秘本三国志(五)
陳舜臣
-------------------------------------------------------
〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年九月二十五日刊
(C) Shunshin Chin 2003
〈お断り〉
本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。
また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。
〈ご注意〉
本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)赤壁《せきへき》の天《てん》も焦《こ》げよ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例) と|詠《よ》んだ|廬山《ろざん》の滝がそこにある。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
-------------------------------------------------------
[#改ページ]
目  次
赤壁の天も焦げよ
乱世の花嫁
戦雲は西へ飛ぶ
時は建安十八年
皇后の密書
悲風が鳴る
関羽敗れたり
章名をクリックするとその文章が表示されます。
[#改ページ]
秘本三国志(五)
|赤壁《せきへき》の|天《てん》も|焦《こ》げよ
谷底から煙がたちのぼっている。それは水煙であった。後世の詩人が、
──飛流直下三千尺。
と|詠《よ》んだ|廬山《ろざん》の滝がそこにある。滝の下から水煙がたちのぼり、陽光を受けて、微妙な色に染められていた。
──|瀑布《ばくふ》、噴きて虹を|成《な》す。
とうたったのは、唐の詩人|孟浩然《もうこうねん》である。
滝はすさまじい音を立てている。だが、少容の声は、ふしぎによくきこえた。彼女の声は、まるで滝の音とは別のところに、音声の源泉をもっているようだった。
(ふしぎだなぁ。……)
彼女の声をききながら、孫権はそう思った。
彼は採るべき道に迷い、少容にたずねたのである。いずれを採るべきか、と。彼女の意見をきくのではなく、
──天帝のご意思をうらなってくれ。
と頼んだのである。それにたいして、少容は笑いながら、
「わたくしは|風姫《ふうき》のような|巫女《みこ》ではありません。天帝のご託宣は、わたくしにはおりないのでございます」
と答えた。
「その風姫が、そなたに|訊《き》けと申すのだ」
と、孫権は言った。
「それはまたふしぎなことです。わたくしに、天帝のご意思を伝える能力のないことは、風姫がよく知っているはずなのに。……」
少容は首をかしげた。
孫家専属の巫女である風姫は、いま病気になって、天帝の意思を伝える仕事に耐えられない。彼女は自分の代行者として、少容を指名したのである。なぜなのか、少容にもわからない。なんどか話をかわしたことはあるが、とくに親しいというほどの間柄ではなかった。
「風姫は天帝から、少容に代行させよと命じられたのじゃ」
孫権はいらだたしげに言った。
少容を指名したのは、風姫ではなく、天帝だということになる。
「わかりませぬ。わたくしのほうには、天帝からなんのご|沙汰《さた》もありませなんだ」
と、少容は言った。
「なんでもよいわ。では、存念を申せ」
孫権も大事にあたって、神頼みするような将軍ではない。だが、こんどばかりは迷ってしまった。
和平か、戦争か?
和平とは曹操への投降を意味する。孫権自身にとっては、曹操に|降《くだ》るなど、いやなことであった。しかし、戦って勝てるかどうか、自信はなかったのである。
幕僚たちも、張昭が代表する和平派と、|魯粛《ろしゆく》が代表する主戦派と、二派に分かれていた。
天帝の託宣も幕僚の意見も、孫権はそれに盲従するつもりはない。自分の下す決定の参考にするのである。これまでそうしてきた。いわばヒントが得たいのだ。孫権が少容に期待したのは、そうしたことにすぎない。ともかく、存念を申してみよ、と彼は催促した。
「天下の人びとは和平を望んでおります」
と、少容は言った。
「やはり和平か。……」
孫権は滝を見上げて|呟《つぶや》いた。
「しかしながら、このたび、将軍が曹公に降られても、真の和平にはほど遠いと申さねばなりません」
「そうか。……」
孫権は腕を組んだ。
少容にお粗末な舞台裏を見すかされたような気がする。いま孫権が曹操に降るとしても、彼が頂点に立っている軍閥ぜんたいが、それに従うとは考えられない。魯粛などは、
──あんたを見損ったよ。
と、すて|台詞《ぜりふ》をのこし、直属の軍隊を率いて立ち去るであろう。|周瑜《しゆうゆ》も彼の部隊をまとめ、背をむけてどこかへ行ってしまうにちがいない。
──討逆将軍(孫権の兄孫策)の死が、いまさらのように惜しまれる。討逆将軍が生きておれば、このような屈辱に|遭《あ》わなかったものを。……
ものしずかにそう言い放つ周瑜の声が、滝壺の底からきこえてきそうな気がする。
孫権軍閥のありようは、東呉の土豪連合軍であった。この乱世に、二千や五千ほどの兵力で、自立することは不可能である。長江流域は、網の目のようにその支流が流れていて、小勢力が割拠する地勢でもある。乱世だから身を寄せ合い、最も強そうな人物を頭領にいただいたのだ。それが孫権の父の孫堅であった。孫策、孫権の兄弟は、父の強さを継承するという形で、その地位をついだ。
孫権が強くないとわかれば、東呉の政権は瓦解するか、それとも周瑜や魯粛などの幹部に、とってかわられるであろう。彼らは戦いをつづける。真の和平は訪れない。
(おれが曹操に和を乞うとき、はたしてどれだけの軍勢がついてくるかな? まず三分の一……いや、もっとすくないかもしれんぞ。……)
孫権は心のなかで、そんなふうに自問自答した。三分の一というのも、身びいきではあるまいか。──
「この盧山は風光|明媚《めいび》の土地でございます。この山中に、|庵《いおり》を結んでお暮しになりますか?」
と、少容は言った。
孫権が本営を置いた|柴桑《さいそう》は、現在の地名でいえば、江西省九江市一帯である。柴桑という地名をきけば、中国の詩文に関心をもつ人なら、あの|隠遁《いんとん》の田園詩人陶淵明を思い出すだろう。詩人の生誕の地なのだ。
──帰りなんいざ 田園まさに荒れなんとす。
と彼が述べた田園こそ、その柴桑にあった彼の故郷であった。盧山はその南に峰をつらねる山である。
菊を|采《と》る |東籬《とうり》の下
悠然として南山を見る
と陶淵明のうたった南山は、この廬山のことにほかならない。
採るべき道に迷った孫権が、少容をともなってこの山に登ったのは、陶淵明の生まれる百五十数年前の建安十三年(二〇八)のことであった。
「きついことを申すのう、教母は」
と、孫権は笑いながら言った。
大軍を率いて和を乞うてこそ、その後もにらみをきかせ、重くみられるのである。たかだか三分の一の軍勢では、かえって、
──なんだこの男の統率力はこんなものか。たいしたことはない。
と、軽くみられるだろう。それでは、孫権の前途には光明はない。志を天下にのべることができないのだから、この廬山のような風光明媚の地に隠遁されてはいかがですかな?
少容が言外に含ませた言葉を、読みおとすほど孫権もおろかではない。
「無礼でございましたか?」
と、少容は|訊《き》いた。
「いや、天帝の託宣より聞きごたえがあったのう。は、は、は……」
孫権は自分の笑い声が、滝の音に吸い込まれて消えて行くのをかんじた。
じつは孫権はすでに決心していたのである。
──戦うほかはない。
だが、戦うことについて、いささか疑念がのこっていた。風姫に天帝の託宣をきこうとしたり、盧山に登ろうとしたのも、まだのこっている疑念を吹き消すためであった。
(誰かうまく消してくれないかな)
と思っていたのである。少容はどうやらそれをみごとに消してくれた。
あとは滝の音ばかりである。
この滝は玉竜|潭《たん》にそそぐ。のちに開先寺が建立されたが、後漢末には滝のあたりは無人の地域であった。
「では、帰ろう」
孫権はふりかえって、右手を高くあげた。
彼は親衛隊をひき連れてきたが、少容とのやりとりのあいだ、彼らを遠くに退けていたのである。手をあげたのは、帰還の合図であった。うしろの林のなかで、兵士たちがたちあがり、身繕いをするざわめきがきこえた。
「つぎのことを訊くのは、まだ早いかな?」
手をおろして、孫権は早口で訊いた。
「けっして早くはございません」
「五斗米道の託宣は?」
「少容自身の存念なら……」
「それを申せ」
「|子敬《しけい》(魯粛の|字《あざな》)さまの道でございましょう」
「うむ。……」
孫権は無表情のままうなずいた。
孫権陣営は、和平派と主戦派の二派に分かれていたが、くわしくいえば、主戦派のなかにも、二つの流れがあった。
──|荊州《けいしゆう》と結んで曹操と戦う。
東呉の孫権軍閥といえども、いまは独力では曹操と戦えない。同盟軍が必要であり、それは荊州の勢力以外にない。荊州の後継者である|劉★[#王+宗]《りゆうそう》が曹操に降ったいま、ここにいう荊州勢力とは劉備ということになった。
すなわち、劉備と結ぶことについては、主戦派の意見は一致している。問題はそのあとのことなのだ。
──劉備は|梟雄《きようゆう》である。これまで|公孫★[#王+贊] 《こうそんさん》、|呂布《りよふ》、陶謙、曹操、袁紹、劉表と、各地の|領袖《りようしゆう》たちのあいだを渡り歩き、盟を結んでは|背《そむ》くか、あるいは見棄てて去るか、いずれかであった。これほど同盟者として、危険な人物はいない。彼と同盟して曹操を討ったあと、返す刀で劉備をも攻めほろぼしてしまおう。……
こう主張するのが周瑜であった。これにたいして魯粛は、
──長江流域で曹操を破っても、北方は依然として曹操の勢力下にのこるだろう。われら東呉の強敵は、一撃だけでは倒れないのだ。強敵のいるあいだは、同盟者を失ってはならない。それに、劉備はつねに盟にそむいたというが、そむかれた側、見棄てられた側にも、問題があったというのが世間の一致した見方ではないか。劉備との同盟は、かなり長期にわたって継続すべきである。
と、反論した。
主戦論の内部では、早くも戦後処理をめぐって、劉備切り捨て論と、同盟継続論とが対立していた。
少容は魯粛の同盟継続論に、自分の意見として、賛意をあらわしたのである。孫権はうなずきはしたが、まだ心に決めかねていた。
(これは、あとまわしでよい)
孫権の一行は、廬山の東麓に降りた。少容は|輿《かご》に乗って、兵士がそれを担いだ。麓に着くと、急使が待っていた。
「何ごとじゃな?」
と、孫権は訊いた。
「魯粛どのからの書面がまた届きました」
急使は|跪《ひざまず》いて、頭を下げた。東呉の軍の急使は、|兜《かぶと》のうえに三角の赤い布をくくりつけ、遠くからでもわかるようにしている。急使が馬をとばしているときは、何者といえども、それを|遮《さえぎ》ることは許されない。
「ほう、今日はこれで三度目じゃな。……これへ持て」
孫権は苦笑した。
(やつめ、心配性な。……)
主戦論の急先鋒である魯粛は、孫権が主戦論に傾いているのを知りながら、ひょっとして和平派にひき戻されはしないかと心配している。だから、出張中なのに、たえず手紙を送ってくる。文面は、半ばは出張の用件の報告だが、残りは主戦論の論拠をならべ立てたものだった。
孫権はいささかうんざりしていた。
魯粛の出張は、もとはといえば、荊州への弔問使であったのだ。
劉表死すというしらせがはいると、魯粛は東呉の代表として、弔問のために荊州へ行くことを唱え、自らその役を買って出た。
──さきほど、わしが母を失ったとき、荊州は弔問使など送ってこなんだぞ。
孫権は一応、そう言って反対した。
──天下に東呉の信義をあらわすときでございます。
と、魯粛は言った。
──信義よりも、そのほう、ほかに考えることがあっての弔問であろう?
孫権は笑いながら訊いた。
荊州との同盟に熱心な主戦論者の魯粛は、弔問使の名目でかの地へ行き、劉表の後継者と反曹軍事同盟を結ぶつもりであった。それぐらいのことは、孫権も見抜いている。
──は、それは……
魯粛が言い淀んでいると、孫権は、
──よし、行くがよい。ついでに、いろんな手を打ってくるのもよかろう。
と許したのである。
魯粛は勇んで出発したが、江陵まできたとき、曹操の襄陽進出と、劉★[#王+宗]の降伏のしらせをきいた。曹操の手に入った襄陽(荊州の州都)へは、もはや行けないのである。
続報を待っていると、劉備が曹操に追われているという。
──同盟の相手は、はたして劉備であった。彼と話し合おう。
魯粛はそうきめて、江陵から急ぎ北上した。
弔問使なので、少数の兵士を従えているだけである。もし手もとに大軍があれば、魯粛はそれを率いて、加勢にかけつけたであろう。
──ぼろぼろになって敗走する劉備ごときと結んで、わが方になんの益があるのか?
魯粛は、和平派の|総帥《そうすい》である張昭が、|眉《まゆ》を吊りあげてそう詰問するさまを、ありありと思い描くことができた。
そこへ、襄陽に放っていた諜者から詳報がはいった。──
──劉備は関羽に一万の兵を授けて、水路をとらせた。
このしらせをきいて、魯粛は手を|拍《う》ってよろこんだ。
劉備は兵力を温存していた。そのうえ夏口の近くには、江夏太守を志願した劉表の長男の|劉★[#王+奇]《りゆうき》が、数万の兵を率いてさまよっている。これはもう劉備軍に合流するほかはあるまい。若い劉★[#王+奇]では荷が重すぎる。
こう考えてみると、劉備との同盟は、東呉政権にとって、まさに当を得たものというほかはない。張昭がいかに論客であっても、魯粛は論じ勝つ自信をもった。
──劉備は頼るに足る相手である。
魯粛は北上の途中から、そのことを論じる手紙を、急使を立てて送りつづけた。
──まもなく劉備に会う。……
今朝の手紙にはそう書いてあった。とすれば、この手紙は会見のもようを記したものであるかもしれない。
孫権は馬上でそれを開封して読んだ。
「ほう。……やつにしては、珍しく短い手紙じゃな」
ひろげたとたん、孫権はそう呟いた。意外であったのだ。そこには大きな文字が、三行ならんでいるだけだった。
われ、劉備玄徳と会見せり。玄徳はその軍師諸葛[#葛のヒは人]亮孔明を、柴桑に派遣することに決せり。孔明はわが東呉に仕える諸葛[#葛のヒは人]|瑾子瑜《きんしゆ》の実弟なり。われ、孔明とともに、これより東呉へ帰らんとす。……
「ほう、子瑜の弟か。……」
諸葛[#葛のヒは人]瑾、|字《あざな》は子瑜。孫権の長史(秘書)をつとめている有能な人物である。文面によれば、その実弟が劉備陣営にあり、一切を委されて、東呉に来ることになったらしい。
「諸葛[#葛のヒは人]亮、孔明か。……」
孫権は劉備の特命全権大使の名を、なんとなく口にした。
そばにおろされていた輿のなかで、少容はその名をきいた。
(ああ、とうとうあの若者が登場してきましたか。……)
その青年は、かつて少容にむかって、五斗米道の力を用いて、天下に|鼎立《ていりつ》するようにすすめたことがある。彼女はその青年のなかに、非凡な才能を認めた。期待していた人物が、いよいよ歴史の|檜《ひのき》舞台に登場してきたのである。彼女はめずらしく興奮をおぼえた。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は、孫権の幕僚会議の席上で、口をきわめて、
──曹操討つべし。曹操おそるるに足らず。
と論じた。
一つのことを論じても、彼はかならずいくつかの根拠を示した。それは説得力をもっていた。
──|強弩《きようど》の末、|魯縞《ろこう》をも|穿《うが》つ|能《あた》わず。
という|諺《ことわざ》も引用した。魯の国で織られる縞という布は、きわめて薄く、かつ|脆《もろ》いものである。しかし、どんな強い弓から射ても、その矢が一ばん遠くまでとばされると、すでに勢いがなくなり、薄っぺらな魯の縞を射抜くことさえできない。はるばる北方から遠征してきた曹操軍は、その『強弩の末』に相当する。力は弱まっているはずだから、なにもおそれることはない。
また曹操の率いる北方軍は、水戦に慣れていない。|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》に大きな池を掘って、水戦の演習をしたというが、そんな一夜漬けが、実戦に役立たないのはいうまでもない。
荊州で劉★[#王+宗]の降伏をうけ、その軍を併せたというが、これは強制されたのであり、将兵は心服していないのである。不承不承、つき従っている軍隊は、その実際の力の半分も、戦場で発揮することはないだろう。……
孫権は孔明のそんな演説をきいて、内心、首をかしげていた。
さきほど二人きりになったとき、孫権は、
──かならず曹操を討つ。これは、わしがすでにきめたことである。
と、孔明に約束したのだ。
この軍団の最後の決裁権は、孫権が握っている。孫権が確約さえすれば、ことは決したのである。べつに諸将を説得する必要もあるまい。
(あるいは、東呉軍中にはびこる曹操恐怖症を消すためなのか?)
とも考えてみた。それにしても、孔明の弁舌は熱がこもりすぎていた。会議がすんだあと、孫権は孔明を招き、
「孔明先生の長広舌には感服したが、この孫権はすでにきめたと約束したのに、なぜそんなに舌を舞わせるのか。よけいなことではないかの?」
と訊いた。
東呉では、会議がよくひらかれる。これは群小土豪連合体という、この軍団誕生の性格によるもので、とにかくみんなが言いたいことを言う風習があった。そして、しきたりとしては、最高会議がひらかれるまでは、ことを決しないのである。
したがって、いまの段階では、孫権はまだ態度を表明できずにいる。いくら心にきめても、それを口にしないのが、この軍団の頭領の心得であった。
最高会議がなぜひらかれないかといえば、会議の重要構成メンバーである周瑜が、任地の|★[#番+おおざと(邦の右側)]陽《はよう》から駆けつけてくるはずだから、それを待っているのだ。
周瑜も主戦派だから、孫権としてもあまり問題はない。かりに周瑜が劉備との同盟に反対するようなことがあっても、孫権は自分に与えられた、最終決裁権を行使してでも、同盟に踏み切るつもりなのだ。
(わしが請合っておるのに、なぜあんな大演説をするのか?)
孫権の質問は好奇心からであった。
「お願いがございます」
孔明はその質問には答えずに、そう言った。
「なんじゃな?」
「将軍はすでに心に決しておられましょうが、しばらくは諸将の面前にては、迷ったようすをなさるように」
「迷ったふりをしろと申すのか?」
「|御意《ぎよい》。……なにとぞ……」
「なぜじゃな?」
「戦いには、勢いというものが大切でございます。出陣のときは、全員が酔うが如く、興奮している状態が望ましいのです。将軍の決意が、あらかじめわかりましては、決定を下すとき、将兵の心が沸き立ちませぬ」
「ほう。……決意を小出しにしてはならぬと申すのじゃな?」
「さようでございます。劉備軍と同盟して出兵するという決定は、できるだけ劇的な雰囲気のうちでなされますように」
「わかった。盛りあがりじゃな?」
「はい。将兵の力が倍も違いましょう」
「それはわからぬでもないが、どんなふうにして盛りあげるのか?」
「芝居をなさいませ、芝居を」
「芝居か? わしは芝居などやったことがないわ」
「さようでございましょうか? ま、けっこうです。おそれながら、この孔明、芝居のご指南を申しあげます。よろしゅうございますか?」
「おう、教えてもらおう。軍の士気にかかわりあることであれば、芝居であろうと、歌であろうと、わしはいといはせぬぞ」
孫権は自分より二つ年長の、この若い軍師に興味をもった。
「曹操から、まもなく挑戦状が送られて参ります」
と、孔明は言った。
「どうしてそれを知ったのか?」
「江陵の諜者から急報がありました。その文面もわかっております」
短い文章なので、孔明もそれを暗記していた。
──近ごろ、天子の|辞《じ》を奉じて、罪あるものを|伐《う》つ。|旌旗《せいき》、南を指し、劉★[#王+宗]、手を|束《つか》ねたり。今、水軍八十万の衆を|治《おさ》め、|方《まさ》に将軍と呉に於て|会猟《かいりよう》せん。……
「うぬ、会猟、ときたか。……」
孫権は唇をかんだ。
相会して猟をしよう。──戦争の申し込みを、|婉曲《えんきよく》に表現したのである。その婉曲さのなかに、相手をばかにした気持を含ませている。若い孫権は、この『会猟』という言葉が頭にきた。孔明はにこにこ笑って、
「後世、会猟の書と申せば、挑戦状の意味に用いられるでしょうな」
と言った。
「どうすればよいのだ?」
孫権はこめかみを|顫《ふる》わせて訊いた。
「いま、将軍は興奮しておられる。将兵もおなじように興奮させましょう。曹操の書は、われらとしては、まことに時宜を得たものでございました」
と言って、孔明は一礼した。
つぎに演技の指導がはじまった。
数日後、周瑜が柴桑に到着した。それよりすこし前に、曹操の『会猟書』が届いていたのである。
孫権はあんがい芝居上手であった。
幕僚諸将の目には、彼は和平か主戦か、どちらかに決しかねて、迷っている将軍のように見えた。
和平派の張昭は、まだ脈があると思って、しきりに曹操に和を乞うことを主張した。帰来した周瑜は、いうまでもなく主戦論である。
「水軍八十万というが、北方の曹操に、それほどの水軍があるはずはない。純然たる水軍といえば、荊州であわせた劉表の旧部下であろう。劉表の水軍なら、われら、しばしば戦って、その手並みを知っておるではないか。なんのおそるることがあろうか!」
周瑜は彼にしてはめずらしく、腕をふりあげての大熱弁であった。
その両者に|挾《はさ》まれて、孫権は苦悩する青年将軍の役割を、みごとに演じた。
「更衣に参る」
孫権は立ちあがって言った。その表情には、|苦悶《くもん》の色がうかんでいる。一座の人びとの緊張はその極に達していた。
そのころ、孫権ていどの身分の人になると、便所へ行くたびに、衣服を着かえた。便所には更衣の用意をする女官がいたのである。だから、手洗いに行くことを、『更衣に行く』と言ったのだ。
諸将を緊張させたまま待たせておいた。
人びとには予感があった。──更衣と言ったが、それは口実にすぎず、苦悶に耐えず席を立ったのだ。こんどはいってきたときは、将軍も意を決しているであろう、と。
東呉の首脳陣は、|固唾《かたず》をのんで、孫権が席に戻るのを待った。
やがて孫権は刀をひっさげて、奏案のまえに戻った。奏案とは文書をのせるテーブルのことである。
人びとの目は、孫権の一挙一動にそそがれている。
孫権は刀を抜いた。
「えいっ!」
するどいかけ声とともに、青年将軍は刀をふりおろした。テーブルの面は、真っ二つに割れた。
「わしは、老いぼれ曹操と戦うことに意を決したぞ! 今後、講和のことを口にする者があれば、この奏案同様、真っ二つにたたき斬ってくれるわ!」
孫権はそう叫んだ。
居ならぶ東呉の要人たちは、興奮の|渦《うず》のなかにまきこまれた。青年将軍孫権の、この決意の表明は、これ以上は望めないというほどの、劇的な効果をあげたのである。
劉備は夏口と柴桑のあいだにある、|樊口《はんこう》というまちまで軍を進めていた。彼はそこで、首尾を待ったのである。
すべては諸葛[#葛のヒは人]孔明の舌先三寸にかかっていた。もしここで、孫権に見棄てられたなら、劉備はもうどこへも行き場がない。
「船は見えぬか、兵船は?」
さすがの劉備も気が気でない。
はたして孫権は援軍を送ってくるだろうか? 劉備の諜報員は、曹操が挑発的な『会猟書』を柴桑に送ったことを連絡してきている。
挑戦状を送ったからには、戦闘の準備は整えているはずなのだ。江陵には数千の船があり、武器庫も食糧庫もある。すでに曹操はその艦隊を進発させているかもしれない。
「艦隊が見えましたぞ!」
|斥候《せつこう》からしらせがあった。
劉備の側近は色めき立った。だが、船が見えたといっても、どちらのものかわからない。上流からおりてくる曹操の艦隊なのか、柴桑からさかのぼってくる孫権の援軍なのか?
「船の型は?」
と、劉備は報告に来た者に訊いた。
「周瑜の艦隊でございます」
「うむ、吉報ぞ」
劉備は背をのばした。
曹操が江陵で獲得した船は、かつて荊州の劉表に属していたものである。東呉孫権のそれとは船型が違うので、遠望しただけでわかるのだ。また東呉陣営のなかでも、これはしばしば述べたように地方豪族連合体なので、系列によって船型が異なる。張昭か、魯粛か、周瑜か、およその見当がつく。
船のタイプを訊かれた斥候が、周瑜という名前を口にしたのはそのためである。
劉備は天を仰いだ。自分の表情をかくそうとしたのである。生か死か。どこの艦隊が彼のまえにあらわれるか、それによって運命がきまるのだ。
(やっと生きのびることができた。……)
そんな|安堵《あんど》感が、劉備の表情をつき崩した。頬の|弛《ゆる》みをかんじたとき、彼はこれではいけないと、あわてて空を仰ぎ見ることにしたのである。戦いはこれからだというのに、ここで|総帥《そうすい》たる者が、表情をゆるめてはならない。空を見上げ、からだを一と揺りして、劉備は言った。──
「周瑜に使者を送り、その労をねぎらおう。……そうだ、手紙をもたせよう」
劉備は援軍の司令官に手紙を書いた。型どおりの挨拶のあとに、
──作戦のことなどにつき協議の必要もあるので、なにとぞご足労願いたい。
と、つけ加えたのである。
だが、使者は手ぶらで戻ってきた。返書はなかったのだ。周瑜は口頭で、
──軍の任務があり、これは余人にゆだねることができないので、私は部署をはなれることが許されません。もしそちらのほうから、おいでくださるのであれば、お望みどおり、作戦のことを協議いたしましょう。
と伝えたのである。
「無礼なり!」
関羽は顔に朱をそそいで怒った。
かつては徐州や|豫州《よしゆう》のあるじであり、いまでも名目的には豫州の牧である劉備玄徳ではないか。天下に|覇《は》を争う英雄の一人である。東呉の孫権とは、すくなくとも同格の人物といわねばならない。かりに相手が孫権自身であれば、援軍を率いてきてくれたのだから、こちらから挨拶に出むくのがとうぜんかもしれない。だが、周瑜は孫権の部将にすぎないではないか。格が下であるその周瑜が、豫州の牧劉備を呼びつけようとしている。
「そうだ、失礼千万な! そやつの素っ首、引っこ抜いてくれようぞ!」
張飛はやや反応が遅かったが、それでもはりがねのような|ひ《ヽ》げ《ヽ》をふるわせて|唸《うな》った。礼儀作法のことはよく知らないが、関羽の兄貴が怒ることなら、怒ってもまちがいないと思っている。
「待て、待て」と、劉備はいきり立つ二人を制した。──「救いをもとめたのはこちらだ。われらは生きるか死ぬかの瀬戸際に立っていた。東呉にしてみれば、かならずしも救援を送る義理はない。曹操と和を講じてもよかった。それなのに、こうして援軍をさしむけてくれた。そのため、われらは|蘇生《そせい》するおもいをしている。それを思えば、こちらから出むくことこそ礼儀と申すものであろう」
「それにしても……」
関羽はまだ不満である。
「苦労も屈辱も、なめ尽してきたわれらではないか。このささやかな屈辱一つに辛抱できぬことはあるまい」
劉備は白い歯をみせて笑った。
彼はすぐに部下に命じて、小舟を用意させ、みずからそれに乗り込んで、周瑜のいる船めざして|漕《こ》がせた。
「曹公は戦さ上手でござる。彼と戦うには、よほど深く備えねばなりませんぞ。……ところで、どれほどの戦卒を用意されましたかな?」
劉備は周瑜に会ってそう訊いた。周瑜は劉備が発言しているあいだ、ずっと微笑をうかべていた。劉備の質問に、彼はさりげなく、
「三万人」
と答えた。
「それはいささかすくのうござるな」
劉備は心もち首をかしげて言った。
「なんの、これだけあればじゅうぶんです。豫州どの(劉備のこと)は、私が曹軍を破るのを、見物なさるだけでけっこうです」
周瑜は依然として微笑をたたえている。
(こんな美しい男がいたのか。……)
周瑜に会ったときから、劉備は相手の美貌に感心していた。『美しい』ということばが、男性にも用いられるものだということを、劉備は周瑜に会って、はじめて実感できた。
──長壮にして|姿貌《しぼう》有り。
と、堅苦しい史書でも、とくに彼の容貌にふれている。東呉の人たちは彼を、
──周郎。
と呼んだ。『郎』は男性にたいする呼称だが、この場合は、男の中の男、男前の周さんというほどの意味である。
周瑜は孫権の兄孫策と同年なので、このとき、すでに三十三歳になっていた。しかし、彼の容色は衰えをみせていない。
(美しい男が、なんとしたたかなことを言うことか。……)
劉備は警戒した。孔明からの情報では、周瑜は魯粛とならんで主戦派であるが、対劉備策が異なるという。魯粛は東呉と劉備のかなり長期にわたる同盟を考えているのに、周瑜は劉備を一つの踏み台としかみていない。曹操をたおす踏み台である。曹操を撃退すれば、その足で踏み台をも蹴たおそう、と考えているふしがあるというのだ。
(蹴たおされてたまるか!)
内心、そう思いながらも、劉備はにこやかに、
「魯粛どのはおられますかな? 魯粛どのを加えて談合いたしたいが」
「魯粛も任務があり、これまた他人にまかせることができません。またの機会になさいませ」
と、周瑜は答えた。ことばは丁重だが、その内容はきびしい。劉備につけ込むすきを与えないのである。
見物なさるだけでけっこう。──
三十をすぎたばかりの周瑜が、五十に近い劉備をいたわった言葉のようにきこえる。だが、別の聞き方もある。
──戦争はわれら東呉勢がやる。あなたは数万の軍兵をそのあたりにならべて見物なさるだけでよい。ただし、勝利の成果もわれらのもので、あなたには渡しませんよ。
このほうが正しい聞き方である。
反劉備感情をもっている周瑜とでは、どうも話がうまく合わない。そこで、親劉備派ともいうべき魯粛を加えて作戦会議をひらこうとすると、ていよくことわられてしまった。
このたびの東呉の出兵は、周瑜が全権を握っているのでどうしようもない。
(小僧め、なかなかやるのう。……ま、好きなようにやるがよい)
劉備は曹操の|爪牙《そうが》から、命を守ることができただけで満足することにした。戦いがすんだあとは、またそのときのことである。あちこちの客将となって、|居候《いそうろう》の辛さにはなれっこになっている。身をかがめて、機会をうかがう。機会はかならず来るはずだ。
劉備は本営に帰り、
「こんどの戦さは無理をすまい。孫権にまかせておこう」
と、側近に語った。
いっぽう、周瑜は樊口と夏口で、しばらく停泊して後続部隊を待った。|程普《ていふ》の艦隊があとにつづいている。
周瑜が総帥兼左督、程普が右督であり、魯粛は賛軍校尉、すなわち参謀長として従軍していた。程普は東呉軍の最長老であり、孫権も彼を周瑜とならべたが、実権は若い周瑜に掌握させたのはいうまでもない。
孫権の劇的な決意表明によって、東呉軍は興奮の渦に乗るようにして進発した。夏口に着いたとき、周瑜はさらに将兵の心をたかぶらせる演説を試みた。──
「東呉の健児たちよ。青・徐の|驕児《きようじ》らが、われらの郷土に侵攻しようとしておる!」
周瑜は口をひらいてそう言った。
南方の人は、郷土愛がとくべつに旺盛である。一面、小さな派閥にわかれて抗争するという欠点もあるが、これは毛細管のように流れる水路(クリーク)によって、独立した小区域がたくさんできるという地勢のせいかもしれない。
曹操軍は、おもに青州や徐州出身の将兵によって組織されている。彼らはよそ者であり、過去によく南下して乱暴を働いた連中である。
そのよそ者がやってきた。──
周瑜は将兵の郷土愛に訴えたのである。彼は言葉をついだ。
「捕虜にした曹軍兵士の自白によれば、青・徐の兵士たちは、南方には好い女がいる、早く攻め込み、女たちをさらって行こうと、進軍の途中もそう言って励まし合っているそうである。諸君、これをなんと思うか! 諸君の妻や妹、いや母や姉の操さえ、いま危機に|瀕《ひん》しておるのだ,奮い立てよ!」
周瑜はここで言葉を切って、将兵たちを見まわした。彼ははっきりと、彼らの興奮をかんじることができた。手ごたえはたしかである。少年時代、先代孫堅について戦場に出たころのことが、彼の脳裡をかすめた。孫堅は全軍を鼓舞するとき、よく風姫の託宣を用いた。風姫の異様な神がかりをみて、将兵たちは陶酔に近い興奮をみせた。
(風姫のわざに及ぶか?)
いや、周瑜はいま、自分の弁舌が、風姫の神がかりを越えたような気がしている。自分のことばは、風姫が誘い出すなにやらえたいの知れぬ興奮ではなく、もっとたしかな、妻や妹を守らねばならないという、目標をもった意識が高められた興奮を生み出す。それはえたいの知れぬものより、何層倍も強いはずである。
「東呉の健児たちよ」周瑜は高々と右手をあげて呼びかけた。──「建安九年、曹操が袁家の居城である|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》を|陥《おと》したときのことをおぼえているであろう。曹操の息子の|曹丕《そうひ》は、袁煕の妻であり、その美貌をうたわれた|甄《しん》氏を奪って我が妻としたのである。曹丕が甄氏を奪ったときいて、曹操は地団駄踏んで口惜しがったというぞ。うぬ、我が子に先手を立たれた、と。このたびの出陣にあたって、曹操は息子にむかって、こう申したときくぞ。東呉の二橋は我がものぞ、汝らが手を出すことならぬ、二橋を我が邸宅に置いてたのしむのじゃ、とな。……」
全軍、しいーんとなった。
かつて漢の太尉(国防相)にまでなった橋玄に、二人の娘がいた。どちらも絶世の美女である。橋玄亡きあと、遺族は中原の兵乱を避けて|皖《かん》城に移り住んだ。その皖城も東呉軍団に攻めおとされてしまう。孫堅すでに亡く、孫策が総帥であったころである。二人の美女のことを、世間では『二橋』と呼んでいた。橋家の二人の美女という意味なのだ。孫策は姉を妻とし、周瑜はその妹をもらった。孫策が死んで、姉のほうは未亡人となったが、呉都に健在である。妹は周瑜の妻として、二男一女の母となっている。
曹操はその東呉の二橋をも奪おうとしている。──そのことを、妹の夫である総大将の周瑜がみずからの口で言ったのだ。
──おれの妻も奪われようとしているのだぞ!
水をうったように静まり返った全軍将兵は、やがて一斉に|雄叫《おたけ》びの声をあげた。──
「曹操をたおせ! 東呉の地を守れ! 青・徐の兵を殺せ! 東呉の女を守れ!」
はじめは|呻《うめ》きのような雄叫びだったが、そのうちに、しだいにはっきりしたことばが、そのなかから生み出された。
たおせ、守れ、殺せ、守れ! の大合唱は、夏口の江岸にしばらくこだました。
(風姫のわざを越えた)
美男の青年将軍はそれを確信した。
|遙《はる》か上流の江陵の江岸でも、将兵たちの大合唱がきこえていた。
こちらは曹操の本営である。
彼は漢の|丞相《じようしよう》となっていた。人臣としては最高の地位にある。遼西を討ち、劉表の遺児を降し、いま江南|富饒《ふじよう》の地に攻めいり、これを切り従えようとしている。
だが、曹操の心は重い。
軍中に悪疫が流行して、将兵がばたばたと死んで行く。敵に対する前に、すでに疫病の神の攻撃をうけ、被害甚大である。
といって、退くに退けない。挑戦状である『会猟書』は、すでに使者によって送られている。
曹操がいま最もおそれているのは、士気の低下である。目に見えぬ、疫病という敵のために、将兵の心が沈み、戦わぬ前に敗北してしまうおそれがあった。
将兵の気をひき立たせねばならない。
曹操は詩人であった。当代、肩をならべる者のない大詩人である。士気|振作《しんさく》のために、彼は詩をつくり、みなに合唱させようとした。では、どんな詩がよいのか?
戦意高揚用の、内容のない歌詞では、将兵は奮起しない。かき立てねばならないのは、将兵の心である。歌詞は将兵の心をうごかすものでなければならない。
曹操は詩をつくった。不朽の名作といわれる『短歌行』である。江陵の江岸におこった大合唱は、十数万の将兵が丞相のつくったその詩をうたう歌声であった。
酒に|対《むか》えば|当《まさ》に歌うべし
人生 |幾何《いくばく》ぞ
|譬《たと》えば朝露の如し
去りゆく日は|苦《あやし》くも多き
青々たり|子《きみ》が|衿《えり》
悠々たり我が心
|但《た》だ君の為の故に
沈吟して今に至りぬ
山は高きを|厭《いと》わず
水は深きを厭わず
周公は|哺《は》みしを吐きて
天下 心を帰せり
全文は八段あり、『|文選《もんぜん》』にも収録され、後世の人にも愛唱されたものである。
人生いくばくぞ、と虚無的なムードで歌い出す。酒を飲んで歌おう。一日一日と、すぎ去って行く日が、なんと多いことか。それにくらべて、われら人間の営みのなんと|矮小《わいしよう》なことか!
将兵の心は、この人生の悩みに、心をかきみだされる。いったんみだした心を、あとの歌詞でしずめようとするのだ。
青いきみの|衿《えり》を想う我が心は、恋の歌のごとくである。人びとは家郷を想い起こすであろう。だが、せっかくここまで来て、手ぶらで帰るわけにはいかない。
最後のくだりは、曹操の宣言である。
高い山も深い川もいとわずに、わたしは人材をもとめておるぞ。むかしの聖人といわれた周公は、人材が面会に来たときけば、食事中でも、食べたものを吐きだして、急いで会いに行った。だから、天下みな心服したのである。──私は周公を模範として、人材を集めようとしている。
諸君、諸君の能力を、ぜひ見せてくれ!
手柄を立てよ!
手柄を立てよという呼びかけの歌は、歌う者の心を微妙に揺りうごかす。なんどもなんどもくり返して歌っているうちに、将兵たちは武者ぶるいをはじめる。
──手柄を立てて、家郷へ|凱旋《がいせん》しようぞ!
歌う者の頬が濡れはじめる。
曹操はそれをじっとみつめる。歌声が最高潮に達したとき、曹操は|櫓《やぐら》のうえで両手をあげて叫んだ。
「いざ、進発ぞ! 流れに乗って、東呉の|碧眼児《へきがんじ》を|葬《ほうむ》り去らん!」
歌声はたちまち雄叫びと変わり、雄叫びがくり返され、いつのまにかまた歌声と変わった。
こうして両軍とも、興奮の極に達した将兵を兵船に乗せ、雌雄を決すべく戦場へむかった。
東呉軍は夏口から長江をさかのぼり、曹操軍は江陵から長江をくだる。流れに乗ったほうが速度もはやく、両軍が|対峙《たいじ》した|赤壁《せきへき》の地は、江陵から夏口ヘの全行程を四分の三ほど行ったところであった。
現在の湖北省|嘉魚《かぎよ》県の近くにあり、いまは石頭関と呼ばれている。この赤壁は長江の南岸にあり、それとむかい合った北岸は|烏林《うりん》という土地であった。
江上で前哨戦があったが、これは小手しらべのようなもので、水戦上手の東呉軍のほうが、やや優勢にみえた。
「退け!」
曹操はすぐに軍を退かせ、烏林に陣を構えた。東呉軍はその対岸の赤壁に集結して、決戦のときを待ったのである。
「持久戦でござるな」
劉備は対岸の陣構えを眺めて言った。彼は二千騎を率いて、赤壁の周瑜の陣に加わっていた。
三万の兵に二千を寄せても、その比率はきわめて小さい。連合軍とは名のみで、実質的には、東呉の周瑜軍といったほうがよい。この状態では、戦後の論功行賞が思いやられる。劉備が得るものは、そんなに期待できそうもない。
(戦いにではなく、それは政治力に頼ろう)
劉備はそう思っていた。幸い諸葛[#葛のヒは人]孔明は、野戦よりは政治力による策謀を得意としているようである。
(青二才め! 色男で苦労も知らぬやからは、いまに手玉にとってくれようぞ)
劉備は内心で、そう|罵《ののし》りながら、表面はにこやかに周瑜に話しかけた。
「持久戦ではまずいぞ」
と、周瑜は口をへの字にまげた。
持久戦には小規模の局地戦がつきものである。それは、消耗戦でもあるはずだ。どちらもすこしずつ消耗して行けば、絶対量の多い側が有利である。相手がゼロになっても、こちらは残るのだから。
「まずい、まずい。……敵は陸路から江陵の物資を補給できる。……」
長江はそのあたりで曲がりくねっているので、江陵から烏林まで、水路ではかなりの距離がある。しかし、華容道という陸路をたどれば、意外に近いのだ。
「短期決戦を挑むほかありませんな」
部将の一人の|黄蓋《こうがい》がそう言った。
「挑発しても、相手は乗ってこないだろうな」
と、劉備は笑いながら言った。
黄蓋はむっとしたようだった。そのときは口を|噤《つぐ》んだが、夜になって、周瑜の幕舎を訪ねて、
「私に策があります」
「ほう、短期決戦に乗せる策か?」
「さようです。今日、あの大耳の居候将軍はあざ笑われました」
そう言って、黄蓋は目をつりあげた。
「あざ笑ったか? しかし、おだやかに笑ったようにみえたぞ。……ま、いいわ、その策とは?」
と、周瑜は身を乗り出した。
「火攻です。曹操の兵船は、鎖でつなぎ合わせてあります。敵の侵攻を防ぐにはよろしい態勢ですが、火に弱いという欠点があるのは、周郎もご承知でしょう」
「それは存じておるが、火をつけるにしても、接近しなければできぬ。相手はそうたやすく、われわれを近づけぬ。豪雨のような矢を浴びるだろう」
「そこが策です。……偽装投降で近づくのです。……」
黄蓋は声をひそめた。
「うむ、いつわって降るとみせかけて……」
「さようでございます。幸か不幸か、わが東呉の陣営で、和平か抗戦かをめぐって、大激論があったのは天下周知のこととなっております。……じつは、私は|子布《しふ》(張昭)どのとの関係で、かつて和平派とみられておりました。私自身としては、いったん東呉の決定したことは、かりに反対であっても、死んでもこれに従う覚悟です。……しかし、この際、私が曹操側に単独投降しても、けっしておかしくない状況であろうと思いますが、いかがでしょうか? 曹操も私が和平派であることぐらいは、諜者の報告によって知っているはずです」
声は低いが、黄蓋の言葉には迫力があった。
周瑜はしばらく考えていたが、やがて黄蓋の手をかたく握って、
「やってくださるか、|公覆《こうふく》(黄蓋)どの」
と言った。
「まず手紙を書かねばなりません。これがいささか難題です。……私自身が書けばよいのですが、文面に本心がのぞくおそれがあります。できるなら……」
「他人に草稿してもらったほうがよいと申すのですな?」
「そのとおりです」
「わかりました。私が作ってさしあげましょう」
と、周瑜は言った。
こうして、周瑜代筆による、黄蓋の『乞降書』が作られたのである。
その大意は。──
私、黄蓋は孫家の恩顧を蒙っているが、このたびの東呉の決定には、どうしても承服しかねる。中原百万の大軍に、江東六郡と山越の兵卒をもって当たろうとするのだから、その結果はわかりきっている。会議では私も和を乞うことを力説したが、魯粛や周瑜といったわからず屋が、威勢のよいことばかり言うので、ついに意見が通らなかった。私はもういやになったので投降することにきめた。馬鹿者たちのまき添えで滅びるのは、考えただけでもむなしいことなので。……
ということで、なかなかの名文であった。
「ふしぎですな。私のこれまでの文章のなかでも、これは最上の出来ですよ。他人の身になりかわって書いたというのに……」
自分の作文を読み返して、周瑜は苦笑した。
「人の心に訴えるものがありますな」
と、黄蓋も自分名義の乞降書に感心した。
「こういうことでしょう。……私も和平論について、考えないでもなかったので……」
と、周瑜は言った。
「えっ?」
黄蓋にとって、これは意外な言葉であった。
曹操はこのにせの『乞降書』を、かならずしも全面的に信じたのではない。
「よく見張るのだぞ。船上にあやしいようすはないか。……柴や枯草は積んでいないか。とくべつ注意して見張っておれ!」
彼はそう命じておいた。
黄蓋は数十|艘《そう》の|艨衝《もうしよう》(皮革で装甲した兵船)や闘艦を率いて投降すると手紙にしるし、じっさいにもそれだけの兵船を従えてきた。
闘艦とは船上に高い|柵《さく》をめぐらした兵船のことである。
乞降書のなかには、投降の兵船をほかの兵船と区別するために、
──青い幕をめぐらし、青い旗をかかげて進む。
と、そのめじるしを記していた。
「まちがいない。黄蓋の艦隊だ。青い幕、青い旗!」
見張りは歓声をあげた。
東呉軍から、黄蓋の艦隊が脱落すれば、両軍の兵力差はますますひろがり、もはや勝負あったの感が深い。
「勝った、勝った! 北へ|凱旋《がいせん》だ!」
そう叫びだす気の早い兵卒もいた。
烏林の曹操本営は|沸《わ》き返った。
「静かに、静かに! 騒ぐでないぞ。赤壁のほうにきこえたら、どうするのじゃ。鎮まれ、鎮まれ!」
と、将校たちは狂気する兵卒たちを、抑えにかからねばならなかった。
じつは青い幕や青い旗は|蔽《おお》いであった。そのうしろに、柴や枯草などを積みあげ、油をかけてあったのだ。
「こっちだ、こっちだ! こっちへ来い!」
曹操軍の将校は、投降艦隊をかねて用意していた場所へ誘導しようとした。手を振ったり、旗を振ったりするが、相手はそれに気づかないのか、東のほうへ船首をむけている。
東風が吹いていた。
投降艦隊は、風上の方向にむかっているのである。
曹操陣営でも、このころになって、
(あやしいぞ。……)
と思いはじめる者がふえた。しかし、陣営ぜんたいが、戦勝気分で浮かれている。いまさら警戒せよと命じても、兵卒たちの狂喜をおさえることは難しいであろう。それに、黄蓋の艦隊は、もうおしとどめようもなく近づいている。
「|佯《いつわ》りの投降と知れた! 全員、戦闘の配置につけ!」
烏林に築いた高楼からようすを見ていた曹操は、黄蓋艦隊が船首を東へむけたとき、佯りと見破った。彼は楼から駆けおり、幕僚にそう命じると、さっそく支度をはじめた。
逃げ支度であった。
百戦錬磨のふるつわものである。つぎに火攻があり、味方がどれほど|狼狽《ろうばい》するか、はっきりと予測できたのだ。
「退却のときは、華容の道を採る!」
と、陸路による退却も指示した。
「われらも、枯草や柴を集めましょう」
と、長男の曹丕が、唇のはしをすこし|歪《ゆが》めて言った。
「どうするのじゃ?」
と、曹操は訊いた。
「華容道は|泥濘《ぬかるみ》です。枯草や柴で埋めて行かねば馬は通れないでしょう」
と、曹丕は答えた。
「よし、手配せよ!」
曹操は息子のなかに、自分を越えた、悪魔のような才能をのぞき見たおもいがした。
東のかたに、すでに大|喊声《かんせい》があがった。
それはよろこびの声ではない。驚愕の声であり、そして恐怖の声であった。
炎が噴きあげるように、天空を衝く。
あちこちに火柱があがった。
黄蓋の艦隊は、その数艘を自ら焼いて、曹操軍のなかに放ったのである。そのような火攻用の船には、人員がほとんど乗っていなかったのはいうまでもない。操舵手も、突入直前に、ほかの船に脱出している。そのほかの船には武装兵がひそんでいた。
火の手があがるのを合図に、赤壁の東呉・劉備連合軍が、いっせいに出撃したのは、作戦の定石どおりであった。
|舳《へさき》と|艫《とも》を鎖でつなぎ合わせ、水上要塞に仕立てていた曹操の艦隊は、またたくうちに燃えひろがった。
黒煙は渦巻きながら、天空になだれ込み、そのあいだを|紅蓮《ぐれん》の炎が、|舐《な》めるようにひろがって行く。
曹操陣営に、|阿鼻叫喚《あびきようかん》の地獄絵図がえがかれていた。──
「壮観なものでありますな」
赤壁から烏林へむかう船上で、劉備は燃えひろがる炎をみつめながらそう呟いた。
「艦隊は全焼であろう。……おう、岸の陣営にまで延焼しましたぞ!」
周瑜は、うわずる声を、けんめいに抑えながらそう言った。
「や、や、櫓が焼けて落ちましたな。……これで曹操軍は覆滅。……」
劉備はすでに戦後の政治力による抗争のことを、頭のなかに描きはじめていた。──
作者|曰《いわ》く。──
宋の詩人蘇東坡に有名な『赤壁の賦』がある。
──其の荊州を破り、江陵を下し、流れに|順《そ》うて東するや|舳艫《じくろ》千里、旌旗空を|蔽《おお》う……
と、彼は古戦場に遊んでうたった。
だが、東坡先生の遊んだのは、おなじ湖北の長江沿岸でも、|赤鼻磯《せきびき》と呼ばれるところで、現在の|黄岡《こうこう》である。蘇東坡は思い違いをして作品を書いたのだ。
講談では、孔明が七星壇をつくって天をまつり、風を呼んで火攻に成功したことになっている。
だが、赤壁の戦いは、あくまでも周瑜が主役であって、劉備の影はいたって薄い。
[#改ページ]
|乱世《らんせ》の|花嫁《はなよめ》
|銅雀《どうじやく》 ひとたび鳴けば五穀成り
ふたたび鳴けば五穀熟す
……………………
当時よく歌われていた民謡に、そんな句があった。人びとはその意味をあまり知らずに歌っていたようである。いつから歌われはじめたのかもわからない。もともとそれは古歌で、ずいぶん古いものだという者もいたが、
──わしらの若いころは、そんな妙な歌はなかったよ。
と、|眉《まゆ》をしかめる老人もいた。
民謡といっても、子供がよく歌う、わらべ歌といってよいだろう。大人もよくわからないのに、歌っている子供が、『銅雀』とはなんのことかわかっているはずはない。しかし、いつもくちずさんでいるので、銅雀という言葉はなじみが深い。なんとなく親近感をおぼえる。
五穀が成ったり、熟したりするというのだから、めでたいものにちがいない。
その銅雀が地中からあらわれたというのである。どんなふうにしてあらわれたのか、そこまではわからない。家屋を建てるのに、基礎工事をしていたとき、偶然、掘りあてたのだろうか?
