ゴールデン街を飛び出した。だが、すぐに花園八番街を左に折れた。音を立てぬよう気をつけながら、しかし全力で走って、右手奥にある駐車場に転がり込んだ。
激しい呼吸を繰り返しながら、連中の様子をうかがった。すぐに、罵声と慌ただしい足音が聞こえてきた。おれを見失って狼狽《ろうばい》している。やつらから姿が見えないことを確認して、駐車場を出た。そのまま、ゴールデン街を抜けて再び遊歩道を靖国通りに向かって走った。銃を手に引き返してきたおれに、通行人たちは慌てふためいて道を開けた。そいつらにはかまわずに走った。とにかく走った。生まれてこの方、これほど必死になって走ったことはない。
靖国通りに出ると、おれは銃をしまった。四方からサイレンが近づいてくるのが聞こえてきた。だが、まだ姿は見えない。靖国通りを突っ切って、アドホックの脇へ入り、紀伊國屋《きのくにや》の裏手を通って二丁目の方角へ進んだ。できるだけ歌舞伎町から遠ざかりたかった。それ以外、なにも考えちゃいなかった。おれと同じように歌舞伎町から遠ざかろうとする人の流れに混じって、おれは歩いた。
最初のうちは、数歩あるくごとに後ろを振り返っていたが、やがて、大量に分泌されたアドレナリンの副作用がきた。手足の先から力が抜け、頭が重くなった。周囲を見渡すのに首をめぐらすのも億劫でたまらなかった。よく冷えたビールを飲みたかった。
明治通りを越えて、三丁目の飲み屋街に入ったところで、腰に固いものが押しつけられた。おれは立ち止まった。
「止まるな。歩け」
頭の上の方から声がした。奇麗な北京語で、くもり一つない硬質なガラスを連想させる声だった。振り返らなくてもわかった。孫淳。心臓がまた激しく脈打ちはじめた。膝から力が抜けていく。それでも、孫淳に促されるまま歩きつづけた。孫淳は人を殺すのに躊躇《ためら》ったりはしない。ただの噂だが、おれはその噂を信じていた。
「逃げてくるならこっちの方だと思った。今のおまえには、歌舞伎町にも大久保にも逃げ場所はないからな」
「最初から、自分の手下たちがしくじると思ってたのか」
おれの声はすっかり干からびていた。それだけいうのにも、何度も唾を飲み込まなきゃならなかった。
「おまえは狡賢《ずるがしこ》い。兵士としては最低だが、参謀としてならそれなりに才能を発揮するタイプだ」
「誉めてるのか?」
「おれは勇敢な兵士が好きだ」
腰に押しつけられた銃口の圧力が強くなった。
「だけど、あんた、兵士に嫌気がさして参謀になりたくなったんだろう。それで元成貴を見殺しにしたんだ」
「黙れ」
おれは黙った。おれたちは末広亭の向かいの路地を二丁目に向かって歩いていた。口を閉じた代わりに、頭を回転させた。
孫淳がどんな嘘八百を並べたにせよ、肝心な時に元成貴の側を離れたのは大きな失態になるはずだった。下手をすれば首が飛ぶぐらいの。だが、おれと富春の死体を手土産にすれば、その失態は回復できる。細部の辻褄《つじつま》は合わないとしても、元成貴の仇を討ったという事実はなによりも重い。力――暴力で他を圧している孫淳が、元成貴殺しの張本人ふたりを殺《や》ったとなれば、他の幹部も文句は言えないのだ。孫淳は堂々と元成貴の後釜に座ることができる。
だが、問題になるのは時間だ。早いうちにけりをつければ、細かいところをつつかれずにやり遂げることができる。だが、時間が経てば経つほど、孫淳の痛い腹を探ろうとする連中が次から次へと現れるだろう。こうして、たったひとりでおれを捕まえたのも、おれが余計なことを口にしてそれを聞きとがめられるのを恐れたせいだ。
孫淳は、今夜中におれと富春を殺さなけりゃならない。少なくとも、やつがそう思っていることだけは確実だ。
おれたちはそのまま黙々と歩きつづけ、通りを渡って二丁目の花園通りに入った。おれはそっと首をめぐらせて孫淳の顔色を窺った。それから、思いきって口を開いた。
「なあ、元成貴はきっちりくたばったのか?」
「黙れといったはずだ」
「それぐらい教えてくれてもいいだろう。おれはあいつを殺すために命を張ったんだ。それとも、あんた、あいつがくたばったかどうか確かめてないのか?」
「大哥《ダーコー》は死んだ。おれはすぐ近くで見ていた」
「へぇ」
腹の中で舌なめずりしながら言葉を継いだ。
「じゃあ、不思議に思わなかったか?」
「…………」
孫淳は答えなかった。だが、腰の銃口の圧力がほんの少し弱まった。
「まず、富春を最初に撃ったやつら。あいつらは、元成貴の手下じゃない。そうだろう? それから、実際に元成貴を殺したやつら。あいつら、どこから出てきたんだ?」
「なにか知ってるのか?」
「ただで話すと思うか?」
「話させる方法はいくらでも知っている」
孫淳の声からは微塵の揺らぎも感じられなかった。おれは吐き気を覚え、口に溜まった唾液を地面に吐きだした。
「まず、富春を撃ったやつらだ。あいつらは、楊偉民の差し金だ。おそらく、台湾あたりから流れてきた流氓崩れだろう。楊偉民は元成貴に恩を売るつもりでいたんだ」
「大哥を殺したやつらは?」
「まあ、待ってくれ。まだ続きがある。楊偉民のことは知ってるだろう? 食えない爺さんだ。元成貴だって、表立って爺さんを引退させようとはしなかった。歌舞伎町にがっちり根を張ってるんだ。爺さん、歌舞伎町のことはなんでも知っている。知らないことはすぐに突き止める」
「なにをいいたいんだ?」
「楊偉民は黄秀紅に男がいることを知ってる。おれが教えたんだ。あの爺さんは必ずあんたが秀紅の男だってことを突き止めるぜ」
「今夜中にけりをつければ、恐れることはなにもない」
孫淳がおれの話に脅威を感じたとしても、超然とした物腰にはなんの変化もみられなかった。おれは徒労感を感じはじめた。だが、ここでやめるわけにはいかない。
「わかったよ。あんたのいうとおりだ。あんたが元成貴の後釜に座っちまえば、爺さんとしても、あんたと手を組んだ方が得だからな」
「大哥を殺したやつらはどうなった?」
「あいつらか……北京のやつらさ。決まってるだろう」
銃口が腰に食い込んできた。急に襲ってきた痛みを、撃たれたのだと勘違いした肉体がおれの意思に反して勝手に動きはじめた。
「動くな。少しでも変な真似をしたら、おれは躊躇なく撃つぞ。呉富春の死体は後回しでもいいんだからな」
「わかってる。ただ、身体が……」
「まだしばらくは撃たない。度胸を据えろ」
深呼吸を繰り返した。肌に水分が絡みついてくるような湿気だっていうのに、指先が霜焼けにかかったみたいに冷えていた。
「話を続けろ。北京のやつらというと、崔虎か?」
「他に誰がいる?」
「なんだってあいつが、首を突っ込んでこれるんだ?」
「おれが話したからさ。おれは常に保険をかけておかなきゃ、怖くてなにもできない。崔虎は全部知ってる。あいつらは、万一富春がしくじった場合に備えてのバックアップだったんだ」
おれはまた深く息を吸い込んだ。孫淳の顔色に変化はなかった。驚異的な精神力だ。あるいは、本当になにも感じていないのかもしれない。
「楊偉民と違って、崔虎はあんたと取り引きはしないぜ。あいつは歌舞伎町を狙ってるんだ」
「おまえの話は悧き飽きた」
孫淳はいった。
小さく肩をすくめた。他にできることがなかったのだ。煙草を吸いたかったが、孫淳が許してくれるとは思えなかった。喉元にこみあげてくる恐怖に耐えながら、おれは機械的に足を動かした。
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しばらく歩くと、見覚えのある街並みが視界に入ってきた。孫淳はおれを促して、真っ白な外壁のワンルーム・マンションに足を向けた。黄秀賢《ホヮンシウシェン》――黄秀紅の弟のマンションだ。
「ここを使ったのが他のやつらにばれるとまずいんじゃないのか?」
おれは唾を飲み込みながらいった。部屋の中に連れ込まれたら、逃げようがない。
「おまえに心配してもらう必要はない」
おれたちはドアの前で足を止めた。振り返ると、孫淳がうなずいた。おれはため息をつきながら、ドアをノックした。
あらかじめ話はついていたのだろう。ドアはすぐに開いた。秀賢は舌なめずりしそうな顔でおれたちを迎え入れた。今朝、おれが殴った頬がどす黒く腫れ上がっていた。
玄関に足を踏みいれるのと同時に、孫淳がおれの腰からベレッタを抜き取った。反射的に振り向こうとしたが背中を思い切りど突かれて、おれは部屋の中に転がった。どこをどう殴られたのか、激しい痛みが背中一面を駆け巡って息ができなくなった。咳き込みながら埃《ほこり》の浮いたフローリングの上を転げまわった。
「縛るんだ」
孫淳が秀賢に命じる声が、遠くに聞こえた。おれは腹這いになって肺に空気を送り込んだ。目が涙で滲んでいた。
「いつまで寝てるんだよ」
秀賢に脇腹を蹴られた。それでも、起きあがることができなかった。腕を逆に取られ、強引に立たされた。両手を、ビニール紐のようなもので縛られた。逆らおうなんて気はこれっぽっちも起きなかった。まだ背中に残っている痛みが、孫淳に対する恐怖を増幅させていた。
孫淳は銃を両手に、パイプ椅子に腰掛けて、おれを縛り上げる秀賢の手順を見守っていた。きれいにオールバックに撫でつけた頭から垂れた一房の毛が、のっぺりとした顔にアクセントをつけている。その髪と剃刀《かみそり》のように細い目が、回路のどこかがいかれた殺人マシンのような印象を与えているのだ。右手に持っている銃は表面がプラスティックのように見えるほかは、特徴のないのが特徴というようなやつだ。こんな銃を、最近のアメリカのおまわりたちがよく使っているという話を聞いたことがある。シンプルで頑丈な銃。孫淳にぴったりだ。
「座れよ、おら」
秀賢に腰を蹴られて、膝が崩れた。
「普段はかっこつけてるくせに、ザマぁないよな」
秀賢は毒づきながら、髪を掴んでおれを引き起こした。そのまま壁際まで引きずられ、パイプ椅子の一つに座らされた。秀賢にいい返す気にはならなかった。おれの相手はこの馬鹿じゃない。
「呉富春はどこにいる?」
孫淳がいった。細い目で射竦《いすく》めるようにおれを見ていた。
「知らない」
おれは孫淳から目をそらした。孫淳がかすかにうなずくのが見えた。次の瞬間、耳のすぐ下を殴られた。ぱっと顔が熱くなった。視界の中で、孫淳の顔が歪《ゆが》んだ。
「呉富春はどこにいる?」
「知らない。本当だ」
今度は反対側を殴られた。さっきよりは数倍強烈だった。殴った秀賢が、手を押さえていた。
「聞いてくれ、孫淳。本当に知らないんだ。うまくいったら、下落合《しもおちあい》のおとめ山公園で落ち合うことになってた。だが、こうなった後で、あいつがのこのこやってくるはずがない。そうだろう? おれは知らないんだよ」
「信じてもいいが、健一、忘れるな。おまえの命がかかっているんだぞ」
