Hermes : 3月14日(日)
ひとり
帰りの電車の中、友花里は何度目かのため息をついた。
せっかく街に出てきたというのに、結局、ひとり寂しくランチを食べただけ。 店の雰囲気は悪くなかったのだけれど、味のほうは少し期待はずれで、 思いのほかがっかりしてしまった。 店を出て、なんとなく晴れない気持ちのまま歩いていたら、 なんだかどんどん悲しくなってきて、最後は泣き出してしまいたいほどで。
だから今、こんな明るい時間に帰りの電車に乗っている。 予定していた買い物はぜんぶあきらめた。
ほんとうは、久美子が一緒のはずだったのだけれど、 ふた月ほど前に彼氏ができてからというもの、付き合いが悪い。 今日の約束だって、もう二回も延期されていたのだ。 いくら相手の休みが不規則で、前もって計画を立てにくいからって、 十年来の親友をないがしろにしすぎじゃないのか。 いざとなったら親友と彼氏と、いったいどっちをとるつもりだあいつは。
(そりゃ、ふつうは彼氏だろう)
そして、またため息。
気が晴れない理由は、友花里にも分かっている。ひとりだからだ。
ひとりだからつまらない。 ひとりだから寂しい。ひとりだから悲しい。 今日食べたランチだって、久美子とだったら美味しかったはずだ。 美味しくなくても、一緒に文句を言える相手がいれば楽しかったと思う。 日曜の昼日中に女がひとりで食べて美味しいランチなんであるわけない。そういうこと。
友花里にも彼氏がいた時期はあった。 五年近くも前になる。友花里は短大生で、彼は同い年の四大生だった。 サークルの関係で知り合って、告白されて、断る理由もなかったので付き合い始めて、 それなりに深い関係になり、友花里がひと足先に就職して間もなく別れた。 自然で、あっけなかった。後悔はないし、悪い思い出でもない。 今ここで再会しても、気まずさを感じずに話ができるだろう。
それは、言い換えれば、彼は自分にとってその程度の存在でしかなかったということだ。 どこか真剣じゃなかった。彼をちゃんと見ていなかった。 そんな自分の不真面目な態度が彼を遠ざけてしまったのだ。 別れてからそう気づいて、彼に申し訳ない気持ちになり、少しだけ泣いた。
以来、友花里は彼氏を作ろうと思ったことはない。 好意を寄せてくれる人もいたけれど、気づかないふりをした。 食事に誘われても、すべて断ってしまった。 意識しすぎなのは分かっていたけれど、つい構えてしまう。
もちろん、惜しい気がしないわけでもない。 ドラマのような出会いにあこがれる気持ちがないわけでもない。 それでも、やっぱり自分は恋愛には向いていないのだと思う。
このところ、こうして不毛に悩む時間が多いのは、歳のせいもあるだろう。 四捨五入したらハタチだと言い張っていられるのも、今年が最後だ。 両親もそれとなく気にしている様子だし、意識しないのは無理というものだ。
そしてまた、友花里はため息をつく。
酔っ払い
不意に、車内が騒がしくなった。 見れば、ひとりの女性がやけに威勢のいい老人に絡まれている。 こんな時間から、だいぶ酔っているみたいだ。 ろれつが回っていなくて聞き取りづらいけれど、とにかく声が大きい。すごく迷惑だ。 今日という日はつくづくついていない。
やがて電車はホームに入り、ドアが開く。
すると、それまで絡まれて迷惑そうにしていただけだった女性が、突然老人を一喝した。 車内に響く叱咤の声。 女性はそのまますばやく電車を降りてしまい、車内の視線は老人に集中する。
一瞬、友花里は老人が女性を追いかけて行くんじゃないかと心配したけれど、 当の本人はよほど意表を突かれたらしく、呆けた顔で、小走りに去る女性をただ見送るだけだった。 やがてドアが閉まり、電車が再び動き出す。
我に返った老人は、ばつが悪そうに、ぐるりと車内をにらみつけた。みんな、慌てて目をそらす。
「なんだあ、文句があるか、おお」
心臓が跳ね上がった。老人が友花里の座っている席のほうにふらふらと歩いてくる。
(最悪だ。あんまりだ。こっちに来るなよう)
老人は友花里のすぐ手前で立ち止まった。隣に座っている、中年の女性三人組の前。 つり革にだらしなくつかまって、ぶはあ、と大きく息を吐く。お酒臭い。気持ち悪い。早く帰りたい。 友花里が降りる駅はまだだいぶ先だ。 とにかく、次の駅に着いたら車両を変えなくては。
老人は、今度は三人組にしつこく絡み始めた。 相変わらず言っていることがよく聞き取れないけれど、すごく苛々していることは分かる。 おばさんたちはうつむいたまま小さくなってしまっている。 老人はひとりでどんどん興奮していく。怖い。
「だあから、女は黙って男の言うこと聞いてりゃいいんだよ」
ひっ、と三人組のひとりが声を上げた。 突然老人がその人の顔に手を伸ばして、顎を引き上げたのだ。 大変だ。このお爺さん危ない。なんとかしないと。誰か呼んでこなくちゃ。 そう思いながらも、友花里は動くことができなかった。
その時。
「おい、いい加減にしろよ」
友花里の隣、三人組とは反対側に座っていた青年が、老人を制した。 聞こえなかったのか、それとも無視する気なのか、老人の反応がない。 青年は身を乗り出して、さらに強い調子で繰り返した。
「やめろって言ったんだよ」
顎をつかまれた女性は、いいから、大丈夫だから、そう合図するものの、 どう見ても大丈夫と言える状況であるはずがない。 これで青年が、分かりました、と引き下がったら、そっちのほうがどうかしている。
「なんだお前は」
老人は女性から手を離すと、彼に顔を向け、電車の揺れにふらつくように踏み出した。 ふらふらと友花里の目の前を通り過ぎ、老人は青年の前に立ち止まる。 ひとまず女性は助かったけれど、友花里自身にしてみれば、状況はあまり改善していない。 老人との距離は先ほどよりも近い。ほとんど目の前も同然だった。
(サイアクだ……)
勇敢な青年
「さっきからじろじろ見やがって」
「なんですか。警察を呼びますよ」
勝手に呼べ、とでも言いたかったのだろう。 老人がほとんど言葉になっていない大声を上げる。 そのとき、友花里のこめかみの辺りに、何かが当たった。 老人が振り上げた手が、すぐ傍にいた友花里をかすめたらしい。
「きゃっ」
大した痛みではなかったものの、驚いて、反射的に声を上げてしまう。 悲鳴に弾かれたように青年が立ち上がり、老人の腕を掴みにかかった。 三人組のひとりが隣の車両に向かったのが目の端に映る。 人を呼びに行ったのだろうけど、友花里にはそちらを見る余裕もない。
老人と彼はしばらく互いに掴み合ったまま、動かずにいた。 緊張のあまり、友花里の息が詰まりそうになった頃。 たぶん一分と経っていなかったのだろうけれど、 隣の車両からスーツ姿の男性が駆け寄ってきて、 なだめるように声をかけながら、二人を引き剥がした。
スーツの男性は、青年にも座るように促すと、 面白くなさそうに黙り込んだ老人をドアの近くに引きずって行った。 やがて車掌もやってきて、男性が老人を引き渡して隣の車両に戻るのを見て、 友花里はようやく解放された気分になった。
友花里の隣に座りなおした青年は呼吸を整えている。 彼が老人に掴みかかったのは自分の悲鳴が原因のように友花里には思えて、 そうでなくとも、彼が老人を追い払うために行動してくれたことは事実で、 なによりこれだけのことがありながら、隣で黙って座っているのも気まずい話で、 とにかく、この場合、せめて何かひと言、自分が声をかけるべきなのだろう。 ええと。
「迷惑な人でしたね」
わずかに迷った末、とっさに口をついて出た言葉がそれだった。 言ってしまってから、後悔する。そのまんまじゃないか。
「本当、迷惑です」
下を向いたままの彼の、不機嫌そうな声にどきりとする。 もちろん、状況的に、青年が友花里に対して腹を立てているのではないことは明らかだ。 それでも、仮にも恩人に対して、自分ももう少し気の利いたことは言えないものかと、 友花里は頭を抱えたい気持ちになった。
ふと、シートを通じて青年の足が微かに震えていることに友花里は気付く。 改めて青年を見ると、どこか頼りなく、およそ喧嘩とは縁がなさそうな印象を受ける。 歳は二十代前半といったところ。友花里よりも少し年下だろう。 酔ってふらふらだった老人のほうがずっと迫力があった。
(けっこう無理したのかな)
そう言えば、老人を制した声も、少しうわずっていたような気がする。 だとしたら、なおのこと、偉いのではないか。 自分は、すぐ隣でおばさんたちが絡まれているのに何もできなかった。 いくら男の人だからって、怖いのに、 自分と何の関係もない人のために行動を起こすなんて、 なかなかできることじゃない。これはちょっとした感動だ。
不意に青年が顔を上げたので、友花里は慌てて視線をはずす。 無神経に眺めていたことを咎められるかと思ったけれど、そうではなかった。 車掌がこちらに来たのだった。
「あのお爺さんは警察に引き渡しますので、次の駅で一緒に降りてください」
始まりの終わり
駅に着いて、車掌、老人、三人組、そして友花里と青年が一緒に降りた。 車掌が呼んできた警官が、全員に、名前や住所、先ほどの電車内での様子など、 簡単な質問をする。
ひととおり質問が済むと、警官が聞いた。
「事件にしますか」
三人組は、即座に否定した。 友花里としても、こんなことにあまり深入りしたくなかったし、 いちばん迷惑を被ったのは三人なのだから、彼女たちが事件にしないと言えば、 友花里がこだわる理由はなかった。 青年は、自分は何もされていないから、と短く答えていた。
事件にはしなくても調書は取らないといけないらしく、 近くの交番に場所を移すことになった。 酔っ払いの老人は、友花里たちが警官の質問に答えている間に、 ひと足先に、別の警官に連れて行かれている。
交番まで歩く間、青年は友花里たちに何度も謝っていた。 曰く、自分のせいで大事に巻き込んでしまった、とのことだが、とんでもない。 悪いのは酔っ払いの老人であって、青年は、言わばあの場にいたみんなにとっての恩人だ。 友花里たちはみなそう言ってねぎらうのだけれど、それでも青年は終始恐縮していた。
交番に着いて、それぞれが調書を取られている間も、青年は謝ってばかりだった。 謙遜している様子ではなく、本当に申し訳なさそうで、なんだか気の毒なくらいだ。 今は、酔っ払いに立ち向かった時の勇敢さは少しも見えない。 どちらかと言えば気弱そうな、でも誠実な別の表情がそこにはあった。 三人組のひとりに、いまどきお兄さんみたいな人はいない、と誉められると、 少し照れたように引きつった頬が印象に残った。
たぶん、友花里たちに時間をとらせた責任を感じていることと、 逆に誉められて、照れや戸惑いもあったのだろう。 どうにも居心地が悪くなったらしく、調書を確認していた警官に挨拶し、 友花里たちにもう一度丁寧に謝ると、青年はそそくさと帰ろうとした。
なぜか、友花里は慌てた。自分でも理由は分からなかったけれど、 このまま青年と別れてしまうことに微かに不安を覚えたのだ。 自分は本当に感謝しているのに、きちんと伝わっていないような感覚。 そして、それだけではない、形にならない小さな感情。
