秘本三国志(六)
陳舜臣
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〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年九月二十五日刊
(C) Shunshin Chin 2003
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目  次
ああ四百年
白帝城は高くして
西南に風疾し
泣いて斬る
丞相、奔走す
夢は五丈原
あ と が き
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秘本三国志(六)
ああ|四百年《よんひやくねん》
|槌《つち》の音が高い。
それがあちこちにきこえる。低いところで、そして高いところで。──
白髪の老人が、その音に魅せられたように、じっと耳をかたむけている。しばらくすると、彼は別のところへ行く。やはり音をきいているのだ。ときどき老人はうなずく。口のなかで、なにやらもぐもぐ言っているが、そば近くにいる人にもききとれない。それはひとりごとなのだ。内心の|呟《つぶや》きに、老人は自分でうなずいているかのようだった。
「ようございましたね、陶固さま」
|碧眼《へきがん》の西域僧が声をかけた。陶固と呼ばれた老人は、我に返ったように、
「ほう、これは支敬どのか。……」
と答え、|羞《は》ずかしそうに笑った。
「日に日に、りっぱな建物がふえますなあ」
と、西域僧は言った。
年のころは五十前後、月氏族の仏寺である白馬寺で、いま長老代行のようなことをしている支敬である。
「おかげさまで」
と、陶固は頭を下げた。
「なにも陶固さまが、私にお礼を申すことはございません。お礼を申し上げるなら、その相手は魏王殿下でありましょう」
「ま、そのようなことでしょうが。……私としては、洛陽のために、誰にでも礼を申し上げたい気持でございます」
陶固はもう七十を越えた。
|董卓《とうたく》が洛陽のみやこを焼いて、ちょうど三十年になる。
──ふたたび洛陽を花の都に。……
洛陽で生まれ育った商人陶固は、そのことにすべてのエネルギーをそそいだ。三十年という歳月は、陶固にとっては、一日一日が洛陽再興のためにすごされたといってよい。
三十年は苦難の日々であった。二十四年まえ、天子がいったん長安からこの洛陽に帰還したのに、ここに宮居をさだめることができなかった。洛陽はそれほど荒れはてていたのである。董卓の破壊は、徹底したものだった。
──もうこの洛陽は、二度と都城となることはあるまい。
人びとはそう思った。
東帰した天子一行も、洛陽を見すてて、|許《きよ》のまちへ去ったのである。天子一行だけではない。誰もが洛陽に絶望し、新しいみやこの許や、南陽や、|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》へ、新しい生活の場をみつけるために去って行った。
陶固だけは洛陽に踏みとどまった。個人の力には限度がある。だが、彼はできるかぎりのことをした。
人を雇うにも、許や★[#業+おおざと(邦の右側)]の倍も給金を払った。大工や左官にも相場の倍の賃金を約束した。──おかげで、廃墟がちょっとした集落ていどになった。
陶固は洛陽再興のために、白馬寺に応援を仰いできた。商業民族である月氏の人たちには、宿場的なオアシス都市経営の才能があった。商人の宿泊するまち、彼らがなにやかやと金をおとすまち。──陶固と白馬寺の共同工作で、洛陽はどうやら小さなまちとなった。
洛陽が本格的によみがえりの様相をみせはじめたのは、ほんのここ数年来のことであった。
|魏《ぎ》王曹操の命令で、洛陽に大きな建物が建てられはじめた。人びとは、
──洛陽遷都の前ぶれではあるまいか。
と語りあった。
関羽の|樊城《はんじよう》攻撃がはげしくなると、曹操はみずから洛陽に乗りこんだ。居城の★[#業+おおざと(邦の右側)]よりは戦場に近いので、「大本営」の前進という意味があるのだろう。だが、遷都にかんする人びとの|囁《ささや》きは消えない。
「洛陽がみやこになるぞ」
「そりゃ、きまったことじゃ。……だけどな、これはめったな人のまえでは言えないが、漢のみやこじゃないぞ」
「なんだと? 天子のみやこじゃないのか?」
「天子のみやこかもしれねぇが……ま、これ以上は言わないでおこう」
「言わねぇでも、わかってらい。……」
洛陽市民のあいだに、そんなやりとりが、ひそひそとかわされていた。
──漢は衰えた。もはや滅びたも同然。かわって魏の曹家が天下のあるじになる。
これが中原の住民の常識であった。
曹操が洛陽に乗りこんだのは、建安二十四年(二一九)十月のことである。
関羽の敗戦は十二月のことであった。
洛陽にも関羽敗走の噂は伝わっていた。
──いよいよ、魏が漢にとってかわる。
口に出さないでも、人びとはたがいにそれを半ば既成の事実として、意識のなかにとりいれ、そのうえでさまざまなことを語り合ったのである。
「今夜、殿下が白馬寺においでになります」
と、西域僧支敬は言った。
「ほう、それは……」
陶固はまぶしそうな表情になった。
「陶固さまもいらっしゃいませ」
「なに、このわたしに?」
「はい、私がもう名簿にのせました」
「そのようなことは……おそれ多いことで」
「いえ、今夜は格式なしの、気軽なおしゃべりの会合でございます。殿下もおしのびです。堅苦しいことではございませんから、どうぞおいでになってくださいませ。……洛陽のことも、お願いできるではありませんか」
「そうですな。……洛陽のこと……」
陶固の顔は|綻《ほころ》んだ。最高の権力者に、洛陽のことを頼むことができる。──めったにない機会ではないか。
「それで、あなたをさがしておりました」
と、支敬は言った。
「それはまた、わざわざどうも。……」陶固は頭を下げた。──「では、参上いたすことにしましょう。で、時刻は?」
|建始殿《けんしでん》。──
建始というのは、前漢成帝のときの元号である。新しく建てる宮殿の名をえらぶとき、曹操はそれが二百五十年前の元号であることは意識しなかった。
これが始まりである。これから建設するのだ。新しい国を。──そんな意気込みが、建始という名をえらばせたのである。
建始殿の骨組みはできた。
曹操はそこを視察した。|枠《わく》はほとんど完成しているので、つぎは内部と壁であるが、大きな建物なので、まだまだ建築材料が足りない。
「いま|濯竜祠《たくりゆうし》の森を|伐《き》っています」
と、工事監督官が報告した。
「ほう、濯竜祠の神木か。……」
曹操は呟いた。
『|漢書《かんじよ》』の註によれば、当時、馬の八尺以上のものを竜と呼んだという。良馬を洗濯するという意味で、帝室|厩舎《きゆうしや》のある土地を、濯竜と称し、そのあたりの園林を濯竜苑と呼び、そこの池を濯竜池と呼んだ。その近辺にちょっとした|祠《ほこら》があった。帝室用地なので、みだりに木を伐ってはならないのはとうぜんであろう。そんなわけで、濯竜祠一帯の森林の樹木は、「神木」とあがめられていたのだった。
曹操は迷信が大きらいである。若いころ、はじめて地方官となったとき、まっさきに実施したのは、邪教、|淫祠《いんし》の破壊であった。|罰《ばち》があたると言われると、
──では、罰があたるかどうか、よく目をひらいて見よ!
と、祠にむかって小便をかけたこともある。
曹操の迷信憎悪のことは、彼の部下もよく知っていた。だから、神木でも遠慮なく伐りたおしたのだ。ところが、このとき、曹操はかすかに不安そうな表情をみせた。
「では、帰りに濯竜祠に立ち寄って、神木伐採を見てくるか。……」
と、曹操は言った。彼自身、ふときざした不安に気づき、それを踏みにじるつもりで、神木伐採視察を言い出したのである。
|司馬彪《しばひよう》の『続漢書』によれば、濯竜苑は洛陽の西北角にあったという。そこにある祠は、後漢の桓帝が黄老を|祀《まつ》るために建てたと伝えられる。
厳冬のころであったが、伐採作業をしている人たちは、大粒の汗をかきながら、大きな|斧《おの》をふりつづけていた。
「ほう、やっとるのう。……」
曹操は作業員のそばまで|輿《かご》に乗って行き、ゆっくりと降りた。輿から降りるとき、腰にはげしい痛みをかんじた。
(年じゃ。……)
曹操は首を振った。
彼の痛みに気づいた者はいない。家臣一同、そこに平伏して、面をあげる者はいなかったからである。
すでに六十五であった。年齢のことは口にしたくなかった。いや、それを意識することさえおそれた。
持病の偏頭痛に加えて、急にからだをうごかしたときの腰痛がはなはだしい。耳もだいぶ遠くなっているが、眼の衰えはそれ以上であった。
やっとるのう、と彼は言ったが、じつは輿から降りたとき、目がかすんで、そのあたりがはっきりとは見えなかったのである。肉体と機能の衰えをおそれ、彼はまるでちゃんと見たようなことを言ったのにすぎない。
なんどか目をしばたたいているうちに、ようやくその場の情景の輪郭が見えはじめた。曹操はやっと安心して、一歩、二歩と前へ進んだ。
作業員は鉢巻をしめていた。
じつは武人が鉢巻をするのは、曹操から始まったことである。それまでは、武人といえども士大夫であるから、衣冠をちゃんとつけねばならない。ただし、後漢の末ごろは、冠が略式になり、頭巾ふうのかぶりものが流行した。
──おなじ略式にするなら、もっと思い切って省略すればよかろう。
と、曹操は鉢巻をもって冠にかえたのだ。
一般の労働者の鉢巻は、むろんむかしからのいでたちの一つである。
「えん、やら、どっし!」
と、かけ声をかけて斧をふりおろす。
幾抱えもある巨大な樹木の根もとに、さきほどから、一人の男が斧を黙々とたたきつけていた。鉢巻からはみ出している髪は白い。
(かなりの年だが、がんばっておるわ)
曹操は頼もしく思った。
その老人は、片肌ぬいでいるが、|赤銅色《しやくどういろ》の肩の筋骨が、斧をふりあげ、ふりおろすたびに、小気味よく躍動した。
「や、や……」
老人のふりおろした斧のさきを見て、曹操は思わず声をあげた。つぎに、彼は指さきで鼻の根もとをつまんだ。──もっと目がよく見えるように。
信じられないものを彼は見たのだった。
巨木の根に近い部分は、なんども斧の刃をうけて、樹皮が|剥《は》がれ、白っぽくなっていた。そして、そこに真っ赤な液体がにじみ出ていたのである。
(木が血を流すか。……)
そんなばかなことがあるものか。──曹操はこんどは目をこすった。だが、やはりそれは血のようであった。ゆっくりとにじみ出ているだけではない。かなりの量をあつめたとみえ、すうーっと線をひいて流れおちたのである。
曹操は目をそらした。
(いくら神木でも、血を流すなんてことはない。そもそも神木などというのはないのだ。濯竜祠の木もそのへんの民家の庭の木も、おなじ木ではないか。……血を流しているかに見えたが、それはただの樹液にすぎない。そう、樹の|や《ヽ》に《ヽ》だ。……)
曹操は自分にそう言いきかせ、目をそらしたまま、神木に背をむけた。
「白馬寺へ参ろう」
彼はそう言って輿に乗った。輿のなかで、彼は、
(いまのことは、ふだんのおれらしくない。ふだんのおれなら……)
と考えた。ふだんの曹操なら、神木に近づいて、それが血ではなく樹液であることを、我が目でたしかめたのにちがいない。目をそらし、そのまま背をむけるなど、たしかに曹操らしくないことだった。ものごとを、うやむやにしてうちすてるなど、彼が最もきらったことである。
輿が揺れだしてから、曹操はしきりに首をかしげた。
(おれとしたことが。……)
気が弱くなっている。やはり年のせいであろうか? 輿のなかで、曹操はそんなことを考えて、不機嫌になっていた。
(いつもは会えない連中に会いに行くのだ)
白馬寺へむかう輿のなかで、曹操は自分にそう弁明していた。
気力が衰えたため、|浮屠《ふと》という異国の信仰に頼る気になったのではない。むかしなじみの白馬寺の人たち、そこにいる|張魯《ちようろ》の母親の少容、その弟子の陳潜、洛陽を愛してやまない人たち。魏王になってから、曹操の身辺は多事多端で、そんな人たちと会って、ゆっくり語る機会がすくなかった。
関羽敗走のしらせがはいり、曹操はほっとして、前線の司令部から、洛陽にひきかえしたところである。
久しぶりに、天下|争覇《そうは》などとあまり関係のない連中と、気がるに歓談してみたい気になった。けっして気力の衰えのせいではないのだ。──だが、そんなふうに、自己弁明をしなければならないのは、曹操にしては尋常のことではない。それに気づくと、彼はやはり年かと、うっとうしくなった。
「ほう、陶固と申すか。……その名、きいたことがある」
白馬寺のつどいで、曹操が初対面の人物は陶固であった。三十年まえ、董卓が洛陽を灰にした日から、陶固という名は、まるで地上から消えたかのように、忘れ去られていた。だが、それ以前、陶固といえば、洛陽ではかくれもない存在であった。──洛陽随一の富豪として。
若き日の曹操も、とうぜんその名を耳にしていた。だが、彼が三十年たっても、まだ強烈にその名を記憶しているのは、白馬寺の長老支英から、陶固にかんする逸話をきいたからである。
董卓は財宝をかくすために、白馬寺の月氏族の人たちをかりあつめて、穴を掘らせた。財宝をかくしたあと、董卓と|呂布《りよふ》は、彼らも穴のなかに埋めて口をふさごうとしたのである。そのとき、陶固は近くの自宅から、坑道を横に掘り進め、生き埋めになりかけた人たちを救い出したのだった。
──こよなく洛陽を愛する人物。
支英はそのエピソードを曹操に語ったあと、言葉をあらためて、そうつけ加えたのである。
「は、汗顔の至りでございます。やつがれごときの名が、殿下のお耳を汚しましたとは」
と、陶固は平伏した。
「支英から穴掘りの話をきいた。人助けというのはよいものじゃ」
「おそれいります」
「そちは洛陽を愛するときいたが?」
「は、わがまちでございますれば」
「灰になっても愛したか?」
「灰になりましてから、いとしさはよけいつのりました」
「人間もそうありたいものじゃな」
と、曹操は言った。
「えっ?」
陶固は面をあげて、けげんそうに曹操の顔をみつめた。
中国ではもっぱら土葬がおこなわれたので、人間が死ぬことを灰になる、という表現はなかったのである。火葬は仏教が流行してから、やっとおこなわれるようになった。曹操は白馬寺の支英から、仏教のことをよくきいていたので、火葬のことは知っていた。
──灰にするというのは、なかなかいさぎよいことじゃ。腐るよりどれほどましか。
曹操は徹底したリアリストなので、火葬の風習を評価したのである。
「ここは浮屠の寺ではないか。浮屠では人が死ねば灰にすると申す」
曹操は笑いながら言った。
「陶固を呼びましたのは、殿下へじきじきにお願いの筋がございますとのことで……」
と、そばから支敬が口をはさんだ。
「願いの筋? ほう、申してみィ」
と、曹操は言った。
「は、それはほかでもございません」陶固は額を床にすりつけて言った。──「この洛陽をりっぱなまちにしていただきたい、ただそれだけでございます。再びりっぱな……花咲くみやこにしていただきとうございます」
「それだけなのか?」
そう言って、曹操は疲れをおぼえた。
「それだけでございます」
額から血がにじむほど、陶固は床に頭をすりつけた。曹操はさきほど見た、あの神木の血を連想した。たのしい情景ではない。
「もうよい。……」
曹操は|眉《まゆ》をしかめて言った。そのとき、急使がやって来た。
「|驃騎《ひようき》将軍より親書が届きました」
と、急使は報告した。
「ほう、南昌侯からの親書か」
曹操はその場で受取って封を切った。
関羽攻撃のため、曹操は孫権と同盟を結び、孫権を驃騎将軍に任令し、南昌侯に封じたのである。いまその孫権から親書がきた。
曹操はさっと目を通した。
「関羽の首を送ってくるという。……こちらで葬儀を営んでやらねばならぬ。関羽ほどの武将、丁重に|葬《ほうむ》るべきであろうのう。……」
読み終えて、曹操は誰にむかってともなく言った。
いまから二十年まえ、劉備が曹操に敗れて|袁紹《えんしよう》のもとへ走ったとき、関羽は曹操側の捕虜となった。曹操は関羽を|偏《へん》将軍に任じた。白馬の合戦では、関羽は曹操の部将として、袁紹の猛将顔良の首をあげた。その後、関羽は旧主であり義兄でもある劉備のもとへ走った。|僅《わず》かのあいだだが、曹操は関羽と主従の関係をもった。
(野戦の将軍としてはすぐれていた。果敢であり、決断力は抜群だった。……)
曹操は関羽の才能を評価していた。惜しい人物を殺した。──関羽の首のことを読んで、曹操は目がしらが熱くなるのをおぼえた。
(ふしぎな。……目が赤くなっておられる)
白馬寺の長老支敬と、五斗米道の教母少容は、期せずして顔を見合わせた。
詩人として、曹操はとうぜん感情のはげしい人物だが、天下の覇者として、彼はその|溢《あふ》れんばかりの感情を、けんめいに抑えてきた。涙ぐむすがたなど、めったに人に見せたことはない。
(どうやら、抑えがきかなくなったようですな。……)
と、支敬の視線が問い、
(やはりお年でしょうね)
と、少容は答えたのである。
「孫権め、この書中に、妙なことを書いておるわ」
と、曹操は言った。
「どのようなことでございますか?」
と、支敬は|訊《き》いた。
「陛下と呼んでおる、このわしのことを」
「ほう、陛下と……」
支敬は口をすぼめた。口をすぼめると、この老僧の顔の下半分は|皺《しわ》だらけになった。
秦の始皇帝のとき、宰相|李斯《りし》の進言で、天子を呼ぶときに限り、「陛下」を用いることにきめた。漢はその制度を踏襲している。漢では皇太子および諸王を呼ぶときは、殿下の称号を用いる。そして、三公および二千石の地方長官は「閣下」である。
曹操はいま魏王であるから、正しくは殿下と呼ばねばならない。ほかの人物を陛下と呼ぶのは、ときの天子にたいして不敬にあたるのだ。
「ほれ、このとおり」
と、曹操はその親書を支敬に見せた。
「なるほど、たしかに、陛下とお呼びして、そして、臣権と記しておりまするな」
支敬は目を細めてそれを読んだ。
「孫権のやつめ、わしを炉の火のうえに坐らせるつもりか。……ふん、熱いわのう」
と、曹操は言った。
当時の五行説では、木、火、土、金、水の順序で、その徳をもった者が、天子として天下に君臨するとされていた。たとえば、|堯《ぎよう》は火の徳、|舜《しゆん》は土の徳、|夏《か》は金の徳をもって天子となったと解する。漢は火の徳といわれていた。火にかわるのが土である。土の徳をもった者は、火のうえにかぶさり、それにとってかわるのだ。
だから、曹操の言葉は、
──孫権はわしを天子にさせるつもりか。
と翻訳できるのである。
「いえ、火はしぜんに消えるものでございます。そのうえに坐りましても、けっして熱くはございません」
そう言ったのは、曹操の側近である陳群という侍中であった。
「ほう、火はしぜんに消えるか。……」
曹操は呟いて目をとじた。顔が少し|歪《ゆが》んだが、笑ったのか、泣いたのかわからない。
「天命がうつったのでございます」
と、陳群は言った。
「かりに天命がわしにうつったとしても、わしは周の文王になろうぞ」
と、曹操は言って目をひらいた。
|殷《いん》王朝の末期、周の文王は天下の三分の二を領有する実力がありながら、死ぬまで殷に臣事した。息子の武王が殷をほろぼしたあと、その父に文王と|諡《おくりな》したのである。
周の文王は、天命を受けたけれども、殷をほろぼすにしのびなかった。曹操が周の文王になろうと言ったのは、
──わしは漢の運命を左右できるが、それは息子にまかせよう。わしはやはり漢の臣として死ぬことにする。
という意味だったのである。
(おれはなぜこんなところに、人を集めて、会いに来たのだろうか?)
曹操は自分で言い出しておきながら、白馬寺でいろんな人と会い、いろんな話をしているうちに、ふとそんな疑問を抱く。そして、少容のほうを見る。
老いたとはいえ、少容は美しい。まぶしいほど美しい。だが、曹操はその美しさを見たいのではない。疑問がおこると、少容がかならずその解答を用意してくれている気がするからだ。
少容がその口をひらいて、じっさいに答えてくれることはめったにない。だが、彼女のおだやかな表情をみると、曹操は疑問にたいする解答がそこにあるという気がして、ほっとするのだった。疑いを解いたのでなければ、あんなおだやかな顔はできないだろう。
曹操はもう具体的な解答を得ることを望まなくなっている。あとの時間はもうすくない。解答があるということがわかれば、もうそれでよいのだ。少容のほうを見るたびに、曹操は前へ進んで行くかんじがした。
老いを自覚した人にとって、時間は貴重きわまるものだ。おなじところに、いつまでもとまっていることはできない。
少容はうなずいた。
(わかってますわ)
曹操は彼女の表情にうなずき返した。
(あなたは、みんなにお別れに来たのでしょう。もう二度と会えないから。……とくにわたくしとは、人生の総決算をしてみなければならないのだし。……)
少容はそう思っていたが、それは口にしてはならないことだった。
二十八年まえ、曹操が少容の尽力で、青州黄巾軍三十万をその|傘下《さんか》に加えたとき、
──地上の平和はあなたの役目、人間のたましいの平和はわたくしの役目。──どちらがさきに、人間にしあわせをもたらすことができるでしょうか?
と、少容に言われたのだった。
それは、おごそかな挑戦である。そのときの彼女のことばは、曹操には忘れることのできないものだった。
──どちらが勝ったのか?
のこされた時間がすくないとなれば、そろそろ帳尻をあわせるべき時ではないか。だから、曹操はやって来たのだ。
だが、げんに顔をあわせると、ほかの話ばかりして、決算の検討を避けている。
「ところで、教母と二人で吟味しなければならないことがあったのう」
やっと曹操はそのことを口にした。
「こんなに早くでございますか? まだまだ吟味など、早すぎまする」
少容はあでやかに笑った。──それは、あでやかと形容するほかなかった。
「早いかの」
曹操はまたほっとした。この|安堵《あんど》感をもとめて、人びとは少容のところに集まるのではあるまいか。乱世に生きる人として、曹操は心の安らぎの貴重さを、少容という道教の教母を通して、しみじみと知った。──おれが負けかもしれない。曹操はふとそんなことを考えた。負けずぎらいの彼にしては、内心の呟きとしてもめずらしいことである。彼自身ふしぎでならないのは、負けかもしれないと思いながらも、口惜しさというものが、いっこうに湧きあがらないことだった。
「いまのところ、相撃ちでございましょう」
と、少容は笑いながら言った。
「相撃ちかの」
曹操はその評価が納得できなかった。
そこへ第二の急使がやって来た。こんどは書面ではなく、口頭の報告であった。
「ただいま関羽の首が届きましてございます」
急使は興奮を抑えかねたような、いささかうわずった声で言った。
「ほう、おなじ日に届いたか」
曹操はうなずいた。
孫権の親書は建業(南京)から、そして関羽の首は荊州から送られ、おなじ日に洛陽に届いたのである。
支敬たちは合掌した。少容は頭を垂れて|黙祷《もくとう》をささげた。曹操の勢力圏内に住む人たちだが、宗教人には敵味方の観念はないのだ。曹操はちがった世界をそこに見るおもいがした。──それだけならまだよい。その世界に、自分が近づいて行くような気がしたのである。面妖なことではないか。彼はこのとき、どうしたわけか、濯竜祠の神木が、血らしいものを流した場面を思いうかべた。
「首が来たからには、葬式を出してやらねばならんな」
と、曹操は言った。
少容が前に進み出て、
「雲長(関羽のこと)さまは、かつて漢寿亭侯に封じられました。天下十三州のうちの一州に君臨したお方ですから、諸侯の格式をもって葬られますように。……」
と言った。
「わかった。……では戻ろうか」
曹操は胡床から腰をあげた。
『後漢書』によれば、諸侯の葬儀は、
──|樟棺《しようかん》、|洞朱《どうしゆ》、|雲気《うんき》の|画《が》。
と定められている。くすのき材の棺に朱塗り、そして雲のさまの紋様がえがかれるのだ。そのつぎの三公の場合は、樟棺黒漆である。おなじくすのき材の棺だが、朱はゆるされずに、黒漆塗りとされていた。
数日後に、洛陽で関羽の葬儀がとりおこなわれた。関羽の首は内側が朱で塗られた棺のなかにおさめられている。首だけなので、あまった空間に、木炭と乾燥した|葦《あし》の葉が詰められた。関羽はあから顔だったが、死んでしまって何日もたったいま、鉛色になっている。むろん生気はない。ただひげだけは、死んだあとも依然としてみごとであった。
「首だけでもあってよかったのう」
曹操は関羽の首に、小さな声で語りかけた。
初平三年(一九二)曹操は|寿張《じゆちよう》というところで黄巾軍と戦い、僚友の|鮑信《ほうしん》をうしなったことがある。乱戦であり、戦後、懸賞までかけたが、鮑信の屍体は発見されなかった。そこで鮑信の像を木に刻み、それを棺におさめて葬ったのだった。──曹操はそのときのことを思い出していた。
「父上、関羽の首に、なにを語りかけたのでございますか?」
と、|曹丕《そうひ》は訊いた。
曹丕はそばにいたが、父の声があまりにも小さすぎて、彼にはききとれなかったのである。
「もうすぐ|冥府《めいふ》で会おうと申したのじゃ」
と、曹操は答えた。とっさに、そんな嘘が口をついて出たのである。なぜだか彼にもわからない。ひょっとすると、この嘘のほうが、ほんとうは曹操が関羽の首に語りかけたかったことかもしれない。
「父上らしくありませぬな」
と、曹丕は言った。
彼にしてみれば、徹底した現実主義者である父が、あの世の存在など信じるはずがないと思ったのだ。彼の父はつねに強気であった。わざと弱気をみせて、他人の反応を読み、他人の心をのぞこうとしたことはある。だが、息子の冷徹な目からみて、こんどはそうではなさそうだった。
(いつになく心細いことを言う。いよいよいけないのかもしれんぞ。……)
曹丕は重いものが自分の肩にかかってくるのをかんじた。
父が死ねば、漢帝国を乗っ取る作業をはじめなければならない。それは曹丕と父とのあいだの無言のうちの約束であった。
曹操は父親としては、長男の|丕《ひ》よりも三男の|植《しよく》のほうを愛していた。氷のような冷たさをもつ|丕《ひ》よりも、|植《しよく》のほうが人間的なあたたか味がある。それにもかかわらず、彼は自分の後継者に植をえらばなかった。なぜなら、植のような性格では、王朝の|簒奪《さんだつ》などできそうもないからである。
(おまえならやれる。眉一本うごかさずに、それがやれるだろう。だから、わしはおまえを跡取りにえらんだ。……)
曹丕は父のそんな声なき言葉をききとっていた。そして彼は、
(やりますよ、まちがいなく)
と、父にたいして、はっきりと約束したつもりであった。
関羽を諸侯の格式で葬ったのは、建安二十五年(二二〇)正月のことであった。百官は白い喪服をつけて葬儀に参列した。許都の天子からは、型どおり勅使が派遣された。
関羽の葬儀のあと、曹丕と曹植は★[#業+おおざと(邦の右側)]へ戻り、父の曹操は洛陽にしばらく滞在することになった。
「おまえのために、この洛陽を、みやこらしいみやこにしておこうぞ」
別れるとき、曹操は曹丕にそう言った。
「かたじけのうございますが、ご無理をなさらないように」
と、曹丕は頭を下げた。
(おまえが漢をほろぼしたあと、新しい魏の王朝は、この洛陽をみやこにするのだぞ)
父のことばにはそんな意味が含まれていた。
曹操は病床にあった。
──雲長(関羽)の|祟《たた》りか?
──いや、お上は雲長の葬儀を、格式を越えて丁重にとりおこなった。あのひげに祟られるいわれはない。
──しかし、雲長は魏軍に敗けたのだ。さぞ口惜しかろう。
──いや、勝敗は時の運ではないか。雲長を欺いたのは|呂蒙《りよもう》である。お上が祟られる筋合いではない。……
病床にあっても、曹操は家臣がそんなことを、ひそひそと言い合っている情景が想像できた。
(なんの、ひげめに祟られてたまるか。命を失った者には、もうなんの力もないのだ)
曹操はそう信じている。そして、自分が力をもたぬ者の数に入る日が近いことを、はっきりと悟っていた。
ちょうど長安にいた次男の曹彰が、洛陽に来て、父親の病気を見舞った。曹彰は勇猛であるが、思慮にも学識にも欠けている。彼は父の退屈な病床生活を慰めるつもりで、あれこれと|巷間《こうかん》に伝わる面白いエピソードを紹介した。
「関羽は樊城を包囲しておりましたとき、|猪《いのしし》に足をかまれた夢をみたそうでございます。夢からさめて、彼は息子の関平に、どうもわしは帰れそうもないわ、と心細げに語った由にございます。足をかまれては、歩けないわけでして。……遺体も家族のところへは戻らず、洛陽に葬られました。どうやらあれは正夢だったのですね」
きいている途中で、曹操は自分でも顔色が変わるのがわかった。曹彰はおかまいなしにしゃべりつづけた。彼は父の顔の表情など気にかけていないのである。
曹操の怒りは三重にかさなっていた。
まず気力が衰えている自分にたいする怒りである。夢判断など、彼は|微塵《みじん》も信じないつもりであった。だが、関羽が猪に足をかまれた夢の話をきいて、彼はとっさに濯竜祠の神木が血を流した光景を連想した。連想したというのは、それを気にしたことにほかならない。やくたいもない!
つぎに夢占いなど女子供をだます話を、まともにうけとって、それを得々と話す曹彰の馬鹿さ加減に腹が立った。──それだから、こやつは次男でありながら、跡目相続の選考には、はじめからはずされたのだ。まえから馬鹿であったが、三十をすぎたいまも、ちっともなおっていない。
さらには不吉な夢の話を、重病の父にきかせるという無神経ぶりが気に入らない。そんな話をするのが、そもそもまちがっているが、父の表情が変われば、それと察して、すぐに話をやめるべきである。それなのに、曹彰には他人の表情を読むすべもないとみえる。そんなことで部下が統率できるか!
怒りっぽくなっている。やけに怒るのは老化現象で、気力の衰えであることを、曹操も知っていた。彼は自分の衰えに怒り、怒りは循環した。
怒りに疲れて曹操は目をとじた。すると、まぶたのうらに、神木から血がにじみ出る光景がうかんだ。
「もうよい|退《さが》れ!」
曹操はその声で、息子と同時に、神木の幻像をも追い出した。彼はそのかわりに、劉備の顔を思いうかべることにした。
(なつかしいなぁ。……)
彼は心からそう思った。──相かわらず大きな耳をもっている。……
天下に英雄豪傑が多すぎた。曹操一人では手に負えない。そこで彼は、劉備を、
──英雄たおし。
の道具に使ったのである。対立しているようにみせて、じつは秘密の同盟関係をたもっていた。この密盟は、おもしろいほど効果をあげた。芝居をしているというたのしみさえあった。
いつかはその密盟が破られるときがくるだろう。曹操もはじめからそれは覚悟していた。英雄たおしの芝居が進んで、あと数人しか舞台にのこらなくなったときである。
(|赤壁《せきへき》の|役《えき》であの密約は破れたのだ)
と、曹操は思う。
劉表が死に、荊州が分割されたあと、舞台のうえには、曹操のほか、劉備、孫権、劉璋の四人しかいなかった。劉備はあっというまに益州の劉璋を攻め、ついにのこったのは三人だけとなった。
(目算はちょっと狂った。……)
謀臣がいないため、劉備はなにからなにまで、自分でやらねばならない。曹操はその弱味を知っていたので、すぐにたおせるものとばかり思っていた。
曹操の目算が狂ったというのは、劉備が諸葛[#葛のヒは人]孔明という謀臣を抱えたことである。それによって、劉備の力量が倍増した。
(諸葛[#葛のヒは人]孔明さえいなければ、おれは生きているうちに、天下を平定し統一できたであろうに。……)
曹操は目をあけた。父に|叱《しか》られて、曹彰はあわてて退出していた。部屋の隅に侍中がいるだけである。
(おれはもう自分で死ぬと思っている。……どうやらこれが終わりであるらしい)
曹操は侍中に声をかけた。
「少容を呼べ」
彼は思いついたのである。怒るうちは、まだ気力がのこっているのだ。いまに怒るだけの気力もなくなってしまうだろう。とすれば、いまのうちに遺言をしておかねば、もう機会はないかもしれない、と。
群臣を集め、洛陽にいる息子を枕もとに呼び、遺言をしたところで、それが正しく執行されるかどうかわからない。
(少容を呼んでおけばまちがいない)
彼はそう考えついたあと、にがい笑いがこみあげてきた。
(やっぱり負けたか。……)
曹操は天下統一の大業を、七割から八割ほどまでやってきたつもりである。そして、いま天下無敵の曹軍の九割までは、五斗米道の信者となっていた。自分の遺言を、正しく、そしてひろく伝えるためには、五斗米道の教母の力を借りなければならない。
曹操の遺言はつぎのとおりであった。──
「天下はなおいまだ安定していない。いまはふだんの時ではない。したがって、古来のしきたりに従うことはできない。葬儀が|畢《おわ》れば、みなただちに喪服をぬぎすてよ。兵をひきいて軍務に服している者は、その駐屯地から離れてはならぬ。葬儀に加わるのは重大な違反行為であるぞ。役人はおのおのその職務をつづけよ。わが遺体には、平服を着せて納棺せよ。金玉珍宝を副葬してはならぬ。……」
かぼそい声ではあったが、はっきりと、よくききとれた。
曹彰以下、群臣がその場に居ならび、みな目を真っ赤にさせて、涙をこらえていた。泣いてはならない場面であった。
魏王曹操が洛陽で死んだのは、正月の|庚子《かのえね》の日と記録されている。
このとし(建安二十五年)の元旦は|戊 寅《つちのえとら》であったから、庚子は正月の第二十三日目に相当する。
二月のついたちは|丁未《ひのとひつじ》で、この日は日食があった。曹操が高陵に葬られたのは二月の|丁卯《ひのとう》、すなわち第二十一日目とされている。
曹操の三男の曹植は|臨★[#くさかんむり+巛+田(くさかんむりが上、巛が真中、田が下)]《りんし》というところにいた。彼は臨★[#くさかんむり+巛+田(くさかんむりが上、巛が真中、田が下)]侯に封じられているのだった。それは山東省がこれから半島の部分になろうというあたりで、曹家の拠点である|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》からはずいぶん遠い。
父曹操の死のしらせが伝わるのも、かなり時日を要した。だが、正式のしらせが届く二日前に、曹植はすでにそれを知っていた。
駅伝の早馬による至急報よりも、さらに速いしらせがあるものだ。
「のろし」である。
天下の大半を手中におさめた曹操は、すでに六十代の半ばをすぎた。その死は、予想できたものである。
「わしの死以外のしらせにのろしを用いるな」
という命令を出したのは、ほかならぬ曹操その人であった。彼の死の一年まえのことだから、自分でもやはり予想していたのである。のろしがあがれば、
──魏王殿下の死。
と、すぐにわかるのだ。ほかのことで、のろしはあがらないのだから。しかし、それを知っているのは、皇族と首脳部のそれもごく一部の人たちだけである。
曹植のところへ、それを急報してくれたのは、|嫂《あによめ》の|甄《しん》氏が信任していた者であった。
──殿下死す。
ただそれだけのしらせであるが、しらせてくれたということに、大きな意味があった。父の死を知って、曹植は悲しかった。だが、嫂が兄の目を盗み、危険をおかしてまで、それを知らせてくれたことに、彼は狂喜していたのである。
三年まえの十月、兄の丕が王太子に立てられるまで、彼は後継者問題で兄の競争者であった。それは彼自身よりは、彼の取巻き連中が熱中した争いである。けっきょく、彼は敗れ去ったことになる。
敗者が無事に生きのびることができるだろうか?
これまで曹植が安全であったのは、父が生きていたからだった。父の|庇護《ひご》の下で、彼は臨★[#くさかんむり+巛+田(くさかんむりが上、巛が真中、田が下)]という片田舎で、どうにか命を保ってきたといえよう。だから、父の死は、もはやそのような庇護がなくなったことを意味する。これからは自分の才覚で生きなければならない。
曹植もそれを考えてきた。──父が死んだときは、こうしようという計画はあった。だが、それも父の|訃報《ふほう》をはやく知らねばならない。
「ありがとう、|洛《らく》さん……」
曹植は嫂をその名で呼んだ。礼教のやかましい時代、目上の者を名で呼んではならないのである。誰もいないときのひとりごとだけは、禁断のことばもゆるされる。
──なんとかしなさいね。……
ろうたけた洛女が、|愁《うれ》いを含んだ表情で、|顫《ふる》える声でそう言ってくれる情景を、詩人曹植はいつのまにか胸にえがいていた。
どうすればよいのか?
兄の曹丕は、いまはもうひきはなしてしまって、弟の曹植を危険な競争相手であるなどとは思っていないかもしれない。かりに兄が曹植を問題にしないでも、兄の周囲の人たちが、才能のある「王弟」を危険視するであろう。王太子の地位を争ったときも、双方の側近のはげしい争いであったのだ。
──|監国謁者《かんこくえつじや》。
という官職の人間が、曹植のそばにいる。これは、★[#業+おおざと(邦の右側)]から派遣されて、曹植を監視するのが役目である。日本でいう、「お目付役」に相当するであろう。
このお目付役は、魏王の死後に、曹植の行動に異常はないかと、目を光らせるにちがいない。『監国謁者』の手柄とは、|謀反《むほん》を未然に発見することにある。自分の出世のためには、謀反のくわだてがあるほうがよいのである。いや、有能な監国謁者なら、そのような謀反がなくても、それをでっちあげてしまうであろう。
「よし、そうだ。……」
洛女から極秘の急使を送られ、父の死を知ったあと、曹植は悩みに悩んだが、ついに採るべき行動をみつけた。
臨★[#くさかんむり+巛+田(くさかんむりが上、巛が真中、田が下)]に来ている監国謁者は、姓は|灌《かん》、名は|均《きん》といって、有能な人物である。有能というのは、監視される曹植にとっては、危険きわまりない存在ということなのだ。
曹操死すというしらせに接したなら、監国謁者の灌均は、あらゆる手段を講じて、
──大逆事件。
をでっちあげようとするにちがいない。事件が大きければ大きいほど、それだけ彼の功績は大きくなるのである。
曹植はその裏をかこうとした。
灌均はまだ曹操の死を知らない。曹植の計算では、おそらく一日半か二日の余裕があるはずなのだ。そのあいだに、つまらぬことで、灌均にちょっとした点数を稼がせてやるのである。
「酒だ。酒に酔っ払って、魏王直属の官吏、すなわち監国謁者の灌均にからむ。そして灌均を侮辱する。……彼はそれを★[#業+おおざと(邦の右側)]に報告するだろう。おれが暴れると、監禁するにちがいない。……」
曹植はひとりごちた。監禁されたなら、こっちのものである。そんな状態では、謀反などおこすことはできない。
小さな罪を進んでかぶり、それによって、大きな罪をのがれようという作戦であった。
酒なら、曹植はもともと大好きである。自分の酒量も心得ている。彼は酒を飲んで、酔っ払うことにした。ぐでんぐでんに酔ったように振舞うが、じつはその一歩手前でとどまって、演技をしようというのである。
「おい、おまえなんか、もう帰れ。そんな助平っ面なんぞ、もう見たくもねぇや。ういーっ、とっとと★[#業+おおざと(邦の右側)]に帰っちまえよ!」
曹植は片手に酒壺の首をつかみ、からだをあちこちに泳がせながら、灌均にからんだ。しかも、彼はそれをおおぜいの人のまえでしたのである。そのだらしなさを、できるだけ多くの人に見せるためであった。まかりまちがっても謀反などできるような玉ではないことを、人びとに示しておく必要があった。
「私の顔を見たくないとおっしゃるが、私はなにも好きこのんで、こんな片田舎に来たのではありませんぞ。おそれ多くも魏王殿下の御命令をかしこみ、かくはこの地に参ったのでございます。それを帰れとはなにごとでありますか! 王命を受けた使者であるこの私を、そんなに侮辱なさるのですか!」
灌均は憤然と色をなした。
(おれがどんなにおそろしい権限をもっているか、この小僧は知らねぇのだな。ま、飲酒に節度なく、王の使者をはずかしめたという罪で、ちょっとたたきこんでおこう)
そう考えた灌均は、ただちに曹植を拘留、監禁してしまった。──とるに足りない、小さな罪にすぎない。
これは曹植の作戦勝ちというべきであろう。
出世をねらう陰険なお目付役の灌均は、曹操の死を知れば、父王の死に乗じて跡目をうかがった、という罪を曹植になすりつけようとしたであろう。──だが、父王の死を知ったとき、曹植は監禁されていたのである。なにもできない状態であった。これはみんなが知っていることなのだ。
魏王曹操の死が★[#業+おおざと(邦の右側)]に伝わったとき、さすがに首脳部は動揺した。
無理はない。曹操の力はそれほど強かったのである。なにもかも曹操の決断に頼っていた。彼の人間的魅力が、おおぜいの部下をあつめたのだ。その彼が世を去ったとなれば、影響ははかりしれないほど大きい。
──喪を秘しましょう。
という意見もあった。軍の動揺が案じられたし、人心の動向も不安である。一時の衝撃を避け、それをなしくずしにしようという考えであった。
──いずれはわかることです。やはり喪を公表すべきでしょう。
と、主張する人もいた。
「喪を発す」
曹丕はそう決断した。彼は洛陽で父と別れたあと、このことがあるのを予期していた。父が自分に期待しているのが、冷静な措置であることを知っていた。その期待にこたえねばならない。
「青州軍のなかに、軍をはなれる者が出てまいりました。魏王殿下のために働いたが、殿下いまさぬからは、軍にとどまることはないと申して」
という報告があった。「いかがいたしましょうか?」という問いに、曹丕はつめたく、
「うちすてておけ」
と言い放った。
彼は急使の口から、父の臨終のもようをきいていた。その席には、五斗米道の信者が尊敬してやまない、教母の少容もいたという。遺言はむしろ、少容にむかってなされたかのようだったともいう。──それをきいて、曹丕は、
(さすがおやじどの)
と、感じ入った。曹家の軍団の九割までが五斗米道の信者である。少容をしっかりと味方につけておけば、まずまちがいはないのである。青州兵三十万が、曹操の傘下にはいったのは、初平三年(一九一)だから、もう二十八年になる。そのときの将兵はすでに老いている。いま軍を勝手にはなれているのは、おそらく老い疲れた者たちであろう。かねて退役したがっていたが機会がなく、|領袖《りようしゆう》の死を好機とばかり、立ち去ったのにちがいない。
「去る者のために、軍鼓を打ってやれ。光栄の引退であるから」
と、曹丕はつけ加えた。
曹丕が沈着であったので、軍民の動揺は最小限度にくいとめることができた。
訃報の到着した翌日、曹丕は王后|卞《べん》氏の命令ということで、魏王の位に|即《つ》いた。そして、ただちに大赦令を出した。大赦令を出すというのは、王を越えて天子に近い権限をもつということを示威したものである。
許都にあった献帝は、二十五年もつづいた元号の「建安」を、「延康」と改めた。臣下である魏王の死で改元するのは、天子も魏王を、なみの家臣とみなさないという意思を公けにしたのである。
曹丕が魏王となって、最初に処理したのは、臨★[#くさかんむり+巛+田(くさかんむりが上、巛が真中、田が下)]侯である弟の植の問題であった。
──酒に酔いて節度なく、王命を受けた監国謁者をはずかしめた。
と報告されている。その日付は、臨★[#くさかんむり+巛+田(くさかんむりが上、巛が真中、田が下)]に正式の急使の到着する二日前であった。
(あいつめ、急に酔っ払ったのかな? あいつの酒は、からみ酒ではなかったはずだが。……)
曹丕は首をかしげた。
重臣会議がひらかれた。新王の弟たちの処分について、論議がかわされたのだ。
二人の弟が問題をおこしている。曹植のほかに、曹彰が洛陽で軽率なことを口にした。父曹操が死んだ直後、この次男坊の彰は、|諌議《かんぎ》大夫の|賈逵《かき》にむかって、
──|璽綬《じじゆ》はどこにあるのか?