孫淳は嘘をつくときも顔色を変えなかった。いや、そもそも、最初からおれがその嘘を信じるとは思っていなかったのだろう。ただ、口にしただけなのだ。
おれの態度になにかを見つけたのだろう。孫淳が唇の端を持ち上げた。おそらく、笑ったのだ。
「いい直そう。おまえの命の長さがかかっているんだ。よく考えろ。呉富春はどこにいる?」
「電話だ」
おれはいった。さっきからずっと考えていたのだ。富春をつかまえる方法を。
「あいつは携帯電話を持ってる。番号はおれしか知らない」
孫淳はなにもいわなかった。ときおり、重さを量るように手の中の銃を弄《もてあそ》びながら、ただ、じっとおれの目を見つめていた。
「小細工はしてない。そこまで考えてる余裕はなかった」
おれは言葉で孫淳の背中を押してやった。孫淳はゆっくりうなずいた。
「あいつをおびき出せるか?」
「当たり前だ」
「電話を渡してやれ」
孫淳が秀賢に命じた。秀賢はまだ殴り足りないという恨めしそうな目をおれに向けていたが、渋々といった感じでテーブルの上の電話をおれの前に置いた。受話器をおれの耳に押し当て、番号をいえと目でうながした。
「08――」
「待て。電話をする前に聞きたいことがある」
口を開きかけたおれを、孫淳が鋭く制した。
「なんだよ?」
「おまえはおれに殺される。なにをしようとだ。それなのになぜ、あっさり口を割る?」
「死ぬのは嫌だが、殴られるのも嫌だ。どうせ死ぬんなら、殴られない方がいい」
「呉富春は友達なんだろう?」
「おれにはダチなんかいない」
「わかった。電話をしろ」
孫淳はいった。声にかすかな侮蔑の響きが混じっていた。この瞬間、おれも孫淳を侮蔑していると知ったら、やつはどんな顔をするのだろう。
秀賢に携帯の番号を伝えた。呼び出し音が鳴り、回線が繋がった。
「健一か!?」
富春はいきなり吠えた。秀賢が電話のオンフックボタンを押していたので、その声はスピーカーを通して部屋中に広がった。
「てめえ、おれをはめやがったな!!」
「落ち着け、富春。おまえだけじゃない。おれもはめられたんだ」
「ふざけるな――」
「楊偉民だ。あのじじいがおれを裏切ったんだ」
富春の荒々しい息遣いが聞こえてきた。必死になって頭を働かせているのだ。
「そいつはマジか?」
「ああ、おれも逃げている最中だ」
「豚野郎め!!」
「怪我は?」
「心配ない。弾丸は抜けてる。まだ、血はとまらないが、大丈夫だ。これぐらい、屁でもねえ」
「いま、どこにいるんだ?」
「よくわからねえ。学校みたいだ」
「学校?」
「ああ、石灰の袋がいっぱい積んである。倉庫みたいなとこに隠れてるんだ。ここなら、朝までは大丈夫だろうと思ってな」
「よし。これから落ち合う場所を決めよう」
「待てよ、健一。こっちはなにがなんだかさっぱりわからねえ。元成貴はどうなったんだ?」
「くたばったよ」
「本当か?」
「ああ、この目で見た。間違いない」
「ざまあみろってんだ。おれたち半々をなめやがって。そうだろう、健一?」
「ああ」
「それから、小蓮はどうした? 無事か?」
おれは思わず孫淳に視線を走らせた。失敗だった。孫淳はしっかりおれの動揺を捉えていた。
「健一、どうした? 小蓮になにかあったのか?」
「いや。彼女は安全なところにいる。安心しろ」
「そうか。よかった。あいつになにかあったら、おれは――」
「富春、それはわかってる。今は、おれたちが生き延びることを考えるんだ。楊偉民のせいで上海のやつらはおれたちを探してるはずだ」
「そうだな。どうする?」
「東京医大の裏の方に墓地がある。わかるか?」
「そばに中学校があるやつか?」
「それだ。病院じゃなく、学校の方のやつだ。どれぐらい時間があればこれる?」
「おれはいつでもいいぜ、健一」
壁の時計に目をやった。もうすぐ八時になろうとしていた。
「十時にそこで」
「わかった。……健一、おれたちと逃《ふ》けようぜ。おれと小蓮、それにおまえの三人なら、どこに行ったってうまくやっていける」
「そうだな。そいつは楽しそうだ。富春、遅れるなよ」
秀賢を見てうなずいた。秀賢がオンフックボタンを押して電話を切った。
おれは重い息を吐きだした。身体中汗まみれだった。
「小蓮というのは、秀紅があったという女のことか?」
孫淳がいった。囁くような声だった。聞こえなかったふりをした。無駄なあがきだった。
「秀紅はおまえの新しい女だといっていた。だが、今の話を聞くと、裏がありそうだな。話せ。小蓮というのは、どういう女なんだ?」
孫淳は立ち上がった。勿体《もったい》をつけるような足取りでおれに近づいてきた。右手に持った銃はおれに向けられて、ぴくりとも動かなかった。銃口の奥にあるのは地獄へ通じる深い闇だ。おれの目はその闇に吸い寄せられていた。
「呉富蓮。富春の妹だよ。それで、おれの女でもある」
銃口を見つめながらいった。
「女の兄を、おまえは売るのか?」
「だからなんだ? あんたはボスを見殺しにしたじゃないか」
孫淳は立ち止まった。不思議なものに出くわしたような顔をしていた。
「軍をやめて七年。新宿に来て五年になる。おれの魂も腐ってしまった。おまえたちのせいだ」
孫淳の左手が鞭《むち》のようにしなった。頬に真っ赤な衝撃があって、おれは椅子ごと床にぶっ倒れた。痛みはすぐに消えた。だが、頭がくらくらして、視点が定まらなかった。呼吸が犬のように荒かった。背骨を抜き取られて、代わりに氷の柱を埋めこまれたような気がした。おれの心と身体はすっかり冷えていた。おれは震えていた。
「小蓮とかいう女にも電話しろ。呼び出すんだ。おれたちみんなで、呉富春を迎えに行こうじやないか」
孫淳の言葉を、おれはぼんやりとした意識の中で聞いていた。
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「その女はどこにいるんだ?」
「京王プラザだ」
おれはやっとのことで上半身を持ち上げた。
「おれの知り合いの女と一緒に隠れてる」
まだ眩暈《めまい》は去らなかったが、嘘は滑らかにおれの口をついた。秀賢の前で夏美という名を口にしたことはなかったはずだ。
「中国人か?」
「いや、日本人だ」
「北京語は?」
おれは首を振った。
「嘘は必ずばれるぞ」
「もう、殴られるのは勘弁だ。いまさら、嘘はつかない。おれの店にときどき遊びにくる女だ。夏美って名前しか知らないが、セックスとドラッグが大好きってタイプだ。その女に葉っぱをちらつかせてやって、部屋をとらせた」
「用心深いな」
「習性なんだよ。わかってるだろう?」
「その女にはどこまで話した?」
「なにも。理由とかそういうのはどうだっていいんだよ、その女は。葉っぱさえもらえればな」
「よし、電話をかけろ。一人で出てくるようにいうんだ。小細工は無しだぞ」
「わかってるって」
秀賢が番号案内で京王プラザの電話番号を調べ、おれの耳に受話器を押しあてながらプッシュホンのボタンを押した。例によって、電話はオンフック状態で、おれたちのやり取りがスピーカーから聞こえてくるようになっている。
本物の寒気がおれを襲っていた。小蓮がおれの芝居に乗ってこなけりゃ、一巻の終わりだ。他人に自分の運命を預けるってことが、これほど肝を冷やすとは思わなかった。
回線が繋がり、おれは部屋番号を相手に伝えた。それほど待つまでもなく、小蓮の声が聞こえてきた。
「健一? どうしたの? 大丈夫なの?」
「ああ、落ち着けよ、小蓮。おれは大丈夫だ」
「ぜんぜん連絡がないから……」
「ちょっとやらなきゃならないことがあってな。それで手間取った。夏美はどうしてる?」
「夏美? う、うん。寝てるけど」
やはり、小蓮は天性の女優だった。咄嗟のアドリブにも、間を開けることなくついてきた。震えだしそうな声を抑えながら、話を続けた。
「夏美に気づかれずに出てこれるか?」
「どうして?」
「これから富春を殺《や》りにいく。夏美を連れていくわけにはいかない」
「わかった。熟睡してるから、大丈夫だと思う。どこに行けばいい?」
「靖国通りをずっとくると、左手に厚生年金会館ってのがある。その斜め向かいの路地をちょっと入ったところに花園西公園っていう小さな公園がある。そこに、一時間後だ」
「厚生年金会館の向かいの路地。花園西公園ね」
「夏美には絶対気づかれるな。あいつには来て欲しくないんだ」
「わかってるって。じゃ、あとでね、健一」
電話が切れた。額に滲む汗を縛られた手首で拭いながら顔をあげた。孫淳の銃がおれの目を覗きこんだ。
「女の声が変だったな」
刺すような視線をおれに向けながら、孫淳がいった。
「変? どこが?」
「わからん。だが、なにかがおかしかった」
おれは二、三秒のあいだ、孫淳の目を見つめかえした。孫淳の目は犬の目だった。よく訓練された軍用犬の目だ。そして、その軍用犬の目に映るおれの目はハイエナのそれだった。自分より強大な力を有する相手の威嚇《いかく》に怯えながら、それでもなんとかして獲物をかすめとってやろうとするハイエナの目だ。
小さく息を漏らして、目をそらした。そして、いった。
「頭のいい女なんだよ、小蓮は。たぶん、おれの話に疑問を感じたんだ。おれも、あいつの様子がおかしいのには気づいた」
「どうなる? あの女はどうするつもりだ?」
「逃げるんじゃないか」
「自分の男を見殺しにしてか?」
「名古屋から出てきたばかりで、こっちには助けてくれる人間はいないんだ。荷物をまとめて新宿駅に向かってる」
「それにしては、平静だな」
「おれが小蓮でも同じことをするからな」
「愛しあっているんだろう?」
ちょっと考えるふりをしてから答えた。
「ああ、そうだと思う」
「信じられん。おまえたちは獣以下だ」
孫淳は首を振りながら銃をおろした。
「とにかく、一時間後に、その女が来るかどうか、待ってみようじゃないか。来なかったら、その時はその時だ」
「ああ、どっちにしろ、おれは死ぬんだ。そうだろう?」
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秀賢のマンションと花園西公園は目と鼻の先だった。約束の十分前、おれたちはマンションを出た。
手首の戒めは解かれていた。だが、孫淳がおれの背中にぴったり張り付いて、戒め以上の束縛感をおれに与えていた。
公園にいるのは、そこをねぐらにしている浮浪者たちだけだ。やつらは闖入者《ちんにゅうしゃ》を見る目つきをおれたちに向けたが、やがて、そもそものはじめからおれたちなど存在しなかったのだというように、いつもの日常――睡眠の世界に埋没していった。この国じゃ、滑らかな日本語を話さない東洋人はすべてを捨てたはずの浮浪者にすら差別される。
孫淳は軍用犬の目で、さほど広くない公園を丹念に検査していった。検査という言葉がぴったりだった。
「なにもない」
しばらくして、拍子抜けしたようにそういった。
「あたりまえだ。小蓮は来ないよ」