しかし、青年を引き止める口実があるわけもなく、そもそも理由がない。 友花里にできたことは、もう一度、心から礼を言うだけだった。 三人組も姿勢を正して、友花里にならう。
「よろしかったら、お名前とご住所を教えていただけませんか」
はっとして、友花里が顔を上げると、三人組のひとりが手帳を差し出していた。 青年は困惑した表情を浮かべながらも、その手帳を受け取り、言われたとおりに書き始めた。 口実も、理由もあったのだ。
(そうだ。お世話になった人の名前も知らないなんて、逆に失礼じゃないか)
急いでバッグを探り、手帳を取り出す。
「私も、お願いします」
こうして友花里は青年の名前を知ることができた。 もう一度だけ、機会を得たのだ。
「ぜひ、お礼をさせてくださいね」
これが、滝沢昇と高村友花里の出会いだった。
Hermes : 3月17日(水)
着信履歴
朝起きると、携帯に着信履歴が残っていた。 友花里には見覚えのない番号だ。 着信があったのは夕べの二十三時。 その時間はまだ起きていたはずだけど、無音にしていたから気づかなかったらしい。 留守電にはメッセージは残されていない。
(ワンギリか、間違い電話かな)
そう考え、履歴を消そうとして、ある可能性に気づいて思いとどまった。
(滝沢さんかもしれない)
彼が昨日というタイミングで電話をくれることは、意外ではあるけれど、 ありえない話ではなかった。 友花里は、電車での一件があった翌日、つまりおとといの月曜日に、 さっそく滝沢へのお礼の品として、ティーカップを送ったのだ。 それが昨日届いて、そのことでわざわざ電話をくれたのかもしれない。
カップはエルメスで、仕事の関係で安く手に入れることができた。 形式だけと片付けられない程度には、良いものを選んだつもりだ。 お礼の手紙も添えた。 友花里の感謝の気持ちに偽りのないことを、どうしても伝えたかったから。
そうしなければ、 友花里たちを警察沙汰に巻き込んでしまったことが、 ずっと彼の負担になっているような気がして落ち着かなかったのだ。 もちろん、友花里たちは、滝沢に責任があるなどとは思っていない。 友花里としては、感謝の気持ちをきちんと伝えて、 少しでも安心してもらいたかった。
着信が滝沢からのものだとすれば、 カップを喜んでもらえたのならもちろん嬉しいし、 手紙に書きそびれたこともいくつかあったので、 直接話せるのなら、いい機会だとも思う。
でも。
(ほんとうに、滝沢さんからだろうか)
冷静になってみると、実際のところ、あまり自信はない。 友花里が受けた印象では、滝沢という青年は、真面目ではあっても、 こういうことに細やかなタイプではなさそうだ。 そして、滝沢の人物はともかく、友花里が知る限り、 こういったやりとりに関して、 男性は総じてうとい。加えて、若いとなればなおのことだ。 やはり、着信が滝沢のものである可能性は低いだろう。
一方で、滝沢からである可能性も、友花里は捨てきれないでいる。 滝沢の住所を見た限りでは、まず間違いなく実家だろう。 母親あたりが気がつく人であれば、息子に電話をかけさせても不自然ではない。 もっとも、その場合は、かかってきた時間が問題になるのだけれど。
いくら悩んだところでらちがあかない。
(こちらからかけてみれば、分かることだ)
友花里は頭を切り替えて、朝の支度を始めた。
最短記録
昼から何度かかけてみたものの、結局、電話がつながることはなかった。
一度だけ、先方からの着信があったけれど、 その時は運悪く友花里の手が塞がっていて、気づくのが遅れてしまった。 仕事から帰ってから、もう一度かけて、この日はあきらめることにした。 以降は、ほとんど他人の間柄では、電話をかけるにはためらわれる時間帯だ。 先方からかけてくるのを待つしかない。 それがだめなら、また明日かけてみればいい。
(でも、もし、滝沢さんじゃなかったら)
すっかりカップの感想を聞くつもりでいた友花里は、そう考えたら、 なんだか憂鬱になってしまった。あの時の話題もいくつか用意していたのに。
電話を気にしながら、落ち着かない時間を過ごす。
(また、遅くにかかってくるかもしれない)
そう気づいて時計を見ると、間もなく二十二時になろうとしていた。 昨日と同じ時間にかかってくるとしたら、 先に風呂に入っておいたほうが良さそうだ。 もし電話が違ったら、もう一度手紙を書いてみようか、などと考えながら、 友花里は支度をする。
母親に声をかけて、部屋に着替えを取りに戻ったとき、電話が鳴った。 慌ててとりあげて、通話ボタンを押す。
「すみません。滝沢ですけど、高村さんですか」
「あ、やっとつながった」
つい、思ったことをそのまま口に出してしまう。
案の定、滝沢は、昼間電話に出られなかったこと、 遅い時間の電話になってしまったことを、まず謝った。 それから、カップが無事に届いたことを教えてくれた。 礼を言う様子が本当に嬉しそうで、 友花里も安心すると同時に、つられて嬉しくなった。 送った甲斐があったというものだ。
それから、あの時の話をした。 滝沢がまた謝ろうとするので、滝沢が帰った後でも、 みんなで褒めていたこと、感謝していたことを友花里は伝えた。 自分でも驚くほど、話したいことがあった。
しばらくして、風呂に入らないのか、と階下から母親の声が響いた。 気がつくと、時間は二十二時半になろうとしている。 それどころではないので、後で、と答えるが、 滝沢にも聞こえてしまったらしい。先に入るように勧められてしまった。
今度はこちらからかけることを約束して、一旦電話を切る。 そのまま大急ぎで風呂に飛び込み、素早く頭と身体を洗って部屋に駆け戻った。 所要時間、わずか二十分。自己最短記録だ。
「なあに、ずいぶん早風呂だこと」
部屋に戻る友花里に、母親が呆れたように言った。
ところで
滝沢は、二回もコールしないうちに電話に出た。 思ったとおり、携帯を持ったまま待っていてくれたに違いない。
「急がせてしまったみたいで、すみません」
また謝られてしまった。
「わたし、いつもお風呂はこれくらいですよ」
「そうですか。いや、でも、すみません」
もちろん嘘だ。たいてい一時間は浸かっている。 でも、正直に言ったらまた謝らせてしまうだろうし。 最初から信じてもらえていないみたいだけど。
話題を変えて、友花里が、両親や友人に滝沢のことを話したと伝えると、 電話の向こうでしどろもどろになってしまったのがおかしかった。 そして、滝沢らしいとも思った。第一印象からほとんど変わっていない。 純朴な青年だ。
電車でのこと。交番でのこと。滝沢が帰った後のこと。
そろそろ話題も尽きようとしていた。 滝沢の口数が心なしか少なくなっていることに気づいて、 つい長話につき合わせてしまったことを、友花里は反省した。 滝沢としては、カップのお礼だけを言うつもりだったろうに。
それでも、友花里は電話を切るのが惜しかった。 電話を切ってしまえば、今後滝沢と話をすることは、多分、二度とない。 友花里自身があまり頻繁に利用するわけではないから、 また運良くあの電車で乗り合わせることも、ほとんど期待できない。
それを、惜しいと感じた。
友花里の感情を言葉にするなら、それは、体験を共有した仲間を失う予感。 普通なら、それは形にならないまま失われ、時間とともに忘れられただろう。 本人も気づかないうちに。そうなるはずだった。
「ところで」
唐突に、滝沢の声の調子が変わる。 会話の流れからすると、すこし違和感のある「ところで」だ。
「頂いたカップ、すごく高価なものですよね。お気を遣わせてしまってすみません」
「いえ、仕事柄、安く手に入るんです」
これは本当だ。
「こちらこそ、かえって気を遣わせてしまったみたいですみません」
「ああ、いえ、それでですね。カップのお礼と言ってはなんですが」
そこまで言って、滝沢が口ごもる。
「あの、一緒に食事でも、いかがでしょうか。ご馳走させてください」
これは、完全に予想外の申し出だった。
意外性の男
短い時間ではあったけれど、友花里は、ここまでの会話で、滝沢がどういう人間か、 把握したつもりになっていた。それも、ほとんど確信に近い形で。 真面目で、純朴で、照れ屋で、不器用。そしてきっと人見知り。 親しい間柄で見せる顔は、ひとまず置いておくとして。
少なくとも、軽い気持ちで、 知り合っただけの女性を食事に誘えるようなスマートさはない。 はずだ。はずなのに。
(思ったよりも積極的なのか。思ったよりもずっと律儀なのか)
なんとなく、後者のような気がした。
「食事、ですか」
「はい。もし良かったら」
もし、高価なカップを受け取ったことを気にしていて、 無理をしているとしたら申し訳ない。 これではまるっきり逆効果だ。
「気を遣わなくても結構ですよ。本当に大したものではないので」
「そうですか」
その声には明らかな落胆があった。分かりやすくて、ほんの少し、滑稽なほどに。 ひとまず、単なる社交辞令だけで誘ってくれているわけではなさそうだ。 普段なら断るところだが、滝沢には恩がある。 それに、不思議と、抵抗感はなかった。驚きはしたけれど。
友花里は、滝沢の誘いを受けても良いと思い始めていた。
ただ、もともと最初に礼を言うべきは自分であり、 だからこそカップを送ったのだ。 この流れでご馳走してもらうのは、道理に合わない。
友花里は、少し考えて、答えた。
「では、割り勘ならいいですよ」
「は。割り勘と言うと」
「ご馳走になるのは悪いので。どうでしょうか」
そもそも、電話がかかってくることが意外だったし、 食事の誘いはもっと意外だった。 今思えば、あの日の彼の勇気ある行動だって、十分意外なのだ。
意外性の男、滝沢昇。
電話の向こうには、 友花里が誘いを受けたことへの驚きと戸惑いを隠しきれていない、 友花里が知っている、不器用な青年がいた。
Hermes : 3月27日(土)
おめかし
食事の誘いを受けてから十日。 いよいよ約束の日である。
友花里は悩んでいた。
あと二時間もしたら出なければならないのに、着ていく服が決まらない。 それというのも、食事の約束を交わしてから数日後、 待ち合わせの場所と時間を確認する電話で、 滝沢が、あまりにも可愛いことを言ったせいだ。
「おめかしして行きますけど、笑わないでくださいね」
自信なさそうな滝沢の声を聞いて、友花里は、 なんとも言えない気持ちで胸がいっぱいになった。 なんて愛らしい男性だろう。 見栄も、虚勢もない、本当に素直な男の子。
自信過剰は禁物だけど、 滝沢は、間違いなく、自分に対して好意を示してくれている。 そうでなければ、カップの礼とはいえ、食事に誘ったりはしないだろう。 友花里自身、滝沢に対して、悪い感情はない。 むしろ、彼の勇敢さには、尊敬の念を抱いている。
そんな中、その相手が、年下ではあってもひとりの男性が、 自分のために慣れない努力をしていると知って、 嬉しく思わない女性がいるだろうか。 そのひたむきな想いに報いずにいられようか。
「それじゃあ、わたしも、おめかしして行きます」
だから、友花里はそう答えた。しかし。
いくら尊敬していると言っても、 滝沢のファッションセンスに対する評価は話が別だ。 あの日の滝沢の服装を思い出すと、細かくは覚えていないが、 ごく当たり前に、衣服に無頓着な男性のものだったという印象がある。 彼の言うおめかしについては、多少割り引いて考えなければならないだろう。