「いや、そこから金色の光が放たれていたので、異なことと思って掘ってみると、はたして銅雀が出たのじゃよ」
と言う者もいた。
「いや、金色の光なんてものじゃない。その土地のうえに、天から紫色の雲が、するすると降りてきて、ひょいととまったのさ。それでそこを掘ってみると、銅雀があらわれたというわけでな」
そんな知ったかぶりを言う者もいた。
「ともあれ、めでたいことじゃ」
と、|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》の人たちは言い合った。
縁起のよいものが掘り出されたので、それを記念して、
──銅雀台というものを築く。
と、曹操は言い出した。
場所は|★[#さんずい+章]河《しようが》のほとりで、★[#業+おおざと(邦の右側)]のまちの西にあたる。『台』というのは、すなわち大宮殿にほかならない。
銅雀台造営のために、★[#業+おおざと(邦の右側)]には活気がみなぎっていた。仕事のあるところに人は集まってくる。近隣の若い衆が、工事に雇われてやってきた。工事はこの銅雀台造営だけではなかった。ほかに数カ所で、かなり規模の大きい建築工事が始まっている。
その一つは|浮屠祠《ふとし》だという。
「浮屠ってなんだい?」
その言葉を知らぬ人のほうが多かった。
「|天竺《てんじく》から来た神仙さ」
と説明できたのは、よほどの物知りであろう。
「あっちで造ってる義舎って、いったいなんじゃろか?」
「五斗米道の道場だとよ」
と、物知りが教える。
「ほう。……一方では|潰《つぶ》しなすって、一方では建てなさるか。……」
そう言って、目をぱちぱちさせる人がいた。
それも無理はない。曹操は|淫祠《いんし》、邪教が大きらいであった。二十数年まえ、済南の相として、はじめて地方長官になったとき、曹操がまず手がけたのは、
──淫祠を禁断する。
ということだった。あやしげな淫祠は片っぱしから破壊したのである。それはいまでも変わらない。みつけ次第、それに弾圧を加えている。
──罰が当たるかもしれませんよ。
とくに一族の女性たちから、そんな心配をする声がきかれた。
──あんなのに罰を当てられてたまるか!
と、曹操は言い放った。
彼は合理主義者であった。迷信など信じない。なにかメリットがあれば、信じるふりをしたが、心の底ではせせら笑っていた。
銅雀があらわれたのはめでたいしるし。──このことも、曹操は信じているようにみせかけたのにすぎない。
赤壁の戦いでうけた傷を、できるだけ早くいやさねばならない。ともあれ、彼の支配する土地で、人心が沈滞してはならないのである。できるだけ活気をみなぎらせておき、
──赤壁の退却など、曹公にとっては、たいした|い《ヽ》た《ヽ》で《ヽ》ではなかったのだ。その証拠に、ほら、宏壮な大工事を始めたではないか。まさに余裕|綽々《しやくしやく》である。……
と、天下の人に思わせねばならない。
こんな利点があるので、彼は銅雀の迷信を利用したのにすぎない。
曹操が淫祠、邪教をきらったのは、それがにせものであることを知っていたからである。ほんものがあってのまがいものなのだ。曹操はその識別ができた。だから、少容の五斗米道や、月氏や西域の人たちの奉じる仏教には寛容であった。
曹操はとくに仏教に興味をもった。たしかにほんものであることがわかったし、それは異国のものである。それは金で神人をかたどって拝するという。寺院も荘厳であるときいている。
(浮屠の寺を、わが★[#業+おおざと(邦の右側)]につくれば、さぞ壮観であろう)
彼はそれを自分の威厳のために利用しようとしたのである。五斗米道については、彼の部下の将兵に信者が多いので、それに優遇を与えることは、人心を把握するという利点があったのだ。
なによりも、同時にいくつもの建設工事が始まれば、★[#業+おおざと(邦の右側)]のまちから、敗戦気分を一掃することができるはずである。
赤壁から帰還したときは、さすがの曹操も迷った。天下統一への道の、重要な地点で挫折したのである。
(これからいかにすべきか?)
曹操はあせった。
孫権も劉備も、いや四川の|劉璋《りゆうしよう》や|陝西《せんせい》の馬超、漢中の|張魯《ちようろ》といった小軍閥でさえ、いま曹操の一挙手一投足に、じっと目をそそいでいるはずである。じっとしていてはいけない。
──曹操も意気|沮喪《そそう》したぞ。
と言われるであろう。
一刻も早く、なにか行動をおこさねばならない。敗戦のあとは、天下の人の|侮《あなど》りを受ける。それをはね返さねば、これからやりにくくなる。
長江中流の赤壁で、曹操は破れたが、下流のほうでは、曹・孫両軍の対峙のつづいているところがあった。
曹操軍の前線基地である合肥城を、いま孫権軍は包囲している。赤壁の戦後、孫権は自ら兵を率いてこの城を陥そうとした。そして、長史(秘書長)の|張紘《ちようこう》に、
「敵将を斬り、その旗を奪い、敵を|震撼《しんかん》させるのは、|偏将《へんしよう》(野戦部隊長)の任務であって、主将のやることではございません。もう血気にはやるようなことはいい加減におやめになって、|覇王《はおう》の計をお抱きになりますように」
と|諌《いさ》められた。
合肥は巣湖の西北にあり、現在、|安徽《あんき》省の革命委員会の所在地である。清末には、この地から李鴻章という、日本人にもなじみの深い政客が出た。
東西に長くのびた東呉の孫権勢力にとって、長江の北にあるとはいえ、巣湖によって水のつながっている合肥に、曹操軍ががんばっているのは目のうえのこぶであった。
孫権が自分で兵を率いて、もみつぶそうという気になったのもとうぜんであろう。赤壁の戦勝の余勢をかって、一気に攻めおとすことができるように思われた。
長史の張紘が、はやる孫権を抑えたのも、
──敗戦の曹操は、中原をかためるために、合肥から兵を退くであろう。
と、判断していたからである。包囲をしばらく続けておれば、いずれ退却する敵を、わざわざ攻めることはあるまい。そのために、兵力を損じてはつまらないではないか。孫権側はそんな情勢の分析をしていた。
曹操は意表を衝いた。
張喜に四万の兵を授けて、合肥へ救援に|赴《おもむ》かせたのである。
曹操にしてみれば、なにか行動をおこさねばならなかった。たまたま、孫権軍と対峙しているのは、合肥城であったので、そこへ兵を送ったのにすぎない。
だが、|荊州《けいしゆう》を得て、防衛線が伸びきった孫権集団にとっては、それ以上、兵を送る余裕はなかったのである。曹操の援兵いたるときくと、孫権軍はあっさりと囲みを解いて、長江の線まで後退した。
「ほう。……|碧眼児《へきがんじ》め、調子に乗って来ると思ったのに、どうしたことかな? あの小僧の心が読めぬとは、わしとしたことが……」
曹操は孫権軍後退のしらせをきいたとき、むしろ眉をひそめた。敵の退却はうれしくないわけではない。だが、それよりも小僧扱いにして、これまでその心を読み取ってきたつもりだったのに、こんどのことで孫権の思惑がわからなかったのが不安だった。
(おれの情勢分析がまちがっていたのかな?)
とも考えた。
それとも。──
曹操は自分の手もとに送られてくる情報が、不十分だったのかもしれないと考えた。孫権軍内に、自分の知らない問題があって、合肥撤退はそれに起因する可能性もあるのだ。
曹操は情報担当者を督励し、自分でも南方から来た人たちを召し出して、いろんな話をきくことにした。
五斗米道関係では、荊州で戦病者、戦傷者の看護の仕事をしていた陳潜が、やっと一段落ついたので、あとを土地の信者にまかせて、少容のいる★[#業+おおざと(邦の右側)]へやってきた。五斗米道の道場建設について相談がある。
曹操はさっそく陳潜を呼びつけ、二日にわたって話をきいた。
「私の知り得ることは限度があります。お役に立たなかったと思いますが」
帰るときに陳潜がそう言うと、曹操は上機嫌で、
「いや、たいそう参考になった。もっとも、そち自身では、自分のしゃべっていることに、大切な事実がひそんでいることを、知らぬかもしれぬがのう」
と、満足そうになんどもうなずいた。
仏教関係では、荊州で戦死者の霊を|弔《とむら》った支敬が、仏寺建設のため、おなじころ★[#業+おおざと(邦の右側)]にやって来た。白馬寺の長老支英は、すでに故人となっていて、現在では、月氏の指導者は支敬だったのである。
支敬も曹操に呼ばれたのはいうまでもない。
「どうやら、なにかお|掴《つか》みになりましたね?」
教母少容は、曹操に招かれたとき、そう言った。
「ほう、なにか掴んだ顔をしておるかな?」
「はい。……このまえにくらべまして、迷いが消えたように存じます」
「は、は、あのときの迷いは、たしかに消えたが、新しい迷いがまた出来たわ。あらわれては消え、消えてはあらわれる。際限のないものじゃ。浮屠の支敬が、おもしろいことを申しておった。……|輪廻《りんね》とか申しておったな。くるくると、いつまでもまわる……」
新しい迷いが生まれたというが、曹操の表情はあかるかった。古い迷いが消えたよろこびのほうが大きいのであろう。
「しばらく戦いはないのでございましょうか?」
と、少容は訊いた。
「教母は、わかっておることを、ことさらに訊く。は、は、は」
曹操は笑うだけであった。
「たしかめたいだけでございました」
「たしかめるまでもないことであろう。この曹操の腹のなかのことなど、教母はとっくに読んでおるはずじゃ」
「そんなに読めるものではありません。せいぜい|丞相《じようしよう》(曹操のこと)が、これから水軍の訓練をなさるであろうということぐらいでしょうか。それから先は読めませぬ」
「は、は、わしもその先はまだきめておらぬ。なにも腹にないのだから、誰にも読まれはせぬはずだ。は、は、は」
曹操は笑いつづけた。
赤壁の戦いの翌年──建安十四年(二〇九)七月、曹操は水軍を率いて、渦水という河から、|淮河《わいが》にはいり、肥水に出て合肥に駐屯した。
そこで水軍の訓練をおこなったのである。総帥の曹操が出馬しての演習だから、大規模なものであった。赤壁の戦いの反省演習のようなものだが、『反省』よりも、もっと積極的な|狙《ねら》いがあった。
演習だけではなく、合肥の近くに|芍陂《しやくは》という、周囲五十数キロという大用水池をつくり、一帯を耕地化した。これは曹操得意の『屯田』であり、駐屯軍が耕作にあたり、軍糧は自給自足できるようになるのだ。
──赤壁に破れたりとはいえ、曹操は南方の孫権打倒の意欲まで失ったのではない。いや、これまで以上に意欲を燃やし、長期的な見通しをたてて準備をおこなっている!
曹操の水軍演習と屯田の開始は、このことを天下にしらせるのを狙いとしたのだ。とくに孫権陣営にむけての、大きな示威行動であった。
「くたばり損いのちびじじいめ!」
孫権は曹操のことを罵るとき、そんな言葉を使った。二十七歳の孫権は、五十四歳の曹操をじじいと呼んでもおかしくない。曹操は小柄で|風采《ふうさい》のあがらぬ人物だったのだ。
孫権はいまいましかった。せっかく赤壁で勝ち、これから『覇王のはかりごと』を立てようというときに、ちびじじいが合肥に大軍を送り込んで、そこに居坐ってしまった。赤壁でたたきのめされた、くたばり損いのくせに。
碧眼児孫権は、心のなかで罵りながら、じっと地図をみつめる。
(ちと伸びすぎたかな。……)
彼はそう考えた。|★[#番+おおざと(邦の右側)]陽《はよう》湖を背にした|柴桑《さいそう》あたりが最前線だったのに、荊州を手に入れたあと、それは南郡よりだいぶ先まで伸びた。ざっと二倍に近い。それも面ではなく線としての伸びである。
一点に圧力がかかったとき、こちらが面であれば、相手をうけとめる弾力性も余裕もあろう。だが線であれば、いつぷつりと切れてしまうかしれない。切れることは、勢力を分断されることを意味する。十の力が、二か三ほどに分断されては、覇王のはかりごともないだろう。
地図をひろげたテーブルのそばには、孫権をはさんで、|周瑜《しゆうゆ》と|魯粛《ろしゆく》がひかえていた。
「ふくらみのない長さですね」
と、魯粛が言った。それは孫権が考えていた、面をもたず、線のみで伸びすぎた、という感想を、別の言葉にかえたのにすぎない。
長江(揚子江)の流れ一本が、孫権の勢力圏である。川の流れを示した線が、いかにも弱々しげにみえる。
「ここにふくらみをつくるのです」
周瑜は長江の線のうえに指をのせ、それをずっと西へもって行った。
益州、すなわち|蜀《しよく》の地がそこにあった。ほとんど戦乱のなかった、肥沃の土地である。ただしそこには、|劉焉《りゆうえん》のあとを継いだ|劉璋《りゆうしよう》というあるじがいた。
「ふくらみか。……」
と、孫権は|呟《つぶや》いた。
「そうです。われらには、そのふくらみが欠けております。曹公の強味はなにかと申しますと、黄河沿岸の中原だけではなく、|冀州《きしゆう》、幽州と、その奥にふくらみを持っていることです。そればかりではありません。遼東は公孫家のものですが、遼西は、その気になれば、曹公はいつでも、おのれのふくらみに利用することができます。……蜀を取るべきです。あの物産ゆたかな土地を」
周瑜は熱っぽく言った。
「劉璋は凡庸のあるじとはいえ、益州がそうかんたんに取れるかな?」
と、孫権は腕組みをした。
「むろん、そのまえに劉備を片づけておかねばなりません。あれは、まったく油断のならない人物ですから」
周瑜はあくまで劉備勢力を消すことにこだわった。
「われらが西を撃つあいだ、曹公がおとなしくしておりますかな?」
と、親劉備派の魯粛が口をはさんだ。孫権の東呉集団にとって、最大の敵は曹操ではないか。孫権の兵団が西へむかうのを、曹操は指をくわえて坐視するはずはない。
「赤壁の雪辱を考えるのはとうぜんであろう。いくらくたばり損いでも」
孫権は吐きすてるように言った。
曹操は合肥に兵を増派し、水戦の演習をしきりにおこなっている。それどころか、大規模の屯田をしているのだ。それは、まるでこれみよがしであった。
「その曹操をおびやかすためにも、劉備玄徳を、わがほうの駒として使うべきです。有用な駒を棄てることはありません」
と、魯粛は言った。
「有用かも知れぬが、危険な駒だ」
周瑜はそう反論する。
「われらがじゅうぶんに強ければ、劉備を一蹴して葬るもよい。だが、はたしてそうであろうか?」
魯粛の声にも熱がこもる。
「劉備が心底から、われらに協力してくれるのならかまわない。しかし、はたしてそうかな? これまでの彼の閲歴は、彼がつねに裏切り、背反をくり返してきたことを語っている。|梟雄《きようゆう》は頼るべからず」
周瑜の声は、おちついて、しかもすずしげにきこえるが、魯粛に劣らぬ熱が、そのうらにこもっていた。
「かりに劉備が信ずるに足る人物とわかればよいのだな?」
「そうあってほしいが、これまでのことから、信を置けぬ人物だと判断せざるをえない」
「これまではこれまで。これから信じ得る人物であるという保証があれば?」
「人間、そうかんたんに変わるものか」
「変わればどうする?」
魯粛と周瑜がそんなやりとりをしているのを、孫権は腕組みしたままきいていたが、やおら腕組みをとき、
「魯粛には方策があるようだが、周瑜のほうはどうかな? われらが西征するときに、あのくたばり損いに、背後を狙われない算段でもあるのか?」
と、訊いた。
「はい、それはございます。この周瑜、一世一代の策謀を考えております。なにとぞ、西征軍を編成し、劉備をまず血祭にあげますように」
と、周瑜は胸を張った。そのようすから自信のほどがうかがわれた。
「西征には反対するものではありませんが、劉備を血祭にあげることは、大敵曹公をひかえて、味方を減らすことになりますゆえ、絶対に賛同できませぬ」
魯粛はそう言って、自分の下腹をポンと叩いた。
「どちらも自信たっぷりであるな。双方の策略をあとでゆっくりきいて、そのうえで方針をきめよう」
孫権はほっておけば、この両雄の舌戦はいつまでつづくかわからないと思ったので、そう言ってひとまず引き分けた。
ここで赤壁戦後の状況を概述してみよう。
赤壁で破れた曹操は、そのままおとなしく全軍をひきあげたのではなかった。従弟にあたる征南将軍の曹仁や|徐晃《じよこう》に江陵を守らせ、|折衝《せつしよう》将軍の|楽進《がくしん》に|襄陽《じようよう》を守らせたうえ、軍をひいたのである。
だから、東呉軍は、赤壁の戦後も、おもに曹仁の部隊と戦わねばならなかった。東呉軍の総司令官は周瑜である。周瑜の部将の|甘寧《かんねい》は、長江上流の夷陵を占領したが、曹仁軍はそこを包囲した。周瑜は江陵から兵を率いて救援にかけつけ、夷陵で曹仁の軍を大いに破った。
とはいえ、東呉軍が曹仁の部隊を長江流域から追い払うには、赤壁戦後、ほぼ一年を要したのである。
そのあいだ、劉備はどうしていたかといえば、おもに湖南諸地方を切り従えていたのだった。切り従えたといっても、武陵、長沙、桂陽、零陵の四郡は、もともと荊州の配下にあり、かつて劉表が任命した太守がそれぞれ領していたのである。劉表の後継者の|劉★[#王+宗]《りゆうそう》が曹操に降ったので、劉備・東呉連合軍の敵地になったのにすぎない。劉備は劉表の長男の|劉★[#王+奇]《りゆうき》を擁していたので、南方四郡の大守は、はじめから戦意はなく、ほとんどが戦わずして降ったのである。いや、降ったという意識もなかったであろう。
劉備はその四郡のうち、桂陽郡を趙雲に守らせたほか、武陵、長沙、零陵の三郡は、ことごとく諸葛[#葛のヒは人]孔明にまかせたのだった。三郡の賦税をもって、これからの軍資にあてようとしたのである。諸葛[#葛のヒは人]孔明は、野戦の作戦よりも、むしろこうした行政や経済政策のほうに、すぐれた手腕を発揮した。
──全荊州を返還していただきたい。
劉備は孫権にそう申し出た。
曹仁の部隊を追い払ったあと、周瑜は南郡大守として、江陵に居坐っていたのである。江陵は荊州のなかでも、最も重要な城市であった。
孫権側からすれば、荊州のために、曹操を赤壁に破ってやったではないか、江陵あたりに進駐したぐらいで、苦情をもちこまれることはなかろう、と言いたいところであろう。
だが、劉備からすれば、もし荊州が全軍、全土を挙げて曹操に降っておれば、曹軍は|雪崩《なだれ》をうって南下し、孫権の東呉集団は|潰滅《かいめつ》したかもしれない。それを防いだのは、荊州数万の軍兵を曹操の手から救い出し、逃走しながらでも、及ばずながら抵抗したわれらのおかげではないか、と言いたいのである。
双方とも相手を救ってやったつもりでいた。
劉備の占領した四郡は、あまりにも南に偏りすぎている。桂陽などは現在の湖南省でも、広東省との省境に近い位置にある。
天下を経略する意思をもつ人物にとって、これは天下の中心からはなれすぎているといわざるをえない。すくなくとも、長江沿岸に足がかりを得たいものだ。
劉備は要衝の江陵に本拠を置きたいと思ったが、そこは周瑜ががんばっている。仕方なしに、その対岸に本陣を構えた。
江陵は長江の北岸にあり、その南岸は油口である。油水という河の人口なので、そう名づけられた。
しかし、劉備は自分の本陣の地名が油口では、いささか軽すぎるとでも思ったのか、それを『公安』と改名した。
そうこうしているうちに、劉備がかつぎまわっていた劉表の長男の劉★[#王+奇]が死んでしまった。なにやら、ころはよしといった死に方である。
劉★[#王+奇]は名目上、荊州の牧に任命され、事実上は劉備のロボットであった。ロボットは死に、ここで劉備は名実ともに荊州の牧となった。南方四郡を手に入れて、その軍事力は目に見えて充実していた。
この劉備の力を評価して、曹操を|牽制《けんせい》する駒に使おうというのが魯粛の考え方であった。またこの劉備は油断ならないので、早いうちに片づけたほうがよいというのが周瑜の主張である。
どちらも孫権集団のためを思い、そしてどちらも劉備の力量を高く評価して、それぞれ異なった方策を編み出したのである。
魯粛の方策をきいたとき、孫権は一瞬、きょとんとして、つぎに爆笑した。
「公安で葬式がありました」
と、魯粛は言い出したのである。
「ほう、油口でのう。……」孫権はその地名をもとの名で呼んでから、「いったい、誰の葬式かね?」
「劉備の夫人の甘氏が亡くなりました」
「ほう、それでわがほうから弔問に行ったかな? わしははじめて耳にしたが」
「内輪だけの、ひそやかな葬儀だったときいております。わかった以上、弔問すべきでしょうが、その役は、この私におまかせください」
「それはかまわぬが、なにか方策でもあるようじゃな?」
「はい、私の方策を申し上げましょう」
魯粛が居ずまいを正したので、孫権も坐り直した。
「私の方策は」魯粛はすこし言葉を切ってから、「将軍の妹御を、劉備に妻として与えることでございます」
これをきいて、孫権は目をくりくりさせ、きょとんとした表情になったが、やがて大声をあげて笑った。笑いをおさめたあと、
「将軍の妹御と申すのは、わしの妹のことじゃな?」
と、念を押した。東呉集団のなかで、ただ将軍といった場合は、孫権のことを指すのがならわしであった。
「さようでございます」
と、魯粛は頭を下げた。
「は、は、は、あれが劉備玄徳の……は、は、は……劉備も手を焼きおろう……は、は、気の毒な……もしそうなれば、は、は……」
孫権は、おかしくてたまらぬといったふうに、笑いをおさめるのに困りはて、しまいには目に涙をうかべて腹を抱えた。
──もしそうなれば劉備が気の毒な。……
と孫権が言ったのは、けっして冗談ではなかった。孫権の妹は、兄でも制御できない、札つきのじゃじゃ馬だったのである。
四つちがいだから、孫権の妹は二十三になっていた。早婚であった当時にすれば、二十三の娘はかなり|と《ヽ》う《ヽ》が立っているといえよう。
孫権も東呉のあるじとして、権勢をもっていたので、妹の一人や二人は、かんたんに誰かに押しつけることもできたであろう。だが、彼はあえてそんなことをしなかった。えらんだ相手が気の毒である。
──才、|捷《しよう》にして剛猛、諸兄の|風《ふう》有り。
と、史書は彼女を描写している。
才たけてはいたが勇ましい女性であったのだ。諸兄というのは、孫策、孫権たちのことだが、勇猛なことにかけては定評がある。その兄たちに似ているという。
幼いころから、彼女はもっぱら武術に励んできた。撃剣もかなりうまいが、|長刀《なぎなた》をもたせると、兄の孫権でも三度に一度は打ち込まれる。南船北馬といって、南方の人間は船にばかり乗って、騎馬は下手であるのがふつうだが、彼女は騎馬の名手でもあった。北方の|匈奴《きようど》で生活したことのある人が、彼女の騎馬ぶりを見て、
──匈奴の女よりも馬がうまい。
と、舌を巻いた。騎馬のまま弓を使うこともできるのだ。
まだ十代のころ、孫権はこの妹に、
──おまえは、どんな男のところへ嫁に行くのだ?
と訊いたことがある。
──天下の豪傑よ。
と、彼女は答えた。
──つまり、わしのような男だな?
孫権が笑いながらそう訊くと、彼女はすこし考えてから、
──兄さんもいいけど、ちょっと重みが足りないわね。もっとずっしりした人でなけりゃ。……
と答えた。
──は、は、は、わしも落第か。
と、孫権は頭を|掻《か》いたものだった。
孫権の妹は、なかなかの美人であるが、それでも縁遠いのは、天下の豪傑がいっこうにあらわれないからであろう。
孫権が魯粛の話をきいて、腹を抱えて笑っていると、
「笑いごとではありませんぞ。真剣にお考えください」
と、魯粛にたしなめられた。
「わかった、わかった。考えてみよう」
孫権はそう言って、魯粛を帰したが、あとでひとりになって考えてみると、この話、そんなに悪いものではない。難をいえば、年齢がすこしはなれすぎている。劉備はもう四十八だから、倍以上もちがう。だが、考えようによれば、戦塵をくぐり抜けてきた四十八歳の将軍ぐらいでなければ、孫権の妹のようなじゃじゃ馬は手に負えないだろう。海千山千の劉備なら、うまく制御するかもしれない。
(彼女にとっても、|手綱《たづな》をとってくれる男にめぐりあえば、かえってしあわせというべきではあるまいか)
という気もした。
|姻戚《いんせき》関係が結ばれるようになれば、まさか劉備も東呉を裏切るようなことはないだろう。東呉が西征の軍をおこすときも、曹操にたいして、にらみをきかせてくれるはずだ。
(よし、ともかく話してみよう)
孫権は勇気を出して、妹にこの話をもちかけることにした。
「天下の豪傑なら、嫁に行くと言ったことがあるが、忘れてはいまいな?」
孫権はそう切り出した。
「おぼえてるわ」
と、妹は答えた。この答え方も、きわめて歯切れがよい。
「天下の豪傑らしいのがいるが、どうだ、嫁に行くか?」
「兄さんの部下ならご免蒙るわ」
「どうして?」
「だって、兄さんより偉くなれないんだから。|謀反《むほん》でもおこさないかぎりね」
「は、は、それはよかった。わしの部下ではない。ただ、ちと年をとっているが」
「どれくらいとってるの? 五十を越えた?」
「いや、まだ。……しかし、もう二つ三つで五十だよ」
「どうやら劉備玄徳のようね」
孫権の妹は、ずばりと言い当てた。
「や、や、これは驚いた。……まさか、誰かからきいたのでは?」
「誰もわたしに男の話を持って来ないわ。でも、考えてみればわかるじゃないの。もしわたしに縁談があるとすれば、東呉の孫一門の利害がからんでくるはずでしょ。だったら、わたしが行くべきところは、孫一門がおそれている人物……その男を、わたしが孫一門に無害な人間に変える。そんなことを考えると、話があるとすれば、劉備玄徳のほかにはなさそうじゃないの」
彼女の言葉は理路が通っていた。
「どうだ、玄徳をどう思う?」
「面白そうじゃないの」
彼女はひとごとのように言った。
「面白いとは?」
「どんな人物だか、そばにいて観察してみたいわ。どうも兄さんよりはうわてのようだから」
「わしよりうえだと申すのか?」
「兄さんは劉備と一しょに荊州を取ったでしょ。土地は兄さんのほうが広く取ったかもしれないけど、人間はみな劉備について行くじゃありませんか? どうしてなのか、それが知りたいのよ」
この妹の言葉に、孫権はいささか自尊心を傷つけられた。たしかに彼は赤壁の戦いのあと、荊州の中心、すなわち江北の部分を手に入れた。だが、どうしたわけか、人物と認められている人間が、つぎつぎに劉備の陣営にはいって行く。周瑜にそのことを言うと、
──なぁに、わが東呉は多士|済々《せいせい》、新参者には立身出世の機会がないからです。それにくらべると、劉備は関羽、張飛、趙雲と、名のある人物は三人ぐらいです。ああ、諸葛[#葛のヒは人]瑾の弟が新しくはいりましたね。そのていどですから、目立つ望みがあるのですよ。
と解説してくれた。
(だが、それだけなのか? |盧江《ろこう》の|雷緒《らいしよ》などは万余の衆を率いて、劉備についた。鳳の|雛《ひな》とさえいわれた|★[#广+龍]士元《ほうしげん》もそうだし、黄忠、陳震、|廖立《りようりつ》……襄陽馬氏兄弟、なかでも馬良などは、東呉に来ても目立つ人物なのに……)
孫権は周瑜の説明だけでは、納得できないものをかんじた。
襄陽の馬氏五兄弟は、いずれもすぐれた才能をもった人物であったが、なかでも馬良はとくにすぐれていた。馬良の眉には、白い毛があったことから、世人は、すぐれたもののなかでもとくにすぐれたことを、
──|白眉《はくび》。
と形容していたほどである。この馬良からはじまった『白眉』という言葉は、二十世紀まで生きのびて、まだ日常の会話にも使われている。
「そうか。……そばにいて観察するとは、ともに暮してもよいということだな?」
と、孫権は念を押すように言った。
「そうよ、ちゃんと言ったわ」
彼女は目を伏せもせずに、もちこまれた縁談に同意を与えたのである。
銅雀台の工事は、着々と進行していた。
『|★[#業+おおざと(邦の右側)]中記《ぎようちゆうき》』には、
──高さ六十七丈。
とある。後漢の丈は二・三メートルにすぎないとはいえ、それでも百五十メートルを越す摩天楼であり、しかもその最上層に、百二十の部屋をもつ建物があったという。
建造されていたのは、銅雀台だけではなかった。その左右に、玉竜台と金鳳台も造られつつあった。これは曹操の三男|曹植《そうしよく》の助言によったものである。
(植のやつめ、うまいところに気づきおった。発想の特異なところ、彼の詩にも似ておる。将来がたのしみな。……)
曹操はそう思っていた。
竜も鳳も天子のシンボルである。玉竜を漢の天子献帝とみてもよかろう。そうすれば、金鳳はさしずめ漢の皇族、外戚、その他の貴族たちとみることができよう。
──われは雀なり。
それもしがない雀である。玉や金にはくらべられない銅のそれなのだ。それにもかかわらず、銅雀の台は中央にそびえ、玉竜台と金鳳台を左右に従えている。
曹操はときどき変装して、まちのようすを見に行くことがあった。彼は張遼を合肥に派遣して、自分は★[#業+おおざと(邦の右側)]に戻っている。微行のときは、たいていひとりだが、ときには誰かを連れていることもある。
その日は、長男の|曹丕《そうひ》が一しょだった。
建造中の銅雀台を見上げて、
「天子さまも安心なさるでしょう」
と、曹丕は言った。
「や……」
曹操は思わず声をあげた。三つの台が象徴していることに、長男も気づいているようである。曹操は我が子ながら、この曹丕のなかに不気味なものをかんじることが多い。
(情というものに欠けているのではないか?)
と思うことがある。おそろしいことを、平然とやってのけるが、ふつうの人間の情が欠落しているとしか思えない。曹操自身にも、すこしはそのようなところがある。父を殺されたあとの、徐州での殺人行軍は、情を欠いたものだが、すくなくとも彼はあと味の悪さをおぼえている。曹丕はどんなことをしても、あと味の悪さなどかんじないであろう。
(この男は、おれの後継者としては、不適当なのではあるまいか?)
曹操はそう思った。自分のなかにあるいやな性格を、この息子は拡大して持っているのだ。
(いかん、そんなことを考えては)
曹操はすぐに自分を制した。考え方が間違っているとは思わない。そんなことを考えると、不気味なまでに冷徹な曹丕に、心を読み取られるのをおそれたのである。
──おれを廃嫡しようと考えておるな。では、先手をうって弟の植を殺すとしようか。……
曹丕ならそう考えかねない。曹操は自分が三男の植の才能を愛していることさえ、この長男にはかくしておかねばならぬと思った。
「周瑜の密書をどう思う?」
曹操は話題を変えた。
孫権陣営で、兵馬の権を握っている周瑜から、|★[#くさかんむり+將]幹《しようかん》という者を通じて、さきほど密書が届いたのである。
──私は|破虜《はりよ》将軍(孫堅)の愛顧をうけ、討逆将軍(孫策)と|刎頸《ふんけい》の交わりを結び、橋家の姉妹をそれぞれの妻といたしました。私は一生をこの孫家に預けるつもりでありましたが、討虜将軍(孫権)の代となってからは、魯粛とのあいだに意見の対立があり、東呉政権は私の身を置く場所ではないという考えが、しだいに強くなりました。私個人としてだけではなく、乱世の人民の一人としても、私はこの天下は早く統一さるべきであると考え、そのために努力してきたつもりです。だが、現在のようなやり方では、東呉が天下を取ることは覚束なく、悲観的にならざるをえません。このごろでは、一日も早い天下統一のためには、それに最も近く迫っている曹公のもとに身を投じ、力を尽すのが最善の道であると信じるようになりました。ただし、私の力が極限まで発揮できるためには、|麾下《きか》の諸将のように曹公の側近にいるよりも、現在の地位にいたまま、曹公のために画策するほうが、より有効ではないかと存じます。……
といった内容である。
内応の申し出にほかならない。
密書の内容を信ずべきかどうか、さきほども検討したのだった。ごく限られた側近だけで論じ合ったが、まだ結論は出ていない。
曹操側も孫権陣営に間諜をいれているので、周瑜と魯粛の対立は知っていた。また劉備と孫権の妹の縁談成立のことも、情報網がとらえている。これは親劉備派の魯粛の工作が成功した結果であろうし、そうだとすれば孫権集団の両巨頭である魯粛と周瑜の関係は、前者のほうに重みがかかってきたのではあるまいか? したがって、周瑜は|怏々《おうおう》としてたのしまず、不遇の状態にあるはずだ。
諜者の報告を分析して、周瑜が孫権を見限るのはありえないことではない、密書も信ずるに足る、と判断する者もいた。
しかし、いくら不遇とはいえ、周瑜はまだ兵馬の権を握っており、これまでの関係からみても、彼が孫権集団に背をむけることはありえない、密書は謀略ではあるまいか、という反論もあった。
その席では、曹丕はひとことも口をひらかなかった。すこし唇を|歪《ゆが》めただけなのだ。彼にはそういう癖があった。
父から密書のことをきかれて、曹丕はやっと自分の意見を述べた。変装はしているものの、往来のまん中である。──
「周瑜はふた股かけておりますよ」
推測の文脈ではなく、断言であった。
「なに、ふた股?」
「そのとおりです。周瑜はおそらくこの密書を出すことを、孫権にうち明けているはずです。私は曹公をあやつってみせる、と言ってね。東呉軍西征のときは、曹公の軍隊が南下しないように、待て待て、そのうちに決定的な場面で、私が内応してやるから、しばし待て、とおしとどめる役をつとめると説明していますよ。牽制が成功すれば、周瑜は東呉集団のために大手柄を立てたことになり、失敗したとすれば、曹操軍に内応した結果になり、これまた手柄です。……もし私が東呉の重臣でしたら、かならずこうしたふた股を考え出しますね」
曹丕はそう言って、空を仰いだ。銅雀台はかなり上のほうまで、形だけはできていた。彼は小手をかざし、まばゆそうに目をしばたたいた。
(この男ならやりかねない……)
曹操は、内心、舌打ちするおもいで、銅雀台を見上げる息子に目をそそいだ。
花嫁行列も美々しく──そう言いたいところだが、孫権の妹の花嫁行列は、いささか変わっていた。たしかに美しく着飾った二百人の侍女が、花嫁の|輿《こし》につき従っている。だが、彼女たちはそれぞれ手に長刀や槍や弓を持っていたのである。
「なんだ、女が戦さでも仕掛けてきたのかね、あのようすは?」
この異様な行列を迎えた公安の人たちは、そう言い合った。
荊州の牧劉備の邸のなかにはいった輿が、奥の建物の門の前にとまり、剣を|佩《お》びた侍女が二人、左右に|跪《ひざまず》いてその扉をひらく。花嫁が身をかがめながら、輿の扉から出てきて、階段の前に立った。背筋をまっすぐにのばして。──
階段の上から、|花聟《はなむこ》の劉備がゆっくりと降りてきた。
「美しいのう。……」
階段を降りきって、花嫁の前に立つと、劉備はひげをしごきながらそう言った。彼はほんとうに美しいと思った。顔の輪郭の線はきついほうであり、鼻はややとがっている。どちらかといえば、少年的なかんじもするが、それも劉備の好みに合っていた。
(押しつけられる妻は、どんなひどい面相かと思っていたが、これはまことに美しい。思わぬ拾いものよ。……)
劉備はそんなことを考えていた。
「そのようなことを申されますな」
花嫁は柳眉を逆立てた。
「わしは心に思ったことを、正直に申しておるだけだ。これまでもそうしてきた」
と、劉備は笑いながら言った。
花嫁はとがった鼻を上にむけた。
「さ、どうぞこちらへ」
諸葛[#葛のヒは人]孔明の妻が、花嫁を奥へ案内して行く。
花嫁が奥へ姿を消すと、諸葛[#葛のヒは人]孔明が、
「顔を上にして輿入れした花嫁は、これまで見たことがございませんな」
と言った。
「わしもはじめて見た」
と、劉備は首を縮めるしぐさをした。彼がこんなふうにおどけてみせるのは、めずらしいことだった。
当時の嫁取りには、邸のなかに青い布で天幕状の部屋をつくり、新郎新婦の初夜の居室とするならわしがあった。新郎の友人たちは、幕のそとに集まって、じっと耳を澄ませたものだ。布一枚だから、幕のなかでどんな低い声を出しても、そとにきこえてしまう。新郎新婦もそれを知っているので、ほとんど言葉を交わさない。奇習というべきであろう。
荊州の牧の邸でもあり、さすがに広間や廊下に小屋掛けという初夜の部屋はつくられなかった。ふつうの部屋に、戸口のところだけ、形ばかり青い布を垂らしただけだった。
立ち聞きなどをする人もむろんいない。部屋の外には武器をもった孫家の侍女二百人が、ずらりと居ならび、立ち聞きをしようなどという不心得者がみつかれば、その場で首を|刎《は》ねられてしまうであろう。
掃除などをしている雑役の老女が、武装侍女たちが、翌朝、ひそひそと|囁《ささや》き合っているのを耳にしたという。
──かなりはげしいようでございましたね。
──お仲がよいのはなによりです。
──あれでは、仲がよすぎますようで。
──まぁ、そんなにやっかんで。
──しっ、はしたない。他人にきかれまするぞ。
といったやりとりがあったそうだ。部屋のそとにひかえていて、仲のよさのはげしいようすがきこえたのだから、かなりのものであったにちがいない。四十八歳の劉備は、年の功もあって、色の道にかけても手だれであったろう。武芸好みの二十三歳の処女に、女としての悦びを与える技巧など、とっくに心得ていたのに相違ない。
盛大な祝宴を張って、結婚を祝うという風習は、唐代あたりから始まったことである。古代にあっては、新郎の家も新婦の家も、三日間は音曲を慎んだという。すなわち、結婚は悲しいことであったのだ。新婦の家は、手塩にかけた娘を送り出す離別なので、その悲しみは理解できないではない。新郎の家ではなにを悲しむかといえば、息子が嫁を取って子を生まねばならないのは、親が年をとって死に近づくこと、と説明されている。新しく人が生まれることは、ふるい人が死ぬこととペアをなす現象とみられたのだ。
漢代ではすでに結婚を悲しむ風習はなくなり、かといって大袈裟に祝う習慣はまだ生まれていない。ちょうど中間である。結婚のとき、酒肉を買う金がなくて他人に借りた、といった記録が漢代にあるので、ささやかな祝いはおこなわれていたらしい。
公安の荊州の牧の邸でも、側近や幕僚、召使たちに酒肉が配られ、なんとなくはなやいだ気分になっていた。
当時の結婚は、|納采《のうさい》(結納の件)などの手続のあと、|請期《せいき》(日どりのとりきめ)がすむと、『|親迎《しんげい》』という順序にはこぶ。親迎とは読んで字のとおり、新郎が親しく新婦の家へ嫁を迎えに行くのである。もっとも遠隔の地では、しきたりどおりには行かない。
そのころ、孫権は京口(現在の江蘇省鎮江)に邸をもっていた。そこから公安まではずいぶん遠い。どうせ嫁入りのあと、里帰りがあるのだから、親迎を略して、里帰りのときだけ、劉備が京口へ赴くことになった。こうしたとりきめは、仲人役の魯粛がしたのである。
(このたびの縁組みは、おれを曹操にあたらせるためである)
劉備はむろんそれを承知していた。
(だが、そのためには、おれが強くならねばならない。おれが強くなるためには、荊州の江北部を返してもらおう。……)
彼はそう思っていた。
かつて劉表は荊州の牧として襄陽に居を構えていた。赤壁で破れたりとはいえ、曹操はまだ荊州の北部を占拠し、州都の襄陽には猛将の楽進を駐屯させている。
劉備は襄陽の太守として関羽を任命していた。襄陽は荊州の一部なので、とうぜん劉備はそれを自領と考えていた。いまは臨時的に曹操に占領されているのにすぎない。襄陽太守として、関羽はその地に赴任できないが、あくまでも正統の長官であることを主張したのである。
敵の曹操にたいしても、『襄陽はいつの日か、きっと返してもらうぞ』ということを、関羽の任命によって意思表示をしている。まして孫権は同盟者である。その同盟者が、荊州の最も肥えた部分──江北を占領し、江陵に周瑜を駐在させているのだ。
(旧荊州領を返還してもらわねば、わたしは天下の笑いものになる)
劉備は里帰りのとき、孫権に会ってそう要求するつもりだった。
(劉表の旧部下は、ほとんどわたしが収容している。彼らを養わねばならない)
という理由もあった。
花嫁の里帰りに、劉備が同行するという話をきくと、諸葛[#葛のヒは人]孔明は首を横に振った。
「孫権一門のなかで、あなたに好意的なのは魯粛ぐらいでしょう。敵意をもっている者のほうが多いとみるべきです。京口へ行けば、ここぞとばかり抑留されてしまうかもしれませんぞ」
「そうかな? そんなにわしの味方はすくないのか?」
と、劉備はとぼけた顔で訊いた。
「とうぜんです。われわれは東呉の人たちからみれば、|他所者《よそもの》ではありませんか」
「しかし、東呉の一党も、寄合い所帯ではないか。あちこちの豪族が、自分たちの利益のために集まっているのにすぎない」
「たしかに、それは孫権集団の大きな弱点でしょう。寄合い所帯とはいえ、しかし共通の利害のためには協力するはずです。あなたを抑留すれば、早い話、湖南四郡を没収して、山分けできます」
「そうかんたんに没収できるかな? わしがいなくても、関羽や張飛の武勇、それに諸葛[#葛のヒは人]孔明の智謀を相手にしなければならない。いま湖南あたりで|や《ヽ》け《ヽ》ど《ヽ》でもしていると、合肥から曹操に攻めこまれるおそれがある」
「いえ、あなたを抑留して、攻め込まずに、ようすを見るという手もあります。とにかく、京口ヘ行くのは、危険きわまりないことと申さねばなりません」
諸葛[#葛のヒは人]孔明の反対は強かった。
しかし、劉備は京口行きを強行した。
「味方はすくないというが、一人で千万人に匹敵する味方がいる」
と、劉備は言い張った。孔明はその一人を、てっきり魯粛のこととばかり思って、
「魯粛は千人、万人に匹敵する味方かもしれませぬが、もう一人、周瑜という千人、万人に相当する敵もいますよ」
と、反対した。
「わしのいう味方とは魯粛のことではない」
と、劉備は笑った。
「では、どなたのことですか?」
「わしの妻じゃ」
これにはさすがの孔明も気をのまれてしまった。
「たいへんなご自信でありますな。……」
と、口をすぼめるほかはなかった。
どうやら劉備は、じゃじゃ馬馴らしに成功したようである。自家の|薬籠《やくろう》中のものとして、それを使いこなす自信をもったとみえる。
こうなっては、孔明も反対に固執することはできない。そのかわり条件をつけた。──
「そのかわり、この公安を出発するときは、内密になさいませ。対岸の周瑜に知られてはなりません。きゃつ、それを知れば、ただちに京口ヘとんで行き、あなたを抑留することを説くでしょう。まず十日ほど、あなたの京口行きをかくすことができましたら、周瑜も打つ手はなかろうと存じます」
劉備が孫権の妹を妻に迎えたのは、建安十四年(二〇九)のことで、劉備が京口ヘ赴いたのはその翌年であった。
劉備と孫権はこのときが初対面である。赤壁の戦いの前の同盟は、諸葛[#葛のヒは人]孔明が孫権の前線基地である|柴桑《さいそう》に出むいてとりきめたものだった。孔明はすでに孫権に会っていたが、劉備はまだである。
格式のやかましい時代なので、会いに行ったほうが格は下であるとみられた。流浪生活が長かったとはいえ、劉備は孫権が|洟垂《はなた》れのころから、一州のあるじであった。いくら困っても、そうかんたんに会いに行くわけにはいかない。
こんどは妻の里帰りという|恰好《かつこう》の理由があった。この訪問は、格づけの対象にはならないのである。
極秘裡に公安を出発したが、周瑜の張りめぐらした情報網もしっかりしたもので、出発後二日で、早くも江陵に知られてしまった。だが、周瑜はそれを知っても、ただ歯がみするだけで、あとを追って京口ヘ行くことができなかった。ちょうど高熱を出して|病臥《びようが》していたのである。
「うぬ、こんなときに熱が出おって!」
周瑜は寝床を叩いて口惜しがった。しかし、思い直して、部下に筆記道具を持って来るように命じた。孫権に手紙を書くのである。
──劉備は梟雄でありまして、関羽、張飛といった|熊虎《ゆうこ》の如き将を従え、かならずや久しく屈伏して人のために働くような人物ではありません。わたくしの考えでは、よろしく彼を呉の地にとどめ、盛大に宮室を築いて住まわせ、美女や珍貴なものを与え、その耳目を|娯《たのし》ませるべきであります。彼を関羽と張飛からひき離し、さらに関羽と張飛の二人をもひき離せば、わたくし如き者でも彼らに戦い勝ち、大事を定めることができましょう。いまみだりに土地を割いて与えるなら、彼の覇業の軍資となり、彼ら三人が集まる有利な場所を提供することになります。そうなれば、|蛟竜《こうりよう》が雲雨を得たようなもので、もはや池の中で満足せずに、天高く飛び、覇権を唱えるにいたりましょう。そのようなことになっては、東呉にとって一大事と申すほかはありません。……
という内容であった。
文面はきびしいが、肉声ではなかった。劉備は孔明に授けられた策に従って、彼独特の誠意|溢《あふ》れる肉声で説いた。また親劉備派の巨頭である魯粛も、そのころ京口にいて、いろいろと画策していたのである。だが、なににましても有効であったのは、劉備夫人の兄への訴えであろう。
「天下の豪傑に恥をかかせたままで、よろしいとお思いですか」
と妹に迫られては、孫権もたじたじとならざるをえなかった。
諸葛[#葛のヒは人]孔明の授けた説得法は、
──西征を決行する、しないにせよ、目下、東呉集団の最大の危険は、曹操と荊州北部において、じかに境界を接していることだ。いつ火を噴くかわからない土地を保持するよりは、これを同盟者にゆだねて、緩衝地帯をつくるほうが賢明ではあるまいか。
という筋であった。
だが、孫権としても、有力豪族の連合体の盟主であるから、いったん手に入れた土地を、むざむざと他人に渡せば、権威を失墜することになる。
だから、劉備の湖南四郡と、東呉の手に入れた江北四郡を交換するという形をとり、しかも、劉備はそれを『借りる』ということにしておいたのである。
周瑜のいない京口でも、反劉備勢力はなかなか強く、なかでも呂範は|執拗《しつよう》に劉備抑留を主張していた。
孫権自身は、劉備夫妻に説得されたとは思っていない。あくまでも自分が天下の形勢を分析して、東夷集団のために最良と信じる策をとったのである。
──曹操おそるべし!
