長部日出雄
鬼が来た(下)棟方志功伝
目 次
「十二月八日」前後
現 実 と 夢
海に続く道
二 重 の 鍵
さまざまな|根《ルーツ》
根源への旅
大 団 円
あ と が き
[#改ページ]
「十二月八日」前後
戦時色が一層きびしさを加えて来たころだった。街角には出征兵士の武運を祈る千人針の布と針を手にした女性が憂い顔や口を固く結んだ決意の表情で立ち、背中から煙をあげて本炭自動車が走り、すでに米味噌醤油小麦粉塩砂糖それにマッチ木炭などの生活必需品はすべて切符制の配給になっていて、その主食の米の配給も、普通の大人は一日二合三勺強に制限されていたある日、後に述べる田中俊雄の家で、亀倉雄策と顔を合わせた志功は、困ったような顔をしてこういった。
「おれはいま、観世音菩薩を彫りたいんだ、女で裸の観世音菩薩を……。ところが、われはまだ、女の裸を見だごとがない。それで困ってるんだ」
「絵描きのくせに、女の裸を見たことがないのか」
亀倉は呆れて問い返した。志功は|頷《うなず》いて、本当かい……と念を押した亀倉に、「うん。生まれてから、一度もない」と真顔で断言した。
「そんなの別に困ることないじゃないか。モデルを写生すればいい」
「それが、おれにはよぐ見えないんだ。眼が悪いからね。あんまり傍さ近寄って見たり、触ったりしたら、怒られるだろうし……」
「……なるほど」
亀倉は頷いた。確かにそれは怒られるかも知れない。それにモデルを探すとしても、この戦時下では、とうてい見つけることはできないだろう。思案しているうちに、そうだ、あれを見せればいい……とおもいついた。かれの家には、出征した友人からひそかに預っていたある種のアルバムがあった。いまとは比較にならないほど厳重な法の目を|竊《ぬす》んで作成された写真だから、複写に複写を重ねられて、朦朧とした映像になっていたり、あわただしい現像処理のせいで薄茶色に変色したりしているのも多かったが、そういう写真を蒐集し大切に保存していた友人が、召集令状を受けて、秘蔵のアルバムの処置に窮したあげく、かれに預けて行ったのである。その話をすると、志功は真剣な顔つきで、是非、見せてくれ、といった。
約束の日に、志功は赤坂の榎坂町にあった亀倉の家にやって来た。まえにも遊びに来たことがあり、食事を出すと料理の腕前を激賞しながら食べるので、志功は文代夫人にも気に入られていた。夫人に大声で挨拶を済ませて部屋に入って来たかれに、亀倉はアルバムを出して見せた。いつもは殆ど沈黙することがなく、片時も|凝《じつ》としていない志功が、このときばかりは無言のまま、分厚い眼鏡を朦朧体や薄茶色の映像に近づけ、大きな眼を一杯に見開き、時折アルバムの頁をめくる動きのほかは、食い入るようにして見入っていた。志功の額には大粒の汗が浮かび、それは頬を伝って顎から下に滴り始めた。よほど深甚なる衝撃を受けている様子であった。
亀倉は志功が、なかなか自己演出の術を心得ているのに気がついていた。土門拳と亀倉雄策と棟方志功。当時の三人の共通点のひとつは、強靭な胃袋を持つ大食漢であったことで、一日二合三勺強に制限されていた配給米では、とうてい満たされない空腹を抱えて、いつも心待ちにしていたのが、「月刊民芸」の編集者で琉球織物研究の第一人者である田中俊雄の招待だった。田中は米沢織の大きな機屋の長男で、ときおり山形県米沢の実家から、東京では貴重品となっていた牛肉や砂糖、酒、小豆などが届けられて来るたびに、腹を減らしている三人の仲間を呼び、知らせを受けると亀倉は何を|措《お》いても駆けつけたが、いつも志功が一番先に来ていて、これ以上ないといった嬉しさを満面に|漲《みなぎ》らせた笑顔を見せていた。宴が始まり、酒を猪口で一杯も飲むと、志功は忽ち酔払って、大騒ぎをした。よほど酒に弱いのか……とおもうことが何度かあって、そのうちに亀倉は、志功が今どき珍しい|椀飯振舞《おうばんぶるまい》への感謝感激の念を示し座の興趣を一層盛上げるために、酔ったふりをして騒ぎ立てている面もあることが判って来た。
田中家のほかに三人が当てにしていたのは水谷良一家で、愛知県西枇杷島町で味噌醤油醸造業を営んでいる実家をもつ水谷の家も、まだ食物が豊かだった。水谷は志功の画業のほかに、土門の写真と亀倉のデザインにも嘱望していて後援者になっていた。冬のある日曜の午後、三人が連れ立って水谷家を訪ねたのは、晩飯が主要な目的のひとつであったのに相違ないのだが、水谷のほうでは物質的な面ばかりでなく精神的な面でも前途有為な三人の後援者にならなければならないと考えていたからだろう、かねて用意していたらしい谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』に関するノートをひろげて延延と講義を続け、あたりがそれこそ陰翳を礼讃する谷崎の説を実証するかのように薄暗くなり、電気がつき、いつもの夕食時をすぎても、一向に終る様子が感じられなかった。
日本建築や和紙や漆器のよさを語る『陰翳礼讃』は、いわば谷崎流の民芸理論のようなところがあり、それに水谷が実際に習っている能の陰翳美を説いた部分もあるので、おそらくかれは最艮の理解者であると自負していて、また光に対する陰翳の大切さを強調した谷崎の説は、写真家の土門、デザイナーの亀倉、版画家の志功の三人に対し、まことに重要な意味を持つものと考えてその神髄を説き明かすことに、時間が経つのも忘れて熱中していたのだろう。
三人のほうは水谷家の晩飯を当てにして、昼飯を抜いたり、代用食で軽く済ませたりして来ていた。空腹に耐えかね晩飯を待兼ねて、亀倉は他の二人の横顔を|窺《うかが》った。土門は頬が|痩《こ》けた分だけ余計ぎょろついて見える大きな眼で睨みつけるようにして聞入っていた。志功もおなじように真剣な眼つきで、いかにも感心したように唸ったり、しきりに頷いたりしていた。それでいて亀倉の視線を横顔で敏感にかんじとったのか、炬燵のなかで胡坐をかいている志功の足の爪先は、亀倉の膝を|突《つつ》いて、なにやらさかんに信号を送って来ているのである。(……ははあ、棟方もあんな顔をしていながら、実は晩飯が待ちきれなくて|痺《しび》れを切らしていたんだな)とおもった途端に込み上げて来た笑いを、亀倉は暫く必死になって|怺《こら》えていたが、その間にも志功から送られて来る足の爪先の信号はやまないので、とうとう怺えきれなくなって吹出した。
ほかの二人は真面目な顔をして聞いているのに、まんなかの一人だけが、突然ふき出したのだから、「なんだ、人がせっかく一所懸命に話しているのに……」と、水谷のご機嫌を亀倉はすっかり損ねてしまった。以来、亀倉は志功が見かけによらず自己演出の術を心得ており、演技の達人でもあることを認識していたのだ……。けれども、厳重な法の目を竊んで作成された写真に、顔から汗を滴らせて凝然と見入っているうちに感に耐えたような唸り声を発し始めたいまの志功には、まったくといっていいくらい演技の気配がなかった。
「おまえ、初めて見たのか」
という亀倉の問いに、
「天に誓って初めてだ。おれは|魂消《たまげ》だ」
志功は長い溜息をつき、手の甲で額の汗を拭った。
「このアルバムの持主が、帰って来るまでに返してくれればいいから、持って行けよ」
そう亀倉がいうと、とんでもない、といった風に眼を丸くして手を振り、
「女房に見つかったら大変だ。四枚か五枚だけ、貸してくれ」
亀倉の承諾を得て、自分でアルバムから慎重に選んで剥がしとった写真を、しっかりと紙に包んで着物の懐にしまいこんだ志功は、これまで見たことがないほど、神妙な顔つきになって帰って行った。
このとき借りて行った写真をもとに、志功が制作したのは、時期や亀倉にいった言葉の内容その他から考えて、たぶん昭和十六年秋の第四回文展に出品された『不空|羂索頌《けんさくしよう》・摩訶般若波羅蜜多心経版画鏡』ではないかとおもわれる。
勉強家の志功が、仏教に関心をもち始めると間もなく、般若心経を暗記してしまったことはまえに書いたが、全文が二百六十数字の短いお経とはいえ、なかには難しい漢字も含まれているのに、一字も間違えることなく書けるようになるまで、じきに覚え込んだというのだから、やはり特異な記憶力の持主であるといわなければなるまい。大乗仏教の根本思想である空の理法を説く『大般若経』六百巻の精髄は、つきつめるとこの一巻のなかにあるといわれている三蔵法師|玄奘《げんじよう》訳の般若心経を、爾来かれは絶えず|口遊《くちずさ》み、あるいは胸のなかで唱えていたものとおもわれる。
[#1字下げ]|観自在菩薩《かんじざいぼさつ》。|行深般若波羅蜜多時《ぎようじんはんにやはらみつたじ》。|照見五蘊皆空《しようけんごうんかいくう》。|度一切苦厄《どいつさいくやく》。|舎利子《しやりし》。|色不異空《しきふいくう》。|空不異色《くうふいしき》。|色即是空《しきそくぜくう》。|空即是色《くうそくぜしき》。|受想行識《じゆそうぎようしき》。|亦復如是《やくぶによぜ》。|舎利子《しやりし》。|是諸法空相《ぜしよほうくうそう》。|不生不滅《ふしようふめつ》。|不垢不浄《ふくふじよう》。|不増不減《ふぞうふげん》。…………
いまではよく知られているように、このなかの「|色《しき》」というのは色欲や女色を指すのではなく、「物」という意味で、有名な「色即是空。空即是色」という文句は「物には実体がなく、実体のないのが即ち物なのである」という意味のようであるが、かつて『華厳譜』を彫ったさい水谷良一からの華厳経の内容について講義を受けながら、いざ制作にかかったときには「華やかにして厳かに」とだけ唱えながら彫り続けたように、こんどの場合も志功は柳宗悦や水谷から般若心経の正しい解釈を聞いていたにしても、それにとらわれることなく、色即是空の「色」を文字通り、女色か色欲の意に解して彫りたかったのだろう。だからこの作品には是非とも、裸の女体を登場させたかったのに違いない。
また、いかに勉強家であるとはいっても、深遠にしてかつ厖大な仏教の思想言語体系に、そんなに早く通暁できるわけはなく、このころから志功には、仏教を主題にして絵描き仲間に長広舌をふるい、なかに使った仏教用語の意味を質問されて、|狼狽《うろた》えるようなことも起こってくる。質問した仲間のほうには、『|勝鬘譜善知鳥《しようまんふうとう》版画|曼荼羅《まんだら》』とか『|呵※[#「口+云」]譜《あうんふ》二菩薩釈迦十大弟子版画屏風』とか『|閻浮檀金《えんぶたんごん》頌門舞男女神人像版画屏風』といったかれの作品の題名にも感じられる威圧的な|衒学癖《ペダントリー》を、ちょっとからかってみたい気分もあったのだろうが、問い返されて狼狽の色を示した志功のほうも、実際には正確に知らなかったことを、それほど恥ずかしくおもっていた訳ではないだろう。何につけても我流であり、自分の直感を信じて、それを頼りに物事の核心に迫ろうとするのが、かれの本領であったからだ。
志功は後年、女体を彫るときには、まず結局は秘められる箇所も隠さず丁寧に彫ったのち、それを削りとって消し去るのだ……という意味のことを洩らしたことがあるけれども、いま画集によって見ると、この『般若心経』のなかにも、そうしたのではないかと感じられる形跡のある図がある。「色即是空 空即是色」という文字が彫り込まれた画面に描かれている女体が、それである。あるいはこのときも、女性の物自体を彫ったのち、それを削りとり消し去って、「物には実体がなく、実体のないのが即ち物なのである」という般若心経の命題に、かれ流の迫り方をしていたのであったのかもしれない。
かれはまた後年、『板頂礼』と題したエッセイで、次のような感想を述べている。「写生したままを描き、それを彫っても板画にならないということを書きましたが、ほんとうにそうなんです。裸体(ハダカ)の、マッパダカの顔の額の上に丸い星をつければ、もう立派な仏様になって仕舞うんだから、ありがたく、|忝《かたじ》けないんですね。それが、ホトケさまというものなのです」…「その額の星が、つくと、付かないので、タダの素裸の女であったり、ホトケサマに成り切ったりするという、大きな世界は、うれしいものです。板画という大世界こそ、そうしたモンなんです」
確かに全裸の女体が登場した『般若心経』においても、すべての顔の額に、黒か白の星が付されており、そうすることで変身の大好きな志功は、裸女を般若心経の主人公である観自在菩薩(観世音菩薩)に変身させているのである。
厳重になる一方の法の網の目を潜って密かに流通している写真を素材に、般若心経を彫り、それを大東亜戦争勃発直前の文展すなわち文部省美術展覧会に出品した……という以上の推定が当たっているとすれば、そのような発想の仕方と制作の方法は、まことに人を食っているというか、かなり大胆不敵なものであるといわなければならない。この昭和十六年が、ことに美術家にとって、どのような年であったか、といえば――。
「……芸術家だけが価値ありとしてもそれは駄目だ。一般の国民も国家も之を認めず唯一人で喜んで居つてはいかぬ。松沢病院の狂人が描く様な円とか三角を描いて、誰が見ても分らぬのに芸術家だけが価値ありとしても、実に馬鹿らしい遊び事である。この国家興廃の時にあゝいふ贅沢なことをして呑気に構へて居つては困る。やはり時局に|相応《ふさ》はしい思想感情を表現して国家機能を担当しなければならぬ。吾々は素人で芸術に|喙《くちばし》を容れる資格がないといふが、今日国家の為に大根が必要だ、菜葉が必要だといふことは言へる」
「素人だから口を挟む権利があるのです」
「自己満足の絵といふものは禁止して貰はなければいかぬね。今の国家の方針で行つたら、自他共に不解な絵はやめてもらひたい。自己満足なのなら展覧会に出さなくて家に飾つて置けばよい。日本の国家が其人達に紙やカンバス絵具をやつたりする事は本当に不思議に思はれる」
「……だから幾ら自由主義を|翳《かざ》して威張つて居つてももう駄目です。言ふことを聴かなければ絵具とカンバスは思想戦の弾薬なりといつて配給を止めてしまふ。さうして展覧会を押へてしまへばそれつきりです」
これらは「みづゑ」昭和十六年一月号の座談会『国防国家と美術――画家は何をなすべきか』における陸軍省情報部の二少佐と一中尉の発言の抜粋であり、ほかに出席する筈だった何人かの画家は、いずれも急に差支えができて、結局、民間側から出席したのは編集部員と、いまでは名前を聞くこともない美術批評家が一人だけとなり、座談会の口火は、その美術批評家の「……所で鈴木少佐の美術に対する強硬論を一席拝聴したいと思ひますが、如何ですか」という発言によって切られていた。つまり昭和十六年の初頭から、美術界は「言ふことを聴かなければ絵具とカンバスは配給を止めてしまふ」という陸軍情報部内の強硬論者と、それに阿諛追従する者の天下になっていたのである。
この座談会の記事を読んだ二十八歳の画家松本竣介は、痛憤を発して、『生きてゐる画家』と題した四百字詰原稿用紙約二十枚の反論を「みづゑ」に投稿した。朝日晃氏の『松本竣介』によれば、当時の「みづゑ」の編集責任者であった大下正男は、この投稿の採用を決意し、前記の美術批評家の論文(『美術文化政策の根本理念』)を、おなじ号の雑誌に載せてバランスをとるというかたちで掲載に踏み切った。
松本の反論は、芸術の普遍妥当性としてヒューマニティを主張し、軍人によって、「松沢病院の狂人が描く様な円とか三角」を描いているとされた抽象派や、超現実派についての弁護を詳述して、最後に(この一文は私一個の責任で、私の所属する団体には何の係りもないことを後記する)とつけ加えるなど、勇気と責任感に支えられた芸術の本質論であったが、その結びに近いところに、「(一月号掲載の)この座談会記事を読んだ友人は子供のような驚きと怖れを顔に現してゐた」という一節がある。軍刀を抜き放ち頭上に振翳して威嚇しているような陸軍情報部員の強硬論は、その友人ばかりでなく、ほかの多くの画家にも、おなじような恐怖を感じさせていたのにちがいない。松本の反論が掲載された「みづゑ」四月号の出たのが三月末、翌四月には、わがくににおける超現実主義の中心的画家と目されていた福沢一郎が、詩人の滝口修造とともに過激思想、共産主義者の嫌疑で、警察に連行留置されて、いっそう前衛派の美術家たちを戦慄させた。
美術界は軍国色に塗り潰され、権力による芸術の管理が急速に進み、保守的な写実主義への一斉後退が決定的な潮流となったこの昭和十六年の春――、棟方志功が国画会に出品したのは、写実からは遥かに遠い超大作の『門舞神人頌』だった。後年かれはこう述べている。
――|門舞《かどまい》という意味は、日本の一番最初の者たち、|所謂《いわゆる》門の中でなく、門の外までのところ、大和武尊を門に入る人として、それ以前の超性の者を対象にしたところからきた名です。/そういう者が、手をあげ足をあげ踊りを踊っている。このあたりから、わたくしの板画は裸のものに入ったようです。この板画柵では半裸のものが多いのです。そして、わたくしとしては、造形的な線で、当時、表現派がさわがれましたが、そんな形体が、別に意識したわけではなく、入っているように、出来上っていました。……
このなかの「当時、表現派がさわがれましたが、……」と志功がいっているのは、どういう意昧だったのだろう。実際には前述のように、一切の前衛的な表現は、このころ息の根を止められかけていた。わがくにでドイツ表現派が騒がれたのは、このときから十数年以上もまえのことであり、そのドイツ表現派もすでに四年まえ(一九三七年)に、ナチスが企画した「頽廃芸術展」によって激しく弾劾され、ドイツ本国からは完全に追放されてしまっていた。志功はどうしてこの時期に、表現派を意識したような超大作の制作に向かったのだろう。前年に日独伊三国軍事同盟が結ばれてから、とくにドイツとの友好がさかんに唱えられていたので、ドイツだば表現派だべ……と、まさかそう単純に考えたわけでもあるまい。
志功が昭和十六年春の国画会展に出品した『門舞神人頌』は、縦が約一メートル二十センチ、横が四十センチの図を八枚ずつ、上下二段に並べて、版画部に与えられた部屋の一方の壁を完全に独占するこれまでのなかでも最大の作品であった。
十六枚の図のなかで踊っている男女の神人は、記紀に登場する神神であるというのだから、日本回帰と復古主義、|神代《かみよ》ばやりの時局に合っているようにもおもわれる。けれども、それらの神神は、日本的な|縹《ひよう》 |渺《びよう》たる神韻をただよわせるどころか、いずれも鬼面人を|嚇《おど》すていの妖怪か|変化《へんげ》のような風貌と姿勢に描かれており、それに図形を抽象化して白黒の|対 比《コントラスト》を強調した表現派風の効果が加わって、志功独得の原始的で呪術的な雰囲気を、強烈に場内に発散していた。
敏感な人なら、おそらくその作品から、時局にそぐわない危険な感じを受けたにちがいない。前年の二月に、津田左右吉の『古事記及日本書紀の研究』と『神代史の研究』『上代日本の社会及思想』が相次いで発禁になり、三月に著者と出版者の岩波茂雄が起訴され、それから約一年後の丁度この国画会展の初日に出された予審終結決定書には、津田の著書が「皇室ノ尊厳ヲ冒涜」した理由のひとつとして、
「|畏《かしこ》クモ|現人神《あらひとがみ》ニ|在《まし》マス 天皇ノ御地位ヲ以テ|巫祝《ふしゆく》ニ由来セルモノノ如キ講説ヲ敢テシ奉リ」
という点が挙げられていた。家永三郎氏の調べによれば、この後この点については公判廷で、裁判長と津田左右吉のあいだに、およそ次のような問答が行なわれている。
――「巫祝の徒」というのは、少なくとも敬称ではありませんね。そういう言葉を同じ書物において天皇のことを申し上げるのに使うということは、避けるべきではないかと思いませんか。
――ここに「巫祝の徒」と申しましたのは、日本だけのことではなくして、世界的意義を持っている原始宗教に関する思想についてこれを使ったのでありまして、あとのほうはそれでその原始宗教に関する学問上の術語であります。(中略)英語で申しますと「マジシャン」という言葉を使っております。(中略)呪術師という訳語が相当使われております。また巫祝という訳語を使った人もあります。(中略)呪術師ということよりも、むしろ巫祝という古典的な語感のある言葉のほうがよいと思いまして、それで巫祝という言葉を使ったのであります。
――わが国の天皇も勿論申し上げていることになりますね。
――左様であります。
――そういう言葉を使って差支えないと思いますか。
――差支えないと思いますのは、それは決して悪い意味ではありませぬ。(中略)それより良い術語が他にありませぬ。
――いまでもそう思っておりますか。
――思っております。……
ここで問題にされている言葉を使うなら、志功が描いた神神も、明らかに「巫祝の徒」以外の何者でもなかった。天皇は出て来ないけれども、記紀によれば景行天皇の皇子とされている|倭建命《やまとたけるのみこと》は、十六人のなかでもいちばん「呪術師」の感じを濃く帯びた顔かたちに描かれている。五年まえの『大和し美し』では、倭建命を凜凜しい若者として描いた志功が、遙かに国粋主義的な傾向が強まって来たいま、どうしてあきらかに鬼道の人をおもわせる奇怪な風貌に描き出したのだろう。
津田左右吉の著書を読んでいたかどうかは判らないが、『門舞神人頌』を彫ろうとして、近眼の目を古事記や日本書紀の頁に近づけ、ときには声を出して朗誦しながら、あたりの一切と時の経つのも忘れる熱中ぶりで読み進むうち、志功は独得の直感で、行間に原始宗教の世界のなかに生きている「巫祝の徒」の姿を見てとったのではないだろうか。結果としての作品にあらわれた神神の、だれの眼にも呪術師と映るであろう奇怪な姿が、以上の想像を裏づけているようにもおもわれる。
不思議なのは、志功がどうしてこの時期に、表現主義的な方法を選んだか、ということである。表現主義の解釈については、それを論ずる人の数とおなじくらい沢山あるが、かりにハーバート・リードの説によれば、表現主義とは「どんな犠牲を払っても芸術家の感情を表現するのであり、その犠牲とは普通ほとんどグロテスクといってよいほど自然の外観を誇張し、歪曲する」(滝口修造訳)のであって、志功の『門舞神人頌』は、まさにそのように、記紀の神神の姿を、時局に反するという危険を冒してまで、グロテスクといってよいほど誇張し、歪曲した作品であった。
ここでふたたび美術界の状況に話を戻すなら、|超現実主義者《シユールレアリスト》と見られていた福沢一郎と滝口修造が検挙されたのも、丁度この時期で、すでに時代は、芸術における前衛的な表現の方法それ自体が、物騒な危険思想であると見做され、官憲によって「転向」を迫られるところまで来ていたのだ。このころの美術雑誌を見ると、混紡の画布、それに更生画布の広告が目立つ。いわく「高級更生画布――長期建設のためには純麻製のカンバスともしばらくお別れしなければなりません。スフのカンバスも結構です。が|然《しか》しまだ使ひ古しのカンバスをお持合せの方は此際是非とも更生して御使用下さい」。いわく「更生軍国画布――非常時局下です。カン※[#「ワに濁点」]スの不足してゐる今日、描き損じは新しく更生して使ひませう。どし/\お持ち下さい新しくして差上げます」
これは統制経済下の物資窮乏のあらわれであろうけれども、陸軍省情報部と御用批評家が口をきわめて攻撃している「自由主義的かつ個人主義的で」人騒がせな画家たちが、転向を迫られて「更生」し、かつての前衛的な絵を削りとり拭いさったカンバスのうえに、写実的で時局色の濃い絵を描き始めている状況を象徴しているようにも感じられる。そんな時期に、とりたてて反権力的であるとも、反権威的であるともおもわれなかった志功が、なぜこれまでにくらべても最大の画面に、敢えて前衛的な表現を展開したのかは、興味深い|謎《ミステリー》であるといわなければならない。
後年の感想でかれは「当時、表現派がさわがれましたが、……」といっているが、実際にはそんな事実はなく、前年からこの年にかけての「みづゑ」と「アトリヱ」を見ても、海外の潮流として論じられているのは、おもに超現実主義と、ピカソの作品であって、直接に表現派に触れたものは、ないといってよい。
大体わがくにで表現派が騒がれたのは、『カリガリ博士』全六巻が、独逸表現派大映画と銘打たれて封切られた大正十年五月以降のことで、当時のあるプログラムによれば「エキスプレツシヨニズム即ち表現派とは一種の|籠《こも》れる従来の映画の行き方に不満を抱きて立てる革命的映画にして之をやるに文字も人物も道具も背景も総ての物を三角式に鋭角式に作り上げて居る。|蓋《けだ》し三角は四角よりも、鋭角は鈍角よりも力強き感じを与ふるものだからである」という、はなはだ簡明にして大胆率直なる説明が、ほとんどそのまま二十年後の志功の『門舞神人頌』にも、ぴったり当てはまるようにおもえるところが、まことに妙である。
三年後の大正十三年六月十三日、築地小劇場が開場したさい、上演した三本の一幕物のなかの一本がドイツ表現派のゲーリングの、戦争について懐疑的であり国家の押しつける妄想に対して批判的だった水兵が、開戦とともに急転し徹底して好戦的な兵士に変って行く姿を描いた『海戦』であったことが、いっそう表現派への関心を高めた。このころ志功は、まだ青森にいたわけだけれども、わざわざこの公演を見るために上京した親友松木満史の報告によって、「表現派」の名称と特徴は、最新の芸術思潮として耳から頭に深く刻みこまれていただろう。『カリガリ博士』は大正十四年に再輸入されてから、神田淡路町のシネマ・パレスで、何度も繰返して再上映されたから、上京してから活弁を志願したことがあったほど映画好きだった志功も、見たことがあったかも知れない。この映画が、ヒトラーの出現を予言していた、とのちにいわれたことは前に書いたが、無名の放浪時代に貧しい絵描きだったヒトラーは前衛芸術とくに表現派が大嫌いで、自分が政権を握ると、「頽廃芸術」と名づけて表現主義者の大部分を追放してしまった。追放された芸術家は、国外へ亡命したり、あるいは自殺したりした。
志功はそのことを知らなかったのかもしれない。たとえば昭和十五年の十二月に「日本人の手になる最初の本格的美術史」として出版された森口多里の大著『近代美術』に、もちろん表現派のことは書かれていたけれども、ナチスによる追放のことは、まだはっきりとは記されていない。美術雑誌には、批評家によるナチスの美術文化政策の詳細な紹介が始められていたが、ゲッベルスなど当局者の意見としては、「国家の文化を上から命令して創造しやうといふが如きは、ナチス国家の意図ではない。文化は国民から生れて来るものである」というふうに伝えられていた。ひとつの例として、このころの美術評論の一節を挙げれば――
「……ドイツにあつては一九三三年ナチス政権の誕生を見て以来、イタリアにあつては一九二二年ローマにフアッシストが素晴らしい成功を収めて以来、民族統一の国家主義的文化政策が着々と実行に移されたのであつた。ヒットラーやムッソリーニは、権力者、独裁者であるには違ひないけれども、彼等は|倶《とも》に曾てあつたやうな単なる征服欲一点張りの英雄でなく、実に身自ら全国民の意志を代表し国家の存亡を双肩に荷負ふ超個人的な人物なのである。……」
これは当時としても最もファナティックな批評家の文章であるけれども、画家のあいだにも一部には、前年にフランスがドイツに敗れたことから、「絵でもフランスはもう駄目だ。これからはドイツかイタリアの時代だ」というお先棒担ぎの声が流れ始めていたらしい。志功もそうしたことから、表現派に関心を向けたのだろうか。それにしてもナチスの美術文化政策を賞讃している批評家とその意見を聞いている陸軍情報部が、ヒトラーが表現派をふくむ前衛芸術を|蛇蝎《だかつ》のごとくに嫌って追放したことを知らなかった筈はなく、ひとつにはその結果としてこの昭和十六年の初頭に出て来たのであったのかもしれない「松沢病院の狂人が描く様な円とか三角を描いて、誰が見ても分らぬのに芸術家だけが価値ありとしても、実に馬鹿らしい遊び事である」という陸軍情報部強硬派の前衛芸術否定論に、志功が無頓着であったとはおもえない。それなのにどうして……と疑問は何度でもおなじところに戻って来る。
志功自身は後年の感想で、こういっている。
「十大弟子は利口すぎた位、板画の力、板画の面、黒と白の縁、そういったことに心を一杯にしてつくりましたが、門舞神人頌は馬鹿げた大きさを望みたいと思い、手にも足にも、棒にもかからない、阿呆くさい位ずぼらなもの、答えのでようのないものを縦長でやってみようと思ったのです」
本当にそれだけだったのだろうか。それとも、これまでどんなに国画会の他の版画家たちの反撥を買っても段段に作品の画面を大きくして、展示室の壁面を一方的に独占し続けて来たかれの闘志と自己顕示欲、功名心と勇気、それらをふくめた冒険心と開拓精神が、前衛派の画家たちの「転向」が顕著な形勢となりつつあったいま、こんどは表現の方法に関しても頭を|擡《もた》げて来たのだろうか。
もともと眼が悪い志功には、眼に映った自然や事物をどう解釈するかが一番の問題となる印象主義者よりも、自分の内部の主観や想像、感情や観念を外にむかって主張する表現主義者となる必然性があった。後期印象派のゴッホが、表現主義の元祖の一人であるというのは今日の定説であり、その意味で「わだばゴッホになる」という津軽弁としてはやや文法的におかしい志功のキャッチ・フレーズは、やはり正鵠を射ていたことになる。けれども、まだ不遇の時代から志功と親しかった土方定一が、かれのデッサン力の不足を案じて、六、七年まえにフランス帰りのデッサンの達人である海老原喜之助との交遊をすすめたとき、志功は頑として頷かなかったという。それは西欧的な方法では自分を生かせないことを知っていたかれの「直感的な聡明さだったんですね」と土方は追想するのだが、それならば、いよいよ時代が国粋主義に傾いて来たときになって、表現派を意識しだしたのは何故なのか……という新たな疑問が出て来る。
表現主義が第一次大戦前夜の不安と危機意識から生まれた、というのも今日の定説である。戦争の危機と不安に|怯《おび》え、世界の崩壊を予感した画家たちは、外界を眼に映ずる形のままに描くことには耐えられず、逆に自己の内部の想像を外界にむかって|衝《つ》きつけることのほうを選んだのだ。志功もまた、津軽の盲目の|巫女《いたこ》が一年の吉凶占いを求められたとき自分の生の不安をもとにした想像力によって不吉な警告だけを並べたてていくように、この大東亜戦争勃発の前夜、一種の動物的な直感の働きで、かれ自身のいう通り半ば無意識のうちに表現主義を自分の方法として選んでいたのであったのかも知れない。
そしてこの年の秋、かれが文展に出品したのは、亀倉雄策から借りた怪しげな写真をもとに制作したとおもわれる『不空羂索頌・摩訶般若波羅蜜多心経版画鏡』だった。これは所期の制作意図からすれば未完のまま発表された。努力家で精力家の志功には珍しいこの未完の理由は、かれ自身の文章によっても判然としない。志功にも迷いがあったのだろう。それがどのような迷いであったのかは判らないが、多くの人が現状を把握できないまま感じていたに違いない微かな不安と迷いに、否応のないピリオドの打たれる日がやって来た。十二月八日の朝、ラジオを通じて「大本営陸海軍部発表」が、青天の|霹靂《へきれき》のように日本中の家家に流れた。「帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。……」
――十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子(今年六月生れの女児)に乳をやつてゐると、どこかのラジオが、はつきり聞えて来た。
「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
しめ切つた雨戸のすきまから、まつくらな私の部屋に、光のさし込むやうに強くあざやかに聞えた。二度、朗々と繰り返した。それを、じつと聞いてゐるうちに、私の人間は変つてしまつた。強い光線を受けて、からだが透明になるやうな感じ。あるひは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したやうな気持。日本も、けさから、ちがふ日本になつたのだ。……
これは昭和十七年二月号の「婦人公論」に発表された太宰治の『十二月八日』の一節であるが、この小説については後で詳しく触れるとして、
「十二月八日の昼、私は家から出て、電車道へ出る途中で対米英の宣戦布告とハワイ空襲のラジオニュースを聞き、そのラジオの洩れる家の前に立ちどまつてゐるうちに、身体の奥底から一挙に自分が新らしいものになつたやうな感動を受けた」…「この日、我海軍航空隊が大挙ハワイに決死的空襲を行つたといふニュースを耳にすると同時に、私は急激な感動の中で、妙に静かに、ああこれでいい、これで大丈夫だ、もう決まつたのだ、と安堵の念の湧くのをも覚えた」
というのは、伊藤整の『十二月八日の記録』(「新潮」昭和十七年二月号)の書き出しの部分であり、
「宣戦の大詔を拝し奉つた瞬間の自分は、総身がふるへるやうな厳粛な感動のなかに、なんともいへぬ明るさ、いよいよ事は決したといふ落着きと安心とを感じた」
これは「文藝」昭和十七年新年号に掲載された島木健作の感想『十二月八日』からの抜粋である。相手を死なせた心中未遂をはじめとする様様な罪の意識からイエスに救いを求めていた太宰治、わがくにの知識人のなかでも冷静で醒めた眼を持つ一人であったとおもわれる伊藤整、弾圧と転向と病苦のなかで愚直とも表現したくなるほど事事に屈折し苦悩する生き方を続けていた島木健作。作風においてもそれぞれ異なっている三人の「十二月八日」に関する文章で、不思議に共通しているのは、自分の人間が変ってしまった……という感じと、いまや未曾有の大戦争に突入したというのに、ともになぜか明るい安心感を覚えていることである。このとき三人は果たして本当に人間が変ってしまったのだろうか。
それまで眼前の戦争という現実を肯定するか、否定するかについて心ひそかにおもい悩み、島木の言葉でいえば「躊躇、逡巡、遅疑」のなかで自分が引裂かれているのを意識していただけに、いきなり対米英開戦という事実を否応なしに突きつけられ、もはや事は決したのだ、今更どうおもい迷ったところで仕方がない、とそう心をきめてみると、これまでの重苦しい鬱屈から解放され、自己同一性の分裂感が薄れて、生まれ変ったような感じになり、急にさっぱりとした気分になって目の前が明るくなったようにおもえたのではないだろうか……。
このとき多くの人は、|国家的同一性《ナシヨナル・アイデンテイテイ》 のなかに自己を帰属させることによって内部の矛盾を解消したものとおもわれ、してみるとアイデンティティの分裂感からの救済を、性急に単一の原理や権威や解決に求めることには、大きな陥穽もあるのだと考えないわけにはいかない。
また太宰の作中にもあるように、米英に対する宣戦は、対中国の戦争に感じていた割切れなさと後めたさとは違った人種意識と民族意識を昂揚させてもいたのにちがいない。知識人が対中国の戦争に感じていた後めたさの一例として挙げておきたいのは、柳宗悦が満州事変勃発直後の雑誌「ブレイクとホヰットマン」昭和六年十一月号の「雑記」に書いた一節である。
「自分も日本人であるから、戦争の記事を読めば、日本が勝つ方が愉快である。|併《しか》し新聞に戦死者の事が出ると、実に淋しい気持に襲はれる。死ぬ兵隊達の事を考へると、戦争はどうしても止めてほしい」…「ブレイクの句に僧侶は戦争を広め、兵隊は平和を求める≠ニ云ふ様なのがあるが、めつたに死なない将校達や非戦闘員の愛国主義者が、下積になる兵隊達の事を考へずに、むやみに軍国的言論を|弄《もてあそ》ぶのは感心しないし、卑怯だとも思へる」…「今の様では支那人が腹を立てるのも無理ない事が多々あると思ふ」
戦争嫌いの柳でさえ戦争の記事を読めば日本が勝つ方が愉快であるという。まして、対米英開戦の日の晩から翌朝にかけて、ラジオの大本営発表と新聞の大見出しにより矢継早に報じられた「ハワイ・比島に赫々の大戦果」…「米海軍に致命的大鉄槌 戦艦六隻を轟沈大破す 航母一、大巡四をも撃破」…「比島で敵機百を撃墜」…「米自慢の『空の要塞』撃滅 ハワイで三百機撃墜か」…といった緒戦の信じられないような大戦果は、庶民のみならず自由主義的だった知識人にも快哉を叫ばせ、熱狂させずにはおかなかった。徳川夢聲氏の『戦争日記』によれば、
「九日(火曜 雨) いつになく早く床を離れ、新聞を片はしから読む。米国の戦艦二隻撃沈。四隻大破。大型巡洋艦四隻大破。航空母艦一隻撃沈。あんまり物凄い戦果であるのでピッタリ来ない。日本海軍は魔法を使ったとしか思えない。いくら万歳を叫んでも追っつかない。万歳なんて言葉では物足りない」
といった興奮に巻き込まれず、戦争の行末を冷静に見据えていた人は、稀な例外であったろう。それまでの欧米崇拝の裏側にあったコンプレックスを一挙に噴出させて、ざまあみろ……と溜飲を下げた感もあったようだ。翌月からの総合雑誌や文芸雑誌を埋めた故人もふくめて当時も今も一流の作家、評論家、詩人、歌人が、開戦の報を聞いた感激と決意を語った文章や、緒戦の大勝利を讃えている詩歌のなかで、おなじような前置きはしているけれども、「新潮」二月号において、なにもかも万世一系の皇室をいただく日本のものを至上至高とする極端な国粋主義の|澎湃《ほうはい》たる擡頭を懸念し警戒してか、
「戦争はとにかく、文化方面において、英米の文化取るに足らずの観念を、一層強く国民の頭脳に植えつけたことと思ふが、必ずしもさうばかりとも言へまいと思ふ。また西欧の文明がすべて機械文明であり、唾棄すべき唯物主義であると考へるのも、妥当を得たものとは思へない。日本民族には色々の血が流れ、性格気質も多種多様で、しかも創業がさう古くもなく、文化爛熟といふほどには至らないばかりか、世界の文化を吸収するのに鋭敏で、それを日本型に鋳直すことにおいて、独得の直観力をもつてゐるものと思はれ」…「個人個人その交はりにも、甲が何の気もなしに口にしたことから示唆を得、乙の頭脳で発芽成長することは、我等の日常にも有りがちの事で、極端に言へば、人間は感受性と摸倣性の最も強い動物であり、すべての思想芸術はそこから創造されると言つても、大した間違ひではないであらう」
と、いまからすれば至極あたりまえのことを指摘している徳田秋聲の|現実的《リアリステイツク》 な平衡感覚が、むしろ不思議なものに感じられるほどである。そのことは翌月の「文藝」に載った志賀直哉と谷崎潤一郎の文章と並べてみると一層はっきりする。
「一億一心は期せずして実現した。今の日本には親英米などといふ思想はあり得ない。吾々は互に謙譲な気持を持ち続け、国内よく和して、光輝ある戦果を少しでも|穢《けが》すやうな事があつてはならない。天に見はなされた不遜なる米英がよき見せしめである。/若い人々に希望の生れた事も実に喜ばしい。吾々の気持は明るく、非常に落着いて来た。/謹んで英霊に|額《ぬか》づく」
という志賀直哉の感想には、太宰治が戦後、『如是我聞』という文章で「……この作家の『シンガポール陥落』の全文章をここに揚げるにしのびない。阿呆の文章である。東條さへ、こんな無神経なことは書くまい」と悪口をいったが、通読して別にそれほど当時の日本人大多数の気持から隔っているものであるとはおもえない。では、そういう太宰自身の戦争に対する態度は一体どのようなものであったのだろうか――。
大東亜戦争勃発直前の十一月に、本郷区役所で行なわれた文士徴用の身体検査を受け、胸部の疾患によって徴用を免れたあと、それから間もなく執筆したのであろうとおもわれるエッセイ『或る忠告』(「新潮」昭和十七年新年号)に、太宰はこんなことを書いている。
「図々しいねえ。此頃めつきり色が白くなつたぢやないか。万葉を読んでゐるんだつてね。読者を、あんまり、だまさないで下さい。図に乗つて、あんまり人をなめてゐると、みんなばらしてやりますよ。僕が知らないと思つてゐるのですか」
自己批判というかたちをとってはいるけれども、文壇の時局便乗家に対する批評でもあったのだろう。太宰の文章とくに小説には虚実が|綯《な》い|交《ま》ぜにされているので、もちろん書かれていることをそのまま事実と受取るわけにはいかないが、いちおう書いていることにしたがえば、かれはそのエッセイと同じ号の「新潮」に載る短篇小説の執筆中に、十二月八日の朝を迎えたようだ。
まえに引いた短篇『十二月八日』でラジオの大本営発表を聞いて「私の人間は変つてしまつた」と感じる「私」は小説家の妻で、作者自身をおもわせる「主人」は、妻の眼を通して描かれる構図になっていて、その主人は、「紀元二千七百年のお祭りの時には、二千|七《なな》百年と言ふか、二千|七《しち》百年と言ふか……」それが心配で煩悶しているのだ、という友人の伊馬さんに、「もう百年あとには、全く別の読み方も出来てゐるかも知れない。たとへば、ぬぬひやく、とでもいふ……」と答えたり、ラジオの大本営発表を耳にして、「西太平洋つて、どの辺だね? サンフランシスコかね?」と、驚くべき質問を口にしたりしている。
「私」も作者の分身であるのには違いないけれども、ラジオが伝える宣戦の大詔を聞いて涙を流したり、夕刊を読んで感激したりするのは、もっぱら妻の「私」に任されていて、「主人」のほうは昼すぎに原稿を仕上げて雑誌社へ届けに行ったきり、なかなか帰って来ない。そして「私」が赤ん坊の娘を背負って銭湯に行き、燈火管制で真っ暗になっている帰り道、これは少し暗すぎるのではあるまいか、こんな暗い道、今まで歩いた事がない……と途方に暮れているところへ、
――背後から、我が大君に召されえたあるう、と実に調子のはづれた歌をうたひながら、乱暴な足どりで歩いて来る男がある。ゴホンゴホン、と二つ、特徴のある咳をしたので、私には、はつきりわかつた。
「園子が難儀してゐますよ。」
と私が言つたら、
「なあんだ。」と大きな声で言つて、「お前たちには、信仰がないから、こんな夜道にも難儀するのだ。僕には、信仰があるから、夜道もなほ白昼の如しだね、ついて来い。」
と、どんどん先に立つて歩き出しました。
どこまで正気なのか、本当に、呆れた主人であります。……
と結ばれている。つまり多くの文筆家が調子の高い感想を直情的に述べているなかで、これは「私」の言葉によって庶民の気持を語りながら、あいだに朝の明るさが今までにないほど暗い夜になっていく一日の時間の経過を挟んで、世間智に乏しい「主人」が、自分の信仰(それはイエスであり、文学の|譬《たと》えであるだろう)について語る、という二重の構造をとることによって、作家は戦捷に沸く世間とは別の自律的な世界を持っていなければならないのだ……という主題を暗示する、いかにも天性の演技者にして小説家のものらしい創作になっているのである。
満州事変のあと、中国に対する全面的な侵略戦争が始まるまえ、という時期に、自らを『二十世紀旗手』になぞらえて、世の中の底の不安を体現するかのように激しく惑乱した太宰も、世間が一糸乱れず整然と|神憑《かみがか》りになって行くにつれ、人が酔うと醒める酒乱のように、時代に逆行して正気と冷静さを深めていたものらしい。のちに太宰は伊藤佐喜雄と、「進め一億火の玉だ!」というポスターが、いたるところに貼られている街を歩いていたとき、「四谷怪談だね、まったく」と呟いたという……。
話をもういちど、大東亜戦争の開戦前に戻すと、柳宗悦は戦争について寡黙になっており、そのような恩師の態度に志功が気がついていなかったとはおもえず、実際に柳の沈黙は志功の熱狂性に、かなり水をかける役目を果たしていたものとおもわれる。戦争に関しては沈黙を守っていた柳宗悦が、そのころ美術について持っていた意見は、およそ次のようなものだった。
――近年ピカソとかマチスとかフランスの美術家たちの写真を見ると、よくアトリエや書斎のマントルピースの上に、アフリカの人が作った彫物などが置いてある。芸術の世界で最も進んだ仕事をしている人たちが、なぜ最も原始的だといわれる|所謂《いわゆる》未開人の作物を喜ぶのか。形は粗野でも、そこに美の本質を見出しているからである。自分たちが失ってしまった自由で本能的な美の力に、そこでふたたび会ったからである。文化人の病や偽りが、そこにはひとつとしてないからである。フランスの美術家たちの仕事を見ていると、原始芸術からどんなに大きな影響を受けているかが判る。……
そうした柳の考えに触発されて、民芸協会のなかでは、「原始芸術のグロテスクさは、表現すべき内容の豊かさから生まれている」「近代の芸術にグロテスクな要素が欠けているのは、表現すべき内容が貧しくなって来ているからである」といった原始芸術礼讃論がさかんであった。
またそのころの保田與重郎の美術観が、どのようなものであったのかを、昭和十五年の雑誌「アトリヱ」三月号に発表した論文によってみれば、
「今のやうな時勢で、私は絵師がどんな情態に於てさへ楽しんで描ける絵を描いてくれることを希望してゐる」…「つゝましい生活の中でなりはひとして自分自己を満足せしめる絵師の生活をなしてくれることへの希望である」…「もつと具体的に云ふなら、従軍画家となる位なら、進んでペンキを以て迷彩をかきに行くか、何かするがよい、もう帰つてからこの戦争を象徴する絵などは描かうとせぬことだ。この戦争を象徴する絵なら、一茎の草花をつみあげて描くに|如《し》かないと私は思ふ」
つまり柳宗悦も、保田與重郎も、時局と美術の直接的なつながりといったものは、殆ど無視していた。志功が時流に抗して、「紀元二千六百年奉祝美術展」に時局色皆無の『夢応の鯉魚』を出し、昭和十六年春の国画会展に、記紀の神神をグロテスクに誇張した表現派風の超大作を出品し、秋の文展に怪しげな写真をもとに彫ったと想定される作品を出したのには、こうした柳と保田の考えに支えられていたところもあったのかも知れない。
志功は柳と保田の中間にいた。そして日米関係の緊張が強まるにつれ、柳宗悦が戦争について寡黙がちになって行く一方で、保田與重郎の評論は過激の度を加えて来た。大東亜戦争の勃発後に出た「文藝春秋」昭和十七年新年号に掲載された論文で、保田はこう主張していた。
「我々は今日の思想の問題を見るとき、米英の敵としての所作の数々を了知するものも、それが文芸文化の論理的細部にあらはれた敵性については、なほ了知せぬといふ感が多いのである。こゝに於て、国学者の思想は、米英文化とその背後にある考へ方を統一する文化の思想とその論理を、一切の情勢論を除外した面で攘夷することを考へたのであつた」
前記の徳田秋聲の極端な国粋主義への警戒論は恐らく、『攘夷の精神』と題して発表されたこのような論旨に対して書かれたものであろうとおもわれる。
大東亜戦争が始まった翌月の昭和十七年新年号において、保田與重郎は、「文藝春秋」「新潮」「文藝」の各誌に登場している。文藝春秋所載の『攘夷の精神』と、新潮所載の『文化の問題と古典論』は、ともに主として本居宣長の説を引いて、思想的な、あるいは文化上の攘夷論を展開したもので、文藝所載の感想『神州不滅』においても、「対米英宣戦の大詔を拝し、皇国の向ふところ、必ず神威発するあるを確信した」…「万民|草莽《そうもう》の苦衷は必ず大御心の知しめすところ、まことに神州の神州たる所以、神州不滅の原理を感銘し、感動し、遂に慟哭したのである」…「文化上の攘夷は、皇国の尊貴なる所以を四海の内外に教へることに他ならない」ということが強調されていた。
これに対し二月号の「新潮」で、まず緒戦における海軍の迅速果敢な行動と、その神業か奇蹟かと疑わしめるほどの成果を|称《たた》えながら、「私は西欧伝来の科学を、あれほどに巧妙に鋳直し、且つ駆使したところに、わが海軍の精神と技術を讃嘆するものだが、又これこそ真の日本精神の精髄だとも|崇《あが》めるべきであり、戦争以外のすべての分野にわたつて、|汎《ひろ》くこの精神が師表となることを祈らざるを得ない」と述べて、暗に極端な国粋主義と文化上の攘夷論を戒めた徳田秋聲の『日本のもつ最も|好《よ》きもの』は、なかにかなり唐突な感じで本居宣長の名前が出てくるところからしても、前月号の各誌に出た保田の論を意識していたものとみて、多分まちがいあるまい。
読者は、かつて保田が徳田秋聲と会った一場面があったのを、ご記憶であろうか。それは『日本浪曼派の時代』に保田自身の筆で書かれていることである。かれの学生時代に、「……偶然銀座の通りで、徳田秋聲先生と出会つたことがあつた。通りの喫茶店へ入つて、そのころ先生の身辺に起つた女性問題について、綿々と語られた。私は当時まだ大学生だつたので、この雲の上に眺めてゐたやうな老大家がさういふ話を訴へるやうに語られ、沁み入るやうに話されるのを、うはの空できく心地だつた。その時今どこに住んでゐるのかと問はれ、高円寺と答へると、そこがどんな恐ろしいところか、御自分の経験で語られ、私がよほど勇気があるか、力があるかのやうな口吻で感心せられた。……」
このとき秋聲が綿綿と語った女性問題の相手というのは、時期からして『縮図』の銀子のモデルとなった女性であろう。初対面かそれに近い若い人に、自分の女性問題を話すというのも、秋聲にはあり得ないことではなかったようだ。まるで隠しごとができなかった秋聲の異常なほどの正直さを語って、廣津和郎は次のような挿話を記している。あるとき廣津の下宿に訪ねて来た秋聲は、「先生、どうぞお上がり下さい」といっても、玄関先で用件だけを述べ、「人を待たせているから……」と帰りかけて、それだけでは言葉が足りないとおもったのか、「実は……相変らず僕は……女が……」と二十歳も年下の廣津に弁解してから、「じゃ、失敬」と出て行ったというのである。――その時徳田さんは六十歳を越してゐたと思ふ。……と廣津は書いている。とするとそれは丁度、保田が東大に在学中のころということになる。また保田に対して、高円寺がどんなに恐ろしいところか自分の経験から語った、というくだりは、秋聲の臆病さを想像させるが、なかなかそうばかりではなかったことも廣津の文章で判る。
昭和九年の三月、すでに宗教と教育の統制を終えて、こんどは文壇の統制に乗り出した内務省の松本警保局長が、島崎藤村、徳田秋聲、上司小剣、近松秋江、佐藤春夫、宇野浩二……といった大家連を招いて一席もうけ、「これまで日本の政府は、文学に対して冷淡にすぎた。これからは政府が文芸院をつくって、文学を大切にして行きたいとおもう」と話を切出したとき、
「日本の文学は庶民から生れ、今まで政府の保護など受けずに育って来ましたので、今更政府から保護されるなんていわれても、われわれには一寸信用できませんね。それに今の多事多端で忙がしい政府として、文学など保護する暇があろうとは思われませんよ。われわれとしては、このままほって置いて貰いたいと思いますね」
と、間髪を入れず、|嗄《しわが》れた声で切返したのが秋聲であり、廣津によれば、そのときの松本警保局長の文壇統制の意図は、直感的にそれと察して鋭く反撥した秋聲の一言によって、出鼻を|挫《くじ》かれてしまったというのだ。
それにしても、偶然に銀座の街頭で会った白面の大学生に、老大家の秋聲が自分の女性問題を訴えている姿は、やはり奇妙なことのように映る。しかし、次のようないきさつがあったものと考えれば、それほど不思議なことではなくなるかも知れない……。
昭和八年の五月に、ゲッベルスの指揮によって行なわれたナチスの焚書事件の報を聞いて、憤激した田辺耕一郎は新居格とともに、三木清、谷川徹三、豊島與志雄、芹沢光治良、長谷川如是閑、青野季吉、秋田雨雀……といった人人を説いて回って、ナチスの暴挙に抗議する反ファシズム団体の「学芸自由同盟」を結成した。そのころはまだ自由主義的だった学者、評論家、作家、ジャーナリストなど三百数十人が集まったなかで、徳田秋聲が会長に選ばれたのには、最長老格であったことのほかに、いちはやく新聞にファシズム反対の文章を発表していたことと、治安維持法違反で獄中生活を経験していた三木清が、その間に差入れられた秋聲の小説に接して大の愛読者になっていたことのせいもあったようだ。
学芸自由同盟の最初の発起人であり、書記長も勤めた田辺耕一郎が、昭和三十三年四月号の「文学」に発表した回想によると、保田與重郎は、その書記局の仕事も手伝っていたことがあるという。影山正治氏の『民族派の文学運動』によれば、氏がそのことについて訊ねたとき、保田にはそうした記憶がなく、「誰かの話の間違ひでせう」と答えた様子であるが、この点に関しては、
――保田與重郎氏とは彼がまだ東大の学生だった頃からよく知っていた。その頃は「コギト」という高踏的な雑誌にくねくねとした優雅でねばりのある文章で、東洋の古典芸術についての研究やエッセイを毎号発表していた。文壇的にはまだ無名であったが、人間がおっとりとしていて、博学多才で、高邁な精神とやさしい心情とをもつ珍しい天才のように思って、私は毎日のように逢っていた。また、彼を通じて「コギト」の人たちとも親しくした。われわれは近くに住んでいたのである。三木清、豊島與志雄氏ら先輩と文化擁護の運動を私がはじめた際には、彼はファッシズムの圧力に抵抗することに若々しい熱意をもって私を助けてくれたものだった。彼は「コギト」の仲間とともに宣伝ビラを手わけして東大の学内でまいてくれたり、書記局のメムバーになって手伝ってくれたりしたのである。……
という田辺の回想のほうに、リアリティーがあるようにおもわれる。学芸自由同盟の幹事役で翌年の四月からは保田とおなじ文芸雑誌「現実」の同人でもあった田辺が、ほかの誰かと間違えているとはおもえないし、また昭和八年の十一月に執筆した『清らかな詩人』において、フランス革命に共鳴しているヘルデルリーンら若いドイツの学生たちの姿を描いて「チユービンゲンの学院の庭にひびいてゐたマルセイエーズの歌は、今も私の耳にひびいてくるものでなくてはならない」と熱っぽく書いたそのころの保田が、実際に東大の構内でファシズム反対のビラを撒いていたとしても、別に話が矛盾しないばかりか、かえって自然なことのようにおもわれるからである。
そしてもし、保田と秋聲が銀座で偶然に会ったのが、学芸自由同盟の結成以降のことであり、そのことから話が|解《ほぐ》れたのであるとすれば、秋聲が、いわば同志であって文学の後輩でもある青年に気を許して、そのときの頭のなかで一番大きな問題になっていたのであろう女性のことについて綿綿と語ったというのも、別にそれほど奇妙な話ではなくなってくる。『縮図』のモデルになった女性が、さまざまな齟齬のあった末に、秋聲の家を出て行ったのは、野口冨士男氏によって「どれほどおそくみても九年初夏ごろまで」と推定されているから、時期的にも以上の想像は辻褄が合いそうである。確証はできないが、少なくとも秋聲とおなじように、当時の保田もナチス流のファシズムと文化政策に反対していたことは確かだろう。
昭和十七年四月号の「文藝春秋」に、『文化精神の一新』と題して発表した論文を、保田は次のように書き出している。
「大東亜戦争以降、世間はすべて日本主義に化した。既に近衛公新体制を始められて、日本主義者は増加した。さらに徐州会戦の後、支那事変がなみ/\の戦さならざることを知つたころに、日本主義者は続出した。そのまへ支那事変の勃発に於て、日本主義者は増加してゐた。しかし支那事変の以前に於て、日本主義者たるは至難であつた。さらに国家の上に、神州を知る者は、なほ今日さへ、|寥々《りようりよう》と云ふべき状態である。……」
たしかに保田の日本に対する関心は、時局便乗者のそれとは違って、付焼刃ではない。記紀と万葉の世界への愛着は、|畝傍《うねび》中学時代の少年の日に始まっているものであり、それは大阪高校に進んでからの同人雑誌「|※[#「火+玄」]火《かぎろひ》」にも引継がれていて、さらに東大へ進んでから、大阪高校出身の仲間と出した「コギト」創刊号の編集後記には、保田のものであろう(Y)という頭文字の署名で、こう書かれていた。――私らは「コギト」を愛する。私らは最も深く古典を愛する。私らはこの国の省みられぬ古典を愛する。私らは古典を殻として愛する。それから私らは殻を破る意志を愛する。……
文学者の多くが、わがくにの古典を捨てて|顧《かえり》みなかったころに、塵を払ってそれを取上げようとしたのは、ひとつの文学的な見識の主張であって、それだけでは無論すこしも非難されるべきことではない。人人の眼は、主として遠い外国のもの、とくに西欧の文物に向けられていた。これもまた、ことに青年には共通の遙か遠い彼方をのぞむ憧憬の念のあらわれであって、別に非難されるべきことではない。デカルトの有名な「コギト・エルゴ・スム」(われ思う、ゆえにわれ|在《あ》り)という言葉からとられた「コギト」という誌名自体、そのころの保田たちの意識と気持のありようを示しているようにおもわれる。
保田が東大の美学美術史科に入った昭和六年から、大西克禮教授の美学講座「浪漫主義の美学」が始まり、それは翌七年の「浪漫主義の芸術観」、八年の「浪漫主義論」と続いていった。ちょうど保田が東大に学んだ三年間、大西教授の美学講座では、ドイツ・ロマン派の哲学と美学に関する講義が、連続して行なわれていたのである。保田と同年に東大の国文科へ入った高田瑞穂氏によれば、美学美術史科以外の学生も沢山つめかけたくらい、たいへん人気のあった講座だというから、保田の一年まえに仏文科に入っていた太宰治も、ノヴァーリスの作中の言葉から出てドイツ・ロマン派の理想の象徴となった「青い花」を、のちに自分たちの同人雑誌の誌名にしているところからみて、あるいはこの講座に出席したことがあったのかも知れない。
そのときの講義の草案に推敲を重ねて成ったとされ、大西博士の死後に公刊された『浪漫主義の美学と芸術観』を、いま手にとってみると、保田の文章ではなかなか掴みにくかった「イロニー」という言葉の多様性が、よく判る。それによれば、芸術的主観に絶対的自由性を認めるのが「浪漫的イロニー」の思想の核心であって、なかでも主観主義的な傾向が強かったフリードリッヒ・シュレーゲルの文芸論は、およそ次のようなものだった。
――古代の文学の中心をなしているのは「神話」である。近代の文芸は、そうした中心を持っていない。近代の文芸が古代の文芸に劣るすべての点は、近代人が「神話」を持っていないことに帰着する。しかし、近代においても、人間精神の最も深き底から「神話」が生み出されなければならず、それが文芸の中核となり、統一点とならなければならない。……
そしてまた、――浪漫主義の真の故郷は、東洋にある。……というのが、サンスクリットの研究に没頭し、ドイツのインド学の先駆者でもあったシュレーゲルの考えだった。こうした説を知ったとき、保田は自分の記紀に対する愛着に、一方において憧れていた遠い海の彼方から、強い光を投げかけられたような気がしたのではないだろうか。そうしてかれは、一部の知識人や学生のあいだでは曖昧模糊とした薄暗い陰画のように感じられていたわがくにの神話と古典に、まず西欧的教養の光を浴びせて明暗を反転させ、それを陽画に変えることによって、失われつつある日本の美の輝きを強調するという、独得の「イロニー」の論法を、やがて会得していったようにおもわれるのである。
また語学に強い「コギト」の同人たちによるシュレーゲル、ディルタイ、シェリングなどの本邦で初めての訳業にも、保田は大いに触発されていた筈で、若い時分の文学者には当然だれにでもあることを、あらためてこのように指摘するのは、日本人は「……世界の文化を吸収するのに鋭敏で、それを日本型に鋳直すことにおいて、独得の直観力をもつてゐるものと思はれ」…「個人個人その交はりにも、甲が何の気もなしに口にしたことから示唆を得、乙の頭脳で発芽成長することは、我等の日常にも有りがちの事で」…「すべての思想芸術はそこから創造されると言つても、大した間違ひではないであらう。……」という徳田秋聲の、思想的および文化上の攘夷論に対する反論が、初期の保田與重郎と「日本浪曼派」成立の事情にも、やはり当てはまるもののように考えられるからである。
秋聲の発言は、いまからすれば穏当であるけれども、当時としては勇気を要するものだった。大東亜戦争の開戦直前、かれは「都新聞」に連載していた『縮図』を、情報局の干渉によって中断させられていた。そのことも、この老大家の気質的な反抗心を削いではいなかったらしい。昭和十七年十一月三日に、帝国劇場で開かれた「第一回大東亜文学者大会」で、国民儀礼、宮城遙拝、忠霊感謝の黙祷、開会挨拶……等等が終って、内閣情報局の奥村次長の大演説が始まったとき、二階席の一隅から、「ふん、つまらんことを言ってやがる」といって、すっと外に出て行った徳田秋聲の姿が、巌谷大四氏の『非常時日本文壇史』に描かれている。
それから翌年の四月八日に、九段の軍人会館で開かれた「文学報国大会」では、七十八人の発言希望者がいたが、時間の関係で二十三人が選ばれて発言したなかで、二番目に登壇した蓮田善明は、最初に『大文学誕生のための基礎文学観の確立』と題して発言した石川達三を壇上から指さし、「いまの石川さんの意見に、自分は賛成できない」と大喝して、「古事記にある|須佐之男命《すさのおのみこと》のように、青山は|枯山《からやま》の如く泣き枯らすほどの壮大な文学を創造しなければならない。|喚《おら》び泣きの文学、慟哭の文学こそ、いま生まれなければならないのだ」と叫んだ。一人だけ拍手したほかは、満場|寂《せき》として声なく、蓮田善明の名は、以来、それまで知らなかった人にも「神憑り」の典型として記憶されることになった。
棟方志功は、この蓮田善明らの国文学月刊誌「文藝文化」の表紙絵のカットを、昭和十五年十月号から、ずっと描き続けていた。つまりこのころの志功は見る人の眼によっては、もっぱら「喚び泣き」とか「慟哭」を口にする最も神憑り的な人人の一員であるかのようにも映っていたのである。
戦争に関して沈黙を守っている恩師柳宗悦を意識していたとはいえ、緒戦の大戦果は、志功を興奮させ、熱狂させずにはおかなかったろう。昭和十七年春の国画会展に出品したのは、蔵原伸二郎の詩を彫った『|崑崙《こんろん》頌』だった。そのときの原題を正確にいえば、――|繧※[#「糸+間」]《うんげん》頌崑崙|板《ヽ》画巻屏風。前年秋の文展出品作は、『不空羂索頌・摩訶般若波羅蜜多心経|版《ヽ》画鏡』と題されていたのだから、時期的にいうなら、大東亜戦争の勃発を境にして、志功の「版画」は「板画」に変ったことになる。かれが自分の感激と決意と祈願の念を託したとおもわれる蔵原の『崑崙』は、
[#3字下げ]北すれば不毛の曠野 ゴビの砂漠
[#3字下げ]西すればオルドス地方 天山の南路
[#3字下げ]タクラマカンを越ゆれば コンロンのふもと
[#3字下げ]………
と始まり、なかに、「ああ 夢にみる月夜のコンロン/わが現実の思念を越えて/はるか天空に横はり聳ゆる/コンロン」という一節を挟んで、
[#3字下げ]………
[#3字下げ]ねがはくばわれ
[#3字下げ]かしこにゆきて
[#3字下げ]新しき世界の夜明を見ん
と結ばれていた。たんに字句だけを追って読むなら、中国西部の大山脈で、ヒマラヤ山脈と天山山脈のあいだに延延と東西に連なっている崑崙山脈を、現実的な思念を越えた夢の象徴と見て、それへの憧れをうたったものとおもえるが、当時としては「新しき世界の夜明を見ん」という結びの句に、だれもが「大東亜共栄圏」とか「八紘一宇」といった言葉を感じとるに違いない詩であった。だが、蒙古の砂漠を走る|韃靼《だつたん》族、青き狼の仔であるジンギス汗、月に照らし出された中央アジアの高原……そうした脳裡の光景への憧れは、蔵原の青年時代からあったものらしく、親友であった小田嶽夫によれば、それらの主題をうたって後に詩集『東洋の満月』(昭和十四年刊)にまとめられた詩の大半は、すでに大正十三年にはできていたのを、草稿で見せられて知っているとのことである。とすれば、それは「大東亜共栄圏」とか「八紘一宇」が声高に叫ばれるずっと以前のことで、明治以降の大日本帝国の海外伸張政策と、まったく無縁ではないであろうけれども、朝鮮や中国との地理的な近さから大陸に憧れる九州人的なロマンチシズムや、それよりもっと個人的な気質や夢想や願望からも発していたものと見てもよいであろう。
蔵原の初期の小説や詩に、共通して流れているのは、病んでいる都会への嫌悪と、野性的な自然と原始の世界への憧れ、自分の生命の根源へどこまでも溯って行こうとする回帰の願望である。かれの郷愁は、火山と渓谷の間にある阿蘇郡の黒川村に行きついて、そこでとどまるものではなかった。自分の祖先である阿蘇氏の、そのまた遙かなる祖先はモンゴル族であったのではないかと空想していたかれの眼は、故郷の大自然の胎内を突き抜け、暗い原始林のなかを通って、海を越え、月に照らされた中央アジアの高原から、さらに宇宙の闇の奥にまで通じている仄白い一筋の道を、脳裡に見ていた。その幻想的な光景を、かれは詩のなかで「夢の中なる現実」と呼んでいる。
病んだ都会を捨てて、原始の故郷――東洋へ帰ろう、と繰返し故郷回帰と東洋回帰を訴える蔵原の詩に注目したのが、まえにも書いたように保田與重郎であった。蔵原の詩は、『東洋の満月』という通しタイトルで、昭和九年九月号からの「コギト」に連載された。詩の制作と発表の間にあったのは、満州事変の勃発であり、満州国の設立に続く日本軍の華北進攻である。それらの出来事は、読者にとっても、また作者にとっても、「東洋回帰」の夢想と現実の境界線を、曖昧で不分明なものに変えてしまっていたようだ。棟方志功の装幀と挿絵入りで、昭和十四年三月に生活社から出版された『詩集 東洋の満月』の巻末に、保田は一文を寄せてこう書いている。
「詩人は予言者である。しかも幻想家である。この詩集は今日でさへなほ来るべきアジアの予言である。さうして又アジアの幻想である」…「人々はこの詩集を心にいだいて再び我らのアジアをさまよふがよい。それは汝自身の心のふるさとであつたことを知るだらう。われらの神話は剣によつてなりたつたものを教へ、その神のわざは新しく今日大陸の朝夕に行はれてゐるのである。この一巻の詩集は、さういふ神話の曙で歌はれ、神のさまよつてゐた日の風景から歌ひ初められた」…「東洋の蒼白い満月が照らし出したアジアの太古の風土、それはまさに一つのアジアの幻想であらう。しかしこの|闡明《せんめい》された心のあのみちこのみちは、そのまま明日の日の民族の最もいのちある地図ともならうか。人々は今こそアジアの原始の森林に大挙して遠征せねばならぬのである」
この本が刊行される二年まえには、蘆溝橋事件を契機に中国戦線の拡大が始まっていた。十数年まえの蔵原の夢想は、いまや日本の中国侵略の現実と、ほとんど重なり合う形になっていて、作者の最初の意図とは関係なく、侵略を美化し正当化する詩でもあるかのような色合いも帯びて来ていたのだ。蔵原が雑誌「日本浪曼派」の同人には加わらなかったのにもかかわらず、しばしばその一人であったように見做されているのは、このためである。実際にかれ自身この本に収められた近作ではこううたっていた。
「あゝ わが日本男児のゆくところ/わが肉弾の飛ぶところ/わが民族のいかるとき/長城の嶮なにものぞ/黄河の流れ それなにものぞ」…「われらの古い仲間たちよ/さうして新しい兄弟たちよ/全モンゴール族よ/いまぞ 決然 流沙をけつて進撃しよう/進撃しよう」
かつて蔵原の詩の特徴であった、故郷へ「帰へらう 帰へらう」というリフレーンが、ここでは「進撃しよう 進撃しよう」と変っている。逃げ惑う中国の民衆に、かれはこう呼びかけた。「何故に汝らは逃ぐるぞ/数千台の破れた車をひつぱつて/ぼろや腐つた道具をいつぱい積んで/何故に君らは故郷を逃亡するぞ」。蔵原の脳裡において、日本軍は、遠い昔に離れた祖先の地に今たち帰って、故郷の人人を間違った支配者の手から解放しようとしている神の軍隊である筈だった。しかし中国の民衆にとって、現実のそれは、おそるべき「東洋鬼」の襲来であった。
――私らは、今日本が敢然として世紀の世界史を劃し、われらの民族の歴史を変革する大事業を行つてゐる北方に旅しようとしてゐるのである。しかもその私のゆくみちは、新しい世界文化の最初の交通路とならうとするみちである。わが大和民族が世界の異国と異民族に対して始めて示す浪曼的日本、即ち世界的日本が、まづ拓く交通路をゆくのである。……
これは昭和十三年の五月、師の佐藤春夫らとともに中国へ旅した保田與重郎の旅行記『|蒙疆《もうきよう》』の一節である。この本のなかで、かれはまず、私は中国人に理想を与えた蒋介石のえらさをはっきり知った。それは我らが考えるより強力な精神の上の敵である、という前提を置いてから、我々は日本の精神と倫理のほうが、蒋介石の理想主義より強力であることを示さなければならない、として、次のような中国観を述べていた。
「我々は東洋平和のために優秀な支那を|殲滅《せんめつ》せねばならない、しかしこの悲劇は、支那人の歴史の方法論の誤謬に原因する。間違つたものは滅さねばならない。さうしてそれを悲しむ一面で、我らのさらに優秀な正当な精神の戦死を一さう悲しまねばならない。支那軍の一人々々は国民でなく英雄でなかつたのだ、我々の一兵はみな国民であり英雄である。それは我田引水の論でない。歴史の一時期が抒情を奏でるとき人間を変革するといふ意味に於てゞある」…「今日の北京には、物さびた伝説の故都として恐怖の風格はなく、故宮や万寿山にも、古典と芸術の何一つさへ残さない。倫理の一片の残存さへない。唐宋の古典支那は思ふすべさへなく、むしろ奉天で我らは支那の少しの遺物をながめたのである。熱河の構成を見れば万寿山は下手な複製にすぎない。北京の女はさすがに美しいが、男は醜悪でグロテスクである、さういふ国に倫理のある筈がない、文化のある筈もない」
いまとなってみれば、だれの眼にも異常な考えとしか映らないであろうこの文章を、一言のもとに批判し、あるいは笑い捨てることも容易であるが、当時において、このような中国観は保田一人のものではなく、べつに珍しいものでもなかったことを、銘記しておく必要がある。こうした中国人蔑視は一般の国民のものであったばかりでなく、「日本軍一個大隊の戦力は中国軍一個師団に相当する」というのが、軍当局の対中国認識であり、この昭和十三年の八月に始まった漢口、武昌占領作戦において、日本軍は漢口を占領したものの、中国軍を「殲滅」することはできず、以後、いつ終るとも知れぬ長期戦の泥沼のなかに引込まれていったのである。当時の軍部の中国認識は、江戸時代の本居宣長が、軍事面において述べたそれと、あまり変りがないようにおもわれる。『秘本玉くしげ』に宣長はこう書いていた。
「……すべて唐土は、軍法議論などは道理をつくして尤に聞え、甚功者なるやうに見ゆれ共、実用に至ては、さやうにもあらず、軍の仕方は、此方の近代にくらぶれば、大きにつたなし、然るを世人の心に、唐土といへば、軍の仕方も格別に妙なるべきもののやうに思ひ、又殊の外大国と心得、それに応じて軍勢も、甚大軍なるべきやうに心得て、おぢ恐るゝは、皆大なるひがこと也、まづ彼国をひたすら大国とのみ心得るも、料簡|違あ《ヒ》り、その故は、国の広さは、いかにも甚広き事にて、日本の十|陪《(ママ)》などよりも過たれども、然れ共日本にくらぶれば、いづくも/\空虚の地多くして、広さ相応には、田地も人民もすくなく、物|成も《リ》いとすくなければ、軍もさのみ格別の大軍なることもなし、これみな世々の書にのせたる、彼国中の戸口の数、軍賦の数などを見ても、よく知らるゝこと也、既に豊臣太閤朝鮮御征|代《(ママ)》の時、唐土よりの加勢の軍などをも、此方の人は、或は五十万百万などと聞て、おびたゝしきことのやうにいひふらしつれども、大なる相違にて、其時の軍勢、始終十万にも過たることはなし、それ程の軍兵も、大抵の事にては、かり催しがたくて、いろ/\と世話をやきて、やう/\に催し|立た《テ》るところ、右のごとくなりし、これ皆彼国の書共に見えたる事也、さてかの時の|戦は《ヒ》、此方にも小西の如き、臆病神のつきたりし衆もありつればこそ、まれ/\には|負軍《ケ》もありつれ、左様の|聞懼《キキオヂ》だにせずは、始終毎度十分の勝たるべし、……」
おそらくはそれからさほど遠くない認識によって、中国との長期戦に引込まれていた軍部と政府が、こんどは米英に宣戦を布告して大東亜戦争を始めたとき、保田が発表した『攘夷の精神』は、宣長の『馭戎慨言』を引いて、思想と文化上の攘夷論を述べたものだった。『|馭戎慨言《ギヨジウガイゲン》』(または、からをさめのうれたみごと)は、宣長が古来からのわが国と中国朝鮮との交渉の歴史を詳述して、|戎《じゆう》を|馭《ぎよ》する道、すなわち西方の野蛮国である中国と朝鮮は、尊き皇国であるわが国にまつろうべきであることを説いたものである。それについて保田はこう書いていた。――今日の常識からは、偏狭と批評されるかもしれぬが、これを偏狭と評するやうな時代精神を討伐するために、当時に国学は生れたのである。……
よく知られているように、その当時、宣長に対する最も痛烈な批判者となったのは、上田秋成であった。秋成は『膽大小心録』において、宣長の『馭戎慨言』を、「だらけに|書《かい》た」「|売僧《まいす》の談義弁」といい、また次のようにもいった。
「此国には天が皇孫の御本国にて、日も月もこゝに生れたまふと云しなり、是はよその国には承知すまじき事也、さればよその国々は(わが国を)君とあがめて崇敬すべき事ありといふたれど、此ことわりはことわりなるべからず」
宣長との論争のなかでは、こういっている。
「言を広めて他国に対する論は、馭戎慨言の如きも取捨の眼あるべき書なり、典はいずれも一国一天地にて、他国に及ぼすは、諺にいふ縁者の証拠にて、互に取あふまじきことなり」
一国一天地のものである故実の論を、他国にまで及ぼすのは、諺にいう「縁者の証拠」つまり親類の者の証言とおなじで、それだけでは信用ができかねるから、たがいにかかりあうべきことではない、というのが秋成の批判であった。
保田はかつて、秋成を「わが国の国宝的な第一級の古典詩人である」と絶賛したが、同時にかれの|僻《ひが》んで|拗《ねじ》けた気質を指摘して、「秋成と宣長の人柄のあらはれ方、ことばのあらはし方を比較すると、一方が小人物で一方は大人物といふことが、私には切実に味はれるのである。いふまでもなく大は宣長の方のものである」といっていた。そういういい方で秋成を単に小さく見ようとするのではなく、「何にせよかし只今は山の大将我一人」といった秋成の近代的な「小説家」ぶりを、保田は「我一人で私が愛しんでゐるのである」というのである。
たしかに『異本膽大小心録』のなかの「伊勢の宣長といふ人は大家じやと聞て、人のつてで著書どもをかりて見たれば、これも私のおや玉で、文学といふ事にはうと/\しく、田舎だましひでやつつける人じや。門人がたんとついたは、物学ばすに高い事いはるゝがよさの事故、一人も人物が出る事ではない。たゞ弟子をとりべのゝ|烟《けむ》になるまでほしがられた。そこで、/僻ごとをいふてなりとも弟子ほしや古事記伝兵衛と人はいふとも/とやらかしたれば、皆にくんだ事そうな」といった秋成の悪口は、あまり品のいいものとはいえない。
この「大人物」と「小人物」の論争録である『|呵刈葭《カガイカ》』は、保田のいう通り「いかにも大と小のつりあいがよくて、一篇美事な作品」になっており、両者の面目がよくあらわれていて、すこぶる興味深い。秋成には、皇国は万国に冠絶している、という宣長の説を、到底そのまま信ずることができなかった。かれはオランダ製の「地球之図」を引合いに出して、宣長に質問した。
――この図のなかに、さて、わが皇国はどのへんにあるか、とおもって見ると、広い池の表面に、ささやかな木の葉を散らしたような小島でしかない。それなのに異国の人に対して、この小島こそ万邦に先立って開(闢)けたる国である、全世界を照らし出す日月が、ここに姿を現わした本国である、したがって万邦ことごとくわが国の恩光をこうむらざるところはなく、ゆえに貢物を奉ってわが朝廷に参上しなければならない、と教えたとしても、一国もそうした言には服さないばかりか、何を理由にそのようなことをいうのかと、不審の意を示すであろう。それに対して皇国の太古の伝説を理由にあげれば、そのような伝説はわれわれの国にもあって、あの日月はわが国にも太古から姿を現わしていたものである、というに違いない。そのような論争に、一体だれが裁断を下し、結論を出すことができよう。霊異なる伝説は、どこの国にもあるものである。論を広げて他国に及ぼす『馭戎慨言』のような書においては、もっと公平な眼があってしかるべきなのではあるまいか。……
これに対して宣長は、逆に秋成にむかって問い返した。大人物の宣長も、このときの反論においては、かなり皮肉な物のいい方をしている。
――万国の図を見たことを、珍しげに事々しくいい立てるのも、おかしなことである。いまどき、だれがあの図を見ていないなどということがあろう。また皇国のさほど広大でないことも、知らぬ者があろうか。すべて物の尊卑美悪は、形の大小できまるものではない。数|尋《ひろ》の大石も方寸の珠玉にしかず、牛馬も形は大なれども人にしかず、いかほど広大なる国であっても下国は下国、狭小でも上国は上国である。かの万国図を見ると、南極の下方に草木も生えず人もいない荒茫の国があり、その広大なることは、おおよそ地球の三分の一にも当るほどであるが、さだめし上田氏は、これを四海中の最上の国とおもっているのであろう。……
それから宣長は、いまさらいうまでもあるまいが、といった調子で、そもそも皇国が四海万国の元本宗主たる国であるのに面積がさほど広大でないのには、二柱の大御神が生み成し給うたときに、凡人の小智をもってしては測りがたい深理があったのに相違なく、その不可測の理はさておくとして、現に目に見えることだけ挙げても、まず皇統の不易であること、人の命をたもつ稲穀の美しいこと、神代より外国に犯されたためしがないこと、田地多くして人民の多いこと……と皇国が万国に冠絶する理由を数えあげたあとで、次のようにいった。
――しかるに世々の人は、ただ漢籍にのみ迷って、皇国がこのようにすぐれて尊い仔細も知らず、いま上田氏もまた、古い車の轍に落ちこんで、これを悟ることができずに、浅薄な論難をするというのは、いかなる|禍事《まがこと》であろうか。太古の伝説は、どこの国にもあるものであるというけれども、外国の伝説は正しいものではない。あるいは一部を誤って伝えたり、あるいはみだりに偽造したりして愚民を欺くものである。漢字が通じない国の伝説も、おおよそそれに類すると見てよい。かの遙かな西の国々で尊敬している天主教のごときは、すべて偽造の説である。
しかるにわが皇国の古伝説は、諸外国のような|類《たぐい》のものではなく、真実の正伝であって、今日の世と人のありさまと神代の様子が、不思議なまでに一々符合している玄妙さは、言葉に尽しがたいほどであり、それを上田氏が、外国の雑伝説とおなじもののようにいって、この妙趣を悟らないのは、大御光にかかった一点の黒雲、すなわち|漢意《カラゴコロ》の雲が、まだ晴れていないからである。……
「そもそも|意《ココロ》と|事《コト》と|言《コトバ》とは、みな|相称《アヒカナ》へる物にして」…「すべて意も事も、言を以て伝ふるものなれば、|書《フミ》はその記せる|言辞《コトバ》ぞ|主《ムネ》には有ける」という信条にしたがって、『古事記』の正確な読み方を定め字句を詳細かつ精密に解釈することに精魂と知能を傾ける日日を、驚くべき根気と粘り強さで既に二十年以上にわたって続けるうち、そこに書かれている世界が、おそらく眼前にあるように確実なものとして映って来ていたのであろう宣長には、秋成の論難が、|賢《さか》しらな|言挙《ことあげ》としかおもえなかったのだろう。
わが国の古代の事を知るのには、外国の言葉や考え方ではなく、わが国の言葉と考え方によらなければならない、という宣長の説は、国学の素人にも、十分な正当性を持っているようにおもわれる。けれど、いかに深遠な学問の結果として出て来た説であっても、それを他国に及ぼす『馭戎慨言』のような外交論にまで広げるべきではない、という秋成の反論もまた、いまのわれわれには、疑うことのできない道理である。
――宣長が偉大な人物であることは、人の争つて説くところである。しかしその偉大さは、本当にはまだわかつてゐないと思はれる。さうして現代の日本人の歩みつつある方向は、必ずしも宣長の唱へた方向とは一致しないと思はれる。……
と吉川幸次郎氏が書いたのは、昭和十六年十月のことだった。近頃でも吉川氏は、宣長に関する議論が盛んになっても、主著の『古事記伝』を読む人が少なく、『うひ山ぶみ』か『|石上私淑言《いそのかみささめごと》』か、あるいは『玉くしげ』によって論じられがちであるのを憂いている。いわれる通りに、宣長が三十余年の歳月を費して完成した厖大な『古事記伝』を読み通すのは容易なことではなく、宣長が脚光を浴びていた戦争中でも、その全巻を精読していた人は、それほど多くはなかったろう。
昭和十七年一月号の「新潮」に発表した『文化の問題と古典論』で、保田與重郎は、古典に立ちかえることの重要性を語って、「……それゆゑに私は今まではすすめ得なかつた大部の本を、今では止むなく一般にすすめるのである。それを読むのは非常な困難だが、己の責任で日本文化の問題を口にする人々は、必ずさきにあげた人々の思想を準備して慾しいのである。たとへば宣長の本の一言一行の中で、今日の現実の思想を検討するやうによむのである。これはすすめる方で困難と思ふが、やむを得ない」と『古事記伝』を読むことの困難さと、それでもなおかつ読む必要があることを、繰返し述べている。
そして戦後に書いた『日本浪曼派の時代』では(むろん謙遜でもあろうけれども)こういっている。「私は万葉集を古義に学んだやうに、古事記は宣長翁の『古事記伝』によつたのである。しかしこの方は古義に対するほどに精読するに到り得なかつたのは、みな私の学力の未熟のゆゑである。この未熟を知る時に、正しく宣長翁といふ人は神の如くに思はれた」。昭和十七年の|劈頭《へきとう》にあたって、さかんに宣長の説をとき、宣長にかえれ、と唱え、「それをよむ義務を民族として持つだけの決心をすることを要求するのである」といい、宣長の学は「……日本の学問に対する偉大な変革であり、一切の偽学を絶滅する思想的攘夷論だつたのである」と主張した当人が、その主著を精読していなかったとはおもえないから、戦後の言葉は謙遜であるのに違いないが、実際に宣長の学問には精通することなく極端な意見を吐いていた人も、少なくはなかったらしい。
おなじ年の七月号の「文藝」に載っている長谷川如是閑と村岡典嗣の二十九ページにおよぶ対談『本居宣長』の冒頭において、「……この頃、国学の復興が盛んに唱へられてゐますけれども、その中には何か棍棒を振り廻すやうな議論もずいぶん見受けられるやうです。それで、本居宣長の学者としての態度や精神について話していたゞければ、今の時代の、大きくいへば、国全体の文化の進め方にも影響して来るやうなことにもなるんぢやないかと思ひまして……」といっている編集者の言葉が、当時の風潮をうかがわせる。つまり宣長の、自分が到達した学問の精髄を無視して徳川の世の支配的な学問であった儒学にだけ目を向けている同時代の人人に発した激語の部分だけが、いっそう拡大されて、声高に叫ばれていたようにおもわれるのである。
この昭和十七年における棟方志功の活動ぶりは目ざましかった。保田與重郎に傾倒していたかれとしては、思想と文化上の攘夷論と国粋主義が、まえにも増して叫ばれだした今こそ、西洋人の絵の真似事でない「日本から生まれ切れる仕事」を……と念願して取りかかった版画と、のちに倭画と称するようになる独得の水墨画に、ますます張切って精進したとしても当然であった筈である。ところが、この年の志功が猛然として制作に熱中したのは、油絵だった。
前年の美術界は、年頭の「みづゑ」に陸軍情報部の強硬論が発表され、春にはシュールレアリストの福沢一郎が滝口修造とともに検挙されたうえに、画材の不足と絵具の急激な粗悪化も意欲を失わせたのか、まったく沈滞をきわめていた。
――今年の文展は、一口に云へば旧文展型の|でれつ《ヽヽヽ》としたアカデミズムの氾濫であると思つた。/文展に限らず今年はどこの展覧会も低調であつた。其の原因は主として世界動乱に気をとられて、現実問題の整理に気を奪はれ、|些《いささ》か足を|浚《さら》はれた形であつたこと。或は事変以来、概念的なものから写実的のものに戻さうとする気運に伴ひ、暫し当惑したこと。又は、事変以来の主題主義、題材本位の絵が一と先づ落ち着き(尤も第一部の日本画では特に今年は主題主義の絵が横行してゐるが、)再び自己の領分に帰らうとする前の一時的停滞などが全般的に不振の原因であつたと思ふ。……
というのが、前年十二月号の「新美術」に、『失はれた心の深さ』と題して発表された大久保泰の文展評で、なかには友人のものとして「文展の絵は代用コーヒーみたいなものだ」「てんで香気なんかありやしない」「此の絵の中から無理に絵を探し出して批評するのには同情する」……といった辛辣な評語も書かれており、おなじ号に載っている尾川多計の『十六年度美術界の回顧』にも、「中だるみ」「ぢり貧」「油絵具や油がなくつても紙と木炭はあり、|にかわ《ヽヽヽ》その他が不足だといつても墨は無くならない。無くなつて最も困るのは作家自身の気魄だ」と、いかにも歯痒そうな言葉が並んでいて、最後は「これから残つてゆく作家が本当の芸術家だといふ気がする」と結ばれていた。
多くの画家が微温的な写実主義に後退して行くなかで、表現主義的な傾向を強調して前年春の国画会展に出した志功の野心作は、版画部の展示室に入った人なら、だれも見落とす筈のない超大作であったのにもかかわらず、美術雑誌には一顧も与えられなかった。当然かれは不服であったろう。――やはり油絵でなければ、人は見てくれないのか……、そうおもったのか、それとも殊に洋画の世界で顕著になっていた沈滞ぶりに|技癢《ぎよう》をおぼえたのか、あるいは時流に逆行して自分の存在を顕示しようとする欲求が意識下から頭を擡げて来て、いまこそわれの油絵の出番だと感じたのか、または油絵具も配給制になったことが、かえってかれの油絵に対する意欲を掻きたてたのだろうか。この年の十二月に昭森社から出版されたかれの唯一の油絵画集である『棟方志功画集』の後記には、こう書かれている。「わたくしは、油絵を描くことが、板画や日本画を|為《な》すよりも、わたくしを更に真裸にしてゐるのを知つてゐます」…「猛烈きはまる『|血騒《ちざゐ》』を油絵具に受けます。油絵具の魅力は、わたくしの仕業を更に|生《なま》|からだ《ヽヽヽ》に致します」
かれ独特の表現ではあるけれども、なにものかが志功を内側から衝き動かして、血を騒がせていたのは多分まちがいのないところだろう。秋に油絵の個展を、ひさびさに開くことにきめた志功は、日本中を駆けめぐる制作旅行に出発した。京都、倉敷、長岡、長野、松本、富士山、足柄連山……。旅先から次次に水谷良一のもとへ送られて来た葉書と手紙は、志功の憑かれたような制作ぶりを、ありありと伝えていた。それでいて水谷に、展覧会の推薦文を梅原龍三郎に書いて貰うよう依頼することも忘れてはいなかった。
八月には家族と一緒に、例年のように浅虫温泉の椿旅館へ避暑に行き、そこから八甲田山を越え、十和田湖から弘前市に出て、鷹揚城や禅林三十三箇寺を描いて回った。日本橋の高島屋で、九月の中旬に開かれた展覧会に、志功は二十七点の油絵を陳列した。そのうちの十七点を収めた『棟方志功画集』を、いま手にとって見ると、画題には殆ど時局色がないといっていい。家族の団欒と、薔薇と、風景をフォーブ風に描いている色彩と筆の運びに、明るく軽やかな心の弾みが感じられるのは、志功を内側から衝き動かしていたものが何であったにもせよ、実際の制作中は、戸外で油絵具のにおいを嗅ぎながらも、おもうぞんぶん筆をふるう喜びと楽しみを全身で味わっていたからであったのだろう。画集のはじめに水谷良一は、『棟方君の場合』という題で、こう書いている。
――棟方君の画業は、油彩と版画との別なく常に逞しい全的意力の所産である。決して受身であつたことがなく、いつも全身を提げて対象にぶつかつて行く。謂はゞ躯一杯画面にぶちまけた仕事であり、真裸で画題と四つに取組んだ仕事である。其の態度の激しさの余り、棟方君の仕事からたゞ|膂力《りよりよく》だけを感じとる人が少くない。/|固《もと》より綺麗事とは凡そ縁遠い仕事には違ひないが、さりとて、「|荒事《あらごと》」と云つただけでは片附けられないし、生の本能をも遙かに踏み越えた境涯である。棟方君の仕事はどんなに粗々しく見えても、其の背後には常に暖かい心の悦びが脈うつてゐる。此の心の悦びに触れ得ないのは、見方の薄さに依らう。……
志功を明るく弾ませていたのには、緒戦の大戦果のせいもあったのだろうが、久しぶりに身も心も解放されて油絵に専念しているかれの表情と動作が、眼前に髣髴とするようである。国を挙げての大戦争のさなか、志功はこの年の大半を、絵を描く楽しみに浸りきって、秋成の『夢応の鯉魚』のように、嬉嬉として泳ぎ回っていたものとおもわれる。
太宰はこの年の二月中旬から、甲府市湯村温泉の明治屋方に滞在して、『正義と微笑』を書き始めていた。「婦人公論」の二月号に発表した『十二月八日』について、平野謙は翌月の「文藝」における伊藤整との対談時評で、こういっていた。「……太宰氏の小説そのものは面白いことは面白かつたのですけれども、やはり普段の太宰治まるだしで、そこにギヤツプが感ぜられる気がした」…「『十二月八日』といふ題材は太宰治が一等はじめに書いた気がするのです。それで題に牽かれて読んでみて、何か背負ひ投げを喰つたやうな気がちよつとしたのですがね」。つまり平野謙が、背負い投げを食わされた、と感じたくらい、大東亜戦争勃発の当日という未曾有の題材を扱いながら、太宰は普段とあまり変っていなかったことになる。
そのあとに書き出していたのは、イエス・キリストの教えを信じる俳優志願の少年を主人公にした小説だった。日本軍によるマニラ占領、ビルマ占領、シンガポール占領、バタビヤ占領……と、当時は「破竹の進撃」といった連戦連勝の報が相次いで、神国日本の正義を語る人人の声が次第に甲高くなり、目は鉢巻きで締め上げたように吊上がって、クリスチャンや俳優志願の若者などは白眼視されてあたりまえのようになっていた時期に、「微笑もて正義を為せ!」という主題の作品を書き進めていたのである。三月の二十日ごろに完成した作品のなかには、次のような一節があった。ある劇団の入団試験で、試験官に「役者の使命はね、外に向つては民衆の教化、内に於ては集団生活の模範的実践。さうぢやないかね。」と、問われたとき、主人公はこう答える。「それは、役者に限らず、教化団体の人なら誰でも心掛けてゐなければならぬ事で、だから僕がさつき言つたやうに、そんな立派さうな抽象的な言葉は、本当に、いくらでも言へるんです。さうしてそれは、みんなうそです。」