待ち合わせの目印代わりに、当日の彼の服装の予定は聞いている。 黒い服、灰色っぽい上着、白いズボンとのこと。 これだけの情報で、いったいどうしろと。
とにかく、自分はあまり気合を入れないほうが良いだろう。 そんなことより、滝沢がどのような格好で来ても、 そこそこ外さないような選択をしなければならない。 それがせめてもの気遣いというものだ。
悩んでいると、部屋のドア越しに母親の声。
「友花里、イブキちゃんが入りたがってるよ。わ、何この部屋」
ドアを開け、隙間から友花里の部屋を覗き込んだ母親は、 その惨状を見て、呆れ、絶句した。まるで強盗に入られたかのように、 部屋中に衣類が散乱している。友花里はその真ん中で腕を組んで座っていた。 イブキはイブキで、自分を抑える母親の手を振り切って、 部屋への侵入を試みる。
「お母さん、イブキ入れちゃ駄目。閉めて」
友花里はイブキを部屋の外に押し戻してドアを閉める。 これから出かけるというのに、服を犬の毛まみれにされてはかなわない。
「ところで、あなた、滝沢さんとの約束の時間は大丈夫なの」
呑気な調子で、ドアの向こうから母親が言う。 気がつけば、家を出る予定だった時間まで、十五分を切っていた。
掴んでますから
結局、待ち合わせの時間には五分ほど遅刻してしまった。 聞いていた服装を頼りに、滝沢を探すと、すぐに見つかった。 ほぼ同時に、向こうも友花里を見つけてくれたらしく、 遠くから会釈してくれたから間違いない。
「すみません、遅れてしまって」
「いえいえ。こんばんは。お久しぶりです」
正直、見違えた。 記憶にある二週間前の滝沢と、雰囲気がぜんぜん違う。
(本当におめかししてきたよ、この人)
眼鏡をかけていたと記憶していたけれど、今日はかけていない。 髪も、ずいぶん短くなっている。 全体的にさっぱりとして、清潔な感じだ。
挨拶もそこそこに、滝沢の案内で店に向かう。電車で、二駅。そこからは歩き。
電車の中で、雰囲気変わりましたね、と言うと、 自分なりに頑張ってみました、と真顔で答える滝沢だった。
駅を出ると、土曜の夜ということもあって、とにかく人が多い。 人ごみを掻き分けて進むのもひと苦労だ。 滝沢は歩くのが早く、油断すると、置いていかれてしまいそうになる。 それでも、こちらを心配してくれている様子で、頻繁に立ち止まったり、 振り返る滝沢に、友花里は、大丈夫ですよ、と声をかけた。
そうですか、とまたすまなそうな滝沢。
(ああもう、緊張しすぎだよ滝沢さん)
なんとも言えない滝沢の表情に、友花里は思わず反応してしまった。
「はい。ちゃんと掴んでますから」
そう言って、友花里は、滝沢の手首を掴んだ。掴んでしまった。 一瞬、自分でも何をしたのか分からない。 びくり、と滝沢の肩がすくんだのが伝わって、友花里は慌てて手を離す。 そこで我に返った。
(やってしまった)
「あ、すみません。急に掴んでしまって」
「いや、ええと、大丈夫ですよ」
滝沢はそう言ってくれたものの、友花里は顔から火が出る思いだった。 知らず、浮かれすぎていた。きっと滝沢の好意に慢心していたのだ。 滝沢が年下であることで、調子に乗っていた感も否めない。
(ああ、軽蔑されたかもしれない)
はっきりと口数が減ってしまった滝沢の横顔を盗み見ながら、 それから店に着くまでのわずかな間、 表面上は必死に平静を装いながらも、 友花里は自己嫌悪に押しつぶされそうになっていた。
小細工
店に着く頃、友花里は開き直ることにした。
(いつまでもへこんでいたら、それこそ滝沢さんに失礼じゃないか)
今日は、自分は誘われた立場ではあるけれど、そんなこととは関係なく、 滝沢に楽しんでもらえることが第一だ。自分がどう思われるかなんて、 気にしていられない。
店内に入ると、混んではいたものの、滝沢が予約を入れておいてくれたので、 すぐに席へと通された。
店の雰囲気は、質素で落ち着いた感じでありながら、 和食と聞いて想像していたよりも、ずっとお洒落な印象。そのイメージの差は、 二週間前の滝沢と、今日の滝沢の雰囲気の違いを思わせた。
二人が席に着いてほどなく、メニューが来る。 友花里が普段行くような店では見かけない料理ばかりが並んでいて、 イメージがわかない。もともと和食には詳しくないけれど、 創作和食というのだろうか、ぴんとくるものがひとつもないのには参ってしまった。
仕方がないので、友花里は滝沢にお勧めを聞いて、それに決めた。
それから、滝沢が生グレープフルーツハイを注文したので、 友花里もメニューを見直して、巨峰サワーを追加する。
「付き合わせてしまってすみません」
勝手にアルコール抜きだと思い込んでいた友花里が慌てて注文を追加したせいか、 滝沢が謝るが、実際のところ、店に来る途中の失敗のこともあって、 友花里は飲みたい気分だったので、むしろ好都合だった。
やがて食事が来る。滝沢のお勧め料理は、本当に美味しかった。
食事中は、友花里から話を振ることが多かった。煩わしく思われてはいないか。 そんな不安を覚えながら、それでも沈黙が怖くて、友花里は喋り続けた。
話題はやはり、二人が知り合った、あの日の出来事に集中したけれど、 場の勢いもあって、滝沢のことを色々と聞き出すことにも成功した。不安と緊張の中、 うっかり地が出てしまった友花里の、少しぶしつけな質問にも、 誠実に答えようとしてくれる滝沢の態度が嬉しかった。
料理も食べ終わり、お互いのグラスもそろそろ空こうとしていた。間もなく、 店を出ることになる。そこで、お別れだろうか。もう、これっきりなのか。
(そうなったら、滝沢さんからまた誘ってもらうことを期待するのは絶望的だ)
ようやく打ち解けてきたところなのだ。まだまだ話したいことはある。 友花里は意を決する。
「滝沢さんは、こういうお店にはよく来られるんですか」
「あ、いえ、実は。興味を持ち始めたのが本当に最近のことで」
「そうなんですか」
今日食べた料理の話題から、慎重に会話を誘導する。自分の言葉に、 滝沢がどう反応するかはほぼ読めている。誘導は難しいことではなかった。
「わたしは、実はこういうお店を探すのが趣味なんです」
「へえ。そうなんですか」
「でも、よく一緒に回っていた友達に彼氏ができちゃって」
久美子のにやけた顔が思い浮かぶ。あんちくしょう。
「最近ほとんど行けなかったんですよ」
少し間を置いて、友花里は滝沢の反応を待つ。
「ははあ。そうですか」
滝沢の反応はそれだけだった。まるっきり、気づいていない。
(難しすぎましたかそうですか)
がっくりと崩れ落ちそうな気持ちを無理やり引っ張り上げながら、 友花里は精一杯の平常心で笑顔を作って言った。
「ですから、今日は本当に楽しめました」
「ああ、それは良かったです」
その、心底安心したような滝沢の笑顔に、友花里の気持ちもあっさり持ち直す。 滝沢は小細工を弄する人間ではないし、だからこそこちらの小細工も通じない。 歯痒くはあったけれど、それが良く分かったし、不快ではなかった。
支払いを済ませて店を出ると、友花里は気を取り直して、 たまたま近くにある、自分のお気に入りの店に滝沢を誘ってみた。 快諾する滝沢。
最初からこうすればよかったのだ。 今後のことはどうなるか分からないけれど、 今日という日を大切にしたいと、友花里は思った。
また電話します
互いに腹具合は十分ということで、二軒目はお酒主体だった。
他愛もない会話を交わすうちに、あっという間に時間が過ぎる。
そんなに飲んだわけでもないのに、 店を出る頃には酔いが回ってしまって、 どんな話をしたか、細かいことは思い出せない。 ただただ、楽しかった。
二人で駅に向かう間、会話はほとんどなかった。 酔って、少し疲れていたこともあったけれど、 友花里の頭の中をいろんな想いがぐるぐる回って言葉にならなかったのだ。
滝沢とはまた会いたいと友花里は思う。一緒にいて本当に楽しかった。
それは一軒目の時に分かっていて、 だからこそ、最初の店で暗に誘ってみたのだけれど、 芳しい反応が得られなかったことが、やはり気にはなっていたのだ。 滝沢はそういう駆け引きめいたことに鈍感なのだと思ったし、 そう納得しようとしたものの、今になってみると、 分かっていて無視された可能性は否定しきれない。
二軒目に誘ったときも、あれは本当に快諾してくれたのか、急に自信がなくなった。 仕方なく、義理で付き合ってくれたのではないと言い切れるのか。 本当は予定があったところを引き止めて、 無理に付き合わせてしまったのではないか。
もし日を改めて、友花里から連絡したら、迷惑がられたりはしないか。 馴れ馴れしいと呆れられたりはしないだろうか。 楽しかったのは自分だけではないのか。 悪い考えばかり浮かんでくる。 言葉少ない滝沢の表情が暗いように思えて仕方がない。
駅に着いて、同じ方向だと知った時には微かに安堵した。 もう少しだけ、余裕がある。 友花里のほうが先に降りるまでに、滝沢の言葉を待つ時間があると。
しかし、その想いも、自分が降りる駅が近づくに従って、虚しく思えてきた。
(何かわたし、図々しい期待をしている)
自分から、言えばよいのだ。 何も難しいことではない。 滝沢が自分を誘ってくれたように、自分から彼を誘うだけのことだ。 滝沢はむげに断ったりしないと、頭では分かっている。
それなのに。 また一緒にお食事に行きましょう。その一言がどうしても言えなかった。 何が不安なのか、自分でもさっぱり分からない。
いよいよ、駅が近づく。
「わたしは次で降りますので。今日はありがとうございました」
言いたいことは色々あったはずなのに、これだけを言うのが精一杯だった。 どうしてだろう。滝沢の顔がまともに見られない。
「いえいえ。こちらこそ」
滝沢の声は遠く、痛い。
友花里の痛みなどお構いなしに、 電車は減速しながら淡々と駅に滑り込み、無神経に停車して、無愛想にドアが開く。
「それでは、おやすみなさい」
そう言って、友花里は駅に降りた。 もう何も考えられない。なんとか振り返り、小さく手を振る。 最後に、しっかりと、滝沢の目を見て。
今日一日でずいぶん近くなった、優しい目。少しだけ、気が楽になる。
不思議な縁で出会った。食事もしたし、お酒も飲んだ。立派に知り合いだ。 お互い、連絡先も知っている。二度と会えなくなるわけじゃない。 今日は少し、変な酔い方をしてしまっただけだ。 滝沢から連絡がなければ、こちらから電話をしたっていいのだ。
ようやくそう思えた時。まさにドアが閉まる寸前。滝沢が叫んだ。
「また、電話します」
その時、自分はどんな顔をしていただろうか。 全身の力が抜ける。滝沢を乗せてホームを出て行く電車を見送りながら、 友花里はその場に座り込みそうになるのを必死でこらえていた。
Hermes : 4月03日(土)
久美子
「友花里、あんた、その人のこと好きでしょ」
ひととおり、黙って聞いていた久美子はあっさり言い切った。 友花里はとっさに言葉が出ない。
滝沢と食事をした翌日。 久しぶりに、友花里は久美子と会っていた。 そもそも、あの日の約束を久美子が延期しなければ、 友花里と滝沢が知り合うことはなかったのだ。 だから、ずっと、彼女には滝沢の話を聞かせてやりたかった。 その反応が、思わぬ角度から返ってきたわけである。