赤壁で勝ったとはいえ、孫権から曹操恐怖症は抜けなかったのである。★[#業+おおざと(邦の右側)]に放っていた密偵からの報告は挿絵つきであった。
──銅雀台、ほとんど完成す。高きこと、雲中に入るが如し。……
絵のそばにはそう記されていた。
おそるべき資力である。それを軍備にそそげば、おびただしい兵を養うに足るだろう。おそらく銅雀台は、軍備などを整えた余剰の資力をもって築いたのにちがいない。そう思うと、孫権は身ぶるいがするのだった。
劉備は荊州の江北部を手に入れる交渉に成功し、意気揚々と公安へひきあげた。
(うむ。この縁組みはよかったわい)
帰りの車のなかで、彼はたえず妻を抱いていた。
江陵の周瑜は、ついに病気をおして、京口へ行くことにきめた。
(寝てなどおられるものか。……)
彼は思い詰めていた。
──劉備をたおして、蜀を取る!
高熱のときも、うわごとでそう言っていたのである。蜀を取って、はじめて覇王として、この乱世に東呉は生きて行ける。──これが彼の信念であった。
京口に出て、周瑜は孫権に説いた。
孫権は心をうごかされた。これもまた説得されたのではない。病気をおかして、自分の信ずるところを説きにきた、周瑜の気概にうごかされたのである。
(相手は病人だ。……)
孫権はここで、すげなく周瑜の主張を拒んではならないと思った。
「わしも西征の意を決しておる」と、孫権は言った。──「だからこそ、蜀を取るあいだ、劉備に曹操の番をさせようとしたのだ。西征がさきなのだ」
東呉にふくらみをもたせる西征こそ、周瑜が夢にみた大事業であった。曹操が銅雀台を築いて余力をみせているいま、孫権はとても西征に踏み切ることはできないと思っている。だが、病人の気をやすめさせねばならない。孫権は大きくうなずいて、西征のことをうけ合った。
「ありがとうございます。西征が先であれば、劉備めはあとで片づけましょう。……して、西征の段取りは?」
と、周瑜はあえぎながら言った。どうやら病気はかなり重いようであった。
「それはゆっくり考えることにする」孫権はそう言ったが、病人が疑うのをおそれて、つけ加えた。──「奮威を派遣することまでは決めているが」
奮威将軍とは、孫権のいとこで、丹陽の太守となっている孫瑜のことである。彼を西征の司令官に考えているというのは、むろん、口からの出まかせにすぎない。
「奮威さまなら、総大将として申し分ございません」
周瑜は満足したように、なんどもうなずいたが、そのうちに|咳《せき》込んでしまった。
この旅行は、周瑜のからだには無理であったのだ。京口から江陵へ帰る途中、彼はしだいに衰弱し、ついに巴丘というところで死んだのである。巴丘は湘水の右岸というから、二年まえに彼が指揮をとって、かがやかしい勝利をおさめた戦場──赤壁からそれほど遠くないところである。享年三十五にすぎなかった。
死の直前に、周瑜は気力をふりしぼって、孫権への最後の手紙をかいた。──
──魯粛は忠烈、事に臨んで慎重です。なにとぞ私の後任になさいますように。……
意見が対立し、あれほど激論を交わした相手である。劉備についての対策のごときは、真正面から激突した。その相手を自分の後任に推薦したのである。はげしい議論をたたかわせているあいだに、おたがいに東呉のことをおもう熱誠から出ているということを、理解し合ったのに違いない。自分の亡きあとは、意見を異にしても、東呉をおもう心あつく、慎重な魯粛でなければおさまらぬと思ったのであろう。
おそらく死ぬ前に、周瑜は西征のことも、劉備消滅のことも、一切、あきらめたのにちがいない。それは彼が健全で、曹操をうまくあやつってこそ成功する可能性があったのだ。彼が死ねば、それはやめたほうがよい。やはり魯粛の路線で行くべきだ。──
周瑜の死が、劉備の地位をかためることになったのはいうまでもない。
西征のことは、孫権ではなく、劉備と孔明の仕事となったのである。
作者|曰《いわ》く。──
『魏志』には、合肥城の包囲戦のあとに、赤壁の戦いがあったように書いている。おなじ三国志でも『呉志』のほうは、赤壁戦のあとに合肥戦があったとする。
諸書を参照して編まれた『|資治通鑑《しじつがん》』は、赤壁戦を建安十三年十月、孫権が合肥を囲んだのがその十二月、曹操が合肥に援兵を送ったのが翌年の三月としている。
[#改ページ]
|戦雲《せんうん》は|西《にし》へ|飛《と》ぶ
曹操は銅雀台の最上層に立った。
天を摩すといわれるほど高く、そこに立てば、ずいぶん遠くまで見える。
(ほう。……白と黒になるのだな。……)
彼はうなずいた。
琴の音がきこえている。絶妙無比と|謳《うた》われる名手の弾く琴である。曹操がうなずいたので、人びとは彼が妙なる琴のしらべに、感動したのであろうと思った。
彼はたしかに感動していたが、それは琴のしらべにたいしてではない。銅雀台上から見下ろす景観に心をうたれたのである。
川のおもては白く光っている。そして、木々の緑は、遠くへ行けばその本来の緑の色を失って、くろずんでいるのだ。
このあたりの河の水は黄色い。だが、遠望すればそれは白く見える。どんな色も、遠ざかれば、白と黒になってしまうらしい。近くで見るのと、遠くから見るのとでは、大きな違いがある。
(おれは目の前を見るのはもうやめた。遠くを見ることにしよう。赤や黄や緑、色とりどりのさまにまどわされず、すべてを白と黒とのあいだに見るのだ。……)
|遙《はる》か彼方に目をやって、彼はそう思った。
いつのまにか琴のしらべはやんでいた。はじめから聴いていなかったので、それがいつやんだのかわからなかった。
人間の声がきこえた。──
「申し上げます。東呉の大都督周瑜が死亡したとのしらせがございました」
「ほう、周瑜が。……劉備のやつめ、運がむいてきたようじゃな。……」
曹操は誰にむかってともなく言った。
琴は部屋のなかで|奏《かな》でられていたが、曹操は外に出て、欄干のそばに胡床を|据《す》え、それに坐っていた。
──琴を聴きながら景色を見よう。
彼はそう言ったが、じっさいには琴などを聴かずに、遠くを眺めていたのである。それも景色をめでていたのではない。天下のことを考えていたのだ。景色は一つのヒントにすぎなかった。
(またやり直しか。……)
いままで考えていたのは、東呉に周瑜が健在であるという条件のうえに、組みあげた構想である。反劉備派の|急先鋒《きゆうせんぽう》である周瑜が死んだとあれば、孫権の妹を妻とした劉備が安泰となろう。
その安泰の度合が問題なのだ。磐石不動の安泰はありえないけれど、劉備にとっては、かなりの余裕をもった安泰が期待できる形勢となった。
曹操としては、孫権と劉備との関係が不安定であればあるほど、都合がよいのである。
だが、曹操の期待どおりに、事がはこぶわけではない。周瑜死亡のしらせは、曹操にとっては凶報に近い。
「魯粛が大都督のあとを継ぐとのことでございます」
と、急使はつけ加えた。
「やり直しだ。……」
曹操は声に出して言った。
「なんと申されましたか?」
急使が首をかしげて|訊《き》いた。
「なんでもない。……みんな退がってよい。わしは一人で琴を聴く」
と、曹操は命じた。
その場にいた家臣たちは、みな急いで退出した。残ったのは、琴を弾く女ただ一人であった。
女と二人きりになって、曹操は、
「妙なるしらべであったぞ」
と声をかけた。
「ありがたきしあわせでございます。……お聴きになっておられないのかと、案じておりました」
と、女は言った。
「なに?」曹操は胡床から立ちあがり、じっと女を見下ろした。女は平伏している。──
「わしが聴いていなかったことが、そちにわかったのか?」
「はい。反応がございませんでした。丞相をお慰めするために、琴をかき鳴らしたのでございますのに」
「そうか、さすがは名手。……亡父に劣らぬ琴の神仙であるぞ」
「おそれいります」
女はやっと顔をあげた。
亡き|蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]《さいよう》の娘、|蔡文姫《さいぶんき》である。
興平二年(一九五)、献帝東帰のさいの乱で、|匈奴《きようど》にさらわれ、オフラの子の左賢王豹の側室として、ながく匈奴の地にとどまっていた女性である。曹操は彼女の父である蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]と親交があったので、身代金を出して、匈奴から買い戻したのだ。
蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]は当代随一の琴の名手として知られていたが、その技は娘の文姫に伝えられている。
「神仙の琴を聴いておらなんだとは、礼を失することであったのう」
曹操はいたわりの声をかけた。
「いいえ、亡き父がよく申しておりました。聴く者に音を忘れさせるのが、琴の技の極致である、と」
蔡文姫はそう言って再び平伏した。
「わしはほかのことを考えておったのじゃ」
「考えの助けになれば、琴も幸いでございます」
「ところが、考え直さねばならぬ事態になったのじゃ。……もういちど弾いて、わしの考えごとを助けてもらおう」
「かしこまりました」文姫は居ずまいを正して、「妙なる琴の音と、すがすがしい友の言葉とは、ともにひとに良い考えを浮かばせると申します」
「すこしまて」
曹操は右手を前に出して言った。
妙なる琴の音は、名手の蔡文姫が弾いてくれる。
だが、すがすがしい友の言葉は、誰からきけばよいのだろうか?
彼はしばらく考えてから、そばにあった鈴をとりあげて鳴らした。それは従者を呼ぶためのものである。
従者があらわれて|跪《ひざまず》いた。
「五斗米道の教母をここへ呼べ」
曹操はそう命じた。
『|琴《きん》』は『|禁《きん》』なりという。|淫邪《いんじや》を禁じて、人の心を正すという由来が、古書にしるされている。どうやら、これは語呂合わせのこじつけかもしれない。
しかし、琴の音は、古来、清いものとされていた。七絃二孔である。七絃は北斗七星にのっとったというし、二孔は竜池、鳳沼という、めでたい名がつけられている。
清らかに琴が鳴っている。
曹操は欄干のそばの胡床に腰をおろしていた。胡床はその字のとおり、|胡《えびす》のものである。それまで正坐していた漢民族が、胡床、すなわち、背に|倚《よ》りかかりのある椅子を、好んで用いるようになったのは、後漢から三国にかけてからだという。
献帝の父の霊帝が胡床を好んだことは、史書にも記録されている。
曹操が胡床を好んだのは、彼の背が低かったこともあるだろう。自分が胡床に腰かけ、ほかの連中を正坐させたなら、彼だけが大きく見えるのだから。
五斗米道の教母少容は、部屋の隅に正坐していた。戸は開け放たれていたし、欄干をもった回廊はそれほどひろくないので、二人のあいだはかなり近い。
曹操は少容を見下ろしている。小さく見えるけれども、威圧によって|潰《つぶ》れそうもない。彼女のなかに、したたかなものがあるのだ。
かつて彼女は曹操にむかって、
──将軍は天下をお取りになりなさい。わたくしは天下の人の心を取ってごらんにいれます。
と言った。
すがすがしい挑戦であった。すがすがしい友の言葉、と文姫が言ったとき、曹操は少容を連想しないわけにはいかなかった。
「教母はなにゆえ、漢中にいる我が子のもとに戻られぬのか?」
と、曹操は訊いた。
「久しく別れているうちに、漢中の者たちと考え方が異なって参りました」
「どのように異なって参ったのか?」
「わたくしは、丞相にも申し上げましたように、人の心のなかに、道の教えをひろげようと、|一途《いちず》に考えております。漢中の者たちは、なまじ漢中という土地を持っているために、その土地を守り、それをおしひろげることで、教えをひろげようと思うにいたったのでございます」
と、少容は答えた。
少容の息子の張魯、|字《あざな》は|公祺《こうき》は、漢中に割拠して、すでに二十五年になる。|愛弟子《まなでし》の陳潜を連れて、少容は旅に出たが、彼女はそれ以来、五斗米道の総本山である漢中に足を踏みいれたことはない。
道の教えを、心のなかにひろげるのだという少容の信念が、土地を所有した彼女の息子たちの考えと、しだいに離れたのである。放浪の思想家と、割拠している『領主』とでは、考え方が異なってとうぜんであろう。
「ほう、教母もかなしい人じゃな。……」
と、曹操は言った。
そのとき、蔡文姫は『|別鶴操《べつかくそう》』という曲を奏でて、低い声でうたっていた。
琴曲には、|暢《ちよう》・|操《そう》・|引《いん》・|弄《ろう》の四種の曲がある。そのうち、『操』は憂愁のしらべである。琴にあわせてうたう歌辞にも、操は十二あり、『別鶴操』は子が生まれないために離縁される女の哀しみをうたったものなのだ。曲も歌辞も、切々として心をかなしませる。──
少容はゆっくりと首を横に振って、
「わたくしは、かなしくはございません」
「そうかな? じつのわが子と別れて二十五年。……離縁される女よりは、深いかなしみをもつはずじゃが?」
「世の母親は、わが子の心のなかにしか生きられないものです。わたくしは、おおぜいの人の心のなかに生きています。なにがかなしいものですか」
「それは気丈な。……」
そう言って、曹操はしばらく考え込んでいたが、やがて背をのばして口をひらいた。──
「張魯を討ってもよいか?」
「はい」と、少容は大きくうなずいた。「どうか、思いのままに」
「張魯は死ぬかもしれぬぞ。戦いとなれば、手加減はできぬ。教母の息子といえども、容赦できぬが。……」
「久しく会いませぬが、我が子の魯は、それほどのうつけ者ではないはずです。……ともあれ、なるべく早く声をおかけになってくださいませ。きっと気づいて、目をさますでございましょう」
「教母、そなたは……」
わしの心を読んだか? と、訊こうとしたが、曹操の言葉の終わらぬうちに、少容は白髪をいただいた美しい顔に、さわやかな|笑《え》みをうかべて、深くうなずいた。
「大きな波が立つことでしょう。丞相ならうまくその波に、お乗りになることができるはずです」
と、少容は言った。
「大きな波か。……」
そう言って、曹操は苦笑した。
赤壁の戦い以後の、いささか|膠着《こうちやく》した局面を、曹操は思いきってかきまぜようとしたのである。それを少容は読んで、
──大きな波が立つ。……
と形容したのである。
いま天下は、曹操、劉備、孫権にほぼ三分されている。曹操としては、劉備と孫権とが相争うほうが都合がよいのにきまっているのだ。では、劉備と孫権とのあいだに、紛争の火種はあるのだろうか?
ある。それは『|蜀《しよく》』の問題にほかならない。
|荊州《けいしゆう》のあるじとなった劉備が、さらに飛躍を望むためには、益州、すなわち『蜀』の地(現在の四川省)を手に入れたいところである。劉備がその機をうかがっていることは、曹操にもよくわかった。かりに彼が劉備の立場にあれば、きっと蜀を望むであろう。
ところが、東呉の孫権陣営でも、亡き周瑜の遠謀として、『征蜀論』を唱える者が、まだいたのである。ただ現実の問題として、蜀を攻めるには、劉備の領している荊州を通らねばならない。劉備が黙って孫権の兵が通るのを見すごすはずはなかった。だからこそ、周瑜は荊州の北部を劉備に与えることに反対し、みずから江陵にがんばったのである。
孫権軍は蜀へ進めないが、かといって、劉備軍が蜀へむかうのを、指をくわえて見ていないであろう。すくなくとも、その背後を襲うはずである。
蜀のあるじは、父の|劉焉《りゆうえん》から益州の牧の職をうけついだ|劉璋《りゆうしよう》だが、優柔不断で、しかも無能であった。家臣のなかにも、あるじを見限って、ひそかに他の諸豪傑に接近している者もいた。
漢中(現在の|陝西《せんせい》省漢中県)は、中原から蜀へはいる入口にあたる。いまそこは、五斗米道という宗教団体から出発した、張魯の政権が割拠している。それが弱体政権であるからこそ、蜀の無能領主も安泰でありえているのだ。
かりに漢中が、曹操のような、強力な勢力に占領されたとすれば、蜀はたちまち危機に|瀕《ひん》するのである。そうすれば、誰かに救いをもとめざるをえない。
──劉備玄徳に応援を頼もう。
という声が、かならず劉璋の家臣のなかの、親劉備分子からあがるのにちがいない。
──好機!
とばかり、劉備はうごく。
──なにを!
と、孫権軍もうごくだろう。
小康状態にあった天下の大勢に、大きな波が立つではないか。
「おや、聞き慣れぬしらべではないか」
少容とのやりとりが一段落して、曹操の耳に、再び琴のしらべがはいった。それは、もはや『別鶴操』ではなかった。操でもなければ暢でもない。音楽好きの曹操は、たいていの曲は耳にしている。
「おそれいります」
蔡文姫は絃から指をはなして頭をさげた。
「中国のしらべではないのう?」
曹操はたしかな耳をもっていた。どこか異質の響きが、そのなかにひそんでいるのを、耳ざとくききわけたのである。
「さすがは丞相閣下。……」
面をあげて、蔡文姫は答えた。
「匈奴じゃな?」
「はい」
「匈奴にも琴はあるのか?」
「いいえ、角笛でございます」
「ほう、|胡笳《こか》と申すものだな?」
「はい、その胡笳のしらべを、わたくしが中国の曲にかえてみたのでございます」
「ながいあいだ苦労をしたのう、異域の空の下で。……」
「乱世に辛苦をなめたのは、わたくし一人ではございません」
「そうじゃな。……」曹操は唇のはしを、そっとかんでいた。──「乱世はいかん。はやくこの国を統一して、和平の世にしなければならぬのう。……」
「お願いでございます」
曹操を見上げる蔡文姫の目に、涙が光っていた。
「そのためにも戦わねばならぬのだ」
曹操は胡床から腰をあげ、また鈴をとりあげて鳴らした。
「三公九卿、将軍、|校尉《こうい》全員、明朝、丞相府に集まるように触れよ」
と、彼は従者に命じた。
いよいよ西征の軍をおこすことに決したのである。
建安十六年(二一一)三月のことであった。東呉の周瑜が死んだ翌年である。天下の形勢は、大いにうごきはじめる。
──漢中の張魯を討つ。
曹操は|拳《こぶし》を握り、それを頭上高くあげ、大声でそう宣言した。
このとき、経理官の高柔が、
──大兵が西へむかいますれば、|陝西《せんせい》の|韓遂《かんすい》や|馬超《ばちよう》たちが、自分たちが討たれるのではないかと疑って、おたがいに連絡し合うかもしれません。まず彼らを宣撫し、長安一帯を平らげたあと、漢中へ兵を進めるべきかと存じます。
と|諌《いさ》めた。
──ならぬ、張魯を討つ!
曹操は一言のもとに、その|諌言《かんげん》を退けた。
(さかしらなやつ!)
曹操は心のなかで、大きな舌打ちをした。
狙いは張魯ではない。張魯など討とうと思えば、いつでも討てる。あるいは、兵をむけるまでもなく、少容の鶴の一声で、張魯は投降するかもしれない。
だが、天下をかきまぜ、大きな波を立たせるためには、漢中の張魯を討つ、と宣言する必要があったのだ。
宣言しただけで、兵をうごかさないのではおかしい。兵はうごかす。そして、この機会に、陝西の小軍閥を討ち平らげようとしたのである。
長安から蘭州にかけて、小軍閥が割拠していたが、おもだったのは、後漢の功臣|馬援《ばえん》の子孫である馬超と韓遂の二人であった。そのほか、|侯選《こうせん》、|程銀《ていぎん》、|楊秋《ようしゆう》、|季堪《きたん》、|張横《ちようおう》、|梁興《りようこう》、|成宜《せいぎ》、|馬玩《ばがん》の八将がいた。世上では、それをあわせて『関中の十部』と称した。
曹操の本営で軍議がひらかれた。
「関中の十部が、われわれの通過を黙認しないかもしれませぬが?」
このたびの遠征軍の司令官に任命された、|司隷校尉《しれいこうい》の|鐘★[#搖の右側+系]《しようよう》が、そんな疑念を表明した。この軍議には、首脳の数人しか加わっていない。ここでは、曹操も本心を吐露することができた。
「じつは、その関中十部を討ち平らげるのが、このたびの出兵の本旨である」
曹操ははじめて本音を吐いた。
「関中十部は、それぞれ各部としては、たいしたことはありません。馬超、韓遂が、やや強いというにすぎないのです。ただし、弱小の十部が、兵をあわせて一軍としたならば、侮り難い勢力になります。我が軍の西進は、ばらばらであった彼らを、一軍に結集させるおそれがあるでしょう。ここは謀略を用いて、彼らの結集を妨げ、各個撃破で砕くのが上策かと存じます」
と、鐘★[#搖の右側+系]は進言した。
曹操はにやりと笑って、
「大軍を西にむけるのは、彼らを結集させるのが狙いである」
「それはまた……」
遠征軍司令官は、あっけにとられた。
「弱い敵といっても、あちこちに散っておっては、それをいちいち潰すのに、よけいな力をつかわねばならない。軍はそんなとき、意外に疲労するものだ。それよりも、彼らをかためておき、一撃、これを葬り去るほうが、作戦としては上策である」
曹操はそう説明した。
彼はそのころ、孫子の兵法を熟読玩味し、その註解を作っていたのである。散在する敵を、一軍ずつ追いまわすよりは、まとめて撃破するほうが世話はない。陝西の地図を寝所の壁に貼りつけ、朝から晩まで作戦を練った結果、彼は方針をそうきめたのである。
「さようでございますか。……」
別路から兵を率いて行くことになった、征西護軍の|夏侯淵《かこうえん》も、なにやら、わかったようなわからないような、吹っ切れない表情で、ちょっと首をかしげた。
「そのようなことは、太古からきまったことではないか」
曹操は|叱《しか》りつけるように言った。
作戦の方針が、いったん決まったならば、それが最上の策であることを、指揮官みずからが信じ込まねばならない。それではじめて、遅疑することなく、作戦を遂行できるのだ。
じつは曹操自身、一挙撃滅と各個撃破をくらべて、六対四ていどの、際どい判定をしたのである。彼のところでは、際どい差であっても、野戦の将軍には百パーセントの信念をもって戦ってもらわねばならない。
曹操が大軍を動員して西進させたというしらせに、はたして関中十部の諸軍閥は震撼し、そして団結にむかったのである。こうなれば、実力どおり、馬超と韓遂の二人をリーダーに仰ぐことになった。
もし関中の実力者がただ一人であったとすれば、曹操は一挙撃滅をとらずに、各個撃破をえらんだかもしれない。
両雄ならび立たずという。一時は団結しても、やがて両雄のあいだに、|隙《すき》が生じるであろう。そこに乗ずべき機会があるはずだ。曹操はそれをたのしみにしたのだった。
関中十部の諸将は、十万の兵を繰り出して、|潼関《どうかん》に陣を|布《し》き、曹操の西征軍を防ごうとしたのである。
潼関は現在の山西・陝西・河南の三省の省境にあり、陝西省に所属している。南から流れてくる黄河が、ここでほとんど直角に東へ折れる。南流の黄河は舟も使えないほど流れが急である。そこに関所の山があり、流れはそれにドンとつきあたるかのようだった。
──(黄)河は関内に|在《あ》って南流し、関山に|潼激《どうげき》す。|因《よつ》て|之《これ》を潼関と|謂《い》う。
と、『水経註』に記されている。潼という字は、ドンという擬声音のようである。
関を設けるほどだから、要害の地であるのはいうまでもない。日中戦争でも、山西を南下した日本軍は黄河北岸の風陵渡まで進み、中国軍はその対岸の潼関でこれと|対峙《たいじ》した。この潼関はつねに、関中守備のカナメであったのだ。
のちの唐代の安禄山の乱のときも、潼関が破れると、皇帝は亡命の準備をした。関中を攻める者は、かならず潼関を抜かねばならない。
関中十部の将兵は、この潼関に拠って堅守したのである。
七月には、曹操みずから出陣した。|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》には長男の|曹丕《そうひ》をのこして守らせた。
「関西の兵は精鋭で、とくに長槍を持たせては無敵です。用心しなければなりませんぞ」
と、進言する者が多かった。
曹操は大声で笑って、
「戦うのはこちらで、敵ではないのだ。長槍がそんなにうまいのなら、それが使えないようにしてみせるまでのことよ」
と言った。
このたびの遠征は、曹操の従弟の曹仁が、安西将軍として、諸将を指揮することになっていた。しかし、作戦はほとんど曹操が一人で計画したのである。
曹操みずから大軍を率いて潼関にむかったときいた関中十部軍は、兵力をほとんど潼関に投入した。
曹軍の西征コースについては、黄河の東、すなわち河東から渡河して、黄河の西へ出る道と、河南から西へ直進する道とがある。河東からの進出に備えるには、黄河の西岸を厳重に警備しなければならない。河南からの進攻には、天然の要害潼関がある。
曹操が河南コースをえらんだと知るや、関中十部軍は、黄河西岸警備を放棄して、将兵を潼関に集めた。
じつは曹操は|徐晃《じよこう》と|朱霊《しゆれい》の二将に、ひそかに河東へ進ませていたのである。歩騎約四千であった。それ以上の兵を河東へ入れると、やはり目立ってしまうおそれがあるのだ。
潼関は北から南流する黄河をうけとめるほか、西から東流してくる|渭水《いすい》をもうけている。渭水は潼関の北で黄河に合流する。
曹操は潼関のあたりで、渭水を渡って北へ出ることにした。ちょうどそのころ、河東へ送り込んでいた徐・朱の両軍が、警戒の手薄な黄河を西へ渡り、河に沿って南下してくるはずなのだ。
渭水の北で渡河した曹操の主力を迎え撃つ関中十部軍は、その背後を、徐・朱両軍に襲われることになる。
だが、曹操の渭水渡河を、関中軍がそうやすやすと許すであろうか?
曹操には策があった。
潼関のうしろには、中国で聖山とみられる華山の山塊がつらなっている。そのあたりの地理にくわしい|丁斐《ていひ》という者に、大金を与えて、山中にひそませていたのだ。丁斐はその金で、牛や馬を買いつけた。
──牛馬を商う者。
というふれこみであった。
このとしは|閏年《うるうどし》で、八月が二回あった。二回目の八月、曹操軍は渭水を渡りはじめた。そうはさせじと、馬超の率いる歩兵、騎兵万余の軍勢が、渡河軍にむけて、雨のように矢をそそいだ。
曹操軍は援護部隊をおいて、渡河軍を妨げる関中軍に矢を射かけた。
だが、この援護部隊も、やがてつぎつぎと友軍のあとを追って河を渡らねばならない。あとのほうになると、援護兵の数がしだいに減ってくる。
そのときである。──背後の山中にひそんでいた丁斐が、買い集めておいた牛馬の群れを、どっと河岸にむけて放ったのだ。
関中軍の兵は、曹操西征のしらせをきいて、大急ぎでかき集めた、あまり質のよくないのが多い。|僅《わず》かの給金で雇われたのだが、目のまえに、所有者不明の牛馬の群れが降ってきたのである。
「おお、よく肥えた馬じゃぞ」
「強そうな牛!」
「持ち主はおらぬぞ!」
「拾った者が持ち主じゃい!」
「それ、行け!」
渡河軍に矢など射ているときではない。そんなことをしておれば、肥えた馬や強い牛が、みんな他人に取られてしまう。兵卒は弓矢を|抛《ほう》りすて、牛馬を追いまわしはじめた。
「こら、矢を射ぬか!」
「部署をはなれるな!」
「命令に従わぬ者は斬るぞ!」
将校や下士官が、いくら|喚《わめ》いてもむだであった。命令に従わぬ者のほうが多かったし、牛馬を手に入れた者は、もう部隊に帰る意思はなかったのである。
関中軍が欲ぼけで混乱しているあいだに、曹操軍は渭水を渡り、その北岸に早くも陣地を構築しはじめた。
御大将曹操が渡河するとき、親衛隊長の|許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]《きよちよ》が、馬の|鞍《くら》を|盾《たて》にして、曹操のからだをかばった。その馬の鞍と許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]の|鎧《よろい》には、まるで|す《ヽ》す《ヽ》き《ヽ》の原のように、びっしりと矢が立っていたほどだった。
河東にはいった徐・朱の両軍は、河にそって南下しつつあったので、関中軍もどうしようもなかった。
こうして、曹操は相手の虚をつき、みごとに成功したのである。
──|矍鑠《かくしやく》。
という言葉がある。老いてますます元気なことを形容する。後漢の始祖光武帝が、七十を越えて安南(ベトナム)討伐の司令官となった伏波将軍の|馬援《ばえん》にたいして、この言葉を用いたのが最初とされている。
矍鑠たる馬援の娘は、二代目皇帝の明帝の皇后となった。馬氏は皇室とも深い関係をもつにいたったのである。
馬超はその馬援の子孫であるから、名門中の名門であった。格式がたっとばれたこの時代にあっては、関中十部が集結すると、とうぜん馬超が総帥にえらばれるべきである。それなのに、もう一人、韓遂という実力者がいたので、双頭体制となった。
馬超は内心おもしろくない。
(おやじも、つまらぬ盟約を結んだものだ)
馬超の父の馬騰は、韓遂と義兄弟の誓いを立てたのである。父の義理の弟は、すなわち義理の叔父になるのだ。韓遂はなにかあると、馬超にたいして、叔父貴風を吹かせた。
そのじつ、韓遂と馬超は十歳ほどしか違わない。|董卓《とうたく》が死んだとし、ともに長安に乗り込んだことがあって、馬騰と韓遂は義兄弟となったのである。
馬騰はいま、隠居して、許都で悠々自適している。軍を息子の馬超に譲ったのだ。だが、韓遂はまだ現役であった。
双頭体制の関中十部軍は、ことごとに曹操に手玉にとられている。もともと寄せ集めの軍隊なので、対陣が長びけば、意見の違いが表面化するものである。
──早く手をうたねばならぬ。
この点では、馬超と韓遂の意見は一致した。
和睦である。
それを曹操側に申し入れた。
──首脳同士で話し合おう。
と、曹操も応じた。
トップ会談であるが、組織のかっちりしている曹軍のほうは、つねに曹操が代表だが、関中軍のほうは韓遂が出てきたり、馬超が出てきたりする。
曹操はこのような機会を待っていたのである。両巨頭の仲を割くには、この方式の首脳会談はまさにお|誂《あつら》えむきといわねばならない。経験ゆたかな曹操は、戦場だけではなく、交渉の場でも、相手を手玉に取ることができた。曹操にしてみれば、それはけっして難しいことではなかった。
約束の場所で、韓遂が関中を代表して曹操に会ったとき、どうしたわけか事前にそのことがもれて、野次馬がずいぶん集まってきた。
「どうしたわけじゃな?」
曹操は渋い顔で言った。だが、どうしたわけかは、彼が一ばんよく知っていた。野次馬は、彼がわざと集めさせたのである。
「どうやら、この者たち、|噂《うわさ》にきいた曹公の顔を、いちど見たいと思って、やってきたのでありましょうな」
と、韓遂は言った。
「ほう、わしのどこが面白いのかな?」曹操は野次馬の群れにむかって言った。──「目が四つあるかね? 口が二つあるとでもいうのかね? わしとて、おなじ人間さ。ただここがちと違うのじゃが、それは外からは見えやせんわ」
曹操は笑いながら自分の頭を指さした。
「これでは話ができん」
韓遂はいらいらしている。
「今日はべつに話もないが。……そうだ、二人だけで、馬をとばして、昔話でもしてはどうかな?」
と、曹操は誘った。
「よろしかろう」
と、韓遂は応じた。
韓遂の父親は、曹操とだいぶ年ははなれていたが、おなじ嘉平三年(一七四)に任官した、宮仕えの同期生なので、親交があったのである。同期生の息子の韓遂とも、洛陽でなんども同席したことがあり、まんざら知らない仲ではない。
昔話でも、これからの交渉を円滑にさせるためであれば、あながち無用のこととも言えないであろう。韓遂はそう思って応じたのである。
二人は群集からはなれ、馬をならべてギャロップで走った。河岸の砂原で、二人の馬の足もとに、小さな砂煙が仲よく立ちのぼる。
馬超は本陣の|櫓《やぐら》から、そのようすをじっと見ていた。距離があるので、むろんはっきりとは見えない。二人が談笑しているらしいのが、辛うじて見える。声はむろん届かない。ときどき曹操が白い歯をみせる。笑っているのだ。二人のようすは、いかにも親しげにみえた。
馬超の心に疑念が生まれた。
韓遂が曹操と面識のあることは、馬超も知らないではなかった。だが、どうやらそれはただの面識ではなく、予想以上に親密であるらしい。
(わしとあんたの間柄ではないか。馬超なんぞはほったらかして、わしら二人、仲好くなろうではないか。……)
曹操がそう誘いかけたなら、韓遂はどうするであろうか? きっぱりとはねつけるほど、韓遂は筋金がはいっているのだろうか?
疑心暗鬼を生む。馬超は韓遂を疑いの目で見るようになった。
またこういうこともあった。──
ある日、曹操は韓遂のところへ書面を届けた。その使者は、ものものしく武装兵に守られていたのである。
(おかしい)
と、馬超は思った。彼はあとで韓遂のところへ行って、
「曹操から書面が来たはずです。それをお見せいただきたい」
と、詰めよるように言った。
「ああ、あの書面か。貴公にもお見せしようと思っていたのじゃが、べつにたいした用件でもないので、ついでのときにと思ってな。……しばらく待たれい」
韓遂は奥にはいって、曹操の手紙を持って出てきた。馬超はそれをひろげたが、手紙のところどころが、墨でくろぐろと塗りつぶされている。読んでみると、どうやらそのへんが、かんじんな用件であるらしい。
「なぜ塗りつぶされたのか?」
と、馬超は詰問した。
「塗りつぶした?」韓遂はきょとんとしてから、「ああ、この手紙か……これは、はじめからこうなっていた。わしの手もとに届いたときには、すでに塗りつぶされていたのじゃ。曹操が書きまちがえたのだろう」
「こんなに書きまちがえては、清書しなおすはずではありませんか?」
「うん、わしもおかしいとは思っていたのじゃが……時間がなかったのであろう」
と、韓遂は答えた。
(なにをぬけぬけと。……)
馬超は心のなかで怒りを燃やした。
そういえば、このあいだも、韓遂と曹操はわざと余人をまじえず、二人きりで、馬上で話をかわしていたではないか。
あとで韓遂にきくと、
──今日はなんの話もなかった。洛陽での昔話ばかりでな。……
と、言い逃れた。昔話をするのに、なにもわざわざ二人きりになることはあるまい。このような言い逃れを、誰が信じるであろうか。──
こうして、双頭体制の関中十部軍は、両巨頭の仲が割れた状態になった。そんな軍隊が強いはずはない。
ころを見はからって、曹操はこれまでの交渉を打ち切り、戦闘を再開することにした。
|火蓋《ひぶた》は切っておとされた。勝敗は戦わずして、すでに決していたといってよい。関中軍の首脳は、味方同士で疑い合っている。はっきりした命令系統をもって、機敏にうごく曹操軍のまえには、関中軍はまったく無力であった。
関中軍は敵が来るまえに逃げる算段に忙しく、自慢の槍を使う場面さえなかったのである。
関中十部軍の領将のうち、成宜と李堪の二人は、この戦いで斬られてしまった。馬超と韓遂の両巨頭は、涼州(現在の甘粛省武威県)に逃れた。楊秋は安定に逃げた。安定は長安と蘭州のちょうど中間にあり、現在の甘粛省平涼県から寧夏回族自治区の固原県にかけての郡である。
曹操は長安にはいったあと、すぐに兵を北にむけて安定を撃った。
楊秋は投降した。
「それがしが、涼州のような遠いところへ逃げなかったのは、はじめから帰順する意思があったからでございます」
と、楊秋は言った。
「帰順する意思があるのに、なぜ逃げた?」
と、曹操は詰問した。
「つきあいでございます」
この返答に、曹操は大笑した。
楊秋は|赦《ゆる》されて、官爵はもとのままということになった。
安定討伐は、その年の十月であった。
十二月に、曹操は安定から長安に戻った。
曹操が本拠地の★[#業+おおざと(邦の右側)]に|凱旋《がいせん》したのは、翌年、建安十七年(二一二)の正月のことである。
彼は蔡文姫を銅雀台に呼び、
「それ、そなたが匈奴の胡笳の曲をとりいれた、あの曲を弾いてくれぬか。北地で戦って、あの曲がよくわかったぞ」
と命じた。
匈奴のしらべを、中原ふうに編曲し直した琴に、曹操はじっと耳を傾けた。音楽は発想を誘うものである。曹操は急いで、情報関係の人たちを呼び、蔡文姫の琴を伴奏に、彼らの報告をきいた。
自分が手をつっこみ、思いきりかきみだした水面に、どれほどの波が立ったか、曹操はいまそれをたしかめているのだった。
──曹操が張魯を討つ!
このしらせに、最も大きなショックを受けたのは、ほかならぬ蜀の地であった。蜀の益州は、張魯のような、宗教色の濃い小軍閥が漢中にいるために、これまでのうのうとできたのである。
その漢中を、曹操のごとき超大軍閥に占拠されたなら、蜀はもはや蛇ににらまれた蛙のようなものだった。蛙が蛇の腹のなかにはいってしまうのは、時間の問題となるであろう。
曹操に漢中を取られるくらいなら、ほかの豪傑にそれを進呈したほうがよい。現在、曹操は中国で最強の軍閥である。それよりもやや弱く、しかも張魯よりもやや強い、というのが理想的な漢中のあるじなのだ。
益州の牧の劉璋は、親から譲られた蜀の地を、うまく統治できるかどうか、きわめて危なっかしい人物であった。
乱世にあっては、人びとは自分の命を、すっかり|領袖《りようしゆう》に預けてしまう。頼りになる領袖ならよいが、無能なリーダーの下にあれば、自分たちの命が危ないのである。
このような状況にあれば、保身のためには謀反も許される。謀反しなければ、死んでしまう。生きるためには、頼りない領袖を、すこしでも頼り|甲斐《がい》のある人物にとりかえねばならない。まさしく、
──造反有理。(謀反には理由がある)
である。
無能な劉璋の家臣団のなかには、早くから、
──あるじをとりかえよう。
といううごきがあった。
人びとの命につながっている問題なので、このうごきは、意外におおぜいの人の共鳴を得ていたのである。
──では、誰をあるじにするのか?
