秘本三国志(三)
陳舜臣
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〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年八月二十五日刊
(C) Shunshin Chin 2003
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(例)泰山鳴動《たいざんめいどう》す
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(例) 平原の相である|劉備《りゆうび》は、ひそかにこの山に登った。
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目 次
泰山鳴動す
天日、ために暗し
黄河に消えた女たち
混戦また混戦
英雄が多すぎる
女はこわい
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秘本三国志(三)
|泰山鳴動《たいざんめいどう》す
1
|泰山《たいざん》は聖なる山であった。
山東省済南市の南方の山塊のなかで、一ばん高いのが泰山である。
平原の相である|劉備《りゆうび》は、ひそかにこの山に登った。義兄弟の盟約を結んだ|関羽《かんう》と|張飛《ちようひ》の二人のほか、もう一人同行者がいた。関羽にも劣らぬ|逞《たくま》しい|体躯《たいく》をもっているが、その男は顔色がひどくわるかった。
劉備は山頂で、その蒼い顔をした巨漢に言った。──
「土を盛られよ、|闕宣《けつせん》どの」
闕宣と呼ばれた男は、その場にかがみ、土を|撫《な》でるようにしていた。
「ためらいなさるな。形ばかりでよろしいのですぞ」
と、劉備は言った。
巨漢は三本の指で、やっとつまみあげたが、まだ心を決しかねたように、劉備を見あげて、
「かならず力になってくださいまするな?」
と、念を押した。
「言うまでもないことです。|陶謙《とうけん》どのの重臣にも紹介申し上げたではありませんか」
劉備は励ますふうに言った。
巨漢はつまみあげた土を、目のまえの地面にのせ、指で|揉《も》みかため、おそるおそる手を放した。ちょうど水商売の店の門前にみられる|盛塩《もりしお》のような、さきのとがった黄色い土のかたまりができていた。
「お立ちなされ」
と、劉備は命じた。巨漢は立ちあがる。
「天と地に祈りなされ」
劉備は重々しい声で言った。巨漢は頭を垂れ、目をとじ、なにやら口のなかで祈りの言葉をとなえるふうであった。
巨漢の唇のかすかなうごきがとまった。
「すみましたか?」
と、劉備は|訊《き》いた。
「はい」
闕宣はいちど、ふかぶかと頭をさげてから、大きなため息をついた。
「おめでとうございました。われら三名、この儀式、しかと見守り申した。……これにて、陛下とお呼びしてよろしかろう」
劉備はそう言い終えて、心もち唇をゆがめた。
「形より心でございますぞ。天も地も、形よりも、まごころにうごかされまする」
真っ赤な顔をした関羽は言った。その顔色は、ため息をついている巨漢のそれと、みごとな対照をなしていた。
「めでたいな」
張飛はぶっきらぼうに言った。
「では、そろそろ下山いたしましょうか」
劉備はそう言って、あたりを見まわした。
天命を受けて天下を支配する者は、この聖なる山のうえで、天と地をまつらねばならない。そのとき、土を封じる──盛りあげるのだ。それを『封禅』という。しかも、この封禅は、天子なら誰でもできるというものではない。ほんとうに天下を統一し、泰平をもたらした聖天子だけが、封禅の儀式をとりおこなう資格をもつ。秦の始皇帝は天下を統一したあと、ここで天地をまつった。漢王朝の創建者の高祖でさえ、遠慮している。百年ほどたって、武帝の時代になって、はじめて封禅がおこなわれたのである。
泰山の山頂で土を盛ることが、どんなに重大なことであるか、当時の人たちはみんな知っていた。
闕宣と呼ばれた巨漢は、まるで劉備に命じられたように、その行為をおこなったのだ。
四人は足早やに山をおりた。
地上最高のものが泰山で、天上最高のものが北斗とされていた。最高の権威者のことを『泰斗』というのは、泰山と北斗を略して称したのである。
海抜一五二四メートルというから、それほど高い山ではない。陥没状の華北平野にそそり立つのと、その姿が美しいのとで、人びとの心に畏敬の念をおこさせるのであろう。
花崗岩がいたるところに露出している山である。樹木はそれほど多くない。
左手に独秀峯、右手に紅葉嶺を見ながら、四人は黙々と足をはこんだ。闕宣はからだに似ず目が細い。その目が、ときどき大きくひらかれるが、焦点は定まっていない。|恍惚《こうこつ》の色がうかんでいる。
|麓《ふもと》に近くなり、|桃花澗《とうかかん》という谷ぞいの道にさしかかると、関羽は、
「それでは、ここで散りましょう。一人ずつおりたほうがよろしゅうございますから」
と言った。
西のかた長安のみやこに、後漢の天子献帝がいるのに、封禅の真似ごとをやったり、『陛下』という呼称を勝手に使うなど、不敬の罪にあたる。人目を忍ぶのも、とうぜんかもしれない。
泰山郡は|★[#六+兄(六が上で兄が下)]《えん》州に属すから、曹操の勢力範囲である。泰山太守の|応劭《おうしよう》は、いうまでもなく曹操の息がかかっている。
劉備は同窓の|誼《よし》みを頼りに、|公孫★[#王+贊]《こうそんさん》の陣営に加えてもらった。
|袁紹《えんしよう》、袁術の兄弟喧嘩は、中原をかきみだしていたが、公孫★[#王+贊]は袁術に乞われて、袁紹を|牽制《けんせい》し、|界《かい》橋というところで大敗を喫したこともある。曹操は袁紹派の武将であるから、劉備とは敵対関係になる。
敵対派の縄張りのなかを、うろうろしていては危ない。
だが、乱世は集合離散がはげしい。
劉備と曹操との関係も、一年前とではだいぶ変わっている。
公孫★[#王+贊]と袁紹は、この初平四年(一九三)の正月に和解した。
──士卒|疲困《ひこん》し、糧食並びに尽き、互いに百姓を|掠《りやく》し、野に青草無し。
という悲惨な戦いで、どちらもばかばかしくなったのだろう。たまたま長安から|趙岐《ちようき》という天子の使者が、東方|鎮撫《ちんぶ》のために来ていたので、それを『時の氏神』にして、さっさと和解したのだ。
派閥の親分同士が仲直りしたので、劉備はもはや曹操をおそれることはない。それに、青州|黄巾《こうきん》軍三十万をあわせた曹操は、ようやく袁紹陣営を脱して、自立を図りはじめていたのである。
では、なぜ劉備はこの泰山行きを、そんなにかくそうとしたのか?
これは、劉備が同僚の陶謙と組んだ謀略だったのである。──いや、劉備は陶謙と組んだようにみせて、じつはその陶謙をも|陥《おとしい》れようと考えていたのだ。
2
劉備主従は、泰山の南麓から、まわり道をして平原へひき返した。
平原といえば、戦国末期、趙王の叔父で趙の宰相になった平原君が連想される。戦国四君といって、おおぜいの食客を養ったことで有名である。
後漢二百年、平原は郡であったり国であったりした。郡も国も、けっきょく同じである。郡には皇帝から太守が任命される。国は皇族が王となっているが、名目だけで、その国へ行くことさえ禁じられていた。そして、やはり皇帝から任命された相がその国を治めたのである。郡の太守と国の相は同格なのだ。
後漢の四代皇帝和帝の子が平原王に封じられた延平元年(一〇六)に、平原は郡から国になった。そして建安十一年(二〇六)、国が除かれて再び郡になった。
後漢末の乱世には、実力者が勝手に州の刺史や郡太守、国相を任命した。
さきに述べた公孫★[#王+贊]と袁紹の悲惨な戦いも、二人の青州刺史の合戦であった。公孫★[#王+贊]の任命した青州刺史|田楷《でんかい》と、袁紹の任命した青州刺史|袁譚《えんたん》とが、二年も戦いつづけたのである。袁譚は袁紹の息子なのだ。
劉備は公孫★[#王+贊]によって、平原国の相に任命された。袁紹や袁術も、それぞれ平原の相を任命しているが、じっさいに平原国に腰を据えた者が、ほんものということになる。
劉備はほんものの平原の相であった。
(よくもここまで来たものだ。……)
平原の邸に帰って、彼は腕組みをした。背中まで届く長い手である。立つと両手は膝まで垂れる。
異相というべきである。横目で自分の耳が見える。それほど大きい耳であった。
劉備、|字《あざな》は玄徳。このとし、三十二歳。中山王劉勝の|末裔《まつえい》と称している。劉勝は前漢景帝の十四男で、武帝の弟にあたる。もう三百年も前の人物なので、その末裔もいささかあやしい。かりに、ほんとうに漢王室ゆかりの者であったとしても、このていどの『ゆかり』の者は何万人もいたのである。とくに家柄が良いとはいえない。
劉備の祖父は県令までつとめたが、父が早く死んだので、母は|わらじ《ヽヽヽ》や|むしろ《ヽヽヽ》を売って生計を立てるという、貧乏暮しであった。親戚の者の援助もあって、劉備は同郷の先輩で、九江の太守をしている|盧植《ろしよく》の門下生となった。
──甚だしくは読書を楽しまず。|狗《いぬ》、馬、音楽、美しい衣服を喜ぶ。
とあるから、たいして身をいれて学問をしたのではない。
盧植の門下の同窓生に公孫★[#王+贊]がいたことが、劉備の運命をきめたといってよい。
とはいえ、彼が世に出たのは、|僥倖《ぎようこう》にすぎないとはいえない。
なにがなんでも世に出てみせる。──
この執念があったからこそ、昔の誼みを最大限に利用し、自分の才能の限りを尽して働くことができたのだ。公孫★[#王+贊]も同窓だからというだけで、彼を|抜擢《ばつてき》したのではない。この乱世に、縁故だけによって無能な人物に大事をまかせては、自分が没落してしまう。公孫★[#王+贊]も劉備をいちど県令に任じ、その成績をみてから平原の相に登用したのである。
おもえば二十三歳のとき、関羽や張飛と知り合い、黄巾の乱に身を投じて以来、けっして平坦な道をあるいたのではなかった。命がけの|傭兵《ようへい》隊長の働きの報酬は、小さな県の尉にすぎなかった。町役場の助役さんといったところで、劉備はそれが不満で毎日酒を飲み、査察に来た|督郵《とくゆう》(官名)に乱暴を働いて官を|棄《す》て、おたずね者になったことさえあった。
いまにみておれ。きっと立身して名をあげてみせるぞ!
歯をくいしばり、山賊まがいの生活まで経験した。立身出世には自信があったのだ。超能力の予言者が、彼の人相をみて、偉業をなしとげると断言したことも、彼の自信を強めた。──それも一人ではない。洛陽白馬寺の胡僧もひそかに、
──なにとぞ、わが月氏の娘をめとり、わが族の力になっていただきたい。あなたを天下の英雄と見込んでお願いする。
と、申し入れたのだ。
べつの予言者が、月氏の|女《むすめ》をめとれば、義兄弟の盟が破れて不吉と占ったので、花嫁|掠奪《りやくだつ》は中途であきらめた。……
そんな回想をしているとき、取次の者が廊下から声をかけた。
「洛陽白馬寺の支敬さまが、ただいま、おみえになりました」
「おう、待っていた。すぐに行く」
劉備は立ちあがった。
重要な用件で来た客は、|槐《えんじゆ》の巨木に囲まれた離れの部屋に通すことになっている。支敬はいまや、白馬寺長老支英の後継者とみなされていた。そして、劉備にとっては、天下の形勢を観察するための情報をもたらしてくれる、えがたい人物である。
「いかがでしたかな?」
挨拶もそこそこに、劉備は訊いた。
「大きな寺ができました。そして、金色|燦然《さんぜん》と輝く|浮屠《ふと》の像も。……それはそれは荘厳でございまするが……」
支敬は語尾を濁した。
「なにか不足ですかな?」
と、劉備は言った。
「一ばん熱心なお方が、じつは|ほとけ《ヽヽヽ》の道をご理解くださいませぬ」
「わからぬのに、熱心だとは、これまた妙な話じゃのう」
「さようでございますな。……あるいは、ご理解できぬからこそ、寺院の建立など思い立たれたのかもしれません」
「それは異なことを申す。……ところで、一ばん熱心な者とは?」
「|★[#たけかんむり+乍]融《さくゆう》さまでございます」
と、支敬は答えた。
「ああ、あの馬鹿か……」
劉備はにやりと笑った。
3
「謀臣が欲しいものじゃ。……」
いつも心のなかでくり返している言葉を、劉備は声に出して言った。──支敬の帰ったあとで、彼のそばには誰もいない。
関羽と張飛は、たしかに頼もしい家来であるが、策謀をめぐらすタイプの人物ではない。
「こんなことも、おれが自分でやらねばならん。……どこかに策士はおらんかな。……」
彼は呟いた。
形は主従だが、実は義兄弟。──そう誓い合った仲なので、劉備はたいていのことは、関羽と張飛にうちあけた。自分の考えた謀略を、部下に語りきかせる。どうもそれは逆のような気がする。専門の策士が下にいて、さまざまな策略を考え出し、それを主人に説明して意見をもとめるのが、ふつうの順序ではあるまいか?
さっきも支敬に、
──どうだ、寺を出てこのわしに仕えてくれぬか? そうすれば、|ほとけ《ヽヽヽ》の教えも月氏族の者たちのことも、ちゃんと守ってやるが。
と誘ってみたのである。
|碧眼《へきがん》の胡僧支敬は、たしかに策士としてすぐれた才能をもっていた。だが、彼は、
──いいえ、私はその任ではありませぬ。
と、どうしても承知しない。
──いや、そうして、教えと同族のために、いろいろ知恵をめぐらしておるが、なかなかどうして、りっぱな軍師だぞ。
劉備はおだてたつもりだが、支敬は、
──策謀もほとけの教えのためでございます。現世の名利のためには用いませぬ。したがいまして、あなたさまの幕営に入れば、私は無能となります。これまでどおり、ときどきお目にかかって、世間話の御相手をいたし、相談にものるていどでよろしいかと存じます。どうかご|容赦《ようしや》願います。
と、おだやかに辞退した。
槐の巨木に囲まれた建物のなかで、劉備はしばらく一人きりで考えごとにふけった。関羽と張飛に、どんなふうに説明すればよいか、その筋道を考えていたのである。──状況を他人に説明するという作業は、自分にも状況をもういちどのみこませる効果をもつ。そして、説明しているうちに、それに対応する方策が、ひょいと頭にうかぶこともあった。
(まぁ、当分のあいだ、このままのやり方でよかろう。いつまでもというわけには行くまいが。……)
気を取り直して、劉備はそこを出た。
奥の部屋では、すでに関羽と張飛が待っていて、劉備の顔をみると、いきなり、
「支敬どののご用件は?」
と、張飛が訊いた。
「そうあわてるな。ゆっくり説明しよう。……関羽、おなじことのくり返しもあるが、辛抱してきいてくれ」
「はい」
関羽は頭を下げた。
関羽と張飛とでは、理解力にだいぶ差がある。しぜん劉備の説明は、理解力の劣る張飛に焦点をあわせる。くり返さねば、頭にしっかりおさまらないので、おなじことをなんども言う。劉備は関羽に気の毒だとおもっていた。
「乱世である。われわれはこの乱世に、立身の道をもとめてきた。なんの背景もなしに、親譲りの地位も財産もなければ、家の子郎党もいない。有名な親戚縁者がいるわけでもなく、名声があったのでもない。……やっと、どうやら一国一城のあるじとなったが、これが終わりではない。わかるかな、張飛?」
「わかりますよ。なんにもなしで、ここまで来たってことですね」
と、張飛は答えた。彼もすでに二十五歳である。
「これからだ、ということだよ」
と、関羽は張飛に言った。彼は劉備と二人がかりで、張飛を教えているつもりだった。
「そうだ。これで終わりと思ったとたん、われわれは没落するだろう。まっすぐに進まねばならないのだ。もっともっと……張飛、郡太守、国相、刺史の上はなにか知っているかな?」
と、劉備はあくまで張飛に語りかける。
「うーん、三公かな……それとも大将軍かな。……|丞相《じようそう》ってやつがいるんだろう」
官職についての張飛の知識は、きわめてあやしいものである。
司徒、司馬、司空の三人を、三公という。
ふつう丞相とは司徒のことをいう。司空は前漢の御史大夫に相当し、副丞相といえよう。司馬は国防相にあたる。
太守や刺史などの地方長官は年俸二千石だが、三公はその倍以上の|俸禄《ほうろく》をうける。張飛はどこかで、そんなことをきき|齧《かじ》っていたのであろう。地方長官の上なら、その倍の給料をもらう三公だと、かんたんに思い込んだ。
「官職の名ではない。いまは名のみの者が多い。義兄の申されるのは、天下に号令を下す者になるという意味じゃ」
関羽は補足的な説明を加えた。
「うん、わかった。……いや、わかったような気がする」
張飛は正直である。
「天下に号令を下す者は、みやこの三公からは出ない。土地と人民と兵をもつ良二千石のなかから出る。いいか、わしもそのうちの一人だぞ」
劉備の言った『良二千石』は地方長官の異称である。前漢の宣帝が、この言葉を使ったのがはじまりだが、太守、相、刺史は前述のように年俸二千石であったことに由来する。
「張飛、おまえ、いま誰が丞相だか知っているか?」
と、関羽は訊いた。
「知らないねぇ。……|董卓《とうたく》を殺した|王允《おういん》が丞相だったが、その王允は董卓の部将に殺されたんだろ。……さぁ、誰だろうな」
「去年、王允が殺されたあと、趙謙というのがあと釜におさまったが、そいつもやめて、いまは|淳于嘉《じゆんうか》という男が丞相だよ」
と、関羽は教えた。
「聞いたことのない名だなぁ」
張飛はこういうことには、あまり関心がないようであった。
「みやこの大官は問題にならない」と、劉備は言葉をついだ。──「そして、良二千石はその数が多い。州の刺史は十二人、全漢の郡国は百五もあり、それぞれ太守や相がいる。たいへんな数だ」
「だが、そのうち三分の二は問題にならないね。土地が遠すぎたり、微力にすぎたりで」
と、関羽は言葉をはさんだ。
「三分の一にしろ、三、四十人だから、抜きん出ることは難しい。だが、抜きん出なければ消え去る。いま私はまだ力が足りぬ。では、どうすればよいのか? 力のあるやつが、ますます力をたくわえるのを、指をくわえて見ているのか?」
劉備はそう言って、試験官のような表情で張飛の顔をみた。
「そんなことはできん。たたき|潰《つぶ》すのだ!」
張飛は|拳《こぶし》をふりまわして答えた。
「たたき潰す力が、まだわれわれにはないのだぞ」
「畜生! じゃ、どうしろっていうんだ?」
「兵力でたたき潰せないなら、策略で相手の力を弱めるほかはない。それをわれわれはやっているのではないか。……|闕宣《けつせん》をおだてて|むほん《ヽヽヽ》を起こさせるのも、徐州の陶謙がその討伐で力を弱めるのを狙ったのだ。このあいだ、泰山まで行ったのは、そのためだったではないか。……陶謙は強すぎる。いや、徐州の地が豊かすぎる。力とは兵力だけではない。財力も大きな力だ。徐州の財力を弱めるために、白馬寺の力を借りた」
劉備はそこで言葉を切り、関羽に目くばせをした。あとは説明してやれ、という合図である。
「寺を建てさせたのだ」と、関羽はかんで含めるように言った。──「寺のなかに、大きな黄金像をつくらせる。これはずいぶん金がかかるぞ。……わかったな?」
4
白馬寺の長老支英の養女|景妹《けいめい》は、長沙太守孫堅の側室になる約束であった。病気のために|輿入《こしい》れが延びていたが、その後、孫堅が戦死したため、白紙に戻ったのはいうまでもない。
景妹の病気はあらかた治っていた。
「気ばらしに徐州へ行ってみないか。漢族信者の建てた本格的な寺は、これがはじめてじゃ。その意味で、わしはぜひとも行きたい。どうじゃ、一しょに行く気はないかな?」
と、支英は景妹を誘った。
「はい、参ります、よろこんで。……」
彼女は青い目を輝かせた。
十七歳で病気になり、この六年というもの、外出らしい外出をしたことがない。徐州は遠いけれど、彼女はそれを苦にしなかった。
「こんどは★[#六+兄(六が上で兄が下)]州の曹操さまにも話を通しておる。われらの一行にお手を出さないと、お約束なさった」
支英はやさしくそう言った。
「物入りでございましたね」
景妹は笑いながら言った。
曹操と話ができたのは、手ぶらではないはずだ。
「|玻璃《はり》の皿が、ずいぶんお気に召したようじゃ」
支英もほほえみながら答えた。
「高価なものにつきますねぇ」
景妹は目を細めた。こんな犠牲を払うのも、み仏の教えと月氏族の安全のためである。当時の玻璃は西域渡来の貴重品であった。玻璃どころか、彼女自身がいちど献上物にされかけたこともある。
「なぁに、西域の玻璃ではない。五丈原で康国の連中が造ったものよ」
「ほ、ほ、ほ……」
景妹はそのしなやかな白い指を、唇のうえにそろえてあてた。
康国(現在のサマルカンド)の人たちが、ひそかに五丈原に居留地をつくり、そこで秘法の玻璃製造をおこなっていた。むろん、そこから長安に持ち込み、
──西域渡来の玻璃。
として売ったのである。沙漠を越えての大輸送の費用が省けるので、これは大きな儲けになった。おなじ西域人として、月氏の人たちが、この商売に一枚かんでいたのはいうまでもない。
そのガラスの皿やコップで、曹操と話をつけ、陶謙の支配する徐州の寺院落成式に参加しようというのである。
徐州には、東海、|琅邪《ろうや》、|彭《ほう》城、広陵、|下★[#丕+おおざと(邦の右側)]《かひ》の五郡国があり、人口は約三百万といわれていた。だが、このころは中原の戦乱を避けて、住民が急にふえたはずである。
もともと豊かな土地で、流入人口をじゅうぶん養うことができた。むろん、富豪も多く、なかでも|麋竺《びじく》という者は巨億の資産を擁して、その名声は天下に|轟《とどろ》いていた。
陶謙はこれら土着の富豪の財力によって、軍閥としての力をたくわえはじめた。系統からいえば、袁術や公孫★[#王+贊]が袁紹を牽制する、一つの布石の役をつとめたので、劉備とは同系といってよいだろう。だが、劉備のように、公孫★[#王+贊]の部将ではない。ちゃんと独立した勢力なのだ。
土着豪族の豊かさと、避難民の貧しさ、精神的な挫折感とが、ないまぜられて、仏教をうけいれる素地をつくったのであろう。さらにその裏には、劉備の依頼を受けて、白馬寺の人たちが、重点的に徐州で布教活動をしたこともある。
|★[#たけかんむり+乍]融《さくゆう》という富豪が、最も仏教に熱中した。ところが、この男の名を耳にしたとたん、劉備が思わず、「ああ、あの馬鹿か」と言ったことでもわかるように、そんなに質の良い人間ではなかった。彼が仏教に傾斜したのは、たんに新しがり屋だったからにすぎない。黄金の巨像を礼拝し、えもいわれぬかおり高い香を|焚《た》く。──そのような異国情緒の魅力にとりつかれたのであって、けっして信心からではなかった。
そのことは、徐州布教の責任者である支敬から、長老の支英に報告されている。
──いいではないか。先ず|形骸《けいがい》だけでも造っておけば、いつでも魂をいれることができるのだから。
あまり気乗りのしない支敬を、支英はそう言って督励したのだった。
徐州における、漢族がつくった最初の寺院が、どのようなものであったかは、『|後漢書《ごかんじよ》』の陶謙伝のくだりが、おそらく唯一の資料であろう。
★[#たけかんむり+乍]融はやくざの親分のような人物で、子分数百を率いて、運送業を営んでいたようだ。陶謙は彼に、州の糧食輸送の専業権を与えている。さて、後漢書はそのような彼の紹介をしたあと、つぎのように述べた。──
──大いに|浮屠《ふと》(仏)寺を起こす。上は金盤を|累《かさ》ね、下は重楼と|為《な》す。|又《ま》た堂閣は|周回《しゆうかい》して、三千|許《あま》りの人を|容《い》れる|可《べ》し。黄金の|塗像《とぞう》を作り、衣は|錦綵《きんさい》を以てす。仏を|浴《よく》する|毎《たび》に、|輒《すなわ》ち多く|飲飯《いんはん》を設け、|席《せき》を路に|布《し》く。其の食に|就《つ》き|観《み》る者、およそ万余人有り。……
これから想像すると、おごそかな宗教ではなく、みんなが集まって、がやがやと飲み食いをするつどいの場所であったらしい。仏教に名をかりた、民間習俗の延長線上のもので、異国趣味を濃厚に採用したのだ。寺院の規模は大きく、そしてけばけばしいものだったのに相違ない。
その落成式も、お祭り気分で、★[#たけかんむり+乍]融の財力を誇示するものとなった。
「ここの人たち、ほとけの道を誤解してるようね。支敬さんが、あれほど努力しても、だめだったのねぇ。……」
はでな落成式に参列して、景妹は支英にそう言った。
「この国で、ほとけの道をひろめるのが、どんなに難しいことか、それがわかっただけでも大きな収穫だね」
支英は巨大な建物を仰いで、そう言った。
「でも、この徐州って、妙なところね」
景妹は首をかしげた。
「なにが妙なんだね?」
「なんとなく……おかしな気配だわ。……平和なようにみえて、殺気があちこちにみなぎっているし……うまく説明できないけど、まともじゃないわ」
景妹は徐州の雰囲気に、なじめないものをかんじた。なじめないどころか、彼女は敵意に似たものさえおぼえた。
「とにかく、形はできたのだ。いまのところ、それで満足しなければ……」
支英は景妹にではなく、自分に言いきかせるようにそう言った。
5
このころ、仏寺のことを、|浮屠《ふと》祠と呼んでいた。
小さな|ほこら《ヽヽヽ》のような浮屠祠は、ほうぼうにあったが、本格的な|伽藍《がらん》は、この徐州の寺が最初であった。
その落成式に、妙な一団がまぎれこんできた。青い巾で頬かぶりをした連中が、三千人を収容する寺院の回廊で、身ぶり手ぶりで踊りはじめたのである。あまりはげしい踊りではないが、集団なので、一種異様なムードを漂わせた。彼らは声をそろえて、歌をうたった。──
浮屠は異国の邪宗
われら漢のともがらは
天帝の子をあがめよ
天帝の子は地上の支配者
あがめよや、あがめよや
いたってかんたんな歌詞である。きいているうちに、どうやらこの連中は、浮屠の寺の建立に反対しているのだということがわかった。──
あがめよや、あがめよや
徐州の刺史の陶謙さまも
天帝の子を拝みなさる
徐州は天帝のみやこ
天帝の子の宮殿を造ろうぞ
歌っているうちに、エキサイトしてくるのであろう。リズムもしだいにきまって、歌詞はだんだん明瞭になった。
天帝の子をあがめる集団があり、徐州刺史の陶謙もそれに関係している、といったことであるらしい。浮屠のおしえが、異国の邪宗と排斥されているのだが、この寺を建立した富豪たちは、その場にいながら、べつに怒るふうもなかった。それもそのはずで、彼らはたいてい趣味の浮屠狂であり、たましいの救いをそこにもとめているのではない。踊りの集団をみて、にやにや笑うだけであった。
そのとき、とつぜん、|喊声《かんせい》があがった。
兵卒たちが回廊に|雪崩《なだ》れ込み、踊っていた連中を、片っぱしから逮捕しはじめた。それも、きわめて荒っぽいやり方である。張りたおし、蹴とばし、そのうえ踏んづけるのだ。抜刀こそしなかったが、|棍棒《こんぼう》がふりまわされた。青巾の頬かぶりの団体は、まるで武装していない。雪崩れ込んできた兵卒の暴力にたいしても、彼らはまったく無抵抗であった。いや、とつぜんのことで、抵抗するひまもなかったといったほうがよいだろう。
(なぜおれたちがつかまるのか?)
彼らは信じられない面もちであった。
棍棒でも殴りようによっては、皮膚をやぶる。血だらけになって、頭を抱えている者もいた。縄を用意してきた兵卒たちは、じつに要領よく彼らを縛りあげた。その手さばきはみごとというほかはない。めざす男にとびつくと、つぎの瞬間、黄色い縄がその男のからだにぐるぐると巻きつけられているのだった。
「まぁ、|怖《おそろ》しい……」
景妹は養父支英の膝にすがりついた。
「とりみだすでない。景妹も戦乱をいくたびも見たではないか」
支英がたしなめた。
彼らは本堂のなかにいた。回廊での逮捕が、まるで舞台のうえの出来事のようにみえた。この寺を建てた★[#たけかんむり+乍]融も、大富豪の麋竺も本堂の黄金仏像の前にいた。そして、徐州刺史の陶謙が、彼らに囲まれるようにして、あぐらをかいて坐っていた。それぞれの前に酒食が置かれている。彼らは回廊での件は、はじめから知っていたのにちがいない。べつに驚いたようすもなく、平然と飲食をつづけているのだ。
支英や景妹は、その要人の一団から、すこしはなれたところにいた。支英は読経するように申し入れていたが、
──食事がすんだあとでよろしい。
と言われたのである。
景妹は養父にたしなめられて、
「わたくしが見たのは修羅の場ですが、ここは伽藍ではありませんか。伽藍で血をみたものですから、動転して……」
と、弁明した。
「これが伽藍か。……」
支英は低い声だが、怒りをこめて、吐きすてるように言った。
縄をかけられたのは、およそ百人はいたであろう。踏み込んだ兵卒はその三倍ほどにみえた。この逮捕劇は、時間にして十分か十五分ほどで終わってしまった。引き立てられて行く一群のなかから、一人の男の|甲高《かんだか》い叫び声が、景妹の耳を刺すように響いた。──
「なんだ、これは! おれたちゃ、お殿さまのお声がかりで、踊りに来たんだぞ。それなのに、どうしてふん縛るんだ? 間違いだ、間違いだぁ!」
間違いだぁ、とくり返す声が、しだいに遠ざかって行く。
この光景を目撃したのは、本堂のなかにいた人たちだけではない。
大がかりな『|布施《ふせ》』がおこなわれ、道路にむしろを敷いて、飲食物が出されたので、近在から万余の群衆がおしかけていた。彼らは舞台に似た寺院の回廊で、とつぜん演じられたシーンを、下から仰ぎ見ていたのである。
やがて、陶謙が立ちあがり、ゆっくりと回廊のところに出てきた。彼は下の群衆を見渡してから|大音声《だいおんじよう》で言った。──
「下★[#丕+おおざと(邦の右側)]郡の妖人闕宣なる者が、天帝の子と称して、乱をおこしたというしらせがあった。ただちに討伐の軍をむけたが、州都にも彼ら一党に|与《くみ》する者がいて、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]の叛兵と呼応して兵を挙げようとはかっておった。我輩はそれを察知し、一味の者を一網打尽、患禍の根をたち切ったのである。いま逮捕したのは、妖人の徒党であった。下★[#丕+おおざと(邦の右側)]の乱は、遠からず平らぐであろう。みなの者よ、安心して業にはげめ!」
去年、還暦をむかえたとは思えないほどの、力のこもった演説であった。言い終えて、陶謙は頬にかすかな|笑《え》みをうかべた。
回廊から本堂に戻るとき、彼は誰にもきかれないように、口のなかで、
「みたか、劉備。おれを甘くみるでないぞ」
と|呟《つぶや》いたのである、
陶謙は本堂にはいり、黄金の仏像の顔を、まっすぐみつめて歩いた。
(ひょっとすると、これも劉備が造らせたのかもしれんぞ。……いや、まさか……)
彼はわざと、ゆっくりと歩いた。
(いざとなれば、この像を|熔《と》かして、軍資金をつくることができる。なあに、この寺だって、りっぱな|砦《とりで》になるではないか)
陶謙が座についたとき、頬ばかりではなく、目もとも笑っていた。
「怖しいわ、あのひと……」
景妹は養父にそっと言った。
「そうだ。……権力をもった人間、もっと大きな権力を手にいれようと思っている人間は、たしかに怖しい」
支英は隣りの景妹が、辛うじて聞き取れるほどの声でそう言った。
陶謙はもう杯をとりあげていた。
6
「策士め、上には上があることを知らぬな。……」
杯をとりあげた陶謙はそう呟いた。
陶謙、|字《あざな》は|恭祖《きようそ》。丹陽の人というから、江南の出身である。父は浙江|餘姚《よよう》の県長までつとめた。したがって、育ちも南方であった。当時の英雄豪傑のなかで、江南出身というのはめずらしい。江南人は文弱の徒というのが定評である。
だが、陶謙は車騎将軍張温の部将として、西方へ出征したこともあり、徐州で黄巾軍が起こったときは、徐州刺史に任命されて、かなり戦ったものだ。それでも彼は内心、
(おれは一介の武骨ではないぞ。……)
と、自負していた。武功のほかに、策謀についても、人後に落ちない自信があった。
男と生まれたからには、天下に号令を下したい。──彼とて、当時の英雄たちと、おもいは同じであったが、二つの弱点をもっていた。
第一は、年を取りすぎていることであった。曹操三十八、劉備三十二、孫策(孫堅の子)十八とならべてみると、六十一歳の彼はもう老い込んでいる。彼はあの董卓よりも七つ年上であったのだ。
第二の弱点は、十年前の徐州黄巾の乱以来、これといった功名をあげていないことだった。反董卓連合軍にも参加していない。
(ひとつめざましい武勲を立てたいものだ)
と、彼は考えていた。
その心を読み取ったのか、劉備から誘いがあった。
──下★[#丕+おおざと(邦の右側)]に天帝を|祀《まつ》る集団があり、日に日に人数がふえています。いかがですかな、彼らに反乱をおこさせ、それを鎮圧すれば、恭祖どのの武名は天下に轟きましょう。もともと反乱は虚をついてこそ威力がありますが、こちらがはじめから察しておれば、それほど怖しくはありません。しかも、こちらが操縦しておれば、安全なものです。……★[#六+兄(六が上で兄が下)]州との境界近くでことをおこせば、おもしろうございますぞ。
陶謙はしばらく考えたあと、この誘いにのることにした。
劉備の魂胆はわかっている。徐州の兵力を、いささか|削《そ》ぎたいのであろう。同時に、もう敵対関係の消滅した陶謙・曹操のあいだを、再び険悪なものに変えたいのに相違ない。陶謙はそれを承知のうえで、
──人工反乱
の誘いに応じたのである。
劉備に教えられなくても、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]郡の天帝崇拝の徒のことは、徐州の長官である彼は調査して知っていた。
教徒の数は二万余だが、そのうち壮丁は約八千ほどである。平和的な結社で、反乱のきざしはない。ただその教主の闕宣という、神がかり的な人物に、教徒が絶対服従しているので、彼が命令すれば、起ちあがるだろう。劉備の作戦も、教主に誘惑の手をのばすことであった。
──天帝の子よ。天子よ。あなたは天子であるぞ。この地を支配せよ。……
もともと暗示にかかりやすいので、教主になったのである。劉備の工作によって、そんなふうにくり返して言われると、だんだんその気になる。
人工反乱工作の仕上げとして、劉備は泰山の封禅という、茶番劇を思いついたのだ。
──わが平原にも教徒がすくなくないので、内部工作はこちらでやりましょう。そして、乱をおこす前に、おしらせすることにします。
劉備は陶謙にそう言っていた。だが、目的が徐州の兵力になにがしかのダメージを与えるにあるのだから、おそらく予告なしに反乱がおっぱじまるだろう。──陶謙はそう予想していた。
陶謙の対策は、教団のなかに自軍の将兵を浸透させることである。避難民が大量に移動していた時代なので、よそ者はめずらしくはなく、あやしまれもしない。陶謙は約三千の将兵を、教徒として送り込んだ。
天帝崇拝教は、黄巾軍のような戦闘的な集団ではない。いわば|烏合《うごう》の衆である。そのなかに、命令系統のはっきりした組織されたグループがはいれば、たちまちその主導権を握ることができるはずだ。そうすれば、天帝教の壮丁八千を、そっくり編入できる。徐州は兵を損じるどころか、かえって兵をふやすことになる。
上には上があるぞ。──陶謙は劉備の策を|嗤《わら》った。
★[#六+兄(六が上で兄が下)]州との境界で戦闘があるはずだが、曹操にたいしては、あらかじめ、
──州境において、邪教討伐の戦いがあるはずだが、諒承していただきたい。できるだけ迷惑をかけないように努力するつもりである。
と、通告していたのである。
会食がすんで、いよいよ読経という段取りになった。
徐州には、まだ『僧』はいない。経を読める人もいない。ただ巨大な伽藍と巨大な仏像が、異国趣味としてつくられただけなのだ。支英も出家ではないが、経は読める。彼は経を捧げるようにして、仏像の前に出た。
「漢訳の経文をとなえまする。そのほうがわかりやすかろうと存じますので」
支英は一礼して、そう言った。
白馬寺大長老の|支讖《しせん》は、すでに数種の大乗仏教の経典を漢訳していた。そのなかには、現存するのもある。支英は|道行《どうぎよう》 |般若経《はんにやきよう》をえらんだ。
「いや、どうせやるなら、本場のお経にしてもらおうではないか。……|天竺《てんじく》の言葉でやってくれんかな」
★[#たけかんむり+乍]融はぼりぼりと膝を|掻《か》きながら、そう言った。
「はい。……そういたします」
支英は懐に手をいれた。|梵文《ぼんもん》経典を身につけていたので助かったのである。
(ほとけの道を理解しようとする意思はないのだ。……)
支英は胸の奥で歎いた。
このとき、陶謙が立ちあがった。──
「戦事の報告をきかねばならぬから、わしはもう帰る。支英とやら、天竺の経文は、そのうち、わが邸でゆっくりきかせてもらおう。このちっぽけな戦いがすんでからだ。さらば、みなの者。……馬の用意をいたせ!」
7
教主の神がかりだけが頼りの烏合の衆は、その頭だけもぎとれば、もう片づいたも同然である。このあいだまで、戦争など夢にも考えたことのない連中なので、戦さの仕方を知らない。教主の首など、やすやすと取れるであろう。──陶謙がそう思ったのは、やや甘い予想であった。
劉備が部将の趙雲を送りこみ、教団の戦争指導をしていたからである。
趙雲、|字《あざな》は|子竜《しりよう》、もとは公孫★[#王+贊]の部将で、劉備軍に出向したかたちになっていた。しかし、この男はもとのあるじよりも、劉備とのほうが性に合っていたとみえ、その後、ずっと劉備陣営から離れなかった。
「しまった、徐州の陶謙め、兵を教団のなかに埋めておったか!」
さすがに、趙雲は緒戦でそれに気づいた。そこで、急いで教主の闕宣を連れて逃げた。陶謙軍の狙っている首を、さっそくかくしたのである。大勢を挽回することはできないけれど、せめて相手に|一矢《いつし》報いたわけだ。
「なに、あの神がかりの薄のろの首が取れなかったのか!」
闕宣の脱走をきいて、陶謙は激怒した。
とはいえ、戦いは陶謙の大勝に終わった。上には上があることを、劉備の小僧に思い知らせてやるという目的ははたした。
(まぁ、これでいいとするか。……)
勝ったのだから、激怒もすぐにおさまった。だが、前線からの使者に、甘い顔をみせてはならない。|眉《まゆ》を吊りあげ、目をぎらつかせて、
「薄のろの首を見たいと、そう伝えろ!」
と、どなりつけた。
十日後に、首が届けられた。
「これが薄のろの顔か」
陶謙は自分の息子ほどの年|恰好《かつこう》のその首を、にらみつけた。その顔は鼻が上むき加減で、口を半ばあけていた。どうしたわけか、目は片方だけ閉じている。じっと見ているうちに、その首の顔が、自分の二番目の息子に似ているような気がしてきた。
「もういいわ」
彼はそう言いすてて、奥にはいった。
この首は、じつは闕宣の首ではなかったのである。
──ご主人、激怒。
ときいた前線の隊長が、どうせあるじは闕宣の顔を知らないのだからと、戦死者のなかから、首を一つえらんで、徐州へ送ったのである。
隊長はただちに、泰山一帯での残敵|掃蕩《そうとう》中止の命令を出した。すでに教主の首は徐州へ送られたことになっている。もう一つの首が出てくると困るのだ。
こうして闕宣は助かった。
陶謙がその首を欲しがったばかりに、その首のあるじは、命が助かったという、きわめて奇妙なまわりあわせになった。
泰山の山塊のなかの、|招軍嶺《しようぐんれい》と|鶏籠《けいろう》峰とのあいだの、軒の傾いているあやしげな|祠《ほこら》のなかに、闕宣は趙雲と一しょにかくれていた。
「どうして、こんなことになったのか? こんなはずではなかったではないか。天の命はどうしたのだ?」
神がかり男も、こうなれば、だらしがないものである。しきりに愚痴をならべた。
「天の命は、そんなにかんたんなものではありませんぞ。天の命をうけた者は、もっともっと天から苦しめられます。よろしいか、七難八苦を耐えた者の頭上に、最後の栄冠は輝くのです。これしきのこと、まだ始まったばかりですぞ」
趙雲はそう|叱咤《しつた》した。
「そうか。……うん、それもそうだな。……」
闕宣はうなずいた。|蜘蛛《くも》の巣のかかった天井の一角を、彼はぼんやりと見上げている。その目はうつろであった。
(この男、頭がおかしいのではあるまいか?)