「え。なんで」
「なんでって。話を聞いてる限りじゃ、自覚がないのが不思議なんだけど」
「でも」
友花里が滝沢と出会ってからはひと月も経っていない。 今のところ、二、三度電話で話をしただけで、 面と向かってじっくり会話を交わしたのは、昨日が初めてなのだ。
「時間とか回数なんか関係ないって。それ言ったら、わたしと城之内さんなんかねえ」
「いや、それは百回聞いたから」
「け。だいたいね、あんたが男からの食事の誘いに乗ったってことが、 まずおかしいじゃないの」
そう。まったく自覚がなかったはずがない。 ただ、食事の誘いがあった時は、そこまで意識していなかったことも、事実ではある。 世話になった手前、断るのがためらわれたところが大きいし、 なんにせよ、その一回きりだと思っていた。
「それきりになるのが嫌だから、また誘ってもらおうと密かにアピールしたんでしょ」
「うん。まあ」
「結局、二軒目は自分から誘ったし」
「でも、好きとかそういう感じじゃなくて、 なんとなく波長が合ったというか、話しやすい人だと思って」
「ほほう。じゃああれか。要するに、話し相手として便利な人か。その滝沢さんは」
「そんな」
さすがにかちんときた。 反射的に久美子をにらみつけ、そのにやけ面と、彼女の意図に気づいて、 友花里は押し黙る。
「そんな、ことは、ない。うん」
「ほれみなさい。いくら話しやすそうだからって、ただそれだけで、 またふたりきりで食事したいなんて、ふつう思わんて。 その気がなければ、相手が良く知ってる人だって抵抗あるぞ」
そうなのだ。 ただなんとなく、知り合って間もないのに、 子供の一目惚れみたいで、すぐには認めたくなかっただけだ。
「一目惚れで、なにが悪いのよ」
「だって、節操なさそうじゃない。よく知らないのに、好きだとか」
「付き合いが長けりゃ偉いってもんでもないでしょ。 見方を変えれば、そんなの手近なところで妥協しただけとも言えるんだし」
ずいぶんひねくれたものの見方ができるやつだ。 友花里は呆れながらも感心してしまう。
「ぬう。あ、滝沢さんの方が年下だから、気が大きくなってるだけかも」
「いちいち警戒心が先に立つ相手と恋愛できるのか、あんたは」
それはそうだけど。まったく、ああ言えばこう言う。
「じゃあ、もしかしたら、最近久美子に彼氏ができたから、 うらやましくて、つい、とか」
「へえ。そうなの」
「う」
「そうなんだ」
「うう」
「つい、か。滝沢さんは」
「ううう。違う」
だめだ。完敗だ。久美子には、勝てっこない。 勝ってどうなるものでもないのだけれど。
「言っちゃなんだけどね、友花里。相手がその滝沢さんじゃなかったら、 あんた、カップなんて送ったかね。しかもエルメス。お礼状だけで十分じゃないの」
「ええと。それは、ほんとうに、あんまり深い意味は」
「それが向こうに届いてすぐに電話が来て、嬉しかったんでしょ」
「うん」
「食事の誘いだって、ちょっとあんたが渋ったら、あっさりあきらめそうだったから、 慌てて割り勘なんて条件つけてオーケーしたわけで」
「え。なに」
「だいたい、気にもかけてない男のために、 何時間もかけて、着て行く服を選んだりしますか」
「あの、久美子さん」
「しかも、いきなり手をつなごうとするし。しくじって落ち込むし」
「もしもし」
「おまけに別れ際に、また電話します、なんて言われて腰抜かすほど安心して」
「待て待て」
「これで好きじゃないなんてことがあるかい。あほらしい」
「ちょ、久美子、ちょっと待った」
「なによ」
「わたし、そんなことまで話したっけ」
「はあ。そりゃもう、目をきらんきらん輝かせてな。 それこそ微に入り細に入り、 隅から隅まで百倍濃縮でたっぷり聞かされたよ、こっちは。 電車ですごい人に会ったって言うから、 どんな偉人伝を聞かされるのかと思ったら、 べったべたなのろけ話じゃないの。仰天するって」
言われて、記憶がよみがえる。 文字通り、友花里は頭を抱えて突っ伏した。 これは、自分でもどうかと思うほどの浮かれっぷりだ。
「まあ、本気みたいだね。応援するよ」
「ありがとう」
「うん。じゃあ、さっそく会わせてもらおうか」
「は」
「次の食事のとき、連れて行きなさい。 その滝沢さんとやら、わたしが見定めてあげよう。 ろくなやつじゃなかったら、とっととぶち壊して、 傷が浅いうちに目を覚まさせてあげるから」
物騒なことを言わないで欲しいものだ。
「でも、次の約束、ないよ」
「また電話するって、昨日、向こうが言ったんでしょ。 絶対に今晩かかってくるから、その時にとっとと決めなさい。 向こうが言い出さなかったら、あんたから誘うの」
「わかった」
「あ、最初はわたしが行くって言わないように。 予定が決まった次の日あたり、 取り消しづらい状況で、言うのよ」
(楽しそうだなあ、おい)
その晩、久美子の予言どおり、滝沢から電話があった。 友花里の小細工にも、一応、気づいてはいてくれたようだ。 良く分からず、その場で言いそびれたというあたりが、いかにも彼らしい。 日時は未定ながら、食事の約束を取りつける。
メールアドレスも交換し、その日から、毎晩の、メールのやり取りが始まった。 そのやり取りの中でお願いしてみた、久美子の同伴の件も、快く了承してもらえた。
あっという間の一週間。そして、約束の日。
頑張りなさい
約束の時間に、友花里はまた遅刻してしまった。 滝沢は特に気にしていない様子ではあったけれど、 さすがに反省する。久美子の姿も見えない。
メールで確認したところ、久美子はもう少し遅れそうだったので、 友花里と滝沢は先に店に移動することにした。 今日は友花里が推薦する店だったので、 滝沢の先に立って案内する。
この日は花粉症の薬を飲んでいて、 少しぼうっとしていたのだと思う。 店に向かう途中で、街灯にぶつかりそうになってしまった。 滝沢がとっさに手を引いてくれなかったら、危なかった。
その時、友花里としては、そのまま手をつないで欲しかったけれど、 やっぱり、滝沢はさっと離してしまう。少し残念。 久美子に指摘されて以来、滝沢を意識せずにはいられない。 それでも、自分の気持ちがはっきりしている分、 前回よりも心に余裕がある。
「遅れてしまって、すみません」
店に着いて、滝沢と友花里がメニューを広げていたところに、 ようやく久美子がやってきた。まずは、お互いに簡単な自己紹介を。
「お話は聞いています」
滝沢に向けて、不敵な笑いを浮かべる久美子。 その笑いの意図するところはなんであったのか。 案の定、申し訳ないことに、滝沢は久美子の質問攻めに合う羽目になった。
電車でのこと。カップのこと。なぜ友花里を食事に誘ったのか。 前回の席ではどのような会話をし、どんなことを考えていたのか。 久美子は、初対面だというのに容赦がない。
友花里も、ところどころでフォローを入れてはみたものの、 なにしろ、自分自身が答えを聞いてみたい質問も多く、 久美子が暴走しないことを祈りながら、聞き役に徹することにした。
それから、普通の話題。似ている芸能人。最近見た映画。 それぞれの仕事のこと。などなど。
途中、滝沢がトイレで席を立った隙に、久美子が言う。
「なかなか、いい人じゃないの」
「よかった」
結構いじわるな質問が多かったような気がして、 内心穏やかではなかったのだ。
「ルックスは、まあ、平凡だけど、真面目そうだし。 わたしの好みとは違うけど」
「聞いてないって」
「ただ、やっぱり若いし、わりと天然入ってるっぽいから、 少し頼りない感じがするね。その辺で苦労するかも。 その分、あんたがしっかりしないと駄目だよ。ほら」
久美子の視線の先を追うと、トイレを探して店内をうろうろする滝沢がいた。 ふたりで、笑う。
「まだちゃんと告白されたわけじゃないんでしょう」
「まあね。ちゃんと会うのだって、今日で二回目だもの」
「ここ毎晩メール交換してるくらいだし、 向こうにその気があるのは間違いないから、 上手にリードしてあげなさい」
「うん。でも」
「でもじゃないの。あんたが態度をはっきりさせないと、 彼みたいなタイプは、絶対に言い出せないから」
「そんな気はする」
「あんたのが年上なんだし、少しくらい露骨でもいいと思うよ。 でも、肝心の告白は、必ず彼に言わせること。 仏心出して、そこで楽をさせちゃだめだからね」
冗談めかしてはいたけれど、その意見には、不思議な凄みがあった。
それから久美子は、ずっと真剣な、でも優しい顔で付け加えた。
「今度は、つまらない後悔しないように。自信を持って、頑張りなさい」
「はい」
本当に、かなわない。
伝わっていますか
二十一時を過ぎた頃。 久美子は明日が早いからと先に帰ることになり、 友花里たちも合わせてその店を出た。
「うまくやりなさいよ」
友花里にそう耳打ちして、久美子は、駅の方角へ去って行った。
嬉しいことに、 二軒目には、滝沢のほうから誘ってくれた。 話題は、また映画の話。そして、次に行く店の話。
次はどこに食事に行くか。
この話題を切り出す時、実は、友花里はそうとう緊張した。 次があるという前提を否定されたら。 あるいは少しでも疑問を持たれたら。 何しろ、毎晩メールを交わしていると忘れそうになるのだけれど、 こうして実際に顔をあわせたのは、 事件の日も数えて、今日でまだ三回目なのだ。
(わたしは、またあなたと食事に行くつもりでいます)
(好きでなければ、そんなことを言ったりはしませんよ)
(安心して誘ってくださいね)
(わたしはあなたが好きです)
(分かってくれますか)
(伝わっていますか)
もはや祈りに近い想いだ。 友花里の想いどこまで伝わったかは分からないけれど、 滝沢も、次の予定のことは、当然のように応じてくれた。
安堵して、すぐ、無意味に冷静になってしまう自分がいる。
(別に、ただの友達同士でも食事にくらい行くよな)
落ち込みそうになったところを、別の自分が励ます。
(今は友達で結構。あの日までは、ひと月前は、まったく他人だったじゃないか)
あの日といえば。
前回も思ったことだけれど、 初めて会った時と、今の滝沢とでは、ずいぶん雰囲気が違う。 そんなことを考えながら、友花里は何気なく、 ファッションについての話を振ってみる。 すると、滝沢は、困ったように打ち明けた。
「全然詳しくないので、これから勉強しようかと」
見栄も虚勢もない、悪く言えば馬鹿正直な、いかにも滝沢らしい答えだった。 友花里はもう一歩踏み込む。
「そう言えば、最初に会った時から、ずいぶん雰囲気が変わりましたよね」
「ええと」
口ごもる滝沢。
「初めて女性と食事をする事になったので、慌てて準備したんです」
「そうなんですか」
それは、言い換えれば、滝沢の変身は、自分のためということだ。 あまり大げさに喜ぶのもはばかられたので、 無難なリアクションになってしまったけれど、 滝沢の言葉は、嬉しかった。嬉しくないはずがない。
そして、帰り道。駅まで歩く間、やはり、お互いの口数が減る。 ただ前回と違うのは、ふたりで並んで歩きながら、友花里の胸は、 ずっと前向きな想いで満たされていたこと。
(わたしはあなたが好きです)
(分かってくれますか)
