TITLE : パズル・生物入門
講談社電子文庫
パズル・生物入門
長野 敬・鈴木善次 著
はしがき
生物学は暗記もの,という感じが多くの人に,まだあるようだ。最近では認識もだいぶ改まってきたようであるが,それでも,物理や化学はむずかしいから,生物の単位をとるといった発想法は,高校生などにも残っているのではあるまいか。
たしかに,生物学という学問は領域も広く,そこから得られた知識もたくさんある。何よりまず対象とする生物がじつに多種多様である。体系のない暗記物になりがちなのも,むりではなかった。
しかし,最近の生物学は,そうした認識では追いつけない発展をとげつつある。物理学・化学・数学などの助けをうけ,生命現象の本質にまっこうから切りこもうとする「科学」になっている。
だからといって,大変むずかしい,けむったい学問だとみなされても困る。われわれのからだをはじめとして,生命現象は,日常生活と切っても切りはなせないものであり,その意味からも関心をもってほしい学問の一つである。
そこで「パズル」形式によって生物学への招待を試みようとしたのだが,いざ問題をつくる段になるとなかなかむずかしい。数学や物理学とちがって,答えとして法則めいた結論をだそうとすると,とたんに多数の例外がおしよせてくる。どうしても「もの知り」的な要素が入りこまざるをえない。
ふと頭に浮かぶ疑問,幼ない子どもたちから発せられる質問にはそうしたものが多い。たとえば,「ヒトの手の指はどうして5本なのか」とか,「ペンギンはどうして北極にいないのか」とか,これらは生物学上大切な問題なのだが,ちょっとパズルにはなりにくい。
しかし,こうしたちょっとした疑問も,生物学にとっては大切な「入り口」である。入り口をそっけなく閉じてしまっては,奥の院に行きつく可能性がない。
本書では,日常生活の場の中からできるだけ問題を考えてひろいあげてみた。家庭で親子兄弟がかわす言葉の中にも,野山へのハイキングで見聞することがらの中にも,生物学はひそんでいる。
生物学の知識をまんべんなく整理・配列することは,いずれにせよこの本ではおよびがたいことである。これらのことはりっぱな解説書も多いので,そちらにお願いするべきことがらである。この本でのねらいは,一つには生物学を身近なものとしてとらえてみること,一つには生物学は「考える」学問であるという認識をまがりなりにも表現してみたいことであった。いずれにせよ,楽しいものでなければなるまい。学問は興味から始まるのだから。
そうしたねらいがみたされる内容に,必ずしもなっていない点は,おわびしなければならない。また,解答に,いろいろの誤りが隠れてはいないかとも心配している。ただ,何らかの糸口としての役割がはたせれば幸いである。率直な批判・感想をお願いしたいと思う。
パズル作りのヒントや資料を与えてくださった,神奈川県立教育センター生物教室の石野道男・竹内清両先生,入沢まさ子嬢並びに同教室長期研修員の園田幸朗・幡野久治両先生,また,この計画をたてられてから一1年以上にもわたり,なまけものの筆者らを多面にわたりはげましてくださった講談社科学図書出版部の小枝一夫氏に心から謝意を表したい。
一九六九年十月1969年10月
長野 敬
鈴木 善次
目 次
一 生命と「仕組み」
二 生物学とパズル
家 庭 で
1 酒こそわが主食
2 メンデルの法則
3 あわてもののひげそり
4 眼光タマネギの細胞に徹す?
5 赤い葉・緑の葉
6 怠け者向き飯たき法
7 リンゴの変色論争
8 物真似キュウカンチョウ
9 ぬかみその味
10 黒い目の白ネズミ
11 オジギソウの就眠
12 長寿のための食物
13 お酒変じて酢に
《科学の研究方法――生物学を中心に》
学 校 で
14 断食比べ
15 犯人はだれだ?
16 マメの根の物差し
17 卵の重さ
18 優等生の手ぬかり
19 ちびっこガエル
20 名は体を表わす?
21 日陰の若芽
22 肉食と菜食
23 遺伝子が見えた!
24 葉に書いた文字
25 現代版ニワトリと卵
《生物の基本単位――細胞》
野 山 で
26 ハイカーのいたずら
27 ヒバリの唄
28 飛んで灯に入る……
29 名は体を表わさず
30 コケはコケでも……
31 赤か緑か
32 ザリガニの色
33 打率2分2厘
34 打率2分2厘(つづき)
35 女性は敏感か?
36 阿蘇の山焼き
37 どちらが先にヘタバッタ?
38 バッタの恋愛
39 開発の影響
《生命の連続――発生・遺伝・進化》
海 で
40 クジラの“水源”
41 危険な誘魚灯
42 親類さがし
43 新鮮度鑑定法
44 イカのバックボーン
45 集魚灯の実験
46 故郷の住みごこち
47 半人前でも一人前
48 ゆくえ不明のヒジキ
49 しびれない魚
50 ヒラメの親子
51 カニの泡ふき
52 うきぶくろの謎
53 サカナの目は固定焦点?
《生物の多様性――環境への適応》
街 で
54 幻の巨人
55 笛におどるクマ
56 花を贈る……
57 私設ビール工場
58 植物の“減食”
59 冬眠動物の体温
60 鳴かないスズムシ
61 月よりの使者
62 季節はずれの花
63 キンギョの冷凍運搬法
64 透明人間
65 地球はすしづめ!
66 兄弟思いの双生児
67 肉屋での大発見
68 不当表示
《生体機械の維持と調節――個体内の修理と連絡》
人 体
69 体重4000トン
70 腕力自慢
71 赤き唇
72 おじいちゃんの自慢話
73 陸にあがったフロッグマン
74 坊やの大事件
75 目から火が出た!
76 高地人と低地人
77 天国の入り口からの報告
78 胃液のパラドクス
79 博愛型とケチ型
80 開かれた脳
81 生兵法の失敗
《生命のはたらき――代謝・生化学》
解 答
家庭で(1〜13)
野山で(14〜25)
学校で(26〜39)
海 で(40〜53)
街 で(54〜68)
人 体(69〜81)
参考図書
パズル・生物入門
一1 生命と「仕組み」
生命は創造!
十九19世紀のフランスの大生理学者クロード・ベルナールは,「生命! それは創造である」といっている。なかなか響きのよい標語で,いまでもそのまま通用しそうに思われる。しかし,彼がこのように述べた真意を正確に説明するとなると,これはなかなか容易ではないようだ。
ここでは,この言葉が現代生物学の知識にてらしてどのように考えられるか,少しばかりせんさくして,いとぐちにしたい。それには抽象的なこの句を,具体的な生物体と比較してみるのがわかりやすいだろう。生物としては,もっとも手近な生き物,すなわち私たち自身のからだをえらぶことにしよう。
人体を大まかに眺めてみると,いろいろの役割を果たすための機構が目につく。いま,私たちのからだを隅々まで血液の流れで養う,血管系というものに焦点を合わせて,その機構をもっとくわしく観察してみよう。
血管のなかには,ただ血液が充ちているだけではなくて,たえず循環している。血液はなぜ流れることができるのだろう。いうまでもなく心臓という生きたポンプの仕組みが血液をおし動かすのである。いま仕組みということばを使ったのは,機構というのと同じことだが,目立ちやすいように以下全部,仕組みと呼ぶことにする。
生命は分析できる
さて心臓ポンプは,モーターや手で押すポンプとちがって,ポンプの外形そのものがひとりで伸縮するが,これは心臓の壁全体が筋肉細胞からなっていて,各筋肉細胞の中にそれ自身収縮することのできる分子的な仕組みがそなわっているからである。
また,自律的に収縮をくり返すための自発運動の仕組みもそこに組み込まれているから,うっかり心臓の面倒を見忘れて止まってしまった,という事故なども起こらずにすむ。
ところでこの心臓の壁の収縮は,労せずして行なわれるものではない。壁の筋肉細胞が血圧にうちかって収縮をなしとげるには,それだけのエネルギーが必要だが,実際,このエネルギーを食物分子から取り出す仕組みも細胞の中に存在している。細胞のなかにあるミトコンドリアという小さな構造物がそれである。ミトコンドリアで行なわれるエネルギー取り出しの仕組みというものは……というぐあいで,仕組みの話はどこまでも続いていって,果てしがない。
百100年前のベルナールが,ミトコンドリアの役割など知らなかったことはいうまでもないが,すべての生理現象がこんなふうにどこまでも分析してゆけるものだ,という見通しは,彼ももっていた。
はじめから話がどうも講義口調になってしまったが,あとしばらく,付合っていただかなくてはならない。なぜなら以上は前半であって,後半まで話し終らないと「生命は創造」のたねあかしができないのだ。
発生という創造的仕事
十九19世紀人であったベルナールにとって,分析一本槍のこの行き方ではすみそうもない生物現象が一種類だけはあった――ここから話の後半が始まる。
それは生物の発生の現象,ひと口にいえば卵がヒヨコになり,ニワトリになるひとつづきの変化である。ニワトリの出発点である卵は,どうひねり回してみても卵にすぎない。しかも真にニワトリになるのは,その卵の中の卵黄の上の,さらに一斑点に過ぎない胚《はい》の部分だけである。
この一斑点である胚には,いくら拡大してみても心臓も胃腸管もなく,目もない。このように卵では存在しなかった仕組みが成体では存在するからには,その間に「創造」が行なわれた,といわなければならないし,また創造が正しく進むように保障するなにものかがあるはずだ,という主張も出てこよう。
心臓や血液が胚でかなり早くに出現することは事実である。しかし,卵の最初にはそれもなかったことはたしかである。だいたい,血液が「出現する」といういい方そのものが,まさに創造を示しているではないか。
つまり,胚の中ではただ可能性として隠れひそんでいたにすぎないものを,ニワトリという現実の仕組みまでおし進め,作りあげてゆくなにものかがあって,それこそが生命そのものだ,という考えかたが出てくる。
「生命! それは創造である」。これは詩人に霊感を与えるような,すばらしい見通しといえるかもしれない。
親から受け取る指令書
ところがである。この「創造」が,最近十10年間かそこらの生物学の爆発的な進歩とともに,これもまた仕組みという言葉で説明されはじめている。これについてはあとでまた触れるが(《生物の多様性》参照),ひと口にいえば最初の卵細胞の中に,その後の全部の発展をどのようにやってゆくかの,指令書が親から暗号の形でゆずり渡されていると考えられるのである。
ただしこの指令書は,一片の青写真とか,暗号電報のような固定したものではない。固定した指令書だと,青写真を見てそのとおりに材料を組んだり,暗号文を解読したりする担当者が,すでにそこに待ちかまえていなければならない。そうでなければ,指令書は机の上にほこりをかぶって,いつまでも死文のままで終ってしまう。
生物の子が受け取る暗号は,文字どおり生きた暗号である。青写真を現実の家にするための材料集め係,その組み立て係,必要に応じて手直しをする係,そういう係員自身をまず作りだすことそれ自体も,暗号の中に指令されていてそのとおりに実行される。つまり,卵がニワトリになるのも,けっして神秘な創造ではなく,暗号指令といううまい仕組みが順調に働いて,起こるべくして起こる自動作業にほかならないのだ。ただ,仕事を最初に動きださせるのに必要なだけの既製の「係員」は,受精卵中にゆずり渡されてはいってくるけれども――。
仕組みの積み重ね
そうみれば,「生命の現われ」といわれるものは,全部残らず巧妙な仕組みで動かされていて,ただ,その仕組みがいく重にもいく重にもいりくんで,見事に働いているのだということになる。
「生命! それは仕組みの中の仕組みの中の仕組み……(以下無限に続く)である。」
このような結論には,詩人をはじめ多くの人が,あまり乗り気でないかもしれない。はじめてのわが子を抱いたお母さんなども,まっさきに反対を叫ばれるにちがいない。「うちの可愛い坊やが仕組みのかたまりだなんて!」
この問題にはここでは深入りしないことにしよう。こうした反対の感じは,結論を出した生物学者当人も,ある程度は抱くに違いない。そこには,人間としての感じとか,立場とかいう事柄がからんでくるが,それはそれで,必ずしも科学と同じ平面に乗らない大事な問題なのだろう。
二2 生物学とパズル
パズル化の悩み
さて,おもしろくてためになることを願うつもりのこの本の書き出しが,哲学概論みたいに高尚になり過ぎたようである。これまでに述べたことと,これから以後のごく具体的なパズル問答や解説が,どのような関係にあるのか,ちょっと述べておこう。
読者は,すでに仕組みという言葉で耳に(目に?)タコができるほどだったと思う。生物体というものがこのような複雑な「仕組み複合体」だとすれば,その複合体のいろいろの各側面,各段階ごとにいろんなパズルが作れるはずである。ただ,たいていの場合,問題に答えるのに,ある程度の生物学上の知識が必要だというのが,出題者の悩みのたねであった。
それは生物学に限らない,あたり前じゃないか,と言われるかもしれない。たしかにある意味ではあたり前である。NaClが何を意味するか知らない人むけの化学クイズ集を作るのは,おそらく至難の事業だし,物理学などでも同じことであろう。その意味では生物学に限ったことではない。ただ,生物学では,必要な基礎知識,あえていえば棒暗記的知識が物理や化学のときよりずっと多いのではあるまいか。これは前述の生物の複雑さ,多面性と関係のあることだと思う。
必要な前提知識
出題の前提が漠然としていると,いろんな面の基礎知識がからんでくるので,それらを全部動員しないと答えがでないのである。
たとえば,次の問題を考えてみよう(議論のための例だから,味もそっけもなくてパズルとしては落第であるが……)。
問 神経繊維を刺激が伝わる速度は毎秒三〇30センチ,三〇30メートル,三〇30万キロのいずれか?
物理学の得意な中学生のA君はこう考える。――刺激は電気で伝わるのだろう。そうだとすれば電波の速度の三〇30万キロじゃないか。常識家のB氏の推論は。――三〇30万キロとはとほうもない。これはお話にならない。といって,三〇30センチでは,指先をやけどして手を引っ込めるのに数秒かかることになるからダメ。とすれば,正解は三〇30メートルか。ところが,生物学を知っているC嬢は。――神経には太さも伝達速度もピンからキリまでいろいろあるから,出題そのものがこれではお話にならない,と指摘するだろう。
たしかに右の問では,神経の構造(構造も「静的な仕組み」である!)や性質に何も触れていない。これは欠陥だ。それからもう一つ,刺激が電気で伝わるといっても,それは通常の電流ではない。神経繊維の膜面を介して,電気をおびた原子であるイオンが出入りして,この出入りが波及してゆくのだが,この大事な仕組みのことにも,出題では何も触れていない。それでA君が間違えたのである。
神経細胞のこうした特性は,もしすでにそれを知っているのでなければ,どう頭をひねっても出てくるはずがない。それらは神経の仕組みとして,生物界に問答無用ではじめから与えられてしまっているものなのだから。
出題は,こうした頭ごなしのアプリオリの知識をできるだけわずかしか必要としないものでなくてはならない。たとえば――
問 人間の指先から脳に達する神経系路の伝導速度は,毎秒数十センチか数十メートルのどちらかであるという。どちらだろうか。
これなら,あまりスマートとはいえないが,欠陥パズルにはならずにすむ。しかし,全部にわたってこのように“棒暗記”の知識を一〇〇100パーセント避けることは,もとより不可能である。たとえば生物の分類などに関連する問題では,ことにそうだ。だが,この種の問題を全部とりやめてしまうというのでは,いかにも不釣合いである。常識的な線でバランスをとるほかはない。
個体レベルと全体
それから,生物界での仕組みのつみ重なりは,個体の段階で終っているのではないことにも,注意しておかなければならない。いろいろな個体同士が関係しあって生きてゆくことこそ生物の世界の常態である。ある実験動物は野外では,他の動植物と密接に関係を保ちながら生きてゆくこともできる,などという発想法は,実は逆立ちしているというべきである。人間という自分勝手な知能的生物が現われて,実験室をつくり出す以前には,「野外」以外の環境など,天然界のどこにも存在しなかったのだから。
人体の細胞は,切り離してガラス器具の中で培養してゆくこともできるが,だからといって,「このような細胞たちは,集合して人間を作ることもできる」と考えるのは,話が逆立ちしているのと同じである。個体以上のレベルでの生物界の仕組みということは,はなはだ大切なことにちがいない。しかし,筆者たちの商売柄,この面の取りあげ方は少し手薄だったかもしれない。
親しみやすい生物学
生物学は物理や化学よりも何かにつけて親しみを感じさせる。その理由はいくつかあるだろうが,一つには,生物の世界は「動き」の世界だということがある。「動き」といっても,生物体のいわゆる運動性のことだけいっているわけではない。すでに何度も強調したとおり,複雑に組み立てられた「仕組み」たちが百花繚乱と常にダイナミックに動いているのが生物の世界だ,という意味である。動きのあるところには物語がある。方程式よりは物語のほうが親しみがある,と感じる人は多いのではないだろうか。ただしこれは,生物学に数学は不必要であるということとは,ぜんぜん違う。それについては他にふれる機会もあるだろう。
一片の押葉標本には動きはないが,それも最初からの静止ではない。生物学が,「時間よ止まれ」と命じて,研究のためにそこに固定した植物の姿である。この手がかりの背後にその植物の生活という「動き」や,過去の分布や進化での移りかわりという「動き」をさぐるのも,生物学の大事な一つの側面なのだ,と理解すべきだろう。
さて,生物学が親しく,身近に感じられるもう一つの理由,そうしておそらく最大の理由は,私たち人間もまた生物の一員だということである。人間がアスファルトと石と鉄で組み立てられた都会のまんなかにいても,少なくとも彼の身体の中では生物学が渦巻いている。野山,田園ではなおさらのこと,私たちは,周囲の自然と生物としてのつながりをもっているように感ずるし,周囲の動植物をもそういう目でみる。
解答へ導く扉として
この身近さの感じをいくらかでも強調したいと思って,出題は,生理学の問題とか細胞学的なものとかいう教科書のような分けかたをやめ,野山とか海とか家庭などという枠でまとめてみた。多少こじつけ的な割りあてになるものも,どうしても出てくるが,気軽に読んでいただけるのではないかと願っている。ただし,間にはさまる解説は,生物学の分野にいくぶん平行したものになった。解説を読んで問題解答への手がかりが得られることは,むしろ少ないが,両者を適宜読みあわせていただきたい。
効能書きのわりに愚問が多いじゃないか,と叱られるかもしれない。弁解をすれば,「物語」は,「方程式」よりも親しみやすくはあるかもしれないが,本格的パズルにはなりにくいようだ。出題はきっかけで,ただ解答へ案内するための扉の役をしているような場合があるが,多少は積極的にそういうつもりで作った問題もある。ただし,本格的愚問は,お叱りを受けつつ機会があれば改めてゆきたい。
家 庭 で
問題1 酒こそわが主食
ある家庭での夕食どきの会話。
「あなた,そろそろお酒切りあげてごはんになさったら」
「いやいや,アルコールは吸収がいいし,量さえ多ければカロリーもじゅうぶんなはずだろう。横山大観画伯もめしは抜きで毎日酒びたりだったそうだ。ぼくも見習うことにきめた」
「だめですよ,大観さんの話なんて,どうせ伝説でしょ。どのみち,あんなえらい人とあなたと,わけがちがいますよ」
さて主人の主張する大観式生存法で生きてゆけるだろうか?
→解答
問題2 メンデルの法則
「互いに違った性質を持ったエンドウをかけ合わせると,その雑種第二代目には,はじめのエンドウの性質が三3対一1にあらわれる」――。
学校ではじめてメンデルの遺伝の法則を習ったA君は,すっかり感心。自分の家族に当てはめて考えてみた。A君は四4人兄弟でそのうち三3人が背が高く,A君だけ低い。それに,おじいさんの背は高く,おばあさんは低い。「やあ,僕んちはメンデルの法則にぴったりだ」とA君は友達に大いばりでふれまわったが,A君の判断は果たして正しいだろうか? 理由も考えてほしい。
→解答
問題3 あわてもののひげそり
何処の家庭でも同じだが,Bさんも毎朝,ぎりぎりまで朝寝坊。今朝も時計をにらみながらあわててひげをそっていて,見事にあごを切ってしまった。
「ママ,早くあたたかいタオル持ってきてくれ」
ところが,大学出のインテリ奥さんは,「あなた馬鹿ね,あたためたら余計に血が出るじゃないの。冷やしたほうがいいのよ」と,冷たいタオルを渡した。このような場合,冷たいタオルがよいかあたたかいのがよいか?
→解答
問題4 眼光タマネギの細胞に徹す?
母親が台所で,夕食のカレーライスの仕度に,タマネギの皮をむいているところに,息子が学校から帰ってきた。
「お母さん,今日,学校でタマネギを顕微鏡で見たよ。小さな箱みたいな細胞がきれいに並んでいるんだ。お母さんもそのタマネギの細胞をよく見てごらんよ」
「だって顕微鏡がないから肉眼じゃ見えるわけないでしょ。細胞っていうのは,生物のからだをつくっている一番小さい単位なんだから」
母親は息子の言葉を一蹴《いつしゆう》してしまった。タマネギの細胞は肉眼では見えるはずかどうか?
→解答
問題5 赤い葉・緑の葉
緑色の植物の葉は,光の力を借りてデンプンや糖をつくり,それを養分として生きている――。学校の生物の時間に,そう習ったばかりのA君は,家に帰って弟に早速,受け売り。「だから植物の葉はみんな緑色だろ」
ところが,弟は庭のすみのシソの葉を指しながら,「シソのような赤黒い葉だってあるじゃないか。あれは緑じゃないからデンプンをつくれないはず……」と問いつめる。A君,これには参ってしまったが,兄貴の権威を守り,弟を納得させるにはどう答えたらよいか?
→解答
問題6 怠け者向き飯たき法
戦後二十余年。お米が余って始末に困るなんて,戦中・戦後の食糧難時代からみれば夢のような話だが,ここにずばぬけて怠け者の女性がへんなことを考えた。
お米はナマよりもたいて食べたほうが消化がよい。その御飯も口のなかで唾液とよくまぜて食べると消化が進む。
それならいっそのこと,はじめから唾液のなかのエッセンスを抽出して,それをお米にまぜてたけば消化が早くて,余りかまなくてもよいし,胃にも負担をかけない。早速このアイデアを試してみたがうまくいくだろうか?
→解答
問題7 リンゴの変色論争
食後のデザートに,母親がリンゴを切って出してくれたが,父親も息子も,テレビに熱中して手を出さない間に,折角のリンゴがみんな赤黒くなってしまった。
父親いわく,「庖丁で切るから,鉄分が作用して変色するのだ」。息子は,「そんな馬鹿な,庖丁とは関係ないよ」と反論したが,頑固な父親は,「いや,手で割ったときはあまり赤くならないから――」と,強硬に庖丁犯人説を主張する。
さて,果たしてどちらの意見が正しいか。
→解答
問題8 物真似キュウカンチョウ
核家族という言葉があるが,息子夫婦と別居している一人暮らしのある老人が,寂しさをまぎらせるために,キュウカンチョウを買ってきた。毎日,「おはよう元気かね」と話しかけていたので,キュウカンチョウはこの言葉をすっかり憶えてしまった。
ある朝,まだ床にいる老人に,障子をへだてて鳥籠のあるほうから,いつもと同じような声色で,「元気かねおはよう」という声が聞えたが,老人は「こら! キュウカンチョウの真似をしてもわかるぞ」とどなった。どうしてわかったのだろうか?
→解答
問題9 ぬかみその味
楽しかるべき夕食というのに,P家ではぬかみそ漬の味をめぐって,ちょっとした夫婦げんかが持ちあがった。
「お前が怠けてぬかみそをよく手でかきまぜないから,こんなにすっぱくなったのだぞ!」
「そりゃ,ぬかみそくさくなるのが嫌だから,かきまぜなかったけれど,味には関係ないわよ。ここ暫《しばら》くとても暑かったから,そのせいよ……」
さて,どちらの言い分が正しいのか,仲裁役ならぬ,判定役になってもらおう。
→解答
問題10 黒い目の白ネズミ
カラーテレビも,ひと頃に比べるとすっかり普及したが,今度新しくカラーテレビを買ったA家でも,中学生の兄と小学生の弟があざやかなカラーマンガにすっかり夢中。
今日のマンガは,真白な毛色で真黒な目をした可愛いい白ネズミが主人公で大活躍だが,暫く熱心に見ていた兄が急にいい出した。
「色はすばらしいけど,このマンガを作った人は非科学的だ。あんな白ネズミなんていないよ」。弟のほうはそういわれて画面をよく見たが,なぜかわからない。兄はなぜこんなことをいい出したのか?
→解答
問題11 オジギソウの就眠
人間のなかには,夜になると急に生き生きしてくる夜行型の人間がいるが,庭などでよくみられるオジギソウやネムの木は,夜になると葉をたたんで眠る品行方正型の植物。
ところで,夜行型の人間は,夜が好きといっても,もっぱら明るい街の灯の周辺で活動する。「オジギソウもそうかな」と,実証精神に富むQ氏は,ある日,庭のオジギソウに,太陽光線に似た蛍光灯を一晩中あててみた。果たしてオジギソウは“起きたまま”だったか,あるいは葉をたたんだだろうか。
→解答
問題12 長寿のための食物
中年すぎてから,急に健康について用心深くなったAさん。会社で,血液が酸性に傾くと老人病になりやすい。それを防ぐにはアルカリ性食品を多く食べ,酸性食品をひかえたほうがよい,と聞きかじってきて,毎日の食事にすっかり神経質になった。
奥さんが,「酢のものや夏ミカンはアルカリ性食品だからたくさん食べたほうが……」とすすめるのに,Aさんは,「すっぱい味がするのが酸性の特長だと学校で習ったのを忘れたのか,そいつは酸性食品だから食わないよ」と一蹴《いつしゆう》。さて正しいのは実際にはどちら,なぜだろう?
→解答
問題13 お酒変じて酢に
酒飲みの主人をもった細君。主人のからだを案じて,飲みかけの一升びんを取りあげて,台所のすみにかくしてしまった。
暫《しばら》くたってから料理に少し使おうと持ち出し,ついでにちょっと味見してみたら,やたらにすっぱい。
さては主人がひそかに飲んだあと,目をごまかすためにお酢を入れておいたな,とおかんむり。
犯人は本当に主人だろうか?