おれはベンチに腰を下ろした。秀賢が勝手なことをするなといいたげにおれの襟首を掴んだ。孫淳がいいんだというように首を振った。秀賢は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「煙草を吸ってもいいか?」
孫淳が答える前に、煙草を口にくわえた。ライターは秀賢に取り上げられていた。おれは煙草の先端を秀賢につきだした。秀賢は精一杯おれを睨みつけた。孫淳の目が軍用犬の目なら、秀賢のは甘やかされた座敷犬の目だった。敵を相手にするとうるさく吠えたてるが、目の奥に怯えが居座っている。孫淳というご主人様がいなけりゃ、とっくに尻尾を巻いて逃げ出しているのだ。
結局、秀賢はライターをポケットから取り出した。礼もいわずに火をつけると、煙を湿った夜気の中にゆっくり吐きだした。
背筋には相変わらず冷気が居座っていた。気を抜くと、すぐに身体が震えてしまいそうだった。ニコチンもその冷気を追い払ってはくれそうになかった。おれのすぐ横に、死が実体を伴って立っているのだ。
煙草をふかしながら、黄秀紅を抱き込めるなどと考えていた自分の愚かさを呪った。そして、もし生き残ったら、黄秀紅に必ず落とし前をつけさせてやると誓った。そのことを考えている一時、おれは間近に迫っている死を忘れることができた。
約束の時間がすぎた。
孫淳と秀賢はおれから離れたベンチに座っていた。このまま逃げ出してしまえという考えが、強迫観念みたいにおれの頭蓋骨の内側に張り付いていた。だが、おれがちょっとでも妙な動きをした瞬間に、孫淳の銃が火を噴くのはわかりきっていた。
公開の脇の道を、ときおりアヴェックが通りすぎた。男と女、男と男、女と女。みんな、身体の一部が溶けてくっついちまったように互いにもたれあって歩いている。そんなアヴェックの一組の片割れが小蓮だった。
小蓮の連れは、線の細い若い男だった。もたれかかってくる小蓮を持て余しているようにみえた。おそらく、二丁目をぶらついているホモだろう。小蓮に小遣いをもらって風変わりなデートに付き合うことを承諾したのだ。
若いホモに腰を抱かれながら、小蓮は公園の中にちらりと視線を飛ばしてきた。おれはなにもしなかった。黙ってベンチに座っていた。小蓮はおれを見つけたはずだ。孫淳と秀賢にも気づいただろう。後は、小蓮の機転に任せるしかない。
ほんの数秒で、小蓮とホモの姿は見えなくなった。おれは秀賢から取り返したライターで煙草に火をつけた。
どこかの草むらで虫が鳴いていた。今にもくたばりそうな鳴き方だった。
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「来ないな」
いつの間にか、孫淳が後ろに立っていた。くわえていた煙草を落としそうになりながら、おれは慌てて振り向いた。ずっと小蓮のことを考えていたのだ。おれが小蓮なら、とっくにずらかってる。だが、小蓮はやって来た。おれには理由がわからなかった。
「そうだな」
腕時計を覗いた。小蓮とホモが通りすぎてから、二十分近い時間がすぎていた。
「これで呉富春も約束の場所に現れなかったら、おまえは大変なことになるぞ。おれはいろんな拷問《ごうもん》の方法を知っている」
「大丈夫だ。富春は小蓮みたいには頭が回らない」
「行くぞ」
首筋にひんやりしたものが押しつけられた。おれは反射的に立ち上がった。立ち上がると同時に、項《うなじ》に押しつけられていた銃口がおれの腰の位置にまで下がった。
おれと孫淳は公園を出た。少し遅れて秀賢がついてきた。靖国通りを渡って厚生年金会館の脇の路地を進んだ。靖国通りじゃ、あちこちでサイレンの音が聞こえた。おまわりの姿を探してみたが、銃で腰を殴られただけで終わった。小蓮の姿を見かけたような気がしたが、確かめたわけじゃない。見間違いの可能性の方が高かった。
墓地は静かだった。静かすぎて、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。孫淳がおれのベレッタを秀賢に渡し、おれを見張っているように命じて墓石の陰に消えた。なにを確認しようとしているのかは知らないが、ご苦労なことだ。富春にそこまで頭が回るなら、いまごろおれはこんなところにはいない。もちろん、それは孫淳だって同じことだ。
おれは秀賢に声をかけようと思ったが、顔を見てやめた。夜の闇の中でも、秀賢の顔が蒼ざめているのがわかった。汗でてかてかに光った顔の表面には血管が浮き上がり、目の下にどす黒い隈《くま》ができている。びびりまくっている。ちょっとしたことで引き金を引いてしまうに違いなかった。
ベレッタにはまだ、弾丸が五発残っているはずだ。
うすら寒い思いで、孫淳が戻ってくるのを待った。無性に煙草が吸いたかった。
孫淳は十分ほどで戻ってきた。
「セイフティをかけて、拳銃をおろせ」
秀賢にそう命じて、自分の銃をおれに向けた。
「煙草を吸ってもいいか?」
孫淳は汗一つ浮かんでいない顔でうなずいた。おれは煙草をくわえた。
「呉富春は本当に来るな?」
「ああ、心配するなよ」
「おれたちは隠れる。銃はおまえに向けたままだ。死にたくなかったら、ただ突っ立ってろ。煙草が吸いたきゃ、好きに吸ってかまわん。だが、動くのはだめだ」
頭を縦にふって恭順の意を示した。孫淳が暗闇に溶けた。だが、秀賢はそうはいかなかった。秀賢を連れてきたのは、孫淳のミスだ。騒がしい音を立てる秀賢のおかげで、孫淳が身を隠した場所にあたりをつけることができた。
静かな五分が過ぎた。もうそろそろ富春が現れるはずだ。富春はたいていの物事には無頓着だが、どういうわけか時間だけは守る。おれは側の墓石に肘をのせ、煙草をくわえた。神経が引きつれるような感覚が腹の奥でくすぶっていた。
風が吹いて、雑草がざわざわと音を立てた。虫の音が轟々と空気を震わせていた。今の今まで、虫の音はおれの耳を素通りしていた。途切れることなく墓地の闇を覆う虫たちの鳴き声。それが一瞬途絶えた。墓地の入り口の方から足音が聞こえた。
「健一、どこだ?」
富春のダミ声が聞こえた。おれは短くなった煙草を声のした方に放り投げた。暗闇にオレンジ色の放物線が描かれた。富春はおれの位置を確認したはずだ。肺いっぱいに空気をため込んだ。指先が震えていた。心臓が口から飛び出そうだった。生唾《なまつば》を飲み込み、地面に身体を投げ出しながら叫んだ。
「富春、撃て!!」
銃声がおれの語尾をかき消した。黒星特有の甲高い炸裂音《さくれつおん》が死者たちの眠りを引き裂いた。さっきまでの静寂は跡形もなかった。おれは地面を転がり、手近な墓石の裏にまわりこんだ。
銃声は断続的につづいていた。孫淳と富春の銃口からのマズルフラッシュが巨大なホタルのように輝いては消えていた。墓石を遮蔽物にしながら、墓地の入り口へ向かった。孫淳が相手じゃ、奇跡でも起こらない限り富春に勝ち目はない。
「健一、どこだ!? くたばったのか!?」
富春の怒声。おれは足をとめた。とめざるをえなかった。孫淳も、富春の声でおれを探しはじめているはずだ。墓石に背中を押しつけ、口の中で富春を罵った。
いつの間にか銃声が途絶えていた。孫淳は闇雲に撃つのをやめて、富春とおれの位置を探ろうとしているのだ。息を殺して待った。富春が動くのを。富春の動きに、孫淳が気を取られた隙なら、おれにも逃げるチャンスがあるかもしれない。
唇を舐めた。ざらついた感触が伝わってきただけだった。口の中もからからに干上がっていた。だれかのすすり泣く声が聞こえた。秀賢。
左右に視線を泳がせた。拳大の石を掴み取り、墓石越しに後ろへ放り投げた。石が地面に激突する鈍い音。すぐに銃声。孫淳が撃ったのか富春が撃ったのかもわからなかった。かまわず、動いた。なにかにつまずいて転びそうになった。銃声がした。足元に銃弾がめり込んで、砂利が爆《は》ぜた。胃が痙攣《けいれん》しそうだった。呼吸が苦しかった。
別の銃声がした。富春。喉元までせりあがってきた胃液をむりやり飲み下しながら、身体を丸めて走った。秀賢が銃を持っている。そいつを手に入れることができれば、なんとかなるかもしれないのだ。
「健一!!」
撃ちながら、富春が叫んでいた。
「撃ちまくれ!!」
叫びかえした。もう、居場所を隠す必要はない。富春が孫淳を釘付けにしている間に、秀賢を捕まえるのだ。
孫淳の銃口が発するマズルフラッシュが見えた。最初に隠れた場所から、右に五メートルはずれていた。おれが石を投げなかったら、いまごろは富春の後ろに回っていたかもしれない。秀賢にはそんな真似はできなかった。涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしながら、隠れていた墓石から顔と銃を突きだしていた。しきりに引き金を引いているのだが、撃鉄は落ちない。セイフティがかけられていることに気づいていないのだ。
走った。孫淳がおれの意図に気づいて銃口を向けてきた。富春の弾幕がそれを遮った。孫淳は富春に応戦するしかなかった。顔が忌ま忌ましそうに歪んでいた。
秀賢がおれに気づいた。顔半分に口を広げ、おれに銃を突きつけてきた。弾丸が発射されないことにようやく気づくと、地面に尻餅をついたまま、後退りはじめた。
秀賢の腹を蹴った。うずくまった秀賢から銃をもぎ取り、セイフティを解除した。その瞬間、銃声がやみ、獣の咆哮《ほうこう》のような悲鳴が墓地の淀んだ空気を震わせた。
おれは振り返りざま、孫淳のいた方に銃を突きつけた。孫淳が富春に向けていた銃口をこっちに向けるのとほぼ同時だった。おれたちは互いに銃を向けあったまま凍りついた。富春は胸のあたりを押さえて転げまわっていた。指の間から溢れてくる鮮血が夜目にも鮮やかだった。
「諦めろ、健一」
孫淳がいった。目の色はいたってクールで、汗ひとつかいちゃいなかった。
「弾丸はそんなに残ってないはずだ」
おれはいった。孫淳のそれとはくらべものにならないほどに声が震えていた。
「一発で充分だ」
おれはその言葉を信じた。孫淳とおれの距離は五メートル、孫淳が外すわけはない。だが、おれは一メートル先の的にだって当てる自信がない。今だって、孫淳に向けた銃はぶるぶると震えていた。
大きく息を吐きだし、ゆっくり銃をおろしはじめた。孫淳の目に勝利のきらめきが宿った。その瞬間、孫淳の身体の真ん中で電子音が鳴った。おれから取り上げていた携帯電話。孫淳の目が一瞬、それた。おれは銃を振り上げながら引き金を引いた。孫淳の上半身ががくんと揺れた。次の瞬間、孫淳の胸から血が噴きでた。それでも孫淳は倒れなかった。咄嗟《とっさ》に身を伏せた。孫淳の銃が火を噴いた。凄まじい風圧がおれの頭の上を駆け抜けていった。顔を伏せたまま、前に突き出した銃を撃った。それにわずかにおくれて、銃声が二つ続いた。
