秘本三国志(二)
陳舜臣
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〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年七月二十五日刊
(C) Shunshin Chin 2003
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(例)風姫《ふうき》は舞《ま》う
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目  次
風姫は舞う
蜀道を行く
日は没す ★[#山+見]山の西
天は晴れたり
背後に雷鳴あり
さすらい将軍
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秘本三国志(二)
風姫《ふうき》は舞《ま》う
右の眉《まゆ》がぴくとつりあがったのも一瞬で、曹操はすぐにもとの表情に戻った。
「ほんとうに怒っているのではありませんね」
と、陳潜が言ったときのことである。
「なぜわかる?」
しばらくして、曹操は抑揚のない声でそう訊《き》いた。
「孟徳《もうとく》さまのおからだが、そんなに大きくみえませんでしたから」
と、陳潜は答えた。
孟徳とは、曹操の字《あざな》である。
「妙な鑑定法じゃな」
曹操はそう言っただけで、陳潜の見立てが、はたして当たっているかどうか、判定は下さなかった。
酸棗《さんそう》県に董卓《とうたく》征討連合軍の七将が、ずらりと本陣をならべていた。黄河のむこう岸には、盟主の袁紹《えんしよう》、王匡《おうきよう》の軍があり、洛陽南方には|孔★[#イ+由]《こうちゆう》、袁術の諸将が兵を按《あん》じている。それなのに、じっさいに討って出たのは、曹操の軍だけであった。はじめから勝つ希望はもっていない。
──曹操は果敢なものよ。おそろしや。
という評判をあげるだけでよかった。
すでにその効果はあったといえる。しかし、曹操はそれに満足しなかった。
軍議の席で、彼は主戦論を唱えつづけた。
正式の作戦会議のときだけではない。諸営の首脳部は、相互に表敬訪問をおこなったが、曹操は訪問のときも、迎えるときも、
「いまこそ進撃すべきときである!」
と主張した。
ときには激昂《げきこう》のあまり、言葉がみだれることさえあった。
──酸棗の諸軍十余万、日に置酒高会《ちしゆこうかい》し、進取を図《はか》らず。……
当時の記録にそう記されている。
幹部たちは毎日宴会をひらき、酒を飲んではがやがやと言い合っているだけだったという。
そんな雰囲気のなかで、曹操は一人で腹を立てている。
その日も鮑信《ほうしん》が訪ねてきた。鮑信は済北《さいほく》の相で、酸棗諸将のなかでは、曹操と最も仲が好い。曹操は彼にむかっても、
「西へまわるのだ。洛陽の西は、董卓の勢力圏だとばかり思われているようだが、はたしてそうだろうか? 世間でみんなそう思ってくれているので、董卓は安心して、かえって備えをおろそかにしているのではあるまいか? 兵員に限りがあるのだから、どこかで手を抜かねばならない。わしが董卓であれば、世間の定評を頼りに、洛陽の西で手を抜く。……そこを攻める。一ばん近い連合軍は南陽の袁術将軍だ。なぜ袁術軍を洛陽の西へむけないのか! いやはや、歯痒《はがゆ》いことではある。……」
と、興奮した語調で語った。
その席に、陳潜もいた。鮑信が帰ったあとで、陳潜は曹操に、あなたはほんとうに怒っているのではないだろう、と言ったのである。
曹操は現実主義者である。──こういえば、それではなぜ負け戦さとわかっている戦争をしたのか、という反論があるだろう。
しかし、曹操は勝敗を越えたところで、ちゃんと計算していたのである。猛将の名声をえたが、この利益は、はかり知れないほど大きい。
名声の魔術。──
曹操はそれを知っていた。それを利用する心理も。だから、董卓が西に強いという定評を頼るのではないか、という想像ができたのである。
陳潜の指摘したとおりであった。
彼は鏡のように澄み切った平静な心で、怒りの言葉を口にしているのだった。
喜びであれ怒りであれ、人間は興奮すると、一種の盲目状態になる。誰もが経験によって、それを知っているので、興奮した人間を相手にするとき、自分の心を見すかされる心配はないとおもっている。ふだんは慎重に本心をかくす人でも、極端にエキサイトした人の前では、ふと覆《おお》いをはずすことがある。──曹操は相手がちらと本心をのぞかせるとき、それを確実にとらえようとした。
いまは友軍として、同盟関係にある人間だが、いつ敵となるかしれない。また将来、盟友が必要となるだろうが、誰をえらべばよいのか? 曹操は人間観察に努力している。ひそかな努力である。誰にも気づかれないと思っていたのに、この男が。……
(こいつめ、油断のならぬやつ。……)
曹操は陳潜の姿をじっとみつめ、それを脳裡《のうり》に焼きつけてから、しずかに目をとじた。
「じれったいことよ。……」
曹操のそばにいた夏侯惇《かこうとん》が言った。あるじ曹操の作戦が、諸将にうけいれられないのがじれったいのである。
かといって、曹操一人の力ではどうにもならない。|★[#さんずい+卞]水《べんすい》の戦いにしても、|張★[#しんにょう(点二つ)+貌]《ちようばく》から兵を借りて、やっとあれだけのことしかできなかったのだ。
「兵が足りぬわ」
と、曹操は呟《つぶや》いた。
「また誰かに借りましょうか?」
と、夏侯惇は言った。
夏侯は二字姓で、名が惇である。曹操の父は、もと夏侯という姓であった。祖父の曹騰《そうとう》は宦官《かんがん》で、したがって実子はできない。我が家を継がせるために、夏侯家から養子を迎えたのが曹操の父である。いってみれば、夏侯家は、曹操の実家であり、夏侯惇は従弟にあたるのだ。
(この男が手本だ。……)
曹操は目をあけて、夏侯惇を見た。
彼は『名声の魔術』の逆をつくことを考えていたのである。
これから迎える乱世では、人におそれられるところが多ければ多いほど、都合がよいのだ。欲をいえば、おそれるに足りないところをおそれさせ、ほんとうにおそるべきところはかくしておいたほうがよい。
曹操はこまかく観察し、こまかく計算する人物である。おそろしいのはここだが、これは伏せておく。むしろ、
──計算を知らない猪《いのしし》武者
と思わせ、そのことで恐怖心をかきたてるべきなのだ。
★[#さんずい+卞]水の戦いでは、彼は無謀な猪突の猛将という印象を人びとに与えた。
猪武者の見本は、そばにひかえているので、うまく演じることができた。
夏侯惇。──十四歳で、自分の師匠をあなどった人間を、たたき殺したという猛者《もさ》である。
「おまえと一しょに、どこかへ兵を借りに出かけようか」
と、曹操は言った。
「よろしゅうございます。参りましょう。とにかく兵隊さえあれば……」
夏侯惇は腕をさすった。
曹操は陳潜をかえりみて、
「わしの留守のあいだ、おぬしには人を見てまわってもらいたい。どうじゃな?」
「かしこまりました」
と、陳潜は頭を下げた。
さすがに曹操は一級の観察者である。陳潜の背景や目的を知っているかどうかは不明だが、彼が現在の状況を把握しようと、真剣に取組んでいて、またその才能のある人間だと見抜いていた。
曹操は陳潜のその才能を、自分のために利用しようと考えた。いまの曹操は兵隊の数も欲しいが、天下の英雄豪傑についての情報も欲しいのである。
陳潜はためらわずに、西南の方向に足をむけた。
とくに鑑定してほしい人物を、曹操は名指しはしなかった。だが、陳潜は曹操の意中がわかっていた。いつか曹操は、
──董卓め、わしとあいつと、どちらのほうがおそろしいと思っているのかな?
と、ひとりごちるように言ったのを、耳にしたことがある。
あいつとは誰のことか、陳潜は聞き返すような野暮《やぼ》な真似はしなかった。きまっているのだ。
──長沙の太守孫堅に。
白馬寺のあの烱眼《けいがん》の支英も、この国の次ぎの時代の立役者は、曹操と孫堅であろうと予想していた。
正直なところ、陳潜は董卓の身になって考えると、曹操よりも孫堅のほうがおそろしいのではないか、という気がしてならない。
みやこを遠くはなれた長江(揚子江)を根拠地にした孫堅は、中原の不良少年あがりの曹操にくらべて、わからない面が多い。
孫一族の富についても、いったいどれほどのものなのか、推測のしようがない。
わからないものはおそろしい。
──この本の著者の子孫というが、わかったものじゃない。
あるとき、曹操は愛読書の『孫子』の表紙を撫《な》でながらそう言った。
『孫子』の著者は、春秋時代の呉に仕えた孫武である。孫堅の一族は、その子孫と自称していた。
紀元前五百年ごろに活躍した孫武は、後漢末を去ること七百年の人物だった。どうせその家系は確証できるはずはない。
兵法家の家系は眉唾《まゆつば》として、孫堅が十七歳で銭唐の海賊を斬《き》ったこと、会稽の妖賊《ようぞく》万余の衆を千余の精兵で破ったことは、現代の出来事である。黄巾《こうきん》の乱のときの勇戦も、世にかくれもない。
その孫堅も檄《げき》をうけ、董卓討伐の兵を挙げ、長沙より長駆、洛陽へむかっていた。
彼は陣中に風姫《ふうき》という女を伴っていた。巫女《みこ》である。まだ若い。二十をすぎてまもないが、彼女の母も有名な巫女であった。長江沿岸には、風姫の母の神託を信じる者が多かった。そして、このごろは娘の風姫が、母親以上の能力をもっていると噂《うわさ》されるほどになっていた。
「このたびの挙兵、すべては風姫のもたらす託宣に従うぞ」
長沙を発つ前に、孫堅は全軍の将兵にそう宣言したのである。
風姫は美貌《びぼう》の女性であった。彼女の名声には、その託宣の霊験のほかに、女としての魅力もすくなからぬ要素を占めていたのであろう。
「ふン[#ンは小文字]、女を連れて来るのか。……いずれ、色好みの孫堅の妾《めかけ》のようなものであろう」
にがにがしげに言ったのは、荊《けい》州刺史の王叡《おうえい》であった。
王叡は傲慢《ごうまん》な男であった。
黄巾戦のとき、この男は孫堅とコンビで働いたことがある。どうしても孫堅のほうが、すべてにつけて目立つので、王叡はおもしろくなかった。
──なんだ孫堅なんて戦争しか知らない兵隊じゃないか!
ことあるごとに、吐きすてるようにそう言っていたが、むろん孫堅の耳に入るのを承知のうえである。
──おれはえらいのだ。
ということを、自分にも他人にも納得させるために、必要以上に威張り、大言壮語しなければ気がすまないという、まことに厄介な人物だった。そんなことで、対人関係は芳《かんば》しくない。敵が多かったが、仲直りなど考えたことはなく、ふたこと目には、
──なにかあれば、まっ先に殺してやる。
と、物騒なことを言う癖があった。
武陵郡の太守|曹寅《そういん》も、王叡と折合いが悪かった。武陵は洞庭湖のそばにあり、管轄内に桃源郷があることで知られている。
不仲の原因は、まことにばかばかしいことだった。荊州刺史と武陵太守のあいだには、とうぜん冠婚葬祭の贈答がおこなわれる。王叡は贈った品よりも貰った品のほうが粗末だと思ったので、
──曹寅はケチだ。
と言いふらした。曹寅はそれを聞いて、
──王叡は馬鹿だから、カサばったものをりっぱだと思っている。小さくても貴重なものがあるのを知らない。目がないのだ。
と、左右の者に言った。
それが王叡の耳に入ったからたまらない。
──よし、殺してやる!
と、例の口癖が出た。それが、まわりまわって、曹寅の耳に達したのである。
曹寅は小心者で、まえまえから王叡の言動を気に病んでいた。
董卓追討の檄は、この地方にも飛ばされたが、各地長官はそれに応じて、兵を拳げる準備をしていた。王叡はよせばよいのに、動員令を出すとき、
──武陵の曹寅を血祭りにあげてから、洛陽へむかうのだ。
と言った。本気なのか、景気をつけるためなのか、おとな気のない言動といわねばならない。
じつは曹寅を殺すつもりはなかった。どうせ話は相手の耳に入る。
──きやつ、気が小さいから、ビクビクしやがるだろう。ざまあみろ。
一種の|から《ヽヽ》かい《ヽヽ》である。
曹寅にしてみれば、これは笑いごとではない。命にかかわることなのだ。その対策を講じたのはとうぜんであろう。
(ここで州と郡国の関係を述べよう。三国志は地方の豪族が強盛となり、彼らのあいだに覇権《はけん》争いがおこなわれたのが、その最もふとい骨組みとなっている。だから、豪族たちの拠《よ》った地方の組織について、一応の予備知識をもてば理解の助けになるだろう。
漢の地方組織で最も大きい単位は『州』である。直轄地域《司隷》を除くと、天下は十二州に分かれる。
豫《よ》州、冀《き》州、|★[#六+兄(六が上で兄が下)]《えん》州、徐州、青州、荊州、
揚州、益州、涼州、并《へい》州、幽州、交州、
の諸州である。
州の下に郡、または国がある。
郡と国は同格で、実質もほとんど変わるところはない。
皇族が『国』の王に封じられるが、漢の制度は王の直接統治を禁じている。たとえば、董卓に廃された前皇帝の辯《べん》が、弘農王に降格されたことは前に述べた。畿内にある弘農という国に封じられたのだが、彼はけっして赴任しない。名目だけのことで、彼はみやこ洛陽に住むのである。
じっさいには、国の行政は中央政府から任命される『相』がおこなう。
同格である郡の長官が『太守』であり、国の事実上の長官が『相』であるから、この両者のランクはひとしい。
州の下に郡と国があるから、州の長官である刺史は、郡や国の長官である太守や相より上位かといえば、そうでないのだから面倒である。
荊州に例をとろう。これは湖北、湖南ぜんぶと河南の一部まで含む広大な州で、その下に南陽、南郡、江夏、零陵、桂陽、武陵、長沙の七郡がある。
すぐに殺してやると喚《わめ》く王叡は、荊州の刺史だが、長沙郡の太守孫堅や武陵郡の太守の小心者曹寅に命令する権限はない。てっとり早くいえば同格なのだ。
日本の関東地方とか近畿地方という場合の『地方』が州に相当するとおもえばよい。それは実質的な行政単位ではない。刺史は州の長官というが、州を治めるのではなく、州下の郡国の長官の業績を監察するのが本来の職務なのだ。刺史の駐在するまちを某州といって、支配権があるとすればそこだけである。
ついでだから、日本の地名で説明をくり返そう。
近畿地方の刺史は、たとえば大津に駐在するとする。刺史は近畿地方の太守《知事》たちの仕事ぶりに目を光らせるが、実権の及ぶのは大津ぐらいである。大阪府知事だとか兵庫県知事のように、広大な地域や多数の人民を支配するのではない。
どちらかといえば、太守のほうが刺史よりも強力である。両者とも禄《ろく》は二千石だが、太守は漢初から二千石で、刺史のほうははじめ六百石だったのが、だいぶあとになってから二千石に格上げされたのである。
ちなみに、このたびの反董卓連合軍の盟主は、勃海《ぼつかい》太守の袁紹である。勃海郡は冀州に属するが、冀州刺史の韓馥《かんふく》は袁紹の下について、兵站《へいたん》を担当している。
この時代は、もう名目上の官位よりも実力主義になっていた。おなじ郡の太守でも、曹寅の武陵軍は人口二十数万にすぎないし、孫堅の長沙郡は百万を越える。実力では大きな差があった)
赤かった炎が、ふいに黄色っぽくなり、と同時に、みるみるふくれあがり、夜空に高く噴きあげた。
パチパチとはぜる音がした。
巫女がその炎の前に坐っている。
彼女は神に接し、託宣を得ようとしているのだが、それはまだ時間がかかる。
神託を得る女は巫《ふ》といい、男は覡《げき》という。
男は天にむかって号泣すれば神託を得ることができるが、女はそれだけではだめである。舞踏しなければならない。彼女は季節によって、身につける衣服の色を変えるのだ。
春は青衣、夏は赤衣、秋は白衣、冬は黒衣ときまっていた。
巫女風姫は青衣をつけている。
彼女のうしろには、山と積まれた薪《まき》が燃えており、前には壇がつくられ、神への供え物がのせられている。牛、羊、豚の三種がそろっているのは、最高の儀式なのだ。左右の青銅|樽《そん》には、酒が満たされていた。
風姫はしばらく、壇にむかって拝跪《はいき》をくり返したあと立ちあがった。
舞うのである。
中原の舞いは、日本舞踊に似て、テンポが遅い。そして、中原、すなわちみやこから遠ざかるに従って、舞いの所作は速くなる。とくに巫女の舞いは、うごきがはげしい。
袖《そで》は長くひろい。裳裾《もすそ》は足をかくすほどである。
春はまだ浅く、その夜はとくに寒さが膚《はだ》にしみた。巫女を遠巻きにしていた人びとは、はじめは首を縮めていたが、しだいに寒さを忘れるようになった。赤く、そしてときに黄色く、夜空に噴きあげる炎のせいだけではない。巫女のうごきがはげしくなるにつれて、それが見物の衆にのりうつるのだった。
孫堅|麾下《きか》二万の兵が、勤務についている者を除いて、ほとんどが巫女の舞いを囲んでいたのである。孫堅自身は、すこし離れた櫓《やぐら》のうえから、見下ろしていた。巫女の舞いだけではなく、それを見物する部下のようすも。
彼の右に長男の孫策が、左に周瑜《しゆうゆ》という少年が坐っていた。二人とも十五歳である。十八年後に、赤壁《せきへき》の合戦で曹操を破る智将周瑜も、このころはまだ頬の紅《あか》らみのあどけない少年であった。
孫堅の部隊は長沙を出て、洞庭の右から北上した。かつて戦国時代の詩人屈原が身を投じた汨羅《べきら》の川を越え、後年の大戦場となる赤壁をすぎ、長江(揚子江)を渡り、一路、洛陽へむかう。
ここは長江の支流の漢水に沿った、沼沢の多い平野である。荊州刺史の駐在する荊州は、二日の行程であった。
さきに述べたように、刺史の駐在するまちを州名で呼ぶので、時代によって場所の違うケースが多い。後漢はもと洞庭湖西岸の漢寿《かんじゆ》(現在の湖南省常徳県)に刺史がいたが、のちに襄陽《じようよう》に移った。だから、この時代の荊州は襄陽なのだ。現在の湖北省襄陽県である。もう八十キロほど行けば、河南省との境界に達する。
「中原のにおいがしてくる」
と、孫堅は言った。
二人の少年は、じっと巫女の舞いを見ていたが、総帥《そうすい》の孫堅はむしろ、観衆のほうに関心があるようにみえた。
「どんなにおいですか?」
孫策が鼻をひゅっと鳴らし、首をかしげて訊いた。
「口では言えぬわ。……洛陽に近づくにつれて、そいつは濃くなってくる」
「芳しいのですか、それともくさいのですか?」
少年らしい質問である。
「芳しいといってよかろう」
「父上が中原に入るのは、このまえの黄巾のときも戦さでしょう。血なまぐさいにおいじゃありませんか?」
「いや、芳しいのだ」
「つまり、中原気ちがいですね、楚《そ》の人間に多い病気です」
「なに、病気?」
孫堅はそう聞き返したが、あまり気にもとめないふうだった。
中原が文明の中心であり、そこから遠い楚(湖北・湖南)は、文明の後進地域と思われていた。楚人のコンプレックスなのだ。孫堅にもそれがあった。息子の孫策は僅《わず》か十五歳だが、それをにがにがしく考えている。
(空気まで芳しくなるなんて!)
そう反撥《はんぱつ》した。
「一種の病気ですよ」孫策は周瑜にむかって、
「な、そうだろう?」と同意をもとめた。
「まぁね。……」
周瑜は笑った。心のなかで、
(こんなに反撥するのも、中原にたいする劣等感の裏返しではあるまいか?)
と、おもっていたのである。
周瑜は答えながらも、巫女の舞いから目をはなさなかった。
巫女の舞いは、いよいよはげしくなった。
漢の服装は、日本のキモノと同じだが、襟《えり》の部分だけ黒っぽくしているのが多い。帯はせいぜい五センチぐらいのはばで、結んだあまりを、前か後に長く垂らすのがふつうである。ときには横に垂らすこともあった。
風姫も青衣だが、襟は黒で、手をおろすと袖は地面にとどくほどである。だが、両手をたえずうごかしているので、長袖はひらひらとひるがえっていた。
うしろ結びにした帯は紺《こん》色で、これも彼女のうごきに従って、そのあまりが風にはためくのである。風といっても、彼女のうごきで生まれた風なのだ。
風姫はとつぜんおどりあがる。裾が割れ、白い足がそのあいだにのぞいた。彼女は素足であった。
ぐるりとまわる。つづけて、二回、三回、そして、とつぜん軸足をかえて逆の方向にまわる。──
上体を折りまげる。両手を水平にのばす。その姿勢で、からだを旋回させる。左足を軸にして、右足で漕《こ》ぐようにして。
信じられないほどの速さで、風姫は旋回する。いつのまにか、逆まわりになっている。
「あっ。……」
周瑜少年が思わず声をあげた。
まるであやつり人形が、糸でひきあげられでもするように、風姫のからだが、ふわりと浮きあがった。地面を蹴《け》ってとびあがったのだが、その強い所作が服にかくれて見えないので、そんなふうに思えたのだ。
「驚いたか、周瑜」
孫堅は笑いながら訊いた。しっかりしているようで、やはりまだ子供っぽい。……
「はい。……はげしい勢いを覆っておけば、相手を眩惑《げんわく》するものですねぇ。意表を衝く一つの方法でしょう。……」
周瑜は依然として、風姫のうごきを目で追いながら答えた。
「ほう。……」
孫堅の表情から笑いが消えた。
(えらいやつだ。……)
巫女の舞いを見ながら、この少年は兵法を考えているのである。
風姫はこんどはのけぞった。旋回する。走る。とびあがる。──
めまぐるしいうごきは、彼女をしだいに神がかり状態にするのである。──
「お、お、おーっ!」
無言で舞っていた風姫が、ふいに奇声をあげたかとおもうと、その場にぱったりと、うつぶせに倒れた。
二万に近い大観衆は、しぃーんとしずまりかえり、しわぶき一つきこえない。みんな息をのんでいたのである。
ものの二分か三分にすぎなかった。それがじつに長くかんじられた。
風姫はやおら立ちあがった。やはりそのからだに力は認められず、見えない糸でたぐりあげられるかのように。
彼女が立ちあがると、観衆のあいだにふしぎな現象がおこった。
遠巻きにして立って見ていた人びとが、風姫の動作とは反対に、ふわりとその場に坐ってしまった。厳密にいえば、一斉にそうしたのではない。まず三分の一ほどの者が膝《ひざ》をつき、それに釣《つ》られるようにして、残りの連中も身をかがめたのである。
しずかな波が、平原をひと撫でしたようなかんじであった。
「風姫の信者は、全軍の三分の一ほどでありますね」
周瑜少年はさわやかに言った。
(よく見ておるわい。……)
孫堅はふとおそろしくなった。
風姫は両手を前にのばした。その手がぶるぶると顫《ふる》える。長い袖が、その顫えをつたえて、こまかく揺れはじめた。縦のさざ彼である。波はしだいに大きくなり、大きな揺れに変わった。右へ左へ。──
「お、お、おーっ!」
再び彼女は奇声を発した。さきほどの声は、天なる神が彼女に憑《つ》いたのであり、こんどの声は、神が彼女に言葉を託すしるしである。
「行け、孫堅よ、その|とも《ヽヽ》がら《ヽヽ》を率いて北へ行け。漢水に沿うて北へのぼれ。漢水が流れを西にかえるその曲がり角に、なんじ孫堅は大軍をおのが陣営に加えるであろう。その大軍のあるじは、汝の刃のもとに伏すべし。斬れ、孫堅よ、川の曲がれる城のあるじを。そのあるじの名は王叡ぞ。行け、孫堅、洛陽のなんじを待つこと久し!」
ざわめきがおこった。
人びとは息を殺していたのだが、ここで思わず、かすかに息をもらしたのである。二万の群衆のかすかな息が集まって、ざわめきとなった。
ざわめきは、しだいに|どよ《ヽヽ》めき《ヽヽ》に変わって行く。
風姫は再びその場に崩れるように倒れた。
櫓のうえで、孫堅は大きくうなずいた。
──血祭りにあげてやる!
荊州刺史王叡にそう言われ、恐怖におののいた小心者の武陵太守曹寅は、血祭りにあげられない対策を、けんめいに考えた。
食うか食われるかである。殺しに来る相手を殺せば問題は解決する。だが、曹寅は自分では王叡を殺すことができない。思いをめぐらしている彼の頭にひらめいたのは、
──檄《げき》。
であった。董卓の専横以来、彼を討つべしという檄文が、諸方に飛ばされた。げんにその檄に応じて、各地の豪傑が蹶起したのである。有効な手段であるといわねばならない。
董卓討伐の檄に、これほど大きな反応があったのは、彼が天下の憎まれ者であったからだ。この状況を利用すべきである。曹寅は肝《きも》は小さいが、智謀はあった。
──荊州刺史王叡は、洛陽の暴君董卓と通じ、討董連合軍を阻止する密約を結んだ。この罪は斬刑《ざんけい》に価する。よろしく斬るべし!
という檄を、孫堅の陣にとばした。
(ははーん、そういうわけであるか。……)
近所にいるので、王叡と曹寅の関係を知っている。檄を読んだとたんに、孫堅はその裏が透けて見えた。王叡が討董連合軍に加わろうとして、兵を集めつつある情報も、孫堅のところに達している。すでに三万の兵を集めたという。
孫堅は檄の内容を信じなかったが、これは利用する値うちはあると考えた。
いま彼は二万の兵をもって北上している。天下の覇権を争うには、この兵数は十分とはいえない。覇者交替の時代である。このたびの討董連合軍は、いってみれば次ぎの時代の覇権の帰趨《きすう》を占う、一種のコンクールであろう。一兵でも多いほうがよい。荊州城三万の兵は魅力である。新募の兵であって、王叡子飼いの将兵はすくない。雇主が誰であってもよいわけだから、檄に従って王叡を斬れば、三万の兵はこちらにころがり込む。
「この檄、怪しゅうございますぞ。王叡がどんなに馬鹿でも、天下の人望を失っている董卓につくとは考えられません。軽率に信じ遊ばしてはなりませぬぞ」
重臣を集めた会議では、これが代表的な意見であった。
「軽々と信じてはならぬが、頭から疑ってもいけない。こんなときのために、風姫を連れて来たのではないか」
孫堅はそう言って、風姫によって神託をもとめることにした。
託宣は下った。
──王叡討つべし!
と決したのである。
慎重派の家臣たちも、この決定に異議をはさむことはできなかった。なぜなら、それは神の声だからである。しかも、その神の声をもたらす風姫は、全軍の将兵の三分の一に及ぶ信者をもっていた。
風姫は公開の場で、神意を問うたのである。
託宣に反対する者があれば、狂信の徒によって暗殺されるだろう。
これは絶対の命令といえた。
「命令の下し方にも、いろいろとあるものですねぇ」
櫓をおりるときに、周瑜はそう言った。
「こやつめ……」
孫堅は笑おうとしたが、途中で頬がこわばってしまった。十五歳の少年に、なにもかも見すかされているのだ。
神聖不可侵。──命令はそうでなければならない。戦さの強さは命令のもつ力の強弱にも左右される。命令を強くするためには、それを神意にするのが第一である。
しかも、孫堅の率いる楚の健児二万のうち、すくなからぬ部分が、風姫の熱烈な信者であった。そもそも、屈原のむかしから、楚は神がかりとは縁の深い土地柄であった。漢代にあの鹿爪らしい儒教が国教化されたあとでも、湖北・湖南の地は、神仙家たちの巣窟《そうくつ》であった。その熱狂に逆らうことはできない。
孫堅は風姫を使って、自分の命令を下そうとしたのである。そのほうが、自分の肉声より強くなる。また、万一、その命令が失敗とわかっても、総帥である彼は権威を失墜しないですむ。
「こやつめ……」
孫堅はおなじ言葉をくり返した。
「すぐに出発しなければなりませんね」
と、周瑜は言った。
「はっ、はっ、はっ……」
孫堅は、はじめて大声で笑った。安心したのである。憎らしいほど頭のよい小僧だが、自分の推察したことを、べらべらとしゃべるところは、まだ可愛気《かわいげ》があった。わかっていて、黙っているのにくらべると、まだたいしたことはない。
すぐに出発。──そうしなければならない。もしここでぐずぐずしておれば、風姫の託宣は公開されたのだから、誰かの口から、王叡のところまで伝わってしまうおそれがある。
「よし、明日、早朝に出発しよう。あとは、夜を日についで荊州へむかう。一日で着こう」
と、孫堅は言った。
孫堅は二万の兵のうち、五千だけを率いて荊州城にはいった。
荊州刺史王叡の集めた三万は、ほとんどが新兵である。兵士はおたがいに顔も知らない。嘘《うそ》のような話だが、孫堅一行は、荊州が募集した軍隊のふりをして、城門から堂々と入ったのである。
湖北と湖南の差はあっても、おなじ楚人なので、訛《なまり》も容貌も似ている。声をかけ合っても、疑われることがなかった。
むかしの中国は、まち全体が城壁で囲まれている。城とはふつう『まち』の同義語である。現代中国語でも『進城《チンツエン》』といえば、『まちへ行く』という意味なのだ。孫堅軍が城門を入ったというのは、まちのなかに入ったことにほかならない。
北京の城(すなわち『まち』)のなかに、支配者のいた紫禁城があるように、ちょっとした城市なら、そのなかにもう一つの城があった。刺史や太守の居城である。この狭い意味の城を『牙城《がじよう》』という。象牙《ぞうげ》の旗竿《はたざお》を立てるのでそう呼ばれている。
孫堅の率いる五千は、城市の門どころか、牙城の門まで堂々と通り抜けてしまったのである。
あまりにも歩武堂々としていたので、守門の将校も、まさかよその軍隊とは思わなかったのだ。
「新募の兵を刺史閣下にお目にかける。すでに許しは得てある」
部隊の先頭に立った騎馬の武官が、大声でそう言った。まるで守門の士官など眼中にないかのように。
「はい、どうぞ」
守門の士官は、思わずお辞儀をした。
新募の兵は、たいてい地方の豪族によって集められ、豪族一門の若い元気な人物が、部隊長として乗り込んでくる。牙城の門を守る下級士官は、むろん、そのような豪族の顔は知らない。
馬上の隊長は偉丈夫であった。
(この豪族、将来、大出世をするやもしれない。ご機嫌《きげん》を損じてはならぬ)
守門の士官は、そんな心理であったにちがいない。
小柄な曹操とちがって、孫堅は体格もりっぱだし、顔立ちもみごとであった。曹操は自分の短躯《たんく》を気に病み、顔を知らない外国の使節には、替え玉を使って会わせたといわれる。ところが、孫堅のほうは、自分の風貌を、できるかぎり利用したようだ。荊州の牙城に入るときも、自信満々であったろう。曹操が聞けば、歯がみするような場面である。
牙城の王叡の居所を、兵隊がぐるりと囲んでしまった。
「なんだ? 兵隊がわしになにか用かな?」
と、王叡は廊下に出た。そこは兵隊の満ちている庭よりも五メートルほど高くなっている楼上なのだ。
一人の老兵が進み出て言った。──
「兵隊は給料が安くて、衣服も買えませんので、なんとか考えていただきとうございます」
「衣服だと? そんなことでいちいちわしのところへ来るな。倉庫係に言え。刺史の倉庫には、服地は山と積まれておるはずじゃ。刺史はけちけちせん。代表者をえらんで倉庫へ行き、欲しいだけ持って行け」
王叡の大言壮語癖がまた出た。
胸をそらしてそう言ったが、ふと兵士たちのなかに、見おぼえのある顔を認めた。
長沙太守の孫堅。──
平素から虫の好かぬ男で、王叡はいつも、『なんだ兵隊のくせに』と悪口を言っていた相手ではないか。
それよりも、王叡は衣服をねだりに来た連中を、自分の集めた兵隊だとばかり思っていた。そのなかに孫堅がいるはずはない。
「お、お……どうして孫府君がそこにいるのだ?」
王叡はあわてて訊いた。
「おまえさんを誅殺《ちゆうさつ》せよという檄を受けて、それでやって来たのだ」
孫堅はあっさりとそう言った。
「な、なんだと? だ、誰の檄だ?」
あまりのことに、王叡はさきほどから吃《ども》ってばかりいる。
「一応、光禄大夫の温毅《おんき》の使者がもたらしたことになっておる」
光禄大夫は天子の枢密官である。
「そ、そんなばかな……いったい、このわしに、なんの罪があったというのだ?」
王叡は喚《わめ》くように訊いた。
「坐《ざ》して知る所無し」
と孫堅はひややかに答えた。この返事はいろんな意味に解釈できる。
──おまえが殺される理由なんか、おれの知ったことか。
ともとれるし、
──こんなところで、ぼんやりして、自分が殺されることを知らなかったのが、すなわち、おまえの殺される理由だ。
と、皮肉ったと解せないこともない。
いずれにしても、どんな罪か詮索《せんさく》しても始まらない。おまえはもう殺されるのだ。──そう引導を渡したのである。もはや逃れることはできない。
「よし、殺されるよりは、自分で死ぬ」
王叡は庭を見下ろして言った。孫堅の部衆に包囲されていることはあきらかである。
「わかった。死んでもらおう」
と孫堅は応じた。
「すこし待て。わしの死に方は、ちょっと手間がかかる」
「あまり待てんぞ。日没まではよいが」
日はだいぶ傾いている。日没までは一時間もないだろう。
「なぁに、日没まではかからない」
「おなじ死ぬのに……」
「いや、自殺ならこれにしようと、いつも考えておった死に方がある。つぎに生まれかわったときの用意にな」
「後学のために、きかせてもらおうか」
「教えてやろう。おまえだって、いつこのわしのような目に遭《あ》うやもしれぬからのう。……よいか、金《きん》じゃ。黄金をけずって飲めば死ねるのじゃ。そして、生まれかわったとき、金の徳をうけて、富貴の身になること、疑いなしであるぞ」
「心に留めておこう」
孫堅は腕組みをした。彼が心に留めておこうとしたのは、死ぬ方法ではなかった。王叡を死に追いやったもののことである。抑えのきかぬ大言壮語、人の心の機微を察しなかった罵詈《ばり》癖のこと、──
王叡はいったん奥に入ったあと、しばらくして、浅い杯を手にして、再び廊下にあらわれた。
そして、欄干に片手をかけ、
「でたらめの檄をとばした張本人は見当がついた。……ねずみのような胆っ玉しかない、あの曹寅だろう?」
孫堅はうなずいた。こうなってはもうかくす必要はない。
「言い忘れた。生《なま》の金でなければならんのだぞ。錬《ね》った金は毒がすくない。……曹寅にも教えてやれ!」
王叡はそう言うと、杯のなかのものを、口にながし込んだ。
毒が効いたのかどうかわからない。杯を仰いだつぎの瞬間、王叡のからだは、欄干にもたれ、それを乗り越えて墜落したのである。その下は石畳になっていた。王叡の頭蓋骨《ずがいこつ》は砕けた。
三万の兵は孫堅に属した。
長江の支流の漢水の、さらにその支流である白河に沿って、五万にふくれあがった孫堅軍が北上する。
そのころには、中原の局勢についての情報が、しきりに入ってきた。
洛陽までのあいだに、南陽という大きな郡がある。現在の南陽市だが、当時は長沙よりも大きかった。
南陽郡は戸数五十二万八千余、人口二百四十三万九千余というから、孫堅の支配した長沙の二倍以上である。そこの太守は張咨《ちようし》という人物であった。
むろん、このような有力太守のところには、討董連合軍に加盟を呼びかける檄が届けられていた。だが、張咨はまだ態度をはっきりさせていなかった。
(あわてることはない。ゆっくり観望しようではないか)
と、側近に言ったそうだ。
「ずるいやつですね」
南陽太守張咨が、天下の情勢を観望して、どちらつかずの姿勢をとっているという情報が入ったとき、孫堅のそばにいた周瑜少年はそう言った。
「ずるいけれど、賢いのかもしれんぞ」
と、孫堅は言った。
「そうでしょうか? でも、吝嗇《りんしよく》であることはまちがいないでしょうね。ずるい人は、たいていけちん坊ですよ」
「そうだろうな。……」
孫堅はそのときは、生返事をしただけであるが、しばらくたってから、
「瑜よ、おまえ、いまなんと言った?」
と訊いた。
「南陽太守はまちがいなく吝嗇……」
みなまで言わせず、孫堅はかぶせるように、
「それがどうしたというのじゃ?」
と言った。語気がきびしい。
いままで、彼は作戦を練っていたのである。そして、どうしても決断がつかないでいた。つぎの手が。──
「どうしたとおっしゃいましたか?……私はただ、南陽太守の欠点が吝嗇だろうと想像いたしましただけです。……荊州刺史の欠点が、むやみに威張る癖であったように。……」
と、周瑜は答えた。
孫堅はじっと周瑜の顔を見た。
だいぶたってから、彼は視線を長男の孫策にむけた。孫策は弓の手入れをしていた。結び目を点検しているところで、どうやら父親と周瑜のやりとりは、耳に入っていないようであった。
孫堅は眉をひそめた。だが、しばらくして、大きなため息をもらしたあと、かなりあかるい表情になった。
彼のこのときの心理をたどってみよう。──
まず周瑜少年のなかに、彼は天才的な智謀を認めた。将来、我が子の補佐役となる人物だから、その才能は頼もしい。だが、無心で弓の手入れをしている、武辺者の長男孫策がはたしてその才能を使うことができるであろうか?──最悪の想像をすれば、周瑜に乗っ取られるおそれもある。そう思ったとき、彼の眉が曇ったのである。だが、そのあとで、次男の孫権のことを、彼は思い出した。
(策一人では、周瑜を使いこなせないかもしれぬが、権がいた。策と権と二人そろえば、周瑜の才能を操縦し、それを抑えることもできるはずだ)
そう思い直して、やっと安心したのである。
十五歳の少年のくせに、周瑜は孫堅に重要なヒントを与えたのである。相手の欠点をつくということ。
「軍糧、軍需品の借用を申し込めば、南陽太守はことわるであろうな。……」
孫堅は誰にむかってともなく、天井を仰いで言った。
「それで名目ができますね」
と、周瑜は言った。
討董連合軍に加盟した以上、協力を渋る者は敵とみなさねばならない。敵は斬りすてるべきなのだ。軍糧提供を拒否されたなら、討つべき理由はじゅうぶんだ。
「それからさきだ。……」
孫堅はやはり、周瑜を相手にしているのではなく、ひとりごちるように言った。
「けちん坊は欲張りでございます」
周瑜も、あるじの真似をして、そっぽをむいて言った。
「もっとしゃべれ」
孫堅も天井をむいたまま言った。少年にいろんなことをしゃべらせて、なにかヒントをつかめば儲《もう》けものである。
「また風姫を舞わせるのですね」
と、周瑜は言った。
「なんだと?」孫堅は天井から、やっと視線を戻して、少年をにらみつけた。──「おなじことを、二度とやっては効果が薄れる。……おい、策、弓の手入れなどはどうでもよい。すこしはこちらの話をきけ」
武芸は好きだけれども、兵法にはあまり関心のない長男が、孫堅には歯痒くてならないのであった。
(しっかりしないと、孫家は周瑜に乗っ取られるぞ!)