趙雲はそんな疑いをもった。
狂った男を、大事にお守りするなんて、ばかげたことではないか。──そうは思ったが、とりあえず、平原へ急使を走らせた。ここを切り抜けて平原へ帰るには、変装だけではおぼつかないだろう。武器をもった、強力な護衛隊に、ひそかに守られてでなければ、泰山脱出は不可能に思えた。
近辺に潜伏させて、ようすをうかがわせている部下からは、
──数日前から、捜索している形跡はありません。
という報告があった。
だが、趙雲は用心した。なにしろ、こんどの人工反乱工作で、劉備より役者が一枚上であることを、はっきりと証明してみせた男が相手である。捜索を打ち切ったようにみせて、|えもの《ヽヽヽ》がのこのこと出てくるのを、辛抱づよく、どこかで待っているのかもしれない。
──出てはならぬ。けっして出てはならぬ。もうその手は食わぬぞ。
趙雲はながいあいだ、その祠にかくれていた。すくなくとも、平原からの迎えが来るまで、そこをうごかない決心をした。
──徐州は兵を|退《ひ》きました。
という報告をきいても、趙雲は首を横に振って、
──|欺《だま》されまいぞ。兵を退くとみせかけて、どこかに伏せているかもしれない。相手は|老獪《ろうかい》な|古狸《ふるだぬき》ぞ。
と、部下たちを戒めた。
二十日ほどたって、ようやく平原から、腕の立つ壮士が三十人ばかりやって来た。むろん猟師や|きこり《ヽヽヽ》に変装し、ひそかに武器を携えている。彼らが到着するすこし前から、連日、雨が降るようになった。
「天佑だ。この雨に乗じて、ここを抜け出そう」
趙雲はやっとそう決心した。
ちょうどそのとき、情報を集めに出ていた部下から、
──曹操の父の一行が、琅邪から★[#六+兄(六が上で兄が下)]州へむかっております。まもなくこのあたりにさしかかるでしょう。車輛は百台、泰山大守|応劭《おうしよう》みずから部下約五十名を率いて、警固にあたっています。
というしらせがはいった。
趙雲はしばらく考えてから、
「またしても天佑。……」
と呟いた。
「なにが天佑じゃね?」
闕宣がそばから訊いた。
「おぬしには関係はない」
趙雲はながい潜伏生活で、この闕宣の正体がすっかりわかったようにおもった。たしかにどこかが狂っていて、まともに相手にできない人物である。しぜん話をかわすときも、ぞんざいな言葉になった。
「なぜ関係がないの? わしはこの世界を支配するのだぞ」
と、教主は唾をとばし、唇をつき出した。
「わかった、わかった。……もう平原へ行けるということだ」
趙雲は適当に教主をあしらってから、壮士たちを祠に集めるように命じた。
8
曹操の父|曹嵩《そうすう》は、三公の位にまでのぼったが、すでに引退している。
中原が戦火の|巷《ちまた》となり、しかも自分の息子が、|争覇《そうは》戦の有力な将となっているので、曹嵩は山東半島の琅邪国に疎開していた。しかし、曹操は★[#六+兄(六が上で兄が下)]州を平定して、いまや安定勢力となったので、父を迎えて一族再会のよろこびをともにしようと願った。
実力者曹操の命令によって、琅邪の相はみずから曹嵩の一行を、|沂《き》河のほとりまで送った。そして、そこで泰山太守の応劭と交替したのである。
泰山はすでに★[#六+兄(六が上で兄が下)]州の領域である。天帝教の反乱が近くでおこったが、それもあっけなく鎮圧され、もはや危険はない。それでも、念のため、五十人の武装兵をつけたのである。
彼ら一行は雨のなかを、泰山郡の費県までやって来た。費県の宿舎にはいったときは、もう夕方に近かった。
「やぁ、ひでぇ、ひでぇ……」
警固の壮士たちは、ずぶ濡れになっていた。宿舎に着くなり、先を争うように濡れた衣服を脱ぎ、かわいた布でからだをこすった。
|轎《かご》に乗っている曹嵩の家族は、むろん雨に濡れはしない。宿舎にはいり、くつろいで夕食を待っていた。
曹嵩は気に入りの妾と、二人きりで部屋のなかにいたのである。
「くたびれたかい?」
と、曹嵩は妾に訊いた。
「あたしより|轎屋《かごや》さんのほうがくたびれたでしょうね。轎に乗ってても、気がひけて仕方がなかったわ」
と、妾は答えた。
彼女は超肥満体だったのである。
「は、は、は……そりゃ、かつぐほうがくたびれるにきまっているぞ。ふつうの二倍もくたびれただろうな」
「まぁ、憎らしいことを……」
「いや、わしはむっちりした女が大好きじゃ。これはほめているのだぞ」
曹嵩は彼女の|裳《もすそ》に手をのばし、それをはねあげた。夏なので薄着である。真っ白な豊満なふくらはぎがそこにのぞいた。
「まぁ、ひとが来たらどうします」
妾はからだをくねらせた。曹嵩の指は彼女の肌を|這《は》って、奥のほうへのびる。
「ひとが来ぬように、ちゃんと言いつけておるわい。どんなことがあっても、ここへ来てはならぬ、とな。……」
「ほんとに……意地のお悪い……」
「そとは雨。うちでも濡れようぞ。……」
このときに、誰も来るはずのない部屋の扉に、荒々しい乱打の音がした。
「な、なんじゃ、来るなと申したろう」
曹嵩はあわてて、妾の裳から手を抜き出し、扉の外の者を叱った。
「賊ですぞ、賊ですぞ! 早くお逃げください。早く……早く!」
その声は、まぎれもなく、泰山太守応劭のそれであった。余人は知らず、太守がこのようなときに、冗談を言うはずはない。
曹嵩は妾の手をとって、外へとび出した。
賊はすでに宿舎のなかに乱入していた。
|宵闇《よいやみ》をつんざいて、
「われら、徐州刺史の兵、天帝の子と称する不逞の一味を捜索に参ったぞ。……うぬらは、その一味に相違あるまい。覚悟せよ!」
と絶叫する声がきこえた。
はげしい雨の音が、趙雲の指揮する壮士隊の奇襲を、計画以上にみごとに成功させたといってよい。
警固の武士は、散り散りになって、しかもほとんど裸であった。趙雲側の壮士は、裸の男をつぎつぎに斬りすてた。
「残しておくのだぞ。みんな殺してはならぬ。わしの言ったとおりにせよ!」
趙雲は部下にそう念を押した。
徐州刺史陶謙の部下と名乗りをあげたのだ。それを聞いた者を、ぜんぶ殺してはならない。曹操へそのことを、報告に帰る者を残しておかねばならない。
曹嵩は肥った妾の手をひっぱって、庭のほうへ逃れた。雨にうたれ、彼はけんめいに走ろうとするが、女の足が遅い。やっと庭の隅に身をひそめた。そばの塀にこわれたところがあった。
「ここから外へ出よう」
曹嵩は|喘《あえ》ぎながら言って、妾を塀の穴に押し込めようとした。首ははいったが、あまり肥りすぎて、肩が外へ出ない。曹嵩は必死になって、彼女の尻を押したが、どうすることもできない。
「だめだ。……あそこへ行こう」
曹嵩はまた女の手をとって、すこしはなれた|厠《かわや》のなかに逃げこんだ。
そのころ、曹操の末弟の曹徳は、門から逃げようとしたところを、ばっさりと斬られて死んでいた。そのほか、一族の者はことごとく斬殺された。曹嵩とその妾も、まもなく発見されて斬られた。
「何人逃げた?」
と、趙雲は部下に訊いた。
「十人ばかり」
「よし、では車輛の荷物をはこび出せ。いいか、車はすてよ。|担《かつ》いで行くのだぞ」
趙雲は死屍累々の庭を眺めた。
やっと日は暮れ、雨は一そうひどくなった。
──大雨、昼夜二十余日。
と史書にしるされたのがこの雨である。またあの|呂布《りよふ》が、身の危険をかんじて、|邯鄲《かんたん》の宿から脱出したときに降っていたのも、このときの雨であった。
「曹操は怒り狂うだろう。……陶謙め、思い知ったか。そういつもひっかけられはせぬぞ。こちらがひっかけることもある。……老獪、|狡猾《こうかつ》の古狸め。……」
趙雲は費県からわざと南へ馬を進めていた。
彼が北へむきをかえたのは、深夜になってからであった。
陶謙の部下の手で、一族みな殺しにされたときいて、曹操が怒りのため顔面蒼白になったのはいうまでもない。
「出陣の準備をせよ! 一刻も早く」
そう命令したとき、彼の目は充血し、歯のくいこんだ唇から、血がたらたらと流れたのである。
泰山太守の応劭は、逃げた十人のなかにいた。彼は再び任地に戻らず、北のかた袁紹のもとに身を寄せた。曹操の性格からみて、いくら弁明しても、ゆるしてくれないであろう、と察したからである。
作者|曰《いわ》く。──
陶謙は長安に使者を送り、朝廷から『牧』と『安東将軍』の称号を得た。元来、査察官にすぎなかった刺史に、行政権と兵馬の権を加えたのが『牧』である。だから、陶謙は徐州の牧と呼ぶべきだが、このころ、一般の人にはまだ刺史のほうが通りがよく、ふつうはそう呼ばれていた。
講談本の『三国志演義』には、陶謙も反董卓連合軍の一将として名をつらねているが、正史には、反董卓戦に出兵した諸将のなかに、彼の名をあげていない。
講談では、彼は悪玉曹操に攻められる善玉とされているが、軍人としても政治家としても、彼は落第の人物であったようだ。
──謙は|讒邪《ざんじや》を信じ用い、忠直を|疏遠《そえん》し、刑政を治めず。|是《こ》れに|由《よ》り徐州、漸く乱る。
と、史書も彼に辛い点をつけている。
また正史の闕宣反乱のところには、
──下★[#丕+おおざと(邦の右側)]闕宣、自ら天子と称す。謙、|初《はじ》めは|与《とも》に|合従《がつしよう》して|寇鈔《こうさ》(侵攻掠奪)し、後、遂に宣を殺し、其の衆を|併《あわ》す。
とある。
後世の註釈家は、『陶謙はすでに徐州の牧なのに、数千の衆を併せるだけのために、そんな妙な人物と結託するはずはない』と、すこぶる陶謙に同情的なものが多い。
だが、清の王夫之の『読通鑑論』は、陶謙は曹嵩の|輜重《しちよう》(荷物)に|垂涎《すいぜん》し、別将の手をかりて奪ったのであろう、と推理している。一種の卓見であろう。
[#改ページ]
|天日《てんじつ》、ために|暗《くら》し
1
陳留郡の太守|張★[#しんにょう(点二つ)+貌]《ちようばく》は無類の客好きであった。
朝から客と会って、話をきいている。そのことで部下が苦情を述べると、
「各地の太守、刺史のなかで、わしほど天下の情勢に通じている者はいないだろう。それというのも、外来の客から、いろんな話をきいているからだ」
と答えて、あらためようとしなかった。
後漢末の乱世では、天下の情勢に通じることが、地方長官の最大の任務だったかもしれない。
現在の河南省開封市の東南、|恵済《けいさい》河に沿ったところに、いまも陳留県という地名がのこっている。洛陽と徐州のほぼ中間にあたるが、客が多いのはそこが中原の交通の要衝であるという理由だけではない。
旅行の途中、そこのあるじの顔を思い出して、ちょっと寄ってみたいという気をおこさせる土地がある。また反対に、土地は魅力的だが、そこのあるじのことを思うと、「まあ、いいや。よそう」と、首を振って通りすぎてしまうところもある。
陳留は前者にあたる土地だ。まちのなかに|他所《よそ》者を見かけない日はないが、張★[#しんにょう(点二つ)+貌]の人柄が彼らを|惹《ひ》きつけているのだった。
弟子の陳潜を連れて、中原を旅行していた、五斗米道の教母の少容も、陳留にしばらく滞在して張★[#しんにょう(点二つ)+貌]の客となった。
日食に始まって地震に終わった、初平四年(一九三)もすぎ、その翌年の春である。
|厄《やく》払いでもするつもりか、正月に『興平』と改元した。
興平元年正月、十三歳になった皇帝|劉協《りゆうきよう》(献帝)は、元服の式をあげた。来年あたりは皇后を立てるであろうと、長安っ子が|囁《ささや》き合っているそうだ。
そうした情報は、とっくに張★[#しんにょう(点二つ)+貌]の耳にはいっている。
もっと新しい情報もはいっている。長安における紛争の詳細が、ようやく判明した。
征西将軍の|馬騰《ばとう》は、かつての|董卓《とうたく》の居城である|★[#眉+おおざと(邦の右側)]《び》に駐屯していたが、長安の朝廷が|李★[#イ+寉]《りかく》たちに|壟断《ろうだん》されていることに、心おだやかでなかった。
──おれは|体《てい》よくみやこの外に追われているのだ。……
そう思って、朝廷での要職を授けてもらうように、李★[#イ+寉]に申し入れていた。だが、李★[#イ+寉]は言を左右にして、ひきのばしていた。
李★[#イ+寉]はかつての同僚である|郭★[#さんずい+巳]《かくし》や|樊稠《はんちゆう》たちと、宮廷における主導権を争っている。そんなときに、馬騰のような|猪《いのしし》武者が宮廷にはいって、あれこれとかきみだしてくれてはかなわない。
馬騰とおなじ不満は、涼州に追いやられて、『鎮西将軍』の位を与えられた|韓遂《かんすい》も胸に抱いていた。
──おれは田舎よりもみやこで出世したい。
と、兵を率いて長安をめざした。
馬騰と韓遂は、この実力行使に自信をもっていた。じつは、彼らを|煽動《せんどう》したのは、四川に独立王国を築いている|劉焉《りゆうえん》であった。
劉焉はこの天下争いに、緒戦は傍観して、終盤になってから割り込もうという、横着な考えをもっていた。終盤戦を有利にするためには、大きな権勢を持つ強敵を、あらかじめたたき|潰《つぶ》したほうがよい。
董卓は潰れたが、その後継者の李★[#イ+寉]や郭★[#さんずい+巳]が、しだいに強力化しつつあった。
──現在の長安の主流を|叩《たた》くべし。
そう考えて、馬騰と韓遂に五千の兵を貸し、そのうえに、
──長安に内応の工作をしておこう。
と、その具体策を打ち明けたのである。
長安には、劉焉の息子の劉範が左中郎将、その弟の劉誕が治書御史として、朝廷の中枢にいた。さらにその同志に、諌議大夫の|★[#禾+中]邵《ちゆうしよう》、侍中の|馬宇《ばう》といった要人がいる。この連中が、両将軍がみやこに迫れば、内応して長安内で蹶起しようというのだ。──彼らが自信をもったのはとうぜんであろう。
ところが、馬宇の従者が、このはかりごとを、もらしてしまったのである。
近ごろ、しっくり行かないライバル同士だが、彼らをまとめてひっくり返そうという新しい敵にたいしては、李★[#イ+寉]、郭★[#さんずい+巳]、樊稠たちが、共同戦線を張ったのはとうぜんであろう。
奇襲や内応に頼っていると、それがだめになった場合、きわめて|脆《もろ》いものだ。
長安軍は馬騰が陣を|布《し》いている長平観を急襲した。両将軍は敗走し、内応者はことごとく殺されてしまった。……
張★[#しんにょう(点二つ)+貌]は、先日、長安から来た客から、そこまで聞いた。
だが、数日前から太守の邸の客になっている、少容はもっと新しい情報を語った。──
四川の独立王国のあるじ劉焉も、さすがにこの事件には大きな衝撃をうけた。息子の範と誕が、『長平観戦』の内応者として、殺されたのである。
たまたま落雷のために居城が焼けたので、劉焉は成都に移っていたが、我が子処刑のしらせを受けると、がっくりして病気にかかり、まもなく死んでしまった。
「ほう、あの劉焉がのう。……」
張★[#しんにょう(点二つ)+貌]は目をとじて言った。──あれほど用心深い男であったが、悲劇を避けることはできなかったのだ。
「|疽《そ》が背に発したのでございます」
と、少容は言った。
疽とは根の深い悪性のできものである。
「|范増《はんぞう》と同じだな。あまりはげしい悲しみは、はげしい怒りとおなじで、からだによくないのだなぁ」
張★[#しんにょう(点二つ)+貌]はため息をついた。
范増は項羽の名臣だが、主君から疑いをかけられ、辞職して故郷に帰る途中、憤りのあまり病気になって死んだ。
──疽、背に発して死す。
と、『史記』にしるす。
張★[#しんにょう(点二つ)+貌]の歎息はきわめて人間的なものであった。人間の哀しみに、彼は敏感に反応する。──これは義侠心ともいえよう。
2
張★[#しんにょう(点二つ)+貌]はいま悩んでいた。
曹操のことである。──いや、これはもう人間性のことについて、といってよいだろう。
彼はなぜか曹操とウマが合った。人間的魅力に惹かれたのにちがいない。
反董卓連合軍の諸将が、|酸棗《さんそう》に陣を布いたとき、兵力不足の曹操に、兵を貸したのは、ほかならぬこの張★[#しんにょう(点二つ)+貌]であった。
その人の『人間性』が好きであったのだ。ところが、その人の人間性が変わってしまえば、どうなるだろうか? あるいは、好もしく思っていた相手が、じつはそのような人間ではなかった、つまり、誤解していたとわかった場合は、どうなるだろうか?
父親を陶謙の部下に殺された|怨《うら》みは、わからないではない。だが、曹操の復讐戦は、あまりといえばあまりではないか。
曹操は陶謙の勢力下にある十余城を抜き、|彭《ほう》城で相手の主力を破ったが、そのとき、罪もない数十万の男女を殺して|泗水《しすい》に投げ込んだ。ために川の水は流れをせきとめられたという。
彭城から逃れた陶謙の主力は、|★[#炎+おおざと(邦の右側)]城《たんじよう》にはいった。曹操はこれを攻めたが、なかなか陥ちない。そこで|慮《りよ》県、|★[#目+隹]陵《すいりよう》県、|夏丘《かきゆう》県など、近辺の地方を荒らした。これがまた凄惨な|殺戮《さつりく》である。
──鶏犬すら尽き、廃墟に人影なし。
といわれるほど、徹底的に殺し尽した。
曹操はいったんひき返したが、それはつぎの復讐戦出撃の準備のためである。近くまた出陣するという。
「いやな戦いではないか。……」
張★[#しんにょう(点二つ)+貌]は眉をひそめた。これが|袁紹《えんしよう》や|公孫★[#王+贊]《こうそんさん》なら、どうせあの連中のやることだ、と眉をひそめるだけですむだろう。だが、それが大好きな曹操である。そんなことではすまないのだ。
しかも、その残忍な復讐戦に出かけるまえに、曹操は自分の家族に、
──わしがもし|還《かえ》らなければ、孟卓を頼って行け。
と言い残したというのだ。
孟卓とは、張★[#しんにょう(点二つ)+貌]の|字《あざな》である。
万一のときに遺族を託す。──その相手は、とうぜん心からゆるし合った親友でなければならない。
酸棗の陣のとき、反董卓連合軍の盟主となった袁紹は、とかく|驕慢《きようまん》なふるまいが多かった。張★[#しんにょう(点二つ)+貌]はそんなとき、面とむかって非を責めたものである。
あとできいた話だが、袁紹はそんな張★[#しんにょう(点二つ)+貌]の態度に腹を立て、曹操にむかって、
──張★[#しんにょう(点二つ)+貌]のやつはけしからん。あいつを殺してくれぬか。
と話をもちかけたそうだ。それにたいして、曹操は、
──彼は私の親友だ。是非はともあれ、私にはそんなことはできない。いま天下は揺らいでいるのに、それどころではなかろう。
と、きっぱりと断わったという。
そんな歴史をもつ間柄なのに──いや、それだからこそ、張★[#しんにょう(点二つ)+貌]は昨年来の曹操の陶謙攻めの非道がゆるせなかった。
(あんなに冷静な男なのに……)
張★[#しんにょう(点二つ)+貌]は曹操の行為が、どうしても理解できなかった。
曹操ほど現実主義に徹した人物は、当代、どこにも見あたらない。冷静に現実をみつめ、利害を計算し尽してから行動する。──衝動的な行動は、曹操についてはまったく考えられない。
酸棗の陣で、敢然と出撃したのは、一見、無謀なようにみえた。だが、あのときの曹操のやり方は、張★[#しんにょう(点二つ)+貌]には理解できた。
──やはり計算されたもの。
である。あの出撃で、曹操は一躍、『猛将』の名をあげた。この名声が、曹操にどれほどプラスになったか、はかり知れないものがある。──彼はその効果を、ちゃんと計算したのだ。
だが、こんどばかりは、理性のかけらもない。
(ひょっとすると、これが曹操の本性だったのかもしれない。おれが知っているとおもった曹操のほうが、仮りの姿であるとすれば……)
もしそうだとすれば、こんなおそろしいことはない。
いま張★[#しんにょう(点二つ)+貌]が頭を痛めているのは、この曹操のことだったのである。
「いまになって、彼のひどさに驚いたりしちゃいけませんね。曹操ははじめから、そんな人物だったのですよ。兄上の人物鑑識眼は、ずいぶん甘いものでしたな」
弟の張超はそう言った。
自分の友人について、他人の中傷などに耳をかす張★[#しんにょう(点二つ)+貌]ではなかったが、こんどばかりは弟の言葉に半ばうなずいた。
人間のほんとうの結びつきは、『侠』の精神でなければならない。──これが張★[#しんにょう(点二つ)+貌]の理想であり、自分もその通りに身を処したつもりであった。酸棗の陣で、盟主の袁紹に詰め寄ったのも、損得を考えておれば、できることではないのだ。あのときは曹操も『侠』の姿勢で、袁紹の要請を蹴ってくれた。だから二人の結びつきはほんものだ。──つい去年まで、彼はそう信じて疑わなかった。
いまは違う。
曹操の父を殺したのは、陶謙の部下だったといわれている。陶謙は曹操の父を、丁重に|★[#六+兄(六が上で兄が下)]《えん》州管内まで送るように、部下に命じたという。
どうやら、曹操の父が持っていた財宝に目がくらんだ部下が、陶謙の命令に反して、あんな事件を起こしたものらしい。
一歩譲って、部下の失態は陶謙の責任であるとしてもよい。だが、陶謙が治めている徐州の住民に、いったい何の罪があるというのか。住民たちは、べつに陶謙を自分たちの長官にえらんだのではない。曹操の父の遭難には、徐州の住民になんの責任もない。
──みな殺しにせよ! 一人も生かすな!
曹操はそう叫んだという。
『侠』の精神が、そう叫んだ男のどこにあるのか?
「見損ったかな。……」
と張★[#しんにょう(点二つ)+貌]は|呟《つぶや》いた。
3
「行きましょう、東へ」
と、少容は言った。
「戦場ですね」
陳潜は美しい教母の顔を、まぶしそうにみつめた。子供のころからそばにいるのに、陳潜は少容の表情から、その喜怒哀楽を読み取ることができない。ただ、
──決意。
の表情だけは読める。眉のあたりにあらわれる、微妙な表情のうごきでそれがわかる。いま決意の色が、美しい少容の|眉宇《びう》にみなぎったのだった。
「★[#六+兄(六が上で兄が下)]州さまにお会いしなければなりません。すぐに支度をお願いします」
★[#六+兄(六が上で兄が下)]州さまとは、そこの刺史曹操のことを指す。★[#六+兄(六が上で兄が下)]州の州都は東郡であるが、そこへ行っても曹操には会えない。彼の軍隊はすでに徐州の陶謙を撃つべく東へむかっている。
州都の東郡は、曹操の部将の陳宮が、留守部隊を率いて守っていた。
少容はまず陳潜とともに東郡へ行った。
青州黄巾軍と死闘をくりひろげていたとき、少容が仲にはいって、両軍合併の話をまとめたのである。曹操軍の幹部は、みんな少容を知っていた。陳宮も丁重に少容たちを城内に迎えいれた。
「このたびは、どのようなご用件ですか?」
と、陳宮はたずねた。
「曹公に申しあげたいことがございますので、本陣にお伺いしたいのです。案内の兵卒を拝借願えませぬか」
と、少容は言った。
「留守部隊は少数でございまして……」
「そんなにおおぜいは要りませぬ。道案内として、本陣の所在をたずねる連絡のできる人なら二、三人でけっこうです」
「それなら、おやすいご用です。……して、わが曹公へ申し上げたいこととは?」
「この戦いは、あまりにもむごすぎます。いかに父上の復讐とは申しても、これでは曹公自身の将来によくありませぬ」
「曹公があなたのお言葉を、ききいれますかな?」
「かならずききいれます」
少容は確信をもって答えた。陳宮はちょっと首をかしげた。
(この女は奇妙な力をもっている。……魔力といってよいか。……)
青州黄巾軍との交渉のときも、あのうるさい曹操が、彼女の言葉をあっさりとうけいれた。どんな言葉なのか、陳宮のような幹部でさえ、その席にはいれなかったので、知る由もない。だが、話し合いの時間が意外に短かったので、すんなりと話が成立したことが察しられたのだ。
「ところで、おたずねするが」と、陳宮は言った。──「あなたはこの乱世に、力は必要でないとお考えなのか? 五斗米道だけで、世は救われると思われるのか?」
少容は首を横に振って、
「力を認めないのではありません。こんなに分裂した国では、強い力で統一するのが先決でしょう。力は天下をまとめるために用いるもので、復讐に|割《さ》くには|勿体《もつたい》ないものです。私が仲に立ちました青州軍も、このような目的で使われては心外でございます」
「少容どの、ここで私の持論を申しあげてよろしいでしょうか?」
「よろこんでおききします」
「私は力は力、知は知、それぞれ分けるべきだと思います。力はあくまで強くなければなりませんが、それは知によってうごかされるべきものです。知が力を使役し、制御するのです。力が自分でうごいてはならないのです」
「智勇兼備の人もおられます。曹公などはそうです。力でもあり、知でもあります」
「兼備というのは、いささか弱いものですね。わがあるじ曹公は、むろん傑出した人物ではありますが、ただ力をくらべたなら、もっと強力なのがいるでしょう。……あの董卓はどのようにして倒されたのですか? |呂布《りよふ》という大きな力です。その呂布をうごかしたのは、|王允《おういん》の知です。呂布の力が、みずからうごいたのではありません」
「わかりました。あなたの申されることは、よくわかりました」
少容は一礼した。陳宮との問答を、そこで切りあげたのである。
少容たちは東郡に三日間滞在した。
おなじころ、東郡には|冀《き》州から来た袁紹の使節が滞在していた。その使節の従者の話では、彼らは東郡の曹操と、陳留の張★[#しんにょう(点二つ)+貌]の双方へ派遣されたのだという。まず東郡に来たあと、陳留へ行くのだが、曹公不在のため、ここにしばらく留めおかれているそうだ。
東郡城中でも、五斗米道の信者の集まりがあった。少容や陳潜は、その集会で信者たちの悩みをきき、それにたいして助言を与えたのである。集会は雑談で終わる。そのよもやま話がはじまるころ、一人の彫刻師が、
「あっしは先に失礼させていただきやす。なんしろ、期限つきの仕事をおしつけられましたんで、へい」
と、立ちあがった。少容はにっこり笑って、
「遠慮は無用です。ほかにも急ぎのご用のある方はお帰りなさい」
と言ったが、その彫刻師のほか、立ちあがろうとする者はいない。彫刻師は頭を|掻《か》きながら、
「なぁに、ちょっとした仕事なんですが、一点一画まちがえちゃならねぇって、ひどく細かい注文なんで、へい。……こんなのが気疲れして、時間もかかりますんで」
と、懐から紙片をとり出して、少容に見せた。弁解のつもりであろう。
「いいのよ、いいのよ」
少容はそう言ったが、その男の差し出した紙片に目をやると、急に低い声で、
「この仕事のこと、誰にも言っちゃいけないと言われなかった?」
と訊いた。
「さすが、教母さまだ。その通りでさ」
「じゃ、どうしてわたくしに見せたの?」
「教母さまは、とくべつじゃありませんか。ほかの人に言っちゃいけないが、教母さまはほかの人じゃないんだから……」
「わかりました」少容はその座にいた人たちにむかって、「いまのことは、けっして外にもらしてはなりませんぞ」と、念を押した。
少容が見た紙片には、印章が|捺《お》されてあったが、それは、
──冀州牧袁紹印。
と読めたのである。
4
怒り狂った曹操の、死にものぐるいの攻撃を受けて、陶謙は劉備に救援をもとめた。
平原の相劉備の手もとには、常備軍千数百しかいない。ほかに|烏丸《うがん》のいわゆる『|雑胡騎《ざつこき》』がいるだけである。陶謙は劉備の、
──救援はひきうけるが、兵はすくない。
という返事に、
──丹陽の兵四千をそちらにまわそう。
と約束した。
丹陽は陶謙の出身地である。
陶謙も劉備も、公孫★[#王+贊]の派閥に属していたのだから、援兵を要請したのは、僚友としてとうぜんのことであろう。
「四千の兵が手にはいりましたな」
関羽はそのふとい眉を上下にうごかした。喜びを表現するときの彼の癖である。乱世のならいとして、いったん借りた兵は、もう返す必要はない。
──兵力さえあれば。……
これが劉備とその良き副官関羽の、歎きの言葉であった。
曹操のように、三十万の青州兵を擁している陣営など、劉備からみれば、腹が立ってならないほどのぜいたくだ。だから、戦争の種をまいて、その力を削ってやろうとしたのである。
曹操と陶謙を|咬《か》み合わせたが、昨秋来の戦いぶりをみると、曹操が強すぎる。陶謙の戦争下手もあるが、曹操には『憤怒』という力が加わっているのだ。
劉備は陶謙から乞われるままに出兵したが、できるだけ曹操の鋭鋒を避け、相手が|奔命《ほんめい》に疲れるような戦法をとった。
しかし、曹操軍の予想以上の攻撃力に、劉備は不安を感じた。
「四千の兵をもらったのはよいが、曹操軍にひとなめにされるおそれがある」
劉備は右手で、左腕を抱いた。長い手なので、左腕を越えて背中まで届く。
「それでは元も子もありませんな。……」
関羽の声は湿っぽい。
「自分のつけた火に焼かれるなんて……死んでも死にきれない」
劉備の頬に、自嘲の笑みがうかんだ。
秘策のつもりで、曹操を怒らせた。だが、その怒りの火が、こちらにむかって、猛然と吹き寄せてくる。
二月に、曹操は軍糧が尽きて、彭城から兵を退いたが、本拠の|★[#西+土+おおざと(邦の右側)]《けん》城で、すぐに再出陣の準備にとりかかっている。
「再出兵の準備が完了するまで、おそらく二カ月もかからないだろう。そのあいだに、方法を講じなければ、ほんとうに焼かれてしまうぞ」
劉備は額に手をあてた。
「方法とは?」
と、関羽が訊く。
「|火焔《かえん》がこちらに吹きつけてこないように、別のところに火を放つ」
「別のところとは?」
「一ばん効果的なのは、相手の本家ではあるまいか。誰だって我が家が火事だときけば、あわてて戻るだろう」
「では、曹操の……」
★[#六+兄(六が上で兄が下)]州の長官として、曹操は東郡を行政の本拠にしているが、軍事の本拠はその東郡のやや南にある|★[#西+土+おおざと(邦の右側)]《けん》城をあてている。──そのあたりに火をつけようというのだ。
「諜者の報告では、東郡の留守役は陳宮で、★[#西+土+おおざと(邦の右側)]城を守るのは|荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]《じゆんいく》ということだ。……陳宮は問題の人物だが……陳宮か……」
劉備は空を見上げた。
曹操の再出陣必至とあって、二月の撤兵後も、劉備は陶謙に乞われ、徐州管内に居残っている。平原は留守にしたままなのだ。
──空巣|狙《ねら》いにやられるかもしれません。
と劉備が帰任をほのめかすと、
──平原よりも、徐州の地のほうがゆたかでござるぞ。そうそう、豫州刺史として、|沛《はい》にとどまりなされ。沛は縁起のよい土地ですぞ。……そうしなされ。
と、陶謙はしきりにひきとめた。
陶謙はめっきり|痩《や》せて、その声も痛々しいほど力がない。
──よろしゅうござる。沛にとどまって、形勢をみることにしましょう。
と、劉備は同意した。
このころの豫州の州都は、曹操の故郷である|★[#言+焦]《しよう》であった。しかも、このとき|郭貢《かくこう》という者が、れっきとした豫州刺史として、★[#言+焦]に駐屯していたのである。陶謙は当時の実力者がよくやったように、自分で勝手に官職を任命したわけだ。ただし、自分の実力を誇示するためではなく、援軍の劉備に去られるのが心細いので、そうしたのだった。
沛は漢王朝の創建者、高祖劉邦の出身地であり、たしかに縁起のよい土地柄である。
劉備は縁起をかついで、沛にとどまったのではない。──陳宮にたいする工作が、うまく行きそうだったからである。中原の西のかたに、おもしろいことが起こりそうだ。いまさら河北の平原に帰ることはない。
劉備は曹操の留守を預かっている陳宮の人柄を、以前からよく知っていた。
──|覇王《はおう》を操る。
それが陳宮の念願であった。
張良が劉邦を助けて天下を取らせたように、自分も英傑を操って、天下に覇を唱えさせたいと願っていた。曹操の下についたのも、そんな大望を胸にひめてのことである。
劉備はいつか陳宮が作ったという詩に、
──|子房《しぼう》、未だ志を得ず
という句があるのを読んで、彼の心底をのぞいたような気がした。子房というのは、張良の|字《あざな》である。──自分は張良のように、覇王を育成したいが、まだその志を得ていないという歎きである。
陳宮は大志をほのめかすと同時に、いま仕えている曹操は、どうも覇王の才ではないという不満を、『未だ志を得ず』という表現でもらしたのだろう。
じつは曹操は、陳宮にあやつられるような人物ではなかった。自分で成長して行く。コーチに育成される必要はない。
陳宮の不満はそこにあった。
──もっと操縦しやすい豪傑。……
陳宮がいま最も熱烈に望んでいるのは、そのような人物であろう。つまり、そんな人物に出会えば、曹操を棄てるにちがいない。
(いるではないか。……これまでも、たやすく他人に操られてきた大豪傑が)
|呂布《りよふ》。──
その名を思いついて、劉備は背中にまわしていた手を、もとに戻した。
5
四月に兵を退いた曹操は、はたして陳宮を留守役にして、六月には再び陶謙攻撃の兵を発した。
またしても凄惨な復讐の屠殺行である。
まっすぐ西へ。山東半島の南の根もとである、|琅邪《ろうや》、東海の諸地を攻略し、陶謙のいる徐州の州都をまる裸にしてから、大軍をもって包囲、屠殺攻撃を敢行する計画であることは、誰の目にもあきらかであった。曹操もその計画を、べつにかくそうともしない。
徐州の陶謙は|顫《ふる》えあがった。ただでさえ病気がちで、気が弱くなっている。
──故郷の丹陽に帰り、江(揚子江)を見てから死にたい。徐州が包囲されないうちに脱出したいから、然るべく陽動作戦をとって、援護してほしい。
陶謙は部下の司令官や、救援の諸将に、そんな悲鳴に近い手紙を送った。
──いましばらくお待ちください。そのうちに、曹操は兵を退いて、一両年は出兵できぬようになりますから。
そんな返書を、劉備は徐州に送った。
そればかりではない。劉備は陶謙に属する司令官や要人、さらに彼を財政的に援助していた徐州の大富豪たちに、
──我が策略によって、曹操の軍はそのうちに退却いたす。ご安心あれ。
と、公言したのだった。
劉備は陶謙の部将の|曹豹《そうひよう》とともに、|★[#炎+おおざと(邦の右側)]《たん》(現在の山東省★[#炎+おおざと(邦の右側)]山県)の東に陣を布いた。曹操はその守備線を突破して、|襄賁《じようふん》を攻め陥した。襄賁は現在の山東省|臨沂《りんぎ》県で、そこの漢の古墓から孫子の残簡が出土したことで、近年注目を浴びた土地である。
襄賁城で、曹操がひと息ついていたころ、少容と陳潜があらわれたのだ。
「これはめずらしい。|冀《き》州におられたという噂はきいたが。……このあたり、戦争で物騒ですぞ」
と、曹操は彼らを迎えて言った。
「たしかに物騒でございますね。戦いぶりからみて、常の戦さではなさそうです。曹軍の通ったあと、鶏や犬さえおりませぬ」
と、少容は答えた。
「復讐の戦いぞ。……それで、これからどちらへ行かれる?」
「曹公、あなたのあとを追って、ここまで参りました。ほかに行くところはございませぬ」
「ほう、なにか緊急の用かな?」
「緊急の用件は二つございます」
「で、まずその第一は?」
「曹公には、まことに天下を望まれる志がおありなのか、それを|訊《たず》ねるために参りました」
少容は口調を変えずに言った。いや、むしろ心もちおだやかな調子になったといってよいだろう。
曹操はしばらく黙っていた。思いがけない質問で、とっさに返事が出てこなかったのである。少容はじっと曹操の顔をみつめて、
「青州兵三十万は、天下をおさめるための人数でございました。彼らのたましいは、わたくしがお預かりしたと申し上げたはずです。みだれた天下を一つにおさめ、人民を安心立命させるための三十万でした。それなのに、彼らはあなたの個人の怒りをなだめるために使われています。そればかりか、過ぎる所、みな殺しというのでは、曹公が天下統一の志を棄てたとしか考えられません。残忍な支配者には、人民が背をむけます。民の心がはなれて、なんの天下統一でしょうか? これでは約束が違います」
と、ゆっくりと言った。
曹操は、ふしぎな表情をした。口をぽかんとあけていたのである。彼としては、きわめてめずらしい表情と言える。高熱にうなされていた人が、急に熱がひいて、正気に返ったかのようだった。
つぎに曹操は、不安気にあたりを見まわした。──ここが襄賁の城内であることに、やっと気がついたようである。
彼はやおら空を見上げると、つきあげた|顎《あご》を、がくんと|喉《のど》にひいた。──大きくうなずいたのである。
居ならぶ曹操軍の幹部たちは、かたずをのんで、その光景をみつめていた。誰にとっても、これははじめて見ることなのだ。
「わかりましたか?」
少容が声をかけると、曹操はたちまち正常に戻った。口をへの字にまげて、
「わかった。……二つの緊急の用があるときいたが、第一のことはわかった。第二の用件とは?」
「いますぐ兵を退いて、★[#六+兄(六が上で兄が下)]州に戻りなさい」
と、少容は言った。
「どうして?」
「あなたのお膝元で、|謀反《むほん》がおこります」
「なに、謀反だと? それはいつ?」
「わたくしが|発《た》つときは、まだおこっていませんでした。いまごろは、おこっているかもしれません。……ともあれ、急いで戻られたほうがよろしいでしょう」
「そ、それは何者が?」
「陳宮さんだとおもいますよ」
「まさか……やつに、そんな度胸が……」
「度胸はないでしょうね、一人なら」
「では、誰かと……」
「あの人は、あなたから乗りかえたのですよ、自分が将来を託すことのできる、ほかの人に。……もっと強い人に」
「なに、もっと強い人とは?」
曹操にとっては、自分より強い人物は存在しないはずであった。存在してはならないのである。
「さて、誰でしょうか? そこまではわかりませんが、わたくしの推理では、呂布将軍ではないかとおもうのですが……」
「呂布……」
と、曹操は絶句した。
袁紹から逃れた呂布は、河内太守張楊のところに身を寄せているはずだった。
「陳留に迎えいれてから、★[#六+兄(六が上で兄が下)]州を奪うつもりでしょう。……でなければ、兵力が足りませんものね」
少容は淡々と言った。
「陳留といえば……張★[#しんにょう(点二つ)+貌]……まさか、あの張★[#しんにょう(点二つ)+貌]が……」
曹操は身をのり出した。
「その陳留太守の張★[#しんにょう(点二つ)+貌]どのでしょう。……あなたがお困りになっていたとき、兵を貸したことのあるひとです。あなたが万一のとき、家族を託そうとされたかたです」
「その張★[#しんにょう(点二つ)+貌]が一枚かんでいるのか? ……信じられん! 信じられんぞ、なぜだ?」
「あの張★[#しんにょう(点二つ)+貌]さまも、おなじことを申されているのでしょう。信じられない、と。……徐州管内を、悪鬼のように殺しまわっている人物が、あの冷静な曹操なのか、とても信じられなかったでしょう」
「うぬ!」
|呻《うめ》くように言って、曹操は立ちあがった。
陳宮などは、問題にならない人物であり、呂布は蛮勇の猪武者にすぎない。二人が連合したところで、曹操はおそろしくなかった。
だが、陣留の張★[#しんにょう(点二つ)+貌]のところでは、集めようとおもえば、すぐに十万の兵が集まるのだ。しかも、曹操の本拠はすぐそばである。本家に火の手があがった。
「撤退だ! すぐに用意せい!」
曹操は叫んだ。
彼は少容の言ったことを、すこしも疑わなかった。彼女は世の常の女性ではない。彼女の言葉──いや、彼女そのものを、彼は信じ切っていた。真偽を確認する必要はない。彼女がそう言えば、それにちがいはないのだ。
翌朝、曹操の大軍は襄賁から消えた。
6
この曹操劇のポイントは、陳留太守張★[#しんにょう(点二つ)+貌]にあった。彼を親友の曹操にそむかせたのは、やはり曹操の狂ったような復讐の屠殺戦であった。
なによりも人間性──そしてそれから発露する義侠を、第一に置いている人間にとって、それを疑わせるような行為は、相手にたいする評価を逆転させる。
操縦しやすい豪傑をもとめた陳宮は、劉備の秘密工作に乗って、呂布という、もってこいの人物に目をつけた。
呂布が袁紹の刺客を逃れ、大雨の日に|邯鄲《かんたん》を脱出して河内へむかう途中、陳留の大守張★[#しんにょう(点二つ)+貌]のところに寄ったことはすでに述べた。
義侠のおとこ張★[#しんにょう(点二つ)+貌]は、失意の亡命者にたいしては、とりわけやさしいのである。呂布をあたたかく迎えて歓待した。呂布は満足して河内へ去った。
──呂布を迎えるには、張★[#しんにょう(点二つ)+貌]に頼むのが一ばんよい。
陳宮がそう思ったのは、的を外れていない。
青州黄巾三十万を得たあと、曹操は袁紹の派閥から半ば独立したかたちになっていた。だが、父親の復讐戦に出かけるにあたって、後顧の憂いをなくするため、袁紹と再び友好関係を結ぶことになった。
そんなわけで、袁紹の使節が、★[#六+兄(六が上で兄が下)]州にも来るようになった。陳宮は使節をご馳走攻め、酒攻めにして、ひそかに彼らが陳留へ持って行く手紙を盗み読んだ。
──私のところから逃げた呂布を、手厚くもてなしたそうだが、世間では貴下が私に|つらあて《ヽヽヽヽ》をしたと誤解しているむきもある。貴下が義侠の人で、不遇の人を見すてることができぬ性格であることは、私も承知しているからよいが、これからは注意していただきたい。……
といった文面である。語句はきわめておだやかで、これといって問題になる箇所はなかった。
陳宮はこの手紙を利用することを考えついたのである。彼は別に、きびしい詰問──脅迫に近い文面の手紙をつくり、袁紹の印章を偽造してすりかえたのだ。
それは呂布をかくまったことに、袁紹が激怒していることを強調していた。
──遠く離れているからと思って、なめてもらっては困る。貴下の近くにも、我が盟友はいる。その盟友が再び貴下を救うであろうか? 覚悟はよろしいか。……
おそろしげな手紙である。
酸棗の陣のとき、袁紹が曹操に張★[#しんにょう(点二つ)+貌]を殺せと言ったのに、曹操はそれをことわった。すなわち、かつて張★[#しんにょう(点二つ)+貌]は曹操に救われたのである。──再びその曹操は貴下を救うか? この|贋《にせ》手紙は、自信たっぷり、『盟友』が貴下を救うことはあるまいと脅迫しているのだ。
最近の曹操の行動をみると、たしかに疑わしい。あのような非人間的な作戦をおこなう男に、義侠心が期待できるだろうか?