この『正義と微笑』が出版されたのが六月、それから三箇月ほどして、「文藝」十月号に発表された太宰の『花火』(のちに『日の出前』と改題)は、情報局から全文削除を命じられた。これは不良の息子を父親が殺したような気配があって、取調べにあたった検事に、妹の少女が「兄さんが死んだので、私たちは幸福になりました」と答えるという話で、公序良俗を重んずる一般のモラル感覚からは、遙かに遠い作品であった。かりにある程度の覚悟はして書いたものであったとしても、現実に情報局から全文削除を命じられたとき、大胆であるとは決していえない太宰が、たいした衝撃を受けなかったとは考えられない。また、このころの志功と太宰が顔を合わせることはなかったが、共通の友人が何人かいたので、志功もそのことは聞いていたかも知れない。それでもまさか自分も太宰とおなじ目に遭うことになろうなどとは、勿論、夢にもおもっていなかったろう。
このころの志功が、柳宗悦と保田與重郎のほかに影響を受けていたのは、大原總一郎だった。總一郎の父孫三郎は、かつて日本民芸館の設立に十万円の寄付をした民芸運動の大パトロンである。倉敷の大原家と、志功の結びつきは、四年まえの昭和十三年五月、孫三郎のコレクションによる浦上玉堂展が、大原美術館で開かれたとき、河井寛次郎に連れて行って貰ったことから始まっていた。
わがくにで最初の西欧絵画の美術館である大原美術館には、当時すでにエル・グレコの『受胎告知』をはじめ、モネ、ゴーギャン、セガンティニ、ロートレック、マチス、マルケ……などの作品が集められていたのだから、初めて訪れたときの志功が、昔ながらの古く典雅な家並みが堀割の水に影を漂わせている周囲の景観と、館内に収められている西欧絵画の名品群に、どれほど興奮し、熱狂したかは想像するに余りある。おそらくそれは、声も|嗄《か》れんばかりの感歎の叫び声と、手の舞い足の踏むところを知らぬ欣喜雀躍の連続であったろうが、浦上玉堂の蒐集家であり、大雅や木米の文人画を好んでいた大原孫三郎が、このとき初めて会った志功の絵を、いっぺんで認めたかどうかは、だれもはっきりとは記憶していない。柳宗悦が高く買っている志功を、孫三郎は無論、疎略には扱わなかったろう。大原美術館の創立者であり、日本民芸館設立のスポンサーであった孫三郎に、志功は「画伯」と呼ばれて、たいへん感激していたそうである。
大原總一郎はこのころ、二年まえから外遊中だった。志功が初めて總一郎と顔を合わせたのは、昭和十三年の十二月、かれの帰国を祝って、倉敷市の酒津にある大原家の別邸で開かれた園遊会の席上であった。招かれてこの園遊会に出た志功は、歎声の連発を通りこして寡黙がちになっていた。落葉が散り敷き、さまざまな樹木の間から、しきりに鳥の啼き声が聞こえて、深い山中をおもわせる三千坪の敷地に、門番小屋、和風の画室、母屋、洋風の山小屋のような建物……などが点在している広大な屋敷は、大原孫三郎が後援していた画家児島虎次郎のために建てられたものだった。屋根の煙突から冬空に薄い煙を立昇らせ、なかに薪が焚かれている暖炉と、部厚いがっしりした木製のテーブルと椅子を備えたコッテージは、画の制作中に人が訪ねて来たとき、応接に使うためのものであったのだという。そのように至れり尽せりの設備をしたほかに、孫三郎は児島を三たび欧州に送った。児島は画業に精進するかたわら、孫三郎に任されて、西欧絵画の蒐集も行なった。大原美術館は、児島の死後、かれを記念して建設されたものである。一人の資産家が一人の画家を後援するということは、これほどまでにするものなのか……そうおもって志功は呆然と息をのむ心持になっていたのだった。この園遊会にも、志功は河井寛次郎と一緒に行っていた。そこへ大原孫三郎が、三十になったかならぬかの青年を連れて来て、志功にいった。
「うちの總一郎が、棟方画伯の絵を、まえから大好きでね。きょうは画伯が来られるのを、楽しみにして待っていたんですよ」
はあッ……とお辞儀をしながら、志功はすこしく不審におもった。大原總一郎はこの数年間、欧州にいた筈である。一体どこで、われのどの作品を見たのだろう、二年まえのベルリン・オリンピック芸術競技に出した『ラジオ体操』と『ウオーミングアップ』でも見たのだろうか。
「あのう……」志功は、いかにも東大出の秀才らしい俊敏な表情をしている年下の青年に恐る恐る訊ねた。「わだしの絵を、どちらでご覧になったんでしょう?」
「ロンドンですよ」
「ロンドン!?……で、どの作品をご覧になったんです」
總一郎の説明によると、かれがとくに感銘を受けたというのは、『華厳譜』のなかの風神の図であった。とすれば自信のある作のひとつだが、それをどうしてロンドンで……と訝っている志功に、
「ぼくがその版画を見たのはね。……」
と、總一郎は微笑を浮かべて、そこに至るまでの経緯を話し始めた。かれが昭和十一年の春に、欧米各国への旅に出たのは、紡績業視察のためであったのだが、音楽と絵画が大好きであったので、視察旅行の合間に、音楽会と美術館めぐりを欠かさず、その案内役になってくれたのが、ロンドンに一人住まいをしていたヘンリー・バーゲンという老アメリカ人だった。無名ではあったけれども、かれは眼のきく美術コレクターで、日本の陶器にも愛着を持っていた。あるとき二人で、ロンドンのリトル・ギャラリーヘ行くと、濱田庄司の陶器とともに、棟方志功の版画が何枚か展示されていて、そのなかからヘンリー・バーゲンが手にとり、買い求めた一枚が、『華厳譜』のなかの風神の図だったのである。
大原總一郎はバーゲンについて語った後年の感想に「今は世界の寵児となった棟方の版画を最初に買った外国人は恐らく彼だったであろう」と書いている。總一郎自身も、ロンドンで見た志功の版画に感銘を受け、日本に帰ったら、是非いちど棟方におもうぞんぶん腕を振るわせてみたい、とおもっていたので、きょうの顔合わせを楽しみにしていたのだった。まず手始めに、うちの襖絵を描いてはくれまいか……というかれの言葉に、「やります、やります!」|眥《まなじり》を決した志功は、躍り上がるようにして叫んだ。
志功は、園遊会が行なわれた酒津別邸のなかに住んでいる大原美術館長武内|潔真《きよみ》のもとに寝泊りし、故児島虎次郎の画室で、大原邸の襖絵や屏風を描くことになった。
画材の準備や、墨摩り、水の用意など制作の手伝いには、武内夫妻が当たった。最初に志功が描いたのは、六曲屏風の山水であった。志功が描き始めたとき、その無計算、無鉄砲ともおもえる制作方法に、もともと倉敷紡績の|技師《エンジニア》で工場長を勤めたこともある武内潔真は(……ちと無茶じゃないか)と心のなかでおもった。志功は床にひろげた六曲屏風のまわりを、絶えず動き回って、こちら側から描いたかとおもうと、飛んで行ってこんどは向こう側から筆を下ろした。なにを描いているのか、さっぱり訳が判らない。線描のなかに薄墨を塗るときは、塗るというより、片口の水に溶いた墨を、筆でかたっぱしから紙のうえに撒いているような感じで、武内は、だんだん腹が立って来たくらいであった。ところが、それに色彩が施されていくと、見る見るうちに画面は鮮やかな風景の姿を現わし始めた。武内の腹立ちは感嘆に変った。筆を洗う水を替えに往復していた武内夫人も、戻って来るまでの短い間に画面が一変して行く有様に、眼を見張っていた。志功が署名をして制作を終えたとき、その目ざましい速度と気魄と才能に、武内はすっかり感服していた。
期待を上回る出来映えに喜んだ總一郎は、大原邸内の襖絵を、すべて志功に描かせることにしたので、以来、志功は毎年のように倉敷へ出かけ、酒津別邸内の画室で、逸品の聞こえが高い『五智御菩薩図』をはじめとして『群鯉図』『華厳壁図』『連山々図』『群童図』『風神雷神図』『両妃図』……と力作を描き続けた。
これらの肉筆画について、美術評論家の矢代幸雄氏は、戦後、倉敷の大原邸を訪れて見たときの感想を、次のように書いている。
「初め示されたのは六曲一双の屏風に、放胆な筆で、白雲の飛ぶ青空の前に|連亘《れんこう》する山々と、林立する杉の木立と、その間に点々として見える村落の家並や神社の鳥居などを画面いっぱいに描いた、旺盛な風景画であった。その荒っぽいところのある風景は、棟方の郷里の東北の山また山を描いたものであろう。大きな筆を縦横に走らせ、墨をたっぷりつけた作画であるが、また緑や青の色彩を濃く使った西洋画風のしっかりした描写である。何となく、一脈、鉄斎にも通じる痛快な近代的描写であった」
矢代はそれまで、志功を確かに異彩であると認めてはいたけれども、版画から時折うけるどぎつい感じには、いささか閉口することもあったのだが、肉筆画の奇想天外な面白さには心を奪われたので、興奮して「もっと見たい、もっと見たい」と總一郎に懇望した。なかでも奇抜とおもわれたのは、沢山の鯉を描いた襖絵だった。
「あるいはほんとうの水に浮く鯉のごとく、あるいは大きな|鯉幟《こいのぼり》が強風に吹かれるところのごとく、あるいはまた鯉の頭があまりに丸くなって、大|鯰《なまず》に化けかけたようなのもいる。生気充満、ユーモア横溢、何とも言いようのない愉快な作であった」…「暗い廊下の突き当りに、大きな赤不動を描いたのは、殊に傑作のように思われた。いずれにしても、私としてはこの種の棟方志功の作を初めて見たわけで、大いに認識を新たにし、また彼の不羈奔放なる想像力の|奔馳《ほんち》や、筆の動きの自然さに、すこぶる感歎した」
志功が倉敷の大原家において、肉筆画の傑作を続続と量産したのは、大東亜戦争の直前から真最中にかけてのことだった。これは總一郎の知遇を得たおかげであり、そこから徐徐に経済的な余裕も|齎《もた》らされて来ていたものとおもわれるが、志功が總一郎から受けた精神的影響も、それに劣らず大きかったとみてよい。そのひとつは西洋のクラシック音楽、とくにベートーヴェンの音楽を体の芯に植えつけられたことである。
大阪の倉敷紡績で指揮をとる總一郎の、いつもの住まいは、倉敷の本邸ではなく、神戸の住吉の|反高林《たんたかばやし》にあり、音楽好きのかれは、そこに社員を招いて、自分が蒐集した名盤によるレコード・コンサートを催すことが、たびたびあった。これが社員にとっては、ちょっとした落語の『寝床』で、レコード・コンサートの当日には、みんな何とかして招待の指名から逃れようと、戦戦兢兢たる有様だった。そんなときに、社員ではないけれども、志功は敢然と出席して、荘重森厳に延延と続く名曲を、残らず真正面から受けとめ、瞑目して棒を振る指揮者のような陶酔と興奮の表情を示し、總一郎の解説と音楽談議にも深く耳を傾けたうえで、いまの音楽と解説に対する自分の感想と意見を、|縷縷《るる》切切と申し述べるのである。
別に無理をしていた訳ではなかったのだろう。かれにとって画家はゴッホ、音楽家はベートーヴェンで、そのベートーヴェンに対する関心は、初めて東京に出て来て、帝展落選が続いていたころからあったものだった。後年の回想では、「特にわたくしにとって、音楽はベートーヴェンという位、ベートーヴェンが好きです。まだ蓄音器も持ってない頃から、そのレコードを全部そろえてもっていた程です」と語っている。こうした志功の回想は、必ずしも言葉通りに受取ることはできないが、蓄音器を持つまえから、大原總一郎家のレコード・コンサートにおいて、ベートーヴェンの交響曲の殆ど全部を聴いていたのは、多分まちがいあるまい。
なかでも好きになったのは、第九交響曲のなかの「歓喜」のメロディで、以来かれはしばしばそのメロディを口ずさみながら、版画を彫るようになる。宗教と芸能、祈りと歌と踊りが不可分のものであった古代の人人とおなじように、気に入った詩歌や経文を、口と心のなかで繰返し唱えながら、祈りを彫刻刀の尖端に籠めて、踊るように板を彫り進むのが、棟方志功の制作方法の基本であったようにおもわれるから、その心中の音楽のレパートリーに、ベートーヴェンが加わったことは、作品の世界に、測り知れないほどの変化と広がりを齎らしたのではないかと考えられるのである。
志功が大原總一郎に与えられたもうひとつのものは、芸術家としての世界的な視野、いいかえれば、近代の芸術家としての自覚であった。父孫三郎のあとを継いで、三十二歳で倉敷紡績の社長に就任した總一郎には、なにもかも打明けて話せる相手が少なかったのだろう。その分だけ、芸術上の知己である志功には、遠慮を取払っていたのか、ときに辛辣すぎるくらい手きびしい評言を発することがあった。のちに志功がスランプ気味に陥ったときには、「こんな詰まらないものをつくるくらいなら、絵描きをやめてしまえ」といったこともある。それは結局、ヘンリー・バーゲンに「大美術館にある作品だけがよいものとは限らない。中小の都市の美術館も見逃してはいけない」と教えられてから、外遊中に、有名無名を問わずヨーロッパ中のありとあらゆる美術館を見て来た總一郎が、それらのなかでの最上の作品、最良の画家たちと、志功を同列において論ずるところから生まれて来た評言だった。
志功も油絵を描き始めたころから、ゴッホを意識してはいた。ただし初めのうちは、ゴッホと油絵画家を同義語のように考え、つまり、われは「ゴッホになる」というのは「洋画家になる」というのと同程度の意味で、実際にゴッホに迫るほどの画家になろうと決心していたわけではなかった。けれども、その後ゴッホの『アルピイユの道』もコレクションに加えられた当時のわが国では唯一の西欧絵画の美術館である大原美術館から、さほど遠くない酒津の深山をおもわせる三千坪の敷地のなかの画室で制作に励み、神戸に行ってはクラシック音楽に耳を傾け、あるいはヨーロッパの美術を目の前において論じているような總一郎の芸術論を聞く生活のなかで、ほかの恵まれた洋画家のようにパリ遊学の経験を持つことができなかった志功にも、そのころから、自分は世界の画家たちのなかの一人である、という意識の萌芽が生じはじめて来ていたようにおもわれる。ちょうど總一郎と知合ったあたりから、志功の作品に、近代的な造型感覚が顕著になっているのが、その証拠で、このころの志功の制作は多分、大原總一郎の存在を、たえず意識の一隅に置いて行なわれていた筈である。
總一郎のほうでは、志功をどのように見ていたかといえば、これは戦後のものになるけれども、谷川徹三氏によって、「棟方と棟方芸術について書かれた最高の文章である」と評された、あの有名な棟方志功論がある。――棟方の中には二人の棟方がいる。彼はその門衛と二人住いだ。……という部分は、まえに紹介したが、そのあとには、こうも書かれている。
「展覧会場に現れた棟方自身はいつも何事か大声で喚くが、作品はまたいくらか別の言葉を語っている。作品の中にいるのが主人公で、会場に現れたのはその従者であることが、われわれには直ちに知ることができる」…「棟方の中に住む棟方、それは彼の板業の歴史を通じて直接間接に|窺《うかが》い知るほかはないものだが、それが将来さらに生み出すであろう物は、決して今日までの作品から帰納されるわくの中にとどまるものではなかろう。彼にとっても、われわれにとっても、また板画芸術そのものにとっても、未知なる驚きは、まだ彼の奥深くに限りなく残されているに違いない。ある人は棟方はその人間の方が、その作品よりも面白いという。この批評ほど彼にとって迷惑、かつ不名誉な批評があるだろうか」……
大原總一郎の観察によれば、棟方の中には二人の棟方がおり、一人は作品の中にいる主人公であって、もう一人はその門衛であり、従者であるという。それをいいかえると、志功のなかには、ドン・キホーテとサンチョ・パンサが同居していたのであったのかも知れなかった。つまり見果てぬ夢を追うロマンチストと、卑俗な現実に徹するリアリストが、ひとりの人間のなかに呉越同舟のかたちでいて、たがいに反対の方向へ|楫《かじ》を引き合いながら、激しい時代の波間に、微妙な均衡を保たせていたようにもおもわれるのである。
ドン・キホーテといえば、志功に言わば両側から影響を与えていた保田與重郎と柳宗悦は、前時代の騎士道小説に熱中しすぎたあまり、しばしば夢想と現実を混同する狂気の理想主義者となった、かのラ・マンチャ人の物語について、それぞれ次のような印象深い挿話と感想を記している。保田の場合は、大阪高校への進学にあたって、主としてドイツ語を学ぶ「文科乙類への入学を志望したのは、英語を学ぶことを好まなかつたからだつた」が、そのまえにいちど、「……中学校の三年生になつた時は、英語を学ぶことを発心し、子供用にかかれた英文のドン・キホーテの本を一心に学んだ。さうすると英語の試験成績が忽ち向上した」(『日本浪曼派の時代』)というのである。その本に描かれていた空想的騎士の姿に興味を覚えなかったとしたら、そういう事態は起こり得まい。
柳は、中世を讃美するユートピアン的社会主義者であったラスキンとモリスを論じた『工芸美論の先駆者に就いて』のなかで、「あのドンキホーテの喜劇には、真実なるものの苦しさがある」と書いている。ともに復古の傾向を持ち、失われた過去の時代に憧憬の念を抱いていた点で、二人は実際にも、かなりドン・キホーテに似ているようにおもわれるのだが、たがいに目指す方向は、大分ちがっていた。保田が理想的攘夷論の主張を強めていたのに対し、大東亜戦争勃発の直前から直後にかけて、柳がもっとも熱意を示していたのは、アイヌ文化の問題だった。
志功が昭和十六年の夏に、北海道の根室を訪れたのは、それよりおよそ六十年まえにやはりアイヌヘの関心を持って根室から|択捉《エトロフ》島に渡った大画家鉄斎と「おなじ道を辿ってみたい……」という願望があったことのほかに、柳宗悦に与えられていた影響とも無縁ではなかったろう。同行者とともに、志功が荷馬車に乗って、根室から訪ねて行った先は、後援者の島丈夫の親類にあたって、鮭、蟹などの罐詰製造業を営んでいた和泉勝平の家だった。そのときのことを、かれは自伝『板極道』に、こう述べている。
――広い広い草花の咲いている水平線一本の中を、二本の車の|轍《わだち》のあとより模様のない平原を、さわやかな初夏の風におくられて、行きました。こんなに広い土地がみんな和泉氏の所有地だと聞いて、ひっくり返ったものでした。……
これは必ずしも志功得意のオーバーな表現ではなく、何万坪かの原野に、罐詰工場、牧場、それらで働く人人の家家が点在している根室郊外のカツラムイ一帯は、当時、実際に和泉家の村であるといってもよかった。
――根室では、初めて馬に乗ってみました。後にも、先にも、わたくしは馬に乗ったのがこの二十歩か三十歩か百歩までは無かっただけでしたが、タテガミを握って、あぶみに足かけて、「ヨイッショ」と|生《なま》な、生きた|毛モノ《ヽヽヽ》に乗りました。和泉氏の令嬢が、疾風のように別の馬に乗って走っているのを見て、「ナンたる勇壮なことが出来るものだ」と驚き入りました。……
この馬に乗って疾駆していた和泉節子の回想によると、志功は毎朝、午前三時ごろから起き出し、海辺に画架を据えて、日の出を待っていたそうである。翌年秋の油絵個展に出品された『「|大穂頬遂海《おほほつくかい》」真唯中日出』が、このときの作であったものとおもわれる。また和泉家の牧場のなかには、考古学者が来て発掘した先住アイヌ民族の住居遺跡があって、志功はそれに頗る興味を示し、いろいろと人人に問い|質《ただ》していた。志功が初めて北海道に渡ったのは、昭和五年のことで、小樽で美術教師をしていた弘前出身の成田玉泉を訪ねて行ったのだが、成田の記憶によれば、そのときの志功が、アイヌ文化に興味を持っていた様子は、まったくなかったというから、関心を持ち始めたのは、やはり柳宗悦と知合ってからのことであったのだろう。
柳は、昭和十六年の九月から十一月にかけ、日本民芸館において、杉山寿栄男氏の蒐集のなかから約六百点を選んで陳列したアイヌ工芸品展覧会と講演会を開き、十二月号の雑誌「工芸」をアイヌ文化に関する特集号として、そのなかに次のように書いた。――私が多くの学者に不服を感ずるのは、彼等はアイヌに好個の学的対象を見出してゐるが、それがとかく個人的な満足に終つてゐて、アイヌの運命の為に闘はうとしてゐるのではない。自己を捨て忘れて、アイヌの為に憂ひ気づかつてゐるのではない。さう云ふことには寧ろ冷かであつて、自己の知識を増すことにのみ熱情が集りがちである。どこかそこに利己的な影がないであらうか。……
必要なのは同情や憐憫ではなく、すぐれた文化を持つアイヌヘの敬念である、と説いた柳は、翌十七年の三月、日本中が緒戦の戦捷に沸きかえり、「八紘一宇」が聖戦の大義として呼号されているなかで、ふたたびアイヌ文化を特集した「工芸」に、『アイヌ人に送る書』を発表し、アイヌ人と朝鮮人と沖縄人が深刻に悩んでいる差別意識について語ったあとで、こう述べた。
「……たとへアイヌであらうと、今は上に陛下を頂く、日本国民の一人なのだ。まがひもない日本国民の一部をなすのだと云ふ意識こそは、アイヌの新な誇りだと云はれてゐるのだ。私はかう云ふ誇りが、只教育でさう考へさせられるやうに強ひられたと云ふのではなく、自然に必然にさうなつたのなら、君達にとつて幸なことだと思はざるを得ないのだ」…「だが私がこゝで疑義を差挟みたいのは、是等の歩み寄りが果して根本的な解決になるかと言ふことだ。アイヌ人を教育すると云つても、吾々自身の教育すら怪し気なのに、何を目標に君達を向上させようとするのか」…「教育には浅薄な教育が|屡々《しばしば》あるのだ。アイヌを今の日本風に変へて|了《しま》ふと云ふことには、其の浅薄さがありはしないか」…「アイヌも歴然たる日本国民の一部だと云ふ意識、此のことよりアイヌに希望を抱かせるものはないと考へる其の考へ方。私は之が何等かの必然さで行はれるなら問題はないと思ふのだ。だがさう云ふ考へ方が、日本人の都合のいゝ見方が強要したものであつたり、又は無気力なアイヌを生むやうな欠点を伴ふとしたら、結果に於て面白くないではないか。かう云ふ考へ方だけでアイヌ問題の解決が出来るであらうか」
まず相手の立場になってみて物を考えること、日本風に同化するのではなく互いの違いを認めて尊敬し合うこと、憎悪や諦念や服従や軽蔑ではなく互いの価値を尊重し合う敬念がなければ、差別は解消しない、と説く柳の主張は、あきらかに当時のわが国の植民地と少数民族に対する「皇民化」政策に反対し、ひいては「八紘一宇」の理念と、大東亜戦争の意義に、重大な疑問を投げかけるものだった。ともに復古の傾向を持ちながら、保田の関心は故郷の大和から朝廷の代代を溯って|神《かむ》ながらの道に収斂していくものであったのに対し、柳の関心は、朝鮮、沖縄、アイヌ、台湾……と、つまり大日本帝国のなかでヤマトからはみ出している部分に、次第に広がっていた。
志功は柳に、「棟方の顔を見ると都の男とは違ふ。まがひもなくアイヌの血が流れてゐるのだ」といわれているうち、自分でも段段そうおもい始めており、一方では沖縄を自分の本当の故郷のようにおもう心も薄れていなかった。また昭和十五年ごろから、画家の志願者をふくむ三人の朝鮮人が、よく遊びに来ていて、そのなかの画家志願者は、『釈迦十大弟子』を見て、「棟方先生は、|鬼神《クイシン》だ」といっていた。金達寿氏のご教示によると、この場合の|鬼神《クイシン》は、「神業を持った人間」といった意味の讃辞であろう、とのことである。
それらのことが、志功のなかにも当時の日本人大多数とは、幾分か違った感覚を育てていたのかも知れない。それに加えて、ドン・キホーテのほかにサンチョ・パンサの同居していたことが、熱狂性の強いかれに、微妙な均衡を保たせていたのだろう。だが、夢を追って猛突猪進する主人に仕えて、たえず周囲に気を配ることを忘れない志功のなかのサンチョ・パンサにも、意外な盲点があったようだった。
大東亜戦争が、日本軍にとって有利に展開したのは、緒戦のあいだだけで、昭和十七年の六月五日には、国民には知らされなかったがミッドウェー海戦において惨敗を喫し、八月七日には米軍がガダルカナルに上陸して、形勢はにわかに逆転しはじめ、この年の十二月三十一日、大本営はガダルカナルからの撤退を決定した。翌十八年一月号の「コギト」の巻頭に、保田與重郎が発表したのは、正月二日に誌したという『年頭謹記』だった。
「皇紀二千六百年に当る昭和十五年の年頭、天皇陛下には畏くも
西東むつみかはして栄ゆかむ世をこそ祈れ年のはじめに
との御製を遊ばされ、十六年の師走八日に、米英攘伐の大詔を下し給ふ。時すでに、皇軍、聖慮を奉戴し、神厳凜烈、神威顕燿として八紘を覆ひ、伐ちて克たざるなく、攻めて取らざるなく、忽ちにして四隣萬里、皇風の下に衆庶生色を復す。……」
と始まって、昭和十七年年頭に下し賜った御製では、畏くも御自ら「たゞいのるなり」と曰わせられたこと、またこの昭和十七年十二月十二日には、天皇陛下御自ら、両宮の大前に、神風を祈り給うたことへの恐懼の念を述べ、|駁戎《からおさめ》の大道こそ文人の現在道である、と決意を語ったあと、「ひのもとのうたのこゝろはたゞ一途神祭りする外なかりけり」という歌で結んだ文章で、小高根二郎氏の表現をかりれば、宣長流の祈りを述べた保田の「|祝詞《のりと》」であった。
志功が昭和十八年春の国画会展に出品した『神祭板画巻』は、扉の模様とカットをのぞくと、この保田の文章をそのまま彫った、文字だけの版画だった。これが年譜には「不敬を理由に主催者側の手で会期中に撤去される。……」と記されている問題の作品である。
しかし、天皇の大御心をたたえ、文人としての志を述べた保田の文章を彫ったこの作品が、どうして「不敬」ということになったのか、その経緯を、はっきり覚えている人は、ほとんどいない。志功の弟子であった棟方末華(同姓で同じ青森の出身ではあるけれども、直接の親戚ではない)の記憶によれば、本人は「字の具合がよくないといわれた」と語っていたようである。チヤ夫人の記憶によると、展覧会場から帰って来た志功は、時局に合わないといわれた……というような意味のことを、あまり要領を得ない調子で口にしていたという。
おなじ年の第四回美術文化展で、二つの作品を撤去させられた井上長三郎の場合は、こうだった。美術展の検閲は、内務省や警視庁や情報局が行なっていたが、大東亜戦争の勃発とともに、大本営報道部が当たるようになっていて、この年の展覧会にやって来た大尉が、井上の作品に対する疑問を口にしたとき、まえに福沢一郎が検挙されて以来、すっかり神経過敏になっていた会の主催者側が、自ら進んで撤去を申し出た、というのである。問題になったのは、『満州の葬式』と『騾馬』の二作で、とくに食物も与えられずに酷使され、瘠せ衰えて、皮膚も破れている騾馬の哀れな姿を描いた絵が、反戦か厭戦の思想でもあらわしているように取られたらしい。井上としては別にそんなつもりはなく、小さいときから育った大連で眼にした光景に、画家としての共感を覚えて筆をとったのだが、その共感を覚えた気持の底を探ってみると「疑問が持たれたような考えも、あるいはあったのかも知れない」ともいう。
この年の展覧会を回っていた大本営報道部の大尉は、戦後まもなく死亡してしまったので、志功の場合はどうであったのかを確めることはできない。読んでみて保田の文章には、当時としても「時局に反する」ところや「不敬」にあたるところがあるとはおもえないから、問題になったのは、やはり「字の具合」であったのだろう。「字の具合」が「時局に反する」場合として考えられるのは、文中に何度か出て来る「天皇陛下」という文字の墨色が薄かったり、かすれていたりしたのではないか、ということである。ずっと後年の言葉ではあるけれども、志功は自分の摺り方について、こう語っている。「案外、わたくしは摺りを大事にするタチですが、大事といって気を付けるということではありません。摺りの風韻というものでしょうか、そういう|塩梅《あんばい》を一寸、大切にしています。かと言ってわたくしの摺りは上手糞ではありません。下手糞の方です。全然、ていねいに扱わないということです。板と、刷毛と墨に任せてもらって、バレンを強く、弱くをその時の息使いにたのんでいます」
そして前記のような想像を裏づけているようにおもわれるのが、講談社版の「棟方志功全集神々の柵」に載っている『神祭板画巻』の原画で、京都の河井寛次郎家の所蔵であるその作品には、なぜか十八枚の図のなかの、一枚の図の摺りだけが二枚あり、その一方の「天皇陛下」という文字は、かなりうすく、もう一方の「天皇陛下」という文字は、墨をつけすぎたためか、だいぶ|滲《にじ》んでいるのである。この作品は当時の新聞に包まれてしまわれていたとのことで、志功が国画会展の直後に、京都の河井家を訪ねたことは、水谷家への葉書によって明らかであり、ひとつの作品を届けるのに、一枚の図の摺りだけを理由もなくわざわざ二枚にするということは考えられないから、そのへんにこの問題を解く鍵がありそうにおもえる。
以下は想像するしかないのだけれども、大本営報道部の係官か、または別のだれかが「天皇陛下」という文字のかすれか滲みを指摘したとき、主催者側は直ちに、自ら撤去をいい出したのではないだろうか。もしそうだとしたら、志功は「不敬」のあらぬ疑いをかけられても、俎上に引出された「夢応の鯉魚」のように、まったく弁解ができなかったろう。いかに天皇陛下を尊崇していたとしても、いわば芸術至上主義者でもある志功にとっては、文字のかすれや滲みなど少しも気にならぬくらい、摺りの風韻のほうに関心が向いていたに違いないとおもわれるからである。
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現 実 と 夢
偶然のめぐりあわせによって、それまで予想もしていなかった大きな実りの齎らされることが人生には間間あるが、棟方志功の場合ほど数多くそうした機会に出会って、それらを見事に|活《い》かしきった例は少ない。話はまた少しくまえに溯る……。昭和十四年の夏のことだった。
帰郷して、青森市の成田本店で油絵の個展を開いていた志功に、一人の若い男が近づいて来て、「わだしはこれから、京都へ帰るとごろだんですけども……」といった。言葉に明瞭な津軽訛りがあるから、京都の人間ではあるまい。実は非常に気に入った絵があって、是非ほしいのだが、あいにく持合せが足りない、残りの分は京都から送るから、絵をそこへ送っては貰えないだろうか、とかれは言葉を続けた。年の頃は二十七、八とおもわれたが、話の様子では、京都大学に関係があるらしかった。この青森から京都帝国大学へ行っている学生さんなのだろうか……と、志功は年下の青年を尊敬する気分になった。なにはともあれ大学生が自分の絵を好きになってくれたというのは、実に嬉しいことである。
「足りない分は、いりませんよ。さ、どうぞ持って行って下さい」
志功は気前よくそういって、望んでいた絵を壁から外して青年に持たせた。青年は恐縮して繰返し礼をいい、志功の東京の住所を聞いて、大喜びで帰って行った。志功のほうも上機嫌で、その夜、泊っていた八甲田山中の酸ヶ湯温泉の旅館へ帰ると、「きょうは珍しいごとがあってせ。京都大学の学生さんが、|我《わ》の絵ば欲しいんだけんども、|銭《じえ》ンコ足りねえっていうもんだから、足りねえ分は要らねえ、って絵ば持だへでやったんだ。……」と、展覧会場での一部始終を、チヤ夫人に話して聞かせた。
短い青森の夏が終るころ、一家は東京に帰った。秋になって、ある日、京都から山口繁太郎という名前で、素晴らしい柿が送られて来た。知らない名前であったが、あの学生さんだな……と、志功はすぐにおもい当たった。そして翌年の夏――、浅虫温泉へ避暑に来て、椿旅館に泊っていたとき、チヤ夫人が食あたりを起こして、激しい腹痛に襲われた。志功は、ちょうど椿旅館の向かい側にあった東青病院の浅虫診療所に駆けつけ、玄関に立ち、大声で叫び立てた。
「先生! 先生! 大変です、ちょっと来て下さい!」
その声を聞きつけて顔を出したのが、山口繁太郎だった。かれは診療所の医師の知合いで、そこに泊っていたのである。おたがいに|吃驚《びつくり》したが、まず医師の診断と手当てが先で、それが一段落したあと、あらためて挨拶をかわし、それからしょっちゅう遊びに来るようになって、志功は山口の詳しい身の上を知った。かれは京都大学の学生ではなかった。南津軽郡金田村新屋の小作人の三男に生まれたかれは、幼いときに父を失い、長兄の末作は母親と弟二人を抱えて小学校へもろくに行かずに働き続け、それでも向学心は失わずに講義録などで勉強を続けるうち、農村の貧しさと矛盾を痛感したのだろう、大正十四年、二十四歳のときに組合を組織して、農民運動に身を投じた。
繁太郎も兄の影響をうけて、早くから労農運動に加わり、当時は労働運動の一環であった消費組合運動に従事して、青森、東京、京都を転転としたが、京都大学内の消費組合で、教授の講義録を出版する仕事に携わるうちに、朴訥で飾らない人柄によって教授連の信任をうけ、いまや一人前の出版者として認められるところまで来ていたのだった。話をすればするほど、かれと志功のあいだには、共通点が多かった。小学校しか出ていないこと、にもかかわらず、というか、それゆえに、というか向学心に富む読書家で、わがくに一流の知識人に知己を沢山もっていたこと、ともに小柄な熱情家であること、津軽人には内弁慶が多く、外へ出ると人見知りして消極的になりがちであるのに、二人とも異郷で積極的に活動して、これまで自分の道を切りひらいて来たこと……等等。二人は酒を飲まなかったが、別にアルコールの助けをかりる必要がないくらい、平素において情熱的だった。
それに志功にしても、帝展落選が続いていた昭和初年の不況のころには、世の多感な青年の多くとおなじように、葉山嘉樹、岩藤雪夫、藤森成吉らのプロレタリア文学に読み耽って、左翼的な思想に共感を抱いていた時期が、なかった訳ではないのである。なんの遠慮もない津軽弁の大声で語り合って肝胆相照らす仲になった二人は、翌年の夏から、浅虫温泉に来る日にちを打合せて、おなじ時期に家族ぐるみ椿旅館に同宿することにした。
昭和十七年の夏、二人は椿旅館で、志功の初めての随筆集出版の打合せに熱中していた。山口は独立して山口書店の|主《あるじ》となっていた。最近、講談社学術文庫の一冊となって再刊された弘津正二著『若き哲学徒の手記』は、当時、山口書店から刊行されたものである。昭和十六年の十一月に起こった|気比《けひ》丸遭難事故のさい、救命ボートに移乗する順番を人に譲って死んでいった京都大学哲学科の学生弘津正二の遺稿集は、十七年の六月に出版されて、学生たちのあいだに、波紋をひろげつつあった時期だった。志功の随筆集は、この年の十一月に出版された。かれは生涯において、画家としては、ほかに例が少ないであろう、五十冊以上にも及ぶ沢山の著書と画集を出したが、そうした多産のひとつのきっかけとなったのが、この山口書店から出された処女随筆集の『|板散華《ばんさんげ》』であった。
このころ志功は、版画、肉筆画、書、のいずれにおいても、すでにだれの眼にも明らかな独得のスタイルを確立していたが、その独自性は、文章においても一貫していた。かれの文章については、評価が極端に分かれている。ひとつは「あまりに表現が大袈裟にすぎ、文法的にもめちゃくちゃで、文章としては、いただきかねる」という説、もうひとつは「胸奥の語りたくて堪らないおもいを、他人には真似のできない自分だけの文体で、読む者にまざまざと伝える一種の名文」とする説である。
たしかに志功の文章は、文脈だけを追っていると、複雑怪奇な迷路の|趣《おもむき》を呈することがあるが、行間から伝わってくる意味内容は、かならずしも不明確ではない。『板散華』を読むと、かれの大変な勉強ぶりと、文章表現においても並並ならぬ力量の持主であることが、はっきりと判る。たとえば写楽について、志功は次のように書く。
――東洲斎写楽の仕事には、大きな謎と|罠《わな》がある。手を拡げ、歯を喰ひしばり、肩で息する、切迫の感情、その気魄は、謎の芝居、罠の芝居だ。何とはなく、板画の精魂が、空間を、棲家として漂ひ初める。それ等の正体の不知なる|諸諸《もろもろ》の精霊が迷ひ初める。大迷ひに迷ひ廻る。/驚異の天才、写楽が演ずる「荒所作」は何の場合にしても、一人舞台だ。写楽が抜足、差足の、無言の仕草は、有言以上に、事々を満ち満たせる以上に、不満な仕草だ。憶ひの世界を、所作して行く写楽の至芸は実に、大天井を見仰いで立つ、把芸の「せり上げ」だ。……
写楽を語って、これほど鮮やかな文章は、少ないのではあるまいか。書かれている写楽に対してばかりでなく、書き手に対しても、「棟方!」と声をかけたくなるほどに、この見得の切り方は、的確であるようにおもわれる。
――写楽の、|大首物《おおくびもの》が、|ニヤリ《ヽヽヽ》と笑ひ、「ヒイー」と仰天する。わなわなする蜘蛛の様に騒ぎ|戦《おのの》く両手、「化体」な迫りが、|のけ《ヽヽ》ぞる様に、人達を|掴《つ》かむ。抜き差しならない所に連れて行く。仕事の「たゝずまひ」を判然させずに、闇から闇へと連れて行く。さう|謂《い》ふ「滅法界」の世界が、どの人達をも誘ふて行く。誘はれて、仕方がないのだ。写楽の別世界の魅力は、かうして続けられる。……
やはり「一種の名文」といってよいであろう。写楽の魅力にとどまらず、その背景になっている歌舞伎の世界の、あるいはひろくすぐれた芸能と芸術の、この世ならぬ蠱惑を生み出すもとの闇の深さを確かにとらえているとおもえる。もっとも、ときに歌麿を論じて、
――歌麿の表とした余し所ない「女」への処理は、理念を越へて、更に妙艶な、濃度を板画の所作事に、全くをはかり、精致、|余蘊《ようん》に、己れ入らざる不異色相に挙げた、女体への好理、不尽の想ひ、|極《き》はまりは、不極は無い。……
といったふうに、なにがなんだかよく判らなくなってくることもあるのだが、これにしても、いおうとしている肝腎|要《かなめ》のところは伝わって来るような気がする。そして北斎の富士山について、
――とどろに鳴り渡る雷鳴と、世界をつん裂く稲妻、闇にくるめられた、富士山は真黒な姿して、段々とせり上つてゆく、大地が湧いてゆくのだ。天と地がすれずれになる迄、こみ上つてゆく大富士山だ。/この雷鳴のまゝ何処までも山は沸る、山頂が尖り、山裾が|布《し》かれて、その半身の所在を|解《つまびら》かせずなる、大仕掛な舞台は廻る、廻る。……
となると、これはもう志功の|独擅場《どくせんじよう》だ。相手を批評しているのではなく、解説を試みようとしているのでもない。自分の眼で|直截《ちよくせつ》に掴みとった対象の本質を、ためつすがめつしながら行なっている自問自答と、ひとり頷く合点と、心の底から湧き上がって来る感嘆の声を、そのまま文章に書き綴っている。いわば自分自身にいい聞かせているその結果は、棟方流に咀嚼され消化された写楽や歌麿や北斎が、やがて作品のそこかしこに、活かされていくことになるのである。
「板散華」という題は、そのころ壮烈な戦死のことをいった「散華」という言葉から発想されたもののようにもおもわれるが、随筆集の内容に、戦時色は殆どない。実際にはおそらく、|声明《しようみよう》の「|唄散華《ばいさんげ》」から考えつかれた題で、志功はその言葉を、厩橋の天台宗泉竜寺の住職である|大照圓雄《おおてるえんゆう》から聞いて知っていたのだろう。|唄《ばい》と散華は、ともに法要のさいに唱える声明の一種で、また散華には、|花筥《けこ》に盛られた紙製の花弁を声明に合わせて撒き散らすことのほかに、経典のなかの散文の部分を指す意味もある。志功の題においては、散華という言葉に、芸術だけを唯一至上のものとして、家庭生活では我儘勝手の仕放題をしてきた自分の「|懺悔《さんげ》」の意味も含まれていたのかも知れない。
日本民芸協会の一員であった大照圓雄は、志功が尊敬していた人のなかでは、一風変った存在であった。年齢が自分より上であろうと、下であろうとを問わず、志功が尊敬して師事していた柳宗悦、保田與重郎、大原總一郎、水谷良一は、いずれも東大出であり、河井寛次郎と濱田庄司も東京高等工業学校と一流の官学の出身であったが、大照は私学の早稲田出で、宗門内部では三十五歳で比叡山の開山千百五十年法要の企画部長に挙げられたほど嘱目されていたのだけれども、ときに酔って脱線することもある大酒家で、浅草にある馴染みの焼鳥屋へ行くと、自分が団扇を持って焼鳥をやくほうに回るような人柄だった。
かれは盆にも百二十軒ほどの檀家のうち、十軒くらいしか回らなかった。金銭に執着がなく、ほかの檀家は千葉県の貧乏な寺から出稼ぎに来る知合いの坊さんに任せてしまう。残る十軒の御布施も、志功を呼出してご馳走したり、「板木を買う金に……」と進呈してしまい、大照は大正大学の主事としての報酬も得ていたのだが、それもあらかたは飲んでしまうので、夫人はいつも遣繰りに四苦八苦していた。かれはまた志功に金を稼がせるために、春秋の彼岸に寺に呼んで卒塔婆を書かせた。志功がもっと有名になってからのことなら、檀家の人たちも「冥加に余る」と感激しただろうが、そのころは「こんどの手伝いの人の字は真っ黒で困る」と苦情をいう人のほうが多かった。
志功は、意地の悪い観察者の眼から見れば、まず大抵の人に、阿諛追従しているようにもおもわれるほど低い姿勢で接するのが常であったから、同年の大照のことも「大照様」と呼んでいたが、交際していたなかでは、なにもかも打明けて相談することができて、いちばん気のおけない人物であったのに違いない。柳宗悦、保田與重郎、大原總一郎、水谷良一は、そろって名家や旧家出の秀才で、幾らかずつ昔の公家か殿様か庄屋をおもわせる感じがあり、河井寛次郎と濱田庄司、それに僧侶で雑誌「工芸」の編集を担当していた浅野長量も、志功から見れば年長の師であったが、悪戯好きの下町っ子らしい気質を残している大照圓雄には、|遜《へりくだ》ってはいても、心を許せる親友というに近い気分をも持つことができたようだ。志功は大照から、――仏教といっても、そう堅苦しくばかり考える必要はない。……ということを学んだ筈である。志功の創作には、支持者に対する答案、という一面も含まれているから、もしそのなかに大照が加わっていなかったとしたら、仏教の解釈において、あれほどまでに自由奔放ではあり得なかったかも知れない。昭和十四年秋の文展に、志功が出品した『|斑鳩《いかるが》譜・上宮太子御代傅版画巻』には、丁度そのころ近衛文麿会長のもとで、聖徳太子奉讃会の主事になっていた大照圓雄に対する答案の意味もあったのだろう。
磊落な性格を示すように、身長が五尺七寸をこえ、体重も二十貫をこえていた大柄な大照は、昭和十六年五月十八日、肺炎をこじらせて三十八歳で急逝した。知らせを受けた志功は、咆哮するような声を挙げて厩橋の泉竜寺に駆けこみ、慟哭しながら遺体にむかって叫んだ。「大照さん、なして死んだんだ、なして死んだんだ!」志功の声が、あまりに悲痛であったので、その場の人たちも、いったんこらえていた涙を、最早こらえることができず、一斉に号泣の声が洩れたほどであった。せっかく得た親友を奪っていった運命の理不尽さに抗議する言葉を、志功は|滂沱《ぼうだ》と流れ落ちる大粒の涙を握った拳で拭いながら、かきくどくように、いつまでも繰返し語り続けていた……。
時期的には重なり合ってもいたけれども、大照圓雄にかわって、志功の親友になったのが、山口繁太郎だった。昭和十六年、十七年、十八年の夏を、二人は家族ぐるみ浅虫の椿旅館で一緒に過ごした。志功の人とのつきあい方には、建前を主にする面もないではなかったが、大照と山口とのつきあいは、ほぼ掛け値のない本音を主にしたものだった。小学校を出ただけで、労農運動に入り、河上肇を尊敬していて、激しい弾圧の嵐をくぐり抜けて来た山口は、大東亜戦争が始まってからも、反戦感情を持ち続けており、それは口先だけのものではなく、身についたものであったようで、のちに南津軽郡の実家に疎開したときには、兄とその家族たちに、「もし徴兵が来たら、われは米と味噌を持って、山さ逃げる」と真剣な表情で語っていたという。
熱狂性の強い志功は、尊敬するだれかに一辺倒になったとしても不思議ではない。それなのに戦争中においても、そうはならなかったのは、このように硬軟左右とりまぜた幅の広い交友関係を持っていたからなのかも知れない。柳宗悦、保田與重郎、大原總一郎、河井寛次郎、濱田庄司、水谷良一、浅野長量、大照圓雄、山口繁太郎……。これらの師友から志功は意識的にか無意識にか、独得の直感力で学ぶべき点を選びとり、だれに対しても一辺倒になることなく、微妙な均衡を保っていたのだった。
「不敬」の|廉《かど》による作品撤去事件が起きた国画会展のあと、志功は河井寛次郎、水谷良一とともに、晩春の佐渡へ旅行した。予想もしていなかった事件のショックで、いささか意気銷沈気味であった志功にとって、広大無辺な仏教の世界に眼を開かせてくれた最初の師であり、人の喜びにつけ悲しみにつけ、ともに涙してくれる感激家である河井寛次郎と、商工省の鉱山監督局長に昇進していて、いろいろと現実的な問題の後楯になってくれていた水谷良一との旅は、さぞかし気強く、心を慰められるものであったろう。
民芸を愛する人の眼から見れば、佐渡は、数多くのものを秘めている宝庫のような島である。昔の庶民の知恵の産物である民具が、そのころはまだ暮しのなかに生きており、島のどこへ行っても、大小さまざまな石仏が、人人の敬虔な信仰の対象となっていた。また佐渡は、木喰上人が日本廻国の途中、九州に次ぐ四年間の長逗留をした場所であったので、その彫刻と揮毫も数多く残っていて、木喰仏の好きな三人を喜ばせた。志功は、見るもの聞くもののすべてに、「素晴らしい」「実に素晴らしい」と興奮し、大感激のていで、「不敬」事件の意外な打撃から、急速に回復した様子であった。こうした復原力の強さと、不運をすぐさま別のものに転換していく素早さは、ともにこれからも見られる志功の本領である。
相川では、村田文三の唄を聞いた。いま歌われている「佐渡おけさ」の節回しをつくりあげ、ラジオを通じてそれを全国に普及し、わがくにで最もポピュラーな民謡とした名人村田文三の切切たる哀調は、唄好きの志功を陶酔させずにはおかなかった。それらにもまして志功を小踊りさせたのは、近く世田ヶ谷区北沢の新居へ引越すことになっていた水谷から、これまで住んでいた代々木山谷の家を借りる話が決まったことだった。
自ら名づけて「雑華堂」と呼んでいた今の中野区大和町の家は、子供が四人にふえていたのと、欲しい物は手に入れないと気が済まない志功の性癖のせいもあって、すこし狭くなりすぎ、二年まえにも仕事場を広くするために、たまたま空いた近所のラジオ屋の裏二階を借りて、これまで描いて売れなかった油絵と額縁の山やその他のものを運んで預けていたくらいであった。それでも、次次にふえていく板木によって、――またじきに仕事場が狭くなるのは、目に見えている、……手を拱いてそう思案していたところへ、水谷の代々木山谷の家を借りられることになったのである。
まだ窮乏生活が続いていた昭和十一年に知合ってから、この年までおよそ七年のあいだ、数えきれないほど通った水谷良一の家。明治神宮の森に近い閑静な一郭に建っていて、下が確か五間くらい、二階にも一間あって、そこかしこに李朝の白磁や、薩摩の苗代川窯の|黒物《くろもん》や、河井寛次郎、濱田庄司らの作が無造作に置かれており、五年前の春の夜には水谷が座敷で演じて見せた能に感動して、文展特選の『|善知鳥《うとう》』を生み出すきっかけとなった、あの奥床しく典雅な家に、こんどは、――自分が住むことになったのだ、……そう考えると、志功はまるで夢を見ているようなおもいだった。
いざ引越しということになってみれば、昭和十三年の五月から、五年間にわたって住んだ中野区大和町二〇五番地の借家にまつわる感慨も|一入《ひとしお》であった。初めて裏彩色を試みた記念すべき『観音経』、多くの人が志功の最高傑作と目している|佐分《さぶり》賞受賞作『釈迦十大弟子』、記紀を題材にして表現派風の冒険を行なった未曾有の超大作『門舞神人頌』……等等の野心作は、この二階家をふたつに割った一軒の、二階の小さな画室で彫り出されたのである。
前記のラジオ屋の裏二階を借りたとき、ついでに玄関の部屋に置いてあったものを別の部屋に移し、そこに椅子とテーブルを置いて応接間にしようと考えた志功は、大工を呼んで来て、正面の襖の上のところに、河井寛次郎や濱田庄司の作を収める皿掛の棚をつくって貰った。棚をつくり終えた大工は、そこへ運ばれて来た椅子を見て、――こりゃあ大変なもんだね、と眼を丸くした。大工が驚いたのも道理で、小さな借家住まいに似つかわしくないその椅子は、銀座の鳩居堂で初めて見たとき一目で惚れこんだ志功が、たいへんな工面をしてようやく手に入れた十八世紀の英国製ウィンザー・チェアーだった。それを手で撫で回し、舐めるようにして木質や塗りや接合部の具合を確かめている大工に、志功は李朝の膳を出して見せた。これにも大工は眼の色を変えて夢中になった。そのように志功の家の家具や工芸品には、苦心の思い出がからまっている逸品が少なくなかった。
家の南側は小さな庭になっていて、一隅の紅葉は、チヤが新宿のデパートの地階から買って来て植えたものである。その反対側には対照的に葉の大きい|無花果《いちじく》が植えられていて、狭いながら気持のいい眺めを形づくっていた。隣はこの家の持主、つまり大家さんの住居である。そこの子供で巴里爾と国民学校の同級生であった蓮尾邦弘にとって、よく遊びに行った隣家のなかで一番印象的だったのは、だれに対しても分け隔てなく接する|主《あるじ》の気さくな感じと、庭に面した部屋の襖に描かれていた焦茶色の牛の絵であった。便所に入って見ると、板壁に観音様の絵と、なにやら落書きのような文字が記されていた。子供の邦弘には、読めなかったが、それは「水中石像不恐雨濡」(水中の石像、雨に濡るるを恐れず)と書かれていたのだった。邦弘の幼いころの記憶に残っているのは、もうひとつ、空襲警報のなかで、鉢巻を締めてさかんに動き回っていた志功の姿であるという。東京が米軍機の初空襲を受けた昭和十七年四月十八日のときのことであったのだろうか……。
観音菩薩が壁に描かれている便所は、訪ねて来る知人のあいだでも評判になっていたのだが、志功自身はその便所に、複雑な感情を抱いていた。それは一穴式……といっても当今のように手前の床と便器のあいだに段差のある形式のものではなく、つまり和風の大便所の一穴だけであったから、愉快に歌をうたいながら天を仰いで悠悠と小用を足す、などということは不可能で、|凝《じつ》と固く|顎《あご》を引き、視線を下に向け、足元を熟視して正確に|狙《ねら》いを定め、かつ勢いをも慎重に加減しながら最後まで冷静沈着に目的を遂行しなければならず、なにごとにつけても自由奔放さと気合を籠めて全力を出し切ることを重んずる志功の、とうてい気に合うものではなかった。かれは大小兼用のこの便所について、自伝にこう述べている。
――わたくしの家は、この女便所一ツしかないのです。わたくしはここへしゃがんで用を足すのが、大嫌いで、からだ全部を放出できる便所をもちたいといつも嘆くのでありました。チヤコはいつもこれを想って便所へ立つたびに泣いてくれました、思い切り大の字になって用を足たせたいものと……。
表現は例によって、かなりオーバーで、不思議な言葉もまじってはいるけれども、感じはよく判る。その気に染まない分を、壁に観音菩薩の絵を描き、水中石像不恐雨濡、と書く自己流のユーモアで、来客をも意識した愛嬌に変えていたのだろうが、こんど移る代々木山谷の家で、甚だ気に入ったのは、便所の大小がもちろん別別になっているほかに、もうひとつ女中用につくられたものとおもわれる便所があったことで、引越しが終ると、志功は亀倉雄策に、こういって自慢した。
「あんたもいままで、水谷さんの家へ遊びに行っても知らなかったろうけど、あの家には、端と端に便所が二つあって、おれはそれを交替で使ってるんだ」
中野区大和町の「雑華堂」から移った代々木山谷の家に、志功はかねて、一人前の家を持ったときのために……と大原孫三郎に乞うて書いて貰っていた「雑華山房」という横額を掲げた。念願の広い画室と、大小別別の便所を得て、志功はこれから、いままでよりも一層のびのびと仕事ができる筈であった。ただしそれは、戦争の推移を別にしての話だ。このころから、山本五十六連合艦隊司令長官戦死、アッツ島の山崎部隊玉砕、米軍ソロモン諸島に飛び石進攻、続いてニューギニア進攻……と、戦局は日本にとって、ますます苛烈なものになって来た。
大本営発表と新聞の報道は、まだ勇ましかったが、欧州ではイタリアが連合軍に無条件降伏して、勘の鋭い人は、薄薄わがくにの敗色を悟りはじめた昭和十八年秋の文展に、志功が出品したのは、――愛染経・溟嚴降魔大不動明王板画柵。物心ついたころから眼にして網膜に灼きついていた、棟方家の家宝で守護神でもある不動明王の画像を版画に|蘇《よみがえ》らせ、|降魔《ごうま》すなわち悪魔降伏の祈願を籠めた作品だった。このころから題名に用いられはじめた「板画柵」の柵というのは、古代の東北では城を意味した。志功は戦後の自伝で、
――「柵」というのは、垣根の柵、区切る柵なのですけれども、むかしは、城の最初のものを柵といったと聞いています。何々の柵、どこどこの柵という城の形にならない、ただクイを打っていく、そんなような|モノ《ヽヽ》でしょうか、「しがらみ」というものでしょうか、そういうことに、この字を使いますが、わたくしの「柵」はそういう意味ではありません。字は同じですが、四国の巡礼の方々が寺々を廻られるとき、首に下げる、寺々ヘ納める廻札、あの意味なのです。……
と述べているが、戦局が苛烈の度を加えた昭和十八年の秋に降魔を祈願した作品の題名に「柵」という字を用いたとき、「城」という意味は意識していなかったのだろうか。かりにそう意識していたのだとしても、志功ばかりでなく国民大多数の祈りとも無関係に、この年の十二月、ニューギニア戦線では補給を絶たれて飢えた日本軍が物量に富む米軍の空からの猛攻に曝され、タラワ、マキン両島の海軍陸戦隊と軍属約五千人は全員玉砕した。
米機動部隊がギルバート諸島からマーシャル群島、トラック島と次第に北上し、クェゼリン、ルオット両島の軍属をふくむ陸海軍約六千五百人も全員戦死した昭和十九年春、志功が国画会展に出した、――南北頌萬朶溟華板画柵、は戦火で作品も板木も焼失してしまったので、いまその内容を知ることはできないけれども、題名からしておそらく心情としては前線に散った数多くの将兵に捧げられた作品であろうとおもわれる。志功は必ずしも漢字を辞書が示しているのとおなじ意味で用いているとは限らないが、前年秋の文展出品作と、この作品の題に共通している「溟」という字は、「小雨が降りしきって、空が暗いさま」…「遠く、深く、薄暗いさま」…「水の色黒き海、大海」などの意である。サイパン島三万余人、グアム島一万八千人、テニヤン島約八千人の守備隊が玉砕し、多くの邦人もそれと運命をともにしたこの年、志功の関心は、だんだん米軍が迫りつつある沖縄に吸い寄せられていたようだ。十二月一日に河出書房から出された版画文集『板勁』のなかには、
[#3字下げ]波ぬ|聲《くい》んぬ止れ
[#3字下げ]風ぬ|聲《くい》んぬ止れ
[#3字下げ]|首里天加奈志《しゆりてんかなし》
[#3字下げ]|美御気拝《みうんきうが》ま
という|恩納《うんな》なべの歌を彫った版画や『島女御合点』『華々風々』など、四年まえに訪ねた沖縄の思い出を愛惜して彫ったとおもわれる作品が目立つ。保田與重郎の文章を彫った『神祭板画巻』でおもいもよらぬ不敬の疑いをかけられた志功は、「波の声もとまれ、風の声もとまれ。あらゆる物音すべてしずまれ、おごそかに国王のお顔を拝みたいものである」(外間守善・仲程昌徳訳)という思納なべの琉球国王を|称《たた》えた歌をかりて、自分の衷情を訴えようとしたのであったのかも知れない。そのように曾遊の沖縄を追憶した作品も収めた『板勁』の出版に先立つ十月十日、朝の七時ごろから午後三時半まで四次にわたる米軍五百数十機の沖縄空襲によって、志功に「本当の故郷のようだ」といわせた美しい那覇と首里の街並みは殆ど焼失し、この世から幻のように消えさってしまったのだった……。
昭和十九年の秋ごろ――、成田玉泉は代々木山谷の志功の家を訪ねた。玉泉は志功が昭和五年に初めて北海道へ渡ったとき、案内した画家だが、昭和十二年から横浜に出て来ていた。教師の経験を持つかれは、このころ横浜海洋少年団の指導員になっており、その関係で近頃ではなかなかお目にかかれなくなったパンが特配で手に入ったので、育ちざかりの子供を抱えて食糧に困っているであろう志功を喜ばせようと、それを持ってやって来たのである。
志功の家には、二年まえに『裸婦』で日本美術院賞を受け、いまや脂の乗りきった彫刻家となっていた古藤正雄も遊びに来ていた。ほかにもうひとり初めて見る人がいる。話の模様では、東大の法科を出ていて、いろいろな予言をする人である、とのことで、それがまた不思議に当たるらしかった。さまざまな質問が発せられているうちに「この戦争は、一体いつごろ終りますか」と志功が聞くと、その人は少し間を置いて、こう答えた。「……来年の八月です」
――戦争は来年の八月に終る。……
昭和十九年の秋に、志功の家で会った初対面の人物がそう予言したのを、成田玉泉はいまもはっきり記憶にとどめている。実際に翌年の八月十五日、終戦の詔勅を耳にしたとき、深刻な衝撃を受けながら、あのときの予言の通りだったな……と反芻して確認されたものであるから、この記憶に間違いはあるまい。
予言をした五十すぎの人物の名前は、清田義房といった。志功より先にかれと知合ったのは、古藤正雄だった。仏教の守護神であって福徳神でもある大黒天の像を彫ろうとしたとき、後援者の一人に、――大黒天を彫るのなら、この人に会って相学の話を、ことに福相についての話をよく聞いたほうがいい。……と紹介されたのである。七高と京大を経て東大法学部を卒業し、東京商業会議所に勤めたあと、人相、地相、家相などを観る相学をまなんで、よく当たるという評判を得ていた清田には、そうした経歴の関係で、財界人や実業家の知己が多かった。古藤は清田を訪ねて、相学の話を聞き、二度目かに、紹介者とは別の工場を経営している後援者を伴って行ったことから、不思議な経験をした。一緒に行った後援者に対して、経営上の危機を指摘した清田の予言が、間もなくその通りに的中したのだ。
古藤に続いて、志功も清田のところへ、相学の話を聞きに行くようになった。古藤の観察によれば、志功の肉筆で描く不動明王の口元の両端が、本来ならば悪魔|降伏《ごうぶく》のための忿怒の相をあらわして「へ」の字に結ばれて下へさがるのが当然であるのに、ある時期から逆に上を向くことが多くなっているのは、清田が説いた福相の影響によるものであろう、とのことで、志功自身も「われの不動は、笑い不動になってすまった」といっていたことがあるそうである。なるほど仏像彫刻の写真集や画集によって見ると、如来の命を受けて忿怒の相を示している不動明王の口元は、古来、両端がさがっているのが通例であるのに、たとえば講談社版の「棟方志功藝業大韻」に載っている六図の肉筆による不動明王は、戦後の作であるけれども、いずれも口元の両端が上を向いていて、独得の愛嬌や魅力に富んだ表情をかたちづくっている。たしかにこれは、志功の不動の一特徴といっていいようにおもわれる。古藤の指摘が当たっているとするなら、志功は観相学の教える福相を、古来からの凄まじい忿怒の相のなかに取入れることによって、ユニークな不動明王をつくり上げたことになる。「棟方志功全集」所載の昭和十六年と十八年制作の版画の不動明王に、その特徴はまだ明確ではない。口元の線が上を向いているようにも、あるいは下を向いているようにも、真一文字のようにも見えるのは、時局と戦局のきびしさを反映していたのだろうか……。
戦争は来年の八月に終る、と聞いた志功は続いて、「こごは、どンです、焼けますか、残りますか」と清田に訊ねた。広い画室と大小別別の便所を、という長年の念願が、ようやく|叶《かな》えられて、水谷良一から借りることができたこの代々木山谷の家が、空襲の災害に遭うかどうかは、志功にとって何よりも切実な関心事であったのに相違ない。――直撃弾は食わないけれども回りから火がきて焼ける、と清田は答えた。この年の八月から、東京では学童の集団疎開が始められており、家族を疎開させて、自分だけ東京に残って働く男もふえていた。志功は疎開先に考えていた青森の吉凶を問うた。青森の方角は凶であり、吉は|乾《いぬい》の方角にある、というのが清田の答えだった。
結果的にいうなら、代々木山谷の家は翌年五月二十五日夜の東京大空襲で焼かれ、青森市は七月二十八日夜にB29百二十機の猛襲を受けてほぼ焼野原となり、疎開先に選んだ乾の方角すなわち東京から見て北西の方向にあった富山県の福光町は、戦火を免れた。清田義房の予言は的中したことになる。だが、おなじような観測をしていた人が、ほかにもいなかった訳ではない――。
そのころ一般の人が、戦局の行方をどのように感じとっていたのかを、『夢聲戦争日記』によってみれば、東宝映画『勝利の日まで』撮影中の昭和十九年八月二十六日の項に、こう書かれている。
「何しろ米軍の物量は凄い。飛行機何千台で、|絨毯《じゆうたん》爆撃と来る。ドイツが手をあげて、その飛行機がこっちに廻って来たらどうなる? 中島飛行機製作所がケシ飛んで了うどころか、大東京が一望焼野原となって、それこそ井の頭公園の池の目高まで死に絶えるかもしれない。杉並区でも私の家だけは大丈夫という自信も|聊《いささ》か怪しくなって来た」…「とどのつまり日本全土で玉砕現象が起こって、大和民族が地上から姿を消すという事になると、責任は何所へかかるものであろうか? かかる見透しがつかず、戦争をおっ始めたとすると、日本には一人の知者もなかった事になる。もし幾分の知者はあったとしても、指導者共が全部馬鹿野郎であった事になる。アメリカの言いなりになっていたら、日本はジリ貧で二流国三流国になって了う、だからこの戦争は絶対に回避出来なかった、と指導者は言う。然らばジリ貧と全土玉砕といずれがよろしき。大和魂から言うと玉砕がよろしいとなろう。生物学的に言うとジリ貧をとれとなろう」…「生物の本能に|背《そ》むき、美しき滅亡を急ぐ、これは原始的な悲壮美礼讃主義の誘惑なのである」
徳川夢聲を一般の人というのは適当でないかも知れないが、ここにも終戦の詔勅が下る一年前から、敗戦と、それまでに国中が焦土となり死者が続出するであろう悲劇を、はっきり予感していた人がいた訳だ。敗戦はともかく、日本全土における玉砕現象を予想していた人は、決して少なくはなかったろう。補給を絶たれて孤立したサイパン島の陸海軍部隊三万余人が、比較を絶するほどの物量を持つ米軍六万数千人と死闘を続け、約一万人の邦人とともに玉砕したのが、この年の七月七日。その二日後に、「サイパンは玉砕ですってさ、と妻が報告する。何所から聴いて来た話か知らないが、私には確実と思える」と夢聲は書いている。ラジオの大本営発表がサイパン玉砕を国民に伝えたのは、それから九日後の十八日夕刻だった。
一部の烱眼の士だけでなく国民のかなりの部分が敗色濃厚になったことを感じとるようになってからも、軍部と指導者は、「神州不滅」と「天佑神助」を呼号し、なんの裏づけもない無責任な神頼みによって、グアム、テニヤン、硫黄島の玉砕と、相次ぐ特攻隊の出撃を重ね、さらに「一億特攻」を呼んで、沖縄、広島、長崎の悲劇にまで国民を引張っていったのである。東京には昭和十九年の十一月二十四日、初のB29爆撃機による空襲があった。正午すぎから約二時間にわたったB29七十機による高高度からの爆弾投下の最初の攻撃目標となったひとつは、夢聲の日記の前記八月二十六日の項に出て来た北多摩郡の中島飛行機工場であった。
昭和二十年になると、B29の東京空襲は、一月二十七日から次第に熾烈の度を加えて来た。疎開を考えていた志功の頭の中には、まだ清田によって方角が悪いと予言された青森のことがあって、おもいは様様に引裂かれていた。どうせ死ぬのなら、ほかのどこよりも好きな青森で死にたい、そうおもう一方で、心の片隅には重苦しく|蟠《わだかま》っているものがあった。志功は自伝『板極道』のなかに、弘前出身で帝展審査員となった日本画家蔦谷|龍岬《りゆうこう》にふれて、こう述べている。
――先生は好きな酒の盃を持っていられたせいもあって、さかんに火のような虹のような気焔を上げていられましたが、話が郷土のことに及びますと、盃の酒をぐいと|咽《のど》へ流しこんで、
「棟方君、郷土というところは、不思議にせまい考えのもんで、わしが画壇の大家といわれるようになっても、郷土の人たちと会い語らうと、花屋のオンチャ(二男坊)が帰ってきたといってバカにされるんだからなア」
といって、円いてらてらした酒焼けをした顔を、つるりと撫でるのでありました。犀星の詩ではないが、――ふるさとは、遠きにありて思うもの、そして悲しく歌うもの――の思いがしたのでしょう。……
この龍岬の慨嘆は、そのまま志功自身の感慨でもあったとみて差支えあるまい。太宰治も昭和十九年の五月から六月にかけて故郷の津軽地方を旅行し、七月に完成した『津軽』のなかで、こう書いている。
――この地方出身の陸軍大将一戸兵衛は、帰郷の時には必ず、和服にセルの袴であつたといふ話を聞いてゐる。将軍の服装で帰郷するならば、郷里の者たちはすぐさま目をむき、肘を張り、彼なにほどの者ならん、ただ時の運強くして、などと言ふのがわかつてゐたから、賢明に、帰郷の時は和服にセルの袴ときめて居られたといふやうな話を聞いたが、全部が事実で無いとしても、このやうな伝説が起るのも無理が無いと思はれるほど、弘前の城下の人たちには何が何やらわからぬ稜々たる反骨があるやうだ。何を隠さう、私にもそんな仕末のわるい骨が一本あつて、そのためばかりでもなからうが、まあ、おかげで未だにその日暮しの長屋住居から浮かび上る事が出来ずにゐるのだ。……
これは田舎なら日本中に共通していることであるのかも知れないが、たしかに津軽では、他郷に出て成功した人間を見ても、「へんッ、あれア、なんだ|者《もん》だバ! 昔はドゴソゴの|洟《はな》垂らしだべせ」と出発点に引戻して軽侮し、いわれたほうもそれを気にして「|卑《や》しめられた」と僻んだ面持になって唇を噛みしめたりする傾向が強いようにおもわれる。まして志功は、小さいころ絵バカまたはバカコと呼ばれて、町内でも一番貧しいほうの鍛冶屋に育った人間だ。「絵バカの|志功《スコ》」「バカコの志功」という呼び方には、愛称であるのとともに、しばしば軽侮の響きも籠っていた筈で、かれが同郷の友人に「志功」と呼び捨てにされるのを好まなかったのは、そうした幼少時の記憶のせいもあったのだろう。いくら自分では、文展で特選をとり、佐分賞も得た画家である、とおもっていても、もともとは貧しい鍛冶屋に生まれた「絵バカの志功」「バカコの志功」である。それに前年の秋、情報局が資材難と輸送難を理由に、文展を延期し、院展、二科展、一水会展などの停止を命じたので美術団体の解散が相次いでおり、最早のんびりと絵を描いていられる状況ではなくなっていた。描いたとしても、いつ自分の家が焼かれるか判らない情勢のなかで、だれも買ってくれる人はいないであろう。大抵の絵描きが、じきに無収入の状態に陥ることはほぼ確実であった。
――疎開先には当然故郷の青森を考えましたが、どうしても故郷には、醜をさらしたくなかったのでした。……
という自伝の言葉には、以上のような事情が、複雑に絡み合っていたのである。おもいきって青森を念頭から捨ててみると、清田義房が吉と判断した乾の方角に浮かび上がって来たのは、数年まえから襖絵などを描きに行っていた富山県の福光町に近い法林寺部落にある光徳寺(高坂貫昭住職)の存在だった……。
午前零時ごろから始まったB29約百三十機の東京大空襲によって一夜のうちに二十三万余戸が焼かれ、百万人が家を失い、十万の人命が燃えさかる火炎と黒煙にのみこまれていった三月十日――、チヤ夫人は、青山学院中学部に入って一年目の長女けようと、満三歳の次男令明をかかえ、女手ひとつで代々木山谷の家を守っていた。青山学院緑岡初等学校六年生の巴里爾と、四年生のちよゑは、伊豆湯ヶ島温泉の落合楼に、学童疎開で行っており、志功は富山県の福光に出かけていて、留守だった。恐怖の夜が明けたその翌日、弘前出身の詩人で新聞社に勤めている桜庭芳露が訪ねて来た。中野区大和町に住んでいたころの親切な隣人であったかれは、棟方一家の身の上を案じて、様子を見に来たのである。二人の子供と一緒に、夫が留守の家にいるチヤを見て、吃驚した顔つきになった桜庭は、「なんのために、まだ東京にいるんです、早く疎開しなければ駄目ですよ」と叱りつけるようにいった。
それは勿論そうなのだが、夫が帰って来ないことには、動きがとれない。昔から旅に出て行くと、いつ帰って来るか判らない夫であるうえに、いまの交通事情は、まえと比べものにならないほど悪くなっている。いつまた大空襲がやって来るかも知れない不安のなかで、これはもう頼って行く先は青森しかないかもしれない……とおもい定めて、チヤが荷物をまとめているところへ、十四日に志功は、斎藤又次郎という人と一緒に、福光から帰って来た。
疎開先として志功が厄介になることに決めて来た光徳寺に、その人は、ひと足先に荷物を運んでくれるというのだった。チヤは、福光に行ってから、まず必要になる最低限の所帯道具の一部を持って行って欲しかった。ところが志功が運搬を頼んだのは、これまで自分が蒐集した美術工芸品ばかりだった。大力の斎藤は、河井寛次郎と濱田庄司の壺や大皿を空襲で焼いては大変と、持てる限り担いで、福光に戻って行った。それから自分たちも、いざ出発となると、|外面《そとづら》はすこぶるよいのに、家のなかではエゴイストで、面倒なことはすべて妻に押しつける多くの男の例にもれず、志功も、まずチヤと子供たちだけを、福光に向かって送り出した。
チヤは、鍋釜茶碗箸バケツ……と必要最小限の、それでも積み重ねると小山のようになった一家六人分の所帯道具に子供たちの衣類と当座の食物、それに収入が途絶えたときの唯一の頼みの綱であるシンガー・ミシンの機械の部分だけ台から外して結えつけた荷物を背負い上げ、けようと令明の手を引いて家を出た。その恰好で東京駅から超満員の汽車に乗込んで、まず伊豆の湯ヶ島温泉に疎開している巴里爾とちよゑを迎えに行き、こんどは四人の子供を連れて超満員の東海道線に乗換え、米原で北陸線に乗換え、高岡で|城端《じようはな》線に乗換えて、終点の一つ手前の福光に、チヤはようやく辿り着くことができたのだが、そこへ来るまでには、子供を一人一人、窓から押込まなければ乗れないような列車の混雑と、乗客の怒号と、小山のような背中の重荷とで、精も根も尽き果てそうな悪戦苦闘の連続であった。四月一日に福光に着き、必死のおもいで運んで来た所帯道具で、光徳寺の一室に、いちおう暮せるかたちを|調《ととの》えたところへ、志功は幾らか荷物を背負ってはいたけれども、体ひとつの気楽な姿でやって来た。
それから二十日ほど経ったあと、チヤはまた汽車に乗り、一人で東京に向かった。それはある意味で、志功の後年の運命を決した旅だった。
志功の生涯における幾つかの幸運のなかでも大きかったとおもわれるもののひとつは、傑作『釈迦十大弟子』十二図のうち、十図の板木が、戦火を免れたことである。これまで何度か書いたように、戦後、サンパウロとヴェニスのビエンナーレで、版画部門の最高賞を受けたさいの主力作品となったのは、昭和十四年に制作し、翌十五年春の国画会展に出品して、佐分賞の受賞作となった『釈迦十大弟子』だった。『板画の道』という著書において、志功はこう述べている。
――十大弟子は、外国にも出品しましたが、どこの会に出ても、|空身《からみ》ではかえらないうれしい板画です。必ず賞をとるか、売れるかしています。サンパウロのビエンナーレでも、この板画を対象に賞が出たそうです。サンパウロに出品した中では、わたくしは、「湧然する女者達々」が良いと思っていたのですが、どれに賞をつけるか、となったとき十大弟子にきまったそうです。/こんどのヴェニス・ビエンナーレ展には、もう出さないでもよかろうと思っていましたら、今泉篤男氏が、今度もこれを出しましょうと決めてくれまして、それで布仕立の屏風にして出しましたが、グランプリを得ました。(中略)そんなわけで、十大弟子という板木には、わたくしはいたく感謝しています。……
『釈迦十大弟子』こそは、志功を「世界のムナカタ」にした決定的な作品であったわけだが、戦前の作品の板木があらかた戦火によって失われてしまったのに、『釈迦十大弟子』の板木だけは、どのようにして生き残ることが出来たのだろう。前記『板画の道』によれば、
――戦災でほとんどの板木は焼いたのに、これは野方の橋井さんという家の防空壕に入っていて、泥だらけになって助かりました。……
とのことであり、また昭和三十四年にロックフェラー財団の招きで渡米した志功を、ニューヨークで親身に世話をしたジャパン・ソサイエティのベアテ・ゴードン夫人の回想によれば、その間の事情を次のように記憶している。
――彼は、釈迦が、第二次大戦中の空襲から、彼の命を救ってくれたことを話してくれました。彼は防空壕の壁を支えるために、七フィートもの高さのある板画「釈迦十大弟子」を使ったのです。爆弾がすぐ近くで破裂したのに、彼と彼の家族は無事救われたのです。他の何百点という板画は自宅とともに破壊されましたが、壕の中の板画は無傷でした。……
この通りであったのなら『釈迦十大弟子』と棟方一家は、まさに奇蹟的に助かったわけだ。これほど劇的な物語を、志功はどうして二つの自伝に記さなかったのだろう――。
ようようのおもいで疎開して行った先の富山県の福光に、志功と四人の子供を置いて、チヤが単身、生命の危険も顧みずに引続き米軍の大空襲の目標になっている筈の東京へ引返したのは、代々木山谷の家に残して来た荷物と板木の安否を確かめ、もし無事であったら、それをなんとかして、福光に移すためだった。一家が福光に着いて間もない四月十四日の夕方、大本営発表は次のように伝えた。
「昨四月十三日二十三時頃より約四時間にわたり、B29約百七十機主として帝都に来襲し、爆弾焼夷弾を混用市街地を無差別爆撃せり。右爆撃により宮城大宮御所及び赤坂離宮内の一部の建物に発生せる火災は、間もなく消火せるも、明治神宮の本殿及び拝殿は遂に焼失せり。……」
このニュースから受けた衝撃は大きかった。日本が神国であるのなら、宮城と明治神宮の聖域だけは、どんなことがあっても「天佑神助」によって最後まで護られる筈であった。たとえ一部にせよ、その宮城に火がついたとすれば、もはや東京の運命も終りであろう。それに明治神宮の本殿と拝殿が焼け落ちたとすると、その近くにある代々木山谷の家が無事であるとは、ちょっと考えられない。「直撃弾は食わないけれども回りから火がきて焼ける」といった清田義房の予言も頭に浮かんだ。だがチヤは、それで諦めはしなかった。
上野に着いたのが四月二十六日。すぐに省線に乗換えて新宿へ――。代々木山谷の家は、焼けていなかった。チヤは飛び立つおもいで、荷物の梱包に取りかかったが、女手ひとつでそれを駅まで運び、貨物として受付けて貰うことは至難の業だった。いま東京に残っている人の大部分が、荷物を疎開させようと必死になっているのである。運送業者のなかには、法外な闇値が横行し始めていたので、警視庁では四月の初めから、各署に疎開荷物相談所を設けて、この問題の処理に当たっていた。警視庁が出した方針の第一は、なるべく自力運搬をさせることで、したがって荷物の量は自力で運搬できる範囲に限られることになる。その範囲を超える量の輸送については、二日前までに疎開荷物相談所に申込まなければならない。相談所に常勤して、申込みの受付に当たっていたのは、陸上小運搬業統制組合と輸送挺身隊の幹部、それに町会と隣組の役員たちだった。
チヤのまえに立ちはだかる障害は、二重、三重になっていた。志功が蒐集した美術工芸品と、ことに大作が多い作品の板木の量は、厖大なもので、とても自力で運搬しきれるものではない。前年の秋に、文部省が文展の公募を延期し、院展、二科展、一水会展などの停止を命じたのは、不急不要の美術展覧会への出品によって輸送難に拍車がかけられることを避けるため、という理由であったのだから、別に有名でもない版画家の厖大な板木が、優先的に輸送を認められるなどという見込みは到底あり得なかった。そこでチヤは、家具や美術工芸品や書籍を梱包するための板のように見せて板木を送ることにし、まず志功が最も愛着を持っていた五脚のウィンザー・チェアーと、『釈迦十大弟子』などの板木を、そのようにして梱包した。
荷物の総量は、三十数個になった。チヤは輸送を受付けて貰うために、疎開荷物相談所と駅へ日参した。だれもが少しでも多く自分の荷物を運んで貰おうと躍起になって先を争っているなかで、それだけの量の荷物を、むろん簡単に受付けて貰えるわけはなく、チヤは来る日も来る日も相談所と駅に通い続け、でき得るかぎりの手立てを尽して、懸命に頼みこんだ。東京に出て来て、ほぼ一箇月近く経ったころ、ようやく荷物を運送して貰える見通しがついた。ただし一日五箇以内という制限つきであったので、チヤは最初に、イギリス製の椅子と『釈迦十大弟子』などの板木を一緒に梱包した荷物を、ひとつずつ自分で抱えて、駅まで運んで行った。
それから残りの荷物を、東京に出て来ていた自分の弟に、毎日五箇ずつ駅まで運んでくれるように頼んで、チヤが富山に向かう汽車に乗込んだのは、五月二十五日の夜であった。上野駅で、高崎線信越本線回り米原行の汽車を待っていたとき、夜の八時ごろから空襲警報のサイレンが鳴り始めた。汽車が上野駅を出たのは午後九時――。B29の大編隊が東京上空に達して、焼夷弾攻撃を開始したのは、その約二時間半後である。五百機以上のB29が、一時間半にわたって十五万発におよぶ焼夷弾の雨を降らせ、宮城の表宮殿と大宮御所は炎上し、参謀本部も燃え、民家十五万七千戸が焼かれて、東京は殆ど焼野原と化した。チヤを乗せた汽車が、高崎から軽井沢のあたりを走っていたころ、代々木山谷の家は、残された約三十箇の梱包――すなわち多くの秀作、力作の板木とともに、火焔に包まれていたものとおもわれる。
福光に着いたあと、やがて届いた荷物は、チヤが自分で駅まで運んだ最初の五箇だけだった。そのなかに、『釈迦十大弟子』十二図のうち十図の板木がふくまれていたのだ。志功が自ら語って伝説的になっている話とは違うけれども、この経過もまた、まことに劇的である。十二図のなかで失われたのは、普賢菩薩と文殊菩薩の二図で、志功は戦後この二図を改めて彫り直し、こう述べている。
――人により前の方が良いという人も、後のが良いという人もいますが、わたくしは、それぞれに良いところも悪いところもあり、五分五分と思っています。……
実際には、改刻したものより元のほうがよかった、とする人のほうが、柳宗悦を初めとして遙かに多いようだ。評価は別としても、元の版と改刻版では、普賢と文殊の印象が随分ちがう。戦後の改刻版のほうが、ずっと穏やかでふくよかな感じになっているのだが、それだけ元の版にあった気魄と切実味が薄れているともいえる。まだ長年の貧乏と縁が切れず、版画に対する画壇の軽視に強い不満と憤りを抱き、新進画家全体を対象とする最高額賞であった佐分賞を目指して、鬱勃とした野心を燃え上がらせていたころの気魄と切実味は、かりに再現しようとしても、しきれるものではなく、つまり『釈迦十大弟子』は志功としても昭和十四年の当時にしか彫ることのできなかった生涯一度の作品であったのだろう。そうだとするなら、志功中期の野性と迫力に溢れた『釈迦十大弟子』の板木十枚が生き残ったことは、かれにとって、かけがえのない幸運であったといわなければならない。
話を昭和二十年の五月に戻すと、二十五日の深夜から二十六日にかけての東京大空襲は、富山の福光にもラジオの大本営発表と新聞によって伝えられており、現実にもそれを裏づけるように、何日待っていても届かない残りの荷物を、チヤは諦めることができなかった。六月の十日からは、大東亜戦争勃発後六度目の列車時刻改正が行なわれ、列車数が削減されて旅客輸送量が半分になり、そのため旅行統制官が置かれて、軍人と官吏をのぞく一般旅客の旅行が厳重に制限されることになったので、チヤはその前日に福光を発ち、またもや東京に向かった。
東京は見渡すかぎりの廃墟となっていた。代々木山谷の家は、やはり焼けていた。古九谷の大鉢、高麗の鉄絵の壺、河井寛次郎と濱田庄司の作品、夥しい量の書物、沢山の板木……。それらが|尽《ことごと》く焼け崩れ、灰となっていた焼跡に呆然と佇んだとき、悲しみと怒りと空しさの入りまじった複雑なおもいが、咽喉元に込み上げて来るのをチヤは感じた。そのときの感情でいえば、これまでの言葉には尽しがたい長年の苦労が、ほぼ無に帰してしまったような気がしたのだ。層をなしている書物の灰の底に、ほんの一箇所だけ華やいだ色彩の覗いているのが、眼に映った。灰を掻き分けて手で掘り出してみると、それは、けようとちよゑのために|購《あがな》った雛人形の残骸だった。
この昭和二十年の三月に、保田與重郎は召集を受けて、大阪歩兵第三十七連隊に入隊した。保田はこのころ全身が衰弱して病床についていたのだが、新兵の兵舎に当てられていた天王寺師範学校で行なわれた身体検査の結果、即日帰郷を命じられた組には入らなかったので、これを懲罰的な召集であったのではないかとみる人がいる。
その召集が懲罰的なものであったのかどうかは判らないが、保田は昭和十六年の十一月に、大東塾の影山正治、および三浦義一、浅野晃と、雑誌「ひむがし」の創刊に同人として加わっており、影山正治は大東亜戦争勃発直後の十二月二十日に「東條批判文書事件」によって警視庁に留置され、翌年三月、禁錮三箇月(執行猶予二年)の一審判決を受けていたので、保田もまた、軍部と政府に警戒の眼で見られていたというのも、考えられないことではない。戦争中の保田について、伊藤佐喜雄は『日本浪曼派』にこう書いている。
――保田與重郎先生に会いたいのだが、近頃、白羽織、白袴の大東塾の壮士らが出入りするらしいので、という声があちこちで聞かれた。しかし私は、保田の家で、そうした若者たちに出会ったことはなかった。(中略)一口に言えば、保田は、宣伝家でも煽動家でもなかった。政治や戦争の時務について、彼はなんらの発言もしていない。彼はいっさいの時務論に関心をもたないのである。……
保田自身も、昭和十七年一月号の文藝春秋に掲載された前記『攘夷の精神』のなかで、こういっている。
――我々は支那事変の三年以前より日本浪曼派の文芸の運動をしてきたが、その時日本文化の海外進出の史実と方法を我々に質問する者があつた。すなわちその方法は単純明確な一言ですむと我々は答へたことがある。それは英国艦隊を印度洋に葬るといふ一事であると云つた。しかし我我はさういふ方針を煽動するまへに、わが文化思想の微細なくまぐまに於て、文化思想上の攘夷を行はうとして、古典の日本を回復する文学の運動に従つてきたのであつた。……
たしかに保田が政治に対し、正面から直接的に発言した文章はない。だが開戦後のかれの言論が、軍部または政府の忌諱に触れかねない過激さをも示していたことは確かなようだ。たとえば文芸評論家長谷川泉氏の文章に、次のような箇所がある。
「戦時中の『文藝』であったかと思うが、当時私は東大の学生で、校正のアルバイトに行ったことがあった。固い論説や評論、および小説や息ぬきの随筆などで構成されていた全誌面のなかで、予定されていた保田與重郎論文は巻頭に据えられていたと思う」…「編集長が、最後に念をいれてマークした原稿の校正を読みかえす。当時は検閲があったから、発禁になったりしないように内容についての配慮を十分しなければならなかったのである。保田與重郎論文は、編集長の最後の検討で引っかかった。私は残念ながら保田論文を校正の際読まなかったから、どんな内容のものであったかわからなかったし、題目も、目次にはいちおう組まれていたが、どんな題目であったか忘れてしまった」…「けっきょく、保田論文は校正の段階でつぶされてしまった」
これは検閲をおそれたためかも知れないし、あるいは編集長個人の考えによって、過激にすぎる、と判断されたのかも知れない。いずれにしても保田の論文は、ある時期からフリー・パスではなかったことになる。昭和十九年八月号の雑誌「公論」に発表された保田の『鳥見のひかり 祭政一致論序章』は、日本書紀に記されている故事と、郷里の鳥見山大祭が二千六百年目を迎えたことにふれて、天皇御親祭の祭政一致の時代への復古を唱えたものであったが、そのなかに次のような一節がある。
――然るところ時局は今年の旧正月頃より熾烈なるものがあり、しかも人心必ずしも、これについて知るところ淡く、深く畏み慎しむすべをさとらずとも云はれ、我らの携る言論文学の面に於ても、却つて一段と暗然たるものがあつたが、時局の世界的激化の根柢には、人為人力を以てこの世界戦争を落着せしめんとする、内外の所謂戦争の指導者等の、その人力の限界をすでに戦争状態が、突破したといふ事実を思はせるに足るものがあつた。戦争がその指導者と称する者の人力の限界を越えるときに到つて、戦局の内外が苛烈化し、即ちそれらの人々が、合理的に世界戦局を通観し、これについての指導方針といふものを立て得ないといふ時は必ず来る筈である。この際に不動心を失つた言論政治は狼狽頽廃し、疑心暗鬼の状態に陥るのである。……
天皇御親祭を唱えているのだから、正面きって取締まることはできないにしても、こうした発言は「所謂戦争の指導者」にとって、決して好ましいものではなかったろう。しかし影山正治著『日本民族派の運動』に収録されている対談において、保田は当時の体調を「入隊の頃は比較的良かったです」と語っているから、かれに対する召集も、ほかの人の場合とおなじものであったのかも知れない。
入隊して間もなく、保田の部隊は中国に送られた。前記の対談における保田自身の回顧談によれば――、釜山からずっと乗り続けて来た汽車から石門(現在の石家荘)で降り、現地部隊へ入隊したとき、身体検査にあたった軍医は、「よくもこんな弱い兵隊を送って来たもんだな」と慨嘆したという。保田はとくに弱い七人のなかに入れられて、まず走ることから訓練が始められたが、匍匐前進の訓練において、かれはどうしても目標の途中までしか進むことができず、銃剣術の稽古でも教官に「突こうとおもわんでもいい。走って行って、恰好だけすればいい」といわれた。新兵の訓練には容赦のない筈の教官に、そんなふうにいわせるくらい、銃剣を構えた保田は、体が弱って見え、足どりも蹌踉となっていたのだろう。そうした訓練を一週間ほどしたところで、部隊は背嚢を背負った完全軍装になって、実戦に出発した。夜になって、いったん寝たあと、また集合の声がかかったとき、背嚢を担いだかれは、どうしても起き上がることが出来なかった。保田の呼んでいる声を聞きつけて近寄って来ただれかが、「こりゃあ、病気だ」といって、軍医のところに運んで行ってくれた。ひどい貧血状態に陥っていて、血の検査をしようにも血液が薄くなりすぎていて出来かねる状態らしく、「……どうしようか」と回りに相談している軍医の声が、横たわっているかれの耳に聞こえた。保田は部隊を離れて、石門の陸軍病院に送られた。たぶん四月の初めごろとおもわれる。米軍が熾烈な艦砲射撃の援護下に、沖縄本島の嘉手納附近に上陸を開始したのは、四月一日の午前十時ごろだった。わが陸上部隊はこれを邀撃して水際に撃滅すべく猛攻を浴びせかけている、と伝えられた。入院してから保田は、沖縄の戦況を断片的に耳にしていた。六月一日以後、かれの病状は一層悪化した。そのときのことを保田は、中国大陸から復員して来てから、大東亜戦争の精神的推進者の一人と目されて郷里に隠棲していたころ、戦後ほぼ初めて発表した『みやらびあはれ』という文章に、こう書いている。
――この軍の病院で、最も重態だつた時に会つた一人の軍医が、沖縄びとだと云ふことであつた。その頃戦場となつてゐた沖縄を誰でも聯想する。朦朧とした危篤状態の中で、私は無言で沖縄沖縄とつぶやいてゐた。そしてそれまですつかり意識から離れてゐたことを、さういふ状態の中で偶然に思ひ出したのである。……
このころ沖縄では、二箇月以上にわたる悲惨な戦いによって、日本軍と一般住民の死者は合わせて二十万人に近づき、地上部隊は壊滅状態に瀕しており、鉄の暴風のような米軍の猛攻撃によって、かつての町や村は消滅し、山野もその姿を変えていたのだが、前記の文章によれば保田の脳裡には、次のような光景がおもい描かれていた。
――瀕死の病床で、ふと出会つた沖縄びとの声から、忽ち私はものがたりの世界に入つてゆく発端を味はつてゐたのである。僅に耳だけが機能を残してゐるやうな状態で、身じろぎも出来ぬ病床に、どうした心のゆとりがあつたと云ふべきであらうか。
何某の|城《ぐすく》と呼ばれる港の入口へ、船は緩かに入つてゆく。那覇の町の赤い瓦が、熱帯性の自然のきらびやかな原色の色彩の中で、ことに輝かしく見える。……
おなじ六月の初めごろ――、B29の本土空襲は、連日のように約三百機から四百機の大編隊で、白昼にやって来るようになっていた。大阪が焼かれ、神戸が焼かれ、ここもいつ焼かれるか……と息を詰めるおもいでいた京都の家で、河井寛次郎は、家財道具も数多くの蒐集品も作品も、いっさい疎開させず、「このままでいいじゃないか。みんな一緒に死ぬ時がきたら死ぬんだよ」と家族にいっていた。
若者と壮年の男たちの大半が、戦地に送られて姿を消した五条坂の町で、五十四歳の河井は、町会長の役目を負わされていた。メガホンを口にして「|鯖《さば》の頭の特別配給ですよ」などと、町内に告げて回ったりするのだが、そのころはゲートルを巻くことが義務づけられていたのに、河井のゲートルは、いくらしっかり巻きつけたつもりでいても、歩いているうちに大抵ずり落ちて来て、足首のところに輪になってしまうのだった。
空襲警報がない日の午後、河井はよく、山科のほうへ出かけて行くことがあった。「足を鍛える意味もあったのでしょうが、きっと夕焼けを見に行っていたのでしょう」と娘の須也子は当時を回想した文章に書いている。|釉薬《うわぐすり》の河井といわれ、とくに独得の|艶《あで》やかさと凄絶な感じをあわせもつ魅力的な|辰砂《しんしや》の赤い色を出すことに秀でていたかれは、夕焼けに格別の愛着を持っていた。それにそのころは、京都の町を眺めながら、日本の最期の姿を、夕焼けの色に重ね合わせて見ていたのかも知れず、いつも沈痛な面持で帰って来るのであったが、ある日、河井は満面に喜色を浮かべて戻って来た。「今日は素晴らしい日だ。素晴らしいことが起こった」と、感激家のかれは躍り上がらんばかりであった。「みんなここに集まってくれ」というので、何のことか判らないまま家族は河井のまえに顔を揃えた。話というのは、こうだった。