銃声の数が合わなかった。顔をあげた。孫淳が険しい形相で後ろを振り返っていた。孫淳の後ろに影が立っていた。影は、初恋の相手にプレゼントを渡そうとしてる女の子のように、胸の前でしっかりと銃を構えていた。小蓮だった。
小蓮の銃口が火を噴いた。おれは咄嗟に身を伏せた。孫淳の身体が血を撒き散らしながらこっちに吹き飛んできた。クールだった顔が驚愕《きょうがく》と憤怒《ふんぬ》に歪んでいた。その顔に銃を向けた。引き金を引いた。手の中で銃が跳ねた。孫淳の顔の半分が、西瓜みたいに破裂して消えた。
悲鳴があがった。富春とは違って、甲高い悲鳴だった。おれは振り向いた。秀賢が目を大きく剥《む》いていた。半開きの口から、意味の取れない言葉が次から次へと漏れていた。
おれは銃口を下に向け、撃った。秀賢の身体が電流にうたれたようにびくんと跳ねた。それっきり、動かなくなった。
「健一!!」
小蓮が走ってくる。おれはそれには答えず、地面に倒れている富春に顔を向けた。
「終わったのか?」
仰向けに倒れたまま、富春がいった。見た目より酷い傷じゃなさそうだった。孫淳の放った弾丸は、胸じゃなく肩にめり込んだらしい。
「小蓮がおまえに教えたのか?」
おれは訊いた。
「ああ、途中でばったり出くわしたんだ。それで、おまえが上海のやつに掴まってるってな、聞かされた」
小蓮の荒い息遣いがすぐそばで聞こえた。おれは小蓮の紅潮した顔を見つめた。
「どうしようと思って、ずっと後を尾けてたの。ずっと入り口のところで様子をうかがってて……そしたら、富春が来たのよ」
「ひとりで逃げればよかったんだ。そっちの方がよっぽどおまえらしい」
「何度もそうしようと思ったけど、足が動かなかったの」
小蓮は挑みかかるような眼差しをおれに向けた。ヨーロッパの昔の絵に描かれた闘いの女神のようだった。だらりと垂れた右手に握られた銃と左手の中の携帯電話だけが、どこか場違いな感じを小蓮に与えていた。おれが富春に渡した携帯電話。
孫淳の携帯電話を鳴らしたのは小蓮だった。おかげで、助かった。おれは小蓮を抱きしめたいという衝動に襲われた。踏みとどまったのは富春がいたからだ。
だが、小蓮はそんなことに頓着はしなかった。おれ以外の人間なんか目に入らないといった仕種で、しっかりとおれに抱きついてきた。
「健一、嘘じゃないよ」
小蓮の相手をしている暇はなかった。富春が、地獄から蘇ってきた亡者のような目でおれを睨みあげていた。
「どういうことだ、健一?」
富春は、右肩を押さえながらもがいた。立ち上がろうとしているのだ。おれはその肩を蹴った。富春はくずおれ、獣のような悲鳴をあげた。
「こういうことだ、富春」
「なんでだ!? おれの女だぞ。それをなんだって……」
「小蓮はおまえの妹だ。そうだろうが」
おれは小蓮を脇に押しやった。
「なんでそれを……」
富春は絶句した。落ち窪んだ目が精一杯見開かれ、下顎がわなわなと震えていた。富春にもやっと、おれが友達なんかじゃないってことがわかったようだった。
「小蓮が教えてくれた」
嘘をついた。嘘の効果はてきめんだった。富春はぎらついた顔を小蓮に向けて叫んだ。
「小蓮、なんだってこいつに教えたんだ!?」
「わたしの勝手でしょ」
小蓮は憎悪に燃える瞳で富春の視線を跳ね返していた。
「そんな……小蓮……おまえ、健一に騙《だま》されてるんだ。そうだろう?」
「わたしが健一を選んだのよ」
「健一!!」
富春が立ち上がった。傷ついた者とは思えない一瞬の動作。引き金を引く間もなく、おれは富春に引き倒された。銃がおれの手を離れて転がつていった。
「小蓮はおれの女だ。それをてめえ」
富春の額がおれの鼻にめり込んできた。つーんとした痛みが鼻梁を駆け抜け、目に涙があふれた。
「おれはてめえのためなら、いつだって身体を張ってきた。それを、それを……」
今度は左の頬だった。富春はおれの上に馬乗りになって、めちゃくちゃに頭を振り回していた。おれは両手で富春の胸を押し上げた。無駄だった。富春の身体は岩のようにごつくて重かった。ごつんごつんと鈍い音を立てて、富春の額がおれの顔を何度も打ちのめした。痛みはいまじゃ顔全体に広がっていた。痛みのせいで、なにも考えられなかった。おれの身体の表面は痛みに、内側は恐怖に冒されていた。鼻だけじゃなく口の中も出血していた。息ができなかった。おれは自分の血に溺《おぼ》れかけていた。
いきなり、銃声がおれの鼓膜をどやしつけた。身体の上から重みが消えた。身体を横にして、口の中の血を吐きだした。音を立てて空気を吸い込んだ。視線を横に走らせると、富春が背中に穴を開けて突っ伏していた。
「小蓮……」
空ろな目で地面を睨みつけたまま、富春はかすれた声でいった。
小蓮は、黒星を富春に向けていた。銃口から硝煙がたちのぼっていた。
「お、おれは……」
「うるさいのよ」
小蓮は、汚いものを吐きだすような口調で富春の声を遮った。
「昔からあんたはそうだったわ。馬鹿力はあるけど自分じゃなにもできない。頭が悪すぎるのよ。うんざりだわ」
「小蓮……おれは……か……」
「口を閉じてよ。あんたの声を聞いてると虫酸《むしず》が走るわ」
痛みを堪えて立ち上がった。富春はぴくりとも動かないまま、目から涙だけを滾々《こんこん》と溢れさせていた。富春が泣いているのを初めて見た。富春に涙腺があるということすら、おれは今の今まで知らなかった。
「おまえは……おれが好きだっていった……」
「嘘に決まってるじゃない」
おれは頭を振った。蜂の巣に頭を突っ込んだような痛みが襲ってきた。あまりの激痛に、手で顔に触れることもできなかった。
「健一、大丈夫?」
「ぐずぐずしてると、おまわりが来る」
辛うじてそれだけをいった。小蓮がうなずく気配があった。
「じゃあね、兄さん」
小蓮の黒星からマズルフラッシュが迸《ほとばし》った。乾いた銃声。富春の身体が激しく痙攣した。
「健一……」
富春と目があった。富春は形容しがたい目でおれを睨んでいた。死ぬまで夢に見続けそうな目だ。
銃声が富春の言葉をかき消した。小蓮は、弾丸がなくなるまで富春に向かって引き金を引き続けた。
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秀賢のマンションに辿《たど》りついた時、ようやく遠くの方でサイレンが聞こえだした。
「ここで本当に大丈夫なの?」
おれの顔を冷やすための氷を用意しながら、小蓮がいった。部屋の鍵は秀賢の死体からかっぱらってきた。一度は孫淳に奪われたベレッタ、小蓮の持っていた黒星、弾丸が数十発、それに携帯電話。あの墓地で、おれはそれだけのものを手に入れた。
「二、三時間はな。孫淳は自分のやってることをだれにも報せてなかったはずだ。少なくとも、上海のやつらはおれたちがここにいるなんて気づきもしない」
おれはユニットバスの鏡を覗きこんだ。血は止まり痛みは鈍痛にかわっていたが、顔の表面が熱を持ち腫れはじめていた。
小蓮が、氷を入れて口を縛ったコンビニの袋を持ってきた。おれはそれを受け取った。頬骨に氷を押しつけて、リビングに戻った。小蓮が小犬のように後をついてきた。
小蓮はたいしたものだった。人をふたり、殺したばかりだというのに動揺のかけらもみられなかった。墓地からこのマンションへ戻ってくる間、小蓮がしたのはおれの怪我を心配することだけだった。
「どうして富春を殺した?」
小蓮が立ち止まる気配がした。しばらく間があって、小蓮は口を開いた。
「健一が殺せっていったのよ、わたしに。覚えてる?」
「ああ」
おれはソファに腰を下ろした。小蓮はキッチン・シンクの脇に立ったままだ。
「もう一度聞くぞ、小蓮。どうして富春を殺した?」
「わたしが撃たなかったら、健一、富春に殺されてたわ」
煙草をくわえた。小蓮の目を見たまま火をつけた。
「おまえたち、名古屋でなにをしてきた?」
小蓮は答えなかった。だが、おれにはそれで充分だった。富春を撃った時の小蓮の目。燃えていた。自分さえ燃やし尽くしてしまいそうな憎悪の炎で。おれは何度もあんな目を見てきた。欲の深い人間が、自分の物をかっぱらいに来た相手に見せる目だ。小蓮は富春を憎んでたわけじゃなかった。小蓮にとって富春はただのゴミ屑《くず》だ。憎む対象にすらならない。だが、すでに小蓮のものになったものを取り返しにきたとなれば話は別だ。小蓮はありったけの憎悪をこめた目で富春を睨みつけるだろう。
後は調べればすぐにわかる。たぷん、富春は名古屋で叩きをやったのだ。それも、裏の世界のやつからかっぱらったに違いない。その金を持って、小蓮はふけた。その金を頭金にして、マンションを買った。そんなところだ。
「富春は金を追っかけてきたわけじゃないぞ」
「わかってるわよ」
「ならいい」
おれは煙草の灰を落とした。灰は床に落ちて散らばった。その灰をスリッパの底で踏み潰した。電話が鳴った。
小蓮を見あげた。小蓮はおれに問いかけるような顔をしていた。おれは電話に手を伸ばした。
「はい?」
北京語でいった。相手が息をのんだ。
「黄秀紅?」
尋ねると、受話器の向こうで低いため息が漏れた。
「秀賢は?」
秀紅がいった。
「孫淳は? の間違いじゃないのか」
「孫淳は?」
「ふたりとも、死んだよ」
秀紅は押し黙った。おれは新しい煙草をくわえた。
「殺してやる」
煙草が半分ほど灰になったところで秀紅が口を開いた。語尾が震えていた。
「あんたは賭けに負けたんだ。諦めろよ」
「必ず殺してやるから」
「その前に、あんたが死んでるよ」
受話器を握ったまま電話を切った。そのまま、天文の店の番号をプッシュした。一回目の呼び出し音が鳴りおわらないうちに相手が出た。従業員だった。天文は店にいた。
「どこにいるんだ!?」
従業員に代わると、天文はいきなり怒鳴った。
「おまえが知る必要のない場所だ」
「ふざけるなよ。あんたと爺さんのおかげで、おれがどれだけ迷惑してるか――」
「警察か?」
「ああ、店の前はおまわりだらけだ。入れ代わり立ち代わりおまわりたちがやってきて、なにか見なかったか、思い出したことはないかと聞きにくる」
「爺さんは?」
「銃声が聞こえなくなった途端にいなくなったよ」
「すべてをめちゃくちゃにしたのは爺さんだ」
「知ってる」
天文はため息を洩らしながらつぶやいた。
「いつから知ってたんだ?」
「銃撃戦がはじまってからさ。おれをなんだと思ってるんだ? あの爺さん、慌てふためくおれを眺めながらいったよ。なにも心配することはない、あれはわしの手の者だ。ふざけやがって。みんなでおれをコケにしてるんだ」
「爺さんは〈薬屋〉か?」
「まさか。爺さん、元成貴が殺されるとは思ってもいなかったんだ。あんな用心深い人間が歌舞伎町に戻るわけがない。上海のやつらが目の色を変えてるからな。あんたは爺さんをうまく出し抜いたんだよ」
「わかった。また連絡する」
「待てよ。この落とし前はきっちりつけてもらうからな」
「流氓みたいな口のききかただな、小文」
