秘本三国志(一)
陳舜臣
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〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年七月二十五日刊
(C) Shunshin Chin 2003
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目  次
黄天立つべし
月氏の美女
曹操、東へ帰る
洛陽、わが手にあり
鉄騎、白波へ去る
白馬寺だけが残った
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[#改ページ]
秘本三国志(一)
黄天立《こうてんた》つべし
蒼天《そうてん》はすでに死せり
黄天まさに立つべし
そんな呪文《じゆもん》のような言葉が、東のほうで流行《はや》っているという噂《うわさ》があった。
「それは、みんながおおっぴらで唱《とな》えているのですか?」
張魯《ちようろ》の母の少容《しようよう》は、東から帰って来た陳潜《ちんせん》にそう訊《たず》ねた。
「ええ、そりゃもう、おおっぴらもいいところです。青州、幽州、冀州《きしゆう》といったあたりが、とくにひどうございました」
と、陳潜は答えた。
現在の地名でいえば、青州は山東省、幽州は河北省北部、北京近辺、冀州は河北省南部である。
「漢の天下も、もう終わりですね」
少容はため息をついて言った。
五行《ごぎよう》説によれば、漢は木徳によって天下を得ている。それにとって代わる者は土徳によらねばならない。木の色は青、土の色は黄と、これまた五行説できまっている。
蒼天──青い天子、すなわち漢の王室はもうおしまいだ。黄天──土の徳による新しい王朝が、まもなく興《おこ》るであろう。……
わけのわからない呪文のようだが、その裏にかくされた意味に気づくのは、それほど難しいことではない。ふつうの常識のもち主であれば、すぐにそれを悟るだろう。
深い謎《なぞ》ではない。むしろ浅すぎる。
すぐにそれとわかる不敬の呪文が、おおっぴらに流布《るふ》されているのだ。
漢の天子がみくびられ、その権威は地に墜《お》ちたというべきであろう。
王朝の興亡に、流血が伴わないことはない。天下は大いに乱れるであろう。──少容はその予感に、ため息をもらしたのである。
その場には、少容とその息子の張魯しかいない。だが、陳潜はあたりを見まわしてから、声をひそめて、
「恐れ多いことながら、私もそのように感じないではおれませんでした」
「やれやれ、大へんなご時勢に生まれ合わせました。でも、幸いここは中原《ちゆうげん》から遠く離れた巴《は》の国です。うまく手綱《たづな》をさばきさえすれば、戦乱を避けることもできましょう。潜さん、魯をよろしく頼みますよ」
と、少容は言った。
現在の四川《しせん》省の成都地方を蜀《しよく》、重慶地方を巴といった。
長安や洛陽《らくよう》など当時の政治の中心とは『蜀道の険』によって、へだてられている。
──蜀道の難《かた》きは青天に上《のぼ》るよりも難し。
と、李白《りはく》のうたった険路である。
また華中や江南とは、『三峡の険』によってへだてられている。長江(揚子江)はそのあたりでは急流|激湍《げきたん》のあつまること二百キロに及び、おなじく李白が、
──覚《おぼ》えず、鬢《びん》の糸を成すを。
と歎いたほどの難路だった。
天然の要害といってよい。だから、日中戦争においても、重慶が抗戦基地になったのである。
少容はこの天然の要害に、戦火が及ぶのをおしとどめる防壁の役を期待した。だが、難路とはいえ、越えられないルートではない。蜀道や三峡の険以外にも、手綱さばき、すなわち政治的な手腕が必要だと考えたのだ。
「またそのようなことを……」
と、陳潜は苦笑した。
彼女から、息子の魯をよろしく頼む、と言われるのは、いつものことだった。それが彼女の口癖である。だが、陳潜はやっと二十《はたち》になったばかりの弱輩であるし、張魯はたった一つだけの年下にすぎない。
「いえ、潜さんだけが頼りですからねぇ」
少容はそう言って、ゆっくりと肩を揺すった。その肩から、なにやら匂《にお》うものが、こぼれおちたように陳潜はかんじた。
十七で魯を生んだ少容は、いま三十代の半ばのはずだが、どうみても二十代にしかみえないのである。
(きれいだなぁ。……)
毎日顔をあわせているのに、陳潜は彼女を見て、まだまぶしくかんじることがあった。
陳潜は赤ん坊のとき、張家の門前に棄てられていたという。それを張魯の祖父にあたる張陵《ちようりよう》が、引取って育てることにした。その直後に、少容が張家に嫁入りしたので、彼女はよく陳潜に、
──この家では、潜さんはあたしより古いんですからねぇ。
と言ったものだ。
張陵は息子の嫁の少容に、
──我が子を育てる前に、他人の子を育てると、包容力のある大きな人物になる。我が家にはそんな女性が必要なのだ。
と、棄子を育てることを命じた。
そんなわけで、潜にとっては少容は母親そのものといってよい。それなのに、彼は少容に女をかんじた。いけないと思うのだが、人間の性《さが》はどうすることもできない。
「私にできることなら……」
頼りにされて、潜はからだを縮めた。
「張家|五斗米道《ごとべいどう》の運命は、すべてあなたの肩にかかっております」
少容はすずしげな声で言ったが、それは潜の胸を焦《こ》がすほどの熱力をもっていた。
張家五斗米道とはなにか?
道教の一派である。
始祖は張魯の祖父張陵であった。
張陵はもと沛《はい》(江蘇省北部)国の豊《ほう》の出身である。現在も徐州《じよしゆう》市の西北に、豊県という同じ地名が残っている。漢の高祖の故郷に近く、そのあたりの人民は、漢代では夫役を免除される特典を与えられていた。
後漢順帝(一二六─一四四)の時代に、張陵は蜀に遊び、鶴鳴《かくめい》山中で道術を学んだ。
彼はそれによって、よく病気を治すことができた。
病気治療の謝礼が、米五斗ときめられていたので、人びとは彼の道教を『五斗米道』と呼んだ。もっとも漢代の斗は、現代の升にほぼひとしい。斗酒なお辞せずといっても、それは一升酒のこととおもえばよい。
病人は自分のおかした過《あやまち》を告白し、自分の姓名を三枚の紙に書く。一枚は天帝に報告するために山上にかかげ、一枚は地祇《ちぎ》にしらせるために地中に埋め、一枚は水神に告げるため水中に沈めた。これを『三官手書』という。
つぎに祭酒《さいしゆ》と呼ばれる、この教団のリーダーが、病名を宣告して、『符水《ふすい》』を飲ませる。符水とは、呪文を書いた紙をうかべた水のことである。
病人が自分の病状を説明しないのに、祭酒はそれをすらすらと述べる。だから、病人はかなりのショックを受け、五斗米道の力を信じ切ってしまう。暗示にかけられた病人が、そのためにじっさいに治癒《ちゆ》するケースが多かった。そんなわけで、五斗米道は繁栄したのである。
病人が教団を訪れたとき、受付の信者が、
──お気の毒に。どんなふうに工合がわるいのですか?
と、くわしく症状をきき込んでおく。ただし、この受付の信者は、ずっと病人につきっきりで、そのまま祭酒のところヘ一しょに行く。聞いたことを、誰かに伝えるような機会は絶無《ぜつむ》のようにみえる。祭酒の前に出るまで、誰とも接触しないのだから。
病人が告白したり、三官手書に姓名を書いたりしているあいだ、受付の信者は病人のすぐうしろにいて、声を出さずに病人の症状を口にする。祭酒はその口のうごきで、病人のことを知り、
──おまえさんの病気は。……
と、ずばり言い当てる。
読唇《どくしん》術にほかならない。
張陵はこの道術を息子の衡《こう》に伝え、衡はさらに自分の息子の魯に伝えたのである。ただし、陵の死につづいて、衡も若くして死んだので、魯が二十になるまでは、一番弟子の張脩《ちようしゆう》が教団を主宰することになった。
五斗米道は巴蜀(四川省)に盛んであったが、おなじ道教の別派『太平道』は、河北、山東および中原におおぜいの信徒を獲得した。
教祖は張角という者で、鉅鹿《きよろく》(河北省)出身、自ら大賢良師と称していた。
この太平道は五斗米道と、双生児のようによく似ていた。病人が頭を地につけて自分の罪を懺悔《ざんげ》し、符水を飲むというところはそっくりである。違っていたのは、受付の信者が唇《くちびる》をうごかさずに、信号によって病人の症状を施術者にしらせていたことであろう。彼らは、九つの節《ふし》のある竹の杖《つえ》を用いた。たとえば上から三節めの左がわに手をふれると、それは患部が心臓であることを意味し、その症状は額に手をふれると、キリキリ痛むこと、顎《あご》に手をやると、鈍痛のことであるなど、二十世紀の野球のバッテリーのサインのように、こまかい取りきめがあった。
唇のうごきを読むのと、サインを読むのと、違いはあったが、まず同工異曲《どうこういきよく》といってよかった。
病気が治ると、大賢良師さまのおかげで、ますます信仰を深める。病人が死ねば、それは本人の信仰が足りなかったので、遺族はまた、ますます太平道を信じなければならないことになる。
太平道はみるみるうちに、華北から中原にひろがったが、これについて漢の地方官は、中央にたいして、
──張角たちは、人民たちを善導し、教化している。まことによろこばしいことである。
と報告する始末であった。
人間の精神は、同じ条件におけば、同じ方向に傾くものであるらしい。あのひろい中国の東部と西部で、ほとんど時を同じくして、太平道と五斗米道が、隆盛をきわめた。
教祖は太平道の張角、五斗米道の張陵と、どちらも張姓であるが、両者に血のつながりはない。地理的に遠かったせいもあるが、両者に同業者としての連絡もなかった。どちらも、相手のことを、風の便りにきくだけであった。
「潜さん、鉅鹿《きよろく》へ行ってくださらない?」
東へ旅行した翌年、陳潜は少容からそう言われた。
鉅鹿とは太平道の本拠のあるところだ。
「はい。どこへなりと、よろこんで参ります」
と、陳潜は答えた。
(あなたさまのご命令とあれば)
と言いたかったが、それは抑えた。
「訪ねる先は大賢良師」
と、少容は言った。
「わかりましてございます」
「去年のあの呪文……蒼天はすでに死せり、黄天まさに立つべし。それに続きの文句ができたそうです」
「どのような?」
「歳《とし》は甲子《きのえね》、天下は大吉」
「歳は甲子……天下大吉……」
陳潜は呟《つぶや》くようにくり返した。
ことしは後漢霊帝の光和六年(一八三)で、|えと《ヽヽ》は癸亥《みずのとい》である。
「わかりますか?」
少容はやさしい顔で訊《き》いた。
「甲子とは、来年でございますな」
「そうです。……その文句がみやこのお役所の門に書かれているとききました。もっと略して、『甲子』の二字。……太平道の信者の家の門には、きまって書かれているということです」
「それでは……」
革命を予言する言葉は、去年あたりからひろまっている。ことしになると、革命の時期を予言する言葉が、それにつけ加えられたのだ。
甲子の年。──来年である。
しかも、『甲子』という字をかいた紙は、太平道の信者の家の門に貼《は》られているという。とすれば、革命の主体が太平道であることは、もはや疑問の余地はない。
「行っておくれだね?」
と、少容は念を押した。
「否応《いやおう》はございません」
陳潜はさげた頭をおこした。少容と視線があった瞬間、すべてが伝達された。
「五斗米道のためだけではありませんよ。五斗米道に|たま《ヽヽ》しい《ヽヽ》を預ける幾十万の人間のためでもあります。……ひいては天下万民のためと申してもよろしゅうございます」
「わかりました」
陳潜は再び面を伏せた。
後漢の王朝が、天下を保ち得ないことは、もはや識者の目にはあきらかであった。現在の皇帝は、暗君の見本のような人物である。彼は宦官《かんがん》にとりまかれ、政治にはほとんど関心をもっていない。天子と生まれたからには、したい放題のことをするのが、自分の使命であると思っている。
革命は避けられない。
だが、現在の政権にとって代わる勢力があるだろうか?
──ここにある!
と、名乗りをあげたのが、張角を総帥《そうすい》とする太平道のグループであった。
(うまく行くだろうか?)
と、少容は危ぶんでいる。
しかし、あんがい天下を取ってしまうかもしれない。なにしろ、現政権の脆弱《ぜいじやく》なことは、想像以上なのだから。
東の太平道が天下を取ったなら、西の五斗米道はどんな立場になるだろうか?
同業者はとかくライバル意識が強すぎる。
五斗米道は弾圧されるおそれがあろう。そこで、あらかじめコネをつけておく。
──太平道旗あげの前から、五斗米道は協力を惜しまなかった。
という実績をつけておかねばならない。しかし、それをあからさまにしてしまえば、太平道が鎮定されたとき、
──五斗米道も、逆賊の太平道の味方をしていた。
という罪によって、教団は迫害されるにちがいない。
みせかけの協力はしてもよいが、表立たないように。──陳潜が少容から与えられた役目は、このような困難なものであった。
説明を受ける前に、陳潜はそれをすでに察していた。
翌朝、彼は蜀道の険にむかって旅立った。
鉅鹿は項羽《こうう》が秦《しん》軍を破った古戦場で、河北省石家荘市と邯鄲《かんたん》市を結ぶ南北の線の、ちょうど中間をやや東へ行った地方である。
太平道の総本山がそこにあった。
五斗米道からの使者だと名乗ると、さっそく、大賢良師張角がじきじきに引見《いんけん》した。
「遠路ご苦労でしたな」
と、張角は両眼を細めて言った。
道術を使う者は、おのれの内心を他人に知られてはならない。そこで、心の窓である目をできるだけひらかない。
張角はからだのわりに、顔が大きい。目も鼻も口も、みんな大きい。目をわざと細めるので、はれぼったい感じになる。
むかいあっていると、その顔がふいに近づいてくるかんじになり、はっと思って見直すと、顔は遠のいている。──催眠術の一種であろうか。
(なるほど、これはよく出来る)
おなじような術を学んでいる陳潜には、相手の技術の程度がわかった。おそるべき使い手というべきである。
──深ければ狭い。……
陳潜は亡《な》き始祖張陵の言葉を思い出した。
広くなるためには、あるていどの浅さが必要であると始祖は教えたのだ。
目の前にいる張角は、言い知れぬほどの深さをもっている。おそらく、驚くべきほど狭いのであろう。
(革命軍の大衆を指揮できるであろうか?)
陳潜は疑問におもった。
──道術は原則として、一人の人間に施《ほどこ》すものである。
これもまた始祖の語録にある言葉だ。
十万の信徒を得ても、それはあくまで一対一の集積である。一人が集団としての十万に対するのではない。道術がそれほど個人的なわざであると諭《さと》したのだ。
とすれば、道術家などは、群衆を指揮するのに、最も不適任な人間といわねばならない。それなのに、頼ってくる信徒の数が多いので、自分にそのような能力があると、つい過信してしまう。
まだ少年であった陳潜は、あるとき始祖張陵にむかって、
──わが師に接しておりますと、底なし井戸のように深く、しかも長江のようにひろいという気がいたしますが?
と訊《き》いたことがある。
四川に生まれ育ったので、海を知らないため、ひろさは長江(揚子江)にたとえるほかはなかったのだ。張陵はそれにたいして、
──おそらくそれは、わしが浮屠《ふと》の教えを学んでおるからであろう。
と答えた。
浮屠とはブッダの中国音訳である。
首都|洛陽《らくよう》に住む大月氏《だいげつし》国の人たちが、すでに仏教を奉じていたが、この時代の漢族のあいだにはまだひろまっていない。仏教という用語さえなかった。
張陵がどこで浮屠の教え(仏教)を学んだか不明であるが、彼は死に臨《のぞ》んで、
──浮屠の教えは、とくに少容に伝えてある。魯は母からそれを学べ。
と言い残している。
(惜しい。……)
陳潜はいまさらのように、始祖の死が惜しまれてならなかった。始祖であれば、革命のリーダーになりえたであろうに。
浅さとひろさを知らぬ張角が、群衆を率《ひき》いようとしている。
気は進まないが、陳潜は使者の口上《こうじよう》を述べた。──
「おなじく道術救民を望む団体として、わが五斗米道の同人は、太平道義挙のさい、できるかぎりの助力をいたしたい所存でございます。……」
「おう、そうでしたか。……そうでしょうとも。は、は……」張角は短く笑って、「じつはそのことで、巴《は》に使者を出しております」
「それはいつのことで?」
陳潜はせきこんでたずねた。
「三日まえ、使者は出立いたした」
「三日まえでしたか。……」
やれやれ、と思った。
おなじ協力をするのでも、要請《ようせい》を受けて起《た》ちあがるのと、事前に進んで申し入れるのとでは、あとの論功行賞のさいに大きな差がひらくはずである。三日まえといえば、いまごろはせいぜい洛陽に着いたころであろう。これで、五斗米道は自発的に、太平道の造反に荷担《かたん》する意思を示したことになる。
「ことは重大であります故、極秘に願いまする」
と、陳潜は言った。
「いうまでもないこと」
張角はちょっと顎をひいた。そのとき、細めていた目がひらいたのである。大きな目であった。俗にいう|どん《ヽヽ》ぐり《ヽヽ》眼《まなこ》なのだ。陳潜は一瞬、全神経をあつめて、その目のなかをのぞいた。
──倣岸《ごうがん》の色。
始祖張陵が、最もいまわしいものと、戒《いまし》めたその色が、張角の目にちらとあらわれた。
つぎの瞬間、張角は目をとじた。この人物は、めったに喜怒哀楽を表情にあらわさないが、目をとじたあと、めずらしく眉《まゆ》をはげしく上下させた。
時代の背景を語ろう。──
来年は甲子《きのえね》の年だという光和六年は、西暦一八三年に相当し、ローマ帝国では皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスが死に、ようやく国運が傾斜しはじめる時期である。
日本は弥生《やよい》式時代の末期、古墳時代初期にあたる。邪馬台《やまたい》国の女王|卑弥呼《ひみこ》が、中国に使節を送ったのは、これより五十六年後のことであった。
中国は後漢の王朝、十一代霊帝の治世である。
漢はどこの馬の骨ともわからぬ高祖|劉邦《りゆうほう》が、項羽と争って秦の始皇帝《しこうてい》の遺産である『天下』を獲得して樹立した王朝であった。それが二百年ほど続いて、いったん王莽[#莽の大の部分は犬]《おうもう》という者に奪われたが、光武帝|劉秀《りゆうしゆう》が取り戻した。それ以後を後漢といい、これまた二百年つづいた。
前漢、後漢あわせて四百年、その巨木が朽《く》ちて、まさに倒れようとするのが、この時代である。
霊帝は十二歳で即位し、それからもう十五年たっている。
後漢の歴代皇帝は、最初の三代を除いて、あとはぜんぶ十代以下で即位した。殤帝《しようてい》のごときは生まれたばかりの赤ん坊で、冲帝《ちゆうてい》は二歳、質帝は八歳で即位している。霊帝の父の桓帝《かんてい》が十五で即位したのが、三代以後の最年長記録なのだ。
幼帝が即位すると、その母親が後見《こうけん》する。彼女たちも封建時代の女性だから、政治には不慣れである。しぜん親しい人に相談するようになる。
一ばん親しいのは、いうまでもなく彼女たちの実家である。こうして、外戚《がいせき》が権力をもつようになった。
つぎにそば近くに仕えている宦官《かんがん》である。大奥の雑役には、男性の機能を喪失《そうしつ》している宦官を使うのが安全なのだ。皇室の女たちが自由に言葉をかわせた男性は、宦官だけであった。もっとも彼らは、もと男性と呼ぶべきかもしれないが。
こうして宦官は、後漢の宮廷に大きな勢力を張るようになった。
皇帝の交替で、皇后や皇太后も変わる。外戚の権勢は一時的なもので、むしろ宦官のほうが根強くはびこった。
これにたいして、学識と才幹《さいかん》によって登用されている官僚たちが、大きな不満をもつのはとうぜんであろう。彼らは自分たちを『清流』と呼び、宦官たちを『濁流』と軽蔑《けいべつ》した。機会をとらえて、濁流を除こうとするが、それが天子を擁する宦官に知れて、弾圧を受けた。これが『党錮《とうこ》の獄』である。
官僚どもは徒党を組んでいるという理由で、おおぜいの清流が殺されたり、投獄されたりした。
すこしでも気骨《きこつ》のある者は獄中にいた。地方官として、直接人民に接している連中は、中央の宦官に賄賂《わいろ》をおくり、それで出世しようとたくらんでいる屑《くず》ばかりである。搾取《さくしゆ》がはげしくなるのは自然の勢いであった。
人民たちは骨の髄《ずい》までしゃぶられ、生活苦は日ましにつのる。現世の苦しさを逃れるために、太平道などの庇護《ひご》に入るものが激増した。
──このままですむはずはない。
人びとは不安におののいている。
去年の二月は、全国的に疫病《えきびよう》が流行した。
夏は旱魃《かんばつ》で、五月は永楽太后の宮殿が火災にかかった。そういえば、一昨年も宮中で火事騒ぎがあり、その前にタマゴ大の雹《ひよう》が降った。
洛陽の女が『両頭四臂《りようとうしひ》』の子を生んだのが評判になったこともある。
──よくないことの前兆じゃ。
と易者は言った。
そもそも光和と改元した年に、地震がつづき、役所の雌鶏《めんどり》が雄鶏《おんどり》に変わった。奇怪なことである。その五月に、白衣の人が徳陽殿に入ったので、あとを追ったが消え失《う》せた。六月には黒い妖気が温徳殿の庭におち、七月には不気味な青い蛇が、玉堂後殿の庭にあらわれたという。……
ことしも夏は大旱魃だったのに、秋には黄河が金城の近くで氾濫《はんらん》し、五原山の岸が崩れるという不祥事《ふしようじ》がおこった。
中国ではこのような自然現象は、悪政にたいする天の批判であるとみなされる。
それなのに霊帝は遊び呆《ほう》けているのだ。
彼はガーデン・パーティーが大好きで、宮女に模擬《もぎ》店をつくらせ、自分は商人の服装で飲みまわった。
どうやら、彼は商人になりたかったようで、模擬店どころか、『売官店』を開業して、位階や官職を売りに出した。二千石の禄高の職は二千万銭、四百石の職は四百万銭というのが相場だが、買主の身分によっても値段は違った。身分の低い者が高い官職を買うには、相場以上の金を払わねばならなかった。霊帝は商売熱心で、この売官店は掛売《かけう》りを認めたといわれる。
狗《いぬ》に官吏のシンボルである冠をかぶせたり、綬《じゆ》を帯びさせたりして遊んだこともある。
──なんの珍しいことがあるものか。皇帝の側近たちは、みんな狗みたいなやつばかりではないか。冠をつけた狗なんか、うんざりするほど見ておるわ。
そんなふうに、吐きすてるように言う者がすくなくなかった。
陳潜はその後、鉅鹿《きよろく》の太平道本部に滞在した。五斗米道《ごとべいどう》側の連絡係としてである。
太平道における蹶気《けつき》準備は、着々と進んでいた。
張角は三十六の方《ほう》を組織した。方とは軍事的な単位で、大きい方は一万余り、小さな方で六千か七千の兵力をもっている。方の指揮者を渠帥《きよすい》と呼んだ。
陳潜は彼らの練兵を参観した。
「どうですか、これで官兵に勝てますか? ずいぶんおざなりな訓練だと思いますが」
大賢良師は客分の陳潜に、唐周《とうしゆう》という若者をつけた。この唐周が、声をひそめてそう訊くのである。どうやら彼は太平道のなかでも、懐疑分子に属しているらしい。
「なぁに、官兵の訓練だって知れていますよ。もっとひどいかも知れませんね」
陳潜はそう答えたが、心中、
(太平道はさまざまな異分子を抱え、その団結力には問題がある)
と判断した。
彼は自分の判断を暗号にして、少容のところへ送っていたのである。太平道本部の客となってから、彼の送ったこの種の報告は、ほとんどが否定的な内容のものだった。
客分であるから、本部の首脳部でのうごきは、わからないはずである。だが、それを唐周が教えてくれるのだ。
秘密保持という、革命の|いろ《ヽヽ》は《ヽ》さえ、ここでは守られていないようだった。
「大賢良師は、宮中の宦官《かんがん》を買収する作戦をたてましたが、そんなことをして役に立ちますかな?」
唐周はそんな第一級秘密を、こともなげに陳潜に語ってきかせる。
「皇帝は宦官からしか情報が入りません。太平道がことを起こしても、宦官が報告しなければ、軍隊の動員ができませんから、これはすばらしいですね」
と、陳潜は答えた。
「そうですか。……」唐周は不服そうに言った。──「ま、作戦はすばらしいかもしれませんが、起用される人間がいけませんや」
「誰が起用されたのですか?」
「あの馬元義《まげんぎ》ですよ。……」
そう言って、唐周はふン[#ンは小文字]と鼻を鳴らした。
(読めた。……)
陳潜は、にやりとしかかった表情を、咳払《せきばら》いをまぜてごまかした。
唐周に意中の女性がいたが、馬元義がそれを自分の妾《めかけ》にした、という噂があった。
どうやらその噂はほんとうであるらしい。
「馬元義なら悪くないと思いますがねぇ」
その人物をくわしく知らないが、陳潜はわざとそう言ってみた。
「なぁに、あれはうわべだけですよ。心のなかでなにを考えているか、わかったものじゃありませんね。どす黒いはらわた、べとべとした脳味噌《のうみそ》……」
唐周はそこで言葉に詰った。憎悪《ぞうお》にかきたてられているのだが、それを表現する言葉さえ、みつけることができない。並大抵《なみたいてい》の憎しみではない。
唐周と馬元義のような憎悪の線が、太平道という教義や組織をもってしても消すことができない。いや、彼らの組織は反対に、それらの線で分断されるかもしれない。
(ますますいけない)
陳潜は、もっときびしい文章で、五斗米道に警告しようと思った。
そのあとで、彼は唐周と一しょに、北方へ旅をした。幽州に用があったのだが、途中、|★[#さんずい+豕(豕の左側の下から二番目に点)]《たく》に立ち寄ったときのことである。
秋にしては、あたたかい日であった。
馬を休ませるあいだ、陳潜と唐周は近くの亭《あずまや》で横になろうと思った。だが、近づいてみると、どうやら先客がいるらしい。彼らはすでに横になっているとみえて、声はすれど姿は見えない。
二人はひき返しかけたが、申し合わせたように足をとめた。
亭のなかからきこえてくる会話に、二人とも興味をもったからである。
「まったくいい時勢に生まれ合わせたものじゃなぁ。……」
その元気のよい声を、はじめ陳潜も唐周も、反語的表現だとばかり思っていた。そうでないことが、つぎの言葉でわかったので、思わず立ちどまったのである。
「そうじゃとも、腕一本で出世ができる。天下太平の世の中じゃ、われわれ豪傑も腕のみせどころがないが。……うん、腕が鳴るぞ。天下大乱じゃと、腕が勇みたっとるわい」
「天下大いに乱れ、匹夫《ひつぷ》も王侯になれる。高祖とてそうじゃ。ふつうの世の中であれば、一介《いつかい》の無頼漢で終わったであろう。……世の乱れをきくと、わしはうれしゅうて、うれしゅうて……」
「しかし、徒手空拳《としゆくうけん》では、いかんともしがたい。はじめは、やはりいずれかの勢力の驥尾《きび》に付して、功名をあげ、しかるのちに雄飛すべきであろうのう」
「どこに身を寄せるか、これが大事なところじゃぞ。なににせよ、始めが大切よ」
「ここが思案のしどころ」
「朝廷方につくのが常識じゃが」
「天朝はもうすぐ滅びるわい」
「声が高いぞ」
「構うもんか。みんなわかっておることじゃ」
「そうじゃな。傾くほうにつくことはないわ。天朝、糞《くそ》くらえ!」
声が高いぞと注意した当人が、大声で朝廷を罵《ののし》っているのである。
「とすると、太平道か。……あの連中、軍事訓練に精を出しておるげな」
「押しかけて行って、一方の大将にでもなるか」
「それは甘い考えというものじゃ。聞けば太平道の三十六万、ことごとく渠帥が任じられておるそうな。いくらわれわれが豪傑でも、席がふさがっておるわ」
「それに、太平道の信者でなければ、良い地位につけんじゃろ」
「そうじゃろ。太平道はやめておこう。どうせ、あれじゃ天下は取れやせん」
「なぜじゃな?」
「おぬしが言うたではないか。信者でなければ起用せんちゅう、そんな狭い料簡《りようけん》で天下が取れるわけはなかろう」
「ちがいない。百人の人間がおれば、太平道の信者は五人か十人、あと九十人か九十五人は横をむく。だめじゃ」
「では、どうするかな?」
亭のなかで、声高にやりとりしていたのは二人だが、もう一人いることがわかった。新しい声が加わったのだ。
「太平道が旗をあげると、各地で義勇兵の募集があろう。それが好機ぞ。……太平道との戦《いく》さに、武勇を示した軍団が、つぎの天下争いに加わる。われらは冷静に考えてみよう。太平道の軍隊を、最もはげしく攻めうるのは何者か?」
「教えてもらいたいものじゃ」
「太平道も天下を望むからには、洛陽にむけて軍を進めるであろう。それをうしろから襲うことのできる者は……わかったかな、幽州の刺史《しし》」
新しく加わった声が、最もおちついていた。
刺史とは州の長官である。
漢代の行政区画で最も大きいのが『州』で、その下が『郡』である。県はまだその下にすぎない。州の長官が刺史、郡の長官が太守、県の長官が県令であった。
「幽州の刺史といえば劉焉《りゆうえん》。……これは人物であろうか?」
「かなりの人物ときく。……それよりも、地の利をえておるわ」おちついた声はつづいた。──「わしはいささか迷っておったのじゃ。洛陽に遊学したとき、わしはもとの議郎《ぎろう》(枢密《すうみつ》官)の蘆植《ろしよく》先生に師事した。これは剛直の人物じゃから、一旦《いつたん》緩急のときは、おそらく登用されるであろう。それについて功名をあげようと思ったが、よくよく考えてみれば、蘆植先生が討伐軍の司令に起用される保証はない。これからの時代、あるじと定めた人間に、死ぬまで仕《つか》えることはない。あるじは選ぶことができる。……そこで、まず地の利をえた幽州の刺史を選ぶことにした。ここの刺史なら、乱が起きたとき、まちがいなしに戦わねばならぬからのう。……」
「うーむ、なるほど……なるほど……」
威勢のよい声の片方は、感心して唸《うな》っていたが、もう一方はせっかちに、
「そのときは、われらも推薦《すいせん》してくれい」
「そりゃ、一人よりも三人のほうが力も強い。行動をともにしてもよい。さきほどからのやりとり、わしはおぬしらが気に入った。しかし、まだ名もきいておらぬぞ」
どうやら偶然ここで一しょになっただけの関係であるらしい。
「わしは張飛《ちようひ》、字《あざな》は翼徳《よくとく》」
せっかちな声がそう名乗ったかとおもうと、からだを起こした。身の丈《たけ》九尺(当時の尺は二十三センチだから、一・八メートルあまりである)の若者であった。
陳潜と唐周は木蔭にかくれた。
講談本の三国志は、このときの張飛を頷《あぎと》に虎のごとき|ひげ《ヽヽ》を生やし、と形容している。だが、張飛はまだハイティーンで、そんなにひげが生えそろっているはずはない。
「わしは関羽《かんう》、字は雲長」
つぎの男が立ちあがった。
年のころは二十すぎ、もうりっぱなひげがあった。
「名乗りが遅れたが」おちついた声の主が、最後に立ちあがった。──「劉備《りゆうび》と申す。字は玄徳。どうやら、わしが最年長のようじゃな。年は二十三。……」
世間知らずの若者たちの、無責任な放談であろう。寝ころんで、勝手なオダをあげていたのにちがいない。
それでも唐周は、彼らのやりとりをきいて、大きなショックを受けた。
太平道の造反計画は、どうやらひろく知られているらしい。しかも、それが成功しないであろうと、みんなが予想していることがわかったのである。
張角の軍事的動員能力についても、
──百人のうち、十人か五人の太平道信徒だけ。
というのは、残念ながら、真実であろう。
この北方旅行から鉅鹿に戻《もど》ったあと、唐周は目にみえてふさぎこむようになった。うわべからみると、その態度は、
──慎重になった。
とうけとられたかもしれない。
唐周は慎重になった。──この評価によって、彼は重大な任務を与えられた。
宦官買収の最後の詰めに行くことである。
太平道の教団が接触した宦官は、|封★[#言+胥]《ふうしよ》と徐奉《じよほう》である。新王朝をひらくにしても、宦官が必要なのだから、そのときは重く用いようと約束した。むろん、約束だけではなく、現ナマもたっぷりつかませている。
買収の目的は、いざ造反のさい、宮廷を麻痺《まひ》状態にさせて、討伐軍の動員をすこしでも遅らせることにあった。
それの具体的な打ち合わせに、唐周は派遣《はけん》されたのである。
年があけて光和七年早々のことであった。この年は十二月に改元して中平元年ということになったが、まさしく甲子の年にあたる。
張角たちは総|蹶起《けつき》の日を、甲子の年の甲子の日にきめていた。
それは三月五日なのだ。
造反の重点は|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》ときめられた。太平道は兵力をここに集中し、これを渠帥の馬元義が指揮する予定であった。
★[#業+おおざと(邦の右側)]は河北と河南の省境にあり、かつては春秋時代の斉《せい》の都であり、のちには魏《ぎ》王朝の首都にもなった要地である。
(なにかおかしい。……)
陳潜は唐周の態度に疑問をもった。ようすが変わった前後のことを知っている。あきらかに、必勝の信念を失ったのだ。
「太平道の張王朝が樹立されたら、造反軍総司令の馬元義さんは、さしずめ三公の筆頭、国家の元勲《げんくん》でしょうな」
陳潜は唐周にそう言ったことがある。むろん、反応を試すためだ。
唐周はそのとき、複雑な笑いを片頬にうかべた。
これまで馬元義のことが話題にのぼると、唐周は目にみえて興奮したものである。それなのに、こんどはそれがない。
「そうはうまく問屋がおろしますかな?」
と、唐周はしっかりした口調で答えた。なにか自信に裏づけされていなければ、馬元義の名をきいて、これほど冷静にはなれないはずである。
(いまにみろ。……)
彼の言葉のうらに、そんな響きをかんじて、陳潜はその晩、少容への密書をつくった。
──張角一党の挙兵は失敗する。わが教団は、一切《いつさい》彼らと関係をもつべきでない。
そんな断定をしたのである。
陳潜は、唐周がこんどの造反に、なにか妨害《ぼうがい》を企《たくら》んでいる、と確信したのだった。
そのとおりであった。
唐周は洛陽に出かけると、予定されていたあの二人の宦官に会わず、宮中に上書して、
──太平道に謀反《むほん》のくわだてあり。指揮者は馬元義。
と訴えた。
しかも、馬元義は首都占領後の段取りを、実地について研究するために、上京中だったのである。唐周が上書のなかで、馬元義の潜伏場所まで記したのはいうまでもない。
一月の終わりのことである。旧暦とはいっても、まだかなり寒い。
鉅鹿の太平道教団本部に、
「緊急の報告! 緊急、緊急!」
と連呼しながら、栗毛の馬の背にしがみつくように駆け込んだ者がいた。
馬元義が逮捕されたことを知らせるために、洛陽から早馬をのりついで来た信徒だった。
一刻を争う。
政府側も太平道一党を、すみやかに逮捕して誅殺《ちゆうさつ》せよという、緊急指令を各地に出したそうである。
三月五日を期して、一斉に起ちあがる予定であったが、こうなればいますぐ行動をおこさねばならない。三十六方の軍事組織は、幸いすでに八分通り出来あがっている。
「黄巾《こうきん》をつけよ!」
張角は全信徒に指令を発した。
敵味方を区別するために、太平道はその軍兵に黄色い布で頭を包ませることになっていた。かつて後漢初期の動乱期に、造反軍の一派が眉を赤く塗ってめじるしにしたことがある。人びとは彼らを赤眉軍、あるいは赤眉賊と呼んだ。
太平道の造反軍も、このめじるしによって、黄巾軍とか黄巾賊とか呼ばれるようになった。
「襲えや襲え!」
三十六方の渠帥たちは、声をかぎりに叫んだ。馬上で腕をぐるぐるまわしながら。
襲撃の目標は、いまさら教えることはなかった。各地の役所である。人民たちを直接|搾取《さくしゆ》している、悪徳役人のたむろしているところなのだ。そこを焼き払う。
「殺せや殺せ!」
州刺史、郡太守、県令。──役所の長官を、無条件で誅殺することは、かねてから指示していたのである。
大賢良師の張角は、自ら『天公将軍』と称した。張角には二人の弟がいたが、上の弟の宝《ほう》は『地公将軍』、下の弟の梁《りよう》は『人公将軍』と唱えた。
各地の信徒が、呼応《こおう》して起ちあがったのはいうまでもない。河北の平野から河南にかけて、官府は焼かれて、黒煙が天に冲《ちゆう》し、役人は殺されて、鮮血が床や壁に散った。
あわただしい蹄《ひづめ》の音が、東へ西へと駆けめぐる。どこかで喊声《かんせい》があがり、それが風にのって、ひとびとの狂気を一そう誘った。
「とうとうこうなってしまった。……」
陳潜はひとりごちた。
むしろ、ほっとした気持であった。
これまでは、天下大乱の予兆におびえ、悪夢《あくむ》にうなされたものである。それが現実となった。はっきりとこの目で見、この耳で聞くことのできるものとなった。手を伸ばせば、つかむことのできる世界に入ったのだ。
洛陽には二つのマーケットがあった。唐代の洛陽は南北両市だが、後漢の洛陽は東西の両市である。西市は東市よりも大きいので、ふだんは西市を大市と呼んでいた。当時はこの『市』以外では、交易《こうえき》が許されなかった。マーケットの機能のほかに、人が集まるので、芝居小屋がならび、盛り場の性格も帯びていたのである。
また、市は処刑場として使われた。処刑には、見せしめ、という要素がある。見せしめの効果を大きくするためには、できるだけおおぜいの人に見せなければならない。だから、人の集まる市が、それに使われたのだ。
唐周の上書によって逮捕された馬元義が、西市において処刑されたのは、二月の半ばであった。『車裂《しやれつ》の刑』が執行された。
これは、めったにおこなわれない、残忍な刑罰であった。だから、それを見ようとして、おおぜいの見物人が集まった。人間の心の深層には、このような残酷性をよろこぶ、魔性がひそんでいるようだ。
二台の車が用意された。それぞれの車は、二頭の馬に曳《ひ》かれている。馬元義は左右の手足を、二台の車の車輪に縛りつけられていた。
刑吏の合図によって、二台の車の御者は一斉に鞭《むち》をふるって、馬を走らせる。
人間のからだを、生きながら左右に引き裂いてしまうのである。天子にたいする謀反という、大逆罪にしか執行されない。
執行人も不慣れである。
噂によれば、御者のなりてがなくて困ったそうだ。誰しもこれは気味がわるいだろう。そこで、奉終里《ほうしゆうり》の人を臨時に雇《やと》ってきたのだという。奉終とは読んで字のごとく、人間の終末、すなわち葬式に関与することである。奉終里は葬式人夫たちの住む区域だった。それは西市の北にある。ついでながら、西市の南は調音里《ちようおんり》と楽律里《がくりつり》で、音楽師の居住区であった。
臨時雇いの御者は、観衆があまりにも多いので、コチコチになってしまった。期待に添《そ》わねばならない。左右の馬車のスタートが、ちぐはぐになっては、うまく人間のからだを裂くことができない。
右の馬車の御者が先輩であるらしい。鞭を頭の真上にあげて、
「ほーい、まだまだ!」
と、三度ばかりやり直しをしたあと、
「ええーいっ!」
と、奇声をあげて、馬に鞭をくれた。
三度のやり直しで、左の御者も呼吸をおぼえたようで、こちらも、
「ええーいっ!」
と応じると、ほとんど同時に鞭をふりおろした。
馬車は左右に、弾《はじ》けるようにとび出した。
観衆の大半が、その瞬間、目をとじた。
二つの車輪のあいだに縛られていた、一個の肉体は、あっけなくひき裂かれた。──血しぶきは、それほど噴きあがらず、流れ出た血も、たちまち西市の黄色い土に吸いこまれてしまった。
人びとは息をのんだ。
数万の観衆が集まっていたといわれるが、その人たちの精神に、この瞬間、空洞ができたであろう。
そのとき。──
群衆のそのような精神の空洞を、見すかしていたように歌声がわきおこった。──
蒼天はすでに死せり
黄天まさに立つべし
歳は甲子 天下大吉
人びとが我に返ったとき、歌声はすでに終わっていた。
数百人の合唱だと言う者もいたし、数千人の大合唱だったと言う者もいた。また数人の声にすぎなかった、と主張する人もいた。
役人がそのあたりを、ちょろちょろと走りまわったが、歌声がどの方向からきこえたか、誰も正確に言えなかった。或る人は、天からきこえてきたようだ、と真面目《まじめ》な顔で言った。
群衆は散った。
このようなところに、長居は無用と思ったのであろう。
「歌ったのは、あなたじゃなかったね?」
うしろから、聞きおぼえのある声がしたので、唐周は思わずふりかえった。
「あ、あなたか……」
唐周は、そこに陳潜の姿をみとめた。
「むごいことになりましたな」
と、陳潜は言った。
唐周は真っ蒼《さお》な顔になり、唇をふるわせ、
「し、しらぬ!」
と言ったかとおもうと、一目散《いちもくさん》に駆けだした。
陳潜は追うつもりはなかった。
彼は刑場におこった歌声のことを考えた。彼は百人あまりの合唱にきこえたのだが、これまで耳にしたこともないほど冴《さ》えた声のようにおもった。それは冴《さ》えた|たま《ヽヽ》しい《ヽヽ》から出たものでなければならない。
あの歌は疑いもなく、太平道の人たちのものである。だが、陳潜は鉅鹿の太平道本部に半年以上もいて、冴えた|たま《ヽヽ》しい《ヽヽ》には、一つも出会わなかった。──大賢良師張角のそれを含めてである。
だが、いまそれに出会ったのだ。
鉅鹿の本部は濁り切っているが、どこかに冴えたのがあった。本部が望んだのではないにしても、それは田園に、山林に育っていたのである。
心強いことだ。──
陳潜はそう思った。もしこの刑場に来なければ、虚無的な心を抱いて、巴に帰ることになったであろう。
むざんな馬元義の死体よりも、もっと強いものが、彼の心に深く刻み込まれた。
「あれが|むほ《ヽヽ》ん《ヽ》人の末路じゃわ」
陳潜はそばを歩いている人が、肩をならべている仲間に、そう言うのをきいた。
「おそろしいのう。……」
と、仲間は声をふるわせて答えた。
「これで、もう|むほ《ヽヽ》ん《ヽ》人も出ないじゃろ」
「そうかな。……」
「そうと思うぜ。だって、あんな死にざまはしたくねぇものな、誰だって……」
陳潜は立ちどまって、その二人をやりすごした。彼らの会話にも、冴えたものがあるのをかんじて、彼はふしぎな感動をおぼえた。
考えようによれば、まことに平凡な、愚民の声である。──そのなかにさえ、人の心を照らすなにものかがあった。
(ひょっとすると、これが話にきいた浮屠の教えではあるまいか。……)
陳潜はなぜかそんな気がした。
三月、何進《かしん》が大将軍となり、黄巾軍討伐の指揮をとることになった。
この男は、もと肉屋であったが、妹が皇后になったおかげで、取り立ててもらったのである。
さすがの霊帝も、ことの重大さに気づき、群臣をあつめて対策を講じることにした。
北地の大守|皇甫嵩《こうほすう》は、
──党錮《とうこ》の禁を解き、中蔵《ちゆうぞう》の銭を出し、西園の厩舎《きゆうしや》の馬を軍用にあてていただきたい。
と進言した。投獄されている清流人士の自由を回復し、皇帝が貯《た》め込んでいる中蔵の銭を出し、また皇帝の趣味で養っている牧場の馬を、軍馬に転用せよというのだ。
こんな進言も、皇帝は自分で裁決できない。そばにいた中常侍《ちゆうじようじ》(宦官)の呂強《りよきよう》に、
──嵩の意見をどう思う?