(伝わっていますか)
Hermes : 4月17日(土)
ふたりの距離
友花里と滝沢のメールのやり取りは、一日も欠くことなく続いていた。
昼に何を食べた。今日は暑い。テレビは何を見た。仕事でこんなことが。 内容は、そんな他愛もないものばかりだけれど、それだけに、 友花里には、滝沢がずっと身近に感じられることが嬉しかった。
それでも、友花里は、滝沢との関係について、決して楽観視はしていない。
なにしろ、滝沢は、鈍いのだ。この上なく、鈍い。
何気ないメールにも、それとなく、時にはあからさまに、 友花里は色々なサインを埋め込んでいるつもりなのだけれど、 滝沢がそれに気づいたと思われる返信をしてきたことは、一度もなかった。
友花里が送ったメールを、ほんの少し踏み込んで解釈するだけで、 少なくとも、 友花里には現在、彼氏がいないこと、 軽い気持ちで男性と食事に行けるほど、乾いた性格ではないこと、 ずっと自分と一緒にいてくれる男性を必要としていること、 そして、それが滝沢以外ではあり得ないこと。 このくらいは読み取ってくれても良さそうなものなのに。
友花里がどれほどの覚悟と願いを込めたメールを送っても、 しかし、滝沢からの返事はいつも、 文面を、文字通りにしか解釈していないと思わざるを得ないのだ。 素直と言えば、聞こえはいいのだけれど。
(滝沢さんは、わたしに友だち以上の感情はないのかしら)
(わざと、かわされているのかも)
(実は、彼女がいたりして)
時折、薄ら寒い考えが頭をよぎる。
もちろん、そんなはずはないと友花里は信じている。
彼女がいる可能性は、メールのやり取りの中で、本人が否定している。 過去にいたかどうかはともかく、今現在、いないことは信じていいだろう。 口先だけの嘘をついて、女性をあしらうような狡猾さや器用さは、 友花里の知る滝沢とは無縁のものである。 なにしろ、滝沢昇という青年は、真面目で、率直で、不器用で、 それから、鈍感で、鈍感で、鈍感で、とにかく鈍感なのだ。
そして、友花里は、そんな鈍感さも込みで、滝沢を好きになった。 いまさら文句を言えた義理ではない。
しかし。
(面白くない)
そう。面白くないものは、面白くないのだ。断じて、愉快ではない。
なんだか、自分ばかりが好きになってしまったみたいで、悔しいじゃないか。 だいたい、最初に友花里を食事に誘ったのは滝沢の方だ。 いつの間にか、こんなに、どうしようもないほど好きにさせておいて、 しかも、毎晩メールを交換するほど親しくなったというのに、 ここに来て、肝心の告白がないというのは、あまりにも、あんまりな仕打ちではないか。 面と向かって言うのが照れくさいのなら、電話もある。メールでもいい。
(いや、待った、今のなし)
それは、やっぱり、嫌だ。 絶対に、直接、本人の口から聞きたい。
それ以前に、毎日欠かさずメールのやり取りをしていると忘れがちになるけれど、 これまでに、友花里と滝沢が直接顔を合わせたのは、たった三回なのだ。 冷静になってみれば、確かに、告白には時期尚早の感がある。
慌てることはない。友花里は、そう自分に言い聞かせる。
滝沢との距離は、確実に近づいている。 友花里自身の気持ちに、疑いも迷いもない。 だったら、後は、滝沢を信じて、待てば良い。
(でも、ちょっと早すぎたかな)
約束の時間まで、まだ四十分以上あった。 周囲にはまだ、滝沢の姿は、ない。 前回も、その前も遅刻してしまったから、友花里としても、 今回こそは、何がなんでも、早く来るつもりだったのだ。
(まあ、いいか。待たせるより、待つほうが気が楽だし)
それから、滝沢が来るまでの三十分。
友花里は、想い人を待つ側の、 時間とともに加速度的に高まる緊張感と、 視界にその姿を捉えた時の高揚感を、 この日初めて、存分に味わうことになる。 気の休まる暇なんて、ないと思った。
愛情表現
親しくなるほど、余裕がなくなっていくような気がする。
滝沢との食事は、もちろん、楽しい。 会うたびに、滝沢は、友花里の知らない新しい一面を見せてくれる。 少しずつ、ぎこちなさが抜けて、良い面にしろ悪い面にしろ、 その自然な姿が見えてくることが、友花里には、たまらなく嬉しかった。
では、滝沢はどう思っているのだろう。 メールを送りあうようになって以来、ずっと気になっていた。 滝沢は、あまり顔文字を使わないので、たまに、 すごく冷たい印象のメールがあって、びっくりすることがある。 返事そのものはまめに送ってくれるから、友花里の考えすぎだと、 頭では分かっていても、どうしても、臆病になってしまう。
(わたしと一緒にいて、滝沢さんは楽しんでくれているのかな)
(それとも、わたしだけが、ひとりで盛り上がっているのかしら)
もちろん、滝沢は、露骨に退屈そうな態度を見せることはない。 話し上手ではないけれど、友花里の言葉には、誠実に応えてくれているし、 時々は冗談を言って笑わせてくれる。
しかし、それは、相手が自分でなくても、同じなのではないだろうか。
今ここにいる、高村友花里は、彼にとって特別な存在にはなり得ないのではないか。 自分の愛情表現が、滝沢にきちんと伝わっているのか、それすらも分からない。 つまらない女だと思われたくなくて、滝沢の言葉には、 いちいち大袈裟に反応してしまう一方で、 煩わしいと思われていないか、急に不安になる。
滝沢は、自分に、好意以上の感情を抱いてくれていると、友花里は信じている。 それが、自意識過剰の自惚れではないことを、友花里は確かめたかった。 はっきりと、言葉や態度で表現しなければ、伝わらないことはいくらでもある。 それらは、表現することで形を与えてあげないと、 いとも容易く失われてしまうことを、友花里は身に染みて知っていたから。
(まずいな。変なお酒になってる)
せっかくの楽しいひとときを邪魔する、幼稚で後ろ向きな自分を、 このところ、友花里は持て余し気味だった。 困ったことに、こいつは、アルコールが入ると、途端にやる気を出すらしく、 たちが悪いことこの上ない。
自然に、会話が途切れる。店内の喧騒に、突然放り出されたような錯覚。 友花里が次の言葉を見つけられずにいると、滝沢が口を開いた。
「通勤の件なんですけど」
そう言えば、今日はそのことを話し合う予定だった。
「出勤時間を少し早めたら、ぎりぎり間に合うかも知れませんね」
後ろめたさで、胸が苦しい。
数日前、友花里は、出勤時に痴漢に遭った。 その時、憂鬱な気分を振り払いたくて、それから、心配してもらいたくて、 少し甘えた気分で、大げさに落ち込んだ様子のメールを、 早朝にもかかわらず、滝沢に送ったのだ。
「高村さんが降りる駅から、おれの会社までだと」
言ってしまえば、気を紛らわせるための、単なる愚痴のつもりだった。 痴漢なんて、満員電車に乗っていれば、普通に遭ってしまうもので。 気持ち悪いし、不愉快だけど、いつまでも引きずるような問題でもない。
「やっぱり早起きが大変ですかね」
滝沢からの返事は、すぐに返ってきた。 期待した以上に、滝沢は友花里の身を案じてくれた。 一生懸命、友花里を励ましてくれた。 そして、自分がいればそんな目には遭わせないのにと、 一緒に通勤しても良いとまで、言ってくれたのである。
正直、気分が良かった。浮かれていた。 好きになった男性から、ここまで言われて、 果たして、嬉しくない女性がいるだろうか。
「乗り換えに失敗すると、確実に遅刻するな」
その後のメールで、出勤時間や利用する駅を確認したところ、 実現が難しいことは分かっていたから、友花里としては、 もし、一緒に通勤できたら楽しそうだと、 その程度にしか考えていなかったのだ。
「あのう、高村さん」
滝沢が、どれほど心配してくれたのか、ちっとも考えていなかった。 その後にも続いたメールで、友花里は、 滝沢の誠意に改めて触れて、自責の念に駆られることになる。 そして、今も。
(わたしは、馬鹿だ)
わざと心配をかけておいて。無責任に喜んで。 滝沢が、このまっすぐな青年が、 その場限りの、調子のいいなぐさめを口にする人間かどうか、 そんな分かりきったことに、 なぜ、思いがいたらなかったのか。 表面的な部分だけを見て、 ひとりで勝手に浮かれたり、落ち込んだり。 こんなにも、自分のことを真剣に考えてくれる相手に、 これ以上何を望むつもりだったのだろう。 彼の誠意こそが、愛情表現そのものではないか。
「本当に、大丈夫ですか」
「はい。ごめんなさい。大丈夫です」
なんとか、自然な笑顔が作れたと思う。 こんな自分勝手な、ある意味、馬鹿馬鹿しい理由で落ち込でいてさえも、 滝沢は、友花里を、本気で心配してくれるのだ。 心配してもらえれば嬉しいけれど、負担になることは避けたかった。
結局、時間の都合から、一緒に通勤することは、 どうしても難しいという結論に達すると、 そのことを、滝沢は、申し訳なさそうに謝った。
(謝らなきゃならないのは、わたしなのに)
それから、滝沢は、インターネットで調べてくれたという、 痴漢対策を印刷したものを、友花里に手渡した。 その資料を指しながら、要所を丁寧に説明してくれる滝沢を前に、 友花里は、礼を言い、ただ、ただ、頭を下げることしかできなかった。
嬉しさと、悔しさと、情けなさと、恥ずかしさと。 いろんな感情が混ざって、きっと、ひどい顔をしていたに違いなかったから。
雨のち晴れ
「お疲れですか」
帰りの電車で、滝沢が心配そうに声をかけてくれた。 確かに、疲れてはいたけれど、それは、絶対に、滝沢のせいではない。 浮き沈みの激しい、自分の感情に振り回されてしまっただけだ。 おまけに、気分を改めようと、二軒目の店では、 いつもよりもお酒が進んでしまった。
「ちょっと酔ってるんですよ」
冗談めかして応えるのが精一杯だった。 もう少しで、滝沢と別れなければならないと考えると、切なくて仕方がない。 今も右手に感じる、滝沢のぬくもりが失われるのが惜しい。
きっかけは、待ち合わせ場所から、最初の店に移動する時。 人ごみではぐれないようにと、 滝沢の方から、友花里の手首を取ってくれた。ちゃんと掴んでますから、と。 最初の食事のときに、友花里がそうしたように。
その後の信号待ちで、友花里は、思い切って、滝沢の手をほどくと、 逆に、その手のひらを握り返した。 初めて会ったときよりも、ずっと余裕のある滝沢の態度が、 なんとなく、悔しかったから。軽い仕返しのつもり。
その時は、驚く滝沢の顔を見て、溜飲を下げた気になっていた。
あれから今まで、店の中以外では、ずっと手をつないでいる。
滝沢の手は、大きくて、暖かくて、頼もしくて。 そっと力を込めると、応じるように、優しく握り返してくれる。 仕返しなんて、ただの言い訳だ。 本当は、理由なんてどうでも良くて、ただ、その手に触れたかっただけで。
視線を感じて、目を向けると、滝沢が、うつむいていた友花里の顔を、 少し身をかがめて、心配そうに、下から覗き込んでいた。 まるで、小さな子供がそうするように。 つい、友花里の頬が緩む。
(これだから、ずるいんだ)
つかまえておかなければ心配になるほど、滝沢の存在は、 友花里の中で大きくなっていく。 それなのに、本人は、そんなことにはお構いなしに、 まるで、何事もなかったかのように、 友花里のそばにいてくれるのだ。