どやしつけたいほどであった。
「おなじことのくり返しではありません」
と、周瑜は言った。
「では、なんだ、風姫の舞いは?」
「神託をもとめる舞いではありません。病気|治癒祈祷《ちゆきとう》の舞いです」
「病気? 誰の?」
孫堅は身をのり出していた。
魯陽《ろよう》に袁術《えんじゆつ》の軍がいた。
反董連合軍の盟主袁紹の従弟である。
孫堅の当面の目標は、魯陽の袁術軍と合流することであった。
魯陽へ行くまでの途中に、日和見《ひよりみ》をしている張咨の居城南陽がある。
友軍と合流するにしても、勢いよくやりたいところである。のちのちのためにも。
孫堅は軍糧の調達を、張咨に申し込んだ。
──綱紀《こうき》(家老)に問うたところ、おなじ州管内の太守には、軍糧調達のしきたりはないとのことであった。
という理由で拒否されたが、これは予想どおりであった。たしかに遠方から来た軍には、軍糧を提供する必要はあろうが、近隣からの軍隊は、それぐらい自分で用意すべきなのだ。
軍糧をことわられたあと、孫堅の軍は南陽城外に駐屯《ちゆうとん》したまま、出発しようとしない。
南陽城でも、警戒を怠らなかったのはいうまでもない。
だが、どうもようすがおかしい。
そのうちに、南陽大守のもとに、
──孫堅病む。
という、未確認情報が伝えられた。
やがて、この情報がどうやら正確であるらしい、という裏づけが相ついでもたらされた。なかでも決定的なのは、大規模な病気平癒祈祷がおこなわれるというしらせであった。
風姫が舞うという。
南陽は現在の行政区画からいえば、すでに河南省だが、水路の所属からすれば楚といってよい。そんな関係もあって、この地にも風姫の信者が多い。
しかも湖南地方とちがって、めったにその教祖の姿を見たことのない信者である。したがって、風姫が祈祷の舞いをするときいて、熱狂する者がすくなくなかった。
噂は事実となった。
南陽の信者は狂喜し、彼らの熱狂は非信者にも伝わり、城外の広野でおこなわれた公開の祈祷には、おびただしい人が集まった。
平癒祈願の舞いは、神託を乞う舞いよりは、優雅であった。神に熱意を示すだけであって、神がかりになる必要はない。
風姫のうごきは、ゆるやかであった。託宣のときは、衣服は風にうなりを生ずるかのようにはためいたが、祈願では軽やかにゆらめくていどにすぎない。それだけに、人びとをしんみりさせた。
しずかに舞うので、顔がよく見えた。その美貌に人びとは魅《み》せられた。
──おお、神女である。……
そんな呟きをもらす信者もいた。
神女に偽りはない。
彼女が神に平癒の祈願をするからには、長沙太守孫堅は疑いもなく重病の床にあるはずなのだ。
──そういえば、全軍にどことなく愁いの色が漂っておった。……
南陽太守張咨は、ほっとした。
軍糧拒否によって、一騒動あるかもしれないと、半ば覚悟をきめて、孫堅の出方を待っていたところである。ねばり強く交渉し、最後には、すこしぐらいの軍糧は出さねばなるまい、と予想していた。その相手が、天に救いをもとめるほどの重病である。
そればかりではない。──こんなうまい話はない、という話がもちこまれたのだ。
──孫堅の病《やまい》は篤《あつ》く、彼はすでに後事を託すことを考えている。継嗣の策はまだ十五歳で、成年に達するまで、後見が必要である。それに五万の大軍がいる。これらを誰に託すべきか? たまたま軍は南陽にさしかかった。ここはやはり、同じ州管内の太守にすべてを託すべきであろう。
孫堅がそんな意向であるということが、張咨に伝えられた。きわめて信ずべき筋からの話であった。
「五万の兵か。……」
張咨の頬は、しぜんに盛りあがった。
けちん坊の欲張りである。この乱世に最も頼りになるのは兵力であった。それに、莫大《ばくだい》な武器や輜重《しちよう》。──それらが、労せずしてころがりこんでくる。
「確かなことだな?」
彼は情報をもたらした者に念を押した。
「九分通り、まちがいございません。あとは相手の好感を得れば……」
「わしは、あまり好感をもたれてはおらんだろう。なにせ、軍糧の調達を、にべもなくことわったのじゃから。……あのとき、言葉を濁すていどにしておけばよかった。……」
「まだ遅くはありません。たとえば、病気見舞いという手もあります」
「おお、そうか。……うん、見舞いに行こう」
張咨はにこにこしていた。とても病気見舞いに行くような顔ではなかった。
その直後に、情報担当の信頼できる士官が、孫堅軍のようすを報告した。
──軍を挙げて震惶《しんこう》し、巫医《ふい》を迎え呼び、山川を祷祀《とうし》す。
というから、もう危篤《きとく》に近いのかもしれない。
(孫堅が生きているうちに、ちゃんと引き継ぎをしておかねばならぬ)
そのためにも、急いで見舞いに行くべきであった。見舞いの品を、至急ととのえたが、けちん坊の彼にしては、ずいぶんはずんだものである。
(反感をもたれてはならない。……)
そんなふうに気を使って、供の人数もできるだけすくなくした。歩騎五百。──太守同士の公式訪問にしては、これはすくない人数である。そのうえ、ことごとしい武装はやめることにした。
孫堅の本陣は、しずまり返って、愁《うれ》いにとざされているかにみえた。案内の将校も、うつむき加減で、うちしおれているようだった。
張咨は孫堅の病室に案内された。
扉《とびら》をあけると、ひろい部屋に寝台が一つだけおかれ、孫堅がそこに横になっていた。ほかには誰もいない。
このようなとき、供を伴わずに入るのが礼儀であろう。相手も一人なのだから。
張咨は部下を病室の外に残し、一人でなかにはいった。
張咨が寝台のそばまで来るのを待って、孫堅は蒲団をはねのけて立ちあがった。手には抜き身の長剣が握られていた。
「やっ!」
と、張咨は一歩とびさがった。しかし、孫堅は撃剣の名手である。その白刃の攻撃圏外に、張咨は出ることができなかった。
剣をふりおろす前に、孫堅はひとこと言った。──
「この吝嗇漢め! おのれは、十五の子供の考え出した計略に、まんまとひっかかりおったわ。その欲が身に災いしたぞ!」
こうして孫堅は南陽を抜き、魯陽で袁術と合流した。
袁術は孫堅に、
──破虜《はりよ》将軍
の称号を与え、豫州刺史に任命した。
天子はすでに長安に連れ去られている。だから、これらの称号や叙任は、実力者が勝手におこなったものである。
孫堅は魯陽に駐屯した。かなり長期にわたってである。陳潜が孫堅を表敬訪問したのは、この時期であった。
身分のない陳潜のような者が、太守クラスの人に会うには、黄金をつかわねばならない。陳潜も用意していたのだが、それは献上せずにすんだ。
──白馬寺の者。
と名乗っただけで面会を許してもらえた。
景妹《けいめい》との縁談のゆかりがある。
「景妹の病気はどうじゃな?」
まっさきに孫堅は訊いた。
「見た目には元気でございますが、医者はまだ慎重にせよと申されます」
と、陳潜は答えた。
「南陽城外のわしのように、まさか仮病ではあるまいな?」
「滅相もございません」
「はっ、はっ、はっ……」
話ははずんだ。
孫堅のほうでも、曹操の人間を知りたがって、陳潜にこまかい質問を浴びせた。
そのころ、曹操が兵隊集めに苦心している、という噂が伝えられた。その噂は、おそらく事実であると思えた。
曹操は揚州へ、兵を借りに行った。
現在の揚州市は、南京の東方だが、後漢の揚州刺史は南京の西方に駐在していた。現在の安徽《あんき》省和県である。
揚州刺史の陳温と丹陽太守の|周★[#日+斤]《しゆうきん》が、曹操に四千の兵を貸したが、それが途中で造反をおこし、宿舎に火をかけて逃げたという。手もとに残ったのは五百だけという話である。
「苦労しておるのう」
と、孫堅は言った。荊州で三万の兵を得た話などをきけば、曹操は歯がみするにちがいない。
「破虜将軍は、ご運が良うございました。……それでも曹操さまにしても、このたびのご苦心が将来に役立ちましょう。長い目でごらんにならねば……」
「わしは長い目で見ておる。いつもだ……」
「さようでございますか」
「乱世はまだつづく。あと何十年もつづきそうな気がする。わしはむしろ、つぎの世代に望みをつないでおる。息子たちの時代じゃ。親の口から言うのもなんだが、わしには武勇にすぐれた子もおれば、智謀に長《た》けた子もいる。その子らを助けて大軍師になるに相違ない少年もいる。……彼らがやるだろう」
「破虜将軍さま、あなたはまだお若いではございませんか、たしか、曹操さまよりお年は一つ下のはず」
「それでも、なんとなくつぎの時代を考えてしまう。年であろうな……」
「三十の半ば。……面妖《めんよう》でございます」
「わしも自分ながら、こんな心境になるのが面妖で仕方がないのじゃ」
二年後に、孫堅は戦場に仆《たお》れるが、このころから予感があったのだろうか。しきりに、つぎの世代の話をした。
「洛陽一番乗りは、やはり将軍さまでしょうね」
と、陳潜は話題を変えた。
お世辞ではない。陳潜はむしろ曹操びいきである。だが、兵力不足に悩み、痩《や》せるおもいで自ら募兵|行脚《あんぎや》にまわり、やっと集めた四千の兵にも逃げられるいまの曹操では、チベットの精兵を中核とする、董卓軍の壁を破って洛陽に突入することは不可能だ。それにくらべると、孫堅は五万の大軍を擁している。
「洛陽そのものにはあまり執心はせぬ。わしの相手は、城ではなく、董卓という人間ぞ」
と、孫堅は言った。
「ほう、人間でございますか」
「そうじゃ、わしはあくまで人間を相手とする。人間だけを」
「鬼神、天仙との相手は、もっぱら風姫さまにおまかせになっておるのでございますな」
「いや、風姫の相手も、つまるところ、やはり人間であるぞ」
「手前にはよくわからぬ理屈でございますが」
「白馬寺にいても、わからぬのか」孫堅は笑った。──「あの小心者の曹寅は、腹心の部下と相談しおったのじゃ。光禄大夫名義の檄だけでは、わしが王叡を殺さぬかもしれんと心配してのう。……ところで、曹寅のいる武陵にも、風姫の信者が多い。曹寅側近の信者が、うまいことを考えた。風姫のもとに密使を送り、王叡誅殺の神託を下すように頼んだのじゃ。多額の献納金があったのはいうまでもない」
「それが、どうしておわかりですか?」
「風姫がわしにもらした。……おっと、こんなことを言っては工合が悪いかな?」
「いえ、ご存知のように、白馬寺の者は、口が固うございます」
「わしもそう思って、つい口にしたのじゃ。まぁ、言い出したことだから、最後までしゃべってしまおう。……じつは、わしは風姫におなじことを頼みに行ったのじゃ。いや、命じに行った、というべきであろう。三万の兵が欲しくてのう。……もし十万の兵で三万の兵を併せるのであれば問題はない。二万で三万を併せるときは、古参組に動揺がおこる。それをしずめねばならぬ。我が軍にも風姫の信者が多く、王叡の軍にも多い。風姫のもたらした神託とわかれば、両者とも衝動がすくなく、早く融け合うことができよう。……それで彼女にそう命じたところ、同じ依頼が曹寅のところから来ていた、と白状しおったのじゃ」
孫堅は言い終えて、庭のほうを見た。
宿舎の扉はあけ放たれていた。陰暦三月はもう夏が近い。
井戸のそばに女のすがたが見えた。
女は水を汲《く》んだ桶《おけ》を、片手にさげて歩きだした。途中で立ちどまって、彼女は手の甲で汗をぬぐった。顔がこちらにむいたが、それは風姫であった。──人間の女にちがいなかった。
風姫が立ち去ったあと、いれかわりに一人の若い長史が庭にあらわれて、ひざまずいた。長史は太守の軍事補佐官である。若い人を使うのは、孫堅の趣味といってよい。
「なにか情報が入ったのか?」
と、孫堅は訊いた。その長史には、情報を集める任務を与えていたのである。
「血なまぐさい情報ばかりでございます」
「誰が殺された?」
「大傅《たいふ》(三公以上の筆頭重臣)の袁隗《えんかい》、太僕《たいぼく》(馬政長官)の袁基をはじめ、洛陽在住の袁家一族、ことごとく董卓に誅殺されました」
「子供もか?」
「はい、長幼を問わず五十余人」
「そうか。……」
袁紹が反董卓連合軍の盟主になったのだから、董卓は腹いせに、自分の支配下にある袁家の一族をみな殺しにしたのである。
「酸棗では劉岱《りゆうたい》が橋瑁《きようまい》を殺しました」
「仲間割れか。……」
劉・橋両人の不仲は、周知のことだが、隣接して陣を張ってから、反目はつのり、ついに血をみたのである。
「酸棗十余万の諸軍は四散しつつあります」
「そうであろう。……董卓の思う壺《つぼ》だ。今年じゅうには、洛陽は落ちぬだろう」
孫堅は湿った声で言った。
戦わず、動きもしない大軍は、かならず内訌《ないこう》をおこすものなのだ。
「曹操さまは、どこにお帰りになるのでしょうか?」
陳潜はそれが心配であった。
「袁紹のところにきまっておる。わしのところに来るわけはないではないか」
と、孫堅は言った。
作者|曰《いわ》く。──
南陽太守張咨の死については、正史『三国志』は、孫堅が張咨を宴会に招き、その翌日、張咨が答礼に出かけたところで逮捕、斬殺されたとなっている。重病をいつわり、軍団を譲るともちかけ、見舞いに来たとき、
──卒然と起《た》ち、剣を按じて咨《し》を罵《ののし》り、遂に執《とら》えて之を斬る。
とあるのは『呉歴』という本の記述である。
正史の『三国志』にも、註のところで、この異説が紹介されている。
宴席で政敵を斬るのはよくあったことで、史記で有名な『鴻門《こうもん》の会』などは、未遂のケースとして代表的なものだった。したがって、公式訪問では、双方とも警戒を重ねるのがふつうである。軍糧の提供を拒絶しているので、なおさらであろう。しかも、場所は張咨の縄張りであった。おなじみの手で、むざむざと殺《や》られるほど張咨は愚鈍であったのか? やはり『呉歴』のように、ひとひねりしたトリックがあったと解したい。
孫堅は兵法書『孫子』の著者孫武の末裔《まつえい》と称していたが、曹操がその『孫子』の註釈家であったことも、因縁といえば因縁であろう。
現在に伝えられている『孫子』のテキストは、曹操の註したものだが、通俗三国志で悪役にされた曹操のことだから、
──『孫子』にかこつけて、自己流に改竄《かいざん》したのであろう。いや、ぜんぶが曹操の手になる贋作《がんさく》かもしれない。
と疑われたものである。
最近、山東省|臨沂《りんき》県の前漢初期の古墓から、『孫子』など兵法書の竹簡が出土され、それが曹操註の現存テキストとほとんど同じであることが判明した。
古典改竄者、古典偽造者の容疑が、千数百年ぶりに無実と証明されたのは、曹操のためにめでたいことである。
──殺してやる。
という口癖がもとで、孫堅に囲まれ、黄金を飲んで自殺した王叡は、右の竹簡を出土した臨沂の出身であった。これもなにかの因縁かもしれない。
黄金を飲んだおかげで、来世どんな富豪に生まれたか知るよしもないが、彼の一族は富み栄え、魏晋《ぎしん》六朝時代、
──琅邪《ろうや》の王氏
といって最高の名門とされた。臨沂は琅邪郡に属していたのである。
真冬の池の厚い氷を割って、母親のために鯉《こい》を食べさせた、おなじみ『二十四孝』の一人である晋の王祥は、この王叡の甥《おい》(弟の子)であった。
[#改ページ]
蜀道《しよくどう》を行《い》く
話をきいているうちに、劉焉《りゆうえん》はなんども膝をのりだした。
(話もずいぶんおもしろい。……)
彼は心のなかでそう呟《つぶや》いた。
話をきかせてほしいといって、少容を邸に呼んだのである。だが、目的は話をきくよりも、彼女の顔を見ることにあった。それなのに、口実にすぎない話に、けっこう興味をそそられたのだった。
少容は道教教団『五斗米道』の教祖|張衡《ちようこう》の未亡人である。現在、教団の主宰者は彼女の息子の張魯《ちようろ》ということになっている。張魯はすでに二十六歳になっているが、教団の運営は、まだまだ母の助言に頼っているという。
四十をすぎたはずなのに、少容はうつくしい。妖《あや》しいまでにうつくしい。
(この女に会えただけで、益州に来た甲斐《かい》はあった)
劉焉はそうおもった。
益州は現在の四川《しせん》省である。唐代以後は成都府と称された。みやこ洛陽からはずいぶん遠い。董卓が長安に遷都したが、それでも益州は辺境である。
中原では戦雲垂れこめ、風塵|起《お》こることしきりであったが、遠い益州には正確な情報はあまり入ってこない。
ところが、五斗米道の関係筋は、各地の信者同士に連絡があるのか、益州刺史の劉焉よりも、情報網がしっかりしているようだった。
「五斗米道であつめた情報を、ぜひきかせていただきたい」
劉焉はそう言って少容を招いた。
中原でもさまざまな風説がみだれとんでいる。
洛陽を中心にした、限られた地域に、天下の諸豪が犇《ひしめ》き合っていたのだから、彼らのあいだの集合離散や感情問題について、さまざまな組み合わせの風説がうまれるのも、とうぜんであろう。
根も葉もない流言|蜚語《ひご》もあれば、真相を衝いた話もあった。
誰かが故意に流した謀略であったり、恐怖から出た妄想であったり、希望的観測であったりした。
少容はそれを、じつに要領よく仕分け、歯切れのよい解説を加えた。──
酸棗《さんそう》県に布陣した諸将軍のあいだの不和についても、
──劉岱《りゆうたい》と橋瑁《きようまい》の仲が険悪である。
という噂については、少容ははっきりと事実にちがいない、と断言した。
これはあとで証明された。|★[#六+兄(六が上で兄が下)]《えん》州刺史の劉岱は、東郡太守の橋瑁を殺してしまったのである。橋瑁はこのたびの董卓追討の檄文《げきぶん》をつくった人物であった。
──袁術と孫堅はうまく行っていない。
という風説を、少容は劉焉に紹介したけれど、
「これはおそらく事実ではないでしょう」
と、つけ加えた。
軍閥は戦争で膨張する。
董卓討伐のために、洛陽周辺に兵を進めたのは、黄巾軍との戦いで、どうやら軍団らしいものを持ったばかりの連中である。どれもこれも、どん栗《ぐり》の背くらべといってよい。これから軍事力増強の競争がおこなわれる。
孫堅は長沙から北上し、途中で荊州刺史の王叡《おうえい》と南陽太守の張咨《ちようし》を殺し、魯陽《ろよう》で袁術の軍と合流した。
相手の軍兵を奪う。──これは最もストレートな兵力増強の方法である。そのほかに、盟約関係によって、勢力を拡張する方法も併用しなければならない。
これまでの道中のように、人を斬って兵を奪うことを、あまりくり返しては、警戒されて盟約を結びにくくなる。二度やったのが限度であろう。孫堅はこれから、他人と協力もできる人間であることを、天下に印象づけねばならない。
「だから、しばらくのあいだは、どんなことがあっても袁術と友好関係を保つでしょう」
と、少容は言った。
「ま、そういうことになるだろうな」
劉焉はうなずいた。彼は目を細めている。相手を長いあいだみつめるには、大きく目をあけていては都合がわるい。視野の上部に、隈取《くまど》りのように、まぶたやまつげの翳《かげ》がかぶさると、少容のうつくしさが、一段と深まって見えた。
「董卓討伐軍の盟主袁紹と、従弟の袁術が不和だと申しますが、これはありうることだとおもいます」
少容は中原にいる陳潜からの報告をもとにして、劉焉にさまざまな情報をきかせた。
「従兄弟だから、気が合うとはかぎらない。袁家のことじゃからな。……」
劉焉はおもわず身をのりだした。
いつのまにか、目を大きくあけている。相手を凝視しても、面|映《は》ゆい気持は薄れていた。話にひきこまれたからである。
(このわしが中原にいたとすれば……)
甲と結んで乙を撃ち、丙の軍を奪い、丁と連合するとみせかけて、不意を襲う。……
こちらから仕掛けるばかりではない。いつ何者に仕掛けられるかわからない。──深慮遠謀、そして緊張の連続であろう。
彼は手を握りしめていた。
「刺史さまは、そのような権謀術数、集合離散をお嫌《きら》いになって、このような辺境に志願しておいでになったとききましたが?」
少容は話題を変えた。
「そのとおりじや」
劉焉は俗世に超然とする、さわやかな人物を装った。──彼は天下の覇権《はけん》争いに、無関心なのではない。
それどころか、大いに色気があった。ありすぎるほどあったといってよいだろう。
ただ彼は自分の才能を知っていた。
いま中原におれば、もみくちゃにされてしまう。覇権争いに、早くから脱落すればまだしも、わるくすれば、命をおとすかもしれない。
戦線がもっと整理され、おおぜいの脱落者が出て、準決勝戦あたりまで勝ち進んだ連中もへとへとになったときに、やおら乗り出して行こう。──劉焉が益州へ来たのは、そんな魂胆《こんたん》があってのことなのだ。
「では、なぜわたくしから、中原の情報をおききになるのですか?」
と、少容は訊《き》いた。
「なにも知らないでは、ほんとうに田舎者になってしまうからね。それにわしには、五斗米道ほどの筋がない。中原のことが耳に入ってくる筋道が。……」
劉焉はまた嘘をついた。情報集めには、彼は狂奔している。ただ五斗米道の情報のほうがすぐれているので、それをもとめたのにすぎない。
「情報の通る道もあれば、軍隊の通る道もあります。刺史さまが、この蜀《しよく》の地を別天地とお考えになっても、中原とは通じているのでございます。道のあるかぎり」
少容の口調が変わった。単調で、間のびした声。──だが、それが劉焉の胸にずっしりと重くのしかかった。
(ここで天下の形勢を観望するつもりでいたが、誰かが攻めてくるかもしれない)
その可能性を、少容が抑揚のない声で口にしたのである。彼女はおなじ口調で、言葉をつづけた。──
「この蜀の地と中原とをつなぐ道は、狭い桟道《さんどう》です。道をとじさえすれば、ここは別天地になります……」
少容は教団に帰って、自分の部屋にひきこもった。彼女は鏡を手にとって、そこにうつった自分の顔をみつめている。ながいあいだみつめた。──
──お年をとりませぬ。ふしぎなこと。
──皺《しわ》ひとつございませぬ。
──どうみても二十代としか思えませぬ。
信者たちのそんな言葉が、彼女の耳朶《じだ》によみがえる。彼女は心のなかで、それに答えるように呟く。──
(いつまでもそんなわけにはいかない。……顔にはまだ皺はできていないが、心はもう皺だらけ。……)
彼女は鏡を下におき、そばの小碗をとりあげた。そのなかには、どろりとした、乳白色の液体がはいっていた。
彼女はそれを口もとにもってきて、すこしためらったのち、一気に飲み干した。
それは薬であった。
その秘薬の効能を、彼女はよく知っている。
不老薬というが、じつは膚《はだ》に皺をつくらないだけである。しかも、それは彼女が女としての生理をもっているあいだしか効かない。
(もうあと何年もない)
少容は四十をすぎてから、焦りをおぼえはじめた。
肉体の表層部の老化だけを、無理な方法で抑えてきた。その抑えがきかなくなれば、衰弱の速さは、目を覆《おお》わしめるものがあるにちがいない。
(そんなすがたを、人の目にさらしたくない)
彼女はそう思った。
楚の名|巫女《みこ》である鑑姫《かんき》は、このごろではもう誰にも会わないという。もっぱら娘の風姫が、彼女の代役をつとめているそうだ。
少容も自分が人びとの前に立つ時間が、のこり少なくなったとかんじている。
ゆっくりしておれない。おんなであるあいだに、しなければならないことがあるのだ。
五斗米道の基礎を、できるだけかためておかねばならない。乱世の民衆のために、五斗米道こそは、たましいのよりどころでありたい。西天のほとけの慈悲のおしえをとりいれたいま、教団の拡張の前の基礎づくりが大切である。
そのためには、中原の戦乱が、この蜀の地に及ぶのを、食いとめねばならない。
ここが別天地になることが、五斗米道のためには理想の状態である。とはいえ、それは彼女の独力でははたせないことなのだ。
政治の権力者の力を借りなければならない。
そこで、少容はこのところ、益州刺史の劉焉に、精神面で圧力を加えている。
戦争慣れした中原の実力者が、いつ血に狂って蜀の地を侵すか、予測できない。──彼らが押し寄せてくれば、劉焉はこの地を支えることはできないであろう。とすれば、いまのうちに、中原に通じる道を、遮断《しやだん》するにしくはない。……
劉焉は少容が立ち去ったあと、しばらく天井の一角をみつめていた。そこに、少容の面影がぼんやりとうかぶ。
(彼女をよろこばせてやりたい)
彼はそう考えていた。
少容はめったに笑顔をみせないが、いまうす暗い天井の隅で、彼女のまぼろしは、にっこり笑ったようにみえた。
劉焉は彼女の息子に官職を与えようとして、ことわられたことがある。
──定員のきまっている、そのような地位には、やはり家の子郎党をおあて遊ばせ。
と、少容は言ったそのとき、たしか彼女はほほえんでいた。
(そうだ、彼女はことわったのではない!)
劉焉はとつぜんそのことに気がついて、背筋をのばした。彼女のまぼろしはもう消えた。現実に戻ったのである。
定員のきまった官職はおことわりだが、そうでないもの──新しい官職ならよいのではあるまいか? そういえば、さきほども少容は中原の情報として、有力者が勝手に新しい官名をつくって、部下を任命している話をした。
──孫堅に殺された王叡《おうえい》の後任として荊州刺史になった劉表《りゆうひよう》は、新たに綏民校尉《すいみんこうい》(民を安んじる武官)という名の官職をつくりました。もう朝廷にお伺いをたてることはできませんから、地方の長官は独断してもよろしいのですね。……
劉焉は彼女のそんな話をきいたとき、
(なまいきな劉表め。おしだしがよいのと、社交上手なだけがとりえのくせに)
と、舌打ちをしただけである。
劉表は長身の偉丈夫で、各地の俊才たちと交際し、『天下の八俊』の一人にかぞえられるようになった。
じつは劉焉も劉表も、前漢景帝の子の、魯恭王の後裔《こうえい》である。魯恭王はもう三百数十年もむかしの遠祖で、その子孫といっても血縁の実感はほとんどない。それどころか、この二人は競争意識のほうが強かった。
(よし、おれも少容の息子を校尉に任命してやろう)
相手が帰ったばかりなのに、劉焉はあとを追うように、五斗米道教団へ馬を走らせた。
「校尉ではあまりにも格が高うございます。私の息子はまだ弱輩ですので、その次官あたりがせいぜいでございましょう」
劉焉の来意をきいて、少容はそう答えた。
校尉は二千石の師団長級である。
その次官は司馬で、これは一千石の官であった。
「では、ひとまずご子息に司馬の官についていただこう。……新しい官名をみつけねばならぬが……」
「刺史さまはどのような字がお好きでしょうか?」
「わしは……そうだな、義という字が好きじゃ」
「では、督義司馬という官名にいたしましょう」
「お受けくださるか。それはありがたい。……督義司馬。りっぱな官名じゃな」
「もったいのうございます。これで、私たち五斗米道を目のかたきにしている人たちも、すこしは畏怖《いふ》することでございましょう」
「なに? おぬしの教団に敵意を持つ者が、この地にいたのか?」
劉焉には意外千万なことであった。
この夢のようにうつくしい女性の率いる教団に、何者が敵意をもちうるのか? そのような者は人間とはいえない。──
「世の中には、さまざまな人がおります」
「その者の名をきかせていただこう」
「申し上げたとて、どうなることでもございませんので、ご容赦《ようしや》ください」
「いや、どうにかして進ぜよう。……かならず、お役に立ち申す。おっしゃられい」
「土地の豪族でございます。私どもが逃亡した農奴をひきとりますので、争いが絶えませぬ。……王咸《おうかん》さまや李権《りけん》さま……この人たちは、私兵を養っておりますので、私どももびくびくしております。倅《せがれ》が督義司馬にお取り立ていただきましたからには、すこしは風当たりも弱くなることでございましょう」
天下争いの終盤戦になってから割り込む。劉焉はそんな横着な戦術を思いついた。だが、そのためには、緒戦のころに、中原にいてはまずいのである。
実力に自信はなかったが、洞察力にかけては、劉焉は群を抜いていたといえる。中原から遠ざかることを、霊帝が死ぬ前、すなわち天下が本格的に麻の如くみだれる前に、すでに実行に移したのだ。
はじめ、彼は交阯《こうし》の太守か交州の刺史に任官することを希望した。交阯は現在の北ベトナムのハノイあたりである。武帝以来、漢の領土であった。
漢帝国の最南端まで行けば、中原の動乱も、めったに波及しないだろう。──劉焉はそう計算した。だが、息子たちが反対した。
──交阯まで行けば、動乱を避けることができるかもしれませんが、いざ中原に乗り込もうとするとき、あまりにも遠すぎるではありませんか。機会を失うおそれがあります。あまり遠方はいけません。
劉焉は、しかし、自分の意思をまげようとしなかった。
息子たちは相談し合った。
長男の劉範《りゆうはん》は、中郎将(二千石)の官にあり、次男の劉誕《りゆうたん》は法官である治書御史《じしよぎよし》、三男の劉璋《りゆうしよう》は奉車都尉《ほうしやとい》という皇帝側近の要職についていた。末子の劉瑁《りゆうまい》は父の秘書役をつとめていたが、思いあまって自分の師匠の董扶《とうふ》という老学者に相談した。
董扶はながいあいだ在野の儒者であったが、霊帝のときに召し出され、侍中《じちゆう》という枢密官に任命された。それは予知能力を買われたからである。
二世紀の末にあっては、超能力の予知者は人びとに信じられていた。個人差はあるが、劉焉は董扶の予言の絶対的な信者であった。
──劉瑁君、わかった、中原からほどほどに遠く、いざというとき、すぐに出馬できる土地だね。蜀のほかはない。父上を、そこへ行く気にさせよというのだね。ま、まかせていただこうか。……
董扶老人は、数日後、劉焉に会ったとき、
──この洛陽は、まもなくみだれます。私の見たところ、蜀の益州のあたりに、めでたい天子の気が漂っているようじゃが。……
と言った。
──さようでありますか。
劉焉は辛《かろ》うじてそう答えたが、心の動揺はかくしきれなかった。
信じてやまない予知者の董扶は、
──益州から未来の天子が出現する。
と言ったのである。
天子というのは誰であろうか?
董扶はそれを言わなかった。
魯恭王の子孫である、このおれであっていけないはずはあるまい。
劉焉は翌日から、さっそく益州行きの運動を進めたのだった。
益州では刺史の郤倹《きやくけん》の失政で、騒動がもちあがり、土地の馬相《ましよう》、趙祇《ちようぎ》といった連中が、『黄巾軍』と号して不満の人民をあつめて造反にたちあがった。馬相はみずから天子と称したが、州の幹部の賈竜《かりよう》たちが、至急、兵を集めて鎮定した。
(ツイている。じつにツイている。……)
益州に入ったとき、劉焉はそう呟いた。
造反がおこったので、益州の刺史を希望するライバルはいなかった。だから、彼の希望どおりのポストが、すんなりと得られたのである。
乱れに乱れていたはずの益州は、劉焉が着任する直前に、賈竜によって平定された。
劉焉は指一本うごかさずに、蜀の動乱をしずめたという業績をあげた。彼はこの幸運に興奮して、
(やはり、益州からたちのぼっている『天子の気』は、おれから放射されているらしい)
と思うようになった。
劉焉の胸のなかで、天子になるという、望みがめばえたのである。この希望はまことに大きかった。希望の大きさは、彼をいっそう興奮させ、熱狂させたのだった。
天子は自分の王国を持たねばならない。独立した王国である。
──中原からの道を絶つ。
このかんたんな作業によって、それが可能であった。そのあまりのかんたんさに、劉焉はいっそうエキサイトした。
(すべては、おれを天子に迎えるように、お膳《ぜん》立てがなされている。……)
努力しないのに運がひらけると、人びとはそれをたぐいまれな天の恩寵《おんちよう》と思い込む。
劉焉がそんな心理状態でいるところへ、少容が中原との道を封鎖して、別天地をつくることをすすめたのである。
もはやためらうことはない。
「漢中だな……」
と、劉焉は呟いた。
益州(成都)は、ふつう『蜀』と呼ばれ、ひろい意味では、現在の四川省ぜんたいを指す。大陸の内ぶところ深く、『三峡』の険で華中や江南とへだてられ、絶壁につくられた狭い『蜀道』の険によって中原とへだてられている。
中原から蜀道へかかるところが漢中である。
当時の記録には、漢中は戸数六万、人口約二十七万の郡で、郡中に九つのまちがある、としるされている。
蜀道を封鎖するには、中原からの入口にあたる漢中を抑えておかねばならない。
現在の漢中は陝西《せんせい》省に属しているが、後漢の地方制度では、益州の管轄下にあった。
漢中をどんなふうにして抑えるか。
益州の管轄とはいえ、刺史は地方長官の勤務評定をするだけで、郡の統治には直接タッチしないのがたてまえである。
ときの漢中郡太守は蘇固《そこ》という人物であった。
「漢中は五斗米道が盛んな地方だ」
劉焉はまた呟くように言った。
「張脩《ちようしゆう》にも司馬の官職を下されば、都合がよろしいかと存じます」
少容は言葉をひきのばしながら言った。重大なことを口にするとき、彼女はそんな言い方をするのだった。
「張脩に……」
劉焉の面上に、当惑の色がうかんだ。
太平道の黄巾軍が蹶起したとき、密使が蜀に米て、五斗米道に行動を共にすることを要請した。おなじ道教の教団として、東西で呼応すれば、はかりしれない力を生むだろう。
だが、東方へ状況観察に派遣した陳潜からは、
──太平道の黄巾軍は、おそらく天下を取れそうもない。
という見通しの報告が来ていた。
とはいえ、万一、太平道が天下を取ったなら、協力を惜しんだ五斗米道は、報復的な迫害を受けるだろう。
少容は苦肉の策を考えだした。
教団主宰者の地位を、二十《はたち》になった息子の魯に譲ったのである。そして、教団の長老級幹部の張脩が、それに不服で、自分の派閥を率いて、分派行動に出た、という形にしたのだ。五斗米道は二つに割れ、片方の張脩派が、太平道に呼応して、黄巾軍に参加し、若い張魯の率いる主流派は、体制側にとどまることになった。
黄巾軍の残党は各地に盤踞《ばんきよ》しているが、天下を取る力は失った。陳潜の見通しが、正しかったのである。
万一の場合を考えて、二つに割れた五斗米道も、そろそろまた統一しなければならない。
──おれは黄巾軍だ。やるぞ、やるぞ!
と、かけ声ばかり大きかった張脩一派も、なにほどのこともせずに、鳴りをひそめてしまった。
黄巾を名乗った張脩は、『賊』徒である。
その張脩に『官』の職を授けるのは、賊であったことを取消すことにほかならない。劉焉が渋い顔をしたのはとうぜんであろう。
「中原の黄巾軍も、自首して官軍に編入された例が多いときいております」
と、少容は言った。
「その話はよく耳にするが……」
「漢中の五斗米道信者は、たいてい張脩派でございますれば」
「なるほど、そういうわけか」
と、劉焉はうなずいた。
劉焉は自分の王国をつくるために、蜀道の入口の漢中を抑えなければならない。漢中太守蘇固を攻めて、その地を手に入れるためには、漢中で大きな力をもつ五斗米道信者の協力を得なければならない。漢中五斗米道は、張脩派とみられている。
「別部司馬に任命しよう」
と、劉焉は言った。
五斗米道教団本部の庭はひろい。垣《かき》の外にも花園があった。
──なぜ庭の外に庭があるのか?
