長部日出雄
鬼が来た(上)棟方志功伝
目 次
小さな火花
二人の棟方
善 知 鳥
あかぎれと憧れ
ゴッホと貉たち
夢のかけ橋
めぐりあい
深く暗い森
鬼 門
懐郷の季節
南 島 の 旅
釈迦十大弟子
夢 と 現 実
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小さな火花
一
会場にはすでに三十人ほどの人間が集まっており、壁ぎわの椅子に坐ったり立ったりして、宴会を兼ねた座談会が始まるのを待っていた。指定されていた時刻より三十分以上も遅れて会場に入って来た太宰治は、そのなかに旧知の今官一の顔を見出し、ほっと安心したような笑顔になって隣の椅子に腰を下ろした。参会者のなかには、四人の女性もまじっていた。太宰はその一人を眼で指して、「あの人は、だれだい」と小声で今官一に聞いた。今が見ると文芸評論家の板垣直子であった。板垣直子だよ、評論家の……そう教えると、「評論家か、怖いねえ」太宰は首を|竦《すく》めて、|悪戯《いたずら》っ子のような表情を示した。
主催者である新聞社のカメラマンが、マグネシュームのフラッシュを|焚《た》いて、参会者の写真を撮りに回り始めた。当然ひとびとは口を結んで緊張したり、伏目がちになったり、椅子の肘に両手を置いて身構えたり、頬杖をついて顔を傾けたり、あるいはさりげなく談笑を続けている風を装ったりして、それぞれに自分を意識した様子になったが、なかに一人だけ、じっとしておらず、せかせかと歩き回っては大声で話し続けている小柄な丸縁眼鏡の男がいた。かれはだれかれとなく相手を|掴《つかま》えて、身振り手振り入りの挨拶を繰返しており、その大声は、カメラマンが焚いているフラッシュの音にも負けないくらい部屋の空気を揺がせている感じで、|辟易《へきえき》したようにそれを見ていた太宰は、だんだん鬱陶しそうな顔つきになって来た。
やがて主催者側から座談会の開始が告げられて、一同はテーブルにつくことになり、「まあまあ、どうぞどうぞ」「いやいや、そういわずに……」といった上座の譲り合いや、目には見えない無言の駆引きなどがあって、ようやく席が決まったとき、太宰が今官一と並んで坐ったのは、座長格の長老秋田雨雀がいる中央のあたりを上座とすれば一番の末席で、小柄な丸縁眼鏡の男――棟方志功は、いつのまにか秋田雨雀の隣に坐っていた。
主催者の開会の挨拶に続いて、出席者の自己紹介が始まった。最初に指名されたのは、主催者に隣合って坐っていた彫刻家の名久井十九三で、そこから何人かは彫刻家と画家が並んでいた。出席者は次次に立上がって、
――私は名久井十九三でございます。八戸の出身で彫刻をやっております。
――今ヤヨ子と申します。彫刻をやっております。青森市の出身です。
――清水富久と申します。藤崎の出身で、二科へ今年で七回油絵を出しております。どうぞよろしく。
――橋本はな子と申します。青森です。文展へ油絵を出しております。どうぞよろしくお願いします……。
と自己紹介をした。そのたびに、
「はいッ。ご高名は承っておりました」
「お仕事はよく拝見して、心にいたしております」
棟方志功は、部屋中に響き渡る声で返事をした。それに|気圧《けお》されたのか、自分の順番が来ても躊躇して立ちかねている人がいると、「はいッ、お次の方」「お早く、どうぞ」と、かれは大声を張上げて催促した。まだ一座の固さがほぐれていなかったので、棟方一人が|燥《はしや》いでいる感じだった。
末席で|俯《うつむ》き加減にしていた太宰は、ますます|苦苦《にがにが》しげになって来た。口を歪めて、内心では「ケッ!」という声を発しているとも取れる面持であった。このときの太宰の心理状態が、おおよそどのようなものであったのかは、かれ自身の文章によって知ることができる。
太宰には『善蔵を思ふ』と題しながら、なかに葛西善蔵のことは何も書かれていないという作品がある。また棟方志功を想像させる人物も出ては来ないが、実はこの座談会での出来事を主題にした小説なのだ。小説であるから、むろん事実その通りであるかどうかは別にしても、そして文章の表現には太宰一流の自己戯画化と誇張法がほどこされているとしても、内心の動きは、かなり正確に書かれているものと考えて差支えあるまい……。
この日の集まりは、青森県出身の「在京芸術家座談会」だった。主催者である地元紙東奥日報社の東京支局から、その会合への招待状を受取ったとき、おそらく太宰は反撥を覚えた筈だ。一人一人、独立独歩で生きなければならない芸術家が、ただ同県人だという理由で目高のように群れ集まって何になる、かれがそう考えたと推測しても、さして的外れではないだろう。
太宰は「出席」と返事を出した。理由は三つあった、と書いている。その一一に触れることは、くだくだしくなるから省くとして、要するに太宰は、この機会に名誉挽回を図りたかったのであろうとおもわれる。これまで、相手の女だけを死なせた心中未遂、非合法政治活動への加担と青森警察署への自首、都新聞社の入社試験不合格とそれに続く自殺の失敗、パビナール中毒による入院、最初の妻であった小山初代との心中未遂……と、事件を起こし続けて来たかれの評判が、郷里でいい筈はなかったが、この年の一月、太宰は新たな結婚をしており、九月には東京府下三鷹村下連雀に居を構えて、健全な市民としての義務を果たそうとおもい始めていた時期だった。
郷里にまで伝わっていたかどうかは判らないが、四月には『黄金風景』が国民新聞の短篇コンクールで、上林暁の作品とともに一位を得ている。だから太宰は、東奥日報社から出ている「月刊東奥」誌に掲載されるという座談会に出席し、最近の心境と精進ぶりを謙虚に語って、親兄弟が肩身の狭いおもいをしているに違いない郷里での悪評を、幾らかでも挽回しようとしていたものとおもわれるのである。
そしてこの日、昭和十四年九月二十日の東京は朝から大雨であった。だらしのない人間とおもわれてはならぬ……。太宰は|紬《つむぎ》の袴をはいて行きたかったのだが、セルの袴と足袋を雨で濡れないよう風呂敷に包んで、三鷹の家を出た。途中バスの連絡が悪く、会場の日比谷公園内松本楼に着いたのは、定刻の午後五時半を大分すぎた六時ごろだった。太宰は玄関脇の小部屋を借り、そこで帯を締め直し、足袋をはき、女の人に手伝って貰って袴をはいてから、かれ自身の表現によると「鼻じろむほどに緊張して」二階になっていた青森県出身在京芸術家座談会の会場に入って行った。するとそこでは、棟方志功が一人で|喋《しやべ》りまくっていたのだった。
二
棟方が自己紹介をしたのは、座長格の秋田雨雀の次であった。かれは躍り上がるように立ってこういった。
「青森市大町一番地一号棟方志功であります。版画をやっております」
前年の秋、かれが文展に出品した『|善知鳥《うとう》』は、版画としては官展はじまって以来の特選を獲得していた。またこの年に、かれはのちにサンパウロ国際美術展の版画部門で最高賞、ヴェニス・ビエンナーレの版画部門で大賞を受けたさいの主力作品となった傑作『釈迦十大弟子』を制作している。棟方が創作活動において、最初のピークに立った時期である。三十六歳のかれの「青森市大町一番地一号棟方志功であります」という名乗りには、軒昂としたおもむきがあった。
棟方の画は、太宰もずっと以前から認めていた。太宰が中学二年のころというから、棟方は二十一歳で、初めて上京した年のことだ。青森市寺町の小さな花屋に飾られていた五、六枚の洋画に|頗《すこぶ》る感心した太宰は、そのうちの一枚を二円で買い、――この画はいまにきっと高くなります、といって、下宿していた縁戚の豊田家の主人に進呈した。棟方の官展特選によって、太宰の予言はほぼ的中したことになっていたわけだが、作品を認めるのと、作者の人間を好きになるのとは、別のことである。
太宰が反感を覚えていたのは、棟方に対してだけではなかったのだろう。あと三人で自己紹介の順番が太宰まで回って来るというところで立上がった作曲家は、まだ座談会の本番にはなっていないのに、|滔滔《とうとう》たる大演説を展開していた。
「……それから日本は海国であるのに海に対する認識は割合に少ないのであります。少ないのにもかかわらず海軍は依然として強いのでありますが、われわれ国民も海を征服しなければならないということを痛感するのであります。そこで太平洋行進曲を書いても、あまり売れない。これは海に対する認識が少ないということに帰着するのであります。青森県はことに大湊要港部を控えておりまして、いっそう海の認識が必要と信じます。私が大湊に参りましたときに、前田副官という方がおられまして……」
太宰はうんざりしたような表情をしていたが、作曲家の演説はなかなか終らなかった。
「……でありますから、青森県としても大湊要港部の歌とか、青森港の歌、あるいは黒潮の歌というようなものがなければならんとおもいます。そして、われは海の子、ということをご認識あらんことを切にお願い申し上げまして、ご挨拶にかえる次第であります」
作曲家はようやく腰を下ろした。次に立ったのは舞踊家の江口隆哉で、その次は、太宰の隣席の今官一だった。
「私は今官一といいます。津軽文学の末席をけがしている者であります」
今は簡単にそういって着席し、太宰の番になった。太宰自身はこう書いている。
――私は、くにやくにやと、どやしつけてやりたいほど不潔な醜女の媚態を以て立上り、とつさのうちに考へた。Dの名前は出したくない。Dつて、なんだいと馬耳東風、軽蔑されるに違ひない。私の作品が可哀さうだ、読者にすまない。K町の辻馬の末弟です。と言へば、母や兄に赤恥かかせることになる、それにいま長兄は故郷の或る事件で、つらい大災厄に遭つてゐるのを、私は知つてゐる。私の家は、この五、六年、私の不幸ばかりでは無く、他の事でも、不仕合せの連続の様子なのである。……
つまりかれは、太宰治と名乗っていいものか、金木町の津島です、といえばいいのか迷っていた。太宰治といっても、なんだいと馬耳東風、軽蔑されるに違いない、と考えたのは、それまでの出席者が名前をいったとき、棟方志功が何度か「ご高名は承っておりました」と大きな声を出したことが、頭にあったせいなのかも知れない。太宰はこの年の初めごろから夏にかけて、まえにあげた『黄金風景』のほかにも秀作『富嶽百景』を発表し、短篇集『愛と美について』と『女生徒』を刊行するなど、好調の時期を迎えていたのだが、文名はまだ一部にしか知られていなかった。
金木町の津島です、といえば母や兄に赤恥かかせることになる、というのは、金木の津島家が津軽ではかなり知られた大地主の家だからである。あれか、東京でいい恥さらしをしている津島の息子というのは……そうおもわれるのではないか、という考えと、太宰の文中にもあるように、丁度そのとき郷里では、県会議員選挙の違反に連座した長兄津島文治の公判が行なわれている最中であったので、果たしていま津島の名前を出していいものかどうか、という考えとが、頭のなかで複雑に絡み合っていたのだろう。たった一言か二言の自己紹介をするために、かれはこれだけのことを考えていたのだった。太宰はおずおずと口を開いた。
「私は小説を書いている太宰治であります。北郡金木町生まれで、本名は津島修治……」
途中から急に声が低くなって、語尾が口のなかに消えてしまった。そのとき上座から、棟方志功が大声で叫んだ。
「聞こえません。もういっぺん高くいって下さい」
途端に太宰は、それまでの鬱憤を爆発させた。
「うるせえ、黙ってろ!」
太宰はいきり立った表情で、椅子に腰を下ろした。それからかれは、不快そうに口を歪めて酒を飲み始めた。郷里の雑誌の座談会で、努めて謙虚な姿勢を示し、これまでの不評を挽回しなければならぬとおもいつめて、さまざまに気を使い、あれこれと考えあぐねた末が、まるっきり逆の結果になってしまって、もうどうともなれ、と自暴自棄の態度に転じたようであった。
このときの場面を、棟方志功は自伝『板極道』のなかで、こう書いている。――自己紹介の時、あまり声がひくかったので、わたくしに聞えませんでしたから、「今の方、もう一度、高くいってください」といいましたが、その、もう一度はいわなかったようでした。その、もの思う|節《ふし》を思わせるようなニヤニヤ感のつよい、青っぽい風貌が、なんとなくわたくしの肌合と合わなかったからでもあったようでした。太宰氏もやはり、わたくしを好かない人間と思ったことでしょう。……
太宰の罵声によって、座は一瞬白けたが、丁度つぎの番に当たっていたのが漫画家の芳賀まさをだった。
「私は弘前代官町出身の芳賀まさをといいます。長く東奥日報におりまして、それから東京に出て来まして、東京の電信柱に頭をぶつけたような漫画を描いております」
白けたその場の雰囲気を、なんとか救おうとしたのだろう、芳賀がいかにもおどけた調子でそういうと、一座に笑い声が起こった。太宰は笑わず、黙黙と酒を飲んでいた。棟方は太宰の罵声が聞こえなかったのか、近眼なので全身に不快そうな気配をあらわにしている太宰の姿がよく見えなかったのか、それとも知ってはいても別に気にならなかったのか、まえと|殆《ほとん》ど様子が変っていなかった。そして最後の人の自己紹介が終ると、すぐに口を開いたのは、棟方だった。
「ぼくは東奥日報の方方にお願いがあります。こういう立派なお料理を出していただけるのは有難いが、願わくばこれからは、もっと安い料理で、集まる回数を多くして貰いたいのであります」
酒を飲まない棟方がそういい終ったとき、もう辛抱できかねるという顔になった太宰は、本番の座談会に入るまえに一旦休憩となったところで、「おい、出よう」と隣席の今官一にいった。
「ここは、おれたちの来るところじゃねえ」
今官一のほかに、青森中学で太宰と同級だった画家の阿部合成と、中学の後輩である版画家の関野準一郎も、太宰に声をかけられて一緒に会場を出た。雨の夜の日比谷公園を出たところで、円タクを待っているあいだ、「おれたちの来るところじゃないよ」「おれたちは場違いなんだ」と太宰はしきりにぶつぶついっていたが、やって来た円タクに乗り込むと、|堰《せき》を切ったように棟方の悪口を喋り始めた。
三
「棟方ってやつはね、実はあれでちゃんと計算してやっているんだよ。昆虫みたいな触角を持っていて、だれが自分の味方でだれが敵か知っているんだ。本能のままに振舞っているのなら愛嬌もあるが、計算してやっているんだから、|気障《きざ》でやりきれないよ」
つまり太宰は、|傍目《はため》には自由奔放、天衣無縫とも見える棟方の挙措動作のなかに、計算された演技のにおいを|嗅《か》ぎ取っていたのだった。座談会の出席者が上座の席を譲り合っているうちに、棟方が座長格の秋田雨雀の隣に坐っていたことも、全員の自己紹介が終った直後、間髪を入れず、主催者側の東奥日報にやや|追従《ついしよう》気味の発言をしたことも、太宰の眼には、無意識を装った計算、と映っていたのに違いない。それは多分、太宰が人並みはずれて強い自意識と、屈折した自己顕示欲の持主であって、少年のころから銭湯へ行くのにも中学の制帽をかぶって袴をつけ、「そんな私の姿が往来の窓硝子にでも映ると、私は笑ひながらそれへ軽く会釈したものである」(『思ひ出』)というほど、いわば天性の演技者であったからこそ、いっそう鋭敏に感じとられたことであったのだろう。
太宰自身も座談会の席上では、さりげなく自分の存在を浮かび上がらせて、そこに人人の静かな注目の視線が集まることを、心中ひそかに期待していた筈であった。ところが実際には、自意識などまるで感じていないような様子で一人で燥いでいる棟方志功の言動に、すっかり調子を狂わされ、たしかに人人の注視は集めたものの、それは太宰にとって、まったく自分の意に反する無念の結末になってしまったのだった。
太宰が棟方と身近に接したのは、このときが初めてであったから、反撥を覚えたのも、当然であったようにおもえるのだが、今官一と関野準一郎は、まえからつき合いがあって棟方の性格をよく知っていた。
今官一が棟方と知合ったのは、早稲田の露文科に学んでいた昭和三年ごろだった。その四年まえに上京した棟方が、生活に苦労しながら、相次ぐ帝展落選の憂目を見ていた時期である。ある日、住んでいた阿佐ヶ谷の駅前のあたりを散歩していた今官一は、何の商売か判らない家のまえに「ザリヤ」という看板が出ているのを見かけた。ザリヤーといえば、ロシア語で「|曙《あけぼの》」の意味だが……と、覗き込んで見たが中はまだ工事中で無人の様子であった。向かい側の古本屋に入って、一人で店番をしているお婆さんに、あれは何をする家か、と聞いてみた。「さあ……」お婆さんは首を|傾《かし》げて答えた。「なんでも砂利屋さんだという話ですけどねえ」
駅前で砂利屋というのはおかしい。そうおもっているうちに、暫く経って「ザリヤ」という看板が、こんどは「チャイカ」と変った。ロシア語の「|鴎《かもめ》」である。やはりロシア語であったのだ。扉をあけて、ここは何のお店です、と訊ねた今官一に、「喫茶店ですじゃ」と答えた若い主人の言葉には、津軽の|訛《なま》りがあった。今が自分も津軽の出身であることを告げて確かめると、かれは竹谷賢一郎という名前で、青森県の北津軽郡から出て来た左翼劇場の劇団員であるということだった。新劇では食える筈がないので、内職に喫茶店を始めようとしていたのである。
店のなかの暗さに眼が慣れると、そこには数人の若い男がいて、棚を吊ったり、柱に彫刻をしたりしていた。通りの向かい側の古本屋のお婆さんが、砂利屋と間違えたのも無理はないような風采をしていたが、かれらはいずれも青森県から出て来た文学青年や絵描きたちで、そのなかに分厚い丸縁眼鏡の縮れっ毛で愛嬌に富んだ小柄な男がいた。それが二十四歳の棟方志功だった。
同郷で、貧乏で、しかもおなじように芸術の道を志しているということでいっぺんに意気投合し、かれらは阿佐ヶ谷の畑の中にある今官一の借家へ遊びに来るようになった。今の家には、麻雀の牌があった。友人から貰ったもので、ひとつひとつ木を削ってつくり、絵筆で文字と記号を書きしるした手製の牌である。|閑《ひま》なうえに新しいもの好きの連中だから、かれらはたちまち当時は珍しかったこの遊戯に夢中になった。勤勉で絵のほかのことは一切眼中にない棟方だけは、初めのうちそのなかに加わらなかった。
かれは卓を囲んでいる仲間の背後で、狭い部屋のなかを動物園の熊のように動き回ったり、体を持て余して唸り声を挙げたり、ときどき卓を覗き込んでは、「そすたもの、なに面白いんだべな」と吐き棄てるように|呟《つぶや》いたりしていた。本当は、目の色を変えて「ポン」「チー」と叫んでいる仲間の様子が、よほど面白そうに見えていたのだろう。あるとき、「われも|加《か》でろ」と仲間に入ったかれは、規則を覚えると、負けず嫌いの性格をあらわにして、ほかのだれよりも麻雀に熱中し始めた。
いったん始めるとなると、棟方は遊びであっても精魂を打ち込んだ。手元に並んでいる牌を、分厚い近眼鏡のうしろの眼を|剥《む》いて、懸命に睨みつける。かれは汗かきであるうえに、体からの分泌物が人一倍多く、たえず鼻水が流れ出し、口中には唾が湧く体質のようであった。見ていると、眼を剥いて考え込んでいる棟方の鼻から一筋の鼻水が糸となって垂れ、今にも下の卓につきそうになる。あ、つくな……とおもわれた瞬間、かれは一気に鼻水を|啜《すす》り上げ、鼻孔と口元を手の甲と指の背で拭うと、「よしッ」と気合の入ったかけ声を発して山の牌にその手を伸ばした。
「志功の麻雀は、ヤバツクテ(不潔で)|駄目《まいね》」と、仲間は辟易していたが、棟方は一向に意に介しなかった。かれの麻雀は念力派であった。山からめくり取った牌を宙に振り上げ、眼をつぶって顎を胸につくまで固く引き、全身を震わせて必死になにごとか念じている。木片の表面に筆で記号をしるしてあるだけの牌なのだから、別に文様を指先で探っているわけではなく、そうすることで棟方は、念願の牌よ来たれ! と祈っているのである。やがてかれはにおいでも嗅ぐように牌を近眼鏡のまえに持って来た。無言でそれを睨みつけている棟方の口のまわりから、奇妙な笑いが渦のようにひろがった。念力で目指す牌を引当てたのか、とおもわれたが、そうではなかった。
「ワイッ、こりゃあ何の牌だバ!?」
そういって棟方が場に|晒《さら》した牌を見て、一同は唖然とした。手製の牌の表面を、棟方が汗と鼻水と唾で濡れた指先に余りの念力を籠めて引きしぼったために、筆で書かれた記号が拭い去られて、それは僅かに墨の痕跡を残しただけのノッペラボウの牌と化していたのだ。これでは一体なんの牌なのか、全部の牌を調べ直してみなければ判らない。大騒ぎのすえに、結局その回は流れてしまったのだった……。
人間の逸話というのは、ときにおもいがけないほど、その人物の深い部分に隠されている秘密を、ありありと示している場合があるものだ。棟方が念力によって手製の麻雀牌の表面を空白にしてしまったというこの挿話も、そうしたひとつの好例であるようにおもわれるのだが、そのことはひとまず後に譲るとして、今官一はこれに類する(とても計算の結果とはおもえない)棟方の言動を、以来いくたびも見聞きしていたので、かれがしばしば回りのものが目に入らなくなるくらい物事に熱中する性格であるのを知っていた。
その点では関野準一郎もおなじであった。かれは昭和十年に上京してから、中野区大和町にあった棟方の借家に、何度か泊めて貰ったことがある。泊り客がいて、そのうえに来客があっても、棟方は少しも気にならない態度で仕事を続けた。汗だくになり、墨だらけになって描き続けているうちに、傍に人がいることも忘れてしまうようであった。棟方は一時期、家のなかにみみずくを飼っていたのだが、かれは客をそっちのけにして、あたかも相手が人語を解するものであるかのごとくそのみみずくに話しかけながら、|憑《つ》かれたように絵を描き続けるのである。それはまるでかれの周囲にだけ、余人が入りこむことのできない異なった次元の世界が出来上がっているような光景であった。のちに関野自身が書いている文章によれば、棟方は後輩のかれにこういった。「棟方が絵を描いているうちは、まだ小さい。何かこう、棟方の|臍《へちよ》コの後にある何かが描かせているので、神……神ともいえない、仏でもない、まあ神でも仏でもなんでもいい、臍コの後にいる鬼、そんなものがじっとしていれなくて描かせる……この五本の指でなく、鬼のような三つの爪でやるような仕事をやるんだ」。関野はその言葉を深く心に刻みこんでいた。
この挿話にしても、天性の演技者であった太宰に聞かせれば、「それは横で見ていたきみたちを意識した芝居だよ、芝居」と皮肉な笑い方をして「棟方がみみずくと話していたのは、ひょっとすると、きみたちに早く帰って貰いたい、という謎じゃなかったのかね」ぐらいの意地悪な観察もつけ加えたかも知れない。
人を喜ばせることを信条にしていた太宰にとって、客がいるのにもかかわらず、みみずくと話をしながら仕事を続けるなどというのは、およそ考えられもしないことであったろう。しかし棟方もまた、そのとき描き上げた絵の一枚を、後輩の関野に進呈することを忘れてはいなかったのである。いずれにしても自意識の塊のようにおもえる太宰治と、無意識の塊であるかのように見える棟方志功とが初めて顔を合わせたとき、そこには鋭い反撥の火花が散ったのだった。
四
休憩時間に中座して帰ってしまった太宰治が、中央線沿線の飲み屋で阿部合成や関野準一郎を相手に、酒を飲んでいたころ――。日比谷公園内の松本楼で続けられていた青森県出身の「在京芸術家座談会」では、自己紹介のときに海国日本の認識の重要性を訴えていた作曲家が、こんな話をしていた。
「……それからひとつ、とくに申し上げたいことがあります。私はほうぼうの人とつき合っておりますが、青森県の人は、人のいいところをいわないで、悪いところばかりいう癖があります。だからこの機会に、おたがいによいところを認め合って、悪いところをいわないことにしたらどうでしょう。つまり、おたがい長所を大いに褒めることにして、欠点は絶対にいわないようにする。それがこの会を続けて行く上において、最も大切なことであると私はおもいます」
そのあとで一人の画家が、「青森県の人は、ただ人の足を引っ張るようなことをするからね」といったのを受けて、「いままではそういうこともあったでしょうが、これからはよい青森人として、立派な態度を取るようにして、いい会をつくりたいとおもいます」と、棟方志功はいった。それがこの座談会の言わば結論であった。座談会が終ったとき、座長格の秋田雨雀、長老格の彫刻家中野桂樹とともに、棟方は今後の会の世話役に選ばれていた。
たしかに青森の人間のなかでも、ことに津軽人の悪口好きは、以上のように共通の認識となっているほどのものだった。悪口をいうときの太宰治の鋭鋒がどのようなものであったかは、のちに志賀直哉に噛みついたときの『如是我聞』において明らかである。かれが私淑していた葛西善蔵も痛烈に人を刺す毒舌の達人であった。健全で模範的な少年小説の大家である佐藤紅緑も、帰りかけた客がまだ玄関にいるうちから、大声でその男の悪口をいっていたという。ところが棟方志功は、内心ではどうおもっていたか判らないにしても、少なくとも仲間以外の人前では、あまり人の悪口を言わない人間であった。かれが自伝『板極道』のなかで、太宰の悪口めいたことを述べているのは、稀な例外であって、それにも少年時代の太宰が、自分の絵を買ってくれたことをつけ加えて、――わたくしは今、この氏の気持を、有難く、しみじみしたこころ持ちで感謝しております。太宰氏のやさしい想いの貴さに伏したくなります。……と締め|括《くく》っているのである。
人のよいところだけを取上げて、そこに極端とおもわれるくらい感心する。意識的であったのか無意識であったのかは判らないが、それが生き方においても画業においても、このころから一貫して棟方の基本的な方法であり、向上をめざす力の源泉であった。
この座談会のまえに、夏の四十日間ほど棟方は青森へ帰郷しており、最後の数日間を南津軽郡竹館村唐竹にある相馬貞三の家で過ごしていた。その数日間における棟方の制作ぶりは、かれの力がどのようにして湧き出して来るのか、その秘密の一端を、垣間見せてくれているようにおもわれる。
柳宗悦を師として、東京から郷里に帰って仕事にいそしむかたわら民芸運動を始めていた相馬貞三の住居は、十町歩もある広い林檎園の一隅にあった。かれはそれを「小屋」と称していたが、実際には十畳間に八畳間が二つ、それに六畳間と土間から成っている建物で、東京で知合った棟方志功に、いつでも画室として提供すると申し出ていた。
夏のあいだ部屋を借りている浅虫温泉の椿旅館から、棟方は浴衣一枚の気軽な恰好でやって来た。遊びと名のつくものを何ひとつしない棟方の楽しみは、夜、もっぱら話しこむことで、二人の話題は、そのころともに熱中していた仏教の経巻のことが主だった。相馬は最近読んだお経のなかで感心した場面の話をした。
「なにしろ釈迦が正覚を説いたときには、世界が感動し六種に震動して、東に|涌《わ》いて西に没し、西に涌いて東に没し、南に涌いて北に没し、北に涌いて南に没し、辺に涌いて中に没し、中に涌いて辺に没した、というんだから凄い。まんず|東涌西没《とうゆうさいもつ》というのは、大したもんですな」
「なになに、東涌西没……?」にわかに頭のなかが全速力で回転し始めていることを示す表情になった棟方は、分厚い近眼鏡のなかの眼を光らせて問い返した。「いまのところ、もういっぺん喋って|呉《け》ろじゃ」
「ンだからス、釈迦が正覚を説いたときには、世界が六種に震動して、東に涌いて西に没し、西に涌いて東に没し……」
相馬はおなじ話を、もういちど繰返した。途端に棟方は躍り上がって膝を打った。
「いやあ、凄い! 東に涌いて西に没し、西に涌いて東に没す、か。大きいなあ。大きいねえ。いや、そンだんだ。東涌西没だんだ。仏の世界は、東涌西没だんだね」
棟方は自分の膝を拳で叩きながら、身を|捩《よじ》って興奮し、熱に浮かされたように声高に喋り続けた。
「そうか。東涌西没か。大きいなあ。ほんとに大きいねえ……」
東涌西没、というそれだけの言葉が火花となって想像力を刺激し、いまかれの脳裡には、それこそ世界が湧き上がって来て忽然と姿を現わしたように、とめどなく画想がふくらみ広がっている気配であった。
五
翌朝の午前五時――。相馬貞三が目を覚ましたとき、隣室の棟方志功はすでに起きて活動を開始しているらしく、かさこそという物音が、しきりに聞こえた。あとで判ったのだが、棟方は東京や京都の師友に、自分の近況を伝える便りを書いていたのだった。京都の陶芸家河井寛次郎が、棟方について語った文章のなかに、「此の夏は来る端書も来る端書も裸体で日中仕事の出来る喜びばかり書いてくれた」という一節がある。これからすると棟方は、大して変りばえのしない日常であっても、ひと夏のあいだに自分の近況を報告する便りを、おなじ相手に何度も繰返し送っていたのだろう。棟方は昭和十四年から毎年、夏になると帰郷するたびに相馬貞三の家を訪れて、そこで何日間か仕事をするようになるのだが、この習慣はいつも変らなかった。かれは早朝のうちに、手紙書きなど仕事以外の雑用を、全部かたづけてしまうのである。
起き上がった相馬は、画室に予定していた十畳間に入り、画仙紙などの準備を調えて、墨を摩り始めた。この日、棟方が描くことになっていたのは、のちに|倭画《やまとが》と称するようになる肉筆画であり、かれが描き始めると止まらなくなるたちであることは知っていたので、相馬は出来るだけ沢山の墨を摩った。朝食を終えたとき、棟方は、もう描きたくて描きたくて、うずうずしている様子であった。いや、うずうずしているというよりも、相馬の眼には棟方が、うぬうぬとなっている、とさえ見えた。津軽の言葉でそう表現するのは、気が|逸《はや》って意欲が内側から溢れかえり、目の色が変って来て、相手の何物かに飛びかからんばかりになる直前の状態である。
棟方は十畳の部屋のなかに、数本の細縄を張り渡すと、墨汁に浸した筆を握って描き出した。その勢いと早さは、かれが二年まえに発表した版画の『華厳譜』に出て来る風神の姿をおもわせた。見る見るうちに墨の描線で埋めつくされた画仙紙で、部屋のなかは足の踏み場もなくなった。すると棟方は、墨が乾いた順に未完成の絵を張り渡していた細縄にかけ、さながら物干場のようになった画室の一角で、新たな画仙紙に挑みかかるのである。その風神の引き起こす嵐に巻き込まれた相馬は、いまにも足りなくなりそうな墨を摩るのと、洗筆の水を取り換えるのとで、休む間もなくなった。墨の描線をかき終えた棟方は、細縄にかけていた絵をふたたび畳のうえに敷き並べ、こんどはそれに彩色を施し始めた。画仙紙にひろがっていくのは、昨夜、相馬が口にした経文の一節に触発されて脳裡に描いていたとおもわれる光景であったが、いまや棟方は、釈迦が正覚を説いたときには「世界が六種に震動して、東に涌いて西に没し、西に涌いて東に没し、南に涌いて北に没し、北に涌いて南に没し、辺に涌いて中に没し、中に涌いて辺に没した」という経文の形容さながらに、物干場のようになった画室のなかを躍り回り、張りめぐらされている絵のなかに没したとおもうと現われ、現われたとおもうと没して、自分自身が「東涌西没」していた。硯のまえに坐ってその有様を見ながら、相馬は棟方の創作の秘密の一端に触れたような気がして、全身の血がざわざわと騒ぎだすおもいだった……。
この日の棟方の創作意欲を燃え上がらせたものは、前夜に相馬が口にした「東涌西没」という言葉であったようだ。しかし棟方はその言葉を、たしか三年まえから知っていた筈なのだ。
三年まえの春、棟方が国画会に出品した版画『|大和《やまと》し|美《うるわ》し』に頗る感心した柳宗悦、濱田庄司とともに、棟方の家を訪ねた河井寛次郎は、「京都の仏像を見たい」という棟方の願いをいれて、京都五条坂の自宅に連れ帰った。河井は棟方に京都見物をさせるかたわら、茶飲み話のようにして、仏書『碧巌録』の講義をした。「東涌西没」という言葉は、この碧巌録の第一則に出て来るのである。
――垂示に云く、山を隔てて煙を見て、早く是れ火なることを知り、|牆《かき》を隔てて|角《つの》を見て、|便《すなわ》ち是れ牛なることを知る。(中略)|衆流《しゆりゆう》を截断するに至っては、東涌西没、逆順縦横、与奪自在なり。……
棟方は河井から、碧巌録の本を渡され、最初の部分は詳しく懇切に講義を受けていたのだから、そこに出て来る東涌西没が、「東の方に現われたかと思うと、既に西の方に没し、すなわち出没自在であって何物にも拘束されないこと」という意味の言葉であるのを、たぶん知っていた筈であった。またのちに棟方は、ある座談会で、
――たとえば|勝鬘経《しようまんぎよう》の内容を画に表わそうとする場合、そのお経をどの程度ご研究になりますか、失礼ですが……。
と一人の僧侶に訊ねられて、
――そういうことは、やさしく解釈した本を見ます。もちろん原書を読む力はありませんがね。自分でも、おまえみたいな|木偶《でく》の坊がお経を読んで何が判る、とおもいますよ。けれどもやっぱりお経を知らなければ出来ない。それで平易なお経を読んでおります。……
と正直に答えており、『華厳譜』の自作解説にも、「これは水谷良一さんから華厳経の成立の話を聞いたのが動機であったが、作るにあたっては、その話は念頭になく無我夢中で彫った」と記している。棟方はその作品をつくるとき、ひたすら「華やかにして厳かに」と念じながら彫り続けたのだという。だから作品のなかには、華厳経には出て来ないさまざまな神が登場している。つまり棟方の創作法は、人から聞いた話や、仏典の平易な解説書や、あるいは「華厳」という文字だけをもとにして、そこから自由奔放に空想の翼をひろげることなのであった。
おそらくかれは、自分より五つ年下で世間的には無名の青年であった相馬貞三から、経文のなかの東涌西没の光景を聞かされたとき、三年まえに河井寛次郎から教えられた言葉とおもい合わせて、にわかに画想が脳裡に油然と湧き上がって来るのを覚えたのだろう。そしてこれはすでに海上雅臣氏が『棟方志功 美術と人生』において指摘していることだが、後年、サンパウロ国際美術展の版画部門で最高賞を得た作品のなかのひとつである『湧然する女者達々』の発想のもとになっていたのも、六体の女身が三体ずつ「湧然の柵」と「没然の柵」に分けられているところから見て、この「東涌西没」という言葉であったと考えて間違いあるまい。人の片言隻句にも、自分なりに解釈して極端なまでに興奮し感動する性質は、棟方の場合、仕事のうえにそのような実りをもたらしていたのだった。
六
棟方の個展を、青森と弘前で開きたいと考えていた相馬貞三が、三日分の分量のつもりで用意していた数十枚の画仙紙を、棟方はその日のうちに描き切ってしまった。翌日からは、もうすることがなかった。そこで判ったのは、棟方がただの|一時《いつとき》も、じっとしていられない性質であるということだった。創作意欲が湧き立っているのに漫然と時を過ごしているのが、苦痛で耐えられない様子なのだ。――どうしよう……、と考えた相馬の頭に、五所川原町にいる友人の平山文三郎のことが浮かんだ。平山の家は五所川原の素封家で、離れには六十畳敷きの大広間があった。相馬はそこを画室に借りて、身内から湧き上がる意欲に目の色を変えているいまの棟方に、大作を物して貰おうと考えたのだ。
棟方は相馬とともに五所川原の平山家へ行き、そこで六尺屏風六曲一双の大作を描くことになった。その夜、棟方は明日描くのだという松の樹の恰好を体で真似て見せたり、蒲団のうえにひろげた十五畳敷きの青蚊帳を海に見立て、そのなかを「東涌西没するんだ」と泳ぎ回ったりして大騒ぎだった。相馬も平山も、棟方と一緒になって騒いだ。そのうちに棟方は、
「あのう、相馬さん。|達磨《だるま》大師はなして武帝に、|朕《ちん》に対する者は|誰《た》そ、と聞かれたとき、|不識《ふしき》、と答えたんだっけ?」
といい出した。それは碧巌録の第一則にある話だった。河井寛次郎から講義を受けて、少なくとも碧巌録の最初のほうだけは熟読していた筈の棟方が、その第一則の内容を忘れている訳はなかったのだが、相馬の口からもういちど聞くことで、明日の制作への意欲を、いっそう掻き立てようとしていたのだろう。そう察した相馬は、エヘン、と咳払いの真似を前置きにして話し始めた。武帝に答える達磨大師のつもりになって話しているうちに、津軽の人間によくある性格で、日頃は温厚で生真面目なのに、飄逸なところもある相馬の声は、いつのまにか棟方とかれにとって共通の師である柳宗悦の|声色《こわいろ》になっていた。
「|私《わたくし》の思いばかりでしている仕事なぞ、何が残ろう。たかだか五年、十年世を騒がせるぐらいが、何になろう。きみたちは、よくよく注意しなければならない」
柳宗悦の口調で相馬がそういい終ると、棟方は腹を抱えて笑い転げた。相馬はますます調子に乗って、こんどは濱田庄司と水谷良一の声色を始めた。棟方は苦しそうに身を捩って笑い続けた。そのあと棟方は、またひとしきり「そンだんだ。東涌西没さねば|駄目《まいね》ンだ」と興奮して蚊帳のなかを泳ぎ回っていたが、やがてその蚊帳が吊るされ、寝につくときには、蒲団のうえに正坐して合掌しながら、瞑目してなにごとか呪文を唱えていた。
翌日の早朝、平山文三郎が目を覚ましたとき、棟方はすでに蚊帳の外に出て、机に向かい、葉書をかいていた。画室になる六十畳間に行ってみると、相馬は懸命に墨を摩っていた。相馬は尊敬している棟方に、摩ってから一晩たった宿墨を使わせたくなかった。それに描き始めると止まらない棟方の絵は、並大抵でない墨汁の量を要することが判っていたので、早朝から墨を摩り続けていたのだ。かれは墨を摩りながら、「いったん描き始めれば、どこまで墨が飛ぶか判らねえはんで、この六十畳間一杯に、新聞紙を敷いたほうがようごせ」と平山に教えた。平山は家族を総動員して、大広間の一面に新聞紙を敷きつめさせようとしたが、その部屋があったのは離れの二階であったから、早朝の津軽平野を渡って来る風に吹かれて、新聞紙は舞い上がって部屋中に散乱し、家族はそれをとらえようと大あわてで六十畳間のなかを走り回った。これでは仕事にならない、というので、平山は雨戸の大半を閉めさせた。
朝食が済むと、棟方は早くも、|うぬうぬ《ヽヽヽヽ》とした顔つきになって、離れの二階に駆け上がった。新聞紙が一面に敷かれた大広間を見て破顔したが、すぐに筆を口に|銜《くわ》え、鼻で激しく息をしながら、腕まくりを始めた。朝とはいっても夏であり、雨戸の大半を閉め切っていたので腕まくりをしているうちに、棟方の額には大粒の汗が滲み出して来た。かれは手拭いで汗止めの鉢巻きをして、新聞紙のうえに並べられた十二枚の大画仙紙のまえに立ち、暫くのあいだ左右に行きつ戻りつして構想を練っている気配であったが、意を決したと見えて一隅に筆を下ろすと、たちまち画仙紙の周囲を飛び回って東涌西没し始めた。
見ているほうにとっては、意表を突く箇所に余りにも無造作に落筆するので、まるで崖から飛び降りる人でも見ているように肝の冷えるおもいだった。横にひろがる老松の下に二つの大石が|盤踞《ばんきよ》している六尺屏風六曲一双の大作が、彩色をふくめて三時間足らずのうちに完成したときには、正午までにかなりの間があった。棟方は余勢を駆って新たな画仙紙に、次次と別の画題を描いて行く。そこに現われる高僧の顔は、いずれも昨夜、相馬が声色で演じた柳宗悦、濱田庄司、水谷良一を連想させた。前夜の騒ぎは棟方の頭のなかで、すべてこの日の画想のもとになっていた感じであった。
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二人の棟方
一
棟方が描き上げた数十枚の作品をもとに、相馬貞三は勇躍して、青森と弘前で個展を開いたのだが、その結果は、あまりかんばしいものではなかった。相馬は二年まえに東京で『東北経鬼門譜』に接して瞠目したときから、棟方を天才と信じていた。それに加えて棟方は、前年に文展へ出品した『善知鳥』によって版画としては官展はじまって以来の特選になるというお墨つきも得ていたのだけれども、かれの|不羈《ふき》奔放な肉筆画を目にした地元の人間には、「何だかさカチャマシイ(騒騒しい)絵コで、よく判らねえ」と首を傾げる者が大半であった。
なかには、子供の落書とおなじに見える、という無遠慮な批評をする者もいた。棟方の天衣無縫とおもえる芸術の価値を信じていた相馬は、知合いのあいだを説いて回って作品を買って貰った。ずっと後年に「世界のムナカタ」の声名が確立されてから、相馬がそのころ買って貰った作品の消息を訊ねると、「あれをちゃんと仕舞っておけば、大した値打ちが出たんだべけんどもな」と後悔の|臍《ほぞ》をかんでいる人が、何人もいたという。その人たちはせっかく棟方の肉筆画を手に入れながら、どこかへ紛失してしまったのだった。棟方が五所川原の平山家に描いて残した六尺屏風六曲一双の大作も、訪ねて来る近くの人たちには必ずしも好評とはいえなかった。平山の眼には、確かに松の樹を描いて気魄の横溢した力作と見えるのにもかかわらず、「これは虎ですな? それとも竜ですな?」という質問を発する人が、あとを絶たなかったのである。
平山家での制作を終えたあと、棟方は相馬、平山の二人と一緒に津軽西海岸の|鰺《あじ》ヶ沢と深浦へ遊びに行った。深浦の宿に一泊し、翌日の早朝に乗せて貰った|鮑《あわび》とりの舟の上で棟方は大燥ぎであったが、相馬は波の動きに酔って船底に伸びてしまった。棟方は画帖と筆を取り出して、伸びている相馬の姿を描き始めた。絵を描き出すと途端に別人のように真剣な面持になって、こんどは海の写生に取りかかった。そうなると、最早まわりの人は眼中にない。棟方の生活においては、遊びと仕事の間の区別というものが、まったくないようであった。前日の遊びは翌日の画想のもとになっており、この日の遊びもすぐそのまま仕事に変ってしまう。舟が港に戻って、宿から駅へ向かうとき、棟方は大切な時計を「旅館に忘れて来た」とまたひと騒ぎを演じたあと、上機嫌で浅虫温泉の椿旅館に帰って行った。浅虫から帰京した棟方は、間もなく東奥日報社主催の「在京芸術家座談会」に出席した。座談会の席上で、太宰治を辟易させた棟方の躁状態は、夏からずっと引続いていたものであったのだ。
相馬貞三から「ことしもまた志功画伯がやって来る。家に遊びに来ないか」という手紙を受取ったとき、平山文三郎は飛び立つおもいで五所川原から出かけて行った。二年前に棟方に描いて貰った松の樹の屏風は、相変らず「虎か、竜か」と物議をかもしていたのだけれども、かれは棟方の画と人柄に、すっかり魅せられていた。
南津軽郡の唐竹にある相馬の家の十町歩に及ぶ林檎園は、かれの父が明治の中期にひらいたものであった。父親は水田の耕作にあまり適しない唐竹の村民に林檎の栽培をすすめ、当時としては珍しい共同選果、共同販売の産業組合を設立していた。相馬が東京での遊学中に柳宗悦の門に入り、郷里に帰って民芸運動を始めていたのは、そうした父親の精神を継いでいたからでもあったのだろう。また後で詳しく述べるように、画家棟方志功の誕生も、明治から大正、昭和の初期にかけて、本州北端のこの地方に広がっていた|初初《ういうい》しいハイカラ趣味と、一種の信仰に近い芸術愛好心、それに暗く切ない北国の暮しを少しでも明るいものに変えて行こうとする理想主義的な傾向といったものと、切離すことができないのである。
相馬の「小屋」は、陽当りのいい南に面した台地の上にあった。背後の丘陵は杉林に覆われて冬期の北風を遮っており、夕暮れになると野鳥が群れ集まる|塒《ねぐら》となるので、かれはそこを帰鳥山房と名づけていた。この命名には、東京から郷里へ帰って来たかれのおもいも籠められていたのかも知れなかった。平山が相馬の家に着いたのは午後の三時ごろで、前日から来ていた棟方志功は、すでにこの日の制作を終えて、抹茶を喫していたところだった。画室に当てられた十畳の部屋には、生乾きの画が一面に並べられていた。棟方は茶を飲みながら、相馬をはじめ地元の人たちをまえにして、さかんに空海や鉄斎の書を論じていた。話題は鉄斎の書から画に移った。
「晩年の鉄斎の画は、黙って目をつぶっていても仕上がるといった|趣《おもむき》があって、まさに画境円熟したものといえる。したけんども、鉄斎の画さ出て来るのは、胸中に万巻の書をたたんでいる文人であり、山中の霞のなかさ住んでいる仙人であり、脱俗の高僧といった人物だ。ぼくの画はそうでない。ぼくの画さ入って来る人物は、何もそすた高僧や仙人である必要はない。そのへんを歩いている爺っちゃでも婆っちゃでもいいんだ。たとえば、何も曲りくねった杖をついている老人でなくても、この暑い夏のさかりに、冬のスキー帽をかぶって歩き回っている人物など、もって来いだということになる」
夏のさかりに冬のスキー帽をかぶっている人物、というのは相馬貞三のことである。緊張して棟方の鉄斎論に耳を傾けていた一同は、その一言でどっと笑い崩れた。棟方の座談は身振り手振りをまじえて話し始めると文字通り口角泡を飛ばして熱狂し|止《とど》まるところを知らなかったが、しばしばそうした|諧謔《かいぎやく》がさし挟まれるので、聞いていて飽きるということがなかった。
話が一段落したとき夕食にはまだ間があったので、一同は帰鳥山房の背後にある丘陵の尾根に登った。尾根の東から南にかけて、櫛ヶ峰など十和田湖を囲む山山、そして矢捨山、阿蘇ヶ岳……等等が、陽の傾きかけた夏空の下に連なっていた。相馬はそれらの山をひとつずつ指さして名前を告げていった。棟方は双眼鏡を目に当てたまま唸り始めた。その唸り声に調子づけられて、相馬は一段と声の高い演説口調になった。
「続いてあの牛の寝そべるがごときが|阿闍羅《あじやら》山。あの山曇るとき、唐竹は必ず雨となる。これすなわち|泣面《なきつら》山の称あるゆえん……」
「うーん、泣面山か。感じがあるねえ」
棟方の感歎の唸り声も、ますます高くなった。相馬の指さす先が、西に、尾開山、久渡寺山と移って行って、最後に岩木山に達したとき、津軽平野の真中に|裳裾《もすそ》を引いて浮かんでいる海抜千六百二十五メートルの山容は、夏の夕焼けの空を背景にして、ほの黒い青一色に染められていた。
「広重だア。広重の色だア!」と棟方は絶叫した。
毒舌の達人であった葛西善蔵は、帰郷したとき弘前公園から岩木山を見て、石坂洋次郎に向かい「岩木山、岩木山って土地の人は騒いでいるが、あたりに山が一つもないから高く見えるだけで、あんな山、物の数でもない。みすず刈る信濃の国へ行ってみたまえ。あんなもの、山とは言わないよ。津軽衆もまたかくのごときか。|喝《かアつ》!……」と一喝したというが、棟方は夕暮れの岩木山を見て「ヒロスゲの色だア!」と絶叫しながら感動に全身を震わせているようであった。
その夜は例によって大騒ぎのうちに就寝し、翌朝、葉書をかいて朝食を済ませた棟方は、相馬が墨を摩り終えるのを待ちきれぬ表情であった。「まだでせ、まだでせ」相馬は墨を摩りながら棟方を制した。不十分な量の墨で制作に取りかかり、途中で感興が中断されることを恐れていたからであったのだが、棟方は待ちきれずに筆を取って描き出した。隣室で相馬夫人も墨を摩り始めた。すぐに用意していた六つ切りの画仙紙が足りなくなり、相馬は画仙紙の裁断に取りかかった。
平山は洗筆の水を取換えるために何度も画室と台所のあいだを往復した。見る見るうちに画室一杯に広がっていく画仙紙に描かれているのは、泣面山や夕焼けの岩木山の姿であった。そして人物画に出て来るのは、きのう棟方が話していた通り、相馬貞三や相馬夫人の顔なのである。棟方は急に筆を置いた。携帯して来た荷物の中から小型の折本を取り出すと、床の間の朝鮮白磁香炉に香を焚き、印を結んで、なにやら呪文のような文句を唱え始めた。「これが始まれば、いよいよでせ」と相馬は平山の耳元で囁いた。
「ノウマク、サマンタ、バザラダン、センダ、マカロシャダ、ソハタヤ、ウン、タラタ、カン、マン……」
それは|慈救咒《じくしゆ》ともいわれる真言の不動|陀羅尼《だらに》だった。密教において神秘的な力を持つと信じられている陀羅尼の呪文を、大声で唱え続けているうちに、棟方の額と頬から大粒の汗が滴り落ちて来た。全身は小刻みに震えていた。やがて眼を大きくかっと見開いた棟方は、仁王立ちになって筆を握ると、数枚の不動明王をみずから不動明王のような凄まじい形相になって忽ちの間に描き上げた。息を詰めて見守っていた平山は、棟方がふたたび筆を置いたとき、それまでの緊張をにわかに解かれて、がっくりとその場にへたりこみそうになり、しばらくのあいだ呆然自失していた……。
当時の棟方には、こうした創作時における異常な熱中ぶりを伝える逸話が、まことに多い。関野準一郎が家に泊めて貰ったとき棟方がみみずくと話をしながら制作を続けていたというのとおなじころの話を、親友であった蔵原伸二郎は次のように書いている。
――志功は今の家のすぐ近くの家でみみづくと二人で暮してゐた。その頃私は一番遊びに行つた。よくそのみみづくと大声で話しながら、冬の寒い日にも汗びつしよりかいて版画を刻つてゐた。誰れか来てゐるのかと思つて覗いて見ても誰れもゐない。オイと声をかけても返事もしない。まるで阿修羅のやうな恰好で夢中なのである。仕事をしてゐる時は大声で一人言をいひ、相手を寄せつけないのである。一時間も私が側にゐるのに、まるで初めて見付けたやうに|吃驚《びつくり》して抱き付いて来たりした。……
友達が側にいるのに一時間も気がつかない、というのは、まさに異常なまでの熱中ぶりだ。また保田與重郎は、棟方が出征兵士のために虎の画を描いている場面を目撃し、揮毫を終えた画を神棚の前に下げ、全身をふるわせて祈願したあと、
――彼はつつと頭を上げると、神棚に奉斎した河井寛次郎翁制作の徳利を、全く鷲づかみといふ形でとりあげた。同時に左手が神前の猛虎図をさつとつかみ上げると、仰向いて徳利飲みに一口、がぶりと大口に神酒をふくんだ。それから神前に向つたまゝ、左手の猛虎図をかゝげ、その大口にふくんだ神酒を、勢すさまじく大音荒く、自作の虎図に向つていぶき吹きはなつたのである。酒気濛々とする中で、私はこの異状な祈祷に感銘久しくしたことである。
このすさまじい祈願の式は、人の普通に云ふ意味の考案によつて出来たものでなく、まして人を驚かすことを意識したものでない。(中略)私は、霊異といはれるものをあり/\と感じた。怖ろしい神の如き人間を、私はわが眼でまさしく見た。これこそ私の見てきた画伯の、その人となりと芸業に最もふさはしい振舞の甚しいものであつた。……
と書いている。津軽のイタコ(巫女)も呪文を唱え続けるうちに、いわば観客のまえで仏になりかわるのだから、棟方が人前で霊異を現わしたとしても別に不思議はないのかも知れない。けれどこうしたとき棟方は、本当にそばで見ている人間を意識してはいなかったのであろうか。この点について、熱心な後援者であった大原總一郎の興味深い観察がある。
――棟方の中には二人の棟方がいる。彼はその門衛と二人住いだ。われわれが日常接するのはその中の門衛の方だ。その門衛は本物の棟方の衣裳を借り、その代演もやれば、雑用にも精を出す。門番とはいえなかなかの人物で、俳優にもなれば演出家にもなることができる。……
二
「そうです。その計算がいけないんですよ」
興奮した棟方は、近眼鏡の奥で眼を大きく見開いた顔をまえに突き出して、声がいっそう高くなった。
「人間のすることは高が知れたもんですよ。それを大抵の絵描きは、ここの色はこうだから、こっちのほうにはこういう色を使えば効果が出る、なんて浅はかに考えている。そすたこと、なんぼ計算したって、たとえ成功したところで、もう限界は判ってるんですよ。要するに、絵というものの形式にばかり|囚《とら》われでるんですね。それで一作仕上げると、画面の構成だの、そすたことで満足してしまう。実は絵はどこにもない。あるのは、絵みたいなもの、ばかりだんだ。まず、人間のすることなんて大したもんじゃない、ということを知ることですよ。といっても、人間は神にはなれませんから、鬼になって生きるんですよ。指が三本になっても、爪立てで、ガリガリと生き抜き、描き抜くんですよ」
そういって棟方は、本当に畳に爪を立て、ガリガリと引っ掻いた。夏の浅虫温泉の椿旅館の一室で、「月刊東奥」誌のためにインタビューしていた作家の|沙和宋一《さわそういち》は、この人はまるで本当に鬼に取憑かれているみたいだな……とおもいながら、一方では棟方の大声に、隣室でチヤ夫人に|守《もり》をされて昼寝をしている末の娘さんが目を覚ますのではないか、とはらはらしていた。インタビューの途中で、あなたの絵は実に大胆不敵ですね、と沙和がいい、いや、出来上がってみると、おもいがけない間違いをしているのに気がつくこともあるんです、したけれども、それはそれでいいんですよ、その間違いがまた、面白いものになっているんですから……、と棟方が答えたのに対し、なるほど、文学もそうですね、計算だけの作品は、結局その計算を越えることができない、沙和が自分も小説を書いている経験からそう相鎚を打つと、「そうです。その計算がいけないんですよ」と真剣な面持で|頷《うなず》いた棟方は途端に熱狂して口角泡を飛ばし始めたのである。
部屋の縁側から見える旅館の庭には、椿の葉が繁って夏の陽光を照り返していた。棟方の大声が止むと、沙和の耳には急に近くの山から聞こえる|蝉《せみ》の声が響いて来た。沙和は話題を変えて訊ねた。
「あなたはよく鉄斎に比較されますね。志賀直哉の『早春の旅』にもあなたの作品のことが出ていますが、富岡鉄斎について、どうお考えですか」
この昭和十六年の一月から四月にかけて、志賀直哉は文藝春秋に『早春の旅』という作品を発表しており、そのなかに鉄斎と棟方について触れた一節があった。沙和はそれを話題にしたのである。その一節というのは志賀直哉が京都五条坂の河井寛次郎宅を訪れて、
――河井君の所では田舎造りの炉ばたで、奥さんのおてまいで茶を御馳走になり、気楽に話した。近江辺の古い民家の話、琉球の話、棟方君の描いた大原孫三郎氏の所の襖絵の話。河井君は、「鉄斎以上ですよ」と云つてゐたが、本物を見ずに反対するのも変で、そんな筈はないと思ひながら黙つてゐたが、その後で、今日午後榊原紫峰君を訪ね、今度造つた自慢の庭を見せて貰ふつもりだと云ふと、河井君は言下に、
「それはいい筈はないですよ」と云つた。自分は棟方志功の「鉄斎以上」に遠慮してゐて損をしたと思つた。……
と書いているくだりであった。つまり棟方は尊敬している河井寛次郎によって「鉄斎以上」という絶大な評価を与えられていたのだ。その鉄斎をどう考えますか、という沙和の問いに、「富岡さんは、偉いとおもいますね」と棟方は話し始めた。
「鉄斎の絵には、いまの絵描きの絵のような、おもわせぶりがない、権謀術数を用いるようなところがない、まったくケレンがないんです。一枚一枚に、鉄斎が生きている。成功したものは成功したものなりに、失敗したものもそれなりに、鉄斎の生命が脈脈と波打っているんですよ。そして最後まで、まとまらなかったところに鉄斎の偉大さがあるんですね。八十九歳の十二月二十五日に死んだんですが、鉄斎には死ぬまで自分の絵が不満であったろうとおもう。鉄斎は自分の絵に不満を持ちながら死んで行ったんだとおもう。しかしぼくはそこに、鉄斎の本懐を見るんですよ」
棟方の鉄斎論は、なかなか尽きなかった。このころの棟方の頭のなかには、いつも鉄斎のことがどこかにあったのに違いない。ことしの夏は、これからどちらへ行かれますか、という沙和の質問に、「ずっと北のほうへ行きます。北千島までは行けないが、根室から千島を半月あまり旅したいとおもっています。なにかしら『北』の生命に触れたいんです。チェーン、網、いのち……」と答えているうちに棟方は言葉ではもどかしくなったのか、机上のシャープペンシルを取上げ、力を籠めすぎて何度も芯を折りながら紙に|蜘蛛《くも》の巣のような模様を書き、それから筆で太い鎖を描いて、「これなんですよ。これを千島で見たいんです」といった。
沙和はそれらの文様を、なにかの象徴のように解したのだが、棟方の頭のなかにあったのは、やはり鉄斎のことであったのではないかとおもわれる。鉄斎は明治十四年、四十六歳のときに東北と北海道を旅して、千島の|択捉《エトロフ》島にまで達している。北海道を旅しているあいだ、かれはアイヌ人の生活に強い興味を持って、数多くの写生画を描いた。それから択捉島へ渡るとき、次のような詩をあらわした。
北門鎖鑰近如何 独抱杞憂説向誰
欲試千洲開拓策 単身孤剣入蝦夷
(北門の|鎖鑰《さやく》に近く|如何《いかん》せん、独り抱く杞憂を誰に向かって説かん、|千洲《ちしま》開拓の策を試みんと欲して、単身孤剣|蝦夷《えぞ》に入る)
この詩のなかの「鎖鑰」というのは「外敵の侵入を防ぐ要所」という意味で、国士をもって任じていた鉄斎は、北辺の防備を憂いて択捉島に渡ったのだった。棟方は、鉄斎の死んだ日を八十九歳の十二月二十五日(実際には三十一日であるが……)と覚えていたくらいだから、鉄斎の事績はかなりくわしく調べていた筈であり、その千島行と詩を知って、自分もおなじ旅をおもい立ったのだと考えることは、さほど不自然ではないだろう。そう考えれば、棟方が「根室から千島にかけて半月あまり旅したいとおもっています」といって口にした「チェーン、網、いのち……」という意味のつながりが不明な言葉と、鎖の絵を描いて「これなんですよ。これを千島で見たいんです」と語ったことが、それこそ一連の鎖のように|繋《つなが》って来る。おそらく棟方は、鉄斎のあとを追って、千島への旅に出ようとしていたのだと考えて間違いあるまい。
大体において棟方が目標にしていたのは、つねに第一流の人物ばかりであった。西洋ではゴッホであり、のちにはピカソであり、同時代のわが国では洋画の梅原龍三郎、日本画の横山大観のほかに尊敬する画家はいない、というのが棟方志功である。そしていま、近代日本画壇において抜群の高峰であった大画家鉄斎を「富岡さん」と呼び、その足跡を北のはてまで追いかけて行って、鉄斎が目にしたものを自分も見極めつくそうとしている棟方流もまた、かれの画業を推し進める原動力のひとつであったのに相違ないとおもわれるのである。
「あなたは青森っ子ですか」
沙和宋一はまた話題を変えた。
「そうです。生粋の青森っ子です。外ヶ浜と|善知鳥《うとう》の空気を吸って育ったんですよ」
と棟方は答えた。地元の人間なら当然知っている筈のことを質問したのは、沙和が東京から青森へやって来た人間だったからで、かれは東京の下町の印刷所で文選工として働くかたわら、|添田《そえだ》知道らがやっていた浅草中心の小雑誌「民衆娯楽」の常連投書家でもあったのだが、弘前の茶太楼新聞からの要請をうけた添田知道の紹介で、そこに勤めることになり、やがて東奥日報社に転じて、青森に住むようになったのだった。そうした沙和宋一にとって、目の前にいる棟方志功は、日頃接している青森の人たちと、まったく違った型の人間のようにおもわれたのだ。棟方が生粋の青森っ子であると聞いて、「へえ!?」と沙和は首を傾げていった。
「ざっくばらんにいうと、こいつはちょっと、嘘みたいだな。ぼくはあなたの絵を見て、途端におもったことがあるんですよ。棟方志功が青森から出たとは奇蹟だ、とね。この青森の新開地風で植民地的な雰囲気は、根っこの強い芸術を生む土壌ではないんじゃないか、とぼくなんかおもっていたんだけど、こりゃあ認識不足だったかな」
沙和はそういって頭を掻いたのだが、これは必ずしもかれの認識不足ではなかったろう。沙和の眼に映ったように、当時の青森は、すこぶるハイカラ趣味の横溢した町であった。そのことは港町である青森の成立ちに関係している。
かつての青森は、善知鳥村と呼ばれて、戸数僅か六十数軒の寂しい漁村であった。そこに津軽家の森山弥七郎が開港奉行となって赴任して来たのは、三百何十年かまえの寛永元年(一六二四)のことである。かれは港を開き、三つの町割りをして、移民を奨励した。新たにできた本町、浜町、米町の三町には、江州、加賀、越後などから人人が移り住んで来た。移住民の大半は、諸国を渡り歩いて、さまざまな辛酸をなめたのちに、ようやく本州の北端に|辿《たど》り着いた人たちだった。こうした成立ちからして、青森は確かに新開地であり、あるいは津軽家の植民地であったといってもよい。
その青森にハイカラ趣味が横溢し始めたのは、二つのことに関係がある。ひとつは明治三十九年の四月に、本州北部における唯一の貿易港として指定されたこと。青森の近くにある|野内《のない》には、英国ライジング・サン社の石油タンクが新設され、このときから青森港には、石油を運ぶ英国船や、鮭鱒などを運んで来るロシア船が入港するようになった。写真に残されている当時の青森港の光景を見ると、いまより遥かにエキゾチックな印象を受ける。貿易港開港の三年まえに生まれた棟方志功は、そうした海を見て育ったのだった。
もうひとつのことは、貿易港の開港から四年後、棟方志功が六歳のときに起こって、殆ど全市を焼払った大火である。この大火は、いろいろな意味で後年のかれに、決定的な影響を及ぼしたようにおもわれる。そのことはさておくとして、それまでの青森は市とはいっても、|柾葺《まさぶ》きの屋根の上に重しの石塊を並べた灰色の家なみの広がりにしかすぎなかったのだが、一面の焼跡に復興工事が始まると、棟方の家に近い町の中心部には、ハイカラな洋館風の建物が次次に建ち始めた……。青森が新開地風で植民地的である、という沙和の意見を、棟方は否定はしなかったが、反撥する口調でこういった。
「青森市っていいますけれども、ぼくの場合は青森市というより、『北』といい換えたいな。北に生まれたということを、ぼくは誇りにおもっている。いまの日本の文化に、北の逞しい息吹きをふっかけてやりたい。そういう意味で、ぼくは北に憧れ、北を愛するんですよ。現象としての青森市なんかじゃないんです。しかし……」棟方は、ふっと珍しく溜息まじりのように静かな口調になった。「昔の善知鳥は、よかったですよ。ぼくはどうして善知鳥という地名を、そのまま残しておいてくれなかったのかとおもう。いまの青森はよくなったのか、悪くなったのか判らない……」
棟方は、大火で焼けてしまうまえの青森を、つまり柾葺き屋根の上に石塊を載せた灰色の家のつらなりであって、どこかに寂しい漁村であった昔の善知鳥村の面影を残していた町並みを懐しんでいたのだとおもわれる。そしてかれがまえにいった「外ヶ浜と善知鳥の空気を吸って育ったんですよ」という言葉も、すでに失われてしまった町の空気を指していた筈なのであったが、沙和はそれに気づかなかった。「判りました」といったんは頷いたものの、かれはもういちど反論を試みた。
「だけど、まだ納得できないところがあるんですがね。もちろん一般的な現象は、問題じゃない。問題は、作家の血というやつなんですよ。ぼくにはどうもあなたが不思議でしようがない」
沙和には、棟方の存在が青森には似つかわしくないようにおもえてならず、まえに一度も会ったことのない特異なタイプのこの芸術家の血が、一体どこから生じて、どのように流れて来たのかを、どうしても知りたいという衝動を抑えることができなかった。沙和が血の流れの問題にこだわっていたのは、かれ自身のなかに、茨城県に生まれて故郷の町の小学校を中退してから、東京、弘前、青森と渡り歩いて来た流れ者であるという意識があったせいなのかも知れない。
「ぼくが生まれ育ったのは青森ですが……」と棟方は答えた。「祖先は弘前なんですよ。津軽藩に棟方月海という人がいて、四代まえに外ヶ浜へ移って来たというんだけれども、くわしい系図やなんかは兄貴のところにある筈です。福士幸次郎さんが調べたところによると、棟方という姓は九州から流れて来たものだともいいますね。初めは宗像であったのが、棟方と変ったらしいんですよ」
「なるほど。何だか棟方芸術の血脈が、だんだん判って来たような気がしますね」
沙和は、棟方の血も南の九州から、本州を北上してこの青森に到達したものであるらしいことを知り、なんとなく満足感を覚えてその話を打切った。それから沙和は棟方と一緒に椿旅館の風呂に入った。棟方のいかにも頑健そうな体は毛深くて、胸のあたりにも両脚にも縮れた毛が一杯に生えていた。
柳宗悦はこの毛の濃さと、棟方が青森に生まれたことから「彼は必定アイヌの子孫だと思ふやうになりました。毛むくぢやらで、見るからに変つてゐます。普通の大和人ではありません」と書き、のちに谷崎潤一郎も「あの独得な津軽弁の物の言ひ方、アイヌの血が混つてゐるかと思はれるあの皮膚の色、何一つとして人を驚かさずにはおかない」と書いている。
沙和は知らなかったことだが、東京へ出て行ったばかりの若いころ、棟方は決して仲間と一緒に銭湯へ行ったことがなかった。ある日、仲間はいやがる棟方を抱え上げるようにして銭湯へ連れて行き、むりやり裸にして、それでもふんどしだけは脱がずに抵抗している棟方を、力まかせに湯舟のなかへ飛び込ませてしまった。すると、さっきから田舎弁を丸出しにして馬鹿な真似をしている連中の大騒ぎに|顰蹙《ひんしゆく》していたらしい先客の老人に、「湯てえもなあ、ふんどしをしたまま入るもんじゃねえ!」と叱られて、棟方はほうほうの|体《てい》で銭湯から逃げ出したのだった……。けれどもいまの棟方は、すこしも裸身を恥じる気配がなく、沙和を相手に意気軒昂として芸術を論じ続け、その快活な大声は浴室の窓ガラスを揺がせているようであった。
三
太宰治は、このころの棟方について、
――棟方志功氏の姿は、東京で時折、見かけますがあんまり颯爽と歩いてゐるので、私はいつでも知らぬ振りをしてゐます。……
と地元の雑誌に書いている。人並み外れて個性的であったこの二人が、意識的であるのと、無意識的であるのとの違いこそあれ、実はともに天性の俳優でもあったのだとすれば、太宰が棟方に知らぬ振りをしたかったのも、当然であったようにおもえる。さらに二人に共通点があったとすれば、そのあらわし方が|甚《はなは》だ対照的であった自己顕示性のほかに、ときに道化を演ずるのをいとわなかった、ということだろう。太宰は作品のうえで自分をピエロ化し、棟方は子供のころから、実生活においてたびたび道化者のように目されて来たという違いはあるのだが……。また太宰はこの数年まえ、ある雑誌から故郷に贈る言葉を求められて、
――汝を愛し、汝を憎む。
と答えている。それに対して一方、棟方ほど生涯を通じて、故郷への愛着だけを語り続けた人も珍しい。沙和宋一のインタビューに、棟方が繰返し口にしたのも、故郷への愛着の念であった。
「郷里に帰っておもうことは、年年郷土が美しくなるということです。きのう八甲田山を眺めましたが、見ているうちに自然と頭を下げたくなるんですよ。昔、青森の裁判所で働いていたころ、よくこの浅虫へ弁当箱をぶら下げて写生に来たもんですが、いまもその十何年まえとおなじように、浅虫の海には三角波が立っている。風景は昔も今も変っていない筈なんだけれども、ぼくには故郷がだんだんよくなって来る。人でもない、どこがどうという個個のもんでもない、全体としての郷土のよさが、年とともに判って来るんですね。やっぱりそれは、見る眼が違って来るから、生きる眼が年年新しくなって来るからなんですね」
棟方の口調の熱っぽさが、帰るべき故郷をなくしていた沙和には、羨ましくおもえてならなかった。
「たとえば、この草花でもそうですよ」棟方は机の上の花瓶に差してあった百合を、いとおしそうに指先で撫でながら言葉を続けた。「どこにでもある草花で、東京で見れば何でもないものでも、故郷の土のうえに育ったものだとおもうと、なんともいえない生命を感じる。北の息吹きのようなものを感ずるんです。美しい。実に美しい……」喋っているうちに、棟方の大きな声にはいっそう熱気が加わって来た。「この椿館の庭には、|鶺鴒《せきれい》がよく飛んで来るんだそうですよ。東京では籠の中で飼うあの高価な鶺鴒が……。こうすたところが、やはり郷土のよさでしょうね。ぼくはその鶺鴒を、ぜひ見てみたいとおもってね」
「鶺鴒も、その草花も美しいでしょうし、この宿も古い落着いたいい家ですが……」と沙和はいった。「ぼくは実は浅虫を軽蔑していたんです。妙に都会的な洗練の真似ごとみたいなものが目について、浅薄で、箱庭みたいで、それから、成金趣味みたいで……」
沙和はさっきから、かなしみを帯びて胸底に|蟠《わだかま》っていた微かな反撥を、どこに向けようもないまま、浅虫に対して続けざまにそう口に出したのだが、棟方は外の庭まで響き渡るような大声で笑いながらいった。
「そうそう、浅虫を外見で見ればそうでしょう。しかし、よく見れば、ちゃんと浅虫のいいところがあるんですよ。浅虫の本当のよさが、東京文化で隠されてすまっているんですな……」
実際には棟方も、沙和に近い感想を抱いていたのに違いない。数年まえにかれは『|麻蒸《あさむし》風物』という随筆で、青森の裁判所の弁護士控所に勤めながら写生に通っていた当時を追想して、
――その頃の麻蒸温泉は、今の麻蒸よりも|殷盛《いんせい》なものがあつた様に思はれる。街の姿には、変りはないが、湯気を肌に匂はせる気分は、丸つ切り無いのだ。……
と、昔にくらべて今の浅虫への不満を述べている。かれが懐しんでいたのは、たとえば八幡神社に近い坂小路の段段を登って行くと、両側の料亭や飲み屋の窓に肘をかけて、くたびれた日本髪の|髷《まげ》をがっくりと傾かせ、白粉が|斑《まだら》になっている女たちの首のあたりに漂っていた倦怠感と温泉のにおいだった。客の袖を引いたり、無理に手を取ったりすることはあまりなく、ただ声をかけて呼ぶだけで、温泉女の開き直った強気を表にあらわすことが少ない彼女たちの態度には、やさしい情のようなものさえ感じられた。
|就中《なかんずく》かれに懐旧の情を催させていたのは、町のなかにあった「はだか湯」の存在であった。十数年まえのそこは、だれでも無料で入れる湯で、湯気の洩れている建物の隙間から、朝となく昼となく夜となく、桶の湯に触れる音が「ポン、カッポン、ポン」と気持よく暖かそうに濡れて響いていた。それがいまは有料の銭湯になっている。
新しくできた臨海実験所と水族館の建物も、かれには気に入らなかった。以前の景色がすっかり壊されてしまい、岬の一部が天辺から削り取られて、恐ろしく風情が乾いてしまった、駅と水族館を結んでいるバスの料金が、距離のわりに高い、裸島の頂上に硝子の玉や風向計をつけたのは、もってのほかの悪いしわざだ……、そういまの浅虫に対する不満を並べたあとで、かれは泊っている椿旅館の、その名前の通り二株の大椿が植えられている庭に、毎朝おなじ時刻に名も知らぬ鳥が飛んで来て、「スッピッチョン、スッピッチョン」と障子の外で鳴き、昼には蝉時雨が聞こえ、夜になると虫の音が地から湧いて来る風情への讃辞をつけ加えて、――浅虫の地名は、昔は麻蒸で通じてゐたものだつたと聞く、わたしは矢張り昔名を此の題に用ひて此の随筆に『麻蒸』を使ふた。……とその文章を結んでいた。
青森が善知鳥という古名のままであってほしかった、と望んでいたのとおなじように、ここでも棟方は、麻蒸という古名に執着し、昔の浅虫を懐しんでいる。明らかにかれは、ノスタルジーにとらわれていたようにおもわれる。かれ自身としては、そうした感情を、必ずしも|退嬰《たいえい》的なものだとは考えていなかったのだろう。おなじころ鉄斎を論じた文章に、かれはこう書いている。
――中年期も、初老期も、渾然として画境に入つた晩年期さへも、全体を通じて結局、彼の仕事には、最初の|こくめい《ヽヽヽヽ》に描かれたものを繰り返さうとする(さう言つては狭過ぎるとすれば――)そこへ織り返さうとするノスタルヂックな気持が絶えず働いてゐたのではないかと思ふ。その気持は、もつとも、あの逞しさに溢れた線や色彩を見てもわかるやうに、逃避とか退嬰とかいつた大気持とはまるで異つたものではあるが――。……
いうまでもないことであろうけれども、作家の議論は、ほかの作家を対象としているときでも、実は自分自身の投影であることが多い。棟方もまた最初に描こうとしたものへ、絶えず「織り返そう」としていたのかも知れない。
「きのう八甲田山を眺めましたが、見ているうちに自然と頭を下げたくなるんですよ」と棟方は沙和にいった。描こうとする対象に頭を下げる。これは棟方が絵を描き始めたころから、一貫して変らない態度であった。関野準一郎は、地元の人から「絵馬鹿のスコ」と呼ばれて半ばピエロ扱いされていた若き日の棟方が、戸外で絵を描き終ったあと、対象の風景に最敬礼して、「どうも有難うございました」と大声で叫ぶのを見ている。棟方が「頂上に登ると日本の国幅が見える北の屋根」と呼んだ八甲田山に対しても、若いころからそうだった。話は十二年ほどまえに溯るのだが……。
昭和四年の夏――。二十五歳の棟方は、青森から歩いて、八甲田山中の|酸《す》ヶ湯温泉にのぼって来た。棟方は前年の秋に油絵『雑園』によって、念願の帝展初入選を果たしていたのだが、つんつるてんの紺絣の着物によれよれの三尺を締め、履いているのは藁草履、という以前と少しも変らない恰好であった。背中には何枚ものカンバスが、しっかりと括りつけられていた。
酸ヶ湯には、鹿内仙人と呼ばれている山案内人の名物男がいた。青森営林署の巡守をしていたころの(軍帽に似た)帽子をかぶり、黒の詰襟服の胸のあたりに様様なメダルやバッジを勲章のようにぶら下げ、腰に横笛を手挟んでいる。肩から吊している真鍮の軍隊ラッパは、かつて弘前歩兵第三十一連隊のラッパ卒であったことの名残りであった。この鹿内仙人と棟方とは、まえから気が合っていた。ともに奇人変人と見|做《な》され、ときにはピエロ視されて来た二人のあいだには、余人の|窺《うかが》い知れぬ共感がかよい合っていたのかも知れない。棟方は鹿内仙人に案内されて山へ行き、景色のよいところへ来ると、憑かれたようになって油絵の制作に取りかかり、そのあいだ鹿内仙人は傍に坐って、横笛を吹き鳴らし続けているのがつねであった。白い雲が八甲田山の連邦を掠めて行く夏空の下、鹿内仙人の笛が奏でるネプタ|囃子《ばやし》の調べに乗って、棟方はいつも踊るような恰好をしながら、物凄い速さでカンバスに絵筆を走らせていて、たまたま見かけた人に、その光景は山中に忽然として仙境が出現したような不思議な印象を与えた。棟方にとって鹿内仙人の笛の音は、山の霊をわが身に乗り移らせてくれる奏楽のように感じられていたのかも知れなかった。
この年の棟方は、鹿内仙人とともに八甲田大岳に登った。二人には、のちに酸ヶ湯温泉の社長になった売店係の大原誠一も同行していた。鹿内仙人が吹き鳴らすラッパの音に励まされて、背の低い青森トド松のあいだの道を登り、仙人岳の清水のある附近へ達したときだった。
「鷹だ!」
と大原は叫んだ。三人の頭上には、標高千四百七十六メートルの小岳のほうから飛来した一羽の鷹が舞っていた。鹿内仙人は腰の横笛を抜いて、お神楽の囃子を奏し始めた。その調べに乗せて鷹を舞わせようという心組みのようであった。鷹は神楽囃子の音が聞こえたかのように、ゆっくりと弧を描いて舞いはじめた。
「あ、舞ってる、舞ってる」
という大原の声に、
「どれ、どこに?」
近眼の棟方は、興奮した面持で眼を大きく見開き、空中へ視線を走らせて動き回っているうちに、清水のまわりに広がっていた|萢《やち》(湿地)のなかに落ちた。カンバスを背負った棟方は、両膝まで萢に没したまま、上空に両手を合わせて礼拝した。そのとき急に霧がかかって来て、大原の眼には上空の鷹はもとより、近くで笛を吹いていた鹿内仙人の姿も薄れてしまった。それでも棟方は祈願をやめなかった。かれには頭上の鷹が、八甲田の山霊か、画神の象徴のようにおもわれていたのかも知れない。その一心不乱の有様に|気圧《けお》されて、大原も遅れ|馳《ば》せに棟方の背後から、いずことも知れぬ鷹に向かって手を合わせた。
のちに棟方は、このときの情景を『神鷹祭舞の図』という絵に描いて、鹿内仙人と大原の二人に贈った。その鷹の両翼には、丸く白い円が紋のように描かれていた。強度の近眼である棟方に、高い上空を舞っていた鷹の細部まで、はっきりと見えた筈はなく、おそらくそれは、かれの心眼に映じた鷹の姿であったのだろうが、鹿内仙人は、「これは|神鷹《かみたか》だ。志功さんよ、おめはきっと、世界一の絵描きになるべ」と、あたかも津軽のゴミソ(祈祷師)のような御託宣を棟方に告げた。『八甲田山』という随筆に、棟方は酸ヶ湯という地名を、古名にしたがって「鹿湯」と記し、――此の方が此の|湯所《ゆどころ》の気持が床しく溢れて、こころうれしいからだ。……と書いている。人間の風景に対するイメージが、地名の文字の感じによって大きく左右されることは、いうまでもあるまい。故郷の地名を、青森、浅虫、酸ヶ湯……ではなく、遥かに時代を隔てた昔の善知鳥、麻蒸、鹿湯……という地名によって脳裡に刻みこんでいたところからすると、肉体的には近眼であった棟方の心眼に映っていた郷土の風景は、ほかの人とは違って、かなり古色を帯びているものであったのではないかとおもわれる。たとえば、かれが文章に書いている八甲田の姿はこうである。
――大岳の頂上は、何時も深い雲か霧で覆はれて居る日が多い。田茂萢岳は山全体が萢になって登山が不可能とされてゐる。密生の山葦が叢がつて生え、毒虫の巣になつて居る湿地帯の場所だ。赤倉岳は、昔の噴火口で、その火口の紫金の壁肌が何千丈とも知れず、直下に|雪崩《なだ》れてゐる暗冥な景色は身ぶるひする。……
標高千五百四十八メートルの死火山である赤倉岳の火口壁に、何千丈などという地の底にまで達するような深さのあろう筈はないが、あの雪中行軍による青森歩兵第五連隊の遭難の言い伝えも身近に生きていたためか、そうした畏怖の念さえ感じさせる巨大な暗黒の|冥闇《みようあん》を内に抱えこんでいる神秘的な山容が、棟方の心眼に映っていた八甲田山の姿であったのだ。
棟方が人に故郷への熱烈な愛情を|披瀝《ひれき》した例は、それこそ枚挙に|遑《いとま》がない。にもかかわらず、戦争が激化して、渋谷区代々木山谷の家から疎開する必要に迫られたとき、かれは故郷の青森へは帰らなかった。その理由をかれは自伝『板極道』にこう書いている。――疎開先には当然故郷の青森を考えましたが、どうしても故郷には、醜をさらしたくなかったのでした。……
エフリコキ(見えっ張り)の面が強い青森人の性情として、これは考えられないことではない。けれども、だれにもまして見えっぱりであり、例の「在京芸術家座談会」で県人会風の空気に辟易した筈の太宰治でさえ、いったん疎開した甲府でも焼け出されてからは、北津軽郡金木町の生家へ帰っている。また県人会風の寄り集まりを嫌ったのか、「在京芸術家座談会」には出席しなかった石坂洋次郎も、昭和十八年の十月には弘前の夫人の実家の借家に疎開していた。佐藤紅緑は弘前へ帰らなかったが、長く郷土を離れていたのと、かねてから「津軽の人間は、ろくでもない怠け者ばかりだ」と故郷を痛罵していたのだから、静岡県の興津からさらに真山青果の勧めにしたがって信州の蓼科に疎開したのは、それなりに筋が通っているとおもえる。
棟方が昭和二十年の四月に、富山県礪波郡の福光に疎開したのは、そこの光徳寺住職の高坂貫昭師と、松井寿美子医師からの誘いがあったことのほかに、親友の古藤正雄に紹介された易者の占いによるものだともいうが、それにしても、本土決戦と一億玉砕が唱えられ、多くの人が半ば死を覚悟していた時期に、どこよりも一番好きだといい続けて来た故郷に帰りたくなかったということには、解しかねるところが残る。この点について、棟方には口を出していない青森への別のおもいもあったのではないか……と推測しているのが、地元の画家浜田正二氏の意見である。では、抜き難い愛着を抱きながら、ほぼ死を覚悟しなければならなかったときにも疎開したくなかった故郷とは、棟方にとって、いったい何であったのだろう。
[#改ページ]
|善 知 鳥《うとう》
一
昭和十四年の夏のことである。帰郷した棟方は、善知鳥神社へお参りに行った。青森市の中心部にあった生家に近く、境内に昔の海の入江の名残りである沼と、こんもりとした森を持つこの神社が、少年のころのかれの遊び場であった。拝殿も手洗鉢も新しくなっていた。拝殿のそばに石燈籠がある。棟方はそのうえに|攀《よ》じ登ってみた。子供のころ、かれはよくこの石燈籠の天辺に立って、毎年の宵宮に境内で行なわれた仕掛け花火を、群衆のうしろから見ていたことがあったのだが、たとえばこうしたとき、石燈籠を目にして、幼少時の追想に耽る人は少なくないだろう、それを三十代の半ばを過ぎてから、実際にまた攀じ登ってみるところが、棟方らしい。頭のなかで考えたことが、すぐさま行動に直結するのである。