とたずねた。
──そのとおりになさいませ。その前に、陛下側近の汚職官吏を誅殺すべきでありましょう。
と、呂強は答えた。宦官でも、このように高潔の士はいたのである。
気骨のある人士は獄中にしかいないのだから、彼らを釈放して登用するほかはない。その前に、汚職官吏──おもに宦官を粛清《しゆくせい》せよという主張である。これによって、多くの清流が自由を回復した。同時に、粛清をおそれた宦官が、つぎつぎに休職願いを出すことになった。
呂強はこのため、宦官に怨《うら》まれ、讒言《ざんげん》されて喚問を受けることになり、
──われ死ねば、乱が起きるであろう。男子たるもの、国家に忠を尽すことだけを考えておった。獄吏に用はない!
と、自殺した。
これは、すこしのちの話である。
黄巾軍は鉅鹿、広宗など、洛陽の北方だけでなく、南方の潁川《えいせん》でも兵を挙げた。
朝廷は盧植を北中郎将に任命して、北のかた張角を討たせ、皇甫嵩を左中郎将に朱儁《しゆしゆん》を右中郎将にして、南のかた潁川の黄巾軍を討たせることにした。
(これで西のかた、巴蜀で五斗米道が旗をあげたとすれば?)
陳潜はそう考えた。
太平道の張角は、むろんそれを望んでいた。だから、陳潜といれちがいになったが、五斗米道に使者を出したのである。
──呼応するな。
と陳潜が報告しているので、五斗米道の挙兵はないであろう。
だが、それなら陳潜は、黄巾軍のなかに長居はできない。
──なぜ五斗米道は挙兵せぬのか?
と、せめられるからである。
彼は黄巾軍を抜け出して、洛陽から南へむかった。四川へ帰るのに、こんどは水路を利用しようと思ったのだ。
洛陽を南下すると、潁川の戦場に近い。
潁川の黄巾軍は、張角の弟『地公将軍』張宝と『人公将軍』張梁が指揮しているといわれ、なかなか頑強であった。
戦場近辺の詮議《せんぎ》はきびしい。
陳潜は四川から易《えき》の勉強に、洛陽へ来た学生であるということにした。なんどか官軍の訊問を受けたが、疑われずに通ることができた。彼の四川|訛《なまり》がものを言ったのであろう。黄巾軍といえば、幽州訛または邯鄲訛だと思い込まれていたのだから。
嵩山《すうざん》の麓《ふもと》で不審訊問にひっかかったときは、司令部まで連行された。
司令部では、精悍《せいかん》な面構えの司令官が、熊皮の敷物のうえにあぐらをかき、らんらんと光る眼で陳潜を見据えた。
「易を学んでいるとな?」
沈んだ声である。ただし、乾いている。
「はい」
と、陳潜は頭を下げた。
「蹇《けん》の利は?」
と、司令官は訊いた。
「西南」
陳潜はすかさず答えたが、易をすこしかじってよかったと安堵《あんど》した。『蹇』の卦《か》の卦辞《かじ》は、『西南に利あり、東北に利あらず』である。易を学びに来たと言っても、この口頭試問にパスしなければ、化けの皮が剥《は》がれる。
(それにしても、この司令官は大へんな学識のもち主であるらしい)
と、陳潜は舌をまいた。
「相《そう》を見るか?」
「あまり自信はございません」
「ほかになにか?」
「筆相ならいささか……」
三官手書をかかせ、その筆の配《くば》りから、相手の性格を察する術は、始祖から教わったことがある。
「では、わたしの筆相を占ってみい」
司令官は従者に筆や紙の用意をさせ、たっぷり墨を含んだ筆をとりあげて、一気|呵成《かせい》に自分の官職姓名をしたためた。──
騎都尉《きとい》 曹操《そうそう》 字《あざな》 孟徳《もうとく》
みごとな筆跡であった。
騎都尉は近衛《このえ》騎兵師団長に相当し、二千石の官であるから、ほとんど中郎将にひとしい。
「どうじゃな?」
陳潜がしばらく黙っていたので、曹操は返事を促《うなが》した。
「あまりにもおみごとな筆跡ゆえ、筆相を占うのも忘れて、見惚《みと》れておりました」
これはかならずしもお世辞ではなかった。
「悪いのであろうが?」
相変わらず乾いた声で訊く。
「いえ……これは剛毅《ごうき》にして果敢……」
陳潜はその筆跡に破格の相があるのに気づいて、おそれをなした。彼はまだ筆相を見るのに未熟であるが、どうも凶相《きようそう》が出ているような気がしてならない。だが、これは正直には言えない。
「飾るな」
曹操は、はじめて笑顔をみせた。
「私め、まだ筆相の極意《ごくい》を会得《えとく》しておりませぬので」
と、陳潜は面を伏せた。
「では、教えてつかわそう」曹操はあぐらをかいた脚を、こんどは前にのばした。──「これは治世の能臣、乱世の姦雄《かんゆう》という相じゃ。……汝南《じよなん》の許子将《きよししよう》どのがそう言ったのであるから、まちがいない」
曹操は胸を張った。だが、その目はじっと陳潜にそそがれている。
許子将の本名は劭《しよう》、当時における最も評判高かった人物評論家である。毎月の一日に、人物評をおこない、人びとはそれに注目した。マスコミのなかった時代に、彼の人物評は大きな権威をもった。世人はそれを汝南(許子将の住居)の月旦《げつたん》(月の一日)評ともてはやしたものだ。品定めのことを『月旦』というのは、これに由来する。
それにしても、天下太平のときは有能な官吏、世が乱れたときは姦雄とは、褒《ほ》めているのかけなしているのか、わからない。だが、曹操はこの月旦に、よほど我が意を得たらしい。自慢にしているようである。
「どうやら乱世となった模様であるな。さすれば、わしはさしずめ姦雄であろう」
曹操は肩をそびやかした。だが、視線は依然としてはずさない。
無類の子供っぽさ。しかも、その裏に慎重な熟慮をひめている。
(書もそうだ。奔放《ほんぽう》な筆づかいにみえて、一点一画の計算をしている。……)
陳潜はこの曹操という将軍の名は、記憶にとどめておく価値があるとおもった。──
この年、曹操は二十九歳であった。
三国志最大の政権『魏《ぎ》』の統領となる人物である。後漢の献帝《けんてい》を廃して、自ら帝位についた曹丕《そうひ》は彼の息子だが、このときはまだ生まれていない。
南方の政権『呉』の総帥となった孫堅は、曹操より一つ年下の二十八歳で、このとき、黄巾軍討伐の一将として、江蘇北部の|下★[#丕+おおざと(邦の右側)]《かひ》あたりに兵を進めていた。息子の策《さく》は九歳、権は僅《わず》か二歳である。
劉備、関羽など、のちに西方『蜀漢』政権をたてたグループが、有力なスポンサーをもとめて、夜泣きする腕をさすっていたことはすでに述べた。
こうして、三国志前期に登場する英雄たちは、曹操の二十九歳を筆頭として、黄巾の乱のときはほとんどが二十代であった。
三国志後期の英雄たちは?
諸葛[#葛のヒは人]孔明《しよかつこうめい》はこの年三歳。最後に彼と五丈原で対峙《たいじ》した魏の司馬仲達は五歳であった。呉の英雄で美男のほまれの高い周瑜《しゆうゆ》は九歳。後漢最後の皇帝となる運命にあった献帝《けんてい》は、諸葛[#葛のヒは人]孔明と同年の三歳で、洛陽の宮殿で宮女や宦官たちにかしずかれていた。
長江の岸に達するまで、こんなふうに戦場を縫うようにして行くので、ずいぶん日数がかかった。また長江から巴へは遡航《そこう》なので、これまたのろのろしている。
陳潜はみちみち、いろんな情報をきいた。あとで照らし合わせて、意外にそれは正確であった。
汝南《じよなん》の黄巾が郡太守の趙謙《ちようけん》を破った。
潁川の黄巾の渠帥|波才《はさい》が、朱儁の軍を破り、皇甫嵩が長社《ちようしや》県に進軍した。しかし、その軍も波才の軍に包囲された。
南陽の黄巾の渠帥|張曼成《ちようまんせい》が、郡太守の|★[#ころもへん(初の左側)+者]貢《ちよこう》を攻めて殺した。……
(潁川の近くまで来ている曹操が、なぜ包囲された朱・皇甫の連合軍を救いに行かないのであろうか?)
陳潜ははじめ不審におもったが、曹操の顔を思い出すと、納得《なつとく》できるような気がした。
曹操は最も舞台効果のある時をえらんで、颯爽《さつそう》と登場したいのであろう。
その子供っぽさの面からも、その計算高さの面からも。──
陳潜が巴に着いたのは、七月も末のころであった。
五斗米道の教団本部に帰って、彼は意外なことをしらされた。
教団の主宰者代行である張脩《ちようしゆう》が、東の黄巾軍と呼応して、造反に起ちあがったという。
「あれほど念を押しておきましたのに」
陳潜は少容にむかって、生まれてはじめて、はげしい不満を面にあらわして言った。
「張脩が個人でやったことです」
少容はちょっと当惑したような表情で、しかしさりげなく答えた。
「それでは世間で通りません。彼が五斗米道の代表者であることは、誰もが知っておりますから」
「魯もすでに二十になりました。教団の正式の主宰者となったことを、この六月に一般に通知しております」
「えっ……」
陳潜はそのことを聞いていなかった。六月といえば、彼は長江の沿岸で、舟待ちをしているころだった。
「教団を主宰できなくなったので、それが不服で衆を率いて事を起こした。……世間ではそう見るのではないでしょうか?」
少容は諭《さと》すような口調で言った。
陳潜は頭を下げた。
(かなわないなぁ、このひとには)
と思ったのである。
主宰者代行であった張脩は、四十に近い男であるが、少容の言うことなら、なんでもきく。少容を崇拝してやまない。彼女の忠実な下僕であることを誇りとしている。その点、陳潜のライバルといってよい人物だった。
そんな張脩が、少容の息子が教団を相続したからといって、とび出すはずはない。とび出して造反をしているのは、少容に言われたからにちがいない。
少容は、東から陳潜が送ってくる密書によって、太平道の造反が失敗する公算が大きいことを知らされている。だが、彼女から見れば、陳潜はまだ若い。ほんとうに全般に目が届いているのかどうか、心もとない気がする。
太平道からも、呼応を依頼する密使が来ていた。
もし太平道の天下となったらどうするか? その用意をしておかねばならない。
彼女は張脩に因果を含《ふく》めて、張魯を五斗米道の教主に立て、彼に出奔《しゆつぽん》造反をすすめたのであろう。──いや、命じたと考えてまちがいない。
後漢末期にあらわれた、道教系の二つの教団のうち、太平道は黄巾挙兵によって潰滅《かいめつ》することになった。
五斗米道は生き残って、仏教が興隆するまでのあいだ、苦悩する中国人民の魂のよりどころとなった。
少容は五斗米道教団の前途ばかりでなく、道教の将来まで考えて、布石したのかもしれない。──いや、動揺する哀れな人間のたましいのことを、おもんぱかったのかもしれない。
作者|曰《いわ》く。──
中国の史書に登場する女性は、何某の娘、何某の妻と記されるだけで、名前の不明なケースが多い。
五斗米道の張衡の妻についても、『張魯の母』とあるだけで、名をのせていない。ここに『少容』としたのは、作者がつけた名である。
三国志の『蜀書』に、彼女のことを、
──又《ま》た少容有り。
と述べているところから、それを名前に採った。
少容とは、『若い容貌』のことである。年のわりに、若くみえたのだ。
『後漢書』には、
──沛人《はいひと》張魯、母は姿色あり。
とある。よほど容姿がうつくしかったのであろう。
少容という語については、
──仙術の若返り法を使う者。
の意であると論じる人もいる。曹操の子の曹植の文章にも、この少容を『返老還童《へんろうかんどう》』──若返り、の意に用いている例があるそうだ。
三国志は異能、奇才の人物によって彩《いろど》られているが、張魯の母をそのなかに入れないのは、これまでの物語作家の不明というべきではなかろうか。
[#改ページ]
月氏《げつし》の美女《びじよ》
陳潜《ちんせん》は白馬寺の境内にはいり、九層の塔をふり仰いで、
(まるで異国に来たような。……)
と、おもった。
このころ、仏教はまだ漢民族のなかに、浸透していなかった。みやこ洛陽《らくよう》にあるこの唯一の仏教寺院も、けっして布教伝道の拠点という性格をもっていない。洛陽に在住する月氏《げつし》国の居留民のための信仰の場にとどまっていた。
月氏族はもと甘粛西部にいたが、匈奴《きようど》に追われて、現在のアフガニスタンに移った。天竺《てんじく》(インド)に近いせいもあって、住民はほとんど仏教信者となっている。彼らは中国のみやこに来ても、信仰をもちつづけた。
白馬寺は後漢二代皇帝の明帝が建立《こんりゆう》したというから、その歴史はすでに百年を越えている。漢人信者がいなかったわけではないが、その数はきわめてすくない。寺内にはいって出会うのは、だからたいてい月氏族の人たちであった。
月氏族については定説はないが、呉の孫権に仕えた月氏族の僧|支謙《しけん》は瞳が黄色かったというから、イラン系であったかもしれない。すくなくとも、漢民族とは容貌が異なる。
九層の塔をはじめ、伽藍《がらん》はことごとく異国ふうであった。
あらためて、あたりを見まわして、
(あのとき、なぜ気づかなかったのだろうか?)
と、陳潜はふしぎでならない。
あのときとは、三年前のことである。
唐周《とうしゆう》の密告によって、太平道の大幹部馬元義が車裂《しやれつ》の刑を受けた西市は、白馬寺のすぐ近くにある。陳潜は処刑を見に行った。それなのに、この白馬寺の異様な伽藍群が、まるで印象にのこっていないのだ。
(そうか。……少容《しようよう》さまがおっしゃられたのはこのことだな)
陳潜はやっと脈絡がついたようにかんじた。
彼は巴《は》(重慶)に総本山のある五斗米道《ごとべいどう》という道教の教祖の家に拾われて育った。当主は彼より一つ下の二十三歳になる張魯《ちようろ》である。まだ若すぎるので、じっさいには母親の少容が後見している。
少容はもうすぐ四十になるというのに、二十そこそこにしかみえないという、ふしぎな婦人であった。
若くみえるだけではなく、えもいわれぬ美貌なのだ。ろうたけたというか、人の心をなごませる、澄んだ美しさである。
陳潜は彼女に育てられた。母親にひとしいのだが、彼は彼女の美しさに、男として迷う自分に気づいては、そのたびに悩むのだった。悩みは積みかさなり、それを抑えるのがかなり苦しい精神作業になっていた。
──あなたには、また東へ行ってもらいます。二年か三年は覚悟してくださいね。
少容に呼ばれてそう言われたときは、ほっとした気持のほうが強かった。
後漢末は仏教以前の時代といってよい。だから、道教は中国人民の揺らぐ心をなだめる、ただひとつの宗教だったのである。ところが道教の最大の教団である太平道が、黄巾《こうきん》の乱によって潰滅《かいめつ》してしまった。
──五斗米道の責任はますます重くなりました。あたしたちの最大の任務は、なにはともあれ生き残ることです。生き残る方法を考えましょう。そのためには、天下の情勢を知らねばなりません。
少容は陳潜を東のかた、政治と文化の中心へ送るについて、その目的を右のように説明した。
──あたしたちは、自分の身のまわりしか見えないのです。ことになにかの渦《うず》のなかにあるようなときは、ほんとに目の前の狭い範囲しか見えません。足もとに蛇がとぐろを巻いているのは見えます。だから、うしろへ逃げようとするのですが、うしろに虎がいるのが見えません。もし見えたら、うしろではなく、横へ逃げて生きのびることができるでしょう。……あなたには、どこに蛇や虎がいて、どの道を通れば無事に逃げることができるか、それを調べてほしいのです。
少容はそれ以上の説明をしなかった。陳潜も彼女の話でじゅうぶんだった。
──洛陽に着けば、この紹介状をもって白馬寺に支英《しえい》さんを訪ねなさい。
具体的な指示もこれだけで、その紹介状は封をしていないが、陳潜には読めなかった。横書きの天竺文字だったからである。少容が天竺文字を書けることも、陳潜はそのときはじめて知った。
その紹介状を懐《ふところ》にして、いま白馬寺を訪問しているのだ。
境内の石畳の道が十字に交叉《こうさ》しているところで、案内の少年僧が、
「こちらです。どうぞ」
と、左がわの道を指さした。その言葉には独特の訛《なまり》があった。やはり異国の情緒である。それもかなり強烈な。
三年前、この白馬寺のそばを通りながら、これほど強い異国ムードに気づかなかったのは、馬元義の処刑という、陳潜自身にとっても『渦』というべき事件のなかにいたからであろう。たしかにそれは、少容の言うとおりなのだ。
少容の面影が、陳潜の脳裡にうかんだ。彼は目をおとした。石畳のすぐそばまで、塔の影がのびていた。その影のさきが尖《とが》っているので、彼は一瞬、身の縮むおもいがした。塔の上部は細くなっているのだから、影がそうなるのはとうぜんである。しかし、彼は脳裡にうかべたものに、黒い刃をつきつけられたようにかんじた。
前を歩く少年僧は、素足に木屐《げた》をはいていた。足をはこぶたびに、それが石畳をカタカタと鳴らす。その音に気づいて、陳潜は救われた。白馬寺に支英を訪ねるところだという現実を、木屐の音が彼に告げているようであった。
白馬寺の遺跡は、現在ものこっている。
『洛陽伽藍記《らくようがらんき》』によれば、白馬寺は西陽門外三里の御道《ぎよどう》の南にあったという。西陽門は魏晋《ぎしん》時代の名称で、その前の後漢のときは雍《よう》門と呼ばれていた。洛陽城外の西にあったわけだが、現在は洛陽市外の東北にその遺跡がある。白馬寺跡が移転などしない。洛陽のまちが引っ越したのだ。隋《ずい》の煬帝《ようだい》が十キロほど西南に、新しいみやこをつくったが、現在の洛陽市はその一部である。つまり新旧の洛陽は、白馬寺をとび越えて、営まれたことになる。
後漢明帝は、ある晩、黄金色の神人が項《うなじ》のうしろから日月の光を発しながら、空から舞い降りた夢をみたという。身長一丈六尺というから、かなりはっきりした夢である。
翌日、夢占いをさせたところ、それは西方の胡神《こしん》であろうというので、使者を派遣して、胡神の法、すなわち仏法をもとめさせた。使者にえらばれた|蔡★[#りっしんべん(惜の左側)+音]《さいいん》は、仏経四十二章と釈迦《しやか》立像を白馬の背にのせ、摂摩騰《しようまとう》、竺法蘭《じゆくほうらん》という二人の天竺僧を伴って洛陽に帰った。そこで明帝は白馬寺を建立したが、ときに永平十年(六七)と伝えられている。
これが仏教の中国に伝来した最初であるといわれているが、仏教徒の西域人がその前から中国に往来しているので、非公式の伝来はもっと早かったはずである。
ともあれ、公式初伝から百二十年を経過したこの霊帝の中平年間でさえも、仏教は月氏国などから来た西域人にしか信仰されていなかった。漢民族のあいだに仏教が流布《るふ》されたのは、このあとにつづく後漢末、三国の動乱によってである。乱世の民が最も熱心に信仰にすがろうとするのだ。
陳潜は石畳を一歩また一歩、踏みしめるようにして歩いた。彼は木屐ではなく、韋《い》(なめしがわ)の履《くつ》をはいているので、あまり音がしない。
彼は道教教団の幹部メンバーである。仏教寺院の境内を歩いているが、この現在が中国の仏教全盛の直前の時代であることなど、思いも及ばなかったのはいうまでもない。
「ここでございます」
少年僧は西域訛で言って一礼した。
鉛色の煉瓦《れんが》でつくられた、小さな低い建物の前である。
白馬寺は天竺の寺院構造のとおりだといわれていた。大小の卒塔婆《そとば》が立ちならび、宿泊のための僧院が、ばらまかれたように雑然と建って、全体としての統一がないのが特色である。おや、と思うようなところに祠堂《しどう》や僧院があった。
いま案内された庵《いおり》のような建物も、そばに巨木があって、それにかくれて目立たない。
「はいってもいいのですか?」
と、陳潜はきいた。
「どうぞ。私はこれにて失礼します」
少年僧はそう言うと、さっさと引き返した。
楡《にれ》の扉をおすと、音もなくひらいた。白馬の背にのせられたお経は、楡の箱におさめられていたという言い伝えがあるので、この白馬寺では楡がよく使われる。
「ようこそ。お待ちしておりました」
陳潜がなかをのぞき込む前に、声がかかった。それは女の声であった。少年僧ほどひどくはないが、かすかに西域訛があり、それが不思議に艶《つや》っぽい響きをもっていた。
「あ……」
と言ったあと、陳潜は声を呑《の》んだ。
部屋の中央に、長方形の卓があり、そのむこうに、若い女性が立っていた。女性がいることは声でわかったが、陳潜に声を呑ませたのは、そのたぐい稀《まれ》な美しさであった。
やはり西域の女にちがいない。目はややくぼんでいるが、ぱっちりして、瞳は青かった。服装は漢族のものだし、頭も当時流行の堕馬髻《だばきつ》である。堕馬髻とは、落馬するときのように、髷《まげ》が傾いているヘアスタイルのことだ。現代でも顔の半分がかくれるような髪をみかけるが、千八百年前にもそのようなアンバランスな髪型がよろこばれた。
頭上で歪《ゆが》んだ髪を、甲斐《かい》がいしく下で支えているようなかんじの顔は、きりりとして、つぶらな目がよく釣合っていた。肌はすきとおるように白い。
(これなら……)
と思いかけて、陳潜は目をしばたたいた。彼はいま目の前の若い女性を、少容とくらべようとしていたのである。これまで彼は、少容をほかの女とくらべてみたことはない。そんなことは、崇拝してやまない少容にたいする、大きな冒涜《ぼうとく》としか思えなかった。
彼にしてみれば、少容は女として考えてはならない対象であった。それなのに、少容の存在は、陳潜の心からほかのすべての女を消してきた。
だが、消されない女がここにいた。
(うれしい。……)
陳潜は反射的にそうかんじた。
この西域の娘は、彼にとっては生まれてはじめて出会う『女』なのだ。生涯、『女』にめぐり会うことはあるまいと、半ばあきらめかけていたのだから、この邂逅《かいこう》はうれしいとしか言いようがない。
(だが。……)
つぎに陳潜を襲ったのは、恐怖感であった。
『女』があらわれたからには、少容は彼の心から去って行くのではあるまいか? 胸のなかに少容の宿っていない生活を、彼は想像することさえできなかった。
「わたくしは景妹《けいめい》と申します。支英さまにお取次ぎいたしますゆえ、こちらの椅子《いす》にお坐りになってお待ちください」
西域の娘はそう言うと、花弁の模様のはいった裙《くん》(スカート)をひるがえして、つぎの間に退《しりぞ》いた。
しばらくして、眼光のするどい三十前後の男がはいってきた。まぎれもない西域人だが、言葉には訛はまるでなかった。
「私が支英です。衡嫂《こうそう》婦人(少容のこと)の手紙を拝見いたしました。私でお役に立つことなら、どんなことでもよろこんで。……」
短いけれど、語尾のはっきりした、さわやかな口調である。ここまで聴《き》いただけで、相手がなみなみならぬ弁舌の才能の持主であることがわかった。
「巴蜀の地にこもっておりました、なにもわからない田舎者でございます。当面の天下の形勢なりと、御教示|賜《たま》われば幸せです」
と、陳潜は頭を下げた。
「そうですか。……天下の形勢と申しましても、ここ両三年のことでございますな」
と、支英は言った。
陳潜が三年前に中原《ちゆうげん》に滞在し、黄巾挙兵初期の状況を知っていることは、少容の紹介状のなかに述べられていたのかもしれない。
報道機関が皆無であった時代では、正しい情報を得ること自体が至難なわざであった。
「さようでございます」
「なぜ私のような月氏国の人間に、天下の形勢をおたずねなさるのかね?」
「それは……」陳潜は口ごもった。ここで少容の命令で、と答えるのは、いかにも子供の使いめいている。彼は自分が忖度《そんたく》した少容の意図を口にすることにした。──「渦のなかにいないあなた方こそ、全局がよく見え、正しい判断ができると存じまして」
「私たちが渦中の人でないという見方については、いささか異論はございますが、せっかく遠路はるばるおいでになったのですから、両三年の概況をご説明申し上げましょう」
支英はここでしばらく言葉を切った。
両三年といっても、さまざまな出来事があった。事件は多すぎる。かなり整理しなければならない。洛陽在留の月氏族のリーダーといわれる支英も、すぐには説明をはじめることができなかった。
しかし、再び口をひらくと、支英はよどみなく話した。それも簡潔で要領を得ていた。この人物の頭脳がいかにすぐれているか、回転がいかに速いか、その一端がわかって、陳潜は内心舌をまいたのである。──
「中国は天下太平からは程遠い状態と言わねばなりません」
支英はまず結論を述べた。
三年まえの中平元年(一八四)二月に、太平道の張角が黄巾軍を率いて旗をあげたが、その主力はその年のうちにはやくも滅びてしまった。
挙兵当初は破竹の勢いであった。
だが、黄巾の部将|波才《はさい》が、皇甫嵩《こうほすう》の軍団を長社《ちようしや》というところで包囲しながら、火攻めによって突破された五月ごろから、形勢は逆転しはじめた。火攻めによって黄巾軍の将兵が浮き足立ったところに、たまたま曹操の部隊が駆けつけ、徹底的に叩《たた》いたのである。
波才の指揮した黄巾軍は、とつぜんの火攻めに、いったん浮き足立ったとはいえ、態勢を立て直せば、兵数も圧倒的に多いのだから、皇甫嵩の軍団を再びしめつけ、潰滅させることも可能であった。ところが、立て直しの遑《いとま》を与えなかったのが、曹操軍の出現である。曹操はまさに、決定的瞬間に、舞台におどり出たといえる。
「世間では、曹操軍がたまたま、近くを通りかかったと言っておりますが、私の見るところでは、彼は自分を際立たせる機会を狙《ねら》い、時期と場所を計算していたのだとおもいます」
と、支英は言った。
これは曹操に会ったことのある陳潜の推測と、ぴったりと合う見方であった。
「そうです、そうです」
と、陳潜は相槌《あいづち》をうった。
南陽太守の★[#ころもへん(初の左側)+者]貢を攻め殺した黄巾軍の張曼成《ちようまんせい》も、六月には新任太守の秦頡《しんきつ》に破れて斬《き》られた。
八月には、皇甫嵩が蒼亭《そうてい》(現在の河北・河南・山東の三省の境界にある范県《はんけん》)で、黄巾の勇将|卜巳《ぼくし》を捕虜にした。
皇甫嵩は勢いに乗じて、黄巾の本陣のある広宗《こうそう》を攻めた。広宗は太平道総本山のあった鉅鹿《きよろく》のすこし南の県で、現在も同じ地名のままである。
じつは黄巾の本営を、総本山の鉅鹿から広宗へ追い出したのは、北中郎将の盧植《ろしよく》であった。盧植は広宗を囲み、塹壕《ざんごう》を掘り、攻城用の雲梯《うんてい》(なわばしご)をたくさん作り、万全の攻撃態勢を整えようとしていた。
ところが、そこへ軍事査察員の左豊《さほう》という人物がやってきた。霊帝はそんな役目に、宦官《かんがん》を使っていたのである。
宦官は肉体的な欠陥人間であるが、それが性格にも影響して、ねじけた人間になることが多い。とくに後漢の宦官は、金銭に貪婪《どんらん》な人物がすくなくなかった。それには理由がある。いったい宦官は去勢されているのだから、子供を生むことができない。しかし、後漢では彼らに養子をとることを許した。養子をもらえば、彼らも『家』をつくり、子々孫々に遺《のこ》すべきもののことを考える。性生活の快楽が欠落しているだけに、蓄財のたのしみは一そう大きい。
査察員の左豊は、人をつかって盧植に賄賂《わいろ》を要求した。
──魚心あれば水心。賄賂があれば、陛下にうまく報告してやる。
というのである。
盧植は断乎として拒否した。
左豊は宮廷に帰ると、
──広宗の賊は容易に破れるのに、盧植は臆病《おくびよう》で、ただひたすら陣を固め、賊に天誅《てんちゆう》が下るのを、のうのうと待っております。
と、報告した。
暗愚な霊帝は、左豊の言を信じて烈火のごとく怒り、罪は死にあたるが、死一等減じて盧植を京師《けいし》に檻送《かんそう》させることにした。檻《おり》の車に乗せて送り返されるなど、武人にとっては不名誉このうえもない。
盧植の後任には、東中郎将の董卓《とうたく》が派遣されたが、彼は広宗を攻めあぐね、八月には早くも解任されて軍法会議にまわされた。
三国志初期の大怪物董卓も、このように、じつに不細工《ぶさいく》な登場をしたのである。
けっきょく、その後任には皇甫嵩が起用された。そのころ、広宗では太平道の教祖で、天公将軍と自称した張角が病死した。一説には戦死ともいう。下の弟の人公将軍張梁が代わって指揮をとっていた。
広宗の陥落は十月であった。
政府側の発表では。──
首を獲《う》ること三万級、河に追い込まれて死ぬ者七万余人。
という大戦果である。
張角の上の弟地公将軍張宝が、下曲陽《かきよくよう》というところで皇甫嵩に斬られたのは、翌十一月のことだった。このときの戦果は、
──斬獲《ざんかく》すること十余万人。
であった。
張角の墓をあばき、棺を剖《さ》いて屍体に刑を加え、首級を京師に送ったのはいうまでもない。
だが、これで黄巾の乱が片づいたわけではない。残党は各地でゲリラ戦を展開して、政府軍を悩ませつづけた。黄巾系統以外の造反グループも活溌《かつぱつ》にうごいている。博陵の張牛角、常山の|★[#ころもへん(初の左側)+者]飛燕《ちよひえん》、黄龍、張白騎、劉石たち、あるいは姓名|不詳《ふしよう》の雷公、大目、など、多いグループで二万から三万、すくないので六、七千人が集まった。
張牛角と★[#ころもへん(初の左側)+者]飛燕は合作し、牛角が流れ矢にあたって死んだあと、飛燕が統領となったが、それに従う部衆は百万に達したといわれる。この百万は兵力ではなく、支配地域の人口であろう。朝廷は仕方なしに、飛燕を『平難中郎将』として、領地を与えたほどである。
それなのに宦官たちは、
──黄巾滅びて、もはや天下は太平でございます。
と、霊帝を欺《あざむ》きつづけた。
霊帝は霊帝で、はやくも宮殿を造営し、巨大な銅人を鋳造したりした。その費用は、田地一畝につき十銭を徴収するという、強引な方法でまかなった。宦官たちは造営の業者から、しこたま賄賂をせしめていたのである。
宮殿の造営費は、各地の太守に責任額を割り当てた。鉅鹿太守の司馬直《しばちよく》は、三百万の割り当てを命じられ、
──これ以上、百姓を搾取《さくしゆ》できぬ。
と、服毒自殺してはてた。彼は遺書に、
──陛下よ、宮殿造営費の強制徴収はおやめください。
と書きのこしたが、それは宦官によって握りつぶされた。
「どうお思いですか? これで天下が太平になるでしょうか?」
支英はかすかに頬をふるわせながら訊《き》いた。
「そうですね。これで天下太平になれば、大へんな僥倖《ぎようこう》でしょう」
と、陳潜は答えた。
支英は首を横に振って言った。──
「僥倖ではありません。これでまるくおさまれば、漢民族はもうおしまいでしょう。……どう考えても、世は乱れます。こんな世の中は、乱すのが人民の義務というものです。……漢室の命運も、いよいよ旦夕《たんせき》にせまってきたようですね」
支英の言ったとおりであった。
その年の二月に、榮陽《けいよう》で人民の蜂起があり、つづいて、西方で韓遂《かんすい》が十余万の兵を擁して隴西《ろうせい》を囲み、太守の李相如も反旗をひるがえして、韓遂と連合した。
陳潜は洛陽滞在中、二日に一度は白馬寺に支英を訪問した。白馬寺では、ほかに僧侶《そうりよ》の支讖《しせん》や支亮《しりよう》といった人たちとつき合った。
すべて支《し》姓なので同族とおもわれるかもしれないが、じつはそうではない。月氏のことを、月支と書くこともあるが、彼らはその支をかりに姓として用いているのにすぎない。
(あの連中とは、どういうわけか、よく気が合うのだ。……)
陳潜はそんなふうに、自分に言いきかせようとした。だが、白馬寺訪問が、支姓の男たちとウマが合うだけの理由でないことは、彼自身がよく知っていた。
景妹《けいめい》の顔を見るためである。──
彼女は支英の養女で、秘書役もつとめている。年は十七だから、三十すぎの支英は養父としては若すぎて、不自然にかんじられる。
(うわべは養女でも、妙な関係なのではあるまいか。……)
陳潜はそんなふうに疑ったこともあった。
だが、頻繁《ひんぱん》に通っているうちに、その疑念ははれた。支英には美しい妻がいて、彼は大へんな愛妻家でもあったのだ。そのうえ、洛陽在留の同国人の世話役として、その公明正大さは定評があった。
陳潜は安心して、なんだか支英に感謝したい気になっていた。
彼が洛陽に来て三カ月たった十一月初旬のある日、支英は上機嫌で、だが、どことなくふだんとは違ったようすで、
「今日はひとつ、当分の天下の英雄の品定めをしましょうか」
と言い出した。
人物評論は後漢末に大流行した。曹操のことを、
──治世の能臣、乱世の姦雄《かんゆう》。
と評した汝南《じよなん》の許子将《きよししよう》の月旦評については、前にもふれたことがある。このように人物評論が盛んになるのは、人びとの心の奥に、
──近いうちに天下のあるじが交替する。
という予感があるからなのだ。
現在のようなでたらめな世の中が、いつまでも続くことはありえない。とすれば、つぎに天下を取るのは誰であろうか?