天文の罵声が返ってくる前に受話器を置いた。顔を上げると、小蓮がなにかを問いたげにおれを見つめていた。
「なぜ、逃げなかった?」
「何度も逃げようと思ったわ」
小蓮はまっすぐおれの目を見ていた。
「おまえは逃げるべきだった。そうすりゃ、いまごろは富春だけじゃなくおれもくたばってた。おまえのあのマンションを知ってるのはおれだけなんだ。ほとぼりが冷めてから戻ってくれば、なにも問題は起こらない。なぜだ? 理由を教えてくれ」
「二十何年も生きてきて、わたしと同じ人間を見つけたの、はじめてだったのよ」
「だめだ。おれは信じられる理由が欲しいんだ」
「知ってるわよ」
小蓮は吐きだすようにいった。
「だから、逃げなかったんじゃない。健一はわたしの言葉なんか絶対に信じない。でも、身体を張れば、認めてくれる。だから、身体を張ったのよ。信じなくてもいいから、わたしが身体を張ったんだっていうことだけは認めてよ」
小蓮の肩が小刻みに震えていた。それでも、信じられなかった。
「わかった」
なんとかいえたのはそれだけだった。小蓮から目をそらし、氷入りの袋をきつく顔面に押し当てた。氷がおれの感情を冷やしてくれればいいと、願っていた。無駄だった。
「なにか、雑巾《ぞうきん》の代わりになるようなものを探してくれ」
頭を振りながら立ち上がった。黄秀紅がここにおれたちがいることを知っている。ぐずぐずしている暇はない。
「それで、おれたちが手を触れた場所をきれいに拭くんだ。指紋を残したくない。台所は念入りにな」
小蓮は返事もせずに動きはじめた。それを眺めながら、もう一度電話に手を伸ばした。時報や天気予報の番号をくり返しプッシュした。今時の電話機には、リダイアルという面倒な機能がある。天文の店の番号は残しておきたくなかった。
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おれたちは御苑前から池袋行きの丸ノ内線に乗った。秀賢のマンションから駅まではたった二、三分の距離だが、三組のおまわりたちとすれ違った。酔っぱらいのふりをして小蓮の肩に顔をうずめておまわりたちをやり過ごした。血まみれの服は、秀賢の部屋にあったものに着替えてあったが、おれの腰には黒星がささっている――弾丸が一発しか残っていないベレッタは小蓮のルイ・ヴィトンの中だ。職務質問をされたら一巻の終わりだった。もっとも、おまわりたちは先を急ぎすぎていて、おれたちに注意を払ったりはしなかった。
まだ終電に時間があるせいか、地下鉄はそこそこの混雑だった。騒音に混じって、酔客たちの興奮した会話が車内には満ちていた。こうしたやつらには、今日の銃撃戦も余興のひとつにすぎないらしい。
おれはサングラスをかけていた。左の瞼がすっかり腫れて目が潰れかけている。他の部分はまだ大丈夫だが、目だけは隠しておきたかった。
「金はもう残ってないのか?」
正面の車窓に映る自分を見ながら、横にいる小蓮に訊いた。北京語だ。
「全部、マンションに注ぎこんだわ。富春が来るの、わかってたから。その前に使っちゃいたかったの」
「なにをやったんだ?」
「知らない。ある晩、仕事が終わって帰ってきたら、部屋にボストンバッグがあったの。中にはお金がぎっしり。富春は酔っ払って眠りこけてたわ。お金を数えたら、二千万あった。わたし、旅行ケースに服をつめて、部屋を出た。名古屋駅前のビジネスホテルに部屋を取って、次の日の朝一の新幹線に乗ったの。あとは前に話したのとおんなじ。富春の執念深さは知ってたから、あなたを利用して殺してもらおうと思った」
「妊娠の話も嘘か?」
「それは本当」
「おまえは自分で殺した。そんなに金のことをおれに知られたくなかったのか? おれがおまえから巻き上げるとでも思ったか」
「だって、健一、いま文無しじゃない」
小蓮は当然のようにいった。
「お金のない人は、自分の自由にできる人間から絞り取ろうとするのよ。わたし、知ってるの」
「おまえはおれが自由にできる女なのか。知らなかったな」
小蓮は驚いたようにおれを見た。頬のあたりがかすかに紅潮していた。おれと目があうと、すぐにうつむいた。
茗荷谷《みょうがだに》の駅が近づくと、おれは小蓮を促した。地下鉄を降りて、駅前の公衆電話を使った。
「もしもし?」
流暢《りゅうちょう》な日本語だった。
「葉暁丹先生のお宅でしょうか?」
おれも丁重な日本語で、大金持ちの台湾人の名前を口にした。
「失礼ですが?」
「劉健一と申します。葉先生がいらっしゃらなければ、楊偉民をお願いしたいのですが」
「少々お待ちください」
あっさりしたものだった。かまをかける必要もなかった。
受話器からオルゴールを真似た電子音が聞こえてきた。おれは驚いた。耳に飛び込んできたのは聞きなれたメロディじゃなかった。『何日君再来《ホーリージュンツァイライ》』。身体に中国の血が流れているなら、いてもたってもいられなくなる――もっとも、おれは驚いただけだったが――メロディが流れてきたのだ。葉暁丹は特別注文の電話機を使っているらしい。
『何日君再来』のメロディが二回線り返されて、やっと相手が出た。楊偉民だった。
「いま、どこにいる?」
楊偉民の声はいつもと変わりなかった。
「茗荷谷の駅前」
「なぜ直接訪ねてこない」
「葉先生は半々がお嫌いらしいからね」
「すぐに来い」
電話が切れた。
「どこに行くの?」
小蓮が「教育の森」というふざけた名のついた公園に目を向けながらいった。おれたちは葉暁丹の屋敷に向かっていた。
「大金持ちの家だ」
「だれに会いに?」
「大金持ち、楊偉民、それから上海のだれかだ」
小蓮はゆっくり顔を向けた。
「そこにわたしたちが入るとどうなるの?」
「話がつく」
「わかるように説明して」
「もう、だれもこれ以上のゴタゴタは望んでないってことだ。今、大金持ちの家じゃ、楊偉民と上海のやつらの間で和平工作が進められてるはずだ。その和平工作に、おれたちも混ぜてもらう」
「混ぜてくれるの?」
「混ぜてもらえなきゃ、おれたち、死ぬしかない」
小蓮はおれの腕に自分の腕を巻きつけてきた。
「もう、孫淳と富春がくたばったことは連中の耳に入ってるだろう。連中、スケープゴートができたって喜んでるはずさ。死人に口なしだ。すべてをふたりにおっ被せればいい。元成貴の地位を狙っていた孫淳が、富春と手を結んだ。結局は仲間割れをしてお互いにくたばった。ディテイルがおかしくてもだれも文句はいわない。面子さえ立っちまえば、あとは自分の稼ぎの方が大切だからな」
「わたしたちになんの関係があるの?」
「その和平工作に混ざらなきゃ、おれたちにもどんな罪が被せられるか、わかったもんじゃない。楊偉民と上海のやつらの口から、おれたちのことは不問にするっていう言質《げんち》を取りたいんだ」
「不問にしてくれるの?」
「成り行きしだいだな」
小蓮はそれ以上質問してこなかった。おれの腕にきつく抱きついて歩いていた。
「逃げたいか? おまえだけなら、今からでも間に合うぞ」
「それだったら最初から逃げてるよ。健一と一緒に行く。決めたんだから」
「小蓮……」
「なにもいわないで。いいたいことはわかってる。でも、いいの」
小蓮は叫んだわけじゃなかった。だが、おれは小蓮のプレッシャーに負けて口を閉じた。
「死ぬ時は一緒がいいな」
やがて、小蓮がぽつりといった。
おれは小さくうなずいた。
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葉暁丹《イェシァオダン》の家の門には、葉村と彫られた表札が掲げられていた。門の脇のインタフォンを鳴らすと、しばらく待たされてから、和服を着た初老の女がおれたちを迎えた。女はおれと小蓮に値踏みするような視線を一瞬だけ当てた。それだけだった。あとは無言だった。
門から玄関にたどり着くのに、ゆうに五分はかかった。道が曲がりくねっているのだ。日本庭園のことはおれにはよくわからない。それをつくる台湾人の気持ちもおれにはわからなかった。葉暁丹は、戦前、台湾で日本式の教育を受けたらしい。そのころ、なにかコンプレックスを植えつけられたのかもしれない。戦争を生き延びた台湾人の中には、今でも日本に対する憧憬を胸に秘めているやつらがいるらしい。日本が去った後にやってきた国民党への憎悪に対する裏返しの感情だ。もっとも、葉暁丹は戦時中に日本にやってきたくちだ。そんな感情とは無縁だろう。
おれと小蓮は、黙って女の後に従った。何度か、腰に差した黒星に手が伸びそうになった。黒星をつかむ代わりに、おれは小蓮の手を握った。小蓮の手は冷たかった。骨の芯まで凍えてるようだった。
薄暗い廊下を歩き、女に指示されたドアを開けた。二十畳以上もある居間だった。その真ん中に置かれた応接セットに、楊偉民と葉暁丹、それに銭波《チェンポー》が腰かけていた。銭波は上海のナンバー二だ。ゴリ押しが得意で、元成貴には疎まれていた。それでも、ナンバー二の地位を維持できたのは、暴力という重しで他人を押さえつける方法を熟知していたからだ。上海のやつらはたいてい、銭波を嫌っていた。だが、逆らうこともできなかった。せいぜいが、銭波と音が似てることにひっかけて、陰で日本語でちんぽ野郎と蔑むのがせいぜいだ。
「遅かったな」
楊偉民がいった。銭波は刺すような視線を送ってきた。葉暁丹はおれたちを無視した。胸の前で腕を組んで、宙の一点をじっと凝視していた。
「話はどこまで進んだんだ?」
おれはいった。だれも座れといってくれなかったので、立ったままだった。
銭波が舌を鳴らした。
「偉そうにしゃべりやがって。だれのせいでこんなことになったと思ってるんだ?」
「富春のせいだ。違うか?」
「半々野郎が、なめた口きくじゃねえか」
銭波が立ち上がった。だが、銭波の興奮は、葉暁丹が発した咳払いひとつでしぼんでしまった。
「座るといい」
銭波をちらっと睨んでから、葉暁丹はおれに顔を向けた。おれは小蓮の手を引いて、楊偉民と銭波に挟まれたソファに腰を下ろした。
「だいたいの話はまとまった」
おれたちが腰を下ろすのを待っていたかのように、楊偉民が話しはじめた。
「今回のゴタゴタは、孫淳と呉富春にすべての責任を取ってもらう」
「ふたりともくたばったぜ」
口を挟んでみた。楊偉民は小さくうなずいただけだった。
「都合がいいってもんだ。死人に口なしだからな」
銭波がいった。おれは無視した。楊偉民も葉暁丹も同じだった。
「つまり、ボスの座を狙った孫淳が、富春とつるんで元成貴を殺したってことだな?」
「そうだ。その後、仲間割れを起こして互いに撃ちあった」
「それで上海の方は納得するのか?」
銭波にきいた。
「ああ、おれとしても、これ以上のゴタゴタはごめんだからな。今日は六合彩だったんだぜ。その収入も半減だ。いつまでもくたばった人間のことにかかわっていられるか」
銭波は、得意げな笑みを葉暁丹に向けた。