登ってみると、子供の時分は頗る高くおもわれていたのに、その石燈籠は意外に低かった。右手にあって、仕掛け花火の綱を張るのに使われていた銀杏の大木も、海からの潮風で枯れたのか、あるいは風に倒されたのか、消えてしまっていた。かれは自分がただ年だけ取って、大切なものをなくしたような淋しい心持になった。そのときの印象を、かれは「何となく元の頃の空気が、なくなつて仕舞つた様な気がしてならなかつた」…「随分新しくなつた物は、立派になつたが、古いものを想ふこゝろが仲々深くなる」と書いている。そして棟方の追想のなかに現われて来る元の善知鳥神社の風景はまるで夢のように美しいものであった。
――あのアカシアの花が|房《ふさ》に匂うて、あの境内前通りの幅広い堀堰に、水を湛へて水草が浮び、|沢瀉《おもだか》が咲き、あの土堤には、春には|菫《すみれ》が咲き、|蒲公英《たんぽぽ》が実を飛ばしてゐた頃を想ふ。柳が枝垂れて水面の浮草を釣つてゐる事なぞも目にしたものだつた。……
棟方自身、「善知鳥神社の境内は、私を育てた時が、所が、何時、何処にあつても私の身体に附いてゐる様なものだ」と書いているが、この失われてしまった詩的な情景は、のちに「あおもりはかなしかりけりかそけくも 田沼に渡る沢瀉の風」とうたったかれの、生涯、脳裡から離れなかった原風景であったのだろう。
善知鳥神社の森はまた、夜になると、とても一人では通り抜けることができないほど深沈とした畏怖の念を感じさせる場所でもあった。小学校に入ったばかりのころ、かれは黒黒とした夜の森のうえに、赤く長い尾を引いて大きな彗星が飛んでいるのを見たことがある。それはたぶんハリー彗星であったのだろうが、さらに後年には、無気味に赤い十三夜の月のなかに、昔は「伝説の鳥」「幻の鳥」とされていた善知鳥の影を見たこともあった。ほかの人たちの眼には見えなかったのに、近眼である棟方にだけは、それがありありと見えたのだ。
境内に海神様の社をまつっている小さな島を浮かべた沼を持ち、島と岸を結ぶ橋があり、森に包まれている善知鳥神社は、子供たちの絶好の遊び場であったが、棟方にとっては、そうした昼間の美しさと夜の無気味さが入りまじって、いわば一種の迷宮のように神秘的な|蠱惑《こわく》感じさせる不思議の国でもあったのだった。夜は気味が悪いほど静かな善知鳥神社が、にわかに精彩を放つのは、毎年の秋祭りの晩であった。祭りになると、神社まえの堀のなかに立っている棒杭に真新しい縄が張られ、そこに沢山の赤い提燈が吊された。鈴生りの提燈は風につれて動き、水面に揺れている火影とともに人人の心を波立たせた。近眼の棟方の眼に、その光景はあたかも幻燈の画のように花やかに映っていたのではないかとおもわれる。宵宮の呼び物は、高田の花火屋が毎年趣向を凝らして製作する仕掛け花火であった。拝殿のそばの石燈籠の天辺に立った棟方少年が、華麗な光と色彩の饗宴に、大いに熱狂し感嘆したであろうことも想像に難くない。棟方ほど、さまざまな人や物との出会いを、見事に自分の画業に生かして行った人間は少ないとおもうのだが、高田の花火屋との出会いも、その最初のひとつであった。
花火屋の高田与吉は、凧絵師を兼ねていた。棟方はその凧絵を、本当にかれが自分で描いたものではないのではないか、と疑っていた。高田与吉は、アイヌのように黒黒とした髭を顔中にはやしている髭男であったのだが、かれが売っているのは役者絵凧といって、曾我五郎や金時や加藤清正などの顔の輪郭を版面で刷ったうえに、桃色や紅色のボカシを用いて彩色し、役者絵のように仕上げたものであったので、棟方にはその歌舞伎の女形のような顔の美しさと、当人の鬚達磨のような風采とが、なんとなく似つかわしくないようにおもわれていたからだった。つまりそれだけ棟方は、高田与吉の描く役者絵凧のあでやかな美しさに、心を奪われていたということなのだろう。
旧正月――。マッコ(お年玉)を貰った子供たちは、凧を買いに寺町通りにある高田の店へ走る。髭男の親父は無口であったが、細君は大きな声で叫ぶように喋る気さくでしっかり者の小母さんであった。
「|母《か》っちゃ、われさその曾我の五郎の凧ば|呉《け》ろじゃ」
「なにーッ、曾我の五郎? ヘンコ(仙花)一枚のやづな、二枚のやづな?」
ヘンコ一枚を四分の一にしたものが五厘凧、半分にしたものが一銭凧。それからヘンコ一枚、二枚……と大きくなると、値段も倍倍に上がって行く。乏しい銭で自分の気に入った凧を選ぼうとする子供たちと、無口な親父にかわって商売を一手に引受けている細君とのかけ引きで、高田の店先は喧嘩場のような騒ぎであった。そんななかで、店中の凧を食い入るような眼で見つめていた棟方少年は、やがていつのまにか、高田の役者絵凧の描き方を、すっかり自分のものにしていたのだった。
二
「スコ(志功)、絵コ描いて|呉《け》ろじゃ」
小学校の三年ごろになると、級友たちはよく紙を持って来て、かれにそう頼むようになった。一枚描くと、もう一枚紙をくれる。そういう報酬を得て、かれは幾らでも注文に応じて絵を量産した。棟方の図画の成績は、たいてい丙か丁だった。要領のいい級長や副級長は、窓ガラスに紙と手本を当て、下の手本をなぞって描く。当時の図画とは、手本を写すことであったのだから、これが甲である。ところが衣服も鎧も殆ど見えないほど顔だけを紙一杯に描いている高田の役者絵凧に惹かれていた棟方は、手本の気に入った部分だけを拡大して描き、鯛の絵であると、眼を強調して頭の部分だけを描いたりした。それで図画の成績が丙か丁になっていたのだが、級友たちはかれの描く凧絵や役者絵を歓迎していた。
敵をきっと睨みつけている曾我五郎の顔が、棟方の最も好きな画題であった。絵具は持っていないので使うのは墨だけで、高田の役者絵凧でなら、眉と眼のあいだや頬に桃色のボカシを入れるところを、かれは墨で薄くぼかして描いた。それでも原画を知っている級友たちには、その薄墨色のボカシが、本当に桃色であるように見えた。かれらは棟方に描いて貰った絵を凧にして冬空に飛ばした。晴れた青空に極彩色の凧が舞うなかで、黒白二色だけの墨絵の凧は、文字通り異色を発揮していた。自分の絵が、津軽の凧絵とネプタ絵の影響から出発しているというのは、棟方自身よく語っていることであるけれども、簡潔で率直な特徴の強調と、黒白の二色による素朴な表現という二点だけを取上げてみても、この幼少時の絵の描き方は、そのまま後年の棟方板画に通じているようにおもえる。
もうひとつ棟方少年が得意にしていた画題は、映画館の看板で見た尾上松之助の扮している丸橋忠弥の顔で、忠弥の乱れ髪を描くところからが、十八番の芸の見せどころであった。高田の役者絵凧で、髪の毛が、穂先を|潰《つぶ》して広げた筆で描かれていることを掴んでいたかれは、着物の左脇に挟んで墨汁を拭った筆の穂先を口で噛み潰し、ばさばさに広げて、忠弥の乱れ髪を一筆で描き上げた。続いてまた墨汁に浸した筆の穂先に口を近づけて、ぷっと強く息を吹きつける。途端に散った墨の飛沫は、忠弥の顔に生生しい血しぶきを描き出しているのだった。手品を見るようなその鮮やかさに、級友たちはすっかり圧倒されていた。
棟方の凧絵や役者絵に感歎する一方で、子供たちは田圃に囲まれている小学校に近い|安方《やすかた》駅に出入りする蒸気機関車に憧れていた。休み時間などに、「おめ、大きくなったら何になる?」といい合うとき、「われは蒸気機関車の運転士になる」とか「われは大将になる」という者が多かったなかで、棟方だけは、「世界一になる!」と叫ぶのが常だった。それでかれの|綽名《あだな》は「セカイイチ」ということになった。棟方は何になるともいわず、ただ世界一になると唱えていたのだけれども、このころからいつもかれの頭のなかにあったのは、やはり絵のことであったのだろう。
ある日、鍛冶屋をしている父親に使いを命じられて、善知鳥神社の境内を通り抜けようとしたかれは、社務所のそばにあった高さ二間ほどの大燈籠に心を奪われて、その場に立尽してしまった。大燈籠には、一本の木から出ている筈であるのに赤、黄、紫と色とりどりの牡丹の絵が描かれていた。かれはそれを見て、――大人たちは、どうしてこんな嘘の絵を描いて喜んでいるのだろう……、と怪しんだのだ。もっとものちに、本格的に絵の勉強を始めてから、実際の自然とは違うあの絵燈籠こそ、本当の絵であったのだ、とおもうようになったのだが、このときは結局、命じられた用事を忘れて家に帰り、父親に大目玉を食ったくらいだから、棟方は子供ながら絵のことを考えて、よほど深く長い忘我の時間を過ごしていたのに違いない。
善知鳥神社はかれにとって、このようにしばしば時の経つのも忘れさせる場所であった。棟方と善知鳥神社の場合ほど典型的ではなくても、戦前か敗戦直後に育った人なら、おそらく神社の境内で忘我の数時間を過ごした経験があるだろう。夢中になって遊んでいて、ふと気がつくとあたりはすでに暗くなっており、急に怖くなって、逃げるように家へ帰ったときの、あの没我と戦慄の感覚――。たいていの人間は、いつしかそれを忘れてしまうのだが、棟方は大人になってからも、その子供のときの感覚を失っていなかったようであった。それどころか、子供のときの遊び場であった善知鳥神社は、かれ自身がいっているように、棟方の体について離れず、ほぼ生涯の方向を決定づけたといってもよいのである。そのことを物語るためには、しばらくのあいだ時空を超えて、善知鳥の伝説のなかに分け入って行かなければならない……。
善知鳥は青森の旧名であるが、海雀目の海鳥の名前でもあって、ウトウというのは、アイヌ語で「突起」の意味であるという。その名前の通り、大きさがハトくらいで、背面は灰黒色、腹部は白のこの海鳥は、生殖時になると、|嘴《くちばし》にあたかも鼻のような角状の突起を生ずる。その鳥が棲んでいたので、地名も善知鳥と呼ばれるようになったのか、それとも昔のこの土地には、海に向かって突起するように長く伸びている岬があったので、そこからウトウと呼ばれるようになったのかは、よく判っていない。
またウトウには善知鳥のほか、烏頭、悪知鳥という字が当てられることもある。善知鳥と悪知鳥――、この両義性も人の興味を引いたのだろうが、どうしてこのように意味が正反対の表記が生まれたのかといえば、|葦《あし》のしげみに住んでいたので、よし千鳥とも、あし千鳥とも呼ばれていたのに、それぞれ善悪の字が当てられたのであろう……というのが、『善知鳥考』の著者西沢敬秀の説である。善知鳥の伝説は、古くから都に知られていたらしく、
――みちのくの外の浜なる呼子鳥 鳴くなる声は うとうやすかた
という歌が、藤原定家の作として伝えられている。親鳥が「うとう」と鳴けば、雛鳥が「やすかた」と答えるというのが、善知鳥の伝説なのである。この伝説をもとに、室町時代の初期につくられたとおもわれるのが、謡曲の「善知鳥」で、親鳥は雛鳥の巣を海浜の砂のなかに隠しているのだが、猟師が親鳥の声を真似て「うとう」と呼ぶと、雛鳥は親に呼ばれたとおもい、「やすかた」と声を出して、哀れにも捕えられてしまう、そういう残酷な方法で殺生を繰返していた猟師が、|冥途《めいど》へ行ってから、善知鳥の化鳥に追われて苦しめられるという物語である。
だいたい善知鳥の伝説は、地元においてよりも、上方や江戸のほうで有名になっていたようだ。遠い北の果てに棲んでいて、親子で「うとう」「やすかた」と呼びかわすという哀切さが、神秘的な興味を掻き立てたからであろう。江戸時代には山東京伝がこれを芝居に仕立て上げ、滝沢馬琴も随筆に書いている。八代将軍吉宗も善知鳥に強い興味を示し、「是非とも探し出して差し出すように……」と津軽家に命じたとき、地元には善知鳥がどんな鳥であるのか知っている者が、殆どいなかった。津軽家では、善知鳥の姿を描いた古い絵図にそえて、「これは伝説の鳥であり、実見した者は現在一人もいない」と報告したのだが、それから三箇月後に、上磯で一羽の善知鳥が発見された。漁師の網にかかった海鳥が、古い絵図に描かれていた姿と、そっくりであったのだ。津軽家はそれを塩詰めにして江戸表へ送り、吉宗に献上したが、吉宗は塩詰めでは満足せず、「生きたままの鳥を差出せ」と命じて来た。津軽家は外ヶ浜一帯の町奉行を呼び集め、必死になって善知鳥の捜索に取りかかった。
一年ほどして、こんどは一挙に十九羽の善知鳥が捕えられた。今別に住んでいる四郎五郎という名のアイヌが、生け捕りにして奉行のもとへ届けて来たのである。これを江戸表へ送るのがまた難渋をきわめ、十九羽のうち無事に江戸へ着いて、吉宗に献上されたのは三羽だけだった。津軽家はこの善知鳥探しに丸三年を要した。それだけ上方や江戸の人間には強い興味があり、地元の人間にはさして関心のない鳥だったのである。地元の人間はそれまでこの鳥を一般に「はる鳥」とか「鼻鳥」と呼んでおり、善知鳥というのは地名であって、雛鳥の鳴き声であるという「やすかた」も、善知鳥の岬に続いている入江の安潟という地名であった。善知鳥の伝説は、たぶん上方でつくり上げられたものであったのだろう。
棟方も東京に出て十数年たつまで、善知鳥の伝説をもとに、同名の謡曲が室町時代の初期にできていたことは知らなかった。かれにそれを教えたのは、熱心な支持者の水谷良一であった。水谷は実際にその能を舞ってみせた。棟方は不思議な戦慄を覚えた。自分が生まれた土地であって、なによりも愛している善知鳥を舞台に、数百年もまえに都でつくられた物語が、水谷の声と姿によって初めて眼前に出現したのだ。これが版画としては官展はじまって以来の特選を獲得することになる『善知鳥』制作のきっかけであった。
※[#歌記号]娑婆にては、うとうやすかたと見えしも、うとうやすかたと見えしも、冥途にしては化鳥となり、罪人を追つ立て|鉄《くろがね》の、|嘴《はし》を鳴らし羽をたたき……。
水谷の演能が最高潮に達したとき、棟方は興奮がとめどなく高まり、血がざわざわと騒いで、全身が震え出すのを感じた。
三
このとき棟方の体には、善知鳥の魂が取憑いたのか、あるいは、まえから体の底に棲みついて眠っていた善知鳥の魂が、にわかに|蘇《よみがえ》って来たのかも知れなかった。謡曲『善知鳥』の結末は、恐ろしい化鳥となった善知鳥に追われて冥途を逃げ回っている猟師の亡霊の、「助けて|賜《た》べや|御僧《おんそう》」という非痛な訴えである。
※[#歌記号]安き|隙《ひま》なき身の苦しみを、助けて賜べや御僧、助けて賜べや御僧と、言ふかと思へば失せにけり。
水谷良一が強く|留拍子《とめびようし》を踏んで舞い終った瞬間、それまで体を震わせて見ていた棟方は、電撃にでも打たれたかのように、額と両手を畳に摺りつけて平伏した。かれは礼の言葉と辞去の挨拶もそこそこに水谷の家を飛び出し、「善知鳥、善知鳥、善知鳥……」と声に出して叫びながら道を走った。その状態は、ちょうど神社の境内で、長い時間が経つのも忘れ夢中になって遊んでいるうちに、ふと気がつくと周囲は暗くなっており、急に怖くなって逃げるように家へ帰った子供のころの、あの没我と戦慄の感覚に近いものであったのかも知れない。
間もなくかれは版画『善知鳥』の制作に取りかかり、二年まえに『大和し美し』、前年に『華厳譜』を彫ったときとおなじように、殆ど寝食を忘れて仕事に没頭した。一高、東大出の秀才で、古今東西の学問と芸術に造詣が深いうえに、宝生流の能を習っていた商工省特許局課長の水谷良一は、自分で謡曲『善知鳥』を演じてみせたばかりでなく、宝生流の舞台も見せてくれたのだが、棟方はその物語にはとらわれずに、ひたすらそれによって触発された自分の想念を追い続け、黒と白の二色の世界で、能の幽玄さと、ことに北国の人人の深いかなしみを表現しようと試みた。かれは水谷に教えられるまで、謡曲の『善知鳥』を知らなかったのだけれども、その物語の底に流れている哀切な痛苦は、幼いころから体に染みついていたものであった。殺生を重ねることしか生きる方法を知らなかった猟師のかなしさ、死んでから妻子をおもう男の切なさ、「うとう」と鳴く親鳥の呼び声に「やすかた」と答える雛鳥のあわれさ、かつては加害者であった猟師が、いまは化鳥となった善知鳥に追われる被害者となって冥途を逃げ惑う苦しさ……等等を物語る謡曲『善知鳥』の世界は、ほぼそのまま棟方の家族の姿でもあったといってよいのである。
鍛冶職人としての腕を見込まれて、棟方の家へ婿に来た父の幸吉は、博覧会で何度も賞を貰ったほどの名人であったが、その一面、短気な性格で、酒乱でもあったらしく、幼いころの志功は、夜、一合ずつの借り酒の使いに出され、ガラスの|燗《かん》壜を両手に抱えて、この燗壜さえなくなれば……とおもったことが何度もあった、と追想している。あるとき、なにごとかで激昂した父の幸吉は、志功に向かって鉄瓶を投げつけた。志功を|庇《かば》った母のさだは、それを眉間に受けて、長いあいだ頭に繃帯を巻いていた。気性の激しい幸吉に対して、子供たちの楯になっていたさだには、傷の絶え間がなかった。
父親の胸の底には、なにか鬱屈したおもいが渦を巻いていたのだろう。かれには発明の才能があり、自分で工夫を凝らして、足踏み式の|藁《わら》打ち機を完成したことがあったが、それを商売にする才覚はないのだった。またかれは字が非常にうまく、鍛冶屋として立派な腕を持ちながら、かならずしもその職業に満足していなかったらしいのは、長男に家業を継がせるのが普通だった当時において、高等小学校を出た長男の|一《はじめ》を、師範学校に進ませたことでも判る。子供を教員にすることに強い執念を燃やしていた幸吉は、次男の賢三も師範学校の附属小学校に入れようとして試験に連れて行ったが、賢三がトラホームを病んでいたために、これは果たせなかった。ずっと後年に、賢三が油川の自動車学校の教員になったのは、父親の遺志をかなえるつもりもあったのだという。こうした一連のことから浮かび上がって来るのは、一介の鍛冶屋に満足せず、自分が果たせなかった夢を子供に託そうとしていた父親の姿だ。
そのことは三男に対する「志功」という命名からも推察できるようにおもう。この名前は、祖父の彦吉の一字を取り、彦の津軽風の発音であるシコに志功と当てたもので、よくもこれほど後年の人生をぴったり象徴しているような名前をつけたものだ、というよりも志功自身がこの名前に影響されて、そこに籠められていた父親の夢を体現して行こうとした面があったものとおもわれ、また後年の棟方志功は、自分流の造語や当て字を得意としたが、それはまず、この父親の命名に始まっているようにおもえる。
幸吉は四男の名前にも武志郎と「志」の一字を入れたが、かれ自身の人生は、ことごとに志と反する結果になった。持前の職人気質で、気に入らない仕事は引受けなかったり、人の証文に判をついたりしたあげくの借金と利息に追われて、棟方の家は、ろくに粥も啜れぬほどの窮状に陥った。脳裡には大きな夢をおもい描きながら、現実には満足に子供を育てることもできない、そうした鬱屈が、幸吉を大酒に赴かせ、酒乱に導く一因になっていたのだろうか……かれはやり場のない憤懣を家族に向かって爆発させ、妻を|打擲《ちようちやく》した。それでも満十五歳のときに幸吉を婿に迎えたさだは、夫に反抗したことがなく、不平も洩らしたことがなかった。極貧の状態になって、何人かいた弟子の職人もいなくなってからは、さだが幸吉の|先手《さきて》を勤め、足袋|跣《はだし》にモンペの前掛姿で|向鎚《むこうづち》を打っていた。さだの仕事は無論それだけではなかった。
雪が下から吹き上げて来る地吹雪で、僅か一尺さきも見えなくなる青森の真冬は、|鱈《たら》の漁期である。さだは手縫いの指なし手袋から出ている指先に凍りつく冷たさの重い鉄造りの鱈鈎を持って、問屋へ売りに出かけた。日が暮れても帰って来ない母親を、子供たちは寒さに震え、腹を空かせて待っていた。やがて黒い頭巾から藁靴の先まで雪で真白になって帰って来たさだは、懐から湯気の出ている新聞紙の袋を差出した。
「ほら、よくふけだ芋コ!」
それが言わば母鳥の「うとう」という呼び声であり、ふかした薩摩芋に物もいわずむしゃぶりつく子供たちの呼吸と|咀嚼《そしやく》の音が、「やすかた」という雛鳥の鳴き声だったのである。一生をしあわせ薄く過ごしたさだは、四十一歳のときに、肝臓癌で死んだ。生まれてから汽車に乗ったことも、芝居を見たこともなく、ひたすら従順に夫に仕え、子供にありったけの力を捧げつくして、ただの一度も自分の運命に反抗したことのない生涯であった。死体を棺に納めたとき、
「さだ! |汝《が》ば|打擲《へんか》すのも、こいで最後だ。うっと泣げ、泣げ」
幸吉はそういって、自分のほうが大声で泣きながら棺の蓋の釘をむやみやたらに打ち続けていた。おそらくそれが「助けて賜べや御僧、助けて賜べや御僧」というかれの叫びだったのであろう。
四
棟方は、かれの伝記を書いた小高根二郎氏が青森市役所の戸籍謄本によって調べるまで、実際には十五人であった兄弟姉妹の数を、自伝の『板極道』に書いている通り、十二人と記憶していた。
次女のつせは、かれが生まれるまえに死亡しており、また五男彦六郎、八男喜八郎、九男九二夫は、いずれも生後間もなく死んでいるので、そのうちの三人を覚えていなかったのだろう。かれが満七歳のときに死んだ彦六郎という弟までは知っている、というのだが、だとしたら、そのあとで死んだ喜八郎と九二夫を覚えていない、というのには、いささか不審の念が残る。この二人が死んだのは、かれが満で十四歳から十六歳にかけてのころであったのだ。かれより三つ年上の賢三は、二人の弟の棺を担いで、寺の墓地へ埋めに行ったのを記憶している。志功はこのころから、絵のことを考えつめて自分だけの世界のなかに閉じ|籠《こも》る日日が多くなっていたのだろうか。それともかれにとって、それは忘れてしまいたい記憶であったからなのだろうか。
もっとも当時の津軽において、自分の兄弟の正確な数を覚えていないというのは、それほど例外的なことではない。十五人も子供が生まれれば、そのなかの何人かが幼児のうちに死んでしまうのは珍しくなかった。幼児の死は、いま考えるほど非日常的な出来事ではなく、暗く貧しい北国の暮しのなかで、人人は死と隣合って生きていた。だからこそこの地方には、不幸のうちに黙したまま|黄泉《よみ》の国へ去って行った死者を弔うために、イタコを通じてこの世にいい残したおもいを聞こうとする「口寄せ」の風習が、いまに至るまで伝えられているのである。
『善知鳥』を彫り始めた棟方の制作方法は、この盲目の巫女であるイタコの口寄せに、頗る似通っていた。その二年まえに、河井寛次郎の講義を受けて仏教に開眼し、水谷良一から聞かされた華厳経の内容をもとに『華厳譜』を彫ったときのことを、棟方は、
――この板画の制作にかかったとき、お経に出てくる仏だけでは、わたくしの思う華厳にはなりきれない気がしました。そうでなく、自身がもえ上がるような感じで、不動とか、風の神とか雨の神とか、そういった、お経のなかにない、真言の密教の中に入っているべき諸仏諸神をも入れて、板画の世界を織りなそうと思ったのです。それから毎日々々彫りつづけました。仕事というものが、寝食を忘れさせるものだということをこのとき知りました。……
と書いているが、この宗教的開眼とその後の経過が、一人のイタコが生まれるまでと、よく似ているのだ。
かつて青森の名物は、三つのホームだといわれた。プラットホーム、スイートホーム、トラホームの三つである。まず、本州の鉄道と、青函連絡船の埠頭を結んでいる青森駅のプラットホームは、大変に長い、――と、こんなことでも名物にしなければならないほど、ほかに何も自慢できるようなものがない青森は貧しい土地であった。貧乏人の子沢山、これが第二の名物のスイートホームであり、薪や|粗朶《そだ》などの煙が家中に|燻《くすぶ》っている暗く貧しい家庭環境のなかに蔓延したのが、眼病のトラホームである。俗に「津軽の目腐れ」といわれるくらい、この地方には眼を病む人が多かった。十五人の子供が次次に生まれ、次男の賢三と三男の志功がトラホームにかかっていた棟方の家も、こうした青森の典型的なスイートホームであった。
医学の恩恵をあまり受けていなかったころは、眼を病むことが、そのまま失明につながることも少なくなかった。盲目になった男の子は、ボサマ(門付け芸人)のもとへ弟子入りして唄と三味線を習い、女の子はイタコの弟子になって口寄せや占い、|呪《まじな》いなどの修行をするしか、ほかに生計を立てて行く道は殆どなかった。津軽において民謡と三味線が特異な発達を示し、イタコがいまにいたるまで残っている一因は、貧しさのなかに眼を病んで失明する人が多かったからである。
イタコの修行は、師匠の家に住込んで、数百といわれる祭文、経文、呪文の文句を耳で聞き覚えることから始まる。覚えの早い人で三年、普通は五年かかるという文句の暗記を終えたあとで、本物のイタコとしての「許し」――いわば免許皆伝を受けるための儀式は、次のようなものだった。イタコの志願者は、師匠とともに水垢離をとって暗い密室に閉じ籠り、|梓弓《あずさゆみ》の弦を懸命に叩きながら、ベンベンベンベン……というその単調なリズムに合わせて、習い覚えた数百の祭文、経文、呪文を唱え、幾日幾晩にもわたって、食べず眠らず、必死になって神と仏を呼び続ける。これは別に何の宗旨とも関係なく、ありとあらゆる神と仏を呼ぶのである。やがて精神的にも肉体的にも疲労の極限に達して、心神が朦朧となったイタコ志願者の娘は、|神憑《かみがか》りの状態になって、なにごとか意識下に潜んでいた言葉を口走りはじめ、果ては失神してしまう。そして気がついたとき、彼女は「神と仏の声を授かった」とされて、初めてイタコ業を正式に営むことのできる免許を師匠から与えられるのである。
棟方は『華厳譜』を制作したとき、水谷良一から聞かされた経文をもとに、寝食を忘れて彫り続け、華厳経には出て来ない諸仏諸神をも呼び出して、その姿を画面に表現した。『善知鳥』を制作したときも、水谷良一が演じてみせた謡曲の内容には必ずしもとらわれることなく、おもに能の序破急のリズム、宝生流の舞台で接した鼓と笛の調子を体のなかで|反芻《はんすう》しながら、無我夢中になって彫り進んだ。この作品は油絵を描くための桂の四号スケッチ板に彫られており、そのころの棟方はこの柔かい桂が好きで、板の墨の乗り具合が何ともいわれないといっていたというが、それにしても続けざまに三十何面かの板を彫って行くことは、梓弓を叩いて神仏を呼び続けるイタコの「許し」の儀式にも似た懸命の作業であったのに違いない。疲労の極限に達して、無我夢中になり、意識下の世界をさ迷いはじめたイタコの口走る言葉は、神仏の声であり、死者の声であるとされた。イタコが黄泉の国から呼び出すのは、多く不幸のうちにこの世を去って行った死者たちであり、そのいい残したおもいを聞いて成仏を祈るためである。棟方は『善知鳥』について、
――場面は、青森の舞台(外ヶ浜)で東北の人を扱いました。能の場面を避け、白と黒で北国のもっている、悲しいうちに何ともいえない|アワレ《ヽヽヽ》のもえあがってくるものとして、善知鳥の物語を扱いました。……
と書いているが、かれの場合も、制作過程に意識下から蘇って来たのは、すでに鬼籍に入っていた母や父の姿であったのではないだろうか。不幸に耐えている母を打擲し続けた父も、母の死後五年して、あとを追うように死んでいった。後年、棟方が父母を追憶して書いた文章に、それぞれ『哀父記』『悲母記』と題がつけられているところからしても、この『善知鳥』は、しあわせを味わう間もなかった両親と、かれは知らなかったというが幼いうちに死んでしまった姉弟たちへの鎮魂歌でもあったように感じられるのである。
完成した三十枚の版画を、棟方は水谷良一に見せ、そのすすめにしたがって決めた九点を、五十号ぐらいの額縁におさめて昭和十三年の文展に出品した。版画としては官展で最初の、――特選、というその報を聞く二、三日まえ、棟方は|猩紅熱《しようこうねつ》で隔離病院に入れられていた幼い長女と長男が、すでに治っているのに金がなくて退院させられずにいた。このころはかれもまた貧乏な「哀しい父」であったのだった。
五
――青森三馬鹿の一人。
棟方は少年のころから、そう呼ばれていたといわれることがあるが、ほぼおなじ時期に、すぐ近くの家で育った|淡谷《あわや》悠蔵の長篇エッセイ『なつかしの青森』に書かれているところによれば、これは必ずしも正確ではない。三馬鹿は、ヤチャイモ、オンコ、手塚のオンチャの三人であった。
ヤチャイモは、のちの紙芝居屋に近い。軍艦の満艦飾のように紙の小旗や、幕や造花で飾られた屋台を担いで来て、笛、太鼓、|鉦《かね》の音で街頭に子供たちを集め、津軽名物の指人形芝居である「金太豆蔵」を演じて見せながら、ふかした薩摩芋を売る。|洟《はな》を垂らした子供たちに対しても、かれの言葉遣いは、まことに丁寧だった。
「これはこれは、住幸のおんちゃさま」…「大五のおんちゃさま、よくいらっしゃいました」
と、覚えている洟垂れ小僧の名前を、まるで旦那衆のように呼んで、五厘、一銭と芋を販売し、五厘のときは「ハイ、五両」一銭のときは「ハイ、十両」と景気よく叫んで、「毎度ありがとうございました」と頭を下げる。銭をしまいこんだ財布を、くるくると紐で結ぶと、その紐の先端を持って一転させ、鮮やかに着物の懐に納めるのも、かれの芸の見せどころのひとつであった。それからかれは八人芸≠フように笛、太鼓、鉦を一人で鳴らし、満艦飾の屋台を舞台にして、「金太豆蔵」の人形芝居を演じた。演目は、曾我兄弟の仇討や、阿波の鳴門のおつる巡礼記などが多かったが、ヤチャは、そのときどきの時事風俗も、即興で人形劇に取入れた。なにかの選挙があったとき、ヤチャの人形は、政談演説を行なった。手を高く振上げて、「諸君、そもそもいまはこれ、いかなるときぞ!」と叫ぶと、相手の人形は答えた。「田植時である」
当意即妙の才に富んでいたヤチャの人形芝居は、大人にも人気があったが、ときには、すっかり意気|銷沈《しようちん》した姿で現われることがあった。根っからの|博奕《ばくち》好きだったかれは、負けると舞台の満艦飾と人形を借金のカタに取られ、芋だけを入れた屋台を担ぎ、いかにも尾羽打枯した感じになって、|蹌踉《そうろう》と街へやって来た。そうしたかれに向かって、
「ヤチャ、ぼろくそッ」
「芋まで、ぼろくそッ」
と子供たちは|囃《はや》し立てた。ヤチャの顔には天然痘のあとのアバタがあり、青森では|痘痕《あばた》のことをボロクソと呼んでいたのだ。そんなとき、ヤチャは屋台から天秤棒を引抜き、
「この|悪童共《わらはど》ーッ」
と憤激した面持で子供たちを追いかけるのだが、本当に怒っていたのかどうかは判らなかった。棒で打たれたり、掴まったりした子供は一人もいなかったからである。そして子供たちは、夕陽に長く影の尾を路上に引いて去って行くヤチャの後姿を見て、夢から覚めたような淋しさを覚え、自分も家に帰って行くのだった。ヤチャは、やがて芋のかわりに飴を売るようになって、ヤチャアメと呼ばれるようになったが、後年の行方を知る人は殆どいないという。
オンコは盲人で、「姓は加賀、名は松五郎」と、いつも自分でそう名乗った。職業は|按摩《あんま》であったが、浪花節が得意で、その浪花節が「大石内蔵助と吉良上野介、両国橋対面の一席」とか「曾我兄弟いよいよ高田の馬場で、父の仇討つ一席は、いずれまた明晩」といった奇妙きてれつなものであった。それは別にオンコの創作ではなく、盲人であるかれに人人が面白がって教えこんだ支離滅裂なストーリーを、得意になって唸っているようであったので、町の人たちは、按摩よりもむしろその浪花節を楽しみにして、オンコを|贔屓《ひいき》にしていた。
かれは盲人であるのに、勘が悪く、家家の軒先が張り出して渡り廊下のようになっているコミセ(小店)のなかを歩きながら、その途中のところどころに立てられている風よけの板に、よく頭をぶつけて、
「ワイ、|痛《いで》えじゃ」
と怒っていた。見ていると、翌日もまた、おなじ板に頭をぶつけて、「ワイ、痛えじゃ」と憤慨している。かれがとくに激憤を発するのは、なによりも嫌いな犬を、子供たちにけしかけられたときであった。オンコは恐怖の表情を顔中に|漲《みなぎ》らせて、力まかせに杖を振回し、近くの店先の硝子や、瀬戸物や、さまざまな商品をめちゃめちゃに破壊して、それでも犬が逃げないと、果ては地べたに坐りこんで、杖を前後左右に振回していた。
よほど犬が嫌いだったのに違いないが、かれはどうして、毎日のようにコミセのなかのおなじ箇所に頭をぶつけていたのだろう。持っている杖で用心深く前方を探っている様子がなかったところからして、それはなかば、かれの意識的な行為であったようにもおもわれた。盲人であるオンコのなかには、一種の自虐性が生じていたのか、あるいは見ている人を意識して、道化を演じていたのかも知れなかった。かれの母親はいつも、
「おら|家《え》のオンコだきゃ、頭アよくて、頭アよくて、一教えれば十覚えるというのは、あれのことだね」
と自慢していた。とすると「大石内蔵助と吉良上野介、両国橋対面の一席」という奇想天外な浪花節も、実は客受けを意識していたオンコの創作もしくはパロディであったのかも知れず、そう考えると、かれはなかなか|端倪《たんげい》すべからざる「馬鹿」であったということになる。犬をけしかけられたときに、近くの商店の硝子や商品を破壊するまで怒り狂ったのは、胸底に鬱屈していたおもいが、日頃の自虐と道化の限界からはみ出して激発した結果であったのかもしれない。
ヤチャも、即興の人形劇に示した頓智の才能から見て、馬鹿であったとはおもえない。この二人が「馬鹿」と呼ばれたのは、おそらく差別を逆手に取って生きて行こうとしていたかれらの並外れたサービス精神が、人人に軽侮の念と、それとは裏腹の深い親愛の情を感じさせていたせいであったのだろう。太宰治の言葉をかりていえば「道化の華」――つまり自虐と道化のかたちで表現されるサービス精神は、多かれ少なかれ、この地方の人たちに共通している心情であったからだ。
オンコとヤチャには、つくり馬鹿の面も感じられるのに対して、手塚のオンチャ(次男坊)の場合は、殆ど巧んだところがなかった。かれはお釜帽を|阿弥陀《あみだ》にかぶり、白い兵児帯を幅広く胸高に締めるという絵に描いたような「馬鹿コ」の恰好をして、いつも|飄飄《ひようひよう》と町を歩き、ときどき立止まっては人のすることを黙って眺めていた。人に物をせがむことはなかったが、食べ物をやると、何でもおとなしく食べた。この手塚のオンチャにしても、貰った物は何でも食べたあげく、赤痢にかかって避病院へ送られたところからすると、かれ自身が意識していたかどうかは別にして、その底にはやはり自虐にまで通じるサービス精神があったようにおもえる。
小さいころから「馬鹿コ」と呼ばれた棟方は、テレビもラジオもなかった時代に、こうした町の人気者である青森の三馬鹿を見て育ったのである。棟方が「馬鹿コ」と呼ばれるようになったのは、寒さのきびしい冬のあいだも羽織と股引を身につけず、足袋もはかずに素足の下駄ばきで小学校へ通うという極貧の家に育ちながら、すこしも|僻《ひが》んでいる様子がなく、大声で燥ぎ回り、会う人ごとに愛嬌を振撒いて、とくに強度の近眼というハンディを負っているのにもかかわらず、脇目もふらずに絵に熱中していたからであったのだが、そう呼ばれるようになったときから、かれは青森の三馬鹿すなわち町の道化師の言わば「演技」を、微妙に意識したことがあったのではないだろうか。
やや大袈裟なまでに人に対して|遜《へりくだ》って見せたヤチャの態度の丁寧さと、人形芝居に示した観客の意表を突く機智。たえず見る人を意識して道化を演じ、既成の浪花節のストーリーを抱腹絶倒の別の物語に仕立て直したオンコのパロディ性。与えられたものは何でも断らずに食べた手塚のオンチャの素直さ。それらをひっくるめて、何よりもまず人を喜ばせようとするかれら三馬鹿の旺盛なサービス精神と棟方の性格とは、たいそう似通っているように感じられるのだ。
ヤチャイモ、オンコ、手塚のオンチャの三馬鹿とおなじように、棟方少年は子供たちの人気者だった。つんつるてんの着物の腰に巻きつけた兵児帯に、手拭いやら矢立てやら様様なものをぶら下げたかれは、
「スコ(志功)、絵コ描いて|呉《け》ろ」
と集まって来る子供たちを大勢引き連れて、けたたましい声を挙げながら町を歩いていた。眼を紙にくっつけるようにして写生しているところを大人が覗きこんで、
「スコの絵コア何だバ!? なにがなんだかさ、さっぱり判らねえでばせ」
とからかうことがあっても、かれはいかにも人がよさそうな表情で「イヒヒヒ」と笑うばかりで、別に怒る風も、反論することもなく、町の人のあいだでは「志功のバカコ」で通っていた。
近くの呉服商の家に住んでいた淡谷悠蔵も、初めのうちは、そうした六つ年下のかれを、町の人がいう通り愛嬌に富んだ馬鹿コのようにおもっていたのだが、のちに呉服商の家を出て、青森市郊外の新城村で百姓をしながらの文学運動を始めてから、次第に見かけだけでは判断できない棟方の内に秘めていたものに気がつきはじめ、やがて馬鹿コどころか、天成の利口者だと舌を巻くようになった。そのきっかけは、一見|些細《ささい》なことであった。
新城村にあった淡谷の畑の一角には、白樺の木が植えられていた。ある日、その白樺を写生しにやって来た棟方は、自分の絵を淡谷たちに見せてくれた。淡谷はそのお礼に、畑でとれたトマトを土産に持たせた。途端に棟方は躍り上がらんばかりにして喜んだ。呆気にとられるほどの異常な喜びぶりを見たときに、人から「馬鹿コ」と見做される一因にもなっていたその大袈裟なジェスチュアが、実は贈り物をした相手を喜ばせようとする旺盛なサービス精神のあらわれであるのを感じとって、そうした表現の不得意な淡谷は舌を巻いたのである。だがそれは、ずっとあとの話だ。話をまえに戻すと、棟方がヤチャイモや、オンコや、手塚のオンチャを見ながら遊んでいたころ――、淡谷が追想した文章によれば、青森の家並みはまだ低く、町のどこに立っても海が眼の高さに見えた。家並みの軒下につくられているコミセの通路は、狭くなったり広くなったり、または土が|凸凹《でこぼこ》に波打ったりしながら、迷路のようにつながっていた。冬季は雪を防ぐ渡り廊下となるコミセは、子供たちの絶好の遊び場でもあった。そのころの子供の幼時体験は、このコミセの存在と切離すことができない。
冬のあいだ、店先の七輪のうえでふかされている薩摩芋の湯気や、南京豆を|焙《ほう》じるにおいなどが入りまじって流れているコミセのなかの道は、路上から吹きこんで来る雪で凹凸が|均《なら》され、やがて通行する人人の足で、かちかちに踏み固められた。子供たちはその狭い通路を、ベンジャ(下駄スケート)を履いて滑るのである。もちろん外の路上も、子供たちの遊び場であった。かれらは雪道にメドチ(落とし穴)を掘り、わざわざ人の足跡のある雪を蓋にするという周到さで、人が落ちると、大喜びで喝采を叫んだ。子供が掘った穴だから、別に怪我をするような深さでもなく、大抵の大人はくやしまぎれの笑いで済ませたが、何者かがその穴のなかに、こんもりと脱糞してあったときだけは、猛烈な叱責を受けた。
そして夏は、低い家並みの|柾《まさ》屋根のうえが子供たちの遊び場になった。淡谷悠蔵の詩情に溢れた好メモワール『なつかしの青森』には、こう書かれている。
――友だちと、その上に寝そべって、空を流れる雲を見ていたり、柾の間から這い出して来る黒いのや虹色したのやらの、てんとう虫をつかまえたり、凧揚げしたり――屋根は子供の原っぱであった。……
やがてこうした青森の家並みを一変させ、棟方の生涯にも決定的とおもえるほどの影響を及ぼした出来事が起こった。明治四十三年五月三日の午後一時ごろに始まって、僅か五時間ほどのうちに全市の大半を焼払った大火である。この日、青森は快晴であったが、朝から強い西風が吹き荒れていた。
六
海辺の町である青森で、風の強い日は、さほど珍しいものではない。たとえどんなに風が強くても、それが、
――未曾有の大惨事。
と地元紙の号外で報道されることになる大火を引き起こす原因になろうとは、殆どだれも予想していなかった筈だが、少年の淡谷悠蔵と棟方志功は、朝からの特別な風の烈しさを、複雑なおもいで、はっきりと意識していた。というのも二人にはそれぞれ、次のような事情があったからだった。
淡谷は朝から、呉服商の家の二階の部屋に閉じ籠って、ひそかに脱出の機会を狙っていた。かれが通っていた浦町高等小学校では、この日、函館へ修学旅行に行くことになっていたのだが、かれはその旅行に参加することを親に禁じられていた。数代まえの先祖が、淡路島出身の船乗りで津軽海峡の|竜飛《たつぴ》沖で遭難したところを助けられて青森に住みつくようになった淡谷の家には、代代「船乗りにはならぬこと」という家憲が伝えられており、それはいつしか「船に乗らぬこと」という家憲になって、淡谷少年が青函連絡船に乗って函館へ修学旅行に行くことを妨げていたのである。けれども、のちに農民運動に身を投じ、社会党の代議士になったかれの反骨は、少年のころからのものであったらしい。家憲に背いての函館行きを決意した淡谷少年は、一人で身支度を調えて肩に鞄をかけ、二階の部屋に隠れて、窓外の強い風の音を、不安な気持ちで聞いていた。連絡船の出帆は、夕刻であった。当時は沖合に停泊している連絡船までは、|艀《はしけ》で行かなければならなかった。昼すぎから、風の音はますます烈しくなって来た。
――これでは、艀も出なくなるんでねえベガ……。
そうおもっていたときだった。外でざわざわと人の騒ぐ気配がした。続いて半鐘の音が鳴り出した。肩に鞄をかけたまま飛び出してみると、かれの家と一町も離れていないあたりから、|濛濛《もうもう》と煙が上がっていた。
ほぼおなじころ――。
数え年の八歳で、長島小学校に上ったばかりの棟方志功は、兄の賢三と一緒に、家のそばで凧揚げをしていた。この日は長島小学校の遠足で、汽車に乗って浅虫温泉へ行くことになっていたのだが、志功は家の貧しさから支度が調わなくて参加することができず、それに同情した三つ年上の賢三も学校を休んで、凧揚げをして遊んでくれていたのである。晴れ渡った空の下、まだ肌寒さを感じさせる五月三日の烈風のなかに、凧は、小学校へ入って初めての遠足に行けなかった志功の心のように揺れて小さく宙に舞っていた。そのうちに凧の下から、黒い雲のような煙が現われて、急速に空を覆い始めた。
「火事だーッ!」
二人は驚いて家のなかに駆け込んだ。父も母も用事で外に出ていて留守だった。賢三はなかにいた三人の弟妹の手を引き、志功をおぶって県庁のほうへ走り出した。妹のたけと弟の武志郎は、志功より小さい。それなのに志功をおぶったのは、幼いころから眼が悪かったからで、いちど板の間で一家が食事をしていたとき味噌汁の鍋のなかへ足を踏み入れたことがあり、そのときから家族はかれの視力の弱さを知っていたのだった。志功の家のすぐ近くにある安方町の一角にあがった火の手は、強風に煽られて四方八方に飛び火していた。家並みの大半が柾葺きの屋根だから、火の粉の雨を受けて盆の迎え火に焚く|苧殻《おがら》のようにたちまち燃え上がる。黒煙で陽が遮られて暗くなった路上に、炎と煙が渦を巻いて流れ、逃げ惑う人人の意味をなさない叫喚の声と半鐘の音がそのなかに|谺《こだま》して、あたりは地獄図絵さながらの有様になった。賢三の背で志功は恐怖に|怯《おび》えて泣き叫んだ。生まれたとき余り泣き声が大きかったので、「鬼でも生まれたのではないか」と近所に噂されたほどの声を張上げて、
「青森じゅうの神様、仏様、消防のポンプ様、みんなきて助けて|呉《け》ろじゃあッ!」
と志功は泣き叫び続けた。このころ青森市内はほぼ断水状態に陥って、消防のポンプは、何の役にも立たなくなっていた。火の回りが早すぎたので、大多数の市民は家財道具を持出す|遑《いとま》もなかった。市の中心部を舐め尽した火は、短時間のうちに北東部の遊廓にまで達し、三百人に近い娼妓は赤い蹴出しの裾を乱して逃げ回った。志功ばかりでなく、市内の各小学校の子供たちは、学校の道具を携えたまま帰るべき道を見失い、路傍に声を放って号泣していたが、|煤《すす》だらけの顔に眼だけを光らせ、自分の家族を案じて右往左往している大人たちには、よその子供に気を遣っていられる余裕もある筈がなかった。煙と炎のなかを必死になって逃げた賢三たちは、県庁の近くの角で、父母やほかの兄弟や祖母と会った。祖母は唸るような声を挙げて、懸命にお経の文句を唱えていた。祖母のつるは、まえからいつも仏壇に向かって経文を唱えており、幼い志功を菩提寺の青森山常光寺へ連れて行って、火のなかや針の山や血の池で亡者たちが苦悶している地獄図絵の掛軸を見せてくれたことがある。また父の幸吉は、神信心の念が厚く、毎朝神棚に水をあげ、手を|拍《う》って礼拝するのが日課になっていた。地獄の業火のような炎と煙の恐怖に怯えた志功が、「青森じゅうの神様、仏様、消防のポンプ様、みんなきて助けて|呉《け》ろじゃあッ!」と泣き叫んだのは、こうした祖母や父の日常が、頭のどこかに染みついていたからであったのだろう。
午後一時ごろに始まった火事は、市の殆ど全部を焼いて、夕方の六時ごろ一応鎮火した。翌朝の青森は、ところどころに黒焦げの土蔵や、洋風建築の一部や、先の尖った針金細工のような立木を残しているだけで、見渡すかぎりの焼野原になっており、一面に薄く煙を漂わせていた。土蔵の戸をあけると、なかから噴き出す炎とともに焼死体が転がり出て来たりした。空気は焦げ臭く、そのなかには人間の焼けたにおいも籠っているようだった。一切の家財道具を失った被災者の多くは、焼跡に藁葺き莚壁の小屋をつくり、しばらくは炊出しに頼って細細と暮した。あとで判った被害の総数は、
――全焼五千二百三十七戸、土蔵百五十棟、死者二十六人、重軽傷者百四十六人。
という甚大なものであった。火事といっても、戦火に見舞われたのにもひとしい災害で、淡谷悠蔵や棟方志功が、子供心に親しんで来た古い善知鳥村の面影を残していた青森の家並みは、明治四十三年の五月三日を境にして、地上から姿を消してしまった。その意味では、棟方志功も後年の言葉でいう「焼跡派」の一人であったといえるかも知れない。
――(逃げる)途中、行く手を波浪のように押し寄せてくる火の流れがありました。往来を横に流れて、一方の家から向かいの家へ火が走るのです。火の色は、今でもはっきりと見えるほど鮮やかでした。下が青、じつに爽やかな感じの青、その上が黄色、その上が紫、その上が真っ赤。そしてその上がまた黄と紫と青で、その火の塊りが、洪水のようにどっと道を飛び流れて行くのでした。……
棟方は自伝『わだばゴッホになる』のなかでこう追想しているが、これが実際にそのとき満六歳の子供の眼に映った光景であったのか、あるいはのちに、かれの心眼に像を結んだ印象であったのかは判らない。それに「何を描いても火事の絵のようだ」といわれた棟方の初期の油絵の色彩と画法が、この大火の直接の影響によるものであるのかどうかも断定はできないが、はっきりしているのは、幼いかれにとって全世界であった青森の終りをおもわせる|劫火《ごうか》の炎と煙が、はげしい恐怖の念とともに脳裡に焼きつけられたであろうことと、その夜が明けてみたら、物心ついたころから親しんで来た町が、すっかり消え去っていて、黒と灰色だけの焼野原に変ってしまっていたことだろう。画家棟方の最初の故郷であった「善知鳥」の風景は、このとき現実には失われてしまったのだ。
失われてしまった善知鳥――。故郷に対する棟方のただならぬ執着は、まずこの一点に発しているようにおもわれる。その善知鳥の面影を残していた当時の青森について、淡谷悠蔵はこう書いている。海がひろびろと青く、朝早くから沢山の漁師たちが掛け声も勇ましく引揚げる地曳網のなかに、無数の鰯が鱗を陽に輝かせて躍っていたころ、
――砂浜には、うす桃色の|ひるがお《ヽヽヽヽ》の花が咲き、|はまなす《ヽヽヽヽ》の赤い花が咲いていた。
暑い日の夕方には、砂浜に着物を脱ぎ捨てて、すっぱだかで海でおよいだ。大人も子供も、男も女も一緒におよいだ。
女もすっぱだかであった。身体のそちこちを思わせ振りにおおう姿よりは、カラリとしていた。太古そのままの明るいすこやかさがあった。……
ここに描かれている情景は、後年の棟方板画の世界にしばしば登場する女体の健康なエロティシズムをおもい出させずにはおかない。かつての青森は、北国のイメージとは反対に、そうした南国的な闊達さが横溢している土地でもあったのだった。淡谷自身にしても、先祖が南の淡路島から流れて来た漂着民であったのだから、流れ者が多いこのあたりの人間には、もともと様様な土地の血が混っていたのであろう。
これよりもっとまえ、明治十年ごろに来日したイギリス人の宣教師でアイヌ研究者のジョン・バチェラーは、初めて見た青森人の言葉と風俗のなかに、アイヌ文化の名残りが多分にあるのを認めていた。その九十年ほどまえに外ヶ浜を訪れた|菅江真澄《すがえますみ》は、青森のすぐ近くの海岸で、アツシを着た多くのアイヌ人の男女が、道普請をしているのを見ている。津軽藩では、すでに宝暦六年(一七五六年)から、いろいろ政治的な思惑もからんではいたのだが、アイヌ人に対する差別を撤廃しており、たとえば天明の大飢饉のときには、食糧に窮した金木あたりの農民が、外ヶ浜で漁業に従事していたアイヌ人の集落へ助けを求めに来て、そのまま結婚した者も珍しくはなく、文化の初めごろには、城下町である弘前の町家へアイヌ人が入聟に来ても、それほど怪しむ者がないまでになっていた。――現在の津軽地方人は、日本民族と津軽アイヌの混血によって形成されたものである。……というのは、血液型の研究によって得た松木明博士の結論だが、淡谷悠蔵も家に伝わっている系図を|繙《ひもと》いて、自分の祖先にはアイヌ人の血が入っているに違いない、と語っている。とすれば、青森市史に先祖の事績が詳しく載っているほど典型的な青森人の一人である淡谷のなかには、南の淡路島の血と、北のアイヌ人もしくはその流れを引く津軽人の血が混り合っていることになる。水が低いほうへ流れるように、諸国からの流れ者が集まって来ていた本州北端の地であるかつての青森には、東北の原住民であって狩猟と漁撈で生きる|糧《かて》を得て来た|蝦夷《えみし》やアイヌ人や南方から来たとおもわれる海人族の血や気質などが、たがいに溶け合いながらも、それぞれ幾分か濃く残っていて、淡谷のいう「太古そのままのすこやかさ」を伝えていたのではないかとおもわれる。それはかつての青森の一面であって、淡谷は自分たちの文学運動を回顧した文章に、次のようにも書いている。
――その頃の青森の町を知っているか。
海に沿って西から東に長い町の、家並みは低く小ミセという狭い軒下の通りが、穴のように通っていた。
冬は狭い通りを雪が降り埋め、|馬橇《ばそり》が鈴を鳴らしながら、その通りの雪の上を通った。どこからも海が見えた。黒い雲がその上に垂れ、波はくろぐろとうねっていた。
夜は海鳴りが聞えた。封建性が、暗くねばっこく町にはよどんでいた。……
まえに引いたものとこの文章の明暗は、夏と冬の違いだけでなく、家の外と内との差でもある。戸外には陽が射していても、封建性に縛られている家の中は暗鬱であった。意識するかしないか、あるいは程度の違いこそあれ、若者はその家の暗さを憎んでいた。重苦しくのしかかってくる家と家業と家族の|桎梏《しつこく》への反抗、そこから生ずる切ないほどの自由への憧れ――。それを知らなければ、自分をいましめているすべての|絆《きずな》を断ち切って、「ひろい明るい世界へとび出そうとしていたあの頃の青年たちの行動の底に燃えたぎっていたものが探り出せない」と淡谷はいう。四季の多彩な表情に富んだ戸外の変化と、決して変ることがないであろうとおもわれる暗い家の中の日常。故郷の風土に対する愛着と、しばしばそれを上回る脱出への願望との相剋。それは棟方志功の場合も、ほぼ同様であったろう。
かれは小さいころから家の中ではおとなしく、親に反抗したことのない子供であった。そして自伝においても、その点についてはあまり多くを語らないのだが、貧しい鍛冶屋の家の中に十幾人もの兄弟姉妹がひしめき、酒乱の哀しい父が無抵抗の母を打擲している光景に、かれが|疎《うと》ましさを感じなかったとは考えられない。家を出ると、とたんに「志功のバカコ」と呼ばれるほど陽気に燥ぎ回り、学校の唱歌の時間にも人一倍大きな声を張上げてうたっていたのは、生来の性質もあったのだろうが、そうした家から|一時《いつとき》はなれた解放感のあらわれであったようにもおもえる。その反面で、小学校へ入って初めての遠足にも、家の貧しさから参加することができず、冬のあいだも足袋をはかずに素足の下駄ばきで学校へ通わなければならなかったことは、幼い志功の心を深く傷つけずにはおかなかったろう。後年のかれが、たえず故郷への愛着を口にしながら、戦争の末期に青森へ疎開しようとしなかったのは、そのころの暗い記憶が、胸底に大きく|蟠《わだかま》っていたからではないかともおもわれる。
古い善知鳥の面影を残していた青森が焼けて消え去ったあと――、町の姿は一変した。
まず人人の冬季の通路であって、子供たちの絶好の遊び場でもあったコミセが、大火のときの消防作業に大変邪魔になったという理由で、つくることを禁じられた。その分だけ広くなった道の両側に、洋風の飾り窓をつけたハイカラな店が出現した。建物は立派になったが、鬱蒼と茂って夏には|椋鳥《むくどり》の大群を集めていた善知鳥神社の森は、焼けて小さくなっており、志功の網膜に残っていた風景は、幻の故郷となってしまった。いわば善知鳥は死んでしまったのだが、それはかれの生涯を通じて、何度も体の底から蘇って来た。
文展で特選を獲得した『善知鳥』制作のときばかりでなく、子供のころの遊び場だった善知鳥神社と棟方とは、不思議な因縁で結ばれていた。幼い志功は知る由もなかったのだが、本州の北端にある善知鳥神社の祭神は、かれの姓と同音で九州にある|宗像《むなかた》神社の三女神と、まったくおなじであったのだ。宗像の三女神を奉じていたのは、古代の海人族だった。この因縁は後年の棟方を、遥か南方にまで導いて行くことになる。棟方志功の生涯は、子供のころの大火で失われてしまった「幻の善知鳥」を追い求める旅であったといってもよいのである。
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あかぎれと憧れ
一
小さいときから「われは世界一になる!」と叫んでいた棟方志功の生家は、戸籍によれば大町一番戸となっているが、かれは自伝のひとつのなかで、
――わたくしは、明治三十六年九月五日、青森市大町一丁目一番地イの一号で生まれました。……
と述べている。大町は市の中心であり、また遊び場であった|善知鳥《うとう》神社は、県社に指定されていて、神官も県下一の格式を誇っており、当時の青森では何でも一番でなければ気が済まない人のことを「善知鳥の|太夫《たよ》さま」と呼んでいた。井の中の蛙、という言葉があるが、子供にとっては生まれ育った環境が全世界だ。志功の一番好きは、そうしたところからも醸成されていたのかも知れない。
大火で焼けたあと、棟方の家は新町六十番地に移った。生家のそばで米屋をしていた伯母(母の姉)が金を出して建ててくれた家は、向かい側に新築の市役所があり、前を小さな川が流れていた。外から見ると|作工場《さくば》の暗さと、そのなかに動いている赤く焼けた鉄の色が印象的だった。
近くの上新町には、青森で初めての活動写真常設館ができた。ジンタ(楽隊)が奏でる「美しき天然」のメロディを、毎晩、けばけばしい絵看板の裏にある小屋のなかから夜風に響かせて客を呼んでいた活動写真は、子供たちの憧れの的であった。ちょうど「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助の忍術映画が全盛時代を迎えたころで、志功が小学校の三年になるまでの約三年間に、百六十八本もの松之助主演映画が量産された時期である。青森活動写真常設館の入場料は五銭であったが、このころは大火のあと新築されていた土蔵の扉の錠前と蝶番や、井戸掘り道具のアラシなどをつくる鍛冶仕事の注文があって、棟方の家にも幾らか余裕があったのだろう。
あるとき前日に活動写真を見て学校へやって来た志功は、まだ興奮醒めやらぬ面持で、休み時間になると、級友をまえにして、|諳《そら》んじて来た弁士の説明を大声で唱えながら、主演の尾上松之助をはじめ全部の役柄を、一人で演じて見せた。一人芝居をやり出すと、かれはすっかり夢中になって、手の指で印を結んで呪文を呟いたり、刀をふるう恰好をして飛び回ったり、斬られ役になってのけぞったり、その間には弁士の役も勤めて場面の説明を加えるなど、八人芸のヤチャイモそこのけの大活躍を始めた。
「こらーッ、スコ、|汝《な》、何やってるんだバ!」
騒ぎを聞きつけて飛んで来た餓鬼大将は、志功を突き飛ばした。そのころは全員が男の生徒ばかりであった長島小学校は、腕力の強い餓鬼大将の天下だった。かれらは恐ろしく兇暴で、まるで弱い者いじめをするのが学校へ来る目的のようであった。なかでも体が小さく、眼の悪い志功は腕白たちの絶好の標的で、志功は口では「世界一になる!」と叫んでいたものの、実際にはクラスで一番の|苛《いじ》められっ子であった。腕力の弱い子供たちは、いつも戦戦|兢 兢《きようきよう》として餓鬼大将に怯え、その一派の機嫌を|窺《うかが》って休み時間も教室や廊下の隅に身を|辣《すく》めていたのだが、この日の志功は、前日に活動写真を見た興奮で、日頃の防禦の姿勢を忘れてしまっていたのに違いない。そして、日本中のだれよりも一番強いとおもわれる目玉の松ちゃんの真似をして級友の人気者になりかけたことが、クラスの餓鬼大将の|逆鱗《げきりん》に触れて、幼い志功の自己顕示欲と演技欲は、このときから殆ど学校のなかでは封じられてしまったのだった。
身長がクラスで小さいほうから三番目ぐらいだった志功がとくに苛められたのは、いくら殴られても、転ばされても、少しもいじける気配がなく、すぐにまたいかにも|剽軽《ひようきん》そうな明るい笑顔に戻るからでもあった。苛められている仲間に対してだけは、ときに餓鬼大将の一派を眼で指して(いまに見ていろ……)という気持を無言のうちに唇を噛んで示すことがあったが、どんなに小さな声でもそれを口に出していうことは思いも寄らないほど、餓鬼大将の恐怖専制政治はクラスのなかに徹底していた。志功の口癖であった「われは世界一になる!」という言葉は、その口には出せなかった(いまに見ていろ……)という気持の別の表現であったのかも知れない。腕力の弱い子供たちにとって、現実に餓鬼大将たちに反抗するなどということは、考えられもしないことだった。
演技を封じられた志功の表現欲は、尾上松之助が扮した丸橋忠弥の顔を凧絵に描くことに発揮された。この特技による人気には、餓鬼大将の一派も文句をつけることができなかった。かれらも志功の描く目玉の松ちゃんの凧絵が、欲しくてたまらなかったからで、休み時間に級友たちは習字用の半紙を手に志功の机を囲んで描いて貰う順番を待ち、廊下を来る先生の足音に囲みを解いて、それぞれの机に戻るのが、いつもの光景であった。
二
大火に続いて青森を襲った災厄は、志功が小学校四年のとき、大正二年に見舞われた冷害であった。この年は夏になっても低温の雨風が続き、やがて雪が降って来て、稲がまだ|稔《みの》らずに青いままで空しく|項垂《うなだ》れていた田圃には、薄く氷が張り始めた。津軽では凶作のことを、古語の飢渇を|訛《なま》ってケガズというが、秋がすぎて農家が細細と蓄えていた保有米も底をつくと、その通りの飢渇状態が、あちこちに現出した。農民は|蕨《わらび》の根を臼で|搗《つ》いて得た澱粉で辛うじて命をつなぎ、空腹に耐えかねた子供は、すでに掘り尽した芋畑を血眼になって掘り回ったが、飢えを充たすほどの芋が土中に残っていよう筈がなく、各地で離農、出稼ぎ、娘の身売りが相次ぐという悲惨な有様だった。
凶作で苦しんでいたのは、農民だけではなかった。棟方の家では、切れ味のよさで評判だった父幸吉のつくる「富士幸の鎌」が凶作で売れなくなったのを手始めに、ほかの鍛冶仕事の注文も、ばったりと跡絶えてしまった。そのうえに米の値段が高騰して、貧乏な家では米を買えなくなった。飢饉になると貧富の差が、まえよりも一層歴然として来る。志功は学校へ弁当を持って行くことができなかった。かれとおなじように弁当を持って行けない同級生の一人であった松原貞嗣は、当時のことを、――ほかの人たちが弁当を食べているのに、横で素知らぬ振りをしていたときの寂しさは……、とだけ語って、あとは口を|噤《つぐ》んだ。生理的な空腹は勿論だが、精神的な差別感もそれに劣らず切なかったのに違いない。これは志功の場合も同様であったろう。そのうえかれは、「|凍《しば》れる」という言葉で表現される青森の冬の寒さのあいだにも、股引きと足袋をはいていないことが多かった。しばしば地吹雪になる雪道を、素足の下駄ばきで登校して来るかれの|踵《かかと》と足のまわりにかけては、あかぎれで|皹《ひび》だらけになり、そこから滲み出す分泌液がこびりついて赤黒く凝り固まっていた。
貧富の差は、学業成績の差も広げていくようであった。弁当を持って行けない子供たちは揃って成績が悪かった。ろくに食べるものも食べていない空腹では、教室での勉強にも身が入らないのである。志功も国語の読み方は抜群で習字と唱歌も巧かったが、ほかの学科の成績はよくなかった。それに当時の小学校で中学や商業などの上級学校に進めるのは、クラスのなかの五人からせいぜい十人くらいで、あとの大半は商店の|丁稚《でつち》か、職人の徒弟になることに決まっていたのだから、さほど熱心に勉強する気が起きなかったのも、当然であったといえる。
家が貧乏でも飛び抜けて成績のよい者は、官費で学べる師範学校に進んだ。長男の|一《はじめ》を師範学校に進ませ、次男の賢三も師範の附属小学校に入れたいと願っていた父の幸吉が、志功にその道を選ばせようとしなかったのは、賢三が附属小学校に入れなかった原因であったトラホームを志功も病んでおり、それも小学校の医務室で洗眼と点薬を受ける常連であったほどの重症トラホーム患者であったからなのだろうか。それとも志功自身、早くから家の貧しさを知って、上級学校への進学を諦めていたからであったのだろうか。たとえそうであったにしても、一番好き≠フ志功が、自分の境遇に不満を感じていなかったとは考えられない。小学校の卒業式の日、かれは家にいて式には出なかった。それは自分の置かれていた境遇に対するかれの精一杯の抵抗であったようにおもえる。
卒業式の日の朝、仕事場には志功の仕事着が揃えられていた。かれはそれを着て、その日から次兄の賢三とともに、父の向鎚を打ち始めた。
時代は刃物鍛冶から、馬車や荷車などの鉄の部分をつくる車鍛冶を主としなければならない方向に移っていた。
「濡れた日本紙に、下から富士幸の鎌の刃を当てて静かに引くと、切れ目がつながったまま二枚になっている」といわれたほどの刃物鍛冶の名人であった父の幸吉にとって、これは気に染まない変化であったようだ。志功の親友であった松原貞嗣は、まえに家へ遊びに行って、仕事場の薄暗闇のなかに、|鞴《ふいご》の風を受けて燃え上がる火の光を浴びて刃物鍛冶の仕事をしていた幸吉の姿を見たことがある。そのときの幸吉は、実に引緊まった顔と鋭い眼をしており、身も心も完全に手にした鎚のなかに打込んでいるようで、かれは子供心にも、
――なるほど。昔の刀鍛冶の名人も、こうした風であったんだべな……。
と、全身に鳥肌が立つような感じがしたという。それにくらべると車鍛冶は、ずいぶん大雑把な作業で、ほかのだれにも負けない鋭利な刃物を鍛えることに半生を賭して来た名人気質の幸吉には物足りず、仕事への興味を失いかけていたのかも知れなかった。たとえば車輪をつくるのには、赤く焼けた|輪金《わがね》を木の輪に|嵌《は》め、数人がかりでそれを前の小川の流れに浸し、輪金を収縮させて木の輪に固定させるのだが、幸吉はまえよりも作業中に癇癪を破裂させる回数が多くなっており、それは仕事に対する厳しさだけでなく、内心の苛立ちをも物語っているようであった。ある日、志功が車輪の輪金嵌めを手伝っていたときのことだった。木の輪に赤く焼けた輪金を嵌め、金挟みではさんで、父や兄と一緒に前の小川に運んで行く途中、志功は重さに耐えかねてそれを取落としてしまった。
「この|馬鹿《つぼけ》ッ。もっとちゃんと力入れて持て!」
幸吉に荒荒しく叱咤されて、志功は輪金と木の輪を金挟みではさんで持上げ、ようよう川の流れに浸したが、小学校を出たばかりの子供だから、泣きそうなおもいで我慢していても、じきにまた重さに負けて金挟みから力が抜けそうになる。
「もっと|魂《たまし》入れで仕事しろッ。それでも|男 子《おどごわらし》だナ!」
と幸吉は怒鳴った。途端に志功は金挟みを捨てると、水面に身を屈めて、まだ熱して湯気を立昇らせている輪金と木の輪を、両の素手で掴んだ。これにはさすがに気性の激しい幸吉も|愕《おどろ》いて、
「こらッ、何すんだ。火傷するはんで、手ば放せ!」
と叫んだが、志功は眼から大粒の涙をこぼし、歯を食縛って|嗚咽《おえつ》の声を堪えながら、手を放そうとはしなかった。父とおなじように、かれも自分のさせられている仕事に対して、だれにどうぶつけていいのか判らない|忿怒《ふんぬ》と悲哀を感じていたのだろう。「手ば放せ」と幸吉が叫ぶたびに、志功は余計に意固地な表情になって輪金を強く握り締めていた……。
このころから、幸吉はめっきり気力を失って、鍛冶屋の仕事を賢三と志功の二人に任せきりにするようになった。|火吐前《ほどまえ》に坐った十六歳の賢三に相対して、十三歳の志功は来る日も来る日も、自分の背丈ほどもありそうな向鎚を振るい続けた。そのうちにいつの間にか、ひよわだったかれの体は、めきめきと頑健になって来て、自分でもそのことに自信を持ち始めたようだった。あるとき、学校へ弁当を持って行けなかった貧しい家庭から奮起して工業学校に進んでいた松原貞嗣が、志功を訪ねて来て、路上で立話をしていると、通りの向こうから、かつての餓鬼大将がやって来た。松原も志功とおなじように力が弱く、暴れ者から逃げ回っていたほうであったから、その姿を見ると反射的に道端へ身を隠しかけた。志功は、松原に余裕のある笑いを浮かべて見せて、自分から餓鬼大将のほうへ向かって行った。
「こらッ」と志功はかれに呼びかけた。「いまの|我《われ》だきゃ、まえの我と違うんだエ」
「違うって、どう違うのよ」と相手は問い返した。
「いまの我だきゃ、毎日、兄の向鎚打ってるはんで、すっかと|腕力《うでぢから》がついたんだね。見ろ」
志功は着物の腕まくりをして、二の腕の力|瘤《こぶ》を示した。
「ほう、ずンぶ太くなったな」
「そだせ。いまだら、|汝《な》と喧嘩しても、負げねえド」
「なして|汝《な》と|我《わ》が、喧嘩さねば|駄目《まいね》ンだ」
「なに|喋《しやべ》ってるんだバ! あれほど、おらだちごとば苛めたくせして」
「そすたごと喋ったって、あれはみんな、昔の話だでばせ」
鼻白んだようにいった相手は、まえには想像もできなかったほど気弱な表情になっていた。
「そだら、いまはどンだ。もういっぺん、我ごとば苛めてみろ。ただでおかねえド」勢いに乗じた志功は、さらに腕まくりをして詰め寄った。「さ、やるガ、やるんだら来い!」
「あんまり|半可臭《はんかくせ》えごと喋るなじゃあ……」
相手は執拗に迫って来る志功に辟易した面持で、後ずさりした。実際に喧嘩が始まったら、いまでも志功は到底かなわなかったかも知れないのだが、かつて級友たちのうえに君臨していた専制君主は、いまや朝から晩まで商店でこき使われているただの丁稚になっており、そのせいかすっかり戦意を喪失して、学校時代とは一変した志功の気魄に呑まれてしまっている様子だった。
「やらねえんだば、やらなくてもいい。行げ」
志功は腕まくりを下ろし、悄然として立去って行くかつての餓鬼大将の後姿を見送ると、松原のほうを向いて、声を出さずに笑ってみせた。腕力にまで訴えようとするほど好戦的な志功の態度を見たのは、親友の松原にとっても、これが後にも先にも一度だけの経験だった。松原は志功が決して現在の境遇に満足していないことを、うすうす知っていた。やり場のない|忿懣《ふんまん》を籠めて向鎚を打続け、肉体的な力がついて来たのとともに、志功の身内には、なにか別の力も漲って来ている気配が感じられた。
しかし志功が小学校時代の餓鬼大将を気合いで圧倒して鬱憤を晴らしたのは、一時的なことにしかすぎなかった。殆ど仕事をしなくなった父にかわって、賢三と志功は、頼まれた仕事は何でも引受けた。かれらが修理するのは、馬橇から魚の運搬車、下肥の汲取り車にまで及んだ。冬――。異臭を放つ魚運びの車の下に潜り込んだ志功は、寒さにかじかんで|皹《ひび》の入った子供の指で、錆つき凍りついた冷たい鉄の部分の修理を黙黙として続けていた。いつ果てるとも知れぬ暗く切ない毎日であった。
三
本州北端のこの地方には、葛西善蔵、太宰治とつたわる|所謂《いわゆる》「破滅型」の系譜があり、後年の棟方志功は、太宰治には反撥したが葛西善蔵のことは尊敬していた。かれは自伝『板極道』のなかで、
――作品を読んで、ふかい感銘を受けたのは『哀しき父』、『不良児』、『おせい』などでありますが、わたくしの板画の中に、葛西氏を尊敬する気持が、ひとりでに多くさし入れられてまいります。
といい、葛西の小説のひとつについて、
――こんな作品こそ、小説の形をした経巻ではないのでしょうか。……
と述べている。すこぶる健康的な芸術家であった棟方が、破滅的な生き方をした葛西善蔵を尊敬していたというのは、ちょっと奇妙なことのようではあるけれども、かれの父幸吉の存在を考えると、これは必ずしも偶然であるとはおもえない。気性が激しかったこと、大酒家であったこと、|依怙地《いこじ》なまでの名人気質を持っていたこと、家族に迷惑と苦労をかけ続けたこと、自分自身を滅ぼして行くような生き方をしたこと……等等の点において、父の幸吉は、葛西善蔵とそっくりの人間であった。棟方が父を追憶した文章に『哀父記』という題をつけたのは、葛西の『哀しき父』が頭のなかにあったからなのだろう。芸術家棟方志功の誕生には、この父幸吉から直接、間接に与えられた影響を見逃すことができない。
青森の市外にある浜田村の安田家に生まれた幸吉は、市内の和田という鍛冶屋の徒弟になり、二十三歳のときに仕事の熱心さと腕を見込まれて、「藤屋」という屋号の鍛冶屋であった棟方家の五女さだの婿に迎えられた。さだはこのとき、満十五歳であった。
さだの父(つまり志功の祖父)である鍛冶屋の彦吉は、明治になってからも死ぬまでチョンマゲを結っていた昔気質の人間で、祖母のつるは、その夫に先立たれてから、しょっちゅう仏壇を拝んで暮していた。天保十四年生まれのつるは、文字が読めなかったので、志功が字を読めるようになると、買ってきた経本を読んで貰っては、それを諳んじて、仏壇に向かって唱えていた。志功は意味も判らずに、近眼の眼で経文の文字を追い、ただ祖母から貰える一銭、二銭の小遣いを楽しみに大声で読み上げていたのだろうが、かれの生涯を決定づけたもののひとつである仏教との結びつきは、まずここから始まっていたのだった。
父の幸吉も、信仰の念が強かった。棟方の家には、鍛冶屋の守護神である不動明王の図の掛軸が家宝として伝えられており、幸吉は毎年、大晦日になると、その軸を仕事場の壁にかけて新年を迎えるのが常であった。火炎を背負って青色の不動明王が立ち、その下に烏帽子姿の刀鍛冶が、向鎚を持った赤鬼と青鬼を先手にして、刀を鍛えている図の掛軸が、おそらく志功の目にした最初の「絵」であったのだろう。
その青不動を尊崇していた幸吉は、若いころは本当に仕事の鬼のようであった。鎌を買いに訪れた百姓が、当然のことながら土足で仕事場へ入って来ると、「こらッ、|汚《きたね》え足で作工場さ入るな!」と怒鳴りつけて、土足の足跡に赤く焼けた鉄片を投げつけ、塩を撒いて清めるほど、かれは自分の仕事を神聖なものと考えて、全身を打込んでいた。婿養子の身分であったのに、棟方の家の「藤屋」という屋号を「富士幸」と改めたのも、内心ひそかに期するところがあったからに違いない。日本一の富士の字を当てたその改名には、長男を|一《はじめ》、三男を志功と名づけたのとおなじ覇気と祈願が感じられる。だが知合いの左官屋の証文に連帯保証の判をつき、その借金を肩がわりさせられたときから、かれの|蹉跌《さてつ》が始まった。
高利の日歩を取立てるために、毎日のように執達吏が棟方の家へやって来た。利子を払えず、伯母の家から預かっていた皮の鞄に封印をされたとき、「それだけは、人からの預り物だから……」と泣いて頼んだ母の手を、執達吏が邪慳に打ち払って、引ったくるように鞄を持って行ったのを志功は見ている。幸吉は高利に追われて、とうとう養父から受け継いだ大町一番戸の家屋敷を、人手に渡さざるを得ない羽目に陥った。名人といわれる腕を持ちながら、かれは婿に入った家を、いったん潰す結果になってしまったのだ。
家と仕事場を失った一時期、幸吉は北海道へ出稼ぎに行ったり、青森営林局附属の機関庫の鍛冶場に勤めたりした。借家に住みながら、母のさだは毎日、内職の針仕事と質屋通いをして、|粥《かゆ》とソバ、芋などの代用食で子供たちを養った。さだは裁縫ができて、一家の足袋は、すべてさだの手製であった。志功が小学校で足袋をはいていなかったというのは、そのころになると足袋の手製もできかねるほど、生活が追い詰められていたからなのだろうか。それとも当時流行のコール天の鬼足袋に憧れていた志功は、手製であることが明らかな足袋をはいて学校へ通うことを恥じていたのだろうか。
青森の大火のあとに移った新町六十番地の家は、さだの姉が金を出して建ててくれたものだった。婿養子に行った家を潰してしまったうえに、新しい家も妻の姉のおかげで出来たのだから、津軽の言葉でいう典型的なジョッパリ(意地っ張り)であった幸吉は、さぞかし面目なく情けないおもいをしていたのに違いない。依怙地になっていた幸吉は、刃物鍛冶から車鍛冶へ主流が移った時代の変化に、自分を合わせることができなかった。なそうとした事が、ことごとく志と食い違って、かれはたぶん虚無的な気分になっていたのだろう。賢三と志功に仕事を任せきりにするようになってからは、一日中、魚釣りばかりして暮していた。
志功が小学校を卒業したのが大正五年。その二年後に八男の喜八郎が生まれ、およそ五箇月後に死んだ。その翌年に生まれた九男の九二夫も、生後約六箇月で死亡している。この二人の幼い弟の死は、まえにも書いたように、志功の記憶のなかには残っていないという。このころから、かれもまた父とおなじように自分の関心事にだけ没頭し、外界とは無縁の世界の中で生きるようになっていたのか、親友の松原貞嗣は、志功が何物かに取憑かれているような、もしくは|傍《はた》のものが一切目に入らないくらい無我夢中になっているような奇行を発揮しだしたのは「小学校を出てからだった」と語っている。
十五人目に生んだ子供が、生後六箇月目に死んだところで、母は力が尽き果てたのだろう、志功が十七歳の年に病の床についたさだは、秋の終りごろに世を去って行き、妻に先立たれてから、幸吉は釣りに出かけたきり、日が暮れても帰って来なくなった。夜になると、子供たちが握り飯と酒を届けに行く。志功は一度も届けたことがなかったが、ほかの兄弟たちの話を聞くと、幸吉は柳や|蘆《あし》が生えている寂しい川の岸辺に坐り、闇のなかに青白い石油カンテラの灯を|人魂《ひとだま》のように|点《とも》して、釣れても釣れなくても一晩中おなじところに|凝《じつ》としているということだった。
幸吉は何よりも好きな酒を、釣りを始めるまえに川面へ注ぐのが常で、それは――魚の供養をしているんだ、ということであったが、実際には、黄泉の国へ行ってしまったさだの供養をしていたのであったのかも知れない。釣った魚は、決して口にすることがなかった。かれは生き物が好きで、|雲雀《ひばり》や|鶉《うずら》、|鶯《うぐいす》などの小鳥を飼ったり、金魚を飼ったりして、それが活き活きと動き回っているさまを、飽かず眺めていることが多かった。こうした幸吉の挿話からおもい出されるのは、自分も家族もともに痛めつけるような生活に疲れ果てた葛西善蔵が、池もない二坪足らずの下宿の裏庭に、黙然と釣糸を垂れていた姿であり、梅雨晴れの午前の光を浴びている椎の若葉を眺めていたときの、
――我輩の葉は最早朽ちかけてゐるのだが、親愛なる椎の若葉よ、君の光りの幾部分かを僕に恵め。……
という悲痛な内心の呟きである。晩年の幸吉は、人が変ったように優しくなり、さだが死んでから五年後に、五十五歳で死んで行った。かれが死んだのは、さだの命日の翌朝であった。
哀しき父と悲しい母――。当時の津軽で、これは棟方の家だけのことではなく、自分自身を滅ぼして行くような破滅的な生き方をしたのも、葛西善蔵や太宰治といった高名な芸術家に限った話ではない。地元に住む作家平井信作の小説のなかに、何日もかけて田植えを終った夜、酒を飲んでいるうちに、なぜか勃然として胸底から湧き上がって来た自分でも得体の知れない痛憤に駆られて田圃へ飛び出し、せっかく苦労して植えた苗を、その夜のうちに一本残らず引抜いてしまった一人の農民が出て来る。これはあきらかに、津軽的な破滅型の一典型であるといってよい。どうしてそんな馬鹿なことをしたのだ、と聞かれても、酔いが醒めたあとのかれは呆然とするばかりで、おそらく答えることができなかったろう。
ひょっとするとかれは、幾ら苦労して苗を植え草を取っても、冷害に襲われれば一切の努力が無に帰してしまう風土にしがみついて暮しているうちに、冥府で無限に転げ落ちる石を山頂へ押し上げる刑を科せられたあのギリシャ神話のなかの王と同じような気持になっていたのではないだろうか……。かつての津軽は、耕しても耕しても実りが少なかった。そうした風土に生きている人間は、多かれ少なかれ、胸の底にシシュフォスの嘆きと憤りを秘めていたのではないかとおもわれる。しかし、これは北国一般に共通していることだ。それだけでは、とくに津軽的であるとはいえないが、この本州西北端の地は、津軽為信と自称して主家の南部に弓を引いた男が奇勝を収めた例をのぞくと、大体において昔から負け|軍《いくさ》の残党の吹溜りであった。中央からの征夷の軍勢を迎え討った東北の蝦夷も、転ぶことを|肯《がえ》んじなかったキリシタンも、最終的にはみな後は海しかない本州の西北端に追いつめられ、この土地で滅び去っている。そうした歴史は、この地方に住む人人の一部に、あるいは滅びへ向かおうとする反抗的な気質を濃くしていたのかも知れない。
棟方の父幸吉の一生も、いわば負け軍の連続であり、かれもまた破滅型の一人であったようにおもわれるのだが、石坂洋次郎が心酔していた葛西善蔵の放縦な生活に巻きこまれ、善蔵の家族が「生皮を|剥《は》がれるような苦痛を|嘗《な》めさせられている」のを見て、健康で市民的な文学へ転じたように、棟方も父親の一生を反面教師として、前車の|轍《てつ》は踏むまい、と固く決意したようであった。かれの画業に対する凄まじいまでの精進には、負け軍続きで遂に志を果たすことができなかった父の弔い合戦の意味も籠められていたのに違いない。のちに売れるようになってから、棟方がときに自作の署名に捺していたのは、父幸吉が他人の証文について生涯の蹉跌の原因となった棟方家の実印であった。
四
朝の町を、貧しい身なりをして髪を伸ばし放題にした一人の子供が、脇目も振らずに駆けて行く――。これが多くの人の記憶に残っている「バカコ」として印象づけられていた少年時代の志功のイメージである。
かれは上新町の青森活動写真常設館の絵看板を見るために走っていたのだった。週ごとに上映される活動写真が替り、新しい絵看板が出現する日の朝になると、その日が雨であっても、または吹雪であっても、志功は明け方に起き出して、活動写真常設館のまえに駆けつけ、日活の尾上松之助や、国活の沢村四郎五郎などの顔と姿が、極彩色で描かれている絵看板に眼を近づけ顔をせわしなく上下左右に動かして、しげしげと筆の運びに見入った。この絵看板を描いていたのは、かれの本家の次男である棟方忠太郎だった。「藤屋のオンチャ(次男坊)」と呼ばれていた忠太郎は、|小林長《こばちよう》という青森市で一番大きな米屋の番頭をしていたのだが、そのかたわら、活動写真の絵看板や、ビラやチラシの石版画を描くことを副業としていた。