→解答
科学の研究方法
――生物学を中心に――
パズルを解こうとするには,与えられている知識,条件から何らかの手がかりをつかみだし,それを順序だてておしつめていき,正解を導きだす,というのが普通である。それと同じように,科学者が研究をしていく場合にも何らかの順序だてが必要であろう。いったい科学者は,どのような方法で問題を解こうとするのだろうか。ここでは生物学を中心に科学の研究方法を検討してみることにしよう。
問題を見つける
まず研究をするからには,そこに「問題」がなければならない。自然現象の中から問題を見出し,その本質をつきとめようとするのが自然科学である。したがって科学者が自然界から問題を見つける場合にも,直接,自然を観察することによって見つけることが多い。しかし,必ずしもそればかりではなく,先人の行なった研究の報告文を読み,その中から新たな疑問をいだき「問題」とする場合もある。科学が進み高度になればなるほど,この傾向は強いといってよいだろう。
では,ひとたび「問題」が見いだされるとつぎにそれをどう解きほぐしていくのだろうか。たとえば,「動物のからだを解剖してみたら心臓があった。これはいったいどういう働きをしているのだろうか」と疑問に思った科学者は,どうするだろうか。おそらく,心臓のつくりがどうなっているかとか,血液の流れとの関係など,できるかぎり「観察」するであろう。
見たようなウソをつく
しかし,古い時代の科学者(哲学者というべきかも知れない)は,観察から得られた知識以上のものを,頭でつくりあげ説明していた場合が多い。中世までその権威をしめしていたガレノス(AD一二九129〜一九九199)は心臓の機能をあやまって解釈していた。彼は心臓を一つの熱機関(ボイラー)として考えており,現在わかっているポンプに相当する働きとはまったく異なった機能を心臓に与えていた。
ガレノスも,血管系についてはかなりの観察は行なっていたが,まだ顕微鏡の発明もなく,こまかな部分を観察することができなかったのである。しかし,誤りの主因は,そのような観察の不備よりも彼の自然観にあった。彼というよりも,当時までの哲学全体の誤った影響であったといってもよいだろう。
当時の哲学の一派ストア学派は,空気が世界万物の魂であり,この魂としての空気が生物の活動もささえていると考えていた。心臓はその空気(プネウマ)を肺からとり入れ,全身に送りこむ装置と考えられたのである。ガレノスは,こうした「先入観」にもとづき,「観察」以上の結論をくだしたわけである。
帰納と演繹
このような状態を批判し,近代科学を確立するための出発点となったのがフランシス・ベーコン(一五六一1561〜一六二六1626)である。彼はそれまでの思弁的な思考での自然観(つまり見ないものを見たようにうそをつくこと)に対して,すべて「経験」を通して自然法則を発見すべきである,と考えたのである。「観察」は一つの「経験」である。したがって,多くの「観察」した事実を集め,その事実の中から共通したものを導きだし,法則としようとするのである。このような方法は論理学では「帰納」といわれるものである。ベーコンは科学の研究方法に「帰納的方法」を導入したわけであるが,生物学ではこの帰納法がかなり役立っている。
ところが,同時代のガリレオ・ガリレイ(一五六四1564〜一六四二1642)は「経験」的事実だけから法則を見いだすことに満足せず,自然現象を単純化して理想的な状態で「仮説」をたて,「実験」することが必要であるとした。ガリレイは,「仮説」の設定にあたっては,演繹的な推論,数学の導入などを試みた。「実験科学」はこのあたりから急速に発展し,ニュートンにおける近代科学成立期に,一つの科学の研究方法が確立した。
すなわち,自然界から「問題」を見つけ,それに対する「仮説」をたて,そこで「推論」し,「実験」によりその仮説を検証し,「結論」にみちびくという過程である。現代の科学者の大部分は,何らかの型でこれらの研究方法を行なっているといえよう。
しかし,ここで断わっておかなければならないのは,「科学の研究方法」というのは,ただ一つのものではないということである。歴史的にも,今述べたように学者によって異なっていたのである。ただ,現在のところ,その方法で一応都合よく自然現象の究明ができているというだけである。
仮説のたて方
さて,自然界から「問題」を見つけ,それに対する「仮説」をたてる方法としては,「経験」した事実(これには自然のままの観察もあれば,実験による観察もあろう。よく,実験と観察を対置させるが,実験を行なったときにも観察するのであるから,上のようにすべきであろう)から「帰納」していくやり方と,もう一つ「モデル思考」というのがある。初歩的な問題の場合には前者が有効であり,初期の生物学ではそれがかなり役立った。
しかし科学が進むにつれて「帰納」だけでは不十分となり,「モデル思考」が有効性を発揮してきている。分子運動を考えるときの「たまつきのモデル」,原子構造のときの「惑星のモデル」などは有名な話である。遺伝現象の解明の際の「遺伝子モデル」なども有効性を発揮した例といえよう。
このようにして「仮説」がたてられると,次にはそれを検証するために「実験」が計画されるのであるが,そこで問題になることは何であろうか。
欠かせない対照実験
「実験」は,自然現象の中からいくつかの要素をとりだし,その現象のしくみの要因を見いだそうとするものであるが,そのためには,条件を明確にしておかなければならない。
たとえば植物が育つのに温度がどう関係するだろうか,という問題をたしかめる実験では,温度以外の条件を無視してもよいような状態をつくり,温度を変化させていく。その状態をつくる方法として生物学ではしばしば「対照実験」を行なう。つまり,温度以外の条件,水とか光とかを一定にし,温度だけを変えた二つ以上の実験区をつくるのである。
対照実験の例として,ある薬品が,ネズミに害があるかないかを調べる場合を取りあげよう。まず同じような健康状態のネズミを二つのグループにわける。すなわち,薬剤以外はすべて同一の条件にしておいて,二つのグループは,温度などの環境条件およびエサの種類,量,やり方などまったく同じにし,一方のグループだけに調べるべき薬品を与え,その効果を薬を与えないグループと比べるのである。しかも,生物は個体差があるので,一匹ずつでやったのでは,誤った結論を導きやすいので,材料を多く用いて統計的に処理する方法をとらなければならない。
脚気を探偵する
では,具体例をあげて,読者とともに「科学の研究」をすすめてみよう。ただこれは,あくまでも一つの方法としてとらえてほしい。
「問題」脚気という病気はどうして起こるのだろうか?
当然のことだが,まず脚気にかかった人と,かからない人との間のいろいろなちがいを調べてみることから始まる。要因として考えられるものをすべてとりあげ,両グループの間に大きなちがいがあるかどうかを調べるのである。ここではまず,病原菌を犯人として想定することができる。それが見つからなかったとしたら,つぎに「人」をうたがう。そして,「人」について,体格や性格に関係なく罹病する人としない人がでているという結果が出たら,まず,「食物」を調べる。罹病する人は「白米」を,しない人は「玄米」を食べていたとすれば,「食物」が脚気のおもな要因として浮かびあがり,そこで「仮説」がつくられる。ここまでの過程は「帰納」である。
▼仮説「脚気という病気の原因は,食物にあり,病原菌によるものではない。」――いままでの帰納によって当然,このような仮説が出てくる。そして,この仮説から,つぎのような「予測」がたてられ「実験」が計画される。この場合,科学者は「人」を実験材料にえらばず,他の「動物」を用いる。
▼予測「白米だけ与えた実験動物(例えばネズミ)は脚気になり,玄米を与えた動物は脚気にならないはずである。」
▼実験「実験動物を二つのグループにわけ,食物以外の条件を同じにして,一グループには白米,一グループには玄米を与え飼育する。」
▼結果「白米だけ与えたグループは,脚気になり,他のグループはならなかった。」
▼結論「食物が脚気の原因で,病原菌には関係ないという仮説が正しい。」
こうして,一つの段階の疑問が解決したわけであるが,科学者はこれで満足しない。そこから新たな「問題」を見つけるのである。
▼問題「どうして白米をたべていると脚気になり,玄米では大丈夫なのか。……玄米と白米のちがいは?……脚気という病気のしくみは?」
こうして,より高次の研究課題をつかみ,玄米に含まれる脚気をおさえる因子を求めて化学分析がなされる。実際の話としてはエイクマンや鈴木梅太郎,そしてフンクらがこれを追究し,ビタミンB 1 B1の発見に到達したのである。
こう考えてみると,科学者はある意味で「犯人」をおい求める「探偵」であるといわれるのもうなずけるであろう。
定量的な見方
さて,これまでで一応の科学の研究方法が理解されたことと思うが,実際に自然や実験からの情報をつかみだすときに,どういう観点からとらえるかによって,その現象をよりよくつかむことができるかどうかが,きまってくる。
植物と水との関係をとらえようとしたヘルモント(一五七七1577〜一六四四1644)は植物体の重量,土の重量を測定し,その変化量を基礎にして,植物の栄養源が水であるという学説を生みだした。すなわち,あらかじめ測った土に植えた植物(ヤナギ)に水だけを与え,五5年間生育させたのち,土と植物のそれぞれの重量を測り,その変化量を求めた。その結果,土の重量には変化がなかったところから,植物体重量の増加は,すべて水にもとづくと考えたのである。
もちろん,この結論は現在ではあやまりであることがわかっているが,現象をただ,定性的にながめるのでなく,量を目やすとした点は,この分野の進歩にとって重要な役割を果たしたといえる。このように場合によっては「質より量」,別のことばでいえば,「定性より定量」が研究を進めるのに重要な場合がある。現在の科学での実験のほとんどは,「定量的」というか数値を求めて行なわれている。
数学に強い生物学者に
実験を行なったあとは,実験からえられた数値をどう処理し,それが何を意味しているかを分析することが,重要な仕事となる。ここで当然,数学が役立つことになる。とくに生物学では,統計処理が行なわれる場合が多い。それは前にも述べたように,実験材料が均一でないことや,ヒトに関するもののように直接的な実験が不可能であるからである。このため,「生物統計学」という独立した学問すら成立している。人類の遺伝現象の研究,生物進化の研究としての集団遺伝学,さらには集団生態学など統計を利用している分野はひろい。
もちろん,統計的な面ばかりでなく,ある仮説をたてるときにも,数学の式が一つのモデルとなる場合がある。物理学では,その傾向がとくに強いが,生命現象に関しても,数学からの式をモデルにして仮説をたてる研究がみられるようになってきた。特に,生物工学の分野でそのような例が多いが,これからの生物学者は,数学に強くなることが必要ともいえるだろう。
学 校 で
問題14 断食比べ
強い抗議の意志を示す手段として,人間も時々行なう断食をめぐる話。「哺乳類の大小のチャンピオン,ゾウとハツカネズミが,仮に断食したらどちらが早く死ぬか」という先生の質問に,生徒たちの間では議論百出。
A君「ネズミです。ゾウのほうがずっと寿命が長いから断食しても長生きのはず……」。B子さん「ゾウよ。小さいと消費量が少ないから,ネズミは案外長生きするはずだわ」。C君「どちらだとしても,それは生物の種の差で,大きさには関係ない……」。他にも諸説紛々だが,三人のうちに正解は?
→解答
問題15 犯人はだれだ?
学校ではじめて顕微鏡を使うことになったA君。ちょうどアブラナの花盛りだったので,その花粉を見ることにした。
花粉は乾くとすぐ死ぬといわれたので,スライドグラスの上に花粉をはたき落とし,スポイトで水を一滴たらしてカバーグラスをかぶせた。顕微鏡にセットし,さていよいよ,という時に友達からの急用。やっと用事を終えて待望の顕微鏡をのぞいてみたら,先生の話ではきれいな球状に見えるはずの花粉が,大部分,破裂して妙な形ばかり。A君「誰かいたずらしたな」と,大むくれだが,彼の怒りはもっともだろうか?
→解答
問題16 マメの根の物差し
一粒の種子をまく。間もなく根・芽が出て,やがて一人前になり,花を咲かせ実をつける。植物の生長速度はめざましいが,ある学校で生長を調べるため一つの実験を行なった。
ダイズの種子をシャーレにまき,出て来た根に墨《すみ》で等間隔の目盛りをつける。この目盛りが三3日後にどう変わるかを調べよう,というもの。さて,その結果は次の三3つのうちのどれになったろうか?
(1)目盛りは等間隔のまま全体にのびた。
(2)目盛りが等間隔でなくなり,先の方の間隔がひろがった。
(3)逆に根元のほうの間隔がひろがった。
→解答
問題17 卵の重さ
ニワトリが先か,卵が先かはよく議論のタネになるか,これは卵の重さに関する問題。ニワトリにせよカメにせよ,殻につつまれた卵は,あたためられると,その中で胚がだんだん分裂し,分化し成長して,かわいいヒヨコやカメの子になる。
ところで,卵があたためられてから,孵化してこどもが出てくるまでの間で,卵全体の重さはどうなるだろう。次の三つのうちから選んでほしい。
(1)重くなる。
(2)軽くなる。
(3)まったく変わらない。
→解答
問題18 優等生の手ぬかり
ある小学校の理科授業での話。
先生「植物は根で水を吸う一方,葉から水を出している。これを蒸散作用というが,これを確かめるにはどうしたらよいだろう?」
日頃,よい成績を誇っているB君,そんなの簡単とばかり,「同じ大きさのビーカー二2つに同じ量の水を入れ,片一方に葉のついた植物を入れます。一定時間たった時で残った水の量を測り,植物を入れておいたほうの水の減り方が大きければ,蒸散作用が証明されます」と得意顔。
ところが先生は,「それじゃダメだよ」と冷たい判定。はてなぜだろう。
→解答
問題19 ちびっこガエル
食用ガエルは体長一五15センチにもなるカエルの王様格だが,K君は,学校の先生から,昆虫くらいの“こびと”食用ガエルを作る方法がある,というおもしろい話を聞いた。若いオタマジャクシに甲状腺ホルモンというホルモンを上手に与えながら飼うのだそうだ。
「だが待てよ。甲状腺ホルモンは,チロキシンといって人体の成長と代謝をうながすものと習ったぞ,ちびっこガエルができるなんて逆じゃないか。カエルと人間ではホルモンが逆に働くのかしら?」とK君は考えた。
K君の疑問に答えてほしい。
→解答
問題20 名は体を表わす?
ヒマワリは,その名のように,太陽の方向に首を向けるといわれているが,A小学校では,この問題をめぐって大激論が持ちあがった。
A君は「小さなつぼみをつけたヒマワリを見たら,朝は東の方を向き,夕方には西の方を向いていたから,たしかに太陽を追う」と主張するが,B君は「ずっと前にヒマワリの花を観察したことがあるが,全然動かなかった。太陽を追うなんてうそっぱちだ」とゆずらない。A,B両君のどちらかがウソをついているのだろうか。
→解答
問題21 日陰の若芽
校舎のかげの日陰にひょろりと芽を出したムギをみつけたA子さん,こう考えた。だいぶひょろ長くのびたわ。日当たりが悪いのね。そうだ,芽は日が当たるとそのほうへ曲がるけれど,これは日の当たる側の細胞が,温度があがると伸びにくくなるのではないかしら。
そこでA子さんは,日なたに,鉢にまいたムギの芽と細い筆と墨を持ち出した。A子さんの考えが正しいかどうかはさておき,どんな実験をしようというのだろうか?
→解答
問題22 肉食と菜食
生物の観察のため,A君の学校ではオタマジャクシを水槽で飼っている。
普通は,カツオブシのような動物性のエサを与えるのだが,研究熱心なA君。ノリのような藻《も》でもよいと聞いてきて,別の水槽に何匹かオタマジャクシを移し,アオノリだけで育ててみた。
暫くたってからこの二つのグループのオタマジャクシを解剖してみたら,腸の長さがかなり違っていた。
いったいどちらのエサで育ったほうが長くなったのだろう?
→解答
問題23 遺伝子が見えた!
分子生物学の進歩で,生物のしくみもかなりこまかくわかってきたが,今日の授業は「遺伝子」の話。「遺伝子の本体はDNAという物質で,ハシゴをらせん状にねじった形の,長い二2本のコイルとなって染色体に存在しています。ごく大まかに,数十回か百100回の“巻き”が遺伝子一個ぐらいの見当です……」
ところが,その次の実習の時間に染色体の固定染色標本を顕微鏡でのぞいていたA子さんが叫んだ。
「本当にらせんのような縞模様が見えるわ。すてき!」。彼女は,本当に遺伝子を見たのか?
→解答
問題24 葉に書いた文字
植物の生長は,細胞の数がますことと,一つ一つの細胞が大きくなることの両方によってもたらされる,と教えられたA君。葉の生長はどちらかと,こんな実験をしてみた。
小さなタバコの葉の表面に,墨《すみ》で「A」と書いておき,葉が大きくなってから,「A」という字の変化を見るというもの。
「A」の字は図のどちらのように変わったか。
→解答
問題25 現代版ニワトリと卵
A校の生物の先生「子は親からもらったDNAという遺伝物質のおかげで酵素を含めていろいろのタンパク質を作り,ついでこれらが個体を作りあげます。生命の起源で最初に生じたのは,DNAだったにちがいありません」
B校の先生「個体は酵素などタンパク質の活動で生命を保っています。親の体内で次代の子に与えるDNAを作りだすのも酵素です。生命の起源では最初にタンパク質,ことに酵素が生じたはずです」。A校からB校に転校したX君は,困ってしまった。どちらの先生の説明が正確か?
→解答
生物の基本単位
――細胞――
あらゆる生物のからだは,細胞を単位として作られている。こんなことは,今日,もう常識といってもよい。
たしかに生物体,たとえばひとりの人間を分析して考えてゆくと,無数の細胞から成り立っている。しかし,これは分子とか原子が,物質や物体の単位であるというのとは,意味が違っている。
細胞は,小さいながらそれ自身でも,ひとつの複雑きわまる物体である。私たちはこの物体をさらに分析しつづけることができる。細胞のまわりは細胞膜で囲まれ,中には核があり,細胞質といわれるなかば液状の部分もあり小さな顆粒などもいろいろある。それらをさらに分析してゆくと,最後にゆきつくのはタンパク質,核酸,脂質などといういろいろの有機物質の分子や,水などの無機物の分子とかイオンである。
物体の単位が分子とか原子であるというならば,生物体の単位も同じく分子とか原子であるといわなくてはならない。ただ,ふつうの物質の場合には,分析をずんずん進めてゆくと,いきなり分子や原子までゆきつくのに,生物体ではそのはるか手前で,一度,細胞というものにつきあたる,ということになる。
機械の部品に相当?
細胞をたとえるならば,むしろ機械の部品にたとえたほうがよい。機械をいきなり全部こなごなにして,材料の金属その他の塊としてしまっては,実際上も,考えかたの上でも,意味をなさない。歯車とか,トランジスタとかネジとかいう部品のところで一度立ち止まらなければ,機械の構造もはたらきも正しく理解できない。こうした意味で,部品は機械の単位である。細胞が生物体の単位であるというのは,これに似た意味である。逆にいうと生物体は,無数の細胞から組み立てられた,複雑で精巧な自動機械であるといってもよい。
ただし,細胞には,機械の部品とは違う特徴,そうしてまだとても人工ではまねることのできない特徴がいろいろあるはずだ。もしそうでなければ,人造生物がもうとっくに製造されていていいはずである。複雑で精巧な自動機械というだけならば,大型電子計算機から,下は切符自動販売機まで,すでにいくらも作られているのだから。細胞という「部品」に独特なそうした特徴を,以下にいくつか拾いだしてみよう。
「複雑から複雑へ」
まず細胞は,それ自身複雑な構造をそなえている。機械の“解剖”は部品までくると,だいたいおしまいである。真空管などはまだその内部に多少の構造を考えなくてはならないが,それはもう簡単に図にかいて示すことのできる程度のものである。ところが,生物体では“解剖”は,部品である細胞にたどりついてからあとも,まだこれからといわんばかりに延々と続く。
もちろん,細胞の構造も,あまり簡単というわけにはゆかないが,図にかいて示すことはできる。しかし,そこに書きこまれた一本ごとの線が,さらにまだ,複雑な構造をもっている。ミトコンドリアという細胞内の小さな粒子を例にとって,このことを説明してみよう。
ミトコンドリアは光学顕微鏡ではせいぜい小さな斑点にしかみえないが,電子顕微鏡でみると,二重の膜からなる袋である。ことに内側の膜は奇妙に曲りくねって多数の棚を作っている。この膜をさらに拡大して,ある方法でコントラストをつけて観察すると,明暗の違う三3層からなっている。ことに内側の膜には,ドアのにぎりのような形をした突起がたくさんついている。
さらに膜のこうした層状構造や突起も,無規則に物質がべったり塗りこめられて作られているのではない。いちばん単純にみえる平坦な膜の部分も,多数の分子が協力しあってきちんと作りあげた構造である。
ミトコンドリアは,食物分子のエネルギーを捕えてこれをATPという物質中にとじこめるための,エネルギー変換の機能の担い手である。その微妙な構造は,この機能をはたすのに,なくてはならないものである。ミトコンドリアにかぎらず,細胞内のどの構造も,意味もなくそこに存在しているのではない。それぞれが一定の職分を受け持っているのである。その職務というのがみな,手のこんだ仕事なので,それに見合うだけの複雑な構造なしには,やってゆけないのである。
細胞を部品,といってきたが,こうしてみると細胞それ自身がさらにひとつの複雑な機械そのものである。生物の個体は,無数のこのような機械によって支えられた“超機械”である。ある人が,「機械の組み立ては,単純から複雑へといえるが,生物体は複雑から複雑へである」といっているのも,こうした意味であろう。
細胞はなぜ複雑か
では,細胞は,なぜ複雑なのだろうか。ひとつにはいま述べたとおり細胞が,部品として特定の仕事を受動的にさせられるのではなく,自分自身で積極的にこれを行なう機械だからである。部品ならば,ネジは締めつけ,カムは回転し,トランジスタは電流の交通整理をするというように,与えられた仕事を受動的にやっていればよい。交通整理するべき電波,歯車が受けるべき回転の力は,動力源が与えてくれればよい。
ところが,細胞は自分自身の中に動力源をも組みこんでいる。筋肉の細胞は神経からの刺激で縮まされるのではなく,神経からの刺激をきっかけとして自分で縮むのである。縮む機構,そのためにエネルギーを供給する機構,刺激を受け取る機構など,それらを全部とりそろえた機械ということになれば,複雑なのは当然である。
多細胞の高等生物での細胞は,それぞれ独自のはたらきを示すことができる。右にあげた例でも,筋肉細胞は収縮,またそれに刺激を伝える神経細胞は刺激の伝達のために特殊化している。肝臓の細胞はもっぱら食物分子の処理にいそがしいし,甲状腺の細胞は甲状腺ホルモン(チロキシン)の分泌を「主たる職業」としている。
細胞は自活する
しかし,細胞にも,公的な職業のほかに私生活がある。仕事にともなう細胞自身の損耗を埋め合わせたりすることも,その一部分といえるが,何よりまず細胞は,要求があればいつでも即座に仕事にとりかかれるように,「生き続けて」いなければならない。エンジンをアイドリングで空転させておかなくてはならないわけである。
細胞の「職業」のほうは専門化がいちじるしくて,細胞の形もそれに合うように特殊化している。神経細胞はひょろ長い電話線のような枝をのばし,筋肉細胞は収縮性のタンパク質を一定方向にそろえてつめこんだ,細長い袋のようになっている。これに対して,「私生活」のほうは,細胞が違っても共通性が高い。どの細胞も生物体内に分配されてくる同じ栄養分にたよっており,その分解のさいのエネルギーを同じATPという化合物に変え,このATPを消費しつつ,いろいろのことをやるという大筋は,変わらないからである。
タンパク質の埋め合わせ
細胞が損耗を埋め合わせることの内容としては,活動をくり返すにつれて失われてゆく酵素,その他のタンパク質を補充することも,重要な一部分となっている。タンパク質作りは細胞内に網目,あるいは入り江のようにひろがった小胞体という構造の上で行なわれる。そうして,どのようなタンパク質を作るかの指令は,細胞核に蓄えられた情報源が,これを与えてくれる。だから核や小胞体も,ほとんどすべての細胞に共通して存在する。
ただ,タンパク質を作って細胞外に分泌するのを「主たる職業」としている細胞では,職業用の小胞体もあるので,細胞全体にわたり小胞体の発達がいちじるしい,というような差はある。
細胞の構造の骨組みはタンパク質である。また,細胞の「職業活動」は,おもに細胞内のいろいろな酵素が行なっているが,これらの酵素もやはりタンパク質に属する。だから,細胞の機能のほうも,その骨組みはタンパク質によってきまってくるといってよい。
細胞にどんなタンパク質を作らせるかの指令は,さきほどいったとおり核に含まれている。ところが,核はどの細胞でも一見同じようにみえる。いや,一見だけではなく,そこに含まれている指令はどの細胞の核でも全部同じと,現在では考えられている。そうすると,すべての細胞はすべて同じ酵素やタンパク質を作り,神経細胞でもあるし筋肉細胞でもあるし,赤血球でもある,というような,わけのわからないものになってしまいそうだ。
これがなぜそうならないのかは,重大な疑問であるし,生物体にとっても重大なことである。細胞間の分業が,個体がうまく生き続けてゆくためのだいじな条件だからである。それについては,三章の解説にゆずることにする。
逆は真ならず
さて以上のことを整理してみよう。生物体の基本単位はたしかに細胞である。しかし,原子・分子といった意味での単位ではないし,単なる「生物機械」の部品でもない。細胞それ自身が,複雑な構造をもつミクロ機械であり,生物個体という「超機械」全体がうまく動くように,専門化した分業をいとなんでいる。
しかし,分業の一方で,細胞たちはどれも「常に生き続けている」という共通性をもっている。教科書のさしえなどにある細胞の図は,たいてい,この共通性だけを前面に押し出して描かれた姿である(それでも植物細胞と動物細胞をならべた場合,前者にはしばしば葉緑体があるというような二,三の基本的なちがいは,どうにもならないが)。
さて最後に,いままで強調したのとはちょっと逆にみえる発言をしよう。それは,細胞は生物の単位だから,それらを寄せ集めれば生物個体ができる,といういい方は,少し単純すぎるということだ。
個体の生活は一個の受精卵からはじまる。完成した個体での無数の細胞は,この受精卵が成育するにつれて分裂に分裂をかさね,分化(専門化)に分化をかさねてたどりついた最後の結果を示している。完成した細胞を個体からとりだしても,注意ぶかく手数をかけてめんどうを見てやれば,生き続けさせることはできる。しかし,これは,自然な姿とはいいにくい。
「生物個体は細胞という単位に分かれている」ということと,「細胞という単位を寄せ集めたものが生物だ」ということは,ただことばの言いかえのようにみえる。しかし,私たちが日常身のまわりの生物を見るときには,はじめのいい方,またそのような発想のほうがすなおであり「自然」なのである。
野 山 で
問題26 ハイカーのいたずら
レジャーブームとかで,森林の美しさを誇るある国立公園も,近頃は休日となると大変な人出だが,それにつれてハイカーの悪質ないたずらが激増。
今日も監視人が見回っていると,かなり深く皮をぐるりとえぐり取られているカシの木を発見した。それだけでなく,そのすぐ近くで,こんどは幹の中央に大きな穴をあけられているカシの木をみつけた。監視人は,こんなに木をいためられては枯れてしまう,と大憤慨したが,この場合,他の条件は同じと考えると,どちらの木が早く枯れるだろうか?
→解答
問題27 ヒバリの唄
うららかな春の田園。菜の花の黄色のじゅうたんがひろがり,空には二カ所でヒバリがさえずり合っている。せまくるしい都会を逃れてハイキングにやってきた親子の会話。
母「あれは片一方がオスでもう一方がメスよ。あんなに仲よく唄を歌っているもの」
父「女はロマンチックだね。現実はきびしいよ。あれはオスのヒバリ同士がなわばりを主張しているのさ」
息子は,両親の意見が分かれてしまったので困ってしまったが,どちらの意見が正しいか?
→解答
問題28 飛んで灯に入る……
「飛んで灯に入る」と昔からいわれるように,昆虫は夜,灯に集まる走行性という習性がある。
ここ静かな田んぼが広がる穀倉地帯にもハイウェーが開通。インターチェンジのまわりに歓楽街が出現し,青いネオンや赤ちょうちんの灯が,夜の闇をいろどるようになった。
人間どもが夜になるとそこに集まったことはいうまでもないが,虫たちはやはり,これらの灯に吸い寄せられただろうか?
→解答
問題29 名は体を表わさず
小型の顕微鏡を買ってもらった中学生のM君。うれしくてピクニックにわざわざかついででかけた。沼の水を顕微鏡で見てみると,奇妙な生物がうようよ。そのなかに教科書にさし絵の出ていたミドリムシもいた。ところが,観察帳にミドリムシの分類を書き込もうとして困ってしまった。葉緑素があって緑色をしているので“ミドリ”というのだから,さては藻のように植物かと思ったが,“ムシ”の名のとおり動きまわっており,動物らしくもある。まったく人困らせな名前だが,ミドリムシは動物だろうか植物だろうか?
→解答
問題30 コケはコケでも……
上信越国境国立公園の尾瀬は,世界でも珍しい大湿原で,また珍しい植物の宝庫。なかでもモウセンゴケは,虫をとらえる食虫植物として,余り植物とは縁がない人の興味をも引いているが,その分類をめぐって,A・B両人の意見が分かれてしまった。
A「モウセンゴケという名がついているのだからコケの仲間にちがいない」
B「いや,花が咲くそうだから,コケではないよ」
どちらのいい分が正しいか。
→解答
問題31 赤か緑か
山野にひろがる植物の緑。緑色と植物とは切っても切り離せない。植物はこの緑色のもとである葉の葉緑素で,水と二酸化炭素から光のエネルギーを使って,“デンプン”や糖類を作っている。これが生物学の初歩の常識,「光合成」である。
研究心旺盛な,L君は,光の色によって光合成の効率がどう変わるか,同じ強さの赤い光と緑色の光を別々に当てて調べてみた。どちらの光を当てたほうがたくさんのデンプンができたか?