と訊いたのである。魏王の身分を証明する印章とそれを|佩《お》びる綬(紐)の所在を、王太子でない曹彰が訊くのは、考えようによればあやしむべき行為である。
父親が歎いたように、曹彰は無神経なのだ。彼の発言は、まるで自分がそれを欲しがっているようにきこえる。彼にしてみれば、曹家で最も貴重なものは璽綬であるから、「ちゃんと保管しているだろうな?」と心配してきいただけである。
賈逵はその場で、
──魏はすでに後継者をきめております。先王の璽綬のことなど、あなたがきくべきものではありません。
と、たしなめた。
曹彰の性格は、重臣たちもよく知っている。後継者の候補にさえあがらなかった曹彰であり、軽い気持で訊いたのであろう、ということになった。処分なしである。そのかわり、
──早々に国もとへ帰るべし。
と、新王から命令が出された。
曹植の場合は、監国謁者から、正式の告発があり、本人はすでに監禁されている。
「いかがいたしましょうか?」
重臣はやはり、新王の意見をまず訊いた。ほかの問題であれば、重臣たちがさまざまな意見を出し、王はそのなかから自分が最もよいと思う意見を採択した。だが、これは王の家庭の問題である。臣下として、あれこれと口をはさむのは|憚《はばか》られた。
「そうじゃな。……」曹丕はしばらく考えてから言った。──「国替えだな」
こうして、曹植は|安郷《あんごう》侯に左遷された。安郷は現在の河北省石家荘市のだいぶ東にある。臨★[#くさかんむり+巛+田(くさかんむりが上、巛が真中、田が下)]よりは土地がやせている。とはいえ、そんなにきびしい処分ではない。
「そのていどでよろしゅうございますか?」と、きびしいことで知られた賈逵は不満そうに言った。──「新しきものを、人びとはあなどります。新しく即位された王は、もっと|毅然《きぜん》かつ厳然たる措置をおとりになるべきではございませぬか?」
「さようでございます。あまりにもおだやかにすぎる処分かと存じます」
賈逵に賛成する重臣もあらわれた。
「母が悲しむのだ」
と、曹丕は言った。
これには、重臣たちも言葉を返すことができなかった。
丕、彰、植の三人は、卞后の生んだ同腹の兄弟なのだ。
「彰や植などよりも、もっと重大なことを処理しなければならぬ。彼らのことはこれでよい。重ねて申すな」
曹丕はきっぱりと言った。
より重大なこととは、漢王朝を乗っ取ることであった。曹丕のこの言葉を、重臣たちはすぐに察した。
「わしはそのために、魏王の位をついだのであるぞ」
|直截《ちよくせつ》な表現であり、|陰翳《いんえい》のない声であった。
漢の天子は、一片の土地も、一人の軍兵も持っていない。九歳で皇位に即いて三十年、献帝はそのあいだ、一日として自分を「天下のあるじ」とかんじたことはない。
董卓に擁立され、長安では|李★[#イ+寉]《りかく》や|郭★[#さんずい+巳]《かくし》のあいだの争奪の対象となり、東帰のあとは曹操の実権の下で、名のみの皇帝であった。
「|朕《ちん》は天子などではない。姓は劉、名は協という、一人のただの人間にすぎないのだ。それなのに、誰も朕をただの人間にしてくれない。朕の唯一の願いは、ただの劉協になりたいことだけだ。……」
献帝はときどきそんなことを言った。
「なにをそんな気の弱いことを申されますか。陛下は一天万乗の天子でございまするに」
そんなふうに献帝を励ましたのが、皮肉なことに皇后の曹氏──曹操の娘の節女だったのである。
「いや、朕は自分の運命をよく知っている。漢はもうすでにほろびたのだ。先帝の末年、黄巾軍が起こったとき、四百年の漢王朝はほろび去った。そのあと三十余年、漢はそのなきがらを天下にさらしていたのにすぎぬ。さらしものになっている漢の遺骸を、一日も早く墓のなかにおさめるのが、朕が祖宗にたいする最大の孝養なのだ。……」
さきの皇后伏氏の一族や、漢の譜代の家臣たちの力をかりて、実権を回復しようとたくらんだことはあった。──だが、それは失敗に帰した。かなわぬ夢であったのだ。いったん死んだものは、よみがえることはできないのである。
皇后曹氏にたいしては、
「朕はそなたの父のとりこにすぎないのだ。そなたの父が存命のあいだ、朕はとらわれの身からぬけ出すことはできぬ」
というのが献帝の口癖であった。
その曹操が死んだ。
「やっとわしは劉協になれる。……朕、いや朕という言葉は使うまい。……わしはただの劉協となり、漢のむくろを埋葬することができそうだ」
献帝はすでに|禅譲《ぜんじよう》を決意した。
彼が天子の位を、魏の曹丕に譲ることにしたのは、その年の十月のことであった。
「なんだ、ただこれだけのことか」
と、曹丕は言った。
献帝のほうから禅譲を言い出した。曹丕はすこしも働きかける必要はなかった。彼の側近の人たちは、
──漢帝は、魏の威光をおそれたのです。
と言っていたが、はたしてそうであろうか? しぶしぶ譲位しようとするのでなく、喜んで、進んで、天下を譲ったのだ。──いや、献帝はもはや譲るべき天下などもってはいなかった。
あるべきすがたにした。
どうやら、ただそれだけのことであるらしい。それだけのことに、非情の人、超世の英傑といわれた父曹操も、死ぬまで踏み切れなかった。──それが曹丕にはおかしくもあり、また気味悪くもあった。
漢から天下を奪ったことに、曹丕はなんのおそれも抱いていなかった。おそるべきは、父に|簒奪《さんだつ》の実行を思いとどまらせた、その気味の悪いなにものかであった。
献帝の禅譲を、曹丕は三たび辞退して、四たびめに受けた。これはただの形式にすぎない。
許の南の繁陽というところに、壇を設けて、曹丕が皇帝の位に即く大典をとりおこなったのは、十月の|辛未《かのとひつじ》の日であった。
退位して念願のただの劉協となった献帝は、十一月に山陽公に奉じられた。山陽は河内郡にある県だった。劉協はそこで漢の|正朔《せいさく》を用い、天子の礼楽を用いることを許された。また魏の皇帝に奏文を出すとき、ふつうなら、「臣某」と署名しなければならないが、山陽公は臣の字を省いてもよいとされた。
改元して「黄初」となった。
黄は土の色である。漢は火の徳をもって天下をたもったが、そのつぎは土の徳をもつ者が天下のあるじとなる。魏は土の徳をもつものとされ、「黄」をたっとび、それを元号に用いたのだ。
十二月、曹丕は洛陽へ行き、洛陽を首都とすることにした。
洛陽では、まだ復興の槌音が高かった。陶固は水を得た魚のように、洛陽じゅうをあちこち泳ぎまわっていた。巨大な建始宮は、まだ外枠しか組みあげられていない。
おおぜいの人が、建始宮の工事現場で働いていた。曹丕はこの工事に軍兵を動員したのである。彼は父の死後、軍兵で軍営をはなれる者が出はじめたとき、しばらくうちすてておいてから不意に、
──老兵は退役させよ。
という命令を出した。軍の若返りをはかるとともに、父の死による軍の動揺に歯どめをかけたのだった。離脱者のなかには、劉備や孫権陣営の間諜や、それに誘われた者がいて、
──曹操が死ねば、魏はもうおしまいだ。こんなところにいても希望はない。退散するべし!
という|煽動《せんどう》がおこなわれていたのである。
──兵が減るので、曹丕はあわてふためいておるぞ。
という流言もあった。
老人に退役命令を出したのは、曹丕が兵数減少をすこしも意に介していないことを、事実によって示したのだ。この命令によって、
──退役はいやでございます。もっと奉公させてください。
と、老兵の嘆願があいついだ。軍は動揺したが、それは緊張へ揺れもどし、志気はかえって高揚した。
若い軍兵のなかにまじって、年老いた専門の職人も働いていた。一人の白髪の老人が鉢巻をとって、
「ああ、四百年の漢もほろびたか。……」
と言った。
「なんでぇ、おめぇがそんなこと言ったって、天下のこと、なんのかかわりもねぇや」
そばにいた人たちは|嗤《わら》った。四百年の漢の滅亡が、あまりにも大きなことであり、建始宮建設に働く老人が、あまりにも小さな存在にみえた。人びとはその不釣合いに失笑したのである。
「かかわり? おお……おれが漢を……」
言いかけて、老人は口を|噤《つぐ》んだ。どうせ誰も信じてくれないであろう。
「さぁ、油を売るのはそれくらいにして、働こうぜ、おい徐州のじいさんよ」
と、工事監督が声をかけた。
老人には徐州|訛《なまり》があった。
曹操は父が殺されたことを|怨《うら》み、徐州で無差別|殺戮《さつりく》をくりひろげたことがある。初平四年(一九三)から翌年にかけてのことであった。すでに三十年に近い。老人はそのとき一家をみな殺しにされたのだ。
濯竜祠で神木を伐っていたころ、曹操の視察があるときいた老人は、ささやかな復讐をしようとした。曹操をおびやかすことだった。──それも心理的に。
老人は羊の腸で小さな袋をつくり、そのなかに動物の血をいれ、朱を加えてあざやかな印にした。それをあらかじめ巨木の根もとのあたりに埋めこんだのである。曹操がそばへ来たときに、そこへ斧を打ちこもうとたくらんだ。──
事あらわれて、死刑に処せられるのは覚悟のうえだった。
曹操はそれをたしかに見た。老人の見たところ、曹操の表情は変わった。恐怖の色がみえたのである。だが、曹操は調べもせずに、その場から立ち去った。
それから数日たって、曹操が死んだのである。
(おれが殺したのだ。……)
老人はそう信じている。
曹操が死んだために、魏は一挙に漢帝に禅譲を迫った。──世間ではそうみている。曹操の死と漢の滅亡がつながっているのであれば、曹操の死を招いた老人のささやかな復讐が、漢をほろぼしたことにならないだろうか? 老人は深呼吸をした。貧しい孤独の老人が、天下に爪のあとをのこしたのだ。──
作者|曰《いわ》く。──
漢の高祖劉邦が、|氾水《はんすい》のほとりで皇帝の位に即いたのは、紀元前二〇二年のことで、後漢の献帝が魏に禅譲した建安二十五年は紀元二二〇年だった。漢王朝は前後四百二十数年続いたことになるが、そのあいだ、|王莽《おうもう》の簒奪の時期が二十年ほどはさまっているので、正味四百年である。
漢の最後の年には、三月に曹操の故郷である|★[#言+焦]《しよう》に、黄竜があらわれ、四月には|饒安《じようあん》県に白雉が現出し、八月には|石邑《せきゆう》県に|鳳凰《ほうおう》が集まったと記録されている。すべて、大変動の前兆とみなされたのである。
曹丕は魏の文帝であるが、即位して七年、四十歳で死んだ。曹丕より六歳年長の皇帝は、退位後も山陽公として十四年、すなわち曹丕の死後七年も生き、五十四歳で死んだ。魏がほろんだあとも、山陽公の家系はつづき、晋王朝時代もおなじ処遇をうけた。
[#改ページ]
|白帝城《はくていじよう》は|高《たか》くして
|濁鹿《だくろく》城。──
小さな城である。この乱世に忘れ去られたように美しい。乱世にあっては、忘れ去られた土地だけが、|辛《かろ》うじて美しさをのこしている。|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》にしても|許《きよ》にしても、あるいは洛陽にしても、その城壁は灰色がかっているが、この山陽濁鹿城のそれは、柿色に近いあざやかな艶をもっていた。
「どうしてこんなに美しい城に、濁などという名をつけたのでしょうか?」
陳潜はこのまちにはいったとき、同行の教母少容にそう訊いた。少容は笑いながら、
「きれいな土地は、とかくひかえめなものですよ、名前をつけるのにも」
と答えた。
少容は弟子の陳潜と、この濁鹿城にしばらく滞在することになった。漢の廃帝献帝──劉協が、許からこの城に移されている。劉協は山陽公として、新しい生活をここで始めることになったのだ。
「山陽公の相談相手になっていただこう。なにも不自由させぬつもりだが……本人が不自由をかんじるとすれば、それは心の問題であろう。われらにはどうしようもない。だから、教母にお願いするのだ」
新しい皇帝──|曹丕《そうひ》は少容にそう言った。
「不自由などおかんじではありますまいが」
少容はそう言いながらも、にこやかにうなずき、陳潜を連れて濁鹿城へむかった。城のたたずまいを見て、彼女はほっとしたようである。
「私は自由です。なんの不満もありません。ご心配なく」
山陽公劉協は笑いながら言った。とはいえ、その笑いはさびしげであった。不満がないというのはあるていど正直な感想かもしれない。だが、さびしさも別に存在するのだ。彼は天子としての礼楽を用いることを許され、第一人称も天子の「朕」を用いてもよいとされていた。彼はできるだけ「私」を使おうとするが、いつのまにか「朕」と口にしてしまうのである。それに気づいたときなど、さびしさはひとしおであった。
「お慰めというよりは、雑談のお相手をつとめに参ったのでございますよ」
と、少容は言った。
「慰めなら、安郷へ行くがよい」
と、山陽公は言った。
「安郷でございますか」
そこは曹植が移された土地である。この廃帝は、自分よりも曹植のほうが深い失意の淵にあるのだ、と言いたいのであろう。
「そうだ。|甄《しん》氏が殺されたのは、世間では後宮の女たちの争いの結果と噂している。……そんなものではないわな」
「さようでございますか? わたくし、なにもわかりませぬが」
「教母、とぼけるでないぞ」
いまから十七年まえ、曹操は|袁《えん》一族のたてこもる★[#業+おおざと(邦の右側)]を陥したが、そのとき十九歳の曹丕は、絶世の美女と|謳《うた》われた|袁煕《えんき》の妻の洛女を奪って自分のものとした。これが甄氏である。その甄氏が死を賜わったという話が、この浮世ばなれした濁鹿城にも伝えられていたのである。
世間の噂とはこうである。──
曹丕──いや、もう魏の文帝と呼ぶべきであろう。文帝の後宮には、甄氏のほかに、郭氏、李氏、陰氏などの美女がいた。甄氏は当時としてはもう女盛りをすぎた年であったが、文帝十九歳のときからの長い関係があり、子も生んでいるので、後宮の女たちのなかで最も強い立場にいるとされていた。
ところが、文帝が最も|寵愛《ちようあい》していたのは、若い郭氏であった。郭氏は早くから孤児となっていたが、彼女の亡父は、彼女が将来かならず尊貴な身分になると信じ、「女王」という名をつけたほどだった。
甄氏は正室としての誇りがあったが、郭氏は天子の寵愛を一身にあつめているという自信があった。
文帝は新しく皇帝となったのである。新しい王朝をはじめるのだ。なにからなにまで新しく出直しである。王太子時代の正室が、かならずしも皇后になるとはかぎらない。皇后も新しく立てるのだ。
少女時代に孤児として苦労を重ねていた郭女王は、しあわせはみずからの力でかち取るべきものだと考えていた。若いので気力もじゅうぶんであった。彼女は自分が皇后に立てられるために、最強の敵である甄氏を打倒しようとした。
──甄氏は陛下のことで、怨みごとを申しております。……
郭氏は文帝にそうざん言したという。
いわば|糟糠《そうこう》の妻であり、夫婦喧嘩の二度や三度ないはずはない。文帝の父の曹操も、正妻の丁夫人とはでにやりあい、とうとう離婚までしてしまった。調べてみれば、甄氏が怨みごとを口にした証拠は、かならず出てくるであろう。
──怨みごとがほんとうの理由ではない。郭氏を皇后にするためには、これまでの正室である甄氏に消えてもらわねばならない。それで、怨みごとにこじつけたのだ。……
甄夫人が死を賜わったことについて、世間ではそんなことをひそひそと|囁《ささや》き合った。
だが、廃帝山陽公や少容のように、宮廷の裏面に通じている少数の人たちは、ことの真相を悟っていた。
文帝は我が妻甄氏の心が、自分にないことを、決定的にしらされたのである。
(弟がおれの妻に|惚《ほ》れている。……)
文帝は早くからそのことに気づいていた。自分の妻を見る弟の目に、ただならぬ光があった。文帝はそれを知って、ときどき弟をひやかすようなことをした。曹氏陣営が分裂していると敵に思わせるために、弟の植と自分の妻甄氏の濡れ場を、わざとつくってみせたこともある。
弟の片想い。──文帝はそうとばかり思っていた。だが、一方的な恋慕ではなく、妻のほうも弟の想いに応じていることがわかったのである。最終的に判明したのは、父曹操の死を、弟が正式の通知より早く知ったらしいことを、秘密裡に調査した結果だった。──甄氏がしらせたのだ。
──おまえの心は、いつから植に傾いておったのだ?
と、文帝は訊いた。
──はじめからでございました。
と、甄氏は答えた。彼女がはじめて曹植に会ったとき、曹植は十三歳にすぎなかった。そんなことはありえない。文帝はそう思ったが、甄氏ははっきりと答えた。覚悟のうえの返事だったのである。
──まことか? まことであれば、そちに毒を飲んでもらわねばならぬ。死んでも祖宗にまみえることができぬようにして葬る。……それでもまことか?
と、文帝は重ねて訊いた。
──うそいつわりはございません。
甄氏は臆せずに答えた。
真相は少数の人の胸に秘められ、別の噂が世間に流れた。世間の噂は、ありきたりの筋であった。
甄氏は覚悟のうえだったが、彼女の死で最もはげしい衝撃をうけたのは、安郷侯の曹植であろう。だから、廃帝劉協が慰めるのなら安郷へ行けと言ったのだ。
「それにしても、天子をやめると、じつに気らくなものであるな」
山陽公劉協は、両手を天井にむけて、思いきり伸ばした。大あくびである。あくびをしたついでに、彼は自分の|拳《こぶし》で自分の肩をたたいた。いかにも屈託なげであった。
「それはよろしゅうございましたな」
と、少容はおだやかに答えた。
「教母は人望があるからよいが、お弟子のほうは、ときに密偵と疑われる」
と、劉協は言った。
「私でございますか?……密偵?」
陳潜は首をかしげた。心外そうに言ったが、ときどきそんなふうに見られていることは、彼自身も知っていた。
──天下万民のために。
と、教母が認めたときは、あきらかに密偵的な役目をつとめたこともある。だが、このたびの山陽濁鹿城訪問は、廃帝やその周辺をさぐるという目的はない。
「さよう、密偵じゃ。陳潜には警戒せよと、側近の者が今朝も耳打ちしおった。……そこで朕……いや、私は答えたものだ、なにをさぐられても、やましいところはない、なにを怖れるのか、と」
「なにもさぐりはいたしませぬ」
「さもあろう。さぐりをいれるほど疑っているのなら、あのひとはいっそ私を殺してしまっていたろう」
廃帝はそう言って、自嘲の笑いをうかべた。
山陽という土地は、新しいみやこ洛陽と、曹氏軍閥の大軍事基地である★[#業+おおざと(邦の右側)]との、ちょうど中間にあった。両巨人が|猿臂《えんび》をのばせば届くところにいるようなものだ。しかも山陽の濁鹿城はいたってきゃしゃなかんじの城である。誰がみても、こんなところで反旗などひるがえせない。
「あのひとは、陛下を疑ってはおりませぬ」
少容は新しい魏の天子を「あのひと」と呼び、古い漢のもと天子を「陛下」と呼んでそう言った。
「疑われてはかなわぬ。ゆるされているとはいえ、陛下ということば、もう二度と用いてくれるな」
と、劉協は肩をすくめて言った。
「はい、はい」少容は相変わらずにこやかに答えた。──「ところで、このあたりの土地はいかがでございますか?」
「安郷よりはましであろうという」
「それはようございました」
曹植が移された安郷は|痩《や》せた土地だといわれている。それにくらべると、山陽は|肥沃《ひよく》といえるらしい。それは実質税収が豊かであることを意味する。
「数十の側近を養うにはじゅうぶんじゃが、千の兵は養えぬわ。は、は、は……」劉協はまた自嘲の笑い声をあげた。──「ま、これでも天子と称してよいそうじゃ。ところで、天子がまた一人ふえた。私もいれると三人天子ではないか」
蜀で劉備が皇帝と称したのは、魏の文帝が即位した翌年のことであった。曹丕が魏王朝を建てたことは、
──漢の天子を殺害して……
というふうに蜀に伝わったのである。
劉備は自分を漢の一族と考えている。彼は死んだとされた献帝の喪に服し、
──孝愍皇帝
と|諡《おくりな》した。そして、自分は部下に擁立されたという形で、皇帝の位に即いたのである。この年の四月|丙午《ひのえうま》の日のことだった。
即位の大典は成都の西北の武担山の南麓でおこなわれた。
武担山は妙ないわれのある山だった。伝説時代の蜀王の妻は武都(甘粛省)の人であった。しかも以前は男だったのである。男が女に変わり、そのみめうるわしさはこの世のものと思えなかった。蜀王はその美貌に魅せられ、成都に伴って帰り妻としたのだ。ところが、蜀王の妻は成都の土地や水がからだにあわず、故郷へ帰りたいと願ったが、王はゆるさなかった。片時も身辺からはなしたくなかったのである。だが、そのために彼女は病死してしまった。蜀王は歎き悲しみ、おおぜいの兵卒を動員し、彼女の故郷の武都から、土を|担《かつ》がせて墓をつくった。武都から担いだ土でできた山というので、武担山と名づけられたといわれる。
武担の南で即位の大典をあげると同時に、天下に大赦をおこない、「章武」と改元した。新王朝創建ではなく、漢王朝の継続であるというのがたてまえである。劉備は献帝のあとを継いで即位したことになる。だが、後世の史家は、後漢と区別して、この地方王朝を「蜀漢」と呼んだ。
蜀漢の章武元年は、魏の黄初二年(二二一)にあたる。劉備は夫人の呉氏を立てて皇后とした。孫権の妹は、いったん劉備に嫁いだが、実家に帰ってしまったことはまえに述べた。皇后になった呉氏は、もとの蜀のあるじ劉璋の兄|劉瑁《りゆうまい》の妻であった婦人である。曹丕が袁煕の妻の甄氏をわが妻としたように、この時代、人妻や未亡人をめとる例がきわめて多いようだ。
劉備が|小沛《しようはい》でめとった甘氏は、|荊《けい》州で男子を生んだあと、まもなく死んでしまった。甘氏の生んだ子が|劉禅《りゆうぜん》、|字《あざな》は|公嗣《こうし》、劉備の即位と同時に皇太子に立てられた。ときに十五歳であったので、張飛の長女をめとって皇太子妃とした。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は|丞相《じようしよう》に任命され、|許靖《きよせい》が|司徒《しと》としてこれを補佐することになった。
地方政権ながら、蜀漢は朝廷として、一応、形式をととのえたのである。
このような情報は、魏のほうには、くわしく伝わっていた。ふつうの人もたいてい知っている。
「蜀の人たちは、私のために喪に服しているそうな。……」
山陽公は自分の|顎《あご》をひねりながら言った。
「こんなに元気でいらっしゃいますのに」
と、少容が言うと、山陽公は、
「いや、死んだも同然。……そうではないか、天子としては死んだ。……喪を発してもおかしくないと思うぞ」
と、真剣な表情で言った。
「ま、そのようなことを申されずに……」
と、少容はなだめた。
「それにしても、教母のところには、蜀についてのくわしい状況が伝わっておろう。……諸葛[#葛のヒは人]孔明が丞相になったとか、そのようなことではなく、蜀の人びとの心のうごきよ。……許都の漢の天子が死んだときいて、人びとはほんとうに暗い気持になったのか、それとも、あのような飾りものは、あってもなくてもおなじだと、意にも介しなかったのか? どうじゃな?」
劉協はすこし声をひそめて訊いた。あきらめたとはいえ、彼はやはりそれは知りたかった。三十年ものあいだ、彼は実力者の|傀儡《かいらい》にすぎなかった。自分にはなんの力もなかったが、漢帝国四百年の栄光は、どのあたりまで届いていたのだろうか?
「蜀の人たちの心は、暗く、うち沈んでいるそうでございます。五斗米道の者たちが、口から口へ伝えてきたところによりますと……火の消えたようなありさまということです」
と、少容は答えた。
少容は真実を語った。蜀は暗く、人びとの気が沈んでいるのは事実であった。だが、それはかならずしも、漢の献帝が死んだというしらせのためではない。
──漢の天子殺さる。
というしらせは、たしかにあったのだ。父曹操よりもさらに酷薄だといわれた曹丕のことだから、献帝を殺すなど、いかにもありうることだった。だから、蜀の幹部はその誤報を信じ切ってしまった。誤報のうえに、劉備の即位という、大きなことを重ねたのである。
あとで献帝の死は誤報であるとわかった。しかし、蜀ではいまさら、漢の天子が生きていたとは発表できなくなった。それを発表すれば、劉備の即位が不義のものとなる。曹丕によって廃された天子を奉戴することこそ、忠臣の道なのだ。
こうして蜀は秘密をもった。秘密をもつと、その周辺は暗くなる。秘密にかんすることを語るとき、声をひそめなければならない。なにが秘密にかかわるか、わからなくなって、人びとは言葉がすくなくなる。
そればかりではない。皇帝に即位した劉備が、まったく笑わない。献帝の死が伝えられる前からである。すなわち、漢の天子の死を|悼《いた》んで笑顔を失ったのではない。
関羽を失ったからである。
関羽は魏軍に囲まれたが、呉の孫権が魏について、関羽を攻めたのが敗因である。関羽が逃げたとき、魏軍は追わなかった。関羽を追い、関羽の首を|刎《は》ねたのは呉であった。
──うぬ、孫権め!
劉備は呉の孫権を憎んだ。
|★[#さんずい+豕(豕の左側の下から二番目に点)]《たく》のまちの近くの|亭《あずまや》で知り合って、もう三十八年になる。劉備は関羽と張飛と義兄弟の盟を結んだ。ふしぎに気が合った三人だった。はじめは天下に志を得るためには、一人よりも三人のほうがよかろうという、実利的な結びつきだったが、苦労をともにしているうちに、ほんとうの肉親よりも深く結ばれたのである。
劉備はこれまで、妻に死なれたり、両親を失ったり、なんども肉親の死に遭っている。だが、関羽を殺された悲しみにまさる悲しみを、彼は経験したことがない。このような、はらわたを引き裂かれるような悲しみは、またとあるだろうか?
(気の毒に。……)
諸葛[#葛のヒは人]孔明はそばで見ていても、ほとんど正視できないほどであった。
「孫権を撃つ!」
唇をかんで劉備は言った。あまりつよくかみしめたので、唇が破れて、血が顎に垂れたほどだった。
「ご胸中、お察し申し上げます」
諸葛[#葛のヒは人]孔明はそう言うほかなかった。
|総帥《そうすい》の劉備が、悲痛の極にいるのだから、蜀に明るさのあるはずがない。
──荊州を奪回して、関羽の|仇《かたき》を討とう。
皇帝となった劉備はそう言った。彼の本心は、順序が逆である。いや、もう荊州奪回など、どうでもよかった。ひたすら関羽の仇を討ちたいだけだった。
幹部会議の席で、孫権討伐に反対したのは趙雲であった。
「私は戦うことに反対はいたしません。戦うべきであります。国賊は討つべし! では、誰が国賊でありましょうか? それは漢の天下を奪った曹丕であることはあきらかであります。孫権は漢の天子を殺しはしませんし、皇帝と称してもいません。いや、王とさえ称しておりません。さきに曹丕を討つべきであります。曹丕さえ打倒すれば、孫権は手を触れずして|降《くだ》るでしょう。さらに曹丕が漢の天子におこなった大逆は、天下の義士の血を逆流させております。われらが曹丕討伐にむかったなら、関東の義士は必ず、馬に|鞭《むち》うって参加するでありましょう。……もし魏を討たずに孫権を討つなら、わが軍が行けども、参加する者はいないでしょう」
この趙雲の言葉は正論というべきであった。だが、劉備は聞く耳をもたなかった。当陽長坂の戦いで、趙雲は劉備の息子を救い出したことがある。その功績があったので、孫権討伐反対を唱えても、無視されるだけですんだ。さしたる功績もなく反対した者は、いきなり投獄されたものだった。たとえば広漢の処士の|秦★[#うかんむり+必]《しんふく》は、
──天の時、かならずしも我に利あらず。
と言っただけで幽閉の憂き目に|遭《あ》った。
劉備は感情的になっていた。反対は許されないのである。
(なにをか言わんや。……)
諸葛[#葛のヒは人]孔明は天を仰いだ。秦★[#うかんむり+必]が指摘したように、時機は蜀漢にとってよくなかった。関羽という、偉大な将軍を失ったばかりである。それに、関羽の仇討ちとなれば、魏にたいして政治的な働きかけはできない。なぜなら、関羽を攻めほろぼしたことについては、孫権のうしろに魏がいたのはあまりにもはっきりしている。
討たれる孫権にしてみれば、魏と結ぶ工作ができたのである。
(法正がいたなら。……)
孔明は去年死んだ法正のことを、いまさらのように惜しいと思った。蜀の乗っ取りを献策し、じっさいに工作して、劉備をこの地に迎えた張本人は法正である。年の功もあって、法正は他人を説得する、ふしぎな才能をもっていた。孔明はひそかに法正の説得技能を習得しようとした。すこしは上達したが、まだ法正には及ばない。
説得名人の法正なら、あるいはこの場の劉備を説得して、孫権討伐を中止させることができたかもしれない。余人では不可能であろう。孔明をも含めて。
復讐の念というのは、暗く、陰湿なものである。ただでさえ、蜀はうっとうしい土地なのに、劉備陣営にとって、かぶさってくるように、もうひとつ暗い出来事がおこったのである。
「張飛将軍の営都督から奏文が参りました」
取次ぎの士官が、庭でそう呼んだのをきいたとたん、劉備は手にした碗をとりおとした。──
「ああ、張飛も死んだか。……」
さしもの劉備も顔面蒼白であった。
車騎将軍兼巴西太守の張飛は、|★[#門+良]中《ろうちゆう》というところにいた。巴西郡の郡都である★[#門+良]中は、成都の東北にあり、嘉★[#門+良]江に臨む城市であった。
張飛にとって義兄にあたる関羽の死は、彼を悲しみに沈ませたが、それも一時的であった。激情家の張飛は、恩讐ともに長くつづかないのである。劉備はいつまでも、怨みを忘れないでいたが、張飛はそれをもう忘れてしまっていた。むしろ機嫌上乗である。──彼の長女が、皇太子妃にえらばれたのだから。
「つまり将来の皇后である」
と、誰彼となく、つかまえてはそんな解説をした。
(わかっておるわ)
つかまったほうは、あまり気分がよろしくない。他人の自慢話は、ひとを不愉快にさせることのほうが多い。
「さぁ、頑張ろうぜ、この漢の王室が、蜀から呉を討ち、魏をたおして、天下を統一できるようにな。……うん、頑張るべし!」
張飛は手にした鞭を、ひゅーっ、と鳴らした。彼はいつも革の鞭をたずさえている。気がむけば、それを振りまわし、ひゅーっ、という音をたのしんだ。空を切る音だけではない。空を切った音が、なにかに当たって、ぴしっ、と鋭い音に変わるのを、もっとよろこんだのである。
樹木の幹を打つ。建物の柱を打ち、壁を打つ。地面を叩きつける。──だが、もっと手ごたえのあるのは、生きている人間のからだを鞭うつことだ。うおっ、とか、ぎゃっ、とか、声をあげる。自分の力をうけた人間がいるという実感は、単純な張飛をよろこばせた。
悲鳴をきくことが、張飛にはたのしくてたまらない。
やがて、彼の|嗜虐《しぎやく》趣味は進んだ。悲鳴の連続を好んだ。ひい、ひい、ひい、とつづく|呻《うめ》きである。──いや、悲鳴の連続のうちはまだよかった。彼はついに、その連続した悲鳴がとだえたときの手ごたえに魅せられた。
「うぉーっ!」
と長い余韻をのこして、悲鳴は消えてしまうのである。──その人間が死んでしまうのだ。悲鳴が消えた瞬間、張飛は言いようのない充実感を味わう。それは法悦といってよかった。
毎日のように犠牲者が出る。
そのことは、劉備の耳にも達した。張飛が成都に来たとき、劉備は、
──翼徳(張飛のこと)、おまえ、殺しすぎではないか。ちと慎んではどうか。
と、|諌《いさ》めた。
──いえ、精兵をきたえるには、それぐらいやらねばなりませんよ。いざというときに役に立つ兵士を訓練しております。訓練はすべてまかされているはずです。私には私なりの方法があるのです。そのかわり、いざ合戦のとき、たのしみにごらんになっていただきたい。
張飛はそう答えた。
──訓練はよい。だが、一人殺せば、それだけ怨みを買うものだ。よくよく考えねばならぬぞ。
──わかっております。なぁに、係累のある者には手を出しません。私が叩きのめすのは、身寄りのないやつですよ。……は、は、は、私にもそれだけの考えがありますよ。ご安心ください。
張飛は得意気に言った。
じつはそれがいけなかったのである。激情にまかせ、鞭をふるう。──見境もなく鞭がとぶのであれば、兵卒たちはまだ辛抱したかもしれない。張飛が|え《ヽ》も《ヽ》の《ヽ》をえらんでいることは、兵卒たちにもわかってきた。
(なんという心の汚れた将軍であることか)
部下たちは、張飛をそんなふうにみた。そこには畏敬の念などは、そのかけらもなかった。あるのは憎悪だけだった。
張飛の嗜虐性は、しだいに高度なものになった。鞭で兵卒を打ち殺すのは、初歩的なものである。高度な段階になると、精神的な残虐を好むようになるのだ。官位の高い人物を精神的にいじめるのである。
たとえば、高級将校を部下の前で侮辱するようなことである。鞭を用いなくても、その高級将校の顔に、耐えがたい屈辱をしのぶ、苦悩の色がうかぶ。それは悲鳴をきくよりもたのしいことだった。
張飛の営内では、|張達《ちようたつ》や|范疆《はんきよう》といった士官たちが、その犠牲になった。この二人もほとんど身寄りがなく、張飛の考えでは、彼らをいくらいじめても、怨みを買うことがすくないはずであった。
孫権討伐のことがきまり、張飛は巴西の健児一万を率いて嘉陵江沿いにくだり、江州というところで、劉備の本隊と合流することになっていた。
「さぁ、最後の仕上げの訓練だぞ!」
張飛は将兵に集合を命じた。そのときに、張達が遅れたのである。集合に遅れた将校は数人いたが、張飛は張達だけを呼び出した。一万の将兵が整列している前であった。
「そんなにたるんでいては戦争ができぬぞ。おまえたちの根性をたたき直してやる。いまこやつを叩きのめし、叩き潰してやるが、これからたるんだやつは、こやつとおなじ運命になるのだ、よく見ておけ!」
張飛はそう|咆《ほ》え立てて、鞭をふりあげた。
五十代の半ばをすぎたとはいえ、張飛はとらひげの巨漢である。力まかせにふりおろした鞭は、|唸《うな》りを生じて、張達の背にあたった。張達のからだは、その鞭の一撃で、地面にたたきつけられた。
地面にうつぶせになった張達に、車騎将軍張飛の鞭は、容赦なく襲いかかる。その場にいた将兵は目をとじた。見るに忍びないのである。目をとじても、鞭の音は耳にはいる。みなが耳を|掩《おお》いたい気持になっていた。
「ふぅーっ」
と、張飛は息をついた。叩きつかれたのである。張飛がもう五年若ければ、張達は鞭の下で、文字どおり叩き潰されたかもしれない。張飛が疲れをおぼえたので、張達は命拾いしたのである。
「さぁ、訓練に出発だ!」
鞭をすてて、張飛は命令を下した。
血まみれの張達は、一万の将兵の蹴立てる砂塵を浴びて、そこに横たわっていた。誰も彼を介抱しようとしなかった。そんなことをすれば、その人が張達と同じ運命になるおそれがあったのだ。
だが、砂塵の幕が薄れたころ、張達のところへ駆け寄った人物がいる。同僚将校の范疆であった。范疆は張達を抱きおこし、自分の背に負って歩きだした。
谷川のほとりの小屋で、張達はやっと意識をとり戻した。范疆と彼の愛人とが、けんめいに看護した|甲斐《かい》があったのだ。
「どうだ、こちらが仕掛けなくても、殺されるところだったではないか?」
范疆はつめたい水に濡らした布地で、張達の傷口を拭きながら言った。
「わかった。……わしがまちがっておった」
と、張達は|喘《あえ》ぎながら言った。
范疆はひと月ほど前から、
──このままでは、われらは張飛将軍に殺されてしまう。殺されるまえに、殺してやろうではないか。
と、張達を誘っていた。それにたいして、張達は、
──滅相もない。そんなことが漏れでもすれば、なぶり殺しにされるぞ。
と、話に乗らなかった。
暗殺計画に加わるのを拒否しても、なぶり殺しになるところであった。張達がまちがっていたと告白したのは、張飛暗殺の誘いをことわったことである。
「いまからでも遅くない。……やろうぜ」
范疆は声をひそめた。
谷川のせせらぎが、彼らのやりとりを消した。小屋の外では范疆の愛人が、柴を刈るふりをして、見張りをしていたのである。
張飛の親衛隊長が、いま范疆の愛人に執心している。彼女の姉が★[#門+良]中で酒店をひらいており、彼女もときどき手伝いに行く。親衛隊長はそこで|見初《みそ》めて、しきりに言い寄っていた。──この状況を利用しようというのだ。
彼女が親衛隊長をおびきよせる。──日時や場所を約束して。むろん、彼女はそこへ行かない。あまり遅いので、ぷんぷん腹を立てて、営舎に帰るであろう。──帰ったときは、ことはすでに終わっている。
二人の将校は必死であった。
范疆は親衛隊長に頼まれて、臨時に交替して職務につくのだといつわり、張飛の幕舎にはいりこんだ。
張達は医師を装って、薬箱を抱え、よろめきながらはいった。医者が来ることは、范疆が衛兵たちにしらせている。疑われずに衛兵所を通過できたわけだ。
「なに、今夜は医者を頼んだおぼえはないぞ」
医者が来たときいて、張飛は首をかしげ、寝台のうえで上半身をおこした。かすかなあかりで、彼は頭巾をかぶっている張達の顔を認めた。
「こやつ、い、生きていたか……」
張飛はねぼけ|眼《まなこ》をこすった。寝入りばなだったのである。
「幸いに生きておりました」
張達は|懐《ふところ》から、小さな竹筒をとり出して、それを口にあてがった。吹き矢である。
「う、う、う……」
毒を塗った矢は、狙いたがわず張飛の心臓に刺さった。
范疆は壁に立てかけてあった、張飛の|長刀《なぎなた》を抜き放ち、力まかせに横なぐりした。──張飛の首が落ちた。
二人はその首を拾って、箱のなかにいれた。薬箱とみせかけたのは、首をいれるための空箱だったのである。
「ま、たいしたことはありませんでした。皆さん、なるべくお静かにしてあげてください。では、さよなら」
医者は薬箱を抱え、臨時親衛隊長の范疆に送られて、車騎将軍の幕舎をはなれた。
張飛将軍の首がないことに、部下の者たちが気づいたのは、翌朝になってからである。そのころには、暗殺を敢行した二人の将校は、范疆の愛人の手引きで、嘉陵江をくだる舟に乗り、すでに蜀漢の力の及ばないところまで逃げていた。
「孫権将軍に良い|土産《みやげ》ができた」
「そうじゃな。妻子をらくに養えるほどの報酬がもらえるかな。……」
舟のうえで二人はそんなことを言い合った。彼らは孫権将軍のところへ逃げるつもりだったのである。──
張飛の営の都督から報告があるときいて、劉備がとっさに、張飛が死んだと思ったのは理由があった。
巴西から報告があれば、それはかならず張飛の名でなされるはずなのだ。営都督の名で報告が来たのは、張飛がいないことを意味した。張飛の日ごろの行状を知っている劉備は、反射的に、
(部下に殺されたのではあるまいか?)