樹木の好きな河井は、散歩の途中、いつも景色を見るために腰を下ろす石の傍にあった二本の木を気にとめていた。一本は|梧桐《あおぎり》であり、一本は栗の木である。梧桐の大きな葉は、初夏の精気をあらわして青青としているのに、一方の栗の木の葉は、虫に食われて、ぼろぼろになっていた。河井の眼には、栗の葉を侵蝕している虫が米英諸国で、その虫に食われて穴だらけになり生気と美しさを失いつつある葉が日本の姿のように見え、米軍の空襲が全国の各地を次次に焼払っている現状と二重写しになって、かれの心を暗くしていたのだった。
かれはそのころ、この世には善悪、美醜、正邪が対立している、という二元的な世界観を持っていたので、それは邪悪な醜いものが、正しく美しく善いものを滅ぼしていく姿とも見えた。ところがこの日、葉と虫に眼を凝らしているうち、そうした世界観に、突然、いわばコペルニクス的な転回がもたらされた……というのだ。河井はただならぬ感動の色を|面《おもて》にあらわしていった。
「……虫がアメリカやイギリスで、葉っぱが日本の姿だとおもっていたんだが、今日は全然違って見えた。葉っぱは虫を養っている。虫は葉っぱに養われている。そのことを今日わからせてもらったんだよ」
宗教心の強い河井は、そんなふうに考えることによって覚悟を定めたのだろう、それからは空襲警報が鳴っても平然としていて、動揺する気配が見られなかった――。
六月二日の朝、志功は高坂貫昭住職と光徳寺を出て、福光駅から城端線の汽車に乗り、終点である隣町の城端に向かった。線路の両側にひろがる|礪波《となみ》平野の田圃は、初夏の風に薄緑の葉先をそよがせていた。右手には桑山から|医王山《いおうぜん》につらなる低い山なみ、左手の遙か彼方には、高清水山、高落場山から、合掌造りの部落を懐に抱える五箇山のほうにまで続く千メートル級の美しい山なみが見えて、景色だけからするなら、戦争など別天地の出来事としかおもえないくらい、この土地の空気は穏やかな感じだった。
この日は、真宗大谷派の城端別院の書院で開かれる「敵国降伏藝魂熱※[#「示+壽」] 棟方志功畫業展観」の招待日だった。題された文字の物物しさは、いかにも志功的であるけれども、内容はこれまでの福光近辺の人たちのために描いた肉筆画と『釈迦十大弟子』など版画の代表作の展示であって、戦意昂揚や必勝祈願のための特別な作品は、ひとつも含まれていない。そう判るのは、この展覧会のためにつくられた小冊子が残っているからである。判は小さいが、扉に志功の版画を挟み、河井寛次郎が志功について書いた文章と展示作品の全題名が、品のいい和紙にちゃんと活字で印刷されているこの小冊子を見ると、たぶん展覧会の用意は五月のなかばごろから始まっていた筈で、東京、大阪、神戸が焼かれつつあった時期にも、まだこのあたりには残っていた幾らかの余裕と、高坂貫昭をはじめとする福光の人人の、志功に対する肩の入れ具合を察することができる。
高坂貫昭が、二つ年上の志功と知合ったのは、昭和十四、五年ごろだった。若いころ「白樺」の熱烈な愛読者であったかれは、まず富本憲吉に惹かれ、それから河井寛次郎を知り、河井に紹介されて志功と出会ったのである。つまり富山県西礪波郡の石黒村法林寺に生まれ育った高坂と、本州北端の青森に生まれ育った志功を結びつけた遠因は、「白樺」であったことになる。昭和十五年の秋に、高坂は中野区大和町の家を訪ねて、「萬里水雲長 慈航又何處」という書をかいてもらった。これは志功の書としては最も初期に属するもので、そのときの高坂の記憶によれば、そばに書潰しの山があったという。志功の書と肉筆画は、しばしば殴り書きのように見えることがあり、それでも自分の作に「失敗というものはない」「間違いがあったとしても、それはそれで、また面白い」というのが口癖であったが、実際には、ぶっつけに筆を下ろして殴り書きのようにしても失敗しないまでに、人の見ていないところで、ずいぶん稽古を重ねていた筈だ、というのは、ほかにも何人かの知己が語っていることである。
昭和十七年に初めて光徳寺へやって来たとき、志功は襖二枚に般若心経の文句を書いた。経典も何も見ずに、白い襖に直接に筆を下ろし、題をふくめて二百七十二字を|諳《そら》で書き終えたかれは、文字に眼を走らせ、「うん」と自ら頷いて「間違わなかったな」といった。たしかに一般に行なわれている般若心経のテキストと、その襖の文字をくらべてみても、「※[#「眞+頁」]倒」を「轉倒」と書き、「礙」を俗字の「碍」で書いているところが違うだけで、ほかに脱字も誤字もない。下書きを試みずに書き始めながら、大小をさまざまに加減した文字が、ちょうど二枚目の襖の真中辺で終り、残りの余白を菩提樹の文様で埋めた構図も、最初から計算されていたもののようである。そばで見ている人を驚嘆させるに足りるこのような離れ業は、志功の特異な記憶力と、天性ともいうべき|均衡《バランス》感覚のよさのほかに、だれも見ていないところで、ひそかに重ねられていた練習の賜物でもあったのかも知れない。
かれはまた、歓迎のために光徳寺で開かれた宴席で、集まった人たちの心を、いっぺんに惹きつけた。かれは酒を飲まなかったし、少しは口にしたとしても酔うことは決してなかったが、|素面《しらふ》でも酒に酔った人とおなじくらい、いつも言動のオクターブが上がっていたことは、何度も書いた通りである。まったく開けっぴろげのようにおもえる志功の態度に、すっかり魅了された人人は、かれが福光へやって来る日を待兼ねるようになり、来た日に開く歓迎の宴を「棟方祭り」と呼ぶようになった。その日は何人もの人が光徳寺に集まり、宴席には都会では乏しくなっていた食物が豊富に出て来るうえに、ひそかに製造されている濁酒が、どこからともなく忽然と現われて来た。
志功も倉敷の大原邸や、京都の河井邸では、師事している相手への遠慮があって感じることが出来ずにいた気楽さを、ここでの友達づきあいで味わっていたのかも知れない。大原邸で志功が論ずるのはベートーヴェンの音楽であったが、ここでかれが歌い踊るのは「鴨緑江節」であった。黒い中折帽子の山を潰し、|鍔《つば》のところが上になるように逆さにかぶって、黒の二重回しを|後前《うしろまえ》に着た志功は、手に持った箒を筏乗りの櫓に見立てて、
※[#歌記号]朝鮮と 支那と|境《さかい》の あの鴨緑江 流す筏は アラ
よけれども ヨイショ
と歌いながら、巧みに筏を操る恰好をして踊るのである。
※[#歌記号]あと先見まわし ヤッコラ |舵《かじ》を取るヨ
チョッコンマタ 油断すりゃ岩の角 チョイチョイ
見ている人たちは、きてれつな服装をして、筏の上で揺れながら舵を取って岩を避ける志功の絶妙な動きに、みんな体を二つに折り涙を流して抱腹絶倒せずにはいられなかった。それに志功は乞われると気軽に絵を描いてやったから、福光には次次に棟方ファンが生まれた。停車場にも二人のファンができたので、交通事情が厳しくなってからも、志功は切符を手に入れるのに苦労したことがなかった。
昭和十九年の五月――、高坂夫人の|君《きみ》と、姪の嘉子は、ほぼ三日がかりで墨を|摩《す》り続けていた。こんどの滞在中に、志功が庫裡の襖四枚に大作を描くことになっており、それには大量の墨汁が必要だと聞かされていたからである。わが国の戦捷が伝えられていた以前にくらべると、このあたりでも賑やかに酒宴を催すことは|憚《はばか》られる情勢になっていたが、それでも恒例の「棟方祭り」が一段落した夜、法林寺部落の光徳寺に集まっていた人人が帰って行ったあとで、志功は君夫人にこういった。
「奥さん、明日は、いよいよ描きますよ」
気合の入った志功の声に、君夫人も胸が躍るのを覚えて問い返した。
「なにを描くんですか」
「松ですよ。毛虫で毛虫で、そばに寄られないような松を描きますよ」
まるで自分自身が松になったような身振りと手真似と表情をして、毛虫で毛虫で……といったときの志功は、本当になにものかが肌を這い回っているのを実感しているかのように、もう描きたくて描きたくて、うずうずしている気配であった。
翌日、鉢巻きを締め、|襷《たすき》がけをした志功は、庫裡の座敷に敷き並べた四枚の襖の、手前のほうの両脇に材木を平行に置き、その間に梯子を二つ渡して並べ、さらにその上に洗った布地を干すときに使う洗張りの板を載せて、足場をつくった。志功が大作に取りかかる気配は、前夜から明らかであったので、様子を見に来た何人かの人は、この光景を見て、そのまま縁側のあたりに腰を落着けた。
そばで見ている人がいるときほど、そして大作に取りかかるときほど、臆せず、ますます気合の入るのが志功の本領である。当人が無我夢中であったというあの傑作『釈迦十大弟子』の制作中にも横で見ていた人がいたのだった。洗張りの板の上に両足を踏んばり、左右に動いて足場の安定を確かめたあと、眼下の四枚の襖を、一枚の大画面に見立てて、志功は墨汁に浸した筆を、一気呵成の勢いで振るい始めた。
志功の描き方は、体ごと筆を襖に叩きつけているようだった。あたかも狂ったように激しく右に左に動き回る足元で、小さく悲鳴を挙げて|軋《きし》んでいる板と梯子の音は、なにか得体の知れぬ破壊行為を連想させて、見ている人人の胸中に不安と|怯《おび》えに似た感情を惹き起こした。太い筆が疾風のように襖の表面を掃いて通りすぎたあとには、のた打ち回る怪物の黒い影のようなものが生まれ殆めていた。
――竜じゃないか……。
と一人が小声で囁いた。君夫人をのぞくほかの人たちには、志功が何を描いているのか、まったく見当がつかなかった。右から二枚目の襖の黒い部分は、確かに竜の頭部のようであった。君夫人にしても前夜の話を聞いていなければ、とても松とはおもえなかったろう。けれどもそれは、まさに「そばに寄られないような松」であった。志功が墨汁に浸した何本もの筆を、振回しては画面に叩きつけているので、うっかり近寄ったら、墨の飛沫を頭から体に浴びせられかねないのである。
事実すでに墨の飛沫は、画面の各所に点点と|滲《にじ》んでいた。人人の眼に、それは乱暴すぎる筆の捌きから生じた失策の汚点と見えた。志功の描き方の奔放さは承知していたが、それにしても今回の制作は、あまりにも常軌を逸しているようにおもわれた。志功は、画面のそこかしこに飛び散る墨の雫に、少しも頓着する様子がなく、こんどは彩色用の筆を振回して、襖に薄い青や桃色の斑点を散らしている。見ているなかで、一人だけ大喜びしていたのは、数えで五つになる高坂の息子の|制立《せいりゆう》で、かれは眼を輝かせて興奮の色を示し、手を叩いて|燥《はしや》いでいた。
四枚の襖に、いわば子供の落書きのような訳の判らない模様と線を描き終えたあと、君夫人と嘉子が三日がかりで摩った墨汁は、まだ大分残っていた。足場から下りた志功は、眼鏡の奥で大きく見張った眼で、あたりを|睨《ね》め回し、座敷の横手に、もう二枚の襖があるのを見ると、「おう、こごにもいたか!」あったか、というところを、いたか、と津軽弁でそういって、襖を敷居から外させ、重ね広げた新聞紙のなかに横たえて、まえの四枚とおなじく曖昧模糊として出鱈目ともおもえる模様と線を描いた上に、いきなり、余っていた墨汁を筆洗用の洗面器の水に溶かして一滴残さずぶちまけ、そのなかに数本の筆を一緒に突っ込んで、めちゃめちゃに引き掻き回した。幼い制立はまた歓声を挙げて飛び上がった。
あとで一人が口に出していったことだが、このときは正直にいって、――ああ、これで庫裡の座敷の襖が、全部だめになってしまった……、というのが見ていたおおかたの人の実感であった。これとおなじ場面を、志功の自伝『板極道』によって再現すると、次のようになる。
……光徳時の裏手には|躑躅《つつじ》山があって、春から初夏にかけ、燃え上がる炎のように、赤、朱、紫、白と、色とりどりの花を咲かせる。光徳寺の山号の|躅飛《ちよくひ》山というのは、ここから来ているのである。ある朝、志功は何気なく躑躅山へ行き、咲き乱れている花の大火焔につつまれて、強烈なインスピレーションをうけた。霊感は体いっぱいに、光のような感じでひろがった。近眼の志功の眼に、濃淡さまざまの花は、|隈筆《くまふで》で|暈《ぼかし》を入れられているように映った。この勿体ないおもいを、この光景を絵画の制作に取入れなければ、と脳裡に閃いた志功は、心身に戦慄を感じながら、寺に向かって駆け下りた。かれはかねて光徳寺の庫裡の襖に絵を描くことを引受けており、大きな松を描こうと考えていたのだが、
――躅飛の山に咲く花から霊感をうけた今こそ、一気に描きあげるときだと思い、寺に帰りつくや、奥さんに「墨をすぐ、すぐ」と泣くように叫んで、電光石火、襷をかけて描き始めたのでした。たれから聞くとはなしに、四辺には、松井女医、舟岡、石崎、前田の諸氏が固唾を呑んで息もなく観まもっていてくださいました。
墨を大きな筆三、四本にたっぷりふくませ、下におかれてある襖に向けて、筆をたがい違いにして墨の雫を落すのでした。そこには、大小、上下、高低、さまざまに、本当の花が咲いたように、自然の|暈《ぼかし》や、隈が出来るのでした。紙に筆穂が付かないままに、大ぼかし、小ぼかしが出来上って、成って行くのでした。本当に、わあ……といってよろこび上りました。わたくしは、この方法で今も自然から|享《う》けて成るぼかしの方法を|執《と》って仕事しています。大きな老松のまわり一面、躑躅の花で埋まっていくありさまでした。自ら生まれた、アブストラクトです。
棟方が寺の五間の大襖絵を描きはじめたというので、いつの間にか大勢の人たち、村中の見物がやってきて、小さいわたくしは、人垣の底に沈んでしまっていました。/この発見描法は、|躅飛飛沫隈暈描法《ちよくひひまつわいぐんびようほう》≠サう名づけられて、わたくしの描法における、一ツの方法となったのでした。……
村中の人が見物に来ていた……というのは、志功流の表現であって、高坂夫妻の記憶によれば、集まっていたのは数人であったが、制作が終ったあとも、いま志功が演じた言わば一種の狼藉沙汰の理解に苦しんで、しばらくは、みんな言葉少なになっていた。
翌日、乾いた襖は立てられて敷居に入れられた。ふたたび集まった人人は、四枚の襖の全景が視野に入る位置に退き、自分でも要領を得ない感想を、儀礼的に呟いているうちに、次第にそれが凄まじいまでの気魄を横溢させている松の絵であることが判って来た。失策の汚点と見えた墨の飛沫も、別に画面の効果を損ってはいない。かえって画面の緊張感を強めているようにさえ見える。横手の襖のほうを見ると、きのう残りの墨汁を水で薄めてぶちまけ、数本の筆で引っ掻き回したあたりからは、単なる計算からは到底生まれそうにない、神韻縹渺とした感じが漂い出しているようにおもわれた。人人の感想は、にわかに具体的な讃辞に変って来た。一人は墨の飛沫を最初は失策の汚点とおもっていたことを前置きにして感嘆の言葉を述べた。
「いや、これは、わだしがこごで発見した描法だんですよ」志功は昂然としていった。「躅飛……この躅飛山で見つけたから、躅飛飛沫描法、というんです」
最初に口にしたときは、まだ隈暈という言葉が入っていなかったこの描法について、小高根二郎氏は、アメリカの前衛画家ポロックが、戦後に創案したドリッピング(床に置いたカンバスに、筆ではなく、底に穴をあけた罐からエナメルを|滴《したた》らせて撒き散らす方法)の先駆であるとして、ポロックと志功の多くの共通点を指摘している。
アクション・ペインティングの創始者であるポロックと、志功のあいだには、たしかに似ているところが多い。――自分の絵画の源泉は「無意識」にある、……というポロックは、原始的な呪術の世界に惹かれていた。床に画布を置くことは、日本画では当たり前だが、洋画において画布を|画架《イーゼル》から外して床に広げたことは一種の革命であって、かれはその方法を、インディアンの画家の砂絵からおもいついたのである。画布を床に広げて、ポロックは憑かれたように動き回る。「私が絵のなかにいるときは、自分が何をしているのか意識しない」というかれの言葉は、別のいい方で志功もしばしば口にしたことだ。
ポロックが行なおうとした革命は、絵画における頭と手の働きを、全身の行為に変えることだった。意識的な計算をできるだけ排除し、無意識の状態になって動き回るかれの全身によって画布の上に展開されるものは、アクション・ペインティングの命名者である批判家ローゼンバーグによれば、「絵」ではなくて「事件」だった。外側から見れば、画家がカンバスを舞台に、身ぶりによって表現する|俳優《アクター》になったようにもおもわれたが、アクション・ペインター自身が何よりも重んじていたのは、自発性と霊感と即興性に富んだ「行為」であった。いわば絵画におけるジャズ、であったのかも知れない。
志功の場合も、版画を彫り、絵や書をかくことは、全身全霊をうちこんでの「行為」であったが、そばで見ている人がいるときには、それが演技と紙一重のように感じられることもあった。そして多くの場合そばで見ていた人は、なにものかに取憑かれたようなかれの制作ぶりを、それまでの自分の常識を打破られたひとつの「事件」として記憶している。こうした点で、志功は小高根氏のいうように、戦後のアメリカに現われたアクション・ペインターに(直接的な関連はないにもせよ)近い一人であったといってよいようにもおもわれる。
光徳寺の襖絵を描いたとき、みんな呆気にとられていたなかで、ひとり幼い高坂制立だけが、大喜びで手を叩いていたのは、アクション・ペインティングの特徴である自発性と即興性、演技か踊りのようにも見える全身の身ぶり、大胆な冒険、無邪気な破壊、突如として起こる意外な事件……と、それらをひっくるめた原始的な遊戯性を、まだ大人の常識によって曇らされていない子供の眼で、敏感にかんじとっていたせいであったのかも知れない。できるかぎり自意識をしりぞけ、絵の世界のなかで無我夢中になることによって、意識下に沈んでいるもの、あるいは自分自身の存在を超えているものを表現しようとする方法を、ポロックはインディアン美術と、シュールレアリスムの影響から編み出したのだが、志功にそれを生み出させたものは、生来の熱中癖に加えて、柳宗悦に教えられた浄土教の「他力」の思想であった。
ほかにもうひとつ、志功流のアクション・ペインティングを成立させた要因に数えておきたいのは、津軽の唄や踊りに古くから伝わる即興性の重視である。いまでいえばフォーク・シンガーのコンサートにあたる津軽の唄会で、たとえばジョンカラならジョンカラを、いつもおなじ|節《ふし》でうたう歌い手は、「ニワトリの唄い子」と呼ばれて馬鹿にされた。ニワトリなら来る日も来る日も、コケコッコーとおなじ節で鳴いてもかまわないが、金を取って客に聞かせる商売人なら、極端にいうと毎回、違った節回しでうたわなければならない。三味線弾きも、ジャズの即興演奏とおなじように、ジョンカラのきまった基本の節から、たえず聴衆の意表を突く新しい旋律を弾き出すことを要求された。津軽三味線の要諦は、――一に|仰天《どつてん》、二に|音澄《ねず》み、三にシンミリ、であるともいわれている。なによりもまず客を仰天させなければならない。三味線にかぎらず、唄でも踊りでも、横っ面を張られるような意外性の新鮮な衝撃がなければ、客は満足しなかった。
ハプニング、といえば、いかにも現代芸術風であるけれども、苦しい日常のいつ果てるとも知れぬ繰返しに耐えて生きていた人人にとって、きまりきった定型の破壊と、予期せぬ出来事の痛快な突発は、娯楽や芸能において欠くことのできない要素であったのに相違ないのである。これは別に、津軽にかぎった話ではあるまい。――さしたる仔細はなけれども、源義経、罷り通る、……そういって、全然関係のない芝居の場面に、忽然と現われては去って行く鎧姿の武者は、日本中どこでも長いあいだ観客の喝采の的であった。
見ていた人の度胆を抜くハプニングつきで光徳寺の襖絵『華厳松』を完成したあと、東京へ帰った志功は、この昭和十九年の秋に、また福光へやって来た。歓迎に集まった人人の話題は、やはり『華厳松』と、躅飛飛沫描法のことだった。
「これは世界中で、まだ誰もやったことのない描法だんですよ」と志功は力説した。「ぼくは、いまに偉くなったら、この福光の駅前に、躅飛飛沫描法発祥之地、という碑を建てようとおもっています」
それからかれは、このときの滞在中に、もし自分が福光へ疎開して来ることになったら、受入れて貰えるだろうか……という話を、高坂貫昭にした。清田義房の、疎開先として青森は凶方で、吉は|乾《いぬい》の方角にある、という予言を聞いたあとのことであったのだろう。来たら歓迎しますよ、と高坂や松井寿美子女医は答えたが、志功はまだ疎開先を青森と福光のいずれとも決めかねていたらしく、実際に「なんとか頼みます」といったのは、昭和二十年の二月に福光に来たときで、高坂が用意した光徳寺内の部屋へ越して来たのは、まえに書いたように、四月に入ってからだった。そして六月二、三日の両日、福光町と城端町の棟方ファンは一緒になって、かれの代表作を展示する「敵国降伏藝魂熱※[#「示+壽」] 棟方志功畫業展観」を、城端別院の書院で開催していたのである。
間もなく志功は、光徳寺内の部屋から、高坂貫昭の弟が出征していて留守になっている家に移った。法林寺部落のやや小高いところにあるその家を、志功は「面山閣」と呼んだ。正面に礪波平野を隔てて、八乙女山が見える。右手の彼方には高落場山、その山の向こうにあるのが、やがてかれに大きな啓示を齎らすことになる秘境五箇山であった。
十一
六月二十六日朝の「北日本新聞」は、沖縄戦の最後を報じていた。前日の午後の大本営発表によれば二十日敵主力に対し全戦力を挙げての攻撃を実施したが、――六月二十二日以降細部の状況|詳《つまびら》かならず。……というのである。四つの項目にわたる大本営発表は、次のように結ばれていた。――沖縄方面戦場の我官民は敵上陸以来島田叡知事を中核とし挙げて軍と一体となり皇国護持の為め終始敢闘せり。……
紙面にそういう言葉は用いられていなかったが、ほとんど「玉砕」をおもわせる内容の報道であった。沖縄は、志功が自分の本当の故郷のように懐かしくおもっていた島である。明るい原色の島、志功が何よりも好きな歌と踊りの島……。その沖縄で三箇月にわたって続けられていた「軍官民一体」の死闘の終末を知らされたときには、当然、五年まえに訪ねたときの、まだ大東亜戦争が始まるまえの島の景色や、そこで知合った人人の思い出が、頭を|掠《かす》めたに違いない。
瀕死の病床で沖縄の戦況を耳にしていた保田與重郎の脳裡に、船で那覇の港へ近づいて行ったときの光景がおもい描かれていたことは、まえに書いた通りである。「那覇の町の赤い瓦が、熱帯性の自然のきらびやかな原色の色彩の中で、ことに輝かしく見える」という文章のあとは、次のように続けられていた。
――上陸すると市役所から来た歓迎者が、拙い口つきで歓迎のことばを述べた。私はその人々の顔の類型を、東京の町のどんな雑踏の中でもいつも見つけ得るほどに、永く記憶してゐたのである。しかし入港よりも船出の時の情景が、真実私の心から離れない。あれほど美しい群集の風景が、果していづこにあつただらうか、私の帰りの船はその正月初めての神戸航路だつたせゐかもしれぬ、港の広場は見送りの群集で充満してゐた。そして彼らは船が動き出すと、手に手に|はんけち《ヽヽヽヽ》をとり出し、それを高くふるのである。|ていぷ《ヽヽヽ》といふものが戦争と共に無くなつてからの風俗だと云ふ。万に近い群集が、一せいにふる手巾の動きは次第に一つの起伏に統一されていつた。これほど美しい眺めを、私は過去に於て見た例がない。……
これは昭和二十二年のなかばすぎに書かれたものだが、読者はこれとおなじ場面を、保田が昭和十五年二月号の「コギト」に発表した文章に書いていたのをご記憶であろう。あいだに約七年半の歳月と敗戦を挟んで、見送りの人の「数千と云ひたいやうな人出」が、あとの文章では「万に近い群集」にふえ、その人たちが手に手に白いハンカチを振る光景の美しさも「私は過去に於て見た例がない」というくらいまで、いっそう強調されている。
入港よりも船出のときの情景が心から離れない、と保田はいう。昭和十四年の大晦日に沖縄へ向かう湖北丸に乗り、故郷へ帰る人人の喜びが渦を巻いている下の船室を覗いて、沖縄航路の三等船客が受けている非人道的な扱いに同情し、久久におもいきり沖縄語で喋り歌い踊っている民衆の生命力の強烈さに感嘆しながらも、その「正視できない位な乱雑ぶり」に保田はかなり閉口もしていた様子であった。
そのころの沖縄人は、本土で職を求めようとしても差別をうけ、生まれたときから空気か水のように馴染んできた沖縄語を口にすることも禁じられようとしていた。そうした時期に正月の休みを迎えて故郷に帰る人、休みを終えて本土に戻る人、それを見送る人人の胸底には「乱雑」とも感じられるくらい複雑なおもいが渦を巻いていたにちがいない。船が港を離れ、遠ざかるにつれて、見送る人人の姿から具体的な細部の印象は薄れて行く。「いよいよ港から離れ出し、人の顔が見わけられなくなるまで、人々は白いハンカチを振つてゐた。めいめいがふる手巾の動きが乱雑なまゝで、いつの間にか一つの秩序をもち、リズムをもつて、秋の草原の穂のやうにゆら/\見える、……」その美しさが、さらに遠ざかって七年半の歳月を経たあとの文章では、「万に近い群集が、一せいにふる手巾の動きは次第に一つの起伏に統一されていつた。これほど美しい眺めを、私は過去に於て見た例がない」というところまで、保田の脳裡においては美化されていた。めいめいの動きが、ひとつの秩序に統一されていったときに美しいと感じるこのような美意識は、故郷へ帰る人人の喜びで沸き立っていた船室に「乱雑さ」をみて閉口する感性と、おそらく表裏一体のものであろう。遠ざかって行く船の上から、過ぎ去ったものとして見る眼に、愛惜の念は生じても、もはや「正視できない位の乱雑ぶり」は映らない。そしてこれとおなじような美学が、かれの語る古代の日本についても働いていたのではないか……とおもわれるのである。
戦争の末期――、保田は本当に「神風」が吹くことを信じていたのだろうか。サイパンの玉砕が伝えられ、東條内閣が総辞職した昭和十九年の夏に発表した前記の『鳥見のひかり 祭政一致論序章』において、戦争の状態は、すでに人為人力をもってこの世界戦争を落着させようとする指導者の人力の限界を越えたとおぼしい、方針を見失った者が、戦争の人為的終結を企てるとき、そこには周章狼狽、疑心暗鬼、想像をこえた混乱の相が現出されるであろう、と述べたあと、かれはこう書いていた。「かゝる日に世界時局を支へ護るものが、実に神州不滅の信念である。神州不滅の信念は生活を離れた単なる観念ではない。祈るだけでは神風は吹かぬなどといふ者は、神州の神の道の生活を知らぬ者なるゆゑに、わが神と祭りについて、わが土俗草莽の生活と歴史を、一応語つておきたいといふ願望もあつた」。だが大和朝廷発祥の地であるという保田の故郷は知らず、沖縄に神風は吹かなかった。
いや、あるいは吹き荒れた、というべきかも知れない。沖縄を神州の防壁とし、かつて差別した住民に大日本帝国臣民として死ぬことを求め、集団的自決を精神的に強制した「神風」である。それが沖縄に対する皇民化政策の帰結であり、「沖縄方面戦場の我官民は敵上陸以来」「挙げて軍と一体となり皇国護持の為め終始敢闘せり」と伝えた大本営発表の現実であった。
『鳥見のひかり』の続篇として、昭和十九年十一月号の「公論」に発表した『|事依佐志《ことよさし》論』において保田は、大伴家持の「海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ」の歌の一節を引いて、ただ命ぜられる|任《まけ》のまにまに仕え奉り「大君の辺にこそ死なめ」と祈願する臣子の志の大切さを強調している。無論これは、保田自身の述志の言葉であったのだろう。まえからかれは『萬葉集の精神』や『日本語録』において、この歌をもとに臣民の忠誠心の美しさと、「ますらを」と「もののふ」の道を説いていた。けれども召集を受けたとき、体が衰弱していたせいであったのだろうが、保田にとっての現実の戦争は、まえに書いたようなものだった。かれは病院に送られ、一時は危篤の状態に瀕したものの七月の中頃から危篤を脱して、少しずつ回復に向かい始め、そこで八月十五日を迎えることになった。前記の『みやらびあはれ』に、かれはこう書いている。
――すでに夜半を過ぎて一ときもしたころ、急に若い女の数人の泣き声が、豪雨の音をおさへるやうに聞えてきた。それは病院の隣の看護婦たちの部屋である。それまで何か語り合つてゐたらしいのが、急にみなで泣き始めたのであらう。しかもその異常なことが、今宵は極めてあたりまへのことのやうに、しめやかに私の気持にうけとられるのであつた。私らはその翌年になるまで、八月十五日の詔書を知らない状態だつた。しかしこの泣声をきいてゐるうちに、何といふことなく、状態が決定的に判明したやうな実感をうけとつたのである。
私は反射的に、頭を少しばかりあげた。するとはつとするやうに、部屋の中央にある花瓶の、今朝ほど誰かが挿していつた向日葵の大きい花が、生々しく眼に入つたのである。私はとつさに眼をそらしてゐた。しかし眼をうつした床の上に、その花の影が、黒々とうつつてゐるのである。その影を見つめてゐるうちに、形容しがたい怖ろしさが、全身をとらへ始めた。一輪の花の描いた陰に、私はかつて思ひもよらなかつた無限に深い闇を、あり/\と見たのである。かういふものをさして、何と呼ぶであらうか。心のすなほなむかし風の人なら、かかる時に地獄や奈落を明らかに見たかもしれない。そこには何も存在せぬだらうが、どういふ荒唐無稽のものでも、何の不思議もなく存在し得るのである。私は全身のわなゝくやうな怖れをしばらく味はつてゐた。大雨の音、少年のうめき声、をとめらの泣く声、その間も止む時がない。物思ふすべを知つて三十年、盛りを過ぐる年となつて初めて、私は腸を断つといふことをまざ/\と実感したのであつた。……
十二
ソ連の対日宣戦布告と、空陸からの攻撃開始が、新聞に報じられた日のあたりだった。志功は知合いの新聞社の人から、「日本は負けるぞ。あと一週間もたないだろう」と教えられた。その二日まえには、広島への新型爆弾投下が伝えられ、九日まえには富山市が、B29七十余機の二時間にわたる波状焼夷弾攻撃によって、ほぼ余すところなく焼払われていた。
八月十五日――、天皇のラジオ放送を聞いて、志功は慟哭した。画壇の大家連ほど露骨な戦争画は描かなかったけれども、かれも前年には、ルーズベルトとチャーチルの頭上に日の丸をつけた爆弾が落下している図柄の、戦意昂揚と貯蓄増強のための大政翼賛会東京都支部のポスターを制作しており、この年には式場隆三郎の依頼に応じて、必勝を祈願する画仙紙四百八十枚の不動明王図を描いて海軍に献納していた。日本の敗戦が、残念でなかった筈はない。ましてかれは、人一倍の熱情家であった。しかし大方の日本人にとっては、聞きとりにくいラジオの玉音放送に耳を澄ませているうち、日本が負けるなんて、まさか、そんな筈はない!? と一旦は狐に|抓《つま》まれたような気分になったとしても、何時間かして涙も乾いてみると、やはり、そうだったのか……と、まるでなにか憑き物でも落ちたように納得のゆく気持になったというのが、あの八月十五日の実感であったのではないだろうか。
おそらく志功の場合も、それに近かったろう、とおもわれるのは、「棟方志功全集」のなかに、『|真昼間夏好日福光雑華堂連中《まつぴるまなつのよきひふくみつざつけどうれんじゆう》』と題された倭画の小品があるからである。画面のなかに「廿年八月十七日マッピルマ」と記されているから、これは敗戦の翌翌日に描かれたものとみて間違いあるまい。一方の隅に志功、一方の隅にチヤ、その間に巴里爾、令明、ちよゑ、けようの四人が、それぞれ寝そべったり坐ったりしており、子供たちのあいだには、戦火を免れた李朝の膳、花瓶、西瓜、茄子、それに盥に入れられた|鯰《なまず》までが点在していて、面山閣の一室を舞台に志功が愛しているすべてのものを描き並べたのだろう、戦争が終ってほっとしている家族の解放感が溢れていて、いかにも題名の通りの好日をおもわせるのんびりした雰囲気の絵である。
それから間もなく、志功は松井寿美子女医の紹介で、松井医院の近くにある鍛冶金物店の二階を、画室に貸して貰い、そこに「雑華堂絵所」という看板を掲げた。高坂貫昭の弟の留守宅である見晴らしのいい面山閣に住みながら、わざわざ福光の町なかに、別に画室を借りたのは、客を迎えたり、自分も外へ出かけたりするのに、福光の駅から離れている法林寺部落の面山閣では、少少不便だという理由からであったらしい。敗戦の衝撃から早くも立直って、制作に交遊に活躍を始めようとしている志功の積極的な意気込みのほどがうかがわれる。
九月に入ると、福光ではにわかに物価が上がり始め、米の闇値は一石三百円になった。公定価格では一石九十九円二十銭であったのだから、約三倍の急騰である。農家が戦争に働き手を取られていたうえに、低温多湿の天候不順が災いして、ことしは不作の見通しが、はっきりしたからだった。ここでチヤが東京から大荷物と一緒に背負って来たミシンが、威力を発揮しはじめた。チヤはミシンを踏んで、リュックサックをつくり、志功とともにそれを背負って、食糧の買出しに出かけた。二人並んで歩いていて、小矢部川にかかる橋の上に来ると、志功は突然、
「やあ、綺麗だなあ」
と、橋からの眺めに大歓声を挙げたりする。狭い福光の町では、それだけでも人目を惹くのには十分で、かれはじきに町の名物男のような存在になって来た。
ただし、芸術家としての価値を認めていたのは、高坂貫昭をはじめとする一部の棟方ファンだけで、あとは大抵、変り者の貧乏絵画きが疎開して来ているな、という程度の認識だった。ところが、やがて、そうした認識を変えさせるような出来事が起こった。富山県にはアメリカ第六軍の一部が進駐しており、福光町にも米軍の将兵がたびたび現われて、人人に好奇と不安の入りまじった感情を覚えさせていたのだが、敗戦の翌年の夏に近づいたある日、ジープに乗った若い米軍の将校が、鍛冶金物店二階の「雑華堂絵所」に、志功を訪ねてやって来たのだ。
十三
あのころを知っている人なら、だれもがよく記憶していることであろうが、米軍に対する日本人の気持は、微妙に、そして急速に変化した。敗戦の直後には、間もなくやって来る占領軍によって、男はみんな去勢されるか、あるいは牛のように鼻に金輪をつけられて働かされるだろう、といった噂が、東北の田舎では真顔で囁かれていたものである。富山でも事情は、さほど違っていなかったろう。
熊のマークの腕章をつけた米軍の部隊が、富山市の元東海九十六部隊の兵舎に到着したのは十月二十八日の朝だった。その日の午後、さっそく富山進駐軍の第一日を取材に出かけた地元の記者は次のように訪問記を書いている。
「新聞記者君タバコ如何? 兵隊さんは暢気であり、陽気であり、またなか/\気前がよろしい、初対面のわれ/\に対しても実に解放された気持でつき合つてくる、日本人の性として共通に持つてゐる人種的な差別卑屈さが微塵も感じられない程明朗快活な態度で応対して来るのだ」
記者の質問に隊長のレベル中尉は、指揮者としての希望を、再び戦争を起こさないこと、世界を平和へ導くための義務がわれわれにはある、私はそのために一心に努力する、と答える。インタビューが終って、「……明快な隊から辞去する時がきたサヨナラ≠ネじみになつた兵士達は皆手を挙げて見送つてくれる、幸ひジープが高岡市へ所用に行くが記者君同乗しないか、これはありがたいジープの初試乗と喜んで、記者は国道を一飛びにと、高岡へ向つたのである」
それから二十日後の地元の新聞には、富山進駐軍の兵士が「溺れる子供二人を救ふ 誇らぬアメリ力兵士に村人感泣」という見出しの記事が、写真入りで出ている。富山飛行場の歩哨に当たっていた米兵六人が、勤務を終えて部隊にジープで帰る途中、折からの大雨で氾濫していた川に、子供二人が橋から落ちて溺れかかっているのを発見、三人が濁流に飛び込んで救助した。頭からずぶ濡れになって子供を抱えあげ、自分たちの行為を誇る様子もなく、両児の家庭まで送り届けた勇敢なアメリカ兵士に対し、集まった村人たちは、いうべき感謝の言葉も知らないほどに、感きわまっていた……という内容であった。
助けた米兵たちは、記者から、二人の子供がすっかり元気になったことを聞いて、「……それで僕達も安心した、アメリカ本国では犠性的精神を第一に尊ぶのだ、子供の溺れるのを見て思はず川へ飛び込んだが、あの時は自分達の方が参りさうだつたね、寒いなどお話にもならないさ、僕達はルソン島の戦線にも参加して日本兵と戦つて来たが、それは国と国の争ひだつたからやむを得ない事だつた、しかし平和の来た今日アメリカ人、日本人みな手を繋いだ同胞同志ぢやないか、仲よくしなければいけないのだ……」と語っている。これは事実の通りの報道であろうし、実際に美談であるには違いないが、戦争が終るまで「鬼畜」として語り伝えられていた米軍が、約三箇月後のいまでは、ついこのあいだまでの皇軍にかわる正義の味方として、日本人の渇仰の対象になって来ていたのだった。
そのころ河井寛次郎と、高島屋大阪本店長の川勝堅一から、来年の正月、大阪の高島屋で開く河井の戦後初めての新作陶磁展覧会の壁面に、志功の絵を展示したい、という話が|齎《もた》らされた。志功は喜んでそれを承知した。かれにとっても、これは公開の会場で戦後の世に問う最初の作品ということになる。――さて、なにを描こう……、戦後の第一作にふさわしい主題を探し求めていたかれの耳に、ある夜、小学校六年の国語の教科書を朗読している巴里爾の声が飛び込んで来た。
巴里爾が繰返し大声で読上げていたのは、文部省教科書のなかの『第十七 修行者と|羅刹《らせつ》』という話だった。聞くともなく耳を傾けているうちに、――これだ……! という確信が志功の胸に生じた。戦火によって夥しい蔵書を焼かれてしまい、書物に餓えていたかれは、巴里爾からその教科書を借りて、あわただしく活字の列に分厚い近眼鏡の眼を走らせた。それはこういう話であった。
……|雪山《せつせん》という山の中で、長い難行苦行に身も心も疲れ切っていた一人の修行者の耳に、どこからともなく、「色はにほへど散りぬるを、我が世たれぞ常ならむ」という美しい声が聞こえた。仏の声ではないか、とかれは考えた。仏の言葉であれば、いまの言葉だけでは十分ではない、もっと後に続く言葉がある筈だ、かれは立ってあたりを見回した。そばにいたのは怖ろしい悪魔の形相をした羅刹であった。
この羅刹が、いまの言葉を、まさか……と修行者は迷ったが、たとえ悪魔の声にせよ、仏の言葉であれば聞かなければならぬ、と覚悟をきめ、どんな望みでも聞くから、後半分の言葉を教えてくれ、と頼んだ。羅刹が望んだものは、人間の生肉と生血だった。修行者は自分の体を与えることを約束した。羅刹は怖ろしい形相に似合わぬ美しい声で、残りの言葉を唱えた。「有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ、酔ひもせず」。それを聞いたとき、心のなかに満ち溢れた喜びを、ひろく世に分って人間を救わなければならぬ、と考えた修行者は、いまの言葉を初めから、あたりの石や木の幹に書きつけ、樹上に登ると、「一言半句の教えのために、この身を捨てるわれを見よ」と叫んで、羅刹のまえに身を投じた。途端に妙なる楽の音が起こって、怖ろしい羅刹は、端正な|帝釈天《たいしやくてん》の姿にかわり、修行者の体を受けとめて地上に安置した。多くの尊者や天人が現われ、修行者の足元にひれ伏して礼拝した。この修行者こそは、のちのお釈迦様の前世の姿であったのだった……。
敗戦後、故郷と東京を遠く離れた北陸で、冬を迎えていた志功が、|雪山《せつせん》での難行苦行に疲れ切っていた修行者に、わが身をなぞらえて感情移入したとしても不思議はないが、かれの心を動かしていたものは、そればかりではなかったろう。河井寛次郎と川勝堅一は、戦争が終ったあと、福光へ志功を訪ねて来たことがあった。河井は当然そのとき、敗戦の直前に、虫食いだらけの栗の葉の、虫を米英諸国、葉を日本として見ているうち、ある日、翻然として「葉っぱは虫を養っている。虫は葉っぱに養われている」とおもうようになったことを語ったはずで、志功の脳裡においては、その話と、わが身を捨てて羅刹に食わせても悟りを開こうとした釈迦の話とが重なり合って、画想に結実しつつあったのではないかとおもわれるのである。
それに志功の意識下には、雪山の難行苦行に疲労困憊している修行者を日本、怖ろしい悪鬼羅刹と見えて実は仏法の守護神である帝釈天の化身であった相手をアメリカ、とみる考えもあったかも知れない。猛然として『修行者と羅刹』の絵画化に取りかかった志功は、年の暮れ近く、川勝堅一に次のような葉書を送って来た。
――大元気お旺隆を祈つて止みませぬ 大師匠展背壁荘厳の為に「華厳・捨身受偈」画仙全紙六枚をものしてゐます。明日中高島屋様にお送りいたし(す)手順でアリマス。……
このなかの「大師匠」というのは、いうまでもなく河井のことである。ほかに志功は「大師匠河井寛次郎先醒」と呼ぶこともあった。
河井は、自分の展覧会の壁面で、画仙紙六枚の大画面の、中央に修行者と羅刹、そのまわりに諸尊諸天を配して、両端に「いろは歌」の四十七文字を書いた肉筆画を見て、二度にわたり賞讃の言葉をつらねた礼状を志功に送った。
だいぶ長い引用になるが、読み終ったときには、読者もその理由を納得されるであろう、河井と志功のたぐいまれな関係と、そこに起こった共鳴現象が、どれだけ志功の創造意欲を奮い立たせたかを、如実に感じさせる手紙である。まえに谷川徹三氏が「棟方と棟方芸術について書かれた最高の文章である」と評した大原總一郎の棟方志功論を紹介したが、志功が生涯にうけた讃辞としては、この河井の手紙が、最大のものの一つであろうとおもわれる。
――近業六枚続きの大幅を見た。あれは何だ。何といふあれは狼藉な仕事だ。何といふ不逞な表現だ。何といふまばゆい労働だ。世界への何といふこれは新しい喜びだ。獣物の何という素晴らしさだ。人間の何といふ高貴さだ。何といふ無茶苦茶な美術だ。今想ひ出すだに血が湧く。勇み出す。……
最初から、まるで相手の肩や背中をどやしつけながらいっているような逆説的な表情が、かえって生生しい真率さを感じさせる激賞の言葉の連続である。
――すべては何といふ腹の立つ素晴らしい嘘だ。何といふ気高い無礼だ。何といふ香ぐはしいインチキだ。君は此頃横行する追ひはぎよりひどい。人間の着物を剥ぐどころか、身ぐるみとつて行く強盗だ。魂だけ残して置いて行く強盗だ。君のやうな強盗が出て来ないと人間は自分の一番大事なものに気がつかないのだ。しかし大抵の人は自分のその持物を見るのが嫌ひなのだ。そんなものを見る事は恐ろしい事なので見たがらない。そんな警察が君を弾圧する。低俗なこんな美術が君を忌避するが、さういふ事はもうどうでも好い。いやもうそんなものは無力だ。君は高峰に立つ。己れを絶した高峰に立つてゐる。君は昂る。君は昂る。より高きに昂る。
あれから以来、来る程の人にあの仕事を話し通してゐるが、話し足りなくて今も書く。しかしこの喜びは書けない。万歳。……
かつて河井は志功を「鉄斎以上」といういい方で褒めあげ、その評価に疑問を|挿《さしはさ》んだ志賀直哉の文章をはじめとして何人かの人のあいだに、幾らなんでも「鉄斎以上」というのは褒めすぎだろう、とかなり物議を醸したことがあるが、それに|怯《ひる》むことなく、ここでも徹底して志功を絶讃することに、詩的な言葉を次次に繰出して全力を挙げている。
――君は暁け方の鐘撞き。朝の製造人。君は一人の人ではない。君のからだはいつも充電された高い電圧。一人でゐようが、人とゐようが、寒からうと暑からうと、野天、屋内、清穢、広狭、時と処を選ばず、電鍵一つ押せば君の工場は唸りを立てゝ直に作業を始める。――目まぐるしい生産。……
河井は戦争の最中、濛濛たる煙を発する五条坂の登り窯を焚くことができず、詩文を書くことと木彫を試みることで日を過ごしていたので、このときの大阪高島屋での催しは、かれの久久の制作による展覧会だった。それにもかかわらず、かれの関心は、もっぱら同じ展覧会に、いわば傍役として展示されていた志功の作を人人に認めさせることに向けられているように見える。苦労している友人の一張羅の服装を見て、「きみはいつもこの恰好なんだね」といって涙を浮かべたという河井の気持のやさしさと、私心の少ない人柄が感じられるが、このような師に恵まれるというのは、そうめったにあることではあるまい。一方、志功は前にも書いたように、たとえ相手が口にしていない讃辞であっても、それを自分の頭の中に聞くことがある人だった。そこへ持って来て、これほど電圧の高い、しかも根本においては的確であるとおもわれる讃辞を、敗戦後初めての正月のなかばに与えられたのだ。多くの先輩知己から遠く離れて暮らしている北陸の一隅で、この手紙を読んだときの志功が、どれだけ感奮興起したかは、まざまざと想像できる。戦後の棟方工場を全面的に始動させる電鍵を、まず押したのは、この激賞の手紙であったのではないかとおもわれるほどだ。そうではないとしても、このときの河井の絶讃に触発され、共鳴して生じた唸りが、志功の戦後第一期の創作活動の基調低音になったのではないか、というのは十分に考えられることである。ただし河井は、ひとつだけ留保条件に近いことも書いている。
――君は言ふ。調べ車が調子附いた時にはいつも仕事は済んでゐると。君の工場は大量生産方式に出来てゐる。しかし君は製品全部を放出してゐる訳ではない。君の工場にだつて検査係はゐる。しかし自分で自分のものをどれだけ厳重に選別する事が出来るであらうか。君もまたその事については成功してゐるとは思はれない。が我々は失望しないでよい。ここには一人の真の検査係がゐるから。それは世の中には優れたものより存在しないといふ検査係が。……
かれは志功の創作の奔放さが、ときに放恣に流れ、自信過剰の倨傲に陥り、粗製乱造となることがあるのを戒めていたのである。志功も前の讃辞だけに浮かれることなく、この忠告をも慎重に受入れたようだ、というのは、次のようなことがあったからである。
河井寛次郎の展覧会の壁面を飾った『華厳・捨身受偈』(のちに『施身聞偈』と改題されたのは、文部省国語教科書『修行者と羅刹』の出典が、|大般涅槃経《だいはつねはんぎよう》のなかに出て来る施身聞偈の説話であることが判ったからだろう)は、川勝堅一が千五百円で買ったのだが、河井の賞讃から傑作の評判が広まって、柳宗悦をはじめ、山本爲三郎、松方三郎、五島慶太、大原總一郎……など志功の後援者八人から、おなじ主題の絵を描いてくれ、という申込みがあった。ことに山本爲三郎は、画仙紙百枚を届けて頼み込むという熱心さだった。それぞれの後援者によって、義理合いの程度が違うから、千五百円の八倍で一万二千円の収入、というわけにはいかないけれども、引受ければ、相当の収入になることは間違いない。折しも世の中は、餓死者が出るほどの食糧難に、おそるべきインフレが重なって、金が幾らあっても足りない時期だった。志功も育ちざかりの子供四人を抱えているうえに、戦争が終ったあと、いつまでも福光にとどまっているつもりはなく、いずれまた東京に家を見つけて、戻らなければならない、と考えていたのだから、まとまった収入を手にできる機会は、逃せない筈であった。
川勝堅一も、画仙紙百五十枚を届けて、志功にその仕事を引受けることを勧めた。ところが、自分の作に失敗というものはない、間違いがあったとしても、それはそれでまた面白い、というのが口癖で、書潰しをつくらないことを自慢にしていた志功が、このときばかりは、二百五十枚の画仙紙を全部書潰してしまった……といい、「いくら描いても、絵がまとまらないんですよ」と泣きそうな調子で、川勝堅一に謝って来た。天性の|均衡《バランス》感覚を持つ志功が、絵をまとめることが出来なかったというのである、それも二百五十枚の画仙紙を費して――。
同一の主題による量産が、気に染まなかったのだろうか。いや、主題が同一であっても即興によってそれに変化を加えていく量産は、むしろ志功の得意であった筈である。となると、考えられる理由のひとつは、河井寛次郎の忠告であろう。志功は決して単純な人間ではないから本当の理由は謎であるが、いずれにしてもこのとき、かれは切実に金銭を必要とする時期と立場に置かれていながら、大金を手中にできる機会を、自ら遠ざけてしまったのだった。
十四
薄い霧のなかを、トラックは細尾峠に向かって、|九十九折《つづらおり》に曲りくねっている山道を登っていた。荷台に揺れながら乗っていたのは、高坂貫昭を案内人に、|五箇山《ごかやま》を訪ねようとしている柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司、外村吉之介、棟方志功ら、日本民芸協会の面面だった。いまとは違って当時の五箇山は、訪れる人もめったにない、まったくの秘境であった。一行の中の外村吉之介は、そこを表現するのに、――久恋の五箇山、……という言葉を用いている。長いあいだ憧れて来た土地、といった意味の形容であったのだろう。柳宗悦をはじめとする民芸協会の人人にとっては、そこはメッカといえるかも知れない場所であった。
木炭トラックが喘ぎながら登っていたのは、人喰谷へ切れこんでいる尾根の中腹に刻まれている山道だった。人喰谷というのは、昔まだ五箇山と礪波の平野部を結ぶ道が切り開かれていなかった頃の冬、尾根づたいに歩いていたひとびと五十三人が雪崩に巻きこまれて、谷底に呑みこまれてしまったのだが、春になって幾ら探しても死体が見つからなかったという言い伝えから生まれた名称であるという。名前が名前だけに、揺れる荷台から霧のなかに見え隠れしている深い谷底を覗くと、背筋から総毛立つような心地がした。
ときおり霧が|霽《は》れて、背後の眼下に、今朝――五月二十八日の午前九時に出発して来た城端の町とそのさきの福光の町を囲んでいる水田が、鈍い光を放って見えた。水田のいたるところに、農家の住居が、点点と散在している。いわゆる礪波の「散村」または「散居村」である。礪波平野独得のこの村落形態が、どうして成立したのかについては諸説があるが、一説によれば、越中における一向一揆の根拠地となったこのあたりの領主が、のちに一揆の再発を恐れて農民の住居を散在させたからであるともいう。トラックが曲折を重ねて、標高七百二十メートルの細尾峠に達したとき、晴れた日なら一望のもとに見渡せるという礪波平野の散居集落は、すっかり霧に覆われていて見えなかった。峠の小屋で木炭を捕給してから、トラックは暗い|隧道《トンネル》に入った。
隧道を出ると、眼下に姿を現わして来たのが、合掌造りの家が立並ぶ五箇山の平村梨谷部落だった。タイム・トンネル、という言葉をもし知っていたら、いま通って来た隧道がそれだ、と志功はおもったかも知れない。のちにかれが書いた随筆のなかでは、かつて本で読んだ言葉を、――在るてふ事の不思議さよ、……と呟いている。志功が住んでいた福光の町も、食糧難に襲われていて、戦後の険しい現実と無縁ではなくなっていたが、それから隣町の城端を経て山に向かい、人喰谷に沿って曲折する山道を延延と登って、細尾峠を越え、暗い隧道を潜り抜けてみると、ここには昔ながらの村と人人の暮しが、そっくりそのまま、ひっそりと残っているようにおもわれたのだ。外村吉之介の文章によれば、――桑の葉はまだ稚蚕を飼ふほどに小さい芽である。コブシ、山椿、五月花、|朴《ほお》の花が一時に咲いてゐる。桐の花の紫も見える。桜も花をつけてゐる。|虎杖《いたどり》は若く太い。……というのが、一行の眼の前に最初に現われた「久恋の五箇山」の風景であった。
五箇山というのは、正式な名称ではなく、山間の峡谷にある富山県東礪波郡の平、上平、|利賀《とが》の三村の通称である。もともとは赤尾谷、上梨谷、下梨谷、|小谷《おたに》、利賀谷の五つの谷を総称して五箇山と呼んだものらしいともいわれ、学者は南朝の遺臣によって開かれた村落であろう……と推定しているが、一般には平家の落人部落と信じられていて、福井県大野郡の五箇地方、熊本県八代郡の五家荘などとともに、「平家谷」とも呼ばれている。志功が、源氏よりも平家が好き、と称する平家びいきになった理由のひとつは、この越中五箇山の印象のなかにあったのかも知れない。
トラックが、まず着いたのは、梨谷部落の山崎家で、一行は囲炉裏の火を囲んで弁当の昼食をとることになった。いい伝えによれば、この囲炉裏の火は、七百年のあいだ燃え続けているのである。戦いに敗れて逃げて来た南朝方の刀鍛冶が、火縄によってこの家に運んで来た火種、とすると年代的には少少勘定が合わないけれども、それが今日に至るまで消えることのない「不滅の火」として守られ続けて来ている、というのだった。ただ見れば、何の変哲もない囲炉裏の火であったが、そう聞かされてみると、「不滅の火」の炎の色と、それを守って来た合掌造りの家の、がっしりして黒光りしている骨格が、まことに力強く、頼もしいものにおもわれてくる。志功は家のお婆さんが出してくれた大根漬も、何百年か前のものを味わっているように感じながら噛みしめた。
一行はここで、富山からジープで来た軍政部のメダリア大尉、写真家で通訳の役も兼ねている坂倉五男氏らと一緒になっていた。戦争中、沈黙を守っていた柳宗悦は、この昭和二十一年の二月から、日米教育委員会の委員、米国教育使節団の歓迎委員など対米関係の要職に就いており、富山軍政部で教育関係を担当していたメダリア大尉は、柳の北陸旅行に富山から同行して来ていたのである。
昼食を終えた一行は、梨谷から下梨へ向かった。五箇山の中心地である下梨には、役場、郵便局、学校があり、十数年まえからダム工事でやって来る人のために宿屋も数軒できていて、また何年かまえの大火で村の大半は合掌造りから普通の民家に変ってしまっていたので、「下梨は五箇山ではない」という人もいるらしく、丁度そんな言葉を裏付けるかのように、村役場には Village Office と書かれた横文字の看板も掲げられていた。メダリア大尉は、ここで村長以下の歓迎を受け、細尾峠の難所にトンネルを通してほしい、という陳情も受けて、富山に帰って行った。
民芸協会の人人は、峡谷を流れる庄川に架けられた釣橋を渡って、川向こうの大島部落の水口家を訪ねた。本日の宿になっているそこで、「麦屋節」と「|古代神《こだいじん》」の歌を聞き、踊りを見せて貰うのが、夜の目的であった。真綿の加工を業としている合掌造りの水口家の尺余の太い柱、天井、戸障子には、すべて漆がふんだんに使われ、磨きこまれて重厚な雰囲気を漂わせており、まるで昔の城内にでもいるような感じだった。夕食の膳には、水口家の心尽しが豊かに溢れていた。川魚、山菜、それに山峡の五箇山ではもともと乏しく、また近頃ではどこでもなかなか手に入らない米の飯が供されて、志功にとっては久久の椀飯振舞であった。そのうえ、みんな口をそろえて感嘆したほど旨い地酒が、「天狗面」と名づけられた朱塗りの、見事な形の大きな木の銚子で注がれたので、いつもは酒を飲まない志功も、いつの間にか何杯かの盃を重ねていた。
やがて膳が片づけられ、席が改められると、黒紋付に|袴《はかま》をつけ、白襷と菅笠を手にした三人の男の踊り手が、座敷の正面に進み出て、こちらに向かって|厳《いか》めしく正坐した。次の間には、三味線、太鼓、尺八、四つ竹を手にした人人、歌い手の村長、いずれも真剣な表情で、遊戯的な気分はまったく感じられなかった。最初は「麦屋節」、民謡の宝庫といわれている五箇山で、もっとも代表的な唄である。にぎやかな前囃子が始まった。三人の踊り手はそれに合わせて素早く襷をかけ、菅笠を持って立上がった。
※[#歌記号]麦や菜種はアイナー 二年でエイナー
刈るにヤーアイナー
麻が刈らりょかアーイナ
半土用にイナー
陽気で軽やかで速いテンポの三味線に、歯切れのよい四つ竹のリズムが加わっているのと、唄の伸びやかな旋律から、志功は初め、大好きな沖縄の民謡を連想したが、三人の男たちの、手にした菅笠を強く直線的に振りながら、白足袋の足踏みと体の屈伸を繰返す踊りは、剣舞をおもわせたほど、凜凜しく武張って厳粛なものだった。歌詞も一番は百姓の日常生活をうたっているが、二番からは「波の屋島を とく|逃《のが》れ来て |薪樵《たきぎこ》るてふ 深山辺に 烏帽子狩衣うち捨てて いまは越路の|杣刀《そまがたな》 心淋しや落ち行く道は川の鳴瀬と鹿の声」と、平家の落人の悲哀を語るものに変っている。
そのへんに、いくぶん違和感を覚えていたらしい民芸協会の人人も、「|古代神《こだいじん》」での中村武一村長のユーモラスな歌いっぷりには大満足だった。町田佳聲氏ら専門家の説によれば、この唱の元は越後から広まった「新保|広大寺《こうだいじ》」で、それに越中五箇山では「古代神」とか「小代神」といった文字を当てていたもののようであるが、志功は、その「古代神」という題名も気に入っていた。一座には、「麦屋節」が始まったときの緊張が解けて、少しずつ笑い声が生まれはじめた。そのうちに村の一人が、民芸協会側から贈り物にした酒と魚を、
「酒は上上、灘より直送の一駄、それに日本海の荒海でとれましたる魚を、祝儀として、日本民衆芸術教教会より賜わる、イヨー賜わる」
と、節のついた口上で披露したことから、爆笑が起こった。口上を述べた当人としては、日本民芸協会と聞いても、何のことやら判らず、だれかから民芸とは「民衆の芸術」であると教えられ、協会は「教会」に違いない、と解したのだろう。またそれだけ、よく正体が掴めないけれども、偉い人の集まりであるらしい民芸協会の面面を迎えて、大いに緊張していた気配もうかがわれる。
柳宗悦は黒の帽子に背広、ニッカーボッカーズのズボンにストッキングを穿き、河井寛次郎と濱田庄司は背広姿、外村吉之介は和服に袖なし羽織、|軽衫《カルサン》ばきという取合せで、それぞれの風貌からしても、とうてい只物の集まりとはおもえなかったろう。そのなかで志功は、中折れ帽の山を丸くして鍔を下にさげたお釜帽、軍隊シャツに綿入れの半纏、モンペのようなだぶだぶのズボン、という|扮装《いでたち》であった。実際に着るものも、すっかり焼かれて余り持っていなかったのだろうが、誇りを捨てて貧乏を丸出しにした服装、と見るのは当たらない。ある程度の収入が得られるようになってからも、ずいぶん長いあいだ書生っぽい感じの紺絣の着物を愛用していたことからも判るように、これが、貧しいなりに一種の釣合いと調和を図り、かつ同行者への謙虚な気持をもあらわしている志功流のお洒落であったのに相違ないのである。
志功は久しぶりのご馳走で満腹し、飲みつけない酒を何杯も口にし、大好きな唄を聞き、踊りを見せて貰って、陶然とした気分になっていた。漆塗りの柱や戸障子の輪郭が、鈍い電灯の光を受けて、ぼんやりと|暈《ぼか》されて見える。この山間の村は、戦争にも敗戦にも関係なく、隔絶して独立している別天地であるかのようにもおもわれた。むろん実際には、この村も戦争と無縁であった筈はなく、一見そのように見える独立性は、たとえば石崎直義氏の語るところによれば、このときから十二年まえには利賀村の新山部落四戸の男全員が大雪崩にあって遭難したり、冬場には病人が出ても交通が杜絶しているので見殺しにせざるを得なかったり、あるいはアワ(粉雪が風に吹かれて固まり、斜面を転がっているうちに大雪塊となる)に押潰される危険に曝されていたりする山中の僻地の悲劇とそれこそ致命的ともいえる冬季の不便さや、日常の食物の乏しさと引換えに形づくられていたものであったのに違いないのだが――。
民芸協会の人たちは、別室に案内されて、もう一献の酌を受けていた。座敷に残っていた村人のほうから、酔った声でうたう唄が聞こえて来た。それは、さっきの厳粛さとは打って変った胴間声の「麦屋節」であったが、平家の落人の悲哀を言わば決まり文句で語っている歌詞からは感じられなかった、切切とした哀調が伝わって来て、志功は熱く重苦しい塊が咽喉と鼻の奥に込み上げて来るのを覚え、かなしく痛ましい感じで、胸を掻きむしられるおもいだった……。
翌朝は快晴だった。朝食のまえに高坂貫昭は、持参して来た河井寛次郎と濱田庄司の茶碗を用いて、薄茶を|点《た》てた。朝食後、一行は水口家に厚遇を感謝して別れを告げ、徒歩で庄川の上流にある西赤尾に向かった。快晴の太陽の下で見る庄川は、清らかな水を|煌《きら》めかせ、水量も豊かに曲折しながら流れていて、志功を喜ばせた。お釜帽にだぶだぶズボンのかれは、あたりの緑のなかに点在している花花を指さして、子供のように燥ぎながら歩いていた。
途中、川上に向かうトラックを止めて乗せて貰ったときも、目的地に着いたトラックから降りて、ふたたび歩き出し、小さな湖水のような小原ダムの岸に出たときも、志功は歓喜の声を挙げて大騒ぎだった。やがて、田下、上中田、下島、新屋、西赤尾と続く部落の家並みが、峡谷の行手に見えて来た。
「赤尾だ。赤尾が見える」
と、地図を手にしていた柳宗悦が、大きな声を出した。やや興奮の色を示していたのも、無理はなかった。かれは戦争の末期から、「妙好人」に強く心を惹かれていて、こんどの五箇山行きも、合掌造りの家や、人人の暮しのなかに生きている民芸品や、「麦屋節」や「古代神」などの民謡への関心も勿論あったが、結局は、秘境五箇山の峡谷の終点にあたる西赤尾に、妙好人|道宗《どうしゆう》が遺した行徳寺を訪ねることが、最大の目的であったのだった。――|妙好人《みようこうにん》、という言葉が、どのような人を指しているのかは、定まっていない。一言でいえば、浄土真宗において、ことに信仰の篤い人をいう言葉であるけれども、そのなかでも在家の篤信者を指していう場合が多く、在家の篤信者のなかでも、無名の人、無位無学であっても一心に念仏する人、といった意味合いも強いようだ。
そういえば、柳が妙好人に惹かれた理由は明らかであろう。かれは「民芸」と名づけた無名の人間がつくる雑器の美しさを、人間においては妙好人のなかに見出していたのである。柳が越中の妙好人道宗に深い関心を抱いたのは、かれの書きのこしたいわゆる「赤尾道宗心得二十一箇条」を読んだことが、きっかけになっていた。有名なその第一条には、次のように書かれている。
――ごしようの一大事 いのちのあらんかぎり ゆだんあるまじき事。……
『赤尾道宗』の著者、岩見護氏の解釈にしたがっていえば、後生の一大事とは、一生のあいだを貫く唯一の大事であって、ほかにくらべるもののないほど大切なことであり、もしこの一大事に目覚めることがなかったら、終ったときの両手に何物をも握っていない空しい一生を送らなければならず、一大事に目覚めれば、そのことに驚き、それを追求することによって、一生にはっきりとした方向が立ち、死んでも後悔のない人生を送ることができる……というのである。
柳宗悦たちは、西赤尾の部落に入った。道はやや登り坂になっていて、部落の一番奥のほうに寺の屋根の|甍《いらか》が見えた。そこが志功にも大きな啓示を与えることになった妙好人道宗の遺した行徳寺であった。隣り合っている五箇山第一の規模を持つ合掌造りの岩瀬家を横に見て、柳をはじめとする一行は、行徳寺の山門を潜って境内に入って行った。
十五
行徳寺の庫裡の玄関に迎えに出ていたのは、開基の法名を姓に受け継いでいる当主|道宗《どうしゆう》静夫師だった。民芸協会の一行が、請じ入れられて通された座敷には、|鉈鞘《なたざや》、籠類、深靴などが並べられていた。そうした民具に関心があると聞いて、用意してあったのだろう。一行はそこで、山菜を主にした昼食をご馳走になってから本堂に詣った。当主の道宗静夫師は、二幅一対の『道宗一代繪傳』の掛軸にむかって、説明を始めた。
妙好人道宗は、四百年あまり前の人である。はっきりした伝記が残されているわけではないので、こまかなことは判らないが、語り伝えられているところによれば、幼名を弥七といい、四つのときに母を、十三のときに父を失って孤児となり、伯父の僧浄徳のもとへ預けられた。あるとき、雛に口移しで餌を与えている親鳥の姿を見て、亡き父母をおもい、淋しさと悲しさに耐えかねて、川の淵に身を投じようとしたこともあったほど、弥七は多感な少年であった……というくだりを聞いたとき、志功はすぐ話のなかに引込まれた。かれにも『善知鳥』の哀しい父母の思い出があったからである。
亡き父母恋しさに悶悶としていた弥七に、伯父の浄徳は、次のような話を教えて慰めた。遠い筑紫の国に、羅漢寺という寺があって、そこの五百羅漢像のなかには、かならず亡き父母の顔に似た石像がある、というのである。以来、筑紫の羅漢寺を訪ねることは、弥七の最大の念願となった……というくだりにも、志功は不思議な暗合を感じた。かつて福士幸次郎から、自分の棟方という姓は、九州の宗像に発しているものらしい、と聞かされていたからだ。
成人したある日、念願を果たすべく、筑紫に向かって旅立った弥七は、越前の麻生津というところの路傍でまどろんでいたとき、夢のなかに現われた旅の僧に、「|真実《まこと》の親に会いたくば、石の羅漢にその面影を求めるより、京都東山の大谷に、蓮如上人を訪ねるがよい」と教えられた。大谷本願寺へ行った弥七は、初めて聞いた蓮如上人の法話に衝撃的な感動を受けて、三日三晩、席を立たず一心に聴聞した、と伝えられている。蓮如上人は弥七の真剣さを|愛《め》でて、弟子になりたい、という願いを許し、やがて道宗という法名を与えた、と道宗静夫師は、淡淡とした口調で説明を続けた。
「……次の段の左の絵は、道宗さまが蓮如上人より御名号をいただいて、赤尾に帰って来られ、その法をみんなに伝えているところへ、山から猿が三匹、|独活《うど》か筍を持って来て、縁側で聴聞しているところが描かれています。道宗さまのひととなりが描かれているのでありまして、獣も何の心配もなく、かように側に来て聴聞しているのであります。その右側の絵は……」
僧形の道宗が、積み重ねた薪の山のうえに横臥している絵であった。
「信仰生活に入られてからの道宗さまは、自分のような浅ましい人間が、蒲団の上に寝ていたのでは、如来の御恩も忘れて、一夜を眠り|惚《ほう》けてしまう、というので、阿弥陀如来の四十八の大願になぞらえて、四十八本の割木を敷き、そのうえに手枕で横になられ、安らかに眠れないまま、衆生済度のために阿弥陀様が味わわれた幾劫かの苦しみをおもい、わが身を責め心を責めて、一心に念仏をされておられる、その姿が描かれているのであります」
自虐的ともおもえるほどのこの恐るべき修行と求道の逸話に、それまで道宗にわが身を同化させて聞き入っていた志功は、堪りかねたように「はあッ……」と感嘆の声を発して叫んだ。「これは、まったぐ、|命かかり《ヽヽヽヽ》ですな」
道宗静夫師は、およそ三十年後のいまもその志功の言葉を記憶にとどめている。「命かかり」という言い方が、特異なものに感じられたからだ。普通なら「命懸け」というところだろう。しかし、そういうと、自力による求道、という感じが強くなる。阿弥陀仏の本願に救いを求める他力教の篤信者である妙好人には、「命懸かり」とでもいうのが、たしかにふさわしいのかも知れない。志功の感動の仕方と、その結果としての造語には、いつもこのような独自性と、いささか奇矯ではあるけれども、言い得て妙、とおもわせる感覚が脈打っていた。そしてそれらの独得な言葉遣いと、滑稽さと紙一重の大袈裟な仕草は、いつか、傍にいる人人の体のなかにも、いかにも伝説的な話に対する新鮮で活き活きとした感覚を喚び起こすのだった。
『道宗一代繪傳』の説明を終えた静夫師は、本堂の一隅にみんなを招いて、一体の木像を示した。妙好人道宗が、四十八本の割木の上に身を横たえている寝姿であったが、道宗の子の道珍の作であるというその木彫には、意外なことに、苦行や自虐の悲愴感が殆ど感じられず、木喰と円空のどちらにも通じるような稚拙感と素朴な|人間味《ユーモア》を漂わせていたので、一同は嘆賞の声を惜しまなかった。なかでも一番大きな声を挙げて喜んでいたのは志功であった。
翌朝、志功は道宗静夫師のために、持参の筆と絵具で、得意の鯉の絵を描いて贈り、民芸協会の一行が名前を記した署名帳の表紙にも、彩色して模様を描き、「群青山 念願海」という文字を二行に分けて書いた。群青(群生)の山に、願海(弥陀の誓願の深さと広さをたたえていう語)を念う……といったような意味であったのだろうか。志功はこのあとも昭和二十三年、二十五年、三十一年……と何度か行徳寺を訪ね、その間には、「ごしようの一大事 いのちのあらんかぎり ゆだんあるまじき事」という道宗の心得第一条の文字と、割木に横臥している姿を彫った版画を制作して、板木ごと行徳寺に寄進している。生涯を通じて後生の一大事を求め続けた妙好人道宗の信仰と生き方に、よほど共感するものがあったのだろう――。
すでに昭和の初年に発表した『工芸の美』において、個性の沈黙と我執の放棄を説き、「工芸に於て、衆生は救ひの道に入る。工芸の道を、美の宗教に於ける他力道と言ひ得ないであらうか」と書いていた柳宗悦は、そのころから、他力門の浄土宗、浄土真宗、時宗など念仏宗に惹かれていたものとおもわれるが、敗戦後は前よりも一層、宗教に対する関心を強めていた。
のちに著した『南無阿弥陀仏』のなかで、かれはこう述べている。すべての他力門の教えは、罪の認識から始まる。自分ほど罪深い者はいない、と真に気がついたとき、「世界の光景は俄然として一転する。自分が無限小に小なのであるから、自分に非ざるものは無限大に大となる」…「自己の無限小とは、もはや自己を残さぬことである。残る何ものもなくなる時こそ、自己の完き捨棄である。この放棄のその刹那は、無限大なるものに当面するその瞬間である」…「否定が肯定に直結するのである。この転換の刹那を、われよりすれば往生という。なぜなら無限小の無限大への投入だからである。仏よりすれば正覚という。なぜなら無限大の無限小への顕現だからである。わが往生と仏の正覚とは同時同体になる。これを済度といい滅度と仏教ではいう」
もともと宗教心と観念性が強かった柳は、奈良朝や平安朝の仏教は皇室と国家中心の宗教であり、鎌倉期の禅宗も武士のためのものであったのに対し、浄土門こそは民衆の宗教であった、として、敗戦後の衆生済度の希望を、念仏宗の仏教に託していたのだった。そのような期待が正しかったかどうかは別として、富山は「真宗王国」と呼ばれる念仏のさかんな土地だった。家家には、ほかの土地には見られないほど立派な仏壇があり、朝な夕なに称名の声が聞こえた。寺では説教が行なわれ、真宗大谷派の城端別院のような大寺院には、京都の本山から説教者が招かれて来ることもあった。
志功はたびたび隣町の城端別院へ出かけて行き、そこで何人もの僧侶と、熱心に法話をかわした。東京から疎開するのに、故郷の青森へ帰らず、北陸の福光を選んだことによって、このような風土に、戦後のあわただしい時期を東京へ戻るまで約六年八箇月のあいだ、じっくりと身を浸し、力を貯えて過ごすことになったのである。自伝にかれはこう述べている。
――富山では、大きないただきものを致しました。それは「南無阿弥陀仏」でありました。衣食住でも、でしたが、それよりもさらに大きないただきものであったのです。
――いままではただの、自力で来た世界を、かけずりまわっていたのでしたが、その足が自然に他力の世界へ向けられ、富山という真宗王国なればこそ、このような大きな仏意の大きさに包まれていたのでした。真宗妙好の宗根、在家仏人として、身をもって阿弥陀仏に南無する道こそ、板画にも、すべてにも通じる道だったのだ、ということを知らされ始めました。……
こうして志功は、柳や河井や水谷に教えられて、初めて仏教に開眼し力作や秀作を立続けに発表したころとおなじように、ふたたび仏教的な世界に没頭するようになり、そうした生活のなかから、岡本かの子の詩による『女人観世音』のような作品が生まれ、それはやがてスイスのルガノ国際版画展で優秀賞を受けて、かれを「世界のムナカタ」にしていくひとつのきっかけになったのだった。
十六
五箇山より帰って来てから柳宗悦たちは、|暁烏敏《あけがらすはや》に招かれ、金沢市の先の北安田にある明達寺を訪ねた。
のちに真宗大谷派教団の宗務総長になった暁烏敏は、立命館大学名誉教授の船山信一氏によれば、生涯にさまざまな思想的変遷を重ねているが、初期においては「仏教界、しかも浄土教、すくなくとも教団真宗において危険な書物、すくなくともいわば秘義的な書物とみられていた『歎異鈔』を信仰第一の書物とし、しかも大衆のなかにおし出した最初の人は暁烏であろう。彼の師清沢|満之《まんし》はこの書物の価値を彼に教え、彼の友|近角《ちかずみ》常観は熱心にこの書を講義した。しかし文章として、書物として、その精神、思想、信仰を大衆の間にひろめる口火をきったのは暁烏である」といわれている。清沢満之を主幹とする雑誌「精神界」に、暁烏が二十六歳のときから三十三歳のときまで、八年間にわたって連載した『歎異鈔を読む』が、翌明治四十四年に単行本の『歎異鈔講話』となって出版されると、人生に悩む人人のあいだに、次第に大きく波紋を広げていった。大正六年に刊行された倉田百三の『出家とその弟子』に見られるような親鸞への関心に、いわば先鞭をつけていた『歎異鈔講話』の緒言を、暁烏はこう書き始めている。
――本書の著者は、傲慢な、横着な、名誉心の強い、しやうのない男である。家庭に居る頃は父母を泣かせ、学校にある頃は不勉強で先生に心配をかけ、社会に出でては極端な議論を吐いて友人や先輩の人々に迷惑をかけてをる男である。嘗ては酒色に耽り、賭博に溺れ、その他あらゆる罪悪に汚れた、云はゞ人の風上には置かれぬ男である。……
この四年前に発表された田山花袋の『蒲団』に始まる自然主義に近い印象を与える文章であるが、そのような男であっても、友に手を引かれ、師に後を押されているうち、どうにかこうにか安住の地が得られた、それが『歎異鈔』の世界である、とかれは次のようにいう。――『歎異鈔』は真面目に自己省察をし、厳格に自己を判断し、自己の罪悪に泣く人でなければ解せられないのである。『歎異鈔』は自心を地獄の底に沈ませる程の深き洞見がなければ味ははれないのである。故に『歎異鈔』は死の問題に驚いた人、事に失敗して失意の境にある人、倫理的罪悪に苦しむ人でなければ味はふことが出来ぬのである。……
その『歎異鈔』を読んで、ようやく、安住の地が得られた、と明治四十四年には書いたのだが、それから二年後、かれは愛妻の死に続く女性問題によって、自ら「凋落」と形容したほど激しい愛慾の昏乱に陥ることになる。そこから抜出そうとして煩悶していたとき、たまたま眼に触れたのが、大正三年の雑誌「白樺」に発表されていた柳宗悦のブレイクに関する文章であり、十一月に洛陽堂から刊行された柳の大著『ヰリアム・ブレーク』だった。
精神とともに肉体を謳歌して、精力を讃美し、自由を理想とした愛と熱情と想像力の詩人ブレイクを、熱っぽく語った柳の文章にも触発されたが、それにもましてかれを力づけたのは、その本の挿絵のなかの「生命の焔」と題された一枚だった。猛火に包まれながらも前進の意志を示している人間を描いたブレイクの絵を見て、菩提樹下の釈迦をおもい、十字架上のキリストをおもい、叡山を出た親鸞をおもって、打|拉《ひし》がれた心の底から勇気が湧き上がって来るのを覚えた……というそのころのことを、暁烏は大正九年に出版した『更生の前後』のなかに言わば赤裸裸に綴っている。
またかれは、インドから中近東、欧州の各地を巡歴する旅に出た昭和二年のころから、民芸品の蒐集を始めており、陶磁器にも関心を持っていて、その後、濱田庄司とはすでに知己の間柄になっていた。それらのことがあって暁烏は、いちど柳と話をしてみたい、とおもっていたのだろう、柳をはじめとする民芸協会の一行が、北陸を旅行中であると知って、秘書の野本|永久《とわ》を通じて招待のおもむきを、おなじ真宗大谷派である光徳寺の高坂貫昭へ伝えさせたのだった。
北安田の明達寺を訪ねた一行のなかでは、高坂貫昭と濱田庄司のほかに、志功もその少し前にいちど暁烏敏に会ったことがあった。高坂から、いろいろと暁烏の話を聞かされ、ぜひ会ってみたくなり、高坂に紹介を頼んだのである。暁烏敏が四月の十一日に、西礪波郡籔波村の西恩寺へ講話に来ることを知って、高坂はそこへ志功を案内した。講話が終ったあと、「ぼくは、こごで待っています」と固くなっている志功を次の間に残して、高坂は暁烏のいる部屋に入って行った。
「ぜひ会っていただきたい画家がいるんです。ご存じかも知れませんが、棟方志功という大変すぐれた絵描きです」と高坂がいうと、「その方は……?」六十九歳の暁烏は、不自由な眼を高坂のほうに向けて、どちらにおられるのか、という表情をした。強度の近視であった暁烏は、このころ殆ど盲目になっていたのだ。「いま、隣の部屋で待っているんですが……」「どうぞ、こちらへ……」といった暁烏の言葉が終るか終らないうちに、次の間から志功が、低姿勢のまま、するすると飛び出して来て、あっという間に暁烏の前に正坐していた。
志功には暁烏に訊ねたいことが、山程あったのだろう。仏教についての法話は勿論のこと、壮年のころの暁烏が苦しんだ愛慾の悩みは、多感な情熱家の志功にも無縁のものではなかったし、とくに強度の近視から盲目となったいまの暁烏の心眼に、何がどのように映っているのかは、おなじように強度の近視の志功にとって最大の関心事であった筈である。それから二人のあいだに展開された光景は、実に目ざましいものだった。
暁烏敏の秘書の野本永久と、高坂貫昭は、そのときの暁烏と志功の話の内容を、よく覚えていないが、野本永久の印象に強く残っているのは、話し始めると間もなく、双方のあいだに眼には見えない磁力のようなものが激しく働いた気配があって、たちまちのうちにとても初対面とはおもえないほど、ぴったりと話の呼吸が合い、意気投合していた二人の姿である。
初めのうち志功は、暁烏の一言一言を耳にするたび、霹靂にでも打たれたような表情を示していた。話が一段落すると、「あなた様は……」と志功は最大級の敬語を用いて問い返し、講話とともに座談の名手でもある暁烏は、打てば響く、といった口調で答え、それに対してこんどは志功が、訥訥とした雄弁で自分の考えを述べて、二人の問答は、打打発止、という感じで尽きることなく続き、いつのまにかそこには、余人には|窺《うかが》い知れない肝胆相照らす仲が生じていた様子だった。
問答が始まるまえに、志功が聞いた講話の内容も、はっきりとは判らないが、記録に残されているものから、そのころの暁烏が、どのようなことを考えていたのかは、察することができるようにおもう。そして志功が霹靂に打たれたような表情をしていた理由も、判るような気がするのである。敗戦後まもない昭和二十年の秋に口述して、ひそかに出版した小冊子のなかで、暁烏は次のようなことをいっていた。
……先日ある専門学校の先生が来られて、「こんど戦争に負けたのは本居宣長がもとだというた人があります。宣長は|唐心《からごころ》をくさして日本をやたらにほめた、それを受け継いだのが平田|篤胤《あつたね》である。この二人はまだよいが、篤胤の亜流の人たちのなかには無批判に、日本だけが偉いもののように思い上がって、外国を軽蔑した人がいた。こういう人から説き出された日本主義が、多くの軍人の思想を誤りに導いたきらいがないとはいえない」という話をした。
自国の誇りをもって他国の誇りを傷つけるのはよくない。排他的思想をもって、神国日本だ/\というていた人にも責任はある。私達の声が低くて排他的な人の声に押されていたことをおもうと私にも責任はある。本居氏や平田氏には、自己のみを高くして他を排する考えはなかったが、近代の人達がそれを極端にまで無反省に持って行ったのが、神罰を蒙る|所以《ゆえん》である。うぬぼれた日本主義が皇祖皇宗の神霊に手強い御意見を蒙ったのが、こんどの降伏であります。
もし日本が勝ったとしたら、世界の一等国となり模範となるわけであるが、今日のようなこの餓鬼道や修羅道の日本が世界の模範となってよいものであろうか。だから神様は、お前達は思い上がっているが一等どころか四等国の値打もないのだと、敵の声をかりて御意見下された。敵の声はそのまま大神の声であります。恐れ多くも無条件降伏を御承諾あらせられた天皇の終戦の詔書こそは、神風でましましたのである。……
また志功と初めて対話したときから暫くあとの五月一日、暁烏は石川県教育会館で『仏教思想とデモクラシー』と題する講演を行ない、一切衆生の利益を擁護しようとする仏教こそ、もっとも徹底したデモクラシーである、と述べており、そのあと八月号の雑誌「同帰」に発表した『平和国家の建設力としての仏教』では、新憲法草案の戦争放棄について、こう論じた。
――汝の敵を愛せよといふのはそのまゝ仏教の教へでもある。この宗教的な広いこゝろに向へばたとひ復讐心があつてもまた武備をとゝのへるといふことをようしませぬ。かへつて武備のかはりに宗教的な教養をつんで、その対立的な復讐心を絶対無限の摂取のこゝろに浄化し、戦をやめて本当に世界平和に生まれてゆくといふやうに向はねばならないのであります。ですから日本が武装をとき、戦争をしない国になつてゆくといふことは、日本自身で考へても衷心からさうなつていかねばならない道なんであります。われ/\はこの戦争の惨禍を見れば、もう戦争はこり/″\だと思つてをる。私なんか、若いときから、戦はきらひであります。ことに真宗大学を出ると世界に戦いのないやうにしたい、世界中の国家が戦をせぬやうにしたい、さういふ望みで東京へでかけていつた。……
大正デモクラシーの洗礼を受けた暁烏は、満州事変が起こるまえは反戦論者だった。昭和六年の九月二十日、満州事変の第一報を聞いた直後に記した『非戦論者である私は戦争が始まつたら何をするか』において、かれはこういっている。
「私は戦争には反対です。これは先度満州へ行つた時、ずつと話してきたことなのである。ところが、本月の始め頃からだん/\満州の方の雲行が怪しくなつて来た。もし戦がはじまるかもしれん、始まつた場合に、私はどういふ態度をとるか。日本政府が戦を始める、その戦を私は好まぬ。かういふ場合に、どこまで反対をするか。牢へ入れられても、殺されても、反対をするか」…「自分は戦をしてはいかんと決めてをる。しかし、みんなの人がやらにやならんといふことになつて、いよ/\戦が始まつたとする。そのとき私は無論、戦争主張論に雷同しようとは思はんが、兵隊の慰めをしたり、遺族を慰問したり、それ/″\自分に応じただけのことをせにやならん、又、しようと思ふた」
それから二箇月あまり経ったあと、十一月の末に書いた『利己主義破壊への道程としての戦争』で、かれの戦争に対する考え方は次のように変化した。「帝国主義は、終局の理想ではないが、今日のやうな利己主義的な資本主義に対しては劇薬である。この帝国主義の戦争によつて、或は帝国主義自身の崩壊が来るかも知れない」「戦争に働く軍人諸君には気の毒だが、現代の人類の病気を医するには、やはり戦争が最もよい外科的治療である。私はこの意味において、|将《まさ》に起らんとしつつある日支の戦争を歓迎する。これによつて日本の同朋の個人主義的な殻の壊れることを望み、又、これによつて日支両国の帝国主義的の殻の崩壊をも望むのである」「もう、かうなつたら、徹底的にやることだ。私は帰命尽十方無礙光如来の精神によつてこの戦争の徹底的に進められることを念じてをる。それは私の平和への憧憬なのであります」
昭和八年の十一月には『日本精神を提唱する理由』を発表する。かれのいう日本精神とは、聖徳太子の「十七条憲法」の精神であった。そのまえからかれは、本居宣長の『古事記伝』などを手引に、『古事記』の研究を進めていた。かれの考えによれば、『古事記』は、『華厳経』の思想を書きあらわしているもののようにおもわれ、わが国の神代の底に流れている法は、『仏説無量寿経』の底に流れている法と、おなじものであるようにも感じられた。「紀元二千六百年」の昭和十五年には、教育勅語と国史の研究に没頭する。こうして暁烏は、次第に「僧衣をまとった神官」ともいわれるほど、「|神《かむ》ながらの道」に近づいて行った……。
読者はすでにお気づきであろう。大正デモクラシーの影響から、『古事記』と聖徳太子への傾倒を経て、「神ながらの道」にいたるまでの暁烏敏の思想的変遷は、『大和し美し』…『華厳譜』…『上宮太子版画鏡』…『門舞神人頌』…『神祭板画巻』という作品系列にもあらわれている志功の辿った思想的経路と、ほぼそっくりではないか。
そしていま暁烏は、新憲法草案の精神は聖徳太子の「十七条憲法」の精神とおなじだ、というのである。大きな振幅を示して揺れ動きつつ「神ながらの道」に収斂して行き、敗戦によって完全に破綻を来たしたとおもわれた思想が、暁烏の説にしたがえば、聖徳太子の精神を軸にすることによって、全面的な崩壊を免れることになるのだった。もし初対面のときの対話で、以上のようなことの幾つかが話題になっていたのだとすれば、暁烏の一言一言に、志功が霹靂に打たれたような表情を示し、いつ終るとも知れぬ問答を続けて、すっかり意気投合し、肝胆相照らす仲になったというのも、頷けるような気がする。その翌月号の「同帰」に、暁烏が、|雪山《せつせん》童子の説話を引いて、「釈尊は生命がけにこの法を頂き、生命がけにこの法を伝へられた。私共は今日生命がけにこの法に触れることが出来たのである。かくて敗戦に感謝し、降伏に歓喜があるのである」といっているのは、前年の暮に『施身聞偈』の絵を描いた志功の話に触発されていたのであったのかも知れない。
暁烏はやがて、昭和二十七年の『我が国の武装問題について』において、「私自身は第一義的に軍備否定論者であるが、今日の人心の程度を考へて軍備を持つことが止むを得ざる事ではないかと思ふ」と述べ、翌二十八年の『日本は独立してをるか』では、新憲法を批判するようにもなるのだが、このころのかれは、仏教即デモクラシーを唱える非武装平和論者であり、志功がその説に、深く共鳴していたことには間違いあるまい。そのことは、だんだんに志功の作品のなかにあらわれて来るが、かれがかつての軍国色に、どれほど強い嫌悪の情を抱くようになっていたのかは、すこしあとに書いた『帽子』という随筆の結びの一節に明らかだ。
「戦争帽を、今でもかぶつてるのを見ると、人|事《ごと》だが、わたくしは|虫路《ムシジ》が走る。腹虫がをさまらない。|色彩々《カラダトリドリ》の見悪くい戦争帽は、今残つてゐる一番キライな|モノ《ヽヽ》だ。未だアレを冠つて居る人々の馬鹿|面《ヅラ》がノビ切つてゐる。あれ位ゐ無礼な、あれくらゐ縁起のよくない|モノ《ヽヽ》は世界天下どこにも、『ハキダメ』でも捨てられても居ない」
戦争帽というのは、たぶん戦闘帽のことであろうし、虫路というのは、虫酸あるいは虫唾のことであろうが、「|虫路《ムシジ》が走る」という表現も、体中に鳥肌が立つほど厭だ、という感じを伝えている。例によって意味不明の言葉も散見され、志功自身も戦争中の写真を見ると、兵隊服のような服を着て武張った感じに構えていたこともあったようであるけれども、そうした自分自身に対する反省もふくめて、これは当時の多くの人々が、戦争について抱いていた実感をいいあらわしている文章であるといってよいであろう。
十七
昭和二十一年の春ごろだった……と、松本直治は記憶している。東京で新聞記者をしていた松本は、母方の実家のある福光へ疎開して来て、戦後は富山の北陸夕刊の記者になっていたのだが、ある日の夕方、福光へ帰る城端線の汽車のなかで、不思議な光景を目撃した。車窓の外には、礪波平野が夕暮の色に染まっており、車中には学校帰りの中学生や女学生が大勢のっていた。そのなかで、一人の小柄な男が、突然立上がって、室生犀星の詩を、朗朗と唱え始めた。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の|乞食《かたゐ》となるとても
帰へるところにあるまじや
酒に酔っているのか、ともおもわれた。そのような感じの陶然とした表情と、夕暮方の窓外の風景に向かって、詩を唱えながら音楽の指揮でもしているような身ぶり手ぶりを示している男の風態がまた奇妙だった。子供がかぶるような小さなキャップ型の帽子、分厚い近眼鏡、紺絣の着物……詩に出て来る「異土の乞食」というのは、こういう姿をしているのではないか、とおもわせる恰好で、年のころは、まったく判らない。初めは吃驚していた女学生も、なにしろ箸が転んでもおかしい年頃だから、笑いを堪えるのに必死の表情になっており、中学生のなかには仲間にむかって、人差指の先を自分の|顳※[#「需+頁」]《こめかみ》のあたりで回して見せている者もいたが、男は一向に気にかける様子がなく詩の朗唱を続けていた。
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
自分とおなじように東京から疎開して来ている人間なのだろうか、と松本はおもった。それにしては、かなり発音に訛りがあったようでもある。男は松本とおなじ福光駅で降りた。いったい何者だろう、と興味を持った松本は、新聞記者特有の好奇心もあって、なんとなく、男のあとについて行った。すると男は、自分の母親の実家である鍛冶金物店に入って行くではないか。ここで疑問は、いっぺんに解けた。母親の実家で、棟方志功という変り者の絵描きに、画室として二階を貸している、という話をおもい出したのだ。松本はあとから入って行って、志功に自己紹介をした。ともに無類の話好きであったうえに、東京からの疎開者同士だったこともあって、すぐに気が合い、二人はたびたび一緒になって気焔をあげるようになった。
それから暫く経って、ジープに乗った若い米軍の将校が、鍛冶金物店二階の「雑華堂絵所」を訪ねて来た。柳宗悦の五箇山行に同行した富山軍政部のメダリア大尉が、そのとき知り合った志功に会いに来たのである。柳の推賞によるものでもあったのかも知れない。メダリア大尉は、柳を初めとする民芸協会の人人から、志功がすぐれた版画家であることと、その作品はすでにボストンの美術館にも買い上げられていることを知らされて関心を抱いた模様であるが、会いに来た理由は、そればかりでもなかったようだ。後年のアメリカ旅行において、はっきりすることであるけれども、志功の作品と人間的魅力は、アメリカ人には何の翻訳も註解を要せず、すこぶる直截に伝わるもののようなのである。当時は県庁の部課長級の役人よりも、ずっと偉く感じられていたアメリカ軍政部の将校が、わざわざ富山から訪ねて来た……ということで、福光の町の人たちの志功を見る眼は、だいぶ変って来た。
それでもまだ多くの人は、志功の画家としての才能には半信半疑の面持だった。福光からは帝展審査員となった日本画家の石崎光瑤が出ている。竹内栖鳳に学んだ光瑤の画風は、まことに緻密であり、かつ繊細華麗であって、見る者を感嘆させずにはおかなかった。光瑤にくらべると、志功の絵は乱暴すぎるようにおもわれ、大部分の人には、うまいのか下手なのか、さっぱり判らなかった。のちに福光小学校の生徒が、作文の時間に、こんな詩を書いたといわれているほどである。