という問題が残っていた。
──荊州の劉備がよかろう。
とする、いわゆる親劉備派の勢力が、蜀では赤壁戦前後から、強まりはじめていた。その中心になっていた人物が、益州|別駕《べつが》の張松であり、そして軍議校尉の法正であった。
中原から遠いということで、益州は戦乱を免れているが、それだけに益州の目は中原の形勢にそそがれている。小勢力乱立時代なら、益州も安心しておれたが、中原の勢力争いが整理され、少数の強力軍閥が|覇《は》を争うようになっては、うかうかしておれない。彼らの怒りを買って、益州出兵といった事態にならないように、適当にご機嫌をとり結んでおく必要があった。
赤壁戦の直前にも、曹操の大軍がうごいたという情報がはいると、益州はさっそく張松を派遣して、形勢をうかがわせた。名目は、
──陣中見舞い。
である。しかるべき手土産を持参したのはいうまでもない。
出陣にあたって、このような表敬訪問を受けたときは、使者に然るべき官爵を与えるのがしきたりである。
「益州の使者に、二千石級の爵を与えてはいかがでしょうか?」
と、秘書の楊修が進言したとき、曹操は、
「官爵の安売りはやめよう。値うちがさがってくるわ」
と、首を横に振った。
(なんだ、こんな男。……)
曹操は張松を引見したとき、そう思ったのである。自分も背が低いくせに、曹操はチビでスガメという、|風采《ふうさい》のあがらぬ張松をばかにした。張松を引見したのは、曹操が|襄陽《じようよう》を陥し、劉★[#王+宗]の降伏をうけいれたあとだった。心が|驕《おご》っていたこともあるが、故劉表の部下をおおぜい抱え込み、帰順した人たちに、官爵を授けねばならぬときであった。とても陣中見舞いの使者にまで、構っておれなかったのである。
張松は自尊心を傷つけられた。先年、彼の兄の|張粛《ちようしゆく》が使者として行ったときは、広漢太守の官をもらった。
──風采はあがらぬが、才能にかけては、張松はその兄よりも上。
というのが蜀での評判であった。それなのに、兄は太守のポストを与えられ、張松はけんもほろろな処遇をうけた。
(曹操、曹操というが、なんだあのチビ、たいした人物ではない)
張松のほうでも、曹操をチビ呼ばわりした。
彼は蜀に帰ると、
「曹操はだめです。彼と結んでいては、この益州も危ういというほかはありません。関係を断つべきでしょう」
と報告したのである。劉璋は、
「では、誰と結ぶのか?」
と訊いた。
「劉備のほうがましでございましょう。おなじく漢の皇室につながる|え《ヽ》に《ヽ》し《ヽ》もあります。人物も曹操よりすぐれているとみました」
「ほう、劉備玄徳。……」
劉璋は、意外そうにその名を口にした。
だが、やがて赤壁における、曹操の敗報が伝えられた。
──やはり張松はよく見ておる。
劉璋は、はじめ意外に思っただけに、赤壁戦の結果を知ったあとは、張松の言葉にまちがいはないと信じるようになった。
──荊州のあるじ劉備と結べばよい。
劉璋はそう思い込んだ。
同盟を結ぶにしても、相手が強大すぎると、|併呑《へいどん》されはしまいかと、不安をおぼえるものである。半ば孫権のお情けで、やっと荊州を手にいれた劉備は、たしかに同盟者としては安心感がもてた。
そんなところへ、曹操が漢中の張魯を討つために、西征の軍をおこしたというしらせがはいった。漢中は蜀の|喉《のど》にあたる。ここを強い勢力におさえられては、益州は危ういのである。
「どうすればよかろうか?」
無能な劉璋は、おろおろするばかりであった。
「まえにも申し上げたではありませんか。いまこそ、劉備どのの力をお借りするのです。劉備どのに漢中を攻めてもらいます。曹操に奪われないまえに」
と、張松は進言した。
「そうか。……で、荊州へは誰を使いにやるべきか?」
劉璋は、なにからなにまで、他人の意見に頼るような人物であった。
「法正がよろしかろうと存じます」
と、張松は答えた。
姓は法、名は正、|字《あざな》は孝直、|右扶風《うふふう》(陝西)の人である。建安初年の|飢饉《ききん》のとき、蜀へ避難した。のちの唐代でも、長安一帯に飢饉がおこれば、詩人の杜甫がそうであったように、食糧事情の良好な蜀へ、人々は移住したものである。
法正は有能な人物であったが、いかんせん上に立つ劉璋に人をみる目がなく、蜀に移住したあとも不遇であった。人をみる目をもつ張松が、ひそかに目をつけて、自分の腹心としたのである。
「ああ、あの法正か。……」
劉璋はかすかにその名を記憶していた。この場合でも、彼にとっては法正は意外な名であった。だが、これまで張松の進言に従って、まちがったことはない。
「よかろう。法正を使者に立てよう」
劉璋はあっさりきめてしまった。
張松はそのあとで、ひそかに法正と会い、
「辞退するのですぞ。再三辞退したあと、仕方なしにひきうけたことにしなければなりませんぞ」
と策を授けた。
それは親劉備派とみられないためである。すぐに使者の話にとびつけば、
──待っていたとばかりひきうけた。あの男は親劉備派ではあるまいか?
と、疑われるおそれがあった。
法正は教えられたとおり、なんども辞退した。だが、劉璋は張松の進言以外の道を知らないので、無理矢理おしつけた。
「あくまで辞退するのであれば、この蜀から立ち去れ」
とまで言われて、法正はやむをえずひきうけたという印象を、人びとに与えたのである。
法正は荊州へ出発する前に、長時間にわたって、張松と密談した。
彼らはなにを語り合ったのか?
自分たちの住む蜀のあるじを、より有能な人物にとりかえるための策略であった。
劉璋はなにも知らずに、自分を追いおとす謀略に、その推進役をつとめたのである。
法正は荊州へ行った。
この時代の長途の旅には、携行する荷物がきわめて多い。しかし蜀から荊州へは水路で行くので、荷物はそれほど負担にならない。法正もおびただしい荷物を船に積んだが、誰もそのことを怪しまなかった。
じつはその荷物のなかに、|厖大《ぼうだい》な蜀にかんする資料がはいっていたのである。
詳細な地図があった。水系図あり山系図あり、道路図もあった。住民、物産、交通用具などにいたるまで、蜀についてのあらゆる資料が、いくつかの箱のなかに詰めこまれていたのだった。
法正はそれを劉備の前に差し出して言った。──
「さぁ、ここに蜀があります。どうぞお取りください」
「取れと申しても、蜀にはあるじがいるではないか」
「益州の牧ですか。その劉璋は|懦弱《だじやく》な人物。あなたの英才をもって、それに当たるのでございます。しかも、益州をとりしきっている家老役の張松どのが、そのときにはかならず内応いたします。益州を取ることなど、まるで|掌 《たなごころ》をひるがえすほど容易なことではありませんか」
張松が見込んだだけあって、法正はたいした論客である。理路整然と説き、資料についても、ひとつひとつ、くわしく解説を加えた。
「そうか。……ま、そのことについては、よく考えておく」
劉備はそう言ったが、蜀の乗っ取りは、かねてから考えていたことである。その乗っ取りについて、張松一派と組むべきか否かだけが問題であった。
検討するのはそれだけである。
劉備はさっそく幕僚会議をひらいた。
──願ってもない機会であります。これぞ天の与えたもうた好機。見逃すことはなりません。
かねて天下三分論を唱えていた諸葛[#葛のヒは人]孔明も、|鳳雛《ほうすう》と呼ばれていた|★[#广+龍]統《ほうとう》も、そう言って賛成したのは言うまでもない。孔明の別号は臥竜である。竜も鳳も賛成したのであるから、いまはためらうべきではなかろう。
法正は力を貸してくれ、というていどのことを言いにきたのではない。おびただしい資料という具体的な物件を献じて、
──どうか乗っ取っていただきたい。
と言ってきたのである。むこうもよほど覚悟をきめて、内応の準備をしているのだ。
「蜀に兵を出すのはよろしいが、東呉のうごきに気をつけねばなりません。留守を攻められるおそれもありますので、かなりの兵力を残しておくべきでしょう」
と、★[#广+龍]統は言った。
「関羽、張飛の両将は、荊州にとどまっていただきましょう。この両将が参加していないとわかれば、益州の劉璋も安心するはずです。関・張の両将は劉備軍の力の象徴となっています」
と、孔明は述べた。
「劉備軍の力は関・張の両将で象徴されていますが、智謀は諸葛[#葛のヒは人]孔明で象徴されています。孔明どのが軍に加わっていても、益州は警戒するでしょう」
と、★[#广+龍]統は言った。
「私もとどまるつもりでいます」
さすがに孔明も、自分の口から自分の智力が相手に警戒されるとは言いにくかった。それを察して、★[#广+龍]統が発言し、孔明がうなずくという形になったのである。このあたりも、竜と鳳の呼吸はぴたりと合っていた。
東呉の孫権陣営では、周瑜亡きあと、征蜀論の火は衰えた。熱心な鼓吹者を失ったからである。とはいえ、その火が消えたわけではなかった。
──共に蜀へ兵を出そうではないか。
という共同出兵の誘いが、ときどき孫権から劉備陣営にかかった。劉備側は言を左右にして、それに応じなかった。
──兵を出すなら自力でやる。孫権と共同したならば、戦果は山分けとなる。蜀はぜんぶこちらでいただかねばならんのだ。
劉備はそう思ったのである。
留守を衝かれるおそれもあるが、いくら孫権でも、あまりはでに兵はうごかせない。手薄になったところへ、曹操が合肥あたりから兵を南下させることも考えられた。──劉備はそんな計算もしていた。
劉備は数万の兵を率いて、長江(揚子江)をさかのぼった。
「殿の外征中、わたくしは実家へ帰らせていただきます」
劉備が出発すると、夫人の呉氏はそう言いだした。彼女の兄の孫権からも、迎えの船隊が派遣されたのである。
──夫人は再び夫のもとに戻ってくることはあるまい。
彼女を見送る人たちは、みなそんな予感をもった。劉備は孫権の共同出兵の申し出を蹴って、単独に出兵したのである。孫権側が怒ったのはとうぜんであろう。
両者のあいだをつないでいた呉夫人が、実家に帰ってしまえば、もうきずなはなくなるわけだ。
孫権がすぐにも荊州を攻めないのは、曹操が虎視|眈々《たんたん》と長江の線をうかがっているためである。いますぐに決裂しなくても、いつかは両陣営が戦いをまじえるときがくるであろう。──
長江の流れにのって、故郷の東呉へむかう呉夫人の船隊が、しだいに遠ざかるのを見送っていた人たちは、そのような悲壮感に胸詰まるおもいになっていた。だが、彼らは背後におこった、猛将趙雲の叫び声に、現実へひき戻された。
「太子がおらぬぞ、太子が! どこにもおられぬぞ。あの女がさらって行ったのにちがいない。早馬をとばして|烏林《うりん》の営長に告げよ。あらんかぎりの船をもって、夫人の船隊を阻止せよ、と!」
「は、は、は、あの華容の道を早馬が走ったのか。さぞあわておったであろう。それにしても、孫権の妹、なかなかやるではないか」
荊州にひそませた諜者からの報告で、劉備の太子|失踪《しつそう》事件をきいて、曹操は銅雀台のなかで大笑した。
この時代、実力者の跡取り息子のことを、『太子』と呼んでいた。皇帝の後継者は皇太子である。劉備の息子は、先年亡くなった甘夫人の生んだ|劉禅《りゆうぜん》一人だけで、ことし五歳になったばかりだった。
孫権の妹は、実家へ帰るついでに、その子をさらったのだ。
趙雲も蜀へは行かずに、劉備の邸の留守を預かっていた。一人息子をさらわれたのは、彼の責任である。さっそく急使を立て、間道である華容の道を抜けて、留守艦隊の停泊している烏林へ急報させたという。
「あの華容の道か。……」
そうくり返したとき、曹操は笑いをおさめ、不機嫌そうな表情になった。その道こそ、赤壁で破れた曹操が、命からがら逃げたところではないか。──
(このままではおかぬぞ。……)
曹操はそう思いながら、諜者の伝えた報告の続きをきいていた。
長江|下《くだ》りでも、そのあたりは大きくカーヴをえがいていて、やはり華容の道を烏林へとばす早馬のほうが、船よりは数日早かったのである。烏林ではあわてて船を整え、数百|艘《そう》を江上にうかべて、呉夫人の船隊をさえぎった。船隊といっても里帰りの迎えなので、二十艘ほどにすぎない。
趙雲は早馬の急使のあとを追って、みずから烏林にやってきた。彼は先頭の船のへさきに立って、
──太子が発見されるまでは、ここをお通しすることはできませぬぞ。ただちに江陵へお戻りになるように!
と、|大音声《だいおんじよう》で告げたという。
|僅《わず》か二十艘であり、捜索をうけたなら、太子はどうせ発見されずにはすまない。江陵へ戻れば、呉夫人は殺されるかもしれないのである。
──その泣き虫小僧を返しておやり。一日じゅう泣いてばかりいて、こちらは睡れやしない!
呉夫人はそう言って唇をかんだ。
のちに劉備のあとをついだこの劉禅は、凡庸の君主といわれたが、五歳のときも呉夫人から泣き虫小僧と|罵《ののし》られるほど、頼りない子供だったのである。
呉夫人は劉禅を釈放して、烏林を通過することができた。──
「烏林か。……」
そのあたりの地名を口にするたびに、曹操の胸に、屈辱感がよみがえる。あの赤壁の対岸が烏林なのだ。
(まぁ、いいだろう。……)
曹操は思い直した。
三雄|鼎立《ていりつ》時代にはいった。あとの二雄──劉備と孫権のあいだに、紛争がおこれば、曹操の思う壺である。どうやら、そうなってきたようだ。それも、曹操みずからが、かきまぜてひきおこした波のせいである。
「ほう、波が高まったのう。……」
曹操は呟いた。
自分の仕掛けた波のことを言っているのではない。蔡文姫の弾く、匈奴のしらべを中原ふうに編曲した琴が、ひときわ高まったのである。
曹操は目をとじた。彼も詩人である。耳慣れぬしらべに、彼の詩情がかきたてられたのだった。彼は詩のことばを練っていた。
南方の形勢を報告する、情報担当者の声はまだ続いている。──
「孫権は|秣陵《まつりよう》に、大きな造営を進めております。おそらく、彼はこの地を、新しい根拠地にするのではないかと思われます。山と水、天然の要害といってよろしい地点です。……民家も続々と建ちまして、住民もようやく増えつつあると申します。……」
秣陵は丹陽郡に属し、戦国のころは楚の領域で、もとの名は金陵であった。秦の始皇帝が、それを秣陵と改名した。
孫権はここに根拠地をつくり、さらに『建業』と改名した。
──業を建てる。……
孫権も覇者たらんとする志を抱いていたのだった。
これ以後、南方に政権をたてた者は、たいていこの地を都とした。すなわち、現在の南京市である。
「孫権は人びとに、その地を建業と呼ばせているとのことでございます」
報告はそこで終わり、担当者は平伏した。
「建業か。……」
曹操は目をあけた。詩想は散ってしまっている。
(その名が気に入らぬわ)
彼はそう思った。
蔡文姫の手も、琴からはなれた。曲は終わったのである。──
作者|曰《いわ》く。──
蔡文姫が匈奴の胡笳のしらべを琴曲につくりかえたものは、『|胡笳十八拍《こかじゆうはちはく》』と呼ばれている。十二年のあいだ匈奴にとらわれた、乱離を|傷《いた》み、悲憤の情を述べて作ったといわれている。
一説には、漢へ帰った文姫を、匈奴の人たちが思慕し、哀怨の情を笛の音に託したのを、のちに琴曲にしたともいう。
宋の|沈遼《しんりよう》が大胡笳十八拍を集めたので、世にこれを『|沈家声《しんかせい》』と呼んでいる。周辺諸民族の文化が、漢民族の文化と交流した一つの例といえよう。
講談本の『三国志演義』には、馬騰がみやこで反曹操計画をたて、それが露見して殺され、息子の馬超がその|復讐《ふくしゆう》のために兵を挙げたことになっている。だが、事実は馬超の挙兵のあと、父の馬騰が連坐して、息子の敗戦の翌年五月に処刑されたのである。
講談では、なにがなんでも、曹操を悪玉に仕立てねば気がすまなかったようだ。
[#改ページ]
|時《とき》は|建安十八年《けんあんじゆうはちねん》
ちかごろ、昔をおもい返すことが多くなった。年をとったせいであろうか? 曹操はふとそう思うことがある。
さきほども、文学者の|王粲《おうさん》と文学論をたたかわせ、話がはみだしたついでに、
──むかし、わしは自分が死んだとき、その墓に『漢の将軍曹公の墓』という墓碑銘が彫りつけられることを望んだだけだ。丞相になろうなど、考えてもみなかった。将軍の称号をもらうのも高望みではあるまいかと思っておったよ。
と、回顧談を口にした。
王粲が帰ったあと、曹操は昔話をしたことを後悔した。五十八歳になったが、|老《ふ》けこむのはまだ早い。
将軍といっても、三公なみの大将軍や|驃騎《ひようき》将軍から九卿と同格の前将軍、後将軍、左将軍、右将軍などがある。そのほか、伏波将軍、破虜将軍などと、気ままに命名される雑号将軍もあった。雑号将軍には定員がない。そんなわけで、将軍という称号は手にいれやすかった。若き日の曹操は、たしかにそのていどの地位を望んでいた。
どうやら官職や位階については、年をとればとるほど、欲張ってくるものらしい。
いま丞相となっても、曹操はまだじゅうぶんに満足しているとはいえない。
(いや官位だけではない。……)
曹操は自分の欲の深さに驚いている。文学者としての名声も、彼はいまのままでは満足していない。もっとすぐれた詩文をつくりたいと思う。
「老けこんでたまるか。……」
と、彼はひとりごちた。
劉備は自分より六つ若く、孫権にいたっては二十七も若いのである。曹操はなによりも孫権の若さが|羨《うらやま》しくてならなかった。
その孫権を、いま攻めている。
孫権は建業(現在の南京市)に本営を置き、曹操軍の前線基地である合肥(現在の|安徽《あんき》省合肥市)とのあいだ、巣湖のほとりの|濡須《じゆす》に月の輪型の|砦《とりで》を築いていた。
曹操は合肥に二十万の兵を集め、これを四十万と号した。兵はけっしてすくなくない。それなのに、曹操の心は|寂寞《せきばく》としている。
(|荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]《じゆんいく》はいないのだな。……)
一人の人間が欠けると、こうもさびしいものなのか。
彼の最も信頼していた参謀の荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]は、去年の十月、寿春で死んでしまった。五十歳。けっして若くはないが、彼とて老けこむ年でもなかった。
参謀の死によって、彼の計画は狂ってしまったのである。いまや彼は位人臣をきわめ、玉座に手をのばせば届くところにいる。これからがたいへんなのだ。これまでの味方が、いつ敵にまわるかわからない。誰が敵であるか、はっきりと見きわめることが大切である。荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]はその鑑定をしようと言った。──
鑑定者が死んでしまったので、曹操は|呆然《ぼうぜん》としている。
去年の正月、曹操は献帝から特別の待遇をうけることになった。
──|贊拝不名《さんはいふめい》。|入朝不趨《にゆうちようふすう》。|剣履上殿《けんりじようでん》。
の特典である。
贊拝不名とは、天子が曹操のことを呼びすてにしないということである。「曹操よ」と呼ばずに、「|丞相《じようしよう》公」と敬称をつけるのだ。
入朝不趨とはなにか? 家臣たる者は、すべて天子の召使であり、いったん参内すれば、前へ進んだり、後へ退いたりするのは、小走りにしなければならない。大きな態度で、悠々と歩いてはならないのである。だが、曹操は天子のまえでも、小走りにうごかなくてもよいことになった。堂々と歩くことができるのだ。
剣履上殿。──家臣は昇殿するのに、剣をはずし、靴をぬがねばならない。曹操はとくに剣を|佩《お》び、靴をはいたまま殿中へ行くことが許されたのである。
これは漢の高祖劉邦が、建国の大功臣である|蕭何《しようか》に与えた特典であった。天子とほとんど対等という形になる。
後漢になってから、外戚の大将軍|梁冀《りようき》が、この特典を与えられたが、彼はその後まもなく没落し、自殺する羽目に追いこまれてしまった。
このように、天子の地位に近づくことは、その身を危険にさらすことをも意味する。敵か味方かを、判別しなければならない。その大切な仕事をひきうけてくれる荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]が死んでしまった。曹操は精神的にがっくりしていたのだった。
彼はいま王粲を使っている。王粲が曹操に呼ばれると、誰もが文学の話であろうと思いこむ。たしかに曹操は王粲と熱っぽく文学を論じるが、ただそれだけではなかった。誰にも怪しまれないところを利用して、王粲を機密の秘書として使っていたのである。王粲はたったいま、
──矢がそろいました。
と、報告に来たのである。濡須の孫権陣を衝くには、十月の戦い以来、矢をつかいすぎて、それに不足していた。至急取りよせることにしたが、それが数日おくれて、さきほど到着したばかりであった。
「撃つか。……」
またひとりごちて、曹操は立ちあがった。
時は建安十八年(二一三)正月のことであった。
四十万と号する曹操軍の歩兵と騎兵は、孫権の江西営を攻撃した。長江はそのあたりで、東北へ大きくカーヴをえがいている。右岸、すなわち南京方面を江東と称し、左岸、濡須方面を江西と呼ぶ。現在の江西省のことではない。
このころになると、曹操の水軍もかなり強力なものとなっていた。|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》で大きな人工池をつくって、そこでけんめいに水軍を訓練した。また合肥駐屯軍も、巣湖およびその水系の各地で、水戦の演習をおこなっていた。だが、孫権軍のように、純然たる水軍育ちの兵団ではない。
──できるなら陸上で打撃を与えよう。
赤壁の敗戦に懲りているので、曹操はなるべく水戦を避けようとした。彼はじっと濡須の|砦《とりで》に注目していた。
孫権の水軍といえども、いつも水上にうかんでいるわけではない。食料や飲料水の補給をしなければならないのである。そんなときのために、陸上にも孫権軍は基地をつくっている。そのなかで、最も大きいのが濡須の砦だったのである。
この砦は東呉の名将|呂蒙《りよもう》が建造したものである。孫権の幕僚たちは、陸上にあまり大きな基地をつくるのに乗り気ではなかった。
──われらは岸に上陸して敵を撃ち、足を洗って船に乗りこめばよいのだ。陸のうえに足場はいらない。とくにそんな大きな砦など無用の長物ぞ。
という反対の声が強かった。
──戦いには百戦百勝ということはありえない。敵軍に追撃され、肉薄されることもあろう。水が遠いときはどうすればよいのかね? 陸上にも大きな砦は必要なのだ。
呂蒙はそう反論した。
──呂蒙の言、もっともだ。
孫権は彼の意見に賛成し、濡須に砦をつくらせたのである。
大きな砦があれば、そこにはいってみたくなるのが人情であろう。とくに冬季は、船上の寒さはひとしおである。孫権水軍は、交替で上陸して濡須の営にはいっているようだった。曹操は相手の陸上営の人数がふえるのを待っていたのだ。
──ころはよし!
曹操は、東呉軍の都督である公孫陽が江西の陸上営にいて指揮をとっていることを確認すると、全軍に総攻撃を命じた。
陸戦である。曹操軍に自信と余裕があったのはいうまでもない。
「本陣を衝け!」
曹軍の大将曹洪は、馬上で声をかぎりにそう叫んだ。公孫陽の本陣は、あわてて都督旗をひきおろしたが、曹軍はすでにその方角に見当をつけている。この日、江西営を急襲した三万の曹軍鉄騎団は、本陣とおぼしい方向に攻撃の的をしぼった。
公孫陽は逃げようと思ったが、もはや遅かったのである。曹軍は末端の兵舎などには目もくれずに、都督のいる本陣にむかい、そこを十重、二十重に囲んでしまっていた。
「いまはこれまで!」
公孫陽は剣を抜いて、自分の胸を刺そうとした。だが、彼はその手首を、ぎゅっと|掴《つか》まれた。おそろしい力であった。|や《ヽ》っ《ヽ》と《ヽ》こ《ヽ》のようにしめられる。彼はふり仰いだ。
「なにやつ?」
公孫陽は|訊《き》いたが、じつはその人物が何者であるかわかっていた。まえに会ったことがある。変わっているのは、鼻下にひげをたくわえていることだけであった。──かつて河南から|淮水《わいすい》にかけて、侠客の|領袖《りようしゆう》として知られ、いまは曹操の親衛隊長をしている|許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]《きよちよ》である。
「訊くまでもなかろう」
と、許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]は言った。
「おぬし出世したのう」
「おぬしも」
「武士の情けだ、この手をはなしてくれ」
と、公孫陽は言った。
「はなすわけにはいかぬ」
許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]はそう言いながらも手をはなした。公孫陽は掴まれた手首のあまりの痛さに、剣をとりおとしていたのである。
「なぜはなした?」
こんどは公孫陽が詰問した。
「妹がおぬしに悪いことをした。……このままでは気がすまぬ。おぬしほどの器量人を、わがあるじ曹公が殺すわけはない。わしが命乞いをするから、降伏せよ」
「いやだ!」
「いやだといっても、もはや降伏のほかないではないか。……」
「そうか。……」
公孫陽はあたりを見まわした。戦いはすでに終わっていた。ところどころに死傷者がころがっていた。──だが、それは思ったほど多くはない。ほとんどが降伏してしまったのであろう。
「曹公に仕えよ」
「いやだ!」
公孫陽ははげしく首を横に振った。
「それ以外にないと申したろう」
「降伏はするが、曹公に仕える気はない」
「そんなことが許されるかな?」
「沙門になるといえば?」
「ほう。……|浮屠《ふと》か。……おぬしも……」
許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]は口をへの字にまげた。
じつは許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]の妹は、かつて公孫陽の許婚であったのだ。ところが、許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]の妹はとつぜん、浮屠の教えにとりつかれ、出家して浮屠の寺院にはいってしまったのである。
うちつづく戦乱に悩まされた人びとは、異国の信仰である仏教に、救いをもとめはじめていた。このころには、仏教信者の教もだいぶ多くなっていたのである。
「おもしろいのう。沙門とやらになって、この世と交渉をもたぬというのは。……うん、これは新しいしきたりになるかもしれぬぞ。降伏か死か……そのほかにも道があるとなれば……」
曹操は許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]から公孫陽の希望をきいて、強烈な興味をおぼえたようである。その新しいしきたりが、はたして天下統一と和平のために役立つかどうか、彼は|秤《はかり》をはかるように、その得失を検討した。
「よかろう。試してみよう」
曹操は大きくうなずいた。
前年の十月、曹操が大軍を南下させて、東呉を攻めようとしたとき、孫権は蜀にはいった劉備に急使を送った。孫権の妹は東呉に帰っているが、劉備とのあいだが、正式に離婚ときまったわけではない。孫権と劉備の同盟関係はまだ生きている。
──援兵を送られたし。
と、孫権が蜀の劉備に要求するのはとうぜんのことだったのである。
劉備は蜀でいったいなにをしていたのであろうか? おもてむきの彼の役目は、蜀のあるじ|劉璋《りゆうしよう》のために、漢中の張魯を撃つことであった。だが、劉備は五斗米道の張魯を撃とうとはしなかった。
劉備は|葭萌《かほう》というところに軍を駐屯させていた。それは現在の四川省広元県のあたりで、四川・|陝西《せんせい》・甘粛の三省の省境が寄り合っている場所である。その東北の七盤関を越えて陝西へはいると、漢中へ通じる道があった。漢中の張魯を攻める入口のところで、兵をとどめてうごこうとしない。
敵は本能寺である。
漢中の五斗米道を攻めて、その土地を奪っても、そこからの出口はない。漢中のさきは、曹操の勢力圏なのだ。劉備としては、諸葛[#葛のヒは人]孔明や関羽のいる荊州とつながらねばならない。それには漢中ではなく、蜀の中心、成都を乗っ取ることが必要であった。
いかにして成都を取るか?
劉備は謀将の|★[#广+龍]統《ほうとう》と、日夜、その策を練っていた。★[#广+龍]統は三つの策を考え出したのである。──
第一は、このまま間道づたいに、一気に成都を衝く。成都のあるじ劉璋は、戦争の経験もなく、また臨機応変の才能もないので、この策はあんがい成功するかもしれない。
第二の策は、この葭萌のすぐ西にある白水関の守将|楊懐《ようかい》と|高沛《こうはい》を|罠《わな》にかけて、その部下を奪って成都へむかうことである。
第三の策は、白帝までひき返し、荊州の残留軍と合流してから、成都へむかう。
「第一の策はよいが、間道をえらんで進むのが、白水関の連中に気づかれずにすむだろうか? 彼らはわれわれを警戒しているはずだが。……」
劉備は、第一の策にたいしては、きわめて懐疑的であった。
「楊懐と高沛は、われわれにたいして、かならずしも友好的ではありません。彼らは劉璋の忠実な家臣で、われわれを荊州へ追い返すように、さかんに劉璋を説いています。彼らの密書の写しも手に入れております」
★[#广+龍]統はそこまで調べていた。白水関の二人の守将は、成都の劉璋にむかって、
──劉備は有能な|梟雄《きようゆう》です。いまのうちに蜀から追放してしまわなければ、いつか彼は蜀のあるじとなることを考えるでしょう。なにか口実を設けて、荊州へ追い返しましょう。
と、しきりに|諌《いさ》めていた。
葭萌と白水関は目と鼻のさきである。どんな間道をえらんでも、劉備の軍勢がいなくなったことは、一日もすれば彼らにわかってしまうだろう。とすれば、彼らの目を盗むことが難しいのだから、彼らをペテンにかけるしかあるまい。
──どんな方法がよいだろうか?
あれこれと考えているところへ、孫権からの援兵依頼の手紙が届いた。
「ああ、いいところへ、いい手紙がやって参りましたぞ」
と、★[#广+龍]統は喜色をうかべた。
孫権が曹操に攻められ、蜀の劉備に援兵をもとめたことは、もう数日もすれば、蜀じゅうに知れ渡るであろう。白水関の連中もやがて知るにいたるはずだ。
──孫権から援兵の要請をうけたので、とりあえず荊州へ引き返します。荊州は関羽一人では守り切れないでしょう。張魯はたいしたこともなく、しばらくほっておいても、問題はありません。いまは一刻も早く荊州へとって返し、孫権軍のために曹操を|牽制《けんせい》するのが肝要と思います。……
そんな手紙を劉璋に出し、その写しを白水関へも送った。
白水関の両将はほっとした。目のまえに、油断のならない劉備軍がいるので、その監視のために片時も気をゆるめることができなかったのだ。あるじの劉璋にも意見書を出して、劉備を追い出すように工作してきたが、こんど、あちらのほうから出て行ってくれるのである。
曹・孫の戦いのことは、蜀にもつたわっている。だから、劉備が荊州へひき返すといっても、誰もそれを疑う者はいなかった。
──いまこそ成都を衝くべし!
と、★[#广+龍]統は劉備に説いた。
いま軍をうごかしても、誰も荊州への帰還であると信じるであろう。そのような人びとの「常識」を利用するのだ。──軍をうごかして荊州へ行くとみせかけて、成都へ攻めこむのである。
「孟徳(曹操のこと)は、われらの行動をたすけてくれたのう。……」
そう言って、劉備はくっくっと、|喉《のど》の奥で笑った。
「さようでございます。まことの神佑天助と申しましょうか。……」
★[#广+龍]統はさっそく、頃合いを見はからって、白水関の両将のところに、
──帰国いたしますから、なにとぞよろしく。……
といった文面の手紙を使者にもたせた。
楊懐と高沛は、にこにこ笑いながら、葭萌へ挨拶に出かけた。お別れの挨拶である。そんな用件だから、従卒もそんなにおおぜい連れていない。両将とも軽装のままであった。
「お名残り惜しいが、やむをえぬことでござる。一日も早くここへお戻りになるように」
腹のなかでは、二度と戻ってくるなと思いながらも、楊懐と高沛は、そんなお愛想を、かわるがわる口にした。
劉備は、とつぜん立ちあがり、二人に指をつきつけて言った。──
「白水関に謀反ありと、成都の劉璋どのから急使があった。白水関の両将をとらえて護送せよとのご命令だ。いざ、神妙にお縄をちょうだいせい!」
「な、なんと……」
両将は仰天した。まさかそんなことは、と思う。あるじ劉璋にかぎってそんなことはあるまい。……やがて、両名はこれが劉備側の|罠《わな》であったと気づく。
「うぬ、はかりおったな!」
縛られながら、二人は歯がみして叫んだ。
「いまごろ気づいたか。もうおそいわ」
と、劉備は心地よげに言った。
いよいよ念願の蜀地乗っ取りの第一歩を踏み出したのである。その皮切りが、すらすらとはこんだ。幸先がよさそうだ。──
「謀反人両名を斬ってすてよ!」
と、★[#广+龍]統は大声で命じた。
「うぬ、手長猿め! いまにみろ!」
「兎野郎め! その大耳を|噛《か》みちぎってくれようぞ!」
楊懐と高沛は、口ぐちに|罵《ののし》ったが、劉備も★[#广+龍]統もせせら笑っているだけであった。
劉備軍はすでに出発の準備を整えていた。
先頭の槍の穂先に、両将の首を刺して、白水関へむかう。
最高の指揮官を二人も失った白水関の守兵が、劉備軍と戦えるはずはない。そこの全員が投降した。
劉備軍は白水関の兵をあわせ、さらに進んで|★[#さんずい+倍の右側]城《ふじよう》を占領した。軍は成都へむかう。成都には内応者がいるはずだった。
劉備が頼みにしていた成都の内応者張松は、そのころすでに斬られていたのである。
チビでスガメの張松は、才能はあったが、劣等感のかたまりのような人物であった。その裏返しで、たまには背伸びをしてみせるという悪い癖をもっていた。
(みんなおれをばかにするが、おれがどんな力をもっているか、それを知れば驚くだろうな。……)
心のなかでそう思っているが、それをとじこめてしまうことができずに、ちょいちょい外にあらわすことがあった。
張松は子供のころから、いつも兄とくらべられた。兄の|張粛《ちようしゆく》は顔立ちも整った長身の偉丈夫である。まわりの人たちばかりか、生みの親でさえ、この兄弟を差別した。──すくなくとも張松はそうかんじた。
兄の張粛は人なつっこく、愛想もよかったが、弟の張松は見るからに貧相で、子供のころでも可愛気なところが乏しかった。人びとが兄のほうを取り巻いてしまうのはとうぜんであろう。ひとりぽっちにされた張松は、
──なんだ、学問のほうは、わしのほうが兄よりよくできるのに。
と、心中おだやかでない。その学問の教師でさえ、よくできる彼よりも、兄のほうをちやほやしていた。
(兄よりおれのほうが上だ!)
なんど心のなかでそう叫んだかわからない。
──威儀有り、その容貌|甚《はなは》だ偉なり。
といわれた兄の張粛は広漢太守として、劉璋陣営の重鎮的存在であった。弟の張松はその才能にもかかわらず、まだ益州|別駕《べつが》にすぎない。別駕は刺史(地方行政監督官)の副官である。大守が二千石の官であるのに、別駕は六百石だけであった。
張松には悲願があった。それは、兄を|凌駕《りようが》することである。劉備を蜀へ呼び込んだのも、蜀の乗っ取りが成功すれば、自分の官が兄のそれを越えることも、その一つの動機だったのだ。
(いまにみておれ。……いまに……)
心のなかでそう言うだけでは我慢できなくなった。とはいえ、主君にたいする裏切りを、めったに口にすることはできない。よほど気を許した相手でなければならないのだ。張松には|恰好《かつこう》のはけ口があった。──すくなくとも彼はそう思っていた。
成都の歌妓の|素娥《そが》である。妓女にしては、けっして美しいとはいえない女であったが、歌は上手であったし、めずらしく読み書きができた。
(才能があるのに恵まれていない。まるでおれのようではないか)
張松はそう思って、彼女を我が家にいれた。歌妓であり、側室であり、それに秘書をも兼ねた存在だったのである。劉備に蜀の乗っ取りをすすめたのは、極秘のことなので、張松は法正と二人だけのことにしていた。ところが、いつのまにか張松は、素娥にそのことをほのめかすようになった。
──もうすこしの辛抱だぞ。いまにわしは大出世をするからのう。……
素娥は頭のよい女なので、張松のこうした言葉の裏には、なにかあるのにちがいないと察していた。
──は、は、兄貴か。……根の腐った木にぶらさがっておるわ。いまに朽木はひっくり返る。そこにぶらさがっているやつらも、谷底へ真っ逆様だ。は、は、は……
張松は酒の勢いで、そのていどのことまでもらしていたのである。根の腐った木のたとえは、素娥にはよくわかっていた。
──あなたもどこかにぶらさがっているのでしょ? その木は大丈夫なの?
と、彼女は訊いた。
──大丈夫、大丈夫。二代目のような|脆《もろ》い木じゃない。荊州の水をたっぷり吸って育った若い木だぞ。根はしっかりしておる。枝もちょっとやそっとでは折れはせぬ。
張松は胸を張った。
蜀のあるじ劉璋は、父親|劉焉《りゆうえん》のあとを継いだ二代目である。荊州の水を吸った若木が、劉備を意味することぐらい、素娥も推測できた。しかし、彼女はとぼけて、
──あら、なんのことだかわからないわ。
と、首をかしげてみせた。
素娥は醜い才女であった。それでも女心というものをもっている。ハンサムな男にあこがれる気持は、容貌に自信がないだけに、かえって強いものがあった。
成都の妓女たちのあいだで騒がれている好男子は、なんといっても広漢太守の張粛がその筆頭である。素娥は宴席でなんども張粛をみて、ひそかに心を|惹《ひ》かれていた。とはいえ、相手はおおぜいの女に取り巻かれている。女に不自由のない身である。醜い素娥には、|高嶺《たかね》の花であった。
張松に買われてその家にはいったとき、彼女はこう思ったものだ。──
(この旦那には不足はあるけれど、兄弟だから、あの張粛さまがおみえになることが多いだろう。それをたのしみにしよう)
広漢から成都へ出てくるたびに、張粛は弟の家に立ち寄ったが、それは素娥が期待していたほど|頻繁《ひんぱん》ではなかった。張家の兄弟は、そんなにしっくり行っていないようだった。
張粛はかつての宴席でも、また弟の家に立ち寄るときでも、素娥には目もくれなかった。彼女はそれを悲しいと思った。その偉丈夫の心が、ひとときでもよいから、自分のほうに傾いてくれはせぬかと願った。──それが素娥の悲願であった。
素娥は旦那が兄を凌駕したがっていることを知っていた。しかも、そのために非常の手段を講じているらしいことも、旦那の言葉のはしばしから察していた。
──谷底へ真っ逆様……
そんな言葉をきくと、素娥は胸をしめつけられた。いとしい張粛さまが、谷底で血まみれになって果てるなんて。……
(お救いしなければならない。……)
素娥はそう思うようになった。張粛を救うためには、旦那の張松の計画を暴露するしかないのである。彼女はだいぶためらったが、やっと決心がついた。それは自分自身のためでもあったのだ。
張松の計画は、あきらかに謀反である。謀反の罪は九族に及ぶ。財産は没収される。素娥は半ば家族であり、半ば財産とみなされる存在であった。首を|刎《は》ねられるかもしれないし、朝から晩まで臼を|搗《つ》く奴隷にされるかもしれない。……いや、彼女ばかりではない。張粛さまも実の兄なので、かならず殺されてしまうはずなのだ。……
その悲運からのがれる方法が一つだけあった。張松の計画を暴露することである。謀反を未然に防ぐことが、謀反人の家族が連座から免れる唯一の方法なのだ。
暴露には証拠が必要である。素娥はそのつもりになりさえすれば、それを手に入れることができた。
ちょうどそのころ、孫権が曹操に攻められ、蜀の劉備に救援をもとめるということがあった。劉備は曹操を牽制するために、荊州へ戻るという手紙を成都の劉璋へ送った。むろんこれは謀略で、劉備は荊州へひきあげるつもりはなかった。
──敵を欺くには、まず味方を欺け。
これが謀略の定石である。劉備は定石どおりに、荊州への撤退がみせかけにすぎないことを、成都にいる味方の張松にもしらせなかった。
張松はあわてた。
──どうして蜀から出て行くのか? 成都での内応については、着々と準備が進んでいる。せっかくここまでやってきたのに、荊州へ帰るなど|勿体《もつたい》ないではないか。ぜひとも思いとどまってこれまでの計画を進めていただきたい。
彼はそんな内容の密書をかいて、葭萌へ送ろうとした。あわてすぎて、文章に意を尽していないところがあった。読み直して、それに気づいた彼は、あとで書き直そうと思い、その手紙を|箪笥《たんす》のなかにかくしておいた。
重要物品のかくし場所を知っている素娥は、その密書を手にいれた。それは彼女自身と、彼女がひそかに慕っている男の命を救うものだったのである。
広漢太守は、折よく成都にいた。素娥は密書を抱いて、太守の宿舎へ駆けこんだ。いままで、彼女に目もくれなかった男が、どんなに深い感謝の目をそそいでくれるか、彼女はその情景を胸に描きながら宿舎の門を叩いた。
張粛はすぐに劉璋のところへ急いだ。一刻も猶予はできない。やがて、捕吏が張松邸へむかった。
こうして張松は斬られた。関係者もきびしく|詮議《せんぎ》され、劉備にとっての内応者は、成都城内から一掃されてしまった。
だが、劉備はもうあとへは退けなかった。白水関の両将を斬った以上、成都を陥すまでは前進あるのみである。
劉璋もやっと劉備の意図に気づき、おそまきながら蜀の全土に警報を送った。
劉備が蜀の★[#さんずい+倍の右側]城を抜いて、兵を南のかた|綿竹《めんちく》(現在の四川省綿竹県)へ進めていたころ、曹操は江西営を陥して、つぎの手を考えていた。──
孫権は七万の水軍を率いて、曹操軍のまえにあらわれたのである。
「|碧眼児《へきがんじ》め!」
曹操は、孫権のみごとな船隊の配置をみて、そう|呟《つぶや》いた。赤壁戦のことが、彼の|脳裡《のうり》をかすめた。
「碧眼児がどうかしましたか?」
と、許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]は訊いた。孫権は碧眼|紫髯《しぜん》という異相の青年だったのである。亡き兄は|小覇王《しようはおう》と呼ばれ、彼は碧眼児と呼ばれていた。
「いや、息子をもつなら、仲謀(孫権の|字《あざな》)のような人間がいいのう。……そう思ったのだ。見よ、みごとな水上の陣形を。──それにくらべると景升(劉表の字)の息子なんぞは豚か犬みたいなものよ」
と、曹操は言った。
劉表の息子の劉★[#王+宗]は、荊州で曹操の軍門に降り、|諌議《かんぎ》太夫という閑職を与えられ、侯に列されている。曹操はそんなおとなしい劉★[#王+宗]よりは、歯ごたえのある孫権に、ひそかな好意をもったのである。
(あんな若者と戦っても勝負はつかぬぞ)
曹操はそう思った。
そんなところへ、蜀の情勢についての密偵の報告がはいった。
──劉備、白水関の両将を斬る。
というのである。
「そうか、玄徳は成都を攻めるか。……」
曹操がそこまで読んだのはとうぜんであろう。彼はしばらく考えこんだ。
蜀のあるじ劉璋が、いかにぐずであるといっても、劉備がそうかんたんに蜀の全土を乗っ取ることはできない。おそらくかなり手を焼くことであろう。しかも、劉備の部隊は、その半ばが蜀にはいったあと劉璋から借りた兵士である。ここは荊州にのこした部隊が、応援のために蜀にはいるのが順当なところである。
「諸葛[#葛のヒは人]孔明、関羽、張飛、|趙雲《ちよううん》……」
曹操は劉備が荊州にのこした部将をかぞえた。|錚々《そうそう》たる豪傑ばかりである。蜀に戦雲うごくというしらせを受けたなら、おそらく荊州の半ば以上の軍兵が、西へむかうことになるだろう。
荊州の劉備陣営は手薄になるはずなのだ。それを圧迫するのは、東呉の孫権軍でなければならない。それなのに孫権は濡須で曹操軍と|対峙《たいじ》して、ほかの地域に兵をうごかせない状態にある。いまの状況がつづけば、劉備の荊州は安泰ということになる。
「なんだ、あの大耳のために、孫権軍をひきつけておくことはないわ」
曹操は濡須から兵を|退《ひ》くことにした。彼は孫権あてに手紙をかいた。──
──劉備玄徳、成都を攻め、荊州薄し。将軍、よろしく兵を西へ進めよ。
折返し、孫権から返書が届いた。
──春水、|方《まさ》に生ず。公、よろしく速やかに去れ。
春になって、雪どけで水量が増えた。水に慣れない貴公でも、この水に乗れば帰りやすいであろう。早く帰ってはどうかね?