天下を争う英雄は何人もいない。たいていの人は、そんな英雄にぶらさがって、つぎの時代の権勢家になろうと願うのが関の山である。だから、誰が天下を取るかが、熱心に研究された。
「英雄の品定めは面白いですね」
と、陳潜は賛成した。
「家柄からいえば袁紹《えんしよう》ですが、決断力に難点がありますよ」
支英はさっそく人物評をはじめた。
「家柄が問題になるでしょうか?」
「あんがい、家柄も力を発揮しますよ。各地の豪族に連絡をつけねばなりませんからね」
支英は笑った。
二人はかんじんの前提を伏せたまま、話を進めているのだった。それはいまさら持ち出すまでもないことなのだ。
決断力とか家柄とか、あるいは豪族に連絡をつけるといったようなことは、
──天下を取るためには。
という前提を意識して語られている。支英が笑顔を見せたのも、伏せた前提があまりにも自明のことなので、ふとおかしくなったのかもしれない。
「何進《かしん》は?」
「だめです。問題外ですね。皇后の兄ということで権勢を得ているのにすぎません。……世の中は変わるのですよ」
皇后の兄なら、せいぜい次代に皇太后の兄として待遇されるのがいいところで、政権が移動すればすべてはおしまいだ。
「決断力なら董卓《とうたく》でしょう」
「董卓は年をとりすぎています。四十八でしたか」
「四十八なら、年をとりすぎているとはいえないでしょう」
「いや、二十年や三十年はかかるかもしれません。……それを思うと、やはり年齢が問題になりますね。三十五歳以下にしぼったほうがよさそうですよ」
「そんなことをいえば、候補者がいませんよ」
「そんなことはありません」支英は白い歯をみせて笑いながら、「曹操は三十二になったばかりじゃありませんか。それに、このたび長沙の乱を平定した孫堅は、たしか曹操より一つ年下だったとおもいます」
この十月に、長沙の区星《くせい》という者が、自ら将軍と称し、万余の衆をあつめて造反した。朝廷は議郎の孫堅を長沙太守に抜擢《ばつてき》して、区星の一味を撃たせた。
孫堅はただちに出撃して、彼らを鎮圧した。
「なるほど、これは南方の雄ですね。たしかに、覇を争う英雄の資格はあります」
と、陳潜は言った。
「極端なようですが」と言って、一と呼吸してから支英は言葉をつづけた。──「私の見たところ、条件にかなう人物はこの二人だけです。ほかに彼らに匹敵する器量人はおりませんね」
「私たちが知っている限りでは、たしかにそうでしょう」
と、陳潜はすぐにつけ加えた。
これからの天下争いに、無名の英雄が登場してくるかもしれない。
「話は変わりますが」
と、支英は言った。彼にしてはめずらしく、話の流れに屈折が多い。ここでも、しばらく間をおいてから、
「最初にお会いしたとき、あなたは私どもを渦の外にあるとおっしゃいましたが、私はそうではないと、一応、かんたんにお答えいたしました」
「おぼえております」
「今日はもうすこし、くわしくご説明申し上げたいのです」
人物評論は、ただの枕《まくら》であって、本題はどうやらこのことのようである。支英は椅子に坐り直した。
古い時代、漢民族の生活は、蓆《むしろ》のうえに正坐するのがふつうであった。椅子に坐るのは西域から伝わった風習で、背に寄りかかりのある椅子のことを『胡床《こしよう》』という。『胡』はえびすという意味だが、限定して用いるときは、イラン系の西域人を指す。正坐でない『あぐら』でさえ、西域の風習なので『胡坐』という文字をあてた。
日本のキモノは中国から伝わったもので、漢族の本来の服装は、キモノを想像すれば大きなまちがいはない。そんな服装であぐらをかけば、股間が見えるので、正坐するほかはなかったのである。胡人は乗馬の習慣から、ズボンを穿《は》いていたので、安心してあぐらをかいたのだ。
後漢のころは、蓆に正坐するのと、椅子に腰かけるのと、生活のなかでは相半ばしたであろう。漢族が完全に椅子生活に転向したのは、十世紀をすぎた宋代であったという。
後漢霊帝は、君主としては暗愚であったが、西域ふうの生活様式を中国に紹介することにかけては、大功労者というべきであろう。胡がつくものはなんでも好んだ。胡服、胡床、胡琴、胡椒《こしよう》、胡桃《くるみ》など。
品物だけではなく、月氏族のような胡人も優遇されていたのである。
「現在、私どもはなんの不足もありません。いつまでも、このように待遇してほしいと望むだけです。しかし、世の中は変わります。主権者が交替するのです。胡人ぎらいの君主があらわれて、胡人をすべて誅殺せよと命令を下したなら、私どもはおしまいです。……私どもがこんにち、このように処遇されているについても、そのうらに、さまざまな苦労ばなしがございます。王室にどれほど尽してきたか。……ま、そんなことは申しますまい。私どもはけっして渦の外にいるのではありません。やはり渦中の人です。……どの方《かた》に、どれほど尽してあげようか……いつもそれを考えております。人をまちがえて尽しすぎると、その人と一蓮托生《いちれんたくしよう》になります。ほどほどにしなければなりません。つきすぎてもいけないし、離れすぎてもいけないのです。次代に権勢をふるう可能性のある人たちには、きめのこまかい奉仕をして、つながりをもとめなければなりません。私ども月氏族の人間は……」
支英の話をきいているうちに、陳潜はそのなかの『月氏族』を自分たちの『五斗米道』に変えても、そっくりそのまま通用するような気がした。
久しぶりに少容のことが思い出された。
西域の娘景妹の美しさにうたれてから、少容の面影はしばらく彼の胸から遠ざかっていたのである。
──あたしたちの最大の任務は、なにはともあれ生き残ることです。……
と、少容は言った。
洛陽在留の月氏族の人たちも、なにはともあれ、生き残ることを真剣に考えているのだ。そして、支英は数千の同国人のリーダーとして、それを実践してきた人物である。
(おれに支英を学べ、ということであろう)
陳潜はわかったような気がした。
「恥をさらすようなことを申し上げましたが、それはあなたにお願いしたいことがありますので、なにもかもぶちまけたのです」
と、支英は言った。
「どのようなことでしょうか?」
「陳潜さんは、偶然のことから、曹操にお会いしたときいておりますが」
「ええ。……面会というより、不審訊問《ふしんじんもん》のようなものでしたが」
と、陳潜は答えた。あのときのいきさつは、雑談のなかで話したおぼえがある。
「曹操にもういちど会っていただきたいのです」
支英はおなじ口調で言った。
「えっ! 私が。……使者に立てとおっしゃるのですか?」
「厳密には使者とはいえないかもしれませんが、曹操にあることをそそのかしてほしいのです」
「あることとは?」
「まあ、人さらいのようなものですな」
「人さらいのようなもの……」
陳潜はおうむ返しに言ったが、なんのことだか、さっぱり見当もつかない。
「さよう。……私の養女の景妹を、さらって行くように、です。……むろん、景妹が絶世の美女であることも吹聴していただきます。もっとも、そのことは曹操も知っているはずです。私どもが、いろいろな方法を講じて、彼の耳に届くようにしましたので」
「どうもよくわかりませんが」
と、陳潜は正直に言った。
「そうでしょうとも。なにぶん曲がりくねっておりますので、わかりにくいと存じますが、かいつまんで申し上げると。……」
支英は言葉を切って、じっと陳潜の目をみつめた。陳潜も相手の目をみた。支英の両眼は、みるみる湿って、赤味を帯びてきた。
「景妹は哀れな娘でございます。はやく両親を失い、私が引取って育ててきましたが、因果なことに、養父であるこの私は、なによりも先に洛陽に居留する同国人の幸福と安全を考えねばならぬ立場にあります。……私は彼女に教育を施しました。どのような教育か、おわかりですか?」
「わかりません」
陳潜はそう答えたが、支英のほうでも、この段階でわかってもらえるとは思っていないようだった。
「美しく、そして賢明になること。次代の実力者に寵愛《ちようあい》され、男の胸に、月氏の人たちをよろしくお願いします、と囁《ささや》くことです。言うはやすいけれど、かなり難しい仕事です。男どもは、女を人間なみに扱いません。その言葉も、人間の言葉として聴かないでしょう。一人前の人間と認められるためには、美貌のほかに、聡明さをみせねばなりません。私は彼女に、あらゆることを教えました」
「次代の実力者とは誰ですか?」
陳潜は一ばん気がかりなことを訊いた。
「それは私が選びます。……けんめいに研究しました。そして、現在のところ、結論はさきほど申し上げた二人です」
「曹操と孫堅。……」
「さよう。その二人を選び、二人にそれぞれ洛陽月氏族に絶世の美女あり、という話が耳に入るように、工作いたしました。先日、孫堅から、その美女が欲しいと言って参りました。そこで、近いうちに、彼女を南に送ります。孫堅のところからも、受取りのために何人か来るはずです」
「それなら……では、どうして私に曹操に会えと?」
「弱者の知恵ですよ」
そう答えて、支英はさびしそうに笑った。
曹操は三十二歳。そのころの年齢のかぞえ方では三十三になる。
騎都尉として黄巾軍討伐に従軍したあと、済南国の民政長官として、十余県を治めた。このとき彼が最も力を入れたのは、淫祀《いんし》の禁断である。当時の人たちは、現代人が想像もできないほど迷信深かった。あやしげな神が、いたるところにまつられ、それを食いものにしている悪党がいた。
いまでこそ邪教淫祀などというが、当時では祠《ほこら》を壊したり、祭祀を禁止したりすれば、天罰たちどころにくだると、ほんとうに信じられていたのである。
曹操が果敢であると同時に、きわめて合理的な考え方をする人間であったことが、これによっても察しられる。
「ほう、あのときの易《えき》の学生か」
曹操は陳潜をおぼえていた。
面会はそれほど面倒ではなかった。曹操はいま浪人中なのだ。済南国の相をやめたあと、東郡太守に任ぜられたが、彼は病気と称して就任せず、帰郷したのである。
曹家の郷里は|★[#言+焦]《しよう》というところだった。
現在の地名でいえば、安徽《あんき》省|毫《ごう》県であり、前漢時代は沛《はい》郡に属したが、後漢では郡に昇格した。
──城外に室を築き、春夏は読書、秋冬は狩猟。
という生活であった。
官に就《つ》かない理由は、権臣貴戚が朝廷にはびこって、節を通すのが難しいというのである。おそらく、彼の冷徹な合理主義者の目には、いまどき地方の太守などを勤めるのは、危険なことと映ったのであろう。
人民が蜂起すると、太守はまっ先に殺される。黄巾の乱で、それは証明された。人民の造反を抑えるために、軍事力を増強すると、朝廷から疑われ、投獄処刑されるよりはと、造反に起《た》ちあがらざるをえない。
この五月にも、泰山の太守張挙が造反し、右北平太守の劉政《りゆうせい》と遼東《りようとう》太守の陽終《ようしゆう》を殺した。殺すほうも殺されるほうも、ともに太守であった。
そんな修羅場《しゆらば》に出るよりは、読書と狩猟に明け暮れるほうがましである。
世をすてたのではない。
(いまに起ちあがる。しかし、まだ時期は早い。……疲れるだけだ)
彼はそう思っていた。
浪人だから気軽に、どんな人にも会う。
「巴《は》に帰るといったが、なぜまた出てきたのだ? こんな物騒な時代なのに」
と、曹操はきいた。
「学問のためです」
「なんだ、三年たってもまだ書生か」
「死ぬまで書生のつもりでいます」
「面白いことを言うのう。……それほど易は難しいのか?」
「こんどは易ではありません。浮屠《ふと》の教え(仏教)を学びに、白馬寺に参りました」
「浮屠の教え?」邪教淫祀を退治した曹操は、そのようなものは好まない。ふきげんな顔になって、「で、なんの用でここへ参った?」
陳潜はできるだけ軽薄を装って、
「私は白馬寺に世話になっておりますが、月氏族にすばらしい美女がいまして……」
「月氏の美女の噂《うわさ》はきいた」
女の話になって、曹操はきげんを直した。
「長沙の孫堅に所望され、この十六日に洛陽を発ち、南へむかいます」
「孫堅か。……」
将来の宿敵は、このころから相手を意識していたのである。
「一行の従者に、私も加えられました。旅程その他、一切、私がとりしきることになっております」
「それで?」
「曹操さまを思い出しました。……花嫁を奪う名人であったとか。……いや、間違っておりましたら、ご勘弁を」
「は、は、間違っておらぬぞ。……ふン[#ンは小文字]、わしにやれと申すのか?」
「途中に恰好《かつこう》な場所がございます」
「易は知らぬが、地勢を見るのは、わしのほうがすぐれておるはずだ。旅程さえわかれば、かならず奪ってみせよう」
「かしこまりました。さっそく旅程を表につくって差し上げます」
「そんなに美しいのか?」
「それはもう……」
と言いかけて、陳潜は目がしらが熱くなるのをおぼえた。このようなことを言わねばならぬのは、身を切られるよりもつらい。
「よし、その女を奪ったあと、わしのところへ来い。褒美《ほうび》はそのときにとらせる。……いや、これは狩よりも面白そうじや」
「では、やっぱり世間の噂……花嫁さらいは、まことでございましたか?」
「組んだ相棒が下手なやつであったが、それでも仕損じたことはなかった」
曹操は両手を肩の高さまであげた。退屈しているのである。
二十前後のころ、曹操は花嫁さらいの常習者だったという噂があった。
六朝《りくちよう》時代に劉義慶《りゆうぎけい》の撰した『世説新語』というエピソード集に、つぎのような話が紹介されている。──
若き日の曹操は、名門の息子の袁紹《えんしよう》と組んで、遊侠《ゆうきよう》の生活にふけっていた。あるとき、彼らは花嫁をさらおうとして、婚礼の最中に他人の邸にはいりこみ、庭から、
──泥棒だぞォ!
と叫んだ。
人びとは表へとび出したが、彼らはすばやく内にはいり、花嫁をかついで逃げだした。むろん、その邸から追手がくり出された。逃げているうちに、道に迷い、袁紹は棘《いばら》のなかに落ちて、
──もうこれ以上うごけんわい。
と弱音を吐いた。
三国志初期に、河北に覇をとなえながら、坊ちゃん育ちの甘さが抜けず、大きな飛躍ができなかった人物だが、根性のなさがこのエピソードにもあらわれている。
このとき、相棒の曹操はどうしたか?
──花嫁泥棒はここだぞォ!
と、大音声《だいおんじよう》で呼ばわったのである。
袁紹はびっくり仰天した。足が痛いなど言っておれない。棘のなかから、とび出して、一目散に逃げた。
これで二人とも追手から免れたのだ。
南船北馬という。
むかしの中国の交通は、北方は馬に、南方は船に頼っていた。
景妹を長沙に送る一行は、洛陽を馬車で発ち、淮河《わいが》の線に達してから、船に乗りかえることになっていた。
陳潜は心がはれなかった。
生まれてはじめて『女』にめぐりあえたと思ったのも束《つか》の間、その女は同胞のための人身御供《ひとみごくう》として、南へ連れられて行く。しかも、彼はその一行に加わるのだ。なんということであろうか──。
(曹操のように、花嫁を奪えばよいではないか。曹操があらわれる前に)
そんなふうに、誘いの声がかかってくる。誘いをかけてくるのは、彼自身の胸の底にある魔性のものである。
だが、彼はその誘いにのるわけにはいかなかった。
(おまえは月氏族を救う力があるのか?)
彼はそう自問する。その力がないくせに、景妹を奪うことは、洛陽在住数千の月氏族に、大きな損害を与えることになる。彼の良心がそれを許さない。
なんども胸が詰りそうになった。
支英は養女の景妹を磨きあげた。これほどうつくしい玉《ぎよく》は、またとないのである。
たった一つの玉は、できるだけ有効に使わねばならない。
支英の選んだ『次代のあるじ』の候補者は二人であった。一人の女を二人の男に与えることはできない。
しかし、つぎのようなことなら可能である。──
一人の男に景妹を与え、もう一人の男とは友好的なつながりをもつ。……
他国に漂泊するエトランゼは、自分で我が身を守らねばならない。自分に好意をもってくれる有力者を、一人でもふやして、万一のときに備えねばならない。
「なりゆきにまかせよう。それしかないのだから。……」
と、支英は言った。
景妹が無事に長沙まで行けば、彼女は孫堅のものである。だが、花嫁さらいに失敗しても、曹操は月氏族を恨む筋合はない。陳潜は彼にむかって、
──孫堅から先に申し入れがありましたので、彼女を長沙へ送りますが、月氏の人たちのなかには、われら同族最高の美女は、曹操さまに献じて然《しか》るべきである、と考えている者が多うございます。私はそんな人たちに乞《こ》われて、曹操さまに花嫁さらいをおすすめしに参ったのです。……
と言ってあった。
いうまでもなく支英の指示で言ったのだが、これによって、月氏の人たちが自分に好意を寄せていることを、曹操にわからせることができる。
掠奪《りやくだつ》の失敗は、自分の作戦の錯誤によるのだ。
もし花嫁さらいが成功すれば、よく教育された景妹が、曹操を月氏族びいきにさせるであろう。
孫堅は曹操を恨むにすぎない。
月氏の人たちは、彼女をもともと自分に与えようとしたのだ。友好的な人たちだから、憎んではならぬ、と考えるのがあたりまえである。
一行はまず洛陽から東へむかった。
動乱の舞台となった|★[#榮の木が水]陽《けいよう》をすぎ、鄭州にいたり、そこから南下する。
(もうそろそろ出て来てもよさそうだ)
陳潜は身のひきしまる思いがした。
許昌《きよしよう》をめざす。
曹操の故郷の★[#言+焦]は、許昌のまっすぐ東にあたる。のちに曹操は献帝を奉じて許昌に拠《よ》ったが、それは自分の縄張りであったからだ。
──曹操の部隊が出てきたら、手出しなどせずに、さっさと逃げなさい。
支英は陳潜にそう言った。
そのときに戦うのは、孫堅からさしむけられた連中だけであろう。人数はわずか五人にすぎない。
三頭立ての馬車に乗った景妹は、いつもより蒼《あお》ざめてみえた。むろん彼女は自分の運命を知っている。──それをおもうと、陳潜はからだの芯《しん》が、酸《す》っぱくなるほど哀《かな》しくなるのだった。
「大丈夫ですか?」
休息のたびに、彼は彼女に声をかけた。
「ありがとう。……ちょっとふらふらするかんじですけど」
例の妙に艶っぽい西域訛で、彼女は答えた。
声がふるえているのは、緊張しているせいであろうか。おそらく近い将来、天下を争うであろう若い二人の英雄の、どちらかへ連れ去られて行く。──景妹は声だけではなく、からだも小刻みにふるわせていた。
現在の鉄道の新鄭と許昌のあいだ、長葛[#葛のヒは人]《ちようかつ》県のあたりまで来たとき、とつぜん左の木立のあたりで喊声《かんせい》があがり、騎馬武者が十騎ばかりとび出してきた。
(来たか。……)
予期していたことなので、陳潜はあわてなかった。いまか、いまか、と待つよりは、いっそ早くあらわれてくれたほうがよい。
曹操のことだから、狩猟がわりに、自ら先頭に立って、はでに百人以上の集団で襲ってくるのではないか、と陳潜は考えていた。
だが、曹操の姿はなく、人数も十騎そこそこにすぎない。
花嫁の一行は三十人ほどだが、人夫や女中を除くと、戦闘人員は孫堅が迎えにさしむけた五人だけである。
相手は十騎といっても、巨漢ぞろいだった。
先頭の男が、片手で青竜刀を軽がるとふりまわし、
「ざまぁみやがれ! つべこべ抜かさずに、その女郎《めろう》をこちらに渡せ」
と、大声で咆《ほ》え立てた。
まんまるい顔はまっ赤で、目玉がつき出ている。顔じゅうひげが生えているが、長さはともかく、疎《まば》らなのであまり濃くみえない。憎々しげな面がまえだが、よくみると童顔で、意外に若いのかもしれない。
陳潜はどこかで見たことがあるような気がした。このあいだ曹操のところへ行ったときではない。もっと以前の記憶である。
「腰を抜かしたやつは助けてやる。のこのこ出てくるやつは、睾丸《きんたま》ぶち割ってくれるぞォ。さあどうだ!」
童顔の巨漢がそう言うと、いやに耳の大きな男が横から出てきて、
「女を置いて、さっさと消え失《う》せろ! 失せくさらんか、下郎ども!」
と、どなった。
(曹操の手の者というかんじではないぞ。……)
陳潜は馬上で首をかしげた。彼は孫堅の部下と一しょに、騎馬で景妹の馬車のそばについていたのである。
曹操は若いころ遊侠の行いがあったけれど、じつは大へん教養人なのだ。武人らしく粗野に振舞うことはあるが、それは意識していることで、根がそうなのではない。彼の部下も、たいていそのような傾向をもっていた。
ところが、木立のかげからあらわれたこの連中は、じつに柄が悪い。しかも、それを装っているのではなく、根っから品が悪いのである。
「それ、かかれ!」
耳の大きな男が鞭《むち》をふりあげた。木立の前の十騎は、いっせいに駆けだした。砂煙があがり、うぉーっという獣のような叫びが、押し寄せてくる。
孫堅の部下たちは、馬車の前に馬をならべて、防戦の態勢をとった。
掠奪隊の出現を知っていた陳潜は、誰よりもおち着いていたし、こんなときにとるべき行動も、あらかじめきめてあった。──防戦は孫堅の配下にまかせて、支英がつけた月氏の女子供を保護して、逃げるか、かくれるかである。
人夫たちはいちはやく逃げ去っていた。
陳潜は右手にある民家を避難場所にえらんだ。馬からおりて、
「こわがることはない。あそこへ、あの家のうしろへ行きましょう」
と、女たちをそこへ誘導した。
ふりかえってみると、もう勝負はあらかたついていた。
孫堅のつけた騎馬武者は、四人が馬からつきおとされ、残った一騎が、馬車の前で抵抗していた。あたりは濛々《もうもう》と砂煙が立ちこめている。
陳潜はなにも考えないことにしていた。芝居のように、割り当てられた役を、命じられたとおりに演じる。──ものをおもうと、たちまち心が痛みだすのだ。
「あら、敬さんがいないわ!」
民家のうしろにかがんで、ぶるぶるふるえていた月氏の女の一人が、急に声をあげた。
「えっ、敬が……」
陳潜はそこを見まわした。
支英が景妹のためにつけた女中は七人である。壁のうしろに、たしかに七人の女がうずくまっていた。しかし、支英はもう一人、景妹がどこへ行っても、仏教の信仰行事をつづけることができるように、若い僧侶をつけていた。陳潜を白馬寺に案内した少年僧の兄で、ことし十八になる支敬である。その支敬のすがたが見えない。
陳潜は前方を見た。
最後の一騎が馬からひきずりおろされているところだった。童顔の巨漢は、青竜刀をどこかにすて、馬上で相手の首を片手でしめつけ、片手の拳《こぶし》で相手の頭をポカポカと殴っている。掠奪隊のほかの者が、足をひっぱって地上にひきおとしたが、それが幸いだった。そのまま殴《なぐ》られていたら、頭蓋骨《ずがいこつ》をへし折られてしまっただろう。
御者のいなくなった馬車に、二人の男がとびのって、
「さぁ、いただいたぞ!」
と、鞭を高くさしあげた。
そんなシーンが、砂塵にかすんで、やっとのことで認められた。
砂煙が薄れたところに、陳潜は支敬のすがたをみつけた。戦闘場面のすぐそばで、あぐらをかいて坐っている。
(敬のやつ、腰を抜かしたか)
陳潜は走り出した。腰が抜けてうごけないなら、ひきずってでも、危険な場所から離さねばならない。
ガラガラと車輪が砂をかみながらうごく音がした。ぎいっ、と軋《きし》む。馬車が方向を転換するのだ。
陳潜はその瞬間、目をとじた。
馬車のなかの景妹のことを、頭にうかべたのである。それを追い払って、目をあけたとき、あぐらをかいていた支敬が起ちあがるのがみえた。
あたりはまだ黄色い砂塵に包まれている。
蹄《ひづめ》の音がした。掠奪隊がひきあげようとしているのだ。
「さぁ、行くぞ。……あとで訪ねて来い」
という声が、近くできこえた。
「では、玄徳さま、のちほど」
と答えたのは、まぎれもなく青年僧支敬の声であった。
陳潜はその場に身を伏せた。
さきに声をかけた人物は、馬に乗っていたのである。「さらば」と低い声で言うと、蹄の音をのこして駆け去った。
支敬は急ぎ足で、民家のほうにむかった。陳潜が近くに伏せていることには気づかないようすだった。
あるじを失った馬が、数頭そのあたりで足踏みをしていた。南方の武士は五人とも地上に倒されて、呻《うめ》き声がきこえる。
陳潜は全身の血が逆流するのをおぼえた。
彼は走った。──なにをしようとしているのか、自分でもわからない。
馬にとびのり、駆けだしてから、自分が掠奪隊のあとを追おうとしているのがわかった。追ってどうするつもりなのか、それはまだ考えていない。
(思い出したぞ、思い出したぞ。……)
と彼は心のなかでくり返した。
支敬が相手を玄徳さま、と呼んだのが、思い出すきっかけとなった。
三年まえ、唐周と北方へ旅行したとき、|★[#さんずい+豕(豕の左側の下から二番目に点)]《たく》に立ち寄り、そこの亭《あずまや》で三人の青年がオダをあげているのを耳にしたことがあった。最後に名乗りをあげた青年が、劉備、字《あざな》は玄徳、年は二十三と言ったのである。その青年は、異常に耳が大きかった。童顔の巨漢は張飛といった。もう一人は、たしか関羽と名乗ったが。……
たしかに思い出した。だが、それでなにをするつもりなのか?
掠奪隊に追いすがって、気がついたときは、相手と面とむき合っていた。
──待てぇ!
と叫んだおぼえが、かすかにあった。
「なんだ?」
と、童顔の巨漢が言ったのは、陳潜の叫びにたいする返答であろう。
「その女、連れて行くことならぬ」
と、陳潜は言った。
「なぜか?」
耳の大きい男が訊いた。
「劉備玄徳、関羽雲長、張飛翼徳の三名よ」
陳潜は頭が空っぽになっていた。彼の口から言葉を押し出すのは、人間の力を越えたなにものかのようである。
「おっ……」
劉備の喉《のど》から、驚きの声がもれた。
自分たちの姓や字《あざな》が、なぜ知られているのか、ふしぎに思ったのであろう。
考えてみれば陳潜にしても、とつぜん三人の姓名だけではなく字まで思い出したのは、ふしぎというほかはないのだ。
「おのれは何者だ!」
と、張飛は歯をむきだして言った。
「人間の運命を占う者だ」
なぜそんなふうに答えたのか、陳潜自身にもわからない。
「おもしろい。ひとつ占ってもらおうか」
関羽が言った。
「汝ら三人、三年まえの秋に、★[#さんずい+豕(豕の左側の下から二番目に点)]において義兄弟の盟を結んだであろうが」
陳潜は自分の口を、何者かが借りて、言葉を吐き出しているのではあるまいか、と思ったほどである。三人が偶然、亭のなかで会ったことを知っている。だが、義兄弟の結盟などは知らない。
「おおっ……」
三人の喉から、前よりも大きな声がもれた。それもそのはずで、結盟は三人だけの秘密であった。しかも年や季節や場所まで知られている。
人間の運命を占う者。──
二世紀の中国では、そのような人は超能力者として、おそれられていた。
「汝らは生まれた日は異なれど、死ぬ日は同じと誓い合い、男子の大事業をなすべく力をあわせておる。……すべては順風、これからも成功するであろう。ただし、いまその女を連れて行けば、一年のうちに盟は破れ、三人とも横死する運命を辿《たど》るのだ」
「そ、それは、まことか?」
張飛が吃《ども》りながら訊いた。
「月氏の女は、豪傑を迷わせ、女を中心にして、三人の義兄弟が相争い、ついには血をみるにいたる。これは天上の星宿、地上の万象にあらわれている汝らの運命ぞ」
と、陳潜は言った。
関羽と張飛が、劉備の顔をみつめる。
劉備は目をとじて、面を伏せた。祈念するようなすがたである。
陳潜がのっていた馬は、それまで足を踏みならしたり、たてがみを振り立てて嘶《いなな》いたりしていたが、『人間の運命を占う者』と彼が口にしてからは、ぴたりとうごきをとめた。
時間まで停止したように思えた。
ややあって、劉備の馬が前脚を高くあげて、鋭い声で嘶いた。
「行こう。女は置いて行く。結盟に禍《わざわい》をもたらさぬ女は、この世にいくらでもいるであろう。それをさがそう。……去《い》ぬぞ!」
劉備は馬のむきをかえると、鞭《むち》をくれた。
黄色い砂煙が、その蹄から噴きだされた。
関羽も張飛も、ほかの連中もそのあとにつづいた。砂煙の幕。──陳潜はしばらく放心の状態でそれを見送った。
彼らの姿が消えたあと、陳潜は馬からおりて、のこされた馬車に駆け寄り、ふるえる手で扉をひらいた。
景妹は失神したように、うしろに背をあずけていた。透きとおるように白い顔が、このとき眼から頬にかけて赤味を帯びていた。
「あ、これは……」
陳潜は手をさしのべて、景妹の額にふれてみた。──燃えるようであった。
景妹は高熱を出していた。
孫堅の派遣した五人の武士は、重傷を負った者もいたが、幸い全員、命に別条はなかったのである。
病気はどうやら長期の療養を必要とするようだった。
孫堅の諒解《りようかい》もあって、景妹は洛陽にひき返して、病を養うことになった。
「劉備玄徳と申す者をご存知でしたか?」
洛陽に帰って白馬寺に支英を訪ねたとき、陳潜はなによりもまずそうたずねた。
「幽州刺史|劉焉《りゆうえん》の客将として、黄巾討伐戦で働き、すこしは目についた者です。名前だけは耳にしたことがあります」
「ほう、すこしは目についたのですか。……」
陳潜は微笑した。
彼も劉備のことを調べてみたのである。曹操や孫堅のように、その名が天下にきこえた人物ではない。調べてみて、はじめてわかる程度だったのである。
劉備は戦功によって、安喜県の県尉に任ぜられた。中国の県は郡の下にあり、日本の村長ほどの役職にすぎない。郡太守級の曹操や孫堅よりは、ずっと低い地位であった。
朝廷は論功行賞で、あまりたくさん役職を与えすぎたので、財政上の都合もあって、すぐに整理にとりかかった。
劉備の県尉の地位も、整理されるかどうかというボーダーラインにあったのである。
行政監察官に相当する督郵《とくゆう》という役職の者が、功績と現在の地位をくらべ合わせて、整理すべきかどうかを査定する。
安喜県にやってきた督郵はいばり散らしていた。そんなふうにして、暗に賄賂《わいろ》を催促したのであろう。劉備が会いに行っても、勿体《もつたい》ぶって会おうとしない。劉備は怒って踏み込み、督郵を縛りあげ、杖《じよう》で打つこと二百、半殺しにしてから、任官のしるしである印綬《いんじゆ》を相手の首にかけて立ち去った。
大胆不敵の振舞いである。
これには世間も驚いた。劉備の名は、戦功よりも、この乱暴な『棄官亡命』によって知られたのだ。
むろん、抗命の罪によって、劉備に逮捕状が出されている。だが、督郵の横暴は天下の人の憎むところで、彼のやったことに拍手し、溜飲を下げる者が多かった。そんなわけで、彼はおたずね者のくせに、どこへ行ってもかくまってくれる人がいたのである。
督郵を杖で打つ勇気は尋常ではない。
いまでこそおたずね者だが、世の中がさらに乱れたときには、あるいは天下を狙う大物になるかもしれない。支英はそうにらんで、青年僧支敬を劉備のところへ行かせ、花嫁掠奪をそそのかしたのであろう。
「世の中、どうなるかわかりません」
支英はぽつりと言った。
「あなたは、景妹さんを使って、曹操、孫堅の二人の英雄につながりをお求めになると思っていましたが、三人だったのですね、劉備もはいりますから」
と、陳潜は言った。
「三人ではありません。四人でしたよ」
と、支英は口調をかえずに言った。
「四人? で、もう一人の英雄は?」
「あなたです」
「え?」
「陳潜。……五斗米道が天下を取るかもしれないではありません。そのとき、あなたは天下の宰相ではありませんか」
「まさか……」
と言って、陳潜は絶句した。──
作者|曰《いわ》く。──
一般に『三国志』といわれている物語は、正史の『三国志』をもとにした、『三国演義』のことである。これは講談によって継承されたものなのだ。潤色が多い。
正史の『三国志』は曹操の魏を正統とし、講談本『三国志』は、いうまでもなく蜀漢の劉備を正統とする。
われわれが聞かされた『三国志』では、劉備はまるで聖人のようである。粗暴な振舞いは、たいてい部下の張飛あたりのせいにして、劉備がそれで悩むようにえがかれている。花嫁掠奪など、そんな品の悪いことはできない人物と考えられている。
督郵を縛って半殺しにしたのも、講談系『三国志』では張飛のしわざで、劉備がそれを知って、あわててとめ、おかげで督郵が命だけは助かった、ということになっている。
だが、正史の『三国志』では、どう読んでも劉備がしたこととしか解釈できない。
──督郵、公事を以て県に到る。先主(劉備のこと)謁《えつ》せんと求むれど通ぜず、直ちに入りて督郵を縛《ばく》し、杖うつこと二百、綬《じゆ》を解きて其の頸《くび》に繋《か》け、馬を|★[#木+仰の右側]《ごう》(馬をつなぐ柱)に着《ちやく》し、官を棄て亡命す。
と、蜀書先主伝に記す。
[#改ページ]
曹操《そうそう》、東《ひがし》へ帰る
あんがい小さい。──
陳潜《ちんせん》はそうおもった。
ときどき白馬寺に訪ねて来る、典軍校尉曹操《てんぐんこういそうそう》の体格のことである。
黄巾《こうきん》さわぎのおこった年、陳潜は嵩山《すうざん》の麓《ふもと》の司令部ではじめて曹操に会った。そのときの曹操は、熊皮の敷物のうえにあぐらをかいたままなので、背丈はわからなかったが、いかにも精悍《せいかん》そうで、しかも大柄にみえたものだった。
東郡太守の官を受けずに、しばらく故郷の★[#言+焦]で浪人生活をしていた曹操は、中平五年(一八八)に洛陽で再び官途についた。
その年の八月に、西園八校尉という新しい官職が設けられた。
中央国防軍を八軍団に分け、それぞれの軍団に校尉という軍司令官を任命した。典軍校尉はその一人で、さしずめ近衛《このえ》師団長といったところであろう。
任官してまもなく、曹操はぶらりと白馬寺にあらわれた。陳潜が応接すると、
「景妹《けいめい》を見舞う。案内せい」
と、いきなり用件を言った。
景妹は、洛陽《らくよう》に居留する月氏族のリーダー支英《しえい》の養女である。この一年ほど病床についている。白馬寺の近くの庵《いおり》で療養しているのだった。
陳潜が曹操を小さいとかんじるのは、この病気見舞いのときである。
なんどめかの見舞いの帰り、車を待たせている白馬寺の門前まで来たとき、曹操は横をむいて言った。──
「景妹もずいぶんよくなったようじゃ」
「はい。おかげさまで、めっきりと顔色もよくなり、肉もついてきましたようです」
「肉づきがよすぎるわ」
「療養もあとしばらくでございましょう」
曹操とのあいだで、景妹のことを話題にしていると、陳潜は妙な気がしてならない。ことばのうらに、ちょっとした火花が散る。市井《しせい》の若衆同士の、恋の鞘当《さやあ》てに似ているのだろうか。
「おもしろくない」
と、曹操は言った。
「えっ?」
陳潜はきき返した。なにがおもしろくないのか、藪《やぶ》から棒で、まるで見当がつかない。
相手は答えずに、車に乗ろうとしていた。
このときである。──陳潜は久しぶりに、曹操を大きくかんじた。なぜそうかんじたのか、陳潜自身にもわからなかった。
「もう見舞いに来ることもあるまい」
馬車の車輪が、軋《きし》みながら最初の回転をしたあと、曹操は外にむかってそう言ったのである。
どうやら曹操も、陳潜が景妹に想いを寄せていることに気づいているようである。易《えき》や浮屠《ふと》(仏教)の教えを学ぶ風変わりな書生と、一人の女を争うような立場にあることが、
──おもしろくない。
の理由であろうか?
曹操が景妹を見舞うとき、陳潜は庵まで案内するだけで、部屋のなかにははいらない。だから見舞いの現場を見たことはないのである。景妹は曹操にたいして、つれない態度をとっているかもしれない。もしそうだとすれば、曹操はおもしろくないし、二度と見舞いに来るものか、と思いもするだろう。
陳潜の希望的観測では、後者ということにしたい。景妹が曹操を拒めば、陳潜の希望はそれだけ濃くなる。──すくなくとも、彼はそう解釈した。
それでも、よく考えてみれば、景妹が曹操にたいして、冷淡な態度をみせるはずはないのだ。彼女は月氏族居留民が、来たるべき動乱にさいして生きのびるために、『次代の有力者候補』に献じられる運命にある。またそんなふうに教育されてきた。有力者の歓心を買う技術を、支英は精魂をこめて、彼女に仕込んだのではなかったか?
「曹操さまは、長いことお見えになりませんね。お忙しいのかしら?」
ある日、景妹はそう言った。
曹操が来ないことについては、彼女はまったく身におぼえがないようだ。
「さぁ、わかりませんねぇ」
と、陳潜は答えた。
忙しいかどうか、それがわからないのではない。曹操が言った、『おもしろくない』という言葉の意味がわからないのだ。
ほかにもわからないことがある。
曹操はなぜ大きく見えたり、小さく見えたりするのだろうか?
曹操がなぜ『おもしろくない』のか、やがて陳潜にもわかった。
曹操自身の口からきいたのだから、これほどたしかなことはない。
景妹は月氏族の人たちに大事にされ、療養生活中に、だいぶ肉づきがよくなった。ところが、曹操はやせた女が好きなのだ。見舞いに来はじめたころは、景妹もやせていて、ぴったりと曹操|好《ごの》みの女であった。だんだんふくよかになってきたが、それがおもしろくないのである。
(好みに合わない女に、なにも会いに行くことはない)
曹操らしいやり方だった。彼はむだなことが大きらいである。
陳潜がこのことを曹操の口からきいたのは、年があらたまってからだった。
中平六年。──
かんたんにそう言ったが、じつは西暦一八九年に相当するこの年は、年号が四回も変わったのである。
四月に霊帝が死に、皇子の辯《べん》が即位して『光熹《こうき》』と改元された。八月に新帝はいったん都落ちをしたあと、再び洛陽に戻り、ケチのついた『光熹』を『昭寧』とあらためた。九月には董卓《とうたく》が皇帝を廃して、皇弟の協を立て、また新しい年号『永漢』を用いることにしたが、十二月になって、光熹、昭寧、永漢の三つの年号を取消して、もとの中平六年に戻すという詔書が出たのである。
皇帝廃立のいきさつについては、あとで述べるが、陳潜が曹操に招かれたのは、霊帝の死ぬ直前のことなので、その時点では、めまぐるしい変化がつづいて起こることは、知るよしもなかったわけだ。
典軍校尉曹操の迎えの者が来たとき、正直いって陳潜は気味が悪かった。曹操が民間の人を招待するなど、めずらしいことだったのである。
(なにごとであろうか?)
