秘本三国志(四)
陳舜臣
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〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年八月二十五日刊
(C) Shunshin Chin 2003
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《》:ルビ
(例)声は甲高《かんだか》く、そして乾いていた。
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(例)|片思《かたおも》い|崩《くず》れ
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目 次
片思い崩れ
劉備、造反す
黄河を渡るべきか
天下三分の計
御曹司、一番乗り
白狼山に消えた
われ軍師を得たり
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秘本三国志(四)
|片思《かたおも》い|崩《くず》れ
1
老人の高笑いは、気味が悪かった。
声は|甲高《かんだか》く、そして乾いていた。だが、その余韻が湿っているのだ。
「おぬしとわしとは、なんとなく、よく似ておるようですな。……」
|陳珪《ちんけい》老人はそう言って、また乾いた声で笑った。
「どこが似ているのでしょうかな?」
陳宮はもてあまし気味で答えた。
ここは徐州の|下★[#丕+おおざと(邦の右側)]《かひ》城、|呂布《りよふ》の本陣である。
(なにが似ているものか。まるであべこべではないか、わしとこの老人とは……)
陳宮は心のなかでそう思った。
相手の陳珪とその息子の陳登は、呂布の陣営にいるけれども、じつは曹操に心を寄せている。曹操に天下を取らせたいと望んでいるのだ。曹操のために、役に立つ機会があるかもしれないと、それを|狙《ねら》って、じっと呂布の陣営に身をひそめている。
(わしはその反対だぞ。……)
と、陳宮はひそかにせせら笑った。彼は曹操に天下を取らせないために、呂布のところに身を寄せているのだ。
「似ておりますとも。……どちらも|単想思《タンシヤンス》の片割れでな、は、は、は……」
陳珪老人は、湿った響きの高笑いをのこして、その場を立ち去った。
単想思。──片思いのことである。
呂布は智恵者の陳珪父子に頼って、天下を取りたいと望んでいる。だが、陳珪父子は曹操のためばかりを思って行動していた。これは、呂布にとっては、あきらかに片思いであった。呂布自身は気づいていないけれど。
こんなふうに、男同士のあいだにも、片思いの現象はある。
片思いとは、一方が熱く、相手のほうが冷たいというのがふつうだが、まれに、どちらも相手に熱をいれていたが、結果として、双方とも片思いの状態になってしまう場合もありうる。
(わしと曹操とがそうであったわ)
と、陳宮は苦笑した。
陳宮は東郡武陽の出身で、その|字《あざな》を公台といった。史書には彼のことを『剛直壮烈』と表現している。天下に志を抱く彼は、天下取りの可能性のある英雄をみつけようと、若いころから各地を巡歴したものだった。
曹操と出会ったとき、彼は、
──これぞ天下を取るかもしれない英雄。わしのもとめていた人物。……
と、直感したのである。だから、彼は曹操に随身した。
──おお、これはまことに役に立つ男。
曹操のほうでも、陳宮をそう見込んで、異例の登用をしたのである。
陳宮は自分が知者であるという自信をもっていた。情熱もありあまるほど持っている。とはいえ、知と熱だけでは、乱れた天下を平定することはできない。かならず『力』が必要である。彼は自分の知と熱によって、自分に操縦できる『力』をもとめて、曹操に白羽の矢を立てたのである。
陳宮には理想とした見本があった。
漢王朝の創始者である高祖劉邦を、そのうしろからあやつり、ついに天下を取らせた張良の『知』である。彼の知が、劉邦という力を素材として、天下統一を演出したのだ。
大きな『力』は、そうかんたんにあやつれるものではない。あるていど、その力のなかに、のめり込まねばならない。張良も劉邦に傾倒したからこそ、自分の知力を思う存分にそそぎ込むことができたのであろう。
陳宮も張良に|倣《なら》って、あやつるべき『力』──彼の場合は曹操──に傾倒しようとつとめた。だが、どんなに努力しても、彼は曹操という人物のなかに、自分をのめり込ませることができなかった。
それは曹操が力だけではなく、知の持ち主でもあったからなのだ。相手の力を、こちらの知でうごかそうとしても、むこうは自分の知でうごくのである。
曹操が陳宮を愛して取り立てたのは、陳宮の知が、ときどき曹操の知と、ちがった角度のものがあったからだ。部分的に陳宮の知を採用することはあっても、全面的にとりあげてくれたことはない。
陳宮は不満であった。
だが、曹操は陳宮の部分的な知を重宝した。これは片思いの現象である。
陳宮にしてみれば、曹操が力だけの人物であってくれればよいと願ったのに、そうではなかった。はぐらかされたといえよう。これまた片思いとなった。
陳宮はあきらめて、曹操の陣営から去ろうと、その機会をうかがっていた。
父親を殺された曹操が、徐州の地で残忍な皆殺し作戦をおこなっていたとき、陳宮は離反の覚悟をきめた。彼が曹操のかわりにえらんだのは、呂布であった。ほとんど知がなく、力がすべてであるといった、おあつらえむきの人物である。
陳宮が興平元年(一九四)、陳留太守の|張★[#しんにょう(点二つ)+貌]《ちようばく》と組み、呂布をそそのかして曹操を襲わせ、|蝗害《こうがい》の|飢饉《ききん》によって引きわけたいきさつは、『天日、ために暗し』の項で述べた。
それから四年たった。陳宮はそれ以来、呂布の陣営に属し、かつて仕えた曹操を打倒することを、自分の生き甲斐としている。その彼の耳にも、許都にいる曹操が、
──陳宮ほどの智恵者はいない。惜しい男だ。なんとか呼び戻して、もういちどわしのために働いてもらいたいが。……
と、側近にもらしているという情報がはいっていた。おそらく彼の耳にはいることを意識して、曹操がわざと流した情報にちがいない。
その噂は、とうぜん陳珪老人の耳にもはいっているはずだ。だから、『片思い』という言葉を使ったのであろう。
──おぬしは曹操に片思いをされておる。
──呂布はこのわしが曹操に心を寄せておるともしらずに、わしに片思いをしておる。
老人の言葉には、そんな二重の意味が含まれている。
呂布陣営のなかで、|御大《おんたい》に最も欠けた『知』を補うスタッフが分裂していることは、もはや公然の秘密といってよい。
知らないのは呂布だけかもしれない。
陳珪老人が立ち去ったのを確かめたあと、陳宮は呂布のところへ行って、
「いまこそ、|沛城《はいじよう》を撃つべきときです」
と言った。
沛城には、曹操に身を寄せた劉備がいる。
「沛城を撃てば、曹操が援兵を送るだろう」
と、呂布はあまり乗り気ではない。
「曹操は西に劉表、|張繍《ちようしゆう》、北に|袁紹《えんしよう》と、警戒すべき相手に前後を囲まれ、いまは東へは手をのばせないでしょう」
と、陳宮は説いた。
「そうかな? 陳珪の話では、劉備を撃てば、曹操がかならず出るという」
「それなら、我がほうも、援兵をもとめようではありませんか、南の袁術に」
「袁術との縁談をことわって以来、断交状態になっておる」
「縁談をまた蒸し返せばよいではありませんか。……あの話をつぶしたのは陳珪ですが、あの老人はどうも曹操びいきがすぎるようでございます」
「しかし、わしは去年、ちょっと袁術を叩いた。……はたして縁談の蒸し返しや、同盟の話ができるかな?」
「いまならできます。去年の九月、袁術は曹操に攻められて敗走しました。威勢のよいときならともかく、いまはやや弱っておりますから、袁術としても、同盟の欲しいところではありませんか」
「とはいえ、袁術は帝位を|僭称《せんしよう》した逆賊じゃからな」
「なにを申されますか。大漢の始祖、劉邦も庶民から身を起こしたのですぞ。曹操にしても劉表にしても、あるいは袁紹にしても、心のなかでは皇帝になりたがっているのにちがいありませんぞ」
「そうか。……」
呂布はうなずいた。
(おれだって……)
と、彼は思った。
2
「曹操が疲労しているいまこそ、勢力をひろげる好機ですぞ」
と、陳宮は説いた。
「そうじゃな。……」
呂布はまだふっ切れない。
もうばかばかしい戦争はしたくない。こんどから戦うにしても、たとえば、皇帝になるためという、戦い甲斐のある目的のために戦いたいものである。──呂布はあまり彼らしくない、謹慎な心の構え方になっていた。
「ところで、将軍、世間で妙な噂が|囁《ささや》かれておりますが、お耳に達したでしょうか?」
と、陳宮は言った。
「どんな噂じゃね?」
「劉備の武将の関羽についてです」
「関羽? ああ、あのひげ男か。……それがどうしたのじゃ?」
「申し上げますが、お気を悪くなさらないように」
「わしが気を悪くするようなことか?」
「さようでございますな」
「では、申せ。そこまで申して、あと口を|噤《つぐ》めば、わしはもっと気を悪くするぞ」
「はっ、そのひげの関羽が、あろうことか、|貂★[#虫+單]《ちようせん》さまに|懸想《けそう》しておるとか……」
「なに!」
呂布は大声で叫んだ。
彼は何人かの妻妾をもっているが、そのなかでもとくに貂★[#虫+單]を熱愛していた。いまこの徐州の下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城では貂★[#虫+單]は正妻として扱われている。その貂★[#虫+單]に、ほかの男が懸想した。──しかもその男が関羽とは!
「誰もが知っていることでございます。お疑いになるなら、どなたにでもおたずねになればよろしい。ことがことなので、将軍にだけは、言わないでおいたのです」
陳宮はしずかに言った。だが、相手が逆上しているときに、ものしずかな言葉で対するのは、最も効果的な挑発なのだ。
「うぬ、あのひげ野郎は、貂★[#虫+單]に会ったことがあるのか?」
呂布の白い顔が、みるみる紅潮した。
「いえ、これは貂★[#虫+單]さまには、なんの責任もないことです。関羽はどこかで、貂★[#虫+單]さまのお姿を、ちらと見かけたのでしょう。それ以来の片思いだったのです」
「けがらわしいひげめ!」
呂布はべっと|唾《つば》を吐いた。唾を吐いて、それですまされては、陳宮の計算は狂うのである。どうしても、呂布に劉備を討たせ、曹操をひき出して、打撃を与えたいのである。
「一昨年、関羽が少人数を率いて、当城を襲いましたのも、貂★[#虫+單]さまをさらおうとしてのことだったのですぞ。幸い、貂★[#虫+單]さまは外出しておられて、難をおのがれになりましたが。……」
陳宮は言葉を抑えに抑え、挑発の効果をはかりながら言った。彼が待っていた、呂布の感情の爆発が、やっとこの言葉に誘い出されたのである。
「そりゃ、まことか!」
いったん紅潮した呂布の顔が、このあたりで|蒼《あお》ざめてきた。
「将軍以外の者は、誰もこのことを知っております。誰かをお召しになって、この場でおたずねになってはいかがですか?」
陳宮の声は、あくまでも冷静であった。
「おのれ、ひげの色きちがいめ!」
呂布は立ちあがって、足を踏み鳴らした。関羽のごとき下郎の目に、我が愛する貂★[#虫+單]の姿をみせたことさえ口惜しいのに、奪いにきたとはなにごとであるか。
「関羽のような下賤の徒輩のために、将軍がいちいち怒るのもいかがなものかと、われわれ幕僚が、そのことを伏せておきました。そして、ひそかに関羽に備えていたのでございます。将軍もいま、関羽のことを色きちがいと申されましたが、きちがいは正常の心を持っていません。いつまた貂★[#虫+單]さまを奪おうとするか、わかったものではないのです。いままでは万全の備えに自信はありました。しかし、いつまでもというわけには参りません。いささか心もとなく思いはじめております」
陳宮はそう言って、首をうなだれた。
「なに、心もとない。ばかな!」
大事な貂★[#虫+單]を守り切れないとは、なんたることであるか。そんなことでは困る。絶対に困る!
「はっ、貂★[#虫+單]さまをお守りするには、もはや方法は一つしかございません」
陳宮は面をあげてそう言った。
「その方法とは?」
呂布はいらいらして|訊《き》いた。
「劉備の沛城を襲い、色情狂の関羽を刺し殺すよりほかに方法はないでしょう」
「うーむ、刺し殺すだけではあき足らぬわ! 五体をひき裂いて、犬に食わせてくれようぞ。よし、出陣の準備をいたせ」
呂布は劉備討伐を決意した。
「そのまえに、袁術と仲直りをいたさねばなりません。使者を出して、縁談の件を、ふたたび進めるように。……」
「わかった。それはまかせよう」
「陳珪が参れば、またなにかと出陣をとりやめるよう、進言いたすかもわかりません。なにとぞおとり上げになりませぬように」
と、陳宮は言った。
「言うにゃ及ぶ。わしは、いったん決めた以上、どんなことがあっても実行するのだ」
呂布はそう言って、肩で大きな呼吸をした。激怒はまだ去っていないのである。
「では、準備にとりかかります。ごめん!」
陳宮は一礼して部屋から出ようとした。彼の背に、呂布は、
「曹操は出て参らぬだろうな?」
と質問を浴びせた。
陳宮はふり返って、ほほえんだ。──このたびの劉備討伐は、彼にしてみれば、曹操をひき出すための作戦である。曹操が出て来なければまずいのだ。そして、曹操はおそらく出てくるだろう、というのが陳宮のカンであった。
「曹操が出てきても、かまわぬではございませんか。曹操の軍隊は、このあいだからの、愚かな戦いのために、ぼろぼろになっております。ついでに、ひねりつぶすのも、また一興ではございませんか」
陳宮はそう言って部屋を出た。
3
──愚かな戦い。
たしかに陳宮が形容したように、建安三年(一九八)前半、曹操は表面から見たかぎり、愚かな戦いをつづけていたといわねばならない。
──意地で戦っているのであろう。
という批評もあった。
前年、いったん張繍を叩き、許都にひきあげ、丁氏との離婚など身辺の問題を片づけながら越冬したあと、ことしの三月、再び張繍討伐に出陣した。
「|★[#さんずい+育]水《いくすい》の敗戦の屈辱は、まだ|雪《すす》がれておらぬ。戦死した|典韋《てんい》たちの恨みも、まだはらされておらんのだ。どうしてもあの青二才を討つ」
と、曹操は言い張った。
幕僚のあいだには反対の声も多かった。
「張繍は青二才かもしれませんが、そのうしろに劉表がおりますぞ」
と、自重を促す意見もあった。
「西へ軍を進めているあいだに、北東から袁紹に衝かれるおそれがあります」
と、|危惧《きぐ》を表明した幕僚もいた。これにたいして曹操は、
「袁紹は北の|公孫★[#王+贊]《こうそんさん》が心配で、そうかんたんに西下はできんだろう。案ずるに及ばぬ」
と、反論した。
最も説得力のある反対は、
「張繍は部下が飢えたので、劉表の|傘下《さんか》にはいったのにすぎません。ところが、劉表は張繍軍団が満足するほどの食糧を与えていないということです。いずれ張軍のあいだに不満がたかまり、劉表と離れるようになるでしょう。討つにしても、そのときになってからのほうが、らくでございます」
という論旨であったが、曹操はかたくなに首を横に振り、
「とむらい合戦をやらねば、軍の士気があがらぬのだ」
と、出陣の意思を押し通した。
作戦会議がすんだあと、幕僚長の|荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]《じゆんいく》一人だけがのこった。
「これから、ほんとうの作戦会議を始めるのですね」
荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]はにこにこ笑いながら言った。
(よく知ってやがる)
曹操は喜んでよいのか、怒ってよいのか、複雑な気持になった。
「こんどの戦いで、一ばん大切なことはなにかな?」
と、曹操は訊いた。
「大きな打撃を受けたと、みせかけねばなりませんが、大敗してはならないのですね。できれば、勝ったのに、負けたとみせるのが理想ですが……」
荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]は笑顔を消さずに答えた。
「そこまでわかっておれば、もうなにも説明することはない。作戦計画をたててもらおうではないか」
「かしこまりました」
と、幕僚長は答えた。
天下を取るためには、おもだった敵を、一人ずつ消して行かねばならない。張繍を攻めることは、その背後にある、天下争いの選手の劉表を消すため、と世間では思うであろう。だが、曹操はこの作戦で、呂布と袁術を消すつもりであった。
袁術は去年|蒙《こうむ》った打撃によって、せっかく帝位を僭称したのに、その軍事力は大きく削減されている。曹操としては、むしろ袁術よりも呂布のほうがおそろしい。乱世のならいとして、各地の雑軍は強いものにつきたがる。呂布の剛勇ぶりは、|董卓《とうたく》を殺したことや、|戟《げき》の|胡《こ》(かなめ)を射あてたといった、きらびやかなエピソードによって、天下にあまねく知れ渡っている。呂布はその勇名によって、三千、五千といった小勢力の軍団を傘下にあつめ、大勢力に成長する可能性があった。
──呂布は、いまのうちに、息の根をとめておかねばならない。
曹操はそう思った。彼は世評のつくりだす虚像のおそろしさを知っていた。それはその本人を実力以上におしあげるものなのだ。呂布がおそるべき勢力となってしまっては、それを消滅させるのも困難となる。いまのうちである。
「ちょっと遅すぎたかもしれませんね。泰山の雑軍が、呂布につきましたから」
と、荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]は言った。
泰山のあたりには、どこにも属していない、言いかえると|日和見《ひよりみ》をしている雑軍が、あちこちに散在していた。三千、五千といったグループである。その部将は、|臧覇《ぞうは》、孫観、|呉敦《ごとん》、|尹礼《いんれい》といった連中だが、彼らはすでに呂布の『勇名』をきいて、つぎつぎに帰順したのである。
(勇将呂布に属しておれば、将来、きっとよいことがあるだろう)
と、彼らは計算したのだ。
「いや、遅すぎたことはない。泰山の山賊どもがついたので、呂布は自信をもったであろう。いまは彼に自信をつけさせねばならんのだ」
と、曹操は言った。
曹操の計略とは、呂布を消すために、呂布がさきに手を出すようにしむけることであった。さきに手を出すには、自信がなければならない。
呂布に自信をつけさせるために、曹操は劉表・張繍と戦って、大きな打撃を受けたふりをしようとしたのだ。このたびの征西のおもな目的はそれであった。泰山の諸軍が呂布に属したことも、呂布の自信を増す意味では、曹操にとって有利な事件といわねばならない。
曹操軍、傷つく。
というしらせを受けると、呂布はおそらく、曹操陣営の一角である、隣接の沛城を攻撃するはずである。沛城の劉備は、曹操に救いをもとめる。曹操軍は駆けつけるであろうが、打撃を受けたばかりの軍隊は弱体であるにちがいない。──これぞ、天子を擁する曹操を消滅させる絶好の機会ではないか。
「呂布は、はたして沛城を襲うでしょうか?」
幕僚長はこの点に、すこし疑問を残しているようであった。
「かならず襲うにきまっておる。……いいか、呂布の陣営には、あの陳宮がいるのだぞ」
と、曹操は言った。
曹操の陣営を去ったあと、陳宮が『打倒曹操』を念願として、呂布のもとに走ったのは、呂布をあやつるのが、念願達成の最短の道であると考えたからなのだ。とすれば、陳宮がこの好機を、手をこまねいて見逃すはずはない。──曹操はこのことについては、自信をもっていた。
「呂布を消せば、袁術もしぜんに消えますな」
と、荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]は言った。
袁術はつい去年ごろまでは、A級の大勢力であったが、帝位僭称のころから、力が急に低下した。江東の孫策が自立したことなども、大きな影響があったのだ。
それにくらべると、呂布はながいあいだ、さすらいの将軍であり、どんなにひいきめに見てもB級の勢力であった。しかし、劉備にかわって徐州の牧となってからは、めきめきと力をつけてきた。
没落しつつあるA級と、上昇しつつあるB級とは、どちらも自前では天下に|覇《は》をとなえることができない。二者が連合して、はじめて天下争いに参加できる勢力となる。
去年以来、縁談のもつれもあって、この二者は仲が悪くなっている。だが、双方とも相手との同盟を必要としているのだから、いずれは結びつくであろう。──曹操と荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]は、そこまで見通して、二者を束にして消そうと考えていたのだ。
「では、これからいかにして、負けたようにみせるか、じつに難しい作戦をたてることにするか」
曹操は地図をひろげた。
4
曹操が張繍を|穣城《じようじよう》に囲んだのは、建安三年(一九八)三月のことであった。
みたところ、兵を休めて、じわじわと相手の衰弱を待つ戦法のようであった。包囲すること、一カ月に及んだ。
そのころ、包囲軍の司令部に、許都から火急の伝令がとび込んできた。ちょうど数十人の幹部が作戦会議をひらいているところであった。ころがるようにして、曹操の足もとまでたどりついた伝令は、
「袁紹が許都を襲う計画を立てております!」
と、大声で言った。
「なに!」
曹操は立ちあがって、天を仰いだ。
「いかがいたしまするか?」
と、幕僚は訊いた。
「退却のほかはあるまい。天子を奪われては一大事。早々に退却の準備をせい」
曹操はどなるように命令を下した。
「はい、かしこまりました」
「極秘裡に事をはこべ」
と、曹操は念を押した。
会議に列席していた数十人の幹部のなかには、敵側に買収された者が二人や三人はいるはずであった。公表はしていないが、はっきりとその証拠のあがっている者が一人いたのである。
極秘といっても、これが敵側に筒抜けになることは、曹操も知っていた。敵にしらせるために、わざと演出した場面だったのだ。
「よいか」曹操は部下を見渡して、「うろたえるでないぞ。袁紹の許都襲撃も、あと数日はかかるにちがいない。急いで帰らねばならぬが、かといって退却のことを敵に知られては、追撃を受けて損害を受けるだろう。すこし時間はかかっても、敵にさとられぬように準備をせよ」
こうして、曹操の退却準備はもたもたしていた。張繍は劉表と連絡して、退却しようとする曹軍を襲う用意を整えた。
曹軍の撤退は、夜になってから開始された。夜陰にまぎれて逃げるのは、古来から退却の定石である。
張繍・劉表の連合軍は、あらかじめ曹軍の退却を知っていたので、途中で|挟撃《きようげき》しようと待ち構えていた。こんなとき、道が山にはさまれた地点をえらぶのも定石である。両側の山中に兵を伏せ、曹軍がやって来るのを待って、左右から、わっと攻めるのだ。
そこは紫山という山であった。
|雄叫《おたけ》びと悲鳴とが、紫山の山中にこだました。──闇夜なので、戦いのもようはよくわからない。ただ張繍・劉表側の感じからすれば、奇襲をかけたにしては、敵はそれほど|狼狽《ろうばい》したようすはなかった。
もっと意外であったのは、曹軍の数が予想以上に多かったことである。
ひとしきり戦闘がおこなわれると、曹軍の指揮官が、
「急げ、急げ! 相手になるな! 許都ヘ一刻も早く退却だ!」
と、どなりつづけた。
「負けた! 負けた! 早く逃げろ!」
と、|喚《わめ》いている将軍もいた。
こうして戦いは終わった。
翌朝、張繍は参謀長の|賈★[#言+羽]《かく》とともに、戦場を視察し、|愕然《がくぜん》とした。そこに遺棄された死体は、ほとんど味方のものであった。曹軍の死体は十に一つあるかないかである。──これでは負け戦さではないか。それなのに、相手は、
──負けた! 負けた!
と叫びながら逃げて行ったという。
|斥候《せつこう》の報告でも、紫山を抜けて、東の街道へ出た曹軍は、そのあたりの部落の人たちに、「張繍と劉表の連合軍に、散々打ち負かされた。大損害を受けたのだ」
と言っているそうだ。
(なぜか?)
賈★[#言+羽]は戦場となった紫山の両側の山に、おびただしい横穴が掘られているのを発見した。
「うーむ!」
彼は|呻《うめ》いた。
退却の準備を、極秘裡におこなうので、時間がかかったようにみせかけていたが、じつはこのあいだに、曹軍のかなりの人員が、紫山の両脇の穴のなかに身をひそめたのである。
張・劉連合軍は、退却の曹軍の兵数を頭において、奇襲したつもりであった。だが、曹軍はむろん、そのあたりで襲われることを知っていたのだ。しかも、穴からとび出した軍兵をあわせると、曹軍は数倍にふくれあがっていたであろう。彼らは連合軍をこっぴどく叩いておいて、『負けた! 負けた!』と喚きながら逃げたのである。
「読めた!」
と叫んで、賈★[#言+羽]は歯がみした。
この明敏な参謀長は、曹操軍の異常な行動の目的がどこにあるか、すぐに察知したのである。
賈★[#言+羽]は涼州(武威)の人で、かつて董卓の幕僚として、牛輔(董卓の女婿)の参謀をつとめていた。長安で董卓が殺されたとき、東方に駐屯していた|李★[#イ+寉]《りかく》や|郭★[#さんずい+巳]《かくし》が、軍を解散して、故郷へ逃げ帰ろうとしたとき、
──ここで逃げても、長安攻めに失敗してから逃げても、おなじことだ。せっかく数万の軍隊があるのだから、軍を解散せずに、このまま長安へ押しかけよう。
と説き、長安占領に成功させたのが、この賈★[#言+羽]であった。牛輔が死んだので、おなじ董卓系の張繍に所属している。長安時代、彼は宣義将軍の称号をもっていたので、張繍に属しているといっても、ほとんど同格であったといってよい。
「全軍を挙げて、曹操を追いましょう」
と、賈★[#言+羽]は言った。
「勝てるかな?」
張繍は首をひねった。
「勝てますとも。暗闇のなかなら、勝っておきながら負けた、負けた、と言えるでしょう。だが、白昼、衆人環視のまえでは、そのようなことはできない。曹操は勝つわけにはまいりませんのじゃ」
と、賈★[#言+羽]は自信ありげに言った。
張繍はなんのことか、よく理解できなかったが、賈★[#言+羽]の作戦を信じていたので、全軍に追撃を命じた。
はたして、曹操軍は逃げに逃げ、張繍軍は逃げ遅れた曹軍の一部を捕捉し、これに打撃を与えることができた。
許都にたどりついた曹操は、大きな舌打ちをして言った。──
「張繍は青二才だが、あそこには賈★[#言+羽]がおったわい」
「よろしいではございませんか。我が軍が、ほんとうに算を乱して逃げるのを、おおぜいの人が目撃したのですから」
と、そばから荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]が慰め顔に言った。
5
曹操が許都に帰ったのは七月のことである。
八月、はたして呂布は沛城を急襲した。呂布軍の将軍は高順と|張遼《ちようりよう》で、いずれも騎兵戦の得意な北方出身の武人である。
呂布が中原に|地歩《ちほ》を占めることができたのは、その騎兵隊の強さによってであった。騎兵の軍団を維持するには、たえず優秀な|馬匹《ばひつ》を補充しなければならない。だが、徐州近辺の馬は、駄馬ばかりであった。そこで、呂布は|匈奴《きようど》が馬を売りにくる|河内《かだい》(山西省)まで、人を派遣して良馬の買付けをした。ところが、せっかく買付けた馬を、沛の近くで奪われるという事件がおこった。
──劉備の大耳野郎のしわざにちがいない。
と、呂布は返還を要求したが、劉備は、
──当方、身におぼえはござらぬ。泰山の諸賊のしわざではありませんかな。
と、つっぱねた。
このようないきさつがあったので、呂布は沛城の劉備を攻めるについては、りっぱな口実があると考えていた。
攻められた劉備が、盟主である曹操に救いをもとめたのはいうまでもない。曹操は援軍を送ったが、呂布軍に勝つことができなかった。
呂布の部将張遼は、|雁門《がんもん》(山西)の|馬邑《まゆう》の出身だが、地名にも『馬』の字がついていることからも察しられるように、騎兵戦の天才ともいうべき人物で、このときまだ二十八歳であった。
劉備軍も曹操の派遣した援軍も、張遼のために攻め立てられ、敗走するほかなかったのである。──|彼我《ひが》の戦闘力を吟味して、曹操もこの結果は予想していた。
──万事、予想どおりに進行している。
と、曹操はおち着き払っていた。しばらくは呂布に調子に乗らせておいたほうがよい。
呂布のほうは、この戦果に不満であった。なによりも、色きちがいの関羽をとり逃がしたのが残念でならない。
「劉備は逃がしてもよかったが、関羽はどうしてもつかまえたかった」
と、呂布は唇をかんだ。
劉備と呂布とは、助けたり、助けられたりした過去がある。呂布は尾羽うち枯らしたとき、劉備を頼って、やっと息をついた思い出もあるので、例の|戟胡《げきこ》を射た一件で、劉備の命を救った。どうやら、それで貸借は帳消しになっているが、呂布は劉備にたいして、どうしても憎悪の念がわかない。馬泥棒も、九分どおりは劉備軍のしわざと思っているが、
──大耳野郎は、部下のやったことを、ほんとうに知らないのかもしれないぞ。
という気もしたのである。
劉備は両手を垂れると、膝の下まで届くという長い手をもち、耳も異常に大きかった。呂布は劉備のことを、大耳野郎とか、うさぎ野郎と呼んでいたが、半ば親近の情をこめた呼び名である。
「そのかわり、うさぎの妻子をつかまえました」
と、張遼は報告した。彼は劉備の妻子をつかまえて、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城に連れてきたのである。
「可哀そうに、うさぎの細君も、よくとりこになるのう。これで二回目だ」
と、呂布は言った。このまえにも、呂布は劉備の留守を襲って、彼の妻を人質にしたことがあった。
沛城の劉備軍が敗走したのは九月のことであった。
許都で敗報に接した曹操は、ただちに、
「わしみずから、全軍を率いて呂布を討とう。すぐに出陣の準備をいたせ」
と、命じた。
じつは出陣の準備など、もうほとんど完了していた。これまでのことは、ただの手続にすぎない。これからほんとうの舞台に立つのである。
曹操は討董軍以来、なんども戦場に出た。これからも、おびただしい戦争を経験するであろう。だが、運命を決するような、大切な戦争は、一生のうちにもそんなに多くはあるまい。彼はこのたびの呂布討伐を、生涯のうちになんどもない、重要な結び目になる戦いの一つであると認識していた。
重大な戦いだから、『愚かな戦い』としかみえない前奏曲をつけたのである。
曹操が本拠をおいた許都は、現在の河南省許昌市で、|鄭州《ていしゆう》市の南にあたる。彼は大軍を率いて、東へむかった。敗走していた劉備軍は、|梁《りよう》の地で曹操軍と会した。
劉備軍を収容した曹操は、さらに軍を東へ進め、沛城を素通りして、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]の西北の|彭城《ほうじよう》にむかった。
「いまこそ打って出るべきです」
と、陳宮は呂布にすすめた。遠征の曹操軍は、長途の行軍に疲れているはずである。そこを攻めようというのだ。
「もっと疲れさせろ」
と、呂布は出撃しなかった。彭城は呂布の領地の一城だが、彼はそれほど執着していない。彼は曹操や劉備など、中原出身の将軍とちがって、|遙《はる》かな遠い五原郡(現在の内豪古自治区)育ちなので、土地にたいする愛着の度合が薄い。領地内に点在する城は、呂布にとっては将棋の駒にひとしい。
──彭城という駒を、曹操に取らせよう。そのために、曹操はもっと疲れ、この下★[#丕+おおざと(邦の右側)]に来るときは、戦力を低下させるだろうから。
と、考えたのである。
彭城は十月に陥落した。
呂布は曹操軍の疲労を期待したのだが、そうは問屋が|卸《おろ》さなかった。これまで呂布陣営に属しているとみせかけていた、陳珪老人の息子、広陵太守の陳登が、新手の郡兵を率いて、曹操軍に加わったのである。
──待ちに待った時が来た。
陳父子はそう判断して、覆面をかなぐりすてたのだ。
「馬を使わせるな」
徐州の州城である下★[#丕+おおざと(邦の右側)]を攻めるにあたって、曹操が指示したのは、この言葉だけであった。呂布は騎兵戦を得意としたが、敵の得意の戦法を避けるのは兵法の常識である。陣地の構築から、地点の選択にいたるまで、いかにして馬を使いにくくするか、曹操軍はこの命題に全知能をしぼって取り組んだ。
曹操軍の先陣を担当したのは、まだ戦っていない、気力じゅうぶんの陳登の部隊であった。
6
「ほう、関羽が来たか。なんの用かな? すぐに通せ」
取り次ぎの者から、劉備の部将の関羽が来たときくと、曹操はすぐに接見することにした。
下★[#丕+おおざと(邦の右側)]に着いてから、なんども野戦がおこなわれた。呂布はさかんに打って出て、平野での戦いを挑むが、曹操は自分の気に入った場所でなければ戦わない。すなわち、馬の使いにくいところである。
曹操が戦場をえらぶので、戦うたびに呂布は損害を受けた。戦いはつねに、曹操に有利な地点でおこなわれたからである。
呂布もばからしくなって、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城にはいって、城門を閉じてしまった。
しぜん包囲戦になった。呂布の騎兵隊はいよいよ用いる場所がなくなったわけである。そして、時間も長びいた。
そんなときに、関羽が曹操の本陣に姿をあらわしたのである。
「重要な情報があります」
と、関羽は言った。
「申してみい」
「呂布は|秦宜禄《しんぎろく》と申す者を、城外に送り出して、外援をもとめております。行先はおそらく袁術のもとと思われますが。……」
関羽はそう報告した。
「そうか。……」
包囲を受けた側が、外に救援をもとめるのはとうぜんだし、これまでのいきさつはあっても、一ばん近い袁術をえらぶのも予期したとおりであった。曹操はむしろ、ここで袁術をひき出したほうが、早く片づくと考えていた。
報告がすんでも、関羽はまだそこにひかえていた。
「ほかになにか報告することがあるのか?」
と、曹操は訊いた。
「は、それが……」
関羽はめずらしく言い|淀《よど》んだ。そのみごとなひげが、かすかに揺れている。
「|雲長《うんちよう》(関羽の|字《あざな》)、おかしいではないか、そちがくちごもるとは?」
曹操はそう言って、笑顔をみせた。関羽のようすからみれば、なにやら言いにくいことのようである。相手を切り出しやすい状態にさせるために、曹操は白い歯をみせたのだ。
「お願いの筋がございまして」
関羽は思い切ったように言った。
「申してみい、遠慮せずに」
「はっ、それが……女のことでございまして……」
関羽はそう言って、面を伏せた。
「は、は、は、なんだ女のことか。女の話なら、このわしも大好きじゃ。どこの女かね?」
曹操は身を乗り出すようにして訊いた。
「それが……その、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城内におりまして……つまり、その……その者の妻ですが……」
関羽は面を伏せたまま言ったが、ひげに埋まりかかった耳が、真っ赤になっていた。
「は、は、は、人妻か。……人妻もよいではないか」
曹操は張済の未亡人のことを、ちらと脳裡にうかべた。
「下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城陥落のあかつきは、その女をそれがしに賜わらんことを……」
関羽は全身を|顫《ふる》わせていた。
「ああ、よいとも、わかった。城が落ちたなら、そのほう、勝手にさらって我がものにせよ。わしが許す。……しかし、そんなによい女なのか?」
曹操はからかい半分に訊いた。
「はっ、それはもう……」関羽の返事は真剣であった。──「それがし、この世に生まれて三十六年、これほどの美女に逢ったことはございませぬ」
「ほう、生まれてはじめてとな。……これは言いおったのう」
曹操は、いささか毒気を抜かれた|恰好《かつこう》であった。
「まことでございます。将軍もごらんになれば、おわかりになるでしょう。……その者が、かような美女を妻にいたしておると思っただけで、それがしは……全身の血が逆流するのでございます」
関羽は面をあげて言った。思いつめたような目つきであった。
「わかった、わかった。……ま、わしはそのほうよりは、いささか多く女を見ておるが。……うん、許す。安心せい」
と、曹操は言った。
「ありがたきしあわせ」
関羽は深ぶかと頭を下げて、そこから立ち去った。
「あのひげめ。……関羽としたことが、あんなに執心するとは。……どんなに美しい女かな。……ひとつ見たいものだ」
関羽が帰ったあと、曹操はそうひとりごちた。……許都にのこした女たちや、別れた丁氏のことが、なんとなく思い出される。
(包囲ばかりで、戦さがないからだ。……)
曹操は自分の感傷をそんなふうに説明した。退屈だが、退屈との戦いが、こんどの遠征の眼目である。耐えねばならない。
しかし、関羽が退出したあと、驚くべき情報がはいり、曹操の頭のなかから、女どものことを一挙に追い出してしまった。
|河内《かだい》太守の張楊が、呂布救援のために、出兵をしたというのである。さすらい将軍時代の呂布が、袁紹からていよく追い出されたあと、頼って行ったのが張楊のところであった。当時、張楊は長安の朝廷と、関東の諸将とのあいだのパイプ役をしていた。曹操も長安の天子へ使者を送るとき、張楊の世話になったものである。
──呂布との|交誼《こうぎ》を重んじ、その窮状を見るにしのびない。義として援兵を送る。
と、張楊は称した。
とはいえ、山西省南部の河内から、大軍を徐州まで送るのは、張楊の力からいえば荷が重すぎた。兵を洛陽の対岸の|野王東市《やおうとうし》(現在の河南省|沁陽《しんよう》県)まで進め、
──下★[#丕+おおざと(邦の右側)]の囲みを解かねば、おまえの本拠の許都を衝くぞ。
と、|牽制《けんせい》するつもりだったのであろう。
張楊は義侠心もあったかもしれないが、B級軍閥の一人として、|超弩級《ちようどきゆう》の軍閥の誕生を歓迎しない心理もあったのにちがいない。
「|楊醜《ようしゆう》はどうしたのか、楊醜は? こんなときのために、送り込んでいるのではないか」
曹操はそう言って、舌のさきで唇をなめた。
呂布の陣営に、陳珪父子のような、いざというとき曹操側に立つ人物を送り込んでいるように、河内の張楊のところにも、ひそかにそのような人物を配してあった。──それが楊醜だったのである。
その待ちに待った楊醜から、翌日、報告が届いた。
──われ、張楊を殺せり!
短いけれど、歯切れのよい報告である。このしらせに接して、曹操はなんどもうなずいた。
──よくやったぞ。……
しかし、つづいて第三報がはいった。こんどは、野王の近くにいる|諜報員《ちようほういん》からの至急報であった。
──殺された張楊の武将の|★[#目+圭]固《けいこ》という者が楊醜を殺し、全軍を率いて、袁紹のもとへ走りつつあり。
というのである。
牽制されずにすんだが、こんどは袁紹という、もう一人の敵──現在のところでは最大の敵が、兵力を増やすという結果になった。
「可もなく、不可もなしか。……」
と、曹操は|呟《つぶや》いた。
7
──援軍、来らず。
下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城内では、呂布が|眉《まゆ》をしかめていた。
ほんとうは、袁術はもう援軍を送る余裕がなかったのである。去年、曹操のために、飢饉の|淮水《わいすい》地域に追い込まれ、大きな損害を受けていた。援軍を送るどころか、袁術はいま誰かに助けてもらいたいほどであった。だが、彼にも自尊心はある。
──われら両家の結婚が破談となったのに、なぜわしが呂布に援軍を送らねばならないのか?