この文面は、相互に撤兵することについての同意をあらわす。
孫権のこの正式の返書のほかに、もう一枚、走り書きの紙片がついていた。そこに乱暴な字体で、乱暴なことが書かれてあった。
──おやじさんがくたばらぬかぎり、おれは安心できぬわい。
それを読んで、曹操は大声で笑った。
「は、は、は、碧眼児め、なかなか正直な若者じゃわい」
曹操が軍を退いて、|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》へ帰ったのは、その年の四月のことであった。
(荊州をめぐって孫権と劉備が争っているあいだに、すこし内部を固めることにするか。……)
曹操は★[#業+おおざと(邦の右側)]で、今後のことをゆっくりと考えることにした。荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]がいないので、どうにもやりにくいが、若手のなかから、優秀な参謀も育ってきたようなので、彼はその連中を試してみることにした。ひまがあれば、若い家来を呼んで、あれこれと雑談したのである。
「なぜわしが、若い連中を呼んで話をきくのか、わかるかな?」
ある日、彼は議郎の職にあった|司馬懿《しばい》を呼んで、そう訊いた。
「荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]どのがお亡くなりになったからでございましょう」
「しかし、仲達よ」と、曹操は言った。仲達は司馬懿の|字《あざな》である。──「荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]は晩年、わしとはあまりよくなかったのじゃ。意見の合わぬことが多くてのう。……彼も不満であったろうが、わしも不満であった」
「さようでございましたか。……」
司馬仲達はちょっと首をひねった。
「なんだ、おまえは知らぬのか?」
荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]はその晩年、自分の諌言がいれられず、曹操とのあいだの亀裂が、かなり深くなっていた。──曹操陣営の人たちにとって、それはよく知られたことなのだ。司馬仲達はことし三十四歳、議郎の前は黄門侍郎であり、権力の中枢の周辺にいたのだから、そのことを知らぬはずはなかった。
「丞相と敬侯は深いところでつながっておりました。われら凡庸の目は、浅いところしか見えませぬ。その目で見たことを、世間ではあれこれと申しておりますが、私は信じないことにしております」
と、司馬仲達は言った。敬侯というのは、荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]の|諡《おくりな》である。
「ほう。……そうか。……」
曹操の表情は、すこしこわばった。
(こやつめ、若造ながら、おそろしいやつかもしれぬぞ)
彼はそう思ったのである。
「おまえは荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]の不満をきいたことはないのか?」
曹操はあらためてそう訊いた。
去年、|董昭《とうしよう》が曹操の功績は|未曾有《みぞう》のものなので、爵位を国公に進め、|九錫《きゆうしやく》を賜わってはどうかという話をもち出した。国公というのは、中央の命令で異動される地方長官ではなく、世襲の領土を保有する人物のことである。後漢では二百年来、人臣で国公に進められた例はない。|董卓《とうたく》は「贊拝不名。入朝不趨。剣履上殿」の特典をうけ、太師として諸侯王の上に位したが、国公とまでは行かなかった。九錫とは、車馬、衣服、楽器、そのほか護衛兵など天子に準じるものが許されることで、前漢に|王莽《おうもう》がそれを賜わった例がある。王莽はそのあとで漢を乗っ取ったのだ。
いってみれば、一つの王朝のなかに、もう一つの朝廷をつくることである。
──それはいかん。いくらなんでも、それは行き過ぎというものじゃ。
荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]はそういって反対したのである。
曹操はその反対を不快に思って、それから二人のあいだにすきまができたといわれている。曹操陣営のなかでは、このことはあまりにもよく知られたことなのだ。
その真相はどうであろうか?
荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]が死んだいま、ことの真相を知るのは曹操一人だけとなってしまった。──
二百年の朽木である後漢にかわって、清新な政権を樹立する。それでこそ、天下の人心を新たにすることができる。その前提として、曹操を国公として、新政権をはじめる準備をしよう。──これが荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]の主張であった。
──そんなことをすれば、命をかけて反対するやつが出るだろう。しかも、反対と抵抗は、どんなところからとび出すかわからぬ。容易なことではあるまい。
荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]のすすめに、曹操はそう答えた。
──どんな人間が反対し、抵抗するか、私が事前にあぶり出しましょう。その連中を、一日も早く粛清すれば、新政権の誕生は容易になります。
荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]は自信ありげに言って、そのあと声をひそめて計画を語った。
彼がみずから反対派の領袖となるのである。そうすれば曹操王朝に反対する者は、かならず荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]と連絡を取ろうとするはずだ。荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]は自分のところに、反曹操派をまとめ、一網打尽にできるではないか。
──おそろしいことを考えるではないか。
曹操は話をきいて、深いため息をついた。
──天下は|垢《あか》にまみれております。それを洗いきよめるには、思いきったことをしなければなりません。このまま垢のなかに天下をすてておくほうが、よほどおそろしいことですぞ。……
荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]は思い詰めた表情でそう言った。
──しかし、なにも急ぐことはあるまい。曹操のほうがたじたじとなった。
──いえ、急ぎます。丞相はどうであれ、私は急ぎます。
と、荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]は言った。
この言葉の意味はよくわからなかった。天下の民を垢のなかから救い出すのが、目下の急務だという意味にもとれる。だが、曹操は荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]の危篤のしらせをきいたとき、はじめてその意味がわかった。荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]は自分の病気が重いことを知っていたのであろう。あと命はそう長くない。生きているあいだに、曹操のために、反対派を除いておきたいと思ったのにちがいないのだ。
それを思うと、曹操はたまらない気持になった。荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]は曹操への不満をそっと口にして、反対派を釣り出す仕事をしていた。その途中で彼は死んでしまった。いまとなっては、その仕事がどこまで進んでいたか、見当はつかないのである。
「敬侯の不満は、じかに耳にしたことがございます」
と、司馬仲達は答えた。
「それで?」
「さきほども申し上げましたが、私は信じません。敬侯にもそう言いました。あなたがいくら丞相にたいする不満をぶちまけても、私はけっして信じません、と。……」
「ほう。……で、荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]はどうした?」
「悲しげに首を振っておられました」
「悲しげにか。……」
曹操はあらためて、司馬仲達の顔をみつめた。唇のはしに、かすかな笑みがうかんだようである。
(こんな若造に見破られたか。……)
荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]はそう思って、悲しげに首を振ったのにちがいない。
「おまえはいくつになった?」
と、曹操は訊いた。
「ことし三十四になりました」
「わしが典軍校尉になった年じゃな。……あのとき、董卓も四十の半ばであった。袁紹も袁術も劉表も……みんな若かった」
曹操の頬がピクピクとうごいた。
張松が兄の訴えで斬られたことは、劉備にとってはまさに痛恨事であった。これまで張松はかなりの内応工作をしていたはずだが、内応を約束した連中も、張松が死んだのをいいことにして、口を|拭《ぬぐ》って、知らぬ顔をきめこんだ。もう一人の内応のリーダーである法正は、劉備のところにいた。内応者は攻めるべき相手方にいなければ話にならない。
そんなわけで、劉備は蜀の乗っ取りに苦戦していたのである。
成都の劉璋の幕僚に|★[#奠+おおざと(邦の右側)]度《ていたく》という者がいた。彼は広漢郡の出身で、地方の状況をよく知っている人物だった。劉備が白水関を奪って兵を進めたというしらせをきき、彼は主君の劉璋に、つぎのように建言した。──
「劉備の軍勢はそれほど数は多くありません。それに大半は蜀で徴用した兵士です。他所者の悲しさで、土地で兵を集めるのは難しかろうと存じます。それに、葭萌のような土地にいて、|輜重《しちよう》はきわめてすくないはずです。軍糧は進撃した地方で、現地調達するほかありません。そこで|梓童《しんどう》県と|巴西《はせい》県の住民を、ことごとく|★[#さんずい+倍の右側]水《ふすい》と|内水《ないすい》の西へ移し、その地方の倉庫も田畑も、一切焼き払ってしまうのです。そして、塁を高くし、溝を深く掘れば、敵はもうどうすることもできないでしょう。彼が戦さをしかけても、とりあわずに、こちらは静観するのです。百日もたたぬうちに、敵は食糧がなくなり兵を退きます。そこを撃って出るのです。退却しようとする軍隊は、士気が低下していますから、わがほうの勝利は疑いありません」
たいていのことは、家臣の言いなりになる劉璋だが、この非常時には、自分の意見も主張しなければならぬと、よけいな決意をしたようである。いつになく、きっぱりと、
「ならぬ!」
と、その進言を退けた。
「なぜでございますか?」
「太古以来、為政者たるものは、敵を防いで住民を安きに置いたのである。住民を動かして、敵を避けるなど、耳にしたことはないぞ」
劉璋は昂然と面を天井にむけた。そのようすは、まことに頼もしいかぎりであったが、家臣たちの表情には不安が宿っていた。
「敵を防ぐのだ。あくまでも防ぐ。……二代にわたって蜀の人民を治め、慈悲を垂れたのは、このようなときに備えてではないか。出陣だ。堂々と戦え」
劉璋は|麾下《きか》の部将に動員を命じた。
|劉★[#王+貴]《りゆうき》、|冷苞《れいほう》、|張任《ちようじん》、|★[#登+おおざと(邦の右側)]賢《とうけん》、|呉懿《ごい》といった諸将である。だが、彼らは劉備軍を防ぎとめることはできなかった。
蜀は戦乱の中原から遠くはなれ、ながいあいだ平和をたのしんでいた。劉璋麾下の将兵は、実戦の経験に乏しい。戦争に明け暮れている劉備軍の幹部たちからみれば、蜀の諸将の戦いぶりは児戯に類するものであった。劉備軍は、赤子の手をねじあげるように、つぎつぎと蜀軍を撃破した。諸将のうち、呉懿はあきらめて降伏してしまう。
劉璋はさらに李厳と|費観《ひかん》の両将に兵を授けて、劉備軍にあたらせた。だが、これは劉備軍を勢いづける結果に終わった。なぜなら、両将は戦わずに、その部下を率いて投降したのである。
退却した張任と劉★[#王+貴]は|★[#各+隹]城《らくじよう》にはいり、劉璋の息子の|劉循《りゆうじゆん》とともに、ここで劉備軍を防ぐことにした。
野戦では力の差は歴然としているが、堅牢な城に籠って戦えば、蜀軍も相当な力を発揮したのである。★[#各+隹]城の守備軍は善戦した。劉備は攻めあぐんだ。
蜀の兵力だけで、蜀を平定する。──これが劉備の理想であった。破竹の勢いで、★[#さんずい+倍の右側]城から綿竹へ攻め進んでいたころは、それが可能なようにおもえた。だが、★[#各+隹]城で苦戦を強いられると、やはり荊州の兵力を導入しなければ、蜀の乗っ取りは無理であるという気がしてきた。
荊州の兵力を蜀にさけば、かならず孫権が西へ圧力をかけるであろう。濡須で孫権と対戦していた曹操は、なにを思ったのか、兵を退いた。孫権は荊州へまわす兵力の余裕をもっているのだ。
荊州に援兵を頼みたくないが、このままでは★[#各+隹]城は陥ちない。★[#各+隹]城攻めに苦戦しているあいだに、成都の劉璋がどのような手を打つかわからない。やはりここは、信頼のおける荊州軍の応援をもとめるべきであろう。……
劉備は★[#广+龍]統を呼んだ。
「やはり荊州から援兵を呼ぼう。できるなら孔明にも来てもらおう。急使を出そう」
だが、★[#广+龍]統は首を横に振っていた。
「なぜか?」
「その必要はありません」
「いや、頼りになる兵が欲しい」
劉備は言葉に気をつけた。孔明を呼ぶと言ったのがまずかったのかもしれない。謀将として、★[#广+龍]統がいるのに、なにが不足で孔明を呼びよせねばならないのか。★[#广+龍]統はそう思っているのかもしれない。だから、劉備は兵のことを再び口にしたが、孔明のことはくり返さなかった。
「それは荊州兵が欲しいところです。ただその必要はないと申し上げているだけです」
「妙なことを申すではないか」
「孔明のほうから急使が来ました。荊州兵を率いて長江をさかのぼると。……」
「なに、まことか!」
劉備の顔は、急にあかるくなった。
「まことでございます」★[#广+龍]統は|懐《ふところ》から、孔明の手紙をとり出した。──「これ、このとおりでございます。張飛と趙雲も同行すると書いてありますが……」
「張飛と趙雲か。……うん、それだ。荊州には関羽をのこして。……わしが考えておったとおりのことを、孔明はやってくれたぞ」
劉備はもどかしげに、孔明の手紙をひらきながら言った。
その年の五月、曹操は国公となった。|冀州《きしゆう》の十郡──河東、河内、|魏《ぎ》、趙、中山、常山、|鉅鹿《きよろく》、安平、甘陵、平原を以て封じられた。この十郡を「魏国」とし、曹操は魏公と呼ばれることになったのである。
漢帝国のなかに、魏国という国が生まれた。それは交替にそなえて用意されたかのようだった。
九錫も賜わった。
誰もが王莽の|簒奪《さんだつ》の故事を思い出した。だが、曹操はそれをおそれなかった。むしろ連想してほしいとさえ思った。
(荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]よ、おれは反対派をおそれはせぬぞ)
彼は亡き謀将に、そう告げたい気持であった。
七月、彼は魏の|社稷《しやしよく》と宗廟を建てた。同時に、彼は自分の三人の娘を、「貴人」として後宮にいれることにした。長女は憲、次女は節、三女は華という名前であった。華はあまり幼少すぎるので、成長するまで家にとどめておくことにした。
この措置もまた人びとに、王莽のことを思い出させた。王莽も外戚となって、漢王朝を乗っ取ったのである。
十一月、魏国に尚書、侍中、六卿の職を置き、尚書令に荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]の|甥《おい》の|荀攸《じゆんゆう》を任命した。魏はますます政権として、目鼻立ちを整えてきたのだった。
そのころ、二年前に討ちもらした、関中十部の領袖馬超の消息が、しきりに伝わるようになっていた。あのとき、曹操は馬超を安定まで追いつめたが、陝西に反乱が起こったので、急ぎ東へひき返したのである。涼州の軍事参議官の|楊阜《ようふ》は、
──馬超は|羌《きよう》と|胡《こ》の心を得ておりますから、このままにしておいては大事に立ちいたりますぞ。
と、兵を退くことに反対した。
羌はチベット族、胡は|匈奴《きようど》族のことである。西北の辺境の名門であり、後漢二代目皇帝の皇后を出した馬氏は、辺境諸民族と友好関係にあった。彼が呼びかけたなら、たちまち騎馬民族の大軍団があつまるであろう。
曹操もそのことはわかっていたが、辺境の西北よりも中原に近い東方を、まず固めておくのが焦眉の急であった。心ならずも馬超をうちすてておいたのである。
はたして楊阜が心配していたとおり、馬超はチベット兵や匈奴兵を集めて、西北の諸郡県を荒らしまわったのだ。朝に一城、夕に一城と抜かれ、|隴西《ろうせい》地方ではわずかに冀城だけが堅守している状態となっていた。冀城は現在の甘粛省天水市の北にあり、そこに涼州刺史と漢陽大守が駐在している。
曹操は長安にいた|夏侯淵《かこうえん》に救援を命じた。だが、援兵が到着する前に、冀城は陥落してしまう。
冀城を脱出した楊阜は、兵を集めて馬超を撃った。馬超は敗れて南へ逃れた。
曹操は司馬仲達を呼んで、
「どうすればよいかな、馬超のことだが?」
と訊いた。
「教母に出馬していただくほかありませんね」
と、司馬仲達は答えた。
南へ逃れた馬超は、漢中にはいるほか道はないのである。漢中は五斗米道の張魯が割拠している土地であり、その張魯の母親少容は曹操の客であった。
曹操は少容を呼んだ。
「馬超のことじゃが。……」
このころになると、人びとは彼を丞相と呼ぶよりも、魏公と呼ぶほうが多くなっていたのである。だが、少容はこれまでどおり、丞相と呼んだり、将軍と呼んだりした。
「丞相のお望みはなにでございますか? 馬超を漢中にとどめておきたいのですか、それとも漢中から追放したいのでしょうか?」
と、少容は微笑をたたえながら言った。
「教母はどちらがよいと思うかな?」
「なりゆきにまかせてはいかがでしょうか?」
「なりゆき?」
「はい、馬超が漢中にとどまるも、漢中から去るも、丞相にとっては、いまのところおなじでございましょう」
「なぜじゃな?」
「馬超がおそるべき存在になるのは、亡命した土地の権力を奪ってからのことです。ところが、漢中はあれでも五斗米道という信仰を基礎にした政権であります。馬超のような信仰の外の人物では、いくら腕力が強くても、漢中の地は乗っ取れないでしょう。ですから、彼が漢中にとどまっても大事はありませぬ」
「では、彼が漢中から去れば?」
「漢中の北は、もはや丞相が定めておりますゆえ、南へむかうしかありません。蜀の地ですが、そこではいま劉備玄徳が、劉璋を攻めあぐんでおります」
「そこへ馬超が行く。彼はどちらにつくだろうか?」
「玄徳どのにつくでしょう。蜀の乗っ取りに手を貸して、手柄をあげます。馬超将軍はおそらく蜀で大きな勢力をもつにちがいありません。関羽、張飛などの諸将とのあいだに、勢力争いがおこるでしょう。おこらなくても、誰かが外から糸をひいて、おこすようにするはずです」
「誰が糸をひくのだ?」
曹操は苦笑した。
「孫権将軍には、そこまでの才覚はないでしょう。糸をひける人物はただひとり……」
「もうよいわ」
曹操は顔のまえで手を左右に振った。
馬超は信仰集団の漢中では、無害の存在であろうし、蜀にはいれば劉備陣営をかきみだす存在になる。どちらでもよいが、曹操にとっては、後者のほうがおもしろい。
「七分三分で、馬超将軍は蜀へ去る可能性が強いでしょう」
「そうなるように、教母がひと肌ぬいでくださらぬか?」
「このわたくしが?」
「関西と隴をかためたあとは、ご子息に道を借りることになろう」
「あと一両年のことでございますな?」
「教母から張魯どのに、天下の形勢を説いて、納得していただかねばならぬ」
「ほかの方を使者にお立てなさいませ。その使者で話がつかぬとき、わたくしが参りましょう」
「それもそうだな」
と、曹操はうなずいた。
劉備が蜀を取れば、天下三分の形勢はほぼかたまるであろう。荊州をめぐって、しばらく劉備と孫権のあいだに摩擦があるはずだ。その時期に、曹操としては、蜀への入口である漢中を勢力圏に置く必要がある。漢中五斗米道が抵抗しても、力ずくでもそうしなければならない。だが、相手が信仰集団なので、これまでとは違った戦いになるだろう。できれば平和裡に解決したいのである。
五斗米道に信仰指導の権利を認め、かなりの特権を与えてもよい。その条件については、教母とゆっくり話し合う必要がある。とはいえ、教母少容は最後の切札的な存在なので、かんたんに使うのも考えものであろう。ひとまず誰かが漢中へ使いして、話がまとまらぬときに、はじめて少容に出馬を請うてもおそくはない。
「さて、誰を使者に立てるか。……」
曹操は天井を見上げた。これは難しい役目である。相手はたんなる地方豪族や武将ではない。五斗米道そのものでないにしても、信仰にたいして関心をもっている人物でなければ、使者はつとまらないであろう。
「公孫陽どのではいかがでしょうか?」
少容はおだやかに笑いながら言った。
「公孫陽?」
曹操は天井から目を戻した。意表をつかれたのである。
濡須の戦いで捕虜になった孫権軍の都督公孫陽は、曹操に降るのをいさぎよしとせず、仏門にはいると言いはった。いまは白馬寺の月氏の者たちに身柄を預けている。
「なるほど。……そういえば……」
適役という気がしないでもない。もともと孫権の家臣なので、曹操べったりの人物と思われないだけでも、漢中にうけいれられやすいだろう。そのうえ、浮屠の教えに心を惹かれるなど、信仰の萌芽のようなものをもっているらしい点も、信仰集団への使者としては、うってつけのように思えた。
「よし、きめた。これで一つ片づいた。|文姫《ぶんき》を呼べ。琴がききたくなった」
曹操はのびをして言った。心地よげな表情であった。
|★[#各+隹]《らく》城は現在の四川省広漢県で、成都市の東北、三十数キロのところにある。劉備軍はいまの宝成鉄道(宝鶏―成都)の線にそって南下したのだ。
★[#各+隹]城の守りは堅い。劉備は荊州からの援兵を頼みにしていた。だが、長江をさかのぼってくる諸葛[#葛のヒは人]孔明、張飛などの諸軍も、抵抗なしに馳せつけることができるのではない。巴東や江州(現在の重慶市)に、劉璋の部隊が守っている。ことに江州には、|厳顔《げんがん》という猛将がいるので、それを破るのに、かなりの日数がかかりそうである。
「孔明たちが来るまでに、この★[#各+隹]城だけは陥しておきたい。……」
と、劉備は言った。
「申すまでもありません」
★[#广+龍]統は唇をかんだ。
|鳳雛《ほうすう》と|謳《うた》われ、臥竜と呼ばれる諸葛[#葛のヒは人]孔明と、なにかにつけてくらべられてきた。★[#广+龍]統のほうが三つ年長であるが、劉備に仕えたのは孔明のほうが早い。そんなわけで、実績は孔明のほうが上とみられている。
追っても追っても、★[#广+龍]統は自分の前方に諸葛[#葛のヒは人]孔明の姿をみた。どうしても追い抜くことができない。★[#各+隹]城攻めの参謀として、★[#广+龍]統は孔明が来るまでに陥落させないと、両者の差を決定的にひろげてしまうだろう。そう思って、★[#广+龍]統はあせり気味であった。
「どこかに弱点はないだろうか、この城には……」
劉備は★[#各+隹]城の城壁をみつめて呟いた。
(孔明がいさえすれば、この城の弱点など、すぐにみつけて、攻撃の手がかりを与えてくれるだろうに。……)
★[#广+龍]統は劉備の言葉のうらに、そんな声のない言葉をきくおもいがした。
「なんとかして、それをさぐってみましょう。しばらくお待ちください」
と、彼は立ち去った。
(薬が効きすぎたかな?)
劉備は★[#广+龍]統の諸葛[#葛のヒは人]孔明にたいする対抗意識を、巧妙に利用しようとしたのである。孔明の名を口にしないでも、それをにおわせただけで、★[#广+龍]統は奮起するのだった。
「無理をしなくてもよいぞ」
★[#广+龍]統のうしろ姿にむかって、劉備はそう声をかけた。じつは、(しっかりやれよ!)という意味である。★[#广+龍]統ならそれを聞きまちがえることはあるまい。──
(おれは人を使うのがうまい。……)
劉備はそんなことを考えた。武勇の点では関羽や張飛、智謀にかけては諸葛[#葛のヒは人]孔明や★[#广+龍]統に及ばない。だが、おれは彼らを手足のように使うことができる。まるで高祖劉邦のようではないか。──劉邦は韓信や張良といった一級の人物を使いこなした。
(おれもそうだ。……)
劉備は胸を張った。
★[#各+隹]城近辺の地形は複雑である。東に竜泉山の丘陵を負い、西に九頂山を望み、そのあいだを綿遠河、石亭江、青白江、柏条河など、|岷江《びんこう》と|沱江《だこう》の支流が網の目のように走っている。谷も多く、道はまがりくねっていた。このような複雑な地形は、地理にあかるい地元側に有利である。劉備軍が苦戦しているのも、それが大きな原因であった。
一時間ほどたった。──
劉備は本陣の庭に|蹄《ひづめ》の音をきいた。そこまで馬を乗りいれることができるのは、急使の者以外にはいないはずだ。
(孔明からの使者か。……)
劉備は急いで、庭へむかった。
急使は馬を乗りすてて、樹下で平伏していた。
「なにごとか?」
劉備が訊いても、使者は平伏したままであった。
「早く申せ!」
劉備は叱りつけるように言った。使者は両肩を二、三度ふるわせてから、顔をあげた。顔じゅう涙に濡れ、その両眼は真っ赤であった。劉備の胸は不安におののいた。──悪いしらせだな、と直感したのである。
「士元(★[#广+龍]統の字)どのが……」
使者はそこまで言って絶句した。
「なに、士元がどうかしたのか?」
「伏兵の矢にかかって、さきほど落命いたしました!」
叫ぶように言って、使者は地面にむしゃぶりつくように平伏した。
「伏兵の矢……落命……」
劉備は使者の言葉を、自分の口にうつした。足もとがよろめいた。──
作者|曰《いわ》く。──
正史には荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]を病死としている。その晩年、彼は曹操が爵を国公に進められ、九錫を賜うことについて、批判的であった。そのため、不快におもった曹操が殺したのだという説もある。『魏氏春秋』には、曹操が荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]に食べものを贈ったが、ひらいてみるとなかみは空であった。それで、荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]は毒を仰いで自殺したことになっている。
主君が家臣に、空の容器を贈るのは、
──おまえはもうなんの役にも立たぬ。よろしく自決せよ。
という自殺勧告、あるいは命令とされていたのである。
講談本の『三国志』はもとよりのこと、『|資治通鑑《しじつがん》』も、荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]の服毒自殺を採っている。かなり広く信じられたことであるらしい。
[#改ページ]
|皇后《こうごう》の|密書《みつしよ》
曹操は椅子のうえで、あぐらをかいていた。
目のまえの卓上に、印綬と冠がのっている。彼はそれをみつめていた。ひややかな目であった。左目のまぶたが、ときどきひきつる。彼の持病である偏頭痛の前兆であった。そのせいか、機嫌が悪そうである。
さきほどまで、家臣がいれかわりたちかわりあらわれて、
「慶賀至極にございまする」
と挨拶した。
曹操は魏公となった後、金璽、赤綬、遠遊冠を授けられた。
皇帝は白玉を璽(印)とする。そして、皇太子および諸王は金印赤綬とされていた。綬というのは、印をぶらさげる紐である。
本来なら|丞相《じようしよう》の印は金で、綬は緑のはずである。これまでの緑色の紐が、赤色にかわったのだ。
印は金、銀、銅の三種があり、綬で赤、緑、紫、青、黒、黄の順序があり、それのとりあわせで、階級の差をあらわす。国防相にあたる太尉や副丞相の司空は金印紫綬で、九卿は銀印青綬である。
四百石の役人はまだ黄綬だが、六百石になると黒綬になる。その境界にある役人は、すこしでも早く紐の色をかえようと、目の色までかえたものだ。
(ばかばかしい。たかが紐の色や、冠の形のことで。……)
曹操はいつもそう思っていた。
卓上にある遠遊冠は、やはり皇太子と諸王に限ってかぶることを許された冠である。天子のかぶる「通天冠」とほとんど同じで、ただ前方に山形がないだけなのだ。
ばかばかしいと思いながら、曹操はそのような待遇が与えられるように工作した。印綬や冠だけではない。
──魏公操の位を諸侯王の上とする。
と、詔書によってはっきり群臣に明示するようにさせた。
人臣でありながら、その位階は皇族の上にある。これは容易ならぬことであった。去年、九錫を加えられ、まる一年たって、こんどの異例の特典である。
曹操はこめかみに指をあてた。──そろそろ痛みだすころである。特効薬はあるのだが、彼はそれを使いたくなかった。残りすくないし、もはや補充はできないからなのだ。
|華佗《かだ》という名医が、かつて曹操のそばに仕えていた。その名医が処方した薬である。華佗はもう死んで、どんな医者もその薬をつくることができなかった。
(惜しい医者だが、あれは殺さねばならなかったのだ。……)
こめかみに指をおしつけて、曹操は自分に言いきかせた。
華佗は曹操と同郷の名医で、|字《あざな》は元化といった。|麻沸散《まふつさん》という薬を患者に服用させ、知覚がなくなったあと、患部を切開して病根を除き、そのあと縫合して|膏薬《こうやく》を塗った。麻沸散というのは、あきらかに大麻系統の麻酔薬であり、華佗は世界で最初に、麻酔薬を用いて手術をおこなった人物である。
その華佗を、曹操は殺してしまった。華佗は処方を取りに帰るといって帰郷したまま、曹操のところへ戻って来なかった。催促をすると、妻が病気であるといって、|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》へ戻ろうとしない。役人に調べさせたところ、彼の妻の病気は嘘であることがわかった。
──おのれ、それほどまでにこの曹操を嫌っておるのか。嫌われてまで、わしは医師の手当てをうけようとはせぬぞ。世の中に、医師は華佗一人ではあるまい。よし、曹操も人を嫌うことを思い知らせてやろう!
と、曹操は華佗を処刑した。
華佗の頭痛薬をあらゆる医師にみせて研究させたが、おなじものはできない。しぜん曹操はその薬を惜しんだ。
「父上、頭痛でございますか」
長男の|曹丕《そうひ》がはいってきて、そう|訊《き》いた。
「なぁに、たいしたことはない。……ところで、なにか用か?」
「南方からの報告が届きました」
「ほう、どう申して参った」
「敗報でございます」
「敗けたか。……」
曹操はやっとこめかみから指をはなした。
合肥の南の皖城というところで、曹操の部下で、盧江太守の朱光が、孫権軍と戦っていた。孫権はみずから大軍を率いて、戦場にあらわれていたのである。
「敗けました。朱光はとらわれました」
と、曹丕は言った。
「張遼にひき返すように急使を出そう」
張遼に兵を授けて、朱光の応援を命じてあった。だが、皖城が陥落したいま、もはや援兵の必要はない。
「はい。……一歩、後退でございますか?」
「口惜しいか?」
と、曹操は息子に訊いた。
「負けて口惜しくないことはございませんでしょう」
「それはとうぜんだ。しかし、負けて口惜しがってばかりいてはならぬ。敗戦の処理を講じるのが先決だ」
「わかりました」
曹丕は一礼して立ち去った。
「あいつめ、ほんとうにわかっておるのかのう。……」
と、曹操は|呟《つぶや》いた。
勝利に乗じるということがあるが、敗北に乗じるということもありうる。曹操はいまそれを考えていた。
劉備は|★[#各+隹]《らく》城を囲むこと一年、謀将の|★[#广+龍]統《ほうとう》を流れ矢で失うという犠牲を払って、やっと陥すことができた。つぎはいよいよ蜀のあるじ劉璋の居城成都を攻めることになる。幸いそのころには、荊州から馳せつけた諸葛[#葛のヒは人]孔明、張飛、趙雲たちが、やっと到着したのである。そればかりではない。曹操に追われた馬超が、いったん漢中の五斗米道王国のあるじ張魯を頼ったが、その宗教臭さがいやになって、劉備のもとに走った。
役者がそろった。
成都城には精兵三万と一年分の食糧や衣料が貯えられている。城内の人たちの士気は、まだ低下していなかった。それなのに、あるじの劉璋は戦意をもたない。
「わしのために、百姓を苦しめていると思うと、これ以上、意地を張るに忍びない。もはや戦うことはない。誰が蜀のあるじになろうと、おなじことではないか」
育ちがよすぎたのか、劉璋は執念というものがまったくない。劉備陣営から、降伏勧告の使者が来ると、
「わしは降伏することにきめた。血をみるよりはよいではないか」
と、さっそく降伏に同意した。
劉備は狂喜した。若いころは、手のつけられないほどの乱暴者で、激情にまかせて、したい放題のことをした男である。それが一方の旗頭となってから、身を慎しみ、感情をあらわにすることを避けるようになった。いつも抑制していたのだ。大派閥の領袖として、保身の術でもあり、発展のための作戦でもあった。
成都陥落のときだけは、さすがに喜びを抑えることができなかった。したたか酔っ払って、はめをはずしてしまった。歌をうたい、くだをまいた。くだをまいている最中、ふとそばにいる諸葛[#葛のヒは人]孔明に気づいた。
(醜態をみせてしまったが、こやつ、わしに愛想をつかしはせぬか?)
と、心配になった。
「孔明がいたとは知らなんだ。わしはいったい、こんなところでなにをしておったのかな?」
劉備は濁った目を孔明にむけた。
「およろこびのあまり、酒をすごされました。たまにはよろしいでしょう。さ、存分におよろこびになってください。私に遠慮なさることはございません。大声でお叫びなさい。今日からは、蜀のあるじだ、と。……」
と、孔明は笑いながら言った。
「そう言われると、叫べるものではないわ」
劉備は頭を|掻《か》いた。
「いえ、叫ばねばなりません。その欄干のところへお出ましになって、お叫びなさい。下で将兵が宴をひらいております」
「将兵のまえで、醜態をさらけ出すわけにはいかんわ。……」
劉備はすこし睡ってしまったのか、酔いはだいぶさめているかんじであった。半分正気に返っている。
「醜態ではございません。総大将の狂喜ぶりをみて、将兵は親しみをおぼえるでしょう。われらの主君も人間である、と。人間らしさを、彼らにお見せなさいませ。これからのためでございますぞ」
諸葛[#葛のヒは人]孔明の声に、きびしさがあった。
「わかった。……」
劉備もそれが理解できた。これまでは、人間らしさをかくしてきたのである。人びとを畏怖させるためには、そうする必要があった。三か五の力しかないのを、十ぐらいに見せねばならなかったのだから。
これからはちがうのだ。|豊饒《ほうじよう》な蜀の全土を手に入れた。人びとに親しみをおぼえさせて、はじめて発展がありうる。劉備軍団は、蜀では他所者であった。ただでさえ、なじめないと思われている。こんなときに、総大将みずから、親しみのもてる人間であることを、まず部下の将兵に示さねばならない。劉璋の降伏をうけいれたいま、彼の部下の大半は蜀の人間であるのだ。
劉備はふらふらと欄干のほうへ歩いて行く。
「落ちないようにお気をつけなさい」
そのうしろ姿へ、孔明はそう声をかけた。
「わかった、わかった。……」
劉備は欄干に両手をかけ、下の庭で野外大宴会をひらいている将兵たちにむかって、
「おーい、みなの者! わしは、今日から、蜀のあるじぞ! 蜀のあるじぞ! つぎは天下のあるじじゃい!」
と叫びはじめた。
劉備は孔明の進言に従って、成都の城中に貯えられていた金銀を、ことごとく将兵に分配したのである。また食糧や衣料はすべてその持ち主に返還した。
降伏した劉璋は、劉備の留守部隊のいる公安城へ移されたが、朝廷からもらった振威将軍の印綬を|佩《お》びることは許された。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は、軍師中郎将から軍師将軍に昇格した。新しく劉備軍団に参加した名門出身の馬超は、平西将軍に任じられた。
そればかりではない。劉備は降伏した劉璋陣営の人たちも大いに登用した。たとえば、|劉巴《りゆうは》のごときは、劉備を蜀に招くことに大反対した人物で、
──虎を山林に放つようなものだ。
と、劉備を虎扱いにしたことはよく知られていた。だが、劉備はあえて彼を要職につけたのである。
──|許靖《きよせい》だけはやめよう。あいつだけはだめだ。
孔明から劉璋陣営の人たちの登用をすすめられたとき、劉備はそれをききいれたが、許靖だけは例外にしたいと思った。
許靖は劉璋から蜀郡太守に任じられていたが、成都陥落前後、同僚諸臣のなかで、最もだらしがなかった。
──それはなりませぬ。許靖はたしかにだらしのない人間ですが、天下に虚名を得ております。虚名といえども、それがありますからには無視できるものではありません。
そう反対したのは法正であった。
月旦──人物評論の発行元は、この許靖と|許劭《きよしよう》の両兄弟であり、そんなことから、たしかに世評の高い人物である。人間的に、また才能の面からも、内容のない人物かもしれないが、世に知られているということで、無視できないのだ。
──劉備は、あの噂に高い許靖を、よう使わなかったそうな。どうも大した人物ではないらしい。
許靖を登用しなかったなら、世間にそんな噂が立つおそれがあった。なにしろ相手は、世間に評判を立てる特技をもつ人物である。
──なるほど。……
劉備は法正の進言をいれて、許靖を優遇することにした。
このようにして、劉備は着々と蜀の全土を掌握して行った。
「敗報ではないが、ま、敗報とあまり変わらぬぞ」
劉備が成都を陥し、蜀をかためつつあるというしらせをきいて、曹操はそう言った。
負けたのは劉璋であって、曹操ではない。だが、競争者が第三者に勝ったということは、こちらにとっては敗報にひとしい。──これが曹操の考え方であった。
曹操は長男の曹丕を呼んで、
「敗北に乗じてやるべきことがある」
と言った。
「あまりよからぬことでしょう。……いえ、世間ではそう考えていることでしょう?」
曹丕は無表情にそう言った。曹操はこの息子が、自分のある面を、拡大してうけついでいるとかんじた。
「なぜわかる?」
と、曹操は訊いた。
「まともな話でしたら、この場に植をお呼びになるでしょう」
と、曹丕は答えた。
(これだから、いやになる。……だが、丕のように非情にならねば……)
曹操はそう思った。
彼は現実主義者として、現実を直視し、それをどうすれば、自分に最も有利な状態に変えることができるか、冷静に考えることができた。謀略の才能がある。その面を、極端にうけついだのが長男の丕である。
曹操には激情家の一面もあった。父を殺されたことで、徐州で殺人大行軍をしたことがあった。けっして冷静とはいえない。この面は、彼を一種のロマンチストにもしていた。それをうけついだのが、三男の曹植であった。上から三人の息子は、いずれも|卞《べん》氏の生んだ子である。丕、彰、植の三人のうちから、曹操は後継者をえらばねばならない。次男の彰は才能の点でやや不足である。とすれば、長男の丕か、それとも三男の植となる。ところがこの二人は、たしかに有能ではあるが、父曹操のある面を、きわめてかたよってうけついでいるのだ。冷徹な現実主義者、そして可能性ゆたかなロマンチスト。
(どちらがいいかな?)
曹操はちかごろ、この問題について、考えこむことが多い。
──天下を取る。
そのためには、冷徹──いや、冷酷でなければならない。だが、天下を治めるには、温かい心情が必要である。
(わしに天下が取れなければ丕だ。わしが天下を取ってしまえば植がよい)
いまのところ、彼はそう思っている。
長男の曹丕を呼んだのは、天下を取るために、冷酷な作業をするについて、その助手をつとめてもらいたかったからだった。曹丕は呼ばれた席に弟の曹植がいないことから、「あまりかんばしくない用件」と見破ったのである。
(こいつは、これだからかなわない。……しかし、おそらく、わしはこいつに跡目を継がせることになるだろう)
曹操はそんな気がしていた。
天命をうけて、乱世をおさめ、|経綸《けいりん》をおこなうには、最終的にみずから天子にならねばならない。そのため、現在の漢王朝をたおして、曹家の王朝をひらくのだが、曹操にはこの|簒奪《さんだつ》をためらう心がある。
(わしは基礎をつくる。……あとにつづく者が天下を取ればよい)
一種の逃げであるが、彼はそう思った。
徹底した合理主義者で、既成の権威を認めないと自負しているくせに、天子を廃して、自分が即位することには踏み切れない。
──周の文王だ。……
彼は自分にそう言いきかせた。周の文王は、その力はあったが、|殷《いん》の天下を奪わなかった。天下を取る一歩手前のところで踏みとどまり、けっきょく、彼の息子の武王の代になって、はじめて殷王朝をたおしたのである。
「敗北に乗じるとはなにごとでございますか?」
と、曹丕は訊いた。
「将来のために、われらに敵対する者たちを、このあたりで打倒しておかねばならぬ」
と、曹操は言った。
「そのまえに、敵対者が何者であるかを、さぐり出さねばなりません。いつも小まめに、この曹家にご機嫌伺いにきている人間が、あんがい敵かもしれません」
「そのことよ。……これから敵をいぶし出そうと思う。われらの旗色が悪くなれば、敵のやつばら、顔をのぞかせようぞ」
「ああ、さようでございますか。……皖城で孫権に負け、蜀をむざむざ劉備に取られた……曹家なにするものぞと、われらに憎しみをもつ者が、その正体をあらわすのでございますな」
「そのとおりである。……そのためには、曹家がいま苦しいということ、力が弱っているということを、人びとに信じさせねばならんのだ。……それができるかな?」
「できますとも。……さまざまな手段を講じますれば、愚か者どもが、とび出すことでございましょう」
曹丕はここで、はじめて表情をあらわした。にやりと笑ったのである。
(気味が悪い。……)
曹操でさえそう思った。しかし、いま相談したような工作は、三男の曹植にはできないことである。
「では、そのことを進めてもらおう。……ところで、この仕事をするにあたって、なにか注文はないかな?」
「さようでございますな」曹丕はしばらく考えてから、言葉をついだ。──「五斗米道の教母を、どこかこのあたりから遠いところへ、追い払っていただけないでしょうか」
「は、は、は、おまえでも、あの婆ぁがけむたいのか?」
「はい、けむとうございます」
「よし、わかった。婆ぁを、遠いところへ行かせよう」
曹操は息子と打ち合わせが終わったあと、五斗米道教母の少容を呼んだ。
「いよいよ漢中に手をつけなければならぬようになった」
と、曹操は言った。
漢中には、少容の息子の張魯が、五斗米道信仰に基礎をおく、ちょっとした小独立政権のあるじとなっていた。曹操は漢中を手に入れるときは、無血占領が望ましいと考えていたのである。信仰をもっている者との戦いは、これまでの戦いとは様相が異なる。慣れない形の戦いはやりたくない。
すこしまえから、少容を通じて、漢中の張魯に、投降を勧誘していた。少容は五斗米道の者を使って、息子と連絡をとっていたのである。しかし、それではもう間に合わなくなってきた。
──曹操はその事情を説明して、
「どうしても、教母に行ってもらわねばならんのだ」
と言った。
「かしこまりました。わたくしも、そのつもりでございました」
少容は|白髪《しらが》頭をさげた。──
金印赤綬に遠遊冠。──たいして欲しくないものを、わざわざ工作してもらったのは、反曹派を挑発するためであった。
──|宦官《かんがん》の孫である曹操が、皇族の上におかれるとはなにごとか!
彼らは|切歯扼腕《せつしやくわん》するに相違ない。ただ口惜しがっているだけでは、容易に尻尾をつかませないだろう。彼らになにかのうごきをさせるように、仕むけることが必要だ。そのためには、
──曹操弱し。
──曹操老いたり。
と、相手に思わせねばならない。彼はその方法を考えていたが、皖城の敗戦と、蜀における劉備の成功が、|恰好《かつこう》の舞台を提供してくれたのである。
──曹操おそるるに足らず。
というムードが、ようやく流れはじめたようだ。さらに、謀略の天才曹丕に裏面工作をさせるのである。
水中ふかく潜っていた反曹派も、そろそろ水面にうかんでくるであろう。──彼らを粛清すれば、曹家が天下を取ることに、妨害となるものはなくなるはずだった。
曹丕の工作は成果をあげた。
水面にうかんできたのは、献帝の皇后の実家伏氏一族であった。──
伏皇后、名は寿、|琅邪《ろうや》(山東省)の人で、父は伏完、母は桓帝の娘の陽安公主である。まえの霊帝の何皇后が肉屋の娘だったのにくらべると、もともと皇室とはゆかりの深い家柄であった。それだけに、伏皇后は自尊心が強かった。
|董卓《とうたく》の乱で長安へ行ったり、そこから東へ帰るときも、皇帝と苦労を共にしたのである。ことに東帰の兵乱では、殺陣の血しぶきが、彼女の衣裳にもかかったほどであった。
(それなのに、わたしはなぜむくわれないのか? 内親王を母にもつこのわたしが、なぜ曹操ごときの顔色をうかがわねばならないのか?)
そう思うと、伏皇后は無念でならなかった。なによりも|歯痒《はがゆ》いのは、父親がおとなしすぎることであった。内親王の婿にえらばれるだけあって、伏完はもともと柔和な人物で、争いを好まない。娘が長安で皇后に立てられると、伏完は執金吾(警視総監)になった。東帰後、輔国将軍となり、三公とひとしい待遇をうけることになったが、彼は辞退して印綬を奉還した。そして、中散大夫となったのである。中散大夫は|王莽《おうもう》時代に設けられた新しい官職で、論議をつかさどるというのだが、要するに閑職であった。外戚として重要なポストにつけば、曹操ににらまれるであろうと、遠慮してひきさがったのだ。
伏皇后には、このような父の|退嬰《たいえい》的な姿勢が、じれったくてならない。
先帝の何皇后の兄は、肉屋ながらも、妹が皇后になると大将軍となって、兵権を掌握したではないか。宦官との抗争に命をおとすことになったが、妹の|後盾《うしろだて》になろうとがんばったのである。順帝の梁皇后の一家は、すくなからず行き過ぎたが、やはり権勢を振るうことによって、我が家から出た皇后をバックアップしたのだった。
(父上はなんにもしてくれない)
と、伏皇后は父を恨んでいた。
だが、じつは伏完は娘のために、最良の姿勢をとったのである。外威伏完がおとなしいからこそ、曹操は皇后にも伏家にも安心していたのだ。その点が、皇后や伏氏一族の人たちには、よくわかっていなかった。伏皇后はよく父にむかって、
──どうしてわたくしを強く守ってくださらないのですか?
──曹操の専横は日に日につのっています。わたくしもいつ皇后の座から追われるかわかりません。父上はじめ一族の後盾がなければ、どうしてこれからやって行けるでしょうか?
と泣き言をならべたものである。
伏完はそのたびに悲しげに首を横に振り、
──まぁ、まぁ、そのうちに……
と、言葉を濁した。腹のなかでは、
(わかっていないのだな。……わしのやっていることが、娘にとって最善であるということが。……)
と、歎いていたのである。
建安五年に、董承たちが反曹操クーデターをたくらみ、それが露見する事件があった。曹操はいちはやく彼の一党と一族を誅殺してしまった。そのとき、董承の娘は後宮にはいって、献帝に|寵愛《ちようあい》されていたのである。だが、彼女も例外ではなかった。謀反人董承の娘ということで、曹操は彼女を後宮から連れ出して斬った。
──その女は助けてやってくれまいか。わしの子をはらんでおるのだ。
そのとき、献帝は彼女の助命を曹操に哀訴した。だが、曹操は許さなかった。
──謀反人の孫を生ませるわけには参りませんぞ。
と、曹操は言い放った。
このことがあってから、伏皇后の曹操にたいする恐怖心はますますつのった。いまでいえばノイローゼであろう。おそろしくて、おそろしくてたまらない。いつ殺されるかわからない。──助けてください! 彼女はとうぜん、父親と一族の者たちが、自分を守ってくれるべきものと考えていた。
──天下のことは、天子がおこなうべきではありませんか。いま曹操は天子を擁して、天子の名のもとで、天下のまつりごとをおこなっているのです。天子を擁した者の意思が天下をうごかしています。天子を擁するのは、なぜ曹操でなければならないのですか? どうして父上伏完であってはならないのですか? どうして伏一族の者であってはならないのですか? むろん、そのためには、曹操をいまのままにしておくことはできません。彼を除かねばなりませんが、はたしてそれはできないことでしょうか? できます! 天子の討賊詔勅さえあれば、できるではありませんか。その詔勅なら、わたくしの力で出せるのです!