と思った。その推測は的中していた。
東伐の軍をおこすというときに、張飛の死は、なにか不吉な影を前途に投げかけた。だが、復讐の念に燃える劉備は、決心を変えることはなかった。
張飛が殺されたのは、劉備即位の年の七月のことであった。
「先遣隊はただちに出発せよ!」
張飛の死のしらせに接した直後、目を真っ赤にした劉備はそう命じた。
東伐先遣隊は、|呉班《ごはん》、|馮習《ふうしゆう》の二将軍に率いられて、長江をくだった。
劉備が荊州を失ったいま、孫権勢力との境界は、ほぼ現在の四川省と湖北省の省境に相当する。古来、そこは三峡の険といわれ、上流から下流へ、|瞿唐《くとう》峡、|巫《ふ》峡、西陵峡という難所がならんでいる。そのまん中の巫峡のあたりに、孫権軍は|李異《りい》、|劉阿《りゆうあ》といった司令宮たちを駐守させていた。そして、蜀漢側は北岸の白帝城を基地としていたのである。
前漢末、すなわち二百年前、このあたりに公孫述という人物がいて、皇帝と称していた。その宮殿の井戸から白竜が出たので、ここを白帝城と名づけた。その城跡に、蜀漢は兵をおいていたのである。成都から長江をくだった呉・馮両将の率いる兵は、あわせて四万余であった。
蜀漢軍は一気に、孫権軍を撃破した。河を舞台に戦う場合、やはり上流のほうが有利であろう。そのうえ、蜀漢軍は、関羽のとむらい合戦という|怨念《おんねん》に燃えていた。関羽は張飛とちがって、上の者にはずいぶんたてついたけれど、部下をじつに可愛がった。蜀漢軍の将兵のなかには、関羽に恩をかんじている者が多い。
「関将軍の怨みをはらせ!」
突撃する蜀漢軍のなかから、そのような叫びがあがった。その叫びは、蜀漢軍を奮起させた。
巫峡を越え、これから三峡の最東の西陵峡にかかるところに、|★[#表示できず。同梱hihon06-shi.jpg参照]帰《しき》という城がある。蜀漢軍はそこまで進んだ。
皇帝劉備は白帝城に大本営を設け、兵を南方にもむけた。南のかた武陵には、当時の言い方では「蛮族」がいたのである。武陵山中の少数民族は|精悍《せいかん》で、戦さには強かった。彼らを説いて、蜀漢軍に味方させようとしたのだ。これは成功し、武陵の少数民族軍は、蜀漢側につくことになった。
「幸先よし!」
と、劉備は言った。
関羽、張飛と、血盟の義弟をつづけて失ったあとである。悪いことは、もうこれぐらいで終わってほしい。これからは、良いことが始まってもらわねばならない。
巫峡の戦勝と、武陵の山地民族を味方につけたことは、その良いことの走りのように思えたのである。
そのころ、呉の孫権から、和を乞う使者が白帝城にやってきた。だが、劉備は相手にしなかった。関羽のとむらい合戦であり、ことは利害を無視している。利害を説かれても、聞く耳はもたない。
諸葛[#葛のヒは人]孔明の兄の諸葛[#葛のヒは人]|瑾《きん》は、孫権に仕えて、南郡太守であったが、彼もまた白帝城の劉備に、手紙を送った。
──仇を討つのであれば、先帝の仇と関羽の仇と、どちらを先にすべきでしょうか? 荊州をお取りになるといわれるなら、荊州と天下はどちらが大きいでしょうか?
という文面であった。
蜀ではたてまえとして、献帝は死んだことになっている。天子であった献帝の仇を討つほうを、家臣である関羽の仇を討つより先にすべきではないか、というのだ。区々たる荊州を取るよりも、曹丕と争って天下をお取りになってはいかがですか?
これも理をもって説いた文章である。劉備は首を横に振った。──
「返事を出す必要はない」
彼はあくまでも関羽の仇を討ち、亡き関羽のために荊州を奪回しようとした。そのために、彼は白帝城に腰を|据《す》え、着々と東伐の準備を整えたのである。
孫権のほうもぼんやりしていない。|陸遜[#しんにょうの点は二つ]《りくそん》を大都督として、劉備の東伐に備えさせる一方、魏にたいして外交作戦を展開したのである。
魏の名将|于禁《うきん》は、呉の捕虜となっていたが、孫権は丁重に于禁を魏へ送還した。そして、書面には「臣権」と署名してあった。
「孫権め、やっと|降《くだ》りましたな。なにはともあれ、慶賀すべきことですな。……」
と、魏の家臣たちはよろこんでいた。
「呉の降伏を受けてはなりません。いまこそ呉を攻める好機でございます」
そう進言したのは、侍中の|劉曄《りゆうよう》という人物であった。
呉の孫権が、こんなふうに下から出てくるのは、めずらしいといわねばならない。おそらく呉に緊急のことがおこったのであろう。きっと劉備の東伐を受け、その敵にたいして、魏が後にいて援助する構えがあることを、ちらつかせたいのに相違ない。
「いま呉を撃てば、かんたんにたおすことができます。呉がたおれたならば、蜀はひとりぽっちです。もはやわれらの敵ではありえません。天下統一の光明は、もうそこまで射しこんでおりますぞ」
劉曄は熱心に弁じたが、曹丕はしばらく考えこんでから、ゆっくりと首を横に振った。
「わしは天子である。臣と称して帰順しようとするものを拒むことはできない。そのようなことをすれば、これから帰順したいと思う人たちに疑惑をおこさせる。いまは呉の降伏をうけいれ、蜀の背後をおびやかすことにしよう」
これが皇帝曹丕の意見であった。
明けて魏の黄初三年(二二二)、蜀漢では章武二年の二月、劉備は軍に東進を命じた。
司令官には鎮北将軍黄権が起用された。もともとこの黄権は、
「上流から下流にむかって戦うのは、進むのは容易ですが、退くのが至難であります。ですから、私が先鋒として進み、陛下はうごかずに後方の重鎮として、にらみをきかせていただきとうございます」
と、献言していた。
だが、劉備はそれに従わなかった。理屈はわかるのだ。川の流れに逆らっての退却というのは難しいであろう。後方の守りがしっかりしておれば、退却のときも心強いに相違ない。しかし、劉備は退却のことなどは念頭になかった。
これは関羽の怨念をはらすための作戦である。皇帝みずから陣頭に立って戦ってこそ、関羽の怨霊はしずめられる。
「二手に分れる。江の北岸は黄権にまかせよう。わしはみずから兵を率いて、江の南岸を攻めて行こう」
劉備の決意はゆるがない。
こうして、蜀漢軍は二路に分れて東へ進んだのである。
呉の大都督陸遜[#しんにょうの点は二つ]は、これにたいして、
──半年のあいだ、無抵抗に徹して後退しよう。
という方針をきめた。
蜀漢の首脳部は、こんどの作戦では、感情的になっている。怒りが彼らの活力源といえる。だが、怒りは長く持続するものではない。ことに勝利を重ねると、怒りは忘れ去られるものだ。すくなくとも、活力の源泉にはならなくなるだろう。
半年後。──
陸遜[#しんにょうの点は二つ]は反撃に転じる目標をそうきめた。
そんなわけで、蜀漢両路の軍は、無人の野を疾駆するように東進した。感情的になってはいたが、劉備も百戦錬磨の将軍である。
──|罠《わな》があるかもしれぬぞ。
と、進駐したおもな土地に、仮設の城を築き、その基地と基地とのあいだに柵を設けた。
──巫峡の建平から営を|連《つら》ねて|夷陵《いりよう》の界に至る。
と、史書にのせている。この営が仮設の城で、数十も建設されたのである。建平から夷陵までは、ほぼ三百キロほどあった。
陸遜[#しんにょうの点は二つ]は五月になって、やっと反撃に転じた。この年は五月が|閏《うるう》で二回あった。二回目の五月のことだから、ほぼ予定どおりの行動であった。
しかも、反撃に転じての緒戦には、経験豊富な指揮官に、
──わざと敗走せよ。
と、作戦を授けた。
逃げてばかりいた呉軍が、急に反撃に転じると、蜀漢のほうも、
──いよいよ来たか。……
と、緊張するだろう。いままで逃げていたのは、呉の実力ではあるまい。では、やつらの実力とは、どれほどのものであろうか? お手並拝見というわけだ。
めずらしく反撃してきたが、あっさりと撃退できた。──やっぱり。……蜀漢軍はそう思うだろう。油断がそこにうまれる。それはほんものの油断である。
その直後に、陸遜[#しんにょうの点は二つ]は果敢な総攻撃をかけたのだった。しかも夜襲である。
蜀漢軍は、たったいま呉の反撃を退け、将兵たちは汗を|拭《ぬぐ》いながら
「やっぱりあんなものだったか。……」
「呉の兵は精強ときいたが、やつらが戦えるのは水上戦だけじゃな」
「陸での戦いはさっぱりじゃ。手ごたえがなくて困ったわい」
「どれ、今晩はゆっくり睡るとするか。……」
と言い合っていた。
その夜に、呉の総攻撃がおこなわれた。
「|松明《たいまつ》を持て!」
全軍に命令が下った。
建平から夷陵にいたる三百キロの線には、木の柵が延々とつづいている。その柵があちこちで燃えだした。
山といわず平野といわず、火の海であった。|喊声《かんせい》は天地をどよもした。
満を持していた呉軍は、陸遜[#しんにょうの点は二つ]を大都督として、|潘璋《はんしよう》、|朱然《しゆねん》といった将軍たちが、五万の兵を率いていたのである。
暗夜のあかりは、ものを二倍にみせる。しかも三百キロの柵が燃えだしたので、蜀漢としては敵の兵力さえつかめなかった。
蜀漢の皇帝劉備は、夷陵県の馬鞍山というところにいた。呉軍のほうでは、ゆっくりと時間をかけて、蜀の本営を偵察していた。呉の主力は、むろん馬鞍山にむけられたのだった。
馬鞍山の周囲は、蜀漢の近衛兵が守っていたのはいうまでもないが、呉軍の奇襲で、大本営の守りは、一挙に崩れてしまった。
戦いがはじまると同時に、勝負はついた。蜀漢軍にとっては、いかに戦うかではなく、いかに脱出するかが問題であった。
──|土崩瓦解《どほうがかい》、死者万をもって|数《かぞ》う。
という|惨澹《さんたん》たる敗北である。
危ういかな劉備玄徳! 一天万乗の天子である劉備は、夜道を|遁《に》げた。呉軍の追撃は急であった。
山や平野が燃えるだけではない。江も燃えあがった。蜀漢軍が苦心して集めたおびただしい兵船が、あちこちで|焔《ほのお》をあげた。黄権がおそれていたように、流れに逆らっての退却は至難のことなのだ。蜀漢の水軍は船をすてて、陸路で逃げた。だが、陸路にも呉の軍兵が満ちていた。
蜀漢の将軍の|張南《ちようなん》、馮習、馬良、それにペルシャの王族と自称していた|沙摩★[#木+可]《サマカ》たちは戦死し、|杜路《とろ》や|劉寧《りゆうねい》たちは降った。
北岸の総司令官の黄権は、退路を断たれたので、呉ではなく、魏に降った。
馬良は劉備の目のまえで戦死した。劉備は彼を抱きおこした。もし勝ち戦さであれば、馬良は勲功第一等とされたにちがいない。武陵山地の少数民族を味方につけたのは、馬良の工作によったのである。
劉備が抱きおこしたとき、馬良はまだかすかに呼吸があった。劉備は馬良の耳に口をよせて言った。──
「おまえの息子はまかせてくれ。きっと取り立ててやろう。……それから、おまえの弟の|馬謖《ばしよく》も。……」
馬良はうなずいたようであった。
劉備はやっとのことで、白帝城に逃げ込むことができた。石門というところは道が狭くなっているが、そこに|鎧《よろい》や武具やもろもろの可燃物を山と積みあげ火を放った。それによって、追撃してくる呉軍を防ぐことができた。だが、遅れて逃げてくる蜀漢軍は、火の山にさえぎられ、それ以上逃げることができず、呉軍に斬られてしまったのである。
道路が焔の山でふさがっただけではない。長江でさえも、蜀漢軍の屍体の山で、流れが一時とまったという。
劉備はなんども挫折を経験している。食客として養っていた呂布の下につくという屈辱も味わった。曹操、袁紹に、劉表に、つぎつぎと身を寄せた。ときには身売りにひとしいこともあった。挫折には慣れているはずである。それなのに、このたびの敗戦ほど大きな衝撃をうけたことはない。
六十をすぎた肉体は、この敗戦でがっくりしたのか、あちこちが痛みだした。これまで気力で抑えていた病気の芽が、いちどにふき出したかのようだった。
劉備は白帝城で病床についた。
この城に敗走して来てから、劉備は「白帝」という名を、「永安」に改めた。とこしえに安かれ、という願いをこめての命名であろうが、なにか消極的な感じのする改名であった。
唐の詩人|杜甫《とほ》に、『白帝城最高楼』と題する七言律詩があるが、それは、
城|尖《とが》り|径仄《みちかたむ》きて|旌旆愁《せいはいうれ》う
独り立つ|縹緲《ひようびよう》の|飛楼《ひろう》
と、うたいだされている。
時代はちがっても、自然にはあまり変化はない。三国時代の白帝城も、江岸の岩山のうえに、おぼつかなく建っていたのだ。蜀漢の天子がいるのだから、城頭には美々しい征旗がならべられたであろう。だが、夷陵の大敗のあとである。風にはためく旗も、勇ましいというよりは、なにか悲しげである。五百四十五年後の詩人杜甫が、この詩を作ったとき、あるいは夷陵に敗れて、白帝城にこもった劉備のことが念頭にあったかもしれない。
劉備が白帝城に逃げこんだころから、天下の形勢が大きく変わってきた。──
蜀漢の東伐によって、呉の孫権は背後を固めるため、魏に臣と称して帰服した。魏の文帝はよろこんで、孫権を呉王に立てた。だが、孫権は我が子を魏へ人質に差し出すと約束しながら、それを実行しなかった。
劉備に攻められて、危急存亡の関頭にあったときは、どんなことでも約束するが、その劉備に大勝したのである。もはや魏の言うことを、なにからなにまできくことはない。可愛い我が子を人質に出すなど、そんな約束は破ってしまおう。
──曹丕、怖るるに足らず。
呉の軍中にそんな声があった。劉備にたいして、あれほどみごとに勝ったのである。呉は自信に満ちていた。
九月、魏は征東大将軍の曹休、前将軍の張遼[#しんにょうの点は二つ]、鎮東将軍の|臧霸《そうは》に南下を命じた。すでに南方の国境にいた大将軍の曹仁にも動員令を伝えた。そして、荊州のほうへは、上軍大将軍の|曹真《そうしん》、征南大将軍の|夏侯尚《かこうしよう》、左将軍の|張★[#合+おおざと(邦の右側)]《ちようごう》、右将軍の|徐晃《じよこう》を派遣した。
呉は建威将軍の|呂範《りよはん》、左将軍の諸葛[#葛のヒは人]瑾、平北将軍の潘璋などに防備を命じた。だが、魏軍は強力である。孫権は|詫《わ》び状をいれて、ひきのばし戦術に出た。
──孫登が来れば、すぐに兵を退こう。
と、曹丕は返書を送った。孫登は孫権の子で、王太子に立てられていた。魏はあくまでも人質を要求したのである。
こうして、魏との関係が悪くなった呉は、ようやく蜀漢に近づこうと考えるようになった。
関羽の復讐に執心した劉備は病床にあり、すっかり気が弱くなっていた。もはや仇討ちにそれほどこだわらない。病床で彼も反省していた。
(おれは感情に走りすぎたようだ。……)
退路を断たれて、魏に降った黄権について、その家族を逮捕して処分しようという話が出たとき、劉備は、
「それはやめよう。あの戦いは、朕に責任があるのだ」
と、赦免することにした。
やがて、病気の皇帝劉備にかわって、重臣たちが政務を処理することが多くなった。
「やはり丞相に来ていただこう」
と、成都にいる諸葛[#葛のヒは人]孔明が呼ばれた。孔明は成都で残務を整理し、東へむかった。彼が白帝城にはいったのは、翌年の二月のことであった。
そのころ、江陵方面に出兵していた魏の大軍が、とつぜん撤退した。──その地に疫病が流行したからである。
天下はしばらく小康状態となった。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は、劉備の枕もとにつきっきりであった。劉備は日に日に衰弱して行く。孔明はそれをじっとみつめていた。
「おぬしの言うたとおり、天下三分の計はほぼ定まったようじゃな。……」
劉備は弱々しい声で言った。
魏、蜀、呉の三大勢力が、いま天下を分けている。これまで、英雄たちは一人また一人と、舞台から去って行った。董卓が去り、呂布が去り、|公孫★[#王+贊]《こうそんさん》、陶謙、袁術、袁紹、劉表、劉璋……そして、三人がのこった。
魏と蜀は皇帝と称している。呉はまだ王と称しているにすぎないが、去年、みずからの元号を用いはじめた。「黄武」という。
だから、ことしは魏の黄初四年、蜀の章武三年、そして呉の黄武二年である。三国の元号のはじまりは、一年ずつ差があった。
(気の弱いことを。……)
孔明はそう言おうとした。
天下三分とはいえ、魏が天下の八割を占め、蜀と呉がそれぞれ一割を保っているにすぎないのである。ほんとうの天下三分とはいえない。
魏は幽・|冀《き》・青・徐・豫・|并《へい》・|雍《よう》・|★[#六+兄(六が上で兄が下)]《えん》・の八州をほぼ手中におさめている。直接統治はしていないが、涼州も服従していた。それにくらべて、呉は揚州のみ、蜀は益州のみで、この両者が荊州を争っているのだ。
(呉と組んで、魏を撃つほかはない。それと、南征だな。……)
と、孔明は考えている。益州のみというが、益州の南は諸蛮の地で、これから開発可能である。南征によって、国富を増すことができよう。だが、孔明は重病の劉備に、そのことは言わなかった。
劉備はほとんどずっと目をとじていた。彼のまぶたのうらに、曹操の面影がうつっている。あの世とやらがあるそうだ。五斗米道の者もそれを言うし、|浮屠《ふと》(仏教)の人たちはもっと具体的に説明している。とすれば、その世界で曹操に会えるかもしれない。
(よく来たな。……)
と、曹操は肩をたたくだろうか。
天下は三分されたままである。
(ばかだな、玄徳は)
感情的になって、呉を攻めたことを、そう批判するにちがいない。とくに延々と営を連ねた作戦を、孫子の研究家である曹操は|嗤《わら》うかもしれない。
(見損ったぞ)
曹操にそう言われたなら、どう答えよう。
(おぬしが悪いのだ。先に死んだりするものだから。……)
そう答えてやろうか。……
そこまで考えたが、あとは意識が薄れた。
意識はときどき回復した。そのたびに、劉備は諸葛[#葛のヒは人]孔明の顔をそこに見た。それは現実の孔明の顔であるらしい。孔明の顔のあとに、さまざまな顔がつづく。曹操や袁紹、あるいは甘夫人の顔があらわれる。
(なぜ関羽と張飛があらわれないのか?)
薄れ行く意識のなかで、彼はそんなことを考えているのだった。
劉備の息が絶えたのは、その年の四月の|癸巳《みずのとみ》の日であった。享年六十三。|諡《おくりな》して昭烈皇帝という。
臨終の前、意識がかなりたしかであったとき、彼は孔明に言った。──
「きみの才は、曹丕の十倍もある。かならず国を安んじて、ついに大事を定めてくれるだろう。もし我が子が補佐するに価するなら補佐してほしい。だが、彼に帝王の才がなければ、きみがとってかわれ。……」
孔明は泣きながら、
「臣はかならず|股肱《ここう》の力をつくし、忠貞の節をいたし、あとは死あるのみです」
と答えた。
劉備は皇太子の劉禅にたいしては、
「人生五十というが、わしは六十をすぎた。いまさら怨みがましいことは言わぬ。おまえたちのことだけは、やはり気になる。勉強するのだぞ、勉強を。……どんな小さな悪でもしてはならぬ。どんな小さな善でもしなければならぬ。すべて丞相とともに事にあたれ。丞相を我が父と思えよ。……」
と|諭《さと》した。
孔明は白帝城に中都護の李厳をのこし、自分は昭烈帝劉備の|柩《ひつぎ》を守って成都へ還った。
皇太子劉禅は、五月に成都で即位した。ときに十七歳であった。
氷のような。……
そんなふうに形容されるほど、皇帝曹丕は冷酷であった。そんな人物であったから、平然と漢の天子を廃して、みずから皇位に即いたのである。
だが、皇帝になってから、曹丕の胸に熱いものが流れてきたようだった。すくなくとも、弟の曹植はそんな気がした。兄弟とはいえ、君臣のあいだである。それほど多く言葉をかわすわけではないが、曹植は兄に不思議なあたたかさをかんじた。
夏至の日に、朝廷で皇族の会合がある。疫病流行のため、前線にあって督戦していた文帝曹丕も、三月には洛陽にひきあげていた。洛陽では皇帝の兄弟が久しぶりに顔をあわせて歓談することができた。
六月、任城王の曹彰が洛陽で死んだ。皇帝曹丕にとっては、同腹の弟である。曹植からすれば同腹の次兄なのだ。曹彰は剛勇で知られていた。文才がないため、父の曹操から軽くみられ、はじめから後継者候補には挙げられていなかった。本人にもそのつもりがなかったようである。
「そのような任城王でも、命を失いました。お気をつけください。いざというときは、この洛陽を脱出いたしましょう」
曹植の家臣たちは、蒼ざめて、そんなことを言った。任城王曹彰の死のいきさつは、はっきりしていない。急病で死んだという公式の発表があっただけである。
曹植の側近は、それを殺されたとばかり思いこんでいた。無理もない。曹丕は皇帝に即位すると、曹植の腹心であった丁儀兄弟を処刑した。丁儀たちは、曹植を擁立して、魏の後継者にしようと、いろいろと画策していたのである。だから、無実の罪とはいえない。それにしても、丁儀兄弟を失った曹植は、翼をもぎとられたも同然だった。ほかにはさして才能のある家臣はいなかった。
「わしには翼がない。兄上……いや、陛下もわしを疑われないであろう」
と、曹植は言った。
「いえ、競争者でさえなかった曹彰さまでさえ、陛下に殺されたではありませんか」
と、家臣が声をひそめて言う。
「言葉を慎め。任城王が殺されたと、どうしてわかる」
「あのような頑健なお方なのに……」
「疫病は強弱にかかわらずとりつくものだ」
「でも……」
「これ以後、そのようなことは申すな」
曹植は部下を|叱《しか》った。
七月になって、朝廷から曹植に|参内《さんだい》せよという|沙汰《さた》があった。
(ついにその日が来たか。……)
曹植の家臣たちは蒼ざめた。どのような理由をつけられるかわからないが、死を賜わるのにちがいないと思ったのだ。
「退散いたしましょう」
「関所は家臣の者が斬り死にして、血路をひらきます」
「参内すれば、もう取り返しがつきません」
家臣たちは口ぐちにそうすすめた。
「勅命にそむけば朝敵となる。参内しても、死を賜わるとは限らぬ」
曹植は家臣をふりきるようにして参内した。このとき、彼は胸中に、生死五分五分と考えていた。
参内してみると、異母弟の呉王の|曹彪《そうひよう》も来ていた。そして、五斗米道の教母少容とその弟子陳潜も控えていた。
少容のすがたをみて、曹植はほっとした。
(殺されることはない)
と、確信することができたのである。
魏の軍兵や人民の八割から九割は五斗米道の信者であった。亡き曹操もそうだったが、皇帝曹丕が少容を招くときは、それは、
──全軍、全人民のまえで。
という意識をもっているのだ。少容のいるところでは、秘密の処刑などはおこなわないはずだった。
「|★[#西+土+おおざと(邦の右側)]《けん》城王(曹植)と呉王(曹彪)は、これより領国に帰還せよ。今日は送別の宴ぞ。心やすい者たちを招いた。存分に酒を汲みかわそうではないか。★[#西+土+おおざと(邦の右側)]城王の詩文が、この宴に錦を添えてくれるだろう」
と、皇帝が言った。
もし少容がいなければ、この送別の宴も、毒殺の場ではないかと思って、おちおちと酒も飲めなかったであろう。皇帝曹丕もそれを知って、少容たちを招いたに相違ない。
宴が終わるころ、皇帝は侍女に錦に包んだものを二つ持って来させた。
「|餞別《せんべつ》じや。大きさは同じだが、なかみはちがう。まちがえるな。赤い錦包みが★[#西+土+おおざと(邦の右側)]城王、青いのが呉王に贈るものである。帰館してから、なかをあらためよ」
と、皇帝は言った。
「ありがたく拝領いたしまする」
二人の皇弟は、厚く礼を述べた。
「からだをいとおしめよ。別れを歎くな。また会う日がある。かならずある」
皇帝の言葉に、これほどのあたたか味がこもっていたことはない。異常なかんじさえした。──
曹植は館に帰って、赤い錦包みをひらいた。
なかには美しい|漆塗《うるしぬ》りの枕が一つあった。朱や黄や青で、|鳳凰《ほうおう》の図がえがかれた枕である。美しいというよりは、なまめかしいといったほうがよいかもしれない。形もあまり大きくないし、なにやら婦人用のように思えた。
「あ……」
革に何重も漆を塗った枕だが、その側面に、
──|甄《しん》夫人の為にこれを造る。
という文字がしるされていた。
曹植の両眼から、涙がとめどなく|溢《あふ》れてはこぼれた。──
作者|曰《いわ》く。──
曹植に『白馬王彪に贈る』という七章の詩がある。その序にいう。
──黄初四年五月、白馬王、任城王、余と|倶《とも》に京師に|朝《ちよう》し、|節気《せつき》に会す。洛陽に到りて任城王|薨《こう》ず。七月に至り、白馬王と|与《とも》に国に還らんとす。後、|有司《ゆうし》(官僚のこと)、二王の藩に帰るに、道路、|宜《よろ》しく|宿止《しゆくし》を|異《こと》にすべきことを以てす。|意《こころ》これを|毒《いた》く|恨《うら》めり。|蓋《けだ》し|大別《だいべつ》(いつ会えるかわからない別れ)は数日に|在《あ》るを以てなり。……
新王朝は、皇弟たちが領国に帰るとき、方向がおなじでも同道を許さなかった。それほど警戒されていたのである。曹植はそのことを、いたく恨みとして、憤りの情をもって作ったのが、表題の詩である。その長詩は、
王、其れ玉体を愛せよ
倶に黄髪の期(長寿のこと)を|享《う》けん
涙を|収《おさ》めて長路に|即《つ》き
筆を|援《と》りて|此《これ》より|辞《じ》す
で結ばれている。
序に白馬王とあるが、曹彪が白馬王になったのは黄初七年で、この年はまだ呉王であったはずだ。序は後世の人の誤った加筆によるのであろう。
曹丕はこのとき、曹植まで殺そうとしたが、母親の|卞《べん》太后に、
──彰が殺された。せめて植だけはのこしてたもれ。
と哀訴されて思いとどまったという説もある。曹植を悲劇の主人公に仕立てるために、後人がつくった話であろう。
[#改ページ]
|西南《せいなん》に|風疾《かぜはや》し
酒を飲みはじめると、孫権は目がすわってくる。そして、とめどもなく飲む。酒癖はあまりよくない。そのくせ、酒癖の悪い人間をきらう。かといって、宴席で酒も飲まずに|鹿爪《しかつめ》らしい顔をしている者がいると、むやみに腹を立てる。
「おまえは、おれの酒をまずくするために、この席に出てきたのか」
と言いがかりをつけるのだ。扱いにくい酒飲みであった。
劉備が関羽のとむらい合戦に、長江をくだって呉を攻めようとしたころ、孫権は武昌に本営を置いた。魏の黄初二年(二二一)のことである。魏の文帝、すなわち|曹丕《そうひ》は、孫権を呉王とした。そのあとの祝いの席で、孫権はいつものように、
「さぁ、今日は徹底的に飲もう。泥酔しなければ承知せんぞ」
と、群臣にむかって言った。このとき、彼はすでにかなり酒がはいっていた。従者を呼びあつめて、
「水を|汲《く》んでこい。みんなにぶっかけろ。酒はそれからだ」
と、命じた。景気をつけるためであろうか。自分がべろべろに酔っているのに、家来たちが正坐などしていてはおもしろくない。水をぶっかけて、座をみだしたくなったのにちがいない。
従者たちは|桶《おけ》に水をいれて宴席にはこびこみ、|杓子《しやくし》で群臣に景気よく水をかけはじめた。孫権を呉王に立てる使者が、魏から来たのは十一月のことだった。陰暦では冬の真最中である。いくら江南は温暖であるとはいえ、この季節での水浴びは、けっして快適とはいえない。みんな渋い顔をして、水をかけられていた。あんまり難しい顔をすると、呉王孫権の雷が落ちてくるおそれがある。それで、ときどき作り笑いをする。
このとき、孫権のすぐそばにいた人物が立ちあがった。呉では最長老の張昭であった。
「退らせていただきます!」
張昭は老人にも似ぬ、決然たる大股で退出した。
ふだんの孫権なら、ここで「待て!」と大喝するのだが、酒がはいっているので、状況を把握するのにすこし時間がかかった。張昭の足音が廊下のむこうに消えてからやっと、
(やつはおれのやり方が気にくわぬので出て行ったのだ)
ということがわかった。
「|綏遠《すいえん》将軍を呼び戻せ!」
と、孫権は命じた。
魏の文帝は、孫権を呉王に立てると同時に、呉の長老の張昭に綏遠将軍の称号を与え、|由拳《ゆけん》侯に封じた。
綏遠将軍張昭は連れ戻された。孫権は張昭だけには、ほかの家来にたいするように頭からどなりつけるわけにはいかない。兄の孫策は死ぬまぎわ、張昭を呼び、
──弟を頼む。
と託したのである。
この十年のあいだに、|周瑜《しゆうゆ》、|魯粛《ろしゆく》、|呂蒙《りよもう》と、呉の柱石が世を去った。長老級でのこっているのは張昭だけだった。いくら酒に酔ったからといって、その張昭に恥をかかせることはできない。だが、張昭は勝手に退出することで、満座のなかで孫権に恥をかかせた。孫権はそう思っている。すくなくとも、その恥だけは|雪《すす》いでおきたい。
「みんなで一しょに楽しもうと思っただけではないか。それがなにが悪いのかね? じいさん、そう怒るなよ」
と、孫権は言った。
張昭は答えた。──
「むかし|殷《いん》の|紂王《ちゆうおう》は、|糟丘《そうきゆう》で酒池肉林、長夜の宴にふけりました。そのときも、やはり楽しもうと思っただけで、けっして国を亡ぼすつもりはありませんでした」
「わかった、わかった」
孫権はそれ以上言わなかった。
(綏遠将軍なればこそ……)
人びとはそう思った。張昭以外の人がおなじ|台詞《せりふ》を口にすれば、孫権ははたしてこんなにすなおにひきさがったであろうか?
その場にいた家臣は、目のまえの情景から、ある人物を連想した。
|虞翻《ぐほん》という人物である。
幸いその人物はこの席にいなかった。もしいたならば、ただではすまなかったであろう。
虞翻は大学者であり、硬骨漢であった。さらに困ったことには酒乱の気があったのだ。
──|翻《ほん》は|性疏直《せいそちよく》にして|数 酒失《しばしばしゆしつ》あり。
と、その伝に記されている。『酒失』というのは、酒のうえでの失敗のことで、つまり酒癖がいたって悪かったのである。
虞翻はなんども孫権と衝突している。いや、孫権の兄の孫策のころから、彼は面をおかして|直諌《ちよつかん》した。狩猟好きの孫策に、
──注意しなければなりませんぞ。
と、強く|諌《いさ》めたことがある。孫策は狩猟に出て、刺客に襲われ命をおとした。虞翻にしてみれば、「それみたことか。……」という気持があった。
(おれは正しいのだ)
そう信じたことは、たとい相手が主君であろうと、遠慮なく直言する。酒がはいったときなど、言葉が一そうきつくなった。
(言うことはともかく、やつの言い方が気にくわぬ。主君をなんと思っておるのか。……)
孫権は腹を立て、|騎都尉《きとい》という要職を解任し、丹楊の|★[#さんずい+脛の右側]県《けいけん》という片田舎に流したことがある。
だが、虞翻はまもなく呼び帰された。彼には医術という特技もあった。ちょうど孫権が関羽を攻めるべく、呂蒙を大都督として派遣するときだった。呂蒙は病気だったので、出征にあたって、医師を連れて行くことを希望したのである。
「よかろう。名医を随行させよう。ところで、そのほうの希望する名医とは?」
と、孫権は|訊《き》いた。
「虞翻でございます」
と、呂蒙は答えた。
「ああ、やつか。……」
虞翻の名を耳にすると、孫権は眉をひそめたが、医師随行はいったん許可したことなので、人の上に立つ者として、いまさら首を横に振ることもできない。
「よかろう、それも。やつもそろそろ赦免してやろうと思っていたところだ。あの頑固者も、これで|懲《こ》りたであろう」
孫権はすぐに、虞翻を赦免して、建業(南京)へ呼び戻す手続きを命じた。口では懲りたであろうとは言ったが、孫権は本心でそう思っているのではない。
(流罪ぐらいで、あの男の本性が変わるものか。もし変われば、それはもはや虞翻ではない。……それにしても、これからどうしてあの難儀な男とつき合って行こうか?)
孫権は張昭を呼んだ。
「虞翻を呼び戻すことになった。彼が稀代の|碩学《せきがく》であり、有能な人物であることは、わしもよく知っている。だが、人間の好き嫌いはどうにもならぬ。わしはやつの顔を見ただけで、|虫酸《むしず》が走るのだ。……これから先のことを考えると、わしは憂鬱になってくる。なにか良い方法はないものか?」
張昭はしばらく考えていたが、
「こういうのはいかがでしょうか。……」
と言って、膝を進めた。
やはり流罪ぐらいでは、天下の|臍《へそ》まがり虞翻の本性は変わらない。呉の人たちは、上は主君の孫権から、下は士卒にいたるまで、そのことを思い知らされた。
魏の名将|于禁《うきん》は、|樊城《はんじよう》戦で関羽にとらえられたが、孫権はこれをもらいうけて、呉に連れて帰り、手厚くもてなした。孫権は騎馬で外出するようなとき、于禁を随行団のなかに加えることがあった。孫権はそれほど于禁を好もしく思っていたのである。
あるとき、孫権は于禁と馬をならべて外出した。建業城を出たところで、虞翻に出会った。虞翻は長い|鞭《むち》を手にしていた。どうやら彼はそこで待ちうけていたようである。
「おのれ、降虜(降伏した捕虜)め!」虞翻は叫びざま、鞭をふりあげて于禁に近づき、
「降虜の身で、わが君と馬首をならべるなど、よくもできたことだ。天をおそれぬ恥知らずめ!」
「ばかめ! 退れ!」
孫権が一喝したので、虞翻は足をとめた。孫権の一喝がなければ、彼の手にした長い鞭は、于禁の顔面に|炸裂《さくれつ》したであろう。
それからしばらくして、孫権は群臣を招き、長江に楼船をうかべ、そのうえで宴会を催した。当時の正式の宴会は音楽つきである。楽隊は徐州の人たちで、彼らは故郷の音楽をかなでた。于禁は泰山出身なので、ふるさとのしらべをきいて、ついほろりとして涙を流した。
「おい文則(于禁の|字《あざな》)!」みんなの前で、虞翻は大声をあげた。──「おまえは涙を流して釈放してもらおうとでも思っておるのか。女子供の使う古い手だ。やめろ、やめろ、見苦しいぞ!」
座は白けた。
于禁は面を伏せ、孫権はあからさまに不快な表情をみせた。
虞翻は呂蒙に随行して関羽を撃ち、勝利をおさめた。このときの戦勝は、江陵にあった|麋芳《びほう》たちが、関羽に軍糧を送らず、最後には呉に降ったことが大きな原因であった。
麋芳の寝返りで勝ったのに、虞翻は寝返りという行為が許せず、事ごとに麋芳につらくあたった。麋芳の軍営へわざわざ出かけ、門をはいって大声で、
「忠と信を失った人間は、もはや主君に仕える資格はない」
などとどなり散らす。たまりかねた麋芳の部下が、虞翻のすがたを見ると、門をしめてしまった。すると、虞翻は門前で、
「ここの門は閉めるべきときに開け、開けるべきときに閉めるようになっておるのだな。なるほど、なるほど!」
と、いや味を言った。麋芳が劉備軍の部将として江陵を守りながら、寝返って、孫権軍のために城門をひらいたことを指しているのはいうまでもない。
酒癖の悪さも、どうやら不治の病いであるらしい。
ある宴会で、孫権が自ら杯をもって部下の一人一人と乾杯をした。虞翻のところへ行くと、彼は酔っ払って、地面に寝ころがっている。
「こやつ、酔いつぶれてやがる。……」
孫権はそう|呟《つぶや》いて、つぎの席へ移った。ところが、孫権が自分のところを去ると、虞翻は起きあがって、にやりと笑い、そばにいた男と話をかわした。つぶれるほど酔っているとは思えない。
ちょうどそこを孫権がふりかえった。
「うぬ、こやつめ!」孫権はその|碧眼《へきがん》を血走らせて叫んだ。──「わしと乾杯できぬと申すのか! それならば、二度とわしの顔が見えぬようにしてやる!」
孫権は剣を抜き放った。
「お待ちください!」
大司農の劉基が、うしろから孫権を抱きとめ、
「なりませぬ。いまお上は王に立てられています。虞翻は碩学、天下にかくれもない人物です。王が手ずから学者を殺したとなれば、天下の人たちはどう思うでしょうか? 翻に罪があっても、人びとはお上が賢良をうけいれる器量がないと考えるのです。そうなれば、これからが大事だといういまになって、この呉に人材が集まりませぬ」
「曹操だって|孔融《こうゆう》を殺した。わしが虞翻を殺すに、なに遠慮が要るものか、うぬ!」
孫権は剣をふりあげようとし、劉基はその腕にすがりついた。
「曹操はそのために天下の批難を浴びました。それに、曹操にしても、手ずから剣をふるって孔融を殺したのではありませぬぞ」
劉基はけんめいに|諌《いさ》めた。
孔融、|字《あざな》は|文挙《ぶんきよ》。孔子の二十代目の子孫であり、北海の相をつとめた。聖人の子孫という出身をたのんで、とかく奇矯の言動が多かった。孫権が虞翻を嫌ったように、曹操も孔融を生理的に嫌悪した。
孔融は|一言居士《いちげんこじ》であった。つべこべと理屈をこねる。それも、大局を目においての理論ではなく、理屈のための理屈であった。現実主義者の曹操が孔融を嫌い抜いたのはとうぜんかもしれない。たとえば、兵糧不足に悩んだ曹操が、あるとし、酒の醸造を禁止した。これにたいして、孔融は意見書を出した。
──高祖が酔って白蛇を斬ったから漢という国が誕生した。(白蛇は白帝の子で、それを殺したのは赤帝の子、すなわち高祖であったと信じられている)景帝が酔って王美人を愛さなければ、あの英明なる武帝はこの世に生まれなかったであろう。……
孔融は延々と酒の効能をならべた。曹操はそれにたいして、そうはいうが酒で国を亡ぼした例もあると反論した。孔融はまた手紙をかいた。
──仁義を重んじて、徐の|偃王《えんおう》は国を亡ぼし、燕の|★[#口+會]《かい》は謙譲のために亡び、魯は学問尊重のために衰弱し、夏と殷は婦人のために亡びた。酒だけを禁じないで、仁義、謙譲、学問、男女の営みも禁じてはいかがですか?
(こんな|屁理屈《へりくつ》につき合っておれるか。……)
曹操の嫌悪はますますたかまり、建安十三年(二〇八)、|荊州《けいしゆう》出兵のときに、口実を設けて処刑したのである。たしかに孔融を斬ったのは刑吏だが。……
「わかった。……」
孫権は抜いた剣を、また|鞘《さや》のなかにおさめた。無念そうに。だが、いったん殺すといきまきながら、虞翻を赦したことが、よほど|業腹《ごうはら》だったにちがいない。
「これからも酒を飲んで殺すといったときは、すべて刑を執行しないことにする」
と、つけ加えた。
劉備軍を|夷陵《いりよう》で大敗させたあと、孫権はついに虞翻に辛抱しきれなくなったようだ。そのときも、群臣のまえで、虞翻は人もなげなことを言ったのである。
孫権は張昭と神仙のことを語り合った。ちょうど白馬寺の支謙が、王太子の教師となったころで、異国の仏教とやらが呉ではしきりに話題にのぼったころである。南方の人は、北方人にくらべると、神仙のことをより語りたがる性向をもっていた。
「は、は、は」虞翻は大声で笑い、張昭を指さして、「この人は死人じゃ。いつのまに死んじまったんだろう。は、は、は……」
「|仲翔《ちゆうしよう》(虞翻の字)、言葉を慎め!」
孫権は満面に朱をそそいで言った。呉の最長老である張昭にむかって、死人とはなにごとか。
いくら硬骨の直言居士とはいえ、言ってよいことと悪いことがある。
「そうではありませぬか。この世に神仙など存在しませぬぞ。いったい、誰が神仙など見ましたか? あの世ならいるかもしれません。張昭どのは、あの世の人であるらしい。だから、神仙を語っておられる」
と、虞翻はおそれる色もなく言った。
「黙れ!」碧眼児孫権はすっくと立ちあがり、ぶるぶる|顫《ふる》える指を虞翻につきつけて叫んだ。──「こやつを放り出せ! もう辛抱できん。交州へ流してしまえ!」
交州と呼ばれる地域はずいぶんひろい。現在の広東、広西からベトナムの北部までふくまれる。中国の南のさいはてであった。
漢初、|趙佗《ちようだ》がこの地方に独立政権を樹立して南越と号した。武帝が南越を平定して、|蒼梧《そうご》、南海など七郡を置き、のち海南島を合めて二郡増し、交州刺史の統治下に属させたのである。
はじめ刺史は|龍編《りゆうへん》という所に駐在したが、これは現在のベトナムのトンキン地方に相当する。のち、|広信《こうしん》という所に移された。現在の広東省封川県である。
交州が、交州と広州の二州に分割されたのは、数年後のことだった。三国|鼎立《ていりつ》時代、交州は呉に所属した。だが、蜀の諸葛[#葛のヒは人]孔明が、着々と南方を経営しつつあったので、かなり微妙な問題がおこってきた。
いままでは、南の見棄てられたような土地で、せいぜい左遷か流罪用の役にしか立たなかったのである。
──交州へ流してしまえ!
と、孫権が叫んだとき、その場にいた人たちのなかには、
──交州か、気の毒に。……
と、同情した人もいたが、
──自業自得だ。あれほど言いたいことを言ったのだから。……
と、内心に思った人のほうが多かった。虞翻の傍若無人ぶりは、あちこちでひんしゅくを買っていたのである。
当時の交州の情勢はどうであったか?