かれはまたネプタつくりの達人でもあって、毎年夏のネプタ祭りのまえに、骨組みが足場のうえに出来上がると、それを眺めながら、「青年画家棟方忠太郎君は……」と楽しげに独り言を呟いて、彩色の構想を練る習慣があった。正月に鍛冶屋の作工場の壁に掲げられていた不動尊図を、志功が見た最初の「絵」であったとすれば、忠太郎はかれが知った最初の「画家」であった。忠太郎が描いた絵看板のまえで、しばらく忘我の一刻を過ごしたあと、志功は来たときとは打って変った重い足どりで帰途についた。
冬なら吐く息が白く見える朝の青森には、志功のほかにもう一人、町を走り回っている男がいた。善知鳥神社のそばにある野間歯科の書生である。野間医師が狩猟好きであったので、遠藤というその書生は、当時の青森では珍しかった狩猟用のシェパードを連れて、朝の町を走っていたのだ。かれは志功の家の前を流れている小川のところへ来ると、
「そらッ、飛べ!」
と犬に号令をかけて、流れを飛び越えさせた。かれの姿を見かけると、志功はまた元気を取戻して、一緒にそのあとについて走った。朝の新町には、いつも志功の燥ぎ回る声が響き渡っていた。志功は、いつまでもそうやって遊んでいる訳にはいかなかった。人人が働き出す時刻には、かれも作工場に戻って、気に染まない鍛冶屋の仕事をしなければならなかった。家のまえには、小学校へ行くまえの于供たちが待っていた。
「スコ、絵コ描いておいて|呉《け》ろじゃ」
そういって子供たちが手に手に差出す半紙を受取って、志功は暗い作工場のなかへ入った。父の幸吉が仕事をしなくなってから、鍛冶仕事の注文は、まえよりも減っていた。注文がないときに、賢三と志功がつくるのは、鉄瓶をのせる五徳であった。それを米町の「|〆《しめ》元」という金物屋へ持って行くと、金に換えてくれた。賢三と二人で、一日かかっても五個しか出来ないその五徳の足の爪には、すこぶるハイカラな意匠が施されていた。五徳の足を囲炉裏の灰に埋めれば、爪の意匠は見えなくなってしまう。つまりこれは単なる実用品ではなく、炉辺に置いておくための装飾品でもあるのだった。
この五徳の原型をつくったのは、長兄の|一《はじめ》である。棟方の家には、一種独特な血が流れていたのだろう。かれもまた、志功とは違った変り者で、善知鳥神社の境内に近所の子供たちを集めてハーモニカの名演奏を聞かせ、さらに口にはハーモニカ、手にはヴァイオリンという二重演奏で、さまざまな難曲をやすやすと弾きこなして人人を感嘆させた。手先の器用さは、兄弟のなかでも一番で、のちに彫刻を始めてからは、院展に入選するほどの腕前を発揮している。作風はまことに緻密なもので、殻つきの南京豆を盛った皿のなかに、かれが|悪戯《いたずら》に木で彫った贋物を混ぜておくと、人が気づかずに|齧《かじ》ってしまうくらいであった。志功と違うのは、やや移り気であったことと、父親譲りの大酒飲みだったことで、ちなみにつけ加えれば、志功の下の弟の武志郎も彫刻をよくし、次兄の賢三と姉のちよは、書が得意であった。名人気質の父幸吉といい、本家の「青年画家」棟方忠太郎といい、この長兄一の存在といい、親がインテリで周囲に書物が豊富にあるといった風な恵まれた家庭ではなかったけれども、志功が育ったのもそれなりに芸術的な環境であったといえるかも知れない。
このころの一は、せっかく師範学校に行かせて貰いながら教員にはならず、青森営林局附属の機関庫の鉄工部に旋盤工として勤めていたのだが、ひとつには小遣銭を得るためと、もうひとつには近所の若い娘たちの関心をひくために、腕に|縒《よ》りをかけて、ハイカラなデザインの五徳をつくり上げたのである。賢三と志功がつくっていたのは、その長兄一の作品を真似たものであった。
仕事は、まず新町の小川古物店で、十銭か二十銭分の鉄屑を買って来ることから始まる。出来上がった五徳を「〆元」で買ってくれる値段は一個につき二十銭で、一日働いても一円の収入にしかならなかったから、まえもって材料を余分に買い調えておくことはできなかった。炉に焚く石炭は、まだ年若い兄弟が二人で鍛冶仕事をしていることに同情した今井という石炭屋が、半俵分の四十銭で二俵分ぐらいの量を売ってくれていたのだが、小柄な志功はその石炭を積んだ荷車を、一人では引っ張り切れない様子を懸命になって示すことがあった。それを見て石炭屋の主人が、
「ほら、スコは絵バカで、力がねえんだから、だれか後押しをしてやれ」
と叫ぶと、近所の子供たちが集まって来て、面白半分に車の後押しをしてくれた。荷車を引いて家に帰り、石炭を炉にくべ、|鞴《ふいご》の風を送って赤く焼いた古鉄を、鎚で叩き伸ばして形をつくり、|鑢《やすり》をかけ、油を染み込ませた紙鑢で磨き上げ、輪と足をとめた鋲の頭を、丁寧に摩り磨いて、一台の五徳が出来上がる。古い鑢の目が摩滅してしまっても、新しいものを買って来る余裕がないので、仕事の合間には、その鑢も赤く焼いて叩き直し、細かく目を刻まなければならない。一日に五個つくっても、材料費をのぞくと実際の利益は一円をずっと下回り、それで大酒飲みの父親を含めた十数人の家族の一日を|賄《まかな》わなければならないのである。
――どうして、こすた馬鹿|臭《くせ》え仕事をさねば|駄目《まいね》ンだべな……。
志功は腹のなかで、そうおもいながら毎日の仕事をしていた。五個の五徳を完成したあとは、朝方に子供たちが置いていった半紙に、凧絵を描き始める。
「スコ、絵コ出来でらな?」
と子供たちが訪ねて来ると、志功はかれらと連れ立って家を出た。家を離れた途端に、志功は生きかえったように元気になって、子供たちと燥ぎ出す。かれが近所の人から「バカコ」と目されていたのは、自分よりずっと年下の子供とばかり遊んでいたからでもあった。年下の子供とだけ遊んでいると、どうしても精神年齢が低く感じられて、少し足りないように見えて来る。かれが同年輩の友達と、あまりつき合わなかったのは、自分の家の貧しさに引け目を覚えていたからだろう。それでも、かつての同級生が訪ねて来て、
「スコ、我さも何かつくって|呉《け》ろじゃ」
と頼むと、一家の生計を支える貴重な作物である五徳を気軽に進呈したりした。そうした生来のサービス精神があったからに違いない。年下の子供たちには絶大な人気があった。大勢の子供たちを引連れて、家のまえの市役所の庭や、善知鳥神社の境内へ出かけた志功は、あたりが暗くなるまで、夢中になって絵を描き続けていた。
五
夏のネプタ祭りが近づいて来ると、志功は鍛冶屋の仕事をそっちのけにして、本家の「青年画家」棟方忠太郎のネプタ作りの手伝いに熱中した。青森のネプタは組ネプタといって車がついた屋台の上に、大きな武者人形を組合せたものである。ここで話は、いささか瑣末的になるけれども、青森ではネブタといい、弘前ではネプタといい、これはおたがいに自分のほうが正しいと主張して、頑として譲らない。この「ブ」と「プ」、つまり一字の濁点と半濁点の違いに、あくまでも固執するところが、実は津軽人の特質なのだが、棟方は生涯を通じて、そうした瑣末主義や排他性にとらわれることがなく、自分の絵の参考になるものは、何でも取入れた。ここでネプタと書くのは、青森の出身であるにもかかわらず棟方自身がそう発音し、そう書いていたからである。ただし、かれが自伝のなかで「津軽のネプタの起源は、坂上田村麻呂が、エゾ征伐のとき、敵をさそいだすために|オトリ《ヽヽヽ》に作ったのだと伝説されているのです」というのは、たぶん俗説であって、いまでは全国の各地に伝えられているネムリ流し≠ニ同種の行事であろうというのが定説になっている。
さて、青森の組ネプタは、細く割った竹で、曾我の五郎、十郎といった人形の骨組みをつくり、紙を張ったその上に墨で太い描線を入れ、|蝋《ろう》で輪郭をかたどった模様を、赤、青、黄、紫……といった強烈な原色で塗り潰して行く。顔の大きさだけでも二かかえもあるような巨大な張子の人形のなかに、百目蝋燭を五十本、百本と点した組ネプタが五十台以上も出て、車の動きにつれてゆらゆらと揺れながら進んで来る有様は、見る者の胸を躍らせずにはおかない壮観であった。
青森には、棟方忠太郎のほかに、綽名がヨッケで号が綿章という日本画家、ネプタどきになると本業を|擲《なげう》ってネプタづくりに専念する北川の左官屋、「目腐れトンコ」と呼ばれている籠屋のトンコ……などの名人上手がいて、忠太郎のネプタは、色彩構成が実に画然として鮮やかであったが、奔放さと動きに欠ける|憾《うら》みがあり、北川のネプタは色彩構成において遠く忠太郎の敵ではなかったけれども、まるで生きた人間が|六法《ろつぽう》を踏んで近づいて来るようなネプタ本来の豪快きわまりない奔放な躍動感があって、目腐れトンコの作りは、稚拙なところに何ともいえぬ愛嬌があった、と志功は書いている。各町内の人人は、それぞれの名人上手にネプタの製作を依頼して、観衆の人気を競ったのだが、――わたくしの絵の原流は、津軽の凧絵とネプタにある。……と語り続けた棟方は、それらの町の絵師たちを、すべて自分の手本にしていたのだろう。墨の太い描線、鮮やかな原色による色彩構成、そこからハミ出す騒騒しいほどの奔放さ、人物の躍動感、愛嬌を感じさせるまでの稚拙さ……等等は、いずれも後年の棟方の絵の特徴に通じている。
港町である青森のネプタは、城下町であった弘前のそれよりも、開放感に溢れていた。多くは浴衣か女物の赤い襦袢に、たすきの端を長く垂らし、花笠に白足袋はだしの|扮装《いでたち》で踊り回っている|跳《は》ね|人《と》のなかには、さまざまに仮装してグロテスクなユーモアを発散している|化《ば》け|人《と》も混じっており、曾我兄弟や赤穂浪士は序の口で、男同士の貫一お宮、のちには扇を口元に当てて薄気味悪い流し目を観衆に送る男のカルメンまで飛び出し、なかでも奇怪であったのは、表の生地を取去った綿入れを着て、太い綱を帯に巻き、頭に鉄の鍋をかぶった男で、これは何かといえば、綿鍋綱(渡辺綱)という|洒落《しやれ》なので、かれが片腕の鬼を引っ張っていたところから、人人はようやくその難解な洒落を解することができたのだった。
古くは津軽家江戸屋敷の裏庭で、夜な夜な侍たちが女や極貧の人びとに変装して馬鹿騒ぎを演じ、江戸の人人の顰蹙を買った昔から、連綿として伝わる仮装、奇想、道化、倒錯の渦のなかで、|殷殷《いんいん》と大太鼓を打鳴らし、笛を吹き、跳ね人はガガシコ(拍子鉦)を叩きながら、
「ラセ、ラセ、ラセ、ラセ」
と叫んで踊り狂った。棟方忠太郎のネプタ作りの手伝いを終えた志功も、野間歯科の書生である遠藤、山田の二人とともに、跳ね人のなかに加わっていた。遠藤はこの日の女装のために、わざわざ|縮緬《ちりめん》の襦袢から帯、足袋、草履まで新調して、手足に白粉を塗って張切っており、山田もだれかから借りた女物の襦袢を着て、志功は野間歯科の隣にある佐藤外科の看護婦から借りた赤い腰巻を身にまとっていた。日頃は、どちらかといえば内向的でおとなしい津軽人が、いったんネプタ祭りとなると、熱狂的に興奮しだすのは、実は坂上田村麻呂のほうではなく、中央からの征夷の軍に反抗して滅び去った|服《まつろ》わざる|蝦夷《えみし》のほうの血が騒ぎ出すからなのではないか……とおもわれる。
滅ぼされた蝦夷の残党は、一体どこへ消えたのだろう――。津軽平野に聳え立っている岩木山の裾野の一角に、鬼沢という村落があって、そこには鬼を祭神とする鬼神社があり、「鬼の相撲場」と呼ばれて山から出て来た鬼が相撲を取っていたという窪地もある。伝説によれば、昔はじめてこの裾野へ来て開墾に従事していた人たちの前に、ある日、鬼のような姿の者が現われ、自分もすぐそばで原野を耕し始めた。人人は愕いたが、別に危害を加えようとする様子もなく黙黙として働いているので、これはただの鬼ではないとおもい、実は用水がないために開拓に難渋していることを訴えると、鬼は無言で頷いて姿を消した。やがて、開墾地の上方から岩の間を縫い低地を這って一筋の川が流れ落ちて来た。待望の用水を得て開拓に成功した人人は、感謝の念を籠めて自分たちの村を「鬼沢」と名づけ、鬼を祭神する神社をつくった……とつたえられているのだが、この伝説に、かりに幾分かでも根拠があるとすれば、開拓者を助けた鬼というのは、遠い昔に滅び去った筈の蝦夷のなかで山奥に隠れ棲んだ残党の末裔であったのではないだろうか。それでなくても東北の原住民であった蝦夷の血は津軽の人人のなかに伝わっている筈で、祭りになるとそれが騒ぎ出すのではないかともおもわれ、とくに熱狂性が強い志功は、まるで小さな鬼のようになって跳ね回っていたのに違いないとおもわれるのだ。
祭りからの帰り道、志功が借りて身につけていた赤い腰巻は、真二つに裂けていた。遠藤の新調の襦袢もずたずたに破れており、道筋での振舞い酒に酔払った山田は、まっすぐに歩けず、善知鳥神社のなかの沼に落ちてしまった。泥に|嵌《はま》って|※[#「足へん+宛」]《もが》いている山田を、遠藤と志功は、ようよう助け出して、野間歯科に連れて行った。
善和鳥神社のそばにある野間家は、東京から青森へやって来た一家で、したがって家のなかで使われているのは、青森弁ではなく東京弁であった。家は洋館で、応接間のガラスケースのなかには、ぴかぴかに磨き上げられた猟銃が並んでいる。野間家の人人は、志功のことを「志功さん」と呼んだ。いつも「スコ、スコ」と呼びつけにされているかれにとって、そこは夢のなかの別世界のようにおもわれるほど、明るくて文化的な香りと光に満ち満ちている家庭であった。
野間家には三人のかわいい姉妹がいた。貧しい鍛冶屋の息子であった志功にとって、東京から来た医者の家の三人姉妹は、文字通り高根の花であるようにおもえたろう。やがてかれは長女の茂子に、ひそかに少年らしい憧憬の念を抱き始めたようだった。
六
野間歯科の診察室は二階にあって、玄関からそこへ通じる階段と、そこからさらに勝手口のほうへ降りる階段とがあり、裏階段の下には一台のオルガンが置かれていた。茂子がそのオルガンを|弾《ひ》き始めると、きまってどこからともなく、志功が姿を現わした。
志功は階段の一番下の段に腰を下ろし、椅子に坐って弾いている茂子を見上げるようにして、オルガンの音に耳を傾けていた。話をするときは、茂子が階段のなかごろに腰かけ、志功は大抵その下に立って話しかけるのが習慣のようになっており、したがって二人のあいだでは、志功の顔が、茂子の顔の下になっていることが多かった。視線を上に向けた姿勢で、憑かれたように志功が語るのは、絵に関する話題ばかりだった。話すのは、もっぱら志功のほうで、茂子はいつも聞き役専門であった。話し出すと志功は夢中になって口角泡を飛ばし始める。
「志功さん、あんまり|唾《つば》を飛ばさないで……」と茂子がいうと、かれはあわてて口元の唾を手の甲で拭うのだが、こんどは|洟水《はなみず》が垂れているのにも気づかずに話し続けているので、「ほら、洟水を拭いて……」と、茂子は志功に塵紙を渡したりした。まるで彼女のほうが年上の姉のような感じであったけれども、実際には、茂子は志功より十歳年下の少女だった。
このころから志功の絵は、水彩や油絵に変っていたのだが、茂子は絵を見せられても、あまり感心したことがなかった。たとえば緑である筈の初夏の山野が、一面に赤く描かれているので、茂子が疑問を口にすると、「それはね、茂子さん……」志功は懸命に東京弁に近い言葉を遣って、十歳年下の少女に説明した。
「いまの山は、燃えているんですよ。冬のあいだ眠っていた生命が、いっぺんに息を吹返して、真赤に燃えてるんだ。ンだから、ぼくはその通りに描いたんですよ。あのね、茂子さん、チューリップを見て、もしそれが|向日葵《ひまわり》に見えたら、向日葵に描いていいんです。自分に見えた通りに描く、それが本当の絵というものなんですよ」
世間の大部分から、まだ「バカコ」と目されていたかれは、すでにそうした自分なりの絵画論を持っていた。縦長の大幅帳を半分に切った志功のスケッチブックの表紙には「愛 熱 力」という三つの文字が筆太に記されており、かれの絵画論には、しばしば「ゴォホ」という名前が飛び出した。
茂子に書生部屋へ立ち入ることを禁じ、学校から帰って来たあと家のまえに|佇《たたず》んでいることも許さなかったほど厳しい|躾《しつけ》をしていた父の野間忠一が、階段のところで志功と話しこんでいる分には、それが幾ら長時間にわたっても文句をいわなかったのは、絵のことしか頭にないような志功を信用していたからであったのだろう。東京歯科医学専門学校(いまの東京歯科大学)の出身で、当時のモダンボーイだった忠一は、音楽と絵が好きで、志功の絵と絵画論に一目おいており、「志功君は物になりそうだ」といっていた。
どれほど志功を信用していたのかは、のちに八甲田山中の酸ケ湯温泉への写生旅行に、茂子の同行を許可していることからも判る。初夏だった。酸ヶ湯温泉へ着くと、茂子は、そのころはもう志功の知合になっていた鹿内仙人に案内されて、八甲田の山中を歩き回った。茂子はそのとき、もう一人同行していた男性がだれであったのか、また志功がどのような絵を描いていたのかを記憶していない。おそらく初夏のハイキングの楽しさに夢中になっていたからなのだろうが、志功は多分、長い冬の眠りから目覚めた八甲田の山野の緑を、自分自身、息を吹返したような心の弾みを感じながら、燃え上がる炎の色で描いていたのに違いない。かれもまたこのころから、それまでの暗い生活から解放されて、明るい初夏の季節を迎えようとしていた。
志功と野間家の結びつきは、手先が器用だった長兄の|一《はじめ》に、野間医師が義歯の製作を依頼したことに始まっている。一はすぐに義歯の製作にも上達したが、酒飲みであったために、たびたび約束の期限に遅れることがあり、その兄にかわって志功が義歯を届けに来たのが、親しくなったきっかけであった。
その後、次兄の賢三は鍛冶屋から自転車修理の仕事に転じ、志功も人の世話で、青森の裁判所の弁護士控所に給仕として勤めることになった。かれが十七歳のときである。裁判所へ入ってからは、給料で乏しいながらも画材を買うことができ、絵に打ち込める時間も、野間家へ遊びに来る回数もふえて、志功はいつのまにか、書生部屋に寝泊りすることを野間家に許されるまで親しくなっていた。裁判所では、給仕を略して「キュッ」、あるいは「スコ」と呼ばれていたが、日常の会話が歯切れのいい綺麗な言葉でかわされている野間家での呼び方は「志功さん」もしくは「志功君」であり、野間医師はかれを未来の画家として遇していた。そのような環境が、志功にとって、どんなに快いものであったかは、想像に難くない。
野間家のかわいい三人姉妹の名前は、上から|茂《しげ》、|弘《ひろ》、|治《はる》といった。長女茂子の本名は、茂である。あとから二人の兄弟も生まれたのだが、最初のうちは男子を期待していたのに三人続けて女の子しか生まれなかったので、野間医師は男子のために用意していた名前を、そのまま女の名前の読み方にして娘たちにつけたのだ。そうした父の期待からの影響と、「これからは女の子でも、独立心を持たなければいけない」という薫陶を受けたせいか、長女の茂子は、父がよく「この子が男だったらよかったんだが……」と口にしたほど、勝気な少女に育っていた。十歳の年齢差があったのにもかかわらず、志功が同年輩か、ひょっとすると年上の娘でもあるかのように茂子に接していたのには、そんな性格のせいもあったのだろう。しかし、後年の棟方が、善知鳥神社にまつわる思い出を語って、
――元の善知鳥様は、ほんとうに夜は淋しくつて、一人歩きの通り抜けが出来なく、野間さんの茂子さんを道連れにした事が幾度かあつた。……
と追想しているのには、いささか疑問がある。かりにそれを、志功が十七歳のときの話だとすれば、茂子はまだ七歳だ。淋しくて一人では通り抜けることもできない神社の闇のなかへ、七歳の女の子を道連れにするというのは、どう考えても不自然だし、もっとあとの話だとしても、たとえば二十歳の男が、神社の闇を怖がって十歳の女の子を道連れにするのは、やはりおかしい。それは茂子の記憶に、まるっきりないことで、厳しかった父親が、そんなことを許す筈もないという。とするとこれは、志功の胸底にあった願望が、いつしか現実の出来事と化して脳裡に刻み込まれていたのだろうか……。
志功は茂子に、ひそかに憧憬の念を抱いていたのかも知れないが、それを口に出していったことは一度もなかった。青森の貧しい鍛冶屋の三男にとって、東京から来た医者の家の長女は、所詮、高根の花だと最初からおもい諦めていたのかも知れない。かれが口に出していったのは、茂子の二つ年下の妹である弘子への愛情(ないしは同情の念)であった。弘子は幼いころに脳膜炎にかかったせいで、普通の子供より知恵が遅れていたのだが、色が抜けるように白く、黒い|円《つぶ》らな瞳の大きさがまことに印象的な少女だった。その子が小学校六年で死んだとき、志功は号泣して、「いまに大きくなったら、弘子さんをいただきたいとおもっていたんです」と野間家の人人にいった。知恵遅れの娘では、きっと嫁の貰い手もあるまい。だが自分がついていれば、しあわせにできる。なんとかして、しあわせにしてあげたい……、志功はそう考えていた様子であった。のちにかれは、野間家のそばの善知鳥神社の森へ夕暮れに群れ飛んで来て|啼《な》く鳥の声を、
――亡くなった二番目のお嬢さん(弘子さんといった)と御風呂に一緒に|這入《はい》り|乍《なが》ら聞いたものだった。……
と追憶しているが、これは別に性的な感情からではなく、十二歳年下の幼い不幸な娘の哀しい美しさを、津軽の言葉でいえば「|痛《いだ》わしい」(惜しい、気の毒だ、もったいない)ものとして|愛《いとお》しんでいたのだろう。
七
不幸な弘子のほかに、志功が茂子に向かって、「かわいい、かわいい」と口にしていたのは、安方町の魚問屋「高甚」の娘であるみよの名前だった。胸のなかにあることを隠しておけない性質らしく、かれは茂子以外のだれに対しても、「みよちゃんが好きだ」といっていた。絵画論をするときは、一人前の人間のようであるのに、そのほかの点では、かれはまだ精神的にはかなり幼いようで、この高木みよも、色の白さと眼の大きさが印象的な、志功より十三歳年下の美少女であった。
人見知りをしない志功にとって、新町から安方町、大町にかけての一帯は、自分の庭のようなものだった。安方町には、茂子の同級生で、のちに女子美術へ進んだ若井せつ子の家である魚問屋の「若由」があり、彼女は志功に絵を教えて貰っていた。その向かい側にあったのが、みよの家の「高甚」である。みよの母親のみゑは、気さくで世話好きな性格で、店先のまえの道に知っている顔の人が通りかかると、「|飯《まま》食べて行ぎへえ」と呼びとめ、商売物の魚を焼いて御飯を振舞うのが常であった。愛嬌に富んでいる志功は、このみゑの気に入られて、高木家へ出入りするようになり、お寺参り、お宮参りと、みゑの行くところへは、どこへでも一緒について歩くようになった。
志功は、暇さえあれば朝から高木家へやって来て、御飯を食べたあと、二階の部屋で絵を描くことに熱中し始めた。十人以上の家族が寝起きしている自分の家とは違って、高木家の明るい二階の部屋は、画室として絶好であったからなのだろうが、かれの目的はそればかりでなく、みよの顔を見ることにもあったようだった。
「お母さん、みよさんはいますか」と入って来て、子供のみよが黙っていると、「きょうは機嫌が悪いですね」と本当に悲しそうな表情をする。たまにみよが、かれに向かって微笑でもしようものなら、「ああ、笑った、笑った。嬉しい」志功は両手を胸に当て、頗る派手なジェスチュアで大喜びだった。
のちにかれは上京する直前、母親のみゑのまえに両手を突いて、「いまに必ず出世して迎えに来ますから、そのときはどうか、みよさんを下さい」と頼んだ。母親のみゑは、もっと年が近い姉のほうにしたら、と勧めたのだが、いや、みよさんでなければ……と|肯《がえ》んじなかったということからしても、かれのみよに対する愛着は、かなりのものであったようにおもえる。志功はそれだけ自分が一人前の画家に出世するまで、長い年月がかかることを覚悟していたのだろうか。それとも、
――自分に見えた通りに描く。それが本当の絵というものなんですよ。……
と力説していたかれは、少女の幼い美貌をカンバスにして、理想的な女人のイメージを脳裡におもい描いていたのだろうか。いずれにしても少女のみよには、嫁にほしいという志功の申し出が、確かな実感をもって受止められる筈はなかった。
初夏の山野を、燃え上がる炎のように描く一方で、志功が高木家の二階で制作していた人物画や版画は、数年後に発表される版画本『星座の花嫁』に通じるようないわば星菫趣味に近いものだった。この星菫趣味は、かれの美少女への愛着と、無縁のものではあるまい。このころの志功の女性に対する美学は、後年の豊満なエロティシズムが想像もつかないくらい、殆ど性的なものを感じさせないほど淡く、同年輩の若い男にくらべても可憐といっていいほど幼いものであった。
話はまえに|溯《さかのぼ》るが、青森の裁判所に給仕として勤めることになったとき、志功は世話をしてくれた近所の沢地弁護士から、お嬢さんのお古の銀縁の近眼鏡を貰った。生まれて初めて眼鏡をかけ、視界が一挙に鮮明になったのに愕然としたかれは、「先生、見えすぎますッ」と叫んだという。
最初の絵の師匠であった青年画家%助忠太郎の足元のところでネプタ作りの手伝いをしていた志功が、目の前にみえる裸足の|踵《かかと》の醜悪さに生理的な嘔吐息を催して、忠太郎のもとから逃げ出したというのは、近眼鏡をかけたあとの話であったのだろう。この地方の人人は、踵を「アグド」といい、アグドはすなわち「|足掻処《アグド》」であって、この言葉を発音するときは大抵、吐き棄てるような調子になる。志功も近眼鏡によって鮮明になった視界のなかに、忠太郎の|皹《ひび》で割れたアグドをまざまざと見たとき、寒さで|凍《しば》れる冬のあいだ、あかぎれだらけの裸足の下駄ばきで学校へ通っていた自分の姿や、極貧の暮しのなかで足掻いていた家族の記憶が、いっぺんに|蘇《よみがえ》り、それが嘔吐感となって咽喉元に込み上げて来たのではないだろうか。
また、かれが自分の家よりも長い時間を過ごすようになった野間家や高木家の明るい雰囲気も、それまでの生活の惨めさと暗さを、一層ありありと感じさせる近眼鏡の役割を果たしていたのかも知れない。自分よりずっと年下の、まだ世俗の垢に染まっていない少女たちへの憧れは、いわばかれの心を傷つけて来た様様なあかぎれから生じていた切ない分泌液でもあったのだろう。志功は、いちど野間茂子に真剣な顔つきでこういったことがある。
「茂子さん、見ていて下さいよ。ぼくは判任官になったら奏任官になり、奏任官になったら勅任官になり、勅任官になったら親任官になってみせますからね」
そういわれても子供の茂子には、ハンニンカン、ソウニンカン、チョクニンカン、シンニンカン……というお経か|呪文《じゆもん》のような文句が、いったい何を指しているのか判る訳がなく、その言葉に|籠《こ》められていた本当の意味におもい当たったのは、無論、遥か後年のことであった。
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ゴッホと|貉《むじな》たち
一
志功が向こうを見ている。こちらからは、どんな顔をしているのか判らない。だれかが声をかける。振向いたときは必ず笑顔になっていた。志功が怒った顔を人は見たことがなかった。
野間茂子と彼女の同級生たちは、かれに「棒」という綽名をつけていた。海辺の|合浦《がつぽ》公園へ写生に向かうときなど、まっすぐに前方を凝視したまま、決してよそ見をすることがなく、まるで一本の棒がやや前に傾いたような恰好で、とっとと歩いていたからである。人に呼ばれて振返るまえ、あるいは一本の棒と化して脇目もふらずに目的地へ向かっているあいだ、心のなかで一体なにを考えていたのか、周囲の人は知る由もなかったのだが、やがてかれは次第に心中の望みを明らかにし始めた。
数ある志功伝説のなかでも最も有名なのは、裁判所の弁護士控所の給仕になったころ、弘前出身の小野忠明に見せて貰ったゴッホの『向日葵』の原色版に感激して、「ようし、日本のゴッホになる」と決意したという逸話だろう。自分と同年の小野忠明に、棟方は生涯にわたって感謝の意を示し続けた。初めは絵の先輩と後輩という関係であったのだけれども、のちに小野は様様な厚遇を棟方から受けており、この二人の交遊のあとを辿ってみると、棟方の人懐こさや、乾いた白紙のように他人からの影響を吸い取る感受性や、それらとはまた違った端倪すべからざる一面とが、|髣髴《ほうふつ》として浮かび上がって来る。しばらくは小野忠明の記憶を辿ってみよう。
――生来、偏狭な性格で、家の貧しさに引け目を感じていたわたしは、そのころ、一人の不良少年だった。
とかれは追想する……。
かつての城下町である弘前に生まれ育った小野は、重苦しく沈滞して澱んでいるような町の空気に反撥していた。幼いころに父を失い、カトリック教会の料理番をしていた母親に育てられたかれは、早く一人前になろうとして、工業学校の機械科に入ったのだが、それは実際には自分の気に染まないコースで、じきに学校へ行かなくなり、鬱屈したおもいを抱いて、あてどもなく町を徘徊していた十四歳のときだった。ある日、たまたま前を通りかかった市の公会堂で、絵の展覧会が開かれており、そこに並んでいたのは、角南天洋という町の看板屋が描いた泰西名画の模写で、見ているうちに頭を殴られたような衝撃を覚え、自分の進むべき道が、初めてはっきりしたような気がした。
絵描きになろう……。そうおもったかれは、第五十九銀行の頭取りの息子で、東京美術学校を中退した関彦四郎が弘前で主宰していた洋画団体の「北斗社」に近づいた。「北斗社」は、北斗七星から取ったその名前の通り、会員が七人の団体だった。小野は初めのうち水彩画を描いていたのだが、やがて関彦四郎から絵具の使い残しを貰って油絵を描くようになり、「北斗社」の会友に加えられた。その一方で、小野は同年の弘前中学生である平田小六ら「スペイン社」の連中とも親しくなっていた。志功と知合うまでの小野の履歴を、このように詳しく書くのは、当時、本州北端の小都市に育っていた少年たちの早熟ぶりと、周囲の環境や時代に対する反抗心と美術に対する関心の強さを物語っておきたいからである。
のちに北国農民の悲惨な生活を描いた九百枚の長篇小説『囚はれたる大地』を発表して、一時期、左翼文壇の寵児になった平田小六は、このころ白樺派の運動に影響を受け、ゴッホ、セザンヌらの絵画に心酔して油絵を描いており、さらに印象派の先駆者であるベラスケスとゴヤに傾倒して、まだ十五、六の田舎の中学生でありながら、反アカデミズムを|標榜《ひようぼう》する「スペイン社」という団体を結成していたのだった。
小野もかれらと一緒に絵画と文学を論じ、写生に行くときには、セザンヌの自画像のかたちに似せた帽子をかぶって、絵具箱とカンバスを手に町を歩き回っていた。当時の弘前で、そうした行動は、穏やかならざる不良少年の所業としか見えなかったのに違いない。それに民衆解放の主張を掲げて創刊されたばかりの総合雑誌「改造」の定期購読を書店に申込んだことからも警察に睨まれて、弘前に居辛くなったかれは、青森に来て浦町に住むようになった。十八歳の春のことだった。弘前から持って来た古本を売って細細と食いつなぎながら絵を描いていたかれは、あるとき、新町の角の鍛冶屋のまえで、荷車に腰かけて絵を描いている一人の若者を見かけた。一見したときの印象は、――熊の子供が絵を描いている……、という感じだった。
写生の帰りで絵具箱と八号のカンバスを下げていた小野は、近づいて行って、かれの手元を|覗《のぞ》き込んだ。四つに切った木炭紙を、二つ折りにして綴じている木綿糸の端に結んだ4Bのちびた鉛筆を握って、その熊の仔が夢中になって描いていたのは、少女雑誌の挿絵の模写でもしているのではないかとおもわれる稚拙な絵であった。顔を挙げた相手は、小野が手にしている絵具箱とカンバスを見て、絵を描く人間であることがわかったのだろう、二、三の言葉をかわしているうちに、小野が訊ねられて名前を告げると、
「あッ、小野忠明先生ですか」
眼鏡の奥の眼を大きく見開いて、いまにも飛びついて来るのではないかとおもわれるほど強い感動の表情を示した。十八歳の小野は「先生」と呼ばれてたじろいだが、志功のほうでは、青森から汽車に乗って弘前へ行き、北斗社の展覧会を見たことがあって、かれの名前を知っていたのである。これが、それからおよそ二年にわたる青森での小野と志功の交遊の始まりであった。
二
「油絵づものは、黒をナマのままで使ってもいいんですな?」
志功は|吃驚《びつくり》した顔をしていた。かれが見つめていたのは、ゴッホに惹かれていた小野が、どことなくゴッホの描く景色に似ているとおもっていた|浪打《なみうち》の風景画だった。黄色く枯れた蘆野原のなかに、近所の工場から捨てられた石炭殻が、|堆《うずたか》くなっている。その石炭殻の山を、小野は黒の絵具で描いていたのだが、日頃ふたりで論じ合っていた印象派の手法では、黒の安易な使用を戒めていた筈であった。志功はそれで愕いたのだろう。間もなく志功は、跨線橋の上から見た青森駅の構内を、殆ど真黒に描いた絵を持って来た。それは頗る迫力に富んだ絵であったので、小野は弘前の北斗社展への出品を勧めた。初めて志功の絵を見た北斗社の関彦四郎は、腕を組んで唸った。
「棟方というのは……これはモノになるな」
小野と知合ってから、志功の絵は急速な進歩を示していた。初めのうちは、まだようやく水彩画に手を染めたばかりで油絵具と絵筆の使い方も知らず、――われが描いでるのは絵だ、図画ではない、というのが唯一の絵画理論で、その「絵」というのも、後年の棟方の独得な個性が予想もつかないくらい「アカデミック以前」といいたいほどスタイルも何もない幼稚なものであったのに、毎日のように小野の下宿へやって来て、手法やモチーフなどについて論じ合っているうちに、志功の腕前はめきめきと上達して、いまでは小野が、
――これほど短いあいだに、よくもこれだけ上手になるものだな。……
と舌を巻くまでになっていたのだ。小野はいちど、志功に自分の油絵の道具一式を進呈したことがある。かれのほうは描けば描くほど絵が判らなくなり、いったんは絶望して、もはや絵は描くまい、と画描きへの道を断念しかけたからだった。それでもやはり美術への憧れは消すことができず、偉くなるためには、東京へ出なければならない、と考えた小野は、志功と知合って二年後に青森を離れて上京した。
大崎に借りたバラック同然の家には、ほぼ毎日、志功からの葉書が舞いこんで来た。十何円かの給料でかなりの材料費を要する油絵を描いていた志功にとって、毎日の葉書代は安いものではなかったろう。志功の葉書は、青森で仲間の松木満史と一緒に「青光社」という洋画団体を結成したことを伝えていた。小野は二科展への入選を目ざしていた。そこへ起こったのが関東大震災だった。
命からがら芝の増上寺境内に設けられた救護テントヘ逃げこんだかれは、そこで風呂敷に包んで来たバルザックの『田舎医者』を読んで痛く感動し、――こんどこそ絵を諦めよう、田舎へ帰って、人のために尽す生活をするのだ、と自分にいい聞かせ、震災の被災者は無料という特典のあった汽車に乗って帰郷した。都落ちして来た無職の元不良少年に対する周囲の眼が、温かいものである筈はなく、失意のかれは、やがて北の涯の樺太に向かった。以前から絵とおなじように考古学にも惹かれていたので、そこで働きながら、考古学の発掘をしたり、絵を描いたりして一生を終るつもりだった。
樺太で小野が住みついたのは、真岡の北にある|登富津《トウプツ》というアイヌ部落だった。そこへも一週間に一度ぐらいずつ、東京に出ていた志功からの手紙がやって来た。小野はすでに世を捨てたに等しかったのだから、これはもはや儀礼とか社交辞令ではあり得ない。手紙には大抵、文章のほかに絵が描かれていた。屈折した気分になっていた小野には、その絵が(おらはこれほど上手になったよ)という志功の誇示であるようにも、または(おめも頑張って絵を描け)という無言の鞭撻であるようにも感じられた。美術展のシーズンになると、小野はなんとか金を工面して展覧会を見るために上京し、志功の部屋に泊めて貰った。その部屋には「祈願白日会入選」という紙が貼られていた……と小野の記憶にあるのは、たぶん大正十四年のことだろう。この年の秋、志功は油絵『清水谷風景』で白日会への入選を果たしている。
足かけ六年の歳月を樺太のアイヌ部落で過ごしたあと、小野は昭和四年から朝鮮の平壌博物館に勤めて、楽浪郡の遺跡の発掘作業に従事することになり、それからは給料を貯めて、まえよりも頻繁に美術展のシーズンには東京へ出て来られるようになったのだが、かれが上京するたびに、志功は必ず駅まで迎えに来て、自分の家に泊めてくれた。いちど駅に志功の姿がなく、かわりにチヤ夫人が出迎えに来ていたことがあった。訳を聞くと、志功は自転車に乗って富士五湖めぐりに出かけているのだという。
――あの眼の悪い志功が、自転車に乗って富士五湖めぐりとは……。
と、小野は度胆を抜かれて唖然とした。大和町の家で待っているうちに、志功が帰って来た。その夜、晩飯をご馳走になってから話し込んだあとで、小野が二階の部屋で眠ったのは十一時ごろだった。じきに目が覚めた。隣の志功の画室から明かりが洩れている。覗いてみると、志功は仏像の写真らしきものを見ながら、一心不乱の様子で絵を描いていた。小野が起床するのは、いつも午前四時ごろである。翌朝かれが目を覚ましたとき、志功はもう起きて絵を描いていた。襖をあけて見ると、十枚ほどの絵が出来上がっている。何をしているんだ、という小野の問いに、「うん……」と振向いた志功は、明るい笑顔で答えた。「おめが帰るときに、この絵コば土産に持って行って貰おうとおもってせ」
かれが口にした通りだとすれば、きのう自転車による富士五湖めぐりから帰ったばかりであるのに、夜の十二時すぎまで絵を描き、今朝はまた四時まえから、一文の金にもならない進呈用の絵を描いていたというのだ。その並外れた超人ぶりとサービス精神に、小野は完全にシャッポを脱いだ感じになった。このあたりから、志功が小野に示した端倪すべからざる一面は、いっそう目覚ましさを増して来る。
別の年に棟方家を訪ねた小野は、またもや度胆を抜かれた。床の間に大きな桐の箱が|恭《うやうや》しく飾られ、その表面には特徴のある志功の筆跡で、――小野忠明先生筆 御鯉様之図、という文字が、墨痕|淋漓《りんり》と書かれていた。小野には、そんな鯉の絵など描いた覚えがない。すっかり圧倒されてしまったかれは、うっかりあければ自分の過去のお化けか、浦島太郎の玉手箱のように白い煙でも出て来そうな気がして、なかを覗いて見る勇気が出なかった。かりにこれが、小野への感謝の念を表明するための志功の演出であったのだとしても、相当の金がかかっている筈で、それだけの投資をして志功に小野のほうから返って来るものは、何もないのだ。いわば無償のサービスである。
『大和し美し』が柳宗悦らに認められてから、立続けに力作を発表して国画会の実力者になった志功は、国展に絵を出せ、と手紙で平壌にいる小野にいって来た。数十匹の蛙を描いて送った絵が入選して、以後は毎年、国展へ絵を出すようになり、「途中で額縁が|毀《こわ》れて来たから、これからは額縁に入れないで送ってくれ」という志功の言にしたがって、カンバスを巻いたままで送っていた。つまり志功が額装して出品してくれるというのである。そしてあるとき、額縁ごと国展の事務所から送り返されて来たのを見ると、それは驚くほど立派な額縁で、間もなく「縁は進呈する。裏板だけ返してくれ」という志功の手紙が来た。あけてみたら、その裏板には、濱田庄司の家の略図と、梅原龍三郎が棟方の絵について書いた推薦文が貼りつけられていた。そのとき小野の脳裡には(ひょっとすると、これを見せるためのテクニックじゃなかったのかな)というかすかな疑問が浮かんだ。もしそうだとしても、これまた並並ならぬ金と労力と、すなわち殆ど誠意に等しい|手間隙《てまひま》のかかった演出であるといわなければなるまい。
戦後、平壌から引揚げて来た小野が美術教師として勤めていた青森一高へ講演に来た棟方は、「そこにいる小野忠明先生が、わたしの絵の先生ですよォ」と叫び、壇上から駆け下りると、小野の両手を握って「この人が、わたしの先生ですよォ」と繰返しながら何度も万歳のような恰好をした。それから十数年後、片目が失明した棟方は、青森で開かれた歓迎レセプションの席上で、小野が後から肩に手をかけると、振向いた途端に「うおゥ、うおゥ」と咆哮して抱きついて来た。小野は昔、裁判所の給仕室で志功と話しこんでいたところへ、一人の弁護士が入って来たとき、手の裏を返したように自分に背を向けて、その弁護士に愛嬌を振撒いていたかれの姿を記憶している。けれども片目の視力を失ったいまの棟方が、全身で表現している歓喜の情には少しの嘘も感じられず、小野は目頭が熱くなるのを覚えた。
棟方が小野に対してこれほどまでに礼を尽したのは、初めにゴッホの『向日葵』の原色版を贈られた恩を感じていたからだろう。そのとき「日本のゴッホになる」と決意したというのは、志功伝説のハイライトのひとつである。ところが不思議なことに、小野にはその『向日葵』の原色版を贈った記憶が、全然ないという。志功に初めてゴッホの絵を見せたのは、どうやら別の人物であったらしいのだ。
三
――ゴッホに夢中になっていたころ、小野忠明氏が青森へ来たので、わたくしは、いままでの水彩をやめて、はじめて油絵を描きました。……
自伝『板極道』で、棟方はこう述べている。これからすると、志功は小野忠明と知合うまえに、すでにゴッホに夢中になっていたことになる。『板極道』から十年後に発表された『わだばゴッホになる』では、そのへんの事情を、次のようにいっている。少し長くなるけれども、このあたりから段段はっきりして来る志功の独得な面目が躍如としている挿話だとおもわれるので、くわしく引用してみよう。ある日、青森へやって来た小野の家を訪ねて、
――話を伺ううちに、わたくしは、「ワ(私)だば、バン・ゴッホのようになりたい」と言いました。すると、小野さんは、「君は、ゴッホを知ってるッ?」と言います。その頃わたくしは、何か判らないが、ゴッホというものを口にしていました。みんなから「シコーはいつもゴッホ、ゴッホと言っているが、風邪でも引いたかな」とからかわれたものでした。小野さんは新刊の雑誌を一つ持ってきました。『白樺』でした。
口絵に色刷りでバン・ゴッホのヒマワリの絵がのっていました。赤の線の入った黄色でギラギラと光るようなヒマワリが六輪、バックは目のさめるようなエメラルドです。一目見てわたくしは、ガク然としました。何ということだ、絵とは何とすばらしいものだ、これがゴッホか、ゴッホというものか!
わたくしは、無暗矢鱈に驚き、打ちのめされ、喜び、騒ぎ叫びました。ゴッホをほんとうの画家だと信じました。(中略)「いいなァ、いいなァ」という言葉しか出ません。わたくしは、ただ「いいなァ」を連発して畳をばん、ばんと力一杯叩き続けました。……
この文章を読むと、志功はそれまで「何か判らないが」ゴッホという名前だけを知っており、小野に見せて貰った「白樺」の口絵で初めて画風に接して、狂喜乱舞したもののようだった。ところが実際には、志功はそのまえから何度も繰返して、ゴッホの写真版を見ていた筈なのである。自伝によれば、志功が青森裁判所の弁護士控所に給仕として勤めるようになったのは、近所に住んでいた沢地甚蔵弁護士の家のアヤコ、司郎姉弟の世話によるもので、
――出所してみると、先輩の山本という年輩の給仕がいました。そして給仕引き継ぎです。わたくしに仕事の要領をざっと教えたあと、「僕は東京へ文学勉強に行く。ここの控所給仕は歴代大物になるんだ。君も、画家としてきっと大物になれるぞ」と言ってわたくしと交換で出て行きましたが、堂堂と落ち着き払った態度でした。その後、この人の消息は知りません。……
といっているが、この先輩給仕だった山本兵栄は、長年新聞記者をしたあと、いまも健在で、ここに書かれているような台詞を口にしたかどうかは覚えていないけれども、志功にゴッホの画集と、岩波書店から哲学叢書の一冊として出ていた阿部次郎著の『美学』を貸したことを記憶している。
山本は弁護士控所で初めて志功と会ったわけではなく、絵を描いていた弟兵三の友達として、まえからかれを知っていた。兵三は啓明社という石版印刷所に図案工として勤めており、その同僚だった弘前出身の松田という図案工が山本家に下宿していて、実家が裕福だった松田はゴッホの画集を持っていた。それで山本は、上級学校への進学を目ざして上京することになったとき、自分の後任として志功を弁護士会の会長であった川口栄之進に推薦し、松田から借りたゴッホの画集と、リップスの感情移入の理論を説いた阿部次郎の『美学』を、「絵描きになるのなら、こういうものを勉強さねば|駄目《まいね》ぞ」そういってかれに貸したのだという。
ゴッホの画集を手にした志功は、飛び上がって喜び、頁を繰るたびに、「こりゃあ大すたもんだ!」と叫んで大感激のていであった。山本から又貸しされた画集を、かれがその後も繰返し見なかった筈はなく、小野忠明から「白樺」の口絵を見せられて躍り上がったのは、つまりゴッホに関しては二度目の狂喜乱舞であったのだ。後年の棟方は、先輩から何か話を聞かされると、たとえ前から知っていたことであっても、そんな様子は素振りにも見せず、まるで初めて聞いた話のように深く感動し、欣喜雀躍するのが常であったが、そうした演技とも本心とも見分けのつかぬ感激の示し方は、このころから身についていたものであったらしい。
志功が小野に見せられて興奮したゴッホの『向日葵』は、大正九年に神戸の山本氏が買って、翌十年二月号の「白樺」に原色版で紹介されたものだった。原画は三月に東京・京橋の星製薬会社四階で開かれた白樺美術館第一回展覧会に陳列され、それを見るためにわざわざ上京した小野は、帰青してから、四月に白樺社より発行されたセザンヌの自画像と風景、水浴、それにゴッホの向日葵の|帙入《ちついり》画集(色刷)を取寄せた。小野は、まったく記憶にない、というのだけれども、かれから志功が貰ったという『向日葵』の原色版は、小野が購読していた「白樺」の挿絵か、あるいはこの帙入画集の一枚であったのかも知れない。
いずれにしてもそれから暫くのあいだ、小野が東京で見て来た原画の印象に「白樺」のバックナンバーを読んで得ていた知識をまじえて、熱っぽく語り続けたゴッホ論に、志功が多大の影響を受けたことは確かなようだ。というのは、「白樺」のゴッホ特別号が出たのは大正元年の十一月であり、それに先立って柳宗悦がセザンヌ、ゴーガンらとともにゴッホを論じた『革命の画家』が「白樺」に掲載されたのはその年の一月で、どちらも志功が読んでいたとは考えられないのに、このころからのかれの絵の描き方と言動は、まさにそれらの文章を読んだとしかおもえないようなものになっているからである。『革命の画家』において、柳宗悦はゴッホを、およそ次のように論じていた。
――げに彼が画けるものは|凡《すべ》て溌溂たる生命そのものであつた。彼の画ける雲は躍り彼の画ける木々は燃えてゐる。草も木も山も雲も、そは凡て燃ゆる焔の|裡《うち》にある。彼はかくて|斯《かか》るものを画く時、常に身自らその燃ゆる自然の裡に居たのである。
――技巧によつて画く事は遂に彼の知らざる処であつた。|只《ただ》赤裸々なる感覚によつて自然の奥底に帰り、彼自らの生命がそこに融合した時のみ彼は始めて筆をとつた。彼が自然を描く時、彼は常に自然と一体であつた。
――ゴォホが彼の画布の前に臨む時、如何に異常なる真摯の状態にあつたかは又幾多の挿話が之を示してゐる。彼が如何に彼の絵画を狂ふが如くに画いたかは想像を超えてゐる。……
また『ゴーホの芸術』において、阿部次郎はこう書いた。プロヴァンスのアルルに来て、
――ゴーホの興奮は非常であつた。彼は猛烈に痛快に、|貪《むさぼ》るが如く此国の花やかさを描いた。火を以て火に向ふのである。彼は始めて南に来た北国人の様に|劇《はげ》しき転心を経験し、心の奥に渦巻く物を外部に放射し、彼の胸を重くしつゝ|而《しか》も彼の身を保護し来つた一切の|わだかまり《ヽヽヽヽヽ》を抛擲《ほうてき》した。
――燃焼する天空の下に彼の絵も|亦《また》炎となった。
――彼の絵は描いたのではない、吐き出したのである。彼の描く処を見るのは恐ろしかつた、彼は血を撒く様に絵の具を振り撒いた。彼は描く時に自己を忘れた、彼は自己と対象の合一を感じた。……
これらの文章に描かれているゴッホ像は、そのまま志功の姿と、「何を描いても火事の絵のようだ」といわれたかれの初期の油絵と、初夏の山野を燃え上がる炎の色で描いて野間茂子の問いに「いまの山は、燃えているんですよ」と答えた最初の絵画論に通じているようにおもわれる。白樺派の人人が伝えたゴッホ像のその通りに真似をしたのか、もともと生来の性質に共通するところがあったのか、どちらにもせよ志功は、小野忠明から詳しくゴッホの話を教えられたとき、自分のあるべき姿と進むべき道を、初めて実感できたような気がしたのに違いない。
その感動を、できるだけ|劇的《ドラマチツク》に表現するために、かれは最初に山本兵栄からゴッホの画集を貸して貰った挿話を省略して、小野に『向日葵』の原色版を見せられた途端に、「ようし、日本のゴッホになる」と決意したように自伝には書いたのだろう。あとで何度も触れるように、棟方の自伝には、意識的にか無意識的にか、しばしばこういう作為が見られる。単純な失念、または記憶違いといえば、それまでであるけれども、どうもそこには、微妙な計算も働いていたようなのだ。だから棟方の自伝には、いわば小説として読まなければならない一面もあるのだが、それにしてもかれが小野忠明を通じて教えられた白樺派の描くゴッホ像に、強い精神的な影響を受けたのは、疑うことができない。その意味で、油絵を描き始めたころの志功は、あきらかに「白樺」の子の一人であった。
四
武者小路実篤を主導者とする白樺派の運動が当時の、ことに暗い封建的な桎梏に悩んでいた地方の若者たちに、どんなに強烈な刺激を与えたかは、いかに強調しても、しすぎるということはないだろう。「白樺」が伝えた後期印象派絵画の光彩は、見たことのない西洋と文明と、そして都会の輝きであった。その明るさに対する憧れは、雑誌を読んだ者から、まだ読んでいない者のあいだにまで熱病のように伝染した。白樺派の同人による美術紹介が、過剰なほど熱気を帯び、文学性に傾きすぎたものであったにしても、それだけに若者たちはいっそう熱狂して、既成の権威に反抗して自分の信ずる方法にしたがって困難な創作の道を歩んだ画家や彫刻家のなかに、自由な人間の「生き方」を読みとっており、本州北端のこの地方でも、志功がゴッホに取憑かれる以前から、小野忠明や弘前のスペイン社の中学生たちが、口癖のように「ゴォホ」「ゴォホ」と唱えていたのだった。
淡谷悠蔵は、青森の駅前にあって「デパートメントストアー」「現金正礼、掛値なし」という看板を入口に掲げていた博品館という店で、日本髪を結って黒い事務服を着た女の売り子たちのなかに、いつも日蔭の花のように冴えない顔色をしていた一人の娘が、|閑《ひま》さえあれば「白樺」に読み耽っていた姿を記憶している。自分もその博品館に呉服商の売場を出していた淡谷は、やがて商人の暮しに疑問を感じて、青森市郊外の新城の山中に|籠《こも》って百姓の生活に入り、大正八年には武者小路実篤が始めた運動に呼応して、「新しき村」の青森支部をそこに設立した。
ある日、そこへ十五、六歳の若者が訪ねて来た。松木金七、と名乗ったその若者は、「純真」という文字をそのまま面貌にあらわしたような表情で、「どうかわたしを、ここで働かせて下さい」と土下座して淡谷に頼んだ。聞いてみると、かれは|木造《きづくり》町の桶屋の息子で、将来は美術家を志しているのだという。慣れない百姓仕事のきびしさが身に沁みていた淡谷は、懇懇と|諭《さと》して考えを翻させようとしたのだが、どうしても納得せず、淡谷の家に住み込んで、畑仕事を手伝ったり、家のまわりの雑草を残らず抜き取って、庭に水を撒いたりしていた。淡谷が玄関へ出てみると、脱ぎ捨てておいた地下足袋の土を払って、きちんと並べてあったりするので、強く「帰れ」ともいいかねた。けれども暫くして、かれは迎えに来た祖父に連れられて山を下りて行った。
のちに独特の詩情に満ち溢れた絵画世界をつくり上げて国画会会員となった松木は、木造町の向陽小学校の高等科に在学中から、彫刻家になりたい、とおもいつめ、大正七年に高小を中退して、青森の寺町にあった本間という仏師屋に弟子入りしていた。奉公して二日目に、稲荷神社の狐の木像を一対彫らされ、二日がかりではあったけれどもどうやら彫り上げることができたというのだから、子供ながら彫刻の腕は素人離れしていたのだろう。仏師屋で木彫を続けているうちにかれは無性に絵も描きたくなって来た。大町にあった大観堂という古本屋で、洋画の講義録を見つけ、それを読んで|朧《おぼろ》げながら油絵の輪郭はつかめたが、さて、絵の材料をどこで手に入れたらいいものか判らない。あるとき青森駅の構内で閲覧用の新聞を読んでいると、広告欄に大阪の画材商の名前が出ていた。それを見て、おもわず息を呑んだ……という松木のエピソードからは、本州北端の海辺の町で、さしたる学歴もなしに、美術への新鮮な憧れを燃やしていた当時の少年の眼の輝きと、胸の高鳴りが伝わって来るようだ。走って寺町の仏師屋へ戻り、筆記具を手にしたかれは、青森駅へ取って返すと夢中で画材商の住所と名前を書き写した。注文の手紙を大阪へ送って、待望の油絵の道具一式が到着したときの嬉しさを、
――天にものぼるとは、このことでしょうか。たとえるものもない、まったく一生に何度も味わえるたぐいのものではありませんでした。これで描いたのが、私の洋画への旅の始まりです。……
と松木は追想している。油絵の道具を手にして青森の町を歩き始めたかれは、じきに志功と知合うことになった。志功は家業の鍛冶屋を手伝っていて、まだ油絵の描き方も知らなかったころである。このときから三歳年下で、つまり満十三歳の才気煥発な少年であった松木は、志功の最大の|競争相手《ライバル》になった。
松木と知合ってからの志功は、たびたび仏師屋の本間家へ遊びに来た。本間の主人夫婦は鷹揚な性格で、二人が話し込んでいても|咎《とが》めることがなく、茶菓を出したり、食事時には御飯まで出してもてなしてくれた。志功がお茶の味を知ったのは、この本間家でご馳走になったのが初めてであるという。そのうちに志功は、裁判所の弁護士控所に勤め始めて鍛冶屋の仕事から解放され、弁護士が控所へやって来るのは週に月曜と金曜の二日だけであったので、空いている時間を活用して、猛然と絵を描き出した。
毎日のように松木と会う一方で、志功は小野忠明と知合っていた。ただし松木と小野は顔を合わせたことがない。志功は松木の絵を持って来て、小野の批評を求めたりしたことはあったけれども、二人を引合わせたことはなかった。意識的であったのか、単に機会がなかっただけであったのかは判らないにせよ、こうした交遊の仕方は、以後も続く志功の特徴のひとつである。
読書家であった松木も「白樺」の子になっていたのだが、ゴッホに心酔していた志功とは違って、かれは岸田|劉生《りゆうせい》に傾倒していた。このころ二人は、絵の技術においても、美術や文学などの様様な知識においても、三歳年下の松木のほうが、ずっと上であるように|傍目《はため》には見えた。実家が豊かで本でも画材でもほぼ自由に買える松木を羨みながら、志功はせっせとかれの知識を吸収していた。だが松木には、どうしても志功にかなわない、とおもうことがあった。松木のところへ来るとき、志功はペンキで真黒に塗り固めた鳥打帽の山を立て、その山脈の両側に唐草の模様を描き、大礼服の帽子のようにした代物をかぶって現われるのだ。
五
年少のころから垢抜けした趣味を持っていた松木は、いつも|洒落《しやれ》た恰好をしていた。かれに刺激されて、それまでツンツルテンの紺絣の着物ばかり着ていた志功は、このころから服装にも独得の関心を持ち始めたようだ。二人が知合ってから二年経った大正十年の春のことである。
のちに二科会の重鎮となった鷹山宇一が、青森中学へ入って間もないころだった。ある日、かれは学校の傍の|合浦《がつぽ》公園で、一人の異様な若者を見かけた。その若者は、小柄な身体に余る大きな古手のフロックコートを着ていて、手に画架と絵具箱を下げ、うしろに五、六人の子供たちをしたがえていた。前に傾いた棒のような姿勢で、とっとと公園のなかに入って来たフロックコートの若者は、一角に画架を据え、半円形に取囲んだ子供たちが見守るなかで、懸命に絵を描き始めた。子供たちの背後から覗き込んだ鷹山は、その奔放な制作ぶりに、すっかり|魂消《たまげ》てしまった。
近眼鏡の奥の眼を見張って対象を凝視し、こんどはカンバスに接するばかりに眼を近づけて描き続けているうちに、若者は次第に無我夢中の様子になり、テレビン油につけた絵筆を洋服の袖といわず胴といわず、いたるところに|擦《こす》りつけては拭うので、カンバスの上に絵具が盛上がるにつれて、かれのフロックコートもまた、油絵具の花ざかりと化した。その目覚ましい有様に、見ていた子供たちは歓声を挙げて大喜びだった。あっという間に一枚の絵を完成した若者は、描いていた対象の風景に向かって帽子をとり、「有難うございました」と叫んで丁寧に一礼すると、ふたたび一本の棒となって風のように公園から立去って行き、鷹山は暫くのあいだ呆然としてその後姿を見送っていた。
このとき志功が着ていたフロックコートは、おそらく青森弁護士会のだれかから拝領したものであったのであろうけれども、それを油絵具だらけにしてしまった熱中ぶりは、「彼が如何に彼の絵画を狂ふが如くに画いたかは想像を超えてゐる」…「彼の描く処を見るのは恐ろしかつた、彼は血を撒く様に絵の具を振り撒いた。彼は描く時に自己を忘れた」と白樺派が伝えたゴッホの制作ぶりを真似ていたのだろうか。いや、志功がすでに小学校三年のとき、凧絵を描きながら、筆を着物の左脇に挟んで墨汁を拭っていたのを級友たちは見ている。この無頓着とも奔放不羈ともおもえる挙措は、かれの生来のものでもあったのだろう。自分の体よりずっと大きなフロックコートを油絵具だらけにして歩いている志功の姿は、人人の好奇の眼を惹かずにはおかなかった。もっとあとになると、志功は活動写真の西部劇に出て来るような|鍔広《つばひろ》の帽子をかぶって、夏のさかりに軍人用の皮長靴をはき、本人としては当時の西部劇最大のヒーローであったウィリアム・S・ハート気取りで町を|闊歩《かつぽ》したことさえあったのだから、人人がかれを「奇人」と目し「絵バカ」と呼んだのも、当然であったようにおもえる。
鷹山宇一が初めて志功の制作ぶりを見て仰天したのとおなじ年に、青森市最初のデパートである洋風三階建ての松木屋呉服店が開店し、その記念行事のひとつとして、横内村出身の洋画家山上喜司の個展が開催された。洋画の講義録で独学していた松木が、専門家の手になる本格的な油絵の実物に接したのは、これが初めてであった。志功はそのまえに柳町のホーリネス教会で開かれた木谷末太郎の個展を見て、油絵の素晴らしさに開眼していたのだが、かれも東京の川端画学校で学んで来た山上喜司の絵に、「天才とまでは行かなくても、それに近い……」とおもったくらい感心した。
「やっぱり油絵だな」
「そンだ。なんたって油絵でねえば|駄目《まいね》」
松木と志功は興奮して感動を語り合った。絵にもまして二人を感奮興起させたのは、絵具箱を肩にかけて町を歩いている山上喜司の颯爽たる姿であった。山上は松木が弟子になっていた本間仏師屋の隣にある常光寺の住職と知合いであったので、しばしばそこへ出入りする姿が見られたのである。なんとかして山上喜司のような絵描きになりたい、というのは、松木と志功に共通する悲願になった。
――いよいよ絵画きで立つという覚悟をきめたまではよかったのですが、それにはただ絵の勉強だけをしていてもだめだ、文学を|識《し》らなければだめだし、演劇を識らなければだめ、また歌も詩も識らなければだめというので、古藤氏と松木氏とわたくしとで「|貉《むじな》の会」というのをつくり、文学とか演劇とか歌を研究することにしました。……
志功は自伝『板極道』において、そう述べているが、これはかれの記憶違いだろう。のちに彫刻家に転じて日本美術院同人となった古藤正雄は、「貉の会」には加わっていない。また上京直前の志功が、古藤、松木と三人で、「たれが一番出世するか、ここに名をきざんで願をかけようじゃないか」と、野内の貴船神社境内で誓い合ったという挿話も、棟方の自伝のハイライトのひとつだが、あとで説明するように、実際にはその場にも、古藤正雄はいなかった。それどころか、古藤と松木は、青森にいたころ顔を合わせたこともなかったのである。
志功のほうでは小野忠明と、松木満史と古藤正雄を知っている。ところが小野、松木、古藤はたがいに顔を見たことがない……というのが、青森における志功の交遊関係であった。それが偶然であったのか、意識的なものであったのかは判らない。結果的には、志功だけが小野、松木、古藤の三人から様様なものを吸収できる立場にあり、相手の三人は、それぞれに影響し合う関係を断たれていたことになる。かりに意識的なものであったのだとすれば「貉の会」という名称は、まさに志功にふさわしいといわなければならない。貉というのは津軽では人を化かす動物とされている。この会の正式な名前は、「貉の巣の会」というのだった。志功はその命名のなかに、
――いまに巣から出て、化けてやるド。……
というひそかなおもいを籠めていたのかも知れない。とにかく会員は志功と松木の二人だけで、夜の桟橋で真剣に声を合わせ、「貉の巣の会、万歳!」と暗い海に向かって叫んだりしていた。志功がたびたび、ペンキで塗り固めて大礼服の帽子のようにした鳥打をかぶって松木のところへ現われたのは、このころである。かれはそれを、「貉の巣の会の制帽にしよう」と提案したのだが、松木のほうでは、とてもそんな仁丹の商標のような恰好をする気にはなれなかった様子であった。
六
翌年の秋の青森には、まだ巣に入っていた二匹の貉を興奮させる出来事が相次いだ。九月には青森の洋画団体である光洋社と彗星社の展覧会が行なわれ、十月の一日からは「新しき村」青森支部の主催による泰西美術複製展覧会が開催されて、八日には淡谷悠蔵らの招きに応じ、白樺派の中心人物である武者小路実篤が来青して講演を行なった。
当時、この本州北端の一地方を覆っていた芸術ことに美術に対する関心の熱っぽさは、いまの想像を遥かに超えたものだった。朝夕刊あわせて六ページの地元紙「東奥日報」には、帝展への搬入の模様から審査経過、結果の発表までが連日にわたって詳細に報道され、地元から入選した彫刻家の中野桂樹や三国慶一の作品が、大きな写真入りで紹介されていた。その華華しさは、いまでいうとほぼ高校野球の報道に等しい。いかに早熟であったとはいえ、松木が高小在学中に早くも彫刻の道を志し、いまや志功も本職の画家になろうとしていたのには、そうした当時の雰囲気も無縁ではなかったろう。
「東奥日報」の紙上には、帝展や二科展ばかりでなく、地元の洋画団体の展覧会も取上げられていた。たとえばこの年の十月、弘前の北斗社展に出した平田小六の前衛的な作品には、「素人の近寄れるところでなく、理解に苦しむ」という賞讃とも皮肉ともつかぬ評価が与えられている。これら一連の出来事が、巣から出る機会を|窺《うかが》っていた二匹の貉を、どれほど強く刺激したかは想像に難くない。
志功は松木に、「青光画社」という洋画団体を設立しよう、と持ちかけた。もちろん松木にも異存はなかったが、「それは同人展だべ?」と聞くと、「うんにゃ、同人展ではねえ」志功は首を振って昂然といった。「公募展をやるんだ」
一般から油絵と日本画と彫刻を募集して、それらをすべて十九歳の志功と、十六歳の松木の二人で審査に当たろうというのである。油絵を描き始めてから、まだいくらも経っていない二人が、公募展の主宰者になろうというのだ。松木は一瞬唖然としたが、すぐに「やるべし!」と同意した。このころは松木もまた、野心を内に秘めた貉である点で、志功と変りがなかった。
松木は木彫にすぐれた技術を持っていたし、油絵の実力でも志功を凌いでいるというのが周囲の評判であった。けれども青光画社が動き出すにつれて、かれは大礼服の帽子に似た鳥打をかぶって現われた志功を見たときとおなじように、いささか圧倒される感じになるのを覚えた。会場は、よく美術展や音楽会が開かれて、いわば青森の芸術の殿堂であった日本赤十字社青森支部のホールに決まったが、その会場の借入れから、「東奥日報」への記事の売込み、看板の制作、出品受付、その他こまごまとした事務の一切にいたるまで、志功は少しの手抜かりもなく、まことに精力的に、かつ小まめに動き回って片っ端から一人でやってのけるのである。青光画社展には、予想以上の数の作品が搬入されて来た。志功は松木とともに、自信満満の表情でその審査に当たり、また自分自身、ほかのだれよりも多い十数点の油絵を出品して、壁面を埋め尽した。そして展覧会の初日、
――若い同人は緊張して受付にひかえていました。松木、古藤、鷹山、棟方の連中でした。……
と志功は回想しているのだが、このときはまだ、鷹山宇一は青光画社展に参加していない。古藤も青森では松木と顔を合わせたことがないのだから、受付に並んでいた筈はないと思われる。展覧会場へは、野間茂子も同級生と一緒にやって来た。志功は嬉しそうに茂子の先に立って会場を案内し、身振り手振りをまじえて自作の解説に熱中していた。
鷹山宇一が初めて青光画社展に油絵を出品したのは翌年の大正十二年、中学三年になったときで、会場になっていた堤橋際の青森館という活動小屋の二階ホールヘ行ってみると、白い絣の着物に袴をつけた志功は、南京袋のカンバスに浅虫海岸の岩場を荒いタッチで描いた三十号ぐらいの自作をまえにして、
「これは秋の二科展に出すつもりです」
と大声で来客に説明していた。そのうちにどういう話になったのか、志功は突然、会場全体に|轟《とどろ》き渡るような笑い声を発した。大胆不敵ともおもえる笑い声に、詰めかけていた観客は度胆を抜かれて一斉に振返ったが、二十歳の小柄な洋画団体主宰者は、いっこうに動ずる様子がなかった。
鷹山は会場に並べられていた絵のなかで、松木満子という女名前のついていた作品に心を引かれた。いかにも女性の作品らしい繊細な情感に溢れている絵であったので、鷹山は志功に、あの松木満子というのは、どういう女の人なのか、と聞いてみた。「なに、松木ミツコ?」志功は笑い出して答えた。「あれア|女子《おなご》でねえ。松木マンシって、|木造《きづくり》出身のれっきとした男だね」
このころの松木は、|満子《まんし》と号していた。かりにマンコと読まれたとしても、それは津軽では別に何物をも意味しない。のちに満史と改めたのは、東京弁ではマンコというのが、ただならぬものを指すと知ってからである。二日後に鷹山は、会場で松木を見かけた。髪の長い痩せぎすの青年で、志功と話をしている内容から松木と判ったのだが、近づいて行っても、志功は話に夢中になっていたのか、鷹山に松木を紹介しようとはしなかった。
松木は志功に向かって、「ぜひ志功さんにルパシカを差上げたい、とおもって持って参りました」と丁寧な口調でいい、手にしていた風呂敷包みを広げ始めた。そのころの絵描き志願の若者たちにとって、ゆるやかに仕立てた詰襟の右脇を飾りボタンで留め、腰のところに房のついた紐を結んでいるルパシカは憧れの的であったから、鷹山も固唾をのんで松木の手元を見つめたが、風呂敷のなかから現われたのは夏物のワイシャツのようにシンプルな薄い上着で、飾りボタンも腰紐もついていないものだった。鷹山はがっかりして志功の顔を見た。志功も期待外れのような表情をしていたが、それはすぐに満面の笑みに変った。
「なるほど、これがルパシカか。嬉しいなあ。有難う、有難う」
志功は大感激のていで、いまにも踊り出しそうだった。松木が帰りかけたとき、外には雨が降り出していた。志功は周囲の人人に、「おーい、だれか傘持ってないか」と叫び、探し出した傘を松木に持たせ、雨のなかを駅のほうへ帰って行くかれの後姿に向かって、いつまでも二階の会場の窓から手を振っていた。志功と松木は、傍目にも美しく親密な友情で結ばれているように見えた。けれども鷹山は、青光画社の審査員の一人である松木に紹介されなかったので、かれと話をするようになったのは、それからずっとあとに東京へ出て行ってからだった。
このときの展覧会で、松木満子のほかに鷹山の印象に残ったのは、古藤正雄という名前であった。大湊の高小に在学中から絵を描いていた古藤は、前年に青森へ出て来て、新町の三浦甘精堂という菓子屋に奉公しており、裁判所の弁護士控所へ注文された菓子を届けに行って、志功と知合ったのである。志功がいた給仕部屋は、入ってすぐのところが三畳の和室になっており、その奥が六畳ほどの板の間になっていて、和室の正面の壁には、少女の肖像画が飾られていた。古藤はあとで判ったのだが、それは野間茂子の肖像であった。
板の間のほうは、志功のアトリエのようになっていて、正面の壁には「西暦千八百五十三年三月三十日 ゴッホ様誕生」と書かれた紙が貼られており、そのまえの大きな机の上に、ゴッホの画集が置かれていた。古藤はここで初めて志功にゴッホの絵を見せられ、たちまちゴッホ信者の一人になった。小野忠明は、「精神的な影響は別として、棟方志功は画風においてゴッホを真似たことはない」と語っているが、古藤は志功が描いた堤川鉄橋の風景画のなかに、実際には存在しないゴッホ風の糸杉が描き加えられていたのを見ている。その古藤は「棟方さんは青森にいたころ、まだ版画はやっていなかった筈だ」というのだが、志功がよく遊びに行っていた高木家の人人は、かれが二階の部屋で懸命に版画を彫っていたのを覚えている。
志功の最大の競争相手であった松木は、油絵と彫刻のほかに、版画も手がけていたから、志功は多分、親友にも秘密にして、版画の稽古を始めていたのだろう。つまりかれはこのころから、会う人によって少しずつ見せる面を変えていたのではないか……ともおもわれるのだ。
七
「棟方氏の作品は驚くべき作品だ。彼の作は場中の白眉であろう。何かに影響されていないならば、氏はまさしく天才である。――彼の作品は自然を描いていない。いや彼の作品はまさしく自然を鞭撻している」
日本赤十字社青森支部のホールで開かれた第一回の青光画社展の志功の作品を賞讃して竹内俊吉がそう書いたというのは、自伝のなかの有名な挿話だが、ここにも志功の記憶違いか、もしくは錯覚があるようだ。「竹内氏は、青森県一の新聞『東奥日報』の文芸部長であり、編集長でもありました」と志功は述べているが、竹内俊吉が東奥日報に入社したのは、第一回の社員採用試験に合格した大正十四年の夏、すなわち志功が上京した翌年のことである。ただし何回目かの展覧会の会場で竹内が志功の作品を激賞したのは事実で、一緒に展覧会へ行った淡谷悠蔵がそのことを記憶しており、竹内自身ものちに、
――私は、志功君が絵をかきはじめた頃、その作品の強烈な個性にあふれた特異な表現を愛してやまない一人であった。誰のマネでもなく、また誰にもマネをゆるさないもの、奔放不羈というか、風景を描いては、自然そのものを作者が激励しているていのはげしさの中に、何か求めてやまない美しい感情があふれ切っていた。当時私は、志功君を『この天才少年は将来どのような画家になるだろう』と考え、おそらくシュールレアリズムの方向へ行くのではないかと思った。……
と追想している。こうした竹内の讃辞は、若き日の志功を、さぞかし興奮させたに違いなく、したがってかれが自伝のなかに淡谷と竹内の名前を挙げて「わたくしは、この二人の方に育てられたと今も思っています」と語っているのは間違いではあるまい。生涯を通じて棟方志功の特質となった自分に対する確信の強さには、白樺派による天才崇拝と楽天的で積極的な自我肯定主義の影響のほかに、竹内と淡谷によって与えられた最初の支持も、大きな力になっていたのだろう。
さらに志功の独得な自己形成は、松木満史と古藤正雄に対する競争意識によっても、拍車をかけられていたのに違いない。年齢と実家の貧富の差こそあれ、この三人には共通点が多かった。松木は仏師屋の弟子、古藤は菓子屋の丁稚で、最初は家業の鍛冶屋を手伝っていた志功とおなじような身の上であり、また学歴にも小卒、高小中退、高小卒と、さほど違いがない。そしてこの三人の芸術への憧れと、知的好奇心の強さは、熾烈といってもいいくらいのものだった。
菓子屋の丁稚である古藤は、朝の五時から夜の十一時まで仕事があった。それでも絵が描きたくてたまらなかったので、朝まだ暗いうちから起き出し、太陽が昇るまえの街頭に画架を据えて油絵を描いた。太陽が顔を出すにつれて、青森の街は赤みを帯びて来る。ゴッホに心酔していたかれが描くのは、志功の表現によると「赤い箒をサカサに立てて」いるような絵が多かった。朝、仕事が始まるまでの短い時間では、いくら描いても描き足りない。そのうちにかれはおもいきった事件≠引き起こした。あるとき志功が三浦甘精堂へ古藤を訪ねて行くと、かれを|正公《まさこう》と呼んでかわいがっていた奥さんが、興奮した面持でこういった。
「|家《え》の正公には、まンず呆れたもんだ。こないだ風邪引いたって寝こんでしまったから、薬をやったけれども、薬も飲まねえし、折角こさえてやったお粥も食べねえ。体よわってるんでねえベガ、とおもって心配して障子あけて見だら、なんと、正公ァまっぱだかで猿股ひとつになって、襖いっぱい訳の判らねえ絵ば描いてるんだ」
それで奥さんは、腹が立つやら呆れるやらで、すぐに暇を出そうとしたのだが、主人が「そんなに絵が好きなのなら、絵を描けるようにしてやったらどうだ」といったので、そのままおいているのだという。古藤が奉公していた家の襖を奔放な色彩で塗り潰したのは、別に風邪の熱に浮かされていたせいではなかった。薬を飲まなかったのは、実は仮病であったからなので、なんともない体で横になっているうちに、猛然と絵が描きたくなり、いわば一種の|抵 抗《レジスタンス》のような気分に駆られて、部屋の襖をカンバスに、これまで描いても描いても描き足りなかった表現欲を、いっぺんに発揮してしまったのである。かりに病名をつけるとすれば、これは「芸術病」とでもいうべきものであったのだろう。
甘精堂の主人が「絵を描けるようにしてやったらどうだ」といってくれたものの、ますます芸術病が昂進する一方だった古藤には、やはり時間が足りず、こんどは「脚気になった」と称して、自分のほうから暇をとり、大湊の実家へ帰ってしまった。大湊要港部の鍛冶工場の組長をしていた父親を、「どうしても絵描きになりたいんだ」と説得して、それからは下北半島の海と山を、おもうぞんぶん油絵に描いて回る生活が始まった。たとえ絵描きになってどんなに苦労しても悔はないとおもわれたほど、満足感に溢れた毎日だった。大湊へ帰ってからも、志功とは絶えず文通をして、おたがいの消息を伝え合っていた。
おなじころ、松木も病気になって半年ほど入院し、その後は木造町の実家に帰って絵画と彫刻に専念していたのだが、中央の新知識に飢えていたかれは、翌大正十三年の六月に創設された築地小劇場の公演を見るために上京した。青森へ帰って来た松木の報告は、志功はもとよりかれと一緒に「夢」というガリ版刷りの同人雑誌を出していた仲間たちを興奮させずにはおかなかった。こんどは演劇熱に取憑かれたかれらは、すぐさま白樺派の一人である有島武郎の近作『ドモ又の死』を仲間で上演することに決め、野間歯科の書生部屋に集まって稽古を始めた。
『ドモ又の死』は、空腹を抱えて呻吟している五人の売れない絵描きたちが、仲間の一人を死んだことにして、かれを飢えて死んだ天才に仕立て上げ、その遺作≠金持の俗物に売りつけて、大金を捲き上げる計略を企む……という話である。本物と贋物の区別がつかない世間の美術鑑識眼を笑いものにして、
――自分たちの芸術の純粋さを守るためには、かえって権謀術数を用いることも辞してはならない。………
という逆説的なテーマを描いたこの戯曲は、人を化かす貉を自称していた志功と松木にとって、願ってもない作品であった。五人の絵描きのなかから、若死したことにする一人を指名するのは、モデルのとも子であり、そのかわりに選ばれた男は一同の|女神《ミユーズ》であった彼女と結婚できるという設定で、とも子が結婚相手として選ぶのは、ドモ又という綽名の「|吃《ども》りで、|癇癪《かんしやく》持ちで、気むづかしや」で、「強がりなくせに変に淋しい方」という戸部である。このドモ又――戸部の役は、|訥訥《とつとつ》とした雄弁家である志功が演ずることになった。
公演は日本赤十字社青森支部のホールで行なわれた。観客のなかには、野間茂子の姿もまじっていた。ドモ又に扮した志功の熱演は、偽計の立案者である花田を演じた松木にくらべると、決して巧いとはいえなかったが、いかにも迫力のある実感に溢れていた。
戸部――ともちやん……俺は君に|遇《あ》つた時から……君が好きだつた。けれども俺は、女なんかに縁はないと思つて……諦めてゐたんだが……
とも子――御免なさいよ。私、はじめてこゝに来た時、あなたなんて、黙りこくつて|醜男《ぶおとこ》な人、ゐるんだかゐないんだかわからなかつたんですけど、だん/\、だんだあん好きになつて来てしまひましたわ。花田さんが私の旦那さんに誰でも選んでいゝつていつた時は、本当は随分嬉しかつたけれど、あなたは|屹度《きつと》私が嫌ひなんだと思つて随分心配したわ。
戸部――何しろ俺は幸福だ……俺は自分の芸術の外には、もう何んにも望みはないよ。……
感に耐えた声でそういった志功が、観客には本当にドモ又になりきっているように見えた。それから偽計の首謀者である花田が、自分たちの芸術を守り、主張を貫き通すためには、もはや手段を選んではいられない、という長い演説をして、「そのためには日頃の馬鹿正直を抛《なげう》つて、巧みに権謀術数を用ふることを誓ふ」と宣言すると、舞台の上の若い無名の画家たちは、精一杯の大声を張上げて、「誓ふ!」と叫んだ。
そしてラストシーン――、自分自身の弟になり変った戸部が、亡き兄の死を|悼《いた》む表情を装おうとして、茶碗の水を指の先で眼のふちに塗りつけ、花田が金持の俗物を迎えるために戸を開いたところで幕が下りると、観客から一斉に盛大な拍手が起こった。おそらく志功は生まれてから、このときほど演技本能を満足させられたことはなかったに相違ない。無名の画家が知恵の限りを尽して世に出て行こうとする姿を描いたこの芝居の上演は、そのころからともに上京して本職の画家になろうとしていた志功と松木にとって、事実上の出発宣言でもあったのだった。
八
「下山さんではありませんか」
浅虫温泉で湯治していた俳人の竹内|抱甕子《ほうようし》を見舞っての帰り、海岸ぞいの|野内《のない》のあたりにまで来たところで、下山(のちの下沢)木鉢郎は、一人の青年に呼びとめられた。松木と名乗ったその青年は、|髑髏《どくろ》のマークを描いた|鍔《つば》の広い帽子をかぶっていた。かれはこの春に、日赤青森支部のホールで開かれた県出身画家の展覧会で、下沢木鉢郎を見かけていたのだという。「家は|木造《きづくり》ですが、いまは野内に下宿して、油絵を描いているんです」というかれのあとについて、下沢はその家に行った。
「東京の話をいろいろと教えて下さい。きょうは土曜日ですから、青森から棟方志功という男も来ます。裁判所の給仕をやっていて、われと一緒に油絵の勉強をしている男です」
松木にそういわれて待っているうちに、日が暮れかかったころ、志功がやって来た。夏の盛りであったので、青森から二里ほどの道を歩いて来た志功は、全身汗びっしょりになっていた。自炊生活をしていた松木は、小さな鍋で米を炊いて、夕飯の支度にとりかかった。小柄な志功の食欲は、吃驚するほど旺盛だった。「われは胃拡張だもんだところで……」弁解とも自慢ともつかぬ調子でそういいながら、志功は箸ごと茶碗を飲みこむような勢いで飯を掻き込み、際限なくおかわりをした。松木は小さな鍋で何度も米を炊かなければならなかった。志功は食事の合間にかわされていた下沢の絵や東京の話によっても興奮させられていたのだろう。