出兵拒絶の理由を、袁術は縁談が破れたことに押しつけた。
呂布からは|詫《わ》びをいれてきたが、袁術は、
──そこもとの娘御が、ほんとうに我が家に来るまでは、一兵たりとも援軍を送ることはできない。
という返事を与えた。
袁術はおちぶれても、みえを張った。いや、おちぶれたからこそ、けんめいにみえを張る必要があったのかもしれない。
「よし、娘を届けたなら、援軍を送ると申すのだな。……わしが届けよう」
と、呂布は言った。
「一城のあるじが、包囲された城から離れるようなことは、あってはなりませぬぞ」
と、陳宮は|諌《いさ》めた。
「それはわかっておる。……しかし、娘を届けないことには援軍は来ない。これも城を助けるためだ。せめて安全な場所まで、娘を送ってから戻って来ることにしよう」
呂布は思いつめていた。
「気のすむようになさいませ」
と、陳宮も折れた。
縁談中の娘といっても、呂布の娘はまだ十歳をすぎたばかりである。呂布はその娘を自分の背中にくくりつけ、そのうえに錦衣をかぶせた。すこし大きすぎる赤ん坊だが、おやじの呂布が巨漢なので、それほど不自然にはみえない。
「こうすれば、わしもうごきやすいわ」
呂布は娘を背負って、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城の外へ出た。単騎、血路をひらいて、袁術のところまで駆け込むつもりであった。だが、城を出て、それが不可能であることを思い知らされた。下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城は二重、三重に囲まれて、脱出すべき路はどこにもなかったのである。
娘を背にして、呂布は空しく引き返さねばならなかった。
「この下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城の危機を救うには、ただ一つの方法しかありません。もはや外援にばかり頼ってはおれませんぞ」
と、陳宮は呂布に言った。
「その方法とはなんだ? わしはもうほとほと疲れたわい」
呂布も弱気になっていた。
「この下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城の軍勢の半ばを、将軍が率いて包囲を突破するのです。それぐらいの兵数なら、囲みを破ることはできるでしょう?」
「そりゃ、なんとか突破はできる。だが、問題はそのあとだ」
「曹操が囲みを破った将軍の軍を追おうとすれば、この私が歩兵を率いて、曹操の背後を襲いましょう。曹操が私の歩兵隊を討とうとすれば、将軍が騎兵隊をもって、うしろから攻めてください。そうすれば、曹操も奔命に疲れるでしょう」
と、陳宮は言った。
「それもそうだな。……」
呂布もやる気になっていた。城内に坐っていても、敵は|退《ひ》いてはくれない。なんとか手を打たねば、自滅するおそれがあった。
しかし、いざ出撃の準備にかかるという段階で、呂布は首を横に振って、
「やめた。……この作戦はよそう」
と言ったのである。
貂★[#虫+單]が反対したからだった。
「あなたはおもてだけをごらんになって、裏面はご存知ないのです。この城は、あなたがいてこそ、やっと保たれているのですよ。もしあなたが城外に出てしまわれると、城内ではたちまち派閥抗争に明け暮れることでしょう。……誰と誰かは、申し上げません。でも、それがたしかであるということだけは、誓ってもよろしゅうございます。そうなれば、わたくしの命がなくなることも、これまたたしかと申してよろしゅうございましょう」
と、彼女は言ったのである。
「そうか。……そんなにひどいか。……」
呂布も城内の派閥の争いには、薄々、気づいていた。ただ彼は派閥の力の均衡を利用するような、政治的な人間ではなかったので、それほど関心もなく、
(つまらぬことをやっておるわい)
と、横目に見るていどであった。
参謀派の陳宮と、実戦派の高順の確執は、かなり根が深かったのである。鶴の一声でことをおさめる呂布がいるからこそ、両者の争いはまだ表面化していない。呂布が城外に出てしまえば、とりかえしのつかぬことになるおそれがあった。
陳宮と高順はいがみ合っているが、どちらも徹底的抗戦派ということでは共通していた。これは呂布もまだ気づいていないが、城内には投降派もいたのである。──|宋憲《そうけん》、|魏続《ぎぞく》といった連中がそうであった。
「ああ、もう面倒くさい」
呂布はもう投げ出してしまった。そして、貂★[#虫+單]を相手に、毎日、酒ばかり飲んでいた。そのあいだに、曹操は|沂《ぎ》水と|泗《し》水の両河の水を引きいれた。水攻めである。
下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城は最後の段階を迎えた。
8
酒びたりの呂布では、城内にいても城外にいてもおなじであった。たとい城内にいても、統率力を失ってしまうと、もはや|内訌《ないこう》をおさえることはできない。
宋憲、魏続たち投降派が、クーデターを起こして、抗戦派の陳宮と高順をとらえ、城門を開けて、曹操の軍門にくだったのである。
投降派の連中も、さすがに呂布の剛勇をおそれて、彼が邸で酒を飲んでいるすきに、すばやく事をはこんだのである。
「なに、門が破られた?」
呂布のもとに届いた第一報は、敵が城門を破ったというだけであった。味方が門をあけたということまで、呂布は知らなかった。
「はい、さようでございます」
報告者はそれが内応の結果であることを知っていたが、呂布には言わなかった。呂布がそれを知って、激怒のあまり、目の前の報告者の頬っぺたを張り倒しでもすれば、それこそいい面の皮ではないか。
「南門は?」
と、呂布は訊いた。
「南門はまだ破られていないようです」
「よし、南門を守ろう。五原の猛士を南門に集めい!」
呂布は邸からとび出した。
貂★[#虫+單]はあとにのこされた。呂布は彼女の前から去るとき、顔がかがやいていた。そして、彼女のことなどまるで念頭になかったようであった。
「戦いのにおいを|嗅《か》いだ男って、みんなそんなものだわ。……」
彼女はそう呟いて両手を合わせ、しずかに目をとじた。彼女は祈っていた。五丈原の康国の人たちに教わったように、|浮屠《ふと》の名、|釈迦牟尼《しやかむに》の名をくり返した。何百遍、いや何千遍くり返したか、彼女はおぼえていない。
どれほどたったか、荒々しく戸のひらく音がして、
「よいか、|翼徳《よくとく》(張飛のこと)、嫂夫人(劉備の妻のこと)をお救い申し上げろ! よいな。……わしはほかに用がある」
と、大声でどなる声がした。
貂★[#虫+單]は目をあけた。ひげ面の男がそこに立っていた。
「おお、貂★[#虫+單]どの。……曹公のお許しをえて、そなたを迎えに参った。……それがし、雲長、関羽でござる!」
ひげ面の男は、燃えるような目で、一歩また一歩と近づいた。──貂★[#虫+單]は再び目をとじた。……
遠くで剣戟の響きがしていた。戦いはほとんど終わり、どうやら南のほうで、少人数が最後の抵抗を試みているようだった。
下★[#丕+おおざと(邦の右側)]の南門を、白門ともいう。そこの楼に呂布はたてこもって、曹操軍を防ごうとしていた。だが、集まれと命じた五原の猛士たちも、どうしたわけか姿をみせない。そして、敵の数はあまりにも多い。
「うぬ、さては……」
白刃をひっさげ、右に左に、敵兵を|薙《な》ぎたおしているうちに、呂布はやっと戦況がわかりかけた。酔いもさめている。──
戦っているのは、この白門楼だけのようであった。
「|奉先《ほうせん》(呂布のこと)よ、陳宮と高順は|虜《とりこ》となり、ほかの諸将は、ことごとく|降《くだ》った。おまえもあきらめよ」
楼の下から声がかかった。
「そうか、もうおしまいか。……」
呂布は血にまみれ、刃こぼれした刀を、そこに投げすてた。曹操の軍兵が、四方から彼に殺到した。
呂布は縄をかけられて、曹操の前にひき据えられた。ぐるぐる巻きに、しかもきつく縛りつけられている。
「すこしゆるめてくれ。痛くてたまらん」
呂布はからだを揺すって言った。
「兎や狐なら、いい加減に縛ってもいいが、虎ならかたく縛らねばならんのだ」
と、曹操は答えた。
「それにしても、乱れに乱れた天下も、ようやく定まるのう」
と、呂布は言った。
「それはどういう意味じゃな?」
曹操はひややかに訊いた。
「貴公が歩兵を率い、わしが騎兵を率いる。むかうところ敵なしではないか。天下の平定、火をみるよりもあきらかぞ」
呂布は下唇をつき出して言った。とらわれの身でありながら、彼は曹操とともに天下を平定するつもりでいるのだ。
「玄徳(劉備のこと)、どうする?」
と、曹操は劉備をかえりみて言った。
「その男、かつて|丁原《ていげん》に仕え、そして董卓に仕えたのですぞ。いま曹公に仕えようとしております。ご判断ください」
と、劉備は答えた。
呂布は丁原の将校であったが、丁原の首を手土産に董卓に随身したのである。そして、自分を養子にした董卓をも殺してしまった。呂布は自分の仕えた主人を、二人も殺している。──それでも、呂布を許して家来にしたいとお思いか? 劉備の答えは痛烈であり、明快であった。
「うぬ、大耳野郎! きさまこそ信用できぬ男ぞ! くそ、うさぎ野郎め!」
呂布はからだをよじってどなった。
「そやつを連れ去って、しばり首にせい」
曹操はそう命じた。感情のかけらも、その面上にあらわれていなかった。
つぎに陳宮が引き立てられてきた。
「惜しい男よのう。……しかし、おまえは生かしておくわけにはいかんのだ」
と、曹操は言った。
「それはいうまでもないことよ」
陳宮は胸を張って答えた。
「そのほう、老母と妻子がおったはずじゃな? どうする気か?」
「それをわしに訊いて、なんとする? わしには、もうどうにもできんのだ。わしの母や妻子がどうなるか、それはあなたにしかわからぬことではないか」
「よし。……老母や妻子は、わしが面倒をみよう。安心して死ぬがよい」
「かたじけない」
陳宮は呂布とちがって、その最期はきわめて素直であった。
陳宮につづいて、高順も処刑された。
若い騎兵隊長の張遼は|赦《ゆる》され、こののち、曹操軍団の有力な幹部として活躍することになった。泰山の雑軍の諸将も、すべて罪に問われなかった。
処刑が終わって、ひと息ついた曹操の前に、一人の女が連れられて来た。
「ご命令によりまして、秦宜禄の妻を連れて参りました」
と、連れて来た将校は言った。
「ほう。……美しい女じゃな。……」
女にしては背が高く、曹操とほぼ同じほどである。色白で、ひきしまった顔立ちは、歯切れのよさを喜ぶ曹操の好みに合っていた。
(あのひげの関羽にやるのは惜しい)
曹操はそう思った。
「この女、わしが連れて行く」
と、彼は言った。
そのうちに、関羽が苦情をもちこむだろうと待っていたが、いつまでたってもやって来ない。もし来れば、すこし高い官職を奮発して、授けてやるつもりだったのである。
(ひげめ、あきらめおったか)
曹操はにやりと笑った。
関羽は貂★[#虫+單]が欲しくて、『その者の妻』と言っただけで、呂布という名は口にしなかった。言わないでも、わかっているだろう、と思っていた。恋する男の頭には、その女のことしかない。名前を言う必要はないのだ。ほかに女がいるはずがあろうか。──
関羽は人妻が欲しいと、曹操の許しを得に行くとき、そのきっかけに、秦宜禄が乞援のため城を出たという情報をしらせた。その前置は、あとの本題とは関係がなかったが、曹操が『その者』を秦宜禄のことと思い込んだのも、無理からぬことであったと言わねばならない。
下★[#丕+おおざと(邦の右側)]の落城と呂布の滅亡は、建安三年十二月のことであった。
作者|曰《いわ》く。──
いくら乱戦のなかとはいえ、沛城が襲われたとき、劉備が妻子をのこして逃げたのはおかしい。不人情すぎるではないか。
作者の勝手な推理では、当時の劉備はおもてでは曹操に属しながら、裏では呂布にも通じ、いわゆる『両属』の態勢をとっていたのかもしれない。劉備の拠った沛城は、呂布の本拠である下★[#丕+おおざと(邦の右側)]からそれほど遠くない。そこに安全に駐屯するには、あるていど呂布の意を迎えなければならない。服属のあかしに、妻子を人質とし呂布のところへ送っていたのではあるまいか。とすれば、劉備は沛城に妻子を棄てて逃げたのではなく、劉備の妻子ははじめから下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城にいたことになる。
とらわれた呂布が、「大耳野郎は信用が置けない」と|罵《ののし》ったのも、右の推理が正しいと仮定すれば、より具体的な強さをもって響くではないか。
『献帝春秋』という本によれば、曹操は呂布の命を助けようとしたが、反対したのは劉備ではなく主簿の|王必《おうひつ》という人物であったという。劉備はそのとき、一言も発しなかったので、呂布が、「なんとか言ってくれてもいいじゃないか」と不満を述べたそうだ。
魚氏の『曲略』によれば、陳宮の処刑については曹操も迷っていたらしいが、陳宮自身が、
──|請《こ》う出でて|戮《りく》に|就《つ》き、以て軍法を|明《あきら》かにせん。
と、処刑を促し、曹操は泣いてこれを送ったが、陳宮はついにふりかえらなかった、ということである。
曹操は陳宮の老母を、死ぬまで面倒をみたし、陳宮の娘の親がわりとなって、嫁がせている。
後世の講談では、判官びいきによって、劉備、関羽らの蜀漢側が善玉とされ、彼らは、理想化されすぎたきらいがある。たとえば、関羽が人妻を欲しがって、曹操に許しを願い出たことは、正史の原註にみえるのに、宋代の『|資治通鑑《しじつがん》』でさえ、これにふれることを避けている。まして講談本にいたっては、聖将関羽(神にまで|祀《まつ》られて、各県に関帝廟がたてられた)の人格を損うような、色好みのエピソードが切りすてられたのはいうまでもない。
[#改ページ]
|劉備《りゆうび》、|造反《ぞうはん》す
1
──|武陵《ぶりよう》の女子、死して十四日に復活す。
『|後漢書《ごかんじよ》』の建安四年の項に、右のような奇怪な事件を記録している。
この女は名を|李娥《りが》といい、六十余歳で病死して城外に埋葬された。ところが、十四日たって、通行人が墓から声がきこえたと騒ぎだし、掘り出してみると、婆さんは生き返っていたという。
信じ難い出来事だが、この噂はみるみる全国にひろまった。
『後漢書』の本紀はきわめて簡潔で、建安四年についても、
──袁紹が公孫★[#王+贊]を易京に攻めた。
──衛将軍の|董承《とうしよう》が車騎将軍となった。
──六月に袁術が死んだ。
──このとし、初めて尚書左右|僕射《ぼくしや》という官を置く。
と並べて、右の武陵の女の復活の、五項の記事しかのせていない。
当時にあっては、奇怪な事実は、すべてなにかの前兆とされた。
これは、はたして吉兆なのか凶兆なのか?
生き返ったというのはめでたいことだから、あるいは吉兆かもしれない。しかし、まともなことではないという点からみれば、やはり凶兆とみたほうがあたっているだろう。
「こんな世の中に吉兆なんてあるものか」
「そうだ、そうだ。|冥土《めいど》から戻ってくるなんて、気味のわるいことは、凶兆にちげえねぇや、まったく。……」
人びとはそう言い合った。
乱世の人民たちは、けっして甘い期待など抱かないものである。
五斗米道の教母の少容は、このとし、ずっと曹操の居城でもあり、天子の住むみやこでもあった許都に滞在していた。
「舞台のうえから、三人の役者がすがたを消しましたね」
袁術が死んだことを、陳潜からしらされたとき、少容はそう言って空を仰いだ。
まだ残暑のきびしいころだった。夕方に近かったが、少容は庭の隅にある大きな|槐樹《かいじゆ》の木蔭で本を読んでいた。風があったので、家のなかよりは、外のほうがいくらかしのぎやすかったのである。
「そうですね。このところ、つづきました」
と、陳潜は答えた。
去年の十二月に、呂布が徐州で曹操に攻めほろぼされた。曹操が全力をあげて呂布を討つことができたのは、袁紹がその北の公孫★[#王+贊]と争っていたので、背後を襲われるおそれがなかったからである。
呂布が死んだ三カ月後に、袁紹は公孫★[#王+贊]を易京に攻めて敗死させた。さらにその三カ月後に袁術が病死した。正確に三カ月おきに、天下争いの一角を占めていた三人の立役者が、つぎつぎと死んだ。
「でも、この三人はどうせ残れなかった人たちでした」
と、少容は言った。
滅びるべくして滅びたといえよう。それが敗死であろうと病死であろうと、彼らはいずれは消えるべき運命にあった。彼らは天下争奪から半ば脱落していたが、ここではっきりと払いおとされたのだ。
「そうですね。呂布将軍はあんなに、反覆常ない性格では、人望が集まりません。大成する人物ではありませんでしたね」
と、陳潜は言った。
「その人望です。公孫★[#王+贊]将軍の敗北も、人望を得なかったためでした」
少容はうなずいた。
公孫★[#王+贊]は感情的で、しかもひとりよがりであった。彼の部将が、ある城で囲まれ、救援をもとめたとき、彼はなみいる部下の前で、
──いま、わしは救援軍を出す余裕はある。しかし、出すわけにはいかぬ。救援をもとめると、すぐに援軍が駆けつけてくると思われては、これから諸将がそれをあてにして、しっかり守ってくれないからだ。
と言った。
救援をもとめた部将はその城で戦死した。
曹操が呂布を攻め立てていたころから、袁紹の公孫★[#王+贊]にたいする攻撃もはげしさをました。どちらも、背後が安全ないまのうちに、めざす|え《ヽ》も《ヽ》の《ヽ》を仕とめようと、全力を傾けたのである。
公孫★[#王+贊]の領地内の諸城の将軍たちは、どんな猛攻を受けても、援軍が来ないとわかっているので、あっさりと降参してしまった。救援の可能性があれば、すこしはがんばってみようとしたであろうが。
朝に一城、夕に一城と、領地を|蚕食《さんしよく》されて、公孫★[#王+贊]はついに自分の居城である易京に追い詰められてしまった。
彼は万策尽き、最後の手段として、息子の公孫|続《しよく》を黒山衆のところへ、救援依頼に派遣した。
黒山衆の|総帥《そうすい》は、|剽悍《ひようかん》、|捷速《しようそく》、人にすぐれたといわれるあの|張燕《ちようえん》である。かつて常山で袁紹軍を悩まし、袁紹は致し方なく軍糧二十万|斛《こく》を提供して講和した。もっとも交渉にあたった呂布が、このうちの五万斛をピンはねしたことは『さすらい将軍』のところで述べた。
張燕は六年前に引き分けた袁紹と再び戦うため、十万の兵を率いて三道に分かれ、救援に赴いた。公孫★[#王+贊]は息子に密書を送り、救援の鉄騎隊が|北隰《ほくしつ》というところまで来れば、ノロシをあげて合図せよ、城内からも討って出て、袁紹軍を挟撃しよう、と打ち合わせた。
ところが、密使がつかまり、密書が袁紹軍の手にはいった。
「公孫★[#王+贊]のやつめ、蜂の巣みたいな頭をしておるわ」
密書を読んで、袁紹はにやりと笑った。
黒山の鉄騎隊が到着しない前に、袁紹は北隰でノロシをあげさせた。
──いざ、援軍到来!
易京城の公孫★[#王+贊]軍は、喜び勇んで城門をひらいて討って出た。挟撃するはずが、反対に|罠《わな》にひっかけられ、公孫★[#王+贊]は大敗北を喫し、命からがら城内へ逃げ戻った。再び城門をかたく閉じたが、袁紹は地下道を掘り、援軍の来ぬまに易京を陥した。
──いまはこれまで。
と、観念した公孫★[#王+贊]は、妻子をはじめ姉妹たち一族の女性をすべて|縊《くび》り殺したうえ、自分は火中に身を投じた。
「曹操と袁紹。とうとうこの二人にしぼられてきましたね。襄陽の劉表将軍は、天下取りをあきらめて、この二人のどちらにつくか、毎日のように会議をひらいているそうです。決勝の戦いは近くなって参りました。天下太平も、やっとその光がほの見えてきましたね」
陳潜はそう言ったが、少容は首を横に振って、
「江東に孫策将軍がおられます」
「ああ、南方の大勢力ですね。近ごろ、みるみる力をつけてきましたが、曹公のところへ、いろんな贈り物を送ったりいたしまして、私は曹公陣営の人とかぞえておりましたが」
「もっと力がつけば、きっと自立するでしょう。孫策将軍はそんなふうにして、袁術将軍から離れて自立したではありませんか」
「なるほど。……では、北方の曹・袁の二勢力のどちらか勝ったほうと、孫将軍とのあいだの天下争いになるのですね?」
「ほ、ほ、ほ、潜さん、あなたはあまりにも単純すぎますよ。残念ですが、天下太平はまだかなり先でしょう。……劉備将軍はまだ許都に戻っていないのじゃありませんか?」
と、少容は言った。
笑ったけれども、その目の表情は、かえってきびしくなった。子供のころから彼女に接している陳潜は、そのような微妙な表情の変化がよくわかるのだった。
「劉備将軍が……」
陳潜は首をかしげた。
2
陶謙の死によって徐州を譲られた劉備は、頼ってきた呂布にその徐州を奪われ、曹操のもとに亡命した。曹操は彼を豫州の刺史としたのである。
曹操の呂布攻撃には、劉備も従軍したが、呂布処刑後、曹操は|車冑《しやちゆう》という者を徐州の刺史として残し、劉備とともに許都に|凱旋《がいせん》した。
曹操の劉備にたいする待遇は、まさに異例といってよいだろう。豫州刺史に加えて、左将軍としたのである。
後漢の将軍は、大将軍、|驃騎《ひようき》将軍、車騎将軍、衛将軍の四人が三公、すなわち丞相たちと同格とされた。その下に前、後、左、右の将軍があり、これは九卿と同格である。
劉備はただの地方長官ではなく、朝廷の重臣という地位にのぼったわけだ。
──出ずるには|則《すなわ》ち|輿《かご》を同じゅうし、坐するには則ち席を同じゅうす。
といわれたように、曹操は劉備を自分の身辺から放さなかった。
「曹公としたことが、あんなに惚れこむのはめずらしい」
曹操をよく知っている側近たちでさえ、不審に思ったほどである。
(どうやら警戒されているようだ)
劉備はさすがにそう気づいた。
曹操は人間の才能を評価することにかけては、天才的な人物であった。
──才能があるかないか?
それをとっさに見分ける。そして、才能を愛することにかけても、彼の右に出る者はいないであろう。歌妓の歌の才能を惜しみ、おなじ程度の名手が育つまで、罪があっても殺すのを控えたというエピソードは、すでに紹介した。
このとしの四月、曹操は弟の曹仁を将軍として、袁紹の傘下にはいった|射犬《せきけん》城(河南省許昌県の近く)を攻め、これを降した。捕虜のなかに、かつて曹操に仕えた|魏★[#禾+中]《ぎちゆう》という者がいた。蝗害で引き分けに終わった、あの五年前の造反のとき、魏★[#禾+中]も曹操にそむいた。造反のしらせをきいたとき、曹操は、
──まさか魏★[#禾+中]はそむくまい。
と言ったが、詳報がはいると、魏★[#禾+中]も|謀反《むほん》の一党に加わっていることがわかり、曹操は歯がみして、
──おのれ★[#禾+中]のやつめ。南の越か北の胡(匈奴)にでも亡命しないかぎり、草の根を分けてでもさがし出してやる。うぬ、ただではおかぬぞ!
と、足を踏みならして怒った。
誰もが捕虜になった魏★[#禾+中]の命はないものと思った。しかし、曹操は渋い顔をして、
──|縛《いまし》めを|釈《と》いてやれ。
と言った。
──お許しになるのですか?
と、曹操の部下は念を押した。とても信じられないことだったからである。
──その才じゃ。
曹操はただそのひとことを口にして、奥へはいってしまった。憎みてもあまりある謀反人だが、その才能は高く評価していた。使える人物である。憎悪のために、稀有の才能を|潰《つぶ》しはしなかった。それを自分のために用いることを考えたが、おどろくべき冷静さといわねばならない。
魏★[#禾+中]は河内郡の太守に任命されたのである。
こんなことがあるので、人びとは曹操が劉備の才能に、すっかり傾倒しているのだと解した。
じじつそうであったが、おそらく人びとが想像している以上に、高い評価を与えていたのであろう。
そのころ陳潜は少容に、
──玄徳(劉備のこと)さまの才能というのはなんでしょうか?
と|訊《き》いてみたことがある。少容は笑って、
──大きな駒になって、他人にうごかされるという才能をもっています。これはちょっとめずらしいですね。だから、曹公は大切にしていらっしゃるのです。
と答えた。
中国では|象棋《しようぎ》は北周の武帝がつくったということになっているが、おそらくもっと前からあったはずだ。その形式からみて、インドから伝わったと考えてよい。とすれば、後漢や三国時代にはすでに存在していたであろう。あの匈奴左賢王の妻にされた|蔡文姫《さいぶんき》の父の|蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]《さいよう》の詩文のなかに、
──象棋を列ね、華麗を彫る。
という句がある。
陳潜はよくわからなかったので、
──どんな駒ですか?
と、かさねて訊いた。
──棋盤のうえの、相手の駒を、ぜんぶひっくり返すほどの大きな駒ですよ。そうですね、終盤になってから、そのひっくり返しがわかるようなね。……
と、これまたどう解釈してよいかわからないような答えであった。
「曹公と寝食をともにされておりますね。今日も同じ|輿《こし》でお帰りですか?」
参内して帰る途中、宮殿の廊下で、劉備は車騎将軍の|董承《とうしよう》に声をかけられた。
董承は献帝の祖母にあたる董太后の|甥《おい》である。若い皇帝にしてみれば、血がつながっているだけに、頼りになるおじさんであった。長安から東へ帰る、あの辛い道中で、献帝は董承に会ったとき、一ばんホッとしたのである。「いえ」と答えて、劉備はあたりを見まわした。片ときもはなれないというのは、一種の形容であって、厠所までともにするわけではない。げんにそのとき、曹操のすがたは見えなかった。──「いまのように、曹公がそばにおられないこともあります」
「しかし、|僅《わず》かのあいだだ。……落ち着いた話はできない。……もうすぐ来るだろう」
「寝食と申しても、眠るときは別でございますぞ。……まさか男同士で、は、は……」
と劉備は笑った。
「しかし、そなたの邸は曹公の部下の者に、夜でも警備されておる」
董承は早口で言った。
(ゆっくり話したい用件があるのだな。……それも秘密の用件が)
と、劉備は察した。
「邸の裏に菜園がございましてな。私はものを植えて育てるのが好きで、よく土をいじります。そのときも一人ですよ。菜園のそばに大きな石がありまして、その下がちょっとした空洞になっておりますが。……」
劉備はそこまで言って、口を|噤《つぐ》んだ。曹操の姿が見えたからである。
3
献帝は十八歳になった。
(|朕《ちん》はもう成人となったのだ。もはや後見は要らない。思いのままに、まつりごとをやってみたい。衰微してゆく漢王室を、我が手で挽回し、光武創業の世の隆盛を再びこの地上によみがえらせたいものだ。朕にはそれができる。……それが朕の祖宗の霊にたいするつとめでもあろう)
彼はそんなことを思うようになった。
宿願といおうか、燃えるような望みである。
物心のついたころから、彼はあやつり人形であった。彼のうしろには、董卓がいたり、|李★[#イ+寉]《りかく》や|郭★[#さんずい+巳]《かくし》がいた。みんな自分の野心のために、彼をあやつっていた。彼は自分をあやつる連中を憎んだ。彼らは、
──私がひかえているので、陛下は皇帝の座にいることができるのですぞ。
と、恩きせがましく振舞う。
彼らにたいする憎悪は、口に出せないだけに、深く内攻した。憎悪はますますつのるばかりであった。
いま彼のうしろにいるあやつり師は曹操である。
献帝は曹操を憎んだ。
──曹操ごときに束縛されたくない。自由がほしい。
彼はこの自分の燃えるような望みを、誰に伝えることもできなかった。|閨房《けいぼう》のなかで、皇后の伏氏だけにしか言えない。それも囁くような小声で。──実力者曹操は、宮廷の内外に諜報網を張りめぐらしている。閨房内の声でも、それが大きければ、何者かにとらえられるおそれがあった。
(いやだ、いやだ、こんな生活はいやだ。……)
そう思うと|身悶《みもだ》えたくなる。だが、彼は身悶える自由さえないのだ。
(殺してやりたい!)
心のなかで、なんどそう叫んだかわからない。むろん、曹操を、である。
かつて天子の意思は、そのまま法律となった。殺したいと思う相手がおれば、天子はそやつを殺せと言うだけでよい。相手はその場で|誅殺《ちゆうさつ》された。それがとうぜんの形態なのだ。本来のあるべき姿に戻したい。だが、思っていることも、ろくに口に出せない身である。若いだけに、献帝は自分のおかれた立場に我慢できなくなった。
群臣を接見するときは、曹操がかならずそばについていた。献帝は家臣にむかっても、めったなことが言えないのである。
意思を伝えるのは、声をともなう言葉だけであろうか? 声のない言葉──文章も伝達の具である。
だが、曹操の見ているまえで、手紙を渡すわけにはいかない。手紙を受取った者は、すぐに曹操に調べられるであろう。
文章は|匿《かく》して渡さねばならない。どこへかくすのか? 天子は臣下によく物品を|下賜《かし》する。下賜品のなかで、一ばんふつうなのは衣類であった。
(そうだ、恩賜の御衣のなかに匿そう)
献帝はどうやら、道がひらけてきたような気がした。
誰に渡すのか? 血のつながった者でなければならないであろう。──やはり、車騎将軍董承のほかはあるまい。
献帝は文書をつくった。──密詔である。
──天子とは天命を|享《う》けた王者である。天子の意思は、したがって天の意思にほかならない。天の意思をこの世に反映させるのを|補《たす》ける者こそ、まことの忠臣である。これに反して、朕の意にさからい、あるいは朕の意を束縛しようとする者は、すなわち逆臣である。逆臣は討たねばならぬ。朕はいう、現今、漢室の大逆臣は、曹操その人である。朕はここに曹操の武平侯の爵位を剥奪し、司空の官職を|罷免《ひめん》した。彼を逆賊として、汝に追討を命じる。汝よく忠良なる有司とともに、逆賊曹操の誅殺を謀るべし。奸を除き、漢室を泰山の重きに置けば、その功勲は百世に|顕彰《けんしよう》するに足るであろう。……
献帝は細長い布にこれを書き、|こ《ヽ》よ《ヽ》り《ヽ》のようによじって、それを帯のなかに封じ込めておいた。
衣類を特定の人だけに下賜すれば、また曹操に怪しまれるかもしれない。そこで三公九卿とそれに準じる諸将軍に、それぞれ衣帯を賜わった。
五月の|端午《たんご》の前日のことであった。
「明日の端午の儀式には、諸卿は本日下賜した衣帯を身につけて参内するように」
献帝は衣帯を渡す前にそう言った。
衣帯の下賜は、清貧の家臣が、儀式の日に身につけるべき衣服が買えないのをおそれ、それを贈るという解釈もある。したがって、式日の直前に下賜されるのも、いたってしぜんのことであった。
このような、宮廷のしきたりについては、曹操もあまり口出しをしない。献帝が自分の意思でできる、きわめて限られた行為のなかの一つであった。
「や、これは帯がすこし汚れておるのう。……ほかに替えるものがない。……そうだ、明日は帯のところをほどいて裏返しにすればよい。……わかったな?」
献帝は密詔を縫い込んだ帯を渡すときに、董承にそう言った。
皇帝に言われたなら、かならずそうしなければならない。董承は邸に帰って帯を裏返そうと、縫い目をほどき、なかに密詔が封じられているのを発見した。
翌日、端午の儀のとき、献帝は董承の帯が裏返されて、汚れがなくなっているのをみて、意思が伝達されたことを確認したのである。
密詔をうけた董承は、つぎに同志の獲得にとりかかった。
曹操の諜報網が張りめぐらされた許都のなかで、曹操にたいするクーデターを計画し、そのための同志を集めるのだから、容易なことではない。よほど肝胆相照らした仲でなければ、秘密をうちあけるのは危険である。
董承はまず心を許し合った、長水校尉の|★[#禾+中]輯《ちゆうしゆう》に密詔のことをうちあけた。
長水校将とは長水営の師団長で、この営には匈奴出身の騎兵が多い。★[#禾+中]輯はまえまえから、曹操の専横を憎んでいたので、董承に協力することを誓った。
それから、将軍の呉子蘭や王服も、この密謀に参加した。
四人は集まって、董承の邸で会議をひらいたが、王服がため息をついて、
「ここに曹操誅殺を誓って集まった四人は、残念ながら、いずれも曹操に遠い者ばかりである。殺すには近づかねばならぬが、われわれは彼から遠ざけられている。命を狙うにも、その機会がすくないわ」
と言った。
「曹操に近い者……」
董承は天井を仰いだ。
近い者がいる。しかも、それは曹操直属の側近ではない。同じ席に坐り、同じ輿にのる者。──劉備の顔が、董承の脳裡にうかんできた。……
それから、董承たちによる、劉備への接近工作が始まったのである。
「石の下か。……」
曹操の目を盗むようにして劉備に近づいたが、董承はたしかな手ごたえをかんじた。連絡したいことがあれば、そこへいれてほしいというのである。
董承が密詔の写しを、|桐油《とうゆ》を塗った紙に包んで、言われた石の下にいれた。石のすぐそばに咲いている野の花を|手折《たお》るふりをしながら。
それでなくても、邸の外の菜園なので、曹操の監視の目も、それほどきびしい場所ではなかったのだ。
翌日、董承はまたそこへ行き、石をうごかして、なかに手をいれてみた。
──密詔の写しはなくなっていた。
劉備の手に渡ったのはたしかである。
4
劉備が曹操から出陣を命じられたのは、この端午の儀から、数日たったころのことであった。
皇帝を|僭称《せんしよう》したあと、不運ばかりつづいた袁術が、精根尽きて、あれほど仲の悪かった従兄の袁紹を頼ろうとした。やはり血は水より濃いのだ。従兄弟というが、前にも述べたように、この二人はじつは異母兄弟だったのである。
袁術は重い荷物になった『皇帝』の称号を、このあたりで従兄におしつけて、自分はその下で、深い傷をいやすために休息しようと考えたのだ。
敗残の軍とはいえ、袁術もまだかなりの兵数をもっていた。その軍兵をひき連れて、従兄の陣営に参加するつもりであった。
袁術は従兄袁紹に、つぎのような手紙を送ったのである。──
──(天の)禄は漢室を去って久しい。袁氏が天命をうけて王となるべきことは、|符瑞《ふずい》(天意に符合することや瑞兆)によって|炳然《へいぜん》(あきらか)としている。今、君は四州を擁有し、人戸は百万である。謹んで大命を帰す。君、其れ|之《これ》を|興《おこ》せ!
袁紹もまんざら悪い気持ではない。
──なんといっても、血をわけた一族じゃからな。……困っているときは助けてやることにするか。……
袁紹はそう言って、青州に駐屯していた息子の|袁譚《えんたん》に、袁術を迎えるように命じた。
袁紹のいる|冀州《きしゆう》へ行くには、長江に近い地方にいた袁術は、|下★[#丕+おおざと(邦の右側)]《かひ》を通って北上しなければならない。
「袁術の北上する道を|遮《さえぎ》るのだ。けっして通してはならぬぞ」
と曹操は劉備に命じた。
出陣の前夜、曹操は劉備と二人だけで酒を汲みかわした。壮行の宴である。
雷が鳴っていた。
はじめは遠くにきこえたが、雨が降りはじめてから、しだいに雷鳴は近づいてきた。
「去年、呂布をとらえたときのことを思い出すではないか」
曹操はとつぜん話題を変えた。
「そうですな。去年とはいえ、まだ半年もたっておりませぬ。……そう、昨日のことのように思い出されます」
と、劉備は言った。
曹操はあぐらをかいた脚を組みかえて、
「あのとき、呂布は途方もないことをほざきおった。……のう、おぬしはおぼえておるだろう。……あやつを縛りあげたとき、なんと申しおったか。いや、忘れられる言葉ではなかったわ。あやつ、こう申しおった。……乱れに乱れた天下も、ようやく定まるのう、と。……呂布め、自分が騎兵を率い、わしが歩兵を率いると、むこうところ敵なしじゃと申しておった。…… おぼえておられるじゃろ?」
と、劉備の顔をのぞきこんだ。
「どうして忘れることができましょうか。まだ|耳朶《じだ》のあたりに、呂布の声が残っているような気がします」
劉備はそう言って、兎耳といわれたほど大きな自分の耳を、右手でつまんだ。
「呂布の言葉をどう思われたか?」
と、曹操は訊いた。
「たいした自信だと、いささか|羨《うらやま》しく思いました」
「ほう、羨しく思った、と?……わしはのう、腹が立ったぞ。天下を取ることが、そうかんたんなことと思われては、こちらの立つ瀬がないわ、とな。……そうではないか、腕ずくで天下が取れるものなら、苦労はせぬわい」
「たしかに、さようでございます」
「呂布は子供のようであった。しかし、わしは呂布の言葉をきいて、ふと思ったのじゃが……この腕白の呂布と組んだところで、天下が取れるわけではない。こちらから、ご免蒙りたい。じゃが、その者と組めば、あるいは天下が取れるのではないかという人物の顔が、あのとき、わしの脳裡に浮かんできた。……何者であるか、想像できるかな?」
「さぁ……何者でございましょうか……」
「それはのう。は、は、は……ほかでもない、おぬしじゃよ、劉備玄徳じゃよ」
「えっ? この私が?……ご冗談はおやめください」
「なにを申すか。……わしが冗談で申しているのでないことを、おぬしは一ばんよく知っておるくせに」
「さようでございますか。……」
劉備は言葉を濁した。口を半ばあけて、すこし脳味噌が足りない人間のように装ってみた。そのじつ、彼は大きなショックを受けているのだった。
(曹操の心など、奥の奥まで読み取れておるわい。……)
劉備はふだんからそう思っていた。だが、あに図らんや、自分の心も、相手に読み取られているようである。
「わしはいまさら、騎兵隊長と組んで天下を取ろうなどとは思っておらぬわ。騎兵隊も、|所詮《しよせん》、腕力ではないか。わしはその限界を知っておる。べつにそんなものと組むことはない。わしが組みたい相手は、腕力ではなく、これだよ」
曹操は右手の人差指で、自分のこめかみをつついた。頭脳だ、と言いたいのであろう。
「頭なら、誰の助けを借りることもないではありませぬか?」
劉備は上目づかいで、相手のようすをうかがった。
「そう思ってしまってはおしまいだ。どんなにすぐれた頭でも、あちこちにうごかすわけにはいかぬ。頭脳が、せめて二つに分かれてくれておればと、しみじみそう思うことがある」
と、曹操は言った。淡々とした口調である。
「二つに……」
劉備はわかりかけたような気がした。
「のう、玄徳どの」と、曹操は身をのり出して言った。──「ひとつ、わしと組んで、天下を望んでみようではないか」
「私はもうあなたと組んでいるではありませんか。……こうして、あなたの陣営に属しております」
「いや、わしの陣営にいては、頭脳が重複して、|勿体《もつたい》ないのだ。……わしが組みたい相手の頭脳は、敵の陣営にいなければならんのだ。……わかるかな?」
曹操は肩を揺すった。
「敵のなかに……」
劉備は軽くうなずいた。輪郭がしだいにはっきりしてきた。
「このたび、袁術阻止のために、玄徳どのを徐州方面へ派遣することにした。……わしがおぬしに望んでいるのはなにか、おわかりかな?」
と曹操は訊いた。
劉備は黙ったままであった。
そのとき、ふいに耳をつんざく雷鳴がきこえた。それまでは、近づいていたとはいえ、まだかなり離れていたが、とつぜんごく近くに落雷したらしい。部屋もすこし揺れた。
この雷鳴と、曹操が口をひらいたのとは、ほとんど同時であった。
劉備は思わず手にした|箸《はし》をとりおとした。
「謀反だ」
曹操の声は、雷鳴に半ば消されたが、劉備の耳は、それをはっきりととらえていた。
5
諜者を潜伏させ、敵のうごきをさぐるのは、どの陣営でもやっていることである。だが、諜者はさぐって通報することしかできない。敵の動静を知り、それをもとにはかりごとをめぐらして、味方に有利になるように敵を操ることができれば、どんなによいことか。そのためには、自分と同等の頭脳と判断力をもった人物を、敵陣営のなかに、それも重要な地位をもつ人物として送り込まねばならないのである。
曹操はその役に劉備をえらんだ。
曹操の目前の大敵は袁紹である。劉備を袁紹の陣営に送り込む。だが、曹操の客分である劉備が、そのまま袁紹のもとに走っても、疑いの目でみられるであろう。
だから、劉備は曹操に謀反して、曹操に手痛い打撃を与えてからでなければ、袁紹の陣営では信任されないのだ。
──頼むから、おれに謀反して、袁紹のいる冀州へ走れ。
これが曹操が劉備に託したことなのだ。
劉備の表面上の任務は、北上してくる袁術を、徐州の線で食いとめ、袁紹のところへ行かせないということであった。
だが、裏面の任務を遂行するためには、北上する袁術と組み、徐州地方の曹操軍を蹴散らして、袁紹のところへ走るという計画をたてねばならない。
劉備は慎重に作戦を練った。
──誰にも言うでないぞ。関羽にも、もらしてはならぬ。わしのほうでも、どの幕僚にも伏せてある。
と、曹操は言った。
劉備は自分で作戦計画を立案しなければならなかった。もっとも彼はこのようなことは得意であった。そのうえ、彼の身辺には謀将がいなかったので、この種のことはいつも彼の仕事になっていたのである。いわば司令官と参謀長を兼ねていたのだ。彼がこの兼職から解放されるのは、だいぶあとになって、名参謀の諸葛[#葛のヒは人]孔明を得てからであった。
徐州へむかう途中、劉備には迷いなどはなかった。
彼は二人の人物から、大事をうちあけられている。
車騎将軍の董承から、曹操追討の密詔の写しを、あの石の下にかくすという方法で、協力をもとめられていた。
もし劉備がもっと大きな兵力と、ひろい勢力圏をもっておれば、天下争いのライバルの曹操を、ここぞとばかり刺し殺してしまったであろう。──天子の密詔という、願ってもない口実があるのだから。
しかし、劉備はいま、どう考えても独力では天下は取れない。曹操の力を借りねばならない。曹操も曹操で、袁紹という大敵との対決をひかえて、協力者を必要としている。
──曹操と協力し、董承ら密詔グループを裏切る。……
劉備はもうはっきりとそうきめていたのだ。
|傀儡《かいらい》にすぎない天子の側近に味方しても、一小隊の兵さえ手に入らない。それよりも、曹操の大勢力についたほうがよい。利用はされるであろうが、こちらも利用できるのだ。
出発直前、見送りにきた曹操は、二人きりになったとき、劉備に、
「密詔のことは、袁紹のところへ行ってから発表するんだね」
と言った。
「えっ、密詔?」
劉備は相手がそこまで知っているとは思わなかった。
「そうだ。わしに反対するやつがどれだけいるか、なるべくやつらを泳がせておく。玄徳どのが徐州でわしに謀反するときは、まだ密詔のことはもち出さぬほうがよかろう。時間を|稼《かせ》ぎたい」
曹操はふだんとまったく変わらぬ口調で、そう言ったものである。こまかいことについては、なにも言わなかった。言わないでも、わかっていることなのだ。
ところが、徐州に着いてまもなく、劉備は計画を立て直さねばならなくなった。
──袁術死す。
という思わぬしらせがはいったからである。
袁術は寿春から四、五十キロはなれた江亭というところまで来て、病死したのだった。炎暑のころで、あまり喉が乾くので、彼は蜂蜜水を所望した。
──麦屑は三十石ばかりありますが、あいにく蜜はございません。
と、|厨房《ちゆうぼう》の主任が答えると、袁術は大きなため息をついて、
──ああ、袁術ともあろう者が、こんなことになってしまったか!
と悲痛な声をあげると、その場で血を吐いて死んだという。
袁術北上阻止の戦いのどさくさにまぎれて、謀反劇を打つつもりであった劉備は、袁術の北上が流れてしまったので、
──さて、どうしようか?
とあれこれ新しい策を練った。
袁術が死んだとあれば、表面上の任務は消滅したのだから、劉備は許都へ帰らねばならない。
だが、裏面の、そしてほんとうの任務は、むろん消えたわけではない。なんとかして、曹操にたいする『謀反』を敢行しなければならないのだ。
その方法については、いちいち曹操に指示を仰ぐわけにはいかない。曹操は一切を劉備にまかせている。
とうぜん許都に帰るべき劉備が、袁術の死のしらせに接しても、どうしたわけか、まだ帰ってこない。
少容はそのことが気になった。──いや、やはりそうでないか、という思いのほうが強かったというべきであろう。あまり当たってほしくない予想であったが、やはり的中していたのである。
許都の人たちは、やがて、
──劉備将軍、造反す!
というしらせに|驚愕《きようがく》することになった。
(大きな駒が、相手のなかに打ちこまれた)
太平へいたる過程に、これもやむをえないことであろう。少容はこのしらせを、一歩前進とうけとろうとした。
6
造反芝居を打つ前に、劉備は関羽を呼んだ。
これからやろうとすることは、曹操と二人だけの密約である。関羽にも知らせてはならぬ、と釘を打たれていた。だが、剛直な関羽が、いざというとき、どんな行動に出るか心配であった。秘密をもらすわけではないが、万一に備えて、予防の措置を講じておかねばならない。
「この徐州は、もともとわれらが陶謙どのから譲られたものであった」
と、劉備は言った。
「そのとおりでございます。一木一草、なつかしいものです」
「じつはのう。……」劉備は声を低めて、「わしは徐州を取り戻そうと思ってきた。妻を連れてきたのはそのためなのじゃ」
当時の諸将は、よく家族を伴って従軍したので、このたびの出陣に、劉備が夫人を連れてきたのも、けっして不自然ではない。
徐州はいま曹操の部将の|車冑《しやちゆう》のものである。その徐州を奪回するのは、曹操への謀反にほかならない。謀反人の家族の生命は安全ではない。だから、許都に残しておけなかった。──劉備はそう言った。
「われらが徐州を奪えば、曹公は追討軍を送ってきますな。……」
と、関羽は言った。
「それじゃ」と、劉備は身をのり出して、「天下はまだ定まらぬ。おそらく曹公と袁公との決戦によって、天下の大勢はややはっきりしてくるだろう。雲長、おぬしならどちらに|賭《か》ける?」
「さぁ、これは難しいところですな」
「わしは袁紹に賭けようと思う」
「えっ、袁紹に?」
「そうじゃ。……徐州を奪う。これは曹操への造反だから、わしは袁紹につかざるをえない。だが、いずれが勝つかわからぬ。……そこで、われら二人は、二手に別れることにしよう。わしは袁紹、おぬしは曹操。どうせ一時の宿借りで、いずれわれらはまた一しょになる。どちらが勝っても、命乞いができるではないか」
「うん、なるほど。……あまり私の好きな手段ではないが、これまたやむをえない。乱世ですからな」
関羽は主従で二股にわかれることを|諒承《りようしよう》した。これによって、関羽は曹軍の反攻に遭っても、城を枕に討死するような、思い詰めたことはしないはずである。
この措置をとってから、劉備は曹操の派遣した徐州刺史の車冑を急襲し、徐州を力ずくで奪ってしまった。
むろん曹操が黙っているはずはない。ただちに、|劉岱《りゆうたい》と王忠の二人に追討軍を授けて、徐州へむかわせた。
劉備は下★[#丕+おおざと(邦の右側)]の城を関羽に預け、自分は昔なつかしい|小沛《しようはい》の城にはいった。家族連れであったのはいうまでもない。
劉岱と王忠とでは、劉備に歯が立たない。
城の楼上から、劉備は大声で呼びかけた。──
「おまえたち百人かかっても、この玄徳が討てると思っておるのか。早く立ち戻って、曹公に告げよ。曹公みずから兵を率いて戦うのでなければ、小沛は陥ちぬと、な。は、は、は……」
劉備が人をやって、袁紹に連合を申し入れたのはいうまでもない。
こうして、建安四年は暮れた。
徐州で造反した劉備にたいする処置について、許都の曹操軍では、幹部をあつめて幕僚会議がひらかれた。
劉備が袁紹と通じたことは、すでに諜者によって報告されている。それを裏づける確証もあったのだ。
「わしがみずから兵を率いて討つべきかな? 劉備めもそうほざきおったというが、みなの考えはどうじゃ?」
と、曹操は議題を提出した。
「なりませぬ。公と天下を争う者は袁紹でございます。いま袁紹は公孫★[#王+贊]を破って幽州をあわせ、勢いに乗っておりまするぞ。もし公が東行して劉備を討とうとなされば、背後から袁紹が襲いかかって参りましょう」
これが諸将の一致した意見であった。
「は、は、は……」
曹操は大声で笑った。
一座はしずまり返って、曹操の言葉を待った。笑いをおさめると、曹操は言った。──
「いま、わしと天下を争う者は袁紹であると申したのう。……わしはそうではないと思う。わしは袁紹ごときを怖れはせぬ。怖るべきはむしろ劉備だ。劉備は人傑である。いま撃たねば、かならず後に|患《わずら》いをのこすであろう。そうは思わぬか?」
諸将は顔を見合わせた。そのほとんどが、あまり納得していない表情であった。
袁家は代々、三公を輩出させた名門である。その家臣も、歴代仕えた、結びつきの強い者が多い。
あの十年前の反董卓戦のときも、連合軍の盟主には、袁紹を推すほかはなかったほどだ。それにくらべると、劉備はこのあいだまで、許都に|居候《いそうろう》していた男ではないか。|黄巾《こうきん》の乱のときは、関羽、張飛と三人で、足軽ていどの働きをしたのにすぎない。
(それを曹公は、なぜ高く評価なさるのであろうか?)
諸将は不審に思っていた。
このとき、|郭嘉《かくか》という幕僚が立ちあがって意見を述べた。──
「袁紹の性格は|ぐ《ヽ》ず《ヽ》で疑い深く、かりに背後を襲うにも、すぐに行動を起こすことはないでしょう。劉備がそんなに怖るべき人物であれば、やはりいまのうちに撃つべきでありましょう。袁家と違って、劉備の部衆は新しく仕えた者ばかりで、まだ団結はできておりませぬ。急襲いたせば、しぜんに崩壊すると存じまする」
郭嘉は|潁川《えいせん》の人で、もと袁紹に仕えた。だから袁紹のことはよく知っている。彼が袁紹を見棄てたのは、
──|多端寡要《たたんかよう》。(枝葉のこまかいところにあれこれこだわって、要点を衝くことがすくない)
──|好謀無決《こうぼうむけつ》。(はかりごとをめぐらすことを好むくせに、決断力がない)
という二つの欠点をもっているので、大成するはずはないと判断したからである。
「いかにも郭嘉の申すとおりじゃ。さすがに袁紹のことをよく知っておるわ」
曹操は我が意を得たようにうなずいた。
こうして、曹操はみずから出陣して、東のかた徐州の劉備を討伐することを決定した。
7
袁紹が自分の留守を襲う可能性を、曹操は七分三分で、無いほうに賭けていた。かりに三分の可能性が実現しても、もともと劉備との戦いは、なれあいであるから、すぐに引き返して迎え撃つ用意だけはしてあった。
ところで、冀州の袁紹の司令部では、
──曹操みずから徐州へむかう!