益州に赴任したころ、劉焉は少容にそう訊いたことがある。
──刺史さまのお邸より大きな庭はつくれませぬ。
と彼女は答えた。
垣の外の花園もあわせると、教団の庭は刺史の邸の庭よりひろいことになるわけだ。
その花園のなかの、小さな亭《あずまや》で、少容は張脩と会った。
久しぶりであった。五斗米道の分裂は、八百長であったが、両派の頭目がひそかに会うことも遠慮しなければならなかった。黄巾の始まった中平元年以来だから、もう六年以上になる。
(よく辛抱できたことだ。……)
張脩は自分にむかって、そっと言った。
ほんとうは、会ったことはないが、ひそかに遠くから、少容の姿を見たことはなんどもある。偶然、見かけたのではない。かなり苦心して、彼女を望見できる機会をつくったのだ。それで、どうにか自分をなだめてきた。
(どうもおかしくなった。……だが、むりもない。こんなにそばまで来たのは六年ぶりだから。……それにしてもおかしい。……心が融けて行くようだ……)
張脩はむかしから、彼女に魅《み》せられていた。彼女の夫の張衡に仕えていた時代から、張脩の胸のなかには、彼女しか住んでいなかった。女を抱くときも、胸のなかの少容が、その女の肉体のうえに重ねられたものだ。
これまで張脩は、そんな自分の情念が外にあらわれるのを、理性の力でじっと抑えつけてきた。だから、少容にたいする思いは、誰にも気取《けど》られていないと信じていた。むろん当の少容にも。
ところが、いま、情念を抑えるはずの理性の力が、みるみる無くなって行くような気がするのだ。
彼はもう五十に近い。意馬心猿を制御できない血気盛りの男ではない。
それなのに、心が融けて行く。
(六年以上になるのだから……)
張脩は、少容と面とむかって会っていない歳月の長さのせいにした。
「相かわらずおうつくしい。……」
この言葉を口にして、張脩ははっとした。
おおぜいの信者が、少容にむかって、この言葉をささげたが、張脩だけはいちども口にしたことがない。
この言葉が蓋《ふた》をしていたのである。
蓋がとれた。──心のなかみが、こぼれ出る。
「あら、張脩さんの口から、はじめてききましたわ。ほ、ほ、ほ……」
少容は細い指を、唇のあたりに斜めにおいた。
その指のさきが、かすかに揺れている。
「これまでは、正直でなかったのです」
と、張脩は言った。
「まぁ、これは、なんとしたことでしょうか? 正直一途の張さんが……」
「いえ、私は嘘つきです。他人ばかりか、自分をも欺いてきました。……これからは、正直になりたいと思います。……よろしいでしょうか?」
張脩の言葉に、喘《あえ》ぎがまざった。
「おやまぁ……正直になるのに、わたくしの許可など、どうして要るのですか?」
「要ります。……要りますとも」
張脩はせき込んで言った。
「では、どうぞ、思う存分正直におなり遊ばせ。ほ、ほ、ほ……」
少容の小指が、唇のそばを匍《は》った。澄んだ水にうかぶ白魚のように。
「申しましょう。私は思い焦《こ》がれていたのです。胸が燃えるばかりに……少容さまに……むかしから……この胸の炎は、一日とてしずまったことはございませぬ」
張脩は熱にうかされたように、からだを小刻みに顫《ふる》わせて言った。
少容は立ちあがって、一歩身をひいた。
それに吸い寄せられでもするように、張脩も亭の椅子《いす》から腰を浮かした。
「少容さま、お逃げになるのですか?」
張脩の声はじっとり湿っていた。
「いえ、逃げはいたしませぬ」
「では……」
張脩は前に出た。
少容はしずかに目をとじた。
「いったい、これはどうしたことでしょうか? まるで夢のようです。……」
張脩はうわずった声で言い、夢遊病者のように、両手を肩の高さにあげ、一歩また一歩と少容に近づいた。
小さな亭のなかの向かい合わせの椅子は、五歩と離れてはいない。張脩の手はすぐに少容の肩に届いた。
少容はとつぜん、くるりとうしろむきになった。張脩は彼女を、うしろから抱えるような形になり、顔を彼女の耳に近づけた。
「少容さま、少容さま……」
と、かすれた声で女の名を呼んだ。
少容ははげしく首を横に振った。
「いけませぬか? 逃げないとおっしゃったのに」
と、張脩は苦しげに言った。
「いまはだめです。これから、漢中へ出かける大切なとき……みごと仕事をはたして、お帰りになってから。……そのときは、わたくし、けっして拒みはいたしませぬ」
「そうですか。……約束していただけますね」
「言うまでもございません」
少容は張脩の腕のなかで、またからだをまわし、男の懐《ふところ》に顔を埋めた。
「では、そのときまで……」
張脩は少容の背中を、狂ったように撫《な》で、少容の髪のなかに涙をおとした。
「では、御無事で、漢中からのお帰りを待っておりますわ」
少容はするりと張脩の腕から身を抜き、花園の小道を小走りに教団の建物のほうにむかった。
張脩は亭のなかで、ぼんやりと立ち尽していた。
「どうして……こんなことになったのか。……どうして?」
彼はそうひとりごち、大きなため息をついた。
亭の背後の大きな梧桐《ごとう》の木のうしろに、もう一人の男が、もれそうになるため息をこらえていた。──益州刺史劉焉であった。
陝西から四川に通じる道は、斜谷《しやこく》、閣道《かくどう》、桟道《さんどう》などと呼ばれる。絶壁につけられた狭い危険な道であった。
ああ 危ういかな 高いかな
蜀道の難きは青天に上《のぼ》るよりも難し
唐の詩人李白が『蜀道難』という歌をつくり、右の句で始めた。日本の唱歌『箱根の山』も、この李白の蜀道難から、
一夫 関に当たれば
万夫も開《ひら》く莫《な》し
の二句を引用した。
その蜀道の険を、ひたひたと一団の男たちが行く。──
別部司馬に任じられ、賊から官になった張脩がそのなかにいる。五斗米道の御曹司《おんぞうし》の張魯のすがたも見えた。
劉焉の末子で、名剣士と謳《うた》われた十八歳の劉瑁もいた。彼も別部司馬、すなわち中級将校の肩書をもっていた。
めざすは漢中太守蘇固の邸である。
七盤関を越えて東北にむかい、漢江の飴《あめ》色の流れが見えはじめると、もう漢中は指呼の間にある。
天下騒然として、漢中太守も彼なりに防備に努力はしていた。だが、群雄の横行する長安や扶風《ふふう》あたりから、南下する敵を、おもに念頭においていたのである。蜀道の険を北上してくる敵にたいする備えは、ほとんどしていなかった。天然の険路に頼りすぎていたのだ。
みごとな奇襲であった。
張魯の指揮する六百の軍兵が、太守の邸を包囲し、別部司馬張脩と劉瑁の率いる三百の精兵が邸内に乱入したのである。
太守邸には百余人の兵しかいなかった。
「わしに斬《き》らせよ!」
太守蘇固が、兵卒たちに引き立てられて来たとき、張脩はそう叫んだ。彼は人が変わったように凶暴であった。もっぱら背をむけて逃げる兵を、うしろから斬った。血刀をひっさげ、目を血走らせて。
「よかろう。年長者に功を譲ろう」
若い劉瑁は、ひややかに言った。
「かたじけない」
そう言って張脩は咳《せき》込んだ。
みごと手柄を立て、凱旋《がいせん》したあかつきには、少容を抱くことができる。その約束だったのである。
「わしが立ち会おう」
と、劉瑁は言った。
二千石の太守にふさわしい死場所を与えるのが、士大夫の情けである。
邸の奥に、なにやらあやしげな神を祀《まつ》る部屋があった。縛られた蘇固は、そこで殺してくれと要求したのだ。
その部屋に三人がはいった。
「ほう、かなりひろいぞ」
劉瑁はそこにはいって、ぐるりと見まわし、扉《とびら》をしめた。
「さぁ、殺せ!」
と、蘇固が喚《わめ》いた。
「われら両名は、ともに別部司馬に任じられた者、すなわち武官である。縛られた人間を斬りとうはない。正々堂々の勝負こそ、われらの望むところ、いざ」
劉瑁はそう言うと、剣を抜いて蘇固を縛っていた縄を切った。
「これは……」
両手が自由になった蘇固は、信じられないような表情をして、目をしばたたいている。
「われら武官は」と、劉瑁はちらと張脩のほうを見て、「武器をもたぬ人間を斬るのを恥とする。お貸し申そう」
「えっ、剣を……」
蘇固は劉瑁の差し出した剣を受取った。
奇態なことになった。だが、どうせ命はないのである。やれるだけのことはやってみよう。──蘇固は剣を握ると、やにわに張脩におどりかかった。
「うおーっ!」
張脩は祈祷《きとう》師である。にわか武官だが、剣の心得はない。ことに蘇固はやぶれかぶれの剣法であった。
受け損ねて、というよりは、相手の剣を受けることも忘れ、呆然《ぼうぜん》と立ったまま袈裟《けさ》斬りされ、大声で呻《うめ》くと、どさとその場に仆《たお》れた。
と同時に、劉瑁はすかさず蘇固にとびつき、手にした短刀で相手の脇腹をえぐった。
──さすがは大漢の太守、殺される前に死力を尽し、かくし持った懐剣で縄を切り、相手に襲いかかり、あい討ちとなった。……
劉瑁は味方の将兵に説明する言葉を、もういちど心のなかで復誦《ふくしよう》してから、扉をあけた。その言葉は、父の劉焉が彼に口うつしに教えたものである。
あまりにも奇襲があざやかすぎて、邸内から外へ逃げ出すことのできた者もいなかった。包囲軍の隊長である張魯は、なにもすることがなかったのである。
だが、それでも彼は劉瑁が出てくるまで、緊張しつづけていた。
じつは、彼はなすべき仕事をまだもっていた。母の少容から、
──五斗米道の再統一には、張脩を斬らねばならぬぞ。
と言われていたのである。
邸から出てきた劉瑁が、
「悲しいしらせがあります。……別部司馬張脩どのが戦死された」
と言ったとき、張魯は全身の力が抜けて行くような気がした。
そして、出発間際に母の囁《ささや》いた、
──おまえに斬られるまでもなく、張脩は誰かに斬られているかもしれないけれど。
という言葉を思い出したのだった。
漢中太守を襲撃しているあいだ、劉焉は蜀の地方の清掃を進めていた。
彼は天子となるために王国をつくる。その王国には、彼と肩をならべる者、あるいはその可能性のある人物の存在は許されない。
彼は豪族を、片っぱしから攻め滅ぼした。
「やはり、あの女はおれのために生まれてきたのだ。……あの女を皇后にしよう」
劉焉は真剣に、即位と皇后を立てることを考えはじめたのである。
彼が殺したいと思っている王咸や李権といった土豪たちを、彼女も滅ぼしたいと思っていた。──このふしぎな一致に、劉焉は瑞兆《ずいちよう》めいたものをかんじた。
この一致は、じつはべつにふしぎではなかった。
劉焉は俗界の王国を建てようとし、少容はたましいの世界の王国をつくろうとしたのだから。
どちらもたやすい事業ではない。
少容の王国は、俗界の王国のうえにかぶせることができる。だから、劉焉の王国建設に協力すればよかった。劉焉がこの蜀を独立の天地にすれば、五斗米道は揺れることもなく、着実にのびて行くはずだった。そして、基礎さえかたまれば、そのあとはすこしぐらいの揺れは恐れずにすむ。
といって、少容が劉焉を利用してばかりいたのではない。劉焉も大いに少容に助けられていたのである。
豪族や侠客《きようかく》の処刑がつづくと、
──劉焉横暴なり!
の声があがったのはとうぜんである。
「劉焉を討とう。さもなければ、こちらが討たれてしまう。漢中太守蘇固の運命をみよ」
|★[#牛+建]為《けんい》郡の太守の任岐《じんき》は、そう言って兵を集めた。
為郡は現在の四川省|宜賓《ぎひん》市のあたりである。長江(揚子江)が、岷江《びんこう》と金沙江に分岐する地点で、後漢の当時は戸数十三万七千、人口四十一万と記録されている。
任岐はこのまえの馬相、趙祇たちの反乱を平定し、いまは校尉に昇進した賈竜と結んだ。
★[#牛+建]為からまっすぐ北へ攻めのぼれば、益州刺史の駐屯《ちゆうとん》する成都である。
任・賈連合軍は、隠密裡《おんみつり》に兵を進めた。
夜間、行軍し、昼は民家に散って休息するという、慎重な作戦であった。
「おのれが漢中太守を攻め殺したように、こんどはおのれがみごとな奇襲で攻め殺されるぞ。いまにみろ」
任岐は負けるなどとは考えてもいなかった。
馬相の乱を鎮圧した賈竜も、自信にかけては任岐に劣らない。
「この陣容と、この作戦をもってすれば、負けるはずはない」
賈竜はそう断言した。
彼はひかえめな性格の将軍であった。めったに断言しない。
その彼がきっぱりと言うのである。奇襲軍の幹部たちは、はやくも戦勝後の論功行賞を話題にしはじめた。
現在の|★[#牛+建]為県は、後漢時代の郡よりだいぶ北にあるらしい。
だから、任・賈連合軍はそのあたりを通り、岷江沿いに北上し、峨眉《がび》山を左に見ながら進んだのである。
「山の字のつく地名が、これから三カ所ある。南から楽山、眉山、彭《ほう》山である。まず楽山で休養し、眉山で戦闘の準備をととのえ、彭山から一挙に益州まで進撃する」
賈竜はこの命令を、末端まで徹底させた。
岷江の谷を進む軍勢は、一万を越えていた。蜀地の戦いとしては、これは大軍団というべきであろう。
眉山をすぎて彭山に着いた。
まだ敵にさとられた気配はない。
「ときは来た! 暴虐の乱臣を誅殺《ちゆうさつ》せよ。天はわれらを佑《たす》く」
賈竜は全軍に命令を下した。
軍団はうごいた。
「進め、進め!」
任岐も声をかぎりに叫んだ。このあたりから勢いをつけて、一気に揉《も》み潰《つぶ》そうと思ったのである。もう夜も昼もない。
だが、ふしぎな現象がおこった。
軍団の兵員が、しだいに減って行くのである。はじめ気のせいかとおもった。しかし、それは目に見えて減るのだ。みるみる減って行く。
「なぜ痩《や》せるのだ?」
冷静な賈竜も、さすがに顔色をかえた。
たしかに軍団が痩せるという形容にふさわしい。
谷のまがり角、木立、草むら、部落──そんなところで、兵隊たちが消えて行くのである。
「やっ、敵だ!」
前方で先頭の将校が叫んだ。
右を指し、左を指している。
谷を囲む山のあちこちで、にょきにょきと兵隊のすがたがあらわれはじめたのだ。
「敵か味方か確認せよ!」
と、賈竜はどなった。
確認するまでもなかった。山上の兵隊の一人が大声でどなり返した。──
「おう、さきほどまで、おぬしたちと一しょに歩いておったわ。つまり味方じゃった。が、いまはそうじゃない。わかるかな? はっ、はっ、はっ……」
「うぬらは何者ぞ?」
任岐が呻くように訊いた。
兵は彼が集めたのである。
「五斗米道の者じゃわい!」
その男が答え終わると、赤い山肌を黒く染めた兵隊の群れが、大きく揺れた。波うつように山をくだりはじめたのである。
それが攻撃であることに気づくには、そんなに時間はかからなかった。
|★[#牛+建]為を出発したときにくらべて、三分の一ほどに減った部隊の後方で、大きなどよめきがおこった。
「火だ。……燃えあがったぞ!」
「兵糧《ひようろう》が燃える!」
「矢を積んだ車も……あれよ……」
兵士たちの悲鳴に似た叫びが、どよめきの合い間にきこえた。
「なに、輜重《しちよう》が焼かれた?」
任岐が天を仰いだときは、敵に変わった五斗米道の兵が、山から雪崩《なだれ》をうって、襲いかかってきたのである。
もはや逃れる術はなかった。
|★[#牛+建]為太守任岐と校尉賈竜は、このとき乱戦に死んだ。──
益州には九つの郡があり、そのうちの漢中と|★[#牛+建]為の両郡太守が命を失った。ほかの太守は、あわてて兵を解き、劉焉に逆らう意思のないことを示したものである。
「うぬ、無念なり! 五斗米道のやつばらにしてやられたとは!」
これが、武人賈竜の最後の言葉であったと伝えられている。
──焉《えん》の意漸《ようや》く盛んとなり、乗輿車具《じようよしやぐ》千余乗を造作す。
と『三国志』にしるす。
乗りものを造ってわるいことはないのだが、天子の乗りものにまぎらわしい鳳《ほう》や竜の飾りをつけたのである。
──劉焉に野心あり。
と言い出したのは、同族のライバル劉表であった。
詰問状をもった長安の朝廷の使者は、劉焉のところへ行き着けない。漢中で抑留されたり殺されたりするのである。
──なにしろ、漢中は米賊(五斗米道信者のこと)に占拠されておりますので。……
劉焉はぬけぬけとそう弁解した。
彼は五斗米道との同盟を、表面に出さないことにしていた。
蜀道を封鎖して、蜀に独立王国をつくるには、蜀道の入口を扼《やく》する漢中一帯が、自分の勢力圏に属していないことにしたほうが都合がよい。
少容の息子の張魯が漢中のあるじとなった。
劉焉の諒解《りようかい》をえてのことだったのはいうまでもないが、名目的には張魯が勝手に割拠した、ということにしたのだ。
──当方と連絡したければ、まず漢中の米賊を撃破していただきたい。
劉焉はそんなふうに居直った。
中原の戦事多端の折である。東で手一杯なのに、西にまで手はまわらない。長安の中央政府がそんな状態であることは、劉焉はよく知っていた。
長安ではついに、劉焉の息子で奉車都尉をつとめている劉璋を、蜀へ派遣することにした。さすがに漢中の張魯も、劉璋を抑留することはできなかった。
「どうぞお通り下さい。この漢中から蜀道まで、使者の方がたには、指一本ふれないようにさせますから」
漢中の邸に劉璋を迎えて、張魯はていねいに頭を下げてそう言った。
「あたりまえだ」
劉璋は会釈さえせずにそう答えた。
奉車都尉は天子の車馬をつかさどる。いわば侍従長である。三公九卿につぐ二千石の大官なのだ。無位無官の匪賊のごとき張魯など、眼中にないといった態度をとった。
(この馬鹿息子め。……)
張魯も相手を軽蔑した。
益州に着いて、劉璋は父に会った。
──もっと朝廷と緊密に連絡し、忠勤をはげむ証拠をみせてほしい。さまざまな中傷もみだれとんでいることだから。
劉焉は息子からそれをきいて、呵々《かか》大笑した。
「漢中に張魯がいてのう……」
「なぁに、張魯ごときになにができますか。げんに私も、漢中など無視して押し通ってきました」
「それは張魯の虫の居所がよかったのじゃ。なにしろ、彼は五斗米道の頭領だからな。彼らの力はあなどれないぞ」
「父上、それは買い被りではございませぬか?」
「いや、現場にいるとよくわかるのじゃ。……だいぶわしも助けてもらった」
劉焉はその例は挙げなかったが、漢中攻撃も、任・賈連合軍の撃破も、五斗米道の援助がなければ、あれほどの成功はおさめなかったことを知っている。
「私にはよくわかりませぬな」
「ここにしばらくおれば、しぜんにわかってくる。……いまにわかる」
「いまにわかるとは?」
「わしは、おまえを長安に帰すつもりはないのじゃ」
「えっ?」
「この地で、わしを助けてくれる手足が欲しい。瑁一人では心もとない。おまえがそばにいてくれたなら、この地に、ほんとうの劉家の天下ができる」
「それは父上……」
劉璋は思わずあたりを見まわした。
劉家の天下などという表現は、彼のこれまでの宮廷感覚からすれば、謀反につながるのである。
「なにをおそれておるか。……天下がみだれるのは、火をみるよりもあきらかではないか。いや、もうげんにみだれておる。おまえのいる長安は、何者の天下なのか? 天子は董卓に廃立された。誰もが、どこかに、わが天下をつくらねばならぬのだ」
劉焉の言葉に熱がこもってきた。
「とは申しても……」
「この蜀は」劉焉は息子の当惑には構わずに、言葉を継いだ。──「わしの天下のようにみえて、じつはそうではない。五斗米道の者たちと、山分けにしたようなところがある。この天下を、もっと確実なものにするために、息子であるおまえの力を借りたいのじゃ」
「父上のためならば……」
劉璋は心がうごいた。
長安の宮廷生活も、そんなにおもしろいものではない。天子の側近として仕えることに誇りをもっていたが、その天子は傀儡《かいらい》にすぎないのである。
「そうするがよい。このまま蜀にとどまるのだ。……長安に戻っても、ただの奉車都尉ではないか。ここにおれば……」
劉焉は言葉を切った。
(ここにおれば皇太子。……)
口に出して言わなかったが、息子の胸にはじゅうぶん通じたはずである。
「とりあえず、私たちの仕事は、五斗米道の者たちを消滅することですね?」
と、劉璋は膝をのりだした。
「ま、そういうことになるが、これは、かならずしも武力だけに頼ることではない。わしに秘策がある。それは近いうちに、おまえにも打ち明けるが、いまは伏せておこう」
劉焉は顎《あご》をあげた。
秘策というのは、五斗米道の実質的な主宰者である少容を、自分の妻にすることであった。劉焉の心の奥底の用語でいえば、
──皇后に立てる。
ということだが、長安から着いたばかりの息子に、いきなりそれを言うのは、さすがに遠慮したのである。
少容は五斗米道という、精神でつよく結ばれている大勢力の指導者である。彼女を妻に迎えるのは、たんに五斗米道を消滅させるのではない。五斗米道の勢力を、そっくり劉家のものにすることを意味した。
大勢力を背負っているばかりではなく、少容はたぐいまれな美貌《びぼう》のもち主である。二人の大きな息子がいるとは思えないほど若い。そのうえ賢明である。
(おれのために、この世に生まれてきた女だ。おれの女だ。……)
彼女のことを思い出すたびに、劉焉はそう考えた。
劉焉は息子から、長安の情報をきいたあと、
「洛陽はどうか? 董卓退治に集まった連中のことは?」
と、たずねた。
「確かな情報が入らないので、長安にいてもよくわかりません」
「おれはわかっておるぞ。洛陽はもう陥《お》ちたのだ。洛陽一番乗りは、やはり長沙の孫堅であったそうじゃ。董卓は洛陽をあきらめて、ひきあげたときく。いまごろは、もう長安入りをしているだろう」
劉焉は少容からきいた情報を、そのとおり口にした。
劉璋は驚いた。じつは彼が長安を発《た》つ直前に、洛陽陥落の噂を、最新の未確認情報として耳にしたばかりである。宮廷のまん中にいて、特別の情報ルートがあったので、はじめて知りえたことなのだ。それが、もうこの蜀の辺地に伝わっているとは、思いも及ばなかった。
「どうしてわかるのですか?」
「は、は、もっと新しい情報をきかせてやろう。今晩にな。……そういう話をはこんでくれる人間がいるのだ」
劉焉はその晩、息子に少容をひき合わせるつもりであった。彼女の卓絶した力量に、息子が感服すれば、『皇后に立てる』という計画がやりやすくなる。
(ひょっとすれば、この璋が少容に惚《ほ》れてしまうかもしれない。そうなれば、ちと面倒だが……)
彼はそんな心配までした。
だが、彼女を迎えに行かせた部下は、一人で帰って、
「不在でございました」
と報告した。
「ほう、彼女が外出するなど、めったにないことなのに。……ま、急ぐこともないが」
と、劉焉は首をかしげた。
翌日も、少容は不在であった。教団の者に訊いても、いつ戻ってくるか、よくわからないという。
そのころ、少容は蜀道を急いでいた。二十をすぎたばかりの次男の衛《えい》を連れて。
「母上、どうしても漢中にはおとどまりにならないのですか?」
張衛はなんどもくり返した問いを、また口にした。
──劉焉どのが独立王国をおつくりになれば、わたくしは蜀におれないのです。
彼女はそれ以上の説明はしなかった。
「蜀におれないのなら、漢中におち着かれたらよろしいのに」
「そういうわけには参りませぬ」
劉焉は天子になることを望んでいる。天子は彼に比肩できる存在を許さない。唯一の例外は、天子の后《きさき》になることだけである。少容は、そればかりはできない。
五斗米道の基礎づくりは、張魯の漢中支配によって、どうやら揺るぎないものになった。少容は自分の使命が、一応、これではたせたとかんじた。
──これから容貌が衰えて行く。……
少容は久しく忘れていた、おんなの性《さが》にめざめた。
絶世といわれたこの美貌の末路を、すくなくとも自分を知る人たちに見せたくはない。
「母はただ旅に参りたいのです。これまで、旅などしたことはありませんから。おまえは兄上のところで修行するのですよ」
と、彼女は言った。
「心配だなぁ。……母上、乱世ですよ。誰か頼って行くあてでもあれば、すこしは安心ですが」
若い張衛は心配そうであった。
「あてはあります。おまえもおぼえているでしょう、あの陳潜さんを」
少容はそう答えた。
知っている人に、衰えゆくすがたを見られたくないが、陳潜だけは別だという気がしているのだった。
「ああ、陳潜さんなら……」
張衛はやっと安心したようだった。
作者|曰《いわ》く。──
春秋戦国時代といっても、いつもどこでも戦争があったのではない。後漢末から三国時代にかけての、『三国志』の動乱時代でも、戦争のなかった地方はあった。
張魯が五斗米道の勢力でおさえた漢中と四川の重慶の一帯は、成都によった劉焉の息子劉璋と小|競《ぜ》り合いはあっても、ほぼ三十年の平和を保って、曹操に引き渡された。なお、劉璋は蜀の地を劉備に引き渡したのである。
戦乱がないのが魅力で、東方からおおぜいの人がこの地に移住したのはとうぜんであろう。
張魯も劉璋も、天下を狙う覇者ではなく、最後にはより大きな覇者に国を譲ることになった。これについては、あとでふれることになるはずである。
『三国志』にも『後漢書』にも、張魯が張脩とともに漢中太守蘇固を攻め殺し、そのあとで、魯が脩を殺して、その軍勢を奪ったと記す。
だが、清人の恵棟《けいとう》は、『華陽国志』に、
──蘇固の客に、遊侠の兵法者陳調や趙嵩《ちようすう》という者がいて、百余人の子分をひきつれ、張脩を攻め殺し、カタキを討った。
という異説が記されていることを紹介している。
張魯は五斗米道直系の頭領であり、張脩を殺してまで、その軍勢を奪う必要はなかったようにおもわれる。
『三国志』の注をつくった裴松之《はいしようし》は、
──張脩はおそらく張衡のことであろう。
と述べているが、それでは話が合わない。
張衡は少容の夫であり、張魯の父であった。
三国志の本文が、五斗米道の系譜を、
──(張)陵死して、子の衡が其の道を行ない、衡死して、魯、復《ま》た之《これ》を行なう。
と記しているので、魯が漢中で自立する直前に衡が死んだかんじになり、『父殺し』と解したのであろう。
だが、劉焉が少容に親しんでいた記述もあり、彼女が早くから未亡人だったと想定するほうがしぜんである。
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日《ひ》は没《ぼつ》す|★[#山+見]山《けんざん》の西《にし》
むし暑い日であった。
「夕顔のあの細い蔓《つる》さえうごきませんね」
陳潜は白馬寺の庭の隅に目をやって、手の甲で汗を拭いながらそう言った。じっとしていても、からだじゅうから汗がにじみ出る。
「天帝とやらが、風を送るのを、つい忘れてしまったのじゃあるまいかな」
白馬寺の客の康孟詳《こうもうしよう》が、そう言って青い目を大きく見ひらき、ふふ、と笑った。
垣根にからんだ夕顔は、剰《あま》った蔓のさきを宙に浮かしている。あと三寸ばかりで、そばの楊樹の枝に届く。人間の手なら、たまりかねて、指の先がしぜんにうごこうという場面である。
それなのに、蔓のさきはまるでうごかない。
仏教徒の康孟詳が、中国の民間信仰の対象である『天帝』をからかいたくなったのも、むりはないかもしれない。
初平二年(一九一)六月|丙戌《ひのえいぬ》。──
この風のない、暑苦しい日は、陳潜にとって忘れられない日となった。
汗を拭《ふ》きながら、夕顔の蔓を眺め、寺の長老の支英や客の康孟詳と、よもやま話をしているとき、蜀からの飛脚が、少容の手紙を届けて来たのである。
──劉焉《りゆうえん》が蜀の覇者となれば、私がそこにいては、なにかと都合が悪かろう。といって、漢中の我が子のもとでも、彼の権威によくない影響があるかもしれない。ついては、この機会に各地を遊歴したい。まず長安のようすを見たいので、そこから遠からず、近からずといった土地に、逗留《とうりゆう》の場所をみつけ、漢中に連絡していただきたい。
という内容であった。
「劉焉が蜀の大王となれば、なぜ少容どのがそこにいてはまずいのですかね?」
と、康孟詳は訊《き》いた。
陳潜は二枚の紙に書かれた手紙のうち、最初の一枚だけを見せたのである。
「天に二日なく、地に二王なしと申します」
陳潜は月なみなことを答えた。
「仏法と王法とは、支配する領域が違います。一方は精神の世界、一方は俗世界ではありませんか。それとも、五斗米道は、仏法のようには参りませぬのかな?」
意地の悪い質問であった。
仏教にくらべると、五斗米道などの道教は、俗世に関係することが多い。康孟詳がそれを知らぬはずはない。
康孟詳は漢人ではなかった。
故郷は遙《はる》か西のかた康《こう》国である。
現在のソ連ウズベク共和国サマルカンドが、当時の康国であった。
月氏の人が『支』を姓とするように、中国名を名乗るとき、康国の人はすべて康という姓を用いた。
月氏族はトルコ系の血が濃いが、康国人はイラン系であり、より一層『深目高鼻《しんもくこうび》』の特徴がいちじるしい。サマルカンドのあたりは、ソグド地方と呼ばれ、その地の住民は、太古から二つのすぐれた才能をもっていた。
歌舞と商業。──
天才的商業民族である彼らは、漢のころから、隊商を組織して中国に来ていた。のちになると、康国はゾロアスター教やマニ教を奉じ、十一世紀ごろにイスラム教圏となって現在に至っている。だが、この物語の時代の康国は、仏教国であった。
サマルカンド出身の康孟詳は、中国に長く滞在し、仏典の漢訳もおこなっている。
「いささか性質が違いますので……」
と、陳潜は答えた。
「聞くところによりますと、蜀の五斗米道は、ずいぶん仏法のやり方を採用されているとか。……たとえば、貧しい人たちのための慈善の事業など、われら仏法に酷似しているそうですな?」
康孟詳はそこまで知っていた。
「少容どのが、蜀に居辛いのは、その美貌のせいではありませぬかな」
それまで黙っていた支英が、とつぜん口をはさんだ。
「劉焉も男……いささか好色という噂もありますな」
康孟詳はそう言って、ちらと陳潜のほうを見た。
陳潜は目をとじた。彼らのやりとりは、おそらくことの真相の、最も近いところを衝《つ》いているだろう。だが、陳潜はそれを聞くのが苦痛であった。
(劉焉の好色は、むしろおれにとっては、よろこばしいことではあるまいか?)
彼はそんなふうにも考えてみる。
二枚目の手紙の文面は、一読しただけで、彼の脳裡《のうり》に焼きつけられていた。
──次男の衛も、漢中の魯のもとに預けるので、私はひとりになる。なにやら心細いので、あなたにそばにいてほしいと思う。天下の形勢も、二人で見て検討すれば、より正しく把握できるはずだから。……
女にしては肉太な字で、そう書かれていたのである。陳潜は目をとじたまま、脳裡に焼きつけられた文字を読み返した。
「なにか、おかしなことを申しましたかな?」
と、康孟詳は訊いた。
少容のそば近くに仕えることができそうなので、陳潜の頬に笑《え》みがうかんだのである。
「いいえ、べつに」
陳潜はゆっくりと、首を横に振った。
「ところで、話は変わりますが」と、康孟詳は言った。──「少容どのの手紙にありました、逗留の場所について、もうお心あたりはございますかな?」
陳潜はまた首を横に振った。
「では、私たちの村はいかがでしょうか?」
「と申されますと、武功県五丈原?」
「ご存知でしょう」
「はい」
武功県|渭水《いすい》のほとりの五丈原に、サマルカンドの人たちの居留地がある。洛陽の白馬寺は月氏族の公然たる中心地であるが、五丈原の康国人は、故あってそこにひそかに住んでいる。信仰のための場所も設けられているが、目立つことをおそれて、塔も建てていない。白馬寺の客となって、仏教徒と親しいので、陳潜はその康国人の『村』のあることを知っているが、一般の人は誰も知らない。知られては困るのだ。
四十三年後、魏《ぎ》と蜀の対決で、ここは諸葛孔明《しよかつこうめい》の率いる蜀軍の本陣となり、しかも孔明がここで没したので、五丈原の名はにわかに高まった。だが、後漢初平二年のころには、この地名を耳にした人でさえ稀《まれ》であったろう。
「無理をすれば、長安ヘ一日で行けないことはありませんよ」
と、康孟詳は言った。
五丈原は長安の西、約七十キロのところにある。
康孟詳はまだ三十代だが、中国に居留する康国人の幹部である。とくに信仰の面では、リーダーであった。
「お願いすることになるかもしれません。いずれのちほど……」
陳潜はていねいに礼を述べて、自分の部屋に戻った。
少容から場所の選択は一任されている。だが、康孟詳の申し出に即答しなかったのは、それが考慮を要することと思えたからである。
康孟詳は仏教の布教については積極派であった。同国人のあいだの信仰だけではなく、中国人に仏の|おし《ヽヽ》え《ヽ》をひろめようと念願しているという。そのためには、
──道教を吸収しよう。
と考えるにちがいない。道教が中国人の精神生活に大きな場を占めているから。
場所の提供を、さりげなく口にしたようにみえたが、康孟詳は内心、
──これは絶好の機会!
と、武者ぶるいしたかもしれない。陳潜には、そう思えてならなかった。
(だが、相手にとってばかりではなく、こちらにとっても機会ではあるまいか。……)
陳潜はそう考えた。
じつは、五斗米道は、すでに仏教の洗礼を受けていた。だが、ここで実質上の教主である少容が、仏教的生活のなかに身を置けば、きっと大きなものを摂取できるにちがいない。
相手に吸われるが、こちらも相手を吸う。
どちらが多くの滋養分をとるか?
陳潜が柱にもたれて考え込んでいたとき、庭先から声がかかった。──
「陳潜さん、妙なものを拾いましたが、なんですかいな、これは?」
彼と仲の好い、月氏族の寺男|支満《しまん》が庭からのぞき込んでいた。
董卓邸の穴掘りにかり出され、危うく生き埋めにされるのを助かった連中の一人であった。こんどは、洛陽を占領した孫堅にかり出されて、まちの復興に協力している。
──穴掘りの名人と思われたのか、そんな仕事ばっかりだ。この暑いのに、かないませんなぁ。
早朝、そんな愚痴をこぼしながら、仕事に出かけて、いま帰ってきたところなのだ。その男が、土がまだこびりついている、白っぽい石らしいものを差し出した。
「ほう、石じゃないのですか?」
陳潜は庭先まで出て、それを受取ってみた。
「なんだか動物みたいなものが彫ってあるんですよ。子供のおもちゃかね? とにかく石じゃありませんや」
「なるほどね。……」
一辺が一寸ほどの正方形で、|つま《ヽヽ》み《ヽ》のところにうずくまった獣らしいすがたが彫ってあった。
(形は印章に似ているが、印章ということはありえないし……なんだろうな!)