[#2字下げ]「ぼくんちの
[#2字下げ]一番だいじなからかみに
[#2字下げ]棟方志功が絵をかいた
[#2字下げ]ぼくより下手な絵をかいて
[#2字下げ]上手、上手とほめていた」
この詩が今日まで語り伝えられているのは、よほど多くの人の共感を誘ったからだろう。このときも志功は、詩を書いた生徒の家の唐紙に、例のアクション・ペインティング風の揮毫を行ない、感想の言葉に窮している人たちには頓着なく、ひとりで自画自賛の言葉を並べていたものらしい。
しかし光瑤の絵など、とても買えない庶民階級のあいだには人気があった。そうした人たちでも志功の絵なら手に入れることが出来たし、自分の手にして見ると、それまで絵画に何の関心もなかった人でも、にわかに美術というものが身近に感じられてくるような気がしたからだ。志功は魚屋の看板でも、八百屋の看板でも、求めに応じて気軽に揮毫した。そんなとき、かつて疎開して来るまえのかれを迎えた光徳寺の集まりが「棟方まつり」と呼ばれたように、制作する志功の周囲には活き活きとした祝祭の雰囲気が生まれ、見ている人たちは、やはり美術に対して新しい眼を開かれたような気がするのだった。こうして福光の町で一種の人気者になった志功は、次第に縦横無尽の活躍を演じ始めることになる。
十八
福光時代の志功の活躍は、絵画ばかりでなく、俳句、短歌、茶道……と多岐にわたった。まず俳句においては、虚子門下の高名な俳人で、ずっと戦前から富山に移り住んでいた前田普羅と知合い、間もなく、「生れて始めてハイクを作りました。笑止して下さいませ」と、幾つかの句を書いた葉書を、普羅のもとに送っている。その最初の句は、こうだった。――渦置いて沈む|鯰《なまず》や大月夜。本人のいう通り、これが生まれて初めての作であるとするなら、最初から早くも志功独得の世界を描き出しているようにおもわれる。普羅門下の富山の俳人たちは、じきに志功に一目置くようになった。
ところがのちに仲秋名月の夜、普羅門下の会とは別の句会で、志功は次のように難解な句も披露している。――大月下ベープの上にわれあるや。いくら首を捻っても判らないので、「このベープというのは、何ですか」と一人が訊ねると、「道路のことですよ」と志功は答えた。「それならペーブメントでしょう」というので、一座は大笑いになった。別に笑わせようと意識して、その句を作った訳ではあるまい。志功は大真面目で、中天にかかった月の下に立っている人間の孤影を|詠《うた》ったのだろうが、かれが顔を出すと、道化者のように剽軽な失敗が巻き起こす笑いをもふくめて、その場は、にわかに活気づくのである。
光徳寺の襖に、初めてアクション・ペインティング風の揮毫を行なったとき、見ている人の多くが呆気にとられていたなかで、一人だけ大喜びで手を叩いていた幼い高坂制立は、成人したいま、「志功さんが来たおかげで、福光の町が受けたものも、実に大きかった」と語っている。棟方志功という、風貌といい言動といい、これまでに見たことがなかった異質な存在と、その活躍が描き出した波紋によって、福光の人人のあいだには、爾来とみに芸術への関心が高まった、というのだ。
志功は昭和二十一年の八月号から、前田普羅が選句をしている句誌「|辛夷《こぶし》」の表紙を描くようになり、のちには「辛夷」の支部を福光につくって、みずから支部長になった。福光に志功を訪ねて来た旧友の下沢木鉢郎は、「辛夷」福光支部の句会に出席して、「故里に似たる景色や梅雨の旅」という句を|詠《よ》んでいる。これは風景をうたったものだが、志功は福光を「第二の故郷」と呼び、実際にそこを故郷のようにして暮していたのだった。
短歌では、北原白秋創刊の歌誌「多磨」(木俣修編集)に加わっていた福光の歌人武田吉三郎の歌会に参加し、昭和二十一年ごろには次のような歌を詠んでいた。――小矢部川雪解け居るも|吾妹子《わぎもこ》の矢羽根紫|袂香《たもとにお》ふも。矢羽根模様の紫の着物は、チヤ夫人が一番好きだった着物である。志功は万葉集の歌を愛し、中世では源実朝、近世では平賀元義の歌を好んでいた。平賀元義は、生前不遇であった幕末の歌人だが、没後かなり経ってから、正岡子規にその万葉調を見出され、斎藤茂吉にも賞揚されて、昭和十三年には岩波文庫と改造文庫の両方から歌集が出されたこともあり、勤皇の志を述べた歌のほか、ある人には「恋の平賀元義」とも呼ばれたくらい、大胆な恋愛歌を数多く残している。志功は平賀元義に傾倒して、つねづね「雄神川河辺涼しも吾妹子に|楝《あふち》花咲く河辺涼しも」という歌を愛誦していた。前記の「小矢部川雪解け居るも……」という歌は、この元義の歌の影響を受けてつくられたものだろう。
そのほかにも、福光短歌会編の歌誌「深林」に載った志功の昭和二十一年ごろの歌には、「雨に濡る|海棠《かいどう》手折り活けくれし淡き唇吾妹子愛し」…「吾妹の肌脛荒れむ年経たむ医王小矢部の山川の辺に」と、チヤ夫人への愛情をうたったとおもわれる相聞歌が目立つ。それに対して、夫人のほうは同じころ、――ひとり居の室に活けおく|唐黍《とうきび》に昼も来てなくこほろぎの声。とうたっている。志功は夫人への愛情をうたいながら、実際には画室へ出かけたり諸処方方を飛び回るのに忙しく、夫人は子供たちを学校へ送り出したあと、家にひとりいることが多かったらしい様子がうかがわれる。夫への愛情をうたうことが恥ずかしいということもあったのだろうが、「深林」に載っているほかの歌でも夫人の視線は、「みどり濃きしげみの中にただ一本少女思はすざくろの丹の花」…「幼な子は露草の花た折り来て|愛《め》でつつ供ふ薬師如来に」と、愛児のほうに向けられている感じが強い。
福光へ疎開して来るさい、超満員の汽車に四人の子供を乗せて行くことから、荷物の運搬と輸送まで、一切合財夫人に押しつけたときのことを、志功は自伝に、
――チヤコを、今までいじめ通して来ましたが、このときほど、身にもこころにもザンギャクにいじめ苦しめたことはなかったと、わたくしは神仏にあやまるようにチヤコにあやまっています。……
と述べている。前記の一連の相聞歌には、そうした身勝手な自分の謝罪の気持も籠められていたのだろう。けれどチヤ夫人の苦労は戦後も続いていた。ことに昭和二十一年は、大変な年だった。インフレーションの昂進に対する緊急対策として二月十七日、預金が封鎖されて、引出せるのは世帯主が月額三百円、世帯員一人につき百円に制限された。そのうえ全国の各地で最高七十四日にものぼる主食の遅配が続いたので、五月十二日に東京の世田谷で開かれた「米よこせ区民大会」の代表者たちは、天皇に直訴を求めるデモ隊となって皇居に入るという、わが国の歴史はじまって以来の出来事がおこった。
富山でも県庁前広場で、七月二十日に県民主人民戦線委員会の主催で「富山県食糧人民大会」が開かれた。この年の米の供出は割当に満たず、福光でも遅配が続いて、『福光町史』によれば、人々は寸土も惜しんで空地や路傍に芋や野菜を栽培し、もし配給だけに頼っていたとしたら、それらの芋や野菜を食い尽したあとは餓死の心配すら杞憂とはおもえないような状態だった。福光はまた塩飢饉にも見舞われていて、人々は一升瓶を持ち、汽車に乗って富山湾に面する伏木海岸まで、海水を汲みに出かけていた。
志功は、たとえば五箇山に行って水口家の椀飯振舞にあずかったときのように、揮毫や講演に招かれたりして他家でご馳走になることもたびたびあったが、家にいる妻子に、そうした機会はない。チヤは四人の子供を食べさせていくのに必死だった。それにひきかえ志功のほうは、絵が売れて金が入ると、まず欲しくて堪らない美術品や工芸品に心を惹かれるらしかった。食糧難の他郷で(といっても、あのころはどこでも家族のあいだでさえ食物を争っていたのだけれども、疎開して来た|余所者《よそもの》の心細さは、やはり|一入《ひとしお》であったろう……)チヤが悪戦苦闘していることを、志功は無論知っていたろうし、心にかけてもいただろうが、かれの眼は、そうした現実に焦点を合わせるよりも、遠い夢を追うほうに向かいがちだったようだ。
はっきりした時日は判らないけれども、昭和二十三年の一月五日付で京都の臼井書房から刊行された随筆集『|板愛染《ばんあいぜん》』に収められているのだから、そのまえ、つまり戦後の一番生活が苦しかった時期に書かれたことは確かである『想女』というエッセイを、かれはこう書き始めている。――東京からこのところ(富山県・福光町)に来て、女の人を深く想ふたり、眺めたりの時をあまり持たなかつた。/高岡から城端を通し城端線で、わたくしの最初に大好になつた「女の人」と同じ顔、めづらしさには髪かたちまで無造作に似せてあつた。ヒヤアツと打たれてハツとした事があつた。高岡から出町駅まで一緒だつた。/茂子さんではないかと思うてその「|女《ひと》」の前に出て、わざわざに、帽子を脱いで、わたくしの特長のちぢれ頭を見せた程だつたけれ共、矢張り茂子さんではなかつた。/女の人の力といふものの恐ろしさと優しさは何年離れてゐても、経つても同じに湧いて来るものだと思うた。……
茂子さん、というのは、志功が少年のころ、ひそかに憧れていた野間茂子であろう。片想いではあっても淡い初恋の対象を、長く忘れないというのは、だれにもあることだろうし、会う筈のないところで似た面影の人を見かけて、はっとするというのも珍しいことではあるまいが、このいかにも志功らしい「おもいこみ」の強さは、相手に対するというより、自分自身の気持と失われてしまった過去に対する執着の強さを示しているようにおもわれる。
かれは同じ文章のなかで、この地方のとくに農家の女の人には、男か女か判らないような|ナリ《ヽヽ》と顔をして、昼も夜も働き通す、そんな暮しが多すぎる、どんな仕事どんな忙しさのなかにも女の人の美しさがほしい、そうあるべきなのに、このあたりの人たちは「女の人」を見なさすぎる、男が「女の人」を見なさすぎるからだ……と義憤を覚えたような口吻で語っている。このフェミニズムは、「おもいこみ」の強さと並ぶかれの重要な特質で、以後、作品のなかにも、次第に濃く姿を現わして来ることになる。そして、
――「わたしの女の人」にもう一人の|女《ひと》に会つた。/矢張り出町駅から乗つて高岡駅で下車して人波にもまれて、それ切りになつた「|女《ひと》」だ。/出町から乗つたその|女《ひと》は直ぐ目の前に居て微笑して真向ひして居た。初めは何の気も附かなく居たのだが、わたくしの服装が、変つて居るのだらうと思うてゐたがその|女《ひと》はいつまでも静かに笑くぼを解かなかつた。その方の着物の柄、帯の柄まで、わたくしは美しいと思うた。……
というその女の人から連想していたのは、青森にいたころ最初にお嫁さんにほしいとおもっていた高木みよだった。志功の眼は、遙かに遠い昔の夢を追っていたのである。小高根二郎氏が指摘しているように、異土に故里の面影を探していた……ということもあったのだろう。憧れというのは当然そういう性質のものであるが、志功の夢は、つねに、ここではない他の場所に向かうのだ。福光を故郷のようにして暮しながら、かれの心は、しばしば遠い青森に向かっても飛んでいたのだった。
十九
疎開して帰った津軽の生家から、先輩友人にあてた手紙を見ると、太宰治は、敗戦にともなう国情の急変ぶりに、苦虫を噛み潰した面持になっていた様子である。昭和二十一年の一月十五日には、井伏鱒二にあてて、こう書いている。
「このごろの雑誌の新型便乗ニガニガしき事かぎりなく、おほかたこんなことになるだらうと思つてゐましたが、あまりの事に、ヤケ酒でも飲みたくなります。私は|無頼派《リベルタン》ですから、この気風に反抗し、保守党に加盟し、まつさきにギロチンにかかつてやらうかと思つてゐます」…「金木の私の生家など、いまは『桜の園』です。あはれ深い日常です。私はこれに一票いれるつもりです」…「ニツポン万歳と今こそ本気に言つてやらうかと思つてゐます。私は単純な町奴です。弱いはうに味方するんです」…「ジヤーナリズムにおだてられて民主主義踊りなどする気はありません」
おなじころ小田嶽夫にあてた便りでも、「私は、こんどは社会主義者どもと、戦うつもり。まさか|反動《フアツシヨ》ではありませんが、しかし、あくまでも天皇陛下万歳で行くつもりです」といっている。第一次の農地改革の施行を目前にして、大地主であった生家が没落に瀕していたことや、なにやら沸き立っているような東京のジャーナリズムを本州の北端から遠望している苛立たしさや、かつて青森警察署に自首して転向したときの後暗い記憶……なども、複雑にからみ合っていたのかも知れないが、檀一雄の『小説太宰治』によれば、戦争中、「保田と此頃会う?」と檀に聞かれて、「いや、全然会わん。天皇いじりは御免だからねえ」と答えたという太宰が、戦いに敗れて天皇の戦争責任も問われているいま、こんどは天皇陛下ばんざいで行く、というのである。右といえば左、左といえば右、と反応する太宰の反抗性は、このとき、反抗の最初の的であったはずの〈家〉に同化して、振出しに逆戻りすることになったのだった。
その後も太宰が憤慨し続けたような人人の急変ぶりは、非転向の共産主義者をのぞけば大抵そうであったのだから、だれか一人だけの場合を挙げていうのは本意ではないけれど、たとえば日本語の散文の表現においてひとつの頂点をきわめたとおもわれ「文学の神様」ともいわれていた志賀直哉が、次のように、国語をフランス語に変えよう、と提案したことなどは、やはり敗戦直後の激動を物語る最も典型的な一例であるといわなければなるまい。
「吾々は子供から今の国語に慣らされ、それ程に感じてゐないが、日本の国語程、不完全で不便なものはないと思ふ。その結果、如何に文化の進展が阻害されてゐたかを考へると、これは是非とも此機会に解決しなければならぬ大きな問題である。此事なくしては将来の日本が本統の文化国になれる希望はないと云つても誇張ではない。/日本の国語が如何に不完全であり、不便であるかをここで具体的に例証する事は煩はし過ぎて私には出来ないが、四十年近い自身の文筆生活で、この事は常に痛感して来た」…「そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとつて、その|儘《まま》、国語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ」…「外国語に不案内な私はフランス語採用を自信を以つていふ程、具体的に分つてゐるわけではないが、フランス語を想つたのは、フランスは文化の進んだ国であり、小説を読んで見ても何か日本人と通ずるものがあると思はれるし、フランスの詩には和歌俳句等の境地と共通するものがあるとも云はれてゐるし、文人達によつて或る時、整理された言葉だともいふし、さういふ意味で、フランス語が一番よささうな気がするのである」
この志賀直哉の『国語問題』が発表されたのとおなじ「改造」の昭和二十一年四月号に載っている中野五郎の『あめりか調』によると、あるアメリカの新聞記者は、わが国の急旋回を見て、神憑りの好きな日本人は、神道と軍国主義と超国家主義の妖怪から解き放たれた途端に、こんどはデモクラシーの神憑りになったのではないか……と疑っていたらしい。
太宰治も、まったく変っていなかったわけではなかった。戦争末期の昭和十九年七月に完成した『津軽』で、生まれ育った風土と、そこに住む人たちの人情を美しく描き出し、結びにおいては、自分は断じて上品な育ちの男ではなく、言わば子守りのたけの子であること、生家に仕えていた人たちこそ自分の友であること、つまり民衆の友であることを宣言したのであったが、疎開して来て、こんどは旅行者でなく生活者として暮してみると、敗戦後の津軽には、また別の感想も生じて来たらしい。
「ゆうべチエホフのシベリア紀行を読んで、出て来る人物があんまりこの津軽地方の住民に似てゐるので、溜息が出ました。五月のはじめにこの町で観桜会がありまして、私は行きませんでしたが、あとで人から聞いたら、喧嘩が四十何件と、それから強姦やら和姦やら何やら、ひどいものだつたさうです。喧嘩はこの地方の農民は主として喰ひつくらしく、耳を半分喰ひとられたとか、胸の肉を二寸平方かじりとられたとか話を聞きました。ドブロクはへんに悪く酔つて人を発狂状態にするやうです」
この手紙の表現が、まったく正確であるかどうかは判らないが、太宰が故郷の津軽に、かなり辟易もしはじめていたことは確かなようだ。
――五月初めの芦野公園の観桜会は戦後の開放された空気を反映して盛んなものであった。……
津島美智子著『回想の太宰治』には、そう書かれている。太宰は夫人とは違って、敗戦を解放と受取ることはできなかったようだ。昭和二十一年一月末頃より二月にかけて、津軽地方の或る部落、という舞台設定で書かれた戯曲『冬の花火』の最後の台詞で、太宰は、「電報」の知らせを聞いた女主人公に、こういわせている。
――あら、あたしに電報。いやだ、いやだ、ろくな事ぢやない。いまの日本の誰にだつて、いい知らせなんかありつこないんだ。悪い知らせにきまつてゐる。(うろついて、手にしてゐるたくさんの紙片を、ぱつと火鉢に投げこむ。火焔あがる)ああ、これも花火。(狂つたやうに笑ふ)冬の花火さ。あたしのあこがれの桃源境も、いぢらしいやうな決心も、みんなばかばかしい冬の花火だ。……
三月に書かれたこの戯曲は、十二月、新生新派によって東劇で上演される予定であったが、GHQの意向によって中止された。戦争中の十七年十月には「文藝」に発表した『花火』の全文削除を情報局に命じられた太宰が、戦後は『冬の花火』の上演を占領軍に中止されることになったのである。時代に対する反抗性を発揮したかれの作品の題名に、ともに「花火」という言葉が用いられているのは、偶然の一致であったのだろうか。
「いまの日本の誰にだつて、いい知らせなんかありつこないんだ」と、太宰は女主人公にいわせているけれど、舞台上に設定されていた〈時〉は、現実には農民によって未曾有の朗報であったに違いない農地改革が始まりかけていた頃である。多くの農民が、これまでに抱いたことのない明るい希望を前途に持ち始めている時期だった。そうした気配を感じていたのか、いないのか、郷里の実家に疎開して来た女主人公は、戯曲の冒頭で、次のように呟いている。
――(両手の爪を見ながら、ひとりごとのやうに)負けた、負けたと言ふけれども、あたしは、さうぢやないと思ふわ。ほろんだのよ。滅亡しちやつたのよ。……それをまあ恥かしいとも思はずに、田舎の人たちつたら、馬鹿だわねえ、いままでどほりの生活がいつまでも続くとでも思つてゐるのかしら、相変らず、よそのひとの悪口ばかり言ひながら、寝て起きて食べて、ひとを見たら泥棒と思つて、(また低く異様に笑ふ)まあいつたい何のために生きてゐるのでせう。まつたく、不思議だわ。……
この『冬の花火』に続く戯曲の『春の枯葉』でも、疎開して来た登場人物の一人は、田舎では現金があるかないかで人間の価値をきめてしまう、みんな欲が深くて、ケチで、お金よりよいものはこの世にないと思い込んでいて、お金が欲しくて欲しくて仕様がないんだ、と語っている。むろん当たってもいるだろうが、二年前の『津軽』の書き方とはまた手の裏を返したような変りようである。たくみに戯画化されユーモラスに描かれている短篇小説の『親友交歓』でも、田舎者の臆面のなさに辟易している様子が、ありありとうかがわれる。太宰の天皇陛下万歳は、戦争中の十八年ごろに書かれた『右大臣實朝』における熱烈な天皇讃美の延長であったが、郷里の人人に対する感じ方は、敗戦を境にして、だいぶ変ったものとおもわざるを得ない。そうしたことのせいもあったのか、『冬の花火』の女主人公は、終幕に近く、こう叫ぶのである。――あたし、東京の好きな男のところへ行くんだ。落ちるところまで、落ちて行くんだ。理想もへちまもあるもんか。……
太宰が胸中に反撥を覚えながら津軽にいたころ、志功は福光で、のちに『鐘溪|頌《しよう》』という題で一括されることになる版画を彫り続けていた。「鐘溪」というのは、あの「国家安康」という文字を入れた鐘をつくった|踏※[#「韋+備のつくり」]《たたら》場が京都の五条坂にあったところから、河井寛次郎が自分の窯につけていた名前である。すなわち「鐘溪頌」は河井寛次郎に対する志功の讃歌だった。年頭の河井の激賞への返歌でもあったのかも知れない。
敗戦は志功にとっては、たしかに解放であった。昭和十六年秋の『般若波羅蜜多心経版画鏡』に登場させて途中で中断せざるを得なかった裸の女体の追求を、戦後は存分に行なうことができるようになってきたからだ。板一枚の大きさに一体ずつ、黒地に|代赭《たいしや》、 白地には群青の裏彩色を施された数数の女体は、轟轟と鳴動を始めた戦後にふさわしい火山群のような迫力と量感を示していた。なかから「龍膽」「雷紋」「貝族」「倭曇」の四図を選び、『鐘溪頌・公案「鯉雨」板画鏡』と題して、昭和二十一年秋の第二回日展に出品した志功は、のちにこう語っている。――この板画で、はじめてまっ黒い身体の中に刀をあてて、人間の身体を出す方法をつかみました。お乳、臍、眼、腕とかの線を、黒いところにほりこんでいったのです。その意味では、一番今の板画につながるものをもっています。/この作品は日展で岡田賞を得ました。……
二十
『鐘溪頌』は志功に、いくらかの経済的余裕を齎したらしい。二十一年の十二月、志功は福光の町はずれに、生まれて初めて、自分の家を建てた。
本当は出来るだけ早く、東京に家を見つけて、帰りたかったのに違いないが、まだそこまでの余裕は、なかったのだろう。土地は志功の支持者だった福光図書館の石崎俊彦が、無償で貸してくれた。志功は昭和二十三年の十月に発表した文章で、「建物というものは、素人から見るとおどろく程、無造作に出来るものですね。床を張って屋根をふいて二日弱で形になって出来ましたからね」といっているが、それも道理で、かれが施工を依頼したのは、波多木工という会社が、富山の戦災者用に売出した組立住宅だった。土台も正式には掘らないような平屋の簡易住宅であったが、志功としては、「二、三年も持てばいい。そのうち東京へ帰るし、帰ったあとは、この土地の民芸館にでもして貰えば……」という心づもりだったのである。
福光小学校の校庭に接した田圃のなかに、ぽつんと孤立している敷地を、愛染苑と名づけ、建物を鯉雨画屋、または鯉雨画斎と、志功は称した。昭和二十三年の七月に、北海道民芸協会から出した『鯉雨』という小冊子において、その言葉の意味を、かれはこう書いている。――「鯉雨」という文字は訳が判って付けたものではありません。訳の判らない答えの持てない|モノ《ヽヽ》、いわゆる文字の化者が欲しかつたのですよ。こい、りう、どちらにでも読んでいたゞいてよいのですよ。禅振つて貰えれば公案「鯉雨」とね。なか/\|音《オン》が叶つて美しくて鯉雨。何となくよくて鯉雨。……
このなかの、禅ぶってもらえれば公案「鯉雨」、というのは、この文章のもっとあとのほうに出て来る岡本かの子の短篇小説『鯉魚』から発想された言葉だろう、それはこんな話であった。
……室町時代も末のころ、京都の|大堰《おおい》川に面した禅寺の臨川寺で、|沙弥《しやみ》の昭青年は、食後の|生飯《さば》を毎日まえの川の魚に投げ与える役をしているうち、すっかり魚と馴染みになってしまった。ある日、昭青年は川岸で美しい姫と知合い、やがてその姫に誘われ、あやしい気分になって、前後のわきまえもなく一緒に水中に入り、時が経つのも忘れて泳ぎ回った。禅寺で修行中の沙弥が、おなごと水中で戯れているとは言語道断な仕儀である、と見つけた僧たちは、昭青年を掴まえて、裸のまま住職のまえに引立てて行った。……
はて、どこかで読んだような話だ、と読者はおもわれなかったであろうか。さよう、かの子のこの短篇も上田秋成の『夢応の鯉魚』にヒントを得て書かれているのである。住職のまえに引立てられ、いわば「俎上の魚」となった昭青年にとって、弁解は、ほぼ不可能な筈であった。このあとが、秋成の作や、やはり『夢応の鯉魚』にヒントを得て書かれた太宰の『魚服記』とは、だいぶ|趣《おもむき》が違って来る。
……僧たちの訴えを聞いた住職は、「おまえたちは|鯉魚《りぎよ》をおなごと見誤ったのではないか」と問い返した。「そんな馬鹿な……」といきり立った僧たちと、昭青年のあいだで、事の決着をつけるための|法戦《ほつせん》が行なわれることになった。僧たちは入れ代り立ち代り問い詰めて来る。どんな問いに対しても、昭青年は、ただ一言「鯉魚」とだけ答えた。
「仏子、仏域を|穢《けが》すときいかに」
「鯉魚」
「そもさんか、出頭、没溺火坑深裏」
「鯉魚」
といったふうに答えているうちに、昭青年の心に不思議な変化が起こった。初めのうちは、禅問答の古強者との論戦にあたって、師の住職から暗示を与えられた鯉魚の一言を楯に守って守り抜こうと考えていたのだが、どの問いに対しても同じ答えを繰返しているうち、その調法さから「鯉魚」のなかには、天地の全理が籠められているような気がして来たのだ……。
これは、いかにも志功の好きになりそうな話である。また語路合せの好きな志功は、たぶん「こい」を恋に、「りう」を竜にもかけていただろう、とすれば「鯉雨」は恋の雨、あるいは鯉が竜と化する登竜門、にも通じている。ともに志功の嫌いなものではない。このように読み方によっては、どんなふうにも解釈できる多義性を持った言葉を造り出して、人を惑わせる、というか、「これはどういう意味なんです……?」と問われて答えるのが、志功の好みであり、得意でもあったようだ。そしてその答えの中身は、時により相手によって、いろいろと変っている場合も多いのである。随筆『鯉雨』のなかに、かれはこんなことも書いている。自分の描く絵の鯉は、
「水の中に居て子供に追いかけられたり、投げてやるフを口でパクパク上手に受けとつたりする|ケチ《ヽヽ》にモノ欲しそうにしているヤツとは全然に違うんだぞ。煮ても焼いても食える様な、楽しい|ヤツ《ヽヽ》といささか違うてんだ。気を付けろ。鯉は鯉でも、ワタクシの鯉は……てんだ。はゞかり乍ら恐れながらだ。どうだあ。ざまあ見ろつ。ウロコも何も、|ヤケド《ヽヽヽ》の肌の様につるつるつてんだ。――雨の夜中にぴしやぴしや来てさ、高島田で、崩れて泣いて、泣きじやくつて、振袖つてんだ。畜生。御女中、泣くんじや無い。泣くんじやない。小父さんが|力《チカラ》になつてあげるから――顔を上げな。まあまあイイカラサツ。こお挙げな……。コーアゲレバ、イイノ……の……。うわ……出たああ。といふのつぺらぼうのよ鯉なんだ。なにつ|命《イノチ》までも取りやしねえよ。まあたとえて見ればだ。たとえて見れば化物なんだ。池ぐらいに泳いでいるヤツが、この鯉を見たら顔まけして水に|潜《モグ》つて出られない様な奴だ。絵の鯉。そう|謂《い》う絵を描く絵描きになりたい」
そんな化物好きの志功がすこぶる気に入っていた場所は、福光の町と法林寺部落のあいだを流れている「|瞞着《だまし》川」だった。
正式な名前があるのかどうか判らないくらい小さな流れで、|鯰《なまず》川とも呼ばれているこの川に、どうしてダマシ川という別名があるかについては、二説がある。ひとつには、冬のころ福光から山を越えて金沢のほうへ行った人が、雪と寒さに悩まされながらの帰り道、その川を明神川だとおもって、やれ嬉しや、やっと福光に入ったか、と一息つくと、本当の明神川はまだもっと先にあるからだ、という説。もうひとつは、河童が棲んでいて、通りがかりの人を騙すからだ、という説で、実際には後者の説のほうが圧倒的に優勢だったらしい。
あるとき志功が、河童の絵を描いたところ、見ていた人に「それは写生か」と聞かれて、唸るほど感心し、このへんには、――河伯殿は無理もなく実存してゐるのだ、……と書いている。このダマシ川に「瞞着川」という字を当てたのは、志功の趣味だろう。前記の随筆『鯉雨』を、かれはこう結んでいた。「|嘘《ウソ》パツチである方が、案外、|本当《ホントウ》パツチであるという事です。鯉を描くのでは無く|絵の鯉《○○○》を成さねば成らぬ|ところ《ヽヽヽ》に化物が|現《アラ》われて来るのです」
瞞着川にかかっている橋に近い川岸に一本のねむの木が立っていて、夏の花ざかりには、その傍まで来ると、自然に眠くなる、と志功は書いている。いつもゆったりと流れている川面は、泥の色で底が見えなかった。時折、大きな鯰がほんの一瞬だけ体をのぞかせ、またぬるりと底へ沈んで行く。静かな真昼間、そんなところに|凝《じつ》としていると、自分もジーンという耳の奥の音とともに生温い空気の穴の底に沈んで行くようにおもわれ、いつしか自他の区別がなくなり、まるで夢の中にいる気分で、欲も得もなくなるような心地がした。夜は蛍――。強度の近視である志功の眼に、法林寺のほうから漂い飛んで来る光の点は、闇の虚空に吊された提灯の列のように|暈《ぼ》けて映った。横を流れて行く光暈に眼を移すと、憑かれたように後を追って行きたくなる。いちどなど家の明かりかとおもって近づいて見たら、蛍だった。志功の生涯のなかで、忙しいながらも、これほど静かで、のんびりした時間を過ごせたことは少なかったろう。それは化物が現われるまえの静けさであったのかも知れなかった。
二十一
志功が前記の随筆に「嘘パツチ」と書いているのは、つまり、嘘っぱちのことだろうが、「嘘パツチである方が、案外、本当パツチであるという事です」という言葉は、かれ自身についての、福光の人たちの噂話にも当てはまるようであった。たとえば高岡市随一の料理旅館である延対寺旅館の、玄関の間の大きな襖四枚に揮毫を頼まれた志功が、かのアクション・ペインティングで松を描いたところ、素人目には襖の表面に、ただめちゃめちゃに筆を|擦《なす》りつけ、墨汁を撒き散らしたとしかおもえないその絵を見て、女将が呆れて泣いた……という噂。実際に延対寺旅館の女主人が泣いた筈はなく、それまで美術について持っていた常識からすれば、ほとんど理解を絶した志功の描き方に、しばし呆然自失した、という程度であったのだろう、それが「呆れて泣いた」という話になって伝わると、いかにも、さもありなん、と頷ける感じで、聞く人のあいだに笑いを醸し出すのである。
また家の建築に取りかかった建前のさい、とうてい大工さんに酒肴を供せる時勢ではなかったが、簡単な食事に、尾頭つきの大きな鯛の絵を|恭《うやうや》しく添えて出したという話。新築の家への引越しのときには、荷車を引いた志功が、強度の近眼に加えて余りに|競《きお》い立ったせいか、梶棒ごとどこかの家に飛び込んで、ガラスを割ったとか、割らなかったとか……。いずれも真偽を確かめるまでもなく、なるほど、とおもわせて、聞く人の頬を緩ませずにはおかなかった。それに独得な風貌と服装のせいもあって、福光では子供でも、志功を知らない者はないくらいになった、というより、志功はことに子供に人気があった。
かつて富山軍政部のメダリア大尉が、ジープで雑華堂絵所を訪問したのは、能登半島一周のドライブへ誘いに来たのであったが、その旅で志功は、能登道を走る車に花投げて笑みて叫びて別れし子達。……という歌を詠んでいる。アメリカ人とジープが珍しくて寄って来たのだろうけれど、その子供たちに愛嬌を振撒いていたに違いない志功の笑顔をも、髣髴とさせる歌である。志功が子供たちに、どのような人気を持っていたのかは、福光小学校の生徒が、大雪の日につくった次の俳句からも明らかであるとおもわれる。
――雪の中 棟方志功は 寒かろう
小学校の校庭に接した田圃のなかの小さな鯉雨画屋が、大雪になかば埋まっているさまを、|嘱目《しよくもく》で吟じた句であるらしく、寒風に吹き曝されている組立式の簡易住宅と、そこの|主《あるじ》である変り者の絵描きの見るからに貧しげであったことが、その子供に惻隠の情を感じさせたのだろう。だが鯉雨画屋の内部は、意外に豊かだった。まず玄関には、民芸好きの暁烏敏から拝領した二川の松絵の|甕《かめ》。四畳半の茶の間の炉には山形産の鉄自在鉤、盛岡の名匠の作である鬼泣きの|霰釜《あられがま》、チヤが東京の焼跡から掘出して来た棟方鍛冶屋作の炉金。帳箪笥の上に木喰仏、棚には朝鮮|廚子《ずし》、なかに弘仁時代の仏像、壁に雪舟の野鳥図。
板敷の四畳半の客間には、戦火を免れた十八世紀イギリス製の椅子。岸田劉生のデッサン。バーナード・リーチ、富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司の焼物など。八畳の画室の床の間には、柳宗悦の書、萬鉄五郎の油絵自画像、沖縄の旅で手に入れた朱塗りの三足盆、李朝の膳……と、当時みずから鯉雨画屋内の模様を語った志功の文章には、このほかにも沢山の美術品や工芸品の名前が、こまごまと記されている。
気に入った物を眼にすると、まるで子供のように、欲しくて堪らない、という感じを表情と全身にあらわして、持主が手放すことを承知するまで、それを抱きかかえ|嘗《な》めるようにして|矯《た》めつすがめつしながら、いつまでも感嘆と賞讃の声を放ち続けてやまない志功が、自分の絵と引換えに首尾よく入手したり拝領したものが大半であったのだろうけれど、戦災で殆どのコレクションを失ってから、一、二年のうちに、なによりも食物を手に入れることが最大の問題であった食糧難のなかで、早くもこれだけの蒐集をしていたのだ。チヤ夫人によれば、前記の文章に挙げられた物のなかには、戦火で焼かれてしまった物や記憶にない物もふくまれていたらしく、とすると志功は、実在する物ばかりでなく、自分の記憶と想像力によっても、鯉雨画屋の内部を飾っていたのかもしれない。
現実には美術品や工芸品より、もっと豊かであったのは、主人在宅のさいの家に溢れる一家団欒の声だった。冬の夜の鯉雨画屋では、よく地続きに住んでいる石崎俊彦も加えて、家族の天狗俳諧の会が開かれた。一句を五・七・五に分けて各人に配し、それぞれが無関係に詠んだ句を綴り合わせて一句とする遊びである。志功は自分の句に、おなじ言葉を選ぶことが多かった。たとえば「冬の月」…「ひとり淋しく」…「モンマルト」。最後の句が志功である。志功の五の句は、たいてい「モンマルト」に決まっていた。モンマルトというのは、すなわちパリのモンマルトルである。長男に巴里爾と名づけたパリへの憧れは、戦後ふたたび燃え上がっていた。北陸の福光にいて、志功のおもいは、遠くモンマルトルにも飛んでいたのである。「モンマルト」という決まり文句は一種のギャグとなって、父親が口にするたび、家族は笑い崩れた。なかでも大きい志功の声は、ときに雪の田圃を隔てた遙か先の家まで聞こえる、といわれたくらいであった……。
戦後二年目の志功の活躍は、福光以外のところでも目覚ましかった。八月には東京の細川書店から『棟方志功板畫集』が、十月には旺文社から、志功の版画を挿絵にした謡曲『善知鳥』の英訳本が出た。また京都の西村書店からは、河井寛次郎の箴言集を志功が彫った全手摺の和本『火の願ひ』が出ている。これらのなかでも、『善知鳥』英訳本の出版は、戦争中の一時期、国粋主義に近づいた志功が、戦後、インターナショナルな方向を目ざすようになった具体的な契機のひとつとして、注目に値する。
この本が出るまでのいきさつは、こうである。アメリカの外交官で、戦前に来日したときから、志功の版画に着目していたメレディス・ウェザビーは、とくに『善知鳥』の神秘的な魅力に惹かれたことが契機となって、戦後、GHQの美術文化資料課長であるブルース・ロジャースとともに、謡曲『善知鳥』の英訳を完成した。
かねてGHQの民間情報教育部美術顧問のラングドン・ウォーナー博士が、日本の民芸運動に興味を示し、しばしば民芸協会のメンバーと話をするようになったことから、GHQの美術関係者と知合っていた式場隆三郎は、その英訳『善知鳥』の出版の話を、自分が常連の寄稿者となっていた新雑誌「生活文化」の版元である旺文社の赤尾好夫社長のもとへ持込み、それは志功の版画を挿絵にして出版されることになった。この本の編集を担当した現旺文社副社長の鳥居正博氏は、装幀の仕事のために上京して来た志功が、ひたむきな調子で自分の考えを述べていた姿を覚えている。なかば棟方志功の版画集でもあるような印象を与える和綴の『善知鳥』英訳本("Birds of Sorrow")は、こうして誕生することになったのである。
挿絵となった版画についての解説において、ブルース・ロジャースは、志功の経歴を紹介したあと、作風を次のように評した。――かれの効果的な誇張が行き過ぎた場合、ときに|漫画《カリカチユア》に近づくこともあるが、様式化や巧んだ作為や病的傾向のない点で、アフリカやポリネシアの原始芸術を、強く想起させる。……
この評言は志功にとって、わが意を得たものであったろう。これまでも述べてきた、自分の祖先は南方から海を渡って来た人間ではないか、という考えが、ますます強くなって来ていたからで、また「ムナカタの将来には、大いに期待してよい」というロジャースの評価によって、志功は自分の作品の国際性を、このときから、はっきり意識したに違いないとおもわれる。
『善知鳥』英訳本の装幀の仕事を終えたあと、志功はひさびさに郷里の青森を経て、北海道に渡った。北海道では、民芸運動のメンバーであった三宅忠一が、展覧会を催してくれた。おかげで志功は、かなりの経済的報酬を得て、福光に帰ることができた。この旅の途中、九月の紋別の浜辺に立って見た海の印象を、志功はこう詠っている。――オホチクの海の蒼さよ底しれず鯨獲るてふ船の横たふ ……
二十二
このころ、前年の二月から始められていた天皇の全国歴訪は、ほぼ毎月のように行なわれていた。八月には宮城、岩手、青森、秋田、山形、福島――。九月上旬は栃木。どこでも国民の歓迎ぶりは熱狂的であった。十月の三日には、皇后とおそろいで日本民芸館を訪ね、柳宗悦が館内の説明にあたった。続いて十月の七日から山梨、新潟、長野――。そして二十三日から十一月の二日まで、福井、石川、富山の三県を巡歴することになった。
天皇を迎えるにあたって、「北陸夕刊」の松本直治は、感想記の筆者を、志功に頼もうと考えた。松本は前年の「北陸夕刊」に連載された矢田插雲の小説『綾錦』の挿絵も志功に頼んでいた。依頼を受けた志功は、「『北陸夕刊』創刊、第一小説の挿絵を承る。久しくに受けたこの道の、所業を得た光栄この上はない。執筆の大微笑と大挙身を、また阿鼻と叫喚を尽さうとする。うけたまはつた、わたくしの天性と大炎を湧没する。観自在なる照覧をこひねがつてやまない」と、連載予告の文に書き、大張切りで初めての仕事に取りかかったのだが、かれの挿絵は毎回おなじような絵柄が続くことが多く、矢田插雲は「あれでは困る」と苦情を述べ、それを伝えても志功は頑として描き方を変えず、あいだに立って松本は往生したこともあったのだけれども、その間のつき合いで、志功の気性と考え方は、よく判っていた。
平賀元義の歌を愛誦している日頃から推して、志功の感想記は、当然、熱烈な天皇讃美の一文となることが予想された。そこで松本はもう一人、郷里に帰っていた作家の岩倉政治にも感想記を依頼しようと考えた。戦前、プロレタリア文化連盟の運動に加わって二度にわたり思想犯として検挙されたことがある岩倉政治と棟方志功は偶然にもおなじ明治三十六年の生まれだった。
十月三十日、金沢市で開かれた第二回国民体育大会の開会式に出席した天皇は、その日の午後一時六分、お召列車で富山県の高岡駅に着いた。「北日本新聞」の報道によれば、「ホームにお迎えする武田高岡市長、国会議員、その他官民代表多数の万歳に軽く帽子をとられてご会釈を賜りながらお召自動車に乗られると数時間も前から駅前広場を埋めた市民の大群衆から期せずしてバンザイと歓呼のうずまきがわき起り、末広町から片原横町、高伏街道とお召車が進むところ、沿道列をなす人ガキの熱狂的な歓呼は高く低く遠雷のごとく後をひき、学童のうち振る日の丸の旗の波に車上の陛下は寸時のお休みもなく帽子を右手にふつてお応えになり……」
やがて、戦災をうけた富山市の神通中学グラウンドに設けられた県民奉迎大会の会場に着いた天皇を目のあたりに見て、五万人をこえる参会者は「感激きわまつて肩をふるわせ、すゝり泣きつつ万歳を絶叫」、そのあとには富山中学ブラスバンドの演奏にあわせて、『立山の歌』と『君が代』の大合唱が続いた。
志功は翌三十一日、福光町の吉江小学校で、天皇を迎えた。「北陸夕刊」に載った『天皇拝従記』に、かれはこう書いている。
「天皇の真実は、わたくしたちの真実である。天地普遍にあふるる偉なるこの日、|礪波《となみ》の風光はさらに爽明の秋が輝頌に段々の美しくもつよき風光に、この御幸の彩情は弥暁なる『北の国』を讃える歓びに満ち満ちていた」…「|城端《じようはな》駅頭での御下問のはしはしと、お答え者の口をふさぐる真義に対しての慈しみ、その限りを知らず、お思召しは、その御体からわたくしにも感じられるほどの『真』の御問いであり、聞かねばならぬ|国民《くにたみ》に、|上《かみ》なる念願でもあるやにさえ感じられた」…「天皇のご微笑はこの天恩地恩の世情と沿道の奉拝の国民への信情にとけゆくほどなる国運の巾ともなつて進められてゆく」
そして最後に、「天雲に近く光りて|響神《なるかみ》を見れば|恐《かしこ》し不見ば悲しも」という万葉集の読人不詳の歌で結ばれている志功の随行記は、言葉も|縺《もつ》れんばかりの恐懼感激の一文であったが、翌日の「北陸タ刊」に『立山は静かなり――奉迎の背後にあるもの』という題で発表された岩倉政治の文章は、まことに物静かな調子のものだった。
「天皇のこまかなお動静については、僕としてそう書くことはない。北陸巡幸がはじまって約十日、すでにあまりに多くのことが書かれたように思う」
初めて間近に見た天皇の姿は、かれの眼に、いたいたしく感じられたほど悲劇的に映った。
「十日間もつかみつぶされて妙にひしやげたソフトのぶかつこうさに無とんちやくでおられるようすも悲劇的であれば、それをさしあげながら戦争犠牲者の前へ急いでかけられる言葉のどこか不安げな、ふるえた調子もみな悲劇的であつた。/いたわしい! この印象が、その場では、ありがたいという印象よりもはるかにはるかに勝つていた、と見たのは僕のひが目であつたろうか」…「天皇はこれらの犠牲者にたいして『つらいでしようネ』『しつかりやつてネ』の外に、なお一つおつしやらねばならぬ重大な道徳的ことばを持つておられるハズだ。それを天皇は言われない。いや言えない事情があるのであろう。天皇の御態度のいたいたしさのみが、たぶんその言葉を無言のうちに代弁しているとみえたのではないか? わが善良なる民衆は、それを直感し、そして逆に涙を流し、合掌したのではないか。あゝ、なんという善良な日本人!」…「この一日に幾十万の人の顔が泣いたり緊張したり万歳を叫んだことであろう。しかし僕はこのような表面の現象だけに感激することはできなかつた。それだけでは、たんに民主々義をふたゝび百年の彼方に押しやつて演じられたお祭りさわぎに過ぎない」…「その背後のもの――と僕はいう。泣くかわりに笑つているもの、万歳や歓呼に屈折してしか表現されない民衆の深奥なる絶叫――僕はたまたまこの日にこれを感じて粛然とした」
この文章は、かなりの人が意識していながら口には出さなかった問題の核心を指摘しているようにおもわれる。けれども筆者は節度を守って、天皇がおっしゃらねばならなかったなお一つのことば、というのを明らかには書いていない。もちろんそれは「責任」の問題であろう。天皇はそれを口にされなかった。天皇が口にされていない以上、わが大君に召されて戦った国民がそれを口にするのは、恐れ多いことである。こうして、わが国のみならず、中国をはじめとする東南アジアの全域に、数えきれないほどの理不尽な犠牲者を出した戦争責任の追及は、現実的には連合国側の裁判にかけられた軍人と戦時の政治責任者と、その一部関係者に限られることになった。実際には戦争に協力した多くの学者芸術家知識人などの責任も、そのときは自己を捨てて天皇に帰一し奉ったのであるから、天皇に責任がないとすると、自分にもないことになる。したがって人人は戦争中のことについては口をつぐむか、あるいは岡本かの子の小説で、弁解不能の窮地に陥った沙弥が、どのような追及をも「鯉魚」の一言だけで切抜けたように、戦後もまた「天皇」と唱え続ければ、現実的な責任の問題は雲散霧消することになったのだった。
[#改ページ]
海に続く道
――東京へ早く帰りたい……。
疎開先の福光に家を建てて住みながら、心の底でいつもそう念じていた志功は、礪波平野を囲んでいる山山に手を合わせて礼拝するたび、東京の方角に向かって(心あらば仏よ、われを東都へつかわしたまえ……)と祈願するのが、日課のようになっていた。
戦後まだ間もないころ、志功は青森で、疎開していた松木満史、古藤正雄、鷹山宇一の三人と顔を合わせたことがある。濁酒の|甕《かめ》を囲んだ四人のあいだでは、青光画社の復活が話題になったりした。かつての青光画社の仲間は、それぞれに少年の日の夢を実現して、一人前の画家と彫刻家になっていた。ちょうど|踵《きびす》を接するようにして、鷹山が二科会の会員に、松木が国画会の会員に、古藤が日本美術院の同人に推薦されていった時期である。青光画社を結成して、上京を目指していたころの若若しい意気と熱情が、ふたたび燃え上がって来たようだった。この集まりのときも志功は、疎開先から早く東京へ帰りたい様子を、ありありと示していたらしい。
福光で志功が東京への帰心を語り合える相手は、もともと江戸っ子である俳人の前田普羅であった。普羅は早稲田大学の英文科を中退してから、時事新報の記者になり、関東大震災のあと、報知新聞の富山支局長となって赴任して来て、以来、新聞記者をやめてからも富山に住みついていたのだが、戦災で家と蔵書を失い、そこから移った西礪波郡津沢町の仮寓も、敗戦の翌年の大火で焼かれるなど不運の連続で、知合いの家に寄寓する生活を続けるうち、生まれ育った東京への望郷の念が鬱勃として強まって来ていたようであった。
普羅はよく福光の志功のところへ遊びに来た。いちど志功とチヤ、それに石崎俊彦と一緒に、法林寺の部落の裏手にあたる桑山へ登ったことがある。海抜二百九十三メートルと、さほど高い山ではないが、初夏の礪波平野の眺めが素晴らしい頂上の近くで、石崎俊彦が持参して来たアルコール・ランプを用いて|野点《のだて》の会が開かれた。チヤ夫人が|茶筅《ちやせん》を回す手のうえに、|蜻蛉《とんぼ》が舞ったりする風流な茶会で、茶菓子は前田普羅が携えて来た塩味の|蒸《ふか》し馬鈴薯だった。その帰り道、高坂貫昭の光徳寺で、摘みたての青紫蘇を貰った志功は、「家に寄って、この青紫蘇を油味噌にして、茶漬をやって行きませんか」と普羅にいった。唐辛子を混ぜた味噌を、青紫蘇の葉で包み、油で炒めて御飯のおかずにするのは、津軽人の夏の好物である。普羅は茶漬という言葉から、落語の『垂乳根』をおもい出したのだろう、「いいね、チンチロリンのポーリポリ……」といった。志功はその言葉の意味が判らず、真顔で問い返した。「何でしょうか、それは」
「落語に出て来るんですよ、『たらちめ』という落語にね。長屋の八っつぁんのところへ、ご大家に奉公していたお嫁さんがやって来る。そのおかみさんは上品に、小さな茶碗と銀の箸で御飯を食べるから、茶碗に箸のあたる音が、チンチロリン、たくあんを噛むのも、ポーリポリ。八っつぁんのほうはザークザクのバーリバリ。チンチロリンのポーリポリ、ザークザクのバーリバリ、……」
明治十七年に東京の芝のあたりで生まれた普羅は、『垂乳根』を昔の江戸の噺家がそういっていたように『たらちめ』といい、若いころ聞いたその噺を懐かしむように、節をつけて|さわり《ヽヽヽ》の部分を繰返した。このときは結局、汽車に乗るのに時間がないというので、お茶漬を食べずに帰って行ったのだが、その後姿を見送りながら、志功は、いま「チンチロリンのポーリポリ……」と歌うように繰返した普羅の軽妙洒脱な口調を反芻して、(いいなあ、いいなあ……)と、すっかり魅了されていた。前記の随筆『鯉雨』のべらんめえ口調は、普羅との交遊の影響によるものであったのかも知れない。
普羅と志功は、情熱家である点でも一致していたので、冬の夜など、炬燵にあたって地酒を酌みかわしながら(といっても、志功のほうは猪口をなめている程度であったろうが)、東京の思い出を語り、俳句、絵画、芝居を論じて、時が経つのを忘れたこともあった。普羅は、白魚がとれたころの隅田川について語り、その川面に響いていたポンポン蒸気の音の|長閑《のどか》な調子を俳人らしく巧みに描写して、「あの東京は、もう滅びてしまったんだなあ」と慨歎した。こうしたことが重なって意気投合した普羅の句を、志功は昭和二十二年ごろから、『|栖霞品《せいかぼん》』と題して彫り始めた。栖霞というのは、福光の城趾「栖霞園」の名をとったのである。この間、志功は絶えず普羅の句を|口遊《くちずさ》んでいた。なかでも次の句にとりかかったときには、自分自身の感懐を板に彫りこんでいるおもいであったろう。――ふるさとは何処月下に蛍追ふ。……青森への郷愁と、東京への帰心を抱いて、せっかちな志功は、しばしば焦燥の念に駆られていた。けれども、かれに実際に与えられていたのは、北陸の一隅における地味な暮しの毎日だった。
「ちよゑちゃんの手芸で、みんなに笑われたから、直してやろうとおもって持って来た」
福光の女学校に通っている長女のけようは、小学校の展覧会から帰って来ると、そういって、次女のちよゑが刺繍したハンカチを鞄から取出した。
「どれ、どんなの……」
と手に取ったチヤは、吹き出していった。「かわいいじゃないの、子供らしくて、下手糞で……」
「だって、このハンカチの前に行ったら、お友達がみんな一緒になって笑うんだもの」
口を|尖《とが》らせていったけようの声に、画室から出て来た志功も、「どれ、どれ」とハンカチを手に取って、「なるほど、面白いなあ。これは桃山時代のきれとおなじこころだよ。共通したものが|通《かよ》っている。純真で、実に素晴らしいものだ」と口をきわめて褒めたたえた。
すると、けようは急に泣き出した。小学校の展覧会場では、一緒に行った女学校の級友たちに、妹の手芸の稚拙さを笑われ、直してやろうとおもって持って来たのに、家では逆に両親の称讃にあい、自分の立場を失って、どうしていいか判らなくなったのだろう。あるいは妹の手芸と、「子供の絵より下手だ」という評判もある父親の絵を結びつけた冗談のようなことでもいわれて、心ひそかに悔しいおもいをしていたのであったのかも知れない。それから二十数年後に、けようは子供のころの父の思い出について、こう述べている。
――私の子供のころには、膝小僧のでる短かめのかわいい洋服を誰でも着ているのに、父の好みに合わないと着せてもらえなかったものです。レインコートでも「レインコートというものはたっぷりしていなくてはいけない」とほかの子よりかなり長目のものをあてがわれて、恥ずかしい思いをしたこともあります。小学生のころのお弁当箱もみなと形がちがっていましたし、スプーンも朝鮮製のものをもたせられて、「あなたのとこは、ずいぶん変ってるのネ」と友だちにからかわれたことをいまでも覚えているほどです。
父は自分の好みによって、家も調度も生活もすべて律していたといえます。芸術品というのでしょうか、かなり古めかしいものが多く、他所の家にくらべて、子供心になんとなく恥ずかしく、私は友だちを家へお招きするのがいやでならなかったほどです。(中略)ことに子供のころは、「欲しいなア」と思うものが買って貰えず、欲しくない芸術品をあてがわれて悲しい思いをした記憶は、いまもって忘れられません。……
鯉雨画屋に所狭しと置かれていた貴重な民芸品や美術品も、よその知らない人の眼には、古臭い無用のガラクタを集めて悦に入っているように映っていたのかも知れない。長男の巴里爾も、後年、父を回想した文章に、こう書いている。
――私は、子供心に、父の絵は嫌いだった。何故なら、当時の画家の作品にくらべて父の絵は、油絵は勿論、板画にしろ、倭画にしろ、ましてや書は、いかにも乱暴で粗野に見えたからである。友達にも、父の画は見てもらいたくなかったものだ。それでいて、おこがましくも、父は、日本一の画家なんだと吹聴し、又、信じていたのだから勝手なものだ。……
自分の信ずる道を独歩して行く芸術家を父に持った子の、微妙な心の揺れ具合が、よく感じられる文章である。
志功は子供のころから、絵のうまさで級友を圧倒していたくらいだから、巧みに描く技術を、まったく知らなかったわけではあるまい。まして他国で生活に追われているいま、よその家で大切にしている襖に絵を頼まれたら、人に褒められるような絵を、いくらかでも丁寧に描こうとするのが、並の人間の神経というものだろう。だが志功は殴りがきのようにおもえる画法を捨てず、「子供の絵より下手だ」といった評判にも、頓着する様子がなかった。こうした信念の強さと、世評を恐れぬ大胆さは、たしかに並のものではない。
小学校では、展覧会とともに学芸会も開かれており、そこでちよゑがピアノを弾くというので、志功はチヤと、一番下の令明を連れて、家のすぐ近くにある学校へ行った。学芸会が終ったあと、校長先生が展覧会場を案内してくれて、「子供たちの絵を批評してくれませんか」といった。志功はどの作品に対しても、手を|拍《う》たんばかりにして褒めあげた。
「美しい」「素晴らしい」「実に素晴らしい」「みんな、ぼくよりうまい!」……。
志功は壁に貼られている絵に話しかけ、自問自答して頷き、さかんにひとりで会話をかわしていた。かれのまわりには、子供たちや父兄や教師の人だかりができ、その輪は志功の動きにつれて移動した。自分の絵を賞讃された子供にとって、相手が物いうもののようにその絵と対話していた変り者の絵描きの姿は、生涯わすれることのできない強烈な記憶になったという。
展覧会場を一巡したあと、職員室に招かれた志功は、「絵のことについて、お話を聞かせて下さい」と、図画担当の峠先生に頼まれた。男女の先生達が、四角い火鉢の周囲に集まって来て、志功のまえには、|蒸《ふか》した薯と茶が出された。志功は、稚拙な刺繍をした次女の心と、笑われてそれを直そうとした長女の感じ方との違い、子供に対する親の認め方でも、男と女の考えの違いを例に引いて、絵の話をした。
「子供は大人になれないし、大人は子供になれない。女は男になれないし、男は女になれないけれども、そのもっと底にあるものが、大事なんですね。夢中になって絵を描いている子供は、別に褒められようとして描いているわけでも、美しく描こうとおもっているわけでも、もちろん醜く描こうとおもっているわけでもない。自分の胸の奥の、そのまたずっと奥にあるものに動かされて、ウソもマコトもひとつにして、好きなように描いている。これは歓喜ですよ。歓喜の大世界ですよ。ぼくは大人だけれども、そういう大世界にひたって遊べる大人でありたい。宮沢賢治氏のような大人に、わたしはなりたい、とおもうんですね。……」
熱っぽい志功の話が進むにつれ、男女の先生達の眼には、徐徐に共感の色が浮かんで来た。先生達は、たとえば人間の顔が美しく見えたり醜く感じられたりするようになるのは後年のことで、幼い子供の顔は、みんなそれぞれに魅力的であることを、よく知っていた。どのような偏見も差別も、そこには入りこむ余地がない、美醜の別が生ずる以前の、もっと根源的な生命そのものの魅力。志功の話は、そのことを語っているようにおもわれたのだ。
そうした点について、当時、東京の細川書店から出された『棟方志功板畫集』の序文に、柳宗悦は次のように書いている。――……棟方の絵は美しいとか醜いとかの範疇から一歩出たものといふ方がよい。ここに棟方の強みがある。美しくなければいけないといふやうな窮屈なものではない。何かもつと自在なのである。こだはるもののない自由さから、あの独創が湧いてくるのである。(中略)今の多くの者の欠点は、醜さを怖れ、美しさにこだはることにある。それは何も醜くあつてもよいとか、美しくあつてはいけないといふ意味ではない。醜くては不充分だが、美しさに滞つてもいけない。若し美醜の二が別れる以前の境地に安住し得たら、何ものも|自《おのずか》らにして美しくなるであらう。なぜなら醜さの入る場所がもと/\ないからである。或は醜くとも拙であるとも、そのままで美しいといふやうな奇蹟が無理なく演じられるであらう。棟方の絵にはさういふ要素がたつぷりとある。今の画壇に棟方が一人加はつてゐることは有難いではないか。棟方の絵は美しさへの解放である。……
柳宗悦は昭和二十三年の夏、真宗大谷派の城端別院に滞在して、仏教の研究と著述に専念していた。城端別院は、立派な寺院が多い礪波地方のなかでも、端から端まで勘定すると廊下の長さが一町近くもあるという随一の大伽藍である。本堂では一年中ほとんど絶えることなく説教が行なわれ、また信者の法話も熱心にかわされている城端別院に招かれて、書院の一室に滞在していた柳は、ある日、浄土教の根本聖典であって、なかに阿弥陀如来の四十八の大願が説かれている大無量寿経を|繙《ひもと》いていて、その第四願を何度も読みかえしているうちに、突然、天啓のような考えが閃き、四百字詰の原稿用紙にしておよそ三十六枚ほどの文章を、一日で書き上げた。自ら遅筆であるという柳にとって、それは八年まえの沖縄旅行のさい、方言問題についての沖縄県学務部に対する反論を、三時間のうちに四百字詰の原稿用紙で十三枚近くの分量を書き上げたのに匹敵する速さだった。柳にそのような天啓を与えた阿弥陀如来の第四願というのは、次のような文句である。
[#2字下げ]|設《たと》い|我《われ》|仏《ほとけ》を得んに
[#2字下げ]国の中の|人天《にんでん》
[#2字下げ]|形色《ぎようしき》不同にして
[#2字下げ]|好醜《こうじゆ》有らば
[#2字下げ]|正覚《しようがく》を取らじ
この文句を柳は、「|若《も》し私が仏になる時、私の国の人達の形や色が同じでなく、|好《みよ》き者と醜き者とがあるなら、私は仏にはなりませぬ」と訳している。そして美醜の二相は、仮相にすぎず、美醜を超えた仏性こそ本然の相であり、それを離れて真実の美はない、かく教えるのが美の宗教である……と、説くのである。美醜を分けているのは、人間の分別であり、自由とはこの二律からの解放であって、「美醜不二」の境地こそ、美の故郷であり、そこへ帰るためには、まず貧しい自己を捨てなければならない。自己を捨てて他力の門をくぐれば、もはや自らの力で舟を漕ぐのではなく、帆に阿弥陀仏の本願の風を|孕《はら》ませて進むのであるから、たとえ凡夫であっても、大きな海原を渡って行くことができる……と説く柳の考えは、大無量寿経の第四願を読みかえすことによって、初めて得られたものであったのだろうか。
柳はすでに大正六年、二十八歳のときに発表した『宗教的「無」』において、「美即醜、醜即美である。|凡《すべ》ては矛盾のまゝにして調和である。二なくして二を包むのである。凡てが有り凡てが無いのである。一切を含む『無』である」…「無に於ては何ものゝ人為もない。凡てが自然のまゝである。ありのまゝにして完璧である。自然さの極みである。交へ得る作為がない。何事をも|為《な》さずして凡てが為されてある」と書いている。かれは宗教哲学の専門家としての出発点に帰ったのであり、かつての民芸運動は、いまや「美の宗教」となったのだった。
前記の一日で書き上げた文章を稿本に、この年の十一月四日に京都の相国寺で開かれた第二回日本民芸協会全国大会で、『美の法門』と題して柳が行なった講演は、聴衆のなかに異常な興奮をまき起こし、ことに棟方志功は、講演を終えた柳宗悦に駆けより、涙を流して抱きついた……と伝えられている。けれども民芸協会以外の人人に、戦前の暗い時代には残された唯一の灯のようにおもわれた柳の主張も、戦後は引きつける力を失っていた。禅宗の説く「無」や念仏宗の教える「他力」をふくめて、わがくにのおよそすべての観念論が、すなわち哲学や宗教のほとんど大部分が、戦争中「滅私奉公」の国民精神総動員体制に組みこまれ、さらに積極的に協力する役割さえ果たしたことは、程度の差こそあれ痛恨の苦い記憶として、まだ多くの人人の胸に焼きついていたからである。
民芸といえば、志功の長男の巴里爾がのちに入ることになる劇団民芸の前身である「民衆芸術劇場」の旗あげ公演が行なわれたのは、この昭和二十三年の一月であった。演目は島崎藤村の『破戒』で、お志保の役を山口淑子が演ずるという話題性のせいもあったのか、正月の二日に有楽座で幕を開けた公演は、前売りを開始したときから、切符売り場に行列ができたほどの人気で、それに部落解放全国委員会の後援があり、初めて労働組合の組織動員が行なわれたこともあって、二十五日間の観客数が八万人をこえるという新劇界空前の記録をつくった。また前年からこの年にかけて『安城家の舞踏会』…『わが生涯のかがやける日』…『破戒』といった話題の映画に相次いで登場した滝沢修、森雅之、宇野重吉らの風貌と演技は、既成の映画俳優とはまったく異質の、すこぶる印象的なもので、新劇の公演に接する機会のない地方の人人にとっては、これらの映画と俳優たちによって新劇というもののイメージを植えつけられたといってよい。
民衆芸術劇場という名前にも、当時の人人の心を期待で波立たせるような響きがあった。第一回公演のパンフレットに、滝沢修はこう書いている。「……今日、敗戦後の世の中に直面して、今さらのように思いいたったことは、芝居というものは、自分だけの楽しみや少数の者のなぐさみではなかったはずだ、ということです。多くの人々の生活のなぐさめとはげましになるような芝居、雨が畑をうるおして土壌にしみ入り、作もつの発芽や成長をうながすような、生きてゆくよろこびともなり勇気づけともなるような」…「そういう芝居をするためには、まずなによりも、自分たち自身が、そういう芝居のできる役者になることだ。わたくしたち自身が日々の生活の中でよろこび悲しみ、のぞみなやみ、愛し行なうことが、そのまま、多くの人々の同じ思いと行ないに通ずるような、そういう人間になることだ。それがわたくしたちの心をとらえた共通の考えでありました」…「わたくしたちは、力をつくして、≪民衆芸術劇場≫の名にはじぬ仕事をつづけ、みなさんのご支援におこたえしたいとおもっています」
『民芸のこと』と題されているこの文章は、なんとなく、柳宗悦が「民衆の工芸」という言葉を縮めてつくった「民芸」運動の初心にも通じているようではないか。民衆芸術劇場は、やがて内部分裂があって解散したが、昭和二十五年の四月に「劇団民芸」として再生し、間もなく始まったレッド・パージの暴風によって映画や放送の仕事を奪われながらも、翌年の秋にはゴッホを描いた三好十郎の代表作『炎の人』を上演した。(これは後年の話であるけれども、志功の長女のけようは『炎の人』を見て、ゴッホに扮した滝沢修の演技に接したとき、しばしば父親そっくりの動作があるのに驚いたという)。周知のように劇団民芸はその後も活溌な活動を続け、以来、多くの人人にとって「民芸」というのは、柳宗悦らの運動よりも、新劇の劇団を指す言葉になっていったのだった。
昭和二十三年の話を続ければ、民衆芸術劇場の『破戒』公演が一月。二月には毎日ホールでの俳優座第一回創作劇研究会で、太宰治の『春の枯葉』が上演され、尾崎宏次氏とおもわれる東京新聞の(お)は「……疎開娘の投ずる人間嘲笑の影は印象が強い」と評した。太宰が死んだのは、この年の六月のなかばである。上京してから一年七箇月目の、小説家として稀有の才能の早世が惜しまれてならない、三十九歳に手が届きかけての死であった。
話を二月に戻すと、この月の雑誌「世界」に、清水幾太郎、松村一人、林健太郎、古在由重、丸山真男、真下信一、宮城音彌の座談会『唯物史観と主体性』が載っている。これはのちに「主体性論争」のピークと呼ばれることになったほど、大きな話題を呼んだ座談会だった。それから「文学」の十月号には、「近代自我」の問題が特集されており、そのなかにリスト・アップされている戦後論文文献目録をみると、昭和二十一年の一月から二年半ほどのあいだに、実に夥しい数の雑誌論文や座談会が、人間の主体性、および自我の問題を論じていることが判る。当時の知識人の主要な関心事が主体性と、近代的自我の確立にあったことのあらわれであり、それはまた、戦争中しきりに「近代の超克」ということが叫ばれ、非合理主義と神憑りが横行して、自我を没却した「滅私奉公」が行きついたはての、悲惨な結果に対する反省から生まれたものでもあったのにちがいない。
そのように戦争中はなはだ|貶《おとし》められていた「自我」の近代的な確立を論ずる人が多かったなかで、個性の沈黙と我執の放棄を説く柳宗悦の反近代的な思想が、ことに若い人たちを惹きつける魅力を失っていったのは、当然のなりゆきであったようにもおもわれる。それに当時は、古いものの殆どすべてが間違っていると考えられ、地方の若い人間の多くにとっては、封建時代からの涙と汗に|塗《まみ》れて黒く煤けているような古い民具など、生理的に近いおぞましさと|疎《うと》ましさを感じないでは見ることができないような時期でもあった。
柳のいう「|下手物《げてもの》」とは、「民衆が日常に用いる雑器」の意味であり、無名の工人がつくった雑器にこそ高い美が宿っている、というのが、かれの主張であったのだけれども、その言葉は、これも周知のように日本国語大辞典によれば「@人工をあまり加えない安価で素朴な品物。大衆的なあるいは郷土的な品。または粗雑な安物。A一般から邪道、風変わりと見られているもの。奇妙なもの。いかもの」という意味のうち、もっぱらAの感じのほうが強調されて使われるようになった。棟方志功が海外で認められ、国内でも改めて見直されるようになるまで、多くの人が漠然とかれの作品に抱いていたイメージも、多分この「ゲテモノ」という感じから、さほど遠くなかった筈である。
まえに書いたように、初期においては社会変革の欲求をもふくんでいた柳宗悦の民芸運動は、若者の心をも強くとらえた一時期があった。ところが、かれは戦争には反対であったけれども、その思想が戦争中の時代風潮と、符節を合したように見えたことがある。かれの反近代主義は、「近代の超克」ばやりのなかで、それらと同色のように見えたし、個性の沈黙と我執の放棄を説く思想も、「滅私奉公」の国策に反するものとはおもわれなかった。かれ自身、昭和十五年十月号の「月刊民芸」に、『新体制と工芸美の問題』と題し、「民芸の理念を完成するために、何か国民的な正しい社会組織が必要であるとの考へ方は、吾々が早くから抱懐した思想であつた。幸ひにも非常時は急速に此の改革を実現するに至つた」と書いて、個人主義の誤謬を説き、美の発揚は個人の自由だけに委ねられるべきではないこと、工芸の制作は生半可な個人的創意よりも、日本の伝統を中核とすべきであること……と、年来の主張を述べていた。
それに対して戦後は、前記のように戦争中あまりに横行しすぎた反近代主義への反感から、近代主義全盛の世の中となって、柳の思想は完全に時代遅れになったようにおもわれ、民芸運動はそのまま「ゲテモノ」もしくは「下手物趣味」の同義語に近くなり、それについての賛否を問われると、「ちょっと、どうもねえ……」と苦笑して、言外に、積極的に賛同する気にはなれない、という表情を示すのが、民芸協会とその周辺の人人以外の多くの知識人の一般的な態度のようになった。
無論そうした隠微な反撥ばかりでなく、はっきりした理論的な批判もあった。たとえば、これは柳に対する直接の批判ではないが、昭和二十二年に出された『獄中贅語』のなかで、河上肇は一人の妙好人の考えを、痛烈に批評していた。かれは人間の我(心)の本体を明らかにするものとして、宗教的真理といったものの存在を認めながらも、それと科学的真理を区別し、さらに宗教的真理と現実の宗教、教団とを峻別して、こう書いていた。
――現実の歴史に於いては、宗教的真理はたゞ宗教的真理として説かれて居るのではない。それには必ず幻想、迷信、謬見、妄想、欺瞞、虚偽、等々、種々雑多なものが粘着して、一定の宗教的=教団的宗教を形成し、かくしてそれは、時の権力者の保護を受くると同時に、また権力者によつて利用され、いつでも民衆の(被抑圧=被搾取大衆の)反抗を眠り込ますための道具とされて居る。(中略)マルクス主義は即ちかゝる具体的な現実の事実を捉えて『宗教は民衆の阿片なり』と言ふのである。……
そしてかれは、浄土真宗の模範的な信者の言行を記した『妙好人伝』のなかから、一人の篤信者の「富裕なるも前業、貧賤なるも宿業なり」という言葉を引いて(開祖親鸞の思想を信仰の芳醇と認めながら)浄土真宗の信仰もここまで来ると「愚鈍なる意気銷沈」というレーニンの言葉を思い出さざるを得ない、それは民衆にむかって、与えられている環境との和解を勧めているばかりでなく絶対的降伏を説法するものであり、もっぱら幻想的幸福を死後の世界に求めさせることによって、この地上における現実的幸福への努力を徹底的に放棄させるものである……と述べていた。時流に乗じての発言ではなく、かれが獄中にあって、日本が夢応の鯉魚のように大戦にむかつていた昭和十二年ごろに書かれ、小菅刑務所の教務課長の筐底に秘められていたものが、昭和二十一年一月の河上の死の翌年、いわば遺稿のようなかたちで出版されたものであっただけに、その意見には強い説得力があり、人人に深い印象を与えずにはおかなかった。
もっと後には、柳らの民芸運動に対する具体的な批判も生まれて来た。柳がこれまで茶湯の視角しかなかったやきものの美学に、新しい用と美の視角をうちたてたことは大きな功績であった、と認めたうえで、「……職人たちに浄土的なすべてを阿弥陀仏のはからいと見、現実をそのまま肯定する性格を与えようとするのは、まさしく近代自我、近代生産労働者の否定である。芸術家と職人をはっきり差別し、前者にのみ創造性をみとめ、後者には伝統をきびしく守ることを要求する。(中略)この時代錯誤的な生産関係が、民芸運動の致命的な弱点だった」…「その生産関係の扱いかたは、かえって日本中の民窯の特色を奪ってしまった。柳と志を同じくした河井寛次郎、濱田庄司、またバーナード・リーチらは、熱心に日本の各地の産地をめぐって技法やデザインを教示した。創造は芸術家、職人はそれによる生産者という柳の方法を実践したのである。その結果、日本各地で民芸風といわれる一種の陶器が生産されるようになった。(それがかなりの人人の好みに投じたために)各地の民窯の固有のデザインや技法が、かえって失われていわゆる民芸風に類型化したことは否定することができぬ」というのが、『やきもの』の著者吉田光邦氏の意見である。
また、初期の茶人たちが認めた茶器の「|大名物《おおめいぶつ》」はもともとその多くが無名の工人の手になる雑器であったと主張して、やきもの鑑賞界に大きな影響を与えた柳の仕事を「偉とすべきです」と賞讃しながら、しばしば「無学な職人」と書く柳のいい方に疑問を示し、そこには封建的な奴隷的労働の容認につながる危険があると感じて、「本来、人間性に立脚した主張が、人間不在の、神という絶対者に奉仕する思想にすりかえられ、皮肉にも民衆のために……≠ニいう柳さんの主張とはうらはらに、柳さんの貴族性をのぞかせています」というのが、実作者である加藤唐九郎氏の『やきもの随筆』における考えだった。
柳の主張に人を引きつける力が薄れたのには、かつては読む者を酔わせたかれの観念性が強く調子の高い文体が、戦後は急速に古色を帯びた印象を与えたせいもあったようだ。しかし、このように時代錯誤的であるとも評されるようになった柳の思想が、棟方志功の場合においては、すこぶる有効性を持っていたようだった。
志功が柳宗悦の講演『美の法門』を聞いて感激したのが、昭和二十三年の十一月。翌年の春、かれは岡本かの子の詩による『女人観世音』を制作した。この作品について志功はのちに、
――女人観世音は、岡本かの子さんが戦前「女人芸術」という雑誌の、創刊号の扉に発表した詩でしたが、わたくしはふるいつくほどその詩に憑かれました。そうしていつかはつくりたいと思っていたのですが、当時は、まだ自分の思いとしてこみあがってこなかったのでしょう。……
と述べているが、実際には女性崇拝癖の強い志功が、戦前に憧れていた女性に、偶然、戦後の焼跡だらけの東京で再会したとき、岡本かの子の詩を暗記していたその女性に書いて教えて貰ったことが、制作の直接の動機となっていたものとおもわれる。かの子の詩『女人ぼさつ』は、抜粋すると、こうである。
[#2字下げ]薔薇見れば薔薇のゑまひ
[#2字下げ]牡丹に逢はゞ牡丹の威
[#2字下げ]あやめの色のやさしきに優しく
[#2字下げ]|女人《によにん》われこそ観世音ぼさつ。
[#2字下げ]………
[#2字下げ]人のかなしみ時には担ひ
[#2字下げ]よろこびを人に送りて
[#2字下げ]みづからをむなしくはする
[#2字下げ]女人われこそ観世音ぼさつ。
持前の女性崇拝癖に加えて、この「みづからをむなしく」し、出会う相手に応じて千変万化する観世音菩薩こそ、志功には「他力」の化身とおもわれたのではないだろうか。それに東京から福光に疎開したとき以来、チヤの並並ならぬ働きに助けられたことが多く、「|足裏《あなうら》の土踏むちから/女人われこそ観世音ぼさつ」とかの子のいうその土踏む力を、実感したこともあったのではないかと想像される。かれ自身の語るところによれば、この作品は、『鐘溪頌』で初めて掴んだ黒地に白い線を出す方法を用いようとおもって取りかかったものだった。
――制作にかかってみると、はじめの白い線の意図を忘れてしまったのか、十二枚つくった中に一枚しかありませんでしたが、この一枚がとびぬけてよく白い線がでて参りました。……
当初の計算を忘れて、予想をこえたところに導かれたというのも、柳のいう「自らの力で舟を漕ぐのではなく、帆に他力の風を孕ませて」進んだ航海の結果のようである。だいたい出世作の『大和し美し』から、志功がたびたび自分の版画の主題に、他人の詩を選んで来たこと自体が、すでに一種の他力道であったようにおもわれる。かの子の詩の背後には観音経の思想があり、観音経の背景には法華経八巻二十八|品《ほん》の広大な世界があった。かの子によれば法華経は「その作家が全く不明でありますが、釈尊の歿後数百年の間に多数の敬虔にも名を秘めた天才たちの大胆非凡な創作の集成累積して出来上つたもの」であり、その法華経をふくめて仏教全般の研究に打込んでいたかの子の詩を、何度となく読みかえし胸中で唱えているうちに、志功の構図は、おのずから決定されて来たようだ。
――女人観世音では、文字によって板画が生まれ、文字がこの板画の良さを決定したところまで、上がって来ているように思います。/この板画から、文字が板画を把握して、何か庭の露地石の組みのような、同じ仕組みの思いが入るようになりました。……
この作品は、のちにスイスの国際展に出品され、駒井哲郎とともに賞を受けた。こうしてみると、志功の女性崇拝癖も、かれを初の国際展受賞に導いて行った一因であったことになる。ゲーテの『ファウスト』の結びの、――永遠なる女性は われらを引きて昇らしむ。……という言葉は、志功の生涯にも当てはまるものであったようだ。そのスイス・ルガノにおける受賞について語るためには、すこしく当時の志功が美術界において与えられていた位置について説明しておかなければならない。
『女人観世音』が四月にスイスで受賞することになる昭和二十六年の二月に、五島慶太と高橋禎二郎の肝煎りにより、渋谷の東横百貨店で、第一回の棟方志功芸業展が開かれた。それに対する毎日新聞の美術評には、次のように書かれている。
「倭画の方は舞台を見るような妙に明るい感じだ。道化を作者はねらっているかも知れないが、造型的な骨格はむしろ版画の方に見られる。そのなかで澄みきった色調、きびきびしたタッチの『両妃天飛』のファンタジックな情趣をもつ『河伯の庭』は近代的感覚をのぞかせている。(杉本)」
つまりこの筆者は、志功の版画に近代的感覚を認めていたわけだが、むろん全部の人がそのように見ていたわけではなかった。この年の七月末から八月にかけて、鎌倉の近代美術館で開かれた恩地孝四郎、川西英、駒井哲郎、斎藤清、平塚運一、棟方志功の「現代創作版画六人展」について、朝日新聞の美術批評を担当していた美術評論家の文章は、こう書き出されている。
「創作版画が注目されてきたことは結構だが、難かしい局面にあるように思える。伝統の古い領域だけに、逆に新しさを求めることが貴重なわけだけれども、急ぐと無意識に逃げ場へ近づく危険もある。恩地孝四郎と斎藤清が、意識的に断絶の新しさを求めて、平塚運一と棟方志功の伝統尊重派に対立しているが、現代の創作版画が対決させられている課題は、この辺に圧縮されて現われているといえそうである」
この筆者は志功を伝統尊重派と見ていたわけだ。その文章は、次のように結ばれていた。
「やはり抽象と伝統の対決から生れる新しさに期待がかけられるが、ことさらに解決を急ぐことはない。外国人の一片の賛辞などで解答を出すのはことに危険であろう」
棟方志功の名前が、戦後の美術ジャーナリズムのうえに登場して来るのは、だいたい昭和二十七年以降のことである。二十六年の十一月に、ふたたび東京に居を移すまで、およそ六年八箇月にわたった福光時代は、そういう意味では沈潜の時期であったといってよい。志功は早く東京へ帰りたかったのに違いないが、柳宗悦は、自分自身この頃たびたび北陸に来て、城端別院に滞在したり、秘境五箇山の行徳寺を再訪したり、昭和二十四年の十月には日本民芸協会の第三回全国大会を、城端別院で開催したりしていたくらいであったから、ときに|競《きお》いすぎや|逸《はや》りすぎが目立つ志功にも相当の長いあいだ、真宗王国と呼ばれているこの願ってもない風土に沈潜してくれることを望んでいたようだ。
柳は福光が志功の住まいにふさわしい理由として、他力門の仏教を学ぶのに絶好の土地であること、また位置的にほぼ日本の中央にあり、東京に対しても京都大阪の関西文化圏に対しても等距離にあって、どこへ行くにも便利であることなどを挙げて地元の人に「棟方を頼む」といい、それを聞いたなかには、――こんなに偉い人に、これほどまでに見込まれるとは……、とあらためて志功を見直す感じになった人もいたようである。だが町はずれの小さな家に住んでいる疎開者の、まだ有名でなく、常識的に考えて先行きもそれほど偉くなりそうにはみえない絵描きを見る眼が、暖かいものばかりであったとはかぎるまい。変り者の芸術家に対する世間の好奇の眼が時の経つにつれて冷え、当人は意識せずとも微妙な棘をふくんだ視線になるというのも、あり得ないことではないだろう。
福光時代の志功は、中央の美術ジャーナリズムには取上げられなかったけれども、柳宗悦をはじめとする民芸協会の人人は勿論のこと地元でも高坂貫昭、松井寿美子女医、石崎俊彦らの後援と支持を受ける一方で、世間からは時にそのような軽視や、有形無形の批評をも受けていたのではないかとおもわれる。賛辞と悪口の、どちらか一方だけでは、なかなか芸術家は育たない。いわば賛否両論の状態こそ芸術家の成長にとって望ましいとすれば、宗教的境地への沈潜ばかりでなく、疎開ということがなければ経験することもなかったであろう他国の小さな町における長い年月にわたった生活のなかに当然あったに違いない現実の|苦《にが》さもまた、志功にとっては次の飛躍にそなえる力を養う要素のひとつになっていたものと考えられるのである。『女人観世音』を制作した翌年の夏ごろの志功は、東京に出て行くか、それとも、もうしばらく福光にとどまるか迷ってもいたようだ。昭和二十五年の八月に、版画家の笹島喜平にあてた手紙には、次のように書かれている。
「……どうしても早く家を建てたいといふこころ持と、何だかもう少しここで今まで来た道々の内で、一番大切な宗教に足がかかつたところだから、これを進めて見たいと思ふこころ持と、両方がこんがらかつてゐます。|所謂《いわゆる》自力と他力との持つ大きな思想のもつれの中に、わたくしの芸命とする生活と直接な願望は、他力道への真実こそ、これからの仕事の天巾をなして行くものではないかといふ事です。……」
栃木県の益子を郷里にもつ笹島喜平は、版画を始めて間もなく濱田庄司に志功を紹介されて以来、その作品と人柄に魅せられて師事するようになり、戦後は図画教師の職を一擲して、版画一筋の生活に入っていた。
志功は福光から上京して来ると、よく杉並区馬橋の義兄の家に寄寓していた笹島のところに泊った。滞在中の志功は、想念が泉のごとくに湧いて来て尽きることがないらしく、カンバスに、色紙に、短冊に、次次に筆を走らせ続けて、いっこうに|倦《う》む気配がなかった。食糧難のときに世話になっているお礼の意味もあったのだろう、志功は笹島にも数数の揮毫をしてくれた。また、あるときは有り合わせの|朴《ほお》の板木と笹島の版刀で、半日ほどのあいだに三十センチ四方ぐらいの版画二枚を彫り上げ、そばで見ていて、圧倒されたこともあった。前記の手紙の少しまえに福光から出された便りには、こう書かれている。
「……十七日目の旅からかいつて参りました。この度は大いに襖を描きまくりました。一日に十枚、十五枚とやつた日もありました。一日に扇百五十本を朝の四時から昼前でやつて仕舞つたのには、サスがのわたくしでも一寸つかれました。そんな荒行を、今の画描きがようしないところに、やはりわたくしの生活や存在があるのだと存じます。馬鹿力でやつて行くばかりです。少しでも早く東京に小屋を持ちたくと思い少しずつ金をためてゐます。……」
そんな志功に、洋画家の鈴木信太郎氏が久我山の新居に移るので、いままで住んでいた荻窪の家を譲って貰えるかもしれない、という知らせをもたらしたのは、荻窪の「いづみ」工芸店の|主《あるじ》となっていた山口泉であった。東大の学生だったころから柳宗悦の愛読者で、昭和十三年の暮に初めて柳を沖縄に招いたときの沖縄県学務部長であった山口は、戦後、官を辞して「いづみ」工芸店の主人になっていた。知らせが来たのは、たぶん昭和二十六年の初夏のころであったろうとおもわれる。二科会の重鎮鈴木信太郎が住んでいた画室つきの家! 志功は、――その家を見なくっても気に入りました。皆さんのご恩の家だから決めて下さい。……と返事を出した。笹島喜平も志功に依頼されて、山口泉とともに、鈴木氏との交渉にあたることになった。
いちおう話は決まったものの、山口泉がみんなに奉加帳を回しても足りなかった金の都合が、なかなかつかず、志功は最後に松井寿美子女医の好意をうけ、高坂貫昭をはじめとする多くの人たちに見送られて福光を離れ、また東京でも、最初に上京して来たころからの後援者である島丈夫の助けを得たり、青森の友人知己にも応援を求めたり、いろいろと紆余曲折があったすえに、荻窪の家に荷物を運び入れたのは十一月二十六日のことだった。当時の志功の手紙によると、かれはこの日に、藝術新潮編集部向坂隆一郎氏のインタビューを受けている。自伝『板極道』には、
――昭和二十六年、スイスのルガノで開かれた国際版画展に出品した、岡本かの子の詩による『女人観世音』が優秀賞を授けられました。(中略)それについて語れと、「藝術新潮」の向坂編集長から感想を求められたのは、まだ荷物を解かない時でした。仕方なく、わたくしは、荷物の上に坐って、記者とカメラマンに応対しました。……
とあるが、ここには幾つかのおもいちがいがあり、このとき向坂氏が引越しの手伝いをしたあとで行なったのは、翌昭和二十七年一月号のグラビアのための取材であった。それは『芸術日本』という題のグラビア特集で、いまその雑誌を見ると、日本画の横山大観、彫刻の平櫛田中、歌舞伎の中村吉右衛門、文楽の吉田文五郎、琴の宮城道雄……と、まず各界の第一人者といっていい錚錚たる顔ぶれのなかに、板画の棟方志功が選ばれて加わっている。志功としては、まことに|幸先《さいさき》のよいおもいであったろう。中央の美術ジャーナリズムとは無縁であった福光から、東京へ出て来た途端、引越した家に入って新しい生活を始めようとしていた日に、各界の第一人者と顔を並べる藝術新潮のグラビア特集の取材を受けるという、その晴れがましさが、やがて後年の記憶のなかで、かれが世界に出て行くひとつのきっかけとなった『女人観世音』受賞の感想を聞くインタビューと混同されていったとしても、おかしくはない。
『女人観世音』が受賞したのは、昭和二十七年の四月である。その報を四月十一日の毎日新聞は、次のように伝えた。
――スイスのルガノにおける第二回国際グラフィック展は十日から六月二日まで開かれるが、これに先だち展覧会事務当局から棟方志功氏に対し、同氏が出品した版画に七百五十スイス・フラン(約六万三千円)の賞金が与えられた旨、同氏あてに電報があった。……
続いて翌日の同紙は、こう伝えた。
――駒井哲郎氏(春陽会)は昨報スイス国際グラフィック展で受賞した棟方志功氏とともに授賞され、七百五十スイス・フランの賞金を得た。……
まだ敗戦後のコンプレックスが尾を引いていた当時、海外での受賞は、賞の大小を問わず輝かしいニュースであった筈だし、邦貨に換算して約六万三千円の賞金というのも、大学出の初任給が八千円から一万円程度であったころのことだから、いまでいえば六、七十万円にも相当しようか、決して少額という感じのものではない。ところが、この棟方志功と駒井哲郎の受賞は、以後の美術ジャーナリズムに、全然とり上げられなかった。これは一体なぜであったのだろう。
わが国の戦後の美術界で、海外から受賞の報が伝えられたのは、まず昭和二十六年十月、ブラジルの第一回サンパウロ国際美術展における版画の斎藤清と駒井哲郎の場合である。斎藤清の版画は、それ以前から、日本に来ている外国人のあいだに、たいへん人気があった。かれはまだ画家になるまえ、昭和五年ごろに北海道の小樽で、志功と顔を合わせたことがある。志功が小樽に、同郷の画家成田玉泉を訪ねて行ったとき、玉泉にしたがっていた画家志望の看板屋の青年が、斎藤清であったのだった。戦後いちはやく外国人に認められた少数の美術家のうち、棟方志功、斎藤清と二人までが、ともに子供のころから生活的な辛酸を舐めつくし、小学校しか出ておらず、正規の美術教育を受けていない独学の画家であったことは、興味深い一致であるといわなければならない。そのほかにも志功と斎藤のあいだには、幾つかの共通点がある。
志功の場合とおなじように、斎藤清の苦労も、父親の借金から始まっていた。郷里の会津で骨董屋をしていた父親は、清が五歳のとき、借金から一家とともに夜逃げして北海道に渡り、夕張炭坑の坑夫になった。志功が六歳のときに懐かしい善知鳥の面影を残していた古い青森の町が、大火によって消え失せてしまったように、斎藤清にとっても、そのときから長い年月のあいだ、後年の重要な画題になった会津は〈失われた故郷〉となったのである。夕張の炭坑長屋で育った清は、小学校を出ると、関西の寺へ小僧にやられて逃げ帰ったり、薬屋の小僧になったり、ガス会社の職工になったりしているうちに、あるとき活動写真の絵看板に強く心を惹かれ、看板屋に奉公して、二十歳のときに小樽で独立して看板屋になった。
看板の絵をうまく描くために、小樽で図画の教師をしていた成田玉泉にデッサンを習っていて、四つ年上の志功に会ったのが、二十四歳のころである。志功はすでに帝展に入選していたが、東京に出て初めて白日会に入選したときのおもわず踊り出したほどの喜びを、熱心に語った。玉泉も白日会に入選していた。それを聞いていて、――おれもいつか、上京して白日会に絵を出したい。……というのが、斎藤清の最初の夢になった。翌年、東京見学に出かけたかれは、小樽に帰ると、盛業中の看板屋を友人に譲って、ふたたび上京し、看板絵描きをしながら、本格的な油絵の勉強に取りかかった。翌七年一月、白日会に初入選、以来、白日会、東光会、国画会と、順調に入選が続いたが、あるとし初めて落選の憂目に遭い、気落ちしていたときに、たまたま見に入ったのが造形版画協会の展覧会で、そこで創立者の小野忠重に加入を勧められたことが、まえから始めていた版画に、やがて専念して行くひとつのきっかけになった。
かれは戦争中の昭和十七年に、銀座の鳩居堂で第一回の版画個展を開いており、そのころの作品は、とても版画には見えない、まるで洋画のように見えたり、あるいは墨絵のように見えたりする版画であった。戦争が終ったあと、昭和二十二年に平塚運一や川西英の版画展覧会が開かれたとき、かれも誘われて第一回の個展に出した『会津の冬』を中心に何点か出品した。それらの作品が、見に来た進駐軍の軍人のあいだで評判を呼び、間もなく松屋のPXで、斎藤清の版画の個展が開かれるほどの人気になった。おなじころ、美術好きのベルギー大使夫人が、各国の外交官夫人を集めて、日本人の美術を鑑賞する「サロン・ド・プランタン」という会を主宰しており、二十四年の五月に目白のベルギー大使館で行なわれたその展覧会で、圧倒的な人気を博して一等賞に選ばれたのが、やはり斎藤清の版画であった。(このことは、斎藤清本人の口から聞かされた話ではない。のちに説明するが、美術史の表面に出て来ないけれども、当時、日本人の美術を外国人に紹介する縁の下の力持ち的な役割を果たしていた中尾信氏から教えられた話である)。
「サロン・ド・プランタン」に出品したほかの美術家たちにとって、あまり名前を聞いたこともないような独学の版画家の作品が一等賞に選ばれたのは、かなり心外なことであったのかも知れない。そのころから斎藤清に対して生まれて来たのは、「スーベニール作家」という呼び方であった。最初に進駐軍のあいだで人気を集めた作品は、戦争中の第一回の個展に出したものであったのだから、外人へのスーベニールを意図していた筈がない。それに伝統的な浮世絵版画とも異質の画風と技法によるものであり、もっとも人気の高かった会津の冬景色は、子供のころの〈失われた故郷〉を、画家になってから見に行って描いた、斎藤清という作家独自の心象風景でもあった。かれの版画の全業績が、展覧会と画集によって知られるようになったいまでは、そうおもう人はいないだろうが、当時は外人に売れたことから、「スーベニール作家」という呼び方もされていたのである。その斎藤清と、駒井哲郎のサンパウロ国際展における受賞は、朝日新聞にこう伝えられた。
――〔サンパウロ二十六日発=AFP特約〕米英仏以下世界各国の一流美術家が参加出品しているブラジル、サンパウロ市の『国際美術展』で、駒井哲郎、斎藤清両氏の作品が日本側出品作の最高作として授賞された。……
あとではっきりすることだけれども、これは事実その通りの報道であったのだが、その記事のあとに、次のような付記がされていた。
――〔注〕国際美術展は去る廿日からサンパウロ市美術館に開催され、わが国からも、代表作品三十余点が送られていた。最近の報道では賞金三千万円とウワサされ、その授賞発表は美術界から注目されていたもの。なお駒井氏は春陽会会員、斎藤氏は国画会版画部会員。……
これだと、うっかり続けて読めば、駒井哲郎と斎藤清に(昭和二十六年当時の金で)三千万円もの賞金が授けられたようにも読みとれる。実際に斎藤清のところへは、びっくりした友人から電話がかかって来た。