「家まで、どのくらい歩くんですか」
別れの駅が近づいてきた頃、滝沢が聞く。
「十分ちょっと、ですね」
「じゃあ、家まで送ります」
「いえ。悪いですから。いいですよ」
びっくりして、とっさに断ってしまってから、友花里は後悔した。
(惜しいこと、したかも)
最初は、そのくらいにしか感じなかった。
ところが、実際に家まで送ってもらうことを想像した途端、 その甘美な情景で、友花里の頭の中は、たちまち、いっぱいになってしまった。 いつもは、ひとり寂しく歩く、薄暗い住宅街を、 となりには滝沢がいて、手は、もちろん、つないだままで。 少しだけ、寄り添うように。
やがて家の前に着き、惜しむように、お礼を言って。そして。
お別れの。
(あああ、なんて、もったいないことを)
友花里は、自分がいかに大きな失敗をしたかに気づく。 のんびりと、憂鬱な自分に酔っている場合ではなかった。 少しでも長く、一緒にいたいくせに。 どうして、わざわざ、自分から、せっかくの、 千載一遇の機会をふいにしてしまうのか。
滝沢の性格では、一度断られた以上、今日のところは、 ふたたび自分から申し出ることはないだろう。 その引き際の良さが、今は、かえって恨めしい。
でも。もしかしたら。
そんな空しい期待をよそに、 ふたりは無言のまま、電車は駅に着き、ドアが開く。
「また、メールしますね。おやすみなさい」
にくらしいほど平然と別れを告げる、滝沢への不満もあったのだろう。 その瞬間、友花里は覚悟を決めた。迷っている時間はない。この時ばかりは、 酔っていて良かったと、つくづく思う。
滝沢の言葉に、友花里は答えず、黙ってドアへと向かう。 つないだままの、その手を引いて。滝沢の戸惑いが、伝わってくる。
(お願いだから、何も言わないで)
全身の血液が、頭に上る。顔が、熱くなる。 心臓の音が、耳の中で鳴っているみたいに、大きく響く。 ほんの数歩の距離が、絶望的に遠い。口の中が乾いて。 頭の中が、真っ白になって。
そして。
ホームに降りたふたりを残して、電車は行ってしまった。 しばしの放心。友花里の酔いは、すっかり醒めている。
(次からは、控えよう)
そんな反省よりも前に、友花里には、することがあった。 頭の中は、長い雨が去ったように、驚くほどすっきりしている。
「すみません。やっぱり家までおねがいします」
友花里は、滝沢に向き直ると、いちおう遠慮がちに、改めて、言った。 いまさらとは思わない。自分の希望を、はっきりと言葉にして、 滝沢に伝えることが大切だったから。
「はい。大丈夫ですよ」
滝沢が快諾してくれることは、分かっていた。 友花里が知っている滝沢なら、絶対に断ったりはしないと。 疑う余地など、どこにもない。
無理を、していたのだと思う。 自分のほうが年上であることを、意識しすぎていたような気がする。 結局、自分は、滝沢に甘えたかったのだ。 それを、変に我慢したりするものだから、おかしなことになってしまった。
自分は、もっと、滝沢を信じて良い。
滝沢は、きっと、自分を受け止めてくれる。
酔いとともに、不安も憂鬱も抜け落ちた顔で、友花里は、 滝沢とふたり並んで、ゆっくりと、改札へ向かった。
Hermes : 4月18日(日)
余韻
九時過ぎに起き出して、キッチンで遅い朝食をとる。 足元にまとわりついてくるイブキの首のあたりを、 行儀悪く、つま先で掻いてやりながら。
両親はそれぞれ朝から出かけている。たぶん、夜までは帰ってこない。
食欲がなかったので、トースト一枚と紅茶だけ。 ミルクは、低温殺菌のノンホモジナイズド。 以前は車を出して買いに行ったものだけれど、 最近では、近所でもわりと容易に手に入るので助かっている。 ジャムは友花里の手作り。と言っても、冷凍のフルーツミックスに、 レモン果汁を少量加えて砂糖で煮込むだけの、手軽で簡単なものだ。 それでも、市販品では味わえない、果物らしい香りと酸味が楽しめる。 なにより、紅茶に合うのが良い。
ひと息ついて、ぼうっとしていると、自然、昨晩のことが思い出される。
(家まで送ってもらっちゃったな)
顔がにやついて仕方がない。
(送ってもらったんだ)
右手を見る。滝沢は昨日、この手を、ずっと離さず、握っていてくれたのだ。 友花里を家の前まで送って、そこで少しだけ、雑談している間も、ずっと。 ただ、手をつないでいただけなのに、 あれほど満たされた気持ちになったことはない。
その手の感触を、滝沢の体温を、汗を、何度も思い返しては、 ベッドの中で身をよじったりなんかしているから、 眠りに就くのが遅くなってしまったのだけれど。
ひとつだけ、贅沢を言うなら、たとえ、その場の勢いでも、 雰囲気に流されたのであっても構わないから、 最後に、キスが欲しかったところではある。 ふたりとも子供じゃないのだし、分かってくれても良さそうなものなのに。 今日び、高校生だって、もう少し積極的ではないだろうか。
もっとも、その鈍さもまた、滝沢らしさなのだ。 友花里としても、十分、承知している。故に、そのジレンマたるや、 いかほどのものか知れよう。ただ、このままいけば、近い将来、 我慢がきかなくなりそうな予感が、友花里にはあった。
(会いたいな)
夕べ別れてから、丸一日も経っていないというのに。
(会いたいよ)
本当は、毎日だって会いたいのだ。一日中、そばにいて欲しい。 モーニングティーを一緒に楽しめたら、言うことなしだ。
我慢の限界なんて、すぐそこに見えている。 今からでも、会って、抱きしめて、キスをして。 もちろん、今すぐ会ったところで、あの滝沢のことだから、 そんなことにはなりっこないけれど。 せめて声だけでもと、携帯を手に取ってみても、 声を聞いてしまったら、ますます、 自分の気持ちが抑えきれなくなりそうで。
「ああもう、切ないな」
友花里に、急にしがみつかれて、身動きが取れずに困ったイブキが、 悲しそうな声で鳴いた。
「おっと、ごめん」
笑って、謝る。どうも、このところ、情緒不安定でいけない。
気分を、変えよう。食器を洗浄器に放り込み、 ただし、ティーポットだけは、いつものように、手で丁寧に洗うと、 友花里は浴室へ向う。
招待
昼過ぎ。 自室のベッドに転がって、昨日滝沢にもらった、 痴漢対策の資料に目を通す。 長い文章を読む気分ではなかったけれど、 今日は特に予定もなかったし、 メールでの話題になればと思って読み始めたら、 これが、ことのほか面白くて。うなずいたり、感心したり。
なにぶん量が多いので、ひと区切りついたところで、滝沢にメールを送る。 明日から、実践してみます。少し遅れて、返事。滝沢も、 インターネットをしながら、暇をつぶしているとのことだった。 お互いに時間があると分かると、また、会いたい気持ちが湧いてくる。 メールさえもじれったい。
時計を見れば、一時半にもなっていない。 せっかく、この家の場所が分かったのだ。 ちょうど両親も出かけていることだし、今から誘ったら、来てくれるだろうか。 メールからの情報では、滝沢の家から友花里の家まで、 移動だけなら、一時間もかからないはずだ。
ただ、いきなり誘うのも気が引ける話で、何か口実が欲しいところではある。
そして、口実は、あった。あの、エルメスの、カップ。 滝沢は昨日、使う機会がなくて、そのままになっていると言っていたのだ。
(よし、いける)
思い切って、電話をかける。
「あ、どうも。どうしました」
いきなりで、びっくりさせてしまったかもしれない。 滝沢の声は少し、慌てていた。
「突然、すみません。今、お時間大丈夫ですか」
「はい。はい。全然、大丈夫です」
本当は忙しくても、滝沢ならそう言いそうな気がした。 ただ、せっかくの休日の午後は、無限ではない。 友花里は、慎重に、話を切り出すタイミングを計る。
まずは、昨日の話から。送ってもらったことの、お礼とお詫びはしっかりと。 そして、別れた後のこと。今日、起きてから今まで何をしていたか。 痴漢対策のことも、改めてお礼を言って。 この後、滝沢に用事がないことを、もう一度確認する。
そして。
「そう言えば、カップがそのままだって言ってましたよね」
「え。カップ」
「ほら、エルメスの。使ってないって」
「ああ、はい。はい。そうです。すみません」
また謝っているし。
「よかったら、今からうちに来ませんか。ちょうど暇してたんです」
「え。今から、ですか。迷惑じゃありませんか」
なんだか、腰が引けている。 やっぱり、女性の家を訪ねることに、抵抗があるのだろうか。
「今、わたしひとりですから。うちの両親、夜まで出かけてますし、大丈夫ですよ」
「え。え。ええと」
ますます、声が小さくなってしまった。 友花里の両親との遭遇を警戒している訳ではなかったようだ。 単に面倒なだけなのか、本当は用事があるのか。 滝沢が渋る理由は良く分からなかったが、とにかく、時間が惜しい。 それに、少しくらいは、わがままを聞いて欲しかった。
「美味しい紅茶、いれますよ。駄目ですか」
友花里が、いちおう、冗談にも聞こえるように、 わざとらしく、拗ねたような声で言うと、 滝沢の返事は、早かった。
「とんでもない。ちょっと、びっくりして。すぐに伺います」
「カップ、持ってきてくださいね」
じゃあ、今から準備します。そう言って、滝沢は電話を切った。 友花里は、しばらく、携帯を耳に当てたままで。やがて、大きく息を吐く。 自分のことながら、思っていた以上に、緊張したらしい。 少し、手が震えている。それでも。
(やった)
小さくガッツポーズ。滝沢が、来る。
そうと決まったからには、のんびりはしていられない。 着替えて、化粧をして。 お茶請けには、昨日、母親が焼いたマフィンを出そう。 それから、生地が残っていたはずだから、今からスコーンを焼いて。 ジャムはある。生クリームは、冷蔵庫にあったかな。
「あ」
手早く、着替えと化粧を済ませたところで、 友花里は、ようやく気づいた。
夜まで誰もいない。これは、考えてみれば、すごい誘い文句ではないか。 いくら滝沢だって、驚くだろう。思わず、声に出して、笑ってしまう。 もし、勘違いさせてしまっていたら、申し訳ないことだ。
(でも、それならそれで、いいかも)
足取り軽く、友花里は部屋を出る。
午後の紅茶
「どうぞ、かけてください」
居間まで通したところで、さっそくイブキにじゃれつかれて、 律儀にその相手をしてくれている滝沢に、ソファを勧める。
「今、お茶をいれますね。紅茶とコーヒー、どっちにしますか」
「ええと。紅茶を、お願いします」
つい聞いてしまったけれど、コーヒーと言われたら、 困ってしまったところだ。 サイフォンはあるけれど、友花里自身は、 普段はコーヒーを飲まないから、豆の量など、勝手が分からないのだ。 ひとまず、ほっとする。
滝沢から、カップを受け取る。使われた様子どころか、 箱から出された形跡すらない。
「本当に、そのままだったんですね」
「うちは、緑茶しか飲まないので」
じゃあ、湯飲みの方がよかったですか。そう聞くと。
「いえ。これは、飾っておきます」
そう言って、滝沢は笑った。いつも会うときよりも、くつろいだ様子。 ただそれだけのことで、友花里は嬉しくなる。
「温めてきますね」