→解答
問題32 ザリガニの色
大きなはさみを持ったザリガニは,こどもたちの格好な獲物。今日も小川で男の子と女の子がザリガニ取りに夢中になっていた。女の子は白い小さな洗面器,男の子は黒い大バケツに獲物を入れていたが,暫くして女の子が,「洗面器に入れたザリガニのからだの色が,バケツの中のより少し白っぽいよ。元気がなくなって色が変わったのかしら」と,声をあげた。
男の子は,「カメレオンじゃあるまいし,はじめから色が違っていたのさ」と,そっ気ない返事。さてザリガニの色は変わるものだろうか?
→解答
問題33 打率2分2厘
サケがのぼってくるので有名な北海道十勝川での,A君と父との対話。
父「サケは海から自分が生まれた川に帰ってくるのだよ。ある学者が約四七47万匹の若いサケに印をつけて川に放したら,海へ下って成長してから一1万匹以上も同じ川に帰ってきたのをつかまえたというのだ」
A君「へえー。でも四七47万と一1万じゃ,打率は二2割どころかたった二2分二2厘だね。こんな低率でそういえるの?」
父「この数字からでも,そういい切れるほかの事実があるのさ」。この“ほかの事実”とは何だろうか?
→解答
問題34 打率2分2厘(つづき)
母なる川に帰るサケの実験について,好奇心の強いA君の疑問はつづく。
「放流した若いサケ,四七47万匹のうち一1万匹以上も生還してくるようだと,サケはどんどんふえるのじゃないかな。一腹のスジコというのは,少なくとも数百粒ありそうだから,サケ一代ごとに一〇10匹ずつくらいも子が生き残って次の親になる勘定だ。四4代もたつと“サケ人口”が一1万倍もふえることになりそうだ」
実際にサケの数はそんなにふえないが,A君が考え落としている最大の要素は何か?
→解答
問題35 女性は敏感か?
張り切って山登りに出かけたが,片方の登山靴のかかとが取れてしまい,わらじばきになったC君。暫く,重い登山靴をぶらさげて皆の後について歩いているうちに,面倒になって,こわれた登山靴を,前を歩く山男A君の巨大なリュックにそっと結びつけたが,A君は気がつかない。
「しめしめ,それじゃもう一方も!」と,今度は,B子さんの小さなナップザックのうしろにそっと結びつけたが,今度はすぐ気づかれてしまって,厄払いは不成功。女性はやはり山男より敏感なので,すぐ気づいたのだろうか?
→解答
問題36 阿蘇の山焼き
世界一の火口原を誇る阿蘇。その草原地帯では毎年春三月,草原に火をつけて山焼きを行なう。
折りしも修学旅行でこの光景に接した中学生の一人が,芝生にもし何十年,何百年も山焼きをやらないで放っておいたらどうなるのですかとたずねた。
A先生は「多分,森になるだろうね」と答えたが,B先生の答えは,「やはり草原には変わりないよ」というもの。どちらの先生の答えが正しいだろう。
→解答
問題37 どちらが先にヘタバッタ?
久しぶりに田舎に行ってバッタ取りに駆けまわった健ちゃん。その夜,先週の水泳の記憶とかさなって変な夢をみた。
二匹のバッタが“潜水競争”をやっている。一番バッタは下半身を水につけて直立不動。二番バッタは逆立ちして,尻のほう半分を水から出して,このほうが頭が冷えていいよ,と涼しい顔。
バッタは口ではなく,からだの表面から呼吸するというが,ではこの二匹の競争は勝負なしに終わるだろうか?
→解答
問題38 バッタの恋愛
初秋の野原。バッタも目下恋愛合戦中で,あちこちでメスを求めるオスの歌声が聞こえる。ここに無粋な学者がいて,バッタの恋愛のしくみを調べようと実験を始めた。
オスのなき声を録音し,そのスピーカーをメスのいる草むらに向ける。同時になき声の出ないようにしたオスのカゴを,テープレコーダーに並べて置く。
バッタのメスは,声だけの幻のオスのほうに行っただろうか,あるいは本物のオスのほうに行っただろうか?
→解答
問題39 開発の影響
観光開発ブームとかで,最近はどこでも山奥まで観光道路の建設がさかん。カシやシイがおいしげるここ中部地方のある森林地帯のまん中にも,東西に道路が通り,幅五〇50メートルにわたって樹木が切り倒されてしまった。
それを見たA君,「この新しい道路の両側の樹木もいまに排気ガスでダメになってしまう」と残念そう。では,車を全部,仮りに電動車にしてしまったら,この両側のカシやシイは大丈夫だろうか?
→解答
生命の連続
――発生・遺伝・進化――
カエルの子はカエル
生物にとって重要な一つの特徴は,生命が連続しているということである。ある生物が卵を産むと,それが発生・成長しやがて親と同じようなからだになる。それが代々くりかえされている。しかし,まったく親と同じものになるのでなく,長い年月の間には形や働きをかえ,ちがった生物に変化していく。こうした現実について人間はどこまで解明したであろうか。
「人の子はどうして人か。」――こうした一見あたりまえだと思われる問題に,生物学者は長く頭をなやましてきた。「ウリのつるにはナスビはならぬ」ということわざがあるように,人間からは必ず人間が,ネコの親からはネコの子が生まれてくる。よく観察できるものとして,魚類の卵を数種もってきて調べてみよう。メダカ・キンギョなど,卵の時にはそれほど違いはなく,同じような球状のかたまりから,時間とともに一方はメダカになり,他方はキンギョになってくる。顕微鏡で調べてもはじめからメダカやキンギョの小さなものがその中に入っていない。古くはそんな考えもあったが,この考えは,発生途中の卵を二つの部分にわけてみると,ちゃんと二個体できることがあるという実験から否定されている。もし,そうでないと一卵性双生児などはからだが半分ずつにならなくてはならない。すべてはじめは一つの卵細胞であり,これが何回も分裂をくり返し,成体になるのである。したがって一見同じようにみえる卵細胞でもその中のどこかにその生物特有の親の性質が秘められているにちがいない。
親の形質を運ぶものは何か
果物につく小さな二2〜三3ミリメートルばかりのショウジョウバエには,赤目のものや白目のものがあり,その子孫は各々,きちんと親の性質通り赤や白の目を受けつぐ。こうした現象を「遺伝」とよび,その「仕組み」を求める学問が「遺伝学」として発展してきた。遺伝学者たちはこの遺伝をになうものを仮定し,「遺伝子」となづけ,これがどこにあるのかをたしかめるのに多大の努力を払ってきた。
そこで,読者とともにその「遺伝子」をさがしてみよう。まず親から子ができるときの材料は何だろうか。オスからは「精子」,メスからは「卵子」(または「卵細胞」とよぶ)が提供され,この二つの細胞が受精という形で合体し,これが子として成育するのであるから,この二つの細胞の中にしか,「遺伝子」はないはずである。
では,細胞の中には何があったであろう。すでに第二2章でこのことを学ばれたと思うが,そこには核とよばれる物体がみられる。核以外の部分を「細胞質」とよんでいるが,その役割についてはしばらくおくとしよう。核は細胞の生活にとって不可欠であることは,アメーバのような原生動物を,核を含む部分と含まない部分にわけて育てる実験で,証明されているし,生活中の細胞には必ずみられる。ところが,この核は細胞分裂のときには変わった行動をとる。
染色体の役割
細胞が分裂するころになると,核は形を変え,やがて色素でよく染まる棒状のものがあらわれてくる。これが「染色体」と呼ばれるものである。染色体はその数が生物の種によって決まっているが,その各々が二つに分かれ,細胞の分裂に際して反対の方にそれぞれ分かれていくので,新しい細胞には同じ数の染色体がはいっていくことになる。
いま,この染色体にスポットを当ててみよう。染色体の数は前述したように,人間で四六46本,ショウジョウバエで八8本というように決まっており,代々新しい細胞に伝えられる。また,卵子と精子ができる時だけは,染色体の数は母細胞のそれの半数になる(減数分裂という)ので,卵子と精子が受精して新しい個体の“もと”ができた時には半数ずつの染色体が一緒になって,やはり父・母と同じ数の染色体を持つことになる。
この染色体の数が変わることは,大きな意味を持つ。たとえばヒトには男女によりことなる染色体があり,それらを性染色体とよんでいるが,これが普通の人より一本多かったり,少なかったりすると,男性・女性の特徴がくるってくることがある。
数ばかりでなく,染色体の形や一本一本の大きさもきちんときまっており,それが変わっても外形や性質が異常になってくる。どうやら染色体は「遺伝」に重要な役割を果たしていると考えられる。
遺伝子とDNA
染色体が遺伝と関係があるという考えは,二〇20世紀のはじめにまとめられた。以来,その「遺伝子」が染色体上にどのように存在するか,どんな物質なのだろうかという研究が進められた。この研究の歴史をたどるのも面白いし,そうすると理解しやすいのだが,ここでは,残念ながら割愛して先にすすもう。
染色体を化学的に分析すると,タンパク質と核酸とよばれる物質からなりたっていることがわかった。タンパク質はアミノ酸を単位とした高分子化合物で,配列しているアミノ酸の種類とその並び方によって多種多様になる。染色体にはヒストンとよばれるタンパク質があり,一時はこれが遺伝子をつくっている物質なのだろうか,と考えられたが,その後の研究で否定された。もう一つの物質――核酸(これには二種類あり,染色体はそのうちのデオキシリボ核酸とよばれるものを含む)こそが,遺伝子に当てはまる性質をもっていることが明らかになったためである。
すなわち,遺伝子は親から子に伝えられるときに同一のものを複製する(自己複製とよぶ)はずであるが,デオキシリボ核酸(以下DNAと略称する)も自己複製する性質をもっている。このことは,細胞分裂の前後の核酸の量を調べた結果や,また,DNAの構造を解明した結果,自己複製するのに都合のよい構造であることが明らかにされたことから確かめられている。
またDNAが遺伝物質であるならば,生物の形質に影響を与えるはずである。これもバクテリアやウイルスを用いた研究で,異なった性質のDNAを別のものに与えると,与えた方の性質が伝えられることから説明された。つまりDNAは遺伝的な性質を変える能力があるということになる。かくして,現在では「遺伝子」が主としてDNAからできているという考えにおちついている。
遺伝子の働く「時」と「場所」
ところで,遺伝子の正体をつきとめたからといって満足していられるだろうか。遺伝子は受精卵の核の中に入って親から伝えられた。その卵は,何回となく細胞分裂をくりかえす。そのたびごとに親から受けついだ遺伝子は自己複製し,それぞれの細胞に入っていくことになる。だが,それだけでは,子が親と同じ形質をあらわす具体的なしくみはわからない。
たとえば,ショウジョウバエを考えてみよう。赤目になるには赤目の遺伝子があることが必要だが,ではそれが存在しさえすれば,赤い色素ができるのだろうか。もしそうだとすれば,目の細胞ばかりでなく,すべての細胞にこの遺伝子はあるはずだから,どの細胞にも赤い色素ができてもよいはずではないか。しかし,実際はちがう。卵が発生し成長していき,やがて目を形づくる細胞ができ,はじめてそこに赤い色素が出現するのである。
他のいろいろの形質についても同様なことがいえる。遺伝子は存在しさえすれば働くのでなく,時と場所(時間と空間)のきちんとした統制をうけているのである。その統制がまたその生物のもつ遺伝的性質でもある。これを外形的にとらえ研究がすすめられてきた分野が「発生学」とよばれるものであり,これまではほとんど現象論の段階にとどまっていた。いまや「発生学」は「遺伝学」と合流しつつあるといえよう。
しかし,残念ながら,この統制を行なう仕組みについてはまだよくわかっていない。このあたりが解明されるにはまだかなりの時間を必要とするであろう。
遺伝子の具体的発現
そこで時間と空間との関連を一まずおいて,DNAという遺伝物質が具体的にどのような過程で形質を発現させるかについて,調べてみよう。
前記のショウジョウバエの赤目の例を考えたとき,赤目になるためには,赤い色素ができる必要がある。これには,当然,前駆物質(赤い色素に変化する前の物質)があり,これがそこに関与する特定の酵素の働きによって赤い色素に変化すると考えられる。したがって,この場合だけを考えても,前駆物質とそれに働く特定酵素が同時に存在し,化学反応の諸条件がととのっていなければ赤い色素は発現しないはずである。
この「酵素」はタンパク質からなりたっているが,この特定のタンパク質を合成するのに「遺伝子」が関与している,と考えた学者がいる。現在では,一つのモデルとして,DNAが特定のタンパク質の合成に関与している仕組みが提出され,一般に認められている。
そのくわしいことははぶくが,ひと口にいうと,遺伝子本体であるDNAの他に,二種のRNA(リボ核酸)が働いて,アミノ酸をDNAの遺伝情報にもとづいて組みたて,特定のタンパク質に作りあげる,というのである。
遺伝子の働きを調節する遺伝子
このモデルを認めるならば,先の赤目の場合に関与する「酵素」も,こうした一連の反応で合成され,前駆物質に作用し,赤い色素を出現させるのであろう。とすると,そのDNAがいつどこで働きだし,RNAを合成し,タンパク合成まですすめるかが問題になってくる。
ある学者は,それを遺伝子の相互作用による調節,酵素タンパクの合成を調節するモデルを提出している。すなわち,「構造遺伝子」と呼ばれるDNAのある部分が,RNA,さらに酵素の合成をすすめる本体であり,その他にその「構造遺伝子」を働かせるスイッチの役割をする「オペレータ」という部分(DNAの一部)があり,さらにその「オペレータ」を「オン」にしたり,「オフ」にしたりする物質をつくる「調節遺伝子」があるという考えである。そうやって分析してゆくと,今度はそれの働きを統制するのは何か,ということになり,問題はさらに複雑になってくるが,ここでは,とにかくそこまで研究が進んでいる,というにとどめよう。
トンビがタカを生む
これまでは親と子が似る点ばかりを強調してきた。この自己複製が生物の一つの特徴であることはいうまでもないが,ときにはミスをおかすこともある。ことわざにいう「トンビがタカを生む」現象がみられるときがある。たとえば,ショウジョウバエの赤目の系統に,たまに白目のものが現われ,その子どもも白目を受けつぐ。このような現象を遺伝学者は「突然変異」となづけた。
どうしてこのようなことが起こるかが追究され,ある学者はX線のような強い放射線をあてて人工的に「突然変異」をつくりだした。遺伝子の正体がよくわからなかった時代には,遺伝子が変化したのだとすませていたが,最近ではDNAの構造も知られ,分子レベルで説明できるようになっている。
DNAという物質には,四種類の塩基とよばれる物質(アデニン,チミン,シトシン,グアニン)が含まれており,その塩基が二つずつ手をむすび合って長いはしごの段々を形づくっている。この塩基対の配列の順序により,各種のDNAができるし,その結果「遺伝子」としての働きもちがってくるのである。もし,赤目を表わす遺伝子の働きをもつDNAの塩基配列が,何かの影響で狂ったとすると,もはや赤目の遺伝子としての能力を失い,赤い色素を作らせる一連の反応が起こらなくなり,たとえば,その結果として白目になる。
この配列を狂わせる力をもっているものには,X線のような放射線やある種の化学薬品がある。生物界では,自然の中から知らず知らずそうした影響を受け,変化しているものもあるといえよう。しかしながら,その変化も種のなかでの変化で,「トンビがタカを生む」ような極端な変化は考えられそうもない。
ヒトは最初からヒトか?
ヒトの子はヒト,サルの子はサル,この秩序が守られているかぎり,世の中は平穏だった。ところが,ある学者がヒトはサルと共通の先祖をもっていると発表した。有名なダーウィンは多くの論拠をあげ,生物が下等なものから高等なものへと変わってきたこと,およびその仕組みを説明した。いわゆる「進化論」である。
当時は,賛否両派のはげしい論戦がみられたが,現在ではほとんどがそれを認めている。つまり,ヒトははじめはヒトではなかったのである。時間を逆に動かせば,サルとの共通先祖を通して,ほ乳類・は虫類・魚類などの先祖にまでさかのぼるのであろうし,もし,原始海洋に生命の誕生がみられて以来,途中で生命の新生がなかったとすれば,ヒトをも含めてすべての生物のもとは,その原始海洋に誕生した原始生命にさかのぼることになる。思えば現存の生物には数十億年の歴史がきざみこまれているのである。
進化の仕組みは?
この進化の仕組みについては生物学史上いろいろな議論が出された。ある学者は環境の影響を重視し,生物の形質がそれに適応して変化すると,その変化が遺伝すると考えた(獲得形質の遺伝)。またある学者は,生物の進化は一定の方向に進んでいるという定向進化説をだした。さらには,先に述べた「突然変異」によってすべての進化が起こると考える学者もいる。
では現在どのような理論が有力なのであろうか。これまでに紹介した遺伝学の知識にてらしてつぎのような説明をする人もいる。生物が進化するには,遺伝の情報を伝えるDNAが変化することが必要である。これは実験的にも可能であり,いわゆる突然変異とよばれる現象として示されている。しかし,その変異がただちに次の代へうけつがれるかどうかはわからない。その生物が生活している環境に適さなければ子どもを残すことができずに一代一個体でほろびてしまう。もし,その生物の集団の大部分が同じような変異をもつとすれば,生殖が行なわれ,子孫をふやすことができる可能性があるというのである。
一つの例をあげよう。イギリスの工業都市には黒色のガが多く,田舎では同じ種でも明色のものが多い。このガは元来は明色型であったものが,黒くなったことがたしかめられているが,これは次のように説明されている。明色型の中には,いつも黒化する突然変異が生じていた。しかし,田舎のように煤煙でよごされていない地域の樹木の幹には地衣類がはえ,その色と明色型とはちょうど保護色をなしている。一方,突然変異によって生じた黒化型はよくめだち,すぐに鳥にたべられ生き残れなかったのであろう。それが工業化がすすみ人間が煤煙をまきちらすようになると,樹木はよごれ黒ずみ,逆に黒化型が保護される結果となり,生き残れるようになった,というのである。
これは最近の人間によってもたらされた進化の一断面であるが,地球の歴史においてはこうした形で生物の進化が起こった,と説かれている。
ある学者は現在の生物が,それぞれもっているDNAの中に,その生物の進化のすがたを求めることができると考えている。たとえばヒトとサルの共通先祖がもっていたDNAに変化が生じ,その構造の変化,生殖による組み合せの変化が何代もつみ重ねられて,現在のヒトのDNAを作りあげたのだという考えである。
これはあまりにもDNAを中心にした極端な考え方かもしれないが面白い見方である。
海 で
問題40 クジラの“水源”
夏の海岸での話。水泳があまり得意でないA君,おぼれそうになり,あわてて海水を飲みこみ,しぶい顔。帰りがけに海水水族館でクジラの曲芸を見物。
さっき海水を飲みこんだときのことを思い出し,このクジラは海水をのんでいるのだろうか。もしそうならからくないのだろうか,と考えた。
クジラもほ乳類の仲間で,人間と同じこと。必ず水を必要とするはずだが,一体どうやって水分をえているのだろうか。
→解答
問題41 危険な誘魚灯
深海魚のなかには,ある種のアンコウのように,鼻先にひらひらした光る構造をもっていて,小魚をおびき寄せて食べてしまうものがいる。いわば自然の誘魚灯だ。
ということは,深海では光るものイコール餌という意味がありそうだ。ところが深海の生物には,胴体とか,からだの他の部分に光る斑点などをもつものが多い。まるで,自分から食べてください,とばかり敵に目標を与えているとしか思えないが,これらの発光器に,意味があるとすれば,いったいどんな意味があるのだろう?
→解答
問題42 親類さがし
海辺での先生と生徒との問答。
先生「これはウニです。ウニと親類の生物は?」
生徒A「ヒトデとクラゲです。どれも左右対称でなくて放射型です」
生徒B「カニとエビです。みんなかたい殻をかぶっています」
生徒C「ナマコです。どちらもお父さんのお酒のサカナになっています」
先生「みんなどうも生物学は落第だね。もっとも,部分的には正しい答えをした人もいるがね」
さてだれが正しいか?
→解答
問題43 新鮮度鑑定法
海岸の街に海水浴にやってきた家族連れ。おみやげに新鮮な海の幸をと,帰りに魚屋に寄ってみた。店頭にはイカがいっぱい並べられていたが,同じ種類なのにどういうわけか色けの違うのがある。おさしみで食べる時のような白いイカ,むらのある濃い茶色のイカ,それに,全体がうす桃色のものの三グループ。奥さんいわく,「死ねば屍斑が出るというし,白いのはきれいだが何となく古い感じ。いったいどれが一番新鮮なのかしら?」
奥さんに代わってイカの新鮮度を判定していただきたい。
→解答
問題44 イカのバックボーン
これもイカに関する問題。海釣りに出かけたあるグループのなかに,風変わりな男がいた。「オレは人間でも何でも,骨のないものは嫌い。そんなのが釣れても投げてしまう」と公言していたが,コウイカが針にかかると喜んで釣りあげる。
仲間が,「おい,イカには骨がないじゃないか」と冷やかすと,「いや,イカにはれっきとしたバックボーンがある」とすましたもの。
イカには本当に骨があるのだろうか?
→解答
問題45 集魚灯の実験
集魚灯を利用した漁獲法は,広く行なわれているが,魚がどんな光によく集まるだろうかを実験してみることになった。まずえらんだのは,青と赤の二色の違った光源。
細長い水槽の両端にこの光源をそれぞれセットし,水槽の中に水を入れて,ボラのこどもを放した。
さて,この実験でボラが青い光のほうに集まったとしたら,ボラは青い光を好み,赤い光を嫌うと結論づけることができるだろうか?
→解答
問題46 故郷の住みごこち
“母なる海”という言葉があるように,水はすべての生命の故郷であったし,面積も陸地の数倍もある。ごく小さい生物も水中では干乾しになる心配もなく,大型の生物も住めるので生物の種類も多そうに思える。
しかし実際には,海も河も湖も合わせて,水生動物の種は陸上のそれの四分の一4分の1ぐらいしかないという。約八万五〇〇〇8万5000種に対し二二22万種。これは二十20世紀はじめ頃の集計だが,今でも大勢は変わらないだろう。
このデータから,生命の故郷である海は,住み心地が悪いといえるだろうか?
→解答
問題47 半人前でも一人前
生物の発生の,実験材料によく用いられるウニの卵を使って,少し変わった実験をやってみた。
普通,卵は受精すると分裂を重ね,正常なこども(幼生)になる。そこで卵が二つに分かれた時に,二つを上手にばらばらにして育ててみると,ちゃんと二つの正常な幼生になった。
この結果に刺激されて,今度は四つに分かれた時と,八つに分かれた段階でばらばらにしてみた。さて,その結果は?
→解答
問題48 ゆくえ不明のヒジキ
A君は,コンブやヒジキなど海草類が大好き。海水浴に来たついでに,ヒジキでも取って帰ろうとキョロキョロ。
一緒に来た姉さんが「ヒジキは浅いところにもあるはず」と,けしかけるので,一生懸命に黒っぽいヒジキらしい海草をさがしまわったが,一向にそれらしいものがない。さては,ここの海岸にはヒジキはないのかと考えたりした。
この疑問に対する正解は?
→解答
問題49 しびれない魚
エレキでしびれるのは,人間のティーンエイジャーに限らない。すべての動物がそうである。このことを逆に利用して,電気で敵をやっつける電気魚がいろいろ知られている。
ところで,敵をしびれさせるとき,電気魚そのものはなぜしびれないのだろう?
ある人いわく,「スズメが高圧線にとまっていても平気なように,案外,平気なこともあるのさ」。
何だかわけのわからない説明だが,基本的にこの解説は正しいか?
→解答
問題50 ヒラメの親子
釣り好きのAさんとBさん。今日はヒラメ釣りに出かけたが,時期はずれになったためか,なかなか釣れない。ところが,突然Aさんが竿をあげ,「ヒラメの子がとれたぞ」。
それを見たBさんは,「それはヒラメの子じゃない。ヒラメなら目が二つともからだの左側にあるはず……」と反発。
たしかに,この小魚の目は両側についている。軍配はどちらにあがるだろう?
→解答
問題51 カニの泡ふき
海水浴の帰りに,砂浜でさかんにはさみを振って泡《あわ》をふいているカニを見つけたA君。弟をからかっていわく。
「お前と同じように,食事のときに口からよだれをだすのだな」
しかし,弟は,「ちがうよ。あれはよだれじゃないよ」と反発。
さて,カニ君の泡は本当は何だろうか?
→解答
問題52 うきぶくろの謎
小学生のA君。まだ泳げないので,うきぶくろにつかまってぷかりぷかり。澄んだ水中をのぞくと,魚が深くもぐったり,水面近くまであがってきたりする。
横を泳ぐお父さんに聞くと,魚は体内にあるうきぶくろの働きで,上下の運動に伴なってからだの比重を調節しているとのこと。
A君「あっそうか。このうきぶくろのように,沈む時にはうきぶくろから空気を出せばよいのだな」といったが,お父さんに,「じゃ,浮きあがる時には,どこから空気をとるの?」と聞かれて返答に窮した。魚はどうやっているのだろう?
→解答
問題53 サカナの目は固定焦点?
サカナは,夜も昼も目を閉じて眠ることはない。まぶたがないからである。ところでサカナの目には,ほかにもたりないものがある。光を集めるレンズのふちに,これを横にひっぱる筋肉がついていないのだ。
人間はこの筋肉でレンズの厚さを変え,焦点距離を変え,遠いものも近いものもはっきり見られるのだが,サカナはこの調節ができないことになる。
ではサカナの目は,固定焦点で,一定距離のものしか見られないのだろうか?