斎藤清は海外からの授賞の報に、まだ半信半疑で、そのときは電話の向こうの相手の興奮にも同調しなかったのだが、やがて翌二十七年の一月に、国際文化振興会で、高松宮から賞金の授与を受けた。賞金は駒井哲郎と、五万円ずつであった。五万円といっても当時の貨幣価値では、少額の賞金ではない。けれども新聞を読んで、駒井哲郎と斎藤清に三千万円の賞金が与えられるように早合点した人たちのなかには、なんだ……と、気の抜けたような感じを受けた人もいたらしい。またその賞が「在留邦人賞」であるとも伝えられ、なにか非公式の賞であるような印象を与えたこともあって、初めの騒ぎが大きかっただけ、こんどは逆に二人の受賞を、過小評価する心理も生まれて来たようだ。
二人が受けたのは、正式には「サンパウロ日本人賞」といい、ブラジルの主宰者当局が発行した展覧会の|図録《カタログ》を見ると、特別賞のなかに、「イタリア人賞」「ポルトガル人賞」などと並んで、賞金一万クルゼイロ、受賞者キヨシ・サイトー、テツロー・コマイ、と明記されている公式の賞である。つまり「駒井哲郎、斎藤清両氏の作品が日本側出品作の最高作として授賞された」というAFP電は、正確な報道であったのだが、それにもかかわらず以上のような混乱が生じたのは、その頃わが国の美術界が、海外の事情に暗く、すべて手探りの状態にあったせいだろう。
戦後はじめて、わが国の画家たちが多数参加したサンパウロの国際美術展から、まず伝わって来たのは、さんざんな不評であった。出品の斡旋役を勤めた国際文化振興会に届いたブラジルの日刊紙「エスタード・デ・サンパウロ」は、日本の出品作を、およそ次のように評していた。――日本には現在、近代東洋画と現代西洋画の二つのスタイルがある。日本はその二つの流派の作品を送って来たのであるが、出品者の質がまちまちであり、その表現力も微弱で、期待に反し、失望した。西洋画に属するものは、単なるエコール・ド・パリのイミテーションにすぎず、また東洋画のほうには、なんら現代的要素を見出すことができない。――
続いて建築部門の審査員として招かれていた坂倉準三氏の、絵画についての帰朝報告は、こうだった。――総じて日本の出品作の多くに共通している穏健な写実主義が、ブラジル側を失望させたようだが、不評のいちばん大きな原因になったのは、「現代に生きていない」という感じを与えた点で、これは技術の巧拙でも、絵画の形式の問題でもなく、なにかもっと本質的なことであったようだ。……
この展覧会の正式な名称は、「第一回サンパウロ・ビエナール|現代美術《アルテ・モデルナ》展」だった。日本側は出品作品の選出にあたって、このなかの「|現代《モデルナ》」という部分を、あまり深く気にとめていなかったようである。ところが、たとえばフランスの場合、ピカソやレジェの油絵、それにルオーの版画も数点ずつ出品されていたが、かれらは現代美術の創始者として、むしろ奥のほうに控えている感じで、中堅および新進の現代作家の作品を一人あたり何点かずつ集めた室が前面に押し出され、批評家からも一般の観衆からも最大の興味を持たれたその部屋から、絵画(外国)部門の第一賞が選ばれていた。
フランスだけにかぎらず、現代の尖端を行く前衛美術のラッシュとなった第一回サンパウロ・ビエナールで、洋画から日本画、版画まで四十五人の作品を総花式に一人一点ずつ出品したわが国の展示が目立たなかったのは、当然のことであったかも知れない。ブラジルの日本人美術家団体である聖美会からは、わが国の出品作の不評についての詳細な報告が来た。傾聴に値する示唆を数多くふくんだ分析であるとおもわれるので、くわしく紹介してみたい。日本の出品作はまず「古くさいという印象を与えた」…「どことなく弱々しくセンチメンタルであるという批評もあった」…「のんびりしすぎていたり、あるいは小さな型のなかに安住している感じがあって、現代の鼓動が強く伝わって来ない。フランス作品の強さは、ブラジルにいる人間にとっても、現代との血みどろな格闘を、じかに感じさせる生々しさにあった」…「個々の作品としては相当高いレベルにあり、落着いて鑑賞すれば、その美しさを否定しがたいものも数点あったが、第一印象において引きつける力が弱いため、見逃されがちであった」…「陳列場所が、中米諸国の野蛮なまでに強烈な作品と隣りあっていたので、日本人の奥ゆかしさが、静かに鑑賞される機会を持ち得なかったということもあった」…「専門家からは版画が一番好感を持たれた」…「日本画は一般の観衆には喜ばれたが、画家には喜ばれなかった」
そしてこの書信は、第二回のサンパウロ・ビエナール出品作品についての希望を、次のように述べていた。「大家の作品でなくても、はっきりと現代の感覚を持ったもの」…「かならずしもアブストラクトや、シュールレアリスムの作品を主にする必要はないが、アカデミズムや印象派の亜流は困る」…「東洋人特有のプリミチーフな感じを出したものもいい」…「近代日本美術のレベルの高さを示すために、老大家の作品を選ぶことには賛成しかねる。どうしても出したいなら、少なくとも四、五点まとめて特別待遇で陳列してほしい。フランスがルオーの版画を六点出したように」…「こんども前回以上のいい版画を出してほしい」…「日本画は特に別室を与えられないかぎり、出品しても無意味かともおもわれる。前回の作品は、あまりにも|装飾的《デコラチーフ》にすぎて、会場全体の雰囲気にそぐわなかった」…「展覧会の性質上、かならずしも現代日本美術の高さと、深さを見せることにこだわる必要はないと思われる。もし本当に日本美術のよさを示さなければならないのなら、ビエナール展は不向きで、独立した現代日本美術展を開くべきである」
これらの分析には、遠く祖国を離れて、遙かな海外から日本を見ている人人の客観性と、愛情がともに感じられ、現場を知らない人間にも、情理を兼ねそなえた説得性を持っているようにおもわれるのだが、第一回サンパウロ・ビエナールに出品したわが国で一流の画家たちにとっては、幾つかおもい当たる点があったとしても、この「在伯日本人美術家団体」の指摘のすべてを、虚心に受入れる気持になれたかどうかは判らない。
聖美会の報告は、不評の日本側出品作のなかで、版画が好評であったことを伝えていた。その具体的なあらわれが、「サンパウロ日本人賞」の授賞であったわけだ。このビエナール展の審査の重要な基準が、現代性にあったことは明らかだし、駒井哲郎のエッチングは勿論、斎藤清の受賞作「GAZE」(凝視)も、日本の伝統的な版画とは明らかに異質の、洋画のような作風のものであったのだけれども、わが国の美術界の大勢は、それまでの版画に対する軽視と重なって、伝えられた版画の好評を、海外ジャポニカ趣味に投じたのであろう、と軽く考えて、ほとんど無視する見方が一般であったようだ。スイス・ルガノにおける棟方志功と駒井哲郎の受賞も、美術ジャーナリズムに全然とり上げられなかった理由は、新聞に伝えられた「国際グラフィック展」を、どの程度に評価してよいものか判断がつかなかった海外からの情報の不足等のほかに、版画に対するそうした見方の延長線上にもあったのではないか、とおもわれる。
いましばらく美術における日本と海外の関係について話を続けるなら、この昭和二十七年は、わが国の美術界が、大変な激動に見舞われた年だった。まず前年のサンパウロ・ビエナールに引続いて、多くの作家が、パリのサロン・ド・メエに出品した。その顔ぶれはこうである。
[#2字下げ]〈油絵〉 麻生三郎、猪熊弦一郎、海老原喜之助、大沢昌助、岡鹿之助、岡本太郎、香月泰男、川端実、林武、三岸節子、村井正誠、森芳雄、山口薫、吉原治良、脇田和。
[#2字下げ]〈版画〉 駒井哲郎、棟方志功。
[#2字下げ]〈特別出品〉 梅原龍三郎、安井曾太郎。
サロン・ド・メエの場合は、前年に作品の一部が日本に紹介されていて、一九四三年創立の同展がパリにおける前衛美術の焦点であり、そこにはいまや抽象絵画全盛時代の到来していることが判っていたので、わが国からも前衛的な作風の第一線画家を主にした人選に、海外に強いとおもわれる駒井と棟方の版画と、梅原、安井の両大家を加えて、日本の現代美術の実力を問おうとする出品であった。パリに送られるまえに、出品作の展覧会が一月の十日から二十日まで、日本橋の高島屋で開かれた。
福光から東京へ帰って来た早早、藝術新潮のグラビア特集の取材を受け、こんどは日本を代表する画家十九人のなかの一人に選ばれた志功は、さぞかし体内の血が騒ぎ出すようなおもいであったろう。かれが出品作に選んだのは『運命板画柵』だった。これは大原總一郎に、たびたびレコードで聞かされたベートーヴェンの『運命』をモチーフにして、黒地に超人と鷲と蛇と女体と、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の文章を彫りこんだものである。外国への出品を意識して、こうした主題を選んだのだとすれば、いかにも相手に応じて素早い変化を示す志功らしい、ということになるかも知れないが、笹島喜平への手紙によると、この作品は前年の夏に制作されており、大原總一郎の求めによってつくられたものだった。
倉敷レイヨンが社運を賭けて開発したビニロン製造のために、富山につくられた新工場を飾る作品を依頼された志功が、「ベートーヴェンの『歓喜』のような仕事をしたい」といったところ、大原は「それならば第五の『運命』をやってくれ」といって、その参考にもと、神が死んだあとの人間の運命について語ったニーチェの『ツァラトゥストラ』を読むことを勧めてきた。のちに志功は、「ツァラツストラを読みますと、なるほど、えらい大きい規模と、孤独というのか、何ともいえない大きい世界にひきいれられてしまいました」と述べているが、ニーチェのこの作品には、普通の人間でも読んでいるうちに、なにか自分も超人にでもなったような気分の昂揚を感じさせるところがあるから、おもいこみの強い志功としては、脳裡で『運命』の旋律と交錯させて相当興奮させられたのではないかとおもう。サロン・ド・メエヘの出品作を紹介した藝術新潮のグラビアに、かれはこう書いていた。
――これはベートーヴェンの運命交響曲(第五)を倉敷の大原總一郎さんの所で聴いて、それをモチーフにして彫ったものである。ご存じのやうに第五はニイチェのツアラトストラを主題にしてゐる。(中略)いままでの私の板画には、非常に棟方的なものが強かったが、これでは、そうした個人的なものを突き抜けて、板画芸術を確立したいと念願した。……
ニーチェはベートーヴェンの死後十七年目に生まれたのだから、ここにも勘違いはあるにしても、志功としては表現の場をより普遍的にして西欧にまでひろげようとした野心作であった。四月にスイス・ルガノにおける受賞の報を受取った志功は、当然、五月にパリで開かれるサロン・ド・メエの結果にも期待を抱いたろう。サロン・ド・メエは招待展で審査が行なわれる訳ではないけれど、作品に対する反響によって、どの程度の評価が下されたかは判る筈であった。批評家のなかには、かなり悲観的な見通しもあったようだが、ほかの出品作家たちにしても、なんの期待もしていなかった、などということはあり得ない。やがて齎らされて来たのは、またしても現代の日本美術に対する総体的な不評であった。
欧州巡歴の途次、サロン・ド・メエを見て来た美術批評家の今泉篤男氏が、七月十二日にブリヂストン美術館において行なった帰国第一声の講演は、それを聞いた人人に、少なからざる衝撃を与えた。なかの一人の表現によると、日本からの出品作は「どの作品がどうというよりも、会場での全体の印象が、ひどく精彩を欠いて力がない、つまり巨匠も新人も、てんで問題にならんというように理解された。それも今泉氏一人の意見でなく、居合わせた日本人全部が期せずして感じたことだというから問題である」というふうに聞こえたのである。作家と作品の選定を誤ったというよりも、もっとそれ以前の根本的な問題のようであった。その講演に加えて、衝撃の渦の輪を広めたのは、雑誌「美術批評」の八月号に『近代絵画の批評』と題され、活字となって紹介された今泉氏の意見だった。そのなかで今泉氏は、これから自分自身、出直せるものなら出直したい、という痛切な決意を前提にして次のように述べていた。
――私が特にそういう気持になるような強いショックを受けたのは、パリで、日本から送られて来たサロン・ド・メエ出品の作品をみた時だ。実際に、その会場で見るまでは、私は日本の作品に大いに期待をもっていたし、私の眼底にある日本絵画の水準は決してそう低いものではないという自信を持っていた。ところが、それが根底からぐらつき、私はうちのめされた。それは、日本の作品と一緒にならんだフランスのサロン・ド・メエ出品作が秀れているからというのではない。私はサロン・ド・メエのフランス側出品にそんなに感心などはしなかった。しかし、それとは別問題に、近代画としての日本の絵のもつ弱点が、まざまざと感じられたからだ。それをどう説明していいか、私はその言い方に非常に困難を感じるけれど、具体的な事柄の一二をあげてみると、まず、日本の絵はほとんど例外なしに非常に色がどんよりと、鈍く見えた。それで近代画としての絵のハリや強さが非常に稀薄に感じられた。
――もう一つのことは、ほとんどの絵がモダモダしている感じを受けたことだ。私の考では、近代画というのは発想の出発点から表現の結果の終点までをなるべく最短の距離で到達しようとしてやることが肝要なのではないかと思う。ところが日本の多くの絵には、そこへ持っていく操作がモダモダしていて、そのモダモダが逆に一種の画面の効果のようにさえ考えられているのではないかと思われるものがある。最初に発想の目標、そのイメージさえ見えていないで、日本の作家は描いていくうちにはそれが見えてくるだろうというやり方、描いているうちに何となく絵になったという感じが強い。
――私は日本から来たサロン・ド・メエ出品作を前にして、これまで十年なり十五年なり批評家としてやって来た自分の無力を痛切に感じ、これらの作品の欠陥は、同時にわれわれ批評家自身の欠陥でもあることを自責した。……
これは今泉氏の談話の筆録で、筆記したのは「美術批評」編集長の西巻興三郎氏である。雑誌が出ると、美術界の内外に、さらに大きな反響が生まれた。実際、ほぼ活字だけの新しい美術雑誌である「美術批評」が、丁度この昭和二十七年の一月に創刊されていなければ、サロン・ド・メエへの出品作に対する今泉氏の発言から始まった論争が、これから詳述するほど、わが国の画壇を揺るがせることには、ならなかったのかも知れないのである。反論に立ったのは、大御所梅原龍三郎であった。九月三日の読売新聞夕刊に載った『欧州より帰りて』という氏の文章は、だれと名指してはいなかったけれども、あきらかに今泉氏の意見を念頭に置いて書かれたもののように読みとれる。十月号の「美術批評」には、さっそく梅原龍三郎氏と今泉篤男氏の対談が掲載された。
わが国を代表する洋画家と批評家のあいだに真剣に取りかわされた、ある意味では画期的でもあった論争について語るまえに、梅原龍三郎氏が欧州からの帰国後、読売新聞に発表した文章を紹介しておこう。梅原氏は、第二十六回ヴェニス・ビエンナーレの審査員として渡欧していたのである。世界最大の規模と権威を誇っていて、前回の絵画部門第一賞はマチス、彫刻部門の第一賞がザッキンであったこの国際展に、この年のわが国は、鏑木清方、小林古径、徳岡神泉、福田平八郎、山本丘人、横山大観、吉岡堅二、梅原龍三郎、川口軌外、福沢一郎、安井曾太郎、という選りすぐった、文字通り第一級の画家十一人の二十二作品を送り出していた。以下、梅原氏の文章を要約して、そのときの模様を伝えると、
……会場はヴェニス市の南端にあるサンエレナ島で、全島緑地帯の公園は、ほとんど美術館で埋まっていた。イタリア本館を中央に、左にスペイン、オランダ、ベルギー、右に小道を行くとアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス……と各国思い思いの建物、いわゆるパビリオンが散在している。パビリオンを持たない国は惨めで、イタリア本館の一角に一、二室ずつ割当てられており、初参加の日本には、その一角のどんづまりの一室と回廊が与えられていたが、回廊の部分は絵画の陣列に全く不適当であったので、一室にまとめ、釘のきかない壁面に六曲屏風を宙吊りにするなど、前代未聞の離れ技も止むを得なかった。各国のパビリオンの陳列が、ほぼ終ったころ、一回りして見ると、各国とも強力に押し出そうとする作家には、一人に一室全部を当てている。それでやっと、この国際展は、各国が二、三人の代表選手を送って競技させる仕組であることを悟った。……
陳列委員として、梅原氏に同行していた益田義信氏が、開会後まもなく読売新聞に寄せた報告によって補足すると、たとえばフランスは正面の第一室にデュフィを四十点、次にレジェの大作を二十点、さらに中堅の作品を数点ずつ並べているあいだに、巨匠ブールデルから新進までの彫刻を置くという展示ぶりで、見る者に抜群の充実感を与えていた。ほかの各国も、主力の画家を二人か三人にしぼっているなかで、日本画壇の紹介という意味も考慮に入れて十一人の作品を一人二点ずつ並べるという(しかも会場の狭さから、小林古径と梅原龍三郎の作品は一点ずつに割愛されていた)わが国の出品方法は、完全な失敗であった。
各国代表の美術館長、美術学校教授、文化関係の役人、それに芸術家を加えた二十人の審査員が、公用語のフランス語で議論をかわす審査会は、開会当日の午前十時十分から行なわれた。外国作家絵画部門の投票の結果は、やはりフランスが圧倒的で、第一回の開票結果はレジェ六票、デュフィ五票、二回目の投票ではレジェ八票、デュフィ十一票と逆転して決選投票ということになったとき、フランス側委員から大賞折半の提案が出されたが否決され、結局、三回目の投票でデュフィが賞金百万リラ(約五十万円)の大賞を獲得した。
外国作家絵画部門では、ほかに四人ほど名前が挙がったが、いずれも二票以上まとまらず、問題にならなかった。午後の七時までかかって決定された二十八の賞のうち、外国作家に与えられるのは六つだけで、大賞以外は新進作家を対象としたものが多く、また日本画は最初から近代絵画とは別のカテゴリーに属するものと見做され、近代絵画と同列の基準で審査することはできないと考えられていたので、益田氏の見たところ、日本が受賞を目ざして割込める余地は、まずあり得なかった。それになにより益田氏は、おなじ敗戦国でありながら、イタリアが半世紀以上もまえから続いているこの国際展を、まことに盛大に、かつ花やかに行なっている光景を見て、彼我の文化に対する力の入れ方の違いを痛感せずにはいられなかった。しかし将来も日本の受賞が、まったく絶望という訳ではない、と益田氏は書いている。「少数の異色ある版画作家を強力に押し出すことこそ最も有望な方法だと思う」というのである。
このときのヴェニス・ビエンナーレで、版画部門の大賞を得たのは、ドイツ表現派の巨匠エミール・ノルデだった。力感と迫力に溢れたノルデの版画と、戦前から表現派を意識していた志功の版画のあいだには、その底に共通するものが感じられる。ノルデというのは本名エミール・ハンセンのかれが生まれた北欧デンマークとの国境に近い故郷の村の名前で、最初は家具工場の職工であったこと、絵を描き始めてまず影響を受けたのはゴッホであること、作品の主題が絶えず、自然と幻想、故郷の村と見知らぬ村、のあいだを揺れ動いていたこと、宗教的な、神秘的な主題を好んで描き、一貫して未開民族の芸術に関心を持ち続け、植民地省の学術探険隊に加わってニューギニアと南太平洋の諸島を訪れてからは、熱帯的な明るく輝かしい色彩によって表現派のなかでも最も愛される画家になったこと、同時代のほかの画家と殆ど交渉を持たない独行の人で、芸術は人間の個性の視覚化であると考えていたこと、そのほかにも、自発性に満ちた素描、昂揚した生命感、劇的な自然体験、原始性……と、ノルデの特徴として挙げられているものには、志功と共通しているとおもわれる点が多い。
ヴェニスでの受賞には「少数の異色ある版画作家を強力に押し出すことこそ最も有望」という予言は、四年後に的中することになるのだが、このときすでに益田氏の脳裡には、おなじ国画会にいてよく知っている志功の存在が、その最有力候補として浮かび上がっていたのである。
さて、デュフィとレジェ以外は問題にならなかった外国作家絵画部門の審査について、梅原氏は、こう述べていた。
「思えば過去廿五回の絵画の受賞者はほとんどフランス画家に限られている有様である。参加列国はそれも承知で毎回力をつくして出品している。それで良いのである。日本では何か大失敗のように悲しがるが、駆けっこなどのように何メートルを何分で先着したという勝負の出来るものではない。セザンヌがフランス国内で認められるまでに五十年はかかったことを思ってみるもよい。気短にすぐ悲観して自信を失うようなら参加しない方がよいだろう」
そしてそのあとに続いていたのが、サロン・ド・メエに関する発言であった。
「……サロン・ド・メエで日本がパッとしなかった事などで急にさわぎ出すのは愚昧である。殊にフランスのものなどには全く無批判である。それで日本のものは、一度西洋人が認めるとそれから大さわぎをする。明治初年来の不見識がわが国批評家の病である」
これに対して、雑誌「美術批評」に『近代絵画の性格』という題で掲載された対談において、今泉篤男氏は、古典と近代といった一般的なテーマについて語り合ったのち、次のようないい方から本題に入っていた。
「せんだって『読売』の夕刊で、ぼくがお叱りを受けたようになっております。つまりサロン・ド・メエに出した日本作品がパッと見えなかったからといって、あわてて一口にだめだと言うのは、はなはだ不見識だ、というお話があったわけですが、私は、サロン・ド・メエへ日本から送った作品が、よく見えることを期待し、またよく見えるだろうとさえ思っていたんです」……
「サロン・ド・メエ出品についても、向うで評判がいい悪いというようなことは決定的な問題にしないでいいことだし、またフランスの絵だけがよく見えたということは、ぼくは言っていない。にもかかわらず、私の目にうつったことは、日本のあすこに出した全体の絵に共通の問題として、やはり反省しなければならぬ幾つかの問題があったことで、それをレポートとして率直に伝えるのが、私の義務だと思ったんです。ただその伝え方が、まずかったかもしれません。しかし、私はしなければならぬことをしたという点においては、皆さんから叱れても後悔はしてないのです。(中略)その場合にやはり梅原先生にくってかかるような立場になるのです。先生には愚昧と言われようと何と言われようと……」
そういう今泉氏に対して、梅原氏が、「それは必ずしも今泉さんを相手に言っているのではないんです」といっているのは、むろん論争を感情的なものにしないための配慮であろう。今泉氏も「それはわかります。感情的に言っているのではないんです。しかし、先生を怒らす人が日本にいな過ぎると思うんです」といい、自分が梅原芸術によって育ったことを前提にして、いまや梅原芸術から抜け出さなければならないと考えていること、いまの梅原芸術には幾つかの不満があること、日本の洋画一般についていえば、たいがい眠たいように見え、何も語らない絵が多すぎること、われわれは「近代」ということを言葉の上でだけ、お題目のように繰り返して来たばかりで、実際には近代絵画というものが、まだ身についていないのではないかとおもわれること……などを述べた。
梅原氏は、今泉氏の批判の一部を率直に認め、それにしても「日本の絵の色がどんよりしているというのは、日本人の体質と、日本の自然にも媒介されていることで、そのような中から生まれて来る美しさというのも、あっていいのではないか。フランスのモダン・アートという物差ひとつが標準になって、日本のものが批判されている、と取れば取れなくもない、そこに不満を感ずる」と反論した。
そのまえに東京新聞に発表されていた今泉氏の「日本の美術界に訴える 近代絵画への前進」という見出しの文章によれば、サロン・ド・メエへの日本の出品作は、フランス批評家から悪評を蒙ったわけではなかった。現実は、ほぼ完全な黙殺に近く、今泉氏の知るかぎりでは芸術週刊紙の「アール」の批評だけが、一人の作家の名前も挙げずに「日本の画家は矛盾のうちにあがいている。その近代絵画に対する熱意と誤ったやり方は看過されてはならない」という意味の、僅か四行ほどを割いて論じていただけだった。招待日に今泉氏が感想を訊ねた近代美術館のドリヴァル副館長も、もっぱら日本側出品作の額縁についてあれこれというばかりで、肝腎の中身の絵については、何も語らなかった。
フランス側から殆ど相手にされていないような、そんなところから抜け出す道として、今泉氏が想定していたのは、「それはフランス絵画の放射線から脱れて、われわれの近代を築かなければダメだろうと私は答える。/実際は、フランスの近代絵画からわれわれの学んだものは決して少くはなかったけれど、いつまでもフランス、フランスと言ってあとを追いかけている限りは、フォルマリスム(形式主義)から脱却出来ないことも自明の事実である。/日本画壇の近代を築くために、まずわれわれはフランス画壇から独立して歩き出さなければならぬ」と、実のところ梅原氏の意見からも、さほど遠くない考えだったのである。しかし梅原氏にしてみれば、「近代絵画」という基準によって、自分たちが長いあいだ独自の表現を目ざして実作を続けてきた苦労を全面否定されたようなおもいであったのだろう。
両氏の対談のまえに、「美術批評」誌は、サロン・ド・メエに出品した十九人の作家に、今泉氏の発言についての意見を求めていた。それによると、
「今泉篤男君に――君が帰朝以来発言した感想は非常に率直であり、正しいポイントをついている。批評家がこのように正直な言い方をするのは珍しいことで、喜ばしい。こゝから真の批評活動が始るのだし、作家との本当の意味の関係が生れると思う」…「サロン・ド・メエ出品について一言つけ加えるが、私は自分の作品が君の批評の対象になっているとは思わない。サロン・ド・メエの多くの作家の生半可な美学主義よりも、私の方が遙かに尖鋭であり進んでいると思っている」(岡本太郎)
「モタモタも又結構です。日本の総てがモタモタして居るのですから、モタモタが現在日本の性格でもあるようです。作家自身がモタモタでなくては描いたような気がしないと言うのならば、外から何と言ってもしようがありますまい。飽きが来る迄描かせて下さい」…「私は私の生活を大切にしその中から描き度くなったものを描いている|丈《だけ》です」(香月泰男)
といったいい方に、例外的な感じがあるだけで、大部分の作家は、皮肉めいた語調をまじえながらも、大なり小なり今泉氏の指摘を肯定していた。自信家の志功も、その例外ではなく、「わたくしの板画も自分自身では、これで板画になったとして出品したのですが、清い板画には達していないのです。矢張り、皮をぬぎ、肉をそぎ、骨を洗った念願から、純粋な姿を成すというのでなくてはいけないのです」と独得の語り口で、反省の色を示している。ただし志功の場合(にかぎらないだろうが)こうしたときの文章が、胸中の意見の全面的な反映であるかどうかは判らない。
「美術批評」誌は返す刀で、批評家としての自責の念をも語っていた今泉氏の発言についての意見を、十三人の美術批評家に求めた。さらに、このとし外遊して帰国した今泉篤男、富永惣一、土方定一の三氏の『ヴェニス・ビエンナーレ展を中心に美術界の現況をかたる』という座談会を、十二月号に掲載した。それは相次ぐ海外の国際展における不評あるいは黙殺と、今泉氏の発言に始まった侃侃諤諤の議論(画壇内部のそれは、大変なものだった)によって、大揺れに揺れたこの年の美術界の総決算ともいうべき座談会だった。そのなかで注目されるのは、フランスの批評家レイモン・コニアに日本出品作の感想を訊ねたら、「性格がないから、全然記憶に残らない。だから批評できない」と答えたという土方氏の話である。まず強い性格を持つことが第一だ、という点で三氏の意見は一致していた。そして座談会の終りのほうに、こんな話題が出て来る。
[#1字下げ]土方 ……スペインなんか旅行していると、ミロの絵の通りといいたいような道標が立っている。スペインの田舎の建物、それが幾何形態のなかに入れられているのを見ると、これはピカソですね。パウル・クレーの作品で、スイスの民芸に似たものがたくさんある。話がちがいますが、ロンドンのインド美術館で、現代のインドのまじないの絵の展覧会があった。そのなかにパウル・クレーよりパウル・クレーといいたいのがありました。一種の呪術の共通性でしょうね。自分が持っている象徴を次から次へと組立ててゆく呪術的芸術ですね。シンボルで何かを伝えるというアニミズム的要素が非常に強い。そういうことが、日本の作家にわかってないような気がする。
今泉 自分の符号をつくる探求が薄い。
富永 その方法で行くより仕方がないんだろうね。そういう一種の宿命的なものを探し出すんだね。……
呪術的芸術、アニミズム、自分の符号、シンボル、といえば、わが国の画家のなかで、まず考えられるのは、描く対象の自然や人に向かって合掌し、なかば神憑りのような状態になって、だれが見てもかれ自身の符号と判る文様を板に彫り込んでいた棟方志功であろう。戦争中の非合理主義に対する反撥から、近代合理主義の全盛時代となった敗戦直後には、目や耳にするのさえおぞましい言葉であった呪術と、あらゆる迷信と|魑魅魍魎《ちみもうりよう》の発生源でもあるかのようにおもわれていたアニミズムが、いまや批評家の口から、現代芸術に必要な要素として語られ始めたのである。時代は次第に、美術界では異端と目されていた志功に対して、道を開きつつあったようだった。だが志功にとっても、海外に通じる道は、まだ平坦なものではなかった。
少数の例外をのぞいて、当時の美術界の人人が、志功の作品の持っている本質的な意味に、なかなか気がつかなかったのは、画壇における志功の行動が、時代に逆行しているように見えたからでもあったのだろう。昭和二十八年に梅原龍三郎が国画会の名誉会員に退いたのを機に、志功は国画会を脱退した。
梅原が国展の表面から身を退いたのは、かねがね「自分の仕事本位に進みたい」と考えていたことのほかに、前年秋の今泉篤男との対談も、ひとつの機縁になっていたのかも知れない。あの論争において、二人が一致した点は、以下のようなことだった。日本の美術を本当に近代的なものにするためには、二つのことが行なわれなければならない。まず、現在の日展をやめてしまうか、または文部省の手から名実ともに切離してしまうこと。国はそれにかえて、ビエンナーレ(二年目毎)でもクアドリエンナーレ(四年目毎)でもいいけれども、相当の経費を投じて各国の作品を招待し、大規模な国際美術展を開催すること。これをやらなければ、日本に真の近代絵画を築くことは難しい。それから、ほかの公募団体についても弊害が山積していることを指摘して、「現在のような、どうにもならぬ情実といろ/\なことで結びついている団体関係、こんな国は世界でも少いでしょう」という今泉に、梅原は「世界中に類のないものだ」「今日の団体は、解消できればその方がいいとは思っている」と答えていた。
国展の現場から梅原が退いたのは、公けの場で発言した以上のような考えの筋を通したものともおもわれるが、もともと国画会の版画部内で孤立気味であった志功は、これによって最高最大の支持者を失うことになった。志功は自伝『板極道』に、尊敬する梅原先生がいない国画会にいるのは意味がないと考え、退会届を出したあと、偶然に会った梅原先生と次のような会話をかわした、と述べている。
――「きょう、こうこうこういうわけで、国展に辞表を出して来ました。先生のいない国展にいるのは駄目だし、そんな心持では会にも不忠だし……」
と申し上げたら、先生は、
「ああ、そう。僕がやめたとか、やめないとかいうよりも、君は、これからの、国展板画の人との折り合いの上から、きっとそういうことになるだろうと僕にはわかっていたようなものだ。なにも国展にいたとかいなかったとかいうことに関係はない。とくに、君の板画というのは、もう世の中の仕事なんだから、自分の思うところで、仕事をしていくのが本当だ。それは、それでいいだろう」
というので、
「そうですか。それはありがたいことです」
といって、わたくしはお別れしたのでした。……
ここまでは志功の行動も、筋が通っているようにおもわれる。国画会を脱退したその年の秋に、志功が作品を搬入した先は、日展であった。海外での不評によって、わが国の美術アカデミズムが崩れかかっているいま、日展から在野団体へ、という時代の大勢に逆行して、かれは国画会から日展に転じたのである。志功自身はその理由を「これは別に、日展そのものが、わたくしの仕事に合うからということでは全然なく、ただ日展には、とかくわずらわしい、会合などがないから気楽だったからです。ただ出品料を納めて、それで仕事を出していればよいし、ほかの会のように、同人会がやかましかったり、面倒なやりとりのこともありませんので、気軽なのです」と述べている。そのほかにも、日展になら国展と違って大きな作品を周囲への気兼ねなしに出せる、とか、一般大衆が最も多く見に来る日展に、やがて版画部を設けさせることによって、蔑視されている版画の地位を高めることができる、といった大義名分もあったようだ。
人の眼には、かならずしもそうは映らなかった。前年、スイス・ルガノの国際展における受賞を伝えられた直後の五月に、日本版画協会を脱会した志功は、笹島喜平、下沢木鉢郎、棟方末華、金守世士夫らの同志を糾合して、日本板画院の旗揚げをしていた。日本板画院というのは、すでに戦争中から、後援者の島丈夫を代表者にして名乗りだけは挙げていたもので、ほかにも志功は、日本芸業院という名前の組織も結成していた。かれとしては、画壇から差別を受けている版画家の権威を高めるための橋頭堡をつくるつもりであったのかも知れないが、なかには日本美術院や日本芸術院を連想させるそれらの名称に、志功の大袈裟で独善的な時代錯誤と、いかにも泥臭く田舎者らしいお山の大将的な発想を嗅ぎとって、気恥ずかしい感じを受けたり、眼をそらしたいようなおもいになった人もいたのではないかとおもわれる。また国展から日展への転進に、露骨な権威志向と事大主義を感じとって辟易した人も、少なくなかったに違いない。一番の理解者であった柳宗悦でさえ、のちにこう書いたことがある。「(棟方について……)自分を広告するのには熱心だといふので悪口を云ふ人が時々ありました。一寸無節操な所がないでもありません。国展を退くのはよいとして、すぐ日展に入つて審査員になりたがるなどは、全く見識のないものでした」
実際に志功は後年、日展の審査員になったとき、版画をたくさん入選させたり、他の審査員が認めない版画を強引に特選に推したりして、その年以降、審査員の役は二度と回ってこなかった。また日展の評議員になったときには版画部の独立を計画して、日展に出品していた版画家を集めて日版会をつくり、その会に日本板画院を合流させようとして、結成の趣旨と違う……と、板画院の同人たちの強い反撥を買ったこともあった。
柳宗悦は、まえの文章のすぐそのあとに続けて、「|併《しか》し之で棟方の仕事が駄目になるかと思ふと、少しも関係がありません」と書いている。事実なにやら権謀術数めいた動きも示していた間に、志功は生涯の傑作を、いくつか制作しているのである。われわれも、いましばらく、志功の仕事のほうだけを見て行くことにしよう。
昭和二十七年から二十八年にかけて、志功はベートーヴェンの第九交響曲をテーマにした『歓喜頌板画柵』、仏典の大全集である一切経を主題にした『大蔵経板画柵』(のちに『|湧然《ゆうぜん》する|女者達々《によしやたちたち》』と改題)、キリスト教から材をとった『耶蘇十二使徒板画柵』、天井に貼って見られることを企画した『四神板経天井画柵』(のち『宇宙頌』と改題)……といった大作群を、続々と制作している。題材の選び方からいっても、題名からいっても、画面の大きさからいっても、まことに気宇壮大といっていいそれらの作品において特徴的なのは、登場する人間の肌に入墨のような文様が彫り込まれていたり、あるいはバックを同じような文様が一面に埋め尽していたりして、古代の呪術的装飾をおもわせる異様な迫力を大画面に漲らせていることである。この手法は昭和二十五年ごろ、のちに濱田庄司に捧げられた『|道祖土《さやど》頌』(道祖土は濱田の窯のある益子の地名)の制作前後から目立ってきたもので、そのことは濱田の『棟方に学ぶ』という文章に書かれていることに照応しているようにおもわれる。
――かつて十一世紀のブック・オブ・ケルの挿絵を見せたら、怪奇な動物の輪郭を点描で囲んだ独特な頭文字を一瞥するなり、これだ、この点を貰って、今度はやる、と声を挙げて飛び上ったが、それ以来、華狩板壁画でも、柳緑花紅板画柵でも、点彫りは徹底的に生かされて、最近の素晴しい基督像などは、眼の縁、鼻の頭、手の甲と、思いがけないところまで、点彫りで|鏤《ちりば》められて、実によく利いている。……
これとおなじであるとおもわれる場面が、草柳大蔵氏の『最後の化け物 棟方志功』には、次のように書かれている。濱田が、ケルト風の点描に飾られたキリスト教画を見せたとき、――棟方は「きょうは、もう、お腹がいっぱいになりました」と、お茶いっぱい飲まずに帰っていった。まもなく、彼はその技法を完全にマスターして、作品の中に生かしたそうだ。……
濱田がその本を志功に見せたのが、いつであったのか、はっきりとは判らないが、人体や背景などに点描のような文様が見られるのは、昭和二十五、六年ごろからのようだ。濱田が示したブック・オブ・ケルというのが、"Book of Kells"(ケルズの書)であるとするなら、それはアイルランド装飾写本の代表的作品である挿絵入りのラテン語福音書で、女子美術大学教授松島道也氏の説明によれば「全ページ大の多数のさし絵は抽象的図形、福音記者像と象徴、大形の装飾花文字、聖母子などを表わし、これらはいずれもケルト系の|編紐文《あみひももん》、直線や曲線の幾何学文、|螺旋《らせん》文などの精密、複雑な模様に、図式化された人物・鳥獣・植物・空想的怪物などを組みこんだきわめて独自の装飾様式を示している」ものである。
濱田は、現物がダブリンの大学図書館にあるその装飾写本の挿絵を、写真版によって志功に見せたのだろう。アイルランド装飾写本の様式のもとになっていたケルト美術、すなわち古代のヨーロッパで北方人種的な特色を示していた先住民ケルト人の美術の本質は、柳宗玄氏によれば、「地中海的な自然主義とは正反対の、一種の抽象主義にある。つまり、自然再現の美術ではなく、まったく観念的に構想された幾何学的な形態の芸術である。たとえ人間(おもにギリシア・ローマ人の影響による)や動物(スキタイ人の影響か)などを表現するにしても、それらの原型をまったく無視して、幾何学的な形に作り変えてしまう。それらの抽象的な形は、一種の文様ともいえるが、きわめて豊かな呪術的、宗教的内容をもち、ケルト人の日常生活に重要な意味をもっていたと思われる」と説明されている。
いうまでもないことであろうけれども、抽象主義といい表現主義といい、そうした名称は別として、現代芸術が初めて生み出したものではなく、原始時代の昔にこそ地球上に普遍的に、豊富にあったもので、現代の美術の表現が形式化して袋小路に入ったときの突破口は、多くいったん原始芸術の怪異な未開の世界に回帰し、そこから起死回生の果敢な飛躍と革新を試みた芸術家たちによって切開かれて来たものと考えられる。抽象的なケルト美術の代表的な文様である編紐文を見ると、わが国の縄文土器の文様を想起せずにはいられない。縄文土器に似た文様は、部分的にはアフリカにも認められるという。これがつまり、土方定一氏のいう「呪術の共通性」なのであろう。濱田庄司は前記の文章に続けて、こう書いている。
――アンテナばかりに気を使う作家は多いが、棟方はアースも深く根を下ろしていて、貰ったものは完全に体中を通し、棟方以上も以下も強力に仕事に参加させる。……
くりかえしいうことになるけれども、志功は美術界から軽視されている一方で、このように的確な理解者の支持を受けていたのだ。志功が生まれ育った故郷の青森は、東北地方縄文式晩期の文化が、大量の土器を出土した津軽の地名をとって亀ヶ岡式文化と呼ばれているくらい、周囲に縄文の痕跡が濃く残されている土地である。濱田庄司からアイルランド装飾写本の挿絵を見せられたとき、おそらく志功の体は、かならずしも本人は意識していなくても、高く掲げたアンテナにおいて遙か遠く古代ケルト人の呪術に感応し、地底に通じるアースにおいてわが国の縄文人の呪術に接続して、一瞬のうちに地と空をめぐって両者をつなぐ言わば全世界的な回路の精神的受像器となっていたのではないだろうか。そのことの具体的なあらわれが、昭和二十八年における『湧然する女者達々』の制作であり、それがやがてサンパウロ・ビエナールでの受賞につながって行った、根源の理由でもあるようにおもわれるのである。
『湧然する女者達々』は、初め『大蔵経板画柵』として構想されたものだった。志功は「大蔵経|所謂《いわゆる》一切経の主な六つの経を、一つ一つ女体に表そう」という壮大な意図にもとづいて制作に取りかかったのだけれど、それはうまく進まなかった。
――華厳、|阿含《あごん》、般若心経等に最後が法華経という順で、板画にしようとしたのですが、最後に根負けして、湧然する女者達々になったのです。……
大画面を構成する何十枚もの板木を、不眠不休で彫り進む集中力と体力と根気はあっても、机の前に端坐して、大部の経を丹念に読み進み、それをもとにしてあれこれと想を練るといったことは、不得手であったのかも知れない。多分かれにとっては、描くことが考えることであり、考えることは全身を動かして板を彫ることであったのだろう。また今泉篤男氏の言葉でいえば「モダモダしている」ことが、もともと性に合わず、つねに「発想の出発点から表現の結果の終点までをなるべく最短の距離で到達しよう」として来た画家であったからなのかもしれない。大蔵経の思想を女体に移そう、という最初の構想にかえて、かれが選んだのは、「妙、如、溢、湧、飛、馳」という六つのイメージを、女体で表現しようとする考えだった。
――……こういうまっぱだかの女体を板画にする時には、女のあるところは何でもかんでも、一糸まとわずのところまで、彫ってしまうんです。そして、あんまりそういうところが出すぎた場合は、それをあとで、裏からまぶして消すのです。しかし一回は必ず、全部出してもらうのです。想や、心に嘘を|吐《つ》きたくないのです。それで、ある|モノ《ヽヽ》を出すのです。……
志功が目ざしていたのは「板画でなくては生まれてこない、湧いてこない、溢れてこない女体」の表現であった。そうして彫刻刀の先から、摺り上がったときには原始の闇をおもわせる黒地となる面に彫り出されて来たのは、あのおもいきり腰と太腿の張った、すこぶる量感に富む独得な女体の群像であった。かれはその女体の背景の部分を、無数の点描をふくむ呪術的な文様で埋めて行った。
呪術については、さまざまな解釈と定義があり、近代においては「誤った観念連合にもとづく秘密学、偽科学」とする説が優勢となったが(そして事実ほぼその通りのものが殆どであったに違いないが)、おそらく原始の世界においては宗教に近く、人知のおよばぬ死と天変地異への怖れ、大自然にひそんでいる目には見えない精霊たちへの畏敬と生命力の讃美、わが身と身近な人人の無事を願う懸命の祈り……といった感情を最初の要素として始まったものであったのだろう。とするなら人間は、たんなる自己顕示や、生命を|脅《おびや》かす邪悪なものへの威嚇の目的ばかりでなく、この宇宙を支配する大いなる者の力の加護をも求めて、自分の顔や肌や、生命を保つ貴重な食物を貯えておく容器などに、呪術的な装飾を施していたものと考えられる。してみると、たとえば木や器に文様を刻みこむといったようなことは、絵画に先立つ人間の最も始源的な祈りの行為であったといえるのではあるまいか。棟方志功の内部には、現代人には珍しく、そうした原始人の心性が、豊かに生きていたものとおもわれる。だれが見ても一目でかれの版画と判る独得な女体のかたちに、亀ヶ岡から出土した遮光器土偶の体型との類似を感じる人は少なくあるまい。そして前作の『歓喜頌』について「女体の身体には、南方あたりの土人の身体の入墨のように、もりあがった線を、いろいろな線でつかいました」と語るかれの言葉は、
――男女多く|臂《うで》に|黥《げい》し、面に黥し身に文し、水に没して魚を捕う。文字無し、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。佛法を敬す。百濟に於いて佛經を求得し、始めて文字有り。|卜筮《ぼくぜい》を知り、|尤《もつと》も|巫覡《ふげき》(かんなぎ)を信ず。……
という『隋書倭国伝』の一節をも、おもい出させるのである。
志功が版画のなかの人体に、入墨のような呪術的文様を彫りこんでいたことには、当人が意識していたよりも、もっと深い、どこからか発信されている重大な暗号のような意味が隠されていたのかも知れなかった。周知のように『魏志倭人伝』や『後漢書倭伝』は、倭人の男子が、「皆|黥面《げいめん》文身」していたこと、すなわち顔や肌に入墨を施していたことを伝えている。学者の研究によって明らかにされているところによれば、水に潜って魚を獲る人人が、水中での危害を避けるために、竜や鰐の図様や、鱗の文様を体に入墨するのは、中国の南部、江南地方を中心に分布していた習俗であるらしい。金関丈夫博士は、『むなかた』というエッセイにおいて、次のように述べている。
「北九州の|宗像《むなかた》は、もとは※[#「匈/月」]形と書かれた。胸に鱗形の入墨をしていた|海部《あま》の子孫、これが北九州のムナカタ氏である。古代の北九州の水人が入墨をしていたこと、海に沈没して魚蛤を捕ったことも、『魏志』の倭人伝にはっきりでている」
志功が自分の先祖を、九州の宗像氏であると信じていたことは、何度も繰返して来た通りだ。その宗像のもとは※[#「匈/月」]形であり、「※[#「匈/月」]」という字は「胸」と同じで、つまりムナカタとは胸に入墨が施されているのを示す姓であったことを、かれは知っていたのだろうか……。金関博士は、こうも述べている。
「日本古代の|海部《あま》は、支那海沿岸一帯の、海神をトーテムとする文身族と、その習俗、信仰をともにしていた。議論は後日にゆずるが、おそらく日本に弥生文化を運んだのは、彼らの祖先であり、その渡来の初頭には、漁をしながら、河口に近い湿地帯に稲をつくっていた」
とするなら、これは南方系の漁撈・水稲耕作民の習俗であるようにおもわれ、志功が自分の先祖の地を南方に想定していたこと、それに大作『歓喜頌』に登場する数数の女体に呪術的文様を彫りこんでいたとき「南方あたりの土人の入墨のように……」と意識していたこととも符合する。
一方、『日本書紀』の景行天皇廿七年のくだりには、――武内宿彌、|東《あずまの》国より還りまゐきて|奏言《まう》さく、|東夷《あずまのひな》の中、|日高見《ひたかみの》国有り、其の国の人、|男女《おとこめのこ》並に|椎結《かみをあげ》、|身《み》を|文《もどろ》けて、人と為り|勇悍《いさみたけ》し。是を総べて|蝦夷《えみし》と曰ふ。……とある。おそらくわがくに最後の縄文人であったろうとおもわれる東北地方の原住民で、漁撈と狩猟によって暮していた蝦夷もまた「|身《み》を|文《もどろ》け」、すなわち体に入墨をしていたのである。
いま日本民族といわれているものの多様な源流が、まだ完全には明らかにされていないように、呪術的文様を施されたころの志功板画の女体群も、とくに南方的な感じであるとか、あるいは北方的な感じであるとか、どちらか一方に決める訳にはいかない。本州北端の、もともと蝦夷の土地であった青森に生まれ育ちながら、沖縄を本当の故郷でもあるかのようにおもっていた志功の感覚は、島尾敏雄氏の造語によっていうなら、日本以前のヤポネシア%Iなものであって、とうていジャポニカ≠ネどという箱庭のような範疇のなかに、おさまりきれるものではなかった。そして志功自身は無論そうした名称では意識していなかったであろうけれども、かれの混沌としたヤポネシア感覚のなかから、太古よりのエネルギーを体現して生まれて来たのが、傑作『湧然する女者達々』であったようにおもわれるのである。
初めは左右に三体ずつ六体の女体の向きが、横位置に並べられていて、昭和二十九年五月の第一回現代日本美術展に出品されたときの題が、――飛翔する女者達々。……と、それから二十数年後の流行語に先駆ける感じになっていたのも、偶然であるとはおもえない。なぜなら、この作品の真の主題は、女性の生命力の強靭さを讃美する志功流のフェミニズムであったのに違いないとおもわれるからである。このフェミニズムこそが『鐘溪頌』と『女人観世音』に始まる志功の戦後最大のテーマであった。
発想が所謂「日本的」な枠から、はみ出している点では、昭和二十九年秋の日展に出した、百号大の『華狩頌板壁画』も同様である。このころ、志功の身近にいた海上雅臣氏によれば、
――この板画のたたえる情感のもとは、法隆寺の「四天王獅猟文錦裂」からモチーフを得て制作されたものでした。当時、龍村平蔵によるその裂の復元がすすめられ、弓をかまえながら矢をつがえぬ武将の馬上のリズムを感じさせる裂文様は志功に興奮をもたらし、弓ももたず心で花を射る、という「華狩頌」がまとめられたものです。……
という、その法隆寺蔵の「四天王獅猟文錦裂」を、写真版で見ると、ペルシャに源流を発するという連珠文の円形のなかで馬上から獅子を射とうとしている四人の騎士の顔は、あきらかに異国人のもので、日本的な感じは、どこもない。
志功自身の言によれば、この作品の構図のもとになったのは、高句麗舞踊塚の壁画の狩猟図であるという。友人の写真家坂本万七が撮影して来て、横一間、高さ四尺くらいに引伸ばしたものを戦前に貰い、長く飾っていたのが、戦災で焼失してしまってからも、脳裡に残っていたというのだ。たしかに比較して見ると、『華狩頌』の馬と射手の恰好は、高句麗舞踊塚壁画のそれと、ほぼ同一といっていいくらい、そっくりである。『華狩頌』の構図が、高句麗舞踊塚の壁画の写真に基づいていることには、間違いあるまい。もっとあとには、制作の動機を、次のようにもいっている。
「アイヌが祭するとき、いちばん先に、東、西、南、北に向って、特別きれいなけずり花――ご幣のような矢を天に向って、四方にそれを打つんです」…「ひとつ、ああいうテーマで何かつくろうというのでかかったのが、『華狩の柵』です。花を狩るこころおもいで板画しました。けものを狩るには、弓とか鉄砲とかを使うけれども、花だと、心で花を狩る。……」
ここで語られている祭儀は、アイヌのイオマンテ(熊送り)であろう。花矢はこの祭儀において、人間と神のあいだの使者の役割を果たすもので、|矢柄《やがら》には美術的な彫刻が施されており、|矢尻《やじり》も木製で、熊に突き刺さっても、あまりひどく傷つけないようになっていて、花矢の儀は、熊の息の根をとめる前に行なわれ、熊に射当てた花矢を払い落として、矢尻と矢柄を離すと、花矢の魂だけが抜けて、熊の魂とともに神の国へ行く、と信じられている。儀式の最後に花矢はもういちど東の空に向かって放たれる……。志功は何度目かの北海道旅行のときに知ったイオマンテの花矢を、自分の頭の中で、花を狩る矢、というふうに変化させていたのだろう。
「四天王獅猟文錦裂」と、高句麗舞踊塚壁画と、アイヌの花矢と、その三つがやがてひとつの構想にまとまったのだとすれば、『華狩頌』のルーツは、ペルシャ、古代朝鮮、アイヌモシリの諸方に向かって伸びていることになる。馬上の騎手が弓を射る恰好だけで、矢も弓も持たず、心で花を狩っている姿を描いて、おそらくは非武装平和への念願をも籠めていたのであろうこの板壁画は、のちに世界各地の美術館に収められるくらい海外でも人気の高い作品となった。作者も、これは「みんなに好きがられます」と語っているが、実際に展覧会に行って見ても、ロマンチックな主題と題名のせいか、土俗性と装飾性が程よく調和して可憐な愛嬌のある好ましい雰囲気を醸し出しているためか、この作品の前に立止まる人は、ことに若い女性をふくめて非常に多い。
昭和三十年の一月二十九日、第三回のサンパウロ・ビエナールに出品する日本作家が、選考委員会で次のように決まった。
[#1字下げ]〈絵画〉岡田謙三、山口長男、脇田和、荒井龍雄。
[#1字下げ]〈彫刻〉植木茂、昆野恒。
[#1字下げ]〈版画〉恩地孝四郎、棟方志功。
二年まえの第二回サンパウロ・ビエナールには、第一回のときの苦い教訓によって、前衛的な作風の画家が六人、版画は志功もふくめて十一人が参加し、それぞれ数点ずつを出品したのだが、結局、だれも受賞できなかった。そこで版画は、僅か二人にまでしぼられて来たのである。サンパウロ・ビエナールは、イタリアのヴェニス、アメリカのピッツバーグと並んで世界の三大美術展のひとつといわれるようになっていた。
志功が送ったのは、『釈迦十大弟子』と、『湧然する女者達々』をふくめた五点だった。ほかの日本作家も、大体五点ずつである。合計四十点ほどの日本出品作には、展覧会場の最後のほうの部屋が|宛《あてが》われていた。大抵の国が立派につくっている作品紹介のパンフレットさえ、日本は用意していなかった。これに対してフランスは、全部で二百点を出品し、なかでもレジェは三十八点、ドランは十八点を並べるという、例によって重点を鮮明にさせた展示ぶりだった。七月一日の開会当日に行なわれた審査会で、絵画国際部門の大賞は、予想通りレジェが獲得した。
志功に対する版画国際部門の最高賞授賞は、展覧会会長のフランシスコ・マタラッツオ・ソブリーノ近代美術館長の名前で、国際文化振興会あてに電報で伝えられて来た。翌日の毎日新聞は、「賞金は五万クルゼイロ(邦貨約五十万円)だが、同展のような大国際展で日本美術が最高賞となったのはこれが最初である」と報道し、二日後の「時の人」の欄に、志功を登場させた。この受賞についての、もっともまとまった論評であり、当時の美術界が志功の存在を、どのように見ていたかが、よく判る文章であるとおもわれるので、全文を引用してみたい。見出しは「ガン固な日本主義 国際版画賞を受賞した棟方志功」である。
――第三回サンパウロ・ビエンナーレ(隔年国際美術展)で国際版画賞を獲得した。五二年スイス・ルガノの国際版画展でも入賞しているから、これで完全に世界のムナカタ≠ノなったわけである。
青森市に生れ、小学校卒だけで画家を志して上京、最初は油絵で白馬会や太平洋画会などに出品していたが、次第に版画に移り、その間帝展で特選、岡田賞、佐分賞を受けている。版画家に転向してからはメキメキと頭角を現わし、例の宗教的、民芸的アクの強い作風を確立、現代絵馬とでもいった神秘性で異色をうたわれるようになった。
受賞作の「湧然する女者達々」にしても、題だけでは何のことかさっぱりわからないが、鋭い刀で切りつけるようなタッチや黒と白の調子の強い単色調に、日本的風土感が認められたのであろう。
彼は数年前まで国画会版画部の首脳者だったが、同会の御大梅原龍三郎が第一線を退くと間もなく脱退してしまった。会の空気がモダンアートになったのが気に入らなかったらしいがしばらくして日本板画院を設立してその主宰者になった。日本の伝統は木版画で、木版は木に彫るのだから絶対板≠ナあって版≠ナはないという確信なのである。
このガン固なまでの日本主義が今回の栄冠をかちとったので、その点、日本のため板画のため御同慶のいたりだが、恩地孝四郎亡きあと彼あたりが版画界の指導性を確立しなければならないのだから、今後は芸術だけでなく人間としても広い視野を持ってほしいものである。五十二才。……
これによると、志功は頑固なまでの日本主義者であり、今回の受賞は日本的風土感が認められたもので、人間としては、視野の狭いタイプ、ということになる。こうした見方は、美術界のなかで、さほど偏っていたものではなかったろう。版画が絵画よりも数段下のものとおもわれていたせいかも知れないが、わが国における国際展では初めての志功の最高賞受賞は、その後、美術ジャーナリズムでは、ほとんど取上げられなかった。たんなる無視というよりも、評論家のなかには、志功の作風がわが国の美術を代表しているように海外で受取られることを、あまり好ましくない、と考えていた人もいたようだ。
翌昭和三十一年の初めごろ、その年のヴェニス・ビエンナーレへの出品者が、〈絵画〉須田國太郎、山口長男、脇田和、〈彫刻〉植木茂、山本豊市、〈版画〉棟方志功、の六人に決まって、出品作の展覧会が開かれたのに対し、ある対談美術時評の頁で、おおよそ次のような会話が、かわされている。
「……『ビエンナーレ出品作国内展示展』なんかどう思いました」「そうですね。『輸出向け』をよく並べたという感じがしたんですがね。ああいう輸出向けの感覚でえらぶことが、一番インターナショナルな意味を持っている作家をとることになるかどうか」「……ということは」「日本的でもあり海外向でもあるというような、あまりにも規格に合致している作家が選ばれたんじゃないかと思う。植木茂なんか僕は賛成だけれども……」「棟方志功は反対だというんですか」「あんまり賛成じゃない。ただ海外で評判をとっているからね」「だが国際的ということは民族的ということの裏返しだと思いませんか。ヴェニスのビエンナーレ展で、世界各国の作品が集まって、しかもそれがコンクールの形式ですから、どこに評価をおくかということになると、やはり民族性とかあるいは民族的なものにウェイトがかかってくると思うんです。もちろんそれを表現する手段としての技術や、そういうものがインターナショナルでなければ、それこそ彼らに話しかけられないけれども、しかし向うが受けとる場合に、おそらく棟方志功がサンパウロで|賞《プリ》をとったということの中に含まれていることは、東洋というものを世界が感じるというのはあの辺じゃないかということで、これ悲しんでいいのか喜んでいいのか」「あちらでいうジャポニカ・スタイルというものを日本人までが考えなくてもいいと思うんです。須田國太郎というのは個性のはっきりした、それで必ずしもそういうグーワみたいなもので描いているわけじゃないんですから、果してアッピールするかどうか、出してみるとおもしろいと思うんですが……。棟方志功なんていうのは、どの点で訴えどううけとられるかわかりきっている」
ここでも志功は、真にインターナショナルな作家であるとは考えられていない。暗に輸出向けの代表、ジャポニカ・スタイルの典型といわれているような気配も感じられる。こうした考えは、志功が国際的評価を得たあとの今日でも、それほど珍しいものではあるまい。では、この年のヴェニス・ビエンナーレで、志功の作品は、実際にはどのようにして、前回のアルプとホワン・ミロに続く版画部門の大賞を獲得することができたのだろうか。以下、その経過を、富永惣一氏や今泉篤男氏、イタリアに在住していた長谷川路可氏らの当時の文章と報告によって、できるだけ詳しく追って見て行くことにしよう。
十一
この年、ヴェニス・ビエンナーレの会場となる公園には、初めて日本館が建設された。ソヴィエト館とドイツ館に挟まれた小高い丘の上に、鬱蒼たる緑の木木を背負っている日本館には、まだ工事が行なわれているうちから、各国の人人が、しきりに訪ねて来た。吉阪隆正の設計によるその建物は、完成前から、無視することのできぬ何物かが新たに誕生しつつあるという予感を、見る者に与えていたからである。やがて完成した建物の出来映えは、日本の美術と建築の水準に、いささか疑いの念を抱いていた他国の人は無論のこと、設計図と模型を見ていた日本側代表の予想をも、遙かに上回るものだった。
小高い丘の上に、さらに建物の床はがっしりとして力強いコンクリートの|脚柱《ピロテイ》によって三メートルの高さにまで持上げられていて、平屋建の四面の白い壁は日本独得の漆喰の壁をおもわせたが、実はマルモリーノと呼ばれる大理石の粉で塗り固めたもので周囲の緑と鮮やかな対照をなしており、全体に土蔵の重厚さと近代建築の斬新さがともにあって、ヨーロッパの人人には目新しい簡潔な美を生み出していた。三メートルの高さの入口に続く階段の下は、泉水になっている。その横に、工事中に敷地から掘出された大きな木の根がオブジェとして置かれているのを見て、なかに入ると、床は人造大理石、頭上には日本の民家の構造をおもわせる太いコンクリートの|梁《はり》が、縦横に走っており、その上の|枡《ます》形の格子に区切られたガラス張りの天井から入ってくる光が、六十坪ほどの空間をやわらかく満たしていて、ここにも伝統と近代感覚のまじり合った空気が漂っていた。
設計者から最初の試案が国内で示されたとき、関係者のなかには、日本的な感じが薄いのではないか……という疑問を持った人もいたのだが、その鉄筋コンクリートの建物が、ヴェニスの公園の一隅に建てられてみると、外国の人の眼には、成程、これが現代の日本なのか、という印象を与えたようであった。五月の末にヴェニスに着いた日本代表の一人である美術評論家の富永惣一氏が、ビエンナーレ展の事務局を訪ねたとき、事務総長のバルキニ氏は富永氏の体を抱くようにして迎え入れ、日本館の美しさへの讃辞と、イタリアにそのような素晴らしい贈物をしてくれたことへの感謝の念を、口をきわめて述べたてた。
「……実をいうと、日本館が何年たっても出来ないので、わたしたちは、いささか失望していました。いよいよ建てられると聞いても、失礼ながら、木造の小さなものかとおもっていたのですが、まったくわたしたちの予想を越えた、実に堂々たる、そして素晴らしい日本的構造を示す建築が実現したのを見て、わたしたちは声を放って驚き、感心しました。これは日本が、芸術的にすぐれているばかりでなく、経済的にも政治的にも、十分に実力をそなえていることを物語っています。本当にわたしたちは、なんとお礼をいっていいか判りません」
おなじような讃辞を、富永氏はそれから何度も聞いた。ビエンナーレ展の開幕に先立つ六月十一日、日本館の開館記念のレセプションが行なわれた。その日は朝からかなり激しい雨で、日本代表の伊原宇三郎、富永惣一、石橋正二郎氏らは、気を揉んでいたのだが、定刻の十一時半になると、場内は続続と集まって来た三百人をこえる人で埋まった。これは日本側が予想していた二倍の人数だった。接待にあたったのは、日本代表の三氏のほか、大使、大使館員、イタリア在住の日本人など約二十人、うち六人は和服の女性であった。ビエンナーレ展会長アレッシ博士の日本館を絶讃した祝辞。シャンパンの乾盃。人の渦から一番よく聞かれたのは「ベルレ、ベルレ」(美しい、美しい)「ファンタスティック!」といった熱っぽい感嘆の言葉で、日本館設計者の吉阪隆正氏は人気の中心になっていた。
参会者の一人は、溜息まじりに日本側の関係者にこういった。「日本はうらやましいよ。金持の寄附で、こんなに立派なパビヨンが建つなんて……」この建物は、ブリヂストンタイヤの石橋正二郎氏が建築費を寄贈してつくられたものだった。それまでの日本はパビヨンもなく、多数の代表団を送りこんで来てはレセプションを行ないカクテル・パーティーを開きゴンドラを借り切っての水上パーティーを催したりしてPRと文化外交に勤めている他国の活躍を横目で見て来たのだが、そうした立遅れから、こんどは会場の公園のなかでも最も目立つ新しいパビヨンを建てることができて、逆にパビヨンが古色を帯びてきた各国から羨ましがられる結果になっていたのだ。
翌十二日夜は、石橋氏主催の招宴が開かれた。参会者の関心は陳列されている個個の作品に移り、早くも棟方志功の版画を買いたいという人が現われて、日本側の関係者をあわてさせた。ヴェニス・ビエンナーレは、作品を売るのである。受賞の名誉を競う現代美術のオリンピックであることは勿論だが、同時に美術市場でもあるのだった。前回の一九五四年度に売れた作品の数は九百六十二点、売上げ高は八千四百五十万リラ、当時の邦貨に換算して約五千万円。いまなら数億ということになるだろう。現代美術の新しい流れを代表する作品を収集するために、世界中の美術館から人が派遣されて来る、画商がやって来る、美術愛好者ばかりではない観光客も集まって来る、実に四箇月の長期にわたる会期はイタリアの観光シーズンと重なっていて、ビエンナーレ展を花やかに盛上げることは観光収入の増大にもつながっているのである。
開会式の当日は、イタリア名物の雲ひとつない青空だった。大統領の一行は、金色に飾られた四隻のゴンドラを仕立てて運河を進んで来た。会場前の岸壁から軍楽隊の吹奏に迎えられて上陸し、イタリア旗を中心に参加三十四箇国の国旗が入口にはためいている公園内の式場に入って来る。代表団席には、各国外交団、外国記者団、美術関係者および招待客……。軍楽隊の国歌吹奏が終って、グロンキ大統領が着席すると、会長のアレッシ博士が立上がって、開会の挨拶――。こうして第二十八回ヴェニス・ビエンナーレ国際美術展の幕は開かれた。
この年の会場では、絵画よりも彫刻が目立った。今泉篤男氏の表現によれば、やや生命力を失って沈滞気味になって来た絵画が辿っている下降線と、新しい息吹きを感じさせる彫刻の描く上昇線とが、交叉した印象を与える年だった。そのことは、主催国のイタリアが、絵画王国のフランスに対し、彫刻において多くの秀れた作家を擁して世界をリードしていたことにも関係があったのかも知れない。すでに大賞を獲得したマリノ・マリーニとファッチーニは出品していなかったが、マンズー、グレコ、メッシーナ、マスケリーニ、ミングッティ、チェルチィ……など、現代イタリア彫刻の実力を遺憾なく発揮した展示は、その質とともに量でも他を圧していた。なかでも目立っていたのはジャコモ・マンズーの近作十四点で、エミリオ・グレコの新作と旧作をまじえた出品も開場前から評判が高かった。このビエンナーレ展では、すでに開場前から各国のコミサリオ(審査員)のあいだで、さまざまな情報の交換や、自国の作家を有利に導くための動きが、活溌に行なわれているのである。ジャコモ・マンズーに関しては、審査委員会あての手紙で、受賞候補になることを辞退して来たという話が伝わっていた。
フランスの彫刻は、スイス生まれの巨匠ジャコメッティと新人セザールの二本立てで、この年のイギリスは彫刻家のチャドウィック一人に賭けている感じだった。絵画ではフランスが、入ってすぐの部屋に、ジャック・ヴィヨンの目がさめるような明るい色彩の抽象絵画を盛大に並べていたので、今回はこの作家の受賞を期待しているのだと判った。右の一室はビュッフェに与えられていたが、ことし七十一歳のヴィヨンは今回を逸すると受賞の機会を失うことになるかも知れないので、フランスはかれを推すことに全力を挙げているという評判であった。
ドイツは現役作家の作品のほかに、ノルデの遺作を数十点出していた。表現派に対するナチスの弾圧から戦後に|蘇《よみがえ》り、すこしも衰えを感じさせぬ豊かな色彩感覚で晩年にいたるまで健在ぶりを示して、四年前のヴェニス・ビエンナーレでは版画部門の大賞を得ていたかれは、この年の四月、八十九歳で没していた。アメリカは開場前に、今回随一の大パーティーを催していたのだが、シカゴの美術館が銓衡を受持ったという出品は、ひとり一、二点ずつであったため、多様な傾向を紹介してはいたけれども、印象が散漫であり、前回注目を浴びたベン・シャーンや、デ・クーニングとジャクソン・ポロックら前衛派の作品も、あまり精彩を感じさせなかった。アクション・ペインティングの創始者であったポロックは、この二箇月後に自動車事故で四十四歳の生涯を閉じている。ソヴィエトの出品は写実的な作品が多く、ほかの国のパビヨンとは随分ちがった、硬質で重重しい雰囲気を漂わせていた。
さて、日本館の陳列は、須田國太郎、山口長男、脇田和の油絵、植木茂、山本豊市の彫刻が、それぞれ十点ずつだった。須田の東洋的な主題と色感には、とくにヨーロッパの人人が興味を示し、それは単なる社交辞令の域をこえていて、一、二の作品については売価が訊ねられた。脇田の独得の日本的な抒情も好評で、『水槽の鳥』の前には立止まって凝視する人が少なくなく、一人のイタリア人は脇田の作品を「このビエンナーレのピークだ」と激賞した。それも社交辞令でなかったらしいことは、あとで判る。山口の抽象表現はアメリカ人に喜ばれ、シカゴの美術館長も関心を持ち、多くの人がヨーロッパやアメリカの抽象表現とは違った時間と空間の扱い方、独自の要約と含蓄のあることを認めた。
どこの国の人ということなく、圧倒的に好評であったのは、棟方志功の版画であった。その前に立つ人たちの愕然とした表情が、言葉より雄弁に受けた衝撃の強さを物語っていた。このビエンナーレに志功が出品したのは、全部屏風仕立てで、『釈迦十大弟子』六曲一双、『歓喜頌』六曲一双、『耶蘇十二使徒板画柵』六曲半双、『十二人の羅者達』(『鐘溪頌』のうち十二図の抜粋)六曲半双、『湧然する女者達々』二曲半双、『四神板経天井画柵』二曲半双、『柳緑花紅頌』二曲一双の七点、かれの代表作と自信作を殆ど網羅し、横の長さにして延べ二十一間の壁面を領する、壮観といってよい展示であった。
この屏風仕立てが、棟方のところだけ背後の壁面の色が暗くなっていることとの対照で、抜群の会場効果を挙げていた。天井から入って来るしっとりとした光線も、外国人が見たことのない屏風仕立てという展示形式と、和紙の質感を際立たせていた。それに戦前から狭い一室だけに冷遇されていた国画会の版画部で、他を圧倒するために版画の常識を破る大画面への拡大を推し進めて来た志功の作品は、領する壁面が広がれば広がるほど、ますます真価を発揮して、室内の空間に作者の気魄にみちた緊張感をもたらすのである。こういうと外国人から見ればエキゾチックな展示形式と、この年の日本館新設によって初めて可能となった広い壁面の占有による会場効果が、志功の好評の主因であるかのようにおもわれるかも知れないが、今泉篤男氏は帰国後、「今度の棟方志功の作品はかりに間借りをして出していても、問題になったと思う」と語り、雑誌「みづゑ」にこう書いている。
――今年のビエンナーレには版画に棟方以外に特に秀れたものが見あたらず、僅かにフランスのアダムのオー・フォールの作品が他に注目されたぐらいのものであった。それにしても棟方の白黒の版画の簡潔な直截さ、奔放な自由さ、何よりもそこにこもっている息の強さ、が人々に深い感銘を与えたらしい。元来、日本の美術史のうちにアルカイスムの時期というものがほとんどなかったことが、むしろ近代美術の立ちおくれになったと私はかねて思っているが、棟方の場合は版画の世界でそのアルカイスムの段階を自から通過していたのである。そのことは棟方の作品を日本の国内で単に民芸風だの、下手物だのといって片附ける前に充分考えられていい点だと私は思っている。……
現代の絵画が、新しい形式の追求に走るあまり、素朴な生命力をやや失いかけている感のあるなかで、逆に古代を求めた棟方のアルカイックな版画の息の強さが、見る者に感銘を与えたというのである。第二十八回ヴェニス・ビエンナーレの審査会は、六月十四日に行なわれた。まえに挙げた人の名前でいえば、彫刻部門のイタリア作家としてはエミリオ・グレコ、外国作家としてはイギリスのチャドウィックが大賞を獲得した。絵画部門の国際大賞はフランスのジャック・ヴィヨンに決まったが、第一回の投票で脇田和も三票を得たことは、特記しておかなければならない。かりに一票は日本側審査員のものとしても、ほかに二人の審査員が、脇田の作品をビエンナーレの全油絵のなかでの最高作と認めたことになる。審査員として参加していた富永惣一氏は、朝日新聞に寄せた報告で、日本の油絵が、いずれも好評を得たことを述べたのちに、こう書いている。
「しかし、これらの好意ある感想は、棟方志功の作品に至って無条件的絶賛へと高まったのである」…「棟方芸術の推称の根底は、日本の長く古い芸術の伝統の上に、新しい形式感を盛り上げている点である。強くて、歯切れよく、そして濃い人間的情感を熱っぽく表現している点である。生気はつらつと動きまわっているこの人間像のエネルギーにたいして、各国人もかぶとを脱いだ。こうして授賞審査の日、期せずして投票は棟方へ集中した。フランスの版画家アダムへの声も少なくなかったが、四回の投票の後、ついに堂々たる入選は決定し、三十人に及ぶ審査員はいっせいに日本代表審査員の私に向って拍手した」
富永氏が挙げている新しい形式感、強さ、歯切れのよさ、濃い人間的情感、生気溌溂とした人間像のエネルギー、それに今泉氏の挙げた簡潔な直截さ、奔放な自由さ、息の強さ……といった特徴は、別に日本的であるとか、東洋的であるとかいったような、一定の地域的な枠のなかに封じ込められるものではあるまい。三十人に及ぶ審査員の拍手が落着いたあと、棟方志功の芸術を称讃して祝辞を述べた審査会の議長は、四年前のヴェニス・ビエンナーレで土方定一氏が日本側出品作についての感想を求めたとき、「性格がないから、全然記憶に残らない。だから批評できない」と、|膠《にべ》もなく答えたというフランスの批評家レイモン・コニアであった。富永は立上がって祝辞に答え、棟方志功の芸術の特色と、これまでの長い努力について、約五分間のスピーチを行なった。審査会が終ったあと、富永氏のもとへは、フランスやドイツの美術雑誌から、ムナカタの芸術についての論文の注文が、次次に寄せられて来た。志功の出品作のうち四神板経天井画柵は、依頼によってヴェニスの近代美術館に納められ、アメリカや、ほかの国からも作品購入の申込みが、相次いで日本代表に寄せられた。少なくともこの時と処での志功は、まさしく「世界のムナカタ」であった。
十二
志功の受賞は最初、毎日新聞に「棟方氏に伊首相賞」という一段の見出しで、次のように報じられた。
――〔ヴェニス十五日発=AFP特約〕イタリアのヴェニスで十六日から開かれる第二十八回国際美術展(ビエンナーレ)の審査会は十四日夜開かれ、日本から出品された棟方志功氏(版画)に「イタリア首相賞」=二十五万リラ・邦貨十四万四千円=が授与されることに決った。なお国際大賞は絵画ジャック・ヴィヨン(仏)、彫刻リーン・シャドウィック(英)、版画アルドマー・マルタン(ブラジル)に決定。……
これによると、版画部門の国際大賞はブラジルのマルタンで、志功に与えられたのは、それより下の賞であるようにも読みとれ、その「イタリア首相賞」なるものが、果たしてどの程度の賞であるのか、よく判らない。記事が出るまえに、新聞社から受賞を伝えられた志功は、問われるままに受賞の喜びを語ったが、まだよく見当が掴めなくて、事情が判るのではないか、とおもわれるあたりに、片っ端から躍起になって電話をかけたのだけれども、大賞とイタリア首相賞との関係は判らなかった。
まもなく東京新聞に今泉篤男氏の報告が出て、志功の受けたのが版画部門の国際大賞(グラン・プリ)であることが判った。志功は画室の一隅に吊してあった|銅鑼《どら》を打ち鳴らして、喜びに躍り上がった。六月の終りごろには、審査員として参加した富永惣一氏の報告が二回にわたり朝日新聞に掲載されて、ヴェニスにおける志功の受賞は、「日本の芸術的努力が世界衆目の前に決定的な推賛を博した」堂堂たるものであったことを、詳しく伝えた。今泉氏も「日本の現代美術が海外にあってはっきりした地位を確立した最初の事件」とした志功の受賞は、しかし当時のジャーナリズムにおいて、さほど大騒ぎされたわけではない。ことに美術界は、意外に冷静であったようだ。その年の美術界を回顧した三人の評論家の座談会において、志功の受賞にふれた次のような部分に、当時の画壇の雰囲気が、よくうかがわれるようにおもわれる。
「……いずれにしても、いままでイタリア館のなかに間借りをしていたのが、今度独立した家をもったということは言えるわけでしょう。それでどうなんですか。内幕話めくけれども、棟方志功のグラン・プリにそれが少しは影響していたのですか」
内幕話めくけれども……という前書きがされているところからすると、志功の受賞には日本館の新設が「少しは」どころか「大いに」影響していたのにちがいない、というのが画壇内部の観測であったのだろう。そのほかには次のような議論もある。
「僕は向うの人たちはほんとうに感激して、あれに賞をあたえたとおもいますよ。だけれども、日本であれを、国際的な水準に達している唯一の版画だというふうにして持出すということになると、正しいかどうか、未だに疑問ですね。つまりああいう方向で国際的に認められていくということが、必ずしも日本の美術にプラスになるとおもわない。アルカイックなものを、現代の観点でもう一度破壊して、そうして現代のなかにアルカイックなもののなかから、エネルギーをくみ取ってきたという感じはないわけです」「棟方志功の仕事は日本ではなにか少し屈折して理解されているところがないでしょうか。というのは、あの人の出現の仕方が、いわゆる民芸運動に結びついていること、それからあの人の性格というか、人となりから、なにか近代的な様式と反するようなものとして屈折して解釈されているところがあるのじゃないかしら」「僕自身はそういういきさつとか、人となりはぜんぜん知らないのですけれども、作品から受ける印象は、なにかピリッとくるものがない、現代に呼吸しているという感じがあまりしないのです。というと印象批評になっちゃうけれども」「だけれども、大方の意見というものがそうじゃないかしら。そこらへんにいわゆるプリをもらったということと、いま言われた現代美術というもののあいだに、変な断層があって、ヴェニスのビエンナーレというものはなんだろうという気持がかなりあるとおもうのですね」「そういう見方も、わからないではありません。けれども、なぜああいうものが現代にあって非近代に思えるのか、……」
どうやら問題は志功の受賞から、ヴェニス・ビエンナーレに対して疑問を持つ、というところまで発展していたらしい。といっても、それは何回かまえまで溯っていえば、マックス・エルンスト、デュフィ、マチス……といった絵画国際部門の大賞受賞者に対する根本的な疑問を意味していたわけではないだろう。それらの画家を全面否定したら、日本の洋画のかなりの部分も同時に消滅しかねない。とすると、それは版画部門に対する疑問であったのだろうか。この部門においても志功以前の国際大賞受賞者は、まえにも書いたように、アルプ、ミロ、ノルデであり、そのまえはマルク・シャガールだった。
ヴェニス・ビエンナーレの審査が保守的であるというのなら、前衛絵画のほうが公式の芸術のようになっていたサンパウロ・ビエナールにおける志功の受賞を無視しているようにおもわれるところが不可解である。もっとも、すべての賞の権威を否定するというのであれば、話はまた違って来るわけだが……。いま少し前記の座談会の話の続きに耳を傾けてみよう。
「……あれをなぜいまケチをつけて認めないことが現代的性格みたいにいうのか……」「そうじゃないのですよ」「余りジャーナリズム的な受けとり方だと叱られそうだが……作品とか作家というものは、そのまま国につながるわけですが、こんどの場合、棟方のグラン・プリを逆に考えると、あれが日本だ≠ニいうように、判断をされていないかという心配があるんじゃないか」「たとえば民芸的伝統というものを、非常に深く汲みとって、彼はああいう仕事をしているとおもうのです。ただ汲みとる場合にもう一度断絶して、それから新しく再構成してくるものがなければならないとおもうのです」「断絶とか、再構成とかいうことは言葉や文字ではいえるけれども、一体具体的にどうしたらいいのか、それがはっきりしないでは、単に掛声だけになってしまうのですよ。だからあの作品が今後どういうふうな美術にどういうふうにつながっていくかということについては、われわれはうんと注文をつけていいとおもうのです。けれども今度グラン・プリをもらった事実については、私は素直にそれを肯定していいのじゃないかという考えです」……
この座談会では志功の受賞に疑問を持っているのが二人、肯定しているのが一人、つまり二対一の割合であったが、美術界全体でいえば受賞肯定派の比率は、もっと遙かに少ないものであったかも知れない。梅原龍三郎はサロン・ド・メエにおける日本側出品作の不評が問題になったさい、
「……それで日本のものは、一度西洋人が認めるとそれから大さわぎをする。明治初年来の不見識がわが国批評家の病である」といったが、志功の場合は、ほとんど何の騒ぎにもならなかった。この点に関して、わが国の批評家は不見識どころか、まことに見解が高く、かつて海外から戦後初めて、斎藤清、駒井哲郎、棟方志功の版画の受賞が相次いで伝えられた後、「現代創作版画六人展」について書かれた批評の「……外国人の一片の賛辞などで解答を出すのはことに危険であろう」
といった態度のほうが、むしろ一般であったのではあるまいか。
たしかに外国人の一片の賛辞などで解答を出すことはできないだろうが、志功の作品が外国人の眼にはどのように映るのか、その典型とおもわれるひとつの場合を紹介してみよう。太平洋戦争が勃発する四箇月前、二十六歳のアメリカの外交官が、大阪の領事館に赴任して来た。日本に来たのは、この国に特別な知識や関心を持っていたからではなかった。外交官の赴任先のひとつとして、かれは日本にやって来たのである。
ある日、たまたま入った大阪の民芸品を売っている店で、そこにあった絵を見た瞬間(素晴らしい…!)と感じた。だれの作品かは判らなかった。また別に浮世絵に興味を持っていたわけでもなかったので、そのような種類のものとして見たのでもなかった。黒と白のシンプルな作品に、まず感じられたのは、力強さだった。一枚は怒っている神を、一枚は平和の神を描いているようにおもわれた。怒っている神の周囲に描かれている炎を|凝《じつ》と見ているうち、その|力 強 い 黒と白《ストロング・ブラツク・アンド・ホワイト》 の世界のなかに、色彩が浮かび上がって来たような気がした。そうした|幻 想《イリユージヨン》を与えるだけの力を、その作品は持っていた。かれは、ふたつの作品を買った。生まれてから初めて買った美術品であった。買ったあとで判ったのだが、それは棟方志功の『華厳譜』と『善知鳥』だった。怒っている神や平和の神を描いているとおもったのが『華厳譜』であり、『善知鳥』は何を描いているのか、よく判らなかったが、|神秘的《ミステリアス》な魅力に引入られて繰返し見ているうちに、あるストーリーを物語っていることが感じられ、無性にその物語の内容を知りたいという気持を掻き立てられて、やがてそれはかれを、謡曲『善知鳥』の英訳に導いて行くひとつのきっかけになった。
この若い外交官が、戦後、昭和二十二年に旺文社から出た『善知鳥』の英訳本の共訳者の一人であるメレディス・ウエザビー氏であり、いまあらためて志功の作品について訊ねると、「棟方はジャポニカとは、まったく違います。棟方を知るアメリカ人で、かれをジャポニカだとおもっている人は、おそらくだれもいないでしょう。世界の|芸術家《アーテイスト・オブ・ザ・ワールド》の一人、とそう考えているとおもいます」というのが、その後も日本にとどまって東洋の文化と美術に関する本を出している「ウエザヒル出版社」の社長になっている氏の意見である。氏が単なる棟方ファンでないことは、次のような意見でも明らかだろう。「棟方を知っている人は、たいてい感じていることだろうと思いますが、かれの作品の出来のよいものと、出来がよくないものとのあいだには、極端な差があります。わたしとしては後期の複雑な作品よりも、初期の力強いシンプルな作品のほうが好きです。『釈迦十大弟子』をどうして手に入れておかなかったのか、いまでも残念でなりません」
『善知鳥』英訳本のもう一人の訳者だったブルース・ロジャース氏が課長をしていたGHQの美術文化資料課で働いていた中尾信氏は、昭和二十四年から「アート・アラウンド・タウン」という英文の日本美術紹介誌を出していたが、そのころの志功について次のような情景を記憶している。中尾氏は戦争中まで「月刊民芸」の編集部にいたので、民芸派びいきであることは、あらかじめいっておかなければならない。
昭和二十四年のいつごろであったか、元の華族会館にあったユニオン・クラブで、アメリカ人を対象にした棟方志功の個展が開かれた。福光から上京して来た志功は、作品を載せたリヤカーを引っ張って会場にやって来たが、結果は、あまり売れなかった。人気がなかったからではなく、志功のつけた値段が余りにも高すぎ、見に来て気に入った人も手が出せなかったからで、それでも口をきわめて作品を称讃していたアメリカ人たちの表情が、本当に価値を認めている様子を、ありありと物語っていたという。
志功がヴェニスで受賞した翌一九五七年一月号の「アート・アラウンド・タウン」に、有名な『ジャパニーズ・イン』(邦訳名『ニッポン歴史の宿』)の著者で、版画の研究家でもあるオリバー・スタットラー氏の棟方志功論が載っており、氏はその論文を、「棟方志功は版画の歴史において、反逆者のなかの反逆者(rebel)である」と書き始めている。外国人の眼に志功は、かならずしも日本の版画の伝統のオーソドックスな継承者とは映っていないのである。国内においては、前に引いた「創作版画六人展」の批評における分類のように、志功を伝統尊重派とみる見方のほうが、遙かに一般であろう。その見方は、いまも美術界では、あまり変っていないようだ。たとえば創作版画の指導者であった恩地孝四郎の先駆者としての苦闘に敬意を払い、繊細な詩情に溢れたその稀有の芸術を称讃するのは当然にしても、かれの死後、
――抽象的なイメージを追求するなかで木版画の因習と旧套を打破しようとしていた恩地とはおよそ対照的に、日本的な情感を奔放に「板画」で展開していった棟方が、五六年、第二十六回「ヴェネチア・ビエンナーレ展」の版画部門でグラン・プリを受けるなど、広く注目されるに至ったこともあって、木版画の革新ということは曖昧になってしまった。……
という見方がある。この文脈では、志功がヴェニスで受賞したために、木版画の革新が曖昧になってしまった、と読みとれなくもない。果たしてそうだろうか……。自己顕示欲も立身出世欲も重なってはいたであろうけれども、志功が、それまでの袖珍物であった版画のタブロー化を意図して、先輩や同僚の顰蹙を買いながらも、狭い一室に冷遇されていた版画部の壁面を独占して画面の拡大に続く拡大を推し進め、戦争中の陸軍情報部の専制による文化ファシズムの嵐の下では、多くの画家が一斉に穏健な写実主義へ後退し海の向こうではドイツ表現派がナチスの弾圧を受けていたなかで、記紀の神神をグロテスクな呪術師のように誇張して描いた表現派風の超大作を出品し、戦後はまた近代合理主義全盛のなかで、現代芸術の重要な一潮流となった呪術的文様の探求に努めて縄文人からケルト人にまでつながる人間の普遍的な生命力を表出するなど、邪道とそしられ、エゴと罵られ、下品と蔑まれ、ゲテモノと卑しめられ、前近代的と批判されながら、つねに美術界ではほぼ孤立無援のたたかいを続けて来た、わが国の版画史上もっとも果敢な|革新者《インノベーター》の一人であったことを知る人は、いまなお専門家のあいだにおいてさえ少ないのではないかとおもわれる。
志功の場合ほど、大衆的な人気と、海外での評判と、国内の専門家あるいは知識人の評価とが三様に食い違っている例は珍しい。これは一体なぜなのだろう。谷川徹三氏の卓見がある。
――棟方の芸術が、日本の美の伝統の中で、縄文の系譜を受けていることは争われない。私は久しい以前から、日本の美の系譜を、縄文的原型と弥生的原型というレアール・イデアール・ティプスによって考えている者であるが、縄文的原型の現代における最も典型的な一表現として見ることのできるのが、棟方の芸術である。……
日本の文化の洗練は、長い年月にわたって縄文的なものを、できるだけ排除することによって獲得されて来たものであるから、そうした弥生的な文化と教育によって育てられたわれわれが、いきなり志功の縄文的な感覚の作品を眼の前に突き出されたとき、神経を逆撫でされたような感じがして、ときにおぞましくおもったり、あるいは|疎《うと》ましく感じたりしたのも、当然のことであったのかも知れない。話を昭和三十一年に戻すなら、ヴェニスにおけるグラン・プリの受賞は、国内の美術界における志功の評価を、さして高めはしなかった。志功は確かに海に出たが、いってみればその姿は、島国日本の近海の荒波に揉まれている一隻の小舟のようだった。
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二 重 の 鍵
志功の代表作として、戦前の『釈迦十大弟子』、戦後の『湧然する女者達々』を挙げることに、異論のある人は少ないだろうが、厖大な全作品のなかから好きな作品を、たったひとつだけ、といわれたら、昭和二十八年に発表された『流離抄板画巻』を選ぶ人が、意外に多いのではないだろうか。
二十世紀の現代美術は、|原始的《プリミテイフ》な創造の活力を取戻そうとするフォーヴィスムやキュビスムの革新によって始まったが、そうした画家たちのエネルギッシュで華華しい活躍の一方には、アンリ・ルソーのように、ひっそりと絵を描くこと本来の楽しみと喜びを追求し続けて、見る者にも共感と心の安らぎを与え、のちに|素朴《ナイーフ》な画家と呼ばれるようになった独学の画家たちがいた。志功にも、人を圧倒せずにはおかない表現派風の大作がある一方に、稚拙さと紙一重のような素朴なタッチが、不思議な懐かしさと安息感を覚えさせる多くの小品があり、精神的な大作よりも、むしろこのほうに深い愛着を持っている人が少なくない。なかでも吉井勇の歌をもとにした『流離抄板画巻』は、女体、山野、鳥獣、草花、妖怪と、志功好みの主題が網羅されているうえに、さまざまな手法、とくに独自の彩色法が存分に駆使されていて、この作品の制作当時をよく知っている海上雅臣氏の表現によるなら、志功板画の「さながら縮図帳」のような観も呈しており、繰返し見るたび尽きることのない面白さと楽しさが小画面に溢れていて、三十一図の連作ではあるけれども、愛すべき小品群のなかの代表作といってよいようにおもわれる。
海上雅臣氏が初めて志功の作品を知ったのは、独協の中学生のころだった。最初に見たのは『夢応の鯉魚』の一枚で、それから俳句が好きで遊びに行っていた石田波郷のところで志功が句集『胸形變』を彫っていることを知った。昭和二十三年から結核で清瀬村の東京療養所に入院した石田波郷は、二度にわたって肋骨を切除される成形手術を受け、その前後をうたった句から抜粋して『胸形變』を二十四年に刊行し、翌年に全句をまとめて『惜命』を刊行した。もともと詩歌が好きで、ことに福光に疎開して前田普羅の知遇を得てから俳句に打込んでいた志功が、生と死のぎりぎりの境界線に身を置いた人間の痛切をきわめた観照と、妻を恋い子をおもう切実な真情をうたって、俳壇に大変な反響をよんだ波郷の句集に着目したことに不思議はないが、あるいは『胸形變』という題にも、強く引きつけられたのかも知れない。『|胸形《きようぎよう》』は『|胸形《むなかた》』とも読める。彫り進んでいたときの志功が、波郷の句に深く感情移入していたであろうことは疑えない。