カップを持って、キッチンへ。 軽く洗って、水気を切り、ティーポットとともに、 沸かしておいたお湯を注ぐ。それから、残ったお湯を捨てて、 冷蔵庫から取り出した、ミネラルウォーターを火にかける。もちろん、軟水。 お湯が湧くまでの間に、いろいろと準備。 居間を覗くと、滝沢はイブキの相手をしてくれていた。
お湯が沸いたところで、まずはポットを、 スプーンや皿などと一緒に、先に運んでおく。 滝沢の好みが分からないので、茶葉は、缶をいくつか出して。 ダージリン、セイロン、キーマン、アールグレイ、ラプサンスーチョン。
「好きな葉とか、ありますか」
「紅茶は、午後の紅茶しか飲んだことがなくて」
困らせてしまった。 まあ、普段飲まない人なら、そんなものだろう。
「じゃあ、ダージリンかな」
無難なところにしておく。 一瞬、魔がさして、ラプサンスーチョンにしようか迷ったけれど、 いくらなんでも、紅茶初心者の滝沢相手には、悪ふざけが過ぎるだろう。 久美子に出した時みたいに、イブキを人質にとられて、 お詫びとして、無茶な要求をされることはないだろうけれど。
ポットにお湯を注ぐと、葉が踊って、お湯がさっと紅く染まる。 陶器製にくらべて、保温性に劣る印象があるけれど、 グラスポットの最大の利点は、こういう視覚的なところにあると、 友花里は思っている。
あんまり鮮やかに色が変わるので、すぐにでも飲めそうに見える。 しかし、紅茶は渋味が先に出るから、美味しく飲むためには、 少し長めに蒸らさなくてはならない。 そのことを滝沢に告げて、友花里は、一旦、キッチンに戻る。
「これ、昨日、母が焼いてくれたんですけど」
マフィンやスコーンを乗せた皿をテーブルに並べながら、しかし、 スコーンは自分が焼いたということは、 滝沢が過剰にほめてくれる様子を想像したら、 気恥ずかしくて、言いそびれてしまう。 気合を入れた料理ならともかく、スコーンくらいで感心されたら、 逆に、寂しいような気がして。
滝沢に手料理を食べてもらうのは、いつ頃になるだろうか。 そんな想像も、楽しい。
ちょうど良い蒸らし時間は、身体が覚えている。 適当な頃合で、友花里は再びキッチンに戻り、カップを持ってくる。 テーブルに並べながら、このカップのおかげで、 今のふたりの関係があるのだと思うと、 友花里の胸には、感慨深いものがあった。
(あとは、ミルクと、お砂糖と)
忙しく動き回りながら、友花里は、 小さな幸せを、かみしめる。
豊かな沈黙
紅茶の話。お菓子の話。休日の過ごし方。犬の話。ペット論。
いろんな話をした。滝沢の質問は、珍しく、 友花里のプライベートに踏み込んだものが多かった。 それは、決して不快なことではなく、 むしろ、これまで、あえて話すような機会のなかった、 取るに足らない、些細なことまで、滝沢が興味を向けてくれたこと、 知ってもらえることが、友花里には嬉しかった。
外で会う時とは違って、時間を気にする必要がなかったからだろうか。 時々、沈黙が降りる。お互い、一言も発することなく、ただ、時間だけが過ぎて。 そこには、違和感も、気まずさもなく。あるがままに。
滝沢の影響で、友花里も、パソコンを買おうと思っていることを伝えると、 その時ばかりは、滝沢は、子供みたいに目を輝かせて、本当に楽しそうに、 色々なことを教えてくれた。 友花里には、滝沢が言うことの半分も理解できなかったけれど、 ひとまず、メールとインターネットができれば十分ということで、 次の機会に、買い物に付き合うことを、約束してもらう。
普段、滝沢は、あまり、友花里の目を見て話をしてくれない。 大事な話をする時は、頑張ってくれるけれど、普通のおしゃべりになると、 すぐに、ふらふらと、目をそらしてしまうのだ。
それだけが、友花里は、いつも、残念だったのだけれど、 今日の滝沢は、少し違っていて、会話が途切れると、友花里の目をまっすぐに見て、 静かに微笑んでくれるのだった。無理をしている様子もなく、本当に、自然に。 滝沢自身にしてみれば、友花里の家に招かれたことによる、 些細な心境の変化に過ぎなかったのかもしれない。 その自覚があったのかすら疑わしい。それでも、 何が友花里の心に響いたのか、背筋が泡立つような、静かな幸福感に、 わけもなく、声を上げて泣きたくなる。
天気の良い、日曜日の午後。時間が、ゆっくりと過ぎてゆく。
「そろそろ、親御さん、帰って来ませんか」
「そうですね」
滝沢に言われて時計を見ると、確かに、もうそんな時間だった。
「まずいですよね」
本当に心配そうな顔。いつもの、滝沢だ。 これはこれで、ほっとする。
「大丈夫ですよ。うち親には、滝沢さんのこと、いっぱい話してありますから」
「え。そうなんですか」
「週末によく会っていることとか。今日呼ぶことは言ってませんけど、 別に、家に呼んだくらいで怒ったりはしませんよ」
滝沢を見て、両親がどんな感想を抱くか、友花里は興味があったけれど、 明日は平日だし、なにより、滝沢の居心地が悪そうだったので、 無理に引き止めるつもりはなかった。 取り急ぎ、カップを丁寧に洗って、箱にしまい、滝沢に返す。
「駅まで送りますね」
友花里がそう言うと、滝沢は、急に真面目な顔つきになって、きっぱりと、断った。
「駄目です。帰りが、危ないですから」
(仕事の帰りには、いつも、普通に、ひとりで通る道なんですけど)
そうは思ったものの、滝沢の心遣いが嬉しかったので、おとなしく従うことにした。 家の前まで出て、そこで、お見送り。
この日、ひとつだけ、悔やまれることがあったとすれば、 それは、ずっと機会を見計らっていたのに、 隣に座りたいと、ついに言い出せなかったこと。
(結構、いい雰囲気だったんだけどな)
自分もたいがい、肝心なところで臆病なものだ。友花里は肩をすくめ、家の中に戻った。
Hermes : 5月04日(火)
久美子と城之内
大型連休を利用しての旅行を終えて、友花里と久美子は、五日ぶりに日本の地を踏んだ。 成田から、都内まで移動したところで、ふたりは、久美子の彼氏、城之内と合流する。 家までは、彼の車で送ってもらうことになっていた。
「ふたりとも、お疲れ様。楽しんできたかい」
「おかげさまで。遠いとこ、わざわざ、ごめんねえ」
城之内の前に立った途端、つい先ほどまで、旅行疲れと時差ぼけで、 だるい、しんどいを連呼していた久美子に、鮮やかに生気が戻る。 流石だ。常々、恋愛は活力だと、力説しているだけのことはある。
「どうも、お久しぶりです」
友花里は、前に二度ほど、久美子の付き添いで、城之内と顔を合わせている。
「やあ、友花里ちゃん。クミの引率、ご苦労様でした」
「なんだよ、それ。ていうか、わたしの友花里を、ちゃん付けで呼ぶな」
「痛。痛。こらこら、落ち着きなさい」
目の前で、微笑ましくも、羨ましいやり取りが展開される。
面白いのは、久美子は城之内のことを、友花里の前では、 一貫して、苗字にさん付けで呼んでいること。 本人曰く、のぼせて馬鹿になってしまうから、 ふたりきりの時じゃないと、名前では呼べないのだそうだ。 それから、呼び慣れるのがもったいないとか。
のぼせて馬鹿になる。
(昇。昇。昇)
ああ、なるほど。分かる分かる。
城之内は、細身ながら筋肉質な体格で、滝沢よりも背が高い。 歳は、三十代前半と聞いている。会話も快活で小気味良く、 何につけても、そつがない。周囲への気配りも利く。 友花里の印象としては、頼りがいのある、大人の男性だ。
遠慮する暇も与えず、友花里たちの手から素早く荷物を受け取って、 トランクに放り込む手際など、実に、見事なものだった。 しっかりしているようで、その実、甘えたがりの久美子にとって、 城之内は、申し分のない相手と言える。
しかしながら、ちょっと図々しい仮定ではあるけれど、自分の相手として見た場合、 城之内は、友花里にとっては、あまり心を惹かれる存在ではなかった。 と言っても、別に、城之内自身に問題があるわけではない。
過去の自分を振り返ってみれば、恋愛に限らず、他者との交流において、 自発的に相手を求めるよりも、求められ、応えることにこそ、 喜びを見出していたように、友花里は思う。
そんな友花里にとって、おそらくは、自分の助けなど必要としないであろう、 城之内のような男性は、本質的に相似であり、喩えるなら、磁石の同極だった。 ある程度の距離を置いている限りは問題ないけれど、 どちらかが深く踏み込んだ時、反発が起こることは、容易に想像できた。 そういう意味で、城之内は、最初から、恋愛の対象とはなり得ないのである。
ならば、滝沢はどうか。 彼が友花里に対して好意を寄せてくれていることは、いまさら、疑う余地はない。 そして、若く、未熟で、不器用な青年は、友花里の母性と保護欲を刺激し、 精神的な居場所を与えてくれた。だから、友花里は滝沢に惹かれたのだと思う。
しかし。
相手の好意に応えたいという気持ち。自分が必要とされることへの喜び。
これらは、博愛の精神ではあったけれど、見方を変えれば、変質した自己愛に他ならない。 誰かに必要とされることで、自分の存在価値を、確かめてきただけなのかもしれない。 事実、友花里自身に、相手から必要とされている実感が失われた時、 その関係は、たちまち収束してしまう。例えば、五年前の、あの時のように。
もし、そうだとしたら。
滝沢への感情の根底にあるものが、自己愛の投影に過ぎないのだとしたら。 彼への想いは、錯覚に過ぎないのではないか。 結局、自分は、依存されている状態に依存しているだけで、心から、 誰かを好きになることなど、できないのではないか。
メールさえも届かない、五日間の空白は、ここに来て唐突に、 友花里に、その胸の奥に押し沈めたはずの古傷の、 自覚していた以上の大きさと、深さと、痛みを再認識させた。 あの失敗は、単なる失恋として片付けられる問題ではなく、 友花里の人間的資質に対する、重大な指摘を含んでいたのだ。
「それじゃあ、そろそろ、行きますか。ふたりとも、後ろかな」
明るい声で、城之内が、久美子とのじゃれ合いを打ち切って、言った。 友花里は、現実に引き戻される。
「ううん、久美子は助手席に乗りなよ。久しぶりなんだし、ゆっくり話もしたいでしょう」
「そう。えへへ。気を遣わせちゃって、悪いね」
「なんの、なんの」
友花里の言葉は、まったくの方便でもなかったけれど、 なにより、友花里自身、滝沢と連絡を取る前に、ひとりで考える時間が欲しかった。
友花里たちを乗せ、城之内の車が発進する。
メール
一時間ほど走ったところで、時間とともに増大する不安に耐え切れず、 友花里は、考えることをやめた。旅行の疲れもあったのだろうけれど、 頭がうまく働かなくて、どんどん悪いほうへと、考えが流れてしまって。
前の席では、久美子と城之内は、いかにも恋人同士らしく、盛り上がっていた。 とても自分が割り込める雰囲気ではないと思い、友花里が、手持ち無沙汰に、 携帯を取り出していじっていると、信号待ちで、久美子が振り向いて、言った。
「あ、また読んでる」
そのとおり。旅行中も、しょっちゅう読み返していた、滝沢からのメールだ。 受け取ってから今日まで、十日ほどの間に、それこそ、何十回となく。
『友花里に彼氏がいないのは、周りの男に見る目がないから』