下沢木鉢郎も、志功や松木と似たような身の上だった。志功より二歳年上のかれは、弘前の高等小学校を出て本屋の丁稚になった。違っていたのは、奉公したのが東京の本屋だったことである。子供のころから絵が巧かったので、高小を出ると、すぐに絵描きを志して上京したのだった。最初に勤めた本屋には、宇野浩二が出入りしており、下沢の絵を認めて、「こんど鍋井克之に紹介してやろう」といっていた。二度目に勤めたのは中央美術社という出版社で、そこの編集部には、佐佐木茂索、平塚運一、平沢大ワといった人たちがいた。下沢は平塚に版画を、平沢にテンペラ画を習い、ときどき社に現われる石井柏亭にも、自分の絵を見て貰ったりしていた。大正十年、兵隊検査を受けるために帰郷することになったとき、かれは日本水彩画会に水彩画を、光風会に油絵を出品して、両方とも入選した。それから二年間の兵役を終えて、この大正十三年の春には、日本水彩画会と光風会と中央美術展に出品して、いずれも入選していた。したがってかれの名前は、輝かしい新進画家の一人として、松木や志功の頭に刻み込まれていたのである。
「この秋には、帝展を狙うつもりだ」
と下沢はいった。有名人の名前が次次に出て来る東京での生活、相次ぐ展覧会への入選、こんどは帝展を目指すという宣言……。胸が躍るようなそれらの話のほかに、松木と志功の二人を興奮させていたのは、下沢の|瀟洒《しようしや》な服装のせいもあったのだろう。北海道へ写生旅行に行って来た帰りだというかれは、のちの言葉でいえばサファリ・ルックのような上下を身につけて、首に赤いボウ・タイをしめていた。
「やっぱり、東京さ行かねば|駄目《まいね》な」
「そンだ、そンだ」
力を籠めて|頷《うなず》き合った松木と志功は、さらに様様なことを、珍妙なアクセントの東京弁で、下沢に質問した。以前から上京を決意していた松木と志功は、それまで「|汝《な》」「|我《わ》」と呼んでいたのをやめて、「君」「僕」ということにし、人のいない場所を選んでは、「キミ、そんなことでは困るではないか」「そうですかねー。ボクはそうではないとおもいますがねー」などと東京弁の稽古に励んでいたのだ。
翌日、三人は連れ立って、野内の貴船神社のある山へ登った。境内の大樹に三人の名前を刻んで、「だれが一番先に帝展へ入選するか、願をかけようじゃないか」といい出したのは志功だった。ナイフで木の肌に名前を刻み、貴船神社に向かって長いあいだ手を合わせて拝んだあと、志功はやにわにするするとその大樹へ登って行き、枝の上に立って写生を始めた。下沢もスケッチブックを持って、そのあとから登って行った。登って行くにつれて徐徐に視界が開けて、眼下に広がって真夏の陽光を照り返している陸奥湾の海の色と、遠い下北半島の青い山なみが、眼に眩しく映って来た。
――下沢モ松木古藤モ棟方ト 刻ミシ誓ヒ貴船神社
志功は後年にこのときの模様を、こう追憶して『誓刻の柵』という版画に彫っているが、古藤はその場にいなかった。しかし多分おなじころ、古藤も三人とおなじようなおもいを籠めて、下北半島の一角に画架を据え、そこから見える夏の風景を描いていた筈であった。
下沢木鉢郎に会ったときから、志功の上京準備には、急速にスピードが加わった。かれは東京に出て絵の勉強をしたいという「わたくしのそんな念願を見やぶったのでしょうか、話は弁護士さんたちから起り、弁護士さんたちの後援で上京することになったのです」…「親切な弁護士さんたちは、さしあたりの勉学金にといって、青森弁護士会所属の全弁護士から、一人その頃の三円か五円ずつを集めてくれました」と自伝に述べているが、実際に金集めをいい出してくれたのは、水木太平という人だった。志功の家の近所に住んでいたかれは、酒飲みであったが気骨のある豪傑で、自分の長男が書生をしていた沢地弁護士に志功の悲願を伝え、音頭をとって上京準備の後押しをしてくれたのである。
志功の家からも、次兄の賢三と伯母が十円ずつ月二十円の仕送りをしてくれることになり、九月の上旬に松木よりも一足先に上京することになった。かれは家族や野間歯科の人たちや、松木や同人雑誌「夢」の仲間たちに見送られて、青森駅を旅立った。強度の近眼であったので兵役を免れていた満二十一歳の志功は、生まれて初めて袂のついた紺絣の着物に袴をつけ、縁なしの眼鏡をかけて、いまでいうとヒッピー族のような天然パーマのかかった長髪の頭に、青森市一番の帽子屋に|誂《あつら》えた慶応型の学帽をかぶっており、その帽子の額には知合いの鋳掛屋につくって貰った「画」という文字の銀色の徽章が燦然と光り輝いていた。
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夢のかけ橋
一
上野へ着くと、志功はまず上野竹之台陳列館で開かれていた二科展を見に行った。この年の二科賞を得ていた横山潤之助の人物画に、かれはなにほどの衝撃も受けなかった。
――これくらいのものなら、われにも描ける。二科会なにするものぞ。この分なら、われはすぐに帝展入選だ。……
そうおもって二科展の会場を出たかれは、近くの人に道を聞きながら、上根岸にある中村不折の家に向かった。志功は、十月の中旬に開かれる帝展に出すつもりの|合浦《がつぽ》公園の風景を描いた自信作を携え、青森日報の編集顧問をしていた福岡という老人が書いてくれた中村不折あての紹介状を鞄のなかに入れていた。かれを意気軒昂たる気分にさせていたのは、この紹介状のせいもあったのに違いない。
中村不折は五年まえに、それまでの文展が帝国美術院主催の帝展に改組されたとき、洋画壇から黒田清輝、岡田三郎助、和田英作とともに、帝国美術院会員に選ばれていた。この四人の元老画家が、勅任官待遇の帝国美術院会員に祭り上げられたため、帝展審査の実権は、中堅画家たちの手に移っていたのであったが、そうした中央画壇の裏側の事情まで、青森にいて判る訳はなく、紹介状を書いてくれた福岡老人も、そして志功も、このときは多分、中村不折を文字通り帝展最高の実力者の一人であると目していた筈である。
その中村不折に、紹介状を示して自信作を見せれば、志功はすぐに自分が認められて弟子入りを許されるものとおもい込んでいたのかも知れず、また青森にいたころから野間茂子に向かって、「見ていて下さいよ、ぼくは判任官になったら奏任官になり、奏任官になったら勅任官になり、勅任官になったら親任官になって見せますからね」と真剣な顔つきでいっていたかれの脳裡には、勅任官待遇の帝国美術院会員、さらには帝室技芸員といったような未来がおもい描かれていたのかも知れなかった。
探し当てた上根岸の中村邸で、出て来た女の人に、慶応型の学帽を脱いで紹介状を差出した志功は、「先生は外遊中です。それにいくら紹介状を持って来ても、日本中からあんたのような人が沢山来るんだから、とても一一お世話してはいられない。そんなに簡単に考えていてはいけません」と、玄関払いを食ってしまった。このときのことを、志功は自伝『板極道』に、こう述べている。
――青森人のわたくしは、まだ玄関にもはいらないで、往来に立っていたのだから、これは玄関払いでなく、往来払いといってよかったのでした。心の中で、「ちくしょう、なんということだ。もう二度とこんなところへ来るものか」と、空にわめきにわめきちらしていました。
中村不折先生は、お邸の中に書道博物館をつくっておられました。往来払いをくったわたくしは、こころを落ちつけるつもりで、そこで一日暮そうと考えました。書道博物館にはいってゆくと、シナの書を主として、日本の書もいろいろありました。……
そしてこのあとに、薄暗い室のなかに横たわっていた美しいローマの女神像から「あなたは、青森から、東京によく来てくれました。絵の勉強というのは、人のことばや情では得られません。あなた自身が先生になり、弟子になることです」という無言の啓示を受けたという印象的なエピソードが続いているのだけれども、これは小高根二郎氏の調べによって明らかにされているように、中村不折邸内に書道博物館が建設されたのは昭和八年のことで、一般に公開されたのはその三年後からであったというのだから、大正十三年秋のこのときに、そこへ入れる筈はない。
小高根氏は『棟方志功―その画魂の形成―』に、「ただ当時不折の書だけを収蔵する未公開の倉庫が建てられていたという。想像するに、道路払いのショックで打ちひしがれた志功が、折から開扉されていた倉庫をみつけ、そこで心を鎮めようとしおしおと入っていったところ、偶然、ローマの横臥女神に出会ったのだろう」と書いており、それを裏づけるように、『板極道』から約十年後に発表された『わだばゴッホになる』では、志功の叙述も、玄関払いを食ったあと、
――頭がクラクラする思いで外に出ると、屋敷の横に倉庫みたいなものがあって、戸が半開きになっていました。わたくしは引かれるようになってフラフラっと、中に入りました。
書が沢山、下がっていました。今から思うと、不折先生が書道美術館をつくる積りで、準備していたものでしょう。……
という風に変っているのだが、不折の子息である中村丙午郎氏によれば、この文庫蔵が建てられたのは大正十四年であったというから、これもやはり時間的に|辻褄《つじつま》が合わないのである。おそらく志功は、書に関心を持ち始めた後年、書道博物館を訪れて、それがずっと以前からあったものとおもい込み、そこで見た女神像の美しさと、最初に中村邸を訪ねたときの出来事をつなぎ合わせて、印象的な一篇のエピソードを創り上げたのだろう。些細な事実の違いを言い立てて、自伝の揚げ足を取ろうというわけではなく、ここでは志功のおもい込みの強さを示しておきたかったのだ。中村不折は明治三十八年にフランス留学から帰国して以来、二度と外遊したことはなかったのだから、応対に出た女性の言葉が口実であったことは確かだが、考えようによっては当然ともおもえる玄関払いに、志功がひどく憤慨したのは、それだけ紹介状に期待をかけていたからに相違ない。
かれにとって夢のかけ橋であった紹介状は、何の効力も発揮せず、青森から抱いて来た最初の希望は、上京したその日のうちに砕け散ってしまった。慶応型の学帽の額に「画」という文字の徽章を光らせた志功は、悄然とした足どりで、見も知らぬ町の通りを、上根岸から本郷弓町に向かって歩いて行った。
二
志功が下宿したのは、伯母の知合いである本郷弓町の車夫渡辺勝兵衛の家で、その家は、明治の三十年代から営業していた学生下宿の朝陽館と本郷館が並んでいる通りから奥へ入った通称お弓長屋の一角にあった。
お弓長屋は、門を入った両側に細い露地を挟んで五軒ずつの棟割長屋が並んでおり、渡辺の家は右側の角から二軒目で、露地の突当たりの向こう側は、赤い煉瓦塀をめぐらした邸内に巨大な|樟《くす》の樹が葉を茂らせて聳え立っている広いお屋敷になっていた。
主人が車夫、妻が注射器の研磨の内職をしていて、ほかに子供と祖母がいた渡辺の家で、志功に与えられたのは、昼でも五燭の電燈を点している薄暗い部屋だった。ここに住み始めてから、志功はじきに長屋でも評判の人気者になった。
かれは朝から絵具箱を肩にして、近くの東大構内や、不忍池、神田ニコライ堂のあたりへ写生に出かけて行っている様子で、家に帰って来てからも、コードを長く垂らした五燭の電燈の下で、懸命に絵を描いていた。電球を明るいものに替えて貰えなかったのは、渡辺の家の祖母が昔気質の倹約家であったせいで、その電球と下の紙に顔をくっつけるようにして一心不乱に絵を描いている志功の姿は、外から覗きこむと、なにか小さな動物がせわしなく動き回っているように見えた。それだけでも長屋の人々の好奇の眼を引くのには十分だったが、やがて志功は、見る人が呆気にとられるような奇癖を発揮し始めた。
表通りにあるポストまで葉書を出しに行くとき、長髪の志功は、部厚い近眼鏡の鼻先に、その葉書を近づけ、自分が書いた文句をズーズー弁の大声で読み上げながら歩いて行く。そして卒業式に校長先生から免状を貰う生徒のように両手で捧げ持った葉書をポストに入れ、三歩下がってポストに向かい|恭《うやうや》しく一礼すると、こんどは着物の両袖を手で引っ張って奴凧の恰好になり、「ユーカイじゃ、ユーカイじゃ」と叫んで踊りながら、跳ぶようにして帰って来るのだ。長屋の人たちは、かれを「愉快さん」と呼ぶようになった。
長屋のなかでも、志功にとって一番親しい存在になったのは、隣の角の家に「東京技芸研究所」という小さな看板を掲げていた女主大の|但木《ただき》いさであった。岩手県の出身で、女子美術を出たいさは、夫に先立たれてから、そこで娘さんたちに手芸を教えて生計を立てていた。東京に出て来たばかりで右も左も判らないズーズー弁の志功には、おなじ東北の出身で、まえには自分でも絵を描いていたいさが、さぞかし頼りにおもえたのだろう。かれはいさを「先生」と呼んで|懐《なつ》き、いさも志功の絵を認めて、二人は様様なことを話し合うようになった。
いさには、|俶《しゆく》という娘がいた。小石川の淑徳女学校へ入ったばかりの彼女は、色が白く目鼻立ちのはっきりした美しい少女だった。夫に死なれてから姓名判断に|凝《こ》っていたいさは、俶を「|好子《こうこ》」という戸籍名とは違った名前で呼んでいた。
ある日の夕方のことだった。当時の娘は、学校から帰って来ても、表で遊ぶことは許されていない。家のなかにいた俶は、「好子ちゃん、ちょっと……」と、隣家の渡辺の小母さんに呼ばれて外に出た。ちょっと、ちょっと……と手招きされて、隣の家の前まで行くと、
「うちのお兄さんがね」
小母さんは家のなかを目でさした。玄関から|簾《すだれ》ごしに、五燭の電燈に照らされて凝と坐っている「愉快さん」の黒い影像が見えた。渡辺の小母さんは、笑いを堪えているような表情をして言葉を続けた。「好子ちゃんのこと、お嫁さんにほしいんだって……」
いきなりそんな突拍子もないことをいわれても、返事のできる訳がなく、俶は吃驚して口を噤んでいた。そのとき簾の向こうの影法師が動いて、「偉くなりますよ、偉くなりますよ」と、おもい詰めたような声を出した。俶は顔が赤くなるのを覚えて、自分の家に逃げ帰った。
……上野竹之台の闇のなかで、志功は第五回帝展の発表を待っていた。美術館の審査に当てられている部屋の窓から洩れる電燈の光が、内部の人の動きで、ときどき揺れて見える。そのたびに志功の心は震えて躍った。初めて帝展に出した作品で、かれは入選どころか、特選さえも期待していたのだ。
東京に出て来たときから、志功は姉のちよに頼んで、地元の東奥日報紙を毎日送って貰っていた。裁判所の謄写版で、本郷弓町一丁目八番地渡辺勝兵衛様方の自分あての帯封を沢山つくり、それに五厘の切手を貼って新聞を送ってくれるように手配して来たのだ。まえにも書いたように、当時の東奥日報の帝展に関する報道ぶりは大変なものだった。入選すると名前の大見出しに作品の写真入りで報道される。まして特選ともなれば、紙面の大半を割くような騒ぎになるだろう。
係員が出て来て、入選者の発表が始まった。青いガス燈の光の輪の内と外から、どこにこれだけいたのかと驚くほど大勢の人が集まって来た。志功は期待と不安に胸を轟かせて、自分の名前が読み上げられるのを待った。いつまで待っても、そして最後まで「棟方志功」の名前は呼ばれなかった。|打拉《うちひし》がれたかれの心に、一層の打撃を与えていたのは、入選者のなかに、下沢木鉢郎が入っていたことだった。夏に野内の貴船神社で、下沢と松木に対し、「だれが一番先に帝展へ入選するか、願をかけようじゃないか」と、いわばひとつの賭けを挑んだとき、その挑戦において自信満満だった志功は、よもや自分が敗れるとはおもっていなかったのに違いない。だからこそかれは、上京の準備に拍車をかけ、松木よりも先に、下沢のあとを追うようにして東京に出て来たのだろうが、初めて帝展に出した作品で見事入選した下沢に、志功はこのとき敗れ去ってしまったのだった。――いまに見ていろ、いまに見ていろ……、上野の森の闇に向かってそう喚きながら、志功は|人気《ひとけ》のない不忍池の横と湯島天神の下を通って、本郷弓町の下宿に帰った。
「ちょっと……うちのお兄さんが大変なのよ」
渡辺の小母さんは、ただならぬ顔つきで、但木の家に入って来た。
「どうしたの?」と、いさは問い返した。
「帝展に落ちたのが悔しいって、部屋のなかをのた打ち回っているのよ」
「そう……」いさはちょっと考えこんでいたが、すぐに意を決したようにいった。「いいわ。わたしが行って、帝展落選おめでとう、よかった、よかった、っていってあげる」
「よしなさいよ、そんなこといってからかうの」同居していたいさの妹が、止めにかかった。「かわいそうじゃないの」
「いいのよ。構わないのよ」
いさは隣の家に行った。五燭の電燈の下に、志功は頭を抱えこんで|蹲《うずくま》っていた。
「おめでとう、志功さん。よかったじゃないの」
志功は意外そうに、涙まじりのきょとんとした顔を挙げた。
「いま帝展に通ったらね、あなたはちっぽけな絵描きで終ってしまうかも知れないのよ。大きな絵描きになるためには、それまでに何度も落ちなきゃいけないの。だから、これでよかったのよ。判るでしょう、志功さん……」
眼を大きく見開いて、いさの言葉を聞いていた志功は、「判りますッ」と叫んだ。「判りました、先生! ぼくは偉くなりますよ。きっと、きっと偉くなりますよ」
そういって固く握ったいさの手を押頂くようにした志功は、きっと偉くなりますよォ、と繰返しながら、いさの体が上下に揺さぶられるほど力を籠めて両手を振り続けた。
それでも、その後何日間かは憂鬱そうな顔をしていたのだが、間もなくかれは、もとの「愉快さん」に戻った。ある日――。
「……好子ちゃん」志功は人懐こそうな笑顔を、但木の家の玄関口に覗かせて、俶にいった。
「芝居をやって見せてあげよう」
「スバイ……?」
「そう」頷いて「有島武郎の『ドモ又の死』、とってもいい芝居だよ」
芝居って、一人で出来るのかしら……と俶はおもった。それに自分だけで見るのは、なんだか|憚《はばか》られるような感じであったので、俶は「お兄ちゃんが芝居をやって見せてくれるんだって」と長屋の子供たちを呼び集め、半信半疑の気持で渡辺の家の玄関へ行った。
玄関口を観客席、そこに面した部屋を舞台にして、チャンチャンコを着た志功の芝居は、いざ始まってみると、台詞がズーズー弁であるのを別にすれば、意外なほど真に迫った熱演ぶりであった。志功は活動写真の弁士のように場面の説明を加えながら、一人で『ドモ又の死』の芝居を進めて行った。子供たちには、その芝居の筋が判る筈はなかったが、さかんに吃る志功の口調と真剣な表情に引込まれて、結構面白がっている様子だった。
「で、で、出来たものは、み、みんないやだ。け、けれども人のに比べれば、お、俺の方がいいと俺は思っている。お、お、お、俺は、そ、それを知っている」
額に大粒の汗を浮かべて大声を張上げている志功の熱演に、子供ばかりでなく長屋のおかみさん連中も、玄関口のまえの露地に集まって来た。
三
長屋の人たちが見守るなかで、志功は力演を続けた。
「と、ともちゃん……お、俺は君に|遇《あ》ったときから……き、君が好きだった。け、けれども俺は、お、女なんかに縁はないと思って、あ、諦めていたんだが……」
「お、お、俺は口がきけないから、お、お、思ったことがいえない……」
ズーズー弁で吃りながら、身を|捩《よ》じるようにして切切と訴えるドモ又の台詞は、まるで志功の本心から発している言葉のようであった。芝居が終ったとき、長屋の観客は一斉に拍手を送った。世に認められていない不遇の無名画家の純情さと、それとは裏腹の野望を描いた『ドモ又の死』を演じて、迫真的な印象を与えた「愉快さん」は、まえにも増して長屋中の人気者になった。
このころから俶は、母のいさが志功の絵を高く買っていたせいもあって、たびたびかれと言葉をかわすようになった。顔を合わせるたびに「偉くなりますよ、偉くなりますよ」というのが常であったが、もうひとつ、さかんに「ゴォホ」「ゴォホ」というのも、かれの口癖であった。絵の道具を持って写生から帰って来るとき、「ゴォホ、ゴォホ」と呟きながら隣の家へ入っていく志功を見て、俶も母とおなじように、いまにお兄ちゃんは、きっと偉い絵描きになるに違いない……と信じた。お兄ちゃんの話は、いつでも面白かった。
「……好子ちゃんね」と志功は眼鏡の奥の眼を大きく見張って、身振りまじりにいう。「ぼくが青森にいたときに、道端で絵を描いていたら、馬車がやって来て、そこへ道の向こう側から、小さな子供が飛び出して来たことがあるんですよ」
「まあ……」と俶はそう聞いただけで胸の鼓動が速くなるのを覚えて「それで、どうなったの」
「だからぼくは、カンバスも何も投げて、馬車のまえに素っ飛んで行ったんだ」
志功はそこでいったん言葉を切って、真剣な顔つきになった。怖くなった俶は、|急《せ》き込んで訊ねた。
「で、助かったの、その子」
「危い! とおもった瞬間、飛び込んで行って、間一髪、助けるには助けたんだけれども、途端にその子供は、いきなり、ぼくの手さ噛みついて来たもんだ」
「どうして……!?」
「ぼくが子供とおもったのは……」破顔して「実は犬の子供であったんですよ。ぼくは眼が悪いからね」
「まあ……」
「これは青森では有名な話ですよ」と志功は愉快そうにいった。「なにすろ新聞にも出たくらいだから……」
「でも、お兄ちゃんって偉いのね」
「なにが……」
「そんなに眼が悪いのに、いつもあんなに暗い部屋で絵を描いていて……」
俶は本当にそう感心していたのだ。けれども俶には、気に入らないこともあった。長屋のすぐ近くにお風呂屋があるのに、お兄ちゃんは一向に風呂へ行く様子がなく、そのせいか傍に来られると、なんとなく、あぶらくさいにおいが感じられるような気がしたからである。少女らしい潔癖さで、志功が傍にいないとき、「お兄ちゃんって、なんだかあぶらくさい」そう母にいうと、「そんなこと、いうもんじゃありません」と、いさは娘をたしなめた。「お兄ちゃんは油絵を描く人だから、それで絵具の油が体に|染《し》みているのよ」
実際には金がなくて、志功は銭湯へ行く余裕もなかったのだろう。郷里の次兄から毎月送られて来る二十円のうち、渡辺家へ十七円の下宿代を払うと、三円しか残らず、なにより必要な画材を買うのさえ、容易なことではない。それでも志功は、風呂に入らないのは嫌いだからだ、といい、長屋の露地で、銭湯へ行くいさと俶の姿を見かけると、「先生、ぼくの仇も取って来て下さいよ」と陽気な声で叫んだ。
これは意味の判りにくい言葉であったが、あとで聞いてみると、仇といっていいくらい嫌いな銭湯に、自分のかわりに入って仇を取ってくれ、というつもりであったらしい。志功の物の言回しには、時折そうした独得な、いわば一人合点のように感じられるところがあった。
ほかにも俶の気になったことがある。のちに但木家の人たちと一緒に、桜草の名所として有名だった赤羽の先にある浮間ヶ原へ行ったときのことだ。赤羽へ向かう電車のなかで、志功は乗客の姿を素早くスケッチブックに写生し、それから当の乗客のまえに行って、「どうも有難うございました」と大声で叫んで頭を下げた。出しぬけにそう挨拶されたほうでは、ただ呆気にとられていた。その光景を見て、――お芝居をしているのかしら……、都会の女学生で、すでに外国のものもふくめて数多くの小説に接していた文学少女の俶には、ふっとそんな気がした。
志功は青森にいたときから、写生を終えるたびに対象の自然に向かって最敬礼しており、つまり少年のころからかれの身についていた習慣のひとつであったのだが、俶はそんなことを知らなかったので、見る者の意表をつく志功の行動が、わざと|巧《たく》んでいるもののようにも感じられたのだった。
四
下宿代を払った残りの三円では、絵を描くことも|儘《まま》にはならなかったのだろう。志功はさまざまな|副業《アルバイト》を始めた。おなじ青森出身の吉尾一男と組んでの納豆売り、かれの伯父がやっていた「陸奥屋」という靴の半張り屋の注文取り……いずれも大声で町を叫び歩く商売であったが、なかでも志功の面目が躍如としているとおもわれるのは、一時、活動写真の弁士を志願して、浅草の活弁に弟子入りしたというエピソードである。自伝『板極道』に、かれはこう述べている。
――|佳《よ》い絵を描くことを思いあせりながら、貧にうちひしがれがちだったわたくしは、何か、むやみやたらに叫びたくなっていたのでした。この|アキレタ《ヽヽヽヽ》地声を生かして、アルバイトに声を商売の種にしたのでした。そうしてこの弁士の弟子になって金にしようと思っていました。……
赤い襦袢を着物の下にちらつかせていた師匠の弁士が、「これを一息に三べんいってみろ」「それを一日に百ぺん繰返せ」といって志功に教えたのは、次のような文句であったという。
……|しゅうえいか《ヽヽヽヽヽヽ》(場所の名か)の華ぞと人は伝えける、燈台守のまな娘が、数奇に富める半生の、恋と幸との二すじを、つづりて描ける絵物語を、いでやこれよりものがたらん……。
これを当時の青森出身の人間が、聞くほうの失笑を買わずに一息で三べん繰返すことは、至難の|業《わざ》であったろう。この大胆不敵ともおもえる活弁志願は、結局、師匠の汚い裸足を洗わされたことに、志功が痛憤を発して中断されてしまったのだけれども、いかに『ドモ又の死』の喝采を浴びた演技力と声の大きさに自信があったにもせよ、またいかに白樺派が唱えた主観主義の影響を受けていたのにもせよ、自分のズーズー弁が東京の活弁として通用するとおもっていたのだとすれば、かれのおもい込みの強さは、やはり相当のものであったといわなければなるまい。
さまざまなアルバイトを試みているうちに、紀尾井町にある東京教材出版社で働いていた知合いの松田の紹介で、そこに勤められるようになった。志功の自伝には名前が出て来ないが、青森にいたころ石版印刷所の啓明社で図案工をしていた松田は、裁判所の先輩給仕であった山本兵栄から又貸しされた例の最初のゴッホ画集の持主である。
東京教材出版社の社長である石川真琴が、志功に就職のための条件として出したのは、肩まで伸びていた天然ウェーブの長髪を切って来ることだった。絵描きの看板のような長髪を切って坊主頭になった志功に、石川はチェッコスロヴァキア製だという鍔の狭い帽子をくれた。とても軽くてかぶり心地のいい帽子であった。志功はその洒落た帽子をかぶって会社に通い始めた。
教育用の掛図を製作している東京教材出版社には、あの山上喜司も働いていた。青森では颯爽たる新進画家として、志功と松木満史の憧れの的であり、二人に本気で洋画家になる決心を固めさせた山上喜司も、ここでは一介の図案工にすぎなかった。ただし地図の下絵などを烏口で描く腕前は、相変らず舌を巻くほどの巧さであったのだが……。
紀尾井町の社に出勤するまえ、志功は朝早くから近くの清水谷公園に画架を据えて、油絵を描くことに専念した。かれはカンバスのなかに、目の前の風景には存在しない少女の姿を描き加えた。
描き上げた『清水谷静景』を、かれは出来上がって間もない東京府美術館で開かれた白日会展に出し、首尾よく入選した。白日会は前年に創設されたばかりで、まだ歴史が浅かったけれども、東京の展覧会に初めて入選した感激は|一入《ひとしお》であり、それに白日会は帝展系の中堅画家が集まって作った団体であったから、これはまことに|幸先《さいさき》のよい吉兆といってよかった。志功は勇躍して、青森にいた頃よく写生した原子家の果樹園を記憶と想像によって描き、目指す秋の第六回帝展に搬入した。
――こんどこそ入選は間違いあるまい……。
美術館まえの夜の闇のなかで、体を震わせながら一心に祈願していた期待も空しく、審査発表の結果は、またしても落選であった。悲嘆に暮れていた志功を、帝展が終ってから六日後、さらに徹底的に打ちのめす悲報が郷里から伝わって来た。父幸吉の死である。志功が帝展を目指して作品を制作していた最中に、幸吉は「今度は虎の絵を描いて帝展に出品しなさい。笹原にいる虎の絵を描けば、きっと入選しますから……」という手紙を送って来た。数年前から気力が衰えて人が変ったように優しくなり、志功の帝展入選だけを楽しみに生きていた父が、その楽しみを味わうことなく死んでしまったのだ。志功は父親の葬式に帰らなかった。「帝展に入選するまでは、決して帰りません」と誓って家を出て来たせいもあったが、そればかりでなく、志功は自分の帝展落選が、父親の死期を早めたような慚愧と痛恨の念も感じていたのに違いなかった。こんどは隣家の但木いさの慰めもきかなかった。渡辺家の五燭の電燈の下で、志功は悶悶として頭を抱えこんでいた。
……ある夜、俶は怖ろしい夢を見た。薄暗い光のなかで、隣のお兄ちゃんが懸命に絵を描いている。ところが、お兄ちゃんが筆を加えれば加えるほど、カンバスのなかは、のっぺらぼうの真っ白な画面に変って行くのである。しまいには、お兄ちゃんの姿も消えてしまって、暗い闇のなかに白い画面だけが無気味な輝きを放っているようだった……。
目が覚めたあとも、俶の胸は強い動悸を打っていた。俶がそんな夢を見たのは、ついさいきん春陽堂から出ていた『バルザック小説集』を読んだせいであったのだろう。そのなかの短篇『知られざる傑作』の主人公は、フレンホーフェルという狂気に取憑かれたような老画家で、……彼ははげしい意気ごみで仕事をしていた。禿げあがった額には、汗が玉をつづるほどであった。老人はいかにも|怺《こら》え性のないセカセカした動作で描いていった。このへんてこな男のからだには|鬼神《デモン》がやどっているのだ。|鬼神《デモン》が何かふしぎな力で老人の手を否応なしに引っつかみ、その手を通じて勝手なふるまいをしているのだ……と書かれているその姿は、年齢を若くすれば、隣のお兄ちゃんと、そっくりであるようにおもわれた。
美しい娼婦を描いて「完全な作品だ」とフレンホーフェルが自称する作品を見せられて、仲間の二人の画家は唖然とする。確かに画面の片隅には、信じられないほどの生命感に満ち溢れた一本の足が描かれてはいたが、そのほかの女体の大部分は、老画家がさらに完璧を求めて重ねて行った絵具の壁によって、塗り潰されてしまっていたのだ。一人の画家は、僅かに残された足の美しさに驚嘆しながら「でも、おそかれはやかれ、このカンバスにはなんにもないことに気がつくのだ」と老画家に向かっていう。「わしのカンバスにはなんにもないって?」愕然とした老画家は、「わしはこの絵をぶちこわしてしまったのだろうか」とためつすがめつしているうちに、「なんにもない、なんにもない。しかも、十年もかかったのに……」と坐りこんで泣き出す。翌日、フレンホーフェルの様子を見に行った画家は、老人が絵をみんな焼き捨てて、前夜のうちに死んでしまったことを知る……。
俶が、暗闇のなかに真っ白な画面だけが輝いている怖い夢を見たのは、この『知られざる傑作』の記憶が、志功の帝展落選と重なり合って、意識下から蘇って来たせいなのに違いない。それに俶はまえから、視力の弱い隣のお兄ちゃんが、五燭の電燈の下で絵を描き続けていれば、いつか本当に眼が見えなくなってしまうのではないだろうか、とも心配していたのだった。
「お兄ちゃん、かわいそうね」
と俶は、翌日、顔を合わせた志功にいった。「だって眼が悪いのに、あんな暗いところで絵を描かなくちゃいけないんですもの」
「……うん」
志功は、愉快さんという綽名に似つかわしくない寂しげな微笑を浮かべて|頷《うなず》いた。「ぼくはベートーヴェンになればよかったんだよ。ベートーヴェンだったら、眼が悪くても、音楽を作曲できるからね」
俶は志功に、ゆうべ見た夢と、バルザックの『知られざる傑作』の話をした。その本、貸してくれないか、と持って行った志功は、あくる日になると、すっかり元気を取戻した様子で俶にいった。
「好子ちゃん、大丈夫だよ。ぼくは絶対に自分の絵を焼いたり、自殺したりはしないからね」
志功はまた勤めの行き帰りや、休日にも絵を描いて回るようになった。読書家の俶を、「好子ちゃんは、ぼくの文章の先生だ」とかれはいっていた。というのは、葉書や手紙に書く文章にも、ときどき顔を出す志功の津軽訛りを、俶が直してやったからである。
休日に絵を描きに出かけるとき、志功は「だれかぼくを訪ねて来た人がいたら、これに名前と用事を書いて貰って下さい」と大福帳のような部厚い帳面を渡辺の家の玄関に置いて行く。二度目の帝展落選から一年近く経ったある日、志功も渡辺の家族も留守のところへ訪ねて来た長髪の瘠せた若い男が、「棟方さんは、どこへ行ったか判りませんか」と但木の家に顔を出した。――芥川龍之介に似ている……、と俶がおもったその男は、「松木満史という者です」と津軽訛りの感じられる言葉で名乗った。
五
松木満史は、この大正十五年の春に、木彫の『寒日』を、太平洋画展に出して入選していた。それと、かれも病弱であったので兵役を免れたのをきっかけに、夏が終りかけたころ上京して来たのである。実家の親は、かれのために東京にアトリエを建てる約束をしてくれていたのだが、それまでの寓居として阿佐ヶ谷に見つけた借家に住むことに決めて、志功を訪ねて来たのだった。
やがて写生から帰って来た志功に、松木はそうした自分の近況を伝えた。かれの近況報告は、志功に強い羨望と焦燥の念を覚えさせずにはおかなかったろう。松木の『寒日』を、志功は太平洋画展の会場で見ている。それは綿入れをきて懐手をして立っている童女の姿を彫った高さ六寸ほどの小さな木像であったが、素朴な土のにおいと、冬の津軽の野面の|凛冽《りんれつ》な空気と、雲間から洩れて童女を照らしている薄い陽射しとが、まざまざと感じられる秀作であった。
志功にとって、最初は彫刻家を志望していた松木は、彫刻の腕は勿論のこと、油絵と版画においても、侮ることのできない技倆の持主だった。その松木が、間もなく親からアトリエを建てて貰う約束を得て、東京で創作に専念する生活を始めるというのである。野内の貴船神社で画家への精進を誓い合った三人のうち、下沢木鉢郎は、すでに帝展入選を果たしていた。志功のほうは、白日会には入選したものの、帝展には二度落選しており、しかも一日の大半は、東京教材出版社の仕事にとられる生活だった。かれはこのうえ、三つ年下の松木にも取残されそうな不安に駆られたのかも知れない。
松木は志功に近況を訊ねた。不遇ではあったけれども、志功は一人の後援者を得ていた。下宿先の渡辺勝兵衛が車夫をしている弓町の橋本内科でまえに書生をしていて、独立して本郷で薬屋を開業していた島丈夫である。
島は渡辺に「うちに面白い絵描きが来たよ」と聞かされ、「遊びによこしなさいよ」というと、間もなくやって来た志功は|剽軽《ひようきん》な言動ですぐに島夫婦の気に入られ、しょっちゅう遊びに来るようになった。そのころ二つぐらいだった長男をおぶって子守りをしてくれるのだが、いつも本から眼を離さないので、その姿は二宮金次郎のように見えた。読書に熱中していたためか、腹がすいていたためか、子供に与えるための飴を、自分一人でなめてしまったこともあった。だが絵を描くときの一心不乱な感じも、まことに印象的で、島は志功を、きっと偉くなるだろう……とおもっていた。志功が絵具代や額縁代や写生旅行のための旅費が必要となるたび、島はそれに相当する金を出してくれた。無名のころの最初のパトロンであり、またもっとも長くつきあいの続いた後援者で、志功が世に出てからも、ずっと縁の下の力持ちのような役目をした人である。島夫婦はともに新潟県の出身であったので、志功はその縁でのちに新潟県加茂町の田下三作、亀田町の長谷川松郎の後援もうけるようになった。
けれど志功は、勤めの合間に絵を描くいまの暮しに、満足していた訳ではない。かつての憧れの的であり、いまは同僚として働いている山上喜司は、あたら油絵にすぐれた手腕を持ちながら、その腕を重宝がられて、東京教材出版社の図案工から、なかなか抜け出せそうにない気配だった。志功はそうはなりたくなかった。勤めの片手間に描いている絵では、とうてい帝展に入選することはできないのかも知れぬ。かれもやはり松木とおなじように、画業に専念できる生活を送りたかったのだ……。
「……それだば、われの借りた家さ来て、一緒に絵を描くことにしたら、どンです?」
と松木はいった。志功は一も二もなく、その提案に飛びついた。東京教材出版社をやめて、定収入から離れても、実家の次兄から送られて来る二十円で何とか画業に専念し、とにかく帝展に入選しさえすれば、そのあとの道は開ける筈であった。こうして志功は、本郷のお弓長屋の渡辺家を出て、松木が郷里から連れて来た高橋静寂という若者と三人で、一軒の借家に共同生活を営むことになった。これが松木満史のいう「私共の何ともいいようのない奇想天外の阿佐ヶ谷時代」の始まりだった。
松木が借りた阿佐ヶ谷の家は、畑の真中にあった。三人の画家志願者の共同生活は、いわば旧制高校生の蛮カラな寮生活のようなものだった。一日中絵を描き、さまざまな議論に口角泡を飛ばしたあとで、夜になると、近くの畑へ大根を盗みに出かけた。貧に迫られての盗みではない。ただ郷里を離れて初めて味わうボヘミアン風のなにものにもとらわれない奔放な生活が、若いかれらを興奮させていたのだ。夜陰に乗じて掘って来た数本の大根は、恭しく部屋の床の間に飾られた。ある夜、大根を背負ったうえにマントを羽織って借家に駆け戻って来る途中、「オイッ、おまえたちは何をしているんだ」と、巡査に呼びとめられた。志功は周章狼狽してなすところを知らなかったが、松木は平然として、「あ、子供が病気でね、医者に急いでいるところです」と巧みにその場を切抜け、家に戻ってから、ともに体を二つに折って笑い転げたりした。
朝の始まりは厳粛だった。起きて朝食を終えると、「頑張るべし!」とたがいに努力を誓い合って、絵の制作に取りかかる。志功はゴッホの原色版、松木は岸田劉生の原色版を部屋の壁に貼っていて、夜寝るまえには、二人ともその原色版に燈明をあげて、大願の成就を祈った。
この年の秋、帝展に出した作品で、志功は三度目の落選の憂目を見た。一度目の落選のとき、下沢木鉢郎が入選者に入っていたのとおなじように、失意の志功を、いっそう惨めなおもいにさせたのは、同郷の原子はなが入選していたことだった。志功が前年に出して落選した作品は、青森の原子家の果樹園を描いたものであったのだが、その原子家の娘で、女子美術を出たばかりの二つ年下のはなにも、かれは遅れを取ってしまったのだ。落選作を受取りに行った美術館で、はなに会った志功は、自分の絵を見せて感想を聞いた。――デッサンができていない、というのが、はなの批評であった。女子美術に学んだはなと違って、独学の自分の絵では、所詮、帝展に入選することは無理なのだろうか……と、志功は無残に叩きのめされたおもいだった。
帝展の会場で、パンフレットを見ると、原子はなの『風景』には、三百円という値段がつけられていた。三百円といえば、志功が実家の次兄から受けている二十円の仕送りの十五箇月分である。その値段は、打ちのめされていたかれの闘志を掻き立てずにはおかなかった。――いまに見ていろ、と、志功は心のなかで叫んだ。かれの意志は、来年こそ帝展に入選してみせる、という一念に凝り固まっていた。
志功が実家から受けている仕送りの二十円は、画業に専念するのには十分でなかったにしても、勿体ないような金であった。棟方の家は、大火のあとに新築したさいに、伯母から多額の借金をしており、月に十円ずつ返す約束になっていたのを、志功が上京することになったとき、伯母が自分へ返すかわりに「志功へ送ってやれ」といってくれたので、次兄の賢三が自動車の運転手をして得ている給料から、さらに自分の送金分として十円出し、合わせて二十円を毎月送ってくれていた。つまり名目としては、伯母から十円、賢三から十円、ということであったのだが、実際には二十円とも、賢三の給料から割かれていたのだった。その分だけ、棟方の家に残っていた病身の姉や、弟たちも、志功の勉学に協力していたことになる。
志功としては、その仕送りを、これほど長いあいだ続けて貰うつもりはなかったのだろう。上京すれば、じきに帝展に入選して、自活できるようになると考えていたのかも知れないが、かれの東京生活は、三度目の落選の苦汁を嘗めた翌年、すでに足かけ四年目に入っており、年号も大正から昭和と変っていた。帝展に入らなければ家族に顔向けできない、とかれはおもいつめていた。帝展に入りさえすれば、これまでの恩を、いっぺんに返すことができる。昭和二年のことしこそは、――なんとしても帝展に入選するか、あるいは一足飛びに特選を取らなければならない……、かれの頭には、そのことしかなかった。
一方、松木が|狙《ねら》っていたのは、帝展ではなかった。津軽人らしいジョッパリ(強情っ張り)で新しいもの好きだったうえに、志功へのライバル意識もあってかれの帝展一辺倒に反撥したせいか、松木が目標に定めたのは、国画創作協会の洋画部だった。国画創作協会は、かつて帝展の前身である文展に反旗をひるがえした榊原紫峰、小野竹喬、土田麦僊、村上華岳らによって創立された日本画の団体であったが、松木が尊敬していた岸田劉生と同調して春陽会を退会した梅原龍三郎らを迎えて、この前年から洋画部が新設されていたのである。四月――、松木は国画創作協会の洋画部に、『哲学堂近景』を出して入選した。無類の負けず嫌いであった志功が、このことにショックを受けなかったとは考えられない。松木を越すためには、いまや帝展に入って見せることのほかに道はなかった。帝展に賭けた志功の悲願は、こうした二重、三重の圧力によって万力にでもかけられたように締めつけられるばかりだった。
ところでその国画創作協会展の会場で、志功は、かれの生涯を決定づけた作品に出会っている。それは川上澄生の版画で、畳んだパラソルを持ち、ボンネットを片手で押さえている西洋の貴婦人のスカートの裾が風に翻っている『初夏の風』という作品だった。少年のころからゴッホに取憑かれる一方、崇拝にも近い気持で美少女に憧れる星菫趣味を抱き続けて来た志功の好みに、ぴったりの絵である。それにもましてかれに衝撃を与えたのは、貴婦人の左右に彫られていた詩であった。
かぜとなりたや
はつなつのかぜとなりたや
かのひとのまへにはだかり
かのひとのうしろよりふく
はつなつの はつなつの
かぜとなりたや
志功にはその詩が、まるで自分の心をうたっているもののように感じられた。「かの人のまえにはだかり、かの人の後より吹く 初夏の風となりたや」――かの人への憧れは、帝展入選にも比すべきかれの宿願であった。絵と詩が一体化して、さわやかな抒情性と、ひそやかな官能性を伝えている川上澄生の版画は、志功にとって、まさに夢のかけ橋であるようにおもわれた。|痺《しび》れるような電撃に身を貫かれたまま、かれは暫く呆然としてその作品のまえに立尽していた……。
下北の大湊にいた古藤正雄も、太平洋画展への入選をきっかけに上京して来た。目黒の新聞配達店に住込んだ古藤は、阿佐ヶ谷の借家を訪ね、そこで初めて松木満史に会った。松木は志功より年下の筈なのに、あらゆる点で志功の師匠格であるように見えた。ブールデル、マイ∃ール、宗達、光琳……と、さまざまな名前をつらねて縦横に展開する才気煥発な松木の美術論に、志功は眼鏡の奥の眼を光らせて、懸命に聞き入っていた。
志功は、上京以前の軒昂たる意気を失ったわけではなかった。阿佐ヶ谷の借家は、あたかも|梁山泊《りようざんぱく》のようになっていて、松木のところに実家から米が送られて来た、という知らせが伝わると、たちまち何人もの青森県出身の若者が集まって来る。そうしたときに、もっとも旺盛な食欲を示すのは自称「胃拡張」の志功で、小さな子供の茶碗ではあったけれども、かれが打ちたてた「一食に十三杯」という記録は、だれも破ることができなかった。志功は精神的にも肉体的にも、人並みはずれて強靭な胃袋の持主だった。それでも酒だけは決して口にせず、「チョコ|三《さん》」という綽名をつけられていた。仲間の酒宴に加わらない理由として、「おらはチョコで三杯飲めば、眠くなってしまうんだ」と語っていたからで、酒を飲まないかわりに、かれは松木と一緒に『ドモ又の死』を演じて見せたりして、酒席に興を添えた。志功のもうひとつの綽名は「|撫《な》ぜ|人《と》」といい、これはなにかにつけてすぐに人の体に触って、撫で回す癖があったからで、相手が「ワイ、|気味《きび》悪いじゃ」と身を竦めてもそれをやめず、かえって「|がも《ヽヽ》コ引っ張るド」と、じゃれて股ぐらに手を突込んで来たりした。|がも《ヽヽ》というのは津軽弁で、男の一物を意味する。これらの挿話からうかがわれるのは、ときには人を辟易させかねないかれの一種独特なサービス精神だ。
松木は自分の物をそっと質に入れても人をもてなすような性格があったうえに、酒好きでもあったから、実家から送られて来る米も、一俵が何日も経たないうちになくなってしまい、仕送りだけではとても足りないので、得意の木彫の腕を生かして額縁をつくり、それを売りながら絵を描いていた。そのうちにかれは、近くに細長い船のような家が、縦に二軒並んでいる貸家を見つけて、そこへ引越すことにした。前方の家を自分のアトリエ、奥の家を額縁づくりの工場にしようと考えたのだ。志功はその工場のほうに住むことになった。集まって来た仲間が、家財道具を戸板に載せて、引越しが始まった。志功は箒を手にして行列の先頭に立ち、「ラッセ、ラッセ、ラッセ、ラッセ……」と青森ネプタのかけ声を唱えながら、引越し先までの道筋を跳ね回って大はしゃぎだった。
昭和二年の秋に、松木は同郷の大屋リョウと結婚して、上沼袋の畑の中に建てたアトリエで暮し始めた。志功は新築のアトリエの、すぐ向かい側にあった借家に住んだ。幾らかでも家賃の負担を少なくしようという算段であったのだろう、その家には沢地弁護士の息子と、ほかに四人の若者も一緒に住むことになり、中野駅前の新聞配達店に移っていた古藤正雄も、配達の仕事を終えると、そこの玄関を仕事場にして制作に|勤《いそ》しむようになった。松木、古藤、志功の三人は、顔を合わせるたびに「頑張るべし、な!」と声をかけあった。志功は借家の二階で、百号ほどの八甲田山の絵を描いていた。ある日、志功が留守のとき、古藤はかれのスケッチブックを覗いて見た。おもわず息を呑んだほどの上達ぶりだった。原子はなに「デッサンができていない」と批評されたときから、志功は必死になって、デッサンの稽古に励んでいたのに違いない。この秋こそ、志功の帝展入選は間違いない筈であった。
六
三度の帝展落選にもめげず、志功が殆ど意気を阻喪していなかったのは、次のような挿話からも判る。話はまえに戻るが、志功と松木がまだ阿佐ヶ谷の借家で共同生活をしていたころ――。震災後の阿佐ヶ谷には畑のなかのあちこちに、バラック建ての借家がつくられていた。
そのなかの一軒に住んでいた同郷の竹谷賢一郎が、ある冬の日、すぐ近くにある松木の借家に遊びに行っていたところへ、古道具屋が本職の樋口という大家さんがやって来た。大家の声が聞こえると、松木と志功は急に画架に向かって懸命に絵を描き始めた。どうやら家賃を溜めている様子だった。大家が話しかけても、二人は画架に相対したまま、振向こうともしない。志功はカンバスを|舐《な》めるようにして、せわしなく絵筆を振るいながら、半分は独言のように、そして半分は大家に聞かせるように、
「ヴァイオリンならズンバリスト、絵は日本の棟方志功!」
と大声で叫んだ。ジンバリストは、それまで大正十一年と十三年に来日して演奏会を開き、わが国でも評判になっていた。志功は音楽にも造詣の深い松木から、その盛名を聞いて知っていたのだろう。かれの雄叫びは、自分はその世界的なヴァイオリンの名手に匹敵する絵描きなのだから、家賃の少少の遅れぐらい、大目に見てくれてもいいではないか……という意味のようであった。
当時、急造された阿佐ヶ谷の借家に住みついた文学青年や無名の絵描きたちのあいだには、家賃を払えない者が少なくなかった。自分の芸術を守るためには、権謀術数を用いることも辞してはならない、という『ドモ又の死』の思想を信じていた松木と志功も、家賃の遅れを強いて念頭から追払おうとしていたのかも知れない。大家は困ったような顔をしていたが、そのうちに、そばにあった火鉢のなかみが烈しく|爆《は》ぜて、火の一片が、東京教材出版社をやめてから伸びかけていた志功の髪の毛のなかに飛びこんだ。髪の焦げるにおいがして、志功の頭からは薄く青い煙が立昇り始めた。それでもかれは、頭上の火を払おうともせず、歯を食縛って絵筆を振るい続けた。呆気にとられていた竹谷賢一郎は、あわてて志功の頭の火を払い、掌で髪の焼焦げを揉み消した。すると志功は、初めてぶるぶるっと頭を震わせ、ふたたび大音声を張上げて、「心頭滅却すれば、火もまた涼し!」と叫んだ。これがいいたくて、頭皮の焦げる熱さも|凝《じつ》と我慢していたのだろう。
「……ははあ」
と大家は度胆を抜かれた様子でいった。「あなた方は炭がないんですね」。
そういわれて竹谷も、家のなかの襖が、影もかたちもなくなっているのに気がついた。炭が買えなかったので、寒さに耐えかねた二人は|毀《こわ》した襖を燃料にして暖をとっており、さっき火鉢から爆ぜて志功のもじゃもじゃの髪の毛に飛びこんだのは、襖の骨組みの一片であったらしい。不思議なことに、大家はその不届きな行為に何の文句もいわず、「取りに来なさい。炭をあげますから……」といって戻って行った。
そのころの阿佐ヶ谷には、家賃の滞納をあまりきつく責めようとしない奇特な家主もなかにはいたのだが、この大家もその一人で、あとの話になるけれども、かれは絵と引替えに、志功と松木の面倒を見る後援者にもなったのだった。そのことには多分、「ぼくはいまに偉くなりますよ」という志功の日頃の確信に満ちたいい方も、|与《あずか》って力があったのに違いない。
大家について行った高橋静寂は、炭だけでなく米も貰って帰って来た。それを見て、地主の息子である演劇青年の竹谷賢一郎は、酒を買う金を出すことにした。高橋は使者となって、みんなに伝え歩いた。近所に住んで劇作家を志していた八木隆一郎や、のちに青森放送の社長になった坂本一義らの文学青年が集まって来て、宴会が始まった。窓から冬の月が見える家のなかで、宴がたけなわになったころ、酔って幾らか感傷的になったらしい松木は、遠い故郷の唄の「弥三郎節」を切切とうたい始めた。竹谷も低い声でそれに和した。
嫁いびりの哀歌である「弥三郎節」は、津軽平野の真中にある|木造新田《きづくりしんでん》と、藻川という二つの土地が舞台になっているが、松木はその木造の出身であり、藻川は竹谷の出身地だった。木造の町も藻川の部落も、いまごろは青白い月光を映した大量の雪に覆われて夜の闇の底に沈んでいる筈であった。
※[#歌記号]四つァエー 夜草朝草欠かさねど
遅く戻れば いびられる
アリャ 弥三郎エー
深い郷愁と哀調が漲っている二人の唄にあわせて、酒を飲んでいないのに酔ったような表情になった志功は、番傘を開いてそれをさし、いびられている嫁のおもい入れで、片手と首をくにゃくにゃと動かしながら、情緒|纏綿《てんめん》とした風情で踊りをおどって見せた。いびられ|弾《はじ》かれた嫁が、無理な親衆に使われて、「十の指コから血コ流す」という苦渋にみちたくだりを示す面持と身ぶり手ぶりには、志功の胸に迫る万感のおもいが籠められているようだった……。生来の立直りの早さからばかりではなく、こうした野放図で、楽天的で、多感な仲間たちに囲まれていたせいもあって、志功は三度にわたる帝展落選にも屈せずに、ヴァイオリンならジンバリスト、絵は日本の棟方志功と高言する気魄を失っていなかったのだが、昭和二年の秋、ことしこそは……と意気込んで帝展に搬入した四度目の作品は、またしても落選した。志功は帝展の発表を見に行くとき、いつも懐に青森までの汽車賃を用意していた。入選したら、すぐに上野駅から汽車に飛び乗って、故郷へ錦を飾るためであったのだけれど、今回もその用意は無駄であった。当時の心境を、かれはこう述べている。
――青森の人々にあんな大それた約束をするのではなかった、と口惜しさが年々つのるのでした。青森に帰ろうか――寂しい寂しい気持ちで、何度もこっそり逃げて帰ろうと思ったのでした。
――帝展に入選したいと思う一方で、青森への郷愁も募るばかりなのでした。青森人は、国を思い、友をおもい、肉親をおもう気持ちが強く、情っ張りと、根っ張りを持っていますが、前に言った弱さもあるのです。わたくしも「死しても帰らず」と誓ったけれども、青森の山や川やネプタ、その他もあって、帰りたい、ああ帰りたいなあーとおもい深くなっていました。……
かれは帰るわけにはいかなかった。帝展に入選しないままで帰ったのでは、苦しいなかから送金を続けてくれた家族や、上京の後押しをしてくれた青森弁護士会の人たちに申訳が立たない。たとえ帰ったとしても、そこに待っているのは、「弥三郎節」の主人公の嫁に似た運命であるのに決まっている。帝展入選という夢のかけ橋を渡らないかぎり、恋しい青森へ帰ることはできなかった。
原子はなの作品は、前年に引続いて帝展に入選しており、その『窓側の静物』には、六百円という値段がつけられていた。負けず嫌いの志功は、さぞかし胸を掻き|※[#「てへん+劣」]《むし》られるようなおもいであったろう。あとの話になるが、原子はなは結婚して橋本はなと姓が変ってからも、帝展に毎年連続入選して、画価も七百円、八百円、千五百円と次第にあげられ、昭和七年には特選を獲得した。その翌年に絵の仲間と帝展を見に行って、橋本はなの作品のまえに立った志功は、「なんだ、こすたもの!」と吐き棄てるように呟いた。美術館を出てから、かれの姿が見当たらないのに気がついた仲間が、探しに戻ってみると、志功はまだ橋本はなの作品のまえに立尽し、食入るような眼でその絵を見つめ続けていた。
「ゴッホの大馬鹿野郎! われは青森から、ゴッホになるって東京さ出て来たんだぞ。それだのに……」
松木の新築のアトリエの二階から、一人で|喚《わめ》いている志功の声が聞こえて来る。いつものように、壁に貼って時折お燈明をあげているゴッホの原色版と対話をしているらしかった。上沼袋にアトリエが完成したあと、松木は新婚の妻と一緒に暮しており、志功は向かいの借家に住んでいたのだが、いつのまにか松木のアトリエの二階で絵を描くことが多くなっていた。ほかに五人の若者が同居している借家では、絵に専念するのにも何かと|煩《わずら》わしく、それに松木夫妻のところにいれば、三度三度の食事にも不自由しなかったからだろう。
志功はこのころから、本格的に版画への道も歩きはじめていたようだ。これまで書かれたものによれば、かれが版画を志したのは川上澄生の『初夏の風』に感動したのがきっかけで、昭和三年の春に、下沢木鉢郎に連れられて平塚運一の門を叩いたのが本格的な修業の始まりということになっているが、青森にいたころから版画を試みていたことがあった様子で、東京で松木と共同生活をするようになってからは、版画の先輩であるかれに、彫刻刀の基本的な使い方を教わっていた。つまり三つ年下の松木が、実は志功の版画の最初の師匠であったことになる。松木満史は、国画創作協会展に入選したあと、日本創作版画協会展にも版画を出して入選していた。
志功にとって、松木は油絵のライバルであるのと同時に、版画の師であり、自分を居候させてくれている恩人でもあった。それだけに才能の輝きが容貌にまで現われているような颯爽たるハンサムで、天馬空を行くような松木の存在に、コンプレックスをもふくめて複雑な気持になったこともあったのではないかと想像される。
昭和三年に、北海道へ放浪の旅に出ていた竹谷賢一郎が、途中、郷里の藻川の土地を売った金を持って東京に帰って来て、阿佐ヶ谷駅南口の駅前に、当時としては珍しい喫茶店をつくることになり、八木隆一郎、坂本一義、松木満史、棟方志功といった面面は、工事中の店内に集まって、内部の造作や看板描きを手伝い始めた。そこへぶらりと入って来た今官一も、かれらの仲間に加わった。ある日、仕事が一段落したところで、昼食に「ピノチオ」のシナソバを食おうということになった。「ピノチオ」は線路を越えた向こう側にある支那料理店である。
注文する役目を志功が引受けて、外へ駆け出して行った。やがて出前が運ばれて来た。物もいわず目にもとまらぬ早さでそれを食い終った志功は、口元にこぼれた汁を手の甲で|拭《ぬぐ》うと、感に耐えたような声を出し、「|旨《め》えなあ、オチノピのシナソバは……」と唸ったので、みんな一斉に吹出した。「ピノチオ」のシナソバ、と聞いて注文に出かけて行ったのだから、それを「オチノピ」と間違える筈はない。それなのになぜか志功の頭のなかでは、「ピノチオ」が「オチノピ」に変ってしまっていたのだ。
このころから周囲の人には、年下の松木のほうが、志功の兄貴格のような印象を与えるようになっていて、志功は自ら道化者の役を演ずることが多かった。仲間のあいだでは道化役を演ずる一方で、志功の頭のなかの大半は、むろん帝展のことで占められていた。
――今年こそ、なんとしても帝展に入選しなければならない。死んでも死に切れない。ただ描いてみよう。
――それからは、ただ無性に描きました。朝も昼も夜も、夜中に目がさめると手を動かしていました。知らず識らずに、宙に浮いた手が円を描き、三角を描いているのでした。……
志功の望郷の念は、余程のものであったのだろう。かれがこんどの|乾坤一擲《けんこんいつてき》の画題に選んだのも、東京の風景ではなく、郷里青森の歌人船水公明の果樹園だった。記憶と想像によって描き上げたカンバスの裏に、実家から送って貰った善知鳥神社のお札を封じこめ、松木がつくってくれた純金箔の額縁に収めて背負ったかれは、上沼袋から上野まで歩いて行き、不忍池の弁天様に入選を祈願してから、その二十五号の『雑園』という作品を、第九回の帝展に搬入した。
闇のなかで志功は五度目の発表を待っていた。発表が始まった。係員が巻紙に記された作品と作者の名前を読み上げて行く。早鐘のような鼓動のなかに「……二百十五番、雑園、棟方志功」という声が聞こえた。
「棟方志功はここだッ」
かれは躍り上がって叫んだ。この瞬間に、志功は念願の夢のかけ橋に足を踏入れたのだ。
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めぐりあい
一
志功の帝展入選の報を、次兄の賢三は、手製の鉱石ラジオで聞いた。レシーバーを当てていた耳に、雑音にまじって「……ムナカタシコウ……」というアナウンサーの声が|微《かす》かに聞こえたような気がしたが、空耳かともおもい、すぐには信じられなかった。それまで四度も期待を裏切られていたのだから、なかなか本当にできなかったのも当然であった。そのうちに、これはちゃんとしたラジオで志功の帝展入選を聞いた近所の電気屋が祝いに駆け込んで来て、ようやく、さっき耳にしたのが本当であったことを知った。
――これで、やっと、いままでの苦労も報いられた……。
寒い冬のさなかに自分のオーバーを質入れして送金したこともある賢三は、しばらく呆然とし、それからわがことのような喜びが、胸底から込み上げて来るのを覚えた。まえに賢三は、「帝展には閥というものがあるそうではないか。その閥に入らなければ、実力があっても帝展には入選できないと人から聞いた。それが本当なら、金はもう少し余分になんとかするから、帝展系の学校へ入るか師匠につけ」という手紙を送っていた。ところが志功は、手紙の返事で「親の世話になって絵の勉強をしている者は大勢いるが、兄弟から仕送りを受けているのは私だけで、こんなしあわせ者はいないと思っています」と送金への礼を述べながらも「しかし、私は師匠を持ちません。師匠につけば、その師匠より偉くはなれないし、また自分の絵というものが描けないからです」といい、頑として賢三の勧めにしたがっていなかった。
――そすたジョッパリ(強情)を張って……。
と、賢三が舌打ちをしたい気分になっていたところへ、志功はついに念願の帝展入選を果たしたのだ。こうした志功と賢三の結びつきは、兄と弟の関係が逆ではあるけれども、ゴッホ兄弟のそれを連想させる。実際にゴッホを目標にしていた志功は、賢三のなかに、兄フィンセントの画業を生涯にわたって支えた弟テオの姿を見ていたのかも知れなかった。
賢三は二階に駆け上がって、脊椎カリエスで寝たきりになっていたちよに朗報を伝えた。志功が上京してからかなり長いあいだ、毎日、地元の東奥日報紙を送っていた五厘の切手代は、姉のちよの僅かばかりの|臍繰《へそく》りから出されていた。父の幸吉が他人の借金の証文に判をついて貧乏のどん底に追込まれてから、相次ぐ幼い弟たちの死、母の死、父の死、と不幸ばかりが続き、なにひとついいことがなかった棟方家にとって、志功の帝展入選は、初めてさしこんで来た明るい陽の光であった。
志功は帝展の発表があったその晩に汽車に乗って、青森へ帰って来た。五年ぶりの青森には雨が降っていた。かれは駅から真っすぐに菩提寺の常光寺へ行き、雨とともに涙が頬を伝う顔で、亡き父母の墓に帝展への入選を報告した。ぐしょ濡れになって、家族が待っている家に入って来たかれは、喚くような声で宿願の成就を告げた。賢三とちよに、これまでの礼をいい、ひとわたりの話が済むと、志功は傘をさして外へ飛び出して行った。
かれが向かった先は野間家だった。野間茂子は玄関のところで、女学校の級友の木村正枝と立話をしていた。志功は傘を振回しながら、茂子のそばに駆け寄った。
「茂子さん、帝展に入選しましたッ」「ぼくはやりましたよ」「やりましたよ、とうとう」「入選したんですよ、帝展に!」
おめでとうという間もないくらい、憑かれたように|唾《つばき》まじりの大声を連発して、志功は傘を手にしたまま、いまにも踊り出しそうな様子であった。
「よかったわね、志功さん、おめでとう」
「うん、有難う、有難う……」
おそらくだれよりも一番ほめて貰いたかった人の祝辞を受けたからだろう、鼻を詰まらせた声でそういった志功は、溢れるばかりの歓喜と感激の情を顔中にあらわして、何度も繰返し茂子に頭を下げた。そのあとかれは、高木家へ行き、ここでも歓喜と感謝の念を全身に漲らせて入選の報告と帰郷の挨拶をしてから、家に戻った。
夜――。棟方の家では、家族、親類、友人たちが集まって、にぎやかに祝宴が開かれた。五年ぶりの再会では、幾ら語っても話題は尽きなかった、志功は酒を飲めなかったけれども、家族と友人たちの青森弁は、懐しい音楽でも聴いているようでかれを酔わせるのに十分であった。耳に入るのは、賞讃と|犒《ねぎら》いの言葉ばかりで、津軽人同士の話しぶりは、人の悪口をいうときもそうなのだが、褒めるときもおなじように、これでもか、これでもか、と次第に興奮し熱狂して、ついには最大級の形容詞の競い合いになるのが常である。志功は陶然とし、あるいは意気軒昂として大声を張上げ、感に耐えたように体を前後に動かしながら振上げた拳で膝を打ち、笑い、唾を飛ばし、眼をむいて、喋りに喋り続けた。志功は最早かつての「絵バカ」ではなかった。帝展に入選した輝ける新進画家であり、かれの前途が、いまや洋洋として開けつつあることは、だれの眼にも明らかであるようにおもわれた……。
五年ぶりに帰郷したこのときから、志功は翌年の秋の初めごろまで、およそ一年近くのあいだ青森にとどまっていた。かれにとって、一生を通じても、これほど身も心も休まる安息の日日を過ごしたことは少なかったろう。ただし大変な勤勉家で、いっときも凝としていられない性質の志功は、漫然と日を送っていたわけではなかった。この帰郷期間中に、かれは実りの大きい幾つかのめぐりあいを経験している。
まずそのひとつは、十歳年上の先輩画家今純三の知遇を得たことだ。今純三は弘前の出身で、中学のなかばで家族とともに東京へ移住し、早稲田工手学校の建築科に入ったころから油絵を描き始め、岡田三郎助に師事して明治四十五年に満十九歳で文展に入選し、以来文展の常連出品者となって、地元の洋画界に深甚な刺激を与えていた画家だった。かれはその後、文展が改組された帝展にも入選していたのだが、大正十二年、関東大震災に遭って帰郷し、青森の合浦公園裏に、小山内薫の自由劇場の舞台装置をやっていた腕を生かして、自ら設計し手作りした画室を構え、昭和二年からは県立師範学校の教師になって絵を教えていた。
かれの油絵の画風は頗る緻密なもので、眼の悪い志功には、たとえ真似ようとおもってもできるわけがなく、またフォービスムの方向に進んでいた志功が影響を受けるはずもなかったが、帰郷してからの今純三は、石版画とエッチングの研究を始め、その習作として木版画も試みていた。習作といっても、かれから銅石版術を教わった関野準一郎によれば、その木版画は非常にすぐれたものであったという。志功は帝展に入選するまえ、この昭和三年の春に版画家平塚運一の門を叩いており、前年に松木満史が入選していた日本創作版画協会に七点出品して四点陳列され、春陽会展にも七点の版画を出品して三点入選し、師匠格の平塚運一や先輩の版画家たちと一緒に、刀書房から刊行された版画誌『版』の同人に加わって、本格的に版画への道を歩み出していたのだから、持前の吸収欲で、抜群のテクニシャンである今純三の版画に関する知識と技術を学びとったであろうことは間違いあるまい。
今純三は、銅石版術に稀有の才能と技術を持ちながら、不遇のうちに病没したが、志功は戦後その死を悼んで『バラライカの女 今純三氏を想ふ』という版画を彫っている。余談になるけれども、今純三の油絵の代表作である『バラライカ』の主人公は和服姿の若い男であるのに、志功の作品ではバラライカを|奏《かな》でているのが、豊満な裸身の女人菩薩になっているところが面白い。これは多分、今純三に対する追善供養のための女人菩薩であるのには違いないが、志功にとって創作欲の源泉は、つねに女性であるか、もしくは母性であったことを示しているようにもおもわれる。その点について詳しく触れることは後に譲るとして、今純三とのめぐりあいのほかに、この帰郷期間中、志功に豊かな実りをもたらしたものは、津軽半島と下北半島の両方に旅をしたことだった。
二
津軽半島への旅は、伯母よねの勧めによっている。伯母が営んでいる米屋の販路は、津軽半島の先端にある漁村にまで及んでおり、そこへ自転車に乗って米代の掛取りに行く従弟の堅四郎について、「志功さんも、一緒に行って来いへ」と勧めてくれたのだ。
従弟のあとにしたがって、志功も自転車に乗り、津軽半島西北端の竜飛岬に向かった。当時のそのあたりの海浜の荒涼とした光景を伝えるのには、いたずらな形容詞を並べるよりも、実際に竜飛岬に近い|袰月《ほろづき》村の小学校で代用教員をしていたことのある詩人高木恭造の絶唱『|陽《シ》コあだね村』の結びの四行を引用するに|若《し》くはないおもわれる。
(高木恭造は、志功と同年に、青森市の米町で生まれている)
|路傍《ケドパタ》ネ|捨《ナゲ》られでらのアみんな|昔《ムガス》の|貝殻《ケカラ》だネ
|魚《サガナ》の|骨《トゲ》コア腐たて|一本《エツポ》の樹コネだてなるやだナ
|朝《アサマ》も|昼《スルマ》もたンだ|濃霧《ガス》ばりかがて
|晩《パゲ》ネなれば|沖《オギ》で|亡者《モンジヤ》泣いでセ
高木恭造がそう歌った袰月村をすぎて、竜飛に着いた志功たちは一軒しかない旅館に泊った。まだ電灯もなく、夜は|煤《すす》けたランプを点している宿屋であったが、とれたての|鰈《かれい》や|鯛《たい》、|鮑《あわび》などを食わしてくれ、なかでも|烏賊《いか》の刺身は格別のうまさだった。沖で亡者が泣いているような海鳴りの音を耳にしながら眠りについた志功は、翌朝、目が覚めると、燈台のある下の岩裾を津軽海峡の荒波が噛んでいる竜飛岬の突端に画架を据えて、懸命に油絵を描いた。帰りは、津軽半島の日本海側へ回った。ろくに道らしい道もなく、世間から隔絶され、孤立している部落に住んでいる人たちの話し声は、まるで無人の岩と問答しているように志功の耳には聞こえた。このときの旅について、かれは『板極道』にこう述べている。
――わたくしは、むやみやたらに絵が描きたくなって、カンバスを岩頭に立て、津軽の山と海と岩と燈台を描きました。この時のよろこびは、絵というものの魂というのでしょうか、生命というよろこびを知ったときでもありました。
――今のわたくしに海、山の広い大きな世界をひらかせてくれたのは、津軽半島一周の因縁でありました。津軽の旅路の贈ってくれましたものを、いつまでもいつくしんでいます。このことは、いつまでも忘れることは出来ません。……
まえに志功の創造欲の源泉は、つねに女性であるか、もしくは母性であったのではないかと書いたけれども、東京で暮していながら帝展に出したのが、記憶と想像による故郷の風景ばかりであったように、かれの想像力の源泉になっていたのは、人影も|疎《まばら》な、殆ど無人に等しい津軽の海と山でもあったのだった。
関野準一郎の『版画を築いた人々』によれば、今純三は死に瀕した病床で、妻に向かい、
「人間の知力を傾ければ、成就しないものはないという信条の下に尽してきたが、ねえ、母さん、父さんは間違っていたねえ。人間一人の力は、大きい自然の前には虫けらみたいだったし、自分の仕事の存在も小さかった。その父さんに母さんが尽してくれた代価は百万円出しても、金などで返せるものではないけれど、父さんは本当に感謝している。父さんは神様にちゃんとお願いして、これから、母さんも子供達も皆幸福に暮せるようにお祈りしてあげるから、母さんは何も心配しなくていいんだ」
と両手をさし伸べ、ちょうど母親の乳房を慕う幼児の恰好で妻に体をすり寄せて、静かに瞑目して息絶えたのだという。想像を逞しくすれば、志功は関野準一郎からその話を開き、今純三夫妻の面影に、亡くなった自分の哀しき父と悲しい母の姿を重ね合わせて、あのバラライカを抱いている女人菩薩の版画を彫ったのであったのかも知れない。
昭和四年の夏、志功は長姉のちゑが嫁いでいた魚問屋をしている義兄から、下北半島の脇野沢村へ、「盆の祭りを見に来ないか」と誘われた。翌日、志功が義兄とともに発動機つきの漁船で、青森の港から真っすぐに乗出した陸奥湾は、ずいぶん波が荒く、遠くに見える浅虫温泉の東奥館の建物が、眼の高さより下になったり、波に遮られて隠れたりするほどだった。
二つの半島に抱かれている内海とはいっても、津軽海峡から吹いて来る北風が、真正面に広がっている八甲田山に当たって跳ね返されて来るので、こんなふうに荒れるときがあるのである。船を運転していた漁師は、のんきな口調で、「この船は、浪に呑まれたり、機械が停まったりすることはねえ」といっていたが、志功は気が気ではなく、一刻も早く|鉞《まさかり》のかたちをしている下北半島の言わば顎の部分にあたる脇野沢へ着かないかと、そればかりを念じていた。
船は瀬野という小さな港に着いた。そこから山を越えれば、今晩とまることになっている蛸田である。蛸田は戸数が二十数戸のうち、杉本姓が十七軒で、その杉本家の本家が、今夜の宿だった。杉本家の長女の美津枝は、県立青森高女を出ており、なかなかの話上手で、年に一度の祭りの楽しさや、若者たちが娘を張り合う有様などを面白おかしく教えてくれた。娘たちはその日のために、綺麗な緋縮緬の襦袢の祭衣裳を用意して待ち兼ねているのだという。いよいよ明日は祭りという前夜祭の日、蛸田の人人は、各各の持船に乗って、海上を脇野沢の本村へ向かった。
脇野沢へ着き、夕方になると、燈籠が点されている丘の上の鎮守様に通じるなだらかな坂道に、近くの村村から集まって来た男女が列をなして続いた。美津枝はその行列に加わっていなかった。せっかく楽しみにしていた祭りなのに、美津枝は前日、志功の写生を手伝おうとして張切りすぎ、画架を持って船の舷側を飛び越えようとして、|蹴躓《けつまず》いて足を|挫《くじ》き、きょうは緋縮緬の長襦袢に襷がけの祭衣裳のまま、村の骨つぎのところへ治療に出かけていたのである。だが志功はじきに美津枝のことを忘れた。お祭り好きのかれは、これから始まる未知の村の前夜祭に、すっかり心を奪われていたのだ。
そのころ……。
志功と一生をともにすることになる赤城チヤは、青森市で開かれていた看護婦の講習会に通っていた。やがてその講習会が終って、秋になり、看護婦の資格を取る試験のための勉強を、友達の川村イトの家で一緒にしていたある日、帰りかけたチヤを、「もうすこしいなさいよ」とイトは制した。「いま大した面白い人が来るから……」
「面白い人って?」
問い返したチヤに、イトは笑いながらいった。
「棟方志功さんっていうの。まンず面白い人だんだから……」
三
かつて野間歯科に勤めていた川村イトは、まえから志功をよく知っていた。
赤城チヤは小学生のころ、家族と一緒に北津軽郡の鶴田から青森に来て、志功が出た長島小学校に入っていたのだけれども、年が六つ違うので、かれのことは知らなかった。面白い人って、どんな人なのだろう……とおもっているうちに、やがて志功がやって来た。人懐こそうな笑顔で玄関から上がりかけたかれの足に、素早く目をとめたイトは、「志功さん、志功さん、足拭いて……」と、あわてて雑巾を取りに立った。
まえに書いたが、この昭和四年の夏、二十六歳の志功は、八甲田山にも登っている。つんつるてんの紺絣の着物によれよれの三尺を締め、履いているのは藁草履、というのがそのときの恰好で、独得のお洒落を試みる半面、無頓着なところもあったかれは、帝展に入選した新進画家になっていたのにもかかわらず、上京以前と変らない貧乏書生の姿で青森の町や、周辺の山野を歩き回っており、いまもその埃だらけの足で、川村イトの家に上がりかけたのだ。
イトから雑巾を受取って、素直に自分の足を拭いた志功は、部屋に入って来ると、さかんに吃りながら、堰を切ったように喋り始めた。身振り手振りと冗談をまじえて二人を笑わせ、話題は次から次へと移り変って尽きることがない。――本当に面白い人だ……、とチヤはおもった。心にあることを隠しておけない性質らしい志功は、川村イトに向かって、「高木のみよちゃんが好きだ」と話しており、このときはまだ、かれと生涯をともにすることになるだろうなどとは、おもいも寄らないことだった。
チヤと知合って間もなく、志功はふたたび上京した。帝展に作品を出すためである。前年の入選に引続いて、こんどこそは特選を……と意気込んだ期待が外れて、結果は落選であった。帝展に入選しさえすれば、画家としての前途は洋洋と開けていく筈であったのに、かれはまたもや失意の淵にたたき込まれてしまったのだ。
志功が本当に版画への道を進む決意を固めたのは、おそらくこのころからであったのではないかとおもわれる。のちにかれはこう述べている。
――そのころから、帝展の油絵の|在《あ》り方に疑いを持つようになりました。油絵には何か|腑《ふ》に落ちぬものがある。これはなんであるか。この疑いはどこからくるのであろうか。
――当時、日本の洋画壇には、和田英作、中村不折、中沢弘光、岡田三郎助、藤島武二氏などという大家がいて、帝展出品の洋画家はみなその傘下にありましたが、わたくしは、梅原龍三郎、安井曾太郎の両先生こそ洋画壇の二ツの大きな峰であると思いつめていました。梅原、安井の神様のような両先生でさえ、西洋人の弟子ではなかったか、……
そう考えたとき、志功の脳裡に、天啓のような考えが|閃《ひらめ》いた。かれが画家として最大の目標にしていたのは、ゴッホである。日本には、そのゴッホが高く評価して、讃美を借しまなかった浮世絵=木版画というものがあるではないか。
――日本人のわたくしは、日本から生まれ切れる仕事こそ、本当の|モノ《ヽヽ》だと思ったのでした。そして、わたくしは、わたくしだけではじまる仕事を持ちたいものだと、生意気に考えました。
目が弱いわたくしは、モデルの身体の線も見えて来ないし、モデルも生涯使わないで行こう。こころの中に美が祭られているのだ。それを描くのだ。先生もいないし、存分に材料を買う資力ももっていない。しかし、洋画でいう遠近法をぬきにした、布置法による画業を見出したかったのでした。それには、日本が生む絵にもっとも大切な、この国のもの、日本の魂や、執念を、命がけのものをつかまねば、わたくしの仕業にならない。……
こうした志功の決意には、大正十五年に『初期肉筆浮世絵』という著書を岩波書店から出し、晩年ますます浮世絵に対する傾倒を深めて「日本の美」に執着していた岸田|劉生《りゆうせい》の影響もあったのかも知れない。劉生は大正九年に出した『劉生画集及芸術観』に収めた美術論において、繰返し「心」と「内なる美」を強調し、また「布局の美」の大切さを説いていた。
いまここに引用した文章で志功は「目が弱いわたくしは、モデルの身体の線も見えて来ないし、モデルも生涯使わないで行こう。こころの中に美が祭られているのだ」と述べているが、劉生はこの昭和四年暮の死の直前、四月から九月までにわたって同好者に|頒布《はんぷ》した復刻浮世絵(六百部限定)に附した解説文のなかで、鳥居清信について「清信の形なり、線なりは、実によく『|内《うち》』から生まれている」と書いており、かれが清信の人物画の画風として指摘した「短身、短肢、面大であり、丸っこい一種の可愛感、形態における稚拙感的美感が多い」…「彼の稚拙感は、へんに原始的な強さを持つ」…「妙にずんぐりとした線」…「短く太い四肢や太くたくましい線描」…「黒白の不思議な交錯」…「色は濃く、派手のようで、その裏はへんに渋い。単純のようでその裏がへんに複雑な味を与える。濃い胡粉をもって下塗りした上に、|生《なま》の色をもって幾分不器用に素人くさい伝彩をしている」…「やや|ムラ《ヽヽ》になったその原色の多い彩色法、素人くささ、自己流の一種の苦心やまごつきからくる有機的な複雑味」といった特徴は、後年の志功の画風にも当てはまるようにおもえる。
それに後年の志功は自分の板業を「板画」と書き、これは一般にかれ独特の用語であるようにもおもわれているけれども、劉生はまえから浮世絵版画を「板画」と書いて、大量生産の複製印刷物か西洋の版画を指す「版画」と区別していた。志功の自伝には触れられていないが、後述するように、このころ同居していた松木満史は、大変な劉生崇拝者であったのだから、かれを通じて劉生の浮世絵論の影響も受けていたのではないか……と考えることは、それほど不自然ではあるまい。
しかし志功が浮世絵への関心を真に強めたのは、実はもっとあとのことであったと考えるほうが妥当だろう。昭和四年秋の帝展に落選したあと、懸命になって版画に没頭したかれが、翌年、梅原龍三郎の率いる国画会の版画部門に出品して入選した四点の作品は、いずれも川上澄生の摸倣であるといわれても仕方がないくらい、『初夏の風』に似た西洋趣味の横溢しているものだった。
ただしこのときの、いまでいえば「ベルサイユのばら」的な宝塚調で、西洋の貴婦人の姿を彫った『群蝶』『ベツレヘムに聖星を観る』『貴女行路』『貴女裳を引く』の四点の底に流れている星菫趣味と少女趣味は、志功が青森時代から持っていたもので、川上澄生はのちに「棟方さんはあの頃まではまだ貴婦人や貴女等や花や蝶々の病気を持っていたのだろう。私も少しは似かよった病気を持っているらしい」と度量の大きさを示す感想を述べている。志功自身は『貴女行路』のなかに、次のような文句を彫りこんでいた。
又あとからあとからとつづく人かず
むなかた は一とすじみち を行く人
先を行く人 じゃまです
この結びの一句には、志功の面目躍如たるものがある。かれには、大家から中堅、新進までの画家たちが、数えきれないほど延延と続いている油絵の道が、いかにも邪魔の多いものにおもえて、人の少ない版画の道で一気に先輩を追越そうと考えていたのかも知れない。そしてまた、のちに版画本『星座の花嫁』にまとめられた作品に見られる少女趣味からやがて脱け出して、本当に一筋道を歩くようになったのは、チヤ夫人と知合ったことと無関係ではなかったようにおもわれるのだ。
四
昭和五年の春、青森に帰って来た志功は、弘前ヘチヤを訪ねた。チヤは派出看護婦になって、弘前の富田町に間借りしていた。このときチヤは二十歳だった。志功がこれまで淡い慕情を寄せていたずっと年下の少女である野間茂子や、高木みよや、但木俶と違って、二十六歳のかれが初めて知合った成熟したおとめであった。訪ねて来た志功を、チヤは大円寺の五重塔や、弘前城の公園に案内した。まだ桜が咲くまえであったから、弘前城の本丸から見える岩木山は、裾のほうに雪を残して、薄く青い春の空に浮かんでいた。