ここには|士燮《ししよう》という有力者がいた。士家は前漢末の|王莽《おうもう》の乱のとき、中原の戦乱を避けて交州に移住し、すでに二百年の土着勢力であった。士燮の父の士賜は桓帝のとき日南太守に任命された。士燮は|交趾《こうし》太守となったが、その弟の|士壹《しい》が|合浦《ごうほ》太守、つぎの弟が九真太守、その下の弟が南海太守といったふうに、一族でその一帯をかためていた。
漢末、中央政府の派遣した交州刺史の|張津《ちようしん》が殺されたころ、この地には中央の威令はもはやおこなわれなかった。荊州の牧の劉表が、勝手に頼恭という人物を交州刺史に任命した。
劉表の勢力が消えたあと、この地方は赤壁で大勝した孫権の勢力が及ぶようになった。土着勢力は、そのような大軍閥に逆らわず、適当に貢物を送って臣属の形をとったが、実質的には半ば独立していたのである。
士燮は衛将軍となり、龍編侯に封じられ、弟たちもそれぞれ中郎将、偏将軍に任命された。
孫権の力が強くなり、圧迫をかんじると、士燮は息子を人質に出して、恭順の意をあらわした。また孫権のために、益州辺境の豪族たちを味方につけ、軍閥の勢力圏拡大に力を貸した。
虞翻が交州に流されたころ、士燮はすでに八十に近く、もっぱら『春秋左氏伝』の註解に没頭していた。
虞翻も碩学として知られ、『老子』『論語』『国語』などの研究は当代一流であった。
「たのしみじゃのう。……」
虞翻が流されてくるときいて、士燮がたのしみにしたのはとうぜんであろう。
「話によれば、人を人とも思わぬ、|傲岸《ごうがん》な人物だそうでございます。父上のお気に召さぬ振舞いがあるかもしれませんぞ。なにしろ呉王殿下でさえ、もてあましたという人物ですから」
と、息子の|士徽《しき》が言った。
「わしがたのしみにしておるのは、虞翻ではないわ。虞翻なら彼の著述を読んでおるから、どんな考えをもつ人物であるか、およそわかっておる。べつにどうってことはない」
「では、なにがたのしみですか?」
「虞翻とおなじ舟で、|浮屠《ふと》の者と五斗米道の者とが来るそうな。どんな考えなのか、よくわからぬ連中じゃから、会うて話をきくのがたのしみじゃ」
虞翻とおなじ舟で、浮屠の|比丘尼景妹《びくにけいめい》と五斗米道の陳潜という者が交州に来ることになっている。
景妹は月氏の女性である。在留月氏族の信仰としてはいった浮屠の教え──仏教は、乱世という背景もあって、急速に中国人のあいだにひろがった。だが、シルクロードを通って中原にはいった仏教と、南方経由で交州にはいった仏教とでは、やや肌合いがちがうのである。長江一帯の仏教は、その両者がまじり合って、いささか混乱していた。景妹はその調整のために、交州へ行くことになった。若いころ、病気がちであったが、四十代になってから彼女は強くなった。体質が改善されたのである。
交州は当時、|淫祠《いんし》邪教がはびこり、仏教は伝来したばかりだし、五斗米道の力もまだ弱い。まともな信仰のない土地であった。陳潜は五斗米道布教の瀬踏みのため、教母少容から交州へ派遣されたのである。
そんな変わり種が来るという話は、すでに交州へも伝わっていた。
当時、長江沿岸地方から交州へ行く最短のコースは、|潘陽湖《はようこ》から南下するそれであった。
武昌へ進出する前の孫権の前線基地|柴桑《さいそう》は、|廬山《ろざん》のふもとにあり、潘陽湖はその南にひろがる。現在の南昌市あたりを経由して、|★[#章+(夂+貢(右側は夂が上、貢が下))]江《かんこう》をさかのぼる。江西と広東の境界で、しばらく陸行し、やがて珠江の上流の|★[#さんずい+貞]水《ていすい》に舟をうかべて、こんどはくだりである。|韶関《しようかん》市を経て、いまの広州市まで珠江をくだる。鉄道が敷かれるまで、これが広東と中央を結ぶ幹線ルートであった。
虞翻の一行もこの道を取った。
「武昌から来た者の話では、虞翻は流罪ですんだのがふしぎなほどだということです。ずいぶん呉王殿下に|盾《たて》ついたそうですが、命知らずの男と申すほかありません」
と、士徽は言った。
「ただの流罪ではないぞ、あの男は」
高齢の父は、白いあごひげをしごきながら言った。
「と申しますと?」
「われらは、呉王のために、もっと働かねばならぬ」
士燮は急に話題を変えた。
「もともとわれらは呉王の家臣ではありませんでした。それにしては、呉王のために、ずいぶん働いたではありませんか。……われらの働きがなければ、|雍★[#門+豈]《ようがい》が蜀にそむくようなこともありますまい。蜀が多事なれば、それだけ呉は助かるわけです」
「あんなにはげしく戦ったのに、蜀と呉は仲好くなってきた」
「魏にあたるには、呉も蜀も独力ではかないませぬ。両者は連合するほかないのです」
「そんなにかんたんなものではない」
「さようでございますか? 私には、天下の情勢が、きわめてかんたんにみえますが」
「五十にもなって、そのへんのことがわからぬのか。は、は、は……」
士燮は笑った。さびしげな笑いだった。
関羽、張飛、そして最後に劉備という順序で、蜀漢の三人の英雄は正確に一年おきに死んだ。
──あの三人がいなくなれば、蜀漢はもうおしまいではないか。
魏や呉ではそんな声があったが、事情を知る者なら、それにたいして首を横に振ったであろう。
──どうして、どうして。蜀漢には諸葛[#葛のヒは人]孔明がいるではないか。孔明さえ健在であれば、蜀漢の基礎は揺るがぬ。劉備玄徳は自分亡きあとのために、三顧の礼を尽して孔明を迎えいれたのだ。
──劉備が死んだというしらせがはいったとき、魏の文帝──|曹丕《そうひ》は、
「諸葛[#葛のヒは人]孔明は、まずなにから手をつけると思うかね?」
と、少容に訊いた。蜀の地には五斗米道の信者が多いので、彼女は蜀漢にかんする情報を、最も多くもつ立場にあった。
「人材を養成することからはじめるでしょう。すくなくとも一年のあいだは、ほかのことはできないはずです」
と、少容は答えた。
「さもあろう」
と、曹丕はうなずいた。
衆目のみるところ、蜀漢には人材がすくない。関羽と張飛の二本の柱だけではなく、黄忠や馬良といった猛将たちも世を去ったので、これまで比較的豊富であった軍事の人材も、あとは趙雲ぐらいしかのこっていない。その趙雲ももう年である。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は、文武双方にわたって、まず人材をそろえなければならない。
じつは蜀に人材がいないのではない。他所からはいりこんだ劉備政権に、地元の人材がそっぽをむいているのだった。劉備にしても、苦労をともにした子飼いの部下がいるのに、それをさしおいて地元の人材を登用することができなかった。
──地元の者は高い地位につけない。
──やっぱり、よそ者の政権だ。
そんな評判が、地元の人材に、二の足を踏ませたのである。
だが、劉備が蜀にはいって、もう十年をすぎたのだ。
劉備子飼いの人材も老いはじめ、幹部層は交替の時期にきていた。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は、|丞相府《じようしようふ》をひらいて、人材養成に乗り出したが、地元出身者に門戸を開放したのはいうまでもない。
これまでの蜀漢の幹部は、「漢」のみを愛して、「蜀」にはよそよそしかった。孔明が丞相府で養成した人材は、蜀の人が多かったので、熱烈な愛郷心に裏打ちされていた。大地に根を生やした政権が、ようやく固まってくる。固まるまでは、ほかのことに手をつけられない。──これは、少容が予想したとおりであった。
交州にあって、熱帯の日ざしを窓からじっと眺めながら、白いあごひげをしごいていた士燮も、そのことは知っていた。彼は一日じゅう、ぼんやりと外に目をむけているようにみえたが、じつはときどき机にむかって、筆をとることもあった。
短い文章を書く。
指令書であった。
蜀漢がなにもできないのにつけこみ、益州の少数民族の指導者を|煽動《せんどう》したのである。
四川の南部から、雲南、貴州、広西にかけて、いまでも少数民族が多い。彼らは長老を|耆帥《きすい》と呼んでいた。そのころ、|雍★[#門+豈]《ようがい》という人物が耆帥であった。
──蜀漢の太守を殺して反乱をおこせ。
もし反乱を決心すれば、いくらでも軍資金を出そう。……
士燮は若いころ、洛陽に遊学したことがあるが、その期間を除いて、八十に近い人生のほとんどを交州ですごしている。少数民族のなかで生活したのだ。士家が交州に住んで二百年のあいだに、おそらく少数民族の血も混じったにちがいない。生活から、そして血から、彼は少数民族を理解している。
耆帥を煽動することなど、彼にとってはきわめてたやすいことであった。
──呉のためにする。
いま彼は呉に臣属しているので、呉王孫権のために、少数民族を煽動して蜀漢を困らせるのだ。とはいえ、それは交州に基盤をおく士家のためでもある。
(諸葛[#葛のヒは人]孔明は、蜀漢の状況がおち着けば、かならず南下してくるだろう)
これが士燮の見通しである。
魏にくらべてはもとより、呉にくらべても、蜀漢の国力は|脆弱《ぜいじやく》であった。国力を増進するためには、蜀の南部の開発あるのみだ。資源が豊富で、インドシナ半島、ビルマ、インド、南海との交易も盛んである。魏や呉と戦うまえに、蜀漢は自国領内の開発をはかるのが先決となる。
(いまのうちに、その開発すべき地方をみだしておけ)
と、老人は考えた。
耆帥の雍★[#門+豈]は、蜀漢の任命した益州郡大守の|正昂《せいこう》を血祭りにあげて、反乱をおこした。蜀漢は正昂が殺されたので、|張裔《ちようえい》という人物を後任に送り込んだが、雍★[#門+豈]たちはこれをとらえて、呉へ送った。この功績によって、呉は雍★[#門+豈]を永昌太守に任命した。
こうなれば、もう|燎原《りようげん》の火である。──
もともと蜀の南部は、これまで成都の漢人政権に|搾取《さくしゆ》されてきたのだ。怨みは深い。反抗の声がひとたびあがれば、あとはべつに煽動の必要もない。民衆は一斉に|起《た》ちあがる。蜀漢から任命されていた役人たちも、民衆側について、成都にたいして反旗をひるがえした。じつはそうしなければ、自分自身の命が危ないのである。
|★[#爿+羊]★[#木+可]《そうか》太守の|朱褒《しゆほう》、|越★[#表示できず。同梱hinon06-zui.jpg参照]《えつずい》の首長の|高定《こうてい》たちも、みな反乱軍に荷担して、雍★[#門+豈]陣営にはいってしまった。
劉備が白帝城で死んだ直後のことである。蜀漢にはこれらの反乱軍を討伐するだけの余裕はなかった。諸葛[#葛のヒは人]孔明は、越★[#表示できず。同梱hinon06-zui.jpg参照]の霊関という関所を閉鎖して、反乱が蜀漢の中心部に及ばない措置をとるのが精一杯だった。
このときの反乱で、蜀漢側は永昌の線で、かなり頑強に応戦した。けっきょく、周囲の民衆の蜂起で、やっとそこを抜くことができた。そして、民衆を蜂起させたのは、|孟獲《もうかく》という少数民族の指導者の力によったのである。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は、この危機を、外交的手段によって切り抜けようとした。
少数民族反乱のうしろには、交州の実力者である士燮がいて、そのうしろには、ほかならぬ呉王孫権がいた。
蜀漢と呉との関係を改善すればよいのである。そもそもこの両者のあいだには、関羽のとむらい合戦という難題さえなければ、あとは困難な懸案はない。十四年前の赤壁戦では、両者は連合さえしたのである。
将軍ではなく、外交官が活躍する季節となったのだ。諸葛[#葛のヒは人]孔明は呉との友好を進めるために、外交官として誰を起用すべきか、蜀漢の人材を一人一人、検討していた。帯に短し、|襷《たすき》に長しで、なかなかみつからなかったが、やっと選び出すことができた。
「蜀漢に人材がなかったのではない。これまで、人材を見つけ出すことができなかったのだ。……」
諸葛[#葛のヒは人]孔明はそう痛感した。反省もした。
蜀漢と呉との同盟を結ぶだけのために、この世に生まれてきたような人物を、彼は成都の政府内にみつけたのである。
それは|★[#登+おおざと(邦の右側)]芝《とうし》という人物であった。|字《あざな》は|伯苗《はくびよう》で、先祖に後漢の大|司徒《しと》(首相)の|★[#登+おおざと(邦の右側)]禹《とうう》がいるのだから、名門の出身といわねばならない。それなのに、どうしたわけか、これまで不遇であった。もっとも本人は、
──わしは年を取ってから大成するのだ。
と言って、けっしてあせらなかった。若いころ、人相見にそう言われたそうだ。
弁舌もけっしてさわやかではない。もしそうであれば、これまでに起用されていたであろう。|訥々《とつとつ》としているが、その言葉にふしぎな説得力があった。
(これはいける)
と、孔明は思った。
江南は才子の国といわれていた。|滔々《とうとう》と弁じ立てる論客はすくなくない。孫権の周囲にも、そのような弁士は多かった。孫権を説き伏せるには、彼のまわりにいる論客たちよりも、すぐれた「舌」が必要である。
それはかならずしも、立板に水式の弁論でなくてもよい。むしろ、従来の論客とは別種の人物のほうがよいであろう。いま孫権が陣取っている荊楚の地は、屈原以来、華麗な修辞に|溢《あふ》れた土地柄である。まともに正面からむかって行っても、太刀打ちできないはずだ。異質の舌を用いるしかない。
★[#登+おおざと(邦の右側)]芝起用には、もう一つの|狙《ねら》いがあった。その実体が豪族連合である呉では、家柄があんがいものを言うのである。★[#登+おおざと(邦の右側)]芝の先祖の★[#登+おおざと(邦の右側)]禹は、後漢の創始者光武帝を補佐し、建国の功績第一の人物であった。★[#登+おおざと(邦の右側)]禹、字は仲華。この名を知らぬ者はいないのだ。呉に使いしたなら、★[#登+おおざと(邦の右側)]芝はなにはともあれ、敬意をもって迎えられるであろう。その★[#登+おおざと(邦の右側)]芝に、けっして巧みではないが、ふしぎな説得力をもつ舌で同盟を説かせようというのだ。
易者に大器晩成といわれ、そのとおり信じたように、★[#登+おおざと(邦の右側)]芝は自己暗示にかかりやすい性向があった。孔明はそれに目をつけ、
──あなたにしかできない交渉だ。蜀漢の廷臣、多士済々とはいえ、これができるのはあなた一人だけだ。
と、おだてあげた。
孫権は蜀の使者★[#登+おおざと(邦の右側)]芝を引見して、
「同盟というのは、相手も強くなければならない。かりに呉と蜀が同盟を結ぶとしよう。魏が大軍を発して、漢中から蜀に攻め込めば、蜀は支え得るだろうか? 蜀の国主は幼弱であり、国土は小さく、国勢も振わない。魏が蜀をほろぼせば、同盟者のわが呉の運命は、もはや風前の灯となる。同盟したい気持はあるが、なかなか踏み切れんのだよ」
と言った。|夷陵《いりよう》の戦勝のあととはいえ、孫権もずいぶん蜀の実力をみくびったものである。
「蜀はけっして小国ではありません。それは、呉が小国でないのとおなじです。……」
と、★[#登+おおざと(邦の右側)]芝は論じた。
呉は背後に交州というひろい土地をもち、蜀もまた南方に未開発の広大な地域を抱えている。その国土を有効に利用すれば、魏に劣るとはいえないはずだ。
「国主は幼弱ですが、丞相諸葛[#葛のヒは人]孔明が控えております。呉王殿下、あなたは一世に|秀《ひい》でた英主でありますが、わが丞相とてこの時代の俊傑といえましょう。蜀には剣閣など天下の険による固めがあり、呉には三江という防壁があります。おたがいの長所を合わせ、緊密な同盟関係を結べば、天下の統一も可能でありましょう。一歩退いても、魏と対抗して、天下三分の計を立てることはできます」
★[#登+おおざと(邦の右側)]芝は誠意をこめて説く。ときどき詰ったり、とちったりしながらも、言葉の重みを失わない。孫権はじっと★[#登+おおざと(邦の右側)]芝の目をみつめながらきいている。★[#登+おおざと(邦の右側)]芝も|臆《おく》する色なく、孫権の目から視線をそらさずに説きつづけた。
「魏は呉王殿下の王太子を人質に要求しているそうでございます。王太子を人質に出せば、つぎは呉王殿下の入朝を要求するでしょう。それを拒めば、魏はそのことを口実として、大軍をさしむけるでしょう。呉が造反したと称して。……そうなれば、わが蜀としましても、そのような好機を見逃すわけには参りません。長江沿いに軍隊を送るでしょう。そうなれば、江南の天地は、もはや殿下のものではありませんぞ」
訥弁ではあったが、★[#登+おおざと(邦の右側)]芝は最後のところに力をこめた。
「好機逸すべからずか。……」
孫権は呟いた。
彼は★[#登+おおざと(邦の右側)]芝の外交辞令を抜いた言い方が気に入った。そうなれば、たしかに逸すべからざる好機であり、孫権がかりに蜀の人であるとすれば、ためらわずに兵を呉にむけるにちがいない。
「いかがでございますか?」
★[#登+おおざと(邦の右側)]芝の目はまだ孫権の面上に食いついてはなれない。
「わかった。|卿《けい》の述べるところ、いちいちもっともである。呉・蜀の友好は、わしとて望むところだ。魏との関係も、いろいろいきさつがあるが、これは適当な使者を派遣して、孔明どのに説明しよう」
と、孫権は言った。
呉から派遣された使者は張温であった。この張温は蜀に使いして、すっかり蜀びいきになってしまった。呉に帰ったあとも、ふたことめには、
──蜀では。……
と、蜀のことをほめた。孫権にしてみれば、これはあまり面白くない。のちに張温は失脚するが、遠因はここにあったといわれている。
張温が特使として蜀を訪問した答礼として、蜀から呉へ派遣されたのは、とうぜん★[#登+おおざと(邦の右側)]芝であった。
呉王孫権は★[#登+おおざと(邦の右側)]芝にむかって、
「天下が太平となって、呉と蜀とが天下を二分して治めることができるようになれば、どんなにたのしいことか」
と言った。
★[#登+おおざと(邦の右側)]芝は首を横に振って、
「天に|二日《にじつ》なく、地に二人のあるじはいません。魏を打倒したのちは、二人のご主君がそれぞれ徳をおさめ、家臣たちが忠義をつくし、最後には武器をとって、戦いが始まるほかありませぬ」
と答えた。
孫権は心地よげに笑って、
「卿はその心のなかが、みえみえになっているところがよい。言葉と心がおなじであって、ひとを安心させる」
と言った。
呉と蜀は、その後もしばしば使節を交換した。蜀は★[#登+おおざと(邦の右側)]芝以外の者を派遣したこともあったが、孫権はあまりよろこばなかった。孫権は諸葛[#葛のヒは人]孔明に手紙を書き、
──われら両国を和合させうるのは、★[#登+おおざと(邦の右側)]芝のほかにいない。花に釣合った実がかならず結ぶ。ほかの連中は、大きな花を咲かせてみせるが、その実は小さいか、まったく実を結ばないことさえある。
と述べたものだ。
劉備が死んだ年、蜀漢は建興と改元した。その翌年、蜀漢の建興二年(二二四)、魏の黄初五年、呉の黄武三年は、さしたることもなくすぎた。曹丕は水軍を率いて広陵まで南下したが、まもなく北へ去った。広陵は現在の揚州市だから、ほとんど長江の線まで兵を進めたのである。
呉王が人質を出さないので、示威のための出兵であったようだ。孫権が挑発に乗らなかったし、天候もきわめて悪かったので、魏軍はむなしくひきあげた。
そのあいだに、呉と蜀の同盟は、ますます緊密を加えた。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は、夷陵の敗戦でうけた蜀の傷をいやし、民生に心を用い、国家としての休養をはかったのである。
ほぼ二年にわたる休養ののち、建興三年(二二五)春三月、諸葛[#葛のヒは人]孔明は蜀軍に動員令を下した。
南征である。
雍★[#門+豈]を首領とする、いわゆる「西南夷」が、蜀の南部で反乱をおこしたのが、一昨年の六月であった。
四月に劉備が死んだばかりなので、蜀としては、関を閉鎖するだけで、討伐軍をさしむける余裕などなかった。
やっと国力が回復した。
──野蛮人どもめ! ひとの大葬につけこんで反乱をおこすとは!
蜀では|敵愾《てきがい》心が高まっていた。これは、はげしい感情である。諸葛[#葛のヒは人]孔明は、その感情を大切に育てあげた。よそ者政権が、土地の人たちと融け合うには、共通のはげしい感情をもつのが最良の策なのだ。
「この南征は、来たるべき北伐の一環である。そのことをよくわきまえよ。わたしみずから、このたびの南征軍を指揮する」
諸葛[#葛のヒは人]孔明は御前会議でそう発言した。
王連という者が反対した。──
「南方は|瘴癘《しようれい》の地ですぞ。一国の運命をになった丞相が、なぜそのような危険をおかされるのですか? 万一のことがあれば、蜀は暗黒になってしまうではありませんか」
王連は涙してそう言った。諸葛[#葛のヒは人]孔明は目がしらが熱くなったが、涙をじっとこらえた。王連は|劉璋《りゆうしよう》の家臣である。劉備が蜀を取ったとき、王連は|梓潼《しどう》城を守り、頑強に抵抗したので、劉備はそこを|陥《おと》さずに素通りしたほどだった。本来なら、このよそ者政権に、最もはげしい敵意をもつべき人物である。それが、涙を流しながら、孔明の身を案じてくれるようになった。
(もう融和はほとんど成功した。蜀の人心は一つになった。……)
王連のけんめいの反対に、孔明は心のなかで頭を下げながらも、会議の席上では、|昂然《こうぜん》と顔をあげ、胸を張って答えた。──
「わたしはすでに決心している。われらの終極の目的は、軍隊を北に発して、暴虐の魏を討つことにある。とはいえ、このたびの南征も、その一環であるから、緒戦は重要このうえもない。わたしみずから指揮をとることにきめた。変更できないことだ」
魏と戦う北伐戦の軍糧は、四川の南のゆたかな土地に頼らねばならない。南方が不安定であれば、北伐軍の軍糧に不安があることを意味する。だから孔明は、この南征を北伐の一環と強調したのだ。
「それとも、野戦の経験に乏しいわたしではその指揮に不安があると申されるのか?」
と、孔明は詰め寄るように訊いた。
後年の活躍で、諸葛[#葛のヒは人]孔明は大軍師、作戦の神様のように思われているが、じつは彼の才能は軍事よりも政治にあった。劉備も関羽のとむらい合戦のとき、孔明を成都にのこして留守役を命じた。それ以前にも、野戦の攻防の指揮をとったことはほとんどない。
「いえ、滅相もない。そのようなことは申しておりませぬ」
「では、わたしが指揮をとることに、反対しないでいただきたい」
こうして孔明の総司令官就任がきまった。
前にも述べたように、関羽、張飛、黄忠、馬良、馬超と、蜀漢はつづけて武将を失っている。これからは、新しい司令官で戦わねばならない。その場合、新しい武将の戦いぶり、作戦の癖などを知っておいたほうがよい。孔明はみずから従軍することで、これから|擡頭《たいとう》する、新しい武将群を観察しようと思った。その意味でも、この南征は北伐の前奏曲だったのである。
南征軍の参謀長は、夷陵で戦死した馬良の弟の|馬謖《ばしよく》であった。|李★[#表示できず。同梱hinon06-kai.jpg参照]《りかい》、馬忠、張儀といった新しい世代の将軍が、この南征で小手しらべをすることになった。
「作戦の根本方針は?」
と、孔明は馬謖に訊いた。
「城を攻めるよりも心を攻めること。兵で戦うよりも心で戦うこと。……」
と、馬謖は答えた。
「それだ。……」
諸葛[#葛のヒは人]孔明は、我が意を得たようにうなずいた。
これから軍を進める地方を、蜀では「南中の地」と祢している。南中は成都から遠く、かつ道は険しい。かりに今日、南中の敵を攻めて降しても、明日になればまたそむくかもしれない。そうかんたんに討伐軍を送ることができないのを、南中の人たちは知っているのである。
「南征の目的は、南中の長期にわたる安定にある。長期にわたる。……」
孔明は長期ということばをくり返した。
長期の安定が得られてこそ、軍糧や資源をこの地方に頼ることができる。そのためには、力で抑えるだけではいけない。心服させることが大切なのだ。
「なにしろ二年のあいだ、やつらは勝手なことをしておりました。それを考えると、いまいましいのですが。……」
馬謖は唇をかんだ。
「二年のあいだ、こちらはなにもできなかったと申すのか?」
諸葛[#葛のヒは人]孔明は笑いながら訊いた。
「そのとおりではございませんか。……呉との友好を回復することに全力をあげて、南中をかえりみるひまはありませんでした」
「ひまのあるなしの問題ではない。やろうと思えば、そのための時間は、しぜんにつくれるものなのだ」
「そんなものでございますか。……」
馬謖は首をかしげた。
「心を攻める戦いは、野戦でなくてもできる。この一年あまり、わしは戦いの準備をしてきたつもりじゃ」
と、孔明は言った。
「それは?」
「あの連中のあいだに、内輪もめがあるという話をきいたであろう?」
「はい。さまざまな部族の|寄合《よりあ》い所帯ですから、なにかと問題があるようですが。……それが……丞相の……」
「わしがもめごとをおこさせたとは言わぬ。はじめから|内訌《ないこう》の種はあった。ちょっと火がついていたのを、|煽《あお》ぎはしたが。……」
「さすがは丞相。……」
馬謖は目をかがやかせた。
「いや」と、孔明は首を横に振った。「世の中、こちらの思惑どおりに、すなおに行くものではない。こちらが火を煽ごうとしても、その火に水をかけようとする者もいる」
「水をかける? 彼らのなかでですか?」
「いや、外からの働きかけだよ」
「誰が水をかけるのですか?」
「交州の人だ」
「やっぱり、あの士燮ですか。……」
馬謖は|眉《まゆ》をつりあげた。
「いや、あの老人ではない。あの老人には、ずいぶん苦労して話をつけたのだが。……とんでもない男が割り込んできた」
孔明は馬上で眉をひそめた。
「とんでもない男とは?」
「しかし、負けはせぬぞ」
孔明はその男の名は言わずに、胸をそらした。自信に|溢《あふ》れた姿勢である。
南海。──現在の広州市の一隅に、朱塗りの柱に、そりかえった屋根をもつ建物があった。交州の王者といわれた士燮老人が、南海に来ると、そこを宿舎とする。
二百米ほどはなれたところに、ひろい庭つきの邸宅がある。|蘋婆《ひんば》という南方系の樹が多い。そこは、前漢南越王の旧宅と伝えられているが、いまは呉王孫権の怒りを買って流されたという、畸人虞翻の住居にあてられていた。
どちらも楼閣にのぼれば、その窓から相手の邸内を見下ろすことができる。
「とんでもない男が相手じゃ。おかげで、こちらもゆっくり|耄碌《もうろく》もできない。……いやはやもう。……」
士燮老人は、真っ白なひげをしごき、楼閣の窓から虞翻の住居を見下ろした。そこの住人のことを、老人もまた諸葛[#葛のヒは人]孔明とおなじく、とんでもない男、と表現したのである。
老人は呉王孫権の命令で、西南夷を煽動して、蜀にたいする反乱をおこさせたのだ。その内命を受けたときは、劉備が関羽のとむらい合戦のため、長江をくだりつつあった。呉と蜀は仇敵関係なので、敵の後方を|攪乱《かくらん》するのは定石といえよう。だが、そのあと、孔明や★[#登+おおざと(邦の右側)]芝の活躍で、呉と蜀は和を結び、同盟関係にはいったのである。
老人は煽動活動をしばらくやめていると、孫権からかなりきびしい命令が届いた。
──これまでどおり、雍★[#門+豈]たちを後援して、南中の地の騒乱を助長するように。
同盟関係は表面で、そのうらには、それぞれ思惑がある。
(ならば、わしも表面は表面、うらはうらで行こうか。……)
士燮はそう思い定めた。
諸葛[#葛のヒは人]孔明の誘いがあったのだ。西南夷の反乱集団を弱体化してくれるなら、蜀の財宝を進呈しようという。──老人はすでに首領の雍★[#門+豈]をひそかに呼びよせ、
(しばらく手を休めるように。……)
と要望した。交州の老人は、むろん雍★[#門+豈]には、財物を与えていたのである。
雍★[#門+豈]はなにもないところに火をつけたりして、反乱らしい気勢をあげていたが、じつはたいして兵をうごかしていない。
老人は孫権の命令と、諸葛[#葛のヒは人]孔明の買収工作とのあいだに立ち、適当にお茶を濁していた。そして、いろいろと損得を計算した。いつまでも、あいまいな態度をつづけることはできない。いつかは態度をはっきりさせねばならない。
このままだと、諸葛[#葛のヒは人]孔明という英傑のいる蜀が、予想外に実力をつけ、あるいは一気に南下して、交州をおびやかすおそれもある。そのために、西南夷を煽動したのだ。なにも呉王に命じられたからだけではない。だが、それはどうやら|姑息《こそく》な手段のように思える。もし孔明がその気になりさえすれば、西南夷の反乱など、たちどころに鎮圧されてしまうだろう。
(いま蜀は呉との修交に力をいれて、ほかのことはかえりみないが。そのうちに……)
そのときになれば、交州はきわめて危ない。これまで西南夷を煽動したことがあるだけに、交州は「討伐」を受けても文句はいえない。
(そろそろ考えておかねば。……)
と思いはじめたころ、孔明の誘いがあったのだから、渡りに舟であった。
そこへ、とんでもない男──虞翻が流されてきたのである。老人は息子たちから、虞翻流罪のいきさつをきくと、「読めた。……」という気がした。
老人の直感に狂いがなければ、虞翻は孫権の密命をうけて、交州へ監査にきたのである。監査の対象は、いうまでもなく、士家一党の西南夷工作であろう。
いくらうまくお茶を濁しても、武昌にいる孫権の耳に、西南夷の情勢があやしいという情報がはいったにちがいない。孫権はそれを調査したいと思ったが、正式の使者を出せば、|老獪《ろうかい》な士燮はうまくごま化すかもしれないので、すこし変わった形式をとることにした。──主君の怒りを買った家臣が、交州へ流される。考えたものではないか。これでは、現地の人たちも、警戒しないであろう。げんに老人の息子、士徽も「まさか……」と、本気にしなかった。
「五十にもなって困ったやつだ。……」士燮はいつもの口癖を口にして、「よく考えてもみよ。それまで虞翻は片田舎に流されていて赦免されたのだ。|赦《ゆる》されたばかりなのに、わざと主君に逆らっている。これは、おかしいではないか?」
「なにぶんにも畸人でありまして……」
「畸人ではあったろう。だが、畸人の噂はとくに近年高くなった。作為的な気もする。ま、それはよいが、直諌によっていちど罰せられた。諌言というのは、国のためをおもってのことなのだ。こんどはちがう。降参した将軍をいじめるとか、主君の乾杯を無視するとか神仙の話をばかにするとか、まるで国事とは関係がない。直諌の士が、いまや酒乱の士に変わってしまった。……よいか、こんな話をきくと、誰しもすうーっとする。主君にぺこぺこ頭を下げる人間の多い世の中だ。こんな傲岸な人間には、拍手の一つも送りたくなる。だが、じっさいには、なかなかできないものだ。そんなことをすれば、いつ首を|刎《は》ねられるか、わからないではないか。……虞翻はなぜできたのか? はじめから、そんな筋書が書かれていたのだ。さんざん主君を|こ《ヽ》け《ヽ》にして、遠い交州に流される。誰しもそれはあたりまえだと思うだろう。首がつながっただけでも儲けものだと、な。そして、あれは畸人だからなと、あまりあやしまない。……自然ではないか、虞翻が交州に来たのは。……自然にみせねばならんのだ、われらのことをさぐるためにはな。……」
これが八十に近い老人の言葉と思えないほど、理路が整然としている。五十になる息子が、なるほどと、感心しているありさまだった。
「それにしては、手がこんでいますな」
息子の士徽が小首をかしげた。
「わしをごま化そうとするのだから、呉王殿下も、複雑な手を考えられた。……おそらく、張昭の入れ智恵であろうが、なんのなんの、年は取っても、そうかんたんにごま化せるものか。……」
「どうして見抜いたのですか?」
「浮屠の女と五斗米道の者とが同行しているときいて、わしはぴんときたのじゃ。その者たちは、信者のあいだを、自由に泳ぎまわって、いろんな情報を集めたり、工作をしたりすることができる。まったく、都合のいい者たちを連れてきた。……」
士燮はじっと虞翻の邸に目をそそいだ。
「どうかしましたか?」
と、息子は訊いた。
「あちらが、なにやら騒がしくなったようじゃが。……」
老人が言い終わらぬうちに、こちらも騒がしくなってきた。楼閣の階段を、あわただしく駆けのぼってくる足音がきこえた。
「なにごとじゃ、騒々しい」
と、老人は言った。
階段を駆けのぼってくる人物は、まだのぼりきらないのに大声をはりあげた。──
「雍★[#門+豈]が殺されましたぞ!」
「なに、雍★[#門+豈]が。……」
老人はすっくと立ちあがった。その顔に苦悩の色がうかんだ。やがて、彼は弱々しげに腰をおろした。──「どうりで、虞翻の邸では、うれしげな騒ぎであった。……」と呟きながら。
士燮は雍★[#門+豈]を買収して、蜀のために、反乱の手をゆるめていた。それが仲間のあいだに、不満をあおったのかもしれない。ともあれ、雍★[#門+豈]が死ねば、あとは硬派の|孟獲《もうかく》が、西南夷の指導者になるだろう。孟獲は人望があるという。統率力も抜群と評されている。蜀を相手に、南中の地に暴れまわるにちがいない。
「魏もやるのう。……」
ややあって、老人はそうひとりごちた。
蜀の境界がみだれて得をするのは、同盟国の呉よりも、諸葛[#葛のヒは人]孔明の北伐をおそれる魏であったのだ。
はたして、魏の謀略がここまで及んでいるのか?
「張昭だな。……虞翻を交州に送ってよこしたのは」
老人は首を振った。──呉はむかしから、親劉備と親曹操の底流があった。前者の代表がいまは亡き魯粛であり、後者の代表がいまだ健在の張昭であったのだ。
「ま、なるようになれ」
老人はしずかに目をとじた。
夷とか蛮とかいうが、このあたりの少数民族は、|苗《ミヤオ》、|彝《イ》、|★[#イ+同]《トン》、|壮《チワン》、|★[#イ+搖(搖の右側)]《ヤオ》などの諸族で、容貌からみれば、漢族とそれほど異ならない。漢人とかわらぬ、いや、それ以上の教養を身につけた人物もいる。
孟獲がそうであった。
雍★[#門+豈]が暗殺されたあと、孟獲がその跡目をつぐのは確実とみられていた。この一年ほどのあいだ、仲間のなかで雍★[#門+豈]は評判をおとしていた。来歴不明の財宝を、彼が持っているという噂もあった。|妾《めかけ》の数が急にふえた。
──|耆帥《きすい》の身辺がすっきりしないぞ。
幹部のあいだに、そんな声もあがっていた。だから、暗殺されたというしらせが伝わったとき、事情を知る者なら、
──やっぱり。……
と、うなずいたのだった。
西南夷造反集団にとっては、緊急事態といわねばならない。諸葛[#葛のヒは人]孔明を総司令官とする蜀の大軍が、|越★[#表示できず。同梱hinon06-zui.jpg参照]《えつずい》の霊関をひらき、つぎつぎと南下してきた。
孔明は緒戦で夷王の高定を斬った。
造反集団は、孟獲を首領に推して、けんめいに抵抗した。
蜀軍の一部は、馬忠に率いられ、|★[#爿+羊]★[#木+可]《そうか》から入って、貴州の造反軍を撃破した。★[#爿+羊]★[#木+可]郡は現在の|遵義《じゆんぎ》で、一九三五年に紅軍が長征中にここで会議をひらき、毛主席が実権を手中におさめた場所にあたる。
李★[#表示できず。同梱hinon06-kai.jpg参照]に率いられた蜀軍は、雲南の昆明にはいった。この部隊は造反軍に包囲されたが、ついにそれを突破して、本隊と連絡を取ることに成功したのである。
孔明が部下に口を酸っぱくして説いたのは、例の「心の戦い」であった。いくら野戦で快勝しても、人心を失った場合は、
──敗戦とみるぞ!
と教えたのである。そのため、戦いにくいときもあった。李★[#表示できず。同梱hinon06-kai.jpg参照]軍が苦戦したのも、人心を失うことをおそれたためだった。
──孟獲を生け捕りにせよ。殺してはならぬ。生け捕った者には賞金を与える。
四川南部、貴州、雲南全土に、その命令が伝えられた。
やがて、孟獲はつかまった。
孔明は孟獲を連れて、蜀軍の陣営を|隅《くま》なく見せた。
「どうだな、蜀軍の陣立ては?」
と孔明は訊いた。
「たいしたことはありませんな。さきほどの戦いは、ようすがわからなかったので不覚を取ったが、陣立てを知ったいま、ああすればよかった、こうすればよかったと、さまざまな作戦が頭にうかびました。すこし早くわかっておれば、負けなかったものを。……残念でなりません。……」
孟獲はそう言って唇をかんだ。
「ほう。……では、もういちど戦ってみるかね?」
「えっ、なんですって?」
「釈放して進ぜよう。そして、もういちど戦って、はたして勝てるかどうか試してみられてはいかがかな?」
「正気でござるか?」
「この諸葛[#葛のヒは人]孔明、まだ気がふれておらぬわ」
「では、釈放していただこう」
「よろしい」
孔明は孟獲を釈放させた。
これには敵味方ともに|唖然《あぜん》とした。
孟獲は再び造反軍団を率いて、再び蜀軍と戦ったが、やはり勝つことができず、再び捕虜となった。
「は、は、は」孔明は笑った。──「われらはいささか陣立てを変えた。ごらんになるかな?」
「見ても仕方がござらぬ。どうせ負けたのだ。もういちど戦わせてくださるなら話はまた別だが。……」
「もういちど戦おうではないか」
「えっ……では……」
孟獲はじっと孔明をみつめた。孔明はにっこり笑ってうなずいた。
孟獲は再び釈放され、また戦って、また負けた。──
──|七縦七擒《しちしようしちきん》。(七たび|縦《はな》たれ、七たび|擒《とりこ》となる)
有名な故事である。
「立ち去られよ」
ついに八度目に、孔明にそう言われても、孟獲はもはや立ち去ろうとしなかった。
「あなたには天の威があるのだ。これでは勝負にならない」
と、孟獲は深々と頭をさげた。
こうして、益州、永昌、★[#爿+羊]★[#木+可]、越★[#表示できず。同梱hinon06-zui.jpg参照]の四郡は平定された。三月に成都を進発した蜀軍は七月にはすでに|凱旋《がいせん》した。|僅《わず》か四カ月の遠征にすぎなかった。
戦後の措置は、いたってかんたんである。蜀は全軍をあげて、成都に|凱旋《がいせん》した。占領地域には一兵もとどめなかった。中央の役人も派遣されなかった。
──兵をとどめると、その兵糧の調達で、民心を失うようなことがおこるだろう。役人を駐在させると、とかく地元を|搾取《さくしゆ》するようなことになる。
と、孔明はその理由を説明した。
──では、なんのために軍隊をむけたのですか?
という質問にたいしては、
──造反してもしなくても状況はおなじだ。造反すれば、人命を失うだけ損になることがわかればよいのだ。
と答えた。
南方は平定された。蜀の最大の事業である北伐──魏との戦いは、いよいよ近づいてきた。南中から凱旋したあと、諸葛[#葛のヒは人]孔明は北伐の準備に忙殺されることになった。
そんなある日、南中から孟獲が成都に出てきて、孔明に面会をもとめた。
「うまく行っていますか?」
と、孔明は訊いた。孟獲はいま西南夷の首長として、蜀の南方を治めている。
「どうやら、おかげさまで」
と、孟獲は答えた。
諸葛[#葛のヒは人]孔明と孟獲は、肝胆相照らす仲であった。戦ったあと、そうなったのではない。戦うまえからそうであったのだ。
──無駄に人命が失われる。なんとかならないものか? 漢人官吏の搾取さえなくなれば、われらはほかに望みはない。この騒乱をうまくおさめる手だてはないものか?