と、会うまで心配だった。
曹操は洛陽の永和里に居を構えていた。
洛陽には二十四の里があった。永和里は一名『貴里』と呼ばれ、貴人高官の邸が多かったのである。
その界隈《かいわい》に足を踏み入れるだけで、なんとなくひんやりして、からだがすくむ気がした。
曹操の前に出て、陳潜は、
(ああ、今日は大きい)
と思った。
曹操は西域ふうの椅子《いす》に腰をおろし、肘掛《ひじか》けにもたれて、ゆったりしていた。
「久しぶりでございます。しばらく白馬寺においでになりませんでしたので」
陳潜はそんなふうに挨拶《あいさつ》を述べた。
「うん、長く行っておらんな。……わしは肥《ふと》った女は好きでないのじゃ」
ずばりと答えて、曹操はすぐに用件にとりかかった。
「ところで、今日は浮屠《ふと》の教えについて、おぬしに訊《き》こうと思って、こうして来てもらったのじゃ。話してくれぬか」
「は、浮屠のことですか?」
陳潜はたじろいだ。
彼は巴《は》(重慶)の五斗米道《ごとべいどう》(道教の一種)教団の人間で、教主の母親少容の命をうけて、月氏族の保身術を研究に来たのである。とうぜん浮屠の教えにも関心をもっている。だが、彼は仏教の外にいる立場なのだ。
「私は浮屠の教徒ではございませんが」
陳潜は、これぐらいの理由では逃げられないと知りながら、一応、そう言った。
「しかし、白馬寺の客となっておる」
「はい、そのとおりでございます」
「浮屠のことを知らぬとは言わせぬぞ」
「なれど、教徒の長老たちからおききになったほうが、くわしくおわかりになると存じますが」
「月氏の者たちであろう?」
「さようでございますが、彼らも漢語を巧みに操りますれば」
「いや、わしは浮屠のことを、おぬしのように外から見ている人間から話をききたいのじゃ」
「は、どこまでお役に立つか、心許《こころもと》なく存じますが、私の知る限りのことはお答え申し上げます」
陳潜はこれ以上さからえないと観念した。
「みやこに在住する月氏の者たちは、西方の他所《よそ》者であるのに、住民たちとのあいだが、きわめて円満であり、いさかいがないというが、その理由を知りたい」
と、曹操はきいた。
月氏の故地は、遥《はる》か遠い中央アジアで、イラン系あるいはトルコ系の諸説はあるが、ともかく中原の人たちとは、容貌、言語、習慣がかなり違うのである。それなのに、周囲との関係がうまく行っている。月氏の人たちが、とくに漢族の生活に溶けこんでいるとも思えない。彼らは自分たちの習慣、とくに宗教をあくまでも守って、漢族の隣人と仲好くやっているのだ。
「さぁ……」
陳潜は急には答えられない。いそいで考えをまとめようとした。
「わしの故郷でも、もう隣りの県とは仲がわるいぞ。まるで仇敵《きゆうてき》のようじゃ。おなじ沛《はい》のなかでも、わしの生まれた|★[#言+焦]《しよう》は、まわりから軽んじられておる。わしの祖父が出るまで、★[#言+焦]からは五品官以上の貴人が出たことがないとな。沛の粛《しよう》県からは朱浮《しゆふ》、竜亢《りゆうこう》県からは桓栄《かんえい》、|★[#金+至]《ちつ》県からは除防《じよぼう》など、かなりの人物が出ておるのに。……わしの祖父にしたところが、知ってのとおりの身分じゃからのう。わしら、いかに肩身の狭い思いをしたことか。それを、隣県のやつら、ここぞとばかり悪口|雑言《ぞうごん》のかぎりをつくす。わしは隣人との関係は、そのようなものであると考えておったが、月氏族の場合がわからぬのじゃ。どうしてそんなに円滑にゆくのか。……」
そう言って、曹操はからだを揺《ゆ》すった。
曹操にしては言葉数が多すぎた。陳潜に考える時間を与えるためだったのかもしれない。そんなに深いつき合いではないが、陳潜はこの三十五歳の将軍が、むだなこと、よけいなことを、極端に嫌《きら》う性格であることを知っていた。
「月氏の者は、おだやかな性格でございますので……」
と、陳潜は言いかけたが、曹操はそれにかぶせるように、
「★[#言+焦]の人間も、いたっておだやかであるぞ。どこが違うのか?」
言い終えて、曹操は心もち唇を歪《ゆが》めた。
「わけへだてをしないためでございましょうか。……我《われ》と他人《ひと》と、そのあいだに差別を設けないのが、浮屠の教えでございます。王者も奴隷も、おなじとみなしているのです」
陳潜がかなり苦しげにそう述べたとき、曹操は平手で我が膝をうった。ぴしっと大きな音がした。
「そこじゃ! 王者も宦者《かんじや》もおなじ人間であるぞ」
曹操はあきらかに興奮していた。これもまた、彼にしてはめずらしいことであった。
陳潜が王者も奴隷もと言ったのを、曹操はあとを引き取って、奴隷のところを宦者と言いかえたのである。
「はっ」
陳潜は思わず面を伏せた。
曹操の心にもつ痛みが、陳潜にも伝わったような気がしたのである。
──わしの祖父にしたところが、知ってのとおりの身分じゃからのう。……
と、曹操は言った。
彼の祖父|曹騰《そうとう》も宦官《かんがん》だったのである。
当時の宦官は、刑罰によって去勢された者のほかに、皇帝の側近に奉仕するのは出世の近道であるというので、志願して去勢手術を受けた者がいた。志願といっても、親の意思による。物心のつかないころに、去勢されるケースが多かった。
曹騰もそうで、少年時代にすでに黄門《こうもん》従官として宮廷に入った。
黄門といえば、日本では水戸|光圀《みつくに》を連想するが、後漢のころは、これは宦者を意味した。宮中の小門は黄色に塗っているが、そこで待機して天子の命令を待つ諸官は、すべて去勢された者ばかりであった。
曹騰は学問がよくできた。そのため、抜擢《ばつてき》されて、皇太子の学友となったのが、出世の糸口であった。その皇太子が即位して順帝となったが、学友曹騰も小黄門から中常侍に栄進し、大長秋にまで昇った。
中常侍は二千石で、宦官の最高位であり、大長秋はおなじ二千石でも中宮の事務総長だから、大奥の宰相といってよい。
曹騰は宮中にあること三十余年、四人の皇帝に仕え、隠然たる権勢を誇った。およそ出世のしたい者は、中常侍や大長秋など、皇帝側近の宦官に口添えしてもらわねばならない。人事の決定権は皇帝にあるが、皇帝の相談役は宦官の首脳陣であった。
口添えの謝礼──はっきりいえば賄賂《わいろ》だが、これは巨額にのぼった。三十余年の宦官生活で、曹騰が積んだ資産は、想像を絶するほどであった。
去勢されているので、子は生めないが、養子をとることは許されている。曹騰は曹嵩《そうすう》を養子にした。この曹嵩の出身はよくわからない。曹家ゆかりの人間でもないらしい。後年、三国の戦いがはなやかになったとき、曹操の敵はきまって、
──宦官の家の子、どこの馬の骨かわからない乞食の子。
などと彼を罵《ののし》ったものである。
一説に曹嵩の実家の姓は夏侯だったともいう。
むろん曹嵩は、ふつうの人間である。というのは、去勢されていない者という意味だが、父の七光りで官界を累進《るいしん》した。その曹嵩の生んだ子が曹操だったのである。
曹騰の蓄財によって、曹家は当代随一の富豪となっていたはずだった。財富のあるところ、蜜にあつまる蟻《あり》のように、おおぜいの人が集まる。そして、うわべではおためごかしを言っていても、うらでは、
──腐れ者。
と、陰口を言い合っていたのだ。
曹家の富が巨大であったから、陰口もそれだけスケールが大きかったのであろう。
そんな陰口はけっして曹家の人たちの耳に入らないが、頭脳|明晰《めいせき》で多情多感の曹操は、少年のころから、聞こえざる罵詈《ばり》を、はっきりと胸にかんじとっていた。
去勢者を人間の腐ったものという。去勢の刑は、宮刑《きゆうけい》ともいうが、別に腐刑《ふけい》とも呼ばれている。
人間扱いにしないのだ。聖人といわれた孔子は、衛の霊公が宦官の雍渠《ようきよ》と同じ車に乗ったのを知って、
──ああ、けがらわしい。
と、衛を立ち去ったという。
大差別である。
曹家は養子によって、ちゃんと子を生み、ふつうの人間になっているのに、二代前が宦官であったことで、いまだに差別を受けているのだ。
大富豪の息子として、曹操も名門の子弟と交際して育った。だが、彼は友人たちの表情から、差別されていることを察した。
少年のころ、口惜しくて父の前で、思わず涙をこぼしたことがあった。
「いいではないか」と、父の曹嵩は悲しげな顔で言った。──「だから、このわしは、一生懸命に勉《つと》めて、その恥を拭《ぬぐ》い消そうとしておるのじゃ」
曹嵩はもと司隷校尉という中級官吏であったが、霊帝が『売官』をはじめたので、つぎつぎに要職を買った。そして、最後に一億銭で、『太尉』の官位にありついた。これは宰相と肩をならべる地位である。
曹嵩は中平四年十一月に、崔烈《さいれつ》の後任として太尉になり、翌年四月には辞職している。
「どうして、そんなに早くやめるのですか?」
と、曹操は父にたずねた。
「いいではないか」と、父は口癖の文句を言ったあと、「おまえが新設の西園八校尉に任命されることがきまったのだから」
子煩悩《こぼんのう》な父親であった。息子の浪人中に、なんとか頑張ってみようとしたのである。曹嵩には政治的な抱負もなければ野心もない。一億銭で太尉の官位を買ったのも、どうやら息子に箔《はく》をつけてやりたいためだったらしい。浪々の身ではあっても、
──太尉の子。
ということで、復帰の日には、有利な条件になるだろう。
曹操は腹のなかで、父親のそのような、ちっぽけな配慮を嗤《わら》っていた。
「浮屠の平等の教えは気に入った」
と、曹操は言った。
(では入信なさいますか?)
陳潜はそう言いたかったが、思いとどまった。もしそんなことを口にすれば、
──では、おぬしはなぜ入信せぬのか? 白馬寺の客人となっていながら。
と、きびしく反問されるだろう。
その点、曹操はきびしいのである。理に合わないことは承知しない。
「浮屠の者が施薬《せやく》して歩いているそうじゃが」
曹操は話題を変えた。
じつは仏教信者の月氏の人たちは、托鉢行脚《たくはつあんぎや》をしたかったのだが、当時の漢族の大部分は、仏教については無知であったので、それは時期尚早とされた。そのかわり、托鉢のように、歩きまわって、人びとに薬を施す行事を考えついたのである。
たいてい十数人がチームとなり、経文を唱えながら歩く。このごろは、漢族の信者もやや増えはじめたが、大部分が毛色の変わった月氏の人なので、どこへ行っても好奇の目で見られる。
人が集まり、薬を施す。──これが評判にならないわけはない。しかも、その薬がよく効いたのである。
浮屠者の施薬行。──
これは洛陽付近では名物になった。
従来、仏教は在留月氏族の信仰の対象にすぎなかった。白馬寺も、月氏の人たちの信仰の場として建立《こんりゆう》された。
ありがたい教えであるから、中国にもひろめようという熱意は、信者のなかでも稀薄であった。布教するにしても、どのように説明してよいか、わからなかったからである。
ところが、月氏の学僧|支婁迦讖《しるかせん》が、洛陽において大乗教典の漢訳を、約十年前から手がけはじめた。『道行般若《どうぎようはんにや》』『般舟三昧《はんしゆうさんまい》』『首楞厳《しゆりようごん》』など十四部の経典の漢訳が完成したのは、じつにこの中平六年のことである。
訳経があれば、布教もやりやすい。また布教の意思があったので、訳経がはじめられたと考えてもよいだろう。
「このごろでは、漢人も施薬行のなかに、何人かまじっておりますようで」
入信をすすめるかわりに、陳潜はそんなふうに、現況を説明した。
「歩く範囲もひろくなったようじゃな」
「はい、ずいぶん遠くまで参っております。燕《えん》(北京付近)まで足をのばしているとかきいております」
「わしの郷里にも、ときどきあらわれるそうじゃが、施薬行の者なら、どこへでも通行が自由らしい」
「どこにもお目をかけてくださるお方がおりますようで」
と、陳潜は答えた。
仏教は地方の世話役といわれる人たちのあいだに、まず浸透しつつあった。平等の教えはともかく、布施の思想は、世話好きな人にとっては、自分の行為の哲学的基礎のように思われたのだ。
「薬をくれるのだからな、それも無料で」
曹操はそんなふうに功利的な面から解釈した。
「ま、そうでございましょう。……」
陳潜はあいまいに相槌《あいづち》をうった。
曹操はそのあと、浮屠の教えについて、数項目の質問をした。陳潜はときどき拳《こぶし》で汗を拭《ふ》きながら、知っているだけのことを答えた。旧暦四月にもなると、洛陽はもう夏模様といってよかった。
「私の知識はこのあたりで行きどまりでございます。もっとくわしくご存知になりたいのでしたら、白馬寺へおいでになり、長老支婁迦讖さまの訳文をごらんになれば、よろしゅうございましょう。ご質問に、もっと深くお答えできる者もいるはずですから」
陳潜はそう言って、放免を乞うつもりで、曹操を見上げた。
大きい。──女を見舞ったり、女のことを考えているとき、曹操は小さくなるのだ。愛らしくなるほど小さく。そして、心が女から離れると、このように大きくなる。
「ほう、このあいだ、死ぬまで書生のつもりでいると言ったが、なるほどのんびりしておるわい」
と、曹操は言った。あんがいほめているつもりかもしれない。
「はい、おそれいります」
「昨日、日食があった」
曹操はとつぜん別のことを口にした。
「さようでございましたな。……まちでもなんの前兆だろうかと、いろいろと取沙汰しておりましたが」
話をしているうちに、陳潜も曹操の飛び石話法に、ついて行けるようになった。
「日食はちゃんと計算できるそうだ。なんの前兆でもない」
二世紀の人間にしては、このまえの邪教|淫祀《いんし》の禁令といい、曹操はきわめて合理的な考え方をする。
(このような人物が、なぜ浮屠の教えに興味をもつのだろうか?)
陳潜はふしぎにおもった。
「さようでございますか」
「今上陛下は病床にあるときく」
またしても、曹操の話題はとんだ。
日食が前兆ではないと言いながら、前兆を暗示するようなことを口にしたのである。
「さぁ、そのことは聞き及んでおりませぬが」
と、陳潜は用心しながら答えた。どこでどのような逆転があるかしれない。
「近いうちに、白馬寺を訪ねよう」
これが曹操のしめくくりの言葉であった。
「帰りましたら、長老に申し上げておきましょう」
陳潜は背中ににじんだ汗が、ひんやりするのをかんじながら、そう言って頭を下げた。
日食があったのは、四月|朔《ついたち》と記録されている。
霊帝が南宮嘉徳殿《なんぐうかとくでん》で死んだのは、日食のちょうど十日後のことだった。享年三十四。
──こんどは陛下も危いのではあるまいか。……
宮中でそんな声が囁《ささや》かれはじめたのは、霊帝の死ぬ五日ほど前からだった。
霊帝の宮廷は、複雑な派閥で構成されている。
後漢政界はつねに、清流と濁流が抗争していた。貴族や官僚が自分たちを清流と称し、宦官を濁流とおとしめたのである。宦官側は自分たちを皇帝の側近と称し、それ以外の諸官を『党人』とけなしていた。
だが、党人同士がすべて一致していたのではない。おなじように濁流のあいだにも、利害が相反したり、性格が合わない、といったケースがあった。
女性が関係してくる。
霊帝の皇后は何《か》氏で、これは肉屋の娘だったのが、宮女選抜の使者に賄賂《わいろ》をおくって、まんまと入内《じゆだい》し、チャンスをつかんで皇后に出世したのである。
この何皇后の異母兄の何進が、『大将軍』として、権勢をほしいままにしていた。
何皇后は辯《べん》という皇子を生んだ。
霊帝には母親がいた。董《とう》太后である。
彼女の兄の子|董重《とうじゆう》は票騎将軍として、かなりの兵力を掌握していた。
そもそも董太后は、皇后から皇太后になったのではない。彼女は皇族の一人|解★[#さんずい+賣]亭《かいとくてい》侯の夫人であった。|解★[#さんずい+賣]亭侯は後漢三代皇帝である章帝の第五子河間孝王の四代目というから、皇族とはいっても、皇室との間柄はかなり遠いものになっている。
ところが、桓帝が子がなくて死んだので、諸侯の子のなかから霊帝が後継者にえらばれたのである。桓帝の皇后|竇《とう》氏が生きていたので、霊帝の母の董氏は、子供をとりあげられた形で、『貴人』という称号を与えられて田舎にとどまっていた。
桓帝未亡人の竇太后が死んではじめて、実母の董氏が迎えられ、太后に昇格したという、ややこしいケースである。
この董太后は息子の嫁の何皇后のことを、あまりよく思っていなかった。どこにもある嫁と姑《しゆうとめ》の関係である。
霊帝は別に王という愛妾《あいしよう》に子を生ませていた。その子の名を協というが、母親が何皇后に毒殺されたので、董太后が養育していた。
霊帝ははじめ、子を生むたびに死なせたので、何皇后が辯を生んだとき、当時の習慣に従って、他家に預けることにした。そうすれば、禍《わざわい》を免れるという迷信があったのだ。
皇子の辯は、史子眇《ししびよう》という者に預けられたので、『史侯』と称された。
おなじように、董太后に育てられている協は『董侯』といわれた。
史侯と董侯。──皇位継承候補者のこの二人の皇子をめぐっても、史派、董派と分かれて暗闘があったのはいうまでもない。
──早く太子をお立てになってください。そうすれば、派閥争いもすくなくなりましょうから。
と、霊帝に進言する者はすくなくなかったが、立太子は実現しなかった。
史侯の辯と董侯の協は、比較にならないほど、その資質に差があった。霊帝が死んだとき、辯は十四歳であったが、これは暗君といわれた父親でさえ眉をひそめるほどの、軽佻《けいちよう》で威儀に欠けた少年だった。協は九歳にすぎなかったが、利口でしっかりしていた。
では、優劣ははっきりしているから、考えることはなさそうに思える。
だが、霊帝は何皇后がこわかったのである。心のなかでは、協がよいと思っても、そう決めたとき、何皇后にどんなにうらまれるか。といって、辯は器量に劣っているし、彼を太子とすれば、母親の董太后が怒るのは目に見えている。
だから、霊帝は立太子の問題を、ほったらかしていたのである。
しかし、自分の命がそんなに長くないとわかったとき、さすがの霊帝もあとのことを考えた。
霊帝は蹇碩《けんせき》を病床に呼び、協を頼むと遺言したのである。
蹇碩は宦官であるが、堂々たる体躯《たいく》をもった人物で、霊帝は彼を西園八校尉を統率する上軍校尉に任命していた。
大将軍として何進が軍権を一身に集中するのをおそれ、その対抗者をつくろうとしたのだが、これは霊帝にすれば上出来の策略といわねばならない。
霊帝が死んだとき、蹇碩は宮中にいた。
彼は状況を分析した。
辯──何皇后──何進
協──董太后──蹇碩
この両派が並び立たないとすれば、蹇碩のとるべき行動は、何進を除くことである。
彼はこのような、直線的な分析しかできない。このしごく単純な派閥表のうえには、じっさいにはさまざまな人脈の、複雑な線が書き加えられねばならない。だが、蹇碩はそんな面倒なことをしなかった。
霊帝が彼に後事を托したのは、やはりミスキャストだったといわねばならない。外見の威風堂々さを見ただけで、人物だと信じたのはいかにも霊帝らしいのだが。
「陛下は崩御された。我輩は遺勅を奉じて皇子協を擁立するが、そのためには大将軍の何進を誅殺《ちゆうさつ》しなければならん。陛下崩御の後事を相談したいと、何進を宮中に呼びいれ、いきなり斬《き》ればことはかんたんであろう」
蹇碩は部下のおもだった連中を集めて、そんな相談をしたのである。
協議はまとまり、使者を出して何進を迎えることになった。
だが、蹇碩が考えていたほど、ことはかんたんではなかったのである。第一に、蹇碩は身辺の人脈系図さえ、しっかりと把握していなかった。
蹇碩の部下の藩隠《はんいん》は、何進とはふるいつき合いがあった。
皇帝死去のしらせに、何進は宮中に入ろうとしたが、門のところに藩隠が待っていた。
──迎えて之《これ》を目《もく》す。
と、『後漢書』に藩隠の行為を記している。
目くばせしたのである。ほかの者が見えぬように首でもかすかに振ったのかもしれない。
何進はその意味を悟り、いそいでひき返し、ただちに兵を率いて、百郡邸に入った。百郡邸とは、百余もあった郡国の藩邸のことである。そこに兵を入れると、宮中を制することができたのだ。
こうして大将軍何進は、兵力をバックにして、皇子辯を擁立することに成功した。
蹇碩は皇帝の死を一ばん早く知りながら、兵を身辺に集めずに、むざむざとその有利な立場を台なしにしてしまった。
その後、蹇碩のとった行動も、人脈にたいする研究不足という、前とおなじ過《あやまち》をくり返したのである。彼は宦官仲間の主だった者に密書を送り、
──何進は天下の党人と共謀して、われわれ先帝の側近を皆殺しにしようとしている。ただ私が近衛《このえ》兵を統率しているので、しばらく手をつけないだけである。事態がこうなったからには、先手をうって、何進をとらえて誅殺しようではないか。
と誘った。
おなじ宦官といっても、何進に近い人物もいる。中常侍の郭勝《かくしよう》は、何進と同郷であった。その郭勝が宦官のリーダー格の趙忠に、
──蹇碩のような、粗雑な計画しか立てられない男の誘いにのってはなりませぬぞ。
と説き、その密書を何進にみせることにした。
何進はそれを証拠に、蹇碩をつかまえて処刑し、その部隊を自分の手におさめた。
蹇碩は外見に似ず、お粗末な人物であったが、何進が宦官を皆殺しにする意向をもっていたことだけは、正しく見抜いていた。
たしかに何進は宦官を憎んでいたのである。
黄巾の乱で大揺れした後漢の王朝は、霊帝の死によって、事実上、崩壊したと考えてよいだろう。
「天下大乱じゃな。……」
曹操は庭の隅に蓆《むしろ》を敷き、そこで膝を抱えて呟《つぶや》いた。不吉な大乱という言葉を口にしながら、彼は白い歯をみせて笑った。
「そんな世迷《よま》い言《ごと》いわずに、どうじゃ、やってみようじゃないか。……さ、答えてくれ」
と、客は言った
客はあぐらをかいていた。
幼馴染《おさななじみ》の袁紹《えんしよう》である。洛陽の遊侠《ゆうきよう》少年だったころ、二人が組んで花嫁|掠奪《りやくだつ》遊戯をやったことは、前にも述べた。
宦官を祖父にもつ曹操とちがって、幼馴染とはいえ、袁紹の家は比較にならないほどの名門であった。
官僚の最高位は、司空、司徒、太尉のいわゆる三公で、これをふつう宰相という。ところが袁家はこの四代、つづけて五人の三公を出している。
──おれは清流の代表者である。
袁紹はいつもそんなふうに意気込んでいた。
皇帝の側近にあって、悪いことばかりしている宦官にたいして、この名門の坊ちゃんは、きわめてストレートな義憤を抱いていた。
この日も袁紹は曹操を訪ねて、
──これは宦官を絶滅する絶好の機会ではないか。この世から、あのような虫けらが、一匹もいなくなれば、どんなにせいせいすることか。
と、宦官皆殺しの相談に来たのである。
袁紹はこのとき、西園八校尉の一人、中軍校尉であった。おなじ師団長同士という関係で、兵をうごかして、クーデターをやろうと誘っているのだ。
「答えてくれとは、いったいなんのことだ?」
曹操はきき返した。
「なんだ、耳に入っておらなんだのか。あの腐れ者の宦官たちを一掃することだ」
袁紹はじれったそうに言った。
「ああ、そのことか。……」
曹操は抱いていた膝を、まっすぐのばした。
心のなかで、
(坊ちゃんはしようがないものよ)
と思っていた。軽蔑《けいべつ》に近い感情であるが、いささか羨望《せんぼう》もまじっていた。
宦官皆殺しの相談を、この男は宦官の孫にもちかけている。そのおおらかさは、やはりほんものの名門の子弟ならではであろう。
「どうだな?」
短兵急《たんぺいきゆう》なところも、袁家の人らしい。
顕門《けんもん》名族とのつき合いがどんなに多くても、曹操はこの男のようにはなれない。根っからの名家の出身ではない。暗い影を背負っている。その影との戦いが、彼に課せられた人生といってよい。
「うまく行くかな?」
と、曹操は気のなさそうな口調で言った。
「うまく行くさ」
「どうして?………今日きいた話では、何進大将軍は皇太后に、宦官誅殺の進言をして、退《しりぞ》けられたそうじゃ。いくら兄上の進言でも、皇太后にすれば、宦官が一人もいなくなれば、不便で仕方がないであろう。……大奥の雑用は誰がするのだ?」
「大奥の雑用なんぞ、たいしたことはない。宮女でもけっこうできるはずだ」
袁紹は楽観論者である。
「わしの意見を言おう」曹操はまた膝を抱いた。きまりきったことを言うのは、うんざりする、といった思い入れで、「宦官の専横はたしかに憎むべきだが、皆殺しすることはあるまい。元凶《げんきよう》を一人殺せばすむことだ。そして、そのあと宦官に、政治的な権限を与えぬことを宣言すればよい」
「おまえは悠長《ゆうちよう》なことを言っておる。そんななまぬるいことではだめなのだ。思いきったことをしなければ……」
「無理はいかんぞ。失敗の可能性が大きい」
「なぁに、万全《ばんぜん》を期しておるわい。大将軍は宦官誅殺が、天下の公論であることを示すために、四方の猛将、豪傑に召集をかけておるのじゃ」
「なに、地方の将軍に?」
それは初耳であった。
「そのとおりじゃ」
「危ういかな」
「なにが?」
「并《へい》州の牧《ぼく》、董卓《とうたく》も誘ったのか?」
「むろんだ。彼に声をかけなければ意味はない。西では最高の実力者ではないか」
「実力者には違いないが。……」
なにをか言わん。──曹操はそう思った。
実力者かもしれないが、董卓は利のあるところ義を知らず、人情|酷薄《こくはく》といわれた武将である。そのような人物をひきいれて、将来にどのような禍根《かこん》をのこすか、この連中は考えたことがあるのだろうか?
このころ、最も大きい行政区画の『州』は、長官の名称が、刺史《しし》から牧に変わっていた。刺史は民政長官だが、兵権をあわせもって牧と改称したのである。戦前の日本でいえば、県知事と師団長を兼任したようなものなのだ。
「どうだ?」
と、袁紹は身をのりだした。
「考えておこう」
と、曹操は答えた。
妹が皇后になったばかりに、肉屋から出世した大将軍の何進は、ピエロの役をつとめた。
宦官に大きな反感をもっていたのは、貴族士族の名門であった。庶民の出身である何進は、生まれながらの貴族ではないだけに、よけい、『貴族』の立場に立とうとした。
袁紹に吹きこまれたこともあるが、宦官|征伐《せいばつ》については、彼自身も力を入れていたのである。これまでに、宮廷から宦官勢力を一掃したという人物はいない。だから、このことが成功すれば、史上に名をのこすことができるのだ。
やはり何進は、彼がそうなりたいと願っていた貴族ではなかった。貴族はもっと用心深いものである。人を疑い、ものごとの裏をたしかめようとする。宮廷遊泳術は、さぐりのテクニックなのだ。庶民の何進は、それだけに人が好かった。もし彼がほんものの貴族であれば、むざむざと殺されはしなかったであろう。
──太后のお召し。
という使いに、のこのこと参内《さんだい》した。
新帝は未成年なので、太后が摂政《せつしよう》となっていた。女の身だから、よくわからないことや、迷うことが多い。そんなときは、実家の兄貴は気のおけない相談相手になる。
(これからも、たびたびこんなお召しがあるだろう。わしも忙しいことである。……)
まんざらでもない。肩を揺すりながら、宮門を入ったところで、宦官側につかまり、あっけなく殺された。
「大将軍、謀反《むほん》せり! すでに誅に伏す」
と、血をみて興奮した宦官たちが、宮中を連呼《れんこ》した。
宮中には袁紹の従弟の袁術が、精鋭二百の近衛兵を率《ひき》いて警備にあたっていた。
「謀反は宦官ばらぞ!」
袁術のこの叫びが、未曾有《みぞう》の大惨劇開始の合図となった。
「宦官という宦官はみなごろしだ!」
「一人も剰《あま》すな!」
兵士たちは抜刀して、宦官狩りをはじめた。
あちらで血しぶきがとび、こちらで割られた頭のなかから脳髄が流れ出る。
南宮嘉徳殿青瑣《なんぐうかとくでんせいさ》門に火の手があがった。重要宦官をいぶり出そうとするのである。
袁紹も兵を率いて宮中に乱入した。
このときに殺害された宦官は二千余人であったという。なかには、ひげがないために、宦官とまちがえられて、首を刎《は》ねられた者もいた。去勢した男は、中性化してひげが生えないのである。
宮中で奇妙な光景が見られた。
大の男が、前をひろげて、男性のシンボルを露出させているのだ。まちがって殺されては大へんである。ちゃんとそのモノがあることを、そんなふうに示したほうが賢明というものだ。
宦官の頭《かしら》株の何人かは、皇帝とその弟の陳留王を奉じて、ひそかに宮城外に逃れたが、西方から董卓の軍勢がやってくるのを見て、もはやこれまでと観念した。
部隊の先頭に、
──討|閹奸《えんかん》
と、大書した旗がかかげられていた。閹とは去勢のことで、奸悪な宦官を討つべし、というスローガンなのだ。
宦官の巨頭たちは、つぎつぎと黄河に身を投げて死んだ。
董卓は労せずして、皇帝兄弟を手に入れた。
腐っても鯛《たい》である。衰えたりといえど、漢の皇帝は最高の切り札なのだ。皇帝を擁《よう》していたからこそ、宦官たちの専横も通用したのである。
いま董卓は切り札を握った。
洛陽に乗り込んだ董卓は、あろうことか皇帝の廃立をおこなった。
「十四歳の皇帝は、まるでおち着きがない。九歳の皇弟のほうが、ずっとりっぱである。皇帝の器量をそなえている。いまのうちに、交替させるべきである」
と、董卓は重臣たちに相談した。
いや、相談といったものではない。それを押しつけたのである。弟の協のほうが、兄よりもすべてにつけてすぐれていることは、誰もが認めるところであった。だが、いったん即位した皇帝を廃することは、ただごとではないのである。
董卓は諸臣に、廃立のことを押しつけ、反対する者は敵、賛成するものは味方と、色分けしようと思ったのだ。
袁紹はいちはやく冀《き》州に逃げた。
貴族の嗅覚《きゆうかく》によって、みやこ洛陽に長居は無用と判断したのである。
董卓は切り札を握り、兵力を握っている。つぎに彼が採《と》るであろう行動は、ライバルを倒すことなのだ。現在の洛陽で、董卓に対抗できる実力をもつといえば、その筆頭に袁紹を挙《あ》げねばならない。彼のうしろには、袁一族がひかえている。董卓はこのライバルを、なんとかしようと考えるはずだ。それを読んで、袁紹は先に手をうった。
「これはいかん。……」
袁紹が洛陽を出奔《しゆつぽん》したというしらせをきくと、曹操はそう言って、うーむ、と唸《うな》った。
袁紹の脱出によって、警戒は厳重になるだろう。洛陽を脱け出すことは、しだいに困難となるはずだ。
袁紹のつぎの実力者といえば、もう曹操の名があげられるのである。
やがて、董卓から曹操のところに使者が来た。
──驍騎《ぎようき》校尉に就任して、わしを助けてほしい。
というのである。
「いずれ、あらためて返事の使者を送ることにいたす」
その場はそう答えておいた。
官職を与えて実権をとりあげ、あとは煮て食おうが焼いて食おうが、切り札をもつ董卓の気のままではないか。
九歳の皇弟は、すでに即位している。
これが後漢最後の皇帝となる宿命をになった献帝である。──
十二月。──
洛陽の東。
聖なる嶽といわれる嵩山《すうざん》が見える。
その麓《ふもと》で四年まえ、陳潜は曹操に会った。曹操はそのとき、黄巾の乱を伐《う》つ政府軍の司令官であった。そしていま、彼はねずみ色の粗末《そまつ》な服をまとい、わらじをはき、さくさくと霜《しも》を踏みしだいて、東へむかっている。陳潜はその曹操と肩をならべている。
一行は十五人であった。
──浮屠《ふと》の施薬行。
として、このごろ巷間《こうかん》で評判になっている慈善|行脚《あんぎや》隊である。
西域の名薬を無料で施《ほどこ》すのだから、人びとによろこばれ、尊敬されたものだった。
容貌からみて、この一行もほとんどが月氏の人であるらしい。だが、よく見ると、漢族と思われる顔が二つあった。これもまた、最近の施薬行の特色である。以前は全員が月氏人だったが、このごろはかならず漢人が一人か二人はまじっている。
──南無阿弥陀仏。……
と、一行は声をそろえて唱《とな》える。
月氏僧|支婁迦讖《しるかせん》は、この年にその訳経を完成させていた。
「このごろは、ありがたい浮屠の|まじ《ヽヽ》ない《ヽヽ》も、漢音で唱えるようになったようじゃな」
「いずれにしても、この寒空に、ほんとうに善《よ》い人たちじゃのう。……」
「ほんに、ほんに……」
道行く人たちが、そう話し合っている。
朝から曇り空であったが、午《ひる》すぎになって、薄日がもれてきた。
道路の霜もとけ、夕方までは泥濘《ぬかるみ》に足をとられながらの難行軍であった。先頭の月氏僧は、思い出したように、経文を唱え、一行は唱和した。経を唱える声は、いっこうに疲れたように思えない。
「もう大丈夫でございましょう」
と、陳潜は曹操に囁《ささや》いた。
「まだ気は許せぬ。……董卓のやつ、わしの出奔にそろそろ気づくころじゃ。さっき追い越して行った早馬が気になる。……わしのことを、各地の役人に伝える使者かもしれない」
「そうでございましょうか。……」
「しつこいやつなのじゃ」
「しかし、曹操さまも、健脚でございますな」
「武将はきたえてあるものじゃ」
曹操は片頬に笑《え》みをうかべた。
厳重な戒厳《かいげん》下の洛陽を、曹操は施薬行の一員に変装することによって、無事に脱出したのである。
このたびの施薬行は、曹操のたっての頼みで、急遽《きゆうきよ》編成されたのだ。
「人助けが浮屠の趣旨であろう?」
と、強引に長老を口説《くど》いたのである。
「よろしい」と、長老は答えた。──「あなたが将来、わたしたちをお助けくださるかもしれませんから。……ご縁がございます。浮屠の縁と申しましょうか」
白馬寺から、寒空の下にかりだされた月氏僧たちも、ひとことも不平がましいことは口にしなかった。
「えらいものじゃ。……」
夕方に近くなったころ、曹操はぽつりと言った。
「なにがでございますか?」
「浮屠の者たちのことじゃ。……わしを怨《うら》みもせずに、いや、むしろ、よろこんでくれているようじゃが」
「布施《ふせ》の機会が与えられましたので、一同はよろこんでおります」
「これは強い力になる。……苦しみをよろこびとする兵士……これはもう無敵の軍隊になることはまちがいない」
「浮屠の者は兵になりませぬ」
「どうしてもならぬか?」
「彼らが兵になるのは、浮屠の信仰を守るときだけでございましょう」
「そんなものか。……」
曹操はそう言って、口を噤《つぐ》んだ。
陳潜も別のことを考えはじめた。
浮屠の布施の精神を、五斗米道にとりいれることはできないであろうか? この施薬行から戻《もど》れば、さっそく巴《は》に手紙をかこう。──報酬をもとめない善行のこと。苦しむ人たちを救う施薬のこと。……
中牟《ちゆうむ》という県城に着いたのは、もう日も暮れかかったころだった。
まちに着くと、施薬行の一行は、まず県の役所に出頭して、薬を渡すのである。田舎では人びとにじかに渡すが、まちでは人だかりがして、とても捌《さば》ききれない。そこで、県に一括《いつかつ》して渡すという方法が採られた。もっとも、この方法については、教団のなかでも批判があるが、ほかに良い方法がみつかるまでは、とりあえず、つづけることにきまった。
「おう、ご苦労、ご苦労。いつも奇特なことであるぞ。人民どもも、そのほうたちがつぎに来るのを待ちうけておった」
と、県の書記が言った。
施薬行の十五人は、役人の前にならんで、挨拶《あいさつ》をした。陳潜は一ばん端で、役人の机のすぐそばにあったが、なにげなく机のうえの書類を見て、思わず息をのんだ。
──亡人曹操
という字が目に入ったのである。亡人とは逃亡した人という意味なのだ。その下には、曹操の人相を記《しる》しているようだった。
陳潜はそっと横をみた。
曹操はなにくわぬ顔で、天井を見上げているのだった。
陳潜はその肘《ひじ》をつついた。
曹操はカンの鋭い人物である。顔は天井にむけられたままだが、ちらと視線を机のうえにむけ、その書類を読んだ。
しかし、表情は変わらない。
薬を受取った県の書記が、このとき、曹操の顔をみて、心もち首をかしげた。さきほど京師《けいし》から届けられた、人相によく似ていたからである。
カッカッと、靴を鳴らして、書記は机のほうへ急いだ。ともかく、もういちどその人相書を見ようというのであろう。歩いているあいだも、視線を曹操から放さなかった。
それでも、曹操は表情を変えない。自分の人相書がまわっていることは、知っているはずなのに。
このとき、部屋の隅にいた一人の功曹《こうそう》が、椅子から立ちあがって、曹操のほうに近づいてきた。
功曹とは、功績を記録する役人で、さしずめ勤務評定係というところであろうか。
「おや、誰かとおもったら、琅邪《ろうや》(山東省)の呂淵《りよえん》さんじゃありませんか。……風の便りで、あんたが月氏の白馬寺に入ったという噂《うわさ》をききましたが。……まさかお忘れじゃないでしょう。おなじ村の許礼《きよれい》ですよ」
その功曹は、曹操にむかって、そう話しかけた。
(人違いかな。……)
陳潜が一瞬そう思ったほど、功曹の態度は自然であった。
それにたいする曹操も、しごく落ち着いて、不自然なところはすこしもなかった。
「ああ、許礼さんですか。私もよく似た人がいると、さっきから気がついていたんですが、人違いだったらいけないと、声をかけるのをひかえていたんですよ」
と、曹操は言った。
陳潜はことの次第《しだい》がわかった。
功曹は曹操に気づいていたが、どうしたわけか、助けようという気になったらしい。
その動機はわからない。曹操ファンなのか、純然たる人情からなのか、あるいは、有力者に恩を売って、将来なにかを得ようとする功利的な考えからなのか。──
曹操も臨機応変《りんきおうへん》、許礼という功曹と手をとり合い、
「なつかしいですなぁ。……」
と、抱き合わんばかりの、親しさを演じてみせたのである。
「なんだ、許さんの同郷の人でしたか。……私はその……いや、なんでもありませんよ、ちょっとね。……」
書記はばつの悪そうな表情で、人相書ののっている机からはなれた。
こうして曹操は危機をのがれ、父親のいる陳留まで、無事におちのびることができた。
作者|曰《いわ》く。──
曹操の脱出行については、『魏書《ぎしよ》』にはつぎのようなエピソードを伝えている。
太祖(曹操)は、数騎を従えて、成皋《せいこう》にいる旧知の呂伯奢《りよはくしや》の家を訪ねた。伯奢は不在であったが、その子と居候《いそうろう》たちが、太祖の馬や荷物を掠奪《りやくだつ》しようとしたので、太祖は抜刀して彼らを斬り、数人を殺した。云々《うんぬん》。
これなら正当防衛である。
ところが、『世語』には、伯奢は不在だったが、五人の息子たちが、親切にもてなしたことになっている。それなのに曹操は、追われる身、疑心暗鬼をうみ、密告されては一大事と、彼らを斬ってすてて逃亡した。……
ノイローゼだったかもしれないが、款待《かんたい》してくれた人たちを殺すなど、許しがたい行為といわねばならない。
孫盛の『雑記』には、曹操は食器の音をきいて、呂氏一族に異心があるのかと疑い、彼らを殺し、
──わしが他人を騙《だま》してもいいのじゃ。他人がわしを騙すことは許せぬが。
と、うそぶいたことになっている。
講談本の『三国演義』では、曹操は呂伯奢の息子たちを斬殺して、そのまま道を急いだが、途中で呂伯奢に出会う。行きすぎたあと、曹操はとって返して、呂伯奢まで斬ってすてた、とある。そのままやりすごせば、呂伯奢は家に帰ってから、息子たちの死骸《しがい》を発見し、曹操に深い怨みを抱くようになるだろう。だから、いまのうちに斬り殺して、将来に禍根をのこさないようにしたのである。