生まれてからの境遇が似ていたことも、二人を近づけたのかも知れない。チヤの家は、もとは北津軽郡の鶴田にあったのだが、祖父が財産を蕩尽してしまったために、父親は家族を連れて青森へ出て来た。父と祖父の違いこそあれ、せっかくの家をいったん潰してしまった点で、棟方と赤城の家は似かよっていた。チヤの父は青森で鉄道の保線区の枕木工事を請負っていたが、来て暫くは九人の子供を抱えて生活が苦しく、次女のチヤは家の世話に追われて、転校した長島小学校へ通うこともおもうに任せないような状態だった。この点も、子供の数が多くて家が貧しかったために修学旅行へ行けず、ときには弁当を学校へ持って行くこともできなかった志功の生い立ちに似ている。
おなじような境遇で育ったチヤに、知合ったばかりの志功は優しく親切だった。かれは陽気に面白い話を連発してチヤを笑わせた。それから志功は、たびたび弘前へ遊びに来るようになった。|鰈《かれい》が大好きだというかれに、自炊をしていたチヤは、「海は身から、川は皮から……」と呟きながら、鰈を焼いて御飯をご馳走したりした。大喜びで旺盛な食欲を発揮している志功を見て、この人なら、とチヤはおもった、わたしをしあわせにしてくれるのではないだろうか……。そのころのことを、志功はこう追想している。
――(チヤコは……)わたくしのために、弘前の城街、岩木山、公園、ふるい城下町の隅から隅までを案内してくれました。女の優しさを、わたくしに添えてくれたのでした。しみじみの想いというか、わたくしの足りないものを持って来てくれたチヤコであったのでした。チヤコでわたくしはおんなを知りました。
――色が抜けるように白く、手も腕も、あのトルソの女神によく似た印象で、わたくしの深い念願のような魅力でした。……
だが志功には、チヤのほかにも絵という「深い念願」があった。そのためにチヤは、かれと結ばれてからの何年間か、わたしをしあわせにしてくれるのではないか、という期待を来る年ごとに裏切られて、言葉にはいい尽せないほどの苦労を味わうことになった。
秋になると、志功はチヤに一時の別れを告げて上京した。このときも帝展に出した作品は入選しなかった。志功は、もういちど帝展に入選して絵が売れれば、なんとか自活できるようになる、とおもっていたのかも知れない。その期待も空しくなってしまったかれは、チヤに手紙をよこした。――こんど四色摺りの版画で、『白野弁十郎』という芝居絵をつくり、それを帝劇で売ることになった。一組一円五十銭だから、これが売れれば、東京で自活できるようになるだろう。……ということであったのだが、その版画も、あまり売れなかった様子であった。
東京での志功は相変らず、松木満史の家に居候の身の上だった。なんとか絵で自立しなければ……と必死になっていた志功は、翌昭和六年の四月に神田鈴蘭通りの文房堂で第一回の個展を開き、また白日会に出品した『猫と少女』は白日会賞を受けて、会友に推挙された。それなのにかれはこの年、白日会を脱退している。詳しい事情は判らない。「なんのために白日会を脱退したのかわかりません。あるいは会費が払えなかったことからかもしれません」というのが志功自身の説明である。この説明にしたがえば、かれは白日会賞を受けても、絵が売れず、会費も払えないほど貧乏していたのだとおもわれる。四月には、これまで春陽会や国画会に出品した作品を集めた版画本『星座の花嫁』が代々木の青果堂から定価一円二十銭で刊行されたが、この本は志功の星菫趣味と少女趣味を表現した最後のものとなった。かれは間もなく、父親になろうとしていた。
身籠っていたチヤは、いちどおもい余って上京したことがある。けれども志功が松木家に居候している身の上では、いつまでもそこに同居して厄介になっている訳にもいかなかった。六月に、チヤは青森市沖館の実家で、女の子を出産した。
この前年に、松木には|土草樹《とそき》という長男が生まれていた。かれはそのまえから「おれに息子が生まれたら、土草樹とつけるんだ」といっており、尊敬していた岸田劉生の率いていた「草土社」にちなんだ名前であったのかも知れないが、それに対して志功も負けずに「おれは女の子が生まれたら、ガンバリ子とつけるよ」といっていたことがある。だがさすがに、ガンバリ子とはつけかねたのだろう。東京の父親から手紙で伝えられて来た命名によって、長女は、けようと名づけられた。
すでに棟方の籍には入っていたのだけれども、正式の祝言を行なっておらず、夫がそばにいなくて、実家に身を寄せている結婚生活では、いろいろと世間の噂の種になるおそれがある。チヤは実家を出て、別に一軒の家を借り、一人でけようを育て始めた。実家から米や味噌の援助があり、そこから赤ん坊をおぶって新町の棟方の実家に通って、脊椎カリエスで寝たきりの義姉ちよの看病をしたり家事を手伝ったり、棟方家の一員として働いてもいたのだが、一体いつになったら夫と一緒に暮せるのかとおもうと、胸が|塞《ふさ》がるほど心細い毎日だった。
秋――、志功が帝展に出した三十号の油絵『荘園』は、とうとう二度目の入選をかちとったが、すぐには青森へ帰って来なかった。かれは二度目の帝展入選をきっかけに、絵で自立する基盤をつくらなければならないと考えたのか、後援者島丈夫の縁に頼って、新潟県南蒲原郡加茂町の田下家と、中蒲原郡亀田町の長谷川家を訪ねる旅に出たのだ。新潟の旅から東京へ帰って来た志功は、滞在中のデッサンをもとにして、版画の制作に熱中し始めた。「先を行く人 じゃまです」と版画の道に志してから、かれは版画に取憑かれたようになっていた。妻子を郷里に放置している現実から逃げてでもいるような哀しき父の境遇に責めさいなまれていたかれにとっては、憑かれたように彫り進む版画の世界のなかだけが、唯一の逃避の場所になっていたのかも知れない。
昭和七年の五月、志功は国画会展に出した版画『亀田・長谷川邸の裏庭』で、国画会奨励賞を受けて帰郷したが、まだ経済的に自立できる力を持っていなかった。結婚したとはいっても、志功とチヤの同居生活は、かれが帰郷して来る春から夏にかけての間に限られていた。
翌年の秋、二人目の子を身籠って臨月を迎えていたチヤが、上京する志功を青森駅へ見送りに行ったのは、ちょうど十五夜の晩だった。家に戻り、お供え物をして、|幼児《おさなご》と二人きりの寂しい月見をしているうちに、チヤは急に産気づいて、翌朝、男の子を出産した。そのことを東京へ伝えると、やがて志功から「中野区沼袋南三丁目に家を見つけた。すぐに出て来い」という手紙が届いた。それはチヤにとって、志功と結ばれてから三年目の、待ちに待ち続けていた知らせであった。
五
志功がチヤと二人の子供を迎えた沼袋南三丁目の家は、玄関の横に八重桜の樹がある平屋建の借家だった。当時、朝鮮の平壌博物館に勤めていた小野忠明は、上京して来て、この家に泊めて貰ったことがある。家のなかに入って見たとき、小野は呆気にとられた。その家の四枚の襖には、赤や青や黄の色彩で、一面に巨大な|蛸《たこ》の群れが描き殴られていたのだ。
このころの志功は、身内から得体の知れない鬱屈と意力が溢れかえって来て、自分でもそれをどう扱っていいのか判りかね、体を持て余しているような時期であったのだろう。かれは油絵から版画への本格的な転換期にさしかかっており、前年には『亀田・長谷川邸の裏庭』で国画会奨励賞を受けていたものの、まだ自分なりの版画というものが、はっきりとは掴めておらず、経済的な見通しもついていなくて、つい先頃までは妻子を郷里に置き、自分は松木家に居候していた身の上だった。そうしたさまざまの混沌とした鬱屈が、初めて自分と家族だけの借家に入った途端に、勃然と体内から噴き出して来たのかもしれない。
それに小野は知らなかったことだが、志功は何かあるたびに、手と足をくにゃくにゃと動かして踊り出す恰好から、仲間に「蛸」というニックネームも進呈されていたので、襖一面に八本の足を上下左右に躍らせて猛然と舞っている蛸は、かれの自画像のつもりでもあったのだろうとおもわれる。小野が訪ねて来るまえのある日、狂気に似た発作にとらえられた志功は、かつて青森でゴッホの影響をうけ「芸術病」に取憑かれていたころの古藤正雄が、奉公先の三浦甘精堂の部屋の襖を奔放な色彩で塗り潰した図を再現して、蛸が墨を吐き出すように、一気にその襖絵を描き上げていたのだった。かれのこの振舞いは、のちに家主の奥さんから、きびしい叱責を受けることになったのだが……。
小野の愕きは、蛸の襖絵を見たことだけにとどまらなかった。久闊を叙して、いろいろと話をしているうちに、志功は幼い長男の巴里爾を裸にして紙の上に寝かせ、筆で小さな体の輪郭をなぞって|人形《ひとがた》を取った。
「これは巴里爾が結婚するときに、持たせてやるんだ」
というのがその説明だった。長男が一人前になったとき、おまえはこんな風に裸一貫でこの世に生まれて来たのだということを、教えてやりたいという意味のようであった。それにしても幼児の人形を取るというのは、なかなか簡単におもいつけることではない。――これはやはり……ナミの人間ではないな、と、小野は久方ぶりに会った志功の顔を、改めて見直す感じになった。
志功の胸底にあった大望は、この長男に対する巴里爾という命名にもあらわれているようにおもわれる。かれは若いころから「男の子が生まれたら、パリーという名前をつけるんだ」といっていた。当時の世界画壇の中心であるパリヘの憧れから生じた発想であったのに違いないが、実際のかれは、パリヘ留学に行くどころか、妻と二人の子供を抱えて、画材を買うこともおもうに任せない状態であった。東京に出て来てから、すでに十年に近い歳月が流れていたが、志功は金もなく、地位もなく、ただ画業に対する情熱と野心だけを、鬱勃と身内に煮え|滾《たぎ》らせていたのである。
「……こんな店子は初めてです。だいじな襖に、へっぽこ絵描きが絵を描くとは、なんということですか。この襖は、そちらで張り替えて貰いますからね」
正統的な花鳥風月が丁寧に描かれているのならまだしも、赤や青や黄の蛸が荒れ狂っている襖の絵を見て、大家の奥さんは大変な剣幕だった。
「はい。いずれ、そのうちに……」
と、チヤはしどろもどろになり、消え入りそうな調子で謝った。志功と同じ家で暮すようになってからも、チヤの苦労は終った訳ではなかった。チヤにとって、いちばん切なかったのは、貧しさではない。志功は自分が結婚していることと子供がいることを、後援者や先輩に隠そうとしていた。自伝『板極道』に、かれはこう述べている。
――仕事も何も出来ないくせに、子供があるなどということを、この先生方に思われたくなかったのでした。力の足りない自分を、力の足りないままに見ていただきたかったのでした。自分本位ばかりの、わるい考えばかりで、チヤコにも、子供たちにも、本当に感心出来ない、嘘つき者のわたくしだったのでした。……
経済的に自立できる力を持っていないのに妻帯し、子供を持ったことを恥じていたかれは、同郷人をのぞく後援者や先輩の来客があるたびに、チヤに姿を隠しているように命じた。チヤはそのことに合点がいかなかった。青森と東京に別れて暮していたころ、浦町に借りていた家から、子供をおぶって、新町にある棟方の実家へ手伝いに行く道すがら、チヤは何度、途方に暮れるおもいを味わったか知れない。世間の眼が、いまとは比較にならないほどきびしかった当時、実際に結婚しているとはいっても、夫と別居生活をしていたために、自分ばかりではなく実家の親兄妹までが、どれほど肩身の狭いおもいをしていたか判らない。
浦町と新町を往復する道の途中には、青森から東京へ向かう鉄道の線路を越える跨線橋がある。雪や風に吹き|曝《さら》されて橋を渡りながら、辛く切ないおもいで、鉄路の遥か彼方にいる夫に呼びかけたことが、どれだけあったろう。その切実な願いが、ようやく叶えられて、一緒に暮せるようになったのに、夫は来客があると、姿を隠してくれというのだ。それでも初めのうちは、おれが一人前になるまで我慢してくれ、と頼まれると、かえす言葉がなく、いわれるままに子供をおぶって外に出たり、知合いの家を訪ねて時間を過ごしたりしていたのだが、そうしたことが度重なるにつれて、堪忍袋の緒が切れかけて来た。――どうしてこれほどまでに、結婚していることを隠さなければならないのだろう……。チヤは小さいころ、親から「いるのかいないのか判らない」といわれたほどおとなしい子供であったのだが、そういう疑問を抑えかねて夫と激しく対立し、本当に家を出て身を隠したことも何度かあった。すると夫は必死に心当たりを探し回って来て、おれが悪かった、なんとか堪忍して家に戻ってくれ、と懸命に詫びるのだけれども、暫くすると、またおなじことが繰返される。
志功の心の底にあったのは、結局のところ、妻への甘えであったのだろう。かれは人前ではめったに不快そうな顔を見せず、弱音を吐くこともなかったが、妻に対してだけは、胸中の激しい苦衷と鬱屈を隠さなかったようだ。またかれが酒を口にしなかったのは、酒に溺れて妻子に苦労をかけ続けた父幸吉を反面教師にしていたせいもあったのだろうが、このころは志功自身もまた、父幸吉や、葛西善蔵とおなじような道を歩みかけていたようにおもわれる。まえに引いた「自分本位ばかりの、わるい考えばかりで、チヤコにも、子供たちにも、本当に感心出来ない、嘘つき者のわたくしだったのでした」という述懐は、葛西善蔵の『哀しき父』の主題や、あの「子供より親が大事と、思ひたい」という太宰治の有名な呟きにも通じているようにおもわれるのだ。
もし志功が酒を飲んでいたら、表面陽気には振舞っていても、人並み外れた激情を内に蔵していたかれのことだから、葛西や太宰や、あるいは父幸吉とおなじ破滅型の道を辿ることになっていたのかも知れない。かれが父親と違っていたのは、いかに苦境に陥っても、決して仕事への意欲を失わないことだった。それどころか、苦しい立場に追込まれたときほど、かれの意欲は、かえって熾烈に燃えさかった。
驚いても オドロキきれない
喜んでも ヨロコビきれない
悲しんでも カナシミきれない
愛しても アイシきれない
というのは後年の言葉だが、チヤ夫人と一緒に暮し始めたころから、かれは喜んでも仕事、悲しんでも仕事、怒っても仕事で、夫婦のあいだに何か喜ばしいことがあったときは勿論、前記のような|諍《いさか》いがあって、怒ったり歎き悲しんだり、感情が激したあとほど、それが唯一の救いか言葉ではいい尽せない申訳でもあるかのように、仕事に熱中した。このころから志功の内部には、最早だれの真似でもない、独得な棟方板画の萌芽が、徐徐に育ち始めていたのだった。
六
話は少しくまえに|溯《さかのぼ》る……。自分なりの版画の道を摸索し始めた昭和六年の春、志功は松木満史と一緒に、先に鷹山宇一が行っていた伊豆の大島へ旅をしたことがあった。
松木は結婚してから実家の仕送りを断っており、それに次男が生まれたばかりで、生活は楽ではなかったのだが、工面した金のなかから志功の船賃も出してくれた。志功はそのほかに、どこからともなく金を都合して来て、山のような画材を背負い、大島に着いてからは、まだほかの二人が眠っている早朝から写生に出かけ、二、三日のうちに一山ほどのカンバスを描き上げてしまい、夜は夜で酒を飲んで話に興じている松木と鷹山をよそに、蒲団の上に腹ばいになって、せっせとたれかれへの葉書をかき続けていた。三人は財布の中身が空っぽになりかけてからも大島に居続け、志功は結局、青森の伯母から五円と、後援者の島丈夫から二十円送って貰って帰京することができたのだが、この旅で、かれは実に大きな収穫を得ていた。龍舌蘭が厚い葉を伸ばしている大島の明るい風景に接して、
――このときから、わたくしは原色で、他の色を混ぜない色を使うようになったようです。わたくしのからだのどこかにある、南方の性、あつい太陽の心、原色の身心を|蘇《よみがえ》らせた土地として大島は、なつかしく、有難いところです。……
つまり志功はこのとき、体内に潜んでいて、後年次第に顕著になって行く自分の南方性に、初めて気づかされたのだ。それとともにかれは、現実の色を活かすのに適しているのは日本画でもなく木版画でもなく油絵であって、それも混りっ気のない原色で描くのが一番だと感じ、一方、版画では黒と白を生かしていこう、と考えて、
――白と黒を生かすためには、自分のからだに墨をたっぷり含ませて、紙の上をごろごろ転げまわって生み出すような、からだごとぶつけてゆく板画をつくってゆくほかはない、と思い切ったのでした。指先だけの仕事では何もない。板業は板行であって、からだごとぶつかる|行《ぎよう》なので、よろこんで行につこう、と心肉に自答決心したのでした。……
これは後年の回想であるから、大島から帰ったときすぐに、志功がそう決心したのかどうかは判らないが、指先だけの仕事ではなく、体ごとぶつける画業という、のちにかれがはっきり自分のものにしたこの創作方法は、戦後ニューヨークを中心とする前衛画家たちによって始められたアクション・ペインティングのさきがけであるようにも感じられるけれども、一面においては、すこぶる津軽的な方法であるといわなければならない。突飛な連想とおもわれるかも知れないが、志功が見出した「体ごとぶつかる行」という宗教的な感じの濃い創作法は、津軽のイタコが死者を呼ぶ口寄せのやり方や、津軽三味線の演奏法と、そっくりなのである。志功の制作方法が、イタコの口寄せに似ていることには、すでに触れた。津軽三味線との類似点はこうである。
――津軽の三味線は、我流でなければならない。……
という。我流という言い方が好ましくなければ、独創的もしくは個性的といい換えてもよい。そしてジョンカラ、ヨサレ、オハラ、と数が限られている基本のフシから、だれの真似でもない、独自の新しいフシを創り出すのには、いくら頭で考えていても出て来ない、といわれている。三時間も四時間もぶっ通しに弾き続けて、心身が疲労の極限に達し、はたの眼には疲れ果てて苦悶しているような表情に見えても、当人としては恍惚としたエクスタシーの状態になって、無我夢中の境に入ったとき、自分でも気がつかないうちに、新しいフシが即興的に|撥《ばち》先から弾き出されて来る……というのだ。
こうした苦行に近い修練を経て、ひとつの我流を生み出そうとする津軽三味線の演奏法は、イタコの口寄せと、苦境に追い込まれるほど体ごとぶつけるように意欲を燃やして、無我夢中の板業に没入して行った志功の制作方法に似ており、さらに心身を責めさいなむような自虐的な生き方をして、我流の真実を表現しようとした葛西善蔵や、太宰治の創作方法にも似かよっているように感じられるのである。この三味線弾きやイタコや、棟方や葛西や太宰の底に共通していたのは、耕しても耕しても実りが少なく、それでもなお耕し続けなければならなかった本州北端の地の歴史と風土であったのではないだろうか――。そう考えれば、無類に健康的な芸術家であった志功が、葛西善蔵を尊敬していたというのも、さほど不思議なことではないとおもえて来る。葛西善蔵のほかに、志功が尊敬していたのは福士幸次郎だった。棟方板画の形成には、
私は太陽の子である、
未だ燃えるだけ燃えたことのない太陽の子である。
とうたったこの向日的な詩人の影響も見逃すことができない。福士幸次郎は、関東大震災に遭った年の暮に、東京から郷里の津軽に帰って来て、翌年一月の東奥日報に『地方文化運動』というエッセイを発表し、地方主義文化運動を始めていた。高木恭造の方言詩集『まるめろ』は、そのすぐれた成果のひとつである。福士が帰って来たころは、志功は逆に東京へ出て行こうと懸命になっていたのだから、その地方主義論に、さして心を惹かれていたとはおもえない。きわめて親密な関係になったのは、福士が再び上京してからであった。
これはすでに小高根二郎氏が指摘していることだが、志功は福士の『鍛冶屋のポカンさん』を読んだときから、かれに強い親近感を抱いていたものとおもわれる。おもい込みの強い志功が「ここの息子はポカンさん、とんてんかんと泣く|相鎚《あいづち》に、|苺《いちご》の|初生《はつなり》が食べたいと、|鉄碪台《かなしきだい》をたたくとさ、手をあつあつとほてらして叩くとさ。……」という詩句に、自分自身の姿を見なかった筈はない。そして前記の詩『私は太陽の子である』は、志功を感奮興起させずにはおかなかったろう。まえに引いた詩句のあとに、「今|口火《くちび》をつけられてゐる、そろそろ|煤《くす》ぶりかけてゐる」と続いて、最後に「私は暗い水ぼつたいじめじめした所から|産声《うぶごえ》をあげたけれども、私は太陽の子である、燃える事を憧れてやまない太陽の子である」と結ばれている詩は、そのまま自分の心をうたっているように感じられた筈だ。この福士幸次郎とのめぐりあいをひとつの契機にして、志功は憑かれたように独得の版画を彫りはじめる。それは昭和十年代の初めごろから、次次に未知の峻険な高峰へ挑んで行ったかれの果敢な板行の始まりであった。
七
妻子を東京に迎えた昭和八年から十年にかけては、志功の開運を決定した出世作『|大和《やまと》し|美《うるわ》し』の胎動と陣痛の時期であった。佐藤一英の長篇物語詩『大和し美し』が掲載された雑誌「新詩論」の第二輯が発行されたのは八年の二月である。志功はその雑誌を、巻頭に載っていた福士幸次郎の論文「日本語の文学語としての進化」を読むために手にしたのだろう。部厚い雑誌のなかの七ページを占めていた佐藤一英の詩は、「大和は国のまほろばたゝなづく青垣山|隠《こも》れる大和し美し」という|倭建命《やまとたけるのみこと》の歌をプロローグにして、次のような詩句から始まっていた。
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|黄金葉《こがねば》の奢りに散りて沼に落つれば、|※[#「足へん+宛」]《もが》くにつれて底の泥その身を|裏《つつ》み離つなし……
われもまた罪業重くまとひたる身にしあれば、いかでか死をば|遁《のが》れ得む
されど|故郷《ふるさと》の土に朽ちざる悲しさよ
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読み始めたとき、志功はたぶん戦慄を感じた筈である。黄金葉の奢りに散りて沼に落つれば……。念願の帝展入選によっても一向に道は開けず、かれは沼袋の松木家に居候して、妻子を故郷に放置し、いかに身を※[#「足へん+宛」]いてみても、なかなか独立できそうにもなくて、たえずかなしみと自責の念にまとわりつかれていたところであった。志功がそれから『大和し美し』を版画に彫るまでには、およそ三年の時日を要している。いったんおもい立ったら一刻も我慢ができず、速戦即決をむねとしていたかれのことだから、最初に詩を読んだときには、感激はしてもまだ版画に彫るというはっきりした考えは持っていなかったのだろう。
志功がこの倭建命を主人公にした長篇詩の版画化を企図したのには、海上雅臣氏が指摘しているように、倭建命の苦悩と、|美夜受《みやず》姫、|弟橘 姫《おとたちばなひめ》、|倭姫《やまとひめ》との恋愛に、持前のロマンチックな夢想癖を刺激されたこと、小さいときから武者絵と美人絵が大好きであったこと、長い物語を複数の版画に彫って並べつらね、展覧会場の壁画を独占する版効果を展開しようと意図したこと、それに鋭敏な時局感覚を持っていたこと……なども動機となって働いていたのかも知れないが、それとともに昭和九年の五月一日、住んでいた沼袋南三丁目が、大和町と改名されたことも、無関係ではなかったろうとおもわれる。みずから「自分本位ばかりの……」といっているくらい、何事につけても自分中心に考える性格のかれにとって、国のまほろば(すぐれた場所)という大和は、実は自分の住んでいる大和町のことでもあったのかも知れない。それにしてもかれは、二十面の版画の大部分のスペースを、およそ二千にも及ぶ文字で埋め尽すという、余人にはちょっと考えつかないような大胆不敵な発想を、どこから得ていたのだろう。
博文館から出ていた雑誌「太陽」は、長いあいだ総合雑誌の王者の地位を占めていたが、執筆者に堺利彦、荒畑寒村ら社会主義者を起用したことから右翼に|強請《ゆす》られ、弱気になった会社は「太陽」を廃刊してしまい、その記者だった料治熊太は、間もなく博文館をやめ、白と黒社をおこして、「版芸術」という雑誌を出し始めた。
志功はそこへ版画本『星座の花嫁』を出してくれた版画愛好家中島重太郎の紹介状を持って訪ねて来た。「太陽」の記者だったころから、野にいる新人を世に出すことが編集者の最も大切な仕事だ、と考えていた料治は、以来たびたび志功の作品を雑誌に掲載し、とくに一冊は棟方志功版画特集号として、かれの代表作のほかに、版画家の先輩である平塚運一、川上澄生、恩地孝四郎の棟方志功論を載せていた。「先を行く人 じゃまです」と自分の版画に彫り込んでいた志功のために、先輩たちは揃って料治の頼みに応じ、いわば売出しのための推薦文を書いてくれたのである。
――きみには、もっとすぐれたものがある。それを引出して作品にするんだ……、志功に並並ならぬ肩の入れ方をしていた料治は、そういってかれを激励した。けれどもこのころは料治も、自分がどれほど大きな怪物の出現に力をかしているのかを、まだはっきりとは知らなかった。昭和八年ごろのことだという。沼袋南三丁目の家に志功を訪ねて、長話をしたあと便所に入った料治は吃驚した。「水中石像雨濡不恐」と書かれた文字が額に収められているほかに、壁といわず天井といわず、いたるところに仏像だの裸婦だの鳥だの鯉だのが落書きされていた。それは驚くべき筆勢の素晴らしい絵であった。
便所を出た料治は、志功に水墨画を描くことを勧め、翌日、沢山の画仙紙を用意して行って、便所の落書きを、ひとつずつ別の紙に描いて貰った。筆を握った志功は、一枚描き上げるのに一分とかからなかった。料治はその絵を、歌集『南京新唱』を読んで感動したときから敬愛の念をもって師事していた會津八一のところへ持って行った。いうまでもなく秋艸道人會津八一は、|狷介《けんかい》不屈な書の大家でもあるが、友人に絵描きが多く、自分でも水墨画を描くほか油絵に手を染めたこともあって、絵については素人の域を脱していた。――先生なら、いったい何と評するだろう……、そうおもって料治が見せた志功の絵を、會津八一は一目で認めた。自らを持するところがきわめて高く、めったに人を褒めることのない秋艸道人が、「自分のものを持っているから偉いな」といって、志功が一分足らずで描き上げた絵を一枚五円で、五枚も買ってくれたのだ。秋艸道人はその絵を、早稲田大学の同僚に宣伝するんだ、と語っていた。
料治は志功がまえから欲しがっていた船箪笥をお礼に持って行ってそのことを伝えた。驚喜した志功は、さっそく料治に頼みこんで、西落合に住んでいた會津八一のもとへ連れて行って貰った。かれはこうした機会を、決して逸することのない人間だった。料治熊太の話によれば、このとき會津八一に古代中国の書の拓本を見せられたことが、『大和し美し』の制作に強く影響しているものと思われる。碑面を直接に|鏨《たがね》で|穿《うが》った古い時代の金石文は、いわば版画とおなじようなものだった。筆で撫でるようにした線よりも、勢いに乗じて鋭く|鑿《のみ》を加えたような線が多く、それは書家の仕事というよりは石工の仕事であった。
會津八一の家から帰って来た志功は、「あのガラスで引っ掻いたような、非情ともおもえる鋭い線を彫りたい」と、興奮した面持で親友の古藤正雄に語っていたという。料治によれば、このほかに志功が古代中国の書の拓本から学んだものは、白と黒のバランスとハーモニー、それに文字の配列から生まれる一種のリズム感である。そして何より、志功が會津八一と知合って、いちばん確信を持てたのは、文字を彫ることがそのまま版画になり得る、という考えであったのに相違ない。
八
志功は福士幸次郎に頼んで、長篇詩『大和し美し』の作者佐藤一英の家に連れて行って貰った。豊島区長崎にあった佐藤の家は、六畳と四畳半の二間だけで、そこに奥さんと、男女二人ずつの子供がいた。初対面の挨拶を済ませた志功は、すぐに『大和し美し』についての感想を語り始めた。
佐藤一英には、甲高い調子の大声で自作への感動を早口に述べている志功の神経が、最初は少々荒っぽいようにおもえて、この男に本当に詩が判るのかな……という気がした。『大和し美し』は昭和六年に完成したあとで、腎臓結石を病み、さらに神経衰弱に陥ってしまったほどの労作だった。志功はそれを版画にしたいから、是非やらせてほしいと頼み、詩の先輩である福士幸次郎も、やらせてやってくれ、と横から言葉を添えた。
「あんたのおもうようにやって下さい」
佐藤は志功の懇望を受入れた。けれど幾分か不安なところも残っていて、のちに福士幸次郎の親友である二科会の彫刻家渡辺義知に、「棟方志功という絵描きを知っていますか」と尋ねてみたことがある。渡辺は志功を知っていて、「どんな絵描きなんですか」という問いに、「あれはいい絵描きだよ。見ていたまえ。きっと面白いものをつくるから」と答えた。一方、佐藤の家から帰ったあとのことを、志功は『大和し美し』の制作に、
――即日、取りかかりました。来る日も来る日も、飯を食ったのか水を飲んだのか判らぬほど、寝食を忘れるのか寝食が無かったのか判別せぬほど、一所懸命に彫りました。……
と述べている。この前年に、志功は、棟方板画の画風を掴みかけた『萬朶譜』によって、国画会の会友に推されていたのだが、九月には次女のちよゑが生まれて、子供が三人になり、生涯のうちでも最も生活に困窮していた時期だった。
――ほんとうに困って、飯も食えない最中の仕事でした。仕事に悲壮なものがこもったのもそのせいではないかと思っています。――
志功が創ろうと企図していたものは、版画による絵巻物であった。かれは版画が本来もっている複数性に着目して、ひとつの作品をも複数の版画が連続してつながって行くというかたちでつくってみようと考えたのだ、と説明しているが、幅が一尺前後の版画を二十枚横に並べるとすれば、壁面に二十尺の横幅を要することになる。おそらく前年に七点一組の『萬朶譜』で「壁面どりの会場効果を満喫した志功は、その独自な計算で、さらに壁面の横幅を一杯に独占する版効果を展開しようとしたのでしょう」という海上雅臣氏の見解は、たぶん間違いではあるまい。また海上氏は、志功の連作形式の版画に、今日の劇画に通じるものを見ているが、文字と絵と模様が渾然一体となっている点で、『大和し美し』はその最初のものであり、なかに出て来る若き倭建命の顔は、本当にいまの劇画の主人公にそっくりである。
[#ここから2字下げ]
…………
あゝ帰らざる昨日をなげき|一昨日《おととい》のなげきぞ新らし
|鎧《よろい》まとへる若者ひとり山坂の岩角に立ち、誇らかに来し|方《かた》遥かにふりかへる、そは昨日のわれなり
…………
[#ここで字下げ終わり]
志功は自分を、さまざまな罪の意識に悩む倭建命になぞらえて、寝食を忘れ、無我夢中になって彫り進んでいたのだろう。かれ自身の追想によれば、技術的にはまだ幼稚で、ぶるぶる震えるような刀の使い方をし、|怖《おじ》けているような刀の癖が出て、字も一字一字あまり心を籠めすぎたため、どうにもならない版画のくさみが出ているという。
――しかし、その頃としては、この一作において、これからの道をつけようと力んでつくった、その気持がでたのだとおもいます。大体、文字をつかって板画をつくるというのも、これがはじめてで、これからあとどんどん文字を入れるようになりました。……
この作品にあらわれる女体のエロティックな情感は、二年まえチヤ夫人と一緒に暮し始めたころにつくった堀口大学の詩による『ヴェニュス生誕別冊画譜』から始まっていたものだった。「神話の中のヴェニュスは/貝の中から生れでる/今宵わたしのヴェニュスは/帯と紐と……/なな筋の虹をふんで」という『ヴェニュス生誕』や、「乳房は掌のためにある/掌は乳房のためにある」「乳房 掌の饗宴/乳房 円味の極楽」といった『乳房』などの詩七篇を版画化したこのころから、豊満な女体のエロティシズムは、かれの生涯の主題になっていくのである。
[#ここから2字下げ]
…………
あゝ|倭《やまと》、お身の名を再び呼べばわが目にはふるさとの空晴れ渡り、山々には肌も露はに現はるれ、
そはわが子いかに|見悪《みに》くからむも、そをはぐゝまむこゝろには人目もあらず胸をはだける母をさながら光浴びたり
[#ここで字下げ終わり]
叔母にあたる倭姫への思慕の念をうたったこの結びの詩句を彫って、志功は制作を終えた。横が一間以上もある四つの額縁に収められた二十枚の版画は、そのなかにぎっしりと彫り込まれた約二千の文字がいわば呪術的な効果を発揮して異様な迫力を示していた。たとえどのような評価を下されるにせよ、これがそれまでに前例のない、まったく常識外れで型破りの作品であることは、だれの眼にも明らかな筈であった。だが昭和十一年春の国画会展に搬入したその作品は、完全なかたちでの会場陳列を拒否された。壁面独占の意図が審査員の反感を買って、額をひとつだけにして残りは持って帰れ、といわれたのだ。
九
国画会展の工芸部の審査を終えた陶芸家の濱田庄司は、版画部の部屋を覗いてみた。以前から川上澄生の版画に心を惹かれていたからで、濱田は|益子《ましこ》に移り住んだ大正末年のころから、おなじ栃木県の宇都宮に住んでいる川上の個性的な仕事ぶりに強い興味を持ち、毎年、国画会展に出品されるかれのユニークな作品を、ずっと敬愛の念とともに見続けて来ていた。
版画部の部屋は、美術館の一番奥の一室だった。まだ陳列はされていなく、すべての額は壁に立てかけられていた。部屋に入って、川上の作品を探しているうちに、奇妙な男の存在に気がついた。分厚い近眼鏡をかけた、もじゃもじゃ頭の小柄な男が、「……大変だ、大変だ」と悲痛な声で呟きながら、身も世もあらぬ様子で、行き場を失った動物のように部屋の中を歩き回っている。あまりに切迫したその感じに、「一体どうしたんですか」と濱田が訊ねると、男は声をかけられるのを待ち構えていたように、会場の隅のほうに重ねて立てかけられていた四枚の額を示し、いまにも泣き出さんばかりの涙声で訴えた。
「これが、落選だというんですよ」
横に並べられた四枚の額を見たとき、濱田には相手の男が棟方志功だということが、すぐに判った。前年の国画会展で、|枝垂桜《しだれざくら》や松や梅や竹を、織部焼の文様のように抽象化して彫ったかれの『萬朶譜』が強く印象に残っていたからだ。濱田はその前年作よりも、こんどの作品に、いっそう感心した。これが落選というのは解せないが、棟方は昨年の『萬朶譜』で、国画会の会友になっていた筈ではないか……。「落選、といったって、あなたは会友でしょう」。会友ならば、落選ということはあり得ない。
「ところが審査員は、額が四つでは多すぎるから、ひとつだけ残して、あとは持って帰れ、というんですよ」
志功は憤懣やるかたないといった表情で一気にまくし立てた。「しかし、これは佐藤一英という人が詩に書いた|日本《やまと》|武 尊《たけるのみこと》の物語を版画にしたもので、この二十枚の版画が、ずっと|繋《つな》がって、ひとつの物語になっているんですから、途中で切れてしまったら、作品が壊れてしまうんですよ。それを、ひとつだけ残して持って帰れ、というのは、落選づのとおなじことですよ」
「……なるほど」
濱田は頷いた。この『大和し美し』の迫力は、四つの額縁に収められている二十枚の版画を、さまざまな文様や具体的な絵とともに無数の文字が埋めつくして、具象とも抽象ともつかぬ不可思議な魅力を漂わせているところから生じているのである。これを、ひとつの額だけにしてしまったら、迫力も四分の一になってしまうどころか、絵と文字が横に連なってどこまでも無限に増殖して行くような作品の効果が、殆ど失われてしまうだろう。
「先生、なんとかしてくれませんか」
志功はふたたび泣き声になって濱田に哀願した。濱田は志功と初対面であったが、志功のほうでは濱田を、国画会工芸部の審査員と知っていた様子であった。
「よし、判った。ちょっと待っていなさい」
濱田はそういって版画部の部屋を出た。かれは自分とおなじ工芸部の審査員で、民芸運動の指導者である柳宗悦に、『大和し美し』を見せてみたい、とおもったのだ……。
このときの志功の心境が、どのようなものであったのかは、二十年後に「芸術新潮」誌で行なわれた柳宗悦、徳川夢声氏との座談会での発言に、はっきりと現われているようにおもわれる。これは志功だけでなく、夢声氏の表情もよく|窺《うかが》われる座談会なので『大和し美し』について触れたあたりを、座談会形式のまま引用してみたい。
柳 あれはあまり長くて大きいものだから、ちょっと邪魔扱いにされて隅の方にやられちゃったんですよ。
棟方 憤慨しましたね。僕は……。なぜそうやるのかと……。
徳川 それを飾ると、ほかのもの全部飾れなくなるんじゃないですか?(笑)
棟方 そんなことは僕は知りませんでしたよ。……
ということになっているのだが、当時の国画会版画部の審査員なら、この(笑)を含んだ夢声氏の発言に、おそらく共感の意を禁じ得ないところだろう。国画会が版画部に割いていたのは、美術館の一番奥の一室だけだった。そこへ幅一間の額縁を四つ横に並べれば計四間、志功がまえに版画に彫っていた「先を行く人 じゃまです」という言葉通りに、ほかの人の作品は、その分だけ壁面から押出されてしまうのである。そんなに押出されちゃかなわない、というので、審査員は、むろん作品の効果が損われるのは承知の上で、ひとつだけ残して後の額は持って帰れ、といったのに違いない。非常識だ! という怒りも当然あったろう。「それを飾ると、ほかのもの全部飾れなくなるんじゃないですか」という夢声氏の問いに、志功は「そんなことは僕は知りませんでしたよ」と答えているが、なかなかの策士であるわりに、底が抜けてもいるかれは、座談会のすぐ後のくだりで、次のように洩らしている。
柳 あの『大和し美し』で(国画会の会友に)なったのかな。
棟方『大和し美し』でなったんじゃないですね。その前に『萬朶譜』というのをつくりました。それで会友です。会友だと鑑査を受けなくてもいいから「ソーレ見ろ」というので長いのを出したんですよ。無鑑査ですから……。
明らかにかれは、自分の作品の長さが他の作品に及ぼす影響を知っていて、『大和し美し』を制作したのだ。前記の「そんなことは僕は知りませんでしたよ」というのは、つまり「そんなことは、僕の知ったことじゃありませんよ」というのが本音だったのであり、審査員も、そうしたかれの|傍《はた》の迷惑も考えぬ自己中心性と、他人を押しのけても自分だけ目立とうとする顕示欲の強さを感じとったからこそ、作品全体の陳列を拒否したのだろう。審査員にしてみれば、道理は自分たちの側にあり、志功のほうは無理を承知で通そうとしている徹底したエゴイストのようにおもえたのかも知れない。翻って考えてみて、もし志功が、国画会が版画部に与えているスペースの狭さと、他人の作品との釣合を|斟酌《しんしやく》し、それらの制約に合わせて自分の作品をつくるような人間であったなら、かれの傑作の森≠ニもいうべき板壁画の大作群の先駆けとなった『大和し美し』は、土台この世に生まれていなかったのかも知れないのだ。
濱田庄司が柳宗悦と一緒に版画部の部屋に戻って来たとき、そこに志功の姿はなかった。濱田は部屋の隅に、また重ねられていた『大和し美し』の四枚の額を横に並べて柳に見せた。柳もこの作品には唸るほど感心した。
「いいね、これは。ただものじゃないね。どうしてこれが落選なんだ」
「いや、落選ということじゃなくて、横に額を四つ並べると、あんまり幅をとりすぎるから、ひとつだけ残して、あとは撤回しろ、ということらしい」
「それはおかしいよ。これは二十枚全部揃っていなくちゃ意味がない。横に並べると幅をとりすぎるのなら、上下二段掛けにでもすればいいじゃないか。とにかくこれだけの作品を、国画会が展示しないという手はないよ」
「そうですね。版画部の審査員のほうに、そう話してみましょうか」
二人の相談が丁度まとまったところへ、忽然と志功が姿を現わした。濱田に紹介されて、柳が「感動したよ」というと、近眼鏡の奥の眼を大きく見張った志功は、いきなり「万歳!」と叫んで柳に抱きついて来た。頭髪がもじゃもじゃで、着物の懐から見える胸も毛むくじゃらであるうえに、額から全身汗びっしょりになり、動物のようなにおいを発散しているので、柳は生きた熊にでも抱きつかれたような気がした。柳から体を離した志功は、手拭で顔の汗をふきふき「いいなあ、いいなあ」と感|極《きわ》まったような声を出して、それから『大和し美し』の詩句を声高に唱えながら、柳と濱田に向かって懸命に自作の説明を始めた。
民芸運動の同志である柳宗悦と濱田庄司は、ともに都会人であり、知識人でもあった。柳は麻布に生まれ、学習院を経て東京帝国大学の哲学科を出ており、芝明舟町の文房具店の子供である濱田は、神奈川県溝ノ口にある母の実家で生まれたが、三田南海小学校と東京府立一中を経て、東京高等工業学校窯業科を出ている。その二人にとって、志功は初めて見るタイプの芸術家であったろう。目の前の作品ばかりでなく、挙措動作も自作を説明するさいの独得な用語法も、まことに珍しく、それらを打って一丸として他にちょっと類を見ない個性を形づくっている棟方志功の存在が、民芸品の蒐集家でもある二人には、ほんものの掘出し物であるようにもおもえたのかも知れない。
「……この作品をね」
と柳は『大和し美し』をさして濱田に相談した「日本民芸館で買入れようとおもうんだが、どうだろう」
前年の五月に、大原孫三郎から十万円の寄付を受けて着工した日本民芸館は、この秋に完成する予定になっていた。そこへ陳列する作品として『大和し美し』を買入れようというのである。濱田の賛成を得て、柳はそのことを志功に伝え、ふたたび欣喜雀躍したかれの大騒ぎが鎮まるのを待って、売価を訊ねた。
「七百円です」
志功が平気な顔で口にした値段に、柳は一瞬、驚いて沈黙した。このころの版画の値段は、大家と目されている恩地孝四郎や平塚運一の作品でも(大きさによって違いはあるが)せいぜい五十円前後だった。七百円とは幾らなんでも高すぎる。柳はそうおもって口を噤んだのだが、実はこの法外な値段のつけ方に、志功のいまひとつの狙いがあった。かれはこれまでの版画界に前例のない大作をつくり、売れないのは覚悟の上で破格の高値をつけ、人人の度胆を抜くことで、自分の名前を印象づけよう、と考えていたのだ。このへんにも、やはり『大和し美し』を見たときから志功の熱心な支持者になった水谷良一が「棟方君の中には|凡《およ》そ|躊躇《たじろぎ》を知らぬ舞台度胸と共に、画家としての|戦略的《たくていかる》な本能が豊かに脈うつ」と評したような面目の一端が鮮やかに現われているが、このときの志功は、自分の目論見を正直に口に出して柳にいった。
「どうせ売れないとおもったから、七百円とつけたんですよ。本当は幾らでもいいんです」
「そうか。じゃあ、二百円でどうかね」
二百円でも、志功にはこれまで生まれてから見たことのない大金である。勿論かれは大喜びで、柳の申入れを承諾した。そのうえ一旦あやうく四分の一のすがたに分断されかけた志功の『大和し美し』は、柳宗悦、濱田庄司と版画部審査員との交渉によって、上下二段掛けという形ではあったが全部陳列されることになったのだった。
それにしても志功が『大和し美し』の完全な形での展示を審査員に拒否されていたとき、もし濱田庄司が版画部の部屋に顔を出していなかったら……とおもうと、まことに平凡な感想ではあるが、いまさらのように、めぐりあわせの持つ意味の重大さを感じないわけにはいかない。
濱田が顔を出していなかったら、柳も『大和し美し』の全体を、このように劇的な状態で見ることはなく、あったとしても大分あとのことになっていて、志功の生涯を決定づけた柳宗悦、濱田庄司、河井寛次郎ら民芸運動のグループとの結びつきも、随分と違ったものになっていただろう。強烈な個性の持主であり、たぐい稀な努力家である志功のことだから、民芸運動の人たちの知遇がなかったとしても、いずれ独自の道を切開いたには違いないが、かりにこの昭和十一年春の国画会展で審査員に押切られ、『大和し美し』の展示が四枚の額のうちの一枚に限られていたとしたら、翌年からの大作群の制作は、かれの度胸と力量をもってしても、はたして可能であっただろうか――。
実際には翌年の春、かれがふたたび佐藤一英の詩を彫って国画会に出品した『|空海 頌《そらうみのたたえ》』はなんと二十八センチ×二十センチの拓本|摺《ず》りの版画を、縦に三枚、横に十八枚ずつ、計五十四枚も並べるという、前年の『大和し美し』を遥かに上回る大作だった。いまそのときの会場の写真を見ると、志功の作品は、幅約六メートル、高さ約一・八メートルの大きさで壁面を完全に独占している。かれには前年に『大和し美し』を所期の意図に反して上下二段掛けで展示されたことが、よほど腹に据えかねていたのだろう。高さが約一・八メートルの作品では、横幅を二つに割って上下二段掛けにすることは、天井の高さからいって不可能である。前年に自分の壁面独占を拒否しようとした審査員に、志功はこういう形で反撃したのだ。
さらに翌昭和十三年春の国画会展に出品した『東北経鬼門譜』は、六曲一双の屏風仕立てにした横の長さが実に十メートルをこえ、高さも一・五メートルをこす大作であった。海上雅臣氏の『棟方志功 美術と人生』には、次のような插話が記されている。
――昭和十年から国展版画部に版画を出品していた別府の宇治山哲平は、十三年春はじめて上京し、国展会場をおとずれ、版画部がいかにも虐待されているような小さな一室をあてがわれており、しかもその半分の壁を棟方志功のとてつもない大作が独占して、あとの作品は皆二段掛けというみじめさにおどろき、それに比して油絵の方は、例えば庫田※[#「又」を4つ]の作品は五点、ひろい部屋にゆったりとかけられていて、これは版画では棟方にくわれるばかりだし、とてもだめだ、と感じて翌年から油絵に専念した、……
志功が国展で小さな一室しか与えられていない版画部を舞台にして、これほどまでに自由奔放もしくは傍若無人の制作活動ができたのは、ひとつにはやはり、最初に『大和し美し』の展示をめぐって審査員と対立したときに、柳宗悦と濱田庄司から受けた強力な支援の賜物であったろうとおもわれる。柳宗悦らとのめぐりあいがなければ、志功の作品と生涯は、どんな風に変っていたか判らない。現実には、柳たち民芸運動のグループの棟方支持は一貫して変らず、志功は経済的にもやや安定した保証を与えられて、鬱蒼とした最初の傑作の森≠現出させることができたのだった。話を昭和十一年の春に戻すと、
――展覧会が終ったら、『大和し美し』を民芸館のほうに届けてくれ。……
と柳宗悦にいわれていたので、志功は国展の会期が終ったあと、駒場の民芸館を訪ねた。柳が「日本民芸美術館」の設立をおもい立ったのは大正十五年一月のことである。「試みようとする仕事は、蒐集に始まる」…「此蒐集は只に過去の作品にのみ止めるのではない。現に作られつつあるものから選択する。それは個人的作品と工業的作品たるとを問わない。私達は|匿《かく》れたる個所に於て今尚健実なもの、よく伝統を守れるものゝ数々を発見する」という趣旨は、それから約十年後に大原孫三郎の寄付を得て、いま「日本民芸館」となって完成に近づいていた。駒場の柳邸の向かいを敷地に選んで一月に上棟式を挙げた建物は、まだ骨組みだけであったが、道をへだてて前にある柳邸の表構えの長屋門には、すこぶる重厚な迫力があった。志功は運命の扉をひらくような気持で、その門のなかに入って行った。
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深く暗い森
一
志功は緊張に身を固くして、自分の名前を告げた。柳宗悦は留守だった。玄関に現われた兼子夫人が「……ただいま出かけておりますが、これをお渡しするようにといわれております」そういって差し出した紙包みを、志功は両手で押頂いた。十円紙幣が二十枚入っているとおもわれる紙包みは、ずっしりと重かった。その重みを感じた途端、志功の額には粒粒の汗が噴き出した。
実際にはそれほど重くなかったのかも知れないが、なにしろ生まれて初めて手にした大金であり、それも十八歳のとき小野忠明に雑誌「白樺」について教えられたときから、雲の上の存在のようにおもって憧れて来た白樺派の偉い先生が自分の版画を認めてくれた言わば賞金なのだとおもうと、手にした紙包みから全身に感動の震えが伝わるほど重くおもわれた。志功はそのまま帰るつもりはなかった。
「あのう……先生のお帰りは、だいぶ遅くなるのでしょうか」
「いえ、間もなく帰って参ると存じますけれど……」
「それでは、それまでここで待たせていただきます。どうすても先生に、お礼を申上げて帰りたいもんですから……」
「じゃあ、どうぞお上がりになって……」
兼子夫人は志功を玄関から招じ上げて応接間に案内した。夫人は以前から志功のことは聞いて知っていた。国画会工芸部の審査から帰って来た夫が、大変な版画家を見つけた、と興奮した面持で語り、「感動したといったらね、いきなり抱きつかれて驚いたよ」と話していたことがあったからだ。
応接間に通されて椅子に腰を下ろした志功は、袴の膝に両手を置いて|畏《かしこ》まった。かれにとって武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦……といった白樺派の人人は、文字通りの雲上人であり、学習院を出ていることからいっても、いかにも平民とはおもえないそれぞれの名前からしても、揃って貴族か華族に違いないとおもい込んでいた。志功はそうした地位に対する感覚が、人一倍敏感な性質だった。青森の貧しい鍛冶屋の伜が、貴族か華族様のお屋敷の応接間に坐っているのである。畏まらないわけにはいかなかった。けれどもかれはまた、静かにしていることが苦手な人間であった。体の動きが封じられているので、近眼鏡の奥で大きく見張った眼と顔だけを動かし、上下左右を見回していた志功の視線は、応接間の一隅に置かれていた大きな鉢に吸い寄せられた。立上がって近づいて行って見たい気持を懸命に|堪《こら》えた。自伝によれば、柳邸を訪ねるまえ、版画の師匠格の平塚運一に、
――棟方君、きみはそそっかしいから、柳先生の家へ行ったら気をつけなきゃいけないよ。あの家にあるのは、そのへんにゴロゴロしている物でも、みんな宝物なんだからね。うっかり手に持って落としたり、よく足元を見ないで蹴飛ばしたりしたら大変だぞ。……
と、戒められていたからである。平塚運一は日頃、志功が家に訪ねて来ると、自分が仕事中であってもまるで意に介する様子がなく一方的に話し続け、制作中の紙に唾が散るのも気づかずに口角泡を飛ばし、こちらの気分には一向に無頓着なようなかれの性癖に閉口していたので、そういう訓戒を与えたのかも知れない。それとも、ずっと後年に安倍能成が、これはもちろん柳宗悦の天才的な直覚力とそれにともなう強烈な自信と実行力、そして顕著な業績を十分認めた上でのことなのだが、「私は柳君とは人間も育ちも違って居り、その自己中心的で貴族的だと私の考えて居た性格は、親しめなかった」…「柳君のように我がままで、自分に随順する者か自分を尊敬する者かでなければ容れられぬ人物にとって……」などと、率直きわまりない調子で評したような性格の一端を、平塚も感じていて、やはり自己中心的な志功が、柳のまえで何か失敗するのを案じたからであったのだろうか。かりにそうだとしたら、平塚の心配は、たぶん杞憂であったものとおもわれる。
やがて外出から戻って、応接間へ入って来た柳宗悦に、志功は丁重に挨拶と礼を済ませたあと、さっきから気になっていた鉢を指して、「あれはイギリスのものでしょうか」と訊ねた。バーナード・リーチの作ではないか、とつけていた見当を、そういういい方で聞いてみたのだ。
「いや、日本だよ。九州の|二川《ふたがわ》の窯のものだ」
「二川……?」
聞いたことのない名前だった。「……ちょっとそばへ行って拝見しても、よろしゅうございましょうか」
「いいとも。よく見てみたまえ」
柳の許しを受けた志功は、懐から日本手拭を出し、それを口にあてがって、二川の鉢に眼を近づけ、しげしげと見入った。鉢のなかには、素朴で稚拙で、しかも大胆な雄勁さを感じさせる松の絵が描かれてあった。柳たち民芸グループの強力な推賞によって、のちに頗る有名になった二川の松絵≠ナある。
「どうだい……」
柳は志功に感想を訊ねた。
「まンず、これは……素ン晴らしいもんですな」
志功は口に手拭を当てたまま、興奮して叫んだ。
「そうだろう。これはね、昔うどん粉を|捏《こ》ねるのに使う鉢だったんだよ」
「これで、うどん粉を……」
「そう。つまり、|下手物《げてもの》だね。名もない職人が作って、民衆が日常の用に使っていた雑器。それがこれほどの美しさを持っているというのは、実に素晴らしいことじゃないか。われわれはそれを民芸の美といっているんだがね……」
このときから柳宗悦に教えられた民芸理論に、志功がどれほどの戦慄を覚え、いかに強い励ましと大きな影響を受けたかは、柳の『雑器の美』や『工芸の美』から、任意の何箇所かを引かせて貰えば、だれの目にもはっきりするだろう。
――無学な職人から作られたもの、遠い片田舎から運ばれたもの、当時の民衆の誰もが用ゐしもの、……彩りもなく貧しき素朴なもの、数も多く価も|廉《やす》きもの、この低い器の中に高い美が宿るとは、何の摂理であらうか。……
日常の雑器の生産において、職人の仕事は量産を要求される。同じ形、同じ絵、の限りなき反復が、殆どかれの生涯の仕事となる。ただし、
――驚くべきはその速度。否、速かならざれば、彼は一日の糧を得ることができぬ。幾千幾万。この反復に於て彼の手は全き自由をかち得る。その自由さから生れ出づる|凡《すべ》ての創造。私は胸を躍らせつつその不思議な業を眺める。……
こうした民芸理論の持主であった柳が、志功の『大和し美し』を、いっぺんで認めたのは、ごく自然であったとおもえる。次の文章は、まるで志功の姿を写しているようではないか。
――あの驚くべき筆の走り、形の勢ひ、あの自然の奔放な味はひ。既に彼が手を用ゐてゐるのではなく、何者かがそれを動かしてゐるのである。……
この文章は、柳が志功を知る十年もまえに書かれていたのである。柳が書いたものは、かれが考えていた職人の理想型であった。そして志功は柳の文章を読むまえから、その望み通りの仕事のやり方を実行していたのだ。それは主に生来の性質によるもので、
――多く作る者は又早く作る。だがその早さは熟達より来る最も確かな早さである。さうしてこのことが二重に作物を美しくする。多き量と早き速度と、このことがなかつたら、器の美は遥かに曇つたであらう。
――多量な迅速な作、そこに見られる自然の勢ひは、労力に|相応《ふさ》はしい酬いではないか。……多くの者は美は余暇の所産であると考へてゐる。|併《しか》し工芸に於てはさうではない。労働なくして工芸の美はあり得ない。器の美は人の汗の|贖《あがな》ひである。働きと美と、之が分離されたのは近代のことに属する。……
と柳がいうほど、志功の場合は理論的に意識されていたものではなかったろう。二人が知合うことで、柳は理想の実作者を発見し、志功は自分勝手に押通して来た我流の方法を、初めて正当なものとして裏づけてくれる理論家を見出したのだ。これほど符節を合して相互補完的な結びつきは、そうめったにあるまい。もっともそのために、志功は長く民芸グループの一員と見做されて、美術界からはゲテモノ視されることにもなったのだが――。
「……大切なのはね、棟方君」
柳宗悦は二川の松絵大鉢を手にして志功にいった。
「この鉢をつくった人間は、別にきみやぼくを感心させようとおもって作ったわけじゃない、ということなんだ。その男はただ、うどんの粉を捏ねるというだけの用を充たすために、いつもの通り片田舎の暗い仕事場で、無心にこの鉢を作った。別に芸術家でもなんでもない、名もない職人の仕事だ。自分の名を成そうとおもって作ったわけじゃない。人に見せようとおもって作ったわけでもない。単なる実用品で、安値の|下手《げて》だ。それがこれだけの美しさを持っている。そこのところが尊いんだよ。そうおもわないかね」
「おもいますッ、先生」
片田舎の暗い仕事場、名もない職人……という柳の話から、父幸吉の姿をおもい出していた志功は、東京へ来てから余り人には話したことがない事実を大声で叫んだ。
「ぼくの家も職人なんです。鍛冶屋なんです!」
「ほう……」
「もう死んですまいましたけれども、うちの父親のつくる鎌は、切れ味のいいので評判であったんです」志功は涙声になって言葉を続けた。「富士幸の鎌といって、濡れた紙に刃を当てて引くと、切れ目が見えないのに紙が二つになっている、といわれたくらいで……」
「それじゃ、名人だったのかも知れないな」
「いや、名人づほどではないでしょうけれども……」
「それだけの腕を持っている人が作った鎌なら、見ても美しい筈だ。いまにきみにも、お父さんの作った鎌が、この二川の鉢とおなじように素晴らしいものだと判るときが、きっと来るよ」
柳の言葉を聞いているうちに、涙が溢れて来て止まらなくなった志功は、手拭でやたらと顔をこすった。小学校に入ったころから、志功は人が父親を褒めたのを聞いたことがなかった。田舎では幾ら腕がよくても鍛冶屋は鍛冶屋である。まして大酒飲みの怠け者となれば、だれも褒める筈がない。その父親の仕事、芸術にくらべたら何の価値もないとおもっていた鍛冶屋の仕事の意味を、東京でも一番の上流階級に属するとおもわれる学者の柳宗悦が、初めて認めてくれたのだ。並外れて肉親愛の強い志功は、嬉しさと感激で胸が一杯になり、また眼から噴き出て来た熱い涙を、すでにびしょびしょになっていた手拭でふいた。
志功を小さいときから知っている地元の人の多くは、かれのさまざまな欲望の強烈さや奇矯な行動のかなりの部分が、まず町内でも一番貧乏な薄暗い鍛冶屋の子であったことのコンプレックスから生じていたのではないかという。かれの道化者ぶりは、その根深い劣等感の裏返しの表現であったのかも知れない。だが柳の説にしたがえば、鍛冶屋は恥ずかしいどころか立派な職業であり、すぐれた職人は大抵の芸術家に勝るとも劣らない存在であって、鍛冶屋の棟方幸吉の子であるということは、高名な芸術家や学者の子であるのと、何の変りもないことになる。それは志功にとって、ひとつの開眼であった。かれが柳宗悦と知合って精神的に得た最初の成果は、この鍛冶屋コンプレックスからの解放であったろう。なぜならこのあたりから、かれはだれに対しても平気で自分は鍛冶屋の子だと話すようになり、それとともに交遊の姿勢や制作態度に、まえにも増して一層昂然たる自信が漲って来たからだ……。
溢れる涙をようやく抑えた志功は、応接間の壁にかかっていた油絵を指して、セザンヌであることは判っていたが、
「あれはだれの絵ですか」
と聞いてみた。そんなことも知らないのか……柳は驚いたような顔をして、
「セザンヌだよ。サント・ヴィクトワール山だ」
「はあッ……」と志功は大袈裟に眼を剥いた。「ああいう偉い画家でも、先生は呼び捨てにするんですね」
「偉大な人間の名前は、みんな呼び捨てだよ。じゃ、きみは何と呼んでいるんだ」
「ぼくはゴッホを尊敬していますから、ゴッホ様と呼びます」
「ゴッホ様か。きみは面白いことをいうね」
柳は意表を突かれて吹き出した。志功も、いま泣いた烏がもう笑う、という感じに声を合わせて笑った。柳はますます志功に興味を持った眼の色になって訊ねた。
「それじゃ、きみは版画だけじゃなく、油絵もやっているわけだな」
「はい。|下手糞《へたくそ》ですが……」いちおう謙遜してから、さりげなく「帝展に二度ばかり通りました」
「ほう。『大和し美し』みたいな版画をつくるきみが、一体どんな油絵を描くのか、是非いちど見せて貰いたいな。こんど、きみの家に行ってもいいかね、いままで描いたもの、作ったものを見せてもらいに」
「ええ、どうぞ、どうぞ……」
柳邸を辞して、駒場から中野区大和町の家まで帰る途中、志功は踊り出したい気分だった。かれは花を買って、チヤと三人の子供たちが待つ家に帰った。志功が笑顔で差出した花束を見て、チヤは夫が本当に二百円の大金を受取って来たことを知った。
「よかった。きょうはお祝いをしましょう。何が食べたい」
チヤがそう聞くと、志功は即座に、「スナソバ!」と叫んだ。奇想天外の阿佐ヶ谷時代≠ノピノチオのシナソバに心を奪われてから、それはかれの最大の好物になっていたのだ。チヤは夫が買って来た花で、部屋中を飾りながら訊ねた。「それから、何を買いたい」
この問いにも、答えは間髪を入れなかった。「画架を買いたいんだ。日本で一番大きくて、一番高い画架を」。志功は以前から画材店で見かけたどんなに大きなカンバスでも上下と前後に自在に動かせるよう金属性のハンドルとレールがついている頑丈な画架に憧れていた。チヤはそれが、どれほど高いものか知らなかったが、たとえ二百円の金の大半が消えてしまうほど高いものであったとしても、絵の仕事に必要であるのなら、買わないわけにはいかないとおもった。
チヤは初めて志功と一緒に暮し始めたころ、冷奴に醤油をかけて、「勿体ないことをするな、醤油は醤油、豆腐は豆腐でおかずになるんだ」と怒られたことがある。それほどまでの貧乏も、チヤにとって一番辛いことではなかった。曲りなりにも御飯が食べられ、一家が仲よく暮せて、夫がいい仕事をしてくれれば、それで満足だった。ところが柳宗悦が訪ねて来ることになった日の朝、夫はまた「どこかへ姿を隠していてくれ」というのである。チヤは次女のちよゑを背負い、五歳のけようと三歳の巴里爾を左右の手に連れて、家を出た。
二
柳宗悦は、濱田庄司と、それに京都から来ていた河井寛次郎と一緒に訪ねて来た。玄関のそばにある八重桜が、花を咲かせている季節であった。「さ、どうぞ、どうぞ、汚いところですが……」志功は大燥ぎで、たくさん油絵を並べて置いた部屋のなかへ三人を招じ入れた。
いくら妻子を隠しても、独身者と世帯持ちの家では、なかの気配が違う。ことにチヤは働き者であったから、家の中がきちんと片づいており、そのことと如何にも無頓着そうな志功の様子とに不釣合な感じを抱いたのか、「だれかほかにいるんじゃないの?」と、柳はあたりを見回して訊ねた。
「ええ、姉と、姉の子供たちです」
志功は口早にそういってから、ただちに自作の解説に取りかかった。ウルトラマリーン、プルッシャン・ブルー、クローム・イエロー、クリムソン・レーキ、ライト・レッド……など主に安い絵具を多用して、海や山を、火事か森林のように描いた絵であったが、柳の眼に映ったものは得体の知れない混沌であった。なかでも、いま志功が持出して来た百二十号ほどの大作は、何をどう描いているのか、さっぱり見当がつかなかった。そのうちに柳は気がついて訊ねた。
「おい、棟方、これは逆さまじゃないのか」
「あッ、逆さまですか。ぼく眼が悪いもんですから……」と志功は頭を掻いたが、別に慌てた様子もなく平然としていった。「しかし、ぼくの絵は、どっちを上にして見て貰ってもいいんです。もともと風景をそのまま写生したものじゃなく、いわば自分の心の中の景色を描いたものですから……」
それにしても、自分の描いた絵を逆さにして見せていることに気がつかなかったなどということは、ちょっと考えられない。そこには多分かなり意識的なところもあったのだろう。後年に柳は「その見せ方もなかなか面白かった」と語っているが、そうしたことも含めて、三人は志功に一層興味を強めた。まだ磨かれていない|粗玉《あらたま》ではあるけれども、なかに卓抜な感受性と素質が秘められているようにおもわれたのだ。柳は志功に聞いた。
「棟方君、きみがいま一番したいことは何かね」
「仏様を見たいんです」
「仏様なら奈良だな」
「いや京都の仏像を見たいんです」
河井寛次郎とは初対面であったけれど、志功は以前から松木満史に教えられて、このすぐれた京都の陶芸家の存在をよく知っていた。
「なんだ、京都ならただみたいなものだ。河井があした帰るそうだから、一緒に行けよ」
「よろしいんでしょうか、河井先生」
志功は唾を飲み込むようにして河井を見た。
「いいよ。一緒に来たまえ」
「で、では、つ、ついて行かしていただきますッ」
こうして宿願の京都旅行を手中にした志功は、感激と興奮で夢中になって話し続け、三人と連れ立って町に出てからも、「ぼくは五本指の人間なんか彫りたくありません。指が三本の、鬼のようなものを彫りたいんです」と、さかんに手真似をしながら、道を行く人が振返るような大声で叫んでいた……。
河井寛次郎が、すっかり志功を気に入って、京都の自宅へ連れて行ったのは、前年に柳宗悦と一緒に、東北旅行をしていたことにも関係があったのかも知れない。その旅で見るもの聞くものに感動したかれは「東北は日本で一番文化的に進んだ地方だ」というようになっていた。
かれがこうした感想を持つに至ったのには、それまでの陶芸家としての思想的な、あるいは技術的な長い遍歴によるものとおもわれる。島根県の安来町で宮大工の家に生まれたかれは、島根県立一中を経て東京高等工業学校窯業科に進み、ここで生涯の友となる濱田庄司と相知った。卒業後、京都市立陶磁器試験場に入り、やがてあとを追うように同じ試験場に入って来た後輩の濱田庄司とともに、主として釉薬の実験と研究を試みた。二人が行なったのは、たとえば青磁五千種、|辰砂《しんしや》三千種、天目二千種あわせて実に一万種もの|釉《うわぐすり》を焼いて、その中から特色のある釉を幾つ生み出せるか、というような実験であった。また河井は三十三円、濱田は三十円の月給を貰っていたが、二人が丸善から毎月買う洋書の代金だけでも、ともに給料を遥かに上回っていたという。つまりここまで二人が歩いていたのは、きわめてアカデミックな道だった。
ある日、二人が試験材料を|天秤《てんびん》で正確に計っているところへ、五条坂に住む宇野仁松という青磁の得意な陶工が遊びに来て、材料をすべて手づかみで調合し、大事な鉄の分量まで指でつまんで簡単に加え、「きみたちの青磁とどう違うか、見てみ」とからかうようにいって笑いながら帰って行った。あとで一緒に焼いてみると、宇野老人の釉のほうに、ずっと力があった。二人は小さな金的を一矢で射ぬくような宇野老人の方法を宇野式金的法と名づけ、「これからはおれたちも宇野式金的法で腕を磨かなきゃならんな」と語り合った。
河井は大正九年、三十歳のときに五条坂鐘鋳町に自分の住居と窯を|購《あがな》い、その窯を「鐘渓窯」と名づけた。翌年、東京と大阪の高島屋で開いた第一回の創作陶磁展で、中国、朝鮮の古陶磁の手法と科学的な知識をあわせて自在に駆使したかれの作品は「陶界の一角に突如彗星が出現した」とそのころの陶芸批評家の第一人者と目されていた奥田誠一に激賞され、第二回、第三回と個展の数を重ねるごとに名手の評判はますます高くなり、「国宝的存在」という評価まで生まれていたが、河井自身の心中には深刻な疑問が生じていた。第一回の東京での個展のさいに、神田で行なわれていた「白樺」主催の「李朝陶磁展」を見て、柳宗悦が紹介した李朝雑器の美しさに、電車に乗ってから自分の個展の会場である高島屋のまえを気づかずに通りすぎてしまうくらい強烈な衝撃を受けたのと、その後、柳が発表した文章のなかで、河井の卓越した技術に対して冷淡な評価を下していたことが、心に引っかかっていたからである。
自分の進むべき道について迷い、悩み始めた河井には、英国の漁村セント・アイヴスでバーナード・リーチとともに作陶生活を送っている親友の濱田庄司の帰国が待たれてならなかった。ロンドンの個展で成功を収めた濱田は、大正十三年の三月、神戸に着くと、まっすぐに京都五条坂の河井の家に向かった。のちに濱田はこう書いている。
……その時、河井が迎えてくれた|悦《よろこ》びというものは、私は後にも先にも人からあれほど待たれていて、あれほど悦ばれた経験は一度もなかったと思うくらい強い感動を受けました。もうこれで自分は、友達は河井一人でいいと思うほど大したものでした。……
それだけ河井の悩みは深かったのだろう。三回にわたる個展で、めったにないほどの好評を博し、多くの支持者を得ながら、自分の技術は上辺だけの摸倣にすぎないのではないか、という憂悶にかれは苦しめられていたのだった。河井の悩みに答えて、濱田は三年間の英国生活のなかで培って来た考えを述べた。
――これからは、珍しいものとか、難しいものよりも、ただいいものを作りたい。……
その「いいもの」の範となるのは、無名の陶工たちが作った実用の器の健康な美しさである、と、そう語った濱田の考えは、河井が求めかけていた方向と一致していた。作陶に全生活を打込んでいて、久方ぶりに会った二人の話は、何時間語っても、幾日語っても、尽きるということがなく、濱田の河井家滞在は二箇月以上にわたった。この間に濱田は、バーナード・リーチを通じて以前から知っていて関東大震災のあと京都に移り住んでいた柳宗悦に、河井寛次郎を引合わせて、のちの民芸運動の基礎がつくられたのである。
河井は技術の粋をきわめて京都のよさも欠点も知っていた人間であった。もともとは出雲人であるが、夫人は応仁の乱のころから京都に住んで御所の造営に加わっていた宮大工の家の娘であり、住んでいたのは約百五十年まえからあった京風の家屋である。その家が、昭和九年の室戸台風で破損したとき、かれは、――体質改善だ、体質改善だ、と叫んだ。貴族的なものよりも、民衆の生活と結びついたものに美を見出していたかれは、京風の家屋に、逞しい農家の骨格を持たせたい、とねがったのだ。――京都は衰弱しかけている。本当に生き生きとした文化は地方にある、そう考えていたところで、東北に旅行し、その翌年に志功と顔を合わせたのである。河井は京都に反撥を感じてはいたけれども、初めのうちはアカデミックな道を歩み都会の洗練を身につけている。それに対して志功のほうは、まだ地方そのものの感じであった。
ともに野性的なものに重きを置いている、という共通点があるとはいえ、二人の出会いは、いわばふたつの異質な文化の衝突であったといってよい。このぶつかり合いが志功に与えた衝撃(カルチュラル・ショック)は、まことに深甚なものだった。河井はこのとき四十五歳、志功は三十二歳である。
河井寛次郎の娘である須也子は、初めて志功が家に姿を現わしたときのことを、はっきり記憶している。河井のあとについて、志功は握った両の拳を、交互に体のまえに出して、足を一歩踏み出すごとに、「凄いぞ、セイネン、凄いぞ、セイネン……」と大声で唱えながら、家のなかに入って来た。
京都の家は、よく「鰻の寝床」と表現されるが、河井の家はその鰻の寝床を二軒、縦につないだものであったから、なかの通路に二箇所、|暖簾《のれん》の下がっているところがある。志功はその暖簾を潜るときも、最初の姿勢のままで両の握り拳を交互に前に突出し、頭で暖簾を割って、「凄いぞ、セイネン、凄いぞ、セイネン……」と叫びながら奥へ進んで行く。それはこれまで見たことのないタイプの人間であった。
おそらく志功は、東京から京都までやって来る途中の汽車のなかで、河井に「凄いぞ」とか「青年」といった言葉を含んだ讃辞を与えられたのだろう。それで興奮して「凄いぞ、青年」と唱えていたのだろうが、十一歳の須也子には、初めのうち志功が何をいっているのか訳が判らなかった。志功は絣の着物に、小倉の袴をつけ、腰に矢立てや和紙を包んだ風呂敷包みをぶら下げていた。いかにも書生っぽい感じの恰好であったが、絣の着物も小倉の袴も、小ざっぱりとしているのが印象に残った。
やがて父の部屋のほうから、割れ返るような笑い声が聞こえて来た。須也子は生まれてから、これほど大きな笑い声を聞いたことがなかった。何というか、まるで|天地《あめつち》の始まりを告げているような笑い声なのである。のちには母方の祖母が、たまたま訪ねて来てこの笑い声を耳にしたとき、「随分お賑やかなお人どすなあ」と驚いた顔をしていったことがある。応仁の乱のころから京都に住んでいる宮大工の家に、おっとりと育った人にとっては、吃驚させられるのも当然であったろう。
一方、志功にとっても、河井家の生活は驚きの連続であった。京都での第一夜が明けると、朝早く鍵屋という|老舗《しにせ》の菓子屋から注文を取りに来た。河井寛次郎は朝食をとらなかった。そのかわりに注文して届けられた菓子を口にして、ゆっくりと抹茶を喫するのである。――なるほど、これが京都というところか……、と志功は、ほとほと感じ入った。それから仕事を始める河井にかわって、つね夫人が京都の街を案内してくれることになった。最初に訪ねたのは、五条坂の河井家のすぐ近くにある清水寺であった。そのときのことを志功はこう述べている。
――参拝して坂をおりてくると、甘酒やがありました。赤い絨緞を敷いた露台に腰をおろして、まだ醒めきらぬ町の静かな空気を吸って、静かに立ちこめるというのか、はれて行く霧の美しさを眺めるのは、なんともいいようのない想いでありました。囲いの中には、甘酒が|沸々《ふつふつ》と煮えたって、白い湯気を出して甘酸っぱい匂いがこぼれていました。静かな朝でした。美しい朝の空気でした。甘酒をすすっていると、観世音の幻想が湯気のなかにあらわれてくるような気分にひたるのでありました。……
ろくに飯も食えないほど窮迫した生活に追われ、なんとかして画壇の一角に地歩を占めようと、休む間もなく必死に制作を続けて来たかれにとって、これほどしみじみとした気持を感じさせる時間を過ごしたのは、珍しい経験であったろう。感激家のかれが、生まれて初めて憧れの古都の奥床しい空気に全身を浸し、清水の舞台から朝霧に包まれている街の景色を見渡したときの喜びが、どんなに深いものであったかは十分に想像できる。第一日目の京都見物を終えて、五条坂の家に戻って来ると、ひとつの部屋に三、四人の若い陶工が集まっていた。
これから河井が、それらの人たちもまじえて、志功に禅書の講義をしてくれるというのである。河井は日頃、あたりを払う威厳を身辺に漂わせていたが、仕事が終ったあと少し酒を飲んだりすると、機嫌のよいおしゃべりになることがあり、家の仕事を手伝ってくれている男や女の人たちを集めて、ファーブルの昆虫記やシートンの動物記を材料に、自分の創作をまじえた物語を話して聞かせ、これが聞いているほうでは話に引入れられて、いつの間にかおもわず手に汗を握ってしまうというほどの話術の達人だった。その河井が、志功のために選んだテキストは、禅宗第一の典籍とされている『|碧巌録《へきがんろく》』であった。講義は第一則の「|達磨廓然無聖《だるまかくねんむしよう》」から始まった。
「……垂示に|云《いわ》く、山を隔てて煙を見て、早く|是《こ》れ火なることを知り、|牆《かき》を隔てて|角《つの》を見て、|便《すなわ》ち是れ牛なることを知る。
これはもともとは、|涅槃経《ねはんぎよう》にある言葉なんだね。煙を見て、すぐにそれが火であることを知り、角を見て、すぐにそれが牛であることを知る。これを禅家では『|一見辨見《いつけんべんけん》』という。一見しただけで、すべてを辨見する、明らかに見通す、という意味だ。この場合、煙と角は物の相、姿かたちであって、火と牛は実、その実体なんだ。宇宙のあらゆる物には、かならず相と実がある。だから物の相を目にしたら、いちはやくその実を看破しなければならない、というのが、この垂示の意味なんだよ」
噛んで含めるように説いて聞かせる河井の言葉に、志功は近眼鏡の奥の眼を大きく見張って、懸命に耳を澄ませていた。一見辨見、または一を聞いて十を知る、というのは志功の最も得意とするところである。
「……|梁《りよう》の武帝、達磨大師に問ふ。如何なるか是れ|聖諦《しようたい》第一義。磨云く、廓然無聖。帝|曰《のたまわ》く、|朕《ちん》に対する者は|誰《た》そ。磨云く、|不識《ふしき》。
つまり武帝が最高の真理を問うたのに対して、達磨は廓然無聖と答えた。この廓然無聖というのは、晴れ渡った秋の青空のように、一点の雲もなく、からっとしている心境、つまり無一物という意味なんだが、武帝には、それが理解できなかった……」
いくら噛み砕いて話したとしても、禅問答が判り易いものである筈はないが、河井寛次郎は話術が巧みであったので、聞く者に退屈を感じさせなかった。志功は一語も聞き洩らすまいと真剣な顔をしていた。河井は『碧巌録』の第一則に続いて、禅書『|無門関《むもんかん》』の第一則である「|趙 州狗子《じようしゆうくし》」の話をした。
「この狗子というのはね、別に犬の子というわけじゃないんだ」
河井は志功に向かっていった。「東北では、何にでもコをつけるだろう。机コとか、椅子コとか……」
「はい、そンです」と志功はおもわず津軽風の答え方になって「馬ッコとか、|牛《ベゴ》ッコとか……」
「それとおなじで、この子の字も何にでもつく一種の愛称のようなものかな。丁度われわれが、きみを熊の子と呼んでいるようにね」
柳宗悦が志功に飛びつかれ、熊にでも抱きつかれたような気がした……という話を濱田庄司や河井にしたときから、志功には熊の子≠ニいう|綽名《ニツクネーム》がつけられていたのだ。
「さて、この『無門関』の第一則だがね」
河井はまた表情を引締めて言葉を続けた。
「ある僧が趙州和尚に向かって、犬にも仏性がありますか、と聞いた。それに対して趙州和尚は、ただ一言『無』――ない、と答えた。『無門関』には、それだけしか書かれていない。ところが、おなじ『趙州禅師語録』をもとにした『|従容録《しようようろく》』には、もう少しくわしく書かれている。まず一人の僧が、犬にも仏性がありますか、と聞いたら、趙州和尚は『有』――ある、と答えた。次に別の僧がおなじ質問をしたら、こんどは『無』――ない、と答えたという。それなのに『無門関』には、その『無』という答えのほうしか書かれていない。これはどういうことなんだろうね」
微笑を浮かべて一同を見渡した眼を、河井は志功のところで止めた。
「判りません」
志功は首を振った。
「そうだろうな。この『無門関』を書いた無門和尚でも、犬に仏性がありますか、という問いに、『無』の一字しか示されていない『狗子無仏性』の公案を与えられて、悟りを開くまでに六年かかっている。この『無門関』の第一則である『趙州狗子』または『趙州無字』という公案は、禅の道に入ろうとする者が、まず最初に通り抜けなければならない関門なんだよ。そしてこれは、『碧巌録』の第一則にも関係のあることなんだ。だから、これは宿題ということにしておこう」
河井は本を志功に渡した。「ひとつこれを読んでみたらどうかな」
『碧巌録』を手にして、志功は自分の部屋に戻った。そこは、かつてバーナード・リーチが長いあいだ滞在していたという、窓に格子のはまった書院風の、昼でも暗い部屋で、薄暗闇のなかに体をすっぽり包みこむような木の|臼《うす》状の椅子が、何脚か置かれていた。志功はその椅子に腰を下ろして考えこんだ。
――趙州和尚が、犬にも仏性がありますか、という問いに、「無」と答えたのは、一体なぜだったのだろう……。
こんなに難しい問題を与えられたのは、生まれて初めてだった。考えこんでいるうちに、志功の脳裡には、これまでに見たことのない奥深く暗い森のような景色が次第に広がって来た。
三
朝起きると、志功はいかにも|敬虔《けいけん》な態度で河井の後にしたがい、その一挙手一投足を見守っていて、河井が本格的に仕事に取りかかると、邪魔にならないように引下がった。京都見物の二日目に、つね夫人が案内してくれたのは、四条天皇や江戸時代の諸天皇の御陵のある|泉涌寺《せんにゆうじ》であった。天子様の御陵のあるお寺……そう聞いただけで、志功は勿体なさに胸が一杯になり、自分がいま千年の古都にいるという実感に|痺《しび》れた。その日の河井寛次郎の講話は、「枯木寒巌に|倚《よ》り、三冬暖気なし」という言葉をもとにした短篇小説のように面白い話だった。志功にとっては、朝から晩までが感激の連続であった。
翌日は東山七条の豊国神社から将軍塚へ回った。河井の講話は、『碧巌録』第十九則の「|倶胝一指《ぐていいつし》」で、それはおよそ次のように、まるで落語の「|蒟蒻《こんにやく》問答」をおもわせるような話だった。