陳宮は、以前から曹操ぎらいであった張★[#しんにょう(点二つ)+貌]の弟の張超とも連絡して、しきりに揺さぶりをかけた。
あとは、陳宮がみずから乗り込んで、説得にあたればよいのである。
河内の地で、腕をさすっていた呂布が、迎えをうけると、喜び勇んで陳留へむかったのはいうまでもない。
黒山諸軍と常山で戦ってから、もう一年たつが、そのあいだ呂布は戦争をしていない。彼の腕は夜鳴きしていた。あばれたくて仕方がないのである。しかも、
──共に★[#六+兄(六が上で兄が下)]州を取らん。
と誘いをかけてきたのが、自分によく尽してくれた陳留太守の張★[#しんにょう(点二つ)+貌]ではないか。
董卓を殺した呂布。──この雷名は天下に轟き渡っている。その呂布を盟主に、反曹操連合軍を結成しよう。陳宮は着々と計画を進めた。
──本拠地襲わる!
の急報に接して、曹操が徐州西部の戦線から引き返すまでのあいだに、彼の軍事拠点である|★[#西+土+おおざと(邦の右側)]《けん》城を陥しておかねばならない。
呂布は大軍を率いて★[#西+土+おおざと(邦の右側)]城の正面にあらわれ、
──呂布将軍は、曹公を助けて陶謙を撃つべく、ここまでやって来た。軍糧を提供していただきたい。
と、申し入れたのである。
城壁の上から見下ろすと、たしかに大部隊であった。
(呂布にこんな大軍勢はないはず。これほどの人数がくり出せるのは、陳留郡しかないだろう。……さては張★[#しんにょう(点二つ)+貌]が……)
★[#西+土+おおざと(邦の右側)]城を預かる|荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]《じゆんいく》は、曹操の幕僚のなかでも、抜群の才能をもった人物である。
荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]、|字《あざな》は文若、|潁《えい》川の出身。かつて袁紹に仕えたが、思うところあって、そこを去って曹操の幕僚となった。初平二年のことだから、曹操がまだはっきりと袁紹派に属していたので、これは平和的な移籍である。
移籍後三年、荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]は三十一歳になり★[#西+土+おおざと(邦の右側)]城の留守部隊長となった。
彼が呂布の詐術を見破ったことは、曹操の没落を、水際で防いだものといってよいだろう。
彼は急いで東郡太守の|夏候惇《かこうとん》に連絡し、|濮陽《ぼくよう》方面で陽動作戦をとらせることにした。濮陽は、★[#西+土+おおざと(邦の右側)]城のだいぶ西にあたる。曹操は東から帰ってくる。だから、敵をなるべく西へ行かせる策略をめぐらしたのだった。
はたして呂布は、それに釣られて、濮陽に兵を進め、そこを占領してしまった。
★[#六+兄(六が上で兄が下)]州の諸郡県は、ことごとく呂布を盟主とした反曹連合軍の手におち、残るは|僅《わず》か★[#西+土+おおざと(邦の右側)]城、東阿県、范県の三城のみとなった。
だが、すくなくとも★[#西+土+おおざと(邦の右側)]城を陥せなかったのは、呂布軍の大誤算であったといわねばならない。荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]の守りが堅固であったこと、呂布が濮陽に釣り出されたこと、そして曹操の帰還が、予想外に早かったこと、この三つの要素が曹操に幸いしたのである。
★[#西+土+おおざと(邦の右側)]城の近くまで引き返した曹操は、|鞭《むち》で済水の彼方を指しながら、全軍にむかって大音声で言った。──
「世の中に、これほどのうつけ者がいようとは。は、は、は……半日で一州を抜く力をもった呂布が、東平に拠って|亢父《こうほ》と|泰山《たいざん》の道を断ち、険路に乗じて我が軍を挟撃することに思いつかなかったとは笑止千万! なにごとぞ、濮陽なんぞに駐屯しおって。きゃつは名ばかりで、まったくの能なしちゅうことがわかったぞ!」
夜を日についで馳せ戻った将兵は、曹操の元気な声をきいて、新しい勇気がわいてくるのをおぼえた。──
7
呂布は戦争の全局面を見る才能には欠けているが、局地の戦争には滅法つよい。さすがに猛将の名に恥じない。数は少ないが、五原の軽騎兵、モンゴル鉄騎兵は、その軍の強力な中核をなしている。
曹操の青州兵は、もともと農民軍であり、騎兵の攻撃に弱いという欠点をもっていた。
呂布はしきりに騎兵戦法によって、青州兵をつき崩した。
曹操軍の大部分は、徐州管内から、急いで馳せ戻った部隊で、将兵は疲労している。
──匹夫の勇のみ。
曹操は呂布をそうさげすんでいたが、呂布のうしろには、智謀の陳宮がひかえていたし、|兵站《へいたん》は張★[#しんにょう(点二つ)+貌]がうけもっている。策略にかけようと思っても、呂布はなかなか乗ってこない。曹操軍にとって不利な戦いがつづいた。
(呂布のような男には、どこかつけ込むすきがあるはずだ。……)
曹操は策を練った。
民生を念頭に置かないのが、呂布の性格である。彼にとって人民とは、軍需品、糧食を徴発する対象以外のなにものでもない。|搾《しぼ》れるだけ搾る。──
その搾取ぶりのあまりのひどさに、陳宮が忠告したことがある。
「すこしは百姓たちのことも考えてやらねば。……これでは死んでしまう」
「死んでも代わりがいるわ。……勝つか負けるかの瀬戸際に、百姓の命など構っておられるか」
と、呂布は答えた。
濮陽城の住民が、呂布の虐政に、不満を抱いたのはとうぜんであろう。曹操はそれを知って、ひそかに城内の有志と連絡をとった。
なかでも濮陽城の豪族の|田《でん》氏は、緊密に曹操軍と接触し、呂布軍の機密を通報するようになった。
こうして、曹操は呂布軍の弱点をつかんだ。濮陽城の東門内が弱いのである。しかもその東門守備の兵士は、田氏の|賄賂《わいろ》で門をあけることを辞さない。
あらかじめ時刻をうち合わせ、東門の門楼の左右に立っている、緑の地に朱の『信』の字をかいた旗をおろせば、城門の扉の|閂《かんぬき》がはずされた合図ときめた。
ある日の夕方近く、その『信』の旗がさっとおろされた。満を持した曹操軍は、
「それ、突入!」
と、城内に|雪崩《なだ》れ込んだ。
それまで呂布軍は、城門をとざし、ときどき騎兵隊を出撃させていたのである。城内にはいってしまえば、人家その他の障害物が多いので、呂布軍は得意の騎兵戦を展開させることができない。
「はいってしまえば、味方の勝ぞ!」
と、曹操は叱咤した。
攻撃隊が城内に突入すると、彼は、
「門楼を焼き払え」
と命じた。
はいった門を焼き払うのは、もう退却しないという決意をあらわしたのだ。なにがなんでもその城を占領してしまう。──|総帥《そうすい》曹操のそのような悲壮な覚悟は、とうぜん将兵にも伝わり、果敢な戦闘がくりひろげられた。
だが、この攻撃は失敗に終わった。
呂布軍は民家に分散していた。住民から軍糧を徴発して、それを兵に配るといった、そんな手間のかかる方法よりも、兵を民家に宿泊させ、じかに食わせてもらうほうが、面倒がなくてよい。この呂布好みのやり方は、彼自身はそれを意図していなかったが、じつは奇襲にはもってこいの対策だったのである。
門楼を焼いた曹操軍は、呂布軍の主力を捕捉して、それを|殲滅《せんめつ》するつもりであった。ところが、城内には主力といえるほどの集団はどこにもなかったのだ。
「うぬ、本陣は何処ぞ、つきとめよ!」
曹操はやっきになって叫んだ。
呂布や陳宮のいるところが、すなわち本陣だが、彼らのありかをつきとめてもしかたがないのである。本陣といえども、主力がそこにいるわけではない。
呂布軍の弱い兵は、民家にひそんで出てこなかったが、勇敢な兵はちゃんと武装して外へとび出した。──あらゆるところから、彼らは出現したのだ。
──いたるところ敵、また敵。
曹操軍にとって、そんな予想外の事態となったのである。
濮陽城突入には成功したが、主力を殲滅するという、かんじんの目的をはたすことができなかった。
こうなれば、退却するほかはない。
「退け、退け!」
退くにしても門楼を焼いている。退却命令の出たころが、一ばん盛んに燃えあがっているという皮肉なことになった。
曹操も馬首をかえして、東門にむかって逃げようとしたが、いきなり|襟《えり》がみをつかまれた。見ると、真っ赤な顔で、目をギラギラ光らせている、ひげだらけの巨漢である。
「やいチビ、曹操はどこにいるか、白状せい!」
ついさきほどまで、酒を飲んでいたのにちがいない。酒のにおいがする。
曹操は小男である。こんなときに、小男であることが幸いした。酒に酔った呂布軍の騎兵将校は、まさかこの小さな男が曹操だとおもわない。
「やい、白状せぬか!」
酔っ払いの巨漢は、曹操の襟がみを揺すった。
「あれです、あの黄色い馬にのって駆けているのが」
曹操は左のほうを指さした。
「そうか、しめた!」
その男は、曹操をつきとばすようにして放し、黄色い馬にのった人物を追った。
曹操も心のなかで、
(しめた!)
と叫び、東門めざして、まっしぐらに駆けた。
門楼の|焔《ほのお》は、まっ黒な煙を伴い、天を焦がすばかりに噴きあげている。だが、一刻の猶予もならない。
炎上する門楼の三十メートルほど手前で、曹操はいったん手綱をひきしめ、馬のたてがみにしがみつくような低い姿勢になってから、思いきり馬の腹を蹴った。
火事場からの脱出は、焔のところをできるだけ速く潜り抜けるのが秘訣である。
曹操もその常識に従って、全速力で馬を走らせたわけだ。
ところが、ちょうど門を抜けかけたとき、焼けた欄干の手すりとおぼしい棒が、頭上から落ちて、馬の鼻にあたった。馬はその瞬間、いななきながら前脚を高くあげた。──|騎《の》っていた曹操は火の海にふり落とされてしまった。
「や、将軍が!」
うしろからついてきた、司馬(将校)の|楼異《ろうい》という者が、あわてて馬からとびおり、曹操を抱えて自分の馬にのせ、落ちていた棒でその馬の尻をひっぱたいた。
馬は駆け出して、曹操はやっと脱出できた。
楼異もけんめいに走って、城外にのがれたが、ほっと息をついたとき、手のひらに劇痛をおぼえ、思わず、
「いてて、いて……」
と声をあげた。
火中から拾いあげた棒で、馬の尻をたたいたのだが、その棒はむろん火がついていた。楼異は手のひらに、ひどい火傷を負っていた。
8
曹操はいったん突入した濮陽城から、涙を呑んで退去しなければならなかった。
「戦いはこれからだ。勝算、われにあり」
と、曹操は全軍に訓辞した。
ときに七月である。まもなく、秋のとりいれがはじまる。
城内の軍糧は、そろそろ底をつくころであろう。曹操軍も、|米櫃《こめびつ》はほとんど空になっている。河南のゆたかな土地に|稔《みの》る糧穀を、どちらが獲得するかが、勝負のわかれ目なのだ。
城内にもすこしは耕地はあったが、それはほとんど問題にならないほどの少量の食糧しか提供しない。だから呂布軍はその得意の騎兵隊に守られて、収穫を|掠奪《りやくだつ》に出るだろう。
曹操軍は、そうはさせじと、掠奪軍を妨害することになる。
この争いは、城内にいる呂布軍にとって不利であろう。曹操が全軍に勝算を公言したのは、それを念頭においてのことだった。
「やつらはいまに、枯木のようになって飢え死にするぞ」
曹操は憎々しげに言った。
呂布軍が、掠奪攻撃に出るには、すこしは準備しなければならない。そのようなうごきがあれば、城内の田氏一派が、ひそかにしらせてくれるはずだ。こちらは兵を伏せて叩けばよい。
去年は大雨が降ったが、ことしはひでりである。河南の秋の収穫も、平年作まではゆかないが、それでも二割減ていどの収穫は期待できそうであった。
城内の呂布も、城壁にのぼって、緑と黄の交錯した平原を眺め、
「曹操め、あれがぜんぶ自分の腹にはいると思ったら大間違いだぞ。一粒のこらず奪ってみせる。わが騎兵隊の威力を、その目に見せてくれよう」
と、|唾《つば》を吐いた。
『周礼』という古書には、★[#六+兄(六が上で兄が下)]州の物産として、黍(モチキビ)、稷(ウルチキビ)、麦、稲などを挙げている。麦以外は秋が収穫である。
五穀の穂は無心に垂れはじめた。
あまり早く手を出せない。稔っていないおそれがあるからだ。遅くなれば、敵の手にはいってしまう。
呂布は、農民が刈り取った直後を襲って奪おうという、横着なことを考えていた。
曹操は兵士たちに、農民と協力して刈り取らせようとした。
あと数日。──
緊張の一日、また一日である。
「もう四、五日かな。……百姓たちが刈り取り始めたなら、すぐにうって出る。いつでも出動できるようにしておけ」
呂布は小手をかざして、そう命じた。
おなじころ、曹操も本陣の楼上で、おなじように小手をかざし、
「早いところは、もう明日あたりからだな。……」
と呟いた。
小手をかざしたあと、呂布はそのあたりに唾を吐きちらして城壁から降りた。だが、曹操のほうは、天性の詩人である。地上から空に目をうつした。
抜けるような青い秋晴れである。
「おお、秋の空……この美しい空の下で、人間が相争うておるわ。殺し合っておるわ。……わしもその仲間じゃが……」
と、ひとりごちた。
しばらく、そうして空を見上げていたが、急に、
「おや……」
と、眉をひそめ、東の空にじっと目をそそいだ。
雲ひとつない快晴の空だったのが、東のほうにほんのり|翳《かげ》りがみえたのである。とつぜん雲がかかってきたのか。……あるいは|霞《かすみ》か?
そのとき、けたたましい|鉦《かね》の音が、部落のほうからきこえてきた。
「や、や、これは……敵襲にしては……」
曹操はあたりを見まわした。
城から敵がうって出たとはおもわれない。もしそうであれば、警鐘を鳴らすのは、曹操軍の物見の兵であるはずだ。だが、いまの鉦は、農民の部落からきこえてきた。
やがて、あたりが騒がしくなった。
百姓たちが、あちこちからとび出してくる。どの顔も真剣そのものだ。本陣の前を通っても、誰も楼上の曹操に気づかない。曹操は下におりて、表に出た。出会いがしらに、ぶつかりそうになった若い百姓が、相手が曹操と知っているはずなのに、挨拶もせずに駆け去ろうとした。
「待て!」
と、曹操は大喝した。
若い百姓は、その声に驚いてふり返った。
「なにをあわてておるのじゃ?」
と、曹操は訊いた。
「い、い、い……|いなご《ヽヽヽ》が来ます」
若い百姓は、|吃《ども》りながら答えたが、よほど|狼狽《ろうばい》したのか、手に持っていた|銅鑼《どら》をとりおとした。
「なに、いなご……」
曹操はさすがに顔色を変えた。
緑の平野に、いなごの大群が襲いかかると、あっというまに食い荒らされ、彼らが飛び去ったあとは一面に茶色の土しかのこらない。──このおそるべき|いなご《ヽヽヽ》は、大群をなして飛んでくる。そのときは、空ぜんたいが彼らに覆われて、灰色になってしまうのだ。
曹操が東の空の一角に、雲か霞かと|見紛《みまご》うたのは、それだったのである。──はたして、霞とみえた灰色の一角は、みるみるひろがってゆく。
|いなご《ヽヽヽ》というが、中国でいうこの恐怖の食い荒らし群は、『|飛蝗《ひこう》』といって、ふつうのいなごとは種類が異なるそうだ。
飛蝗は一日に五十キロ飛ぶといわれる。この大群に着陸されたなら、もう手の施しようはない。農作物どころか、雑草まで、緑のものといえばぜんぶ食い尽してしまうのである。
あわれな農民たちは、せめて自分たちの土地に降りないように、飛蝗の大群をみつけると、警鐘を鳴らして人々を集め、銅鑼や太鼓や鉦など、あらゆる音を出す道具をそろえて打ち鳴らし、彼らをおどして退散させようとする。
だが、この方法はあまり効果がないようであった。
濮陽郊外の農民たちは、あらゆる鳴り物を打ち鳴らしたが、飛蝗の着陸を避けることはできなかった。
灰色に覆われた空の下で、農民たちは老いも若きも、男も女も、頬を濡らして立ち尽した。──彼らの丹精こめた作物が、地獄からの使者のような、小悪魔の大群に、またたくうちに食い荒らされるのを、じっとみつめながら。
あとに待っているのは飢餓だけである。──この部落で、何人の人が生き残れるだろうか?
──|是《こ》の時、|穀《こく》一|斛《せき》(一九・四リットル)五十万(銭)、|豆麦《とうばく》一斛二十万、人は相|食啖《しよくたん》し、白骨は|委積《いせき》す。
後漢書の興平元年七月の項に、右のような悲惨な一行がある。飢えた人は、人に出会うと、相手を食べ、白骨がそのあたりに積み上げられたのだ。
生きることさえできないのに、戦争などできるものではない。
曹操は★[#西+土+おおざと(邦の右側)]城に帰り、呂布は食をもとめて東へさすらい出た。
この戦いは、飛蝗のために、ついに勝負無しに終わった。
★[#西+土+おおざと(邦の右側)]城に帰っても食糧がないので、曹操は軍を率いて東県へ|赴《おもむ》いた。
呂布は乗氏県(山東省)へ行ったが、土地の豪族|李進《りしん》に追われ、さらに東のかた山陽までたどりついた。天下の豪傑も、飢えには勝てなかったのである。
後漢書の興平元年九月の項に、
──桑、|復《ま》た|椹《み》を生ず。人、得て以て食す。
という記事がみえる。初夏にみのる桑の実が、秋も終わりという陰暦九月に、再びみのったのである。人びとはそれを食べて、やっと飢えをしのぐことができた。
この年の十二月に、徐州の牧の陶謙が病没した。
「よかった。……」臨終に陶謙はかすれた声で言った。──「乱戦に死ぬという死に方でなくて。……これも劉備のおかげだ。……わしは息子たちに、乱世の逐鹿戦に加わらせたくはない。……だが、この徐州は誰かに譲らねばならぬが。……」
枕もとには、陶謙を支えた大富豪の|麋竺《びじく》がひかえていた。
「意中の人がおありでしょう。……この麋竺が使者に立ちましょう」
「ほう。……意中の人……わかっておるのか?」
「はい、私が沛へ参りましょう」
と、麋竺は頭を下げた。
沛には劉備玄徳がいた。
曹操の後方を|攪乱《かくらん》し、彼に兵を退かせると予言して、そのとおりになった。そのため、徐州管内の人士は、陶謙をはじめ大官、豪族たち、すべて劉備を徳とした。
陶謙の遺言ということで、麋竺が使者に立ち、劉備にむかって、
──徐州の牧になっていただきたい。
と懇願した。
劉備ははじめ型どおり辞退したが、相手も型どおりききいれず、彼は最後にとうとう承諾した。
ここに徐州の牧劉備が登場したのである。
作者|曰《いわ》く。──
山の南を陽、北を陰というのは、日本でも山陽、山陰の地名で同じ呼び方をする。だが、河川の場合はその反対で、南が陰、北が陽なのだ。秦のみやこ|咸陽《かんよう》は、|九★[#山+(凶++八+夂(凶が上、八が真中、夂が下))]《きゆうそう》山の南、|渭水《いすい》の北にあたっていたので、山も河も、
──|咸《み》な陽。
というのでそう名づけられた。
曹操と呂布が戦った濮陽は、濮水という河の北にあった。濮水は黄河の支流で、荘子が釣をした川だが、水路が変わって、早くからなくなった。ただし、地名としては、濮陽は現在ものこっている。★[#西+土+おおざと(邦の右側)]城も中華人民共和国河南省の県名として現存する。
ただし、現在の地図をみて、この戦いを想像してもらっては困る。当時と現在とでは、黄河の水路がずいぶんちがうからである。
現在の地図では、★[#西+土+おおざと(邦の右側)]城と濮陽は黄河をへだてている。前者は河南で後者は河北なのだ。だが、後漢末の黄河は、現在の水路のはるか北を流れ、河口も現在のそれより三百キロほどはなれた天津付近である。したがって、濮陽も★[#西+土+おおざと(邦の右側)]城も、どちらも黄河の南にあった。曹操の濮陽攻めは、黄河を渡っての進撃ではなかったのだ。
なお後漢末の徐州の州都は|下★[#丕+おおざと(邦の右側)]《かひ》であった。現在の徐州市よりかなり東にあたる。だから、劉備と曹豹が守った|★[#炎+おおざと(邦の右側)]《たん》は、当時の徐州のすぐ近くである。病める老陶謙が、いかに|戦慄《せんりつ》したか、当時の地図を復原してみれば、いっそうよく理解できる。
[#改ページ]
|黄河《こうが》に|消《き》えた|女《おんな》たち
1
|杏《あんず》の花はだいぶまえに散った。その淡紅の花びらは、一時、庭に散り敷いて、うつくしかった。散ってもなおその美を誇っているかのようだった。だが、落花はしだいに色あせ、風に吹かれ、雨にうたれ、庭の隅や庭石の根もとに身を寄せ合うようにして残っていたが、いつのまにか姿を消してしまった。泥と土になったのである。
「人間も土に帰るのだ。……」
南匈奴の|単于《ぜんう》(首長)オフラは、病床でそう|呟《つぶや》いた。部屋の窓から庭が見える。杏の花ざかりのころから、彼は病気になったのだ。
陰暦二月のことを|杏月《きようげつ》という。
いまはもう六月であった。
あしかけ五カ月のあいだ、オフラは毎日、おなじ庭を見ている。ときどき上半身を起こすが、たいてい横になったままである。
各地を放浪していた匈奴の軍勢は、先年、平陽を占拠して、そこに駐屯している。平陽城は現在の山西省臨汾県の近辺にあった。
平陽から汾河にそってゆけば、河津というところで黄河に出る。黄河をまっすぐくだること百キロあまりで、西から流れてきた|渭水《いすい》に合する。そのあたりは、|函谷関《かんこくかん》に近く、長安と洛陽の中間にあたる。すなわち、平陽は辺地のようにみえて、じつは意外に中原に近いのだった。
去年は|旱魃《かんばつ》と|蝗害《こうがい》で、大|飢饉《ききん》であった。曹操と呂布の戦いも、|蝗《いなご》の大群の来襲で、勝負なしに終わったのである。
杏の花は咲き、そして散ったけれど、今年も雨がすくなく、旱魃は免れないだろうという。匈奴の軍勢も、約半数は平陽城を出ている。平陽一帯の食糧は、全軍を養い切れない。食をもとめて、汾河の流域をさまよい、二カ月で交替することにした。現在、平陽にいる軍兵も、そのうち放浪に出なければならない。ただし、遊牧の民である彼らは、それがすこしも苦にならない。むしろ城内にながく留るほうが苦痛であったのだ。
オフラにとって、最初のひと月ほどは、病床生活が地獄の苦しみであった。しだいにあきらめの境地にはいり、いまはもう生命そのものにたいしても、あまり執着していない。杏の花びらが土に帰るのを、自分の命になぞらえても、けっして動揺しなくなった。
(どうやら、こんどはだめらしい)
オフラはそう思った。
十年前にも、彼は病気になった。そのとき、彼は竜神に、あと十年の命を乞うた。当時、彼はまだ単于の位についていなかった。そして、子供もまだ赤ん坊だったのである。
竜神との約束の十年はすぎようとしている。いま彼は単于となり、息子の|豹《ひよう》は十三歳になった。匈奴の王子は十三で元服するのだ。
「白馬寺の支英はまだ来ぬのか?」
と、オフラは訊ねた。
病室には、つねに数人の家臣がはべっていた。そのうちの一人が、
「五斗米道の教母と同道で参るとのことでございます。いま両三日お待ちくださいませ」
と答えた。
西方|天竺《てんじく》の|浮屠《ふと》のおしえをきけば、死にたいする恐怖はなくなる。──世人はそんな噂をしていた。だから、オフラは白馬寺の長老を呼ぶ気になったのだ。かつて白馬寺の近くに駐屯したことがあって、寺の幹部とはたいてい知り合いであった。
白馬寺のほうからは、
──浮屠のおしえでもかなわぬときもありますれば、五斗米道の教母とともに参上いたします。
という意向を伝えてきた。
五斗米道の教母少容は、河南の地を巡歴して、まもなく洛陽に入る予定であるという。白馬寺側は彼女が来るのを待っていたのである。白馬寺はこれまで、おもに漢土に在留する西域人にたいする教化に力をいれていた。漢人や匈奴への影響力については、まだ自信をもっていない。そこで、おなじたましいの救いを説く五斗米道の有力者を、同伴することにしたのである。
「うん、ゆっくりと待とう」
性急なのは、匈奴の民族性といってよかった。だが、オフラは気が長くなっている。自分でも驚くほどに。彼はそれを、
(まもなく死ぬのだろう。死ぬ前に、人間が変わるというから)
と考えていた。
そこへ、取次の将校がはいってきて、
「|去卑《きよひ》どのが、長安から戻られました」
と報告した。
去卑は匈奴の王族で、オフラは彼をひそかに長安に派遣して、ようすをうかがわせていたのである。
「すぐにこれへ通せ。……そのほうたちは」
オフラはそう言って、枕のうえで、ゆっくりと首をうごかした。
「はい、みな退出いたします」
と、侍従の長が答えた。
「|呼廚泉《こちゆうせん》と豹を呼んで参れ」
オフラはかすれた声で言った。呼廚泉はオフラの弟である。オフラが病床について以来、この弟が摂政の立場で、万事をとりしきっていた。
オフラは人払いをしたうえで、弟と息子を呼び、去卑の報告をきこうとしたのである。
(もうそろそろ、後事を託さねばならない)
そのためには、天下の情勢を、じゅうぶんに把握して、当面の方針を立てておく必要があった。
やがて、三人ははいってきて、オフラの寝床の枕もとに、あぐらをかいて坐った。
「去卑よ、長安のまちは、慶賀の雰囲気はあったのか?」
と、オフラは|訊《き》いた。
去卑は首を横に振って、
「まるでございませんでした。慶賀どころの話ではありませんので」
と答えた。
2
昨年、十三歳で元服した献帝は、ことしの四月、|伏完《ふくかん》の娘を皇后に立てた。
伏完は|琅邪《ろうや》の人で、八世の祖に三公の位にのぼった|伏湛《ふくたん》という人物もいて、漢帝国の名門の出身であった。そして、伏完は|桓帝《かんてい》の娘の安陽公主を妻とした。
このような由緒正しい伏家の娘を皇后に立てることについては、宮廷関係者に異議はなかったのである。
少年天子が妻を迎えた。こんなめでたいことはない。みやこに慶祝のムードが|溢《あふ》れるのがとうぜんであろう。──だが、去卑がオフラに答えたように、長安の状況は、御成婚ブームどころではなかったのだ。
漢の制度では、『府』をひらくことができるのは、三公に限られていた。府とは朝廷以外に政務をとる役所であり、日本でも『幕府』という名の政務所があった。ただ日本の幕府は唯一の政権だったが、漢の府は三公がそれぞれ一つずつ開くので三つあったわけである。
興平二年(一九五)の三公は、
司徒 趙温
司空 張喜
太尉 楊彪
であったが、長安の実力者は、かつての董卓の武将、|李★[#イ+寉]《りかく》、|郭★[#さんずい+巳]《かくし》、|樊稠《はんちゆう》の三羽烏だったのはいうまでもない。李★[#イ+寉]は車騎将軍、郭★[#さんずい+巳]は後将軍、樊稠は右将軍として、それぞれ勝手に府をひらき、三公の府とあわせて、長安には六府が出現している。これは異常のことといわねばならない。
三実力者のうちで、剛勇をもって知られたのは樊稠であった。きっぷがよいので、将兵に人望もあり、彼の府に多くの人が集まるようになった。
長安では、東方の諸将と戦うために、出兵の計画があり、その司令官に樊稠がえらばれた。李★[#イ+寉]は、これを機に樊稠の力が増大することをおそれ、ひそかに除こうと策を練っていた。たまたま樊稠から李★[#イ+寉]に、
──東方出兵については、まだ兵力不足なので、貴殿の兵をすこし借りたい。
という申し入れがあった。李★[#イ+寉]は、
──承知した。くわしいことについて、話し合いたいので拙府までおいでいただきたい。
と答えた。
好機逸すべからず。李★[#イ+寉]はのこのことやってきた樊稠を、会談の席で刺し殺してしまったのである。
これが二月のことで、長安でも杏の花ざかりであった。
三雄の一角は、こうして崩れた。つぎは両雄並び立たず、という情勢になった。
このころ、郭★[#さんずい+巳]は李★[#イ+寉]の家の女中に|惚《ほ》れ、なにかと理由をつけて通っていた。
二人は気心の知れた同僚として、かなり仲好くやっていたのである。
二人の仲を割こうとしたのは、郭★[#さんずい+巳]の妻であった。彼女は夫の浮気を|嗅《か》ぎつけたのである。夫が李★[#イ+寉]と仲がわるくなれば、その家へ訪問することはあるまいと考えたのだ。
あるとき、李★[#イ+寉]から贈物のご馳走が届いた。郭★[#さんずい+巳]の妻は、そのなかにこっそりと毒を仕込んだ。そして、それを食べる前に、
──樊稠さんが殺されたのですから、用心して毒見をしましょう。
と言った。郭★[#さんずい+巳]は笑って、
──わしと李★[#イ+寉]は、子供のころからの友人だ。樊稠とはわけがちがう。……が、それで気がすむなら、毒見をしてもよいぞ。
と答えた。
一片の肉を犬に与えると、その犬はくるくると狂ったようにまわって、その場にばたりと倒れ、しばらく|喘《あえ》いでいたが、やがて血を吐いて死んでしまった。
それ以来、二人は不和となり、勢力争いがはげしくなったのである。
李★[#イ+寉]のほうが手が早い。勢力争いには、天子を擁したほうが有利である。天子を我が邸に迎えることを、最初に計画したのは郭★[#さんずい+巳]であった。かねて李★[#イ+寉]が郭邸にひそませていた諜者が、逃げ戻って李★[#イ+寉]にそのことを告げると、彼は|甥《おい》の|李暹《りせん》に数千の兵を授け、宮殿を包囲して、天子を我が邸に強引に|拉致《らち》してしまった。
献帝は二人の実力者の不和に悩まされ、公卿を両者に派遣して、和睦をすすめた。先を越された郭★[#さんずい+巳]は、和解勧誘に来た公卿を、つぎつぎと自分の邸に抑留した。楊彪、張喜などといった三公まで、郭★[#さんずい+巳]の邸に人質としてひきとめられてしまった。
一人は天子を、一人は公卿たちを人質にして張り合ったのである。これが三月のことであった。したがって、四月における天子の成婚は、李★[#イ+寉]の邸でおこなわれた。天子を奪いに行った折、李暹の軍兵は、宮殿に火を放ったのである。
李★[#イ+寉]はチベット族やイラン族の軍兵を召集して、郭★[#さんずい+巳]を討とうとした。いっぽう郭★[#さんずい+巳]は、李★[#イ+寉]陣営の中郎将|張苞《ちようほう》を買収して、攻撃のときに内応させたのである。すんでのことに、李★[#イ+寉]の命も危うかった。矢は天子の簾のなかにも射込まれ、李★[#イ+寉]の耳にも刺さった。だが、張苞の放った火が、風によって消されたため、夜襲は成功しなかった。このときの戦いで、白波谷の徒党から李★[#イ+寉]に身を寄せた|楊奉《ようほう》が、大いに働いて郭★[#さんずい+巳]軍を撃退したのである。
ところが、その楊奉が李★[#イ+寉]を謀殺して、地位を乗っ取ろうとはかった。これは事前にことが露見して、楊奉は手兵を連れて、終南山に逃亡した。
廷臣たちは弱いほうに味方した。なにも任侠の精神からではない。一方が強くなりすぎると、新しい独裁者、第二の董卓の出現ということになる。両陣営の勢力が均衡する状態が、まだしもよいと考えたからである。
──相攻むること連月、死者は万を以て数う。……
と記録されている、凄惨で陰湿な戦いが、長安を舞台にくりひろげられた。昨日は東、今日は西と、どこかで戦いがあり、放火があり、|掠奪《りやくだつ》があった。
こんな状態であったから、天子が結婚したからといって、慶祝する気持にはなれないはずだった。
去卑はこのような長安のもようを、こまかくオフラに報告した。彼が長安を去ったのは、ちょうど楊奉の乗っ取りが失敗した直後のことであった。
「ほう、あの楊奉がのう。……乗っ取りが成功しておれば、天下を取りかねないところじゃったのか。……」
オフラは片頬に|笑《え》みをうかべて言った。
匈奴鉄騎軍は、白波谷の黄巾軍と結盟したことがある。いや、その同盟はいまでも生きている。だから、オフラは白波谷にいた黄巾軍の部将楊奉を知っていた。
(あのような男でも、すんでのことに、天下をひっつかみかけたのか。……)
そう思うと、オフラは自分の病気が口惜しかった。竜神との約束で、もう命はあきらめているのだが、こんなふうに、ときどき未練の|焔《ほのお》がふきあげる。──だから、白馬寺の浮屠の救いが待たれるのだった。
「さようでございます。われらとても……」
と、去卑は言った。
「それを申すな。いいか、心のなかで思っておっても、口に出すでないぞ」
オフラは天井をみつめて言った。
「はっ、よくわかりました」
そう答えたのは、去卑ではなく、オフラの弟の呼廚泉であった。
「両者の勢力の現状は?」
それに構わずに、オフラは訊いた。
「李★[#イ+寉]のほうがやや強うございましたが、楊奉の逐電と、廷臣の暗躍によりまして、力をそがれ、いまはまったくの五分五分とみて差支えないでしょう」
と、去卑は答えた。
「廷臣の暗躍とは?」
「チベット兵に、|褒美《ほうび》を与えて帰国させました。数は三千程度でございますが、精強の将兵でした。李★[#イ+寉]にとっては、大きな損失でありましょう」
「これからの見通しは?」
「天子は洛陽にお帰りになりたがっておられます」
「それはとうぜんであろう」
「天子を奉ずるかぎり、どうしても東への帰還は、ききいれないわけには参りますまい。またその噂はしきりでございました。いずれ兵はうごきましょう」
「長安から洛陽へ、天子がお戻りになる過程で、天下の形勢に大きな変動がおこるだろう。よいか、呼廚泉、各地に出ておる我が匈奴軍に、平陽への帰投を命令せよ。すみやかにだぞ」
「はっ、かしこまりました」
枕もとの三人は、同時に頭を下げた。
「天子の|鹵簿《ろぼ》は、しずしずと進むのではない。戦いのなかに進まれる。矢の雨が降り、血が流れるのだ。汾河から黄河をくだれば、そこは修羅場ぞ」
オフラは喋りつかれたのか、声がしだいに細くなった。
「はい、出陣でございますね」
十三歳の豹は|膝《ひざ》をのり出した。
「去卑が軍を率い、豹はそれに従え。呼廚泉は平陽城の留守ぞ」
「それは……」
呼廚泉は不服そうであった。
「おまえは匈奴の総帥であることを忘れるな」
オフラの声に、ふたたび力がこもった。
「はっ」
と、オフラの弟は頭を下げた。
「白波の黄巾軍との連絡を、いっそう緊密にいたせ」
オフラはそう言って、目をとじた。両肩が大きく揺れていた。
3
長安の両雄は戦い疲れていた。もう潮時だとおもっても、相手がいるのだ。すこしでも気をゆるめると、そのすきをねらって、敵が攻めてくる。うかうかしてはおれない。なまじ勢力が伯仲しているだけに、どちらもひきさがれなくなった。和睦して一服したいが、先に和を乞うたほうが不利となる。
こんなときに、しかるべき第三者が中に立ってくれるとありがたい。だが、その仲裁者は双方から等距離にあり、しかも発言に重みのある人物でなければならない。発言の重みとは、武力のことである。当時の長安には、すでにそのような人物はいなかった。
仲裁者は東からやってきた。
鎮東将軍の張済である。
張済はもと董卓の部将であった。李★[#イ+寉]、郭★[#さんずい+巳]、樊稠と同格の将軍で、彼ら四人が力をあわせて長安を攻め、亡きあるじ董卓の讐を討ったのである。だが、張済は同僚の三人よりは、いささか知恵があったようだ。
(長安におれば、宮廷を舞台に勢力争いに明け暮れるであろう。おれはあんな馬鹿共とはわけがちがう。いまは長安を去ろう。しかし、いつかおれは長安のあるじになってやるぞ)
彼はそう考えた。彼は位階勲等などに関心はない。飾りものなど欲しくはなかった。ひたすら『力』を信じた。
三人の仲間が、長安に残って高い地位についたのに、張済だけはみやこの外に出た。彼らは長安を陥して、旧主董卓の遺産を四人がかりで取り戻したが、東方では反董卓連合軍くずれの諸将が西をうかがっているので、それに備えなければならない。張済はその役を買って出たのである。
かつての董卓の勢力圏の東端は、弘農郡の|侠《せん》県である。長安と洛陽のあいだにあり、黄河南岸、洛陽寄りにあった。張済は前線の総司令官として、そこに駐屯していたのだった。むろん、長安の情報は、たえず彼の耳にはいっていた。
(あの二人の馬鹿めら、もうへとへとになっている。さて、いよいよおれの出番だ。どうだ、やっぱり長安はおれのものになるではないか。……)
六月、彼は大軍を率いて長安をめざした。
──天子のために、李・郭両名に和解をうながす。
という名目をかかげている。
争っている二人にしてみれば、渡りに舟ではあったが、そうかんたんに仲直りというわけにはいかない。なるべく自分に有利な条件で、和解しようとしたのはとうぜんであろう。おたがいに娘を人質に出すことで、やっと和解し、李★[#イ+寉]は天子を、郭★[#さんずい+巳]は諸卿をそれぞれ釈放した。
──これを機に弘農へ天子の行幸を仰ぐ。
張済はそんな条件を出した。二人は天子の取り合いをしたのだから、その争いの|もと《ヽヽ》を取り上げようというのである。
──うまいことを言って、おまえは天子を自分の本拠に移し、それで勢力を張ろうというのだろう。
李★[#イ+寉]と郭★[#さんずい+巳]は、|鳶《とんび》に油揚げをさらわれるのを警戒して、そう|反撥《はんぱつ》した。それまで争っていた二人が、仲裁者を疑って、こんどは共同して|牽制《けんせい》にかかったのである。
(おれは天子なんか欲しくない。欲しいのは長安だということを、この馬鹿めらは知らんのだな)
張済は内心そんなふうに冷笑しながら、
──そんなに疑われるなら、わしは天子に随行せずに、この長安にとどまる。そのかわり、おぬしたちも東へ行くのではないぞ。これが最も公平ではないか。これ以外に解決の方法はあるまい。
と言った。
なによりも献帝が東へ帰ることを望んでいる。この少年天子にとって、洛陽はなつかしい故郷であった。だが、長安を去りたいという気持は、たんなる望郷の念だけではない。|蹴鞠《けまり》の鞠のように、あっちに蹴られこっちに蹴られるという生活にたえられなかったのだ。李邸に迎えられたといっても、ていのよい人質で、彼には自由がなかった。
(局面が変われば、なんとか打開の方法があるのではないか。……)
どうせ現在より悪くなるはずはないのだから、とにもかくにも変化を望んだ。──それが、『東へ帰りたい』という、強い希望の形をとったのである。
長安のようすを偵察して、匈奴の去卑が予想したように、天子の鹵薄が東へむかうのは、もはや自然の勢いといってよかった。
三人の実力者が身をひいて、天子を東へ行かせるのである。──だが、その行幸がおだやかにすむはずのないことも、病床のオフラが予想しえたのだ。
天子の東帰に、最後まで反対したのは郭★[#さんずい+巳]であった。献帝は彼を説得するために、一日の断食をしたのである。このハンガーストライキはききめがあって、郭★[#さんずい+巳]も折れた。
──よろしいでしょう。どうぞ東へ行列をお進めになってください。
郭★[#さんずい+巳]はそう言ったが、ほんとうにあきらめたのではない。
李★[#イ+寉]は|麾下《きか》のチベット兵が勝手に退散して、兵力不足だったので、しばらくようすを見ることにしたが、これまた権勢欲の|虜《とりこ》で、いつまでもおとなしくしているつもりはない。張済は張済で、長安を手に入れるつもりであったが、しだいにその熱がさめてきた。
長安のまちは飢えていた。
住民は四散しつつあった。
(なんだ、李★[#イ+寉]と郭★[#さんずい+巳]が、このまちをしゃぶり尽したのか。……)
張済はがっかりしていた。
4
支英と少容が平陽に着いてから、オフラの顔に、いくらか血色がよみがえったようである。側近の者にそれを言われると、オフラは白い歯をみせて、
「死ぬまえに、人の命はいちど燃えるものときいている。もう長くはない」
と言った。
支英と少容は、毎日のように病室に招かれて、そこで話をした。説教などというものではない。死に近づいたオフラと雑談したのである。話題はさまざまなことにわたった。気象のこと、農耕のこと、牧畜のこと、あるいは食べもののこと、子供のことなど。オフラは思いついたことを口にした。支英と少容はオフラが言ったことに、|相槌《あいづち》をうったり、訂正したり、補足したりした。
そんなおしゃべりの席に、オフラはできるだけ、弟の呼廚泉と息子の豹を呼んだ。兵士の訓練に多忙な去卑も、ひまをみては病室をのぞいた。
「なぜ景妹を伴って参らなかったのか?」
と、オフラは訊いた。できれば、景妹を連れて来るように、彼は白馬寺に伝えてあったのだ。
「景妹は病気でございます」
と、支英は答えた。
「徐州へ行ったそうではないか」
オフラは、景妹が徐州の浮屠寺建立のときに、陶謙の客として招かれたことを知っていた。
「徐州は南方でございますので」
「北方はからだにわるいと申すのか?」
「医者がそう申しております」
「北はいけない。……それでは、われら匈奴は立つ瀬がないのう」
オフラは視線を弟のほうに移した。
単于の弟、呼廚泉の唇の両端が、ぐいとひきさげられた。
「は、は、は……」オフラは弱い笑い声をあげた。──「景妹が参らなかったのは残念である。もし参っておれば、豹の妻にしたものを。……」
「えっ、なんとおっしゃいました?」
さすがの支英も、あまりのことに、|愕然《がくぜん》としてきき返した。
「豹の妻にすると申した。豹はもう元服じゃ。一つ年上の漢の天子は、伏完の娘を妻にしたではないか」
と、オフラは言った。
「伏皇后はまだ幼い女性でございます。それにくらべて、景妹はもはや|姥桜《うばざくら》にございますれば、豹さまの妻とは、おたわむれを」
と、支英は言った。
「たわむれではないのだ。景妹はいくつになった?」
「二十五になりました。豹さまは十三。……なんと倍ほどの年。……」
「年をとっておれば、教えることが多かろう。豹は匈奴族の領導者になる身じゃ。いまのうちから多くのことを学んでおかねばならぬ。景妹ほどの女性がちょうどよい」
「しかしながら、いまだ体が……」
「病気であれば致し方がない。病気になって、それがわかる。……健康な女性でなければのう。……」
オフラは目をとじた。
そのとき、去卑がはいってきた。城外での訓練を終えて、いま帰ったばかりである。
「漢の天子は、新豊で、すんでのことに郭★[#さんずい+巳]にさらわれるところだったと申しますぞ。天子を奪う計画が事前にもれ、郭★[#さんずい+巳]は退散したそうにございますが、あの男、よくも秘密のもれる運命とみえます」
病床のそばに、どっかとあぐらをかくと、去卑はさきほど聞いたばかりの情報を披露した。
献帝の鹵簿は、七月一日に宣平門を出た。宣平門は長安城の東がわの最北の門であった。そのあとでも、郭★[#さんずい+巳]が反対し、献帝が東帰を強行するために断食をしたことは、すでに平陽城に伝わっていた。いま去卑がもたらしたのは、それから一カ月ほどのちの、最新情報であった。
八月六日、天子の一行はまだ新豊あたりまでしか進んでいない。新豊は項羽と劉邦の会見場所で有名な鴻門のあった県で、長安の東わずか四十キロほどのところである。
興平二年は|閏年《うるうどし》で、五月が二回あったので、八月六日はもう秋も深まっている頃だった。
「三人のいたずらっ子が、野原に鞠を蹴り込み、誰も取りに行っちゃいけないと約束したのですが、どっこい原っぱの近くには、三人のほかにもかくれていた子供がいましてね。……妙なことになりました」
去卑はそんな|譬喩《ひゆ》を用いた。
三人の実力者が、一応、手をつけないと約束した天子の一行は、飾りものにすぎない数百の羽林軍(近衛兵)に守られていた。三人はおたがいに、抜け駆けを警戒し合っていたのである。三人ともその気になれば、かんたんに天子を奪えるのだ。
ところが、|覇陵《はりよう》をすぎたところで、とつぜん数千の部隊があらわれた。李★[#イ+寉]の地位を乗っ取ろうとしたが、クーデター寸前に露見したため、終南山に逃亡していた、もと白波の黄巾軍部将楊奉の部隊であった。
──天子警固のため馳せ参じました。
と、揚奉が|跪《ひざまず》いて言ったとき、献帝はほっとした。あの三実力者の誰かが、また長安へ連れ戻しに来たのではないかと心配していたのである。三人のうちの誰が来ても、あまり頼りにならない羽林軍は、一撃のもとに蹴散らされるであろう。そこへ、数千の頼もしげな部隊が警固に加わったのだから、献帝は|安堵《あんど》すると同時に、大そう喜んだ。
──汝を興義将軍とする。
という沙汰をくだした。
そればかりではない。どこからあらわれたのか、先年|潰滅《かいめつ》したはずの|牛輔《ぎゆうほ》の部隊が、これまた数千の兵団を組んで警固に参加した。
牛輔は董卓の娘婿である。牛輔は董卓が殺されたとき、弘農地域に駐屯していた。彼は|筮竹《ぜいちく》気ちがいで、なにごとも筮竹できめるが、董卓の死をきいて占ったところ、『軍を棄て去れば吉』の卦が出た。そこで、金銀財宝を袋に詰めて逃げたが、その袋を担がせた胡人の奴隷が宝に目がくらんで、彼を殺してしまった。このことはまえにも述べたが、彼が置き去りにした部隊は、その後、|董承《とうしよう》という将軍がなんとかまとめて、渭水のほとりをさまよっていた。
彼らは浪人部隊である。天子巡幸のしらせをきくと、
──それ、仕官の好機ぞ!