正史の『三国志』には、
──太祖すなわち姓名を変易《へんえき》し、間行東帰《かんこうとうき》す。
とあり、中牟県で疑われたとき、彼を見知っている者に救われた記事はのせているが、呂伯奢の家に寄ったことは、一行も記されていない。
正史『三国志』の作者|陳寿《ちんじゆ》は、曹操の魏と対抗した蜀漢の遺臣であった。また編述の時代は、すでに魏王朝はなく、司馬家の晋《しん》がとってかわっているころなのだ。つまり、作者は曹操になにも遠慮する必要はなかったばかりか、どちらかといえば、曹操の悪行を、ことさらに書き立てる側にまわる可能性があった。それにもかかわらず、その忘恩の殺戮《さつりく》を述べていないのは、筆を省《はぶ》いたのではなく、そのような事実がなかったからではあるまいか。
判官びいき(ここでは蜀漢びいき)のために、曹操は悪役として、ずいぶん身におぼえのない悪業を、おしつけられたことだろう。これもその一例といえるのではあるまいか。
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洛陽《らくよう》、わが手《て》にあり
好奇心のつよい人たちだ。
信仰の中心『白馬寺』に集まってくる、仏教徒月氏族の人たちについて、陳潜《ちんせん》ははじめのうち、そんなふうにかんじていた。
だが、それがただの好奇心でないことは、彼らとつき合いを深めているうちに、しだいにわかってきた。
いろんなことを知りたがるのは、すこしでも多く情報を集めたいからにほかならない。集めた情報を分析して、自分たちの身の処し方を決定するのだ。生きのびるために、あらゆることを知りたいのである。命がけの情報集めであって、退屈しのぎの好奇心ではなかった。
(見習わねばならない)
と、陳潜はおもった。
彼の所属する、道教『五斗米道《ごとべいどう》』も、仏教に学ばねばならぬ点が多い。どちらも人間のたましいの、よりどころになろうという、使命感をもっている。月氏族のほうがより真剣であるのは、異民族としてこの地に住んでいるという、特殊な条件によるのであろう。
「ところで、陛下を奉じて宮城を逃れた宦官たちが、河に身を投げて死んだのは、たしかに董卓《とうたく》将軍の軍勢を見たからなのか?」
と、支英は訊《き》いた。
眼光するどい支英は、洛陽居留月氏族のリーダーの一人である。
訊かれたのは、当時としては、数のすくなかった漢族信者の張《ちよう》という者であった。彼はその日、洛陽城外の少平津《しようへいしん》の近くにいて、まったく偶然、皇帝の首都脱出後のようすを目撃したのである。
『津』とは、渡し場を意味する。だから、河のそばには、この字のついた地名がすくなくない。現在でも、洛陽市の北に孟津《もうしん》という県がある。後漢時代の小平津も、そのような渡し場であった。地名に『小』の字があるのでもわかるように、にぎやかなところではない。河のそばの、ひっそりとしたところで、民家は何軒もない。
張はそこで夜釣りをしていたのである。
彼は魴《ほう》のよく釣れる場所を知っていた。
魴は日本にはない魚である。扁平《へんぺい》な姿をしているので、むかし中国に在留していた日本人は、『ヒラウオ』と呼んでいたそうだ。小骨は多いが、たいそう美味である。
豈《あ》にそれ魚を食うに
必ず河(黄河)の魴ならん
という句が『詩経』のなかにある。
魚を食べるのに、黄河の魴に限るということはあるまい、という意味だ。ほかの魚で辛抱してもいいだろう、とアドバイスしている。この詩は、「妻をめとるに、斉《せい》の美女でなくてもよかろう」とつづく。斉の美女は最高の別嬪《べつぴん》であるが、あまり高望みせずに、ほかの女で我慢しようじゃないか、という大意である。だから、黄河の魴が、むかしから、きわめて珍重されたことが想像できよう。
夜釣りのさいちゅうに、皇帝の一行がやって来たのである。むろん、はじめは皇帝だとはわからなかった。
「また火事騒ぎか。……しかし、あれはわしの家とは方向が違う」
洛陽城内に火の手があがっているのを眺めながら、張は釣糸を垂れていた。
そのあたりには堤防があり、張はそれを乗り越えて、水ぎわにいたのである。堤は彼の背のうしろになっている。その堤のうえで、人声がきこえた。
「おいたわしや。……お疲れになりましたか?」
と、小声で訊く。
「いや、疲れてなぞいない」
と、子供の声がすぐに答えた。
「わたしは、もうくたくたじゃ。どこへ行くのじゃ。引き返そうよ。……」
と、もう一人の子供が情けない声で言う。
「兄上、しっかりなさいませ」
さっきの子供が、しっかりした口調で言った。愚痴をこぼしているほうが兄であるらしい。
そのとき、太鼓《たいこ》の音がきこえた。
松明《たいまつ》をかかげた一隊が、堤防沿いにやって来たのである。
「敵か味方か?」
「ともかく、このあたりに身をひそめよう」
「いそいで、いそいで……」
大人たちはおろおろして、堤防をおり、河岸の槐樹《えんじゆ》の根もとに伏せたり、かがんだりした。それが張のすぐそばである。張も釣竿を地面におき、そばの柳の幹に身を寄せた。
盗賊が横行している。身ぐるみ剥《は》がれるのはよいが、命まで奪われてはかなわない。
「ああ、だめです。敵でございます」
と、槐樹のうしろで囁《ささや》く声がした。
「宦官を殺せと書いてあります。……わたくしたちは、もうだめでしょう。あれはきっと、西から来た董卓の手の者です。野蛮人の兵隊が多いときいております。……もう万に一つも助からないでしょう。……」
太鼓をうち鳴らしながら近づく一隊は、十数人にすぎないようにみえた。先頭に旗を立てているが、ならんでいる松明のあかりで、その旗にしるされた字が読める。張は文字を知らないが、槐樹のうしろの人物が、『宦官を殺せ』と読んだので、ようやく事情を察した。
宦官の横暴は目にあまるものがあった。
──いまに天下諸方の将軍が、やつらを殺すためにこの洛陽にやって来る。
巷間《こうかん》にそのような流言が、ひそかにひろまっていた。
(とうとうその日が来たか。……)
張は自分たち庶民には関係のないことだが、とばっちりを受けてはつまらない、とおもった。
息をひそめていると、旗太鼓の一隊は通りすぎた。堤防のうえの足音が、遠ざかるのが、じつに長くかんじられた。
だいぶたってから、疲れきった声が言った。──
「もはや逃れることはできません。彼らが憎んでおりますのは、わたくしども側近の宦官だけでございます。まさか陛下や殿下には、手をかけることはございますまい。……お別れでございます。臣らは、この河に身を投じて、せめて、豺狼《さいろう》の餌食《えじき》になることだけは免れたいと存じます。……」
あとはすすり泣きになった。
張は仰天した。
無学の庶民であるが、陛下や殿下という呼称が、どのような人間について用いられるか、それぐらいの知識はあった。
『陛下』は秦の始皇帝のとき、李斯《りし》の建言によって、天子のみに対して用いるときまり、それ以後ずっと用法は変わっていない。『殿下』は皇太子および諸王にたいして用いる。
(これはえらいことになったぞ。……)
張はひたすら、とばっちりをおそれ、いかにして、この連中から遠ざかろうかと、考えをめぐらしていた。
張が考えるまでもなく、むこうのほうから、この場をはなれてくれる形勢になった。
「まだあきらめるのは早い。行けるところまで行こうではないか」
幼い声がそう言ったのである。
陛下と呼ばれた少年ではなく、殿下と呼ばれたほうである。
(ほう、これは陳留王じゃな。さすが……)
洛陽の巷間にも、『かしこきあたり』のエピソードが、どこからともなくこぼれて、人びとのあいだに囁かれていた。
帝位に即《つ》いた、何《か》皇后の子辯《べん》は出来が悪く、王《おう》夫人の生んだ弟の協《きよう》のほうが、あらゆる点ですぐれている。──これは噂というよりは、公然の事実とされていた。
陛下と呼ばれ、「もうくたくたじゃ」と、弱音を吐いていたのが、十四歳の皇帝辯であり、「まだあきらめるのは早い」と、大人たちを叱咤《しつた》するように言ったのが、陳留王に封じられた九歳の協である。
世評のとおりであった。
九歳の陳留王に励まされて、十数人の宦官たちは堤防にのぼった。ふだんは宮廷でぬくぬくと暮しているので、彼らはうごきがにぶい。たいてい、よたよたと堤防に匍《は》いあがる。闇のなかでも、それは目につかずにはおれなかったのだ。
ふいに蹄《ひづめ》の音がきこえた。
一隊の騎馬武者が、堤防の人影に気づいて駆けつけたのである。
「おお、そこにおわすは陛下!」
松明のあかりで、昇殿|拝謁《はいえつ》を許され皇帝の顔を知っている者が、それに気づき、大声でそう言って、馬からおりた。
「おお、ああ……」
陛下はもうまともに口がきけない。
「臣は河南中部の督郵閔貢《とくゆうびんこう》と申す者であります。宮中に陛下おわさぬときき、急ぎあとを追って参ったのでございます。このたびの乱は、もともと宦官の専横にたいして、大|鉄椎《てつつい》を下したもの、陛下にはかかわりございませぬ。いざ、ご還宮《かんぐう》のお供を仕《つかまつ》ります」
騎馬隊の隊長は、跪《ひざまず》いて言ったあと、すっくと立ちあがった。長身の骨太げな好漢である。彼は宦官どもをにらみつけ、
「おのれら、腐れ者め! おのれらのともがらは、洛陽宮殿内にて、ことごとく死に尽しおった。それなのに、のうのうと生きて、陛下を擁して逃げようとの魂胆、あさまし、あさまし! この場で死ね! さもなくば、この剣におのれらの血を吸わせようぞ」
と、刀を抜いた。
十数人中の宦官のなかで、中常侍クラスの幹部は張譲と段珪《だんけい》の二人であった。この二人は、
「臣らは死にます。おさらばでございます。陛下、殿下、ご自愛ください」
と、いさぎよく身をおどらせて、黄河にとびこんだ。
騎兵隊の将兵は、皇帝兄弟を引取ったあと、逃げまどう宦官たちに剣をふるい、つぎつぎと黄河に蹴《け》おとした。
張はそのあいだ、柳の幹にはりついて、目の前に展開されるシーンを、じっと見ていたのである。
蹄の音が遠ざかって、しばらくたっても、張は茫然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。まるで悪夢である。かんたんに醒《さ》めない。
「おーい、手を貸せやい……」
という声に、はじめて我に返った。
わずかな月あかりに目をこらして、岸から一人の男が匍いあがろうとしているのがわかった。
張はあわてて走り寄り、その男をひきあげた。ずぶ濡れであったのはいうまでもない。
「畜生、あん畜生、おぼえてやがれ!」
と、その男は毒づいた。
「おまえさんは、宮仕えの人だね?」
と、張は訊いた。
「冗談じゃねえや。宮仕えの腐れ者なら、殺されたって文句は言わねえ。おれはやつらに途中でつかまった車|曳《ひ》きなんだ」
そう答えて、男は大きなクシャミをした。
宦官たちは逃亡の途中で、この男を車ごと徴発したという。そのくせ、皇帝たちを車にのせてしばらく行くと、
──車輪の音が敵にきこえる。
と、車をすてさせた。
「それでお役ご免になるじゃないか」
と、張は訊いた。
「そうは問屋がおろさねえ。こんどは陛下をおんぶしろだと……おれが車がわりだい。あん畜生! ……お、いてて……て……」
口は達者であったが、かなりひどい傷を負っている。騎馬隊の将兵も、斬り殺した屍体のつもりで、河に蹴りおとしたのであろう。もっとあかるければ、とどめを刺されてから、投げ込まれたかもしれない。
闇がこの男の命の恩人であった。
張はこの男を、白馬寺に連れて行き、傷の手当をした。
「おれは張ってんだ」
と、その男は名乗った。
「おれも張でな」
「じゃ、おれのこと、車曳きの張と呼んでくれ」
「おれは釣の名人の張と呼んでもらおうか」
「は、は、は……」
この二人の張は、異常な出会いをしただけに、その後も大そう仲が好くなった。
「おれは刀をふりまわすやつに怨みがある。おれを地獄の門まで送りこみやがったからな。こんどは、こっちが送ってやる番だ」
車曳きの張は、口癖のようにそう言った。
ともあれ、夜釣りの張は、車曳きの張を助けあげ、しばらく現場に残っていた。そこを去った連中がどうなったか、彼が知るわけはない。だが、小平津でおこった出来事は、彼ほどたしかに知っている者はいない。唯一人の目撃者なのだ。
張の話をきいて、支英はしばらく考え込んでから、
「おまえさんの話に、間違いのあるわけはない。とすれば、世上に流布《るふ》されている話が間違いだ。……なぜ、そんな間違いが、罷《まか》り通っているのかな?」
と、腕組みをした。
世間では、宦官たちは、董卓の軍勢を見て、意気|沮喪《そそう》して投身自殺をした、といわれている。張の話では、たしかに宦官たちは董卓軍らしい一隊を見たが、うまくやりすごしたのである。投身自殺は、城内から皇帝捜索のために駆けつけた、閔貢というものに一喝《いつかつ》されたのが、きっかけとなっている。
「ちがった話がよく世間に流れますよ」
と、陳潜はそばから言った。そんなに考え込むことはない、とおもったのである。
「どこかで、しぜんに曲《ま》がったのではなく、誰かがねじ曲げたのかもしれない……。なにか思惑があって。……」
ため息をついて、支英は組んだ腕を解いた。
揺れうごく時代には、人びとは中心をもとめる。端のほうは揺れがはげしい。まん中に近くなるに従って、揺れがすくなくなるような気がする。
この時代、中心といえば、天子のことである。──それを疑う者はいなかった。
新帝が宦官に連れ去られたと知るや、洛陽の近くにいた諸臣は血眼《ちまなこ》になって、その行方をさがした。何進の召集によって、みやこへ急ぎつつあった董卓も、洛陽にあがる火の手を見て、諜者《ちようじや》を送り、天子|失踪《しつそう》の事実を、いちはやくキャッチした。天子は城を出たらしい。
天子を擁して、まん中に割り込む。
絶好の機会といわねばならない。
「戦争ではない。捜索である。兵を散らせ」
と、董卓は命じた。
戦争ならば、できるだけ兵力を集中させ、爆裂のエネルギーを凝縮させるべきである。だが、この宝さがしのような仕事は、できるだけ人員を分散させたほうがよい。虱《しらみ》つぶしの捜索ができるからである。みつけることができなくても、それだけひろい範囲に散っているので、情報網も、ひろげていることになる。
小平津を通りかかった、例の旗太鼓の一隊も、分散された駒であった。ただし、堤防の下までのぞいて見ようとせずに、惜しいところで天子をつかまえそこなった。
だが、董卓が散らした一分隊から、
──城北と城内とのあいだに、深夜、早馬の往来はげし。
──天子一行とおぼしい行列が、洛舎《らくしや》のまちより洛陽にむけて南下しつつあり。
という情報が本陣にもたらされた。
董卓の本陣は城西の顕陽《けんよう》苑まで進んでいた。
そこで一泊して、明朝、洛陽城に乗り込むつもりであったが、こうなってはもう睡るどころではない。
「一晩ぐらい睡らずとも、人間は死にやせん。これが運命のわかれ道ぞ。小部隊の将校として一生を終えるか、封侯となって富貴をたのしむか。今晩、横になって寝るか、立って歩くかによってきまるのだ。歩け、歩け! 急げや、急げ!」
董卓は部下を督励して、東へ東へと進む。
軍隊が白馬寺の前に来たとき、寺門に煌々《こうこう》と松明が立てられ、五つの大釜が火にかけられていた。
月氏族の長老僧がならび、支英が一同を代表して、
「遠路ご苦労でございます。当所は西域|浮屠《ふと》(仏教)の僧院、旅行者への献茶をならわしといたしております。どうぞ召し上がれ」
と、挨拶した。
「ほう、浮屠の者たちか。……」
董卓は|隴西臨★[#さんずい+兆]《ろうせいりんちよう》の人である。現在も同地名だが、甘粛省都蘭州の南方にあたる。西域への入口の地方に生まれたのだ。しかも、若いころ、羌《きよう》(チベット)族のあいだを遊歴し、桓帝末年には、戊己《ぼき》校尉として、西域の天山南麓に駐屯したこともある。
当時の一般の人にくらべると、仏教のことをよく知っていた。また彼の部下には、羌や西域の軍兵もいて、そのなかには仏教徒もいたのだった。
「これは、かたじけない」
董卓は三千の兵を率いて急行したが、天子|出奔《しゆつぽん》の情報をきいて、ほうぼうに分散したので、手もとの兵は千に満たない。
小休止となって、兵士たちが茶を振舞われているとき、支英は董卓に近づいて、
「すくのうございますな」
と、小声で言った。
「なに?」
董卓はきっとなった。兵のすくないことが、彼の弱点であった。遠路のことであり、緊急の出兵なので、三千が精一杯だったのである。いや、三千の軍兵の輜重《しちよう》も、みちみち徴発するというありさまだった。
「見渡したところ、千はございませんな」
と、支英は言った。
「散らしてある。天子をさがすためにのう」
「三分して、これが一分でございますか」
「ほう。……」
董卓はあらためて、この月氏族の指導者の顔を見た。ぴたりと言いあてた。軍事の常識かもしれないが、僧院の人間にしては、鋭いではないか。董卓は、警戒心をおこした。
支英は相手の警戒心を、ときほぐすような、柔和な笑みをたたえて、
「大将軍何進閣下、その弟|何苗《かびよう》閣下が殺害されました。いたましいことでございます」
「それは諜者からきいておる」
「すなわち、あるじを失った部隊が、みやこには、おおぜいいることです。それらの部隊を麾下《きか》に加えれば、けっしてすくなくはございません」
「うーん」
董卓は唸《うな》った。何進が殺されたと聞いたとたんに、彼が考えたのは、その軍兵をどうして手に入れるか、ということであった。
「いろんな策がございましょうが……」
「ちょっと待て」董卓はあたりを見まわしてから言った。──「あの軒の下で、二人で坐って話そう。……」
「どんなご用件でございましょうか?」
「策をききたい」
「かんたんでございます。兵は強きにつきます。強盛なものが、ますます軍兵を集め、それによって覇者《はしや》がうまれるのです」
「三千だ。……」
「いいえ、六千、一万になります。……」
「さあ、行こう」
董卓は軒のほうに歩きだした。
軒の下で二人が坐って話しているとき、至急の伝令が情報を伝えた。
──天子は北芒《ほくぼう》にむかいつつあり。北芒にてご休憩の予定という。……
董卓は、立ちあがり、肥満し切ったからだを、左右に揺すり、
「急ごうぞ、者共!」
と、大声で叫んだ。
洛陽城の北に芒山《ぼうざん》という山がある。ふつう北芒と称している。陵墓《りようぼ》の多い地域だった。のちには、『北芒』という固有名詞が、『墓地』を意味する普通名詞に用いられるようにさえなった。
陶淵明の詩に、
古時、功名の士
慷慨《こうがい》して此《こ》の場《じよう》を争いしに
一旦、百歳《さい》の後
相い与《とも》に北芒に還《かえ》る
という句がある。『擬古《ぎこ》九首』のうちの其《その》四にみえる。
むかし、功名争いにはやるつわものどもが、エキサイトしてこの場を争っていたが、いったん百年の寿命が尽きると、みんないっしょに墓のなかに入ってしまうのだ。──という意味である。
「北芒とは、これまた漢室にとっては、縁起のよくない土地におやすみになることだ」
軍の出発を見送るとき、支英はひとりごちるようにそう呟《つぶや》いた。
董卓は北へ馬を進めながら、その言葉を思い出した。『漢室にとっては』のところを、支英はとくにはっきりと、強く言ったような気がする。
(縁起でもないが、それは漢室のこと。……おれにとってではない。……)
董卓は馬上でそんなことを考えた。
漢室にとって不吉。それは、誰かが天下を乗っ取ることではあるまいか。誰が?
「おれであってもいいわけだ。……」
そっと口に出してそう言ってみた。
夜が明け初《そ》めた。
皇帝の所在がわかって、城内の廷臣たちはあたふたと北門にあたる穀門《こくもん》(魏《ぎ》以後は広莫《こうばく》門と呼ばれた)を出て、北芒へ馳《は》せつける。中心をもとめているのだ。一刻も速く、中心にたどりついて安堵《あんど》したいのである。
ふだんなら夜間は閉められるが、この日ばかりは、ずっと開けっぱなしであった。
これは旧暦八月二十七日から二十八日にかけてのことだった。
こんどの逃避行で、十四歳の皇帝はすっかり怯《おび》えてしまった。二人、三人、と顔なじみの重臣がやって来るので、どうやら恐怖症もおさまりかけたところへ、董卓の三千騎が駆けつけた。北芒への途中で、分散した部隊を拾いあげ、ほとんど全軍を集めたのである。
朝まだき、あたりはうす暗い。
そこへ忽然《こつぜん》とあらわれた三千騎は、妖怪変化《ようかいへんげ》のようであった。──すくなくとも、ノイローゼ気味の皇帝には、そう思えた。
「ふわ、ふわ、ふが……」
皇帝は言葉にならない声をあげた。顔面は蒼白《そうはく》で、頬がひきつっている。しまいには、おいおいと泣きだした。
「兄上、しっかりなさいませ!」
弟の陳留王協が、九歳ながら、兄を叱《しか》りつけるように言った。だが、兄皇帝はまったくだらしがない。
「こわい、こわいぞ……」
と、泣きつづける。
馬をおりた董卓は、つかつかと座所に近づいて、
「董卓参上。御守護つかまつる」
おそろしく肥満した巨漢が、腹の底から、おしつぶされたような声を出したので、皇帝はますます怯えた。
「こわいーっ!」
全身をぶるぶるふるわせ、甲高《かんだか》い声で叫ぶ。
重臣たちが、
「こわくありません。将軍董公でございますよ」
となだめたが、身をよじってのがれようとする。手がつけられない。二人の廷臣が左右からしっかりとおさえつけ、頭や背中を撫《な》でるといったありさまであった。
董卓はひややかな目でそれを見ていた。
「董公、詔《みことのり》が下りましたぞ、兵を退《ひ》きなされ。兵を。……早く」
たまりかねて、一人の大臣が言った。
皇帝のことば、すなわち詔とすれば、こわいこわい、と言うのは、兵を退けという詔と解釈できないこともない。
だが、董卓はそれをきくと、眉をつりあげ、目をギラギラさせて、一歩まえに出た。
「諸公ら、なにを申されるか、諸公らがみやこにあり、坐してみすみす王室のみだれを正さず、国家をこのような混乱におとしいれたのではないか。それを救うために、われら、遠路、兵を率いて参上した。行軍の労苦は、言うに忍びないものがあった。軍糧足りず、馬匹《ばひつ》も足りない。車輛《しやりよう》もすくない。勤王《きんのう》の意思に燃えて来た兵どもに、なにごとぞ、退《さが》れとは! 息せききって馳せつけた忠臣の顔を見たくないと申されるのか? 国家王室をこんなにまでみだし、天子をこのような北芒の山下まで難を避けざるをえなくした、みやこの重臣どもの顔なら、相変わらず眺めたいと申されるのか!」
ひとこと、ひとこと、火を噴《ふ》くような言葉であった。
君側の重臣たちは、面を伏せて、返す言葉もなかった。
董卓は皇帝のほうにむきをかえて、
「陛下、まだ臣の兵を見とうございませぬかな?」
と、声を荒げて言った。
「それは……なにも、なにも……その……」
皇帝はまるで顎《あご》がはずれたように、聞きとれない言葉を、口のさきからこぼすだけであった。
このとき、九歳の陳留王がそばから、
「陛下にかわって、お答えいたします。董公の兵は退《ひ》かずともよい。遠路、ご苦労でありました。将兵たちに、追って褒賞《ほうしよう》の沙汰《さた》をいたしますが、とりあえず、還宮ののち、宮内府より、ねぎらいの品を届けさせます。……董公の忠節、陛下もご嘉賞されました」
と言った。
これはまた、皇帝とはうってかわって、さわやかな弁舌で、しかも心のこもった言葉であった。董卓は思わず、
「はっ!」
と、その場に平伏した。
こうして、皇帝の一行は、董卓の軍隊に守られるようにして、洛陽に還った。
(うん、なるほど。……白馬寺の支英が、できるだけ高飛車に、群臣を叱咤せよ、と申したが、まったく予想以上の効果があるのう。……)
董卓は馬上で、そんなことを考えていた。
たしかに、群臣には董卓に大きな口をきける資格はなかった。
天子は董卓の手におちた、といってよい状況でみやこの宮殿に戻ったのである。
夜間の外出が禁止された。
動乱の時期によく採《と》られる措置である。
──夜間に外出する者は斬る。
戒厳令《かいげんれい》であるから、城門のあたりの警戒がきびしいのはとうぜんだが、西に面した広陽門《こうようもん》、雍《よう》門、上西門の三門が、とくに厳重をきわめているらしい。
夜釣りに行けなくなった釣狂の張が、そんなことを陳潜に話した。
「西門ねえ。……」
陳潜は意外におもった。いま城門警固の役は、董卓の担当になっている。董卓の本拠地は西方であるから、西から来るのは彼の味方のはずなのだ。彼が備えなければならないのは、反董卓勢力の強い東方に対してではあるまいか。
「あの車|曳《ひ》きの張の野郎がねえ」
と、釣りの名人を自称する張が話題を変えた。
「どうしたんだい?」
「金吾《きんご》の役所の雑役に入りこんだのですよ」
金吾の役所とは、首都の治安をつかさどるところで、警視庁に相当する。その長官は執金吾《しつきんご》という。
後漢の始祖光武帝は、まだ世に出ないころ、執金吾の巡察の行列の美々しさをみて、
──仕官するなら執金吾ぐらいになりたい。
と呟いたといわれる。
執金吾は月に三回、首都を巡察するが、それに従う|★[#糸+是]騎《ていき》(赤衣の騎馬武者)二百、持戟《じげき》(武器をもつ徒歩の兵)五百二十人、まさに壮観で、ために道路は光りかがやくばかりであったという。
光武帝|劉秀《りゆうしゆう》は、執金吾どころか、皇帝になってしまった。また彼は陰麗華という絶世の美女を妻にしていた。淑徳ありとされていた陰皇后である。人びとは、
──官につくなら執金吾、妻をめとらば陰麗華。
と言って、人生の最高の理想をあらわした。
車曳きの張は、どんなふうに手をまわしたのか、その役所の雑役夫としてもぐりこんだ。
釣りの張が心配そうに言うので、
「傷がまだなおっていないんだろう?」
と、陳潜は訊いた。
「そりゃ、まだまだでさ。それをかくして、あそこに行きやがった」
「よほど行きたかったんだね」
「そうですよ」
「なにか事情があったのかね?」
「あの小平津で、車曳きの張を斬って河に投げ込んだ連中が、その手柄で、金吾のほうにまわされたってことがわかったんでさ」
「じゃ、なにかい、カタキ討ちかね? いつも口癖のように言っていたが」
「そのつもりらしいんですよ。……だけど、あのときは暗くて、誰に斬られたんだか、誰に蹴られたんだか、さっぱりわからないはずなんですがねえ」
顔はいちいちおぼえていないが、隊長が河南中部の督郵《とくゆう》と名乗ったので、部隊はわかっている。地方の雑軍であるが、最初に天子を迎えた功績によって、役人のあこがれの的である金吾の軍営に編入されたことも判明した。
「で、どんなカタキ討ちをするつもりかな?」
「そいつがわからねえ。こないだ、まちで会ったときに訊いてやったんですが、顔はおぼえていねえが、ともかく大将をやっつけりゃ気がすむんだ、なんて言ってましたよ」
「金吾の大将? 執金吾をやっつけようというのかい。は、は、は……」
陳潜は思わず笑いだした。
警視総監に相当する執金吾は、首都の殺人強盗を取締るのが役目である。それをやっつけるという。スリがスリ係の刑事の懐《ふところ》を狙《ねら》うようなもので、なにやらおかしい。
ときの執金吾は、并《へい》州(太原)の刺史《しし》(地方長官)をしたことのある丁原《ていげん》という人物であった。
丁原は何進の宦官征伐の召集状を受け、いちはやく洛陽に馳せ参じた。そして、帝京守備の兵力を握る執金吾の要職についたのである。
洛陽では丁原その人よりも、部下の呂布《りよふ》の武名が高かった。堂々たる体躯《たいく》をもち、若いうえにかなりハンサムであった。唇が薄く、つめたい目をもち、思いきりがよい。どことなく不気味なところがあり、人びとを畏怖《いふ》させるので、軍兵を指揮するには適していた。それで、丁原は彼に金吾麾下数万の軍隊と警察をまかせていたのである。
「そうですよ。おかしいですね。丁原さまのところへ行くまでに、呂布っておそろしいやつがいますから、いっぺんにつまみ出されて、ひねり潰《つぶ》されますよ。……ほんとに、ばかな真似《まね》をしてくれなきゃいいが。……」
「心配しなくても、車曳き風情《ふぜい》じゃ、なかなか執金吾閣下のそばに近づけないよ」
「そうでしょうね。……でも、あの車曳きは素《す》っ頓狂《とんきよう》なやつですから、なにをしでかすかわかったもんじゃありません。世の中には、命知らずがいるもんです。あの男は、どうせいちど殺されたんだから、もう命は惜しくないなんて言いましてね」
「恨みが骨髄に徹していたのですな」
「そりゃ、殺された恨みなんてのは、最高の恨みでしょう」
「それはそうでしょうな。どんなしがない人間の生命でも、その人にとっちゃかけがえのないものだ。それを塵芥《ちりあくた》のように扱われては、頭にきますよ」
「ありゃ、いけねえ。つい話し込んじまって、はやく帰らなくちゃ……」
自称釣りの名人の張は、日が西に傾きかけるのを見て、あわてて白馬寺を辞した。ぐすぐずしていると、夜間通行禁止令にひっかかって、家へ戻れなくなるおそれがあった。
張を見送りかたがた、陳潜は門のあたりまで歩いて行った。
そこで支英と青年僧の支敬に出会った。
「これから庵《いおり》へおいでですか?」
と、陳潜は訊いた。
支英の養女|景妹《けいめい》が病《やまい》を養っている庵は、女ばかり十数人住んでいるが、時節柄物騒なので、このあいだから男たちが数人泊り込みに行くことになっていた。
「ええ、そうです。戒厳下の女世帯では、心配ですからねえ」
と、支英は答えた。
「今晩は、私も泊り込みに参ってよろしゅうございますか? しばらくお見舞いにも行っておりませんので」
と、陳潜は言った。
典軍校尉曹操は、このところ景妹の見舞いに来ていない。曹操の案内をする役の陳潜も、しぜん景妹の庵にご無沙汰している。
泊り込みの応援である。陳潜は軽い気持で申し出た。だが、それが相手には、ずっしりと重いものにかんじられたようだ。支英はそうでもなかったが、若い支敬の顔に困却の色がうかんだ。
「いけませぬか?」
しばらく返事がないので、陳潜はそう訊いた。
「いや、かまいませんよ。ありがたいことで。……さ、いっしょに参りましょう」
支英は笑いながら答えた。
白馬寺から景妹の住んでいる庵まで、歩いて十数分もかからない。陳潜は泊り込みの応援を申し出て、相手が戸惑いをみせたことに、釈然としないものがあった。
さすがに経験豊富な支英は、それに気づいていた。庵の前まできたとき、
「ほんとうは、来ていただくと、ちと困ることがありました」
と、にこにこしながら言った。
「それならそれと、はじめからおっしゃっていただければよかったのに。もう門の前まで来てしまいました。……ひき返します」
陳潜は不服であったが、ここはあっさりとひきあげようときめたのだ。
「いや、いや、ここまで来て、帰ってもらっては困りますな」
と、支英は陳潜の袖《そで》をとらえた。
「でも、お困りになることがあるんでしょう?」
支英は首を横に振って、
「今晩、はやく寝ていただきましょう。もし寝つかれなかったときは、ご覧になったことを、ぜんぶお忘れくださればよいのです」
と言った。
陳潜は庵の門をくぐったが、まだふっ切れないかんじであった。
景妹は元気であった。ふっくらして、めっきり女らしくなってきた。だが、肥ったのが曹操ごのみではなく、そのため、このところ足が遠ざかっている。
「今夜、なにかあるんですか?」
見舞いの言葉を述べたあと、陳潜はそう訊いた。
「なにかとおっしゃると?」
景妹は首をかしげた。
「支英さんが、ここでなにかを見ても、ぜんぶ忘れなさいとおっしゃったが」
「ああ、そのことですか。……ほ、ほ、ほ」
景妹は袖を口にあてて笑ったが、すぐに真顔になって、
「あたしたち一族の生きるための、かなしい作業をいたしまする……心ならずも」
「かなしい作業とは?」
「ご覧になればおわかりです。……この庵は、いつもと違って女性も数多く、男衆も入っております」
「そういえば……」
庵にはいってすぐに、陳潜はそれに気づいていた。ふだんと違って、どこかうごきがあった。活気といってよいほどの。
後世の寺院でも、年老いた僧侶《そうりよ》や尼僧のための隠居所が、付近につくられたものである。この庵もそのたぐいであるが、敷地はずいぶんひろい。庵の建物はその一隅にあるが、剰《あま》った土地に、いくつかの納屋を建てている。経文や仏具をおさめる建物は寺院のなかにあった。庵の敷地内の仮設建物は、仏具などをつくる作業場にあてられていたのである。
仏教はまだ中国にひろまっていない。仏像ひとつつくるにも、仏教徒の在留月氏族は自分の手でしなければならない。華香《けこう》、伎楽《ぎがく》、|★[#糸+曾]蓋《ぞうがい》、幢旛《どうばん》、そのほか供養の具一切も、自分たちでつくり出さねばならない。そのために、遙《はる》か遠い母国から、専門職が招聘《しようへい》され、その技術が子弟に伝授された。
陳潜は庵の庭で、旗や幕にほどこす刺繍の名手といわれた月氏族の老女を見かけた。
(近く供養の法要でもあって、その準備をしているのであろう)
と思ったのである。
景妹は『作業』と言ったが、その前に、
──かなしい。
という形容詞をつけた。
仏教の行事の準備であれば、彼らにとってかなしいものであるはずはない。
「いったい、なにがあるのですか?」
と陳潜が訊いても、彼女は、
「深夜になれば、おわかりになるでしょう」
と答えるだけであった。
彼は庵の離れに、一人で泊ることになった。
むろん、なにがあるのか、自分の目で見るまでは横にならないつもりである。
夜が更《ふ》けた。
二更乙夜《にこういつや》──いまの午後十一時──ふいに庵の敷地に、軍兵が満ち満ちた。
戸のすきまから見て、陳潜は驚いた。さすがのひろい庵の敷地も、兵隊たちでいっぱいになっている。庭の隅に、まるでなにかを憚《はばか》るように、ひっそりと小さな松明が一つついているだけであった。
つめたいものが、陳潜の背筋を走った。
(亡霊の軍隊。……)
彼ははじめ、そう思ったのである。
庵の敷地を満たすのであるから、二千以上の軍勢であろう。これほどの大部隊が、音もなくあらわれるとは、ほとんど信じられないことであった。
当時の軍隊は、その勢いを誇示するために、鳴り物入りで行軍したものである。いや、後漢末の軍隊だけではない。近代にいたるまで、ラッパや太鼓は軍隊につきものだった。
それなのに、この軍勢はひっそりとやって来た。太鼓やラッパを鳴らさなくとも、二千もの人数があれば、かなりの音がするはずである。このように、降ってわいたようなあらわれ方をしたのは、全員が音を立てないように命じられたからに違いない。
なんの必要があって?
軍隊がひっそりと進むのは、奇襲のとき以外に考えられるであろうか?
ここは城西である。この軍隊は西から来て、洛陽を襲おうとするのか? 狙われたのは、洛陽のどの将軍であろうか?
陳潜の頭に、まず浮かんだのは、曹操のことであった。典軍校尉の彼の下には、数千の近衛兵はいるが、それは彼が指揮をまかされただけで、もともと彼の直属の手兵ではない。ここに集まった軍勢に、不意を突かれたなら、ひとたまりもあるまい。
急報すべきであるが、城門は厳重に警備され、夜間の通行は禁止されている。陳潜にしてみれば、どうしようもないのである。
「いまのうちに、できるだけ仮眠をとっておけ。朝は早いぞ」
将校らしい男が、あまり大きな声ではないが、そう言って兵隊たちのあいだをまわっている。兵隊たちは、たいてい地べたに坐りこんでいたが、将校の命令を待つまでもなく、横になってしまっているものもいるようだった。
旧暦九月のはじめである。野宿するにも、それほど辛い季節ではない。
馬の嘶《いなな》きがきこえた。──
庵の外には、かなり多くの馬がつながれているらしい。車輛《しやりよう》もとうぜんあるだろう。
(しかし、まてよ。……)
と、陳潜は考えた。
これほどの軍勢を、ひっそりといれるには、白馬寺側の諒解《りようかい》がなければならない。支英の言ったことばからも、今晩なにかがおこることは予期していた。──それがこれなのだ。
陳潜は離れの柱にもたれて、夜が明けるまで、まんじりともしなかった。
壁のすきまが白みかけたころ、ようやく外がざわめきはじめた。
陳潜はまたそのすきまから外をのぞいた。
兵隊たちは、もう立ちあがって、列を組みはじめている。
「さあ、出来ましたぞ」
聞きおぼえのある声がした。白馬寺の男衆で、陳潜も親しくしている初老の幢《どう》(のぼり)つくりの声のようにおもえた。
陳潜は目をすきまにあて、できるだけ広い視野をとらえようとした。やっと幢つくりの姿が目にはいった。その男は何本かの旗やのぼりをかついでいる。そのうしろにも、おなじ恰好《かつこう》の寺男が五人つづいていた。
「ご苦労、ご苦労」
と、将校がねぎらった。
「ゆうべから、徹夜でつくりましたよ。いえ、手なんぞすこしも抜いておりませんよ」
幢つくりは旗を渡しながら言った。
「おお、みごとじゃな」
将校は旗をひろげた。真紅《しんく》の地に、緑のぬいとりがしてある。字のようであったが、将校の手が邪魔になって読めない。手がひいたとき、陳潜はやっと旗の字が読めた。
──董
の一字が刺繍《ししゆう》されていたのである。
(董卓の軍か。……それにしても……)
陳潜はまだ疑念をとくことができない。
董卓は陜西《せんせい》、甘粛《かんしゆく》に二十万の兵をもつといわれた。彼の部隊が、西から来ることは考えられる。なにしろ、何進の召集に、一刻を争う出発をしたのだから、董卓自身の率いた軍兵はそんなに多くない。
洛陽には西園八校尉といって、近衛の軍団が八つあるが、せいぜいその一軍団ていどの兵力にすぎない。董卓がほんとうにみやこを鎮圧するには、西からもっと兵力を補給する必要がある。
増援の軍が着いたのか?
それにしても、なぜ白馬寺で旗|指物《さしもの》をつくるのであろうか?
董卓とはあの晩の献茶で、白馬寺としても渡りをつけている。あのとき、陳潜は支英が董卓と軒の下で、なにごとか語り合っているのを見た。あれは増援軍に、旗をつくってくれという要求であったのか?
「出発ぞ!」
こんどは将校も大声をはりあげた。もう誰にも遠慮しなくていいのであろう。
昨夜は庵の敷地で、ひそまりかえっていた二千余の軍兵が、朝になると見ちがえるように、志気旺盛な集団となった。
庵の外に出てから、彼らは高らかに太鼓を打ち、喨々《りようりよう》とラッパを吹き鳴らしはじめた。
「馬わらじを脱がせよ。馬ぐつに替えよ」
と、将校が命令する声がきこえる。
当時、馬の蹄を保護するには、民間ではもっぱら草鞋《わらじ》をはかせた。そして、軍馬の場合は、鉄靴をつくり、革紐《かわひも》を通して脚にゆわえつけたものである。蹄鉄をじかに釘《くぎ》で蹄のうらに打ちつけるのは、千年ほどのちになってからの方法なのだ。
民間の馬を徴発して、これから軍馬用の鉄靴をつけようとするのか? あるいは軍馬に一時わらじをはかせ、それをこれから鉄靴に替えようとするのか? もし後者であるとすれば、わらじをはかせた理由は、音を立てないためであるに違いない。そして、日が昇ってからは、音を立ててもよいことになった。いや、太鼓やラッパの響きをきくがよい。立ててもよいのではなく、音は積極的に立てるべきである、とされたのである。
兵隊たちも、これまではひっそりしていた。あれこれと、ちゃんと符合している。これはなにを意味するのか?