→解答
生物の多様性
――環境への適応――
現在,地球上にはさまざまな生物が,その生息している環境に適応した姿で生活している。水中を泳ぐのに適した水かきをもったカエル,空を飛ぶ翼をつけた鳥……。かつて人類がそれをすばらしい神の創造美と称したのもうなずける。
しかし,人類はそうした静的な目的論的解釈では満足しなかった。どうして環境に適応した形態や機能が生じたのだろう。どうして地球上にはこのように多種多様な生物が存在するのだろうか。ここに科学としての「生物学」が芽ばえる。この問題を解明するために人類は動的な見方を導入した。すなわちダーウィンにより代表される「進化」の考えである。
生物はある環境の中で生活する間に,いくつかの「変異」を生ずる。その「変異」の中で,より環境に適したものが生きのこり,その結果として生物は「進化」をとげたという見方である。
ここではこれらを前提として,生物が環境(生物的環境も含める)とどう作用しあうのか,多種多様な生物がどのように分類できるのか。学問分野でいえば,生態学と分類学であつかう問題のいくつかをとりあげてみよう。
ほとんどどの植物も葉緑素をもっていて,二酸化炭素と水から光のエネルギーを使って,生活に必要な物質(糖類)を生産している。この生産物はからだの維持(呼吸作用)や,生長に使用されているわけであるが,どれほどが生長のために利用できるかは,その生産量によってきまってくる。ものによっては現在のからだを維持するだけのものをかろうじて生産するときもある。そのような生産量を規制する要因の一つは光である。つまり,光の強さによって生産量が変わるのであるが,植物によってその影響のされかたが違っていることが知られている。かろうじて生活できるというのは,光合成量と呼吸量が一致しているところで,その光の強さを「補償点」とよんでいる。
森林の中ではほとんどの光が上部にある樹木の葉に吸収されてしまい,わずかな量の光しか地上に達しない。そのような土にもいろいろな植物の種子がうまっているであろう。しかし,発芽し生長できるものは,限られたものになってしまう。わずかな量の光でも生活できる植物,いいかえれば補償点のひくい植物――「陰生植物」は生育するが,強い光を必要とする補償点の高い「陽生植物」は育たない。どうして植物にこのような陰生・陽生の性質があるのかも進化の過程での「適応」の姿とみてよいであろう。
このように植物の生活の姿を物質生産量という観点でとらえようとする生態学分野の研究によって,地球上における植物のさまざまな「適応」の型が解明されてきた。こう考えてみると太陽の不平等がいろいろな植物をつくりだしてきたともいえる。
砂漠といえばサボテンを思い出すくらい,世界各地の乾燥地には,サボテンがよく生育する。サボテンはたしかに降水量の少ない土地によく「適応」した形態と機能をもっている。水分を体内から失うことを防ぐための葉の針状化,水分の体内保持のための茎の多肉化などである。しかし,サボテンもはじめからあのような姿をしていたのではない。普通の葉をもつ原始型のサボテンの仲間も現存している。
植物のみならず,あらゆる生物にとって水は不可欠のものである。それは生命体自身が水を媒体とするものだからだ。しかし,地球上のすべての地域に水があるとは限らない。また仮りにあったとしても量的に不平等であり,空間的ばかりでなく,時間的にも不平等である。そのような状態のもとで生物は適地を求めて生活していき,長い進化の過程でそれぞれ「適応」した形態と機能を獲得してきた。
水分の移動に関係する形態を例にとっても,水中に生活する藻類には,水の通路である導管はほとんどないのに対し,陸上という水分の少ない環境で生活する多くの植物群には,この通路がよく発達している。また,葉から水分を排出する気孔の形態にしても生育する環境によく適合している。乾燥期をすごすような植物の気孔は,その時期に気孔をふさぐような仕組みができている。海岸を歩くと葉の厚い植物を多くみかけるが,これも乾燥に対処する適応の例と考えられる。
今まで述べてきた適応は,長い時間の積み重ねによるもので,進化の結果としてとらえることができる遺伝的な適応である。
しかし,あるときには,あたかもその環境に適しているかのごとき形態を一時的に示すものもある。たとえば低地にあるタンポポを高山へ移植すると高山性のものに類似し,強風や低温に耐えるような適応を示すことがある。
これは「適応」というよりは悪い条件にも「耐えて」いるのかもしれない。数代のち種子をとって,再び低地にまくと,もとの低地性のものになってしまう。見方によっては高山性のものが低地に「適応」したといえないわけではないが,一般には「変異」がもとにもどったと考えられている。
しかし,このような一時的と考えられるような「変異」による「適応」の中に,長期間にわたる「適応」型への芽ばえがある。
すでに第三3章で進化のしくみを説明したが,「適応」型が生ずる前提には,その「種」における「変異」が存在し,その生活環境下での自然選択が起こるのである。サボテンもおそらくそうしたしくみのもとに乾燥地への「適応」を獲得したのであろう。
地球上を見わたすと,その地域に特有の生物が生息している場合が多い。ペンギンがそのよい例である。ペンギンは南極という寒帯で生活するのに「適応」した姿をしているのだろうか。厚い皮膚はたしかに寒さに耐えられるであろうし,水生に「適応」した鳥類の形態を示している。食物は魚やイカの類であるから,寒さという点を考慮しても,北極にも生活していてもよさそうである。それなのに南極を中心とする南半球にだけ生息するのは,どうしてだろうか。
この疑問に解答を与えるのはむずかしい。ペンギンは分類学的にはペンギン目ペンギン科であり,ミズナギドリ目に近いと考えられている。したがって,かつては空中を雄飛する鳥類を先祖にもっており,島から島をとびまわっていたと予想される。南極という適地を得て水生生活へ「適応」していったのであろうが,その間に彼らはおそらく外敵の攻撃をうけなかったのであろう。もし,常に外敵の恐怖におののいているならば,飛ぶ能力を減らすような方向への「適応」はなかったのではないか。
そう考えると,北極はどうだろうか。アメリカ大陸,ユーラシア大陸の北端であり,そこには大陸からほ乳類が侵入してくる。シロクマやキツネなどが活躍する北極地方は,ペンギンのように飛べない方向に「変異」した鳥の安住地ではなさそうだ。幸い南極大陸にはクマをはじめとするほ乳類の移住がみられなかった。近年における人間というほ乳類の侵入がどう影響するか興味があるところだ。
以上はペンギンが特定の分布をしていることの一つの説明であるが,あくまでも推論にとどまっている。しかし,ペンギン以外の生物の分布についても,このように時間的尺度を導入することにより解明される可能性があることはたしかだ。
もし,生物が「進化」したのだという考えを証明しようとするならば,その一つとして過去における生物の姿を調べなければならない。古くから地層の中に「化石」と呼ばれるものが発見されてきている。化石の種類は発掘される地層によってほぼ一定しているので,時間軸でその化石を並べてみることができる。
いまから約六6億年前の古生代カンブリア紀の地層から,すでにいくつかの化石が発見されている。そして以後,古生代,中生代,新生代と進むにつれ,多種多様な化石がみつかり,それが現存の生物との結びつきを強めてきている。
脊椎動物のグループに入っている動物でみると,魚類の原始的なものが古生代半ばから,両生類も古生代から中生代にかけて,は虫類は中生代,鳥類とほ乳類は中生代から新生代にかけて多く発見されている。
この事実を「進化」という「仮説」にてらしあわせると,好都合に説明できると考えられている。
さて,もう少し範囲をせばめた化石を時間軸でならべてみよう。よく知られた例がウマである。
約六〇〇〇6000万年前の新生代第三紀初期の地層から発掘されたイヌ(テリヤ)ぐらいの大きさの動物の化石。エオヒップス(あけぼのウマ)と名づけられたこの動物は,前足の指四本,後ろ足の指は三本であるが,これには二本の骨の痕跡がついている。もう少し新しい第三紀中期の地層からは,前足の指が三本になったやや大型のメゾヒップスと名づけられた化石がみつかっている。また,現生のウマ,エクウスは第四紀の最新世から発掘されているが,足指は前後とも一本になり,からだもさらに大型になっている。
いまはわずかの例をあげただけであるが,もっとこまかく多くの化石を調べ時間軸で並べてみると,これらがお互いにわずかずつの差異をもった連続したものであることが予想できる。
このように,ウマの場合にはその「進化」のあとづけがなされるのであるが,はじめイヌほどの大きさの動物が大型化し,足指も一本のひづめにまで変化してきたのも,実にこの動物が環境への「適応」を求めてきた姿と考えてよいであろう。
この他の生物についても,もし多くの化石が発見され,連続的に並べられるならば,おそらくそこに「進化」をあとづけるものが見出されるはずである。
これまで生物の多様性が,環境への時間的,空間的「適応」の結果であることを説明してきた。では,この多様な生物は,お互いにどのような類縁関係にあるのだろうか。
古くから生物の仲間分け,つまり,分類が試みられてきた。「分類」することが学問のはじめだという人もいるくらいだ。しかし,何を目的として,何を知りたいために「分類」するのかという,問題意識がなければ意味がない。
「進化」の考えが提出されてからは,生物の系統をさぐろうとする目的で,分類が行なわれてきている。たとえば,ヒトはどんな生物から生じたのかを知ろうとして,その類縁関係を求めていく。このような分類のしかたを「系統分類」とよんでいる。
系統分類のための情報は,現存する生物の形態や機能をその発生・成長の段階にしたがって比較調査したデータや,「化石」からのデータによって得られる。たとえばエビとカニは,同じ甲殻類の十脚類に入れられるのも,ただ両方とも脚が五5対あるとか,その他の形態がにているというだけでなく,発生の過程で同じような型の幼生をもっているというデータがあることにより,確実なものとされる。
脊索動物(背骨に相当するものをもつもので,原索動物と脊椎動物がある)の仲間に入れられているホヤは,海中に固着した,どこをさがしても背骨のない動物である。そのためアリストテレスは,もっと下等な仲間としてとらえていたのだが,発生学のデータから,幼生時代に背骨に相当するものをもっていることが知られたため,その位置が変えられたのである。
このように系統分類という観点で現在の生物を分類し,系統だてると,次ページのような関係がみとめられる。これを「系統樹」とよんでいるが,ここに示すのはあくまでも一つのまとめ方であって,完全なものではない。
生物を系統的に配列し,「進化」という概念を導入したときに,もっとも関心がよせられるのは,生物のはじまりは何か,「生命の起源」はどうなのかという問題であろう。
ダーウィンの進化論では,生物間の進化の過程は議論されたものの,無生物から生物への発展過程についてはまったく手がつけられていなかった。それは研究が困難であるためばかりでなく,そうした研究が無意味であるという考えが支配していたからである。
しかし,二十20世紀に入り,物理学・化学など他の分野の進歩によって,このギャップはうめられつつある。この分野にメスを入れはじめたのはソビエトのオパーリンである。
オパーリンによれば,最初に出現したのが炭化水素(炭素と水素の化合したもの。例えばプロパンガスもこれに属している)のような簡単な有機物であった。それが炭素・水素・酸素・窒素からなる複雑な有機物分子(タンパク質のようなもの)になり,それらがいくつかあつまってコアセルベート(液滴と訳されたりしている)と呼ぶかたまりになり,やがて原始生物へと発展したとするのである。
ところで,現存する生物にとって重要な物質を考えてみよう。それは遺伝の情報をもつといわれる核酸(特にDNA)である。核酸なくして現在の生命現象がスムースに行なわれるとは考えられない。では,これがまず原始の海の中にできあがったのだろうか。しかし,核酸だけあっても意味をなさない。すでに説明したように,酵素とかその他のタンパク質があって,はじめて核酸の機能が,具体的に形あるものとしていとなまれるのである。それは,核酸を主体とするウイルスが,独立しては生活できず,他の細胞,細菌のなかでのみ繁殖するという生活様式からもわかることである。
では,核酸より先に酵素のようなタンパク質があったのだろうか。タンパク質を構成するアミノ酸の配列を規定するのが核酸であるとするとまた問題である。
こうしたジレンマは,実は現存する生物において考えられる反応にもとづいているからかもしれない。いまから数十億年前の地球上での条件を考慮に入れなければならないはずである。あるいは,まったくことなったプロセスで,化学反応(たとえばタンパク合成)が起こったのかもしれない。
今や人類は,それをも実験的にとらえようと試みはじめている。当時の条件を想定して,メタンとアンモニアと水を用い,6万ボルトの電圧による放電のもと,また,その他いろいろな条件のもとで,いくつかの有機物の合成に成功している。
とはいえ,生命の人工合成などは,はるかな遠い将来の仕事であろうし,「適応」の中に含まれる長い進化の歴史をそう簡単に模倣することもできそうにない。人間の「人造」はその意味でも困難であるし,また,「人造」しないことに意味があるのかもしれない。「生命の尊重」はこのあたりからも強調しなければならないものである。
街 で
問題54 幻の巨人
A映画会社では,『ガリバー旅行記』巨人国の巻の,新しい映画を作ることになった。凝《こ》り性のP監督は,巨人の体格について,解剖学者Q氏に相談におもむいた。
話を聞いたQ氏は,「何よりまず人間らしくなくすることだね」とずばり一言。
「そりゃ困りますよ。何十倍もの身長の人間がいないことは確かですが,それじゃ映画にならない……」と反論したが,Q氏は,「いや,実際じゃなくて,そんな巨人は理論的にありえないのだよ」という。
なぜだろうか?
→解答
問題55 笛におどるクマ
郷愁をそそる楽隊の音とともに,町にサーカス団がやってきた。
このサーカス団の人気者は,曲乗りをやるクマ公。
いつも調教師は笛を吹きながら練習させていたが,今日の興行では,舞台そでに出てから,いつもの笛を忘れてきたのに気がついた。困った調教師は,とっさに友人のピエロから,少し違う音色の笛を借りて曲乗りを始めた。
果たしてクマ公は,いつものように上手に曲乗りができただろうか?
→解答
問題56 花を贈る……
A君とB子さんは人も羨む恋仲。B子さんの誕生日が間もなくというある日,A君は,「誕生日の贈り物に何がほしい?」とたずねた。B子さんの答えは,「お花がいっぱいほしいわ。私,キクの花が大好きなの」。
さて誕生日当日,A君がさし出した花の包み紙をいそいそひろげたB子さん,「あら,たった一本だけなの」と不満顔。しかし,A君は,「いや,よくごらん。君の希望どおりだよ」と平然としたもの。
A君はB子さんの希望を忘れてしまっていたのだろうか?
→解答
問題57 私設ビール工場
ビール工場へ見学に行った兄弟。ビール製造用の酵母菌を少しもらってきたので,早速ビールの製造実験をやってみることにした。
大きなビンにムギなどの原料と酵母を入れたあと,弟は,その中へ空気を送り込む管を入れようとした。兄は,「そんなことをしたらだめだよ」とやめさせようとしたが,弟は「ビール工場で見た時,タルの下からさかんに泡が出ていただろう。あれは酵母の活動をさかんにするため空気を送っていたのだよ」という。兄弟どちらのいい分が正しいか?
→解答
問題58 植物の“減食”
人間は断食すればやせる。植物も同じこと。ただし,植物の“主要食物”の一つは二酸化炭素だが,それを同化して,からだの養分とするには,光が欠かせない。光が弱まれば,光合成による炭酸ガス同化がじゅうぶん行なえないので“減食”となり,ある程度以上暗ければ「体重」は減ってくるはずだ。
どれだけ暗くしたら植物がやせ始めるか,根を抜いたり目方を計ったりせずに,比較的短時間に見当をつける方法がある。それはどんな方法か? 実際には根からの水分,窒素源の吸収があるが,それは考えないとして。
→解答
問題59 冬眠動物の体温
自然環境を完全に再現したというA動物園。ここでは冬になると,動物たちのあるものが,野山にいた時と同じように冬眠する。
動物学者のQ氏,これは絶好の実験場とばかり,冬眠動物の体温調査を行なった。
ヘビ・トカゲなど変温動物の体温を測り終えて,ほ乳類にとりかかったが,クマ・コウモリ・ヤマネのうちで,人間の体温計を使うことができたのは,どれだろうか?
→解答
問題60 鳴かないスズムシ
郷愁を誘う夜店。A君は秋の虫を売っていた店から「みんなよく鳴くよ」とオヤジに太鼓判をおされ,スズムシを四匹買った。ところが,折りあしく帰りににわか雨に会って一目散。おかげで虫カゴがゆれたのか,無傷なスズムシは,尾に長い“剣”のついたのが一匹だけ。
他の三匹は,一匹は肢,一匹ははねを,もう一匹は長い触角をなくしてしまった。そのまま軒先にぶらさげておいたが,どうしても鳴かないのがいる。それは何匹でどれだろうか?
→解答
問題61 月よりの使者
人類初の月着陸の偉業をなしとげたアポロ11号の宇宙飛行士たちは,晴れの凱旋《がいせん》というのに,地球帰還後,“隔離室”のなかで異様な歓迎を受けなければならなかった。これは月にいるかもしれない病原菌やウイルスから地球を守るためだが,ある生物学者は,テレビの解説で次のように力説していた。
「月にはまず何もいないでしょう。もっとも下等な生物であるウイルスならいるのでは,という人もいるが,万一何かいるにせよ,ウイルスだけがいることはまずありません」
なぜ,そういい切れるだろうか?
→解答
問題62 季節はずれの花
まだ夏のさかりというのに,秋の花であるはずのキクが,花屋の店頭に並んでいる。
「どうしてキクの花を今頃咲かせることができるの?」と花屋の主人に聞いてみたら,「夕方日が暮れる前から暗くしてやればよい」とのこと。
これは便利とばかり,このやり方を利用して,菜の花の仲間のアブラナを,冬のうちに咲かせよう(もちろん,温室で)と思った。どうすればよいか?
→解答
問題63 キンギョの冷凍運搬法
金魚屋のP氏は,事業の拡大とともに,キンギョの運搬方法に頭を悩ますようになった。大きな容器に水をいれて運ぶのも大変だし,何かよい方法はないか? そんな時,町の見世物で,「キンギョを凍らせてから生き返らせる」という話を聞いた。
早速,この方法を採用しようと思ったが,魚屋で売っている冷凍魚は生き返ったためしがないことを思い出し,また思案顔。
キンギョの“冷凍運搬法”は原理的に不可能だろうか?
→解答
問題64 透明人間
古典的SF映画リバイバルとかいう看板につられて映画館にはいった。ちょうど画面では,白いほうたいで全身を包んだ怪人物,やおらほうたいを解きだすと,その下からは何が? いや,現われたのは何もない完全に透明な空間である。
この「透明人間」は,他人から見えないが,ドアをちゃんと開けてはいってくるくらいだから,自分では周囲がよく見えるらしい。ところが,この映画の話を,教師をしている友人にしたら,「透明人間に周囲が見えるというのは理論的におかしい」という。なぜだろうか?
→解答
問題65 地球はすしづめ!
すしづめの通勤電車のなかでPさんは考える。人,人,人だな。しかし,いま世界の総人口は三五35億,地球の陸地面積は,一・五1.5億平方キロだ。一人当たりにすると四・三4.3万平方メートル。人口は年率二・五2.5パーセントぐらいでふえているだけだから,このままの率でふえるとして,エベレストも砂漠も世界じゅう,一1平方メートル当たり一1人というすしづめ状態までにはまだだいぶ間があるな……。
この“だいぶ”というのは,次のどれかに相当するか?
(イ)二〇〇〇2000年
(ロ)二2万年
(ハ)二〇〇200万年
(ニ)二2億年
→解答
問題66 兄弟思いの双生児
少年が街で交通事故。足をやられて出血が多くかなりの重態。と,もう一人の少年が病院にかけつけてきた。「お友達ですか?」「弟です」「なるほど。で,血液型は」「調べてないんです。だけど父母は二人ともB型。それにぼくら双生児なんです。危険はほとんどないでしょ」
「いえ,B型の両親からはO型のこどもも生まれますよ。まず血液型を検査しなければ。規則ですし」。
弟のいうように,調べずに輸血したら,危険の可能性はどれくらいであろうか?
→解答
問題67 肉屋での大発見
植物は光のエネルギーで,二酸化炭素と水から自分の食物を作る。ところでA君は今日学校で海草の話を聞いた。「海草のなかでも紅色をした紅藻は,比較的深いところに多い。これは,青い光のほうが深くまでとどくことと関係があるという。なぜか考えてごらん」。
A君は学校の帰りに,肉屋のウィンドーで,青い蛍光灯に照らされた肉がどす黒いきたない色にみえるのを見て,「なるほど,わかったぞ!」。
肉と海草とどのような関係があるのだろうか?
→解答
問題68 不当表示
かんづめ作りが商売の男,多少,生物学を知っているので,カニと名のつくものなら何でもカニかんづめと呼んでよいだろうと考えた。そこで,ザリガニやカブトガニをかんづめにしてもうけることを計画したが,肉がろくにとれそうもなくあきらめた。
この男の負け惜しみのひとりごと――「まだまだよい材料があればやってやるぞ。だいたいタラバガニのカニかんだって,インチキじゃないか」。
タラバガニは美味な代表的カニかんで問題ないはずなのに,彼はなぜこんなことをいうのだろう?
→解答
生体機械の維持と調節
――個体内の修理と連絡――
たえず修理される細胞
生物個体は,細胞を基本としてATPで駆動される化学エンジンともいえる。だが,それだけではこの“生物機械”全体として順調な,また長く続く運転は保障できない。まず第一に,機械というものは,いつかはガタがくるものである。第二に無数の単位エンジンである細胞がてんでんばらばらに動いていたのでは,全体としてまとまりのある動きはできるはずがない。エンジンたちの点検・保守と,統一と,この二つのことがぜひ必要にちがいない。まず,はじめの問題からとりあげてゆこう。
あなたの愛車の部品,たとえば点火プラグがだめになったらどうするか。いうまでもなくパーツ屋に駆けつける。いま車は故障したところだから,文字どおり駆けつけるわけだ。そうして,工場で,つまり自分の手もとではなしによそで作った新部品とさしかえる。細胞も,部品をとりかえるという意味では,結局同じことをやっている。ただし,その交換の流儀はだいぶ違う。
第一に,細胞は一般には,無限に小さい故障を無限に早く修理しつづけている。つまり,分子・原子の次元でたえず部品のさしかえを行なっている。細胞膜とかミトコンドリアとかのはっきりした構造は,一度作られたら細胞が生きている限りは,そのまま残っているようにみえるが,実は残っているのは全体としてのその形だけである。これを作りあげている素材は,たえず交代している。
放射性同位元素を組みこんだ素材分子を細胞に与えてみると,このことがわかる。放射性物質は意外なほどすみやかに,細胞のいろいろな構造体中の同種の分子と交換されてゆく。生物学者はこの交換を「ターン・オーバー」と呼んでいる。字引で引くとturnoverには職人の譲り渡しという意味もあるようなので,まさにぴったりである。
自家生産による修理
細胞での「修理」の第二の特徴は,交換すべき部品を自分の細胞内で自家生産することも多いという点だ。低分子の物質,たとえばアミノ酸などは,細胞膜を通りぬけて入ってくることができるが,それでも細胞内でAというアミノ酸を手直しして,Bというアミノ酸にしてから使うというようなことは,いつも行なわれている。
このアミノ酸は,細胞の構成素材のうちでもっとも重要なタンパク質を作る小部品として重要なのだが,タンパク質の分子量はたいてい数万以上はあって,この大きさになると細胞膜を自由に通りぬけられない。そのうえ,別種の分業をいとなむ各細胞は別種のタンパク質分子を必要とする。筋肉細胞では例のアクチンとミオシン(《生命の働き》参照)が大量に必要だし,赤血球には,酸素とよく結びつく赤いヘモグロビン分子がいっぱいつまっている。それゆえ各種細胞ごとに自家生産ということにならざるをえない。
タンパク質のうちでも特に重要なのは,いろいろの酵素類である。教科書には「物質Xを物質Yに変える酵素Eは,X→Yの反応を触媒するだけで自分はけっして変化しない」と書いてあったりする。この記述はそれはそれとして正しいのだが,では,なぜ変化しないものを交換修理する必要があるのかという疑問がわく。実は酵素も変化する。つまり,その酵素特有の働きを行なう能力を失ったスクラップになる可能性はあるのだ。ただし,それは,X→Yの反応を触媒するから,それにつれてだめになるというのではない。
酵素分子がそこに存在しているから,そうしてまた,酵素分子は非常に複雑微妙な構造を必要とするから,分子的なゆらぎとか副次的なできごととかによって,あちこちがだめになってゆくのである。
細胞も交代する
こわれた酵素の分子も「無限に小さく」修理されるのか,つまり酵素分子そのものの小部品であるアミノ酸がつぎはぎに交換されるのかというと,これは必ずしもそうはいえない。ある程度だめになった酵素は,アミノ酸の差しかえなどやらずに捨てられ,完成品の新酵素分子が,そっくり細胞内で作られる。これは,酵素以外のタンパク質分子についても同じことである。「無限に小さい」修理といっても,その場合場合でおのずから制限はあるのだ。
タンパク質分子を規格どおりに製造するための青写真は,遺伝子という形で核に保存されている。このことは別の章( 野山で)で解説した。
生体機械の修理は,細胞内部に限られているのではない。古くなった細胞は,そっくり死滅して,新しい細胞にとりかえられる。体の表皮の細胞などもたえずこうして交代している。垢《あか》の一部分はよごれやごみであるかもしれないが,一部分は死滅した表皮細胞そのものである。体の内側の表面,つまり消化管の内壁でも,表層の粘膜細胞は,消化吸収の激務でたえず壊れては脱落し,排出されてゆく。トカゲのように失われた体の一部分を再生できる生物も多い。
人間などの高等動物では,この能力はほとんど失われているが,それでも,傷がともかくなおるのは小規模な再生ではある。このような場合にも,個体を単位としてみれば,修理の部品を自分で作りだすという原則は,つねに貫かれていることになる。
一般的要求をまかなう血液循環
私たちの社会が,統一のとれたものとして動いているのは,いろいろの連絡,通信の手段によっている。それらは大別すれば一般的なものと個別的なものとに分けられる。一般的な通信というのはたとえば新聞であって,それは非特定多数の読者を相手にしている。個別的な連絡というのは,たとえば電話であって,きまった回線を通じての一対一の話し合いである。高等動物の個体の統一を保つ連絡手段としても,ある意味では新聞があり,電話があるということができる。それは,血液循環と神経系である。
血液は体の隅々までゆきわたって,全身の細胞が必要としている一般的な要求をまかなう。その意味でこれを新聞にたとえたわけである。ただし,その役割となるとだいぶ違っていて,血液が送るのは何よりまず,情報ではなくて物資である。その限りでは全身を走る血管系は,新聞の配達網よりは,鉄道と道路の網目にたとえたほうがよいのかもしれない。たとえというものは,便利ではあるが常に一面的なものなのだ。
血液が運ぶもの
血液が運ぶ重要なものは四4つに分けられる。まず細胞へ運びこむものとして酸素と栄養源がある。ただし,ここで栄養源というのは,エネルギー源のほかに,前に述べた細胞の補修,維持のための材料も含んだ広い意味である。一方,血液が細胞から運びだす重要なものは二酸化炭素と老廃物質である。二酸化炭素も老廃物質の一つには違いないが,体外へ追いだされる場所が肺と腎臓というふうに違っているので,区別しておいたほうが便利である。
酸素はよく知られるとおり,血中のヘモグロビンに捕えられて全身をめぐる。ヘモグロビンは血液のうちでも,そこに浮かぶ細胞成分である赤血球の中にだけ,ぎっしりつまっていて,液体成分である血漿《けつしよう》の中にはない。肺の部分ですばやく酸素を捕えるためには,ヘモグロビンは血液全体に分散していたほうがつごうがよさそうなのだが,それが赤血球だけに閉じこめられているのには,それなりの理由があるにちがいない。
もっともらしい理由はいくつか考えられるが,その一つは粘度の問題である。つまりヘモグロビンの量が非常に多いので,血液中に一様にとけこんだとすると,血液はとろりとした粘度の高いものになってしまい,無数の毛細血管を通してこれを循環させるのに,たいへん力を要することになる。それで,血球の中にひとまとめにしてあるというのが,考えられる一つの理由である。毛細血管が細くて無数にあるということは,隅々の細胞まで血液がゆきわたるのにぜひ必要なことだから,この条件のほうは変えるわけにはゆかない。
赤血球は球形でなく,特有の円盤形,たとえば大福もちの中央をちょっとへこませたような形をしていて,また,一人前の細胞には必須のはずの核を失っている。これも流れやすさということとおそらく関係がある。ピンポン球のようにはりつめていたり,核があって,かさばっていては,毛細血管を押しわけて進みにくいわけであろう。しかし,一見スマートなこの解釈も,全動物界にそのままあてはめるわけにはゆかない。
高等動物でも,核のない赤血球はほ乳類の特徴で,トリ以下はすべて核をもっている。ほ乳類でも,ラクダの赤血球には核があるという奇妙な例外がある。とにかく生物法則の世界は例外の世界なのだ。
ホルモンという情報
血液は酸素その他の物資の運搬のほかに,いかにも「新聞」らしく,情報の伝達も行なっている。ただしこの情報は,物質化した形で流される。つまりホルモンである。ホルモンの分泌腺は,汗腺とか唾液腺とかと違って,製品を送りだす特別の出口をもたないで,それをいきなり血液に入りこませる。いわばホルモンは,血液という新聞にはさみこんで配達される折込広告である。
この折込広告も,本物のそれと同じで,これに対してどう反応するかは受け取り手によってちがう。すでにマイホームを確保した人にとって,「駅から歩いて十10分」というたぐいの広告は,紙くず以上のものではない。同様に,性ホルモンは“血液新聞”に折り込まれて肝臓や脳にも廻ってゆくが,そこで特に反応を生むことはないと思われる。特定の臓器の細胞が,特定のホルモンによびさまされて,特定の反応でこれに答えるのである。
ホルモンによる細胞のよびさましの機構――むしろよびさまされの機構――も,分子の次元で着々と明らかになりはじめた。あるホルモンは,例の遺伝子の青写真を眠りからよびさまして,特定のタンパク分子の合成を活発にする。他のホルモンは細胞質内の酵素や,もっと小型の分子に直接働きかけて,代謝のパターンに影響したり,細胞膜に作用して,細胞内へ原材料が運びこまれる速度を変える。
いろいろのホルモンの作用のメカニズムを,全部同じ型で解決しようとの試みもさかんではあるが,やはりホルモンの違いによって少なくとも数個の基本的な型はあるのではないか,とも予想される。
神経系による支配
神経というと,ものを見る,聞く,あるいは熱いと感ずる,そうしてそれに反応して,あちらを向くとか,手をひっこめるとかの運動をおこすという,感覚と随意運動の回路がまっさきに思いだされる。このような回路は電話のたとえにもっともぴったり合う。中枢神経系という“中継交換局”があるところも,たとえにそっくりである。ただ,中継交換というと,つい脳だけを連想しがちであるが,脊髄も,それと並んで重要な中枢神経系の構成部分であることを忘れてはならない。
ひざをたたくと脚がとびあがるという,よく知られている現象は,脊髄で自動交換されて脚の筋肉へひき返し,それを収縮させるのである。たたかれたとき,その感じはもちろん脳でも受け取られる。しかし,これは,たたきの情報が脳に報告されてから,ようやく収縮の命令が下されることを意味するわけではない。脊髄での自動交換局が,脳へむかってと,脚の筋肉へむかってと,同時に二つの中継を行なったのである。
このたぐいの中継交換,つまり反射を研究するのに,「脊髄動物」がよく使われる。これは脊椎動物とまぎらわしい名だが,動物の一群ではなく,何にせよ(人間は困るが)脳を切り離した生きた実験用動物をさしている。
カエルから作った脊髄動物,つまり脊髄ガエルの背中に酸をひたした小紙片を貼りつけると,カエルはたとえば左足をあげてこれをはらいのける。脳のないカエルはもはや「酸でぴりぴり」感じたりはしないにもかかわらず,こんなことができる。さらに左脚をしばって動かないようにすると,脊髄ガエルは代わりに右脚を使うことまでやるという。
感じることと行なうこと
こうしたことを見てくると,私たちはいつも何かを感じたから,それに応じて何かをやると考えているが,果たしてそうかどうか,少し不安になってくる。私たちは何かを感じ,同時に,何かをやるのにすぎないことも多いのではなかろうか。ある心理学者は,「悲しいから泣くのではなく,泣くから悲しいのだ」という有名な句を吐いたが,これもあるいはいいすぎで,「私たちは泣き,そうして悲しい」のではあるまいか? 問題をこんなふうに展開してしまうと,これはもはや一般生物学だけの枠をこえてくる。まして,この本の枠をこえている。
ともかく,脳のちゃんとあるカエルも,酸をひたした小紙片を背中につければ,足で払いおとすだろう。私たちは,カエルがこのときどれだけ「ひりひり感じて」いるかは,けっして知ることはできないが,カエルの脳のどの部位に,どの位の時間ののちに,どんなふうに伝わるかは,科学上の手法で追跡できる。そうしてその研究の現状は,生物学の他の分野と同じ言葉で記述できる。
すなわち,そのある面,ことに細長い神経繊維を伝わって,また,その繊維の末端から次の神経細胞へと,刺激が伝えられてゆく機構は,分子のレベルで理解されはじめている。もちろん,個体全体としての統一というとらえ方をするには,問題は分子レベルだけでは片づかないが,そういう面でも,構造と機能の両面から現代生物学は着々と解明を進めている。
個体の統一に大きな役をはたしているのは,中枢神経系と,その末端の出店という意味での感覚を伝える末梢神経系だけではない。末梢という軽んじられた名前の神経系のうちでも,自律神経系は,やはりその名前の示すように体の内部の自動調節で重要な役をしている。自律神経系は,電話というよりはむしろ,工場であちこちに分散した機械の間をつないで調節しあう,自動制御の回路にたとえたほうがよいかもしれないが……。高等動物では,交感神経系と副交感神経系とが,各機械の運転の増進と低下を司《つかさど》る二本の回路系統になっている。
植物の統一と連絡
最後に,植物には血管系や神経系にあたる統一の系はあるだろうか。そういうはっきりした形のものはないが,木の幹を貫く維管束系という上下の通路などは,受動的な血管系にあたるといえるかもしれない(ただし栄養分と水の輸送が主で,酸素などのガスの輸送には関係ない)。
神経系にあたるはっきりした経路は,植物には何もない。葉をむしられても,根はおそらくそれについて何も知ることはできない。また,仮りにそれを知りえたとしても,植物は根を引きぬいて個体ごと逃げだすわけにはゆかない。してみれば,そういう形での統一と連絡は,植物では,元来あまり意味をもちえないということかもしれない。
人 体
問題69 体重4000トン
ヒトの受精卵は,成人になるまで,約五〇50回の細胞分裂をくり返すという。一回の分裂で一個が二個になるから五〇50回では細胞数は約一〇〇〇1000兆個(計算参照)。受精卵は直径約〇・二0.2ミリで,比重約一1としての目方は約百100万分の四4グラム。その一〇〇〇1000兆倍は四〇〇〇4000トンになる。
五〇50回という数字はあまり当てにならないが,それにしても体重が大き過ぎる。考え方として,見落したものは何だろう。
→解答
問題70 腕力自慢
腕力自慢をしているうちに,話は腕の筋肉の働きになった。医者のA君は,「筋肉は自分で縮むだけでのびることはできない」。だが,M君はこう考えた。腕を曲げた時,力こぶができるのはたしかに筋肉の縮み切った姿だろう。しかしバネでも押し縮めれば逆にのびようとする。腕をのばす時には,腕の外側の筋肉が縮むとしても,内側の筋肉がのびる力も多少,手伝っているのではないか。腕を早くのばしたり,ゆっくりのばしたりできるのも,のびと縮みと両方考えたほうが,説明しやすいのではないか? M君の考え,一理ある考えだが正しいか。
→解答
問題71 赤き唇
そばかす美人のA子さんがお化粧しているのを,弟がさかんにひやかす。「そばかすってのは,色素が沈着したものなんだよ。いくら口紅で唇ばかり赤くしたってダメさ」。
怒ったA子さんの反論。「唇だって赤い色素があるから,他の皮膚より赤いのよ。そばかすがあるのは確かだけど,それだけに私の唇は,他の人より色素が多いからきれいなの――」
唇が赤いのは,本当にA子さんがいうような理由なのか?