とばかり飛び出した。
献帝は楊奉部隊があらわれたとき以上に喜び、董承に安集将軍の称号を授けた。なぜなら、董承は霊帝の母にあたる董太后の甥であった。献帝にとっては、|祖母《ばあ》さんの甥、親戚のおじさんなのだ。
野原の鞠は、それで遊んでいた三人の腕白小僧ではなしに、そのへんをうろついていた別の二人の子供に拾われてしまったのである。
──いざ、奪い返してみせん。
と、郭★[#さんずい+巳]は奇襲を計画した。だが、彼の計画を密告する者がいて、楊奉と董承の両将が、その全軍をもって警備した。
事破れたと知った郭★[#さんずい+巳]は、逃亡者の巣であり、かつて楊奉もかくれたことのある終南山に逃げ込んだ。
「このままではすみませんぞ。われら匈奴が蹶起すべき好機であります。……いずれに味方しましょうか?」
天子の守護に加わるべきか、天子奪回の側に手を貸すべきか。──匈奴の伝統は実利主義で、どちらが有利であるかによって、態度が決定される。
だが、単于オフラはそれに答えずに、
「天子は公卿百官のほかに、宮女を伴っておるのか?」
と訊いた。
「はい、羽林軍の半数ほどの宮女がいて、足手まといになっているそうです。……さぁ、二百人か三百人はおりましょう」
と、去卑は答えた。
「その宮女を奪おう」
と、オフラは言った。
「えっ、なんですか? 宮女を……」
去卑はオフラの言葉を信じかねた。
「宮女を奪うと申したであろう」
オフラはそれ以上説明しなかった。考えていることを言葉にするのに疲れたのである。彼は上半身を起こし、その場にいた人を見まわした。
(支英と少容だけじゃな。……わしの心を読んでいるのは)
オフラはそこにいた人たちの表情から、そう判断した。
中原に近い平陽城に本拠を定めた匈奴は、これから生きのびるために、文明化しなければならない。文明に最も近く接している宮廷の女官を奪って、それを匈奴族改造に使おうとするのだ。二、三百人の宮女を、匈奴の若者の妻妾にする。──そうすれば、文明は匈奴族の血肉のなかに浸透するであろう。オフラはそう考えている。
「最もすぐれた女性が、豹さまにあてがわれるのですね?」
と、少容は言った。
オフラは大きくうなずいた。
そのとき、廊下から家臣の取次ぐ声がきこえた。──
「白波黄巾軍から使者が参りました」
5
郭★[#さんずい+巳]が再び天子の一行を襲ったのは、十月一日のことであった。郭★[#さんずい+巳]の部将の|夏育《かいく》と|高碩《こうせき》が、兵を率いて宿営に火を放ったが、警固の楊奉、董承の部隊が力戦して防いだので、天子を奪い返すことは成らず、むなしく退却した。
そのあと、天子の一行のなかに内紛が起こった。補給と経理を担当していた|寧輯《ねいしゆう》将軍の|段★[#火+畏]《だんわい》という者が、楊奉や董承と|仲違《なかたが》いしたのである。
飢饉のなかを行く。随行の廷臣たちは、ぜいたくに慣れた連中ばかりであった。食事や衣服を、うまく補給する段★[#火+畏]が、ちやほやされ、本人もいささか思い上がって、
「やれやれ、おおぜいの飯食い兵隊を抱えて、わしも苦労する。もうすこし兵数を減らすことはできぬものかな。……」
と言ったのが、楊奉や董承などの野戦の将軍の耳にはいった。飯食い兵隊などといわれて、これは怒るのがとうぜんであろう。
とうとう両者は衝突し、攻め合うこと十余日に及んだ。少年天子が、けんめいに両党をなだめ、やっとのことで和解にこぎつけ、鹵簿は再び東へむかった。遅々として進まないのは、食糧調達に時間がかかったからだが、そのうえに内輪もめなので、黄河の合流点に達するのもなかなかであった。
献帝の一行が弘農郡にはいったのは、十一月になってからである。
内紛の情報は、西にのこった三実力者に希望を与えた。思わぬ警備部隊の出現に、手を出しかねていたが、内紛によって相手がかならずしも一枚岩でないことがわかった。
とはいえ、楊奉と董承が堅守する陣は、かんたんにつき崩すことはできない。だが、こちらが力をあわせさえすれば、不可能ではないはずだ。──利害は共通する。天子を西に奪い返さねばならない。もし天子の一行が洛陽におち着けば、関東の諸将を召して、西の三実力者討伐の詔書が出るかもしれないのである。ともかく、これまで天子をいじめすぎている。
──すでに|★[#六+兄(六が上で兄が下)]《えん》州の曹操に、|密勅《みつちよく》がくだり、洛陽に出迎えるように要請された。
という風聞さえ伝わってきた。
李★[#イ+寉]、郭★[#さんずい+巳]、張済。──犬猿の仲であったこの三者は、ついに同盟して、献帝一行のあとを追うことにきめた。
集められるだけの兵隊をかき集め、装備の間に合わない部隊は第二陣に残し、ともあれ|急遽《きゆうきよ》、献帝を追った。
この追撃隊は、弘農郡の|東澗《とうかん》というところで、皇帝の一行に追いついた。
やはり内紛を起こした軍隊は|脆《もろ》い。うしろから襲いかかった三者連合軍に、献帝の護衛隊はみるみる蹴散らされた。
「|輜重《しちよう》を棄てよ! 身軽になって急げ!」
楊奉はやっきになって、献帝の側近に命じた。彼らはいろんなものを、大事そうに捧げ持っている。
「なぜそれを棄てんのか!」
楊奉は白刃をふりあげた。
「これは御物ですぞ」
と、廷臣は答えた。皇帝の使用する、さまざまな物品をおさめた箱を、後生大事に車に乗せている。それは重く、車の速度は鈍い。
「なにが御物だ。追いつかれては、御物もへちまもあるものか。……そうだ、そんなものは道にぶちまけてしまえ!」
楊奉は箱を車からひきずりおろし、その|蓋《ふた》をこじあけた。なかは衣類や装飾品であった。彼はそれを道いっぱいばらまいた。白波黄巾軍での戦闘の経験によって、逃げるときに金目のものをまき散らせば、相手の追撃をゆるめることができるのを知っている。敵の兵士たちが、それを奪い合い、そのために追撃の速度がにぶるのだ。
計略は図にあたった。この戦いで、廷臣と護衛陣は大きな損害を|蒙《こうむ》り、死者もすくなくなかった。だが、献帝をはじめ、おもだった幹部たちは、どうやら三者連合軍の追跡をふり切って、曹陽というところまで逃げのび、そこで軍の態勢を立て直すことができた。
しっかりしているといっても十四歳である。少年天子献帝はさすがにおろおろして、
「|朕《ちん》が西へ帰れば、これ以上血を流さないですむ。……彼らに休戦の詔書を送りたいが。……そうしよう。誰か使者に立つ者はないか」
と言い出した。
「よろしゅうございましょう。陛下の信任する者を使者におえらびください」
楊奉はそう答えた。
だが、彼は和睦の意思などはなかったのである。献帝は三者連合軍に使者を送ったが、楊奉も別に使者を送った。──白波谷のむかしの仲間へ。彼は終南山にかくれていたころから、白波谷と連絡をとり、いざというときの救援を依頼していた。白波黄巾軍は、むろん南匈奴軍と密接な連絡をたもっている。
いまこそ援軍を乞うべきときである。
献帝が言い出した休戦交渉は、楊奉にとっては時間稼ぎにすぎない。
当時の白波黄巾軍の幹部は、|胡才《こさい》、|李楽《りがく》、|韓暹《かんせん》といった連中である。いつでも出陣できる態勢をとっていた。楊奉の使者が白波に着くと、白波からはただちに平陽城へ急使が出された。
平陽城の南匈奴鉄騎隊も、すでに出撃の準備はととのっていた。
白波黄巾軍と南匈奴の連合軍は、まっすぐに南下して黄河をおし渡り、曹陽の近くまで軍を進め、休戦交渉のあいだ兵を休めていた三者連合軍に襲いかかった。
追撃軍はたいてい前方だけに注意を集中し、後方や側面から敵があらわれるなど、あまり考えないものである。なにやら急に|埃《ほこり》っぽくなって、口のなかがざらざらしているのに気づき、『風が吹きはじめたのかな?』とあたりを見まわす。──三者連合軍が、後方と側面を包むようにあがっている砂煙に、
──あるいは敵軍か?
といぶかしげに小手をかざしたときは、もう南匈奴鉄騎隊の騎射の矢が、一本また一本と陣幕のあたりにつき立ちはじめていた。
「敵襲だぁ!」
兵卒たちは、そう叫んで走りまわるだけで、戦闘の配置につくゆとりもなかった。
あっというまに、三者連合軍は総崩れとなった。
「|詐欺《さぎ》天子め! だましおったな。ぺっ!」
張済は逃げるとき、そう毒づいて、馬上から唾を吐き散らした。
三者連合軍は、この曹陽の役で、数千の戦死者を出して、はるか西へ後退せざるをえなかった。
6
献帝に|扈従《こじゆう》していた宮女たちが、この戦闘におびえきったのはいうまでもない。
「しっかりしましょう。わたしたちは、長安でも戦いはいやというほど見たではありませぬか。この乱世に生まれてきたのも運命です。なにをおびえることがありましょう。胸のまえで、両手をあわせ、目をとじて……そうすれば気がしずまると、西域の浮屠の人たちから教わりました。
……なにごとも、あきらめるのです。むごい言葉ですが」
宮女たちにそう説いている女性がいた。
|蔡文姫《さいぶんき》である。
父が獄死したあと、家で謹慎していたが、天子成婚の折、宮廷に召し出された。幼い皇后の教育を担当することになったのである。
だが、彼女は皇后に詩文を教えるいとまもなかった。皇后のそばに召されたあと、戦争につぐ戦争であった。
鹵簿東帰にあたっては、彼女は宮女の長という立場であった。まだ若いけれど、夫に死別し、父を獄中に失うという苦労に、彼女は精神をきたえあげられていたのだった。
──ずいぶん悲しい目に遭いました。これから、どんなにむごいことになろうと、もう驚きはしません。はい、おそれもいたしません。目を大きくひらいて、それを受けいれましょう。……
彼女は口癖のようにそう言っていた。
白波黄巾軍と南匈奴軍の来援によって、天子一行はやっと苦境を切り抜け、|愁眉《しゆうび》をひらいた。おかしなものである。白波黄巾軍は、かつて政府軍になんども攻められた。いま董承が率いている旧牛輔の部隊は、白波谷討伐に送られたこともあるのだ。それがいま友軍として、共同作戦に従っている。
「さぁ、しっかりしましょう。油断しないで」
蔡文姫は、この小康で気がゆるみがちになる宮女たちに、そう言って励ました。
彼女はそれを、兵士たちに言うべきであったのだ。兵士たちは曹陽の役の大勝で、すっかり油断していたのである。
三者連合軍は大打撃をうけて西へ後退したけれど、長安から後続部隊が続々と合流してきたのである。装備が間に合わず、出発が遅れた第二陣、第三陣の部隊なのだ。
──あれだけ叩いたのだから、しばらくは|起《た》ちあがれないだろう。
護衛隊側はそう考えていた。まだ叩かれていない、新鋭部隊が敵陣営に到着していることは、ゆめにも知らなかった。
長安から洛陽までの行程の、すでに三分の二まできた。なつかしの洛陽は近い。献帝は陜県という田舎よりも、やはり夢にまで見た洛陽にはいりたい。おなじく洛陽生まれの伏皇后も、その気持に変わりはなかった。だが、聞くところによれば、先年、董卓が焼き払って以来、洛陽はまだ人の住める状態ではないという。
旅行中なら野営もよいが、天子が旧都に帰還したのに、みやこのなかで野宿というのでは、帝室の権威にかかわる。すくなくとも仮宮殿を造ってから、堂々と洛陽入りをすべきではあるまいか。──そんな議論が廷臣のあいだにかわされていた。
では、誰が造営するのか?
関東諸将の有力者のなかで、洛陽に近いのは★[#六+兄(六が上で兄が下)]州の曹操である。曹操に使者が送られた。河内大守の張楊は、かねて長安の宮廷と|誼《よし》みを通じ、関東とのパイプ役になっていた人物である。彼のもとにも使者が立った。
それにしても、曹陽というのはもともと谷の名で、城壁をめぐらしたまちではない。別名を『七里澗』ともいう。のちに曹操が天下を握ったとき、自分の姓とおなじ字の地名をよろこばず、好陽と改名させた。
いずれにせよ、洛陽入りをする前に、城壁のあるまちにはいるべきである。陜県城はそれほど遠くない。曹陽にかなり長く滞在したのち、護衛軍はやっと腰をあげて、東のかためざして出発することになった。
人間でも静から動へ移りかけたときにスキがうまれるという。剣術でも相手のうごきを誘い、うごきはじめのスキを狙うのが極意の一つになっている。大部隊の場合でもおなじである。
献帝の|乗輿《じようよ》の左右に、董承と李楽がつきそい、胡才、楊奉、韓暹、去卑たちがそのあとにつづいた。
「さて、出発ぞ。……」
董承はあくびまじりで手をあげた。
この部隊は、人間でいえば腰を半ばうかしたという、きわめて不安定な姿勢になっていたのである。
この瞬間を、三者連合軍は狙っていたのだった。
「それ、ゆけ!」
李★[#イ+寉]は手をあげて合図をしたが、董承の手のあげ方とはちがって、力がこもって、指さきまで躍動していた。
天地をどよもす大|喊声《かんせい》があがり、|剽悍《ひようかん》な西涼兵を主力とする、旧董卓部将の連合軍は、護衛軍に襲いかかった。
敗けたあとの雪辱戦は、とかく酸鼻なものとなりがちである。このときの戦いも、
──死する者、東澗(の役)よりも甚だし。
と記録されている。
護衛側では、光禄勲の|★[#登+おおざと(邦の右側)]淵《とうえん》、廷尉の|宣★[#王+番]《せんはん》、少府の|田芬《でんふん》、大司農の張義と、九卿のうちの四卿が戦死した。また三公の一人である司徒の趙温、九卿の一人である太常の|王絳《おうこう》などが捕虜となった。
これによっても、戦闘のはげしさが察しられよう。
「事は急です。陛下、なにとぞ馬をお召しになってください」
と、李楽は献帝に言った。
少年天子は頬を涙に濡らせながら、
「百官をすてて朕が去ることはできぬ!」
と、うごこうとしない。
「お上、どうかお馬に」
蔡文姫がそうすすめても、献帝は、
「弱い宮女を見殺しにして、朕がこの危地から逃げられると思っておるのか」
と、首を振るばかりであった。
そのとき、匈奴軍司令官の去卑が蔡文姫を陣幕のかげに呼び、
「陛下をうごかす方法があるが」
と言った。
「その方法とは?」
「宮女が先に逃げてしまえば、陛下も馬をお召しになるだろう」
と、去卑は答えた。
蔡文姫は去卑の顔をみた。百官は自分で逃げるすべをみつけるであろうし、武官は戦うのが任務である。献帝の受けた帝王学では、彼が最も心にかけているのはか弱い宮女たちのことであろう。たしかに宮女が先に逃げれば、献帝はその場をうごこうとするにちがいない。
「でも、車馬が……」
蔡文姫は去卑の言わんとすることを理解したが、この混乱に、うごきの鈍い宮女が逃げるには乗物が必要で、それを調達するのは不可能と考えたのだ。
「車馬はいますぐ匈奴軍が調達いたす。ほぼ二百の宮女を収容できるはずだ」
去卑は確信に満ちた口調で言った。単于オフラから託された彼の任務は、天子の護衛よりも、『文明により近い女』を、大量に拉致することであった。
「ほんとうですか?」
と、蔡文姫は訊いた。
(そのために、ここまで来たのだ)
去卑は胸のなかでそう答えて、口では、
「そなたをだましてなにになる。車馬はすぐに用意するから、そなたは宮女をすぐこの幕のうしろに集めてもらおう」
と言った。
そのあいだにも、喊声はしだいに近づいてくるのだった。
7
細長い谷間の道なので、包囲されなかったのが、天子護衛軍にとっては、不幸中の幸いであった。逃げるのも一本道だが、攻めるのもおなじ一本道である。ところどころで、樹木を|伐《き》り倒して道をふさげば、攻撃軍がそれを除去するあいだ、逃げる時間を稼ぐことができた。
河ぞいの道をいくら東へ逃げてもきりはない。折をみて、河を渡って北岸へ出てしまえば、まず安全である。このあたりには、大軍を渡す舟はない。天子に扈従する者は、すでに百人に満たないのだ。敵は舟を調達するのに、すくなくとも数日はかかるだろう。
「舟は一|艘《そう》しかない。せいぜい三十人しか乗れない」
河岸を偵察した李楽の部下が、そう報告してきた。
「三十人か。……」
董承は空を仰いだ。日はもう暮れかかっていた。月の二十四日で、今夜はあかりもないはずである。彼は視線を空から戻して、うしろをみた。──そこに符節令の|孫徽《そんき》という者がひかえていた。
「孫徽、そちは剣術の心得があるそうじゃな」
と、董承は声をかけた。
「はっ、いささか……」
と、孫徽は答えた。符節令とは、重要文書を管理する役で、九卿の一つである少府の下に属し、俸禄は六百石であった。
「舟には三十人しか乗れない」董承はここで声をひそめて、──「このままでは大へんな混乱になろう。そのまえに、数を減らしておけ。そちの剣で。……そちは天子を先導し、なるべく下賤の者を斬れ」
「はっ、かしこまりました」
孫徽は剣の柄に手をあてがって答えた。
やがて、一行は河岸に近づき、馬車をすてて徒歩になった。献帝も自分の足で歩いている。伏皇后だけは、兄の伏徳に背負われていた。その前を孫徽が白刃をかざし、
「なにやつぞ、至尊に近づこうとするは!」
と叫びながら、右に左にふりおろした。ふりおろす前に、彼はすばやく相手を観察したのである。──下賤の者であるかどうか、たしかめるために。
白刃をふりおろすたびに、鮮血がとび、それが皇后の衣のうえを走った。
──殺旁侍者、血濺后衣。(|旁《かたわら》に侍する者を殺し、血は后の衣に|濺《そそ》げり)
史書はこの酸鼻をきわめた地獄図を、右の八字で描写している。
狭い道では、誰でも至尊に近づかざるをえない。またそば近くに奉仕するのが勤めである人もいたのだ。
河岸までこうして徒歩で行ったが、そこは河の水面から十余丈も高いところであった。崖も急である。当時の丈は二・三メートルほどだが、それでもずいぶん高い。絹を綱に編み、それを崖のうえから河辺まで垂らし、それにすがって降りたのである。なかには崖を|匍《は》いながら降りた者もいた。
孫徽がだいぶ斬りすてはしたものの、それでも河辺の舟までたどりついたのは、五、六十人ほどもいた。定員の倍以上である。
「まだ斬らねばなりませんな」
孫徽は|舳《へさき》に立って、白刃を手にした。|纜《ともづな》にすがろうとしてくる者を斬ってすてる。|舷《ふなばた》に手をかけた者の指を斬る。陰暦十二月は酷寒である。水中につきおとされた者は、かりに傷を負っていなくても凍死してしまう。
こうして、やっと三十人ほどになった。
伏皇后は恐怖のあまり、面を伏せてむせび泣いていた。皇后の衣服は血と泥に汚れている。献帝は夜空を見上げて、
「女たちは、どうなったのか?」
と呟いた。そのあとは放心状態であった。
「舟を出しますぞ!」
李楽は大声で叫んだ。
舟はゆっくりと、岸をはなれた。
孫徽は血ぬられた刃を、水のなかにつっこみ、ごしごしと洗っていた。ふと背後に、不吉な気配をかんじたが、彼はふりかえるのが精いっぱいであった。
ふりかえったと同時に、彼は背を蹴られ、前につんのめって、水中に落ちた。──厳冬の黄河に落ちては、助かるはずはない。
「な、なにをするのか!」
董承は、孫徽の背を蹴った男にむかって、|甲高《かんだか》い声で言った。
「あやつ、わしの部下をだいぶ斬りおった。北岸に着けば、仲間に|仇《かたき》と狙われて、命はあるまい。いまのうちに、水中に逃がしてやったのじゃ。は、は、は……」
不気味な声で笑ったのは、白波黄巾軍の勇将胡才であった。
こうして、献帝の一行は黄河を渡った。対岸は大陽というところである。そこへ、河内の太守張楊が、数千人の人夫に米俵を背負わせて、それを献納した。地獄に仏とは、このことであろうか。
献帝の鹵簿はさらに北上し、|安邑《あんゆう》というところに、いったんおち着くことになった。河東大守の王邑は木綿や絹など衣料品を献上しにきた。
|行在所《あんざいしよ》の安邑で、献帝は手柄のあった諸臣を賞した。白波黄巾軍諸将のなかで、もっともめざましい働きをした胡才には、征東将軍という称号を賜わった。
(女たちはどうしたろうか?)
献帝はときどき、消え去った宮女群のことを思い出す。だが、それを口にしなかった。董承の耳にはいりでもすれば、
──身まかったのは宮女たちだけではありません。おおぜいの廷臣や兵士が戦って死にましたぞ。
と、|諌《いさ》められるにきまっていたからである。──
8
百五十人の宮女たちは、黄河のほとりで|忽然《こつぜん》と消え去った。
乱戦の最中である。みんな我が命を守るのが精いっぱいで、宮女のことを気にかける心のゆとりなどなかった。──だが、ただ一人の例外はあった。
どのような乱戦になっても、自分の命よりも大事な、ある女性のことを気にかける男がいた。──|衛尉《えいい》の|士孫瑞《しそんずい》である。
衛尉とは宮門内の警備にあたる任務で、九卿の一人である。宮門の外の市街の取締りにあたるのが|執金吾《しつきんご》で、これは九卿に準ずるとされていたが、九卿のなかにはかぞえられない。封建専制の時代にあっては、皇居警察長のほうが、警視総監より偉いのである。
董卓が長安に君臨していた時代、この士孫瑞は執金吾であった。そして、彼は王允と謀って、董卓を|誅殺《ちゆうさつ》したクーデターの重要なメンバーでもあった。王允たち、董卓謀殺の関係者は、のちに李★[#イ+寉]たちに復讐されて命をおとした。だが、士孫瑞は王允たちと意見が合わぬことを理由に、クーデター後に官を去って野に下った。そのために、李★[#イ+寉]たちの復讐を免れることができたのである。
だが、士孫瑞は董卓の部将が、かならず復讐の挙に出ると予見して、|蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]《さいよう》投獄を理由に下野して災厄を避けたのだ。──徹底した保身の名人というべきであろう。
その士孫瑞が、蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]の娘、文姫に想いを寄せていたことは、さきにふれたことがある。この恋慕の情のなかには、蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]を救おうとすれば、あのとき士孫瑞なら救えたという、うしろめたさもまじっていた。
だから、蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]の獄死後、想いはますますつのったのである。──乱戦でも、ときどき文姫はどうしているかと、その姿をもとめたものだった。そんなわけで、士孫瑞は宮女たちが、匈奴軍の馬車にのせられているのを見て、その列のあとを騎馬で追ったのだ。
「陛下はあちらでござるぞ」
去卑は宮女のあとを追うこの男に、そう言って立ち去らせようとした。これから宮女の集団|誘拐《ゆうかい》という、あまり表沙汰にできないことをしようとするのだから、なるべく人目のないほうがよい。ことに九卿の一人に目撃されては、きわめてまずいことになる。
「いや、あまりひと塊りになっては、かえって陛下の足手まといになり申す。陛下は董承どのや白波の将軍たちにまかせ、私は匈奴軍と行動を共にしようと存じておりますのじゃ」
と、士孫瑞は答えた。
匈奴軍は、献帝一行の渡河地点から、さして遠くない場所に、十数艘の舟をかくしていたのである。
舟に乗り込むときも、去卑は士孫瑞を拒否できなかった。スペースがないというのは理由にならない。宮女を百五十人も乗せるのだから、一人の公卿の乗船拒否は無理である。
渡河するころ、あたりはもう暗くなっていた。第一船に、去卑は士孫瑞と一しょに乗った。宮女の長である文姫も同船であった。
岸をはなれて、しばらくすると、去卑はとつぜん、
「伏せよ! 敵に発見された。矢が飛んでくる。伏せよ!」
と、大声で叫んだ。
宮女たちはおそれおののき、舟ははげしく揺れた。
「どうなされた衛尉どの……」
去卑は低い姿勢のまま、士孫瑞のからだを揺するようにして抱きおこした。暗がりだが、輪郭ぐらいは見える。そばにいた文姫はのぞきこんで、士孫瑞の背にささっている矢の形をはっきりと認めた。
北岸に渡ったあと、匈奴の一行は西のほうへ迂回して、平陽城に戻った。
その道中、去卑をはじめ、匈奴の将兵はほとんど口をきかなかった。宮女たちは、
──身代金を要求するつもりかしら?
と囁き合っていたが、文姫だけは、
──どうやらそうでないらしいわ。どんなことがあっても驚かないことね。
と、彼女たちに言いきかせていた。
背中に矢が刺さって死んだ士孫瑞は、夏県の東南に埋葬された。
平陽城に着くと、彼女たちは高い石壁に囲まれた家にいれられた。そして、翌日、文姫だけが呼び出された。
「単于がお呼びであるそ」
と、|甲冑《かつちゆう》に身をかためた兵士が、おごそかに言ったのである。平陽城に来てから、匈奴の占拠しているまちにしては、活気がないと不審におもっていたが、文姫はまもなくその理由をさとった。
南匈奴のあるじ単于オフラが、まさに死のうとしていたのである。文姫はその臨終の場に呼び出されたのだ。
「前に出て坐れ」
と、去卑は言った。その場に、十人ほどしかいなかった。南匈奴の最高首脳陣であろう。十三歳の豹もいた。文姫は単于の枕もとまで進んで膝をついた。ふしぎに平静で、彼女は自分の心臓の鼓動を、ほとんどかんじなかったほどである。
「|伯★[#口+皆]《はつかい》(蔡★[#巛+口+巴(巛が上、口が真中、巴が下)]の|字《あざな》)の娘か。……」細目をあけて、オフラはかぼそい声で言った。文姫がうなずくのを認めたのか、言葉をつづけた。──「琴の名手ときくが、豹に琴を教えてやれ。……一しょに暮してのう。……われらは|包《パオ》(移動幕舎)をすてて、城壁に囲まれたまちに住みはじめた。……次の代は、われらも琴を弾こうぞ。……」
文姫はうなずいた。うなずくほかに、彼女はどうすることもできない。彼女はオフラの言葉の意味を、はっきりと理解したのだった。彼女は十三歳の少年の妻か、あるいは妾にされたのである。この草原の民族に、文明の手ほどきをするために。
退出するとき、前を歩いていた去卑が、門のところでふり返って、
「まるで驚いたようすを見せぬ女じゃな」
と言った。
「驚きませぬ。もはや死んだ女でございます。驚く心を持っておりませぬ」
と、文姫は答えた。
「死んだとは?」
「舟のうえで、矢がわたくしの胸をつらぬいて行きました」
「なに、舟のうえで?」
「士孫瑞さまの背に、矢が立っておりました。わたくしは、そのうしろにいたのでございます。わたくしのからだをつらぬかねば、矢があの方に届く道理はありません」
「そうか。……」
去卑はそれ以上、なにも言うことはないとおもった。邪魔になる士孫瑞の背に、かくし持った毒矢をつき立てたのは、彼の早わざであったが、文姫はそれを見破っているのだ。
オフラはその翌日に死んだ。
弟の呼廚泉が単于となり、去卑が右賢王、少年豹が左賢王となった。
作者|曰《いわ》く。──
献帝東帰の諸戦役については、そのテンポがつかみにくい。『後漢書』によれば、白波黄巾軍と匈奴軍の来援を得て大勝した『曹陽の役』は、十一月壬申の日となっている。これは冬至の一日前で、陰暦十一月五日にあたる。そして、敗戦のきっかけになった曹陽出発は、十二月庚辰のこととしている。だが、いくらかぞえても、十二月に庚辰の日があるはずはない。庚辰は壬申の八日後にあたるから、十一月十三日のはずである。すなわち、十一月を十二月と誤写したのであろう。『資治通鑑』では、曹陽出発を十二月庚申とする。それなら十二月二十四日になってしまう。あの狭い谷間で四十八日間も宿営したとは、とうてい信じられない。十二月にこだわりすぎて、辰を申の誤と解したのにちがいない。
『後漢書』には暦のかぞえ方にみだれがあり、この興平二年(一九五)十二月一日を庚辰と記している箇所もある。
曹陽大勝後の油断の長逗留は、やはり八日ぐらいとみるべきであろう。
河を渡って、安邑に到着した日を、『後漢書』は十二月乙亥としているが、その年の十二月には乙亥の日はない。どうしても翌年になってしまうが、つぎの年の正月には、安邑で献帝が祭祀をしている。作者は乙の字は己の字とまちがえやすいところから、己亥ではないかと推測する。己亥なら十二月三日に相当するはずだ。
そうすれば、はじめは数千人に米を負わせて献上した、勤皇大名の張楊が、みずから安邑に出むいた乙卯が十二月十九日ということになって、どうやらテンポがわかってくる。
曹陽の大勝──十一月五日
大敗北 ──十一月十三日
安邑到着 ──十二月三日
『後漢書』は暦だけでなく、ほかにも表現上のみだれが多い。本紀では去卑のことを左賢王としながら、列伝では右賢王としている。右賢王が正しい。左賢王は豹である。蔡文姫は左賢王の妾となり、十二年後に、曹操が身代金を出して買い戻したのだ。文姫は匈奴で二人の子を生んだ。この南匈奴から、豹の子と伝えられる劉元海のような大文化人が出たのも、あるいは文姫の影響でもあろうか。
講談本『三国志演義』は、献帝の危急に馳せつける軍勢を、白波黄巾軍だけとして、南匈奴去卑の名を消している。これは漢族の天子が異族に助けられたりするものかという、一種の中華思想から来た、故意の脱落であろう。
講談本は、黄巾軍にもいささか冷たいようである。三者連合軍との乱戦で、白波黄巾軍の勇将胡才が戦死したことにしている。だが、胡才は安邑で征東将軍の称号を得たことは本文で述べたとおりである。
胡才はこのあと、彼に怨みをもつ者のために殺されたのであって、けっして戦死ではなかった。いちど造反したことのある人間が、征東将軍に推挙されるなど、封建思想では許されないとされたのであろう。征東将軍になる前に殺してやれと、講談師は考えたのにちがいない。どうせすぐあとに死んだのだから。──
[#改ページ]
|混戦《こんせん》また|混戦《こんせん》
1
幼い伏皇后は|眉《まゆ》をしかめて言った。
「このまちは、なにやら妙なにおいがいたします。なんでしょうか?」
「鉄のにおいであろう。それとも塩か……」
と、献帝は答えた。
|安邑《あんゆう》は鉄と岩塩を産する田舎まちである。臨時にせよみやこと称するには、あまりにも殺風景すぎる。
この安邑で年を越し、元号も『建安』と改元された。これまでの『興平』は二年しかつづかず、その前の『初平』は四年で終わっている。
「建安。いい元号でございますね。ながく続けばよろしいのに……」
と、伏皇后は言った。
「ながく続けねばならぬ」
献帝は軽く唇をかんだ。この元号をながく続けたいと思っても、彼は自分の意思をつらぬくことができるであろうか。すべては権臣が勝手にきめてきたではないか。董卓がそうであり、|李★[#イ+寉]《りかく》、|郭★[#さんずい+巳]《かくし》がそうであった。
(これからは、そうはさせぬぞ)
献帝はひそかにそう決意したのである。
いま彼が最も望んでいるのは、洛陽へ帰ることであった。なによりも、洛陽帰還の意思をつらぬき通さねばならない。
──洛陽へ帰る。
献帝はそう言い張った。
だが、洛陽帰還の問題ひとつにしても、諸将の意見が分裂したのである。|李楽《りがく》、|韓暹《かんせん》、|胡才《こさい》、|楊奉《ようほう》といった、白波系の諸将は洛陽還都に反対であった。理由はかんたんである。この安邑のまちは、彼らの縄張りに近いからなのだ。
還都に賛成したのは、河内太守の張楊や安集将軍の董承といった廷臣系の人たちだった。
両派の争いがおこった。韓暹が董承を攻め、董承は野王にいる張楊のところへ逃げた。ところが、こんどは白波系のなかで、胡才と韓暹が対立し、あわや武力衝突というところまで悪化した。献帝は双方に使者を送って、|戈《ほこ》をおさめさせ、流血の惨事だけは避けることができた。
(意見をつらぬくことが、こんなに難しいことであろうとは……)
献帝は投げ出したくなった。
しかし、ここで投げ出しては、なんにもならないのである。彼は歯をくいしばって、洛陽還都を、あくまでも撤回しなかった。
白波系諸将も、やっと皇帝の意思を尊重するようになった。ただし、洛陽はあまりにもあさましい姿になっている。せめて、応急の準備はしておかねばならない。皇居の修繕といったことである。
董承が張楊の援助によって、洛陽の宮殿の造営をはじめたのは、三月になってからである。なおこの造営には、南方の劉表も人員や資材の提供をおこなった。東方の曹操を最も頼りにしていたのだが、彼は呂布を定陶に破ったあと、|雍丘《ようきゆう》に張超を囲み、これを降したのが去年の十二月で、洛陽を援助する余裕がないかにみえた。じつは曹操はべつの計画をもっていたので、洛陽については見て見ぬふりをしたのである。
べつの計画とは、自分が本拠としている許のまちに、皇帝を迎えることなのだ。
曹操はその機会を狙っていた。周囲に油断なく目を配りながら。
皇帝が安邑のまちで、洛陽に恋い焦れていたころ、曹操は薄笑いをうかべながら、自分のまきおこした波紋の末端をみつめていた。
追い払った呂布はどこへ行くか?