軍隊の移動が、きわめて隠密裡《おんみつり》におこなわれたことはもはや疑問の余地はない。
ここで、陳潜はわからなくなった。──
奇襲と推理していたが、そうではなさそうである。出発のときは、もうにぎやかな鳴り物入りであり、奇襲の態勢とはおもえない。新調の旗のぼりもおし立てて進むのだろうから、この行軍は一キロほど先から見えてしまう。
『洛陽|伽藍《がらん》記』によれば、白馬寺は洛陽の西陽門外三里の地点にあったという。当時の里は四百メートルあまりだから、一キロ半もはなれていなかったのである。
ふいに壁のすきまが暗くなり、なにも見えなくなった。その前に誰かがやってきて、さえぎったのである。それが支英であることは、すぐ壁をへだててきこえてくる声でわかった。──
「では、今晩、またお待ちしております」
「いやはや、お手数をかける。あるじ董卓閣下も、たいそうご満悦じゃ。白馬寺の支英どのは、ぜひ軍師に所望したいほどの人物である、とおおせられてな。……」
「過分なおことばで。……滅相《めつそう》もございません」
「いや、ご謙遜《けんそん》あるな。洛陽に入城した三千の軍隊の大部分を、夜な夜な西門からそっと送り出し、翌日、旗鼓堂々、再び入城させ、新手の兵とみせかける策略、余人では思いつかぬことでござるよ」
「ふと思いつきましたことで……」
「なかなかそうはいかぬ。ふだんから頭の回転を心がけておらんでは」
壁のすきまから、再び白い光がさし込んだ。
離れの前にいた支英と、董卓軍の将校とが、そこを離れたのである。
(わかった。……)
陳潜はそこに坐り込んでしまった。
毎にち増援軍が到着しているようにみせるために、支英の入智恵で董卓が仕組んだことが、この庵を中継におこなわれたのだ。
漢土に居留する月氏族が、この動乱に生きのこるためには、ときの権勢家とつながらねばならない。あまりはっきりとつながれば、その敵ににらまれる。だから、そのつながりも、かくしておかねばならない。
支英は董卓に、策略を提供するというかたちで、渡りをつけた。その策略は公にされないので、ひそかにつながるという理想にぴったりである。
しばらくして、陳潜は腰をあげ、戸をあけておもてに出た。初秋の朝日は、さわやかな光を浴びせている。陳潜は目をしばたたいた。
支英が軍の出発を見送って、戻って来るところであった。彼は陳潜の姿をみとめて、
「お聞きであろう」
と、いきなり言った。
離れの前に立ちどまって、董軍の将校と話をかわしたのは、なかにいる陳潜にきかせるためであったらしい。
「はい」と、陳潜は答えた。
「いざというとき、この白馬寺だけは焼かぬよう、それだけ約束してもらったのですよ」
と、支英は言った。
かなしい作業である。このかなしい作業は五日にわたってつづけられた。
あるじを失っていた何進と何苗兄弟麾下の軍兵数万は、やがて董卓の指揮下に入った。
──優勢な軍につく。
大将を失って漂流している軍隊は、身のふり方についてそう考える。
連日、増援軍が西から到着する董軍の力量は、底知れないとおもわれたのである。
何兄弟の軍隊を傘下《さんか》におさめた董卓は、あとひと息だとおもった。
まだこの兵力では、好き勝手なことはできない。もっと兵力をふやす必要があった。だが、何兄弟軍のように、漂流している軍団はほかにはない。
董卓が目をつけたのは、金吾の軍団であった。奪取するのに、一ばん可能性のある軍団といってよい。なぜなら、金吾軍の総大将の丁原が、将兵から浮いた存在になっていたからである。実質的に、軍を支配していたのは呂布《りよふ》だったのである。
呂布を手に入れたなら、金吾の軍はそっくり頂戴《ちようだい》したも同然なのだ。しかも、呂布はあまり義理などを考慮しない、狼将軍という評判であった。利をもって誘えば、うごかぬことはない。
董卓は呂布と同郷の者をつかって、誘いをかけることにした。
呂布は五原《ごげん》の出身であった。
五原は内蒙古自治区にある。包頭《パオトウ》市の西北にあり、現在もおなじ地名の県となっている。すなわち、彼はモンゴル族に囲まれて生い立ち、部下のなかにもモンゴル兵が多い。北方の遊牧民族にあっては、『弱肉強食』の掟《おきて》は、南方の農耕民族よりもきびしい。
力がすべてである。強くなければならない。そして、強い側につかねばならない。呂布の性格のなかには、このような北方遊牧民的なものがあり、それは誘いにかかりやすい要素となっている。
──丁原の首と、その部衆を連れてくれば、騎都尉にとりたて、わしの養子にしてやろう。
これが董卓の示した条件であった。
曹操の任じられた西園八校尉を師団長とすれば、騎都尉は旅団長ぐらいであろうか。曹操は二十九歳のとき(光和六年、西暦一八三)に、この騎都尉を拝命した。呂布は『三国志』にも『後漢書』にも年齢は記されていないが、このとし、おそらくまだ三十になっていなかったと推定される。三公という国家最高職についた人物の子である曹操でさえ、三十になる直前に、やっと任命された官である。氏素姓もさだかでない呂布にとっては、これは目もくらむばかりの高官であった。
呂布はとびつきたいのを抑えて、
「いったん、あるじと仰いだ人間を、そうかんたんに殺せるか」
と言った。
拒否ではない。激怒してこの言葉を叫べば拒否であろう。だが、呂布は唇をまげてこう言いすてただけである。
この取引は、打ち切りではなく、まだ交渉の余地をのこす、といったかんじなのだ。
「もうひと押しだ。呂布が落ちれば、洛陽は我が手のなかに入ったといえよう」
董卓はそう考えた。
つぎのひと押しを考えていたとき、呂布はあっさり、丁原の首をもってきた。
「おお、それは……」
と、董卓のほうがあわてたほどである。
「約束がありましたな」
ぶらさげた首を、董卓の前に置いて、呂布は大袈裟《おおげさ》に頭を下げ、
「義父《ちち》上と呼んでよろしゅうござるか?」
と訊いた。
「うむ」と、うなずいて、董卓は一ばん大切なことを訊いた。──「麾下《きか》の将兵は、すべておぬしに従うだろうな?」
「言うまでもありません」
「あるじを殺したと、席を蹴って去った者はおらぬか?」
「一人もおりません」
「これがかんじんぞ。丁原の首よりも金吾の兵が従うかどうかじゃ」
董卓は本音を吐いた。
「いささかくどうござるが、もういちど申し上げましょう。一兵のこらず、拙者《せつしや》が傘下におさめております」
「そうか。よくやった。……」
これでもう洛陽じゅうに、こわいものはなくなった。袁紹《えんしよう》や曹操といったやからは、ゆっくり料理できる。なにしろ、兵力に格段の差がついた。──董卓はすでに半ば天下を取ったつもりになっていた。
(あるじの丁原を殺せば、人心を失って、将兵の大きな部分が脱落するおそれがある)
呂布が丁原をしばらく殺さなかったのは、それ以外に理由はなかった。
だが、突然事件がおこって、呂布はそんな心配をせずにすんだ。
ある晩、おもだった将校たちが、総帥《そうすい》の丁原を囲んで宴会をしていたとき、ふいに一人の男がとびこんできた。
雑役夫の服装をしていた。
はじめは、おそらく丁原もふくめてみんな、みだれた宴席をちょっと片づけに来たのだとおもった。武骨な軍人たちは、羊肉や鶏肉など骨つきのまま、わし掴《づか》みで食べ、あとはそのへんにぽいと棄てる。宴も終わりに近づくと、雑役の者が骨を拾ってまわることがよくあった。
それにしては、勢いがよすぎるし、ガラ入れの壺《つぼ》も持っていない。──おかしいと気づいた人もいたが、それよりも男の行動のほうが速かった。
その男は、丁原に体当たりをくわせた。丁原は片手に骨つきの羊肉、片手に杯をもっていたので、とっさに手が使えなかった。片手でもあいておれば、その男を払いのけることができたに相違ない。
雑役夫の服装をした男は、するどい匕首《あいくち》を両手で握りしめ、体当たりと同時に、それを丁原の胸もとに刺し込み、ぐいとえぐったのである。
血しぶきが、そばの白い幕のうえに走った。
「う、う、う……」
と、丁原は呻《うめ》いた。
「それ、狼藉者《ろうぜきもの》!」
その場にいた軍人は、いっせいに立ちあがった。これでは、男は逃れることはできない。それに、男ははじめから逃げることなど考えていなかったようだ。
匕首をえぐってから、それを丁原の胸におき去りにして、ふらふらと立ちあがったところを、そばにいた呂布にえりがみを掴《つか》まれた。
「こやつ、なにをするか!」
と、呂布は大喝《だいかつ》した。
「な、な、なんでえ! これは、カタキ討ちだい。……さ、殺せ!」
男は手足をばたばたさせて叫んだ。
すこし痛めつけると、男は意識を失った。
「なんだ、脆《もろ》いやつだな。……」
呂布はその男の肩を蹴った。
「脆いはずだ。……この男、どうやらかなりの傷を負っているようだぞ」
一人の将校が、男の顔や、はだけた肩についている新しい傷をあらためて、そう言った。傷は新しいが、いま呂布に痛めつけられたそれではない。呂布はまだ刃物を使っていないのである。
医術の心得のある者が、丁原のからだをしらべたが、
「すでにこと切れている。……」
と低い声で言った。
「おのおの方、どうする?」
呂布は一同を見渡して言った。
「八つ裂きにせよ!」
真っ赤な顔でどなった男がいた。
「八つ裂きにでも、釜《かま》ゆでにでも、あとで好きなようにできる。わしが訊いておるのは、われわれの身の振り方よ。われらはかしらを失った。こんな世の中だ。誰も面倒をみてくれはせんぞ」
かしらの死骸の前で、呂布は将校団に身の振り方を問うのである。
「なあに、われわれは兵を握っておる。すぐに誘いの話がかかってくるであろう」
と、答えた者がいた。
「かねてより、誘いの話は多かった。董卓のごときは、丁原の首を持参すれば、軍団幹部を優遇するとさえ言ってきた」
「それはまことか?」
「おう、こんなときに嘘をついてどうする」
「では、袁紹や曹操のほうは?」
「話はあったが、彼らは官職を約束しなかった。また彼らには約束できる力はないのだ」
「とすれば、やはり董卓か。……」
これでもう話はあらかたきまった。
つぎに、とびこんできた男が意識を回復したので、みんなで訊問《じんもん》することにした。拷問《ごうもん》にかけると、すぐに伸《の》びてしまいそうなので、もっぱらつぎつぎと詰問を浴びせた。
それによって、この男は姓を張といい、小平津でいったん殺された身で、その復讐《ふくしゆう》に、金吾の親玉を刺しに来た、ということが判明した。
(董卓に誘われた呂布が、この男をつかって丁原を刺したのではあるまいか?)
そう疑う者もいたが、呂布と張のようすを見ていると、しだいにそうではないという気になった。
車曳きの張は、みんなの前で首を刎《は》ねられたが、そのまえにもう意識不明になっていた。小平津で受けた傷が、体力を削《けず》りとっていたのである。──
「この者が丁原を刺したとわかれば、われわれは手土産がないことになる」
ある者が、おずおずとそう言いだした。
じつは、みんな胸のなかで、そのことを考えていたのである。
呂布は誰かがそれを言いだすのを待っていた。
「そうだ。わしが手にかけたことにしよう。ことの真相を知るのは、この場にいる者だけではないか。おのおの方さえ、この秘密を守れば、董卓閣下も約束どおりの処遇を与えてくれよう。……異存のある者はいるか?」
もともと軍団の実権を握っていた呂布の提言である。それによって、不利を蒙《こうむ》る者もいない。
──異存の声はなかった。
(ころがりこんだ男のおかげで、運もころがりこんだわい)
呂布は一兵も失わずに、董卓の陣営に加わることになった。
董卓はこれ以後、洛陽でどんなことでもやれるようになった。
まず、あのだらしのない皇帝|辯《べん》を廃し、しっかりした皇弟|協《きよう》をかわりに立てること。
つぎは、袁紹を片づけること。
現在、洛陽における兵力でこそ、袁紹は董卓に及ばないが、代々宰相を出した名門の袁家は、河北の本拠地ではたちまち十万や二十万の兵は集めることができる。危険な存在であった。
ところが、袁紹は逃げた。
では、つぎに曹操だ。
その曹操も、厳重な警戒網をくぐり抜けて逃げたことは、すでに記した。
両者の逃げっぷりもよかったが、洛陽の軍団をほとんど我が手におさめた董卓にも、油断がなかったとはいえない。──
作者|曰《いわ》く。──
講談本『三国演義』には、何進の召集に応じて馳せつける董卓を、西涼《せいりよう》の刺史《しし》としている。だが、董卓はこの年の四月に并州(現在の山西省太原市)の牧に任命されている。だが、彼が并州に赴任したかどうかは不明である。なにしろ、彼は前年に中央政府の少府に任命されて、赴任しなかったという前歴がある。少府というのは公卿で、位階は非常に高いが、宮廷の衣服宝貨珍膳《いふくほうかちんぜん》をつかさどる、役としてはつまらないものだった。陝西《せんせい》、甘粛《かんしゆく》に二十万の兵を擁する董卓にしてみれば、ばかばかしくて就任できなかったのであろう。
──部下たちが私の恩をおもい、私の車を遮《さえぎ》って、赴任させてくれません。
彼は臆面《おくめん》もなくそんな理由を挙げて、上京赴任を拒否したのである。
并州の牧に彼を任命したのも、西北でそんな大軍を擁する将軍がいては物騒なので、彼をその本拠地からひき離そうという、中央政府の意向によったのであろう。
董卓はこの任命もことわったのだろうか?
もしそうだとすれば、彼は涼州(甘粛省武威)にいたことになる。作者は北京から新疆《しんきよう》ウイグル自治区のウルムチ市まで四日近く汽車に乗って行ったが、洛陽から武威まで、急行の汽車でまる一日半かかった。二世紀の軍隊の移動には三十日ほど要したはずだ。それに何進の密使が、早馬をとばす日数も計算にいれなければならない。
やはり『後漢書』の董卓伝にあるように、彼は小部隊を率いて任地の近くに出ていたのであろう。
──天下の大乱近し。
と思って、形勢を観望するために出かけたのにちがいない。だから、早く洛陽に駆けつけることができた。ただし、小部隊の手兵しかいない。二十万の大軍は遙か離れた西北にいて、数日中に呼び寄せるというわけにはいかない。だが、京師の状況は一刻も早く、武力を示す必要があった。それなのに、彼にはそれがない。だから、僅《わず》か三千の兵を、夜間に城外に出し、翌朝、旗鼓にぎやかに入城させるという手品を使わねばならなかった。
この手品的策略については、『後漢書』に
──洛中《らくちゆう》に(その真相を)知る者無し。
と記しているように、じつに巧妙におこなわれたようだ。
宦官みな殺しの惨劇ののち、京師に入った董卓軍のなかにチベット兵、丁原・呂布軍中にモンゴル兵などがいて、『三国志』は中国的というよりは、にわかにアジア全域的な様相を呈する。
そのなかには沙漠的ムードあり、水田的な情緒もあり、読者は歴史の壮大さに酔うことになるのだ。
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鉄騎《てつき》、白波《はくは》へ去《さ》る
人違いかな?
はじめ陳潜はそうおもった。
よく似ていたのである。鉅鹿《きよろく》のまちにあった、道教団体『太平道』の本部で見かけた幹部の一人に。
その男の名は、たしか韓暹《かんせん》といった。
大幹部ときいたが、中央のそれではなく、地方の『方《ほう》』(軍団)の長で、ときどき本部へ連絡に来るだけであった。いつも顔をあわせていた相手ではないので、他人の空似《そらに》かもしれない。──そんなふうに自信がなかったのだが、二度目に会ったときは、
(まちがいない)
と直感した。まばたきのときの目尻の表情が、韓暹のそれにまぎれもないのだ。
大胆不敵である。
太平道は黄巾《こうきん》をめじるしに、軍事行動をおこした。漢の王室からみれば、謀反《むほん》軍であり、彼らは『黄巾の賊』と呼ばれた。そして、総帥《そうすい》の張角をはじめ、その弟の張宝、張梁たち最高首脳はことごとく死んだ。
むろん張兄弟の死は、黄巾軍が完全に平定されたことを意味しない。なにしろ、民衆のあいだに深く根をおろした組織なので、まだ爆発力を蔵《ぞう》して、あちこちに埋伏《まいふく》されている。とくに青《せい》州(現在の山東省)、徐州(江蘇省)には黄巾軍の政権が存在するという噂《うわさ》があった。
いや、青州や徐州のように遠いところではなく、みやこ洛陽の近くにも、黄巾軍の残党が出没するという。汾水《ふんすい》の流域には、彼らの基地があるそうだ。
それにしても、軍長クラスの人物が、洛陽に潜入しているのは意外であった。
陳潜は城外の白馬寺に帰ってから、近くの庵で療養している景妹《けいめい》(支英の養女)を見舞ったとき、韓暹の話をした。
「洛陽の当局も見くびられたものですねぇ。謀反人の幹部がひる日なか、まちを歩いているんですから」
彼がそう言うと、彼女は、
「それとも、黄巾軍では、軍長でさえ、みずからまちに出て、生きる道をさがさねばならないほど、追い詰められているのかもしれませんね。……で、その男を見かけた場所は?」
「上西門内の木匠場《もくしようじよう》の近くです」
「二回ともそうでしたか?」
「ええ、そうでしたね。だけど、やっぱり大手を振って、というかんじではありませんでしたよ」
「そりゃ、おたずね者ですからね。用心はしていたのでしょうが、あなたには気づきませんでしたか?」
「鉅鹿にはおおぜいの人がいましたから、私の顔なんかおぼえていないでしょう。あちらは大物ですから、私のほうは好奇心もあって、注意して見ていたので、相手をおぼえているわけですが」
陳潜はそのときの場面を頭にうかべた。
はじめは、忘れていた頭巾を木匠場へ取りに戻るとき、相手を見かけたのである。韓暹はどうやら、あたりをうかがうようなようすで、木匠場の塀《へい》にそって歩いていた。すこしはなれたところに、連れがいたような気配であった。
二度目はその三日後のことである。陳潜は木匠場から帰るとき、戸をあけて、出あいがしらに顔をあわせたのだ。韓暹は背をまるめ、わざととぼけたふうに、目をぱちぱちさせた。まるで、
(わたしはただの通りすがりの市民ですよ)
といわんばかりに。
ところが、その表情で、陳潜は相手を韓暹だと確信できたのである。
「さて、工事はいつから始まるのでしょうか?」
景妹は話題を変えた。
洛陽在留の月氏族の人たちのために、この白馬寺が建立《こんりゆう》されて、もう百二十年になる。ようやく漢人の信者もふえはじめ、婦人の出家希望者もあらわれた。
──尼寺を建てよう。
月氏族の人たちのあいだで、数年まえから、それが検討されていた。
信仰心の深い人たちは、尼寺建立に積極的であったが、現実的な連中は、
──いまはその時期ではない。
と、消極的であった。
洛陽にいる月氏族は、その大部分がシルクロードによる東西交易に従事する商人と、その家族である。現在は商売が思わしくない。隊商は武装しなければならないし、各地の支配者に賄賂《わいろ》をおくっておかねば、安全は保証されない。そんなことで、経費がかさむうえに、動乱によって漢土の購買力がとみに衰えている。
新寺院建立という大事業を始めるには、たしかに時期はよろしくない。かといって、信仰の声を無視することもできない。そこで、長老の支英は、折衷《せつちゆう》案を考え出した。
──壮麗な尼寺は将来に建てるとして、尼僧のためのつつましい修行道場を、いますぐ造ろう。
というのである。
臨時の建物なので、ありあわせの材料を使えば、経費もやすくあがるだろう。
支英が目をつけたのは、洛陽城内で、さきごろ火災にかかって、とりこわされた宮殿の柱や梁《はり》を使うことだった。全焼した建物は、灰しか残らないが、一部が焼けたのは、解体すればまだ使用可能の材料が得られるはずである。
支英は洛陽の事実上の支配者である董卓《とうたく》に、その払い下げを願い出た。
董卓軍が洛陽に近づいたさい、白馬寺は将兵に献茶したばかりか、支英は三千の軍勢を数万にみせる手品を教えたのである。これは董卓の覇業《はぎよう》に大きな貢献《こうけん》をした。そんなわけで、董卓は月氏居留民に好意をもっている。
──新しい材料を使えばよかろう。わしが斡旋《あつせん》してやる。金の心配はするな。
董卓はしきりにそうすすめたが、支英は、
──浮屠《ふと》(仏教)の者は、倹約を重んじますれば……
と、固辞した。そして、無料で古材の払い下げを受けることになったのだ。
居留民団のなかには、
──飛ぶ鳥をおとす董卓閣下のおはからいだから、新材の世話をしてもらっても、無料のはずだ。金の心配はするな、とおっしゃったではないか。どうして辞退したのか?
という声もあった。
支英は弁解もせずに、ただ笑っていた。
陳潜は支英の心がよく読めた。
いま董卓は横車の押し放題である。
皇帝の辯《べん》を廃して弘農《こうのう》王に降格させ、その異母弟の協を立てたうえ、辯の母である皇太后の何《か》氏を毒殺した。さらに皇太后の母の舞陽君の屍体をさらした。
また董卓は、『相国《しようこく》』という職についた。
四百年前に、漢の高祖が天下を統一して、蕭何《しようか》をこの職に任命したが、それっきりで、空位のままだった。四百年間、誰も任命されなかったのは、『相国』の位があまりにも高かったからである。
天子の前に出ると、家臣は小走りでうごかねばならないしきたりだった。これを『趨《すう》』という。相国はこれをしなくてよい。ゆっくりと歩けるのだ。また天子の座所では、誰も武器をもつことを許されないが、相国は剣を帯《お》びることができた。
この横車、いつまでも押して通れるはずはない。董卓は物欲がつよく、そのため洛陽じゅうの嫌《きら》われ者になっている。
人望がない。いつかは没落する。──
支英は董卓の恐怖政治が、長く続くはずはない、と信じていた。だから、ここで董卓べったりの姿勢をとってはならない。つぎの支配者は、董卓と密着した人物や団体を粛清《しゆくせい》するであろうから。
古材をもらい受けるぐらいが、まず限度であろう。
董卓は月氏族のために、古材を処理する場所を提供した。それが上西門内の木匠場だったのである。尼僧道場の設計図はすでにできていた。古い柱や梁を、設計図の寸法に合うように切る。カンナをかけると、古い材木も、みちがえるように新しくみえた。
そんないきさつがあって、木匠場は現在、月氏の工人たちの仕事場になっている。仏教建築は、まだ漢人の手にあまる。また月氏の工人たちも、信者以外の漢人に教えたがらないようだった。陳潜も仕事場に入れてもらえなかった。ときどき古材の数の点検を手伝うていどである。
「工事がいつ始まるか、私のような他所《よそ》者には教えてくれませんよ」
と、陳潜は答えた。
「でも、物騒ですねぇ。黄巾の大物が、みやこにもぐり込むなんて。……城門の検査はきびしいのでしょう?」
陳潜が他所者などと、ひがみはじめたと思って、景妹はあわてて、また話題を変えた。
「検査がきびしいのは出るときだけですよ。からだの隅々《すみずみ》まで調べますからね。入るときは、たいしたことはありません」
「そうですか。……いかにも相国らしゅうございますね。ほ、ほ、ほ……」
と、景妹は笑った。
洛陽はぜんぶおれのもの。──
相国の董卓はそうおもっていた。洛陽のまちだけではない。そこに住んでいる人間も、そして彼らの持っている財物も、みんな彼のものなのだ。天子でさえ、彼は自由に廃立できた。
──洛陽のものは、針一本といえども、外へ出してはならぬぞ。
彼ははちきれそうな肥満体を揺すって、そう言ったものである。
──はい、かしこまりました。
と、部下が平伏して答えたのはいうまでもない。
──しっかりと城門をかためよ。
と、董卓は命令した。
これでもわかるが、城門警備はおもに出る人間に重点をおいた。なにかを、そっと持ち出しはせぬか、と。
後漢のみやこ洛陽は、前漢のみやこ長安や、のちの唐の長安にくらべて、だいぶスケールが小さい。万事につけてひかえめであった、始祖光武帝の性格が、みやこづくりにもあらわれたのであろう。それでも、南北五キロ、東西二・五キロほどのまちが、高い城壁に囲まれていた。
洛陽城は南に開陽《かいよう》、平《へい》、苑《えん》、津《しん》の四門、北に夏《か》、穀《こく》の二門、東に上東、東中、望京の三門、西に広陽、雍《よう》、上西の三門と、あわせて十二の門をもっている。
人も物も、この十二のゲート以外からは、外に出ることができない。
権勢欲だけなら、まだ子供っぽいところがあって、息もつけるが、董卓はすさまじい物欲のもち主であった。権勢欲と物欲とをあわせて、病的な独占欲といってよいだろう。
十二の門を締《し》めあげてから、洛陽じゅうの財物を没収しはじめた。
──反逆者と関係があった。
という理由で、めぼしい富豪名門に罪をきせ、財産を強奪したのである。
奪った黄金は、いったん熔《と》かして、延べ棒にし、『董』という刻印を打った。こんなところに、彼の病気が出ている。
財物の流出をおそれるのだから、人間が入ってくるぶんには、やかましく言わない。いざというときは、とっつかまえて使役できるのだから、ほとんどしらべもしない。
「それにしても、韓暹という男、万をかぞえる部下を率《ひき》いていたはずですが……」
陳潜は首をひねった。
「解散したのでしょうか? それとも白波谷《はくはこく》にいるかもしれませんね」
と、景妹は言った。
黄巾の残党のかなりの数が、汾水流域の白波谷に集まっているということだった。現在の山西省南部汾城の東南の谷である。難攻の地なので、造反軍の拠点となったのであろう。だが、要害であるだけでは、大軍を養うことはできない。
はじめは近隣の住民から徴発《ちようはつ》したが、あまり搾《しぼ》りすぎて、土地の人は逃げてしまった。こうなれば、幹部の役目は、食糧さがしということになる。
だが、そのために洛陽に来るのは、お門違《かどちが》いというものだ。針一本も惜しいという、ひとり占めの権化《ごんげ》相国董卓がひかえている。
「いやになって、部下から離れたのかもしれませんよ」
陳潜はそう推理した。
このとき、庭から、
「おねぇーさーん」
と呼ぶ可愛い声がきこえた。
六つか七つの男の子が、そこに立っていた。
このあたりの子供ではない。その服装が変わっている。毛皮の背心《ペイシン》(チョッキ)を着て、袖は目にもあざやかな朱の絹《きぬ》であった。
「はーい、すぐに行きますよ。豹《ひよう》ちゃん」
景妹はにこにこ笑いながら答えた。
「どこの子ですか?」
と、陳潜は訊いた。
「匈奴《きようど》の王子よ」
「あ、ではあの竜門の……」
「そうです。家来に連れられて、ときどきこのへんまで来るのです。何日かまえに、あたし遊んであげたの。とってもよろこんでね。……それでまた来たのよ。可哀そうだから、あたし遊んであげるわ」
景妹は立ちあがった。
「からだにさわりませんか?」
「もう大丈夫なのよ。……それに、匈奴の人たちとも仲よくしなければ……」
景妹は履《くつ》をはいて庭におりた。
「そうですか。……」
陳潜は呟《つぶや》いた。
月氏の人たちは、あらゆる人と仲よくしなければならない。それが彼らの運命であった。病気を養っている景妹も、自分の使命を知っていた。
匈奴はモンゴル系の遊牧民で、後漢時代には、北匈奴と南匈奴に分裂していた。南匈奴は後漢に臣属し、西河《せいが》の美稷《びしよく》のあたりを本拠地としている。現在の山西省|離石《りせき》県である。
遊牧民とはいえ、漢都の近くまで来ているのは、お家騒動のせいであった。
匈奴の王は『単于《ぜんう》』という。その下に、右賢王と左賢王がいて、単于を補佐する。
中平四年(一八七)、中山太守の張純が造反し、鮮卑《せんぴ》族と結んで辺境をさわがしたとき、朝廷は南匈奴にたいして、
──幽州の牧《ぼく》の指揮下に入り、造反軍を撃つべし。
という詔書を下した。
ときの単于は、漢帝のみことのりをかしこみ、左賢王に騎兵隊をさずけて幽州へむかわせた。しかも、つぎつぎと増援したのである。
ところが、南匈奴の人民は不服であった。
──このような好戦的な単于の下におれば、われらの子弟はことごとく兵隊にとられてしまうだろう。
と、十余万の衆をあつめて単于を攻め殺してしまった。
そこで、右賢王のオフラ(於扶羅)が単于となった。
だが、オフラは殺された単于の息子であった。造反の衆は彼の即位に反対し、スプク(須ト骨)を単于に立てた。
つまり、南匈奴は二人の単于をもつことになり、人民の大部分はスプクを認めた。
オフラは自派の数千騎を率いて南下した。
南匈奴の宗主は後漢である。
──漢帝にまみえて、わしが単于であることを認めてもらおう。
オフラは洛陽に出て、直訴《じきそ》しようとした。
これが中平六年のことで、直訴しようとした相手の霊帝が死に、そのあと、宦官《かんがん》皆殺し騒動がもちあがり、つづいて董卓の入京、皇帝の廃立があった。
南匈奴の単于のどちらが正統であるか、そんなことにかまっておれないのである。
オフラは数千騎の部下を連れて、洛陽の周辺を放浪しなければならなかった。
漢帝がいつ拝謁《はいえつ》を許すかわからないので、洛陽から遠く離れることはできない。そこで、竜門のあたりに屯《たむろ》していたのだった。
だが、董卓入京後の状況をみると、どうやら拝謁は望み薄のようにおもえた。
部下に食事を与えるのが、オフラにとって大仕事となっている。非生産的な大部隊を率いて、自活の方法といえば、掠奪《りやくだつ》以外にはないようだった。
景妹のところへ遊びに来たのは、そのオフラの息子の豹《ひよう》だったのである。
彼女は毬《まり》をもって、幼い匈奴の王子と遊びはじめた。月氏の方針に従ってそうしているとはみえなかった。
人間が幼《おさな》いものをいつくしんでいるすがたであった。
(これが浮屠《ふと》か。……)
陳潜は白馬寺の学僧たちから聞いた、仏教の真髄が、目のまえの景妹が匈奴の王子豹とたわむれているすがたに、凝縮《ぎようしゆく》されているようにかんじた。
陳潜はなぜか涙がにじんできた。
巴《は》(四川)にいる、あのうつくしい少容のすがたが、久しぶりに涙にかすんでうかんだ。ほんとうに久しぶりだった。──
設計図に従って、古材を適当な長さに切り、カンナをかけ、組みあわせの部分の溝《みぞ》や突出部をつくる。いっぽうでは、白馬寺の庵所の庭に礎石《そせき》が据えられる。木匠場の再生された木材を持って行けば、かんたんに組み立てられるという。
それを運び出す日がきた。
針一本持ち出せないのが原則だが、董卓の許可状のある場合は別である。むろん白馬寺の再生木材は、董卓の搬出許可状があった。
大きな荷車三台が用意された。
おそらく、それでぜんぶを運べるわけではないだろうが、山積みされた木材はかなりの量であった。
木匠場の倉庫に、どれほどの再生木材が用意されていたか、『他所者』の陳潜にはわからなかったが。
軍用の馬が董卓から貸与《たいよ》された。
荷車を馬がひき、十人ほどの人数がついた。
「あんたも、そばについて歩いていただくか」
と支英に言われて、陳潜もその人数のなかに入った。
支英がすすめるときは、きっとなにか収穫があるのだ。いつの日か巴に帰って、五斗米道の道教をこの乱世に布教するときに、役立つ知識が得られるはずだった。
洛陽のまちは騒然としていた。
──董卓討つべし!
の声が山東にあがっているという噂が、ひそかに囁《ささや》かれていた。
大きな声では言えない。董卓派の役人に知れると、ひっくくられて、悪くすれば殺されてしまう。
山東というのは、現在の行政区画の山東省のことではない。太行《たいこう》山脈の東という意味で、漠然とみやこの東方を指すことも多い。
反董卓連合軍は、なかなか勢力がつよいという評判であった。それには希望的観測もまじっているだろうが。
なにしろ董卓は財物だけではなく、貴賤《きせん》を問わず、他家の妻女や娘までさらうのである。
──あんなやつ、誰かに征伐《せいばつ》されてしまえばいいのに。……
誰もが心のなかでそうおもっていた。
荷車の車輪が、道路の穴ぼこに落ちたり、砂を噛《か》んだりして、かなり騒々しい音を立てている。
その音にまぎれて、陳潜は支英と反董卓連合軍の噂をした。
むろん新聞などのなかった時代だし、董卓は厳重な報道管制を敷いていたが、外界の情報はあんがい正確に、洛陽の市民の耳に入っていたのである。
「まとまるかどうかが問題ですね」
と、陳潜は言った。
董卓に反対する人は多い。洛陽城内の人は、董卓の恐怖政治下に、どうしようもないが、外にいる連中は兵を挙げることができる。
後漢の社会は、二百年前の創建期から、豪族が地方に分立するという形態をとっていた。始祖の光武帝が帝位についたのも、各地の豪族の盟主というかんじだった。
これでは、中央集権の力は弱いけれど、地方の豪族もこまかく分かれていて、反政府にかたまるほどの力はなかった。後漢帝国はそのバランスのうえに成立していた、といってよいだろう。
だが、黄巾軍との戦いで、地方豪族の武力が強化されていた。
分立している武力を、どうにかまとめたなら、洛陽から董卓を追い払うことができるかもしれない。
そこがポイントである、と陳潜は言ったのだ。それにたいして、支英はうなずき、
「どうやら、まとまりそうですよ」
と、答えた。
月氏の人たちは、特別な情報網をもっている。支英が根拠のないことを言うはずはない。まとまりそうだというのは、
──おれが、おれが……
と、お山の大将ぞろいの各地軍閥に、誰かおさえのきく人物が推戴《すいたい》されたのだろうか?
「かしらがきまったのですか?」
と、陳潜は訊《き》いた。
支英はまたうなずいた。
「誰ですか?」
「あててごらんなさい」
と、支英は笑いながら言った。
「勃海《ぼつかい》の袁紹《えんしよう》ですね?」
「あたりました」
「冀《き》州の韓馥《かんふく》がゴネませんでしたか?」
その人物の鼻っ柱のつよいことは、天下に知られていた。お山の大将の典型的な人物といわれていたのである。
「部下にえらい人物がいたのですよ。劉子恵《りゆうしけい》といって、私も知っておりますが……」
支英の話によると、劉子恵はあるじに、
──兵は|凶事《きようじ》ですから、そのかしらになってはなりません。さきは長いのです。こんなときにかしらになって、いざというときに息切れしては、つまらないではありませんか。
と説いた。
──それもそうだな。……
韓馥も納得して、袁紹に董卓討伐軍の盟主を譲ることにしたという。
各地の軍閥をまとめる|きっ《ヽヽ》かけ《ヽヽ》になったのは、みやこにいて天子を補佐する三公が送った、
──董卓に圧迫されて、こちらでは手も足も出ない。各地で義兵をおこして、国家の患難を解《と》いてほしい。
という密書である。
じっさいには、これは洛陽の重臣の送ったものではない。針一本見逃さない警備に、そんな危険なことはできなかった。
この密書は東郡の太守の橋瑁《きようまい》という者が、勝手につくって、各地の軍閥に発送したのだ。偽造《ぎぞう》の密書であるが、洛陽にいる三公の気持を、的確に表現していたといえる。
偽造の密書が、軍閥たちを連絡させ、一ばん難題であった盟主問題は、劉子恵の助言で韓馥が袁紹に譲歩することで解決した。
「東西の決戦ですね」
陳潜はそう言って、ため息をついた。戦争で最も苦しむのは、権力争いになんの関係もない人民たちである。
「緒戦《しよせん》にすぎないのですよ、こんどの戦争は。……長くつづきそうですな」
支英は空を仰いだ。
「兵力は?」
「兵隊はいくらでも集まりますよ。……どうやら雨はあがりましたが」
この年、六月から九月まで、ほとんど小やみなしに雨が降った。何進《かしん》の宦官皆殺しも、皇帝兄弟の都落ち、董卓の入京も、すべてじとじとした霖雨《りんう》を背景にしておこなわれたのである。旧暦のことだから、これは日照りの最も必要な時期と、収穫期そのものも含めての長い雨になる。つまり、天下は大凶作であった。食うに困った男たちの、一ばん手っとり早い生き方は、兵隊になることである。凶作の年は兵を集めやすい。
「曹操さまの消息は?」
陳潜はその名を口にする前に、そっとあたりをうかがった。
「すでに兵五千を集めたとか……」
車輪が軋《きし》み、荷車をひく馬が脚をとめた。
城門にさしかかったのである。
支英は懐《ふところ》から、通行許可状を取り出して、ゆっくりと守門の将兵のところへ歩んで行く。
「董公、直筆の許可状でございますぞ」
と、それをひろげて見せた。
「ああ、白馬寺の……伺《うかが》っております。さぁ、どうぞ。……」
将校は丁重《ていちよう》に言った。
一行は検査なしで上西門を通り抜けた。
上西門を抜けると、もう城外である。
きまりきったことのようだが、三百年後の北魏の太和《たいわ》年間に、洛陽は従来の城壁の外に、もう一重の城壁がつくられた。だから、北魏以後なら、上西門(|★[#門+昌]闔門《しようこうもん》と改名された)を出てもまだ城内なのだ。
白馬寺も後漢・三国時代は城外だが、北魏では城内になってしまう。
上西門を出てしばらく行くと、穀水《こくすい》という河が流れている。後漢の洛陽は、この河を防禦《ぼうぎよ》線にしたようだ。
穀水の橋を渡る。
これでやっと、城外という気分になった。
解放感である。──
それというのも、洛陽城内における、董卓のしめつけが、それだけきびしく、息がつけないほどだったからであろう。
一行のなかから、歌声があがった。──
川という川は
東へ東へ海にむかって流れ
西へ戻《もど》ったためしはない
がんばれ がんばれ 若いうちに
年をとっちゃ もう遅い
「みんなほっとしたようですね」
と、陳潜は言った。
「政治や権力などに、なんの関係もない連中なのに……城内にいると、どんな人間でも、息が詰るのでしょうな」
支英は首を横に振りながら言った。
董卓が天下を取るときのことも考えて、彼は月氏族のために、うまく立ちまわっている。あんなふうに、城門をかんたんに通れたのも、そのおかげであった。
だが、董卓にはもう望みをつながぬ。──
支英の表情を、陳潜はそう解釈した。
穀水を越えて、一行は北へ折れて白馬寺にむかう。ちょうど道が西と北にわかれているあたりに来たとき、左右の草叢《くさむら》から、刀剣や弓矢を手にした男たちが、むくむくと湧《わ》きあがるようにあらわれた。
「ひゃーっ!」
先頭の馬のくつわをとっていた男が、大きな悲鳴をあげた。
左右から湧いて出たのは、百人以上はいたであろう。いずれも頭に黄色い布を巻きつけていた。
黄巾軍。──
これほどの人数で、みやこの城門のすぐ近くにあらわれるとは、不敵千万といわねばならない。
(あっ、韓暹《かんせん》だ。……)
どこから出てきたのか、騎馬の男が三騎あらわれて、木材を積んだ荷馬車の前に立ちはだかった。
そのまん中の人物が韓暹だったのである。
「命まで取ろうとはいわぬ。その三台の荷車を、馬ごと置いて帰れ!」
韓暹はどすのきいた声で言った。
あとの二騎は、片方が槍《やり》をしごき、もう一方のひげ男は長い柄の斧《おの》を脇にかかえていた。
木材運搬団は十数人しかいない。しかも、まるで武装していないのである。
「これでは、かないっこありませんね。……」
支英は前に出ると、韓暹にむかって、両手をひろげてそう言った。
「おとなしく、荷車を置いて行くか?」
「やむをえません」
「ま、それが上策じゃろ」
「それにしても、われわれは木材をはこんでいるだけなのに。……ご所望は、三頭の馬だけでございましょうか? それならば、荷車は人にひかせて帰りますが」
「いや、馬も荷物も所望じゃ」
「木材は使い古したものを、加工しただけでございます。たいした値うちはないとおもうのですが」
支英は心もち首をかしげた。
陳潜もおなじ疑問をもった。荷車をひく馬だから、いくら相国董卓の貸与したものとはいえ、名馬ではありえない。馬の鑑定にかけては、陳潜は素人《しろうと》だけれども、脚の短い駄馬だということぐらいはわかる。この三頭の駄馬のため、百人以上の武装兵を動員するなど、黄巾軍のやりそうなこととはおもえない。荷物は古材を再生した|がら《ヽヽ》くた《ヽヽ》に近いものだ。
韓暹という大幹部が、じきじきに出馬した狙《ねら》いはどこにあるのか?
「おう、その使い古した木材が欲しいのじゃ」と、馬上の韓暹は言った。──「百年も二百年も、宮殿の柱になって立っておったものじゃろ。からからに乾いて、すぐに使えるというものよ」
「さようでございますか。……山に砦《とりで》でも構築するのでしょうか?」
「はっ、はっ、はっ……砦なんぞ、なま乾きの木材でじゅうぶんじゃ。おれたちはな、宮殿をつくる。白波谷に、金色|燦然《さんぜん》たる大宮殿をな。……はっ、はっ、はっ……」
韓暹は大声で笑った。
「白波谷でございますか?」
と、支英は眉《まゆ》をしかめて訊いた。
「よけいなことを訊くな!」
幹暹は唾《つば》をとばしながら叱り、左右の部下を見渡して、
「さぁ、かかれ!」
と、命令を下した。
その声に、十数人の白馬寺の男たちは、荷車をはなれて、あわてて道のはしに身を避けた。
三頭目の馬の手綱《たづな》を持っていた男だけが、どうしてよいかわからず、きょろきょろしていたが、駆けよった黄巾の男に、
「うせやがれ!」
と、つきとばされた。
百余人の黄巾兵は、いっせいに草叢からとび出して、三台の荷馬車を囲み、
「おう、おう、おう!」
と、武器をもった手を、高くさしあげて、かちどきをあげた。
「進め!」
かちどきの声が消えるのを待って、韓暹は吠《ほ》えるように言った。
ぴしっ!