のしらせをうけて、やはり幕僚会議がひらかれたのである。
その席上で、|田豊《でんほう》という者がはげしく出撃論を主張した。
「曹操はおそらく劉備に手を焼きまするぞ。そのすきに、軍を挙げて背後を襲えば、かならず勝てるでしょう」
彼はこの主張をなんどもくり返した。
だが、袁紹は首を横に振って、
「いま息子が病気でのう。……いいではないか、公孫★[#王+贊]を片づけたばかりだし、こんどはやめておこう」
と言った。
あとで田豊は杖を挙げて地面をたたきながら、
「ああ、こんな千載一遇のときに、赤ん坊の病気で機会を失うなんて、惜しいことじゃ! ああ、もうだめだ!」
と、口惜しがった。
袁紹の領地は四州にまたがり、土地はひろく住民も多い。したがって動員できる兵力も多かった。公孫★[#王+贊]を破ったあと、袁紹はますます慢心するようになった。慢心がつのると、努力する意思が薄くなる。
外交の面でも、袁紹は曹操にかなりおくれをとっていた。
袁紹は外交そのものが下手なのではない。彼の人物に問題があるので、他人を|惹《ひ》きつけないのである。彼は|張繍《ちようしゆう》と同盟を結ぼうとして失敗した。
長安が飢え、|張済《ちようさい》は大軍を率いて、東へ食をもとめて移動したが穣城で死に、甥の張繍があとを継いだことはすでに述べた。
張繍は袁紹の同盟締結申し出に、賛成しようとしたが、軍師の|賈★[#言+羽]《かく》が反対した。
──なぜ反対するのだ? われら飢えた軍団は誰かに頼らねば生きて行けぬではないか。
と、張繍は訊いた。
──たしかにそうです。ただ袁紹は頼りにはできません。兄弟である袁術を|容《い》れることさえできなかったのに、どうして赤の他人のわれらが頼れましょうか?
と、賈★[#言+羽]は答えた。
──では、誰に頼るのか?
──曹操でございますな。
──曹操? まさか。……|★[#さんずい+育]水《いくすい》で戦って、ひどい目にあわせた相手ではないか。わしらを憎んでおるぞ。それに袁紹は強く、曹操は力において劣るということではないか。……
──曹公は力において劣っているからこそ、われらを容れてくれるでしょう。ともかく、帰順を申し出てみようではありませんか。ことわられたならそれまでのこと、もともとですよ。……そもそも|覇王《はおう》の志をもつ者は、私怨にこだわりはしません。それに、なによりも、曹公は天子を擁しておりますからな。
そう言われて、張繍は曹操に帰順を申し入れた。曹操からは、
──喜んでうけいれましょう。
という返事があった。
張繍が許都へ行くと、曹操は彼の手をとって、
──よく来てくれましたのう。長安の軍隊も、おさまるべきところに、おさまったというわけじゃ。
と、喜びの色をかくさなかった。
張繍軍はもともと曹操に投降していたのだが、張済未亡人のことで、おかしくなったのである。たしかに、もとの|鞘《さや》におさまったことになるのだ。
建安五年(二〇〇)正月、曹操が劉備討伐に出陣するとき、張繍はすでに揚武将軍を拝命し、軍師の賈★[#言+羽]は|執金吾《しつきんご》、すなわち警視総監の要職についていた。
天下──すくなくとも天下の北半分を争う袁紹と曹操の差は、こうしてしだいに縮まってきた。
張繍が曹操の陣営に投じたというしらせは、袁紹に大きな衝撃を与えた。
天下の袁紹が、こちらへ来いと誘ったのに、相手はあろうことか、曹操のもとに走ったのである。
さすがの袁紹も口惜しかった。だが、その無念さも、すぐに中和されてしまった。
これまで曹操の陣営にいた劉備が、曹操の部将である車冑を殺して、徐州を奪い、このほど使者を寄越して、
──袁公の陣営にお加え下さい。
と言ってきたのである。
(これで|あ《ヽ》い《ヽ》こ《ヽ》じゃな。……)
袁紹はそんなつもりであった。
8
「なに、曹公みずから陣頭に立っておると……そりゃまことか?」
劉備は|斥候《せつこう》から報告をきいたとき、なみいる諸将の前で、わざと|狼狽《ろうばい》の色をみせた。
「たしかにそれに相違ございませぬ。私は農夫に変装し、道ばたで、この目ではっきりと、曹公が馬上で通るのを見ましてございます」
と、斥候は答えた。
「曹公の指揮では、我がほうに勝ち目はない。……だが、信じ難いことである。わしがこの目でたしかめよう。……うん、もしまことにそうであれば、戦っても益はない。できるだけ、すみやかに軍を解散して、それぞれ冀州めざして落ちることにしよう」
劉備は数十人の側近だけを従え、ようすを見るために小沛の城を出た。そして、小高い岡にのぼり、林のなかにかくれて、進軍してくる曹軍のようすをうかがった。
「たしかに曹公の車だ。旗差しものも曹公のそれに相違はないが、はたして、あの車のなかに曹公はいるのだろうか?」
劉備は小手をかざしてそう呟いた。
「替え玉ということもあるのですか?」
虎ひげの張飛が訊いた。
「かもしれない。信じられないのだ。なにしろ、曹公は袁紹という大敵をひかえておる。わしを撃つために、みずから軍を率いてくるなど……考えもしなかったことじゃ。……」
劉備は|眉《まゆ》をひそめた。彼は演技をしているのだが、観客は張飛ていどの連中なので、芝居であることを見破られるおそれはなかった。
曹軍の行進が停まった。めざす小沛の城が近づいたので、どうやら戦闘態勢をとるために、小休止をしているようであった。
「やや、車の扉があきましたぞ」
と、張飛は言った。
車は三頭の白馬に|曳《ひ》かれ、朱塗りで、|蓋《ふた》は青であった。それは劉備も見なれているどころか、彼自身がいつも曹操とともに相乗りをした、まぎれもないあの車である。
ひらかれた扉から、背の低い男が、左右から|扶《たす》けられるようにして地面におりた。
「曹公じゃ!」
劉備は呻くように言った。
「うぬ、まことそうじゃ!」
張飛も負けずに|唸《うな》った。そして、そのどんぐりまなこを大きくみはり、無念そうに歯がみした。彼は単純きわまりない人間であった。義兄の劉備から、
──曹公が来れば勝ち目はない。
と言われると、すこしも疑わずに、負けるものだと思い込んでいる。
「容易ならぬことになったわい」
と、劉備は言った。
「たしかに容易ならぬこと……」
と、張飛は劉備の言葉をくり返す。
「戦っても勝てぬ」
「負け戦さじゃな。……」
「このまま冀州へ落ちよう」
「それがよろしかろう」
一行は曹軍が出発するのを待ち、全軍をやりすごしてから、まっしぐらに北のかたへ馬を走らせた。泰山の近くまで来たとき、張飛は思い出したように、
「|嫂《そう》夫人はいかがなさいましたでしょうか?」
と馬上で訊いた。
嫂夫人とは劉備の妻のことである。
「曹公にとらえられるだろうが……乱世の常である。|不愍《ふびん》であるが、致し方はない」
そう答えて、劉備は馬に|鞭《むち》をくれた。
「致し方ありませぬな。……」
と、張飛は納得したようにうなずいた。
小沛城は主を失って、もろくも落ちた。だが、徐州の最大の城である下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城も、じつにあっけなく落城した。守城の猛将関羽が、抵抗らしい抵抗もせずに、降伏したのである。
──劉備が小沛城を棄てて逃げたときいて、さすがの関羽も気落ちして、戦う気力もなくなったのであろう。
人びとはそう言い合った。
こうして、曹操は風の如く進撃して、徐州を奪回するや、また風の如く許都に舞い戻った。袁紹のつけ込むすきのない、速戦即決の行動であった。
劉備は北のかた青州に逃げ、そこで袁紹の息子の|袁譚《えんたん》に迎えられ、さらに袁紹のもとへむかった。
──劉備、来降す!
というしらせをきいて、袁詔は城外遠くまで、はるばると迎えに出た。
張繍を曹操に取られた埋め合わせを、劉備の獲得によってはたしたのである。そのことを世人にも示したいために、そのような芝居がかった出迎えをしたのである。
劉備はそこで密詔のことを公表した。
──曹公にそむいたのは、天子の勅命に従ったことであった。
やがて、そのことが許都に伝わった。
曹操は参内して献帝に謁見し、
「この曹操追討の詔勅をお出しになったとは、まことのことでございまするかな?」
と、うやうやしく頭を下げた。
献帝は真っ蒼になった。
「いや、そのような……おぼえはない。……詔勅はかならず、卿の前で出しておるではないか。……そ、そのほかに詔勅が……で、出るわけはない。……」
英明といわれた十八歳の青年天子も、さすがに|顫《ふる》える声で、密詔のことを否定した。
「さようでございましょう。陛下がこの曹操を討てとお命じになるはずはございませぬ。ところで、世上に伝聞される密詔とやらは、車騎将軍あてになっているとうけたまわっております。陛下におぼえがござらぬとすれば、車騎将軍がこの密詔偽造に関係あり、と考えてよろしゅうございましょうな?」
と、曹操は言った。
「い、いや、そのようなことは……まさか、そのようなことはあるまい」
悲しげな目で、献帝は曹操を見た。曹操はひややかな目で、献帝の目を見かえした。献帝はすぐに目を伏せた。
「陛下はなぜ車騎将軍の心をご存知なのですか? 密詔偽造に関係あるなしは、司直の手によって、調べるのが国法でございます。国法に従うことにいたしましょう」
と、曹操は言った。
「わ、わかった。……」
献帝は顔を伏せたまま言った。
「詔勅を偽造するのは、三族を|夷《ほろぼ》す罪にあたりまする」
そう言って、曹操は退出した。
三族とは父族、母族、妻族、すなわちありとあらゆる親戚縁者のことである。
車騎将軍の董承、長水校尉の★[#禾+中]輯、将軍の王服たちは、三族連坐して、ことごとく殺されてしまった。──
作者|曰《いわ》く。──
袁術の北上阻止のため、曹操が劉備を徐州へ派遣したことについて、『魏志武帝紀』には、あとで家臣に、
──劉備は|縦《はな》すべからず。
と言われ、曹操があとを追わせたが、間に合わなかった、と述べている。いったん決定したことを、すぐに変更しようとするなど、曹操らしくないことと言わねばならない。
劉備の妻はさきに呂布に二度もとらわれている。こんどが三回目の|虜《とりこ》である。前二回は混戦というべきだが、このたびは劉備がみずから造反したのだ。時間的にも余裕があったはずだから、妻子を避難させなかったのはふしぎである。妻子が曹操の手におちても、生命に別状はないと信じる根拠があったのではあるまいか。
剛直の武将関羽が、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城をかんたんにあけ渡して降伏したのも、あまりにもあっけなさすぎる。
右のようなことを考え合わせると、この時期の曹操と劉備とは、気脈を通じていたように思えてならない。
『先主伝』には、
──先主(劉備)はしばしば|嫡室《ちやくしつ》(正妻)を喪い。
とある。
あとつぎの劉禅を生んだ甘氏は、はじめ側室であったのが、荊州にいたころ正妻になったのであるらしい。劉備が荊州に走ったのは建安六年のことだし、もう一人の妻の|穆《ぼく》氏は蜀にはいってからめとったのである。
したがって、呂布や曹操に三度もつかまった不運な夫人は、甘氏でも穆氏でもなく、早く世を去った正妻の一人であろう。史書はその姓名を伝えていない。
なお造反した劉備の追討を命じられた、曹操の部将の劉岱は、十年前の反董卓戦で|酸棗《さんそう》に出陣した|★[#六+兄(六が上で兄が下)]《えん》州刺史の劉岱とは同姓同名の別人である。★[#六+兄(六が上で兄が下)]州刺史であった劉岱は、このときはもうすでに故人であった。
中国の姓は日本の苗字ほど多くない。しかも、この時代の人名はほとんど一字であった。前漢末に二字の名がふえてきたが、|王莽《おうもう》が『二名の禁』といって、それを禁じ、再び一字に限られた。本編に登場する人物も、操、備、羽、飛、承などすべて一字の名である。したがって、同姓同名のケースがきわめて多い。それを区別するために、べつに|字《あざな》をつけるが、こちらはほとんど二字であった。曹操が孟徳、劉備が玄徳、関羽が霊長、袁紹が本初といった工合である。
ところが、この同姓同名の二人の劉岱は、その字がどちらも『公山』であった。このような例はめずらしい。こんなとき、どうして区別するかといえば、出身地をつけるのである。
劉備討伐を命じられた劉岱は沛の人で、故人となった劉岱は|東★[#くさかんむり+來]《とうらい》の人であった。
もし出身地まで同じであれば、何某の子と、親の名をもち出すほかはなかったのである。
[#改ページ]
|黄河《こうが》を|渡《わた》るべきか
1
「曹操を討とう」
と、|袁紹《えんしよう》は言いだした。
このまえ、幕僚の|田豊《でんほう》が、しきりに曹操を討つことをすすめたのに、袁紹はうごかなかった。──子供が病気だと言って。
「どうじゃな?」
袁紹は幕僚たちを見渡して言った。彼の視線は田豊のところにとまった。田豊は主戦論者であったから、かならず賛成してくれるものと思っていたのである。
ところが、田豊はあるじの視線をうけると、ゆっくりと首を左右に振って、
「なりませぬ」
「なぜじゃな? このまえは、あれほど勢いこんでおったのに……」
「あのときは、曹操が徐州へ兵を進め、許都が|空《から》になっていた絶好の機会でした。いまはもう曹操が戻っております。あのとき襲わずに、いまになって攻めるというのは、おかしなものでございまするな」
田豊の口調には、このまえの進言が|納《い》れられなかったことにたいして、遠まわしに非難する響きがこめられていた。
袁紹の耳には、それが拡大されて入った。
(いつまでも、うらみがましく思っておる。執念ぶかいやつよ)
彼はあからさまに不快の色をうかべ、
「状況は刻々と変わる。その機が熟したかどうか、人によって判断の違いはあろう。……玄徳、どう思うかの?」
と、こんどは劉備にむかって訊いた。
曹操に造反した劉備は、命からがら青州経由で、袁紹のところへ逃げたことになっている。関羽は曹操に|降《くだ》ったが、四散した部下は、旧主の消息を知って、しだいに袁紹軍に身を寄せている劉備のもとに集まってきた。それがすでに万を越えた。
袁紹は大勢力であるから、万余の軍兵がふえたことは、けっして『大変化』とは言えない。だが、
──劉備が袁紹につく。
という事実は、かなり大きな影響力をもつ。
対黄巾戦のときの小隊長クラスであった劉備が、いつのまにか師団長級となり、ついには一州の牧にまでなったので、世間では彼のことを、
──目先のきく男よ。時代にたいする|嗅覚《きゆうかく》のするどさは抜群。
と評していた。
時代の流れを的確に|嗅《か》ぎわけてきたその劉備が、はっきりと曹操を棄てて袁紹についたのである。
──あの目ききがそう見たのだから、やっぱり曹操には欠陥があるのだろう。袁紹こそ本命であろう。……
天下の人心に、そのような印象を植えつけたのはいなめない。
袁紹はそれを大きく評価したのである。
名門の御曹司である袁紹は、虚名の効果をよく知っている。袁家の人たちも、名門出身という虚名によって、能力以上の地位についてきた。彼にとって、その種の虚名は世評とおなじであった。
劉備はしばらく考えてから答えた。──
「いま曹操の指導力は低下しています。董承がひそかに曹操にそむき、事があらわれ、三族を誅殺されましたが、これは大きな岩が、地上に一部だけすがたを見せているのにすぎません。奥はもっと深いのです。曹操という巨木の根は、その岩に半ば壊されております。ひと押しすれば、容易にたおれるでしょう」
「そうであろう」と、袁紹は我が意を得たとばかりうなずいた。──「陛下の密詔もある。曹操を討つのに、名分はいくらでもあろう。外に玄徳の造反があり、内に董承の造反があった。曹操の陣営は、いまやがたがたではないか」
「はたして、そうでございましょうか? 曹操の軍兵は、数においては、我が方に及びませぬが、きゃつの用兵は千変万化、けっして油断はなりませぬ。たしかに、現在の曹操陣営は動揺しているかもしれませんが、それなら奇兵を用いて、奔命に疲れさせるのが上策でございます」
と、田豊はあくまでも大動員の出陣に反対した。奇兵──すなわち、ゲリラ戦を展開すれば、三年のうち、坐して曹操に勝つことができよう、と主張したのである。
「天子の密詔をもって、奇兵の戦さしかできぬとは、物笑いの種ぞ。それは、陛下にたいしても不忠にあたろう」
袁紹は戦うからには、天子の密詔を高々とかかげ、大軍を擁して討伐に出ようと考えた。この名門の総帥は、ゲリラ戦などを軽んじていたのである。それは百姓一揆の戦いであって、堂々たる英雄のえらぶべき戦法ではないと信じていた。
袁紹が田豊の意見をしりぞけたので、劉備はほっとした。いま北東からゲリラ戦を仕掛けられることが、曹操にとっては最も痛いのである。田豊のいうように、三年間もゲリラと戦っておれば、曹操は袁紹につぶされてしまうかもしれない。
袁紹が曹操を|併呑《へいどん》してしまえば、|超弩級《ちようどきゆう》の勢力にふくれあがる。そうなれば、もう劉備の出る幕はない。袁紹|麾下《きか》の一部将で終わるであろう。
(いやだぞ、おれは!)
劉備は心のなかでそう叫んだ。
──袁紹の勢力を没落させる。
曹操と劉備の利害はこの点で一致していた。だからこそ、二人は地下同盟を結んだのである。もしゲリラ戦法が採用されそうになれば、劉備はどんな方法を講じても、それを流産させねばならぬと思った。それができないときは、ゲリラの司令官を買って出て、前線でサボタージュしようとさえ考えていたのである。だが、劉備が反対するまでもなく、袁紹はその意見を一蹴した。
──堂々と討曹の軍を発する。
袁紹はそう決めた。
田豊は最後まで反対した。
軍議が終わったあと、劉備は袁紹の耳もとに|囁《ささや》いた。──
「遠征軍出発のときまで、田豊はほうぼうで遠征反対論を説いてまわるでしょう。それが心配でなりません」
「わしはこの決定を変更する気は毛頭ないのだ。いくら反対論を唱えてもむだなことよ」
と、袁紹は言った。
「計画の変更はなくても、田豊の反対論によりまして、軍中の士気がそがれるおそれがあります。せっかく大動員いたしましても、戦意がすこしでも低下しておりましては……」
劉備は心配そうな表情をした。──いや、ほんとうに心配なのだ。袁紹は決断力に欠けている。口ではこの決定を変更する気はないといっても、いつひっくり返るかわからない。田豊はすぐれた弁舌の士である。最後まで希望をすてずに、袁紹を説得しようとするだろう。田豊も袁紹の気まぐれを知っているので、|執拗《しつよう》に食いさがるはずだ。──我が身の自由が許されるかぎり。
劉備は彼の自由を束縛しようと企んだ。彼を自由にしておけば、全軍の士気に悪い影響があると、袁紹に吹きこんだのである。
「そうだ、やつのことだ、軍中を遊説しかねない。……うん、しばらくどこかに監禁しておこう。」
と、袁紹は言った。
このようにして、出兵反対派の田豊は、その日のうちに自由を束縛されてしまった。
2
各陣営に間諜はいりみだれて活躍していた。情報はあまるほどはいってくるが、それが良質のものであるかどうかの判断がむずかしい。
劉備から曹操のもとに送られる情報は、最良のものであった。なにしろ敵の大本営から提供されたものである。
しかし、曹操が劉備に期待したのは、このような情報の提供だけではなかった。敵の中核にはいり込み、こちらに有利になるような政策決定にみちびくことだった。良質の情報はその副産物といってよかった。
曹操を征討するにあたって、袁紹は|檄《げき》をつくった。檄文の執筆者は|陳琳《ちんりん》という人物である。陳琳は広陵の人で、兵火を避けて|冀《き》州に来ていたが、袁紹がその文才を愛して、文書役に登用した。
このように、袁紹は名門の人らしく、鷹揚に人材を登用したが、登用したあと、その使い方に問題があった。それは、彼がその人物のほんとうの才能を見定めていなかった、ということを物語っている。
陳琳は檄文のなかで、曹操の罪を一つ一つかぞえあげるばかりか、その祖父の|曹騰《そうとう》が|宦官《かんがん》として専横をきわめたこと、父の|曹嵩《そうすう》が金銭で三公の地位を買ったことまであばき立てたのである。
「うーむ、うまいものじゃ。なかなかの名文である」
そう感嘆したのは、書かせた袁紹ではなく、その写しを入手した曹操である。
「この檄文にあらわれたわしの悪虐ぶりに、わし自身が怒り心頭に発するぞ。は、は、は……」
曹操はそう言って大笑した。笑いとばしただけではない、彼はこのとき、当代随一の檄文作者として、陳琳という名を記憶の一隅にとどめていたのである。
のちに陳琳が捕虜となったとき、曹操は、
──おまえは袁紹のために檄文を書いた。檄文であるからには、わしの悪口を書かねばならぬ。それはかまわんが、べつにわしのじいさんやおやじの悪口まで書かなくてもいいではないか。
と言った。陳琳本人はもとより、誰も彼の命はないものと思っていたが、
──その文才を、わしのために使ってくれ。いや、わしのためだけではない、天下万民のためにじゃ。
と、曹操はあっさりと|赦《ゆる》した。才能についての彼の鑑識眼は、袁紹よりはるかに確かだったのである。
袁紹の遠征軍の最初の目標は、曹操の部将である東郡太守劉延の守る白馬城であった。白馬は現在の河南省滑県の東にあたる。袁紹は白馬城攻撃の将軍に、顔良を任命した。
「顔良は勇猛でありますが、視野が狭く、こらえ性がありません。緒戦は大切でございますから、彼にまかせるのはいかがかと存じます」
|沮授《そじゆ》はそう言って、この人選に反対した。
だが、袁紹はききいれない。
「緒戦であるからこそ、顔良のように、ひと息に敵をもみつぶす勇将を配したのである。これ以上の適任はない」
せっかく人材をあつめても、このように独善であってはなんにもならない。
沮授は出発にあたって、全財産を親族に分配した。──こんな調子では、曹操に勝つ見込みはないと予想して、身辺を整理したのである。
はたして顔良は劉備に一杯食わされた。
劉備は顔良の出発のとき、わざわざ見送りに行き、
「曹操陣営には、私の義弟にあたる関羽がおります。先の徐州戦で、曹軍に|下★[#丕+おおざと(邦の右側)]《かひ》城に囲まれ、やむなく降伏したのですが、その関羽から密使が参りました。関羽は曹操から二万の軍勢を授けられておりますが、私が袁紹軍にあると知り、こんどの戦いで我がほうに寝返ると申してきました。戦線で会われましたら、なにとぞ彼の帰順をうけいれていただきたい。なお、これは極秘のこと。事前にもれたなら、関羽は曹操に兵をとりあげられること必定。……貴下の幕僚にも内密に願いたい」
と、二人だけになったときに、小声で言った。
「心得た」
顔良はよろこんだ。大手柄を立てることができる。それでなくても兵力が不足している曹軍から、二万の兵を引き抜くのだ。勝利は疑いない。彼は勇躍、白馬城へむかったのである。
顔良は十万の先鋒軍を率いて南下する。曹操は十五万の兵を三方に分け、その先鋒を関羽にまかせた。──すでに劉備からの連絡はあった。
顔良は白馬城を囲む。彼の本陣には、旗幟がはためいている。本陣とすぐにわかる。実戦のときは、ときどき偽装本陣をつくることもあるが、顔良はそんなことはしない。本陣をはっきりさせ、関羽の投降を待ったのである。
関羽は二万の兵を率い、全軍の先頭に立ち、|鞭《むち》も折れよとばかり馬をせめ、まっしぐらに顔良の本陣にむかった。
「見参、見参! これは曹公の|偏《へん》将軍、かつて劉備軍に属し、|下★[#丕+おおざと(邦の右側)]《かひ》の城を守った関羽なるぞ。見参、見参!」
と叫んでいる。
──来たか。……
顔良はにやりと笑った。
「よし、参るぞ!」
大声で言って、彼は馬にとびのった。
「将軍、なにをなされますか。……」
幕僚たちは驚いて、とめようとした。二万の大軍の前へ、ただ一騎で乗り込もうとしている。頭がどうかしたのではないかと思ったのである。
「案ずるに及ばぬ。わしは単騎、関羽めを降してみせるほどに。……そこ退け!」
顔良は足で馬の腹を蹴った。
手品師が種を明かさないのとおなじである。関羽とのあいだに、すでに話ができていることなど、部下に知られないほうがよい。
(いまにみなの者、あっと驚くぞ。……)
愉快であった。
馬は砂煙を蹴たてて進んだ。幕僚たちは、あっけにとられて、しばらくは顔良のうしろ姿を見守るばかりであった。
「それ、馬をひけ! 将軍につづけ!」
と、あとを追う準備にかかったときは、顔良ははるか前方を駆けていた。
関羽も全軍のかなり前を、一騎で走っていたのである。したがって、この馬上の両将は二人きりで出会った。
「関羽、よく参った。玄徳どのから聞いておったぞ」
と、顔良は馬をとめて言った。大声をあげたのだが、それは関羽にしかきこえない。関羽はその真っ赤な顔に白い歯をみせた。歯がキラと光った。
つぎの瞬間、関羽の右手がさっとうごいた。右手には|長刀《なぎなた》が握られていたのだ。
「うおーっ!」
猛獣のような声をあげたのは、顔良であった。──だが、その声はきわめて短いものだった。口から叫びがもれるのと、ほとんど同時に、彼の首はすっとんだのである。
「猛将の|誉《ほまれ》高き顔良は、この関羽が討ち取ったぞ! 進めよや、者共!」
関羽は血ぬられた長刀を、頭上でふりまわしながら|下知《げち》をくだした。
勝負はすでにきまった。
関羽の率いる曹操軍は、主将を失った敵軍に|雪崩《なだ》れ込んだ。
袁紹軍は大敗を喫し、白馬の囲みを解いて後退したのはいうまでもない。
「ほう、曹公はよくご存知でしたな」
戦いすんで、関羽は曹操にそう言った。進撃の前に曹操は、
──顔良の馬鹿は、こちらが進んで行くと、ただ一騎でとび出してくる。それを斬ってすてれば、もう勝ったも同然ぞ。
と関羽に言った。
(そんなにうまく行くかな?)
関羽は半信半疑だったが、突撃して行くと、はたして顔良が一騎でつっ込んできた。関羽はそれを斬った。彼は曹操の予想に感心してしまったのである。
「顔良のごときがなにをするか、わしには彼の心の隅々まで、はっきりと見えておったのじゃ」
曹操は笑いながらそう言った。
3
関羽は曹操に降るについて、一つの約束をしていた。
──めざましい功績をあげて知遇に報いたあとは、旧主の劉備のもとへ帰らせていただきたい。
ということである。曹操もそれを承諾していた。
「約束でございます。顔良を斬り、白馬城を救いましたから、ここにて退散おゆるし下さいませ」
大勝利のあと、関羽はそう願い出た。
「この曹操、約束をたがえたりはせぬ。しかし、追手は出さねばならぬから、|速《すみや》かに逃げよ。一日の差をつけておこう」
と、曹操は言った。
「それは約束が……」
約束が違うと言いかけたが、関羽はなにかわかるような気がした。曹操も軍律を重んじ、部下の思惑を気にしなければならないのであろう。むざむざと関羽を逃がしたとあれば、統率力が問われるかもしれないのだ。だから、一日遅れて、追手をさしむける。……
「わかりました」
と、関羽は頭を下げた。
「これは、そちとそちのあるじ玄徳のためじゃぞ。よいか、関羽が来たときいても、袁紹は疑いぶかい男ゆえ、すなおには信じるまい。ましてこのわしが、追手もさしむけなかったと知れば、わしが送り込んだ間諜と疑うやもしれぬ。そちは、わしの追手を辛うじてふり切り、袁紹軍中の劉備のもとまで|辿《たど》りついた、ということにしなければならんのだ」
「かたじけのうございます」
関羽は地面に額をすりつけた。──この曹公はそこまで考えておったのかと、関羽は自分の単純さにひきくらべて、舌をまいたのである。
「わしの立場もある」と、曹操は平伏している関羽の肩をたたいて言った。──「追手に、これがなれあいだとは言えぬ。彼らはけんめいに追うぞ。そちもけんめいに逃げよ。女連れであっても、一日の行程の差があれば、なんとかなるであろう」
「ご配慮、感謝あるのみでございます」
関羽一人ではない。こんどの逃亡は、徐州で捕虜となった劉備の妻、それに下★[#丕+おおざと(邦の右側)]で降った関羽の家族も同行するのである。そのなかにはあの|貂★[#虫+單]《ちようせん》もいた。
関羽はこれまでに曹操からもらった恩賞の金品を、すべて集めて一つの包みにいれ、厳重に封をした。それから謝辞を書いて、包みのうえにのせ、与えられた邸の玄関に残しておいたのである。
「急げよ!」
という曹操の声に送られて、関羽は間道を縫うように北東めざして逃げた。
関羽の逃亡が報告されると、曹操はすぐに追手をさしむけたが、彼はその隊長に、
「関羽はかならず生け捕れ。殺してはならぬ。関羽を殺せば、そちの首もとぶと思え。とり逃がしてもよいが、殺すことはならぬ」
と、くどいほどくり返した。
このころ、袁紹の陣営では、いまただちに黄河をおし渡るべきかどうかで、激論がかわされていた。
黄河はしばしば河道を変えている。千七、八百年前、後漢末の黄河は、現在の鄭州あたりから急カーブをえがいて北へむかっていた。このカーブに沿って、北から|白馬津《はくばしん》、|延津《えんしん》、|官渡《かんと》と、渡河に適した渡し場がならんでいる。
『津』や『渡』が渡し場を意味しているのはいうまでもないであろう。
顔良が包囲した白馬城は、白馬津の近辺である。顔良を斬って囲みを解いたが、曹操はこの地を守り難いと判断したのか、住民たちを西のほうに移した。
袁紹の幕僚会議では、甲論乙駁、議論百出したが、概していえば、武将たちは大挙渡河に賛成し、謀臣たちは慎重論を唱えた。
渡河といっても、このあたりは曹操の勢力圏であったから、袁紹軍にとっては、敵中での渡河作戦となり、かなりの準備がなければならない。また渡河に成功しても、対岸はさらに曹操の根拠地に近く、抵抗は|熾烈《しれつ》となるはずだ。そして、万一、戦局が不利となった場合、撤退するにも、黄河が難関となる。自ら退路を断つようなものだ。
「玄徳はどう思う?」
と、袁結はまた劉備の意見をきいた。
「さて……」劉備は慎重であった。──「曹操を討つときめたのですから、黄河はいつかは渡らねばなりませんが、問題はその時期でございます」
いずれは渡らねばならぬ。──これは武将側の主張をたすけたようなものである。
劉備はこのころ、袁紹軍に不利な作戦を進言することを控えた。
それはすぐに結果のわかることであり、たび重なれば、疑われるのは目にみえている。
──袁紹軍内部の対立を助長する。
劉備はこれに焦点をしぼることにした。
袁紹ははでに人材を集めてきたが、うまく使いこなせないでいる。人材が一軍のなかに|犇《ひしめ》いて、彼らがそれほど満足していないということは、すでに|内訌《ないこう》の火種を抱えていることを意味する。
劉備はあちこちで、それとなく焚きつけておればよいのである。
袁紹の陣営は、もう一つの火種を蔵していた。後継者問題である。袁|譚《たん》、袁|煕《き》、袁|尚《しよう》の三人の息子がいるが、いまの夫人の劉氏は後妻で、彼女の生んだ袁尚に、跡目を相続させたがっている。これにたいして、
──長男は袁譚ではないか。それをさしおいて末子があとをつぐとはけしからぬ。
という声があがるのが当然であろう。
次男の袁煕はいささか影が薄いが、譚と尚の二派に分かれて、はやくも継承争いが始まっている。
劉備は工作しやすかった。
沮授が出発にさいして、財産を処分したことは前に述べた。はじめから悲観的であったが、渡河可否の軍議で、渡河強行派が優勢を占めると、天を仰いで、
「上は自信過剰、下は功名にはやっておる。これでは黄河を渡っても、二度と戻れるかどうか、心もとないのう。……」
と呟いた。彼は袁紹にむかって、
──病気のため、冀州へ帰らせていただきたい。
という願いをさし出した。
「いかがいたす?」
沮授は当事者なので、この会議の席には出ていない。武将派の急先鋒の文醜が、
「沮授は|怖《お》じ気づいたのでございます。そのような者は足手まといゆえ、早々に後方へ返してしまうべきです」
と主張した。
「それはなりませぬ」
と反対したのは劉備であった。
不平派が軍中にいるから、対立の火は高く燃えあがる。よく燃える燃料を、取り去られては困るのだ。
「なぜでござるか?」
文醜は意外そうな面もちで訊いた。劉備は武将派の仲間と思い込んでいたからである。
「沮授どのは、たしかに実戦の士ではございませんが、頭脳のすぐれた人物です。いついかなるとき、彼の智謀を必要とする時期がくるかわかりませぬ。実戦に出ないのでございますから、すこしぐらい病気でありましても、さしつかえありますまい」
と、劉備は言った。
「そうじゃな。……」
袁紹は考え込んだ。
沮授を国もとへ送り返すことに、袁紹も不安をかんじていた。なぜなら、国もとでは跡目相続の問題がくすぶっている。そんなところへ『智謀』が戻ってくれば、ことは面倒になりかねない。
「よし、沮授には軍中で静養するように申しつけい。|郭図《かくと》の軍に預ける」
袁紹はそう決定した。同僚である郭図に属させるというのだから、実質的には降格ということになる。
袁紹軍は不平分子を抱えたまま、黄河を渡った。
4
「あれから、もう十年たった。……」
曹操は|酸棗《さんそう》県にはいると、馬をとめてしばらくあたりを見まわした。
|梟雄《きようゆう》董卓を洛陽に撃つべく、関東諸将が十余万の大軍をあつめたのが、この酸棗の地であった。それは初平元年(一九〇)正月のことであり、ことしは建安五年(二〇〇)であるから、ちょうど十年が経過している。
景観は十年前と変わっていないが、人は変わった。それもなんという大きな変わりようであることか!
十年前、討董連合軍のうち、七将がこの酸棗に陣をならべたのである。
「残ったのは、おれだけではないか。……あとはみな死んでしまった。……」
曹操は馬からおりた。
徹底した現実主義者でありながら、彼は大詩人という一面をもっていた。感傷家である。ただし、その感傷に|溺《おぼ》れない。
酸棗七将のうち、曹操を除く六人はつぎのとおりである。
|★[#六+兄(六が上で兄が下)]《えん》州の刺史 |劉岱《りゆうたい》
陳留の太守 |張★[#しんにょう(点二つ)+貌]《ちようばく》
広陵の太守 |張超《ちようしよう》
東郡の太守 |橋瑁《きようまい》
山陽の太守 |袁遺《えんい》
済北の相 |鮑信《ほうしん》
布陣中に劉岱と橋瑁が仲違いし、その年のうちに橋瑁が殺されてしまった。
二年後の初平三年(一九二)、橋瑁を殺した劉岱が、青州黄巾軍と★[#六+兄(六が上で兄が下)]州で戦って死んだ。曹操はその後任という形で、迎えられて★[#六+兄(六が上で兄が下)]州の刺史となったのである。その彼を迎えた済北の相の鮑信もまた、黄巾軍と寿張の地に戦って死んだ。曹操が黄巾軍と和睦したのは、その直後のことであった。
おなじ年、揚州の刺史となった袁遺は、袁術のため、赴任の途中で襲われ、|沛《はい》まで逃げたが、そこで部下のために殺された。この袁遺は、彼を討った袁術と|い《ヽ》と《ヽ》こ《ヽ》同士だったのである。
酸棗に布陣していたころ、兵力不足の曹操に五千の兵を貸したことのある張★[#しんにょう(点二つ)+貌]は、弟の張超とともに、呂布と結んで曹操に敵対するようになった。どうしてそんなことになってしまったのか? あのころは、陳宮がしきりに反曹同盟のために策動していたが。──
興平二年(一九五)張★[#しんにょう(点二つ)+貌]は曹操に攻められ、袁術に救いをもとめたが、援軍は来なかった。絶望した兵士たちが張★[#しんにょう(点二つ)+貌]を殺した。弟の張超は曹操に|雍《よう》丘で包囲され、落城のさいに自殺した。
酸棗七将は、布陣の五年後に、六将を失ってしまったのである。
酸棗の諸将だけではない。|魯陽《ろよう》に陣して南から洛陽にむかった袁術も、いまは亡い。
反董連合軍の盟主の袁紹とともに河内にあった、河内大守の|王匡《おうきよう》もすでに死んだ。そして、いま曹操はかつての盟主と戦っているのである。
(みんな死んでしまった。……)
それも五年もまえに。──曹操はそのことに、あらためて|愕然《がくぜん》とした。そして、感傷的になった。そこへ、
「敵があらわれました」
という報告がきた。
感傷的な詩人は、たちまち現実主義の権化というべき将軍に変身した。
「数はどれほどか?」
と、彼はきびしい口調で訊いた。
「確認できたのは、およそ五百騎ばかり。後続部隊があるもようです。先頭は現在、延津の南にあります」
「|南阪《なんはん》まで進め!」
曹操はすでに馬上の人となって、その命令を下した。
「|輜重《しちよう》は急ぐに及ばぬぞ」
と、彼はつけ加えた。
敵の数を訊いたが、じつは曹操は敵の兵力と、その指揮者をすでに知っていた。劉備からの密使がそれをしらせに来たのである。
袁紹には悪い癖があった。
軍議でいったん決定したことを、あとで考え直すのである。優柔不断というよりは、一種の|自惚《うぬぼ》れというべきであろう。
(おれには、もっとうまい考えがうかぶはずだが……)
と、考えるのだ。しかし、じっさいに、軍議の決定をくつがえすようなことは、めったにない。決定を変更するには、幕僚を納得させるだけの策を考えつかねばならないのである。衆智をあつめた決定以上の策は、たやすく考え出せるものではない。
この考え直そうとするあいだ、行動にうつらないのだから、袁紹の采配はつねに、出足が遅れるのだ。
敵陣営に潜伏している間諜は、最高機密を入手するのに、すこし時間がかかり、せっかく情報を送り届けても、あとの祭りになるといったケースが多い。ところが、袁紹はすぐに決定を実行にうつさないので、もれた情報はたいてい間に合う。ことに劉備は本人が最高首脳会議に参加するのだから、機密入手には時間がかからない。
──延津からまず六千騎が、劉備と文醜の両将に率いられて南下する。
劉備自身から、そんな情報が届けられていたのである。進軍のコースもわかっていた。曹操はそれにたいする作戦も、すでに練りあげていた。
かなりの軍勢がかくれることのできる南阪というところがある。小高い丘で、ふところが深い。袁紹軍はその下を通ることになっていた。
曹操は自ら七百騎を率いて、南阪の山中にかくれた。
つぎに軍糧や弓矢を積んだ、輜重部隊を南阪の下で休憩させた。隊列を解き、人も馬もばらばらに休んでいる。
「これ以上の|餌《えさ》はあるまい」
曹操は山中に身をかくして含み笑いをした。
袁紹軍の先頭部隊六百騎は、この餌をみつけて、おどりかかったのはいうまでもない。輜重部隊の兵卒は、ろくに武器を持っていないのである。兵卒というよりは人夫であった。それにくらべて、袁紹軍のほうは、先頭部隊にえらばれるだけあって、これは精兵ぞろいである。
勝負にならない。──だが、それにしては曹操軍の輜重部隊は、逃げ方がたくみであった。敵が|喊声《かんせい》をあげてつっ込んできたとき、ぱっと四散したのである。こんなときは、たいてい恐怖のあまり、ひとかたまりになって逃げるのがふつうなのだ。それなのに、まるで訓練されたように、四方へばらばらと逃げた。──じつをいえば、彼らはやはり逃げ方を、なんども練習していたのである。敵を散らすためであるのはいうまでもない。
袁紹軍の先頭の精兵部隊は、これにまんまとひっかかった。
「よし、いまだ!」
山中でようすを見ていた曹操は、ここぞとばかり伏兵に出撃を命じた。坂の上から|雪崩《なだ》れをうって攻めおりる場合、おそらく自分の実力の数倍もの力が加わる。それでなくても、袁紹軍は四散した輜重車を追って、その力は分散されている。あちこちで各個に撃破された。
「前方に戦闘が始まったぞ。それ、急ぎ救援に|赴《おもむ》こう!」
後続の将軍文醜は、馬上で抜刀して、全軍に突進を命じた。彼は自らその先頭に立って進んだ。
後続部隊六千のうち、約二千が文醜のあとに従った。だが、残る四千はうごかなかった。劉備がとめたのである。
「曹操のことじゃ、このようすでは、なにか奇策を設けておるに相違ない。とどまれ、とどまれ! 急いで|罠《わな》にかかるまいぞ! ひき返せ!」
と、声をかぎりに叫んだ。
だが、その叫びも、文醜に従った先頭集団に届かなかった。このようなとき、軍鼓によって、前進、後退の合図を送ることになっているが、劉備はそれを用いなかった。
この部隊は、劉備と文醜の両将が指揮している。両名の合意によって、軍鼓をどう鳴らすかがきまる。劉備一人では、その権限がないと解された。──すくなくとも、劉備はそう考えたと、あとで主張したのである。
先頭の六百騎は、曹操の七百騎に蹴散らされた。後続の六千が全軍をあげて、南阪の下に|馳《は》せつけたなら、勝敗の|帰趨《きすう》はどうなったかわからないところであった。だが、二千しかやって来なかった。
曹操の七百騎は、勝ちに乗じて、二千の後続部隊に襲いかかった。
「うぬ! なぜあとに続かぬか!」
文醜はうしろをふりかえり、自分に従ってきた軍勢が、意外にすくないのをみて、歯がみした。
(さては……)
劉備が足をひっぱったのか、と気づいたときはもう遅かった。曹操のくり出した伏兵も、選りすぐった精強の戦士ばかりであった。そのうちの一人が、文醜めがけて馬を走らせ、すれちがいざま、その首を|刎《は》ねた。
文醜ほどの剛の者が、むざむざと討ち取られたのは、心が動揺していたからにちがいない。
(これは負けたな。……)
ふりかえったとき、彼の脳裡に、ちらとそんな考えが走ったのであろう。それが彼の動きを鈍らせたのだ。
主将を斬られた袁紹軍は、たちまち戦意を喪失した。──文醜に従った者は、ほとんど捕虜になってしまった。
劉備はどうなったか?