孟獲はひそかに、孔明にそんな相談をもちかけた。孔明が一と晩考えた末の作戦が、あの『七縦七擒』の芝居であった。敵も味方も、これには感動するにちがいない。この劇的な演出で、ことはおさまったのである。
「これからも、よろしくお願いします」
と、孔明は言った。
「こちらこそ。……それにしても、虞翻は気の毒でありました。……南中の乱がおさまったことは、彼にとっては使命をはたせなかったことを意味します。孫権は腹を立てて、もうすこし遠いところへ左遷するそうです」
「彼も任務には忠実でした。けんめいに南中をみだそうとしました」
「とはいえ、南中は南中の人間によって、未来をきりひらくのです。よそ者の策動だけではうごきません」
二人が酒を|汲《く》みかわしながら、そんな話をしているとき、急使が駆けてきた。
「申し上げます。魏の自称皇帝曹丕が、このほど世を去りましてございます!」
急使は呼吸を整えながらそう報告した。
「ほう! 曹丕が。……」
孔明は空を見上げた。──
作者|曰《いわ》く。──
孔明は七たび孟獲をとらえ、七たびこれを釈放したというのが、三国志物語のハイライトの一つであるが、少数民族のあいだでは、
──孟獲は七たび孔明をとらえ、七たびこれを放った。
という、まったく正反対の伝説が、現在まで語りつがれているそうだ。
現在の広州市の解放北路以西、中山六路以北、そして人民北路以東の一画は、古寺が多いことで有名である。|花塔《ホアタ》でその名を知られている六榕寺、|光塔《クワンタ》で名高いイスラム教の懐聖寺などである。それらのなかでも、最も古いのが光孝寺であろう。その光孝寺の縁起によれば、呉の騎都尉の虞翻が左遷されて、この南越王の旧宅に住んだという。時の人たちは、この邸を、『虞苑』と呼んだそうだ。碩学として知られた虞翻は、ここで学問を講じ、数百人の弟子を集めた。
そのあと、なにが気に入らなかったのか、孫権は彼をまた蒼梧郡の猛陵というところに移した。蒼梧は現在の広西壮族自治区の桂林のあたりだから、もっと辺境ということになる。
虞翻は七十歳でその地で死んだ。彼の遺族は許されて江南へ帰ることができたが、彼の未亡人は南海のその旧宅を喜捨して仏寺とした。はじめは『制止王園寺』と呼んでいたらしい。
四世紀末にカシミールの僧曇摩耶舎(ダルマヤサス)、五世紀はじめに求那跋陀羅(グナバドラ)などがここに|錫《しやく》をとどめた。唐の太宗貞観十九年(六四五)、乾明法性寺と改名し、武則天の時代は大雲寺と称した。天宝八年(七四九)、日本への第五次渡航に失敗して海南島に漂着した鑑真和上が、この寺を訪ねている。『唐大和上東征伝』によれば、鑑真はここに一春滞在し、登壇して信徒に戒をさずけたという。現在の「光孝寺」に改名されたのは南宋の紹興二十一年(一一五一)のことだった。
[#改ページ]
|泣《な》いて|斬《き》る
陰暦五月は盛夏である。黄初七年(二二六)の夏はとくに暑かった。
洛陽嘉福殿内で、魏の文帝|曹丕《そうひ》は、病床に|臥《ふ》せていた。彼は胸をはだけ、苦しげに|喘《あえ》いでいた。高熱のため、全身から汗が噴きあげている。二人の宮女が大きな|団扇《うちわ》で風を送っていたが、それでも曹丕は暑苦しそうで、
「う、う、う……」
と、たえず|呻《うめ》いていた。汗に濡れた胸が大きく上下している。
「|叡《えい》を呼べ」
曹丕は呻きをとめ、はっきりした声でそう言った。叡は彼の長男である。彼は十九歳で|袁熙《えんき》の妻|甄《しん》氏を奪い、二十一のとき彼女に生ませたのが曹叡なのだ。
「はい、いますぐに……」
|宦官《かんがん》が|跪《ひざまず》いて一礼し、小走りに部屋から出て行った。
曹丕の弟の曹植は|嫂《あによめ》の甄氏に、ひそかに想いを寄せていた。甄氏も夫の弟に好意をもち、極秘の情報をもらして、身の安全をはかるようにさせた。曹丕はそれに気づき、甄氏を殺してしまったのである。
病床の曹丕は、また呻きと喘ぎをつづけた。高熱がときに彼の意識を奪い去る。──そして、呻きと喘ぎの合い間に、彼はうわごとを口にした。
「許せ……許せ……」
誰に許しを|乞《こ》うているのか、人びとはそれを五年前に彼に殺された妻の甄氏であろうと想像した。だが、熱にうかされた曹丕が、その混濁した脳裡にうかべたのは、亡き妻の面影らしいものではなかった。緑の草原が、かすれたように、彼の頭のなかにうかぶ。そのかすれ方は、馬にのって疾駆するとき、目にうつる草原や森林のさまに似ていた。緑のなかにぼんやりと茶色の点が二つうかんでいる。一つは大きく、もう一つは小さい。曹丕は右腕をうごかした。肩のほうへ、|拳《こぶし》をもって行こうとする。
「なにごとでございましょうか?」
と、宦官は|訊《き》いた。曹丕がなにかを要求しているのかと思ったのだ。だが、曹丕はかすれた意識のなかで、しきりに弓を引こうとしていたのである。
二つの茶色の点は、えものの鹿である。大きいほうは母鹿で、小さいほうは子鹿なのだ。ついこのあいだ、曹丕は狩猟に出かけた。そのとしの正月、呉を討つべく南下したが、相手の守備が堅く、そのうえ天候も寒かったので、戦わずして洛陽に帰った。その翌月のことだから、いまから三カ月前にすぎない。
曹丕は弓を引きしぼって、みごとに母鹿を射た。息子の叡が一しょだった。
──叡よ、あの子鹿を射よ!
彼は息子にそう命じたが、いつもなら間髪を入れずに返事をする叡が応答しない。曹丕は|手綱《たづな》をしぼり、馬をとめてふりかえった。息子の曹叡は馬上で泣いていた。大粒の涙が頬をつたって流れ、曹叡は手の甲でそれを|拭《ぬぐ》いあげているのだ。
──どうしたのか?
と、曹丕は訊いた。
──陛下は母鹿を殺されました。もうよいではございませぬか。わたくしは、母を殺された子鹿を殺すに忍びませぬ。
二十歳の曹叡は答えた。
曹叡の母の甄氏は、彼の父曹丕によって殺されたのである。息子の返事のなかに含まれた意味を、すぐれた詩人でもあった父曹丕が読み取れないはずはなかった。
──そうか。もうよい。
曹丕は手にした弓をなげすてた。どんなことにも、冷静に対してきた曹丕にしては珍しいしぐさであった。|眉《まゆ》一本うごかさずに、漢の天下を奪った彼である。そのつめたさを、父曹操に見込まれて、後継者にえらばれたのだ。現実主義の化身のような曹操でさえ、自分の手では四百年の歴史をもつ漢の天下を奪うのをためらった。
曹丕も人間である。いや人並以上に感受性は強かった。たしかに思い切りはよく、古い風習やタブーを平然と破りはした。そんなものを軽蔑していたからである。ただし、つめたさについては、彼の演技がそれを実際よりもだいぶ大きくみせていた。父が後継者えらびの基準を、つめたさに置くであろうことを察したからである。
弓をなげすてたあと、彼は脚で馬の腹を蹴り、砂煙をあげて疾駆し去った。自分の感傷を|羞《は》じたのだった。馬を走らせながら、彼は甄氏のことを思い出した。
殺すことはなかったのではないか?
五年まえ、彼は郭氏という若い女性を愛していた。郭氏を皇后にするためには、正妻である甄氏を処分しなければならない。思い切りのよい曹丕は甄氏に死を賜わったのだが。──
曹丕には九人の息子があった。九人とも母親がちがう。そして、皇后の郭氏には子が生まれなかった。皇后に実子がいない以上、九人の息子は跡目相続については、平等の権利をもつわけである。
(ゆっくりと彼らの資質を観察して、それから後継者をえらぼう。あわてることはない)
と、曹丕は思っていた。一ばん上の叡が二十にすぎない。みんなまだ幼い。資質を判定するのはまだ早すぎる。だから、皇太子は立てていないのだ。
あわてることはないと思っていたが、どうやら急がねばならなくなったようだ。この高熱が尋常のものでないらしいことは、当の曹丕にもわかっていた。治癒するにしても、皇太子を立てて、万一に備えておいてもわるいことではない。
(やはり叡だな。……)
彼が叡を呼んだのは、皇太子に立てるためであった。うわごとの「許せ……」は、母鹿を殺された子鹿を射てと命じた、心ない言葉について、叡に|詫《わ》びる気持がうごいたのである。
病床にはべっていた重臣たちは、顔を見合わせた。文帝はこれまでかつて詫びたことはない。まちがっていることが、はっきりわかっていても、詫びの言葉を口にしない。|綸言《りんげん》(君主の言葉)汗の如しといって、いったん皇帝が口にした言葉は取消すことも訂正することもできないといわれている。だが、曹丕は皇帝だからではなく、その人間としての性格がそうなのだ。
思い切りがよいという性格は、結果のいかんにかかわらず、あとで後悔などしないことも含まれている。父曹操が評価しただけあって、曹丕の思い切りのよさ、あきらめのよさは、みごとといってよいものだった。その曹丕の口から、「許せ……」という言葉がもれた。
異常である。──人間は死ぬ間際に、異常をみせることがあるという。死ぬのか?
重臣たちはそう思ったのだ。
|雍丘《ようきゆう》は現在の河南省開封市の近くにある。皇弟曹植は雍丘王として、その地に封じられていた。丁儀兄弟や楊修など腹心はすべて殺され、翼をもぎとられた鳥であった。それでも、朝廷は彼を警戒し、腕ききのお目付役を置いて監視している。王とは名ばかりで、俸禄もきわめてすくない。「匹夫にひとしい」と史書にもあるが、王の実情は平民以下であった。|監国謁者《かんこくえつじや》という朝廷派遣のお目付役の監視を免れないからである。この時代の王侯は、ひたすら平民になり、より自由な身になることを望んだが、皇族の籍を離脱することは許されなかった。
──ほう、こんなにひどいのか。……
去年の十二月、討呉遠征の帰途、雍丘に立寄った文帝曹丕は、弟曹植の置かれた境遇の実態をみて、さすがにあんまりだと思って、|食邑《しよくゆう》五百戸を増やすことにした。
雍丘はみやこ洛陽からそれほど遠くない。文帝の死は早馬の急使によって、二日後には曹植に伝えられた。
父の跡目相続をめぐって、はげしく争った兄が死んだのである。曹植は敗者として、この|痩《や》せた雍丘に封じられた。それは流されたといってよい。勝者であった兄は、物理的な生命を維持する争いでは、弟に敗れたのである。曹植は兄については、こころよくない思い出もすくなくなかったが、心の奥底ではつねに敬愛していた。しらせを受けたとき、彼の目からとめどもなく涙が流れた。使者が退去したあと、曹植は|慟哭《どうこく》した。
「なぜ使者のまえで号泣なさらなかったのか?」
と、防輔監国は訊いた。皇弟号泣のことが朝廷にしられたほうが、これからの立場が有利になるのに。──
「はじめはあまりの悲しみに、声も出なかったのだ」
曹植はそう答えた。
兄の死を|悼《いた》んで、彼の作った|誄《るい》(とむらい文)が残っている。
──|惟《コ》レ黄初七年五月七日、大行皇帝(まだおくり名の定まらぬときの称号)崩ズ。|嗚呼哀《アアカナ》シイ哉。時ニ天|震《フル》イ地|駭《オドロ》キ、山|崩《クズ》レ霜|隕《オ》リ、陽精(太陽)モ|景《ヒカリ》薄レ、五緯|錯行《サクコウ》シ、百姓|呼嗟《コサ》シ、万国悲傷ス。……
から始まった文章は、切々と光明を失った悲しみを述べている。だが、このとむらい文の底流には、血をわけた兄弟でありながら、骨肉の情をあらわに表に出せない悲哀がこめられているのだ。
文帝臨終にあたって、後事を託された者たちのなかに、曹植の名はない。大将軍曹真、鎮東大将軍|陳羣《ちんぐん》、征東大将軍曹休、撫軍大将軍司馬仲達たちが、病床のそばに呼ばれ、皇太子を補佐することを託されたのである。
「後宮の|淑媛《しゆくえん》、昭儀、貴人たちを、すぐに家に返すように……」
文帝が意識のはっきりしているうちに残した最後の言葉がこれであった。淑媛、昭儀、貴人はいずれも彼が手をつけた女の位階である。彼も人間らしく、あとにのこされる女たちのことを気にかけたのだ。
文帝は六月|戊 寅《つちのえとら》の日、首陽陵に|葬《ほうむ》られた。この大葬の日、新しく皇帝となった曹叡は、首陽山へ送葬しようとしたが、曹真や陳羣たちに|諌《いさ》められて、ついにはたせなかった。父の葬を送らなかったことについては、後世さまざまな評があった。曹真たちは、
──異常の酷暑でございます。おからだにさわりましてはなりませぬ。陛下は魏の国にとって大事なおからだでございます。なにとぞ御自重くださいませ。
という理由で反対したのである。
曹叡──魏の明帝は、重臣たちが心配するほど、父の死を悼み悲しみ、やつれてしまっていたのだ。
大葬があれば敵はうごく。
専制君主の死は、とうぜんその国の中心部に大きな動揺を与える。敵対する国が、そこを狙うのは兵法の定石といえよう。
そのとしの八月、孫権は兵をうごかして江夏を攻めた。江夏の太守は|文聘《ぶんへい》である。彼は劉表の部将であった。劉表が死に、息子の|劉★[#王+宗]《りゆうそう》が攻めてくる曹操に降参したとき、文聘は行動をともにしなかった。曹操が漢水を渡ったあと、やっと姿をあらわした。
──仲業(文聘の|字《あざな》)、遅いではないか。どうして遅れたか?
と、その降伏の遅れたことを詰問した。
──荊州の劉氏を|輔弼《ほひつ》することができず、州都を失いましたが、なんとか挽回しようと、いろいろ努力しておりましたからでございます。……いまは万策尽きはてましたので、こうして|罷《まか》り出て参りました。
文聘は正直にそう答えた。
あくまでもあなたに抵抗しようとしたのだと、包みかくさず言ったのである。曹操はその剛直を愛し、その後も要職に登用した。関羽討伐にも戦功があり、討逆将軍の称号を得ている。そのあと、江夏太守に転出した。呉との国境に近い土地で、最前線の軍司令官であった。曹操や曹丕の彼にたいする信任が、いかに厚かったかがわかるだろう。
曹叡も彼を信任した。
はたして文聘は江夏を堅守し、孫権軍を撃退したのである。
孫権は江夏だけではなく、襄陽方面にも兵をむけた。呉の司令官は蜀の諸葛[#葛のヒは人]孔明の兄にあたる諸葛[#葛のヒは人]|瑾《きん》と|張霸《ちようは》であった。この方面でも、魏の撫軍大将軍の司馬仲達は、大いに呉軍を破り張霸を斬った。諸葛[#葛のヒは人]瑾は敗走した。
こんなふうにして、明帝曹叡は即位の年の危機をなんとか乗り越えることができた。年末には新しい人事を発表し、体制固めをおこない、翌年、太和と改元した。
湖北省の西北部は、現在の地図で見ると、河南、|陝西《せんせい》、四川の三省が省境線を寄せ合っている地方である。いま竹山県というところがあるが、そのあたりを当時は上庸郡と称していた。
上庸のあるじは、孟達という人物であった。彼はもと蜀の劉璋に仕えた。劉璋が漢中討伐のため、劉備を迎えようとしたとき、その使者をつとめたのが孟達で、副使がいまは亡き法正だったのである。
関羽が呉・魏の連合軍に攻められ、|樊《はん》城で苦戦していたとき、劉備は孟達に救援を命じた。だが、孟達は、
──このあたりの人民は、新しく帰服した者たちで、兵を他所へうごかせば、動揺して、またそむくかもしれません。
という理由で、上庸からうごこうとしなかった。もしこのとき、孟達が援兵を送っておれば、関羽は殺されずにすんだかもしれない。こと関羽にかんすることになると劉備は冷静ではなくなる。それは無謀なとむらい合戦をおこしたことでも察しられる。劉備が激怒していることは、孟達もわかっていたので、彼は所領を挙げて魏に降った。
こうして、蜀は上庸を失い、魏は労せずしてそれを手に入れたのである。
孟達は美男子であった。魏の文帝曹丕は、美男子好みだったので、孟達を健武将軍とし、平陽亭侯に封じ、房陵、上庸、西城の三郡を併合して新城郡とし、その太守に任命した。
投降者を優遇するのは、曹操時代から魏の政策であるが、孟達の栄達は度を越えたものだった。詩人気質の文帝は、ときに気まぐれな言動があったが、孟達にたいする厚遇などはその好例というべきであろう。
孟達は文帝の|寵臣《ちようしん》であった。
寵臣には、|妬《ねた》みが集まる。孟達は敏感なので、そのことはかんじていた。
文帝が死ぬと、寵臣はすくなからず居辛いおもいをせざるをえない。彼は魏国の家臣というよりは、文帝個人の家来というべき存在であった。文帝亡きあと、はたして三郡をあわせた広大な所領を、無事に維持できるであろうか?
「心細いことであるなぁ。……」
孟達はそんな|呟《つぶや》きをもらした。
|遙《はる》かはなれた成都で、諸葛[#葛のヒは人]孔明は孟達の呟きをきくことができた。むろん心の耳できいたのである。孔明のもとには、仇敵である魏にかんする情報が、細大もらさず集められていたのだ。それを分析すると、孟達のため息まじりの呟きが、心の耳にきこえてくるのだった。
孔明は孟達に手紙を送った。
──貴殿が建安二十四年(二一九)の戦いで、樊城へ救援軍を送らなかったことは、公平にみて兵法の正道であると思います。敵は魏・呉の連合軍でありましたから、かりに貴殿が上庸の全軍を率いて救援にむかっても、勝つことはおろか、関羽を救出することもできなかったでしょう。しかも、上庸を留守にすれば、かならずそのすきに、土地の豪族や地方の軍閥に所領を奪われたはずです。すなわち、上庸をうごかさなかった貴殿の判断は、きわめて正確と申さねばなりません。
関羽戦死後、貴殿が魏に降ったことについて、わが蜀の陣営内でも、意外に同情論が多いことをご存知でしょうか? なにしろ先帝と関羽とは、義は君臣ですが、情は兄弟以上でありました。弟を失い、先帝は情として平静になれなかったのです。激怒のはて、貴殿を|誅殺《ちゆうさつ》するであろうことは、誰にも予測できました。災いを避けるのは、賢者の採るべき道です。正しい判断のうえで行動し、しかも命を奪われるのですから、貴殿が蜀から離脱するのはとうぜんであります。またこの乱世では、一両郡の領地で自立することは不可能です。いずれかの陣営の|傘下《さんか》に属さねばなりません。位置的な関係で、貴殿が魏をえらぶほかなかったことは、誰もが知っていることです。
魏に属して、貴殿は曹丕の信任を得ました。いや、正直いって、それは信任というよりは寵愛です。そのため、位階はあがりましたが、魏の群臣の|嫉妬《しつと》を買ったことは、賢明な貴殿はつとに察しておられるでしょう。いかがなされますか?
ことは君主一人の、人間としての愛憎から出ています。貴殿を愛した魏の曹丕はいまや亡く、貴殿を憎んだ蜀の先帝もこの世の人ではありません。貴殿は魏において愛を失い、蜀において憎しみを失ったのです。
貴殿を迎えることについては、わが蜀の現状では、なんの障害もありません。いつでも貴殿をうけいれることができます。やむをえない事情で家を出た家族を、あたたかくまた迎えいれるように。
魏の内情が、蜀の成都にいる拙者の耳にも、よくはいってきます。好き嫌いのはげしかった曹丕の人事は、息子の世代になって、根底からくつがえされるでしょう。新しく帰順した貴殿の異例の栄達は、曹家譜代の家臣の目には悪と映っているのです。彼らは先代曹丕の人事を悪と指摘するのをはばかり、登用された貴殿の存在を悪と指し、批難の声をあげるに相違ありません。
貴殿は遠からず、彼らの|悪罵《あくば》と|呶号《どごう》にとり囲まれるでしょう。そのような状態のなかで、貴殿の生命はいつまで安全でありえましょうか。誰も保証できません。この点、よくよくお考えください。重ねて申します。先帝亡きいまの蜀は、ひろく門をおしひろげ、神かくしに|遭《あ》った家族の一員を迎えるように、歓声をあげて貴殿を迎えるはずです。貴殿は先代から蜀の臣でありました。親しい友人や縁戚が蜀にはおおぜいいます。彼らも貴殿の復帰を、心から待ち望んでいるのです。……
孔明のこの長い手紙を前にして、孟達は考え込んだ。
彼の父孟他は、涼州から蜀にはいり、|劉焉《りゆうえん》に仕えた。そして彼は劉焉の息子の劉璋に仕え、劉璋から蜀を譲られた劉備の下に属するようになったのである。新たに蜀に来た劉備の家臣団よりは、土地ではずっと古顔なのだ。たしかに親友、親族、知人が多い。その一人一人の顔がうかんでくる。──
孟達が腕組みをしているところへ、洛陽から腹心の男が帰ってきて、新しい朝廷の動向を報告した。
「この新城の評判は、あまり芳しくありません。……そねむ者が多いので……」
その男はそう前置をした。
「さもあろう。……譜代の家臣で、先帝から疎外され、日ごろ不満を抱いている連中もすくなくないからのう。……」
孟達は、不愉快な報告をききながら、じっと目を孔明の手紙のうえにおとしていた。
──貴殿の復帰を心から……
という文字が、彼の目にちらちらした。
洛陽情報は、孟達が予想していたよりも悪いのである。
「なにでございますか、それは?」
あるじが机のうえの手紙らしいものに、視線をおとしているのを見て、洛陽帰りの腹心はそう訊いた。
「成都から手紙が参った」
「成都のどなたから?」
「孔明からだ」
「ほう、|丞相《じようしよう》さまの。……で、どのようなご用件でしょうか?」
「読んでみィ」孟達はその手紙を、机の隅に押しやった。──「誘いがかかってきたのだ。この手紙のことについて、おまえとも相談したいが」
腹心の男は机に近づき、孔明の手紙を読んだ。孟達はその男が読み終えるのを待ってから、
「どうしたものかな?」
と、訊いた。
「私めにおまかせくださいませ」
腹心の男は顔をあげ、真剣な表情で言った。
孟達は大きくうなずいた。
曹丕の死んだ年、呉はなんどか魏へ|ち《ヽ》ょ《ヽ》っ《ヽ》か《ヽ》い《ヽ》を出した。けっきょく、そのたびにはね返されただけである。だが、蜀はじっとしていた。
──この機に乗じて……
という速戦論もあったが、丞相の諸葛[#葛のヒは人]孔明はそれを抑えた。
──あるじが死んだとはいえ、魏が超大強国であることに変わりはない。軽挙妄動すれば、傷をうけるのはわがほうなのだ。
孔明が言ったとおり、軽はずみに撃って出た呉は、かなり手痛い目に遭わされた。勇将張霸を襄陽で失ったばかりか、尋陽でも魏に敗れた。
蜀はその年、来るべき魏との戦いのため、準備を整えることに専念したのである。準備というのは、軍事上のことだけではない。外交も含まれていた。
魏と戦うにあたっては、呉との外交をうまくやっておかねばならない。外交と同時に、謀略戦の準備も怠らなかった。新城の孟達へ誘いの手紙を送ったことなども、そのなかの重要な仕事の一つであった。
曹丕が死んだ翌年、魏の太和元年(二二七)すなわち蜀の建興五年、諸葛[#葛のヒは人]孔明は蜀軍を率いて、北伐の途にのぼることになった。まず漢中へむかう。成都には長史の|張裔《ちようえい》、参軍の|★[#くさかんむり+將]★[#王+宛]《しようわん》が残った。呉との友好維持のために、侍郎の|費★[#ころもへん+韋]《ひい》をのこして、これはもっぱら外交担当ということにした。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は全軍を率いて成都を出発したが、その軍勢はおよそ七万である。これまで呉との外交を担当していた|★[#登+おおざと(邦の右側)]芝《とうし》や|魏延《ぎえん》、|呉壹《ごい》、|向朗《しようろう》、|楊儀《ようぎ》といった連中が従った。なお、この遠征軍には、かつて関羽や張飛と肩をならべた老将趙雲も参加した。蜀は全力を挙げて、この遠征軍を組織したのである。
出陣にあたって、諸葛[#葛のヒは人]孔明が後主劉禅にたてまつった『|出師《すいし》の|表《ひよう》』は、あまりにも有名である。『表』とは、臣下が主君にむかって、事理をあきらかにして告げる文章を意味する。それは公表されるのが原則で、極秘にされる『奏』とその点で異なる。
──先帝、創業未だ|半《なか》ばならざるに、中道にして|崩★[#歹+且]《ほうそ》したまえり。今、天下三分し、益州疲弊す。此れ誠に危急存亡の|秋《とき》なり。然も侍衛の臣内に|懈《おこた》らず、忠志の士外に身を忘るる者は、|蓋《けだ》し先帝の殊遇を追いて、|之《これ》を陛下に報ぜんと欲するなり。誠に|宜《よろ》しく聖聴を開張し、もって先帝の遺徳を|光《かがやか》せ、志士の気を|恢弘《かいこう》すべし。宜しく|妄《みだり》に自ら|菲薄《ひはく》し、|喩《ゆ》を引き義を失い、もって忠諌の路を|塞《ふさ》ぐべからず。……
右の文章にはじまる『出師の表』は、古来、これを読んで泣かざる者は人に非ずといわれたほどである。
この冒頭の文章は、先帝劉備が天下統一の中道にたおれ、天下は三分したままであるばかりでなく、その一つであるこの益州が最も疲弊していて、まさに「危急存亡の秋」であることを説く。
このように三国のなかで最も弱小であるのに、廷臣が内で怠らずつとめ、忠義の志をもつ士が外で身命を忘れて戦うのは、先帝のとくべつの聖恩を思い、それを今上陛下に報いようとするのである。どうかひろく臣下の進言を聴き、先帝の遺徳をかがやかし、志士の気持を大きくひろげるようにしていただきたい。はじめから自分を菲才で学問が浅いなどと考えたり、|喩《たとえ》を引いて、あれこれ義に合わぬことを言って、忠臣の諌言の路をふさいではならない。……
後主劉禅も、やっと二十になった。もう幼主とはいえない。だが、人間的に問題のある人物であった。父親が偉大すぎたせいか、彼は自信のない人間になってしまった。その自信のなさをカバーするために、|屁理屈《へりくつ》をこねて、その場をごまかすことが多かった。
強敵魏と戦うのである。総司令官の諸葛[#葛のヒは人]孔明は、あるいは生きて帰れないかもしれないと思う。この『出師の表』は、皇帝への彼の遺言であった。しっかりしてもらわねば困るのである。
──陛下も|亦《ま》た宜しく自ら|謀《はか》り、以て善道を|咨諏《ししゆ》(問いたずねる)し、|雅言《がげん》(正しいことば)を|察納《さつのう》(容れる)し、深く先帝の遺詔を追うべし。臣、恩を受けた感激に|勝《た》えず、今まさに遠く離れるにあたり、表に臨みて|涕泣《ていきゆう》し言う所を知らず。
『出師の表』は右のことばで結ばれている。不肖の青年皇帝のことが気になってならなかったのである。
この表は皇帝への忠言だけではなく、出征兵士を奮起させたのだった。表を読んだ将兵たちは涙を流した。孔明はその涙を、戦いにおける力の源泉にしようと期待した。
文章は経国の大業。──これは曹操の信念であったが、孔明も文章のもつ力を信じた。南方を開発したものの、蜀はまだ国力が豊かであるとはいえない。人材も魏や呉にくらべて格が落ちるようだ。それを補うためには、持っている力を二倍、三倍にうごかさねばならない。そのためには、団結が大切である。孔明の『表』は、それによって、蜀の団結を呼ぼうという目的もあったのだ。
はたして、彼の『出師の表』で、蜀は一枚岩の団結を得たであろうか?
涙を流したのは、すべての人ではなかった。出師の表を読んで、あからさまに不快な表情をうかべた男もいる。
永安、すなわち白帝城から、江州(重慶)へ呼び戻され、留守居役を命じられた李厳であった。劉備が白帝城で死んだとき、臨終の枕もとにいたのは、諸葛[#葛のヒは人]孔明とこの李厳だったのである。|瀕死《ひんし》の劉備は、声にも力がなかった。後事を託したとき、相手に「卿よ……」と呼びかけたが、これは誰の目にも、丞相の諸葛[#葛のヒは人]孔明にたいして語ったと映る。孔明もとうぜんそう思っていた。だが、そばに李厳も控えていたのである。尚書令として、彼はすべてを記録するためにそこにいたのだ。
臨終の数日前、劉備は、
──息子の禅を頼む。卿らにお願いする。丞相が補佐してほしい。……尚書令もその副として助けてほしい。……
と言った。丞相諸葛[#葛のヒは人]孔明に息子の補佐を依頼したのだが、そのとき、尚書令李厳の顔が見えたので、副としてつけ加えたのである。
「わしも先帝から後事を託されたのだ」
これが李厳の口癖であった。彼の誇りがこのことに集中されていた。その李厳が、孔明の出師の表のなかの、
──先帝、臣が謹慎を知る。故に崩ずるに臨み、臣に|寄《よ》するに大事を以てしたまえり。
という文章を読んで、渋い顔をしたのはとうぜんであろう。孔明は自分一人が大事を託されたと思っている。
(おれを忘れたのか。……孔明はおれを無視しようとしている。……)
無念であった。
もし李厳が首都である成都に呼び戻されたのであれば、大事な留守を預かる役目なので満足したかもしれない。だが、成都の留守大役は★[#くさかんむり+將]★[#王+宛]、張裔、費★[#ころもへん+韋]たちにまかされた。江州はいわば副都である。日本でいえば、首都東京ではなく、大阪をまかされたというかんじなのだ。
「いつの日か、このおれの力を……先帝に大事を託されたこのおれの力を、思い知らせてやるぞ。……」
李厳はひとりごちた。
弱小の蜀は、一致団結してこそ、はじめて魏や呉にあたることができる。それなのに、こんなふうに分裂のきざしがあったのだ。
「ほう、それはまた芝居気たっぷりであるな。……そんな物を贈ったのか」
司馬仲達は胡床に腰をおろし、ひげをしごきながら言った。彼のひげは関羽のそれほどみごとではない。ただし、薄いけれども長いのである。関羽のそれは剛毛であるが、司馬仲達のひげは絹のようにしなやかであった。
「じつを申しますと、私が孟達どのにそうすすめたのでございます」
司馬仲達の前に立っている男はそう答えた。
「考えたものじゃな。|玉★[#王+夬]《ぎよくけつ》と|織成《しよくせい》の|障扇《しようせん》、それに|蘇合香《そごうこう》か。……」
司馬仲達はうなずいて笑った。
玉の|★[#王+夬]《けつ》は輪型になっているが、一部が欠けている。つながっていないのだ。★[#王+夬]の発音は「決」とおなじで、決断をあらわす。鴻門の会で、|范増《はんぞう》が項羽にむかって、自分の|佩《お》びていた玉★[#王+夬]を三たびあげて、劉邦を斬れ、と決断をうながした故事は有名である。
織成の障扇とは、刺繍をほどこした長柄の扇のことだが、「成」すなわち、計画も準備もすでに成ったことを意味する。
蘇合香は、南方の植物からつくられた香料である。合わさること、連合、あるいは「合一」──成功の意味をもつ。
──決心はついた。魏から蜀へ寝返る。その計画はすでに出来た。事の成就はまちがいなし! 孟達は三つの贈物によって、諸葛[#葛のヒは人]孔明に右の意思を伝えたのである。
「なるべく芝居気の多いほうがよろしゅうございます。秘密ごっこをしておりますと、秘密はしぜんにもれてくるものです」
「芝居は不自然であるからのう。……ところで、証拠は?」
「抜かりはございません。ここに……」
その男は|懐《ふところ》から、紙に包んだものを取り出した。司馬仲達はそれを受取り、
「ほう、密書か。……」
と、目を光らせた。
「写しでございますが」
「写しでけっこうだ」
司馬仲達は胡床から腰をあげた。
新城は漢中と荊州のあいだにある。漢中から中原をうかがうには、新城すなわち上庸の地を通るのが最良のコースなのだ。蜀が中原の魏と戦うには、この地を占領すればきわめて有利である。反対に、魏がこのまま新城をおさえておれば、蜀軍の行動は限られてしまうのである。
どちらも、なんとしてでも新城を確保したいのだ。そして、孟達がそこにいる。孟達は八年まえ、蜀から魏へ寝返った。いま新城は魏の勢力圏にあるわけだ。
蜀の孔明は、孟達を再び蜀にひきいれようとしている。孟達も曹丕亡きあと、魏には親友はいなくなった。彼と親しかった|桓階《かんかい》や|夏侯尚《かこうしよう》もすでに死んだ。いまは蜀のほうに、親戚、友人が多いのである。そこへ孔明の誘いである。
決断、準備完了、連合。──孟達は三つの贈物を、孔明に発送した。極秘|裡《り》であったのはいうまでもない。それなのに、そのことは魏に知られてしまっていた。
いま司馬仲達の前に立って、孟達の寝返りを報告している男は何者か? それは孟達の腹心として、たえず洛陽に潜入して、情報を取ってくる男だったのである。孟達のために洛陽へ使しているうちに、司馬仲達の陣営にひきいれられてしまったのだ。
その男は三つのお膳立てをしたあと、また洛陽へ赴こうとして、その途中、荊州の|宛《えん》城に寄った。宛城には、|驃騎《ひようき》将軍に昇格した魏の名将司馬仲達がいたのである。
魏と蜀が戦うとき、新城が重要な戦略基地になることを、司馬仲達は知っていた。新城を確保しなければならないのに、そこのあるじ孟達は、どうもふらふらしているようだ。もともと蜀から寝返り、美貌の故に先帝曹丕に寵愛された人物である。信頼するに足るであろうか? 心もとない。
(魏の中央軍で新城をおさえねばならない)
司馬仲達は、それが魏・蜀戦の大きなポイントだと見ていた。とはいえ、外様大名の孟達を、その領地から他所へ移すのは難しい。むしろ、孟達に二心を抱かせ、それを理由に兵をむけ、中央軍が新城を占領することにしたほうがよい。そこで、孟達の腹心を手なずけ、孟達に「蜀への寝返り」をすすめ、その証拠を取ってくるように命じたのだ。
「よくやった。|褒美《ほうび》を用意しておくから、明日また参れ」
と、司馬仲達は言った。
「ありがとうございます」
一礼してその男は驃騎将軍署を退出した。
秘密の報告なので夜をえらんだ。その夜は月がなく、空いちめんに星がちりばめられ、溢れた星が地上にこぼれるばかりであった。
「みごとな星じゃな。……」
その男は空を見上げてから、急ぎ足で将軍署の白壁にそって歩いた。背をまるめ、首を縮めるようにして。
「待て!」
うしろから声がかかった。男は驚いてふりかえった。
「や、や、おぬしは……」
男はそこに、新城の孟達の邸でよく会った撃剣教師の顔を見た。片手に抜身の刀をぶらさげている。
「近ごろ、うぬがあやしいとにらんで、孟達さまがこのわしに調査を命じられたのだ。新城の秘密を、驃騎将軍にもらしたであろう。許せぬやつじゃ。覚悟!」
撃剣教師はそう言いざま、横なぐりに刀を振った。──血が白壁のうえを走った。
血ぬられた刀を草むらに捨てると、撃剣教師はまっしぐらに駆けた。すこしはなれた木立のなかに馬がつながれている。彼はそれにとびのり、新城めざして|鞭《むち》をあげた。
宛城は現在の河南省南陽市である。そこから新城まで三百キロたらずの距離がある。撃剣教師は、半日ごとに馬を乗り換えながら、三日で新城に着いた。
「司馬仲達に知られたか。……」
孟達は唇を|歪《ゆが》めた。一ばんおそろしい男に知られたのである。だが、彼は気をとり直して言った。──
「いかに仲達とはいえ、皇帝に無断で味方の太守を攻めることはできまい。洛陽へ行って許可を仰ぐ。……そうだ、宛城には兵もすくない。いずれにしても洛陽で軍を編成してから、こちらにむかうだろう。急いでも、まず一カ月はかかる。それまでに準備を整えておこう。蜀に復帰をきめたからには、このことあるは予期しておった。……ま、とりあえず、蜀の総帥孔明どのに急使を送り、援軍を乞うことにしよう」
だが、撃剣教師が新城に|辿《たど》り着いた日の五日後、
「魏の大軍があらわれましたぞ!」
という注進があった。
「まさか……」
と、孟達は絶句した。
「いえ、まことでございます。司馬仲達が指揮をとっていることもわかりました」
早すぎる。──と、孟達は唇をかんだ。そんなはずはない。──
司馬仲達は、孟達が考えていたように、洛陽へはむかわなかったのである。緊急のときには、皇帝の許可を仰がずに、独断専行してもよいのである。孔明の『出師の表』が伝わってから、魏は宛城の兵を増やしていた。だから、洛陽で兵を集めなくても、自前で遠征軍を編成できたのだ。
宛城から新城にむけて猛進する魏軍に気づいた蜀は、小部隊を|木闌塞《もくらんさい》に出してその進軍を妨害しようとしたが、あっさり蹴散らされた。蜀と同盟関係にあった呉も、西城の安橋に出兵して|牽制《けんせい》しようとしたが、ほとんど牽制の効果をあげなかった。そもそも呉の出兵は、お義理にすぎなかったのである。
孟達の運命はきまった。
司馬仲達は新城を囲むこと十六日でこれを陥落させた。魏の太和二年(二二八)正月のことである。叛将孟達は斬られた。
「孔明め、なぜ援兵を送らぬ」
孟達は最後まで歯がみして、諸葛[#葛のヒは人]孔明の違約をなじった。寝返りをすすめたのは孔明であった。蜀は孟達の復帰を歓迎すると保証したのである。それなのに、孟達が囲まれても、見殺しにしてしまった。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は漢中にあった。
漢中はいまでこそ蜀の版図にはいったが、ながいあいだ五斗米道が支配していた宗教地区であった。
住民は|敬虔《けいけん》な道教信者であり、この地の五斗米道は三十年前にくらべると、いちじるしく仏教に近づいている。外にあって仏教と接触した教母少容が、仏教の教義をたえず漢中の本部に知らせていた。漢中では彼女の息子の張魯が、それを五斗米道のなかに、|適宜《てきぎ》にとりいれていた。
宗教地区の漢中は、いま軍事基地に変貌しつつあった。
漢中の地名は、漢水のほとりにあることに由来している。漢水にそってくだれば、上庸の地、すなわち新城に出る。そこから中原めざして洛陽を攻めるコースがある。だが、そのコースは、孟達を寝返らせることを前提としなければならなかった。司馬仲達の神速果敢な進撃で、上庸の地は魏におさえられてしまった。
そうすると、漢中から北上し、|渭水《いすい》の線に出て、東へむかうというコースしか残されていない。問題はどの地点で、渭水の線に出るかである。
東のかたを攻めるのだから、なるべく東寄りに出るべきだという考え方もある。
漢中の北には|秦嶺《しんれい》山脈が東西に走っているので、渭水へ出るには、いずれかの谷を通らねばならない。
(どの谷から出てくるか?)
魏の軍事探偵は、蜀軍のうごきに注意を怠らない。
諸葛[#葛のヒは人]孔明が蜀軍を率いて北上したというしらせに接したとき、魏は洛陽の宮殿内で御前会議をひらいたが、明帝は、
──朕みずから兵を率いて討伐しよう。
と言い出した。
魏の明帝曹叡は|英邁《えいまい》である。蜀の劉禅より一歳年長であるにすぎないが、その資質は雲泥の差があった。
明帝親征のことは、|散騎常侍《さんきじようじ》の孫資の反対でとりやめになった。孫資は地理、地勢にくわしく、要害の地に|拠《よ》って敵の出撃を|挫《くじ》くことを主張したのである。
──蜀は攻め込むべき土地ではありません。自滅を待つべきです。敵が出てくれば叩く。それでよいのです。
曹操でさえ、漢中に攻め込んで、大きな痛手をうけたのである。
──わかった。
理をもって説けば、明帝はわかりが早い。親征をとりやめ、大将軍の曹真、右将軍の|張★[#合+おおざと(邦の右側)]《ちようごう》を西へむけた。
こちらは漢中の作戦会議である。
丞相司馬の|魏延《ぎえん》は、さかんに積極策を進言した。魏延は兵卒として劉備の軍に従って以来、戦場での武功で栄進し、鎮北将軍の称号を得ている。関羽、張飛亡きあと、蜀の軍部を一人で背負って立つほどのつもりでいる人物なのだ。
秦嶺山中の谷は大小さまざまだが、大軍の通れる谷道は限られている。一万の兵が通れる谷、五千の兵しか通れない谷、二千の兵がやっとという谷などがある。
「拙者に精兵五千を授けていただきたい。|子午《しご》道を越え、十日以内に長安を衝いてみせまする」
と、魏延は言った。
子午道という谷は、そんなにひろくはない。そのかわり、東寄りにあり、そこを越えると、魏延の言うように、長安は指呼の間にある。
「そのあいだに、丞相は|斜谷《やこく》を越えて、長安へむかっていただきたい。そこで軍を合わせたなら、関中の平定はすぐに実現できます」
魏延はそうつづけた。
斜谷は大きい谷道なので、大軍を通すことができるが、子午道よりだいぶ西寄りにある。
(困った将軍だ。……)
孔明は内心、舌打ちをしていた。
少数の精鋭をもって、東寄りの狭い谷から渭水のほとりに出るというのは、誰もが考えそうなことである。魏軍もその可能性は心得ていて、備えはじゅうぶんのはずなのだ。狭い谷の出口は、袋をかぶせるようにして、かんたんに敵軍を網のなかに召捕ることができる。危険な作戦というほかはない。
「安全な作戦を考えましょう。わが蜀軍は、兵はすくなく、食糧、武器もゆたかとは申せません。危険を冒せるほどぜいたくな力をもっていないのです」
孔明は魏延の策をしりぞけた。
すくない兵力で、どのようにして魏の大軍にあたろうとするのか?