荷車の馬に鞭《むち》をくれる音がして、やがて車輪が、ぐわっと道路の砂利に食いこみながらうごいた。──
そのときである。──
穀水をへだてた北芒《ほくぼう》山脈のおとし子のような、前方の小高い丘の麓《ふもと》に、砂煙の幕があがった。
騎馬隊である。
旗がひるがえっている。百や二百の数ではなさそうだった。
(ばかな。……大声でかちどきなどあげるものだから、政府軍に気づかれたではないか。韓暹も調子に乗りすぎたようだ)
陳潜は黄巾びいきであった。おなじ道教の団体であり、彼自身がそのなかにいた、という縁がある。それに、いま強奪されたのが、たかが再生木材にすぎないので、そんなに怒りがこみあげてこない。
政府軍──すなわち董卓軍は、どうも虫が好かない。
政府軍があらわれ、それが黄巾軍より数が多く、しかもすべて騎馬武者なので、白波谷から出てきた韓暹たちは、どうにも勝ち目がない。
逃げるか、殺されるか、とにかく蹴散らされるのは避けられない。むろん再生木材は、白馬寺側に戻るだろう。だが、陳潜はちっともうれしくなかった。
砂煙の幕は、しだいにひろがり、白馬寺の衆と黄巾軍を、囲みはじめたのである。
すっかり囲まれないうちに、うしろに逃げようとしても、逃げおおせることができるのは、韓暹ら三人の騎馬幹部だけであろう。あとはぜんぶ徒歩であり、相手は全員が馬にのっているようである。
韓暹は逃げようとしなかった。
「しまった! うーぬ」
と呻《うめ》いた。
黄巾軍は人民のために決起した、『義軍』と称していた。義軍のリーダーが、部下を見棄てて逃げるわけにはいかない。
「豕《ぶた》公め!」
と、馬上の韓暹はいまいましげに毒づいた。
豕公とは、超肥満漢である董卓につけたニックネームである。みやこでそんなことを言って、役人の耳にはいれば、まちがいなく殺されてしまう。
「いえ、どうやら董公の軍隊ではないようです。……旗がちがうようにおもいますが……」
支英が手をかざして言った。
「豕公の兵ではないと申すのか?」
韓暹は鞍《くら》のうえで、身をのり出した。
砂煙の幕のうえに、軍旗が風にひるがえっていた。旗の模様は馬である。
「おう、文馬《もんば》……」
と、韓暹は呟《つぶや》いた。
文馬とは、馬のデザインの布のことであり、このころ、漢に臣属していた南匈奴がよく用いたのである。南匈奴の単于《ぜんう》オフラが、正統争いで直訴にきたが、董卓に相手にされず、部衆を率いて放浪しているという話は、黄巾たちも知っていた。
韓暹はおしよせてくる匈奴軍の前に、ただ一騎で進み出て、
「われらは白波谷の黄巾軍。オフラ殿は、われらが戦うべき相手ではない。われら、いささかも敵意をもたぬ。それなのに、どうして貴軍はわれらを囲もうとするのか?」
と、大音声《だいおんじよう》で言った。
そのあいだも、砂煙の幕は左右にのび、輪《わ》をつくろうとしていた。
前方から、十騎ばかりの騎馬武者が、それにこたえるように前に走り出た。
文馬の大旗がはためく。
端玄《たんげん》赤色の絮衣《じよい》を着《つ》け、朱塗りの兜《かぶと》をいただいた人物が、その十騎のなかから馬を進めて、韓暹の前方十メートルほどのところで、ぴたりととまった。
端玄とは、着物の襟《えり》や袖が黒でふちどられていることで、絮衣というのは、強靭《きようじん》なふとい麻でつくったもので、ちょっとした刀や矢は通さない、鎧《よろい》を兼用する服である。
「われは単于オフラぞ」
と、その人物は名乗った。
赤色の絮衣の右をぬいでいるのは、漢の武将のしきたりに従っている。匈奴とはいえ、南匈奴はこのころ、ずいぶん漢化している。とくに軍人の服装ではそうであった。漢の朝廷から給付されるのだから、しぜんにそうなるのであろう。
「われらとて、黄巾軍を敵とするのではない」
と、オフラは言葉をつづけた。
「では、囲みを解いてもらおう。貴軍の部下に命令していただきたい」
と、韓暹は顔を真っ赤にして、どなるように言った。十メートルほどの距離になったので、そんな大きな声を出さなくても、じゅうぶん聞こえるのだが。
「いや、いや」と、オフラも負けずに大声でやり返した。──「ただでは兵は退《ひ》けぬ。その三台の荷馬車を置いて行くのなら、話は別であるが」
「この荷馬車はただの古木材。……削《けず》って新しく見えるが……」
韓暹は、さきほど白馬寺の支英が言ったのと、おなじことを口にした。
「古木材でもかまわぬ。ここまで来たのであるから、もらうべきものは頂戴《ちようだい》しよう」
と、オフラは片頬を歪《ゆが》めるように笑って言った。
「われらを小勢と侮《あなど》って、無体《むたい》をなさるか」
「そちらも、小勢の運搬人を侮って、無体を働いたではないか。山の陰から見ておったぞ」
そう言われると、韓暹は返す言葉がない。しばらく言葉に詰っていたが、やがて一そうでかい声で、
「ここでおめおめと引渡せば、黄巾軍の名にかかわる。刀折れ矢尽きるまで戦おうぞ。そのかわり、われら仆《たお》るとも、われらが友軍十万、草の根をわけても、オフラの乞食軍をさがしだして、誅殺《ちゆうさつ》を加えるぞ!」
「友軍十万ときた。ふン[#ンは小文字]、白波谷の百姓兵は二万だと聞いたが。まぁ、そちらの手なみを拝見いたそうか」
オフラはあざわらい、ふりかえって、
「豹よ、前に出よ」
と言った。
白いひげを生やした老将が、十騎の列から馬を進めた。彼は自分の前に、一人の少年をのせていた。七つほどであろうか、目のくりくりした、まる顔の子供であった。
(ああ、あの子……)
陳潜は白馬寺別庵で、景妹と遊んでいた少年を、そこに見たのである。
「豹よ、おまえは生まれてはじめて戦いを見ることになった。しっかりと、大きく目をひらいて見るのだぞ。匈奴の鉄騎兵のみごとな戦いぶりを」
と、オフラは言った。
「はい、しっかりと見ます」
可愛い声で、豹は答えた。
オフラは鞭《むち》をもった右手を高くあげた。
それがふりおろされると、戦争開始の合図になるのだった。
「お待ちください。お待ちください。……」
白馬寺の支英は、両手を目の高さにあげて、韓暹《かんせん》とオフラ父子のあいだに走って行った。
「ほう、なんじゃな? どうやら月氏の者のようであるが……」
オフラはさしあげていた腕を、ぐるりと大きくまわして、下におろした。これは、合図を取消すという信号である。
目が青く、髪が栗色の月氏の人は、その容貌《ようぼう》ですぐにわかるのだ。
四百年前、匈奴と月氏は仇敵《きゆうてき》の関係にあった。月氏は匈奴との戦いに敗れ、西へ逃げたのである。漢の武帝は、匈奴対策として、月氏と結んで、匈奴を挟撃《きようげき》する計画を立てた。そのため使者として月氏に派遣されたのが、張騫《ちようけん》であった。しかし、月氏は中央アジアのゆたかなオアシスに安住して、匈奴にたいする敵愾心《てきがいしん》をもう失っていたという。
それから三百年たっている。匈奴と月氏はもはや怨恨《えんこん》はない。おたがいに漢にたいする塞外《さいがい》の民ということで、むしろ親近感をもっていたといえよう。
「白馬寺の月氏、支英と申す者でございます。われら浮屠の者は、争いや殺生《せつしよう》をこのみませぬ。いまわれらの荷物のことで、血をみるなど、耐え難いことでございます。なにとぞここは、お収めくださいませ」
支英はその場にひざまずいて、しずかに合掌して言った。
「どんなふうに収めるのだ?」
と、韓暹は訊いた。
「三台の荷馬車は、もともとわれら白馬寺のものでございました。もはやわれらの手をはなれましたが、浮屠の信者として、それが争いの種になるようでは、やはり一言申し上げずにはおれません。……黄巾と単于《ぜんう》軍と、双方で三台の荷馬車をお分けくださいませ。ここでは、黄巾は小勢ですが、白波谷に数万の衆がおります。二台を黄巾、一台を単于軍と分けてはいかがでしょうか?」
支英はそう言って、韓暹とオフラの顔を、かわるがわるに見た。
二人の頭領は、どちらも鞍のうえで考え込んでいた。
ここで斬り死にして、あの世で黄巾の友軍の復讐《ふくしゆう》を待つべきか?
ここで相手を殲滅《せんめつ》し、あとで報復を受けてもよいのか?
どちらも流血は避けたい場面である。双方とも、そのきっかけをもとめていたのだ。
支英が二人のあいだに走り出て、分配の提案をしたが、これはきっかけになるだろうか?
このとき、後方から頭につけた白巾を、風にたなびかせながら、一人の男が馬で駆けてきた。匈奴軍の黄巾包囲の輪は、八分どおりできていたが、わずかなすきまから、この騎馬の男が突入してきたのである。
「申し上げます!」
と、その男は馬を走らせながら叫んだ。そして、韓暹たちのすぐうしろで、馬をとめた。
陳潜はその男の顔に見おぼえがあった。白馬寺に出入りしている、漢人の信者の一人である。
「この道を皇太后の葬儀が通りまするぞ。あと数|刻《こく》で宮殿を発《た》つとききました。……」
その男は喘《あえ》ぎながらそう報告して、馬からおりた。
皇太后とは、亡き霊帝の皇后|何《か》氏で、廃帝|辯《べん》の母親にあたる。董卓がこの何太后を毒殺したことはすでに述べた。
──婦姑《ふこ》の礼に逆《さか》らい、孝順の節なし。
という理由による。
何太后が|しゅ《ヽヽ》うと《ヽヽ》め《ヽ》にあたる董太后によくなく、憂死させたのは去年のことである。董太后の兄の子の董重《とうじゆう》と、何皇后の兄の何進とのあいだに権勢争いがあり、何進が董重を襲って自殺させ、董太后は悲しみ、憂い、怖れて死んだ。
──民間、咎《とが》を何氏に帰す。
と、『後漢書』にしるされているように、世間では董太后に同情して、何太后を批難していた。
董卓が何氏を毒殺したのは、
──正義の味方
を装って、人気取りをする一面、まだ残っている何進一党の力を一掃するためであった。
しかし、こんどは世間では、
──お可哀そうな何太后
と同情があつまり、董卓の人気が落ちた。
あまり人気にこだわるような董卓ではないが、こんどはその何太后を、
──先帝の陵に合葬してあげよう。
と言い出した。
何太后の死は九月三日であった。
入棺して長いあいだ放置していたが、人びとは何太后の遺体は、さびしく粗末に埋葬されたものとおもっていた。
ところが、董卓はなにを思ったか、急に合葬を言い出したのだ。
霊帝には何氏の前に、宋氏という皇后がいた。讒言《ざんげん》に遭《あ》って廃され、暴室《ぼうしつ》(宮女の牢獄)で死んだ。遺体は放置されたが、宦官たちが憐《あわ》れみ、金を出し合って宋家の墳墓《ふんぼ》に埋葬した。のちに、宋氏が無実だということが判明したが、それにもかかわらず改葬されなかった。
こんどの何氏の場合は、有罪とされて死んだのに、先帝の陵に合葬される。
霊帝のねむる文昭陵は、洛陽城外の西北約十キロのところにあった。何氏の柩《ひつぎ》がそこへむかうとすれば、このあたりはいまに兵馬で満たされるであろう。
合葬だから皇后の礼で葬られる。皇后の柩車《きゆうしや》の綱は、三百人の宮女が引くのが、後漢初からのしきたりであった。柩車のうしろには、数千の会葬者がつづき、この行列を警固する兵士はおびただしい数にのぼるはずだ。
こんなところで、荷車三台を争って、乱闘などしていては危険である。数時間後に葬列は宮殿を出るというが、警固陣はもう先発しているかもしれない。
「盟を結びたい」
とつぜんオフラが言った。
いや、何太后葬送の情報が届いたのが、きっかけとなっただけで、オフラの考えはもう熟していたのだろう。
オフラの言う『結盟』は、荷車を分けるという意味だけではなかった。
「われら西河から長駆したる三千五百騎、董卓めに軽んじられて、天子への拝謁はおろか、洛陽に入ることさえ許されぬ。もはや待ちくたびれたわ。このうえは、力をもって望みを遂《と》げようとおもう。黄巾と盟を結び、匈奴の正統を天下に認めさせよう」
オフラはそう言った。
「異存はない」
と、韓暹は答えた。
白波谷二万の黄巾軍も、いま心細くおもっている。政府軍の討伐を受ける身は、頼るは力だけなのだ。
三千五百。
数こそすくないが、漠北で鍛《きた》えた鉄騎隊は、いかにも頼もしげにみえた。
「白波谷におられる、ほかの将帥の意向は、いかがでしょうか?」
と、支英は訊いた。
「白波谷には、胡才《こさい》、李楽《りらく》たち、黄巾の将帥はいるが、いずれもわしの副じゃ。わしの意向は白波谷の意向とおもってよい」
韓暹は胸を張って答えた。
「では、この西方に無人の廟《びよう》がございますから、そこで結盟の式をとりおこないましょう。……ただし、私は浮屠の者ゆえ、結盟のなかだちは……」
支英はそこで陳潜をかえりみて、
「陳潜さんにお願いしましょう」
と言った。
中国の古式の結盟は、牛を殺して神に供え、その血を啜《すす》って、約束に違反しないことを誓うのである。
支英は仏教信者だから、戒律として、そのような血なまぐさい行為はできない。白馬寺の客ではあるが、正式に信者となっていない陳潜に白羽の矢が立ったのだ。
匈奴の鉄騎三千五百、黄巾の百余名、それに白馬寺の十人あまりの一行は、急いでその廟にむかった。
ぐずぐずしておれない。いまにも洛陽城から、董卓の軍隊が葬送警固にやってくる。
牛は匈奴の兵が殺して、その首を廟内にもち込んで供えた。
韓暹とオフラがむかい合う。
なかだちの陳潜は、小刀をもって、牛の左耳を切る。手がぶるぶると顫《ふる》えたが、うまい工合に下の受皿に血がしたたり落ちた。
儀式であるから。形だけでよい。そんなに多量の血はいらない。
「年の順にいたしましょう」
と、陳潜は言った。
こんなとき、順序がうるさいものだが、年の順にすれば問題はすくない。
「では、わしからじゃな」
韓暹は皿の血を啜った。
陳潜はその皿を受取って、オフラに渡した。
オフラも残った血を啜った。
そのあいだ、陳潜は牛の左耳をつまんだまま、低い声で誓いの言葉を唱えた。──
「ここに白波谷の黄巾軍統帥韓暹と、南匈奴単于オフラは、天に誓って盟を結ぶ。おのおの率いる軍は兄弟の関係となり、心をあわせ、力をあわせ、大義の実現を期す。この結盟に背反《はいはん》せる者のうえには、神罰たちどころに下るべし。……」
廟の扉はひらかれて、三千六百余人の人たちの目が、この儀式にそそがれた。
結盟は終わった。陳潜は大役をすませて、牛の耳を案《テーブル》のうえに戻した。
この結盟の式は、多少の異同はあるが、古代からおこなわれていた。結盟をつかさどる者を、
──牛耳を執《と》る
といい、この言葉だけは日本に伝わり、リーダーシップをとることを、『牛耳《ぎゆうじ》る』と称するようになった。
廟から出たオフラは、すぐに馬にまたがり、
「替《か》え馬を黄巾の兄弟に貸せ。これよりただちに出発する。もはや竜門には戻らぬ。めざすは白波谷ぞ」
と、大声で呼ばわった。
オフラと韓暹につづいて、廟を出た陳潜は、そこに豹が毬《まり》を抱えているのを見た。
「いい毬だねぇ」
と、陳潜は声をかけた。
豹は陳潜のほうを見たが、どうやらその表情では、彼の顔をおぼえているようだった。はじめは、こわばった顔をしていたが、しばらくするとかすかに笑顔をみせ、
「おねえさんにもらったんだい」
と言った。
「そうかい、可愛いねぇ」
陳潜は思わず手を出して、フェルトの帽子をかぶった豹の頭を撫《な》でようとしたが、すぐにその手をひっこめた。牛の耳を切ったときの血が、まだ残っていたのである。
結盟したばかりの匈奴・黄巾の両軍は、黄色い砂煙を蹴たてて西へ去った。三台の荷馬車も連れて行かれた。
「行ってしまいましたね」
と、陳潜は支英に声をかけた。
支英はじっと、両軍を見送っていたが、陳潜の声に我に返ったように、
「二つが一つになって、大きく、そして強くなりましたよ。東のほうの諸将も、いずれこんなふうになるでしょう」
と言った。
「持って行かれましたね」
「え?」支英はすぐにはわからなかったようだが、すこし考えてから、「ああ、木材のことですか。……」と言って笑った。
「どうして木材みたいなものに、目の色を変えるんでしょうかね?」
と、陳潜は訊いた。
「さぁ……」支英は当惑したように、ちょっと笑ったが、話題を変えた。──「董公がなぜ何太后を先帝の陵に合葬する気になったか、わかりますか?」
「さぁ、なんの風の吹きまわしでしょうか」
「あの文昭陵に副葬された、金銀財宝を取り出すためですよ」
「えっ……」
あまりのことに、陳潜は言葉も出なかった。
だが、あの病的なひとり占め患者の董卓のことだから、この推測は大いにありうる。いや、むしろ、そう考えねば不自然といってよいだろう。
霊帝の文昭陵は方墳で、長さ三百歩というから、四百メートル以上であり、高さ十二丈、すなわち二十七メートルあまりと記録されている。霊帝の柩《ひつぎ》を入れたとき、さまざまな財宝が副葬されて、土をかぶせられた。何氏を合葬するとなれば、陵は再び土を除いて、開かれねばならない。なかの宝物を取り出すには、まことに都合がよいのである。
群盗、各地に猖獗《しようけつ》す。──
皇帝が死に、後継皇帝が臣下によって廃立された。太后が幽閉されて毒殺された。宦官が虐殺された。異変つづきであり、そのうえ長雨のために、大凶作となった。
こんなとしが平和なわけはない。
「陳留《ちんりゆう》へ行っていただけますか?」
白馬寺の支英が、客の陳潜にそう頼んだ。
陳留は洛陽の東、いまの河南省開封市のあたりだが、洛陽を脱走した曹操が、そこで五千ばかりの兵を集めたという。
橋瑁《きようまい》の偽造密書によって、各地の軍閥の連合が実現しつつある。この連合軍のなかで、どんな地位を占めるか、ほとんどその兵力で決定される。人数もさることながら、兵士たちが強くなければならない。そのためには、じゅうぶんな武装と、ゆたかな軍糧、給与などが必要である。金のかかることばかりであった。
「届けものですね?」
と、陳潜は訊《き》いた。
支英はうなずいた。
「いたるところ、盗賊だらけですよ」
そう言って、陳潜は窓に目をやった。
むかいの納屋の扉は、ぴったりと閉じられている。そのなかに払い下げを受けた木材が積みあげられているのだ。
何太后大葬の日に、匈奴軍と黄巾軍に奪われたのは、じつはその一部分にすぎない。ぜんぶで荷馬車十五台になった。白波谷に持ち去られたのは三台にすぎない。あとの十二台は、同じ日に、広陽門から運び出され、無事、白馬寺におさまった。
尼寺の建築はまだ礎石を据《す》えた段階で、それ以上進行していない。
「盗賊でも面倒で手をつけない荷物にしておきましょう」
「木材ですか?」
「は、は、ご明察ですな」
「洛陽の陶固《とうこ》さんが出入りされるので、どうやら気づきましたよ」
陶固とは洛陽でも屈指の大富豪である。それがこのごろ、しきりに白馬寺に出入りしている。そのたびに、納屋の重い扉がしばらくひらかれた。
「さすがは……」
「上西門の木匠場の仕事場に、私をいれてくれませんでしたね。……造寺の秘訣《ひけつ》を守るためかと思ったのですが、どうやらそんなことでもなさそうで……木をくりぬいていたのでしょう」
「は、は、は、そのとおりでした」
金目のものは、針一本持ち出せないという、きびしい城門検査がある。しかも、ひとり占め魔の董卓の手は、富豪の倉にのびている。みすみす没収されるとわかっているが、城外に持ち出す方法がない。
だが、例外があった。
董卓じきじきの指令のある場合だ。
白馬寺への払い下げの木材がそうである。
無検査で搬出できる機会を、支英ともあろう者が利用しないはずはない。ごく一部分でよいのだ。木材をくりぬいて、そこに財宝をかくしておく。むろん、くりぬいたところは、一見それとわからないように、蓋《ふた》をかぶせる。あまり大きいものはだめだが、黄金、白金、宝玉など、サイズの小さいものなら、かなり収容できる。
財宝を持ち出したがっている者は、いくらでもいた。客が多すぎて、こちらで厳選できる。口のかたい相手でなければならない。
白馬寺の支英のことである。条件がついていたのはいうまでもなかろう。
「寺にはどれほど?」
と訊いただけで、支英は質問の意味がわかり、苦笑しながら、
「三割をいただくことにしました」
「ほう、かなり多いですね」
「そのまま洛陽に置けば、ぜんぶ無くなるのですよ」
「いただいた分《ぶん》を餌《えさ》にして、白波谷の黄巾軍を釣りましたね?」
と、陳潜は言った。
数万と称する白波谷の黄巾軍は、みやこの近辺であるだけに、無視できない勢力である。白馬寺としては、そのような勢力とは、どうしても渡りをつけておかねばならない。
献金。──
これはあまりにも安易すぎる。それよりも、財宝のありかや移動の情報を密報して、それを奪わせたほうが、相手に与える印象は強いであろう。密報者とのあいだに、共犯意識に似た親近感がうまれる。
支英は献金の一つの形態として、先日のような筋書を考案したのであろう。
早くから密報していたので、韓暹みずから偵察のため洛陽に乗り込み、木匠場のあたりを徘徊《はいかい》していたのだ。
「どうやら、私のやり方が読めるようになりましたね」
支英のこの答えは、陳潜の質問にたいする肯定にほかならない。
「でも、残念ながら、だいぶたってから読めてくるのです。まだ事前には読めませんね。……ところで、匈奴軍とは?」
「オフラのことは、景妹の思いつきです。あの豹という子が遊びにくるので、筋書にあとから追加する気になりました。浮屠の教えは四海同胞です。匈奴の人たちとは、こちらから求めてもつながりをもちたいと思っておりました。いまオフラは異域に、大軍をつれてさまよっています。ひとの情けが、一ばん身にしみる境遇ですよ」
「あとで、黄巾と匈奴とが、話をつき合わせて、おかしいと思わないでしょうか?」
「そのようなことはないでしょう。韓暹には私がそっと耳打ちし、オフラには景妹が会いに行きました。筋がちがいますから。……」
「陳留へはいつ発《た》ちましょうか?」
と、陳潜は訊いた。
「できるだけ早く。いますぐにでも。……局面は大きくうごいていますから。ただし、荷車に馬はつけません。人がひいて行くのです。交替の要員を何人かつけましょう」
「人がひいて行けば遅くなりますが」
「馬をつけると、盗賊に狙われますよ。重い木材など誰も手をつけないでしょうが、馬は危険ですね。慎重にやりましょう」
「では、さっそく仕度をしましょう」
陳潜は立ちあがった。
波瀾《はらん》のとし中平六年(一八九)は暮れようとしていた。
巷《ちまた》では、董卓が部将の牛輔《ぎゆうほ》を派遣して、白波谷の黄巾を討たせたが、意外に手ごわく、苦戦の末、ついに兵を退《ひ》いた、という噂が流れていた。
黄巾の軍中に鉄騎兵がいたのは、これまで例がなかったことで、董卓はかなり衝撃を受けたともいう。
西北の白波谷も降せないのに、東方の反董連合軍は、日に日に勢いをまし、董卓は目にみえて焦《あせ》りはじめた。彼の焦りは、財宝没収の速度をはやめる、という形にあらわれたようだ。
「たしかに局面はうごく。……」
陳潜はひとりごちながら、旅仕度にとりかかった。──
作者|曰《いわ》く。──
白波五人男の科白《せりふ》で有名な『しらなみ』が盗賊を意味するのは、白波谷にたてこもった黄巾軍に由来する。中国でもふつう谷を略して、『白波賊《はくはぞく》』と呼んでいた。
オフラと正統を争ったスプクは、一年後に死んだが、南匈奴の人たちはオフラの復帰を望まず、単于を空位にしたまま、長老の指導で国事をおこなった。
オフラは異域で単于を称すること七年で死に、弟の呼廚泉《こちゆうせん》という者があとを継いだ。しかし、故国の人は依然として、この系統の単于をうけいれなかった。呼廚泉の単于時代、左賢王になったのがオフラの子の豹である。
西晋《せいしん》の末、前趙と呼ばれる王朝を建て、五胡十六国の幕をあけた劉元海《りゆうげんかい》は、豹の子、すなわちオフラの孫であった。
オフラの放浪時代から百二十年もたっているので、孫よりは曾孫のほうがしぜんな気がする。だが、豹が七十近くになってから生んだ子とすれば、勘定が合わないことはない。劉元海が帝を称したときには、六十歳ぐらいであったという。
匈奴の人が漢姓を名乗るとき、劉《りゆう》とすることが多い。漢の高祖(劉邦)が、匈奴の単于と兄弟の盟を結び、劉姓の公主(内親王)がしばしば匈奴に嫁《とつ》いでいるからだ。
中国北部における五胡十六国は、あきらかに民族大移動の現象だが、その一世紀前の三国時代、すでにそのうごきがあったと見てよい。われわれは三国志のなかに、その片鱗《へんりん》を読み取ることができる。
匈奴の単于オフラと、白波谷の黄巾軍との結盟の事実なども、その一例として、大きくとりあげるべきであろう。
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白馬寺《はくばじ》だけが残《のこ》った
なによりも洛陽《らくよう》のまちを愛す。──
大富豪の陶固《とうこ》は、ふだんからよくそう言っていた。
「話が洛陽のまちのことになると、陶さんの目の色は変わってくる」
白馬寺の長老|支英《しえい》は、おなじ月氏族の信者たちに、笑いながらそう言ったことがある。
何代も遊んで暮せるほどの財産はあるが、陶家には複雑な事情があり、家庭生活はとかく円満を欠くという。
「心の底から愛せるものを、陶さんは家庭のほかに求めておられるのじゃろう」
支英は、洛陽随一の富豪陶固の『洛陽きちがい』を、そんなふうに解した。
陶固は白馬寺に来ると、ほとけの教えや、西域の異国の話を熱心にきく。まだ信者になってはいないが、なにかを真剣にもとめていることは、その態度から察しられた。
「あなたのご自慢の洛陽のまちも、ひどいことになりそうですね」
年賀に白馬寺をおとずれた陶固に、支英はそう言った。
董卓《とうたく》が実権を握ってから、たしかに洛陽はひどいことになった。董卓は洛陽をぜんぶ自分の所有物と考えているのだ。
さすが抜け目のない商人であるから、陶固は白馬寺を利用して、自分の財産を洛陽からひそかに持ち出した。いくら洛陽狂でも、洛陽に殉《じゆん》じる気持はないようだ。
──これは、洛陽にそむいているのではありません。いつか洛陽は生まれ変わりますが、そのときに役立てたいのです。
陶固は財産を洛陽城外に逃避させたことについて、そんな弁解をしていた。
だが、こんどは財産ではない。
年賀に来たまま、城内には戻らないつもりだという。人間も逃避するのだ。
「相国が許しますかな?」
と支英は訊《き》いた。
相国とは、天子を擁して、洛陽のあるじとなっている董卓のことだ。城内の財産家は、彼の『財産』である。搾《しぼ》り取ることができる。だから、城外に出ることは許さない。年賀や所用で出ても、すぐに戻らねば、どんな言いがかりをつけられるか、わかったものではない。
「邸を改築するので、そのあいだ城外の親戚《しんせき》のところに住むと届けました」
と、陶固は答えた。
「ききとどけられましたか?」
「かなりお金をつかいましたが」
陶固は情けなさそうに笑って、ゆっくりとうなずいた。
「それはよろしゅうございました。あとしばらくの辛抱でしょう。……じつは、私もあなたに、できるだけ方法を講じて、洛陽を離れるように、おすすめしようと思っていたところですよ」
「なにか特別の情報があったのですか?」
「いいえ、洛陽は危険……とくに物持の人には危険だということは、私のカンなんです」
支英はそう答えたが、じつは情報らしいものがないわけではなかった。
──穴掘り人夫を二十人ほど借りたい。月氏族の穴掘りは定評があるそうじゃから。
と、董卓から依頼が来ていたのである。
なぜ穴を掘るのか? 二十人といえば、かなり大きな穴を掘るのであろう。その穴に財宝を埋める。──どうやらそう推理するのがしぜんのようである。
とすれば、なにかにかこつけて没収するという形の『掠奪《りやくだつ》』が、これからますますひどくなると想像してよい。
穴掘り人夫借用申し入れの件は、いかにもなまなましいので、支英は陶固には言わないつもりだった。なにしろ董卓からも、
──これは極秘にしてもらう。
と、念を押されている。
だが、陶固はすでに知っていた。
「いつか西域の沙漠の井戸掘りの話をききましたね。……その技術を、相国に見込まれたとか……」
と、洛陽の大富豪は言った。
「ご存知でしたか」
「私のほうでも、必死になって情報をあつめておりますよ。は、は、は……」
陶固はかわいた笑い声をあげた。
月氏族の故郷である西域の沙漠は、水の問題を解決しなければ、どこにも住めない。彼らほど水を得る技術に長《た》けている民族もすくないだろう。
オアシス以外の地域では、水は天山や崑崙《こんろん》の雪どけ水をひいてくるほかはない。それも地表に水路を掘ってもだめである。沙漠の炎熱は、たちまち水分を吸いあげ、せいぜい塩分の多い水しかのこされない。だから、地下水道をつくって水を誘導する。そのためには、適当な間隔をおいて、竪穴《たてあな》を掘り、それを地下でつなぐ方法がとられた。
アラビア語でカナート、ペルシャ語でカレーズという。中国の新疆《しんきよう》ウイグル自治区では、『坎児井《カンルチン》』と呼ばれている。
沙漠の周辺民族である月氏の人たちが、穴掘りの名人だということは、西域に奉職したことのある董卓はよく知っていたのである。
明けて後漢献帝|初平《しよへい》元年(一九〇)の春のことであった。
前年に霊帝の死、後継皇帝の廃立などがあったが、新帝即位による改元は、その翌年におこなわれるのが、漢朝のしきたりであった。
「お正月早々、仕事の話で恐縮ですが、お邸を改築するとおっしゃいましたが、ただの口実ではすまされないでしょう。やはり、じっさいに工事をしなければなりますまい。そこで、ものは相談ですが、その工事にわが月氏の工匠たちをお使い願えないでしょうかね?」
と、支英は言った。
「よろしゅうございますとも。いずれ、どこかの棟梁《とうりよう》に頼もうと思っておりました。ともかく、改築の口実もありますので、適当にお茶を濁していただければよいのでございます」
そう言って、陶固は頭をさげた。
──烏合《うごう》の衆。
この表現は、史記には見あたらない。後漢の著作に頻出《ひんしゆつ》するところをみると、この時代の流行語であろう。
東方で董卓追討の挙兵があることを知り、董卓が怒って動員令を下そうとしたとき、尚書の|★[#奠+おおざと(邦の右側)]泰《ていたい》という者が、この言葉を使って諌《いさ》めた。
──公卿の子弟や富豪の子、清談高論《せいだんこうろん》のやからになにができますか。出兵するほどのことはありません。
と言ったのである。
──山東は相を出し、山西は将を出す。
むかしからそういわれていた。
この場合の『山』は、洛陽と長安の中間にある、聖なる山の華山を指す。現在の行政区画の山東や山西のことではない。大雑把《おおざつぱ》にいって、みやこより東が山東で、西のほうが山西なのだ。
東方は『相』、すなわち文官政治家を出し、西方は『将』、すなわち職業軍人を輩出する土地柄であるという。
董卓は隴西《ろうせい》の出身だから、匈奴《きようど》と戦った悲劇の将軍李陵とは同郷である。根っからの武人だった。それにたいして、東方で兵を挙げたのは、戦争よりも政略や陰謀を得意とする連中なのだ。
「しかし、兵の数がいやに多い。……」
董卓は不機嫌であった。
「ほかに職がないので、募兵に応じる若者が多いのでございましょう。まともに戦える兵隊ではありません。山東は太平が久しく、兵卒もろくに軍事教練を受けていないのです。それにくらべると、あなたの軍隊は、歴戦の勇士ぞろいじゃありませんか。兵を発して彼らを討てば、虎が犬や羊を襲うようなもので、戦争になりませんね。戦争で人民を苦しめるよりは、徳をもって威を加えるべきでしょう」
と、★[#奠+おおざと(邦の右側)]泰は説いた。
彼はただ媚《こ》びへつらっているのではない。開封出身で、四百|頃《けい》(約六百万坪)の大地主の彼は、中原を戦場にしたくなかったのである。黄巾の徒にだいぶ荒らされたのに、そのうえ実権争いの舞台にされてはたまらない。
宦官《かんがん》一掃を計画した何進が、董卓をみやこに召し出そうとしたのに、一ばん強く反対したのが★[#奠+おおざと(邦の右側)]泰であるといわれている。またのちには、反董運動の首謀者になったのだから、このへつらいは苦肉の策といえよう。
「威を加えるか……」
董卓は呟《つぶや》いた。
彼にとって威を加えるとは、自分を憎む者を除くことである。
いま天下で最も自分を憎む者は誰か?
彼によって皇帝の位を追われ、弘農王に格下げされた辯《べん》がいる。彼以上に自分を憎む者はいないだろう。──董卓はそう考えた。
董卓は郎中令の李儒《りじゆ》という者を呼び、弘農王の毒殺を命じた。李儒が、
「薬でございます」
と、杯を差し出すと、辯はすぐに悟ったとみえて、はげしく首を横に振り、
「いやじゃ、いやじゃ! わしは病気ではない。わしを殺そうとするのであろう」
と、甲高《かんだか》い声で叫んだ。
「飲まねばなりません」
李儒はしずかに言った。
辯ももはやのがれることはできないと観念した。
「身うちの者と別れの宴をひらきたい」
と言った。
辯にはすでに妻がいた。会稽太守|唐瑁《とうまい》の娘である。彼は酒を飲み、唐姫をかえりみて、つぎの歌をうたった。──
天道|易《かわ》り われはくるしむ
万乗の位をすてし侘《わ》び暮らし
いま逆臣は迫り わが命危うし
汝《なんじ》と別れて行く くらやみの道
宦官騒動のとき、北芒《ほくぼう》山まで逃げ、おそろしさのあまり、ろくに口もきけず、そのため董卓に帝位を追われた辯である。だが、死ぬ直前には酒を飲んで歌をうたった。意外といわねばならない。
唐姫も十代の少女にちがいないが、起《た》って舞いながら、返しの歌をうたった。──
天も崩れよ 地も裂けよ
みかどの御身《おんみ》 などて命短し
死と生の道はことなり
われひとりさびし 心に哀しむ
辯は懐王と諡《おくりな》されて葬《ほうむ》られ、唐姫は故郷の潁川《えいせん》に帰った。
皇帝としての諡を受けていないので、辯は帝位にあったと認められない。順帝の前にもおなじく承認されなかった少帝がいる。この二人を除くと、現皇帝の協(献帝)が後漢第十二代となる。
──帝京十一世、遷《うつ》れば則ち続く。
当時、巷間でひそかにそう囁《ささや》かれていた。
『石包室讖《せきほうしつしん》』という予言書にそう記されているという。
乱世に予言書や未来記が横行するのは、いまもむかしも変わらない。明日のことさえわからないので、予言のたぐいにすがりつくのであろう。
右の予言は、皇帝の京城は十一世でおしまいで、遷都すれば王朝は続く可能性がある、という意味なのだ。
そういえば、前漢も恵帝のあと、呂后《りよこう》が立てたあやしげな二人の幼帝をのぞくと、十二代目で滅びた。
「遷都を考えねばならんのう。……」
董卓は重臣会議の席上でそう言った。
「巷に流布している予言も、あながち笑ってすごすことはできませんぞ。年を経たことばには、ふしぎな力があるとききます」
董卓の腹心が、すかさずそう応じた。
ほかの連中は黙っている。
廷臣はたいてい、洛陽に長年住んでいる。もうこの花のみやこになじんでしまい、いまさらよそへ行きたくない。
董卓は西のかた長安に遷都しようと考えていた。
華山の西こそ、彼の本拠地である。二十万の彼の軍勢がそこにいる。そこへ行きさえすれば、彼は安全なのだ。
(いまおれは敵のなかにいる。宮廷にいるこの連中だって、おれに心服していないだろう。形勢がすこしでもおれに不利になれば、一斉に起ちあがって、おれを弾劾《だんがい》し、おれを攻めるだろう)
彼は油断しなかった。
現在の彼は、きわめて不安定な立場にある。軍隊の中枢は、彼の直属の兵ではなく、呂布《りよふ》の率いる金吾衛の部隊であった。
董卓はさまざまに工夫をこらして、手兵の数を多く見せようとしている。西から彼の軍隊がたえず洛陽にくり込んでいる、とみせかけている。むろん、すこしは彼の軍隊も上京していた。だが、意外にすくない。
手兵のすくないことを、さとられたときこそ、彼の没落のときであろう。
白馬寺の支英の入智恵もあって、いまのところ、うまく兵数をごまかしている。だが、いつまでもごまかし通せるものではない。
(かしこいやつなら、そろそろ、このからくりに気づくころだ)
もはや猶予《ゆうよ》はならない。
「長安に遷都するとおっしゃるが、長安は二百年前の王莽[#莽の大の部分は犬]《おうもう》や赤眉《せきび》の乱で、荒廃しております。漢のみやことして、ふさわしくない土地といわねばなりません」
最も強硬に反対したのは、城門校尉の伍瓊《ごけい》と督軍校尉の|周★[#比+必(比が上、必が下)]《しゆうひつ》であった。有力な二人の師団長がはげしく反対したのである。
(あるいはこの二人、おれの軍隊についてのからくりに気づいたのかな?)