対曹操恐怖症の昂じた伏皇后は、父親にそんな密書を出した。伏完はこの手紙をみて、また頭を振った。──
──まともではなくなっている。……可哀そうに、神経がたかぶりすぎているのだ。こんな非常識な。……もしこの手紙が、曹操の手にはいったらどうするつもりなのか! こんど会ったとき、|懇々《こんこん》と言いきかせてやろう。……
伏完はわが娘である皇后を|諌《いさ》めた。
恐怖症の発作の去った伏皇后は、父の言うことがわかった。
──もうこれからは、そんなばかげたことはいたしません。
と言ったので、伏完も安心したのである。
じつは伏皇后は、密書を父にだけ送ったのではない。言えばまた|叱《しか》られると思って、口にしなかったが、むこう意気のつよい叔父の伏望にも送っていた。
伏望が参内したとき、皇后は、
──あの密書の件、父上には言わないでください。
と頼んだのである。伏望もうなずいて、承知した。
伏完が娘の密書を焼きすてたのはいうまでもない。伏望は皇后にうけあったように、密書の件を伏完には伏せておいたが、その密書を処分しなかった。
伏望は曹操を憎んでいた。いつの日か、曹操を打倒して、朝廷をあるべきすがた──外戚を背景として威を天下にしく、というすがたにしたいものと考えていた。その日のために密書をのこしておいたのである。
その密書は、わが一族から出た皇后が、曹操の非をみずから糾弾したものであった。そして、曹操打倒の詔勅は、彼女の力によって出せると保証していたのだ。
曹操打倒の同志を募るとき、この皇后の密書は大きな力となるだろう。──伏望はそう考えたのである。
伏完はおとなしい人物であったが、一族の総領として、軽挙妄動をいましめ、おさえをきかせていた。その彼は建安十四年に病気で死んだ。
伏完を失った伏一族は、おさえる人がいなくなったばかりか、伏望のように、はやる心をおさえかねている人物が指導者となったのである。
──いつの日か。……いつの日か……
と思っているが、曹操の力量は前よりも強まっていて、容易にことを起こすことができない。
──曹操といえども神ではあるまい。|躓《つまず》いて、力を弱めることもあろう。じっとそのスキを狙うことにしよう。……
伏望をリーダーとする、伏氏一族およびその同志たちは機をうかがっていた。曹操を打倒するのが、容易なわざでないことは、彼らも知っていた。ことを成功させるためには、自分たちも力をつけなければならない。有力な同志を一人でも多く獲得すべきである。そのためには、あの十数年まえの皇后の密書が威力を発揮するのだ。
建安十九年。──どうやら彼らが待ちに待った時がきたようである。曹操の運命の波が、下にむきつつあるように思えた。
皖城で孫権軍に敗北を喫した。
宿敵の劉備が、蜀の全土をおさめることに成功した。
曹操はもう六十になった。英雄も、老いぬるをいかんせん、ではないか。|不埓《ふらち》にも、金印赤綬、遠遊冠を授けられた。曹操がそれらを授けられたことで、伏氏一党の怒りは、いよいよ燃えあがった。
──至尊の外戚にさえ授けられぬものを、あの曹操めが!
だが、考えようによれば、そのようなものを欲しがるのは、曹操が老いぼれてきた証拠かもしれない。──いや、きっとそうだ。
伏氏一族を中心とする反曹操派のうごきは、しだいに大胆になってきた。
曹植は長兄の邸に呼ばれた。
このころ、曹植は平原侯から|臨★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]《りんよう》侯に移封された。だが、父の命令によって任地へ行かずに、そのまま★[#業+おおざと(邦の右側)]にとどまっていたのである。彼は長兄の曹丕とは六つちがいの二十三歳であった。
長兄の邸へ行くと、曹植は心があやしく揺れるのだ。美しい|嫂《あによめ》の|甄《しん》氏がそこにいたのである。
甄氏の名は|洛《らく》、はじめは袁紹の息子|袁煕《えんき》の妻であったが、十九歳の曹丕が★[#業+おおざと(邦の右側)]城攻略のどさくさに奪い取り、自分の妻としたのだ。彼女のろうたけた顔には、哀愁の|翳《かげ》りがあったが、それは過去の悲しみが底に沈んでいるからであろう。ロマンチストの曹植は、その翳りに惹かれた。
兄の妻となったその美女に、曹植はひそかに、想いを寄せつづけていたのである。
「今日はどのようなご用でしょうか?」
と、曹植は訊いた。ふだんなら、文学の話をしようとか、家族の問題であるとか、あらましの用件が手紙のなかに書かれているのだが、こんどはただ来てくれというだけであった。だから会ったときに、曹植はまず用件を訊いたのである。
「いささかこみいった用件でな。……それにこれは秘密だ。……極秘のことだ」
と、曹丕は答えた。
「はい」
曹植はうなずいた。呼びよせの手紙に、用件がしるされていなかったが、極秘とあればとうぜんのことなのだ。
「世間では、われら兄弟の仲を、どう考えているだろうかな?」
曹丕はとつぜんそう訊いた。
「われらの仲?」
曹植は長兄の質問に戸惑って、まぶしそうな顔をした。
「同腹の兄弟、骨肉でありながら、曹家の相続をめぐって相争っているように思っている者がすくなくない」
「そうでしょうか?」
「兄弟の数は多いが、これほどまで強大になった曹家を宰領できるのは、われら二人のほかにいないというのは、衆目の一致するところじゃ。……二人の領袖がならぶわけにはいくまい。二人のいずれかが、曹家を相続することになる。……してみると、われらは相争うのがとうぜんであろう」
「口さがない者たちが、さまざまなことを申しておりましょうが……」
「ともかく、申しておるのじゃ。だから、われら二人が不仲になっても、世間では、なるほど、やっぱり、と思うにちがいない。……このたびはその世評につけこんで、ひとつ芝居を打とう」
「芝居と申されると?」
「兄弟喧嘩の芝居だ。その台本は、このわしがすでに書いておる。……よいか、曹家の跡目相続をめぐって、曹丕と曹植の仲が険悪になってくる。……われらの家臣のあいだでは、これは芝居ではなく、すでに事実となっていることなのだ」
どちらが曹家の跡目を継ぐか、本人よりも取巻きにとってのほうが重大事であろう。立身出世がそれにかかっている。彼らには「家丞」(執事職)や「庶子」(幕僚)がついていた。そのほか、兄弟とも文学者なので、文学の友も出入りする。曹丕の文学サロンと曹植のそれとでは、そこに集まる顔ぶれが同じではない。また曹操の家臣たちも、主君が六十を越えたので、つぎに仕えるべき主君のことを意識するようになっていた。しぜん両派にわかれることになり、分派は抗争を生まずにはすまない。
「困ったことであります」
と、曹植は言った。
「おまえのほうには、策士が多いのう」
「さようでございましょうか。……」
曹植はすこし首をかしげた。揚修、|丁儀《ていぎ》と|丁翼《ていよく》の兄弟、|邯鄲淳《かんたんじゆん》、|孔桂《こうけい》……かぞえてみれば、策謀の士がすくなくない。
「わしのほうは、策士はすくない。いないといってもよかろう」
「は……」
曹植は返答に困った。だが、いま兄の言ったことは事実であった。曹丕は長男という有利な立場にある。大過さえなければ、後継者にえらばれる可能性が最も濃厚である。策謀の必要はあまりない。三男の曹植が跡目を継ぐには、序列どおりでないので、策謀を要するわけだ。
「なぜか知っておるか?」
と、曹丕は訊いた。
「さぁ……なぜでございましょうか?」
「は、は、は、わからぬか? わしがいるからだ。ほかにまだ策士が要るか?」
曹丕みずからが大策謀家である。その陣営に、二流、三流の策士が活躍する余地はなかったのである。
「話を戻そう」と、曹丕は言った。──「兄弟不仲の芝居じゃが、父上にも協力していただくし、わしの妻にも一役買ってもらうことにした」
「|嫂《あね》上に?」
「これまた世評を逆用するのだ。……よいか、父上には諸臣の前で、わしよりもおまえに目をかけているように振舞ってもらう。それから、おまえがわしの妻に想いを寄せ、わしの妻もおまえを憎からず思っていることにしよう」
「な、なんですか?」
さすがの曹植もあわてた。
「だから、世評に乗ると申したであろう。わしの妻を見るおまえの目が、ただならぬ光を帯びるとは、世間でもっぱら噂されていることであるぞ」
「そのようなことは……」
曹植は背中に汗がふき出るのをおぼえた。
「ともあれ、おまえはわしの妻と、どこかでひそかに会うのだ。……しかし、誰かに見られなければならん。そうすれば、噂はただの噂でなかったことになる。……曹家の二兄弟は、もうのっぴきならぬ不仲となった。……世間にそう思わせるのだ」
「それはなんのためでございますか?」
曹植はそう訊いて、からだを|顫《ふる》わせた。冷汗がからだの芯を凍らせるようだった。
「知れたことではないか。父上の寵愛を弟に奪われ、妻の心まで弟のほうに傾いた。……そのわしはどうなると思う? そう、自暴自棄になるではないか。──どうせ曹家を継ぐことはできぬ。妻を寝取った弟が、あとを継ぐ曹家なら、うち滅ぼしてくれよう。……自暴自棄になった男は、そう考えてもおかしくない。……いま天下に曹家を呪っている人間はすくなくない。ただ曹家の力をおそれて、鳴りをひそめているだけだ。おそらく同志の組織のようなものがあるだろう。それをひきずり出して叩かねばならぬ。……その連中が、曹家の長男が、やけになって曹家を憎んでいると知れば、味方にひきいれようとするにちがいない。曹家という巨木の芯を腐らすことができると思って。……もうわかったであろう。は、は、は……」
曹丕は大声で笑った。
|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》は春秋時代、斉の桓公が築いた城であるという。曹丕が即位して魏の国都となったが、それ以前に、すでに首都らしい体裁をととのえていたのである。
『文選』に|左思《さし》の作った『魏都の賦』がのっているが、それは★[#業+おおざと(邦の右側)]のありさまを、美文調でつづった作品である。
──|通溝《つうこう》を|疏《そ》して以て|路《みち》に|浜《そ》い、|青槐《せいかい》を|羅《つら》ねて以て|塗《みち》を|蔭《おお》う。
と、その一節に述べられている。
★[#業+おおざと(邦の右側)]の主要な道路は、★[#さんずい+章]水という河からひいた水路がそばに流れていて、青々とした槐樹がずらりと植えられていた。槐樹の並木道は長い廊下のようだったともいうが、夏はすずしい緑のトンネルだったのだ。
城西に玄武苑があるが、それは自然公園ともいうべきところであった。『魏都の賦』にも、
──|樵《しよう》(きこり)|蘇《そ》(しば苅り)|往《ゆ》くを|忌《い》まず。……
とあるように、そこは遊覧、通行は禁止されていなかった。苑内の狩猟も自由であった。ところどころに「観宇」と呼ばれる展望台や休憩所があり、池や竹林、菜園、果樹園が点在していた。
苑中には大小の道が通じている。ひろい道は馬車をならべて通ることができ、狭い道は人間一人がやっと歩けるほどであった。また高低さまざまな複雑な地形をしていた。こんもりした木々に囲まれて、道路からはかくれて見えない休憩所もあった。そこは一方に深い池があり、めったに人目も届かないように思える。ところが、意外にもそのうしろが小高くなっていて、そこに道があり、木の葉のあいだから下の休憩所が見えたりする。
その休憩所に、曹植は嫂と一しょにいた。兄が書いた台本によって、そこで芝居をすることになっていたのである。芝居というのは、虚構のことであるはずだが、曹植の嫂にたいする慕情は真実のものであった。
(兄もそれを知っているはずだが。……)
曹植は息苦しくなってきた。朱の欄干をもった|亭《あずまや》のなかに、いま彼はひそかに愛していた嫂と二人きりでいる。
「子健さま、どんなお話をすればよろしいのでしょうか。ほ、ほ……」
と、洛女は笑った。
子健とは曹植の|字《あざな》である。曹家兄弟はその字に「子」をつける者が多かった。曹丕は子|桓《かん》、曹彰は子文、曹昂は子修といったふうである。
「それは兄上の……」
兄の書いた台本どおりにすればよい、と言おうとしたのだが、途中で言葉がかすれて、消えてしまった。
証拠はないが、反曹操派があるとすれば、皇后の一族であろうと、およその察しはついていた。曹丕は伏一族に近い者を通じて、伏望をこの日、この時刻のころ、休憩所のうえの道を通るように段取りをつけたのである。
──玄武苑で詩会を催す。
という口実を設けた。目的は曹植とその嫂の密会の場面を見せるためなのだ。
上の道から、二人のすがたは見えるが、小さな声は届かない。男女の密会で、大声を出すはずはないので、二人のやりとりは台本にのっていない。
──適当にやりとりをせよ。
というだけであった。せりふは定められていないが、しぐさに注文があった。曹植は洛女の肩に手をふれ、いかにも親しげにみせねばならない。
「適当にということでございましたね。……では、子健さまの詩文のことを話しましょうか。……わたくし、子健さまの詩文には、ほんとうに心をうたれますのよ」
と、洛女は言った。
「お恥ずかしいことです」
「去年の『美女篇』には感動しました。……ほかの人にはとても真似のできない作品ですわ。……」
「それはほめすぎでしょう」
と、曹植はうつむいた。彼の『美女篇』という詩は、じつは嫂の洛女の面影を思いうかべながら作ったのである。
|袖《そで》を|攘《かか》げて|素《しろ》き手を|見《あら》わせば
|皓《しろ》き腕は|金環《きんかん》を|約《やく》し
頭上に|金爵《きんじやく》(黄金の雀)の|釵《かんざし》
腰に|佩《お》ぶ|翠琅★[#王+干]《すいろうかん》(みどりの玉)
|明珠《めいじゆ》(真球)玉体に|交《まと》い
…………………………
「でも、婦人のようすを、よくご観察になりますのね。そんなにみつめられたなら、わたくしでしたら、|羞《は》ずかしくて、消えたいおもいがしますわ。……」
と、洛女は言った。
(ほかならぬあなたを、心の目でじっとみつめて|詠《よ》んだのですよ。……)
だが、これは口にしてはならぬことだった。なんと苦しいことであろうか。一刻一刻、身をきざまれて行くようにかんじる。
(兄上は、このわしを拷問にかけておられるのだ。わしの気持をご存知で……)
そう思うと、怒りに似たものをおぼえた。
洛女は、ことにかおりの高い香を、そのからだと衣裳に|焚《た》きしめてきたようだ。曹植はそのかおりにむせた。呼吸がとまってしまうようであった。
目がくらみかけた。──
十三歳のとき、はじめてこのひとを見たときから、二十三歳の今日まで、曹植は十年のあいだ、このひとのことばかりを想いつづけてきた。おなじ屋敷のなかに住んだ期間も長かったが、こんなに近くまで来て、話をかわしたことはいちどもなかった。まして二人きりで嫂と会うなど、考えられもしないことであった。
この苦しさにうちかつために、曹植は自分の心をほかにむけた。──詩文に。
彼は文章を考え、詩想を練ろうとした。それだけが、この苦しさから逃がれる方法であった。
──思い、綿々として、|慕《ぼ》を|増《ま》し、夜、|耿々《こうこう》(心安らかでないさま)として|寐《ね》られず。……
といった文章を心のなかで綴る。──
いったん逃げたが、その苦しさが甘美なものに思えて、また現実に戻ってくる。
「子健さま、そろそろわたくしの肩に、お手をおかけになるころでございます」
と、洛女は言った。
「よろしゅうございますか?」
曹植の声は、おぼえず顫えた。
「台本にあります」
洛女は笑った。右頬に小さなえくぼがつくられた。──
曹植は自分を制することができなかった。彼は嫂の肩に手をかけると、そのからだを自分のほうにひきよせた。
「あ……」
かぼそい、ため息のような声が、彼女の口からもれただけであった。
曹植は自分の腕に抱かれている嫂が、身じろぎひとつしないことに驚いた。驚きはすぐに去った。陶酔がそのあとにつづいた。深い、そして甘美な陶酔が。……
頬がふれた。洛女の頬は曹植の頬を迎えいれた。熱い頬がふれ合って、そこが燃えるようであった。いつのまにか、曹植の右手は、彼女の肩から腰まで、ゆっくりと撫で下りていた。洛女の腰が、かすかにうごいた。曹植は、そのひそやかなうごきをとらえようと、指に力をこめた。
「あ、ああ……」
曹植は頬のあたりに、洛女の声と息をかんじた。彼は洛女の顔を、唇でまさぐり、そのひんやりと湿った唇に唇をかさねた。──
曹丕乱心、の噂が流れた。──水底深くくぐるように流れた。その深さのために、噂は神秘性を帯び、神秘性のために信じられた。
そればかりではない。噂はただ人の口にのぼったのではなく、はっきりした根拠があったのだ。
伏氏一族とその徒党の中枢にも、曹家の噂が流れてきた。★[#業+おおざと(邦の右側)]の曹家の家臣のなかにも、伏氏の息のかかった者が、数人もぐりこんでいたのである。その連中のもたらす情報は、全面的に信じることができた。彼らは自分の目で見、自分の耳できいたことを、報告したのだから。──
ある日、曹操は左右の者に、
──彰は力が強いだけで、ほかになにもない。丕も女色を|漁《あさ》るばかりで、才能をそれにつかいはたしたようだ。あとにはなにも残っておらぬ。
と言った。
曹操の後継者は、卞氏の生んだ三人の息子からえらばれるであろうことは、既定の事実といってよかった。そのうち次男の彰は、鉄の|大鼎《おおがなえ》を片手でさしあげるほど、怪力の持ち主であったが、学問、見識、才能ともに乏しかった。自分でもそれを知っていて、野心ももっていない。早くから後継者レースの圏外に去っていたのである。
残る曹丕と曹植のいずれかだが、曹操の前述の発言は、怪腕の曹彰とともに、女色に目のない曹丕を否定したもの、とうけとられないこともなかった。
はじめから行状のよくなかった曹丕が、ますます乱行をかさねるようになったのは、そのころからであった。
「曹丕が相続の候補からはずされたということじゃな?」
と、伏望は曹家にひそませている同志に念を押した。
「九分どおりたしかでございます」
「それにしても、曹丕の乱行は目にあまるが」
「妻とのあいだが、うまく行っていないようでございます。いろいろと噂がありまして。……噂の相手は弟の曹植であるとか……」
「ほう、噂か。……」
それが根のないただの噂でないことは、伏望が誰よりもよく知っていた。彼は自分の目でそれを見たのだ。──偶然のことだった。曹植が嫂を抱いている現場、これ以上たしかな根拠はない。
「このたびの曹丕の自暴自棄ぶりは、まことにすさまじいといわねばなりません。異常のことでございます」
「曹丕は自滅するのか。……自滅させるのは惜しい」
と、伏望は言った。
「それはどういう意味でございましょうか?」
「曹丕が一人で滅びてはつまらぬということよ。……自滅するなら、曹家をもまきこんで、はでに滅びたらよい。……うん、この曹丕をこちらに抱きこんで、なにか細工ができるかもしれんぞ。……」
伏望はかねて待ちうけていた日が、いよいよ近くなったとかんじた。
彼はしばらく考えていたが、はたと膝をうった。──
「そうだ、標が曹丕の詩文の友であった。かなり親しくしておるときいたが。……うん、標を呼んできてもらおう」
伏氏一族のなかに、詩文にすぐれた伏標という者がいた。彼は曹丕とよく詩の|応酬《おうしゆう》をして、文学のうえでは親しかった。伏望はその伏標を使って、自滅覚悟の曹丕を、うまくあやつろうとしたのである。
「曹丕が父や弟に、恨みを抱いているというのは、まことのことでございますか?」
曹丕|籠絡《ろうらく》を頼まれた伏標は、そう念を押した。
「まちがいない。ふ、ふ、ふ……わしはこの目で見ておる。これはぜったいにまちがいのないことだ。……」
伏望もある意味では慎重な人間で、なにをその目で見たか、具体的なことは語らなかった。だが、ふだん慎重な人間が、確信をもって言うので、伏標はよほどたしかな根拠があってのことであろうと思った。
「それでは、あたってみましょう」
そう答えたが、伏標も慎重を期して、ことを急ごうとしなかった。まず一しょに酒を飲んだ。──前にくらべて、酒癖がひどく悪くなっていた。
あきらかに自暴自棄の深淵にのめりこんでいる。自滅もとより覚悟のまえだから、どんなことでもやりかねない。
「おぬしがその気になりさえすれば、曹家を相続できる可能性がないではない。……しかし、そのためには、おぬしを相続人からはずした人間に、ちょいと|退《ひ》いてもらわねばならぬが」
「わしのおやじのことか? おやじなんぞクソくらえ! ぶっ殺してやる! しかし、あの|狸《たぬき》おやじは、なかなか殺せんぞ。……残念じゃが、わしの力にあまる」
曹丕はそう言って、杯の酒をぐいと飲み干した。
「むろん、一人や二人の力では、どうにもならぬであろう。しかし、力を集めたなら……」
「力? そんなものがどこにあるのだ? 魏公より強い力が……」
「ある。……たとえば、申すも|畏《おそ》れ多いが、朝廷にも力がないわけではない。天子は討逆の詔勅を出すことができる」
「うーむ、それはそうだが、はたして、そんな詔勅が出せるのかなあ? はっきり出せるとわかれば、わしはその力をかりようぞ」
「いまの言葉、まことか?」
「おう、言うにゃ及ぶ。……ただし、討逆詔勅が出るという保証はあるか? その証拠は?」
「疑うなら見せてやってもよい」
「うん、見たいものじゃな」
と、曹丕は酔眼をこすった。
伏標が見せてやろうと言ったのは、十年以上もまえに、伏皇后が書いた二枚の密書のなかの一枚であった。いうまでもなく、皇后の父はそれを火中に投じたので、その一枚とは皇后の叔父伏望に宛てたものである。
その密書は、これまで大きな役目をはたした。伏標が打倒曹操の組織にはいったのは、伏氏の一族であるからだけではない。皇后の密書を見せられたからなのだ。
──畏れ多いことだ。……死力を尽しても、天子を抑えつけている曹操を除かねばならぬ!
皇后の密書を読んで、伏標は全身のふるえが、しばらくとまらなかった。それだけに、彼はその密書の威力を信じた。
翌日、伏標はそれを借り出して、曹丕に見せた。朝だというのに、曹丕は酒くさい息をしていた。
「どうじゃな?」
皇后の密書を読む曹丕の顔を、伏標はのぞきこもうとした。その|刹那《せつな》、曹丕はふいにからだを起こし、伏標を蹴とばした。
伏標はその場にたおれ、急いで起きあがろうとした。だが、それよりもはやく、曹丕は腰をひねった。腰に|佩《お》びた剣が一閃した。
伏標の額が血に染まった。
「な、なんだ……」
信じられないといった表情である。つぎの瞬間、その表情も消えた。曹丕のつき出した剣先が、伏標の胸をまともにえぐったのである。
「これが証拠だ。……」
曹丕は皇后の密書を拾いあげて、そう呟いた。──
建安十九年十一月のことであった。
御史大夫(副丞相)が節(天子から全権をゆだねられたしるし)を持ち、皇后にその璽綬(印と紐。皇后は白玉赤綬)を返還するように命じた。
それは皇后の位を追われることを意味した。
詔にいう。──
……皇后の寿は、卑賤より高貴の地位にのぼり、|椒房《しようぼう》(皇后宮)におること二十年になるが、|任《にん》と|★[#女+以]《じ》(任は周文王の母、★[#女+以]は周武王の母)の美徳なく、身を|謹《つつし》み|己《おの》れの福を養うに乏しく、陰で|★[#女+戸]害《とがい》(嫉妬の害心)を|懐《いだ》き、禍いの心を|苞蔵《ほうぞう》した。これでは以て天命を|承《う》け、祖宗を奉じることができない。よろしく皇后の璽綬を返還し、中宮に|退《さ》がっておるべし。|嗚呼《ああ》、|傷《いた》ましい哉!
尚書令の|華★[#音+欠]《かいん》が、兵を率いて、皇后を皇居から連れ出すためにやってきた。
皇后は髪も|櫛《くし》をいれていない。そして靴もはいていない。「|被髪徒跣《ひはつとせん》」は、罪を待つ婦人のすがたであった。
皇后は泣きながら、皇帝に別れを告げ、
「わたくしの命は、もはやこれまででございましょうか? 陛下のお情けをもって、助かることはできないのでございましょうか?」
と言った。
献帝は力なく答えた。──
「わしの命さえ、いつまでもつか、自分でもわからないのだよ。……」
皇后は|暴室《ぼうしつ》にいれられた暴室というのは、罪のある宮女をおしこめる、皇宮婦人刑務所のことである。
伏皇后は暴室のなかで死んだ。死んだ日時や死因は、歴史に記録されていない。おそらく入獄と同時に、毒を盛られたのであろう。
伏皇后の生んだ二人の息子も毒殺された。
この伏皇后事件によって、反曹グループは、いも|蔓《づる》式に検挙された。伏氏一族とその徒党で、処刑された者は百余人にのぼった。
反対派はこうして一挙に粛清された。
もはや曹操に反対しようとする者はいなくなった。
「おそろしいことでございます。人びとはみなそう申しております」
粛清劇が一段落して、曹操がこんどの事件の反響をきいたとき、|蔡文姫《さいぶんき》はそう答えた。琴の名手である彼女は、琴のしらべで、曹操の心を慰めるだけではなく、一般の庶民や下層の士大夫の動静を、彼のために調べて報告したのである。
「なにがおそろしいのか? 罪があれば罰せられる。古来からそうであったのだ」
曹操は不機嫌そうに言った。
「人びとがおそれていますのは、どのようなことが罪になり、どのようなことが罰せられないか、けじめがつかないことでございます」
蔡文姫は、おめず臆せず言った。
「そうか。……法律を整えねばならぬのう。それから法官も、しっかり教育しなければならぬ。……人びとの命がかかっておるのだから」
曹操はうなずきながら言った。
|理曹掾属《りそうえんしよく》という、法律専門の官職が新しく置かれたのは、この年の末のことであった。
年が明けて、建安二十年(二一五)の春、さきに後宮にはいっていた曹操の次女の節が、皇后に立てられた。
──ははぁ、それでまえの皇后さまが邪魔になったのじゃな。……わしらにだって、それくらいは読めるわ。
──しーっ、声が高い、声が高い。……
人びとは、あまり声を低めもせずに、そんなことを言い合った。蔡文姫は、そんなやりとりをきいても、曹操には報告しなかった。また報告したいと思っても、曹操は多忙をきわめていた。
張魯の率いる、漢中の五斗米道王国に、兵を進めることが決定した。遠征軍の編成で、曹操は|寧日《ねいじつ》なかった。
「このたびは、植も従軍せよ」
曹操は曹植に言った。
このまえの対孫権戦で、曹操が親征したとき、彼は曹植に留守を命じた。
(こんど、植を★[#業+おおざと(邦の右側)]にとどめては、ことがうるさくなろう)
曹操は植と洛女の仲を察していた。とりあえず、植を彼女のいる★[#業+おおざと(邦の右側)]からひきはなしたほうがよい。
「ありがとうございます」
曹植は心からよろこんでいたようだった。彼にしても洛女のいる★[#業+おおざと(邦の右側)]からはなれたかったのである。ここにいては、苦しいばかりであった。
「戦いらしい戦いはないかもしれぬがのう」
と、曹操は言った。
彼は少容の工作に期待をかけていたのだった。──
作者|曰《いわ》く。──
曹丕が正式に太子となったのは、建安二十二年で、伏皇后事件の三年あとのことであった。したがって、それまでは曹操も、後継者をきめかねていたとみてよいだろう。とうぜん、曹丕と曹植とのあいだに、相続争いがあったはずだ。当人同士よりも、その側近が争いに熱中したことは想像できよう。
建安十九年は、伏皇后事件もあったが、曹家のなかでも暗闘のつづいた暗い年であったはずだ。
[#改ページ]
|悲風《ひふう》が|鳴《な》る
軍に従いて|函谷《かんこく》を|度《わた》り
馬を|駆《か》りて|西京《せいけい》を|過《す》ぐ
山と|岑《みね》は高きこと|極《きわ》まり無く
|★[#さんずい+脛の右側]《けい》と|渭《い》は|濁《だく》と|清《せい》を揚げり
…………………………
父曹操の西征軍に従軍した曹植は、古都長安をあとにしたとき、|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》にいる|丁儀《ていぎ》と|王粲《おうさん》に贈る詩をつくった。
★[#さんずい+脛の右側]水という河は水が濁っており、渭水は澄んでいる。この二つの河は長安の近くで合流し、さらに東流して、|潼関《どうかん》のあたりで黄河に流れこむのである。
曹操の西征軍は、渭水にそって西進した。それはほぼ現在の鉄道のルートにひとしい。戦前、|隴海《ろうかい》鉄道は西安(長安)までであったが、戦時中、|宝鶏《ほうけい》まで延長された。天津や上海など沿海地方の重要な工場は、この宝鶏市近辺に疎開されたのである。解放後、鉄道はさらに西のかた蘭州にのび、|新疆《しんきよう》ウイグル自治区のウルムチにまで達した。また宝鶏からはもう一本の鉄道が南へのび、四川(巴蜀の地)につながっている。これによって、宝鶏が交通の要衝であり、四川への入口であることがわかるだろう。
後漢末、宝鶏は|陳倉《ちんそう》と呼ばれていた。
陳倉は四川への入口といったが、正確には外門にあたる。門をはいって玄関へ行くわけだが、四川への玄関口は漢中である。
漢中の五斗米道王国を攻めるために、曹操は渭水にそって西へ進み、まず陳倉をめざした。
その行軍の道すがら、二十四歳の曹植は詩などを作っていた。彼だけではない。彼の父の曹操も、筆のさきをなめながら、詩想をねることが多かった。──この行軍は、いささか緊迫感を欠いているようだった。
五斗米道という道教集団のあるじ|張魯《ちようろ》を討とうとして軍を進めている。だが、その張魯の母親の少容が、途中で曹軍を待ちうけて案内しようというのだから、緊迫感を欠くのも無理はない。
ときは建安二十年(二一五)のことだった。
「教母はどこで待つと申しておったのか?」
と、曹操はまた訊いた。
(父上も老いた。……)
と、曹植はおもった。長安を出たあと、なんどもおなじ質問をくり返している。
「少容さまからは、五丈原でお待ちしているとの連絡がございました」
主簿(秘書)の司馬仲達は、しかつめらしい顔で、おなじ返答をくり返した。
「ほう、五丈原か。……」
十九年後に、|魏《ぎ》と蜀との戦場となり、一躍、天下にこの地名が知られるようになるなど、むろん曹操は思いも及ばない。司馬仲達もその戦いで自分が総司令官となり、死せる諸葛[#葛のヒは人]孔明に翻弄されようとは知る由もなかった。
「はい、さよううけたまわっております」
「五丈原……風変りな名じゃな。ひろさが五丈しかないのかな?」
と、曹操は言った。
「まさか。……おそらくその原の高さでございましょう」
と、司馬仲達は答えた。答えている途中、彼はちらと目を曹植のほうに走らせた。そして、|眉《まゆ》をぴくとうごかした。
昨日、司馬仲達は曹植にむかって、
──お上は、ちかごろおなじことを、なんども申される。なにか遅疑なすっておられるようです。どうせ無難な決定におち着かれるのでございますのに。
と、ぼやきの口調で言った。
ただのぼやきでないことを、曹植はかんじ取っている。
(全身、智恵のかたまりのような人物だ)
曹植は司馬仲達をそう評していた。すべての言動に、それぞれ意味が埋められている。三十七歳の司馬仲達は、ちょっとしたエネルギーも浪費しない人物なのだ。ぼやきにも意味があるはずだった。
──お上はまだ正式に後継者をきめておられませんが、いろいろお迷いになっても、けっきょくは長男の|丕《ひ》さまをおえらびになるでしょう。そのことをよくお考えなさいませ。魏公二代目の地位は、ぼんやりと待っていてころげこんでくるものではありませんぞ。
曹植は司馬仲達のぼやきを、そう読んだ。そして、いまは目くばせである。
──お上は|耄碌《もうろく》されておられますぞ。もはやかつてのあの怖ろしい曹操ではありません。魏公の地位が欲しければ、突撃なさいませ。相手は意外に|脆《もろ》いでしょう。……
曹植はいそいで視線をそらした。いくらなんでも、これは深く読みすぎているようだ。またそう読んだについては、自分の心の底に、父への反抗──権力ヘのあこがれがひそんでいるのかもしれない。彼はそれに気づいて、自分が怖ろしくなった。
(わが心に魔性がひそんでおる。……)
その魔性をなだめるために、彼は詩文をつくるのである。
司馬仲達が退出し、曹操が奥にはいり、ひとりのこされた曹植は、しらずしらずのうちに筆をとりあげて、そのさきに舌をあてていた。それは父の癖であった。──
(おれはあの父に似ているのだ。……)
ゆたかな感情をもちながら、その反面、冷酷無情にもなれる。これまで曹植に冷酷な言動があったのではない。だが、彼はいざとなれば、自分が徹底して情け無用になりうると信じていた。
世間では兄の曹丕を、非情の人物とみているようだった。それは世評にすぎない。ほんとうは、自分のほうがもっと非情なはずだ。
(兄は自分の非情をおそれていない。それはたいした非情ではないからだ)
曹植はそう考えるのだった。
五斗米道教母少容と、父曹操のあいだに、なにか共通の秘密があるのではないか。──曹植は少年のころから、それをかんじていた。少容が来ると、彼の父は余人をまじえず、二人きりで話し合うことが多かった。
五丈原に宿営した夜、はたして少容は連絡どおり本陣を訪ねた。だが、曹操は少容の話をきく席に、息子の曹植と主簿の司馬仲達を呼んだのである。
「さぁ、話してもらおう」
曹操がそう言ったとき、少容もいささか驚いたようだった。彼女の話の内容は、極秘のことだったのにちがいない。
「よろしゅうございますか?」
すこし低い声で、少容は訊いた。
「かまわぬ。この二人にもきかせておくのじゃ」
と、曹操は答えた。
その理由は述べなかったが、曹植も司馬仲達も、おなじような推測をしたのである。
ことし還暦をむかえた曹操は、老いを自覚しているのだろう。さらには、「死」も彼の意識にあったかもしれない。極秘事項を一人の胸におさめておくことに、不安をかんじはじめたのではなかろうか。理解力も記憶力も衰えたと知れば、他人のそれを頼りにしたくなるはずだった。
少容は漢中の状況を語った。──
彼女はこのときになっても、漢中の息子張魯のところへ行こうとはせず、愛弟子の陳潜を使者として送ったのである。陳潜は張魯とは兄弟同様に育てられた。少容はあれ以来、漢中の地を踏んでいないが、陳潜はなんどか張魯とも会っている。
陳潜は少容の意をうけて、張魯と|胸襟《きようきん》をひらいて語り合った。
──漢中の五斗米道は、もはやわし一人の意思でうごく組織ではなくなった。
張魯はそう言って、ため息をついたという。
組織が大きくなれば、その経営にどうしても分業化はまぬがれない。これは政治の組織であろうと、宗教の組織であろうと、かわりはないのである。ことに五斗米道は、宗教の組織であると同時に、行政組織でもあり、軍事組織でもあったので、よけい複雑なのだ。
──五斗米道ぜんたいの生か死か。
と|激昂《げきこう》し、曹操の西征軍と徹底的に戦うことを主張するグループもいた。
──かくなるうえは、五斗米道の宗教としての組織の自主独立が認められるという条件で、政治や軍事面のそれは|覇者《はしや》である曹操にゆだねよう。すべてを失うよりは、肝要なものだけでも残るように考えるべきだ。
と唱える人たちがいた。こちらのほうが多数なのだが、前者のグループの声が高いため、この譲歩派は威勢があがらない。
──五斗米道が真っ二つになる。
張魯はそれをおそれた。
とはいえ、張魯の発言力は、漢中の政権のすべてをカバーできない。そこで彼は苦肉の策に出た。弟の張衛を、強硬派のリーダーに仕立てたのである。有力な分派を、野心家の手に渡すのは危険であった。それよりは、気心の知れた弟にまかせたほうが安全だ。
五斗米道の強硬派は、曹操の進撃を防ごうとする。漢中を打って一丸としても、曹操を防ぐのは至難であるのに、二つに割れた一派だけの力では、どうにもならないだろう。
──張衛はいかにして勝つかというよりも、いかにしてうまく負けるか、そのことに力をそそぐでしょう。
と、陳潜は報告したのである。
損害をできるだけすくなくして負ける。それは指揮官の張衛が考えているだけで、彼の率いる部下は、曹軍をうち破るつもりでいたのはいうまでもない。
「は、は、は、われらも、それでは戦いにくいことであるぞ」
曹操は笑いながら言った。
和平派のほうが数が多く、強硬派は声が高いだけである。強硬派に痛撃を与えると、その声は小さくなり、平和的な交渉によって、漢中接収ができるはずだ。しかし、少容とのこれまでの関係もあって、曹操としても、あまりひどい叩き方はできない。それでやりにくいといったのである。
「手数をかけて、申し訳ありませぬ」
と、少容は頭をさげた。
「これまで、さまざまな戦さをしてきた。手際よく戦ってくれよう」
曹操はうなずいたが、その言葉はやや舌がもつれたようにきこえた。そして、司馬仲達はまたしても曹植のほうに、目を走らせた。曹植は我が心のなかの魔性が、揺りうごかされるのをかんじた。
曹植は目をとじた。
|嫂《あによめ》の|甄《しん》氏の面影が、まぶたのうらにうかんだ。そして、そのうえに、胸に矢を射立てられた父のすがたが重なった。矢は二本立っている。一本は司馬仲達が射たのであろうか。もう一本は曹植が放ったものにちがいなかった。
曹植は目をひらいた。──老いた父が、口をもぐもぐさせているすがたが、彼の目のまえにあった。
「わかった、わかった。うん、わかったぞ」
曹操はおなじことをなんども口にして、くり返してうなずいていた。自分にたいして、うなずいている。自分の言葉にうなずくのは、一種の老化現象であるということを、曹植はいまは亡き名医|華佗《かだ》からきいたおぼえがあった。そのとき、父もその場にいたが、いま華陀の言葉に思いあたらないのだろうか?
「では、わたくし、|退《さ》がらせていただきますが、この五丈原に住む康国の人たちの歌舞をごらんになりませぬか。もしよろしければ、わたくしが案内いたしますが」
と、少容は言った。
康国──サマルカンドの人たちが、この五丈原に住みついていた。彼らはこの地で、ひそかに|玻璃《はり》の製造をしていたのである。シルクロードは、東から西へ絹が運ばれて行く道であった。反対に西から東へ運ばれるものもある。その一つが仏教だが、ガラス製品も西方の産物であった。遠路はこばれるので、高価なのである。ガラス製品のような、重くてかさばり、こわれやすい品物は、運搬がたいへんであった。そこで、長安からほど遠くないこの五丈原に、サマルカンドの人たちが、秘密のガラス工場をつくり、「西域渡来」として、ここから長安へはこんだのである。
康国だけではなく、西域の人たちは歌舞音曲に長じている。行軍の疲労をいやすために、西方の歌舞鑑賞はいかがであろうかと、少容は誘ったのである。
「異国の歌舞はおもしろかろうな。……うん、たしかにおもしろかろう。そうじゃな、しかし、わしは疲れたわい。……見たいことは見たいが……ま、よそう。よすことにしよう」
と、曹操は言った。ことわるにしても、彼らしくなく、あまり歯切れのよい返事ではなかった。
「植さまは?」
と、少容は訊いた。
「そうじゃな。……」
曹植は音楽が大好きであった。これまできいたことのない、西方の歌舞音曲は、ぜひともききたいと思う。だが、父が疲れたようすをしている。父が行かぬというのに、自分が行ってもよいのだろうか? 彼はふとためらった。
「行きなされ。またとない機会でありますぞ。康国の音曲など、めったに耳にすることはないでしょう」
と、司馬仲達がすすめた。
「植の好きな道だ。行くがよい」
と、曹操も大儀そうに言った。
「はい、それでは、少容どの、案内していただこうか」
と、曹植は腰をあげた。
五丈原は日暮れどきであった。真っ赤な大きな夕陽が、大空を染めながら、西の山に沈もうとしていた。西の山なみは、岐山と呼ばれる。渭水は北にあり、その彼方には|積石原《せきせきげん》と呼ばれる平原がひろがっている。
曹植は少容からすこしはなれて歩いた。彼女の横顔がみえる。老いてはいるが美しい。このような美しい老女を、彼はこれまで見たことがない。老いはただちに醜悪と思っていたが、例外もあるのだ。──そんなことを考えていると、またいつしか嫂のすがたが、脳裡にうかんでくる。曹植はそれを払いのけるように、
「少容どの、父上と久しぶりにお会いなされて、いかが思いましたか?」
と訊いた。
「はい。……ますます気力がこもって、最高の状態でおわします。慶賀至極でございます」
と、少容は答えた。
「老いてはおらぬか?」
「どういたしまして。心は壮者をしのぐほど、はげしく動いておられます。動きすぎるのではありませぬか。……お心強いことです」
曹操が陳倉から散関を出て、陽平に迫ったのは、その年の七月のことであった。★[#業+おおざと(邦の右側)]を進発したのは三月だから、すでに四カ月が経過している。
そのあいだに、荊州をめぐって、孫権と劉備の両陣営で、はげしい外交戦が展開されていたのである。
荊州問題とはなにか?