……倶胝和尚は、どんな質問にも、ただ指を一本立てて答えた。たとえば「如何なるか|是《こ》れ仏」と聞かれても、「如何なるか是れ道」と聞かれても、無言のままニュッと一本、指を立てて見せるだけであった。倶胝の全修行が、その指一本に籠められていたのであったが、弟子の小僧も真似をして、人に何を聞かれても、黙って指を一本立てて澄ましているようになった。
そのことで人に文句をいわれた倶胝和尚が、ある日、「小僧!」と呼ぶと、相手は習慣的に指を一本立てたので、和尚は即座に刀でその指を切り落としてしまった。泣き|喚《わめ》いて走り出したのに向かって、ふたたび「小僧!」と叫び、おもわず振返った相手に、和尚はすかさずニュッと一本指を立てて見せた。途端に小僧は|忽然《こつねん》として大悟した。……
というのである。河井の巧みな話術のせいもあって、この話もまことに面白く、志功は膝を打って大喜びしたのだが、さらに四日、五日……と河井の講話を聞いているうちに、ひとつの疑問が胸底に生じて来た。――『碧巌録』に出て来るのは、みなおなじような話ばかりではないか、とおもったのだ。志功得意の一を聞いて十を知る「一見辨見」である。それにかれはもともと、自分のほうが口角泡を飛ばし身振り手振りをまじえて一方的に|喋《しやべ》りまくるのならともかく、もっぱら受身になって相手の話を長いこと黙って聞いているのは不得意な性質だった。おそらくそのせいもあったのだろうが、『碧巌録』が第一則の「達磨廓然無聖」から終りの第百則まで、『無門関』の第一則の「趙州狗子」とおなじように、結局は繰返し繰返し「無」を語り続けているのではないか、という気がしたのも事実であった。何日目かの朝、志功は貸し与えられていた『碧巌録』を携えて河井のまえに行った。そのあとのことは、自伝『板極道』にこう書かれている――。
「先生、『碧巌録』は、どこもかしこも同じです。則題はちがいますが、一則目も百則目も無ではありませんでしょうか。全部見てしまってもなんだか、骨が折れるばかりですし、よくまた寝て考えてみたいと思いますから、いちおう、お返ししてよろしいでしょうか、この本があると、なんだか胸や肩が、張るような気がして、体が、重くなるので、お返しして頭や、体を軽くしたいのです。それからが、わたくしの『碧巌録』です。――お許しください」
そういって手にしていた本をお返ししました。先生は受け取って、なん丁かをめくって見ていられましたが、落ちついた声で、
「今日、そうなったか。あと五、六日かかると思っていたよ。あるいは十日ぐらいあとかなと思っていたよ。むかしね、|丹霞《たんか》という和尚があってね。慧林寺という寺で、親友の伏牛和尚に出あった。寒い日であったが焚くものがない。丹霞は本堂へはいって、木仏をもち出してきて焼いたという。丹霞暖仏といってこれも公案の一ツだ。書物も、仏像も|焼却了《しようきやくりよう》だ。わしの話も、今日で終りということにしよう。棟方に、板画が作るのでなく、生まれて来るようになるよ。|しっかりしろッ《ヽヽヽヽヽヽヽ》」
先生はハッキリ、わたくしの肩をパアンと叩いてくださいました。……
いささか近世名勝負といった感じのする場面であり、また会話もかなり棟方調になっているようではあるけれども、この插話は志功について、相当重要なことを示しているようにもおもわれる。それについて語るためには、あの奇想天外の阿佐ヶ谷時代≠フところまで引返さなければならない。
竹谷賢一郎の喫茶店の開店前後、仲間と一緒に、志功は今官一の家で麻雀に熱中していた一時期があり、まえにも書いたように志功の麻雀は念力派であって、手製の牌を汗と鼻水と唾で濡れた指先に余りの念力を籠めて引きしぼったために、筆で書かれていた記号が拭い去られノッペラボウと化し、なんの牌か判らなくなって、大騒ぎのすえ結局その回は流れてしまったことがあった。
この逸話は、志功の生涯を象徴しているような気がする。極端ないい方をすれば、与えられた条件――いわば配牌を、いっぺん白紙に戻し、そこに自分の好きな文字と記号を書きしるして、おもうがままに自己流のゲームを展開して行ったのが、かれの生き方であったようにおもわれるのだ。河井寛次郎に『碧巌録』の講義を受けたいまの場合もそうである。アカデミックな教育を受けた人間であったなら、字句の解釈などにとらわれて、いろいろとおもい迷い、百則のなかの一部を習っただけで全部おなじ、とはなかなか断定でき兼ねるだろう。志功は、いってみれば百の牌に書かれていた文字を綺麗さっぱり拭い去って、そのすべてをいちど「無」という白牌に戻し、――それからが、わたくしの『碧巌録』です、というのである。
それは河井寛次郎にとっても、わが意を得たことであったろう。三十代の前半で技術の粋をきわめたかれが無名の工人のつくる物の美に目覚めてからの苦心は、むしろ余計な技巧と知識を忘れることにあった。かれはそうした「無」の境地を、志功にも知ってほしかったにちがいない。だからこそ、――|朕《ちん》はこれまで、多くの寺を建て、多くの僧をつくって来た、これは大変な功徳であろう、と問うた|梁《りよう》の武帝に対して、達磨大師が、――無功徳! と|喝破《かつぱ》したそのあとのところから始まる『碧巌録』の第一則を、最初の講義に選んだのだとおもわれる。
余談になるが、河井はこのあと、志功が帝展に油絵を出してまたも落選したとき、「ラクセンオメデトウ」という電報を打った。昭和四年に帝国美術院から無鑑査として推薦されたときだけ儀礼的に出品したあと帝展への出品をやめていた河井は、志功が功を急いで、帝展程度の世俗の権威にとらわれてほしくなかったのだ。自分を無にすれば、無理に作らなくても、作品はおのずと生まれて来るようになる……。実作の体験に裏づけられた河井のこの教えが、志功にどれだけの実りを|齎《もた》らしたかは、これから次第に明らかになって来る。少なくとも志功は京都の河井の家を訪ねたこのとき、かれの後半生の方向を決めた宗教的な主題に目覚めて、『碧巌録』の第一則にある言葉の、――|衆流《しゆりゆう》を截断するに至っては、|東涌西没《とうゆうさいもつ》、逆順縦横、與奪自在なり、という何物にも拘束されない自由奔放な境地に足を踏入れたのだった。
アカデミックな教育を受けていないというマイナスを、それゆえにかえって知識に拘束されないというプラスに変えて行く。眼が悪くて正確な写生ができないという画家としてのマイナスを、版画を選び大胆なデフォルメを行なうことによって、自分の強味に変えて行く。国画会が版画に割くスペースが少なければ、逆に自分の作品を大きくして他を圧倒する。以前からそうであったが、以後はさらに鮮明に、拘束を逆手にとって、マイナスをプラスに変えようとする渾身の力業が、棟方志功の根本的な生き方になって行くのである。
せっかくの『碧巌録』の講義は返上したが、志功は河井の話から遠ざかろうとしていたわけではなかった。かれは毎晩、まえよりも河井に密着していた。「都会の文化は玩具だ。地方の文化こそ本物だ」…「東北は日本で一番文化的に進んでいる地方だ」…「火と鉄がぶつかり合う鍛冶屋は素晴らしい仕事だ」といった河井の持論は、それが知識人であり千年の古都に住む人の言葉であるだけ、長いあいだコンプレックスに悩んで来た志功を興奮させ、感激の涙に|噎《むせ》ばせずにはおかなかった。
そうした志功に、河井もいっそう親近感を覚えていた。柳宗悦によれば「河井は焼物の名人である。だが更に尚『|受取方《うけとりかた》』の名人である」…「河井は物のみならず人間にも感心する場合が多い。例の受取方で、素晴しくその人を受取つて|了《しま》ふ。さうしてまるで自分のことのやうに|悦《よろこ》ぶ」という独得の感受性で、かれと志功のあいだには、すこぶる緊密な共鳴現象が生じているようだった。この年の暮、河井は志功について、次のように書いている。
――今君の曇りなき叡智とさらけ出された本能との前に立つて思ふ。君は|畏《おそ》るべきものを|有《も》つ人だ。君のものを見てゐると、人が|嘗《かつ》て山野を駆け廻つてゐた時の荒魂が頭をもたげる。君は確かに人々の中に隠れてゐる荒魂を呼び返す人だ。
――君が汗を流し、唾を飛ばし、時には踊り上つたりして話すやうに、現はされたものも汗を流し、唾を飛ばし、踊り上るかのやうだ。これは見てゐても気持がいゝ。しかし、もしもこんな君の行為や現はすものが野人非礼と|看《み》なさるゝやうなことがあるならば、それは潔癖と沈滞と礼儀との幽霊からでなくてはならない。……
これは十二月に、志功の新作『華巌譜』の一部を見ての感想だが、この四月の滞在中にも、河井は志功に対して、これに近い讃辞は口にしたろう。志功はときに他人が口にしていない讃辞であっても、自分の頭の中に聞く人である。それをこれだけ実際に褒められたとしたら、どんなに奮起させられたかは想像するに余りある。志功は自分の家のことも、殆ど忘れかけていたのかも知れない。そこへ一通の電報が来た。
――チヨヱビヤウキオモシスグカヘレ
生後七箇月のちよゑが病気になったらしい。チヤからの電報である。妻子がいることを隠していた志功は、どうしよう……とおもった。
河井寛次郎は、志功に妻子がいるとはおもっていなかった。中野区大和町の家を訪ねたとき、家のなかに同居している気配が漂っていたのは、志功の言葉によれば、たしか姉とその子供たちだった筈である。河井は、すっかり気に入ったこの愛すべき青年の結婚の心配までしてやろう……と考えていたくらいであった。けれども電報を手にして、珍しく表情を曇らせた志功が、|口籠《くちごも》りながら、
「あのう、急に東京へ帰りたくなったんですが……」
といい出したとき、河井は、まだはっきりとは判らなかったけれど、勘よくおおよその事情を察して、
「そうか。じゃあ、これは少しだが、みんな、だれもかも幸せになるようにな」
と、志功の手に金を握らせた。
「きっと、また来ます」
頭を下げて再会を約した志功は、大急ぎで京都から東京へ帰った。さいわいなことに、ちよゑは危機を脱していたが、一時は生命まで危ぶまれたほどの重病であった。かかりつけの上条内科の病室が空いていなかったので、上条医師の伯父がやっている高円寺の河野病院へ入院したちよゑの看病を、チヤはほぼ徹夜で続けていた。ちよゑの病気には、伝染性の|虞《おそ》れがあったので、五歳のけようと三歳の巴里爾を、一緒に病室へ連れて行くわけにはいかなかった。志功がいれば二人の面倒を見て貰えるのだが、その夫は京都へ行ったきりである。チヤは家にいるけようと巴里爾の食事の世話をしてから病院に駆けつけ、看護婦が幼いちよゑの細い腕にうまく注射の針をさせずにいるのを見兼ねて、かつて看護婦だった経験を生かして代りに注射をし、食事時になれば病院と自宅を往復するなど、不眠不休の数日を送って、そのあいだには意識を失いかけたことも何度かあった。
もしチヤが倒れてしまっていたら、けようと巴里爾は、どれだけ心細い立場に置かれていたか判らない。志功が家のことも忘れ、京都で感激と興奮の日日を送っていたあいだに、妻と三人の子供は、そのような危機に見舞われていたのだった……。
志功が東京へ帰ったあと、河井寛次郎は、柳宗悦、濱田庄司とともに、朝鮮への旅に出た。柳にとっては十二度目の、河井と濱田にとっては初めての朝鮮旅行であった。これより十七年まえ――、朝鮮で起こった三・一独立運動に、日本が陸海軍を動員して大弾圧を加えた直後、
――吾々とその隣人との間に永遠の平和を求めようとなれば、吾々の心を愛に|浄《きよ》め同情に温めるよりほかに道はない。|併《しか》し日本は不幸にも|刃《やいば》を加へ罵りを与へた。之が果して相互の理解を生み、協力を果し、結合を全くするであらうか。否、朝鮮の全民が骨身に感じる所は限りない怨恨である、反抗である、憎悪である、分離である。独立が彼等の理想となるのは必然な結果であらう。彼等が日本を愛し得ないこそ自然であつて、敬ひ得るこそ例外である。……
と「読売新聞」に書いたのは、当時まだ三十歳であった柳宗悦である。柳は二十六歳で最初の朝鮮旅行をしたときから、朝鮮の芸術に心を奪われていた。
――私は朝鮮に関して殆ど何等の学識を持たない。又朝鮮の事情に就いて豊かな経験を所有する一人では決してない。|然《しか》し私に是等の躊躇があるとはいへ、ここに私をして発言せしめる資格を全く欠いてゐるのではない。私は久しい間朝鮮の芸術に対して心からの敬念と親密の情とを抱いてゐるのである。私は貴方がたの祖先の芸術ほど、私に心を打明けてくれた芸術を他に持たないのである。又そこに於てほど人情に細やかな芸術を持つ場合を他に知らないのである。(『朝鮮の友に贈る書』)……
貴方がたの国について余り知るところがない、といいながらも、得意の直感力によって、この国の芸術の美は「悲哀の美」である、と断定した柳の思想と美学には、今日、崔夏林氏や金両基氏や金達寿氏から、傾聴に値する批判が行なわれているが、それにしても大正十一年刊の『朝鮮とその芸術』の序文において、
――軍国主義を早く放棄しよう。弱者を虐げる事は日本の名誉にはならぬ。
吾々は人間らしく活きようではないか。自らの自由を尊重すると共に他人の自由を尊重しよう。|若《も》しもこの人倫を踏みつけるなら世界は日本の敵となるだらう。さうなるなら亡びるのは朝鮮ではなくして日本ではないか。……
と、早くも軍国主義日本の将来を正確に言い当てていた柳の主張が、鶴見俊輔氏の指摘する通り「この時代の日本人の思想的水準を抜く一つの行為だった」ことも、間違いのない事実だろう。
――結合と征服による統一とを混同してはならぬ。個性と個性との互の認許によつて、敬念と理解と愛情とが湧くのだ。……
そうした信念によって、柳が東京で開いた「李朝陶磁展」に、河井は陶芸家としての方向の転換を迫られるほど強い衝撃を受けていた。そのころから、すでに手中にしていた様様な技術を捨て、李朝系の簡潔な表現に向かっていた河井にとって、初めての朝鮮旅行は、志功の京都行にも似た念願の実現であった。ことに前年からこの昭和十一年にかけては、李朝の硯から受けた刺激をもとに、そのかたちを土にうつそうと陶硯の制作に熱中していたころであったから、「|受取方《うけとりかた》」の名人であるかれの旅行中の感動ぶりは非常なものだった。気に入った民芸品を手に入れたときなど、晩酌を楽しみながら嬉しさを堪えきれず、その品物を抱えて畳の上を転げ回ることもたびたびあった。
濱田も「朝鮮のものは何でも|桁《けた》違いだ」とおもったくらい、いろいろな物に感心していた。ある日、木鉢をつくっている老人のところへ行ってみると、生木を|刳《えぐ》って鉢をつくっている。「それじゃ形が狂うだろう」と訊ねると「狂ったらどうして悪いのか」と逆に問い返された。そこで「割れも出るだろう」と聞き直したら、「割れたら直す」という答えで、その直したものを見ると、|繕《つくろ》い方が実に見事で、かえって割れた鉢のほうが欲しくなったくらいであった。
河井が、美を追いかける仕事より、あとから美が追いかけて来る仕事のほうが本当だ、と考えるようになったのも、こうした無名の工人たちが、ただ日常の用に立つことだけを目指してつくった雑器の美しさに驚いたからであったのだろう。毎日、朝鮮の風土と文化に感嘆する一方で、しばしば三人の話題にのぼったのは、棟方志功のことだった。河井はかれに『碧巌録』や『無門関』について講義をした話をし、それに対する志功の反応ぶりを紹介した。
柳宗悦は宗教哲学の専門家でもあって、二十八歳のときに「|趙州《じようしゆう》和尚に僧問ふ、|狗子《くし》に還つて仏性有りやまた無しや。州云く、無」という無門関の第一則を冒頭に引いた『宗教的「無」』を書いていた。柳の考えによれば、一切の色を容れ得る白紙が「無」なのであって、そこには未だ真偽、善悪、美醜の区別が生じておらず、何物もないゆえにすべてを含み、すべてが自然のままであり、ありのままにして完璧であり、自然さのきわみであるような境地を「無」というのである。
三人の眼に映った志功は、そうした白紙のようにおもわれ、また生木で鉢をつくって「形が狂ったらどうして悪いのか」と反問した朝鮮の老工人も、自然そのままの「無」の境地に生きているようであった。河井が日本に帰って来てから、座右に常備していた電報用紙に筆を走らせ、志功に宛てた電報を、つね夫人に託して郵便局から打たせたのは、朝鮮旅行における感動と収穫を、一刻も早くかれに伝えたかったからであったのかも知れない。
四
――ハヤクコイクマノコサン(早く来い、熊の子さん)
そう書かれている電文を、志功はチヤに示した。ちよゑはまだ完全に回復していた訳ではなかった。けれど測り知れぬ深さと広がりを持つ古都の一端に触れた志功は、京都が恋しくて堪らず、すぐにでも行きたくて仕方がなかったのだ。「おらが絵描きとして大きくなるためには、どうすても、もう一回、京都さ行って勉強して|来《こ》ねば|駄目《まいね》ンだね」志功はチヤに向かって懸命に弁じたてて、ふたたび京都の河井家に向かった。
五条坂の家の裏手にある巨大な登り窯を、河井は近所に住んでいる陶工たちと共同で使っていた。その人たちと朝にまず抹茶を飲み菓子をつまんでから始める河井の仕事に本格的な調子が出るのは、午後に入りかけたころからだった。志功はそれまで一緒にいたあと、河井が描いてくれた略図を頼りに、京都の寺めぐりに出かけた。二度目の滞在中、河井に教えて貰った寺のなかで、最も熱中したのは、|竜安寺《りようあんじ》の石庭であった。
当時、竜安寺の石庭は、いまのように有名であった訳ではない。にもかかわらず凝としていることの不得手な志功が、毎日のように通いつめて、半日近くも眺めていたというのだから、どれほど心を惹きつけられていたのかが判る。禅の公案のようなこの庭の持つ意味を考えつめていたのだろうか。それとも、彫刻力の跡のように箒目が刻まれた長方形の白砂のうえに、五群の石組が配置され、三方をちょうど額縁のような油土塀で囲まれていて、見方によってはまるで白黒の版画のようにもおもえるこの庭を、自分の理想とする美術として飽かず見つめていたのだろうか。
訪れる人も稀な竜安寺の石庭に通い続けた志功は、寺の人と顔馴染になり、ある日、午後から雨が降ってきたときには、寺の傘を貸し与えられて帰って来たほどであった。夕方、五条坂の家に戻って来ると、志功は登り窯のところへ行き、仕事が終りかけている人たちに向かって、その日に見たものへの感動を、声高に述べたてた。河井寛次郎の甥の河井武一は、五つ年上の志功を、――東北の人とはおもえないな、と、そう感じていた。東北の人は無口で、どちらかといえば陰気な性格のようにおもっていたのに、志功はまるっきり陽気で、仕草が面白く、自分の綽名である熊の子の真似をして飛び回って見せたり、「|達磨《だるま》遥かに|此土《このど》に大乗の根器有るを観て、遂に海に|泛《うか》んで得得として来り、心印を単伝して|迷塗《めいと》を開示す。|不立文字《ふりゆうもんじ》、|直指人心《じきしにんしん》、|見性成仏《けんしようじようぶつ》。若し|恁麼《いんも》に見得せば、|便《すなわ》ち自由の分あらん……」と、碧巌録第一則の評唱を、音吐朗朗と暗誦しながら、家のなかや庭を歩き回ったりしていたからである。
竜安寺のほかに、志功が足しげく通ったのは、五条坂のすぐ近くにある恩賜京都博物館と三十三間堂、それに養源院、建仁寺、六波羅蜜寺などだった。三十三間堂にあって見る者を威圧せずにはおかない風神雷神の二像は、やがて志功が制作する『華巌譜』のなかに姿を現わして来ることになる。志功は、三十三間堂の風神雷神像に想を得たとおもわれる俵屋宗達の傑作『風神雷神図』の屏風も、建仁寺か京都博物館のどちらかで見ていたのかも知れない。宗達は、志功が二十四歳のころから、松木満史にその素晴らしさを吹き込まれていた画家である。養源院の本堂にある宗達の松の図の襖絵は、たぶん見ていた筈で、後年の志功の松を描いた襖絵や屏風の構図が、宗達のそれと無縁であるとはおもえない。
そして京都滞在中、志功の眼に最も数多く触れたものは、河井寛次郎の蒐集品と、かれの作品であった。たとえば|木喰《もくじき》仏。柳宗悦の発見と推賞によって有名になったものだが、見たところ芸術的価値があまり高いとはおもえず、いかにも稚拙で素人っぽく泥くさい木像であるけれども、その微笑の単純な健康さと親しみ易さや、あるいはそれとは裏腹のグロテスクな感じや皮肉なユーモアは、まことに独得である。――これでいいのだ、という柳や河井の主張は、息を詰めるようにして名だたる国宝級の仏像や絵画を見歩いていた志功に、一種の安心感と解放感を与えずにはおかなかったろう。
それにもまして志功に刺激を与えていたのは、河井自身の作品であったのに違いない。好奇心と知識欲の旺盛な松木満史は、早くから展覧会で見た河井の仕事の非凡さに着目して、熱心にそれを志功に語っていた。大正の末期に、いったん獲得した高度の技術と訣別した河井の作品は、数年まえから、野性的で魔術的な魅力を持つ独自の世界を確立し始めていた。無名陶の境地に徹しようとしていた河井は、賞を争ったりすることを嫌っていたが、この昭和十一年の翌年、高島屋の川勝堅一が独自の判断で自分の所蔵品からパリの万国博覧会に出品した『|鉄辰砂草花丸紋壺《てつしんしやそうかまるもんつぼ》』は、作者の意思とは無関係にグランプリを受賞している。そうした時期に、志功は河井の身近にいて、その日常と制作活動に接していたのだった。
「棟方君、ぼくが東北へ旅行したときのことだがね、米沢の近くで素晴らしい|簑《みの》を着ている人を見かけたんで、矢も楯もたまらなくなって、譲ってもらえないか、と頼んだら、その簑をつくっている人のところへ連れて行ってくれた。いや、驚いたね、その家全体が素晴らしい簑と同格の美しい暮しなんだよ。がっちりした太い|梁《はり》、磨き抜かれて黒光りしている床や戸、土間の天井には一年分ぐらいの縄や草履や雪靴が吊してあって、大きな囲炉裏が切ってある広い板の間の天井には、一面に大根や|蕪《かぶ》を乾してあったんだが、どちらも実によく整頓されている。ぼくは眼を洗われたような気がしたね。だからこの京都の家も、いまになかをそんな風につくり変えようとおもっているんだ」
「美を目指してする仕事は、結局、その作意から出られないことが多い。また、ただ美しいだけの仕事なんて、大したものじゃない。まず自分を無にして、これまでの自分を捨てて仕事をする。すると、美しいものも醜いものも、本当も嘘も、善も悪も、なにもかもすべて含んだ仕事が、自然に生まれて来る。そういう仕事が大切なんだよ」
河井の言葉は、つまり志功が、いまのままで進んで行けば、それでいいのだ、ということを語っているようであった。田舎者であっても、正統的な美術教育を受けていなくても、自分を無にして仕事に没入すれば、やがておのずから、ひとつの世界がひらけて来る……と。一回目と二回目をあわせて四十日にわたった京都滞在で、志功が貪欲に吸収したものは、質量ともに自分でも測りきれないほどのものであったろうが、いちばん大きかったのは、この河井に与えられた暗示と自信であったにちがいない。
東京へ帰った志功は、こんどは栃木県の益子に濱田庄司を訪ねた。河井を滔滔とした河の流れとすれば、濱田は山中の深い淵である。志功が仏教に関心を持ち始めたことを知った濱田は、「ぼくは、きみを教えたり、導いたりする柄ではないから、柳と河井に、きみを預けよう」といい、さらに自分の妹婿である厩橋の天台宗泉竜寺の住職|大照円雄《おおてるえんゆう》師と、民芸運動の同志で仏教にも造詣の深い水谷良一を紹介してくれた。この水谷良一に華厳経の講義を受けたことから、志功はいよいよ、初めて宗教的主題を正面に据えた『華厳譜』の制作に取組むことになったのである。
五
水谷良一の家は代々木山谷にあった。新宿から出ている京王電車の神宮裏で降りて、明治神宮へ向かう道を横に折れたところにあるこの家に、水谷と知合ってからの志功は、しょっちゅう通い始めた。代々木は緑の多いところである。季節は六月で、初夏の風が木木の新緑をそよがせているころだった。
庭が百坪ぐらいで、建坪が三十坪ほどの水谷の家には、さまざまな焼物や書画が、飾られているというよりは無造作に置かれていた。焼物は李朝のものや、その流れを引く薩摩の苗代川|窯《がま》のものが多く、絵はおもに池大雅の南画であった。水谷はこのころ志功より二つ年上の三十五歳で、商工省特許局の意匠商標課長だった。志功はこの家に通い始めると間もなく「熊の子さん」という綽名で、子供たちの人気者になっていた。長女の美知代や次女の素子、長男の烝治などと遊んでいるうちに、水谷が役所から帰って来る。夕食のときに出される食器類にも、由緒のある本物らしい味わいがあった。「はあッ……」と志功はそれらの食器類を見て、感嘆の声を挙げた。
「これは、うっかり割ったりしたら、大変ですな」
「いや、割れるのは仕方がないよ」
水谷は鷹揚に答えた。「こういうものは、日常の役に立つためにつくられているんだからね。使わなければ意味がない」
別に無理をしているわけではなかった。愛知県西枇杷島町で味噌醤油の醸造業を営んでいる素封家の長男として生まれ育ち、一高、東大の学生時代に白樺派の運動に心酔して、いまも役所に勤めるかたわら、柳宗悦らの民芸協会から発行されている雑誌「工芸」の編集に携わり、比木喬という筆名で常連の執筆者にもなっていたかれは、たとえ高価な焼物であっても、日常の用に使わなければ意味がない、とそうおもっていたのだ。
水谷は東大法科の学生時代、我妻栄に次ぐといわれたほどの秀才であったのだが、どういうわけか高文試験の成績は芳しくなく、最初は内閣統計局に入り、そこから商工省に移って来ていた。やや不本意な道を歩んでいたことが、よけいにかれを趣味と読書の世界に没頭させたのかも知れない。民芸運動のほかに、宝生流の謡曲と、囲碁を趣味にし、神田の一誠堂に注文してよく運ばれて来る夥しい量の本を読んで、仏教にも造詣が深かったかれは、ある夜、夕食が終ったあと志功にこういった。
「いまのきみは、ちょうど善財童子みたいなものだな」
「ゼンザイドウジ、って何です……」と志功は聞いた。
「華厳経の|入法界品《にゆうほつかいぼん》に出て来る青年なんだよ。この青年は、悟りを開くために、五十三人の善知識、つまり先生を訪ねて旅して歩くんだ。入法界品というのは、その旅の模様を、まるで目に見えるように描いた小説みたいに面白いお経なんだけどね。青年は最後に、|弥勒《みろく》、|文珠《もんじゆ》、|普賢《ふげん》の三菩薩に会って、ついに悟りを開くんだが、この善財童子と、教えを求めて柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司の三人に会って旅をして来たきみとは、まさにそっくりじゃないか」
「……はあっ」とまた感嘆の眼を見張った志功は、持前の鋭い感を発揮して「つまり、ぼくを善財童子とすれば、弥勒菩薩は濱田先生、文珠菩薩は河井先生、普賢菩薩は柳先生、ということになるわけですな。すると、水谷先生は……」
「ぼくなんか物の数に入らないがね。善財童子が訪ね歩いたのは、偉い菩薩様ばかりじゃないんだ。五十三人の善知識のなかには、天の神、地の神、夜の神、それに仙人、|婆羅門《ばらもん》、|外道《げどう》など、ありとあらゆる神や人が含まれているし、女神と、それに|比丘尼《びくに》などの女性も二十人入っている。自分以外の人はすべて師、というのが、善財童子の考えなんだ」
「そ、それは、ぼくもおなず考えです!」志功は興奮して叫んだ。
「うん。だからきみは、善財童子なんだよ。大体この華厳経は、もとは雑華経ともいってね、名もない花も含めたありとあらゆる華、すなわち|雑華《ぞうか》をもって|荘厳《しようごん》する、つまり雑華によって飾られた世界、というのが、華厳という言葉の意味なんだ」
「……なるほど」
志功は唸り声を出して頷いた。なんという偶然の一致だろう。かれが秋に咲き乱れる様様な花を想像で描いて、初めて帝展に入選した油絵の題は『雑園』であった。その雑華によって荘厳されているのが、華厳の世界であるというこの話に、かれがどれほど強い感銘を受けたのかは、やがて引越した自分の住まいを、「雑華山房」と名づけたことからも判る。
「雑華で飾られた世界、というと、なんだか小さいみたいだがね」水谷は話を続けた。「この華厳経は、実はとてつもなく大きな世界について語っているお経なんだ。奈良の東大寺の大仏は、この華厳経の仏様、|毘盧舎那仏《びるしやなぶつ》なんだよ」
「ビルシャナ仏……?」
「そう。ビルシャナというのは光、光明の意味なんだ。宇宙全体を|遍《あまね》く照らし出す光明、それがすなわち広大無辺に限りなくひろがっていく華厳経の世界なんだ。どこまで行っても尽きることのない無限の宇宙。その暗黒の虚空に仏の光明が達したとき、すべてのものが溶けあって生生流転する姿が見えて来る。ビルシャナは、そういう宇宙の本質に目覚めさせる光なんだ」
聞いているうちに、志功は本当に目が覚めたような気分になって来て、河井寛次郎に『碧巌録』の講義を受けたときから、脳裡にひろがっていた深く暗い森のような景色に、すこしずつ光が射しこんで来たような気がした。
「そしてわれわれが本当に目覚めたとき、それを悟りというわけなんだが、自分と全宇宙が合体して、そこに生命そのもののような歓喜と、融通|無礙《むげ》、円転滑脱、自由自在の境地が生じて来る。そこまで行けばしめたものだよ、棟方君。仕事が苦痛ではなくて、喜びになる。無理に作らなくても、作品が自然に生まれて来るようになる。どうだ、華厳経というのは、素晴らしい教えだろう。ひとつ善財童子が普賢菩薩に会って、悟りを開く直前のくだりを読んでみようか」
そういって机上から『華厳経講義』という本を取った水谷はページをめくって、「入法界品」の最後に近い部分を朗読した。
「その時、善財、普賢菩薩を見るに、|一一《いちいち》の|毛孔《もうく》より一切世界の|微塵《みじん》に等しき光明を放ちて、あまねく一切の虚空|法界《ほつかい》に等しき世界を照らしたまい、一切衆生の|苦患《くげん》を除滅し、ことごとくよく菩薩の善根を長養し、一一の毛孔より種種の香雲を|出《いだ》して、あまねく十方一切の如来およびもろもろの|眷属《けんぞく》に薫じ、一一の毛孔より一切世界の微塵に等しき|華雲《けうん》を出し、一一の毛孔より一切世界の微塵に等しきもろもろの|香樹雲《こうじゆうん》を出し、もろもろの妙音を出して法界を荘厳し、一一の毛孔より一切世界の微塵に等しき|妙宝衣雲《みようほうえうん》を出して虚空を荘厳し……」
耳で聞いているだけでは、ひとつひとつの言葉の意味がはっきりとは掴みきれなかったけれども、おなじ言葉の繰返しが多いところから生まれる韻律の調子のよさが快い音楽のように感じられて、志功は次第に陶然となり、まえよりも興奮が高まって来た。いま聞いたばかりの短い講義で、厖大な華厳経の全貌をとらえられる筈はなかったが、一を聞いて十を知るのは志功の得意とするところであり、それに水谷の口から出た雑華、荘厳、光明、広大無辺、無尽、無限、生生流転、融通無礙、円転滑脱、自由自在、歓喜……といった言葉は、いずれも大好きなものばかりであったので、それらの言葉に想像力を刺激されて浮かんで来た自分なりの華厳の世界のイメージは、かれの興奮を激しく掻き立てずにはおかなかった。
「……虚空はまた|量《はか》るべくも、仏の徳は説くとも尽すことなし。この法を聞きて歓喜し、心に信じて疑うことなき者は、|速《すみや》かに無上道を|成《じよう》じて、もろもろの如来と等しからん」
普賢菩薩が告げた最後の言葉を、水谷が朗読し終った途端に、脳裡の深く暗い森が、毘盧舎那仏の光明によって、あかあかと照らし出されたように感じた志功は、「水谷先生ッ、ぼくは華厳経を版画に彫ります!」本当に善財童子になりきったような面持でそう叫んだ。
志功はそれから一箇月近くも、水谷の家に姿を見せなかった。たったあれだけの話で、華厳経のことが判ったのだろうかと、心配になった水谷は、「いちど遊びに来るように……」と速達を出した。それでも志功は顔を出さず、暫くして葉書で返事が来た。
――速達をいただきましたが正直に一厘の金もなく外に出られずに居ました。御容赦下さる様に。此れが私への仕事へのみせしめと思つて居ます。また懸命をつゞけます。カユを啜つてハダカで|我張《ママ》るもとに『華厳譜』十二作にかゝります。……
七月の末にこの葉書を見た水谷は、さっそく役所の帰りに、中野区大和町の志功の家に寄ってみた。ろくに飯を食っていないせいか、やたらに眼がギョロついているように見える志功は、感激のていで水谷を迎えたが、「まったく金がないんじゃ、困るだろう。これからどうするつもりなんだ」という質問には、ただ「はあ……」という心細い答えで、何の思案もない様子であった。水谷は見兼ねて、『大和し美し』の一部分を何組か摺って柳宗悦のもとへ持込むことを勧めた。自分も一緒になって、それを民芸協会のメンバーに売捌いてやろう、と考えたのだ。志功は大喜びで承知した。
「水谷先生、なにもありませんが、うちで晩御飯を食べて行って下さい」
そういって出されたおかずは、身と皮から白い塩が厚く盛上がっているような塩鮭の切身だった。ほんの一かけらもあれば、飯の二、三杯も食えそうなほど塩っ辛いやつである。食通でもある水谷は、その塩鮭を噛んでみて、いまさらのように志功が送っている生活のきびしさを知らされたおもいだった。ただし青森の人間にとって塩鮭は、いかに塩辛くても、ご馳走なのである。
水谷の口添えもあって、柳宗悦を訪ねた志功は、『大和し美し』のうちの五枚を十五組摺って、柳に預けることになった。志功はサービスのつもりであったのか、十五組の版画に白と茶の|胡粉《ごふん》で彩色したものを持って行った。その彩色の仕方が余りにも泥臭く、せっかくの原画のよさを消してしまっているので、柳は元通り黒白二色だけに摺り直して来るように命じた。(このことが、のちに志功の独得な裏彩色の技法を生み出すきっかけになったのである)。摺り直した版画を持って行って、その代金の一部を受取った志功は、勇躍して『華厳譜』の制作に取りかかった。
華厳経の内容を、さらに深く勉強してみようとは考えなかった。かれはすでに自分自身が、限りない向上を目指して求道の遥かな遍歴の旅に出た善財童子のつもりになっている。善財童子が訪ねた五十三人の善知識には、――ありとあらゆる神と人が含まれていて、女神と女性も二十人入っている、と水谷良一はいった。だとしたら、自分がこれから彫り進めて行く版画の旅のなかには、どのような神や人が登場しても構わない訳ではないか。
暑い真夏の日日、汗かきの志功は、まず朝方に柳、河井、濱田らへ近況を報告する葉書を|認《したた》めると、鉢巻きを締め、上半身裸になって仕事を始めた。全身汗びっしょりになりながら、体ごとぶつけるようにしてする仕事には、たしかに苦痛を通り越した爽快な喜びがあった。かれは想像力の|赴《おもむ》くまま、自由奔放におもいついた神や仏を華厳経の世界に登場させ、あとはひたすら「華やかにして厳かに……」と念じながら彫り続けた。華厳の全世界を遍く照らし出して、人人を目覚めさせる光明の毘盧舎那仏はだれか。それにはやはり柳宗悦がふさわしい……。体と頭をともに働かせて彫り続けているうちに、志功は夢中になって、無我の境に入り、殆ど寝食を忘れた。かれの『華厳譜』には、いつの間にか京都の三十三間堂で見た雷神が姿を変えて出現していた。宗達の風神は、阿修羅王になっている。善財童子を教え導く文珠菩薩と普賢菩薩は、いずれも豊かな乳房をあらわにした裸身の女性になっていた。あとで次第にはっきりしてくることであるけれども、志功がなにか一段上の高さを目ざすとき、その行手にはきまって「永遠の女性」が姿を現わすようであった……。
最初十二枚のつもりで彫り始めた作品は、計二十三枚になって、なかでも風神や不動明王は、圧倒的な迫力を示していた。完成した作品を、志功は柳宗悦のもとへ持って行った。柳は全体の出来に感嘆しながらも、少しく見劣りのする何枚かについて、「彫り直してくれないか」といった。志功はすぐに彫り直して持って行った。それはまえより数等すぐれたものになっていた。のちにこの『華厳譜』を見た河井寛次郎は、作品の出来映えを激賞して、次のように書いた。
――遺憾なことに真当のものは大抵は痛ましい中から生れるものだ。君もさういふ|籤《くじ》をひいた一人なのだ。……
およそ棟方志功について書かれたもののなかでも、これほど鋭く的を射た評言は少ないだろう。このころの志功の作品は、ろくに食べるものもない生活の痛苦のなかから生まれていたのである。そうした生活のなかで、永遠の女性とおなじように、たえず志功を惹きつけていたものは、故郷だった。『華厳譜』を完成したあと、十月の初めごろにかれは、四年ぶりに青森へ帰った。
ひと夏、汗だくになって働き続けた体に、郷里の秋の風が爽やかだった。この帰郷には、東奥美術展の審査員を頼まれていたことのほかに、『大和し美し』が柳宗悦に認められて日本民芸館に買い上げられたことを、郷里の人たちに伝えたい、という気持もあったのだろう。かれは東奥日報社に、事業部長となっていた竹内俊吉を訪ね、何人もの記者がいる編集室で『大和し美し』の巻物をひろげて見せて、佐藤一英の詩を音吐朗朗と読み上げた。永遠の女性と故郷、といえば、この佐藤一英の詩は、日本武尊にとって永遠の女性であった倭姫と、母なる故郷の大和を重ね合わせて、切切たる思慕の情をうたい上げたものだった。
志功は大好きな青森で、東奥美術展の審査員を勤めたり、入選者の懇談会に出席したりしているうちに、あっという間に日にちが経って、日本民芸館の開館式の日が迫っているのに、東京へ帰る汽車賃の金も、あぶなくなっていた。いわば錦を飾って帰った故郷で、手元不如意の様子を、あからさまに見せる訳にはいかなかった。志功は水谷良一に借金の申込みというか、五枚一組の『大和し美し』の代金催促というか、そんな手紙を書いた。
「此つ方に来てから無収入の為に帰る金子がありませんのでおねがひのお便りであります。先生のお言葉添えをくださいまして甚だ失礼お無礼な願ひで申訳ございませぬが厚かましきことなれ共、帰つた上くわしくおわび申上げますことゝ致しまして『大和し美し』の方より二つ分お用立て願へないでせうか」…「このことについては柳先生にもお叱りを受けることをかくごしてこのおねがひをかきました。お援けをねがひます」という手紙を読んで、水谷はすぐに為替で金を送った。
[#改ページ]
鬼 門
一
志功の『華厳譜』は、昭和十一年の十月二十四日に開館された日本民芸館の開館記念「新作工芸展」に展示された。ようやく人に広く知られ始めた民芸グループの言わばホープとして紹介されたのである。縦三十センチ、横幅三十九センチの版画二十三枚からなる『華厳譜』は、宇宙全体を照らし出す光明である毘盧舎那仏の姿を中心にして、左右に十一枚ずつ、六間の壁いっぱいに陳列されていた。この晴れがましい扱いに、感激家の志功が有頂天にならなかった筈がない。帰京が遅れて開館式には出席できなかったが、民芸館の壁面に飾られていた自作を見たとき、「私は|只《ただ》嬉しさで不覚の涙に泣き濡れる外ありませんでした」と書いている。
柳宗悦ら民芸協会の志功に対する厚遇はそれだけに止まらなかった。十二月に発行される機関誌「工芸」の第七十一号は、棟方志功を特集することになり、編集を担当している水谷良一は、用事があって開館式に出て来られなかった京都の河井寛次郎のもとへ、『華厳譜』二十三枚のうち十枚の写真版を添えて、志功の近況を報告かたがた原稿依頼の手紙を出した。折返し次のような返事が来た。
――棟方ノ事色々御厄介ノ事ト思ヒマス。始メテ聞ク事モ多ク、彼ノ忍苦サコソアラント|一入《ひとしお》打タレマス。何レ上京ノ上委細承リタシ。ソレニ付テモ昨日貴兄ヨリ華厳譜写真受ケ取リ呆レ返ツタモノデス。矢張リ彼ハ獣デシタ。何ト云フ素晴ラシキ奴デスカ。日本ノ絵ハ新シク彼カラ起ルデセウ。彼コソ第一流ノ画家ト云ハレテモ恥カシクナイデセウ。今彼ノ事書キタク一杯デス。……
この手紙は、十二月の末ごろに出た「工芸」の棟方志功特集号の編集後記のなかに引用されていたものなのだが、柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司の激賞の文章が載っているこの雑誌を読むにつけても、あらためて、志功が民芸協会のグループの支援を受けることになった幸運の大きさをおもわずにはいられない。これがもしおなじ版画家の仲間か、あるいは絵画の世界の人物であったなら、「日本ノ絵ハ新シク彼カラ起ルデセウ」といった褒め方をするなどということが、一体あり得ただろうか。
柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司、水谷良一の文章を読むと、感動の仕方が実に劇的で、普通の人間より遥かにオクターブが高い。だからこそ焼物と工芸の世界に、よくもわるくも大変な影響を与える一つの運動を起こすことができたのだろうが、その運動の本拠となる日本民芸館が完成して開館を迎えたこの年に、この人たちの意気は、ますます軒昂としていたと見てよいであろう。志功は丁度そのような時期に、柳宗悦らによって見出されたのだ。柳はこう書いている。
――このことは私達にもよく、又、棟方にもよかつたであらう。私達の友達は皆すぐ彼の友達になつた。それまで不運だつたと思へる棟方の生涯は、彼の言葉を借りると、却つて絵描きの仲間からではなしに、工芸に携はる人達から理解を受けた。幸にも私達の方では探してゐる人に廻り逢へたのである……。
志功は、民芸協会の人たちにも増してオクターブが高く、たとえ最大級の讃辞であっても、照れずにそれを本気で|真《ま》に受けて感奮興起する性質の人間であった。柳はいちど、民芸館の人気のない展示室で、志功の姿を見かけたことがある。そのときの志功は自分の絵に向かい、両手をあわせて一心に礼拝していた。
昭和十二年の新春を、志功はこれまでになかったほど高揚した気分で迎えた。前年の暮には、水谷良一の提唱によって、柳、河井、濱田と、それに|厩橋《うまやばし》源光寺の住職で「工芸」の編集責任者でもある浅野長量、大原美術館長の武内潔真ら民芸協会の幹部を会員として、棟方志功後援会がつくられていた。出来上がった作品を届ける約束で、毎月一人から五円ずつの会費を受取る仕組みであった。これでことしから、少なくとも米と味噌の心配はしなくて済むようになったのである。また前年の暮に出た「工芸」の巻末には、棟方志功木版画|墨摺《すみずり》華厳譜を「二十三枚大揃金壱百円也、各壱枚金五円也」で日本民芸協会が購入申込みを受付けるという広告も掲載されていた。それが何組か売れたら、生活は随分と潤うことになるだろう。
元日には水谷良一から、賞讃と激励の長文の手紙が届いた。志功は初め黙読していたのだが、そのうちに声を出して自分に対する讃辞を朗読し始めた。自分の才能を信じ暮し向きを案じてくれている水谷の情の深さに、胸が熱くなるおもいだった。志功は一日中その手紙を繰返し読んで、二日の早朝に長い長い礼状を書いた。それから間もなく、かれは水谷良一と一緒に、柳宗悦のもとへ年始の挨拶に行った。そのとき柳が出して見せたのは、中国の古版画である『|宋槧《そうざん》三世相』だった。
「どうだ、いいものだろう」
「はあッ、まンずこれは……」
近眼鏡をちかづけ画面を舐め回すようにして感嘆の声を挙げた志功は、ほとんど意味不明の言葉を口走った。「……|出来《でが》されるだけを|出来《でが》された版面ですな」
「これが『宋槧三世相』だよ。支那では、ずうっと昔にもう、これほどすぐれた版画がつくられていたんだ」
「なるほど……」志功は唸った。「こういう美しくなり|終《お》えた仕事を、とっくの過ぎた昔が、もうつくってあったづ訳ですな」
「そういうわけだ。この『宋槧三世相』と、きみの版画には、一脈相通じているところがあるとおもうんだよ」
「そうでしょうか」
「うむ。きみの版画には余分なところがない。だから古版画に近い印象を受けるんだね。つまりきみは版画を選んでよかったんだよ」
そういって柳は、かねてからの持論を繰返した。柳は志功の油絵を、あまり高く買っていなかった。たしかに画面には一種の力感があるが、少少手荒すぎて落着きに乏しい。油絵という手法が志功の奔放さに輪をかけ、余りに|直《じか》に自分を出しすぎるので、どうしても騒騒しくなってしまう。ところが版画という間接的な方法は、志功の余分な角を取って、無駄な力を|削《そ》いでいる。下絵を描き、それを板に彫り、それをまた紙に摺るという三つの段階で、かれは|篩《ふるい》にかけられ、布で|漉《こ》され、さらに凝縮されて、残っていい棟方だけが残っている。それも自然にそうなるので無理がない……というのが、柳の考えだった。
「版画を選んだことは、きみにとって救いだったんだ。油絵のことは当分忘れて、この道を進んだほうがいい。そのために……」
と柳は『宋槧三世相』を指して、あっさりといった。
「これは、きみに進呈しよう」
「本当ですか!?」志功は驚喜直前の表情になった。
「ああ。そのかわり、しっかり勉強して、ますますいいものを見せてくれ給え」
「はいッ。ガ、頑張ります!」
志功は『宋槧三世相』を胸に抱いて夢遊病者のような面持になり、その夜、駒場の柳邸を出て、代々木山谷の水谷良一の家まで歩いて行く間中、支離滅裂な調子で、感謝と感動と決意の言葉を、喚くように語り続けていた。志功と水谷は、ともに酒を口にしないほうであったが、通りすがりの人や、静かな住宅地の家のなかでその声を耳にした人には、てっきり年始回りの酒に酔っているものとしかおもえなかったに違いない。代々木山谷の家のまえで、水谷に別れを告げてからも、興奮した志功は、なおも版画のことだけを考えながら、星の降るような冬の夜空の下の道を、中野区大和町の家まで歩いて帰って行った……。
二
志功が、この春の国画会展出品作の主題として選んだのは、前年の『大和し美し』に引続いて、佐藤一英が「|聯《れん》」と呼ぶ形式でつくっていた長篇連作詩の『|空海頌《そらうみのたたえ》』であった。これは、伝説によれば空海の作であるという「いろは歌」の一字一字について、
いきしにのさだめはしらず
いしぶみはこけむしくづる
いらへなくそらはるかなり
いとなみはときじくにあり
というふうに頭韻を揃えた五七調四行の詩を、四十七節ならべたものである。志功がこの作品を選んだのは、小さいときから短詩型の文学が大好きで、それらの暗誦を得意としたかれが、卓抜な韻律と内容によって第一回の詩人懇話会賞を得たこの詩の魅力に惹かれたからであったのに違いないが、それに加えて、冒頭の「いろは歌」まで加えれば全部で四十八節二千三百三字、つまり『大和し美し』をも上回る長大な詩であったことも無関係ではなかったろう。かれは後年、この作品について、
――その詩を見たとき、これを五十枚のほかに、表題、作者の名、あとさきのかざりを入れると六十枚近くなる。こういうものは、自分だけで見るより仕様がないものだろうから、思い切って、作り方も、特別な作り方でやってみようと思い、はじめて拓本摺板画にしてみました。……
と述べているけれども、「こういうものは、自分だけで見るより仕様がないものだろうから」というのは、言葉通りには受取れない。実際には国画会展に出品しているからである。前年の『大和し美し』が長篇の物語詩であったように、今回の『空海頌』も長篇の連作詩であって、いろは歌の四十七文字を頭韻とする詩のどれか一つが欠けても、作品としての体をなさなくなる。それに前年いったん拒否した『大和し美し』を受入れた以上、審査員には最早、志功にどれほどの大作を運び込まれても、それを拒否する理由はない訳であった。
国画会版画部の同人たちのひそかな反撥と顰蹙を買っていたこうした大作の制作に向かわせていたものの一因が、志向の激しい自己顕示欲と闘争心であったことに間違いはないであろうけれども、単にそれだけでもなかったようにおもわれるのは、前記の話のあとに、次のような本音も洩らしているからである。
――(計五十枚の連作という)当時としてはこういう数多いものは、誰もつくっていなかったので、批評家が誰か何か書くと思ったのですが、その頃は板画はよく世間に見られず、板画家も日本画家の後塵を拝するようなことをしていました。わたくしは何で板画がこんな扱いをされるのかと思い、こんな中では本当に良い板画は生まれないと思いながら唯一人、馬鹿な所存から生まれる作品をつくりつづけようと思ったものでした。……
つまり国画会版画部における志功の傍若無人な制作ぶりは、絵画にくらべて数段下のもののように蔑視されていた版画の価値を世間に認めさせて、その地位を高めるための宣伝活動であり、抵抗運動でもあって、五十四枚の版画を連ねて高さ約一・八メートル、幅約六メートルの壁面を独占したのは、画家の眼から見れば児戯にも等しいとおもわれていた木版画に、数百号のタブローや、さらには壁画にも匹敵し得るだけの迫力を持たせたい、と願ったからでもあったのだった。当時の考えからすると、それは志功自身がいっているように、風車に挑んだドン・キホーテの夢にも似た「馬鹿な所存」であったのに相違ない。
佐藤一英の『空海頌』は、弘法大師その人に直接に関係のある内容ではないが、それにしても、わがくにの書道の祖とされ、書の二聖とも三筆ともいわれている空海をただちに連想させる詩の総計二千三百三文字を、自分の筆蹟で版画に彫ろうという考えも、相当大胆なものだといっていいだろう。この版画を拓本摺りにしたのは、左字を彫り読けることによって生ずる単調さを避けるためだった。見たままの向きで彫れる拓本摺りにすれば、文字の按配を、より自由に工夫できる。後述するように、志功の奔放な制作の仕方は、一見無計算のようにおもわれがちであるけれども、実は大抵このように緻密な配慮がそのかげに隠されているのである。
この作品における志功の筆蹟は、まだ後年の独得な個性のある書体には程遠い稚拙なものだが、その稚拙な文字が『大和し美し』とは比較にならないほど多彩な各種の文様とからみあって、不思議な懐しさを感じさせる魅力を壁面一杯に漂わせていたのに、批評家は『空海頌』について何も書かなかった。国画会版画部の同人や、展示室へ来た観客は画面の大きさで圧倒したものの、志功に対する支持は、民芸運動のグループのなかに止まっており、批評家や画壇は、期待に反してかれの野心作に一顧も与えず無視してしまったのだ。
だが志功は殆ど|怯《ひる》むということを知らない性格であった。
『空海頌』に予期していたほどの反響を得られなかった志功は、よりいっそう大きな風車へ挑むことに決めた。――もっと図抜けて馬鹿な、図抜けて答えることのできない世界をやってみよう……、そう考えて、この年の夏の終りごろから着手したのが『東北経鬼門譜』だった。かれ自身の追想によれば、これは『大和し美し』のすぐ次に出来た作品、ということになっているが、九月八日の消印で水谷良一宛に出された葉書のなかに「『東北経屏風』毎日火を出して彫つてゐます」という一節があるので、『空海頌』を春の国画会展に出してから、しばらく新潟県亀田町の後援者長谷川松郎の家を訪ねて滞在したあと、東京へ帰って来て取りかかった作品だと判る。
『東北経鬼門譜』の主題になったのも、佐藤一英の『鬼門』であった。佐藤は愛知県の出身であったが、詩の先輩である福士幸次郎から、いろいろと聞かされていた津軽の話をもとにして、「ある巫女の呪文」という|副題《サブ・タイトル》を付したこの詩を書いたのだろう、六節から成っていて、それぞれ四行ずつから成っている|節《スタンザ》が、
踊れ
枯葉|折葉《おれは》
綴れ小雪吹雪
|襤褄《つづれ》まとふ骨は長し
というふうに三角形をなしているのは、飢饉で死んで行った人たちの墓標を象徴しているのである。そう佐藤に説明されてみると、志功には、詩の真中のあたりの行が最も長く、左右の両端に近づくにつれて短くなっている行の列が、故郷の墓地に並んでいる卒塔婆であるようにおもわれて来た。
『新韻律詩抄』に収められていたこの詩を初めて読んだとき、(これはどうすても、おらが彫らねば|駄目《まいね》……)志功は全身に鳥肌が立つような感じでそうおもった。冷害で立枯れる稲穂、咆哮する灰色の冬空、人知れず間引かれて川に流される赤児……その暗澹たる世界が、自分の生まれ育った土地なのだ。胸に突刺さって来るような『鬼門』という詩の題から、かれは佐藤弥六の著書『津軽のしるべ』に引用されていた一節をおもい出した。
――天光の運ひとしからず故に|恠鬼《かいき》常に人と交合し、猛獣人と交合して夷種を生ず。これ故に|暴戻《ぼうれい》にして、親子を知らず君長を見ず。最も|異《けやけ》きものを|都加留《つがる》と云ふ。この国、|靺鞨《まつかつ》国に隣り|粛慎《みしはせ》国に続き、陽に背き陰に向ひ、|日本《ひのもと》の鬼門に当れり。……
鬼門というのは、家の中心から見て東北にあたる方角であって、陰陽道では鬼の出入りする所、万事につけて忌み嫌うべき場所とされている。古代中国の陰陽五行説から生まれたこの鬼門という考え方が、わが国に伝来してから、甚だ根強い力を持つようになったのは、奈良時代から平安朝の初期にかけて、都の遥か東北にあたる方角の奥地が、鬼にも等しい蛮族すなわち|服《まつろ》わざる|蝦夷《えみし》の根拠地であったからだった。陰陽五行説によれば、東北の隅は、北の|陰《ヽ》から東の|陽《ヽ》に転ずる急所であって、そこには恐ろしい危難が待受けている……といった程度の言わば抽象的な観念であった鬼門が、古代のわが国には、実際に〈鬼〉の出入りする場所として存在していたのである。
東北の原住民である蝦夷を鬼と考える見方は、むろん家でいえば中心にあたる都のものだが、鬼を文字の原義通り死者の魂と考えれば、東北は確かに、|鬼哭啾啾《きこくしゆうしゆう》の土地であるといってよい。佐藤一英の『鬼門』は、そのような東北をうたった詩であった。
……
穂枯れ|稲城嘶《いなぎいなな》く
嘶き|馳《かけ》れ狂ふ焔
来る日来る日食ふは|草根《くさね》|胡桃《くるみ》
罪と|咎《とが》と|廻《めぐ》る車苦し暗し
……
雲は|氷《こお》る天を撃ちて鳴らせ
永く鐘の鳴るを聞かず
鳴かず流す|汝《な》が子
護れつぼけ
……
文学的な表現になってはいるけれども、これはまさしく志功自身が生きて来た世界であった。「来る日来る日食ふは草根胡桃/罪と咎と廻る車苦し暗し」というのは、事実その通りではないにしても小学校四年のころ青森が冷害に襲われて、学校へ弁当も持って行けなかったときのひもじさと、酒に酔った父親が無抵抗の母親を打擲している家の暗さのなかで、まざまざと実感していたことだった。かれは記憶していない(というのだ)が、三人の弟は生後間もなく死んでいる。詩のなかにある「つぼけ」というのは、「馬鹿者」「ろくでなし」という意味の津軽方言で、気性の烈しい父親から、しばしば投げつけられていた言葉だった。この詩を主題にして、『東北経鬼門譜』の制作に取りかかったときの気持を、志功はこういっている。
――わたくしは、東北の生まれですが、東北も一番はじの冬が長く夏が短い、苦難の多い土地に育ちました。そこでは、百姓は苦労して仕事をしても、わずかの収穫しか得られず、夏あたりから寒い風(東北風)が吹いて、いつも凶作ばかり、豊作という言葉は聞いたことのない土地に生まれました。易の方でも、東北をさして鬼門と言います。その土地に生をうけた、ということは何という宿命であったか。こういう宿命は自分ひとりのものでなく、土地のうけた宿命です。……
そのような宿命を、多くの東北人は長いあいだ恥じて生きて来た。ごく近年に冷害を克服するまで、東北がずっと凶作続きであったのは、別に自分たちのせいではなく、元来、鳥や獣や魚が多く狩猟採集民の蝦夷にとっては暮しやすかった寒冷地に版図を広げて来て、租税収入の増大をはかるために稲作を強行させた大和朝廷をはじめとする支配者の政策によるものであったに違いないのだが、蝦夷の後裔は稲作ばかりでなく都の人人の蔑視と偏見をも甘んじて受入れ、貧しく言葉の訛りの強い鬼門の地に生まれ育ったことを、自分たちの恥ずかしい宿命のようにおもい、肩身を狭くして生きて来たのである。いまの志功は、そのような東北コンプレックスからも解き放たれていた。前年の暮に出た雑誌「工芸」に、柳宗悦はこう書いていた。
――棟方は奥州の生れだ。それは北の端の端だ。是も感謝に余る運命のやうだ。そこの先住民族はアイヌなのだ。棟方の顔を見ると都の男とは違ふ。まがひもなくアイヌの血が流れてゐるのだ。それを未開人などとけなしてはすまぬ。自然の生々しい本能がまだ消えてはゐないのだ。文化人がとうに失つたものがまだ血の中に動いてゐるのだ。荒つぽくとも新鮮で健康なのだ。……
例によって柳一流の直観による断定だが、これは当たらずといえども遠からずだろう。「まがひもなくアイヌの血が流れてゐる」かどうかは判らないにしても、松本明博士の研究によれば、現在の津軽地方人は日本民族とアイヌの混血によって形成されたものであるというのは、まえに書いた通りであり、まして風貌にアイヌ的な特徴が濃く感じられ、後述するように自分の血筋(ルーツ)に並並ならぬ関心を抱いていた志功が、この柳の言葉に、どれほど心強い励ましを覚えたかは想像に難くない。事実このあとのかれは、アイヌのアツシを着て制作に励むようにもなるのである。東北に生まれ育ったことを恥ずかしくおもうどころか、あらゆるマイナスをプラスに転化しようとしていた志功は、人の忌み嫌う鬼門を、むしろ自分の突破口にしたいと考えていた。そのためにかれが取った方法は、師の柳宗悦が呆気にとられたほど、人の意表を突くものであった。中央からの征夷の軍を、神出鬼没の活躍でさんざんに悩ませたかつての蝦夷の戦法も、あるいはそのようなものであったのかも知れない、とおもわせるような――。
棟方志功には、制作時の異常な熱中ぶりを伝える逸話が実に多い。その数の多さが、かえってかれの熱中ぶりを、ひとつの演技でもあったのではないか、と疑わせるほどだ。たとえば、そばにいる人など眼中になく、飼っていたみみずくと大声で話をしながら夢中になって絵を描いている場面を、版画家の関野準一郎も、また別のときに詩人の蔵原伸二郎も見ている。
――見られていることは仕事の励みになり、職人の|芸《ヽ》にみがきをかけさせるのである。畳屋だって、子供たちが道傍から見ていなければ、肘の一突きで一間の畳をくるりと一回転させて裏返すなどという芸当をわざわざ見せたりはしなかっただろう。
「昔の職人は仕事を|見せて《ヽヽヽ》ましたねえ。あれは踊りですよ」
舞踊家の土方巽さんがいつかそう耳元で囁いた。たしかに職人さんは仕事を見られているから|いなせ《ヽヽヽ》になるのである。……
という種村季弘氏の文章は、別に棟方志功には何の関係もなく書かれたものだが、ここに鮮やかに描き出されている職人の微妙な心理と仕事ぶりの関係と、ことに「あれは踊りですよ」という表現は、志功の場合にも、かなりぴったりと当てはまるようにおもえる。その志功も「版画を|刻《ほ》るのは人に見られるのをとても嫌がる風があつて私も滅多に見たことがない。恐らく刻る有様は誰れも知らないだらうと思ふ」とこのころの親友であった蔵原伸二郎は書いている。ところが柳宗悦によれば、やはりこのころ「私は散らばし放題の画室で、棟方が子供を背負い|乍《なが》ら、板を彫つてゐるのを目撃しました」となり、どこに本当の志功がいるのか見分けがつかない。まさに神出鬼没の観がある。
志功自身も、そばに人がいるときには、どこまでが演技で、どこから本当に無我夢中になっているのか自分でも見当がつかぬほど入神の域に達していたのか、または演技がいつの間にか本気になり、その本気がまた次なる演技を|喚《よ》び起こす……といった虚実皮膜の間で踊っているうちに、おのずと酔っているような気分になっていたのかも知れない。それにしても『東北経鬼門譜』を彫ったときだけは、ほぼまったく周囲を気にしている余裕はなかったろう。それは一尺四方の板木を、全部で百二十枚も彫るという大仕事だった。しかもこれまでの『大和し美し』や『華厳譜』や『空海頌』は、二十面から五十四面までの版画を並べる連作形式のものであったのに、こんどは百二十枚の板木を合わせて一面の版画にしようという超大作である。壁画のような大画面であるだけに、まず構図を決めるのが大変だった。
佐藤一英の『鬼門』は、六節百八十九字から成っている詩で、約二千字の『大和し美し』や、二千三百三字の『空海頌』とは、長さにおいて比較にならないから、まえとおなじように字と文様だけを彫ったのでは、こんどはとにかく無闇に大きい版画をつくってやろう、と考えて計画した大画面を埋め尽すことは到底できないし、まえに国画会展に出品した『大和し美し』と『空海頌』について、「棟方の作品は、ただやたらに字ばかり彫って、あれなら幾らでも大きくできるし、だいいち版画じゃないじゃないか」という悪口も聞こえて来ていたので、負けず嫌いの志功は、それに反撥して次は字を彫らず、絵だけでいこう、と決めていた。したがって今回は、大画面を支えるに足りる構図を考え出せるかどうかが、作品の成否を決定することになる。
字は彫らないにしても、構想のもとになるのは、佐藤一英の詩のほかにはない。何度も繰返して朗読し、あるいは黙読しながら詩を睨みつけているうちに、天啓のような考えが|閃《ひらめ》いた。『鬼門』の詩は、六つの|節《スタンザ》の文字が、それぞれ三角形をしており、その六つの節を真中から二つに分けて見ると、行の長さが中央から端へ近づくにつれて短くなっていて、綺麗に左右が対称形になっている。この詩の構成を、そのまま絵の構図に置き換えてみようと考えたのだ。仏様を真中にして、仏から菩薩、菩薩から羅漢、羅漢から行者、行者から人間、そして最後に人間から|曖昧模糊《あいまいもこ》とした化け物までが左右に居並ぶという構図である。逆にいえば両端の化け物が、中央にいる仏の光へ近づくにつれて、次第に煩悩を解脱し、成仏して行くという構図であった。左右両端の化け物は「真黒童女」に「真黒童子」とした。かれらは言わば、地底の闇のなかを漂っていて、まだ成仏できずにいる東北の死者たちの化身であった。
構図が出来上がると、下絵を描いて、板木に貼りつけ、あとは体ごとぶつけるようにして、来る日も来る日も彫り続けた。百二十枚の板木を合わせて一枚の画面にするのだから、一尺四方の板木を彫っている最中は、それが全体のなかで、どの程度の効果を発揮するものやら正確には掴み難い。しかし効果や結果としての出来映えは、問題ではないとおもった。志功の念願は、東北という鬼門を突破口にして、暗かった過去から明るい将来へ通じる道を切開くことだった。とにかく百二十枚の板木を彫り抜けば念願は達成する、そうおもった。
百二十枚の板木を彫ることは重労働だった。志功の作業は、いまや身心のすべてを彫刻刀の先に集中して行なう念仏に近かった。……驚くべきはその速度。否、速かならざれば、彼は一日の糧を得ることができぬ……幾千幾万……その反復において彼の手は全き自由をかち得る。既に彼が手を用いているのではない……何者かがそれを動かしているのである。労働なくして工芸の美はない。器の美は人の汗の|贖《あがな》いである……。彫刻刀を振るいながら志功は口のなかで柳宗悦の教えを繰返していた。九月の残暑のなかで全身汗みどろになって彫り続けていると、やがて何も考えられなくなって、手だけが殆ど自動的に動き続け、本当に自分以外の何者かによって動かされているような感じになって来た。これが柳先生のいう他力道だな……そんな考えが頭の隅をかすめた。いま仕事をしているのは、われではない、仏様だ。われは仏様に動かされて動いているだけだ。とすれば、出来がよくても悪くても、われのせいではない。われはただ彫ればいいんだ。そンだ、ただこうやって、田でも耕す|様《えんた》に、彫って彫って彫ってればいいんだネ。一つァエー、|木造新田《きづくりすんでん》の|下相野《すもあいの》、村のはずれコの弥三郎ァエー、アリャ、弥三郎ァエー……。
そばに見ている人がいなくても、志功の仕事ぶりは踊りであった。大和町百八十番地の家の隣に住んでいた人は、このころの志功の画室に毎晩遅くまで電気がついており、そこから絶えず板を彫る音が聞こえて来ていたのを覚えている。『東北経鬼門譜』は、縦が一メートル五十三センチ、横幅が十メートルを越える大作となって完成された。これほど大きな版画というのは、ほかに前例があるまい。摺り上げた作品を、志功は六曲一双の屏風仕立てにして、日本民芸館主催の第一回新作展の会場である銀座|鳩居《きゆうきよ》堂の二階ホールに運び込んだ。
「……棟方君、これは一体どういう訳なんだ」
柳宗悦が指したのは、六曲一双の屏風仕立てにした作品の真中の部分だった。一双の屏風の左半双の右端の部分と、右半双の左端の部分にまたがって仏様が描かれているので、左の半双と右の半双が接している屏風の|縁《ふち》によって、仏像の顔も体も二つに割れて見える。柳は、志功が持前の無頓着さで、そんな常識外れのことをしでかしてしまったのではないかとおもったのだ。
「これは鬼門仏です」
と志功は答えた。
「鬼門仏……?」
「はあ……」頭に手をやって「わだしがつくった仏様だんですが……」
「しかし、どうしてこの仏様は、屏風の縁のところで、顔と体が半分ずつになっているんだ」
実はそこが、この作品の構図の眼目なのである。
「この鬼門仏はですな」と志功は説明した。「わが身を犠牲にしても、東北という土地に幸いあらしめようとしている仏様だんですよ。この一双の屏風を、半双ずつ左右に分ければ、仏様の体も二つに割れてしまうけれども、そのかわりに鬼門が開かれて、向こうへ通じる道ができる。つまり、わだしはこの鬼門仏によって、自分の身を削っても、天下のために道をあけて行く犠牲の心をあらわしたつもりなんです」
「……なるほど」
頷いた柳は、一目ではとても視野に収めきれない大作に、あらためて横から順に視線を移して行って、最初に見たときにも増して深い嘆声を洩らした。「きみは眼が悪いのに、よくもこれだけおもい切ったものがつくれたものだな。どうしてこんなものがつくれたんだ」
はっきりした答えを期待していたわけではなく、讃辞のつもりでいったその問いに、志功が口にしたのは、おそらくこれまで、芸術家がだれ一人として考えたこともなかったであろうような不思議な答えであった。
「わだしは自分の仕事に責任を持っていませんから……」
志功は平然として、そういった。
「自分の仕事に責任を持っていないって……」
柳は唖然として問い返した。「それはどういうことなんだ」
「はあ、それは、その……」
このときの志功は、自分の気持を、どのように説明していいのかよく判らなかった。周囲の人も、おかしなことをいうものだ、といった顔をしていた。だが津軽のイタコなら、志功の答えを別に不思議にはおもわなかったろう。かつての津軽では、イタコのご託宣を妄信した人たちによって、警察沙汰になるような事件が起こることも珍しくなかった。そんなとき警察の取調べを受けたイタコは、大抵きまってこう答えた。「神様や仏様が、われの口を借りて喋ったことだもの。われが覚えている|訳《わげ》ァねえ……」したがって自分には責任がない、というのである。
三
津軽のイタコは、死者の声を伝えるという「口寄せ」を含む自分たちの仕事を、――ショウバイ、と呼んでいる。テレビなどで持て|囃《はや》されるようになった近頃いい出したのではなく、判っている限りでも明治のなかば頃から、そう呼んで来たのだ。イタコといえば、すぐに呪術とか降霊術といったような、おどろおどろしい色彩で描かれがちだが、つい先頃までの津軽で、それはなによりもまず、不幸にして盲目になった娘が生きて行くための唯一の商売であり、懸命の芸でもあったのである。
このイタコと棟方志功のあいだには、不思議なほど多くの共通点があるようにおもわれる。まず暗記力。これはイタコが盲人であり、志功は小さいときから眼が悪かったことに関係があるのかも知れない。志功とほぼ同年に生まれ、数えの十歳か十一歳のときに|麻疹《はしか》をこじらせて失明し、十四歳のときからこの道に入ったというイタコの話によると――。
修行は、師匠の唱える文句を、ありったけの大声を張上げて復誦することから始まる。神様から声が授かるのは、いったん自分の咽喉が涸れてからだ、とされていたからだ。こうして般若心経、観音経などの経文と、何十何百とある和讃、御詠歌、|祝詞《のりと》、祭文、それに病魔を|祓《はら》い、あるいは死者や生者の霊を呼ぶという|祈祷《きとう》の文句などを、すべて暗誦できるようになるまでは、普通三年から五年かかるといわれているのだが、彼女はそれを弟子入りしてから数箇月で、ことごとく|諳《そら》んじてしまった。ただしそれだけで、すぐにイタコの商売を始められるわけではない。まえにも書いたように、イタコ業開業のための「許し」の儀式がある。
――この行は苦しかった。密室に閉じ籠って連日連夜、|梓弓《あずさゆみ》の弦を叩きながら、師匠のあとについて必死に声をふりしぼり、習い覚えた何百という経文、祭文、呪文を唱えて祈祷を続けていると、何日目からか、胸が切なくなって、食欲が殆どなくなった。食事をとらず、夜もろくに眠らずになおも神と仏を呼び続けているうちに、いつか方角も何も判らなくなって、夢を見ているような気分になった。そのとき自分が何を喋ったのかは、まったく覚えていない……。
実際には気を失うまえに、彼女は|譫妄《せんもう》状態か|憑依《ひようい》状態のなかで、無意識のうちに何事かを口走っていた。それがつまり「神の声」であり「仏の声」であるとされて、我にかえってから、「おめは神の力を授かった」…「これで本当に一人前のイタコになった」と師匠に告げられ、イタコ業開業の「許し」を受けたのである。イタコ業のなかで主なものは、病魔を祓う祈祷と、死者の言葉を伝えるという「口寄せ」で、難しいのは、この「口寄せ」であった。
――頼まれて客の家へ行っても、その家の仏が、海へ魚とりの船で出て死んだ者か、借金に困って首をくくったり、薬を飲んだりして死んだ者か、あるいは男にからかわれて心間違いをし、身籠って自殺した娘であるかは、いっさい判らない。それでも一心に神仏を拝んで、弓を叩きながら、長い「出の文句」を唱えていると、次第に夢を見ているような気分になり、仏の姿が眼に見えるわけでもなく、仏が前に立つわけでもないが、胸の中に言葉が浮かんで来て、それがひとりでに口をついて出た。そのとき何を喋ったかは、自分では覚えていない……。
いまはすっかりパターン化してしまったけれども、昔のイタコの「口寄せ」は、このように梓弓を叩きながら「出の文句」の祈祷に長い時間をかけ、自分を無我夢中の|朦朧《もうろう》状態か憑依状態に追込むことによって、意識の下から〈死者の声〉を浮かび上がらせようとすることだった。客が呼んで貰うのは、たいてい不幸のうちに死んで行った人たちであり、この世にいい残したおもいを聞いてやって涙ながらに成仏を祈るためであったのだから、現実に盲目という不幸を背負っているイタコの意識下からしぼり出されて来た言葉は、本当に〈死者の声〉であるかのように聞こえたのかも知れない。
そうだとすれば、辛いことが多かったこの貧しい風土のなかで、不幸な死者の成仏を祈って流す涙によって自分たちもまた慰められ、たとえ一時的なものであっても心の|凝《しこり》を解くカタルシスを感じ、苦しい現実に耐えて生きる力を与えられて来た「口寄せ」の風習を、いちがいに単なる迷信として全面否定することはできまい。またそのさい、イタコが憑依状態に入っていたのだとすると、自分が喋ったことを覚えていない、というのにも、かなり信ずるに足りる根拠があることになる。
けれど勿論、怪しいところや、危険な要素がないわけではない。たとえば前記の、――頼まれて客の家へ行っても、その家の仏がどんな死に方をしたものかは、いっさい判らない……という言葉だが、イタコの営業範囲は、たいてい住んでいる村と、その近くに限られており、ちょっと変ったことがあれば村中に知れ渡る暮しのなかで、「口寄せ」を業としているイタコが、人の生死に関する噂に無関心であるとは考えられず、家族もそうした情報の収集には努めて協力していた筈で、まして彼女は抜群の記憶力の持主であったのだから、脳裡には精密な村の地図が描かれ、その一軒一軒の家族構成について、役場の戸籍係よりも詳細に記憶していたものと考えるほうが、むしろ妥当であろう。
また、かつての津軽でも大半の人は、盲目のイタコが想像力と記憶に頼って唱え上げる死者の虚実相半ばする言葉のつらなりから、きらりと光る一節の真実を自ら感じ当てて涙を流し、それを精神的なカタルシスやレクリエーションに役立てるという、いわば「口寄せ」を芸として受けとめる人生の知恵を身につけていたのだが、なかにはイタコのご託宣を事実そのままのように妄信する者がいて、ときには殺人にまで及ぶような事件が起こることもあった。おそらく両者の割合は、アルコールをうまく人生に役立てている者と、それによって犯罪に走る者との比率にも似たものであったのだろう。事件の原因になるのは占いや|呪《まじな》いであることが多かったが、そのたびに警察の取調べを受けた経験から、「神様や仏様が、われの口を借りて喋ったことだもの。われが覚えている|訳《わげ》アねえ……」したがって自分には責任がない、とイタコが決まってそう答えるようになったのは、初めのうちは幾分か真実であったとしても、途中からは不測の事故に対して責任を回避するための遁辞か、もしくは職業的なテクニックに変って来たものとおもわれる。
なぜなら、いつの頃からか、イタコは不測の事故を引起こしかねない憑依状態に入ってショウバイすることをやめ、職業的な決まり文句しか口にしなくなってしまったからだ。イタコのご託宣を妄信して犯罪に走った者より、大部分のイタコ(むろん例外はあるであろうけれど……)のほうが、神憑りになりやすい性向は持ちながらも、イタコ業を生きて行くための商売と意識していただけ、世間智を身につけていたものと考えられるのである。
「私は自分の仕事に責任を持っていません……」
平然としてそういった棟方志功の言葉について、柳宗悦は次のように書いている。――一寸考へると乱暴な、それこそ無責任な言ひ方のやうにも取れる。自分の描く絵に対して責任を持つわけにゆかぬといふのである。かういふ言葉は受取りやうに依つては、不道徳のやうにも響く。何か責任を回避してゐるのだとも取られやう。
(しかしながら、かりに神や仏が責任を取ってくれる仕事をしたらどうであろう。その場合は個人が責任を持つような小さな仕事ではなくなって来る。志功の場合は)恐らく棟方といふ個人の力以外のものが背後に控へてゐて、棟方に仕事をさせてゐるのである。棟方の仕事には「作る」といふ性質より、「生れる」といふ性質の方が濃い。ここが棟方の作品の固有な点だと思ふ。見渡すと近代の作には作つたものが余りに多い。その中に立つから棟方の作は際立つて見える。……
そして「尤も棟方はかういふことを意識的に考へたわけではなく、寧ろ本能的にさう語つたのだと思はれる」ともいっている。柳のこの直観は、「棟方の作品には作柄人柄とともに、土地柄を感ずる」といった濱田庄司の評言と並んで、さすがに鋭い。棟方の仕事と考え方の特徴として柳が挙げたものは、殆どそのまま、前節に示したように志功が生まれる以前から津軽に存在していたイタコの修行法とショウバイのやり方にも当てはまる。といって、志功がイタコの真似をしているわけでもない。そこが土地柄というもの、風土というものの不思議さであるとおもわれるのだ。
日本民芸館主催の第一回新作展に出した『東北経鬼門譜』を、志功は次いで翌年の春の国画会展にも、『|開闢譜《かいびやくふ》東北経鬼門版画譜屏風』と題して出品した。開闢以来の横幅が十メートルを越える超大作は、版画部に与えられていた小さな部屋の一方の壁を完全に独占してしまったので、ほかの作品はすべて二段掛けにされた。昭和十年から国画会版画部に出品していた別府の宇治山哲平が、初めて上京してこの会場を訪れ、――これは版画では棟方にくわれるだけだし、とてもだめだ、と感じて翌年から油絵に専念した、というのは、このときの話である。『東北経鬼門譜』は会場を訪れた人たちを画面の大きさで驚かせ、作品の評価においても例によって民芸運動グループの人人の絶讃を博したばかりでなく、志功とはまったく|対蹠《たいせき》的な作風の版画家の先輩である恩地孝四郎にも賞讃された。
柳宗悦も、自分たちが見出して機会を与えてからの志功の躍進ぶりに眼を見張っていた。『大和し美し』が二十枚、『華厳譜』は二十三枚、『空海頌』は五十四枚、『東北経鬼門譜』は百二十枚と、板木の数が次第に、しかも飛躍的にふえ、それにつれて画面の全体もとめどなく巨大化して来ている。柳は志功の姿に、どこまで化けるか判らない怪物を見るおもいだった。
『大和し美し』が認められるまで、福士幸次郎の詩『私は太陽の子である』の一節のように、|燻《くすぶ》りかけていた志功の内部の鬱積に火を点けたのは、柳宗悦の民芸理論である。柳の民芸理論は、ひとつの壮大なフィクションであったといってよい。無名の工人の手になる雑器の美を見出したのは、卓抜な着眼であった。それを「よき作を集めるならば、その殆ど|凡《すべ》てに作者の名が見えないではないか。いつも自我への固執が消されてゐるのではないか」というのはよいとして、「あの名品を誰が作つたのであらうか。その地方のその時代の誰でもが作り得たのである」というところまで|敷衍《ふえん》されると、ちょっと首を傾げたくなる。これはあまりに白樺風に理想化された観念論ではないか、とおもえて来る。その観念性の俗流化と亜流化が、今日の所謂民芸風≠フ工芸品の氾濫である。用の追求をやめて飾り物となった亜流の民芸品≠ゥらは柳理論の初心が跡形もなく失われ、ただの形骸と化してしまっている。
情熱家の棟方志功は、柳宗悦の民芸理論の初心の部分に、激しく感応した。それまで絵のなかに自分を強く出すことに汲汲としていたかれは、努めて自分を消すことに心を用い始めた。できるだけ無心になって、そこに何かが生まれて来るのを待つようになった。そうしたときから、自分に固執しすぎていたころより、かえって版画のなかに独得の|画風《スタイル》が、確然と濃く浮かび上がって来るようになったのだ。『東北経鬼門譜』は、もはや棟方志功以外のだれの作品でもないものになっていた……。
春の国画会展が終ると、志功は水谷良一から旅費の援助を受けて、また京都五条坂の河井家に向かった。着いたのは四月十日。まえにも経験してはいたが、春の京都のそよ風の肌触りは、やはり格別であった。かれはこんどの京都滞在中、自分を無にして、五官に触れるありとあらゆるものを、おもいきり吸収して帰るつもりだった。
次の日の朝は、起きるとまず智積院へ行った。五条坂のすぐ近くにあったのに、見損っていた狩野山楽筆の国宝の襖絵を見るためであった。大書院の襖を一面に埋め尽している桃山時代の大画家の豪放な運筆と絢爛たる色彩に、鼻をくっつけてにおいを嗅ぐようにしたり、うしろに下がって正坐し、しばらく凝視してからお辞儀したりしたあと、すっかり堪能した面持になった志功は、その日一日中、興奮して京都の町を歩き回った。
翌十二日は、河井寛次郎の窯に火が入れられる日であった。志功は、寛次郎得意の辰砂の|釉《うわぐすり》をかけた焼物が、窯に詰められるところから、窯出しされるまでの経過を詳しく見たくて、合間合間に本を読みながら、ずっと家にいた。読んだのは、河井の書棚から借りて来た和田傳の『平野の人々』と『|沃土《よくど》』、パール・バックの『母』、それに柳宗悦の木喰上人についての本などだった。そうした日常を、志功は毎日、葉書にかいて、京都へ来る旅費を出してくれた水谷良一のもとへ送った。
「……呆れたやつですよ、棟方って男は」
水谷良一は民芸館へ行ったとき、柳宗悦にいった。「きょうは何を見た、きょうは何を読んだ、って毎日、葉書をよこすんですからね、毎日」
「おれの木喰上人も読んだと書いてあったろう」
「ああ、先生のところにもそう書いて来たんですか」
「うむ。なにしろ棟方は勉強家だからいい」
柳は上機嫌であった。「濱田も、棟方が仏教の勉強を始めたら、あっという間に般若心経を|諳《そら》で書けるように暗記してしまったって、吃驚していた。あれは不思議な才能だね。河井はいま、天理教のおみきばあさんのうたった『みかぐらうた』を教えているらしい」
「それもじきに覚えてしまうでしょうね」
「そう。こんど京都から帰って来たら、どんなものをつくるつもりなのかな」
「さあ……」