「ま、おれに任せておきな。元成貴を捨てて孫淳とくっついた女も捕まえてあるし、なんの問題もねえ」
おれはちらっと楊偉民に視線を飛ばした。楊偉民は応じなかった。黄秀紅は賭けに負けた。それも、尻の毛まで抜かれたようなものだ。銭波にさんざん嬲《なぶ》られて殺される。それが賭けの代償だ。
「問題は、ある」
楊偉民がいった。銭波が口を尖らせた。楊偉民は相手にしなかった。
「おまえが崔虎を引きずり込んだせいで人が死にすぎた。孫淳は死んだが、手下は生き残っている。そいつらは、今度の件におまえが首までどっぷり浸かってることを知っている」
小蓮がおれの手をきつく握ってきた。その手を握りかえした。楊偉民の目を真っ直ぐ見つめ、いってやった。
「あんたが変な小細工をしなけりゃ、くたばるのは元成貴とボディガードだけだったはずだ」
「この件に関してはわしはいっさい関知していない」
「ふざけるなよ」
「そう決まったんだ」
三人の顔をじゅんぐりに見渡した。楊偉民は相変わらず涼しい顔でおれの視線をやり過ごした。銭波は睨みかえしてきた。葉はおれを無視した。目をあわせる必要もないという態度だった。
「諦めろ、健一。死んだ人間の大半は、台湾の人間だ」
「あんたが呼んだんだ。おれはあんなやつらがいるなんて、知らなかった」
「知らんでは通らん。それぐらいのことはわかっているだろう」
「おれにどうしろっていうんだ?」
おれは肩から力を抜いた。どう抗っても無駄なのだ。
「問題はもうひとつある」
楊偉民はおれの質問を無視した。
「つい二、三日前、名古屋から人が来た。名古屋の連中は呉富春を探していた」
小蓮を顧みた。小蓮の頬は心なし蒼ざめていた。目だけが爛々と輝いていた。
「富春は名古屋でなにをしたんだ?」
顔を前に向けた。言葉が自分で意識していたより低かった。話そうと思えば、楊偉民はその話をおれにすることもできたのだ。
「賭場を襲ったんだ。盗まれた金は二千万。麻雀をうっていた客がふたり死んだ。名古屋に古くから根を張ってる連中が仕切っていた賭場だ。彼らは潰された面子を元に戻したがっている」
「賭場を襲って二千万しか盗らなかったのか?」
「あいつは正真正銘の愚か者だ。客のバッグを持っていった。賭場にはその十倍以上の金があったそうだ」
「その連中は元成貴にもあいに来たぜ」
銭波が口を挟んできた。
「元成貴は、富春をぶっ殺して金を取り戻してやると請け負った。つまり、おれたち上海の組織が、名古屋の連中に約束したってことになってるんだ。わかるか、健一?」
うなずいた。元成貴の後釜に座るために、銭波は名古屋の連中との約束を守らなきゃならない。そういうことだ。
「金はどこにあるんだね、小姐《シャオジェ》?」
楊偉民が小蓮に顔を向けた。楊偉民はずっと小蓮を無視していた。タイミングをはかっていたのだ。
小蓮は身体を強張らせた。だが、それも一瞬のことだ。すぐに、いつもの調子で楊偉民に答えた。
「ないわ」
にべもない答えだ。銭波のこめかみの血管がそれを聞いて膨張した。
「もともと呉富春から受け取ってないのかね? それとも、もう使ってしまったということかね?」
身を乗りだそうとする銭波を手で制しながら、子供に道を訊ねるような口調で楊偉民はいった。
「あのお金はわたしが富春から盗んだの。わたしのものよ。賭場のことなんか、わたし知らないもの」
「小姐、そういう理屈はこの世界では通じないんだ。ここだけじゃない。どの世界でも通じない」
「わたしと健一が生きてる世界では立派に通じるわ。盗まれる方が悪いのよ。そうでしょう、健一?」
楊偉民と銭波がおれを見た。葉暁丹までがおれを見つめていた。おれは首を振った。
「小蓮、おまえは間違ってる。うまく逃げおおせることができたら、金はおまえのものだ。だが……わかるだろう?」
「健一……」
「わかったかね、小姐。これは子供の遊びじゃないんだ。金はどこにある?」
「ないわ」
楊偉民は辛抱強かった。好々爺《こうこうや》のように穏やかな笑みを浮かべて、小蓮の強情さに付き合っていた。
「なんに使ったんだね?」
小蓮は、うかがいをたてるようにおれの顔を見た。うなずいてやった。
「マンションの頭金よ」
「賢い小姐なのか、それとも馬鹿なのか……」
楊偉民はつぶやいた。ひとりごとのようだったが、おれに対する質問だった。
「小蓮はずっとひとりで生きてきたんだ。ルールを教えてくれる人間がいなかった」
「わしらの知ったことではない」
沈黙。だれも口を開こうとはしなかった。おれは小蓮を引き寄せた。沈黙が破れるのが恐かった。その先に待っているのは、お馴染《なじ》みの結論なのだ。おれと楊偉民が、最初からそこにあるのを知っていながら、出すのを引き延ばしにしていた結論が。
「どうする、健一?」
沈黙を破ったのは、やはり楊偉民だった。
「いま、二千万の手持ちはないが、金はおれが必ず作る。ちょっと待ってくれれば、マンションも売れるはずだ」
「待てない。わかってるはずだぜ、おい」
答えたのは銭波だった。元成貴の後釜に座るためには、だれよりも先に、元成貴が名古屋の連中とかわした約束を果たさなきゃならない。銭波の目はぎらついていた。
おれは楊偉民に救いを求めた。
「だめだ」
楊偉民は首を振った。
「葉先生なら、二千万ぐらい、すぐに出せるはずだ」
喉がかわいていた。鳩尾《みぞおち》のあたりに腫瘍《しゅよう》のような異物があって、そこから絶え間ない鈍痛が押し寄せてきた。
「日本人に貸す金などない」
葉暁丹がいった。吐きだすような口調だった。
「金は金だ。相手がだれだろうと儲けが出れば関係ないはずだ」
「だからいったのだ、偉民」
葉暁丹はおれを無視して、鶏のように皺《しわ》だらけの顔を楊偉民に向けた。しゃべるたびに、白濁した唾液が飛び散っていた。
「半々なんぞを甘やかすものじゃない。こいつらはつけあがるだけだ」
「葉先生、たしかに健一はろくでなしの半々です。ですが、一度は孫同然だったのです」
楊偉民はおれの顔を見ながらいった。言葉とは裏腹に、厚い瞼《まぶた》に埋もれた目はじっとおれの顔色をうかがっていた。
「健一、あきらめろ。金がないのなら、死体を渡すしかない。呉富春の死体だけでは足りんのだ。おまえの失策はなんとかしてやることができる。だが、そちらの小姐は無理だ」
小蓮に視線を向けた。小蓮はハイエナの群れに出くわした小鹿のようだった。すっかり怯え、焦点のあわない視線をあちこちにさまよわせていた。おれが見つめていることにも気づいちゃいなかった。
小蓮を見た瞬間、おれのなかでなにかが弾けた。どろどろとした粘液みたいなものがおれの腹の中で渦巻いていた。小蓮を楊偉民に渡すべきだった。だが、おれにはそうすることができなかった。小蓮は、やっと見つけた宝物だ。おれと同じようにものを見て、おれと同じように考える。小蓮を切り捨てる。頭じゃわかっていた。だが、できなかった。小蓮はおれのものなのだ。やっと見つけたおれの女なのだ。この先ずっと、小蓮と一緒にいられるなんて馬鹿げた夢を見てるわけじゃない。いつか、どっちかがどっちかを裏切る。わかりきってる。それでも、いまこの瞬間、小蓮はおれのものなのだ。
「健一」
楊偉民がいった。おれを促していた。
「おれは半々だ。あんたたち、中国人の面子なんか知ったことじゃない」
さっと立ち上がった。同時に黒星を抜いた。自分でも驚くほど滑らかな動作だった。おれと一緒に立ち上がりかけていた銭波が、銃を見て動きをとめた。
「気でも狂ったのか、健一」
楊偉民は平然としていた。悲しげに目を細めただけだった。
「小蓮はおれの女だ。たったひとりのおれの身内だ。だれにも渡さない」
「わしらに銃を向けてどうなる。死んだも同然だぞ」
「あんたたちにはおれを追い回してる余裕はない。元成貴がくたばったんだ、崔虎が動き出す。あんたたちは、崔虎に対する善後策を練るために集まったんだ。おれはたまたまひっかかった魚だ」
三人に銃口を向けたまま後退った。小蓮はおれにぴったり寄り添っていた。おれがハイエナたちに牙《きば》を剥いたことで、小蓮は自分を取り戻していた。小蓮は怒りと憎悪に燃えていた。衣服を通してさえ、小蓮の体温がおれに伝わってきた。
「健一、殺して。こいつらを殺して」
小蓮はおれの耳元で囁《ささや》いた。蕩《とろ》けるほど甘い蜂蜜のような声だった。おれはその声が発する強力な誘惑に耐えた。
「ついさっき報せがあったんだが」
楊偉民がいった。飲茶《ヤムチャ》の最中のような場違いな声だった。
「戸山の崔虎のマンションが何者かに襲われたらしい」
胃の鈍痛が、きりきりと痛みだした。程恒生は今夜は手を出さないといった。だが、それを信じるのは間抜けのすることだ。
「もちろん、上海の連中やわしら台湾人の仕事ではない。だれかが、香港の連中に密告したんだ」
「崔虎はどうなった?」
「無事だ。ただ、かなりの人数が死んだらしい。崔虎にも動く余裕はなくなった、ということだ」
「相変わらず、耳がいいな」
「どうする、健一。これでもわしらに銃を向けるのか? わしはともかく、ここにいる銭波と葉先生は地獄の果てまでおまえを追いかけるぞ」
「おい、健一。おれの手下どもが飛んでくるぞ。葉先生の家に上げるのは無粋だと思って、外で待たせてるんだ」
銭波がいった。顔が真っ赤に染まり、目にはプライドを傷つけられた怒りの色が浮かんでいた。
「だれもいなかった」
おれはいった。いいながら、頭の中じゃ楊偉民の言葉を繰り返していた。だれも気づいちゃいないが、楊偉民の言葉には裏がある。
「あほ。見るからに下品なやつらだぞ。車で近くを流させてるんだ」
「小蓮、銭波は銃を持ってるはずだ」
小蓮はすぐに動いた。おれは銃口を銭波に向けた。銭波は不服そうに両手を挙げた。小蓮が銭波を睨みながら、スーツの中を探った。すぐに、小蓮は銃を見つけてこっちへ戻ってきた。小蓮の手に握られているのは銃身の短いリヴォルヴァーだった。
「健一、おまえはずっとわしのやり方を見てきた。わしからなにも学ばなかったのか?」
おれが小蓮から銃を受け取ると、楊偉民がいった。
「なんといわれようと、おれはもう決めたんだ。小蓮はおれといっしょにいく」
楊偉民は小さく首を振った。
「偉民、もうよい。この半々は死にたがっておるのだ。好きにさせてやれ」
葉暁丹がいった。いまじゃ、まともにおれを睨んでいた。おれは銃を持ちかえた。右手にリヴォルヴァー、左手に黒星。リヴォルヴァーの銃把は、黒星のそれよりおれの掌にはしっくりきた。リヴォルヴァーを葉暁丹に向けた。手が震えることはなかった。フィルターかなにかをかけられたように、おれの感情の一部は麻痺していた。
「楊偉民、おれはあんたからいろんなことを学んだ。それは本当だ」