[#2字下げ]………
[#2字下げ]蝉かなしベッドにすがる子を見れば
[#2字下げ]たばしるや|鵙《もず》叫喚す胸形變
[#2字下げ]悴み病めど栄光の如く子等育つ
[#2字下げ]冬日の妻よ吾に肋骨無きのちも
[#2字下げ]………
このような文字を板に刻みつけるとき、志功にとって彫ることは祈ることと同義であったろう。
この作品は『胸形變板画巻』(のちに『惜命板画巻』と改題)となって完成された。そうしたことがきっかけとなって関心を抱いた海上雅臣は、福光の志功のもとへ手紙を出し、文通が始まって間もなく、疎開先を引払って上京して来た志功の荻窪の家へ訪ねて行った。作品を購入したい旨を述べて、金を差出した学生服姿の海上に、
――これは、お父さんのお使いなのか、それとも、あなた自身が買うのか……。
と、志功は怪訝そうな表情で訊ねた。
――わたしが、小遣いで……。
そう答えると、志功は満面に喜色をあらわし、それは一番大事なお客さんだ、と海上の手をとって招じ上げ、目的の作品のほかに二点の版画を、これはおまけ、といって渡してくれた。これがきっかけで、以来、海上は、たびたび食事を茶の間で家族と一緒にご馳走になるくらい、毎日のように荻窪の棟方家へ遊びに行くようになった。
そうしたある日、海上は古本屋で、昭和二十一年に奈良の養徳社から出た粗末な仙花紙製の吉井勇歌集『寒行』を手にとって頁をめくっているうち、そのなかに「屏風には志功版画の諸天ゐて 紙|漉《す》く家の炉火はなつかし」という歌を見つけた。吉井勇は戦争末期の昭和二十年、志功とおなじように富山県の|八尾《やつお》に疎開していた。そのころに訪ねた|卯花《うのはな》村の紙匠谷井氏の家の一隅に、志功作の屏風を見たときのことをうたった歌であった。海上は胸の躍るおもいでそのことを志功に話し、こんどは吉井勇の歌を板画にしたら、よいものができるのではないか、と提案した。
この提案に、志功も躍り上がらんばかりに喜び、吉井さんさえ承知なら、和歌の三十一文字にならって三十一首、自選の歌稿をもらって、それを板画にしたい、といった。読者はすでにご承知であろうが、こうしたときの志功の反応ぶりは、たんに素早いばかりでなく、それに加えて間髪を入れず鋭い閃きをも示すのである。海上は早速、志功の希望を手紙に書いて、京都の左京区浄土寺石橋町に住んでいた吉井勇のもとへ出した。吉井の返事には、棟方君の板画なら願ってもない、喜んで歌を差出す、とあった。さほど志功が有名になっていない昭和二十七年、まだ世間からはゲテモノと目されていたころに、「かにかくに祇園はこひし|寝《ぬ》るときも枕の下を水のながるる」とかつてうたった耽美派の歌人は、無条件といってもいいそれだけの評価を、棟方板画に与えていたのだ。吉井はその手紙で、越中八尾に戦禍を避けていた時分、つまり流離の身の上にあったときの歌が、おなじころ福光に仮寓していた棟方君の気持にも通じるのではないか、といい、次の三首を、自選三十一首の初めのものとして書きしるしていた。
[#2字下げ]石に踞し酒かたむけて山見れば陶淵明にわれも似たりや
[#2字下げ]世のすがたいよゝ厳しくなる時も海雲法師壺|愛《め》でてあれ
[#2字下げ]さすらひの身ははるばると夢殿の救世観音を頼みてぞ居る
この三首を、心をこめて彫り上げた志功は、「石に踞し」と「世のすがた」の二点には手彩色を施し、「さすらひ」の一点だけは彩色なしの黒白版で、吉井のもとへ送った。吉井からは、作品の出来映えを喜ぶ便りとともに、初期の代表作をもふくめて、のこり二十八首の自選作の歌稿が送られて来た。心細い流離の境遇にあっても、時流に超然として悠悠とおのれを持していたい心境をうたった最初の三首に、上京早早スイス・ルガノの国際展受賞で軒昂たる気分になり日本板画院と日本芸業院という二つの組織の推進に懸命になっていたころの志功が、どれだけ共鳴したかは判らない。けれども、あとから送られて来た二十八首を彫ったとき、どれほど感情移入していたかは、容易に想像できるような気がする。
[#2字下げ]………
[#2字下げ]君にちかふ阿蘇の煙の絶ゆるとも萬葉集の歌ほろぶとも
[#2字下げ]紅灯の巷にゆきてかへらざる人をまことの吾と思ふや
[#2字下げ]あだ名して|樊噌《はんかい》と呼ぶ極道もしみじみとして遊ぶ秋の夜
[#2字下げ]………
このなかの「極道」という言葉に、志功はよほど感ずるところがあったとみえて、のちに自伝を『板極道』と題したほどだ。やがて触れることになるであろうけれども、かれとは一見まったく無縁におもえるこの若き日の頽唐享楽の歌人のうたに、実は志功も、かなりおもいあたるふしがあったのに違いないのである。吉井勇の歌を、志功はうたいながら彫り続けた。海上雅臣によれば、「志功さんは十日に一点ずつの割合で、これを板画にしていった」という。速戦即決を旨とする志功としては、珍しいペースのようにおもわれる。志功自身は次のように述べている。
――流離抄板画巻は、板画の楽しさだけでつくったものでした。どう切ってもどうやっても板画ができてしまう。どれが立派で、どれが悪いといえないのです。それは、あたかも水平線のようなといいましょうか、三十一枚が平行して出来たのです。わたくしには、このように、水平線に出来たという思いの作品はなかなかありません。板画でそういった思いをたてられたのは、これがはじめてです。……
少少わかりにくい表現だが、要するに、ジャズの即興演奏のように彫り進む志功の作品は、そのときどきの調子によって、各図の出来に差がつくのが普通であるのに、今回だけは、ちょうど水平線の上に並んだように、三十一枚の図が均衡のとれた出来に仕上がった、という意味なのだろう。完成した作品を見ても、三十一枚のどれもが、なかなか甲乙のつけがたい面白味を持っている。その均質性は計算によるものではなく、作者のいう通り「板画の楽しさだけでつくったもの」であったからなのかも知れない。『釈迦十大弟子』には凝縮された精神の緊迫感を覚えるのに、『流離抄』がリラックスした楽しさを感じさせるのは、後者においては作者が板画を彫ること自体の楽しみと喜びに浸りきり、その世界のなかで、いわば水を得た魚のように自在に遊び回っていたからに違いないとおもわれる。
志功が、吉井勇の歌の流麗な調べを楽しみながら「十日に一点ずつの割合で」彫っていたのは、一方において、呪術的な文様に彩られた野心的な大作の『歓喜頌』や『大蔵経板画柵』を制作していた時期だった。やがて完成した作品を屏風仕立てにした『流離抄板画巻抜粋屏風』を、志功は国画会展への最後の出品作としたが、上野の松坂屋であらためてその全図の展覧会が開かれることになったとき、海上雅臣は案内状の推薦文を、佐藤春夫に頼みたい、と考えた。
佐藤春夫は、吉井勇の歌集『人間経』に、「うれしきは君が歌なるかな、更にうれしきは幸に君と時を同じく生きて若かりし日の君が歌を自らが思ひ出の歌とし、また今日君が口すさめるもののやがてわれ等が今日の歌なることなり。……」という序文を寄せたほどの吉井の詩友であり、それに志功も縁が深かった保田與重郎ら日本浪曼派の、かつては隠然たる大御所の観もあったからである。実際に会って頼んでみると、――吉井君とは永年の交友であり、その歌については書くこともできるが、棟方君の板画については、ぼくの考える芸術の第一義からはずれているとおもえるので、書くことはできない、というのが佐藤春夫の返事で、その芸術の第一義とは、見る人の心を静かにするところにあるのだが……ということであるらしかった。
意外に感じた海上は、翌日、『鐘溪頌』の「貝族」を額に入れて、「見て下されば、わかるはずです」と、佐藤春夫のもとへ置いて来た。志功の作品には、このように見る人の心に深く訴えるものもあります、というつもりであったのだろう。しばらくして、また訪ねたとき、佐藤の周囲に、志功の作品は見当たらなかった。そのことを気にしながらも口に出し兼ねていた海上の心中を察してか、佐藤春夫は「あれは檀君が、しきりにいいというので、持たせてやったよ」といった。檀一雄は、戦後何年か経ったころ、京都の河井寛次郎家を訪ねたとき、そこに保田與重郎と一緒にいた棟方志功に初めて会い、意気投合して以後、志功に対する支持は変ることがなかった。かれは志功の特質のひとつを「自己鼓舞」という点に見て、のちに次のように書いている。
――棟方志功氏のことごとくの芸業に、熾烈な槌打つ響きが聴きとれないだろうか。暗い鍛冶場の中の、|灼《や》ける鉄の色と、飛び散る火花が見えないであろうか。……
その熾烈な槌打つ響きが、佐藤春夫には、やや騒騒しく、鬱陶しいもののように感じられていたのかも知れない。後年、『秋刀魚の歌』を板画にしたい、という希望を海上雅臣が伝えたときも、佐藤春夫は「ぼくの作品は棟方君の板画には合わないだろう」といって、ついに首肯しなかった。
「流離抄板画展」は、昭和二十八年の六月二日から上野松坂屋の美術部画廊で開かれた。その前後のいつごろであったのか、志功は築地の旅館で、吉井勇に会ったことがある。――わたくしは、いかめしい、貴族的な人柄を想像していったのでありましたが、お会いして話していると、そんなことではなく、一見してその素振にしても、着物にしても、立居振舞にしても、歌舞伎の老俳優のようにものやわらかで、静かな物腰で接してくださったのでした。挨拶も慇懃で、粗野なこちらが、恥かしいくらいでありました。……伯爵家の生まれで昭和二十三年には宮中の歌会始の選者、そして芸術院会員にもなっていたこの老歌人から、展覧会のカタログに寄せて「たちまちに十大弟子を彫りあぐる志功の刀のするどきかなや」といった歌を贈られたとき、権威にはすこぶる敏感で「自己鼓舞の大家」でもある志功が、どれほど奮い立ったかは容易に想像できそうである。
吉井勇は出来上がるたびに志功から京都へ贈られて来る『流離抄』の板画を、東京府立一中時代の同級生で、いまもおなじ左京区の下鴨泉川町に住んでいる谷崎潤一郎に見せていた。その鮮やかな出来映えに、――自分の歌も、このようにしてもらえたらよいのだが、吉井君のような歌人と違って、素人の手すさびだから……、と谷崎は内心うらやましくおもっていたらしい。『流離抄』の制作は、やがて棟方志功の名前と画風を世に広める決定的な役割を果たした谷崎潤一郎の『鍵』の挿絵の仕事に、志功を導いて行くひとつの機縁にもなっていたのである。
『鍵』の挿絵の仕事は、谷崎潤一郎からの希望によるものだった。谷崎と志功のあいだには、戦後間もないころから、つながりがあった。谷崎が贔屓にしていた祇園花見小路の料亭「十二段家」の若主人である西垣|光温《みつはる》は、戦前まだ家業を継ぐまえに、大阪の難波で稀覯本専門の古本屋を営んでおり、そのころから志功の作品の愛好者であり支持者でもあったので、十二段家には志功の作品が幾つか飾られていた。それを見て、谷崎は志功の画風と、文字に興味を持っていたらしい。昭和二十一年の十二月に生活社から再刊された『痴人の愛』の装幀は、志功によるものであり、また翌年の秋には、西垣光温を仲介にして、左京区南禅寺下河原町の谷崎邸の「|潺湲《せんかん》亭」という表札を志功が彫り、そのかわりに志功も、富山県福光町の寓居に名づけた「愛染苑」という文字を、谷崎に書いて貰ったことがある。もっともこの文字は、頼んだときの志功の発音が津軽風に訛っていたせいかどうか、谷崎が書いて来たのを見ると、「愛染韻」となっていたのであったが……。
それに、親友吉井勇の歌を彫った『流離抄』の見事な出来も契機となって、谷崎は『鍵』の挿絵に、志功を希望したのだろう。志功にとっても、この大作家からの指名には、心が波立つおもいであったに違いない。作家になるまえ中央公論の編集者でこの作品を担当した綱淵謙錠氏によれば、荻窪の棟方家へ原稿を受取りに行くたび、印刷所へ回す製版用の一通と、ほかに作者の谷崎へ贈るものとしてもう一通の版画を和紙で巻き端を糊づけして渡してくれる志功の様子とその絵からは、『鍵』の挿絵を大切な仕事と考えて懸命に打込んでいる感じが伝わって来たそうである。綱淵氏が当時を回想して書いた『あのころ』という文章によると、
――「鍵」の第一回が発表されたときは新聞の「文芸時評」で注目される程度で、この作品への関心は文壇を中心とした比較的狭い範囲に限られていたといってよいが、第二回の掲載された五月号(第一回分を全文併載)が発売されると、急に社会の関心を呼ぶ|事件《ヽヽ》となった。
その直接の動機となったのは「ある風俗時評/ワイセツと文学の間/谷崎潤一郎氏の『鍵』をめぐって」というタイトルで「週刊朝日」(昭和31・4・29号)がトップ記事にしたことである。……
その「週刊朝日」の特集記事は、作品の文学性について明らかに疑問を呈する調子の前文に続いて、『鍵』の第一回と第二回の分を要約し、これまでの谷崎文学の系譜、中央公論編集長嶋中鵬二氏との一問一答、『鍵』に対する各界識者の感想と文芸評論家五氏の意見などを紹介していた。全般に、性をあからさまに取上げた老大家のこの新作に対して、否定的な意見が多く、好意的な見方は例外に属している。最後に林達夫氏が、『鍵』を「醗酵不足」であるとしながらも、「官憲が乗りだして、これをどうこうするということには絶対反対だ」と述べているが、その心配は、なかば的中して、『鍵』の問題は、ちょうど売春禁止法案を審議していた衆議院の法務委員会にまで持ち出され、委員の質問に対して、松原法務政務次官が「老人たちが文芸の名のもとにああいういたずらをすることについて私は遺憾に思う。ある種の春画を文章に読むようなものがおくめんもなくさらされている。いい影響があるとは思われません」と答えたことが新聞に報道された。
これだけ問題にされたら、いつもは中央公論を読まない人でも、五月号を手に取って見たい、とおもうのは当然であろう。その『鍵』の第二回の挿絵となっていたのが、白い女体の腹の上に眼鏡が落ちている……あの印象的な場面だった。『鍵板画柵』のなかでは「|腹鏡《はらめがね》の柵」と題されているこの挿絵によって、初めて棟方志功の名前を強く記憶に刻みこんだ人は、少なくなかった筈である。谷崎の文章でいえば、――ソノ他アラユル様々ナ※[#縦長の「┐」]ヲ、彼女ノ常套語ヲ真似レバ、コヽニ書キ記スノモ|寔《まこと》ニ恥シイヤウナイロ/\ナ※[#縦長の「┐」]ヲシテミタ。一度僕ハ、彼女ガ如何ナル反応ヲ示スカト思ツテアノ性慾点ヲ接吻シテヤツタガ、誤ツテ眼鏡ヲ彼女ノ腹ノ上ニ落シタ。……という箇所にあたるところであるが、その挿絵は版画であるために、写実味よりも、象徴性のほうを、強く感じさせた。綱淵氏も前記の文章において、――「鍵」の作品的イメージを棟方板画の特徴である太く健康な線で形象化し、ともすれば読者の抱きがちな、卑俗な覗き趣味から「鍵」という作品を護った功績は無視できない。……と述べている。
谷崎は、挿絵を非常に大切に考える作家で、『蓼喰ふ虫』の小出楢重、『少将滋幹の母』の小倉遊亀など、挿絵のほうも傑作の評判が高い。『鍵』の挿絵に、志功を希望した人選も、鮮やかな成功例のひとつとなった。志功の自伝『板極道』に寄せた序文に、谷崎はこう書いている。――私には画家としてのこの人の全貌がまだ十分には分つてゐない。しかし私の「鍵」や「瘋癲老人日記」等々に板画を以て描いてくれた挿絵の数々の面白さには、私は深く敬服してゐる。私は今でもこれらの作品を座右に置いて、時々開いて見ては飽くことを知らず眺めてゐる。昔私は「蓼喰ふ虫」の小出楢重君の挿絵によつて少からず力づけられ、励まされたが、棟方君の場合も同様である。……
このように『鍵』の評判が高まるにつれて、挿絵も注目を浴び、その間にヴェニス・ビエンナーレにおけるグラン・プリの受賞が伝えられたこともあって、棟方志功の名前と画風は、絵の展覧会になど足を運んだことのない人のあいだにも、急速に知られていった。
志功自身としては、『鍵』の挿絵の出来に、かならずしも満足はしていなかったようだ。『鍵』の連載中、作者の谷崎から、挿絵画家の志功の手に渡る原稿はその回の途中までで、あとの場面は編集者の綱淵氏を介して言葉で伝えられる「絵組み」となることが、何度かあったらしい。中央公論社刊の新書判「谷崎潤一郎全集」の月報に、志功はそのころのことを、例の判りにくい表現で、およそ次のように述べている。
……ほんとうの心底からいってしまえば、綱淵氏に板画を渡すたび、来月こそは、この月の不出来を取り返さなければならない、きっと、きっと来月こそ、わたくしのありったけを尽した板画にしよう、とおもうのでしたが、締切りが来ると、またおなじように、あわただしい仕事になってしまい、いつの間にか、板画が出来てしまうのでした。何だか、たまらない、済まないような、悲しい、哀しいうちに一年の時が無くなって、鍵板画も、おしまいになってしまったのでした。最後の板画をお渡ししたとき、なにか息が引込むような、しーんとした気持になりました。至らなかったわたくしの板画で、谷崎先生、また読者の方方は申すまでもなく、あのようにこの板画に一杯になってくださった社長や、いつも優しいこころ情けを受けた綱淵氏に対して、申訳なかった、と切なくおもったのでした。……
雑誌連載という志功にとっては初めての形式にともなう制約があったとはいえ、自信家で、かねがね自分の作に失敗というものはないといい、人の片言隻句から天啓を受けることが得意で、イメージが逃げたり消えたりしないうちに素早く全力で彫ることを信条としていた志功が、今回は自分のおもいを尽した仕事が出来なかった、といっているようにも受取れるこの述懐には、やや不思議な感じもするが、つまりそれだけ、『鍵』の挿絵の仕事に対する打込み方は、深かったということであったのだろう。
谷崎の特質として、しばしば指摘される女性崇拝、女性拝跪の感情は、志功にも共通するものだった。読者は、少年のころの志功が、野間歯科の長女茂子に憧憬の念を寄せていて、彼女がオルガンを弾き始めると、きまってどこからともなく忽然と姿を現わしたときのことをご記憶であろうか。おなじ場面を繰返して書くなら、……志功は階段の一番下の段に腰を下ろし、椅子に坐って弾いている茂子を見上げるようにして、オルガンの音に耳を傾けていた。話をするときは、茂子が階段のなかごろに腰かけ、志功は大抵その下に立って話しかけるのが習慣のようになっており、したがって二人のあいだでは、志功の顔が、茂子の顔の下になっていることが多かった。……つまり男のほうが跪くような感じに身を低くして、女性の顔を見上げるという位置関係、これは生涯を通じて、志功の女性に対する基本的な姿勢であったようにおもわれる。
二人のあいだでは、茂子のほうがまるで年上の姉のように振舞うことが多かったが、実際には、茂子は志功より十歳も年下の少女だった。そのあとに志功は、十三歳も年下の高木みよを好きになって、みよの母親に、結婚させてほしい、と申入れている。これも同年や年上の相手より、ずっと年下の少女に、わが身を低くして跪いたほうが、遙かに女性崇拝と女性拝跪の感情を満足させられる、ということを無意識のうちに感じていたからであったのかも知れない。
跪くことによって、相手に優しく庇護されたい、という願望もあったようだ。少年の日の善知鳥神社の思い出を語って、――元の善知鳥様は、ほんとうに夜は淋しくつて、一人歩きの通り抜けが出来なく、野間さんの茂子さんを道連れにした事が幾度かあつた。……と、十歳も年上の男としては、いささか奇異の念を抱かせる記憶を綴っているのも、そうした願望のあらわれであったのではないかと考えられる。そのころの野間茂子は勝気な少女だった。志功が東京に出て来て最初に好きになった隣家の|好子《こうこ》ちゃんと呼ばれていた但木俶も、九歳年下の勝気な少女で、小石川の淑徳女学校の女学生であった彼女を、志功は「好子ちゃんは、ぼくの文章の先生だ」といって、崇め奉っていた。勝気な女性に対する好みも、志功の生涯を通じてのものであったらしい。あるいは相手がそのように振舞うこと、または相手をそのように振舞わせること、をも望んでいたのかも知れなかった。
雑誌「あるとき」(一九七八年八月号)で、宗左近氏と『素顔の棟方志功』という対談をしたチヤ夫人は、そのなかで自分のことを「……強いでしょう。私は強いんです、はっきり言って」「だって、強くなければ生きてこられませんでした」と語っているが、小さいころは、親から「いるのかいないのか判らない」といわれたほどおとなしい子供であったと家族が語っている夫人も、志功と知合って、一緒に暮すようになり、さまざまな目に遭っているうちに、次第に強さを増してきたようにもおもわれるのである。夫人が遭ったさまざまな目の一例としていえば、志功は自分の並外れた女性崇拝癖と讃美癖を、他人に対しては勿論のこと、夫人に対しても殆ど隠そうとはしなかったようだ。たとえば昭和二十七年に出した随筆集の『板響神』には、何人もの女性への思慕の念を、かなりあけすけに語った文章が幾つか収められており、それを読んだときの夫人の気持を斟酌している気配は、あまり感じられない。ただし、そのなかの『|灼楝記《しやくれんき》』に、――それほど志功が身体を|灼《や》いているんですが、これは志功だけで、その|女《ひと》は知らないことですから、そこのところは「婦系図」の言葉でないけれども、こころ一杯に我儘さしてくださいませ。……と書いているように、かれの場合は、志功の側からの一方的な恋着、もしくは憧憬、といった関係のほうが多かったようである。
それにしても、その『灼楝記』の結びに、歌劇カルメンの和訳の内より、として「恋しき君の為ならば どんな踊でもおどりましょう 胸のかざりも上げましょう 生命もろとも上げましょう」と書くような志功の女性崇拝癖は、谷崎が結婚するまえの松子夫人にあてた手紙のなかに、
「……先達、泣いてみろと仰つしやいましたのに泣かなかつたのは私が悪うございました、東京者はあゝいふところが剛情でいけないのだといふことがよく分りました、今度からは泣けと仰つしやいましたら泣きます、その外御なぐさみになりますことならどんな真似でもいたします」…「かういふ御主人様にならたとひ御手討ちにあひましても本望でございます、恋愛といふよりは、もつと献身的な、云はゞ宗教的な感情に近い崇拝の念が起つて参りますこんなことは今迄一度も経験したことがございません」…「決して/\身分不相応な事は申しませぬ故一生私を御側において、御茶坊主のやうに思し召して御使ひ遊ばして下さいまし、御気に召しませぬ時はどんなにいぢめて下すつても結構でございます」と書いたようなマゾヒスティックな女性拝跪の感情にも、一脈通じるものがあるとみてよいであろう。しかし好みの女性のタイプは微妙に違っていて、当時の日劇ミュージックホールの踊り子でいえば、谷崎の魅せられたのが春川ますみであったのに対し、志功が讃歎したのはジプシー・ローズであった。
谷崎と志功は、偶然ほぼおなじころに、ジプシー・ローズの出演している日劇ミュージックホールを見に行ったようだ。『過酸化マンガン水の夢』によれば、谷崎が見に行ったのは、昭和三十年の八月八日である。――美津子が推賞のジプシーローズはこゝのプリマドンナらしいけれどもやゝ老けてゐて体に脂肪があり過ぎるのと、混血児らしい容貌なのとが予の趣味に合はず、家人も珠子さんも此の点同感の由なり。春川ますみと云ふ娘に予は最も魅せられたり。……そしてジプシーよりも春川ますみに惹かれた理由として「昨今日本にもかやうに胸部と臀部と脚部の発達した肉体は珍しくないが、予は総じて猫のやうな感じのする顔、往年のシモーン・シモン式の顔の持主にあらざれば左程愛着を感ぜざるなり」とつけ加えている。
ジプシーの顔は、猫のような感じではない。よく「日本人離れしている」と形容された、彫りの深い、個性的でエキゾチックで魅力的な美貌であったが、八頭身というには、やや日本人的に顔が大きく、舞台の上では決してにこりともせず挑戦的に睨みつけるような表情を客席に向けて踊るのが常であったので、見る者を圧倒するような威圧感は、むしろライオンをおもわせた。志功のほうは、そのジプシーの舞台が、すこぶる気に入ったようだった。彼女の大きな顔と、すこし怒り気味の肩、厚い胸、全盛時代の東劇バーレスク当時をのぞくと余り|括《くび》れの感じられない胴、広く張った腰、太い腿と、なによりもまず量感と迫力を感じさせる肉体は棟方板画に登場する女体に酷似していたから、志功が気に入ったのも当然であったようにおもわれる。
彼女の劇的な半生を書いた『裸の自叙伝』によれば、志功が土門拳に連れられて、日劇ミュージックホールの楽屋に訪ねて来たのは、昭和三十年七月のサンパウロ・ビエナールにおける受賞から間もないころであったらしい。分厚い近眼鏡の奥に、いかにも人懐こそうな表情を浮かべていたその客は、ジプシーの顔を見るなり、「ね、あなた、わたしを知ってる? 知ってる? わたしね、こんどアメリカで賞を貰ったよ、本当に……。わたし、知ってる?」と眼を丸く見張り、自分の鼻を指差さんばかりの|急《せ》き込んだ調子でいった。南米ブラジルのサンパウロでの受賞を、そんな言い方で口にしたのだろう。
ジプシーはこれまで、永井荷風や久保田万太郎、舟橋聖一など、多くの高名な作家や画家に言葉をかけられたことがあったが、これほど単刀直入な物の言い方をする人に会ったのは初めてで、少々呆気にとられていると、「版画の棟方志功さんだよ」と、横から土門拳が説明してくれた。そういわれても、聞いたことがないので、「それじゃ、絵描きさんなのね」と当人に確かめるように問い返すと、「まあね……」と頷いてから、少し考えて、「だけど、そんな風に呼ばれたの、初めてだな」首を傾げている相手に、「じゃあ、わたしの似顔絵を描いて頂戴」ジプシーは、まっすぐに眼を向けて、命令するようにいった。
「似顔絵……? 弱ったね、弱ったね」志功は、しばらく弱っている様子であったが、急に一転して、「いや、弱らない、弱らない」そういうと、真剣な光を帯びた近眼鏡の奥の眼を、ジプシーの顔に据えて、取出した紙に素早く筆を走らせ始めた。あっという間に描き上げられて、渡された絵を見ると、仏像か天女をおもわせる豊満な女性の半身像に、「天衣無縫」という文字が書かれている。
「なんだ、ちっとも似てないじゃないの」
ジプシーは遠慮のない調子でそういいながら、志功の即席画を、化粧台の鏡の横に画鋲で貼りつけた。
「いやあ、これは似てるよ」
断言するようにいった土門拳が、ほかに仕事があるとかで帰って行ったあとも、志功は満面に嬉しそうな笑みを浮かべて、そこに残っていた。ジプシーの『裸の自叙伝』には、――そんな私のドコがお気に召したのか、棟方先生はその後も私の楽屋に座りきりで、ほとんど最終の回まで、私との雑談を楽しまれた。……と書かれているが、勝気で、美貌で、逞しい肉体の持主で、傍若無人な感じの言動を示す彼女の傍で過ごした何時間か、志功は多分、大いに満足であったのに違いないとおもわれる。
それと面白いのはジプシーの似顔絵に、志功が「天衣無縫」という賛を書いたことだ。彼女が十五歳のときから死ぬまで一緒だった演出家の正邦乙彦氏をはじめ、幕内でジプシーをよく知っていた人たちは、素顔の彼女が、舞台で見せた妖婦をおもわせるイメージとは違って、勝気で負けず嫌いの半面、生まれたままの赤ん坊のように、飾り気のない天真爛漫な性格であったことを語っている。とすると志功は、分厚い近眼鏡の奥からのほぼ一暼で、彼女の性格を見てとったことになる。ジプシーのほうも志功に、どこか自分と一脈通じるものを感じていたのだろう、知合った数多くの知名人のなかでは、志功にいちばん親近感を覚えていた。後年、深酒で肉体と容色が衰え、旅から旅への巡業で地方を渡り歩くようになったジプシーは、昭和四十年の春、花見時に青森県の弘前市へ行ったとき、ホテルのロビーに、志功の描いた城と桜と天女のような美人の「桜まつり」のポスターが貼られているのを見て、懐かしさに耐えかね、一別以来の模様を書いて手紙を送ったことがある。折返し志功から届いた長文の懇切丁寧な手紙は、踊るような文字で記された往年のジプシー・ローズへの讃辞で埋め尽されており、最後に、いずれ折を見て、あなたの大きな板画を必ずつくって贈ります、と書かれていた。この約束は結局、二年後の彼女の急逝によって、実現されずに終ってしまったのだが……。
志功と一脈通じるところといえば、ジプシーは、生い立ちと家庭環境が複雑だったせいもあって九州の女学校を中退していたが相当な読書家で、詩や文章を書くのが好きな文学少女の気質を、ずっと持続けていた。ストリップの世界を引退してから、山口県の防府市でバーをやっていた彼女の死後、正邦氏が店の帳面をめくっていると、見慣れた彼女の達筆の文字が、眼に飛びこんできた。そこにはマジックインキで、「わたしだってヴァージニア・ウルフなんかこわくない」と書かれていた。どんなつもりで、エドワード・オールビーの戯曲の題名をもじったその言葉を書き記したのかは判らないけれども、彼女の胸の底に渦を巻いていた複雑なおもいと、文学趣味の片鱗を窺わせるような挿話である。
志功も若いころから、一時は小説家を志したこともあるほどの文学好きであった。かれが東京に出て来て、絵画にかぎらず芸術全般への関心を燃え上がらせていた最初の約十年間は、谷崎潤一郎が『痴人の愛』『卍』『蓼喰ふ虫』『乱菊物語』『吉野葛』『武州公秘話』『蘆刈』『春琴抄』……と、話題作や秀作を立続けに発表した時期である。また師事していた水谷良一に、谷崎の『陰翳礼讃』について、詳しい講義を受けたこともあった。そして昭和二十一年、敗戦直後の解放的な空気のなかで、生活社から再刊された『痴人の愛』の装幀を担当したさい、谷崎のマゾヒスティックな女性崇拝、女性拝跪の心理と生理に、あらためて深く感ずるところがあったに違いないとおもわれる。(実現はしなかったけれども、志功の終生の念願のひとつは、谷崎の『刺青』を、板画の肌に彫りこむことだった)
まだモダンなハイカラ趣味への愛着が顕著であった『痴人の愛』において、主人公が拝跪するヒロインは次のように紹介されている。――実際ナオミの顔だちは、(断つて置きますが、私はこれから彼女の名前を片仮名で書くことにします。どうもさうしないと感じが出ないのです)活動女優のメリー・ピクフオードに似たところがあつて、確かに西洋人じみてゐました。此れは決して私の|ひいき《ヽヽヽ》眼ではありません。私の妻となつてゐる現在でも多くの人がさう云ふのですから、事実に違ひないのです。……谷崎も、志功が初めて上京したころ、すなわち『痴人の愛』を書いた大正十三年ごろの女性の容貌に対する好みは、だれの眼にも混血児と見えるような顔立ちにあったのだ。かれはやがて、伝統回帰の道を辿り、日本的な陰翳を礼讃するようになっていったが、世間から「伝統尊重派」「頑固なまでの日本主義者」と目されていた志功のほうは、その一方において、本州北端の地方性と封建性に対する反撥から生まれた港町青森のハイカラ趣味によって育てられ「白樺」の印象派讃美によって点火された「西洋」への憧れを、生涯うしなうことがなかった。ジプシー・ローズ礼讃も、そのあらわれのひとつであったようにおもえる。
『鍵』の連載が終ったとき、毎日新聞は学芸欄で「小説『鍵』の完結をめぐって」という特集を行なった。中央公論は翌三十二年の一月号で、『さまざまな「鍵」論』という特集をした。このほかにも文芸雑誌その他の紙上で、『鍵』を論じた文章や発言は、枚挙にいとまがないほどの数にのぼっている。こうした一連の大反響は、いわば当事者の一人でもあった志功の性に関する意識を、鋭く研ぎ澄まさずにはおかなかったろう。
それが作品にあらわれて来るのは、まだずっとあとのことである。昭和三十六年から翌年にかけては、やはり谷崎潤一郎が中央公論に発表した『瘋癲老人日記』の挿絵を担当し、このなかでは「颯子の柵」や「喫煙の柵」といったような、女人のいわゆる大首絵が、たいへん印象的で、その前後から、志功の作品には、このような大首絵が多くなって来る。たとえば『ハイビスカスの妃の柵』『|沢瀉《おもだか》妃の柵』『むさしのひめかみの柵』『向弁天妃の柵』……といった、女性崇拝、女性拝跪の感情を、そのまま具象化したような一連の作品群がそれで、棟方志功の名前を、それらの美人画、独得な大首絵の作者として記憶している人は、かなり多い筈である。
志功にとって、女性は「妃」であった。「妃」というのは、貴い女性の称、女神の尊称、あるいは皇族の配偶者を意味する文字であるが、古くは貴賤にかかわらず妻の義に用いたものだという。志功の場合も、その古義に近く、女性はすべて、貴賤には関係なく「妃」であり、女神であった。そのような女性崇拝の感情は、もともとかれの少年時代に、しあわせの薄い一生を終えた母を追慕する心情から、生まれていたのかも知れない。この亡母追慕の心情も『母を恋ふる記』を書いた谷崎と共通するものである。『母を恋ふる記』は、作者の夢を描いた作品で、闇のなかを向こうから、若い女の、驚くほど肌の白い三味線弾きがやって来る。ひょっとすると、狐ではないか、また般若のような顔をしているのではないか、と疑ってもいたのだが、近づいて見ると、「絵のやうに」美しい女性であり、なぜか「姉さん」と呼んでみたい気持に駆られる。そして泣いていた女と、自分も泣きながら話しているうち、その若い女が、実は死んだ母親であったことが判って来る。
――「あゝお母さん、お母さんでしたか。私は先からお母さんを捜してゐたんです」
「おゝ潤一や、やつとお母さんが分つたかい。分つてくれたかい。――」
母は喜びに顫へる声でかう云つた。さうして私をしつかりと抱きしめたまゝ立ちすくんだ。私も一生懸命に抱き附いて離れなかつた。母の懐には甘い乳房の匂が暖かく籠つてゐた。……
志功は生涯に、女性に対し自分の心情を披瀝して愛を求めることが少なくない人であったけれども、それは『母を恋ふる記』の夢のなかの主人公のように亡き母を捜しもとめていたのであったのかも知れない。その「母親」は、実はかれのごく身近にいたのであったが……。
『鍵』の挿絵を描いた昭和三十一年に、志功は谷崎の短歌をもとにして、『歌々板画柵』(のち『歌々頌』と改題)を制作した。そのなかには、次のような歌がふくまれている。
[#2字下げ]ちゝの実の父のほとけに|柞葉《ははそば》の母の菩薩に花たてまつる
[#2字下げ]はるけくも北に海ある国に来て南になりぬ雪の山々
[#2字下げ]母恋ふとわれは来て泣く三月堂の不空羂索観世音のお前に
これらの歌には、志功自身がうたったものとしても、不思議ではないような感じがある。
それから数年後に、志功は「白根山雲の海原夕焼けて妻し思へば胸いたむなり」といった葛西善蔵の歌をもとにして、『哀父頌』を制作した。この作品にはおそらく、かれ自身の妻と父に対する感懐が籠められていた筈である。志功は、まことに肉親愛の強い人で、それが創作の根源のひとつになっていた。そして文学者を例に引いていうなら、谷崎潤一郎に近いところに「母親」が、葛西善蔵に近いところにかれの「父親」がいたのだった。それにもうひとつ、かれの創作の根源になっていたものは、故郷に対する感情であった。そしてここにおいてもかれが本当に懐かしんでいたのは、子供のころの火事によってすでに失われてしまった故郷であったのだった。
[#改ページ]
さまざまな|根《ルーツ》
見送りの人のなかに、青白く瘠せ衰えた水谷良一の顔を見出して、志功は吃驚した。水谷は前年の秋に胃潰瘍の手術を受け、その後は湯河原温泉で療養中の筈であった。楽観を許さない病状のように聞いていたのに、わざわざ横浜の埠頭にまで見送りに出て来たのを見て、驚いたのだ。近づいて来た水谷は、「棟方君、これは餞別だ」といって、シャンパンの瓶を二本、差出した。水谷も志功も、ともに酒を嗜まない人間であったけれど、何につけても一流品好みの水谷が選んで持って来た以上それは極上の品であるのに違いなかった。
「おれはこれで、もう会えないかも知れないよ」
と水谷は言葉を添えた。かれは薄薄、自分の本当の病気に感づいていたのかもしれなかった。志功も後で知らされたことなのだが、前年の秋に、水谷が胃の手術を受けたときには、すでに癌が転移していて、医者も手の施しようがなく、そのまま傷口を閉じていたのだった。無論そのことは本人には内緒にされており、水谷もかりに一抹の懸念は抱いていたにしても、胃潰瘍の予後であると信じこもうとしていて、いまの言葉は、なかば冗談のように口にしたのであったのかも知れなかったのだが……。
「もう会えないだなんて、そんなおかしなこと、いわないで下さいよ」
志功も冗談のように受けて、笑い飛ばそうとしているうち、個個の別れは、次次にやって来る見送りの人の渦に巻込まれてしまい、出帆を告げる銅鑼が鳴り始めた。ちょうど夕方で、波止場は薄紫色を乳色で|暈《ぼか》したような靄に包まれていた。志功の眼には、いま固く手を握ってからタラップを降り、その夕靄のなかに消えて行った水谷の肩の薄さが、妙に焼きついて離れなかった。昭和三十四年一月二十五日の夕刻――、山下汽船の貨物船山君丸は、アメリカに向かって横浜を出帆した。
建造されてから二度目の航海であるという山君丸は、一万二千七百十七トンの貨物船であったが、十二名の旅客を収容できる四つの船室が設けられており、まだ新しく綺麗なその船室に、乗客は棟方志功、チヤ夫妻と、同行する長男の巴里爾の三人だけだった。漫然として時を過ごすことのできない志功は、出航の翌日から、朝、船長らとともにする食事を、少しも船酔いの気配を感じさせない健啖家ぶりを発揮して終えると、すぐに夫妻の船室を画室にして、板画を彫り始めた。志功には、横浜で別れた水谷の様子が、気がかりでならなかった。商工省の鉱山監督局長であったかれは、退官後、いくつかの会社の役員を歴任していたが、かならずしも恵まれていたとはいいがたく、最近は双眼鏡輸出振興会の専務の椅子についていた。そうしたかれにとって、自分もその育ての親の一人であった志功が、戦後、サンパウロとヴェニスの連続受賞で「世界のムナカタ」となったことは、大きな喜びと慰めであり、いま志功が招かれてアメリカへ向かうことにも、病中の体を押して激励せずにはいられない気持を感じていたのだろう。それにしても、ともに酒を嗜まないのにシャンパンを餞別に持って来たこと、それに最後の言葉は、いかにも永の別れを予感していたようにもおもえる。
志功は、水谷の無事を祈り、これまでの恩誼に対する感謝の気持も籠めて、水谷家の宗旨である真宗の「嘆仏偈」を彫り、『水谷韻板画巻』(のちに『|水谷頌《すいこくしよう》』)という作品をつくって、水谷に贈ることにした。一般には「讃仏偈」と呼ばれている四言八十句の嘆仏偈の内容は、『親鸞辞典』の教えるところによれば、「師仏である世自在王仏の顔が光明にあふれていることを讃え、仏徳が無量であることを讃え、次に自らの作仏の誓いを述べ、その誓いによって建立されるべき国土が清浄安穏であることを願い、最後にこの誓いに対する十方諸仏の信明を請い、精進の決意をもって終る」ものである。これはそのときの志功の気持をあらわしたものといってもよいであろう。
時速十八ノットで海を進んで行く山君丸が、太平洋上東経一八〇度の日付変更線にさしかかったときには、それを記念して『宗像女妃神』を彫った。かれは自伝にこう述べている。――宗像女神は、水の神様、弁天様なのです。(中略)宗像神社というのは、ご承知のように、九州の福岡県宗像郡というところにあります。それで、「むなかた」という姓自体も、九州が最初らしいのです。神社の「むなかた」は「宗像」と書きますが、もっとさかのぼると「胸肩」と書いたものらしい。それがいちばん古いそうです。それから「胸形」になり「宗形」になって、「宗像」になり、そして「宗方」になります。それから、いよいよわたくしの「棟方」になるようです。これが、「むなかた」の名前の一番あとらしいのです。(中略)青森には、わたくしの「棟方」姓がずいぶん多くあります。……
工藤、成田、斎藤ほどではないけれども、青森には棟方という姓が、かなり多い。青森の特徴的な姓のひとつとされているその「棟方」が、もともとは「胸形」と書き、筑前の宗像からやって来たのだ、というのは、たんに志功の推測にとどまらず、「津軽藩旧記伝類」に収められている「棟方由緒書」にもそう記されていることで、以下、いささか煩瑣な叙述になるかもしれないが、青森の「棟方」のルーツを探ることは、あるいはいま日本民族と呼ばれているものの源流を探ることになるかも知れないのである。すなわち津軽藩に伝わる「棟方由緒書」によれば……。
戦国の頃――、筑前の宗像郡から、胸形玄蕃義利と名のる牢人が、二人の息子を連れて、はるばる津軽へやって来たのは、天正十九年、秀吉の天下統一が、ほぼ終りかけたころだった。それより二十年まえに、支配者の南部家に反旗を翻して、津軽独立のいくさを始めた大浦為信(のちの津軽為信)の軍勢の中心になっていたのは、土着の豪族、地侍、土一揆の首謀者といった人たちで、それに野盗、博奕打ちといった|溢《あぶ》れ者が、いわばゲリラ隊として加わっていたのだが、途中からは次第に、流れ者の武士もふえて来ていた。為信は、たいへん新知識の好きな人であったから、積極的に諸方へ情報を流してスカウトの意を伝え、それに応じて、ひとつ新興の家で立身し出世してやろう、という腕に覚えの一旗組が、次次に集まって来たのだろう、津軽家初期の武勇の士と知謀の人には、他国から来た武士が少なくなかった。なにしろここでは、甲賀者の忍者が、為信に召抱えられてのちに家老にまで出世したくらいなのである。
胸形玄蕃も、そんな為信の噂を伝え聞いて、地の涯のような津軽まで、二人の子を連れてやって来たのかも知れない。いかんせん筑前と津軽とでは遠すぎて、話が伝わるのも遅かったらしく、かれが来たのは、為信の津軽統一もまた、ほぼ終りかけていたころだった。為信の居城である大浦城に近い村で、かれは空しく、二年ほどの月日を過ごしていたようだ。このころから為信には、武勇や知謀にもまして、切実に欲しいものが生まれていた。系図や名誉である。文禄二年三月、為信は三百五十人の部下を連れて、大浦城を出発した。
文禄の役を始めていた秀吉に拝謁して、ご機嫌を伺うためであったとおもわれるが、もうひとつの重要な目的は、藤原氏の一族で五摂家筆頭の近衛家を訪ね、かねて贈物をして一時的に使用を許されていた牡丹紋の、永久使用を許可して貰うことだった。それは武士として藤原氏の一門であることの確かな証拠となるからである。胸形玄蕃は、その為信の一行を、通り道にあたる石川村で迎え、土下座して、一振りの刀を差出し、――自分はもともと藤原氏につらなる武士であり、先祖は因幡国松賀の城主であったこと、その子孫が応仁の合戦に加わって敗れて以来、長らく筑前国の宗像郡に住まいしておったところ、このたび為信公のご盛名を聞き及んで、はるばる津軽に|罷《まか》りこしたる者であること、わが身とはいわず、なにとぞわが子を殿にお仕えさせていただきたく、かように願い|出《いで》たること、わが家柄のしるしは、これなる家重代の菊寿の名刀であること……などを申し述べた。為信が、藤原の一門であるという証拠を得ようとして旅に出た矢先に、藤原氏と名のる男が現われて、わが子を臣従させていただきたい、と申し出たのである。これは幸先がよい、とおもったのか、為信は上機嫌で玄蕃の願いを聞き入れた。
玄蕃の子の作右衛門貞家は、津軽家に召抱えられ、だんだんに出世して、最後は外ヶ浜惣支配頭を仰せつけられ、青森に居を構えた。これが江戸時代の初期のことである。貞家の子の清久は、四代信政公に仕えて表書院番頭となり、公の御妹君を妻に迎えて、この代から「胸形」は「棟方」と書き改められることになった。清久の子の貞良は、知勇ともにすぐれていたので家老となり、その子で七代信寧公から名前の一字を拝領した寧隆も家老となって、以来、「子孫世々門閥に列す、世禄千石」と、「棟方由緒書」には記されている。こうしてみると、青森と旧城下町の弘前を中心に、棟方という苗字が多いのも頷ける。津軽藩のなかでは、相当な名門といってよい家柄である……。
志功は、地方史に詳しい福士幸次郎か、またはほかのだれかに前記の「棟方由緒書」のことを教えられて、この家が祖先だ、とおもいこんだのかも知れない。昭和十六年に、かれは月刊東奥誌のインタビューに答えて、「祖先は弘前なんですよ。津軽藩に棟方月海という人がいて、四代まえに外ヶ浜へ移って来たというんだけれども、くわしい系図やなんかは兄貴のところにある筈です」と語っており、自伝『板極道』でも、「弘前市の士族で棟方月海(名は数馬)という殿様付きの画家があったのです。とくに人物が得意でした。私も三代前の先祖といわれるその画家の作品を持っています」と述べている。
この月海は、殿様つきの画家ではなく、天保七年に禄高二百石の家に生まれた武士で、本名は角馬、絵は余技であったのだが、「|蝦蟇《がま》仙人」の画題を得意とし、いまも残っているその絵を見ると、画面から妖気が漂い出して来るような感じで、化物好きの志功が、自分の先祖とおもいこんだのも、無理はないような気がする。棟方角馬は、明治二年の箱館戦争に、軍監として従軍したあと、帰弘してから弘前藩公儀所の副議長を勤めており、廃藩置県後の消息はよく判らないのだけれども、『津軽文林』によれば「悠々自適楽酒、明治三七、八年ノ頃、七〇余ニシテ終ル」となっていて、これにしたがうと、志功が生まれた明治三十六年には、まだ存命していたことになる。角馬が先祖であるとするなら、年恰好からいって、かれは志功の祖父でなければならないが、自伝には、鍛冶屋一筋の実直な人間で「藤屋の爺様」と親しまれ死ぬまでチョンマゲを結っていた、と述べられ、戸籍にも、棟方彦吉と名前が明記されている志功の祖父が、棟方角馬の世を忍ぶ姿であったとは、考えられない。もしそうであったとすれば、自伝にそのことを書かない筈はないし、また月海を「四代まえ」とか「三代前の先祖」といっているのもおかしい。
おもいこみの強い志功は、初めて棟方月海の作に接したとき、同姓であることと、自分好みの画風であることや、書家としてもすぐれていたことなどから、別に詳しく履歴を詮索することもなく、すぐさま先祖と信じこんでしまったのだろう。志功はどうやら、自分の家の本家の系図を見たことがなかったらしい。本家には、十何代かまえまで溯ることができる系図が、ちゃんと残されていたのである。それによると、志功の母方である棟方家の先祖は、寛政二年に死んだ棟方左太夫の代から、青森に住むようになって、藤屋伊助と名のったと記されている。屋号がついているところからして、そのころからすでに士族ではなかったものとおもわれる。棟方角馬の名も、系図のなかには見当たらない。
では、青森へ来て藤屋伊助と名のった棟方左太夫の先祖が、どこから来たのかといえば、そこがつまり、志功がこの系図を目にしたことがなかったひとつの証拠だとおもわれるのだが、左太夫からさらに七代まえの先祖は「本国水戸城主棟方治部少輔」と記されているのである。志功が、だれかから聞かされた前記「棟方由緒書」の家系を、そのままわが家のものと信じこんだのは、それによってかねがね自分の内部にあった南方への郷愁にも似た憧れを裏づける根拠が与えられたような気がしたのと、もうひとつ、本州北端の貧しい鍛冶屋である自分の家の祖先が、実は遠い昔、遙かな国で一城の主であった……という、いわば貴種流離譚をわが家の家系におもい描いてみたかった浪漫趣味に、ぴったりと合致したからではないかとも想像される。かりにそうだとして、志功が本家の系図に先祖は「水戸城主棟方治部少輔」と記されているのを目にしていたとしたら、自伝その他の場所で、それについてまったく触れていない理由が理解できない。おそらく、志功が知らなかったのであろうその水戸城主棟方治部少輔とは、一体いかなる人物であったのだろうか……。
そうおもって『新編常陸国誌』や『水戸市史』を仔細に調べてみたが、水戸城およびその支城の歴代の城主に、棟方治部少輔という名前は見当たらない。それどころか『新編常陸国誌』の、古代から徳川時代までこの国にあった姓氏を、ことごとく列記した巻九「氏族」を隅から隅まで見ても、そこに棟方という姓はない。わずかに「族及子孫未詳諸氏」という最後の項目に、同音の「宗形」という姓が出ていて、次のように書かれている。
――コノ氏イツノ|比《ころ》ヨリカ、当国ニ住スルモノアリ、中郡庄長福寺鐘ノ銘ニ、宗形氏時、藤原氏女、正応二年己丑五月十五日トアリ、コレハ宗形氏夫婦長福寺ノ旦那ト見エタリ、(中略)此宗形氏ノ子孫アルベケレドモ、今ハ|詳《つまびら》カナラズ、……
常陸の宗形氏が、直接にはいつごろ、どこから来たのかは、あまり定かでないけれども、お隣の現・福島県へ北上すると、がぜん宗像および宗形という姓が、目立ってくる。素朴な美しさで知られる会津本郷焼の、宗像窯の窯元の家も、そのひとつである。いわゆる会津の|粗物《そぶつ》すなわち日用雑器の魅力を、濱田庄司が見出したのは、昭和初年のころで、以来、河井寛次郎、柳宗悦、水谷良一らが、相次いで宗像窯を訪れ、志功も、先代宗像豊意氏の在世中に、何度か訪ねて来たことがあるそうだ。
宗像窯の窯元の家の本家は、当地の宗像神社の神職で、『新編会津風土記』には、「大沼郡本郷村宗像神社神職宗像出雲」という名前が記されており、次のように述べられている。――当社を草創せし祠官は宗像氏なれども、年代久遠にして其の名を伝へず。……宗像窯の先代豊意氏を、何度か訪ねたことがあるという志功は、おそらくその先祖の話も、聞いていただろう。
自分の祖先を、志功は、裏日本を北上して来て津軽家に仕えた胸形氏とおもいこんでいたのだが、先祖は「水戸城主棟方治部少輔」と伝える志功の家の本家の系図に、なにがしかの根拠があるとすれば、あるいは本当の先祖はこのあたりを、つまり表日本の側を経由して、本州北端の地に向かって行ったのであったのかも知れない。
全国の各地に散在している宗像神社について、『宗像神社史』は、かつて宗像氏族が宗像神を奉じて進出して行ったものか、もしくは、各地に分住した宗像氏族が、筑前本社の祭神を勧請したものであろう、という。そして、いまも全国に残っている宗像神社の数を勘定すると、宗像族の北上経路には、裏日本側と、表日本側の二通りあったことが、明瞭であるようにおもわれる。関東と東北で、数の多いところを挙げれば、太平洋側の千葉県に十三社、福島県に七社。青森県には十社の宗像神社が残されているが、その大半は日本海側に集中しており、しかも九社までが文献に記録されている書き方では最も古い「胸肩神社」を名のっているので、これらの神神は、遠い昔、裏日本側の海路を経て、津軽にやって来たものと想定される。志功自身、自伝にこうも述べている。
――『|十三《とさ》の砂山』という有名な歌がありますが、むかし、鎌倉以前には、日本海側のいちばん大きい港で、盛んな港であったそうです。(中略)その十三潟から「むなかた」姓が岩木川を遡って、青森の棟方姓がはじまったそうです。……
いまは「沈黙の村」などと呼ばれたりもする寂しい村だが、昔の十三湊は、鎌倉幕府の「廻船式目」に定められた当時の十大貿易港のひとつに入っていて、そのころは日本海側の航路のほうが、いわば表側の主要交通路であったのだから、古代より海上交通と漁撈に携わる豪族であった宗像族が、かなり古くから津軽とも往来していたであろうというのは、十分に考えられることである。つまり津軽には、戦国時代の末期に、胸形玄蕃と名のる牢人が、筑前の宗像郡からやって来るずっと以前から、沿海の各地に宗像族の足跡が記されていたのではないかともおもわれるのだ。ことに青森のあたりには、宗像族の影が、濃く感じられるような気がする、というのは、志功の生家のすぐそばにあって、草創の年月は詳らかでないが、一説には千百数十年もまえの大同年間からあったと伝えられ、善知鳥(青森の古名)の鎮守であり、のちに青森県の県社ともなった善知鳥神社の祭神が、――|厳杵《イツキ》|島姫命《シマヒメノミコト》 |多紀理姫命《タキリヒメノミコト》 |多岐都姫命《タキツヒメノミコト》……と、表記法は多少ちがうにしても、いわゆる宗像三女神なのである。
こうしてみると、志功の家の先祖は、津軽家に仕えた名門棟方家に縁のある家であったのか、それよりまえに日本海を経て津軽にやって来た宗像族であったのか、あるいは太平洋側を北上して来た宗像族であったのかは、よく判らなくなってくる。漠然と判るのは、どのような経路を辿って来たのにもせよ、それらの源流は、いずれも筑前の宗像に発しているらしい、ということである。
志功は、福岡県宗像郡が自分の父祖の地であるとおもって、宗像神社をも何度か訪ねている。
――宗像神社というのは女神なのです。三人の女の神さまなんですが、「むなかた」姓を名のっている氏はみんな女の人が主になっています。「むなかた」というのは、女性が、利口な姓らしいです。弁天さまだといいますから、そうかもしれません。口の悪いのは、海賊だ、海賊だっていいますが、海族なのでしょう。……
宗像氏を、海人族とするのは、多くの学者の説が、一致していることである。そして『新撰姓氏録』によれば、山城と河内の宗像族は、大国主命の後裔となっている。これらの宗像族は、みずから出雲族の後裔であると名のっていたらしい。(前記会津本郷の宗像神社の神職の名が、宗像出雲となっていたのも、この点で、暗示的であるようにおもわれる)。それを裏づけるかのように、『古事記』は、胸形の三女神を、出雲族の祖である須佐之男命の子であるとしており、また大国主神が、胸形の奥津宮に|坐《ま》す神、|多紀理毘売命《たきりびめのみこと》を|娶《めと》った、とも書いている。
出雲族が、古くから朝鮮と通交のある海人族であったのではないか、というのは、すでに説のあることで、その出雲族と関係が深かった海人族の宗像族もまた、朝鮮との交通に活躍していたのであろうことは想像に難くなく、そのことは宗像の奥津宮であった沖ノ島からの発掘品によっても立証されている。もっと時代が下ると、朝鮮と宗像氏との通交は、『李朝実録』のような記録によって明らかになってくる。日本側の史料には残されていないけれども、『李朝実録』に記録されているような公貿易が始まるまえ、さんざん朝鮮沿岸(と中国沿岸)を荒らし回った|倭寇《わこう》に、宗像族が加わっていたであろうことも、多分に推測されることである。志功は「口の悪いのは、海賊だ、海賊だっていいますが、……」と述べているが、おそらく実際に一部は、海賊でもあったのだろう。
このように宗像氏と朝鮮との関係は、良きにつけ悪しきにつけ、かなり明らかにされているが、より南方の島島や国との関係は、それほどはっきりしていない。だが志功は、かねがね沖縄を本当の故郷のように感じていたせいもあって、自分の先祖が九州の宗像族であると信じたときから、さらに南方につらなる海上の道、つまりは黒潮を溯行して母の国を訪ねて行く夢を、脳裡におもい描いていたようだ。本州北端の「棟方」の紋が、なぜか南国産の芭蕉の葉を二枚、円環状に連ねた「抱き芭蕉」であったことも、そうしたおもいを強めさせていたらしい。
人間のルーツというのは、本来、一人の人間には二人の親があり、二人の親にはまたそれぞれに二人の親がいて……といった具合に、過去へ溯るにつれて多様に分岐し、国境などという遙か後代につくられた架空の境目など、当然こえて太古の時代まで伸びているものであるのに違いない。そうした無数の根の、文字通り結果として生じて、太古以来の生命力をいまに伝えているいわば一箇の果実が、自分という存在であり、どんな人間でもそこに生存の意味と価値がある筈なのに、日本人のルーツ探しは時代を溯るにつれて源平藤橘のいずれかに属し、さらに溯ると第何代目かの天皇というところに収斂して行って、一本の幹を頂点にピラミッド型に分岐した底辺の無数の根の一本が自分であるという、歴史的に見るならあきらかに倒錯した考えを抱きがちであった。志功も、ルーツ探しが大好きで、まただれにも負けないくらい天皇の好きな人間でもあったが、かれの場合は、本州の北端に行き着いた「むなかた」の源流を求めて、玄海灘に面した宗像の地に立ったとき、自分のルーツが、そこからさらに朝鮮や、中国や、南方の諸方にむかって伸びていることを、まざまざと実感していたのではないだろうか。
アメリカ行きにあたって、志功が海路を選んだのには、画材をふくめて荷物を多く持って行けることや、それもニューヨークまで全部円払いで行けることなど、いろいろ現実的な理由があったのだが、自分は海人族の末裔であるという意識も、理由の一部になっていたのかも知れない。山君丸が日付変更線を通過するとき、――そういうことで、わたくしは、太平洋の真中にきて、ほんとに心ゆくまで宗像女神を板画しました。……と述べている。
海人族の末裔であると自負するだけあって、チヤと巴里爾が船酔い気味になっているときも、志功だけは食欲を失わなかった。毎日ちがったメニューで出て来る食事に、三度三度かわらぬ旺盛な食欲を示して、部屋にもどると、すぐにまた仕事にとりかかる。かれにとっては、仕事がそのまま遊びを兼ねているようで、単調な船旅にも、無聊をかこつ様子がなかった。『宗像女妃神』を彫り終ると、『水谷韻板画巻』を、来る日も来る日も、懸命に彫り続け、その合間には、息抜きのように、おもいついた画題の板画を彫り、それを刷っては、船員さんたちに配って歩いた。
アメリカ大陸に近づいた夜は、レーダーに幻燈のように映っている陸地の影を、眼を丸くして見守っていた。志功の言によれば、海路を選んだ理由は、ほかにもうひとつあった。――わたくしは、アメリカに着くまでに見たいところがあったのです。それは何かというと、パナマ運河を見たいと思いました。パナマ運河、人類の最も厳粛な仕事、いままで人間がつくった仕事のすべてを通して、いちばん結実とともに犠牲の多かったという、この大仕事の現場、そうして大西洋と太平洋をつなぐ人工と自然の川、それをこの目で見、この体で味わいたいと思いまして、これを一番さきに願ったのです。――
そして実際に、山君丸でそこを通ったときの感動を、かれはこう述べている。
――このパナマ運河の壮大さ。もう、心からこみあがって……。本当に神の仕事にちがいないとまで嘆じました。こういう大変な仕事を、人間ができるのか、と思いました。わたくしは、はじめて東京へきて、丸ビルを見たり、大きい建物を見たときも、ずいぶん驚いたはずでしたけれども、この驚嘆はそんなものではないのです。本当にこの仕事こそ、――と思いました。/船が塩水の湖にはいってくると浮き上る。そうして、そうすると、ひとりでに扉がしまるのです。水がいっぱいになると船が浮き上って、そして水門が開くとまた船が進むのです。次の人造湖へ導かれるのです。船がはいっていく。そうすると、いつのまにか水門がしまって、そこへ水が上がってくる。それで、また次、次へと進むのです。よくまあこういうしかけで、この大きい船をわたしてくれるものだと思いました。……
好奇心の塊となって、感嘆の声を挙げている志功の表情が眼に見えるようである。山君丸が、パナマ運河の入口に近づいたとき、アメリカ海軍のフリゲート艦が航行中であるとかで、予定の時間に最初の|閘門《こうもん》へ入ることができず、運河を通ったのは、夜になってからだった。したがって志功は、閘門の両端にあって、七階建のビルに相当する高さを持っているという壮大な鉄製の扉や、閘門の両側や底部からの給排水によって、船が持ち上げられたり、引き下げられたりするさまを、船長からその仕掛けの説明や、この運河の建設に払われた長い年月と巨費と多くの犠牲、あいだに疫病の流行と建設会社の破産と、パナマ地方の住民のコロンビアに対する反乱と独立をふくむ、波乱の物語を聞きながら、煌煌と輝く電燈によって闇のなかに照らし出されている光景として見たのである。
歴史の一断面を、目のあたりにしているおもいであったのかもしれない、かれは大変な感動ぶりで、深夜から次の日の朝まで、眠らずに眼を見張り続けていた。巨大なものに対する讃嘆も、志功の生涯を通じてのものだった。また過去へどこまでも溯って行こうとするノスタルジーを、ほぼ生理的なものとして持っている反面、新しいものに対する好奇心を失ったことがなく、自然を愛し讃美する一方で、人工の美に対する感嘆の念も忘れたことがなかった。そのような志功にとって、このときのパナマ運河体験は、のちのピカソ体験、ミケランジェロ体験にも匹敵するものであったのかも知れない。
ブルックリンの岸壁に着いた山君丸から下船して来た志功を出迎えたジャパン・ソサエティーのベアテ・ゴードン夫人は、話し始めると間もなく、多くの日本人とは随分ちがっているという印象を受けた。ゴードン夫人は、オーストリアから上野の音楽学校へ赴任して来た有名なピアニストのレオ・シロタ教授を父に持ち、五歳から十五歳のときまで日本にいたことがあるので、すこぶる日本語に堪能であり、日本人の気持もよく知っている。たいていの日本人は、おもったことを、なかなか口に出さず、外国人の眼から見れば、不可解な微笑を浮かべていることが多いのに、志功は違っていた。
かれはまず、大きなジェスチュアをまじえて、パナマ運河が、いかに素晴らしかったかを語った。次に船のなかで、六十枚の版画を制作したことを話した。それから話題は一転して、食物のことになり、自分は鮭と豆腐が好きなのだが、それを知った山下汽船の人が、スモークド・サーモンと豆腐を用意してくれたので、毎日ちがったメニューのなかに、自分の大好物をも欠かさず味わうことができた、といった。ゴードン夫人は頷いて、――わたしも、あなたのために、サーモンを用意しましょう、と約束した。
別に無作法だとも無遠慮だとも感じなかった。おもったことを率直に口に出す、こういうタイプの人間は、アメリカ人にとって、まことに判り易いのである。ほかに、このときの第一印象を挙げれば、日本人としても背が低く、丸く光った額、分厚い近眼鏡に少しも妨げられていない活溌な眼の輝き、賑やかな話し方、話し始めてすぐに判る心の温かさ、感じやすさ、人をとらえずにはおかない情熱、エネルギー、ダイナミックな性格、などであったが、ひとくちにいって、――この人は、わたしたちとおなじ種類の人間だ。……ゴードン夫人は、そう感じたのだった。
ロックフェラー財団とジャパン・ソサエティーに招かれたのは、アメリカ各地の大学その他の場所で、版画についての講義とデモンストレーションを行なうためだった。志功は例によって、まったく隠しごとを感じさせない率直な口調で、「わたしはデモンストレーションをするのは、あまり好きじゃないんですよ」と、ゴードン夫人に語った。これは一体どういう意味であったのだろう……。実際にアメリカ人を対象にして行なった講義とデモンストレーションにおいて、志功が収めた成功は、圧倒的といってよいものだった。
デモンストレーションに先立つ講義において、志功は技術的なものよりも、まず自分の板画というものが、どこから生まれて来るのかを、仏教における自力と他力の問題をもとにして語った。ひとくちに仏教といっても、禅は自力であり、真宗は他力である、わたしは戦争中、真宗のさかんな土地に疎開していて、この他力の教えに、非常に教えられた、自力の考えに立てば板画をつくる、ということになるが、他力の考えに立てば板画はつくらなくても、おのずから生まれて来るのである……。
「……わたしはね、彫りも摺りも、あんまり上手じゃないんですよ、本当に。ほんと、だめ、下手のほうです。ところが、その下手なところは、仏様が、つまり板画の神様が、助けてくれるんですね。上手な人には助けてくれません。私は幸いです(笑)」
壇上の志功の話が、一段落すると、通訳がそれを英語に言いかえる。仏教における自力と他力、といったふうな、日本でもよく通じるかどうか判らない、いわば抽象的な話をしているのに、英語に言いかえられた志功の一語一語は、アメリカ人の聴衆の胸底にまでストレートに届いているようだった。自分は彫りも摺りも、あまり上手ではない、という言い方は、かれの性格がオープンでフランクであることを印象づけ、下手なところは神様が助けてくれる、上手な人には助けてくれない、といった言い方は、信仰というものの機微を突いているようにおもわれるうえに、日本人には珍しい諧謔性も感じさせた。そして、そのくだりの最後の言葉が、「アイ・アム・ベリー・ハッピー」と通訳され終ったときには、話し手が、それこそ「ハッピー」そのものの微笑を浮かべているので、聴衆はすっかり納得させられて、大きく頷き、歎声や笑声のどよめきとともに拍手をおくることになるのだった。|莞爾《かんじ》とした志功は、さらに身ぶり手ぶりをまじえて話を続けて行く。
「ほんと。下手な人は、神様が助けてくれます。だから、わたしの場合は、仕事のほうから、わたしを呼びに来るんです。板画のほうからね、プリーズ、棟方、プリーズ、棟方、って、迎えに来るんですよ、本当に。……」
すでに論旨が、かなり明らかになっているところへ、「プリーズ、棟方、プリーズ、棟方」というくだりには、大声で呼ぶ表情に机上の板木や道具を指しながらのジェスチュアが加わっているので、このあたりまで来ると、聴衆は日本語の段階で、すでに要旨のなかばを理解し、通訳によってそれを確認している様子であった。講義が進むにつれ、志功と聴衆のあいだに生じた共鳴現象は、ますます強まって、受講者は、だんだん名優の演技かパントマイムでも見ているような表情になって来た。講義に共鳴しながらも、口角泡を飛ばす話しぶりや外国人には珍しい金歯を覗かせての哄笑に、いささか毒気を抜かれているようでもあった観衆を、完全に圧倒したのは、それに続く実技のデモンストレーションだった。
壇上の志功は、彫刻刀を持って板木に向かったと見るや、驚くべきエネルギーと、信じられないほどの速さで、なにものかに憑かれたように、踊りともみえる恰好で彫り続けた。ゴードン夫人の表現でいうなら、そこに感じられたものは、「|生命《ライフ》」であり「|嵐《ストーム》」であった。人間業とはおもえないような速度で、あらかじめ半分以上のところまで彫ってあった一枚の板画が彫り上げられ、志功の激しい動きが止まった。摺りにかかった志功は、|馬連《ばれん》を取り上げていった。
「これは中国からの道具ですね。世界で最も簡単なプリントの機械です。馬連といいます。こういうふうに摺りますから、馬のたてがみを撫でるような気持を、いうんですね。……」朝鮮ではマーリョツという馬の|鬣《たてがみ》を黄蝋で固めたもので摺っている、といわれているが、わが国のバレンは朝鮮や中国から輸入されたものではなく、その語源も定かではない、と一般にはされているのだけれども、とにかく志功はそう説明して、「……こういうふうに摺るときに、わたしの魂や命が、この馬連を通じて紙に籠められるんです」さっきまでの激しさとは打って変った、敬虔な祈りの口調でいい、ゆっくりと馬連を使い始めた。その動きが次第に強く、また激しくなって行く。観衆は殆ど息を呑むようにして、志功の手元を凝視していた。やがて摺り終えたかれは、
「開きます」
そういって、ゆっくりと剥がした紙を、両手で掲げて観衆に示した。深い精神的な内容を感じさせる黒と白の玄妙な世界が、そこに出現していた。夢から醒めたような一瞬の間があって、拍手と喝采が起こった。志功のデモンストレーションは、アメリカ人の大好きなショーとしても、ほぼ完璧に近かった。観衆は、いま自分たちが耳にし目にしたものが、たしかに芸術の創造過程であったことを実感していた。志功は出来上がった作品に、署名し、捺印してから、最後にこういった。
「わたしの板画にはナンバーがないのです。世界の版画家のなかで、ナンバーをつけないのは、わたしだけだとおもいます。これはわざとつけないのじゃなくて、多分、多分ですね、わたしの板画には、おなじものが一枚もないのです、そういうわけですから……。これで、わたくしの板画の話は、終りです」
「ムナカタは四回、アメリカに来ましたが……」
と、ゴードン夫人はいう。
「どのレクチュアとデモンストレーションでも、見た人に忘れ難い印象を残しました。ムナカタのような印象を与えた人は、ほかに知りません。かれはいつでも、深い印象を与えました」
その印象は、一体どういうものであったのだろう。多くの日本人にとって、志功から受けていたイメージというのは、まず面白い人、もっとはっきりいって風変りな人、滑稽な人、という感じであったのだが……と聞いてみると、
「それは全然わかりません」
ゴードン夫人は首を振って、すこぶる意外そうな表情をした。
「ファニイ? エクセントリック? そんな風には、アメリカ人は全く感じませんでした。わたしが感じたのは、ムナカタがオープンでフランクで、心が温かく、ダイナミックな性格の人間だということです。かれの作品に、まず感じられるのも、ダイナミズムです。ムナカタと会って、かれの作品を見たアメリカ人の大部分は、おなじように感じているとおもいます」
どうやら志功の人間と作品の魅力は、アメリカ人には殆ど通訳を要しない種類のものであったらしい。日本人には大袈裟ともおもえる志功の身ぶり手ぶりが、アメリカ人には少しも大袈裟でなく、自分たちと同種の人間を感じさせる、ということもあったのだろうが、それにしても、海の向こう側とこちら側とでは、志功に対する見方に、かなり大きな開きがあるようだ。志功の作品の特徴として、まずダイナミズムを挙げる日本人が、果たしてどれだけいるだろう。そう考えると、アメリカ人のほうが遙かに直截に、志功の本質に迫っているようにもおもえる。
またゴードン夫人は、志功が英語をよく知らないのに、ホイットマンの詩を原文のまま板画に彫ったとき、Sの字が反対になっていたり、抜けていたりした箇所を指摘すると、「そんなことは気にすることはないし、自然さは釈迦の一部である、と教えてくれたのです」と述べている。その作品を見ると、SのほかにLの字の向きも反対になっている。学校で英語教育を受けた人間なら、こんな初歩的な間違いは犯さないであろうし、誤りを指摘されたら、すぐに赤面して訂正するだろう。だが志功を前近代的と笑い、ゲテモノと蔑んできた人人が、果たしてかれほどの国際性を発揮できるかどうかは、疑問である。こうしたかれの国際性は、一体どこから生じていたのだろうか……。
最初の渡米において、志功が収めた大成功のひとつは、コロンビア大学における講義であった。話の途中から、通訳が入ろうとすると、ジャズの即興演奏をおもわせるような志功の話しぶりと動きが中断されて、せっかく盛上がっている感興がそがれるのをおそれたためか、聴衆のなかから(……通訳はいらない)といった意思表示の反応が起こり、通じない筈の日本語の話を、そのまま続けて聞きたがった、という有名な挿話が生まれたのは、このときのことである。
このコロンビア大学では、鈴木大拙博士が一九五〇年から二年前まで足かけ八年、仏教についての講義を続けていた。二十七歳のときから十一年間もアメリカで過ごしたことがあり、英文の著訳書を数多く持っている博士の英語がすぐれていることには定評があったが、その説く内容が難解であることもまた、定評に近かった。博士は禅のほか、しばしば他力宗の浄土教や妙好人についても語ったが、たとえばペリカン・ブックスの『|仏教《ブデイズム》』を書いたロンドンのクリスマス・ハンフレーズ氏が、「大拙師の説く禅や華厳には惹かれるけれども、念仏や妙好人の話は、さっぱり判らない」と嘆いたという話があるくらいで、そのへんの事情は、コ口ンビア大学の学生たちにとっても、同様であったろう。
専門家によれば、志功がコロンビア大学を訪れる二年前に、ニューヨークのハーパー・アンド・ブラザース社から刊行された鈴木大拙の『キリスト教・仏教・神秘主義』には、キリスト教と仏教の比較論が述べられ、なかにたびたび妙好人について言及している箇所がある由であるが、英文のその本を読むことができないので、邦文で発表された『妙好人』によるなら、大拙は浄土宗信者のなかの妙好人と呼ばれている人たちの特徴として、比較的に文字の知識に乏しいこと、比較的に社会的地位を持っていないこと、にもかかわらず自分の地位に安んじて、その職業に励む傾向が強いこと、などを挙げて、そういう妙好人を生み出した他力教は、むろん大いに異なるところもあるにしても、キリスト教と大いに似たところがあるといい、「或る意味で云へば、キリストも亦妙好人の一人である」と述べている。
外国人にとって、そうした大拙の浄土教観は、はなはだ奇異で不可解なものに映っていたらしい。志功は、そういうところへ現われたのだった。ずっとまえから、志功は大拙のことを、よく知っていた。大拙は志功の師である柳宗悦の学習院時代の恩師である。志功が富山県の福光に住んでいた昭和二十二年の夏、柳は恩師とともに北陸講演旅行に来て大谷派高岡教務所で話をしたことがある。そのときの大拙の話は、やはり妙好人についてのものであった。
志功がニューヨークに着いて、最初に旅装を解いたところは、リバー・サイド通りの仏教アカデミーで、そこには鈴木大拙が何度も講話に来たことがあると聞かされた。コロンビア大学に招かれて講義に行ったときも、そこが大拙と縁の深い大学であることは判っていたので、かれの講義は、これまでの大拙師と自分とのかかわりあいと、妙好人の話を前置きにして始められた。自伝では、こういっている。
――(鈴木大拙先生のアメリカでのお話は)「妙好人」の話がおもであったそうです。この在り方を、大拙先生がアメリカでずっと語りつづけたそうですが、これをわたくしは、別な動きに代えて語ったのです。わたくしのことですから話したというよりも、見せたといった方がよいと思います。大拙先生のように学問の底から出て来るお話とは別に、わたくしの板画、板画の|カラダ《ヽヽヽ》から出る|モノ《ヽヽ》を観していただいたのでした。……
コロンビア大学の学生たちにむかって、志功は、自分が戦中と戦後にかけて、昔から多くの妙好人を生んだ土地で暮していたこと、一人の妙好人が開いた山中の寺を、何度も訪ねたことがあること、自分も妙好人になりたいとおもって仕事をしている人間であること……などを語った。
大拙は妙好人の生活が「ありがたい」「かたじけない」という一連の感情で貫かれている、と述べたが、壇上の志功は、まさにそのような感じの微笑を表情から絶やさなかったから、聴衆は、大拙の説では甚だ難解であった妙好人の、いわば現物を、いま目前にしているという印象を受けた。そうしてみると、「わたしは幸いです、下手な人は神様が助けてくれますから……」という志功の言葉は、「神に|縋《すが》る心貧しき人たちは幸いである、天国はその人たちのものとなるのだから」というイエスの言葉を連想させ、「わたしの場合は、仕事のほうから、わたしを呼びに来るんです」という言い方は、プロテスタンティズムの精神に由来する「|天職《コーリング》」という言葉を想起させて、ひたすら念仏することで救われるという他力宗の教えは、たしかに主への信仰のみによって救われるとするキリスト教に近いようにおもわれた。
他力教がキリスト教に似ている、というのは、鈴木大拙だけの考えではない。もともと自力によって正覚に達する道を説くものであった仏教のなかに、一切の衆生は阿弥陀仏の本願の力によって、いわばその恩寵によって救われるのであるという他力本願の思想が生まれたのは、西暦二世紀にはインドの西北辺まで達していたキリスト教の影響によるのではないか、というのが岩本裕氏の説である。かりにその説にしたがうなら、コロンビア大学における妙好人の話を、志功は、真宗王国と呼ばれていた北陸の福光での生活をひとつの根として語っていたのだが、その真宗王国を成立させた無数の根のなかの一本は、遠くガリラヤのナザレに発していたのかも知れず、その小さな町に生まれたイエスの教えから生じたさまざまな分派のなかのイギリス清教徒をひとつの根としてつくられたアメリカで、志功はいま他力の恩寵を語っている……といったふうに、目には見えない円環が、時空を超えて地球を一周していたことになるかも知れないのである。
また志功が、戦前から仏教的な主題を好んで取上げながら、戦後は『耶蘇十二使徒板画柵』や『基督の柵』も彫るようになったことが、かれの無原則性や便乗性のあらわれのようにいわれたりもするけれど、別にそれほどおかしなことではなかったことになるのかもしれない。キリスト教と浄土教の関係については、ひとまず措くとしても、志功の言動が外国人にもすぐに通じる国際性を持っていたのは、インドの古い言葉でいえば「唯一の真実を智者たちはさまざまに説く」または「永遠なるものはただひとつであるが、それには多くの名がある」という、その永遠なるもの、すなわち人間にとって、普遍的で根源的な問題に触れていたからであったのかも知れなかった。
招かれて渡ったアメリカで、英語のできない志功が、『草の葉』の詩人であり『民主主義展望』の著者であるホイットマンの詩を、原文のまま板画に彫ったことは、いかにもかれらしい適応性の強さ、つきあいのよさを、物語っているようにおもわれる。しかしホイットマンが、ウィリアム・ブレイクとともに恩師柳宗悦の傾倒していた詩人であったことを考えると、そこにも、何の根もなかったというわけではない。
まだ志功と知合うまえのことであったけれど、柳は昭和四年に招かれてハーヴァード大学で講義をしており、そのときの渡米の目的のもうひとつは、ホイットマンに関する文献と、『草の葉』の各版を蒐集して来ることだった。その後、柳宗悦は寿岳文章とともに、昭和六年から二年間、「ブレイクとホヰットマン」という月刊雑誌を出しており、これは研究誌ではあったが、当時の時流に抗する反軍国主義とデモクラシーの小さな|砦《とりで》でもあった。また柳の宗教に対する関心は、まずキリスト教に始まり、次第に仏教へ移って行ったものだった。かれが大東亜戦争の真最中である昭和十八年十月に、おもにキリスト教に基づいて神の問題を論じた『信と美』の新版を出したのは、極端な日本主義が横行している時流への、ひそかな抵抗のつもりでもあったのかも知れない。つまりここでいいたいのは、無類の勉強家であってことに柳宗悦の影響を強く受けていた志功にとっては、キリスト教もホイットマンも、戦前から無縁のものではなかった筈だということなのである。もっとも、それらについての関心が、表面に出て来たのは、戦後のことであるけれども――。
昭和二十八年に、国展から日展へ転じたときの第一作として、『耶蘇十二使徒板画柵』を制作した志功は、気負いこんだ表情で、柳のところにやって来た。
「先生、これは『釈迦十大弟子』よりも、もっとよいかとおもいます」
官展ぎらいの柳が、自分の日展への転進を快くはおもわないであろうことを感じていて、志功は、有無をいわせぬ傑作を見せて納得して貰おうと、気負っていたのかもしれない。衆目が志功の最高作と認めている『釈迦十大弟子』よりも、このほうがよい、というのである。柳は、志功の自作鑑定能力を、あまり信用していなかった。むしろ志功のよさは、自作の出来に殆ど無頓着なところにあるので、とくに出来不出来の差が甚しい倭画の場合など、しばしば凡作を量産して恬然としている放胆さが、ときに神品を生む要因となっているのだとおもっていた。『耶蘇十二使徒板画柵』は、柳の眼に、『釈迦十大弟子』に遠く及ばぬ出来と映った。こうしたとき、柳は相当ずけずけと物をいうほうである。志功は落胆の面持で帰って行った。キリスト教に材をとったことが、柳の気に入らなかったわけではない。その証拠に、柳は、志功が昭和三十一年に茶道雑誌「淡交」に連載して発表した『茶韻十二ケ月板画柵』のうち、『基督の柵』について、のちに『棟方の近業・基督像』と題して次のような絶讃の文章を書いている。
――この基督像は、全体としてもなかなか美しく、衣の|襞《ひだ》など簡単でゐて、要を尽してゐるし、荒い線が細かい線で綾取られ、彫にもなかなかの心が込めてある。|然《しか》し何と云つても素晴しいのは顔で、眼や眉や頭髪、頤鬚など、実によく模様化されて、申し分がない。特に眼の表現など、イエスの鋭く聡明な性格を迫るように示してゐる。それに両手両足が|亦《また》実によい。手の甲に見られる傷跡など、実にうまく、美しく表現されてゐて、そこに大した模様化が見られる。仏像に見られる相に近い。
――私の見る処では、現在の基督教画家で、之だけ見事に基督を表現した人は一人もゐないと思はれる。私の眼は之を中世紀以来の名作を得た感じを受け取る。この一枚を鑑識ある西洋人が見たら驚くであらう。当の欧米ですら、長く生み得なかつたキリスト像を目前に見せてくれるからである。棟方はこの一枚だけでも、その名を長く留めるに違ひない。……
最上級といっていいこの柳の讃辞に、こんどは志功のほうが、首を傾げたようだ。ここに引いた文章が発表されたのは昭和三十三年のことだが、『基督の柵』を最初に見た直後、柳はこの作品こそ『釈迦十大弟子』を抜くものと考え、これまでの棟方の全作のなかから何か一枚だけを選べといわれたら、これを推したい、とまで感心して、早速その旨を手紙に書いて出したところ、やがて志功が、「そんなによいのかなあ……」といったという噂が伝わって来た。ちなみに『基督の柵』が発表されたのは、「淡交」の昭和三十一年十二月号で、この年の六月に志功はヴェニス・ビエンナーレのグラン・プリを受賞している。
柳と志功の師弟関係には、どうやらこの少しまえあたりから、微妙な距離が生じ始めていたらしく、その点について、暗に志功の忘恩を|仄《ほの》めかす意見もないではないのだが、二人の近くにいた信頼できる第三者の観察と意見を総合すると、そこに至るまでの事情は、おおよそ次のようなものであったらしい。いつのことだったか、柳が志功の作品に不満の点を示して、一部の彫り直しであったか表具のやり直しであったかを求めたことがあった。以前の志功なら、一も二もなくそれに従った筈であった。ところが、それをやっていると展覧会への出品に間に合わない、というので志功はそのまま出品し、柳が見に来る日に、展覧会場から雲隠れしてしまった……というようなことがあった。
そんなことがあると、別に遠ざかるつもりはなくても、だんだん恩師のところの敷居が高くなって来る。かりにそれが、海外での受賞後のことであったとしたら、志功はすっかり鼻が高くなって、柳先生のいうことも聞かなくなってしまった……という噂のもとにもなるわけである。柳に対してばかりでなく、志功が昔の恩人に対して必ずしも礼を尽していないという声が出てくるのも、このころからのことである。有頂天になりがちな志功の態度にも、他人にそうおもわせるようなところがあったのかも知れない。
また海外から伝わって来る圧倒的な評価に比して、昔ながらの恩師の手きびしさをもふくむ評価に、微妙な違和感を覚えて、いささか煙ったく感じられて来る、というのも考えられないことではないだろう。それでも志功は、柳宗悦の身近にいた民芸協会の田中豊太郎氏によれば、たえず手紙や伝言による弁明その他で師との意思疎通を図り、はっきり対立したり礼を欠いたりしたことは一度もなかった、とのことである。
昭和三十一年の暮に近い十二月十七日、柳宗悦は不整脈を伴う心不全で、女子医大病院に入院し、左半身麻痺の身を病床に横たえて、新しい年を迎えた。したがって昭和三十二年から、前年のヴェニスにおけるグラン・プリの受賞と『鍵』の挿絵の成功によって、美術界の評価はともあれ、世に広く名を知られた志功の活躍ぶりは、病床で聞くことになった。そのころ抱いた感想を、柳は、のちにこう述べている。
――私は一昨年暮から重病に|罹《かか》り、もう一年余も病臥生活をしました。この一文も病床で書いてゐるのです。|無聊《ぶりよう》を慰める為、壁に代る/″\いろいろの絵を掲げて自らを慰めました。無論棟方の絵も掛けましたが、棟方は大概の絵に「志功」と署名します。それが夕方などになると、志功がどうしても「急功」に見えるのです。「功を志す」のが「功を急ぐ」のです。ところが次には更に「恋功」と読めるのです。「功を恋して」ゐるのです。誠に「当らずと|雖《いえど》も遠からず」の点があつて、私は独り可笑しく笑ひました。ところが或夕方、それがどうしても「忘功」と読めるのです。ここで私は膝をはたいて悦びました。さうだ、棟方はもう「功を忘れ」てよいのだ。ビエンナーレのグランプリなど蹴とばしてよいと思ひます。もう悠々仕事に専念してよいのです。さうしたら、更に棟方は輝くでせう。……
柳は、志功を認めた最初のころから、作品に度胆を抜くような値段をつけていたこと、絵をさかさに見せて平然としていたこと、独身を装っていてその実、妻子がいたことなどから、かれが表面からだけでは簡単に判断できない、なかなか端倪すべからざる人物であって、利に聡く、機を見るに敏で、変り身が早く、自己を宣伝するのにも巧みであり、顕示欲も出世欲も人一倍強いことをよく知っていた。それらのことをすべて判ったうえで、志功を「かけがへのない作家」と認めて高く評価して来たのである。志功はまたその師から、実によく学んだ。たとえば柳は、長男の柳宗理氏が書いた『美の発見』という文章によれば、かならずしも念仏を全面的には信じてはいなかったらしい。柳宗悦は早くから仏教に親しみ、膨大な量の仏書を読破していたが、
――お寺や神社へ行っても、拝んでいるおやじの姿を、私はついぞ見なかった。晩年、病に倒れて不眠症になった時、おふくろが「念仏を唱えたら寝られるでしょう」といったら「念仏なんかきくもんか」とひどく怒ったとか。要するに、おやじは筆では信を唱えても、それはあくまで自己の体得した美に対する裏づけの理論としてに過ぎなかったと思う。……
そういう本質的には知的な近代人であったとおもわれる柳の理論を、初めて知ったころの志功は信仰に近い感じで受入れた。いまアメリカの各大学の講義で、志功が述べている「他力」の考えも、大筋は柳から学んだものである。「世界のムナカタ」をつくり上げた沢山の根のなかでも、柳理論は、もっとも強力なものの一本であったといわなければならない。
ベアテ・ゴードン夫人が、志功を(……わたしたちとおなじ種類の人間だ)と見てとったのは、多くの日本人の見方とは違って、かれを自分たちとおなじ近代人として感じたことを示している。それ以前に、わが国でも、まえに引いた昭和二十七年二月の毎日新聞に掲載された美術評は、志功の版画に「近代的感覚」を認めていた。この評を書いたのは、当時、毎日新聞の学芸部に在籍していて、モダンアート協会の創立会員でもあった画家の杉本亀久雄氏である。初めて見たときから、氏は志功の版画に、伝統的な浮世絵版画とはまったく異なった、きわめて個性的な線と形を見出し、その日本人離れした強烈な自己主張、鮮明な自我意識に、たんに「泥臭い」とする世評とは違った「近代的感覚」をかんじとったのだった。
奇妙なことに、志功の画風が、そのように個性的になり、だれが見ても一目でかれのものとわかる独得のスタイルを確立したのは、「個性の沈黙」を説く柳の理論を知ってからのことである。もともと志功は、自分自身とその周囲の狭い範囲内のことに強く固執する、はなはだ我執の強い人間で、そのことは帝展に落選を繰返していたころの応募作が、すべて故郷青森の風景を記憶によって描いたものであったことにもあらわれているが、当時のかれの作品には別に群を抜くほどの際立った個性はなかった。版画も最初のころは、川上澄生の下手な摸倣であったりした。そのころの志功は、肉体ばかりでなく精神においても、かなり近視眼的であった。
それが『大和し美し』の制作を機に、柳宗悦に認められて、志功にとっては遙か彼方のものであった、我執の放棄を説く他力の思想に眼を開かれ、また河井寛次郎と水谷良一にも教えられて、主題が自分だけの狭い関心事から、無辺際でほとんどどのような解釈も可能であるような仏教の広大な世界にひろがった途端に、かれの奔放な個性が作品に濃くあらわれ始めたのだ。志功が他力の思想に目覚めたのは、柳の言葉によるなら「世界の光景は俄然として一転する。自分が無限小に小なのであるから、自分に非ざるものは無限大に大となる。小我と大我とが真向きに触れ合ふ」というその瞬間であったのかも知れない。さまざまの|瑣末的《トリビアル》な、けれども自分を強く束縛している我執やこだわりを、段段に断ち切ることで、志功の作品の性格は、やがて世界に広く通用する普遍的な個性にまで到達した。
いったん個性の沈黙を志すことによって、かえってより深い個性が濃く滲み出してくるという、濱田庄司と河井寛次郎の作品にも見られるこの逆説を、柳は意識していたのだろうか……。無名の工人を理想化した柳が育てたものは、結局のところ日常の雑器をつくる職人ではなく、だれが見ても一目で判る画然とした独得のスタイルを持ち、海外にも通用する力強い個性を確立した濱田庄司、河井寛次郎、棟方志功といった芸術家であった。志功は反近代的とおもえる柳の思想を信ずることによって、外国人に対しても自分の特徴を鮮明に印象づける、近代的な個性を得たのである。
最初に渡米した年の夏、志功はニューヨークから、さらにヨーロッパへの旅に出た。フランス、オランダ、スペイン、スイス、イタリア、と旅して回ったなかで、志功が最も魂を震撼させられ、かつ全身で楽しんだのは、ローマのシスティナ礼拝堂の壁に描かれていたミケランジェロの傑作『最後の審判』であった。祭壇の上の面積二百平方メートルの壁面に、三百九十一人の人物を描きこんだ大壁画をまえにして、志功は仰向いて見たり、顔を横にして見たり、椅子に寝転んでみたり、最後にはキリストを取巻いている聖者や罪人たちを、すべて楽員に見立てて、脳裡にべートーヴェンの第九シンフォニーを聞きながら、大交響楽団を指揮するように手を振るってみたりした。
ヴェニスでぜひ行ってみたかったのは、三年前に大賞を得たパビヨンの日本館だった。ビエンナーレの開かれる年ではなかったので、閉ざされていた日本館の扉の鍵を、係の人にあけて貰って入って見ると、吹込んだ風で床の上に乱雑に散らばっていた紙屑が舞上がり、まだ壁につけられていた前年の出品者の名札が斜めになっていたりしたので、志功はすっかり寂しい気分になって、早早に引揚げた。
フランスでは、パリ郊外のオーヴェールに、ゴッホ兄弟の墓を訪ねた。自分を絵画の道に進ませた根本の一人であるゴッホの墓碑銘を、志功はチヤ夫人の眉墨を用いて拓本にとった。帰途についたのは、夕暮れのころだった。夕陽の逆光のなかにシルエットとなっているオーヴェールの教会を見て、志功は感慨無量の面持であった。