土をおとしている指先に、ざらざらした感触があった。
字が彫ってあるようだった。
「まさか、そんなことは……」
陳潜は思わず声をもらした。
どうやら、これは白玉《はくぎよく》らしい。
「なんですかいな?」
と、寺男が不審そうに訊いた。
「いや、なんでもない」
陳潜はそう答えたが、ふいに動悸《どうき》がはげしくなった。
印章といえば、金属のはずではないか。
当時の印章には、きびしい規則があった。
丞相《じようしよう》以上は黄金であり、二千石以上の官は銀印である。それ以下は銅印だが、位階によって、その印章をぶらさげる紐《ひも》、すなわち綬《じゆ》の色がちがうのである。
服従する外国の王に与える印章も金であった。日本の志賀島《しかのしま》から出土した『漢倭奴国王』も金印である。
皇太子の印でさえ金なのだ。
陳潜は深く息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐いた。
白玉の印がないことはない。たった一人の人間だけが、白玉の印章を用いることを許されている。
天子の印を玉璽《ぎよくじ》という。
璽はもと『|★[#金+木]《じ》』という字であらわし、その字でもわかるように金属であった。また誰の印章でもそう呼んだ。
秦の始皇帝のときに、『璽』の字を使い、しかもこれは皇帝に限って用いると定めたのである。その字からもわかるように、玉でつくられる印章であった。
(これが印章であれば皇帝のものだが……)
陳潜はまた息を吸ったが、こんどは喘《あえ》ぎに似ていた。彼の指さきは、さきほどから、ざらざらした面を撫《な》でている。字が彫られていることは確かで、読みさえすればなにが彫られているかはすぐにわかる。
それなのに、彼はその面に目をおとそうとしなかった。彼の目は寺男の顔に釘づけになっていた。寺男はいささか気味が悪くなったのか、
「なんですかいな?」
と、またおなじ言葉をくり返した。
答えないわけにはいかない。
「これを私にくれないかね?」
と、陳潜は言った。
「どうぞ。──そんな子供のおもちゃみたいなのがお気に入りなら、また拾ってきますぜ」
支満は意外にあっさりと承知した。むろん、そのモノがなにであるか、彼にはさっぱり見当もつかないからでもあるが。
「ありがとう。……でも、これはどこで拾ったのかね?」
「そいつは、甄官《けんかん》の井戸でさ。ひでぇもんでしてね、董卓のやつは。この洛陽を二度と人が住めねぇようにって、井戸まで埋めやがって、あっしらは、孫堅さまのご命令で、その井戸をまた掘り返したんでさ。そいつはそのとき掘り出したもんで、へい」
甄官というのは、宮殿の瓦やその他陶製の器具を製造する役所のことである。そこの井戸から出たという。
霊帝の死後の、例の宦官《かんがん》皆殺し騒動のとき、宦官張譲たちが少帝を擁して城外に逃げるさい、玉璽を管理している者が、あわてふためいて、とりあえず井戸に投げ込んだのであろう。玉璽などを持っていては、命が危ないと思ったのにちがいない。
あの騒動のときには、おおぜいの人が死んだ。玉璽を井戸におとした人物は、死んでしまったのか、あるいは生きていても、おそろしくて、もうそんなことを言い出せなくなったのであろう。そんなこととは知らずに、董卓が井戸を埋めたのだ。
陳潜は巷間《こうかん》に囁《ささや》かれている噂を思い出した。
宮殿のなか、皇帝のまわりは、雲の上などといわれて、庶民のうかがうことのできない世界のように思われている。だが、案外、その雲の上の世界の消息は、下界までもれてくるものだ。
あの皇帝兄弟脱出騒ぎのあと、皇帝六璽は無事に出てきたが、『伝国璽《でんこくじ》』はついに発見されなかったという噂が流れた。
皇帝六璽とは。──
皇帝行璽(皇族、功臣を封じたり論功行賞をおこなうときに用いるもの)
皇帝之璽(恩赦、聖旨を下すときに用いる)
皇帝信璽(召集、動員のときに用いる)
天子信璽(対外動員、外夷召集に用いる)
天子之璽(祭祀に用いる)
天子行璽(外夷を封じ、賞をおこなうときに用いる)
の六個の印章である。これはじっさいに捺《お》された実用のものだった。たとえば、外夷である倭奴国王を封じる文書には、『天子行璽』が用いられたはずなのだ。
これにたいして、『伝国璽』は、皇帝がそれを所持しているだけで、じっさいには用いられない。天子の位に正当についているというしるしで、日本の三種の神器に相当するものなのだ。
伝国璽が失われたという噂には、
──じゃ、後漢の皇統も、これでおしまいだ。国を伝えのこす|しる《ヽヽ》し《ヽ》がなくなったのだから。
という、ひそひそ話がつづいたものだ。
伝説によれば、この伝国璽は、長安に近い藍田《らんでん》山から採られた玉でつくられ、
──受命于天 既寿永昌(命《めい》を天に受く。既《すで》に寿《じゆ》は永昌《えいしよう》)
と彫られている。これをつくらせたのは、秦の始皇帝で、彫られた八字は、宰相|李斯《りし》の筆であるという。漢の高祖が秦に攻め込んだとき、降伏した秦の子嬰《しえい》がこれを献じ、漢の歴代皇帝に伝えられた。
前漢末に王莽《おうもう》が簒奪《さんだつ》したとき、彼は元后にこの伝国璽を渡せと要求した。元后は激怒したが、渡さないわけにはいかないので、これを床《ゆか》に投げつけた。このとき、つまみの模様の一角が欠けたという。白玉のような硬いものが欠けるとは信じられないが、漢歴代諸帝の怒りがこめられたからだと説明されている。
陳潜はおそるおそる、目をおとした。
文字を読む。──
からだが顫《ふる》えだした。
逆字になっているが、それはたしかに、
──受命于天 既寿永昌。
と読めたのである。『天』と『昌』は、逆字も正字も同じ形なので、まちがえるはずはない。
ひっくり返して、つまみのところを見た。
「あ、あ……」
思わず大きな声が出た。
寺男はもう立ち去ったあとであった。
つぎに、背中につめたいものが、さっと走った。──つまみの獣の耳の部分が欠けているではないか。
その瞬間、陳潜はよろめいた。ショックのせいだけではない。床《ゆか》が揺れ、柱の根もとが軋《きし》んだ。
──六月丙戌、地震。
『後漢書』孝献帝紀初平二年の項に、そう記されている。──
「負けたのではないぞ。洛陽は一年ももったではないか。こんなに長く守れるとは思っていなかった。誰かに呉《く》れてやるつもりだったから、まちを焼いたのだ」
洛陽から撤退するとき、董卓は軍の幹部を集めてそう言った。これはかならずしも負け惜しみではない。
董卓が洛陽を徹底的に破壊し、諸宮殿を焼き、住民を強制的に立ち退かせたのは、去年の二月のことである。
討董軍の急先鋒孫堅が、洛陽に突入したのは、それからまる一年たった今年の二月であった。よく守った、という見方も、あながち当を失しているとはいえない。
洛陽攻防戦の主戦場は、後漢諸帝の陵墓の散在するところであった。
南から攻めのぼった孫堅は、緒戦では徐栄《じよえい》のために一敗地にまみれた。この徐栄は董卓側の名将で、かつて曹操を|★[#さんずい+卞]水《べんすい》のあたりに追い詰めた戦績をもっている。
孫堅敗戦の一因は、軍糧の補給がうまく行かなかったことにあった。彼は形のうえでは、袁術の部将として出陣しているので、軍糧は袁術に頼っていた。ところが、袁術は内心、
(董卓は狼で、孫堅は虎だ。狼を除いて虎を迎えるのは、考えものだ。……)
と思って、補給を抑えたのである。
孫堅は大いに怒り、戦場から魯陽の本陣にひき返し、面とむかって袁術をなじり、やっと補給の保証をえた。
董卓は敗走した孫堅を、東郡太守の胡軫《こしん》に追わせた。この胡軫軍の騎督《きとく》(騎兵隊長)は呂布《りよふ》であったが、両将の仲はしっくり行かなかった。董卓側は歩騎五千で追撃したが、孫堅は、敵が首脳陣の相剋《そうこく》で、連繋《れんけい》作戦のできない弱点に乗じて、大いにこれを破り、猛将として知られている華雄《かゆう》を討ち取るという戦果をあげた。
これで形勢は逆転した。
孫堅はさらに軍を北に進めた。すなわち、諸陵の散在する地域である。董卓は陵墓を発《あば》いて、宝物類を掠奪《りやくだつ》したので、あちこちに穴があき、まともなすがたをした陵墓は一つもなかった。
「歴代漢室の諸霊は、董卓を憎みておわすぞ。このたびの戦いは、神霊の加護により、我が方の大勝利、疑いないぞ!」
孫堅はそう叫んで、陣頭に立った。
董卓は自ら出馬したが、意気あがる孫堅軍に撃破され、|★[#さんずい+黽]池《めんち》まで敗走した。
孫堅は洛陽をめざした。
洛陽を守っていたのは、さきに敗れた呂布である。
「呂布は口ほどにもないやつぞ。それはすでに戦って、諸君がよく知っておるではないか。進めや、進め!」
戦争には勢いというものがある。孫堅はそれに乗って押し、さすがの呂布も支えかねて西へ逃げた。
こうして、孫堅の洛陽入城となったのである。だが、そこには彼を歓迎する住民はいない。無人の焼野原であった。史書には、
──旧京《きゆうけい》(洛陽のこと)、空虚にして、数百里中に煙火なし。
というありさまに、入城した孫堅は、
──惆悵《ちゆうちよう》 流涕《りゆうてい》す。
と記されている。
孫子の子孫を自称する孫堅は、会稽郡|富春《ふしゆん》の出身であった。現在の浙江省杭州市の西南にある富陽県である。この地方は、黄河中流のいわゆる中原にくらべると、後進地域とされてきた。春秋末期の呉越戦争のころ、一時、脚光を浴びたことがある。だが、越王|勾践《こうせん》にしろ呉王|闔閭《こうりよ》にしろ、覇者であるが王者ではない。
王者は中原にしか出現しないという認識があった。これが江南の地出身の人たちの、一種の劣等感でもあったのだ。
王者の墓──帝陵というものは、中原にしかないのである。江南地方に存在しない帝陵にたいして、江南人は深い憧憬《どうけい》を抱いていた。日本の場合にたとえると、御陵はおもに畿内にあって、関東には存在せず、関東人は御陵や古墳にコンプレックスをもち、その裏返しの、あこがれをもつのに似ている。
孫堅は日本史でいえば、東《あずま》えびすであり、その本性は獰猛《どうもう》と謳《うた》われている。それだけに、彼は文明的であろうとした。あるいは、文明的に見せようと腐心したと言ったほうがよいかもしれない。
洛陽を占領して、孫堅が先ず手がけたのは、あばかれた諸陵を、あらためて塞《ふさ》ぎ、修復することであった。
井戸や水路の復旧作業は、そのあとにまわされたのである。
「埋められた水路や井戸を掘り返すほうが先ではありませんか?」
十六歳の周瑜が言った。
孫堅はこの美少年を身近におき、言いたいことを言わせることにしていた。周瑜は孫堅の長男孫策と同年である。将来、周瑜は孫家の息子たちを補佐することになるだろうが、その冴《さ》えた観察と意見に、孫家の者たちが早く慣れるように、という配慮であった。
「なぜかな?」
と、孫堅は訊いた。
「水がなければ、人は生きて行けません。最も大切なこととおもいます」
「では、人間は水だけで生きるのかな?」
「それは……」
言いかけて、周瑜は口を噤《つぐ》み、さわやかな微笑をうかべた。
「わかったかな?」
と、孫堅は渋い顔で訊いた。
「はい。まっさきに帝陵を修復したという事実……この噂は、水にもまして大切でございましょう」
「まぁ、そんなところだ」
孫堅は無愛想に言った。
勤皇義軍として董卓を討つ。だから、それにふさわしい行動が伴わねばならない。帝陵修復の噂は、これからの孫堅にどれほどプラスになるかは、はかり知れないものがあるだろう。
敗走した董卓は、いったん★[#さんずい+黽]池にとどまったが、やがて長安にひきあげた。これが四月のことである。
水路と井戸の復旧工事は、そのあとになってから始められたのである。
「たぐい稀な幸運が、お上の身辺に犇《ひしめ》いております。それが気がかりでございます」
孫堅が陣中に伴った、巫女《みこ》の風姫《ふうき》は、あるじの運命を占ってそう言った。
「たかが洛陽を陥《おと》したぐらいで、たぐい稀な幸運とは、いささか見くびられたものぞ」
孫堅は笑って言った。
洛陽で復旧工事が進められているあいだ、孫堅は兵を洛陽からひきあげて、魯陽に駐屯することにした。
天下の形勢は複雑をきわめた。
孫堅の洛陽一番乗りは、けっして幸運に恵まれたのではない。ほかの諸将が、董卓と戦って、兵力を失うことをおそれ、進撃しなかっただけである。げんに、孫堅は董卓の養子呂布と戦って、兵力にかなりの損害を受けていた。
その犠牲のうえに、
──洛陽を攻めおとした勇将。
という名声を得たのである。
名をとるか、実をとるか?
じつは、名声は『実』を生む力をもつ。勇将の名声を得れば、将来、敵が戦わずに逃げたり、寄らば大樹の蔭と、地方の雑軍を吸収するときに有利である。
この名声を生む力を知る曹操が、かんじんの洛陽攻略のとき、すっかり兵を失って、募兵のために奔走中であったことは、孫堅の幸運にかぞえてよいかもしれない。
──うまくやった。……
孫堅の洛陽攻めをきいて、おそらく曹操はそう言って、羨望《せんぼう》のため息をもらすだろう。だが、
──ばかめ、あとの競争は長いというのに、戦力を消耗しおって。
と、さげすむ将軍たちのほうが多いのにちがいない。
いささか戦略の初歩を知る者は、
──孫堅の軍は疲れている。この機に彼を撃つべし。彼が勢いに乗っては、手がつけられなくなる。いまのうちだ。……
と考えて、これを主将に進言した。
董卓討伐の連合軍は、けっして一枚岩ではない。
董卓を討つという目的だけが共通しているだけで、諸将いずれもこの機会に自分の力を増強しようと、ひそかに策をめぐらしていたのである。
盟主は、一応、袁紹となっていた。
天下第一の名門袁家のなかで、最高の実力者と認められていたからである。
だが、この盟主に反撥する者もいた。
ほかならぬ盟主の従弟にあたる袁術である。
孫堅はこの袁術に属している部将だった。
したがって、疲れた孫堅を討つという策略は、袁術と仲のわるい従兄の袁紹に進言されたのである。
「なるほど、孫堅を討ち取れば、術のやつめ、力は半減するであろう。もともと術は人間の屑《くず》だ。孫堅がその下についたからこそ、一人前の主将の顔ができるのだ。そのことを、思い知らせてやろう」
と、袁紹は憎々しげに言った。
袁家の従兄弟はなぜこんなに仲が悪いのか。
名門袁家のことを、ここで略述しよう。
彼らの本籍は汝南郡の汝陽である。現在の河南省汝陽県で、北汝《ほくじよ》河に臨む。洛陽の南で、中原のまっただ中といってよい。
四代前の袁安が、明帝、章帝、和帝の三代に仕え、三公を歴任して、位人臣をきわめたのが、名門袁家の興隆のきっかけであった。
つぎにその系図を示そう。
袁紹、袁術が董卓討伐の旗あげをしたので、董卓は洛陽在住の袁一族を皆殺しにしたことはすでに述べた。犠牲者は長幼五十数名にのぼったが、右の系図のうち、袁術の兄の基と、叔父の隗とがそのときに殺された。
祖父袁湯は司徒(三公の一人)にのぼったが、その長男の袁成は五官中郎将にとどまった。なぜなら早死したからである。袁成の字《あざな》は文開《ぶんかい》で、
──ゴタゴタがおこれば、文開のところへ行け。
といわれたほど公正で、侠気《きようき》に富む人物であった。だが、若くして死んだので、次弟の袁逢が袁家を嗣《つ》いだ。この袁逢の子が、袁術である。
袁成は若死して子はなかったが、当時の中国では祭祀を絶やさぬように、このようなときは喪主とするために養子を迎えるしきたりがあった。だから、系図のうえでは袁成に子がある。それが袁紹なのだ。
こんなケースの養子には、たいてい一族のなかの者が選ばれる。
じつは袁紹は、袁逢が女中に生ませた子であった。だから袁術にとっては、ほんとうは従兄ではなく、異母兄にあたるのだ。
系図ではその関係を点線で示した。
袁術の母は袁逢の正妻である。
彼は嫡出を誇った。
袁紹は祭祀行為上の父である袁成に似て、公正で侠気に富み、面倒見のよい人物であった。だからこそ、討董軍の盟主にまつりあげられたのである。一般の人気も、いたってよい。名門袁家の中心人物だと、みんながほめそやした。
袁術はそれが面白くない。
──紹はメカケの子。いや、女奴隷の子ではないか。
と、公式の場でも放言する始末である。それが袁紹の耳にきこえないわけはない。いつか思い知らせてやろうと、その時機をうかがっていたのである。そんなときに、遊説の兵法家が、
──孫堅を叩《たた》くべし。放置すれば、将来、大敵となるであろう。
と進言した。
袁紹は孫堅の大成をおそれるよりも、袁術に打撃を与えるために、孫堅を叩くことをきめたのだった。
董卓が献帝を長安に連れ去っているので、反董派地区の官史の任命は、ボスたちの自薦他薦で、勝手におこなわれていた。実力でその地を抑えた者が、その地の長官というわけである。
孫堅は当時、豫《よ》州刺史と称していた。
豫州刺史の駐屯地は潁川《えいせん》郡の陽城である。だが、孫堅は洛陽復旧事業に熱中し、自分は魯陽に滞在することが多く、陽城は留守がちであった。
袁紹は諜者によってそのことを知り、会稽の人|周昂《しゆうこう》という者を、豫州刺史に任命した。
豫州刺史が二人もできたわけだ。
州都の陽城を制した者が、ほんとうの豫州刺史ということになる。
周昂は袁紹から兵を授けられ、陽城を急襲して、これを奪った。
「おのれ、かっ払いめ!」
孫堅は大いに怒り、魯陽から精鋭を率いて陽城にむかった。
親分の袁術も、援軍を送った。陽城乗っ取りの周昂のうしろには、憎《に》っくき袁紹がいる。ほっておくわけにはいかない。
袁術が送った援軍の指揮官は、公孫越《こうそんえつ》という人物であった。
三国志の主役の一人、|公孫★[#王+贊]《こうそんさん》の弟である。
孫堅はこの援軍を得て、一気に陽城を衝き、たちまち奪回してしまった。
孫堅が陽城に入ってまもなく、伝令が馬をとばしてかけ込んできた。
「申しあげます!」伝令は馬からおりるのももどかしげに、大声をはりあげた。──「公孫越どの、流れ矢にあたって戦死!」
「なに、まことか?」
孫堅は席を蹴《け》るようにして、伝令のそばへ走り寄った。
(世の中がうごく。……)
孫堅の脳裡に、風姫の言葉がかすめた。
幸運。──
援軍の将の戦死を、彼は反射的にそう解したのである。
本拠地の遠い孫堅は、中原ではまだ自立するにはいたらない。
日本の現代の政界でも、新人政治家はたいてい、どこかの派閥にはいる。彼の運・不運は、派閥のボスの勢力の消長にかかっているのだ。
孫堅はたまたま袁術の閥に所属した。本拠地から、洛陽へむかう道中で、最も力のつよい閥が袁術のそれであったという縁にすぎない。
袁術は名門のわがまま坊ちゃん、とでもいった性格の、あまり頼りにならぬ親分である。乾分の力が強くなりすぎるのをおそれて、軍糧の補給をひかえるような、小細工を弄《ろう》するところがあり、一流の人物とはいえない。
しかし、目前の孫堅の立場は、袁術の力がつよくなれば、彼もまた有利なのだ。
袁紹と袁術という、袁家従兄弟同士の争いとなった。孫堅はひそかに、
(どうも、うちの親分のほうが分《ぶ》がわるい)
と、秤《はかり》にかけていたのである。
そこへ、公孫越の戦死のしらせがあった。
公孫越は遼西の出身で、現在の河北省一帯に勢力をもっていた公孫家の一族である。彼の兄の公孫★[#王+贊]は、奮武将軍であり、薊《けい》侯に封じられていた。実力もあるので、自立しているといえる。これまでのところ、
──反董卓。
の態度はあきらかにしているが、反董陣営内の派閥には、明確な姿勢を示していない。袁紹にも袁術にも、等距離を保っている。できるなら、第三の派閥をつくって、自分がその頭になりたいと思っていた。
袁術の要請にも、公孫★[#王+贊]は自らは中立を唱えて、弟の越を派遣するにとどめた。
──袁紹配下の周昂と戦うのだが、まさかおれの弟が殺されることはないだろう。
彼はそう考えた。
なぜなら、袁紹も彼を自分の陣営に誘い込もうとしている。彼の弟を殺しては、話がこわれてしまう。おそらく袁紹も周昂に、
──公孫越には手心を加えよ。
と指示しているはずだった。
「はっ、まことに残念ながら、確かに……」
伝令は跪《ひざまず》いて言った。
「戦死の模様は?」
と孫堅はせきこんで訊いた。
「流れ矢にあたりまして……」
「流れ矢か。……」
さもあらん。──孫堅はうなずいた。
手心を加えようとしても、流れ矢ではどうしようもない。
公孫★[#王+贊]は愛憎が極端につよい人物である。その当時にあっても、彼の家族愛は異常であるとされていた。この実力者の弟を殺したのは、袁紹ということになる。
袁紹は公孫★[#王+贊]の支持を失うばかりか、敵にまわすことになるだろう。
袁紹の勢力が強まらないのは、袁術にとっては幸いなことであり、その閥に属する孫堅にとっても歓迎すべきことなのだ。
(おれをめがけて、幸運が犇《ひしめ》いて押しかけてくるそうだが、それを風姫のやつめ、なぜ気がかりと言ったのだろうか?)
孫堅は心のなかでそう呟いたあと、面をあげた。伝令の報告をきいて、彼はじっと面を伏せていたのである。喜色が浮かぶかもしれない。それを見られてはならないのだ。公孫越の戦死を悼《いた》んでいるように、見せねばならなかった。
「公孫どのの陣営へ、この孫堅みずから哀悼の意を表しに参上すると、そう伝えてもらおう。……すぐに用意する」
孫堅はそう言って、天を仰いだ。
そこへ、洛陽からの連絡将校がやってきた。
「尚符璽郎中《しようふじろうちゆう》の従者が、出頭いたしまして、重要なことを申し述べました」
と、その将校は報告した。
「どのようなことじゃな?」
孫堅は公孫越を哀悼する表情を、ここで打ち切ってもよい別の問題の登場に、内心ほっとした。
「伝国璽の行方についてでございます」
「なに、伝国璽の?」
それが失われたという噂が、ひろく流れていて、孫堅も知っていた。
「はい、甄官の井戸に、投げ込んだと申しております」
「その井戸は?」
「董卓が埋めましてございます」
「よし、わしが行く。掘り返そう」
「すでに掘り返しております」
「なに? 何者が?」
「当方から白馬寺の者に命じ、掘り返させました」
「伝国璽は出たか?」
孫堅の声がかすれた。
「白馬寺の者からは届け出がありませんでした」
「担当者をとらえよ」
「すでにとらえてあります。支満と申す者が、甄官の井戸の掘り返しを担当したと判明し、すぐに出頭を命じ、勾留《こうりゆう》しております」
「その者はなんと申したか?」
「なにも知らぬ、なにも出なかったと申しております」
「笞《むち》だ。……杖《つえ》だ。……いや、待て。わしが立ち会う。……」
孫堅の頬が、ぴくぴくとうごいた。
伝国璽は、それを失った者が国を失い、それを得た者が国を得るといわれている。帝位の|しる《ヽヽ》し《ヽ》なのだ。
孫堅はまだそれを手に入れていない。
だが、それに手が届きそうになっている。
彼は部屋にはいって、一人きりになった。
「風姫の申しておった、気がかりな幸運とは、このことであったか。……」
彼は肩を上下に揺すった。からだの芯から顫えそうになるのを抑えるために。
長安と五丈原とのちょうど中間に、馬嵬《ばかい》という宿場がある。
五百六十五年後、唐の玄宗皇帝が安禄山の乱を避けて、長安から都落ちをしたとき、最初に休んだのが馬嵬で、楊貴妃を殺さねば軍隊がうごこうとしなかった悲劇の舞台となる。だから、五丈原のあたりは長安を出て、二日目の泊りになる地点である。
ふつうで二日の行程、急いで無理をすれば一日で行ける。もっとも、康国の人たちの居留地は、街道からだいぶはずれたところにあった。人目についてはまずいからである。
陳潜はそこへ行き、漢中から少容を迎えた。
東西交易で活躍した、月氏や康国の商人は、中国の絹を西へはこんだ。そのルートが、シルクロードと称される所以《ゆえん》である。むろん、一方通行ではない。西から中国にもたらされたのは、ガラス製品であった。
中国ではガラスのことを琉璃《るり》と称し、玉《ぎよく》とならぶ宝物とされた。
夜光の璧《へき》とか、夜光の杯などと称されて、珍重されたのは、すべてガラス製品だったのである。
その美しさのせいもあるが、はるばる西方の国から、高山や沙漠を越えて運ばれてきたという距離感も、ガラスの値うちを高めていたといわねばならない。
ガラスは製法さえわかれば、中国でもつくれないことはない。誰もその製法を知らないだけである。だが、サマルカンド人のなかには、その製法を知る者がいた。
──遠路わざわざ苦労して、この国へ持ち込むことはない。ここでつくればよい。
彼らはそう考えた。
しかし、彼らは天才的商業民族である。
ガラスが高価なのは『異国の産物』であり、『遠路、艱難《かんなん》をなめて運搬される』という条件が含まれていることを知っていた。
彼らはそこで、秘密工場をつくった。人里はなれた五丈原の一角である。擬装のために、陶器を焼く設備も持っている。この秘密工場でつくられたガラス器具を、駱駝《らくだ》にのせて、二日がかりで長安に運び込む。
深目高鼻のサマルカンド人が、駱駝をひいて来たのだから、誰しも、
──西域から来たガラス。
と信じ込んでしまう。遠路はるばるという価値の源泉は消えない。
五丈原の康国人の『村』には、駱駝の飼育所もあった。ほんとうにシルクロードを越えた駱駝たちも、ここで休息する。そのあいだに、五丈原・長安間の短距離を往復して、アルバイトを稼ぐわけなのだ。
陳潜は離れているときには、少容に女をかんじ、会っているときは、彼女に母をかんじるのだった。
「伝国璽を手に入れましたが、どうしましょうか? 俗界を支配することで、心のやすらぎを得られるでしょうか?」
陳潜は少容に訊いた。
少容は幼い子供をさとす母親の表情で、
「心のやすらぎは、そんな印章などを捨てることから生まれるのですよ」
と答えた。
「では、捨てることにします」
「わたくしにください。わたくしが処分しましょう」
と、少容は言った。
陳潜はこんなふうにして、支満から譲られた伝国璽を少容に渡したのである。
それから数日たって、陳潜は少容に呼ばれた。少容の手には、例の伝国璽がのせられていた。彼女はそれを陳潜にさし出して、
「これを持って、早く洛陽へ行きなさい。孫堅さんにお渡しするのです」
「えっ? この伝国璽を?」
「そうです、わたくしたちにとって、これは石ころにすぎません。この前にも申したように、捨てるべき石ころです」
と、少容は言った。
彼女の頬のあたりに、赤味がさしていた。ふしぎなことに、顔が赤らむと、少容は年齢をかんじさせた。
「捨てるべき石ころを、どうして孫堅に?」
と、陳潜は訊いた。
「人間の命が、この石ころで救われるからです」
「人間の命が?」
「そうです。白馬寺の支満さんの命が、このつまらない石ころ一つで助かります。伝国璽など塵《ちり》みたいなものですが、人間の命はなにものにもかえられません」
「では、支満さんが?」
「はい。わたくしが聞いたところでは、尚符璽郎中の従者が、伝国璽を投げ込んだ場所を、孫堅の配下に教えたそうです」
尚符璽郎中は、少府に属し、天子の印章を保管する役職で、禄高《ろくだか》は六百石の官である。ときの尚符璽郎中は宦官で、例の宦官皆殺し騒動のとき、袁術の軍兵に殺された。その直前に彼は伝国璽を従者に渡し、
──これだけは、どこかにかくしてくれ。世の中がおち着いたら、ときの宰相にかくし場所をしらせるのだ。……
と、なんども念を押したそうだ。
世の中がおち着いたかどうか、その従者は判断する基準はなかったが、いつまでもすてておけないと思ったのであろう。
「おそらくその従者の妻子が餓《う》えているのでしょうね。そんなとき、人間はなにをしてもよいと思うのです」
と、少容は言った。
「そうですか。……場所がわかれば、そこを掘った人もわかるはずですね。で、支満さんは?」
「はじめは、井戸からなにも出なかったと言い張ったのですが、もうひどい拷問《ごうもん》で、とうとう印章らしい四角いものを拾った、というところまで自供したのです」
「なぜ私に譲ったことを言わないのでしょうか?」
「きっとその印章が、仏法のために役立つと思っているのでしょう。殺されても、その行方を口にするまいと、かたい決心をしているようです。……ともかく、拾ったものを、上東門外の石橋の下に捨てたと言い張っているそうです。孫堅はそれを信じないで、自分で鞭《むち》をふるって、拷問しているとききました。支満さんは宙吊りにされ、鞭で打たれ、からだが倍ほどもふくれあがっているということです」
「すぐに参ります」
「そうです。すぐに行きなさい。その伝国璽を上東門外の石橋の下で拾ったと、そう届け出るのです。……支満さんの命は、それで助かるはずです」
天下は董卓派と反董派に分かれたが、反董派も分裂した。これは同派の盟主となるべき袁紹の器量が小さかったことによる。まず身内の袁術が離反した。
といって、反董派は袁紹・袁術の二派に分かれただけではない。袁紹に弟を殺されたことを恨んで、公孫★[#王+贊]が自立した。曹操はどの派にも属さず、もっぱら募兵に精を出している。
派閥の親分は、乾分を養成するのに懸命であった。たとえば自立した公孫★[#王+贊]は、自分の部下の厳綱《げんこう》、田楷《でんかい》、単経《たんけい》を、それぞれ冀州、青州、|★[#六+兄(六が上で兄が下)]《えん》州の刺史に任命した。だが、それでも駒不足である。彼の勢力圏に平原国があり、そこの長官の『相』にも、自派の誰かを任命したい。
「ああ、あの男がいいかもしれない。……」
公孫★[#王+贊]は居候《いそうろう》のなかの一つの顔を思いうかべた。盧植《ろしよく》先生の門に学んだときの同窓生で、その縁によって、黄巾の乱以来、少数の部下を連れて公孫★[#王+贊]の陣営に身を寄せている人物である。
劉備。字《あざな》は玄徳。
関羽と張飛という、見るからに猛々《たけだけ》しい面《つら》がまえの部将をひきつれている。
公孫★[#王+贊]は劉備を平原の相に任命した。
地方長官は徴兵と徴税の権利をもち、それによって力をつけて行く。派閥の親分は、乾分たちの兵力増強によって、自分の立場を強め、ライバルたちをしのいで、天下に覇を唱えようとするのだ。
のちの蜀漢昭烈帝劉備は、このとき、やっと歴史の表舞台に登場したのである。
劉備はちょうど三十歳。孫堅より五歳、曹操より六歳も若い。
平原は青州に属し、人口百万余であった。現在の山東省北部、済南と徳州のあいだに、いまも平原県という地名がのこっている。
劉備はここで、おもに騎兵を養成して、将来にそなえたのである。
公孫★[#王+贊]の自立に、袁紹は焦った。
人材を集めようとするが、どうやら袁術が妨害するらしい。
──袁紹は袁家の血統ではない。
袁術はほうぼうで、そう言いふらし、そのことをせっせと手紙に書いて誰彼へとなく送った。はじめは妾腹《しようふく》だとか、女奴隷の子だとか言っていたが、罵詈《ばり》がエスカレートしたのである。
袁紹の魅力の一つは、名門袁家の実力者というところであったので、ほかならぬ袁家の嫡流のこの種の中傷は、かなり影響があったといわねばならない。
「もう許せない!」
袁紹は怒った。
天下のことはあとまわしで、とりあえず、袁術を成敗しなければならない。
袁紹は盲点をみつけた。──もっと早く気づいておれば、董卓との戦いを有利にできたのに。──すなわち、相手の強いとみられている線が、あんがい弱いかもしれないということである。
董卓は西が強いと思われていたので、誰も西を衝かなかった。曹操がそれを考えたが、惜しいことに兵力が不足であった。
袁術は孫堅という南方の大物を派閥に加えて、南が強いという定評をえている。
だが、南の豪傑孫堅は、洛陽の近くをはなれようとしない。このまえの、留守を狙《ねら》った作戦は、袁紹にとっては失敗に終わったが、おなじ留守を狙うなら、もっと南の深いところがいいのではあるまいか?
袁紹は劉表と組んだ。
劉表は蜀の劉焉とおなじく、漢王室ゆかりの人物で、前漢景帝の子、魯恭王劉餘の末裔《まつえい》である。長身で堂々たる容貌に加え、誰からも好かれる性格のもち主だった。
袁紹は劉表を、荊州刺史に任命した。荊州刺史は、孫堅に包囲された王叡《おうえい》が、金を飲んで自殺したあと、空席であった。
問題は荊州の州都|襄陽《じようよう》まで、無事に赴任できるかどうかである。襄陽は現在は湖北省の管轄になっている。そこへ行くまでに、魯陽に拠《よ》る袁術や、奪回した陽城に駐屯する孫堅の妨害を覚悟しなければならない。
赴任だけなら問題はない。目立たぬように、単身で南下すれば、みつかることはあるまい。みつかったところで、どの派閥も人材がほしいのだから、丁重な扱いをうけこそすれ、けっして生命の危険はないはずである。
だが、兵を帯びずに赴任しても意味はない。平和な時代ならともかく、この乱世では、兵力を背景にしなければ、どんな小さな村でも治めることはできない。
劉表は社交家である。各地に友人がいた。
彼は赴任にあたっては兵を率いずに、現地に着いてから、その地の友人の援助で兵を集めることにした。
劉表を援《たす》けたのは、|★[#(くさかんむり+朋)+りっとう(刑の右側)]越《かいえつ》と蔡瑁《さいまい》で、たちまち数万の兵を得た。こうして、劉表は襄陽に入城したのである。
袁術は驚いた。仇敵《きゆうてき》袁紹の息のかかった劉表が、忽然《こつぜん》と背後にあらわれたのだ。
「文台《ぶんたい》(孫堅の字《あざな》)どの、襄陽はそなたのものですぞ。一刻も早く奪回なされ」
と、孫堅をけしかた。
「では、参りましょう」
孫堅は立ちあがって、ゆっくりと魯陽の袁術の本陣から出て行った。
袁術はそのうしろ姿を見て、首をかしげた。
(孫堅め、いやに足どりが重いが、どこか体の工合でもよくないのかな?)
足どりが重いのではない。態度が重々しいのである。
伝国璽を得たからなのだ。
白馬寺の仏教徒は、世間の評判どおり、嘘をつかなかった。伝国璽らしいものを、上東門外の石橋の下に投げ込んだと供述したが、はたして、そのあたりで拾ったと届け出た者があらわれた。
白馬寺の支満は正直者とわかったが、取調べにあたっては、ずいぶんひどい拷問にかけた。孫堅みずから鞭をふるったこともある。
伝国璽が出てきたので、その支満を釈放しようとすると、孫堅の長男の孫策が、
「その者は拷問を受けて、われらを憎んでおります。怨みを抱く者を野に放つよりは、いっそ斬りすてたほうがよかろうと存じます」
と言った。
「ほう……」孫堅はしげしげと我が子の顔をみつめて、「おまえ、いくつになった?」
「十六でございます」
「怨みを抱く者は、なぜ放ってはならぬのかな?」
「復讐を考えるやもしれませぬ」
「十六歳では天運というものがわからぬのだ。……ところで、周瑜はどう思うかな?」
「しばらく軍中にとどめ、報酬などを与え、時間をかけて怨みをときほぐしたあと、釈放すればよろしいかと存じます」
「おまえも十六だったな?」
「はい」
「やはり天運を知らぬ」
そう言って、孫堅は支満を釈放した。
──命を天に受く。……
孫堅はそれが自分の天運と信じた。その運があればこそ、伝国璽が手に入ったのである。天の命を受けた自分は、罪のない匹夫《ひつぷ》を殺すわけにはいかない。かりに相手が復讐をたくらんだところで、自分には天の加護があるはずだから、なにも怖れることはない。
「このたびの措置は、いつもの父上らしくないのう」
孫策は周瑜にそう言った。
「さようでございます。このことばかりではなく、挙動のひとつひとつが、ふだんとは異なっているようですが、さて、どうしたことでございましょうか?」
周瑜はちょっと首をひねった。
「十六歳にはわからぬと、そう申されておったが」
「われらも年をとれば、父上の心境に達するのであろうか?」
支満釈放の数日後に、劉表の襄陽入りの急報があり、孫堅は軍を率いて南下することになった。
襄陽は孫堅が王叡の軍を奪ったところであった。城壁は厚く、そして高い。
「なんだ、このちっぽけな城は……」
襄陽の城を遠望して、孫堅はそう呟いた。
「そうですね。父上はみやこ洛陽を陥《おと》したのですから。……」
孫策はそばで、我が意を得たように、うなずいた。
(それもあるが……)
孫堅は左胸の下に、軽く手をふれて、ほほえんだ。伝国璽がそこにある。──いまに天下のあるじではないか。それにくらべると、襄陽城などは話にならないほど小さい。
こんなちっぽけな城を囲むことさえ、気恥ずかしいほどである。
包囲は十日を越えた。
十一日目に、劉表は夜襲をかけた。部将の黄祖が囲みを破って外で兵を集め、孫堅の陣を急襲したのである。
いや、急襲したつもり、と言い直すべきであろう。なぜなら、孫堅は黄祖のうごきを、手にとるように知っていたのである。途中で黄祖を捕えることもできたが、わざと見逃した。
「一匹のネズミを殺してもつまらない。そのネズミが仲間の大群を連れてきたときに、一挙につぶしてしまうのだ」
と、孫堅は言った。
夜襲があることも、孫堅は諜者の報告によって、あらかじめ知っていた。
「敵襲! 敵襲!」
の連呼が闇をつんざいたときも、孫堅の陣営はいささかも乱れなかった。全軍はすべて戦闘態勢をとって、待ちうけていたのである。
「さあ、揉《も》みつぶしてやろう」
孫堅はこのとき、ふと手を懐のなかにいれた。綬を首にかけて、例の伝国璽がちょうど左胸の下にあるが、馬に騎《の》るとそれがかすかに揺れる。
(そうか。……皇帝はこんなものは自分で持たないものだな。だから、尚符璽郎中という役人がいる。……さて、これを誰に持たせたものか?)