「近頃の棟方は、だんだん自分というものを捨てて来ているからね。自分にこだわっているやつなんかの仕事だったら、だいたい次の見当がつくんだが、いまの棟方は、次に一体なにをやり出すのか、まるで見当もつかない。たぶん棟方にも見当がついていないだろう。そこがまあ、楽しみでもあるわけなんだが……」
「あの『東北経鬼門譜』のあとですからね」
「おそらく棟方には、自分の作品のどれがよくて、どれが悪いかも判っていないんじゃないかな。こんどはきっと、いままでよりもっと大変なものをつくるとおもうよ」
次第に熱を帯びて来た柳の話を聞いているうちに、水谷は志功の帰って来る日が無性に待遠しい気分になって来た。
四
――|善知鳥《うとう》。
という言葉が水谷良一の口から出たとき、志功はおもわず自分の耳を疑った。それは志功にとって、なにより懐しい故郷青森の古名であり、善知鳥神社は、いわば自分の家の庭にも等しい子供のころの遊び場であった。水谷によれば、それは世阿弥の作と伝えられている譜曲の題名だというのだ。世阿弥の作とすると、自分が生まれ育った東北のいちばん端にある青森の古名を題にした能が、すでに室町時代の初期に、都において演じられていたことになる。
「本当ですか、先生」
志功は眼を剥いて問い返した。水谷のほうでは、「善知鳥」が地名であることを知らなかった。京都から帰って来て、さっそく訪ねて来た志功を相手に、いろいろな話をしているうち、宝生流の名人野口兼資とそれに田中幾之助について謡曲を習っていた水谷が、陸奥を舞台にした能に『善知鳥』というのがある、と何気なく話し始めると、それはわれの生まれたところですッ、と志功は吃驚するほど大きな声を張上げ、信じられないような顔をして、そういう題の謡曲があるというのは本当か、と問い返して来たのである。
「ほう、善知鳥というのは、地名にもあるわけか。謡曲のほうでは、|陸奥外《みちのくそと》の|浜《はま》、ということになっているんだがね」
「それは陸奥湾の外ヶ浜です。われはその海のすぐそばで育ったんです!」
「なるほど……」
謡曲の本を持って来て、水谷は『善知鳥』の地謡の一節を、ゆっくりと読み上げた。
「所は陸奥の、所は陸奥の、奥に海ある松原の、|下枝《しずえ》に|交《まじ》る|汐蘆《しおあし》の、末引き|萎《しお》る|浦里《うらざと》の、|籬《まがき》が島の|苫屋形《とまやかた》、囲ふとすれどまばらにて、月のためには外の浜、心ありける住まひかな、心ありける住まひかな……」
聞いている志功の頭のなかには、十代のころから懸命に写生をしていた|合浦《がつぽ》公園の松林や、その向こうの海の色などが、まざまざとおもい出されて来た。
「それが青森だんですッ」
感動と興奮のあまり、志功の声は涙声になっていた。
「ぼくはその|海辺《うみべ》で、十三夜のお月様のなかに、善知鳥の影を見たこともあるんです!」
あれは志功が最初に帝展へ入選して帰郷した翌年の九月のことだった。あしたは東京へ帰るという日の夜、かれは魚問屋の高木家の人人と、善知鳥神社の前の通りの突当たりにある築港の防波堤へ、十三夜の月を見に行った。まだチヤ夫人と結ばれるまえで、自分より十三も年下の(つまり当時十三歳の)高木みよに、淡いおもいを寄せていたころである。そのとき頭上にかかっていた月が、志功の眼には、無気味に赤く映った。一緒に防波堤の上にいたほかのだれにも見えなかったのに、強度の近眼である志功にだけは、十三夜の月のなかに、伝説の鳥¢P知鳥の姿がありありと見えたのだ。そうした胸が締めつけられるような記憶と、いま水谷から聞かされた謡曲『善知鳥』のなかの光景が重なり合って、志功は夢を見ているような気分になりかけていた……。なかば呆然としているかれに水谷はいった。
「そうだ、ひとつぼくが舞って見せてあげよう」
立上がった水谷は、袴をつけて来て、謡曲の本を手に、これまで能を見たこともない志功に要所要所の説明をつけ加えながら、『善知鳥』の大筋を一人で謡い、舞ってみせた。志功がいちばん心を打たれたのは、後半、子鳥を奪われた親鳥の血の涙を避けるために、猟師が菅笠や蓑をかぶっても、降りかかる血の雨を防ぐことができない……というくだりであった。
※[#歌記号]親は空にて、血の涙を、親は空にて、血の涙を、降らせば濡れじと、|菅蓑《すがみの》や、笠をかたぶけ、ここかしこの、便りを求めて、隠れ笠、隠れ蓑にも、あらざれば、なほ降りかかる、血の涙に、目も|紅《くれない》に、|染《そ》みわたるは、|紅葉《もみじ》の橋の、|鵲《かささぎ》か……。
善知鳥の親鳥が流す血の涙によって、猟師の視界が真赤に染まるというこの一節は、志功に青森の防波堤の上で見た十三夜の月の無気味な赤さを、ふたたびおもい出させずにはおかなかった。そればかりでなく、さっきから水谷の演能が進むにつれ、胸底から言葉には尽せぬほど様様なおもいが湧き上がって来て、志功は全身の血が騒ぎ、体が震え出すのを抑えることができなかった。水谷もいまや自分が演じている猟師の亡霊になり切っている様子だった。
※[#歌記号]娑婆にては、うとうやすかたと見えしも、うとうやすかたと見えしも、冥途にしては化鳥となり、罪人を追つ立て|鉄《くろがね》の、|嘴《はし》を鳴らし|羽《は》をたたき、|銅《あかがね》の爪を|磨《と》ぎ立てては、|眼《まなこ》を掴んで|肉《ししむら》を、叫ばんとすれども猛火のけぶりに、むせんで声を上げ得ぬは、|鴛鴦《おしどり》を殺しし|科《とが》やらん。逃げんとすれど立ち得ぬは、羽抜け鳥の報いか……。
地獄の業火のなかで、眼の玉を|抉《えぐ》り肉を裂こうと、銅の爪を磨ぎ立てて襲いかかって来る善知鳥の化鳥を、実際に眼前にしているような戦慄を覚えながら、志功は心のなかで、これだ、これだ……と叫んでいた。これだ、これを版画に彫らなければならぬ――。そして猟師の亡霊が最後に発した「助けて賜べや|御僧《おんそう》、助けて賜べや御僧」という言葉は、|霹靂《へきれき》のようにかれの胸を貫いた。
水谷の演能が終ったとき、平伏して額を畳に摺りつけたあと、「先生、こんどぼくは、これをやります。『善知鳥』を版画に彫ります!」顔を挙げてそういった志功は、なにごとか深く覚悟を固めたように、|眥《まなじり》を決した表情になっていた。
志功が『善知鳥』の制作に取りかかったのは、水谷良一宛の「……いよいよウトウにかかります。ノミを持ち槌を持って」という文面の葉書の四月十八日という消印からして、多分そのすぐ後くらいからであったのだろうとおもわれる。
それまでに水谷は、野口兼資と田中幾之助を自宅に招き、志功のまえで、改めて『善知鳥』を演じて貰った。かつては地方銀行の頭取も勤めた財産家の長男で、役所の給料の半分は民芸運動と謡曲などの趣味に注ぎ込み、新進の芸術家を育てることにも情熱を燃やしていた水谷ならではの贅沢な後援であった。かれは水道橋の宝生会館にも、志功を連れて行って能を見せた。もし水谷と知合うことがなかったら、あるいはかれが謡曲に打込んでいる人間でなかったとしたら、志功は生涯、能とは無縁で、『善知鳥』という謡曲があることも、ずっと知らずに過ごしたか、知ったとしてもこれほど身近なものには感じなかったかも知れない。水谷にその謡曲の存在を教えられ、実際に能を見せられたのは、丁度、志功の意欲が燃えに燃えて、創作活動が最初のピークに近づきかけていたころであった。
志功は眼を見張り、耳を澄ませて、乾いた白紙のように全身から未知の能を吸収した。能の幽玄さは、黒と白だけの版画の美しさに通じているようにおもわれた。制作に取りかかってからは、できるだけ謡曲の『善知鳥』の細部にはとらわれないようにした。かれは物語の基本と、能の序破急の拍子だけを念頭に置き、宝生会館で耳にした鼓と笛の音の記憶を繰返し辿りながら、最初に水谷から謡曲『善知鳥』について教えられたとき、なぜか身内から湧き上がって来て体を震わせた|慟哭《どうこく》に近い感情を画面にあらわすことに専念した。
かれはまた、柳宗悦に教えられた通り、できるだけ画面から自分を消すことに努めていた。無心と無名を最上の境地とする柳の思想は、自我の拡張を重んじた初期「白樺」の主観主義と、天才至上主義に対するアンチ・テーゼとして形づくられたものであったのかも知れない。無名の工人の理想化は、つまり天才至上主義の裏返しであるようにもおもえる。もともと志功は、いまや工芸においては個性を排するに至った柳宗悦自身も初期のうちは「げに芸術は人格の反影である。そは表現せられたる個性の|謂《いい》に外ならない」…「|茲《ここ》に於てか吾人の認許し得べき最も真摯なる唯一の芸術とは『自己の為』の芸術である」と熱烈に唱えていた「白樺」の自己中心主義と天才讃美の子であった。そのころの志功の油絵は、いまの柳の言い方によれば騒騒しかった。しかし、すぐれた工芸を生み出すのには天才を必要とせず、どんな人間でも無心になりさえすればよい、といういまの柳の理論は、志功の内に秘められていたものを引出すことになった。
普通、大人には自意識という邪魔者があって、なかなか無心になることはできない。現実において「無心」は、おもに夢中になって遊んでいる子供のなかに認められる。そして、夢中を熱中もしくは集中といいかえれば、この集中力の持続こそは天才の特質である。凡人も物事に集中すれば、「火事場の馬鹿力」のたとえのように、ときに日常にはあり得なかったほどの力を発揮することができる。ただしそれを持続することは難しい。天才はその集中力を長く持続することによって、いつか凡人とのあいだに千里の径庭を生ずるのである。志功は子供のころから、絵となると夢中になる性癖を、現在にいたるまで持続していた。意識の底では自分のことを、まだ子供のようにおもっていたようだ。謡曲の『善知鳥』では、死んだ猟師の菩提を弔うために越中の|立山《たてやま》から陸奥外の浜へ下る旅の僧が、かれの版画では、華厳経の|入法界品《にゆうほつかいぼん》に出て来る善財童子を連想させるような少年の姿になっている。その少年の眼に映った善知鳥の光景を、志功は夜を日に継いで絵巻物風に彫り続けた。当時のことを、のちにかれはこう述べている。『善知鳥』の制作にかかってからは、
――『大和し美し』の時と同じように、食べるのも眠るのも忘れました。仕事になると、わたくしは夢中でした。……
このように寝食を忘れて夢中になる状態は、イタコの「許し」の儀式に似ている。繰返していえば、イタコは「食事をとらず、夜もろくに眠らずに神と仏を呼び続けているうちに、夢を見ているような気分」になるのである。そのとき無意識のうちに口走った言葉が、神や仏の声であるとされたように、無我夢中になった志功の意識下から湧き上がって来たのも、イタコの口寄せに似た〈死者の声〉であったようだった。『東北経鬼門譜』を彫ったときも、かれは死者の声を蘇らせようとするイタコになっていたのに違いないのだが、舞台が東北というのではいかにも広すぎ、そこに「幸いあらしめよう」とする観念性が強すぎて、作品としては、やや図式的になったきらいがあった。こんどの舞台は生まれ育った善知鳥である。無益な殺生を繰返して死んで行った猟師と、あとに残された妻子の姿をかりて画面に現われたのは、あきらかにかれ自身の「哀しき父」と「悲しき母」と家族たちだった。鬼を死者の魂とするなら、すでに鬼籍に入っていた両親と姉弟たちが、|黄泉《よみ》の国から志功の筆と彫刻刀の先を経て、この世に姿を現わしたかのようであった。もっとも鬼と呼ぶのには、あまりに朴訥で可憐な風情ではあったけれども――。深いかなしみが、胸のなかの様様な複雑なおもいを洗い流して、志功の心を単純にしていたのだろう、『善知鳥』からは、これまでかれの作品につきまといがちであった騒騒しさが、すっかり影を潜め、黒白二色だけの表現がどのような色彩にも増して深沈とした美しさを帯び、ぎりぎりのところまで凝縮されて簡潔に造型された人物と鳥の姿は、ほぼ象徴の域にまで高められていて、画面に籠められた作者のひそやかな息遣いと無言の祈りが見る者に伝わって来るような、すぐれた鎮魂歌になっていた。
全部で三十面の板木を彫り終えたのは四月二十九日、天長節の日であった。平均して一日に三枚ずつ下絵の想を練って描き、それを板木に彫って摺り上げる作業を、およそ十日間にわたって続けていたことになる。出来上がった作品を、かれはさっそく水谷良一のもとへ持っていった。
「……これは傑作だよ」
水谷は唸った。「……いいね、実にいい」
「ぼくはこれを、文展に出そうとおもっているんですが……」と志功はいった。
「そうか。文展にね」
水谷は頷いて腕を組んだ。文展は、まえの帝展である。河井寛次郎に「帝展のような世俗の権威にとらわれていてはいけない」と戒められてはいたけれども、志功はやはり帝展にかけた初一念を忘れることができなかった。亡き父母へのおもいを籠めたこの『善知鳥版画巻』でそれに入ったら、なによりの供養になるだろう。それに帝展は積年の情実による弊害を一掃するために昭和十年、松田文相によって改組が進められ、昨年から始まった新文展には在野の実力者も加わり、この年の第二回文展には、春陽会の木村荘八らのほか、志功の属していた国画会からも総帥の梅原龍三郎が参加して審査員に加わっていた。
文展へ出したい、という志功の目論見を聞いた水谷は、三十枚の作品のなかから、慎重に検討して八枚の作品を選び出した。国画会なら三十枚を壁面一杯に並べる常識外れの大作で押通せても、文展では審査員の反撥を買って不利になるかも知れない……と計算したからだった。水谷が選んだ八枚に、志功は新たに韋駄天の小間絵を彫って加え、計九枚を縦と横に三枚ずつ並べて額縁に入れた。このことによって『善知鳥』はいっそう緊張した美しさを放つようになった。
審査の発表は十月の十二日であった。発表の日、志功は以前とは違って上野の山へ行かなかった。子供たちが病気だったせいもある。それに帝展に関しては長年の落選続きで、ことしもまた駄目なのではないか、という不安と、梅原龍三郎をはじめ在野の画家の審査員も加わっているのだから、あるいは……という希望が微妙にからみ合って、まえほど|競《きお》い立って上野へ出かける気にはなれなかったのだ。その夜は雨が降っていた。やがて友人が伝えに来てくれた審査の結果は、志功の予想を越えていた。『善知鳥』は、版画としては官展はじまって以来の特選を獲得していたのである。志功の自伝によれば――。
「ナニッ――特選ッ――」
わたくしは、声を上げてドタドタと二階から降りました。
「棟方君、万歳」
「板画万歳」
わたくしは、ひとりで大声になって、ボンボンはね上りました。踊り廻っているのでした。……
故郷の青森を舞台にした『善知鳥』によって、かれはようやく本当に鬼門を開くことができたのだ。この特選は、初めて帝展に出品したときから教えると十四年目の悲願達成であった。官展の特選に狂喜乱舞している志功に、立身出世主義者の姿を見ることは|容易《たやす》い。だが、かれには卑俗な立身出世主義を、さらに大きく上回る志があった。油絵を始めたころはゴッホ、そしてのちにはピカソが目標となるその志の大きさからすれば、志功の旅は、まだ緒に就いたばかりだった。
[#改ページ]
懐郷の季節
一
「保田君。
ぼくもまた、二十代なのだ。舌焼け、胸焦げ、空高き雁の声を聞いてゐる。今宵、風寒く、身の置きどころなし。不一。」
太宰治が、自らの書簡を引いて雑誌「日本浪曼派」にこう書いたのは、昭和十年の冬に近づいたころである。風寒く、身の置きどころなし……というのは、激変しつつある時代に目標を見失っていたかなりの数の青年に共通する実感であったのかも知れない。昭和十年は、とくに太宰にとって、暗澹たる年であった。すでに二年延びているのに大学卒業の見通しがつかず、三月には都新聞の入社試験に失敗し、故郷の実家への申し開きに窮したかれは、鎌倉へ行き、八幡宮の近くの山中で縊死を図った。これは未遂に終ったが、続く四月には急性の盲腸炎を起こし入院して手術をうけ、やがて回復はしたものの入院中に患部の苦痛を鎮めるために使用した麻薬性鎮痛剤パビナールの中毒にかかって、身も心も、酸鼻といっていいほどの苦しみを|嘗《な》めることになった。
まるで、このころの青年をとらえていた不安と苦悩が、太宰の精神と肉体をかりて、一挙に極端なかたちで噴出したかのようにさえおもえる。そういう意味では太宰もまた、無告の人人の意識下の訴えに全身で感応し、錯乱に近い憑依状態に入ってそれを代弁するイタコの一人であったのかも知れない。
八月には、これさえ貰えば何とか実家と世間に顔向けができ借金も返せる、と受賞を切願していた第一回芥川賞の銓考で次席にとどまり、「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる|憾《うら》みあつた」という川端康成の選評に憤激したかれは「小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。さうも思つた。大悪党だと思つた」(『川端康成へ』)と異常なまでに興奮して食ってかかっている。まさに「舌焼け、胸焦げ」るおもいの明け暮れであったのだろう。芥川賞第一回の候補になったかれの作品は『逆行』と『道化の華』。ひとつは世の中の底の流れを、ひとつは表面の現象を象徴しているような題名で、典型的な時代の子である太宰治は、二十六歳だった。
冒頭に引いた手紙の宛名になっているのは、日本浪曼派の中心人物であった保田與重郎である。この年の三月に雑誌「日本浪曼派」を創刊したかれは、太宰より一つ年下の二十五歳で、日本民族独自の美意識と古典を重視する評論を書き続け、思想的に混迷していた当時の青年たちに、やがて強い影響を及ぼして行くことになるのだが、その保田と棟方志功が結びつくまでを語るためには、もういちど「奇想天外の阿佐ヶ谷時代」に戻る必要がある……。
松木満史ら同郷の仲間と一緒に、志功が麻雀に熱中していた阿佐ヶ谷駅に近い今官一の借家の向かいには、不思議な家があった。いつもひっそりとしていて、人が住んでいるのかいないのか判らない。近所の人たちは、その家の主人が、――神経衰弱にかかっているので、外に顔を出さないのだ、と噂していた。今官一は、そこの表札に記されている中山省三郎という名前が、早稲田の露文科の先輩のものであることを知っていた。実際にそのころは神経衰弱気味であったらしい中山が、数年後、今官一に心を許すようになったのは、早稲田露文の同窓であったことのほかに、今の師である福士幸次郎の詩が好きであったからだった。
中山は貧乏していた今に、ツルゲーネフの散文詩の下訳をさせてくれたりした。けれども積年の貧乏には、所詮、焼石に水で、昭和七年の秋、間もなく最初の子供が生まれるというときに、今の家ではガスも電気もとめられてしまった。今は近所の銭湯へ行き、「子供が生まれることになったら、お湯を分けて下さい」と頼んだ。この変った申し出を、「いいですよ。お湯なら沢山ありますから」と引受けてくれるのが、当時の阿佐ヶ谷の土地柄であった。今は幾らか安心して、雑誌「改造」の懸賞の予選を通過していた小説の結果の発表を待っていた。そこへ中山が「入選したら写真が要るだろう」と写真機を持って現われ、今を借家の縁側に引っ張り出して写真を撮ってくれた。
そのまま話しこんでいるうちにタ方になり、相手の顔が殆ど見えなくなっても電気がつかないのを|訝《いぶか》った中山は、「……どうしたんだ」と訊ねた。「実は電気代とガス代がたまっているもので……」という説明を聞いた中山は、「もうじき子供が生まれるというときに、いったい何をしているんだ」と珍しく怒った口調になって、今の着物の袖を引っ張るようにして自分の家へ行き、それから駅前の古本屋へ行って本を売った金を、「これですぐに電気代とガス代を払うんだ」と今の手に押しつけた。以来、今はすっかり中山に心服していた。
あるとき今は、たまたま遊びに来ていた志功を、一緒に中山省三郎の家へ行かないか、と誘った。「中山省三郎って、どすた人だ?」と志功は聞いた。「詩人で、福士幸次郎を好きな人だ。福士さんも、中山さんの詩を褒めていたことがある」という今の説明に、志功は即座に「行ぐ、行ぐ」と立上がった。福士幸次郎に心酔していたかれは、その言を無条件で信用しており、福士が認めたものはすべて、自分もよいものと信じ込む習慣があった。そうした習慣が、のちに出世作『大和し美し』の制作に向かわせる一因にもなっていたのである。
中山省三郎がロシア文学の翻訳家でもあることを今に教えられた志功は、かれの家に行くと、ロシアの漫画映画『せむしの仔馬』のことを話題にして、「ロシアの馬は、ずんぶ面白い恰好で跳ねますな」といった。中山はまだその映画を見ていなかった。すると志功は、「こすた恰好で跳ねるんですよ、こすた恰好で……」といいながら四つん這いになり、後足をあげて何度も飛び跳ねて見せた。その滑稽な感じにおもわず吹き出した中山と今の笑い声に、志功はますます勢いづいて、「まンずロシアの馬づのは面白いもんですな。こう跳ねるんですよ。こすた風に……」そう繰返しながら漫画映画の馬の真似をして部屋中を飛び回った。初対面の相手の意表を突くこの道化ぶりで、いっぺんに中山の気に入られた志功は、それからは一人で、たびたびその家へ遊びに行くようになった。
二
丁度おなじころ、蔵原伸二郎が阿佐ヶ谷駅の近くに引越して来た。木山捷平の『酔いざめ日記』には、昭和七年十一月十日の項に「赤松月船氏訪問。不在。昨夜書き上げた原稿一〇七枚を見てもらうつもりで行ったが。帰りに蔵原伸二郎を訪い、一緒に彼の貸家探しをした。梅田寛の隣のうち(十七円)六、四半、四、二の家に決す。かえりにうちにより、蔵原君が酒二合おごってくれる」と書かれている。
蔵原が新たに借りた家は、阿佐ヶ谷駅から四、五分のところにあって、庭先の道の向こう側がテニスコートになっており、そのテニスコートの先が小さな森になっていたので、庭が狭いわりには見晴らしがよかった。親友であった小田嶽夫の回想によれば、蔵原は熊本の出身で、いかにも九州人らしくどこかゴツゴツした感じがあり声も大きかったが、半面すこし気の弱そうなところもあった、という。小田が知合ったのは、蔵原がまだ慶応義塾大学の仏文科に在学中のころであったが、大学にはめったに顔を出さず、そのかわり外語の夜学のロシア語科に通ったりして、フランス文学よりもロシア文学のほうに傾倒している様子であった。
三田出身の蔵原と、早稲田出身の中山省三郎を結びつけたものは、ロシア文学であったのだろう。阿佐ヶ谷駅の近くに越して来た蔵原は、よく中山の家を訪ねた。志功は中山の家で、蔵原と知合った。そのころの蔵原は、すでに処女短篇集『猫のゐる風景』を春陽堂から出し、新進作家として認められていた。昭和四年一月号の「文章倶楽部」を見ると、かれは従弟の蔵原惟人、それに平林たい子、龍胆寺雄らとともに、文壇の新人として紹介されており、そこに次のような文章を書いている。
――僕は渓谷と火山の間で生れた。月夜の馬群と、牛と、おしどりと、みそさざいと猫と、さうして渓流の音と深い霧が僕の遠い少年の日の夢に躍つてゐる。だから僕は火山が好きだ。滅多に怒らないところの火山が好きだ。……
この一節には、蔵原の特質がはっきり現われている。すなわち故郷の自然と、少年の日への強い愛着もしくは執着である。それはそのまま志功にも共通するものだった。蔵原はもともと詩人で、
ああ おれは生胡瓜が喰ひたい
なまきうりが喰ひたい
山風に吹かれ にがい胡瓜が喰ひたい
…………
ああ 孤独な黒犬が足の下に坐つてゐる
おれの黒犬よ
一緒に胡瓜を 齧つて
あの火山地の高原へ 走つて行かう ゆかう
という『黒犬』などのかれの詩に、志功が深く魅入られたであろうことは想像に難くない。ここに出て来る火山というのは、阿蘇山である。蔵原の本名は|惟賢《これかた》、かつては肥後国の豪族であった阿蘇氏の一族で、阿蘇神社の直系であり、父の|惟暁《これあき》は二千町歩を所有する大地主だった。小田嶽夫が蔵原文学の特徴として挙げている原始的なものへの郷愁、動物的ともいえるような特異な感覚、日本と東洋への関心、宇宙性、神道思想……等等は、こうした家系および環境と無関係ではあるまい。
強烈な郷愁と宇宙性とは、一見矛盾するもののようであるけれども、子供にとっては生まれ育った場所が全世界であり、全宇宙である。蔵原にとっては渓谷と火山のあいだにある阿蘇郡の黒川村がそうであったように、志功にとっても、生まれ育った故郷青森の中心部にある町が、いわば世界と宇宙の中心でもあった。
その一方で志功は、昭和六年の春に大島へ旅行したときから、南国の原色に憧れていた。小田嶽夫によると蔵原がロシア文学に惹かれたのは、南国人の北方への憧れによるものではないかという。多くの共通点があったうえに、北国人の南方願望と、南国人の北方願望が微妙にからみ合ったせいもあった様子で、蔵原と志功は肝胆相照らす仲になった。
蔵原は並外れた動物好きで、目白、うぐいす、などの小鳥や日本犬を飼っており、詩や小説にも動物を主題にしたものが多かった。志功がみみずくを飼い始めたのは、この蔵原の影響によるものとおもわれる。飼い始めると蔵原以上に熱中して、みみずくを片時もそばから離さず、道を歩くときも手の上にとめていた。動物のほかに蔵原が好きなのは焼物で、集めていたのは、いわゆる|下手物《げてもの》が多かった。志功は四歳年長の蔵原から、焼物の美についても、実物を手にして、いろいろと教えられた。蔵原自身の言葉によると、焼物に関心を持ちだしたのは、まだ慶応の学生だった大正十二年ごろからであるという。その前年に柳宗悦が「白樺」九月号に発表した『李朝陶磁器の特質』や、叢文閣から出した『朝鮮とその芸術』の影響によるものであったのかも知れない。そうだとすれば、志功は二年ほどあとに柳宗悦の知遇を得るまえから、間接的に柳美学の洗礼を受けていたことになる。
蔵原の小説には、生活能力のない男の一家の貧乏暮しを書いたものが多かったが、惨めな生活の描写のなかから、ときに切実なユーモアが感じられる点にも特徴があって、たとえば『狸犬』といった作品が、その典型的なものである。この小説のなかに蔵原は、主人公がまえに書いた詩として、前記の『黒犬』のほかに、
……かくてわれわれの民族感覚はわれわれの強健なる原始に目醒めた。世紀末の病都会を飛び出した。若き東洋の狼は、全世界の文明に向つて戦を挑む。新しき東洋の精神は、新しき野生主義は、あらゆる反対のものに、それを拒むものに向つて怖しい戦を呼ぶ。……
といった散文詩を|挿《はさ》みこんでいた。昭和九年のことである――、東京帝国大学の文学部美学美術史科を出たばかりの一人の青年が、この二つの詩を読んで感動し、蔵原にはまだ未発表の詩が沢山あることを知ると、それを自分たちの同人雑誌「コギト」に発表してほしいと申し入れて来た。高円寺の駅の近くに下宿していたこの青年が、保田與重郎であった。
保田の申し入れを承知した蔵原の作品は、「コギト」の昭和九年九月号から翌年の八月号まで、『東洋の満月』という通しタイトルで連載された。この詩は読者の多くを感嘆させたばかりでなく、萩原朔太郎にも激賞されて、やがて蔵原が小説を離れ、詩に専念するきっかけをつくることになった。蔵原は自分の詩を見出してくれた保田與重郎に、志功を会わせたいとおもった。自分の詩に似て原始的で野性的な志功の絵を、保田なら判ってくれるのではないか、と考えたからだった。蔵原はその話を志功にして、「向こうじゃ、きみのことを知っているらしいんだよ」といった。
「へえ……」志功は首を傾げた。保田與重郎という名前は、蔵原から何度も聞いていたが、まだ顔を合わせたことはない筈であった。それなのに向こうはこっちを知っているという。一体どこで会ったのだろう……と志功は狐につままれたような気分になった。
三
保田與重郎が棟方志功を知るに至った経緯は、かれの幾つかの文章に、くわしく書かれている。高円寺の駅の近くに下宿していた保田は、毎日のように自分たちの同人雑誌である「コギト」の発行所になっていた肥下恒夫の家に通っていた。大阪高等学校以来の同窓である肥下の家は中野区大和町二五二番地にあり、そこへ行く途中に志功の家があった。まだ棟方志功を知っていた訳ではなかったが、おなじような小さい家の並びのなかに、そこだけ家の外にまで活気が溢れている不思議な一軒の家があって印象に残っていたのである。
保田はまた、肥下の家へ行く途中の道で、たびたび不思議な男に出会った。極度の近眼らしく、いつも丸めた雑誌に眼を触れんばかりに近づけながら歩いていて、遮断された踏切りのところで立止まっている間も本から眼を離さず、電車が通りすぎて遮断機が上がったあとも、しばらくそのままの姿勢で読み耽っている。
やがてその特徴のある男が、昭和九年の四月に創刊された同人雑誌「世紀」の表紙やカットを描いている棟方志功であるらしい、と判って来た。
「世紀」は、阿佐ヶ谷界隈に住んでいた田畑修一郎、蔵原伸二郎、小田嶽夫、外村繁、中谷孝雄らの「麒麟」と、それに北川冬彦、飯島正、丸山薫、三好達治、淀野隆三らの「青空」、浅見淵、丹羽文雄、尾崎一雄らの「小説」が合同して、早稲田の三笠書房から発行されたもので、同人雑誌といっても、かなり注目を集めた雑誌であったのだろう、徳川夢声氏が初めて棟方志功の存在を知ったのも、この「世紀」の表紙によってであったという。
とくに保田は、おなじ四月に藤原定、本庄陸男、亀井勝一郎らと「現実」を創刊していたせいもあって、いわば競争相手のこの雑誌には強い関心を持っていたものとおもわれる。志功は保田の顔を知らなかったのに、保田のほうでは志功を知っていたのには、おおよそ以上のような事情があったのだった……。
蔵原伸二郎は、|単衣《ひとえ》の裾をからげ、手拭いを首に巻き、小さな柴犬を先に立てて、志功とともに保田を訪ねた。改まった紹介は別にしなかった。志功も保田も、蔵原を通じて、すでに相手のことを知らされていたからである。このときから三人は、しょっちゅう顔を合わせるようになった。年齢でいえば蔵原が最年長で、志功はその四つ下、保田は志功よりさらに七つ下である。生まれたところは蔵原が九州、志功は青森、保田は奈良、と三者三様であったが、この三人に共通していたものは、故郷の自然と、そこで過ごした少年の日に対する熱烈な愛着であった。蔵原と志功のそうした心情については、まえに示した通りだが、保田もこれから間もなく発表する出世作『日本の橋』に、自分が生まれ育った大和と河内あたりの風景の美しさを描いて、
――さういふ風土に私は少年の日の思ひ出とともに、ときめくやうな日本の血統を感じた。しかしこれはこの日本の故郷を自分の生国とする私だけの思ひだらうか。……
と書き、統く『戴冠詩人の御一人者』においても、
――(|日本《やまと》|武 尊《たけるのみこと》の御陵と伝えられる白鳥陵のある河内古市のあたりは)赤埴の色あざやかに恐らく日本で一等美しい土の香空の碧したところといつて過言でないだらう。記の埴生坂わが立ち見ればの歌どころも、その一帯につづく土地である。土の色の赤く美しく、樹の緑のあざやかさ、そのうへの空の色は限りなく深い。だからこのあたりは山越しの大和の地と共に最も早く開けた日本の風土である。回想の中では、僕の少年の日と共に日本の少年の日が思はれる、限りもなくありがたいことである。……
と述べている。これと前節に引いた蔵原の渓谷と火山のあいだにある故郷と「少年の日」についての追憶、それに繰返しになるが、
――|善知鳥《うとう》神社の境内は、私を育てた時が、所が、何時、何処にあつても、あの境内が私の身体に附いてゐる様なものだ。(中略)昔から連々する、善知鳥村発祥の所に時動かぬ神|鎮《しず》まる神域の|浄《きよ》めを護らなければならないと想ふこと切々であるのだ。/あのアカシアの花が|房《ふさ》に匂うて、あの境内前通りの巾広い堀堰に、水を湛へて水草が浮かび、|沢瀉《おもだか》が咲き、あの土堤には、春には|菫《すみれ》が咲き……
という志功の文章を並べてみれば、三人が内部において固執していたものの共通性は明らかだろう。蔵原と志功がいかに故郷を自慢したとしても、畿内を中心とするわが国の歴史から見れば、そこは所詮、辺境であるが、保田與重郎の郷里は、大和朝廷の故郷でもあった。日本武尊がうたったと伝えられている「|倭《やまと》は国のまほろばたたなづく青垣山|隠《こも》れる倭し|美《うるわ》し」という青垣のような山並みは、幼いころから保田を取囲んでいた山山であった。自分は日本で最も美しい国のまほろばに生まれ育ったのだという意識、あるいはまたそこを世界と宇宙の中心のように感ずる意識――。昭和十年代の青年と、そして棟方志功にも強い影響を与え、のちには「大東亜戦争」の精神的な推進者の一人と目されるに至った保田與重郎の感受性と物の考え方は、まずそこから始まっているようにおもわれる。
四
いまは桜井市桜井となっている町のあたりは、数多くの宮跡や陵墓、古墳などからして、かつて大和朝廷の中心地として栄えたところと目されている。保田與重郎はその桜井町の地主の家に生まれた。かれが子供のころに建てられた家は、いまもがっしりとした重厚な構えで町なかに残っている。その家から、すぐ間近に見える三輪山は、大和平野を囲む青垣のなかでも第一級の名山とされていて、それが朝霧や夕|靄《もや》に包まれたときには、現在でも古代そのままの景色のように見立てることも不可能ではない。駅の高いホームから、四方を青垣の山山に囲まれている夕暮れの大和平野を見ると、なんとなく母の胎内を連想させるようにも感じられる。
保田が子供のころ、この町に初めてアメリカ人の老婦人が来て、教会を建て、幼稚園を併設した。五歳のとき、保田はその幼稚園に入った。教会堂には日曜ごとにキリストの一代を描いた掛図がかけられ、日本人の保母がキリスト伝を教えてくれた。少し長くなるけれども、重要な記憶であると思われるので、保田の『日本浪曼派の時代』から引用させて貰えば、
――教会の中は色ガラスで、私の知らなかつた色彩だつたが、その印象は、陰気でうすぐらいといふものだつた。そのうすぐらさは、我々の家の日本座敷のくらさや、茶室のうすぐらさとは異つた、何か閉鎖されたきついくらさで、それが陰気だつた上に、キリスト伝の掛図が、一層異常に気味わるかつた。私らは子供だから、お宮の祭りは勿論、寺の行事に遊ぶことも多かつた。長谷寺へゆくと地獄図のまへで脅かされることがあつたが、地獄図の怕さとは異質の、異常の気味わるさが、キリスト伝から受けた私の幼時の記憶だつた。その主題も、星を見て歩く博士たちの砂漠の風景とか、血のしたたる十字架とか、最後の晩餐とか、さういふ血なまぐささは、旧約の殺戮や復讐の物語とともに、かつて知らなかつた戦慄のやうな陰惨さや、一種深刻な恐怖を我々に印象づけた。これが幼年時代にうけた私の生涯の最も不幸な記憶と思ふ。……
志功の場合、この保田の幼時体験にあたるのは、多くの日本人がそうであったように、信心深い祖母に連れられて寺へ行き、地獄極楽の掛図を見せられたことだった。嘘をついたり、悪いことをしたときには「常光寺の掛図のまえさ連れて行くド」と祖母におどかされ、掛図のなかに連れ込まれて地獄の釜で煮られてしまうのだ……という話を、ずいぶん長いあいだ本気にしていた。旧正月の十六日に常光寺へ行くと、地獄極楽の掛図のとなりに、幽霊の掛図があって、そのまえを通らないと、次の部屋へ行けないようになっていた。幼い志功は眼をつぶって幽霊の掛図のまえを歩くのが常であったが、それでも恐怖が背中に貼りついて、通り抜けるまでの時間が、おそろしく長く感じられた。このような体験について、志功はこういっている。
――寺の記憶も、わたくしの身体を育ててくれました。わたくしが今、宗教という目に見えない姿を先に立てて歩るいている様を、目を閉じて想う時、数々の常光寺であった事々、また常光寺でめぐり会った事々が尽きない世界の様に、わたくしを巡って居ります。……
これと同じように、太宰の『思ひ出』にも、女中のたけに寺へ連れて行かれて、地獄極楽の掛図を見せられ、「嘘を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した」という有名な一節があるのは、いうまでもあるまい。
志功の教会体験といえば、青森柳町のホーリネス教会で、初めて本格的な油絵を見たことである。クリスチャンである木谷末太郎の個展で、かれの自画像を見た志功は、――洋画というのは、自分の顔も描けるのか……、そうおもって息がとまるほどの衝撃を受けた。これがつまり自己表現としての絵画を知った最初であった。教会体験といえば、ほかにもうひとつ――。クリスマス・イヴに、筒袖によれよれの袴姿の志功少年は、親友の松木と一緒に寺町のメソジスト教会へ潜りこんだ。どうしてもクリスマス・イヴの空気に浸ってみたかったので聖歌隊の後のほうへ忍びこんだのだ。雪が降っていた暗い夜道から、教会へ入ってみると、まことに心地よい温かさで、聖歌を合唱している男女のクリスチャン(……そのなかにはのちの北畠八穂もいた)の姿は、眩しいほど光り輝いて見えた。志功と松木にとって、それは憧れの西洋の響きであったのだった……。
キリスト教系の桜井育英幼稚園を経て、保が入った桜井尋常小学校では、ダルトン・プランという当時としては珍しい先進的な教育法を採用していて、毎年一回、全国から千人以上の教師が参観に集まり、その間には生徒にも、熱っぽく高揚した雰囲気が感じられた。保田はそういう小学校を出て、奈良県立|畝傍《うねび》中学校に首席で合格した。中学生のあいだでは考古学がさかんであったが、保田はそれよりも万葉集に親しんだ。陽射しの強い道を歩いていて、立止まると途端に|眩暈《めまい》を感ずるような弱い体で、かれは万葉集の舞台になっている大和の山野を歩き回った。のちにかれは『万葉集の精神』の序文において、
――著者は万葉集の詩人たちの故郷を、わが少年の日の郷土として成長した者であつた。世界文明に於ける最も古い根源の風景の中に育くまれた著者は、……
と誇らしげに語り、さらに、
――万葉集の遺跡を足で歩いてゐたころを考へると、今でもそんな中学生はあるだらうかと、却つてあればきざつぽい思ひがするほどに思ふ。しかしそのころはわれながらすなほだつた。一日に幾里歩いたと言つたことや、どこからどこまでを歩いたといふことを、話題ではそんなことを専らにして、あの途中には、湯原王の御歌の鴨の鳴いた山蔭のあとといふ所があつたし、あちらの方は上田秋成も行つた由の紀行文もあつた、などといふやうな話ぶりで、よそからくる旅行者のやうに、万葉調一点ばりのひたぶるさでは勿論なかつた。……
と述べている。熱狂的な郷土愛の持主である点では、志功も変りがない。少年のころからカンバスを背負って青森周辺の山野を歩き回ったことでも、保田とおなじである。大和の場合は、万葉集に出て来る地名の多くが、そのまま残っていた。保田の家から見える三輪山には、|額田王《ぬかたのおおきみ》 が近江国へ下るとき、雲に隠された山影を惜しんでうたった「|味酒《うまさけ》 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の|際《ま》に い|隠《かく》るまで……」にはじまる有名な長歌と、「三輪山を しかも隠すか 雲だにも |情《こころ》あらなむ 隠さふべしや」という反歌があり、雲に隠されている三輪山を見てこの歌を口ずさめば、そこには古代人との交感が成立することになる。保田が少年のころからそんな風に万葉の古歌と、眼前の郷土の風景を重ね合わせて繰返し反芻していたのだとすれば、たとえば「|皇神《すめかみ》」とか「|神《かむ》ながら」などという言葉も、いわば方言のように身と心に馴染んだものになっていたのかも知れない。
日本浪曼派の同人になった詩人神保光太郎の追想によれば、保田の言葉は「関西弁ではあるが、いわゆる大阪で聞く商家のそれとはちがった感じがあった。彼の生まれが、同じ関西でも美の伝統につながる大和であったためであろうが、それにしても、彼は一般の地方出身の学生とはちがって、むしろ、誇りを以てこのお国言葉を使っていたとも思う」ということである。これは東京帝国大学に入ってからの話であるけれども、万葉少年だった畝傍中学時代を経て、大阪高等学校文科乙類(ドイツ語)に進んだ保田は、一時期、左翼思想に接近したようだ。昭和五年、二十歳のときに創刊した短歌同人誌「R火《かぎろひ》」に、かれは次のような短歌を発表している。
まちなかに労働者おほくあつまつてくる人のいぶきにこゝろおこしぬ
冬そらのソビエツト大使館の赤き旗若き女も泪流しおらん
寝室に万国地図かゝげ夜はみるいつの日赤く染り尽すべし
ボタイボに赤旗高けれど海遠し四つばひになり泪を落す
青年の感傷のようでもあるけれども、これは左翼シンパの心情をうたったものとみて差支えあるまい。だが保田は、じきに左翼思想から離れたようだ。大阪高校で保田の一年上で、京都大学へ進んでからは保田たちが東京で創刊した同人誌「コギト」の客員格であったという野田又夫氏は、
――われわれはマルクス主義からの転向者という趣きを多少とももち、一方でプロレタリア文学の伝える社会的不正と悲惨とに責めを感じ、他方しかし文学も哲学もすべて経済史のまないたの上で大根を切るように処理されてはたまらぬと感じていた。三木清が「新興科学の旗の下に」という雑誌を出した時分で、左翼については保田や松下が消息通であり、左翼の評論家の文法の背後にはコミンテルンのテーゼがあることをいい、当時相当有名だった先輩の活動家を私が訪ねた話をしたところ「もう警察が張っているから用心しろ」と注意してくれたりした。これはまだ高校生の時のことである。(『コギト派の人々』)
と追想している。当時、おなじように左翼思想と、弾圧のきびしい現実とのあいだで引裂かれたように感じていて思想的に混乱していた若者は少なくなかったろう。一時期接近した左翼思想から離れて、古事記と万葉集の故郷へ帰った保田與重郎の評論は、そうした青年たちに強烈な影響を及ぼして行くことになるのである。
五
大阪高等学校を卒業した保田與重郎が、東京帝国大学文学部美学美術史科に入ったのは昭和六年の四月。前年に仏文科に入っていた太宰治は学校には殆ど顔を見せず、共産党のシンパ活動を続けていた。この年の九月に「満州事変」が起こった。やがて大戦につながって行く軍事行動の始まりである。翌年の四月、志功が心酔していた詩人福士幸次郎は、創刊されて間もない雑誌「フアツシズム」に『フアツシスト百言』を発表した。
――フアツシズムは行動主義である。近代文明の根本精神たる理智万能の迷信、乃至は理智絶対の妄信を去つて、疑ふべからざる或る社会的事実の擁護のために身を擲《なげう》つての『奉公』を要求し、この奉公のために、優強なる『社会権力』の存在を容認し、その発動、その遂行を擁護するところの行動主義である。/ところで此の中心たる社会的事実とは何か。民族である。……
福士はこう主張して、ファシズムを支持した。単に時勢に乗じての発言であるとはおもわれない。四十三歳のかれが、ファシズムを支持するまでには、それまでの長い道程があった。かれはもともと地方主義者だった。弘前市に生まれて、数えで二歳のときに青森へ移ったかれは、自分の母親について、こう書いている。
――母は土地の精神が人間をつくるとする伝統主義の教へる事実上の典型者で、土地の言語、趣味、風習、信仰をゆく先きざきの居住地へ運搬し、同郷人の小環境をつくり、二歳の年以来、出生地を離れた子(初め青森、後十七歳の年一家東京に移る)に対し、その魂の発展の究極を伝統主義並びにその根底である、地方主義に導く基礎を与へた。……
数えで二歳のときに、一家が弘前を離れなければならなかったのは、本職は大工でありながら地方の歌舞伎役者になった父親が、秋田巡業の興行で失敗したからだった。以来ずっと長いあいだ、弘前は福士幸次郎にとって失われた故郷∞幻の郷土≠ニなった。十二歳のときに父が死に、やがて一家は山形を経て、東京に出た。開成中学の二年に入ったかれは、貧乏なため大きな兵隊靴を履いていたのと、それにやはり言葉の訛りが強かったせいだろう、シナ人という綽名をつけられ、田舎者と|侮《あなど》られたのに腹を立てて、じきに退学してしまい、神田の国民英学会の夜間部に移った。
このころから文学に没頭し、十九歳のとき郷土の先輩佐藤紅緑の家の書生となって詩作を始めたが、その後、自活しようとして活動写真雑誌の発行に失敗してからは、失恋、自殺未遂、酒色への耽溺、紅緑家からの出奔、常州から甲州、信州、名古屋と渡り歩く放浪、肉体労働の過労による重病……と、惨憺たる出来事が続いた。
東京での生活と、さらに何も頼るもののない放浪の旅のなかで、失われた故郷≠ノ対する郷愁は、次第に強いものになっていったらしい。帰京してからも神経衰弱に陥り、ほぼ人生に絶望しかけていたかれに光明をもたらしたのは、武者小路実篤らの「白樺」に共鳴していた木村荘太と知合ったことだった。その人道主義によって救われた気分になった福士は大正二年、二十四歳のときに『私は太陽の子である』を書き、翌年、兄の援助により最初の詩集『太陽の子』を自費出版して、五百部刷ったうちの百部も売れなかったが、「三田文学」に批評が出たりなどして、かれが詩人として認められる契機になった。
次の大きな転機になったのは、大正十二年の関東大震災だった。罹災後、一家を挙げて十八年ぶりに津軽へ帰ったかれは、翌年の一月、文化の中央集権に反対する「地方主義」の宣言書を発表して、弘前を中心に運動を始めた。大震災に遭ったあとの東京の仮寓から、雪で白一色の故郷へ帰って来て接した風物と人情に「深刻な感銘」を受け、そこを無尽の宝庫のように感じ始めていたかれにとって、それまで長いあいだ暮していた東京は「個人主義、空騒ぎ、陰謀、不良少女、奢侈、生活難、病気、罪悪の養成所、醗酵所」であるとしかおもえなくなっていた。また帰郷する以前から、かれは伝統主義者であって、
――社会主義の根が宇宙主義(コスモポリティズム)であるのに対し、伝統主義の根は地方主義に存在する。……
という立場にたち、日本独自の伝統を認めないプロレタリア文学に反対する論陣を張っていた。地方主義といっても、かれの場合、各地方の特質は、つまるところ日本古来の伝統のなかに|収斂《しゆうれん》して行くものなのであって、その日本民族の古きよき伝統とは、古事記に見る「|神《かむ》ながら」の世であり、万葉集の歌にあるように「|言挙《ことあげ》せぬ」ことなのであった。のちに古事記と万葉集によって多くの論文を発表する保田與重郎が、まだ中学校の一、二年だった時分から、かれはそう唱えていたのだ。この点で福士は、保田の先駆者の一人であったといえるかも知れない。当時かれは「新潮」にこう書いている。
――日本をよくするものは世界思想でなくて、民族思想である。概念でなくて、感情である。経済組織でなくて、家族組織である。唯物論でなくて唯心論である。反抗でなくて服従である。突進でなくて発明である。破壊でなくて建設である。無産階級一階級ではなくて、国民全体である。……
そうした立場から、『太陽の子』の詩人福士幸次郎はプロレタリア文学と社会主義を否定し、文化と行政の中央集権化に異議を唱えながら、結局、もっとも強力な中央集権体制であるファシズムを支持するに至ったのだった。かれにとって国家は家族の延長であった。また生まれ育った郷土を至上とする感情は、生まれ育った国家を至上とする感情にもつながりやすい。ファシズムの言葉の原義は「束」であるというが、愛郷心は束ねられて時に過剰な愛国心に肥大することがあり、したがって革新の困難を回避して復古に向かう地方主義のなかには、超国家主義の因子となる危険も潜んでいると考えられるのである。
まえにも書いたように、福士が関東大震災に遭って帰郷して来たころ、志功は逆に東京へ出て行こうと躍起になっていたのだから、当時はその地方主義論に、さほど心を惹かれていたとはおもえない。それとおなじように、昭和二年に再上京して来た福士と頗る親密になってから、かれの地方主義と伝統主義、左翼否定論とファシズム肯定論に、まったく何の影響も受けなかったとは考えにくい。
この昭和七年の六月、太宰治は共産党の関係者にアジトを提供した|科《とが》で、西神田警察署に留置された。それを知った長兄の文治は、激怒してかれを呼び戻した。中学時代に下宿していた青森の豊田家で、かれは母親のたねに説得され、長兄の文治に付添われて青森警察署に自首し、以後は非合法政治活動から離脱した。太宰を動かしたものは、理論よりも感情であったろう。かれもまたこのとき、いったん母なる故郷に立ちかえって、家族に服従を誓ったのである。
六
東大に入ってから、沼袋に小さな家を借りて一人で暮していた保田與重郎が、その家をたたんで高円寺駅近くの下宿に引越したのは、あとで触れるように夜行性のかれが、いつも明け方近くまで家を留守にしているうちに、そこが高校の先輩とその仲間の左翼学生の集合場になってしまったのと、高円寺駅の西北の大和町にある肥下恒夫の家が、同人雑誌「コギト」の発行所になっていたからだった。保田の『日本浪曼派の時代』によれば、当時の高円寺は、駅と甲州街道とのあいだの大半が空地で、そこにサーカスがかかったりし、道は少し雨が降ると|泥濘《ぬかるみ》になって、冬のあいだは長靴を履かないと歩けず、また雨が降ると窪地はすぐ洪水になり下水が溢れ、そんな汚水のなかを歩いたためか、訳の判らない熱病にかかった友人もいたという。青垣の山山に囲まれた美しい大和とは、たいへんな違いであるといわなければなるまい。
――町の風俗はいたつてわるく、組織されないゴロツキがうろ/\してゐた、夜中などに踏切を渡つて北から南へゆくと、巡廻の巡査が、こゝからさきはゆかぬ方がよい、安全の保証ができないといふ裏通りがあつた。さういふ巡査が、金をもつてゐるかと問ふので、財布をあけると、小さくたゝんだ十円札が入つてゐるのを見て、下宿まで送つてくれた。……
そのころ銀座の通りで、偶然に徳田秋聲と出会って近くの喫茶店に入った保田が、この老大家の身辺に起こった女性問題について綿々と聞かされているうちに、どこに住んでいるのかと問われて、高円寺と答えると、
――そこがどんな恐ろしいところか、御自身の経験で語られ、私がよほど勇気があるか、力があるかのやうな口吻で感心せられた。しかし私は、勇気に腕力をそなへてゐるわけではないが、大体早川須佐雄が私を被護してくれてゐたのだつた。早川氏は高円寺のさういふ連中の中で一番強く、みなから怖れられてゐた。………
喧嘩が強い新聞記者の早川須佐雄と、保田は高円寺へ越して来て間もなく道で知合った。棟方志功を知ったのも道であった。かれを引合わせてくれた蔵原伸二郎と、それに、――当時中谷氏も高円寺にゐて、この人々を私は勝手に教師として尊敬し、今も心の昂ぶる恩恵をうけた。……
中谷孝雄が初めて保田と会ったのは昭和九年の晩春か初夏のある夜だった。かれの小説『日本浪曼派』によると、雑誌「現実」の同人会に出席した妻の平林英子が、見知らぬ二人の若者を連れて帰って来て、どちらも背のひょろりと高い、蒼白いインテリといったタイプのその二人が亀井勝一郎と保田與重郎だった。数えで三十四歳の中谷より、亀井は六つ下、保田は九つも下だったが、話してみると、どちらもなかなかの秀才であることが判り、また二人とも東大の美学美術史科の出身であるのに、亀井はゲーテの『ファウスト』に傾倒し、保田は卒業論文にドイツ・ロマン派の詩人ヘルデルリーンのことを書いたというのにも、卒業はしなかったが東大の独文科に学んだ中谷は親近感を覚えて、三人のあいだには初対面とはおもえないほど和やかな雰囲気が生じた。その夜はもう遅かったので、かれらは一時間かそこらで帰ったが、ふたりの残した印象にはかなりの相違が感じられた……と中谷は続けてこう書いている。
――どちらも育ちのよささうな秀才らしいといふ点では共通してゐたが、亀井のどちらかといへば正直で真面目な勉強家らしいのに比べ、保田にはどこか崩れたやうなところがあり、自分でも統御しかねてゐるやうな内面の複雑さを秘めてゐるやうだつた。……
その後、結婚して間もない亀井はそうでもなかったが、保田は独身であり、下宿もそう遠くなかったせいか、よく中谷の家へ遊びに来るようになった。以下、中谷の描写が当時の保田の風貌と姿勢を|髣髴《ほうふつ》とさせるようにおもわれるので、少し長くなるが引用させて貰いたい。
――保田が来るのは大抵、夜の八時ごろであつた。それから一時か二時ごろまで話しこんでいくのであつた。私も半ば夜の人種であつたが、保田は殆んど完全に夜の人らしかつた。とにかく尻の長い男であつた。始めのうち保田もそれが気になつたらしく、十二時ごろになると、
「もう帰らんといけませんな」
などといつて立上るのだつたが、それで帰るのかと見てゐるとさうではなく、着物の前のはだけたのを直して、そのまままたぐづぐづつと坐りこんでしまふのだつた。しかし今度はいつでも立つ用意ができてゐますといはんばかりに、両膝を立ててしやがむのであつたが、そんな不安定な姿勢がさう長く続くわけはなく、いつのまにか尻は坐布団の上に落してしまつた。
私はそのやうな保田の姿勢に、何かしらある種の動物を連想した。……
確かにここに描かれている保田の姿勢は、なんとなく形の定まらない軟体動物を連想させるが、それは多分、かれ自身の文章によれば中学生のころ万葉集の遺跡を尋ね回って「少し暑いやうな陽春のみちでも歩いてゐるなら、何気なく立ちどまつた瞬間に、きら/\としたものが眼のまへに舞ひ込んで、めまひを感じるやうな弱い体」であったのと、戦後、中国から復員したのち郷里に隠棲していたかれが、昭和三十三年に京都市右京区|太秦《うずまさ》三尾山の山中に建てた自邸の居室に「終夜亭」と名づけたような夜型の体質によるものであったのだろう。
中谷が連想したのは、軟体動物ではなく、「大和の老白狐」という言葉で、「そんな感じがしないか」と、ある夜、保田が帰ってから妻にいうと、色が白くてすらっとしているからそんな感じがしないでもないけれども「あんな可愛い若者を老はないでしょう」と反対された。中谷が白狐のうえに老とつけたのは、年齢のわりに若年寄のような感じも受けていたからだった。妻の英子はそれよりも、保田さんの関西弁は早口で、語尾がはっきりせず宙に消えてしまうような感じがするうえに、反語や逆説めいたいい方が多いので、本心がどこにあるのか、まるで雲を掴むようで、おっしゃることの半分も判らない……といった。彼女の眼に映った保田は、自分では虫も殺せない、とおもいこんでいるような様子で、あるときは「ぼくなど恋愛もできないような、なさけない男ですよ」といったこともあった――。
このように中谷孝雄の小説『日本浪曼派』に描かれている保田の姿といい、また前記の保田自身の文章のなかの、巡査に「金を持っているか」と聞かれて、わざわざ財布をあけて見せ、小さくたたまれて入っていた十円を示す態度といい、のちに「大東亜戦争」の精神的推進者の一人といわれることになる保田與重郎のイメージとは、どうもうまく重なり合わないような気がする。もういちど中谷の文章を引用させて貰えば、
――八月になると保田は徴兵検査を受けるために帰国しなければならなくなつたが、検査に合格することを彼はかなり恐れてゐた。なるべく不節制をしてからだを悪くし、うまく合格しないやうにしたいなどともいつた。その気持は私にも覚えのあることだが、恐らく当時の若者にそれは共通の感情であつただらう。私は不幸にも検査に合格し、幹部候補生として入隊して十ケ月の兵営生活を送らねばならなかつたが、保田のやうな蒼白い顔をした痩せつぽちの男が万が一にも合格する筈はなかつた。……
実際に丙種合格で兵役を免れ、九月に東京へ戻って来た保田と中谷のあいだに、新しい同人雑誌を出そう、という話が生まれた。二人のほかに亀井も加わって同人を選び、新雑誌の名前は「日本浪曼派」と決まって、「コギト」の十一月号に、神保光太郎、亀井勝一郎、中島栄次郎、中谷孝雄、緒方隆士、保田與重郎の連名で、「『日本浪曼派』広告」が発表された。執筆したのは保田だった。
「平俗低徊の文学が流行してゐる。日常微温の饒舌は不易の信条を昏迷せんとした。僕ら茲に日本浪曼派を創めるもの、一つに流行への挑戦である。/僕らは専ら作家の清虚俊邁の心情を尊び、芸術人の不羈高踏の精神を愛する」と独得の高い調子で始まるその文章には、「真理と誠実の侍女として存在するイロニーを、今遂ひに用ひねばならぬ」…「日本浪曼派はこゝに自体が一つのイロニーである」と二度にわたって、イロニーという言葉が使われていた。
保田のいわば切り札の一種になっていくこの難解な言葉は、ドイツ・ロマン派の用語で、松本輝夫氏の研究によれば、保田の著作に「イロニーの語が一等早く見えるのは、昭和八年十一月執筆の『清らかな詩人』である」ということだが、その年の一月に岩波書店から出たリカルダ・フーフ著=北通文訳の『獨逸浪漫派』で、著者は浪漫的反語(ロマンティッシェ・イロニー)について定義するまえに、「かの|悪評高い《ヽヽヽヽ》浪漫的反語」という表現をしている。戦後、日本浪曼派には必ずといっていいくらい「悪名高い」という形容詞が冠せられるようになるのだけれども、この本の表現は、その日本浪曼派の後年の運命をも予言しているようで、まことに興味深い。
七
日本浪曼派は、戦後になって初めて「悪名高い」存在になったのではない。雑誌が発刊されるまえに、「『日本浪曼派』広告」が「コギト」誌上に発表されたときから、すでに多くの批判があった。保田與重郎が執筆したその文章を読んで、まず憤慨したのは、「世紀」の同人たちだった。「世紀」に参加していたのは、田畑修一郎、蔵原伸二郎、小田嶽夫、外村繁、中谷孝雄、丹羽文雄、尾崎一雄、川崎長太郎……と、リアリズム系統の小説家が多かった。
日本浪曼派の「平俗低徊の文学が流行してゐる。日常微温の饒舌は不易の信条を昏迷せんとした」という言葉に始まって、「茲に僕ら、文学の運動を否定するために、進んで文学の運動を開始する。卑近に対する高邁の主張に他ならぬ。流行に対する不易である。従俗に対する本道である」…「日本浪曼派は今日の最も真摯な文学人の手段である」…「浪曼派は史上少しとせぬ。しかも日本浪曼派は悉く総てに秀でて、至上に清らかに美しい存在である。……」と続く、まことに調子の高い「広告」は、日常的なリアリズムを重んじている「世紀」の同人への挑戦状でもあるようにも受取れる。その「広告」の連名に、四月に創刊されたばかりの「世紀」の同人である中谷孝雄と緒方隆士も加わっていたことが、いっそうみんなを刺激した。――これは「世紀」に対する裏切りではないか……、ということになって、中谷は同人会の席上で詰問された。
中谷は「世紀」のリアリズムを否定するつもりはなかった。かれ自身「手堅いリアリスト」と評されている地味な小説家なのである。中谷は自分より年下の若者である亀井勝一郎と保田與重郎に親近感を覚え、保田が「コギト」と日本浪曼派の同人を兼ねているように、自分も「世紀」と日本浪曼派の同人を兼ねて行きたい、とおもっていたのだが、その希望は受入れられなかった。詰問の先鋒になっていたのは、東大時代に梶井基次郎らとやっていた同人雑誌「青空」の仲間で、おたがいによく気心を知合っていた筈の外村繁と淀野隆三だった。それでむらむらとなっていたところへ、川崎長太郎が口にした言葉がきっかけになって、「よし、脱退してやる、この糞リアリズムめ!」と、中谷は腹を立てて同人会の会場を飛出した。
こうして少なくとも「世紀」の側から見るかぎり、日本浪曼派との対立は意識的なものになった。そして、それまで「世紀」の表紙やカットを描いていた棟方志功は、保田與重郎と親しくなっていた縁で、以後、日本浪曼派に接近して行くことになるのである。
大分あとの話になるけれども、木山捷平は昭和十一年七月十一日の日記に、「太宰治『晩年』出版記念会、上野精養軒会費二円五十銭。へんな会であった。司会は檀一雄。一同そっぽを向いている風であった」と書いている。そのときの主な顔ぶれは、
外村繁、保田與重郎、亀井勝一郎、芳賀檀、檀一雄、北村謙次郎、木山捷平、中村地平、今官一、尾崎一雄、小山祐士、津村信夫、浅見淵、中谷孝雄、古谷綱武、丹羽文雄、山岸外史、井伏鱒二、佐藤春夫。……
と、中立の何人かをのぞけば、日本浪曼派と、分裂後まもなく解散してしまった「世紀」の旧同人とが、呉越同舟のかたちで集まっていたわけで、これでは「一同そっぽを向いている風であった」のも、無理からぬことのようにおもえる。
出席者の一人である北村謙次郎の回想によれば、開会まえの控室では、日本浪曼派が右手の窓際、丹羽文雄や尾崎一雄らが左手に固まっていたという。主賓の太宰治は少し遅れて来て、のちに棟方志功と火花を散らした会合のときとほぼおなじように、控室の柱のかげで仙台平の袴をつけ、紺足袋を真新しい白足袋に穿き替えた。
会が始まり、テーブルスピーチが進んで、保田與重郎の順番になったとき、丹羽文雄が尾崎一雄に向かって、「さて、いよいよ判らなくなるぞ」と囁いたのが、近くにいた北村の耳に聞こえた。中谷孝雄の妻の平林英子が、保田の言葉の判りにくさを口にしたのは前に書いたが、リアリズム派の丹羽と尾崎にとっても、それは同様であったのだろう。これよりまた少しあとに伊豆公夫が「批評」に発表した論文に、保田の評論は論理的分析よりも直観と象徴に訴える、「この方法が極端に達して、何を言つてゐるかわからぬこともある」という一節がある。戦後さかんにいわれるようになった保田の文章(と語り口)の難解さと晦渋さも、当時からかなり有名なことであったのだ……。
太宰治は自ら進んで日本浪曼派に加わったわけではなかった。話を前に戻すと、「コギト」の「『日本浪曼派』広告」に名を連ねた六人のうち、亀井勝一郎、保田與重郎、中島栄次郎の三人は評論家、神保光太郎は詩人で、小説家は「世紀」出身の中谷孝雄と緒方隆士しかいなかった。創刊号はなんとかなるにしても、以後たった二人で月刊の同人雑誌の小説欄を埋めて行くのは難しい。――小説家の同人をふやそう、ということになって、中谷はまず木山捷平に声をかけた。木山の属していた同人雑誌の「青い花」が、何かの事情で潰れかけていると聞いたからだった。
木山は中谷の誘いに応じて、さらに「青い花」の太宰と山岸外史と中村地平の三人を日本浪曼派に合流させる役目も引受けた。いまから考えると、だれよりも地味で声の低いリアリズムを持味とする木山捷平が、どうして日本浪曼派に入ったのか不思議な気もするのだが、加入の事情は、おおよそ、そんなことだった。つまり初期の日本浪曼派は、特定の主義主張を信じている同人の集まりではなかった。そのことを亀井勝一郎は、「日本浪曼派」は一人一人が傾向をことにしていた……と次のように書いている。
――同人の中にはユニークな才能をもった人が多く、大部分は二十代乃至三十歳をわずか超えたばかりで、元気もあり、私には天才の見本ばかり集まっているようにみえて、愉快でもあり、不快でもあった。/こういう文学流派は、それまでの文壇に反抗するのが常であり、我々もそれをやったわけだが、一番激しい相剋は、同じグループの内部における夫々のユニークさによって火花を発するものである。太宰の最もきらった人物は保田與重郎であり、保田の最もきらった人物は太宰治であり、私自身には、この二人とも一向に要領をえない人物であった。保田のかくものは何が何やらサッパリわからず(今でも私にはわからないのだが)、太宰にはまだ会わなかったが、その書くものは私には軟弱で、生意気で、我儘で、気どっていてとうてい手に負えぬものと思われたのである。……
ただしこの亀井の文章は、戦後の昭和二十三年に書かれたものであることを断っておかなければならない。今官一の記憶によれば、保田は太宰の作品を一番早く認めた批評家の一人で、保田と知合ったころの太宰も、それを徳としていた様子だった……ということである。
さて、日本浪曼派の同人勧誘に取りかかった中谷孝雄と木山捷平は、田園調布に引越していた蔵原伸二郎のところへも訪ねて行ったが、蔵原は加入を断った。蔵原は自分の詩を高く買ってくれた保田と、対立している「世紀」の仲間とのあいだで板挟みになり、田園調布への引越しと日本浪曼派への不参加というやり方で、自分なりの筋を通そうとしていたのであったのかも知れない。
蔵原に断られてから、別の日に木山は一人で本郷千駄木の山岸外史の家を訪ねた。山岸とは初対面であったが、木山の文章によると、かれはすぐに参加を承知した。
そのあと木山は、中村地平の勤め先である内幸町の都新聞社に向かったが、中村には「ぼくは保留にしておいてもらいたいね」といわれた。昭和九年の十二月に創刊された「青い花」が、たった一号出しただけで休刊になったのは、太宰治と中村地平の喧嘩が原因であり、その喧嘩のほとぼりが、まださめていないからのようであった。この日は途中から雨になっていたので、都新聞を出た木山は、濡れ鼠になって電車に乗り、荻窪の駅から五、六分の飛島定城方に寄宿していた太宰を訪ねたのは、そろそろ夕方に近いころだった。
中村地平のときは単刀直入で行ったから失敗したのだ、と考えていた木山は、「……実は保田與重郎らの『コギト』が『日本浪曼派』発刊の広告を出しているのは、きみもとうに承知しているだろう」とおもむろに話を切出したのだが、結果は似たようなものだった。
「ぼくは同人雑誌にはくたびれたよ。同人雑誌はもうごめんだ」
そういうと太宰は、急に胃痙攣でも起こしたように両手でみぞおちのあたりを抑え、顔を|顰《しか》めて苦しそうに息をついた。のちに太宰は、昭和十六年の十一月に文士徴用令書が来たとき、本郷区役所の体格検査で不合格になった。それを聞いて、軍医をだましたな……とおもった木山が、遠回しにそのことを訊ねてみると、太宰は微笑して頷き、握手を求めてきた。
――握手しながら私の頭の中には、いつか私が「日本浪曼派」の使者になって、飛島家の二階を訪れた時、太宰がみぞおちあたりをおさえて、苦しそうに息をついていた時の姿が思い浮んだ。あんな風にして太宰はやりとおしたのであろうと思った。/以後再びそのことについて話をしたことはなかった。本当のことであったか嘘であったか、今はたしかめる術もないが、しかし私は太宰は骨の髄まで戦争ぎらいな男なのだと、その時思った……。
木山はそう書いている。つまり日本浪曼派への加入を一旦ことわったさいの太宰の仕草と表情を、演技ではなかったのか……と疑っていたわけだが、亀井勝一郎の紹介で同人になった緑川貢は、中谷孝雄の家で日本浪曼派と「青い花」の合流問題について話し合っていた太宰が、自分の主張をいうだけいうと、「体具合が悪いので……」とむこう向きに横になり、両手で頭を抱えこんでしまった姿を記憶している。処女創作集『晩年』の出版記念会でも、自分のスピーチの順番が来たとき、太宰は傍のだれかに支えてもらい、辛うじてよろよろっと立上がったほど体が弱っていた。
そうした太宰の姿から連想されるのは、伊藤佐喜雄の『日本浪曼派』に、胃弱のせいかいつも半病人みたいな様子をしていて、中腰というか、|蹲踞《そんきよ》というか、彼独特の居ずまいをして、煙草を吹かしたり、茶をすすったり、庭を眺めたりしながら、ぼそぼそとした関西弁で話す……というふうに描かれており、北村謙次郎の回想には、日本浪曼派の会合の席で片肘ついたまま長長と寝そべり、たまに近くの者としゃべったり、黙って天井を見上げていたりする男として現われる保田與重郎である。
戦争の末期には、病中に召集を受けて中国大陸に送られ、現地で陸軍病院に入院し、戦後も何度か吐血して入院を繰返している保田の場合は、本当に体が弱かったのだろうが、それにしても昭和十年前後の太宰と保田の姿勢に、かなり共通している感じがあるのは、印象深い。また伊藤佐喜雄の『日本浪曼派』には、新宿の「モナミ」で開かれた同人会に初めて出席したとき、
――会がはじまって一時間も経ったころ、何かの気配を感じて、私は戸口のほうをふり返った。すると、アイヌの美男子のような顔をした長身の男が、ステッキをついて、やや蹌踉とした足どりで入ってきたのである。「太宰治だ!」と私は直感した。とたんに、みんなの拍手が起こった。太宰はにっこりと笑った。……
と書かれているが、この「アイヌの美男子」という表現は、初めて棟方志功と会ったときから「彼は必定アイヌの子孫だと思ふやうになりました。毛むくぢやらで、見るからに変つてゐます。普通の大和人ではありません」と述べた柳宗悦の言葉をおもい出させる。太宰治と保田與重郎と棟方志功。この三人の共通性と対立点は、実にさまざまなことを物語っているようにおもわれるのだ……。
木山が一旦ことわられたあと、こんどは中谷が太宰のところへ交渉に出かけた。太宰は自分のアルバムを見せたりしながら、諧謔まじりの饒舌ぶりを発揮し、なんとかして日本浪曼派加入の話から、身を|躱《かわ》そうとしている気配であった。それでも中谷は、|隙《すき》を見て用件の話を切出した。太宰はいろいろと言を左右にしていたが、やがて、この話は、できたら「浪曼派と『青い花』の合同ということにしてほしいですね」といった。「それじゃ『青い花』と合同すると仮定したうえで、ほかにまだ何か希望することがありますか」と中谷が聞くと、「大いにあります。合同のうえは誌名を『青い花』ということにしてほしいものです」というのが太宰の答えだった。「それじゃ、こちらが併合されるようなものだな」と中谷はいい、二人は顔を見合わせて大笑いしたのだが、太宰としては、おそらく、先に出発した「青い花」が、「日本浪曼派」の軍門に降る形になりたくなかったのだろう。
太宰が同人雑誌「青い花」の創刊に取りかかったのが、昭和九年の九月ごろであったのは、友人に出した葉書によって、はっきりしている。「青い花」という誌名を決めるときに、ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリスの代表作を意識しなかったとは考えられない。保田たちが「日本浪曼派」の発刊を企図したのも、おなじ九月の初めごろだった。この誌名もドイツ・ロマン派と無縁でないのは、保田が執筆した「広告」に、二度にわたってイロニーというドイツ・ロマン派独得の用語が遣われていたことで明らかである。太宰と保田。ともに特異なキャラクターを持つこの一つ違いの二人の青年が、ほぼおなじ時期に、おなじドイツ・ロマン派を発想のひとつの根として、新しい同人雑誌の発行をおもい立ったのは、興味深い暗合であるといわなければならない。
中谷孝雄の『日本浪曼派』によれば、太宰治は浪曼派と合流するのなら、誌名は自分たちの同人雑誌のものであった「青い花」にしてほしい、という希望を述べたあと、さらにこういった。
――「そちらに都合が悪ければ、必ずしも『青い花』にはこだはりませんが、『日本浪曼派』はいやだな。寒気がする程いやです」
「ほかにいい名前がありますか」
太宰は暫く考へてから、自分でもその思ひつきが気に入つたらしく、ひと膝のりだすやうにしていつた。
「日本曼陀羅といふことにしませう。どうです、気に入つたでせう」
面白い名前だつた。さすがに太宰だと感心もした。しかし私は、ここらでもう一度話を元へ返す必要を感じた。……
中谷はそう書いている。この「日本曼陀羅」という誌名の提案は、むろんイロニー≠切り札にしている保田與重郎への太宰流の|皮肉《イロニー》であったのに相違ないが、それにしても太宰は、なぜ「日本浪曼派」というのが「寒気がする程」いやだったのだろう。ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリスの代表作『ハインリヒ・フォン・オフテルディンゲン』を、わが国で初めて『青い花』と題して翻訳したのは「コギト」の同人である田中克己で、その訳文は昭和九年六月号からの「コギト」に連載されていた。ノヴァーリスのその作品を連想する人が多いであろう「青い花」を誌名に選んだ自分たちの同人雑誌の創刊号(昭和九年十二月発行)に、『ロマネスク』という小説を発表した太宰が、ドイツ・ロマン派に反感を抱いていた筈はなく、それが「日本浪曼派」となると、途端に「寒気がする程」いやだというのには、すでに起こっていた激しい批判にも一因があったのかも知れない。
昭和九年の三月にナルプ(日本プロレタリア作家同盟)が解散を余儀なくされ、左翼文学は潰滅状態に瀕していたとはいえ、日本浪曼派への批判は、いわゆる転向作家のなかからも起こった。とくに高見順は、保田の「広告」が「コギト」に発表された直後の「文化集団」十二月号に、日本浪曼派の精神を評して、――十九世紀浪曼主義の妖怪である。しかも浪曼的精神の本質たる反抗的精神を抜きとった、片輪の妖怪である。……と手きびしく批判した。おなじように左翼からの転向者である太宰は、こうした高見の意見を初めとする日本浪曼派批判に無関心ではあり得なかったろう。あるいはまた、「……派」という名称で十把ひとからげに束ねられることに反撥していたのだろうか。
太宰が日本浪曼派への加入を一旦ことわったのは、木山捷平の日記によれば昭和十年二月の下旬である。雑誌「日本浪曼派」は、三月に創刊された。その三月十七日の木山の日記に次のような記述がある。
――新進作家死の失踪?「太宰治のペンネームで文壇に乗り出した杉並区天沼一―一三六東京帝国大学仏文科三年津島修|吉《ママ》(二七)君は去る十五日午後友人の作家井伏鱒二氏と横浜へ遊びに行つた帰路、桜木町駅から飄然と姿を消したので、十六日夜井伏氏から杉並署へ捜索願を出した。同君は芥川龍之介氏を崇拝して居り或は死を選ぶのではないかと友人は心痛してゐる」――と新聞発表あり。……
前述したように、このとき起こったのが、すでに二年延びているのに卒業の見通しがつかず、都新聞の入社試験にも失敗して、故郷の実家への申し開きに窮した太宰が図った自殺未遂(もしくは狂言――この鎌倉での自殺未遂の前後を描いた小説は『狂言の神』と題されている)だった。それから間もなく太宰は急性盲腸炎で阿佐ヶ谷の病院へ入院した。かれ自身の当時の文章によれば「入院は今年の四月四日のことである。中谷孝雄が見舞に来た。日本浪曼派へはいらう、そのお土産として『道化の華』を発表しよう。そんな話をした」と書かれている。
この太宰の翻意の理由としては、実家と世間への弁明と経済的窮状の打開のために、こんどはどうしても新設された芥川賞(賞金五百円)を取らなければならぬ、とおもい詰めたかれが、受賞を狙う作品の発表舞台を早急に必要としたからではないかとも想像される。また浪曼主義を旗印にリアリズム派と対立していた保田は、前年の十二月に創刊された「青い花」に『ロマネスク』という不羈奔放な小説を発表していた太宰に、当然注目していた筈で、太宰は日本浪曼派への加入を勧誘される過程でそれを聞かされており、前記のように八方塞がりの窮地に陥ったとき、急に保田のことが懐しくおもい出されて来たのかも知れない。(そう推測させる「……保田與重郎氏は涙さへ浮かべて、なんどもなんども|首肯《うなず》いて呉れるだらう。」という一節が、前記『狂言の神』のなかにある)
「日本浪曼派」の五月号に掲載された『道化の華』は、期待通り第一回芥川賞の候補作に挙げられたものの、結局は受賞を逸し、選評を読んで激昂した太宰は、「文藝通信」の十一月号で川端康成に噛みついた。ところが川端は保田が高く評価していた作家で、保田が「日本浪曼派」の創刊号と第二号に発表していたのは『川端康成論』だった。「太宰の最もきらった人物は保田與重郎であり、保田の最もきらった人物は太宰治であり、……」という亀井勝一郎の観察が当たっているとすれば、両者の食違いはこのあたりから始まっていたのかも知れない。
文壇内部の反響はさておき、同人雑誌の「日本浪曼派」は月々千部ほど刷って、寄贈分のほかは僅かしか売れなかったというから、一般に大きな影響力を持っていたものとはおもわれない。保田も「日本浪曼派」には、さほど力作を発表していたわけではなく、執筆の主力は依然として「コギト」に置いている印象であった。保田が昭和十年から十一年にかけて発表した『日本の橋』や『戴冠詩人の御一人者』は、インテリの一部に強い衝撃を与え、ことに『日本の橋』が単行本になって第一回の池谷信三郎賞を受け、おなじく単行本になった『戴冠詩人の御一人者』も第二回の透谷文学賞を受けて、かれは気鋭の新進評論家として注目されるようになった。途中から日本浪曼派の同人になった今官一の記憶によると「一作ごとに、世に出て行く感じ」であったという。
リアリズム派は、長老の正宗白鳥が日本浪曼派の「広告」を、間違い易いロマン主義よりは、間違いの少ないリアリズムのほうがよい、と評したあと、保田の文章の難解さにおそれをなしたのか、表立った批判はしていなかったが、旧左翼陣営の日本浪曼派批判は相変らず続いており、昭和十二年六月三日から十一日にかけて報知新聞には、同人雑誌の「人民文庫」対「日本浪曼派」の討論会が掲載された。「人民文庫」側の出席者は高見順、新田潤、平林彪吾であり、「日本浪曼派」側は保田與重郎、亀井勝一郎、中谷孝雄で、記事によると口火を切ったのは高見順であったようだ。
高見 保田氏あたりから「日本的なもの」といふやうなことを簡単にお話し願ひたい。といふのは「日本的なるもの」などといふことをよくいはれ、また「日本的なものを見出す」「日本的な性格」などといはれ、私共一生懸命理解しやうとしてゐるが、原理的なことが頭に入らない。この席で先づ簡単にでもいつてもらつた方が話しの食違ひがなくてよいと思ふ。……
この質問は、ごく簡単に体を|躱《かわ》されている。
保田 僕の書いてゐる批評は、あなたの考へてゐるやうな日本主義ではない。……
これがつまり、保田一流の反語的な論法のひとつの典型であるようにおもえる。『独逸浪漫派』の著者リカルダ・フーフは、「かの悪評高い浪漫的反語(ロマンティッシュ・イロニー)」について、地上の何物にも束縛されない「精神の自由と翻訳するのがもつとも適切であらう」という。天才の空想力の奔放な飛翔に無限の自由を認めるこの論法が、なにゆえに「悪評高い」かといえば、地上のすべてを空の高みから見下ろし、あらゆるものを相対化して、ときに皮肉な嘲笑の対象とするその態度が、しばしば浅薄であるようにもおもわれたからである。しかし「『日本浪曼派』広告」で、保田は「真理と誠実の侍女として存在するイロニーを、今遂ひに用ひねばならぬ」と宣言した。眼前の不況や失業や飢餓などの現実については語らず、もっぱら|古《いにしえ》の世界への憧憬を述べ、日本民族独自の美意識を強調する保田の思想を、反動的なものとしてとらえようとしても、「日本浪曼派はこゝに自体が一つのイロニーである」といわれれば、とらえようとした手が宙を掴んでしまうことになる。
理性よりも感情を、思考よりも直観を、合理主義よりも非合理主義を、現在よりも過去を尊重したドイツ・ロマン派に対するのとおなじ批判を浴びせようとしても、「浪曼派は史上少しとせぬ。しかも日本浪曼派は|悉《ことごと》く総てに秀でて、至上に清らかに美しい存在である」…「僕ら亦希求し憧憬する、最も高貴に激烈なものを。それは日本浪曼派の目標であり現代である」と、相手はまた別の場所に立っているのだ。報知新聞の討論会でも、まったく話が噛み合わないのに業を煮やしたらしい高見順が、次のようにいっている。
高見 この間一高の学生がやつて来て色色話して知つたのだが、現在浪曼派の主張、具体的には保田君のものは高等学校の生徒が皆読んでゐるさうだ。つまり高校生活の観念的な傾向に浪曼派の人々が受入れられてゐる訳だ。浪曼美に対する哲学的な、抽象的な思考思惟が、高等学校の校友会雑誌的な傾向、高校生の思想生活にピタリとしてゐるのではないか。非常な暴言だが、さうではないかと思ふ。
中谷 それを君は悲しむべき傾向だと認める訳ですね。
高見 悲しいかどうか、客観的にいへば実に幼稚な、なげかはしい傾向だと思ふ。それが天下を風靡することは。もつともそれが現代文化のなつてなさの逆な証明になるのかも知れぬが、そのやうな浪曼派の人々の観念的な解答が現代を風靡してゐるということに我々は非常な憤懣を覚える。……