曹操の罠を見破り、四千の兵を救ったということで、評価は高まったのである。
四千の兵たちは、自分たちが命拾いをしたのは劉備の力であると思い込んでいる。だから、口ぐちに、
──劉将軍の明察、まさに神の如し。
と、ほめそやしたのだった。
5
曹操は官渡まで兵を退いた。
官渡は読んで字のごとく、国が設けた渡し場であり、現在の|中牟《ちゆうぼう》県にあたる。
袁紹はその官渡の北の陽武まで軍を進めた。
陽武県のなかには|博浪沙《はくろうさ》というところがある。むかし、張良が秦の始皇帝を暗殺しようとして、|鉄椎《てつつい》をとばしたのがこの地であったという。
こうして両軍は対峙したまま、数カ月もにらみ合ったのである。
|兵站《へいたん》線は袁紹のほうがのびている。とはいえ、袁紹は軍糧、輜重をじゅうぶん用意して、陸続と補給していた。それに反して、曹操側はとかく軍糧に不足していた。
したがって、北軍、つまり袁紹は長期戦が有利で、南軍、すなわち曹操は短期の速決戦を狙わねばならなかった。
だが、じっさいには、袁紹のほうが焦っていたのである。
黄河の沿岸はきめのこまかい黄土地帯であり、そこの土はきわめて細工しやすい。子供の遊ぶ砂場に似ている。袁紹は人海戦術によって、そこにいくつも土の山をつくり、その上から曹操の軍中に矢の雨を降らせた。曹操の軍営のなかでは、楯を傘のようにしなければ歩けない状態であった。
「あれはまだ出来ぬか?」
曹操は土の山が一つできるたびに、幕僚にそう催促した。
やがて『あれ』が許都から送られてきた。
──|霹靂《へきれき》車。
である。
曹操は武将であると同時に、兵法学者でもあった。『孫子』に註釈を施したのも彼であるが、そのほかの兵書も深く研究していた。
いまはもう伝わっていないが、|范蠡《はんれい》に『兵法』という本があり、そのなかに霹靂車のことが出ている。──曹操はその記述を参考にして、自分の創意を加え、その兵器をつくり出したのである。
巨石を積んだ車で、発石の装置をそなえているので、一名を『発石車』とも称した。前後左右を、ぶ厚い木材で囲い、そのまわりに銅板を張りめぐらした装甲車である。発石の装置は、|ば《ヽ》ね《ヽ》を利用していた。
この装甲車が、袁紹軍のつくった人造の小山の前まで進み、巨石をつぎつぎと撃ち込むのである。小山のうえにつくられた、弓の射手のための楼台は、またたくまに破壊された。
矢なら楯をかざしておればよいが、一発十二|斤《きん》という石が降ってくるのでは、楯などは役に立たない。
上から矢の雨を降らせることができないとあれば、こんどは下から行こうというわけで、北軍は地下道を掘り進んだ。
曹操軍はそれを察して、自軍の陣地のまわりに、深い|塹壕《ざんごう》を掘った。いくら北軍が地下道を掘っても、塹壕のところまでしか行けない。──
こんなふうに長期戦の様相を帯びてきたが、これは曹操にとっては不利である。
──いっそのこと、許都へひき返そうか。……
と思ったこともある。だが、幕僚たちに励まされて、そこにがんばった。
この期間、曹操にとって痛かったのは、劉備が袁紹の命令で、|汝南《じよなん》に派遣されたことである。そのため、劉備からの貴重な情報が、以前ほど頻繁にはいらなくなった。
とはいえ、重要情報がまったく|杜絶《とぜつ》したのではない。たとえば九月になって、
──袁紹の食糧運送車が数千台、官渡へむかいつつあり、護衛の部隊長の|韓猛《かんもう》は、勇敢ではあるが、ひとりよがりで敵を軽くみるくせのある人物だ。乗ずるすきがあるように思われる。
という情報が、汝南の劉備のところからはいってきた。汝南に出張していても、このような補給にかんする事項については、劉備も最高決定の通知をうけたのだ。
惜しいことに、曹操軍には、数千台の軍糧を奪うだけの兵力はなかった。
「|奪《と》ることができなくても、敵の手にはいらぬようにしなければならぬ」
と、曹操は言った。
「と申しますと?」
幕僚はそう訊いた。
「襲うのじゃ。襲って火をつけるのじゃ。そうすれば敵の手にはいらぬぞ」
この軍糧の焼打ちは、みごとに成功した。はじめから、奪うという欲をすてているので、うまく行ったのであろう。
劉備の汝南出張は、汝南黄巾軍の|劉辟《りゆうへき》という者が、もとは曹操についていたが、こんど袁紹に寝返ったので、そこへ作戦の指導に行くためである。
袁紹は劉辟を使って、曹操の側面をおびやかそうとしたわけだ。しかし、作戦顧問の劉備が、うまく手を抜いたので、曹操も彼らに|攪乱《かくらん》されずにすんだのである。
汝南の出張から戻った劉備は、
──曹操はしぶとうございますから、|荊《けい》州の劉表と結んで、はさみ撃ちをするのが最善の策でございましょう。
と、進言した。
「それは悪くないが、誰が劉表に説くのか? よほどうまく持ちかけないと、一蹴されるおそれがあるぞ」
と、袁紹は眉をよせた。
「私が参りましょう」
劉備はみずから、その役を買って出たのである。
おなじ会議の席で、|許攸《きよゆう》という者が、
「曹操陣営は兵力がすくのうございます。大切な戦線にさえ、投入される数はかぎられているのです。まして後方には、兵の数はさぞかし|寥々《りようりよう》たるものでしょう。……そうです、いま許都を守る兵卒さえ、そんなに多くはいないと思います。いまこそ許都を|衝《つ》き、天子を奪いたてまつり、我が陣営に奉迎すべきときではありませぬか」
と、策を献じた。
だが、袁紹は首をたてに振らなかった。
「わしは、やりかけたことを片づけないうちは、ほかのことに手を出さぬ主義でな。……」
と、袁紹は言った。
許攸はいやになってしまった。
たまたま許攸の家族の者が、ちょっとした罪で逮捕されるという出来事があった。許攸はますますいやになった。
(曹操に降ったほうがいいのではあるまいかな、いまのうちに?)
彼はそんな気になるのだった。──彼は曹操とは幼馴染でもあったのである。
6
許攸が投降してきたとき、曹操はもみ手をしながら出迎えた。よほどうれしかったのである。
相手の輜重を焼いたり、発石車で相手の小山のうえの楼を打ち崩したりしても、大勢は依然として北軍有利であった。兵力がちがうのである。
その優勢な北軍から、形勢のよくない曹操軍に投降してくる人物があらわれた。──南軍もまんざらすてたものではないのだ。
「|子遠《しえん》(許攸の|字《あざな》)、よく来た。おまえが来れば、もうこっちのものだ!」
曹操はよろこびのあまり手をたたいた。
「私が降ってくるなど、思いもかけなかったでしょう?」
と、許攸は言った。
「うん、思いがけないことであった」
曹操はそう答えたが、この返事は正直なものではなかった。許攸の家族の一人を逮捕したのは|審配《しんはい》という者だが、そうするようにしむけたのは、ほかならぬ劉備であった。劉備からの報告に、
──この両重臣の仲が、しだいに険悪なものとなりつつある。袁紹陣営から脱落するのは、許攸のほうと予想される。……
とあった。だから、この日があることは、いくらか予期していたのである。
「ところで、曹公。袁紹の大軍をここにひきうけて、いかほどの軍糧を集められたのでございますか?」
と、許攸は訊いた。
「一年分じゃ」
「ほう、そんなにございますかな?」
許攸はにやりと笑って言った。
「じつは半年分なのだ」
「なかなか、それほどは……正直におっしゃいませ」
許攸はそう言って、首を横に振った。
「は、は、は、そちにはかくし|了《おお》せぬわ。……じつは一カ月しかない。さて、どうしたものかな?」
と、曹操は白状した。
「南軍の軍糧はこれでわかりました。袁紹軍のほうは、おびただしい軍糧を蓄積しておりますが、その危なさにかけては、南軍におさおさ劣りませぬな。……袁紹軍の弱点は、軍糧にあります。その保管方法に……」
「それはいったい、どういうことじゃな?」
「一カ所に集めております。|烏巣《うそう》というところに。……しかも、そこの警備はそれほど厳重ではありませぬ。一万余台分の軍糧車がそこにあり、もしそれを焼いてしまえば、袁軍はもう明日から食べられません。まず三日ももたないでしょうな」
「そりゃ、まことか?」
「私も投降するからには、手ぶらで参るわけにはいきません。この情報が、私の手土産でございます」
「うん、かたじけない!」
曹操は大いによろこんだ。
彼はさっそく烏巣攻撃の準備にとりかかった。袁紹とちがって、曹操の行動はおそろしく迅速である。
烏巣というのは沼沢の名であり、現在は延津県の東南にあるが、当時は酸棗県に属していたようである。現在の地図でみると、黄河の北岸にあるが、河道が違っていた後漢末では、黄河の南岸にあった。
曹操は五千の歩兵と騎兵を選抜した。軍糧を焼くだけなので、できるだけ軽装させた。ときに十月、暦は冬だが、それほど寒くない。夜になるのを待ってから、間道から烏巣沢へむかった。
このとき、全軍は袁紹側の旗幟を用いた。そして兵たちは口に|枚《ばい》を|銜《ふく》んだ。枚というのは箸状の木片で、これを口にくわえ、その両端に糸を通して首のうしろで結びつけるものである。声をあげないための道具であったのはいうまでもない。そして、馬はすべてその口をかたく縛った。
隠密行動である。かりに住民たちに見られても、袁軍の旗幟を用いているので、袁軍の補充軍と思われるであろう。
兵士たちは一人ずつ、一束の薪や枯草の束を背負っていた。
許攸の情報によると、烏巣の軍糧貯蔵所を守る北軍は万余の兵であるという。だが、士気は振わない。なぜなら烏巣の守将の|淳于瓊《じゆんうけい》がアル中で酒ばかり飲んでいるので、部下もばからしくなって、その防備もいい加減になっているのだ。
この烏巣攻撃に、曹操はすべてを賭けた。自ら五千の攻撃軍の指揮をとり、官渡の本陣は幕僚長の|荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]《じゆんいく》と従弟の曹洪に留守を命じた。
五千の南軍は、烏巣の袁陣に近づくと、これを包囲し、用意した薪や枯草に火をつけて、陣内に投げ込んだ。朝の四時ごろでまだ暗い。
「なにごとか、騒々しい!」
泥酔していた淳于瓊は目をさまして、大声でどなった。
敵襲と知って、烏巣の袁陣は、上を下への大騒ぎとなっていた。だが、誰も総大将の淳于瓊をたたき起こそうとはしなかった。起こしても、物の役に立たないばかりか、かえって邪魔になることを知っていたからである。
「なに、敵襲じゃと? のろしをあげい、のろしを!」
淳于瓊は起きあがり、よろめきながらそう叫んだ。
「ごらんなさいませ。のろしの必要がございましょうか?」
彼の副官は、唇を歪めて言った。
味方に危急を告げる合図がのろしである。そんなものを打ちあげるまでもなく、敵があちこちに放火してくれている。二十キロはなれた陽武の本陣から、それが見えないはずはない。
やがて夜が白みはじめた。
どうやらこの夜襲の人数は、それほど多くはなさそうであるとわかった。それに、夜空に噴きあげた|焔《ほのお》の波を見て、やがて陽武の本陣から救援が駆けつけるであろうと知って、淳于瓊はすこしは元気になった。
「敵はすくないぞ! 防げや、防げ!」
と、声をからして叫んだ。
だが、こうなればもう兵力の多寡など問題ではない。混乱してしまえば、どんなに大軍がいても|で《ヽ》く《ヽ》の《ヽ》ぼ《ヽ》う《ヽ》とおなじなのだ。アル中の将軍に率いられた兵隊たちは、はじめから規律に欠けていた。奇襲に有効に対処できるのは、規律の正しさだけであるから、烏巣の袁軍の運命はすでに時間の問題であった。
唯一の頼みは救援軍の到来である。
「陽武からの救援がすぐにやって来る。それまでがんばれ!」
と、淳于瓊は陣中を駆けまわって叫んだ。
7
烏巣の方向に火の手があがったのをみて、袁紹はただちに緊急幕僚会議を召集した。
この期に及んでも、袁紹陣営はそのお家芸の意見の対立と優柔不断に終始した。
「烏巣の攻撃には、曹操みずから大軍を率いて陣頭に立っているはずです。とすれば、官渡の曹操の本陣はあるじがなく、兵力もすくのうございましょう。本陣を陥せば、きゃつめ、帰る場所がなく、いずれ我が軍の手にかかること必定でございます」
こんなふうに、烏巣をそのままにして、曹操の留守にその本陣を衝くことを主張したのは、郭図であった。
これにたいして、部将の|張★[#合+おおざと(邦の右側)]《ちようごう》という者は、
「曹操のことゆえ、出陣にあたっても、本営の守りは堅めているはずです。いまは全軍を挙げて烏巣を救うべきであると存じます。烏巣に我が遠征軍の全軍糧が|屯積《とんせき》されていることは、一兵卒といえども知っております。烏巣が陥ちたとわかれば、全軍の士気はたちまち低下するでありましょう。烏巣に我が軍の運命はかかっております」
と反論した。
両説とも一理あった。袁紹は大いに迷ったのである。彼はどちらかといえば、曹操の本陣を襲う気持のほうが強かったが、張★[#合+おおざと(邦の右側)]の主張にも説得力があった。
「よし、わかった。軍を二手に分けよう」
袁紹はいかにも彼らしく、中途半端な決定をくだした。足して二で割るという、なんとも歯切れの悪い措置である。
それでも袁紹の気持を反映して、主力を曹操の本陣にむけ、一部を烏巣にさいたのである。しかし、兵力を分散したことには変わりがない。
さらに悪いことには、烏巣救援を最も熱心に主張した張★[#合+おおざと(邦の右側)]と|高覧《こうらん》の二人を、曹操本陣攻撃の司令官に任命したのである。自分の主張が|容《い》れられず、不満をもっている将軍に兵を預けたことになる。彼は、
──曹操の本陣は守りが堅いはず。
と意見を述べているので、もしかんたんに陥ちたなら、自分の予想が狂ったことになるのだ。うわべだけでも、苦戦にみせかけねばならないという、微妙な立場にあった。
このような無神経な人事は、やはり名門の御曹司らしいものなのだ。
袁紹の救援部隊が烏巣に近づいたというしらせをうけたとき、曹操は、
「うろたえるな!」
と、一喝した。
そのときには、袁軍の烏巣守備隊長の淳于瓊はすでに捕虜となっていた。酔いはまだ完全にさめていない。
「畜生め、おれをどうする気だ!」
と、酒の勢いにまかせてどなっている。
「いまから、どうするか教えてやる」曹操はそう言って、従卒をふりかえり、「こやつの鼻を|削《そ》いでやれ、それから両手の指を切って馬の背にくくりつけよ!」
「な、なんだと!」
さすがのアル中将軍も、このときばかりは酔いがさめたであろう。
「捕虜は何人いるか?」
と、曹操は幕僚に訊いた。
「約千名です。戦死は二千、そのあたりにひそんでいるのがほぼ二千……残りの五千余は逃げつつあります」
と、幕僚は報告した。
「よし、捕虜は鼻を削いで逃がせ」
曹操はそう命じた。
捕虜はつぎつぎと鼻だけ削ぎおとされ、それがすんだ者はすぐにその場から立ち去るように命じられた。こうして『鼻なし部隊』が烏巣から逃げて行く。
曹操は全軍を集めた。敵の軍糧はすでに焼きすて、所期の目的は達したのである。
「鼻なし部隊のあとについて逃げよ!」
と、彼は命じた。
「逃げる?」
幕僚は解しかねた。
「そうだ。われらには袁軍の旗幟がある。袁軍のふりをして逃げるのだ。途中で袁軍の救援部隊に出会うだろう。彼らをまき込んで、逃げるようにしむける」
曹操はそう言いすてて、馬にとびのった。
烏巣にむかった袁軍の救援部隊は、鼻を削がれ、顔じゅう血だらけにした逃亡兵の列に遭遇した。鼻なしの兵士の列は、三々五々、どこまでもつづいている。そのうちに鼻をそがれ、手の指を切られた淳于瓊が、はだか馬にくくられてやって来たのに出会った。
救援軍はすでに怖じ気づいた。そこへ、敗残兵の一団が、
「おそろしい罠が仕掛けられているぞ! いま烏巣へ行けば、まちがいなくみな殺しだ! 行くまいぞ、行くまいぞ。命が惜しければ行くまいぞ!」
と口ぐちに叫びながら駆けてくる。彼らは鼻は健在であったが、口にしている言葉は、おそろしげであった。その罠がいったいなになのか、誰も言わないが、とにかく『おそろしい』という。なにであるかわからないので、そのおそろしさは、底なしのように思えた。
「行くまいぞ、行くまいぞ!」
と、彼らは救援軍の袖をひっぱった。恐怖心にかられた救援軍は、そのまま、まわれ右をして、ほとんどが退却してしまった。
まっすぐ進んで烏巣に達した者は、そこに軍糧が燃えているのを見ただけで、曹操軍のすがたを発見することができなかった。
袁紹軍の烏巣救援は失敗した。──救援するにも、敵はもう作戦を完了して、どこへ消えたかわからない。……
烏巣に曹軍のすがたなし、という報告に接したとき、郭図はいまこそ政敵を葬り去るべきときだと思った。──いま官渡の曹軍を攻めるために出陣している張★[#合+おおざと(邦の右側)]は、郭図のライバルであった。
郭図は袁紹に言った。
「張★[#合+おおざと(邦の右側)]は曹操に通じておりますぞ。その証拠に、曹軍のいない烏巣に、我が軍の全部隊を投入しようと主張したではありませんか」
「うーむ、そうじゃな」
袁紹は張★[#合+おおざと(邦の右側)]を疑った。──ともかく召喚して調べてみよう。
──取調べの筋あるにつき、軍を高覧にゆだねて、張★[#合+おおざと(邦の右側)]は本陣にひきあげよ。
という急使が、張★[#合+おおざと(邦の右側)]のもとに派遣された。
「なに、取調べとな!」
張★[#合+おおざと(邦の右側)]の脳裡に、宿敵郭図の顔がうかんだ。あいつがやったことに相違ない。なにの疑いかわからないが、どうやら罠にかかったようである。ひきあげて、本陣の軍法会議にかけられたとき、申しひらきができるかどうか、自信はなかった。
このとき、そばから同僚の高覧が、
「疑い深いあるじをもっては、不安が絶えませぬな。いつわが身に、どんな疑いがふりかかるか、わかったものではありません。……このあたりで、ひとつ、もっとしっかりしたあるじに鞍がえしたいものじゃ。……」
と言った。
「高覧どの、なんと申された?」
張★[#合+おおざと(邦の右側)]は大きな息を吸いこみ、真っ|蒼《さお》な顔をして訊いた。
「曹公は人材を愛されるときく」
「そうか。……一しょに降ってくださるか」
「よい機会でござる」
曹操の陣を襲う軍団の、二人の司令官が、曹操に投降したのである。
8
早朝に、曹操の本陣を襲わせたのに、その曹操が|午《ひる》すぎに、我が軍の本陣を襲いかかってくる。──袁紹は『曹操、急襲せり!』のしらせをきいても、しばらくは信じられなかった。
「そんなばかなことがあるものか! 誤報だろう。物見の者に、ねぼけるなと申せ!」
と、袁紹はどなった。
「さて、彼我の距離を考えると、ありえぬことではございませんな。兵は迅速をたっとぶと申しますが、とくに曹操はそうですから」
なんども進言したが|容《い》れられず、郭図に預けられていた沮授が、そばから冷やかにそう言った。
『とくに曹操は云々』のあとに、
──我が袁軍はいつもぐずぐずしておりますが。……
という言葉がかくされていたのだ。
「誤報だ。いまに物見の者が、ねぼけ|眼《まなこ》をこすって、|詫《わ》びに来るであろう」
袁紹はそうきめてかかったが、誤報でないことは、つぎの瞬間にわきおこった大喊声によって、もののみごとに証明された。
曹操軍はすでに、袁紹の本陣に殺到していたのである。袁紹軍は、兵を戦闘配置につけるいとまもなかった。いや、それどころか、将兵が武具をつける時間さえなかったのである。
一方的な戦いであった。
このとき、袁紹は本陣に十万の大軍を擁していたが、曹操軍のあげた首級は、七万に達した。──『後漢書』には八万とある。いずれにしても袁紹の惨敗である。
袁紹と息子の袁譚は、|鎧《よろい》を身につけるひまもなく、ふだん着のまま逃げた。僅か八百騎の親衛隊に守られて、黄河を渡って退却したのである。
もし黄河を背にしていなければ、七万とか八万といった大損害を出さずにすんだかもしれない。やはり沮授が言ったとおり、黄河を渡ると、このようなとき、自ら退路を断つことになったのだ。
許攸や張★[#合+おおざと(邦の右側)]のように、意見が容れられずに、曹操に降った者もいたが、沮授は自分の進言が容れられなかったにもかかわらず、敵に投降することはなかった。逃げおくれて、彼はつかまったが、降伏することを拒否して殺されてしまった。
かねて沮授の才能を惜しんでいた曹操は、なんとかして彼を救おうとしたが、彼は、
「曹公よ。もし情けをかけてくださるとすれば、それは私を速かに殺すことだ。お願い申し上げる」
と言い張ったのである。
官渡から延津にかけて、黄河の岸一帯に、死屍累々として、吹く風もなまぐさかった。
翌日、死屍の収容が終わり、白馬寺の月氏の僧が官渡で供養をおこなった。許都から来た少容もその場に立ち合った。
少容が伝えてきた五斗米道は、『いかに生きるか』にかんする教えである。死にたいする覚悟は、五斗米道に欠けていた。乱世の道教は、『死』について教える必要があろう。
白馬寺の支英と支敬が、ならんで読経していた。かつての青年僧支敬も、いまはもう壮年といってよい年齢に達していた。
「少容どの、相談がござる」
読経をきいている最中、彼女は曹操に呼ばれて、陣幕のなかにはいった。幕内には誰もいなかった。そして、敷物のうえに、一つの木箱が置かれてあった。
「袁紹め、あわてて逃げて、いろんな物を遺棄しておったが、面倒なものを一つ残してくれた。あの箱にはいっているものだが」
と、曹操は言った。
「なかみはなにでしょうか?」
と、少容は訊いた。
「文書、手紙のたぐいじゃ。……この戦いに従軍しておる者、また許都におる者で、ずいぶん袁紹に手紙を出しておる。袁紹が勝ったときのことを考えて、先に手を打っているのじゃ。いま曹操についているが、これは本心ではない。もとから本初(袁紹)どのに心を寄せたなどと書いてある」
「いかがなされますか?」
「弱者の防衛本能であろう。責める気にはなれぬ。……わしだって、袁紹の下についたことがあるのだ。……問題は、わしがこの手紙類に目を通したことがわかれば、人心は動揺する。袁紹に手紙を出した連中は、夜もおちおち眠れないであろう」
「そのとおりでございましょう」
「で、わしは読まなかったことにする。文書をいれた手紙は、すべて少容どのにまかせたということにしたい」
「わかりました」
少容は曹操麾下の幹部を河岸にあつめ、そこでさかんに薪を|焚《た》かせ、一同に言った。──
「私は孟徳(曹操)どのに頼まれて、袁軍の遺留品を調べましたところ、この箱のなかに、手紙がいっぱい詰っているのをみつけたのです。……そのうちの何枚かを読みましたが、私はこれはこの箱ごと焼きすてたほうがよい、という結論に達しました。……孟徳どのは手紙の内容をお知りになりたがっておられましたが、私は死んでも申し上げないときめたのです。……さ、燃やしまするぞ」
兵卒が二人がかりで、その箱をかつぎあげ、真っ赤な焔をあげている火中に投じた。火のはぜる音が、ひとしきり続いた。──
作者|曰《いわ》く。──
この官渡の戦いは、天下分け目の決戦であった。袁家はこのあとも、しばらく|余喘《よぜん》をたもつが、もはや天下の覇権を争う力をもたなかったのである。
敗因はすべて寝返りなので、袁紹の人柄に帰すべきであろう。だが、曹操の策謀があったと考えても不自然ではない。
官渡の戦いの直前に寝返って、曹操に勝利をもたらした張★[#合+おおざと(邦の右側)]は、その後、三十年にわたって曹軍の中核で活躍した。
この張★[#合+おおざと(邦の右側)]が官渡の戦いの二十八年後、甘粛省の街亭で、|馬謖《ばしよく》の率いる蜀軍を破り、ために諸葛[#葛のヒは人]孔明をして、泣いて馬謖を斬らせたのは、あまりにも有名な物語である。
なお官渡は現在の河南省|中牟《ちゆうぼう》県にあたる。
かつて私は西安から南京へむかう途中、深夜、列車が中牟駅を通ったとき、秦の始皇帝の暗殺未遂から曹操の官渡の大勝、さらには二十世紀の日中戦争にまで想いがつながり、一と晩ねむれなかった思い出がある。
日中戦争の徐州戦のあと、西へ追撃する日本軍を|阻《はば》むために、★[#くさかんむり+將]介石軍はこの中牟県五庄北方の三柳塞で、黄河の堤防を切った。日本の中島師団は水中に孤立し、磯谷師団が救援にむかわねばならなかった。このため、つぎの漢口作戦は約一カ月遅れたのである。日本軍の追撃は、大本営の制止を無視しておこなわれたという。三国志の時代であれば、馬謖のように斬られたであろう。
ついでながら、当時中牟方面にいた中国軍の司令官は、第二十集団軍の商震将軍で、終戦直後、連合国の日本駐在中国代表となった人である。彼は辞任後も日本に滞在して現在に及んでいる。たいそう高齢だが、昨年(一九七四)、新中国を訪問し、三十年ぶりに見る祖国のめざましい変貌に感動したことが、新聞に報じられた。
[#改ページ]
|天下三分《てんかさんぶん》の|計《けい》
1
「おふくろだけはにが手だよ。まったく頭があがらんわ」
江東の小|覇王《はおう》と|謳《うた》われた|孫策《そんさく》は、いつもそう言っていた。
そのおふくろの呉夫人のほうでも、
「策の気の荒さには、ほとほと困りました。こんな工合では、いったいこれから先、どうなりますことやら」
と、ため息をつく。
しかし、呉夫人は心のなかでは、
(いまのこの世の中、いまの孫家では、策のような荒っぽいのがよいのかもしれない。あんまりひどいときは、このわたしが抑えなければならないが)
と思っていた。
切取り勝手の時代である。こちらが控えていると、他人に切取られてしまう。孫策のように、気が強く、負けるのが大嫌いという暴れん坊が、この時代にむいている。
呉夫人がおそれていたのは、あまり暴れすぎて、他人の恨みを買いすぎはしないかということであった。
こんなことがあった。
|会稽《かいけい》郡の|功曹《こうそう》(功績を記録する査定役)に|魏滕《ぎとう》という者がいて、なかなかの硬骨漢で、孫策の意に逆らうこともあった。孫策は怒って、彼を殺そうとした。
そのとき、呉夫人は井戸のところまで走って行き、井戸の|枠《わく》に背を預け、
「これ策よ、おまえはやっと江南の地に手をつけたばかりではないか。まだそれはかたまってはおらぬ。こんなときこそ、賢者を優遇し、士たる者に礼を尽さねばならない。それには、過があっても見逃し、功があればかならず取りあげるというふうにつとめるべきであろう。それなのに、魏滕を殺そうとしている。よろしい、今日、おまえが魏滕を殺せば、明日、みんなはおまえにそむくだろう。おまえは攻め立てられ、一家はみな殺しにされる。そんな目に遭いたくないから、いまのうちに、この井戸に身を投げて、死ぬことにする!」
と叫んだ。
孫策はあわてて、
「やめます、やめます。魏滕を殺すことは、もうやめることにしました」
と言って、母親をやっとのことで、井戸からひきはなしたのである。
この時代で、荒っぽいというのは、人をぶん殴ったり、物をたたきこわしたりするような、なまやさしいことではない。
乱暴という言葉は、そのまま『人殺し』につながったのである。
おふくろの目の光っているところでは、孫策も気ままに人殺しもできなかった。だが、おふくろの目の届かないところでは、ときどき物騒なことをやった。
呉郡の太守の|許貢《きよこう》も、孫策によって殺されたのである。
許貢は許都にある朝廷に、ひそかに奏文を送ろうとしたが、それが途中で孫策の部下の手にはいった。それは、
──孫策は|驍雄《ぎようゆう》の者、|宜《よろ》しく|京邑《けいゆう》(みやこ)に召還すべし。|若《も》し外に放つならば、必ず世の|患《わずら》いとならん。……
という内容であった。
要するに、乱暴者には高位高官をさずけて、みやこに釘づけにすべきであろう、ということなのだ。
「余計なことを告げ口するやつめ。二度とそんなことができぬようにしてやるわ!」
孫策は許貢を絞殺するように命じた。
もともと孫策は|袁術《えんじゆつ》に属した一部将であった。だが、自力で長江(揚子江)一帯を切取って、|旭日《きよくじつ》昇天の勢いとなっている。そして、袁術が『皇帝』と称したのを機会に、独立を宣言したのである。
袁術は建安四年(一九九)六月に死んだが、彼の従弟たちは、袁術の|柩《ひつぎ》とその遺族を連れて、|盧江《ろこう》太守の|劉勲《りゆうくん》を頼った。
孫策はこの劉勲を討って、北へ敗走させた。劉勲は曹操を頼ることになったが、かつて自分が頼った袁術の遺族たちは、孫策の手におちた。
「いいじゃないのあの子は。あんなかんじのいい子は、めったにいるものじゃない。ねぇ、策、おまえ、もらったら?」
と、おふくろは孫策に言った。
あの子とは、袁術の娘のことである。
「なんだ、あれはまだ子供じゃないか。権にちょうどいいや」
と孫策は答えた。
「ほんとに、おまえはどうしてこうなのだろう。……」
おふくろは、またため息をついた。
英雄、色を好むというが、孫策は例外であるらしく、女性にはあまり関心がないようだった。
それにくらべると、弟の孫権はまだ二十になっていないのに、たいへんな早熟児であった。おふくろは同郷の謝氏の娘を権の嫁にもらったが、どうも一人では満足できないようであった。
「では、袁術の娘は権の嫁にするか。……」
と、呉夫人は呟いた。
2
自立した孫家は、『長江のあるじ』として、もはや押しも押されもせぬ勢力となっていた。『中原のあるじ』の曹操も、南方の孫家を無視することができず、婚姻関係を結ぶことにした。すなわち曹操は|姪《めい》を|孫匡《そんきよう》(孫策の末弟)の妻として与え、また息子の曹彰のために、孫策の伯父|孫賁《そんふん》の娘を妻にもらったのである。
また曹操は朝廷に奏して、孫策を、
──討逆将軍。
として、呉侯に封じたのだった。
曹操がこのように、長江の新勢力の孫家と結んだのは、袁術に備えてであったが、袁術の没落後も、荊州の劉表に備えて、やはり同盟を継続したのである。
「策が土足で荒しまわったあとを、権がきれいに掃除する。……そんな形が一ばんいいんだけれど……」
呉夫人はそう考えて、一族の年寄りたちにも言ったことがある。
乱世であるから、取れるだけの領地は取っておかねばならない。だが、そのままにしておけば、土地は荒廃してしまう。人心を|収攬《しゆうらん》し、産業をおこす必要がある。──これは策にはできないことで、権ならうまくやれると思われる。
兄の才能は軍事、弟の才能は政治に、それぞれすぐれていたのだ。
孫権は好色であるが、母親の目からみると、ひたすら女体をもとめているのではなく、女とのやりとりをたのしんでいるようだった。女の微妙な心理をさぐり出し、それを解くことに、よろこびをかんじているらしい。
いってみれば、心理学の勉強で、それは政治にもつながるのである。
建安五年(二〇〇)、北のかた黄河のほとりで、曹操と袁紹が、死闘をくりひろげつつあったころ、南の長江のほとりでも、孫策が文字どおり東奔西走した。
一昨年の末、水軍まで動員して、|黄祖《こうそ》を追いつめたが、最後には逃げられてしまった。黄祖が劉表に援護されていたのはいうまでもない。
──親のカタキだ。
孫策は黄祖をつけねらっていた。父の孫堅が|★[#山+見]山《けんざん》で流れ矢にあたって死んだのは、黄祖と対戦中のことであったのだ。
孫策が西の黄祖に戦いを挑んでいるすきに、こんどは東に、曹操の息のかかった広陵太守の陳登が、さきに孫策に討たれた|厳白虎《げんびやつこ》の残党を語らって、後方で攪乱作戦を展開しはじめた。
孫策は急いで西から東へ、兵を移したのである。たいへんなことなのだが、孫策本人はいっこう苦にしない。根っからの戦争好きなので、戦争のにおいがするかぎり、疲労をおぼえることはなかった。
戦いの余暇に、これまた戦争のつぎに大好きな狩猟をたのしむといった生活である。
だが、ここで、おふくろが最もおそれていたことが起こった。──
孫策は黄祖を親のカタキと追いまわしていたが、孫策自身、カタキとつけねらわれる身だったのである。なにせかぞえきれないほど人殺しをしているのだから。
密奏のことが露顕して、絞殺されたあの呉郡太守許貢の息子と、その家臣たちが、|臥薪嘗胆《がしんしようたん》、孫策を討って、親のうらみ、あるじのうらみをはらそうと、その機をうかがっていたのである。
孫策はいつもおおぜいの家臣団に囲まれているので、なかなか機会がなかった。
だが、孫策が家臣団に守られないときがあった。──それは狩猟のときなのだ。
孫策はとび切りすぐれた馬にのっている。狩猟のときも、家臣をひき連れて行くのだが、いざ狩場にはいって、馬を全速力ではしらせると、家臣は誰も追いつけない。孫策をのせた|駿馬《しゆんめ》はただ一頭、無人の原野を疾走したのである。
|復讐《ふくしゆう》を誓った許貢の息子とその家来は、偵察によってこのことを知った。
──狩場で孫策を射るのはよい。だが、孫策は疾駆しているときは単騎だが、そのうしろを、おおぜいの家臣団が追っている。すぐに追いついて、われらは殺されてしまうだろう。それでもよければ、わしについてくるがよい。
と、許貢の息子は言った。
──もはや生きるなどとは思っておりませぬ。孫策を殺しさえすれば本望でございます。ぜひ同行させていただきたい。
家来たちは、口ぐちにそう言った。
許貢の息子は、弓の名手二人をえらんで同行させ、残りの数名は、偵察と連絡にあたらせることにした。こうして決死の三名が、狩場にはいって、孫策を待ちうけた。
矢の届く距離はかなり遠いが、|狙《ねら》って命中できる距離は限られている。三人が毒矢を射るので、誰かの矢があたればよいわけだ。それでも確実を期して、なるべく近くで射ることにした。はじめから、命はないものと覚悟をきめているので、彼らは大胆な配置についたのである。
そこまで|的《まと》を絞られては、孫策の命はもはや失われたといってよい。しかも、孫策は狩猟に出かけると、走り癖というのがあった。だいたい同じコースを、馬に走らせたのである。──復讐者の執念は、そこまで調べあげていた。
狩場には、ところどころにかなり濃い草むらがあった。二つの草むらに、一人ずつ身をひそめ、そのそばの樹木に許貢の息子が登って、葉のなかにかくれて、孫策がやってくるのを待った。三つの場所から、一つの標的をねらうのである。選り抜きの射手だから、誰かが射あてるであろう。
はたして孫策が、|大宛汗血馬《だいえんかんけつば》に|鞭《むち》うって、ただ一騎あらわれた。家来たちはずっとうしろで砂煙をあげている。
三人の暗殺者には、生きのびる望みはまったくなかった。身をひそめる場所まで、あやしまれずに行くために、馬などにはのらなかった。逃げるための乗物がない。そして、相手は全員が騎馬である。
汗血馬の|蹄《ひづめ》は、切れこみの鋭い音を立て、小気味のよい砂煙をあげて、走ってくる。
草むらや樹上にひそんだ三人は、やおら弓をひきしぼり、馬の速度をはかりながら息をこらした。
よし!
誰も声をあげなかったが、三人ともそんな声がどこかからきこえたように思った。三本の矢は、ほとんど同時に放たれた。
馬上の人物は、両手を大きくひろげながら、馬から投げ出され、草原のうえを、しばらくころがった。それは孫策の人柄に似た、はでな場面といってよかったであろう。
草むらから二人の男がおどり出し、樹上から一人がとびおりた。その迫力のある動作は、|僅《わず》か三人の出現を、倍以上の数に見せたほどである。
その三人は、矢を受けてころがっている人物のそばへ駆け寄った。
「まちがいない。やった!」
彼らは仕とめた人物が、めざす仇の孫策であることを確かめて、よろこんだのである。矢は肩に一本だけつき立っていた。矢には毒を塗っているので、どうせ助からないだろうが、孫策はまだ呼吸をしている。
許貢の息子は刀を抜き放って、たおれている孫策に斬りつけた。孫策の目は、すでに毒がまわっているせいか、うつろであった。その目には、なにも映らなかったのかもしれない。
あとの二人もそれぞれ刀を抜き、かわるがわる斬りつけた。
そこへ百騎ばかりの家臣団が、やっと駆けつけたのである。地上に横たわっているのは、彼らが主君と仰ぐ人物であり、それに刀をふりあげてめった切りにしている三人の男がいたのだ。
このはっきりしすぎる情景に、孫策の家臣団は一瞬もためらわなかった。彼らは刀を抜き、その場にいた三人の人物を斬り伏せ、|な《ヽ》ま《ヽ》す《ヽ》のように刻んだ。
「われは許貢の|伜《せがれ》じゃ!」
三人のうちの一人が、死ぬ前に声をかぎりにそう叫んだ。それは誇らかな名乗りだったのである。
3
後年、三国の一国となった呉のあるじ孫家は、地方のちょっとした豪族にすぎなかった。当時やかましく言われた『家柄』からすれば、孫家の家臣たちのなかに、主君より以上の名門出身の者がすくなくなかった。
孫堅は袁術の部将として働いた。孫策が袁術の即位宣言を機会に自立したのは、すでに実力を備えていたからである。
豪勇の孫堅のあとをついで、闘争心のかたまりのような孫策が、揚子江の沿岸を、東へ西へその勢力圏をひろげ、
会稽、呉郡、丹陽、|豫章《よしよう》、盧江、盧陵
の六郡を切り従えた。
だが、自立して僅か二年、史書に、
──未だ君臣の|固《こ》あらず。
と記されたように、孫策に従った家臣たちは、あるじの強さが魅力でついたのにすぎない。ちょっと部屋を借りて住んでいるといったていどの気持である。
孫策は四方に兵をむけ、土地を切取ったので、その下についておれば、おこぼれにあずかることができた。だが、その孫策亡きあとはどうなるだろうか?
譜代の家臣でない者が大部分なので、孫策の死は、彼の軍閥を構成する人たちに大きな衝撃を与えた。
(この動揺を防がねばならない)
撫軍中郎将として、孫策をたすけていた|張昭《ちようしよう》は、そう決心した。張昭はただの軍人ではない。たいへんな学者であり、書籍のコレクターでもあった。とくに『春秋左伝』にくわしく、のちにその註解書をあらわしたほどである。
兄の遺骸にとりすがって泣いている十八歳の孫権にむかって、張昭は言った。──
「いまは|哭《な》いている時ではありませんぞ!」
その声に孫権はふりかえった。
張昭は孫権の腕をとり、
「さぁ、|鎧《よろい》を着けるのです。それから馬にのって、軍営を巡視しなければなりませんぞ。今日から全軍の指揮をとると、声高らかに宣言していただきましょう」
と言った。
孫権はうなずいて立ちあがった。年は若いが、政治的感覚では兄を上まわっていた孫権は、自分をとりまくのがどのような情勢であり、どのように応対すればよいか、張昭の言葉が終わるまえに読み取っていた。
四方から寄せ集めた砂でつくられた砂山が目のまえにある。大風が吹く。このままでは、砂はとび散って、砂山は影も形もなくなってしまうだろう。急いで水をそそぎ、踏みかためなければならない。
指導者の死の直後、りりしく武装した青年将軍が、全軍を査閲すれば、あるていど幹部たちの動揺をおさえることができる。
|巴丘《はきゆう》にいた|周瑜《しゆうゆ》が、兵を率いて駆けつけてきたことも、部将たちに、
──孫軍閥は健在。
と、|安堵《あんど》させた。周瑜ほどの智恵者が、ためらわずに、孫権のもとに馳せ参じたのだから、新しい指導者は、擁立するに価する人物であろう。──
孫軍閥の二本の大きな柱である張昭と周瑜が微動もしなかったので、ほかの小さな柱もうごかなかった。
権力者の死は、えてしてお家騒動をひきおこすものだが、孫策の子はまだ赤ん坊であり、時世は幼主を擁しておし渡れるほど甘くない。孫策のあとを弟の孫権が継ぐことについては、孫家のなかにもほとんど異論はなかった。
小覇王と称された兄の孫策とならべて、孫権は、
──江東の|碧眼児《へきがんじ》。
と、その才能を謳われた人物である。
これは孫家に前からいた人たちなら知っていることだが、新参者は知らない。孫軍閥は新興勢力なので、新しくついてきた者がかなり多い。
そんな人たちにたいしては、張昭と周瑜が、
──孫権は偉大な才能をもつ、不世出の英雄である。
と、宣伝につとめた。
また一般の人びとには、|風姫《ふうき》が|巫《みこ》の予言に託して、
──孫家は健在。いや、これからますます強盛にむかう。
と信じ込ませたのである。
孫権の母親も、この指導者の交替を円滑にはこぶことに、大きな役割をつとめた。新興勢力には、そのようなさっぱりしたところがある。古いしきたりや伝統がないので、まとめやすかった。
かつて袁術に仕え、その後、袁術を見限って孫策についた|魯粛《ろしゆく》という人物などは、
「おれはもう帰るよ」
と、故郷の|臨淮《りんわい》へ帰りかけたが、周瑜にひきとめられた。
「帰るのはいつでもできることだ。いちど孫権どのに会ってみぬか。亡き討逆将軍(孫策)以上の人物やも知れぬではないか」
と、周瑜は言ったのである。
「わしは討逆将軍に惚れ込んだのじゃ。それ以上の人物なら、むろんよろこんで補佐しよう」
魯粛はそう言って、孫権に会った。
魯粛、|字《あざな》は|子敬《しけい》。臨淮東城の人で、大富豪であった。大言壮語癖があったが、それに実行力が伴っていた。
「子敬どの、二人でさしで飲もうではないか」
はじめて会ったとき、孫権はいきなりそう言った。
「よろしゅうござる」
余人をまじえず、酒を汲みかわしながら、天下国家を論じる。──これは魯粛の大好きなことであった。彼はすっかり孫権が好きになって、
「天下を取りましょうや、天下を……」
と言い出した。むろん帰郷はとりやめ、孫軍閥にとどまることにしたのである。
この魯粛は、のちに孫家のために、大きな貢献をすることになったが、彼をひきとめたのは、周瑜の説得だけではなく、十八歳の孫権のはかりごとが効を奏したのでもあった。
──この男、使える。そして、豪傑ぶりに弱いところがある。……
孫権はそう読み取ったのだ。
さしで飲み明かし、語り明かそうではないか、という豪快な誘いかけに、相手は参ってしまうだろうと計算したとおりになった。
ときに魯粛は、孫権より十一年長の二十九歳であった。
4
「|伯符《はくふ》(孫策の|字《あざな》)が死んだ。江東が取れる機会ではあるまいか。……」
孫策死去のしらせをきいて、曹操はそう呟いた。
|官渡《かんと》で袁紹の軍と対陣中のことである。
南方の情報が、曹操の耳に達するのは、きわめて速い。孫策の本陣にも、曹操の|間諜《かんちよう》はもぐり込んでいる。曹操が官渡へ出陣しているすきを狙って、孫策は許都を襲う計画も立てていた。
──小僧め。空巣狙いとは汚し!
それを知ったとき、曹操はべっと|唾《つば》を吐いてそう言った。
計画を実行に移す前に、孫策は死んだ。これで当分、許都が南から襲われる心配はなくなった。
曹操にすれば、全力を袁紹にむけることができるようになった。それまでは、南からの攻撃に備えて、許都にかなりの兵力をさかねばならなかったのだ。
──手を焼かせおって。……
その報復の意味でも、南の新興勢力を叩いておく必要があるかもしれない。
十月、曹操は袁紹を官渡に破ったあと、幹部会議で、
「さて、どちらの紹を先にすべきか?」
と、左右の者に訊いた。
孫策の遺児の名は紹であった。北の袁紹をさらに追撃すべきか、それとも南の孫紹を先に撃つべきか、という質問である。
孫軍閥は、赤ん坊の孫紹ではなく、弟の孫権が指揮権を相続した。曹操はむろんその情報をえていたが、袁紹と同名の子がいるので、『どちらの紹』と、しゃれたつもりであった。
「南の紹を討ってはなりませぬ」
そう答えたのは、御史の|張紘《ちようこう》という者であった。張紘が南征に反対するのはとうぜんで、彼は二年前、孫策の使者として許都に来て、朝廷に貢物をささげた人物である。曹操は彼が気に入って、廷臣として許都にとどめたのだった。
「ほう、なぜかな?」
と、曹操は訊いた。
「喪に乗じて討つのは義に反します」
と、張紘は答えた。
「それだけかな?」
「まだあります。紹と申されましたが、孫家は幼児の孫紹ではなく、碧眼児孫権を後継者にえらびました。碧眼児は兄の小覇王に、才幹の点ではすぐれているというのが、江東では誰知らぬもののない評価でございます。孫策の死は、孫家の|凋落《ちようらく》よりも、むしろその強盛を意味するでありましょう」
「ほう、そうか。……」
曹操はとぼけたが、孫権が兄よりも器量人であることは、彼の情報網に、早くからとらえられていることだった。
「討逆将軍孫策は、その勇にまかせて、領地をひろげました。それは彼の統治能力の限界を越えております。もし南征の意がおありでしたら、孫策在世中に決行すべきでした。政治手腕において兄を上まわる孫権が、孫家のあるじとなりましたからには、支配地域はがっちりと固めたと思わねばなりません。南方には、もはやつけこむすきはないとお考えください」
「そんなに出来るか。……」
そこへ連絡将校が、情報文書を持ってやって来た。新しい情報がはいったのである。曹操はそれを読んだ。彼の面上に、失望の色が浮かんだ。──
(|孫輔《そんぽ》工作は失敗に帰したか。……)
曹操は軽く唇をかんだ。
孫輔は孫権の叔父にあたる。父の兄弟の一ばん末である。父の兄の|孫賁《そんふん》は、その性格もあるだろうが、|甥《おい》たちと年もずっとはなれているので、後見役として|庇護《ひご》する立場に甘んじていた。父の末弟の孫輔は、孫策とそれほど年の差がない。それだから、甥に命令されているという状態に、屈辱をかんじることがあった。
孫家における不平分子である。
曹操はそれに目をつけて、抱き込み工作をしていた。
──江東を孫権のような若造にまかせることはない。国儀(孫輔の|字《あざな》)どの、貴公が江東を取ってはどうか? そのときは、力になろう。
と、|焚《た》きつけていたのである。
孫輔は、はたして誘いにのり、曹操に、
──軍兵を出していただけないだろうか?