徐州の劉備のところに身を寄せたのである。
劉備は死んだ陶謙から、徐州を譲られたのだ。その陶謙こそ、曹操にとっては憎き父の仇である。攻め殺し、八つ裂きにしたかったが、病気で死んでしまった。曹操にしてみれば口惜しくてたまらない。呂布を攻める前に、腹いせに徐州を奪おうと考えたこともある。それは|荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]《じゆんいく》が|諌《いさ》めたので見送ることにした。
──漢の高祖は関中を固め、光武帝は河内を固めたので天下が取れたのです。本拠がしっかりしているので、進んでは敵に勝ち、退いては堅守できました。ともあれこの|★[#六+兄(六が上で兄が下)]《えん》州を固めることが大切です。そのためには、呂布を討って定陶を取るほうが重要であります。それに、徐州はそうかんたんには取れませんぞ。
と、荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]は言った。
徐州がかんたんに取れないというのは、陶謙から譲られた劉備が強いからではない。曹操が父の仇を討ちたさに、徐州に攻めこんで、いたるところで虐殺、掠奪の限りを尽したからである。曹操がまた攻めてきたということになれば、徐州の人民たちは、死にもの狂いで抵抗するにちがいない。
荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]の|諫言《かんげん》で、徐州攻めをとりやめたおかげで、劉備がうまく徐州の牧となることができた。
そして、曹操に討たれた呂布が、そこへ逃げ込むこともできた。
(おれのつくった波紋だ。波紋はますますひろがるぞ。……つぎは洛陽から皇帝をこの許に迎え、天下に号令するのだ)
曹操はにやりと笑った。
が、つぎの瞬間、自分の顔にうかんだ笑いは、どんなものであろうか、と自己追跡をする心のゆとりはあった。
(さぞ気味の悪い笑いであろう)
彼はそう思って満足した。こんな時代になれば、身辺に妖気を漂わせている者のほうが強いのである。
2
「忙しいねぇ。隠居してみれば、かえって忙しくなりました、ほんとに」
と、少容は言った。
五斗米道の教権を息子の|魯《ろ》に譲った少容は、気ままな隠居の身であったが、たしかによけい忙しくなった。
南匈奴|単于《ぜんう》オフラの死をみとったあと、白馬寺で陳潜とおち合い、それから徐州のほうへ行かねばならない。陳潜は長安から、呂布の愛妾|貂★[#虫+單]《ちようせん》を連れてきたのである。呂布は、徐州の牧劉備に身を寄せ、小沛という城を与えられていた。沛という地名は、沛国と沛県とあり、県のほうを小沛と称していたのである。少容は呂布に頼まれて、貂★[#虫+單]を彼のもとに送り届けなければならない。
「私も忙しいのですぞ」
白馬寺の支英も、苦笑しながら言った。
南匈奴の平陽城から、少容たちと一しょに白馬寺に戻ったが、席のあたたまるひまもなく、長江(揚子江)めざして南下しなければならない。あの浮屠寺を建立した|★[#たけかんむり+乍]融《さくゆう》に招かれたのである。★[#たけかんむり+乍]融は陶謙に仕えていたが、陶謙が曹操に攻め立てられ、徐州全土が動揺していたとき、数万の群衆を率いて南のかた広陵に避難したのである。
このたび、長江の沿岸で、また大いに|浮屠《ふと》寺を建立したいというので、支英を招いたのだ。
「あまり気は進みませんが……」
と、支英は言った。彼は★[#たけかんむり+乍]融が真の仏教信者でないことを見抜いていたのである。異国趣味に、信仰が巻き添えにされ、濁ってしまっては困る。
「そうでしょう。あの浮屠の信者と称している人物については、ずいぶんいやな噂をききますからね」
少容は同情して言った。
政治的な手腕もなく、軍事的な能力にも乏しかった陶謙が、徐州をなんとかもちこたえることができたのは、麋竺(びじく)と★[#たけかんむり+乍]融の二本の柱のおかげであった。麋竺は土着の大富豪である。そして★[#たけかんむり+乍]融は中原と江南を結ぶ輸送網を手中に握る人物である。陶謙はこの二人の経済幕僚に支えられていたのだ。
むろん麋竺も★[#たけかんむり+乍]融も、ただの経済人ではない。だが、天下争いの一角を占める集団の首領としては、二人ともいささか格が落ちる。陶謙にも曹豹をはじめ、部将はすくなくなかったが、徐州の跡目をつげるほどの器量人はいなかった。たとえば、曹豹は勇猛だが、あまりにも策がなさすぎたし、人心の機微をつかむことのできない武骨者にすぎない。
そんなわけで、劉備という|領袖《りようしゆう》を他所から迎えなければならなかったのだ。
麋竺は新しい領袖に仕えることになった。劉備を迎えに行ったのも彼である。土着の資本家なので、できるだけその土地から離れたくない。それにくらべて、仏教信者と称する★[#たけかんむり+乍]融は、もともと各地を転々とする運送業者のボスなので、
──おれはどこに|抛《ほう》り出されても、そこでうまくやって行ける。
という自信をもっていた。
彼は陶謙から|下★[#丕+おおざと(邦の右側)]《かひ》、|彭《ほう》城、広陵の三郡の糧食運送を委嘱されていた。ところが、そのほとんどを自分の懐にいれていたのである。大きな浮屠寺を建て、大規模な施餓鬼をしたのも、資金はそこから出たのに相違ない。
徐州が不穏になると、数万の群衆を連れて南下したというが、運送業の経営者として、彼はおおぜいの人間を必要としたのである。
経営者としては、★[#たけかんむり+乍]融はすぐれた才能をもっていたといわねばならない。経営、とくに運送業の経営は、いかにうまく人を使うかにあった。そのためには、彼らを自分の傘下に団結させねばならない。彼らだけの団結ではまずいのである。首領である★[#たけかんむり+乍]融と、特殊な関係において、その下でまとまることが必要であった。
★[#たけかんむり+乍]融はそのために浮屠の教えを利用した。運送業に従事する者は仏教信者となり、同じ信者としてたがいに団結した。しかも寺を建てたり、信仰行事の施主となるのは、信者代表の★[#たけかんむり+乍]融である。彼らはけっして★[#たけかんむり+乍]融から離れないであろう。
★[#たけかんむり+乍]融が仏教とつながりをもったのは、異国趣味からであるが、商売人の彼は、それの利用法をすぐに考えたのである。
じっさいに群衆を率いていると、仏教で彼らをまとめることはできても、彼らを養う方法も考えねばならない。
★[#たけかんむり+乍]融は糧運の打ち合わせと称して、広陵の太守|趙★[#日+立(日が上、立が下)]《ちよういく》に会った。趙★[#日+立(日が上、立が下)]は彼を大いに歓待し、酒宴がひらかれたが、酒|酣《たけなわ》のとき、★[#たけかんむり+乍]融は兵をいれて主人を殺した。趙★[#日+立(日が上、立が下)]の最期は哀れであった。
酒杯を手にして、彼は★[#たけかんむり+乍]融に『浮屠のおしえ』とはどんなものかね、と訊いていたのである。
……慈悲のおしえですよ、ひとくちで言えば。四海のうち、みな同胞。争ってはなりません。みんなのため、この世を極楽浄土にするのが、我が浮屠のおしえの真髄でして。……
★[#たけかんむり+乍]融はそう答えながら、趙★[#日+立(日が上、立が下)]殺害のために伏せてあった兵士に、左手をあげて、『はいれ!』の合図をしたのである。右手は杯をもったままだった。
★[#たけかんむり+乍]融は広陵のまちを掠奪して、自分の率いた群衆を養ったのである。
そのあと、彼は|秣陵《まつりよう》に行き、もと彭城の相(長官)であった|薛礼《せつれい》のもとに身を寄せた。ところが、ほどなく、彼はその薛礼をも殺してしまった。
なんともひどい仏教信者である。
「そのような人間こそ、まっさきに救わねばならないのです」
と、支英は言った。
「それはよくわかります」
少容はうなずいた。道教と仏教。教派はちがっても、おなじ人間のたましいを扱う者同士である。相手の気持がよくわかるのだった。
「何万という人たちが、入信しているときいています。それなのに、かの地には、おしえを説く人はいないのです。まちがった道をつけてはたいへんです。寺よりも、正しい方向を教えることのほうが大切でしょう。どうしても参らねばなりません。……正直申して、★[#たけかんむり+乍]融さまにお会いするのは、まるで気が進みませんが」
3
切り取り勝手の天下争いの時代、すこしでも弱いとみられた土地は、近隣の強豪たちに攻められる。
──徐州弱し。
陶謙から劉備への禅譲がおこなわれた徐州が、目をつけられたのはとうぜんであろう。領袖の交替というのは、いくら理想的におこなわれても、すこしは隙ができるものだ。
劉備は自分の一族郎党をひきつれて徐州にはいったが、そこには陶謙の一族郎党が残っているわけである。この二つの系統が、なんの問題もなく融合するというのは、奇跡といってよいだろう。
徐州の場合は、劉備が呂布という面倒な男を抱え込んだという、いまひとつの問題があった。
呂布は自分の主君を、二度も殺している。二度目の董卓の場合は、主君であると同時に義父でもあったのだ。いくら乱世といっても、これは札つきの問題児である。
なぜそんな男を、劉備は迎えいれたのか?
劉備の側近、関羽や張飛は大反対したのだが、彼は笑って、
「天下に怖れられているような人物は、なにかの役に立つものだ。わしには呂布を使いこなす自信がある」
と言った。
これは劉備の自信過剰であった。また彼の|見栄《みえ》でもあった。豪族名門の出身でない劉備は、世間の|喝采《かつさい》に弱いところがある。
──呂布、劉備のもとに身を寄せたり。
という噂が天下にひろまることを想像しただけで、劉備は胸がわくわくしてくるのだった。
「なにをしでかすか、わかったものではありませんぞ」
と、張飛は言った。
「はっ、はっ、はっ、張飛がそれを言うのか。……おもしろいのう」
劉備は心地よげに笑った。カッとなれば、なにをしでかすか、前後の見境がなくなるのは、ほかならぬ張飛その人である。
(たとえば、おまえのような問題児でさえ、わしはみごとに使いこなしているではないか)
劉備はそう言いたかったのだ。
たしかに張飛は困りものであった。徐州に乗り込んで、陶謙系統の幹部と最も頻繁にいざこざを起こしたのも彼である。
「内憂外患、一時に来ることは、このさいどうしても避けねばなりません。いま外患、日に日に迫っているとき、内憂の種になる呂布など、なにを好んで迎えられるのですか」
関羽はそう説いた。
「外患とは?」
「北に曹操、南に袁術。徐州に隣接する諸豪は、日夜、われらを狙っておりますぞ」
「危ない連中である」
「ですから、呂布のごときを……」
「待て」劉備は関羽の言葉が終わるのを待たずに、「だからこそ呂布を迎えたのじゃ」
「と申しますと?」
「呂布は力で取っても、あの性格ではそれを保てぬ男じゃ」
「ま、そうでございましょうが……」
「この乱世、これからどのようなことが起こるか、一寸さきは闇である。わが徐州にしても、いつ失うか、わかったものではない。曹操や袁術に奪われたが最後、容易に奪回できるものではないぞ。……わかるか、徐州を奪う者は、それを保てぬ男のほうがよいのだ。わしは、我が徐州を奪う男を、近くに飼っておくつもりなのじゃ。……一ばん都合のよい男をな」
「ほう、そのような……」
関羽は絶句した。
遠大な展望にもとづく布石である。
「どうだ、わかるかな?」
劉備はその長い手を縮めるようにして、その大きな耳たぶを|撫《な》でた。
「そう言われてみれば、わかるような気もしますが、それにしても危ない手段でございますな。……」
と、関羽は答えた。
こんなふうにして、あらゆる反対をおしきって、劉備は猛獣視されていた呂布を、徐州の州都から遠くない小沛に置いたのである。
やがて、劉備の情報網は、袁術の出兵のうごきをとらえた。
袁術、|字《あざな》は公路。後漢きっての名門袁家の嫡出を自慢にしている。そして、従兄の袁紹のことを、あれはメカケの子だとか、ほんとうの袁家の血筋ではないなどと、血統をふりまわしている男だから、たいした人物とはいえない。
天下の形勢図を袁紹・袁術の従兄弟同士の両派の色に分けたのも、もはやむかしの話になってしまった。
孔子の子孫である、北海の相|孔融《こうゆう》は、かつて劉備にむかって、
──袁術はもはや墓のなかの枯骨である。
と評したことがある。曹操が|擡頭《たいとう》し、江南で孫堅の遺児たちが頭角をあらわし、劉備がその志を伸ばそうとしている現在、家門を鼻にかけるような袁術は、過去の人物にかぞえてよいという意味なのだ。
そのころ世間にひろく、
──袁術が帝位につこうとしている。
という噂が流れていた。
これは根も葉もないただの噂ではなかった。袁術自身、大いに色気をみせていたのである。
「よし、迎え撃とう」と、劉備は立ちあがった。──「そのまえに、小沛へ行ってみることにする」
4
小沛の城には、遠来の客がいた。
少容と陳潜が貂★[#虫+單]を連れてきたのである。
呂布は相好をくずしてよろこんだ。
おもえば、董卓の首をぶらさげて、長安を逃げ出してから、もう四年の歳月がたっている。そのあいだ、彼はさすらいの将軍として、各地を転戦した。なにかにつけて、おもい出したのは、貂★[#虫+單]の面影であった。
(堂々たる大丈夫が、別れた女に恋々とするのは、なんたることか)
はじめは自分をそう叱ってみたが、それくらいでは貂★[#虫+單]の面影は消えない。そのうちに、胸にえがき出される貂★[#虫+單]は、彼にとってはひとつの慰めとなった。その面影は奪われたくないのである。さすらいの旅における、我が心の秘宝となった。
この乱世に、比較的頻繁に各地を渡り歩けたのは、五斗米道系の商人たちである。呂布はその筋をたどって、貂★[#虫+單]を呼び寄せようとした。その念願がいま|叶《かな》ったのだ。戦場に立てば鬼神とおそれられた呂布が、まるで子供のようによろこび、はしゃいでいる。
少容はそんなふしぎな光景を見た。
「少容どの、|忝《かたじけの》うござった。いまは敗残の身ゆえ、なんの謝礼も出来申さぬ。だが、この呂布が天下を取った暁には、かならず漢中に巴・蜀の地をつけて、五斗米道に進上しよう。男子の言葉に二言はないぞ」
敗残の身と言うときも、まるで|羞《は》じる色はなく、天下を取った暁と口にしたときも、ためらいのかけらもなかった。
(童子のような……)
と、少容はおもった。
うわべからみれば、この|猛々《たけだけ》しい時代にぴったりの人物である。だが、童子の心をもったこの豪傑は、じつはこの乱世に最も生きにくい人物ではあるまいか。
「貂★[#虫+單]が来たからには百人力だ」
呂布はそんな可愛いことを言った。いささかもてれるようすはなく。
貂★[#虫+單]はこの四年のあいだに、すこし肉づきがよくなったようにみえた。年からいっても、四年前よりも濃艶になっているはずなのだが、その容姿ぜんたいからは、清楚というかんじのほうが強い。
「美しいのう。……」
呂布は堂々と|見惚《みと》れた。そして、ちょっと首をかしげた。なにかふしぎなものを見るような目つきであった。彼自身、なにがふしぎなのか、よくわからないのである。
少容にはそれがわかっている。──年をとった女が、むかしより清楚にみえることがふしぎなのだろう。
「はるばるとたずねて参りました」
貂★[#虫+單]はそう言って、両手を胸のところで合わせた。
彼女は五丈原の康国人の居留地に、ながくかくまわれていた。そのあいだに、|みほとけ《ヽヽヽヽ》のおしえに親しんだのである。清楚なかんじは、そのたましいから漂ってくるのであろう。
「もうそなたをはなしはせぬぞ」
呂布は貂★[#虫+單]を抱きしめた。少容と陳潜がその場にいたが、彼は他人の目など、つゆも意識しなかった。
そのとき、廊下で、
「劉徐州どのが見えられました」
と、取次ぐ声がきこえた。
「なに劉備玄徳が……」
「はい、お忍びの来訪とかで」
「よし、隣室に案内せよ」
呂布はそう言って立ちあがったが、部屋を出るとき、貂★[#虫+單]のほうをふりかえって、
「すぐに戻るからのう」
と言った。
「勿体のうございます」
貂★[#虫+單]はしずかに頭を下げた。
隣室といっても、二人の武将は声が大きく、少容と陳潜はべつに耳を澄まさないでも、彼らのやりとりは全部聞きとれた。
「これは玄徳どの、わざわざのお越し、なんの用でござるか?」
「公路(袁術の|字《あざな》)が徐州へ攻めてくる」
「ほう、それはたいへんであるな」
「公路の軍が来るのを待つよりは、こちらも徐州を出て、外で戦おうとおもう」
「それでなくてはかなわぬ。さすが武勇の玄徳どのだ」
「勝敗は時の運、しかも公路の動員した兵はかなり多い。五分の勝算もおぼつかないと覚悟している」
「なにをそんな弱気なことで」
「それについて頼みがある」
「兵を貸せと申されるのじゃな?」
「いや、そうではない。もしこの玄徳が敗北したならば、遠慮は無用、徐州を取っていただきたい」
「なに?」
あまりのことに、呂布も驚いた。
「公路に取られるよりは、奉先(呂布の|字《あざな》)、貴公に取ってほしいのだ」
「ほう、さようか。……」
それならわかる。童子の心をもった呂布は、そんな子供っぽい意地は理解できた。
「敗死したときは、妻子をよろしく頼む」
「そのような不吉なことを申されるな。──だが、万一のときは心配召さるな。……いや、死に給うな。死んではならん。破れても、なんとかして徐州へ戻って来られい。……」
言っているうちに、呂布は心配になってきた。劉備が敗北すれば、おれが徐州を取ってその牧となる。そこへ、もとの徐州の牧である劉備が戻ってくればどうなるのか? まさか徐州を返すわけには行くまい。──
「敗走して徐州に戻れば、徐州の牧となっている貴公の下で、一部将として働かせてくれい。……」
劉備がそう言ったので、呂布はやっと決心して、
「わかり申した。約束は|違《たが》えぬ。男の約束ぞ」
と胸を張って言った。
「出陣の前に、この約束をしたくて参った。……誰かこの約束の証人になってくれる者はいないかな?」
と、劉備は言った。
「おう、立会人だな。……あ、そうだ、ちょうど貂★[#虫+單]が来ておる」
「貂★[#虫+單]とは?」
「この奉先の妻なのじゃ」
無邪気なこの将軍は、当事者の妻が約束ごとの証人になりうるかどうかも知らないのである。
「夫人ではいささか……」さすがの劉備も、相手の非常識に当惑して、「誰かほかの者はおらぬかの?」
「おう、貂★[#虫+單]を長安から連れて来た者が、ちょうど隣室に参っておる。それならよいではないかな?」
「どのような者かの?」
「五斗米道の者じゃが。……」
「おう、それはよい。ちょうどよい」
劉備は大きくうなずいた。
仁義のない戦いがくりひろげられている時代に、戦っている当人をも含めて、世人は揺るぎのない公正な『証人』を、より切実にもとめるものである。
──五斗米道の人たち。
これは当時最も信用されていたのである。相戦う諸豪たちも、五斗米道の人たちを、安心して使っていた。この場合の立会人として、これ以上の適役はない。
5
劉備は兵を率いて、|淮陰《わいいん》まで赴いて、袁術の軍と対戦した。
徐州の州都である下★[#丕+おおざと(邦の右側)]には、張飛を守将として残しておいた。下★[#丕+おおざと(邦の右側)]の相(長官)は、陶謙の曹豹であった。
呂布はもう徐州を頂戴したつもりでいた。
負けたときは、徐州を取ってくれという約束であったが、呂布は劉備の勝敗に関係なく、徐州のあるじになろうとしていた。遠路はるばるたずねてくれた貂★[#虫+單]のためにも、彼は彼女に徐州の牧の夫人という地位を与えねばならない。
問題はそのきっかけであった。
ところが、お|誂《あつら》えむきのきっかけが、勝手にころがり込んできたのである。
下★[#丕+おおざと(邦の右側)]の留守部隊で、劉備系の張飛と陶謙系の曹豹が、内紛をおっぱじめたのである。向う意気が強いだけの張飛と、人心の機微にうとい曹豹とでは、まるで喧嘩せよといわんばかりの組み合わせだったといわねばならない。そんな喧嘩では、手の早い者の勝ちである。
口よりも手のほうが早く出る張飛は、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城内で、いきなり曹豹を殺してしまった。いったいなにが原因だったのか、殺した当の張飛にきいても、
──とにかく、きゃつは生意気なんだ。
というぐらいの返事しかできないだろう。
御大将出陣中というのに、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城は上を下への大騒ぎである。寄合い所帯の悲しさで、まるで|拾収《しゆうしゆう》がつかない。曹豹を殺した張飛は、興奮のあまり、徐州のあるじ気取りになったので、対立する陶謙系の人たちどころか、味方であるはずの劉備系の連中からも嫌われてしまった。
「よし、いまだ!」
呂布が|赤兎《せきと》にうちまたがり、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城をめざしたのはいうまでもない。名馬赤兎は、いささか年を取ってはいるが、まだけっこうよく走るのである。
下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城守門の隊長は、劉備系の|許耽《きよたん》であった。彼は張飛があまり威張り散らすので、内心おもしろくなかった。
──呂布が来たか。よし、張飛とかみ合わせてやれ。
無責任なものである。守門の隊長は、あっさりと門をひらいて、呂布軍を迎えいれた。
暴れものの張飛は、あんがい神経の細かいところもあった。主人の劉備は出陣するとき、
「どうもおまえは信用できない。カッとなれば、自分でとめようとしてもとまらない。なにをやらかすかわからん。心配でたまらんぞ」
と言ったので、張飛は口をとがらせて、
「いくら私でも、任務を与えられたなら、それを遂行することは知っております。留守部隊の隊長として、私はちゃんと忍び難きを忍びますぞ」
と、胸をたたいて言ったのである。
「ほんとうに信用してもよいかな? どんなことがあっても、怒ってはならんぞ」
劉備はなんども念を押してから、彼に留守部隊をまかせたのである。
ところが、なにごとぞ、一時の怒りにまかせて、彼は曹豹をたたき殺してしまったのである。留守の州都では、行政は曹豹、軍事は張飛が最高責任者とされた。その二人が争い、怒りの火がつけば、前後を忘れるという、厄介な張飛が、相手を片づけてしまったのだ。
曹豹は張飛のために、頭蓋骨を砕かれて死んでしまった。
脳天から噴き出る血を見ているうちに、張飛は我に返ったのである。
──しまった!
あるじ劉備との約束を思い出した。
兄貴分の関羽は、きっと満面に朱をそそいで怒り狂うだろう。どんな弁解もききいれられそうもない。──さて、どうしたものか?
事がすんだあと、張飛は|茫然《ぼうぜん》とした。
いつまでも茫然とはできない。つぎの瞬間、張飛は反動的に居直ってしまった。
──この下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城では、おれが大将だぞ!
と、ことさらに威張りはじめた。これは強がりにすぎない。どうしてよいかわからないので、やみくもに粗野に振舞っているのである。心理的には疲労|困憊《こんぱい》していたといってよいだろう。
そこへ、呂布が精鋭の五原兵を従えて、とび込んできたのである。
戦わない前から、すでに勝負はあきらかであった。
呂布軍に抵抗したのは、劉備系の将兵だけである。いや、劉備系のなかでも、真剣に戦ったのは、張飛直属の兵隊だけであった。
敗残の身とはいえ、呂布は身辺にたえず、五原出身の精強の兵を少数ながら従えていた。いざ合戦となれば、その精鋭を中心に、募集した兵隊をつけ加えるだけでよかった。一般の兵卒は、基幹になる少数の精兵に、しぜんにリードされるものだ。軍隊の強弱は、臨時募集の大軍をリードする基幹層の強弱によって決定される。
前年にひきつづいて、この建安元年(一九六)も飢饉であった。人びとは食をもとめて、どんなことでもしようとした。兵隊を募集すれば、たちまち予定数を上まわる応募者がおしかけるのである。
張飛軍はあっというまに、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城からたたき出されてしまった。張飛は淮陰へむかった劉備のあとを追ったが、途中で、
「しまった!」
と、馬上で|呻《うめ》いた。
忘れものをしたのである。いかにも張飛らしい|粗忽《そこつ》だが、あるじ劉備の家族のことを、すっかり忘れていたのだ。
留守隊長としては、もし敵軍が攻めてきたなら、戦闘のまえにあるじの家族を避難させる措置をとらねばならない。こんどの場合、許耽がいきなり城門をあけたので、気がついたときはすでに戦争であったという事情もある。それにしても、劉備の家族のことが、逃亡の途中で、やっと念頭にのぼったというのは、張飛ならではのことであろう。
「ええい、女子供のことなど、どうでもいいわい。玄徳の兄貴だって、このさい、妻子のことなんか、忘れてもらわにゃいかん」
張飛は|鞭《むち》をあげた。
6
興平から建安初年にかけての戦争は、聞くにたえないほど凄惨なものであった。なにしろ天下は飢えていた。天災のせいでもあるが、人災もそれに加わっている。動乱で百姓は安心して農耕ができない。|紛々《ふんぷん》と田園をすてて逃げたのである。営々と耕しても、収穫期になると、どこからか軍隊があらわれて、刈り取って行く。これでは耕す気にもなれない。この数年は、農耕は兵隊の仕事になっていたのである。
飢えのため、兵隊も|痩《や》せ衰えている。戦争はけっして勇ましいものではなく、幽鬼の集団の食い合いであった。食うか食われるかというのは、修辞ではなく、文字どおりの意味だったのである。敵を殺して、その肉を食う。
劉備は袁術を迎え撃つために淮陰へ南下したが、途中で食べるものがなかった。行軍しながら徴発するつもりだったが、どこにも徴発すべき食糧はみつからない。
──|吏士《りし》、|相食《あいは》む。
劉備のこのときの出兵について、史書はそう記述している。味方同士の食い合いさえはじまった。地獄絵図である。
「これは、あてがはずれた」
劉備はうろたえた。
こんな軍隊が、袁術の遠征軍に勝てるはずはない。広陵で袁術軍と遭遇したが、みるみる蹴散らされた。空き腹をかかえた劉備軍は海西というところまで、ほうほうの体で逃げのびた。
そんなところへ、張飛がやってきて、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城を呂布に乗っ取られたというしらせをもたらした。
「我が家族はどこへ逃がした?」
と、劉備は訊いた。
「城に残しましてございます」
と、張飛は答えた。劉備がまっさきに家族のことをたずねたのが、張飛にとっては心外であった。
「ばかめ! なんのために、おまえを下★[#丕+おおざと(邦の右側)]にのこしたのだ。万一のためではないか。これがその万一でなくてなんだ!」
大声で、あたりに|唾《つば》をとばしながらどなったのは、劉備ではなく関羽であった。
劉備は黙っていた。
彼は妻子のことは心配していなかった。呂布との約束がある。呂布だけなら信用できないが、五斗米道の教母少容が、立会人となっているのだ。
「まぁ、よいではないか」と、劉備は関羽を制した。──「張飛の病気は、そう一朝一夕でなおるものではない」
それを聞くと、その場に平伏していた張飛が、まるで雷のような声で号泣した。
「これからいかがいたしましょうか?」
と、関羽は訊いた。彼の声も大きいほうである。だが、張飛の号泣の声に消されがちで、おなじ言葉をくり返さねばならなかった。
「戻ろう」
と、劉備は答えた。
「どこへ?」
「下★[#丕+おおざと(邦の右側)]にきまっているではないか」
「下★[#丕+おおざと(邦の右側)]には呂布がおりますぞ。このまえ、おっしゃられたとおり、呂布はあの城をながく保つことはできないでしょう。しかし、いますぐでは。……ごらんください。このむざんな敗残の軍を。これでは勝てませぬ。呂布が自滅するまで、どこで待つか、それを検討いたしましょう」
と、関羽は言った。
劉備の顔に、かすかであるが、うんざりした表情がふと浮かんだ。
(おれには謀臣がいない。……)
関羽は忠誠無比、張飛は豪勇無双の家来である。だが、権謀術数の士を、劉備の陣営は欠いていた。謀略は領袖の劉備が、みずからおこなわねばならない。
「どこで待つか、それは呂布にきめてもらおうではないか」
と、劉備は答えた。
「えっ、呂布に? それはまた、いったい、どういうことでございますか?」
関羽は眉をひそめて訊いた。
「これから下★[#丕+おおざと(邦の右側)]に参って、呂布の軍門に|降《くだ》るのだ」
劉備はべつに激したようすもなく、ふだんの口調で言った。
「な、なんとおおせられました? 呂布に降るなどと……」
「ほかに方法があるか?」
「そ、それは……」
気ばかり|焦《あせ》るが、関羽には策がない。方向さえ示されたなら、無類の実行力を発揮するが、自分で方向をさぐるのは得意でない。
「中原から江南にかけて、五穀の|稔《みの》るところ、かならずそのあるじがいる。飢えた軍隊をひきつれて、どこをほっつき歩こうとするのか。できないことだ。いいか、いまは呂布に降るほかはない。呂布はわしを頼ってきて、わしは彼を助けた。こんどは、呂布がわしを助ける番ではないか」
と、劉備は説明した。
「呂布は、はたしてそのような恩義を知る人物でしょうか。義父にあたる主君を殺したような男ですぞ」
関羽は真っ赤な顔をして言った。
そのあいだも、張飛の号泣はやまない。
「といって、ほかに道はない。早々に軍をまとめてひき返そう。ぐずぐずしていると、袁術の追撃軍に襲われるぞ」
劉備はきっぱりと言った。
むろん、彼は呂布が降伏を受理してくれることを疑っていない。この時代に、各地に割拠した諸将は、なにかと五斗米道の連絡網の世話になっている。その教母が立会人となっているのだから、呂布といえどもそむけないはずだ。
「では、参りましょう」
と、関羽も腰をあげた。このとき、彼は心中、あるじは家族のことが気にかかるので、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]へ戻ろうとするのではないか、という疑いをもった。だが、それを口にしなかったのはいうまでもない。
劉備のほうでも、この誠忠の重臣に、呂布と約束のあることを、うち明けなかった。
関羽はまだ泣きつづけている張飛の|襟髪《えりがみ》をつかんで、
「もう泣くな。さぁ、出発だ」
と、ひきあげた。
下★[#丕+おおざと(邦の右側)]に戻った劉備は、はたして呂布に降伏を認められた。
「わしは受けた恩義は忘れぬ。玄徳どのは敗残のわしに小沛の城を与えてくれた。わしも失意の玄徳どのに、その小沛の城を与えよう」
と、呂布は言った。
劉備の家族たちはむろん無事であった。
下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城の目撃者の話によれば、入城した呂布は、まず劉備の邸の門に守兵をならべ、
──一歩でもこの邸の門に足を踏みいれた者は、その場で斬りすてよ。
と命じたという。
猛獣といわれる呂布にも、そんな面があったのかと、人びとは見直したものである。
小沛へ軍を移す道すがら、不満を唱える将兵たちに、劉備は言った。──
「呂布は小沛から、あの老いた赤兎を駆って徐州の州都を取った。われらとて、小沛から徐州を回復できぬことはない。なぁに、これが乱世の常であるぞ」
7
徐州で立会人としてのつとめを終えたあと、少容は、
「支英さんのあとを追って、南へ参りましょう」
と、陳潜に言った。
白馬寺の支英は、少容たちと徐州まで同行したあと、|★[#番+おおざと(邦の右側)]陽《はよう》湖のほとりにいると言われた、もと陶謙の幕僚で仏教信者と称する★[#たけかんむり+乍]融を訪ねるために、さらに南下した。
徐州での滞在中、少容は南方の状況を知ろうとしたが、情報が混乱して、はっきりしたことはよくわからなかった。
長江の下流では、先年、|硯《けん》山で戦死した|孫堅《そんけん》の子の|孫策《そんさく》が、着々と地盤を築きつつあるようだった。
もともとその地方には、|劉★[#搖の右側+系]《りゆうよう》という者が拠っていた。
劉★[#搖の右側+系]はやはり漢王室ゆかりの者で、かつて反董卓連合軍の一将として、|酸棗《さんそう》に布陣した|劉岱《りゆうたい》の弟である。劉岱はその後、青州黄巾軍と戦って戦死したのだった。
兄の劉岱は当時の★[#六+兄(六が上で兄が下)]州の刺史で、弟の劉★[#搖の右側+系]は揚州の刺史であった。当時の揚州の州都は、現在の揚州市ではなく、そこからだいぶ西に離れた|寿春《じゆしゆん》、ほぼ現在の|安徽《あんき》省|淮南《わいなん》市の付近である。そして、現在の揚州市が、当時の広陵であり、現在の南京市のあたりが秣陵であったと考えてよい。
ところが、南陽に本拠をおいていた袁術が、しだいに揚州の領域に勢力圏をひろげてきたので、劉★[#搖の右側+系]は長江を東へくだった。しかし、世の中はままならぬもので、袁術を避けて移った地方では、孫策が縄張りをひろげつつあった。仕方なしに、劉★[#搖の右側+系]は長江をさかのぼり、はるか西に別天地をもとめた。
現在の江西省にあたる★[#番+おおざと(邦の右側)]陽湖のあたりである。そこの豫章郡の郡都は、ほぼ現在の南昌市にあたる。
この豫章の太守の周術が病死したので、情勢に変化が起こった。
そのころになると、州の刺史や郡の太守といった地方長官は、実力者が勝手に任命していたのである。
袁術は|諸葛[#葛のヒは人]玄《しよかつげん》という者を豫章太守に任命した。そして、ようやく実力者の仲間入りをした曹操は、|朱皓《しゆこう》という者を豫章太守に任命した。劉★[#搖の右側+系]は自分を追った袁術への|敵愾《てきがい》心もあって、朱皓の応援をして、諸葛[#葛のヒは人]玄を追い払おうとした。この二人太守の争いに、仏教信者の★[#たけかんむり+乍]融が割り込み、劉★[#搖の右側+系]・朱皓の陣営に加わったという。
その情報を頼りに、支英は長江(揚子江)を渡って、★[#番+おおざと(邦の右側)]陽湖へむかったのである。少容はそのあとを追おうとした。彼女はまだ江南の地を踏んだことはない。
いまでこそ江南は風光|明媚《めいび》、温暖で暮しやすい土地であるが、当時の通念では、南へ行けば行くほど、文明度が薄くなるとみなされていた。この文明圏は黄河の中流に発生したのだから、江南の地ははるかに遠い。長江まではともかく、そこより南ときけば、人びとは、
──蛮地。
と、反射的に考えてしまうのである。
──|瘴癘《しようれい》の地。
というのが、当時の人の南方にたいして抱く、きまりの連想であった。
「おからだにさわりませぬか?」
陳潜が心配そうに訊いたのはとうぜんであろう。
「わたくしは年老いてはおりますが、そのようにひ弱なからだではございません」
笑いながら少容は答えた。彼女が老いのことを口にするなど、およそ不自然であった。これも当時の通念で、四十をすぎると、『老』を口にしてもふしぎではなかった。少容も四十をすぎているのだ。しかし、どうみても、三十前にしかみえないので、『老』という言葉が浮かんでしまう。
「では、お供いたしましょう」
と、陳潜は答えた。
「五斗米道も、南へひろがっております。浮屠の人たちも参りました。わたくしたちもこの国の人を救わねばなりません。人が人を食べるような、そんな|禽獣《きんじゆう》の営みから、たましいを救い出し、高めるのです。……」
少容はこのようなことを口にするとき、表情がひきしまって、よけい美しくみえた。
「難しいことでございます」
陳潜は各地を旅行して、乱世の獣性というものを、いやというほど目撃している。人間を獣性から、人間の道にひき戻すのは、たいへんな仕事になるであろう。
「浮屠の人たちと先を争うのです。わたくしたちのほうが勝たねばなりません」
と、少容は言った。これは彼女の持論でもあった。
浮屠のおしえは、たましいのみに重点が置かれている。個人の心──むろん、それは無限のひろがりをもつものには相違ないが、浮屠では世俗との隔絶を説きすぎる。
それにくらべると、五斗米道は、より実際的であった。人が人を食べないためには、より多くの食糧をつくることを説く。天下が分裂して、人びとが戦乱で苦しんでいるが、それを救うために、天下の統一をはかる。──具体的には、天下を統一しうる人物を鑑定してえらび、その人物をできるだけ援助することだ。世俗とのかかわりが深い。
浮屠の人たちは、五斗米道のそのような路線を、かんじんのたましいとのかかわりが浅くなる、と批判していた。
──浅くてもやむをえない。世俗をうち棄てておけば、分裂や飢餓は解決されず、人びとはたましいが救われる前に、むざんに死んで行くではないか。
少容はそう割り切っていた。
大運河がつくられたのは|隋《ずい》のときで、後漢末には、まだそのような大規模な人工水路はなかった。だが、徐州から江南へ行く道には、網の目のような淮河の支流や、おびただしい湖沼があった。したがって、おもに水路で行くのである。後年の大運河完成後は、徐州から長江へは直航で行けるようになったが、後漢末はときどき岸にあがり、すこし陸上を行き、つぎの水路でまた舟に乗る、といった旅行だったのである。
舟旅はからだをうごかさずにすむが、時間をもてあましがちになる。少容と陳潜は、これまで以上に、つっ込んで語り合う機会をもった。
「潜さん、あなたはいま迷っていますね。……悩みがあるのでしょう。五斗米道のことについても……」
少容はさすがによく観察していた。
「いえ、迷いというほどのものではありません。ただ……この乱世、どうしようもないときがあると……そう思うことはあります」
陳潜の否定には、力がこもっていない。
「迷いがないはずはありません。わたくしでも迷うのですから。浮屠のおしえが、この国にひろがりましょうが、五斗米道のつぎの世代の人たちは、迷わずにはすみますまい。潜さんの迷いは、つぎの世代の人たちにとっては貴重な教訓になるでしょう」
少容はそう言ってほほえんだ。
慈母の微笑であった。
陳潜は貂★[#虫+單]を呂布のもとに送り届ける、このたびの旅行で、心に迷いをもったのである。
苛酷な運命にもてあそばれた美女。──陳潜は貂★[#虫+單]をそんな目でみていた。だが、彼女は自分自身の運命からも、超然としているようにみえた。なにかといえば、すぐに合掌して、
──みほとけの慈悲でございます。ものみな形あれば滅びるものです。
と、目をとじるのだった。苦悩を脱しているのだ。乱世では、このような生き方のほうが、安楽なのではあるまいか?