新城の孟達にたいしておこなったように、諸葛[#葛のヒは人]孔明は南安、天水、安定など現在の甘粛省南部諸地方の軍事指導者に、寝返りの働きかけをおこなっていたのである。
──できるだけ西へ出る。
東のかたを撃つのに、これは意外な作戦というべきであろう。だが、蜀としては、魏の意表を衝くほかなかった。まともにぶつかれば勝算はないのである。
西の谷から出れば、魏軍もそれを叩くために、兵を西へむける。それだけ魏軍の脚が伸び、腰が弱くなる道理であった。しかも、こちらは戦場に近い地方の兵力を味方につけている。
天水郡の|姜維《きようい》という人物が、孔明の誘いをうけて、蜀につくことになった。彼は父が戦死したので、「中郎」の官を漢から受けていた。その当時から、戦没将兵の遺族を優遇する政策があったのだ。
姜維は実力もあった。年は二十七にすぎなかったが、これからのち、蜀の軍部で頭角をあらわすことになったのである。
孔明の寝返り工作は、東の新城では失敗したが、西の甘粛三郡では成功したわけである。
前述したように、斜谷道は大軍を通せる道である。孔明はその道に通じる|箕谷《きこく》というところに、趙雲、★[#登+おおざと(邦の右側)]芝の両将に布陣させた。箕谷に布陣することは、斜谷道を通る態勢であることを意味した。
だが、孔明は蜀の主力をさらに西の|★[#示+おおざと(邦の右側)]《き》山へむかわせたのである。このときに、天水郡の姜維が蜀軍に参加したのだ。
斜谷道での蜀軍のうごきは、陽動作戦にすぎなかった。迎え撃つ魏軍の司令官張★[#合+おおざと(邦の右側)]は、さすがに百戦錬磨の将軍である。それとわかると、ただちに兵を西へむけた。
脚が仲び、腰にすきができる。──孔明は敵がそのような姿勢になることを期待したのである。
蜀の主力軍の司令官は|馬謖《ばしよく》である。襄陽の馬氏五兄弟と|謳《うた》われ、才気|煥発《かんぱつ》の英俊の一人である。兄弟五人ともすぐれていたが、眉に白い毛のある馬良がとくにすぐれた人物だった。「白眉」ということばが、この兄弟に由来することはまえに述べた。だが、白眉の馬良は夷陵の戦いで戦死していた。弟の馬謖はこのすぐれた兄と、いつもくらべられるので、いささか背伸びする傾向があった。兄の馬良には、まともにくらべられては勝てるわけがない。そこで、なにかあると、ひとの意表に出る癖があった。
★[#示+おおざと(邦の右側)]山から街亭に出て、魏軍と対峙するにあたって、彼は山上に陣を布いたのである。
──渭水のほとりに陣を構えよ。
出発のとき、孔明はそう命じておいたのだが、馬謖はそれにさからった。水辺に布陣して勝っても、戦功の半ばは立案者の孔明に帰せられる。孔明の命令どおりにせずに勝てば、功績はすべてわがものとなる。……
「あの山上に布陣している蜀軍の大将は誰であるか?」
魏の将軍張★[#合+おおざと(邦の右側)]は、街亭の山を指さして訊いた。
「馬謖でございます」
と、幕僚は答えた。
「ああ、あいつか。……」
張★[#合+おおざと(邦の右側)]はにやりと笑った。それでわかったのである。複雑な地形の山ならともかく、このような囲みやすい山で、山上に布陣するなど、常識はずれといわねばならない。
(敵になにか奇策があるのかな?)
張★[#合+おおざと(邦の右側)]は一応そう警戒した。だが、敵将が馬謖ときいて、納得できたのである。
幼少のときから、すぐれた兄弟という競争者に囲まれた馬謖は、自分を顕示するのに、ひとをアッといわせるお膳立てをしなければならなかった。張★[#合+おおざと(邦の右側)]は敵将を一人一人研究していた。彼の備忘録の「馬謖」の欄には、
──こけおどし。
と記されていた。
たまには奇抜な手を使うのもよかろう。だが、馬謖はその連発である。少年時代からの癖だから、そうかんたんには|治《なお》らない。正道をいくら考えてもうまく行かないとき、はじめて奇道を用いるものなのだ。馬謖ははじめから正道をすてて奇道を採ろうとした。これは作戦の堕落というほかはない。
「囲め!」
張★[#合+おおざと(邦の右側)]はあっさりと命じた。相手に内容のないことが、彼にはわかっていたのである。
そのころ、街亭の山上では、|裨《ひ》将軍の王平が、馬謖にむかってしきりに、
「山を下りましょう。危険です。こんなところにいては、水と食糧を絶たれたなら、ひとたまりもありませんぞ」
と、下山をすすめた。
「なぁに、敵は山を囲みやせん。この異常な陣立てをみれば、どのような奇策があるか知れないとおそれ、山には近づきはせぬ。いいか、見ておれ」
と、馬謖は自信たっぷりであった。
だが、魏軍はためらうことなく、さっさと山を囲んでしまった。奇策があるなら、早く出してみな、といわんばかりであった。
山上の馬謖はあわてた。
彼はあちこちに、
──なにかあるぞ。……
と思わせる仕掛けをしてあった。それを見れば、敵はすこしはためらうはずなのだ。敵がためらい、おびえたところを、山上から加速度をつけて攻め下りる計画であった。それなのに、敵は一点の疑念ももたないかのように、あっさりと山に近づいて包囲した。
「敵の大将は馬鹿ではあるまいか?」
馬謖は王平に訊いた。
「敵の大将は張★[#合+おおざと(邦の右側)]です。かつては袁紹に属しましたが、千軍万馬の古つわものとして知られています。けっして馬鹿者ではありません。……」
と、王平は答えた。
「馬鹿でなければ……」
馬謖は首をかしげた。
「経験のゆたかな武将です。おそらく早くから見抜いておったのでありましょう」
王平はずばりと言った。
「見抜いたと? それでは……」
それでは、おれのほうが馬鹿者だというのか? この馬謖ともあろう者が。……
「水も食糧も、貯えはご存知のとおりです。いかがいたしましょうか?」
と、王平は訊いた。馬謖は唇をなめながら、しばらく考えていたが、
「一両日待ってみるか。……」
「それもよろしゅうございましょうが、味方の士気が心配です」
「味方の士気か。……」
敵はおそれてこの山に近づかぬ。──馬謖は将兵たちにそう予言していた。総大将の予言がはずれて、敵はべつにおそれる色もなく、いともかんたんに山を囲んだ。
山上の将兵たちに、動揺の色がみられる。一両日待てば、その動揺はさらにひどくなるのではあるまいか?
「よし撃って出よう」
馬謖はやっと決心した。
「そのほか策はございません」
王平は冷静に答えた。
だが、こちらが撃って出ようとするまえに、魏軍は「うおーッ!」と|咆《ほ》えるような|喊声《かんせい》をあげて、四方から山頂めがけて登ってきた。
「つきおとせ! 登らせてはならんぞ。なにをぐずぐずしておるのか! つきおとすのだ。こちらは上だ。上から蹴おとせ、つきおとせ、早く、早く!」
馬謖は|叱咤《しつた》した。
彼の叱咤の声は、蜀軍を混乱させるばかりであった。彼は将兵たちを|急《せ》き立てた。早く、早く、とどなった。将兵たちは隊伍を整えるひまもなかった。叱りとばされて、一人、また一人、魏軍のなかにつっ込んだ。
傾斜地での戦いは、上にいるほうが数倍も強い。たしかにそうであるが、上からの攻撃がばらばらであっては、いくら位置的に有利であるといってもだめである。蜀軍は一人ずつ魏軍という大波のなかに呑み込まれた。
馬謖が動転していたのに反して、裨将軍の王平はおち着いていた。彼は直属の部下をまとめた。その数およそ千名である。
「散るでないぞ。集まれ! 身を寄せ合って山をおりるのだ。一人になるな! 隣りの兵士の腕をつかめ。かたまって行け」
王平はくり返して、団体行動を強調した。同時に彼は鼓笛隊に、勇壮な曲を吹奏させた。
「歩調をとれ! 太鼓の音に合わせよ!」
王平の適切な指揮によって、千名の部隊は整然と山をおりた。この部隊の行くところ、魏軍は攻撃しようとしなかった。みごとに統制のとれた部隊である。隊員一人一人がひどくおち着いているようにみえた。そのおち着き方は異常に思えた。
(伏兵があるのか? それとも|詭計《きけい》があるのかもしれんぞ。……)
魏軍はそう疑ったのだ。おなじ蜀軍を相手にするのであれば、ばらばらになって、おびえた顔で走ってくる連中にむかうほうが安全である。
魏軍に追いまわされた蜀の兵士たちは、つぎつぎと王平の率いる、整然たる部隊のなかに逃げ込んだ。
街亭の役は、蜀軍の|惨澹《さんたん》たる敗北に終わったが、唯一つ救われたのは、王平のみごとな撤退指揮であった。王平は根っからの土地っ子であり、学問はなかった。自分の姓名を含めて、文字は十字しか|識《し》らない。馬謖のような才走った軍人の多い蜀軍のなかでは、ともすれば軽くみられてきた人物である。だが、実戦になると、すばらしい指揮能力をみせたのだ。
街亭で蜀軍は敗北を喫したが、箕谷に布陣した趙雲と★[#登+おおざと(邦の右側)]芝も、魏軍にうち破られた。このほうは陽動作戦の部隊なので、敗戦はとうぜんであったといえよう。さすがに場数を踏んでいるだけあって、趙雲は乱戦のなかでも、そつなく軍勢をまとめ、損害を最小限度にくいとめて撤退したのである。兵員だけではない。食糧や武器なども放棄せずに、ほとんど|無疵《むきず》のまま運び出した。趙雲は逃げるときに、桟道を焼いたので、魏軍は追撃することができなかったのだった。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は挫折した。
(やはりわしに戦場体験が乏しかったことが、敗戦の原因であろう)
彼はそう反省した。
孔明が得意としたのは、国家の経営であった。戦争もそのなかに含まれるが、それは一部分にすぎない。劉備の右腕となってからも、矢玉のとび交う戦場で、兵を指揮したことはすくない。夷陵戦のときも、彼は成都で留守役をつとめていたのだ。
先年の西南夷との戦いで、彼ははじめて指揮官らしい経験をした。実戦を知らぬという自分の欠点を補うため、進んで戦場に出かけたのである。見習いのつもりであった。しかし、西南夷との、それも半ば八百長の戦いでは、それほど研修の効果があったとはいえないであろう。
孫子をはじめ、彼はあらゆる兵法書を渉猟した。たしかに、兵法書は参考になったが、戦争は書物に書いてあるとおりには行かない。学問と戦争は、どうやら別物であるらしい。
(古今の書物を読破した、あの才子の馬謖が街亭の山中で醜態をさらけ出し、十字しか字をしらない王平が、みごとな統率力を発揮したではないか。……)
諸葛[#葛のヒは人]孔明がなによりも口惜しいと思ったのは、人物を見抜く眼力がなかったことである。馬謖の才気に|眩惑《げんわく》され、彼を起用したのがまちがいのもとだった。あるじ劉備も臨終の床についていたとき、
──馬謖は自分の力以上のことを言うから、気をつけたほうよいぞ。
と、孔明に言ったのである。
実戦演習のつもりで、孔明は三年まえ、西南夷との戦いに、みずから総司令官として出征した。そのとき馬謖は参謀として従軍したが、孔明は彼を自分のそばに置いて、そのきらめく才能に感心したのである。だから、このたびの街亭の役で、彼を主力軍の総司令官に|抜擢《ばつてき》したのだ。本来なら、趙雲か魏延にまかせるべき重職だったのだが。
孔明は気が重かった。漢中へひきあげて、まず手をつけねばならないのは、敗戦責任者の処分である。
命令に違反して、山上に布陣した馬謖の罪は最も重い。──どうすればよいのか?
最高責任者は、いうまでもなく遠征軍の総指揮官である丞相諸葛[#葛のヒは人]孔明その人なのだ。せっかくいったん版図に入れた天水、南安、安定の三郡も、街亭の敗戦によって、再び魏に奪われてしまった。
孔明は自らに降格三等の処分を科した。むろん丞相の座をおりる。とはいえ、蜀では彼のほかに丞相の任に耐え得る人物はいないのである。彼が丞相の職を放棄するのは、蜀の国政を荒廃させることを意味する。
──降格して右将軍とし、丞相の事務を代行せよ。
漢主劉禅はそう決定した。
陽動作戦の趙雲でさえ、鎮東将軍から一級下の鎮軍将軍に格下げされた。
(斬るしかない。……)
孔明は目をとじた。──馬謖の罪は、死以外にないのである。
蜀の将来のためにも、馬謖を生かしておくわけにはいかない。
丞相孔明が馬謖の才能を愛していたことは、蜀じゅうの人が知っている。だから、よけい彼を救うことは困難なのだ。
──丞相に愛されているので、死刑を免れた。……
口さがない者たちが、そう言いふらすにちがいない。そうなれば、蜀の政治、軍事の秩序は破壊される。──孔明の|脳裡《のうり》には、李厳のすがたがうかんだ。国政の頂点に立つ人物でありながら、李厳はとかく丞相の命令に従おうとしなかった。馬謖を殺さなければ、今後どんなことがあっても、
──馬謖の前例がある。……
ということになって、しめしがつかないのである。
「泣いて馬謖を斬ろう。……」
孔明は|呟《つぶや》いた。
馬謖は下獄し、獄吏によって処刑を執行された。
孔明はみずからの手で馬謖を葬り、その霊前で涙を流した。馬謖の遺族を、孔明は死ぬまで面倒をみた。
悲しい帰還である。孔明は多くの|柩《ひつぎ》とともに成都に戻った。柩の列のなかには、馬謖のそれもあった。
「兵糧だ。……いや、その兵糧をどうして運ぶかが問題だ。……」
参内を終えて我が家へ帰る車のなかで、孔明は腕組みをして、そうひとりごちた。彼はすでにつぎの戦いのことを考えている。馬謖の処刑によって、信賞必罰は全軍に徹底した。作戦指揮については問題はないが、このたびの戦いで痛感したのは、兵糧輸送が予想以上に困難であったことだ。その困難を解決しなければならない。
家に着いた。孔明は車から降りて、我が家の門をくぐった。久しぶりの我が家である。
玄関の前に妻が立っていた。その手に|嬰児《えいじ》が抱かれていた。
(ああ、そうか。……わしに子供が生まれたのだった。……)
男の子が生まれたというしらせを、孔明は漢中で受取っていたのである。五十近くになって、はじめての子なのだ。子供が生まれないとあきらめて、呉にいる兄の諸葛[#葛のヒは人]瑾の次男の喬を養子にしていたが、その喬も数年まえに死んだ。
男子出産は狂喜すべきことだった。だが、そのことを、孔明はすっかり忘れていた。街亭の敗戦がいかに彼の精神を深くえぐったか、彼は我が子の顔をみて、はじめてそれに気づいた。
(いかん、いかん。……これも自分を見失ったことなのだ。……)
諸葛[#葛のヒは人]孔明は自分にそう言いきかせた。
作者|曰《いわ》く。──
『世説新語』という六朝時代の本に、つぎのような話が収録されている。──
曹操が死ぬと、息子の曹丕は父の宮女をぜんぶ取って身辺に置いた。その曹丕が臨終のとき、母后|卞《べん》氏が見舞いに行ったが、宮殿の女たちがみな曹操に寵愛された者ばかりなので、「いつから来たのか?」と問うと、「先帝崩御の日からです」という返事だった。母后は呆れ返って、「犬や鼠もおまえの|剰《あま》りものは食べないだろう。死ぬのはあたりまえじゃ」と、見舞いもせずに帰った。曹丕の大葬のときも、母后は涙をみせなかった。……
漢の天下を奪った曹丕を、世人はどうしても悪玉にしたくて、右のようなエピソードをつくったのであろう。正史に、曹丕は臨終の直前、後宮の女たちをぜんぶ解放して家へ帰らせたとあるが、その記事にヒントを得た創作にちがいない。
正史『三国志』では、曹操、曹丕、曹叡など魏の君主の死を「崩」、蜀の劉備の死を「|★[#歹+且]《そ》」、呉の孫権の死を「|薨《こう》」と書き分けている。魏が正統で、蜀、呉の序列を立てているのだ。『|資治通鑑《しじつがん》』では、三者とも「★[#歹+且]」である。資治通鑑の原則は、統一された天下のあるじである皇帝の死に、はじめて「崩」を用い、分裂した時代の皇帝は「★[#歹+且]」と記すのであった。「薨」は諸侯の死に用いた。
馬謖が処刑されたときは、三十九歳であった。諸葛[#葛のヒは人]孔明は四十八歳。三国とも初期の英雄豪傑は姿を消し、新人の時代となった。
[#改ページ]
|丞相《じようしよう》、|奔走《ほんそう》す
|渭水《いすい》の南、|秦嶺《しんれい》山脈の北麓のあたりは、すでにきびしい夏の盛りであった。炎暑は日没後も消えず、寝苦しい夜が数日つづいた。それが今日の早朝、大雷雨があり、正午まえには嘘のように晴れたが、さすがにしのぎやすくかんじられた。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は右手に太白山をみて東へ歩いていた。彼はわらじの底に、今朝の雷雨の湿りをかんじていた。薄い夏用の頭巾をかぶっただけで、一国の丞相とはみえない軽装である。供も連れずたった一人であった。
街亭の役の翌年(二二九)のことである。孔明は春に甘粛の武都と陰平の両郡に出兵した。その地のチベット系住民を味方につけるためである。|魏《ぎ》は|郭淮《かくわい》という将軍を派遣して防いだが、こんどは蜀の勝利に終わった。勝利といっても規模の小さい局地戦で、前年の街亭の大敗を|挽回《ばんかい》するにはほど遠い。
この小さな勝利によって、孔明は再び丞相に返り咲いたのである。
足どりは軽い。局地戦の勝利に酔っているのではない。土地を得たことよりも、住民の心を得たことがうれしかった。数日まえ、孔明は陰平のチベット族首長たちと宴会をひらき、心をわって話し合ったのである。別れるとき、彼らは孔明の手を握り、涙を流した。
──いつ戻ってきなさる? すぐにまた戻ってくだされ。
一人の白髪の首長は、目を真っ赤にして、そう言いながら別れを惜しんだ。握った手を、なかなかはなそうとしなかった。孔明はその情景を思い出すと、心がはずみ、足どりも軽くなるのだった。
──戻るとも。すぐに戻ってくる。
と、孔明は老首長の手を握り返して約束した。けっして気やすめに言ったのではない。彼はほんとうにすぐ戻ってくるつもりであった。
来るべき魏との戦いで、このたび占領した武都や陰平は後方基地になるはずであった。孔明はこれから、前線基地をどこにするか、それを物色するため東へむかったのである。
何年かさきのことになるであろう。だが、孔明は慎重に下見をしようとする。地図のうえで、いくつかの候補地をえらんだ。こんどは自分の足で、その候補地を歩き、自分の目でたしかめようとしたのだ。
五丈原。──有力な候補地である。
彼はいま五丈原を歩いている。軽装はとうぜんであろう。このあたりは、魏の勢力圏に属している。身分をかくさねばならない。供も連れないというのは、用心のためであった。
孔明はただ漫然と歩いて、地相をみているのではない。アテがあったのだ。|懐《ふところ》のなかに、たくみな言いまわしで書かれた紹介状がはいっていた。一応、魏の勢力圏とはいっても、その縁辺の部分であり、掌握力はそれほど強くない。それでも不審訊問をうけたり、身体検査をうけるおそれがある。紹介状の文面は、そんなときのことを考慮にいれて書かれたものなのだ。
「ああ、あそこだな」
孔明は足をとめて呟いた。紹介状を渡すべき相手の住居を認めたのである。それは一見、なんの変哲もない村落であった。彼は一ばんりっぱな家のほうにむかった。
妙なにおいがする。温泉の近くで|嗅《か》ぐにおいに似ている。
(これは|玻璃《はり》をつくるにおいか。……)
孔明はそのにおいを深く吸いこんだ。
玻璃は透明で、あやしくきらめく、ふしぎなものである。金属でもなければ陶磁でもない。そして、この中国に産するものでないとされている。玻璃ははるか西方から運ばれてくるものなのだ。
──西域のまだその西に産する。
孔明はそうきいたことがある。だが、五斗米道の使節として成都に来ている陳潜という者が、
──康国(サマルカンド)の人たちが、西方から材料の一部を持ち込み、長安に近い五丈原でひそかにつくり、西方からはこんだものとして売っているのです。
と、教えてくれた。
玻璃は高価であるが、品物はかさばり、しかもこわれやすい。長途の運送は危険であるし、また人力や費用をあまりにも多くつかいすぎる。そこで、長安の近くに秘密工房をもち、そこで製造した品を|駱駝《らくだ》や馬で長安へはこびこみ、
──西域のまだその西から運んできた。
ということにして売り|捌《さば》くのだという。
──誰も疑わないのかね、長安の買い手の商人は?
と孔明は|訊《き》いた。
──康国人は|碧眼紫髯《へきがんしぜん》です。駱駝を|牽《ひ》いてきた彼らの容貌を見れば、誰でも西域の西からやってきたと思い込んでしまいます。
と、陳潜は笑いながら言った。
──ほう、おもしろいね。人間の心理の盲点を衝いているが。……とすれば、五丈原の康国人たちは、ふだんあまり顔をみせないのだろうね?
──そうです。五丈原にはほかの人はあまり住んでいません。
──なぜかな? 土地が|痩《や》せておるのかな?
──いえ、鬼が住むという噂がありまして、もといた人たちも逃げ出しました。
──その噂は康国の者たちが、わざと立てたのであろう。きっと、ちょっとした仕掛けをしたのにちがいない。
──どうやらそのようでございます。
──康国の者たちも、秘密工房に住民が近づくと困るわけだな。……なるほど。……それで、彼らは自給自足をしておるのかな? 穀類は?
──自ら耕します。土地はいくらでもあるのですから、そのほんの一部を耕すだけで、百人やそこらの食糧は確保できます。
──ほう。……五丈原か。……
孔明の脳裡に、五丈原の名が深く焼きつけられたのはこのときであった。
数年後の大北伐には、十万の大軍を動員するはずである。しかも、孔明は長期戦を予想している。十万の大軍の食糧はどうするのか? このまえの街亭の役で、輸送力の弱さを天下にさらした。むろん輸送力の強化に力をそそぐが、それに頼り切ってはならない。長期戦であれば、ぜひとも|屯田《とんでん》制を採らねばならない。将兵が田を耕し、主食にかんするかぎりは自給自足が理想である。だが、十万の将兵が田を耕すとなれば、その土地の農民とのあいだに摩擦がおこるのは避けられない。耕す者のいない土地が、そんなに多くあるとは思えない。
ところが、あるというのだ。──五丈原に。
玻璃製造の康国人グループが、自分たちの秘密を守るために、農民たちを鬼や|怨霊《おんりよう》のたぐいで脅して、五丈原に近づけないようにしている。そのような土地であれば、十万の大軍が屯田しても、問題はおこらないだろう。問題がおこるとすれば、百人そこそこの康国の秘密居留民とのあいだの問題である。秘密を守ることを条件にすれば、話し合いは難しくないにちがいない。
孔明はいま話し合いの相手のいる建物にむかって、真夏の五丈原を歩いている。懐には陳潜の書いた紹介状があった。孔明は着物のうえから、その紹介状をぽんと叩いた。
案内を乞うと、長身の男があらわれた。諸葛[#葛のヒは人]孔明も一・八メートルを越える長身だが、取次ぎの男はそれよりもすこし高い。だが、碧眼ではなかった。黒い眼であったし、髪も|漆黒《しつこく》であった。
「紹介状を持参いたした。あるじに取次いでいただきたい」
と、孔明は紹介状を取り出した。
このとき、取次ぎの男がうしろ手にしめたばかりの戸が、またひらいて、もう一人の長身の男が出てきた。
「母上の使者かな?」
と、その男は訊いた。年のころは二十七、八で、やはり漆黒の髪をもち、野性的な目をしている。このあたりの農民とは目の光り方がちがう。
(猟師の目に似ている)
と、孔明はとっさに思った。
「いえ、ちがいますようで。この方は、南からおみえになりました」
と、取次ぎの男は答えた。
孔明は紹介状をさし出したばかりで、まだ名乗ってはいなかった。紹介状の表には、紹介者の名──陳潜の二字が記されているだけだった。それなのに、取次ぎの男は、ためらわずに孔明を南から来た人だと言った。
(陳潜は紹介状を書いただけでなく、あらかじめそのことを、別便でここへしらせたのだな)
孔明はそう推理した。彼が武都や陰平を占領し、チベット系住民を説得しているあいだ、陳潜は五丈原へしらせる時間はたっぷりあったのだ。
「ほう、蜀のお方か……」
目のかがやきの尋常でない青年は、そう言って、孔明をじろりと見た。
「さよう」
と、孔明は答えた。
「蜀の丞相諸葛[#葛のヒは人]孔明?」
「さよう」
孔明はおなじことばをくり返した。青年は孔明から視線をはずそうとしない。
「私は姓名をあきらかにした。で、あんたは?」
こんどは孔明が訊いた。
「姓は劉、名は柏。……そういうことになっておるが、南|匈奴《きようど》の王子である」
と、青年は答えた。
「亡き南匈奴王オフラの孫でありますな、劉豹どのの……」
「さよう」
青年は胸を張って、相手がくり返したことばを、こんどは自分の口から吐き出した。
「母上とおっしゃられたが、|蔡文姫《さいぶんき》さまのことでございますか?」
と、孔明は訊いた。
匈奴王の劉豹には妻妾が多いはずだ。祖父オフラの意思にしたがって、黄河のほとりで漢の女官を大量にさらったとき、最も才能のすぐれた蔡文姫は、豹の妻とされた。そのとき文姫は二十代の未亡人で、豹はわずか十三歳にすぎなかった。
蔡文姫は一世の|碩学《せきがく》である|蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]《さいよう》の娘であり、女ながら稀代の学問をもっていた。匈奴の地にとどまること十二年、豹の子を二人生んだが、彼女の父と親しかった曹操があわれみ、匈奴と交渉して連れ戻したのが、二十二年まえの建安十二年(二〇七)のことであった。文姫はその後、陳留出身の屯田都尉の|董祀《とうし》という人物と再婚した。曹操のお声がかりであったのはいうまでもない。
「さよう」
南匈奴王の劉柏は、胸を張りなおすようにして答えた。
「文姫さまがここへ参られるのですか?」
と孔明は訊いた。
「わしは母上に会うために、ここへ来て待っておるのじゃ」
「ながくお会いしていないのですね?」
「子供のころ別れたきりじゃ」
二十二年まえのことだから、劉柏が母の文姫と別れたのは、やっと物心のつくころだったはずだ。劉柏はほとんど母を知らずに育ったのである。
「お察しいたします」
と、孔明は面を伏せた。
「なにを察するのだ。……」
|気色《けしき》ばんだ声で、劉柏は言った。
「人の|性《さが》で察することができるのです」
孔明はおだやかに言った。
しばらく沈黙したあと、劉柏は思い直したように、肩を揺すって、
「そんなものか。……まぁ、よいわ。さ、なかへはいりなされ」
と言った。
取次ぎの青年が苦笑して、首をちょっと振った。なかにはいれと言うのは、取次ぎの役なのである。
「では、ごめん」
諸葛[#葛のヒは人]孔明は|襟《えり》に手をあてながら、低い戸を身をかがめて通り抜けた。
これから誰に会うのか、孔明にもわからない。おそらく康国居留民の代表者と面会するのだろうと思っていた。目がくぼんで青く、髪は栗色の康国の長老。──そう想像していたのに、案内された部屋に坐っていたのは、意外な風貌をもった人物であった。小柄な男である。一・五メートルもないであろう。のっぺりした顔で、目のふちが心もちはれているかんじの人物なのだ。その目もくぼんでいないし青くもない。小さな、ねむたげな目であった。
諸葛[#葛のヒは人]孔明が部屋にはいって一礼すると、その人物は、口をすぼめて、ほ、ほ、ほ、と笑って、
「孫権がのう……皇帝と称したよ、皇帝と。ほ、ほ、ほ、ついに皇帝とな……」
と言った。
「えっ、孫権が?」
「そうじゃよ、あの江東の暴れん坊、碧眼児の孫権がな。……この四月のことじゃったそうだ。……おもしろくなったね」
小男はそう言うと、また目を細めて笑った。
(皇帝か。……)
孔明は顔をそむけた。小男は嘘を言っているとは思えない。おそらくほんとうのことであろう。孔明は舌打ちしたい気持であった。
「即位の典礼を、うやうやしくとりおこなったそうじゃよ。ほ、ほ、ほ……」
小男はそのことが愉快でたまらないようであった。からだをねじるようにして、笑いつづけた。
「式を挙げましたか?」
「挙げましたぞ、いとも盛大に」
と、小男は答えた。
「ほう。……なんとまぁ、……」
児戯にひとしい。なにもえりにえってこんなときに、仰々しく即位の大典など挙げることはないではないか。
呉王孫権は、みずからを王より皇帝へ昇進させた。殿下から陛下へ。階段を一段あがったのではない。人臣から天子の地位へのぼる。目もくらむ高みへ|翔《か》けのぼったのだ。
いま孔明が仕える蜀は、呉の孫権と同盟関係を結んでいる。蜀が北伐軍をおこして、超大国の魏と戦うには、呉との同盟が維持されていることが絶対の前提である。
いま天下に|鼎立《ていりつ》する魏・呉・蜀の三勢力のなかで、蜀は最も国力が弱い、それだからこそ、孔明は『出師の表』のなかで、
──益州疲弊せり。
と、自国の弱さを、全軍にあらためて認識させたのである。最も弱い勢力であるが、それを補い強化する要素があり、その一つが団結力であると強調してきた。
団結力は「わが蜀は天下の正統」という意識から生み出される。曹家の魏が、いかに強盛を誇っても、彼らは漢の天下を奪った賊なのだ。
洛陽の漢と区別するために、|便宜《べんぎ》上、蜀あるいは蜀漢と呼ばれているが、成都の朝廷は正式には、あくまでもただの『漢』と称していたのである。
献帝が|曹丕《そうひ》によって廃されたので、漢王室ゆかりの劉備がそのあとをついで即位したことになっている。成都の朝廷は、けっして劉備がはじめたのではない。四百年まえ、高祖劉邦が、項羽と争って、やっとのおもいで中原に築きあげた漢王朝の流れをくむ、正統の政権である。一時的に衰微してはいるものの、由緒正しいものであり、|僭称《せんしよう》者の魏王朝などとはわけがちがう。
弱い蜀がなぜ強い魏を討つか?
正統が異端を討伐するのだ。曹家の魏が、悪逆無道にも皇帝と僭称しているので、それを罰するための北伐である。
兵士たちにはそう教えて、勇気を鼓舞してきたし、兵士の家族たちにも、
──そんなわけで、あんたのところの息子に出てもらわねばならんのだ。
と、説明してきた。
ところが、曹家の魏だけではなく、孫家の呉も、皇帝と称したというのである。悪逆無道であることにかけては変わりはない。魏を討伐しながら、おなじ大逆の呉を見のがしてよいものだろうか?
しかし、その呉は蜀と同盟関係を結んでいる。その同盟を破棄できるか?
(できない!)
現在進行中の北伐作戦計画は、呉との同盟関係存続を、とうぜんの前提としている。いや、その関係をさらに強化することさえ、北伐の条件に組み込まれているのだった。
「成都の朝廷では、あれこれと言う者がいるでしょうな?」
小男は相変わらず愉快そうに言った。
「それはいるでしょう」
「ばさり、といきなり斬り込みなさい。ことはかんたんですぞ」
小男はそう言って肩で笑った。
「そんなにかんたんですか?」
「かんたんですとも。……おっと、うっかりしましたぞ。私はあなたを鎮南将軍に取次がねばならんのでした。さ、どうぞ……」
と、小男は立ちあがった。
魏の鎮南将軍とは|張魯《ちようろ》のことである。
五斗米道の創立者張陵の孫、すなわち陵の子の|衡《こう》と少容のあいだに生まれた三代目なのだ。建安二十年、曹操に|降《くだ》って鎮南将軍の称号を授けられた。五斗米道の本拠地である漢中は、その後、劉備に占領され、現在は蜀の版図にはいっている。
張魯が五丈原まで出てきたのは、五斗米道信者の多いこの地方に、魏の影響をより強く及ぼす工作のためであろうか?
「鎮南将軍も微行でありますので、気軽にお会いください」
と、小男は言った。
微行──おしのびで来たという。
格式を重んじた当時のことだから、もし公式の会見となればたいへんである。蜀の丞相と魏の鎮南将軍といえばトップ同士であった。挨拶のやり方からはじまって、面倒な手続きを踏まねばならない。微行であるから、非公式の会見になる。形式は一切抜きで会えというのである。
「私に会うために来られたのか?」
と、孔明は訊いた。
「はい、そうです。ともあれ、部屋にはいれば、片手をあげて、やぁやぁと言いながら椅子に腰をおろしてください。椅子は二つ、卓をへだてて、むかいあわせにならべています。鎮南将軍ははじめから腰かけているはずですが。……」
と、小男は答えた。どうやら彼がお膳立をしたようである。
(そうか。──陳潜と張魯は兄弟のようなものであったな。……)
孔明はわかりかけてきた。張魯は教母少容の息子であり、陳潜は少容が我が子のように愛した人物である。だから、張魯と陳潜は兄弟といってよい。いや、その|絆《きずな》は兄弟以上に強いかもしれない。陳潜はあらかじめ孔明の訪問を五丈原へしらせた。そのとき、同時に洛陽の張魯へもしらせたのであろう。
──蜀の丞相が、微行して五丈原へ行く。非公式に話したいことがあれば、じかに会ってはどうか?
陳潜は張魯にそうすすめたのに相違ない。
宗教人である以上、陳潜も各政権の勢力の消長よりも、人びとが平和に暮せる世の中が早く来ることに関心をもっている。トップ同士が、ひそかに意見を交換しておれば、意味のない流血がどれほど防げるかしれない。
「あんたは五斗米道の|方《かた》ですな?」
と、孔明は訊いた。
小男は白い歯をみせてうなずいた。陳潜はこの人物に、魏・蜀のトップ会談の|斡旋《あつせん》を頼んだのであろう。
部屋にはいると、孔明は片手をあげた。彼のうしろで戸がしめられた。小男は部屋にはいらない。ひろい部屋に二人だけがいる。部屋のまん中に卓が置かれ、そのむこうに色白の中年の男が坐っていた。端正な顔立である。その男は坐ったまま軽く会釈をした。
「なにを話すつもりですか?」
孔明はいきなりそう訊いた。
「天下のこと。国事。……」
と、張魯は答えた。
「私は蜀の丞相でありますが。……」
孔明は語尾に力をこめた。
丞相は直接国政を担当し、自分の意思で政策を左右することができる。だが、あなたは? 一万戸の|食邑《しよくゆう》をもち、侯に封じられた鎮南将軍は、位階こそ高いが、祭りあげられた人物である。降伏した地方政権の首長は、このように祭り上げられるが、もはや国政に参与することはできないだろう。国政担当者でないあなたが、この私と天下のことや国事を語ることができますか? 孔明の語尾のアクセントは、そんな疑問がこめられていたのだった。
「私は|驃騎《ひようき》将軍の代理として、ここに参ったのです」
張魯はしずかに答えた。
「ほう、仲達どのの……それなら……」
孔明はうなずいた。それなら話はわかる。驃騎将軍の司馬仲達は、魏においては実質的な最高首脳である。制度上は、大将軍が国家の柱石として、政権の中心になっている。このとき、魏の大将軍は曹真だが、彼は年老いて病気がちだった。そのため、司馬仲達が事実上の宰相といってよかった。
(余談ながら、司馬仲達は翌年の二月に、大将軍に就任した)
張魯が司馬仲達の代理人であれば、諸葛[#葛のヒは人]孔明と彼との会談は、まさしく魏・蜀の最高首脳会談といってよい。
「仲達どのの立場はご存知でしょうな? 魏におけるあの人の立場……かなりつらいところもあるのです」
と、張魯は言った。
「有能ですからなぁ、仲達どのは」
諸葛[#葛のヒは人]孔明はうなずいた。
有能は美徳であるとはかぎらない。古代王朝にとって、有能な大臣は両刃の刀であった。王朝のためにめざましい働きをしてくれるかもしれないが、王朝を乗っ取ってしまうかもしれないのである。
司馬仲達が有能であるゆえに、魏の朝廷から警戒されていることは、孔明にもよくわかるのだった。おなじことが、孔明自身についてもいえたのである。
そのような立場になるのがいやで、有能であるのに、わざと無能を装っている人を、孔明は何人も知っている。そのような人たちを、世人は、
──明哲保身。
と、ほめたたえる。
だが、孔明にいわせると、それは天から与えられた才能を、土のなかに埋めてしまうようなものである。惜しいことだ。
「有能も度を過ぎてはなりません」
と、張魯は言った。
「で、仲達どののおっしゃりたいことは?」
孔明は単刀直入に訊いた。
「蜀の北伐軍がうごけば、魏は仲達どのが総司令官として、これを防ぐことになります」
「そうなるでしょうな」
「蜀はおそらく十万の大軍を動員するでしょう。が、魏はこれに大勝してはなりません。総司令官仲達どのにたいする警戒が高まります。異常にそれが高まれば、仲達どのの命も危うくなりかねません」
「ほう、いまから大勝の心配をなさっておられるのか。……」
孔明は苦笑した。
「さよう。孔明どのにしっかり守っていただいて、魏が大勝しないように願います」
「われら蜀のほうでも、丞相はいささか大勝をおそれておりまするぞ」
「おたがいさまですな」
「では、どうすればよいのか?」
「蜀はこの五丈原に本陣を構えられるでしょうな?」
「まだきめておりませんが」
「ともあれ、こういたしましょう」
と、張魯は身を乗りだした。
勝負なし。持久戦。──これが望ましい戦いのありようである。両軍が死力を尽した結果、そうなるのであれば、やはりその過程におびただしい血が流れる。おなじ結果を、話し合いのうえできめたなら、不要の流血は避けられるのではないか。
早い話が八百長である。──
張魯は司馬仲達の意向をうけて、諸葛[#葛のヒは人]孔明とのあいだに、八百長のとりきめをするために来たのだ。
──これもまた天下万民のため。
両首脳は談合そのものには原則的に賛成であった。うまくやらねば、参謀そのほか幕僚たちの疑惑を招くことになりかねない。細部についての、きめこまかいとりきめを、これからもつづけることにした。二人はながいあいだ話しこんだ。
孔明は背筋をのばして、椅子から立ちあがり、窓のところへ行ってそれを大きくあけた。ひらかれた窓のむこうに広場があった。一頭の牛がゆっくりと歩いていた。|牝牛《めうし》である。牛の乳房は地面に届きそうであった。
「ほう。……」
孔明は声をあげた。
ああ、しあわせ薄く乱世に遭いし身
はらからみな死に絶えてわれひとり
その身もとらわれの関の外
山もけわしや異域の天
谷はるかに路の遠きは限りなく
ふりかえりみればためいきのみ
日暮れても寝もやらず
飢えても食べるものもなく
|涕《なみだ》流れて|眥《まなじり》かわくひまもなし
…………………………
琴の名手蔡文姫は、琴を奏でながら、自作の詩を|吟《ぎん》じた。その詩は、彼女が自分の運命を|詠《よ》んだものである。
異域の兵士は男たちを斬り殺して、その首級を馬の頭にかけ、馬のうしろには婦女をのせてひきあげる。女たちは刃をつきつけられ、|鞭《むち》と棒の|拷問《ごうもん》をうけ、胡風吹きすさぶ土地へ追いやられた。そこで故郷のこと、家族のことを思い、涙なしですごした日はなかったのである。
十二年。──
若い匈奴王子の妻にされた蔡文姫はまだしあわせであったといわねばならない。彼女の不幸は、曹操のおかげで帰郷することになったが、匈奴で生んだ二人の子と別れなければならないことだった。
|吾児《あこ》はわが|頸《くび》にとびつき
しっかり抱いてたずねます
母さん、どこへ行くの?
ほかのひとが言ってるよ、
おまえの母さん行っちまってもう帰らないんだ、と
母さんあんなにやさしかったのに
いまはどうしてこんなにひどいの?
ぼくはまだ小さいのに
それをちっとも考えてくれないなんて……
そのことはをきけば胸のなかはただれ
恍惚として狂ってしまうようで
声はりあげて泣き叫び
吾児を|撫《な》で|摩《さす》り
立ち去るにも足はうごかない
…………………………
それは文姫が匈奴の地を去るときの情景を、そのまま描写した詩であろう。
二十二年まえ、彼女の頸に抱きついて、顔じゅうを涙で濡らした子供が、いま彼女のまえに坐っている。骨格|逞《たくま》しい青年である。南匈奴の精鋭を率いるにふさわしい、|精悍《せいかん》な顔をして、野性的な目を光らせている。
琴と詩は終わった。
小男が一ばん涙もろく、文姫が琴をひいているあいだ、両手で顔を|掩《おお》い、両肩をふるわせるようにして泣いていた。手の甲で眼のふちをこすりながら、小男は劉柏に、
「柏さまは泣かれませぬな?」
と訊いた。
「泣くものか。子供のころ泣きすぎて、もう涙が乾いてしもうたわ」
劉柏はそう答えたが、そう言う彼の両眼は真っ赤であった。
「魏の将軍にも、蜀の将軍にも、私の詩を読んでいただきたいと思います。あなたたちの妻や姉妹や娘たちにとって、戦いとはどのようなものだったか……いえ、過ぎ去った話ではございません。これからのことでもあります。これからの……」
蔡文姫はそう言ってうなだれた。
(天下万民のため。……)
孔明はそのことばを、胸のなかでなんどもくり返した。
来るべき魏・蜀の対決を、八百長にかえようとする司馬仲達の申し出は、おもに保身のための策であろう。だが、不要の流血を避けることで、乱世の人たちの不幸を一つでも減らすことになる。
乱世の不幸を、身をもって体験したのは、なにも蔡文姫だけではない。孔明自身にしても、孤児の彼にとってかけがえのなかった叔父の諸葛[#葛のヒは人]玄を、乱戦のなかに失ったのである。
五丈原のこの村落は、康国人の秘密の居住地というが、孔明が到着して二日になるが、まだ康国の人を見ていない。蔡文姫と息子の匈奴王子劉柏、取次ぎの青年、小男。……身のまわりの世話をする数人の男女も、みな漢族とおぼしい人たちばかりであった。
二日目の夜、食事のあと、蔡文姫の琴と詩をたのしみ、涙を流してしばらくして、やっと、康国の長老がすがたをあらわした。
「孔明どの、この五丈原が気に入られましたかの?」
長老は赤いひげをしごきながら、巧みな漢語で孔明に語りかけた。
「気に入りました」
と、孔明は答えた。
「どれほどかかりますかな? この五丈原に蜀の兵士たちが田を耕す情景が見られるのは」
「四……五年ほどでしょうか」
「それまで、こちらの命がもつかな? 長生きしなければいけませんね」
赤ひげの長老は、首をすくめて言った。
長老のあとに従って数人の男が部屋にはいってきたが、そのなかに僧形の人物が二人いた。仏僧のすがたは、このところ、蜀でもよく目につくようになった。
「康国では、住民は仏教を信じているのですか?」
と、孔明は訊いた。
「さようでございます。なにしろ我が国は、五百年まえにアレクサンドロスと申す西方の暴君が、地をくつがえすような大破壊をやりましてな。……そんなことで、人びとの心のなかに人生無常のことわりが、深く刻みこまれておりますのじゃ。……戦いのたびに、仏の教えはひろまりましたわ」
「そんなに戦いが多かったのですか?」
「多うございました。我が国は良馬を産しますので、各地の将軍がそれを|狙《ねら》ってくるのですよ。……」
「蜀でも仏僧がふえました」
「そうでありましょう。魏でもそうです。洛陽には月氏の人が早くから白馬寺を建立しておりましたからのう。……蜀や魏だけではありません。呉でも仏寺、仏僧がふえました」
と、長老は言った。
「呉の孫権との同盟を破棄して、この蜀漢を滅亡させたいと願う人があるなら、いますぐ申し出られい!」
諸葛[#葛のヒは人]孔明は成都に帰ると、ただちに重臣会議を招集し、その場で開口一番、そう叫んだのである。
満場、水を打ったように静まりかえった。あえて亡国を望む者は、|斬罪《ざんざい》に処せられるべきなのだ。むろん誰一人として、声をあげる者はいなかった。
五丈原で、あの小男から呉の孫権が皇帝と称した話をきいたとき、とっさに、
(大義名分を唱える馬鹿者がいるのではあるまいか?)