と、依頼状を出した。
その密書をはこぶ者が、孫権の警戒網にひっかかったのである。
この事件にたいして、孫権は電光石火の処分を決定した。
叔父の孫輔を斬るわけにはいかないので、東方の辺境に幽閉することにした。孫輔の率いていた軍兵は、各軍団に分散して編入させた。
そして、孫輔を補佐している幹部級の者二十数人を、一人のこらず斬った。──
曹操のところへ、事の発覚と関係者の処分の情報が、同時にはいったのである。
(速いことやったものだ。……)
曹操は舌をまいた。
(うっかり手をつけると、|や《ヽ》け《ヽ》ど《ヽ》しそうだ。……)
とも思った。
曹操は文書をしまい込んでから、再び張紘にむかって訊いた。──
「南征がいけないと申すなら、どうすればよいのか?」
「厚く待遇なさいますように」
「わかった。そうしよう」
曹操の決断も速かった。孫権の決断に遅れるのをおそれるかのように。
彼はただちに朝廷に願い出て、江東の新しいあるじの孫権に、
──|討虜《とうりよ》将軍。
の称号を与えたのである。
孫権の父の孫堅は『破虜将軍』、兄の孫策は『討逆将軍』であったから、両者の号を組み合わせた称号であった。
そのうえ、曹操は張紘を孫権のところへ送り返した。許都に二年間とどまり、廷臣として勤めていた張紘は、許都の事情をよく知っているはずである。それを孫権に説明するであろう。それによって、すくなくともつまらぬ誤解は避けられる、と期待したのだった。
5
天下分け目の官渡の役が戦われ、孫策が死んだ建安五年は、まさに激動の年であった。
翌建安六年(二〇一)は、前年の激動を整理した年といえるであろう。
曹操は、南のかた孫権を討つことをあきらめ、官渡で破った袁紹を、北へ追うことに全力をあげたのである。官渡から後退して、|倉亭《そうてい》の線にいた袁紹軍を、再び破ったのはこの年の四月のことであった。
曹操は九月に許都に|凱旋《がいせん》した。
そのあと、|汝南《じよなん》にいた劉備を討つべく、みずから兵を率いて出陣した。
「にっくき大耳野郎め!」
と、曹操はみんなの前では毒づいていたが、劉備とのあいだには、特別な関係がある。劉備もあわてふためいたふりをして、荊州の劉表のところへ逃げこんだ。
──つぎは二人で、劉表を滅ぼそうではないか。
袁紹はもうすんだ。曹操と劉備のあいだには、つぎの目標を、劉表にしぼるという密約ができていたのである。
劉備は劉表のところにいて、曹操に有利になるような状況をつくり出そうとする。しかも、それは表面上、劉表のためを思って、画策しているようにみせかけねばならないのだ。
劉備が汝南で曹操に破れ、荊州へ落ちのびてきたと知った劉表は、わざわざ郊外まで迎えに出た。
荊州で劉備は、劉表の家臣ではなく、賓客としての待遇を受けた。兵員を与えられ、新野というところに駐屯したのである。
曹操と劉備の八百長は、いつも曹操が勝っていてはあやしまれる。建安七年の|葉《しよう》の戦いでは、劉備が曹操軍を破った。
とはいえ、|赤壁《せきへき》の戦いにいたるまで七年のあいだ、劉備は荊州の客として、生涯で最も風波のない時期をすごしたといえるだろう。この時期の劉備の役目は、袁紹の残党を討伐する曹操の背後を、劉表が襲わないようにすることであった。
この役目はらくであった。劉備がなかにはいって、あれこれと画策するまでもない。劉表自身が、曹操を襲おうなど考えていなかったからである。
──|髀肉《ひにく》の|歎《たん》。
という言葉がある。
髀肉とは、ももの肉の意味である。その部分の肉は、いつも馬にのっていると|痩《や》せるものなのだ。
あるとき、劉備は劉表のところへ行き、いろいろ話をしていたが、途中で手洗いに立った。戻ってきた、劉備の顔には涙のあとがあった。
「いかがなされたのか?」
と、劉表は訊いた。
劉備は目がしらをそっと|拭《ぬぐ》って答えた。
「わたしは常日ごろ、このからだを|鞍《くら》からはずすことはめったになかったのです。そのため、ももの肉はみな痩せておりました。ところがどうでしょうか、いま、ももの肉はぶよぶよに肥ってしまいましたよ。騎馬で走りまわることもなくなったからですな。……日月は流れるようにすぎて行きます。老いはまさにそのあたりまで来ているのに、まだ功業をたてるに至っていない。それをおもうと、悲しくなってくるのですよ。……」
「ほう、そのようなことで、悲しんでおられたのか。……」
劉表には、劉備の心理が理解できなかった。
ともあれ、『髀肉の歎』という言葉は、出典がここにある。
ももの肉がついたことは、しかし、かならずしも悲しむべきであるとは限らない。人間は修羅場に身を置くと、状況がどうなっているか、よくわからないものである。そこからすこし離れてみていると、意外によくわかるのだ。
天下の形勢が、劉備には以前よりも、はっきり見えだしたのである。
曹操が袁紹の残党を、北に討伐しているあいだに、南の揚子江沿岸を中心に、孫権の勢力が、めきめきと伸びた。それはおそるべき実力をもった戦闘集団である。
曹操が人質を許都へ送れと要求したのにたいして、孫権はそれを拒否した。拒否するには、それだけの力がなければならない。
(これはちと予定が狂いそうじゃな。……)
劉備はそう思った。曹操との約束は、二人の共通の競争者を、極秘の協力によって、消して行こうということであった。
袁紹の勢力は消えたも同然であった。官渡で負けた袁紹は、二年後、無念のおもいに、|喀血《かつけつ》して死んでしまった。あとは相続のことで仲たがいしている息子たちがのこっているだけで、彼らを滅ぼすことは、ほとんど時間の問題となっていた。
つぎは、荊州の実力者である劉表を、なんとか消すことである。
こうして、一人ずつ消して行き、最後に、これまでひそかに協力し合った曹操と劉備が、決勝戦で相|見《まみ》える。──すくなくとも、劉備はそう考えていた。それが彼の『予定』であったが、いささか狂ってきた。
孫権勢力が、異常に伸びてきたからである。それを消すことは、いかにも難しい。どうすればよいのか?
6
少容が荊州にやって来た。その地の五斗米道の信者たちに招かれたのである。劉表も彼女を歓迎した。信者の数が急速にふえているので、権力者たちも五斗米道を無視することができなくなっている。
荊州の州都は|襄陽《じようよう》である。
この地のあるじ劉表は、南陽、南郡、江夏、|竟 陵《きようりよう》、|零《れい》陵、長沙、桂陽、武陽の八郡を領有している。
ゆたかな土地で軍勢も多い。だが、劉表は年老いたせいもあって、消極的になっている。若いときも、彼は社交好きで、あまり殺伐なことを好まなかった。
曹操と袁紹が死闘していたころ、双方の陣営から加勢の依頼が来たが、劉表は|洞《ほら》ヶ|峠《とうげ》をきめこんだ。長江下流の孫軍閥も、荊州までは手をのばせない。
したがって、襄陽はこの乱世にめずらしく、血なまぐさい戦争はなかった。飢えた張済の軍が、西から食を乞いにやって来たていどである。
戦争がないので、この地では学問が盛んであった。五斗米道は、荊州一帯では、信仰とは別に、学問的な体系づくりの機運さえあったのだ。
「まだすこし早すぎますね。まず人びとに食を与え、たましいの安らかさを与え、そのあと学問の体系をつくっても遅くありません。おそらく私たちの五斗米道も、この十年のあいだに大きく変貌するでしょう。あわてて体系をつくっても、それで律し切れなくなるおそれもありますから」
少容はこの地の教団の、そのようなうごきにはあまり賛成ではなかった。
彼女は近辺の田舎もまわった。襄陽の西に隆中という田舎まちがある。そこへ行く途中の道ばたで、一人の青年が、池にむかって釣糸を垂れているのが見えた。少容はなんとなく、そののんびりした風景に|惹《ひ》かれ、
「私もあそこで休みます」
と、馬車をとめるように従者に命じた。
青年は池の岸に腰をおろしていたが、それでもみごとな長身であることがわかった。馬車から少容が降りる気配に、ふとそのほうに顔をむけたが、ひげのそりあとも青々とした、|眉目《びもく》秀麗の美青年であった。
「ほう。……」
青年は小さな声をあげた。彼も少容の美しさに感歎したのかもしれない。五十をとっくにすぎたが、少容はまだ美しい。さすがに髪には白いものがまじっているが、それがかえって、彼女の美しさを、ひき立たせているようだった。
「釣れました?」
と、少容はにこにこ笑いながら声をかけた。
「女文王がかかりかけました」
「ほ、ほ、ほ……」
少容は口に手をあてた。
むかし、太公望が釣をたのしんでいたところへ、周の文王があらわれて、軍師に所望したという故事がある。
女の文王が来た。──と、青年は冗談を言ったが、まるでいや味はなかった。
「がっかりなさいました? 天下の英雄に声をかけられるかとお思いになりましたのに、それが女性では……」
「いいえ。……天下の英雄なんぞよりも、あなたにお会いしたかったのですよ。そのまま通りすぎるようでしたら、追いかけて、馬車をとめようと思っていましたよ」
青年はそう言って、白い歯をみせた。
少容はそれをむろん冗談であると思って、
「お世辞の上手な。……さきが思いやられますよ」
美青年である。この口先で、どれだけ女を泣かせるかわからない。少容はそんな意味をこめて言ったのだ。
「お世辞ではありません。天下の英雄が束になっても、五斗米道の教母さまにはかないますまい」
と、青年は言った。まだ笑っている。
「えっ、では?」
五斗米道の教母と知って、ここで待ちうけていたらしいのだ。少容は思わず、身がまえた。
「隆中へおいでになるときいて、お話をうかがおうと思ったのですが、どうもあの地の五斗米道の人たちは、信者以外の者を、教母さまに近づけるのを好まぬようなので、こうして待ち伏せしたのです」
青年は釣糸をひきあげて、そばに置き、やおら立ちあがった。
「お名乗りいただきましょう」
少容はあらたまって言った。
「|諸葛[#葛のヒは人]《しよかつ》|亮《りよう》、|字《あざな》は孔明。|琅邪《ろうや》の者でございます」
青年はすなおに名乗った。ひとを途中で待ち伏せするわりには、あまりけれんのない人物のようであった。
「諸葛[#葛のヒは人]……亮……孔明……」
少容はその名をきいたことがある。そして忘れまいとした名である。
「お見知りおきを」
と、諸葛[#葛のヒは人]亮は頭をさげた。礼儀も正しい。
「もとの豫章の太守諸葛[#葛のヒは人]玄の甥御でございますね?」
「や、ご存知で?」
「忘れられる名前ではございません」
と、少容はにこやかに言った。
「私の名が? まさか……|二十《はたち》をすぎていくらもないこの若造の名が、教母さまのお耳に達するなど……」
諸葛[#葛のヒは人]亮は信じられなかった。
「それが知っているのです。胸に刻み込んだ名ですから」
少容がそう言うと、諸葛[#葛のヒは人]亮は首をかしげて、
「叔父の死後、この地に参りましたが、修業中の身、じっとしておりました。名を知られるなど……」
「もう五年になりますか。そのころから知っているのです」
「五年? そんなに前なら、私はまだ|洟《はな》たれ小僧でしたよ」
「その洟たれ小僧が、叔父の仇の|★[#たけかんむり+乍]融《さくゆう》の首を、白馬寺の者たちに、黄金で売り払うのに賛成したとか。……それを耳にして、ただ者ならずと思って、その名をおぼえておきました」
「や、や、そのようなことを……」
諸葛[#葛のヒは人]亮は顔をあからめた。根は純情なのである。──
諸葛[#葛のヒは人]亮は孤児となって、叔父の玄に預けられていた。その諸葛[#葛のヒは人]玄が、豫章太守の争いに破れて死んだのは建安二年のことである。諸葛[#葛のヒは人]玄を攻めた諸将たちも|内訌《ないこう》をおこし、その一人の★[#たけかんむり+乍]融も落武者狩りに首をとられ、諸葛[#葛のヒは人]家に売られた。
ところが、★[#たけかんむり+乍]融は当時まだ数のすくなかった仏教信者で、そのため白馬寺の仏教関係者も、火葬の手本を示すためにその首を欲しがり、諸葛[#葛のヒは人]家に首の譲渡を交渉した。
諸葛[#葛のヒは人]家にとっては、★[#たけかんむり+乍]融の首は仇の首だから、むろん難色を示した。そのとき、まだ元服前の諸葛[#葛のヒは人]亮が、
──腐りかけた首など、なんの値打ちもない。黄金で買取る人がいるうちに、さっさと売ったほうがよろしい。
と論じて、一族の者を説き伏せたことは前に述べた。
少容は白馬寺の人から、そのことをきいて、諸葛[#葛のヒは人]亮──孔明の名をおぼえていたのだった。
7
「どのような話をなさりたいのですか?」
と、少容は訊いた。
「あなたは私のことをご存知でしたが、私もあなたの名ばかりか、その考え方も、だいたい知っているつもりです。なにしろ、五斗米道の信者は、いたるところにおりますから」
と、諸葛[#葛のヒは人]亮は答えた。
「それで?」
「あなたは、人びとのたましいを救うために、この乱世を太平の世にしたいと望んでおられる」
「私だけではなく、それはこの乱世に生きる人たちの悲願でございましょう」
「願い、望むだけなら、たしかに誰もがそうしておりました。その願いや望みが、じっさいにこの世に、なんらかの作用を及ぼす人の考え方は、天下万民に大きな影響を及ぼします。……たとえば、あなたです。五斗米道という組織を通じて、あなたの考え方──いや、あなたの打つ手が浸透して行きます。もし、それがまちがっておれば、由々しい問題と申さねばなりませんね」
「私の打つ手……」
少容は小さな声で言った。
天下に太平をひらくためには、漢王室の存続などは問題ではなく、強力な指導者が天下を統一することである。──これが少容の考え方であり、天下の英雄を物色して、曹操にその望みを託した。そして、曹操が天下をたばね、乱世に終止符を打つように、蔭ながら、いろいろと手を打った。──が、それは彼女しか知らないことである。あるいは陳潜など一部の側近は気づいていようが、これまで会ったことのない青年にさとられるなど、考えられないことであった。
「そうです。あなたの打つ手をみておりますと、どうも性急にすぎます」
と、諸葛[#葛のヒは人]亮は言った。
性急にすぎるという忠告は、だいたい老人が若者にたいして発するものである。少容は自分の息子よりずっと若い諸葛[#葛のヒは人]亮に、そう言われたのだ。
「性急ですか。……」
少容は苦笑をうかべはしなかった。彼女はもうこの若者と、対等に話し合うべきであると思ったのだ。
「そうです。天下が統一されることは、誰もが望みます。しかし、それは難しいのです。第一に、英雄が多すぎます。第二に、それなのに抜群の英雄がおりません。これは曹公をも含めて申せることですが。……」
と、若者は言った。
「統一をあきらめよと申されるのですか?」
白髪のまじった美女は訊いた。
「いつかは統一されるでしょう。この国は統一されねばなりません。それまでに何十年かかるかわからないのです。三十年、五十年……そのあいだも、人びとは生きて行かねばなりません。その人たちをどうするのですか?」
「人それぞれ運命をもっております」
「私は運命を信じません」若者は|断乎《だんこ》として言い放った。──「人間の力は、運命にうち|克《か》つべきです」
「では、どうするのですか?」
「天下を三つに分けましょう」
と、諸葛[#葛のヒは人]亮は言った。
「天下三分?」
「三分の一ぐらいなら、どうやらたばねて行ける人間がいるでしょう。たとえば、中原の曹操と江東の孫権など。天下を|統《す》べる器量人ではありませんが、まず三分の一はまかせることができます。……天下統一を前提にして、それまでのあいだ、それを三分して、数十年のあいだ、人民がすこしはらくに暮せる安定した状態をつくりだしたいものですよ。目下の急務はこちらのほうで、天下統一は性急であると申すほかはありません」
諸葛[#葛のヒは人]亮は安定した分裂を、いったんつくり出そうという論を展開した。いまの乱世を統一するのは至難だが、三分の状態になれば、その三つを一つにまとめるのは、べつに天才の腕を要しない。
「すぐれた考え方です」少容は認めるべきものは認めた。──「中原の曹操、江東の孫権、そして、この荊州の劉表──これで天下を三分するわけですか?」
「我が荊州の牧の劉表は、その資格はございませんな」
と、若者はあっさりと言った。
「ほう、なぜ?」
少容はそう訊いたが、じつは若者の|烱眼《けいがん》に感服したのである。社交家の劉表は、うわべを飾っているが、内容がともなわない。彼自身が老境にあるうえ、劉家では相続争いの黒い|渦《うず》がすでにかなりの勢いで巻いている。この地に来て、彼女はそれに気づいたのだ。
「あなたは荊州に来た。もうごらんになったでしょう」
と、諸葛[#葛のヒは人]亮は微笑をうかべた。
「では天下を三分して、曹公、孫公のほか、もう一公は?」
と、少容は訊いた。
「公ではありません」
「えっ、では?」
「あなたです」
諸葛[#葛のヒは人]亮はずばりと言った。
『公』は男性にたいする尊称だが、若者が考えている三分の計の一分は、少容をいただく五斗米道の勢力だったのである。
「それはできません」少容はきっぱりした口調で言った。──「私にたいして、たいそう失礼でございましょう。五斗米道を、そんなに軽くごらんになりましたの? あなたは、まだまだお若い。」
「そ、それは……」
それまで憎らしいほど泰然としていた若者は、はじめて動揺の色をみせた。
「ともあれ、あなたの考えていたことを、説明していただきましょう」
と、少容はやさしく言った。言い分をぜんぶきいてあげよう。──そんな母性的な包容力をもって、若者に対したのである。
諸葛[#葛のヒは人]亮は、臆せずに自分の考えを述べた。──
劉表が支配している荊州の地は、天下三分を考えた場合、その一つにははいらない。それは人間の面でも地理的な面でも、中原の曹操か江東の孫権に|併呑《へいどん》されるであろう。──おそらく前者になる可能性のほうが濃いとおもわれる。
黄河流域の中原と、揚子江流域の南部と、天下を三分する土地は、|巴蜀《はしよく》(四川)をおいてほかにない。物産ゆたかで、人口も多い土地で、しかも蜀道の険と三峡の険によって、容易に進攻されない有利な条件をもつ。
しかも巴蜀の地は五斗米道発祥の地として、信者の数はきわめて多い。そのうえ、巴蜀と中原をつなぐ漢中の地には、少容の息子の張魯が勢力を張っている。朝廷でもそれを認めて、張魯に、
──鎮民中郎将。
の称号を授けたのだった。
だから、少容がその気になれば、息子の助力を得て、巴蜀に|蟠踞《ばんきよ》する劉璋を追放して、その地のあるじになるのはたやすいことであろう。
|劉焉《りゆうえん》が死んだあと、息子の劉璋の把握力はあまり強くない。五斗米道信者の支持がなければ、明日にでも崩壊しそうな政権であるとみられていた。──
諸葛[#葛のヒは人]亮の説明をきき終えて、少容は胸を張った。それは彼女にしては、めずらしいポーズであった。
「五斗米道は、天下の人びとの心にはいりこみます。それは天下津々浦々にひろがろうとしているのです。それなのに、いまさら巴蜀の地にとじこめられたりするものですか」
と、彼女は言った。言葉はやさしかったが、そのうらに強い自信がひめられていた。
「わかりました」
諸葛[#葛のヒは人]亮は、大きくうなずいた。打てば響くような若者である。
「まちがわないでください。私はあなたの天下三分の計には、感服しているのですよ。ただその一翼に、五斗米道がかぞえられるのは、おことわりだというだけです」
少容は目を細めて、若者をみつめながら言った。
「は、は、は」諸葛[#葛のヒは人]亮は|屈託《くつたく》なさそうに笑って、頭を|掻《か》いた。──「困りましたな。……もう一人英雄が出なければ、私の三分の計は成立しません」
「ごゆっくり物色しなさい」
「教母さまも、心あたりがありましたら、お教えください」
「心がけておきましょう」
少容はそう言って、馬車のほうへ戻った。
もう隆中にむけて出発しなければならない。彼女は踏み台に片足をかけたまま、ふりかえって言った。──
「いま申せということでしたら、一人の英雄を指名できます」
「誰でしょうか?」
と、若者は訊いた。
「荊州に客となっております、もと豫州の牧劉備玄徳」
少容はそう言うと、|幌《ほろ》のなかにはいってしまった。
馬車はガラガラと車輪の音を立てて、西のほうへむかった。
若者は再び池の岸辺に腰をおろし、釣竿をとって、糸を池に投げおろした。車輪の音はしだいに遠ざかって行く。
「劉備玄徳か。……ま、この地にいるのだから、ゆっくりと観察するか。……」
若者はそう呟いた。──
作者|曰《いわ》く。──
赤壁の戦いの直前、魯粛は主戦論、張昭は和平を唱えたが、そのとき魯粛は孫権に、
──投降すれば、私は郷里に送還されますが、家柄がよいので、従者を従えて悠々自適の生活ができますが、あなたは武勲による新興の人なので、失礼だが家柄はよろしくない。投降しても私のようには参りますまい。
と、おどしている。これでもって、家来の魯粛のほうが主君の孫権より家柄がよかったことがわかる。
曹操は父が三公の地位までのぼったが、祖父は|宦官《かんがん》で、世間から軽んじられた家柄であった。
劉備にいたっては、|む《ヽ》し《ヽ》ろ《ヽ》や|わ《ヽ》ら《ヽ》じ《ヽ》をつくって行商した家に生まれた。
袁紹、袁術、劉表など、家柄のすぐれた連中がつぎつぎに没落し、あまり家柄のよくないのが、最後まで戦い抜いたのは、けっして偶然ではあるまい。
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|御曹司《おんぞうし》、|一番乗《いちばんの》り
1
城壁のうえの望楼から東を望めば、|飴色《あめいろ》の|汾河《ふんが》の流れが見える。
「上から見ると、よくわかるのう」
と、|豹《ひよう》は言った。
「勝負までわかりますか?」
と、|蔡文姫《さいぶんき》は|訊《き》いた。
「曹公の軍が勝つ。|袁軍《えんぐん》はどうして、わざわざ負けに行くのかな?」
二十歳になったばかりの豹は首をかしげた。
「それは、もうご自分でお答えになったではありませぬか」
と、三十二歳の蔡文姫は言った。
「わしが答えた?」
「上から見ればよくわかる、とおっしゃいましたね。袁軍は平地にいて、上から見ないので、負けることがわかりません」
「曹軍だって、べつに高みに立って観戦しているわけではないが。……」
「じっさいに高みに立たなくても、頭のなかで、高みから見下ろすことはできます。思いえがくのです」
「いつも、そんなうまい工合に行くかな?」
「かならずできます」
と、蔡文姫は笑いながら言った。
「これからは、戦いになれば、文姫に指揮をとってもらおうか。どんなところにいても、頭のなかで、局勢を見下ろすことができるのだから。は、は、は」
豹は大声で笑った。
「笑いごとではございませぬ」
と、文姫はたしなめた。
たしかに笑いごとではない。この平陽城は曹操の派遣した|鍾★[#搖の右側+系]《しようよう》という将軍の軍勢に囲まれていたのである。
「それが笑いごとなのだ。は、は、は、泣いても笑っても、なにをしてもよいのだ。……こんなことをしても……」
豹はその場に、いきなり文姫をおしたおした。
「あ……」
文姫は|裳《も》をみだし、あられもないすがたでたおれた。豹の片手は、すばやく裳のなかをまさぐった。文姫のふくらはぎにおしあてられた手のひらは、やがてすべるように上へのびた。
「いけない子。……」
文姫は弱々しげに|呻《うめ》いたが、その顔には、はやくも恍惚の色がうかんでいた。
「わしはいけないことばかりするのだ」
豹は文姫のうえにかぶさった。
「ひとが来たらどうするのですか?」
と、文姫は|喘《あえ》いだ。
「誰も来ぬように言いつけてある」
「でも……あ、お城がこんなときに……やめて。……」
「城は大丈夫、案ずることはない。……|女性《によしよう》のからだは、ふしぎなものよのう。……いや、女性の心も……」
豹は十二歳も年上の女に頬ずりをした。
この平陽は、伝説の聖帝|堯《ぎよう》が都に定めた土地といわれている。漢の武帝のころは、建国の功臣|曹参《そうしん》の曾孫にあたる曹寿の|封邑《ほうゆう》であった。武帝の実姉が曹寿に降嫁したので、彼女は平陽公主と呼ばれたものである。
いま後漢の末、この平陽は|匈奴《きようど》の|単于《ぜんう》(王)の居城となった。といっても、匈奴はだいぶ前に南北に分裂していて、平陽に|拠《よ》ったのは南匈奴のほうである。
南匈奴単于のオフラは、興平二年(一九五)に死に、弟の|呼廚泉《こちゆうせん》が新しい単于となった。そのとき、オフラの子の豹は僅か十三歳であったが、単于につぐ左賢王に立てられた。
平陽は現在の山西省|臨汾《りんふん》県の南にあたるが、中原の地にきわめて近く、洛陽もそれほど遠くない。だから、平陽の南匈奴は地理的にいえば、|塞外《さいがい》の蛮族というよりは、中原の諸侯の一国とみたほうがよい。
──われら南匈奴が生きのびるには、文明化しなければならない。
それが亡きオフラの意見であった。オフラの死後七年、平陽の南匈奴は、だいたいオフラの遺言にそってきた。
オフラは死ぬ直前、ちょうど長安から洛陽へ還都する献帝の一行のうちから、おおぜいの宮女をさらい、彼女たちを匈奴の幹部の|妻妾《さいしよう》にするといった、思い切った|措置《そち》をとったのである。文明化のためであったことはいうまでもない。
このとき、十三歳の豹には、二十五歳の蔡文姫が与えられた。
──女のほうが十二も年上では、うまくやって行けるだろうか?
──いや、かえってそのほうがよいかもしれぬ。|閨房《けいぼう》のことも、手をとって教えてくれるではないか。……
人びとはそんなことを言い合った。じっさいには、この七年のあいだ、二人はまずうまくやって来たといってよいだろう。
蔡文姫の父親|蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]《さいよう》は、長安で獄死したが、一世の大学者であり、琴の名人でもあった。文姫も父の|薫陶《くんとう》をうけて詩文にすぐれ、琴をよくした。いちど結婚したが、夫に死別して実家に帰ったあと、宮仕えをしたのである。なみの女性ではない。
将来、匈奴を背負って立つべき豹にとって、文姫はまたとない教師でもあったわけだ。
豹は早熟児で、十三のときでも、閨房のことを文姫に教えてもらう必要はなかった。
──まぁ、こんなことまで……
と、倍近く年をとっている文姫のほうが、舌をまくことさえあった。
豹は二十になっても、文姫のからだを|撫《な》でながら、女性の肉体と心のふしぎさを口にした。
「左賢王は、もう色の道はきわめ尽されたでしょう?」
と、文姫は言った。
「いや、まだまだ。……入門したばかりだ。そのうちに修行に出ようとおもう。……」
豹はそんなことを本気で言った。
──見聞をひろめるために、諸地方を遍歴したい。
叔父の単于にそう願い出ていたのである。単于はそれにたいして、
──一年ほどの遍歴は差支えないが、単身ではまだ心もとない。文姫が同行するならよかろう。
と、条件付きの許可を与えていた。
豹が諸国遍歴にまだ出発できないのは、曹・袁の戦争にまきこまれたからである。
平陽はそれまで、袁紹の勢力圏に属した。南匈奴にしてみれば、主従の関係を結んだおぼえはないが、地理的になんとなく、袁紹の命令に従ってきたのにすぎない。
袁紹が官渡の役で、曹操に破れたのは二年前のことである。去年も袁紹は曹操のために、倉亭というところで惨敗を喫した。
ことし建安七年(二〇二)、五月に袁紹は喀血して死んだ。本拠地の|★[#業+おおざと(邦の右側)]城《ぎようじよう》は確保しているものの、天下の|争覇《そうは》戦からは脱落したとみてよいだろう。
世間ではそうみているが、袁紹の後継者たちはそう思わない。そう思いたくないのが人情であろう。袁紹の息子たちは、名門の子弟によくある、鼻っ柱の強い、自尊心のかたまりのような人物である。
袁紹の正式の後継者とされた末子の|袁尚《えんしよう》は、|郭援《かくえん》、|高幹《こうかん》といった諸将に、河東を討つように命じた。そして、平陽の南匈奴にも、
──郭援、高幹たちと協力して、河東の曹操陣営を討て。
と、命じた。
子飼いの家来ではあるまいし、南匈奴はそんな命令に従ういわれはないと思っている。だが、袁尚坊やは、南匈奴を自分の手下だと思いこんでいるので、天下にひろく、
──南匈奴にも曹操追討を命じた。
と、公言してしまった。
南匈奴にしてみれば、迷惑千万なことである。袁家の陣営とはっきり色分けされてしまえば、曹操から攻撃されるおそれがあった。
げんにいま、平陽城は曹操の部将の鍾★[#搖の右側+系]の軍隊に包囲されている。
囲まれた平陽城を救うべく、袁尚は郭援に命じたのである。
2
──笑いごとなのだ。
──城は大丈夫。案ずることはない。
重囲の城のなかで、豹は文姫にたいして、そう言った。そして、戦いなどは忘れたかのように、文姫の|熟《う》れた女体をもとめたのである。
豹のほうは、からだこそ|逞《たくま》しいが、まだじゅうぶん熟れていない。青いかんじである。そんな若い男のからだに抱きしめられ、からだの芯が湿ってゆくのをおぼえながら、文姫はさきほどきいた豹の言葉を、ゆっくりと|反芻《はんすう》するゆとりがあった。
男のからだがはなれたとき、文姫は、
「笑いごとですね。城外の戦いは」
と言った。
豹はぴくと|眉《まゆ》をうごかし、じっと文姫をみつめて、
「それは、さっきわしの言ったことばだが」
「だから、知らない人のまえで、そのようなことを申してはなりません。私がきいたのですから、よかったものの……」
「なぜいけないのだ?」
「曹公の軍隊は、平陽を包囲しているけれども、ほんとうに攻めるつもりはありませんね。城の大将もそれを知っています」
「どうしてわかった?」
豹は思わず、文姫の両肩に手をおいて、それをしめつけるように力をいれた。
「あなたがそのようなことを言えば、すこし頭の働く人なら、かくれている事実を|嗅《か》ぎとってしまいます。私にできたことですから、たいていの人にはできるでしょう。かりに救援に来る郭援将軍が、これを知ったら、どうなりますか? せっかくの作戦が、やり直しになるではありませんか」
と、文姫は言った。
「そうか。……」
豹は文姫の肩をつかんだ両手をおろし、母親に叱られたいたずら小僧のように、唇のはしをちょっと|噛《か》んだ。
袁尚の勝手な命令に、南匈奴が迷惑したのはいうまでもない。命令に従うつもりはないが、世間に公表された以上、黙っていては、曹操に誤解される。呼廚泉単于は、さっそく曹操に使者を送り、
──袁尚がそんなことを言いまわっているようだが、当方は曹公に歯むかうつもりは毛頭ない。くれぐれも誤解なきように。
と、事情を説明させた。曹操はそれを了解したが、さすがに智謀の人だけあって、
──では、それを逆用しようではないか。
と、提案したのである。
南匈奴が袁尚についたと世間では思っている。曹操の耳にそれが達し、遠征軍が送られても、人びとは不思議に思わない。そして、曹操軍が平陽を包囲すれば、袁尚は救援軍を送らざるをえない。もし味方の苦境を見殺しにすれば、もう誰もついてこないからである。
曹操は平陽を囲むことによって、袁尚の救援軍をひき出し、それを叩くという戦法を考えたのである。
救援の郭援の部隊は、平陽に近づけば、城内から南匈奴軍が、とうぜん呼応して撃って出るものとばかり思っている。だが、曹操軍と南匈奴軍とは、八百長の対陣をしているのにすぎないのだ。
これは平陽の限られた首脳しか知らない。蔡文姫のような女性には、知らされていないのはいうまでもない。だが、彼女は豹の言葉のはしばしから、それを察したのである。そして豹にむかって、
──口を慎みなさい。
と、たしなめたのである。
いま二人は、望楼から戦いをながめている。
高いところから見下ろすので、全体のうごきがよくわかった。
平陽県は汾県の西にあり、東から救援にかけつけた郭援の部隊は、汾河を渡らねばならない。郭援にしてみれば、曹軍が全員で渡河軍を迎え撃つなど考えてはいなかった。そんなことをしようものなら、南匈奴軍が城門をひらいて、曹軍の背後を襲うはずだから。
だが、曹軍は全軍で渡河軍を攻める態勢をとっていた。望楼から見るので、それがわかるが、汾河の東にいる郭軍には、あまり見えなかった。すこしでも高いところがあれば、そこに登って、いくらか全体を見ることができたのだが、あたりは平坦地であった。
「危ないね。……河のまん中でやられるぞ」
と、豹は言った。
郭援の部隊は舟を仕立てて、渡河を開始しようとしている。曹軍は河岸の木立や茂みに舟や兵員をかくし、敵の主力が河の中央に来るまで待った。
豹の予言どおり、郭軍が河の中央まで来たとき、突如、曹軍の舟艇が水上にあらわれ、雨のように矢を射そそいだ。
郭軍は進みも|退《ひ》きもならぬ状態であった。
「みよ、文姫、郭援軍は、さんざんやられておるわ」
豹は身をのり出し、小手をかざした。
だが、文姫は面をそむけた。戦さなど、とりたてて見たいと思わない。とくに河で戦われる戦さは。──七年まえの、あの黄河のほとりでの、悲惨な戦いが思い出される。
「そうだ! 畳み込むように攻めねばならんのだ、ここは!」
豹は|拳《こぶし》で、望楼の窓枠を、ドンドンと叩いた。その横顔は、あどけない少年のそれであった。
汾河の戦いは、あっけない幕切れとなった。郭援の軍団は、ほとんど全滅に近い損害を受けた。あれよ、あれよ、というまに崩れ去ったのである。
「なんだ、文姫、見ていなかったか?」
反対側の壁に顔をむけている文姫に気づいて、豹はそう言った。
こんな場面は、めったに見られるものではない。それなのに、かんじんのところで、顔をそむけるなど、豹にはそんな文姫の気持が理解できないのだ。
「曹軍の大将鍾★[#搖の右側+系]さまは、袁軍の大将郭援さまにとっては、たしか叔父御にあたられるはず。……むごいことであります」
文姫は顔をそむけたままそう言った。
「なんだ、そんなことを気にしておったのか。……この乱世、親子、兄弟が戦うのは、けっしてめずらしいことではないわ」
と、豹は言った。
この戦いで、郭援の首をあげたのは、|★[#广+龍]徳《ほうとく》という者であった。彼は鍾★[#搖の右側+系]にたいして、
「許してください」
と言ったのである。
鍾★[#搖の右側+系]は|甥《おい》の首級をみて、声をあげて|哭《な》いたのだ。★[#广+龍]徳はたまらなくなって、詫びたのである。しかし、涙を拭った鍾★[#搖の右側+系]は、
「なにを詫びることがあるのか。援はたしかにわしの甥じゃが、それでも国賊じゃからな。戦場でわしが出会えば、やはりその首をあげようとするだろう」
と言ったと伝えられている。
3
援軍を待ったが、その援軍が汾河で全滅してしまったので、やむなく降伏する。──
南匈奴の投降は、そんな形がとられた。八百長作戦など、やはり公表が|憚《はばか》られるものなのだ。
曹操はこの種の作戦が得意であった。劉備との八百長も、この平陽包囲のそれにくらべて、ひとまわり大きいが、同種のものといってよい。
平陽の南匈奴が曹操に降ったあと、戦争のために延期されていた、豹の諸国遍歴が、やっと実現することになった。
「さて、どこへ参りましょうか?」
と、文姫は訊いた。この旅行には、はっきりした計画はないのである。単于からも、なにも注文はなかった。文姫は財布をまかされ、曹操への依頼状を預かっただけなのだ。このところ、袁軍を破って勢力圏をひろげているので、曹操の発行する通行証は、旅行の役に立つはずだった。
「どこでもいい」
と、この青年左賢王は|闊達《かつたつ》なものである。
「どこでもいいでは困ります。まず目的をはっきりきめて、それに一ばん役に立つところをえらびましょう。さ、なにを学びたいのですか?」
「戦さだな。それも野戦ではなく、謀戦といった面だ。わが匈奴に一ばん不足しているのが、術策だから」
と、豹は答えた。
「では、曹公のところですね。で、ほかには?」
「女が知りたい」
「えっ、女を?」
「は、は、文姫がまだ教えてくれなかったことがありそうだ。どこへ行けば、教えてくれるだろうか?」
豹は文姫をからかっているようだった。
「知りませぬ。ご自分で考えなさい」
「これまで会った女性のなかの、最高の美女のところへ参ろうかな。……」
「そうなさいませ。どちらですか?」
「洛陽城西の白馬寺。……しかし、あの女はまだいるだろうか?」
「白馬寺と申せば、|浮屠《ふと》(仏)の教えを奉じる月氏の人たちの寺院ですね」
蔡文姫は仏教についても、すこしは知識をもっていた。長安にいたころ、康国の人たちと接触したことがある。彼らも仏教を奉じていて、彼女はいろいろと話をきいた。
「浮屠とはなにか、わしは知らぬ。ただ子供のころ、わしはあそこで美しい女に会った。この世のなかに、こんな美しいひとがいたかと思うほどの。……その面影が忘れられない。あれは、|董卓《とうたく》が洛陽にはいるころだった」
と、豹は言った。
董卓の洛陽入りは、霊帝の死んだ中平六年(一八九)のことであった。文姫はすばやく計算した。
「では、左賢王がまだ七歳のときではありませんか?」
「そうだ。父に従って、洛陽の周辺を|徘徊《はいかい》しておったころだった。物心がついてまだいくばくもない」
「そのころから、女の美しさが、よくおわかりになりましたね」
「あのころのほうが、よくわかったような気がするぞ」
「では、まず洛陽に出ることがきまりました。汾河をくだりますか、それとも山を越えましょうか?」
「山を越えよう」
汾河をくだって黄河に出るコースは、舟まかせなので、からだは疲れないが、かなり|迂回《うかい》することになる。まだ若い豹は、近い難路をえらんだ。
「その美女の名をおぼえておられますか?」
と、文姫は訊いた。
「わしは、おねえさん、と呼んでいただけじゃ。名は知らぬ。しかし、その面影は、わしのまぶたの裏に焼きついておるゆえ、見誤ることはない」
と、豹は答えた。
(あれから、もう十三年もたっておりますよ。その女も変わっているでしょう。ほんとうに見誤ることはございませんか?)
文姫はそう訊こうとしたが、その言葉を急いでのみこんだ。口にしてはならぬこと、という気がしたのである。
オフラの遺言によって、南匈奴は文明化を進めているとはいえ、時世も時世だし、豹をとりまく環境は殺伐なものだった。そのようななかで、幼年時代に会った美女のことは、唯一のはなやいだ夢であろう。すべて灰色に塗られた風景のなかで、そこだけが極彩色になって、浮かびあがっている。ふれてはならぬ聖域として残しておくべきだ。
文姫と豹は、姉弟ということにして、平陽から南へむかった。
洛陽は董卓の乱によって焦土と化していた。そのため、献帝もここに都を定めることもできず、許都へ移ったのだ。
文姫の家は陳留というところにあり、河南っ子なので、洛陽は故郷といってよい。亡夫も洛陽で仕官し、彼女にとって、このまちは思い出が多い。──だが、町なみはすでになく、一面に|瓦礫《がれき》の原であった。
焦土を背景にして、白馬寺は一そう高くそびえ立ってみえた。文姫と豹は白馬寺を訪ね、
「十数年前、この寺の女性によく遊んでいただきました。名前は失念いたしましたが、まだおいででございましょうか?」
と、来意を告げた。
頭を|剃《そ》りあげ、眉に白いもののみえる、眼光のするどい人物が、
「十数年前とおっしゃるが、洛陽の焼ける前ですか?」
と、問い返した。
「ちょうどその直前でございました」
文姫は豹にかわって答えた。
「ほう。……|景妹《けいめい》のことかな? あのころ、匈奴の単于のご子息の相手をしておったが……」
その人物はじっと豹をみつめた。その眼は|碧《あお》かった。
「わしはその単于の息子と一しょに、ここへ来たものだが。……」
豹はとっさにそんな嘘をついた。|碧眼《へきがん》の人物は目をはなさない。
「豹とおっしゃったはずだ。……景妹はよくその名を口にしていた。風の便りでは、女ながら学識の豊かな女性を夫人としたとか、その人間的成長がたのしみであると申しておった。……」
その碧眼は、こんどは文姫にむけられた。すでに二人の正体を見破ったのであろう。
「お会いできるでしょうか?」
と、文姫は言った。
相手は首を横に振って、
「会うことはかないませぬ。この寺内にはいるのですが。……」
「なぜでございますか?」
「景妹は重い病いで伏せております」
「お見舞いを……」
と、文姫は言いかけたが、碧眼の人が、はげしく首を振りはじめたので、思わず口をとざした。
「どなたにも面会いたしませぬ」
碧眼の人は、きっぱりと言った。
「わかりました」文姫は頭を下げ、つぎに豹にむかって、「では、参りましょう」と言った。──
4
十三年もたっている。しかも、面会を謝絶するほどの重病であるという。その容貌はむざんに衰えているとみるべきであろう。すくなくとも、豹が胸にえがいている面影とは、すでに雲泥の差があるにちがいない。
胸裡の面影を守るためには、病いにやつれはてたその女に会わせてはならない。文姫は豹が抱く幻をこわさないために、それ以上、面会を強要せずに、白馬寺を立ち去った。
豹は心残りであるらしく、なんどもふり返った。
「曹公のところへ行った帰りに、また立ち寄ってみましょう。景妹とやら、病気がよくなっているかもしれませんから」
文姫はそのような気やすめを言って、未練たっぷりな豹をせき立てて先を急いだ。
曹操のところへ行くのだが、相手は出陣していて、許都にはいなかった。東北のかた、|黎陽《れいよう》に陣を張っている。袁紹の息子たちと戦うためである。
二年前、袁紹に致命的な打撃を与えたのは、黄河のほとりの官渡というところであった。こんどはさらに東北へ進み、白馬津を越えたのである。黎陽は白馬津の別名と解してもよいが、厳密にいえば、おなじ渡し場の南岸を白馬といい、北岸を黎陽という。したがって、曹操の軍団は黄河を越えて、袁家の縄張りである河北にはいり込んだわけだ。
袁紹の死によって、袁家に動揺があったのはいうまでもない。
袁紹には三人の息子がいた。|譚《たん》、|煕《き》、|尚《しよう》の順であり、上の二人は先妻の子で、末子の尚が後妻の子である。世間では袁紹の後継者問題については、
──長男か末子か。……
とみていた。長男が家を継ぐのはとうぜんである。しかし、後妻の劉氏はかなりの猛女で、我が子の尚に袁家を継がせようと、けんめいになっている。
袁紹が病気になると、劉氏のせがみ方はますます|執拗《しつよう》になった。
──袁紹の後継者は、ただ袁家をつぐだけではありません。数百万の人民を治め、数十万の軍隊を養わねばならないのです。長男だというだけで、袁紹のあとをつげるものではありません。能力があるかどうか、それによってえらぶべきです。
後妻の劉氏は、袁家の幹部たちに、そんな理由をあげて、しきりに我が子を|擁立《ようりつ》するように働きかけていた。袁紹も袁紹で、
──息子たちに一州ずつ与えて、その才能を試してみよう。
と、長男の譚を青州刺史に、次男の煕を幽州刺史に任命したのである。当時、袁紹は朝廷から大将軍を拝命し、|冀《き》、青、幽、|并《へい》の四州を兼督していた。自ら冀州を直轄しているので、残りの三州を、三人の息子にまかせてテストすべきであった。それなのに、并州の刺史には甥にあたる|高幹《こうかん》を任命した。
末子の尚を自分の手もとに留めたのである。この措置は、人びとに、
──袁尚こそ後継者。
と思わせたものである。
だが、袁紹本人は死ぬまで後継者をきめなかった。彼らしい優柔不断さである。しかし、袁紹が死んだとき、その場にいたのは袁尚だけなので、きわめて有利であった。
袁紹の不決断によって、重臣のあいだにも譚派と尚派の二つの派閥ができていた。譚派は|辛評《しんひよう》、|郭図《かくと》といった連中で、尚派は|逢紀《ほうき》や|審配《しんぱい》たちであった。
──先君の意志。
ということで、尚派は袁紹の死後、すかさず袁尚を擁立してしまった。
長男の袁譚が駆けつけたときは、もう後の祭りであった。袁譚は仕方なく、『車騎将軍』を名乗った。
「兄上、いま内部で争っているときではありませんぞ。私はこうして擁立されましたが、あくまで臨時のものと考えてください。曹賊を討伐したあと、その功績を論じて、あらためて後継のことを話し合いましょう」
と、袁尚は言った。
群臣の前でそれを言ったのである。そのなかには、譚派もすくなくない。証人がおおぜいいるのだ。
(そうだ。ここで仲間割れして、曹操につぶされては、袁家もなにもない。ともあれ、曹操を討ってから、実力によって袁家のあとを継いでみせよう)
袁譚はそんな気になって、兵を黎陽に進めた。曹操と対陣したのである。
袁家の本拠地の|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》は、河北省臨★[#さんずい+章]県の西、|邯鄲《かんたん》市の南約三十キロの地点にあった。黎陽を去ること僅か七十キロにすぎない。もし黎陽に出陣している袁譚が、変な気をおこし、兵をかえして★[#業+おおざと(邦の右側)]を衝くことにでもなれば、たいへんである。そこで、袁尚は兄の軍中に、お目付役として、自派の重鎮である逢紀を送り込んでいた。
──援軍を送れ!