おれには楊偉民の考えがわかっていた。おれに葉暁丹と銭波を殺させたいのだ。葉暁丹が死ねば、楊偉民の頭を抑えこめる人間がいなくなる。銭波が死ねば、上海のやつらはトップ争いに目の色をかえて、他のことにかまけてる余裕がなくなる。ほんのしばらくの間だろうが、歌舞伎町は昔のように楊偉民がすべてを支配する街に戻るのだ。たぶん、葉暁丹の金をかすめる方法も考えてあるのだろう。だからこそ、おれにだけわかる言い方で伝えてきたのだ。
葉暁丹と銭波を殺せ、あとはうまくやってやる――と。
「爺さん、この家には一丁ぐらい銃があるんだろう?」
葉暁丹と銭波はおれの言葉が理解できないという表情を浮かべていた。楊偉民だけが、満足そうにうなずいた。
「おれが最初に学んだのは、あんたの言葉を全部信じちゃ駄目だってことだ。銭波はあんたが始末をつけるんだな」
リヴォルヴァーの撃鉄を起こし、引き金を引いた。予想外に大きな銃声だった。弾丸は葉暁丹をそれ、後ろの壁に穴を開けた。もう一度撃った。今度は葉暁丹が吹き飛んだ。
それで充分だった。葉暁丹はまだ生きてるかもしれないが、とどめは楊偉民がさすだろう。おれは右手のリヴォルヴァーを楊偉民に放り投げた。
「行くぞ、小蓮」
小蓮の手を引いて、玄関に向かって走った。
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途中で銃声がした。立ち止まったりはしなかった。楊偉民が銭波を撃ったのだ。楊偉民のシナリオじゃ、とち狂った銑波が銃を抜き、葉暁丹が応戦、結局二人ともくたばったってことなんだろう。おれさえ口をつぐんでいれば、なにも問題はない。もちろん、おれには楊偉民をちくるつもりなどなかった。
玄関には、あの女がいた。おれたちを認めると、女は一瞬だけ眉を曇らせた。だが、なにもしなかった。まるでそうなることを予期してたようだった。
「どいて!」
小蓮が叫んだ。無駄なことだ。女には楊偉民の息が掛かっている。楊偉民はどこまでもしたたかだ。
「楊先生は?」
女は小さな声で訊いてきた。
「あんたの助けがいるんじゃないか」
そう答えながら、靴をひっかけた。銭波の手下が近場にいるのは間違いない。できるだけ急がなきゃならない。
庭を突っ切って、門へ出た。小蓮の息遣いが荒かった。おれも似たようなものだ。門から顔を出し外をうかがった。だれもいなかった。おれたちは葉暁丹の屋敷を飛び出した。
「どうして三人とも殺さなかったの!?」
小蓮が叫んだ。鼻梁《びりょう》に皺《しわ》がより、目が充血していた。
「その必要がないからだ」
葉暁丹の屋敷からはかなり離れたところまで来ていた。歩く速度を落として小蓮の肩を抱き寄せた。
「いいか、おれたちはこれからやりにいく恋人同士だ。車や人と通り過ぎる時は、おれの顔が隠れるようにキスしてくれ」
小蓮は左右に視線を走らせた。その動作が落ち着きを取り戻させたようだった。次におれに向けられた小蓮の目は、充血がかなり薄れていた。
「どうなるの、わたしたち?」
「後のことは楊偉民がうまくやってくれるはずだ。おれたちは、しばらく隠れる」
「なんであの人が……あの人、健一のことを昔は孫も同然だったっていってたわ。だからなの?」
「まさか」
小蓮の甘い考えを、おれは鼻で笑ってやった。
おれたちは播磨《はりま》坂を春日《かすが》通りに向かっていた。行き交う車のライトが当たるたびに、おれは顔を背けた。だが、急ブレーキの音も、おれたちを追ってくる足音も聞こえなかった。
「隠れるって、どこに隠れるか決めてあるの?」
「いや」
「わたし……」
小蓮はいいよどんだ。らしくない仕種。おれは小蓮の横顔を見つめた。そして、小蓮の求めているものを見つけた。
「温泉にでも行くか?」
小蓮は笑った。
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春日通りから車が入ってきた。古ぼけた黒いベンツだった。おれの足が地べたに張りついた。小蓮がおれにぶつかってきた。それでも、おれは動けなかった。
「どうしたの?」
小蓮がおれの顔を覗きこんだ。
「……崔虎だ」
おれの目はベンツに釘付けになっていた。視界の隅に小蓮の顔がうつった。小蓮は笑みを浮かべたまま凍りついていた。
ベンツがとまった。ベンツの後ろにもう一台。そいつもとまった。二台のドアが開いた。銃や刃物を持った男たちが飛び出てきた。一番最後に、ゆったりと、気取った仕種で崔虎が姿を現した。左腕を包帯で吊《つ》っていた。
「よお」
崔虎がいった。顔には満面の笑みが浮かんでいた。手下どもがおれと小蓮を取り囲んだ。どの顔も血走っていた。
小蓮が身体をくっつけてきた。その細い腰を抱き寄せた。
「楊偉民か?」
おれはいった。それだけで崔虎には通じた。
「他にだれがいるよ?」
崔虎はつまらない冗談をいったというように、喉の奥で短く笑った。
「香港の豚どもに襲われてこのざまだ」
崔虎は包帯で吊った腕を揺らした。
「どう考えたって程恒生にチクったのはおまえしかいねぇ。おれもプッツンきてよ、楊偉民に怒鳴り込んだんだよ。あの爺い、別にびびったようには見えなかったが、あっさり教えてくれたぜ。葉暁丹の家を張ってりゃ、必ずおまえが来るってよ」
唇を噛んだ。血の味が口の中に広がっていた。それでも痛みは感じなかった。おれは楊偉民からなにひとつ学んじゃいなかった。
「こんなとこで立ち話もなんだ。車に乗れよ」
崔虎がいった。逆らえるはずがなかった。小蓮を促して、ベンツの後部シートに乗りこんだ。
「ずいぶん無口になったじゃねぇか。なにかいいたいことはないのか?」
崔虎がいった。ベンツは音羽《おとわ》を走っていた。助手席の男が、暗い目をこっちに向けていた。なにかあれば、すぐにでもおれを撃ち殺すつもりなのだ。腰に挟んであった黒星は奪い取られていた。おれは小蓮の手を握った。
「聞いてもらえるのか?」
崔虎は苦笑を浮かべた。ちらっと外を見つめ、右手で頭を掻いた。
「おれだっていろいろ考えるんだ、こう見えてもな。いってみろよ、なんだって程の野郎にちくった?」
「程はもっと利口だと思ってたんだ」
「おれにもわかるように話せよ」
「北京の崔虎のヤサを下調べもしないで襲うなんて、馬鹿のすることだ。おれは昨日、あいつにあんたのヤサを教えた。あんたを襲うまでに数日あると思ってた。その間に、あんたに教えるつもりだった」
「香港のやつらは蛇みたいにしつこいんだ」
崔虎はひとごとのようにいった。
「程恒生はクールなタイプだって聞いていた」
「おまえの耳もあてにならねえな」
崔虎はつまらなさそうに、窓の外に顔を向けた。崔虎が口を閉じると、ベンツが風を切る音とエンジン音しか聞こえなくなった。だれかの息遣いすら聞こえなかった。助手席の男は銅像みたいにぴくりとも動かずにおれを睨んでいた。
さりげなく小蓮の手を引き寄せた。連中はミスを犯していた。小蓮の鞄の中を確かめなかった。その手をルイ・ヴィトンの上に置くと、小蓮の身体がかすかに震えた。ベレッタの存在を感じ取ったのだ。
「もしだぞ――」
顔を外に向けたまま、崔虎が口を開いた。助手席の男の視線が崔虎に向かった。小蓮の手がルイ・ヴィトンの中にするりと潜りこんだ。
「おれがなにも知らなかったら、おまえ、どうしてた?」
「どういうことだ?」
いいながら崔虎の方に身体を傾けた。これで、小蓮の手の動きは助手席からは死角になるはずだ。
「だからよ、程にチクったのがおまえだっておれが知らなかったらってことだ」
「なにもしない」
「そうだろうな。健一、おれはおまえが嫌いだ。だが、使えるやつだとは思ってた。笑うなよ、おい。おまえがおれに会いにきた時、おれは夢を見ちまった。おまえと組んで歌舞伎町を乗っ取る夢だ」
笑い出すところだった。崔虎はびびっているのだ。それでおれの気を引こうとしている。崔虎は虎の皮をかぶった狐だ。虎を演じている時は威勢がいいが、皮を剥がれた途端に萎縮《いしゅく》する。
「おれとじゃ無理だ。あんたが歌舞伎町を仕切るための一番の方法を教えてやろうか? 楊偉民を殺すんだ」
小蓮の手の動きはいらいらするほどゆっくりだった。それでも、小蓮がベレッタのグリップに指をかけたような気配が伝わってきた。
「楊偉民をバラすと、騒ぎ出すやつが大勢いる。あいつのバックには葉暁丹もいるしな。腐るほど金を持ってるやつにはかなわねえ」
ちゃちな虚勢。本当のところは、手駒が減ったからには、嵐が通り過ぎるのをじっと待っていたいというところなのだ。
「葉暁丹はくたばったよ」
崔虎の横顔に言葉を投げつけてやった。
「なんだって!?」
崔虎がこっちを向いた。
「おれが撃った。それで死んでなかったとしても、楊偉民がとどめをさしたはずだ」
小蓮の手がゆっくりとルイ・ヴィトンから抜き出されるところだった。
「あの爺さん、なにを考えてるんだ?」
「上海はがたがただ。元成貴がくたばって、孫淳も死んだ。銭波も、たぶん、楊偉民が殺した。あんたたち北京もおれがドジを踏んだおかげでかなり戦力を削がれた。葉暁丹が死ねば、歌舞伎町で楊偉民をとめるやつがいなくなる。そういうことだ」
「おれはすぐに北京から手下を呼ぶぞ」
「楊偉民だって台湾からだれかを呼んでるはずだ。ちょっと前までは、歌舞伎町は台湾人の天下だったんだ。日本でもう一度甘い汁を吸いたいと考える流氓はたくさんいる」
「くそおもしろくもねえ」
崔虎はおれを睨《ね》めつけた。笑みはどこにもなかった。
「おまえが余計なことさえしなけりゃ、楊偉民も下手なことは考えなかったはずだ。明日の朝には、歌舞伎町はおれのものだったんだ」
「殺すのか?」
おれはいった。小蓮の手が蛇のようにルイ・ヴィトンから離れていった。
「他にどうしろっていうんだ? おまえはとっくにくたばってるも同然だ。そっちの小姐の方は、生かしてやるがな。こんな女とやってみてえってやつらが腐るほどいる」
「いやよ」
小蓮が口を開いた。
「いやたってな、小姐、こればっかりは……」
崔虎の目が大きく開いた。薄い唇を真一文字に結んでおれの後ろを睨みつけた。助手席の男が動こうとした。崔虎はそれを手で制した。
「わたしの身体はだれの自由にもさせない」
小蓮は吐きだすようにいった。頭に固いものが押しつけられた。
「見て、この銃。健一がわたしに渡したのよ。あなたを撃たせるために」
「それがどうした、小姐?」
「わたし、あなたを撃たなかった。そうでしょう? 代わりにこの銃を健一に向けてるのよ」
「だから、わたしだけは見逃してくれ。そういうことか、小姐」
「他になにかある?」
崔虎が笑った。地獄を垣間見《かいまみ》た亡者が出すような笑い声だった。
「健一、おまえ、とんでもない女とつるんだもんだな、え?」
おれはそれには答えなかった。身体をずらして、小蓮に顔を向けた。
「動かないで、健一。わたし、本気よ」
小蓮の声は上ずっていた。目が濡れていた。頬が紅潮していた。身体全体でおれに許しを乞うていた。だが、おれに向けられた銃口はぴくりとも動かなかった。