と思った。同時に、蜀における正統論過激派の連中が、
──大逆の呉も討つべし!
と、|拳《こぶし》をあげて叫ぶ情景が想像できた。
狂信的な正統論者だけではない。呉との同盟を維持、強化しなければ、蜀の前途に光明はないと熟知している人たちのなかからも、
──丞相を苦しめてやろう。
というだけで、自分自身が心のなかで不可能と考えている討呉論を口にする連中があらわれるかもしれない。
ほとんど絶対的とみえるほどの権限をもつ丞相諸葛[#葛のヒは人]孔明にも、反対勢力がなかったわけではない。司馬仲達もおそれていたように、王朝は有能な重臣をうたがい、警戒する習性をもつものなのだ。
(なにもこんなときに即位などしなくてもよいではないか。……)
孔明は呉の孫権に、そう言ってぼやきたい気持であった。しかし、呉の側からすれば、こんなときだからこそ打った手である。そのことはむろん孔明にも読めていた。
魏との戦いが、国家の至上目的である蜀にとって、呉との同盟はかけがえのないものであった。
呉はそれを知っている。同盟関係というものは、それをより熱望しているほうが立場はより弱いのである。
──そちらのほうが弱いのだぞ。
呉は蜀にそのことを思い知らせると同時に、どちらも皇帝と称している魏と蜀と、すくなくとも形式の上で、同等の線まで自分をひきあげようとしたのだ。
──ばさり、といきなり斬り込みなさい。
五丈原のあの小男はそう言った。小男に教えられるまでもなく、孔明はそれが最善の策であることを知っている。だから、声を励まして、いまのことばを叫んだのだ。
しばらく沈黙が続いた。孔明はやおら口をひらいた。
「大義は大義。しかし、国が滅びてしまっては、なんの大義であるか」
孔明は結論をさきに、うむをいわさぬ形でたたきつけ、その説明をあとまわしにしたのである。
「呉に祝賀の使者を送ることにしよう。孝起どのにお願いしたい」
孔明はひと呼吸のあとそう言った。つぎつぎと手を打って、反対者につけ込むすきがないようにしたのである。
孝起とは陳震という人物の|字《あざな》である。祝賀使まで用意されていたのでは、もはや反対派は圧倒されたといってよい。彼らはかりに反対しても、
──では、ほかにどんな策があるのか?
と反論されては、沈黙するほかはないのだ。
これで一つの用件が片づいた。孔明は邸に戻ると、一室にとじこもり、机にむかった。机上に紙がひろげられている。彼は筆をとって紙のうえにおろした。──文字ではない。線と円と弧であった。
孔明にとって、これはたのしい時間であった。けっして遊びではない。大切な仕事である。おなじ仕事でも、苦しいのとたのしいのとがある。これはたのしくてたまらない仕事であった。
設計である。──孔明はいろんな器械、器具類を作りだすのが好きであった。このあいだも、鉄の矢を同時に何本も発射する『|連弩《れんど》』という武器を作った。紙上にえがかれた設計図が、最後に実物となって目のまえにあらわれ、それが思っていたとおりの動きをするとき、孔明は心の底からたのしかった。
いま彼は、五丈原で見た牝牛を頭に思いうかべながら、筆をうごかしているのだった。
街亭の役では、輸送の弱さをいやというほど思い知らされたのである。
──戦いはすなわち補給なり。
孔明はそう信じていた。だから、つぎの大北伐では、自給できる土地を基地にしようとして、五丈原をえらぶことにしたのだ。五丈原で食糧は自給できても、武器や衣料そのほかの|輜重《しちよう》は、やはり蜀から運んで行かねばならない。
このころの輜重車は、春秋戦国時代の戦車を祖型としたもので、両輪に底の高い車台をつけ、牛馬に|牽《ひ》かせていたのである。街亭の敗戦で終わったこのまえの北伐では、かぞえきれないほど多くの輜重車が、山中で谷に転落した。転落しないまでも、道路で横転し、軍の行進をどれほど妨害したかわからない。
五丈原であの小男と会った部屋から外を見たとき、一頭の牝牛がいた。いかにもゆったりとして、安定そのものというかんじであった。
(この形だ。……)
孔明はそのとき、輜重車の改良を思いついたのである。よく転覆するのは、車台が高くて安定を欠いているからなのだ。戦車の場合は、相手も戦車に乗っているので、車台が低いと不利である。しかし、あまり高くては安定性がない。経験に従って、ほどほどの高さにしたのだが、それは|戟《げき》をもつ戦士が乗る戦車としての適当の高さなのだ。
──輜重車は輜重車。
という考えで、まったく別の車をつくらねばならない。これまで戦車をモデルにした輜重車を用いたのはまちがいであったのだ。
孔明はこうして『木牛』という輜重車を設計したのである。二輪ではなく、これは四輪であった。車台の底は地面をわずかにはなれるだけである。どっしりしている。安定しているだけではなく、より多くの物資を一台の車に積み込むことができる。|牽引《けんいん》する牛馬の数をふやして、車の数を減らすことができ、それは軍の行進を妨げることがすくない。
木牛は安定して、積載量が多いが、その欠点は速度が遅いことである。ふつうの物資の輸送なら、これでよいのだが、武器そのほか緊急を要する品をはこぶときは、やはり木牛では遅すぎる。
木牛を設計したあと、孔明はそれを基本にして、積載量を減らして速度をあげる輜重車の設計にとりかかった。──これが『流馬』と呼ばれる車である。
「これはまた、まことに盛んなものでありますな。……いったい呉には、どれほどの大軍があるのか、拙者には推測することさえできませぬ。……」
蜀の祝賀使の陳震は、ためいきまじりでそう言った。
「蜀も住民多く、軍隊の数もまた多いときいておるが。……」
呉の丞相|顧雍《こよう》は、満足げにうなずいて、そう言った。
ここは呉の本拠地の武昌である。
四月に孫権は即位して皇帝と称し、改元して黄竜元年とした。年のはじめに、夏口と武昌で黄竜がすがたをみせたという。それは聖天子出現の|瑞兆《ずいちよう》であり、孫権はそれにこたえて皇帝となったのである。
──蜀はどう出てきますかな?
顧雍が心配そうに訊いたとき、孫権は大声で笑って、
──蜀になにができよう? 孔明め、渋い顔をしても、呉の皇帝を認めざるをえないのだ。呉の友好なしには、蜀はなにもできんのだからのう。
と答えた。
蜀から使者が来るというしらせがあったとき、はじめは誤って、
──問罪使。
と伝えられた。呉がみだりに皇帝と称したので、皇帝の本家である蜀が怒って、その罪を問うために使者を寄越した。誤報をきいて、呉の人たちはそう思った。だが、孫権だけは、
──そんなばかなことがあるものか!
と、問題にしなかった。
はたして、問罪使ではなく、祝賀使であることが、やがて判明したのである。
呉は蜀の祝賀使陳震を迎えて、武昌の蛇山のうえにある宮殿で盛大な宴会をひらいた。そのとき、宮殿の前の広場で閲兵式をおこない、これを蜀の使者にみせたのである。蜀使陳震は感歎してみせた。だが、彼は成都をはなれるとき、諸葛[#葛のヒは人]孔明から、
──孫権があんたになにを一ばん見せたがったか、帰ってから報告してもらいたい。よく観察してください。
と言われたことを思い出した。
──孫権はあんたには、呉の弱点を見せたがるはずだ。
孔明はそうも言った。
──弱点を? まさか、あの孫権が……
陳震は信じられなかった。孔明は笑って、
──むろん、弱点を弱点としてみせるのではない。弱点を飾って、それが呉の弱点ではないとみせるのです。いや、孫権のことだ、その弱点を呉の強いところにみせかけようとするでしょう。厚化粧です。それをよく見破ってください。
と言った。
蛇山の宮殿の楼閣には、皇帝孫権以下、呉王朝の重臣が居ならんでいる。丞相顧雍、上大将軍|陸遜[#しんにょうの点は二つ]《りくそん》、大将軍|諸葛[#葛のヒは人]瑾《しよかつきん》──この三人が呉の柱石である。最長老の張昭は、先代からの重臣だが、親魏派であったうえ、すでに高齢なので、輔呉将軍として、このような宴席には出るが、事実上は引退している。
宮殿前広場に、槍や戟を肩にした歩兵や騎兵の集団がつぎつぎにあらわれた。さきほどから閲兵式はつづいているが、いつはてるともしれない。
推測できないと言ったが、陳震はさきほどから心のなかでかぞえていた。──兵の数はすでに十万を越えているはずだ。兵の装備も良好である。儀礼用だから、一張羅を身につけているのだろうが、いずれも美々しく着飾っていた。一分のスキもない分列行進だが、あまりにもスキがなさすぎて、ちょっとしたみだれがあると、すぐ目につく。軍旗の房がはずれているのがあった。馬上でその旗を持っている士官は|顎《あご》をまえにつき出していたが、長い顎のさきに細いひげがついていて、それが旗とともにひらひらするのが印象に残った。めずらしくユーモラスだったのだ。
(いったい、わしになにを一ばん見せたいのだろうか?)
閲兵式を参観しながら、陳震はしきりに考え込んだ。表むきの役目は呉帝即位の祝賀であるが、彼のほんとうの役目は、それを見破ることであった。
(やっ!)
陳震は唇からもれそうになった声を、急いで|呑《の》みこんだ。
軍旗の房の一部がはずれているのが、また目についたのである。それだけなら、驚くにあたらない。その軍旗を持っている士官が、長い顎をつき出し、そのさきのひげをひらひらさせていたのだ。
同一人物である。彼はすくなくとも二回登場したのだ。これまで気づかなかったが、ひょっとすると、三回も四回もあらわれたかもしれない。
蛇山の楼閣の露台は、とうぜん前方しか見えない。うしろは見えないのである。宮殿前の広場を通りすぎた部隊は、そのまま宮殿のうしろをまわって、また宮殿前にあらわれるらしい。
十万とかぞえたが、同一人物が二回あらわれたのであれば五万であり、三回なら三万あまりにすぎないのだ。
(数か。……)
呉帝孫権が一ばん見せたがっていたのは兵の数である。それがわかった。それが呉の弱点であり、堂々めぐりという|詭計《きけい》で、強くみせようとしたのだ。陳震は呉の厚化粧を見破った。長い顎のところで、厚化粧は|剥《は》げていたのだった。
「|雲霞《うんか》のごとき大軍ということは、形容のことばとしてきいておりましたが、じっさいにもあるのですなぁ。──」
陳震は大きなため息をついて言った。純情そうな表情をつくって。──
丞相顧雍は、我が意を得たように、
「兵は多ければよいというものではありません。訓練が大切ですよ。まだまだ訓練しなければ……」
と言った。
だが、陳震は顧雍のことばを、|翻訳《ほんやく》してきいていた。呉の丞相は、
──訓練も大切だが、かんじんの兵がすくなくてはなんにもならぬ。……
と言いたかったのである。それがホンネだった。さすが祝賀使として、孔明がえらんだだけあって、陳震は呉の丞相のタテマエのことばから、ホンネを読み取ることができた。
長い長い閲兵式が終わった。
陳震は|呆然《ぼうぜん》として、口をぽかんとあけていた。むろんそれは彼の演技であった。あまりにも多い兵の数に、すっかり気をのまれたふりを装ったのである。
丞相の顧雍は、「うまく行ったようだ」と、心のなかでほくそ笑んでいた。上大将軍の陸遜[#しんにょうの点は二つ]も、丞相と顔を見合わせて、かすかにうなずいた。だが、大将軍の諸葛[#葛のヒは人]瑾だけは、首をかしげていた。
(このようなときに、弟の孔明がでくのぼうの如き人物を使者にするはずはない。おそらく蜀でも有数の|烱眼《けいがん》の士であろう。われらの演技に、まんまとひっかかるような人物とは思えぬが。……)
諸葛[#葛のヒは人]瑾は孔明より七つ年上の実兄であった。彼も具眼の士であって、とくに弟のことは誰よりもよく知っている。蜀の祝賀使が、しきりにため息をつき、
「兵の数が多い。まことに多い。雲霞のごとき大軍でありまするな。……」
と、くり返すのをきくたびに、
(この使者は、わざと演技にひっかかったふりをしているのだ)
という疑いがより濃くなるのだった。
兵の数のすくないことが、呉の最も悩みとするところであった。兵は庶民から徴集するのである。つまり、呉の領域はひろいけれども、その割には、住民はすくないということであった。
黄河の流域、いわゆる中原の地が、古来から人口の多いところであった。文明はこの中原の地に育った。それ以外は、文明のない蛮地にすぎない。
文明の中心は、すなわち政治権力の中心でもあった。したがって、政治の衰弱による動乱も、つねに中原の周辺からおこったのである。中原に動乱がおこるたびに、文明圏の住民が、戦乱を避けて、非文明圏へ移住した。これが中国の文明のひろがり方の一つのパターンであった。
後漢末の黄巾の乱も、中原の周辺に火の手があがった。|冀州《きしゆう》、幽州、青州など、黄巾の乱の舞台となった土地の住民は、東へ、そして南へと逃げた。東へ逃げた人たちは、遼西や遼東の地に住みついた。南へ逃げた人たちは、|淮河《わいが》、そして長江(揚子江)の沿岸に定住するようになった。中原の文明は、そのようにしてひろがったのである。
誰もよろこんで移住したのではない。移住者は淮河や長江の水に映る月をみても、中原の故地をなつかしんだ。
──いつの日か故郷に還らん。
というのが、避難民の心情であった。
動乱が長くつづけば、避難民も二世、三世の時代となり、望郷心はしぜんに薄れて行くものなのだ。ところが、後漢末の中原は、曹操という英傑の出現で、部分的にではあるが、早く秩序が回復されたのである。
孔明のいわゆる『三分の計』は、動乱は|終焉《しゆうえん》しないが、天下は三分された状態で、小康を保つということを意味した。
三分の計が定着してからは、呉では北方から移住してきた連中が、つぎつぎと家族を連れて北へ帰るようになった。曹家の政治もあるていど人心を得ていたのである。
──帰ろうではないか。われらの故郷も住みやすくなったそうな。……田もある。董卓のころほど、役人は威張らない。こんな湿った土地に住むことはないではないか。……
人びとはそんなふうに誘い合わせて、故郷の中原へ帰って行った。
人口の激減。
それに気づいたときは、もう手遅れであった。あわてて、住民の移動を禁止したが、それは効果がなかった。移動を阻止する役人の数からしてすくないのである。
「移住民の動向に気をつけなかったからですね。気づくのが遅すぎたようです」
祝賀使の陳震は、成都に帰ると、さっそく丞相諸葛[#葛のヒは人]孔明に、呉における人数不足のことを報告した。
「気をつけなかったというのは、つまりは、民を愛さなかったということじゃな。……この蜀も気をつけねばならぬ」
と孔明は言った。
蜀の住民も、そのすくなからぬ部分は、中原からの避難民だったのである。だが、彼らは苦労して逃げてきた。チベット族の居住地を通り、蜀道の険を、|胆《きも》をひやしながら越えてきたのだ。やっとおち着くことができた。胸を|撫《な》でおろした。中原の秩序が回復されたときいても、そうかんたんに帰るわけにはいかない。帰途の難路が、彼らの望郷心をいささか薄めているといってよいだろう。
しかし、呉ではいささか様相が異なる。途中に山や川はあったが、あの剣のようだといわれた蜀道の難路はない。かんたんに避難してきたのであり、それだけに、またかんたんに帰ろうとする。
「住民や兵士の数がすくないことを、呉ではかくしにかくすでしょうね」
と、陳震はこのたびの使節旅行から得た感想を述べた。
「いつまでもかくし切れるものではない」
孔明は腕組みをした。
「では?」
「呉では、農民や兵士を獲得するための戦いをするかもしれない」
「人狩りですね」
「そうだ。……とはいえ、そのような不自然な戦いは、すぐに人狩りと見破られ、せっかくかくしてきた住民のすくない弱点を、かえってさらけ出すことになりかねない」
「呉としては、思案のしどころですね」
「うまい方法を思いつけば、すぐにとびつくだろう。……すぐに……」
孔明の脳裡には、ある人物のことがうかんでいた。口舌の徒である。舌先三寸で、人の心をうごかす人物なのだ。そのような人物が呉の孫権に、
──他国にさとられずに兵隊を増やす方法。
を説けばどうなるであろうか?
(孫権はとびつくであろうな。……)
孔明は考えて、実行可能とわかれば、かならず実行する男であった。彼のその人物──南中の|孟獲《もうかく》のところにいた|李叢《りそう》という男を成都に呼び寄せた。
李叢は交州から南中へ行ったのである。といって、彼は交州の出身ではない。交州に流れついたのが二十年もまえのことであった。
──どこから流れついたのか?
そう訊かれると、彼は首をすこし振ってから、悲しげな表情で語りはじめる。はたしてみんなに信じてもらえるか、彼には自信がなかったのだ。
はじめは十人のうち一人か二人しか信じてくれなかった。そのうちに、彼は中国のことばが上手になり、三人か四人は信じてくれるようになった。一人でも多く、自分のことばを信じてくれる人を獲得したい。それだけのために、彼は話術を磨いたのである。
いまはもう十人のうち九人は信じてくれるようになった。
──まちがったことを口にしないからだ。
舌先三寸で人の心をうごかす|秘訣《ひけつ》をきかれたとき、李叢はそう答えた。
李叢は自分の故郷のことを『|倭《わ》』と呼んだ。会稽の海を東へどんどん行けば、彼の生まれた土地へ行き着く。倭の人たちは、ときどき会稽にあらわれて交易をすることがあった。李叢もいちど会稽へ行ったことがある。二回目に行こうとしたとき、|時化《しけ》に遭って、交州(ベトナム)へ流されたのだ。
倭の国の土地には銅鉄が多い。鹿の骨を武器とする。部族のあいだに、よく戦争がおこる。人びとは勇敢な戦士である。またこの国は人口が多い。──
孔明は李叢からそんな話をきいたことがある。李叢の口から、倭の国のことを、孫権に説けばどうなるであろうか?
孔明は成都に出てきた李叢に策を授けた。こまごましたことまで、いちいち手をとるようにして教え、そのあと、五斗米道のルートで李叢を呉へ送りこんだのである。
「兵を出す」
と、孫権は言った。地理学者のいう夷州、|亶州《たんしゆう》とは、李叢のいう倭であることを確かめると、孫権は矢も|盾《たて》もたまらなくなった。いま兵の数さえあれば、どんなことでもできるのだ。
皇帝になったばかりの孫権は意気が高揚していた。本拠地を武昌から建業(現在の南京市)に移し、気分は一新している。
不足しているのは兵隊だけである。倭には数万、いや十数万の戦士がいるという。勇敢であるが、鹿の角を武器として戦う連中であるから、武装兵をくり出せば、かんたんに彼らを捕虜とすることができるだろう。その東海の戦士を大量に連れてきて、訓練をほどこすのである。──
(もう天下はおれのものだ。……)
半ば天下を取ったつもりになった。
「舟が要りまするぞ」
と、上大将軍の陸遜[#しんにょうの点は二つ]が|諌《いさ》めた。
「舟? わが呉は水戦の上手をもって天下に鳴る。舟はあるではないか」
「江上の舟は、外海に用いることはできませぬ。このことはご存知でありましょう」
「それは知っておる。だが江上の舟を改良すれば航海できることも知っておる。ただちに外海用の舟を建造せよ」
「お待ちください。むろん兵は多いに越したことはありませんが、|桓《かん》王も国をはじめたとき、兵は一旅(五百人)にすぎません。まして我が江東は、けっして人がすくなすぎるわけではないのです」
「いまの版図を治めるには、すくなすぎることはないだろう。だが、天下を治めるには、ちとすくないのだ。天下を治めるにはのう。……天下を……」
孫権は東海に出兵して、倭の兵をもとめるという計画を棄てようとしなかった。衛将軍の|全★[#王+宗]《ぜんそう》は、
「かりに倭の民をこちらへ移しても、人間と申すものは、水土がかわると、かならず病気になるのでございます。兵を増やそうとして、かえってそこなう結果になりましょう」
と、東海出兵を諌めた。
「なにを申すか。倭のような|瘴癘《しようれい》の地から江東に来れば、それこそ近ごろ|浮屠《ふと》(仏教)の者たちが申す極楽ではないか。地獄から極楽に来て、なぜ病気になるのか?」
孫権は自説をまげない。
「倭の民は|禽獣《きんじゆう》のようでございます。彼らを連れてきても、ものの用に立たないでしょう」
「なぁに、猛獣のような戦士であれば、かえって頼もしいではないか」
孫権はついにみずから命令を下した。将軍|衛温《えいおん》と諸葛[#葛のヒは人]直の二人に、一万の甲士(武装兵士)を授け、東海へ「人狩り」に行かせたのである。
成都でそのしらせをきいた諸葛[#葛のヒは人]孔明は、膝をうって、にっこりと笑った。
魏の司馬仲達との戦いが、話し合いでおこなわれるかぎり、魏は蜀にとっておそろしい存在ではない。五丈原での持久戦で、天下の民心のおもむくところを見守ればよいのである。そうなれば、気味が悪いのは、呉の存在となる。
碧眼児孫権は、たぶんに気分屋だが、いつ蜀を攻める気になるかもしれない。その呉が人狩りに熱中しているあいだは蜀の背後は安全といってよいだろう。
東海への人狩りは、おそらく失敗に終わるにちがいない。孔明は李叢から、くわしい事情をきいている。孫権はじつは実情をきいていないのだ。孔明の入智恵でふくらませた情報にもとづく行動である。成功するはずはなかった。
衛温と諸葛[#葛のヒは人]直が、一万の甲士を率いて、東海へむかったのは、呉の黄竜二年(二三〇)春のことであった。
翌年、両将軍は戻ってきたが、この人狩りは|惨澹《さんたん》たる失敗であった。──
亶州は絶遠の地で、行き着くことができなかった。
夷州へはやっとの思いで|辿《たど》り着き、その地の住民を数千人とらえて帰った。
ただし、軍中に疫病が流行して、あの一万の甲士は十人のうち八、九人までは死んでしまった。訓練を経たすぐれた武装兵を八、九千名も失って、ことばもわからぬ奇妙な島人を数千人連れて帰るという結果になった。
この損得の計算は誰にもできる。
皇帝孫権は烈火のごとく怒った。
衛温と諸葛[#葛のヒは人]直は、下獄し、|誅殺《ちゆうさつ》された。二人の将軍は、貧乏|籤《くじ》を引いたのである。
この年、孔明は北伐の軍をおこし、|★[#示+おおざと(邦の右側)]山《きざん》を囲んだ。だが、本格的な戦いではない。小手しらべである。このとき、孔明ははじめて自分の設計した『木牛』を試用した。結果は良好であった。
出兵して半年、孔明は軍糧が尽きたとして、蜀へ総ひきあげをおこなった。
「追撃せよ!」
と、司馬仲達は命じた。
「兵法の常識では、ここで追撃という手はないのだが。……」
魏の将軍|張★[#合+おおざと(邦の右側)]《ちようごう》は、いぶかりながら蜀軍のあとを追った。伏兵があり、張★[#合+おおざと(邦の右側)]は矢の雨のなかで戦死した。
孔明にしてみれば、街亭攻めの大将張★[#合+おおざと(邦の右側)]は、いわば|馬謖《ばしよく》の|仇《かたき》であった。その仇を討ったわけだが、自分の力で本懐をとげたという気はしない。
(張★[#合+おおざと(邦の右側)]は、仲達によって、死地へ送られたのだな。……)
孔明はそう思った。
張★[#合+おおざと(邦の右側)]は曹丕の即位以来、ながいあいだ左将軍の要職にあり、二年前、征西将軍の称号を得、去年、車騎将軍に昇進した。驃騎将軍の司馬仲達が大将軍になったのと、ほとんど同時の栄進である。仲達にとって、張★[#合+おおざと(邦の右側)]はいないほうが都合のよいライバルであった。
(むざんな。……)
孔明は仲達のつめたさをかんじた。
仲達との話し合いを、はたして信じてもよいものであろうか?
諸葛[#葛のヒは人]孔明が十万の大軍を率い、秦嶺を越えて渭水の南岸に達し、五丈原に陣を|布《し》いたのは、★[#示+おおざと(邦の右側)]山攻めの三年後のことであった。それは蜀の建興十二年、魏の青竜二年、呉の|嘉禾《かか》三年、西歴二三四年にあたる。──
作者|曰《いわ》く。──
正史『三国志』のなかの魏志倭人伝のくだりは、邪馬台国や卑弥呼のことで、日本ではこれほどていねいに読まれたものはほかにないといってよいほどである。それにくらべると、おなじ三国志のなかの呉志呉主伝のなかの黄竜二年春正月の項は、それほど問題にされていないようだ。
──将軍衛温、諸葛[#葛のヒは人]直を|遣《つかわ》し、甲士万人を|将《もつ》て海に浮かび夷州及び亶州を求めしむ。
というのである。
『資沿通鑑』の註では、夷州、亶州を倭国であるとする。ほかに琉球・台湾説もある。いったいどこであろうか? こちらのほうは、あまり論争がないのでさびしい気がする。
[#改ページ]
|夢《ゆめ》は|五丈原《ごじようげん》
蜀軍のうごきは、|渭水《いすい》の北岸にあった魏軍の本営に刻々と伝えられた。蜀軍十万が|秦嶺《しんれい》の斜谷道を通って、渭水の南岸をめざしていたとき、魏の総司令官である大将軍司馬仲達は、幕僚や将校たちにむかって、
「蜀軍がもし渭水の南岸を、山を背に東へむかえば、諸葛[#葛のヒは人]孔明が速戦を望んでいることがわかる。そして、もし西へむかえば長期の持久戦になろう」
と、予言した。
蜀軍はこれまで三たび秦嶺を越えて北上した。これが四度目の北伐である。過去の遠征は、西方──甘粛寄りの地方を平定することであった。せっかく渭水まで北上して東のかた長安を攻めようとしても、背後を襲われては悲劇である。それはただの敗北ではない。全滅を意味した。退路を断たれるのだから。したがって、東を撃つために、まず西をかためておかねばならない。西が安定すれば、そこから補給がらくになるという利点もあった。チベット族の多い西方を、諸葛[#葛のヒは人]孔明は恩と威でもって、蜀の味方につけたつもりであった。
西のかためが万全であれば、蜀軍はためらわずに東へ兵を進めるであろう。蜀軍が西へむかえば、それは西の情勢がかならずしも平穏ではなく、まだ威を示す必要があることを物語る。その場合、魏にたいする速戦は、できるだけ避けるにちがいない。
──北上した蜀軍は、渭水の線に達すると、西へ方向をかえました。
という報告がはいった。
「西か。……辛抱くらべになるぞ。皆の者、覚悟はよいか」
司馬仲達は部下にむかって、持久戦になると告げた。
蜀軍は秦嶺を越え、武功県のあたりで西へ折れた。現在の武功県は渭水の北岸にあるが、当時は南岸に県城があったのだ。蜀軍十万はそこから五丈原へむかった。
──魏軍の主力が渭水を渡りました。
|丞相《じようしよう》諸葛[#葛のヒは人]孔明が五丈原に着いたとたん、あとを追うようにそんな情報が届いた。渭水の北にあった魏軍が、河を渡って南岸に出た。
「仲達は背水の陣を|布《し》いたのだ」
と、孔明は言った。
ものは言いようである。北上してくる蜀軍を迎え撃つために渭水を渡ったのだから、たしかに水を背にして戦う構えをみせたのである。悲壮な決意をかためた渡河作戦かもしれない。だが、見方によれば、蜀軍を軽くみて、あえて不利な布陣で戦おうとしたともとれる。ともあれ、蜀軍の西進によって、両軍激突の場面はなかった。
「仲達はあせっておるのだ」
孔明はそうつけ加えた。だが、心のなかでは、あせっているのは自分のほうであるとわかっていた。
(時間が足りない)
彼は病気を抱えていた。見た目よりも重い病気であることを、彼は自分でかんじていた。自分のからだのことは、誰よりも自分が一ばんよく知っている。|襄陽《じようよう》で浪人生活を送っていたころ、彼は医薬の本をよく読んだ。健康については、かなりの知識をもっていた。もし先帝|劉備《りゆうび》の知遇を得ていなければ、彼は医者になっていたかもしれない。
(百日もつだろうか?)
孔明はそこまでわかっていた。のこされた時間はそれほどすくなく、のこされた仕事は目がくらみそうになるほど多い。これがあせらずにいられようか。
「こまかい仕事は、おまかせになってはいかがですか。すくなくとも|杖刑《じようけい》百以下の裁判は、下の者にまかせるべきでしょう」
五丈原の本営には、康国居留民のあの|玻璃《はり》の秘密工房があてられていた。五斗米道教母の少容は孔明の着く三日まえに、すでにここに来ていた。彼女は孔明に、仕事を減らすように忠告した。
「そうしたいのですが。……性分というものでしょうね」
諸葛[#葛のヒは人]孔明は力なく笑った。彼は杖刑二十以上の罪は、みずから判決をくだしていたのである。のこされた時間は貴重である。兵卒の喧嘩|沙汰《ざた》やコソ泥にまで頭を悩ませることはない。少容に忠告されるまでもなく、孔明はもうこれからは、重要な問題以外はひとにまかせようと思った。
「性分は変えようと思えば変えられます。まして……」
と、少容はあとは言葉を濁した。
「まして短い期間なら、とおっしゃるのですね」
孔明は少容の考えていることがわかった。五斗米道の|祈祷《きとう》は一種の医術でもあった。教団の幹部は、病気についての知識をもつことが要請された。教母の少容は、医薬のことにとりわけ研究を積んでいた。
彼女は孔明の病状を、かなり正確に知っていたのである。
「そのとおりです」
もはやかくすことはない。
「やってみましょう」
「仕事を減らすよりも、むしろ、みんなやめてしまったほうがいいでしょう」
「ぜんぶやめてしまう?」
「そうです。このたびの戦いも、べつに丞相の指図を仰ぐことはないでしょう」
少容は、諸葛[#葛のヒは人]孔明と司馬仲達とのあいだのとりきめを知っていた。五丈原に|対峠《たいじ》する両軍は、八百長をすることになっていたのだ。両首脳がそれをきめたのであり、部下に怪しまれないように、戦争らしい場面もいくらか筋書にいれられていた。
だが、それは|所詮《しよせん》話し合いにすぎない。筋書に従って、うごけばよいわけで、指揮官の意思は不要であった。
心を砕くことがあれば、それはいかに自然らしく演技するかということだけである。
「二つの例外を除いては……」
孔明は苦笑した。
蜀の北伐に呼応して、呉も東方で大軍を北上させることを約束していた。
こちらのほうは八百長ではない。約束によれば、呉は十万の軍をうごかすという。勝敗は予測しがたい。
もし魏が大敗すれば、西方の司馬仲達の軍は、呼び戻されるであろう。そのときは、蜀は追撃せざるをえない。魏が撤退すると同時に、八百長は終わりを告げるのだ。
反対に魏が大勝した場合、|剰《あま》った兵を西へむけることができる。皇帝|曹叡《そうえい》がみずから兵を率いて渭水のほとりにあらわれるかもしれない。そうなれば、八百長をつづけることができないのはいうまでもない。余勢をかって、戦勝の大軍が戦場にかけつけたなら、おそらく蜀軍には勝目はないだろう。増援軍が到着するまえに、蜀軍は戦場を離脱せざるをえなくなる。その判断や指揮は、孔明がとらねばならない。
二つの例外とはそのことであった。
諸葛[#葛のヒは人]孔明が蜀軍を率いて秦嶺を越えたのは、魏の元号の青竜二年(二三四)二月のことであった。呉が十万の軍勢を北上させたのは、おなじ年の五月であった。
十万と号したのは約束に従ったのだが、孔明は実数が七万もあればいいほうだと思った。呉の兵力不足と、それをひたかくしにかくしていることを、孔明はよく知っていた。
呉帝孫権はみずから出馬した。彼は主力を率いて、合肥の新城へむかった。そして、|陸遜[#しんにょうの点は二つ]《りくそん》と|諸葛[#葛のヒは人]瑾《しよかつきん》は、江夏、|★[#表示できない。同梱hihon04-ben.jpg参照)]《べん》口から襄陽をめざした。さらに|孫詔《そんちよう》と張承は|淮《わい》の地から広陵、淮陰へむかった。
これを防ぐ魏の将軍は|満寵《まんちよう》であった。
満寵、|字《あざな》は伯寧、山陽|昌邑《しようゆう》の人である。早くから曹操に従って、各地で戦った老将軍であった。赤壁の戦いのあと、曹操は大軍を北へ引き揚げさせたが、当陽の地にこの満寵を留めて守らせた。また、|樊城《はんじよう》で関羽に囲まれながらも屈せず、遂にこれを撃退した。これまでの戦歴は、まことにかがやかしい。
「これがわしの最後のつとめとなるであろう。悔いの残らぬ戦いで有終の美を飾りたい」
と、満寵は言った。
(赤壁の借りを返してやろう)
彼はそう決意した。
千軍万馬のなかで、彼は勝ったこともあれば負けたこともある。だが、あの赤壁の戦いほど、みじめな負け方をしたことはない。大きな借りという気がする。現役のうちに、それを返さねばならない。どうやらこれが最後の機会であるらしい。
(|火攻《かこう》だ。……)
赤壁のときは火攻めで負けた。その借りは、おなじ火攻めで返してやりたい。彼はひそかに期するところがあった。
満寵は数十人の決死隊を|募《つの》った。そして重点的に呉の武器庫や舟艇を焼いた。|松明《たいまつ》に用いた松材には、たっぷりと油がかけられていた。呉軍の陣地は火災で大混乱となり、満寵はそこへ攻撃をかけた。
|俄《にわ》か雨のように、さっと駆け抜けて行く攻撃であったが、これは呉軍の心胆を大いに寒からしめた。しかも、この乱戦で、呉は皇帝孫権の|甥《おい》の孫泰を失った。魏軍の矢にあたって戦死したのである。孫泰は孫権の四弟にあたる|孫匡《そんきよう》の長男であった。
「うぬ、傍若無人な。……」
孫権は駆け抜けて行った、魏の攻撃隊を見送って、唇をかんだ。
(あるいは、曹家の|小倅《こせがれ》、こちらのことを知っておるのかな。……)
呉軍には重要機密があった。十万と号しているが、じっさいは五万に満たないのである。だが、合肥の新城を攻める布陣は、いかにも十万らしくみせかけていた。そのため、各陣地は見た目にはよく|膨《ふく》らんでいるが、なかみの|疎《まば》らな、|脆弱《ぜいじやく》なものにすぎなかった。孫権は実情を知られることを、なによりもおそれていたのである。
十万と唱えたので、魏軍はそのつもりで構えている。孫権はそう思っていたが、このような大胆な攻撃があるのは、魏軍がこちらの水増しを知ったのではあるまいか?
かりに知らなかったとしても、いま駆け抜けたのだから、その手ごたえで悟られてしまったであろう。なまじ水増しなどしたおかげで、孫権はよけいな心配をしなければならなかった。
「まずいことになった。……」
孫権は首を振った。陣立ての虚実を見破られたなら、ただちに陣替えをしなければならない。陣替えはよいとして、当初の計画が挫折したことで、孫権はこんどの戦いがいやになってきた。もともと蜀との約束ではじめた作戦である。それほど勢いこんではいなかった。
数日後、前方の|斥候《せつこう》から急報が届けられた。
──魏の皇帝、みずから竜舟を御して東進しつつあり。……
というのである。
「なに、曹叡がやって来る?」
孫権はかぶっていた頭巾をぬぎ、それを地面にたたきつけた。
洛陽や長安に潜入させた|間諜《かんちよう》の報告では、魏では蜀と呉の同時侵攻にたいして、皇帝親征の計画はまったくないということだった。それが、とつぜん皇帝みずから、水路、合肥へむかったというのである。
なぜか?
皇帝みずから出陣するのは、よほどの自信があってのことにちがいない。
(やはり見破られたか。……)
十万と号しているが、その半分もないと判明したので、魏は一気に呉を撃破しようとしたのであろう。負ける気遣いのない戦いに、皇帝の親征を仰ぎ、全軍の士気を鼓舞しようとするのだ。
──呉の兵力はみせかけにすぎぬ。張子の虎だ。|揉《も》みつぶせ!
魏軍の将校は、みちみち大声でそう叫び、部下を励ましているはずだ。
──やっつけろ! やっつけろ!
魏軍の士気はいやがうえにも高まる。士気の高揚している軍隊は、実力の倍もの力を発揮することができる。
からくりを看破された軍隊は、士気が低下して、実力を出し切ることさえできない。両者のあいだに大きな差が生じた。
「退却だ。部隊をまとめよ!」
孫権は命令をくだした。
彼は気まぐれではあるが、決断は速い。戦えば、みすみす魏軍の|餌食《えじき》になるだけだと判断すると、すぐに退却を命じたのである。
魏の明帝が寿春に着くまえに、呉軍は合肥からの総退却を完了していた。
「逃げ足が速いのう。は、は、は……」
明帝は心地よげに笑った。
「孫権は身のほどを知っておりますようで。……これで呉は片づきました。つぎは蜀を追い払う番です。陛下が御親征なされば……いえ、|車駕《しやが》を長安へお進めになるだけで、諸葛[#葛のヒは人]孔明は兵を退くでございましょう」
と、侍中の|韋誕《いたん》が言った。
だが、明帝は首を横に振って、
「呉と蜀は、しめしあわせて兵を進めたのだ。呉が退却したからには、蜀が逃げるのはすでに時間の問題ではないか。……それに、あちらには仲達がいるのだから」
「仲達さまに気をお遣いでございますな」
韋誕は肩をすくめて言った。
「そうとも、彼は大切な魏の大将軍であるからのう」
明帝は謹厳な表情で言った。
実力第一の大将軍司馬仲達が、皇帝や朝廷の|猜疑《さいぎ》をおそれているように、皇帝曹叡もまた、大将軍に遠慮していたのである。いま皇帝の車駕が西へむかえば、
──大将軍は五丈原でなにをモタモタしておるのか。じれったいことだ。……
と、皇帝が考えているとうけとられかねない。それは大将軍の自尊心を傷つけることにもなろう。このようなときに、大将軍にすねられては困るのだ。
──いっさいは大将軍にまかせたぞ。
皇帝は西へ行かないことで、司馬仲達にたいする信任を表明したつもりだった。
呉の孫権があっさりと合肥から兵を退いたのは、その年の七月のことであった。
「べっ! くそおもしろくない。天は魏にえこひいきしておる。べっ!」
孫権は|唾《つば》を吐き散らしながら、いまいましげに言った。
仰々しく即位の大典をあげて皇帝となったのに、孫権はその言動がすこしも上品ではない。年も五十をすぎたが、江東の|碧眼児《へきがんじ》と呼ばれたころの暴れん坊の|片鱗《へんりん》をまだのこしている。とくに家臣がそばにいないとき、ずいぶんひどい|罵詈雑言《ばりぞうごん》を口にした。
魏帝親征ときいて、あわてて退却したことが、孫権には腹立たしくてならない。いくら考えても、退却は正しい措置であった。が、いくら考えてもいまいましい。
「曹叡め、おれはおまえの祖父の曹操と天下を争ったのだぞ。|洟《はな》垂れ小僧め! 小便垂れの小伜め!」
孫権は床を踏み鳴らした。
「なにごとでございますか?」
床の音をきいて、侍中の|胡綜《こそう》があらわれた。侍中というのは禁裡にあって、|乗輿《じようよ》服物を分掌する役人で、いわば皇帝の身辺雑用係である。つねに皇帝の側近にあり、気のきいた人物が任命される。呼び出されたとき、とっさに皇帝の機嫌を見て取るのが役目のコツといってよい。
胡綜は皇帝孫権が腹を立てていることを知った。なにに腹を立てているかもわかっている。このようなとき、皇帝に言いたいだけのことを言わせるのも、侍中の役目の一つだったのである。
「おれは魏の洟垂れ小僧に腹を立てておるのだ。天はいつもやつに恵みを垂れている。恵みすぎではないか」
と、孫権は首を振り立てるようにして言った。
「なぜでございますか?」
「のこのこと寿春くんだりまで、舟で出てきやがって」
「陛下も合肥へ親征されたではありませんか。なにも他人のことばかり腹をお立てになることはありません」
「おれも親征はした。だが、しょっちゅう心配ばかりしていたぞ。兵は足るか、食糧はどうなのか、と。……やつはなんの心配もなく、舟遊びのつもりでやって来た。これは不公平じゃないか!」
「魏帝に心配ごとのないのが腹立たしければ、心配ごとをつくっておあげになればよろしゅうございます」
「ところが、魏では|屯田《とんでん》制がうまく行って、食糧不足の心配はない。住民も多く、募兵に苦労することはない。背後を襲われる心配もないのだ。……待てよ……」
孫権はそこで言葉を切った。
心配ごとがなければ、それをつくり出してやろうではないか、と侍中の胡綜は言ったのである。やたらに足を踏み鳴らすよりは、そのような対策を考えたほうが利口なのはいうまでもない。
魏の背後──北には|匈奴《きようど》がいる。魏はとくに南匈奴とは友好関係にある。南匈奴を煽動して、魏にそむかせるのは至難であろう。曹操以来、魏は南匈奴と馬をならべ、友軍としてかずかずの戦場でともに戦った。呉にはその友情をこわす方法がない。なによりも、呉は南匈奴になんの手がかりも持っていない。
匈奴は難しいが、東北には公孫淵がいるではないか?