袁譚はとうぜんのことのように、★[#業+おおざと(邦の右側)]にいる弟に催促した。
臨時とはいえ、一門の|総帥《そうすい》ではないか。曹操という大敵を迎え撃つ黎陽へ、援軍を派遣するのは総帥の義務であろう。
「なりません。いま黎陽へ兵を送れば、それがことごとく袁譚のものになります。あなたは、いずれ兄上と雌雄を決しなければなりません。その敵の兵をふやしてやるのですか。とんでもない」
参謀の審配が反対した。
「しかし、こんなにやかましく要求してくるのに、兵を送らないわけにはいかんではないか。曹操が黎陽を破ってしまうぞ」
と、袁尚は心配した。
「よいではありませんか。曹操があなたのかわりに兄上を片づけてくれるのです。兄を討つのは、あまり気の進まないものでしょう。それを他人がやってくれるのですから、助かったと思いなさい」
審配は冷酷なことを言った。
けっきょく、★[#業+おおざと(邦の右側)]からは申し訳ばかりの、少人数の援軍が送られただけである。
袁譚は激怒した。
「人をなめるな! 目にもの見せてくれる!」
彼は弟から派遣されて、軍中で目を光らせていた逢紀を逮捕して、その首を|刎《は》ねてしまったのである。
そのしらせをきくと、さすがの審配も仰天して、
「兄上は、ひどいことをやりかねませんぞ」
と言って、呻いた。
「どんなことだ?」
と、袁尚は訊いた。
「曹操と結んで、実の弟を攻めるということです。……一刻も早く、大軍を率いて、黎陽へ駆けつけなさい。兄上には、援軍を連れてきたといって、黎陽で陣をならべて、曹操と|対峙《たいじ》するのです。この★[#業+おおざと(邦の右側)]は私が留守を守りますから。すぐに黎陽へ。……いや、これはひどい、ひどいものだ。……」
審配はしきりに、ひどい、ひどい、と連発したが、さきほどまで、
──曹操の手をかりて兄上を消滅できるではありませんか。
と進言していたのである。どちらもどちらというほかはない。
袁尚はさっそく大軍をひきつれて南下し、黎陽の陣にはいった。
「兄上、援軍を率いて参りましたぞ。ご安心あれ!」
彼は兄にむかって、大声でそう呼ばわった。
「おう、やっと来たか。……」
袁譚は唇を|歪《ゆが》めるようにして笑った。
5
こうして年が明け、建安八年(二〇三)となった。
南匈奴の左賢王豹が、文姫とともに、非公式に曹操の陣にはいったのは、このようなときであった。
曹操軍は二月に、黎陽で袁兄弟の軍を襲って敗走させた。袁兄弟は、軍をまとめて、★[#業+おおざと(邦の右側)]へ退却したのである。黎陽の対陣は、去年の九月からなので、五カ月に及ぶ長いにらみ合いであった。
曹操軍は袁軍を★[#業+おおざと(邦の右側)]まで追ったが、食糧を略奪しただけで、再び黎陽の線までひきさがった。
──この機に乗じて、一気に★[#業+おおざと(邦の右側)]を|陥《おと》して、袁兄弟の息の根をとめましょう。
曹軍のなかでも、そのような声が強かったが、曹操はそれを|抑《おさ》えた。
「やつらは自滅にまかせよう」
曹操は笑いながら言った。
袁家兄弟の|内訌《ないこう》は、諜者の報告によって、曹操の耳に達していたのである。
「袁兄弟はもはや問題ではない。それよりも|荊州《けいしゆう》の劉表を先に片づけようぞ」
と、曹操は大声で言った。
これは味方の陣営に潜入しているはずの、袁家側の諜者にきかせる言葉だった。
袁紹亡きあと、袁一門は譚派と尚派に分かれて、ことごとに対立している。逢紀が殺されたことによって、その対立に油がそそがれたといってよい。
相争う両派が、これまでの行きがかりをすて、一致団結することも考えられる。それは、外からの圧力が強いときだ。
国論が分裂し、派閥抗争がはげしいとき、外国とのあいだに戦争がおこると、たちまち国民が団結して、これにあたるといった例が、近代の歴史にもすくなくない。
(内輪もめをしているときは、あまり手を出さぬことだ。……)
曹操はそう思った。
黎陽で袁譚に圧力を加えたとき、袁尚が大軍を率いて加勢にやって来た。あのように仲の悪い兄弟でも、外敵には力をあわせてあたるという気持があるのだ。
極端にいえば、いま袁家の分裂、空中分解を妨害しているのは、曹操という強敵の存在である。
(できることなら、おれはやつらの前から消えてやりたいよ。……)
それはできない相談であるが、それに近い状態にすることはできる。
──曹操は荊州の劉表との戦いに、すべてを投入する決心をした。したがって、当分のあいだ、袁軍と事を構える計画はない。……
ということがわかれば、袁家の兄弟は、内部抗争に没頭できるであろう。そのはては、自滅が待っている。
「|賈信《かしん》の部隊だけを残して、あとは全軍、許都へひきあげる。つぎなる敵は劉表ぞ。気分を一新して戦おう。今夜は、南匈奴の左賢王を迎えて、大宴会をひらく。一同、大いに飲んで気分を転換するように」
曹操は全軍にそう布告した。
兵卒たちの酒宴は、野外でひらかれ、|長史《ちようし》(六百石)以上の高級軍官だけが、本陣の宴会場に招かれた。
主賓は左賢王の豹である。
蔡文姫の父|蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]《さいよう》は、曹操の親友であった。だが、曹操は彼女の顔を知らない。文姫も自分の身分をかくしていた。彼女は平陽の南匈奴の宮廷の女官長である、ということにしていた。
「は、は、は、匈奴にも女官長というのがあるのか。これは初耳じゃ。は、は、匈奴の女官長か。……なるほど、興平二年の末には、長安から洛陽に戻る女官が、ずいぶん匈奴にさらわれたときいておるが。……」
曹操は笑った。匈奴に宮女がいるということさえ、彼にとってはおかしいことだったのである。
「匈奴には、むかしから宮廷に女官がおりました」
と、文姫は言った。
「では、なにも漢室の女官をさらわなくてもよいだろう。……じつはあのとき、わしの親友の娘も、一しょにさらわれたのじゃ。女ながら、たいへんな学者であるという評判の娘でな。蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]、つまり、その娘の父親じゃが、ひどく自慢にしておったよ。出戻りだが、これまた美女ということで、わしも一目みたいと思っておったのだが……のう、女官長どの、蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]の娘がどうなったか、ご存知ないかな?」
杯を手にとって、曹操はそんなことを言った。
文姫は顔を伏せたまま、自分のことが話されているのをきいた。──自分の評判は、そんなに悪くはなさそうだった。なによりも、曹操のような人物が、自分のことを心の片隅にでもとどめてくれていたことが、ありがたかった。
(あのとき、あたしは黄河のほとりで死んだのだ。いまのあたしは、もう蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]の娘ではない。別人なのだ。……)
彼女はそう思っていた。
死んだにしても、誰からも忘れ去られるのは淋しいことである。夫も死に、父も死んだ。もはや文姫という女が、この世に生を|享《う》けたことをおぼえている人はいない。──そう思うと、たまらなくなることがあった。どんな人でもよい、その人の頭の片隅でもよいから、自分は生きていたい。未練がましいが、そう願ったものである。
思いもかけず、天下の曹操が『蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]の娘』を記憶してくれていたのだ。
「蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]の娘と申されますと……その名は?」
文姫はそう訊いた。
「うん、|★[#王+炎]《えん》と申したかな。……そうだ、|字《あざな》は文姫というのだ。琴の名手であるばかりか、文学にかけては、男でも彼女の右に出る者はすくない。……いやはや、匈奴はそのような人間の宝を得て、それを役に立てておるのかのう?」
曹操はいかにも惜しい、といった思い入れをした。
「その文姫と申す女、美しい女でございましたか?」
そばから口をはさんだのは、曹操の嫡男の|曹丕《そうひ》であった。のちの|魏《ぎ》の文帝になる人物だが、このとき十八歳であった。まだ若いのに、ニヒルな面がまえである。
「うん、なかなか美しいときいておる。蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]は惜しがって、めったにひとには見せなかったそうな」
と、曹操は答えた。
「とくに父上が見せてほしいといえば、相手は警戒したでありましょう。日ごろの行いがよろしくありませんから。……は、は……」
曹丕は顔の筋肉をうごかさずに笑った。
「こやつめ、小僧っ子のくせに、なにをほざきおるか。は、は、は……」
曹操は両肩を大きく揺すって笑った。
「匈奴の地に健在としても、その女、もはやうば桜でございまするな」
と、曹丕は言った。
「蛮地に空しく歳月を|閲《けみ》したのか。……考えてみれば、哀れなことよのう。……」
曹操は杯を口もとにはこびながら言った。ひとくち飲んでから、彼は思い出したように、
「のう、女官長どの、文姫の噂、ご存知ないかな?」
「そういえば、学者の娘が平陽に連れられて来たという話を、ちらと耳にしたことがございますが」
文姫は精いっぱい、白ばくれた。
「ほう、そうか。……平陽に帰れば、ひとつそのことを心にとめて、たずねてみてくれぬか。蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]の娘が匈奴のなかにおれば、この曹操が、身代金を払って連れ戻したいとな。……単于にそう伝えてもらおう」
と、曹操は言った。
「父上、それはやめたほうがよいのではありませぬか」
曹丕がにやにや笑いながら言った。
「なぜだ?」
「話にきく美しい女、話にきく学識の深い女、そんなのはまず幻ですな。……幻は幻のままにしておくべきで、現実にそれを見れば、きっと失望するでしょう」
「そうとは限るまい。おまえは人生経験が浅いが、世の中には、思いもかけないことがある。幻と現実が一致することも、けっしてすくなくないのだぞ。……」
「そうですか。……人生経験のゆたかな父上のおっしゃることですから、まちがいないでしょう。私も希望をもつことにしましょう」
「どのような希望だな?」
「幻の女が、話にきいたとおりの美女で、それが現実にわがものとなる。……そんなことがおこるという希望ですよ」
「その幻の女はどこにいるのか?」
「ついそこ。……★[#業+おおざと(邦の右側)]にいます」
「こやつめ。……」
曹操はそう言って、我が子のほうを、気味悪げに見た。
(どうやら、おれに似すぎている。……)
曹操は自分が気味のわるい人間であることを、誰よりもよく知っていた。そして、息子は自分に輪をかけたような人物であるらしい。
6
幻の女が★[#業+おおざと(邦の右側)]にいる、と十八歳の曹丕は言った。その幻の女とは、袁紹の次男である袁煕の妻のことである。
──絶世の美女。
という噂が高い。
噂によれば、婚礼の日、はじめて次男の花嫁をみたとき、袁紹はいかにも口惜しげに、
──煕にはもったいない女じゃのう。……
と呟いたということである。
その女の姓は|甄《しん》といい、名は|洛《らく》と言った。父は甄逸という人物で、三男五女の一ばん末っ子が彼女であった。
平陽のような田舎にいたので、文姫はその噂を耳にしなかったが、中原の文明圏では、袁煕夫人は噂の女として、誰知らぬ者はないほどであるらしい。
「その女を、いちど見たいものじゃな」
と、豹までが言い出すほどであった。
「まぁ、気が多いひとね。白馬寺の景妹にもまだ会っていないのに」
文姫はそんなことを言っているうちに、ふと|嫉妬《しつと》をおぼえた。──こんなはずはないのに。十二も若い豹が、どんなことを思おうと、自分がすこしでも動揺するなど、考えられないことだが。……しかし、それが嫉妬であることは、はっきりしていた。文姫は自分が情けなくなって、何かに祈りたい気持になった。
(こんなときに頼るのが、浮屠の教えではあるまいか。……)
文姫は康国の仏教信者たちのことを思い出した。同時に、あの美しい少容のことも。
少容の説く五斗米道も、嫉妬のような自己地獄から逃れる一つの道であろうか?
曹操が黎陽から許都へひきあげたのは五月のことで、彼が劉表を討つために、許都を出て、西平へむかったのは八月のことであった。
その直後、袁家の兄弟は、曹操が予想したように、早くも内紛の火を噴きあげた。
許都へひきあげる曹操のあとを追って討つべきかどうかで口論を始めたのである。袁譚は追撃しようと主張した。
「帰還と知って、曹軍は一刻も早く帰りたがっている。望郷の念抑えがたく、戦意など消え失せているに相違ない。これぞ天の与えたもうた絶好の機会である」
後継者争いに出遅れた袁譚は、功を焦っていた。だが、曹軍を追撃するにも、彼の手兵だけでは不足である。どうしても、弟の手中にある冀州の兵を借りなければならない。
「兵も民も疲れきっている。いまは休養が第一である」
袁尚は追撃に反対した。
兄の袁譚は歯がみした。
(うぬ! おれが袁家の総帥になっておれば、この好機をむざむざ見送るまいに!)
感情が激しているときに、横から中傷めいた言葉がはいると、たちまち燃えあがる。
──父上の没後、尚を擁立した首謀者は、あの審配だったのですぞ。
と、辛評は焚きつけた。
尚派の審配と、譚派の辛評とは、すでに|不倶戴天《ふぐたいてん》の仇敵同士となっている。派閥抗争の行きつくところは、主義、主張などはかえりみられず、ひたすら感情に走るだけとなる。
「よし、兵を貸さないとあらば、その兵を奪ってやる!」
袁譚は弟の袁尚に奇襲をかけた。だが、★[#業+おおざと(邦の右側)]城の門外での戦いに、兄の袁譚は敗れ、南皮というところまで逃れた。
弱り目に|祟《たた》り目である。袁譚の領地である青州で、留守をまかされた部将たちが、叛旗をひるがえし、諸城、つぎつぎとそれに呼応した。
父の袁紹が、死ぬ間際まで、後継者の決定をためらっていたのは、やはり長男の袁譚の性格に問題があったのであろう。なにも後妻劉氏の圧力に屈しただけではなさそうである。曹操追撃を主張したとき、弟の袁尚は民や兵が疲れていると反対したが、兄の袁譚は、人民の苦しみなどまるで念頭になかった。青州に叛旗がひるがえったのはとうぜんのことなのだ。
袁尚はここぞとばかり、兄を攻め立てた。袁譚は敗走につぐ敗走で、やっとのことで平原城に逃げ込んだ。袁尚は大軍をもって城を包囲してしまった。
こうなれば、もう破れかぶれである。袁譚は曹操に援軍をもとめて、弟を討つことを考えたのである。ついこのあいだまで、弟と陣をならべて戦った相手に、その弟を討つから助けてくれと哀訴するのだ。
その使者には、曹操と面識のある|辛★[#田+比]《しんぴ》がえらばれた。袁譚の側近第一号である辛評の弟である。
曹操は荊州の劉表を討つべく、西平に陣を構えていた。
──荊州に専心する。
そう公言していたが、じつは背後の袁兄弟の動向に注意を怠っていなかった。陣立ても、いつでも東北へ兵をかえせるように、ひそかに工夫してあった。
荊州には、劉備という大物を、送り込んでいる。劉備は荊州にあって、ひそかに曹操の利益をはかってくれる。また荊州のあるじ劉表は、天下争覇にあまり関心がないようにみえた。
荊州がうるさい存在になるのは、劉備が劉表の兵権を奪って自立したあとである。曹操と劉備の秘密同盟も、そのときをもってうち切られるであろう。
しかし、劉備の荊州乗っ取りは、もう数年はかかるはずだ。曹操は荊州の諜者からの報告によって、
──荊州における客分劉備の評判が、徐々に上昇している。
という事実を知っていた。
袁家兄弟を消滅するなら、いまのうちだ。
曹操はいったん許都にひき返し、豹と文姫を呼んで、
「戦さの見物をしたいかな?」
と訊いた。
「はい、見学できれば幸いです」
と、豹は|膝《ひざ》を進めた。
「見学するよりは、参加してみてはいかがかな?」
「できれば……」
豹は一そう身を乗りだした。そばで文姫が心配そうな表情をしている。
「戦さというものは、野戦の攻防だけで決せられるのではない。平陽でなぜ袁軍が我が軍に敗けたか、左賢王はようご存知であろう」
「はい。……」
袁軍は包囲された南匈奴を救おうとして駆けつけた。だが、救うべき南匈奴が、曹軍と密約を結んでいたのである。袁軍はまんまと謀略にひっかかった。
「それを勉強なさるがよい。いまその機会を与えて進ぜよう。……我らはこれから袁尚を討つ。官渡で大いに破ったあと、袁家はもはや我らの強敵ではない。まして、いまは二つに割れておる。だが、ここでみくびって手を抜いてはならぬ。もし我らが苦戦するようなことがあるとすれば、それは袁尚に思わぬ味方が加勢したときだけである。そのようなことがおこらぬように、こまかく手を打たねばならない」
曹操のそばには、長男の丕と次男の|植《しよく》とがいた。曹操は豹にむかって、教えさとすように言っているが、同時に二人の息子にもきかせていたのである。彼は言葉をつづけた。──
「戦場の周辺を|彷徨《ほうこう》する野武士の集団がある。彼らは利によってうごく。失礼ながら、平陽に落ち着く前の、左賢王の父上オフラ殿も、その一人であった。いまは黒山の衆と呼ばれる集団が、最も有力である。その総帥は|張燕《ちようえん》と申す者で、わしもたびたび戦ったが、手ごわい人物であった。きけば、いまの勢力は十余万という。彼らの加勢は不要だが、袁尚側につけてはならぬのだ。そのために、こちらから弁舌の士を派遣する。その使節団に随行して、交渉の呼吸をおぼえられよ」
「はい、ありがとうございます」
と、豹は頭を下げた。
曹丕は|顎《あご》を心もちあげ、なにやらせせら笑っているかんじだった。弟の曹植はまだ十二歳の少年だが、深刻そうな表情で、父親の言葉をきいていた。
7
曹操が袁譚に乞われて、兵をかえして再び黎陽に陣を布いたのは十月のことであった。
袁尚はあわてて平原城の包囲を解き、本拠地の★[#業+おおざと(邦の右側)]に戻った。他人の城を攻めるどころか、我が城が危ないのである。
平原の包囲を解くという、所期の目的をはたしたので、曹操は黎陽からひきあげた。
袁尚は怒り心頭に発していた。
「うぬ! 父の|仇《かたき》である曹操をひきいれるとは。兄とはいえども容赦はせぬぞ!」
怒りに油をそそいだのは、黎陽で彼の有力な部将二人が、曹操に|降《くだ》ったことである。
年明けて建安九年(二〇四)二月、袁尚は審配と蘇由の二将を★[#業+おおざと(邦の右側)]にのこし、自分は大軍を率いて、再び兄のたてこもる平原城を攻めたのである。
曹操は待っていたとばかり、再び兵を率いて黄河を渡り、こんどはまともに、袁尚の根拠地である★[#業+おおざと(邦の右側)]を攻めた。
平原への出兵が、曹操の再度の出撃を誘うことは、袁尚も承知のうえであった。それなのに、なぜ敢えてそれに踏み切ったのか? 兄憎さの一念だけではない。
──黒山十余万の衆。
に渡りをつけていたからである。
袁尚の父の袁紹も、この黒山の衆に常山で苦しめられたことがあった。ちょうど十年前のことで、袁紹はまだ北に|公孫★[#王+贊]《こうそんさん》という強敵をもっていたので、黒山の衆にいつまでもかかずらっておれない。そこで、黒山の総帥張燕と親しい呂布を使者に立て、軍糧を提供することで、兵を退いてもらったことがある。呂布はこのとき、袁紹から軍糧二十万|斛《こく》を受取り、張燕には十五万斛を渡し、残りの五万斛を自分の|懐《ふところ》にいれてしまったのだ。
いずれにしても、袁紹は黒山衆と取引をした実績があった。そして、もういちど話をもちかけたのである。
張燕は困っていた。──五万ぐらいがちょうどよいのに、十数万にふくれあがった。手下の数がふえて困るというのは、それを養わねばならないからだ。
(ことしは凶作だったから、部下がふえて仕方がない。なんとかしなければ……)
と、頭を抱えていたのである。
ベテランの戦争屋であるから、ぐるりと見まわして、商売の種をさがした。
袁家兄弟の内訌と、曹操とのからみ合いがある。こちらから持ちかけるまでもなく、曹操と袁尚の双方から使者がやって来た。
飛燕と|謳《うた》われた、|剽悍《ひようかん》な張燕も、年老いはじめて、疲れをおぼえることが多かった。戦場での動きには、まだまだ他人におくれをとらぬ自信があったが、部下に飯を食わせる心配をすることには、ほとほと疲れはてたのである。
(まとめて面倒をみてくれるやつはないだろうか?)
張燕はそう思うようになった。|主《あるじ》を欲しがりはじめたのである。主があれば、部下の飯の心配をしなくてもすむ。
曹操と袁尚の双方から話がもち込まれたとき、張燕はためらわずに曹操をえらんだ。
──わしらをぜんぶ召し抱えてほしい。
という条件を出したのである。
曹操はかつて青州黄巾軍数十万を召し抱えたことがある。しかも、彼らにたいして公平であった。けっして差別待遇をしなかった。そのことは張燕も知っている。
袁家は非正規軍を、一時的に買収したことはあっても、彼らを自分の部下にしたことはない。名門の袁家にあっては、なにごとにつけても家柄がものを言う。それは黒山の貧民軍が主人と仰ぐには適しない相手である。
──袁家を片づけたあと、我が陣営に参加するように。
曹操の使者はそう答えた。
いますぐはいけない。なぜなら、曹操は黒山の衆に、袁家討滅に一役買ってもらうつもりだったのである。
──袁家になびくふりをしてみせる。
という役であった。黒山十余万の兵力がついたと思い込めば、袁尚はきっと大胆な行動に出るだろう。曹操はそこを|狙《ねら》おうとしたのである。
曹操の使節団の一員となって、この交渉をつぶさに体験した豹は、その謀略のみごとさに舌をまいた。
豹は後学のために、黒山の本陣へ行ったのではない。じつは曹操は彼にも役目を与えていたのである。
使節団の代表は張燕に豹を紹介してこう言った。──
「これなる若者は、張燕どのの戦友でもあった、かのオフラ単于の忘れ形見でございます。南匈奴もいまや平陽にて、我が曹公の|傘下《さんか》にはいり、左賢王であるこの豹どのを、こうして修行に出しておりまする。……」
「おう、さようか。……」張燕は目を細めて言った。──「わしの息子も、ひとつ曹公にきたえていただこうか」
豹は生きたサンプルであった。子を持つ張燕の心を、確実につかむことができた。
黒山十余万の大軍を頼んで、本拠をはなれて平原城の兄を攻めていた袁尚は、いくら待っても黒山の蹶起のようすがないので、ようやくいらだちはじめた。そのころ、
──黒山の衆は曹操の軍に降ったようだ。
と風評が立った。
「|謀《はか》られたか!」
袁尚は急いでとって返した。
8
すでに七月である。曹操は五月から★[#業+おおざと(邦の右側)]城を包囲していた。城の周りに塹壕を掘り、★[#さんずい+章]水の水をひきいれて水攻めにした。城内の食糧は尽き、住民の半ばは餓死したといわれる。守城の審配は猛将だが、曹軍が一気に踏み込めば、おそらくすぐに陥ちるであろう。
だが、曹操は攻撃を加えなかった。
★[#業+おおざと(邦の右側)]城が陥落してしまえば、袁尚はどこかへ|遁走《とんそう》するであろう。袁尚をここへひき寄せて、致命打を浴びせなければならない。
はたして、袁尚は★[#業+おおざと(邦の右側)]城を救うために、平原包囲の軍兵をひき連れてやって来た。
──城内と城外が呼応して、包囲の曹軍を挟撃する。
袁軍としては、この定石どおりの作戦しかとれなかった。袁尚は★[#業+おおざと(邦の右側)]に近づくと、のろしをあげて、城内にしらせた。城内の審配は、城門をひらいて出撃した。
曹操の軍は、救援の袁尚には目もくれず、城内からとび出してきた部隊に、全軍をあげて猛攻撃を加えたのである。ふつうなら、軍を二手に分けるところであろうが、曹操はそれをしなかった。城内の兵は飢えのため、ひょろひょろになっている。曹軍は狼のように襲いかかり、大きな損害を与えた。審配は敗残の兵をまとめ、やむなく城内へ逃げ戻った。彼らはもはや出撃する気力をもたない。
一方を沈黙させたあと、曹操はまたしても全軍をもって、袁尚の軍を攻撃した。
黒山軍の加勢。挟撃。──袁尚軍は、打つ手、打つ手が、すべてはずれてしまった。このような軍隊は、がっかりしているので、その実力よりも遙かに弱くなるものだ。曹軍の猛攻を受けて、曲★[#さんずい+章]というところに逃げ込んだが、たちまち囲まれてしまった。
(いまはこれまで。……)
袁尚は歯をくいしばって、曹操に降伏を申し入れたが、
──問答無用!
と、相手にされなかった。
袁尚は夜陰にまぎれて|★[#示+おおざと(邦の右側)]山《きざん》まで逃げたが、曹軍の追撃をうけ、そこでも囲まれる羽目になった。袁尚はやむを得ず、|輜重《しちよう》を棄て、変装して中山方面へ逃走したのである。
曹軍はここで袁尚の|印綬《いんじゆ》や衣類を手に入れ、これを|竿《さお》にひっかけて、城内の人たちにみせびらかした。
「袁尚はまる裸で逃げたぞ。もう誰も助けに来ない。あきらめろ、あきらめろ!」
と、はやし立てたのだった。
審配は意気|沮喪《そそう》した城内の兵士や住民たちにむかって、
「袁尚どのは破れても、袁煕どのが、かならず幽州の精兵を率いて、救援に参る。かならず来る! われらも疲れたが、曹軍も疲れておる。望みを失うまいぞ!」
と励ました。
人心を奮いたたせるために、審配はもっと激烈なことをした。
「われらをかくまで苦しめたのは、曹操を袁家の争いのなかにひき込んだ辛評、辛★[#田+比]兄弟である。辛氏の一族を|悉《ことごと》く|誅殺《ちゆうさつ》する。今後、卑怯な振舞いのある者は、辛一族と同じ運命が待ちうけていると思え!」
★[#業+おおざと(邦の右側)]城内の辛一族は、老若男女を問わず、市場に引き出されて首を刎ねられた。|阿鼻叫喚《あびきようかん》の地獄図がそこにくりひろげられた。誅殺された辛一族の数は八十人といわれる。
真っ|蒼《さお》な顔をして、処刑をみつめ、歯をくいしばっている青年がいた。
その全身が|顫《ふる》えている。
この処刑を命令した審配の兄の息子にあたる|審栄《しんえい》という青年だった。彼は辛一族の娘と相愛の仲であった。愛人を殺されて、彼は怒りのために顫えているのだ。
審栄は守門の将校であった。
(いとしい人を殺した叔父貴め! きっと仇を討ってやるぞ!)
彼は門をあけて、曹軍を城内へひきいれることを考えた。そして、前もって城外に矢文を射込んだ。
──|戊寅《ぼいん》の日、二更の刻。城門を開ける。
と、矢文に記しておいたのである。
包囲軍のなかには、黒山衆への使節随行の役目を終えた豹も、観戦者として従軍していた。その豹に、曹家の御曹司の|曹丕《そうひ》が、そっと|囁《ささや》いた。──
「今夜、おもしろいものを見せてあげよう。あんたは戦争を見にきたのだろう? 戦争の一ばんおもしろいところが見たいはずだ」
「どんなところですか?」
「一番乗り。……★[#業+おおざと(邦の右側)]城突入の一番乗りだ」
「今夜? どうしてそれがわかるのですか?」
と、豹は訊いた。
曹丕はにやりと笑って、小さな紙片を示した。──それは、審栄が射込んだ矢文であった。曹丕自身がそれをみつけ、誰にもしらせていないという。
「一小隊を率いて、その門の前で待っている。門がひらく。とび込む。……どうだ、一番乗り、まちがいなしではないか」
と、曹丕は言った。
「そんなことをしてもいいのですか?」
「門があいたことは、すぐ全軍にしらせるように手配してある。わしは、ただ一番乗りがしたいだけなのだ。まず一刻(十五分)ほど早く城にはいれたらそれでよい。どうしても、一番乗りがしたい」
「そうですか。……」
豹は意外に思った。曹丕は彼より二つ年下だが、どうしても年長者のようなかんじがしてならなかった。十九にしては、大人びていたのである。そのニヒルな表情は、いささか不気味でさえあった。それなのに、一途に一番乗りを望んでいる。──子供っぽい。
「左賢王に手伝ってもらいたいことがある」
と、曹丕は言った。
「喜んで」
と、豹は答えた。
審栄は予告しておいた時刻に、城門をおしあけた。待機していた一小隊が、すかさず城内へ|雪崩《なだ》れ込んだ。
包囲軍にとっては、予期しないことであったが、幸いに連絡がよく、全軍が行動をおこすのに、それほど時間はかからなかった。
「緊急の至上命令を伝えよ!」と、曹操は伝令を集めて言った。──「袁氏の邸に一歩たりとも踏み込むことは許されぬ。袁氏の家族に一指をふれることも許されぬ、とな!」
伝令は四散して全軍にこの至上命令を伝えた。──
だが、その命令の出る前に、二騎の若武者が、袁氏の邸に馬を乗りいれていたのである。
「左賢王、わしについて来い!」
そう言われて、豹は曹丕のあとを追った。
邸のうしろのほうで、なにやらなまめかしい雰囲気がかんじられた。
「これは邸の奥……女部屋ではありませんか?」
「そうだ。それをめざしてきたのだ」
この一番乗りは、あまりにも早く、邸のなかではまだ曹軍の突入のことを知らなかった。
「袁煕夫人を迎えに参った。案内されたい!」
曹丕の声もあまりにも堂々としていたので、誰も疑わなかった。幽州にいる袁煕が、夫人を迎える使者を寄越したものとばかり思っている。
「はい、ご案内申し上げます」
一人の侍女があわてて、二人の前に立った。奥の一室がひらかれた。
二人の若者は、一瞬、息をのんだ。
この世のものとは思われない美女が、そこに立っていた。透きとおるように白く、ろうたけた女性である。──袁煕夫人の|甄洛《しんらく》は、このとき芳紀二十二歳、曹丕より三つ年上であった。
我に返ったのは、曹丕のほうが早かった。
「左賢王、なにをぐずぐずしておるのだ。この女をさらって行く!」
と、曹丕は叫んだ。
ようやく外が騒がしくなった。──
★[#業+おおざと(邦の右側)]城が陥落し、審配の処刑がすんだあと、曹操は酒をのみながら、いまいましそうに言った。──
「こんどの戦さは、息子の嫁取りのためにやったようなものじゃ。……」
曹操も噂に高い袁煕夫人甄氏を狙っていたのである。だから、突入にあたって、全軍に袁氏の邸に立ち入ることを禁じ、袁氏の家族の保護を命じたのだ。
「命令の出る前にやってのけるとはのう……」
杯をおいて、曹操は舌打ちをした。
息子でもあるし、命令の出る前のことであれば、どうすることもできない。腹いせに、甄氏略奪を手伝った者を罰しようとしても、それが南匈奴の左賢王とあっては、これまた手がつけられない。
「なにからなにまで計算しおって。……ひょっとすると、やつは、わしにできなかったことをやるかもしれんぞ。……」
曹操はそう呟いて、酒壺のほうに手をのばした。──
作者|曰《いわ》く。──
黎陽における五カ月の対陣を、曹操の敗北とする説がある。『後漢書』に、
──尚、逆撃して操の軍を破る。
とあるのを根拠としている。また諸葛[#葛のヒは人]孔明が『後出師表』のなかで、曹操の敗戦をかぞえたくだりにも黎陽の地名が記されている。
五カ月にわたる対陣では、いくつもの局地戦があったのはいうまでもない。たまには曹軍が負けたケースもあったであろう。しかし、大局からみれば、敗戦であったはずはない。袁軍はこのころ、すでに分裂していて、おそるべき存在ではなかった。
黎陽からの退却は、やはり袁家二兄弟の対立を深めるための措置であろう。
[#改ページ]
|白狼山《はくろうざん》に|消《き》えた
1
老人の姓は|公孫《こうそん》、名は|度《たく》、|字《あざな》は|升済《しようさい》であった。ここ数年来、病気がちであったが、最近めっきり体が衰弱した。そして、気ばかりは強い。
「こんなもの、どこか物置にでも|抛《ほう》り込んでおけ」
病床に上半身を起こした公孫度は、手にしたものを無造作にぽいと放り出した。
それは印綬であった。
官印は権力行使が合法であることを証明する物件である。印はほとんど金属製だが、それについた紐を『綬』と呼び、それをからだのどこかにかけたものだ。官吏である以上、誰もがそれを片時もはなさず持っていた。後漢末期は、たいてい|肘《ひじ》にかけていたのである。
公孫度が抛った印綬は、板床のうえに、乾いた音を立ててころがった。
朝廷から、公孫度を武威将軍として、|永寧郷侯《えいねいごうこう》に封じるという沙汰があり、いまその印綬が届けられたのである。
ここは遼東の|襄平《じようへい》城である。
現在の遼寧省、かつて日本が満洲と呼んだ土地、|瀋陽《しんよう》(旧名奉天)の南にある。日露戦争の激戦地の遼陽城の北方にあった。
公孫度はそこのあるじである。彼の勢力範囲は、さらに南へのび、朝鮮半島に及んでいた。彼は若いころ、朝鮮半島で役人をしていたことがある。
後漢王朝が衰え、地方にたいする統制力が弱まったすきに、彼はそこで自立した。中央の勢力が強いときは、地方で自立しようものなら、すぐに討伐されたが、中央が衰弱すると、地方にボスがはびこる。公孫度はその一人であった。
彼はもうずいぶん長いあいだ、遼東のあるじであった。朝廷もそれを認めて、やっと彼を侯に封じたのである。
──おめでとうございます。
と、群臣が祝福したのに、当の公孫度はその印綬をぽいとすてたのだ。
家臣たちはふしぎそうな顔をした。
「朝廷といったって、つまりは、曹操ではないか」
老人は不機嫌そうに言った。
|宦官《かんがん》の孫である曹操など、公孫度にしてみれば、なにするものぞ、という気持があった。たまたま中原にいたという地の利があって、いま天子を擁しているのにすぎない。
(おれは不運であった。……)
と、この病人は思っている。
遼東という|僻地《へきち》にいたので、天下に号令するには、地の利を得ていない。みすみす曹操ごときに、中原の|覇者《はしや》の地位を許している。無念このうえもない。
その朝廷、すなわち曹操から、
──おまえはその地の実力者である。それを認めてやろう。ついては武威将軍という位をさずけ、永寧郷侯に封じてつかわす。
という使者が来たのである。
ものものしくも『印綬』を持ってきた。
公孫度が、その印綬を抛りなげたのは、彼としてはとうぜんの行動である。家臣たちが不審顔でいるが、そのほうがおかしいではないか。
「わしはな、自分の力で遼東の王となった。いまさら侯に封じられて、なにを喜ぶことがあろうか。……ばかばかしい。……ふン[#ンは小文字]、おれは運が悪かったのう。……」
公孫度は横になって、蒲団のなかにもぐりこんだ。
これは建安九年(二〇四)のことである。このとしの八月に、曹操は袁家の本拠地である|★[#業+おおざと(邦の右側)]城《ぎようじよう》を占領し、御曹司の|曹丕《そうひ》が、|袁煕《えんき》の妻の|甄《しん》氏を奪ったのである。
公孫度は考え違いをしていた。いつも自分を不運だと言っていたが、ほんとうは幸運であったことを知らない。彼がもし中原の群雄の一人であれば、とっくに滅亡したであろう。彼は所詮、そのていどの器量しかなかったのである。
遼東の王。──現在の遼寧省から朝鮮半島、さらに海を越えて、邪馬台国にいたるまで、各地の実力者は、すべて公孫度を盟主と仰いできた。
このような僻地には、たいした人材はいなかったのである。だから、公孫度ていどの人物でも、『遼東の王』などと威張ることができたのだ。
彼は曹操のことを、宦官の孫などとさげすんでいるが、曹操とのあいだに袁家という強力な壁があったので、のうのうとしておれたのである。袁家という壁がなくなれば、公孫度はじかに曹操の脅威に身をさらすことになるのだ。
天下の形勢を見る眼光があれば、朝廷が印綬を送ってきたことについて、その裏に、
──さぁ、どうだ、おれにつくか?
と迫ってくる曹操の意思を読んだはずだ。
公孫度はそれが読めなかった。年をとったということのほかに、病気が彼の判断力を、いささか狂わせた事情もあろう。
まもなく彼は死んだ。
息子の公孫康があとをついだ。
朝廷からもらった『永寧郷侯』の位を、彼は自分の弟の公孫恭に与えた。公孫康は父親の口癖である、
──わしは遼東の王。
という意識を、そっくりそのまま受けついだのだ。だから、曹操からもらった侯の地位は、弟に譲ったのである。
遼東はこれまで、中原の軍閥混戦に超然としておればよかった。だが、袁家という防壁がなくなったからには、中原の政局の変動の影響を、もろに受けざるをえなくなった。
公孫度は、『井のなかの蛙』的なところがあった。しかし、さすがに息子の公孫康は、父親にくらべると、いくらか天下の形勢がわかっていた。遼東の王でありつづけるためには、臨機応変、柔軟な姿勢をとらねばならないことを理解していた。
2
|袁尚《えんしよう》は|輜重《しちよう》を棄て、変装して中山まで逃げた。やがて、部下もしだいに集まった。だが、まもなく敵があらわれた。袁尚がこれを曹操軍だと思ったのはとうぜんであろう。だが、前哨からの報告では、
──|顕思《けんし》どのの軍勢でございます。はげしく攻め立てておりまする。
ということだった。
顕思とは、袁譚の|字《あざな》である。袁家三兄弟は、その字の上がすべて『顕』であった。次兄の|袁煕《えんき》は|顕奕《けんえき》、そして袁尚は|顕甫《けんほ》である。
(兄貴か。……)
袁尚は天を仰いだ。
末子の彼が袁家を継承したことを、長兄の袁譚はまだ許していないのである。いま大軍を送って、敗残の弟をなお攻めようとしているのだ。
「あさましいのう。……」
袁尚は|呟《つぶや》いた。
長兄の執念もあさましいし、自分に袁家をつがせようと画策した母親も、こうなってみればあさましいとおもう。いや、自分も含めて、みんなあさましく、そしてむなしい。
袁尚にはもう戦意のかけらもなかった。彼は側近数名を連れて、ひそかに中山城を脱出した。落ち行く先は、次兄袁煕のいる故安城である。
こうして袁譚は戦わずに中山城にはいり、末弟袁尚の軍隊を、そっくり手に入れた。彼は末弟の手から『袁家の総帥』の地位を奪回するために、父の敵である曹操と手を結んだ。そして、いま袁尚の軍隊を|併《あ》わせてみると、曹操はやはり袁家の敵であることを知った。
曹操の攻撃から身を守るには、どうすればよいのか?