孫堅はあたりを見まわした。めったな人間に托せない。松明《たいまつ》のおぼつかないあかりに、息子の横顔が見えた。
孫堅は綬を首からはずして、孫策を呼び、
「今日から、おまえにこれを保管する役目を言い渡す。……よいな、大切なものだぞ」
「はい!」
孫策もその伝国璽のいきさつを知っていた。受けとるときに、指さきがすこし顫えた。
奇襲のつもりで突入した黄祖の部隊は、待ち伏せに遭《あ》ったことがわかり、あわてふためいた。
「くそ、罠《わな》にかかった!」
黄祖は算《さん》をみだして逃げる部下を、できるだけまとめて、山中にむかった。
襄陽の南五キロほどのところに、|★[#山+見]山《けんざん》という山がある。黄祖の敗残軍はそこに逃げ込み、孫堅軍はそのあとを追った。
|★[#山+見]山はもともと行楽の山なのだ。戦闘にはふさわしくない、やさしい山である。のちに唐の詩人李白も、
|★[#山+見]山 漢江に臨み
水は緑に 沙《すな》は雪の如し
とうたっている。
山の砂は白く、夜でも人間がひそみにくい土地であった。
降《くだ》る者は降り、抵抗して殺される者は殺され、夜明けまでに、残敵はあらかた掃蕩《そうとう》されてしまった。
「さあ、これで小敵は片づいた。ひきあげて、襄陽を降《くだ》そうぞ!」
孫堅は馬上で片手をあげ、高らかにそう言った。さしあげた手には鞭が握られ、その先が朝日にきらめいていた。
だが、つぎの瞬間、
「おう!」
と短く叫んで、彼は馬から落ちた。
側近が急いで駆けよった。
左胸に矢がつき立っている。
「そうか。……」
孫堅は喘ぎながら言ったが、まもなく目をとじた。息絶えたのである。
親衛隊があたりを捜索したが、怪しい人物をみつけ出すことはできなかった。ただすこしはなれた竹林のなかに、一本の弓がすてられているのがみつかった。
「見慣れない弓ですね」
と、周瑜は言った。
樺皮で造った、きわめてかんたんな弓であるが、その形がふつうではない。
「西域の……月氏族の使う弓ではあるまいか」
博識で有名な孫賁が、その弓を手にとって、そう言った。孫賁は孫堅の兄である。
周瑜と孫策は顔を見合わせた。
すぐに会議がひらかれ、劉表と面識のある桓階《かんかい》という者が、喪のための休戦を襄陽城に申し入れる使者にえらばれた。
長男の孫策はまだ十六歳なので、軍隊の指揮は孫賁に委されることも決った。
劉表は休戦に同意し、孫賁に率いられた五万の軍勢は北へ帰ることになった。
「破虜《はりよ》将軍(孫堅のこと)の最期の言葉は、なんでしょうか? そうか、とおっしゃいましたが」
周瑜は孫策に訊いた。
「わしの進言を容《い》れて、あの支満めを斬るべきだったと、後悔されたのであろう」
と、孫策は言った。
「ひょっとすると、風姫の言葉を思い出されたのかもしれませんね。……幸運が犇いて来るが、気がかりだという……」
周瑜はそう言って、漢江の流れに目をやった。
「父上は、伝国璽を身につけておられたなら、お命は助かっていたのだ。あの方寸の白玉は、ちょうどここにあるのだから……」
孫策は襟から左胸の下に手をつっこみ、唇をかんだ。
伝国璽はたしかに矢をはね返したであろう。
「こんなものは、漢江に投げすててくれる!」
孫策は伝国璽を懐からひき出して、眼下の漢江に投げようとした。
周瑜は孫策の腕をおさえて、
「その白玉には、破虜将軍の執念が宿っておりますぞ。……すててはなりませぬ!」
「わかった。……」
孫策はふりあげた自分の腕を見上げた。
指のさきの伝国璽の白玉が、★[#山+見]山の西に落ちる夕陽に、ほんのりと紅《くれない》に染められたように見えた。
作者|曰《いわ》く。──
伝国璽については諸説あり、『三国志』の正文には、孫堅がこれを得るくだりは除かれている。
三国志の註をつくった裴松之《はいしようし》は、孫堅ファンであり、この忠烈な人物が漢の神器を猫ばばするはずはないと断じている。
九十年のち、呉(孫堅の子孫の建てた、いわゆる三国の一国)が晋《しん》に降るとき、呉の降衆|孫晧《そんこく》が降伏のしるしに金璽を送ったことが史書にのっている。金であって玉ではない。だから、それは呉帝国が自分で造った璽で、問題の伝国璽ではあるまいという。
また孫堅はそれを得たが、袁術が孫堅夫人を人質にして、奪い取ったという説もある。
だが、北魏の正史である『魏書』には、太平真君七年(四四六)、★[#業+おおざと(邦の右側)]城で五重の仏塔を毀《こわ》したとき、泥像のなかから二つの玉璽があらわれ、どちらにも『受命|於《ヽ》天 既寿永昌』の八字が刻まれていたと記録されている。
当時の人たちは、国が滅んだとき、伝国の神器がどうなったかについて、現代人の想像を越える関心を寄せたのにちがいない。
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天《てん》は晴《は》れたり
|蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]《さいよう》は庭をながめて、ため息をついた。
庭といえるほどの庭ではない。あわただしく洛陽からこの長安に遷都して、やっと一年たったばかりである。長安じゅうをさがしても、庭らしい庭はないだろう。
「お父さま、せめて家のなかでは、遠慮なくものをおっしゃってください」
娘の|★[#王+炎]《えん》がそう声をかけた。
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]はふりかえって、力なく笑った。
せめて家のなかでは。──
★[#王+炎]のこの言葉は、聞きようによっては、痛烈な皮肉とうけとれないこともない。
──外ではうっかり口もきけない。
ということと同じ意味になるからだ。
そのころの長安の庶民の雰囲気を、『三国志』は、
──道路にて目を以てす。
という言葉で形容している。人びとは道路で知人に会っても、ものを言うのをおそれ、ただ目くばせをするだけであったという。
董卓《とうたく》の恐怖政治のためであったことは、いうまでもない。
董卓がほんとうに狙《ねら》ったのは、反対派の弾圧だけではなかった。彼はむしろ、あまり反対派に意を介しなかった。洛陽で政権を握って以来、反対派らしい反対派は殺し尽したつもりである。歯ごたえのある相手がのこっているとは思えない。
彼の狙《ねら》いは、罪をでっちあげることによって、その者の家産を没収することにあった。独占欲が病的に強い董卓のことである。なにもかも自分のものにしなければ、気がすまなかった。
──子として不孝な者、臣として不忠な者、吏として清くない者、弟として順でない者。
右の罪にあたる者は死刑のうえ、財物は没収されるというのだ。むろん密告は大奨励である。ふだん仲の悪い者同士は、相手が密告しないかと、びくびくしなければならなかった。不孝、不忠、不清、不順という、漠然とした罪名なら、誰でもすこしは身におぼえがあるだろう。
恐怖政治は、世の中を暗黒にし、人びとの口を封じてしまう。めったなことは言えないのである。
家のなかで、娘と二人きりのいま、ため息だけではなく、ものも言ってください。──★[#王+炎]はそう言う。
「ああ、どうしてこんなことになってしまったのかなぁ……」
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]はそう言った。
この歎声《たんせい》には実感がこもっている。
陳留《ちんりゆう》の圉《こう》県(現在の河南省開封市東南の★[#木+巳]県の南)の名家に生まれた彼は、まだ世の中がみだれていないころから、世に出ることを望まなかった。老荘の『無為《むい》にして化す』という、自適の人生にあこがれていたのである。古典だけではなく、天文、数術のほか音律も学んだ。鼓や琴の名手でもあった。
宮仕えをしないで、のびのびと隠遁《いんとん》の暮しをたのしみたいと思ったが、ものごとは希望通りには行かない。
桓帝《かんてい》の治世に、彼はお召しを受けたことがある。当時は宦官《かんがん》の全盛時代で、音楽好きの宦官の徐★[#王+黄]たちが、
─蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]の琴は天下一品でございます。
と奏上したので、陳留の太守に彼を召し出すようにとの勅命《ちよくめい》が下った。
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]はやむを得ず、みやこ洛陽にむかったが、途中で仮病をつかって、宮仕えを免れた。
とはいえ、いったんその名を知られた以上、野《や》にのこることは困難である。
──野に遺賢《いけん》なからしむ。(宮仕えをしない才能が一人もいないようにする)
というのが、当時の為政者の義務であった。
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]は政界で昇進しようなどという野心は、そのかけらも持ち合わせていない。だが、召されて辞退できないからには、好きな道──学問で仕えたいとおもった。
彼は郎中や議郎になり、歴史の編纂《へんさん》にもあたった。その後、流罪になった五原で太守の王智という者と、なんでもないことで仲違いして、そのまま南方へ去った。王智は当時ときめいていた中常侍(宦官の最高官)王甫《おうほ》の弟だったので、世人は蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]の権力に屈しない精神をほめそやした。──彼の意思に反して、彼の名声は高まったのである。
その名声を、董卓に利用された。
洛陽に入って実権を掌握すると、董卓は蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]を呼び出そうとした。
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]はふるい手──仮病をまたつかった。
董卓は怒って、
──おれは人を一族|誅殺《ちゆうさつ》にする力をもっている。蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]がそんなに生意気なことをするのなら、そいつをやってみせようか。
と言った。
それをきいた蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]は、いたしかたなく出仕することになり、祭酒《さいしゆ》(国立大学総長)の地位についた。
ふしぎなもので、大欲張りの董卓が、この無欲な蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]のことを、すっかり気に入ってしまった。あまりにも違いすぎるので、もう反撥を通り越して、好意をもつのであろう。
長安遷都のとき、蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]は左中郎将に任命され、高陽郷侯に封じられた。華族である。まぎれもなく、董卓派の大物ということになっている。
──あの清廉な蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]でさえ……
人びとはこの事実に意外性をかんじ、董卓にもなにほどかの見どころがあるのではないか、と思ったりする。
どうしてこんなことになってしまったのか?──彼は家のなかで、声を出してそう言ったが、その理由はかんたんで、董卓の威圧に屈したから、こうなったのだ。
「ほ、ほ、ご自分でもおわかりにならないのですか?」
娘はできるだけ明るそうな声で、そう言った。娘といっても、いったん衛仲道《えいちゆうどう》という者に嫁ぎ、夫が死んだので実家に帰ってきたのだ。出戻りである。子供はいない。
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]はこの娘を慰めるべき立場にいるのだが、どうもこのごろは反対で、なにかにつけて娘に力づけられている。
「わかっているが、どうにもならないのじゃ」
と、あわれな父親は言った。
「お父さまは、できるだけのことはなすっておられます。けっして後世の批判を受けるようなことはございませんわ」
やはり娘は父親の気持をよく知っていた。
心ならずも董卓の側についたが、彼が最もおそれているのは、後世の史家の筆であった。
「たしかに、わしはできるだけのことはしたが……はたして、それがよかったかどうか?」
彼はひとりごちるように呟《つぶや》いた。
(わしがいなければ、董卓はもっとひどいことをしておる。……)
彼は自分に言いきかせようとした。
洛陽を放棄して、長安にひきあげた董卓は、敗戦気分を払いのけるためか、
──わしも太公にならって、尚父《しようほ》という称号を用いようとおもう。
と言いだした。
太公とは周の建国の太功労者で、太公望として知られている人物である。周の武王が彼を尚《たつと》んで父とするというところから、『尚父』という称号を与えた。
董卓は天子に父と尚ばれたいと願ったのであろうか。
(とんでもないことだ!)
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]は、勇気をふるって反対した。
──周は天下を平らげて、はじめて太公望に尚父の称号を与えました。いま関東にはまだ諸将が割拠しております。彼らを平定したあとに、この問題を検討すべきでしょう。
──それもそうだな。天下を平定してからだ。
董卓はあんがい、あっさりと尚父の称号のことを取りさげた。もし蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]が反対しなければ、後世の笑い草になるところだった。
初平二年六月の例の地震のときも、蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]は董卓の諮問《しもん》を受け、
──地震は陰が陽を侵すところから起こります。臣下が制度を越えたせいでしょう。このまえ、あなたは金華青蓋《きんかせいがい》の車に乗りましたね。あれがよろしくないのです。
と答えた。
──そうか、では黒蓋の車にかえよう。
このときも、董卓はすなおにききいれた。
金華青蓋の車は、漢の制度では皇太子または皇子でなければ乗れないのである。このときも、蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]が諌《いさ》めなければ、ますますエスカレートして、いまごろは天子の車とおなじものを用いているかもしれない。……
(わしが彼を抑えているのだ。……)
そうでも思わないことには、自分があまりにも哀れである。
「お父さま、このようなときは、音律を操《あやつ》るのが一ばんよろしゅうございます」
★[#王+炎]と、は言った。
「どうも鼓も琴も、手にふれる気がしないのだよ、いまのところ」
「ご自分でなさらずとも、音律をお聴きになれば、気も晴れることでございましょう」
「そうだな、久しぶりにおまえの琴でも聴こうか」
「じつは、今日は趣向を変えて、西域の楽人を招いております」
「おお、それはよい。……西域の音楽は、鬱《うつ》を払いのけるのにはもってこいだ」
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]は背筋をのばした。
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]父娘の音楽の才能については、さまざまなエピソードがのこっている。
焦尾琴《しようびきん》という名器がある。これをつくったのが蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]だが、王智との不和で南方へ亡命していた時期のことだった。
ある日、土地の人が焚火をしていて、火がパチパチはぜる音をきくと、蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]ははね起きてそこへ行き、
──その桐の木を譲ってほしい。
と申し出た。はぜる音で、それが琴をつくるのに最適の名木だとわかったのである。できあがった琴は、その端が焦げていたので、『焦尾琴』と呼ばれるようになった。
中国の音楽は、西方から伝来した要素が多い。だから、音楽に関心をもつ人は、とくに西域のしらべにあこがれをもつ。
「★[#王+炎]よ、憂き世のことは忘れて、西域の楽にこころをたのしませようか」
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]の表情が、みるみる明るくなった。根っからの音楽好きである。
「三十人の楽団でございますよ」
「ほう、それは豪気な……」
別室ではすでに、西域の楽団がいつでも演奏できるように、用意をととのえていた。
箜篌《くご》(ハープ)、琵琶、羯鼓《かつこ》、腰鼓《ようこ》、笛、拍板《はくばん》、|銅★[#金+祓の右側]《どうばつ》(シンバル)、撃琴、簫《しよう》など管絃と打楽器で構成するオーケストラである。
演奏者は十八人で、このうち女性は六人にすぎないが、コーラスの十二人はぜんぶ女性であった。
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]はその部屋にはいると、顔を綻《ほころ》ばせて、
「ほう、西域の楽人ばかりではないんだね」
「そうですわ。お父さま。長安には康国の人が、まだそんなに多くいません。それも商賈《しようこ》の人がほとんどですから。……音楽の好きな漢人が、康国の人から奏法をならって、この楽団に入っているのです」
と、★[#王+炎]は説明した。
ざっと見たところ、ぜんたいの三分の一ほどが漢人のようであった。
「おや……」
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]は楽団のなかを通り抜けるとき、部屋の隅に一人の男がいるのをみて、ちょっと驚いたふうであった。
「お客さまをお招きしましたのよ」
と★[#王+炎]、は言った。
高級官僚のあいだでは、たがいに招いたり招かれたり、社交はさかんであった。楽団を家に連れてくるようなとき、友人を招待して、ともにたのしむのは、よくあることなのだ。蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]はそれに驚いたのではない。彼と同格の三公の誰かがそこにいても、彼は驚きはしなかったであろう。
三公とは、総理に相当する『司徒』、副総理に相当する『司空』、国防相にあたる『太尉』の三人である。俗に宰相といえば、この三人のことを指す。国家機関の最高職だが、董卓はその上に『相国』という、三公以上の官職をつくって、自らそのポストについているので、三公の相場は下落しているわけだ。
このとき、司徒は王允《おういん》、司空は淳于嘉《じゆんうか》、太尉は|馬日★[#石+單]《ばじつてい》で、いずれも蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]の友人であった。とくに馬日★[#石+單]とは親しくしている。
だが、彼の娘が勝手に招いた客は、三公の誰でもなく、中郎将の呂布《りよふ》だったのである。たしかに、彼と同格で、おなじく都亭《とてい》侯に封じられた華族でもあった。しかし、そんなに親しくない。
心のなかでは、軽蔑している相手である。
(なぜ呂布を招いたのか?)
彼は娘の意図をはかりかねた。
(そうか。……)
と思いあたることはあった。
三公ならなんども邸に招いている。だが、呂布はまだ招待したことがない。いまをときめく董卓の義理の子であり、つねに側近にはべっている親衛隊長でもある。このような人物とも、ほんとうはうまくやって行かねばならない。しかし、蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]の気性として、かつてのあるじ執金吾《しつきんご》(警視総監に相当)丁原《ていげん》の首を手土産に、董卓に鞍《くら》がえしたような呂布とは、積極的につき合いたいとは思わない。父親のそのような、かたよった交際を、いくらかでも訂正することが、父親のためでもある。──娘の★[#王+炎]はそう思って呂布を招待したのであろう。父親はそう解釈した。
やがて、演奏が始まった。こちらで習った漢人をまじえているのだから、本場どおりというわけにはいかないのであろう。それにしても、そのエキゾチックなしらべは、蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]にとっては魅力的であった。
(西域の楽の長所を、なんとかして採りいれる方法はないだろうか……)
といったことを考えたりする。
コーラスは、康国の言葉なので、歌の意味はわからないが、ときどき漢語の歌をはさんだ。一種の愛嬌《あいきよう》であろう。歌手の半ばは漢人のようにみえた。
十二人の女性歌手は、みんな美貌《びぼう》であった。とくに両端の女性の美しさが目立った。むかって左端の女性は、端正な容貌で、どことなく近づき難いかんじがする。それにくらべると、右端の女性は表情に媚《こび》の色があった。
「お父さま、楽団の長老におねがいして、歌い手を一人、譲っていただきましょう」
と、★[#王+炎]は言った。
ちょっとした家なら、専属の歌手を抱えていた時代である。漢の武帝の二度目の妻、衛《えい》皇后は、もと武帝の姉の平陽公主の家の謳者《おうしや》──コーラス・ガールだったのである。
「言っておくが、わしは家に謳者を置く気はない」
と、蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]は言った。
豪族の当主なので、金はいくらでもある。だが、彼は隠者を慕うような気質で、はでなことは好まない。家に四千巻の書物を蔵しているが、いくら音楽が好きでも、専属歌手を置く気にはどうしてもなれないのだ。
「いいえ、家に置くのではございません。太師さまに献上してはとおもうのですが……」
娘は笑ってそう言った。
相国の董卓は、長安にひきあげてから、天子の後見役を意味する『太師』を称していた。
「なるほどのう……」
物欲の旺盛な董卓に、廷臣たちはなにかと物を贈って、ご機嫌をとり結んでいる。蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]はそのようなことはきらいだが、あの西方のあらえびすの心を、音楽で和らげるというのは、いい思いつきのような気がした。
「都亭侯さま、どの女がよろしゅうございましょうか?」
と、★[#王+炎]は呂布に訊《き》いた。
董卓の好みなら、呂布に訊けばよい、といわんばかりである。そう思われていると知って、呂布も悪い気はしない。親衛隊長として、董卓の住居に、いつも寝起きしているので、たしかに彼は誰よりも太師の好みを知っているはずなのだ。
「そうだな。……どの女がよかろう……」
呂布は彼女たちをぐるりと見まわした。両端の女が、はじめから彼の目にとまっている。二人のうち、どちらかをえらぼうと見くらべたのだが、そのとき右端の女の目が、ちらとうごいた。なまめいたながしめであった。
「右のはしの女がよかろう」
と、呂布は言った。
「では、太師にその女を献じましょう」★[#王+炎]はそう言ってから、楽団のほうに問いかけた。──
「で、その女の名は?」
「その女は|貂★[#虫+單]《ちようせん》と申します」
左端の女が、かわって答えた。
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]は内心、ほっとした。いま答えた女のほうが、ずっと品格があった。董卓に献じるのは惜しいと思っていた。呂布が別の女をえらんだので、「よかった……」という気がしたのである。
左端の女は、五丈原の康国の人たちの村に身を寄せている少容だった。
「ほう、そなたも五原か。それでは、わしと話が合うではないか」
呂布は貂★[#虫+單]にそう言った。
西域楽団の漢人女性歌手のなかから、呂布がえらんだ貂★[#虫+單]は、彼と同郷であることがわかった。現在の内蒙古自治区にある五原は、後漢のころは郡で、当時も漢族よりモンゴル族のほうが多かった。おなじ同郷意識でも、少数者として住んでいた人たちは、ふつうよりも連帯感が強烈である。
呂布はまだ若い。からだは大きいが、軍人にしては色は白いほうであった。これまで女性を物として見てきたが、彼は貂★[#虫+單]によって、はじめて女を人間としてみることを知った。
おなじ屋根の下に住んでいる。
それなのに、貂★[#虫+單]は彼のものではない。彼女の所有者は董卓である。異常としかおもえないほどの強い独占欲のもち主なのだ。
董卓は|★[#眉+おおざと(邦の右側)]《び》というところに塢《お》を築いた。★[#眉+おおざと(邦の右側)]は現在の陝西《せんせい》省★[#眉+おおざと(邦の右側)]県で、五丈原の南にあたる。塢とは土城のことである。十数メートルの高さの土壁に囲まれた、個人の城なのだ。洛陽からはこんできた財宝、長安で掠奪《りやくだつ》した物品などを、この|★[#眉+おおざと(邦の右側)]塢《びお》に貯めておいた。そして、董卓一門が三十年もちこたえることのできる食糧もストックした。万一のことがあっても、ここへ逃げ込めば、誰も攻めおとすことはできない。董卓はこのことを、
──誰にも一物も奪《と》られないぞ。
と表現した。
どんなちっぽけな物でも、自分の所有物には、指一本触れさせるものではない。──これが董卓の本性であった。
彼の物に手をつけたら、ただではすまされない。まず命はないものと思わねばならないだろう。
ところが、呂布はその董卓のもの──貂★[#虫+單]に手をつけたのである。
「貂★[#虫+單]、これを太師に知られたなら、われらの命はふたつともないのだ。よいか、二人の運命はおなじだぞ。われらは一艘の舟に乗っているのだ。……」
愛の囁《ささや》きのあと、呂布はそう言って貂★[#虫+單]のからだを抱きしめた。冒《おか》す危険が大きければ大きいほど、情事の内容は充実する。
「おそろしゅうございます……」
と、貂★[#虫+單]は声をふるわせた。
「わしがついておる。おそろしくはない。けっしておそろしくはないぞ」
女の肩にかけた呂布の手に、思わず力がはいった。──貂★[#虫+單]は身をよじって、
「はい、おそろしゅうはございません。死ぬも生きるも、あなたさまとご一しょですもの」
と言った。
「可愛いやつ。……」
呂布は片手で貂★[#虫+單]の髪を撫《な》でた。これまで経験したことのない、甘い情緒のなかに、彼は自分の心をしばらくひたした。
とはいえ、呂布は軍人である。勝つか負けるか、いつもその状況にむかい合う。現実的にならねばならない。
貂★[#虫+單]との情事についても、彼はただ溺《おぼ》れていただけではない。冷静な目で周囲を見渡してもいたのである。
二人のひめごとが、いつまでもこのままでいるはずはない。いつかは人に知られるであろう。──董卓の耳にはいれば、もうおしまいではないか。
どうするか?
貂★[#虫+單]の乳房をまさぐりながらも、呂布はそんなことを思いめぐらすのだった。
ふいに彼女は、けいれんしたように、大きくからだを顫《ふる》わせた。
「どうしたのか?」
と呂布は訊いた。
「やっぱり、こわいわ。……この前の宴会のことを思い出すと。……」
「ああ、あれか。あれはひどかった……」
この乱暴者の口から、『ひどい』という言葉をきくのは、めったにないことである。彼がひどいとかんじるのは、よほどのことでなければならない。彼はその手で、ずいぶん血なまぐさいことをしてきたのだから。
この前の宴会というのは、董卓が彼の★[#眉+おおざと(邦の右側)]塢に政府の要人をぜんぶ招待したときのことである。それよりすこし前に、北方に小規模の造反があった。董卓は部将を派遣して、それを鎮圧したが、そのときの捕虜数百人を宴会場に連れてきたのだ。
料理ははこばれて、人びとは箸や匙《さじ》をとっていた。董卓は一ばん高い席に坐って、片手に箸をもったまま、一方の手をひょいと上にあげた。いかにも気のなさそうに。
それが合図であった。
連れ込まれた捕虜の虐殺が始まったのである。数百人の捕虜が、いっせいにまず舌を切りとられた。口から鮮血がほとばしり出た。
宴会場には十二のテーブルがならんでいた。が、野外に幕を張ったひろい場所なので、そのような処刑が、テーブルとテーブルのあいだで、ゆっくりとおこなわれたのである。
一瞬、しぃーんとなった。
「せっかくの宴会に、ぎゃーぁ、ぎゃーぁ、と叫ばれてはかなわんからのう」
匙でひとくちスープを飲んでから、董卓はこともなげにそう言った。しゃがれた、むしろ低い声だが、みんなが息をのんで静まり返っていたので、隅々までよくきこえた。
舌を切れば、大声で叫ぶことはできないが、それでも肺腑をしぼる、かすれた音がもれる。数百人のそのような音は、異様な呻《うめ》きの旋律をつくった。
つぎに目がえぐられた。
血しぶきが、テーブルのうえの皿までとんでくる。スープのなかに、吸いこまれるのもあった。
手が切られ、足が切られる。──
招かれた要人たちは、みんな顔面蒼白となった。料理が口にはいるどころではない。
幕のなかの片隅に、かまどがつくられ、そのうえに大きな鍋《なべ》がのせられ、さかんな湯気を立てていた。あたたかいスープを用意するために、宴会場に近いところに、そんな設備をしたものと、客は考えていた。だが、そうではなかった。大鍋がなにに使われるか、客はまもなく教えられることになった。
切りおとされた捕虜の手や足、えぐられた目玉などが、そのなかに投げ込まれたのである。鍋のなかの湯が煮えたぎっていた。
──会《かい》する者は皆戦慄《みなせんりつ》し、匕《しつ》(匙)箸《ちよ》を亡失す。
『三同志』の董卓伝には、このときの来客たちの恐怖のもようが、右のように描写されている。さらに、つぎの記述がつづく。──
──而《しこ》うして(董)卓は飲食すること自若《じじやく》。
これはもう化け物というほかはない。
貂★[#虫+單]はその前に、朋輩たちと歌をうたわされたが、数曲うたうと、董卓が、
「もうさがれ。今日はもっとおもしろい余興があるから、おまえたちはもう用がない」
と、退出を命じた。
だから、彼女はその阿鼻叫喚《あびきようかん》の現場を見ていない。あとで話をきいて知った。きいているうちに、気分がわるくなったが、もし目撃しておれば、卒倒していたであろう。
「あの話を思い出すと、あたし、からだがしぜんに顫えだすのです」
貂★[#虫+單]は呂布にすがりついた。
「なぁに、こわがることはない」
「いいえ、いいえ……」貂★[#虫+單]は、はげしく首を横に振った。──「こわい! あのひとがいるかぎり、こわくないと百|遍《ぺん》言われたって、やっぱりこわいわ。……こわい!」
彼女の唇もぶるぶる顫えだして、あとは言葉にならなかった。
「あの男がいるかぎりか……つまり、いなくなればこわくないのだな? そうだな……いなくなれば……」
呂布はひとりごちた。
貂★[#虫+單]はこの恐怖の発作がしずまるまで、しばらく呂布の言葉など耳にはいりそうもない。呂布は自分にむかって、話しかけるほかはなかった。
「そうだ……いなくなればいい……」
呂布はその言葉を、あとは喉《のど》の奥でくり返した。いなくなれば、という表現が、いつのまにか、殺せば、と変わっていた。
呂布でさえそうである。
一般の人たちは、喉の奥で、自分にむかってしか、ほんとうのことは言えない。
生活苦を訴えることさえできない。
いったい、むかしの史書には、庶民の生活は詳述されない。ものものしい肩書をもった人物たちが、どの頁にも犇《ひしめ》き合い、庶民の生活はそのうしろにかくされてしまう。
当時の洛陽や長安には、いたるところに銅像や銅馬のたぐいが建てられていた。銅が武器の材料であった時代、天下を統一して平和をもたらした者は、平和の証拠に、武器をなくすためにそれを溶《と》かして巨大な銅像を鋳造したものである。董卓がそれをぜんぶ破壊したという記録が、史書にのこっている。なにのためか? 銅銭をつくるためである。そして、これまで流通していた『五銖銭《ごしゆせん》』という銅銭も、すべて回収して、もっと小型の銭を鋳造した。それはもう形だけで、表面に字も鋳印されていない。そればかりか、ヤスリにもかけられない粗雑な銅銭だった。それを大量に鋳造したのである。
──是《ここ》において、貨は軽く、物は貴《たか》し。穀《こく》の一|斛《こく》(石)は数十万に至る。是《これ》より後、銭貨は行《おこ》なわれず。
と、『三国志』にのせる。
ゼニは通用しなくなった。庶民生活はここに破壊されたのである。
このような、史書の数行の記述によって、われわれは当時の人たちの生活苦を想像できる。だが、彼らはそのような生活苦を、ゆめにも口にすることはできなかった。
──政治を誹謗《ひぼう》している。
という理由で、たちまち処刑されてしまうからである。
それでも辛抱しきれなかった連中が、むしろ旗をかかげて、造反にたちあがる。戦いには不慣れで、組織もない彼らは、たちまち弾圧されてしまう。この前の宴席で処刑された人たちは、おそらくこのような造反団であろう。
だが、『反董』の気運は、こんな弾圧にもめげずに、しだいに浸透してゆく。
極端な恐怖政策で、辛うじてその地位を保ってはいるものの、『反董』の声なき声は、すでに天下に満ち満ちている。いったん世の中がひっくり返ったなら、董卓派の運命も、もうおしまいといわねばならない。
董卓派の大物とみられていた蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]も、機会さえあれば、この長安を脱出して、★[#六+兄(六が上で兄が下)]州へでも行こうと思っていた。そのことを従弟の蔡谷に相談したところ、
「兄さん、あんたは他人《ひと》に顔を知られているばかりか、あんたの容貌は尋常じゃありません。すぐにわかりますよ。おそらく脱出は無理でしょうな」
と言われて、思いとどまった。
長安に遷都したあと、董卓は一年ほど、まだ洛陽の近くで、関東の諸将と攻防戦をくりひろげていた。そのあいだ、長安における政治の一切を、董卓は司徒の王允にまかせていた。したがって、王允も董卓派の重要な人物の一人ということになる。
この王允も、世の中が逆転したときの、身のふり方をたえず考えていた。
董卓の信任は、あまりにも厚い。なまなかなことでは、董卓派という色分けから、脱けることはできない。逆転したときこそ、彼は董卓派第一号として、まっさきに処刑されるのに相違ない。
それを免れる唯一の方法がある。
世の中が逆転するのを待たずに、こちらから逆転させるのだ。──
すなわち、彼が董卓粛清の先頭に立つことである。困難な仕事であるが、これ以上に方法はない。攻撃こそ最良の防禦《ぼうぎよ》であり、闘争こそ最良の昇進法といえる。王允のこれまでの経歴がそうであった。
王允は太原《たいげん》の人である。字《あざな》を子師《しし》という。
青年時代、彼は路仏《ろふつ》という人物の任官に反対して、郡太守に殺されそうになった。だが、彼の気骨を愛した刺史の|★[#登+おおざと(邦の右側)]盛《とうせい》に救われ、その下で働くことになり、しだいに出世した。
黄巾の造反時代には、豫州刺史として活躍したが、大宦官の張譲を弾劾したことから、投獄された。赦《ゆる》されて再び刺史に復帰したが、またまた宦官との争いで逮捕された。死一等減じられはしたが、恩赦にも除外されたのである。ときの三公が、そろって彼のために釈放運動をしたので、やっと一年ののちに出獄できた。
宦官皆殺し事件以後は、朝廷の中心人物となり、位は三公にのぼったのである。
争ったので認められ、そのために出世した。道がひらけたのである。こんども戦わねばならない。これまでの王允の闘争は、きわめて無謀なようにみえるが、じつはあらかじめ強力な援軍と結び、それを|あて《ヽヽ》にして戦ったということができる。けっして、無計画な発作的な闘争ではない。
路仏の任命に反対したときは、ひそかに人を通じて、『あれは気骨のある若者よ』と、★[#登+おおざと(邦の右側)]盛に売り込んでいたのである。宦官との争いのときも、三公の援護を受ける|めど《ヽヽ》がついてから起《た》ちあがった。
こんどはなにを|あて《ヽヽ》にするのか?
宮廷人の底流には、反董卓ムードが強い。
生活苦に悩む民衆も、こんな苦しみを招いたのは董卓のせいであると、怨みを積みかさねている。おそろしくて口には出せないが、喉の奥ではみんな、
──くたばれ董卓!
と叫んでいるはずなのだ。
いま董卓を倒せば救世主になれる。そして、もしほかの人間が董卓を倒せば、王允は董卓派として粛清されるだろう。
急がねばならない。
王允には同志がいた。司隷校尉《しれいこうい》(警察長官に相当する)の|黄★[#王+宛]《おうえん》と尚書(秘書長に相当)の鄭《てい》公業、執金吾《しつきんご》(警視総監に相当)の士孫瑞《しそんずい》たちである。
はじめ王允は、彼らに兵を授けて、袁術を討伐するという名目で武関を出たあと、陣形を変えて、董卓を討たせようとした。
しかし、兵馬の大権は董卓の手中にある。軍団の移動は、董卓が同意しなければ正式に認可されない。王允の考えた軍団の移動は、
──いまその必要なし。
と、董卓に蹴《け》られてしまった。
初平三年(一九二)は、年初から雨が降りつづけ、それが六十日に及んだ。このようなとき、当時の高官は天に『請霽《せいせい》』するしきたりであった。晴天祈願である。『祈晴《きせい》』ともいう。とくべつに台を築き、そこへ登って祈願するのであった。
台上はそんなに広くない。高さは数メートルである。ほかに人がいなければ、台上での会話は盗聴されるおそれはない。王允たちはこの祈晴台を、よく連絡場所に使った。随行の従者も台の下で待っている。台上で傘をさして言葉をかわすのだ。
ある日、王允は台上で士孫瑞に会った。この男は士孫という二字姓で、名が瑞の一字である。字《あざな》は君策《くんさく》、扶風《ふふう》の出身であり、才謀をもって知られた。
傘の下で、士孫瑞は王允に言った。──
「去年の歳末以来、太陽は照らず、霖雨《りんう》が続いている。月が執法《しつぽう》を犯し、彗孛《すいはい》が見える」
執法も彗孛も星の名である。
士孫瑞は占星術や秘緯《ひい》(予言)を解する人物といわれていた。
「それはなにを意味するのかね?」
と、王允は訊いた。
二世紀末の中国人は、占星術や予言書を深く信じた。そして、王允は当時の人の平均よりも、それを信じることが深かった。たいへんな迷信家でもあった。
「内に発する者は勝つ。ほとんど後《おく》れるべからず。公、それ之《これ》を図《はか》れ」
士孫瑞はそう言って、台の階段を降りた。
「内に発する者は勝つ……」
雨のなかで、王允は呟いた。
その夜、王允は意外な人物の訪問を受けた。
呂布である。
いまは董卓の天下であるから、王允も儀礼的に呂布を招いたことはあった。董卓の腹心中の腹心であり、ボディーガードである。機嫌を損ねてはいけない。
だが、生来の武人である呂布は、王允にとっては、別世界の人のように思えた。おそらく呂布もそう思っているだろう。だから、その呂布が招かれないのに訪ねてきたというのは、王允には信じられないほど意外なことだった。
しかも、大きな図体をした呂布が、両肩を縮めるようにして坐り、思いつめたような表情をしているのだ。
「なにかありましたな?」
と、王允は訊いた。なにもなければ、こんな男が、こんな時刻に訪ねてくるわけはない。
「私は殺されます」
呂布はだしぬけに言った。
「えっ、あなたが?」王允はわけがわからなくなった。呂布といえば人殺しの名人ではないか。それが殺されるとは、いったいどういうことであろうか。──「この世の中に、あなたを殺せる人がいるとは思えません。誰に殺されるというのですか?」
「太師にです」
と、呂布は答えた。
太師董卓。──たしかにこの男だけが、呂布を殺せる人間なのだ。
「どんな理由ですか?」
これは、好奇心を持つな、と言うほうが無理であろう。
「太師の態度がおかしいのですよ。なにが気に入らないのか、手にしていた杖《つえ》で、いきなりぴしゃりと……」
呂布はここで、彼らしくもなく、目を伏せた。──貂★[#虫+單]のことが第一である。いや、そのほかに理由はない。だが、彼としては、女の問題で董卓をおそれているなど、口が腐ってもいえない。
だが、王允はこれを、呂布の自尊心が傷つけられたせいだ、と思い込んだ。
飼犬ではあるまいし、気がむしゃくしゃするというだけで、ぴしゃりとやられては、大の男の自尊心は反撥せずにはすまない。
「無念でしたろう。お察しいたします」
王允はそう言って、ふとその日の祈晴の台上で、士孫瑞からきいた言葉を思い出した。占いの文句は、なるべく網をひろげられるように、なにやらわけのわからない、勿体《もつたい》ぶった体裁になっている。士孫瑞の言葉も、けっしてわかりやすいとは言えなかった。だが、
──内に発する者は勝つ。
という文句の意味が、ひょっとすれば、これではないかという気がしたのである。
内応者があれば成功する。──
呂布は董卓と父子のちぎりを結んでいる。董卓にとって、この若い武将は、我が子であり、最も信頼できる護衛である。側近のなかの側近ではないか。
ごく内輪の人間──それが背《そむ》く。これが、内に発する者、の意味ではなかろうか?
やはり士孫瑞の予言能力はたいしたものである。この呂布をひきいれたなら、成功疑いなしである。──予言の意味はそうだったのかもしれない。いや、かもしれない、ではない。きっとそれにちがいないのだ。
呂布は途方に暮れていた。──果敢な斬込み隊長も、このような場面はにが手である。
──王允さまは偉い丞相ですから、相談に行かれては? あたし、どうやらあなたとの仲を感づかれたような気がしてしかたがありませんわ。……
貂★[#虫+單]にそうせがまれたので、王允の邸をこうして訪ねたのである。
はたして良い智恵を教えてくれるであろうか?