荊州のもとのあるじは劉表であった。現在の湖南、湖北にかけてのこの豊かな地方は、漢末の動乱期には、中原にくらべて戦乱がすくなく、人口も多かったのである。劉備はこの地に亡命し劉表の客分になっていた。ところが、曹操の来攻、劉表の死亡などによって、劉備が荊州の兵をあわせ、東の孫権と組んで曹操にあたった。
赤壁の戦いによって、曹操が兵を退いたあと、劉備と孫権は同盟関係はそのままながら、荊州をめぐって、複雑な問題がおこった。孫権陣営でも、反劉備の|周瑜《しゆうゆ》と、親劉備の|魯粛《ろしゆく》とは、荊州問題では意見がちがっていた。周瑜が死んだあと、孫権側では魯粛が主導権を握ったので、劉備はやっと荊州全域を領有することができた。
魯粛の親劉備論の根拠は、劉備を|盾《たて》にして、曹操の圧力をかわそうとするところにあった。孫権陣営の前方で、曹操を防いでくれるのだから、全荊州を与えて、強力になってもらわねばならない。
とはいえ、それも程度の問題で、劉備があまり強くなりすぎても、孫権側としては困るのである。諸葛[#葛のヒは人]孔明の「天下三分の計」によって、劉備は荊州と益州(巴蜀)を支配することをめざした。すなわち、関羽を荊州にとどめて、あくまでも荊州の領有をつづけ、劉備みずからは巴蜀に兵を進めたのである。しかも巴蜀への進駐は、劉備はもと孫権と共同でおこなおうと提案したものだった。それを劉備は独力で巴蜀を取った。出し抜いたのである。
──話がちがうではないか。
と、孫権側は不満である。
そもそも赤壁戦のとき、孫権、劉備は同盟していたが、ほとんど孫権軍の独力で勝ったのだ。ただ曹操の再南下にそなえて、孫権側は劉備に荊州を貸したのにすぎない。いま巴蜀を取ったのだから、貸した荊州は返してもらおうではないか。──これが孫権側の言い分であった。
──貴殿はすでに益州を得られたのだから、荊州を返してほしい。まず長沙、零陵、桂陽の三郡の返還を要求する。
と、申し入れた。
この要求の申し入れをしたのは、諸葛[#葛のヒは人]孔明の兄の諸葛[#葛のヒは人]|瑾《きん》だったのである。兄弟は両陣営にわかれ、荊州問題について、正反対の立場で交渉をしたのだった。
荊州には七郡がある。そのうちの三郡だけの返還を要求したのだから、呉(孫権)側にとっては、かなり遠慮したつもりであった。だが、劉備側にしてみれば、
(なんだ、曹操の勢力圏と境を接した北方をのこして、安全な南方だけ引き渡せというのか。虫の好い話ではないか)
という気持がある。
──われらは涼州を取るつもりである。涼州を手に入れたなら、荊州全土をお返し申し上げよう。
と、呉側に返事した。呉の孫権は怒った。
──うぬ、ぬけぬけと言い逃れをしおって。……この返答は引きのばしではないか。それなら、こちらにも覚悟はあるぞ。
と、返還要求をした三郡に、それぞれ長官を任命した。三長官はなんとかして、任地へ行こうとしたが、関羽はそれをことごとく追い払ってしまった。
「関羽のひげめ、やりおったな!」
孫権は激怒して、二万の兵員を動員し、|呂蒙《りよもう》をその総司令官に任命した。この呂蒙軍は、さきに返還要求をした三郡を、力ずくで奪い取るために進発したのだった。孫権は同時に、魯粛に一万の兵を授けて、益陽に駐屯させた。これは関羽の足を釘づけにするためである。
呂蒙は、三郡にいる劉備側の太守にたいして、降伏勧誘状を送った。北方にいる関羽は、益陽の魯粛軍にはばまれて、南方三郡へ救援の兵を送ることができない。巴蜀の地から、すぐに援兵が来ることはそれ以上に考えられないことなのだ。
長沙と桂陽の両郡の太守は、あきらめて呉に|降《くだ》った。零陵太守の|★[#赤+おおざと(邦の右側)]普《かくふ》だけは、頑として降伏要求を拒否したのである。そこで、呂蒙は零陵に兵をむけようとした。だが、荊州問題がこじれたとみるや、劉備は巴蜀から、|急遽《きゆうきよ》、公安まで出むいた。孫権は呂蒙に、
──零陵はそのままにして、魯粛の救援にむかえ。
という命令を出した。呂蒙はそのまま零陵をすてておくのが惜しく、★[#赤+おおざと(邦の右側)]普の友人の|★[#登+おおざと(邦の右側)]玄之《とうげんし》を使って、もういちど降伏を説得させた。その説得にあたっては、劉備側の状況を悲観的に説明したので、さすがの★[#赤+おおざと(邦の右側)]普も、我を折って降伏することにした。
劉備は荊州問題で、公安へ急行しているため、巴蜀には諸葛[#葛のヒは人]孔明一人が残っているのにすぎない。
曹操はそんなとき、巴蜀の玄関口である漢中にむけて、兵を進めていたのである。
──曹操、西征の軍を起こす。
というしらせは、とうぜん荊州問題でもめていた、孫権、劉備両陣営にはいった。双方とも驚いたが、劉備のほうがショックは大きい。軍事をあまり得意としない諸葛[#葛のヒは人]孔明が留守番をしている巴蜀の、玄関口まで曹操が押し寄せようとしているのだ。荊州でもめているうちに、かんじんの巴蜀を奪われてしまっては、なんにもならないのである。
両者は和睦した。和平の条件は、曹操の西征で、より大きな衝撃をうけた劉備のほうが、より不利であったのはいうまでもない。
孫権は江夏、長沙、桂陽の三郡を領有することになった。最初の要求の三郡とは、零陵と江夏がいれかわっただけである。
荊州分割による和平が成立すると、劉備と孫権は再び同盟関係を回復した。北の超大勢力である曹操が、劉・孫同盟の敵であった。孫権は東のかた合肥に出兵し、曹操の背後をおびやかして、巴蜀の玄関口まで行った曹操西征軍を|牽制《けんせい》しようとしたのだ。
劉備がひき返したのはいうまでもない。
張魯の弟の張衛は、五斗米道教団のなかの強硬派を率い、陽平関に長い|砦《とりで》を築いて、曹操軍を防ごうとした。強硬派の集めた兵は数万といわれた。
「陽平は、またの名を陽安と申します。平とか安とか申す字でわかりますように、南北の山が遠く、平地になっておりまして、攻め易く、守り難い土地でございます」
捕虜がそう言ったので、曹操は上機嫌であった。
「ひとひねりしてやるか。……」
彼は腹を|撫《な》でながら言った。重いのをきらって、よほどのときでなければ|甲冑《かつちゆう》を身につけない。これまではそんなことはなかったが、老齢のせいであろう。
息子の曹植は、そんな父のすがたを、じっとみつめている。主簿の司馬仲達も、それとなく曹操のようすに目をそそいでいた。
背の低い曹操は、それを意識してか、胸を張り、大股でゆっくりと歩いたものである。それがこの出陣では、背をかがめて、よちよちと歩くようになった。大股で歩こうとすれば、足がもつれるのであろう。
曹植はときどき司馬仲達と目が合った。
(危なっかしいですな。……)
と、司馬仲達は言っているようだった。
たしかに危なっかしい。肉体的に頼りなげにみえるだけではない。精神の衰えも目立つ。たとえば陽平関にかんしても、捕虜からえた情報を疑いもせずに、それをもとに陣立てして現地へむかった。平地で攻め易いどころではない。陽平関は山の重なりあった、|峻険《しゆんけん》の要害であったのだ。
「ひとの言うことは、あてにならぬのう。……」
老将は陽平関のけわしい山を仰いで、ため息をついて言った。
(大丈夫かな?)
幕僚たちも、はらはらしているようだった。
──|連峯《れんほう》、|崖《がい》を接し、其の極を|究《きわ》むる|莫《な》し。
と地理書にもしるされているが、どこに頂上があるかわからない山塊群である。平地戦のつもりだったのが、山岳戦になってしまった。しかも、張衛は山上に砦をかまえていたのだ。
「これはいかん。これはいかんぞ。……」
胡床に腰をおろし、曹操は貧乏ゆすりをしながら言った。
少容を通じての説得がほぼ成功しているので、強硬派を一撃すればことはすむ。そう思っているので、曹軍は決戦に臨む心構えがなかったようだ。思いがけない山岳戦となって、曹軍は苦戦を強いられた。山上では、負傷者や落伍者が多く、張衛の|山寨《さんさい》はどうしても抜けない。
「いかん。……兵を|退《ひ》け。|許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]《きよちよ》よ、山上の兵を連れて帰れ。こんなところで、兵力を損じては、勘定があわぬ」
曹操は退却を命じた。親衛隊長の許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]は渋い顔をして、
「はっ、かしこまりました。山上の兵を呼び戻しに行くにも、やはりいくらか兵を連れて参らねばなりません。しばらくご猶予のほどを」
と言った。
「わかった。なるべく早くせよ」
曹操は目をしばたたいた。すでに日は暮れかかっている。許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]は|不貞腐《ふてくさ》ったように、ゆっくりと構えた。彼が数千の兵をあつめて、山上へ進発したのは、落日が山に半ばかくれたころだった。
ところが、深夜、陽平関の山々に、大|喊声《かんせい》がわきおこった。ときの声のようにもきこえたし、悲鳴のようにもきこえた。暗いので、どうなっているのか、よくわからない。総大将の曹操も、おっとり刀で本陣に馳せ参じた部将たちに、
「いったい、あれはなんだ? 許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]はまだ帰ってこないのか? 山中で囲まれて、全滅になったのじゃあるまいか?」
と、心細そうに訊くありさまだった。いくら訊かれても、山麓にいる部将たちに、事情がわかるはずはない。
「夜明けまでお待ちくださいますよう。……ともあれ、物見の兵を出しますほどに」
と、主君をなだめるのが精一杯であった。
翌日、早朝、山にはいった許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]からの急使が本陣にたどりつき、ようやくことの次第があきらかになった。
「許将軍は、撤退のため、山上の兵を収容しようとしたのでございますが、暗闇のこととて、道に迷って、張衛の本陣に出てしまいました」
と、その急使は報告した。
「なに?」曹操は顔色を変えた。──「で、許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]はどうした?」
許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]に与えられた任務は、山上の諸地点で苦戦している兵士たちを拾い集め、山をおりてくることなのだ。そのとき予想される敵の追撃を退けるため、二、三千の兵を率いていた。だが、張衛の本陣には、すくなくとも万をかぞえる兵がいるはずなのだ。許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]があろうことか張衛の本陣に迷い込んだという話をきいたとたん、不吉な想像をしたのは、なにも曹操一人ではなかったであろう。
「許将軍も驚きましたが、相手もそれ以上にあわてふためきました」
と、急使は手のひらで額の汗を|拭《ぬぐ》って言った。
「それでどうなったのか?」
いらだたしげに曹操は訊いた。
「敵が逃げ出したのでございます。|総帥《そうすい》の張衛をはじめ、本陣にいた幹部たちが、まっ先に逃げましたので、兵士たちも先を争って逃げてしまいました」
「それで?」
「許将軍はどうすればよいか、いささか迷っておられましたが、とにかく敵が逃げるので、深追いしないていどに、一応、追撃することにいたしました。……すると、敵の主力は、もう途中で降伏しましたので……はい、許将軍はいま、彼らの降伏を受けることに忙しく、すぐには帰陣できぬとのことでございました。……」
「ほう。……敵が降ったか。……」
「全軍あげて降りました」
一座のなかに、どよめきがおこった。
曹軍はこれまで、さまざまな戦いを経験した。しかし、退却指揮の司令官が、道に迷って敵の本陣にはいり、敵が|狼狽《ろうばい》して降参したなどといった例はいちどもない。
「不思議な戦さであったな」
と、曹操は言った。
こうして曹軍は、陽平関を抜いた。建安二十年七月のことであった。陽平が陥ちたというしらせをきくと、五斗米道の本拠の漢中は、もう戦意を喪失してしまった。もともと強硬派が陽平へ出払っているので、漢中に残っていたのは、和平派ばかりだったのである。
曹操軍は陳倉(宝鶏)から陽平関まで、ほぼ現在の鉄道のルートを通って、|秦嶺《しんれい》山脈を越えたのである。陽平関から漢中城へは、東へほとんど一直線で、約百キロの距離があった。
張魯は漢中城から退去した。
降伏の談判をするのに、冷却の「距離」をおいたほうが都合がよいと考えたのである。張魯の部下のなかには、漢中城の宝庫や物資貯蔵庫を焼き払うことを進言した者もいた。
「いや、それらはわれわれのものではない。五斗米道の信徒のものであり、ひいては国家のものである。われわれが勝手に処分することはできぬのだ」
張魯はそれを退けた。
彼の降伏については、まったく問題がなかった。張魯には鎮南将軍の称号が与えられ、一万戸の|食邑《しよくゆう》を許され、五人の子がすべて侯に列せられたのである。
曹操の漢中進出によって、劉備は荊州の三郡を割譲するという条件で、孫権と和を結び、急いで成都に帰った。孫権のほうも、曹操の留守を狙って、東のかた合肥城を包囲した。十万の大軍を動員しての包囲戦であったが、合肥城を守る曹操軍の将軍は、|張遼《ちようりよう》、|李典《りてん》、|楽進《がくしん》ら、猛将ぞろいである。七千の守兵をもって、よく十万の孫軍の攻撃に耐えた。
囲むこと十余日、なおも陥ちないので、孫権は兵を退くことにした。
いっぽう、蜀に戻った劉備も、曹操に奪われた漢中を取り戻すべく、本格的な準備をはじめた。いったい、劉備が蜀にはいったのは、|劉璋《りゆうしよう》に頼まれて、
──漢中の賊(すなわち張魯)を討つ。
ためであった。劉備は五斗米道の張魯を放置して、まず成都に兵をむけ、蜀の地をわがものにしたのである。だが、漢中の五斗米道を無視したのではない。蜀への玄関口であるから、無視できるものでもなかった。
翌建安二十一年、春二月、曹操は漢中から★[#業+おおざと(邦の右側)]へ|凱旋《がいせん》した。そして、五月には、朝廷から魏王に立てられた。これまでは魏公にすぎなかった。公から王への飛躍は、|未曾有《みぞう》のものといってよい。
漢は建国以来、皇族以外の人間を王に立てないというしきたりがあった。建国当初、一人だけ人臣の身で王に立てられた者がいた。長沙王の|呉★[#くさかんむり+内]《ごぜい》である。その長沙王も、五代つづいたあと、後嗣がなく、国が除かれた。それ以来、王といえば、かならず皇族であった。
曹操は、皇族に非ずして、王となった。
ともあれ、この建安二十一年は、三国志のなかでも、めずらしく動乱のすくなかった年である。曹操は王に昇進し、もっぱら内政に力をいれていた。孫権も合肥の囲みをといたあと、やはり内部の結束につとめた。劉備も前述したように、漢中奪取のための準備に、忙殺されていたのである。
曹操は★[#業+おおざと(邦の右側)]へ凱旋するにあたって、漢中の守備を|夏侯淵《かこうえん》にまかせた。都護将軍夏侯淵の下には、|張★[#合+おおざと(邦の右側)]《ちようごう》、|徐晃《じよこう》、|杜襲《としゆう》の諸将がいた。
公子の曹植も、主簿の司馬仲達も★[#業+おおざと(邦の右側)]に帰還した。父が王になったので、曹植も公子から王子に昇格したわけだ。
──曹家も王となった以上、格式からしても王太子をきめねばなるまい。……
人びとはそれを噂の種にした。
王太子は、魏王家をつぐべき後継者である。そして、魏王家に仕える家臣たちは、王太子問題をめぐって、二派にわかれた。曹丕派と曹植派である。
曹操自身、二人の息子のいずれに魏王家を相続させるか、まだ迷っていた。
曹王家の後継者問題は、皇太子、すなわち漢王朝の後継者問題よりも重大事であるといえよう。漢の皇帝はただの飾りにすぎない。曹操がすべての権限を掌握していた。飾りのあとつぎよりも、実力者の相続のほうが、問題は大きいのである。
──やっぱり|丕《ひ》にするか。……
曹操は迷った末、やはり長男の曹丕を後継者にえらぶことにきめた。彼はもう六十二である。せめてもう十歳若ければ、漢にとってかわって、新しい王朝を創建することもできよう。しかし、いまとなっては、もうそんな大きな仕事はできない。新王朝創建は、つぎの世代の仕事になる。四百年もつづいた漢王朝をつぶすのは、容易ならぬことである。飾りものにすぎないとはいえ、天子を廃するのは、心理的に至難のことなのだ。心の強い者、非情の人物でなければできない。
それから考えると、曹操は自分の冷酷非情な面を、拡大してうけついでいる長男をえらばざるをえない。
この数年のあいだ、曹操はおなじ問題をなんども考え直し、そのたびにおなじ結論に達した。
西征から帰還してまもなく、曹操は三男の植を呼び、
「五丈原から連れ戻った康国の歌妓がいる。|箜篌《くご》(ハープ)をたくみに弾ずるが、わしはどうもあの楽器が気に入らぬ。手もとに置くつもりはない。おまえにやろう」
と言った。
「ああ、あの女でございますか」
「そうだ。箜篌だけではない。あの女の顔も気に入らぬ。じっと見ているうちに、孫権のやつを思い出す」
と、曹操は苦笑しながら言った。
そのサマルカンドの女は、なにやら難しそうな名前であったが、曹操は面倒なので、国の名をとって、|康姫《こうき》と呼ぶことにした。栗色がかった髪をもち、大きな目は|碧《あお》かった。曹操が孫権を思い出すのは、その目のせいだったのである。孫権の目もおなじ色をしていたので、彼は世間から|碧眼児《へきがんじ》と呼ばれていた。
「よろしゅうございますか?」
五丈原の軍中で、その女をみたとき、曹操はたいそう気に入ったようだ。息子の曹植には、それがよくわかった。曹植もその女の美しさに|惹《ひ》かれた。
(父と子は、美意識も似るものなのか。……)
彼はそのときの父の表情をみて、そう思ったものである。それほど気に入った女を、父は手ばなそうとしている。曹植にはそれがわからなかった。
「よいとも。……あの女はな、なみの女ではない。誰かにくれてやろうと思ったが、値うちのわからぬやつにくれてやっても仕方がない。おまえなら、あの女の真価がわかるであろう。うん、きっとわかる」
曹操はじっと息子の顔をみつめて言った。
「まだ弱年ゆえ、女の値うちはよくわかりませぬが」
と、曹植は面を伏せた。
「なんの、なんの。……若いときは、若者の見方がある。おまえならわかる。わかれば、|溺《おぼ》れるだろうな。……ま、遠慮せずに溺れるがよい。そう、女に溺れる、これまた楽しからずや。……」
曹操は目を細めて言った。
思わぬことであった。曹植は父から、サマルカンドの美女康姫をもらったのである。この女は、ハープの名人だが、声もよかった。サマルカンドの歌だけではなく、漢の歌もうたえた。高く、澄んだ声で、余韻がいつまでもあとにひいた。曹植は彼女の歌をきいて、うっとりしたものだ。
曹植がはじめて康姫に会ったのは、五丈原の本陣に少容が来て、その帰りに康国の歌舞音曲の催しに案内されたときだった。女ばかりのオーケストラのなかで、康姫は一ばん光っていた。
(康国にもいい女がいる)
彼はそう感心したものである。数日後、父がその女を連れて行くことにしたときいたとき、彼は、
(さすがに父は目が高い)
と思ったことだった。
──植は性に|任《まか》せて行ない、自ら|彫励《ちようれい》せず、飲酒節せず。……
曹植の性格について、正史に右のような記述がある。もともと詩人肌なので、ものごとにとらわれず、気ままなところがあった。しかし、それがひどくなったのは、漢中への西征に従軍してからである。その時期は、父から康姫をもらったときと一致する。
──遠慮せずに溺れるがよい。……
父の曹操は、彼に女に溺れることをすすめるような言葉を口にした。それを真にうけたのでもなかろうが、そのころから、曹植の無頼ぶりが目にあまるようになった。
ひるまから、酒のにおいをぷんぷんさせ、殿中を千鳥足で歩くようなことがしばしばあった。そんなとき、宮女などに出会うと、足をとめ、顎をひき、目をぎらぎら光らせた。みつめられた宮女は、身の縮むおもいがしたという。ときには、
「あれっ! こわい……」
と、思わず声をもらす女もいた。そんなとき、曹植は唇を大きく|歪《ゆが》めて、
「なんだ、この|醜女《しこめ》め! わしはな、康姫より美しい女でなければ寄せつけんのだぞ。おまえなんか、康姫の足もとにも及ばぬわ」
と、悪態をついた。
こんなふうだから、曹植の評判は、大奥ではきわめて|芳《かんば》しくない。
──酒狂王子。
という異名をとった。
「この大切なときに。……すこしは慎みなされ」
曹植派の丁儀や楊修がしきりに|諌《いさ》める。たしかに、王太子えらびの大切なときである。曹丕のほうにも、女や酒についてのスキャンダルがすくなくない。まるで負けまいとでもするように、曹植は酒色にふける。
「王太子に立てられるかどうかは、酒の量で競うものではありませんぞ」
と、丁儀はきびしい口調で言った。
「そうにらむな。おまえににらまれると、わしは妙な気になるのじゃ」
曹植は笑いながら言った。丁儀はすがめであった。すがめゆえに、これまでなんどもいやな目に|遭《あ》った。彼が曹植派の積極分子となったのは、べつに曹植の人柄に|惚《ほ》れこんだからではない。曹植のライバルの曹丕が憎かったからにすぎない。
丁儀の才能を認めた曹操は、いちど自分の娘を妻に与えようとしたことがある。それに反対したのが曹丕だったのだ。
──父上、それでは妹があまりにも可哀そうではありませぬか。丁儀のあのすがめをごらんなさい。いくらなんでもひどいじゃありませんか。
曹丕がそう言ったので、曹操もその話を進めなかった。丁儀はこのような内幕を知り、
──うぬ、五官中郎将(曹丕のこと)め! いまに仕返ししてくれるわ。
と心に誓ったのである。
それで、曹植を応援している。打倒曹丕のためなのだ。それなのに、かんじんの勝負がかかった時期になって、曹植がおかしくなったのである。
今日も曹植は康姫に箜篌を弾かせ、自分はそのそばに寝そべって、酒を飲んでいた。まだ正午前というのに、早くも泥酔状態になっていた。
「おい、康姫、おい……」
と、曹植は手をのばす。彼の指は、すこしはなれたところに坐っていた康姫の膝にふれた。
「まぁ、おたわむれを……」
康姫が箜篌の|絃《げん》から指をはなしたので、音の流れが急にとまった。
康姫の言葉には|訛《なまり》があった。中国に十数年住んでいたとはいえ、五丈原の秘密工房のなかで、ほとんど同国人に囲まれて暮していたのである。漢語の発音に、かなりの訛があるのはやむをえない。
「よいではないか。……」
曹植は|肘《ひじ》で床のうえを|漕《こ》ぐようにして、康姫のすぐそばまで寄り、彼女を横から抱こうとした。彼女はからだをくねらせてあらがったが、やがて曹植の胸のなかに顔を埋めて、|嗚咽《おえつ》の声をもらした。
「おお、辛いか? なにを泣くのか?」
と、曹植は怪しげな|呂律《ろれつ》で訊いた。
「康国へ帰りとうございます」
「ほう、故郷が恋しいか?」
「子供のころにはなれて、もう十数年になりますが、夢にも忘れたことはございません。御慈悲でございます。どのようなことでも、喜んでいたしますから、康国へ帰れるように、お計らいくださいませ」
「おまえは、しあわせ者じゃ」
曹植はそう言って、康姫を抱く腕に力をこめた。
「あ、痛い。……なぜわたくしがしあわせなのでしょうか? 不幸な女なのに……」
「なにが不幸なものか。……おまえには故郷がある。それ以上のしあわせがどこにある。このわしをみよ、このわしを……」
「殿にも故郷がおありです」
「いや、ないのじゃ。……帰るべき故郷が、わしにはないのじゃ。放浪しているのだ、このわしは。……いつまでも、見知らぬ他国の地をさまよっている。……」
感きわまって、曹植は大声をあげて|哭《な》いた。
曹植の邸内とはいえ、いろんな人が出入りする。彼のこのような自堕落な暮しぶりは、人の目につき、耳にはいり、それはひろく世間に伝わるのだった。
乱世の中休みのような建安二十一年は、またたくうちに過ぎ去った。
この年は、事がなかったのではない。表にあらわれないだけである。魏では、孫権を攻める準備に余念がなく、蜀では漢中奪取めざして着々と作戦計画を進めていた。
建安二十二年(二一七)春正月、曹操は南のかた|居巣《きよすう》に兵を進めた。巣湖のほとりにあり、現在の|安徽《あんき》省巣県である。
三月、曹操は伏波将軍の|夏侯惇《かこうとん》、都督の曹仁、張遼などの諸将を居巣にのこし、自分は★[#業+おおざと(邦の右側)]にひきあげた。居巣駐屯の曹軍は二十六軍もあり、孫権はそれをみて、戦うことの不利を悟り、和を乞うことにした。
──悠々としているではないか。よほど自信があるのだろう。
曹操が引き返したことについて、孫権陣営はそう解した。だが、蜀の劉備陣営の解釈は、また別であった。
漢中を取ったあとも、夏侯淵をとどめて、曹操は★[#業+おおざと(邦の右側)]へひきあげた。こんどの居巣出陣でも、二十六軍をとどめて、自分は早々と帰っている。総帥がいなくても戦えるという自信がそうさせたのか? いや、ちがう。──
西征のときも、南戦のときもそうだ。
──長いあいだ留守にできない、内部的な事情があるのにちがいない。
これが劉備陣営の法正の解釈であった。
法正はその内部事情を、
──王太子問題。
と、見当をつけたのである。
内部に紛争の火種を抱えている陣営は、思いきった手が打てない。漢中を取ったあと、一気に蜀へ攻め進まなかったのも、そのためであろう。
曹操が前線に長くとどまらないというおなじ事実に、孫権と劉備は別の解釈をくだした。そのため、孫権は和を乞い、劉備は戦いを挑むという、まったく正反対の行動をとることになったのである。
劉備陣営はしきりに曹操側の情報をあつめた。法正が推測していたように、内憂の火種があることが、しだいにあきらかになってきたのである。成都では、
──好機である。撃つべし。曹操は内紛によって自滅する。
という威勢のよい声がきかれた。諸葛[#葛のヒは人]孔明はそのような希望的観測に警告を出した。
「敵が自滅するのを待つなど、甘い考えである。曹操の陣営は、われわれが考えている以上に、強い基礎をもっている」
ことごとにそう言うので、なかには孔明のことを、
──恐曹病にかかっている。
と非難する者もいた。
「おぬしは曹家が強いというが、★[#業+おおざと(邦の右側)]からの密偵の報告では、曹丕派と曹植派にわかれて、たいへんなことになっているそうだ。曹家の屋台骨も揺らいでいるのではないか?」
劉備は孔明にそう訊いた。
「たしかに派閥の争いは、はげしくなっております。ただし、このままでは、まもなくおさまってしまうでしょう」
と、孔明は答えた。
「おさまるかな?」
劉備とても、希望的観測が事実であれかしと願っている。敵陣営の内紛がおさまってはおもしろくない。
「★[#業+おおざと(邦の右側)]からの情報を分析しますと、派閥の争いは下火になったと考えざるをえません」
「そうかな? 楊修や丁儀など、曹植党の策謀は、日に日に盛んであるというが……」
「だめでございます」と、諸葛[#葛のヒは人]孔明は首を横に振った。──「かんじんの曹植がおりてしまいました」
「おりた? 後嗣争いをあきらめたのか?」
「さようでございます」
「そのような情報はきかなんだが」
「曹植が酒色に溺れているという情報が、もうかなり前からはいっております」
「酒色に狂うのは、曹家の伝統だ。兄貴の曹丕にしても、かなりのものだぞ」
「いえ、曹植の狂い方は異常でございます。……私が考えまするに、彼が酒色に溺れているのは、父曹操のすすめに従ったのではないか。……」
「まさか。我が子に、女に溺れよと、どこの親がすすめるか。ばかな……」
「いえ、曹操ならすすめます。……それはこのようなわけが」
と、諸葛[#葛のヒは人]孔明は、自分の推理を語った。それによれば。──
曹操は息子としては、長男の丕よりも三男の植のほうを愛していた。そのたぐいまれな詩才と、詩人的性格に、曹操は心を惹かれた。だが、後継者えらびとなれば、選考の基準を別のところに置かねばならない。
──天下を|簒奪《さんだつ》するには、心|猛《たけ》き人間でなければならない。……
とすれば、やはり丕をえらぶであろう。
曹操はそのあとのことを案じた。心猛き曹丕は、漢の天子を廃し、みずから天子に立とうとするにちがいない。彼のような非情の人物なら、自分の妨げとなる者を、平気で粛清するだろう。そんなとき、魏王の後継争いの相手など、まっ先に槍玉にあげられるはずなのだ。
──争いの相手になるな。おまえはみずから、この競争からおりよ。
明言したかどうかはわからないが、曹操は曹植にそんな意味のことをにおわせたであろう。競争からおりるには、後継者にふさわしくない行動を、進んでするのが一ばんである。「曹植の生活が、にわかに崩れたのは、そうとしかおもえません。丁儀や楊修が、時も時にと、気をもんでいるそうですが、彼らには曹植の心の底が読めていないようです。曹丕は、弟の生活のみだれから、抵抗をあきらめたと、はっきり読んだんでしょう。……かつがれている二人が、すでに相争わないと決めたのです。丁・楊のやからが、いくらじたばたしても、たいしたことになりますまい。曹家のお家騒動に、過剰な期待をかけてはなりませんぞ」
諸葛[#葛のヒは人]孔明は、理路整然と弁じた。
「そうか。……」劉備はすこしがっかりしたようである。──「曹家のお家騒動が期待できぬとすれば、どうすればよいかな?」
「漢の廷臣で、曹操を憎まぬ者はいないでしょう。曹家の紛訌に期待するよりは、不平不服の廷臣の反曹運動を期待すべきでしょう」
「しかし、伏皇后一族の反曹運動は失敗した。あのときの、苛酷な処刑の記憶がまだ消えていない。おそろしくて、反曹運動などできるであろうか?」
「できぬことはありません。また曹操が最もおそれているのはそのことです。……伏氏一族は、天子を擁立し、討曹の詔書をいただけば、曹操をたおせると考えました。これは大きなまちがいです。天子にはもはやなんの力もありません。力なき天子を頼みとしたのが伏氏一族の悲劇でありました。曹操を憎む者は、この教訓を銘記して、おなじ過ちをくりかえさないでしょう。……つぎに事を起こすときは、力ある者を頼みとするはずです」
「力ある者とは?」
「あなたでございます。それから、孫権でございます。ただし、孫権は目下、曹操と講和しておりますから、頼みとすることはできません。そして、あなたはあまりにも遠くにいます。……漢の廷臣が頼みとするのは、あなたよりも、もっと近くにいる、あなたの部将ということになりましょう」
「うん、関羽だな」
劉備にも、それくらいのことはわかる。関羽は荊州北部にいる。関羽のいる|樊《はん》城から、漢の朝廷のある許部まで、坦々とした平野がひろがり、三百キロの道程に地理的な困難はないのだ。
「反曹の志士は、関羽を頼みとするのか?」
と、劉備は訊いた。
「すでに許都から、関羽のもとに密書が届いております」
「おお、そうであったか。……で、その朝廷の志士とは?」
「|金★[#示+韋]《きんい》、|耿紀《こうき》、|吉本《きちほん》、その子の吉|★[#しんにょう(点二つ)+貌]《ばく》、吉|穆《ぼく》といった連中でございます」
「うーん。……」
劉備は渋い顔をした。金★[#示+韋]は漢の大忠臣|金日★[#石+單]《きんじつてい》の子孫であるが、吉本は大医令、すなわち医者である。耿紀は少府の職にあり、九卿の一人だが、天子の衣服や食事などの世話をする人間だった。
反曹派に兵を指揮できる、将軍らしい将軍がいないのが、劉備の不満であった。
「曹操の陣営をかきみだすだけでも、よろしいではございませんか。許都に乱がおこれば、漢中への援兵もままならぬことになるでしょうから」
「それもそうじゃな。……」
劉備は漢中攻撃のために、張飛、馬超、呉蘭といった勇将を、|下辨《かべん》城まで進ませていた。
「なんという年であろうか。……」
曹植は茫然と立ち尽した。
康姫が柱にもたれてうごかない。曹植は例によって酔っていたが、「おい、おい」と彼女の肩を突くと、彼女のからだが柱からずり落ちて、どさ、と音を立てた。曹植はあわてて、彼女のうえにかがみこんだ。
死んでいた。脈はなかった。どれほどまえに死んだのか、彼女のからだはつめたくなっていた。──
康姫のからだは床のうえにたおれたのに、彼女がそれまで弾いていた箜篌は、台のうえにちゃんと立てられている。箜篌の絃は、ひややかにあるじの死体を見おろしていた。
喉のあたりがおかしくなり、つぎに関節にすこし痛みをかんじるていどで、急にころりと死んでしまう。河南の地にそんな奇病が流行して、人びとをおびえさせていた。
曹植の文学の師匠にあたる、あの謹厳な|徐幹《じよかん》が死んだのは十日まえのことだった。
天才的な|檄文《げきぶん》作家であった|陳琳《ちんりん》の死が伝えられたのは、その翌日のことであった。筆を握ったまま、机にかぶさるようにして死んでいたという。陳琳はかつて袁紹に仕え、「逆賊曹操を討つべし」といった、檄文を書いたものである。その檄文のなかで、彼は曹操の祖先のことまでもち出して、人身攻撃をおこなった。戦い敗れて曹操にとらえられたとき、陳琳はむろん死を覚悟した。だが、曹操は比類のない才能のもち主を、むざむざと殺すようなことはしなかった。ただひとこと、
──わしのことはともかくとして、祖先のことまでもち出さなくてもいいじゃないか。
と、うらみごとを言っただけで、そのまま赦して、「記室」──秘書役を命じたのである。
陳琳の投降は建安九年のことだった。それ以来、十三年のあいだ、曹家の文学サロンの主要人物であった。檄文作家らしく、見るからに|逞《たくま》しく、また|傲岸《ごうがん》な面がまえであったが、病魔には勝てなかったのだ。
文学の師匠、先輩を失い、いま愛する歌妓をおなじ奇病で失った。──まったくなんという年であろうか。
曹植はよろめきながら、康姫の部屋から出た。家臣の誰かに、康姫のあと始末を命じようとしたのだが、廊下で何人もの家臣に会っても、彼は口がきけなかった。唇のあたりがしびれるようにかんじた。また家臣のほうでも、泥酔しているらしい主人を、なるたけ避けようとしていた。
──今日はまた、とくべつひどく酔ってるらしいぞ。
と、首を縮め、目をそらして通りすぎる。
曹植は柱や壁をつたいながら、やっとの思いで庭先まで出た。彼はそこで腰をおろし、大きなため息をついた。疲れ切っている。酔眼が重くなった。──
「申し上げます!」
家臣の大声に、曹植は目をさました。
「なにごとじゃ、騒々しい」
曹植は背中をのばした。
「|王粲《おうさん》どのがなくなりました。例のあの病気でございます」
「なに、王粲が!」
曹植は柱にとりすがるようにして、立ちあがった。赤壁戦の直前、荊州で投降した王粲は、曹植より十五も年長であったが、文学上のことについては、最も気の合った仲間であった。詩文の友である。ついこのあいだ、詩の応酬をしたばかりであった。曹植はそのとき王粲に贈った詩の一節を、ふと思い出した。──
帰らんと欲して|故《もと》の道を忘れ
|顧《かえり》み望みて、|但《た》だ愁いを|懐《いだ》く
悲風、我が|側《かたわら》に鳴り
|義和《ぎか》(太陽をのせる車の御者)|逝《ゆ》きて|留《とどま》らず。
王粲が新しい官職についたので、曹植はこれまでのように、彼としょっちゅう詩文を語ることができなくなるのを悲しんだのだ。その悲しみを詩によんだのである。
──悲しみの風が、自分のそばで、びゅうびゅうと鳴いて吹く。……
曹植から王粲を奪ったのは、新任の官職ではなかった。病魔が王粲を、永遠に奪い去ったのである。
「なんという年か!」
曹植はまた悲痛な声をしぼって|呻《うめ》いた。
──建安の七子。
後世の文学愛好者は、建安年間にはなやかな活躍をした文学者七人をそう称した。
|孔融《こうゆう》、|陳琳《ちんりん》、|王粲《おうさん》、|徐幹《じよかん》、|阮★[#王+禹]《げんう》、|応★[#王+易]《おうよう》、|劉★[#木+貞]《りゆうてい》の七人である。このうち、孔融は赤壁戦の前に、曹操に殺された。阮★[#王+禹]は五年前の建安十七年に死んだ。
あとの五人は、みなこの建安二十二年の奇病で死んでしまう。──
徐幹、陳琳、王粲についで、応★[#王+易]と劉★[#木+貞]の|訃報《ふほう》が曹植のもとに届くことになる。
断腸のおもいとは、このことであろうか。曹植はすべてのものが、自分からもぎとられたとかんじた。
そのとしの十月、彼の兄の五官中郎将曹丕が、ついに王太子に立てられた。
後継者は決定した。
曹植は後継者争いから、早くおりていたこともあるが、兄の王太子決定については、なんの感慨もおこらなかった。
五人の詩文の友を、一時に失った悲しみのほうが、はるかに強かったのである。
「こんな年、はやく過ぎ去れ!」
曹植はこの年の残りの月日を、酒色のなかに、埋没させようとした。時間と自分とをひっくるめて。──
「いましばらく酒を飲んでいるがよい」
曹植の行状をきいた父の曹操は、そうひとりごちた。
曹植には、力ずくで魏の王太子の地位を争い取る意思がなかった。それは父の曹操が一ばんよく知っていた。
西征軍のとき、曹操はわざと|耄碌《もうろく》したふりをして、曹植と最も油断のならぬ家臣司馬仲達の二人を試したのである。予想していた反応はなかった。
(二人とも、それが試しであることに気づいたようだ。……ひょっとすると、少容が植にほのめかしたのかもしれないが。……)
曹操は年の暮れゆく雪空を仰いで、
「また一つ年をとる。……」
と、呟いた。
作者|曰《いわ》く。──
建安二十年の曹操西征軍の陽平関奪取については、同一史書のなかでも、記述に相違がある。『魏書』の武帝紀には、陽平を抜くことができなかったので、曹操はいったん兵を退いた。山上の敵軍がそれでほっとしたところを、夜暗に乗じて再び急襲し、これを大いに破った、とある。おなじ魏書でも劉曄伝では、曹操が退却しようとしたのを、劉曄が反対し、しゃにむに兵を進めて、ついに勝利を博したとする。
退却指揮の許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]軍が、敵の営内に迷い込み、敵があわてて逃散したというのは、曹家の家臣の上奏文を集めた『魏名臣奏』のなかの、董昭の上奏文のなかに記されていて、『資治通鑑』もそれを採用している。
また|郭頒《かくはん》の『世語』という、当時のエピソード集には、そのとき数千という鹿の大群が、とつぜん張衛の本営に突き進み、張衛側はそれを曹軍の奇襲とかんちがいして、やみくもに逃げ出したのだ、と伝えている。
いずれにしても、陽平関における曹軍の勝利は、なにやらわけのわからないものであったらしい。──すくなくとも、外から見たかぎりでは、まともな説明のつくものではなかったようだ。
曹家兄弟の後継者争いについては、古来、中国では判官びいきで、兄の曹丕の弟いびりという形でとらえてきたようだ。曹植が酒びたりになったのも、兄に無理矢理飲まされたとする説が優勢であった。その歴史の定説にたいして、|郭沫若《かくまつじやく》が、曹植もそんなにおとなしい弟ではなかったということを、史書を引用して|論駁《ろんばく》したことがある。
[#改ページ]
|関羽敗《かんうやぶ》れたり
「|ひ《ヽ》げ《ヽ》めが|樊《はん》城にいるのは、めざわりでならぬわ」
曹操はときどき、思い出したようにそう言って舌打ちをした。
|ひ《ヽ》げ《ヽ》めとは関羽のことである。味方の陣営では、関羽は|美髯《びぜん》公と呼ばれていた。それほどみごとなひげであった。
「樊城にいるのは、ひげではありませぬ。われらの征南将軍でございます」
と、司馬仲達は答えた。
|荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]《じゆんいく》亡きあと、いまやこの司馬仲達が曹操の腹心第一号であった。
──樊城に関羽あり。
曹操陣営の者たちでさえ、そう思い、口に出してそう言っている。
だが、司馬仲達が言ったように、それは正確ではない。
樊城はれっきとした曹操陣営の城で、曹操の従弟の曹仁が、征南将軍としてそこを守っている。正確には、
──ひげが樊城を攻めているのがめざわりだ。
と言わねばならない。
ひげの関羽は、劉備陣営にあって、かくれもない武勇の人で、かがやかしい戦歴を誇っている。その名声のもつ重みは、おそるべきものがあった。だから、人びとは関羽が樊城を攻めようとしている段階で、はやくも「樊城に関羽あり」と思いこむようになったのである。
「ひげめをなんとかせねばならんぞ」
曹操は両手をうしろにまわした。
彼の居城である|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》は、樊城からだいぶ離れているうえに、黄河がそのあいだに横たわっていた。だが、天子のいる許都は、樊城から近く、黄河のような天然の防壁もない。いったん樊城を失えば、関羽に率いられた劉備軍は、まっしぐらに許都に迫るであろう。
曹操は目下、劉備や孫権よりも一段有利な地位を占めている。いろんな理由があるが、その一つは天子を|擁《よう》していることである。天子を競争者に奪われると、政略的な損失は大きい。
「天子を移すか。……」
曹操は|呟《つぶや》くように言った。
「なりませぬ。そのような気の弱いことでは」
司馬仲達は言下に答えた。
「したが、めざわりじゃ」
「ひげめをなんとかいたしましょう」
「なんとかなるか?」
「去年の疫病で、われらはあまたの人材を失いましたが、東呉では|魯粛《ろしゆく》が死んでおります。そして、彼の後任には、|呂蒙《りよもう》が任命されました」
と、司馬仲達は言った。
「そうか。……やれそうか?」
「やれます。……ゆっくりとご覧ください」
「あまりゆっくりはできぬ。わしももう六十四になったぞ」
曹操は唇を心もちそらした。
「かしこまりました。それほど時間はかけません。……まず一年以内に」
司馬仲達は無表情であった。
「一年か。……」
曹操にとって、のこされた時間はもうそんなにないのである。一年といえども惜しいのだった。
「魯粛のあとを、呂蒙が継いだのは、わがほうにとって天佑と申すべきでしょう。呂蒙は|周瑜《しゆうゆ》の同志でありました」
「そうか。……そうだったな。……」
曹操は赤壁の敗戦を思い出した。赤壁で孫権軍を指揮したのが周瑜であった。その周瑜が死んで、もう八年になる。歳月は容赦なく過ぎて行く。──
曹操と司馬仲達は、劉備陣営の関羽をなんとかしようという話から、急に話題を孫権陣営内の首脳部人事の異動に変えた。むろん、関連はあるのだ。
劉備は荊州から益州(四川)へ進出したが、荊州に関羽という重鎮をのこしていた。それはあまりにも欲張っているではないかと、孫権のほうから苦情が出て、荊州は両陣営で分割することになった。劉・孫両陣営は、それで問題を解決して、同盟関係は依然として維持していたのである。
劉・孫の同盟関係は、曹操を|牽制《けんせい》するのが目的で、孫権陣営では去年死んだ魯粛がそれを推進したのだった。
もともと孫権陣営には、劉備を警戒する空気も強く、赤壁の英雄周瑜はとくに反劉備派の急先鋒であった。ところが、周瑜が死んで、孫権陣営は周瑜の後継者に魯粛をえらんだ。魯粛は親劉備派であり、そのために両者の同盟が成立した。
こんどは魯粛が死に、あとを継ぐ呂蒙が周瑜とおなじ意見──反劉備論──の持ち主であった。
呂蒙が孫権陣営で|采配《さいはい》をふるうようになったからには、劉備陣営で荊州を預かっている関羽の立場は微妙になっている。しかも、関羽は外交の手腕がまるでない人物であった。
──外交の技術で、関羽を孤立させよう。……
司馬仲達が一年という期限つきで「やる」と言ったのは、そのことだった。
「もはや第一の手は打ちました」
と、司馬仲達は言った。
「ほう、もう手を打ったのか」
「呂蒙の力を借りました」
「なんだ、もう呂蒙と連絡がとれたのか」
「早いほうがよろしゅうございます」
「しかし、呂蒙はうまくやるかな?」
「大丈夫でございます。彼はもはや呉下の|旧阿蒙《きゆうあもう》ではありませぬ」
「それはなんだ、呉下の旧阿蒙とは?」
と、曹操は訊いた。
親しい間柄では、名のうえに「阿」をつけて呼ぶ。呂蒙は親友には阿蒙と呼ばれていたのである。若いころ、彼は日本でいう「田舎ざむらい」であった。武骨者で融通がきかず、視野も狭かった。
魯粛はあるとき、久しぶりに呂蒙と会って話をしたところ、その見識のすぐれていること、むかしの田舎ざむらい時代の彼とは別人のようであったので、
──呉下の旧阿蒙に非ず。
と驚いた。──きみはもう呉の田舎にいたむかしの阿蒙じゃない。おどろくべき成長をしたねぇ、という意味である。すると、呂蒙は、
──士たるものは、別れて三日もすれば、|刮目《かつもく》して待つべきですぞ。
と答えた。
まことの男は、たえず成長するものだ。三日も別れていると、どんなに成長したか、目をみはって会わねばならぬというのだ。
当時、このエピソードが有名になって、昔とは別人のように成長することを、
──呉下の旧阿蒙に非ず。
と表現するようになった。
謀略の相棒が呂蒙であるときいて、曹操が不安をかんじたのは、まだ田舎ざむらい視していたからである。司馬仲達から、呂蒙が人間的に成長したという話をきいて、曹操は、
「ほう、そんなにできるようになったのか。……それで、手を打ったとは?」
「縁談でございます」
と、司馬仲達は答えた。
──二十六年。……そして二十年。……
|貂★[#虫+單]《ちようせん》は歳月の長さを、しきりにおもうようになった。絶世の美女と謳われた彼女も、すでに四十の半ばである。
彼女は毎朝、|誦経《ずきよう》する。ながい誦経である。
「なんとかならぬか。そのうっとうしい|天竺《てんじく》の|咒文《じゆもん》は。……」
関羽は眉をしかめるが、貂★[#虫+單]は誦経をやめない。
仏教信者である康国の人たちのなかで生活したこともあるが、彼女が仏のおしえに|帰依《きえ》したのはそのためだけではない。
二十六年まえ、彼女は天下に号令した董卓の側室となりながら、その養子であり親衛隊長でもあった呂布に|見初《みそ》められた。とうとう呂布は董卓を殺して、貂★[#虫+單]を奪った。それから六年のち、さすらいの将軍呂布は、曹操に攻め殺されてしまった。その戦乱で、曹操軍に属していた劉備の部将関羽が、彼女を奪ったのである。
それから二十年たった。──
諸行無常は、彼女の心の芯となっている。このごろは、彼女は十五になる娘に、誦経を口うつしに教えていた。
「やめぬか」
と、関羽は不機嫌であった。しかし、彼は貂★[#虫+單]の心を変えることはできなかった。口では強いことを言っても、貂★[#虫+單]を愛している彼は、けっきょく彼女の意思を尊重してしまうのだった。
「やめませぬ」
貂★[#虫+單]は口数がすくない。必要なことしか口にしないのである。
「わかった、わかった」関羽はいったんひきさがるが、「おまえはもうしょうがない。しかし、友琴には天竺のまじないを教えないでくれ、おねがいだ」と言った。
友琴は娘の名である。関羽はこの娘を|溺愛《できあい》している。おそらく彼は貂★[#虫+單]を熱愛しても、彼女が自分のなかに|融《と》けこんでこないのに、不満をもっていたのであろう。貂★[#虫+單]が身辺にいるのに、なぜか手の届かないところにいるような気がするのを、関羽は、
──天竺の仏のおしえのせいだ。
と考えていた。
貂★[#虫+單]のことはあきらめよう。だが、友琴は天竺のまじないに奪われたくない。関羽はそう思っていた。だが、娘を父親からひきはなすのは、仏教だけではないのである。結婚というものがあった。
嫁に出したくない。とはいえ、りっぱな夫のところに嫁ぐのが、娘の幸福というものなのだ。──関羽は父として悩んでいた。
呂蒙はこのような関羽の家庭の事情をよく知っていた。密偵を関羽の身辺にまで入れていたのである。
はやくから呂蒙は、関羽を仮想敵とみて、あらゆる準備をしていたのだ。反劉備論者の呂蒙が、劉備と戦うばあい、孫権陣営にとって当面の敵である関羽を、さまざまな角度から研究していたのはとうぜんであろう。
いくら呂蒙が反劉備であっても、主君の孫権が親劉備であってはどうにもならない。親劉備の魯粛が、ながいあいだ主流であったので、孫権もしぜん、どちらかといえば、親劉備的な心情をもっていた。だから、呂蒙の計画のなかには、主君孫権の心をいかに反劉備、したがって反関羽にむけるか、という問題が含まれている。
そんなときに、ひそかに連絡をとっていた曹操陣営の司馬仲達から、
──縁談のこじれによって、孫権将軍を関羽ぎらいにさせる方法はいかがかな?