→解答
問題72 おじいちゃんの自慢話
とかく老人は若い頃の自慢話をしがちだが,もう孫もいるQ氏もその例外でない。今日も孫を相手に戦時中の苦心談。「焼夷弾《しよういだん》で家が焼けた時なんか,重要書類のはいった一五〇150キロもの箱を持って逃げたんだから……」。
現代っ子の孫は,「人間が持てるのはせいぜい,七7,八〇80キロどまりだよ。またおじいちゃんのホラ話が始まった」と相手にしない。
Q氏はせっかくの話の腰を折られてプンプンだが,Q氏の話は本当だろうか?
→解答
問題73 陸にあがったフロッグマン
昔,イタリアのサントリオは,食事をしたあと一日,いすつきの大きなはかりに乗って過ごす奇妙な人体実験をした。目に見える排泄《はいせつ》がなくても,全身の汗の蒸発などで体重が減ることをたしかめるものであった。
そこで,ごくうすい金属箔《はく》で,陸にあがったフロッグマンさながらに,ぴったり全身を包んで同じ実験をしたらどうなるだろう?
もちろん,窒息しないよう息抜きの管はくわえ,また金属箔は,熱伝導はよく,体温は普通に放散できるものとする。
→解答
問題74 坊やの大事件
パパがポケットから落したパチンコ玉を,坊やがみつけて口にもっていったが,あっという間に見えなくなった。ママはびっくり。医者への電話も舌がもつれる。
「坊,坊やが,いえ,坊やのからだの中に,パチンコ玉が,は,はいって!……」
いつも皮肉屋で通っている電話口の先生,「それは困りましたね。でも大丈夫。おちついて。それにあなたは言い間違いをしておられますよ」
お医者さんは何を指して間違いといっているのか?
→解答
問題75 目から火が出た!
あわて者のA君。学校の廊下を走っていて友達と正面衝突。
痛さも痛さだが,ぶつかった瞬間,まるで“目から火が出た”ように感じた。
ぶつかった友達も,「気をつけろよ。目から火が出ちゃった!」と同じ感じを受けたよう。もし,目が見えない盲人がぶつかったとしたら,やはりそんなふうに感じるだろうか?
→解答
問題76 高地人と低地人
少し古くなったが,メキシコ・オリンピックの裏話の一つ。高い山地と低い平野を持った某国では,「ぜひとも金メダルを!」とすごい熱の入れよう。高いメキシコで勝つには,日頃,高地で生活している人から選手を選べば,というわけで全国から募集することになった。
小さな国なので,応募者はみんなその日の朝,郷里を発って検査所にやってきたが,検査所の医師は,ある種の検査をして,「君は低地に住んでいる人だからダメ」と,何人かを追い返した。どうしてわかったのか?
→解答
問題77 天国の入り口からの報告
一度死んで蘇生した体験の報告書というのがある(D・スネル)。
「何も聞こえず何も見えなかった……。だが,意識はいつもよりあざやかで……最初に足の指,ついで両足と,細胞が一個ずつだめになっていき,まるで浜辺を洗う波のように死が浸食してくる……。今度は下肢で,細胞が灯の消えるようにまたたきながら消えてゆく……」
同じ体験をして真偽をたしかめるのは容易ではなさそうだが,この記述が決定的に怪しいと思われる理由を,二つほど考えてほしい。
→解答
問題78 胃液のパラドクス
牛肉から豚肉,最近はうっかりすると兎肉まで食べさせられるが,いずれにしても胃にはいった肉は,胃液の働きですぐ溶かされる。胃液の中にタンパク質を分解する酵素があるためだ。
胃そのものもタンパク質なのに,なぜ自分の胃液に溶けないのか,不思議な話。探究心の強いA君。カエルの胃を取り出し,動物の胃から精製したタンパク質分解酵素であるペプシンのはいった溶液の中に入れてみた。
この胃袋は溶けただろうか。
→解答
問題79 博愛型とケチ型
血液型O型の人は,誰にでも血液を提供することができるが,同じ型以外の人からはもらえない。AB型は逆だ。
O型の血清には「抗A抗体」と「抗B抗体」がある。輸血で,たとえばA型の血球がO型の血液にはいると,この血球にはA抗原があるので,この抗原と抗A抗体とが反応するため,異型の血をもらえない。しかし,O型の血球には抗原はないので,与える場合には,相手の血清の抗体のことは気にしないでもよいので,万能供血者なのだ,と説明されている。だが,この説明法には,ちょっとおかしな点もある。どこが変か?
→解答
問題80 開かれた脳
人間のからだの反応・運動の大部分は,脳の特定の部位に支配されている。ある生物学者は,脳手術の際,脳にあるからだのいろいろの部分の運動中枢を電気で刺激し,患者のからだのその部分を動かすことができた。
左手を動かす中枢を刺激すると,患者の左手はひとりでに持ちあがる。こんどは,この生理学者は患者に「動かさないように」と,命じてから刺激した。患者はこの命令にしたがって,刺激を受けても手が持ちあがらない“方法”を考え出し,命令を実行した。どうすればそんなことができるのか?
→解答
問題81 生兵法の失敗
初老のBさん,血圧が高いといわれ心配して血圧計を買いこみ,見よう見まねで奥さんに測らせていた。今日は右の上腕におできができ,しかも左の上腕はこの間けがをしたばかり。前腕でも動脈がふれるから同じことだろうと,手首の少し上に血圧計の布を巻いて測ったが,妙に値がいつもと違う。
あとで医者に聞いてみると,「そりゃ,当たりまえでしょう」と笑われた。血管は全身つながっているから圧力は同じと,Bさんは思ったのだが! この方法で測った血圧は高く出すぎたのか,低すぎたのか?
→解答
生命のはたらき
――代謝・生化学――
生きるための活動
細胞はからだの中で,専門化した「職業」をせっせと行なってゆくとともに,一見,暇な時でも,自分を生き続けさせてゆくことだけは,たえずやっていなくてはならない。このことは第二2章で説明した。別のいい方をすれば,細胞たちは生きている限り,本当に“暇な時”はないともいえる。
生き続けるのに必要な外からの補給が得られなくなったとき,細胞はこの最低限の仕事をも行なえなくなって,細胞の死が徐々に訪れてくる。人体でいえばたとえば心臓が止まって血液からの酸素や栄養分が得られなくなったとき,つまり普通にいう個体の生命が完了したときに,からだの一般細胞の死がスタートを切る。
ともかく,たえず生き続けてゆかなくては,細胞は生きた細胞として存在を続けてゆけない。これは,当たり前のことをもったいぶっていっているだけのようだ。しかし,「存在」ということの考えよう次第では,必ずしも当たり前でもない。机上のインクびんは,最低限の活動など続けていなくても,いつまでも存在を続けてゆける。もともと活動するために作られたもの,たとえば自動車も,一年,二年と車庫にじっと死蔵しておいたあとでも,いつでもすぐにエンジンはかかるはずだ(実際にはさびついたりするだろうが,これはいま別の話としよう)。たえず活動していないと,そのままの存在を続けてゆけないというのが,無生物の世界ではむしろ奇妙なことといえる。
生命の炎
では無生物の世界にそうした例が見当らないかというと,そうでもない。手近な一例はろうそくの炎だ。点火された炎は一定の形を保って燃え続けているが,その姿が維持されてゆく仕組みをくわしく見れば,以下のようなことになる。まず溶けたろうは芯を伝って吸いあげられ(いまろうの中の炭素〔C〕だけを考えれば),空気の酸素〔O 2 O2〕と化合するときに熱と光をだして炎を作る。CとO 2 O2の化合がすっかり終わってしまえば,もはやそれはただの二酸化炭素であって,炎から外へと逃げ去ってゆく。
原料であるCとO 2 O2 は炎ではなく,生ずる二酸化炭素(CO2)(CO2)もまた炎ではない。しかし,CとO 2 O2がたえず流れこみ,CO2がたえず流れ去ってゆかなければ,炎という一定の形は存在を続けられない。「生命の火が消える」という表現には,おそらく,最初この言葉を使った人が考えていた以上に,深い意味がある。
炎の形やそこでの化学反応は,ごく単純な一本調子のものだけれども,それは細胞の生き方のもっとも簡単なモデルといっても,あながち間違いではない。それでも本質的にちがう所が一つあるようにみえる。つまり,炎はコップをかぶせて酸素を絶つとともに,あとかたもなく消えうせるが,細胞のほうは血流が止まって酸素が絶たれても,さしあたりその形はちゃんと残るという差がある。
だが,さらに考えてみると,消えたろうそくの炎にも,ちゃんと形は残っている。つまり,黒く焦げた芯があとに残る。芯は炎そのものではないが,芯のでていないろうそくに火はつかないから,芯は炎を維持するために欠くことのできない“装置”であるとはいえる。細胞の場合にも,死んでもあとまで残っているその形は,生命をいとなむ“装置”なのだ。この装置を舞台にして,たえまなく物質の変化とエネルギーの利用が行なわれている。それらの変化,活動が生命のいろいろな現象である。
細胞自身が生命の現わし手
顕微鏡や電子顕微鏡でしらべることのできる細胞の形は,生命の装置であり,生きた細胞のいろいろな活動は生命のあらわす現象である。こう二つに分けてしまうといかにもすっきりするようだが,このいいかたには問題も残る。なぜなら,これではまるで運転者が車を運転するように,生命の装置である細胞機械を何者かが運転している感じになってしまう。
ところがそのような何者か,つまり目にみえない生命の小妖精を徹底的に追いだしてしまったことこそ,近代生物学のもっとも大きな功績の一つだったのである。そのような何物かが細胞の中にも,また個体の中にもひそんでいないとすれば,生命のいろいろな現象を現わす現わし手は,どこにいるのだろうか。
答えは実はいたって簡単なのであって,いま生命の装置と呼んだ細胞そのものが,生命現象の現わし手でもあるということにすぎない。筋肉の収縮を例にとって,この点を説明しよう。
私たちがものを持ちあげたりするときの強力な収縮力も,分解してみると筋肉を作っている,一本ずつの筋肉細胞(筋繊維)の収縮作用の総和である。筋繊維はさらに細い筋原繊維の束である。普通の骨格筋はいわゆる横紋筋であって,明暗の縞模様がみえるが,これは筋原繊維での縞が多数,周期をそろえて並んでいるからである。筋肉,したがって最終単位である筋原繊維の収縮のしくみを解く鍵は,この横縞を電子顕微鏡でしらべると得られる。
横すべりするタンパク分子
電子顕微鏡で拡大して見た横紋は,二個のくしの歯をたがいに重ね合わせたような構造であることがわかる。二本のくしのうち,中央の太いほうがミオシン,細いほうはアクチンというタンパク質の分子からなる。収縮のしくみを解く鍵は,二種のタンパク分子が入りくみあうこの微妙な構造にある。
ミオシンとアクチンは,縦方向に結合しあっている。収縮の際にはこの結合が一度切れて,アクチンとミオシンは列車がすれ違うように横にすべりあい,かさなりが大きくなってゆく。かさなり部分が多くなるので,筋原繊維全体としてみれば,短かくなると考えられている。
この横すべりは,エネルギーをつぎこんで行なわれる積極的な仕事である。それだからこそ,その総和である筋肉全体の収縮も,位置のエネルギーに抗して石を持ちあげたりできるわけだ。横すべりに要するエネルギーは,そこの筋原繊維内にあるATPという化合物に含まれたエネルギーを,放出することによってまかなわれる。
だから筋原繊維は,エネルギー源まで自分自身の中にかかえこんだ自動収縮装置なのである。どんな生命の小妖精によって収縮させられるのでもなく,自分で収縮するのだ。「収縮!」の命令は筋肉の外,つまり神経からくることはたしかだが,それは自動機械の引き金を引くにすぎないので,収縮の動きそのものは,あくまで筋肉が自分で行なう作業である。
収縮の引き金
収縮のための引き金を掛けたりはずしたりの作業も,やはり作業であるからにはエネルギーが必要で,これもATPによってまかなわれる。アクチンとミオシン間の横すべりが動きだすためには,少量のカルシウムの共存が必要なのだが,収縮しないときの筋原繊維では,そこに含まれている小さな構造体(筋小胞体という)がATPのエネルギーの力を借りてカルシウムを自分のところに引きよせる。そうすると,アクチンとミオシンの部分ではカルシウムがなくなるので,横すべりは不可能となり,収縮の引き金を動かせないように安全装置がかかってしまうのである。
さらに,最初の引き金をはずす神経の細胞にしても,その中を生命の小妖精が使い走りしているわけではない。収縮が筋原繊維の専門職業であるのと同じく,刺激を伝えることが神経細胞の専門職業であって,これもやはり一つの具体的な作業であり,ATPのエネルギーを消費して営まれる活動である。刺激伝達の分子的な仕組みも,いまではかなり明らかになってきている。
エネルギー通貨,ATP
神経細胞は血流に乗ってくる養分と酸素に養われているが,心臓は,やはりATPを用いて,血流を駆動する作業をやっている。生体の機能を理解しようとしてこうして次から次へさかのぼってゆくと,結局,いつでもATPという共通の言葉が現われてくる。生体内ではATPこそエネルギーそのものである,といってもよいくらいだ。ATPを生体のエネルギー通貨と形容している人もある。
ATPも私たちのふところの通貨と同じく,使えば減る。新しくかせぎ出さないことには,生体はジリ貧に陥るほかない。私たちの食事は,せんじつめれば,一度使ってこわれたATPを食物のエネルギーによって再生するためのものである。
食物はどうやってエネルギーを提供するのか。それは一種の燃焼で,酸素が体内でゆっくりと栄養物の分子と結合するのである。生命を炎にたとえることの深い意味の一面が,ここにもある。しかし,生命と炎の大きな差は,炎では有機物が酸素といきなり結合,つまり酸化してただちに熱をだすのに,生体では酸化で浮いたエネルギーは,まずATPという化合物の形で,しっかり確保されるという点だ。ただしATPそのものは,細胞へ自由に出入りできないので,肝臓なら肝臓が食物からのATP生産を全部一手に引受けて,完成ATPを全身に分配するというわけにはゆかない。
栄養分はおもにブドウ糖という形で血流に運ばれて細胞まで行きつき,ATPは細胞内で自家生産される。筋肉細胞の写真でも,アクチンとミオシンの糸の左側に,大きなミトコンドリアの写っているのが見られるだろう。このミトコンドリアが各細胞のATP生産工場である。
酵素という無形の装置
ミトコンドリアでの栄養分からATPへのエネルギー受け渡し機構の詳細は,本格的な生物学解説書に任せるべきことと思う。食物という種々雑多の混合物が,吸収と消化の過程を通じていく種類かの適当な栄養分の単位へと変形され,仕分けられてゆく過程についても同様である。
ただ,分子間の変化を加速し,うまく行なわせるために,いろいろの酵素が作用していることだけいっておこう。酵素には,消化管内でまず大まかな食物分解に手をつける消化酵素から,ミトコンドリア内でATP再生のこまかい作業を行なうものまで,無数といってよい種類がある。
酵素のうち多くのものは,細胞内にとけて存在しているので,電子顕微鏡を使ってもそれを「形」としてとらえることはできないが,細胞が生き続けてゆくのに欠くことのできない無形の装置なのである。
解 答
解答1
一応生きてゆける。ただし,条件つきで――。
→問題1
ここで条件つきで可能といったのは,「アルコールだけで生きてゆく」というのを,真にアルコール(と水分)だけととるなら,これは不可能という意味である。身体を維持してゆくのに大量に必要な元素は炭素・酸素・水素・窒素(CとOとHとN)の四種であり,ふつうのアルコール(C2H5OH)ではNが全然供給できない。
Nは通常,タンパク質またはアミノ酸という形で摂取される。日本酒の中には,一1パーセント程度のアミノ酸があるが,量としてはとても不足で,問題にならない。また,微量のビタミンや無機質も,適当なバランスで摂取しなくてはならない。結局,通常の程度の副食物はとるとして,主食の米のめし代わりに酒ということならばまずまず,という常識的な答えが正しいといわなくてはなるまい。
しかも,これは,薬物としてのアルコールの害作用は別にしての話であり,このほうがむしろ問題である。アルコールに対する抵抗性には非常に個人差が大きいというものの,大観画伯の話などは,話半分としても,やはり例外的ケースといわなくてはならない。
解答2
A君の判断はまちがい。次のようにいくつもの理由で。
→問題2
メンデルの法則では,第一に,はじめに用いる親の遺伝的性質が純粋でなければならない。したがって,おじいさん・おばあさんの親たちの背がどうであったかを,調べなければならない。第二に,雑種第二代で三3対一1に分離するということは,同じ両親から生まれたたくさんの個体を調べると,約三3対一1の比率で分れるというもので,四人というわずかの数からだけで統計的に意味のある比率を見出すことはできない。
また,それより前に,祖父母が遺伝的に純粋(そんなことはありえないが)としても,メンデルのいう雑種第二代は,雑種第一代のエンドウを「自家受粉」で実をむすばせたもので,A君の家族の場合,おとうさんとおかあさんはそれぞれ遺伝的に異なるわけだから,メンデルの分離の法則を当てはめることはできない。
さらに,背丈とか体重とか,遺伝学で“量的形質”といわれるものは,花の色のように一つの遺伝子に支配されているのではなく,たくさんの遺伝子群(ポリジーン)に支配されていると考えられ,一つの遺伝子に支配される性質のようにあつかえない。集団からデータを集める統計的研究によると,親子間の身長にはわずかながら相関関係があり,遺伝性がみとめられるが,栄養条件など環境の影響も考慮する必要もある。
解答3
Bさんのいうようにあたたかいタオルがよい。
→問題3
原則的にはどちらの言いぶんも一理ある。奥さんはたぶん学校で血液循環の話のとき聞いたことをおぼえていたのだろう。たしかに皮膚直下の小血管は外気が冷たいと収縮し,体温の放散を小さくする。冷やせば傷口に回ってくる血液量も,減ることになる。
ところが傷口で血が止まるのは,ただ乾いて固まるというようなことではなく,一連の複雑な酵素(それ自身は変化しないで化学反応を促進させる生体の触媒)による反応で,血液が凝固するのである。酵素反応は,ある範囲内でならば,温度が高いほど早く進むので,あたためたほうが止血に有利である。この場合,後者の要因のほうが大きくひびいて早く血が止まる。Bさんはガクがあったわけではなく,あたためることは床屋のおやじさんにでも教わってきたのであろう。
ありふれた生物現象でも,机上で解釈しようとすると,プラス・マイナス両方の要因が考えられることが多い。どちらが優勢になるかは実験できめるほかなくなる。生物学には理論がなくて,万事経験主義,あるいは暗記だと誤解される向きがなくもないが,その一因はこんな点にもあるようだ。
解答4
タマネギの細胞は,大きさでいうと肉眼で見られるはずのものもあるが,実際は見にくい。
→問題4
人間がものを見分ける限界,いわゆる目の解像力は〇・一0.1ミリメートル(一〇〇100ミクロン)であるといわれている。タマネギの食用とする部分を鱗茎(一枚一枚は鱗葉という)と呼んでいるが,それをつくっている細胞の中には長さが〇・三0.3〜〇・五0.5ミリメートルぐらいのものが多い。したがって,一つ一つをバラバラにして,黒い紙の上にでもおくならば白く光って見える。
しかし,実際はたくさん集まっていて,一つ一つを分離することも見分けることもむずかしい。なお,ある種のアメーバ(体長〇・五0.5ミリ)など,大型の単一細胞は,肉眼でもよく観察することができる。
一般に細胞というと,顕微鏡でなければ見られないという印象があるが,その構造や正確な形態をつかむことは無理とはいえ,必ずしも肉眼では見えないものではない。一番大きな細胞としてしばしばダチョウの卵細胞(直径約九9センチメートル)があげられる。おなじみの鶏卵も同じだが,この場合は特に卵黄という細胞内含有物が極端に多いためである。
生命の基礎をになう細胞も,顕微鏡という魔法の鏡を使わないでも,直接肉眼の世界とつながっているのだ。
解答5
赤い葉にも,色はおおい隠されているが,ちゃんと葉緑素があり,デンプンや糖ができる。
→問題5
光合成は,植物が光のエネルギーを利用して二酸化炭素と水から,デンプンや糖などの炭水化物をつくるはたらきだが,光のエネルギーをとり込み,化学合成に使えるようにするというもっとも重要な役割を果たしているのが,葉緑素(クロロフィル)である。そしてこの葉緑素の働きを助ける補助的役割を果たしているのが,シソの葉の赤い色素である。
シソの葉にも必ず,光合成を行なう葉緑素はあるのだが,その緑の色と,赤い色素がかさなり,赤黒く見えるのである。したがってシソの葉でも光合成はちゃんと行なわれており,その証拠に,シソの葉を使ってヨード反応を行なうと紫色を呈し,葉でデンプンが作られているのがわかる。
このように高等植物では葉緑素のほかに,赤や黄のカロチノイド系の色素が光を吸収し,光エネルギーを葉緑素に渡していることが知られている。また,紅藻や褐藻類でも,葉緑素以外の色素,たとえばフィコエリスリン(藻紅素)などが光を吸収し,光合成の補助的役割を果たす。しかし,この場合でも必ず葉緑素は存在しており,その葉緑素がこれら補助色素が吸収した光エネルギーを受けついで光合成を行なっているのである。
解答6
うまくゆかない。
→問題6
唾液で米のデンプンが消化されるのは,唾液の成分の一つであるアミラーゼという酵素の作用によるが,酵素は一般に熱に弱いので,一〇〇度100℃で煮たりすれば完全にその作用を失う。生物学の用語でいえば,酵素は熱で“失活”するわけである。酵素が熱に弱いのは,酵素の本体がタンパク質だからである。ユデタマゴで白味が固く凝固してしまうのも,熱でタンパク質が変化――生物学の用語でいえば,本来の性質を失うという意味で変性という――してしまう一例である。
タンパク質がこのように熱に弱いのは,それが高分子,つまり数十個あるいは数百個ものアミノ酸から組み立てられた巨大分子で,複雑な立体構造をもっているからである。一〇〇度100℃で煮たていどでは,アミノ酸同士のつながりが切れてばらばらになることはまずないが,立体構造のほうはすっかり崩れてしまう。酵素の作用はこの立体構造に微妙に依存しているので,目にみえて変性が生じないていどの温度でも,失活はしてしまう例が多い。
もちろん生物の世界の常として,一〇〇度100℃で二十20分煮ても平気なへそまがり酵素も例外としてあったりするが,消化に関係する酵素では,まずそんなものはない。
解答7
父親の考え方は間違っている。
→問題7
リンゴの切り口表面が赤く変色するのは,リンゴの細胞の中に変色する材料物質があって,皮をむかれるなどして細胞が空気にふれると,その物質が酸化され黒い色素に変わるからである。この酸化はやはり細胞内にある特別の酵素によって促進されるので,庖丁の鉄分は関係ない。
簡単な実験として,リンゴの切り口をさらに竹製のペーパーナイフなどで刻みを浅く入れると,数分後に刻み目が黒い線となってはっきり認められるが,リンゴの一片を一〇〇度100℃の湯で,二2,三3分煮てから同じことをやっても,黒線は認められない。酵素は一般に熱に弱いので,熱でダメになった(失活した)からである。
細胞がこわれたほうが,酸素が細胞内によく供給される。手で割った場合は,細胞同士の間が離れるだけで,庖丁で切ったときと違い,細胞そのものがこわれる率が少ないので,黒化しにくい。切り口を塩水につけると黒くなりにくい,というのも酸素にふれにくくするためだが,ここで塩分は単に味覚の問題で,ただの水でも大差ない。
キノコ類やジャガイモの切り口の黒化も同様なメカニズムによる。ウルシの黒化・乾化も同様だが,この場合は,材料物質(ウルシオール)が酸化で黒化するだけでなく,固まる性質もある。
解答8
「おはよう元気かね」とおぼえたキュウカンチョウが,「元気かねおはよう」という可能性はまずない。
→問題8
鳥類の中では非常に上手に音声模倣をするものがいる。例えばインコやオウムの類であり,ここに登場するキュウカンチョウもその代表である。これらに言葉を憶えさせるには鳥たちを若いときから育て,注意深く訓練し,鳥が人間の言葉を真似したなら,エサなどのほうびを与えるようにしてくりかえさせる。
この方法で短文やいくつかの単語を憶えさせることはできる。しかし,一つづきのものとして教えた二つ以上の単語を,切り離して新しい言葉にしたり,逆にしゃべらせることには成功していない。ことばを憶えたといっても,それは機械的に単なる音声として憶えているのであって,意味はまったく理解していないのだから。
したがって,「おはよう元気かね」という言葉を分解再合成した形の,「元気かねおはよう」という言葉を,キュウカンチョウがたまたましゃべる可能性は少ないと考えられる。
解答9
夫の言い分が正しい。
→問題9
ぬか味噌づけの風味は主として酸・エステル・糖・アミノ酸などによるものであり,これらは原料の野菜やヌカなどから,微生物の働きによって作りだされるものである。すなわち,原料の中に含まれる炭水化物(多糖類)やタンパク質に好気性(酸素を必要とする)バクテリアが作用して,糖やアミノ酸に分解するのである。
したがって,これら好気性バクテリアの繁殖を常にささえておく必要がある。そのためには,ヌカをよくかきまわして,常に酸素を送りこまなければならない。漬物がすっぱくなるのは,かきまぜないでいると,嫌気性(空気のないところで繁殖する)のバクテリアの酪酸菌などが繁殖し,酪酸なる物質をつくりだすためである。それを防ぐ意味でもかきまぜるわけである。
ついでであるが,「ぬかにくぎ」ということわざとは別に,ナスのつけものの色をよくするのにさびたくぎを入れることがあるが,これはナスのアントシアン色素を保つのに鉄が働いているからである。
解答10
白ネズミは目が赤いのが普通で,黒い目のものはいない。
→問題10
ウサギやネズミなどで毛が真白なのは,「アルビノ」(白子)といい,遺伝的に皮膚・毛・目などからだ全体に色素がつくれない異常な系統である。白ネズミや白ウサギは当たり前にいるので,異常という感じを受けないが,やはりもともとは毛が茶やネズミ色など色素を持った本来の系統から,突然変異で生まれてきたものである。
したがって白ネズミ・ウサギは目にも色素がないので透明なはずである。ところがその奥を取りまいている血管の血液の色がすけて見えるため,目の色はみんな赤く見える。「赤いオメメの白ウサギ……」というのも,結局,血の色を見ているのである。血液の赤い色は,血球中のオキシヘモグロビンの色だが,この色は,アルビノといえども,正常なものと変わらない。
なお,赤い目の動物はすべてこのように血液が見えているわけではなく,ショウジョウバエで目が赤いものは独自の赤い色素があるからである。また逆にアルビノでなくても白い毛の動物もある。
解答11
一昼夜ぐらい蛍光灯を当てたぐらいでは夕方になると葉をたたむが,数日間つづけると眠らなくなる。
→問題11