『友花里は、自分にとって、とても魅力的な女性だ』
『今度、直接会って、言いたいことがある』
ほとんど、友花里の誘導尋問だった点で、若干の不安は残るものの、 必要な言葉は引き出したつもり。 後は、直接会って、お互いの気持ちを確認するだけだった。
「お。なんの話」
「城之内さんには内緒。わたし、後ろに行く。ちゃんと信号見てろよ」
「了解」
城之内は、特に気を悪くした様子もなく、前に向き直る。 シートベルトを外すと、久美子は、素早く車を出て、後部座席に移った。 久美子がドアを閉めると、カーステレオの音量が上がる。 城之内が、気を遣ってくれたらしい。
うまいと思った。些細なことではあったけれど、素直に、感心する。 久美子と目が合うと、友花里の考えていることが分かったのか、 運転席の城之内をちらりと見て、それから、どうだ、とばかりに笑みを浮かべた。 さすがに、十年も付き合っていると、以心伝心も熟年夫婦の域だ。 うんうん。いい人見つけたな。
「それで、次会うの、今週末だっけ」
「今のところ、そのつもり」
「いよいよだね。やっぱり緊張するか」
「ううん」
緊張は、あまりない。滝沢の気持ちは、既にメールではっきりと分かっていたから。 当座の問題は、その先の、別のところにあるのだけれど、今はそれを、 久美子に相談する気分にはなれなかった。自分の中で、整理がついていない。
「しかし、いまどき、本当に奥手だね、滝沢さん」
「そこが可愛いんだから、いいの」
「今はそう言ってられるかもだけど。これから先も苦労するぞ、きっと」
「うん。それは、なんかね。でも、しょうがない」
「先に惚れた弱みってやつですか」
「そういうこと、かな。どうだろう」
そんな、軽口を叩いていたら、久美子が急に黙り込んでしまった。 どうしたんだろうと思って、そちらを見ると、 久美子は、難しい顔をして、友花里の目をまっすぐ覗き込んで来た。
「あのね、友花里。わたし、あの時、自信を持てって、言ったよね」
友花里は、黙ってうなずく。 滝沢との、二回目の食事の時の話だと、すぐに分かった。
「もし、今から言うことが、全然見当違いだったら、謝るけど」
口調が、すこし、厳しい。
「あれはね、滝沢さんの気持ちのことを、言ったんじゃ、ないからね」
その張り詰めた様子に、友花里は、息を呑む。嫌な、予感がした。聞きたくなかった。 久美子が何を言おうとしているか、多分、友花里にも、分かっていたから。
「蒸し返されるのも嫌だろうと思って、ずっと、そりゃもう、ずうっと、 言うの我慢してきたけどさ」
前を向いて
「あんたは、すごくいい子だけど、時々、お人よしが過ぎるの」
久美子は、友花里の手を取って、しっかり握りしめると、静かに、話し始めた。 言葉のひとつひとつを、確かめるように、ゆっくりと。
「あんなやつの言うことなんか、真に受けて。全部ひとりで背負い込んで。恨み言も言わないで。 もう、何年も経つのに、まだ引きずってる。愚痴のひとつだって、聞かせてもらってないよ」
友花里は、答えない。
「いい、友花里。普通はね、常識で考えたら、どんな言い訳をならべたって、 絶対に、絶対に、絶対に、絶対に。浮気したやつが悪いに決まってるの。 あんたが、就職活動で忙しいのをいいことに、他に女作っておいて、 それを、ぬけぬけと、あんたのせいにするような、あの馬鹿がおかしいの」
友花里は、何も、答えることが、できない。
「あんたは、なにも悪くない。なんにも間違ってない。 一生懸命だったよ。本当に、一生懸命、恋してた。 わたしは、ちゃんと、見てたもの。すごく、キラキラして。羨ましかった」
少しだけ、懐かしむように、久美子は、目を細める。 けれど、その表情は、すぐに、曇って。
「あいつと別れてすぐの頃のあんたは、笑っていても、空っぽで、見ていて辛かった。 突然、一方的に関係を切られて、心が壊れそうになるくらい、本気だったんでしょう。 それなのに、自分の気持ちを、無理やり押さえ込んで。平気なふりをして」
そう言って、目を伏せた久美子の声には、次第に、苛立ちの色がにじむ。
「あの頃、あんたが、いい加減な気持ちで付き合ってたなんて、ありえない。 あいつに、そんなことを言う資格なんて、ない。絶対に、ない。 わたしが、認めない」
肩を震わせながら、そう吐き出した久美子は、泣いていた。 泣きながら、怒っていた。
「告白してきたのは、向こうだったかもしれないよ。 でも、あんただって、真剣に、その気持ちに応えようとしたじゃない。 ちゃんと、本気で、好きになれたって、一緒に喜んだじゃない。思い出してよ。 負い目に感じることなんて、なんにも、ないんだよ」
久美子が、その手を伸ばして、両の頬を伝う涙を拭ってくれるまで、友花里は、 自分が泣いていることに、気づいていなかった。なぜ泣いているのか、 何が悲しいのか。分かっているはずなのに、分からない。
「もう、終わりにしようよ。ちゃんと、顔を上げて、前を向こうよ。 わたし、友花里には、本当に、幸せになって欲しいんだよ。 幸せに、なろうよ」
こんなふうに泣く久美子を、友花里は、見たことがなかった。
(なんだか、愛の告白みたいだね)
久美子に、強く抱きしめられて、堪えきれず、ぼろぼろと涙をこぼしながら、 友花里は、そんなことを考えていた。感情と思考が、噛み合っていない感覚。
きっと、長い間、目を背けてきたことだから。 自分に嘘をついて、納得したふりをしてきたことだから。 きちんと、すべてを受け止めるには、もう少し、時間がかかるのかもしれない。 本当は、もっと早く、こうやって、泣いておくべきだったのだろう。
喧嘩別れじゃない。嫌われたわけじゃない。嫌いになんて、なれるはずがない。
もしかしたら、いつかまた、元に戻れるんじゃないかと、 そう思ったら、彼を前にして、泣くことも、怒ることもできなくて。 わがままを言って、彼を困らせて、嫌われたくはなかったから。
それから、一年が過ぎ、二年が過ぎ。時間だけは、どんどん過ぎ去って。
もう、とうに終わったことなんだと、頭では分かっていたのに、 心のどこかで、あきらめきれないでいた。 ずっと、来るはずのない迎えを、待っていたような気がする。
(馬鹿みたい)
そう思った途端、友花里の心の奥で、何かが、大きく、崩れた。
「わたし、本当に、馬鹿みたい」
それ以上、言葉にならない。ただ、涙があふれて、とまらなかった。 それから、しばらくの間、久美子は、子供みたいに泣きじゃくる友花里を、 優しく、抱きしめていてくれた。
「だけどね、友花里」
やがて、久美子は、言った。
「それでも、あんたは、滝沢さんを好きになったんだよ。 重い、重い、荷物を抱えて、ずっと、身動きがとれずにいたあんたを、 滝沢さんは、振り向かせてくれたんだよ。わたしの言いたいこと、分かるよね」
しゃくりあげながら、友花里は、うなずく。何度も、何度も、何度も。
「じゃあ、もう一度、言うよ。 その気持ちは、本物だから。もう、迷わなくていいから。 だから、今度こそ、自信を持って。自分の気持ちを信じて、精一杯、頑張りなさい。 でないと、滝沢さんにも失礼だ」
その言葉に、また、涙があふれる。
「ありがとう、久美子。ごめんなさい。本当に、本当に、ありがとう」
最後は、ふたりで、声を上げて、わんわん泣いて。
どれくらい、そうしていたのだろう。 気がつくと、車は路肩に停められていて、運転席に、城之内の姿はなかった。 目の奥と、のどが、痛い。軽い酸欠気味で、状況が、よく飲み込めない。 ただ、気分はずっと楽になっていた。
「ここ、どこだろう。城之内さんは」
「あそこだ。もう。禁煙するって言ってたくせに」
久美子の視線の先。フロントグラスの向こう。車から、少し離れたところで、 煙草をくわえた城之内が、ガードレールに寄りかかって、退屈そうに、空を眺めている。 いつからそうしているのか、分からなかったけれど、あと少しだけ、 化粧を直す間くらいは、待っていてくれるだろう。 それくらい大人じゃないと、普段の久美子は、きっと、手に負えない。
そう思ったら、なんだか、城之内のすごさが分かったような気がした。
「城之内さんって、格好いいね」
「ん。あったりまえでしょ。わたしが選んだ男だぞ」
そう言って、久美子は胸を張った。
Hermes : 5月08日(土)
序章最終節
(そろそろ、駅に着いたかな)
時計を見て、友花里の気持ちが引き締まる。 間もなく、滝沢が迎えに来る時間だった。
家のどこにいても落ち着かず、自室と居間をうろうろと往復した挙句、 結局、玄関にある姿見の前で、前髪をいじりながら、滝沢を待つ。
服装、髪型、化粧、眉、爪、アクセサリ。友花里の準備は、万全である。 昼前から、たっぷり三時間はかけて、入念に。 すべてにおいて、抜かりはない。
直接会うのは、自宅に招いて以来だから、実に、三週間ぶりとなる。 心地よい緊張。不安がまったくないわけではなかったけれど、 それすらも、悪くないと思えた。
それから、待つこと二十分あまり。呼び鈴が、鳴った。
(来た)
心が、弾む。
最後に、もう一度、鏡を見て。
友花里の首もとには、エルメスのチョーカー。 それは、友花里なりの、滝沢への意思表明であり、 決意であり、覚悟であり、そして、お守りだった。 手を添えて、深く、息を吸って。
迷いは、ない。
「じゃあ、行って来るね」
見送りに出てきたイブキに、声をかけ、車のキーを取ると、 靴を履くのももどかしく。今日という日は、きっと、一生の記念になる。 確信に近い、そんな予感を胸に、友花里は、ドアを開けた。
終劇
この日、滝沢昇と高村友花里の物語の、二ヶ月に渡るプロローグは幕を閉じる。
すべては始まったばかりで、その先に、約束されたハッピーエンドは存在しない。 それは、ある日、唐突に、終わりを告げるかもしれず、あるいは、 いずれ避け得ぬ、さまざまな障害を乗り越えて、永遠に続いてゆくのかもしれない。
いかなる結末が訪れるにせよ、それは、ふたりの選択と行動の結果であり、 物語は、語り部の手を離れ、元あった場所、あるべき姿へと還る。 今はただ、ふたりの未来が、希望と喜びに満ちたものであるよう、 決して、過ちと後悔に傷つくことがないよう、切に願うばかりである。
電車男と呼ばれた青年がいた。エルメスと呼ばれた女性がいた。 小さな事件がきっかけで、ふたりは知り合い、やがて、その関係を深めていった。 そこに奇跡は存在しない。 いくつかの偶然と、互いの意思と、努力と、行動のみがあった。
有史以前の大昔から、さまざまな形の出会いがある。 しかし、ひと組の男女が出会い、惹かれあう時、いついかなる時代、国家、 人種、風俗においても、その本質に大きな違いはない。
結局のところ、ありふれた出来事かもしれない。 象徴的とも言える、電車男とエルメスの物語は、 ささやかな具象のひとつに過ぎないのかもしれない。
けれど、それは、言い換えれば、人は誰もが、かつて、いつか、あるいは今まさに、 電車男であり、エルメスなのだということ。相手を想い、想われて。 ありふれていても、ささやかであっても、 それぞれが、かけがえのない物語を綴って。
願わくは、商業と盗賊の神様の、気まぐれな加護が、 いつまでも、ふたりの上にあらんことを。
そして、世界中の、電車男とエルメスたちに。
祝福を。
(了)