アメリカにおいて、志功が、いちばん驚いた絵は、ニューヨークの近代美術館にあったピカソの『ゲルニカ』だった。ドイツ軍によるスペインの小都市ゲルニカの無差別爆撃を憤ってピカソが制作したこの大作は、墨色を基調とした怒りと悲しみの表現で、志功を深く感動させた。このころから志功にとっては、ゴッホにかわって、現代絵画の世界に聳立する巨人ピカソが、新たな目標となってきたものとおもわれる。さまざまな収穫を得た約一年間にわたる海外生活を終えて帰国した志功は、絵画へのおもいを新たにして、また制作に専念し始めたが、一方において幾つかの不幸にも遭遇しなければならなかった。帰国した翌年の秋、かねてから視力の弱まっていた左眼が殆ど失明した。翌三十六年の五月三日、柳宗悦が脳出血でこの世を去った。アメリカへ出発した年の四月、水谷良一が死んだのに続いて、志功は最大の恩師を失ったのである。柳宗悦と水谷良一は、志功にとって強力な理解者であり後援者であるのと同時に、すこぶる手きびしい批評家でもあった。志功の制作は絶えず二人の鑑識眼を意識して続けられ、いわばその試験に合格しようとしての懸命の努力から、数多くの傑作が生み出されて来ていたのだった。その二人が死んだいま、志功の絵画に対する望みと、名声はいよいよ高まっていたが、なかには尾の一部を失った凧を見るような不安を感じていた人も、いないではなかった。
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根源への旅
その日の朝、午前七時に志功は荻窪の家の玄関の外に、いったん姿を現わした。前年の春から、志功の人と作品を記録し続けていたカメラマンの濱田益水は、カメラを向けてシャッターを押した。講談社刊の『写真 棟方志功』に収められているその姿を見ると、志功はなぜか項垂れて悄然としているような印象さえ受ける。生涯に一度の晴れがましさを迎える直前、あるいは余りに感慨無量であるとき、人はかえって、悲哀にも似た感情を味わうのかも知れないとおもわせるような表情である。昭和四十五年十一月三日、文化勲章の伝達式は、この日の午前十時半から皇居宮殿で行なわれることになっていた。
家のなかに戻って、紋服の正装に着換え、皇居へ向かう用意が万端ととのうと、志功はいつものかれに戻った。「十一月三日は、本当に今日なのか」…「持って行くものは何と何だ」…「何時に、どこへ行けばいいんだ」…しきりにそんなことを口にしながら、せわしなく何度も案内状を開いて読み直し、「間に合うか、大丈夫か」と、うわずった声で繰返した。
「田坂さんが、ちゃんと間に合うように車で迎えに来るんだから、大丈夫ですよ」
皇居へ同行するチヤはそう答えた。間もなく、東急百貨店美術部の田坂保孝が迎えに来て、志功とチヤは、その車に乗りこんだ。晴れ渡った秋空の下、燦燦と陽光を受けている街並みがウィンドウの外を通りすぎて行く車中で、ふと会話が跡切れたとき、志功は真剣な面持と口調になって、こうチヤに聞いた。「ぼくが何で文化勲章を貰えたか、判るか」
「それは、パパの努力よ」とチヤは答えた。「パパは本当に努力したもの」
「それもあるだろうけど……」志功はそういって、しばらく口をつぐんだ。かれの胸の底には、きょうの栄誉を、まだ信じきれないような心の動きがあったのかも知れなかった。
この年の棟方志功に対する文化勲章授章の決定は、とくに美術界内部の人人にとって、予想をこえたものだった。美術部門の文化勲章受章者は、ふつう芸術院会員のなかから選ばれるのが通例となっていたからである。もっとも三年前に、在野の独立美術協会の林武も、芸術院会員以外から文化勲章に選ばれていたが、かれの場合はそれ以前に芸術院賞を受賞しており、また昭和二十七年から長く教授を勤めた東京芸術大学の名誉教授でもあった。
これまで何度も書いたように、わがくにの美術界における志功の評価は、ごく一部の熱心な支持者をのぞくと、海外での好評や、国内の世間的な知名度とは裏腹に、決して高いものではなかった。芸術選奨―芸術院賞―芸術院会員―文化勲章というのが、美術界で暗黙のうちに認められていたコースであったが、志功は芸術選奨も受けたことがなく、学校も小学校しか出ていない独学の画家である。海外ではイタリア芸術院の名誉会員に推され、ダートマス大学から名誉文学博士号を贈られ、国内でも昭和四十年一月に朝日文化賞、この四十五年一月には毎日芸術大賞と、民間の賞は受けていたが、美術界の常識からすれば、六十七歳の志功よりも先輩が沢山いて、文化勲章への道は、まだ遠い筈であった。
文化勲章の受章者は、文部省に文化功労者選考審査会という各界の権威者を集めた十人の委員会があって、そこで選ばれて推薦された人が、閣議の承認を受けて決定される。この年の委員は、荒垣秀雄(評論家)、市古貞次(東大教授・国文学)、兼重寛九郎(東大名誉教授・機械工学)、河北倫明(京都国立近代美術館長)、川野重任(東大教授・農業経済学)、黒川利雄(東北大名誉教授・医学)、渋沢秀雄(評論家)、野尻清彦(作家大佛次郎)、藤井隆(東大名誉教授・動物発生学)、山田智三郎(国立西洋美術館長)の十氏であった。芸術文化関係者の選考においては、文化庁が審査会の事務処理にあたる。当時、今日出海長官の下で文化庁次長を勤めていた現・東京国立近代美術館長の安達健二氏は、志功の死後に書いた『棟方さんの思い出』という文章で、そのときのことを次のように追想している。
――文化勲章をいただかれる人は、従来が日本芸術院会員などの斯界の最長老格の人たちが多いので、棟方さんのように会員になっていず、また日展でもそれほど高い位置におられたわけでもなかっただけ、全く異例の決定だったといえよう。事実、審査会に棟方さんが推せんされたとき、各列席者の胸に一様に、どうかなという心配の念が稲妻のように走ったようだった。しかし、棟方なら結構だという気持が強くなって、委員会として決定するのに余り時間はかからなかったように覚えている。このように、棟方さん推せんには、審査会としても自信をもってされたことであるが、棟方さんの文化勲章受章の発表が行われると、大変な好評で、一斉に世論がわいた感があった。……
いざ決定されてみると、サンパウロとヴェニスのビエンナーレで、版画部門の最高賞を受けて国際的な声価を得ている志功の受章は、美術界のうるさ方にとっても、陰口は別として文句のつけようのないものだった。マスコミに伝えられた受章の喜びを語る志功の大変な感激ぶりも、一般の多くの人たちには好感を持って迎えられた。手を握る、万歳をする、抱きつく、肩をたたく――ある新聞記者は、受章決定直後の喜びようを、そう伝えている。
「いちばん喜んでほしかったのは、大原さん、柳さん、河井さん(いずれも故人)、濱田さんたちです。勲章はボク個人の力でいただくのではない。ボクを導いてくださった人々のおかげです。ボクはみなさまに、心からお礼を申しました。いや、世界全部のご恩です。世界中のみなさまにお礼申します」
恩師柳宗悦が他界したあと、昭和四十一年には河井寛次郎が七十六歳で不帰の人となり、二年まえには大原總一郎が、五十八歳で早くもこの世を去っていた。いずれも志功に少なからざる影響を及ぼした人たちである。ほかの記者にも、志功はこう語っている。
「絵では梅原龍三郎先生、心の方は柳宗悦先生、河井寛次郎先生、濱田庄司先生が師匠。心を育て、肉を育て、骨を太くしてくださった、と思います」…「それから大事なのは、家内がね、どんなに苦労してボクをここまで育てたか、ということ。(ひとり、うなずいて)ボクはわがままで、思いあがりで、もうどうにもならない男ですよ。それをここまでやってきてくれたんですからね」
どの記者が伝える志功の談話にも、かならずつけ加えられているのは、青森なまり、津軽弁まるだし、われ鐘のような大声、といった形容である。
「文化勲章ってのは、日本で最高のもんでしょッ。いままでいろいろ賞をいただきましたが、今度は何といっても国家がくださるんですから。それに、芸術の中でも日本の伝統を引き継いでいる板画に与えてくれるのがうれしくって。大きな花をもらったようでねッ」…「こうして元気に好きなことをやっていられるのも、サイ(チヤ夫人)のおかげ。受章できるようになったことも、本当はサイが一番喜んでるんじゃないかな」…「でもダイコンッてからいねッ。甘いときはサイのきげんがいいとき」
これまで美術界で冷遇されていた自分と版画に、国家が最高の賞をくれた……というそのいい方には、たんに志功の強烈な「権威志向」とだけでは片づけることのできない万感の籠められているのが感じられる。それと国家のくれる賞を、天皇陛下の前で受ける、ということも、明治生まれの志功の気持を、いっそう晴れがましいものにしていたのに違いない。本州北端の町の貧しい鍛冶屋の子が、いまや選ばれて、結ばれてから四十年間さんざん苦労をかけ通した妻とともに、秋晴れの道を、皇居へ向かいつつあるのである。
――ぼくが何で文化勲章を貰えたか、判るか。……
そういって口をつぐんだ志功の言葉に、新聞で読んださまざまな談話をおもい出して重ね合わせていた田坂は、長い間の労苦をねぎらうような気持で、志功にこういった。「これが一段落したら、外国へでも行きましょうか」。このときは晴れの儀式に向かう直前であったから、うん、いいね、と志功が頷いた程度で、その話は終ってしまったのだが……。
文化勲章の伝達式は、皇居宮殿の「松の間」で行なわれ、内科学とくに神経学における業績によって選ばれた東大名誉教授の冲中重雄博士と志功は一人ずつ天皇陛下の前に進み、佐藤首相から勲章と勲記を受けた。それから、いったん「千草の間」にさがり、そこでいま授けられた文化勲章を胸にかけ、こんどは夫人と一緒に、ふたたび「松の間」に入り、冲中博士が代表して受章の挨拶を述べ、陛下から励ましの言葉を受けたあと、記念写真の撮影に宮殿前の庭に出て来たとき、志功はもうすっかり日頃の調子になっていた。なにかひとこと口にしては、ワッハッハ、と字で書く通りに笑う。宮内庁のカメラマンが、シャッターを押すまえに一礼して「ちょうだいします」と声をかけると、「お命頂戴のようだね」と冗談をいって、また哄笑した。撮影が終ったあとの記者会見では、「これから世界にとどく仕事をしなくては……」と大声でいい、その言葉を二度、繰返して語った。
どこまでも抜けるように青い空の下に、点点と背の低い灌木の緑が無数に散在し、ところどころに岩山が露出しているほかは、見渡すかぎり黄褐色に枯れかかった芝草の色で、地平線に至るまで茫漠と広がっているインド亜大陸南部のデカン高原は、西部劇の舞台をおもわせる。
そのなかを一筋、青空と地平線の境目に吸い込まれるように続いている道を、志功と草野心平たちの一行九人を乗せた三台のインド国産車アンバサダーは、ほぼ全速力に近いスピードで走っていた。一行は前日にシンガポールからボンベイに着き、港に面している巨大な石造の「インド門」に近い壮麗なタジマハール・ホテルに一泊したあと、早朝にボンベイ空港を発ち、インド国内航空でオーランガバードに着いて、ホテルで朝食を済ませてから、いま約百十キロかなたのアジャンターへ向かっているのである。
文化勲章伝達式の日の朝、皇居に向かう車のなかで、田坂保孝が口にした「外国へでも行きましょうか」という提案は、あれから約一年四箇月後のいま、このようなかたちで実現していた。志功はこれまでアメリカとヨーロッパへ行っており、あと行って見たいとおもっていたところは、中国とインドだった。中国への旅行は、そう希望通りおいそれとは実現できない。あるとき、数年まえのソヴィエトとヨーロッパ旅行の帰途にインドを見て来た草野心平にそのときの印象を聞かされて、「そうだ、仏の原点はインドだ。それも日本の仏教美術の源流は、アジャンタだ。ぜひアジャンタに行ってみたい」と、志功は文化勲章を受章した翌四十六年の暮れあたりから、さかんにアジャンター、アジャンターと唱えるようになった。
わがくにの仏教美術の専門家以外の人にも、初めてアジャンターの名を強く印象づけたのは、和辻哲郎の『古寺巡禮』であろう。大正八年に初版が刊行されて以来、数多くの版が重ねられて来たこの本は、奈良附近の古寺をめぐる旅行に出発する前夜、友人に見せて貰ったアジャンター壁画の模写の印象から書き始められており、著者はそこに描かれている豊満な女性像の、恐ろしいほど蠱惑的な官能美に着目して、「あのやうな畫がどうして宗教畫として必要であつたのであらうか」…「官能の享樂を捨離して、山中の僧院に眞理と解脱とを追究する出家者が、何故に日夜この種の畫に親しまなくてはならなかつたのか」という疑問を呈示している。そして後半の、著者が東洋絵画の絶頂と呼ぶ法隆寺金堂壁画の阿弥陀浄土図を論じたくだりでは、阿弥陀本尊の右脇に侍している観音像について、「この畫とアヂャンター壁畫との相似は既にしば/\説かれた。その例證としてアヂャンターの菩薩像とこの觀音像とが比較せられたこともある。なるほどあの腰を捩つた姿勢や腰にまとふ衣や、下肢が薄衣の下から透いて見えるところや、すべて『酷似』するといはれても仕方がない」とも書いている。
アジャンター壁画と、わがくにの法隆寺の金堂壁画とのあいだに、直接的な関連はないにしても、そのように酷似しているのは、アジャンター壁画をもそのなかにふくむインドのグプタ朝絵画が、中国の唐朝仏画に影響し、法隆寺の壁画は唐朝画を模したものであるからとおもわれ、したがってアジャンター壁画は法隆寺壁画の一源流であるとも考えられる、というのは何人もの専門家が語っていることである。つねに源流へ溯って行きたいという願望を持ち、また近来とみにエロチシズムへの傾斜を深めて、文化勲章の受章が決定したさいも、ある記者に答えて「世間では私の作品のことを宗教的とか神秘的だといいますが、ぼくはそんなきばった意図はないんですよ。板画がぼくの体から出るときは、好きな女体の形態が化けて出るんだとおもいます」と語った志功が、豊満で艶麗な官能美を持つと表現されているアジャンター壁画の女性像に憧れ、是非その実物に接して見たい、と切望するに至ったのは、当然のことのようにおもわれる。
いったん「見たい」とくると、志功の気持には待てしばしがなかった。田坂保孝は暮れも押し詰まったころから、旅程を組みにかかり、外務省の情報文化局や日印協会やインド大使館を回り歩いて具体的な旅行の準備を進め、二月の二十七日に羽田を飛び立って、インドへやって来たのだった。一行は棟方夫妻、草野心平と秘書の灘波幸子女史、カメラマンの濱田益水、新学社の柳井道弘、それに田坂保孝の七人で、ボンベイからガイド役として二人の男女のインド人が加わっていた。
目的地はオーランガバードの町から、車で約二時間の距離であるという。目指すアジャンターの石窟寺院群は、デカン台地の西北部に隆起して、東西に延びているアジャンター連丘の中にある。そこに流れこんでいるワゴーラ河の浸蝕によって、大きく馬蹄形に刳りとられた彎曲部の絶壁に、デカン台地特有の噴出岩を|穿《うが》ってつくられた二十九の石窟寺院が、インドにおける仏教の衰退とともに無人となり、土砂と灌木に覆われた廃墟となって、それが存在することさえすっかり忘れ去られていたのを、初めてヨーロッパ人が見出したのは、一八一九年のことであった。マドラスに駐屯していたイギリス人士官が狩猟にやって来て、偶然に川向こうの山上から、断崖に刻まれている石窟寺院群の痕跡を発見したといわれている。やがてその整備と保存の作業とともに調査が進められて、だんだんに判って来たのは、石窟のなかで古いものは岩に穿たれてから今日まで二千年以上、新しいものでも千数百年の時間が経っているということだった。そのうちの何百年かは、内に数数の蠱惑的な官能美の壁画を秘めながら、だれにも知られることなく、ひっそりと眠り続けて来たのである。……車はアジャンターの村を過ぎ、ゆるやかな傾斜の道を下って、次第にその石窟寺院群に近づきつつあった。
車は一軒のレストランの前の小さな広場に着いた。広場のまわりには小屋掛けの土産物屋が立並んでいて、さまざまな土産物を手で掲げた少年たちが、止まった車に駆け寄り、そのあとから、肩に|輿《こし》を載せた大人たちも近づいて来た。昔はワゴーラの流れの河原から、断崖の中腹にある石窟寺院のところまで登って行ったもののようであるが、いまは広場の前につらなる山肌に屈折して刻まれている道を辿って、石窟寺院へ向かうようになっている。見上げるとその道は、かなりの急勾配であった。数えでいえば七十歳の老人であり、眼も悪い志功に、その急な坂道は危なっかしくおもわれたので、みんなの勧めで輿に乗って行くことになった。
輿の上から、石窟寺院群を一望にできる地点に達したとき、志功は声を放って双眼鏡を眼にあてた。下のワゴーラ河を囲むように、馬蹄形をなしている岩肌の大峡谷が眼前にひらけ、その右側の絶壁の中腹に穿たれた石窟寺院群を結んでいるバルコニー風の道は、昇り降りの石段をもふくむ露天の廻廊となって、遙か彼方の石窟寺院に至るまで、延延と長く彎曲して連なっている。チケット売場で入場券を買って、一行はその廻廊に足を踏入れた。石段のところは、チヤ夫人が志功の手をとって支え、昇り降りを数えながら進んで行く。
草野心平は、あらためて最近の眼の具合を志功に聞いてみた。左眼は失明、右眼は極度の近視、というのがその答えだった。実は草野も右眼は失明し、左眼は近視に老眼が重なっているのである。志功の答えを聞いて、「じゃあ、二人合せて一人分だな」と草野は笑った。
法隆寺の金堂壁画の祖型ともいわれている、アジャンター壁画のなかで最も有名な「持蓮華菩薩」の図は、廻廊に面して立並ぶ寺院群の最初の第一窟にある。明るい陽光に照らされている廻廊から、石窟に入ると、なかは真暗に感じられたが、入場券とは別料金のチケットで、入口にいた係員が手持ちのライトで壁画を照明してくれるようになっている。ライトに照らし出されて暗闇の中から「持蓮華菩薩」の姿が円形の光の中に浮かび上がったとき、「……すごいなあ、偉い!……立派立派」眼に当てた双眼鏡を動かしながら、興奮した志功は夢中になった様子で叫び、その声は、かなりの広さを持つ石窟の広間いっぱいに反響してひびきわたった。
この壁画は、六、七世紀ごろの作と推定されていて、ところどころ画面が剥落したり、全体にニスが塗られて色が燻んでいるのも止むを得ないが、それにしても、いかにも熱帯的な色彩の感じ、薄衣をまとった肉体の豊満さ、優美で艶麗な顔の表情は、この画が完璧だったころの蠱惑的な官能美を十分に髣髴とさせ、なるほど和辻哲郎が疑ったように、これほど肉感的な絵画が、官能の享楽を捨てて真理と解脱を求めようとする仏教徒の僧院に、どうして必要だったのだろう、とおもわせる。この|僧院窟《ヴイハーラ》は、いわゆる|夏安居《げあんご》すなわち|雨安居《うあんご》の場である。釈迦の弟子たちは初めのうち、ほかの宗派の人人と違って雨季にも|遊行《ゆぎよう》を続けていたのだが、あるときから釈迦は雨季の安居の制度を定め、その間は一箇所に居住して他に遊行してはならぬ、と命じ、また安居のあいだ、唖の戒を守る心要はなく、きよらかな沈黙のあとは、法の話を語り合うがよい、と教えた……。眼下のワゴーラ河の水量を増し、その奔流の長年にわたる浸蝕によってこの大峡谷を形づくらせた車軸を流すほどの豪雨が、毎日のように降り続く雨季のあいだ、石窟に閉じ籠もって瞑想し、法話をかわしていた僧たちの傍の壁に、ある年代からは、こうした肉感的な画が描かれていたのである。
第一窟にかぎらず他の僧院窟の壁画にも、仏教徒なら当然避けなければならない筈の、官能、享楽、愛欲の蠱惑を、濃厚に感じさせる画が多い。これは一体なにゆえであったのだろうか。その理由は多分、それらの壁画がグプタ朝期(四世紀〜六世紀)の美術に属するものであったからだろう。それまでの他民族の征服王朝を追い払って、マウリヤ王朝以来のインド人による統一インドを実現し、土着の伝統的な文化や宗教を復興させたグプタ王朝は、バラモン教、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教などの諸宗教を平等に扱ったが、歴代の王者自身はヒンドゥー教徒であったため、民衆だけでなく上流階級のあいだにも、次第にヒンドゥー教がさかんになった。官能の享楽を排していた仏教と異なって、ヒンドゥー教のなかには、シヴァ神の配偶神、すなわち女神を尊崇して、その|性力《シヤクテイ》こそ世界の原動力であり、人間救済の根本的な力であるとするシャクティ信仰がある。仏教の僧院であるのにもかかわらずアジャンターの壁画に官能的な感覚が濃いのは、グプタ王朝の時代が下るほど広まっていった、このシャクティ信仰の浸透と無関係ではあるまい。それに王城内の舞楽遊宴や、宮廷生活を描いた壁画に出て来る、女性たちの王冠や装身具の豪華さ、絢爛たる|奢侈《しやし》と享楽と頽唐の雰囲気は、石窟を造営して寄進したグプタ朝下の王侯貴族あるいは上流階級の富裕な実生活の反映でもあったのだろう。
女神崇拝の傾向と、官能美への関心を近来いっそう強め、一般に与えていたイメージとは違って驕る平家の華麗さを好み、夕焼けの頽唐の色を深く愛していた志功は、東洋最大の壁画の宝庫である窟院を次から次へと訪ねて、新しい壁画に接するたび、熱に浮かされたように、「……凄い、凄い!」の連発であった。第十七窟では、多くの信者に説法している釈迦の絵姿の足元のあたりに手を伸ばし、「サンキュー、サンキュー」そういって頭を下げた。
全部で二十九の石窟寺院には、僧が起居する僧院窟のほかに、正面に|仏塔《ストウーパ》を収めた礼拝堂の|塔院窟《チヤイテイア》がある。第二十六窟は、この塔院窟で、本堂の左側廊の岩壁に、七メートルをこえる長さで横臥している巨大な釈迦の|涅槃《ねはん》像が浮彫りにされている。悲しみに暮れている弟子たちの歎きをよそに、なにごともなくただ眠りについているような釈迦の臨終の表情が、不思議な懐かしさを感じさせるこの|涅槃《ねはん》像の前に立ったとき、志功はいきなり、石の床に跪いて身を伏せ、両の掌を上に向けた恰好で、長いあいだ凝と礼拝していた。それから起き上がると、またもや、「凄いなあ、大きいなあ……」しみじみと感に耐えたような声で、そう繰返した。
オーランガバードに戻る道から右に折れて、車はエローラへ向かう道に入った。今朝、ボンベイからオーランガバードに着いて、車で二時間かかるアジャンターへ行き、二十九の石窟寺院の殆どを歩き回ったあと、こんどはそこからさらに車で二時間ほどの、エローラに向かいつつあるのである。「食べた、見た、驚いた、そして、|哭《な》いたよ」というのが、アジャンターを見終って、濱田益水に語った志功の感想であった。
アジャンターへ向かったときの道よりも、いまエローラに向かっている道の風景のほうが、平野に散らばっている樹木の数が多い。やがて道の行手に長く連なる丘陵の、山腹の岩肌を|開鑿《かいさく》してつくられたエローラの石窟寺院群が見えてきた。車は右に折れて、石窟寺院群の正面にある小さな食堂のそばの広場に止まった。そこから道の突当たりに西日を浴びて見えるのが、エローラ最大のカイラーサナータ寺院である。そこからでは、それほど大きくもおもえなかったのだが、このヒンドゥー教の寺院には、あとで胆を潰すほど驚かされることになる。
さっきのアジャンターの石窟寺院群は、紀元前一世紀に開鑿が始められて、七世紀ごろまで続けられており、すべて仏教窟ばかりであったが、このエローラのほうは五世紀頃、つまりアジャンターの後期にあたるころ、まず仏教窟から掘り始められ、七世紀頃からヒンドゥー教窟、八世紀頃からジャイナ教窟の開鑿が始まった。石窟寺院の数は全部で三十四あり、向かっていちばん右の第一窟から第十二窟までが仏教、第十三窟から第二十九窟までがヒンドゥー教、第三十窟から第三十四窟までがジャイナ教の寺院である。インド人の男女二人のガイドから、そういう説明を聞きながら、右端の第一窟から順に見て行くと、このインド中部における宗教の歴史の流れが、まざまざと目の前に展開されて行くおもいだった。
仏教窟の最初のほうは、時期も重なり合っているだけに、さしてアジャンターと様子が違わない。だが第十窟の塔院窟は二層の外観を持ち、第十一、第十二窟は、外見内部ともに三層の大きな建物になっていて、装飾の浮彫りも最後の第十二窟に近づくほど、ヒンドゥー教のシャクティ信仰的な、つまり性的な感じが強くなっている。察するに、急速に勢いを得て来たヒンドゥー教への、この地方における仏教の最後の示威を、ここで試みたのでもあろうか。
それに対して、仏教窟より後から窟院の掘鑿を開始したヒンドゥー教の、驚くべき生命力と持続力の結集を如実に示しているのは、第十六窟のカイラーサナータ寺院である。一説によれば、この寺院が掘り始められたのは七五七年で、九七五年に掘り終ったと伝えられ、とすると開鑿から完成までに、実に約二百二十年の時日を費したことになる。その間には中断の時期もあったのかも知れないが、それにしても根気のいいことに変りはない。
「普通の赤ん坊は、十箇月で生まれるけれども、これは二百年以上もかかって生まれた子供なんだよ」
と、志功が感嘆して叫んだその大寺院は、岩山に穿たれた窟院というよりも、高さが三十数メートル、横幅が約五十メートル、奥行きが約九十メートルの岩山を素材に、数えきれないほどの人手で彫り上げた、壮大にしてかつ重厚な彫刻であった。三十六メートルの見上げるような高さを持つ巨大な本堂の基部から尖塔の頂きに至るまで、複雑きわまりない構造を持つ建物の表面は、すべて精妙な彫刻と浮彫りで埋め尽され、本堂と内庭を取囲む外壁の一部は、二層の廻廊形式になっていて、その上下に立並ぶ堂堂とした列柱のあいだから、本堂や、石床の内庭に建てられている塔に刻まれた無数の彫刻と浮彫りなどの多彩な装飾を、仔細に眺めることができる。そして、それらは基幹の構造から末端の細部の隅隅にいたるまでことごとく、ひとつの岩山を|刳《く》り貫いて彫り出されているのである。
「できた子供も子供だけれども、取上げた産婆が、また偉い」
志功は未知の宗教の世界に生きていた人人の力に、眼を見張る表情だった。正面の広場から見たときは、背景になっていた山との対比で、さほど大きく感じられなかったこのカイラーサナータ寺院は、ヒンドゥー教の伝説にヒマラヤの山中にあったと伝えられている、シヴァ神の宮殿を|象《かたど》ったものであるという。
最後のほうに、やや離れて五つ並んでいるジャイナ教の窟院は、小型ながら精緻な装飾で、落着いた雰囲気を漂わせていたが、それまで十七のヒンドゥー教の窟院を見て来た眼には、いささか影が薄く、結局、三十四の石窟寺院が並んでいるエローラで、いちばん強烈な印象を受けるのは、ずばぬけて他を圧しているヒンドゥー教のエネルギーなのであった。
「六十八年ぶりに、見たい見たいとおもっていたものを見せてもらって、借金かえしたようだよ、さっぱりした」
日が暮れかかった帰り道の車中で、志功はそう濱田に語った。六十八年ぶり、といえば、志功はいま満六十八歳なのだから、生まれたときから見たいとおもっていた、ということになる。いかにも志功らしい誇張法の表現であるけれども、あるいは、それは隠された、ひとつの真実を物語っていたのであったのかも知れなかった……。
翌日の朝、四時半に起きてホテルからオーランガバードの空港に向かった一行は、走る車のなかから、生涯に二度と経験することがないかも知れない光景を見た。
ホテルを出たとき、あたりはまだ暗くて、空には満月が輝いていた。やがて、見渡すかぎり広広としているデカン高原の東の地平線が明かりを放ち始め、まわりを赤く染めて太陽が昇って来たが、見ると西の空には、まだ満月の姿が、はっきりと残っている。
志功は双眼鏡を忙しく往復させて、太陽と満月がおなじ空にかかっている光景を、脳裡に刻みこんだ。そのとき、かれの胸のなかには、なにかある思想の萌芽のようなものが、天啓のように生まれて来たようだった……。
オーランガバードから飛行機に乗って、ボンベイに戻った一行は、ふたたびタジマハール・ホテルに宿をとり、翌日は「インド門」の前の岸壁から、乗合船に乗って、エレファンタ島に出かけた。ボンベイ港の東方十キロ、船で約一時間の距離にあるその島にも、自然の岩山を刳り貫いて、八世紀ごろにつくられたヒンドゥー教の石窟寺院がある。
船着場の長い桟橋から、島の山上の石窟寺院に通じる道は、アジャンターほど急ではない石畳の坂道であったが、志功はここでも、椅子に二本の丸い棒をつけて四人で担ぐ輿に乗り、腰を下ろすと早速スケッチブックを取出して、周囲の風景の写生を始めた。坂道を登り終えると、海を隔てて遙か彼方にボンベイの街が霞んで見える平坦な場所に出て、そこが石窟寺院の入口に通じていた。エレファンタの石窟は、正面から見たところ、アジャンターやエローラにくらべて、かなり小規模におもえる。入って見ると、列柱が立並んでいる主神殿の中は意外に広く、両側が脇神殿の前庭に吹抜けになっているので、奥の正面の壁のあたりにも、ある程度の明かりがさしこんでいた。
そこに彫られているのが、ヒンドゥー教美術の傑作として知られている、巨大な三面のシヴァ神像であった。三面の顔は、それぞれ宇宙の創造と維持と破壊を象徴している。右の肉感的な横顔が創造、正面の落着いた理知を示す顔が維持、左の無慈悲な横顔が破壊。志功は三面のシヴァ神像のまえの段の上で、しばらく坐禅を組んで、瞑想に耽った。そのシヴァ神像の左側の壁に彫られているのが、これも傑作として名高い、胸の片側にひとつだけ豊満な乳房を持つ、すなわち両性具有のシヴァ神だった。シヴァ神は千八個の異名があるともいわれるくらいで、実に様様な姿に変化するのである。四方が吹抜けの入口となっている主祠堂のなかに、向こうからの逆光で黒い影となって浮かび上がっているのは、明らかに男性器の頭部を象ったリンガであるが、エローラのヒンドゥー教窟の祠堂でもよく見られたこのリンガもまた、シヴァ神の象徴なのだった。
若いころから彫刻が好きだった志功は、エレファンタの石窟も気に入った。
「見かけはそんなに大きくないが、中に入って吃驚! 奥が深いよ! インドは大きい、大きい。わたくしも、そうなりたいもんだよ」
「東洋の大きな人間の仕事は、アジャンタ、エローラ、エレファンタから始まったんだよ! 見た、見た、凄い、凄い。腰が抜けるよッ!」
志功は興奮してそう濱田に語ったが、どこまでも源流へ溯って行こうとするかれのインドの旅は、まだ始まったばかりだった。
せっかちな志功は、かなりじりじりしているようだった。エレファンタ島からボンベイに帰り、その日のうちにデリーに向かって飛ぶことになっていたのだけれど、なかなか飛行機が出ないうえに、出発が遅れている理由も、判然としない。インドの旅行には、難儀なことが少なからずあり、飛行機が予定通りの時刻に飛ばないことや、ちゃんと予約していた筈の乗客リストにこちらの名前が載っておらず、すでに乗客は定員に達していることを一方的な態度で係員に宣言されて途方に暮れさせられたりすることが、さまざまな人の旅行記や経験談によれば、ほぼ常識として覚悟しておかなければならないくらい始終あることのようであるが、ましてこのときは、前年の十一月下旬から十二月の半ばにかけて戦われた第三次印パ戦争(バングラデシュ独立戦争)の余震が、まだ静まっていない時期だった。
ようやく飛行機の出発が告げられて始まったボディ・チェックは厳重をきわめた。検査に当たっているのは、インド軍の兵士だった。眼の悪い志功は、両手を挙げて身体検査を受けているうち、バランスを失って前にのめり、背が低いので相手のインド兵の腰のあたりに、おもわず抱きつく恰好になってしまった。普通の人なら、|周章《あわ》てて身を引くところだろう。知らぬ他国でのボディ・チェックは、別になんでもないときでも緊張させられるものであるけれども、このときは言わば準戦時下に近い状態で、検査している相手は兵士なのである。志功は抱きつく恰好になった手で、すぐに自分も相手の体を検査するようにぽんぽんと軽く叩きながら、
「サンキュー、ナマスティ!」
といった。ナマスティというのは、お早う、今日は、など大抵の場合に通じる挨拶の言葉である。ボディ・チェックのゲートを離れてからは、「あぶなく先方のピストルの実弾を握るところだったよ」と冗談をいって一同を笑わせた。
おもわぬ冷汗をかいたあとで無事にボディ・チェックが終った解放感から飛び出した軽口であったのか、それともインドに着いた日にボンベイの日本総領事館へ挨拶に行っており、日本の文化勲章受章者である自分の身分が案内役のミス・ラリーにも通じていたので安心していたのか、あるいは生来の愛嬌とショーマンシップと、若いころからだれかれの区別なくいかにも人懐こそうに抱きつく性癖が、こんな場合にも咄嗟のうちに発動したのであったのかも知れなかったが、いずれにしてもほかの人には、ちょっと真似のできることではない。
デリーに着いたのは夜中だった。翌日の朝から回ったデリーの市内で、草野心平と志功が、ともに感銘を受けたのは、インド独立の父マハトマ・ガンディーを火葬に付したヤムナ河畔の記念の場所ラージ・ガートであった。燃え上がる薪の火によって焼かれたガンディーの遺体の灰は、ヒンドゥー教の慣わしにしたがってヤムナ河に(そして一部は遺志により、ベルガル湾とアラビア海の水が合流するインド亜大陸最南端のコモリン岬の沖合に)流されたのだから、ここにあるのは墓ではないが、日本人の眼には墓ともおもえる高さが六十センチほど、縦横の長さが約三メートルの黒い光沢を持った真四角の碑石が中央に横たわっており、それと銅製の大きな香炉を囲んで、芝生と石畳の道が美しく整備されている正方形の公園のようなラージ・ガートには、マハトマ(偉大な魂)を慕って集まって来て、碑石に花を捧げる人たちが、ひきもきらない。履物を脱いで園内の石畳の道に入るようになっている入口の横には、不可触民の解放に命を賭してかれらをハリジャン(神の子)と呼んだガンディーの遺志を伝える文章が記されて、いまも人人に同意を求めていた。
草野と志功は、園内中央の正方形の石床のうえに置かれていて、鋭く断ち|截《き》って磨き上げた黒い石を九箇がっちりと組合せて真四角にしてある碑石の、余分な装飾が一切なにもない簡潔な造型美に、すこぶる感心した。碑面には「ヘー、ラーム」(おお、神よ)というヒンドゥー語の文字が刻まれているだけだった。
「これがガンディーの、最後の言葉です」
と、ガイドのミスター・サニーは志功にいった。かれはそれほど詳しく説明したわけではなかったが……。
ヒンドゥー|自治《スワラジ》と|非殺生《アヒンサ》を唱え、非暴力抵抗の独立運動を組織して闘い続けてきたガンディーは、一九四七年八月十五日に「独立の日」を迎えたが、ヒンドゥー教徒を主にしたインドと、イスラム教徒のパキスタンとに分離することによって成立したその独立は、かれが願っていた姿から遙かに遠いものだった。あくまでもヒンドゥーとムスリム(イスラム教徒)の真の融和を望んでいたガンディーは、ニューデリーの国会議事堂で行なわれた独立式典にも出席せずに、カルカッタのスラム街で二十四時間の断食をして糸車を回しながら、神に祈っていた。その後も願いに反して、各地に続発したヒンドゥー対ムスリムの血で血を洗う抗争を、ガンディーは命がけで鎮静に回り始めた。
インド連邦領内では少数派のイスラム教徒が、パキスタン領内ではその反対にヒンドゥー教徒とシーク教徒が、そして双方から国境を越えて安全なほうに逃げようとする難民たちが、暴動、虐殺、破壊、掠奪、凌辱……の悲惨な嵐に襲われていた。ガンディーは九月の初めに断食によってカルカッタの暴動を鎮め、翌年の一月半ばからはデリーで断食に入って、ここでも各宗派の代表者たちに、和平を誓わせることに成功し、長年にわたってかれが推し進めて来た「サティヤーグラハ」(真実と愛、あるいは非暴力から生まれる力)の運動は、たしかに効を奏しかけたかに見えて、たとえばフランスの「ル・モンド」紙は、「ガンディーの声は、インドの国境を越えて広がっている。……マハトマ・ガンディーを通じて、東洋は西洋に対し、憎悪の革命以外に別の革命の存在することを教えてくれた」と報じたほどだった。しかしイスラム教徒への復讐と徹底的排斥を叫ぶ極右のヒンドゥー至上主義者は、ガンディーの暗殺を企図していた。一月三十日の夕刻、ガンディーの祈祷集会に紛れこんだ暗殺団の一人は約二フィートの至近距離まで近づき、合掌して垂れた頭を上げるとピストルを向けて三発の弾丸を、七十八歳のガンディーの胸に打ちこんだ。おお、神よ、というのが、ガンディーの最後の言葉だった。……
「ガンジーの言葉は、世界の言葉だ、世界の平和の言葉だよ。もっともっと世界の隅隅まで広がっていい、広がっていい」
草野と並んで黒い碑石に花を捧げ、ミスター・サニーからおおよそ以上のような話の要点を聞かされた志功は、強い感動を受けた面持と口調でそういった。
だが現実には前記のように、インドとパキスタンの対立関係は、ガンディーの死から二十四年後のいまも続いていて、つい二箇月半ほどまえにも戦争が行なわれていた。前年の八月に平和友好協力条約を結んだソ連の力を背景に、インドが十一月の下旬に軍事行動を起こしたのは、ひとつにはそれに先立つ七月と十月のキッシンジャーの訪中によって決定的となった米中接近へのリアクションで、中国がヒマラヤを越えてインドを牽制したり、パキスタンを支援したりすることが季節的に難しい時期を選んだのであろうという。宗教と多民族間の対立に、米中ソ三極構造の国際的な力関係が重なって、インドとパキスタンの関係は、まえよりもさらに複雑なものになっていたのだった。
この日、一行はまず旧デリーのレッド・フォート(デリー城)から見物を始めたのだが、胃袋を切って大きさが三分の一になっている草野には、前夜、ホテルに着いてからの遅い晩餐がこたえていたので、ひとりだけ車の中で横になっていた。
|赤い城《レツド・フォート》と呼ばれているのは、延延と長く連なる城壁と主な建物が赤色砂岩で築かれているからで、この壮大な城塞をつくらせたのは、イスラムの征服王朝ムガール帝国の五代目の皇帝シャー・ジャハンである。志功はここでも口を尖らすように丸くして、「フォーッ! フォーッ!」と感嘆の連続であった。これは少しく奇異な感じがしないでもない。
エローラやエレファンタのヒンドゥー教美術を見て来た眼に、イスラム様式に基づいたムガール建築の特徴は一見して明らかで、イスラム教は絶対的な一神教で偶像崇拝を許さないから、壁や庭などに人間や動物を写した絵画や彫刻は一切なく、装飾は抽象的で幾何学的な文様ばかりで、建物はすべて厳密に左右対称になっている。乾燥した砂漠地帯の都市に生まれた一神教のイスラムと、モンスーン地帯の多種多様な自然に根ざしている多神教のヒンドゥーは、その美学においても、まことに対蹠的なのだ。一方は抽象で、一方は具象である。インドの遺跡や建築や美術を見て歩いて感じられるのは、ひとつにはこの抽象と具象のたたかいのあとであるといってもよい。
そのことを典型的に物語っているのが、ニューデリーの郊外の原野に残っている、デリー発祥の地ラール・コットの遺跡である。ラール・コットは、はじめヒンドゥー教国の都城であったが、十二世紀の終りごろに、イスラムのゴール朝ムハンマド王に征服された。イスラム軍がインドに攻めこんだのは、これが初めてではないが、ムハンマド王はヒンドゥーの王たちの連合軍を破って、ガンジスの全流域を手中に収め、以後、約五百年にわたって、イスラム系の王朝がインドを支配する基礎をつくった。
このムハンマド王が暗殺されたあと、部下から独立して王となったクトゥブは、イスラムのインド支配を記念する塔を、ラール・コットに建てようと考えついた。かれの死後、十四世紀の半ばにまで至って、高さ七十三メートルにも及ぶ堂堂たる五層の尖塔となって完成されたこのクトゥブ|塔《ミナール》も、壁面は幾何学的な模様やコーランの文字の浮彫りなどで埋め尽されているが、その下にあるイスラム教のモスクは、最初にラール・コットを占領したとき、それまで建っていたヒンドゥー教の寺院をこわして、その石材を材料に使って作ったものであるらしい、というのは、このモスクの遺跡の壁も、無論アラベスク模様で埋められているのだけれど、ところどころ壁面を塗り固めていた|漆喰《しつくい》が剥落したあたりから、イスラム教では厳しく禁じられている筈の、偶像の彫刻が顔を覗かせているのである。やや突飛なたとえになるかも知れないけれども、見ていると、わが国の戦後のある時期から、具象派の画家たちが雪崩を打って抽象画に転じ、やがてのちに一部はまた次第に地が出て来て、具象に近いところへ戻って行った光景を連想させるような観がないでもない。
イスラム教徒にとって、人間のみならず動物の偶像まで崇拝している多神教のヒンドゥーは、唾棄すべき邪教であり、「アッラーのほかに神はなし」と信じていたかれらは、「|聖戦《ジハード》」の意識に燃えていたであろうから、当たるべからざる勢いで攻めこんで来て、勝ち進むたびに、ヒンドゥーの寺院と偶像を破壊し、そのかわりにイスラム様式の建物をつくって行ったものとおもわれる。征服されたインドの民衆のなかに、イスラム教が浸透して行ったのは、唯一絶対の神であるアッラーの前で人間はみな平等である、とするその教義が、ヒンドゥー教の社会においてカースト制に抑圧され、虐げられていた下層の人人の心を、強く惹きつけられたからだといわれている。要するにヒンドゥーとイスラムは、当事者以外の人間の眼にも、なるほど両立させることは難しいに違いない、と感じられるほど対立的な原理であり、宗教もしくは思想としての問題は別にして話を美学の領域にかぎるなら、局外者でも美術家であれば、好みによって幾分かどちらかに傾くのは当然であるようにおもわれる。ところが、きのうまでヒンドゥー教の美術に「腰を抜かす」ほど感心していた志功が、きょうはイスラム様式に基づいたレッド・フォートのムガール建築に、眼も口も丸くして感嘆しているのである。
左右対称の合理性を徹底させているムガール建築の場合、そのなかにも独得の豪快な風格を表現しているニューデリー南東のフマユーン廟のような傑作は別として、出来が凡庸なもののときには、いささか単調におもえたり、味気なさを覚えさせられたりすることがあるが、レッド・フォートも、ラホール門や謁見宮殿や後宮のあたりには、昔日の華麗な王宮の生活を偲ばせる面影がうかがわれ、全体の規模の宏大さにも眼を見張らせるものがあるけれども、隅隅まで左右対称の合理性が徹底しているせいか、ちょっと見方を変えると、近代的な兵営のなかを歩いているような気が、ふとしないでもない。近代建築なら、この程度の規模のものは、さほど珍しくない、とするなら、ここで大仰に感心することは、初めて東京駅に下り立って、目の前の丸ビルの大きさに仰天しているのと、さして変らないことになりはしないか。それも別に悪いことではないだろうが、志功が見るもの聞くものに、口をきわめて最大級の讃辞を並べたてていたのは、単に大袈裟な誇張癖や社交辞令、あるいは、なにはともあれ巨大なものに対する子供のような讃嘆、有名なものには必ず感心してみせる美学上の無原則性……といったもののあらわれであったのだろうか。
それとも、殆ど両立が不可能であるともおもわれるようなヒンドゥー教とイスラム教の、真の融和のなかにインドの未来を幻視していたマハトマ・ガンディーの思想にも似た深さと大きさを、志功の感受性もまた秘めていた、ということであったのだろうか……。
翌日の朝、午前五時のモーニング・コールで起こされて、一行はデリーからアグラに飛んだ。一時間四十五分ほどで着いたアグラ空港の待合室の壁には、「バングラデシュは諸君の応援を求めている」というポスターや、「子供は二人までにしよう」といった産児制限を奨励するポスターなどが貼られていた。どちらもインドが置かれている現実の厳しさと難しさを、まざまざと感じさせるポスターだった。
アグラは、ムガール帝国の全盛時代の都であったところである。ムガール帝国二代目のフマユーン帝は、アフガン族出身のスール朝に敗れ去り、インドから追放されて、長く逃亡と流浪の生活を続けたが、その亡命中に生まれたのが、のちのアクバル大帝だった。スール朝の内紛に乗じてデリー奪還に成功した父の死後、十三歳で即位したアクバルは、十八歳のころから遠征を始め、東はベンガル湾から西はアラビア海に至るまで、北はカシミール山地から南はデカン高原にまでまたがる大帝国をつくりあげ、アグラに壮大な城を築いて、ムガール帝国の全盛時代を現出させた。
その厖大な富を受継ぎながら、一種の建築狂で国を危うくするほど建築に金を注ぎこんだのが、シャー・ジャハン(世界の皇帝)と称した五代目の支配者である。かれが産褥熱で死んだ愛妃の墓廟として、約二万人の職人を使い、二十二年間の歳月を費して完成させたのが、「世界一美しい建物」と称され、ムガール建築の最高傑作ともいわれている、あの優雅で夢幻的な白い総大理石のタージ・マハールだった。
テレビや雑誌のグラビアなどの発達によって、近頃の海外旅行は、ことに駆け足である場合、すでに映像で見た印象をなぞって歩いているような感もあるけれど、見上げると「頸が痛くなるほど」高く大きいこの大理石の建築物について、草野心平はこう書いている。
――以前にも度々タジマハールの写真などを見る機会はあつたが、それはただロマンチックで奇麗だ程度の感じで、私は殊更に見にゆきたい欲望はなかつた。みんなについて行くくらゐの気持ちで行つたのだが、実際には夜になつてからもまた出掛けていつたほどで、タジマハールはその有名さを裏切らない代物であつた。……
写真では得られなかった実感は、建物の高さと大きさだった。振仰いで見ると、真青な三月の空を背景に、聳え立っている白いドームの上をかすめて飛ぶ鳥の群が、胡麻粒を散らしたように見えることからも、丸ビルの二倍以上あるという高さ(約六十五メートル)のほどを察することができる。建物の外側と内壁は、アラベスク模様やコーランの文字、草花文、貴石の|象嵌《ぞうがん》などで埋められていて、エローラのカイラーサナータ寺院が岩山を刳り貫いて彫り出された彫刻であったように、十七世紀の半ばごろに完成したタージ・マハールも、二十二年の歳月と巨費と無数の人手を投じてつくり出された白い総大理石の壮大でエレガントな彫刻、あるいは巨大な宝石箱をおもわせる美術品、といった印象であった。
志功は、「見た、見た。大きい、大きい。凄い、凄い」を連発した。濱田益水の『写真 棟方志功』を見ると、タージ・マハールをバックにして、「棟方志功は草野心平を描き、草野心平は棟方志功を書く」という約束をかわしながら二人が握手をしている『タジ・マハールの誓い』と題された写真がある。草野心平の詩『わだばゴッホになる』は、このときの約を果たして書かれたものである。
そのあと、ヤムナ河の流れの向こうにタージ・マハールを遠望できるアグラ城を訪ね、町で買物をしてから、夕刻ふたたびタージ・マハールを訪ねたのは、志功と濱田の言わば共同制作の写真を撮影するためでもあった。濱田は、ピカソを撮ったデヴィッド・ダンカンの写真にヒントを得て、月光を浴びているタージ・マハールを背景に、闇の中に懐中電灯の光で即興の線描画をかく場面を写したいと、志功と話し合っていた。月光のなかに青白く浮かび上がったタージ・マハールの夢幻的な美しさは、たとえようがないといわれている。この夜は午後十二時頃にならないと月が出ない、というので、それは諦めて、夕暮の撮影に切換えたのだった。
空とタージ・マハールの明るさ、志功が手にした懐中電灯と照明のストロボの光度などの条件が狙いに合致するまで一時間ほど待って、六時四十分から濱田はカラー写真の撮影を始めた。空中に躍り上がっては身を屈め、踊るような動きで、志功は夕闇に光線の画を描いた。好奇と不審の眼で集まって来た観光客の環視のなかで志功は力演を続けた。その即興演技を見ていて、草野は頭のなかにストラヴィンスキーの『火の鳥』を聞いた。約三十分……何度かシャッターが切られストロボの光が閃いて七時十分に撮影が終り、濱田が終了のサインを出したとき、まわりから拍手が起こった。見物の人たちも、いつの間にかこのかなり大がかりな撮影の意図を諒解し、気合の籠もった志功の熱演に、息を詰めるようなおもいで見入っていたのだろう。このとき懐中電灯の光で、無限大を示す記号の∞を空中に描いた志功の脳裡にあったものは、夜明けのデカン高原の空の両側にかかっていた太陽と月の印象であった。東の太陽と西空の月を、∞の線で包括することによって、インドの広大さを表現しようとしたのだ。
また志功自身そう意識していたかどうかは別として、この太陽と月は、インドのなかにある二つの原理、すなわちヒンドゥー教とイスラム教をも意味していたのであったのかも知れない。偶然にも名前までちょっと似ているのだが、タージ・マハールをつくらせたシャー・ジャハンの皇太子ダーラー・シコーは、ヒンドゥー教とイスラム教の融合に努めて、この二つの思想を、二つの太陽にたとえたことがある……。
ガンディーが夢みたヒンドゥーとムスリムの真の融和は、単なる夢想とはいえない。『ヒンドゥー教とイスラム教』の著者荒松雄氏は、二年近くベナーレスのヒンドゥー大学に留学していたあいだ、何回か訪ねて行ったビハール州のある村で、そこは二百人ほどの村民の七割がヒンドゥー教徒、三割がイスラム教徒ということであったのだが、両方の家族の子供たちが仲よく、一緒になって遊んでいた光景を伝えている。
一神教とか多神教といった共同幻想に組込まれるまえの子供は、べつに相手に敵意など持ってはいない。その共同幻想に火をつけ燃え上がらせて、あの分離独立のさいの暴動、虐殺、破壊……といった悲惨な宗教的狂熱に導くものは、政治的経済的な要因と、矯激な一部の人のアジテーションである。まことに『インド史』の著者ロミラ=ターパル女史が述べているように、ヒンドゥーとムスリムの差異を故意に強調するのは、それによって利益を得る神学者などの人人であろうとおもわないわけにはいかない。
ヒンドゥーとムスリムの融和は、歴史の上に実例がないわけではない。「|聖戦《ジハード》」の名のもとにインドへ攻めこんで来た初期のムスリムは、仏教やジャイナ教やヒンドゥー教の寺院を破壊し、仏像や偶像を壊したり顔面に傷をつけたり削ったりしたが、ムガール帝国二代目のアクバル大帝は、ムスリムとヒンドゥーの融和を図り、みずからヒンドゥーの王女を|娶《めと》って、ジズヤ(ムスリム諸国で非ムスリムに課する人頭税)を廃止し、少数ではあったが高位高官にもヒンドゥーを起用した。かれはまたイスラム教以外の宗教にも関心を示し、ゴアからキリスト教の神父を呼んで宗教問答をしたり、ヒンドゥー教徒、ジャイナ教徒、ゾロアスター教徒を集めて宗教論争を試みたりし、こうしたことは正統派ムスリムの激怒を招いて、とうとうイスラム世界と断絶するに至った。
もっともかれのこのような|宗教的融合《シンクレテイズム》への関心は、自分を超人、半神人であるとして、王権を神権に近づけ、あらゆる宗派を自己の支配下に置くことを目的にしたものであったのだが。そしてまたかれがヒンドゥー社会の内部には立入らなかったために、カースト制の抑圧に苦しめられていた下層の人人の一部がイスラム教に期待していた神の前における人間の平等は実現されず、カースト制がそのまま温存されてしまうことにもなったのだが……。
ヒンドゥーとムスリムの融合は、アクバルの没後もさまざまな面で進み、パーシヴァル・スピィアの『インド史』によると、たとえば建築においては「ほぼ純粋なペルシア的段階から、アクバル期のインド・ムスリム様式をへて、タージ・マハルでみられるようにインド以外の地では建てられないような、しかもペルシアの影響がないと存在しえなかったような、ムガル建築の理想にまで至るのである」という。遠征と巨大建築の事業が相次いだシャー・ジャハンの治下においては、アクバル期に収穫の三分の一だった地租が二分の一程度に増大し、それに付加税もふえて、農民は窮之に喘ぎ、農業と農地は救いがたいほど衰退し荒廃したという圧制に敢えて眼をつぶるなら、タージ・マハールの幻想的な美しさは、ペルシアの設計者とインドの職人の協力、つまりムスリムとヒンドゥーの融和の産物であるともいえる。
シャー・ジャハンの皇太子ダーラー・シコーは、みずから本まで著してイスラム教とヒンドゥー教の融和につとめ、前記のようにこの二つの思想を、二つの太陽にたとえたが、帝位の後継者争いが起こって、イスラム正統派のスンニー派に属する弟に殺された。兄を殺して第六代皇帝の座についたアウランジーブは、イスラム世界への復帰を志してヒンドゥーに対する宥和政策を捨て、非ムスリム人頭税のジズヤを復活し、ヒンドゥー教の寺院を破壊させた。それはやがてのちにヒンドゥー教徒の反乱を各地にひき起こし、かれの死後すなわち十八世紀の初めごろから、それまで約百七十年にわたって続いて来たムガール帝国が、急速に衰えて崩壊して行くひとつのきっかけとなったのだった……。
余談に逸れたようであるけれど、話を志功のいるところに戻すと、かれがタージ・マハールの夕闇に光で描いた∞の記号は、一枚のテープを一度ねじって両端を貼合せたメビウスの帯をもおもい出させる。
ご承知のようにこのメビウスの帯においては、テープのどちら側を表、どちら側を裏と決めることができず、表とおもっていたほうを辿って行くと裏側にかわり、裏側はまた表となってあらわれる変転を、蜿蜒と無限に繰返して尽きることがない。このような表と裏のあらわれ方は、志功の性格と言動を象徴しているようにおもわれる。本能的な無意識の行動と感じられるもののかげには綿密な計算があり、演技ともおもえる大袈裟なジェスチュアのかげにも隠された事実があり、古いものへのノスタルジーのかげには意外に新しいもの好きの面があり、反近代的とみえる思想のかげに近代への切ない憧れがあり、土臭い地方性のかげには外に向かって開かれた国際性があって、それらは絶えずメビウスの帯のように変転を繰返し、どちらを表、どちらを裏とも決めることができない。
ある先入観を持って志功に接し、それとは反対の一面を垣間見た人は、かれの性格が分裂しているように感じたり、二重人格のようにおもったりすることがあったかも知れない。しかしながら、長期的に見るなら志功の性格と言動が|自己同一性《アイデンテイテイ》を保っていたのは、かれが自分の進もうとしている方向を、はっきりと認識していたからだろう。アイデンティティとは、生きている過去の現実性と、有望な未来の現実性とを連結させるものである、というエリクソンの説にしたがうなら、志功のそれは、青森人である過去の自分と、世界人であろうとする未来の自分とを結ぶものだった。かれの言わばキャッチ・フレーズのようになった「わだばゴッホになる」という言葉は、たんに汗臭い上昇志向や出世主義をあらわすものとしてではなく、「わだば」という地方性と「ゴッホになる」という国際性への願望を、表裏一体のものとして合わせ持っていた志功の、そのようなアイデンティティのあり方を示すものとしても理解されるべきであるとおもわれる。草野心平の詩『わだばゴッホになる』の、
[#2字下げ]………
[#2字下げ]ゴッホになろうとして上京した貧乏青年はしかし。
[#2字下げ]ゴッホにならずに。
[#2字下げ]世界の。
[#2字下げ]Munakata になった。
[#2字下げ]………
という一節が、そのあたりを鮮やかに描き出しているように――。志功は文化勲章伝達式のあとの記者会見のさい、「これからは世界にとどく仕事をしなくては……」と二度繰返していい、また人にもよく「インターナショナルでなくては駄目だ」と語ったが、そうした願望は、若いころからかれのなかにあったものだった。
自分のアイデンティティの基礎を、肉親や家庭や、学校や会社や、あるいは郷土など身近な対象への帰属意識や同一化に求めている人は、それらとの別離や、または対象の変質などによって、アイデンティティが分裂したり崩壊したりする危機に陥ることがある。人よりもいっそう肉親愛と愛郷心の強かった志功が、家と故郷を離れて上京してからの相次ぐ帝展落選や、経済的な窮迫や、さまざまな困難に崩れ落ちることがなかったのは、失意のどん底においてさえ、なかば冗談まじりにもせよ「ヴァイオリンならズンバリスト、絵は日本の棟方志功!」と叫ぶ、エリクソンの言葉でいえば遙か彼方の「より包括的なアイデンティティ」への志向を、失うことがなかったからではないだろうか。
そのように描き出すことで、志功の複雑で矛盾の多い性格と言動を、いちがいに単純化し理想化するつもりはないけれども、少なくとも島国性を指摘されているわが国の片隅の、小学校より上級の学校に行けなかったほど貧しい家に生まれ育った人間が、世界的に通用する個性となることのできた、ひとつの好例であるとはいってよいであろう……。
タージ・マハールを見た翌日、一行は午前五時半に起きて、アグラからカジュラホに飛んだ。カジュラホに着いたのは八時、それから一行は午前中のひとときを、新築の二階建てで落着いた感じのチャンデラ・ホテルの芝生に籐椅子を並べ、持参して来た玉露や梅干しや煎餅で、日本茶の会を開いて過ごした。志功はすっかりのんびりした表情になって、津軽の弥三郎節をうたい出した。これもちょっと並の人間には真似のできることではない。そうしたかれが、インド人の眼には、どのように映っていたのだろうか。帰国してから「中央公論」誌で行なわれた志功との対談で、草野心平は次のように語っている。
「このまましゃべって、このままのゼスチュアでいるのだから、それを悪意をもって見る人はだれもいないよ。そして、その環境が日本よりもっと広くてぼんやりしていて、オープン・マインデッドだから、みんな面白がって……。面白いというと語弊があるけれどもね。それにこの人は英語なんかいらないんだ。青森弁で世界中通じるんだから」
朝のホテルの芝生の庭で、弥三郎節をうたった志功が、インド人の眼にどう映っていたのか、チャンデラ・ホテルでは知ることができなかったが、のちに一行が泊ったブッダガヤのトラヴェラーズ・ロッジの年とった二人の従業員は、志功のことを、はっきり覚えていた。後で述べるように、いまのインドには、仏教徒が人口に比して、ごく僅かしかおらず、仏蹟のブッダガヤを観光シーズンの乾季に訪れて、トラヴェラーズ・ロッジに泊る客には日本人が多いのだから、そのなかで六年前に二晩だけ泊った志功を覚えていたというのは、よほど強い印象を受けたということになるだろう。
二人の従業員がいい加減なことをいっていたのでないのは、「大きな奥さんと一緒に来た、頭の禿げた、眼鏡をかけた、有名な画家」と記憶していたのだから、その人物が志功であったことは確かで、そのときの印象を訊ねると、年老いたほうの一人が、まず「かれは、とてもよい人で、とても親切だった」といった。ここまでは、きまり文句とも受取れるけれど、あとに意外な言葉が続いた。「それにかれは、とてもインテリジェントだった」というのである。日本人で志功の印象を語るときに、インテリジェント(理解力のある、理知的な、聡明な)という言葉を、最初のほうに挙げる人が、何人いるだろう。
言葉の通じない相手に、志功がどうしてそうした印象を与えることができたのか、こちらの貧しい語学力の範囲では確かめることができなかった。「ナマスティ」とか「シュクリア」(有難う)といった言葉を連発したのか、ともおもわれるが、それくらいのことなら大抵の日本人がやるだろう。それとも国際性に乏しく、自分でそのつもりがなくても、しばしば傍若無人の振舞いを示しがちな日本人観光客のなかでは、志功のインテリジェントな点が目立った、ということなのだろうか。「かれはいまどうしているか」という問いに、「死にましたよ。ここへ来てから三年後に……」と答えると、「おお、それは残念だ」と白髪のかれは本当に残念そうな顔をして、「今晩わたしたちは、かれのために祈るだろう。わたしたちが悲しんでいたことを、奥さんに伝えてくれ」といった言葉も、たんなる社交辞令だけであるとはおもえなかった。
異国のホテルの前庭で、志功が「ひとつァエー、|木造新田《きづくりしんでん》の下相野の、村のはずれコの 弥三郎エー……」と弥三郎節をうたい出したのも無理はない、とおもわれるほど、チャンデラ・ホテルのまわりは人家のかげもない原野で、いかにも鄙びた風景だった。
ここは九世紀から十三世紀ごろまで、チャンデラ王朝の都であったところだが、いま往時の面影を偲ばせるものは、最盛期につくられた八十五の寺院のうち、残っている約二十の石造寺院だけである。午前中は茶の会で過ごしたあと、午後から一行は、まず西群と呼ばれているヒンドゥー寺院群を見に行った。ホテルから幾らも離れていないところに、カジュラホの村や土産物店を右に見て、左側に寺院群の入口があり、なかに入って、芝生の上に緑の樹木が散在している美しい園内のあちこちに建てられている石造寺院に、たちまち圧倒されるのは、おもにおよそ八、九世紀もまえにつくられたそれらが、まるで巨大な前衛彫刻か、あるいはスペインの建築家ガウディの作を連想させる、これまでよく「蜂窩形」の|尖塔《シカラ》と形容されて来たような、初めて見る者の眼には奇異とも幻想的とも映る相貌を呈しているからだった。
――わたしが案内したなかで、棟方さんがいちばん気に入ったのは、多分ここだったでしょう。……
と、ガイドを勤めたミスター・サニーはいう。前衛的とも感じられる寺院群は、よく見ると山の形態を、つまり自然を象ったものであることが判って来る。ヒンドゥー教の伝説においてシヴァ神の住家であるというヒマラヤ山中のカイラーサ山や、ヴィシュヌ神の住家であるメール山のイメージを写したのであろうといわれている石造寺院のなかのいわば主峰は、高さが約三十五メートルにも及ぶカンダーリヤ・マハデーヴァ寺院である。小型の尖塔を重層的に、蜂窩状に重ねて屋根をつくり、それらが方錐形の主塔の頂上のリンガにまで至っている寺院を下から仰ぎ見ると、切り立った岩壁の山襞をおもわせる。そうした建築の構造にも増して志功を惹きつけたのは、壁面の複雑な装飾であった。
よく知られているように、カジュラホの寺院群の壁面は、数えきれないほどの|男女合歓《ミトウナ》像で埋め尽されていた。実に様様な性交と愛撫の体位、ほかの宗教やモラルでは許される筈のない徹底した官能の追求の仕方が、あからさまに彫刻化されているのに猥褻な感じが殆どしないのは、澄みきった青い空の下で、あまりにも開けっ広げに、燦燦と輝く太陽の光のなかに曝け出されているため、陰湿な感じや、罪を意識させる影が消し去られているからだろう。志功がここをいちばん気に入ったと、ミスター・サニーが感じたのは、これまでのどこよりも沢山のスケッチを描き始めたからだった。
「フォーッ! フォーッ!」
と感嘆の声を発して、志功は筆でスケッチブックに、目にもとまらぬ速さで次次にミトゥナの姿を写し続けた。およそ世界中の宗教美術で、これほど大っぴらに愛欲と官能を讃美しているものは、ほかにあるまい。カジュラホの彫刻が、ヒンドゥー教のなかの|性 力《シヤクテイ》信仰(タントラ教)の表現であるというのは、ほぼ定説になっているようであるけれど、そのかげには、もうひとつ別の事情もありそうな気がするほどである。カジュラホの寺院群の建設が、積極的に進められたチャンデラ王国の最盛期は、他のラージプート諸部族の王朝との戦いに明け暮れて版図を拡大した時期でもあった。これも突飛な想像になるかも知れないけれども、チャンデラ王国が性力信仰を推し進めたのは、それが庶民に人気があったことのほかに、男女合歓の図に軍隊の出陣の図が並べて彫られているところから見て、戦争中のわが国の「生めよ殖やせよ」とおなじように、支配者にとっても都合がよかったからなのではあるまいか。チャンデラ王国では、戦死した兵士の遺族に村落が賜与されたが、それは新たな兵士の流入を促進するためであった、といわれている。だが志功が感じていたのは、そんなことではなかったろう。あとでかれは、およそ次のようなことをいった。
「あんな大それた仕事を、大それたつもりでなく彫っているなんて、いいな。ほんとに驚くべき仕事を、鼻唄まじりでやっているんだもの。いまの日本の人なら眉毛のあいだに皺よせて彫るところを、体から燃えて、自然と自分のおもいの捩じれたところで、酔って彫っている。そういう熱気を感じるね」
男女合歓像のほかに、寺院の壁面を飾っているのは、|天の美女《スラスンダリー》といわれる、さまざまな姿態の、優雅で魅惑的な女性像である。もともと女神崇拝の傾向があって、エロチシズムへの関心を深めていた志功は、カジュラホの太陽の下の美女とエロスの饗宴に、自分自身、体のなかから燃え上がるものを感じていたのに違いない。
エロチシズムといえば――、ヒンドゥー教は古来、人間の幸福は、|法《ダルマ》と|財《アルタ》と|愛《カーマ》の均衡のとれた融合から生まれると教えて来た。この愛とは性愛の意味である。たいていの宗教は、快楽はダルマとアルタを追求する妨げとなり、また快楽は人に不正を行なわせ来世を忘れさせ、不謹慎と軽率に導き、快楽にのみ没頭して不幸になり身を滅ぼした人が多いのは周知の事実であるからとして戒めるのが普通であるのに、快楽は肉体の存在と健康にとって食物とおなじように必要なものであるうえに、ダルマとアルタの産物でもあり、したがって快楽は節度と慎重さを保って追求されなければならず、すぐれた人物は来世に禍を及ぼす恐れのない、自分の幸福を脅かす恐れのない行為だけをおこなうものであるから、そのように|法《ダルマ》と|理財《アルタ》と|愛《カーマ》を実践する者は、現世においても来世においても幸福に恵まれる……というのが、ヒンドゥーの智者の教えなのだった。
このなかでも、|愛《カーマ》を重視して、リンガ(男性器)とヨーニ(女性器)の合一、すなわち男性神と女性神の二元の統一と融合によって人間は救済され、解脱に導かれると説いたのがタントラ教であったが、その性力崇拝の対象となっている女神は、紀元前十何世紀かにインドへ侵入して来た遊牧民族のアーリア人が、天地や山河や自然現象を神格化して生み出した多神教の、ヴェーダの神神のなかには存在していなかった。インド最古の法典である『マヌの法典』を宣述した人類の始祖と伝えられているマヌ Mann が、英語の man とおなじように男とともに人間をも意味しているように、遊牧民のアーリア人は父系制であり、かれらの信ずるのは父なる男性神であって、母なる女神、地母神、豊饒神、リンガとヨーニへの崇拝は、先住農耕民の土着信仰で、インドに最も早く住んでいたのは、南アジア語(オーストロアジア語)系の民族であったと推定されている。またヒンドゥー教の女神崇拝の要素の多くは母系制の原住民ドラヴィダ族に由来するといわれ、その語族のタミル語では石垣島や津軽とおなじように、父を「アヤ」、母を「アッパ」というのだった。
ここで話を志功の故郷へ運んで行くなら、青森地方でいちばんさかんだった土着信仰のオシラ様は、豊饒神であるとともに夫婦和合の神でもあるとされていて、木でつくられているご神体がまとっている衣装を取去ってみると、先端がリンガを連想させる形になっているものが多い。青森の町の中心部に生まれた志功は、オシラ様には無縁であったろうが、しかし、そうした土着の信仰と津軽風流譚に感じられるような雰囲気を身近にした土地に育ち、長ずるにしたがって女神崇拝の傾向を深めていたかれにとって、リンガを頂いているヒンドゥー寺院の壁面を飾っていた|夥《おびただ》しい|男女合歓《ミトウナ》像と|天の美女《スラスンダリー》は、さほど遠い異教のものともおもえなかったのではないだろうか。カジュラホの彫刻に、志功がどれだけ強い印象を受けたのかは、やがてはっきりするのだけれども、こうしてみると、初めてエローラでヒンドゥー教の石窟寺院を見たあと「六十八年ぶりに……」つまり生まれたときから「見たい見たいとおもっていたものを見せてもらって、借金かえしたようだよ、さっぱりした」と語ったのは、あながち志功流の誇張法ばかりではなかったのかも知れない。
双眼鏡で男女合歓像を眺めては、スケッチブックに筆を走らせて、志功は興奮の面持であった。けれど、ここでかれの興奮を、冷やすような出来事が起こった。石造寺院の階段を降りて来たとき、ミスター・サニーとともにガイドを勤めていて後に続いて来た女性が、足を滑らせて、志功の腕にぶつかったのである。彼女は、まことに豊満な肉体を持つインド美人であったから、その現実の女性の重量を|正面《まとも》に受けた志功の腕は、夜になると赤く腫れあがってきて、それを冷やしているうちに、かなり興奮を醒まされる結果になったのだった。
ヒンドゥー教の聖地のなかでも、ガンジス河の中流に面しているヴァラナシは、神に最も近い場所であると信じられている。ヴァラナシ(Varanasi)というのは、英語でいうベナーレスで、生涯に一度ここを訪ね、聖なるガンジスの流れに沐浴して身を浄めること、あるいは岸辺で焼いた遺体の灰を聖河に流して貰うことは、ヒンドゥー教徒に共通した願いであるという。したがってここにはインドの各地から、沢山の巡礼者が集まって来る。カジュラホからここへ来てコロニアルな感じのクラークス・ホテルに落着いてから、志功と草野心平たちの一行が、まず出かけたのは、ヒンドゥー教ではなく、仏教の遺跡だった。
この古い都市の北方の郊外にあるサルナートには、さまざまな修行のすえに悟りをひらいて|覚者《ブツダ》となった釈迦が、修行中の五人の仲間に、初めて法を説いた所、すなわち初転法輪の地である鹿野苑(梵語ムリガダーヴァの訳)の遺跡がある。紀元前六世紀か五世紀のころ、鹿の棲む林のなかの園で、出家した修行者の集まる場所であったそこへ、三十代なかばのゴータマ(釈迦)が来たときのことを、仏伝はこう語っている。ゴータマと、かつて一緒に修行をしたことのある五人の仲間は、かれが修行の方法として断食などの苦行を捨てたことを知っていて、なかの一人がいった。――おい、ゴータマが来たぞ。あいつは苦行を捨てて、安易な方法についた男だ。挨拶をすることはないし、出迎える必要もない。黙って知らぬ顔をしていればいい。……ところが、近づいて来たゴータマを見ると、五人はわれ知らず立上がって、それぞれに衣と鉢を受取ったり、足を|濯《すす》ぐ水を差出したり、すわる場所をしつらえたりした。ゴータマは、かつての仲間に対して、自分が正覚を得たことを語り、その法の内容を、諄諄と説き始めた。……と、そう伝えられている|鹿野苑《ムリガダーヴア》のあとは、二千数百年後のいま、樹木と芝生の緑が美しい公園のようになっていた。
ここには、初転法輪の地を記念して、巨大な仏塔や、数多くの僧院や祠堂が建てられていたのだが、仏教の衰退とともに荒廃して、残っているのは僧院と祠堂の基礎の部分と、ダーメーク大塔だけである。その大塔も、インドにおける仏教の歴史を象徴するように、頭頂部から円筒形の周囲の表面にかけて削りとられたように崩壊している。それでも高さが三十三メートル、基底部の直径が二十八メートルあり、巨大な土饅頭をおもわせる不完全な形となって風雨に曝されながらも、いまなお中心部の存在感だけは堂堂と主張しているようなこの構築物に、草野心平は強い感動を受けた。かれはこう書いている。
「高いが一見平凡とみえる煉瓦づくりのこの塔はズングリして凄い重量感のある永遠性に充溢してゐる」…「五世紀にできたこのダーメクの大塔は装飾性を全部かなぐり捨てて、垂直に地下深くもぐりこみ、自らの美をしやべることなく黙つてゐる。この造型はエッフェルよりも新しい、そしてやがてくづれる部分ができても、その美を永遠に生きるだらうと私は思つた」
志功のほうは、僧院の基礎の遺構の上に、坐禅の姿勢ですわって、ダーメーク大塔を見上げていた。初めて釈迦の法を聞いた修行者の気持を実感しようとしていたのであったのかも知れない。ひとつには三十六年まえ、初めて柳宗悦、河井寛次郎、水谷良一を知り、その三人から仏教の講義を受けたこと、つまり志功にとっての初転法輪が、いまここまで、遠いインドの仏教発生の地の遺跡までかれを導いて来たのである。そしてまた釈迦の弟子たちの姿を無我夢中になり全身全霊を籠めて十枚の板に彫りこんだことが、かれを「世界のムナカタ」にしたのだった。だが釈迦が最初の説法を行なった場所において、仏教は中心部と基礎だけを残す遺構となっていた。さまざまなおもいが胸を去来しているのか、志功は感慨無量の面持であった……。
鹿野苑の遺跡から市街地へ戻った一行は、ヒンドゥー教の黄金寺院を見に行った。尖塔やドームに金箔が張られているこの寺院には、感心することができなかったが、それよりも一行を圧倒したのは、寺院前の旧市街の、網の目のように入り組んでいる狭い道を行き交う人の数だった。ついさっき人影も疎らな鹿野苑の遺跡を見て来たあとだけに、いっそうその感が深かった。巡礼客相手の土産物屋が並んでいる細い道に、行き交う、というよりは、|犇《ひしめ》き合っているといったほうがいい雑踏ぶりで、実際に人波にまじって、だれが手綱をとっているのでもない牛が歩いて来たりもするのである。向こうからやって来る人、人、人。顔、顔、顔……。ヒンドゥーの教えに忠実にしたがって|法《ダルマ》と|愛《カーマ》を実践したとしても|財《アルタ》には縁のなさそうな、数えきれないほどの人たち、しかも溢れるようなエネルギーを感じさせるその人の波は、遙かに遠い昔から現在に至るまで延延と続けられて来た人間の営みを、いっぺんに目のあたりに見せているようだった。
翌朝、一行は午前四時のモーニング・コールで起き、まだ薄暗い街に出た。夜明けのガンジス河で沐浴する人人を見に行く車のなかで、「……あ、また死体だ」と草野は呟いた。薄汚れた白布でぐるぐる巻きに包んだ死体を、二本の青竹に縛りつけて、前と後を担いだ二人の男の姿が、車窓のうしろへ遠ざかって行く。……あ、また、と呟いたのは、そのような死体運びを、前日も三度見ていたからだった。かれらはガンジスの岸辺へ、死体を焼きに行くのである。カジュラホでは、さまざまな|愛《カーマ》の姿態に接したが、ここで直面させられるのは、人間の死であった。
車がとまったのは、道の角にあって数人の男が|茶《チヤイ》を飲んでいた茶店の前だった。そこから、薄明のガンジス河を見下ろせる場所に出ると、岸辺のガートには、すでに沢山の人人が群がり集まっていた。河の西側になるこちら側には、数十のガート(岸壁に設けられた石段)が帯のように連なり、その上に並ぶ数階建ての寺院、別荘、巡礼宿などが城壁のように聳え立っているが、大河を隔てた向こう岸は一軒の人家も見当たらない原野なので、見晴らしが果てしなく開けているように感じられる。岸壁に続く道を降りて行って、一行は船着場から、無蓋の船に乗り、半裸の男が操る櫓の動きにつれて、広大な湖水をおもわせるガンジスの河面に進み出た。遙か彼方の向こう岸から、空と水を赤く染めて、陽が昇り始めた。
船はガートを右手に見て、上流に溯って行く。河の水は泥の色である。その水を頭から浴びて、人人は身を浄めている。水を口に含んで|漱《すす》いでいる、太陽に合掌して祈っている。老若男女、子供も多く、なかには母親に抱かれている幼児の姿も見える。やがてガートが尽きたあたりから、土の岸辺に近い浅瀬で、何十人もの洗濯人が横に並んで汚れた衣類の洗濯をしていた。さらにその上流では、幾つも死体を薪の上に乗せて焼いて、灰を河に流している。草野心平は上流のほうから漂って来たものに眼をとめた。布に包まれた死体が、三分の二は濁った水の中に沈んで、舷側を通りすぎ、流れにしたがって遠ざかって行った。ここでは、どのような病気で死んだのかも知れぬ死体や、死体を焼いた灰や、汚れた衣類を洗濯したあとの水や、そのほかにも多種多様なものを呑みこんでいるであろう泥の色の流れに身を浸し、それで口を漱いでは、神の救いを信じて、人人は忘我の境に入っているのだった。
「……この見苦しいのも、インドの力だよ」
志功はぽつんと、そういった。それは言わば、かれの持論でもあったようだった。アメリカにおける版画のデモンストレーションの講義のなかで、志功はよく「塵も仏なり」という話をした。かれの言い方によるなら――奈良の東大寺の大仏を、一年に一度掃除する日があって、坊さんが鼻の内側のところを掃除すると、大仏が|嚔《くしやみ》をしかけて「おい坊主! おまえたち何をするんだ」「いや、仏さま、ちょうど今日は、あなた様を掃除する日なんですから、ごめんなさい」そうしたら仏が「おい! その積もっている塵も仏だよ」といった……という話である。
これは多分、志功のいちばん好きな華厳経から出た話だろう。一塵にも宇宙が宿っている、というのが華厳経の根本思想で、そのなかに、聡慧の人の浄眼をもって見れば、一塵のうちにも大経巻あるがごとし、という意味の言葉がある。また中国の圜悟禅師にも「一塵含法界」という言葉があり、これは微塵のひとつにも宇宙が含まれていて仏の真理はどのようなもののなかにも見出すことができる、という意味である。いま眼前で、無限の塵を含む泥水で体を洗い口を漱いでいる人人は、ヒンドゥー教徒であるけれども、かりにこれも仏の世界としてみるなら、無論なにごとかを物語っているのにはちがいないが、その光景のなかに、一体どのような真理を見出すべきなのであろうか……。
田坂保孝の見たところ、志功はヴァラナシで、このガンジス河の光景を見たあたりから、寡黙がちになった。インドでずっと通訳を勤めたミスター・サニーも「棟方さんは、あまり喋らなくて、おとなしかったですね」と記憶している。旅の前半の志功は「見た、見た」「凄い、凄い」「大きい、大きい」を連発していたのだから、後半の表情のほうが、より強く印象に残ったのかも知れない。インドを旅していると、たいていの人が、圧倒的に複雑で巨大な現実に直面させられて、次第に言葉を失い、寡黙がちにならざるを得ないのだけれども、志功が言葉少なになるのは、よほどのことであるといわなければならない。そろそろ疲れが出て来ていたのかも知れなかった。志功と草野は同年で、ともに老人とはおもえないほどの元気さであったが、昔風の数え方をすれば、古稀の年齢であった。インドの生活は朝が早いので、飛行機に乗るたび朝の四時か五時に起きて、ほぼ一日中歩き回る生活が、きょうで九日目になっている。志功のほうには、カジュラホの寺院の階段で受けた腕の痛みも残っていた。
ほかにもインドの旅には、心理的にも肉体的にも消耗させられることが多かった。まず出かけるまえから「いろんな黴菌が多いから、くれぐれも気をつけなければ……」と、何人もの人に注意されて来た伝染性の様様な病気の心配。繰返し念を押されていたので、むろん生水は飲めない。それから、チヤが、「この子供たち、女の子はちゃんと髪を|梳《と》かして、お湯に入れて、綺麗なサリーを着せたら、どんなに美しいお姫様になるだろう。男の子も、みんな王子様みたいな顔をしている」と感嘆したほど、行く先先で、悲しくなるくらい大きく澄んだ眼をしながら、裸足で「バクシーシー(喜捨を)」と小さな汚れた手を差出して、次次に追って来る子供たち――。その子たちが、ろくに物を食べていないのは、眼と額だけが大きく感じられる顔つきや、痩せ衰えた体つきで明らかだったし、なかには、はっきり病気と判る子もいて、道端の地面に力なく横たわっていたりした。ボンベイに着いたときから、毎日のように会うそうした子供たちを見るたびに覚える心の痛みには、一行のだれも慣れることができなかった。「この見苦しいのも、インドの力だよ」と志功はいったが、過去につくられた眼を見張らせる美と宗教の壮大なモニュメントが到るところに残されている反面、インドの現実には、見ていて苦しくなるようなことが、とても多いのだった。……。
志功が、いくぶん元気を回復したようにおもわれたのは、ヴァラナシからビハール州の首都パトナへ飛んだ翌日、五世紀ごろから十二世紀まで、すこぶる栄えたナーランダーの仏教大学の広大な遺跡に立ったときであった。最盛期とおもわれるころのナーランダー大学が、どのような有様であったのか、それを伝えたのが、西暦六三〇年ごろから五年間、ここで学んだ玄奘三蔵であったことも、かれの興味を、大いに掻き立てたのに相違ない。
志功が青森の長島小学校の五年と六年のときの担任だった「達磨」という綽名の三浦善五郎先生は、授業のあと、よく『西遊記』の話を少しずつしてくれ、「あやうし三蔵法師、孫悟空の活躍やいかに……」というところで、「……次はまた明日のお楽しみ」となり、生徒は毎日みんな小さな手に汗を握ったものだった。その三蔵法師が千三百数十年まえ現実に学んだ場所を、いま志功は自分の眼で見ることができたのだ。『西遊記』は小説であるが、事実に基づいて弟子の慧立と彦※[#「りっしんべん+宗」]の著した『大慈恩寺三蔵法師伝』(長澤和俊訳『玄奘三蔵』)によれば、当時のナーランダーの模様は、次のようなものだった。マンゴーの樹林のなかに、煉瓦の塀で囲まれて、八院に分けられている宏壮な内部に入ってみると、庭園のなかの流れには青い蓮の花が浮かんでおり、ところどころにカニカーラ樹の花が咲き乱れていて、そのなかに立並ぶ建物のなかの高大なものは煙と霞のうえに聳えており、諸院と僧房の建物はすべて四階建ての煉瓦造りで、|甍《いらか》が陽に輝いていた。
――インドの伽藍数は無数であるが、このナーランダー寺ほど壮麗崇高なものはない。
ここには僧侶は客僧を入れて常に一万人おり、ともに大乗を学び小乗十八部をも兼学している。そして俗典、ヴェーダなどの書、因明(論理)声明(音韻)医方(薬学)術数(数学)に至るまで、ともに研究している。ここには経論二十部を解する者が一千余人おり、三十部の者は五百余人、五十部の者は法師を入れて十人いた。ただ戒賢法師のみは一切の経論を究め尽し、徳高く年老いまさに衆僧の宗匠であった。寺内の講座は毎日百余箇所で開かれ、学僧たちは寸陰を惜しんで研学している。このような高徳の人々がいる所であるから、人々の気風は自から厳粛で、建立以来七百余年になるが、いまだかつて一人も犯罪人の出たことがない。国王もこの寺を厚く尊敬し、百余の村を荘園としてその供養にあてている。……
そうした当時の光景のなかで、いまも変らぬ姿で残っているのは、空に輝いている太陽だけである。十二世紀の終りごろ、以後約五百年にわたるムスリム支配の基礎をつくったゴール朝のムハンマド王の軍勢が、ヒンドゥーの連合軍を破ったあと、このナーランダーにもやって来て(一説には、規模の余りの広大さと煉瓦づくりの建物の堅固さに、城塞として用いられることを恐れた……ともいわれているのだが)四階建ての教室や僧房や図書館を、徹底的に破壊したからだった。しかし、残っている部分だけでも約三十メートルの高さを持つ方形の大塔址、その上に立って眺めると見渡すかぎりの原野に囲まれて、風が吹きわたっている感じの敷地に、かなり大きな樹木をあいだに挟んで広がっている建物の基礎部の煉瓦の遺構から、かつて一面の緑に包まれていた数数の明るい茶褐色の建築群のなかに、数千の学僧が起居して、哲学から科学にまで至る万有の学問に|勤《いそ》しみ、さらにかれらの唱える梵讃の声が、構内に響きわたっていたであろう当時の|総合大学《ユニバーシテイ》の光景は、眼前に髣髴とさせることができる。
志功は、講堂の遺構の教壇であったとおもわれる場所に立ち、手を大きく振回して、講義をする真似をした。また僧房の遺構の、壁の凹んだ箇所に設けられていた寝台の部分に、仰向けに寝そべって、当時の学生の気分を想像しようとしたりしていた。大塔址の頂上から遠望される伽藍状の建物は、玄奘三蔵の記念館であるという話だったが、いまは中国とインドとの関係がうまくいっていないせいか、閉館されているとのことだった。
ナーランダーから、車はラジギールに着いた。ここは釈迦の時代に、北インドにおける政治と文化の中心地であったマガダ国の首都、漢訳仏典には王舎城と意訳されているラージャグリハのあったところだが、いまは起伏する原野のなかに、城壁の跡と、小さな村がある程度である。
ヴァラナシの郊外の|鹿野苑《ムリガダーヴア》で、昔の仲間に最初の説法を行なった釈迦は、その後も何箇月間か、そこにとどまって、説法を続けていたようだ。はじめは反撥していた昔の仲間が、近づいて来たかれの表情と姿を見た途端、われ知らず立上がって出迎えた……という挿話にあらわれているように、悟りを開いて|覚者《ブツダ》となった釈迦の風格と教えには、よほどの魅力があったのだろう。カーシー(ヴァラナシの古名)の長者の息子ヤサをはじめ、良家や資産家の息子たちが、次次に家を捨て、出家して弟子に加わったので、親たちは恐慌を来たしたともいわれている。弟子が数十人にふえた釈迦は、鹿野苑から、そこへ来るのに徒歩で十何日かを要したとおもわれる道を、もういちど逆に辿って、悟りを開くまで修行していたウルヴェーラーの村(現在のブッダガヤ)に移った。
仏伝によれば、ここでも、バラモン教の火祭を司って何百人もの信者を集めていた結髪のカッサパ三兄弟が、教化されて入信したという。釈迦の弟子は、ますますふえた。出家は托鉢によって生活するのであるから、多くの弟子を養うのには、それだけ喜捨をしてくれる多くの俗人を必要とする。ウルヴェーラーにも何箇月かいたあと、釈迦が数百人の弟子を連れて、およそ八十キロ離れているマガダ国の首都ラージャグリハに向かった理由のひとつは、そのためでもあったものとおもわれる。
初めのうち釈迦と弟子たちは、王舎城外の林のなかに起居していた。当然そのことは、国王の耳に入らずにはおかなかった。しかもその集団には、この地方で有名だった結髪の|司祭《バラモン》カッサパ三兄弟とその弟子たちも加わっているという。祭火の儀式と呪術を行なうカッサパ三兄弟に人人が寄せていた畏敬の念は、王宮のなかにも伝わっていた。いったいあのカッサパが、どうしてゴータマの弟子になったのか、それともゴータマがカッサパの弟子になったのか、不審におもった国王のビンビサーラは、そのことを確かめに城外の林を訪ねた。王の疑問に、カッサパは、――尊者ゴータマの教えによって、わたしは真実を知ることができました。尊者ゴータマはわたしの師、わたしは弟子であります。……と二度繰返していい、かれが法螺貝のように結んでいることで有名だった髪を剃り落として修行僧の姿になっていたことからも、その言葉が事実であることは明らかだった。
釈迦の人間性と教えの魅力は、国王の心をも、すぐにとらえるようなものであったらしく、また解脱のために俗世を捨てることを説く釈迦の法は王権をおびやかすような性質のものではなかったからでもあったのだろう、マガダ国王ビンビサーラは、釈迦の教団のため、城外の閑居と静思に適した|竹 林《ヴエールヴアナ》のなかに簡素な六十棟の小舎をつくって寄進した。これが漢訳仏典に、竹林精舎と意訳されているところである。ここで釈迦は、のちに重要な人物となる二人の修行者を教化した。二人は一種の不可知論を説いていた懐疑論者サンジャヤの弟子であったのだが、釈迦に感化され、同門の弟子の大部分を連れて|竹 林《ヴエールヴアナ》に入ってしまったので、あとに残されたサンジャヤは、激昂のあまり咽喉から血が出るほど叫び続けたと伝えられている。この二人がサーリプッタとモッガラーナ、漢訳仏典に音訳された文字でいえば、舎利弗と目※[#「牛+建」]連である……。
志功が三十三年まえに、『釈迦十大弟子』を彫ったときには、どれがだれやら判らずにつくったというのだが、完成された作品を見ると、釈迦の弟子のなかで「智慧第一」といわれた舎利弗と、「神通第一」といわれた目※[#「牛+建」]連は、いかにもそれらしい顔に彫られている。その二人が実際に生活し、釈迦の教えを受けていたかも知れぬ場所で、いまは池を囲む小さな公園となっていた竹林精舎のあとを、懸命にスケッチしていた志功は、車に乗りこんでからも、興奮の醒めやらぬ面持であった。
竹林精舎のあとを離れて、車は、この旅のいわば最後の目的地であるといってもよい、釈迦が悟りを開いた場所のブッダガヤに向かった。いまの志功は、自作『華厳譜』のもとになった華厳経の入法界品の主人公である善財童子のようなものだった。悟りを求めて南方へ向かう旅に出て、五十三人の善知識を歴訪して歩いた善財童子にかつて志功をなぞらえた水谷良一は、三十五年まえに初めて華厳経の講義をしてくれたとき、華厳経の仏とは宇宙を照らし出す光明であって、「……どこまで行っても尽きることのない無限の宇宙、その暗黒の虚空に仏の光明が達したとき、すべてのものが溶けあって生生流転する姿が見えて来る」と熱っぽく語り、その経文の最後の善財が悟りを開く直前のくだりを、かれに朗読して聞かせてくれたことがあった。
「その時、善財、普賢菩薩を見るに、|一一《いちいち》の|毛孔《もうく》より一切世界の|微塵《みじん》に等しき光明を放ちて、あまねく一切の虚空|法界《ほつかい》に等しき世界を照らしたまい、一切衆生の|苦患《くげん》を除滅し、ことごとくよく菩薩の善根を長養し、一一の毛孔より種種の香雲を|出《いだ》して、あまねく十方一切の如来およびもろもろの|眷属《けんぞく》に薫じ、一一の毛孔より一切世界の微塵に等しき|華雲《けうん》を出し、一一の毛孔より一切世界の微塵に等しきもろもろの香樹雲を出し、もろもろの妙音を出して法界を|荘厳《しようごん》し、一一の毛孔より一切世界の微塵に等しき|妙宝衣雲《みようほうえうん》を出して虚空を荘厳し……」
ブッダガヤのトラヴェラーズ・ロッジに着いたのは夕方の六時すぎ――。その日は朝から十一時間の行程であったのだが、翌朝も夜明けごろから、志功は浴衣に皮靴、赤緑黄三色の毛糸編みの腰紐、肩にニコン8倍の双眼鏡、という恰好で、スケッチブックを持ち、ロッジのすぐ近くにある|大 菩提寺《マハボデイ・テンプル》へ、写生に出かけた。夜明け、という時間の早さと、行先がすぐ近くというので、そういう恰好で出たのだろうけれど、あとでたまたまその姿を見かけた日本人は、心のなかで(……国辱ものだ)とおもったらしい。トラヴェラーズ・ロッジの老従業員が、志功を「とてもインテリジェントな人だった」と記憶していたのは、まえに書いた通りである。
大菩提寺の中央には、釈迦成道の地を記念して、高さ五十二メートルの方塔形の大精舎が建っており、その横に、釈迦が独坐して静思していた場所を示す石造の金剛座がある。釈迦は、|無花果《いちじく》に似た実をつけるアシュバッタ樹の下で、悟りを開いた。悟りを意味する梵語ボディを漢字に音写したのが菩提で、のちにインドではこの樹を、悟りの樹、すなわち|菩提樹《ボデイ・トリー》と呼ぶようになった。わが国やヨーロッパの菩提樹とは別種のものだが、葉がハート型をしている点は似ている。釈迦成道の地に育っていた樹は、イスラム教徒に焼かれてしまったので、いま金剛座の上に葉を茂らせている大樹は、セイロンに株分けしてあったものから、また株分けされて育ったものであるという。志功は菩提樹の葉を七枚数えて拾って、大切にスケッチブックの頁の間に挟みこんだ。すると、見ていた一人の男が、自分も二、三枚の葉っぱを拾って来て、それを志功に差出し「|一《ワン》ルピー……」でどうだ、というような表情と動作を示した。ノーノー、と手を振ると、相手は葉っぱを捨てて、平然としている。駄目でもともと、という考えであったらしい。
朝食後、こんどはオープン・シャツにズボンといういつもの姿で、志功はふたたび大菩提寺へ行き、金剛座のうえで禅定の姿勢をとって、悟りを開いたときの釈迦の気持を味わおうとした。けれども、ここは|何人《なんびと》も坐ってはいけない場所であると注意され、あわてて降りたので、長く釈迦の気持を味わっていることはできなかった。