浮屠のおしえでは、乱世のまま、一人一人がこの貂★[#虫+單]のように、苦悩を去り、安楽の境地が得られるのである。
それにたいして、五斗米道は、人びとの苦悩を取り去るために、分裂闘争の世を、統一平和の世に変えようとする。
はたして、どちらが正しいのか?
「教母さまもお迷いになりますか?」
と、陳潜は訊いた。
「潜さんのような迷いは、浮屠のことをくわしく知らなかったころ、わたくしもよく迷いました。五斗米道のこの行き方でよいのかと。……でも、浮屠を知ったあとは、もう迷いませんでした。五斗米道の弱いところは、浮屠が補ってくれるのですから。いまのわたくしの迷いは、ほかのことです」
「どのようなことでしょうか?」
「曹操どのに天下統一の希望をかけ、及ばずながら手伝いもしようと思っておりますが、ときに目うつりがいたします。……劉備どのも、たいしたお方ではありませんか。劉備どのの応援をしたほうがよいのではないかと、そんな悩み、迷いですね」
「でも、劉備さまは戦いに破れ、徐州の牧の地位を失いました」
「いいえ」と、少容は首を振った。──「このたびの負けほど、みごとな負け方はありませんでしょう。劉備どのは袁術どのと戦って、負けはしましたが、袁術どのは徐州が取れませんでした。敵に取られなかったのですから、負けは負けとして、りっぱではありませんか」
「でも、呂布さまに取られました」
「劉備どのは、わたくしを立会人にして、呂布に徐州を取ってくださいと、誘いをかけたのでございますよ。ふつうなら、袁術どのは勢いに乗って、徐州まで攻め込むところでしょう。攻め込めなかったのは、|獰猛《どうもう》の呂布軍が徐州にいたからです。劉備どのは、呂布どのの勇名を利用して、まんまと徐州を守ったのでございます」
「守った? でも、徐州は……」
「呂布どのが相手なら、智謀を用いて、いつの日か取り戻せる。……劉備どのはそんな自信がおありだったのでしょう。また、呂布どのがずっと徐州に居すわっても、劉備どのにすれば袁術軍に占領されるよりはまし、とお思いになったのです」
「どうしてでしょうか?」
「ひとあし出遅れた劉備どのは、どうしようもない大勢力の出現を、なによりもおそれています。袁術陣営が徐州をあわせると、これはもうちょっとした大勢力になりかねません。……ああ、ほんとうに天下に英雄豪傑、智謀の士が多すぎます。万民のため、一日も早く天下が統一されねばなりませんのに。……」
8
徐州を南下すると、袁術の勢力圏にはいる。
少容たちは、|瓦埠《がふ》湖、|巣《そう》湖などを通りすぎて、長江に出た。
「ああ、これが|岷《みん》江につながっている長江ですのね。……」
悠々と流れる長江の水に、少容はそんな歎声をもらした。彼女はふるさと益州の岷江の水が、ここまで流れてくるという知識をもっていた。
彼女たちはその長江をさかのぼって行く。
「戦乱の世とは思えない、平和な|眺《なが》めでございます」
陳潜も感慨をこめて言った。
じつはこのころ、孫策はもっと下流のほうに本拠をおき、会稽を狙っていたのである。そして、豫章の太守争いは、上流の★[#番+おおざと(邦の右側)]陽湖畔でおこなわれているはずだった。少容たちが長江にはいって、さかのぼりはじめた地域は、小康が保たれていたわけである。
やがて、長江から舟は★[#番+おおざと(邦の右側)]陽湖のほうへむきを変え、一行は|柴桑《さいそう》県に上陸した。ここはもう豫章郡である。
湖岸の民家で、
「豫章の太守さまはどなたですか?」
と訊くと、
「|華★[#音+欠]《かいん》さまでございます」
という返事であった。
「ほう、それは……」
袁術系の諸葛[#葛のヒは人]玄でも、曹操系の朱皓でもなかったのだ。
華★[#音+欠]、|字《あざな》は|子魚《しぎよ》。たしか長安で|太傅馬日★[#石+單]《たいふばじつてい》の幕僚をしていたが、数年前、勅使として関東に派遣されたはずである。とすれば、諸豪の争っていた豫章太守は、廷臣系の手に帰したことになる。
「では、まえの太守の諸葛[#葛のヒは人]玄さまは?」
と、陳潜は訊いた。
「お気の毒に、劉★[#搖の右側+系]さまの連合軍に攻め立てられましてのう。……お負けになりましたよ。いまは行方も知れないとかでございます」
湖岸の民家の老人は、歯が抜けて、空気のもれる音を伴った、聞きとりにくい声でそう語った。
「では、劉★[#搖の右側+系]さまがお勝ちになったのだね?」
「はい、さようで」
「劉★[#搖の右側+系]さまは、たしか朱皓さまの応援をなさっておられたとか。もと徐州にいた★[#たけかんむり+乍]融さまも、それに力をお貸しになったときいておりますが。……どうして朱皓さまが、太守におなりにならなかったのですか?」
「お気の毒に殺されましてのう」
「誰に?」
「★[#たけかんむり+乍]融というお方にじゃ」
「★[#たけかんむり+乍]融さまといえば、朱皓さまの味方じゃありませんか?」
「昨日の味方は今日の敵ですじゃ」
あまり言語が明瞭でなかった老人も、この一句だけは、はっきりと発言した。
「ほう、で、★[#たけかんむり+乍]融さまは?」
「劉★[#搖の右側+系]さまに攻められました」
「劉★[#搖の右側+系]さまにねぇ。……」
陳潜は頭のなかを整理した。劉★[#搖の右側+系]もまた★[#たけかんむり+乍]融の味方であったはずだ。協力して、諸葛[#葛のヒは人]玄を排し、朱皓を太守の位につけようとしたのである。それが成功して、諸葛[#葛のヒは人]玄は逃亡し、朱皓が念願の豫章のあるじになるところであった。おそらく★[#たけかんむり+乍]融は、豫章を我がものにしたいと思ったのであろう。そのためには、さきに着任している諸葛[#葛のヒは人]玄を追放しなければならない。その追放の戦いのために、朱皓やその後援者の劉★[#搖の右側+系]と同盟したのである。追放が成功したあとは、同じ陣営の朱皓を殺して、みずから豫章の太守になろうとした。──だが、朱皓の後援者である劉★[#搖の右側+系]がそれを許さなかった。ただちに兵をむけて、★[#たけかんむり+乍]融を討った。──陳潜の頭に、そのような筋が組み立てられた。
「それで、★[#たけかんむり+乍]融どのは?」
「敗走して、山に逃げ込みましたが、土地の者に殺されてしまいました」
「亡くなったのですか。……」
それまで黙ってきいていた少容が、ぽつりと言った。
「はい、さようで」
老人はなんども首を振りながら答えた。
「★[#たけかんむり+乍]融どのは浮屠の信者ですが、洛陽白馬寺から、月氏の人たちが彼を訪ねて参りませんでしたか?」
少容は支英たちのことが気になって、そう訊いた。
「ああ、来ておりますじゃ。……いま県城でね、★[#たけかんむり+乍]融の首を買う交渉をしておるそうな」
「首を?」
「はい、さようで」
日本でも明智光秀らの例があるように、乱世の時代には、落武者狩りは商売になった。とくに大将首は高い値がつく。
「★[#たけかんむり+乍]融を殺した者が、その首を浮屠の者に売りつけようとしているのか?」
と、陳潜は訊いた。
「いいえ」と、老人は答えた。──「山の連中は、もうその首を諸葛[#葛のヒは人]玄の一族に売りましたのじゃ。白馬寺の人たちは、その首を譲りうけたいと申し出ているのじゃが、諸葛[#葛のヒは人]家の連中はなかなか承知せぬそうな」
「では、白馬寺の人たちはまだいるのですね?」
と、少容は訊いた。
「ええ、おりますぞ、この柴桑の城内に」
老人はそう答えて、大きなクシャミをした。
少容と陳潜は、急いで城内にはいった。
いささか毛色の変わった連中なので、支英たち一行の居所はすぐにわかった。さっそくそこへ訪ねてみると、葬儀の最中であった。どうやら首の買取りには成功したようである。
この時代の仏教の葬儀は、いたって簡素なものであった。|色即是空《しきそくぜくう》を説く浮屠のおしえとしては、とうぜんのことであろう。
誦経が終わり、★[#たけかんむり+乍]融の首は|荼毘《だび》に付されることになった。
柴の束のなかに、首桶をおしこめ、支英が火打石で火を点じた。よく乾いた柴で、たちまちめらめらと燃えだした。やがて、金属的な響きを立てて、ときどきはぜるようになった。
「よく人を殺した御仁でしたが、自分も殺されてしまいましたね」
支英は挨拶抜きで、少容に話しかけた。
「それでもこの人は、漢人としては、はじめて浮屠の寺を建てたことになりますねぇ」
と、少容は言った。
「浮屠のことは、あまりご存知ではありませんでした。──まちがって伝えられてはなりませんので、浮屠の衆におおぜい来ていただいて、ほんとうの浮屠のおとむらいを、見てもらうことにしたのです」
柴桑城内だが、ここは野原のようなところである。群衆がまわりを囲んで、じっとこの火葬を見守っている。しわぶきひとつきこえない。それだけに、はぜる音は異常にはっきりときこえた。
「それで、★[#たけかんむり+乍]融どのの首を、苦心してもとめられたのですね。それにしても、諸葛[#葛のヒは人]家の人たちも、思い切ってよく手ばなしたと思います。諸葛[#葛のヒは人]玄太守の仇にあたりますのに」
少容は群衆の沈黙にたいして、遠慮でもするように小声で言った。
「はい、首の買取りについては、はじめはなかなか難航しましたよ。諸葛[#葛のヒは人]一族は、最初はまるでとり合ってくれませんでした。……ところが、なかに一人、りっぱな少年がいましてね。★[#たけかんむり+乍]融の腐りかけた首など、なんの値打ちもない、黄金で買取る人がいるうちに、さっさと売ったほうがよろしいと、じつに堂々と主張したのですよ。論旨が整然として、|並《な》み居る大人たち、誰一人として反論できなくなりましたよ」
「それは末頼もしい少年ですね」
「十六、七でしょうか。……諸葛[#葛のヒは人]玄の|甥《おい》にあたるのですが、ひとかどの人物になるでしょう。亮という名前です。|字《あざな》を孔明というそうですが、この少年の名は記憶する価値がありそうに思います」
「諸葛[#葛のヒは人]孔明。……」
少容はその名を、そっと口にした。そのとたん、首桶のあたりで、火が大きくはぜた。火のかたまりが宙にとび、それが小さな火の粉となって、ひろがりながら降ってきた。
作者|曰《いわ》く。──
呂布が下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城を襲って、徐州を取ったことについては、袁術が密書を送って呼応させたというのが定説である。城内の曹豹が呂布と結んで、襲わせたのだという説もある。どちらも大いにありそうなことだ。それだけに、劉備がどちらにせよ、それにまったく気づかず、対策を講じていなかったとは考えられない。
諸葛[#葛のヒは人]玄は劉★[#搖の右側+系]を盟主とする朱皓・★[#たけかんむり+乍]融軍のために、豫章の州都を追われ、西城まで落ちのびた。玄の最期も★[#たけかんむり+乍]融とおなじで、山中に逃げ込み、土地の人に殺されたが、それは翌年のことである。諸葛[#葛のヒは人]亮(孔明)は両親に早く死なれたので、父の弟にあたる諸葛[#葛のヒは人]玄にひきとられ、豫章で少年時代を送った。彼は献帝と同年の生まれだから、建安元年には満十五歳だったはずである。一八〇センチを越える長身とその伝記にあるが、十五のときでも、年よりは大きくみられたのにちがいない。
[#改ページ]
|英雄《えいゆう》が|多《おお》すぎる
1
|★[#たけかんむり+乍]融《さくゆう》の首を火葬にしたあと、白馬寺の支英や少容の一行は、|★[#番+おおざと(邦の右側)]陽《はよう》湖の湖口から舟にのって、揚子江をくだった。
「ここまで来たのですから、小|覇王《はおう》と碧眼児に会っておきましょう。でも、あなたは|下★[#丕+おおざと(邦の右側)]《かひ》か小沛のどちらかへ行って、わたしが行くのを待ってください」
少容は陳潜にそう言った。
五年前に、|硯《けん》山で戦死した孫堅の遺児たちが、いま江東にいるのだ。父親が死んだとき、長男の策は十六歳、次男の権は九歳にすぎなかったので、軍隊は伯父の孫賁が一時、預かっていた。
五年たって、孫策はもう二十一になっている。気性がたけだけしいので、人びとはこの青年を『小覇王』と呼んでいた。しかし、この小覇王は他人にほめられると、
──いや、弟の権のほうが、この策よりもすぐれている。
と、答えるそうだ。
次弟の権はまだ十四だが、つねに兄に従っている。目が青いので、江東の人たちは彼を『碧眼児』と呼んでいた。
「わたしの目と、どちらが青いか、くらべてみましょう」
支英はそう言って、少容と一しょに行くことにきめた。彼にとっては、予定外の行動だったのである。
死んだ★[#たけかんむり+乍]融は、信仰の純粋度には問題はあったが、信者をあつめる力はすぐれていたといわねばならない。かりにそれが、運輸業経営のための手段という、功利的な動機からであるとしても、乱世の人民のなにかに頼ろうとする、切ない願望がその誘いを迎えたとしか考えられない。
南方における浮屠信者の数は、支英たちが想像していたよりも、はるかに多かった。
(信者たちのために、保護者または後援者をつくっておかねばならない)
支英は南方の有力者に、渡りをつけておく必要をかんじたのである。ちょうど五斗米道の少容が、江東の小覇王に会いに行くというのだから、渡りに舟であった。
陳潜は広陵の近くで舟から降り、徐州にむけて北上することになった。
「英雄たちの顔を見るだけですから、そんなに長く待たせはしないでしょう」
広陵で陳潜と別れるとき、少容は笑いながらそう言った。『英雄』という言葉に、特別なアクセントをつけて。
おもえば、天下の人民は、英雄たちのために、どんなに苦しめられたことか。──陳潜は北上する舟のなかで、少容の口にした『英雄』という言葉の、ふしぎな余韻を|反芻《はんすう》するのだった。
英雄が多すぎる。当の英雄たちもそうかんじているのだろう。これ以上英雄が出現しないように、けんめいに対策を講じている。そのような妨害があればあるほど、筋金入りの英雄が誕生してくるのだ。
孫堅はかつて袁術に属していた。孫堅が死ぬと、袁術は孫家の後継者から、再び英雄が出現しないように手を打った。
袁術は孫策に、いつまでも太守の職を与えようとはしなかった。
「まだ若いわ」
と、首を横に振った。
袁術は徐州を攻めるにあたって、廬江太守の陸康に、米三万石の供出を命じたが、あっさりことわられた。そこで彼は孫策に、
「陸康を攻めよ。彼を破れば、そなたを廬江の太守にしよう」
と言った。
孫策は陸康の廬江城を攻めおとしたが、袁術は約束を|反故《ほご》にして、自分の直系の劉勲という者を後任の太守とした。
袁術の食言は、これがはじめてではない。このまえも、九江太守にしてやるとにおわせておきながら、それを直系の陳紀に与えてしまった。また揚州刺史の|劉★[#搖の右側+系]《りゆうよう》を寿春から追い出したあと釜にも、袁術は自分の直系の|恵衢《けいく》を据えた。
追われた劉★[#搖の右側+系]が、曹操系の|朱皓《しゆこう》や仏教信者の★[#たけかんむり+乍]融たちと連合して、袁術系の豫章大守諸葛[#葛のヒは人]玄を撃ったことは前に述べた。
(なにを!)
たび重なる冷遇に、孫策は歯がみした。彼の父の代から袁術に属した部将であるが、直系ではなかった。しかも、孫家はかならずしも名門ではない。名門袁家の『嫡出』を誇り、北方の異母兄袁紹を『メカケの子』とさげすむ袁術には、名門好みというものがあった。
孫策もそれをかんじている。そして、自立の決心をした。
──もう誰の力も借りぬぞ。
そう言いたいところだが、自立するにしても、もっと力をつけねばならない。父孫堅の戦死後、伯父の孫賁がけんめいに兵力を守ろうとしたが、弱きを去って強きにつくのは乱世のならいである。孫家兵団は脱落者が相ついで、洛陽を襲った全盛期の面影は、もはや失われていた。
やっと孫策が成人して、すこしは勢いをもり返したとはいうものの、まだまだ力が不足である。
──弱ければ兵は去り、強ければ兵はあつまってくる。
孫策は父の死という悲運を通じて、このことを|肝《きも》に銘じて思い知らされた。
派閥のなかにはいれば、いざというときには、親分が援兵や軍糧の面倒をみてくれる。孫策は自立できる力がつくまで、まだ袁術に属しているようにみせ、利用できるだけ利用しようと考えた。
袁術のほうでも、勇猛な孫策を使って、できるだけ自分の版図をひろげようとした。どちらも相手を利用しようとしていたのである。
──小覇王はわしの猟犬だ。
袁術は腹心の者にはそうもらしていた。
猟犬はいま会稽を襲っている。
会稽は現在の浙江省杭州湾に面したあたりで、そのころはまだどの英雄の版図にもはいっていなかった。|厳白虎《げんびやつこ》という土地の侠客が、衆をあつめて、そのへんに|盤踞《ばんきよ》していたのである。太守の王朗は名目だけであった。
会稽はゆたかな土地である。春秋末期、越王|勾践《こうせん》と名臣|范蠡《はんれい》が、ここによって天下に覇をとなえたことがあった。この地を手に入れたなら、袁術は宿敵の袁紹や曹操よりも、はるかに強力になる可能性があるだろう。袁術は猟犬に期待することが大きかった。
孫策は孫策で、会稽を手中におさめることができさえすれば、おおっぴらに自立を内外に宣言することができる、と期待していた。少容が孫策を訪ねようとしたのは、まさにそのような時期だったのである。
2
「雲長(関羽の|字《あざな》)兄貴の顔は、このごろ、ちと変わってきたようじゃ」
小沛の町はずれの居酒屋で、どぶろくを飲みながら、張飛はそう言った。
では、どんなふうに顔が変わったのか、と訊かれると、張飛はたちまち返答に困ってしまう。
「そんなかんじなんだ。……どこがどう変わったか、うまくは言えんが」
張飛はその大きな目玉をくりくりさせてから、しばらく考えこみ、やがて思いあたったように言った。──
「そうじゃ、そうじゃ。雲長兄貴の眉は、近ごろ、とんとうごかねぇ。うん、眉がじっとしておるわい」
関羽はうれしいときには、そのふとい眉を上下させる癖があったのである。そんな表情を、このごろめったに見せなくなった。なぜなのか、兄弟のように親しんでいる張飛にもわからない。だが、人間の心理のうごきに通じている劉備には、関羽の微妙な変化の原因が、あらかたつかめていた。
(そういうことは、時間が解決する。そっとしておいたほうがよい)
と劉備は考えていた。
三人義兄弟の末弟にあたる張飛が、関羽のことを心配して、長兄の劉備に相談したときも、
「なぁに、たいしたことはあるまい」
と、劉備は答えた。これは、そばからとやかく言うと、かえってまずいのである。ほっておけば消える火を、下手に吹き消そうとして火勢をよけい強めることになりかねない。
「どうして雲長の兄貴は、あんなふうになっちまったんだろうね?」
と、張飛は首をかしげた。
「それはな……ちょっとした病気じゃな」
劉備はそう答えて、にやりと笑った。
「どんな病気ですか?」
「たいした病気じゃないが、おまえに説明してもわからんだろう」
「うん、おれは病気といえば、風邪のほかになにがあるか、よくわからんがなぁ……」
張飛はそれ以上訊かなかった。
「とくに、雲長のこんどの病気は、おまえにいくら言ってもわからんのだ。はっ、はっ、はっ……」
玄徳(劉備の字)兄貴がこんなに朗らかに笑うのだから、雲長兄貴の病気もたいしたことはなかろう。──張飛は劉備の笑い声に安心した。
張飛に理解できない病気とはなにか?
関羽は恋わずらいにかかっていたのである。
(しかし、いかにも相手が悪い)
劉備は張飛が立ち去ったあと、笑いを消して、深刻な表情になった。関羽がふつうの女に|惚《ほ》れたのであれば、義兄として劉備も、その仲をとりもってやるのにやぶさかではない。だが、劉備がにらんだところによれば、関羽が惚れたのは、たいへんな女だったのである。
|貂★[#虫+單]《ちようせん》。──劉備から徐州を横取りした、あの呂布の女なのだ。たしかに、いかにも相手が悪い。
五斗米道の教母少容とその弟子の陳潜が、貂★[#虫+單]を連れて徐州へやって来たのは、つい数カ月前のことであった。当時、呂布は追われて、徐州の劉備を頼り、小沛の城を与えられていた。少容たちは、いったん徐州の州都である|下★[#丕+おおざと(邦の右側)]《かひ》に来て、劉備たちに挨拶してから、貂★[#虫+單]を小沛にいる呂布のところへ連れて行った。それが順序というものだった。
関羽はそのとき、貂★[#虫+單]をひと目みて、恍惚となったのである。
(丈夫たる者は、志を四海にのばさねばならぬと思っておったが……それだけが男の道ではないのかもしれない。たとえば、このようなうつくしい女とともに暮せるのであれば、封侯や将軍の地位など、すて去ってもよいのではあるまいか)
彼はそうおもった。
貂★[#虫+單]の美貌は、関羽に別の世界があることを教えたのである。人間はこのようにして、ひろがりをもってゆく。もっとも関羽自身は、自分の人間的成長には気づかない。気づかないから、ただ動揺し、悩むほかはなかったのである。
劉備が関羽のこのようすに気づいたのは、他人の心理を読むことにすぐれていたからだけではない。
劉備も関羽と似た状態にあったからなのだ。女性の美にうたれて、新しい世界がひらけた。ただし相手はちがう。劉備が心を惹かれたのは、少容のほうだったのである。そして、彼は新しい世界がひらけることを知っていたので、関羽とちがって慕情を抑えたけれども、それはけっして不毛ではなかった。
数カ月前とは、いまは主客が転倒して、徐州のあるじが呂布であり、劉備はそのお情けで小沛の城を与えられている。
陳潜はそこを訪問するのである。
順序として、やはり州都下★[#丕+おおざと(邦の右側)]で、呂布を表敬訪問したあと、小沛へむかった。
小沛城の手まえの小さな池まで来たとき、陳潜はその岸に、大きな男が坐っているのを見た。うしろ姿だが、彼はその|恰好《かつこう》に見おぼえがあった。
「雲長さまではありませんか?」
と、陳潜は声をかけた。巨漢はふりかえった。はたしてそれは関羽であった。
「おう、戻って参ったか」
関羽はものうげにそう答えた。
「お久しぶりでございます。……」
お変わりなく、と言いかけて、陳潜はその言葉をのみこんだのである。変わりすぎるほど変わったではないか。徐州の牧がいれかわっただけではない。関羽の顔も、お変わりなくと言わせないほど、このまえとは表情が違っている。
「下★[#丕+おおざと(邦の右側)]からやって来たのか?」
と、関羽は訊いた。
「さようでございます」
「下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城内は、変わりはないか?」
「はい。……玄徳さまがおられたときと、まちのようすも変わったところはございません」
「呂布はどこを住居としておったか?」
「あっ、それだけは違っておりました。呂布さまは、かつての★[#たけかんむり+乍]融さまのお邸に住んでおられます」
と、陳潜は答えた。
陶謙時代から、この一帯の物資輸送を業としていた★[#たけかんむり+乍]融は、巨富を積み、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城内にもりっぱな邸を建てた。その大きさは、さすがに遠慮して刺史(長官)公署よりやや小さくしているが、内部の造作、用いている材料などは、ずっとすぐれているという噂であった。だから、呂布はここのあるじになると、住居を旧★[#たけかんむり+乍]融邸に定めたのである。
「ほう、★[#たけかんむり+乍]融めは、戦いに敗れ、土民に首を取られたというが、その邸にはいった呂布にも、いずれおなじ運命が待っているであろう。……そう遠いことではあるまい」
関羽はそう言うと、坐ったまま、腰のそばの石をつかみ、池にむかって、力まかせに投げた。
どぼん、という音を、陳潜は自分の下腹あたりにきくおもいがした。
徐州を横取りした呂布にたいする、劉備一党の怒りは、陳潜にもわからないではない。しかし、弱肉強食は乱世のならいである。
「では、これから城内へ参ります」
陳潜は一礼して、関羽のそばを通り抜けて、城内のほうへ足をむけた。
城門をくぐるときになって、陳潜はちょっと首をかしげた。
(あのひげの関羽、なぜ呂布の住居のことを訊いたのだろうか? まさか一人で討ち入るつもりではあるまい。目玉の張飛なら、やりかねないけれど。……)
3
呂布については、彼の野獣的な|獰猛《どうもう》さばかりが目立つが、彼は野獣的な|狡猾《こうかつ》さも持っている。それは、危険と安全を、たちどころに判別する『|嗅覚《きゆうかく》』といってよいだろう。
少容を立会人にして、敗戦のあと小沛城だけでも確保したことは、劉備の作戦勝ちのようにみえる。しかし、この場合も、呂布がしてやられた、と考えるのはまちがっている。
──劉備は役に立つ。
呂布はとっさにそう判断したのだ。
敗戦の劉備に小城を与えることは、劉備が呂布の傘下にあると、世間に思わせることになる。大きな派閥に属していない呂布にとって、世間にそう思わせるのは有利であった。
下★[#丕+おおざと(邦の右側)]の北、泰山のあたりには、いま地方の小軍閥がうごめいている。雑軍といってよいだろう。
彼らは、袁紹、袁術、曹操という大派閥の本拠から、地理的にはなれているために、まだ無所属でいることができた。しかし、いつかは、どこかに属さねばならない。そのさい、手柄を立てておけば、帰順後の処遇がよくなる。──彼らはそう考えて、|虎視眈々《こしたんたん》と天下の形勢をみている。
泰山の雑軍には、|臧覇《ぞうは》、|孫観《そんかん》、|呉敦《ごとん》、|尹礼《いんれい》といった将領がいた。彼らは帰順の手土産に、どこかで名を知られた大将の寝首をかいてやろうと、物騒なことを考えている。
(おれの首が一ばん高そうだ)
呂布はそう自負している。彼自身が、董卓の首をぶらさげて、高く売りつけようとした経験のもち主である。
狙われているからには、まわりをかためておかねばならない。だから、劉備に小城を与えて、自分の系列と思わせておくことは、呂布の安全のためには大切であった。
呂布には十三になる娘がいた。呂布は勇猛のきこえは高いが、劉備のように耳が大きすぎるとか、関羽のようにひげ面だとか、張飛のようにどんぐり|眼《まなこ》に虎ひげといった、|魁偉《かいい》な面相ではない。美男子のほまれの高い孫策に、ひけをとらぬ色白の好い男であった。その娘なので、たいそうきれいである。
袁術のところから、
──娘御を、ぜひわが子の嫁に。
という話がもちこまれた。十三といえば、当時では適齢期ということができたのである。この縁談にたいして呂布は、
「話をつないで、ひきのばしておけ」
という指示を出した。
袁術がどんな魂胆なのか、それを確かめてからでもおそくはあるまい。親の気持からいえば、天下の名門袁家の嫡流にとつがせるのは、願ってもないことである。だが、相手は呂布の娘を美少女ときいただけで、縁談をもちこんだのではあるまい。──呂布が長安を脱出して、最初に頼ったのがこの袁術で、その人柄はよく知っていた。すぐに、
──どこの馬の骨かわからぬやつ。
という言葉を口にするほど、名門にこだわる人物である。呂布その人も、どこの馬の骨かわからないのだ。その娘をもらおうというのだから、なにか裏がありそうである。
袁術の子は、|燿《よう》という名で、ほかに男の子はいない。
「なに、一人息子だと? いよいよくさい。ようすを見よう」
と、呂布は言った。
やがて、袁術は武将の|紀霊《きれい》に三万の兵を授けて、小沛にいる劉備を攻撃させた。
「ああ、このためだったか。……」
袁術出兵のしらせをきいて、呂布は大きくうなずいた。縁談の『裏』が、やっとわかったのである。
袁術は目ざわりな劉備を、このさい、消してしまおうと考えたのだ。できるなら、この劉備攻撃に、呂布の手を借りたい。かりに援兵が出せないとしても、劉備の側につくことだけはやめてもらいたい。──この袁術の思惑が、縁談の形をとったのである。
──ともに劉備を撃とうではないか。
はたして、袁術から呂布のもとに、そんな内容の密書が届けられた。
──呂布どのが劉備を頼ったという借りは、敗戦の劉備に小沛を与えたことで、すでに帳消しになったはずである。それにくらべて、われわれは縁談をすすめているのだから、親密な友好関係にあるといえるのではないか。
とも記されていた。
呂布は幕僚を集めて、軍議をひらいた。
「さて、どうするか?」
呂布が一同にそう|訊《たず》ねたとき、伝令が至急のしらせをもたらした。
──小沛城の劉備が、援軍を送って救助してくれるように、要請して参りました。
というのである。現在の関係では、劉備のこの援兵要請はしごくとうぜんのことなのだ。
「いまこそ劉備をたたきのめしましょう。呂将軍、あなたもふだんから劉備をやっつけようと思っておられたでしょう」
幕僚たちは、そう答えた。呂布は首を横に振った。
「どうしてですか、こんな好い機会は、またとありませんぞ。あの大耳野郎の劉備を消すには……」
幕僚たちは詰め寄った。
こんなふうに、呂布陣営には、反劉備感情が|瀰漫《びまん》していた。曹操に負けた呂布は、たしかに劉備の情けにすがった。苦境にある人を救うことは、かならずしもその人と友好的な関係を結べるとはかぎらない。対等の関係ではないからだ。一方に助けられたという負い目があり一方に助けてやったという|驕慢《きようまん》がある。
呂布が劉備を頼ってきたときも、劉備その人はよかったが、その部下のなかに、
──あるじを二人も殺したひとでなしを、なぜ助けてやらねばならんのだ。
と、不満を抱く者が多かった。そんな連中は、呂布やその部下にたいして、いやがらせのようなことをした。まちで出会っても、ふンと鼻を鳴らして、そっぽをむくといったことは、しょっちゅうであった。呂布一党はそれで頭にきている。呂布もふたこと目には、
──あの大耳野郎!
と吐きすてるように言っていた。すでに借りは返したのだから、もはや遠慮することはない。それなのに、呂布は劉備を殺す絶好の機会に手を出そうとしないのである。幕僚たちはいぶかって、その理由を訊いた。
「あのウサギ野郎は憎いが、あいつがつぶれてしまえば、おれは裸になってしまう。泰山のこそ泥共に、いつ寝首をかかれるかわかったものではない。わかるか? 劉備が倒れたなら、泰山の雑軍は、争って袁術につくだろう。おれは袁術勢に囲まれるか、それともその軍門に降るほかはない。いまは、みよ、おれは袁術と、すくなくとも対等なんだ。しばらくこのままのほうがよい」
と、呂布は説明した。
「ですが、われわれが援軍を送らないでも、劉備はつぶれましょう。小沛では、さかんに兵を集めておりますが、多くて一万余、それにくらべて、紀霊軍は三万ときいています」
幕僚の一人がそう言った。
呂布は立ちあがって、
「すぐに出陣の準備だ。しかし、戦さではない。仲裁に出かけるのだぞ」
と、命じた。
4
呂布にしてみれば、ここは綱渡りである。
袁紹、袁術、曹操の三大派閥は、強力とはいえ、天下を覆っているわけではない。たとえば呂布は、その|間隙《かんげき》に|拠《よ》っている。たしかにB級だが、いつの日か浮上したいと願っているのだ。浮上するためには、現在のA級三者のなかの誰かが、とくに傑出して超A級に成長しないことが条件となる。
劉備は憎いけれども、泰山諸将が袁術に傾かないための防壁の役をはたしている。群小の雑軍とはいえ、泰山の諸軍がぜんぶ袁術についてしまえば、袁術は超A級への道をひらくことになるだろう。
──出兵を要請して、それをことわる者は敵とみなす。
これは乱世の|掟《おきて》である。
呂布も袁術の要請を受けたのだから、一応、形式的にも出兵しないわけにはいかない。出陣し、仲裁役を買って出て、劉備という防壁を残しておこう。これが呂布の計算であるが、ふつうの状態であれば、不可能なことであろう。だが、両家に縁談進行中という、特殊な関係があるので、呂布はそれを背景にして、仲裁の可能性があると踏んだ。
とはいえ、難事である。呂布は意表をつくことで、乗り切ろうとした。
呂布は歩騎千余を率いて、小沛城の西南に駐屯した。そして、城内へ、
──お役に立つために参った。
と、申し入れた。
小沛城の劉備陣営では、呂布に救援を乞うたが、はたして兵を送ってくれるかどうか、疑問視していた。袁・呂両家に縁談があるという情報もはいったので、叛服常ない呂布が、娘の持参金がわりに、小沛の劉備を攻めることも考えられた。──いや、その可能性のほうが濃厚とみる意見が強かった。だから、呂布からそんな申し入れがあっても、
「|罠《わな》かもしれませんぞ」
と、警戒する空気があった。もしほんとうに救援に駆けつけてくれたのであれば、ここは城主の劉備がみずから出向いて、呂布に謝意を表さなければならない。だが、策略であれば、出向くことは罠にかかりに行くようなものだ。幕僚たちの意見は二つに分かれたが、劉備はしばらく考えたあと、はっきりと、
「わしは呂布の陣へ行くことにする」
と言った。
「危のうございます。なにしろ相手は呂布、なにをするかわかりませんぞ」
陶謙系の重臣|麋竺《びじく》まで心配して、自重をうながした。
「大丈夫だ。もしわしが罠にかかれば、全軍で呂布の陣地を踏みつぶせばよい。……見たところ、兵力は千余にすぎない」
と、劉備は言った。
千余の兵しか率いて行かなかったところに、呂布の計算があった。これなら、劉備は安心して出向いてくるだろう、と。
呂布は同時に、袁術軍の総大将紀霊の本陣へも使者を出していたのである。劉備がやって来ると、呂布は門まで出迎えて、
「さぁ、なかにはいってくれ。わしは板挟みになって悩んでおるのじゃ。袁術とは娘の縁談もあるし、玄徳とはこれまでの深い|友誼《ゆうぎ》がある。そこで、なんとか仲裁してみようと、紀霊のほうへも使者をやっている。こちらに来てもらうようにな。ここで、三人で話し合おうではないか」
と言った。
「見てのとおりの小城、守兵もすくない。仲裁による和睦は望むところだが、はたして紀霊が承知するだろうか」
劉備はそう言って、長い手を上からかぶせるようにして、大きな耳のうしろを|掻《か》いた。
そこへ、紀霊からの使者がやって来て、
「軍務多忙でありますゆえ、紀将軍はしばらく本陣を離れることはできませぬ。つきましては、こちらで|一献《いつこん》差し上げたく、呂将軍にご足労を煩わしとう存じます、とのことでございまする」
と、告げた。
「おう、行くとしよう」
呂布は使者が立ち去ったあと、劉備をかえりみて、
「相手が来ぬとあれば、こちらから出かけるまでのこと。一しょに参ろう」
と言った。
「お供いたそう」
劉備はすぐに答えた。彼は呂布が綱渡りをしているのだということが理解できた。彼としては、呂布の綱渡りに、身をまかせるほかはないのである。
紀霊は来訪した呂布のうしろに、劉備のすがたを認めて、仰天してしまった。これから討伐しようという相手が、のこのことやって来たのだ。
じつは紀霊は、呂布が来るまで、あれこれと思い悩んでいた。呂布からの迎えをことわって、そちらから出向いてこい、と返答した。袁術の代理人としては、これはとうぜんのことだとおもう。しかし、相手の呂布は勇猛無比の人物で、怒らせるとおそろしいのだ。そのうえ、袁家とのあいだに縁談がある。そんな呂布を、呼びつけたのは、はたして良かったのかどうか。──そんなことを考え、迷い、そしてびくびくしていたところへ、敵将劉備が呂布と一しょにやってきた。
紀霊は一瞬、気をのまれた。
呂布はそれを狙っていたのである。彼はにこにこと、童子のような笑顔をみせ、できるだけ無邪気な声で、
「袁術どののご命令、この呂布、はたと困り申したぞ。玄徳はわしの弟分、それを討てとは、いやはや殺生な。それに、わしは生まれつき戦争がきらいじゃよ。他人が争っているのを、なかにはいって仲裁するのが、子供のころからのたのしみでしてな。さて、こんども仲裁することにした」
と、紀霊にむかって言った。
「な、なんですって……」紀霊はしばらく口をぽかんとあけていた。呂布の口から戦争ぎらいなどという言葉をきいたのだから、紀霊の判断力の腰は砕かれた。──「私は、その袁術さまの命令によって……攻めよと、そう言われたのだ。困る、困る、仲裁など」と、顔の前で手を振るのが、精いっぱいであった。
呂布はそれには構わずに、
「困る、困る、たしかに困る。将軍もお困りなら、この呂布も困っておる。玄徳が困っておるのはいうまでもござらん。つまり、三人とも困っておるのだから、ここはひとつ、天意を問うてみることにしようではないか」
「天意とは?」
と、紀霊は訊いた。
「あの営門に|戟《げき》を立てていただこう」
呂布は二百メートル以上もはなれた営門を指さして言った。
「戟を立てて、なんとするのでござるか?」
紀霊は目をしばたたいて訊いた。
「ここから、わしが弓でその胡を射る。あたれば全軍、戦いをやめてひきあげる。あたらなければ、天意である以上、いかな戦争ぎらいのわしでも、どうしようもない。存分に戦いなさるがよい。いかがかな?」
呂布はそう言って、紀霊の護衛兵が手にしていた弓に手をのばした。
一同は|唖然《あぜん》とした。
戟とは『ほこ』である。一種の槍だが、柄のさきの刃が二股にわかれている。刃と柄との接合点が『胡』であり、扇の|要《かなめ》に相当する部分なのだ。
二百メートル以上もはなれた槍のどこかを射るのさえ至難である。それを見えるか見えないかの「胡」の部分を射あてようというのだ。できないのにきまっている。
営門に戟が立てられた。呂布は借りものの弓に矢をつがえ、無造作にひきしぼった。
全軍、|寂《せき》として声はない。
はるか彼方の、けし粒のような的である。鬼神といえども、射あてることはできまい。だが、それを射ようとするのが、生きながら伝説の人となっている呂布なのだ。
(あるいは……)
人びとは心のどこかに、そのような期待をもっていたのに相違ない。
ひきしぼったのも無造作なら、右手の指をはなしたのも、その場の緊迫した空気に似ず、きわめてぞんざいな動作であった。
つぎの瞬間、「うわーっ!」という|喊声《かんせい》があがった。営門に立てられた戟が見えない。射倒されたのである。数人の将校が、倒れた戟のそばに駆け寄って、それをあらためた。
「矢は戟胡に命中しておりますぞ!」
一人の将校がそう絶叫した。
さきほどに倍する喊声が、あたりをどよもした。
紀霊はふりかえった。そこには、袁術が派遣した督戦の軍師がいた。軍師はゆっくりと首を横に振っていた。
──劉備攻撃は、中止するほかはない。
軍師はその動作で、自分の意見を伝えたのである。
この神技は、たちまち中国全土に、語りひろめられるであろう。呂布がこの至難の|的《まと》に挑んだいきさつも、人びとは口ぐちに伝えるに相違ない。そして、呂布の超人的な妙技を聞いた人は、かならず、
──それでどうなった?