オジギソウが葉をたたむ就眠運動は,光の強さによって引き起こされるもので,“傾光性運動”と呼ばれるものの一種である。葉(正確には小葉)を閉じるものは,葉の根もとにある“葉枕”と呼ばれる部分の細胞の膨圧(内部から外に押している圧力)が変化するためである。
この就眠運動はマメ科植物に広く認められるが,光の強さの変化にすぐ反応するのか,というとそうでもない。もし,そうであるならば,Q氏のやったように光を当て放しにすれば,葉は閉じないはずであるが,やはり夕方になると閉じる傾向にある。しかし,数日間光をつけっ放しでおくと,その傾向が失われ,眠らなくなってしまう。
つまり,就眠運動には一種の“習慣”とでもいったものがあり,光を当てるなど環境を変えてやっても,すぐにはそれまでの習慣がなくならないというわけである。そしてこの習慣は光をつけっ放しにしておくと,少しずつ失われてゆくのであるが,長い時間をかけて獲得された習慣であれば当然ともいえそうだ。
なお,オジギソウに触れると,葉を閉じ,枝がたれさがるが,これは傾震性と呼ばれ,光の刺激に反応する就眠運動とは別の運動である。
解答12
奥さんのいうようにアルカリ性食品。しかし,Aさんのいう,「すっぱいものは酸性」というのも間違いではない。
→問題12
アルカリ性食品,酸性食品という場合と,化学的にアルカリ性・酸性,という場合とは,意味が違うところに,Aさんがおちいったような混乱が生まれたのだろう。化学の場合,酸性・アルカリ性というのは,その物質が水に溶けて,どちらの性質を呈するかで決まってくるが,食品の場合には,その食品が消化・吸収され最終的にたどりついた物質が,体液(血液・リンパ液)をアルカリ性にするか,酸性にするかを問題にしているのである。
したがって,夏ミカンなどすっぱい果物で,そのものは全体として化学的に酸性でありながら,消化・吸収されたのちは,果物のなかに含まれるカルシウムやカリウムなどが血液をアルカリ性にする働きをするので,アルカリ性食品と呼ばれるようになる。
米をはじめ大部分の穀物,おいしい肉・魚類・卵はいずれも酸性食品。化学的にはこれらの食品そのものは酸性ではないが,消化・吸収されたのち,強い酸である硫酸やリン酸などのもととなるイオウ,リンなどが含まれているため,酸性食品に分類されるのである。
一方,アルカリ性食品はほとんどの果物・野菜・海草などで,肉料理に野菜をつけ合わせるのは,血液が酸性に傾くのを防ぐ上で,意味があるわけである。
解答13
主人の可能性もあるが,おそらくは,お酒がさらに自然に変化して酢になったのであろう。
→問題13
アルコールを空気中に長く放置しておくと空気中に浮遊していた酢酸菌が入りこみ,酸素のはたらきを得て発酵することが多い。すなわち,つぎのような式で示される反応結果が知られている。
これを酢酸発酵というが,酢酸菌のもつ酵素の作用で進行する。これと同じ反応が,アルコールを飲んだ体内でも起こっている。もちろん,この場合は酢酸菌の働きではなく,肝臓内にある酵素の作用による。
さて,この問題の場合,もし細君が一升ビンの栓《せん》をあけっぱなしておいたとすれば,以上のような反応が起こり,中味をかえなくてもかなり酢ができているはず。しっかり栓をしておいたのであれば,ご主人が犯人かも知れない。
解答14
ネズミが早く死ぬが,三人のうちには正解がない。
→問題14
温血動物では,大まかにいって小型の動物ほど,体重一1グラムあたりの代謝量が大きい。一つの説明法は,小型なほど体表面積と体積の比が大きくなり,体重一1グラムあたりの放散する熱量が大きいから,早いテンポで代謝を進めないと体温が維持できないとの考えである。それゆえ,小さな動物は断食後に早いテンポで飢え,早く死んでゆく。一〇〇100グラムの高温の鋼球を空中にさらした時と,これを一1グラムの球一〇〇100個に分けた時とで,さめる速さを想像してみれば大まかな見当はつく。
断食といわず正常の生活でも,大型なら生きるテンポが遅いことになるから,寿命も小型のものより長い傾向はあるが,寿命が長いから断食でも長生きというのは正しい推論とはいえない。
最小の温血動物であるハチドリなどは,一晩の“断食”にも耐えないので,先手を打って夜は体温をさげて冬眠ならぬ「夜眠」をしてしまうものがある。心臓の搏動なども小型生物ほど早い。
もちろん,以上は一般傾向としていえることにすぎず,例外や種差が非常に大きい。
解答15
A君が怒るのは見当違い。A君が水をたらしたのが,花粉破裂の原因だ。
→問題15
A君は,顕微鏡で小さな試料を観察するとき,よく水滴をたらすのを見て,まねたのだろうが,これが失敗のもと。花粉は水を大量に吸い,時間がたつうちにふくらみすぎて破裂したのだ。
一般に生物のからだをつくっている細胞の膜は,水は自由に通すが,水のなかに溶けている物質(溶質)のうちあるものは自由に通さないという性質がある。これが「半透性」としてよく知られている性質である。もし,濃度の違う溶液の境に,この半透性の膜があると,濃度のうすいほうから濃度の濃いほうへ,溶媒である水が移動し,両方の溶液の濃度が近づく傾向がある。
この花粉の場合でも,花粉のなかには濃度の高い溶液(原形質)があるのに,外部は濃度ゼロの水なので,水は半透性の花粉細胞膜を通って花粉内にはいり込んで花粉をふくらませ,やがて破裂させてしまったのである。もし,正常な花粉を観察したいなら,花粉の原形質の濃度とほぼ等しい溶液をつくり,それを水の代わりに用いる必要がある。普通は数パーセントの砂糖液を用いるのがよい。勿論,花粉の表面的な形だけを観察するのなら,何もかけないで見られる。
このように顕微鏡で生物を観察する時は,その試料のおかれた条件によって,正常な場合と違ったものを見る可能性があるので,十分な注意が必要である。
解答16
(2)が正しい。
→問題16
植物の根や茎がのびるのは,おもに根をつくっている細胞がさかんに分裂し,細胞の数がふえるためである。ところが,この細胞分裂は,根のどこででも行なわれているのではなく,分裂能力のある細胞が集まった部分で行なわれているのである。
この部分が,いわゆる生長点だが,根ではこの生長点が先端より二2〜三3ミリ以内のところにある。したがって,先端の部分が順々にのびていくことになり,先端から遠ざかれば細胞分裂が行なわれないのであまりのびない。
このため,この問題の実験のように根に目盛りをつけておくと,先端に近いほど間隔がひろがることになる。
なお,植物の細胞の染色体を顕微鏡で見る場合,根の先端付近から材料をとるのも,この生長点での分裂のさかんな細胞をねらうからである。
解答17
(2)
→問題17
ニワトリの卵が発生してくる過程での物質の出入りを考えればよい。ニワトリの卵殻を通して出入りできるものは気体(水蒸気を含む)ぐらいであろう。まず水分の蒸発が考えられる。卵殻内は卵白・卵黄・胚という部分から成りたっているが,それらに水分が含まれていて,三九度39℃ぐらいであたためるのであるから,当然,いくらかは蒸発するはずである。
次に考えられるのは胚の呼吸にともなうガス変化である。つまり,酸素が入り,二酸化炭素が出ることである。酸素と二酸化炭素は気体として同じ体積の場合,分子量が違う(酸素32,二酸化炭素44)ので,重さは違ってくる。デンプンなど炭水化物を呼吸で燃やすと,入る酸素と出る二酸化炭素は同じ分子数なので,分子量の差に相当して重さは減るはずである。だが,卵の場合,主としてタンパク質や脂肪が呼吸で燃やされ,この時は,外に出る二酸化炭素の量が,はいる酸素よりも少ない。このため,ガス交換による重量変化は分子量の差ほどは大きくならない。
ある測定によると,五〇50グラムの卵が四〇40グラムに減ったというが,未受精卵でも同じ程度変化するとのことなので,重さが減る主な原因は,水分の蒸発とみてよいだろう。ただしごく厳密に考える場合は,呼吸のガス交換による減量も考えるべきである。
解答18
この実験では植物が水を吸収することは確認できても,蒸散作用は確かめられない。
→問題18
ビーカーの水が減る原因としては,水面からの蒸発と,植物による吸収の二つが考えられる。水面からの蒸発量は,同じ量の水がはいり,しかも植物のはいっていないビーカーが設けられているからわかる。だから,このビーカーの水(Aとする)の減り方と,植物のはいっているビーカー(Bとする)の水の減り方の差が,植物の吸収した水の量ということになる。Aのビーカーは,あらゆる実験に欠かせない「対照」の役割を果たしているわけである。
しかし,ここでわかったことは,あくまで植物が水を吸収したことであって,葉から水が出たことの証拠にならない。吸収した水が植物体中にたまった,と考えてもさしつかえないからだ。そこで蒸散作用を証拠だてるには,植物体から水が出て行くのだから両者の重さの変化を比較しなければならない。図のようにA・B両ビーカーの重さの変化を測ると,植物体からの蒸発量は,Bの変化量とAの変化量の差として出てくる。
解答19
ホルモンは逆に働くとはいえない。作用の方向は同じというべきだ。
→問題19
成長とは何だろう。背丈がのびるのも成長だが,こどもが青年になり成人になってゆく経過も成長だ。前者を量的な成長ともしいうとすれば,後者は質的な成長であるともいえる。甲状腺ホルモンは,身体の代謝のテンポを速くすることによって,後者の意味での成長をうながすといってよい。すなわちカエルの“こども”であるオタマジャクシが質的な成長(変態)をスピードアップされて,さっさとおとなになってしまうので,その間に量的な成長をとげているひまがないのである。
逆の実験として,オタマジャクシから本来の甲状腺をとり除くと,いつまでも質的に成長せず,量的にばかり成長して巨大なおばけオタマができたりする。人間でも,クレチン病の患者は,甲状腺の機能不足によるものである。
しかし,成人でチロキシンが多すぎれば,たちまち浦島太郎のように老人になるというようなことはない。代謝が活発すぎてやせこけたり,眼球がかっと見開いたりする。同じ方向のホルモン作用でも,作用する相手しだいで結果は微妙にちがってくるわけである。
解答20
どちらもウソをついていない。観察したヒマワリの“年齢”が違う。
→問題20
ヒマワリは,つぼみの頃まで,つまりまだ若い間はたしかにその茎の頂を太陽の方向に向けるが,花が咲く頃になるともう太陽を追わなくなる。ヒマワリが“首”を太陽の方に向けるのは,茎の生長の早さが,光の当たる方ではおそく,光の当たらない側では早いため,結果として茎の先端が光のくる方向に曲がるのである。
これには,茎の先端や若い葉で作られる植物ホルモンである,インドール酢酸が関係している。植物の茎の先端は,細胞分裂によって生長してゆくが,インドール酢酸は分裂してできた細胞自身を伸ばす働きを持っている。
ヒマワリでは,葉のつき方(光に対する向き)のちがいで,このホルモンの生産量に差が生じ,茎での生長速度が不均衡になるようだ。
ヒマワリは,普通,つぼみの段階までの若い間はさかんに生長するが,花が咲くと生長が止まってしまうので,「生長速度の差」という,“首振り”の条件がなくなり,太陽を追わなくなる。また,大きな花は重みのため動きにくい,ということもある。
なお,このような現象は,他の双子葉植物にも大なり小なりあり,必ずしもヒマワリの専売特許ではない。
解答21
日の当たる側だけ黒く塗って,いっそうよく曲がるかどうかを調べる。
→問題21
光の方向へ植物体が曲がるのを屈光性という。そのメカニズムとしてA子さんの「温度説」は,一つの仮説としては,考えられることである。この仮説の正否を端的に調べようとすれば,赤外線の装置で熱線を一方向だけから与えてみればよい。
しかし,装置を使わないで日光を利用しようとするなら,A子さんのやり方も,一つの方法ではあるだろう。すなわち黒く塗れば熱の吸収はよくなるから,温度差の効果はいっそう大きく,したがって,日光の方向へいっそう曲がると期待したのである。
屈光性のしくみは今ではある程度わかっている。植物ホルモンのオーキシンは芽の頂端で生成し,これが下に降りて細胞の生長をうながすのだが,オーキシンの分布が光のあたる側では少なくなって,暗側がよけいに伸び,結果として光の方向へ曲がる。残念ながら「温度説」は成立しない。
オーキシンの分布がなぜ光で不均一になるかについては,研究者の見解は必ずしも一致していない。
解答22
アオノリだけを食べて成長したオタマジャクシ。
→問題22
自然界で,肉食性の動物と草食性の動物の腸を比べてみると,一般に肉食性のものに比べて,草食性動物の腸のほうが長い。たとえば,ウサギでは盲腸が非常に長くのびている。
草食性では,セルロースの多い植物繊維を食物とするので,肉食動物より,消化によけい手間がかかる。その消化を助けるため,植物繊維の分解を促進させる微生物が腸でさかんに活動し,消化を助けている。そういった理由で,草食性動物の腸は長いのが有利である。
このオタマジャクシの場合も,アオノリだけを与えたものは,草食性になるわけであり,そのため,腸も長くなったのだろう。
解答23
DNAのらせんそのものは,光学顕微鏡ではとても見えない。
→問題23
A子さんが見た標本は,多分,昆虫の唾腺染色体という特に大型の染色体だろう。唾腺染色体では縞模様はたんねんに数えると数えられる。その数は染色体一本あたり,せいぜい数百本である。この縞がもし,ぎっちり重なったDNAのらせんそのものとすると,染色体一本あたり遺伝子は数個か一〇10個くらいしかないことになる。このことだけからも,DNAのコイルそのものが見えているのでないことは明らかである。
実際,DNAのコイルというのは分子レベルでのもので,半径百100万分の一1ミリ程度。一方,唾腺染色体の縞の幅は千1000分の数ミリもあり,大きさがまるで合わない。正常の小型染色体(唾腺染色体の百分の一100分の1の幅)に換算してもまだサイズが十倍以上ちがう。だからDNAの鎖は,電球の二重巻きタングステン線のように,「コイルしたコイル」という形で染色体をなしていると考えられる。さらに,染色体の成分は,DNAだけではなく,遺伝子の作用を制御するタンパク質などもそこに結合して,存在しているのである。
解答24
(1)のように葉の生長量に比例して相似的に大きくなる。
→問題24
植物の葉は小さいときには,細胞分裂をくりかえし,数をましながら生長する。しかし,生長するにつれて分裂の部位がかわり,葉の周縁部とか,葉柄に近い方の部分に局限されてしまい,その他は細胞の体積が増すことにより生長するようだ。
タバコの葉を用いて,すみで方眼の線を引いた実験が一九三三1933年,アベリィという人によって行なわれたことがあるが,それによれば各区分ともほぼ同じ程度に伸長し,生長が葉全体で行なわれていることが示されている。
したがって,この「A」の場合でもおそらく相似形のまま大きくなっていくものと考えられる。
解答25
どちらの先生も不正確である。
→問題25
現在の生物の細胞をみる限り,そこにはタンパク質(酵素も含めて)もDNAも,ともに存在している。受精卵の中でDNAできめられたとおりのタンパク質分子がまず作られる際,その作業を行なう酵素も,エネルギー補給のしくみも,ちゃんと受精卵の中に同居している。だからこの経過をいくら逆にさかのぼっても,けっして矛盾は生じないかわりに,いつまでさかのぼっても限りがない。ニワトリと卵のなぞなぞとまさしく同じである。
今日のニワトリの祖先をずっと映画にとってあり,フィルムを逆に回したとすると,画面はやがて始祖鳥みたいなものになり,それからもっとたよりない生物になり,ついにおそらく単細胞の,ちぎれてふえる単純な生物に戻ってしまうだろう。生物はこのように変化,つまり進化するものである。こう考えることで,無限にさかのぼる困難は解決される。
いまの出題は,このフィルムをさらに続けて逆回しすることに相当する。どんどんさかのぼると,やがてDNAとタンパク質の間の依存しあう関係も,両者の化学構造もじわじわと変化して,現在のDNAでもタンパク質でもない,“何物か”が画面に現われるはずだ。しかし,現代の生物学でも,そこで画面は暗くなってしまう。正しい答えはまだわかっていない。たしかに正しい答えはあったのだが,それは現在とまったく同じDNA,タンパク質ではなかっただろう。
解答26
予想はむずかしいが,前者のカシの木のほうが早く枯れる可能性が大きい。
→問題26
植物の茎の構造をしらべると水分の通路と,同化物質の通路が別に作られている。木本類では内側に水分の通路(導管)が,その外側に同化物質の通路(ふるい管)があり,その間に茎を肥大させる能力をもつ細胞層(形成層)がある。導管は年々内部に新しく作られ年輪を形成していく。一般に材として用いられるのはこの部分である。
ところで,水分や養分(同化物質)の移動は形成層付近の比較的新しい導管・ふるい管で行なわれる。この場所は幹の肥大が起ってもだいたい皮の近くに常に存在する。したがって,皮を含めてかなりふかくまでえぐられると,この活動中の部分がとられることになり,水分・養分の移動に支障をきたす。
一方,幹の内部はほとんど材であり,その部分をえぐりとられても直接影響はでない。アメリカにあるセコイアの大木にトンネルがあけられ,通路になっている例からもうなずけよう。
監視人をおこらせた二本のカシの木の場合,他の条件が同一であれば前者が早く枯れる可能性が大きいとみてよいだろう。
解答27
父親の意見が正しい。
→問題27
ヒバリがさえずるのには,二つの意味がある。第一は,草のしげみにいるメスを求めてオスが空から訴える行動である。もう一つはオスの“求婚”が成功し,つがいが成立してから,自分の巣の所在を他のつがいのヒバリに知らせ,“なわばり”を確保するためにさえずる,いわゆる“テリトリー・ソング”の場合である。この場合もさえずっているのはオスのヒバリである。したがって空で二羽のヒバリがさえずり合う場合は,互いに“なわばり”を主張しているのであって,母親のいうようなオス・メスの恋愛歌合せではない。
一般に“なわばり”というのは,動物がある一定範囲の行動圏を占有する現象で,一羽または一匹の個体単独のときと,集団で行なうときとがある。鳥類ではヒバリの例のように繁殖期において,オスが家族維持のために占有することが多い。この場合,他のオスの侵入を防ぐことが主である。
繁殖期とは別に,食物確保からの“なわばり”もみられる。アユの友釣りなどは,これを利用したもので,アユの“なわばり”に,人為的に他所《よ そ》者《もの》を侵入させ,それを攻撃してくる“なわばり”の主のアユを引っかけて釣りあげるものである。
解答28
青いネオンにはたくさん集まるが,赤ちょうちんなど赤い灯には集まりにくい。
→問題28
多くの昆虫の光感覚は人間に比べて短い波長にずれている。青色からさらに紫外線まで感知する一方,赤色は感じないのである。虹の七色の両端が紫と赤であるというのは,人間の勝手な結論で,虫には虫の世界の色の範囲があり,それには,「紫外線色」も含まれているわけだ。田園の誘蛾灯《ゆうがとう》が,目にしみる青紫色の光を放っているのは,この昆虫の感覚に合わせたものである。したがってこの場合も赤い灯には,赤ちょうちんのさけ目から白い光でももれていない限り,虫は余り集まってこない。
昆虫が紫外線を感知するのに対し,波長の長い赤外線についても,これを感知する特別のしくみを持っている生物がある。人間も皮膚で,ばくぜんと熱として赤外線を感じるが,ガラガラヘビなどは,頭部に特別の赤外線感知の“目”があり,餌食動物の体温をいち早くキャッチする。
解答29
どちらともいえるし,どちらともいえない。人困らせなのは,名前ではなく生物自身である。
→問題29
生物の分類にはすべてそれなりの根拠があるのはもちろんだが,あいまいさもつきまとう。あいまいというのは分け方がいいかげんであるというのではなく,生物の世界がそのようにできているということである。
葉緑素をもつことは,植物の決め手となる重要な性質の一つなので,ミドリムシが植物的であることはたしかである。植物分類表にミドリムシ植物門としてれっきとした位置を占めている。しかし,また長い鞭毛をひらめかせて泳ぎまわるのはいかにも動物的であり,事実,ミドリムシは動物分類表の第一ページにもちゃんとのせられている(原生動物門)。
典型的動植物であるイヌやサクラの木は,議論をどう逆立ちさせてもはっきり動物であり植物であるが,動植物という枠は,あれかこれか式のきっちりしたものでなく,周辺が次第にぼやけて一部分かさなり合う二つの集合なのだ。これは両者とも進化の歴史をさかのぼれば結局一つの源からでていることの反映でもある。ミドリムシは両者が出会う接合点の一つであり,結局真に人困らせなのは,これが動物か植物かと問うパズル出題者だったわけである。
解答30
Bが正しい。
→問題30
これも生物の分類の問題だが,ここでは前問ミドリムシの例とちがい,人困らせなのは名前そのものであるといえる。モウセンゴケは葉が地面にひらたく広がり,葉の表面が虫をとる粘液でしめっていて直観的に何となくコケを連想させるので,この名がついた。しかし,直観的にではなく科学的にきちんとしらべてみれば他人の空似にすぎず,コケらしい本質的な特徴は何もない。かわいらしい花をつけた茎だけを切りとってきてみせれば,だれもコケのことなど何も連想しないだろう。モウセンゴケはコケの仲間ではなく,種子植物にはいる。
このような無雑作につけられた名前は動植物界を通じて少なくない。もう一つ虫をとる草にちなんでいえば,高山植物のムシトリスミレはタヌキモ科に属している。高山に「藻」がはえるとは皮肉なことだが,これは同じグループにタヌキモがあって,このほうは沼地にただよっており,その印象で「モ」と呼ばれたからである。動物の例では,サンショウウオが「ウオ」でないことなどはもちろんである。
外国産の生物につけた訳名にも,無雑作なものが少なくない。オーストラリア特産のコアラを一時「コモリグマ」といったが,これは有袋類で,真のクマの食肉類とかなりとび離れているなども一例である。
解答31
赤色の光を当てたほうがたくさんのデンプンができる。
→問題31
植物の葉が緑色なのは,葉のなかの葉緑素が,緑色付近の波長の光を反射してしまうからで,緑色の光を吸収利用していない証拠である。葉緑素には,aとbの二つの種類があるが,その光吸収の様子を調べてみると,aでは四〇〇〇4000Å(オングストローム=〇・一0.1mμ)(紫色)と,七〇〇〇7000Å付近(赤色)の波長の光を,bでは五〇〇〇5000Åと六五〇〇6500Å付近の波長の光をよく吸収するが,五〇〇〇5000―六〇〇〇6000Åの間(緑色)では吸収率は非常に悪い。
光合成では,光のエネルギーが葉緑素を活性化し,そのあとのいくつかの化学反応を経て,ブドウ糖を形成させ,さらにデンプンにまでもっていくのであり,そのために利用する光は,葉緑素に吸収される波長のものでなければだめ。したがって,緑色は逆にほとんど吸収されずデンプン形成能率も悪いわけである。能率的には紫とか赤の波長がよいことが理解されよう。
解答32
色が変わる可能性がある。ただし,必ずしも病気になったわけではない。
→問題32
ザリガニの体色は周囲の色によって変化しうる。ザリガニの眼柄《がんへい》の部分から分泌されるホルモンは,体表の細胞にある色素粒の拡散や集中に関係している。この色素粒が一ヵ所に集中すれば体色は明るくなり,拡散すれば暗くなるのである。
一般に甲殻類の皮膚には色素胞とよばれる細胞内に色素をもつ細胞があり,含まれる色素もいろいろみられる。例えば赤や黄色の体色変化では,カロチノイド系色素を含むもの,黒白の変調がめだつものでは,メラニン色素を含むものなどである。
眼柄といっても,とくにそこにあるサイナス腺が色素胞刺激ホルモンを分泌していることが実験の結果あきらかにされている。脊椎動物では脳下垂体から,やはり色素胞刺激ホルモンが分泌され,アミノ酸数個からなる物質であることがわかってきた。
こどもたちがとったザリガニが正常であれば,入れものに白と黒のちがいがみられることから,入れものによってザリガニの体色が変化する可能性がある。
解答33
他の近くの川でも回収を試みたが,そこには一匹もあがってこなかった。
→問題33
川に放たれた若いサケは,それから海へ下り,数年後に帰ってくるまでに大部分死ぬ。また,川に帰ってきたサケが全部つかまえられるわけでもない。したがってもとの川と近くの二,三の川で,同じ条件で回収を試みて,はっきり差があれば,「打率」は低くても結論がだせる。さいわいこの研究では他の川での打率ゼロであったから,解釈はきわめてはっきりしている。一般には,ごくわずかの迷い子(迷い親?)が違う川に入ることもあるが結論は変わらない。他の川で回収を試みるのは,生物学でいう「対照実験」である。
一般に生物学では,対照実験がぜひ必要である。人間だって同じことである。病院で薬を与えると,病気によっては薬をもらったと思うだけでよくなってしまう患者もある。薬の外観から,与えるさいの看護婦の顔つきまで,まったく区別のつかないようにしたにせ薬(プラシーボという)を与え,効果を比べなくてはならないこともある。このにせ薬は対照実験である。
たくさんの数を扱って,それから一つの結論を出すには,その客観性を確認する科学的考え方,手順が不可欠なのである。
解答34
卵から若いサケに育つまでに死ぬ数が非常に大きい。
→問題34
人工放流実験では,すでにある程度成長した若いサケから話が出発するので,A君のような錯覚が生じたのである。サケも自然界の一部分として,他の生物と安定した共存をいとなんでいるはずだから,一腹のスジコのうちで,めでたく生き残って次世代のスジコを作るのは,平均二粒だけ(雌のぶんと雄のぶん)であるという予想は,調べなくても立てられる。
もちろん一年ごとに調べればサケの“人口”はずいぶん激変しているかもしれない。しかし,たとえば十10年という長い周期をとってみれば,親となるスジコはやはり二粒であろう。ただし,さらに長く,たとえば一1万年の期間を考えれば平均“人口”はかなりずれてゆくかもしれない。人間がサケをとっても,それが一定範囲内ならば,競争へとスタートする卵の数が減るので親になるまでの間のサケの「生活が楽に」なり,生き残り率は増して,結局,もとの数まで戻るだろう。
これがある範囲内ではサケ漁を行なってもサケ資源は減らない,という根拠だが,人間が無制限に濫獲を続けると話が違ってくる。自然な変動の範囲をこえて親の数が減りだすと,いくら卵を生んでも目減りに追いつかず,その傾向がひどくなると絶滅ということになる。
解答35
女性が敏感ということはあるだろうが,この場合は,B子さんのナップザックが軽かったから,靴の重みがすぐわかった。
→問題35
感覚,たとえば重さの感覚というものは,一定量の重さが加われば,いつもかならず見分けられるというものではない。最初からすでに重いものをもっていれば,それにわずかの重さがさらに加わった場合には,増加を感知できない。最初の重さをI,増加分をΔIΔIと書けばΔI|I ΔI―Iの比は,Iがあまり大きくない一定範囲内では,ほぼ一定である。つまり最初から重いものをもっているほど,これに比例して,増加を感ずる能力が鈍くなる。これを「ウェーバーの法則」という。