董卓は不安になった。
ほかの廷臣は董卓をおそれて、あからさまに反対しない。
「ご両所の意見も尤《もつと》もだと思うが……」と言いながら、「しかし、予言のことも考慮すべきでしょう。石包室讖ばかりか、雍門《ようもん》の賢者も遷都を唱えておりますからな。……」と、いたって歯切れが悪い。
「雍門の賢者とは?」
と、董卓は訊いた。
「賢者であるか狂者であるか、世評はまちまちですが、このごろ雍門のほとりで、人を集めては、天の声を伝えると称し、遷都をすすめている人物がおります」
★[#奠+おおざと(邦の右側)泰がそう説明した。
「その者をとらえて参れ。余がじきじき取調べてみよう」
と、董卓は言った。
『石包室讖』
石で囲まれた秘密の部屋に、奥深くかくされていた予言書。
それに遷都のすすめが記されていたという。
だが、タネがあった。
この予言書は、董卓がつくらせたのである。その目的は、いうまでもなく、遷都実現のための世論をつくることにあった。
『讖《しん》』は漢代に盛んであった。さまざまな予言書が世におこなわれた。予言を神秘めかすために、その書物が山中の石室に秘蔵されていた、と効能書めいた説明がつけられる場合もすくなくなかった。
そんなわけで、『石包室讖』というのは、半ば固有名詞であり、半ば普通名詞といえた。
人びとはむかしから、その書名を耳にしていた。そのくせ、その書物をじっさいに読んだ人はすくない。数種の同名異本があるはずだから、読んだ人がいても、彼らの説明はまちまちである。
その盲点をついたのだ。
いま洛陽じゅうに、その予言の内容がばらまかれている。
(予定どおりに進行しておるわい)
董卓は内心、にんまりしていた。ところが、予定以外の飛び入りがあった。
雍門の賢者。──
遷都を鼓吹《こすい》してくれる、すこぶる重宝な人物があらわれた。
(べつに頼んだおぼえもないのに。……)
自分がじきじきに取調べると言ったのは、彼がそんなふうに興味をもったからだ。
雍門の賢者はとらえられて、永和里にある董卓邸に連行された。だが、董卓は多忙をきわめ、しばらくそんな酔狂な人物を訊問《じんもん》するいとまがなかった。
東方におこった反董連合軍は、★[#奠+おおざと(邦の右側)]泰が予想したとおり、かけ声だけで、戦争をしかけようとしなかった。
(腰抜けどもめが!)
董卓はせせら笑っていたが、二月にはいって、敵が|★[#榮の木が水]陽《けいよう》に攻めよせたというしらせがあった。
第一報では、ただ敵というだけで、連合軍の誰の軍勢かはわからなかった。
黄河の北岸に、連合軍の盟主に推された袁紹《えんしよう》と王匡《おうきよう》が陣を張っていた。その後方に、兵站《へいたん》担当の韓馥《かんふく》の軍が|★[#業+おおざと(邦の右側)]《ぎよう》を中心に駐屯していた。
洛陽の南方の潁川には、|孔★[#イ+由]《こうちゆう》が兵を休めている。孔★[#イ+由]軍のさらに南には、盟主袁紹の従弟にあたる袁術が魯陽《ろよう》のまちに入っていた。そして、そのはるか南を、長沙の太守孫堅が北上しつつあった。
洛陽の東方の酸棗《さんそう》県に、|張★[#しんにょう(点二つ)+貌]《ちようばく》・張超《ちようちよう》兄弟、曹操、劉岱《りゆうたい》、橋瑁《きようまい》、袁遺《えんい》、鮑信《ほうしん》の七将がいた。
「そのそそっかしい大将は誰か、おまえにわかるか?」
董卓は第一報をもたらした将校に訊いた。
「さあ……渡河のしらせはありませんから、北岸の諸将ではないでしょう」
将校は首をかしげながらそう答えた。
「いちばんそそっかしいのは、長沙の孫堅だが、これは道が遠くて、まだ南陽に入っておるまい。孔★[#イ+由]や袁術など南方の諸将は、それほどそそっかしくはあるまい」
董卓のいう、『そそっかしい』とは、勇気がある、と同義語なのだ。
「すると、酸棗の七将のなかの誰かですね?」
「あててやろうか」
「はい、おきかせください」
「曹操にきまっておるわ」
第一報の将校がまだ董卓のそばに控えているとき、第二報がはいった。長身のチベット族将校が息せき切って、
「★[#榮の木が水]陽を襲いましたるは、曹操の軍でございました」
と、報告したのである。
「それみろ、おれの言ったとおりだろう」
董卓は第一報の将校をかえりみて、あごひげをしごいた。彼の得意のポーズである。
「おそれいりました」
第一報の将校は頭を下げた。
つづいて、呂布|麾下《きか》のモンゴル族士官が、第三報をもたらした。──
「|★[#さんずい+卞]水《べんすい》のほとりにて、わがほうの将軍|徐栄《じよえい》、敵を迎撃中、形勢われに有利とのことでございます」
「よろしい!」
董卓は大声で言った。
「前線への指令はございませんか?」
と、モンゴル士官は訊いた。
「深追いするなと伝えよ」
この指令は、勝つことを前提としている。
戦勝はきまりきったことなのだ。
(おれを負かす方法はたった一つ。……)
西である。──
いま反董連合軍は、北と東と南から、洛陽におし寄せようとしている。なぜ西に兵をむけて包囲しないのか?
おそろしいからである。
西からたえず董卓の軍が、洛陽めざして増援されている。──世間ではそう思っていた。董卓もそう思わせるように工夫しているのだ。だが、じっさいには、西からくる軍隊は、しれたものであった。
西から精強の董軍が、踵《きびす》を接して上京しつつあり。街道を埋めるのは董軍。──この虚構のうえに、董卓は立っていた。
虚構であることを知られると一大事である。
董卓は西方の街道で、自分の軍隊をしきりにうごかした。昼は西から東へ、夜は東から西へ。──いつまでも、この『白馬寺戦法』が通用するわけはない。だいいち、虚構をカバーするために使われている兵士の口を、そんなに長くふさぐことは不可能であろう。
(この虚構に、まっ先に気づくのは、やはり曹操だろうな。……)
董卓はそう思った。
ともあれ、遷都は焦眉《しようび》の急である。
反董連合軍も敵なら遷都に反対する廷臣も敵といえる。反董連合軍は、董軍が満ち満ちているという恐怖から、みやこの西へ兵を入れない。遷都反対者にも、恐怖を与えなければならない。
彼は呂布を呼び、
「伍瓊と周★[#比+必(比が上、必が下)]を斬れ」
と命じた。
「はい、かしこまりました、義父《ちち》上」
呂布は董卓の養子になったので、そう呼ぶのである。呂布は部屋を出るとき、ふりかえって言った。──
「白馬寺の連中が穴を掘りはじめました。そのあたりに、近づくことをきびしく禁じております」
「うん、近づく者は斬れ」
「はい。……それから、洛中の富豪の名簿、すでに作成してあります。すべての者が、なにかの形で賊徒とつながっていることがわかりました」
呂布のいう賊徒とは、黄巾軍のことではなく、反董連合軍の諸将のことであった。
いやしくも洛陽で富豪といわれるほどの者なら、袁《えん》家をはじめ、有力な廷臣たちと、なんらかの線でつながっていないはずはない。それを調べあげて、
──賊徒と連絡していた。
という罪をきせ、処刑するつもりなのだ。
むろん、財産は没収である。
「よし、早く斬れ」
さきほどから、『斬れ』の連発だった。
富豪たちを早く斬らないと、没収した財物を荷造りする時間がなくなる。
(みんなおれのものだ!)
運び切れない。だから、金銀など腐らぬものは地中に埋めて行く。そのために、白馬寺の穴掘り人夫を呼んできたのだ。
「陶固が邸の改築をはじめました」
呂布は思い出したように報告した。
「ばかめ。……もうすこし利口かとおもったが。町人は所詮《しよせん》町人じゃ」
この時点では、董卓はまだ洛陽を焼く決心はしていない。だが、遷都はもうどんなことがあっても強行する覚悟でいた。そうなれば、洛陽がさびれてしまうのは目にみえている。その洛陽で邸を改築するなど、利口な人間のすることではあるまい。
「でも、陶固めは、遷都のことを知らないのですから」
呂布の口調は、陶固を弁護するようであった。──それも道理で、たんまり金をもらっていたのである。
「遷都のことはおろか、おのれの運命も知らぬのじゃからな。……は、は、は……」
董卓は大声で笑った。
「さようでございますな」
呂布は心のなかで舌を出した。彼は陶固から大金をもらい、城外転出を許可したのである。どうやら陶固は、自分の運命ぐらいは知っていたようだ。
あとで問題になるかもしれない。なにしろ、陶固は洛中第一の富豪なのだから。
しかし、そのときは、呂布は言い逃れの口実をもっていた。
──陶固邸の改築のことは、たしか申し上げましたよ。改築なら、しばらく他所に移るのはとうぜんでしょう。義父上はご承知のこととばかり思っていましたよ。……
そう言えばすむだろう。
にがい顔をされるかもしれないが、よもや斬られることはあるまい。
(なにしろ斬るのはおれの役目なんだ。……このおれを誰が斬れる?)
呂布は巨体を揺すって退出するとき、自分にそう言いきかせていた。
「陶固の邸はこの近くだな?」
呂布の背に、董卓は質問を浴びせた。
「はい、さようでございます」
呂布はどきりとした。
「まことに改築か? 工人たちは入っておるのか?」
「まちがいございません。かなりおおぜいの工人が邸に入っているのを見ました」
ほんとうのことなので、呂布は胸を張って答えた。
「わかった!」
董卓はしめくくるように言った。
敗戦である。
曹操は敗戦を予想していた。
だが、この敗けっぷりは、はるかに予想を越えている。
戦線が膠着《こうちやく》しているので、ひと揺すりして、洛陽攻略のきっかけをつくるつもりでいたのである。
だが、こんなに敗けてはどうにもならない。十余万の連合軍に、洛陽突入のきっかけをつくるどころか、かえって萎縮《いしゆく》させてしまう。
「ここはなんとしても、もちこたえねばなりませんな」
白馬寺から曹操のところへ使いに行き、そのまま従軍した形になっている陳潜は、そう進言した。
「そうだ。歯をくいしばっても。……それにしても兵が足りぬわ」
曹操は鼻のあたまをこすって言った。
「どれほどの人数が必要でしょうか?」
と、陳潜は訊いた。
「勝とうとはおもわない。十日ももちこたえればよいのだ。……勝つためには五万、もちこたえるためには五千でよい。だが、兵はそうかんたんに集められはせぬぞ」
「酸棗には十万の兵がおります」
「連合軍とはいえ、他人の兵隊ぞ」
「借りて参りましょう。五千ほど。……三十里退却しましたが、幸い相手は深追いする意思はなさそうです。すくなくとも、二十里は押し返しましょう。そうすれば、味方も奮《ふる》いたつはずです」
「うん、もういちど|★[#さんずい+卞]水《べんすい》の線まで進みたい。できることなら。……だが、誰に兵を借りるのだ? 誰も無条件には貸すまい」
「金塊がございます」
「いま金を欲しがっているのは張兄弟だ。兵を集めすぎて、軍費の支出に、いささか苦しんでいるときく」
「では脈がございますな」
「行ってくれるか」
「急ぎます」
陳潜は酸棗にひきかえし、|張★[#しんにょう(点二つ)+貌]《ちようばく》から五千の兵を借りた。
この援軍によって、曹操軍はやっとのことで、戦線を維持することができた。どうにか★[#さんずい+卞]水のほとりまで再進出して、董軍と対峙《たいじ》すること十余日に及んだ。
董卓が遷都を強行したのは、★[#さんずい+卞]水における曹・董両軍対峙の最中であった。
この情報を耳にしたとき、曹操は、
「天の助け」
と、よろこんだ。
彼が無謀としか思えない戦いを挑むのは、反董連合軍の志気をたかめたいからであった。董卓が洛陽を見棄てて、長安に移るとわかれば、及び腰の諸将もすこしは元気を出すだろうと期待したのだ。
「相国らしくありませんねぇ」
と、陳潜は首をかしげた。
べつに曹操の顧問ではないが、彼は話し相手によく呼び出された。離れた立場から、自由な意見を述べるので、参考になることが多いのであろう。
「たしかに彼らしくない」
顔にうかべた喜色を、いくらか薄めて、曹操はうなずいた。
陳潜と曹操との会話は、いたってかんたんである。よけいなことを言わないでもすむ。共通の基盤があり、どちらもそのうえに話を積むだけである。基盤の層がずいぶん高いので、積みあげる言葉は、しぜんにすくなくなるのだ。
いまも二人のあいだに、董卓について共通の認識が多いので、董卓らしくないことについての、理由の説明が不要であった。
根っからの職業軍人である董卓は、あらゆる行動を、
──損であるか、得であるか?
によって決定する。
名誉、体裁、道義といった、余分な要素はまじらない。
山東の十余万の討董連合軍を前にして、遷都をするのは、あきらかに不利である。
西の長安は、たしかに董卓の本拠の地で、洛陽にいるよりは安全かもしれない。だが、戦争の最中に、敵の面前から、まわれ右をする不利を考えた場合、比較にならないほど損である。洛陽という大きな拠点を放棄して、敵にゆだねるなど、損得勘定の名人である董卓らしからぬ決定といわねばなるまい。
曹操はしばらく腕組みをしていたが、
「あの男、むざむざと洛陽をわれらに渡す所存ではあるまい」
と言った。
「たいへんなことになりますなぁ」
陳潜はため息をついた。
こんな短い言葉をかわしただけで、二人は洛陽の運命を予想することができた。
「今晩あたり、洛陽の方向に火の手があがった、という報告があるかもしれない」
当時の洛陽は、現在よりもずっと東のほうにあった。それでも、★[#榮の木が水]陽からは百キロ以上もはなれている。いくら夜空の火でも、曹操の本陣からは見えない。だが、もっと西へ出ている斥候は、洛陽の異変に気づくかもしれないのだ。
はたして、その夜、
──洛陽燃ゆ。
の報告が曹操の本陣にもたらされた。
「撃って出ようか?」
曹操は訊くといったふうではなく、ひとりごとのように言った。
「用心なさいませ」
と、陳潜は答えた。
「あの男、できるだけ時間を稼《かせ》ごうとするだろう。半年でも一年でも……長ければ長いほど、新しいみやこの基礎ができて、彼にとっては有利なのだから」
曹操の口調は、依然として対話ふうではない。自分に言いきかせているようだった。だから、陳潜とのふだんの会話にくらべて、言葉数が多い。
「しかし……やっぱり撃って出なければならぬ。……」
曹操は陳潜に背をむけて、ひとりごちた。
廷臣が洛陽に恋々としている。──
廷臣だけではない。洛陽の住民は一人のこらずと言ってよいほど、洛陽狂なのだ。
(よし、では彼らの未練を断ってやろう!)
董卓はぎりぎりになって、はじめて洛陽を灰にする決心をした。
彼にそんな決心をさせた、直接のきっかけは、あの雍門の賢者を取調べたことである。
はじめは、なかなか口が堅く、
──わしの声は天の声。
と、狂人の真似をした。
董卓はその狂態をじっとみつめて、にせものであると見破った。
(誰かに頼まれたのに相違ない)
と、彼は判断したのである。
自分のほかに、誰がこんなに遷都に熱心なのか? ──彼は興味をもった。
「拷問《ごうもん》にかけよ!」
自分の計画に、有利なうごき方をした人間だが、董卓は真相を知らねば気がすまない。
董卓はサディズムの傾向があった。山東の兵をつかまえると、豚油を塗った布をからだにまきつけ、それに火をつけ、捕虜が火だるまになってもがくのを、見物してよろこんだものである。
しかし、雍門の賢者には泥を吐かせたいので、息の根がとまらないていどの拷問にとどめた。
宙吊《ちゆうづ》りにして、割れた青竹で叩《たた》くという、古典的な方法である。雍門の賢者は、六十前後のようで、あまりひどく叩くと、そのまま死んでしまうかもしれない。
「手加減してやれ」
と、董卓も言った。
遷都を天の声だと喧伝してくれたのだから、彼もこの老人には憎しみをもっていなかった。
手加減といっても、老人の身にはひどくこたえる。とうとう辛抱しきれなくなって、
「申しあげます。……たしかに頼まれましたのでございます。……おゆるしくださいまし。なにも人びとを惑わすつもりではございませんでした……お助けください。……」
と、喘《あえ》ぎながら言った。
「頼んだのは誰だ?」
取調べの役人が、咆《ほ》えるような声で訊いた。
「名前は存じません」
雍門の賢者がそう答えると、役人は青竹を振りあげ、力まかせに背のあたりを打ちすえた。割れ竹なので、音が大きい。賢者の皮膚はやぶれ、血がしたたり落ちる。
「ほんとに、存じません……ほんとでございます。……ひぃーっ!」
賢者は悲鳴をあげた。
悲鳴が終わらぬうちに、ぴしっと青竹が肉に食いこむ音がした。
「よーし、話をきいてやれ」
朱塗りの椅子《いす》に、深ぶかと腰をおろした董卓は、片手を肩の高さまであげてそう言った。
「さあ、言え!」
役人は青竹で地面を突きながら、宙吊りの賢者にむかってどなった。
「遷都を天の声と説けば……お金をやる……雍門で会ったやせた老人に、そう頼まれまして……ええ、はじめて会った人で、住居も名前も知りません」
「見も知らぬ人間に頼まれたと申すのか? 金のためじゃと……」
役人は賢者をにらみすえてから、ちょっとふりかえった。董卓の顔色をうかがったのである。董卓は厚い唇《くちびる》をつき出すようにして、
「おまえは、金のためなら、どんなことでもするのじゃな? 火つけ、人殺し、なんでもやるのか?」
「いいえ、いいえ……」
はげしく首を振ったので、縄が左右にうごき、賢者のからだも、振子のように揺れた。
「金のためだけではないと申すのか?」
董卓は低い声で訊いた。取調べの役人の甲高い声とは対照的である。
「私も共鳴いたしましたので……」
「なに共鳴したのじゃ?」
役人のやけにオクターブの高い声である。
「遷都のことでございます」
「どんな理由で?」
「私めは洛陽で生まれました。……ずっと洛陽で暮らしております。……洛陽っ子です。誰よりも洛陽を愛しております。洛陽のためには、相国さまがよそへ行ったほうが、よろしゅうございます。……相国さまが長安へ行けば、戦いも長安のほうへ移るでしょう。……そうなれば、洛陽は生き返ります。……私に頼んだ老人の意見もおなじでした。……」
雍門の賢者はとぎれとぎれにそう述べた。
董卓の全身の血は逆流した。
(おれを疫病神《やくびようがみ》扱いにしおったな!)
激昂《げきこう》すると、董卓は外見、かえって冷静にみえる。そして言葉も、きわめておちついた調子になる。彼は口をひらいた。──
「天子は西へ行幸なさるが、この相国は洛陽にとどまる。洛陽は戦場になるのじゃ。そのつもりでおった」
「いけませぬ! なりませぬ!」
雍門の賢者は叫んだ。
「そうじゃ、いけない。そのことがわかった。どうせ戦場になるまちじゃ。そのまえに火を放って灰にする。……そうきめた。もうおまえたちの大好きな、洛陽のまちは消えてしまうのだぞ!」
董卓は椅子から立ちあがった。微笑しながら、宙吊りの賢者を見上げた。彼の目に、賢者の顔が廷臣たちの顔と重なる。……
遷都反対の伍・周の両人を斬ったあと、誰も反対意見を述べる者はいなくなった。だが、ほとんどの廷臣が、洛陽を離れたくないと思っている。廷臣たちだけではない。あまり楽なくらしをしているとは思えない、市民たちまでが、洛陽にしがみつこうとしている。
(洛陽が灰になれば、すべては解決するわ)
賢者の自供が、千年の王城を灰にしたといってよい。
彼はもはや、雍門の賢者に依頼した人物を知ろうとは思わなくなった。もう誰でもよかった。洛陽じゅうの人間が、董卓を洛陽の疫病神と考えていることがわかった。全洛陽が賢者の依頼主なのだ。
「その者を牢《ろう》に投げ込め」
と、董卓は命じた。
「あとひと息で、依頼主の名を吐きましょう。……」
役人は不満そうであった。
「おそらく、その者は名を知るまい。自供のとおりであろう。わしも興味を失った。……よいか、洛陽を焼く火が、最も盛んになった時をみはからって、その雍門の洛陽気ちがいを、水の中に沈めよ。火と水の苦しみを、あわせて堪能させてやれ」
董卓はそう言い残して、その場から出て行った。彼は忙しい。いろいろとしなければならないことがある。だが、どんな用件にもまして重要なのは、放火の命令であった。
拷問という役目のすんだ役人も、董卓につづいて立ち去った。下役人に、雍門の賢者の入牢《じゆろう》を命じるためである。
広間の梁《はり》に吊るされていた賢者は、
「やめてくだされ!」と絶叫した。──「洛陽を焼くことだけは、やめてくだされ! やめてくだされば、依頼した人間の名を申しましょう。……焼かんでくだされ!………私めに街頭予言を依頼したのは、陶固でございまする! 申しました。申しましたからには、洛陽に火をつけないでくだされ!」
声を限りに叫んだつもりである。だが、もはや気力も尽きはてて、彼の絶叫は、ただのかぼそい呟《つぶや》きにすぎなくなっていた。すくなくとも、役人をふりかえらせるほどの声量はなかった。
それでも、彼は叫びつづけた。
「洛陽を灰にしないでくだされ!」
叫ぶことで、彼はますます体力を消耗し、生命を削って行った。そして宙に吊るされたまま息絶えた。
悲惨な最期であったが、サディストの董卓が彼のために用意した、あの『火と水の二重苦』に遭《あ》わずにすんだのだから、あるいはかえってしあわせだったかもしれない。
ひとくちに遷都といっても、そんなにかんたんではない。新しいみやこの長安は、じつはからっぽなのだ。
前漢末の動乱で荒廃し、光武帝建武二年(二六)正月、赤眉軍が焼き払い、
──長安城中、復《ま》た人の行く無し
という状態になった。
隴右《ろうう》の地は木材多く、長安に近い杜陵《とりよう》には武帝の築いた瓦廠《がしよう》や窯《かま》がある。──
董卓は遷都にあたってそんな理由をあげた。
木材や瓦の製造のことを挙げたのは、首都造営の可能性があるというのにすぎない。言いかえると、宮殿や家屋は皆無ということだ。
むろん住民もいない。宮殿を建て、廷臣を集めただけで、みやことはいえない。だいいち、宮殿を誰が建てるのか?
使役すべき人間が必要である。
──洛陽の人間を連行して行こう。
董卓はそう決めた。
洛陽百万の市民を西へ追い立て、長安まで歩いて行かせる。彼らは後髪をひかれるおもいで行くだろう。──その未練を断つためにも、洛陽は焼かねばならない。
董卓はその前に、洛陽の富豪に罪をきせ、財産をことごとく没収した。
つぎに呂布に命じて、北芒《ほくぼう》にある諸帝陵、皇族公卿の墓をあばかせ、副葬されている珍宝をことごとく我がものとした。
「みんなおれのもの。……おれだけのもの」
董卓は一人でにやにやしながら、そうくり返して、部屋のなかを歩きまわった。
独占欲の化け物である。
運べるだけの財宝は、弟の旻《びん》に宰領させて西へ運ばせた。金銀宝玉類で運びきれない分は、ひそかに邸内に埋めることにした。
埋蔵の場所を知られてはいけないので、無欲で口の堅い仏教信者にその作業をさせたのである。
(人間、欲のないはずはない。……)
財物が自分のまわりに集まれば集まるほど、董卓の物欲は強くなり、独占欲は異常なほど昂進した。
独占欲の昂進は、副産物として、猜疑《さいぎ》心を深める。
彼からみれば、物欲のない人間など考えられない。いま邸内で穴を掘っている二十人の月氏族仏教信者は、財宝のありかを知っている。──いまにこの連中は、おれの目をぬすんで掘りにくるだろう。
できるだけ時間を稼いだあと、董卓は新しいみやこの長安へ行くつもりである。心配なのは、そのあとのことだ。
(こやつらも殺してしまわねばならぬ)
董卓は一匹の|けだ《ヽヽ》もの《ヽヽ》と化していた。
穴の大きさは、三十メートル四方で、深さも十五メートルはあった。永和里という一ブロックぜんたいが、董卓の邸である。そのなかで、慎重にえらんだ地点だった。深く掘っても水は出ない。埋蔵にはもってこいの場所なのだ。
金銀は木箱や箪笥《たんす》に詰められて、穴の底におろされた。
「さあ、上にあがって、土をかぶせよう」
組頭《くみがしら》株の男がそう言うと、穴の上から、
「おまえたちは、上にあがらなくてもいいぞ。われわれが土をかぶせるから」
という声が返ってきた。
穴の四囲に、ずらりと董卓の近衛兵がならんでいた。
穴のなかにいる二十人の頭のうえに、ざあーっと土が降ってきた。
作業のために、東の壁に沿って階段状になっているが、そこから駆けあがろうとした者は、上で待ち構えていた兵隊に蹴《け》おとされた。そのあたりの兵隊は、いずれも抜刀しているのだった。
「おまえたちは、おのれの墓を掘ったのだぞ。は、は、は……」
兵隊はあざ笑った。
地上に盛った土の山が、穴のなかに崩し込まれる。つぎからつぎへ。──
「西の壁に寄れ!」
悲鳴の渦《うず》のなかで、そう叫ぶ声がきこえた。
「綱だ。白い綱につかまれ!」
という声がつづいた。
ちょうど宵闇《よいやみ》であった。穴のあたりも、薄墨をながしたようにぼやけている。
「ばかめ、縄にすがって匍《は》いあがる気でいやがる!」
抜刀の兵隊が毒づいた。
穴におとされた土砂は、箱や箪笥を埋め、両手をふりまわす人間を埋めつくした。
なにしろ十五メートルもある。人間を埋めたあとも、ひとしきり土砂が穴に流し込まれる。抜刀の兵隊も刀をすてて土をおとす。
半分近く埋まったころ、
「わあーっ!」
という声がつぎつぎにおこった。
穴埋め作業をしている連中が、肩をおさえたり、頭をかかえるようにしたりして、半ば埋まった穴のなかにとび込んで行く。──
うしろから斬られたうえ、蹴おとされたのである。
作業の人数は二十人以上はいたであろう。
土崩しに夢中になって、油断していたこともあろうが、彼らを斬りまくって、つぎつぎに穴のなかに蹴おとした人物の技《わざ》もすさまじいものがあった。たった一人である。
あっというまに片づいてしまった。
穴のなかの土砂は、むろんまだ踏みかためられていないので、ふわふわした状態である。そのなかに落ち込めば、自分の重さで、吸いこまれてしまう。蟻《あり》地獄だった。
「だいぶ刃がこぼれた。磨《と》ぎに出さねばなるまい。……」
血ぬられた長い刀をかざしている男の顔は、意外に色が白く、そして若かった。
董卓の養子の呂布である。
漢代の刀剣は、現存するものがいたってすくないが、北ベトナムのハノイ博物館所蔵のものは、一・一メートルの長さがある。これだけで推測できないが、漢代の軍人はかなり長い剣を愛好していたのではあるまいか。
とくに呂布は体格がすぐれている。長剣を自在に操ることができた。
「さすがに速いのう。……」
呂布に近づいてくる人影は、相国の董卓であった。
呂布は白い歯をみせて笑った。
気味のわるい光景である。
「残りの土は、義父上と二人で埋めなければなりませんな」
と、呂布は言った。
「おう、よいとも。余の体力はまだまだ衰えはせぬぞ」
董卓はかがんで、両手でそばの土砂の山を穴のほうに押しやった。
ざあーっ、と音がした。
呂布も刀を鞘《さや》におさめて、董卓とならんで腰をおとした。
「ぜんぶ余のものぞ。……」
董卓は、はずんだ声で言った。
「慶賀のいたりでありますな」
と、呂布は言った。
洛陽に火の手があがる、という報告をきいて、曹操はもういちど|★[#榮の木が水]陽《けいよう》を攻めることにした。
★[#榮の木が水]陽には、董卓の増援軍が入っているはずだし、形勢をみて虎牢関の守兵も出てくるおそれがあった。
つまり、曹操軍は勝てるわけはない。
それなのに、敢《あ》えて兵を進めようとした。戦局に転機を呼ぼうとしたのである。
董卓の部将の徐栄は、猛将であった。そのうえ、兵数が多い。
董卓は天子と廷臣と人民を西へうつしたが、軍隊の大部分は洛陽にとどめている。西には彼の軍隊がたくさんいるし、これはといった敵もいない。彼自身も畢圭苑《ひつけいえん》というところに本陣をおいて、督戦していたのである。
だから、後詰めの兵力にもこと欠かない。酸棗の六将の兵が、ぜんぶ出動してくれたなら、戦いらしい戦争になるかもしれないが、誰もうごかない。
張★[#しんにょう(点二つ)+貌]が五千の兵を曹操に貸したのが上出来といえよう。もっとも、それも無料ではない。陳潜が白馬寺から持ってきた金塊を、大量に献納した結果である。
どの大将も、自分の兵力を損いたくなかった。
(これから先、争覇《そうは》戦は長いのだ。あわてることはない)
みなそう思っている。
戦功によって、諸将に差がつく。
だが、功を焦って兵を失えば、ランクはさがるわけである。ここのところが難しいのだが、まだ緒戦なので、ようすを見たほうが賢明ではないか。──左右の連合軍をうかがいながら、諸将はそれぞれ計算している。
感情のもつれもあった。
劉岱《りゆうたい》と橋瑁は、むかしから仲はよくなかったが、酸棗に隣り合わせに陣を張って以来、ますますはげしくいがみ合うようになった。
──とび出そう!
むろん曹操のこの決定にも、計算がなかったとはいえない。
果敢の軍。──
友軍諸将にそう評価され、一目置かれるだけでも、とび出す値うちはある。
だが、そのためには、敗けるにしても、みじめな敗戦ではいけない。みなを瞠目《どうもく》させる場面が欲しいのだ。
曹操は勇戦した。気力充実した三十六歳である。この日の武者ぶりが、彼の将来に大きく響くのだ。
「心配するな。命だけは失わぬように、うまく戦うから」
出陣にあたって、自重をうながした陳潜にむかって、曹操はそう言った。
果敢な戦いと生命の安全と、この境界ぎりぎりのところでとどめる。──これはかなり難しい操作が必要だ。
じじつ曹操はさまざまなトリックを用いて、実際以上の壮烈さをつくりあげた。純粋の作戦には不要とおもわれる、よけいな部隊の移動もあえておこなった。それは友軍に見えやすいようにするためである。
木立のなかで休憩したとき、彼は甲冑《かつちゆう》を脱いで枝に吊るし、それにむかって矢を射た。このころの甲冑はほとんど鉄製だが、上級軍人は銅を好んだ。磨けばピカピカ光るからである。銅片と皮革をつないだものなので、強い矢は皮革の部分をだいぶ深くつき刺す。数本の矢のつき立った甲冑を身につけて、酸棗の友軍の陣営にひき返そうとしたのだ。
といって、勇戦を粉飾することばかりに熱中したのではない。なにしろ相手のあることだ。実際、伏兵に襲われ、すんでのことに殺されそうになったこともある。
あとでかぞえると、甲冑に立っていた矢は、自分の手でつき立てたのより、二本ふえていた。
敵の矢は、彼の乗馬にあたった。
このとき、彼のまわりには、数騎の親衛隊しかいなかった。馬を失えば、包囲網を抜けることは至難である。
「従兄《あに》上、私の馬を」
と、乗馬を譲ったのは従弟の曹洪《そうこう》であった。
「で、おまえは?」
「この天下、曹洪なしでもすまされますが、曹操なしでは立ち行きませんぞ!」
曹洪はまなじりを決して叫んだ。
「よし、わかった!」
曹操は従弟の馬にとびつくようにして、うち跨《また》がり、血路をひらいて酸棗に引き返した。
友軍の陣営に到着したときは、彼の壮烈さは、もはや粉飾ではなかった。血と汗と泥にまみれた、まぎれもない死闘のあとの姿であった。
(これはちょうどよかった。……)
歓声をあげて迎えてくれる友軍陣地を通り抜けるとき、曹操は心のなかでそんな計算の結果を検討していた。
「おーい!」
と、うしろで呼ばわる声が、蹄《ひづめ》の音とともに近づいた。曹操はふりかえってみた。
「おお、洪ではないか!」
曹操は馬からとびおりて、追ってきた曹洪を待った。|★[#さんずい+卞]水《べんすい》の河べりで、彼に馬を譲った曹洪が無事に追いついてきたのである。
「馬はどうした!」
と、曹操は訊いた。
「敵の馬を奪って、まっしぐら、あとを追いました」
かすれた声で言いながら、曹洪は馬からおりた。激情をこらえているようすだった。一歩、二歩近づき、三歩目で耐えられなくなったのであろう。顔が歪《ゆが》んだ。
(演技をしろ!)
曹操は自分のなかで、そう命令する声をきいた。彼はやにわに曹洪に抱きついた。
「生きていてよかったのう!」
と、曹操は言った。
それ以上、言う必要はない。★[#さんずい+卞]水のほとりの奮戦は事実である。目撃者に語らせればよいのだ。彼は人垣のなかで、従弟を抱いておればよかった。
彼が曹洪のからだをはなして、しばらく肩で呼吸《いき》をしていると、人垣のうしろから、陳潜が出てきて言った。──
「よろしゅうございましたなぁ。……」
そうだ、よかった。いろんな意味で。
命知らずの曹操よ。──世人はそうもてはやす。これからのち、彼の名は諸軍の将兵に、一種の戦慄《せんりつ》を伴う響きをもつにちがいない。それがいかに有利であるか、ほとんどはかり知れないほどのものがあろう。
百万といい、数百万ともいう。
董卓が洛陽から西へ追い立てた人民の数である。
『後漢書』の郡国の項によれば、洛陽を含めた河南尹《かなんいん》は、戸数二十万八千余、人口百一万余となっている。だから、数百万は大袈裟《おおげさ》ではないかとする説もある。
だが、右の統計は永和五年(一四〇)のものなので、それから五十年たっている。また当時の人口のかぞえ方は、人間扱いにしない奴隷を含めないのがふつうであるから、人間の数は統計よりも多いはずだ。さらに、黄巾の乱後、中原一帯の治安が悪化したので、みやこに安住の地をもとめて、付近の住民がどっと流入したこともあろう。
いずれにしても、たいへんな人数である。
途中の食糧はどうするのか? 宿泊は?
そんなことは、一切考慮されなかった。
「強いやつだけが、おれの長安に着けばよい。弱虫には用はない」
董卓はそううそぶいた。
洛陽から長安まで約五百キロ。食もなく、雨露をしのぐ家もなく、自分の足で歩いて行ける者だけが生きる。──いや、長安に着いても、住居があるとはかぎらない。二百年前の赤眉の乱で荒廃したあと、長安のまちはうちすてられているのだ。
前途に希望のかけらもなく、人びとはただ歩いて行く。飢えによろめく者は、うしろにつづく者に押しのけられ、馬蹄《ばてい》にかけられ、踏まれて悶死《もんし》する。いや、もはや悶《もだ》える気力も残らない。
さながら地獄図であった。
──積尸《せきし》路に盈《み》つ。
『後漢書』は簡潔にそう記している。屍体は街道のかたわらに山と積まれた。
はたしてどれだけの人が長安に辿《たど》り着くことができたか、史書にその記録はない。
途中で逃げて帰ろうにも、洛陽に住む場所はない。董卓は廷臣・住民たちの洛陽にたいする眷恋《けんれん》の心を砕くために、洛陽のみならず、その近郊の部落まで焼き尽したのである。
──二百里内、室屋蕩尽《しつおくとうじん》し、鶏犬《けいけん》すら無し。
と、史書にのせる。
このころの一里が四百メートル余にしても、八十キロにわたる徹底的な破壊である。
残ったのは雍門の西三里にある白馬寺だけであった。
十二層の塔が、余燼《よじん》のくすぶる廃墟に立っている。──塔が立っているという実感が、これほど強く人の心に食い入ったのは、建立以来はじめてであろう。
「まるでこの日のために建てたようですね」
酸棗の曹操本営から白馬寺に戻った陳潜は、塔を仰いでそう言った。彼を迎えた支英は、無言のままであった。
「いろいろ苦心した甲斐《かい》がありましたね」
と、陳潜は言った。
苦心とは、董卓に策を授けたりして、その歓心を買ったことである。その苦心がみのって、董卓は白馬寺を焼くことだけは禁じてくれた。
「いえ、白馬寺も焼かれたほうがよかったかもしれません。済度《さいど》すべき大衆がすべて家を焼かれているのに、白馬寺だけが残るなんて。……私はこれまでのやり方が、まちがっていたような気がしますよ。……」
支英はそう言って、軽く首を横に振った。
「そうですか。わかる気もいたしますが……」
陳潜は言うべき言葉もなかった。五斗米道ならどうするか? 人間のたましいを救おうとすれば、苦しみもともにしなければならないだろう。……
「潜さん、お願いがあります」
支英は思い出したように言った。
「なんでしょうか?」
「寺の者二十人を曹操軍の兵として、連れ出していただきたいのです」
「寺の人を?」
陳潜は支英の言うことをはかりかねた。
「相国は西へ追った人民が逃げて帰らぬように、この白馬寺関係の人員を登録しました。それ以外の者がこの寺にいると、逃亡者とみなされます。そして残忍な刑罰を受けるでしょう」
「わかりました。二十人よけいに抱えこんだのですね?」
「いえ、その二十人はもともとこの寺の者でした」
「では、なぜ?」
「相国はその二十人を生き埋めにして消したと思っています。ですから、わが寺から二十人さし引かねばなりません。彼のほうで勘定が合いませんから」
支英は石段に腰をおろして、くわしい事情を説明した。──
穴掘り人夫二十人をもとめられたときから、支英は彼らの運命に危惧《きぐ》をもった。
董卓には、月氏の仏教信者は無欲である、という知識はあった。だが、強欲な彼は、最後まで信じ切れないであろう。とすれば、財宝のかくし場所を知る者を生かしてはおけないはずだ。
ちょうど董卓邸の近くに住む富豪の陶固が、避難のために改築を口実にした。支英はそこへ月氏の技術者を送り込んだ。沙漠の地下水道カレーズを造った経験のある人物だった。その指揮によって、竪穴から横へ横へ掘りつづけ、董卓邸の穴掘りの地点に達した。横穴の進行方向を正確に測り、排水などの作業を抜かりなくやれるのは、その専門家なればこそであった。
董卓側が宝を詰めた木箱を、穴の底におろしたころ、陶固邸からの横穴組は、すでに董卓邸の穴の西の壁まで掘り進んでいた。皮一枚残して、いつでも横っ腹に穴をあけ、二十人を救い出す準備を整えていた。
薫卓邸組の組頭もそれを知っていて、あのとき、全員を西の壁に誘導した。西壁をあけた組は、白い綱を投げて、仲間をひきよせたのである。
組頭はあらかじめ、穴の底に使うといって、何枚も戸板をもち込んでいた。土砂が上から降ってくると、その戸板を木箱や箪笥のうえにすばやくかけ渡し、できるだけすきまをつくったのだ。
だが、救出された二十人は、登録もれとなってしまった。
「ひきうけましょう」
と、陳潜はうなずいた。
火をつけて数日たつのに、まだ煙がただよってくる。その煙が目のなかにはいって滲《し》みる。陳潜はなんどもまばたきをした。煙のせいだけではない。胸の芯《しん》から涙がにじみ出るらしい。
「けぶりますなぁ。……」
支英も目をしばたたいて言った。
陳潜は十二層の塔を仰ぎ、青空にむかってうなずきつづけるのだった。
作者|曰《いわ》く。──
北魏の楊衒之《ようげんし》の撰した『洛陽伽藍記《らくようがらんき》』につぎの記事がみえる。
吏部尚書《りぶしようしよ》(内相)の|★[#形の左側+おおざと(邦の右側)]巒《けいらん》は、いつも我が家の庭を掘って金玉宝玩のたぐいを得た。金銀などには『董』という刻印がはいっている。そこは洛陽永和里で、後漢末の董卓邸の跡《あと》だった。
ある晩、巒はおかしな夢をみた。
夢に董卓の亡霊があらわれて、
──それはおれのものだから返せ。
と要求したのである。
──いやだ。ここはわしの邸であるぞ。
と、巒はすげなくことわった。
その翌年、彼は死んだ。急死である。人びとは董卓の怨念《おんねん》の崇《たた》りだと噂《うわさ》した。
巒の死は延昌三年(五一四)のことであった。董卓が洛陽を灰にしてから、三百二十四年たっている。人間の『欲』はいかにすさまじいものであることか。
董卓は長安に去って、再び洛陽に戻ることはなかった。宝のありかを知る呂布も、三国志時代の初期といってよいころに殺された。
白馬寺の人たちは、宝の眠っている場所を知りながら、それには手をつけなかったのである。
(二巻へ続く)
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文春ウェブ文庫版
秘本三国志(一)
二〇〇三年一月二十日 第一版
著 者 陳 舜 臣
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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校正者注
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表示できない文字を★にし、文春文庫第24刷を底本にして注をいれた。
章ごとに改ページをいれた。
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