曹操の背後に|荊州《けいしゆう》の劉表がいる。劉表がうごけば、曹操も警戒しなければならないだろう。とうぜん、北の袁家にたいする攻勢は|緩《ゆる》むはずだ。
袁譚は劉表に密使を送り、
──共に手を結んで曹操を討とう。
と、同盟を申し込んだのである。
「どうすればよいのかな?」
劉表は客員参謀の劉備に|咨《はか》った。
「袁譚はかつて曹操と手を結んだはず。こんどまた荊州と手を結ぼうとされるのか。……こんな面倒なことに巻きこまれないほうがよいでしょう。いま袁譚に加勢して兵を挙げたなら、曹操は北の袁譚はうちすてておき、我がほうに全軍をむけて参ります。曹操は両面作戦をしない人物です」
と、劉備は答えた。
「なるほど、★[#業+おおざと(邦の右側)]城のときもそうであったのう。……」
と、劉表はうなずいた。
曹操は★[#業+おおざと(邦の右側)]城を包囲していたとき、袁尚の援軍来たるというしらせを受けると、城のほうはうちすてて、全軍をもって袁尚を攻めたのである。
両面作戦をきらい、全軍を挙げて、各個撃破をめざす。──たしかに、曹操にはそのような戦い癖があった。
(全軍でこの荊州を攻められてはたまらぬ。巻き添えではないか。ばかばかしい)
劉表は袁譚の申し出をことわることにした。
「ことわるにしても、もっと体裁のいいことわり方はないかな?」
と、劉表は言った。
いかにも劉表らしい言葉である。若いころから、社交好きの貴公子として、人びとにもてはやされた。なんでも|恰好《かつこう》よくやりたいのである。同盟の提案を拒否するにも、外面を飾ろうとしたのだ。
「それは|景升《けいしよう》(劉表の字)どのが得意のことではありませんか」
と、劉備は言った。聞きようによっては、皮肉な発言だが、劉表はにやにや笑った。
「そうじゃ。いい手がある」
恰好をつけることにかけては、劉表はさすがに名手であった。
──血は水よりも濃い。われらと同盟するよりは、令弟たちと仲直りして、兄弟力をあわせて曹操にあたるべきであろう。及ばずながらこの劉表、ご兄弟和睦の仲介の労をとって進ぜよう。
という返事を送ったのである。
曹操に叩きのめされた弟を、ここぞとばかりまた無情に叩いた袁譚が、その弟の袁尚と仲直りなどできるわけがない。それを知っていて、このような返事を出すのだから、体のよい拒絶であることは一目瞭然である。
「いまはこれまで」
と、南皮まで後退し、清河のほとりに陣を築いた。河北省滄州市の西南に、現在も南皮という県がある。現在の山東省北部の平原に本拠を置いていた袁譚にしてみれば、大幅の後退といわねばならない。
平原を席巻した曹操が、南皮城をめざして殺到したのは、翌建安十年(二〇五)正月のことであった。
劉表に援軍をもとめてことわられたので、袁譚はもう覚悟をきめた。
「おれも天下の名門袁家の嫡男である。宦官の孫曹操に、もののふはどのように戦うか、その手本をみせてくれる!」
死を決した軍隊は手がつけられない。南皮の戦いでは、袁軍は獅子奮迅の働きをみせ、さすがの曹操軍もたじたじとなった。
「これは|手強《てごわ》い。あまりにも犠牲が多すぎる。いったん軍を退こうか。……」
強気の曹操も、ついそんな気になったほどである。ところが、従弟の曹純が、
「ここまで千里の道を踏み破ってきたのですから、もう進むほかはありませんぞ。いったん退けば、軍の士気は低下して回復できなくなるおそれがあるかもしれません。手強いといっても、見たところ、自暴自棄の強さで、そんなに長続きしそうもありません。このまま、進みましょう!」
と、反対した。
「よし、やろう!」
曹操はみずから|撥《ばち》をとって、戦鼓を打ち鳴らした。曹軍の士卒は、それに励まされて、死力を尽して戦ったのである。
やはり曹純が言っていたように、やけくその強さはそう長く続くものではない。曹操軍が|断乎《だんこ》として攻撃の手を緩めないとわかると、袁譚軍はやがて精神的に疲れ、そのうちに総崩れとなった。
総帥の袁譚みずから城から出て戦ったが、ついに斬られてしまった。
こうして|冀州《きしゆう》は、名実ともに曹操の手にはいったのである。
この南皮の戦いは、厳冬のひどい作戦であった。河が凍って、兵員や軍需品をはこぶ船が通れない。そこで、付近の住民を徴用して、氷を割らせたのである。その徴用をきらって、逃げ出した者もすくなくなかった。曹操はそれを怒って、
「氷割りの作業を逃げた者は、帰順を申し出ても許すな」
という命令を出した。
戦争がすんだあと、氷割りから逃げた住民で、自首して出た者がいた。
「これは困ったぞ。おまえを許せば、わしが自分で出した命令に、自分で背くことになる。かといって、おまえを罰すれば、神妙に自首してきた者を殺すという、ひどいことになってしまう。……家に帰って、じっとひそんでおれ。役人にみつかるでないぞ」
曹操はそう言って顎をしゃくった。その男は涙を流して立ち去った。
冀州には厚葬の風習と、仇討ちをよろこぶ気風があった。曹操は冀州のあるじとなると、まっさきに、厚葬と仇討ちを厳重に禁じたのである。
袁尚は次兄の袁煕のいる故安城に逃げ込んだが、袁煕の部将であった|焦触《しようしよく》や、張南が反旗をひるがえしたので、席のあたたまるいとまもなく、二人は再び脱出して、|烏桓《うかん》族のなかに逃げ込んだ。
3
烏桓は烏丸とも書く。
ツングース族である。|匈奴《きようど》に追われて、烏桓山に逃げたので、そう呼ばれたのだ。
烏桓は当時、三つのグループに分かれていた。|丘力居《きゆうりききよ》の率いる遼西の烏桓、|難楼《なんろう》の率いる上谷の烏桓、そして遼東の属国の烏桓は|蘇僕延《そぼくえん》が統率していた。ほかにも|烏延《うえん》の率いる右北平の烏桓などがいたが、最も人数の多かったのは上谷のそれであった。
だが、遼西烏桓のリーダーの丘力居が死に、その子の|楼班《ろうはん》が幼少なので甥の|★[#足+搨の右側]頓《とうとん》が代わりに立った。この★[#足+搨の右側]頓は武略のある人物で、たちまち頭角をあらわして、三つのグループの盟主と仰がれるにいたった。
★[#足+搨の右側]頓の|擡頭《たいとう》は、袁紹と結んだからである。当時、袁紹は幽州の|公孫★[#王+贊]《こうそんさん》と争っていた。★[#足+搨の右側]頓は袁紹に烏桓を|助《すけ》っ|人《と》として売り込んだのである。
こうして冀・幽の戦いに、烏桓は袁紹側につき、公孫★[#王+贊]を破ることで大いに功績をあげた。その結果、★[#足+搨の右側]頓は烏桓族の主導権を握るようになった。
ともあれ、騎馬戦の巧みな烏桓族は、袁家陣営の重要な戦力となったのである。袁紹は勝手に彼らの首長に『|単于《ぜんう》』の位を授け、大いに懐柔につとめたのだった。
部将の焦触や張南の造反によって、袁煕、袁尚の兄弟が落ち行く先は、もはや烏桓族しかなかったのである。
烏桓が袁家兄弟を受けいれたということは、曹操を敵にまわしたということを意味する。
袁家兄弟が頼ったのは、袁家と最も密接な関係にあった遼西の烏桓であった。袁紹は烏桓を懐柔するために、部下の娘を自分の娘ということにして、単于に妻として与えることまでしていた。遼西の烏桓にとっては、袁家兄弟は自分たちの親戚だったのである。
このころの遼西の烏桓は、丘力居の息子の楼班がすでに成長していた。このグループは、首長代行の★[#足+搨の右側]頓によって強盛になったが、楼班が成人となったので、★[#足+搨の右側]頓は彼を単于に立て、自分はその下の王となった。
だが、実権はまだ★[#足+搨の右側]頓が握っている。まだ青二才の楼班にすべてをまかせるわけにはいかないのである。
だが、楼班は単于となったからには、自分が権力を行使したいと思っている。
袁家二兄弟が頼ってきたとき、★[#足+搨の右側]頓は、
「追い出しなされ、彼らをうけいれては危険ですぞ」
と言った。
「いや、それでは義が立たぬ。われら烏桓は、袁家と盟を結び、婚を結んだ。袁家の苦境に、背をむけては、人倫にもとることになる。仁義のうえからも、二人を追い出すことはできない」
若い楼班はそう言い張った。
(教育がまずかった。……)
★[#足+搨の右側]頓は唇をかんだ。
楼班の教育係に漢人が登用された。中原の動乱で、おびただしい数の漢人が、辺境の地に平和をもとめて流れ込んだ。烏桓族だけではなく、|鮮卑《せんぴ》族のあいだにも、おなじ漢人流入という現象がみられる。
遊牧騎馬の烏桓族は、しらずしらずのうちに、漢人化の傾向をみせている。文字のない烏桓族は、部族の子弟の教育を、一切、漢人にまかせていた。もともと烏桓は騎射、格闘の技を重んじて、文字による教育は軽くみていた。──そんなものは、漢人にまかせておけばよいと考えたのだ。
──文字が書ければ、なにかと便利であろう。ま、習わしておこうか。
というほどの、軽い気持だったのである。
ところが、漢人の教師は、烏桓の子弟に読み書きだけではなく、仁義や人倫なども教えてしまったのである。
そもそも烏桓の首長は、部族大会の推戴によって立つもので、けっして世襲制ではなかった。それが、いつのまにか世襲になっている。これも烏桓族の社会に、漢人が増えたからであろう。
「袁家の二兄弟をうけいれたなら、曹操がかならず烏桓を討ちにくる」
と、★[#足+搨の右側]頓は言った。
「討ちにくるなら、来るがよい。迎え撃とうではないか」
と、楼班は胸を張った。
「曹操は中原では最強の軍団である。わが烏桓は破られるやもしれませんぞ」
「破られようとも、われらは戦わねばならぬ。これは義戦である」
「義戦、かならずしも勝つとは限らぬ。義よりも、部族の生存を優先するべきではありませぬかな?」
「いや、部族が生きのびたところで、烏桓は仁義に背き、盟友を売ったと言われては、子々孫々、恥をかかねばならぬ」
「困りましたな。……」
★[#足+搨の右側]頓はそっと肩をすくめた。
若い楼班は、完全に漢人ふうの考え方になっている。もともと遊牧騎馬の集団生活をしてきた烏桓は、本能的に『利』に従って行動したのである。有利か不利か、それがすべての行動の基準であった。
『利』とは、部族が生きること、より良く生きることなのだ。|朔北《さくほく》のきびしい大自然のなかでは、それはとうぜんの|掟《おきて》であった。
それなのに、若い首長は、利よりも義に従って行動しようとする。
「困りましたな。……」と、★[#足+搨の右側]頓はくり返した。──「危ういことですぞ」
「ときには、危ういことでも、敢然とやらねばならない。★[#足+搨の右側]頓も、かつてはそれをやったではないか。なぜわしがやってはならんのだ?」
と、楼班は言った。
楼班は、かつて★[#足+搨の右側]頓が袁紹に加勢して公孫★[#王+贊]を撃ったことを、言っているらしいのだ。
だが、あれは危ういことではなかった。
★[#足+搨の右側]頓はあのとき、集められるだけの情報を集め、
──袁紹側が確実に有利。
と判断して、公孫★[#王+贊]を撃ったのである。
こんどの場合、袁家二兄弟に義理立てすることは、確実に不利としか思えない。
「われわれは、烏桓の子供たちのことも考えてやらねばなりませんぞ」
と、★[#足+搨の右側]頓は言った。
「そうだ。烏桓の子供たちが、世の笑いものにならないように、いまこそわれわれは仁義に従うべきである!」
|甲高《かんだか》い声で、楼班は言った。
「そのとおり!」
「仁義に従え!」
「一時の利に迷うて、後世のそしりを招いてはならぬぞ」
「われら、単于に従って|戟《げき》をとって戦おう」
「曹操、なにするものぞ!」
遼西烏桓の部族大会は、そんな若い声につつまれた。
★[#足+搨の右側]頓は悲しげに首を振った。
烏桓の若者たちは、漢人の倫理にどっぷりとつかってしまったようである。その倫理は漢人の社会でも、ただのたてまえであって、けっして厳重に守られているわけではない。漢人社会の実状を知らない烏桓の若者は、それだけ純粋にその倫理に傾倒し、それに身を捧げようとしている。
★[#足+搨の右側]頓にはもはやそれを抑える力はなかった。
4
袁氏の居城である★[#業+おおざと(邦の右側)]城を陥したあと、曹操は本拠を許都から★[#業+おおざと(邦の右側)]へ移した。一つには背後の荊州にいる劉表を意識して、そこから遠ざかるという意味があった。★[#業+おおざと(邦の右側)]城は黄河の北にあるので、荊州から攻めるには渡河する必要があり、急襲はできないのである。
だが、それよりも大きな理由は、袁氏の本拠である★[#業+おおざと(邦の右側)]城のほうが、規模が大きく、これからの町づくりにも都合がよかったことにある。
遼西烏桓に逃れた袁煕、袁尚の兄弟をどうするかについて、★[#業+おおざと(邦の右側)]城の曹操陣営では、かなりの激論があった。
──袁兄弟はもう辺境の遼西まで追ったのである。深追いして、烏桓と下手に戦えば、荊州の劉表がここぞとばかり、背後から襲いかかるであろう。いまは出兵すべきときではない。
という意見が強かった。
だが、|郭嘉《かくか》は主戦論を唱えた。──
「袁氏は長年にわたって、四州(冀・青・幽・|并《へい》)に君臨し、目をかけた家臣や人民が多うございます。袁兄弟健在ときけば、旧臣が続々と遼西に集まるでしょう。しかも、烏桓の騎兵の強さは定評があります。いまわが軍は、四州の民に威を加えただけで、まだ徳を施すところまで行っておりません。烏桓が兵をうごかせば、正直申しまして、四州の人心は袁兄弟に傾くおそれがございます。いま相手はまだ用意が整っておりません。いまのうちに撃つべきです」
「荊州の劉表が、我が背後で兵をうごかせばどうなるのか?」
心配そうな表情で、一人の部将がそう訊いた。
「劉表は評論家にすぎない。兵をうごかすことはないだろう」
「劉表は評論家かもしれないが、あそこには劉備がいるぞ。あの大耳の将軍、一筋縄では行かぬ。劉備が劉表に出兵をすすめることもありうるではないか」
「すすめられても、劉表は出兵に踏み切ることはあるまい」
郭嘉は言下にそう断言した。
「どうして、それがわかるのだ?」
「いま劉表は、居候の劉備に、荊州を乗っ取られることをおそれている。かりに劉備に兵を授けるとすれば、それは劉備の力を増すことになる。そして、もし劉備に兵を与えずに留守をさせるなら、彼はそれに乗じて、荊州を取ってしまうかもしれない。いずれにしても出兵はできないであろう」
郭嘉が言い終えると、曹操は家臣たちを見渡して、
「議論は尽されたように思う。論争はこれにてうち切る」
と言った。
群臣は|固唾《かたず》をのんで、最後の決定を待っている。曹操はそれをはぐらかすように、息子の|曹丕《そうひ》のほうに目をやって、
「ところで、丕は発言しなかったが、どう思う?」
と訊いた。
曹操も五十の坂を越えていた。後継者を仕込むことを、そろそろ考えねばならぬ。
「玄徳(劉備の|字《あざな》)は、出兵をすすめはいたしますまい」
と、曹丕は答えて、にやりと笑った。
(気味のわるいやつだ。……)
曹操は我が子ながらそう思った。
劉備との地下同盟は、二人のあいだだけの秘密であった。ところが、どうも曹丕がそれに気づいているようなかんじがする。いまの笑い方も尋常ではない。
(まだ二十にもならぬのに、この鋭さはどうだ。……いや、鋭さよりも、こやつの冷たさがおそろしいわ)
曹操は自分のなかに、冷たいものがあることを自覚していた。だが、父親以上の、徹底した冷たさを、この若者の胸にかんじることがあった。
「よし、きまった。遼西へ遠征だ」
曹操は立ちあがって言った。
曹軍の烏桓討伐が遅れたのは、その前に高幹の造反があったからである。
高幹は袁紹の甥で、并州の刺史であった。もちろん、袁紹によって任命されたのである。★[#業+おおざと(邦の右側)]の落城の二カ月後に、高幹は曹操に降った。曹操は彼をそのまま、もとの并州刺史にしておいた。ところが、まもなく反旗をひるがえしたので、曹操は息子の曹丕に★[#業+おおざと(邦の右側)]の留守をまかせ、|壺関《こかん》というところで高幹を包囲した。
壺関は落城したが、高幹は脱出して、匈奴にはいった。彼は匈奴を巻きこんで、曹操ともういちど勝負しようと思ったのである。
匈奴では、左賢王の豹が、すでに帰国していた。彼が応対に出たが、
「我が匈奴は、曹公とは友好関係にある。曹公に背くことはできぬ」
と、一言のもとにしりぞけた。
高幹はこうなれば、荊州の劉表を頼るしかないと、南へむかったが、途中で|上洛都尉《じようらくとい》の|王★[#王+炎]《おうたん》という者に捉えられて斬られた。
5
「父上、どれほどのものを掘ればよいのですか?」
と、曹丕は訊いた。
「なにを掘るのだ?」
と、曹操はきき返した。
(こやつ!)
彼は絶句するおもいだった。
──池を掘っておけ。
烏桓討伐に出るまえに、曹操は留守を預かる息子の曹丕にそう命じて置くつもりであった。ところが、彼が口にする前に、息子は掘るべき池の大きさをたずねている。池を掘ることなど、いうまでもないことだといった顔つきである。
(おれは言ったのかな?)
一瞬、彼はそれを口にしたことがあるような錯覚にとらわれた。だが、いくら考えても、そのことは誰にも言っていない。
「きくまでもないだろう」
と、曹操は答えた。
またしても気味が悪くなった。
冷徹きわまりない目で見るから、人の心がこれほどはっきりと読めるのであろう。
たしかに曹操は、★[#業+おおざと(邦の右側)]城のなかで池を掘ろうとしていた。彼はすでに、烏桓を討伐したあとの戦争を考えていたのである。
──荊州の劉表。
戦いの相手を、彼の家臣たちはそう考えていた。仮想敵である。だが、曹操は劉表一人ではないと読んでいた。評論家である劉表は、けっして一人では、曹操と戦おうとしないであろう。だが、戦いたくなくても、曹操は攻めてくる。だから、いま劉表は必死になって、仲間をさがしているはずだ。
──江東の孫権。
この人物も、いつかは曹操と雌雄を決しなければならない。とすれば、早く仲間にひきいれておこうと考えるのに相違ない。
荊州と江東の連合軍。──曹操はつぎの相手をそうみていた。そして、戦場は長江(揚子江)一帯になる。すなわち、水戦とならざるをえない。
曹軍は水戦の経験が乏しい。これから、けんめいに水戦の演習をしなければならないのである。★[#業+おおざと(邦の右側)]城の付近には、水戦の適当な演習場はない。なければ、これから造ればいいではないか。──大きな池を城内に掘れば、昼夜兼行の水戦演習ができる。
「はい、わかりました」
曹丕は水戦演習用の池が、どのていどの大きさか、それさえもわかっていたのだ。
「場所はどこがよいかな?」
曹操はすでに場所をえらんでいた。だが、彼は息子をテストしようと思って、わざと訊いた。
「|玄武苑《げんぶえん》のほかにはございませんね」
と、曹丕は答えた。
それはまさに曹操が予定していた場所だったのである。
「こやつめ。……」
曹操はそう呟きながら立ち去った。
「ふ、ふ、ふ……」
曹丕は父のすがたが見えなくなってから、長い含み笑いをした。それから、くるりとふりかえって、廊下を歩きだした。廊下を曲がるところに、一人の女が立っていた。
姓は|甄《しん》、名は|洛《らく》。──かつては袁煕の妻であり、いまは曹丕の妻となった女性である。夫婦となって、この二人はもう一年以上にもなっていた。
「父上は、なんだか気を悪くされていたようでございますよ」
と、甄氏は言った。
「ほう、わしのことを案じてくれるのか。それはかたじけないことじゃ」
曹丕は妻の肩に手をかけ、抱きしめようとした。甄氏はもがいた。もがいたところで、どうしようもなかった。二十歳の曹丕は、年上の妻をその場におし倒して、肩先から手をさし込んだ。
「あら……」
甄氏は|喘《あえ》いだ。曹丕の指は、すでに彼女の乳首を|弄《もてあそ》んでいた。
(ふしぎな人。……)
甄氏は目をあけて、すぐそばまで迫っている、若い夫の顔をみつめた。夫は荒い息づかいをしていた。情欲のほむらが、その息をつつんでいるようだった。──それなのに、夫の目のなんと|醒《さ》めていることか。息が燃えているだけに、冷えた目の光は、おそろしくみえた。
「父上はそなたの前夫を討伐に行かれるのじゃ。……|顕奕《けんえき》(袁煕の字)どのの命は、あといくばくもない。……洛よ、どのような気がするかな?」
曹丕の冷たい目が、彼女の心のなかをのぞきこんだ。彼女は自分の心が、とたんに凍ってしまったようにかんじた。
「洛は虫けらでございます」
消え入るような声で彼女は言った。その言葉に万感がこめられていた。
自分の意思を持つことが許されず、物品のように奪い合われる。草むらにかくれて、人間の目から逃れた虫けらのほうが、まだどれほどか自由であることか。
「あわれなことを申すな」
と、曹丕は笑った。
この若者の笑顔は奇妙であった。笑っている自分を、冷たくのぞきこむ目が、ほかならぬ笑顔のまん中にあるのだ。
「あわれなこと、虫けら以下でございましょう。……」
「それを申すな!」
叫ぶように言って、曹丕は力にまかせて彼女のからだを抱きしめた。
「痛うございます」
喘ぎながら甄氏は言った。
「痛いぐらいは辛抱せよ。いまに、そなたを皇后に立ててやろう」
曹丕はさすがに、この言葉は小声で、彼女の耳のなかに送り込んだ。
皇后に立ててやる。──これは自分が皇帝になるということにほかならない。大逆の言葉ではないか。
「言葉をお慎みになって……」
「わしとそなたのあいだ、なにを遠慮することがあろう。心に思ったことは、そのまま口に出したいものだ。いま、わしは正直なことを申した」
「おそろしゅうございます」
「わしはまず父上から後継者に指名されねばならない。……父上はもう、わしを指名するしかないだろう」
と、曹丕は言った。
父の曹操は、いささか|僭上《せんじよう》の言動はあっても、献帝を一応、天子として立てている。いまだかつて、大逆に類する言葉を口にしたことはない。だが、息子の曹丕は、後漢の王朝にとってかわることを考えていた。
──新しい世界を築いてやろう。
その気持が父親以上に強かった。
曹丕は片手を彼女の背中にさしいれ、もう一方の手で、また妻の乳房をまさぐった。
荒い息づかいが、いつのまにか消えていた。
甄氏はふしぎそうに、夫の顔を見た。
「誰かが見ておる」
と、曹丕は|囁《ささや》いた。彼の唇のあたりに、冷笑がうかんでいた。
「ほんと……」
甄氏はおびえた。このような、あられもない姿を見られたことよりも、夫のあの大逆の言葉をきかれたのではないか、ということのほうが気にかかった。
「もう逃げて行った。……さきほどまで、われらの営みを、息を殺して見ておったのだ」
「恥ずかしゅうございます」
「盗み見するほうが恥ずかしいはずだ」
「でも、あなたは、おそろしいことを口にされておりました」
「案じるな。そのようなこと、けっして口外するおそれのない人物じゃ」
「誰なのか、おわかりなんですか?」
「|植《しよく》だったよ」
と、曹丕は言った。
「ま、植さまが……」
曹丕と同腹の弟曹植は、このとし十五になったばかりである。
二十数人もいる曹操の子のなかで、後継者といえば、まず曹丕と曹植の二人にしぼられてくる。兄弟でありながら競争者でもあったのだ。
(そういえば……)
甄氏は誰にも言っていないが、ときどき、曹植の視線に熱をかんじることがあった。
(ひょっとすると、この人はそれを知っているのかもしれない。……植さまがあたしたちを見ていることも。……いや、わざと見せつけたのではあるまいか。……)
甄氏はしだいに息苦しくなった。
6
遼西烏桓の根拠地は柳城であった。烏桓や|鮮卑《せんぴ》といったツングース系の部族は、匈奴などモンゴル系にくらべると、定着性がいくらか強い。そのうえ乱を避けた漢人の流入が多いので、定着の傾向はますます強まっている。したがって、城壁に囲まれた柳城に住んでいた。『漢書』の地理志遼西郡十四県のなかに、すでに柳城県の名がみえる。
曹操の出兵のしらせをきいて、柳城内では|籠城《ろうじよう》か出戦かで、意見が分かれた。
「山野で戦うのが、われら烏桓のやり方であった。城を守ったことなどはない。城を出て迎え撃つべきである」
★[#足+搨の右側]頓はそう主張した。
袁家の兄弟を保護するかどうかという問題では、漢人的倫理論が勝った。だが、戦争となると別である。
烏桓は漢人にたいして、『文』ではコンプレックスをもっているが、『武』については、かならずしもそうではない。
──山野を駆けめぐって戦った。
という民族的な自負がある。
後漢の初期には、烏桓はあの勇猛をもって知られた匈奴を撃破したこともあった。後漢安帝(一〇七─一二四)の時代には、烏桓は鮮卑、匈奴らと連合して、漢の代郡、上谷、|逐《たく》郡、五原などの地方を侵略したものである。このとき、漢は|何煕《かき》を司令官として討伐にむかわせた。近衛兵を動員しての大遠征で、このとき匈奴は漢に降った。だが、烏桓は降伏をいさぎよしとせず塞外にひきあげた。
そのような物語が、語り継がれている。
倫理については漢のそれを基準とするが、戦争にかんしては祖法に従う。──これが烏桓の平均的な考え方であった。
「戦いについては、すべてを★[#足+搨の右側]頓にまかせようではないか」
若い単于の楼班は言った。
「賛成!」
「公孫★[#王+贊]を破った★[#足+搨の右側]頓だ。曹操をも踏みつぶしてくれるぞ」
「出戦だ、出戦だ!」
部族大会は、戦事については★[#足+搨の右側]頓に一任することに決した。
「一切をまかせるのですな?」
と、★[#足+搨の右側]頓は念を押した。
「そのとおりだ。戦いについては、わしも★[#足+搨の右側]頓の命令に従う。一切をまかせたのだ」
と、楼班は言った。
「では、われら烏桓の全兵力をもって、曹軍に対することにする。曹操も荊州に備えもせず、ほとんど全軍を挙げて来攻したという。われらも城に兵をとどめず、戦える者、一人のこらず出戦しようではないか」
★[#足+搨の右側]頓のこの宣言は、歓呼の声でむかえられた。
「兵は神速をたっとぶ。一日も早く出陣できるように、ただちに準備にとりかかろう」
戦争指導については、彼は独裁権を認められたのである。彼の命令には、誰一人背く者はいない。烏桓の人たちは、よろこんで彼の命令に従った。
遼西烏桓が、今日の強盛をみたのは、すべて★[#足+搨の右側]頓の指導よろしきをえたためである。袁紹と結び、公孫★[#王+贊]を破り、天下の政局に大きな影響を与えた。まことに★[#足+搨の右側]頓こそ、民族の英雄である。しかも、さきの単于の息子が幼少のころは、それをりっぱに補佐し、成長するのを待って単于に立て、自分は一歩退いた。なかなか出来ることではない。
人びとは★[#足+搨の右側]頓が偉大な人物であることを、改めて思い出し、彼に従えばまちがいはないと安心した。
遼西烏桓全員の信任をうけて、★[#足+搨の右側]頓は作戦を指導した。
(おかしいぞ。こんなに進んでよいものだろうか?)
戦争の経験者が、そんなふうに首をかしげることもあった。出戦はよいが、あまりにも遠く城をはなれすぎているのだ。だが、人びとは★[#足+搨の右側]頓を信じ切っていた。
(彼はなにか考えがあって、こうしているのであろう)
と思ったのである。
彼はこの戦いでは、|斥候《せつこう》を重視した。漢人農夫を使って、しきりに曹軍の進軍コースをしらべた。
大★[#さんずい+凌の右側]河に沿って白狼山という山がある。一名を白鹿山というが、その荒々しい山のたたずまいは、やはり鹿よりも狼のほうが似合っている。
遼西烏桓軍はその山をめざした。
かなりの強行軍で、
──休憩をもっと長くしなければ、兵が疲れてしまうではありませんか。
さすがにそう進言する幕僚もいた。だが、★[#足+搨の右側]頓は首を横に振って、
「これは演習ではない。ほんものの戦争なのだ。無理をしなければならぬときもある」
と、そのまま前進を強行した。白狼山に近づくと、彼は、
「散開せよ」
と命じた。
烏桓は槍ぶすまをならべて突っ込むといった、密集作戦を得意としていた。まばらに散って戦うことには慣れていない。集団で遊牧していた、長い歳月の生活様式は、この民族の性格を密集型にしていた。すぐ近くに仲間がいないと不安であり、思う存分力を発揮することもできない。
それなのに★[#足+搨の右側]頓は、人も馬も疲れはてた部隊に、散開して進むことを命じたのである。
(なにか考えがあってのことだろう)
幕僚たちも、まだそう思っていた。
「上から下を攻めれば負けることはない」と、★[#足+搨の右側]頓は言った。──「だから、白狼山に登るのだ」
誰もが白狼山を|迂回《うかい》するものとばかり思っていた。だが、総司令官は登山を命じた。騎兵の多い烏桓軍は、山岳戦を得意としない。それなのに、あえて山道を登ろうとする。
(高みに陣を取ることだな)
幕僚たちも、すこしは理解できた。
とにもかくにも白狼山に登り、そこで曹操の軍隊を待ちうける。山麓を通りかかったら、わっと上からおし寄せるのだ。
(そのため、敵のうごきを、綿密に調べていたのだな)
と、総司令官の行動が納得できた。
ほとんど道のない山だから、密集態勢を解き、山の斜面いっぱいにひろがって登ったほうが早い。──散開の命令も、そんなふうに解釈できた。
7
「山頂に人の気配が……」
従軍経験の豊富な将校が、顔色を変えて、★[#足+搨の右側]頓にむかって言った。
白狼山に、無理して登るのは、高みから敵を攻めるためである。こちらには傾斜という、大きな味方がつく。斜面を駆けおりる勢いは、予想以上の力を生むものなのだ。
山頂に人のいる気配がする。──もしそれが曹操軍であれば、烏桓軍が無理をして手に入れようとした『高み』の優位を、そっくりそのまま敵に渡すことになる。
「まさか……」
★[#足+搨の右側]頓は山頂を仰いで呟いた。
「まさかとは思いますが、もしそうだったら一大事です。……しばらくようすを見ましょうか?」
と、その将校は言った。
あれほど曹操の軍隊の行進速度や位置を調べていた★[#足+搨の右側]頓が、かんじんなときになって、相手を見失い、それがあろうことか、こちらが登りかけている山の上にいるとは。──烏桓軍の誰もが信じられなかった。
たった一人だけ、事態のわかっている人物がいた。──★[#足+搨の右側]頓その人である。彼は山上に曹軍がいることなど、百も承知であった。
いまごろ山頂に陣を張るころと見はからって、彼は烏桓軍に登山を命じた。──また、この時期に間に合うように、行軍を急がせてきたのである。
烏桓軍は、人馬ともに疲れはて、喘ぎながら白狼山の斜面を登っている。しかも、得意の密集態勢を解いて、ばらばらになっているのだ。──
烏桓軍の幕僚たちが、「まさか……」と言い合っていたが、山頂の石かげでも、曹操が下をうかがって、
「信じられん。……」
と、呟いた。
★[#足+搨の右側]頓が曹軍の位置を、たえず調べていることは、曹軍でも早くから気づいていた。
──こんなにしつこく調査されては、もう逃げもかくれもできない。
曹軍は自軍の位置は、もうはじめから烏桓側に知れている、という前提で行軍したのである。
白狼山上に着いたときも、曹操は烏桓軍はとうぜん知っているものと思ったのである。山頂は展望がひらけているので、作戦を立てやすい。ゆっくり攻撃法を検討するための登山である。曹軍が山上にいると知っておれば、烏桓軍は山に近づかないはずである。
それなのに、烏桓軍はみるみるうちに、白狼山の麓まで|辿《たど》り着いた。強行軍のために、全軍くたくたの状態である。そればかりか、自慢の密集態勢を解いて、散開しながら登ってくる。──
(携帯兵糧の乏しい遠征軍には、籠城戦術で対するのが最上の策である。つぎの策は、城の近くで迎え撃つことだ。それなのに、烏桓軍は、最もまずい作戦をとっている。柳城をこんなに遠く離れて、敵のいる山に登ろうとしている。……)
信じられないことだった。
だが、それは曹操にとっては、歓迎すべき事態であるといわねばならない。こんなにうまい工合に、こちらの術中にはまってくれるとは。──信じられないのは、ことがあまりうまくはこびすぎることなのだ。
(敵に奇策があるのか?)
曹操が総攻撃の命令を遅らせたのは、それをたしかめるためだったのにすぎない。
かつて柳城に住んだことのある漢人の道案内人が、石かげから烏桓軍を眺めて、
「その白い馬に乗った、|兜《かぶと》のうえに赤い房をつけたのが★[#足+搨の右側]頓です」
と、小声で言った。
「なに、★[#足+搨の右側]頓が先頭に?」
曹操にとっては、これもまた信じ難いことであった。凡庸の指揮官ならともかく、★[#足+搨の右側]頓ともあろうものが、こんな愚策をとるとは、考えられないことである。
しかし、考えられないことが、現実に目のまえにくりひろげられている。
曹操はゆっくりと手をあげた。そして、頭上でそれを左右に振った。──総攻撃の合図である。
そのころ、★[#足+搨の右側]頓は白馬のうえで目をとじていた。──山上から、やがてわき起こるであろう|喊声《かんせい》を待ったのである。
(おれはまちがっていない。これが、烏桓を救う唯一の方法なのだ。……)
柳城を出発して、この白狼山に来るまで、途中でなんどもくり返した自問自答を、彼はもういちどやり直した。──おそらく、これが最後の自問自答となるだろう。
袁家二兄弟をうけいれたときから、烏桓族の危機が始まった。二兄弟追放を主張した★[#足+搨の右側]頓の意見は、『仁義』論に押し切られて、採用されなかった。
彼が全権を|委《まか》されるのは、戦争になってからである。彼は目前の勝敗よりは、烏桓の生きのびる方法を考えた。
父親を殺されたあと、曹操が徐州でとった皆殺し戦法を、★[#足+搨の右側]頓は知っていた。見せしめのための大虐殺を、曹操ならやりかねない。もし烏桓がその対象になれば、部族は滅亡してしまうのである。
有利であるべき籠城戦を避けたのも、そのためであった。当時は有利であるかもしれない。だが、綜合力からみて、柳城が曹操の大軍を、いつまでも支え切れるわけはないのだ。敗北の時期が長びくだけなのだ。飢えのため、柳城内ではおびただしい死者が出るだろう。そして、落城のとき、曹操が皆殺しにかかれば、遼西烏桓はこの地上に存在しなくなってしまう。
★[#足+搨の右側]頓は烏桓の全兵力を率いて、できるだけ遠くまで出てきた。柳城には一兵ものこっていない。戦力ゼロであるから、籠城戦も不可能になっている。
──負けっぷりの良さで、曹操に認めてもらおう。
こんどの出戦で、★[#足+搨の右側]頓はそれを考えた。さんざん手を焼かせると、相手も腹を立てて、皆殺しなどという残忍なことを考えるのだ。あっさりと、いささかおかしみのある、愛嬌のある負け方をすればよい。──それだけが、遼西烏桓を救う、唯一の、そして最も確実な方法であろう。
★[#足+搨の右側]頓は目をあけた。
そばに若い単于の楼班がいる。彼は楼班にむかって言った。──
「もし万一のことがあっても、柳城に退却してはなりませんぞ」
「万一とは?」
「戦争にさいしては、あらゆる場面を想定するものです。退却もありえます」
「ほう、それはわかるが、なぜ柳城へ戻ってはならぬのか?」
と、楼班は訊いた。
「襄平に逃げ込んで、公孫康を頼るのです。公孫家を巻き込んで、曹操にあたれば、また盛り返せるでしょう」
★[#足+搨の右側]頓は笑いをうかべながら言った。
彼の声が終わるか終わらないかに、天地をどよもす大喊声が、山上にわき起こった。
曹操軍の総攻撃であった。──
8
烏桓軍は算を乱して逃げた。はじめから勝負にならない。烏桓軍は最も劣悪な状態で、最高に有利な条件を整えた相手と戦ったのである。
勝敗は一瞬にして決したといってよい。
曹操軍の前鋒は張遼であった。彼は|雁門《がんもん》の出身だから、匈奴との境界に育ち、塞外民族のことをよく知っていた。はじめ呂布に仕え、その後、曹操に降ったのである。曹軍のなかでも、屈指の猛将なのだ。
曹操は張遼に軍旗を授けた。彼は軍の先頭に立ち、その旗をひるがえしながら、山道を駆けおりた。
「その白馬のうえの男こそ、敵の総大将ぞ!」
「★[#足+搨の右側]頓を討ちとれ!」
前鋒軍はそうおめきながら突進した。
烏桓軍は総崩れとなったが、白馬に|跨《また》がったその男は逃げようとしない。馬上でちょっと腰をひねり、剣を抜いた。そして、それをものうげに頭上にふりかざした。
張遼は馬上で身をかがめ、★[#足+搨の右側]頓めがけて、まっしぐらに突っ込んだ。坂の上から襲いかかるのである。すさまじい勢いであった。張遼の構えた槍は、狙いたがわず、★[#足+搨の右側]頓の胸板を刺した。
★[#足+搨の右側]頓のからだは|鞍《くら》からはじきとばされ、山道をころげ落ち、草むらでとまった。
「|退《ひ》け! 退け!」
「柳城ではないぞ! 襄平だ!」
「襄平へ落ちるのだ」
「公孫家を頼って行け!」
★[#足+搨の右側]頓は、そう叫ぶ烏桓語を耳にしながら、しだいに意識を失った。
曹操の前にはこばれたとき、彼はかすかに脈があったが、もはや意識は戻らなかった。
「この男を見とってやろう」
と、曹操は言った。
★[#足+搨の右側]頓はこうして、敵将曹操の前で、息絶えたのである。
「|文遠《ぶんえん》(張遼の字)どの、みごとであったのう」
「目がさめるようじゃった」
「本日の合戦の殊勲第一ぞ」
諸将は★[#足+搨の右側]頓を討ち取った張遼を、口ぐちにそう讃えた。曹操も、
「めざましい働きであった」
と、|褒《ほ》めた。
だが、曹操は心のなかで、死んだ★[#足+搨の右側]頓の心跡を|辿《たど》っていた。どうやら、彼にはこの烏桓の英雄の心が読めてきたのである。
烏桓が袁家二兄弟をうけいれたとき、曹操は、
(ばかめ! 野蛮人はなにもわかっておらぬのだな、自分のやっていることが、どんな結果を招くかを)
と思った。そして、
──遼西烏桓を徹底的に|掃蕩《そうとう》して、曹操の敵をかくまうようなやからは、このようになるのだと、見せしめにしてくれる!
と、決心したのである。
だが、遼西烏桓にも人物がいることがわかった。おそらく★[#足+搨の右側]頓は、袁家二兄弟追放については、若い単于の賛成がえられなかったので、次善の策をえらんだのであろう。
安全な負け方。──
★[#足+搨の右側]頓はそれを考えたのだ。
籠城も悲惨だし、出戦しても、戦力が伯仲すれば、血みどろの戦いとなる。戦端をひらいたとたん、勝負がすでにきまったも同然であれば、負けるほうは戦意を喪失して、ひたすら逃げるであろう。烏桓は騎馬にかけては天才的な部族だから、逃げ足はきわめて速い。曹操の中原の騎兵隊では、とても追いつけないはずである。
★[#足+搨の右側]頓が苦心したのは、はじめから、
──勝負あった!