もし王允にも智恵らしい智恵がなければ、呂布はかねて考えていたことを、実行するまでだ、と決心していた。──それは、董卓を消すことである。
呂布は額にあぶら汗をうかべた。
王允はそんな呂布のようすを、しばらくみつめてから、口をひらいた。──
「私は五十をとっくにすぎました。取るに足らない人間ですが、経験だけはあなたより多いわけです。助言できるとすれば、私の経験を語ることぐらいでしょうね。……この年になって、しみじみ思うことは、負けてはならない、と思ってはならないことです。それよりも、勝とう、と思わねばなりません」
呂布は、こくりとうなずいた。なんだかわかったような気がしたのである。
かなり間をおいてから、王允はできるだけ重々しい声で、言葉をつづけた。──
「殺されまい、と焦ってはなりませんのじゃ。よろしいか、そう思うよりは、殺してやる、と思わねばならんのです。……」
呂布はそこまで聞いて、顔をあげた。
安堵《あんど》の表情がうかんでいた。
(やっぱり……)
と、彼は思った。
彼はいろいろ考えたが、相手を消す以外に解決法はなかった。当代随一の智恵者といわれる王允にたずねても、結果はおなじことであったのだ。
殺してやる。──
そう思うのは、かんたんである。それ以外に手の打ちようはないと判明したいま、呂布はむしろ気がらくになった。
「問題は方法ですが、あなたは内輪の人ですから、機会はいくらでもあるでしょう。ただ大義がこちらにある、という形にしなければなりません。……そのためには……」
王允は声をひそめた。
呂布は思わず身を乗りだした。
おなじころ、蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]の邸にも来客があった。しかし、こちらのほうは意外な顔ではない。むしろ常連といってよい人物なのだ。
士孫瑞である。
彼はよく蔡家に来る。たいてい書物を借りたり、返したりするためだった。むろん、その前にあるじとしばらく歓談する。
「では、遅くなりますから、そろそろ書庫のほうへ参ります」
適当な頃合いを見はからって、士孫瑞がそう言うと、蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]は娘を呼んで、
「では士孫さんを書庫へ案内してあげなさい」
と言いつけた。
書庫は娘の担当である。
娘の名は|★[#王+炎]《えん》、字《あざな》は文姫《ぶんき》であった。郭沫若が彼女を主人公にした史劇をかいたが、その題を『蔡文姫』としたので、彼女は字のほうが有名になった。
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]は蔵書家である。あわただしい遷都のときにも、なにはさておき、書物だけは家財よりも先にはこんできた。蔡家にしかない書物が多いので、閲覧を希望する客が多い。それに応対するのが蔡文姫の役目なのだ。
後年の動乱で、蔡家の書籍もほとんどうしなわれてしまう。だが、驚くべし。十数年後、彼女は曹操の命令で、暗記している文章を復原すること四百篇にのぼった。──これは後日|譚《たん》だが、彼女はそれほど書物に親しんでいたのである。書庫係として彼女以上の適任者はいないであろう。
士孫瑞は書物を借りるのにことよせて、別の用件があって来たのである。──蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]の娘と連絡するために。
「文姫さん、呂布の件はうまく行きましたか?」
士孫瑞は人気のない書庫のなかでも、声をひそめてそう訊いた。
「もう今日にでも、王允さんのところへ相談に行くでしょう。貂★[#虫+單]にそう言わせましたから。……あの大男、ちかごろ、柄にもなく思い悩んでいるようでございます」
と、彼女は答えた。
「うまく行けばよいが。……私も今日、祈晴台で王允に、内に発する者は勝つと、謎《なぞ》をかけておきました」
「丞相は人一倍、そのようなことを信じるお方ですから……」
「それにしても、貂★[#虫+單]とやらは、よく呂布を操縦できたものですね。ただ同郷の誼《よし》みというだけでは、こんなにうまくやれないでしょう。……私はふしぎな気がします」
「彼女には、世のため人のためという、一種の使命感があるのです。自分の行為によって、多くの人たちが救われると信じているので、思いきったことができるのでしょう」
「女の身で、そのような使命感を、どこで養ったのでしょうか?」
「五斗米道です」
「えっ、米賊?」
士孫瑞のような人物でも、五斗米道の道教の信者に『賊』という呼び方をした。漢中で五斗米道の張魯が、朝廷と四川との連絡を断ったので、蜀《しよく》の地で独立王国をつくりつつあった劉焉《りゆうえん》が、それを独立の口実にしている。途中で妨害している『米賊』のせいだと。
「そうです」
「愚民をたぶらかしている五斗米道に、そのような、しっかりした女性を育てる力があるでしょうか? どうも私には信じられませんね」
「五斗米道でも最高の女性が、貂★[#虫+單]を教えたのでございます」
「私も教えてもらいたいものだ」
「虜《とりこ》になるかもしれませんよ」
蔡文姫はにっこりと笑った。
「なぜ?」
「きれいな女性ですから」
「まさか。……は、は、は……」
士孫瑞はさりげなく笑った。
(私はもうとっくに、ほかの女性の虜になっておりますよ。……)
声に出してはならない言葉を、彼は胸のなかでもてあそんだ。
「父上は、このたびのことをご存知でしょうか?」
士孫瑞は話題を変えた。
蔡文姫は首を横に振って、
「私はかたく伏せております。父も気づいたようすはありません」
「そのほうが、私たちとしてもやりやすい。……一人でも多くの味方が欲しいが、考えてみれば、天下のことごとく私たちの味方ですからね。……」
士孫瑞は、これからやろうとしていることに、しばらく自分で酔った。彼はきわめて現実的な人物だが、ときどき思いきって、自己陶酔に身をまかせる。そんなふうに情緒を開放するので、現実的にならねばならないときには、現実に徹し切ることができるのだった。
たしかに、喉の奥に詰っている言葉を、吐き出させてみれば、天下ことごとく董卓を怨んでいるはずなのだ。──|★[#眉+おおざと(邦の右側)]塢《びお》の董一門を除いては。
董卓は天下を私物化している。
みやこの近辺には、女婿の牛輔に兵を授け、中郎将の位を与えて守らせていた。弟の董旻は左将軍、兄の子の董★[#王+黄]は中軍校尉に任命され、それぞれ軍団の司令官としてにらみをきかせている。一門すべて封侯であった。董卓の妾《めかけ》が妊娠すると、まだ生まれていないその子に位階を授ける、といった調子なのだ。
ただの官職や位階の分捕りなら、雲の上のことで、庶民には関係ないが、董卓はすべてについて独占をめざした。地上のものは、なにもかも、わが★[#眉+おおざと(邦の右側)]塢にひきずり込まねば気がすまない。庶民の手にはなにも残らないのだ。
──天下のため。
董卓を倒すのに、名分にはこと欠かない。
「私は董卓|誅殺《ちゆうさつ》の詔書の文案をつくります。……いえ、もうすらすらと書けますよ。この数年のあいだ、朝から晩まで考えていたことを、そのまま文章にすればいいのですから」
と、士孫瑞は言った。
決行の日はきまった。
初平三年四月辛巳(二十三日)である。
しばらく病気をしていた幼い献帝が、ようやく全快したので、諸臣を未央《びおう》殿に集めることになった。太師である董卓も、礼服に身をかためて参内する。
董卓の参内は、めったにないことである。政府のおもだった役人は、董卓のところへ決裁や指示を仰ぎに行く。だから、公式の行事以外に、董卓は参内の必要がない。彼は★[#眉+おおざと(邦の右側)]塢のほかに、長安にも『府』(執務所)をもっているが、高い壁に囲まれ、重武装の兵士たちによって、厳重に警備されている。
董卓を襲おうとすれば、外出のときを狙うほかはないだろう。ふつうの外出のときでも、護衛は何重も彼の車を囲んでいる。やはり参内が機会としては最上である。
皇居のなかでも、董卓は武装兵を連れてはいる。だが一般の外出のときよりは、やはり数はすくない。むろん選りすぐった兵であろうが、また皇居のなかなら、とうぜんのことながら、皇帝の身を護る衛士《えいし》(近衛兵)がいるはずである。いくら董卓でも、近衛兵を退去させることはできない。そのうえ、皇居内で誅殺すれば、
──勅命を奉じて叛徒を斬った。
という名分が生きる。
いくら詔書をつくって、皇帝の璽《じ》をもらっても、ほかの場所での闇《やみ》討ちでは、効果がぐっと落ちるといわねばならない。
王允をリーダーとする、董卓にたいするクーデター計画は、慎重に練りあげられた。
士孫瑞の書いた詔書は、逆賊を誅殺せよという、一種の動員令なので、『皇帝信璽《こうてんしんじ》』が捺《お》された。印璽をつかさどる尚符璽郎中は、幸い王允の門弟であった。
官職分捕りに狂奔したくせに、この要職に腹心をあてなかったのは、董卓の失敗であろう。彼のことだから、
──なんだハンコの管理人ぐらい。
と、重くみなかったのに相違ない。
この詔書は、ひそかに呂布に手渡された。
呂布は自分の部下の騎都尉《きとい》の李粛《りしゆく》、秦誼《しんぎ》、陳衛ら、屈強の武士十余人に、近衛兵の制服を着せて、北掖《ほくえき》門守備の衛士にみせかけた。
王允はさすがにおち着かない。
闘争が運命をひらく唯一の方法である。彼はそう信じていたが、このたびのは容易ならざる闘争だ。
かりに失敗すれば、拷問《ごうもん》によって首謀者がつきとめられるだろう。深く信任していただけに王允にたいする董卓の怒りは、想像を絶するものがあるにちがいない。この前の招宴のときのように、舌を切り、手足を切断し、目をえぐり、煮えたぎる大鍋のなかに投げ込むのは、最も軽い処刑法であろう。
「成功する!」
王允は自分を叱《しか》るように、心のなかでそう叫んだ。
成功しないはずはないのである。星を占うことにかけては定評のある士孫瑞が、
──内に発する者は勝つ。
と、断じたではないか。
内に発する者を得たいま、なにを恐れることがあるだろうか。
王允はしずかに待った。
前漢末の赤眉《せきび》軍の蜂起につづく一連の戦乱で、長安は廃墟となり、そのため、後漢はみやこを洛陽に定めたのである。董卓はその洛陽から、自分の本拠地に近い長安に、再びみやこをうつした。
廃墟のうえに、急造の建物がぽつんぽつんと建っているという、わびしい長安である。未央殿といっても、かつての面影はない。前漢の未央宮|址《あと》は、東西百三十五メートル、南北三百十数メートルの台上に、数多くの宮殿がならんでいた。宮殿門が八十一、掖門が十四つくられていたという。
その北掖門から、董卓の行列がはいってきた。
──兵を陳《なら》べ、道を夾《はさ》む。
という威風堂々たる参内である。左は歩兵、右は騎兵が護衛にあたっていた。
董卓は車に乗ったままである。たいていの廷臣なら、掖門をはいってからは車も馬も使わない。だが、彼は平気で車中で参内する。
車がぐわらと揺れた。そして停《とま》った。
「どうしたのじゃ?」
董卓は車の前に垂れていた幕を、車蓋のうえへはねあげて訊いた。
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]の諌言《かんげん》で、董卓は青蓋車をやめたが、四頭の白馬にひかせたその車は、ところどころに金や銀を使用し、その豪華はほとんど皇帝の車とかわるところはない。皇帝の馬の白馬は、タテガミと尾を朱に染めるが、それだけはしていない。
車輪は朱塗りである。その車輪が石畳のうえに貼《は》りついたようにうごかない。
董卓は身をのりだして外を見た。
衛士がそこにならんでいた。誰も董卓の問いに答えない。
「なぜ進まぬのじゃ?」
董卓は重ねて訊いた。
彼は朝服(大礼服)を身につけている。
玄冠(黒いかんむり)、絳衣《こうい》(赤いころも)である。肥満体のうえ、車のなかであぐらをかいているので、その下腹は異様なほど大きくみえた。
一人の男が戟《げき》(ほこ)を持って進み寄った。
「なんだ、おまえは?」
董卓はその男の顔をにらんだ。どこかで見た記憶がある。衛士の服装をしているが、宮殿のなかで見たのではないような気がする。
その男は李粛であった。彼が戟を構えるまで、董卓はまさか自分が殺されるなどとは思っていなかった。車の故障の説明にでも来たのだろう、と考えていたのである。
李粛は戟を構えて、ふた呼吸ほど目をとじた。そのあいだ、彼の手は小きざみに顫えていた。相国の位についてから三年、この男は天下の実権を握ってきた。彼にできないことはなにひとつなかった。天下の財物をのこらず掻《か》き集めることさえできた。それがいま彼の戟のさきにいる。──李粛は目をあけた。
意外な場面が、彼の目にはいった。董卓は顫えているのだ。豪胆を謳《うた》われた武将の彼が、わなわなと顫えている。どうしたことか? 片手を前につきだし、その手の指が揺れている。──それを見て、戟を握る李粛の手の顫えは、ぴたりととまった。
李粛は黙って刺すつもりであった。
だが、このとき彼は大声をあげたい衝動に駆られた。
「命知らずとはやされた董卓将軍、見苦しいぞ、そのざまは。財宝を手に入れると、命が惜しくなったか! 覚悟!」
李粛は戟を突いた。
カーン。……戟ははね返された。
董卓は赤い上衣の下に、鎧《よろい》を着込んでいたのである。戟が鎧にはね返された音に、董卓はやっと気を取り直したようだ。
「呂布はどこにおるか!」
と、董卓は叫んだ。
このようなときに備えるのが親衛隊長ではないか。毬《まり》のように、ころんででもやって来るべきなのに、いったいなにをしているのか? 董卓は外のようすを見ようとして、膝を進めたとたんに、均衡を失って、石畳のうえにころげ落ちた。当時の車体の高さは四尺の車輪のうえにのっかっていたのである。
そこへ、待ちに待った呂布がやってきた。毬のようにころんでではなく、勿体ぶって、ゆっくりと歩いてきた。そして、ころがっている董卓の前に、大股をひろげ、
「詔《みことのり》が下った。賊臣を討てと!」
大音声《だいおんじよう》でそう咆《ほ》えたかと思うと、手にした矛《ほこ》を目にもとまらぬ速さで、董卓の胸もとにつき剌した。
「庸狗、敢《あえ》てかくの如きか!」
『後漢書』の董卓伝は、彼の最期の言葉を右のように記録している。
──野良太め、よくもやりやがったな!
という意味である。
董卓の主簿(秘書)の田儀という者が、前にとび出したが、たちまち呂布に斬られた。
呂布は懐中から詔書をとり出して、
「詔は董を討てとのみある。ほかの者は不問に付す」
と、大声で呼ばわった。
そのあたりに立ちならんでいた廷臣たちは、いっせいに、『万歳!』と唱えた。
一世の梟雄《きようゆう》の最期にしては、あっけない幕であった。田儀を含めて三名が抵抗して斬られただけである。両陣営いりみだれて斬り結ぶという場面は見られなかった。
──百姓《ひやくせい》、道に歌舞す。
董卓の死をきいた庶民たちは、道路にとび出して踊り、歌をうたった。──史書にそう記されているが、よほどよろこんだのであろう。その恐怖政治の暗さが、このエピソードによっても察しられる。ながいあいだ、ものも言えなかったのだから、思わず歌声が口をついて出たのだ。喉の奥にせきとめられていたものが、いちどきに噴きあげ、それがからだをもうごかし、踊りの所作となったのにちがいない。
──長安中の士女、其の珠玉|衣装《いそう》を売り、酒肉を市《か》い相《あ》い慶《けい》する者、街肆《がいし》に填満《てんまん》す。
おなじ『後漢書』は右のように記述をつづけている。
董卓の掠奪をのがれるため、どこかにかくしていた珠玉のたぐいを取り出し、それを売ってご馳走《ちそう》の用意をしたのだった。お祝いである。人びとは街で口ぐちに、おめでとう、おめでとう、と言い合った。
王允は皇甫嵩《こうほすう》に命じて、★[#眉+おおざと(邦の右側)]塢を攻撃させた。高さ二十メートルの土壁をめぐらし、三十年の糧食を用意して、長期|籠城《ろうじよう》に備えたこの城も、あるじを失えば、まことに脆《もろ》いものであった。ひとたまりもなく落城し、卓の弟の旻をはじめ、董家の一族はことごとく殺されてしまった。そのなかには、九十歳になる卓の母親も含まれていた。
董卓の死体は長安の市場にさらされた。
ふしぎなことに、董卓の殺された日から、天は晴れたのである。六十余日の霖雨が、まるで嘘のようであった。
初夏の太陽に照らされて、肥満した董卓の屍体から脂《あぶら》が流れ出た。屍体監視の役人が董卓の臍《へそ》に火をつけたところ、それが何日も燃えつづけたというのも、有名な話である。
──諸《もろもろ》の卓に阿附《あふ》せる者、皆獄に下して死す。
古今のクーデターは、こうして残敵を処理するのが常である。相手陣営の息の根をとめるためには、草の根をかきわけても、敵性の芽を摘みとらねばならない。
董卓派はこうして一掃されるが、王允はその巨魁《きよかい》として蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]を血祭にあげようとした。
武人の董卓は、政治についてのこまかいことは、たいてい専門の文官にまかせた。彼が最も信頼したのが王允と蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]であった。この両者が、董卓派の二大文官である。そのうちの一人は、董卓を殺して、董卓派でないことを、事実によって示した。
残るは蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]だけである。
「私は絶対に反対ですぞ。蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]処刑など、もってのほかだ!」
強硬に反対したのは、士孫瑞であった。
「とはいえ、蔡公が董卓の片腕であったのは周知のことだから、これは見すごすわけには参らぬ」
王允は蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]を処分することに執着した。
一人だけゆるしては、|しめ《ヽヽ》し《ヽ》がつかない、と主張したのである。
激論がかわされ、王允はついに、
「死刑の判決は譲れない。ただ刑の執行は中止し、すくなくとも一年以上は投獄することにしよう」
という線まで譲歩した。
だが、それでも士孫瑞は首をタテに振らなかった。ほかの幹部は、王允がかなり譲歩したのだから、
「一年すれば出獄させるという証文を、丞相が書けばよろしいでしょう。死刑の判決はあくまで表むきの形式だから。……これで手を打っては」
と、士孫瑞を説得しようとした。
「ご免|蒙《こうむ》る」
士孫瑞は立ちあがった。
「どうなさるのか?」
「もう一度席に坐られよ」
一座の人たちは、口ぐちになだめようとした。だが、士孫瑞はそれをふり切って、会議の席に背をむけた。戸口のところまで行くと、ふりかえって、
「このたびのことは、私は一切関係しなかったことにしていただきたい。形式にせよ、蔡公に死刑の判決を下すような人たちと、行動を共にしたことが恥ずかしい。これから貴公たちのつくる政府にも、私はなんの関係ももちたくない」
と言った。
王允は立ちあがって、
「蔡公はできるだけ早く出獄させよう。思い直してほしい。考えが変われば、いつでも訪ねてきていただきたい」
と、士孫瑞のうしろ姿に声をかけた。
士孫瑞はそれには答えずに、足音を荒げて出て行った。
外に出て、彼は空を仰いだ。
天は晴れていた。待望の晴天が、あの日以来、ずっとつづいている。
「だが、いつまで続くことか。……」
と、士孫瑞は呟いた。
長安の近くには、董卓の女婿牛輔の軍団が無傷のままのこっている。反董連合軍の諸将と戦うために、東へ派遣されている、校尉(師団長)|李★[#イ+寉]《りかく》、|郭★[#さんずい+巳]《かくし》、張済《ちようさい》たちが、このまま黙っているだろうか。彼らは董卓子飼いの軍人たちである。
街はまだお祭り気分であった。
そのなかを、士孫瑞はうしろめたさをかんじながら歩いていた。
(なぜ蔡公の娘のことを言わなかったのか。……)
貂★[#虫+單]を使って、呂布を味方にひきこんだ計略が、蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]の娘から出た事実をあかせば、蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]は投獄されずにすんだかもしれない。彼の娘がこんどの董卓打倒に、大きな手柄を立てたことになるのだから。
士孫瑞がそれを口にしなかったのは、蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]公投獄を理由に、王允たちと縁を切りたかったからである。恰好《かつこう》の口実と考えたのだ。
董卓が殺されて、みんなよろこんでいるが、かならず揺り返しがあるはずだ。王允一派に属していては危険だ。
(揺り返しがすんでから、蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]公の出獄を申し入れてもおそくない。……)
自分を納得させて、彼は我が家に足をむけた。──
だが、彼は蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]公のために、思い直すことはなかった。
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]はまもなく獄中で病死したのである。
作者|曰《いわ》く。──
当時の人たちの迷信ぶりは、現代のわれわれの常識では、思い及ばぬものがある。
洛陽から長安への、あのあわただしい遷都にさいして、王允は石室の図書、秘緯などをわざわざはこび出した。そのなかにあやしげな予言書もあったはずだ。
のちに隋の煬帝《ようだい》が、このような妖書をきらって、焼き払ってしまった。したがって、漢代の予言者がどのようなものであったか、いまでは知ることができない。
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背後《はいご》に雷鳴《らいめい》あり
近年にない暑い夏であった。
「あまりの暑さに、おえら方の頭も、どうかしたのじゃあるまいか」
長安の市民はそう言いあった。
この初平三年(一九二)の夏は、四月の董卓|誅殺《ちゆうさつ》から始まり、異常としかいいようのない局面が、つぎつぎとくりひろげられた。
たしかにどこかが狂っている。とくに、政局を担当するおえら方の頭に、過度の興奮による一種の錯乱が生じた疑いがあった。
独裁者董卓の死は、おえら方だけでなく、一般の市民にも大きな興奮を与えた。その興奮の余熱に、盛夏の酷暑が加わって、長安のまちは燃えるようだ。
「うだるような暑さでございます。あまりご無理をなさらないように」
陳潜は少容にそう言った。
渠《きよ》(堀)のそばで馬車からおりて、少容は巷《ちまた》のなかを歩いた。白昼である。さすがに暑さのため、人通りはそれほど多くない。だが、庶民の生活の息吹きは、じゅうぶんにかんじられた。少容はそれをさぐるために、毎日のように、まちを歩きまわった。陳潜がいつもその供をするのだが、ずっと年の若い彼のほうが、音《ね》をあげそうになる。
「無理などいたしませぬ」
少容は笑って答えた。
彼女の表情には、疲れの色はみえない。
約束があった。──こんなふうに巷を散策するとき、陳潜は少容を『姉』と呼ぶ。
陳潜は二十九歳になった。漢中にいる張魯《ちようろ》は一つ下の二十八歳である。少容はその張魯の実母だから、どんなに若くても四十代の半ばはすぎているはずだった。それなのに二人が姉弟だといえば、
──へぇーっ、姉さんのほうが若くみえらぁ。おら、兄と妹かと思っただ。
と言われる。一度や二度ではない。お世辞などに縁遠い、淳朴《じゆんぼく》な百姓が、かんじたとおりのことを口にするのだ。
といって、陳潜が老けて見えるのではない。少容が並はずれて若くみえたからである。
彼女はただ生活の息吹きを吸うために、長安の巷にはいりこむのではない。さまざまな情報を集めてもいたのだった。
長安のまちにも、五斗米道《ごとべいどう》の信者はすくなくなかった。彼女の情報網は、そのような信者筋によってつくられている。
「潜さん、信者はみんな口惜しがっていますねぇ。……太平道の人たちのことを」
と、少容は言った。
「はい、それは同じ道ですから……」
と、陳潜は答えた。
五斗米道の信者が何を口惜しがっているかといえば、同じ道教系統の太平道の黄巾《こうきん》軍が、関東の軍閥の討伐をうけて、威勢があがらないことである。
──私たちも起《た》ちあがらねばならないのではありませんか?
思いつめた表情で、そう訊《き》く信者もいた。
後漢末の動乱の、根本的な原因をさぐって行くと、政治面における、
──銅臭《どうしゆう》
に行きあたる。
銅臭とは、銅銭のにおいのことで、現代流行の言葉でいえば、金権政治にほかならない。
朝廷が、名目上の官職に値段をつけて、売り出したことはすでに述べた。
だが、金銭を必要としたのは、名目上の官職だけではなかったのである。たしかに実在し、それによって世の中がうごかされている、実質上の官職も、ほとんど金次第ということになっていた。
その官職についた者は、その地位を手に入れるためにつかった銅銭を、一日でも早く回収し、さらにもっと上位のポストを得る金をつくるため、あらゆる金|儲《もう》けを考える。いちばんてっとり早いのが搾取《さくしゆ》である。
こうなれば、一般の庶民は踏んだり蹴ったりで、銅のにおいのする連中のために、朝から晩まで牛馬のように働いていることになる。
──こんなことがあっていいものか!
そう自覚した人たちの怒りを、道教集団の太平道が吸いあげ、黄巾軍という造反組織をつくったのである。
いっぽう、おなじ階層で、食べられなくなった人たちが、仕方なく軍隊にはいる。それは、軍閥の軍隊で、黄巾軍討伐から始まって、軍閥混戦に使われた。
おなじようにしいたげられた人たちが、戦場で血を流し、命のやりとりをしている。食べられないので造反に起ちあがった人、餓えをしのぐため軍隊にはいった人らが戦うのは矛盾というほかはない。
現在は、造反軍の旗色が悪い。
造反軍の中核がおなじ道教の太平道なので、五斗米道の人たちは、口惜しがり、もどかしがったのである。
ついさっき、少容と陳潜は、太平道の秘密の連絡所で、暗いしらせをきいた。
青州の黄巾軍の敗北である。
旗色の悪い造反軍のなかで、青州の黄巾軍は、最も意気あがり、闘志に満ちていた。
青州は現在の山東省北部、済南市を含む地方で、黄河をへだてて河北の幽州とつながる。すなわち、太平道の布教が最も盛んであった地方なのだ。
青州黄巾軍の強さは、太平道という精神背景がしっかりしていたことと、それに従って、造反が家族ぐるみであったことによる。老いも若きも、女性も子供も、造反軍に協力したのである。
その青州黄巾軍が、|★[#六+兄(六が上で兄が下)]州《えんしゆう》に攻め込んだ。
|★[#六+兄(六が上で兄が下)]州は青州の西隣で、すでに中原と呼んでもよい地域なのだ。
|★[#六+兄(六が上で兄が下)]州刺史《えんしゆうしし》は劉岱《りゆうたい》である。討董連合軍として酸棗《さんそう》に兵を進めた諸将の一人であった。気性ははげしい。おなじ酸棗諸将の一人、東郡太守の橋瑁《きようまい》と不和で、いきなり相手を殺してしまったほどである。
──小癪《こしやく》な、乞食部隊め、ひと揉《も》みに揉みつぶしてくれるわ!
と、劉岱は兵を進めた。
酸棗の同僚であった済北の相の鮑信《ほうしん》が、彼を諌《いさ》めた。
──青州黄巾は暴走軍だ。雪崩をうつように、その勢いで相手をおしつぶそうとする。だが、輜重《しちよう》を持たないので、持続力がない。いまは退いて守り、彼らの勢いが弱まってから、撃って出るべきである。
たしかに青州黄巾軍は、大平原を暴走する野牛の大群のように、手がつけられない。だが、いつまでも走り続けることはできない。腹が減っても食べるものがなくなれば、自然に群を解くだろう。そこを狙《ねら》え、というのが鮑信の忠告であった。
劉岱はその忠告に従わずに兵を進め、暴走車の馬蹄にかけられ、彼は戦死してしまった。
鮑信は東都に急行して、曹操の出馬を要請した。
──劉岱は死んだ。|★[#六+兄(六が上で兄が下)]州はあるじを失った。きみがそのあるじになりたまえ。
長安の朝廷の威令は届かないので、刺史や太守という地位は、実力者が勝手についたのである。曹操の部将の陳宮《ちんきゆう》も、
──これは覇業の第一歩です。|★[#六+兄(六が上で兄が下)]州をおさめ、天下をおさめる基になさい。
と、出陣をすすめた。
──よし、いこう。
曹操は、青州黄巾軍の勢いが、やや衰えたと判断したとき、兵を率いて寿張《じゆちよう》(現在の山東省殻城県)の東に撃って出た。
しかし、青州黄巾軍は予想以上に強く、両軍、鎬《しのぎ》を削る接戦となり、鮑信がここで戦死してしまった。
曹操は楯《たて》を撫《な》でて全軍を激励し、日夜をわかたず戦いを挑み、青州を出て以来、疲れのとれていない黄巾軍をはげしく攻め立てた。
──ついに黄巾軍敗れたり!
少容と陳潜はそのしらせを聞いたばかりである。
董卓誅殺の首謀者は王允《おういん》である。そして、最高殊勲は呂布であったのはいうまでもない。呂布は奮威《ふんい》将軍の称号を得、その待遇は三司にひとしいとされた。三司とは司徒、司馬(太尉)、司空の三公──国家最高の官である。また食邑《しよくゆう》として温県を与えられ、温侯に封じられ、朝政に参与することになった。
呂布は教養などはない。金吾《きんご》軍の将校時代に、直属の上官である執金吾《しつきんご》の丁原《ていげん》の首を土産に、董卓の陣営にはいり、その養子兼ボディーガードとなって、世にときめいた人物である。そしていま、またあるじでもあり、養父でもある董卓を殺して、国家最高のポストについた。
董卓誅殺には彼の手を借りたが、王允は心のなかで呂布を軽蔑していた。
(あるじ殺しめ!)
軽蔑を通り越して、憎悪の域に達していたといってよい。
董卓亡きあとの大問題は、董卓の軍隊をどうするか、ということで、首脳陣がこの問題を討論したが、呂布は、
「ことごとく殺すべし」
と主張した。
長安にある軍隊は、その大部分が董卓直系の涼州出身者から成っていた。涼州は現在の甘粛省武威だが、地名からしていかめしく、古来、強兵を生んだ土地柄である。
呂布は五原の出身で、かつて丁原の率いた軍隊を地盤にしていた。涼州兵のあいだでは、呂布は浮きあがった存在であった。そのうえ、涼州兵の大親玉董卓を殺したのだから、呂布は彼らの憎悪の的《まと》になっていたのはいうまでもない。──だから、殺せと、いともかんたんに唱えた。
「数万の涼州兵を殺すには、数十万の兵が要る。どこからそんな大軍を連れてきますかな?」
と王允は皮肉たっぷりで訊いた。
「なるほど、ちと無理じゃな」呂布に皮肉などは通用しない。──「では、将校以上の者を殺そう」
「いや、なりませぬ。だいいち、彼らは董卓に従っているだけで、彼ら自身に罪はないのですからな」
と、王允は軽くしりぞけた。
車騎将軍の皇甫嵩《こうほすう》が、
「ともかく、その大軍を、長安からすこしでも遠ざけておかねばならない。基地の陝《せん》(河南省陝県)に兵を移そう」
と提案したが、王允はこれもしりぞけた。
陝につくられた軍事基地は、そもそも董卓が、関東の反董連合軍の諸将を防ぐためのものである。そこの兵力を増強すれば、袁紹《えんしよう》はじめ諸将たちは、
──董卓亡きあとも、われらに備えるのか。
と、怒るおそれがあった。
「関東にて義兵を挙げた者は、董卓打倒という共通の目的で、われらの盟軍ではないか。それに備えるようなうごきをみせるべきではない」
王允のこの意見は、あるいは当を得ていたかもしれない。
だが、代案を持っていなかった。
蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]処分に反対して、新政府と縁を切った士孫瑞《しそんずい》がかつて、
──涼州兵に特赦《とくしや》の詔書を出しては。彼らに罪はないのだから。
と建議したことがあった。
それにたいして王允は、
──罪がないのに赦《ゆる》すというのはおかしいではないか。
と、握りつぶした。
理屈はそうであろうが、現実は理屈のとおりに行かない。
なんの沙汰もないので、涼州兵は不安であった。殺された総大将は、悪逆無道という烙印《らくいん》を捺《お》された。その部下である。世間がつめたい目で見ているような気がしてならない。そのうえ、朝廷での評定のもようが、歪《ゆが》められて伝えられたりする。
──涼州兵を殺せという主張があった。……
──こうなれば、自分で自分を守るしかないぞ。
彼らは武器をもっている。自衛には自信があった。総帥《そうすい》がいないので、ぜんたいを把握できる人物はすくない。それならそれで、彼らは小隊や中隊ていどの、小集団に分かれて自立することにした。
兵卒には罪はないが、董卓の主要幕僚となれば話はすこし違う。
師団長クラスの|李★[#イ+寉]《りかく》、|郭★[#さんずい+巳]《かくし》、それに女婿の牛輔《ぎゆうほ》はゆるしてよいものだろうか? 彼らは関東の諸将の攻撃に備えて、長安城を出て、東のかたに駐守している。
弱体の新政府が、歴戦の彼らを敵にまわしては危険である。
ちょうど李★[#イ+寉]が、長安に使者を送って特赦を乞《こ》うた。
「これはいい機会であった。ほっと致した」
重臣たちは特赦に賛成し、誰も異議があるとはおもえなかった。
しかるに、異議を唱える者がいた。──トップの王允の鶴のひと声である。──
「一歳不再赦《いつさいふさいしや》の原則がある。それを破ることはできない」
一年のあいだに、特赦を二回以上してはならぬというきまりが、後漢の時代にはあったらしい。特赦の濫発をいましめたのであろうが、王允はそれを非常の時にも適用しようとした。
この初平三年は、すでに正月に大赦令を出している。
杓子《しやくし》定規の前例墨守が、長安の脆弱《ぜいじやく》な新政権を殺したといってよいだろう。
──赦さず。
長安からの回答は簡潔であった。
「赦さぬなら、戦うほかはない」
李★[#イ+寉]は兵を西に返して、長安をつく決心をかためた。
兵心をしずめる絶好の機会を、『しきたり』を守ることで見逃し、しかも長安の涼州兵を動揺させたまま、なんの手も打たない。──暑さの加減と思われても仕方がないであろう。
あながち王允の石頭を嗤《わら》えない。
彼が『一歳不再赦』の原則を持ち出したとき、群臣のなかで一人として、強引にその前例打破を主張した者はいない。
──形式を尊重する。
これは後漢二百年をつらぬいた伝統といってよい。
父親が投獄されたことを、娘の蔡★[#王+炎](文姫《ぶんき》)は、それほど歎き悲しみはしなかった。士孫瑞から、あらかじめ、
──形式上の投獄
と、きいていたからである。
形式に従わねば、この世の中はうごかぬ仕組みになっている。
だが、父親の獄死をしらされたとき、彼女は床《ゆか》に身を投げて慟哭《どうこく》した。
蔡家は父ひとり娘ひとりである。
さびしかろうというので、五丈原から出てきた少容は、長安では蔡家に泊ることにしていた。
そのうえ、呂布が董卓の邸から連れ出した|貂★[#虫+單]《ちようせん》を、ほとぼりがさめるまでといって、蔡家に預けている。
考えてみれば、これも形式主義による手続だが、蔡家をえらんだのは、呂布がそこで貂★[#虫+單]を見初《みそ》めたという理由によるらしい。
呂布も、この男にしては精いっぱいの厚意で、貂★[#虫+單]を訪ねたついでに、文姫のところへ行き、
「まぁ、元気を出しなさいよ」
と、声をかけたり、世間話をしたりした。
慰めて、気を引き立ててやるつもりが、反対に文姫の心を傷つけるようなこともあった。
「あんたのお父さんは、王允に殺されたんだね。なにしろ、お父さんは筆が立つでしょう。あとで、自分がどんなふうに書かれるか、王允はそれがこわくてね。……なぁに、私はどんなに書かれたって平気です」
呂布がそう言ったときなど、文姫は面を伏せて、じっと唇をかんでいたのである。
董卓の女婿牛輔の最期のもようをしらせたのも、この呂布であった。
「今日、牛輔の首がやって来ましたよ。首がね。なぁに、首がのこのことひとりでやって来たのじゃありませんよ。一人の胡人が、牛輔の首をぶらさげてやって来ましてね、褒美《ほうび》をいただきたいと。……いやはや、牛輔の首が、ほんとうに、かんたんにころがりこんできましたよ。やつの首を取りそこねたんで、李粛《りしゆく》を殺したんですがねぇ。……」
呂布はこともなげに言った。
李粛は呂布の部将で、近衛兵に変装し、未央《びおう》殿|北掖《ほくえき》門において、最初に董卓に戟《げき》をつきつけた人物である。
呂布は李粛に兵を授けて、牛輔を撃たせたが、李粛は負けて逃げた。怒った呂布は、李粛を殺したのだ。
そんな血なまぐさい話を、喪中の婦人にするのを、呂布はべつになんとも思っていない。
「その胡人にきいたところでは……」
と、呂布は話をつづけた。──
牛輔という男は、筮竹《ぜいちく》気ちがいであった。いつも身辺に易者をはべらせ、なにかあると、すぐに筮竹で吉凶を占《うらな》わせた。
かつて中郎将の董越《とうえつ》が、牛輔に殺されたことがあるが、それは易者に占わせたところ、
──火は金に勝つ。外が内を謀《はか》る卦《け》なり。
という結果が出たので、董越を謀略を仕掛けにきた人物とみて、すぐさま刎《は》ねたのである。
すべてを筮竹できめる。
董卓たおるのしらせを受けた牛輔が、身の振り方を筮竹に託したのはとうぜんであろう。
易者は筮竹をガチャガチャと鳴らし、
──おお、これは軍を棄てて去れば吉の卦でありますぞ。
と判断した。
人間の命でさえ、筮竹しだいで、軽く奪ってしまうのである。部下の軍兵を置き去りにするなど、牛輔にとっては、筮竹の指示があれば、なんでもないことである。
さっそく夜逃げすることになった。
あまりかさばらない金銀財宝を袋に詰め、胡赤児《こせきじ》という胡人の奴隷にそれをかつがせて、こっそりと陣を離れた。
金銀財宝のことは、筮竹が指示したのではない。けっきょく、それが彼の命取りになったのである。胡赤児は逃げる途中で、財宝に目がくらんだ。袋のなかのものだけではない。あるじの『首』でさえ、長安へ持って行けば金になるのである。
胡赤児は、牛輔を殺して袋のなかの金銀財宝を奪い、その首をぶらさげて、長安にやってきたのだった。
「おそろしい……」
文姫はからだをふるわせた。
その席には、少容たちもいた。
「置き去りにされた兵士たちは、どうなるのでございましょうか? 数万という軍勢ですのに。……」
と、少容は眉《まゆ》をひそめて言った。
大将に夜逃げされた兵隊は哀れである。だが、もっと哀れなのは、そのような統制を失った兵隊たちに荒らされる、地方の住民たちではあるまいか。
(せめてたましいの救いさえあれば……)
少容はそうおもう。
太平道は、幽州、青州などの東部の地方、五斗米道は巴蜀など西部の地方に伝道され、中原はどちらかといえば、布教の谷間である。いま戦乱の余波をうけて、住民が苦しむ地域には、たましいの救いを説く声がない。
「さようですな。……潁川《えいせん》あたりからひき揚げる、李★[#イ+寉]や郭★[#さんずい+巳]の部隊が、その置き去りにされた兵隊どもを、拾いあげるかもしれませんな。……」
呂布はそう言ったが、その結果については、べつに深く考えるようすはなかった。
「どうせ、やつらは涼州の兵だ。どうなろうと、私には関心はない。……」
彼はそうつけ加えた。
彼が愛してやまぬのは、北のかた五原の兵である。彼はそこで生まれた。いま彼が命がけで愛している女──貂★[#虫+單]も五原の生まれである。
人を殺すのに眉ひとつうごかさず、なんの感傷ももたぬ男のようにみえて、彼はひどく愛郷心に富んでいた。軍隊の指揮官として、それは|えこ《ヽヽ》ひい《ヽヽ》き《ヽ》という欠点につながったのである。
呂布の軍営には、五原の兵も多かったが、蜀出身の兵もすくなくなかった。この四川兵が、差別待遇に不平を鳴らしていたが、それは呂布の耳に達しなかった。
──赦《ゆる》さず。
長安の朝廷から、註釈なしに、この短い返事に接した李★[#イ+寉]たち董卓の旧部下は、
──長安がその気なら、こちらにもこちらの覚悟があるぞ。
と、いきりたった。
善悪は別として、董卓の存在がいかに大きかったか、彼が死んで初めて、人びとは思い知ったのである。
李★[#イ+寉]や郭★[#さんずい+巳]たちは、朝廷の返事をうけた当初、どうしてよいかわからず、幹部のなかには、
──ここで解散して、各自でひそかに故郷へ帰ることにすれば。
という意見を述べる者もいた。
李★[#イ+寉]も一時はそれに賛成したが、討虜校尉《とうりよこうい》の|賈★[#言+羽]《かく》という者が、
「諸君がもし、軍を棄てて勝手に散ったならば、一介の亭長《ていちよう》(宿場のあるじ)にだってつかまりますよ。せっかく数万の軍兵があるのですから、みんないっしょに、長安へ押しかけましょう。ここで逃げるのも、長安攻めに失敗してから逃げるのも、おなじじゃありませんか」
と説いたので、軍隊を解散することだけは思いとどまった。
洛陽と長安のあいだには、いろんな軍隊がいた。牛輔に置き去りにされた大部隊だけではない。一旗組もいる。数十人の兵隊らしいのを集めて、勝ちそうなほうに味方しようという投機的なグループもあった。
李★[#イ+寉]はみちみち、そんなグループを拾いあげた。
長安に達するころには、彼の軍団は十万という兵力にふくれあがっていたのである。
王允は李軍接近の報をうけると、胡軫《こしん》と徐栄《じよえい》の両将を派遣して邀撃《ようげき》させた。この両将は、どちらも董卓の旧部下である。だが、二人の採った道はそれぞれ違っていた。
徐栄は、かつて曹操を|★[#さんずい+卞]水《べんすい》のほとりで破ったことのある猛将である。彼の任務は、力をつくして戦うことであった。
命令者が誰であろうと、命令を下すまでには、頭の良い連中が討論を尽しているはずだから、まちがった命令ではないだろう。言われたとおり戦えばよい。
徐栄は迷わずに、李★[#イ+寉]の大軍に体当たりをした。
「おーい、徐栄よ。われらは仲間ではないか。兵を退《ひ》け! 命を惜しめ!」
李軍から、しきりにそんな呼びかけがあったが、徐栄は耳をかさず、遮二無二《しやにむに》、突進し、ついに戦死してしまった。
胡軫のほうは、その反対であった。
「おーい、兵隊を連れてきたぞォー! 董太師のとむらい合戦をやろう!」
と、あっさり李★[#イ+寉]軍と合流してしまった。
そればかりではない。長安城内の旧董卓の幕僚、樊稠《はんちゆう》、李蒙《りもう》といった連中まで誘って城外の軍に参加したのである。
董卓死後の軍隊の処理が、まったくでたらめであったからなのだ。
王允は軍隊に手をふれようとしなかった。
軍関係は呂布にまかされた形だが、その呂布は五原、北地の兵をひいきにして、涼州兵どころか、蜀兵の不満も買っている。
長安城内の軍兵は、東から攻めて来た連中とは、かつては戦友である。はじめから戦意をもっていない。
李★[#イ+寉]の率いる大軍は、長安城を包囲した。この包囲は、『三国志』によれば十日、『後漢書』によれば八日だが、いずれにしてもそんなに長い包囲ではない。城内から内応者が出て、城門をあけ、李★[#イ+寉]の軍を迎えいれたのである。内応者は涼州兵ではなく、呂布から冷遇されていた蜀の兵であった。
「蜀兵が城門を開け放ち、敵を迎えいれました!」
呂布は幕僚からそんな報告を受けると、にやりと笑って、
「いろんなことがあるわい、この世には」
「いかがいたしましょうか?」
「ちょっと見てくる」
呂布は楼上にのぼって、あたりを見まわした。すでに李★[#イ+寉]の軍は城門から街路に流れ込んでいた。
「門のところが混んでいる。そのうちに、全軍が入ってしまえば、門もすくだろう。そこから出て行けばよいのだ」
歴戦の軍人だけあって、呂布はすぐに形勢をみて、勝てないと判断したのである。
「戦わずに脱出するのですか?」
と、幕僚は口惜しそうに訊いた。
「勝てない戦さをする馬鹿があるか。……それに、こんなに逃げやすい戦場もない」
長安城内は混戦である。大量の内応者が出た場合、敵と味方の区別がつきにくく、それにまぎれて脱出が容易なのだ。
「五原の将校を集めよ。全員、騎馬だ」
と、呂布は命じた。
脱出のときでも、同郷の将校しか連れない。
モンゴルの草原を駆けめぐっている五原の軍人は、いずれも騎馬の名手である。呼吸もぴったりと合う。馬の下手なやつを連れて行けば、足手まといになる。
(彼女は……)
呂布はふと貂★[#虫+單]のことを頭に浮かべた。
連れて行きたい。彼女も五原の育ちだから、馬には騎《の》れる。ただ、そんなに上手ではないだろう。
(よそう。……蔡文姫のところに預けておけばまちがいない)
呂布は思い切りがよい。
「城を出たあと、どちらへ?」
と、幕僚は訊いた。
「南陽にしよう」
南陽には袁術《えんじゆつ》がいる。
董卓は洛陽で、袁氏一族を殺害した。袁術の兄の袁|基《き》、叔父袁|隗《かい》が非業《ひごう》の死を遂げた。その讐は董卓であり、董卓を殺したのはこの呂布である。
南陽の袁術は、自分にかわって讐を報じてくれた呂布を、おろそかにはできないだろう。しかも袁術は、いま諸豪のなかで、勢力争いの一方の旗頭として、人材を集めたいところである。軍事面では、孫堅という非凡の人物を失ったばかりなのだ。双手をあげて、呂布を歓迎するはずだった。
「赤兎《せきと》をひけ」
と、呂布は命じた。
天下第一の名馬の名が赤兎である。
──能《よ》く城を馳《は》せ塹《ざん》(濠)を飛ぶ。
といわれた駿馬《しゆんめ》で、当時の人たちは、
──人は呂布、馬は赤兎
と、もてはやした。その赤兎が彼の前にひかれてきた。
「あれを持て」
そう言って、呂布は下唇をつき出した。
あれというのは、董卓の首を入れた桶《おけ》である。董卓の死から四十日ほどたっているが、桶に防腐の薬や塩をいれているので、なかの首はまだ生きているようであった。
呂布は首桶のなかみをあらためてから、それを馬の鞍にくくりつけた。
これさえあれば、董卓を討ったのが呂布であったことが、はっきりと証明される。
おなじ南陽の袁術の陣営にはいるにしても、これを持って行けば、最高の待遇をうけるのは疑いない。
草むらに身を伏せ、じっと息を詰めて、頭上の嵐が通りすぎるのを待つ。──
蔡家の一室に集まった人たちの心理は、そう形容してよかった。
邸はひろいが、このようなときは、一カ所に集まっているほうが、おたがいに心強くかんじられる。
女あるじの蔡文姫、少容、陳潜、貂★[#虫+單]の四人に、その日の朝から士孫瑞が加わっていた。
嵐は六月ついたちの未明から、吹きすさびはじめたのである。
董卓の死は四月二十三日であったから、王允たちの天下は四十日に満たなかったわけだ。
午《ひる》すぎに、呂布の使者が来た。
「温侯(呂布のこと)は無事に脱出されました。ご安心を」
という伝言である。
「で、温侯はいずれへ?」
と、貂★[#虫+單]は訊いた。
「温侯がいずれへ行くか、天下の人はみな知るであろうと、そう申されていました」
と、使者は答えた。
天下にかくれのない英雄である。どこへ行っても話題になる。その場所は、すぐにそなたの耳にはいるだろう。──敗軍の将のくせに、呂布の意気はいささかも衰えていないようだった。
召使いの若い男たちが、外のようすをうかがい、ときどき情報をもたらしてくる。
「李★[#イ+寉]、郭★[#さんずい+巳]は、南宮掖門に軍兵をならべております」
「太僕の魯馗《ろき》、大鴻臚《だいこうろ》の周奐《しゆうかん》さまが殺されました」
「城門校尉|崔烈《さいれつ》さま、ご戦死!」
「おなじく越騎《えつき》校尉|王★[#斤+頁]《おうき》さまもご戦死」
「天子さまは、王允さまに扶《たす》けられ、宣平《せんへい》門に難を避けておいでのようです」
「李★[#イ+寉]は城門の下にひれ伏し、このたびの乱入は董卓太師のとむらい合戦にすぎず、ほかに他意はないと奏上した由にございます」
「外はまだ危のうございます」
つぎつぎに嵐のもようが知らされる。
城内は混乱していたが、ふしぎに誤報はすくない。
「兵士たちが邸に乱入するようすはございませんか?」
邸のあるじとして、文姫はそれを最も案じていた。
「心配ご無用」そう答えたのは、訊《たず》ねられた召使いではなく、客の士孫瑞であった。「ご当家のまわりに、涼州の軍士を配し、乱入を禁じさせております」
「それは、あなたさまの?」
「私は現在、無官の布衣《ほい》、軍士をうごかせる力はありません。ただ友人に依頼することはできます。……李★[#イ+寉]に近い友人に、この邸の警備を頼んでおいたのです」
士孫瑞は、そのことを誇ろうとしているのではなかった。彼はいま、むしょうに哀しいのである。
打倒董卓の策謀に参加しながら、それによって受ける災厄から免れようと、うまくたちまわった自分が、考えれば考えるほど羞《は》ずかしい。しかも、それが気骨を示したという形でおこなわれたのが、よけい羞ずかしい。さらに、これを誰も知らないことが、自分の最高の屈辱に思えてならない。
「ありがとうございました。この家をお守りくださいまして」
そう言ったのは、この家の女あるじではなく、客の少容であった。──彼女はにこやかに笑い、士孫瑞にむかって軽く会釈した。
(あっ。……)
士孫瑞は心のなかで、驚きの叫びをあげた。
少容と目が合ったのである。
そして、彼女の目は、
──みんな知っていますよ。
と言っているようだった。そればかりではない。会釈したあと、彼女は心もちうなずいたが、それは、
──ですから、ご安心なさいね。
と、慰めてくれたようにかんじられたのだ。
「いえ、その……」
士孫瑞は、あいまいな言葉を口にした。
「新しい長安のあるじに近い筋をご存知でしたら、わたくし、お願いがございますの」
と、少容は言った。
「どのようなことでございましょうか? 私にできることなら、よろこんでお役に立ちたいと存じますが」
「わたくしと潜さんとが、一日も早く城を出られるようにおはからい願いたいのです」
「早く五丈原へお帰りになりたいわけですね」
「どちらへ参るか、ともあれ、この長安から早く出たいのです」
このような形の政変があったとき、城門が閉じられるのは、当時の定法であった。特別の許可のない者は、しばらく禁足されねばならない。
「急ぐのですね?」
「はい、とても急ぎます」
「ともあれ、この嵐がすこししずまるまで、待たねばなりませんね」
二人がそんなやりとりをしているあいだにも、召使いの報告があった。
「太常の|★[#禾+中]払《ちゆうふつ》さまが斬り死なさいました」
「残敵|掃蕩《そうとう》の口実で、暴兵があちこちで掠奪《りやくだつ》をしております」
暴風は、ますます吹きつのっているようであった。
翌六月二日。李★[#イ+寉]は天子に迫って、大赦令を出させた。
もう一歳不再赦のしきたりなど、いっておれないのである。
これによって董卓一派とみられた人たちは、罪を免れたのだ。もし蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]が獄中で生きておれば、恩赦によって出獄できたところであったのに。
李★[#イ+寉]は揚武将軍、郭★[#さんずい+巳]は揚烈将軍の称号を受け、樊稠らの幹部は中郎将を拝命した。
天下は変わったのである。
董卓の天下を、王允がひっくり返したが、こんどは王允の天下を、董卓の乾分たちがひっくり返したのだ。
価値は逆転した。
──董卓は誠忠無比な名臣であった。それを殺した王允たちは、悪逆無道の奸賊《かんぞく》である。
ということになった。
董卓誅殺のために画策した司隷校尉の|黄★[#王+宛]《おうえん》は捕えられて殺された。
首謀者の王允が処刑されたのは、六月七日のことだった。享年五十六。一族ことごとく殺され、王允の屍体は市にさらされた。
六月|戊辰《ぼしん》(十一日)、少容と陳潜は、士孫瑞の運動によって、特別許可をもらって城門を出た。
この日、出門許可は大量におりた。なぜなら、|★[#眉+おおざと(邦の右側)]《び》において董卓の葬儀がおこなわれたからである。いまや忠臣となった董卓の葬儀は盛大に営まれねばならない。参列者も多ければ多いほどよい。少容と陳潜の出門許可も、おもてむきは葬儀参列のため、という理由になっていたのである。
時節柄、見送りは辞退して、二人は友人たちと蔡家の門前で別れた。
出発間際に、少容は士孫瑞に、
「これからの長安の政局は、どんな見通しでしょうか?」
と訊いた。
「えっ!」
士孫瑞は不意を衝かれて、しばらく返事ができなかった。
政局の見通しなど、少容らしくない質問である。だが、士孫瑞はなぜ少容がそんなことを訊いたのか、理由がわかるような気がした。(董卓が仆《たお》れたときでさえ、あなたはやがて董卓の旧部下が、兵力をもって長安を奪回するという見通しを立てたのでしょう。だから、官途につかず、災禍を免れることができたのですね。あなたの見通しは正しかったのです。それで、これからの見通しについて、ひとつきかせていただけませんか?)