Iがずいぶん大きいいまの問題のような場合には,ウェーバーの法則は量的にきちんと当てはまるわけではないが,その傾向はやはり認められる。A君もB子さんと同じ小さな背負い袋をかついでいたとすれば,やはりC君のいたずらには気がついたはずである。
A君のリュックにぶらさげたのが,こわれていない方の靴(こわれたのより,かかとの目方だけ重い)だったとしても,巨大なリュックの目方にくらべては軽いものだから,これはやはり気づかれずにすんだであろうと思われる。
ウェーバーの法則は,味,音,光その他いろいろな感覚に,一定範囲ではよく当てはまる。
解答36
A先生が正しい。
→問題36
山焼きのねらいは,古い草の地上部を焼き,翌年新しい若草が出てくるようにし,また,ダニなどの害虫を駆除するのが目的である。ところが草原にはいろいろな樹木の種子が遠方からも風で飛ばされて入りこんでおり,これらは火入れのたびに焼かれて発芽能力を失うものもあろう。仮りに発芽したとしても一年で焼かれてしまうので草本の生育をさまたげるような日かげを作るまでには生長しない。したがってつねに草原を維持していることができるのである。
もし山焼きを行なわないと,樹木の種子は発芽し生長してやがて日かげをつくり,草本の生長をさまたげるようになるであろう。数十年たつうちに,生長した樹木の下にまた別の樹木の種子が発芽生長し,森林を形成するようになるであろう。
一般に中部日本の山地でみられる森林形成の過程は一年生草本が二2〜三3年さかえ,五5〜二〇20年ではその間に多年生草本と低木(ツツジなど)が入り,そのあと陽樹(マツなど)が生育し,数百年を経過する。陽樹林の下には日陰でも生育する陰樹(カシなど)がふえだし,やがて陽樹をおいだし,陰樹林となって安定した森林が形成される。このような現象を「遷移」とよぶ。地域の他の環境(気温・水分など)により形をかえた遷移がみられるが,阿蘇の場合も大まかにいってこのような遷移をたどると予想されるので,自然のままに放置すれば森になるであろう。
解答37
逆立ちバッタのほうがかえって長持ちする。
→問題37
昆虫が体の表面から呼吸するといっても,表面から一面に酸素がしみこむのではない。固いキチン質のからをかぶった昆虫のことだから,これは不可能だ。外皮の関節の間などに,空気の入り口である気門があって,ここから細い気管の枝々が体の奥まで入りこんでいる。だから,人間のように口を一ヵ所ふさがれるとたちまち「息絶える」というようなことはない。そのかわり,肺をふくらませて積極的に吸い込むのでないから,能率はわるい。
関節のさかい目は腹部,つまりバッタの下半身のほうに多いから空気の取り入れもこちらからのほうが多く,したがって逆立ちバッタのほうが長持ちする。いずれにせよ,貧弱な空気取り入れの仕組みに応じて,酸素不足への抵抗性は高いから,人間のようにすぐにヘタバッタとはいわない。
なお昆虫では,脳のほかにからだの数ヵ所に,神経細胞の集まりである神経節があって活動している半面,血液を押し動かす強力な心臓ポンプはない。したがって,さかだちでバッタの「頭に血がのぼって」参ってしまう心配はあるまい。
解答38
まぼろしのオスをえらぶ。
→問題38
この問題のカギになるのはバッタの性行動が視覚にもとづくのか,聴覚にもとづくのかということである。バッタにはこの両方の感覚が存在することは,外観からも,また発音器があることからもすぐに知られる。
この問題の実験を実際に試みた学者がいる。デュイムとファン・オイエンという人たちであり,バッタの求愛行動が視覚には関係なく,聴覚によっていることを科学的にたしかめた。なお,バッタは前ばねと後ろあしをまさつして音を出すとされている。
解答39
仮りに電動車にして,排気ガスの心配がなくなっても,カシやシイが枯れる心配があり,特に北側の部分は他の陽樹がはいりこむ可能性がある。
→問題39
カシやシイのような樹木は「陰樹」と呼ばれており,マツのような「陽樹」と呼ばれるものに比べて,光の少ないところでも生育できる。森林が形成されつつあるときは,はじめマツのような陽樹林であったところでも,その下の日陰でカシの仲間は種子を発芽させることができ,弱い光のもとで生長してやがて,巨木になる。そのため,こんどは樹林の下に芽ばえたマツの幼木は,光量不足で生長できず,カシの仲間によって占有されてしまう。
もし,カシやシイでおおわれていた森林の中に道路ができると,その部分には光がじゅうぶん当たることになり,マツのような陽樹や,草木が生育できる条件ができることになる。この問題では,東西に道路が開かれたので,道路の北側がその条件にあうことになる。
したがって,排気ガスに関係なく生物相互の働きあいで,いままでカシやシイが全盛を誇っていた地域に,まず草本が,ついでマツなどの陽樹がはいり込むようになり,植物同士の“競争”がふたたび始まる。
一旦このような動きが起こりだすと,次々にその周囲のバランスがくずされる危険がでてくる。もっとも,ある程度のところでバランスがとれるのが普通ではあるが……。
解答40
直接水を飲まないで,食料とする魚のからだの水分でまかなっている。
→問題40
クジラ類はわれわれ人類と同様にほ乳類に属している。したがって魚類のように,えら呼吸をするのではなく肺呼吸を行なう。例のクジラの潮吹きは,呼吸にともなう鼻孔からの海水排出現象である。
ところで生物であるからには水分を必要とする。といっても,生活している海水をそのまま飲んだとすれば,体液の浸透圧を一定に保つ必要からその中に含まれている塩分を体外に排出しなければならなくなり,それだけむだな労力を必要とする。クジラは,実際にはそのようなむだは行なっていない。
普通には,必要とする水分を,食物である魚類の体内水分から得ているといわれている。一方,魚類は海水をとり入れるが,腎臓の働きで海水の約三分の一3分の1ぐらいの浸透圧にして,海水より塩分のうすい水にしている。この魚がもっている水分で,クジラはじゅうぶん排出量(尿とか肺呼吸による)に見あうだけのものを補給しているようである。
解答41
仲間,ことに異性を発見する手段となると考えられる。
→問題41
深海の生活は,生物世界のSF版ともいえそうな奇妙な発明にみちているようだ。いま問題にしている光ということだけをとりあげてみても,イカのすみの代わりに,光の雲を吐きだして敵の目をくらますエビなどもいる。いちばん正統的(人間からみて)な光の使いかたは,ものを見るために照らすということで,目の付近に発光器官をもつ魚などでは,実際そのような使いかたをしているのだと解釈される。
ただ,深海では光で食料生産をしてくれる植物はないから,餌が少なくて動物の個体数は多くない。しかし,雌雄は互いに相手を発見し,また自分も「発見され」て受精卵を作らなくてはならない。身体の表面に特別な色とパターンの発光器をもっていることは,異性に発見してもらうための“広告灯”の役をすることも多いと考えられる。
もっとも,自分で動きまわらない海底の腔腸動物などにも,光るものがいろいろあったりするから,発光がいつもこのように何かはっきりした意味づけで説明できるかどうかは,保留しておかなくてはなるまい。
解答42
AとCは部分的に正しい。ただしC君はまぐれ当たりだろう。
→問題42
ヒトデはウニとともに棘皮《きよくひ》動物に属している。両者の共通点として,放射相称であることのほか,水でふくらまして歩く特殊な管足とか,石灰質の骨板からなる骨格とか,ほかにいろいろの体内の解剖学上の特徴とかがある。
さらに重要なのは幼生型(卵からかえって成体になるまで,成体とは違った形で特有の生活を送る時期のもの)がよく似ている点で,これはナマコでも同様である。クラゲは放射相称といっても,体制ははるかに簡単で,ずっと下等の腔腸動物門に属する。エビやカニはいうまでもなく節足動物で,その硬い外骨格もキチン質であり,棘皮動物の骨格が石灰質で,しかも外皮の直下にあるのとはちがう。
ナマコは左右相称であるが,ウニの棘《とげ》をとり,骨格を除き,上下をうんとひきのばして横に置いたと考えると,ナマコの似姿がでてくる。特徴的な管足も腹がわに残っている。何より重要なのは幼生がウニ・ヒトデとよく似ていることである。
解答43
むらのある濃い茶色をしているものが一番新しい。
→問題43
イカは生きている時は,“海のカメレオン”といわれるように,まわりの環境に応じて微妙に,しかもす早くからだの色を変える。曇りガラスのように半透明な時があるかと思うと,緑褐色・灰色・黒色になり,時にはシマウマのようにしま模様にすらなる。
このようなイカの変化に富んだ体色は,イカの表皮の下に,色素がつまった色素胞と呼ぶ特殊な細胞があるからである。色素胞のまわりには,たくさんの拡張筋があり,興奮したりするとこの筋がちぢむ。その結果,色素胞の直径が大きくひろがって色が強くあらわれ,拡張筋がゆるむと針の先ほどの直径になって色が“消える”というしくみになっている。しかも色素胞には,五5つの違った色素を持った種類があるので,多彩な体色変化を行なうことができる。
イカが捕獲された時は,興奮しているので,この色素胞がひろがっているのが普通だが,死んでから時間がたつにつれて,色素胞の拡張筋がゆるんでくるので,色がさめ白くなってしまう。さらに時間がたつと,こんどはイカのからだ(筋肉)の分解がはじまり,全体にピンク色になってくる。したがって,新鮮度は,濃い茶色のもの,白いもの,ピンク色のものという順になる。ただし,冷凍にしたものは,冷凍にされた時点で,その時の状態が停止することになるので,この限りでない。
解答44
イカには骨がない。
→問題44
コウイカの胴体を開いてみると,たしかに長楕円形の硬い骨のような「甲」と呼ばれるものがある。また,ヤリイカにも,透明なプラスチックの棒のようなものが胴体をつらぬいており,「軟骨甲」,あるいは「ペン」と呼ばれている。これらはいずれも,背骨のように見えるが,実は骨ではない。
外形はまったく違うのに,イカは貝類と同じ仲間で,ともに軟体動物に属し,一見,骨のように見えるイカの「甲」は,貝殻の変化したものである。イカは化石で知られるアンモナイト(菊石)から進化したとみられているが,その貝殻が進化の過程で,次第にからだの表面からなかへ移り,“家”であったものが,一種の背骨のようになってしまったのである。
と同時に,海中を移動するには,重い貝殻では邪魔になるためか,貝殻中の石灰質が少なくなり,比重が軽くなって,今のイカの甲のように軽いものに変質した。その進化の途中にあるベレムナイトの化石を調べると,形は現在のヤリイカとよく似ているが,“貝殻”だけはまだ石灰質を含んで重く,その形もいくつか隔室をもった円錐体で,先祖の名残りをより強く残している。なお,コウイカの甲にはまだ石灰質があるが,ヤリイカの甲は,石灰質をまったく失い,有機質だけになっている。
解答45
光源の強さを同じにしなければだめ。
→問題45
科学の実験において大切なことは,調査しようとする条件,ここでは波長のちがい以外は,すべて同じ条件で行なわなければならないことである。この実験で調べようとした波長と魚の走光性(光に集まる性質)の関係では,つぎのようなことが知られている。イシダイやボラなどでは青と緑によく集まり,赤や紫を嫌う。ただし,この場合はともに同じ強さの光をあてた場合であり,逆に赤のほうが青より強いと,赤のほうに集まるとのことである。
したがって,この実験でも赤と青を同じ強さ(エネルギー)にして与えなければ,意味をなさないわけである。この他に水温とか餌などが不均等になっていても,実験が混乱するので注意しなければならない。
時々,このような実験の基本を忘れ,誤った結論を出す向きもあるので,とくに重要な実験結果の報告を聞く場合は,その実験のやり方を確かめる必要がある。
解答46
そうはいえない。種の数と生物の個体数は必ずしも並行しない。
→問題46
生物の種の数が少ないことは,必ずしも生物の総量が少ないことではない。たとえば植物の光合成にしても,全地球上の光合成の九9割は,海洋表面の小さな藻類にあるのだろうという見積りがある。動物の餌は源までたどれば,結局すべて光合成にゆきつくから,生物の総量はやはり水中のほうが多いにちがいない。一方,生物のいろいろな種は,それぞれ少しずつちがう独自の環境に住んでいる。こうした環境のきめの細かさにかけては,陸上生活は大洋の生活よりはるかにまさっている。
昆虫は,きめこまかに環境を利用する生物の代表例であって,多くの種に分かれ,全生物の種類の七7割がたを占めるとされている。この昆虫に海産のものがほとんどないことも,水生生物の種の数を少なくしている大きな原因の一つである。
また陸の生物は,水にへだてられたりして孤立すると,似た環境でも独自に進化して,いろいろちがう種を生ずる。オーストラリアだけに有袋類がいることなどは,その典型的な例である。ひと続きになっている海の中では,このような孤立が相対的におこりにくい。湖や河はかなり孤立しているが,その面積は陸に比べればずっと小さい。
解答47
四つに分かれた時にばらしたものは,四つの正常な幼生になったが,八つの細胞の時に分けたものは,不完全な幼生になってしまった。
→問題47
二つに分裂した時,つまり二細胞期の時に,カルシウム欠乏の海水中に入れると,細胞がばらばらに分かれて,それぞれが別のこどもになる。このことは,この時期では,まだ一つ一つの細胞が別の機能を持ったものに分かれている(分化という)のではなく,未分化の状態にあることを示している。ヒトの一卵性双生児は,この段階で分かれたと考えられる。
しかし,発生が進み,何回も細胞分裂がくり返されていくうちに,それぞれの機能や形に分化が進み,もはや分けてやっても,一つ一つが完全なこどもにならなくなってしまう。ウニではそのぎりぎりの時期が四つの細胞に分かれた時期――四細胞期なのである。
四細胞期までは正常な幼生になり,八細胞期ではそうならないのは,四細胞期までは二回の分裂がたて方向だけであるのに対し,次の八細胞期では横に分裂するためである。
卵には“極性”といって,同じ細胞のなかで上下の方向で性質の違いがある。たてに分裂している間は,その違いが平等に新しい細胞に分けられるが,横に分裂すると,上と下の細胞ではっきり性質が違ってくることになり,もはやその段階で細胞をばらばらにしても,各々が完全なこどもになれないと考えられている。
解答48
新鮮なヒジキは黒くはなくて黄銅色をしている。
→問題48
ヒジキは分類からいうと褐藻類の仲間に入っている。したがって,色素としては葉緑素のほかに褐藻素がある。この他にカロチノイドも含まれており,これらが独特の褐藻の色をかもしだしている。
このヒジキを海水からとりだし,長く空気中で乾燥させておくと,いわゆる乾物屋で売っているような黒い色になる。普段,食卓でばかりヒジキにお目にかかっているA君たちが間違えるのも無理はない。
このような色の変化は,ヒジキに多量に含まれているタンニン(普通はほとんど無色)が,空気中で酸化されると黒化するためである。
タンニンは植物界に広く含まれており,カキのしぶもこれが原因である。しぶ柿の皮をむいてほしておくと黒っぽくなり,しぶくなくなるのは,タンニンが酸化されて水に不溶のものに変化するため,舌の上でとけず感じないわけである。さしみのつまに緑色で出てくる海草オゴノリも,海の中では褐色であり,熱で変色する。
解答49
正しくない。電気魚は自分自身のからだに電流が流れても平気な性質をもっている。
→問題49
南アメリカなどの河にすむデンキウナギは八〇〇800ボルトにも達する電気を生じて,渡河中のウマを倒したりするともいう。魚の体内での発電の仕組みはさておくとして,ウマがこれに触れてしびれる瞬間を考えてみると,ウマとデンキウナギとのからだをつないだ閉鎖回路ができていなくてはならない。
電池に豆ランプを導線でつないで閉鎖回路をつくれば,ランプがともるが,この際にはランプのフィラメントに流れるのと同じ大きさの電流が,電池の内部にも必ず流れる。とすると,デンキウナギのからだにも,ウマをしびれさせるのと同じ大きさの電流が流れるに違いない。
ウナギの神経や筋肉は,強い瞬間電流に会っても平気な特性をそなえているのでなければならない。この特性がどんな巧妙な仕組みによるのかは,またべつの話だが,とにかく一般論としてそう言えるわけである。
高圧線にトリがとまったときには,トリが片足を地面その他にでも触れていなければ,電流はほとんど体内を流れないから平気なのであり,電流が流れても平気な電気魚の場合とは,わけがちがう。
解答50
Bさんの論は完全にまちがい。Aさんは正しい可能性もあるが,別の魚を見あやまっている可能性も大きい。この勝負あずかりか。
→問題50
ヒラメはカレイ目の仲間に属する魚であり,その特徴は左右相称性でないところにある。しかし,はじめからそうではなく,幼魚のときには立派に左右相称で,頭の両側に目がついている。成長するにつれて一方の目が移動し,片側に二個集まった状態になる。ヒラメではからだの左側に,その他のカレイでは右側に目が集まっている。ただし,ヌマガレイという海につうじた沼にすむカレイは大部分左側になっている。
そのように変態するころは,体長が一1〜二2センチメートルぐらいで,変態を完了すると四4センチメートルほどになり,その後成魚にまで成長する。Bさんはこのことは知っていたのだろうが,実際は変態前の一1,二2センチの幼魚が釣りばりにかかる可能性は少なく,その点から,他の魚を見誤った可能性がむしろ高いわけである。
解答51
エラから出る水。
→問題51
カニの泡というのは,口からだすものでなく,食事とは関係ない。カニの呼吸は,エラ呼吸であり,水中にとけている酸素を利用している。したがって,水をエラの部分に通すのであるが,水から出た時に,エラの中にも空気がはいり,それが粘液と一緒になりエラを通って出てくる間に,泡になるのである。ただし,すべてのカニが泡を出すとは限らない。
カニは水の外でもかなりの時間生きてゆけるが,これは,陸上でもエラのまわりにたまっている水分の中の酸素を利用しているからのようだ。
なお,カニの食物はおもに海中の魚や貝,時には植物性のものまで食べる雑食性である。パンでも飯でも食べるので,飼育する時には,そうした残飯でじゅうぶん。
解答52
魚もうきぶくろの空気を出し入れしているが,その方法が,人間の使ううきぶくろとは違う。
→問題52
魚のうきぶくろは,ほ乳類などの肺と発生学的には同じものである。したがってうきぶくろは最初,消化管と連絡していたものであるが,一部の魚(ウナギやメダカなど)を除いて,多くの魚はつながりがなくなっている。
魚類が水中を自由に遊泳し浮き沈みするたびに,水の比重と魚体の比重を同じにしておかなければ平衡を保てない。そのためにうきぶくろの体積を調節する。体積の調節をするためには,その中への気体の出し入れが必要である。
ところが,魚のうきぶくろは閉じられているのであるから,どこからガスの出し入れをするのかが疑問になろう。ウナギなど消化管とつながっている仲間は,その管を通して行なうが,閉鎖されているものは,うきぶくろの周囲にある毛細血管を通して,血液中の酸素や二酸化炭素を出し入れしていると考えられている。
つまり,魚ではうきぶくろへのガスの供給方法があるのに対し,ヒトの海水浴用のうきぶくろには,いったん栓をとじてしまうと供給方法がない。あわてて栓をぬいて空気をだしてしまうと浮かび上がってこられなくなるかもしれない。
解答53
サカナはレンズそのものを前後に動かす。
→問題53
サカナには足りないものがある代わりに,人間などにない余分なものがある。すなわち,人間はじめ両生類以上の脊椎動物では,出題に書いたようにレンズを横にひっぱって平たくしたり,ゆるめて厚くしたりする筋肉がついている。これを毛様筋という。
サカナではこれがない代わりに,レンズを前後に動かす筋肉がある。この筋肉は目の奥のほうからレンズへと斜め前方にむかっていて,収縮するとレンズを多少奥へ引きよせる結果になる。遠いものを見る際には,像が通常より手前に結ばれることになるから,レンズを奥へ引きこんで,網膜上にちょうど像がおちるようにする。
ただしサカナのレンズは,煮魚の目玉でおわかりのとおり,ほぼ完全な球形だから焦点距離はうんと近くて,概して近視である。水中ではどうせ,あまり遠くのものはよく見えないから,これでもかまわない。
解答54
普通の人間の形のまま身長を何十倍にすると,立っていられなくなる。
→問題54
大まかにいえば,人間を含めて動物の骨が体を支える能力は,骨の断面積(身長の二乗)に比例し,一方,体重は身長の三乗に比例する。したがって,骨と筋肉などの一般的体格を同じ率でそのまま大きくしたのでは,この釣り合いが破れて骨が身体を支えられなくなる。もし自由に活動できる巨人を作るとすれば,普通の人間より恐ろしく骨太に,とくに下肢の骨を太くすることが必要条件である。実際に動物の体でこのような関係が成り立っていることは,図のゾウとネズミの前肢を同じ大きさに描いたものからも明らかである(図割愛)。人間の特徴である重たい頭も,とてもそのままではいられない。
最大の陸上生物は,現存はしないが勿論,恐竜類であり,体長最大二五25メートル,重さ推定三〇30トンに達するものも知られているが,その骨格はやはり恐ろしく頑丈にできている。生物の体の構造は一見,なにげなくできているようにみえるが,たいてい環境や生活法と密接に関連していて,全体的な大きさや釣り合いも自由には変わりえない。
解答55
すこし不安である。
→問題55
動物にある芸をしこむときには,すべて条件反射という現象を利用している。この現象はソビエトのパブロフという学者が発見したもので,例えばイヌに食物を与えるときに必ずある特定の音を聞かせ,この訓練をくりかえすうちに,その音を聞かせただけでだ液を分泌するようになるというもの。
本来,イヌには音を聞いて反射的に,だ液を分泌する能力はないのであるが,食物を与えるときに音という無関係の刺激を与えておくと,新しい反射の経路が神経系にできあがる。このようにある条件を与えて作りだした反射というので「条件反射」となづけている。人間を含め高等な動物の多くの行動には,この条件反射が複雑に組み合わされており,無意識的に行なわれるような行動の中にも多くみられる。
サーカスでの動物の調教は,条件反射をたくみに利用したものといわれている。クマが曲乗りするのも一つの条件反射であり,その条件として,笛とかムチとかエサが使われている。したがって,条件づけをしたときの笛の音色が必要なのであり,もし,友人から借りた笛がクマに条件反射を起させなければ,曲乗りは失敗するであろう。だが,曲芸に熟練している時には,調教師を含む周囲の状況に反応して,曲乗りをするかもしれない。
解答56
A君はB子さんの希望を忘れたのではなく,たしかにたくさんの花を贈ったことになる。
→問題56
キクやタンポポのような花は,実は一つの花とみられているものが,たくさんの小さな花の集まりなのである。花のつき方の形式(花序)からいうと,「頭状花序」と呼ばれるもので,お皿状にひろがった茎の先端(花托)に,二種類のそれ自身各々がれっきとした一人前の花がついている。
中心部には,めしべ・おしべをそなえ,細い管状の花弁を持った「管状花」があり,そのまわりを,大きな舌状の花弁を持つ「舌状花」が取りまいている。
ちょっとみると,外側の舌状花の花弁だけが,本当の花弁のように見え,中心の管状花は地味なためめしべやおしべの集まりのような感じを受けるので,これら花の集まり全体が一個の花のように感じられるのである。
A君は普通一般にいっている“一輪の菊”ということばと,厳密な意味での花の数をひっかけて,いたずらをしてみたのだろう。
解答57
兄のいい分が正しい。
→問題57
酵母が糖類を材料にしてアルコールをつくりだす現象は,アルコール発酵として知られている。この反応は酸素を必要としない反応で,たとえばブドウ糖からの場合にはその収支決算はつぎの式であらわされる。
もちろん,この過程は複雑で途中までは筋肉の中で行なわれている解糖作用(糖類が分解して乳酸が形成される)と同様であり,ピルビン酸とよばれる物質(C3H4O3)を経てエチルアルコールになる。この間に酵母の生活に必要なエネルギーがとりだされる。
したがって,エチルアルコールをつくるためには,空気を送り込む必要はない。弟が見たという泡は,この反応で発生した二酸化炭素であろう。もし,空気を送り込むと,酵母はアルコール発酵を行なうよりも,途中のピルビン酸をさらに分解して二酸化炭素と水にしてしまい,多くのアルコールは得られない。
解答58
植物を密閉した容器に入れ,一定時間をおいて,容器内の酸素量と二酸化炭素量を計る。酸素が減り二酸化炭素がふえているようなら,植物は減食で「やせ」つつあることになる。
→問題58
植物は光合成で,(二酸化炭素)+(水)→(炭水化物)……(A)の合成を行なう一方,その細胞たちは動物と同じように,生活のエネルギーを呼吸で得ている。つまり(炭水化物)→(二酸化炭素)+(水)……(B)の過程をやっているのである。光がだんだん弱まれば,(A)の反応も弱まり,あるところまで弱まると(A)と(B)は釣り合って,見掛け上,容器内のガスの増減がなくなる。光の強さがこのようになる点を「補償点」といっている。
炭素源だけについていえば,光の強さが補償点以下であれば,植物は生きのびてゆくにつれて“やせ”てゆくはずである。どの程度の光量が補償点であるかは,植物の種ごとに違っていて,うす暗くてもはえる陰生植物ではこの値が低く,三〇〇300ルックスぐらいのものもある。
一方,日当りのよいところを好む陽生植物,たとえばイネとかクリの木とかでは,補償点は一〇〇〇1000ルックスをこえている。
天然の状態では昼と夜のサイクルがあるから,補償点という概念も,一日を単位として考えなければならない。
解答59
クマ。
→問題59
人間の体温計は普通,三五度35℃から四〇度40℃ぐらいの範囲が目盛られている。したがって,この範囲の体温をたもっているものでなければならない。
ほ乳類では,ひと口に冬眠といっても,クマのように平常の体温より二〜三度2〜3℃ぐらいしか低下しないものと,コウモリやヤマネのように体温が気温に相当してかなり大幅に低下してしまうものとの,二つの型がある。
変温動物の場合は,ヘビ・トカゲなどの例のようにほとんど気温と同じくらいにまで体温が低下し,活動ができなくなる。これらはからだにふれても動きだすことはないが,クマのような場合には,体温があまり変わらず,そばへ近寄ったときには動きだす可能性があるので危険である。
クマは,冬期食糧不足であるとき活動をにぶらせて,その消耗を少なくしているといわれている。
解答60
鳴かないのは二匹。無傷のスズムシとはねをなくしたもの。
→問題60