おれの喉元からなにかが迫《せ》りあがってこようとしていた。口の中に唾液が溢れてきた。背中一面に寒気が広がって、おれは凍えてしまいそうだった。
だが、そんなものは錯覚にすぎなかった。おれが生きている世界は、昔からこれっぽっちも変わったためしがないのだ。おれがまともで小蓮と同じ立場なら、きっと同じことをしていたはずだ。小蓮――おれの分身。
「知ってる」
おれはうなずいた。心臓を見えない手で握り潰されたようだった。くしゃくしゃになった心臓の代わりに、薄ら寒い空洞がおれの胸の中にぽっかりと広がっていった。
「てめえの男を撃てるもんならやってみなよ、小姐」
崔虎が嘲笑った。
小蓮は躊躇《ためら》ったりはしなかった。おれの目をまっすぐ見据えた。引き金にかけた指に力を込めた。
おれは左手でベレッタの銃口を払った。小蓮の手の中で銃が跳ねた。つんざくような銃声。熱気が顔に襲いかかってきた。だが、痛みはなかった。ベンツの天井に穴が開いていた。そこから冷たい空気が流れ込んできている。
「う、撃ちやがった……」
崔虎の魂消《たまげ》たようなつぶやきが聞こえた。小蓮は信じられないというように目を見開いていた。すぐに気を取り直しておれにベレッタを向け、引き金を引いた。
だが、ベレッタは静かなままだった。スライドが途中でとまり、銃身が剥き出しになっていた。小蓮が撃ったのは、最後の一発だったのだ。
「健一……」
小蓮の唇は震えていた。声はその唇の上をすべってまるで調子はずれだった。おれは小蓮の手からベレッタをもぎ取った。
「気にするなよ、小蓮。おまえは正しいことをしたんだ」
できるだけ優しい調子でいってやった。おれの言葉と小蓮の息遣い以外はなにも聞こえなかった。
「健一……愛してるの、それだけは信じて」
「わかってる」
うなずいた。胸の中の空洞は広がっていくばかりだった。それでも、おれにはわかっていた。自分が何をして、何をしないのかが。
「崔虎……」
小蓮の目を見つめたまま、崔虎に言葉をかけた。
「あんたたちを香港に売ったのは、この女だ。それでいいだろう?」
おれに見つけることができたのはそんな言葉だった。おれが通ってきた道には、それ以外の言葉は転がっちゃいなかった。
返事はなかった。崔虎も、助手席の男も、運転手も、息をのんでおれたちふたりを見守っていた。
小蓮の目には、怯えと憎しみと媚《こび》が宿っていた。だが、それもすぐに消えた。きっと、おれの目の中に同じものを見つけたのだ。小蓮の顔は恐怖に引きつった。
「崔虎?」
「あ、ああ。おまえがその女を殺《や》るってんなら、おれも納得してやる」
「殺るさ。それがルールだ」
助手席の男に手を伸ばした。掌に銃がのせられた。黒星だ。おれは黒星を小蓮に向けた。
「馬鹿野郎、おれの車を汚す気か!?」
崔虎が肩に手をかけてきた。おれは邪険にその手を振り払った。
「洗車代ぐらい、出してやる」
もう一度黒星を小蓮に向けた。今殺らなきゃ、おれの意志は必ず挫《くじ》けてしまう。
「助けて、健一」
小蓮は潤んだ目でおれを見つめていた。おれは首を振った。
「だめだ。おまえが助かるってことは、おれが死ぬってことだ。楊偉民は結慮おれを裏切った。なにがあったって、もうひとつ死体が必要だってことなんだ。おまえかおれの死体がな。おまえにはチャンスがあった。だが、おまえはしくじった」
「弾丸が一発しかないなんて知らなかったのよ!」
「だからおまえにあの銃を渡したんだ」
「健一!」
小蓮が叫んだ。蒼ざめた顔の皮膚が細かく震えていた。やがて、小蓮は肩を落とした。小蓮も、本当におれが自分と同類だということを納得したのだ。
「小蓮、温泉に行きたかったな。おれは本当に行きたかった、おまえとふたりで」
震える声でいった。小蓮が小さく微笑んだ。赤い唇がかすかに動いた。おれには、小蓮が「ごめんね」といったように聞こえた。
引き金にかけた指に力をこめた。だが、穴の開いた風船のように力はどこかへ抜けていった。人差し指がおれの意志を無視していた。どこかで神経が切れてしまったかのように。
小蓮の足がするっと伸びてきた。靴の爪先がおれの膝にぶつかった。小蓮は身体をねじってドアを開けようとした。
おれの脳裏に、車から飛び降りる小蓮の姿が蘇った。もう、いつ起こったことかも思い出せなかった。それでも、小蓮が飛び降りるのを躊躇したりしないということだけはおれにもわかっていた。
「小蓮!!」
叫んだ。指に力が蘇った。手の中で黒星が弾けた。鼓膜に痛みが走った。小蓮の肩口から血が迸った。
だれかがおれの肩を揺さぶっていた。それを無視して、撃った。今度は小蓮の背中のど真ん中に穴が開いた。小蓮の頭がサイドウィンドゥに激突して跳ね返ってきた。
銃を放り投げた。こっちに倒れかかってくる小蓮を抱きとめた。
銃声でパンクした聴覚が戻ってきた。崔虎たちが早口の北京語で喚きたてていた。
「うるさい、黙れ!!」
おれは小蓮の顔に耳を寄せた。小蓮の唇がわなないていたのだ。
「小蓮、小蓮!?」
「…………」
小蓮の唇からは言葉の代わりに血が溢れてきた。凶々《まがまが》しいほどに赤い、魂が凍りつくような色の血だった。小蓮の目が閉じかけていた。
「小蓮!!」
叫んだ。叫ぶことしかできなかった。おれの目は乾ききっていた。涙の一粒すら溢れてくることもなかった。
小蓮の目が薄っすらと開いた。小蓮は微笑んでいた。
「……健一……寒いよ」
小蓮はそう囁いた。おれは血に染まった小蓮の唇に自分の唇を押しつけた。小蓮の血をすすりながら、いつまでもそうしていた。小蓮の身体から力が抜けたことがわかっても、おれは唇を離すことができなかった。
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フローリングの上であぐらをかいたまま、テレビを見ていた。画面の中、小蓮のニュース。長い髪をポニィテイルにした若いリポーターが突っ立っている。
晴海《はるみ》で見つかったのは顔を潰された若い女の腐乱死体だ。指も切り落とされていることをリポーターは伝えなかった。
小蓮の死体を処理したのは、助手席に座っていた男。ハンマーで小蓮の顔を叩き潰し、肉切り包丁で指を落としてから晴海の運河に捨てた。崔虎からおれはそう聞いていた。おれだけじゃない。崔虎は、楊偉民にもそう説明していた。
テレビは画面が切り替わって、歌舞伎町の流氓たちの特集にかわっていた。歌舞伎町の影を支配する上海マフィア、という仰々しいテロップが画面いっぱいを占めている。
テレビは相変わらずでたらめを垂れ流している。いまじゃ、歌舞伎町は上海のやつらと北京のやつらが上手に縄張りを分けあって共存している。すべては、楊偉民がお膳立てをしたのだ。
煙草に火をつけ、寝転がった。小蓮のマンション――空っぽ。おれが持ち込んだテレビと電話があるだけだ。いずれ、このマンションは売り払う。やり方はいくらだってある。手元には一千万ほどの金が残るだろう。一週間の稼ぎとしては上々だ。結局、小蓮はおれにカモられたってことになる。
電話。香港から来た窃盗グループからだった。ロレックスをしこたま仕入れたという。おれは本物が手に入ったらいくらでも買ってやるといった。相手が電話を切った。
あと一、二時間もすれば、このマンションは盗品でいっぱいになる。どこかの倉庫が襲われ、そこに眠っていたものをおれが買い取ったのだ。おれはそれを仕入れ値の二、三倍で転売する。楽な商売。危険を冒して盗みをするよりはよっぽど旨味《うまみ》がある。売り払うまでは、このマンションはせいぜい倉庫として活用させてもらうことになるだろう。小蓮――文句はいわないはずだ。
電話。大手ディスカウント・ショップの部長からだった。たった五分間のやりとりで、数時間後にこのマンションに運びこまれるブツの引き取り先が決まった。おれの儲けは三百万。悪くはない。
煙が目にしみた。煙草は根元まで灰になっていた。おれは烏竜茶の空き缶に吸い殻を捨てた。
小蓮を殺した次の日、おれは熱海《あたみ》へいった。楊偉民がごたごたの後始末をする間、新宿を離れていなきゃならなかった。熱海を選んだのに理由はない。束京から一番簡単に行ける温泉街が熱海だったのだ。
一週間、うそ寒い温泉宿を一歩も出ずに過ごした。温泉にはひとりで浸かった。電話が一本入り、新宿に戻ってきた。新宿は顔ぶれが多少変わっただけで、なにも変わっちゃいなかった。そして、おれも――。
なにも変わらない。小蓮がおれのまえに現れて、消えても、おれの毎日はこれっぽっちも変わったりはしないのだ。
いや、ひとつだけ確実に変わったことがある。熱海から戻って以来、おれはこのマンションで寝泊まりしていた。その間、一度として白天の夢を見なかった。長い間おれに取り憑いていたナイフ使いの変態の夢。すっかり消えうせた。代わりに見たのは小蓮の夢だ。真っ黒な闇の中、小蓮がおれの傍らで眠っている。おれが見るのはそんな夢に変わっていた。黒い夢の中、おれはいつまでも小蓮の寝顔を見つめているのだ。
だが、その夢だっていつまでも見続けるわけじゃない。歌舞伎町へ、あの狭く薄汚れたねぐらへ戻れば、夢のない眠りを貪るだけの現実の世界がおれを待っている。
目を閉じた。小蓮の顔を思い浮かべようとした。うまくいかなかった。小蓮の写真すら持っていないのだ。夢の中でしか、おれは小蓮の顔を思い出すことができない。それだって、日がたつうちに薄れていく。
目を開けて電話に手を伸ばした。脳味噌に刻まれた番号をプッシュした。すぐに、聞き覚えのある声が出た。
「はい」
「おれだ」
「どうした?」
「これから歌舞伎町に戻る。もう、おれを殺そうなんて馬鹿はいないだろう?」
「なにも問題はない」
「問題があるとしたら、あんただけだな」
楊偉民は答えなかった。電話を切った。荷物を運びこむ手筈は整えてある。おれがここにいなければならない理由はない。
黒い夢に別れを告げて、小蓮のマンションを後にした。
いつか、楊偉民を殺すために。
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参考文献
『小蓮の恋人』井田真木子/文藝春秋
『新宿 歌舞伎町 マフィアの棲む街』吾妻博勝/文藝春秋
『香港黒社会 日本人が知らない秘密結社』石田 収/ネスコ
『中国マフィア100の謎』泉川オーシャン/三一書房
『中国人密航者を追う 蛇頭 スネークヘッド』莫 邦富/草思社
その他、新聞、雑誌などの記事を参考にさせていただいた。この場を借りて、著者・筆者の方々に慎んで御礼申しあげる。
また、本書はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係のないことを付記しておく。
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単行本 一九九六年八月 角川書店刊
底本
角川文庫
一九九八年四月二五日 第一刷