と、結末をきくはずである。
もし紀霊があくまで劉備を攻めたなら、
──それなのに、約束は守られなかったぞよ。
と、全国にその背信が宣伝される。天下をうかがう袁術としても、そのような悪名は、どんなことがあっても避けねばならない。
紀霊は兵をまとめて南へひきあげた。
劉備も小沛の城へ去った。
呂布はそこに残り、その日は部下を相手に、夜を徹して飲みつづけた。
「将軍のご威名は、|禹域《ういき》(中国)全土にとどろき渡りましょう」
部下たちのそんな讃辞に、呂布は心地よげに杯を傾けたのである。
5
ちょうどそのころ、陳潜は小沛から再び下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城を訪ねていた。少容の一行を待つだけで、ほかに用事はない。小沛のような小さなまちにいては、退屈でたまらない。気分を変えるためにも、あちこちとうごいたほうがよい。
下★[#丕+おおざと(邦の右側)]の旧★[#たけかんむり+乍]融邸で貂★[#虫+單]に会って、そんな話をすると、彼女は、
「わたくしも退屈しています。どこかへ連れて行ってくださいませぬか」
と言い出した。
「でも、呂将軍が……」
陳潜はためらった。
「いいえ、将軍は仲裁に出かけるのだと、千余騎を率いて、小沛へむかわれました。……それに、陳潜さんでしたら、将軍はなにもおっしゃらないでしょう」
と、貂★[#虫+單]は言った。
陳潜は呂布のために、貂★[#虫+單]を長安からはるばると連れてきたのである。その陳潜が貂★[#虫+單]を案内して下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城内を出歩くことは、べつに問題になることではない。
「では、参りましょうか」
陳潜は数人の侍女を連れて、貂★[#虫+單]を城内の小さな浮屠祠に案内した。★[#たけかんむり+乍]融が大寺院を建立する前に、少数の信者がみほとけをまつった、小さなほこらである。
貂★[#虫+單]はそのなかで、しばらく合掌していた。
そのとき、とつぜん、さっき出たばかりの旧★[#たけかんむり+乍]融邸の門のあたりから、喊声がきこえてきた。
「なにごとでございましょうか?」
貂★[#虫+單]は合掌の手をはずして、眉をしかめた。
「人をやって調べてみましょう。兵卒たちの争いかもしれません」
陳潜は近所の人に頼んで、騒ぎのようすを調べてもらうことにした。
呂布|麾下《きか》の軍兵たちは、その主人に似て、気性が荒く、刃傷、喧嘩沙汰のたえまがなかった。陳潜も、兵卒たちの喧嘩のすこし大きいもの、ぐらいと想像していたのである。だが、しばらくして、その者が帰って、意外なことを報告した。
「小沛からの奇襲でございます」
「まさか、そんな……」
陳潜は信じられなかった。
「いや、たしかでございまするぞ。寄せ手の大将は、関羽と申すことで」
「関羽……」
陳潜はからだを揺すった。これがもし張飛なら、前後の見境もなく、主人劉備に無断で、気にくわぬ者を攻めることもあるだろう。誠実の人関羽が、友好関係にある下★[#丕+おおざと(邦の右側)]を奇襲するとは考えられない。
人びとの噂では、呂布は劉備と紀霊の仲裁に出かけたという。和談の途中で、仲裁者の居城を襲うなど、劉備が命令したとは思えなかった。
「なにかの間違いではないのか?」
と、陳潜は訊いた。
「このような大事、間違えるわけはございませぬ」
という返事に、陳潜は沈黙した。彼はいつか小沛城外の池畔で会った、関羽のすがたを思い出した。──どことなく彼のようすは異様にみえたが。……
関羽は、日夜脳裡から去らぬ美女貂★[#虫+單]を、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城から奪い取ろうとしたのである。主人の劉備に無断の行動であったことはいうまでもない。風の如く襲い、女を奪って風の如く去り、あとで誰のしわざであったか、わからぬようにするつもりであった。そのため、ひきつれた部下も、選りすぐった二十数名に限った。
しかし、かんじんの貂★[#虫+單]がいなかったので、風の如く去ることができず、彼女の姿をもとめて、かなりの時間をついやした。関羽は黒い布で覆面したが、彼の巨体はそれではかくしきれない。陳潜が小沛城外の池辺で、そのうしろ姿を見ただけで、関羽であるとわかったほどである。なにしろ下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城は、関羽たちがしばらく住んでいたところなので、住民たちによく知られていた。体つきを見ただけで、
──おう、雲長関羽の討ち入りぞ!
と察したのである。
「残念なり!」
関羽は歯がみした。貂★[#虫+單]は外出したという。そして、行く先はわからない。これ以上、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城内をさがしていては、呂布が戻ってくる。関羽は呂布をおそれはせぬが、あるじであり義兄でもある劉備に、迷惑をかけたくないのである。
関羽は小沛城に駆け戻った。そ知らぬ顔をするつもりであったが、城門のかたわらで、劉備が待っていた。
「雲長、貂★[#虫+單]はどうした?」
劉備は笑いながら、そう声をかけた。
「や、や、これは……」
関羽は返答ができない。それにしても、女のことを劉備が知っている事実に、彼は驚かざるをえなかった。自分の心の片隅に、そっとはぐくんだ慕情なのに。
「貂★[#虫+單]は奪えなかったのか?」
と、劉備は訊いた。
「面目ありません」
関羽は馬からとびおりて、その場にひれ伏した。
「この小沛から退散せねばならぬのう、われら一同」
と、劉備は言った。
「いえ」関羽は首を横に振って、「われら覆面して、誰にも顔を見られておりませぬ。貂★[#虫+單]を奪えなかったのは、彼女が外出していたためで、抵抗をうけたためではないのです。ただ二十数騎の武者が、刺史官署に乱入し、すぐに退散したとしかわかりませぬ。呂布に知られるはずはございませぬぞ」
「なにを申す」劉備は笑った。──「その図体でうごきまわって、知られるはずはないなど、ばかなことを申すでない」
「では……」
「小沛を退散することは、前からひそかに計画しておったのだ。なにもおまえの下★[#丕+おおざと(邦の右側)]乱入のためではない。……ま、おまえのために、時期がすこし早くなったかもしれぬが」
「なにゆえ?」
「袁術がひとたび兵をうごかせば、この劉備の運命は風前の灯であった。呂布の弓の神技に救われたとはいえ、いつまでも安泰ではありえない。このような、夜もおちおち眠れぬ土地に、長居は無用ぞ。……全軍に退去の準備をさせよう」
劉備はそう言うと、関羽に背をみせて、宿舎のほうへゆっくりと歩きだした。
関羽はしばらくそこに立っていた。
両眼から涙が溢れ、頬を濡らし、漆黒のひげのなかに吸い込まれた。なぜ涙が流れてならないのか、関羽は自分でもよくわからなかった。|嗚咽《おえつ》がもれそうである。──それなのに、こんなときでも、貂★[#虫+單]の面影が脳裡から去らない。ふしぎであった。
関羽は自分の顔が歪んでくるのをかんじた。悲しみのためでも、悔恨のためでもない。顔の歪みは、笑いを形づくろうとしていたのである。貂★[#虫+單]の面影が消えないことを、関羽はよろこんでいた。
一種の法悦でもあろうか。関羽はそこにつっ立って、どれほどの時間が経過したか、知らないでいた。
いつのまにか、聞きなれたしゃがれ声を耳もとにきいているのだった。
「雲長兄貴、なにをぐずぐずしてるんだい。呂布のやつ、頭から湯気立てて、かんかんに怒ってるそうだぜ。兄貴がひっかきまわしたんだってね、下★[#丕+おおざと(邦の右側)]城を。……どうして、おれを連れて行ってくれなかったんだい?」
それは張飛の声であった。
「呂布がどうかしたのかい?」
我に返って、関羽は訊いた。
「どうかしたどころの話じゃない。兄貴に荒らされたんで、呂布のやつ、大いに怒って、全軍に号令をかけて、小沛を攻撃するというんだよ。こちらはそのまえに、さらりと体をかわして……」
「どこへ退散するんだね?」
「|許《きよ》へ行くそうだ。ほかに行くあてはないらしいね」
「そうか。許か……」
6
許は曹操の本拠地である。
現在の河南省許昌市にあたる。洛陽の西南約百六、七十キロのところにあった。このころは、ただ曹操の本拠地というだけではなかった。中国の首都といえた。なぜなら、いったん洛陽に還都した献帝が、曹操に迎えられて、この許に遷都したからである。
許と呼びすてにはできない。|許京《きよけい》、あるいは|許都《きよと》というべきであろう。
献帝が旧都洛陽に帰ったのは、このとしの七月のことであった。しかし、董卓に焼かれた洛陽は、とても天子の住める場所ではなかった。そのうえ、このたびの還都にさいしては、白波系の|韓暹《かんせん》や|楊奉《ようほう》といった功労者の発言力が大きくなり、廷臣系の連中がそれに不満をもっていた。
廷臣系の人たちは、ひそかに曹操に、
──洛陽に来て、天子の身辺の悪党どもを粛清していただきたい。
という懇願の密書を送ったのである。
曹操はただちに兵を率いて洛陽に乗り込んだ。粛清されるべき韓暹は、単身、開封付近に駐屯している楊奉のもとへ逃げた。
董昭の建議によって、洛陽から許へ遷都したのは九月のことであった。
曹操は天子を自分の本拠地に迎えたのである。天子を擁して、天下に号令する態勢を整えつつあったといえよう。
献帝は曹操を大将軍に任命した。
劉備が小沛城を棄てて、亡命地にえらんだ許は、このような新興の意気に燃えるみやこだったのである。
曹操は大志を抱いていた。大志を遂げるためには、なによりも人材を必要とする。同時代の英雄たちのなかで、曹操ほど人材をあつめるのに熱心であった人物はいないであろう。彼は人間をその『才能』で評価した。人間的に欠陥があっても、才能さえあればよいという考え方である。
──たとい|嫂《あによめ》を寝取った人間でも、|賄賂《わいろ》を取った前科のある人間でも、才能さえあれば採用しよう。
曹操はつねづね口癖のように、そう言っていた。
『世説新語』という本には、つぎのような逸話が紹介されている。
──曹操のところに美声の歌妓がいた。歌はすばらしいが、性格的に欠陥がある。悪質な女なので殺そうと思ったが、その才能が惜しくてならない。そこで、曹操は百人の歌妓を選んで特訓を|施《ほどこ》させた。そして、前記の女に匹敵する美声の者が出るようになった。曹操はそのときまで待って、くだんの性悪歌妓を殺した。……
これは曹操の残忍さを宣伝するために、彼の政敵がつくり出した話にすぎないが、|捏造《ねつぞう》にしても、やはり曹操らしくみえるように工夫している。すなわち、彼が才能を愛し、惜しんだという事実を下敷にしているのだ。
北海太守の孔融は、孔子の子孫だが、一種の|畸人《きじん》で、扱いにくい人物であった。しかし、孔融がこのとしの九月、袁紹の息子の袁譚に攻められて破れると、曹操を頼って許都に逃げたものである。
曹操は孔融の奇才を愛し、彼に『|将作大匠《しようさくだいしよう》』の官職を与えた。これは九卿ではないが、それに準じる二千石の官で、建設大臣に相当する。
曹操が人材を愛することは、ひろく知られていた。とくに天子を許都に迎えた現在、これまで以上に、熱心に人材をもとめているにちがいない。
小沛におれなくなった劉備が、許都の曹操を頼ろうとしたのは、とうぜんの選択というべきであろう。
このころ曹操は、いったん任命された大将軍の地位を辞退した。
許都に迎えられた献帝は、天下の英雄たちの協力を得るために、しきりに叙任、封侯の人事をおこなった。だが、実力第一級の袁紹に、『太尉』の職を授けたところ、ことわられてしまった。
太尉(司馬)は三公の一人である。丞相である司徒、副丞相である司空とならんで、国防の最高責任者なのだ。袁紹がなぜ辞退したかといえば、
──曹操が大将軍で、おれが太尉とはなにごとか。おれはやつをなんども助けてやったことがある。それなのに、いま天子を擁して、おれに命令する気か。
と、怒ったのである。
反董卓連合では、袁紹が盟主であった。曹操を東都大守にしたのも袁紹で、呂布が暴れたとき、曹操を助けたのも袁紹である。名門袁家の|総帥《そうすい》として、彼は曹操の下につくなど、自尊心が許さないのだ。
漢の制度では、もともと大将軍は三公の下にあった。したがって、三公である太尉のほうが大将軍よりも上位とされていた。ところが、外戚として権勢をふるった|梁冀《りようき》が大将軍となってからは、この関係が逆転してしまった。大将軍の下の属官の数は、三公のそれの倍ということになったのである。大物が就任したので、そのポストまで格が上がったという例はよくあるが、後漢の大将軍がその好例といえよう。
──では、大将軍の地位は、袁紹にやろうではないか。
曹操はそう言って、大将軍を辞退して袁紹に譲り、自分は司空に就任した。副丞相で、前漢時代は『御史大夫』と称していたものである。丞相になる者は、かならずこの職についてから、という不文律があった。
いずれにしても、曹操は虚名よりも実質を重んじた。地位の上下などには、あまりこだわらなかったのである。
そんなところへ、劉備が亡命してくるという情報がはいった。
幕僚の|程★[#日+立(日が上、立が下)]《ていいく》は、
「劉備玄徳、まぎれもなく天下の英雄でございますぞ。才能もあり人徳もございます。一時は我が方の傘下にはいっても、いつまでもそれに甘んじるような人間ではありません。早いうちになんとかいたしたほうがよろしゅうございますぞ」
と進言した。
それをきいて、曹操は笑いながら、
「いまはまさに英雄を一人でも多く集めるときである。まして、劉備は人心を得ているというではないか。彼を殺して、それだけの人心を失ってはつまらん。……そうだ、豫州の長官が欠員であったはずだ。劉備ならちょうどよい。……」
と言った。
こうして、小沛を脱出する劉備には、職まで用意されていたのである。徐州の牧を失って豫州の牧となるのだから、幸運といわねばならない。
7
少容が訪ねた江東では、小覇王の孫策が、かんたんに会稽をもぎとってしまった。そして、みずから会稽の太守と名乗ったのである。
「やっと亡父とおなじ地位をつかんだ。これからだ」
孫策は左右を見まわしてそう言った。その言葉には気負いが、あらわに出ていた。彼の父孫堅は、長沙の太守から、董卓討伐に出征したのである。長沙と会稽とでは、ほとんど同格の郡であった。
念願の自立をはたすときはきた。
孫策はそのきっかけをもとめていたが、派閥の盟主と仰いでいた袁術が、恰好のきっかけをつくってくれたのである。
袁術は帝位をうかがっていた。これまでも、言葉や行動のはしばしに、その意図がにおっていたのである。だが、事が事であるから、容易に帝号を唱えることに踏み切れない。彼にも、きっかけを待つ必要があり、どうやらそのきっかけが訪れたようであった。
もともと袁術が皇帝になろうと意識しはじめたのは、古代から伝わったと称する|讖書《しんしよ》(予言書)のなかに、
──代漢者当塗高
という句があるのを知ってからである。
予言書というのは、あとでどのようにも解釈できるように、難解な表現をしているが、右の句は、
──漢に代わる者は|塗《みち》に|当《あた》って高し
とでも読める。『塗』は道路のことなのだ。そして、袁術の|字《あざな》は『公路』であった。しかも、彼の名の『術』をよく見ると、まんなかを除くと『行』となり、これまた道路と深い関係がある。
(漢に代わって、つぎの王朝をたてるのは、おれかもしれないぞ)
袁術はそう考えた。名門意識がつよく、血統にこだわりすぎる袁術だから、このあやしげな予言書の言葉は、ふつうの人よりも、彼に深い影響を与えたのに相違ない。
後は家に伝わる古文書を調べ、袁家の始祖が陳の大夫の、
──|轅濤塗《えんとうと》
であることを知った。車ヘンがとれて袁になったのだが、見よ、この始祖の名にも塗の字があるではないか。しかも、この轅濤塗は聖天子である舜の|後裔《こうえい》といわれている。そして、舜は土徳によって天下を得、その色は黄とされていた。
この時代の人たちが、このような五行説や予言書を信じることの深さは、現代人の感覚ではとうてい想像できない。
漢は火徳によって天下を得たのであり、五行説では、火のつぎが土とされている。つぎの王朝は、黄色をシンボルとする土徳の人間によって建てられる。だから、十二年まえに太平道の人たちが造反をはじめたとき、『黄天立つべし!』の口号で、黄色の布をめじるしにしたのだった。
予言書や五行説で、すでに興奮している。そこへ、決定的な『物証』が手に入ったのだから、袁術は狂喜した。
「まちがいない。これでまちがっているというはずはない!」
彼は自分になんどもそう言いきかせた。そして、自信をもつのだ、とつけ加えたのである。
自信をもてば、言葉にも出てくる。袁術が正式に天子と称したのは、翌建安二年の春のことだが、それ以前に、彼に|僭称《せんしよう》の意図のあることは、天下にひろく知られるようになっていた。これはしぜんにもれたことではない。袁術のほうでも意識的に情報を流し、その反響を観測し、同時にあらかじめ知らせることで、僭称実行のさいのショックをゆるめようという狙いもあったのだ。
大きな反響が、南方から伝わった。孫策が袁術あてに手紙を送ってきたのである。
──根もない風聞にすぎないことを祈るが、これまでの情報では、たんなる風聞でないと断じざるをえない。五世にわたって、漢室の三公として、国家の柱石であった袁家から、このような不忠の臣が出たことは、大きな驚きである。……
手紙はそんなふうに書き出されていた。
──|殷《いん》が夏の|桀《けつ》王を討ったのは、夏王朝に罪が多かったからである。周の武王が殷の|紂《ちゆう》王を|伐《う》ったのも、殷王朝に重罰に価する悪業があったからなのだ。いまわが漢の天子は、ご幼少ではあらせられるが、明智聡敏のお方ともれうけたまわる。罰に価する些少の罪もないのに、これを廃して自ら即位するとはなにごとぞ! 悪名、天下に高いかの董卓でさえ、先帝を廃したけれども、今上陛下を立てた。すなわち、自ら登極しなかったではないか。貴下がこのような人間であるとは知らなかった。これまで交わりを結んできたのは、私の不明であったといわねばならない。いま貴下の醜悪な本心を知った以上、交わりを断たねば祖先の神霊に申し訳がない。わが孫家は袁家のような顕門ではないかもしれないが、乱臣賊子に近づくことは、祖法によって禁じられている。……
はっきりした絶交状である。
「ほう、手きびしいことを申して来よった」
手紙を読んで、袁術は眉を上下させたが、むろん意思を変えようとはしなかった。
(ばかなやつめ。……おれが天命を受けた人間であることに気づかぬとは。袁氏王朝が成立したあと、いくら後悔しても遅いぞ。いや、天命を知らぬやからは、そのまえにくたばっておるに相違ないわ)
袁術の自信は揺るがないものだった。
絶交状を送った孫策も、意気|軒昂《けんこう》であった。同い年の|周瑜《しゆうゆ》を相手に、天下を論じ、兵術を論じ、しきりに杯を傾けている。
「会稽は天下の要害ときいたが、我が攻撃に|脆《もろ》くも|潰《つい》え去った。われら江東健児の前に、さえぎる敵はない。逆賊袁術を蹴散らし、余勢をかって中原に、曹操と覇を争う日も近いぞ」
若いだけに、威勢はよい。声も大きい。隣室に筒抜けである。
隣室には女たちがいた。孫策の母親──孫堅の未亡人が、大きなため息をついた。彼女のまえに少容が正坐している。
「少容さま、息子があのように大言壮語しておりますが、ことの真相を打ち明けたほうがよろしくはありませんか? 会稽で勝ったのが、兵の数とすぐれた武器のせいであることを、知らぬげでございます」
と、孫堅未亡人は言った。
「それぐらいは、ご子息も存じておりましょう」
と、少容は答えた。
「存じてはおりましても、その兵卒や武器が、そうたやすく手に入るものでないことは、まだわかっておりますまい。これからのこともございますれば……」
武将の母親は迷っていた。
人間の迷いに、決断を与えて、それを消すのが、五斗米道の使命ではなかったか。
隣室から、ひときわ高く、孫策の壮語がきこえてきた。
「冀州の袁紹とて、なにほどのことがあろうか。あれは優柔不断の見本のような男」
当たるべからざる勢いである。
隣室の母親は、また大きなため息をついた。
少容はほほえみながら、しかし、はっきりした口調で、
「いますぐ隣室へおいでになって、ご子息に申し上げなさい、洗いざらい。……ご子息の将来のためにも、それがよろしゅうございましょう」
と言った。
孫堅未亡人呉氏は、少容の言葉にやっと決心がつき、自分をはげますように大きくうなずき、やおら立ちあがって隣室へむかった。
隣室では背後の戸があいた気配に、孫策はふりかえってそこに母の姿を認め、
「や、これは母上……」
と言ったあと、しばらく口をあけていた。男たちが集まっている場所には、めったに姿を見せない母だったのである。
孫策の母は黙って息子の前までやってくると、立ったまま口をひらいた。
「このたびの会稽攻めは、どのような勝ち方でありましたか?」
この種の話題も、母の口から出たことはなかった。孫策はいぶかりながら答えた。──
「母上、叔父上のおかげでございます。会稽近辺の地理におくわしく、|査涜《さとく》城を攻めて、敵の戦意を|挫《くじ》きましたためで……」
孫策の母の呉氏は銭塘の出身で、会稽の地理にあかるい。叔父の孫静も会稽の補給源が査涜にあることをつきとめ、まずそこを襲ったのである。
──よくも査涜に武器庫や食糧庫があることがわかりましたな。極秘でありましたのに。
のちに降参した会稽太守の王朗が、そう言って感心したものだった。数キロはなれた査涜が炎上したのを見て、会稽の将兵は戦意を喪失したのである。
「その査涜が極秘の補給源であることは、この母もそなたの叔父も知りませんでした。……それは風姫の信者がもたらした情報です」
と、孫策の母は言った。
「えっ、風姫の……」
|巫女《みこ》の風姫を、孫策はただ将兵の心理を操縦する手段としか考えていなかった。彼女の信者の多いことは、情報網がひろいということである。
「さまざまな人の助けを得て、はじめて戦いに勝てるのです。それを、一人で勝ったなどと思い違いをしてはなりませぬぞ」
「わかりました」
孫策は頭を下げた。自分の大言壮語を耳にはさんだ母親が、一場の訓辞を垂れにきたのだ。──彼はそう思って首を縮めた。母親に叱られたいたずらっ子のように。
「この会稽攻めは、我が方の兵や武器が多かったのも勝因のひとつですが、これは公路(袁術のこと)どのから借りたものですね」
「はい、さようでございます」
「派閥の領袖が、系列下の諸将に兵や軍資金を与えるのは、とうぜんとお考えかな?」
「ま、そのようなことで……」
「いいえ」孫策の母は首を横に振り、「援助にも程度があります。このたび、これほどの援助がありましたのは、この母が公路どのに、抵当をいれたからでございます」
「えっ、抵当とは?」
「亡き父上が手においれになった、あの|伝国璽《でんこくじ》でございます」
「なんと……」
孫策は目をみはった。
白馬寺の寺男の|支満《しまん》が、洛陽|甄官《けんかん》の井戸を掘って、『受命于天 既寿永昌』と彫った天子の玉璽を得て、それが陳潜から孫堅の手に渡ったことはすでに述べた。霊帝死後の|宦官《かんがん》皆殺し騒動のときに、あわてて井戸に投じたのを知らずに、董卓が埋めてしまったものである。
父の死に興奮した十六歳の孫策が、その伝国璽を漢江に投げすてようとして、周瑜にとめられたことも前出した。孫策はその白玉の印章を、父の記念にと、母へ渡していたのである。
孫策の母は、それを抵当に、息子のために袁術から兵、武器、軍資金を借りたのだった。
「わかりました」
と、孫策は面を伏せた。
乱世はそんなに甘くない。孫策は勝利のうらに、自分の力以外の『力』が、これほど大きく働いていたのかと、いまさらのように思い知らされた。勝利には謙虚でなければならない。空疎な大言壮語をしているときではないのだ。
伝国璽を得た袁術は、これまで|躊躇《ちゆうちよ》していた『即位』に踏み切ろうとした。それを、自分が天命を受けたという『物証』と解したのである。
去年、黄河の岸で、献帝一行をいまひと息のところで、とり逃がした旧董卓系の張済はどうなったか? いったん関中に戻ったあと、このとし、再び兵を率いて、|荊州《けいしゆう》に姿をあらわした。しかし、|穣城《じようじよう》のあたりで、流れ矢に当たって死に、甥の|張繍《ちようしゆう》が軍団を相続した。中原をうかがおうとしていたのは、いうまでもない。
こうして激動のうちに、建安元年も暮れたのである。
作者|曰《いわ》く。──
一九七二年、|陝西《せんせい》省乾県で、唐の章懐太子李賢(六五四−六八四)の墓が発掘された。章懐太子は則天武后の第二子だが、母にうとまれ、三十歳で配所の巴州で死を賜わった悲劇の人物である。弟の李顕(中宗)が即位したあとやっと巴州から棺をうつされ、父母のねむる乾陵に陪葬された。その墓道の壁画は有名で、日本でもその壁画展がひらかれたことがあり、『外国使節の図』などは、どれが日本の使節であろうかと、話題を呼んだものである。壁画はこのほか、狩猟出行図、楽舞図、宮女図、打球戯図などがあり、生前はプレイボーイであったのではないかと誤解されるかもしれない。だが、章懐太子は博覧強記、学問好きの青年で、『後漢書』に注釈を施したのが残っている。
作者もこの『秘本三国志』をかくにあたって、章懐太子の注釈の恩恵を蒙ることが、はなはだ多いのである。
袁術を興奮させた予言書の『代漢者当塗高』については、章懐太子は、じつはそれは魏のことであったと注解している。
のちに曹操の息子の曹丕が、漢に代わって魏王朝を建てたのだが、『魏』という字は、『巍』とおなじで、|説文《せつもん》には
──高也。
と解している。それを根拠にして、太子は予言を解釈したわけである。
唐代でもこのように、予言の神秘性が真面目に問題にされていた。ましてそれより五百年前の袁術が、信じ切ったのはとうぜんであろう。
なお『代漢者当塗高』の予言は古く、後漢のはじめからあり、光武帝が公孫述に与えた手紙では、姓は当塗、名は高、と解している。
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|女《おんな》はこわい
1
曹操は皿に盛られた|楊梅《ようばい》の実をつまんで、口のなかに|抛《ほう》り込んだ。江南の|孫策《そんさく》から、数日前に送ってきたものである。
「おまえも一つ、つまんでみよ」
と、曹操は|典韋《てんい》にむかって言った。典韋は親衛隊長として、いつも曹操の身辺にいる。
「はい」
典韋はそのごつごつした指で、楊梅の実をはさみあげ、しばらくそれをみつめてから、ゆっくりと口のなかにいれた。
「おいしいか?」
「おいしゅうございます」
と、典韋は答えた。
「そんなに美しいのか?」
「絶世の美人と申しております」
楊梅の味と美人と、話はからみ合っているようだ。曹操という人は、部下がなにかを報告するときでも、要領よく述べよと、やかましく言っていた。話が漠然としたり、混線気味になると、不興な表情になって、
──いったい、なにを言うつもりだ!
と叱りつけたものである。
その曹操でも、典韋を相手にしゃべるときは、話題をあちこちに、気ままに飛ばし、前後の首尾が一貫しないで終わることも多い。
「こんどの戦いは、それがたのしみじゃな」
と、曹操は言った。
典韋は口をもぐもぐさせ、楊梅の実をのみこんでから、
「よろしゅうございますな。……でも、あまりお過ごしになりませぬように」
「わしの好みの女であればよいが。……」
曹操は楊梅の実をもう一つつまんだ。
話題になっているのは、|張済《ちようさい》の未亡人のことであった。
董卓亡きあと、その部将の|李★[#イ+寉]《りかく》と|郭★[#さんずい+巳]《かくし》が、長安で勢力争いをしていた時期があった。二人の争いが、どうしようもなくなったとき、駐屯地から仲裁のため長安へ乗り込んだのが、おなじ董卓の部将の張済であった。李・郭とならんで、|樊稠《はんちゆう》亡きあと、董卓の三羽烏といえる人物だったのである。
献帝が長安から東へ帰ろうとしたとき、この三羽烏は連れ戻そうとしてあとを追った。しかし、献帝側に白波系の将軍や南|匈奴《きようど》の鉄騎隊がついたために、撃退されて長安へ戻っていたのである。だが、まもなく張済は、再び兵を率いて東へむかった。
張済は|荊州《けいしゆう》にはいって、|穣城《じようじよう》を攻めた。ここは劉表の勢力圏であるが、このとき張済は流れ矢にあたって戦死した。そして、その軍団は、張済の甥、建忠将軍の|張繍《ちようしゆう》が、かわって指揮をとることになった。
その張繍の軍団が|★[#さんずい+育]水《いくすい》の近くに出現したので、曹操はそれを討伐しようとしている。当時のことだから、軍閥の|領袖《りようしゆう》は家族を軍中に伴っていたので、張済の妻もとうぜんそこにいたわけである。それが関中でも評判の、絶世の美女であるという。
「将軍のお好みが、どんなにきびしくても、張済の妻なら、きっとお気に召すでしょう」
と、典韋は言った。この巨漢は額に汗をにじませていた。戦争以外のことを話すとき、彼は汗をかくという困った癖がある。
「申しあげます!」
|帷《とばり》の外で大きな声がした。聞きおぼえのある、若くてよくとおる声である。その声は、緊急のしらせをよくもたらした。月並みな報告のときは、ほかの声であった。
「なにかあったのか?」
と、曹操は|訊《き》いた。
「はっ、張繍の軍使が参りまして、降伏を申し出ております」
と、若々しい声は答えた。
「なに、張繍が降伏?」
曹操は典韋と顔を見あわせた。──降伏した相手の軍中から、婦人を連れだすことは可能であろうか? 曹操の目はそうたずねていた。典韋はうなずいた。
「よし、わしがその軍使に会おう。おまえはもう|退《さが》ってよい」
と、曹操は言った。
「はっ、かしこまりました」
声は答えて、そのあとに足音がきこえた。足音はきわめて速く遠ざかって行く。
「あまりおおっぴらにはできぬことじゃが、うまい方法はあるかの?」
と、曹操は訊いた。
「張済の妻は、五斗米道の信者ときいております」
「ほう、それで……」
「わが陣中に、五斗米道の教母がいることは、よく知られたことでございます。教母さまの話をききに参られてはいかがと、こう誘うというのはいかがでございましょうか?」
「うん、それはいける」
曹操は舌のさきで唇をなめた。
彼の軍団も、★[#さんずい+育]水の近くまで進んでいる。絶世の美女とやらを連れて来ようとおもえば、明日でもできることなのだ。それを思うと、曹操の胸ははずんだ。
建安二年(一九七)正月、曹操は四十二歳という男盛りである。
「では、手配いたしましょう」
「べつに急ぐことではないぞ」
曹操はそう言ったあと、しばらく黙々と楊梅の実を、いちどに二粒ずつつまんで、口のなかに抛りこんだ。
「申しあげます」
帷の外で、また先刻とおなじ声がした。
「こんどはなんだ?」
「寿春で、袁術が皇帝と称して、即位の式をあげたとのことでございます」
「わかった。退ってよい」
曹操は|起《た》ちあがった。これから、張繍の軍使に会いに行くのである。
「帝号を|僭称《せんしよう》するなど、たいへんなことでございますな」
と、典韋は目をみはるようにして言った。
「ふ、ふ」曹操は笑った。──「やがて、袁術系の諸将が、彼にそむいたというしらせが、つぎつぎにはいってくるだろう。まず最初は……江東の孫策だな。袁術もうつけ者、うろたえ者よのう。」
歩き出す前に、曹操はもう二粒、楊梅をつまみ、それを手のひらにのせて、じっとみつめた。それは孫策が送ってきたものだが、ただの時候の挨拶ではあるまい。
(そのうちに、お世話になるかもしれない)
という意味がこめられているように思えた。これまで孫策は、父の代からの、袁術系の将軍とみられていた。それが許都の曹操に贈りものをするのは、袁術に心服しかねているという意思をあらわしたのかもしれない。もしそうだとすれば、袁術の帝位僭称は、孫策にとっては、袁術から離脱する恰好の口実となるはずであった。
「うろたえ者よ」
曹操はもういちどくり返してから、その場をはなれた。護衛役の典韋は、そのうしろに、ぴったりとくっつくようにして、油断なく左右に目を配りながら歩いた。
2
張済が軍を東へ進めたのは、関中が飢えたからであった。戦うためではなく、食うための東征である。食うためには、戦わねばならない場面もあるだろうが、戦わずに食べることができれば、それに越したことはない。降伏などはうまい手である。しかも、曹操とあっては、願ってもない相手であった。
──|屯田《とんでん》兵の制度。
後世、日本も採用したこの制度は、曹操が去年、はじめて創設したものである。
ふつうの農民が耕作するから、収穫時に流賊や軍閥に襲われて、粒々辛苦の作物を奪われてしまうのである。耕す者が武装し、組織をもっておれば、|掠奪《りやくだつ》者は近づけない。屯田兵を管轄するために、屯田|都尉《とい》や|典農《てんのう》中郎将といった新しい官職がつくられ、地方にも田官が置かれた。これが成功して、許都の近くだけで、百余万石の穀物がとれ、食庫は食糧に満ち満ちたといわれている。
そんな曹操なら、投降した軍団の食糧ぐらいは、面倒をみてくれるにちがいない。──張済を失って、張繍を新しい指導者に戴いた軍団は、あっさりと降伏した。むしろ、いそいそと投降した、といったほうがあたっているだろう。
張繍軍には、投降そのものについては、それほどの悲壮感はなかった。
──五斗米道の教母が曹操の軍中にいる。
という話をきいて、信者の張済未亡人が、誘われるままに、曹操の軍営を訪れたのは、しごくしぜんの成行きといってよかった。
だが、五斗米道の教母少容は、そのころ許都にいて、従軍してはいなかったのである。
「お供の方々は、これにてお休みください」
曹操側の接待員は、張済未亡人|鄒氏《すうし》の従者を、一室にひきとめて、彼女一人を奥へ案内した。
奥まった部屋に通されて、しばらく待っていると扉のひらく音がした。鄒氏がそちらを見ると、一人の男が立っていた。うしろ手に扉をしめながら。
(これが曹操……)
初対面だが、鄒氏は反射的にそう思った。彼女は曹操については、|風采《ふうさい》のあがらぬ中年男、といったていどの話しかきいていなかった。はいってきた男は、背こそ低かったが、そのからだから、人を威圧するふしぎな力が放射されているかんじがした。このような不気味な人物は、曹操以外にはいないであろう。──彼女の直感はあたっていたのである。
相手が何者であるかがわかっただけではなく、相手がなんのために、ここへ来たかということもわかった。その目を見ればわかるのだ。ギラギラと光る相手の目に、彼女は男の情欲のほむらをかんじ取った。彼女はまだ二十代の半ばにすぎないが、その|美貌《びぼう》は数多くの男性をひきつけた。男の情欲というものを、彼女は自分のからだで知っている。
鄒氏は目をとじた。
自分の運命をさとったのである。逆らうことのできない運命を。
「票騎将軍は、お気の毒なことになりましたのう。……夫人もお気を落とされぬように」
男はそう言いながら近づいてきた。票騎将軍とは、張済の最後の官職である。
鄒氏は目をとじたまま、面を伏せた。
曹操はまぶしそうに目を細めた。
(これがたまらんのだ。……この白さが……)
彼は鄒氏の白い|項《うなじ》を、まっすぐに見なかった。それは彼の情欲に火をともす種なのだ。彼はそれによって、自分が燃えあがることをおそれているのではない。いまは燃えあがるまでの時間を、なるべくひきのばしたいと思うだけである。
「若いころ、私はすぐ火のなかに飛びこんだものですよ。めらめらと|焔《ほのお》が立ちのぼり、踊り狂う火のなかに……」
男の声は、すぐ頭の上にきた。やがて、男が自分のそばに、ゆっくりと坐る気配がした。鄒氏は息をころした。そして、男の呼吸をはかった。
彼女はもう曹操などをおそれてはいなかった。運命のなかに、自分を|融《と》かそうとする。それもうまく融け込みたいのである。
穣城で夫を失った五日後に、ある男がおなじように、こうして近づいてきた。夫の甥の張繍であった。
──叔父上のものは、なにもかも私がひきつぎます。あなたも含めて。……腐儒のやからが、指さして批難するでしょうから、しばらくは私たちのことは外部に伏せておきましょう。ねぇ、いいでしょう?