「畜生!」
孫権は公孫淵のことを考えると、また腹立たしくなって、そのあたりに唾を吐き散らした。
去年の春正月のことである。公孫家から二人の使者が来た。|宿舒《しよくじよ》と孫綜で、あるじ公孫淵の親書をたずさえていた。親書のなかで、公孫淵は自分のことを『臣』と書いていたので、孫権は大いによろこんだ。
公孫家は遼東(いわゆる満州の南部)のあるじであった。初代の公孫|度《たく》は遼東太守となり、東に|高句麗《こうくり》、西に|烏丸《うがん》族を撃ち、その地に独立王国を築いたのである。二代目の公孫康のとき、曹操が|袁尚《えんしよう》を追って遼東に兵をむけた。公孫家の危機であったが、公孫康は逃げてきた袁尚たちの首を|刎《は》ねて曹操に献じ、難局を切り抜けた。
当主の公孫淵は公孫康の息子である。魏の明帝から揚烈将軍の称号を得たが、そのうちに、魏に頭を下げるのがばからしくなった。小独立王国のあるじは、えてして井のなかの蛙になりがちなのだ。
──魏だけが天下のあるじではない。天下は三分され、ほかに呉と蜀という有力政権がある。蜀とは離れすぎて連絡のとりようがない。だが、呉とは海路で連絡できる。ひとつ|誼《よしみ》を通じよう。
公孫淵はそう思いついて、使者を送ったのである。かならずしも呉と緊密な関係を結びたいと考えたのではないらしい。
魏にたいする|牽制《けんせい》であったようだ。呉とも往来があることを魏に示して、
──遼東が頼れるのは、なにもあなたがた魏だけではありませんぞ。
と、自主性を強調するのが目的だったのだ。
孫権が公孫家の使者の訪問をよろこんだのは、遼東に住民が多く、兵数も多いときいていたからである。
──公孫淵と組んで、魏を|挟撃《きようげき》できるではないか。……
孫権はそう思って、|張弥《ちようび》、|許晏《きよあん》、|賀達《がたつ》といった閣僚級の使者を答礼に送った。おびただしい金宝珍貨をたずさえて行ったのはいうまでもない。
どうやら遼東のあるじ公孫淵は、孫権に輪をかけた気まぐれ屋であったらしい。答礼使が来たときは気が変わっていたのだ。
遼東にとっては、呉は遠く、魏は近い。近い魏の機嫌を損じては、独立王国の存亡にかかわる。公孫淵はそう思い直し、呉の贈物を没収し、答礼使の首を刎ねて魏へ送ったのである。客の首を刎ねるのはお家芸らしい。
──よくやった。
魏は公孫淵を楽浪公に封じた。
しかし、よく考えてみると、遼東に呉の答礼使が来たのは、遼東がさきに呉へ使節を送ったからだ。魏に内証で送った使節が、呉にどのような話をもちかけたのであろうか? 答礼使がいずれも閣僚級の大物であったことは、その話がかなり重要であったことを物語るのではあるまいか?
魏がそのような疑惑をもったのはとうぜんであろう。楽浪公に封じたとはいえ、一応そうしたまでで、魏はかえって警戒心をもったという。──この情報は、洛陽の諜者から伝えられたのだが、皇帝に情報を取次ぐのも侍中の役目である。
孫権は深呼吸をして椅子に腰をおろし、侍中の胡綜に、
「遼東のねずみについて、なにか情報はないかな?」
と、|訊《き》いた。
答礼使に持たせた金銀財宝を、ただでくすねた公孫淵に、孫権は「ねずみ」というあだ名をつけていた。
「前罪を|悔《くや》んでいるそうでございます。去年のあのことで、楽浪公などの称号はもらいましたが、魏の有形無形の圧迫は、日に日に強まっているそうです。このごろでは、露骨に領土割譲をにおわせてくると申します」
と、胡綜は答えた。
「罰を受けたのだ。このお人好しのおれをだました罰をな……」
孫権は口をへの字にまげた。去年のことは、思い出すだけでも不快である。
(しかし、感情に流されてはならぬぞ。現実だ、すべては現実だ。……)
人一倍の感情家である孫権は、激情にかられると、すぐに自分にそう言いきかせる習慣をつけていた。
「たったいまはいった情報によりますと、大帝(孫権のこと)にたいし|奉《たてまつ》り……その、去年の財宝を返還いたしたいとか……遼東のねずみがそう申しておりますそうで」
胡綜はそう言って頭を下げた。
「|赦《ゆる》してくれと申すのか?」
「はい、さようでございます」
「身勝手な」孫権は軽く舌打ちしてから、
「赦してやらぬこともないが、それには条件がある」
「とうぜんでございます」
「話をつないでおけ。べつに急ぐことはない。急いでいるとみせてはならぬ」
「急いでいるのは、ねずみのほうでございます」
「でかい猫が目のまえで、|牙《きば》を鳴らしておるからのう。……」
孫権は小鼻のあたりを指でこすった。
去年、いちど計画した、遼東としめし合わせての対魏作戦を、再検討することにした。だが、つぎは呉が有利な立場に立ち、遼東に損な役割を押しつけねばならない。遼東は呉の大臣を何人も殺しているのだから、同盟再議にあっては、その償いをしなければならないのだ。
「では、ようすを見まして、適当に進行することにいたします」
胡綜はうやうやしく|拱手《きようしゆ》した。
五丈原の戦いの筋書は、蜀が攻め、魏が守る、というのがその概要であった。
わざわざ秦嶺を越えた蜀の北伐軍は、進んで攻めなければ、遠征の意味はない。それにたいして、魏はそれを防ぐだけでよかった。明帝の祖父曹操が漢中に踏み込んで失敗しているので、蜀へ攻め込むことは考えていなかった。兵力、|輜重《しちよう》、装備など、すべて防戦のみを考えてなされていたのだ。
諸葛[#葛のヒは人]孔明が蜀の精兵を率いて攻め、司馬仲達が魏の陣塁を固く守り、挑戦に応じない。蜀軍は魏の陣地にむかって、
──男なら出て戦え!
と、声をそろえて呼ばわった。
また蜀の軍使が、陣中見舞と称して、魏の大将軍司馬仲達に贈りものをしたこともある。それは婦人服と婦人用の|巾幗《きんかく》(ベール)であった。
──あなたは女みたいだ。
と、からかったのである。それに憤慨して出撃することを期待したのであろう。筋書のことを知らない人びとはとうぜんそう思った。だが、このプレゼントの寸劇も、筋書のなかにあったのだ。
「は、は、は、カッとなってとび出すほうが女みたいだぞ。……けっして挑発に乗ってはならぬぞ」
司馬仲達は、各部署の指揮官に、きびしくそう命じた。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は、白木造りの|輿《こし》に乗り、|葛[#葛のヒは人]巾《かつきん》をかぶり、手にした軍扇で三軍を指揮した。緒戦のころは、戦場に孔明はそのようなすがたをよくあらわした。ところが、時がたつにつれて、出現の回数が減った。
「合肥で孫権が総退却したので、孔明はがっかりしたのでしょう」
魏軍の参謀はそう言った。
「孔明の智謀は、絶世のものである。彼の行動について、常識的な判断をすれば、きっと痛い目に遭うぞ」
仲達はそう答えた。
「五丈原の住民の話によりますと、孔明は病床に|臥《ふ》せているそうでございます」
という報告をきいても、仲達は|顎《あご》を|撫《な》でながら、
「用心せい。わざとそのような噂をまいているのかもしれんぞ。孔明にかんする情報は、軽々しく信じるでないぞ」
と、部下をいましめた。
──対孔明恐怖病にかかっておられる。
部下たちは首をかしげて、そんなふうに|囁《ささや》き合った。
じつは孔明病むというしらせが、仲達には一ばん気がかりだったのである。
相手が孔明であるから、この五丈原を舞台とする大芝居が、うまく進行しているのだ。もし孔明が死ねば、後継者がはたして、仲達の芝居の相手をつとめてくれるかどうかわからない。
「進を呼べ」
仲達は側近の者にそう命じた。進というのは、仲達の弟の名である。
孔明はそのころになると、もう輿に乗って戦場に出ることもできなくなっていた。陰暦七月は、秋は名のみで、残暑はまだきびしい。彼の病身は、それに耐えられないのである。
丞相病む。しかも病いは|篤《あつ》い。──成都の朝廷にも、このことは急報された。
成都では、あまり出来のよくない皇帝が、丞相重病のしらせをきいて、おろおろした。
──丞相がいなくなれば、いったい、どうすればよいのか? |朕《ちん》は心もとない。すぐに丞相に訊いて参れ。
皇帝劉禅はそう言って、五丈原に急使を送った。
勅使の用件を訊いて、孔明は苦笑した。
──そなたなきあとどうすればよいのか?
(そのようなことが、ご自分できめられないようで、蜀漢の天子として、国を保つことができましょうか?)
孔明はよほどそう答えようかと思った。だが、それは言っても仕方のないことである。
(人間の資質はどうしようもないのか?)
劉備玄徳のような傑物に、なぜこのような凡庸な子が生まれたのであろうか?
魏の天子──あの曹操の孫は、みずから合肥に親征して、呉の孫権を|遁走《とんそう》させるほどの英主に育ったのに。──おなじ世代の天子でも、これほど違うのか。
孔明はむなしいと思った。
──我が子に望みがなければ、きみ、とってかわれ。
白帝城での劉備の遺言が、|耳朶《じだ》にあざやかによみがえった。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は、なんどかそのことを考えた。──帝位に|即《つ》くことを、である。
天下万民のためには、そのほうがずっとよいかもしれない。暗君をいただく不幸と、明君をいただく幸運と。──
(もうすこし待とう)
『そのこと』を考えるたびに、孔明は結論を先にのばした。彼はことし五十四である。ついこのあいだまで、まだすこし先があると思っていたのだ。
もう手遅れである。
勅使の李福は、孔明の病床のそばに、膝をそろえてかしこまっていた。
孔明はゆっくりと、|噛《か》んで含めるように後事を語った。李福は紙をとり出して、克明に丞相のことばを筆記した。
──四たびの北伐で、国家の元気は弱っている。今後、すくなくとも十年は、外征の軍をおこすべからず。
これが孔明の説く骨子であった。
内政に重点を置き、人材を登用せよ。──孔明はくどいほどこれをくり返した。
鋭敏な人物なら、
──外征を不可とされるあなたが、なぜ四たびも北伐軍をおこされたのか?
と問い返すであろう。もしそう問われたら、孔明は正直に答えるつもりであった。
──人材ですよ。
外征そのものが不可なのではない。蜀には諸葛[#葛のヒは人]孔明のほかに、大軍を指揮できる人材がいないのである。蜀の群臣には失礼にあたるかもしれないが、それが真実であった。
だが、李福は問い返さなかった。彼は尚書僕射の官についているが、それほど鋭敏な人物ではなかった。愚鈍といってよいかもしれない。なにしろ、彼は五丈原をはなれて成都へむけて二日ほど旅をして、
「しまった、大切なことを訊くのを忘れていた。……」
と、あわてて引き返すほどの人物なのだ。
五丈原の本陣では病床の孔明が、
「李福はいまにあわてふためいて戻ってくるぞ。……」
と、予言していた。
はたして、勅使李福は汗を拭きながら、
「うっかり忘れておったわ。わしとしたことが、これはどうじゃ……」
と、孔明の病室にはいった。
「お待ちしておりましたぞ」孔明は微笑をうかべながら言った。──「お答えいたそう。私の考えでは、|公★[#王+炎]《こうたん》どのがよかろう」
公★[#王+炎]というのは、蜀漢の撫軍将軍である|★[#くさかんむり+將]★[#王+宛]《しようわん》の|字《あざな》であった。
李福は目を白黒させた。彼が訊き忘れたのは、孔明亡きあと、国政の中心となるべき人物の名である。孔明は訊かれるまえに答えたのだ。
「で、そのあとは?」
と、李福は訊いた。
「文偉どのなら公★[#王+炎]どのの後任がつとまるでしょうな」
と、孔明は答えた。
文偉とは、中護将軍|費★[#ころもへん+韋]《ひい》の字であった。費★[#ころもへん+韋]は年こそ若いが、天子が皇太子のときからその舎人として側近に仕え、なによりも争いごとの調停に才能を発揮した。
(わし亡きあと、廷臣間にいざこざが絶えないであろう)
費★[#ころもへん+韋]を第二の後継者に指名することで、孔明は将来の蜀廷の|内訌《ないこう》を予言したのだが、李福はそこまでは察することができない。
「それで、費★[#ころもへん+韋]のあとは誰がよろしかろう?」
李福は筆をいそがしげにうごかしながら訊いた。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は答えなかった。
(ほかに蜀にどのような人材がいると思われるのか?)
無言のうちにそう言ったのだ。──だから、人材を養成せよと、くり返して託したではないか……。
「さようですな。後継者とそのつぎ、それぐらいでよろしいでしょう。……」
李福は満足して立ち去った。
なつかしい顔がならんでいる。
めずらしく気分がよいので、諸葛[#葛のヒは人]孔明は病床に上半身を起こした。
五斗米道の教母少容と愛弟子の陳潜がならんでいた。その隣りに|浮屠《ふと》の人たちがいた。碧眼の景妹は、栗色の髪がまっ白になっている。六十をすぎたのだから無理もない。だが、八十を越えたはずの少容とならんで、あまり年の差をかんじさせない。少容があまりにも若くみえすぎるのだ。
「八十をすぎて、精神のさわやかな人もおられるが、|僅《わず》か五十を越えたばかりで、もう|老《ふ》けこんで、浮屠の人たちのおっしゃる、|彼《か》の岸へ行こうとしているこの私のような者もいます。世はさまざまでありますなぁ」
孔明は微笑をたたえて言った。
「|永劫《えいごう》の時間からみれば、八十も五十も変わりはございません。充実した一年は、|茫然《ぼうぜん》自失の百年にまさります」
と、景妹はしずかに言った。
「それにしても……」孔明はかすかに|眉《まゆ》をうごかした。──「この国のすみずみまで……蜀であれ魏であれ呉であれ、浮屠の寺が建ちました。人びとは現世に絶望したのでしょうか。……私はこの現世のほかに住むべき場所はないと信じ、人びとの住みやすい世界を造ろうとつとめてきたのです。あなた方と競い合って、ここまできましたが、さて、この勝負はどうなりましたかな?」
「私は曹操さまと、どちらが勝つか、|競《くら》べ合いをしました。人びとの心は、こちらに傾きましたが、私たちの力では、生活のなかの……生き身の営みの苦しみは、なんともできませんでしたわ。やはり将軍たちが、世の中を鎮めないかぎり、心のやすらぎだけでは、人びとは救われません。……」
少容はそう言って、首を横に軽く振った。
「天下をたばねて……人びとが安んじてなりわいにはげめるようにするのが、私の……そう、私の夢でありましたが。……」
孔明は目をとじた。
劉備の三顧の礼にこたえて、彼は|草蘆《そうろ》を出たのである。知遇にこたえるだけではない。いまの世に、親や兄弟、親戚、知友の誰かを戦乱に失っていない者は一人もないといってよいだろう。とりあえずその不幸を地上から消し去りたい。そのためには天下は統一されねばならない。だが、この分裂の時代には、それは無理というものである。強引にやれば、いまの数倍もの大動乱を招き、おびただしい人命が失われる。
──天下三分だ。……
ひろすぎる天下を三つに分け、三者の勢力均衡のうえに、ひとまず三つの平和圏をつくりあげよう。これなら実現可能である。……
諸葛[#葛のヒは人]孔明が乱世のなかに、劉備という英雄の軍師として乗り出すことを決意したのは、そのような抱負があってのことだった。
「でも、あなたは成功しました。天下三分の計は、みごとに……」
と、少容は言った。
「おたがいに……」
孔明は、少容もおなじ意見をもち、おなじ道に努力したことを知っている。彼は自分の指揮する将兵の心のなかに、少容の存在をかんじることがあった。
「私たちの力は微小でありますが……」
景妹は面を伏せて言った。
「いえ、小さいとは申せません。あなたがたの心を、私は部下や、それから敵のなかにもかんじました。だから、希望がもてたのです。あらゆるところに、あなたがたがいらっしゃる。……あらゆるところに……」
さすがに疲れて、孔明は口を|噤《つぐ》んだ。
乱世のはじまりには、人間は|禽獣《きんじゆう》のようであった。利害が反すれば、その場で人を殺し、眉一本うごかさない。人間の心がそのようであったから、世の中が乱れたのかもしれない。
──可哀そうに。……
人の死に、そうかんじて涙する心をもつようにならねば、この乱世はおさまらないのである。
孔明はながいあいだ軍隊を指揮してきた老将校に、むかしの兵卒と、いまのそれとの違いをきいたことがある。その老将校はちょっと考えてから、
──いまの兵卒は、よく泣きますなぁ。敵兵の死骸を見ても涙を流すやつがふえてきましたよ。むかしの兵隊は、そんなに女々しくなかったですがねぇ。……
と答えた。
魏・蜀・呉、三国のいずれを問わず、その軍隊のほとんどは、五斗米道信者でなければ仏教信者であった。彼らはもはや禽獣ではなかった。そして、そのことが理想主義的現実政治家の孔明に、希望を与えてきたのである。
──人間はよくなりつつある。……
そう信じなければ、孔明のような仕事はできなかったであろう。
少容の隣りに、若さを代表するかのように、南匈奴の若き王子劉柏が坐っていた。そればかりではない。劉柏の父の左賢王|劉豹《りゆうひよう》が、すこしはなれたところで、あぐらをかいていた。
董卓の乱で、洛陽一帯が乱れたとき、劉豹はまだ子供であった。
「生まれたからには、生きて行かねばなりません。これが人間のさだめです」
少容はそう言って目をとじた。この八十|媼《おうな》の顔は、かすかに紅潮して、皮膚には|つ《ヽ》や《ヽ》さえ認められた。──さまざまな人生があることは、彼女の顔をみるとよくわかった。
彼女のうしろの|簾《すだれ》が揺れて、一人の人物がはいってきた。五十がらみの男だが、小柄である。
「あら、いつ来るか、いつ来るかと待っておりましたわ」
少容はふりかえって言った。
「もっと早く来ようと思っていたのですが、なかなか機会がありませんでしたので」
その小男は、つかつかと孔明の枕もとまで行き、そのそばに坐った。
「ああ、これは……いつぞやは」
と言って、孔明は顎を引いた。
「いかがですか、お加減は?」
と小男は訊いた。
「戦場に出ることは、もはやかなわぬ夢でありましょう」
と、孔明は答えた。
先年、諸葛[#葛のヒは人]孔明はここで、鎮南将軍張魯と会って、司馬仲達との未来の戦いに八百長をする相談をした。そのとき、|斡施《あつせん》役をしたのがその小男であった。口をきいたけれど、孔明はその名をしらされていない。
「司馬恵達さんです」
少容がはじめて紹介した。
「ああ、そうでありましたか。……」
孔明は枕にあてた頭を、すこしうごかした。
司馬家の兄弟の|字《あざな》は、すべて『達』の字がついている。伯達、仲達、叔達、季達、顕達、恵達、雅達、幼達の順である。恵達の名は進という。
司馬家の人たちは、司馬仲達をはじめ、みな偉丈夫で、|逞《たくま》しい体格をしていた。だが、六番目の恵達だけは、どうしたわけか大そう小柄であった。
──小さいけれども智恵がある。仲達のこんにちの栄進は、そのかげに恵達の画策があったという。
そのような真偽不明の噂が、世間に流れていた。孔明もそれは耳にしていた。
「成都から、蜀漢の勅使がおいでになったそうでございますな。成都の天子が、後事をたずねられたとか。……」
と、司馬恵達は薄笑いをうかべながら言った。
「余命、あといくばくもなさそうなので……」
孔明は淡々と答えた。
「勅使にお答えになったのが、蜀の後事であったのはとうぜんでしょう。私は蜀の後事よりも、この天下の将来を、孔明どのからおうかがいしたい。そのため、こうして参りましたのじゃ」
「ほう、兄上に頼まれておいでになられたか?」
「いや、兄はただ孔明どのが、ほんとうに病気であるのか、それを確かめたいだけでね」
「天下の将来ですか。……」
孔明は目をあげた。天井の一角をじっとみつめる。なんの変哲もない、木目のあらい天井であった。彼はそこに、天下の未来図をえがこうとした。
「そうです、知りたいのです」
「あなた自身にも未来図があるでしょう? あなたの描いた」
「それはありますが。……」司馬恵達はちょっと鼻を鳴らして、「けれども、あなたのほうが確かなようです」
「なぜですか?」
「私には未来がある、まだすこしは。……私の描く未来図には、私自身も登場しなければなりません。すると濁るのです。輪郭のあざやかな絵はうかびあがらないのです」
「は、は、は、私にはもう未来がないので、それで綺麗だとおっしゃるのですね」
「そうです。自分の登場しない未来図は、澄み切っているはずです。……それに、これは口惜しいことだけれども、あなたは私よりも多くの知識をもっておられる。未来図の絵の材料が豊富です。私の絵よりは、だいぶ上等になるでしょう」
司馬恵達は、諸葛[#葛のヒは人]孔明のみつめている天井の一角に、おなじように目をむけた。まるでそこに、ほんとうに絵が描かれているかのように。──
「大きい戦い……屍体で河の流れがせきとめられるような、あの赤壁、|夷陵《いりよう》、官渡の役の規模の戦いは、しばらくおこらないと思いますね。……」
諸葛[#葛のヒは人]孔明は、自分の登場しない、未来の世界物語を、おち着いた口調で語りはじめた。
現在の状況は、孔明や少容たちが考えた、天下三分の安定にほぼ近い。三国のなかで、蜀が最も弱いが、天然の要害に恵まれている。孔明がなんども北伐を試みたのは、蜀に北伐の力があることを、天下に示すのがおもな目的であった。
諸葛[#葛のヒは人]孔明だからこそ、このような危険な示威が、すくない犠牲で敢行できたのである。むろん長安や洛陽へ攻めて行けるのであれば、それに越したことはない。だが、北伐軍を進めるということ自体に意味があったのだ。孔明亡き蜀は、もはやこの種の外征はできないであろう。
「呉の力も魏に劣りますが、おそらく遼東の公孫淵と組んで、魏を挟撃する姿勢をみせるでしょう。……これまた、みせるだけで、呉と魏のあいだに大戦はおこりません」
孔明は天井をみつめたまま話を進めた。
「うーむ、遼東か。……」
司馬恵達は軽く|唸《うな》った。
「遼東討伐には、あなたの兄上がさしむけられるでしょう」
と、孔明は言った。
魏の朝廷は、司馬仲達という大実力者を、政治の中心である洛陽から、できるだけ遠ざけておきたい。
はるか東の遼東へ遠征し、それがすめば、再び蜀に備えて、|陝西《せんせい》へまわされる。──孔明はそのような状況を推測した。
「そんなことになるでしょうな。……兄も年を取っているのに、気の毒なことだ」
司馬恵達はため息をついた。
大戦なき天下三分がしばらくつづき、おそらく五十年ほどのあいだに、しぜんに統一されるようになる。二十年、三十年とたつうちに、力の差がひろがる。一国がとびぬけて強盛になるか、一国がひどく衰弱するか、いずれにしても、最強が最弱を|併呑《へいどん》する。そうすると、一位と二位の差が、ぐっとひらいて、競争にならなくなり、しぜんの勢いとして併呑となる。
「では、五十年後に天下がめでたく統一されるのですね?」
と、司馬恵達は訊いた。
「いや、その統一も長くつづきそうもありませんね。黄巾の役以来の戦乱は、周辺の諸民族に影響を与えました。そこに、南匈奴の未来の指導者がいらっしゃる。その劉柏どのが一ばんよく知っておられるだろう。諸民族の移動によって、よほど強い王朝でなければ、長くは保てないでしょう」
孔明の声は小さいが、けっして弱々しくはなかった。病人らしくない、|は《ヽ》り《ヽ》のある声といってよかった。
「そうなれば、もう蜀も魏も呉もありませんね。……」
と、少容は言った。
「それから、中原の漢人も、南の蛮も、西の月氏もありません」
景妹は|呟《つぶや》くように言って、頬にかかった一筋の白髪をかきあげた。──
未来の物語をきいていると、目のまえのものが、きわめて小さくかんじられ、しまいには、どうでもよいことのように思えてくる。だが、諸葛[#葛のヒは人]孔明は彼の未来|譚《たん》を、
「大事なことですよ、ひとつひとつが。目のまえのひとつひとつが。……このうえもなく大事なことです」
ということばで結んだ。
司馬恵達は魏の本営に戻って、
「孔明はほんとうに病気でした。それもずいぶん重いということです」
と報告した。
「意識はたしかであったかな?」
「たいそうはっきりしていました。もっとも、蜀の本営の人たちに言わせると、今日はとくべつだということでした」
「なにか話をしたのか?」
「自分の死んだあと、天下はどうなるかといったようなことです」
「ほう、孔明の見通しか。……彼はどんなことを申しておったかな?」
「近いうちに、兄上は遼東征討にさしむけられるだろう、と」
「ほう、それはおそらく当たっておろう」
司馬仲達は、自分が洛陽から遠ざけられるだろうということは知っていた。
「それがまことだとすれば、兄上もご苦労なことでありますな」
「は、は、は……」仲達はめずらしく|屈託《くつたく》なく笑った。──「同情してくれるのか。……しかしわしをどこへさしむけても、しまいには持って行く場所がなくなってしまう」
「しばらくは辛抱しなければなりませんな」
「なぁに、べつに辛いなどとは思っておらぬ。このあいだから、遼東討伐の計画を練って、けっこうたのしいものじゃよ」
司馬仲達は椅子から立ちあがり、両手をうしろに組んで、部屋のなかを歩きはじめた。
「では、失礼します」
と、恵達は部屋を出た。兄がそのような|恰好《かつこう》で歩きはじめると、それは一人になって考えごとをしたいという合図のようなものであった。すぐに退出しなければならない。
「遼東か。……」
仲達はひとりごちた。彼は五丈原に来てから、遼東遠征のことばかり考えた。五丈原の戦いは、極秘|裡《り》にとりきめた筋に従って進行すればよいのである。目のまえの戦いに頭を悩ますことはなかった。考えごとの好きな彼は、来たるべき作戦を練っていたのだ。
(それにしても、孔明もさすがだな。……つぎは遼東だと指摘したというが。……)
遼東攻めについては、仲達はもうあらかた計画が立っていた。あとは細部について検討するだけである。
魏はこれから、ゆっくりと遼東の公孫淵を圧迫しようとする。相手がたまらなくなって|起《た》ちあがる。それを待つのだ。いくら気まぐれ屋の公孫淵でも、いざ魏と戦うことを決意すれば、同盟者をもとめるだろう。──それは呉である。
また魏に攻められ、支え切れなくなれば、公孫淵は|★[#さんずい+貝]《ばい》水(鴨緑江)を越えて朝鮮半島に逃げるだろう。そうなれば、|兵站《へいたん》線の長い魏は、追撃し切れなくなるかもしれない。公孫淵は魏軍の追撃を振り切って、朝鮮半島で基地をつくり、再起の機会をねらうことも考えられる。
かりに魏が半島の奥深く追撃しても、公孫淵が海を越えて逃げた場合、もう施すすべはないではないか。海の彼方には、倭人の住む国があるという。
(なんという国だったかな。奇妙な名の国だ。……国のあるじは女であるという。……ああ、そうだ、邪馬台国といった。……そして、女王の名は、たしか卑弥呼だった。……)
遼東遠征については、このような問題がある。それを解決する方法を考えねばならない。
絶妙の策があった。
遼東に遠征軍を起こすと同時に、あるいはそれより先に、朝鮮半島に兵を送り込むのである。|東★[#くさかんむり+來]《とうらい》──すなわち山東半島から、朝鮮の西岸へは、一衣帯水といってよい。そこは、漢の植民地であった楽浪や帯方の地である。楽浪はピョンヤンのあたり、そして帯方はソウルのあたりなのだ。
そこを先に抑えてしまえば、遼東と呉との連絡を断つこともでき、公孫淵の退路を断つこともできる。
「そうだ!」司馬仲達は右手の拳で左の手のひらを打った。──「帯方に兵を進めたあと、邪馬台国へ使者を送ろう。……呉がいちど倭人の島へ募兵に行ったことがある。呉はまた人狩りに行くかもしれない。やはり邪馬台国は、われら魏の手で抑えておかねばならないのだ」
一人きりでいるのに、司馬仲達の声は、しだいに高くなった。彼は久しぶりに、こころよい興奮をおぼえた。
そのころ、五丈原の蜀の本営では、丞相諸葛[#葛のヒは人]孔明の容態が急変していた。──めずらしく気分がよいからというので、司馬恵達たちを相手にかなり長時間、話をつづけたが、やはりそれが病気にこたえたのにちがいない。
「|姜維《きようい》と楊儀を呼んでもらいたい」
孔明は|喘《あえ》ぎながら言った。
自分のからだのことは自分が最もよく知っていた。あと一時間ほどで、高熱が出るといったことも予感できた。熱のために意識が混濁するまえに、軍のことについて言うべきことを言っておきたい。──あるいは、このつぎの発熱は、彼の生命を奪ってしまうかもしれない。
──私に万一のことがあれば、総引きあげだ。
孔明はまえから、遠征軍の幹部にそう言ってある。いまはどのようにして、退却作戦をおこなうか、その策を授けねばならない。
軍中には、総引きあげに賛成しない者もいた。たとえば前軍師の魏延などは、
──丞相がいなければ戦えぬなどという、そんな馬鹿なことがあるか! この魏延がいるではないか。
と、いきまくのは目にみえている。主戦論の急先鋒である魏延は、軍が渭水から西進して五丈原に布陣したことにさえ反対であった。総退却にあたって、いかにして彼を説得するか、いや、いかにして彼を欺いて、全軍を無事に蜀へ連れ戻すかが問題なのだ。
やがて、姜維と楊儀が病室にやってきた。二人とも顔がこわばっている。
孔明は目をとじたまま、退却策を口述した。
「退却にあたって、なによりもおそろしいのは、敵の攻撃である。退却を敵に悟られたなら、敵は|嵩《かさ》にかかって攻めてくるだろう。敵に悟られないためには、退却作戦は、まず攻撃から開始することだ。……」
孔明の頬に微笑がうかんだ。
これは、じつは苦笑であった。蜀軍の退却を、魏の司馬仲達が追撃するはずはない。司馬仲達の地位は、いま魏の朝廷のなかで、きわめて微妙なところである。朝廷としては、この実力者を早く粛清したいが、彼がいなければ、大きな戦争ができない。彼のほかに、彼ほど有能な指揮官はいないのだ。
魏に大敵が存在するあいだ、司馬仲達は粛清されることはない。仲達にすれば、蜀は大敵として存在しつづけてもらわねばならない。蜀の退却を追撃すれば、|潰滅《かいめつ》的な打撃を与えるかもしれないが、そうなれば、自分の手で自分の首をしめるようなものだ。
司馬仲達は追撃したくないが、蜀が総退却しているのに、みすみす見逃すことは、諸将幕僚の手前、たいそう難しいのである。いま孔明は、もっぱら司馬仲達の立場をよくするために、部下に策を授けているといってよい。
「魏延が退却に反対するだろう」
と言って、孔明は目をあけた。うまく退却しなければならないのに、統制をみだされてはすべてが水泡に帰する。
「どういたしましょう、魏延のことは?」
と、姜維は訊いた。
「いざというときは斬れ。やむをえぬ。万をもってかぞえる人命のためだ」
孔明の声はかすれていた。
丞相諸葛[#葛のヒは人]孔明は、意識が混濁してから、十日も命を保った。景妹が献じた|摩掲陀《まがだ》国の奇薬のためであったかもしれない。その薬を用いると、臨終のすこしまえに、暫時、意識が回復するという。
孔明が陣没したのは、八月になってからである。
──星有り、赤くして|茫角《ぼうかく》、東北より西南流し、亮(孔明)の営に|投《とう》じ、|三投再還《さんとうさいかん》、|往《おう》は大、還は小。|俄《にわ》かにして亮|卒《しゆつ》す。……
蜀志諸葛[#葛のヒは人]伝の註は『晋陽秋』という書を引用して、右のように記している。正史『晋書』宣帝(仲達)紀の本文には、
──|会《たまた》ま長星有り、亮の塁に墜つ。
とある。
孔明の死んだ夜には、天文に奇変があったのだ。
臨終の直前、彼は床のうえに起きあがって坐った。
「教母と二人きりで話したい」
と、孔明は言った。その口調はふだんと変わりがなかった。部下たちは、あるいは回復するのではあるまいかと希望をもった。とりあえず少容が呼ばれ、ほかの者は部屋から退出した。
「この世を去るにあたって、なぜかあなたの話をききたくなりました」
孔明はそう言った。ただそう言っただけで、どのような話がききたいのか、それ以上のことはなにも口にしなかった。
「もう六十数年ものむかしになります。私は一人の男の子を生みました」
少容はまるで用意していたかのように、話をはじめた。
「鎮南将軍張魯どのでありますな」
と、孔明は言った。
「いいえ、張魯ではありません。夫の張衡は、私に申しました。……人を救おうとする人間は、我が子をもってはならない、と。それで、我が子をすてて、他人の子を、我が子として育てました。それが張魯です」
「浮屠で申す|永劫《えいごう》のなかには、我が子も、他人の子もないのでございますね。……で、すてた子は?」
「すてきれませんでした。拾って育てました。……陳潜がそうです」
少容もふだんと変わらぬ口調で言った。
「陳潜は知っているのですか?」
「いえ、彼は知りません。……そのかわり、彼の妻は知っています」
「彼の妻とは?」
「景妹です。いつのころからか二人は結ばれていました。いつからだったか、この私でさえ知りませぬ」
「誰も彼も……知らないことがあるのですな。知らないことが……」
「世の中は、そうしたものです」
「人の世の、ことわりというものが、どうやらわかりかけてきましたが……」
孔明は庭のほうを見た。中秋の風はようやく冷気を帯びてきたが、戸は開け放たれて、簾が垂れている。孔明がそれを望んだのである。──星が見たい、と。
「横におなりなさい」
と、少容はすすめた。
「そうですね。横になっても見えますから」
そう言って、孔明は横になって|蒲団《ふとん》を胸までかぶった。
「なにをごらんになります」
「私の夢です。夢が、星のように飛びます。そして墜ちるのです、この五丈原に」
諸葛[#葛のヒは人]孔明は、しばらく目をあけて簾のほうを見ていた。やがて、彼は目をとじた。それが彼の死であった。
はたして、彼は自分の星が墜ちるのを見たのだろうか? 少容は孔明の顔を見守っていたので、星などは見ていなかった。
死後、遺言状が発見された。それは家族にあてた私的なもの──事務的なものといってよいだろう。そのなかに遺骸は定軍山に|葬《ほうむ》れとあった。
定軍山は漢中にある山で、孔明はその山腹に横穴を掘って、我が遺骸をいれ、器物その他の副葬品のたぐいは、いっさいいれてはならぬと書きしるしていた。屍衣はふだんの衣服でよい、とも記されていた。
孔明の死は、近辺の住民によって、魏の本営にもしらされた。
「このしらせも、孔明の計略かもしれぬ。慎重にせよ」
司馬仲達は、はやる部下を制した。彼は魏軍をゆっくりと前進させた。
そのとき、楊儀の部隊が、軍旗をひるがえして、魏軍にむかって進撃してきた。軍鼓も高らかに鳴らされた。
「はたして計略ぞ! 退け、退け! |罠《わな》にかかるな!」
司馬仲達は大声で叫んだ。
魏軍は|狼狽《ろうばい》して退却した。──蜀の主力はそのあいだに、五丈原をひき払って秦嶺の谷道をめざした。
(後世の人は、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」などと語り草にするであろうな。……)
司馬仲達は退却の途中、渋い顔をしてそんなことを考えていた。
蜀軍はほとんど兵力をそこなわずに引きあげ、魏の強敵であることに変わりはなかった。退却はまず順調で、例外は主戦派の魏延が、楊儀の部将の|馬岱《またい》に漢中で斬られたことぐらいであった。
その年の十一月、洛陽に地震があった。
──みやこに一歩も足を踏みいれたことのない諸葛[#葛のヒは人]孔明が、その口惜しさのあまり、亡霊となって、地下から洛陽を揺すったのだ。
人びとはそう語り合った。
作者|曰《いわ》く。──
孔明の死後、天下の形勢は、ほぼ彼が予言したとおりになった。
司馬仲達が遼東の公孫淵討伐に派遣されたのは、四年後のことであった。五丈原で孔明と対したとき、あれほど無能ぶりを示した仲達が、人が変わったように智計がつぎつぎに出て、公孫家は潰滅してしまった。
五丈原の役の二十九年後、三国最弱の蜀は魏に降った。司馬仲達はすでに死んでいたが、彼の子や孫など司馬一族が魏の実権を握っていたころである。
司馬家が曹家の魏王朝を乗っ取り、みずからの晋王朝を建てたのは、西暦二六五年のことである。仲達の孫の司馬炎が即位して初代の皇帝(武帝)となり、祖父に宣帝の名をおくった。
晋王朝は建国十五年目(二八〇)に、南方の呉を滅ぼして、念願の天下統一を達成した。呉は孫権の孫の孫皓の代であった。晋の中国統一は、孔明の死後四十六年目のことだった。だが、天下統一の夢も二十年つづいたにすぎない。西暦三〇〇年に八王の乱がおこり、つづいて|塞外《さいがい》民族が紛々として中原にはいった。これは一種の民族大移動で、その|先鞭《せんべん》をつけた南匈奴の劉淵は、左賢王劉豹の孫であった。晋朝は追われて南下し、北方は五胡十六国の時代となる。
やがて中国の北方は、四三九年、北魏によって統一されるが、南方は六つの短命小王朝が、つぎつぎに交替した。南北朝あるいは南だけについて六朝時代とも呼ばれる。
北朝系の|隋《ずい》が、南朝最後の陳王朝を滅ぼして中国を再び統一したのが、開皇九年(五八九)のことである。司馬氏の晋朝による束の間の天下統一が、八王の乱で|破綻《はたん》をみせてから、三百年に近い分裂時代がつづいたことになる。そのかわり、隋・唐の統一時代も長かった。
『三国志』の物語は、中国の庶民が統一平和を念願し、祈りをこめるようにして、代々、語り継いだものである。
[#改ページ]
あ と が き
物語になる時代は、なんといっても乱世であろう。そこには戦闘があり、謀略があり、さまざまな起伏、興亡がある。
日本でも物語化されるのは、源平・南北朝・戦国・幕末など、ほとんど乱世に限られているといってよい。中国でも春秋戦国(紀元前七七一―前二二一)と三国の乱世が物語の宝庫なのだ。前者には「春秋左氏伝」と「戦国策」を通俗化した「東周列国志」という本があり、後者には「三国志」をわかりやすく物語化した「三国志演義」がある。正史は気取って近づき難いもので、庶民に親しまれているのはこのような通俗読物であった。文盲の人でさえ物語の詳細に通じているのは、縁日の講釈師の語りや芝居によって、かなりの知識を得ているからなのだ。
黄河の中流におこった中国の文明圈が、しだいに拡大し、ついには周王朝の統制力が及ばなくなり、各地に実力者が併立したのが春秋戦国時代である。紀元前二二一年に、秦の始皇帝がそれを統一し、漢がそれをうけついだ。そして前後四百年の統一時代のあと、後漢末、すなわち二世紀末ごろからようやく分裂しはじめる。途中で晋の一時的な統一はあったが、この分裂時代は隋の統一までほぼ四百年つづいた。三国志の物語はこの分裂初期を舞台とする。
なぜ分裂したのか? なぜ早く再統一できないのか? 再統一が困難なら、せめてものことに三強|鼎立《ていりつ》の安定は望めないのか? そのころの英雄はいったいどんな気持でいたのか? なにをしていたのか? だらしがないではないか。──乱世の人たちはそのような素朴な疑いをもち、|切歯扼腕《せつしやくわん》し、和平統一への願望の炎を燃えあがらせた。
そのすさまじい熱によって、三国時代の物語が中国人の胸に焼きつけられた。いつの時代でも三国志物語が引用され、その時代のうえに重ねられたものである。二十世紀の現代でも、三国志のエピソードは現実を説明するためにしばしば引用されている。誰もがそれを知っているからなのだ。
三国志の物語を知るのは、中国人の心の素材を知ることである。共通の話題をもって共通の土俵にあがり、それによって時代と国境を越える共鳴を、たがいの胸に呼び合うことができるだろう。
正史の三国志を物語化した「三国志演義」は、あまりにも普及しすぎて、たんに三国志という場合、むしろこちらを指すのがふつうになったほどだ。作者は十四世紀の羅貫中である。彼は十四世紀人の目で、千年以上もまえの歴史を物語化した。学究の分析によれば、彼が用いたのは正史の「三国志」「後漢書」「|資治通鑑《しじつがん》」の三種で、それに巷説と自分の創作をまじえたのだという。
三国時代の根本史料は前記の三種であることに変わりはないが、私はいま二十世紀の後半を生きる人間の目で、千七百年ほどまえの時代を書こうとしたのである。羅貫中の原文はだいぶまえに読んだが、本書執筆にあたっては、わざと読み返すことを避けた。とうぜん記憶にのこっている部分はあるが、できるだけそれから離れようとしたのだ。
ともあれおなじ根本史料を、私は自己流に読み自己流に解釈し、そして推理をまじえて物語をつくった。これはあくまでも「私の三国志物語」である。題の「秘本三国志」は、オール讀物に連載するにあたって、編集部が考えてくれた。「秘」の字にあまりこだわることはない。このタイトルは、作品の出来の良し|悪《あ》しは別として、陳舜臣にしか書けない三国志物語、というほどの意味にとっていただきたい。
この秘本三国志を執筆する直前に一度、そして連載中に二度、私はそれぞれ一カ月ほど中国を旅行した。三国志物語の舞台を、この目でたしかめ、この足で歩いたことは、私には生涯忘れられない思い出である。最終回の最後のピリオドを打ったあとも、私は余韻にしてははげしすぎるものが、胸中に鳴りつづけるのをかんじた。
一九七七年五月
六甲山房にて
陳 舜 臣
[#改ページ]
掲載
「オール讀物」昭和五十一年十月号〜五十二年三月号
単行本
昭和五十二年六月文藝春秋刊
文春ウェブ文庫版
秘本三国志(六)
二〇〇三年三月二十日 第一版
著 者 陳 舜 臣
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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(C) Shunshin Chin 2003
bb030306
校正者注
(一般小説) 電子文庫出版社会 電子文庫パブリ 文春ウェブ文庫(383作品).rar 51,427,627 ee2f0eb8653b737076ad7abcb10b9cdf
内の”-秘本三国志(六).html”から文章を抜き出し校正した。
表示できない文字を★にし、文春文庫第3刷を底本にして注をいれた。
章ごとに改ページをいれた。
smoopyで綺麗に表示するためにヽを分解した。