という状態をつくることだった。自軍を最も不利な条件において、有利な態勢の敵にあたらせるのだ。敵軍の位置を、あれほど熱心にさぐったのは、そのためだったのである。
白狼山の戦いで、曹操軍は大勝を博したが、烏桓軍の死傷者は意外にすくなかった。
「逃げ足の速いやつらだ!」
と、曹軍の将兵は口惜しがった。
全軍が風のごとく逃げてしまえば、曹操はそのことで怒るかもしれない。適当な収穫を相手に許したほうがよい。
──わしの死体を、曹操にくれてやろう。
★[#足+搨の右側]頓はそう考えたのにちがいないのだ。
曹操はじっと★[#足+搨の右側]頓の死顔をみつめた。彼はいまにも死んだ男が口をひらいて、
──遼西烏桓は、これくらいで赦してくれぬか。そこもとに|楯《たて》つこうとした馬鹿共は、そのうちに首になって送られてくるのだから。……
と言うのではないかという気がした。
「わかったよ。……わかったよ。……」
曹操は思わず、死人の声に返事をした。
「なにがわかったのでございますか?」
それを耳にした幕僚が、きょとんとした顔で訊いた。
「いや、なんでもない」と、曹操は言ってから、「この男、丁重に葬ってやれ」と、つけ加えた。
「袁家の兄弟は、烏桓軍とともに、襄平方面へ逃げました。ただちに襄平攻撃の用意をいたしましょうか?」
柳城へ無血入城したあと、幕僚がそう訊くと、曹操は、
「その必要はあるまい」
と、答えた。
「なぜでございましょうか?」
「襄平の公孫度は井のなかの蛙であったが、もう死んでしもうたわい。息子の公孫康は、それほど馬鹿ではあるまい。そのうちに、袁家兄弟の首が送られてくるだろう」
曹操は笑いながらそう言った。
はたして数日後、襄平の公孫康のところから、袁煕、袁尚および楼班単于など烏桓首脳たちの首が送られてきた。
華北に覇を唱えた、さしもの名門袁家、ここに完全に滅びたのである。
遼西烏桓に属した二十万の人たちは、曹操に降って赦された。上層数人の首とひきかえに、烏桓族は生きのびることができた。
作者|曰《いわ》く。──
白狼山の戦いは八月のことである。曹操軍が河北省の易水まで帰ってきたのは、すでに十一月であったと記録されている。むろん陰暦のことで、東北の天地はもう酷寒であった。
ちょうど|ひ《ヽ》で《ヽ》り《ヽ》つづきで、二百里水も無く、食糧も乏しく、数千匹の馬を殺して食糧とし、地下三十余丈を掘って、やっと水を得たという難行軍であった。
烏桓討伐には賛否両論あり、曹操は賛成論を採って出兵した。だが、帰還後、遠征反対論者を呼び出して、
──このたびの出兵はまことに苦しかった。成功したのはまったく|僥倖《ぎようこう》によるもので、ほんとうなら失敗したところだ。卿らはよくぞ反対してくれた。これからも遠慮せずに|諫言《かんげん》してもらいたい。
と、厚く賞した。
暫操の巧みな部下操縦ぶりの一端が、このエピソードによってうかがうことができる。
[#改ページ]
われ|軍師《ぐんし》を|得《え》たり
1
|黄鶴《こうかく》 西楼の月
長江 万里の|情《じよう》
春風 三十|度《たび》
空しく|憶《おも》う 武昌城
………………
五百数十年後に、唐の詩人李白がそう|詠《よ》んだ長江(揚子江)は、歳月を|超《こ》えて悠々と流れ、誰の胸にも|遙《はる》かな想い、すなわち『万里の情』を起こさせる。
長江のほとりに、新しい|浮屠祠《ふとし》(仏教寺院)が建てられたときいて、五斗米道の教母少容は、陳潜を連れて南にくだった。
それは|沙★[#羊+次(羊が上、次が下)]《さい》県にあった。
漢水が長江に流れこむ地点の南岸、いまの武昌である。
「ずいぶんふえましたな。……」
陳潜はため息まじりで言った。|歎《なげ》きよりも、感服の響きのほうが強い。いま各地で、外来の仏教の寺院が急速にふえつつある。
「考えねばならないことです」
と、少容は言った。
「二十年あまり考えてきました」
陳潜はもう四十の半ばである。若く見えるといっても、少容も六十を越していた。髪はすでに真っ白だが、顔にはふしぎな|艶《つや》があった。
「まだまだ……二十年では足りませぬ」
少容は浮屠祠を仰いで言った。
このころの仏寺は、塔が中心であった。
「|義舎《ぎしや》はどこに建てましょうか?」
と、陳潜は|訊《き》いた。
義舎とは、無料宿泊所のことである。難民や貧民を収容し、衣食を供給する福祉施設にほかならない。
「|江《こう》の対岸がよろしいでしょう」
と、少容は答えた。
中国では、ただ『河』といったときは黄河のことで、ただ『江』と呼ぶときは長江──揚子江を指す。
仏寺も一種の福祉施設であった。長江の南岸に、仏教がそれをつくるなら、道教はその北岸におなじものを建てようというのだ。
武昌の対岸は漢口だが、当時は夏口と呼ばれていた。|陝西《せんせい》省の|★[#表示できない。同梱hihon04-ben.jpg参照)]《べん》県に源を発する漢水が、そこに流れ込んでいる。漢水の揚子江寄りの部分は、そのころ夏水と呼ばれていたので、それへの入口という意味で、夏口と名づけられたのだ。現代の地名の漢口も、漢水への入口という意味にほかならない。
このあたりは、孫権と劉表の両勢力圏の境界にあたっている。たえず国境紛争のおこる場所なので、難民を収容する施設がとくに必要であった。
夏口には、劉表の部将の|黄祖《こうそ》が駐屯していた。
黄祖は老将である。十七年前、劉表の命令で孫権の父孫堅と戦い、|★[#山+見]山《けんざん》で孫堅は流れ矢にあたって死んだ。そのため、孫権は黄祖を、
──父の|仇《かたき》。
と憎み、しばしば出兵して撃退した。だが、国境における局地戦争なので、老将黄祖はまだ夏口にがんばっている。彼の下には、海賊あがりの|蘇飛《そひ》や|陳就《ちんしゆう》といった勇猛な部将がひかえていた。
江東を切り従え、地盤を踏みかためた孫権軍団では、『西進論』が盛んであった。
孫権が西へ進もうとすれば、|荊州《けいしゆう》の劉表と衝突しなければならない。そして、劉表陣営の先頭にいるのが、父の仇の黄祖であった。
──|復讐《ふくしゆう》の剣を磨くこと十七年。
孫権はじゅうぶん準備を整えていた。
去年も黄祖を撃ったが、すぐに引き返した。
孫権の母の呉氏が死んだのである。
「あの小僧のおふくろが死んで、ほっとひと息ついたが、そのうちにまた攻めてくるじゃろう。面倒なことよ」
黄祖はそう言って|磊落《らいらく》そうに笑った。
少容と陳潜が、義舎建設の許可をもとめるために面会したときも、黄祖は歯の欠けた口を大きくひらき、自分の首をたたきながら、
「この首、まだまだあの小僧に呉れてやるわけにはいかんぞ」
と、|呵々《かか》大笑した。
豪放にきこえる黄祖の笑い声のなかに、少容も陳潜も、衰弱をかんじ取り、思わず顔を見合わせた。
「どうじゃな、天下の形勢は?」
黄祖は二人にそんな質問をした。
仏教や道教の伝教者は、各地を渡り歩くので、いろんなことを知っている。人びとは彼らから、さまざまな情報を得ようとした。とくに天下を望む豪傑たちは、彼らの話をきくのに熱心であった。
少容がどの陣営へ行っても、優遇されたのは、貴重な情報源だったからである。
「曹公は|遼西《りようせい》から凱旋したあと、|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》の玄武苑につくりました大きな池で、水戦の訓練をしております」
と、少容は最も重要な情報を告げた。
「曹操のやつが水戦を?」
黄祖は鼻をピクピクうごかすと、はじけるように笑った。その笑いは、なかなかとまらない。陳潜には黄祖の|喉《のど》のなかまで見えた。
(やはり二流の人だ。……)
彼はそう思った。
これが曹操や劉備であれば、根掘り葉掘り、真剣に質問を浴びせてくるだろうに。
「おかしい。まったくおかしい。……ほかに、もっとおかしい話はないかな?」
やっと笑いをおさめた黄祖はそう訊いた。
「ほかには、べつにございません」
少容はそう答えて一礼した。
ほかにも重要な情報はあるが、相手はそれを告げるに値しない人物のようである。早く辞去して、義舎の建設にかかるほうが、気が利いているのだ。
「黄将軍の首は、そんなに長くつながらないでしょうね。……」
帰りみち、陳潜はそう言った。
「あの方は、天下の形勢には縁のない人ですね。天下のことどころか、味方の陣営のこともご存知ない。……」
少容は歩きながら、左右に目をやった。義舎をどのあたりに建てればよいか、その場所を物色していたのである。
乱世の庶民の心のよりどころとして、外来の仏教さえうけいれられた。それにしても、中国に生まれ、この地の風土に根ざした道教が、やや不振であるのは、いったいどうしたことか。
漢末の道教は大別して、『太平道』と『五斗米道』の二つに分かれる。前者はきわめて政治的かつ攻撃的で、黄巾の乱をおこして、弾圧された。|巴蜀《はしよく》(四川省)を地盤とする後者は、政治の中心から遠く離れていたためか、政治に深入りせずに、いままで生きのびることができた。少容はこの五斗米道の教母として、仏教の行き方を学び、おもに福祉の仕事に力をいれてきたのである。
「戦いは近うございますな」
陳潜は|憮然《ぶぜん》とした面もちで言った。各地を旅行する彼には、天下の形勢がよくわかっていた。
|官渡《かんと》の戦いに比すべき大決戦が、目前に迫っていること、そして、その戦場がこのあたりになるに相違ないことも、わかっていたのである。
「早く義舎をつくらねば」
と、少容は|呟《つぶや》いた。
義舎といっても、建物を建てるだけではない。食糧を集め、衣料を買い入れ、それを貯蔵しなければならない。それらの物資が略奪されないような措置を講じる仕事まで、含まれていたのである。
二人はそのあと、黙ったまま、夏口のまちをとぼとぼと歩いた。──
建安十三年(二〇八)の春はまだ浅かった。長江を渡ってくる風は、まだ|膚《はだ》につめたくかんじられた。
2
──味方の陣営のこともご存知ない。
少容は黄祖のことをそう評したが、彼の属する劉表の陣営に、大きな変化が、たしかにおこっている。
第一に、劉表のところに身を寄せている劉備が、|諸葛[#葛のヒは人]孔明《しよかつこうめい》を参謀に迎えたこと。
第二に、劉表の健康が衰えてきたこと。
二つとも容易ならぬことであった。
劉備の部下には、関羽、張飛、|趙雲《ちよううん》といった、野戦の猛将は多かったが、謀臣らしい謀臣はいなかった。
劉備はたびたび盟主を変えた。黄巾の乱で兵を挙げてから二十四年、いまだに彼は盟主になることができない。現在の盟主は劉表であり、その前は袁紹であり、さらにその前は呂布であった。呂布の前には、陶謙が劉備の盟主であった。最初の盟主の公孫★[#王+贊]からかぞえて、現在の劉表は五人目である。
(四十七歳にもなりながら、いつまでも客将とは情けない。……)
これが劉備の歎きであった。
表面的には、彼は五人目の盟主の下にあるが、地下同盟の曹操を加えると、六人の人間をあるじと仰いできたのだ。
一陣営の頭領となれなかった理由は、はっきりしている。
謀臣がいないためである。
曹操の陣営には、|荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]《じゆんいく》、|賈★[#言+羽]《かく》、|郭嘉《かくか》など、智謀の士が|揃《そろ》いすぎるほど揃っている。孫権陣営でさえ、|周瑜《しゆうゆ》、|魯粛《ろしゆく》という、輝ける智将がいるのだ。
劉備はこれまで、参謀不在のまま、野戦の軍司令官だけで戦ってきたようなものだった。関羽も張飛も、劉備の命令を待つだけである。命令を下しさえすれば、彼らは勇敢に戦ってきた。だが、作戦について、彼らは策を献じることはない。
劉備が一人で作戦を練らねばならなかった。頼りになりそうな相談相手もなしに。──
これが彼にとって、大きな負担であったのはいうまでもない。
(謀臣さえおれば……)
なんど心のなかでそう歎息したかわからない。劉備が智謀の士にあこがれる気持は、ほとんど想像に絶するほど強いものがあった。彼が荊州に身を寄せた最大の目的は、劉表の地盤を乗っ取ることだが、そのためにも参謀が欲しいのである。
荊州の客となって七年のあいだ、劉備はこれまでにくらべてひまであった。彼のおもな仕事は参謀さがしである。
現代の大企業が大学に人材をもとめるように、劉備も荊州の学舎に参謀の候補者を見出そうとした。荊州で学を講じて、その名を知られているのは、|司馬徽《しばき》という人物であった。彼の門下に、英才が集まっている。
劉備はしばしば司馬徽の門を叩いた。土産などを持参して親しくなり、
「先生の門下に智謀の士はおりませぬかな?」
といった話ができるほどになった。
「智謀の士かね? 私のところにいるのは、みな若い者たちばかりでしてな。まだ竜や鳳はいないが……そうじゃな、伏竜や|鳳★[#芻+鳥]《ほうすう》ならおりますが。……」
と、司馬先生は答えた。
竜は雲を得て天に昇る。この昇竜こそ、まことの竜である。まだ天に昇らないのが『伏竜』なのだ。鳳★[#芻+鳥]とは、鳳のヒナである。
「どのような青年でしょうか?」
と、劉備は訊いた。
「そうじゃね。……私の知るかぎりでは、諸葛[#葛のヒは人]孔明が伏竜で、|★[#广+龍]士元《ほうしげん》が鳳★[#芻+鳥]ですな」
司馬徽は即座にそう答えた。
「伏竜と鳳★[#芻+鳥]はどこが違うのですか?」
「鳳の★[#芻+鳥]は成長するのに、やはり時間がかかりますのじゃ。伏竜は雲さえ得たならば、すぐにも天に昇り申す」
「さようでございますか。……」
劉備はうなずいた。
諸葛[#葛のヒは人]孔明はすぐに役に立つ人物らしい。雲を得さえすればというのは、彼を使いこなす人物があれば、という意味なのだ。
(おれが雲になってやろう。……)
劉備はさっそく諸葛[#葛のヒは人]孔明を訪問した。
諸葛[#葛のヒは人]孔明はそのころ、荊州の州都である襄陽から八キロほど離れた隆中というところに|草廬《そうろ》をむすんで住んでいた。
だが、諸葛[#葛のヒは人]孔明は会おうとしなかった。
彼も男と生まれたからには、天下に志を伸べてみたいと思っていた。──それは熱望といってよかった。
それだけに、彼は自分を安く売ってはならないと思ったのである。
じつは劉備は、諸葛[#葛のヒは人]孔明という青年の名を、司馬徽からはじめて聞いたのではない。彼のところに出入りしていた、|徐庶《じよしよ》という者から、
──私の友人の諸葛[#葛のヒは人]孔明は、たいへんな才能を持った人物ですよ。
と聞かされていた。
また古いなじみの五斗米道の少容からも、
──隆中に諸葛[#葛のヒは人]という、おもしろい青年がおりますよ。
という話をきいたことがある。
司馬徽の言葉が、しめくくりであった。劉備はできるならば、相手が売り込みに来るようにしむけたいと思っていたのである。|あ《ヽ》る《ヽ》じ《ヽ》としては、そのほうが相手を使いやすい。だが、諸葛[#葛のヒは人]孔明の名が、このようにあがってきては、いつ誰にさらって行かれるかわからない。
曹操のように、人材を熱心にもとめる男もいる。
だから、みずから出かけた。
面会をことわられても、再び出かけた。また会えなかったが、劉備は三たび訪ねて、やっと会うことができた。これが有名な、
──三顧の礼。
である。
こうして、諸葛[#葛のヒは人]孔明は劉備の参謀となった。
この主従は、朝から晩まで話し込む。寝食を忘れて、天下のことを語り合った。おもしろくないのは、関羽や張飛たちである。二十数年のあいだ、主君として、義兄として仕えてきたのに、劉備は新参の諸葛[#葛のヒは人]孔明に夢中になっている。
──なんだ、あののっぽの青二才は。
──口先ばかりで、戦争の経験もないくせに、なにがわかるか。
──劉将軍も、あの青二才の口に、まるめこまれたのではあるまいか。
関羽と張飛は、そう語り合った。彼らの不満は、その表情でわかる。どちらも、感情をかくすことのできない人間であった。劉備も彼らの不満に気づいて、二人を招き、
──わしと孔明とは、魚と水との関係のようなものだ。わしという魚は、孔明という水がなければ、一日も生きることができんのだ。それをわかってほしい。
と、丁重に説明した。
そう言われると、関羽や張飛も、これまでの戦いで、参謀長のいない悲哀を、いやというほど味わっているだけに、劉備の心がよく理解できた。
──二度と不平は申しません。
と、誓ったのである。
劉備は劉表陣営の客将に甘んじて、七年ものあいだ|雌伏《しふく》してきた。いま諸葛[#葛のヒは人]孔明を得たからには、いよいよ自立──乗っ取りを始める端緒をつかんだといってよい。
おなじ陣営にありながら、黄祖のような人物は、ことの重大性に気づかないのである。
3
「|首桶《くびおけ》を二つ用意せよ」
と、孫権は言った。
(戦争だな。……)
部下たちはその言葉でそう察した。
「何者の首をいれるのでございますか?」
と、幕僚は訊いた。
「黄祖と蘇飛の首じゃ」
「かしこまりました」
「それにしても遅かったわ。母上ご在世中に、黄祖の素っ首をお見せしたかったが、それが無念じゃ」
孫権は唇をかんだ。
両親が死んだとき、子は三年の|喪《も》に服するというのが儒家の教えであった。そのあいだ、俗務に従うこと、まして戦いなどは禁じられる。だが、現実にはそのようなことは実行不可能である。漢ではすでに文帝(前一七九─前一五七)のとき、服喪は三十六日と定めていた。
その服喪期間はすぎた。江東の|碧眼児《へきがんじ》孫権は、母の霊を慰めるためにも、黄祖を討とうとしたのである。
「前鋒は|呂蒙《りよもう》に命じたぞ。|董襲《とうしゆう》と|凌統《りようとう》がこれに協力せよ。このたびの黄祖討伐の軍師は|甘寧《かんねい》である」
孫権は矢つぎ早やに命令を下した。
甘寧の登用は意外であった。この人物は、四川の出身で、成都において|劉焉《りゆうえん》に仕えたが、その死後、息子の劉|璋《しよう》の器量が小さいのに失望し、荊州に亡命した。だが、荊州の劉表も、彼が期待していたほどの人物ではなかったので、孫権のもとへ走ろうとした。ところが、この再度の亡命行の途中、夏口で黄祖の部将蘇飛にひきとめられ、三年間、そこに滞在したのである。
新参者を軍師に起用した人事は、その意味では意外であったが、夏口のことについては、彼以上にくわしく知っている者はいないのである。黄祖の軍中に三年もいた人物を、黄祖討伐の軍師に起用することは、孫権にとっては、とうぜんすぎるほどとうぜんのことであった。
建安十三年春、孫権の艦隊は長江をさかのぼった。
黄祖は急報を受けると、さっそく|蒙衝《もうしよう》を漢水の入口にうかべて防いだ。
蒙衝とは、別名を艨艟ともいい、戦船の巨大なものである。船体が牛皮を|蒙《かぶ》っているので矢石を防ぐことができる。その形は狭くて長い。へさきがするどく突出していて、これで敵船を衝くのだ。
漢水の入口にならべられた蒙衝は、船首と船尾からふとい綱で巨石を水中におろし、|碇《いかり》としていた。根を生やした水上の|要塞《ようさい》となったのである。蒙衝のうえには、千人の兵士が|弩《いしゆみ》や弓をとって、孫権軍に石や矢を雨のように浴びせた。
|江夏《こうか》郡の郡都である夏口城を攻めるには、どうしてもその水上要塞を抜かねばならない。それなのに、近づくことさえできないのだ。
決死隊百名が選ばれ、|鎧《よろい》を二重に着込み、|大舸《たいか》に乗って蒙衝にむかう(長江地方では、船の大きなものを『|舸《か》』、小さなものを『|★[#舟+差]《さ》』と呼ぶ)。蒙衝の上から、矢石が決死隊の乗った大舸に集中する。──
「綱を切れ! ひたすら綱を切るのじゃぞ。ほかのことに構うな!」
決死隊長の董襲はそう絶叫した。
蒙衝群がうごかないので、孫権の艦隊が通れないのである。碇を切っておとしさえすれば、いかなる巨艦でも水に流されてしまうはずなのだ。
決死隊の役目は、碇をおろした綱を切ることにほかならない。その目的だけをめざして、ほかのことに構うなというのである。|的《まと》をしぼって努力すれば、たいていのことはできるものだ。
百名の決死隊は、ほぼ半数を失ったが、ついに蒙衝にとりつき、その碇の綱をことごとく切っておとすことに成功した。
さしもの蒙衝群も、碇をとられ、水に流されはじめた。水上要塞は、大きな割れ目をさらけだしたのである。
「いざ行け! 力のかぎり|漕《こ》げや!」
孫権艦隊はついに漢水にはいった。
黄祖は部将の陳就に命じて、兵船を率いて防がせた。だが、水戦にかけては、孫権軍は圧倒的に強い。長江育ちの、水の男たちが揃っている。黄祖の水軍は、またたくまに撃ち砕かれ、主将の陳就も首を|刎《は》ねられてしまった。
孫権軍は、水陸両路から、敗走する黄祖軍を追って、夏口城に殺到した。
こうなっては、夏口の運命はきまったといってよいだろう。黄祖は城を棄てて逃げようとしたが、追いついた孫権軍の騎兵士官の|馮則《ふうそく》が、一刀のもとに斬りたおし、その首をあげたのである。
夏口とその近辺には、死屍が散乱していた。孫権軍は味方の戦死者だけを、すばやく収容して、あとはうちすてた。戦勝の孫権軍はもともと戦死者もすくない。あちこちにころがっているのは、すべて敗れた黄祖軍の死体であった。
やがて白衣の人たちがあらわれて、黙々と死体の収容をはじめた。
五斗米道の人たちであった。
そのうちに、黒衣の人がまじり、彼らも黙々と死体を運んだ。
黒衣のグループは浮屠の人たちであった。
五斗米道の義舎は、難民でごった返していた。その一隅で、陳潜は呟いた。──
「死ですねぇ。……」
「そうです。……死とむかい合わねば……」
と、少容もふかくうなずいた。
道教は現世の利益を重んじ、死後のことについては、この現世をえどるだけであった。とくに死そのものについては、ほとんどなんの説明も与えていない。そこが浮屠の教えと大きく違うところである。
「それにしましても、死を『|解脱《げだつ》』と申す浮屠の教えは、どうしても理解できません。あまりにも飾り立てておりますようで。……死というものは、もっと醜いもの……」
陳潜は屍臭を胸いっぱい吸いこんだ。
4
病床についてから、劉表はまったくやる気を失っていた。若くて健康であったときでも、こと天下の経営にかんしては、それほど積極的ではなかった。彼は社交好きで、諸豪との争いも、つき合いていどに考えていたのかもしれない。
もうこの十年ほどは、売られた喧嘩は買うが、こちらから売りかけることはなかった。曹操が袁家と争っているときも、その背後を襲うには、絶好の機会であったが、彼は腰をあげようともしなかった。
──わしは、そんなにまでしなくてもいいのじゃよ。
というのが彼の口癖であった。|恰好《かつこう》のよさを重んじ、修羅場に立つのを、あさましきわざと考えたのである。
手の汚れる仕事は、他人まかせですませようとした。そして、彼にかわって、その種のことをしたのは、妻の弟の蔡瑁と|甥《おい》の|張允《ちよういん》であった。劉表陣営の実権はこの両人の手にあったといえよう。
どんなことでも、まめまめしくやってくれる、便利な付き人的存在である。けっして第一級の人物ではなかった。そんな連中が、荊州では、はばを利かしていた。
劉表の消極性もあって、荊州は当時では、ほかの地方よりは戦争がすくなかった。そのため、各地から人が集まっていた。たとえば諸葛[#葛のヒは人]孔明などのように、すぐれた人物もすくなくない。多士|済々《せいせい》だったのである。それなのに、彼らは劉表に仕えないか、仕えても重用されなかった。
悪貨が良貨を駆逐するのである。
劉表は五年前に妻を失い、現在の蔡氏は後妻である。新参者の蔡氏としては、劉家のなかに、自分の地盤を早く築きあげたい。そのために、蔡一族を劉家のなかに導入した。弟の蔡瑁がその代表である。
劉表には二人の息子がいた。|劉★[#王+奇]《りゆうき》と|劉★[#王+宗]《りゆうそう》である。兄の★[#王+奇]はすでに結婚していたので、蔡氏は弟の★[#王+宗]と自分の|姪《めい》を結婚させた。
父親が病気で衰弱して行くのをみて、長男の劉★[#王+奇]は気が気でならなかった。父に万一のことがあれば、あとは継母の蔡氏につながる人脈が、荊州を牛耳ることになるであろう。そして、彼らは荊州のあるじに、弟の★[#王+宗]をえらぶにちがいない。
(それだけですめばよいが。……)
劉★[#王+奇]は自分が邪魔者として、殺されはしないかと不安におもったのである。
ある日、荊州の州都襄陽の高楼に、劉★[#王+奇]は諸葛[#葛のヒは人]孔明と二人でのぼった。劉★[#王+奇]が誘ったのである。最上階まで行くと、劉★[#王+奇]はみずから階段をはずして、
「これで誰もここまで来れません。教えてください、私はどうすればよいでしょうか?」
と訊いた。
「|申生《しんせい》は国にとどまって死に、|重耳《ちようじ》は外に出て命を保ちました。……」
と、諸葛[#葛のヒは人]孔明は答えた。
春秋時代、紀元前六六五年──|晋《しん》の献公十二年のことである。献公には申生、重耳というすぐれた息子がいたが、|驪姫《りき》を愛し、彼女に子が生まれると、その子を跡取りにしようと思うようになった。驪姫がいろいろ画策した結果、申生は自殺する羽目に追いやられ、重耳は出奔して、諸国を放浪したのである。だが、亡命十九年のすえ、めでたく晋に帰り、国主となることができた。名君のほまれの高い晋の文公が、ほかならぬこの重耳なのだ。
「わかりました。……でも、どこへ行けばよいのでしょうか?」
劉★[#王+奇]は孔明の助言を、この襄陽にいては危ない、出奔すべきだと解したのである。
「|江夏《こうか》太守の後任を志願すればよかろうと存じます」
「おお、その手があった。……」
劉表の勢力圏下にある江夏郡の太守は、黄祖であったが、さきほどの孫権軍の攻撃で戦死している。新しい太守はまだ任命されていない。
劉★[#王+奇]はさっそく江夏大守を志願して許され、襄陽を離れたのである。
「曹公の軍隊の足音が、しだいに近づいて参るようでございますな」
諸葛[#葛のヒは人]孔明は、邸に戻って、劉備と二人だけになり、またしても天下のことを論じた。
中原に曹操、江東に孫権。──中国はいま南北の大勢力に両断されている。両雄並びたたず。曹・孫の争いは、中国を荒廃させるほど、|凄惨《せいさん》なものになるだろう。
──二本足の椅子はどちらかに倒れます。三本足になれば、やや安定します。天下万民のために、三本目の足におなりなさい。
孔明はいつも、劉備にそうすすめている。
劉表は|覇気《はき》に欠けて、ついに三本目の足になれなかった。|陝西《せんせい》の|韓遂《かんすい》や|馬騰《ばとう》・馬超父子、あるいは益州の劉璋といった地方軍閥は、あまりにも小粒である。漢中で五斗米道を背景に、小政権をもつ少容の息子|張魯《ちようろ》にしても、まだ力は不足であった。
ただし、荊州だけでは、三本目の足になるには、いささか短い。益州をあわせ、巴・蜀の富をつぎ足せば、長さは足りるだろう。
──劉表の荊州を奪い、劉璋の益州を併合せよ。
これが孔明の主張である。
(わしの|も《ヽ》く《ヽ》ろ《ヽ》み《ヽ》とは、ちょっと違うぞ)
劉備はそう思っていた。
彼は劉表をけしかけて孫権と戦わせ、両者が疲れはてたときに、自分が出て、彼らにとってかわろうと考えていた。
曹操が劉備に期待しているのも、劉表と孫権を消滅させることにほかならない。そのとき、あらためて、曹操と劉備の両雄対決となる。その日が来るまで、地下同盟はつづくはずなのだ。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は、天下三分の計を考えている。
劉備は、天下二分の計を考えている。
天下統一という究極の目標からみれば、三分よりも二分のほうが近道であろう。
劉備は天下びとになることを望み、諸葛[#葛のヒは人]孔明は人びとの生命と生活を安定させることを願っていた。
違うのである。──
(孔明は名参謀だが、わしの本心を知らぬ。べつにそれを知らせる必要もない。曹操との地下同盟も、この男には伏せておこう)
劉備はそうきめていた。
「ほう、曹公は軍をうごかすかな?」
と、彼は孔明の言葉をうけた。
「機構を変えました」
「ああ、三公を廃したことじゃな」
後漢の政治は、司徒、司空(副首相)、太尉(国防相)の『三公』によって運営されていた。いわば合議制であり、一人の人間に権力が集中するのは防げる。だが、それだけに指導力が弱い。
|烏桓《うかん》を討って遼西から凱旋したあと、曹操は三公制を廃止して、前漢の|丞相《じようしよう》制を復活させたのである。
丞相一人に権力が集中する。強力な指導力が発揮できるのだ。即決を要する戦時には、この体制は有利である。
三公制の廃止によって、孔明は曹操が戦いを決意したと読んだ。
「臨戦の態勢を整えました」
と、孔明は言った。
「そうかな。……」
劉備はかすかに笑った。
荊州が曹操の背後を襲うのを抑え、できるなら孫権と泥沼のなかで争わせる。──劉備は曹操から期待されたこの役割を、いまやっと軌道にのせたところだと思っていた。夏口での黄祖の敗戦は、その序の口である。
(おれは、いまに両雄を泥沼のなかに沈めてやる。……)
ようやくそんな自信が持てはじめた。
曹操もしばらく、その成果があがるのを待ってくれるであろう。──劉備はそう信じていた。
「玄武苑に池を作り、水戦の訓練に余念なしということですぞ」
孔明はしずかに言った。
「訓練は兵家が怠ってはならぬこと。さしせまった戦いに備えてであろうかな?」
劉備は天井を仰いだ。
荊州の劉表と江東の孫権では、どうしても前者が弱い。泥沼戦争に追い込むためには、孫権が全力を出し切れないように、|牽制《けんせい》しなければならない。水戦の訓練は、孫権の背後を|狙《ねら》う牽制という意味があるのだろう。これが劉備の読み方であった。
「玄徳さま、甘すぎまするぞ」
と、孔明は言った。
「なにが?」
「曹公はもはや、玄徳さまの力を必要といたしません。役に立たぬものは、|躊躇《ちゆうちよ》なく棄てるのが、これまでの曹公のやり方でした」
「なんと……」
劉備は絶句した。
いまの諸葛[#葛のヒは人]孔明の口ぶりでは、曹操との秘密同盟を知っているようなのだ。
「おかくしあるな、玄徳さま。この孔明の目は節穴ではございません」
孔明は微笑した。
「わしが役に立たぬとは……」
「劉表集団は、音を立てて崩れつつあります。荊州の劉表と江東の孫権を戦わせ、漁夫の利を占めることは、いまや夢となりました」
「うーむ。……荊州の瓦解はそこまで?」
「長子の劉★[#王+奇]どのは江夏へ去り、一枚の岩は微塵に砕かれました。曹公にとっては、荊州はもはや存在しないも同然。一刻も早くこれを踏みにじり、勢いをつけて、孫権を消滅させようとするでしょう。玄徳さま、そうなれば、あなたの出番はございませんぞ。おそらく、孫権は戦わずして降ると存じます。曹公の覇業、ここに成りましたぞ」
孔明の声は、しだいに熱を帯びた。
「では、どうすればよいのじゃ?」
「孫権に戦わせるのです。降らせてはなりません。そのためには、荊州は江東と同盟して、曹操にあたると申し出てみるのです。孫権とて、独力では曹軍を支え切れないが、荊州の助けがあれば、戦う気になるでしょう」
「碧眼児、うけいれるかな?」
「孫権は曹公ほどの眼力はございません。荊州の力が、かくも弱いとは思っていないでしょう」
「病床の|景升《けいしよう》(劉表)どのが、碧眼児との同盟に賛成するかな? いや、景升どのではなく、実権を握る蔡一族が?」
劉備は首をかしげた。
荊・呉は国境を接して、紛争をくり返してきた。ことしの春も、夏口で衝突し、荊州は大敗して、老将黄祖を失った。戦火の|余燼《よじん》まだ消えないのに、同盟のことがうまくはこぶであろうか?
「私におまかせください。孫権陣営の状況は、手にとるようにわかりますから」
と、孔明は言った。
「そうであったな。……」
劉備はうなずいた。
孔明の実兄諸葛[#葛のヒは人]|子瑜《しゆ》は、孫権陣営に仕えていた。確実なパイプがあったのだ。
5
はたして曹操は南征の軍をおこした。
|張遼《ちようりよう》、|于禁《うきん》、|楽進《がくしん》といった諸将が、南下軍を率いることになった。いずれも一癖も二癖もある豪傑である。楽進は短躯ながら、エネルギーのかたまりのような人物で、はじめから曹操の部下として働いてきた。だが、張遼はかつて呂布の部将であり、于禁は|鮑信《ほうしん》の幕僚であった。系統が違っているうえ、性格的にも合わないところがある。
曹操はそこへ|趙儼《ちようげん》という、人間関係の潤滑油のような人物を送りこんだ。
このあたりが、曹操の人使いのうまさである。あるていど反撥し合う司令官をかみ合わせ、競争心を|煽《あお》り立て、それが度を過ぎぬように、とりもちの上手な人間を配しておく。心憎いばかりの人事であった。
南下軍の出発は、その年の七月である。だが、曹操の軍勢が荊州に到着しない前に、劉表は病死してしまった。
長男の劉★[#王+奇]は江夏太守として出ている。彼は父危篤のしらせに、いったん襄陽に戻ったが、蔡瑁たちが、
──江夏を治める責任は重大です。その任地を離れては、病床の父上がきっとお怒りになるでしょう。父上のおからだにさわりまするぞ。それが孝行の道でしょうか?
と、追い返したのである。
曹操の南下軍が近づくときいて、劉表を失った襄陽の首脳陣は、|鳩集《きゆうしゆう》、対策を講じた。
劉備は客将として、長いあいだ新野に駐屯していたが、劉表は|樊《はん》城に移駐を要請した。樊城は襄陽に近い。劉備に州都の直前で、曹軍を防いでもらおうとしたのである。
ところが、劉表亡きあとの襄陽での首脳会議には、劉備は呼ばれなかった。|外様《とざま》には重要な問題は相談できないのであろう。
荊州の幹部、|★[#(くさかんむり+朋)+りっとう(刑の右側)]越《かいえつ》や|傅巽《ふせん》といった連中は、降伏を主張した。
「曹公は天子をいただいておる。抗戦すれば賊名をきることになる」
そんな理由を挙げたが、じっさいは、彼らも荊州が曹操と戦えるような状態でないことを、知りすぎるほど知っていたのである。勝てる見込みはないのだ。
劉備が会議に呼ばれなかったのは、彼が討論の対象とされたからである。
──劉備で曹操が防げるか?
という問題が論じられたのである。そのようなことは、本人を前にしては言いにくいものだ。
「もし劉備が曹操を防げるのであれば、なぜ彼は荊州に身を寄せたのか? 彼にはそのような力はない。彼に頼ろうとするのはまちがいである。かりに彼が曹操を防いでくれたとしても、彼は自分が守った荊州を、われらに返すであろうか? いずれにしても、われらはこの地を失う。おなじ失うのであれば、天子の命をかしこみ、恭順をあらわすほうがよいではないか」
弁舌さわやかにそう述べたのは、|王粲《おうさん》という人物であった。小男で、顔はくしゃくしゃである。
外見を重んじる劉表は、王粲を重用しなかった。だが、のちに『建安の七子』と|謳《うた》われるほど、すぐれた文才の持ち主だったのである。曾祖父が太尉(国防相)、祖父が司空(副首相)を勤めた名門の子弟でありながら、|容貌《ようぼう》がまずいために用いられなかった。このような才能を放棄していた劉表が、大成しなかったのはとうぜんであろう。
彼の言葉が、結論であったといってよい。
誰もが納得した。
降伏を申し出る文書は、王粲が起草した。投降文ながら、それは堂々たる文章で、曹操はそれを読んで|唸《うな》った。
「うーむ、えらいやつがおるぞ。たいへんな文章だ。これを読んでみるがよい」
曹操はそばにいた次男の曹植に、それをみせた。曹操一家は、武将でもあり詩人でもあった。
「みごとでございます」
一読して曹植は、ため息をこらえながら言った。のちにこの降伏文の起草者と、詩文の応酬をして、それが後世の文学愛好家によろこばれるようになるなど、このとき、十七歳の曹植はむろん予想もしていなかった。
襄陽で降伏が決定されたことを、樊城にいた客将の劉備は知らない。
現在の地名は|襄樊《じようはん》市というように、かつての襄陽と樊城の地域を含めている。それほど近接している。それなのに会議に呼ばれなかったばかりか、その決定さえ通告されなかったのである。
それには理由があった。──荊州において、劉備は主戦派として知られていたからである。荊州の劉表と江東の孫権を、泥沼戦争にひきずりこむために、劉備は、
──戦うべし!
という声を、しきりにあげた。
そのような人物なら、曹操の来攻にさいしても、とうぜん、
──徹底抗戦。
を主張してやまないだろう。
いまは居候的な客将だが、豫州刺史として、一方の旗頭であったという、重いキャリアをもつ人物である。
その人物の声に、せっかくの決定がかきみだされては困る。どうせ外様のことだから、通知|洩《も》れということにして、黙っておこう。──荊州の首脳たちはそう考えたのである。
樊城にあった劉備が、荊州の曹操への投降を知ったとき、曹操の南下軍はすでに|宛城《えんじよう》を出発していた。宛城は現在の河南省南陽市である。さらに南下すれば、劉備がかつて客将として駐屯した新野であり、そこを越えると、現在の河南と湖北の省境に到る。
故劉表の次男劉★[#王+宗]を代表者とする、荊州の降表(降伏書)が、曹操のもとに届いたのは、南下軍が新野を占拠していたときである。
──心は高く、志は|潔《きよ》く、智は深く、慮は広し……
曹操はそんなふうに、劉★[#王+宗]をおだてて、降伏を受理したのである。
6
「曹操は新野まで迫った。早く逃げねばならぬ。ひとまず江陵までおちのびよう」
劉備はそうきめた。
「江陵をめざすのはよろしいでしょう。曹公もあなたが江陵へ逃げることは、とっくに知っておりましょう」
と、諸葛[#葛のヒは人]孔明は言った。
長江の岸にある江陵には、荊州最大の食糧庫と武器庫があった。荊州に一旦緩急あれば、州都の襄陽から|急遽《きゆうきよ》この地に退き、長江の険に|拠《よ》って抗戦するための備えなのだ。
このことは、曹操はむろん知っている。その江陵へ逃げるまでに、急追して捕捉、|殲滅《せんめつ》しようと|図《はか》るはずだ。江陵に逃げ込まれてしまうと、いささか面倒になるからだ。
「この樊城は、新野から百五十里も南にある。南の江陵には、こちらのほうが早く着く」
と、劉備は言った。
当時の百五十里は、ほぼ六十キロである。
「曹軍のなかには、軽装の部隊がおります。快速の部隊です」
と、孔明は首を横に振った。
「こちらも軽装で逃げる」
「なりませぬ」
孔明は依然として首を横に振っている。
「なぜか?」
「かりに江陵に逃げ込めたとしても、曹公の大軍を支えることができますか?」
「だから、碧眼児孫権との提携を図るのではないか。そのことは孔明先生にまかせたはずだが」
「孫権はまだわれわれとの連合を決定しておりませぬ。連合すべきか否か、じっと見守っております。孫権陣内には、張昭の和平論あり、魯粛の主戦論あり、孫権もまだきめかねているようすです。いま、われらが一目散に江陵に逃げ込めば、孫権はどう考えるでしょうか? 曹操はそんなに強いのか、やはり荊州との提携はやめて、曹操に降るべきだという考えに傾くかもしれませぬ」
「そうか。……」
「荊州の新しいあるじ劉★[#王+宗]が降ったことは、やがて孫権の耳にもきこえるでしょう。ですが、降ったのは劉★[#王+宗]をはじめ、その側近のひとにぎりの人たちだけで、州を挙げて降ったのでないことを、孫権に知らせなければなりません」
「じゃが、襄陽からの情報では、たいした反対もなく、州を挙げて降ったようだぞ」
「じじつはそうかもしれませぬが、孫権にそう思わせてはなりませぬ」
「孫権も|間諜《かんちよう》を襄陽にひそませているはずじゃ。そやつらが、無血降伏を見ており、それを報告するであろう」
「そやつらに、おだやかな降伏ぶりを見せてはなりませぬ」
「見せるなと申しても、彼らも目をつけている人間、見てしまうではないか」
「わかりませぬか?」孔明はにやりと笑って言った。──「玄徳さま、これから襄陽に乗り込んで、ひと暴れするのです。逃げ足が遅くなろうと、長い目でみて、そのほうが有利であります」
「うむ、そうか。……わかった。間諜たちに、降伏をめぐって、荊州が騒然となっていることを見せるのじゃな」
さすがに劉備はわかりが早い。諸葛[#葛のヒは人]孔明を迎えるまでは、彼自身が参謀を兼任していたので、謀略の呼吸はのみ込んでいる。
劉備は樊城から全軍を率いて、和平ムードにひたっている襄陽に乗り込んだ。その軍は殺気がみなぎっている。先頭の騎兵団のなかに、槍の穂先に血のしたたる生首を突き刺したのが十騎以上もいた。
この殺気は、孔明がつくりあげたものであった。槍の穂先の生首は、強盗殺人で処刑された犯罪者のものである。だが、騎兵はその槍を上にあげて、
「投降など、|卑怯《ひきよう》なことをぬかすやつばらは、これこのとおり、血祭りにあげるぞ!」
と、どなり散らしたのである。
劉備自身が、真紅の鎧をつけて、
「御曹司にもの申す! |梟賊《きようぞく》曹操に降られたとはまことか? この劉備にはなんの相談もなかった。いざ、御曹司の真意をおきかせ願いたい。左右の|奸臣《かんしん》どもの言葉にまどわされたるか!」
と、荊州牧邸の門前で、|大音声《だいおんじよう》で呼ばわった。
襄陽では、たしかに和平論が大勢を占めた。しかし、抗戦を唱える者もいることはいた。彼らは少数派で、会議の席でも沈黙を余儀なくされていたのである。内心に|憤懣《ふんまん》を抱いていた彼らは、劉備の大音声をきくと、得たりと外にとび出して、その武装抗議集団に加わった。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は張飛を呼び、
「翼徳どの、思う存分、暴れていただきたい」
と、けしかけた。暴れることがなによりも大好きな張飛である。虎のような硬いひげを、ぶるぶるとふるわせると、
「心得たり!」
と叫び、馬の腹を蹴って、すっ飛んで行った。
孔明はこんどは関羽にむかって、
「雲長どの、貴殿には、最も重要な仕事をやっていただきたい」
「最も重要なこととは?」
「曹操は★[#業+おおざと(邦の右側)]の玄武苑に池を掘り、水軍の訓練に励んできたが、この陸路による南下に、まさか船を|担《かつ》いでくることはあるまい。かならずこの地で船を調達するはず。雲長どの、この襄陽近辺にある漢水の船を、すべて徴発し、兵を乗せて南へくだっていただきたい。曹操めに、一|艘《そう》の船も残さぬようにお願い申す」
「わかり申した」
と、関羽はうなずいた。
そのあいだも、劉備は荊州牧邸の門前でどなりつづけていた。──
「御曹司、門まで出て、ご説明願いたい! この玄徳も説くべき話をもっておるほどに」
御曹司劉★[#王+宗]は、まだ二十になっていない。
──(劉備は)馬を|駐《とど》めて★[#王+宗]を呼べど、★[#王+宗]、|懼《おそ》れて起つ|能《あた》わず。
と、史書に記録されている。
こうして劉備は、襄陽城を大いに騒がせたが、荊州を|壟断《ろうだん》していた蔡一族に不満をもっている人士は、武装して劉備軍に参加する者が多かった。
張飛は馬をとばし、蔡一族や和平論者と目される幹部の家の門を叩きこわしたり、火をつけてまわったりした。そして、張飛のうしろには、何千騎もの兵士が従った。
すくなくともこの現象からみれば、荊州は和平・主戦の両論があり、どうやら主戦論のほうが優勢にさえ思えたのである。孫権が襄陽に送りこんだ間諜たちも、
──荊州は州を挙げて降った。
という報告だけは送らないであろう。
住民たちは、いまにも戦争が起こると思って、家財道具をまとめ、避難の準備を始めた。
諸葛[#葛のヒは人]孔明は、その難民を誘導して、劉備軍に従わせることにした。また襄陽城内の|輜重《しちよう》をかき集めた。
「足手まといになるではないか」
と、趙雲は口をとがらして言ったが、孔明は相手にしなかった。
「これより襄陽を退去し、江陵へむかい、再挙をはかり、国賊曹操を討つ!」
劉備は全軍にそう告げた。
襄陽を去る前に、劉備は劉表の墓に参り、はげしく泣いた。
これが劉表の旧部下の心をうごかした。この墓参によって、劉備に従う者がいっそう増えたのである。
7
劉備に従って南へ逃げる衆は十余万人、輜重は数千輛の多きにのぼった。しかも、その十余万人というのは、ほとんどが難民であって、武装兵の数はそれほど多くない。
──日に行くこと十余里。
と史書に記されている。一里が四百メートルあまりの時代だから、一日に五キロほどしかうごけなかったのである。うしろに曹操の大軍の追撃を受けているというのに、これはきわめてのろいといわねばならぬ。
張飛や趙雲が、
「曹操の軍が迫って来れば、どうなさいますか? 戦えないような難民は置いて行きましょう。輜重車だって、江陵に行けば、食糧や武器はいくらでもあるというじゃありませんか。惜しむに足りません。棄てて行きましょうや」
と、しきりにすすめた。
だが、劉備はそれをききいれない。
「天下のことは人民が第一である。人民たちが、わしを慕ってついてきたのだ。どうして棄て去ることができようか。……」
劉備は目に涙をうかべてそう言った。
うしろで、諸葛[#葛のヒは人]孔明がふかくうなずいた。
いっぽう、曹操は襄陽に無血入城したが、劉備が江陵めざして逃げたときいて、
(あの大耳との秘密提携も、これで終わりかな。……)
と、腕組みをした。
また十数万の難民と数千輛の輜重をともなっての南下ときくと、こんどは首をかしげた。
いったい、あの劉備にどのような|魂胆《こんたん》があるのか?
「諸葛[#葛のヒは人]孔明と申す、稀代の智謀の士を幕僚に加えたとのことでございます」
という報告があった。
「そうか。大耳の劉備め、参謀を手に入れおったのか。……」
曹操は考え込んだ。その参謀の諸葛[#葛のヒは人]孔明が、どんなことを考えているのか、彼はそれを読もうとした。
ともあれ、劉備を江陵に入れてはならない。そこの穀物庫や武器庫は、遠征の曹軍にとっては、ぜひとも手に入れたいのである。
「よし、劉備を追え! いや、劉備よりも、江陵だ。江陵を|無疵《むきず》のまま占領せよ。そのためにも、劉備をその途上で叩くのだ。敵は足手まといの衆をぶらさげて、速度は鈍い。急追せよ!」
曹操は精鋭の騎兵五千をえらんだ。すべて軽装である。
──一日一夜、行くこと三百余里。
と史書にのせるが、昼夜兼行、百数十キロのスピードで追撃したのである。
軽騎兵隊は襄陽から、まっしぐらに南下する。むろん、その途中で抵抗などはない。それはまさしく、千七百四十年のちの一九四九年二月、中国の解放軍が国府軍を追ったコースに相当する。国府軍|宋希濂麾下《そうきれんきか》の軍は、|荊門《けいもん》というところで、解放軍に捕捉されて殲滅された。劉備の部隊も、ほぼおなじところで、曹操軍に追いつかれてしまったのである。
それは当陽というところである。荊門よりはやや南になる。
劉備の連れた難民のあいだに、パニックがおこったのはいうまでもない。彼らは|蜘蛛《くも》の子を散らすようにとび散った。十数万の群衆である。諸葛[#葛のヒは人]孔明が彼らを伴ってきたのは、このようなとき、煙幕がわりにできるからであった。
遭遇地点は、当陽の東の長坂というところであった。
「漢水にむかって、まっしぐらに逃げてください。漢水には、水路でくだった関羽が、船をそろえて待っているはずです」
孔明は劉備にそう言った。
「うん、わかった!」
劉備は白い歯をみせた。
やはり、専任の参謀がいるというのは、頼もしいものではないか。劉備は孔明の存在の有難さがわかった。
この敗走にあたっても、孔明は敗走の速度を指示した。
──速く逃げねば……
という不満の声もあったが、孔明はちゃんと関羽の水軍と出会う場所を計算し、それに従って敗走のスピードを調整したのである。
しかも、みよ、敗走することしばし、長坂橋という橋がかかっていた。その下の川はかなりひろく、そして深い。劉備軍がその橋を渡り終えると、孔明は、
「翼徳どの、この橋を切っておとして、敵の追撃を防いでくだされい!」
と、張飛に声をかけた。
「おう、心得たり!」
が、これからはそううまく行かぬかもしれない。……
(諸葛[#葛のヒは人]孔明という参謀を得たそうだが、どうやら、なみの人間ではなさそうじゃな)
曹操は天を仰いだ。
当陽長坂橋で劉備の軍と遭遇して、曹操ははじめて、その若い参謀の意図が、おぼろげながらわかりかけたのである。
十数万の足手まといとしか考えようのない難民を連れたのは、遭遇戦のとき、彼らを四散させ煙幕がわりにする目的だけではないのだ。
──これだけの人間がついてきた。荊州で曹操に降伏したのは、ひとにぎりの連中にすぎない。
という生きた証拠を、連れて歩いたのである。その証拠を誰に見せるのか? 沿道の人びとがそれを見る。──そして、その話は遠くにひろがる。……
「そうだ、孫権の耳に達するはずだ。……」
曹操はひとりごちた。
劉備が襄陽を退去するとき、
──江陵へむかう。
と言いふらした。だが、参謀諸葛[#葛のヒは人]孔明は、はじめから江陵へ行くつもりはなかったのだ。漢水に出て、そこへくだって孫権の陣営に近づこうとするのであろう。
襄陽には一艘の船も残っていなかった。あの関羽が徴発したのだという。おそらく、関羽は長坂の東の漢水のほとりで、数百艘の船を待たせているに違いない。
──追うな!
と命じたのは、追っても仕方がないと、曹操は見抜いたからである。曹操は船をもっていない。(江陵に着けば、さっそく船を集めよう)
曹操は心のなかでそう呟いた。
──孫権は劉備と提携することになるかもしれぬ。……
すくなくとも、諸葛[#葛のヒは人]孔明という青年は、その目標にむかって、努力しようとするに相違ない。
「江陵にむかって前進せよ!」
曹操は全軍にそう命じた。
おそろしい参謀が、劉備についたものだ。曹操はこれから用心しなければならぬと思った。だが、諸葛[#葛のヒは人]孔明は、曹操が考えていたよりも、もっとおそろしい智謀の士だったのである。
劉表の長男の劉★[#王+奇]を、春秋時代の故事に託して、襄陽から江夏大守に出仕するように説いたのも、彼の深謀の一環であった。
江夏大守は、前任者黄祖のように、国境守備隊長でもあった。黄祖は国境紛争で戦死し、おおぜいの兵を失った。新任の江夏太守は、とうぜん補充のため、軍兵を連れて行かねばならない。劉★[#王+奇]は数万の兵を率いて、任地へむかったのである。
黄祖が夏口で破れたため、そこは孫権軍団の勢力圏にはいった。したがって、新任の劉★[#王+奇]はそこへ行けずに、漢水の流域に駐屯している。
劉備軍は漢水で、関羽の船隊をあわせただけではなく、劉★[#王+奇]麾下数万の荊州兵をも|傘下《さんか》におさめたことになる。
力である。
その力を孫権に見せつけるのだ。
漢水の船のうえで、諸葛[#葛のヒは人]孔明は地図をひろげて、劉備に説いていた。──
「われらは、これから水陸両路で、漢水をくだって長江に出ます。現在、孫権の本営はこの|柴桑《さいそう》にあり、前進基地がこの夏口です。……劉備・孫権の連合が成立すれば、対曹操戦の本陣は夏口になるでしょう。これにたいして、曹操は江陵に到って兵船を集め、ここを本陣にするほかはありません」
「水戦じゃな」
劉備は身を乗り出した。
「長江を舞台に戦います。曹操は上流、われら劉・孫連合軍は下流に位置します。決戦は江陵と夏口のあいだにおこなわれるのです」
「ほう、すると……」
劉備は指を地図のうえに|匍《は》わせた。長江に沿って。──
「そう、そのあたりになるでしょう」
「|烏林《うりん》……そして、|赤壁《せきへき》……」
「私はそのあたりの地理をよく知っております。しかし、戦いの前に、もういちど、実地について調べてみましょう」
と、諸葛[#葛のヒは人]孔明は言った。
「そのためにも、孫権との同盟を実現しなければならんのう。……」
劉備は漢水の岸に目をやった。
漢水の東岸には、砂煙が立っていた。劉★[#王+奇]の率いる数万の荊州兵の人馬が行軍しているのである。
「やるぞ!」
劉備は若者のような声を出した。四十の半ばをすぎて、彼はようやく自分の舞台を見出したのである。
曹操は漢水の方向に逃げた劉備をそのままにして、まっすぐに江陵へむかった。そして、江陵で一連の人事を発表した。
恭順した劉★[#王+宗]を、青州刺史に任命した。それは亡き袁紹の長男袁譚が就任していた要職である。若い劉★[#王+宗]に帰順をすすめた|★[#(くさかんむり+朋)+りっとう(刑の右側)]越《かいえつ》、|傅巽《ふせん》、|王粲《おうさん》たちも、それぞれ侯に列せられた。
こうして、長江を舞台とする大決戦は、刻々と近づきつつあった。
作者|曰《いわ》く。──
孫権の母呉氏の死は、『呉志』には建安七年となっているが、『志林』には同十二年とする。孫権政権下の『|貢挙《こうきよ》簿』というのが残っていて、建安十二年と十三年が欠けているのがその根拠なのだ。貢挙簿とは高等文官試験の合格者リストだが、主権者の家に大きな喪があれば、試験は中止される。建安七年も八年もリストが存在するので、喪がなかったことがわかるのだ。
呉氏は姉妹で孫堅に嫁いだ。建安七年に死んだのは、おなじ孫堅未亡人でも、孫権の母の妹のほうであったのではなかろうか。
講談本の『三国志演義』では、曹操がいったん劉★[#王+宗]を青州刺史に任命しておきながら、あとが面倒とばかり、人を派遣して殺させたことになっている。
だが、劉★[#王+宗]は青州刺史になったあと、宮廷の職を志望して、|諫《かん》太夫に任命されており、ちゃんと生きていたのである。曹操を悪玉に仕立てたいあまりに、筆──講談の場合は口を、曲げたのであろう。
(五巻へつづく)
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
秘本三国志(四)
二〇〇三年二月二十日 第一版
著 者 陳 舜 臣
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
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(C) Shunshin Chin 2003
bb030205
校正者注
(一般小説) 電子文庫出版社会 電子文庫パブリ 文春ウェブ文庫(383作品).rar 51,427,627 ee2f0eb8653b737076ad7abcb10b9cdf
内の”-秘本三国志(四).html”から文章を抜き出し校正した。
表示できない文字を★にし、文春文庫第20刷を底本にして注をいれた。
章ごとに改ページをいれた。
smoopyで綺麗に表示するためにヽを分解した。