少容は目をしばたたいて、表情を消そうとしたが、士孫瑞は彼女の心理を読み取ったのである。
「李★[#イ+寉]が代表ですが、群を抜いてはいませんね。郭★[#さんずい+巳]もなかなかの実力者です。……まとまりがつきにくいかんじですね」
士孫瑞は悪びれずに答えた。
表現は婉曲《えんきよく》だが、
──董卓の旧部下の仲間割れ。
を、彼は予見したのである。
「そうすれば……こんどお会いするのは、洛陽かもしれませんね」
少容はそう言って、ほほえんだ。
西のかた甘粛に兵力の供給源をもつので、董卓は長安に遷都したのである。董卓系統の李★[#イ+寉]や郭★[#さんずい+巳]たちにしても、事情は同じであった。その董卓系の幹部が仲間割れすれば、長安政権は空中分解するだろう。あとは西方に未練のない実力者の登場によって、みやこは再び洛陽にもどされる。──
士孫瑞の見通しを、少容はそこまで読みおろしたのだった。
「では、またお目にかかりましょう」
少容はむしろ晴れやかな顔で、別れを告げた。
(少容さまは、こんどの旅行に、なにか明るい希望をもっていらっしゃるようだ)
陳潜はそう思って訊いてみたが、
「みちみち、お話ししましょう。道中は長いのですから」
と、彼女はうれしそうに答えた。
(そうだ、あわてることはない)
陳潜は少容を信じていた。彼女の澄んだ頭脳に、濁った考えがうかぶはずはない。
二人は蔡家から南へむかった。長安城の南門にあたる鼎路《ていろ》門だけがひらかれるのだ。
その鼎路門の近く、王渠《おうきよ》と呼ばれる堀の近くに、人だかりがしていた。
「これはまた、たいそう勇気のある御仁じゃね。……平陵《へいりよう》令の|趙★[#晉+戈]《ちようせん》さまじゃが……」
道行く人のそんな言葉をきいて、
「潜さん、ちょっと寄ってみましょう。趙★[#晉+戈]という人の名は、まえにも耳にしたことがあります。たいそう硬骨な人とか」
と、少容は言った。
「ああ、私も聞いたことがあります」
その人物は平陵県の県令である。中国の県は郡の下で、一万戸以上の県の長官は県令と称し、一万戸以下の県の長官を県長という。役人として、けっして高いポストではなく、知行は八百石前後にすぎない。董卓が彼の名を聞いて、重用しようとしたところ、彼は、
──私は県令以上の職を望まぬ。
と、蹴《け》ってしまった。怒った董卓は彼を殺そうとしたが、
──殺したければ、どうぞご随意に。
と、自若としているので、さすがの董卓も手が下せなかったという。
人だかりのなかにはいって見ると、そこに柩車《きゆうしや》が置かれてあった。当時の葬儀は、会葬者が柩車にとりつけた綱を輓《ひ》いた。綱は何本もあった。天子の葬儀のときは、千人の人がそれぞれ綱を輓いた。
柩車の前には、名旗が立てられている。葬られる人物の官職、出身地、姓名などを記した旗である。緑の地の白い文字は、
──録尚書事太原王允
と読めた。
さらしものにされた屍体をひきとって、これを葬るというのは、よほどの勇気を要する。
趙★[#晉+戈]はそれをやったのである。
その前に、平陵県令を辞任する文書を、李★[#イ+寉]のところへ送っていた。
柩車には数十本の綱がとりつけられていた。
だが、趙★[#晉+戈]がそのうちの一本を握っているだけである。彼は目をギラギラさせていた。こめかみがピクピクとうごく。
「潜さん。わたくしたちも輓きましょう」
と、少容は言った。
「はい」
陳潜は柩車のそばに寄って、綱に手をかけた。少容も一本の綱を取った。
趙★[#晉+戈]の口もとが、すこしゆるんだ。
二人のあと、つぎつぎと綱を取る者が出て、柩車の綱は一本のこらず握られた。
やがて柩車はゆっくりとうごきだした。
こうして王允をとむらったあと、少容と陳潜は鼎路門を出て、東へむかった。董卓の葬儀に参列するならば、西へ行かねばならないが、そのつもりはなかった。
漢代の長安は、唐の長安(現在の西安市)よりやや西北にあった。南の門を出て西へむかうと竜首原で、それを横切ると|★[#さんずい+覇]水《はすい》のほとりに出る。そこで舟を待っていると、空がしだいに曇ってきた。
「さっきまではいいお天気でしたのに、ひと雨降るかもしれませんね」
「ふつうの雨ならいいんですが、あの黒い雲を見ると、ちょっと心配ですね」
そんなやりとりをしているあいだに、ときどき遠雷がきこえた。
周囲が暗くなるほど曇ったのは、ほぼ小一時間にすぎなかった。
曇るのも急であったが、晴れるのも早かった。雲に切れ目ができたかとおもうと、みるみる青空がひろがり、まぶしい陽光がさし込み、★[#さんずい+覇]水の水面が黄金色にきらめいた。
用心して客を乗せなかった舟の船頭が、
「さあ、出るぜ!」
と、大声で客を呼ぶ。
「いまにも降るか降るかとおもっていましたが、とうとう一滴も降りませんでしたね」
少容はそう言って笑った。
「西の方が暗く、雷もそちらからきこえましたから、だいぶ降ったのじゃありませんか。董卓の葬儀はうまくやれたでしょうか?」
舟に乗る前に、陳潜はなにげなくそう言った。
じつは、彼が推測したように、長安の西では雷鳴を伴う豪雨となっていた。董卓の葬儀はそのなかでおこなわれ、葬儀委員長の樊稠が難儀したのである。
董卓は|★[#眉+おおざと(邦の右側)]《び》の私城に、三十年籠城できる食糧を貯えるほど用心がよかったが、自分の墓まで用意していた。
りっぱな墓はあるのだが、葬るべき屍体がない。董卓は殺されたあと、長安の市にさらされ、そこで焼かれたのである。しかも、董卓のために、一族皆殺しにされた袁氏たちのゆかりの者が、その灰を街路に撒きちらしたのだ。
──さぁ、みんなに踏まれろ! 馬に踏まれろ、牛に踏まれろ、犬になめられろ!
と、口ぐちに言いながら。
だから、董卓の棺のなかには、それかもしれないと思われる灰や、砕かれた骨片らしいものがはいっているにすぎない。
彼は諸侯の礼によって葬られることになったが、塚穴をひらいて、いざ埋葬するというときになって、沛然《はいぜん》と豪雨が降りそそいだのである。
棺を穴におろすには、|★[#糸+弗]《ふつ》という太い縄を使う。人びとは急いでおろそうとしたが、その太いがどうしたわけか、途中でぷっつりと切れて、棺が反対むけに落ちてしまった。
──なかみは軽いのにおかしいなぁ。
と、みんなは言い合ったが、はげしい集中豪雨に、あっというまに塚穴に水がたまり、棺が浮かびあがってきた。
会葬者はずぶ濡れになって、どうにか墓の戸を閉じたが、こんどは一陣の暴風が吹いて、戸が壊《こわ》れてしまった。
さんざんな葬儀であった。
──生前、天をもおそれぬ悪事のかずかずを働いたからだ。……
長安っ子が、ひそひそとそう囁《ささや》き合ったのはいうまでもない。
董卓の棺には、まだしも遺骸の一部らしいものがはいっていた。だが、遺骸のない葬儀がおこなわれたこともある。
青州黄巾軍を、やっとのことで撃退した曹操は、追撃に移る力もなく、寿張の東に陣を張った。黄巾軍も算を乱して逃げたのではない。彼らにしてみれば済北の相の鮑信を討ち取ったのだから、負け戦さとは思っていない。すこし後退して、兵を休めているつもりである。
曹操は盟友鮑信の死に、心を曇らせていた。
すくなからぬ懸賞金をかけて、鮑信の遺骸をもとめたが、どうしてもさがしだせない。黄巾軍が彼の遺体を収容して行ったとしか考えられない。
とはいえ、壮烈な戦死を遂げた盟友をとむらわねば気がすまない。曹操は工人に鮑信の木像をつくらせ、それをまつり、その前で声をあげて哭《な》いた。
「鮑信の遺骸があらわれたなら、もういちど葬儀をしよう。これはむしろ、わし自身の心をしずめる儀式なのだ」
遺骸のない葬儀について、曹操は側近の者にそうもらしていた。
木像をまつった葬儀のすんだ数日後に、曹操は白馬寺の陳潜が訪ねて来たことを、従者から告げられた。
「ほう、それはめずらしい。一人でやって来たのか?」
と、曹操は従者にたずねた。
「若いご婦人がご一しょです」
「ほう。……白馬寺の景妹《けいめい》かな? まさかこんなところまで……」
曹操が呟《つぶや》いたとおり、それは白馬寺の景妹ではなかった。
「五斗米道張衡の妻少容でございます」
と、その女性は名乗った。
「張衡といえば、張陵の子……そして、漢中の張魯の父親……」
「さようでございます」
「張衡どのは、亡くなって久しいときくが……」
「かなりになります。……」
「で、なにかご用かな?」
曹操は相手の年齢が、勘定にあわないので、いささか混乱したが、すぐに現実の問題に戻った。陳潜がわざわざ連れてきたのだから、ただの挨拶《あいさつ》ではあるまい。
「鮑信どののご遺体を、青州黄巾軍からひきとって、曹操どのにお渡しいたしたいのでございます」
少容はすこし間のびのした声で言った。言っている内容と、声の調子がいかにもちぐはぐである。
いくらさがしてもみつからないので、黄巾軍が収容したのに違いないと推測はしたが、曹操の諜報《ちようほう》機関でも、そのことは確認できないでいた。黄巾軍でもトップの少数の者しか、鮑信の遺骸のことは知らないであろう。
「そう申されるからには、青州の者たちとは話を通じておられるのだな?」
と、曹操は訊いた。
「いうまでもございません」
少容の声は、相変わらず、重要な問題を語っているとは思えない調子であった。
「なぜこの話を持って来られたのか?」
「人助けでございます」
「誰を助けようと?」
「あなたさまをお助けいたしたい。そして、青州黄巾軍の人たちもお助けいたしたい、そう思ってでございます。わたくしども、五斗米道は、人を助けるために、いろいろなことをして参りました」
「助けてほしいと頼んだおぼえはない」
「頼まれて助けるのは、次善の行為でございます。わたくしどもにとって、頼まれないで人助けをすることこそ、理想とするところでございます」
「さて、わしをどんなふうに助けてくれるのかね?」
「兵の数でございます。これまで、あなたさまは、兵力を集めることに四苦八苦致されました。……他人から借りたり、募兵に行って、だまされたり。ご苦心のほど、よそながら見て同情いたしております」
と、少容は言った。
曹操は苦笑した。
揚州での募兵の失敗を思い出したからである。揚州刺史の陳温、丹陽太守の|周★[#日+斤]《しゆうきん》から、四千余の軍兵を借りたが、その帰途、ほとんどが逃亡した。──兵員を集めることに、どれほど苦労したことか。いまもそれで苦労している。
「ほう、わしに兵をくれるのかね? いったい、どれほどの人数じゃね?」
「三十万ですね」
「三十万。……」
曹操は、二本の指で眉と眉のあいだを、つまみあげるようにして言った。
「三十万あれば、天下をお取りになれるでしょうか?」
と、少容は訊いた。
「そうだね、天下は取れないまでも、その基礎はつくれるだろう。……で、その三十万はどこから連れてくる」
「この山を越したところに、青州黄巾三十万の兵士がおります」
「わしにまかすのかね?」
「そのとおりでございます」
こともなげな口調であった。じつはそれだからこそ、かえって真実性がにじみ出ているのだ。いちいち確かめたり、念を押したりする必要はないようにおもえる。
「考えられもしないことであるな」
と、曹操は言った。
「ふつうの考え方では、考えられもしないことでしょう。官軍と造反軍では、まるで反対ですから。……その視点を変えるのです。官とか造反とか、そのようなことは無視しましょう。黄巾軍の本質はなんでしょうか? それをまず考えるのです。いまの世では、どうしても暮らして行けない、世の中の仕組みを変えよう──そして集まった人たちです。官軍といわれる人たちのなかにも、おなじように、世の中の仕組みを変えたがっているのはいないでしょうか? もしいたとすれば、双方、仲間ではございませんか。……わたくしは、潜さんからききまして、あなたさまこそ、世の中を変えようとしている方だと信じているのです。仲間が一しょになる。……これはとうぜんのことではありませんか」
曹操は唸《うな》りたいのを我慢して、唾《つば》をなんども呑《の》み込んだ。
三十万。──
その軍隊を意のままにうごかせたなら、どんなにすばらしいことであろうか。
「人助けか。……」
と、曹操は呟いた。
「じつは、それだけではございません。勝負でもあります」
と、少容は声をひきのばすように言った。
「勝負とは?」
「天下を取るのが、あなたさまか、それともこのわたくしか、その勝負でございます」
のっけから天下を取るという、はげしい言葉が出たので、曹操はとっさに返答しかねた。
「こういうことでございます」と、少容はゆっくりと言った。──「三十万を基礎として、かりに天下を取ったといたしましょう。この三十万は、あなたさまに訓練され、あなたさまの命じるとおりに戦うでしょう。けれど、わたくしも、三十万の人間の心を、たましいを、わたくしの心につなげるかもしれません。そうすれば、あなたさまの取った天下は、わたくしのもの、ということになるわけです」
「わかった」
と曹操は言った。
さすがは曹操である。少容の言わんとしていることを理解した。キリスト教の用語で平たく言えば、彼女は霊の世界の指導者となり、曹操は肉の世界の王者になることを、それぞれめざそうというのである。
「おもしろい勝負でございましょう?」
「勝負かな、これは」
曹操は壁に背をあずけ、深い息を吸いこんだ。
「わたくしは、三十万の、たましいをもった、めざめた人間を、あなたさまの軍隊のなかに埋めておくのでございます。そうすれば、あなたさまの軍隊の得たものは、すべてわたくしのものになるのです」
と、少容は言った。
「おもしろい理屈だな。たましいをもち、めざめた人間は、すべてにつけて強いだろう。それはあなたには使いこなせない。わしがその力を使ってあげよう」
これは勝負というよりは、協力の関係であろう。──その協力は、かなりはげしく火花を散らすものになるはずだが。
「わたくしたちの行く道は、これ以上、言葉を使うことはございますまい。……これから、青州黄巾軍を、あなたさまに引き渡すについての、こまかい取り決めをいたしとうございます。……」
少容は陳潜をかえりみた。
陳潜は懐《ふところ》から書類を取り出した。
関東の軍閥で、これまで三十万という大軍を掌握した者はいない。討董連合軍として、酸棗に集まった諸将の全兵力をあわせて、やっと十万というところであった。
(そうだ。……この三十万は、おれのかくし財産にしておこう。できるだけ、これは表に出ないように注意しよう。そのほうが、一そう威力を発揮できる。……)
曹操の胸はときめいていた。
いろんなことができそうである。それがあまりにも多すぎて、急にはまとめることができない。
「これが、青州黄巾軍の長老の親書でございます」
陳潜は曹操の前に、手紙をさし出した。
曹操は封を切って、それを読んだ。
──貴下はかつて済南にあって、邪教の神壇を毀壊《きかい》したが、その考え方は我が中黄太乙《ちゆうおうたいいつ》(道教)と同じである。貴下は道のなんであるかを知っているように思える。いまわれらを討っているのは、貴下の精神の迷いから来ているのにほかならない。
親書はそんなふうに、相互の共通点の模索から始められている。
貴下の精神の迷いとはなにか? その迷いを打破するために、青州黄巾の長老は、
──漢の行《こう》はすでに尽き、黄家|当《まさ》に立つべし。天の大運は、君の才力をもってしても能《よ》く存するところに非ず。
と説いた。
五行陰陽の説によれば、漢の行(運命)は火の徳により、その色は赤である。それが尽きると、こんどは土の徳によって、黄を色とする行をもつ者にとってかわられる。
もうその交替期にさしかかったのだ、漢の王朝を維持しようと思うのが、そもそも貴下の精神の迷いではあるまいか?
ここが相違点である。
相違点はそのままにして、共通点による連繋《れんけい》をはかりたい。──これが親書の概要であった。
──中黄太乙を認める。
これだけが条件であった。
「よかろう」
と、曹操は大きくうなずいた。
相つぐ弾圧に、道教の陣営も、太平道や五斗米道といった流派にこだわっておれなくなった。『道』そのものの存亡にかかわる。だから、右の親書にも太平道の字はなく、『中黄太乙』という表現をした。そして、五斗米道の名誉総裁というべき少容が、道教が曹操の軍中に生きのびる場所を得るために、仲介の労をとることを承認したのだった。
協議が成立して、少容と陳潜は曹操軍の首脳陣に送られ、黄巾の本陣のある済北へ帰ることになった。
幌《ほろ》のついた婦人用の馬車のなかで、陳潜は少容に訊ねた。──
「長安で、青州黄巾の敗報をきいたとき、曹操軍との連合を思いつかれたのですね?」
「いいえ、連合のことは前から考えておりましたが、その機会が来たと判断したのは、敗報をきいたときです。そうではありませんか。黄巾の大軍に、曹軍が徹底的に勝つわけはありません。寿張の戦いのあとは、しばらく対峙《たいじ》がつづくとみました。わたくしは急ぎました。遅れると、それだけ人命が失われるおそれがあります。……間に合ったようです」
と、少容は答えた。
「連合がうまく行けばいいですね」
「うまく行くはずです。曹操は思ったよりも賢明な将軍ですよ。呑み込んだ三十万の黄巾兵は、毒にもなれば薬にもなります。自分のためにも、それが薬になるように、あの人物は努力するにちがいありません」
いちど戦場となった土地は、道路が痛んでいる。車輪はたえず軋《きし》み、車体はよくはねあがった。
大きく揺れると、少容は眉をしかめて目をとじた。陳潜はその横顔に、少容の年齢がのぞいているのに、はじめて気がついた。
「もうしばらくの辛抱でございますよ」
と、陳潜は言った。
作者|曰《いわ》く。──
初平三年の青州黄巾軍の戦事は、史書の記事を読んでも、すなおにうなずけない。
長安で董卓が殺されたころ、すなわち夏四月に、青州の黄巾軍が|★[#六+兄(六が上で兄が下)]《えん》州に進撃し、曹操の出馬によって、寿張の東で敗走させられたとなっている。
はたしてそうであろうか?
青州黄巾軍はその衆百万と号していた。
それにたいして、官軍と称している側の兵数は不明だが、劉岱、鮑信という、閣僚クラスといってよい将軍が戦死している。
現象から判断すれば、黄巾軍が敗北したとはいい難い。
『三国志』武帝紀には、
──冬、降を受く。
とある。
陰暦は正月から春とかぞえる。冬は十月からである。『資治通鑑《しじつがん》』は、この受降を十二月の項にいれている。
いずれにしても、寿張の戦いから半年以上も経過している。しかも、いわゆる投降したものは、
──卒《そつ》三十余万、男女百余万口
と記されている。家族ぐるみの造反なので、兵卒三十万に、男女百余万のおまけがつくわけだ。この数は、青州から|★[#六+兄(六が上で兄が下)]州に進撃を始めたときとおなじである。数からみても、大敗を喫した形跡は認められない。
半年以上のあいだに、双方の話し合いがおこなわれた、と推測するほうがしぜんであろう。
清の康煕《こうき》年間の大学者で、茶仙と号した|何★[#火+卓]《かしやく》は『三国志』を校定して、
──魏武《ぎぶ》(曹操)の強きは、此《こ》れ自《よ》り始まる。……
と、意味深長な評を記している。
のちに天下を取り、歴史の記録を伝える権利をえた曹家は、曹操の活躍を実際よりはでに扱ったかもしれない。
地方に割拠する群雄の一人ではあったが、この時期までの曹操は、他人の兵を借りたり、わざと人目につく戦いをしたりで、かなり背伸びをしていたようだ。一人前の口がきけるようになったのは、青州黄巾の大軍を傘下《さんか》におさめてからとみてよいだろう。
曹操側は『受降』といっているが、すこし後退したていどで、敗北とはいえない青州黄巾が、三十万の武装兵を抱えたまま、むざむざと降参することはありえない。
史書から消されてはいるが、そこに話し合いがあり、条件が合って、はじめて連合がおこなわれたとみるべきだ。そのための時間はたっぷりあった。
連合の条件はなにであったか?
いまとなっては推理するほかはない。
[#改ページ]
さすらい将軍《しようぐん》
年が明けると、乱世の民でも、なにがしかの期待感をもつものである。
だが、この年は、元旦から人びとはため息をついた。
初平四年(一九三)元旦、日食があった。
「正月早々、日食ときた。どうせことしも、碌《ろく》な年ではないだろうな」
人びとはそう言い合った。いや、言葉に出さなくても、顔を合わせると、誰でも相手の表情に、そんな言葉を読み取った。
董卓が殺されたとき、長安市民の期待は大きかった。だが、董卓の部将たちの帰京と、それにつづく流血によって、人びとの期待は裏切られた。金輪際《こんりんざい》、希望らしいものは、そのかけらも持ってはならない。──元旦の日食は、乱世の民にそう念を押したかのようだった。
この年は天変地異に類することが多かった。
正月の日食のあと、三月には長安の東側の最北の門である宣平《せんへい》城門外の建物が、とつぜん、音を立てて壊れた。
五月二十二日、雲もないのに大いに雷がなった。
六月に扶風の地方に狂風がおこり、大きな雹《ひよう》が降った。
おなじく六月、中国の神聖な山である華山が崩れ裂けた。
同月、昼夜をわかたず雨が降りつづくこと二十余日に及び、百姓の住居を漂没させた。
十月に京師に地震があり、十二月にも再び地震があった。この二回の地震はどちらも辛丑《しんちゆう》の日であり、数字でかぞえると、いずれもその月の二十二日に相当したのである。この偶然は、地異に天変が加わったものと、人びとはひそひそと囁《ささや》き合った。
自然現象は、人間世界のことについての天の予言、と考えられていた時代である。たとえば、この年の十月に、彗星《すいせい》が天市にはいった。天市とは|さそ《ヽヽ》り《ヽ》座の近くにある『旗』という星群十二星のうちの四星のことである。その名のように、都市や交易についての予兆をあらわすという。この天文の現象は、二年あまりのちに、みやこが長安から再び洛陽に遷《うつ》ることの予兆であるとされた。
そんなわけで、人びとは天変地異についても、あまり大きな声で言えなかったのである。
「殺したり殺されたり、追い払ったり追い出されたり、悪党同士で数を減らせば、すこしは世の中がよくなるかもしれないわ」
蔡文姫《さいぶんき》の邸の奥まった部屋で、|貂★[#虫+單]《ちようせん》が呟くようにそう言ったが、口の堅い女あるじのほか誰もいなかったからである。
「でも、殺されるのは、かならずしも悪党とは限らないものねぇ」
蔡文姫は、やつれた顔を天井にむけた。
父の|蔡★[#巛+巴(巛が上、巴が下)]《さいよう》の獄死後、彼女の目はけわしくなっていた。
両雄はつねに並び立たない。
王允一派をたおした、旧董卓の部将の|李★[#イ+寉]《りかく》と|郭★[#さんずい+巳]《かくし》は、それぞれ車騎将軍、後将軍の官職につき、事実上の長安のあるじになったが、最近、とかく不和の噂が流れている。
(いまに、なにかおこるぞ)
市民たちはそう思っている。なにがおこっても、流血が伴うので、碌なことではない。だが、悪党二人が一人に減れば、それだけ呼吸がらくになるという気もする。これも期待の変種かもしれない。
「そうね、追い出されるのが、悪党とはきまっていませんものね」
と、貂★[#虫+單]は言った。
彼女は呂布《りよふ》のことをおもっている。──
その呂布は、彼女のことで、義父である董卓を殺したのである。誰が見ても、悪党のなかの悪党といえた。ただひとり、彼女の目には、やさしい男性と映っているのだ。彼女が呂布に近づいたのは、はかりごとであった。
だが、情けが通うと、男と女である。
(いまごろ、どうしているかしら?)
ふと、そう考える。
呂布は数百騎の精鋭を率い、血路をひらいて武関を出た。胡沙吹く草原に鍛えた、五原郡の健児が従っている。そのなかには、すくなからぬモンゴル系の騎兵将校もいた。
「これだけの軍勢があれば、天下に横行できるぞ。わっはっは……」
呂布は馬上で大声で笑う。
「それに、これがある」
彼は鞍《くら》にぶらさげている桶を、鞭《むち》でたたいた。そこには塩漬けの董卓の首がはいっている。
「その首、高く売れましょうな?」
と、そばにいたモンゴル将校が訊いた。
「そうだ。東へ行けば行くほど高くなる」
そう言って、呂布はまた高笑いした。
長安の蔡邸で、貂★[#虫+單]が思い出す呂布も、いつも高笑いをしていた。いっしょにいたとき、呂布は笑ってばかりいたわけではない。董卓の目を忍ばねばならないので、ときには深刻な表情もみせた。だが、離れたいま、思いうかべようとすると、高笑いの顔しか出てこない。
(一ばん好きな顔が出るのね。……)
貂★[#虫+單]は首をかしげた。
たしかにあの男は、平然と人を殺す。それは無知のせいだ。考えずにやっている。
──殺される前に殺す。
それがあの男の論理である。──論理というよりは本能であろう。
無邪気なのだ。──彼女はそう解釈したかった。そのためには、彼の無邪気な顔のほか、彼女は頭に思いうかべてはならないのであった。
呂布の嗅覚《きゆうかく》はするどい。
危険が近づく前に、そのにおいを嗅《か》ぎつける。野獣に似ていた。
董卓の首は、東へ行けば高く売れる。
各地に割拠している諸将は、董卓打倒を旗じるしにかかげた。袁紹《えんしよう》と袁術は、洛陽にいた一族を、董卓によって皆殺しにされた。董卓を憎むこと、はなはだ深い。当時の倫理では、袁一門で董卓を憎まぬ者は、人非人《にんぴにん》といわれるであろう。彼らは董卓への憎悪を、誇大する必要さえあった。
呂布はまず南陽へ行った。そこには袁術がいる。袁家の嫡流であることを誇りとしている人物である。
袁術はむろん董卓の首を高く買った。呂布は南陽で、下にもおかぬもてなしを受けた。とはいえ、それはうわべだけだったのである。由緒ある家系を誇り、同族の袁紹が嫡出でないことを言い立てる人物だから、袁術はどこの馬の骨とも知れない男を、内心、さげすんでいたのだった。
呂布の嗅覚は、やがてそれをとらえた。
(どうしてくれよう?)