という示唆があった。
(うん、これはいける)
呂蒙は膝をうった。彼は関羽の性格からその家庭の事情まで研究し尽している。
関羽は部下を愛するが、同僚やその上の者にたいしては|傲慢《ごうまん》である。これはおなじ劉備の家臣でも、張飛とは正反対であった。張飛は上の者には腰が低く、身分の低い者をないがしろにした。
関羽はお山の大将である。
──お上(劉備)以外の誰にでも、わしは頭を下げはせぬぞ。
彼はいつもそう公言していた。曹操であろうが、孫権であろうが、眼中にないかのようだった。呂蒙はそこを狙った。彼はあるじの孫権に、
──関羽の娘を|登《とう》さまの嫁にしてはいかがでしょう。たいへんな美女ときいておりまするが。
と、説いた。
──ほう、それはわるくないのう。
孫権は賛成した。
長男の孫登は十歳である。当時の軍閥の実力者の家では、十歳そこそこで嫁取りをするのは珍しいことではない。どうせ大きくなれば、何人も側室をいれるのだ。子供のころの縁談は、どうしても政略的な立場からおこなわれた。
いちおう同盟関係にある劉備の重臣関羽の娘である。荊州を預かる関羽は、孫権陣営と境を接している。婚姻関係で両者のあいだが安定するのはよろこぶべきことだ。
孫権はさっそく、この縁談を進めるために使者を出した。
呂蒙はすかさず、関羽の身辺に放っている密偵に、つぎのような話を、関羽の耳に入れるようにさせた。
──孫権は稀代の漁色家で、関羽の娘が絶世の美少女であるときき、側室に所望したいと思っている。だが、自尊心の強い関羽がそれを許しそうもないので、長男の正妻に迎えるという口実なら、彼女を呉に連れてくることができると考えた。呉に連れこんでしまえば、もうこっちのものだ。……
これをきいて、関羽が怒り心頭に発したのはいうまでもない。呉の使者は、そんなこととはつゆ知らず、劉備の本陣を訪ねたのである。使者が用件の半分も言わぬうちに、関羽は立ちあがり、
「我が娘は十五になるぞ。孫権の伜は十歳にすぎんではないか。なにが似合いの縁談だ! うぬらの下心は見えておる。好色漢孫権が、爪をといで待っているのに相違ない。早々に立ち帰って、孫権に告げよ。我が娘は、孫権ごとき好色下劣な人間のいる家にはやれぬ、とな。とっとと消え失せろ!」
怒りのあまり、関羽は足をあげて、孫権の使者を蹴とばした。
使者は憤然として、ひきかえした。使者から話をきいた孫権が、眉を吊りあげて激怒したのはいうまでもない。孫権と劉備の同盟関係は、このとき実質的に切れたといってよいだろう。
孫権陣営内の親劉備派は、みるみる影が薄くなった。怒れる主君をなだめる方法はなかったのである。反対に、反劉備派はますます優勢となった。
呉の使者を蹴とばしたのだから、関羽も孫権との友好関係が断絶するのは覚悟していた。また魯粛の後任の呂蒙が、反劉備派の巨頭であることも知っていた。
曹仁の守る樊城を攻めるとき、呂蒙軍が背後を襲わないように、関羽は|麋芳《びほう》と|傅士仁《ふしじん》を江陵と公安に駐屯させた。
麋芳は、陶謙系の重臣|麋竺《びじく》の弟である。兄とおなじく、経済官僚としての才能があり、関羽が彼に期待したのは|兵站《へいたん》を担当することであった。樊城で作戦するには、南方から物資を送ってもらわねばならない。
だが、お山の大将関羽は、同僚とうまく行かないのである。頭ごなしにどなりつけ、人前もはばからず|罵《ののし》るのだから、うまく行くはずはない。
──ただちに一万石の食糧を送れ。一石たりとも欠けてはならぬ。
関羽からそんな高飛車な指示を受けた麋芳は、部下にむかって、
「関羽へは一粒も送ってはならぬぞ。なにごとだ、食糧なんぞ右から左へ送れるように思っているとは。すこしは思い知らせてやらねば癖になる」
と、補給の停止を命じた。
関羽は内からも外からもきらわれ、しだいに孤立するようになった。しかも、彼は自分が孤立したのに気づかないのである。
建安二十三年は、許都における、反曹操クーデターで年が明けた。
「医者や料理人が|謀反《むほん》をはかりおった」
曹操は鼻を鳴らした。
許都は天子のいるみやこである。|丞相《じようしよう》である曹操は、そこからだいぶはなれた★[#業+おおざと(邦の右側)]にいるので、許都には丞相長史、つまり所司代のような職をおいていた。そのときの丞相長史は、|王必《おうひつ》という人物で、兵を率いて天子や公卿を監視するのがおもな任務であった。
天子や漢の朝廷は、もはやなんの力もない。実権はことごとく、★[#業+おおざと(邦の右側)]にいる丞相である魏王曹操の手に握られていた。それをこころよく思わぬ公卿の|金★[#示+韋]《きんい》が、太医令(帝室医長)の|吉本《きちほん》やその子の吉|★[#しんにょう(点二つ)+貌]《ばく》、そして少府(帝室の料理や衣服をつかさどる公卿)の|耿紀《こうき》たちと語らい、丞相長史の王必邸を夜襲したのである。
王必は肩に矢をうけたが、すぐに態勢を立て直し、夜明けまでには造反軍を潰滅させた。あっけないクーデターで、しかも首謀者は医者や食膳係りといった、軍事にはしろうとの連中ばかりである。
「背後がある。きびしく調べよ」
と曹操は命じた。
はたして、背後関係が明るみに出た。造反グループは、荊州の関羽の援助をアテにしていたことがわかった。
どうやら関羽も、造反援助の内諾を与えたらしい。だが、医者や食膳係りだけと知って、その失敗を見越したのであろう。関羽はいっこうにうごこうとしなかった。
「うぬ、ひげめ!」
造反を実際には援助しなかったにしろ、関羽は内諾を与えることによって、曹操陣営を|攪乱《かくらん》したのである。曹操が憎々しげに言って、べっと唾を吐いたのはとうぜんであろう。
だが、このとし、曹操は関羽にかまっておれなかった。
建安二十三年の前半は、北方の匈奴たちが反旗をひるがえし、後半は劉備が漢中に出兵したので、曹操は応戦のために兵をくり出さねばならなかった。
北方の乱は、曹操の次男の曹彰が鎮圧した。曹彰は政治的才能や文学的資質については、兄の|丕《ひ》や弟の|植《しよく》に劣るが、武勇にかけては、一族のなかで比肩する者はいなかった。
北方の乱がおさまったのは七月で、九月には六十四歳の曹操みずから、兵を率いて長安まで出むかねばならなかった。漢中の戦争を督戦するためである。相手の劉備も陣頭に立って指揮をとっていた。
にらみ合いのうちに年は暮れ、建安二十四年(二一九)になると、軍のうごきがようやく活溌になった。
漢中における曹操軍は、|夏侯淵《かこうえん》を総司令官として、|張★[#合+おおざと(邦の右側)]《ちようごう》、|徐晃《じよこう》といった武将たちが兵を率いていた。これにたいして、劉備は定軍山に本陣を構えていたのである。
夏侯淵は定軍山を攻めようとして、まんまと劉備の策にひっかかった。それは陽動策であった。劉備軍は陣鼓を鳴らして、東方を攻撃するかにみせかけた。東方には張★[#合+おおざと(邦の右側)]軍がいたのである。夏侯淵は張★[#合+おおざと(邦の右側)]軍を援けるために、かなり兵を東へむけた。劉備側の将軍黄忠は、そこを狙っていたのだ。夏侯淵の本陣が手薄になったのに乗じ、伏せていた兵を一斉に出撃させた。
夏侯淵は戦死した。
これが正月のことである。長安にいた曹操はこの敗報に接し、長安から|斜谷《やこく》にむかった。漢中での劉備との争覇戦を、みずから督戦しようとしたのだ。
「兵を退きなされ」
長安にいたころから、曹操は少容からなんどもそう言われた。
「なぜ漢中から兵を退かねばならぬのか? せっかくあんたの息子からいただいた土地なのに」
と、曹操は訊いた。
「漢中は五斗米道の土地でございました」
「それがどうかしたのか? 誰もが知っていることではないか」
「そこでは祭政が一致しておりました。宗教と政治がひきさかれる生活を、漢中の人たちは想像できません。誰が統治しても、漢中の人にきらわれるでしょう。それなら、玄徳(劉備)さまに先にきらわれていただきましょう。そのあとなら、すこしはましだと思われるでしょう」
「そのようなものか。……しかし、漢中を失うことは……」
曹操はどうしても漢中支配にこだわった。
「五斗米道は漢中にながくおりましたので、その地の弱点をよく知っております。荊州への道がふさがれますと、漢中は半身不随になってしまうのです」
「なるほど。……」
「これまで劉表さまのように、あまり強力でない政権が荊州にありましたので、漢中は息がつけたのです」
「そうか。……」
曹操は少容の言うことがわかった。荊州を抑えさえすれば、漢中を窒息させることができるのだ。わざわざ険路を越えて、漢中に兵を進めることはない。
「ひげか。……やはり、あのひげが相手だな。……」
曹操は頭を軽く上下にうごかした。
そのとしの五月、曹操は漢中の地から、さっと兵を退いた。
七月、劉備はみずから「漢中王」と称した。
皇帝の下の王は、皇族に限るのが原則であった。劉姓の皇族でない曹操が、いまやおおっぴらに、魏王と称している。
(おれは中山|靖《せい》王の|末裔《まつえい》である。曹操ごときが王となっているのだから、おれも王とならねばならぬわい)
劉備はそう考えた。
漢王朝の創始者である高祖劉邦は、皇帝になるまえに漢中王となった。だから、国号を漢としたのである。
漢中王とは縁起のよい王位なのだ。
ものものしく壇を築き、戴冠の式をあげた。劉備はそれまで漢の天子から左将軍、|宜城《ぎじよう》侯の印綬を受けていた。彼は使者にそれを持たせて返還させた。
王となった劉備は、家臣たちにそれぞれ官職位階を授けた。
天子の顧問役である|太傅《たいふ》には|許靖《きよせい》が任命され、法正が尚書令となった。
前将軍には関羽、後将軍には黄忠、右将軍には張飛、左将軍には馬超がそれぞれ任命された。諸葛[#葛のヒは人]孔明は依然軍師将軍であった。
「なに、黄忠が後将軍で、このおれが前将軍か?」
関羽は益州から印綬をもってきた使者にむかって、大声をはりあげた。椅子から立ちあがり、片足を途中まであげた。蹴とばそうとしたが、使者の|費詩《ひし》というのは、かねて関羽がその学識を尊敬していた人物だったので、思いとどまったのである。
関羽は費詩を蹴とばすかわりに、しばらく足踏みをした。
「あんな老いぼれと一しょにされるなんて!」
と、関羽はひげに半ば埋まった唇を、白い歯でぎゅっと噛んだ。
「受取らないのですか?」
と、費詩は訊いた。
関羽はどうしても前将軍の印綬を受取らないという。それは与えられた官職を拒否する意思表示なのだ。
「おれは、お上とは義兄弟だ。義兄弟の盟を結んで三十五年。……それを黄忠ごときと同列にされてたまるか。漢中で夏侯淵を斬ったというが、なんだ、そのくらいのことは。たいしたことではない。そもそも黄忠は劉表の家臣ではないか。荊州で降って、たかだか十年の奉公……いいか、おれはな、三十五年だぞ!」
関羽は顔を真っ赤にしてどなった。ひげのはしが、ぴりぴりとうごいた。
「高祖のご事蹟をご存知でしょうな」
と、費詩は言った。
漢の創始者高祖劉邦の物語は、当時なら誰でも知っていた。春秋戦国の故事を知らないでも、漢の草創期のエピソードは国史として知らねばならないのだ。
「このごろ、おれはちょっと読む」
と、関羽は言った。
暴れん坊の関羽は、主君の劉備とおなじで、若いころは読書を軽んじたが、地位があがるにしたがって、史書や兵書に親しむようになったのである。
「|蕭何《しようか》や|曹参《そうしん》は、高祖の竹馬の友でありました。それにもかかわらず、高祖は建国のみぎり、楚から降った|韓信《かんしん》を王としました。それを蕭何や曹参が怨んだという話はききませんぞ」
と、費詩は言った。
「そうか。……」
関羽は納得した。
高祖建国のときとおなじで、譜代の身内にはすこし辛抱してもらっても、よそ者を大事にしなければならない。よそ者は論功行賞に不満があれば、謀反をおこすおそれがある。韓信はいったん王となったが、やがて高祖に討伐されてしまった。
そんな故事を知っておれば、義兄弟だからこそ、辛抱しなければならないことがわかる。
「わかった。ありがたくお受けする」
関羽は居ずまいを正して、前将軍の印綬を受けとることにした。
(大功を立てようぞ!)
関羽はみごとなひげをしごきながら、心にそうかたく決心した。
──樊城を陥して、曹操に打撃を与える。
漢中を曹操からもぎとった劉備陣営にしてみれば、勢いに乗って、いまのうちに叩けるだけ曹操を叩いておくべきなのだ。樊城を取れば、天子の居城である許都は近い。曹操は動揺するに相違ない。──
関羽はただちに兵をうごかして樊城を囲んだ。劉備が漢中王を自称した翌月──八月のことであった。
樊城を守る曹操側の征南将軍曹仁は、左将軍の|于禁《うきん》と|立義《りつぎ》将軍の|★[#广+龍]徳《ほうとく》に樊城の北方を守らせた。このとしの八月は、長雨がつづき、漢水が氾濫したので、于禁軍は水中に孤立してしまった。関羽は船隊を編成し、高みに水を避けている于禁軍を攻めた。
于禁は窮して関羽軍に降った。
★[#广+龍]徳は小舟に乗って脱出し、樊城に帰ろうとしたが、水勢が強く舟が覆ってしまった。それでも彼は舟にしがみついたが、関羽の軍兵に発見されて捕虜となった。
「|跪《ひざまず》くのだ!」
と、兵率たちは関羽の前で、★[#广+龍]徳を跪かせようとした。だが、彼は頑として立ったままである。一人の兵卒が|拳《こぶし》で彼の頬をしたたかに打った。彼は両手を縛られていたが、その兵卒にむかってべっと唾を吐いた。
「おのれ!」
頬に唾をかけられた兵卒は、もういちど拳をふりあげたが、関羽はどなりつけてそれを制した。
「のう、おぬし、降伏せぬか。おぬしの兄弟の|★[#广+龍]柔《ほうじゆう》どのは蜀におられる。武勇の|誉《ほまれ》の高いおぬしのことだ。降伏すれば、一軍の将にとりたてられるぞ。さ、どうだ?」
と、関羽は言った。
「黙れ、小僧め!」★[#广+龍]徳は唾を吐いたが、それは関羽まで届かなかった。──「降伏とはなにごとぞ、べっ!」
「おぬしは、馬騰、馬超父子に属していたのを、つい近年、張魯に降り、さらに曹操に降ったのではないか。おぬしの旧主の馬超も、いまや蜀の左将軍であるぞ。降れ、降れ、それがよい、それがよい」
関羽は小僧などと罵られても、★[#广+龍]徳の武勇を愛したのである。
「聞く耳もたぬわ! おれは天下を救う英主に仕えたのじゃ。魏王(曹操)こそ、乱れた天下をしずめるお方じゃ。魏王、百万の大軍を率いて|征《ゆ》くところ、威は天下に振う。おまえの主人の劉備のごとき凡くらとはわけが違うぞ。誰が降るものか!」
「うぬめ、言わせておけば、こやつめ、殺してくれるわ!」
関羽は★[#广+龍]徳の首を|剔《は》ねた。
その夜、関羽は両手をうしろにまわし、腰をかがめるようにして、営内をゆっくりと歩いた。眉をしかめたままである。
このひげ武者は、生まれてはじめて、むなしさらしいものをかんじている。
おとなしく捕虜になっている于禁は、かつて鮑信の部将であったが、鮑信の死後、その僚友である曹操に属した。初平三年(一九二)のことである。だから、于禁は曹操の将となってすでに二十七年になる。ひるに斬り殺した★[#广+龍]徳は、曹操に属してまだ四年しかたっていないのだ。
過日、費詩にむかって、
──おれはお上に仕えて三十五年、黄忠はたかだか十年。
と不服を述べたが、どうやら年数だけの問題ではないらしい。
樊城は水のなかである。
城壁は水から|僅《わず》か五尺ほどしか高くない。これ以上増水すれば、戦うまでもなく、城内全員溺死してしまう。関羽は舟をうかべ、樊城を何重にも囲んでいる。曹仁の守る樊城の運命は、もはや風前の|灯《ともしび》かとおもわれた。
「これはどうにもならぬのう。……」
さすがの曹仁も弱音を吐いた。だが、城内にいた汝南太守の|満寵《まんちよう》は、
「雨があがって数日たちました。これ以上水位が高くなるおそれはありません。日に日に水は退くにちがいない。それに、関羽軍のようすをみると、どうも彼は全軍をここに投入していないようです。数はそれほど多くない。もうすこしがんばりましょう」
と言った。
「そうだな。……うん、がんばってみるか」
「このあたりの風習では、河水氾濫すれば、白馬を水中に投じて祈ることになっております。それによって、水がひくといわれておりますが、ひとつその儀式をとりおこなおうではありませぬか」
「よかろう。どれほどの効果があるかわからぬが、気休めにはなろう」
「気休めではございません。城内の兵士の気をひき立たせるでしょう。関羽軍の者たちは、水がますます増えることを望んでおります。戦わずに勝てるからです。また彼らは、ほとんどがこの近在出身の兵士たちですから、白馬の犠牲を知っています。白馬が水に投じられたなら、水がひくと信じているはずです。彼らにそれを見せてやろうではありませんか。敵の兵士たちの戦意を|挫《くじ》くのです。けっして気休めだけではありません」
「わかった。……白馬を連れて参れ。雪のように真っ白な馬を」
と曹仁は命じた。
やがて重囲下の樊城のなかから、はなやかな音楽がきこえてきた。
──やや、なにごとか。……
包囲の関羽陣の将兵たちも、城のほうに注意をむけた。そのうちに、音楽のきこえてくる地点がはっきりして、人びとの目はそこに集まった。
着飾った楽団員が城壁のうえにあらわれた。三十人ほどのグループである。鐘あり、太鼓あり、笛あり、琴があった。人びとの注意をそうして|惹《ひ》きつけてから、おもむろに白馬がすがたをあらわした。それはまさに雪のように、全身が真っ白な、みごとな白馬であった。樊城の城壁の厚さは、そのうえが一メートルほどしかない。人びとによって、白馬はそこにおしあげられた。
白馬もその雰囲気から、ただごとではないと察したのか、きわめて神経質になっている。城壁のうえにおしあげられると、二歩ほど歩いたが、急にいなないたかと思うと、前脚を吊りあげるように、高々とあげた。
「や、や、や……」
「お、お……おお!」
城内外の人たちは、思わず声をあげた。
前脚をあげた白馬は、つぎの瞬間、もんどりうつようにして、水面を自分のからだでたたきつけた。──
ふつうの馬なら、水に落ちても、|足掻《あが》いて泳ぐはずである。だが、その白馬は水面に落ちると、そのまま水中にすがたをかくし、二度とうかびあがってこなかった。あっけない墜落である。まるで自分が犠牲であることを、はじめから知っていたかのような、あきらめきったかんじであった。
敵味方ともに、ほっとため息をついた。ひろい漢水の平野だが、数万の人間が同時についたため息は、そこに一種の妖気を漂わせた。
──これはいかん。樊城を攻めていた水は、これから退いて行くのではあるまいか?
関羽陣営の将兵の心のなかに、そんなよくない予感がうかんだ。この予感によって、どれほど戦意がそこなわれたか、はかり知れないものがあった。
──おお、白馬が沈んだ。これで苦しい戦いはすんだ。これからきっと良いことがあるだろう。……
樊城の人たちは、白馬の墜落によって、|憑《つ》きものが落ちたような気がした。絶望から立ち直ったのである。
「一気に攻めましょう」
関羽の参謀はそうすすめた。さすがに参謀だけあって、将兵の戦意が沈み切らないまえに、総攻撃をかけようと思った。それは客観的にみて、正しい戦法であった。しかし、関羽は首を横に振った。
「もうすこし待て」
と、関羽は言った。
総攻撃をかけるためには、将兵たちに数日の兵糧を持たさねばならない。だが、いま関羽軍は明日の食糧にもこと欠くのである。南方からの補給が、思ったほどうまく行かないのだった。
──うぬ、麋芳のやつ、なにをしておるのか!
関羽は眉を上下させた。
麋芳はかつて関羽に罵られたことを根にもって、わざと兵糧や|輜重《しちよう》の輸送を遅らせていたのである。
兵糧ばかりではない。兵員も足りないのだ。関羽は荊州兵のかなりの部隊を、南方の江陵に残していた。東の孫権軍に備えての配置なので、めったにうごかせない。
関羽と孫権は、表面上はまだ同盟関係にある。だが、関羽は娘の縁談をもちこんだ孫権の使者をはずかしめていた。うわべだけの同盟が、いつ本格的に決裂するかわからない。
──防備が薄くなれば、孫権軍はそこを衝いてくるだろう。
そう考えると、樊城攻撃のために喉から手が出るほど兵隊がほしいが、江陵の部隊をもってくるわけにはいかない。
孫権の前線基地は、赤壁に近い陸口にあった。陸口の総司令官は、虎威将軍の呂蒙である。前任者の魯粛は親劉備であったが、この呂蒙は人も知る反劉備派の巨頭である。関羽はますます江陵の部隊をうごかせない立場になっていた。
(わしがいてはいかんかのう。……)
呂蒙は腕組みをした。
関羽は呂蒙を警戒して、江陵の兵を北上させないのである。もし江陵が|空《から》になれば、呂蒙はそこを無血占領するつもりであった。
「病気になろう」
呂蒙は作戦をたてた。陸口から呂蒙がいなくなれば、関羽は安心するだろう。そして、後任が親劉備派であれば、関羽はもっと安心して、江陵の兵を北上させるかもしれない。
仮病ではない。呂蒙は|宿痾《しゆくあ》に悩まされていたのである。いまでいう肺結核であった。そのために、呂蒙は幽鬼のように|痩《や》せていた。関羽はなんども呂蒙に会っていて、呂蒙の病気のことは知っているので、呂蒙が病気のために|更迭《こうてつ》されたときいても、けっして仮病と疑わないであろう。
(あとは|陸遜《りくそん》がよかろう。そうだ、わしの後任にうってつけの人物だ)
呂蒙は後任者まで用意した。
陸遜は江東の豪族の出身である。孫権はこの青年を見込んで、亡兄の娘を嫁がせた。はたして陸遜は、のちに丞相となり、呉の柱石となった。だが、この時代は名門の貴公子というだけで、政治的にも軍事的にもまだ未知数であった。
だが、陸遜は貴公子らしく、自分の意見を大胆に主張することで知られていた。彼は魯粛とおなじ意見をもち、
──劉備と結んで、|梟雄《きようゆう》曹操を撃つべし。
と唱えていた。
ところが、先日、呂蒙はこの陸遜と夜を徹して語り合った。陸遜は謙虚な人物であり、自分の誤りを認めるのにやぶさかではなかった。親劉備論者であったが、徹夜の討論によって、呂蒙の反劉備論に傾いた。
──どうやら私の考えはまちがっておりました。
陸遜はさわやかにそう言った。
──|伯言《はくげん》(陸遜の|字《あざな》)どの、あなたが意見を改められたことは、しばらく公けになさらないでいただきたい。
呂蒙はそう言った。彼はこの青年を、かくし同志にしておこうと考えたのだ。
それが役に立った。
世間では陸遜のことを、まだ熱心な親劉備論者だと思っている。むろん関羽もそう思い込んでいた。
「ほう。やつもとうとうくたばるか。|蒼《あお》い顔をしておったが、よくもいままでもったものだ。しかし、阿蒙がいなくなると、こちらはやりやすくなる」
呂蒙が病気のため建業(現在の南京)へひき返すというしらせをきいて、関羽ははればれした顔をした。
つぎに、後任が陸遜にきまったしらせに接したとき、関羽は破顔一笑した。
「ますますやりやすくなった。これで江陵の兵を樊城攻めに使うことができる」
じつのところ、関羽はしぶとい樊城の守備に、手を焼いていたのである。あと数万の兵があれば、一挙に樊城を陥すことができるのに。──
「それにしても、どうして陸遜のような若造を……」
関羽の幕僚で、そんなふうに疑う者もいた。たしかに陸口の総司令官として、呂蒙にかわるにしては、陸遜は青二才にすぎる。
「いや、孫権はあの若造に目をかけているのだ。なにしろ、亡き兄貴孫策の娘婿なのだ。この人事はけっしてふしぎではない」
関羽は疑おうとしなかった。
しかも、つづいて陸遜の新任挨拶状が届けられ、そのなかに、
──小さく(兵を)挙げて大いに|克《か》つ、|一《いち》に何ぞ|巍々《ぎぎ》たる!
と関羽の戦勝をほめたたえ、
──敵国の敗績、利は同盟に|在《あ》り、|慶《けい》を|聞《き》き|節《せつ》を|拊《たた》き、遂に|席巻《せつけん》して共に|王綱《おうこう》を|奨《すす》めんことを|想《おも》う。……
と、お世辞たらたらの文章がならんでいた。関羽がそれをまともにうけとったのはいうまでもない。
「若造ながら、陸遜は先を見る目のある男であるぞ。かねてから、われらとの同盟を強化することを主張しておったそうだ。もう江陵のことは心配せずにすむ」
関羽はそう言って、江陵駐屯軍に、ただちに北上せよと命じた。
江陵には麋芳がいる。関羽への補給をサボっていた男である。関羽はこの男のやり方が腹に|据《す》えかねていた。全軍北上の命令を伝える使者に、関羽は麋芳への伝言をことづけておいた。
──よくもこちらの指示どおりの補給を怠ったな。樊城を陥したあと、凱旋したときに成敗してくれる。素っ首をよく洗って待っておれ。
まことに乱暴な伝言である。いかにも直情径行の関羽らしいやり方であった。
「なにをひげめ! どこの馬の骨かわからないくせに、なにごとぞ!」
この伝言をうけて、麋芳が激怒したのはとうぜんである。麋家はもともと徐州の大豪族であり、一族はそれを誇りとしている。徐州を支配した者は、陶謙であれ、呂布であれ、劉備であれ、麋家の経済力を頼りとせざるをえなかった。陶謙亡きあと、劉備を徐州の牧に迎えるにあたって、兄の麋竺は最高の功績があったのだ。
麋芳にはそんな自負がある。関羽は素姓もわからぬ野良犬ではないか。その野良犬の分際で、首を洗えとはなにごとか。──
とはいえ、関羽のことだから、補給怠慢を理由に、ほんとうに処刑しようとするかもしれない。そう思うと、麋芳は不安をおぼえるのだった。
そんなところへ、陸遜の誘いがかかってきたのである。
──江陵にはほとんど兵はいなくなった。東呉の兵はただちに江陵を攻めるが、無用の血は流したくない。投降することをおすすめする。……
江陵には、ほんの一とつまみの守備兵しかのこっていない。孫権軍がなだれこんでくればひとたまりもない。
──無駄な抵抗はやめよう。
塵芳は降伏することにきめた。
江陵駐屯軍の北上を確認すると、孫権は呂蒙を総司令官とする遠征軍を進発させた。副将は孫権の従弟にあたる|孫皎《そんこう》であった。
奇襲は成功した。
失敗するはずはない。江陵にはほとんど守備兵はいないし、留守を預かる麋芳は、はやくも投降を約束していたのだ。
孫権軍は江陵を無血占領した。江陵はまさに音もなく落ちた。あまりにも静かに落城したので、樊城攻めの関羽もそれに気づかなかったほどである。
孫権は呂蒙を総司令官とする遠征軍を西へむけると同時に、曹操あてに同盟締結を申し込む手紙を送った。
曹操にしてみれば、樊城を囲まれて苦しいときである。孫権との同盟はありがたい。関羽の背後を衝いてくれるのだから。
孫権はここで曹操に恩を売っておき、あわせて江陵|併呑《へいどん》を認めさせるつもりだった。
関羽はそんなこととは知らない。曹操の任命した荊州刺史の|胡修《こしゆう》、南郷太守の|傅方《ふほう》などは、関羽の猛攻をうけて降伏した。現在の湖北省北部から河南省南部にかけて、広大な地域がすべて関羽の威命に服した。
あとは樊城だけである。東呉の人事異動によって、江陵の兵をうごかせるようになったので、その樊城も陥ちたも同然であった。関羽はこのとき、得意の絶頂にいた。
絶頂のすぐそばに断崖があった。関羽はそれを知らずに、勝利の美酒に酔っていた。
関羽は江陵の兵を得て、一気に樊城を陥そうとしたが、そのころ、曹操側も、|徐晃《じよこう》を大将とする援軍を|偃《えん》城に送っていた。しかし、漢水の氾濫によって、作戦行動は思うにまかせない。
「あと十日だな。……十日がんばってくれたなら、かならず関羽を破ってみせる」
徐晃は樊城の方向をみて、呻くように言った。城内の曹仁があと十日堅守してくれたなら、徐晃は関羽軍を撃破してみせる自信があったのだ。
「気力でございますな」
と、幕僚は言った。
「気力か。……しかし、気力は勝手に生まれてくるものではない」
「樊城では白馬を沈めて、将兵の気力をふるい立たせました」
「白馬の効力はいつまでつづくかな?」
「さて、いかがなものでしょうか。……」
「よし、新しい手を使おう。友軍の気力を呼び起こすために」
徐晃が考えたのは、強弓の士に、矢文を樊城内に射込ませることだった。孫権が曹操に同盟を申し込み、ともに関羽を撃とうと記した手紙の写しを二通作成した。一通を城内に、あとの一通は包囲軍の陣営内に射込むことにしたのである。
味方には援軍の近いことを知らせて奮起させ、敵には背後をおびやかされていることを知らせて意気|沮喪《そそう》させるためなのだ。問題は樊城内に射込める地点に、どうして近づくかである。水はだいぶ退いてはいるが、関羽軍は増援を得て、包囲の層を厚くしている。
曹操軍は地下道を掘り進めた。矢文を射込むだけのためである。地下道によって樊城に近づいた強弓のつわものは、弦をひきしぼって、みごとに矢文を樊城内に送りこんだ。ついでに関羽の陣営にも。
「ばかな! こんなことがあるか!」
関羽は一笑に付そうとした。
孫権軍の前線司令官が更迭して、親劉備派の陸遜が就任したという、よいしらせに接したばかりである。すべては順調に行っているのだ。樊城陥落もあと数日だというのに。
関羽はそれを流言として、打ち消そうとした。だが、|一抹《いちまつ》の不安が残っていた。
(あるいは……)
彼は眉をひそめた。
麋芳がなにかと口実を設けて、食糧を送ってこないので、関羽はほとほと困りはてた。
とくに于禁以下数万の捕虜を抱えてからは、食糧難は一そうきびしくなった。
|湘関《しようかん》というところに、孫権軍の食糧庫があった。
──背に腹はかえられぬ。湘関の米を借りよう。あとで返せばよかろう。
関羽は勝手に湘関に押し入って、食糧を運び去った。借りたつもりかもしれないが、湘関の孫権側の役人にすれば、強奪されたのと異ならない。おそらく、関羽が強盗行為を働いたと、建業に報告したのであろう。
(それで怒っているのかな。……)
関羽の頭では、孫権が出兵するとすれば、それ以外に理由はないと思えたのである。|詫《わ》び状の一本も書いておけばよかった。いまからでも遅くはない。ひとつ、書いて送るか。──
縁談の使者を蹴とばしたことさえ忘れている。大局を見る目ばかりか、人情の機微を察する心情にも欠けていた。あるいはそれが関羽の長所であったかもしれない。そのようなこまかいことに|煩《わずら》わされずに、ひたすら戦うことができたのだから。
やがて、曹操みずから、|摩陂《まは》に陣を進めたというしらせがはいった。どうやら本格的な救援のようである。
「よし、いまのうちに樊城を踏みつぶしてくれよう!」
関羽ははげしく攻めたが、援軍がすぐそばまで来ていると知った曹仁|麾下《きか》の籠城軍は、勇気百倍、見ちがえるほど活溌に防いだ。いくら関羽軍が攻めても、どうしても抜くことができない。
そのうちに、悪いしらせがはいった。
──江陵が呂蒙軍の手におちたらしい。……
というのである。はじめは風聞であった。
「ばかな! 呂蒙は病気でくたばりかけて、建業へ|担《かつ》がれて帰ったではないか。江陵にやってくるわけはない!」
関羽はまたしても否定しようとした。
だが、曹操が陣を進めているということは、孫権との同盟が成立していることを物語るのではあるまいか?──関羽の否定は、これまでのにくらべて、弱々しいものだった。
「貂★[#虫+單]よ。……友琴よ。……」
誰もいないとき、関羽はそっと愛する女と娘の名を呼んだ。
悪いしらせは、関羽の陣中にひろがった。関羽をはじめ、彼の麾下の将兵の多くは、その家族を江陵にのこしている。家族の安否が気遣われるのだ。家族のことなどを口にしようものなら、総大将の関羽に、頭からどなりつけられるだろう。──おまえは女か、と。将兵たちは、ひそかに金を出し合って、近在の住民に江陵のようすをさぐらせた。家族への手紙をことづけたのはいうまでもない。
そのような民間の使者が、関羽の陣中に戻ってきて、
──江陵は一滴の血も流さずに、呂蒙軍に占領されました。戦いがなかったおかげで、住民はみな無事です。呂蒙将軍の軍律はきびしく、住民の物は針一本奪ってはならぬと、将兵に徹底させております。なんでも、民家から笠を一つ借りた兵卒が、見せしめのために処刑されたそうでございます。そのあとは、もうおとなしいもので、こんな行儀のよい兵隊は見たことがないと、住民たちも感心しているようです。……
といったふうに状況を告げた。
──そうか。父母や妻子は無事だったのか。よかった。……
将兵たちの胸に、呂蒙の率いる孫権軍に感謝の念が宿った。敵にたいして、そのような気持をもつようになれば、士気はしぜんに低下するものである。
そこへ曹操陣営にその名を知られた猛将|徐晃《じよこう》が、精鋭を率いて斬り込んだ。漢中から無念の退却をした徐晃は、汚名挽回の好機とばかり、まっしぐらに関羽の本陣に突入したのである。
関羽の本陣のまわりには、「|鹿角《ろつかく》」が十段に植えられていた。鹿角とは鹿の角の形状をした、鋭い尖端をもつ|逆茂木《さかもぎ》である。徐晃の先鋒は、大|斧《おの》でその鹿角をつぎつぎに|薙《な》ぎたおして、突撃路をひらいたのだった。
関羽軍は、この十段の鹿角に頼りすぎていた。しかも、ついさきほどまでは、負けるなどゆめにも考えていなかったのだ。江陵の敗戦は、もう全員が知っていて、ほとんどが戦意を失っていたのである。
そんなところへ、徐晃の選抜隊の斬り込みである。
「うぬ、防げや! 退くな!」
関羽は一人で|咆《ほ》えつづけたが、部下ははやくも浮き足立っていた。みるみる攻め立てられて後退する。
総崩れとなった。
関羽は目のまえの樊城をにらみつけた。眉をつりあげ、ひげをふるわして。──
「呂蒙のかたりめ! 麋芳の腰抜けめ! 孫権の色きちがいめ!」
彼は城にむかって、つぎつぎと罵りの言葉を浴びせた。
「父上、ここはもはや退くしかありませぬ。再起を期して」
長男の関平が、馬をひいて父の前にいる。目が真っ赤で、若い頬は涙に濡れていた。
「追うな!」
摩陂にあって、関羽敗走のしらせをうけたとき、曹操は開口一番そう言った。
「はっ」と、使者は頭を下げ、「征南将軍も追撃を禁じました」
「ほう、仁も戦いのことがわかってきたのう」
曹操は満足げに言った。
曹仁はじつは|趙儼《ちようげん》という者の進言によって、関羽を追うことをやめたのである。
これは曹操と孫権のあまり強くない同盟による戦いなのだ。樊城の包囲を解いたことで、曹操軍は目的を達した。あとは孫権にまかせておけばよい。
(できるなら、関羽と孫権がはげしく戦い、両者とも傷つけばよいのに。……)
これが乱世の打算というものであろう。
関羽は南郡当陽県の東南にある|麦《ばく》城に逃げ込んだ。ここを先途と逃げたが、途中で脱落した者が多い。追跡してくる孫権軍、あるいは待ち伏せていた孫権軍のなかには、関羽の部下の家族がいたのだ。彼らはわが父、わが夫の名を呼んだのである。
「早く江陵に戻ってこいよ。みんな待っておるぞ」
「のう、家族|団欒《だんらん》、たのしく暮そうじゃないか。なにを好んで矢の雨をくぐらねばならんのだ。やめよ、やめよ。……」
そんな呼び声に、五人、十人と、少人数のグループがあちこちで脱走した。麦城にたどりついたとき、関羽の身辺には数百人の部下しかのこっていなかった。
麦城にはいったあとも、孫権側の呼び声の攻勢はつづけられた。
「美髯公よ、お手前ほどの豪傑を、ここで失うのはまことに惜しい。東呉に降られよ。ご家族も江陵で、首を長くして待っておられるぞ。いざ、帰順されよ。それが天下国家のためでもあるぞよ」
とくべつ声の大きい者がえらばれて、風上のほうから声をはりあげた。関羽は目をとじて、それをきいている。息子の関平がおそるおそる、
「いかがいたしますか?」
と訊いた。
「誰が碧眼児(孫権のこと)などに降るものか。……しかし、そうだな……降るとみせかけて、機をみて、この城から脱出しよう」
と、関羽は答えた。
麦城は小さな城である。数百の兵では一日ももちこたえることはできないであろう。脱出して西北へむかえば、上庸郡は劉備の勢力圏である。なんとかして、その近くまで行けば、おのずから活路がひらけるであろう。
(それにしても、上庸の|孟達《もうたつ》め、援兵を送ってくれてもよさそうなものなのに。……)
関羽は上庸太守の孟達を怨んだ。だが、このまえの曹操軍との|小競《こぜ》り合いのとき、援兵を出そうとした孟達を、「出すぎたことをするな!」と一喝したのは関羽だったのだ。こんどは援兵を請うても、孟達は一兵も送らないであろう。
関羽は麦城の城壁に|旗指物《はたさしもの》を立て、|藁《わら》人形をつくってならべておいた。
「これから投降する。準備があるので、しばらく待ってほしい」
関羽も声の大きな部下に、そう叫ばせておき、相手が攻撃をゆるめているすきに、城をぬけ出した。おおぜいでは発見されるので、三人、四人という少数のグループにわかれた。もはや軍隊の編成を解いたのである。
関羽は息子の関平のほか、十余騎を従えただけで|遁走《とんそう》した。
だが、孫権のほうがそのあたりの地理にくわしい。麦城を脱出すれば、どのような道を通るか、だいたいわかっていた。孫権は予想される脱走ルートに、|朱然《しゆねん》と|潘璋《はんしよう》の二将の部隊を配置しておいたのである。
★[#さんずい+章]水のほとりに★[#さんずい+章]郷という部落があった。潘璋はそこで待っていたが、開羽一行のすがたを発見した。赤い馬にまたがる、みごとなひげの持ち主は、まぎれもなく関羽であった。
「雲長(関羽のこと)、覚悟!」
潘璋は頭上に剣をかざし、落武者群めがけて数千の部隊を進めた。むろん、勝敗はあきらかである。──関羽一行は、一人のこらず捕えられた。
関羽はほとんど抵抗しなかった。もはや抵抗するだけの気力は残っていなかったのである。彼はもう五十八になっていた。若い関平は、さすがにはげしく戦った。しかし、数のうえからしても問題にならない。むなしい抵抗にすぎなかった。
縄をかけられても、関羽はぼんやりと口をひらいていた。この数日のあいだに、十も二十も年をとったかんじである。急性の|耄碌《もうろく》というべきであろうか。目はあらぬ方向にむけていた。
──関羽雲長ともあろう者が縄をうけるなんて、そんなことはありえないぞ。……
意識があれば、この恥辱を知るはずである。関羽は知りたくない。自尊心があまりにも高すぎた。知りたくなければ、意識を喪失するほかはないのだ。──彼は自分の名誉を守るために、急性耄碌を呈したのかもしれない。
「どうかな、孫権将軍にお仕えしては?」
潘璋ははじめのうち、そんなふうに投降を勧誘した。だが、まるで反応がない。唇のはしから|涎《よだれ》が垂れている。……
「縄を解いてやれ」
と、潘璋は部下に命じた。
それでも、関羽はなんの反応も示さなかった。潘璋の兵卒が関羽を縛っていた縄を解くと、その大きなからだが、二、三度ぐらついた。縄が彼の巨体を固定していたのだ。縄がとれると彼は軟体動物のようになってしまった。
「斬れ、はやく斬れ! はやくおやじを斬ってくれ!」
関平は絶叫した。
「よし、斬ってやろう。連れ去れ」
と、潘璋は命じた。
いま首を|剔《は》ねることが武士の情けである。
「かたじけない」
関平は頭をさげた。
そのころ、呂蒙は孫権の本陣で横になっていた。病状が急変したのである。もはや再起は不能とみられた。孫権は呂蒙のそばにつきっきりであった。
「よくなってくれ。よくなって、蜀の劉備との戦いに、軍師となってくれ」
孫権はその碧い眼に、いっぱい涙をうかべて言った。病床の呂蒙は、かすかに首を横に振った。それはかなわぬ夢だと言いたかったのであろう。
やがて、呂蒙は息絶えた。四十二歳だった。
その日、二人の使者がつづけて孫権に重大な報告をもたらした。最初の使者は、
「潘璋が★[#さんずい+章]郷におきまして、関羽の首級を挙げました」
と、報告した。
つぎの使者は、
「征虜将軍が急病にてみまかりました」
と告げた。
征虜将軍とは孫皎のことである。このたびの東呉の江陵への遠征軍は、総司令官が呂蒙で、副司令官が孫皎だったのだ。
「なんだ。……みんな死んだか。……」
孫権はそう言って目をとじた。
作者|曰《いわ》く。──
関羽が斬られたのは、『資治通鑑』では建安二十四年(二一九)十二月となっている。『魏志武帝紀』は翌年正月とする。おそらく孫権が関羽の首を曹操に送り、それが届いたのが翌年の正月であろう。
呂蒙が公安で病死したのは、関羽との戦いに勝った直後、まだ戦功による封爵が下らない前であったというから、関羽の死とほとんど同時であったはずだ。
講談本の『三国志演義』では、呂蒙は関羽の|怨霊《おんりよう》にとりつかれて|悶死《もんし》したことになっている。英雄関羽をペテンにかけた男を、講談ファンはただでは死なせたくなかったのだろう。
孫皎の死は『呉志宗室伝』に、建安二十四年のこととある。しかも、この伝のなかには、はっきりと関羽をとりこにして荊州を定めるのに功を立てたと述べている。すなわち、戦勝のときは生きていた、その直後に死んだのにちがいない。
関羽の首をえた曹操は、諸侯の格式によってこれを葬った。翌年の正月のことであるが、曹操が六十五歳で洛陽で病死したのは、おなじ月である。関羽の葬儀の直後ということになる。
関羽を攻め殺した大将と副将が、関羽の死のすぐあとに死んだ。そして、曹操は関羽の葬儀の直後に死んでいる。呂蒙はかねてから宿痾に苦しんでいたのだし、曹操は当時としては高齢であり、ひどい偏頭痛という持病があった。意外な死といえば、副将の孫皎のそれだけである。しかし、当時の人たちが、この一連の死を、関羽の|祟《たた》りと考えたのは無理からぬことであった。
中国の各地に関帝|廟《びよう》がある。皇帝でもなく、王でさえもない関羽が、関帝とあがめられるのは異例だが、彼の怨霊のはげしさに、人びとはおそれおののき、それをしずめるために|祀《まつ》ったのであろう。そのいきさつから、中国の関帝廟は日本の天神さんに相当するといえよう。
(第六巻につづく)
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
秘本三国志(五)
二〇〇三年三月二十日 第一版
著 者 陳 舜 臣
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
http://www.bunshunplaza.com
(C) Shunshin Chin 2003
bb030305
校正者注
(一般小説) 電子文庫出版社会 電子文庫パブリ 文春ウェブ文庫(383作品).rar 51,427,627 ee2f0eb8653b737076ad7abcb10b9cdf
内の”-秘本三国志(五).html”から文章を抜き出し校正した。
表示できない文字を★にし、文春文庫第20刷を底本にして注をいれた。
章ごとに改ページをいれた。
smoopyで綺麗に表示するためにヽを分解した。