そう言って、張繍は彼女の肩に手をかけ、つぎの瞬間、荒々しくかき抱いたのである。抵抗できなかった。だが、彼女が口惜しかったのは、抱かれたことではなく、呼吸が合わなかったことである。
いま鄒氏は、曹操の呼吸をはかり、自分のそれに合わせようとした。──二人の呼吸のあいだには、かなりの差があった。
「若いころ? いまは?」
面を伏せたまま、鄒氏は訊いた。
曹操の|眉《まゆ》がピクとうごいた。このような場面で、男の話しかけに答える女など、めったにいるものではない。彼の経験でも、それはなかった。
「いまは火に飛び込む前に、じっと火を眺めておる。それは美しいものよ。その美しさを知る者はすくない。とくに若いときには、それはわからんのだ」
曹操は彼女の肩へのびかかる手を、自分の顎のところへまげた。
「そんなに美しいものでしょうか?」
彼女は小さな声で言った。
「美しいとも。その前で、私は迷っておる。この迷いが、また面白いのだな。……私も四十をすぎた。孔子は四十にして|惑《まど》わずと申したが、なかなか|不惑《ふわく》とは参らぬわ。四十にして、惑うたのしみを知ると、そう申したい」
曹操は抱こうとした女に、こんな|饒舌《じようぜつ》になったおぼえはなかった。これが口説きというものであろうか。──
「難しいお話でございます」
そう言って、鄒氏は肩で大きな息をついた。
そのとき、曹操も釣られたように、大きく息を吸いこんだ。
鄒氏は顔をあげた。
「|愛《う》いやつじゃな」
曹操は自分の声がかすれたことに驚いた。
3
|胡車児《こしやじ》の髪は真っ赤であった。あまり目立ちすぎるので、いつも白い布を巻いて、それをかくしていた。赤い髪はかくせても、その青い目はかくせない。そんな異相もとうぜんで、彼はペルシャの人間であった。
いずれもっともらしいペルシャの名前があるのだろうが、張繍の陣営では、胡車児と呼ばれていた。胡とは『えびす』、すなわち外国人のことである。車児は彼のペルシャ名の音をうつしたのかもしれない。
その胡車児は、張繍の腹心であった。車児という名は、彼がもともと車の世話をする職業であったところから来ているという説もある。
張済未亡人が曹操の軍営を訪問したとき、胡車児は馬車の御者ということにして、随行したのである。ほかの従者は一室にとじこめられたが、胡車児だけは馬車の世話をするという口実で、軍営内をあちこち歩くことができた。
胡車児はからだの大きいわりに、身のこなしが|敏捷《びんしよう》であった。張繍はそんな彼の特技を高く買って、忍びの仕事をよく命じていた。彼は奥の部屋での、曹操と鄒氏との濡れ場を、のぞき見してしまったのである。
「夫人は数日滞在して、教母さまの話をごゆるりときかれることになった。お供の方々は、ひとまずお引き取り願おう。夫人ご帰館のおりは、追って連絡する」
曹操側の接待役はそう言って、待っていた従者をぜんぶ返した。
張繍は戻ってきた胡車児に、
「教母の話は長くなるということだが?」
と訊いた。
胡車児は首を振って、
「曹操の軍営を、|隈《くま》なく歩き、いろんな人たちに話をききましたが、教母とやらは許都にとどまって★[#さんずい+育]水の陣には参っておらぬ由にございます」
「なに? では叔母上は?」
叔父の妻といっても、鄒氏は張繍よりも若い。だが、おもてむきは叔母と呼ばねばならないのである。
「夫人が一人で通された部屋に、曹操が一人ではいって参りました」
「それで、曹操は挨拶をして、すぐに引きあげたろうな?」
そう訊いた張繍の声はふるえていた。
「いえ、そのまま……翌朝までそこにいました。……」
「なに!」張繍の顔は、みるみる蒼ざめた。──「そ、それでおまえは……」
夫人がその晩、曹操と一つの部屋にいたのを、おめおめと見すごしたとはなにごとか。夫人とおれの仲は、おまえだけは知っておるではないか。張繍はそう言いたかったのだが、怒りのために言葉が出なかった。
「戸外には、典韋と申す勇士が、ひと晩、|戟《げき》を抱いて控えておりました」
と、胡車児は答えた。
「典韋か……」
張繍は唇をかんだ。
典韋なら仕方がない。しかも戟を抱いておれば、なおのことである。戟のことは、呂布が営門にそれを立て、遠くから弓で射あてたくだりで述べた。柄のさきに二股に刃がとりつけられた槍である。典韋はそれを風車のように、ぐるぐるとまわしながら戦場を駆けめぐり、むかうところ敵なしであった。当今、戟をとらせてはその右に出る者はない。
胡車児も強いが、戟を持った典韋にはかなわない。しかも曹操の陣営内であってみれば、よけい不利であることはあきらかだ。
「さようでございます。典韋一人だけが、あの万余の軍勢のなかで、おそるべき存在といえましょう」
と、胡車児は言った。
「あとの軍兵は?」
「関中軍が降伏したので、もはや戦闘する構えはございません」
「そうか……」
張繍は胡車児の目をのぞきこんで、腕組みをした。そんなに腹が立つのなら、曹操軍に奇襲をかけてはいかがですか?──胡車児の目はそう語っているようだった。
「問題は典韋だけですが、これは私がなんとかいたしましょう」
と、胡車児は言った。
「できるかの?」
張繍は念を押した。ペルシャ人胡車児は、張繍が特務関係に使っているだけあって、頭は切れるし、回転ははやいのである。なんとかしようと胡車児が言うのだから、自信があってのことであろう。だが、相手が曹操なので、張繍はいつになく、胡車児の言葉に、ひとこと念を押したのである。
「曹操の軍中に参りました折、典韋に話しかけて、仲好くなりました」
胡車児は早くも手を打っていたのである。
「なにか策略があるのだな?」
「はっ、いささか」
「よし、わしは軍団のあとの身の振り方を、さきに考えておこう。あとで参れ」
と、張繍は言った。
曹操に頼って、軍団を養おうという計画であった。ところが、その曹操は、ひとの女を奪ったのである。そんなやつに投降するのは、いかにも残念無念だ。投降の申し出に、いま曹操軍は油断しているというから、これを襲ってもよい。だが、そのあと、誰に頼って軍兵に飯を食わせればよいのか? 張繍のいう軍団の今後の身の振り方とは、その問題だったのである。
一人になって、張繍は考えた。
「よし、劉表につくことにしよう」
彼はそうひとりごちて、大きくうなずいた。
荊州の牧・劉表は、漢の皇室ゆかりの人物で、長身の美丈夫、社交の名人として有名であったことはすでに述べた。劉表は北の袁紹と結び、袁紹と犬猿の仲であった袁術を|牽制《けんせい》していた。そのため袁術は部将の孫堅を派遣して劉表と戦わせ、その戦闘において、孫堅は|★[#山+見]山《けんざん》で戦死したのである。
それから六年たって、曹操の勢力がつよくなった。劉表と袁紹の同盟はまだ生きていたが、同盟の仮想敵は袁術よりも、むしろ曹操になっているといってよい。
曹操に腹を立てた張繍が、劉表に走ろうとしたのは、この同盟関係図からみれば、とうぜんのことかもしれない。
しかし、張繍の叔父の張済が、飢えた軍団を率いて襲ったのは、ほかならぬ劉表の領地である穣城だった。張済はそこで戦死し、張繍はのこされた軍団を率いて、いま★[#さんずい+育]水の線まで退却してきたのである。
つい先日、殴り込みをかけた相手のところへ、こんどは頭を下げに行く。体裁の悪い話だし、門前払いを食わされそうだ。しかし、張繍は自信があった。
第一に、曹操は劉表の敵である。その曹操を蹴散らせば、劉表はよろこぶであろうし、さきの穣城攻めはゆるしてくれるにちがいない。つぎに、劉表の貴公子らしい性格は、悪くいえば見栄っぱりであり、かつての敵をゆるして、その器量の大きいところをみせたがる傾向があった。
張繍は近ごろ、つぎのような噂をきいた。──
穣城を攻めた叔父の張済が流れ矢にあたって死んだことが、劉表の本陣に伝わると、その部将や家臣たちが、
──泥棒猫の張済め、矢にあたって、くたばったとのこと、おめでとうございます。
と祝いの言葉を述べたところ、劉表は不機嫌な表情になって、
──張済は窮乏してこの地に来たのである。それなのに、わしとしたことが、迎えにも行かずに失礼した。|鋒《ほこ》を交えたことについては、わしの意思ではなかった。
と言ったという。
史書にはこのときの劉表の言葉を、
──牧(自分のこと)は|弔《ちよう》は受けるも、賀は受けざるなり。
と記している。
いかにも劉表らしい、恰好のよさである。それにつけこんで、張繍が、
──叔父の死について、賀を受けずに弔のみを受けたときき、感涙にむせびました。なにとぞ|麾下《きか》の軍勢にお加えください。
と申し出れば、きっとゆるされるであろう。
これで、軍団の身の振り方はきまった。いよいよ曹操を奇襲する段取りである。
4
「青い目をした人間は、いくら稽古をしても、戟をうまく使えんのだ」
典韋は胡車児にそう言った。からかい半分である。胡車児が戟の使い方を教えてくれと頼むので、典韋は笑いながら答えたのだ。
「なぜでございますか?」
胡車児は口をとがらして訊いた。
「青い目は、黒い目ほどよく見えないのだ」
典韋はにやにや笑って答えた。いくら笑顔をみせても、
──|形貌魁梧《けいぼうかいご》
と記録されているように、いかめしい顔なので、やさしくはみえない。いや、笑うとよけい気味の悪い顔になった。
「いや、目が青くても黒くても、おなじように見えるはずでございます」
「おなじわけはない。目の色がちがうのは、どこかちがうからだ」
典韋は胡車児とのやりとりをたのしんでいた。武猛校尉として、主君曹操の護衛をしているが、この役はきわめて大切であると同時に、きわめて退屈でもある。
この日、先日張済未亡人の馬車係りとしてきた、目の青い男が、降伏のために引出物を、車に積んで、またやって来た。物品の受渡しがすんだあと、武芸の話となり、相手が、
──あなたは中国第一の戟の名人ときいております。ぜひ御教授ください。
と言い出したのである。
退屈しのぎにからかっていると、胡車児は、
「白状しますと、じつは私も戟をかなり習ったことがあるのです。初心者ではございませんので、ひとつ|奥義《おうぎ》を伝授願いたいのです」
と、真剣な顔で言った。
「ほう、奥義か。……では、ひとつ、おまえの手並みを拝見するか。さ、これを持って、基本の型を演じてみィ。見どころがあれば、教えてつかわすが、わしの目がねにかなわねば教えることならぬ」
典韋はそう言って、手にした戟を、そばの壁に立てかけた。
「ほう、これは重そうですねぇ。……」
胡車児はすぐにはそれを手に取らずに、それをしげしげとみつめるふりをした。じつは彼の視線は西のほうにむけられていた。西の山に煙がのぼれば、張繍軍団奇襲開始の合図なのだ。
「八十余|斤《きん》あるぞ」
と、典韋は言った。当時の斤は現在よりずっと軽いが、それでも八十余斤といえば二十キロに近い。槍としては重すぎる。
「へぇーっ!」
胡車児は肩をすくめてみせた。そのとき、彼は自分の肩越しに、西の山にゆっくりと細い煙があがるのを認めた。
「それを片手で持ちあげ、頭のうえで、ふりまわしてみィ」
と、典韋は言った。
「もっと軽いのならできますが……」
「軽い戟なら、誰にだってできる。戦場で役に立つのは、こんなふうに重い戟だぞ」
「さようでございますか。……では、ひとつ、試してみますか。……」
胡車児は、へっぴり腰で近づく。なにかおそろしいものにふれようとでもするように。
「なんだ、その恰好は、戟が虎みたいに、|牙《きば》をむいて|咬《か》みついたりせぬわ」
と、典韋はひやかした。
「へい、さようでございますな。戟は生きものではないわけでして、へい……」
胡車児がそこでぐずぐずしていたのは、時間を稼ぐためであったのはいうまでもない。
(もうしばらくだ。……)
彼はそう思って、道化役を演じつづけた。
親衛隊長典韋のいるところは、すなわち曹操の居所のそばである。いま典韋が戟を立てかけた壁の内部に、曹操が鄒氏と一しょにいたのだった。
鄒氏は曹操の好みに合った女であった。美貌もさることながら、こちらに融け込んでくるような、精神の感触が、曹操にはたまらなかった。
(どうしてこんなに呼吸がよく合うのであろうか?)
曹操は自分でもふしぎであった。
彼の女性遍歴は、きわめて長く、そしてひろい。だが、この鄒氏のような女には、めったにめぐり合ったことはない。
曹操の正妻は丁氏だが、感情のはげしい女であった。顔は整っているが、線がきびしすぎる。側室はおおぜいいたが、そのなかで、鄒氏に比肩できるのは、|卞氏《べんし》ぐらいであろう。曹操は鄒氏を抱きながら、卞氏のことを思い出していた。
ほかの女を抱いているときに、頭にうかぶ女というのは、尋常な婦人ではない。卞氏は歌妓であった。正妻の丁氏が名門の出身であるのにくらべて、卞氏は庶民出身であり、貧しい人や、不遇の人には、心から同情した。顔も美しく、歌もすぐれていたが、曹操はその心根のやさしさを愛していた。
(この女の心はどうであろうか?)
女が自分のなかに融け込むのをかんじながら、曹操はそんなことを考えた。
壁の外では、胡車児がやっと片手で戟の柄をつかみ、
「どっこいしょ!」
と、かけ声をかけて、それを頭上にさしあげた。そして、それをまわしはじめた。はじめはゆっくりと。しだいにそれが速くなる。
「おう、なかなかやるではないか」
戟の名人だから、典韋はそのまわし方を見ただけで、胡車児がすぐれた戟の使い手であることがわかった。初歩の段階の腕前ではない。かなり習った技である。
胡車児は典韋には及ばないが、戟についても、張繍軍団のなかでは屈指の名手であった。しかし、ここではわざと下手に演じた。あまり上手だと、怪しまれるおそれがある。だが、いくら下手にみせかけようとしても、基本は崩せない。どうしても、|片鱗《へんりん》がのぞいてしまう。それをごま化さねばならない。
「だめです。……腕が戟にふりまわされますよ。ふらふらです。足もとだって、ほら、勝手にうごくんですよ足が……」
胡車児は戟をふりまわしながら、よろけるふりをして、典韋からしだいにはなれた。
「おい、おい、どこへ行くんだ?」
と、典韋は呼びかけた。
「足が勝手にこっちのほうへ来るんですよ。……とまろうと思っても、とまりません。勢いがついてしまって。……」
胡車児は、もう駆け足である。
「冗談はよせ!」
と、典韋は追いかける。
彼は胡車児が、どうやらわざと下手に演じているらしいことにも、気づいていた。ただ、それが策略であることまでは悟らなかった。てっきり冗談だと思ったのだ。
「まるで、車に乗ってるみたいだぁ!」
そう叫んで、胡車児は戟を右に左に、風車のようにまわしながら走った。曹操の居所から、できるだけ遠く典韋をひきはなすためである。
だいぶ走った。
さすがに典韋は腹を立てた。
「やい、もういい加減にしろ!」
と、眉をつりあげてどなった。
胡車児はそれをきくと、なおのこと足を速めた。一目散に走る。もう戟をまわしていない。それを小脇に抱えている。
「こわい、こわい!」
と、胡車児は大声をあげた。
「なにがこわいんだ?」
うしろから、典韋が追いかけながら訊いた。
「あんたの顔だ」
「おれの顔? こわくはない。笑ってやる。おこりはしないから、とまって、戟を返してくれ!」
二人の巨漢の駆けっこに、曹操陣営の将兵たちも面白がって、そのあとにおおぜいがついて走った。
★[#さんずい+育]水の岸の近くに出た。胡車児はそこで、やっと足をとめてふりかえった。──曹操の本営あたりに、砂煙が一面にたちこめている。
(奇襲の先陣が突入した)
胡車児はそれを知って、にやりと笑った。
「典韋さん、この化け物みたいなでかい戟、返してやるから、拾ってきな」
彼はちょうど後世の『槍投げ』の選手のように、戟を片手にかつぐようにして、しばらく助走して川にむかって投げた。
重いはずの戟が、胡車児にかかると、まるで|竹竿《たけざお》のように、ふわりと空に弧をえがき、水中に落ちた。
「おのれ、ふざけるな!」
典韋は烈火のごとく怒った。冗談にしても、これは行き過ぎではないか。おれの大事な戟──命から二番目という愛する武器を、こともあろうに川に投げ込むとは! あの青目の御者の首をひきちぎってくれよう。──典韋は胡車児にとびかかろうとした。
そのとき、背後に陣鼓のあわただしい響きがきこえた。
「敵襲だ! 敵襲だ!」
という叫びが、それにつづいた。
5
「はかりおったな!」
曹操は歯がみした。抱いていた張済未亡人の鄒氏をつきとばそうとしたが、それは思いとどまった。
この女は、張繍が送り込んできたのではない。その美貌の噂をきいて、曹操が五斗米道説法と欺き、女を軍中に招いてとどめたのである。女がこの謀略に荷担しているとは考えられない。しかも、めったに手に入れることのできない女ではないか。
「誰かこの女を連れて逃げよ」
そう命じると、曹操は立てかけていた剣をひき寄せ、腰に|佩《は》いた。彼のまわりを、親衛隊員が囲んだ。
不意をうたれたのである。味方に戦闘の準備はない。飢えた軍団が降伏したので、それを収容するつもりであった。腹ぺこの兵隊に襲われるなど、ゆめにも考えていなかった。
「典韋はおらぬか?」
曹操はあたりを見まわして訊いた。|片刻《かたとき》もはなれたことのない典韋が、このかんじんなときになって姿をみせない。いったい、どうしたことなのか? 曹操の面上に、不安の表情が走った。
護衛役として、最も頼りになるのが典韋である。彼一人で千人の兵に匹敵した。なぜこの場にいないのか? 乱世の将軍として、曹操は、典韋の|謀反《むほん》か、とまで考えた。しかし、彼にかぎって、それはありえないことである。彼は曹操のそばをはなれたことがない。いつ謀反の相談などできる時間があろうか。とすれば、考えられるのは敵の謀略が、典韋の身に及んだということである。……
火矢は柱につき立って、曹操の本営はすでに焔をあげはじめた。
「曹操はあそこぞ! 曹操にかかれ! 雑兵どもには目をくれるな!」
張繍軍の指揮官がそう叫んでいる。
あちこちに放たれていた矢が、しだいに曹操の一団のほうに集まるようになった。親衛隊員は|盾《たて》で矢を防ぎ、曹操を囲んで、脱出させようとした。
矢はその一団の移動を追ってそそがれる。一人また一人と、隊員はたおれて行く。
「散れ! 散れ! 目標になるぞ。散れ!」
|大音声《だいおんじよう》がきこえた。
「おお、典韋か……」
曹操はほっとした。
典韋は片手に盾、片手に戟を握っていた。だが、その戟は彼のあの八十余斤の名器ではない。雑兵の一人から取り上げた、彼にとっては玩具のような戟なのだ。それでもないよりはましであろう。彼は自分の身で曹操をかばいながら、木立のなかに駆けこんだ。そこにはいってしまえば、いくらか矢玉を避けることができた。
曹操の身辺には、長男の|曹昂《そうこう》、甥の曹安民たちがいた。
木立を出たところに、馬が三頭待っていた。|厩舎《きゆうしや》の兵が、うまい工合に、馬をそこへ連れてきていたのである。
「おお、絶影よ!」
曹操はよろこびの声をあげた。それは|大宛《だいえん》産の、彼の愛馬であった。大宛は中央アジアのフェルガーナで、名馬の産地である。アラブ系の馬で、その名を絶影という。
「若殿らも馬を召しませ! この場は典韋がひきうけまする!」
典韋は仁王立ちになって、声をかぎりに叫んだ。
曹操父子と甥の三人は、急いで馬にのり、★[#さんずい+育]水の岸へまっしぐらに駆けた。
典韋は生き残った親衛隊員十数名とともに、そこに踏みとどまり、張繍軍の前進を防いだ。張繍軍もけんめいである。はやく曹操一行を射程距離まで追いかけねばならない。
死闘がくりひろげられた。
典韋はすでに死を覚悟していた。ただすこしでも長く敵の前進を食いとめ、主君を一歩でも遠くへ逃がしたい一念であった。
盾をすて、戟をふりまわし、敵兵をたたき伏せようとした。だが、彼の戟は三人目の敵の首を|刎《は》ねようとしたとき、ぽきりと折れてしまった。
(うぬ、あれさえあれば……)
典韋は胸のなかで呻いた。
彼は戟をすて、こんどは腰の刀を抜き放ち、敵兵のなかに斬り込んだ。そのすさまじさに、敵兵は波がひくように、うしろへさがった。左右を見ると、もはや立っている味方は一人もいない。たいてい地上に血にまみれてたおれている。膝をついて、起きあがろうとした者がいたが、すぐに力尽きて、またたおれた。
ぴしっ!
典韋は自分のからだに、矢がつき刺さる音を、なんどかきいた。最初は左肩であったが、つぎからはもうどこに刺さったのかわからなくなった。矢を避けようとすれば、敵に接近するしかない。突進すれば、敵兵はさっとしりぞくのである。
敵兵が退いた空間に、一人の男があらわれた。のっし、のっしと、こちらに歩いてくる。典韋が腕をふりあげると、誰もが逃げたのに、真正面からむかってくる男がいるのだ。額にうけた傷から、血がたらたらと流れて、目のなかにしみこんだので、その男の顔はよく見えない。彼はなんどかまばたきをして、やっとそれが誰の顔であるかわかった。
「おまえだな!」
と、典韋は|呟《つぶや》いた。どなるつもりであったが、呟きになってしまった。それは張繍軍からやって来た、馬車の世話役の青目の男だったのである。典韋の戟を川に投げ込んだ、あの男であった。それがいま薄笑いをうかべながら近づいてくる。彼の片手には、ピカピカ光る戟が握られていた。
「おれは人呼んで胡車児」
と、その男は名乗った。
「なかなかの手並みだった。ただの|鼠《ねずみ》ではあるまいとにらんだが」
「建忠将軍張繍閣下の|驍将《ぎようしよう》だ」
胡車児はそう言って、戟を前にさし出した。刃を自分のほうにむけて。
「なんだ、これは?」
と、典韋は訊いた。
「八十斤はないが六十斤ほどある。今生の思い出に、これを使えよ。おれは剣で相手になろう」
「わかった」
典韋は戟を受取って、「いい相手を得た」と、構えた。
典韋はすでに十カ所も傷を受けていた。立っているのが精一杯である。それでも、彼は、最後の力をふりしぼって戦った。
二合、三合と渡り合う。四合目で、典韋は大声で|喚《わめ》いた。──
「胡車児め、このおれに手心を加える気か! さきほどもわざと戟を下手に使いおって。腐った根性よ!」
「なにを、ほざいたな!」
胡車児の剣は、典韋の眉間を割った。それでも典韋はしばらく踏みこらえていた。胡車児が一歩、二歩と、ゆっくりあとにさがると、典韋のからだが、それを追いでもするように、どっと前へたおれた。
6
張繍の軍勢は、たちはだかる典韋をたおし、曹操の一行を急追した。
曹操と曹昂は、父子、ほとんど馬首をならべて駆けた。だが、曹安民はだいぶ遅れた。脚のおそい馬だったのである。追いすがった張繍軍の矢の射程距離に、曹安民は一番早くとらえられた。
「うおーっ!」
と|咆《ほ》えるような声に、曹操がふりかえると、曹安民の馬が、前脚を高くあげ、つぎの瞬間、土けむりをあげて地面にたたきつけられるのがみえた。
「昂よ、いそげ!」
曹操は息子に声をかけた。
「はい!」
曹昂は|二十《はたち》の若武者である。|字《あざな》を|子修《ししゆう》という。母の劉氏が早く世を去ったので、正室の丁氏に養育された。丁氏は子供が生まれなかったので、曹昂を実の我が子のように可愛がっている。いや、実の子以上に愛したといってよいだろう。
「おくれるな。敵にも強弓の者はいよう。★[#さんずい+育]水さえ越えてしまえば、もう我がほうの部将が迎えにこよう。敵も川を越えて追ってくることはあるまい。もうひといきぞ」
曹操は鞭をあげてそう言った。血の汗を流すといわれる大宛の名馬──|汗血馬《かんけつば》である。曹昂の馬は息が切れかかっているのに、曹操の『絶影』は疲れたようすもない。たちまち二馬身ほど前へ出た。
張繍軍にも名馬はいた。しかも、それにまたがるのは、名馬の産地ペルシャの武士──胡車児であった。彼が背負っている弓は、中国では見かけない、『|彎弓《わんきゆう》』であった。それは中国の弓よりも、倍近くの遠さに矢をとばすことができる。彎曲部分が深く、小型であるがいかめしい。胡車児はそれを背から抜きとり、馬上でひきしぼった。
胡人は騎馬の名手が多く、馬上で両手が使えたのである。つがえた矢を、ひょうと放つと、それがおくれている曹昂でなく、先行している曹操の馬──絶影の脚にあたった。
絶影はそれでも走りつづけた。だが、第二の矢を、尻につきあてられたときは、ひと声|嘶《いなな》いて|空《くう》を足掻き、草むらのなかに横転した。曹操が地面へ投げ出されたのはいうまでもない。
「父上!」
曹昂はとびおりて、たおれている父を抱きおこした。
「大丈夫だ。傷はうけていない。が、絶影がやられた!」
曹操は頬の砂を払いおとして立ちあがった。
「父上、わたしの馬におのりください」
と、曹昂は言った。
張繍軍は、刻々と差を縮めている。ぐずぐずしている場合ではない。
「よし、のるぞ!」
曹操はとびつくようにして、馬によじのぼった。そして、馬の腹を蹴った。
「父上、さらば」
馬の蹴立てる砂塵を浴びて、曹昂は刀を投いた。
追撃してくる張繍軍の先頭集団は、その砂煙のようすからみれば、二百騎から三百騎ほどとおもわれた。曹昂は一人で彼らを迎え討とうとする。もとより勝てるわけはなかった。
曹昂は目をとじた。
|蹄《ひづめ》の音が近づいてくる。彼は刀を振りあげた。蹄の音はますます近い。こまかい砂が彼の頬を打った。
「えいっ!」
目をとじたまま、彼は刀を振りおろした。
手ごたえはなかった。|空《くう》を切る白刃の、しゅっ、という音がきこえただけである。左右を馬が駆け抜けて行くのがかんじられた。何頭も駆けすぎた。
「|天晴《あつぱ》れぞ、若造!」
という声に、曹昂は目をあけた。
目のまえに、頭を白布で巻いた、青い目の男が立っていた。片手に刀をひっさげて。
「なにやつぞ?」
曹昂は甲高い声で言った。
「驍将胡車児!」
と、相手は名乗った。
前漢の屯騎営を、後漢では驍営といった。禁軍の一部隊で、そこの将校を驍将と呼んだが、この名称は『勇将』の代名詞にも用いられた。
「驍将とは片腹痛し」
曹昂はよろけながら、刀を横なぐりに振った。カーン、という音とともに、彼の手はしびれ、刀をとりおとした。
「う、うっ!」
呻きながら、彼は前にのめって、砂のなかにたおれこんだ。肩から血がふき出ている。
「みごと」
という別の声を、曹昂は薄れゆく意識の片隅できいた。
「りっぱな若武者だった。りりしい最期じゃ」
これは胡車児の声であった。
「曹操は?」
「★[#さんずい+育]水を越えようとしている」
「むこう岸へは追えない。青州兵の領域だ。うかうかはいりこめないぞ」
「取り逃がしたか。残念な……」
曹昂はそこまできいていた。どうやら父が無事に逃げのびたことを知って、気がゆるんだのか、意識がすうーっと消えた。
死んだ若者の頬にかかったほつれ毛を春風が|撫《な》でていた。
7
大敗である。許都にひきあげる曹操の心は重かった。彼はみちみち幕僚たちと、このたびの敗戦について語り合った。合理主義の権化のような曹操は、勝敗にかかわらず、その理由がつかめないときは不機嫌であった。勝ってもその理由がわからないときは、しきりに首をかしげたものである。★[#さんずい+育]水の敗戦は、
──張繍が降伏を申し出たとき、すぐに人質を取らなかった。
という、はっきりした失態があり、それがわかったので、曹操は戦いそのものには、それほどこだわらなかった。心が重かったのは、長男の曹昂を死なせたことで、正室の丁氏が怒り狂うだろう、と予想したからである。
ただでさえ気性のはげしい丁氏であった。しかも、曹昂は彼女の実子でなかっただけに、その愛し方はかえって深かった。骨肉のつながりのない愛情は純粋といえる。すくなくとも丁氏は誰|憚《はばか》ることなく曹昂への愛を表現できた。
曹操が予想したとおり、丁氏の怒りと歎きはただならぬものがあった。彼女は何日も夫と口をきこうとしなかった。そして、朝から晩まで泣きつづけたのである。
「おい、いい加減にしないか」
と、なんども声をかけ、やっと返事がかえってきた。
「なんですか、あなたは。自分の子を殺して、涙ひとつみせないなんて、それで人間かしら。そんな人とは、口をききたくありません!」
頭のてっぺんから出るような、キンキン声である。あきらかにヒステリー症状で、さすがの英雄曹操もこれには手がつけられない。
曹操は許都に滞在中の少容に相談した。
「いかがしたものかな? わしにとっては、これからが正念場なのだ。そんなときに、家庭のいざこざで、心をみだされたくない。なんとかならぬかの?」
少容はおだやかな微笑をたたえて、
「ここはしばらく、お忍び遊ばせ」
と答えた。
「いや、本人がいてはどうにもならん。当分のあいだ、実家へ帰そうとおもう」
「それは考えものでございます」
「だが、奥がいては、わしは天下のことに専念できぬのだ。一段落するまで、別れていたほうがよかろう。なあに、婦女子の感情は、歳月がたてば消え去るもの」
「夫人のお怒りは、そうかんたんに消えそうもございませぬ。将軍が毎日、すこしずつ、夫人のお怒りをなだめて、はじめて薄らぐものと存じます」
「なんだ、毎日、奥のご機嫌をとり結ぶのか? そんなことはできん。天下のことで、くたくたになったうえに、また女房のご機嫌とりなど、わしのからだがもたぬわ。もう四十二だぞ」
曹操は少容の助言をきかずに、丁氏を実家へ帰した。
たしかに正念場といえた。
このとし、袁紹は献帝から正式に大将軍の官位を受け、|冀州《きしゆう》、青州、幽州、|★[#表示できない。同梱hihon03-hei.jpg参照]州《へいしゆう》の四州を|兼督《けんとく》する大実力者の貫禄をつけた。現在の行政区画でいえば、山東半島を含めて山東省の大半、河北省の大部分及び山西省にまたがる勢力圏であった。
それにくらべて、曹操は天子を自分の領内の許都に迎えたとはいえ、勢力範囲は|★[#六+兄(六が上で兄が下)]州《えんしゆう》と豫州の二州にすぎない。河北省の一部と河南省の大半である。
曹操にとって、袁紹はいつかは対決しなければならない敵であった。その袁紹が、同盟関係にあった|公孫★[#王+贊]《こうそんさん》と、ちかごろうまく行っていない。公孫★[#王+贊]は幽州刺史の地位を、|劉虞《りゆうぐ》から奪ったのだが、その幽州を袁紹に蚕食されている。袁紹は殺された劉虞の子や部下を使って、公孫★[#王+贊]に揺さぶりをかけている。そのうちに大きな衝突があるだろう。
「将軍はなにを最もおそれておられるのですか?」
と、曹操の幕僚長である|荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]《じゆんいく》が訊いた。
「袁紹が関中と結び、西の|羌《きよう》(チベット)や胡(西域)、南の蜀などを誘い込むことだな。そうなれば、天下の六分の五は袁紹のものだ。★[#六+兄(六が上で兄が下)]・豫の二州で、それに対抗することはかなわぬ。なにか策はあるかの?」
と、曹操は反対にたずねた。
「関中はいま分裂しております。董卓の旧部下を含めて、みんなどん栗の背くらべにすぎません。そのうち、すこし目立つのは|韓遂《かんすい》、|馬騰《ばとう》の両名でしょう。この二人に勅使を派遣して、息子を取り立ててやるといえば、将軍にそむくことはありますまい」
荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]はそんな策を進言した。
「よかろう」
さっそく手が打たれた。
二人の田舎大名は、息子の出世のため、曹操に感謝した。彼らの息子たちは許都に出て、天子の側近として仕えるようになった。曹操にしてみれば、これは人質である。西の実力者の息子を人質にしているのだから、もはや関中のことを心配する必要はない。
では、南方はどうか?
袁術が帝位を|僭称《せんしよう》したので、それをきっかけに、江東の孫策が自立した。皇帝などになろうとしたばかりに、自分の力を削られることになったのである。
曹操にしてみれば、南方の袁術と徐州の呂布との同盟を、最も警戒しなければならない。
袁術と呂布を、いつかは叩かねばならぬが、それは各個撃破の形が望ましい。二人が一本にまとまれば、ことは面倒となる。しかもいま、袁術は自分の息子の嫁に、呂布の娘を所望している。この縁談がまとまれば、袁術・呂布の結びつきは強まるのだ。
「なんとかならぬか?」
曹操は荀★[#或の戈の縦線の真中に横線二つ]に催促した。
「お急ぎ遊ばすな。|陳珪《ちんけい》父子がなんとかしてくれましょう」
と、幕僚長は答えた。
呂布が徐州で召抱えた陳珪・陳登父子は、じつは曹操に心を寄せている者たちであった。呂布に仕えたのは、曹操のために画策しようと考えてのことなのだ。情報によれば、陳父子はだいぶ重用されているという。彼らはその発言力を最大限に用いて、呂布が袁術と結ぶのを妨害するにちがいない。
曹操陣営が期待していたとおり、陳父子は揚州(袁術)・徐州(呂布)同盟の破壊に心血をそそいだのである。
袁術との縁談の件も、
「漢の天子は許都におわします。天下すべてそれを存じておりますゆえ、このたびの袁術の僭称は、大逆無道といわねばなりません。呂将軍はその逆賊と婚を結び不義の名をおひろめになる所存ですか」
と、陳珪はけんめいに反対した。
「そうか、大逆賊のところへ嫁にやるとなれば……」
呂布も考え込んだ。
「呂将軍が義父にあたられる董卓をお討ちになりましたのも、董卓が逆賊であったからでございましたな?」
「そうじゃ。だから、あれは忠義の行動であったのだ。大義親を滅したのじゃ」
呂布の董卓殺しは、それしか弁明の道はなかったのである。
「その逆賊の董卓でさえ、天子をないがしろにはいたしましたが、自ら帝号を僭称したことはございません。そうではありませぬか?」
「そうだな。相国と称して三公の上にいたが、僭称はなかったのう」
「では、袁術は董卓以上の大逆ではございませんか。そこへ、ご令嬢をおやりになるつもりですか?」
「うん、わかった」
呂布はすぐに娘の揚州行きを中止させ、そればかりか、逆賊袁術から、婚姻の使者として派遣されてきた者の首を|刎《は》ね、それを市にさらしたのである。
これで、両者の同盟が瓦解しただけではなく、仇敵関係となってしまった。袁術は呂布に兵をむけた。呂布は相手の司令官を説得し、袁術直系軍を襲い敗走させたのである。
呂布のような男が、よく相手を説得できたものだが、袁術の、
──大逆無道
は、じつにわかりやすかったのである。
こんなふうに、北では袁紹と公孫★[#王+贊]、南では袁術と呂布がいがみ合っているのは、曹操にとって絶好の情勢だったのはいうまでもない。まさに正念場であった。
8
呂布が袁術軍を敗走させたのは、五月から六月にかけてのことであった。
曹操は九月に兵を率いて、東のかたに袁術を討った。袁術軍は、曹操来たるときいただけで、戦わずして遁走した。袁軍は|淮水《わいすい》を渡って逃げたが、ちょうど淮水の南は大飢饉の最中であった。兵は散じ、袁術の力はさらに半減してしまった。
皇帝と称して、半年もたっていない。袁術にとっては、帝位を僭称したことは、ことごとく裏目に出たのである。
曹操はこのときの出兵で、戦勝以上に大きな獲物を手にした。
河南から淮水にかけての一帯に、大きな侠客の結社があった。数千の侠客を傘下に抱え、その領袖は|許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]《きよちよ》という人物である。
──|勇力絶人《ゆうりよくぜつじん》。少年(若者)及び宗族数千家を|聚《あつ》め、|堅壁《けんへき》以て|外寇《がいこう》を|禦《ふせ》ぐ。……
とあるから、その侠客団は一種の自警組織であったとおぼしい。これまでどの領主にもつかなかったのが、曹操を主人にえらぶことにきめたのである。許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]は彼の侠客団を率いて、曹操の陣営にいたり、服従を誓った。
曹操の喜びは、ひとかたならぬものがあった。ことに、この年のはじめに、典韋を失っているので、許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]の参加は曹操にとっては心強い限りであった。
「そちは我が|樊★[#口+會]《はんかい》ぞ!」
曹操はそう言ってよろこんだ。
樊★[#口+會]は漢の高祖の親衛隊長で、|鴻門《こうもん》の会のときに高祖を守ったのは『史記』の名場面の一つである。
許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]はこのとき以後、曹操の身辺に侍すること、形と影のようになった。
曹操は許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]を見るたびに、★[#さんずい+育]水のほとりで失った典韋のことを思い出したものである。
東のかたに袁術を撃ったあと、息もつがせず、曹操は西へ兵をむけた。年のはじめに、不覚をとった相手の張繍を、年の終わりに、すこしでも叩いておかねば気がすまないのである。
張繍はそのころ、すでに劉表の陣営に加わっていた。したがって、張繍を撃つことは、劉表を敵にまわすことを意味した。
はげしい戦いとなり、曹操は南陽郡の湖陽城を陥し、劉表の部将を捕虜にしたあと、|舞陰《ぶいん》地方を平定するなど、かなりの戦果をあげた。しかし、張繍に決定的な打撃を与えることはできなかった。
このときの遠征で、曹操は★[#さんずい+育]水のほとりを通った。
「ここで典韋が死んだ。……そのほか多くの将兵が戦死した。馬も死んだ。あの大宛の汗血馬絶影は、そのあたりでたおれた。もう一年近くになるが、昨日のことのようにおぼえておるぞ。……誰かある、軍兵に命じて、祭壇をつくらせよ」
と、曹操は言った。両頬は涙に濡れていた。
祭壇が築かれると、曹操はそこで亡き将兵の霊をまつった。
曹操は祭文を読みあげたが、途中で声がつまり、すすり泣き、ついに最後まで読むことができず、その場にたおれ伏して|慟哭《どうこく》した。居ならぶ将兵は胸をうたれ、あちこちに|嗚咽《おえつ》の声があがった。
祭祀がすみ、全軍は再び出発した。
「将軍は典韋をまだ惜しがっておられる」
「そうだ、典韋の名だけをあげた。嫡男の曹昂どの、甥御の曹安民どのも、ここで死なれたのに、それは口になさらなんだ」
「曹昂どのは、将軍の身がわりになられたも同然なのに……」
「将兵を愛されるお方じゃ」
「われらも将軍をもりたてて行こうぞ」
行軍の途中、軍兵たちはたがいにそんなことを語り合った。
寒さもつのり、年も暮れようとしていた。曹操は軍をまとめて、いったん許都へ戻り、しばらく兵を休めることにした。
そのあいだに、曹操も私用があった。
実家へ帰した正室の丁氏を迎えに行くことであった。
曹操が丁家を訪ねてみると、彼の妻は|機《はた》を織っているところであった。邸の者が彼女に、
「曹公がいらっしゃいましたよ」
と言ったが、そのまま機にむかって仕事をつづけた。まるで取り合わないのである。機を織る手を、とめる素振りもみせない。曹操はつかつかとはいり、彼女の背を撫でて、
「ふりむかないかね。一しょに車で帰ろうじゃないか」
と言った。
だが丁氏はふりむきもせねば、ひとことも答えない。カタカタと機の音がきこえるだけである。曹操はゆっくりとあとじさりして、戸の外まで出ると、
「どうだ、考え直してみないかね?」
と、また声をかけた。──だが、依然として、機の音しかきこえない。
「では、ほんとうに別れるぞ」
曹操はくるりと背をむけると、大股で丁家の門を出た。
許都に帰ると、曹操はまず少容の部屋を訪ねた。少容は書きものをしていたが、ひとがはいってくる気配に筆をとめ、ふりかえってにっこりと笑った。──
「いかがでしたか?」
曹操は首を横に振って、
「あなたの予言どおりだ。別居はよくなかった。仕方がない。もう、きっぱりと別れることにした」
「さようでございますか。……」
「気の強い女だが、悪い女ではない。少容どの、これからも、なにかと彼女の力になってほしい」
「かしこまりました」
「もうひとつ頼みがある」
「|卞《べん》氏を正室にする。それを彼女に伝えていただきたい」
「卞氏は将軍の側室。なぜじかにそれを申し上げないのですか?」
「女はこわいものでございまするな」
曹操は片頬で笑って、そのまま立ち去った。
建安三年正月のことであった。──
作者|曰《いわ》く。
──天下にはほかに美人も多いのに、なにをすき好んで他人の妻を|娶《めと》りたがるのであろうか? 当時の人たちの気持がわからない。……
二十世紀の史家|盧弼《ろひつ》は、自著の『三国志集解』に、右のようなことを書きつけている。
曹操の『人妻好き』は、張済未亡人にかぎらない。彼は何進の息子の嫁の|尹《いん》氏を側室にしている。尹氏は|何晏《かあん》の母である。何晏は曹操の娘の金郷公主を妻とするのだから、話はややこしくなってくる。俗本には、金郷公主は尹氏の生んだ娘となっている。話をおもしろく(いや、グロテスク)にするためであろうが、じつは金郷公主の生母は杜氏であり、この夫婦には血縁関係はなかった。
また曹操は|秦宜禄《しんぎろく》という者の妻をも側室としている。自分ばかりか、息子の|丕《ひ》(卞氏の生んだ子。のちの文帝)の嫁に迎えたのが、袁紹の息子|袁煕《えんき》の妻で|甄《けん》氏であった。甄氏は皇后になった。
魏の曹操だけではない。三国志の主役は、みな人妻好きであったらしい。蜀漢のあるじとなった劉備は|劉瑁《りゆうまい》の妻の呉氏を皇后とした。呉のあるじ孫権(孫策の弟)は、陸尚の妻の徐氏を妃としている。
日本の徳川家康は、後家好きであったというが、それは天下取りに共通した趣味であろうか?
丁氏については後日譚がある。丁氏との離婚によって、卞氏が正妻となったが、卞氏は時候の挨拶に、丁氏のところへ行くのを、欠かさなかったという。ときには丁氏を招いたが、いつも上座にすわらせたのである。
丁氏が亡くなったとき、卞氏は曹操の許可をえて、曹氏一族の墓所の近くに、彼女を葬った。
曹操は晩年、熱病にかかったとき、急に起きあがり、
「丁氏の墓はどこだ?」
と言ったことがある。
熱にうかされたうわごとである。
あとでひとに訊かれたとき、曹操は苦笑しながら、
「もうすぐあの世とやらへ行かねばならぬが、もしそこで昂の霊に出会い、わたしの母親の墓はどこですかと訊かれたとき、場所も知らんというのでは話にならんではないか」
と答えたそうだ。
曹操が★[#さんずい+育]水のほとりで、陣亡将兵をまつって|哭《な》いたことを、人心|収攬《しゆうらん》のための演技とする見方が多い。それは、曹操悪人説にもとづく読みすぎである。彼は心から哀悼の意をあらわしたのだ。
だが、彼は個人的な感情と、政治・軍事の領袖としての立場とを厳重に区別した。彼は典韋の死を|悼《いた》んだ。しかし、典韋は★[#さんずい+育]水の敗戦に責任があった。
典韋は侯にも封じられなかったし、死んだあとも|諡《おくりな》を賜わらなかった。たとえば、彼の後任ともいうべき許★[#ころもへん(初の左側)+者(日の右上に点)]は、|牟郷《ぼうきよう》侯に封じられ、死後に『壮』という諡をおくられている。史家のなかには、これを史伝の遺漏であり、ほんとうは封侯、|追諡《ついし》のことがあったが、史書に記録するとき脱落したのだと主張する者もいる。
だが、私はこれを曹操の信賞必罰の原則によるものと解する。典韋を悼むのはよいが、典韋を表彰することはできなかったのだ。そのかわり、彼の息子の|典満《てんまん》は登用され、都尉となり、関内侯の爵を賜わっている。
(四巻へつづく)
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文春ウェブ文庫版
秘本三国志(三)
二〇〇三年二月二十日 第一版
著 者 陳 舜 臣
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