いったい釈迦は、ここでどのような悟りを開き、あの鹿野苑へ行って、かつての仲間に、それをどのように説いたのであろうか……。その内容は、釈迦の死後、弟子たちの記憶と伝承を結集して編まれた経典の種類によって異なっており、定まった説がないのだが、かりにひとつの解釈を示すなら――。
釈迦はこの世を、苦の世界である、と観じた。漢字には「苦」の一字に訳されているそのもとの言葉(ドウクハ)を、祖語をおなじくするとおもわれる英語のサンスクリット辞典でみると、「不安」という訳語がまずあって、苦悩、悲哀、不幸、心配、不快、困難……といった言葉が続いて並んでいる。この苦は、さまざまな因|縁《ヽ》によって生|起《ヽ》するのであって、その縁起の段階を次から次へと順を追って下っていくと、根底にあるのは無明(無知)である、と釈迦は考えた。
苦をなくすためには、根底の闇に明知の光を生ぜしめて、無明をなくさなければならない。明知に達するのを妨げているのは、渇望と執着である。まず自分の欲望をどこまでも拡大して快楽を貪ろうとする渇望と、その反対に自分を苦しめ抜いて遂には生存を断ち切ろうとする渇望――。明知に達しようとする者は、この二つの渇望、すなわち快楽至上と苦行至上の両極端から遠ざかって行かなければならない。
かれはまた、形のある物質で、滅びないものはない、と考えた。そのように無常なものに執着している者を、本当の我であるとおもうことはできない。うつろいやすい現象への執着を捨て、いたずらな煩悩にとらわれ縛られていない本来の自己、人間存在の真実のありかたを見出すことによって、闇のなかに明知が生じ、無明の世界から解脱することが、初めて可能になる……。最も初期に属する仏典によれば、かれは鹿野苑で初めての説法を試みたさい、かつての仲間に対して次次に質問を発しては、相手が確かだと信じていたものが、実は不確かなものであることを論理的に証明して行ったりもしたようだ。そして聞いていたなかの一人のコーンダンニャが、――およそ生起する性のあるものは、すべて滅び去る性のあるものである。……といったとき、釈迦は歎声を発していった。――ああ! コーンダンニャは悟った! コーンダンニャは悟ったのだ!……
大菩提寺から、志功たちの一行は、釈迦が悟りを開くひとつの重要な契機となった場所、漢訳仏典には尼連禅河と音訳されているネーランジャラー河の畔に行った。乾季の終りに近づいていたので、水が|涸《か》れて広い河床があらわれていた。向こう岸の林の遙か彼方に、悟りを開くまで釈迦が修行していたと伝えられている前正覚山の姿が、小さく見える。志功にとっては、ここがほぼ、今回の旅の終りの場所であった。かれは懸命に筆を動かして、照りつける太陽の下の白茶けた河床と、彼方の山の風景を写し取っていた……。その向こう岸のどのあたりかの林のなかで、二十九歳のころから、断食をふくむ荒行を続けていた釈迦は、六、七年経っても、悟りに達することができなかった。苦行によって正覚を得ることはできない……そう感じとったかれは、食物を摂って痩せ衰えた体に力をつけようとおもい、林を出て、河で沐浴して体を洗ってから、村に入って行った。後代の仏伝によれば、村の長者の娘スジャーターが、かれに乳粥を捧げた。それを食べて体力を回復したかれは、河を渡って、あの菩提樹と呼ばれることになるアシュバッタ樹のもとへ行き、その下に坐って正覚を得ようとする禅定に入った。尼連禅河という音訳には、そのような伝説の内容も織りこまれていたのであろう。
釈迦は、苦行を捨てたことによって、のちに仲間や他の宗派から非難されることになるのだが、このことは数世紀あとのイエス・キリストの場合にも共通していて、荒野で四十日の断食をしたあと、天からの啓示を受けて、ガリラヤへ帰り、神の福音を説いていたイエスは、断食日に「あなたの弟子達は、なぜ断食をしないのか」と詰問されたり、「大飯食い、大酒飲み」と非難されたりしており、山上の垂訓においては「断食をするとき、偽善者のように陰鬱な顔をしてはいけない」と弟子に教えている。そしてイエスが、ユダヤ教の形式的で偽善的な律法主義者たちへの批判者として現われたように、釈迦はカースト制の上に成立っているバラモン教の祭司たちの形式的な、あるいは呪術的な威嚇をこととする祭祀中心主義への批判者として、人人のまえに姿を現わしたのだった。
紀元前十何世紀かにインドに侵入して来て、ヴェーダの神神を奉じていたアーリア人は、すこぶる祭祀を重んじて、やがて確立したカースト制の最上位に、祭祀を司るバラモンを置いたので、そこから司祭者至高、祭祀万能のバラモン教が生まれた。当時の人人は、輪廻による転生を信じており、また果てしなく無限に繰返されるという転生を、非常に怖れてもいたので、最高の願いは、輪廻から解脱することだった。それに対してバラモン教は、宇宙の根本原理であるブラフマンと、個人的な我の本体すなわちアートマンの合一を図ることによって、輪廻から解脱することができると説いた。
おもうにこれは、苦行のすえに「我はブラフマンと合一したり」と信じこむ神憑りや、一人よがりの者が、随分と続出しそうな教えでもある。「真理に到達した者は自分だけであり、それを認めないのは、みな愚者である」と主張し、たがいに|己《おのれ》の立場に固執して相争う意見を、釈迦はすべて相対的なものにすぎぬと考えて、答えが出る筈のない観念的な思弁と論争に陥ることを戒めた。それにかわって釈迦が説いたのは、人間存在の根底にあるのは無明であり、それを滅却することが解脱への道である、という考えだった。かれは、人間は正覚への道を進むことによって、だれでも果てしなく無限に迷い続ける生存、つまり輪廻から解脱することができる、といい、また、――人間は生まれによってバラモンとなるのではなく、行ないによってバラモンになるのである。……と語って特権階級のバラモンを批判し、現実の社会に向かってカースト制の廃止を要求したわけではなかったけれども自分たちの教団内には差別を設けなかったから、仏教はカーストにおいてはバラモンの下位におかれていた王族から、庶民階級、それまでバラモン教の救いからは除外されていた隷属民のあいだに至るまで広まって行った。その仏教が、どうしてインドから、ほとんど消えてしまったのだろうか……。
インドで仏教が衰退に向かった原因の重要なひとつは、実は志功をこの旅に導くきっかけとなり、着いた最初に訪ねて行って大感激した、あのアジャンターの壁画のなかに隠されていた。アジャンター壁画の摸写を見て、恐ろしいほど蠱惑的なエロチシズムに驚き、「官能の享楽を捨離して、山中の僧院に眞理と解脱とを追究する出家者が、何故に日夜この種の畫に親しまなくてはならなかつたのか」と訝った、和辻哲郎の疑問のなかにあったのだともいえる。
仏教がインドにおける最盛期を迎えたのは、有名なアショーカ王の時代(紀元前三世紀)で、インド史上最初の統一王朝であるマウリヤ朝の三代目の王であり、ほぼインド全域に力を及ぼす大帝国をつくり上げたかれは、その征服の過程に行なわれた数知れぬ殺戮を悔い、慈悲の心に目覚めて仏教に帰依したので、仏教はインド亜大陸における支配的な宗教となったばかりでなく、遠く国外にも広がって行くようになった。アショーカ王は他の宗派に対しても寛大であり、仏教も出家した僧の集団の内向的な求道を重んじて、バラモンにかわって世間の宗教的儀式を主宰しようとしたり、呪術を行なったりはしなかったから、バラモンの祭司たちは、依然として現実の社会に、隠然たる影響力を保っていた。
マウリヤ朝が滅びたあと、インドを征服したイラン系民族のクシャン朝のカニシカ王も仏教を保護し、それによってインドとギリシャの東西両文明を結びつけたガンダーラ美術に代表される独特の文化が生まれたりもしたのだが、一方においては異民族支配に反撥する民族意識が、ふたたび伝統宗教のバラモン教に力を与え、それは土着の民間信仰と結びついて、民族宗教のヒンドゥー教を現出させた。そしてインド人による二度目の統一王朝となったグプタ朝の王がその教徒であったことから、ヒンドゥー教は大いに興隆して、仏教にかわる国民宗教となって行った。
よくいわれるようにイスラムの軍隊による寺院と仏像の破壊だけによって、仏教が滅びたのではない。それが決定的にインドから仏教を消し去る役割をしたのは事実だが、ムスリムの攻撃に曝された点では、ヒンドゥー教も同様であった。その攻撃に先立つずっと以前に、釈迦成道の地を記念してブッダガヤに建てられた寺院は、すでにヒンドゥー寺院化していた。ヒンドゥー教の興隆に対抗して、仏教が初期においては殆ど禁じていた筈の呪術を取入れたり、とくにアジャンターの石窟寺院の壁画に見られるように|性 力《シヤクテイ》信仰の影響を受入れたりしたことが、教義の独自性を失わせて次第にヒンドゥー教のなかにのみこまれ、吸収されて行く結果となったのである。
いわば仏教を崩壊させる一因ともなった性力信仰のエロチシズム――。アジャンターの壁画に大感激した志功が、釈迦の信者であるとともに、そのエロチシズムの信者でもあったことは間違いあるまい。とするなら、志功は果たして、本当に仏教の信者であったのだろうか。ここでも志功は、かりに敬虔な仏教信者の面を表側とするなら、その裏側からエロチシズムの讃美者の顔が現われてくるメビウスの帯の変転を、無限に繰返しているようにおもわれる。
|性 力《シヤクテイ》を世界展開の原動力であるとする信仰は、もともと日本人にとって、さほど遠いものではない。だれでも知っているように、『古事記』によるなら、わが国土は、「我が身は、成り成りて成り余れる処|一処《ひとところ》あり。故、この吾が身の成り余れる処をもちて、汝が身の成り合はざる処にさし|塞《ふた》ぎて、|国土《くに》を生み成さむと|以為《おも》ふ。生むこと|奈何《いかに》」とのたもうた伊邪那岐命と、「|然善《しかよ》けむ」と答えた伊邪那美命の、リンガとヨーニを合した|性交《まぐわい》によって生み出されたのである。吉田敦彦氏の『日本神話の源流』によれば、同型の神話が、ポリネシア、マルケサス諸島、ニュージーランドなどにも存在しているというから、これは随分ひろい地域に分布していたものであったのだろう。わが国においても仏教は、そういう土着の信仰のあったところへ渡って来たのだった……。
志功たちの一行は、ブッダガヤから、自動車でパトナに引返し、そこからカルカッタヘ飛ぶ筈であったのだが、予定の飛行機が飛ばないというので、もういちど半日以上の時間を費して、ブッダガヤのトラヴェラーズ・ロッジに戻った。そうしたトラブルのせいもあって、志功は帰心矢の如し、といった状態になって来たようだった。翌日、カルカッタに飛んで、志功は宿泊したオベロイ・グランド・ホテルに近いインド博物館には行ったけれど、旅程に予定されていたベルール・マットというヒンドゥー教の寺院には行かなかった。
もし行っていれば、志功がどういう感想を洩らしたかは、興味のある問題である。カルカッタ郊外のガンジス河畔にあるヒンドゥー寺院のベルール・マットは、ラーマクリシュナ・ミッションの総本山である。一種の宗教的天才であった前世紀の人であるラーマクリシュナは、「唯一の真実を智者たちはさまざまに説く」というインド最古の宗教文献『リグ・ヴェーダ』のなかの言葉を座右の銘にして、「すべての宗教は真実であり、それらは異なった道を経て、おなじ神に達する。したがって、すべての人間を、かれらの神神のうちに愛さなければならない」と説いた。
かれの弟子であるヴィヴェーカーナンダは、一八九三年の九月にシカゴで行なわれた世界宗教会議で、「極端な宗派意識と頑迷さと狂信が、長い間この美しい地上に取憑いて、地上を暴力で満たし、人間の血で濡らし、文明を破壊し、全世界の人人を絶望に陥れて来たのです」…「いま焦熱のインドで何百万もの人が求めているのはパンなのです。飢えて死に瀕している人に宗教を与え、哲学を教えることは、かれらに対する侮辱です」…「私は仏教徒ではありません。しかもなお私は仏教徒なのです」…「すべての宗教は、いまこそ助け合うことと、平和を求めなければなりません」…と訴えて、大変な反響を呼んだ。キリスト教も仏教もイスラム教も、自分たちの宗教とおなじ目標に向かっているものと認め、宗教と近代科学を両立させて、ヒンドゥー教から因習と迷信をのぞこうとしているこの教団の思想に、『釈迦十大弟子』を彫り『耶蘇十二使徒』を彫り、いままたインドの旅で、仏教ヒンドゥー教イスラム教の別なく、あらゆる宗派の美術に感心して来た志功の考えは、かなり近いようにおもわれる。
旅の終りに「パパ、インドは何色だろう」と訊ねたチヤに、志功は「色でいえば黄色だよ。広いし、大きいし、深深だし、|厖濃《ぼうのう》だよ」と答えて「シュクリア!」(有難う)といった。
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大 団 円
カルカッタを飛び立って、途中、タイのバンコクに一泊し、羽田空港に帰り着いたのが三月十二日の夜――。志功は「エブリボディ!」…「よくやったよ、いっしょうけんめいだったよ、なあッ」…「ご苦労さん」…「じゃ、また、ねッ」…「バイッバァーイ」……と、片言の英語まじりの賑やかな挨拶で、同行の人たちに別れを告げた。出発した日から数えて十五日間、健康な若者にとっても決して楽とはおもえない、強行軍といっていいほどの旅だった。
その後しばらくして、インド旅行の体験と感想を語り合う「中央公論」誌の対談で、志功と顔を合わせた草野心平が、最初に、「帰ってきて、どう? 疲れは」と訊ねたのも、当然であったろう。草野も志功と同年で、おなじ旅程をこなして来たのだが、カルカッタに着いたときは(飛行機の都合で結局は果たせなかったのだけれども)そこから一行と別れてカトマンドゥに飛び、ヒマラヤの山なみを遠くからでも眺めてみたい、とおもったくらいの余力を残していたので、志功の体のほうを案じて、そう聞いてみたのだ。それに対する志功の返事は、「もうきのうから描いたものに色つけたりしているよ。描いてきたのは二百枚くらいかな……」というのだった。
草野は志功と長いつきあいなので、かれの仕事ぶりはよく知っていた。インドでの描き始めを見たのは、アジャンターに向かう長い道程の途中で、「ちょっと休もうや」ということになり、自動車を降りた途端に、志功はスケッチブックをひろげ、チヤ夫人が差出した携帯用の墨入れに筆を突込み、ときおり筆を横に|銜《くわ》えて胸にぶらさげていた双眼鏡を両眼に当てる動作を挟みながら、眼前に展開しているデカン高原の印象を、素早く手を動かして写しとっていた。アジャンターへ着いてからも、草野は気に入った絵や彫刻のまえに腰を据えるほうであるのに、志功のほうは、ここかとおもえば、またあちら、といったふうに目まぐるしい動きを示すので、同行者やガイドは、どちらにペースを合わせていいものか、かなり迷っていた様子であった。
それにしても正味十二日間のインド旅行で二百枚、しかもすでに本格的な制作に取りかかっているとは……と、草野は志功の仕事ぶりの速さと、年齢を感じさせない精力の旺盛さに、あらためて舌を巻くおもいだった。前記の言葉に続けて、志功はこういった。
「何せ、本当にありがたい国だったよ。やっぱり日本は島国だという感じがするよ。いや、ぼくにはだよ」
日本は島国であるというそのいい方には、深い実感が籠もっていた。それに加えて志功は、この対談で注目すべき発言をしている。
「ぼくははじめ自分の仕事が仏に関係あると思って、仏から見ようと思ったけど、そうじゃない。あそこに寝ころんでいる|モノ《ヽヽ》、みんな仏だよ。牛も、草も、岩も、みんな仏だよ。ごみ一つも仏だよ。もう見えないもの全体がやっぱり仏、仏陀だという感じがしたな」
というのは、日頃の持論であるとしても、その少しあとに続く、
「仏が悟りを開いたとかいうブダガヤで見たものなんかも、今度は問題じゃなかったな。もっと大きいものが、仏以上のものが、きっといるよ。大妙というのかな、もうどうにもならないものを今度の旅で授かってきましたよ」
というのは、一体どういう意味であったのだろう……。自分自身で語っているように、仏教は志功の芸術創造の一源流であった筈だ。かれは日本でもアメリカでも、繰返しそのことを人に語って来た。|我《われ》が彫るのではなく、仏が彫るのであり、仏が導いてくれるままに、我は板の上を転げ回って遊んでいるだけなのであって、他力の教えにしたがうなら、板画は作らなくても、自然に生まれて来るのである、と。だとするなら、釈迦が悟りを開いた場所は、仏教の長い流れを、どこまでも溯って行って遂に到達する、いわば源泉ともいうべきところであるのに、そこで見たものなんか、こんどの旅で問題じゃなかった、といい、仏以上にもっと大きいものが、きっとある筈だ、と感じたかれが授かって来たという「大妙」とは、果たして何だったのであろうか――。
それを物語っているとおもわれるのが、帰国してから約一箇月後の、四月十九日から制作に取りかかって、文字通り志功の畢生の大作となった『厖濃の柵』である。完成した作品でいえば、八曲半双の屏風仕立てで、高さが約五十八センチ、横の長さが七メートル七センチに及ぶこの大作は、インド旅行の産物であるばかりでなく、志功の生涯と思想の、いわば集大成であるとも考えられ、かれ自身そのことを意識して制作したものとおもわれる。
さいわいなことに、計十七枚の板木のうち最初に彫った一枚(『加寿良穂の柵』)の制作過程が、濱田益水の『写真 棟方志功』に、克明にドキュメントされている。以下の叙述のなかの記録的な部分は、ほぼ濱田氏の、まるで映画でも見ているような正確で迫力に富んだカメラと、すぐれた文章の描写によるものである。最初の制作意図の一端らしきものは、志功自身の口から洩らされている。
「ピカソのエロチカかッ。ぼくのは棟方のエロシコだよ!」
いうまでもなく後のほうは、エロに自分の名前の志功を結びつけてこしらえた|もじり《ヽヽヽ》だろう。作者の主題はエロチシズムであり、意識の一方にあったのは、現代絵画最大の巨人ピカソであるらしかった。そして意識のもう一方にあったものを、かれはこう語っている。
「インドの男と女のねず(捩)れているというだけを極限するんだ。もう上から下から、なめるか、しゃぶるか、手玉にするか、どうでもこうでも、事の以内外から始まる人間の肉体と血と命というものをからみ合わせるかということのものだよ!」
いささか難解なようではあるけれど、制作が進んで行くにつれて、ここに語られている主題は、次第に明確なかたちをとって、画面の底から姿を現わしはじめるのである。
志功は板木に直接、下絵を描く場合もあったが、このときは和紙に墨で下絵を描いた。かれの版刀は、文房具店で売っている普通のものであったけれど、硯は端溪である。和紙の下敷に使われていたのは、弘前で発行されている陸奥新報だった。かれはつね日頃、東奥日報や陸奥新報に目を通して故郷の消息を知ることを忘れなかった。
まず筆で、掌ほどの大きさの丸が描かれた。なかに子供の落書きのような目鼻がつけられて、顔の恰好になる。こんどは下に半円が二つ、それは首の線と体の輪郭に囲まれて、乳房のかたちになった。次に、もうひとつの顔。二つの顔のあいだに、さまざまな線が、入り乱れる。一見なにを描いているのか、よく判らない。間もなく、立った男性が背向位の女性に接している姿勢と見えてくる。カジュラホのヒンドゥー寺院の壁面を飾っていた数数の|男女合歓《ミトウナ》像のなかに、しばしば見られた体位である。この下絵は、カジュラホにおける写生と記憶、それにかれの心象をもとにして描かれていたのだった。画面の右肩に「カジュラホにて」という文字が書きこまれた。志功は左文字もスムースに書くが、このときは|正面《まとも》に書いた。画面に文字を入れることについては濱田にこう説明した。「板画面を無駄なく、のため入れるんだ」…「それ以上に意味はない。もしも反対になっても、読めなくてもいいんだ」…「なんにもないと淋しいからなあ」……字をまともに書いたのに、志功は下絵を板木に貼るとき、裏返しにせず、そのまま貼りつけた。したがって完成した作品のほうで、文字が「カジュラホにて[#「カジュラホにて」は左右反転文字]」と裏返しになった。これは「反対になっても、読めなくてもいいんだ」という濱田への説明を立証して見せたのだろうか、それともカジュラホの男女合歓像を、たんにそのまま写したのではない、ということの表明でもあったのだろうか……。下絵を厚さ五ミリほどの合板の板木に、糊で貼りつけ、自然乾燥をさせるために画室の一隅に立てかけたところで、この日、四月十九日の作業は終った。
彫りにかかったのは、五日後の二十四日だった。まず頭に、和紙でつくった|紙縒《こより》の鉢巻きをする。その姿を記録映画で見て、「志功さんのあの紙縒の鉢巻きは、あれはつまり、神社の|注連《しめ》縄ですな」と推測したのは、青年時代からの知己である淡谷悠蔵である。この見方が当たっているとすれば、仕事に取りかかるまえに、自分の頭を神事の場所、あるいは神の|依代《よりしろ》としようとしていたのであったのかも知れない。それから版刀を研ぎにかかる。長年にわたって使いこまれた砥石には、版刀の刃の幅の分だけ二本、深い溝が刻まれている。その溝に刃先を|填《は》めこんで慎重に研ぎ上げてから、板に向かって、彫り始める。このあたりからの濱田益水の観察と描写は、見事である。
……最初はゆっくりと、やさしく版刀が板面をなぞっているようだった。やがて、だんだん版刀に力が籠められ、動きが早くなり、呼吸も忙しくなって来る。そのなかに時折、版刀の先と掌で板面をコツコツ、タンタンとたたく動きが入る。かつて「彫るのもひとつのリズム運動なんだ」と語ったことがあったが、彫る合間に版刀の先と掌で板面をたたくのも、そのリズムをとるのに重要な役割を果たしているらしい。呼吸は次第に激しくなって、「ハアッ」という吐息や「ウーッ」という唸り声がそれにまじる。版刀を持つ右手に、いっそう力が入って、版刀と板面の角度が、きつくなる。板木のほうにかけられていた左手も仕事に加わって、右手の版刀から板面にかけられている力と反対の方向から押しつけたり、版刀が板面を彫っている状態のまま、板木を急に回転させたりして、さきほどからの音のなかに、板木の裏面と机の表面がこすれ合って発する、キューッ、キューッ、という摩擦音も入って来る。このへんになると、もう板下(下絵)にはあまりとらわれない。板下にない線や面を彫ることも多くなってきて、仕事がますます佳境に入って来ると、版刀が板木の面上を、バリバリ、メリメリ、と凄まじい腕力を感じさせる音を立てて走る。それに加えて、キューッ、キューッ、という裏側の摩擦音、タン・タン・タン、と掌で板を叩くリズム、「ウォッ」…「ハアッ」…「ウッ」…という掛け声とも唸り声ともつかぬ声。それはいまや、板木と格闘している、あるいは化けものが仕事をしている、という感じに近くなっていた。時折、急に音と声が途絶える。肩をかすかに上下させ、胸を波打たせながら、額をうっすらと汗ばませて、凝と画面に見入っている。考えているのか、呼吸を整えているのか、ほとんど我を忘れているようにみえる状態が、一時間に一回ぐらいずつやって来る。棟方志功という一箇の人格から魂が抜け出して、描こうとしているものとの同一化を遂げようとしているような印象を、濱田は感じた。じきにまた、動きが始まる。まえとおなじような激しい動きと音と声が繰返される。そして突然、まったく突然に、という感じで、すべての動きが、はたと止んで終った。
――彫るという作業をみていて、ふと私は男と女の行為をおもった。……
濱田益水はそう書いている。彫り始めてからのところを、もういちど読み返してみていただきたい。濱田の観察と想像は、おそらく正鵠を射ていたのではないだろうか。
性の行為を連想させる点でも、志功の創作法は、これまでも何度か触れたように、津軽三味線の弾き方と、似ている。津軽三味線の曲弾きは、たとえばジョンカラならジョンカラの元のきまった|節《ふし》から、自分だけの、人とは違った個性的な節を弾き出さなければならない、とされているのだが、三味線弾きに聞いてみると、習い覚えた元の節を、二時間も三時間もぶっ通しで繰返し弾いていると、肉体が疲労して、なかば朦朧状態になり、それでもなお弾き続けているうちに、文字通り忘我の境に入って、無我夢中になり、なんともいえないいい心持ちになってきて、自分でも無意識になっていたときに、ふと気がついてみると、手の|撥《ばち》のほうが勝手に(という感じに動いて)新しい節を弾き出している……というのである。志功なら、|我《われ》が弾いているのではない、仏が弾いているんだ、というところかも知れない。日頃の自分から離れて行くにつれて、隠されていた本来の個性が、意識の殻を破って生まれて来る、という点で、津軽三味線の弾き方は、柳宗悦の説いた民芸理論とも似ているようである。
三味線を弾き続けて忘我の境に入ったときに感じられる「なんともいえないいい心持」というのは、エクスタシーと呼ばれるのに近い状態であったのだろう。エクスタシーとは辞書によれば「忘我、有頂天、恍惚、法悦」、または「魂の脱離の意。人間が神と合一した忘我の神秘的状態」である。かつての津軽のイタコも、口寄せをするさいには、弓の弦をリズミカルに叩きながら、習い覚えた経文と呪文を唱えて、懸命に仏を呼び続けるうちに、おそらくエクスタシー(忘我、脱魂)の状態に達して、想像の世界のなかで死者になりかわる人格の転換を無意識のうちに演ずるか、あるいは自分の意識下に抑圧されていたおもいを死者の言葉として口走ったりしていたのにちがいない、とするなら、リズミカルな肉体的動作の繰返しと、合一したい相手を呼び続けることによって、忘我の状態に没入し、やがて|仮初《かりそめ》の死者の声を聞いて、法悦境に浸る……というかつてのイタコの口寄せは、まるでセックスの構造に、そっくりのようではないか。
棟方志功の創作法と、津軽三味線の曲弾きと、イタコの口寄せ――。この三者に共通していたのは、エクスタシーと、シャーマニズムであったようにもおもわれる。いい方をかえれば、それは神憑りであるから、当然、危険な一面もともなっている。かつての津軽で、イタコのご託宣を妄信して殺人事件まで起きたことがあるのは前にも書いたが、イタコの場合でも忘我や脱魂の状態を経験しながら、人格の崩壊や分裂におちいることがなく、エクスタシーをみずから制御できる範囲内につなぎとめて自己の同一性を保ち、しかも相手に対する細心な気のくばり方も忘れずに、口寄せを職業として成り立たせることのできるのが、本当の|専門家《エキスパート》なのであり、それは長年の修業と経験によって初めて可能になるのであって、だれでも簡単に真似のできることではない。そういう点で、人が見ているところでもエクスタシーの状態に入ることができ、かつ自在にそれを制御できた志功は、ほぼ完璧なエキスパートであった。
では、かりにかれをイタコにたとえるなら、この畢生の大作である『厖濃の柵』において呼び出そうとしていたのは、一体どういう存在であったのだろう。ひょっとすると、それは鬼であったのかも知れない。このばあいの鬼というのは遠い昔に消えてしまった目には見えない|隠《おに》――、すなわちわれわれの意識下に隠れ棲む先住民である。
摺りにかかるまえに、志功は画室の一隅に祀ってある不動明王に手を合わせて祈った。全面に墨を塗った板木に、あらかじめ適度の湿り気を与えておいた紙を、そっと載せ、その上に右手に持ったバレンを置いて、初めのうちは優しく撫でるようであった動きが、段段に激しくなるにつれて、腰を持上げた上半身の重みと、心中の祈願が、手先のバレンの動きに強く籠められていくようである……。かれは、ふつう版画と書かれる文字を、板画と書くことについて、こう語っていた。
――わたくしも板画をはじめたころは、版という字を使っていたんだが、板画の心がわかってからは、やっぱり、板画というのは|板《いた》の生まれた性質を大事にあつかわなければならない、木の魂というものをじかに生みださなければダメだと思いましてね。ほかの人たちの版画とは別な性質から生まれていかなければいけない。板の声を聞くというのが、板という字を使うことにしたわけなんです。……
その考えからすると摺ることは、彫り上げた板木から、木の魂をひきだし、遠い昔の人人が|木魂《こだま》と呼んだようなその声を聞こうとして、心の耳を澄ませることでもあったのかも知れない。かれはまた、ほかの版画家と違って、作品に限定部数を設けず、刷り番号をつけなかったが、そのときどきの息使いに応じ精魂こめて摺る自分の板画には、一枚としておなじものがない、という理由のほかに、板画の本質は、一枚の板木から幾らでも作品が生まれる、その複数性にあり、摺れば摺るほど調子が出てくる、と考えていて、こうも語っていた。
――板画というのは、なんというのか、仏者が念仏をとなえるように、千べん万べんとなえればとなえるほど真実になるのとおなじに、板画も複数的に普遍的になるにおよんで、ほんとうの板画になりきれる性質のものです。……
志功は全身の力を籠めて摺りながら、胸のなかでは念仏していたのであったのかも知れなかった。念仏というのは、浄土教では阿弥陀仏の名号を|称《とな》えることだが、もともとは仏の法や姿を心中におもい描くことでもある。バレンの動きにつれて、紙面に黒い画像が、次第に濃く浮かび上がって来る。それは木の持って生まれた性質と、紙の持って生まれた性質とが密着し合一することによって、その間から新しい別の生命が誕生しつつあるような感じでもあった。摺り終えて、ゆっくりと紙を板から剥がして取上げる志功の表情には、祈るような、拝むようなおもいがうかがわれた……。通常、完成した作品には、漢字で「志功」、ローマ字の筆記体で「Munakata」と、鉛筆でサインする。
――ほんとうはサインなどもいれたくないんですが、やっぱりサインがないと、ギャラリーのほうで受けつけてくれないかたちになっているので、サインをしているんですが、ほんとうは昔の板画のように、刷りっぱなしで、ハンコひとつぐらいおしたところが、いちばん素直でいいのではないかと思います。……
サインの後や下に、菊の花と折れ松葉の文様を描く。折れ松葉の文様は、父の代までの家業であった鍛冶屋の「藤屋」で、鎌などに刻みこんでいたものだった。その「藤屋」の家で、幼いころ――、閑さえあれば仏壇に向かってお経を上げていた祖母から、志功はいつも、「ショージのなかに仏あり」と聞かされて育った。障子のなかに仏あり、なるほど、とかれはおもった。障子をあければ、そこに仏様がいるんだな……。あとで判ったのだが、その言葉の本当の意味は、生死のなかに仏あり、というのだった。しかし、当時の田舎の子供にとって、志功が受取ったような感覚は、程度の差はあっても、かなり一般的なものであったろう。仏というのは、その言葉の原義の|仏陀《ブツダ》(目覚めた者、覚者)を意味するものでも、日本流の解釈である死者だけを指すものでもなく、また神のような絶対者でもなく、目には見えないけれども人間の身近にあって、一種の畏敬の念を抱かせるなにやら漠然として超越的な存在であった。そのような漠然たる超越者の存在は、神社にも、|人気《ひとけ》のない鎮守の森にも、日が暮れかかると夕焼けの空を背負って黒い影となる山にも、次第に水面が明るさを失って見えなくなっていく川にも、それらの一切を包みこんで深深と更けていく夜の闇のなかにも感じられた。
よく日本人は神を持っていない、といわれるけれども、人間の地平よりほんの少しだけ高いところにある超越者の意志が、天地の万有に働いていて、自分のすることは、だれも見ていなくても、その目には見えない存在によって見られている、という漠然とした意識は、かつて大抵の人に共通してあったのではないだろうか。人気のない鎮守の森のなかに入って行ったとき、あるいは山中の道を一人で歩いていたとき、得体の知れないなにものかに見られているような気がして、目に見えないものの意志が、自分の身のまわりいったいに|犇犇《ひしひし》と迫って来るようにおもわれた感覚……。この島国に土着していた信仰、原始的なアニミズム、自然崇拝、|産土《うぶすな》神、地母神、女神、祖霊崇拝、汎神論、古神道と、長い道程を経て渡来してきてこの島国に土着してから、原型とはかなり違ったものになった仏教と、それらの|諸教混淆《シンクレテイズム》によって生まれた。何度も繰返すけれども漠然とした宗教意識――。頭に神社の注連縄をおもわせる紙縒の鉢巻きをしめて、心のなかでは念仏していたと想像される志功の宗教とは、そのような意識と感覚が、普通の人よりずっと濃縮されたものであったのではないか、とおもわれる。
宗教においてばかりでなく、芸術においても、志功はシンクレティズムの子であった。十七枚の板木を連ねて完成された大作『厖濃の柵』を、左の端から順に見て行くと、かれをかたちづくる|根《ルーツ》となったものが、画面のあちこちに、文字で彫りこまれており、その点でこの作品は、パズルのような興趣をもふくんでいるといってよい。
まず一枚目には上から、「漢ノモンジヨロシ」(漢の文字よろし)…「支那のころの画人達々」…「ジヨーモンノコ|□□《不明》」(縄文の心?)…「天上下の凡ゆる父と母へ」…「ムンク」…「板画」…「ゲルニカ」…「VAN GOGH」…「LAUTREC」…「BEETHOVEN」……これらはいずれも、生涯を通じて志功の目標となり、貴重な栄養源ともなったものだった。
二枚目には「カジュラホにて[#「カジュラホにて」は左右反転文字]」。三枚目に「ウタワレヨーオオワシヤハヤシ」(歌われよ わしゃ|囃《はや》す)とあるのは、戦後の富山在住中に覚えた「越中おわら節」の前囃子だろうが、女性が男性に対して吸茎を試みている画面に、そう彫られているところが、おもしろい。十枚目には「ワタクシノINDIA[#「INDIA」は左右反転文字]」。その次の「ハナフカキトコロ」は、大好きな文句であった「花深処無行跡」の意とおもわれ、下に「AOMORI AOMORI」と彫られていて、その隣の画面の隅には「ナデシコノハナ」…「ナイジヨシノオニコ」(撫牛子の鬼コ)という文字が見える。
|撫牛子《ないじようし》というのは、いまは弘前市内になっている集落のアイヌ語源ともおもわれる地名で、そこの八幡宮の鳥居を額のかわりに飾っていた小さな鬼の石像を弘前に住む詩人の船水清が「志功さんに似ている」と冗談をいったら、ぜひ見たいから連れて行ってくれということになり、愛嬌に富んだ小さな鬼の石像を見ると自分でも「似てる、似てる、本当だ」と大はしゃぎで、以来、弘前に来るたび自動車を停めて合掌し、フンドシを寄進したこともあったその「撫牛子の鬼コ」を、なぜか志功は、愛撫し合っている男女の図を彫りながら、おもい出していたのだ。撫でるという文字からの連想だったのだろうか。
その次の画の「ソレガワカレバネー」というのは、チェーホフの『三人姉妹』の終幕でオリガが人生の意味を問うた最後の台詞「それがわかれば……、それがわかればねえ!」からとられたもので、志功の口癖だった。十四枚目の「渡水復渡(水) 看花還看花 春風江上路 不覚到君家」は、明の高青邱の詩で、それを揮毫した福士幸次郎の書は、長く愛蔵していたものだった。
そして最後の十七枚目には、「鎌倉ノ絵巻ノ人々ヘ」…「桃山障屏の人達へも捧ぐ」…「大雅」…と彫られていた。この人たちの絵にふれて、志功は二十年ほどまえに、次のような文章を書いたことがあった。
――その頃(鎌倉・桃山時代)の絵は、筆を|ほんとう《ヽヽヽヽ》につかって描いていました。|付立《つけたて》という筆法です。毛筆の自由さ、不自由さを、それぞれの性質を一ぱいに生かして、また画家の本分をその筆にこめて描いたものです。今の日本の画家の絵は、塗っているような絵が多いのです。批評する人もそんな絵を、上の空な言葉でほめていますが、間違ったことだと思います。|死色《ヽヽ》とでも言いましょうか、中間に殺した色彩ばかりで塗り上げた絵が多くなりました。……
またヴェニスでグラン・プリを得た直後には、意気軒昂となっていたせいか、「藝術新潮」における柳宗悦と徳川夢聲との座談会で、「……僕ァ、日本画家なぞ、息をつめて、筆にバイ菌でもつけて描いてるところを見ると、いやになりますよ。死にたくなりますよ」と、まことに辛辣なもののいい方をしたことがある。シンクレティズムの子ではあっても、あれもよくこれもよく、なんでもかんでもすべてよし、という訳ではなかったらしい。
「……つまり、原型を持ってはじめて、芸術、芸術家ということが許されるわけだよ」
それなのに日本の場合は、テクニックだけが進む――、これがインドから帰って来たあと「中央公論」で行なわれた志功との対談における、草野心平の結論であった。
概してわが国の文化の大方が、諸教混淆の産物である。長いあいだ文化の原型は、中世までの仏教、徳川時代からの儒教、明治以降の西欧文明と、外国からの輸入品で間に合わせてきており、少数の例外的な思想家をのぞいて、みずから原型をつくり出そうとする根本的な努力は余り試みたことがなかったのだから、これは言わば上げ底の文化であって、どうしても外国に対してわが国の文化の独自性を立証しなければならない危機に遭遇したとき、その上げ底の下の部分から、呪文とともに取出されるのは、神話と天皇制であった。
紀元前六世紀か五世紀ごろのインドに源流を発し、中国と朝鮮を経て渡って来た仏教を文化の基調とすることによって、初めて六世紀か七世紀ごろに統一国家としての|同一性《アイデンテイテイ》を確立することができたとおもわれる島国が、人間のいるところにはどこにも存在した神話と君主制を理由にして、世界に冠たる自国の文化の独自性と優秀性を主張しても、外国人に対しては説得力を欠くばかりでなく、あまりにそれをいいつのれば、文字通りの時代錯誤か、あるいは本末顛倒のそしりを免れ得ないだろう。
わが国の文化的努力の大部分は、その本末の|本《もと》をぬきにして、もっぱら末端の技術を磨き洗練することに注がれて来た。したがって美術においても、まことに繊細かつ微妙な味わいをもつに至ったが、たとえば第一回のサンパウロ・ビエナールにおいて日本画が「装飾的である」と評され、また第二十六回ヴェニス・ビエンナーレにおいて洋画もフランスの批評家レイモン・コニアに「性格がないから、全然記憶に残らない。だから批評できない」と一蹴されたのは、他国の人をも強く惹きつける基本的な|原型《オリジナリテイ》の欠如を指摘されたのであったのではないだろうか。よそから原型を次次に輸入し、四季の変化に富む温帯の島国のなかでの諸教混淆によってつくり出された芸術は、いかに精妙であっても他国の人の眼には性格が漠然として個性と独創性の乏しいものに映るのかも知れない。そのなかで棟方志功が、だれの眼にも画然とした独自性と、世界的にも通用する普遍性をあわせもつ原型を確立することができたのは、なぜであったのだろう。
志功は少年のころから画家を志したが、アカデミックな教育を受ける機会は与えられなかった。かれは絵画の最も初歩的で基本的な問題から、自分で問い、自分で学ばなければならなかった。上京してから連続四年にわたる帝展落選、画家として大きな弱点であった極度の近視と、独学による技術とデッサン力の不足は、かれの自らに向けた問いを、いっそう鋭く研ぎ澄まさずにはおかなかったろう。絵画とはなにか、アカデミズムとはなにか、技術とは、本当の芸術とはなにか……。版画に転じてからは、版画とはなにか、という問いが加わり、それが機縁で柳宗悦をはじめとする民芸派の人人と知合ってからは、もっと別の問いも生じてきた。仏とはなにか、神とはなにか、美とはなにか、醜とはなにか、人間とはなにか……。志功の生涯の重要な特徴のひとつは、そのように、あらゆることについて発育期の小児のごとく根本的な問いを発し続け、友人や先輩や師や書物から得た知識を、自分自身の精神的な歯と胃袋で咀嚼し続けたことである。
かれの生涯の価値は、少年のころに誓った「ぼくは判任官になったら奏任官になり、奏任官になったら勅任官になり、勅任官になったら親任官になってみせますからね」という上昇志向を、文化勲章の受章によって言わば実現したことよりも、あたかも釈迦が縁起の段階を次第に下って行って、人間存在の根底にあるのが無明であることを見出したように、人生と世界の根源的な意味に向かって下降して行ったことにあったのだといわなければならない。だが壮年のころに、八十九歳まで生きた鉄斎は「死ぬまで自分の絵が不満であったろうとおもう。鉄斎は自分の絵に不満を持ちながら死んで行ったんだとおもう。ぼくはそこに、鉄斎の本懐を見るんですよ」と語り、文化勲章を受けた翌年には、故郷の青森市で行なわれた「棟方志功文化勲章受章記念式」の講演の最後において、「みんなと仲よく、悲しく、強く、生臭く生き続けようではないか。キツネもタヌキも、カエルもナマズもカッパも、そしてオバケもーッ!」と絶叫した志功は、釈迦のように悟りを開いて、俗世から解脱しようとは、考えていなかったのだろう。「仏が悟りを開いたとかいうブダガヤで見たものなんかも、今度は問題じゃなかったな」というインドの旅から帰って来て、かれが『厖濃の柵』のなかに描き出したのは、釈迦がしりぞけた愛欲の無明の闇のなかでからみあい蠢いている、しかしその釈迦をも生み出した人間の生命力の混沌とした姿であり、黒黒とした男女の裸形が延延と横に連なっている群像の総体から木魂のように|殷殷《いんいん》と聞こえてくるのは、人間の歓びも悲しみも苦しみも悩みもすべてひとつに溶け合ったところに生ずる祈りの声であった。
すでに戦前から戦後にかけての中期において、たえず根源の意味を問いながら地を掘るように板を彫り続けて下降して行った志功が、文化の上げ底を突き破り、神話と天皇制をも突きぬけて達したのは、それらの一切を生み出した地球上の自然と人間の底に共通して流れている生命感と|愛《エロス》の世界であって、それが人種と国境のちがいを越えて世界中の人人に訴えかける力の源泉にもなっていたのであろうとおもわれる。少年のころゴッホに憧れて写生帳の表紙に「愛 熱 力」と三つの文字を大書していた志功は、死の前年、吉村貞司氏に「仕事は愛である」と語ったという。異質なものの結びつきから湧き出す新しい生命が愛である。『厖濃の柵』は、そういうかれの仕事の集大成であった。傑作というには、生涯の未完成を願ったかれにふさわしく、卓抜な表現となかばして、晩年に近づくにつれて目立ってきた線の乱れや、かなり未整理で雑然としたところも入りまじっているのではあるが……。
昭和四十九年の八月三日に、志功は青森を訪ねた。結果としては、生前最後の故郷訪問となった旅であった。毎年、ネブタ祭りの時期に帰郷するのは、恒例のことであったが、このときには、もうひとつ別の大きな目的もあった。自分の墓をつくることである。十五年まえに、パリ郊外オーヴェールのゴッホの墓に詣でたときから、自分の墓もゴッホのそれと形も石もおなじものにしたい、というのは、志功の念願になっていたのだった。墓所とする土地は、戦後間もない昭和二十一年に、青森市郊外の|三内《さんない》霊園に求めていた。戦前の昭和十三年ごろから、小高い山を開いて造成された広大な三内霊園の、志功が求めた場所からは、陸奥湾と八甲田山が見え、天気のよい日には、遙か彼方の岩木山も見える。志功は浴衣姿の下駄履きで、チヤと一緒にその墓地へ行き、草刈りをしたあと、そこに禅定の姿勢で坐って、しばらく瞑想に耽ったりした。
「わたしは自分たち夫婦の墓を、自分たちで作りたいと、まえまえからおもっていたし、青森で生まれて、青森で育って、東京で仕事して、どうせ青森の土に再び帰るんだから、やっぱり青森に墓を建てようとおもっていたんだ、初めから……」
同行していた濱田益水に、志功はそう語った。夫人の妹の嫁ぎ先である青森の八木橋家で、墓碑銘の原稿を筆で書く仕事に取りかかったのは、八月五日だった。日頃の仕事の速さにも似ず、朝から用意を始め、昼から何度も書き直して、終ったのは夜の十時ごろだった。
碑の正面となるところには、「棟方志昂 千哉子 静眠※[#「玉+卑」]」という文字が、横に並べて三段に書かれ、その下に自分の生年と没年が「1903〜∞」と書かれていた。全部、書き終ったあとで、志功は濱田益水の問いに答え、地元の旧知の新聞記者たちも居合せていたところで、自分の気持をこう説明した。
――私は一九〇三年生まれです。普通は死んだ時、あとでその年号を入れるものなんでしょうが、私はどこまでも、どこまでも、自分の生命を超えて仕事に生き続けたいし、その願いを、やっぱり無限にしたいというおもいで、無限のマークをつけたんです。……
無限のマーク、すなわちインド旅行のさい、あのタージ・マハールの前の夕闇にも描いた∞である。
――普通は「○○家墓」と書くのでしょうが、「墓」という字は、どうも私のおもいに合わないので、「※[#「玉+卑」]」という字にしたんです。本当は|石《ヽ》偏なんだが、私は|玉《ヽ》偏にしました。私にとっては、「玉」も「石」なんです。この「※[#「玉+卑」]」という文字は、私が創作した字です。そして「静眠※[#「玉+卑」]」というのは、静かに眠っている場所、という意味なんです。……
眼にしたもの、耳にしたもの、手にしたものを、すべて好みの感覚に合わせて翻案し自分流の世界に仕立て直してしまう志功独得の造語癖、造字癖が、永遠の眠りにつく場所の碑銘にも発揮されたのは当然のことであったのに違いない。
碑の裏側になるところには、「華厳院殿慈航真※[#「毎/水」]棟方志昂大居士」…「棟徑院殿慈芳宗知棟方千哉大大姉」と、二人の戒名が書かれていた。この戒名は、二年前の六月、信州の別所温泉を訪ねて、そこの常楽寺に詣でたさい、裏山に建てられていた重要文化財の石造多宝塔に感激した志功が、初対面であったのにもかかわらず、住職の半田孝淳師に、「ぜひ私どもの戒名をつけていただきたい」と、いかにもかれ流の唐突な申し出をして、つけて貰ったのである。
半田師は、棟方家の宗旨が曹洞宗と聞き、当寺は天台宗で、先生には仏教界に大長老の知己が何人もおられる筈であり、それに菩提寺の和尚様をさしおいて、そのようなことは……と、再三にわたって固辞したのだけれども、志功はどうしても承知せず、結局、志功の希望をほぼそのまま|容《い》れて、「華厳院殿慈航真※[#「毎/水」]大居士」…「棟徑院殿慈芳宗知大大姉」という戒名をつけたのだった。
「華厳」は、いうまでもなく志功のいちばん好きなお経の名前で、「慈航」は戦前から愛誦していた「慈悲の心をもって衆生を済度して悟りの彼岸にわたす舟」という意味の仏教語、かねて曹洞宗の管長から受けていた居士号である「真※[#「毎/水」]の※[#「毎/水」]は海の意で、碑の正面となるところに書いたときもそうであったが、戒名でもその下に棟方志昂となっているのは、ひと月ほどまえの七月七日に、志功をそう改名していたからである。夫人のほうの「棟徑」は、書いたあと回りにいた人たちに「棟方の家、という意味です」と志功は説明したが、もともとは福光にいたころ、「……吾妹子に|楝《あふち》花咲く河辺涼しも」という平賀元義の歌に共鳴して地元の人たちとつくった「楝徑会」に発している言葉であったらしい。「宗知」というのは茶道における夫人の名前であった。
しかし、この年の十二月、病いに倒れて入院した志功は、親からつけてもらった名前を勝手に変えたのは間違いだった……と、「志昂」をもとの戸籍名の「志功」に戻し、墓碑銘の原稿も書き改めたいという意向を示していたので、死後、さらに「殿」と「大」の字を取って千哉も戸籍名の「チヤ」に直したいという夫人の意思もあわせて、墓に刻まれる戒名は「華厳院慈航真※[#「毎/水」]志功居士」…「棟徑院慈芳宗知チヤ大姉」とあらためられた。青森の八木橋家で、最初に書き終えたあとは、回りにいた新聞記者もふくめて旧知の人たちに、志功は感慨深げにこういった。
――二、三年前から、書こうとおもっていたんだが、機会がなくて……。こういう仕事は、本当に心のうちにきまらないと、やっぱり……。「一期一会」というのかなあ。きょうが丁度そういう日であったんだ。
――妻とともに墓に入るというのは、夫婦だからというのは無論ですが、結局、あらゆるどの人も、まえに逝った人も、あとからあとからと続く人も、地球上すべてのもの、人間ばかりでなく、鳥も魚も、草も木も、カッパもナマズも、後世では、みんなみんな一緒になるという、仏教の世界でいう「|倶会一処《くえいつしよ》」という言葉のおもいです。私がこの静眠※[#「玉+卑」]に入ったら、ほかに何もなくていい、白い花一輪と、ベートーヴェンの第九でも聞かせて下さい。きみたちとも、また、またに会えるよ。会うよ、魂で、きっと、なあ。……
翌日、志功は石材店へ行って、主人の石戸久さんに、オーヴェールで写して来たゴッホの墓のスケッチと、自分の墓の見取図を示し、墓碑銘の原稿を渡して、石は北欧産のエメラルド・パールでつくってくれるよう依頼した。
自分の墓をつくる、という大仕事をなし終えたかれは、借金を返したようだ、とさっぱりした表情になって、夜のネブタ祭りの大群集の渦のなかに入っていった。豆絞りの鉢巻き、浴衣に赤い|扱《しご》きの襷がけ、黄色の三尺帯、桃色の腰巻、白足袋|跣《はだし》、手には「名誉市民」と書かれた円筒形の弓張提灯――。五年まえに志功は、青森市名誉市民の第一号に選ばれていた。晩年に与えられた幾つかの栄誉のなかでも、これはかれにとって会心の出来事だったのではないか、というのが、身近にいた何人かの人の意見である。
「去って行くネプタも、ネプタだよ」
跳ね回り、踊り回ったあと、そういったかれは、青森から帰京してからも、京都へ、名古屋へ、と旅を続けた。この年、志功の健康状態は、あまりよいとはいえなかった。だが家族が休養や療養を勧めると、志功は苛立ちの色を示して、はなはだ不機嫌になるのだった。家族に当たり散らしながら、人前では、なんの苦痛も感じていないように、溢れるばかりの愛嬌と笑顔を振撒いて、いろいろな前からの約束や義務を果たしていた志功の姿は、没後に刊行された『グッドバイ棟方志功』(講談社)に収められている濱田益水の写真と文章、および長女のけようと結婚していて朝日新聞に勤めていた宇賀田達雄氏の『棟方志功最後の一年』という文章に、まざまざと描き出されている。
九月五日、七十一回目の誕生日に、財団法人棟方板画館の開館の日を迎えた志功は、疲れ果てているように見えた。約一箇月後には、アメリカ旅行の予定があり、十一月の上旬には、恒例となっていた東急日本橋店の「棟方志功芸業展」がある。ことしは中止しては……という声が家族から出たが、志功は聞かず、展覧会のための作品づくりと目録づくりを強行して、十月十八日、チヤのほか四人の同行者とともに、アメリカでの個展と講演のための旅行に出発した。日本と違って、あいだに雑用の入らないアメリカでの旅が、志功にとって、せめて精神的な休養になってくれれば……というのが、家族のねがいだった。
アメリカでの最初の目的地は、テキサス州のダラスで、デパートでの約一週間の「棟方志功展」と、大学での特別講義を終えたのち、次のデトロイトへ向かう途中、一行はカナダのロッキー山脈の山中にある保養地のバンフ国立公園を訪ねた。
短いあいだでも、志功に休養をとらせるためで、実際にここにいた二日間、かれは雪を頂いたカナディアン・ロッキーの壮大な景観や、世界一美しいといわれる底まで|透《す》き|徹《とお》って見えるようなルイーズ湖の神秘的な水の色、澄みきった空気のうまさに大喜びで、身と心を休ませたようにおもわれたのだが、そこを離れてトロントに向かう飛行機のなかで、病の最初の徴候があらわれた。気持が悪い、といって倒れた志功は、顔色を失って足だけが温かかった。パーサーが酸素マスクをつけてくれ、機内に乗合せていた医師の手当てを受けて、トロントへ着くと病院へ直行し、心電図や血液検査などの診察を受けた結果は、血圧が低下しているが、いまのところいちおう心配はないだろう、とのことだった。志功はじきに元気を回復し、デトロイトの宿舎で目覚めた翌朝は、庭に出て双眼鏡を目に当てて周辺の諸方のスケッチを試みたりしていた。いっときも凝としていられない性癖のほかに、なにか止むに止まれぬものが内側からかれを衝き動かしているようであった。
旧知の多いニューヨークへ着くと、いっそう元気になったように見え、ジャパン・ソサエティでの講演も盛会で、いつも通りの拍手喝采を受けた。チヤはここで、志功をゆっくり休養させて、医者の治療も受けさせたいと考えていたのだけれども、志功のほうは、十五年前に一年近く住んでいた「昔のニューヨークと違う……」と段段に苛立って来て、約一箇月の滞在中に、五度もホテルを替えさせ、落着く閑がなかった。その間に志功は、九年前の一箇月にわたる講義で多くのファンが生まれていたセントルイスのワシントン大学も訪ねている。ここで三百人の聴衆にした話が、最後の講演となったのだが、速記録を読んでみても、気力を失っていた様子は殆ど感じられない。
かれは七年前にそこを訪ねたとき、ベートーヴェンの弦楽四重奏の演奏会が行なわれたスタンレー・グッドマン家で自分が坐った椅子を、「ベートーヴェンの椅子」と名づけたことがあり、今回の訪問でもグッドマン家の同じ場所にその椅子を見出して歓声を挙げ、ワシントン大学での講義のさいの公開制作で、『ベートーヴェンの椅子とみみずく』を彫り上げたのがかれの最後の木板画となったのだが、この旅行中に制作された板画のほうには、痛痛しいほどの力の衰えが、ありありとうかがわれる。
ニューヨーク滞在中の終りごろ、志功はリトグラフの制作に取りかかった。日本で開かれる話があったデ・クーニングとの二人展に出品するためのものだった。リトグラフの専門家でないかれは、この競作を気にかけて、制作を始める幾日も前から、宙に手で絵を描いたりして、苦吟していた。二日間にわたって二十点ほどのリトグラフを制作したその作業中の後半から、猛烈な脇腹の痛みを感じ始めた。十一月二十七日、ニューヨーク空港で、志功はふたたび貧血を起こし、診察と酸素吸入を受け、サンフランシスコ、ホノルル、と休養を挟んで、十二月二日に羽田に着いたときは、痛みを堪えるのに必死の顔であった。ただちに慈恵医大に入院して、診察を受けた結果、肝臓癌がすでに転移しているため手術不可能で、年を越すことも難しいかも知れぬ病状とわかった。肝臓癌というのは、志功の最愛の母の命を奪ったのと同じ病気であった。
その宣告を聞いても、チヤは諦めなかった。志功は昭和四十一年の夏に、脳血栓で倒れたことがある。その予後、朝露のあるうちに芝生を裸足の裏で踏むといい、と聞いたチヤは、それを志功に実行させた。鎌倉の家で、チヤが丹念に雑草を抜き、包丁で根切りをして柔かくした広い芝生の庭を、志功は両手を振り、歩調をとって「イッチ、ニー、イッチ、ニー……」と、裸足で朝露を踏みつけて歩き回った。毎朝、チヤが考えたメニューに従って、昆布を一晩つけた水を飲み、大根おろしを食べてから、庭に出てその徒歩訓練を行なったあと、キャベツ・林檎・レモン・人参・蜂蜜・サラダオイルをジューサーにかけたものを一杯、皮つきの小麦を荒く挽いて作ったグラハムのパン一片、それに目玉焼きなどの朝食をとって、仕事に取りかかる……という日課を規則正しく守り、定期的に指圧を受ける生活を続けているうち、志功はめきめきと快方に向かって、翌年の秋には日展に作品を出したばかりでなく、アメリカへ旅行できるまでに回復した。あの若者にとっても強行軍であったろうとおもわれた二年前のインド旅行は、倒れてから六年目の旅だったのである。そうした経験から、こんどもチヤは、自分の力で生かさなければ……、いや生かしてみせる、と決心したのだろう、病院に泊りこんで、漢方を初めとして人から聞かされたよいとおもうかぎりの手当てをすべて試み、あれではお母さんのほうが先に参ってしまう、と子供たちが心配したほど懸命の看護を、早朝から深夜まで続けているうちに、志功はふたたび絵筆を握れるくらいにまで回復して来た。
このころ志功は、好んで達磨の絵を描いた。「転んでもすぐ起き上がる不退転の気持を現したかったのであろうか」と宇賀田達雄は書いている。四月一日には、日展の常任理事に推された、という知らせが東山魁夷氏からあり、志功はそれを「版画部設立の第一歩」と受取って上機嫌だったが、二十六日には五箇月近い入院生活に|倦《う》んで退院し荻窪の家に戻った。五月の二十日ごろから、翌年の安川電機のカレンダーのために福光時代の旧作『瞞着川板画巻』から作品を選んで彩色し、真夏をおもわせる暑さであった六月五日の夕方に、その解説文を宇賀田達雄に口述した。棟方志功のいわば芸術上の遺言ともいうべきその文章の最後の部分は、こう結ばれている。
……そう、この板画のように、自分の言い放題、思い放題言ったって、案外そういう僕が今、あの目の赤い、頭の皿の水がいっぱい、亀の子のような腹をして、小さい子供のようなかっこうのあの河童に化かされているんじゃないかなあ。いや化かされたっていいですよ、そんな、うん。ねぇ、いい気持、仕事も話もできたんですもの、有難いと思わなくちゃ。うん、ほんとー。ちょっとあの法林寺の鐘が鳴って、いいじゃありませんか。ここらのもやもやした夕暮の空気をもっと穏やかにしているではありませんか。蛍も法林寺蛍というとおーおきい、普通の源氏蛍じゃないですものねぇ。そういう景色の中に、あの瞞着川のそばでしゃがんでいるうちに、またひき込まれるような気がしますから――、
――もうここを立ちましょう。……
最後の文章の口述をしていたあいだ、志功は、|瞞着《だまし》川の思い出が呼び起こした幻想のなかに遊んでいたようであった。瞞着川は岸の|合歓《ねむ》の花が咲く暑い季節に、ゆったりとしたその流れを見ていると、おもわず眠気を誘われるような気分になるところだった。
――私はこういう夢のような、幻のような、また|現《うつつ》のような中をさまようのが好きでした。……
放心して小川の流れに眼を当てているうちに、なぜか耳の奥にジーンという音が響いてきて段段に自他の区別が失われて行き欲も得もなくなるような|懶《ものう》く生温かい夢見心地のなかで、一瞬、泥の色で底が見えない水面に大きな|鯰《なまず》が肌をのぞかせて反転し、また沈んで行くのを見ていると、自分の身も心も水中に引込まれて行くような気がした。
……引っ張られて不思議な力に、中に入ってみたら、本当にこう夢だらけ、幻だらけで遊んでいるようで、嬉しかったですね。私は夢応の鯉魚のように針の餌にはよびつかれなかったけれども、河童の声になでられたような気がして、すっぽんとその川を出て、河童の石で休みました気持は、きっと夢であったと、|現《うつつ》よりも、世の中と何も関係ないところに、よかったですね。……
この口述を、宇賀田達雄が筆記したとき、志功の言葉は、あまりはっきりしなくなっていて、酷だとはおもいながら、何回も聞き返したという。おそらく志功は、たんに思い出を語るというより、本当に夢うつつになって、瞞着川の水中に遊んでいたのではないかとおもわれる。瞞着川のある福光に住んでいた戦後の約六年八箇月は、全力疾走を続けたかれの生涯において、食糧不足とインフレによる生活難に追われながらも、内部への沈潜と、いくばくかの休息をも味わった時期だった。安川電機のカレンダーに前年の写生旅行をもとにして予定していた新作を断念し、そのかわりに昭和二十三年の旧作『瞞着川板画巻』から作品を選んだのは、疲れを知らなかった志功も、ようやく休息を求め始めていたことのあらわれであったのかもしれない。死期を自覚していたのかどうかは判らないが、重い病の床について思うように話すことも儘ならなくなっていた志功の脳裡には、戦後間もないころの北陸の、歳月によって浄化され自己流に彩色された|長閑《のどか》で美しい田園の風景と、泥の色の小川の水中で鯰や河童やスッポンと遊ぶ白昼夢、次第にあたりを赤く染めて忍び寄る夕暮の色、薄紫の靄を伝わって響いて来る光徳寺の鐘の音、やがて夜の闇のなかに輪郭が滲み出した幾つかの小さな円となって浮かび上がり、かれをあらぬ方向へ誘った蛍の光……等等がおもい描かれていたように想像されるのである。
六月五日の夕方に『瞞着川について』という文章の口述を終えたあと、志功はもはや、二度と筆をとることも、文を綴ることもなかった。日ましに瘠せ衰えながらも執念を感じさせる粘りを示して、故郷の青森ではネブタの季節である夏を生き通した。九月に入ると、衰えは一層はっきりしてきた。三日にかれは、懸命に字を書く手真似をして、紙と筆記具を求めた。紙に書かれた文字は、どうしても判読することができなかった。五日――。七十二回目の誕生日を、志功は殆ど意志の力だけで越えたようだった。七日には近所の白山神社から、元気なころいつも楽しみにしていた宵宮の音が聞こえて来て、お祭り好きの志功は、おもいなしか楽しそうに見えた。それから六日経った昭和五十年九月十三日の午前十時五分ごろ――、志功は家族全員に見守られて、この世を去って行った。あとでチヤ夫人が弔問客の一人に語った言葉によれば、まるで「線香花火の玉がポトリと落ちたように……」七十二年間にわたって火の玉のように燃焼させてきた生命力の最後のひとしずくまで、あますところなく燃やし切って消え去ったとおもわれる死であった。
志功にとって生きることは、描くことであり、彫ることであったろう。子供のころから一心に描きはじめ、長じてからは全知全能のかぎりを発揮して描き続け彫り続けて、ついに彫刻刀も筆も持てなくなるところまで力を使い尽したかれの死は、まことに永遠の休息というのにふさわしいようにおもわれる。宇賀田達雄は、こう書いている。
――医師は死因をガンというかもしれない。しかし私たちは、棟方が持てるすべての才能をふりしぼって最後まで走り抜いて、生命の火が燃え尽きたものと思っている。……
志功の告別式は、ほぼ一年まえに、青森で墓碑銘の原稿を書いたさいに語った「他に何もなくていい、白い花一輪とベートーヴェンの第九でも聞かせて下さい」という遺志にそって翌十四日の午後二時半から荻窪の自宅で行なわれ、遺骨は二箇月後の十一月十四日、青森の三内霊園に作られていた墓碑の下の土のなかに、長男の巴里爾と次男の令明の手によって、じかに埋葬された。志功は念願通り、青森の土に帰ったのである。
二日後の十六日には、市民会館に千人の参列者を集め、奈良岡末造市長が葬儀委員長となって青森市葬が行なわれた。文化勲章を胸につけて会心の笑みを浮かべている志功の写真は、約六千本の黄菊と白菊を絵具のかわりに用いて華麗に描かれたゴッホのひまわりの絵の真中に飾られ、祭壇の両脇には、小型の人形ネブタが置かれていた。定刻の午後一時、場内にベートーヴェンの第九交響曲の第四楽章が流れ、参列者がローソクの灯を掲げているなかを、市長の先導で、位牌を胸にした巴里爾、そのあとにチヤが続いて入場し、祭壇の前に遺族が着席すると、第九の合唱がネブタ囃子にかわって、春日井バレエ団の約三十人の小・中学生が手に手に金魚ネブタを持って現われ、ときならぬネブタ祭りが舞踊によって演じられた。そんなことはあり得ないけれども、もし志功がこの場にいたら、感激と歓喜のあまり手の舞い足の踏むところを知らず自分も子供たちと一緒になって踊り出したにちがいない、まさにこれこそは志功が望んでいた葬儀であったろうとおもわれる「青森市名誉市民文化勲章受章者 故棟方志功先生市葬」のプロローグであった。参列者の弔辞が続き、弔電が奉呈されたあと、棟方志功作詩、内田勝彦作曲の『華厳』が、志功と親しかった声楽家の野呂妙子さんによって歌われた。この詩には、余人には真似のできない志功のユニークな異能ぶりが躍如としているとおもわれるので全文を引いてみたい。
[#2字下げ]|盧遮那《ルシヤナ》の|仏《ホトケ》
[#2字下げ]全智と全能と
[#2字下げ]|蓮瓣華上《レンベンクワジヨウ》
[#2字下げ]及ぶ|極限《ハテ》なし
[#2字下げ]仏の|在召《イマ》して
[#2字下げ]|千万億境《サイホウジヨウド》
[#2字下げ]|事《コト》、|荘厳《オゴソ》かや
[#2字下げ]事、荘厳かや
[#2字下げ]|普門《フモン》に|遍《アマネ》し
[#2字下げ]|慈悲心偉力《ジヒシンイリヨク》
[#2字下げ]あの|蒼穹宇宙《ソラゾラ》も
[#2字下げ]この|人生世界《ヒトノヨ》も
[#2字下げ]|妙韻 縹渺《メウインヒヨウビヨウ》
[#2字下げ]|無量億千万々衆《カズサヘシレズ》
この独唱が終ったあと、参列者は祭壇と供花合に菊の花を供えて、志功に別れを告げた。翌十七日には、淡谷悠蔵を理事長として、かねてから青森市内松原二丁目に建設中であった、校倉造り鉄筋コンクリートの棟方志功記念館の開館式が行なわれた。郷里の青森において、志功の念願は、ことごとく成就し、実現されたようであった。だが三内霊園の志功の墓碑の、背景を形づくっている青森県産|野内《のない》石の壁面に填めこまれた銅版には、
[#2字下げ]驚異モ
[#2字下げ]歓喜モ
[#2字下げ]マシテ悲愛ヲ
[#2字下げ]尽シ得ス
と自筆で刻みこまれていた。仕事には成就ということがない、というのが、かれの信条であったのだろう。没年を無限大を示す記号の∞でしるして、「私はどこまでも、どこまでも、自分の生命を超えて仕事に生きつづけたい」と願ったその仕事においては――。
国際交流基金(今日出海理事長)の企画によって、志功の死の翌年の二月から八月にかけ、パリのチルニスキー美術館、ブリュッセルの王立美術歴史博物館、オランダのヘーレン市役所ホールで「棟方志功展」が開かれた。フランスとベルギーの新聞雑誌に発表されたその批評の一部を紹介すると、
「日本の偉大な芸術家の一人、ムナカタ・シコーが死去して三箇月たつ。かれは重要な作品を残した。それについてはすでにヴェニスとサンパウロのビエンナーレで認められ、高い評価を受けている。しかしながら、フランスではかれは殆ど知られていない。そこでチルニスキー美術館の展覧会によって、われわれは一人の画家、というよりも一人の偉大な版画家を知った」(ル・フィガロ紙=ジャン・マリー・タッセ)
「日本の現代美術について、西欧で知っていることがごく僅かしかないというのは周知の事実である。たまたまヴェニスのビエンナーレで、ある一人の芸術家の作品が、多数の出品作のなかで注目され、僅かにその名前が記憶されることもあるといった程度だ」…「われわれ西欧人に、棟方のような日本人の宗教的な作品を正当に評価できるか、という美術評論上の問題はあるが、西欧の基準で判断して話を進めるなら、棟方は天才的な芸術家で、エーリヒ・ヘッケルやカール・シュミット=ロットルフといったドイツ表現派の画家に比較できるといえよう」(スペクタトール誌=アンドレ・グラビマン)
といったふうに、この巡回展で初めて志功の存在を知った様子であるけれども、作品については、この二人も他の新聞の批評も、高く評価している。また同じこの年に、イラクのバグダードで開かれた国際造型芸術連盟の総会に日本代表として出席した益田義信氏が、毎日映画社制作の記録映画『彫る――棟方志功の世界』を持って行ったところ、上映が終った途端に拍手喝采がまき起こり、「日本にこれほど素晴らしい版画家がいたのか」と、西独、フランス、デンマークなどの代表から、「われわれの国でもこの映画を上映させてくれ」という申込みが相次いであったという。益田氏の見たところでは、二十世紀におけるさまざまな美術の革新が一段落したあと、世界中の多くの美術家が自分の|存在証明《アイデンテイテイ》の確立に苦心しているときに、志功の作品とその制作方法には、確固としたアイデンティティのあるのが一目瞭然であるのと、あれほど単純な表現で、どうしてあれほど深い精神性をあらわすことができるのか……といったあたりが、興味と人気の中心であったらしい。
いまはニューヨークのアジア・ソサエティーの美術ディレクターであるベアテ・ゴードン夫人に、日本でいう「世界のムナカタ」の評判が、アメリカではどの程度であるのかを聞いてみると、一般の美術ファンで名前を知っている人は殆どいないが、美術館の専門家ならば恐らく大抵知っており、殊に注目すべきことは、一流とされているパーク・バーネットのオークションに、一九七七年の五月に初めて志功の版画が登場したことで、そのようなかたちで日本の現代の美術家の作品に国際市場での流通性が生じたのは珍しいケースであり、値段も以前よりは上がってきていて、ムナカタの真価がアメリカで認められるのは、むしろこれからであろうという。棟方志功が、わが国の芸術家のなかで海外に通用し、今後も世界に浸透して行く可能性を持った少数のなかの一人であることは、間違いあるまい。
肉体においても精神においても近視眼的で、我執が強かった若き日の志功を、世界に通用する芸術家に変えたひとつの要因は柳宗悦らとの出会いであり、仏教への開眼であった。それ以前に幼いころから志功は祖母の読経の声を聞いていたのだけれども、一方においては父親が毎朝神棚に向かって手を拍って拝んでおり、多くの日本人とおなじように神仏混淆の宗教的には模糊とした環境のなかに育っていて、またその漠然とした宗教意識は別に自覚的に意識されたものではなかったのだから、柳宗悦、河井寛次郎、水谷良一との出会いが、いわばかれにとっての仏教伝来であったといってよい。たんに宗教というより土着のもの以外の新しい未知の文化との接触が、ちょうど六世紀ごろのわが国の場合とおなじように、かれに対しても、ある程度客観的な自己認識のきっかけとなり、より包括的なアイデンティティを確立させる契機ともなったのである。
そのまえにもうひとつ、志功には、生涯を決定した重要な出会いがあった。かれは昭和三十九年に刊行した自伝『板極道』のあとがきに、こう書いている。
――板画ニ熱中イタシマシタコトカラ、大体ミンナノ方々ニ、悪ヲカサネテ来タト、ワビテイマス。親ニハ不孝、妻子ニモ、未ダ不善ヲツヅケテイル極道モノデス。道ヲキワメル所ノモノデハ決シテナク、世ニ言ワレルゴクドウデス。……。
世にいう極道とは、いかに志功流の表現とはいっても、ちょっと大袈裟すぎるような気がしないでもない。また昭和十七年に出した最初の随筆集の題である『板散華』は、板懺悔とも読める。自己について語るさいに懺悔といい極道者というのは、大袈裟すぎるような気もするけれど、そこには幾分か本気のおもいも籠められていたのかも知れなかった。
事実であったのか生来のサービス精神から作り出されたものであったのかは判らないが、檀一雄は志功から、こんな笑い話を聞いたことがあった。まだ青森にいた青年時代、青函連絡船に乗るだれかを送りに行った志功は、見送りの人のなかにひとりの際立った美人を発見し、芸術的感興に駆られてスケッチさせてほしいと頼みこみ、近眼の顔をくっつけるようにして写生をしているうちに、痴漢と間違えられたのか巡査に拘引されてしまった……というのだ。まえに書いたように志功は、小さいころから女性に対する崇拝癖があって、二十六歳のときにチヤ夫人と結ばれる以前にも、何人かの娘さんに慕情を寄せたり、結婚を申込んだりしたことがあるが、その人たちがいま、ほぼいちように口にするのは、「志功さんは、チヤさんと一緒になったから、あそこまで偉くなれたんですよ」ということである。
普通の人間より遙かに言動のオクターブが高く、強烈で自己中心的な志功の性格を、日常的に受け止めることは、並の努力で出来ることではあるまい。チヤは志功と結ばれてから、まもなく若い野心家の自己中心性の直撃を、まともに受けた。子供がおなかにいた時期、赤ん坊を抱えていたときのチヤを青森に置いたまま、志功は東京へ行き、さまざまな土地へ写生旅行に回り歩いて帰って来なかった。その間に妻は、愛嬌が溢れているように見える夫の内部の強烈な我執と|自己愛《ナルシシズム》、芸術至上主義者のエゴイズムを、骨髄に徹して実感させられたものとおもわれる。そのことによって、天性の演技者でもあったとおもわれる志功は、やがて、ほかのだれに通用しても、たった一人だけ演技の通用しない、もっとも手きびしい批評家の眼を、わが家のなかに意識させられることになったようであった。
棟方志功の芸術が、だれの真似でもない、独得の性格を明らかにし始めたのは、昭和八年の秋、それまで三年間も故郷に置いていた妻子を、長男巴里爾の出生をきっかけにしてようやく中野区沼袋の借家に迎え、一緒に暮すようになって一年ほど経ったあたりからである。もともと仕事に熱中する性質ではあったけれども、そのころからかれの作品の特徴となってあらわれはじめた強烈な迫力が、チヤ夫人との結婚生活と、無縁であったとはおもえない。二人の結婚生活は、のちの世間に伝わった素朴で滑稽味のある愛妻物語、貧乏物語、春風駘蕩たる夫婦愛……というイメージとは、かなり違ったものだった。若いころからの二人を知っている多くの人の眼に映った感じを綜合していうなら、これほど激しく対立し、なおかつ、これほど強く結ばれていた夫婦は、めずらしいようにおもわれる。
対立の最初のきっかけを生んだのは、身重の妻を、志功が故郷へ残したままにしていたことであった。当時のきびしかった世間の好奇と不審の眼のなかで、正式の祝言も挙げず夫と離れて一人で暮している身重の若妻が、毎日どんなに肩身の狭いおもいをしていたか、また仕送りもなしに出産した赤ん坊を抱えて、どんなに心細く切ないおもいをしていたか、それは当人以外には、とうてい測り知ることができないほどの気持であったのかも知れない。身を切られるほど辛いおもいの三年間がすぎて、ようやく一緒に暮せるようになってからも、志功は後援者に対して、妻子がいることを隠し通した。一体なぜ、そうまでしなければならないのか……。何年にもわたって、まるで日陰の存在のような待遇を受けているうちに、妻がだんだん、夫の言動に信がおけなくなってきたとしても不思議ではない。
志功は、|外面《そとづら》と|内面《うちづら》の差が大きく、よその人には細かく気を遣い心を配るのに、家のなかではエゴイズムを丸出しにした。食べるものもないどん底の貧乏暮しのなかで、志功は旅に出て、なかなか帰って来なかった。子供が病気の最中に出て行くこともあった。たまに金が入ると、生活必需品より先に自分の欲しい美術品を買ってしまう。その徹底したエゴイズムを妻が|詰《なじ》ると、夫も持前の大声を張上げて反論した。二人の口論が、まことに壮烈きわまりない印象を周囲の人たちに与えたのは、声の大きさのほかに地元の人人以外には甚だ難解な津軽弁の訛りとアクセントが、そのなかにまじっていたせいもあったのかもしれない。かつて妻子を青森に放置したこと、いまなお結婚を隠して独身を装っていること、家にお金がないのによそへ行って帰って来ないこと、金が入ると真先に美術品を買ってしまうこと……それらの一切について、夫の挙げる理由は「仕事のため」であった。妻も夫の仕事のためとおもえばこそ、辛い暮しに耐えてきたのだった。
長年にわたって、人に愛嬌を振撒いている自分の後姿だけを見せてきた妻に対しては、演技も言訳も通用しなかった。志功は自分の言葉が真実であることを、仕事によって証明しなければならなかった。激越な口論のあったあと、志功はきまって、それが自分の正当性を証明してくれる唯一最後のものであるかのように、仕事に熱中した。またなにものかに|取憑《とりつ》かれたような仕事への没頭ぶりと持続する努力のすさまじさは、内に疑念と不信を抱いていた妻をも圧倒し、感嘆させるほどのものだった。おそらく志功はこのとき、仕事に熱中して無我の境に没入するまで、この世でいちばん鋭く、どんなに小さな偽りをも見逃さない、ほとんど神に近いほど厳しい審判者の眼を、身近に意識していたのではないかとおもわれる。こうした生活と制作が繰返されているうちに、志功の作品には強烈な個性と迫力が、次第に色濃く滲み出して来たのだった……。
一緒に暮すようになってから、貧乏のほかに妻を悩ませたものは、志功の並外れた女性崇拝癖と讃美癖であった。女性に対して、ことに美に対して無関心であり得ない画家にとって、それは当然のことであったのかもしれない。だが志功の女性に対する感情は、まるで思春期の少年をおもわせるおさなさで、大人のようにそれを隠したり抑制したりするすべを知らず、自分では隠しているつもりでも、すぐに言動に|顕《あらわ》れてしまい、また相手に対する讃辞も向こうが|面映《おもはゆ》くなったりするくらい直情的で、オクターブの高いものだった。相手に好感を抱くと目の前で最大限の讃辞を並べ、あるいは憧憬の念を手紙につらねて書き送り、それに返事があったりすると、たんに日常的な報告にすぎないような文章の一部にも、かれは余人の感じない|天  啓《インスピレーション》をうけて、少年のごとく感奮興起するらしかった。典型的な思春期の感情に近いようにもおもわれるが、志功にとってはそうしたことも、創作意欲の炎にそそぐ油となっていたのかもしれなかった。そのような志功の言動を、天衣無縫であるとか、なるほど芸術家らしいといったふうにおもえるのは、関係のない第三者か、または遙かに時を隔てたあとのことであって、そのときどき一番身近にいた人間にとっては、決して愉快なことではなかったろう。
それやこれやで、この夫妻のあいだには、むろん|諍《いさか》いのあとの雪解けは始終あったであろうけれども、結婚生活が主として惰性で続けられたり家庭がたんに安逸をむさぼるだけの場所になったりすることがなく、男と女の強烈な特質を持ったふたりの人間が、たがいに自己を主張して、絶えず激しく対立し拮抗する緊張感をはらみながら、根本においては固く結ばれているという、わが国においては、ややめずらしい部類の夫婦関係が成り立っていたようにもおもわれるのである。昭和十年の『萬朶譜』にその|萌《きざ》しが見えはじめ、『大和し美し』から『華厳譜』…『空海頌』…『東北経鬼門譜』…『善知鳥』…『観音経』と続き、のちに志功を「世界のムナカタ」におしあげた『釈迦十大弟子』にいたってピークを形づくった初期の爆発的な傑作群は、そうした二人の対立と拮抗の関係のさなかからも生み出されていたのだった。
志功の女性崇拝癖と家庭内におけるエゴイズムは、ほぼ晩年に近づくまで失われることがなかった。だが人生の後半から、次のような現象が生じて来た。若いころ展覧会のこまごまとした実務から新聞発表の手配まで、ことごとく一人でやってのけて仲間を驚かせた志功が、人生の後半になると、画業のほかのことは、チヤ夫人の手を借りずには何ひとつ出来なくなってしまったのである。六十三歳のときに脳血栓で倒れたあとは殊にそうで、インドへ旅行してアグラ城の長い坂道を歩いていたとき、真っすぐ進もうとしても少しずつ右のほうへ|捩《よじ》れてしまう志功は、「やっぱり引力があるのかなあ、チヤコのほうへ引っ張られるよ!」といって同行者を笑わせたことがあった。
晩年に近づくにつれ、チヤ夫人の努力のかなりの部分は、有名になって雑事に追われている志功のための防波堤となることに費された。これは夫人から直接に聞いた話ではないが、仄聞したところによれば、こんなこともあったらしい。郷里のそれほど親しいともいえない知合いが上京して来て「これから訪ねて行くから」と電話がかかって来る。志功の制作には集中力の持続が大切だから、仕事を中断されるのは痛い。困ったなあ……なんとか頼むじゃ、といわれてチヤ夫人が、やがて訪ねて来た客に、急用ができて外出した旨を述べたりしているうちに少し話が長びくと、満面に笑みを湛えた志功が顔を出して、「ヤーヤ、よぐ来たな! さあ、上がれじゃ、上がれじゃ……」といって、相手を玄関から引っ張り上げるというのである。これが事実かそれに近いとすれば、夫妻と世間との関係が、かなり端的に象徴されている挿話のようにもおもわれる。
棟方志功の特異な芸術の成立には、柳宗悦、河井寛次郎、水谷良一らの影響のほかに、チヤ夫人の存在を抜きにして考えることはできない。二人の関係には、いささか夫婦愛の形容にふさわしくないようであるけれども、|切磋琢磨《せつさたくま》といった言葉をおもい出させるところがある。まだ二人が激烈な論戦をたたかわせていたころ――、あるとき志功は「お前には信心、宗教心というものがないから、そういうことをいうんだ」といった。それに対して夫人は「わたしにだって宗教はありますよ」と反論した。「……?」という顔をしている相手に、「わたしの宗教は」と夫人は言葉を続けた、「棟方志功ですよ!」
長年の論戦によって鍛えられて、夫人も志功に負けないだけの気丈な強さと独得の論理を身につけていたのだった。「……まだ本当に死んだような気がしないんですよ」志功がこの世を去ってから一年ほどあとに訪ねたとき、およそ四十五年にわたる長いあいだ、たがいに本気になってたたかい切磋し続けてきた相手について、夫人はそういった。「どこかに隠れていて、なにかの拍子に、ひょっと出て来そうな気がして……」
まだどこかに隠れているような気がする――。家族以外の人間にも、志功がそんな感じを抱かせるのは、かれの作風と生き方に、つねに神出鬼没の観があって、隠れ鬼とか鬼ごっこといった「遊び」を連想させる印象もあったからだろう。この「遊び」ということも、志功の生涯の重要な主題のひとつであった。生前の最後のものとなったセントルイスのワシントン大学における講演で、かれはこう語っている。
――釈迦には最も大切な十人の弟子がおります。そのうちの最も頭のいい弟子が|舎利弗《しやりほつ》といいましてね、その人が「先生、人間にとっていちばん楽しいことは何ですか」と聞きました。釈迦は「それは遊ぶことだ」と答えました。「それならいちばん難しいことは何ですか」と聞きました。「やっぱり遊ぶことだ」と釈迦は答えました。……
仏教において|遊戯《ゆげ》といえば、心のままに無礙自在であること、仏の境地に徹してそれを喜び楽しむことであり、したがって仏にとっては衆生を救済することも遊戯となるから、遊戯三昧といえば衆生済度の利他行のことであり、さらに転じて漢語では芸術などの妙をきわめる意にも用いられている。ここで語られているのは、それらの意もふくめて、志功自身の思想と化していた考えであったのに違いない。
――「遊ぶ」といいましても、人間と遊ぶのは、いちばんたやすいそうです。その上になると、鳥とか花とか木とか竹とか、そういう生きているものとの遊びが二番目に難しいそうです。それからもっと難しくなりますと、雲とか雨、霧、雷、それから稲妻、そういうものと遊ぶのが、最も面倒な遊びだそうです。ここまで大きい、ビッグ・ビッグ・スケールと遊ぶことは、もう、やはり芸術の中に遊べる人だそうです。まあ、芸術と遊ぶっていうことは、大変な仕事ですね。……
かれのいう通り、人間以外の動物や植物と遊ぶこと、ときに相貌を一変して恐ろしい脅威をもたらす大自然と遊ぶこと、つまり人間中心主義を捨て自然と共に調和して生きることは、これからの人間にとってしごく大切で、またはなはだ難しいことになってくるのかも知れない。
わが国において「遊び」という言葉は、古くは次のような事柄も意味した。神楽を舞い踊ること、音楽を奏で歌をうたうこと、子供や動物が気ままに動き回ること、気晴らしに遠出すること……等等、要するに日常的な束縛から解き放たれた世界のなかで、なにごとかに熱中して楽しむことであって、こうしてみると、志功の求めていた芸術は、古代人の「遊び」でもあったのだとおもわれる。
かつて河井寛次郎は、志功についてこう書いた。「君は畏るべきものを|有《も》つ人だ。君のものを見てゐると、人が|嘗《かつ》て山野を駆け廻つてゐた時の荒魂が頭をもたげる。君は確かに人々の中に隠れてゐる荒魂を呼び返す人だ」。また谷川徹三は「縄文人の濃い血を受けている東北の民芸――ネプタや凧の絵の伝統の中に、棟方志功の芸術が生まれたことは確かであろう。しかしそこに独創的で、火の玉のように|劇《はげ》しく、風のように自由で、まぎれもなく日本のものでありながら、世界のあらゆる国の人々の心をも一挙に捉えるものをもった、天衣無縫の芸術世界を築き上げたのは彼の天才である」といい、草野心平は志功を日本原人と呼んで「縄文よりも前期の原日本人、そのままの格好で二十世紀のまんなかを、ダッダッとはだしで歩いていたのが棟方だった」と表現した。たしかに棟方志功の生涯は、遠い昔に滅び去ったはずの古代人の魂、すなわち文字の原義における鬼が、青森の貧しい鍛冶屋に生まれた小柄で筋骨型の毛むくじゃらな肉体をかりて忽然と姿をあらわし、前近代と背中合わせになっていた日本の近代のなかを風のように駆け抜けて行った一生のようにおもわれる。
絶えず未知の危険に遭遇した古代人は、もしたったひとつだけの硬直した|独断《ドグマ》にとらわれていたとしたら、生きのびることは難しかったろう。生きのびた者は、親からのいい伝えや、先輩や仲間から得た知識や、そしてなによりも自分自身の体験によって身についた考えや感覚をもとに、臨機応変の判断をみずから下して、次次に襲いかかって来る困難を、自力で切り抜けて来たのにちがいない。志功もそのような思考と姿勢の柔軟さによって、さまざまな障害や陥穽を、巧みに身を|躱《かわ》して避けながら、自分の目ざす方向にむかって走り続けたようにおもわれるのである。昔も今も世界は多様であり、複雑であって、前途にあるのは未知の航海である。とするなら、古代からやって来て、島国のなかの屈折した近代を走り抜け、世界へ通じる海に出て行ったような棟方志功の生涯は、われわれの底に潜んでいる可能性のひとつの象徴であるといえるかも知れない。
それは可能性であるのとおなじように危険性でもある。志功が『大和し美し』を皮切りに、|古代風《アルカイツク》な初期の傑作群を連発したのは、西欧崇拝と近代万能の思想によって|貶《おとし》められ抑えられ続けてきた古代からの|隠《おに》が、急に頭を擡げて、わが国を極端な復古主義と日本主義の方向へ引っ張って行った時代でもあった。棟方志功を生み出したわれわれの意識下の隠は、またどのようにも面貌を変え得る不定形のエネルギーであって、それが完全に燃え尽きてしまったとはおもえない。こんど姿を現わすとき、それはどのような相貌をしているのだろう。世界の多様性を認めた包容力の大きさを示す笑顔であろうか。偏狭で|頑《かたく》なな拒否の面持であろうか、瘠せた単一の原理にからめとられ取憑かれた狂気の表情であろうか、それとも、衰弱しやつれ果てて殆ど無力に近くなっていることを示す顔であろうか。いまのところその存在は、靄のなかに隠れていて、まだ判然とはしていないのであるが……。
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あ と が き
八年前の夏――、弘前のネプタ祭に「棟方志功ねぷた」が出た。画伯が弘前に来てネプタ祭の行列に加わったのは八月一日の夜であった。津軽には「大きいネプタはあとから」という諺があって、これは(大物ほどあとからやって来る)という意味なのだが、その言葉通り、独得の情感に溢れた豊満な女体と得意の化物を描いた「棟方志功ねぷた」は、数十台の行列の最後に姿を現わした。
志功さんは頭に向鉢巻をして、豆絞りの手拭を巻いた首から双眼鏡を前にさげ、黄色い襷の浴衣姿に白足袋草履ばきという|扮装《いでたち》で、自作のネプタの前に立ち、満面に笑みを浮べて歩いて来た。通りの両側を埋めている見物人の間から拍手と歓声が起こった。前年の十一月三日に文化勲章を受けていた……ということがなかったとしても、歓声はおなじようにあがっていただろうとおもう。津軽の人人は面識がなくても伝え聞く言行の逸話から親近感を抱いて「志功さん」と知己のように呼ぶのが一般になっている。
人人の歓声に志功さんは両手を挙げ、あるいは合掌してこたえた。人波の後からその姿を見ていて受けたのは、このひとは「踊る人」だな、という印象であった。向うから笑顔で来て、手を挙げ、合掌し、手を振って、踊って見せ、破顔して去って行く……その一連の動きにユニークな流れとリズムが感じられた。遠くからでも棟方志功の風貌にじかに接したのは、このときが初めてで、最後である。
翌年に会ったことのない志功さんから葉書を貰った。津軽の野の歌い手である嘉瀬の桃のことを書いた小説を「読ませてほしい」と詩人の船水清氏を通じて伝言があったので、掲載誌をお送りしたところ懇ろなお礼状をいただいたのだ。その年に制作された『嘉瀬の桃の像の柵』を見ると、わたしが書いた台詞が彫り込まれているので当方の小説も材料のひとつになったものと推測できる。これが生前の画伯とのかかわりあいのすべてであったが、その事とは別に関係なく、東京から郷里の弘前に帰って物を調べ小説を書いていた二年半ほどの間に、若いころはなぜか気恥ずかしく感じたり疎ましくおもったりしたこともあった棟方志功の作品に、だんだん強く心を惹かれるようになった。東京に戻って来てから依頼を受けて「別冊太陽 棟方志功」(SUMMER'74)にすこし長い文章を書くためにいろいろと調べたり、その翌年の志功さんの死に際しても新聞等に文章を頼まれ改めて考えたりしたこともあって、徐徐に自分なりの棟方志功が心中に像を結んできた。
志功さんの死の翌年、初夏のころに週刊文春編集部の藤野健一さんが来て、「棟方志功の伝記を書きませんか」といった。わたしはそれを引受けた。心中には構想が生まれていた。打合せで一致したのは「ストレートな編年体の伝記にはしない」というところで、あとは「どう書いて貰ってもかまいません」と藤野さんはいった。連載は翌年の四月から始まった。取材期間中および連載中には、本文のなかに名前を挙げた多くの方方の談話と文章、それにチヤ夫人をはじめ棟方家の家族の方方に、懇切で貴重なご教示をうけた。また関野準一郎『版画を築いた人々』、小高根二郎『棟方志功―その画魂の形成―』『湧然する棟方志功』『歓喜する棟方志功』、海上雅臣『棟方志功 美術と人生』、濱田益水『写真 棟方志功』、浜田正二『棟方志功論ノート』、西沢康『あおもり人国記 棟方志功』といった先行者諸氏の、それぞれ未墾の土地に最初の鍬を入れた労作のおかげをこうむらなければ、この伝記は遙かに貧弱なものになっていただろう。以上お世話になったすべての方方への深い謝意を、ここに記しておきたい。自分としてはできるだけ正確を期したつもりであるけれども、まだ間違っている箇所があるかも知れず、他日の機会のためにご叱正をいただければ幸いである。
書き始めてみると、最初の構想と大筋ではあまり違わなかったけれど途中から広がる部分ができて、長さも伸びた。それを認めてくれた週刊文春編集部には感謝のほかはない。二年にわたった連載中の前半は編集部の明円一郎さん、後半は井上進一郎さんの少なからざる協力を得た。この本がその人達との共同作業の産物であるというのは、社交辞令ではなくて事実の報告である。連載中は田代光画伯の挿絵にたいへん助けられたことも記しておかなければならない。書いている間中たえず自分の未熟さと力不足を痛感させられ、葦の髄からのぞいていたのにもせよ数えきれないほどの人間が営営として切り開いてきた芸術の世界の果てしない広さと深さを知らされた二年間でもあった。最大の謝意は志功さんに表すべきであろうとおもう。
[#3字下げ]一九七九年秋
[#地付き]著  者
〈底 本〉文春文庫 昭和五十九年九月二十五日刊
単行本 「鬼が来た」上・下 昭和五十四年十一月文藝春秋刊