一般に昆虫が鳴くのは異性を求めるときと,なわばりを主張するときであり,オスに限られる。スズムシの涼しげな鳴き声も,オスのメスに対する求愛行動である。スズムシのメスは尾部に産卵管が剣のように突き出ているから,虫屋のオヤジは鳴きもしないメスを一匹売リつけたわけ。メスであるからには,いくら無傷でも鳴かない。また,スズムシはコオロギと同じように,はねをひろげそれをこすり合わせて鳴くので,肢や触角がなくても鳴けるが,はねがなくなっては鳴くことができない。
もちろん,昆虫によってはちがった発音方法をもっている。たとえばバッタの仲間では,前ばねと後ろあしをこすり合わせる。またセミの仲間は腹部にあるうすい膜を筋肉の収縮によって振動させ発音する。その際,筋肉収縮の命令伝達が神経を通してもたらされるが,その伝達の形によりいろいろの鳴き声が生ずる。
実験として,アブラゼミの伝達の形(具体的には刺激を与える時間や強さ)を別のセミの筋肉に与えると,そのセミはアブラゼミのような鳴き方をすることが知られている。
解答61
ウイルスは他の細胞の体内でなければ増殖することができないからである。
→問題61
ウイルスはもっとも簡単な生物ともいわれるし,「生物と無生物の境」ともいわれる。たとえばタバコ・モザイク・ウイルスなどが物質として結晶化できることはよく知られている。しかも,この結晶をタバコの葉にぬりつければ,ウイルスは葉の細胞にもぐりこんでどんどん増殖する。
生物らしいものの中で,ウイルスがもっとも簡単だというので,生命の存在できるぎりぎりの条件にある天体には,ウイルスだけがいるだろうとか,地球でもウイルスがもっとも早く生じたとか,錯覚をおこす人がときどきある。
しかし,少なくとも現在知られている形でのウイルスは,タバコ・モザイク・ウイルスならタバコの細胞,バクテリオファージなら細菌,脳炎ウイルスなら神経細胞というように,他の一人前の細胞に寄生して,はじめて生活・増殖できる。だから,他の生物がいないのにウイルスだけが存在するとか,ウイルスだけが最初に生じたということは考えにくい。むしろウイルスは,ある程度生命が発展してから,退化して生じた寄生生物と考えるほうが,理解しやすい。
解答62
日暮れ以後もある時間,照明をあてればよい。
→問題62
キクの花が秋に咲くのは,秋の一日の日照時間と関係しているからである。日本では,季節により昼夜の時間にちがいがある。春から夏にかけては昼が長く,秋には短かい。植物がこの日の長さに対して反応する現象を「光周性」と呼ぶ。
そして,昼が長くなる春に開花する植物を長日植物,秋のように短かくなると開花する植物を短日植物という。キクは後者の例で,コスモス・タバコなどもこの類に属している。これに対してアブラナは長日植物であり,開花には一定以上の長い日照時間を必要とする。したがって,まだ日照時間が短かいときに開花させたいのであるならば,人工的に照明して日照時間をのばしてやればよいわけである。
花が咲くためには芽の部分に花のもとになる芽ができる必要がある。普通の葉芽になるか花芽になるかに関係する物質としてホルモン(花成ホルモンとよぶ)が考えられている。そのホルモンが葉で形成されるときに日照時間が関係するようである。
解答63
原理的には可能だが,実際にはむずかしい点が多い。
→問題63
キンギョを含め魚類は変温動物で,水温に比例して体温が変化し,水温の低下とともにからだの機能も低下する。たとえばキンギョを小さなビーカーに入れ,周囲を氷などで冷やすと“呼吸”が急速に減少し,また逆にあたためると増大することが観察できる。
一般に生物の機能は,酵素の作用で進められており,この作用を進めるには必要な温度がある。この酵素は高温になるとだめになるが,低温では作用の潜在能力は失わない。したがって原理的にはキンギョを冷凍にしても,酵素の働きは保存されているので,あとで適温にもどせば働き出し,キンギョ自体も機能を回復する。
しかし,生物を凍らせても死なないのは,細胞のなかに氷ができず,体内のすき間だけに氷がある状態(細胞外凍結)だけに限られ,細胞中にも氷ができた場合(細胞内凍結)には,細胞の構造が破壊されるから死んでしまい,生物も生き返らない。
したがって,実際にはそのような条件に合った冷凍方法を考える必要がある。組織の冷凍保存では,グリセリンその他にひたして零度以下にし,氷を生じさせないようにして,ある程度成功しつつある。
解答64
外部から見えない物質の屈折率は,空気と同じであり,目のレンズがこのような物質でできていたら,光を屈折せず像を結ばない。だから当人も外界が見えないはず。
→問題64
『透明人間』は,H・G・ウェルズの有名なSFで,一九三〇1930年代に映画になった。主人公が薬のため体色がうすくなり,ついに透明になったのはよいが,もとにもどれず,全身をほうたいで包み隠すというよりは“包み現わし”ているが,やがて見えないことの便利さがわかってきて大胆になり,大活劇に発展してゆく。
この場合「透明」と「見えない」というのはちがうことがらであると,寺田寅彦が随筆の中で指摘していたように記憶する。ガラスは透明だが,空気と屈折率がちがうので,見える。透明人間は,やはりインビジブル・マンという原題を直訳して「見えない人間」としないと,正確でないことになる。
身体じゅうがこのような見えない物質でできていたら,網膜まできた光も,そこで捕えられることはできず,全部素通りしてしまうから,彼にはものの像が見えないだけでなく,光そのものが感じられないはずである。
解答65
どれにも相当しない。答えは,約四三〇430年後である。
→問題65
現在の地球総人口が三五35億だから,その二・五2.5パーセント,つまり毎年常に87,500,000人ぐらいの増加と考えると大きな誤りになる。人口一〇〇100億に達した年には,年率はその二・五2.5パーセントで二・五2.5億人増すことになるのだから。つまり複利計算,生物のたとえでいえば,ゆるやかなネズミ算で計算をしなくてはならない。後にかかげる(1)式は誤った考えにもとづく式,(2)は複利計算を示す(いずれもtは年数)。四三〇430年は概算値だが,けっして大間違いではない。
人口問題は,若年労働力とか年齢構成とかいう国家的利害のほか,もう少し長い目で,地球に増殖しつつある人間という生物種という目でも見る必要がある。すしづめになるはるか以前に,何かが起こることは生物学的必然なのだから。
解答66
不適合である危険の確率がかなりある(約10パーセント)。
→問題66
一卵性双生児ならたしかに問題ないが,この兄弟は二卵性らしいから,普通の兄弟間の関係と同じことだ(一卵性なら顔が瓜二つだから,病院でお友達ですかとは聞くまい。兄は足をやられたのだから,顔にはほうたいは巻いておらず,確認できたはず)。
さて両親がB型でも,その遺伝子型が両親ともにBOならば,子の血液はB型のことと,O型のことがある。兄がO型,弟がB型であれば,輸血はぐあいが悪い。
ところで,両親が遺伝子型BBかBOかの可能性が,五分五分と考えてはいけない。遺伝子出現の頻度は国や地域でちがうが,日本ではO遺伝子がB遺伝子の約三倍も多い。見掛け上B型の人のうち四分の三4分の3は遺伝子型がBOである。両親ともBOの組み合わせの可能性がで,五〇50パーセント以上あることになる。遺伝子型BOの両親から生まれる子は,BB,BO,OB,OOのどれかの組み合わせであり,前三者は血液型としてはB型,最後のものはO型になる。つまりB型の子が生まれる可能性が四分の三4分の3,O型が四分の一4分の1である。だから,兄がO,弟がBという特別の組み合わせになる機会は。
結局,見掛け上B型の両親から,兄がO型,弟がB型という特別の組み合わせが生まれる可能性は,で,十分の一10分の1以上の危険度があることになり,軽視できない。
解答67
紅色にみえる物質は青い光をよく吸収することに,A君は気がついた。
→問題67
紅藻類の色が,深い水中で青い光だけが達してくることへの適応と解釈したのは,一〇〇100年ほど昔のエンゲルマンであり,「補色適応説」という。ある色彩Cの補色というのは,白色光からCを除いた残りの色調である。物体がCという色にみえるのは,Cだけを反射し,残りは吸収してしまうことだから,補色の光線をこの物体にあてれば,全部吸収されて黒くみえるはずだ。青い蛍光灯と生肉の紅色はほぼ補色関係にあるので,光の吸収程度が高く,黒っぽくみえる。紅藻と,水底の青い光線もちょうど同じ関係だ。A君はこのことに気がついたのである。
植物の光合成で光のエネルギーが利用されるためには,光は植物に吸収されなくてはならない。ある色調の光を能率よく吸収するには,補色であればよい。そこで補色適応説が生まれた。ではなぜ,白色光に照らされている陸の植物の葉は黒色でないのかと読者は反問されるだろう。現実に黒くないのだ,と答えるほかあるまい。要するに補色適応説は,海草の特徴ある分布を説明するためにだされた一つの仮説であり,植物全部にあてはめるべき法則ではない。
補色適応説の原型は単純すぎて修正されたが,アイデアは今の説の中にも生き残っている。
解答68
分類学的にはタラバガニは真正のカニ類に属さない。
→問題68
タラバガニのかんづめのレッテルの絵をよく見なおすと,二本のはさみのほか,大きい脚は六本しか見えないことに気づかれるだろう。生物学の授業では,カニ類ははさみが二本,脚は八本と教わるはずだ。一般に,カニ・エビといわれている仲間のうち,有名なものをいくつか選んで親類関係を示すと,下の表のようになる。
料理屋でまないたに乗るカニ類とタラバガニは,類が違うというものの,隣りあわせで縁は近い。これを区別していた日には,クルマエビとイセエビのどちらが真にエビかその本家争いも起こりかねない。やはり負けおしみというほかないだろう。
解答69
卵細胞は一般体細胞よりもけた違いに大きい。
→問題69
卵細胞は,一般にどの動物でも,初期の何回かは栄養分を外から補給せずとも分裂・発生を続けてゆけるように,大型になっている。そして,胚の全体としての大きさは分裂によっても増さず,細胞は数はふえるが小型になってゆく。もし五5回の細胞分裂まで胚の大きさが増さないとすれば,このとき細胞は 25 = 32 で三二32個になるから,一個ごとの細胞の大きさ,あるいは目方は1/32になっているはずである。
仮りに一般体細胞の直径が卵細胞の1/40とすれば,体積はその三乗,つまり六万四〇〇〇分の一6万4000分の1となる。これにもとづいて成人の体重を推定すれば,( 4×109) g×1 / 64,000≒60 kgである。もちろん,ここで1/40としたのは,答えを合わせるために逆に計算してはじきだした数字であるし,実際の人体では骨などの,細胞以外の部分の重さもかなりあるので,以上のような議論は一種の遊び以上のものではない。しかし,卵細胞が例外的に大きいことと,受精卵の初期の分裂では胚全体としての大きさは増さないという二点は,一般的にいえることである。
解答70
筋肉はやはり自分では縮むことしかできない。曲げた腕をごくゆっくりのばしてゆくときには,腕の内側と外側の両方の筋肉が同時に縮んでいるのである。
→問題70
筋肉収縮のしくみは第六6章の解説に書くように,アクチンとミオシンの横すべりによるものであって,弾力をもって伸縮するバネやゴムひもにたとえるわけにゆかない。筋肉の収縮のほうは,ATPを利用する積極的な作業だが,それが再びのびるのは,反対側の筋肉の収縮で受動的にひっぱられてもとに戻るだけである。だから関節には,かならず反対方向に動かす二個の筋肉がなくてはならない。
伸筋ということばがあるが,これは関節をのばす方向に作用するということであり,筋肉そのものがのびる力をもつという意味ではない。実際に関節が曲がるときには,反対に働く二種の筋肉が同時に多少とも収縮するのであって,そのうちどちらの収縮がより強いかにより,関節の動きの方向がきまる。
これは一見むだなエネルギーの浪費のようだが,M君の問題にしているゆるやかで円滑な動きのためにはぜひ必要なことである。これは次のように考えるとわかりよい。綱引きで両軍が綱を引き,しかも一方が強ければ綱はゆるやかに一方向に移動する。しかし,一方が完全に手を放してしまったら,綱はゆるやかにうまく移動するだろうか?
解答71
唇が赤いのは血液の色のせいで,色素が多いためでない。
→問題71
一般に皮膚には表皮層の下に真皮層があり,真皮層には毛細血管が多く分布している。唇の表面は主として真皮層であり,表皮層がごくうすい。このため,毛細血管内を流れている血液の色がすき通って見えるのである。
発生の過程を調べてみると,唇の部分は消化管と同じように,「内胚葉」と呼ばれる細胞の集まりからできたものであり,一方,普通の皮膚は,「外胚葉」と呼ばれる細胞群からできたものである。このように発生学的にも異なった起原をもっており,必然的に構造がことなったものとなっている。
なお,外胚葉からできるものには,普通の皮膚の他に神経系があり,内胚葉からは呼吸器系の肺がある。また,内胚葉から発生の途中で「中胚葉」というのができ,筋肉や骨格を作る。
解答72
あり得る。
→問題72
筋肉を動かすのには,そこにのびている神経を通して刺激が与えられなければならない。もちろん,実験的には筋肉を直接刺激してもよいのであるが,生体内ではすべての筋肉は神経系の支配を受けている。平常は腕の筋肉へは運動神経を通して脳からの命令が伝えられる。あるものをもちあげるときには,密接な共同作業がなされており,腕の筋肉繊維のすべてが同時に収縮するのではなく,一部は脳からの指令で抑制され,適度な収縮をもたらしている。
しかし,一旦,異常事態になると脳からの抑制作用がなくなり,すべての筋肉繊維が同時に収縮し,普通出している力に比べて,驚くほど大きな腕力を発揮する。
“火事場の馬鹿力”といわれるものも,このようなメカニズムで出るもので,カエルの筋肉を用いた実験では,その力は平常の力の約三倍ということが確かめられている。この実験方法は,脳を切りとったカエルと,正常なカエルの肢の筋肉の収縮力を測り比較するのである。
解答73
サントリオの結果ほどではないが,やはりかなり体重は減る。
→問題73
目にみえない全身からの水分蒸発を,不感蒸泄《じようせつ》と呼んでいる。その量は,サントリオの算定にもとづけば一1時間で約五〇50グラム,一日に換算して一・三1.3キログラム近くにおよぶ。水分は皮膚の表面からだけでなく,肺内面の粘膜から,呼気にのって排出されるぶんもかなりの割合を占める。だから,汗腺のない動物でも,呼吸をしているかぎり不感蒸泄がある。
いま問題の“フロッグマン”についても事情は同じなので,汗のぶんだけはおさえられるが,呼気中の水分で,体重はやはり減る。そのほかに,呼気として吐きだされる二酸化炭素(CO 2)(CO2)は一日九〇〇900リットルくらい,重量にして約一・七1.7キロにおよぶ。そのうちで炭素Cは,12 / (12 + 16×2) = 3/11を占めるので,約四五〇450グラムの炭素を一日に吐きだすことになる。一1時間当たり二〇20グラムぐらいである。とすると,肺からの不感蒸泄もあわせて,わずか一1時間で数十グラムぐらいは着実に体重は減るはずだ。精度のうんとよいはかりなら,三十30分でも測定できるだろう。
なお体熱は,体内での食物物質の分解で,化学結合の化学エネルギーが熱エネルギーに転化しただけのものだから,熱を発散しても直接体重にはひびかない。体温上昇で,水分やCO 2 CO2の放散がふえる間接的な影響はあるだろうけれども。
解答74
パチンコ玉は坊やの体の“外”にある。
→問題74
私たちは消化管の中を普通,体の“中”といっている。しかし,消化管は,奥まっているけれども,何の境界もなく外界と通じている。ドーナツの穴のまん中にパチンコ玉をおいたとき,必ずしも,玉はドーナツの“中”にあるとはいうまい。ドーナツをそのままやたらに縦に引きのばしたとすると,玉は一見,見えなくなるが,事情は同じことである。
ドーナツの皮をやぶって,玉を小麦粉の実質の“中”に押しこんだとき,はじめて問題なく“中”にはいったといえるのである。
人体でも,ものが消化管の壁を通りぬけ,あるいは破って肉体の実質に触れたとき,ものは真に中に入ったのである。ものを飲んだとき,液体や粉末薬品であれば,たいてい壁をすぐに通りぬける(粉末は一度溶けて)から,毒物なら危険である。しかし,パチンコ玉のように丸くて,しかもけっして溶けないものであれば,気管でなく食道のほうへ落ちてくれるかぎり,危険はまずない。けっして体の“中”には入らないから。
もちろん放っておいてはいけないが,あわててかえって怪我などさせないように,おちついて病院にゆけばよい。大きいものや鋭いものは,警戒が必要であるが……。
解答75
盲人でも感じるときがある。
→問題75
頭をぶつけたとき,“目から火がでる”というのは,実際に火がでるのでないことは,誰にでもあきらかなことであろう。
人の大脳には光の刺激を受け取る部分があり,視覚中枢と呼んでいる。普通には目の網膜にある視細胞で光の刺激をキャッチし,視神経を通して大脳の視覚中枢に伝えている。しかし,必ずしも視細胞や視神経を経なくても,視覚中枢は光を見たと感じることができる。すなわち,視覚中枢へ直接刺激を与えても感じるのである。
この場合には,光でなくそれ以外の物理的というか機械的刺激でもよい。正面衝突で頭をぶつけた場合には,そのときの力が大脳の後頭部にある視覚中枢を圧迫し,感覚を起こさせると考えられている。
したがって,盲人の場合でも視覚中枢が正常であれば,目から火が出たと感じる可能性がある。盲人の場合には,視神経が悪い場合,視覚器が悪い場合,視覚中枢が悪い場合,それらの組み合わさった場合などあるので,すべての盲人に可能性があるとはいえないわけである。
解答76
応募者から血液を取り,顕微鏡で赤血球数を数え,少ない人を低地人と判定した。
→問題76
ほとんどどの生物も,とくに高等生物は,酸素呼吸によって,食物を燃やしてエネルギーを得ている。下等生物は,体液に直接溶け込んだ酸素だけを使って生きている。しかし,進化の過程で,もっと能率よく酸素を取り込む“酸素運搬役”が生まれた。これは酸素と結合しやすい一種の色素で,脊椎動物の場合,「ヘモグロビン」と呼ばれる赤い色素がその役目を果たしている。
このヘモグロビンは,赤血球の中にはいっており,その赤血球数は,平均,一1立方ミリの血液中に男五〇〇500万,女四五〇450万といわれている。ところが,高地では平地に比べて酸素が少ないので,それを補うためには,血液の酸素運搬力をふやさなければならない。このため,高地に長い間生活した人のヘモグロビンの数は,平地に住む人より多い傾向がある。
検査所の医師は,この点に目をつけて高地人と平地人を見分けたのである。
実際,アンデスの高地人は赤血球数七〇〇700万ぐらいと,平常人より四4割も多いという報告もある。
解答77
(1)一個ずつの細胞にまで神経は達していない。(2)細胞が一個ずつ死んでいったら,死ぬのにひどく時間がかかる。
→問題77
感覚神経の終末は,たとえば皮膚をみても,全皮膚をびっしりおおっているようにみえるが,細胞レベルに拡大してみれば,神経以外の一般細胞のあいだに,遠く離れてあちこちに点在しているにすぎない。熱いものから手をひっこめてやけどせずにいられるのは,温度の感覚細胞が,「皆を代表して」自分だけが「熱い」という情報を送って手全体をひっこめるきっかけを作ってくれるからである。神経終末の隣,またその隣にある一般細胞が「感じた」熱さを「知り」,これを伝えるわけではない。同様に,一般細胞が「死んだ」のを「知る」ことはできないだろう。
また人体の細胞は一〇〇100兆個ぐらいあるという。細胞が一個ずつしらみつぶしに死ぬのでは,百分の一100分の1秒に一個ずつの超スピードでも,全身が死にきるのに三3万年かかるだろう。百歩ゆずって,細胞が一〇〇〇1000個ずつまとまって死にはじめ,しかもからだの十ヵ所の末端から同時に中心(中心とはどこだろう?)にむかって進んでゆくとしても,どうしたって三3年間かかることになる。
とぎすまされた死の瞬間には,こうした平凡な生物学は通用しないと主張されれば,これはもう,何をかいわんやである。
解答78
切り離して体外に取り出した胃袋のタンパク質は,胃液で分解される。
→問題78
普通,われわれの体内に胃袋があり,機能が正常に働いている時には,胃袋は胃液の作用を受けない。そのしくみとしては,次のように考えられている。まず,胃粘膜の細胞中のペプシンは,作用力をもたないペプシノーゲンという形で存在している。いわば小刀がさやをかぶった形である。これが分泌され,胃酸にふれると,さやが外れて活性型になる。つぎに胃の細胞には,胃液中のタンパク分解酵素(ペプシン)の働きをおさえる「抗酵素」なる物質が,胃壁に存在するのだろうとみられている。
しかし,胃袋を切り離して体外へ取り出すと,胃袋のタンパク質は胃液によって分解されてしまう。それは生体内では自己防衛的に働くしくみが,その機能を果たさなくなると解釈されているが,こまかなことはまだわかっていない。
このような現象は,他にもいくつかみられる。毒蛇が自分の毒にやられなかったり,デンキウナギなど電気を出す動物が,自分は感電しないのは,その一例である。
解答79
輸血で相手に入りこむ血清のことも考えにいれると矛盾がでてくる。
→問題79
輸血の際には,血球と血清をふくめた,いわゆる全血が与えられる。いまO型の血をAの人に与えたとする。与えている血液のうちの血清成分には,出題中に記したとおり「抗A抗体」は存在している。これと,受血者の血球とは反応をおこしてしまうはずだ。
実際にはO→Aの輸血をやっても大丈夫である理由は,量的なことなのである。つまり,輸血で侵入する血清は少量であり,受血者本人の全身の大量の血清で薄められるから,供血中の血清が受血者の血球をとらえて凝集させる反応が事実上おこらない。
しかし,供血中の血球は,受血者の体内で数こそまばらになるが個々の細胞というまとまりかたをしており,細胞がこわれて一様に薄まるわけではないから,相手の血清に抗体があれば捕えられてしまう。
実際,大量輸血の際には,侵入してゆく供血者の血清が,受血者の血球に作用する危険もありうるので,同型の血液のみを使うように注意されているようである。
解答80
右手で左手をおさえた。
→問題80
ひざをたたくと,脚のとびあがる反射は,だれでもよく知っている。これは文字どおり反射であって,足をとめておこうと決心などしても,それで簡単におさえられるものではない。もし,あまりとびあがらないようにみえることがあったとすれば,これは叩きかたがへたであったのか,または脚の裏がわの筋肉をつよく緊張させて準備していたために,大きくとびあがるのが観察できないうちに,すぐ引きもどせたにすぎないと思われる。(叩く刺激)→(感覚神経)→(脊髄)→(運動神経)→(脚をあげる筋肉の収縮)と伝わる一連の信号の流れは,意志や決定によっておし止めることはできない。
出題の例でも同じこと。(電気刺激)→(左手の筋肉へゆく脳細胞)→(脊髄)→(左手をあげるような筋肉収縮)と伝わる一連の信号の流れは,意志や決心によっては止められない。筋肉収縮による手の持ちあがりを防ぐには,外力でこれをおさえつける以外にない。寝台に横たわる患者にとって,右手の力以外に,便利な「外力」はない。
ところで,この患者にとって,以上の実験はふしぎな問題を提出する。「私」の左手と「私」の右手が格闘している。真の私はいったいどちらだろう? これは,だじゃれではない。哲学的な大問題のいとぐちともいえる。ここで論ずることはできないが,みなさん考えてください。
解答81
値が低かった。
→問題81
液体について,「パスカルの原理」というのがある。密閉容器中で一点の圧力をある大きさだけ増すと,この液体が容器を押す圧力はすべての点で同じだけ増す,というものである。たぶんBさんは,昔,学校で習ったこの原理を何となく思いだして,血管はひとつづきの密閉容器だから,圧力はどこでも同じと思ったのかもしれない。
ところが,パスカルの原理には大事な前提が一つある。それは,液体が静止しているということだ。ところが血液はたえず流れている。動脈中の血圧は,上手《かみて》と下手《しもて》,すなわち中枢から末梢へとしだいに減っていて,それだからこそ血液はいつも一定方向におし流されるのである。パスカルの原理は通用しない。
血圧の生ずる根本原因は,いうまでもなく心臓の収縮であり,収縮で押しだされた血液が動脈をむりにおし広げて進んでいくといえる。広げられた動脈が押し返す圧力,逆にいえば血液がそこの動脈壁をおしつけている力,それが血圧だ。したがって動脈の同じ個所でも,心臓が収縮しきったときと広がったときで,現われる血圧はすこしちがってくる。
血圧の低下は,毛細血管のすぐ手前あたりで急激だが,上腕と前腕でも,少しは違う。とにかく,こうした測定は,専門家にまかせることだ。
参考図書 (一般向きに書かれたもの)
〈科学の方法〉に関するもの
『科学的人間の形成』 明治図書 八杉竜一著
『続・科学的人間の形成』 明治図書 八杉竜一著
〈生物学一般〉に関するもの
『われらの科学・生物学』全3巻 平凡社 ハーディン著,長野敬・金関義則訳
『原色現代科学大事典』第七7巻「生命」 学習研究社 吉川秀男編
『新しい生物学』 講談社 野田春彦・日高敏隆・丸山工作著
『現代生物学入門』全九9巻 岩波書店 スワンソン他著 佐藤七郎他訳
〈生物学各分野〉に関するもの
『DNA――二重らせんの秘密』 みすず書房 L・レッシング著 丸山工作訳
『生命の糸』 みすず書房 ケンドルー著,和田昭充他訳
『種と進化』 三省堂 河野昭一著
『進化とはなにか』 講談社 J・ハクスリー著,長野敬・鈴木善次訳
『光と緑の葉の秘密』 東京図書 クチューリン著,佐藤満彦訳
『細胞』 白水社(文庫クセジュ) アンリ・フィルケ著,森下周祐他訳
『発生と分化の原理』 共立出版 モダンバイオロジーシリーズ ウオデイントン著,岡田節人・岡田瑛訳
『細胞学入門』 みすず書房 アフセリウス著,毛利秀雄訳
『動的生化学』 岩波書店 ボールドウィン著,江上他訳
『生命現象の化学』 共立出版 チェルデリン・ニューバラ著,野田春彦訳
『生態学』 築地書館 オダム著,水野寿彦訳
『自然と生命のパレード』 白楊社 ストアラー著,浦本昌紀訳
『生命現象の調節』 紀伊国屋書店 柳島直彦・増田芳雄共著
パズル・生物入門《せいぶつにゆうもん》
講談社電子文庫版PC
長野 敬・鈴木善次 著
Kei Nagano, Zenji Suzuki 1969
二〇〇二2002年三3月八8日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二2‐一二12‐二一21
〒112-8001
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