選りすぐった精鋭とはいえ、数百騎では袁術の大軍閥を相手に一戦まじえることはできない。せいぜい、あちこちをかきまぜるのが限度である。
呂布はそれをやった。袁術の勢力範囲で、掠奪《りやくだつ》をはたらく。あまりひどくやれば、袁術が本気に怒って、大軍をさしむけるおそれがあった。
──気の荒いのが数百人もいるんだ。まぁ、あのていどなら仕方あるまい。
と、大目にみてくれるていどの乱暴|狼藉《ろうぜき》である。
だが、それも度重《たびかさ》なれば、袁術を本格的に怒らせるかもしれない。呂布はどの線を越えれば、我が身が危険になるか、それを測っていた。その線が近くなったと感じると、掠奪をしばらく控える。
ぎりぎりの線は判断しにくい。
早めに手をうたねばならない。
「いつまでここにいたってしょうがない」
呂布は部下にそう言った。
群雄が各地に割拠しているが、大きな閥をつくっているのは、中原の袁紹、河北の|公孫★[#王+贊]《こうそんさん》、南陽の袁術の三人である。天下に志を抱く者は、まずいずれかの閥に所属し、そこで頭角をあらわさねばならない。南方の雄である孫堅一族でさえ、袁術に属したのだった。
呂布は袁術のところに身を寄せたが、あくまでも客分で、袁術軍閥の構成分子にはなれなかった。天下をうごかす、この南陽の大きな力を、呂布は利用できない。総帥《そうすい》の袁術が意識的に呂布を敬遠している。掠奪行為が重なるにつれて、彼の名前さえ口にせず、
──あの首を持ってきた男。
という呼び方をした。
「汐《しお》どきだな」
と、呂布は幕僚に言った。
「さようでございますな」
呂布の幕僚は、相槌《あいづち》をうつだけが役目である。あるじの呂布は、他人の意見よりも、自分の動物的な嗅覚を信じる男なのだ。
「どこかに身を寄せねばならない」
と、呂布は腕組みをした。
「いかにも。……この人数だけでは、まだ独立いたすわけには参りますまい」
幕僚は相槌でなければ、呂布の言葉の解説役である。呂布は時として、自分の発言の背景がわからないことがあった。
「大きいのがよいか、小さいのがよいかな?」
身を寄せる相手のことである。
「一長一短でございますな。大きいところは、この袁術のように、なかなか主流に入れようとしないでしょう。小さいところは、かりに乗っ取っても、天下に覇《は》を争うには、力が不足でありましょうな」
と、幕僚は解説した。
「とにかく、北へむかおう」
決断も早ければ行動も早い。赤兎にうちまたがると、すぐに出発である。世話になった袁術に挨拶ひとつしないで立ち去る。
「天下の形勢はどうなっておるのかな?」
馬上で呂布は幕僚に訊いた。
「幽州の公孫★[#王+贊]が南下して、袁紹にたたかれ、撤退しました。しばらく公孫軍は出て参らぬでしょう」
「袁紹と袁術か。……二人とも袁家の坊やだ。あまりおもしろくないのう。……」
呂布の軍勢は、南陽ですこしふえた。掠奪によって、養える兵の数がふえ、彼が出奔するころは八百余騎になっていた。それでも、まだまだ天下の形勢をうごかせる力ではない。名門の坊やが大軍を擁して、天下を争っているのが、呂布にとっては癪《しやく》であった。
「戦いばかりが人間の世か……」
呂布は呟いた。彼らしくない述懐である。馬をならべていた幕僚が、
「なんとおっしゃいましたか?」
と、聞き返した。
「はやくどこかに落ち着きたいものじゃ。……ま、そんなことを言ったのだ」
呂布はじつは、貂★[#虫+單]のことを、ふと頭にうかべたのである。落ち着けば、彼女を呼び寄せることができる。──そうだ、彼女は洛陽にあこがれていた。いちど洛陽に住んでみたいと言ったことがある。
「前方に軍隊があらわれましたぞ!」
斥候から報告があった。呂布の脳裡《のうり》にうかんだ貂★[#虫+單]の面影は、さっと消えた。
「人数は?」
「約千二百」
「なんだ。……それならたいしたことはない」
敵か味方かわからない。呂布はこの地方に、自分の敵などいるはずはないと思っている。彼を敵とつけ狙うのは、董卓の旧部下だけである。その連中は長安より西にしかいない。このあたりは、反董卓世界だから、董卓の首をとった自分は、どこへ行っても英雄だ。──呂布は明快にそう信じていた。
基本的には敵はいないけれど、弱肉強食の戦いはありうる。
「いかがいたしましょうか?」
と、幕僚は訊いた。
「やっつけよう」呂布は即座に答えた。「その千二百を降参させたなら、おれたちは二千の軍隊になる。……袁術のところで、おれたちが軽くみられたのも、数がすくなかったからなのだ」
呂布は威嚇《いかく》攻撃をかけるつもりであった。
両軍が近づく。──
潁《えい》水のほとりの一本道である。攻めないとみせかけて、急に攻める。呂布はそんな作戦を立てた。
「みんな、できるだけのんびりしたようすをみせろ」
彼は小声で命令を伝えた。旗をたおして行軍していたが、その旗をあげるのが合図で、いっせいに突入する。──口から耳へ、この命令は末端まで滲透《しんとう》した。
(あと百歩で旗をあげよう)
呂布がそう思ったとき、前方の部隊から一騎の黒ずくめの鎧《よろい》を着た人物が、
「おう、呂布ではないか」
と叫びながら馬を進めてきた。
まだ相手の顔がはっきりと見える距離ではなかった。呂布は身構えて、
「そう言うおまえは何者だ」
「燕平難《えんへいなん》中郎将」
と、相手は名乗った。
「なんだ、張燕か。そんなに遠くから、どうしてこのおれがわかったのだ?」
「おまえの顔は見なくても、その馬でわかる。赤兎はどこにいてもわかるのだ」
「そうか。……」
かつて洛陽で、酒を汲《く》みかわしたこともある相手である。そうとわかれば、一戦をまじえることはあるまい。
「旗をあげるでないぞ」
旗手にそう命じて、呂布は張燕のほうに赤兎を進めた。
張燕はもとの姓を|★[#ころもへん(初の左側)+者]《ちよ》といった。黄巾軍が兵を起こしたころ、彼は不良少年を集めて流賊の頭目となった。流賊の世界でも、弱小のグループは生きて行けない。生き残るために、併合による強化がおこなわれた。
当時、流賊ながらも人望のあった張牛角という者がいて、張燕は彼と連合した。張牛角はその『人望』によって、ますます衆を集めたが、あるときの戦いで、流れ矢にあたって死んだ。
──必ず燕を以て帥《すい》とせよ。
これが張牛角の遺言であった。|★[#ころもへん(初の左側)+者]燕はこのときから、張の姓を名乗った。張牛角の正当な後継者であることを、この改姓によって、流賊の世界に宣言したわけである。
その後、ますます軍勢をふやし、河内《かだい》の山賊たち、孫軽や王当といった連中が彼の傘下《さんか》にはいり、最盛時は百万と号した。
人びとは張燕一党のことを『黒山《こくさん》賊』と呼んだ。黒山とは朝歌県西北にある地名で、張燕たちはそこを拠点にした時期があった。
この大造反団に、ときの朝廷も手を焼き、
──帰順呼びかけ。
という常套《じようとう》手段に出た。張燕はそれに応じ、造反軍は国軍に編入され、彼は二千石の、
──燕平難中郎将
という、ものものしい官職を与えられたのである。
董卓がまだ洛陽にはいる前に、呂布は首都警備の将校として、ときどき張燕に会った。当時の位階は、張燕のほうがずっと上であったが、張燕はそれをすこしも鼻にかけず、呂布とも胸襟をひらいてつき合った。
そんなわけで、呂布は張燕に好意をもっていた。相手が張燕とわかって、彼は襲撃をとりやめたのである。
「久しぶりだな」
と、呂布は声をかけた。
「ずいぶん活躍したのう。呂布の二字は、どこへ行っても耳にする。袁術のところにいるときいたので、そこで会えるとたのしみにしておったが」
と、張燕は言った。二人の馬は二メートルほどのところで、ぴたりととまった。
「ほう、では袁術のところへ行くのか?」
「そうだ。いろいろ考えた末にそうきめた」
「おれはもう袁術のところからとび出した」
「どうして?」
「思ったよりもけちでな」
「名門の子弟だから、気は大きいと思ったがな。おれたちみたいな、下賤の出身の者は、なにかと物惜しみをするが」
「数が多いと歓迎されるだろうが……ざっと見たところ、千か千二百だな。……はなもひっかけないかもしれんぞ。せめて万とそろえなくては。黒山百万の衆はどうした?」
「戦士は十余万だったが半減した。……死んだり、軍閥の軍隊に引き抜かれたり。いまはほぼ三万。……別の道から南陽にむかっているのもおれば、潁水の線で待っているのもいる」
「三万もあればよろこばれるだろう。……で、そちらに誘いがかかったというのは、袁術が作戦をおこすということだろうか?」
「そうだろうな」
「戦場で会うかもしれんな」
「袁紹に身を寄せるのか?」
と、張燕は訊いた。
袁術が作戦をおこすといえば、戦うべき相手は袁紹にきまっているのだ。
「まだきめていないが。……そうなるかもしれない。……」
「戦場で会えば手加減し合おうぜ」
「心得た」
呂布はにっこりと笑った。
「では、全軍がすれちがって通り去るまで、おれたち二人は、こうしてここにいることにしよう」
彼らは斜めにむかいあい、その背後をそれぞれの部隊が通って行く。二人のあいだには、たしかに友好的な空気はあった。だが、けっして油断はならない。どちらも相手を全面的には信じていないのである。
(この張燕、生まれながらの流賊。なにをするかわからんぞ)
と、呂布は心のなかで警戒している。張燕は張燕で、
(呂布め、あるじの丁原を殺し、義父の董卓まで殺しおった。義理を知らぬ。自分のためなら、どんなことでも、平気でやる男だ)
と、警戒をゆるめない。
全軍が通りすぎた。だが、二人はそのまましばらくむかい合った。両隊の後尾がじゅうぶん離れ、とつぜん踵《きびす》を返して襲撃する危険がないとわかるまで、うごかなかったのである。
「は、は、は、では、さらば」
張燕がさきに言って、馬に鞭をくれた。
呂布はそのうしろ姿に、しばらく目をそそいだ。小柄な張燕のからだが、馬のうえで軽やかに揺れている。柔軟なうごきだが、力がこもっていた。力のかたまりが、黒い鎧を着て、馬のうえで躍動しているかんじである。
──張燕は、剽悍《ひようかん》、捷速《しようそく》、人に過ぐ。
といわれていた。
(かりにいま、軍を返して襲っても、張燕はすぐに応戦の陣を構えるだろう)
呂布は首を振って、赤兎に鞭をあてた。
呂布は北上をつづけ、河内郡にはいった。
洛陽の北約五十キロほどのところにある。
郡の太守は張楊という。
この張楊は、関東諸将と長安とのあいだのパイプ役をつとめていた。関東諸将は反董卓の軍をおこしたが、その董卓はすでに死んだ。とはいえ、長安は董卓派の李★[#イ+寉]や郭★[#さんずい+巳]の手中にある。だから、長安と関東諸将はまだ対立したままである。天子が長安にいるので、関東諸将も朝廷と連絡をとりたいと考えている。だが、いきなり使者を派遣しても、李★[#イ+寉]たちに抑えられてしまう。そこで、李★[#イ+寉]とも友好関係をもっている張楊が、中間に立って斡旋《あつせん》するのだ。
青州黄巾軍を併せたあと、曹操は長安の朝廷に使者を送ったが、そのときも、河内太守の張楊が李★[#イ+寉]に推薦状を書いている。
長安の旧董卓派にしても、関東との関係をきびしく断絶すれば、関東諸将が別の天子を立てるかもしれないので、適当にパイプをつないでおいたのである。
八百騎を従えた呂布が、赤兎にまたがって河内郡にはいってきたとき、太守の張楊は、
(これはまた面倒なやつがやって来たものだ)
と、眉をしかめた。
「張楊どのは、天下に志をのべようとなさっておられる。それを聞いてこの呂布、いささかお役に立とうと思って参上した」
と、呂布は言った。
大につくか小につくか、呂布はどちらかをえらぼうとしたが、潁水沿いに行軍中、
──河内太守張楊は、天下国家のことに、なかなか色気をもっているそうな。
という噂をきき、
「ほう、では小につくか」
と、あっさりきめたのである。大志をもっていても、軍事力に欠ける。そこへ八百騎で売り込みに行き、ゆくゆくは乗っ取ってやろう、というつもりなのだ。
張楊はたしかに大志らしいものを抱いてはいた。──この乱世に自立することである。どこにも所属しないで、乱世に自立するには、力をもたねばならない。彼は袁家兄弟のように、大軍を養う甲斐性《かいしよう》をもたない。別の『力』を自立の背景にしようとした。
それは仲介者という役割である。
いまのように、関東と長安の仲介役をしておれば、彼はどちらの陣営からも重宝がられるのだ。
──河内を潰《つぶ》しては不便だ。
ということになれば、誰からも攻められずに、自立できるのである。
張楊の恃《たの》む『力』とは、関東・長安双方との友好関係であった。
長安の旧董卓派は、董卓の首をとった呂布を、憎み抜いているにちがいない。その呂布が河内に身を寄せているとわかれば、長安との関係がおかしくなるだろう。張楊の『力』は、呂布をうけいれることによって、いちじるしく弱められるのだ。
(どうしても、この男は追い払わねばならんわい)
張楊はそうきめて、呂布に会った。
呂布は恩きせがましく、八百の軍勢で助けてやろうと高言し、いい気になっている。張楊はいらいらしたが、
(このばかに、どう言ってきかせたらわかるだろうか?………とりあえず、それとなく言ってみよう。それで気づかなければ、ずばりと言うほかはない)
と、方針をきめ、咳《せき》払いをしてから答えた。──
「それはかたじけのうござる。ただこの河内の地は、隣りの河南にくらべると、たいそう貧乏でしてな……大軍を養えませんのじゃ」
「なんのなんの、兵など養う気になれば、なんとかなるものですぞ。弱気になっちゃいけませんな」
と、呂布は言う。
「いえ、貧乏郡であるばかりでなく、ここは関東と長安両陣営の勢力がいりみだれているところでして……」
「ほう、長安の勢力がこの地へ?」
呂布には聞き捨てならぬことであった。
「なにしろ、軍事力がありませんので、持ちかけられた話は、ことわることができ申さぬ。このあいだも、曹操どのが、長安へ使者を送るについて、私に口添えを要求された」
「ほう、お手前が長安に口添えを?」
「いかにも。……私の部下にも、長安の息のかかった者がおります。たとえば董昭と申す者などは、李★[#イ+寉]どのと仲がよろしく、その者に一筆書かせました」
「それでうまく行きましたかな?」
「はい。……曹操どのの使者の件は、とどこおりなくすみました。私は曹操どのに貸しをつくりましたが、長安には借りができ申した。こんど長安から、なにか頼まれたなら、ことわり切れませんのじゃ」
そう言って、張楊は呂布の表情をうかがった。呂布はその勇猛さに似ず、色白の美男子である。年よりもずっと若くみえた。その整った顔には、これといった表情はうかんでいない。張楊はまた咳払いをして、
「呂布どの、あなたの武名は天下にかくれもない。八百騎、その軍勢は多しとしませんが、あなたの行くところに、天下の耳目は集まり申す」
と言った。
呂布の右頬が、かすかにうごいた。苦笑をおさえたかのようである。
その日の午後、呂布は八百騎を従えて、河内郡を立ち去った。彼は張楊が案じていたほどのばかではなかった。河内が長安に借りがあることと、呂布の行く先は天下に知られるという事実を結び合わせたなら、自分の首が危ないことがわかる。
呂布の小部隊は、東北の方向へむかった。
「やっぱり大につくことになったか。……」
行く先は、冀《き》州である。そこに袁紹の本営があった。
中国では省の名を一字で呼ぶ習慣がある。広東を『粤《えつ》』、福建を『|★[#門+虫]《びん》』、湘南を『湘』というように。河北省のことを『冀《き》』というが、むかしの州名からきている。もっとも、この時代は、現在の河北省の北部は幽州で、南部にあたる地方が冀州であった。いまの石家荘市の東南あたりに州城があって、袁紹はそこにいたのである。
袁紹が中原を狙おうとすれば、背後の幽州にいる公孫★[#王+贊]の動向が気になる。
おなじように、袁術が中原をうかがおうとすれば、背後の襄陽《じようよう》にいる劉表のうごきが問題になる。袁術はそのため、孫堅に劉表を討たせたが、その戦いに孫堅が★[#山+見]山で戦死したので、そのままになっている。
呂布は河内から黄河沿いに東北へむかったが、途中で天下の形勢がうごきつつあることをかんじた。
南|匈奴《きようど》のオフラの軍勢五千と出会ったのである。呂布の軍中にもモンゴル族が多い。彼らはオフラ軍の同族から、いろんな情報をきき出すことができた。
いま袁術が困っている。
背後の劉表が困らせたのである。南陽の糧秣《りようまつ》は、南方からの供給に頼っていたが、劉表がその糧道を封鎖したのである。
南陽餓ゆ。──
──劉表がこんなことをしたのも、紹のやつの指し金だ。いまにみろ!
袁術は大軍の兵糧をもとめるために北上し、ついでに袁紹の陣営をおびやかそうと考えたらしい。
「よし、急ごう」
この情報を得て、呂布は道を急いだ。かなりの規模の作戦がはじまる。すこしでも兵力が欲しいところであろう。売り込むには、ちょうどよい時期であった。
だが、冀州に着いてみると、袁紹の陣内には、それほどあわただしいうごきはない。
「どうしたのじゃ、呂布、浮かぬ顔をしておるが?」
と、袁紹は訊いた。
「袁術が出陣したとききましたが……」
「うん、腹が減って、北上してきておるそうじゃな」
「迎え討たぬのですか?」
「それは|★[#六+兄(六が上で兄が下)]《えん》州の仕事になるぞ」
と、袁紹は言った。
★[#六+兄(六が上で兄が下)]州には曹操がいる。いまのところ、曹操は袁紹と結んでいるのだ。去年も袁術にそそのかされた公孫★[#王+贊]が、客将の劉備や陶謙たちに兵をうごかすように命じたが、曹操は袁紹のために、彼らを撃破したのだった。
「ほう、★[#六+兄(六が上で兄が下)]州は袁術と戦えますかな? 袁術は大軍ですぞ」
「いや、★[#六+兄(六が上で兄が下)]州も強くなったぞ」
呂布はまだ曹操が青州黄巾軍を併せたことを知らない。かつて酸棗《さんそう》に駐屯した、あの兵力不足に悩みながら、ときどきとび出して無謀な戦いを挑んだ曹操の印象がのこっているだけである。
「そうですか。……」
呂布は不満であった。
「袁術は曹操にまかせて、しばらく雑賊の掃除をするつもりだ」
と、袁紹は言った。
「我が精鋭八百、戦いのみを待ち望んでおります」
「そのうちに手伝ってもらおう。……おう、そうじゃ、おぬしが来るときいて、会いたがっている者がいる」
「何者でしょうか」
「★[#六+兄(六が上で兄が下)]州の曹操のところから来た客だが、長安でおぬしと知り合ったと申しておった。そのうちに訪ねて行くだろう」
袁紹はなだめるように言った。
呂布が宿舎に帰ってみると、二人の客が待っていた。──少容と陳潜である。
「おう、これはこれは。……貂★[#虫+單]は元気であろうな?」
顔をみるなり、呂布は女のことを訊《たず》ねた。
「私たちも旅に出て、だいぶなりますが、長安を発つとき、貂★[#虫+單]さんはお元気でした。……あなたさまのことを想って、おさびしそうなようすはございましたけれど……」
「そうか。……なんとかして、貂★[#虫+單]を呼び寄せたいものじゃ。彼女は洛陽にあこがれておった。……彼女と洛陽に住むことができたなら、もうどうなってもよいわ」
呂布の白い顔が、みるみる上気した。
「洛陽に住むのでございますか? あなたが焼き払ったあのまちに……」
少容はそう言ったが、呂布は聞いてもいなかったようだ。かりに耳にはいっても、言葉の皮肉な調子に気づきはしない。頬を染めた呂布は、まるで少年のようであった。
「そうだ!」呂布はふいに膝をたたき、天井を見上げて言った。──「河内の張楊に頼もう。あの男は長安と連絡がある。貂★[#虫+單]を洛陽まで連れ出して。……そうだ、邸を建てておかねばならん。……うん、五原の家族も呼び寄せよう」
五原には彼の本妻と、もうかなり大きくなった子供たちもいる。彼は巣を営む気になった。生まれてはじめて、そんな気になったのである。
「さぁ、手紙を書いていただこう。宛先は、河内太守の張楊……」
呂布はその場で、陳潜に手紙を書かせた。思い立ったら、すぐに実行する。それで他人が迷惑するかどうかは、彼はまるで念頭になかった。
元旦に日食のあった初平四年の春、袁術は劉表に糧道を絶たれ、軍を率いて封丘《ふうきゆう》に駐屯した。南匈奴のオフラと黒山の一部がこれに加わった。
封丘は河南省陽武県の東にある。曹操は袁術の諸軍を破って、封丘を包囲した。
袁術は襄邑《じようゆう》に逃げ、さらに寧陵《ねいりよう》に走った。曹操は追撃の手をゆるめず、さんざんにたたいた。袁術は九江まで逃げたが、揚州刺史の|陳★[#王+禹]《ちんう》は、彼をひきとらなかった。去年揚州刺史の陳温が病死したので、袁紹は袁遺《えんい》を後任に派遣したが、袁術が兵を出して追い払い、そのかわりに陳★[#王+禹]を任命したのである。だから、陳★[#王+禹]は自分をいまの地位につけてくれた恩人が、追われてきたのを救わなかったことになる。
袁術は陰陵まで退いて、やっと兵をまとめ、態勢をたて直して寿春にむかった。寿春は揚州刺史の駐屯地である。忘恩の陳★[#王+禹]は怖れて、袁術が来る前に遁走《とんそう》した。
こうして袁術は揚州と徐州を手に入れた。
なんのことはない、袁術は劉表に背後をおびやかされる、不安定な河南省南部の南陽を放棄し、江蘇省北部を拠点に移したのである。
袁術との戦いは、曹操の一人舞台で、呂布は出る幕がなかった。
だが、それにつづく袁紹の諸賊討伐には、呂布は大いに活躍した。
黒山系の于毒《うどく》の率いる数万の軍勢を、袁紹は朝歌県の鹿腸《ろくちよう》山に包囲すること五日、これを覆滅して、万余の首級を得た。さらにつづいて、北のかたに左髭丈八《さしじようはち》なる賊を破ってその頭目を斬った。
劉石《りゆうせき》、青牛角《せいぎゆうかく》、黄竜左校《こうりゆうさこう》、郭大賢、李大目、|于★[#氏+一(氏が上、一が下)]根《うていこん》といった諸賊も、袁紹が表現したように、『掃除』された。斬った首級は数万といわれている。
だが、このとき、常山郡に強力な賊があらわれた。むろん、袁紹からみて賊だが、相手のほうも、袁紹を『賊』呼ばわりしていた。
常山郡は現在の河北省正定県の南、石家荘市に近いあたりである。
「これなるは、燕平難中郎将ぞ!」
黒ずくめの騎馬武者が、大声をはりあげてそう叫んだとき、呂布はにやりと笑って、
「あらわれおったか、燕賊! これなるは温侯呂布ぞ。戦わずして退けば、追うのはゆるしてつかわす!」
と、どなり返した。
張燕の軍は、黒山衆のほかに、屠各《とこく》(匈奴の一種)、烏桓《うかん》(ツングース族)、などの軍兵を加え、精強無比であった。
戦場で相まみえたなら、手心を加えようなどと言い合っていたが、いざそうなれば、手をゆるめるわけにはいかない。ゆるめたほうが負けるのだ。
凄惨《せいさん》な戦いが十日もつづいた。
はじめは呂布も薄笑いをうかべていたが、しだいにその表情がこわばってきた。
「手ごわいのう。……思いのほか、勇敢な兵士がそろっておるわ」
袁紹も舌をまいた。
張燕軍は機動力を発揮した。右から出撃したかとおもえば、翌日は左からあらわれる。袁紹の陣中を、真一文字に駆け抜けた小部隊さえあった。
「不敵なやつめ!」
袁紹の顔に焦りの色がみえた。
常山であまり手間どってはならない。いつ幽州の公孫★[#王+贊]が出てくるかわからないのである。
死闘十日に及んでも勝敗は決しない。十日目に袁紹は呂布を呼んだ。
「おぬしは洛陽で、張燕と親しくしておったが、ひとつ停戦の交渉をしてくれんかな」
「手に負えませんか?」
「敵は張燕だけではない。……やつは術に属したというが、おそらく公孫★[#王+贊]とも通じておるのであろう。幽州の狸め、わしが疲労|困憊《こんぱい》するのを待つつもりとみえた。……そうはさせんぞ」
「張燕は手ぶらでは兵を退かぬでしょう」
「軍糧を与えよう」
「量は?」
「二十万|斛《こく》」
一斛は十九・四リットルである。
当時は、軍糧を獲得するだけのための戦いが、しばしば起こっている。張燕は公孫★[#王+贊]から、袁紹を疲労させる役を頼まれたかもしれないが、それはすでに目的を達したといってよい。
(張燕のやつも、兵を退く機会をうかがっているやもしれぬ。……)
呂布は自分の嗅覚を信じた。
「少なくすめば、剰《あま》りはいただけますね」
と、呂布は言った。
「こやつ。……」
袁紹は笑いかけて、途中で眉をしかめた。
諸賊|掃蕩《そうとう》の戦いに、たしかに呂布はめざましい働きをした。だが、呂布は自分の功を鼻にかけて、袁紹の部将たちをないがしろにする傾向があった。譜代の部将たちが、呂布のことで立腹している。
──袁家三代に仕えたこの私をとるか、それとも呂布をおとりになるのか?
と詰め寄った者もいた。
呂布は大きな力である。だが、彼が軍中にいることで、人の和をそこなうというマイナス面も考えなければならない。
(殺すしかあるまい。……)
袁紹はそう思いはじめている。
もともと呂布は袁紹の陣営にいなかった。この『力』がよそへ行けば大へんである。逃がしてはならない。殺すとしても、それを気取られては、一大事である。
「よかろう。剰りはやってもよいが、惜しんではならぬぞ。兵を退かせるのが第一なのだ。わかったな?」
袁紹はけわしい表情で言ったあと、こんどは微笑をうかべた。あまりにもはっきりと不快の念をあらわすと、呂布は警戒するかもしれないのだ。
呂布はモンゴル族将校を使って、張燕軍中のモンゴル軍人を通じて交渉をはじめた。むろん、最後は首脳会談である。双方とも部下を従えず、常山城外三里の、見とおしのきく小高い丘で会うことになった。
「おなじようなことになったのう。……あの潁水のほとりの道で、こうしてわれら二騎、軍を背にしてむかい合ったが」
と、張燕は言った。
「約束は守ろう。あのときも守った」
呂布はそう応じた。
相互撤兵の条件は、下部の交渉で、すでに煮詰っていて、こうして二人で会うのは、儀式的な仕上げにすぎない。あまり話し合うべき用件はなかった。いくつかの問題を確認するだけで、話はすんだ。
「友達|甲斐《がい》に、ひとこと忠告しよう。いいかな、呂布?」
と、張燕が言った。
「おう、誰の忠告でもよろこんできくのが、おれのやり方だ」
呂布は赤兎の鞍のうえで、胸を反《そ》らした。
「おれが袁紹なら」張燕はそこまで言って、ひと呼吸してから、「おまえを殺したいところだな」
「どうしてだ?」
「袁紹の部将から、妙な打診があったぞ。黒山衆と休戦して、ともに呂布を攻めたいがどうだろうか、と」
「なに!」
呂布は大声で言った。
「その話は、袁紹は知らんだろう。しかし、部下の不満はやつの耳にはいっているにちがいない。……呂布が威張りすぎる、と」
「おれは威張るだけのことはやったぞ」
「それがいかんのだ。……ま、こんなことは、おまえに言っても、どうにもならんじゃろうが。……では、さらば」
張燕は馬首をかえした。
呂布がそのうしろ姿を見送ったのも、この前の潁水のほとりでのときと同じであった。
撤兵の条件は、十五万斛の軍糧の提供である。五万斛剰った。
「その五万斛をどうするのか?」
袁紹にそう訊かれて、呂布は答えた。
「それでもって、洛陽に邸を建てたいと思っております。家族を迎えるので」
「ほう、なかなか家庭的なところがあるのじゃな」
「このあいだから考えておりました。……この足で洛陽に参ってもよろしゅうござるか?」
と、呂布は訊いた。
「よいとも。……そうじゃ、洛陽へ送る人数をつけよう。ちょうど、例の二人の客人を送らねばならぬ。ついでじゃ」
と、袁紹は言った。
二人の客人とは、曹操のところから来た少容と陳潜である。物騒な世の中だから、三十名ほどの兵士をつけて、西へ送ることになっていた。彼らは洛陽城西の白馬寺を訪ねると言いだしたのである。
呂布は三十人の護衛つきで、少容、陳潜と一緒に洛陽へ行くことになった。
──白馬寺の工匠はたいしたものじゃ。家を建てるなら、白馬寺と親しい陳潜の紹介があれば、なにかと便利であろう。
袁紹にそう言われて、その気になったのである。
三日目。──宿は邯鄲《かんたん》であった。
呂布は考え込んでいた。張燕の言葉が気になる。相手は流賊あがりだが、これまでのつき合いから、言葉が慎重であるという印象を受けている。めったなことは言わない。それが、あのような忠告をした。
それも今朝ほどから、三十人の護衛のなかの数人の態度がおかしいのである。物を渡すときに、指のさきが顫《ふる》えるやつがいた。
「なにがこわいんだ?」
と呂布が訊くと、
「へい、噂にきくえらい将軍さまを、目のあたりに見ましたんで、へい、それでちとぶるぶると……へい」
と、やたらに頭を下げた。
そのとき、彼は仲間のほうに目をむけた。護衛隊長と目があったが、隊長は咎《とが》めるような目つきをしていた。
(なんだ、顫えたりして。おまえはヘマをしたのではないか)
と、その目は語っているようにもおもえた。
疑えば、いろいろとあやしい点があった。
「におうぞ。……」
部屋のなかで、呂布は呟いた。彼のするどい嗅覚は、異変をかぎつけたようである。張燕の言葉は、たいへんな重みをもつ。──すべてが、張燕の忠告とかかわり合った現象のような気がする。
護衛の三十人が、いずれも体格のりっぱな若い兵士であることも、張燕の言葉を裏づけるのではあるまいか?
呂布ほどの武将を片づけようとすれば、よほどすぐれた壮士をそろえなければならない。
夕食がすんで、だいぶ時間がたった。
「ご退屈なさってるんじゃありませんか?」
そう言って、少容と陳潜がはいってきた。
陳潜は筝《こと》を抱えている。
「およろしければ、一曲弾いてさしあげとうございます。……あまり上手ではありませんが、旅のつれづれをお慰めできればと……」
と、少容は言った。
「それはかたじけない。ひとつ聴かせていただこうか」
呂布はさきほどから、慣れない考えごとをしていたので、このあたりで気分転換をしてみたいところであった。
筝は十三絃の|こと《ヽヽ》である。伝説によれば、もと『瑟《しつ》』は五十絃であったが、その音があまりにも哀れなので、それをつくった伏羲《ふつき》が二つに割って二十五絃にしたという。その二十五絃の瑟を、秦のある父子が争って、とうとうまた二つに割った。だから竹カンムリに『争』の字を用い、十三絃である。さらにそれを半分にした七絃の|こと《ヽヽ》が琴なのだ。
少容は筝を弾いた。
音楽はあまりわからない呂布だが、
(すずしげな音色だな。……)
ということぐらいはわかった。
一曲が終わって、呂布は注文をつけた。
「もうすこしにぎやかにできないものかな? そう、あの西域ふうの……」
長安の蔡邸できいた、あの西域の音楽を、呂布は思い出していた。
「あれはおおぜいの者で、歌もはいっておりました。わたくし一人では……」
少容はそう言って笑った。
「いや、いささか音が多ければよいのだ。とても、あの西域の楽のようには参らぬであろうが」
と、呂布は言った。
少容は指につけた銀甲をつけ直し、やおら筝の絃に触れようとしたが、すぐにその手をひっこめた。
「いかがなされた?」
呂布はいぶかって訊いた。
「いえ、ただちと空気が揺れうごいたようにかんじましたので。……呼吸がうまく合わずに。……もういちどやり直します」
と、少容は答えた。
「どのように空気が揺れたのかな?」
「ほ、ほ、申しますれば、一種の殺気のようなものでございましょうか。……それは、屋外から伝わって参りました」
「殺気か。……」
呂布は眉をうごかした。ますます濃くにおうのである。
上下にうごいていた眉が、ぴたりととまった。──いま彼は決断したのだ。決断するや否や実行である。間髪をいれない。
「少容どの」と、呂布は居ずまいを正して言った。──「ひと晩じゅう、ここで筝を弾いていただけないだろうか?」
少容はじっと呂布をみつめたあと、
「で、将軍はお出かけになるのですね?」
と訊いた。
「うむ。……」
呂布はうなずいた。
「わかりました。部屋に人がいるように、ずっと弾いておりましょう。なるべくにぎやかな曲を……」
少容は弾きはじめた。
呂布はあたりをうかがいながら、そっと部屋からぬけ出した。
この年の六月は雨が多かった。昼夜をわかたず二十余日降りつづいた記録のあることは、すでに述べた。
呂布が邯鄲の宿から脱出した夜も、かなりはげしい勢いで雨が降っていた。ふだんはさらさらと流れる小川が、怒り狂ったように、ごうごうと唸《うな》りながら流れている。ぬかるみの道に雨はたたきつけるように降りそそいだ。木の葉や枝も、雨の鞭に打たれ、たえず大きな音を立てた。
呂布は厩《うまや》から赤兎をひき出し、それにのって西へむかったのだが、蹄《ひづめ》の音も雨に消され、護衛の者は誰一人気づかなかった。
袁紹がつけた三十人の護衛は、やはり刺客であった。しかも、邯鄲で呂布を刺すことになっていたのである。邯鄲を過ぎると、太行山脈沿いの諸賊掃蕩作戦に出ている、呂布直属の数百騎が、護衛隊に合流するおそれがあったのだ。
「まだ筝を聴いております」
予定の時刻になっても、呂布は筝をたのしんでいるようだった。三十人の屈強の壮士をそろえたが、それでも呂布の勇猛をおそれ、相手が就眠してから襲う手筈であった。筝がきこえるのは、まだ睡っていないことであろう。
「筝のしらべがやむまで待とう。……呂布はおそらく横になって聴いているのだろう。彼が睡ってしまえば、筝を弾く者もやめるにちがいない」
護衛隊長は部下にそう言った。
だが、深夜になっても、筝の音はやまない。あかりも点《つ》いたままである。灯油が貴重品だった時代だから、こんな夜ふかしはたいへんなぜいたくであった。
(いつになったら筝がやむのだろう? これではキリがない)
隊長は考えた。彼は寝込みを襲え、と命令されている。だが、相手が徹夜をすれば、襲うことができないではないか。戦争とおなじで、第一線の小部隊の隊長は、状況によって独自の判断で行動してもよいはずだ。彼の受けた命令の根幹は『襲え』であって、『寝込みを』というのは枝葉である。枝葉に執着して、根幹をおろそかにしてはならない。
それに、隊長には誇りがあった。いくら天下の勇名を馳《は》せている猛将でも、われら三十人かかって倒せないことはあるまい。寝込みを襲えという命令も、考えてみれば、われらの力を軽くみているのではなかろうか。──よし、ちゃんと起きている呂布を剌してみせようではないか。
「もう待つことはない。踏み込もう。みんな、配置につけ!」
隊長は決行に踏み切った。
あらかじめ戸に細工がしてあった。内から閂《かんぬき》をかけていても、戸の下部に強い力を加えると、蝶番《ちようつがい》のほうがはずれるようになっていたのである。
「それ!」
かけ声とともに、隊長は戸の下を蹴った。
閂などはかけていなかった。あっけないほど、軽く戸がはずれて、部屋の床にたおれた。そのあおりで、灯火がゆらいだ。
「なんとしたことでございますか?」
部屋の中央に坐って、筝を弾いていた少容が、その手をとめて、きびしい口調で言った。そのすがたは威厳に満ちている。
そばに、陳潜が膝をそろえて、蓆(座蒲団)のうえに坐っていた。
ほかに誰もいない。
隊長は抜刀していた。あかりをうけて、刃がキラと光る。
「将軍は?」
と、隊長が訊いた。声が喘《あえ》いでいる。
「雨の音が気になるとおっしゃって、外へお出かけになりました。わたくし、ここでお待ち申し上げているのですが、いつお帰りになるか、あまり遅くなりましてはと、そろそろ引き取らせていただこうと思っていたところでございます」
少容はしずかに答えた。
部屋はがらんとしている。人間のひそんでいそうな場所はない。念のためにさがしてみたが、むろん呂将軍はどこにもいなかった。
「隊長、厩《うまや》から赤兎が消えておりますぞ!」
厩をしらべた兵士から、そんな報告をきいたとき、隊長は無念の形相ものすごく、眉を吊りあげて歯がみした。
「うぬ、悟られたか! あとを追え!」
あとを追ってもむだなことは、命令を下した隊長も知っていた。呂布の脱出はかなり前であろうし、あの名馬赤兎の脚では、もはや追いつけないところまで行っているはずだ。
安陽のあたりで夜が明けた。呂布は夜どおし、赤兎を走らせたのである。
雨はあがっていた。
「久しぶりに晴れそうじゃな。……」
白みゆく東の空に目をやって、呂布ははずんだ声でひとりごちた。彼は上機嫌である。なぜ機嫌がよいのか、彼は自分でもよくわからない。
はげしくうごいたあと、彼はきまって気分がよくなるのである。勝ち戦さであろうと負け戦さであろうと、いまのような脱走であろうと、力を傾け尽すと、よろこびが満ちてくることに変わりはなかった。
馬上の呂布は、けっして自分の不運を歎いてはいなかった。このたびの事件を、不運と感じる気持さえないのである。
群雄が割拠するこの時代では、呂布のように実力のある武将は、どこからもよろこんで迎えられる。
昨夜、殺されかかったことでさえ、呂布がいかに価値ある武将であるかを、証明する事件なのだ。よそへ行っても役に立たぬ人間なら、べつに殺すまでもない。
「あの連中、どうしているかな?」
呂布は自分とおなじように、力をひっさげて、各地をさすらっている者たちのことを考えた。
南匈奴のオフラは、封丘からどこへ消えたのか? おそらく敗走の袁術につき従ってはいないだろう。白波谷に戻って、しばらく英気を養っているかもしれない。
兵を退いた張燕は? 黒山衆の最強の兵士をしたがえて、中原を放浪しているのにちがいない。
(さて、途中で何処かに寄ろうか。……)
行く先は、河内太守の張楊のところである。そこで長安と連絡をとるつもりだが、まっすぐに行くことはない。張楊も言ったように、呂布ほどの人物になれば、どこにいるかは、いくばくもなく天下に知れ渡る。そうすれば、旧部下が続々と集まってくるだろう。ゆっくりと、噂をまきながら行けばよい。そのためには、寄り道もわるくない。
「陳留の太守|張★[#しんにょう(点二つ)+貌]《ちようばく》に会って行くか。……」
と、呂布は呟いた。
張★[#しんにょう(点二つ)+貌]。──反董卓連合軍の一将として、酸棗に陣を張った人物である。兵力不足の曹操に、兵を貸したほどだから、侠気に富む男であろう。かつては敵味方として戦った間柄だが、挨拶をしても損はない。
呂布の嗅覚は、損得を、とっさにかぎわけた。義侠の人物であれば、失意の人を拒《こば》むことはないはずだ。張★[#しんにょう(点二つ)+貌]が呂布を丁重に迎えたという話が伝われば、袁紹が気を悪くするだろうし、呂布の株はあがるではないか。
「袁紹のやつめ!」
ひと晩もたってから、呂布はやっと袁紹の仕打ちに腹を立てることを思い出した。するどい嗅覚にくらべて、感情をつかさどる琴線は、いたってにぶいのである。
呂布は大きなあくびをして、
「もう夏も終わりじゃな」
と呟いた。
彼の嗅覚は、すでに秋をとらえているのだった。──
作者|曰《いわ》く。──
この時期まで、天下争いのトップは袁紹と袁術の兄弟であった。だが、初平三、四年ごろから、勢力分野に微妙な変動がおこった。それは曹操が擡頭《たいとう》して、袁紹の陣営から独立したことである。
青州黄巾軍三十万を併せたことが、最も大きな原因であったのはいうまでもない。
曹操は敵の力を、自分に併せることを考えたが、袁紹はこの鹿腸山の戦いのように、もっぱら相手を消滅させることだけを考えた。かりに相手を潰滅《かいめつ》させても、味方もいくらかの損害は免れないだろう。鹿腸山の戦いについても、史書に、
──(袁)紹は呂布とともに(張)燕を撃つ。連戦十余日、燕の兵に死傷多しと雖《いえど》も、紹の軍もまた疲る。遂に倶《とも》に退く。
とある。疲るとあるが、かなりのダメージだったに相違ない。
(三巻へ続く)
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
秘本三国志(二)
二〇〇三年一月二十日 第一版
著 者 陳 舜 臣
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
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(C) Shunshin Chin 2003
bb030107
校正者注
(一般小説) 電子文庫出版社会 電子文庫パブリ 文春ウェブ文庫(383作品).rar 51,427,627 ee2f0eb8653b737076ad7abcb10b9cdf
内の”-秘本三国志(二).html”から文章を抜き出し校正した。
綺麗に表示されないルビの前に|をつけた。
表示できない文字を★にし、文春文庫第1刷を底本にして注をいれた。
章ごとに改ページをいれた。
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