今官一の記憶によっても、ある時期から同人会へ行くと、新宿の喫茶店の入口に掲げられた「日本浪曼派同人会」という大きな紙のまえに、いつの間にか学生が集まって来て人だかりができ、会場へ入って行く保田與重郎の姿を、畏敬の眼で見つめていたという。そうした学生たちには、日本浪曼派=保田與重郎というふうに見えていたのだろう。当時、とくに地方出身の学生は、大学を卒業しても不景気で就職できるものやらどうやら判らず、故郷へ帰ろうにも農村は疲弊しており、そうした世の中に革命を起こす筈であった左翼運動も退潮して、現実的にも思想的にも、多かれ少なかれ故郷喪失の感情を味わっていた。戦争が拡大して、いずれ自分たちも戦場に駆り出されるのではないかという不安もあった。現状はとうてい肯定できず、といって、はっきり否定もできない宙ぶらりんの状態のなかで、かれらは意識するにせよしないにせよ、いまの言葉でいえばアイデンティティを持てずに悩んでいた。いずこに指導原理ありや……。そういうかれらの問いに対する答えとしてあらわれたのが、日本民族共通の精神的な故郷として記紀と万葉の世界への憧憬を語った保田の評論であった。むきだしの日本主義なら受入れられなかったかも知れないが、それはイロニーというはなはだ難解で、それだけにまた読む側にとってはどのようにも解釈できる複雑な論法で語られており、加えて文学とは文章であり美文に尽きるとする保田の文章には、独得な調子の高さがあった。
――日本浪曼派は、今日僕らの「時代の青春」の歌である。僕ら専ら青春の歌の高き調べ以外を拒み、昨日の習俗を案ぜず、明日の真諦をめざして滞らぬ。わが時代の青春!……
またかれは現状に対して、創造する自由であるとともに破壊する自由であるというイロニー≠フ矢を放った。たとえば「僕らは卑怯な健康よりもデカダンをとる」…「今日の場合は無意識に日本市民社会の実用主義とそのヒユマニテイのデモクラシイに対し、僕らはむしろデカダンをとるのである。今日の罪悪と欺瞞を知つてゐるから過去の光栄を知つてゐる。明日の光りを過去の光栄の方法によつて、観念的につくらうとするのでないだけである。僕らはさういふ健康な意志や健全な良心よりも、今日の没落を歌ひあげる元気を愛してゐる」…「正しいか間違ひかではない。混乱と放蕩のますます深くなることの方を望んでゐるのだ」(『今日の浪曼主義』)といったふうに……。
新宿の日本浪曼派同人会会場の喫茶店のまえに群がっていた学生たちには、こうした保田の主張が、懐郷の念と自己喪失の渇きを癒してくれる水のように感じられていたのかも知れない。作家の無意識面と一般の人人の無意識面が触れあったときに、かれは流行作家になる、という川上宗薫氏の指摘は、別に日本浪曼派や保田についていわれたことではないけれども、この場合にも当てはまるようにおもえる。
日本浪曼派は、主要な同人の多くがジャーナリズムに登場したせいなどもあって原稿の集まりが悪くなり、昭和十三年の八月に解散したが、保田與重郎の発言力と影響力は次第に大きさを増していった。そうした保田の存在に、太宰があまり好感を持っていたとはおもえない。のちに自作の『津軽』に引用した古書の一節によれば、世に栄える人を見ると「ただ時の武運つよくして、威勢にほこる事にこそあれ、とて、|随《したが》はず。」という奥羽人の気質を、かれもまた人一倍身につけているほうであったからだ。
棟方志功は蔵原伸二郎と一緒に、三日にあげず中野区の野方に新婚の家を構えた保田のところへ通っていた。志功の場合は、保田や蔵原の思想に大いに共鳴していたのに違いない。かれがのちに、もし仏教の教えを受けなかったら、わたくしは神道のほうへ行っていたでしょう、と語っているのは、そのことをいっているのであろう。出世作の『大和し美し』にしても、昭和八年の二月に発表された佐藤一英の詩を、速戦即決をむねとするかれが、三年後の昭和十一年に版画化しているところから推して、その間に大和出身の保田と知合ったことも、制作のきっかけのひとつになっていたのかも知れない。
志功は、雑誌「日本浪曼派」にはタッチしなかったが、保田とはたいへん親しくなっており、昭和十四年の九月に開かれた東奥日報主催の「在京芸術家座談会」でかれと衝突した太宰が、「棟方ってやつはね、実はあれでちゃんと計算してやっているんだよ」と悪口をいったのには、あるいはそうしたことも前提になっていたのではないかとおもわれる。
その翌月、保田與重郎らの「ぐろりあ・そさえて」から刊行された伊藤佐喜雄『花の宴』、蔵原伸二郎『目白師』、岩田潔『現代の俳句』、前川佐美雄『くれなゐ』、保田與重郎『ヱルテルは何故死んだか』の新ぐろりあ叢書¢謌鼕五冊の装幀は、すべて志功の担当で、東京の主な書店の店先は一時期、棟方調一色に塗り潰された。
そしてこの年の大晦日、志功は恩師の柳宗悦ら民芸協会の人人と、それに保田與重郎も加わった一行とともに神戸から船に乗り、かれの後半生に甚大な影響を及ぼすことになる南の島沖縄に向かって旅立った。
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南 島 の 旅
一
昭和十五年一月一日午前五時――。
前日の正午に、神戸港を出帆した琉球行きの大阪商船湖北丸(二五〇〇トン)は、超満員の乗客約七百人をのせて、まだ夜が明けていない土佐湾の沖合を航行していた。船室で起き上がった日本民芸協会の人人は、次次に甲板へ出て来た。早起きの棟方志功は、真っ先に出て来たほうであった。東方の水平線上に光の|箭《や》が生じて、陽が昇り始めた。快晴であったので、その初日の出は、まさに土佐原産の東天紅の鳴き声が聞こえて来るような壮観であった。人人は昇る太陽に手を合わせて敬虔に礼拝した。当時の多くの日本人にとって、それは身も心も引締まるような、輝ける「皇紀二千六百年」の夜明けだった。
政府はかねがね、神武天皇が大和国|橿原《かしはら》宮で即位したと伝えられる年から数えて二千六百年目にあたる昭和十五年に、紀元二千六百年祝典を行なうことを、さかんに宣伝しており、この年の正月三箇日に奈良の橿原神宮に参拝した人の数は、なんと前年の二十倍という百二十五万人にも及んだ。この急増ぶりは、当時の大多数の日本人の意識を、かなり正確に反映しているようにおもわれる。とくに時勢の変化に敏感な志功は、すでに大分まえから皇紀を用いて年月を記したりしていた。
サロンでの朝食が終ったあと、午前九時に|銅鑼《どら》が鳴って、乗客は甲板に集合した。船員とともに一同、東京の方角に向かって皇居遥拝、君が代奉唱。それから船長の発声によって「天皇陛下万歳」を三唱した。午後になると、ほとんど無風状態になり、船は穏やかな海に白い波頭を立てて南下して行く。民芸協会の一行で独占されたかたちのサロンでは、映画班の人人を中心に、琉球についての文化映画撮影の打合せが続いていた。
志功はふと、エキゾチックな三味線の音と賑やかなかけ声を耳にし、それに誘われて船底のほうへ降りて行った。近づくにつれて熱気と興奮が肌に迫って来た。船底の三等室は、正月休みに帰郷する人人で、足の踏み場もないほどの混雑ぶりだった。それでも人人は、所所に一畳敷ほどの空間をつくって、小さな三味線を弾き、歌をうたい、かけ声をかけ、踊りをおどっていた。それは帰郷の船上で新年を迎えた人人の溢れかえるような歓びを全身で表現しているようだった。歌詞も、会話も琉球言葉なので、意味は判らないが、そのリズミカルで熱っぽい喧騒のなかに身を浸しているうちに、志功は船に乗るまえから抑えかねていた血の騒ぎが、いっそう高まって来るのを感じた。
この旅へ出るまえに、志功は奈良を見物して回っていて、船に乗込む直前に、次のような葉書を水谷良一に送っていた。――琉球に行くことになりました。半生をかけて行きたいと思って居たところでした。龍舌蘭の林の中を馳けめぐる|丈《だ》けの|もの《ヽヽ》を身に入れて来たいと思い居ります。……
例によって棟方流の文章だが、このなかの「半生をかけて」というのは、昭和六年に松木満史と伊豆の大島へ行ったときから、南方の原色に憧れ続けていたことを指しているのだろう。それでなくても北国育ちの人間には、南方への強い憧憬の念がある。志功は帝展に初入選して帰郷し、ふたたび上京した昭和四年以来、冬の青森へは帰ったことがなかった。結ばれてから足かけ四年もの長いあいだ東京と青森に別れわかれの生活を余儀なくされたチヤ夫人の回想によれば、「春になると帰って来る人だった」のである。師の柳宗悦は、昭和十三年の暮に初めて琉球を訪ねたときから、熱烈な沖縄文化礼讃の文章を書き綴っていた。雑誌「工芸」の第百号(昭和十四年十月)に発表した『沖縄の富』で、柳は、
――人々は今まで余りにも暗い沖縄を語り過ぎてゐたのです。私達は優れた沖縄を語りたいのです。それは私達を明るくし島の人々を明るくさせるでせう。私達は実に多くの富に就いて語り合ひたいのです。……
と前置きして、那覇の街と海を見下ろす丘の上に立つ夢のような庭園都市の首里、濃い緑のなかに点在する赤瓦屋根の家家、民衆の生活のなかに今も一体となって息づいている詩歌と音楽と舞踊の豊かさ、織物、染物、焼物の美しさ、それに琉語と琉装の貴重な価値……等等を、口をきわめて賞讃している。その以前から、沖縄文化の素晴らしさを語り続けていたかれの言葉は、民芸協会の同人のあいだに琉球熱をまき起こし、昭和十四年の四月には最初の集団調査旅行が行なわれたが、志功はその旅行に加わることが出来なかった。以来、琉球行きはかれの宿願になっていたのだ。
憧れの琉球を目前にし、いま船底の客室で話に聞かされていた歌と踊りの一端に触れて、志功の興奮は高まる一方だった。帰郷の歓びを全身に漲らせて踊っている人人の天真爛漫さは、志功自身のものでもあった。本土の標準語で話しかけると訥弁だが、おたがい同士の琉球言葉では途端に雄弁になるのも、訛りの強い青森人と共通している。志功は自分も踊り出したくなったその賑やかな歌と踊りの名称を聞いてみた。「カチャーシー」という答えだった。これも似ている……とおもった。津軽弁では騒騒しいまでに賑やかなことを「カチャマシー」というのである。身も心も浮き立つようなカチャーシーのリズムに体で反応しているうちに、志功はいつの間にか、自分もまた故郷に帰りつつあるような気分になっているのを覚えた。
船が九州の南端の沖合を通過したころ、空と海を赤く染めて陽が沈んだ。水平線に没して行く夕陽を眺めながら、志功は甲板の上で子供のように飛び跳ねていた。
翌朝の午前四時――。志功と同室の人たちは時ならぬ大声で夢を破られた。だれかの寝言を聞きつけて飛び起きた志功が、「どうすた、どうすた!?」と奇声を発して、一人一人の枕元を走り回ったのだ。叩き起こされた恰好になった人たちは、しばらく呆気にとられたのちに、ようやく事態が判明したあとも、相手が志功では怒る訳にもいかず、ふたたび毛布をかぶり口のなかで文句をいいながら横になったのだが、志功の興奮は、いまや眠っているあいだも身内から破裂しそうになるくらいまでに膨れ上がっていたのに違いなかった。
二
一月三日、快晴。正午近く、船は那覇港に入った。どこまでも鮮やかに青く澄みきっている空と海――。前方の那覇の町は、柳宗悦の文章通り濃い緑のなかに赤瓦の屋根が陽光を受けて輝いており、岸壁は歓迎の人で埋め尽されていた。柳宗悦と濱田庄司らが、そのなかに旧知の顔を認めて手を振っている横で、志功は双眼鏡を眼に当てて、しきりに歓声を挙げた。正午に船は岸壁に横づけになった。
――|市《まち》に上って驚きました。子供たちが、おちんちんをまる出し真っ裸、裸足で元旦の街を走りまわっているのです。……
自伝『板極道』に、志功は神戸を出発したのが昭和十九年暮の十二月二十六日、那覇に着いたのは丁度、元旦で「これは見事な企画者の演出であったようでした」と述べているが、勿論これはかれの記憶違いで、昭和十九年の暮といえば、その年の十月十日に米軍五百数十機の大空襲を受けて、那覇市の殆どが焼失したあとのことになってしまう。ここでも自伝の揚げ足を取るつもりはないけれども、これほどまでの時日および事実に関する無頓着さは、志功の一特色といっていいだろう。那覇に着いたのが元旦ではなく、三日であったのも、同行した鈴木訓治氏が「月刊民芸」に発表した日記によってはっきりしている。上陸した一行は、郷土博物館長の島袋源一郎氏らに案内され、七台の自動車に分乗して、まず波之上宮に参拝してから、沖縄本島の南西端にある漁師の町糸満に向かった。
沿道の両側には、刈入れ直前の砂糖|黍《きび》が生え茂っており、ところどころに菜の花が咲き乱れていて、本土でいえば春の終りか夏の初めといった感じの気候だった。糸満では白銀堂に参拝し、魚市場を見物したのち、夕陽を浴びている那覇の町へ帰り、歓楽街辻町にある那覇最高の料亭三杉楼で開かれた歓迎会に出席した。柳宗悦を団長とする一行の人数は二十六人――。濱田庄司、浅野長量、式場隆三郎、棟方志功らの民芸協会同人のほかに、評論家保田與重郎、写真家土門拳、松竹映画の細谷辰雄、津軽で民芸運動を続けている相馬貞三といった人人が加わっていた。
歓迎に対する柳宗悦の謝辞と今回の旅行の目的を述べた挨拶が終ったあと、三日前から材料の準備にかかっていたという本格的な琉球料理が運ばれて来た。濃厚さと淡白さを兼ねそなえている味わいは、すこぶる志功の口に合った。自称胃拡張の志功でも食べきれないくらい、料理は次次に出て来る。それにも増してかれを魅了したのは、襖のかげから流れる|三味線《さんしん》の調べにあわせて、美しい花笠をかぶり|紅型《びんがた》衣裳をまとって現われた二人の乙女の手の動きと身のこなしが、まことに繊細でこの世のものともおもえぬほどの優雅さをきわめている琉球舞踊であった。志功はまるで龍宮城を訪れた浦島太郎のように夢見心地の面持になっていた。
夢見心地から少し醒めかけたのは、夜の十一時に宴会が終り、二十六人の一行が、地元と大阪商船支店の主催者側によって、二軒の旅館に分けられたときである。柳宗悦、濱田庄司、式場隆三郎、保田與重郎らの泊るのが、那覇最高の宝来館であるのに、志功に割当てられたのは、それより一段格下の旅館のようであった。二年前の秋に版画『善知鳥』で文展の特選を獲得してから、自分では随分えらくなったつもりでいたのに、この那覇では棟方志功の名前を知る者が、まだ誰もいなかったらしい――。
実際に地元では美術に関心のある人でも、棟方志功という名前は知らなかった。文展の版画で一度特選をとった程度では、それも当然であったが、人人は、じきにその名前を頭に刻みつけられることになった。
那覇に着いて二日目の一月四日、一行は陶工の窯場が集まっている壺屋を訪ねた。ここは濱田庄司がイギリスから帰って来て栃木県の益子に入り、借間住まいの制作を行なっていたころ、毎年のようにやって来ては、冬のあいだを焼物の研究と制作に過ごしていたところである。濱田は、半農半陶の生活を送っている壺屋の陶工たちの仕事の健康さに|惹《ひ》かれていたのだった。柳宗悦も壺屋の焼物に用いられている手法の多彩さと、とくに柔かい温かみのある赤絵の調子を賞讃したあとで、
――窯場としても、村全体が美しい一風景をなしてゐる点で他では見られない所です。ここでも古い土塀が連なり、その間を道が縫ふ如く進みます。|宛《さなが》ら朝鮮の村々を歩く想ひです。緑の深い樹々や、色を競ふ様々な花の間に、赤い本葺の窯屋根を臨む風景はいつも好個の画題なのです。……
と書いている。そんな道を辿って、一行は濱田庄司が一番ながい時間をともに過ごした陶工新垣栄徳の仕事場に行った。道の両側の石垣のうえに赤い花を咲かせていたのはポインセチアだった。壺屋の家家は丘陵地の斜面に散在し、その傾斜を利用して登り窯が築かれていた。当時は閑静だったこの陶郷を訪ねたときのことを、志功はこう書いている。
――琉球は、陶器がすばらしいのです。ことに壺に描かれている陶絵がすばらしいのでありました。どんな絵を描く人たちがいるのだとばかり思っていましたが、工房に案内されて見ると、これが、まだ|涎《よだれ》かけをかけているような子供が描いているのでした。……
若いころの金城次郎とともに、そのころ中学生で冬休みのあいだ父の仕事を手伝っていた新垣栄三郎は、訪ねて来た一行のなかで、とりわけ棟方志功の印象を、はっきりと記憶にとどめている。手にした焼物に分厚い近眼鏡を近づけ、舐め回すようにしては大声を張上げて感嘆する有様が目ざましかったからだ。志功はその後も滞在中に何度かやって来て、「ぼくは、この琉球が、本当に自分の故郷のような気がして仕方がないんですよ」といいながら、父の栄徳と焼物について、いろいろと話し合っていた。
壺屋を訪ねた翌日の夜、一行は「歓迎特別興行」の沖縄芝居を見に行った。上演されたのは古典劇の『|人盗人《ひとぬすびと》』で、主役を演じたのは名優|真境名由康《まじきなゆうこう》だった。現在は春陽会に属する画家で当時は那覇の教員だった大嶺政寛は、その晩の模様をよく覚えている。『人盗人』は、子供を盗んで金にしようとした悪人が、子供の純真さにほだされ、かえって子供と遊んでしまう……という筋で、途中、誘われた子供が「しばし母親に暇乞いんしらん許ちたぼうれ」というと、人盗人は真紅のデイゴの花を見せて誘ったときのやさしい態度から一変して大目玉を剥き、いまにも噛みつきそうな怖ろしい形相になって、「いや許すことならぬ。離すことならぬ」といいながら取出した鎌を振上げ、仁王立ちになって、「クリ見チャカワラビ、クリンチャカワラビ」と大音声を発する場面がある。
本土から行った人間には、|沖縄語《うちなーぐち》の台詞の意味が、はっきりとは判らないが、ここは観客が手に汗を握るところで名優真境名由康の見せ場であることは明らかだ。だが民芸協会の一行ばかりでなく、地元の観客の視線も、しばしば舞台の上より、二階席の手摺から身を乗出している男の姿に吸い寄せられているようだった。志功は沖縄芝居にすっかり魂を奪われた様子で、自分に与えられた二階の座席を離れ、手摺から大きく身を乗出し、ときどき双眼鏡を眼に当てていた。そのうちに双眼鏡を覗いたまま、舞台上の人盗人と童児の動きに引寄せられて、危うく下の座席へ落っこちそうになる。見ていて大嶺は気が気ではなく、これでいっぺんに棟方志功の存在を頭に刻みつけられたのだった。
それから志功は、琉球の至宝といわれ、沖縄の団十郎とも呼ばれている老優|玉城盛重《たまぐしくせいじゆう》の組踊にも、深い感動を受けて、熱狂的な拍手を舞台に送っていた。
次の日は師範学校の講堂で、空手術の見学。それまでの滞在期間中に、首里城や|中城《なかぐしく》の城趾なども見て回っているうち、町や村の各所に貼られている「いつもはき/\標準語」…「一家揃つて標準語」といった標準語奨励のポスターがよく眼につき、それを見かけるたびに柳宗悦の表情は段段きびしいものに変っていった。
本当はこの一月六日で、予定の日程は終り、一行は正午発の湖北丸で帰途につく筈だった。けれども、まだまだ見たいものが沢山ある、というほぼ全員の希望で、帰るのは次の船まで延期と決まった。
そこで翌七日の午後三時半から、那覇市公会堂で、沖縄観光協会と郷土協会の共催により、民芸協会の一行を囲む座談会が開かれることになった。この座談会がきっかけになって、沖縄県の学務部が『敢て県民に訴ふ民芸運動に迷ふな』と題する声明を那覇の三新聞に発表し、それに反論した柳宗悦は検事局に拘引されて取調べを受け、民芸協会側に好意的な意見を持っていた県立図書館長は罷免されるという激しい「沖縄方言論争」の幕が切って落とされることになったのである。
三
座談会の主題は、民芸協会の一行がこれまで接して来た沖縄の風物をもとに、今後の観光のあり方について語り合うことだった。一行のなかの式場隆三郎の手記によれば、座長に推された島袋県立図書館長の指名で、まず団長の柳宗悦が立ち、三たび沖縄を訪れることになった縁の深さと、民芸協会同人の調査研究の概要について述べたあと、「これからは観光の立場からも、もっと積極的な活動をして、この素晴らしい土地を世界的なものにしたい」と挨拶して、会は和やかな雰囲気のうちに始まった。
民芸協会側の出席者が、沖縄の美しい風物に対する感嘆の念と、観光客誘致のための様様な意見につけ加えて、標準語奨励運動への疑問を口にし、標準語の普及は結構だが同時に方言を尊重することも必要ではないか、また沖縄式の墳墓を整理しようとしているのは、人人の信仰生活を傷つけることになりはしないか……と語ったあたりから、沖縄県庁側の出席者の表情が硬くなって、だんだん雲行きが怪しくなって来た。
そして濱田庄司が、前回の旅行のさいに移転を希望しておいた崇元寺の門前の目障りな電柱の移転に、重ねて観光協会の方方のご尽力をお願いしたい、と発言したとき、電気会社からの出席者は、物資が制限されている現在そうしたい希望も実現が困難であるし、技術的にも容易でない……と釈明気味に語っているうち次第に興奮して、「このまえにすぐ取ると約束した覚えはない」「あなたから命令されるような口調でいわれるのは心外だ」と憤懣の色を隠せない様子になった。
その言葉は、琉球王国が生んだ最上の建築物のひとつであろうとおもわれる崇元寺の廟門の簡潔で荘重な美観が、無神経に立てられた一本の電柱によって無残に損なわれている、と考え、いわば沖縄の美を大切にしたいというそれだけの理由で移転を熱望していたつもりの濱田にとっても心外で、「電柱がないのなら、こっちで寄附してもいい」といったが、「電柱だけの問題ではない」と躱され、「地下線にできないか」というしごく|尤《もつと》もな地元の人の意見も、まったく相手にされず黙殺されてしまった。
にわかに硬く張りつめた空気のなかで立上がった沖縄県の警察部長は、「県の立場として皆さんのご意見にお答えしたい」と前置きして、およそ次のようにいった。
――標準語運動は、県の大方針として、もっと徹底的にやるつもりである。標準語の普及は刻下の急務である。観光客が一時的な興味から方言を喜び、それを保存しろなどといわれては困る。県の方針に協力して貰いたい。墓の問題にしても、あれに莫大な費用をかける風習を打破しなければならないし、衛生上からも改善の必要がある。それに住宅問題その他からみても、土地の少ない沖縄にこのように乱立している墓を整理しなければならない。要するに、趣味や文化的意味とは別に県として標準語の徹底を期しているのだから、あなた方の意見をそのまま承認することはできない。……
当時は多くの人が余り不思議にもおもわなかったことだが、言語や信仰の問題に関して、このように警察部長が県を代表してものをいう立場にあったことは、記憶にとどめておく必要がある。つまるところその意見は、旅行者が地元の問題について無責任な口出しをして貰いたくない、という風に聞こえたが、そういう警察部長自身も、実際は本土から赴任して来た役人であった。
それに対して濱田庄司は、十六年まえの大正十三年から何回もの冬を壺屋の陶工の家で一緒に暮しており、柳宗悦も沖縄の尚昌侯と同級生だった縁で古くから南島に関心を持ち、初めて沖縄を訪ねたのが一昨年の暮であるとはいえ、昨年の春から夏にかけては数箇月のあいだ民芸協会の人人と共同で家を借りて滞在し、熱心な調査研究を行なっていた。単なる旅行者や観光客ではない、という自負を抱いていた柳は、警察部長に向かって、
――標準語の必要はわれわれも認めている。しかし方言といって片づけるにはあまりに意義の深い沖縄語を否定するような態度には反対である。もし県が、あくまでもやろうといわれるのなら、わたくしたちもまた、あくまでもこの主張の貫徹に努力する決心である。……
と反論した。これは県当局への公然たる挑戦といっていい。柳は言葉を続けて、
――われわれを一時的な旅行者と見なし、越味や道楽でこんなことをいっているのだとおもわれるのは不満である。われわれはもっと長い経験と見聞と反省を持っている。この主張は一時のおもいつきではない。もっと公正な根拠のうえに立っているのだ。……
と幾つかの例を挙げ、それをめぐって警察部長とのあいだに鋭い応酬が繰返された。相馬貞三らの民芸協会員も実例を挙げて柳説を|敷衍《ふえん》しているうちに、意を決した面持になって立上がった沖縄の地元の一人が、柳への賛成意見を述べ、「きみまでがそんなことでどうする!」と叱りつけるような調子で警察部長に|窘《たしな》められたのにも|怯《ひる》まず発言を続けて、場内の空気にはまえよりも一層緊張の度が加わった。
そこで式場隆三郎が話題を変えて、精神科の医者としての立場から、沖縄にまだ一つもない精神病院新設の必要を唱え、風土病予防のために裸足の習慣を禁じ、せめて草履をはかせるよう提案すると、警察部長は「そういう意見には大賛成だ。あなた方から少しもその方面の話が出ないのを不思議におもっていた。わたしは衛生部長のつもりでこの県へ来たので、今後も生活改善には大いに努力する決心である」と、初めてわが意を得た表情になったが、ふたたび話題が方言論争に戻ると、民芸協会側も県当局側も互いに譲らず、いつまで経っても議論が終らなくなり、濱田庄司が一応の終止符を打つように、「論争はやがて勝負がつく。帰結は明白です。そのときを見ていて下さい」といったときには、もうすっかり日が暮れて、おたがいの顔も見えないくらいになっていた。
主催者である郷土協会の志喜屋会長は、きょうの意見の相違も結局は両者とも沖縄を愛しているためで、これからも十分研究してわが沖縄のために最善の道をとりたい、と締め括って閉会を宣したが、そのとき出席者の大半は、この論争を契機として、柳宗悦が検事局に拘引され、座長を勤めていた島袋県立図書館長が罷免されるほどの大事件になろうなどとは、まだ予想していなかった。
四
志功は、いつもの饒舌にも似ず、この座談会のあいだ殆ど何も発言しなかった。どちらとも考えを決めかねていたのではなかったろう。高木恭造に秀れた方言詩集『まるめろ』を生み出させるきっかけをつくった地方主義者福士幸次郎の教えを受けていた志功にとって、方言の大切さは、議論を要しないくらい自明のことである筈であった。
この座談会の二日まえに、志功は断崖の上にあって遠く伊江島を望む絶景|万座毛《まんざもう》の岬へ行き、そこに伝わる女流歌人|恩納《うんな》なべの歌に、強烈な衝撃を受けていた。それから二十四年後に出した自伝『板極道』に、かれはこう述べている。
――運那ナベは遊女でありましたが、その相思相愛の|恋人《さと》が、なかなか姿をあらわさない。この|焦《こが》れて死ぬ思いをどうしたらいいのか、あの山があるためにサトが来れないのじゃないか、この川があるためにあのサトが渡れないのじゃないか、あの山もあの川も、はやく飛んで消えてなくなれ、そうすればサトが、私の胸へまっすぐに来て抱きしめてくれる、という歌の意味なのでありました。こんな力強い激しい歌をつくった詩人は、よほどはげしい気性の女だったのでしょう。……
このなかの「運那ナベは遊女でありましたが」というのは、恩納なべと遊女の歌人|吉屋思鶴《よしやうみちる》を混同しているのであろうし、続く歌の意味も、「|恩納岳《うんなだき》あがた里が生まれ島 |山《もり》もおしのけてこがたなさな」という恩納なべの歌の内容を、志功らしく拡大解釈して覚えていたのだろうが、このような自己流の解釈は、かれが感動したときの常である。
万葉調をおもわせる歌いぶりの恩納なべは、|尚穆《しようぼく》王(一七五二―九五)時代の女性で、文字は知らなかったともいわれ、柳宗悦の説によれば、沖縄ではずっと詩歌と音楽と舞踊が一体となっていて、歌をつくるのには紙に推敲して書くのではなく、実際にうたいながら踊りながらつくるのであり、文字の読めない人でも素晴らしい歌をつくったのはこのためで、恩納なべの作はその好例であり、また万葉の時代においても、まだ詩歌と音楽と舞踊とが、はっきりと分れておらず、万葉集のなかでも「読み人知らず」の歌の作者には字を読めずに、うたいながら踊りながら作歌した人が、いたに違いないという。つまり万葉の無名の歌人と、沖縄の歌人の多くは、いまの言葉でいえばシンガー・ソングライターであったということになる訳で、短詩型の文学を好んで気に入った詩歌の暗誦を得意とし、踊るような恰好でそれらを版画に彫ってきた志功もまた、現代人であってもそうした人間の一人であったといってよいであろう。
独得の韻律と旋律を持つ琉歌の多くが、文字よりも口に出す言葉をもとにして生まれてきたのだとすると、方言を否定することは、|本土《やまと》のどの土地とも比較にならないほどの豊饒さで今なお庶民の暮しのなかに生き続けている琉歌の水脈を、そこで断ち截ってしまうことになる。そればかりでなく、当時、那覇では二つの劇場で毎晩上演されていた言わばミュージカルの沖縄芝居を滅ぼすことにもなりかねなかった。沖縄芝居の台詞の、意味はよく判らなくてもいつの間にか眼に涙が滲むほど哀感が惻惻と身に迫って来たり不思議な懐しさを感じさせたりする節回しに魂を奪われ、空も海も見渡すかぎり青く明るい万座毛の岬で聞かされた恩納なべの歌の大らかな調べに深く心を打たれていた志功は、理路整然とはいえないにしても、当然、方言を否定するなんてとんでもないことだ、とおもっていた筈である。
この座談会のときに限らず、沖縄に来てからの志功は、たびたび失語症のようになることがあった。たとえば万座毛の岬へ行った翌日、琉球の王家であった尚家の陵墓である|霊御殿《たまうどん》に詣でたときのことだ。石垣で囲まれた外郭から、石屋根の小門を潜って、ふつう一般の人には参観が許されていない内郭に入り、目の前に石造の霊御殿の全景が|展《ひら》けた途端に、「なーんも……」「なーんも……」と繰返して口をあけたきり、志功はあとの言葉が出なくなった。
傍にいた相馬貞三には、志功のいおうとしていることが、すぐに判った。ここにも何もないではないか! それなのに……志功はそういって感嘆していたのだ。四千数百坪の山林に包まれている約七百坪の墓地――。荘厳な石造の建築物によって囲まれたその何もない空間には、精霊で満たされているような鬼気が感じられた。
そうした雰囲気は、ひとつには頭上の巌に立っている奇怪な獣の彫刻から発散されていたのかも知れない。双眼鏡を当てた志功の眼が、その怪獣に吸い寄せられているのを見て、「あの彫刻は、きみの版画にそっくりじゃないか」と濱田庄司は笑いながらいった。「昔の琉球にも、棟方志功がいたんだな」
志功はその言葉を、冗談であるとも、仲間褒めのお世辞であるともおもわなかった。かれには本当にこの沖縄が、自分の先祖の土地であるように感じられていたのだ。そうおもったのには、福士幸次郎から教えられていたことに一因がある。関東大震災のあと東京から弘前に帰って地方主義運動を始めた福士幸次郎は、柳田國男の民俗学に惹かれ、手紙を送って柳田の教示を受けるようになった。大正十四年の四月、かねて沖縄の先島まで旅して南島の調査研究を行なっていた柳田は、『海南小記』を刊行した。この本には、ビロウ、アジマサ、コバなどと呼ばれる植物の経路を辿って、われわれは古く南方から海を渡って現在のこの列島にやって来たのではないか……という柳田の考えの端緒が語られている。
福士はこの柳田の考えに、強く想像力を掻き立てられるのを覚えた。まえにも書いたように、もともと北国の人間には南方への憧憬の念があり、明治二十六年ごろに当時としては冒険といってよかったマラリヤ流行地の八重山諸島まで実地踏査の旅を行ない、本土の人間の紀行としては最も早いものに属する『南嶋探険』を著したのは、福士とおなじ弘前人の笹森儀助であった。
しかし福士の立論は、柳田によって反対されることが多く、昭和三年ごろから福士は柳田に師事することをやめ、のちに『原日本考』としてまとめられる独自の構想によって日本中の各地を歩き回り始めた。記紀の伝承にしたがって九州一円を巡歴したのは昭和四年の春である。その後、福士幸次郎から志功は、自分の棟方という姓が九州の宗像に発しているものであるらしいこと、宗像神社に祭られている三女神は海人族の神様であること、柳田國男の考えによれば日本人の祖先は南方から海を渡って来たらしいこと……などを教えられ、成程、と膝を打つおもいで頷いた。福士の説によって、大島へ旅行したときから感じていた自分のなかの南方性に、理論的な根拠を与えられたような気がしたのだ。念願の南島へやって来たいま、かれには見るもの聞くもののすべてが妙に懐しく、柳宗悦が天平の古都の美しさをおもわせると評した首里周辺の風物に、近頃ますます強まっていたノスタルジーをすっかり満足させられて、陶酔に近い気分で毎日を送っていた。
志功が南島の空気の心地よさに浸りきっている一方で、七日の座談会に端を発した「方言論争」は、次第に大きく波紋を広げつつあった。翌八日の那覇三紙は、前日の論争を大見出しで報じ、十日の沖縄朝日には、『愛玩県』と題して、「……彼等の云ふ所はいつもかうだ。わざわざ遠くまでやつて来たのだから奇らしいもの面白いものを残して貰はないと困る=B彼等は余りにも県をその好奇心の対象にしてしまつてゐる。好奇心の対象にする位ならまだしもである。もつとひどいのになると観賞用植物|若《もし》くは愛玩用動物位にしか思つてゐないものもある。かゝる人々に限つて常に沖縄礼讃を無暗に放送してはまたか≠ニ思はせられるのである。(後略)」という文章が掲載された。筆者は地元出身の県学務部社会教育主事だった。
翌十一日の那覇三紙には、沖縄県学務部の声明文が発表された。その文章はこう書き始められていた。「意義深き皇紀二千六百年を迎へ真に挙県一致県民生活の各般に亘り改善刷新を断行して此の歴史的聖業を翼賛し奉らねばならぬ。|就中《なかんずく》標準語励行は、今や挙県一大県民の運動として着着実績を収めつつある所である。……」
五
「……然るに最近妥当ならざる批判的見解が行はれ、一部民衆に動揺を来しつゝあるに|鑑《かんが》み、本運動の趣旨について一言述べたいと思ふ。/思ふに標準語励行が県民運動として取りあげられて以来、全県に|亙《わた》り躍進的実績を挙げつゝあることは|斉《ひと》しく識者の認めるところにして、其の普及につれ如何に県民性が明朗闊達となり、進取的気風が養成されつゝあるかは今更|喋々《ちようちよう》を要しない所である」
これによると、標準語の励行によって、沖縄人の気質が明るくなったようにも受取られるが、むしろ沖縄人本来の明朗闊達さが、標準語の強制によって、これまで隠されてきたのではないか……というのが、民芸協会同人たちの疑問であった。沖縄県学務部は、標準語励行運動の躍進的実績として、次のような諸点を挙げていた。
「新入児童に方言交りで教授したのはつい五六年前であるが、今や如何なる|僻陬《へきすう》、離島においても入学当初から標準語教授が教育の能率を挙げてゐる。旅先で道を尋ねてもはつきり標準語で返事してくれる田舎の老人、ハキハキとして自信に満ちた男女青年の応答ぶり、標準語奨励のお蔭で蔑視と差別待遇から免れたと感謝の消息を寄する最近の出稼移民群、新入兵の力強き本運動に対する感謝と激励の手紙! 県出身兵の共通的欠陥たる意志発表が最近|頓《と》みに良好に向ひつゝあるとの軍部の所見! 我等は此処に本県振興の根本を暗示された如く無限の力強さを感ずるものである」
新聞でそこを読んだとき、「これは違うじゃ、なあ」と志功は、相馬貞三にいった。同郷の二人は、沖縄へ来てからいつも行動を共にしていて、いちど道が二股に分れているところで、通りかかったお婆さんに、実際に道を訊ねたことがある。その答は標準語ではなかったが、「ミギリイキミサレソーレ」(右に行き召され候え)と丁寧に教えてくれたお婆さんの態度の|慇懃《いんぎん》さと、言葉の|雅《みやび》やかさに、津軽弁の二人は大感激していたのだ。もしこのとき二人が、津軽では「アヤ」「アッパ」「オヤク」という「父」「母」「親戚」を、沖縄列島の南端にあって本土よりはずっと台湾に近い八重山地方の方言でも「アヤ」「アッパ」「ウヤク」といっており、つまり人間の基本的な関係を示す言葉がほぼ共通している事実と、石垣島に生まれて日本諸方言の調査研究を行なった|宮良当壮《みやながまさもり》博士の「八重山方言には上代日本語の博物館の観があり、殊に本州の北部青森地方の方言と相関がある」という指摘を知ったら、どんなに驚いたろう。
それは余談だが、標準語励行運動の実績として、沖縄県学務部の誇っているのが、老人よりも児童や青少年の態度の変化であり、差別と蔑視を免れたという出稼移民の感謝を伝える消息であり、新入兵の意志発表が良行に向かいつつあるという軍部の所見などであったことは明らかだ。声明文はさらに、「……或る一部の人は『標準語奨励のために方言を卑めたり、又伸び行く童心を萎縮させる憂はないか』とのことも言はれるが、それは全然杞憂であると申したい。いやしくも標準語奨励をする以上沖縄方言に対する正しい認識をもち、奨励方法に於ても童心を傷けることなく、言葉の変遷を知らしめると共に国語教育を通して伸び/\と其の奨励に当つて居るので、決して角を|矯《た》めて牛を殺すと言ふことのないやうに万全を期してゐる次第である」と述べていたが、民芸協会の同人には、この点にも疑問があった。
同人の一人は地元の人から、近頃うちの子供はお祖母さんと一緒に銭湯へ行くのをいやがる、という話を聞いていた。お祖母さんに|沖縄語《うちなーぐち》で話しかけられると答えない訳にはいかず、それを級友に見られて、翌日の朝礼で校長先生に「きのう方言で話しているのを見た人は手を挙げなさい」と命じられたとき、いいつけられるからいやだ、というのである。相手の級友も別に告げ口をするつもりはなくても、子供だから校長に聞かれると正直に手を挙げざるを得ないのだ。町や村の方方に貼られている「一家揃つて標準語」という標語の通りにしたら、年老いた祖父や祖母は、一家の団欒に加わることができない。標準語励行運動の行きすぎは沖縄の家庭の団欒を阻害し、また現に童心を傷つけているではないか、というのが、柳宗悦の憤激の一因であった。
沖縄県の学務部は、それを杞憂であるとして、「……今後も各方面の人々がそれ/″\の視野から雑音的批判をすることもあるだらうが、かゝる|些々《ささ》たることに右顧左眄することなく、本運動の根本精神を確認し、皇紀二千六百年の挙県的精神運動として所期の目的の達成に更に拍車をかけるべく県としても充分努力を致す覚悟である。/県民各位の正しい認識と徹底的協力を切望して止まぬ次第である」
と、その声明文を結んでいた。文章の最初にも終りにも、「皇紀二千六百年」を記念する挙県一致の運動であることが強調されている。県学務部が、目下、沖縄全土に繰広げている標準語励行運動の最大の眼目は、まさしくそこにあったのに違いなかった。
柳宗悦が昭和十三年の暮に初めて沖縄を訪れたのは、東大の学生のころ『朝鮮とその芸術』を読んで以来かれに傾倒しており、やがて役人となり沖縄県学務部長となった山口泉の招きによるもので、そのとき沖縄の魅力に取憑かれた柳は、翌十四年の春、民芸協会同人を伴って再度来島し長期滞在して調査研究した結果を、雑誌「工芸」に『沖縄の富』と題して発表したが、なかで琉語と琉装の貴重さを説いたことが、以前から「皇紀二千六百年」に向かって挙県一致の標準語励行運動を展開していた沖縄県当局の|忌諱《きい》に触れたのであろう。沖縄県学務部長としての在任期間が僅か半年で、山口泉が本土へ転任を命じられたのは、そのことに関係があったのかも知れない。かれの離島後、こんどは本土―沖縄間の観光航路開発を目指す大阪商船や、琉球新報などの招きによってやって来た柳宗悦と民芸協会の一行は、沖縄県当局から見れば必ずしも好ましい客ではなかったものとおもわれる。
この昭和十五年に行なわれる皇紀二千六百年の祝典は、三年まえから始められていた国民精神総動員運動、それに続く具体的な国家総動員法、中国との戦争の拡大にしたがって強化されていた総力戦体制の、いわば総仕上げともいうべき行事であって、沖縄における標準語励行は、学務部の民芸協会に対する声明文からも察しられるように、それらの運動と総動員体制の重要な一環であった。
民芸協会の人人に同行していた保田與重郎は、のちに「月刊民芸」から「沖縄方言論争」に関して意見を求められたさい、「私は沖縄の標準語運動については、実際を知らぬから何も云へない」と前置きしながらも、「標準語運動などおそらく経済的政治的又軍事的必要からなされてゐると思ふ。これは現今何より優先権をもつ立場である」と指摘している。多分そのような立場から皇民化≠急速に推し進めようとしていた沖縄県当局にとって、目標にしていた皇紀二千六百年の、それもわざわざ年頭にやって来て、標準語励行に水をさそうとするような民芸協会の主張は、とうてい容認することのできないものであったにちがいない。
また沖縄の地元において、かりに方言の貴重な価値を認識していたとしても、この皇民化≠ノ反対できる人は数少なかった。経済的な貧しさから島を出て、本土で職を求めようとしても「朝鮮人と琉球人はお断り」といった差別を受けていた当時、標準語を喋ることによって本土人との違いをなくしようとする皇民化は、沖縄人にとって必須のことのようにおもわれていたからである。皇民化と近代化が、重なり合うもののように考えられていたことも、人人の関心を方言より標準語に向けさせていた。たとえば沖縄県学務部の声明文が発表された日の沖縄日報には、『沖縄|玩弄《がんろう》』という題で次のような一文も載った。
――この数寄者連の目に邪魔になつて古琉球式景色の撮影が出来なければ、臆面もなく電柱の撤去をも要望する。沖縄では電燈電力など使はずにゐて貰ひたいという心臓だ。沖縄玩弄の妨害になれば、市民の利益もなければ、国家の興隆もない。その徹底した利己的心臓には敬服する外ない。……
前日の沖縄朝日に出た『愛玩県』とおなじ論旨を一層どぎつくしたような文章で、電柱の移転を希望した濱田庄司の主張を故意に曲解している気配も感じられるが、沖縄には電燈などいらないというのか、という屈折した悲憤慷慨の口吻を、いちがいに感情的な反撥だけとは|極《き》めつけられない。零細農が多く、いったん凶作に見舞われれば毒性のある野生の蘇鉄からも澱粉をとり、その製法を誤ると死ぬこともあるところから「蘇鉄地獄」と呼ばれていた沖縄の貧しさ、あるいは不衛生、病気、無知、迷信……等等を克服してくれる筈の近代化は、若い人たちや知識層の悲願であり、そのために古くおぞましいもろもろの象徴であるようにも感じられる|沖縄語《うちなーぐち》を捨てて、|標準《やまと》|語《ぐち》をとるのは、必然の選択であって時代の進歩であるようにも考えられていたからだ。
そうした差別と悲願が絡みあって、胸底に|蟠《わだかま》り、|捩《よじ》れきっているような状態のなかで、昨年の大晦日に神戸から船底の客室に乗り込んで帰郷の途についた人人の熱狂的な歌と踊りは、意識下の捩れがいちどきに|解《ほど》けた感じで、おもいきり|沖縄語《うちなーぐち》を話せる喜びを存分に爆発させていたのだろう。そのときのことを、保田與重郎は紀行文のなかで次のように書いている。「私らの乗つたのは湖北丸といつた。大正の初めに出来た二千五百|噸《トン》余の古い船で事変以来代航船になつてゐる。設備は古い上に悪かつた。下の船室など正視できない位な乱雑ぶりだつた」…「三等室になるとお話の他だつた。極度に不潔で、乱雑で、あそこで三晩をすごすことは、一寸驚かれる。しかしあの極端さには、それが民衆の力の一表情だらうか、すごいやうな生命力が強烈によどんでうなつてゐるやうな感じがした。しかしさういふ感嘆は別の事である。事変下ゆゑに許されてゐるやうな設備の非道に私は心がくらかつた。(中略)沖縄航路のことについては、よく沖縄県で問題になるときいた。湖北丸にのつて、私の経験したことも、さういふこと、残念ながら人道問題といひたいものに近かつた。もつとも私は一ばんよい部屋にのせてもらつて、下の船室を見物してきた程度、何かそんなことをいふのに気がひける。しかし見物といつても、琉球の踊りをやつてゐるのを見にゆかぬかといふ、そのついでに下へ行つて真実閉口したのである。又驚いたのである」…「私はその船室のかもす空気にこみ上つてくるやうなものを感じた。それはすさましい生きたものの力を充分に発散してゐた。大衆とも群衆ともちがふだらうが、同じく生れた島へ帰る人々の乱雑な集団にはちがひない」
保田はこの旅行中、民芸協会の一団からは一人ぽつんと離れた感じになっているときが多かった。夜型の体質なので朝早くからみんなと行動を共にすることは難しかったろうし、それに「国のまほろば」であり古代の面影を伝える建築物と数数の美術品に囲まれている美しい大和に生まれ育ったことをなにより有難くおもっていたかれは、沖縄の風物に感興を覚えても、民芸協会の同人たちのように心を奪われるまでにはいかなかったのかも知れない。「人々は今まで余りにも暗い沖縄を語り過ぎてゐたのです。私達は優れた沖縄を語りたいのです」という柳宗悦が、もっぱら讃美している風景と文化のかげに、二十九歳の保田は、沖縄の経済的な貧しさも見ずにはいられなかった。『琉球紀行』にかれはこう書いている。
「あの美しい赤い屋根、その上に飾られた怪物の彫り物、さういふ珍らしい景物にもかゝはらず、あの屋根の下の家は、暗くて、何か重圧を上から感じる」…「南島の第一の問題はやはり今でも低い生活状態をどうするかといふことにあるらしい。沖縄は最窮乏県である。昭和の初年から行はれてきた島出身の青年の文化運動も、やはり一種の新生活運動であつた。怖るべき疾病と貧困から島を救ふためには、例へそのために失はれるものが僅少でなくとも、このやうなことは止むを得ないと私も島の生活の少しの部分にふれて、感傷したことだつた」
鈴木訓治氏の日記によれば、「沖縄方言論争」のきっかけになった座談会では、保田も立って発言したことになっているが、その内容は記録されていないので、ここに再現することはできないけれども、おそらく|晦渋《かいじゆう》で聞く人にはよく意味が通じなかったろうとおもわれるのは、あとで保田が方言論争に触れて「月刊民芸」に書いた『偶感と希望』も歯切れが悪く、いっこうに要領を得ないからである。柳と保田の共通点は、ともに復古的な傾向を持ち、現在よりも過去の時代に憧憬の念を抱いていて、信仰や感情を重んじ、主知的な近代に対抗する「反近代」の立場をとっていたことなどにあるとおもわれるが、保田は西欧追随の近代主義に対抗して「日本浪曼派」を立てるさい、むきだしの日本主義を避けてイロニー≠ニいう複雑な論法を用いざるを得なかったように、この方言論争においても、沖縄人の皇民化ばかりでなく、近代化についても関心を捨てきれぬところがあり、その分だけ歯切れが悪くなっているようにおもわれるのだ。
一月十一日付の那覇三紙に発表された沖縄県学務部の声明文を読んだ柳宗悦は、ただちに断固たる反論を決意した。柳宗悦と保田與重郎。一方は大正の末期から昭和の初年にかけて、一方は昭和十年代に、青年と知識層の一部に強い感化力を及ばしたこの二人の共通点と対立点も頗る興味深く、また二人ともそれぞれに今後も棟方志功に影響を与えて行くことになるのだが、それらについてはおいおいに語っていくとして、ここで志功のほうに視線を移すと、かれは面倒臭い論争など、まるで関心なげに、陶酔と活躍の日日を過ごしていた。
土門拳らと一緒に、糸満の市場へ行ったときのことだ。土門が写そうとする対象を睨みつけて、スピグラのレンズを5・6に絞り、シャッター・スピードを1/25秒にして、慎重に距離を測りピントを合わせているうちに、絵具箱を広げた志功は、べたべたと絵具まで塗って一枚の絵を描き上げてしまう。土門がシャッターを押すまえに、志功の絵が出来上がっているのである。物を見ると、頭の中であれこれ考えるより先に、体と手が動き出すたちなのだ。嬉しそうに口のまわりに皺を寄せている志功に「写真機というのは、不自由機だなあ」といわれて、土門は苦笑するしかなかった。翌日の夜は、滞在中に色色と世話になっていた喜久山家へ行き、「安里屋ユンタ」を習った。
※[#歌記号]|安里屋《あさどうや》ぬ クヤマによ
あん|美《ちゆ》らさ |生《ま》りばしよ
習っている一同のなかでは、志功が一番熱心で賑やかだった。喜久山家から旅館へ帰る夜道でも、かれは調子外れの胴間声を張上げて「サアハリヌ チンダラ カヌサマヨ」と繰返しうたい、酒も飲まないのに酔ったような恰好で踊り続けていた。
沖縄へ来てから十日目の一月十二日、日本民芸協会の一行は、方言論争を継続しようとしていた柳宗悦と、濱田庄司らの数人を残して、本土へ帰ることになった。
帰りの船は、来たときの古い湖北丸とは違って、新造船の浮島丸だった。朝の八時に宿を出て、船に乗込んだ一行は、甲板から見送りの人人に向かって、懸命に手を振っていた。出航の午前九時が迫ったころ、棟方志功らの幾人かは、買って来た四つ竹を鳴らして、覚えたての「安里屋ユンタ」を合唱し始めた。鈴木訓治氏は後に「月刊民芸」に発表した日記に、「多くの琉球の人々を前に置いて歌う心臓の強さは相当なものである」と書いている。志功は無論そんなことを気にする様子は微塵もなく、殆ど涙ぐんでいるような表情で、声も嗄れんばかりに「安里屋ユンタ」をうたい、次第に遠ざかる那覇の町と人波に向かって、いつまでも手を振り続けていた。
来るときは三等船室の「正視できない位な乱雑ぶり」に、かなり閉口気味であったらしい保田與重郎にとっても、このときの別れの模様は、よほど印象深いものであったようで、本土に帰って間もなく「コギト」の二月号に発表した文章に、こう記している。
――十二日の朝、船が那覇を出るときは、大へん美しかつた。数千と云ひたいやうな人出が、船を見送つてくれる。いよ/\港から離れ出し、人の顔が見わけられなくなるまで、人々は白いハンカチを振つてゐた。めい/\がふる手巾の動きが、乱雑なまゝで、いつの間にか一つの秩序をもち、リズムをもつて、秋の草原の穂のやうにゆら/\見える、それの美しさを私は長く感嘆してゐた。……
六
那覇に残った柳宗悦にとっては、それからが「方言論争」の本番であった。十一日付の那覇三紙に発表された沖縄県学務部の声明文を読んだ柳は、午後二時から反論の文章を書き始め、五時までに四百字詰の原稿用紙にして十三枚に近い分量を書き上げた。いつもは筆が遅いかれにとって、それは珍しい速さだった。柳はおよそ次のように説いた。
……われわれはいまだかつて、標準語が不必要だと述べたことはない。それが公用語としていかに大切であるかは、むしろ常識に属する。すべての地方人は、すべからく標準語を学ばなければならぬ。だが同時に、それが地方語への閑却となり、ややもすれば侮蔑となり、抑圧となるなら大きな誤りである。かりに世界の用語がエスペラントのみとなったら、いかに世界の文学は単調なものに陥るであろう。ちょうど世界の文化に対して日本語の意義があるように、日本の文化に対し地方語はその存在理由を充分に有する。しかもすべての日本の言語学者が一致しているように、現存する各種の地方語のうち伝統的な和語を多量に含有するのは東北の土語と沖縄語であり、なかでも沖縄語は数ある日本の地方語のうちでも最も貴重視せらるべきものといわなければならぬ。県の学務部こそ、まず先頭に立って、その保護と調査に努力すべきなのではないか。
しかし県の当事者は、果してわれわれのように沖縄語への敬念を抱いているであろうか。敬愛すべき老祖父と老祖母を一家団欒の場から締め出すに等しい「一家揃つて標準語」という標語が諸学校に貼られているのは、あきらかに行過ぎではないか。公用の場合は標準語を使い、私用の場合は土語を楽しむ。これこそ言語の妙用というべきであろう。本土の各地においては自由に方言が使われているのに、なぜ沖縄の家庭だけが土地の母語を用いてはいけないのか。なにか沖縄県だけを特別扱いにしているような感じを与えるのは、一体いかなる根拠によるのであろうか……。
そうした質問を県の学務部に発したあとで、柳は沖縄人にこう訴えた。
――県民よ、公用の言葉としては標準語を勤めて勉強されよ。だが同時に諸氏の祖先から伝はつた土地の言葉を熱愛されよ。その言葉はあの女詩人恩納なべの雄渾無比なる詩歌を生んだその言葉なるを自覚されよ。諸氏の中から沖縄語を以て偉大なる文学を生むまでにそれを高揚せしめよ。その時こそ沖縄の存在は日本全土の注目を集めるであらう。|而《しか》も世界の人々が翻訳を志して遂に沖縄語を|孜々《しし》と学ぶまでに至るであらう。/県民よ、再び言ふ。標準語を勉強せよ。されど同時に諸氏自身の所有である母語を振興せしめよ。それは必ずや諸君を確信ある存在に導くであろう。……
『国語問題に関し沖縄県学務部に答ふるの書』と題されたこの文章は、一月十四日付の那覇三紙に同時掲載され、
「|若《も》し、この一文の趣旨が尚県当局の容れる所とならないならば、私達は進んでこの問題に関する公開の立会講演を提案したい」…「幸ひなる哉、県の当事者も亦私達も沖縄県の振興を望む点に於ては共通する。いざ共に真理を追求しようではないか」と結ばれていた。「真理の追求」を大義名分とし、ことは標準語対地方語という言語の問題のようではあるけれども、「皇紀二千六百年」の奉祝に向かって日本中が地すべり的に動きつつあった当時、その目標である皇民化≠フ重要な一環であったとおもわれる沖縄県の標準語励行運動に対して、柳がこれだけおもい切った発言をしたことは、やはり並並ならぬ信念と勇気によるものと考えなければなるまい。
この主張に、まず反応したのは、実際に標準語の教育に携わっている教師たちだった。十六日の沖縄朝日には、「標準語励行に対する柳宗悦氏の反対論が出てから、一部教育者の間には之に共鳴する向きもあるやうに感ずる。|欺《か》くては教育の方針に動揺を来す恐れあり、吾等は県教育の為に深慮にたへない。この疑惑を一擲する為め、改めて県教育会首脳部、中小学校長、市町村長、各新聞社長、司令官、帰朝者会役員其他有力者を集めて標準語励行運動が必要であるか否かを協議して見られては如何」と、現場の動揺をうかがわせる投書が掲載された。沖縄県当局にとっては、容易ならざる事態である。柳宗悦は検事局に拘引され、数度にわたる取調べを受けた。禁止地域で撮影を行なったという嫌疑によるものであったが、方言問題について柳の口を封じようとする県当局の威嚇ないしは弾圧の意図がそのかげに隠されていたことは明らかだった。これに対して柳が少しも譲ろうとしなかったのは、その後の行動が証明している。また取調べに当たった野村検事が、以前から柳の著書の愛読者だったこともあって、起訴猶予という結果になり、県当局は期待した効果をあげることができなかった。
方言論争が始まってからの約一週間に、新聞に載ったのは、量的にいえば民芸協会側を非難する意見のほうが多かった。それで「せっかく沖縄のためをおもって力を尽してくれたのに、悪口雑言を浴びせられることになって申訳ない」と考えた地元の人から、一夕食事をともにしたい、という申入れが柳たちのところにあった。地元から出席するのは僅か五、六人という、ささやかな会合の筈であった。ところが当日の夜、民芸協会同人に対する感謝と送別の宴ということになった会場の三杉楼には、およそ五、六十人の人が続続と集まって来た。半数以上は柳たちにとって未知の人だったが、医師、校長、教員、画家、学者、記者、会社社長、商店主……と、いずれも首里と那覇の知識層に属する人たちだった。
主催者は民芸協会同人のために、八重山出身の星淳の踊りと、大浜津呂の歌と|三味線《さんしん》を用意していた。その「|鷲《ばし》ぬ|鳥節《といぶし》」という舞いは実に見事で、次に演じられた「芸くらべ」という太鼓の技も、まことに活溌で溌溂としていた。酒盃の数が重なり宴が|酣《たけなわ》になるにつれて、参会した人人は次次に立上がり、日頃、抑えつけられていた胸底のおもいを一挙に解きはなつように琉歌をうたい、入れかわり立ちかわり鮮やかな手つき身ぶりで踊り始めた。民芸協会の同人たちはそれまで島の各地を回って、沖縄人はだれもが歌い手ぞろいであり踊り手ぞろいであることをよく知っていたが、それは首里や那覇の知識層においても同様であったのだ。およそこのころの沖縄の知識層ほど、|自己同一性《アイデンテイテイ》の分裂感に悩んでいた人たちはいなかったのかも知れない。
会場の大広間には明るさと熱気が沸き立っているように見えた。たぶん参会した人たちは、方言論争における柳たちへの支持を、言葉だけでなく歌と踊りの全身で表現していたのだろう。志功がいたら、どれほど興奮し熱狂したか判らないような光景であった。柳たちは午後十一時ごろに会場を辞したが、あとで聞くと、その会は午前三時近くまで続いていたということだった……。
七
沖縄方言論争は、その後も地元と本土の両方で続けられた。地元では沖縄日報への投書によって、「方言札」なるものが存在していたことが公けにされた。小学校では方言を使う者を見つけ次第その札を持たせ、札を受取った者は、ほかに方言を使っている者を発見してそれを手渡すために、ちょうど巡査が泥棒でも捜すように鵜の目鷹の目になり、方言札を持った生徒は級友から仲間外れされ、学科においても減点されたというのである。
「月刊民芸」の三月号は『日本文化と琉球の問題』という特集を組み、沖縄県学務部と柳宗悦の両方の声明文を掲載して論争の経過を伝え、この問題に関する東恩納寛惇、長谷川如是閑、柳田國男、河井寛次郎、寿岳文章、保田與重郎、萩原朔太郎、相馬貞三らの意見を紹介したが、そのさい阿部次郎は、次のような葉書を編集部に寄せて来た。
――原稿を書けませんからこの葉書にかけるだけ申上ます。教場以外学校以外でも琉球語使用を禁ずること、これを用ゐたるものは他人の失策を探偵することによつて漸く責を許されることなどを承つて戦慄しました。あれは少し昔のことらしいが、あんなことが今も行なはれてゐるなら恐ろしい専制政治です。言葉を奪うこと、魂の交通の途に強制を加へることほど惨酷なことはありません。(後略)
この方言札の制度は、過去の話ではなかった。三月八日付の沖縄朝日は、那覇市内の八つの小学校で、方言札の制度が、いまも実施中であることを明らかにした。その後、|紅型《びんがた》の研究をして沖縄から帰った民芸協会同人の芹沢_介は、方言論争において民芸協会側に好意的だった沖縄県立図書館長の島袋全發氏が、突然、県の学務部長から辞職勧告を受け、やむを得ず辞表を提出したという知らせを|齎《もたら》して来た。これを「知事の不明朗な人事」として報道した琉球新報の記事によっても、島袋氏の事実上の罷免の原因は、方言論争での態度に基づいている様子であった。
本土では、式場隆三郎が東京日日新聞紙上で問題を提起し、清水幾太郎も東京朝日新聞でその一端に触れたりしたが、五月二十二日の東京朝日新聞には、沖縄県当局の立場を全面的に支持する評論家杉山平助の『琉球と標準語』という文章が掲載された。かつて雑誌「民芸」から琉球の方言問題について意見を求められたときは知識を持合せていなかったので回答できなかったが……と前置きして、かれはこう論じた。
――ところが、今度、那覇に滞在すること二、三日にして、私の判断は決定した。/標準語を徹底的に普及せしめ、地方語を圧迫しつつある当局の方針は全く正しい。沖縄県人は、何よりあの古い言葉から解放されなければならぬ。日本人としてあんな言葉を使つて、将来生きてゆくことは、恐るべきハンデイ・キヤツプである。/たとへば新聞記者のやうなインテリ階級さへ、アクセントはシナ人の日本語に近く、そのため我々との接触に、れき/\とヒケメを感じてゐることが看取される。いはんや一般民衆の会話など、チンプンカンプンで秋田や青森等と比較されるべきものではない。/琉球は、ただでさへ生産力に乏しく民度低く見るからに痛ましい島である。その上あんな言葉の重荷を背負つてゐたのでは、その意図する県外発展の領域でも、深刻に不利たることを免れまい。/琉球文化の愛好者は、今のうちに自らの負担において、琉球方言の文献を完成せしめておく熱誠があつてほしい。……
これに対して柳宗悦は、六月一日の東京朝日新聞で、われわれは一度も標準語励行に反対したことはなく、たとえば方言札のように郷土文化を蔑視するような方法が、果して許されていいのかと指摘しているのであって、沖縄県の政策の如く郷土文化を否定する態度には、断じて賛成しかねる者である。と反論したが、沖縄県学務部は柳にあてて第二次の声明文を発表し、「要するに貴下は最初標準語につき絶対的反対論を唱へ乍ら、後に豹変して虚構の事実を挙げてゐるのであります。吾々は貴下の軽薄さと|陋劣《ろうれつ》さに驚嘆致して少からず、失望を感じたのであります」と非難した。
柳は七月の下旬、またもや沖縄へ行き、淵上知事に会見を申込んだ。柳の手記によれば、このとき知事が明らかにしたのは、標準語と沖縄語の両語併用論は県の大方針にもとるものであり、将来は方言を廃して標準語一本にしたい、という考えであったという。(実際にその後、沖縄語による芝居は上演を禁じられ、沖縄ミュージカルともいうべき組踊も、台詞を標準語に変えるように命じられた)。柳は「月刊民芸」の十一・十二月号に「沖縄県知事に呈するの書」と副題を付して、これまでの自説を綜合し、「此の一篇は現知事のみに呈する公開文ではなく、来る可き知事にも訴へんとするものである」という『琉球文化の再認識に就て』を発表した。
このように身を挺して風土に根ざした文化の貴重さを主張する柳宗悦の言動が、棟方志功や民芸運動に共鳴している人人に与えた影響と触発力の大きさは、測り知れぬほどのものであったようにおもわれる。しかし多くの人には、柳の勇敢さが、時流に抗するドン・キホーテの|趣《おもむき》をも感じさせていたのかも知れない。前記の杉山平助が、民芸協会の田中俊雄との往復書簡において言い当てているように、沖縄方言論争は「これは徹頭徹尾政治の問題なのである。すなはち、政治上における文化の問題であつて、文化問題領域内における政治問題ではないのである」というところまで来ていたからだ。時代の流れは渦を巻きながら次第に速さと激しさを増して、最早どのような芸術家も政治と無関係には殆ど生きられない方向へむかっていた。
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釈迦十大弟子
一
南島の旅から帰った志功は、この昭和十五年の春に、ひとつの大きな期待をかけていた。前年に候補に挙げられながら受賞を逸した|佐分《さぶり》賞を、ことしこそ是非とりたい……と念願していたのだ。
佐分賞は、昭和十一年の四月二十三日未明に自らの命を絶って世を去った画家佐分真を記念して設けられた賞である。佐分真は、かねてから志功の心に強く刻みつけられていた名前であった。昭和三年に宿願の帝展初入選を果たした志功が、こんどは特選を……と意気込みながら、翌年からはまた落選が続き、ようやく昭和六年に再入選したとき、特選を獲得していたのが、パリから帰って来たばかりの佐分真の『貧しきキャフェ』だった。東京美術学校出身の秀才らしい確かな描写力、パリで磨いて来た|瀟洒《しようしや》な感覚、そして帝展特選……。志功にはどんなにかこの五歳年上の新進画家が羨ましくおもえたことだろう。志功はその翌年から、またもや落選の憂目に遭ったのに、佐分真は昭和八年、九年と連続して帝展の特選を得ていた。
そのような栄光から僅か二年後に、三十九歳のかれがどうして死を選んだのかは、よく判っていない。熱烈な恋愛によって結ばれた最愛の夫人を十年まえに病気で失ってからの寂寥感が、歳月を追うにつれて一層強まっていたのではないか、あるいは当人にしか判らない画業の行詰まりに、ひそかに苦しんでいたのではないか……というのが、親族と友人たちの推測であった。もともと生真面目で、気のやさしい性格だった。ちょうど志功のパトロンである水谷良一とおなじように、愛知県の地方銀行の頭取も勤めた実業家の家に生まれ育ったかれが、美校卒業後に、建築科の同期生の設計で、東京市滝野川区西ヶ原の四百坪の敷地に建てたアトリエは、当時「日本一」と称されたほど立派なものであったのだが、当人は自分の恵まれかたに、一種の後めたさに似たコンプレックスも感じていたらしい。関東大震災のときには、附近の貧しい罹災者にアトリエを開放しているし、その後も貧乏な絵描き仲間に援助するようなことが度度あった。
そうした生前の人柄や態度を言わば遺志として、かれが残した財産を基金に、パリ時代からの仲間であった福島繁太郎を中心とする友人たちが、昭和十一年十一月に設立を発表した佐分賞の賞金は、千円という高額なものだった。貧乏な画家ならずとも、当時としては誰もが眼を丸くしたくなるような大金である。翌年春の第一回受賞者は、青山義雄であった。志功はどうしてもこの佐分賞を取りたかった。高額な賞金のせいばかりではない。それが版画に対してだけでなく、有望な新進画家全体を対象とする賞だったからである。
当時の版画は、恩地孝四郎が憤慨して書いているように、多くの洋画家から「絵に自信のない者のする仕事だ」「一種の手間仕事で、活気のある人間のやることではない」と蔑視されるような状態を、まださほど抜け出していなかった。むろん自分の仕事を認めて貰いたいという願望が主であったのには違いないが、志功は版画で、新進画家の眼が集中している佐分賞を取り、洋画に対する版画の地位を高めたい……とも願っていたのだ。だから自分の属する国画会の会員で、佐分真の親友でもあった宮田重雄の推挙によって、『観音経』が昭和十四年度佐分賞の候補になったときは、勇躍して発表を待っていたのだが、審査員の支持は国画会の総帥である梅原龍三郎の一票だけで、受賞したのは、やはり洋画家の作品であった。昭和十年の国画会に出品した『|萬朶譜《ばんだふ》』を見たときから、志功の「黒白の魔術」に魅了されていた宮田重雄は、のちにこう書いている。
――僕は昨年度の佐分賞候補者に、油彩ではないが、棟方君の版画屏風を、推挙しておいた。が不幸にも、梅原先生の一票が入つただけで賞には落ちてしまつた。このことは少しも棟方君の恥にはならぬ。僕自身もFの宅に集められた候補作品を観て、自分の推挙の恥でないことを識つた。彼に投票しなかつた人たちの恥ずる日が来なければならぬ。棟方君の芸術については、既に諸先輩の言葉がある。今更、僕如きの言葉を要しない。只いつも心を搏たれることは、作品の出来の善悪に拘らず、常に「ほんもの」を感ずることだ。……
この文中のFというのは、福島繁太郎を指している。「棟方君の芸術については、既に諸先輩の言葉がある」というのは、たとえば昭和十四年十月号の「工芸」に特集された梅原龍三郎、保田與重郎、蔵原伸二郎、会津八一、河井寛次郎、柳宗悦……といった錚錚たる顔ぶれによる棟方志功論を指しているのだろう。なかで梅原龍三郎は次のように論じていた。
――今日芸術を成さんとする人、成してゐると思ふてゐる人は頗る多い。然し芸術になつてゐるものがどれだけあるか、頗る小数である事だけは確かである。棟方の仕事の場合は、自分は恐れず直ちに彼の芸術と称ぶ事を躊躇しない。/彼の仕事は考案ではない。技巧でもない。彼の印する一線一点が彼の美的感情の素直大胆なる表顕である。
――考へてする仕事は間違ふことがある。本能的に突進するものには迷ひがない。彼の壮烈なる意欲が衰へない限り彼の仕事は前進の一途と思ふ。自分は彼に版画以外のものを見てゐない。然し、若し彼が油彩を画いても直に彼独特の芸術品が出来得るかとも想像する。兎に角棟方は今日の日本の美術界の一驚異である。今後彼の仕事が益々発展すればどんなものになるかは自分の想像の及ばない処である。自分は彼の健康と勇猛心を祈る。……
棟方志功特集号に対する祝辞、といった分を割引いてみても、ほぼ激賞に近いといってよい。いまや版画家と見做されている棟方を、わがくにの美術全般の水準において抜群と評したこの讃辞に、志功がどんなにそれこそ勇猛心を掻き立てられたかは、想像するに余りある。
宮田重雄が志功について、「強度の近視の彼は、いつか、梅原先生の画室で、僕を先生と間違へて、|鞠躬如《きつきゆうじよ》として這入つて来たが、一尺ばかり前に来て、『何んだ宮田さんか』と、損をした様な顔をした」と書いているのは、このころのことである。そして本物の梅原が画室に現われたときには、恐懼の面持で、「お邪魔でなければ、お邪魔になるまで、お邪魔いたします」と慇懃に挨拶したという。日本の洋画家で尊敬するのは梅原龍三郎と安井曾太郎だけ、といっていた志功の、その尊敬する相手を前にしたときの|恭《うやうや》しい様子が、髣髴とするような|挿話《エピソード》である。
志功は今春の国画会出品作で、佐分賞を狙うことに自信があった。柳宗悦と水谷良一が、ともに瞠目して嘆賞を惜しまなかった『釈迦十大弟子』をすでに完成していたからだ。いまでは周知のように、戦後、サンパウロとヴェニスのビエンナーレで、志功が大賞を受けるさいの主力作品となったこの『釈迦十大弟子』は、一体どのようにして誕生していたのだろうか。その経緯を明かすためには、ふたたび『善知鳥』の完成直後のところまで立ち戻って、そこから語り始めなければならない……。
二
……まえに書いたように秀作『善知鳥』が完成したのは昭和十三年の四月二十九日。それから間もなく柳宗悦は水谷良一を通じて、志功に引越しをしなければならない事情が生じたのだが、金がなくて困っている、という話を伝えられた。柳は志功の版画を何点か持って、京橋の日本麦酒会社へ行き、専務の山本為三郎に面会を求めてこういった。
「山本さん、きょうは願いごとがあって来ました。何もいわないで、これを二百円で買って下さい。これがどんなものか、そんなことを聞くのは後回しにして、無条件で二百円出して下さい」
かねがね柳の民芸理論に傾倒していた山本は即座に頷いた。
「結構です。あなたがそういうのなら、貰いましょう」
山本から受取った二百円を懐にして、柳は中野区大和町の志功の家に急ぎ、玄関に出て来たチヤ夫人にそれを渡した。あとからの志功の報告によれば、金を神棚に供えて、感涙に|咽《むせ》んだということであった。柳はのちにこのときのことを「……時々思ひ起して、私を信じて下さつた山本さんに感謝を覚えます」と書いている。当時の二百円は、かなりの大金である。志功はそれで、もとの大和町一八〇番地から幾らも離れていない二〇五番地の二階家の借家に引越した。
水谷へのお礼の葉書によれば、引越しを完了したのは五月の二十九日ごろである。それでも志功は、まだ貧乏と縁を切ることができなかった。九月の下旬、長女のけようが熱を出した。二十六日付の消印がある水谷あての葉書には、「子供はシヨウコウ熱にてカクリ病院に入院いたさせました。家の者がそつちに行き、後の子供相手に仕事中でゐます、之も身の修業と思ひ勉めつづけます」とある。それから四日後の葉書には、「先日はおていねえなお見舞状まことにありがたくありました。こんどは巴里爾も同じ病で入院いたしました。みんなみんな自分の不始末からの事と存じ居ります。此の様な騒ぎを始めて知つて、人の非常な事を判つて来ました。二十九日夜」とあり、そのあとに続けて追信のように「観音経十五枚を|出来《でか》し摺りました」と付記されている。驚いたことに志功は、七歳の長女と五歳の長男が相次いで伝染病に|罹《かか》り、隔離病院に入れられるという|慌《あわただ》しさのなかで、力作の『観音経』を彫り続けていたのだ。『観音経』制作の動機を、かれは翌年の五月に浅草寺の書院で行なわれた座談会でこう語っている。
――ある人がわたくしに言ふのに「おい棟方、お前は泣いて仕事をしてゐちや駄目だぞ、泣いて生まれる程の、程は知れてゐるぞ」。うん、僕は飛び上りましたね。さういふ心持といふのは、なかなか|直《す》ぐと、出来ぬかも知れないけれど、よし、俺は「|泣《なき》」のない仕事をしてゆかねば駄目と思ひましたよ。(中略)それで涙を血に換へて描いてやらう、生地を噴き出さう、さういふものを作つてこそ初めてほんとうの|血噴《ちぶ》きの仕事が出来るんぢやないかと思ふんです。
――血噴く仕事は、やつぱり獣のやうな|生《なま》な|生命《いのち》、仏が生まれ|在《おわ》す仕事になるのではないかと思ひました。本当な仏に生まれる仕事といふのは、やはり人間性を無にして行なつた物であつて、本当だらけの意味でつくられたものは、なかなか道遠いことを観念してゐます。……
相変らず独り合点のような表現ではあるけれども、これを血の気の多い人間にありがちな口先だけの大言壮語、あるいは観念論として片づける訳にはいかない。なにしろ「涙のない仕事」をめざして取りかかった途端に、抗生物質などというもののなかった当時、重症の場合は死ぬこともあるという猩紅熱に二人の愛児が見舞われるという不運に遭遇しながら、かれはこれも身の修業とおもって彫刻刀を振るい続けていたのだ。作品の内容については、次のようにいっている。
――題材は、観音のもつ三十の念力を、三十三の神体にわけて、その広大無辺な力を示した、という話にとり、あらゆる象徴化された人間か、人間にあらざる化物か、とにかく仏から人間以下の化物まで三十六身に彫りました。大蔵経の中の地蔵篇を見たり、観音経の訳書を見たりしました。これらの本を見たのは、わたくしの、思いのほかのものが多かったので、勉強したわけです。……
ここに出てくる「観音経の訳書」というのは、おそらく岡本かの子著の『観音経(付法華経)』であろうとおもわれる。これは昭和九年の十月に〈仏教聖典を語る叢書〉の一冊として大東出版社から刊行されたもので、この叢書には、ほかに執筆者として、菊池寛『十住心論』、中村吉蔵『正法眼蔵』、武者小路実篤『維摩経』、三木清『起信論』、佐藤春夫『観無量寿経』、松岡譲『仏伝』、室伏高信『立正安国論』、宮島資夫『華厳経』、倉田百三『法然・親鸞』、友松円諦『阿含経』、真野正順『勝鬘経』……といった高名な作家、評論家、学者が顔を並べており、もともと文学好きであって仏教にも強い関心を燃やし始めていた志功が、社会の底の不安を反映してか当時しきりに出版されていた宗教書のなかでも最もポピュラーで、読書人の注目を集めていたこのシリーズを看過したとはおもえない。かりに気がついていなかったとしても、こんどの主題が『観音経』であると知ったら、読書家の水谷良一が、当然かの子の著書の存在を教えていただろう。その本のなかには、のちに志功が『女人観世音』と題して彫った岡本かの子の詩『女人ぼさつ』も記されていた。
法華経のなかの一巻である観音経を、かの子はまず法華経の概略を語ったのち、経文の和訳にしたがって、判りやすく説いていく。
「|爾《そ》の時|無尽意《むじんに》菩薩、即ち座より起ちて|偏《ひと》へに右の肩を|袒《はだぬ》ぎ合掌して仏に向ひたてまつりて是の|言《げん》を|作《な》さく、
|世尊《せそん》、観世音菩薩は、何の因縁を以つてか観世音と|名《なづ》くる。仏、無尽意に告げてのたまはく、……」
志功の『観音経』の最初の画には、このなかの「偏へに右の肩を袒ぎ」という描写が、ほぼそのまま具象化されている。だがそれからあとは、経文の和訳をもとにして、かれの想像力が翼をひろげて自在に|羽撃《はばた》き始めることになる。観世音菩薩は、法を説く相手によって三十三身に変化して行くので、裏表に彫るとしても最低十七枚の板木がなければならない。必要なだけ買い|調《ととの》える金がなかったので、志功は使っていたテーブルをこわして板木にした。
「……|応《まさ》に|辟支仏《びやくしぶつ》の身を以て得度すべき者には、即ち辟支仏の身を現じて|為《ため》に法を説き、応に|声聞《しようもん》の身を以て得度すべき者には、即ち声聞の身を現じて為に法を説き……」と始まる観世音菩薩の変身は、終りに近づくにつれて、志功の最も好むくだりにさしかかって来た。「……応に天、龍、|夜叉《やしや》、|乾闥婆《けんだつば》、阿修羅、|迦褸羅《かるら》、|緊那羅《きんなら》、|摩※[#「目+侯」]羅伽《まごらか》、|人非人《にんぴにん》等の身を以て得度すべき者には、即ち皆之を現じて為に法を説き、応に|執金剛神《しゆうこんごうしん》を以て得度すべき者には、即ち執金剛神を現じて為に法を説きたまふ。……」
病床で苦しんでいるわが子をおもう涙を血に換えて描こうとしていた志功は、やがて夜叉、乾闥婆、迦褸羅、龍、阿修羅、緊那羅、摩※[#「目+侯」]羅伽、執金剛……といった化物や鬼神を、想像力の赴くまま奔放に造型していく面白さに、いつしかわれを忘れ、|眥《まなじり》を決して自ら鬼神のような形相となり、彫刻刀の先から血を噴き出させるほどの勢いで、無我夢中になって彫り進んで行った。
志功は後年『観音経』について、観世音菩薩が次次に変化していく「三十三のあらゆる面体、あらゆる姿体のものをつくるのを楽しみにしました」…「特にこの仕事で喜びだったことは(中略)女がでたり、子供がでたり、鬼が出たり、いろいろなものがでているのですが、特にそういう化者体のものが、わたくしとしては、得意に彫れたことです」と述べている。実際には愛児二人が隔離病院に入れられ、またテーブルをこわしても、ほぼ新聞紙一頁大のもの三十五面を要する板木が足りず、しまいには摺るときに弓のように反り返ってしまうほど薄い板も使わなければならなかったくらい、不運と窮乏のさなかでの仕事であったのに、後年の感想で「楽しみ」と「喜び」が特に強調されているのは、ちょうど山登りの場合とおなじように、過ぎてしまえば苦しかったことや辛かったことよりも、成し遂げたあとの喜びや楽しさのほうが、より鮮明に記憶に残る……といった事情のほかに、作品の主題が、もともと化物好きで、変幻自在の境地に憧れていた志功に、ぴったり合っていたせいもあったのだろう。たとえば|迦褸羅《かるら》は、龍を常食として両の翼を広げると長さが三百三十六万里あるという架空の大鳥で、夜叉は鬼神、|摩※[#「目+侯」]羅迦《まごらか》は蛇神、|緊那羅《きんなら》は人に似て人に非ずという歌神である。観世音菩薩が、それら仏法護持の異類に化身して法を説くあたりには、固苦しさやしかつめらしさが感じられず、まるで子供のころの志功が熱狂した松之助の忍術映画か、今日でいえばSFを連想させるような面白味と痛快さがある。
それに迦褸羅、摩※[#「目+侯」]羅伽、緊那羅、乾闥婆……といった名前の志功好みの|字面《じづら》も、空想力を大いに刺激したのに違いない。ひたすら「華やかにして厳かに」と念じながら彫ったという『華厳譜』のときよりも、一層かれの想像を触発してやまない観音経の文句と、異国的な|変化《へんげ》の名を口と心で繰返しながら、自虐的なまでに身体を酷使して彫り続けているうちに、志功は次第に無我の法悦境に入った津軽の三味線弾きか、なかば意識を失いかけたイタコのような状態に近づき、苦しい現実の世界から離脱して、経文に描かれている架空の世界のなかに入りこみ、自分がそこで嬉嬉として遊び戯れているような、あるいは目には見えない観世音菩薩の手によって、小さな自分が遊ばせて貰っているような喜びと楽しみを味わっていたのではないかともおもわれるのだ。志功自身はこういっている。
――これは、東北鬼門譜のときとちがい、わたくしの仕事としては、一寸そういうことをゆるしていただけるなら、道に入った、という思いがしました。この観音経のときから、わたくしの思いと、他力の助けてくれる思いとの融合が成った、と思うのです。……
『観音経』には、もうひとつ、具体的な他力の助けがあった。この作品から、志功板画独得の手法となった|裏彩色《うらざいしよく》である。志功はこれを、中国の画や日本画にはあった手法だが、版画では使っていた人がなかったのを、柳宗悦に教えられて、初めて試みてみた……といっている。
のちに柳宗悦も、志功が後援会員にくばる『大和し美し』を届けに来たとき「着色の分を持つてきてくれましたが、又その着色法が小生の気に入りません。濃い不透明な顔料を版画の上から塗つてあるので版の線が埋れて見えません。それで私は絵具を裏から差すやうにした方が、更によいとの考へを述べました。棟方は又素直に之を受入れ、後年之を『裏彩色』と云つて|凡《すべ》てに用ゐました。之は大変成功したと思ひます。この裏彩色は早速『観音経』に施され、よい効果を見せてくれました」と書いている。また徳川夢声氏をまじえて昭和三十一年八月の「芸術新潮」誌で行なわれた座談会では、次のようになっている。
柳 初めは、棟方は表から色をつけたんですよ。そうしたら色で板画が消えてしまう。それで僕は、これを裏からやってくれと注文したんだ。それが非常にまた板画をいいものにした。
徳川 裏から色をつけるということは、柳先生いろいろ織物なぞを見ておられるところからきたんでしょうかね。
柳 ええ、そういうことも間接にはあるかもしれないけれども……。
棟方 支那あたりにもあるそうですね。
柳 ただ、棟方の彫ったせっかくの線が、表からだと消えちゃうんですよ。特に顔料でやる場合には透明度がないですから、せっかくのものが消えちゃうので、今度は裏からやったらどうだろうという考えを起した。……
このやりとりを読む限りでは、柳が何から裏彩色の方法をおもいついたのか、あまりはっきりしない。その間の事情を、同郷の先輩である下沢木鉢郎は、ちょっと違ったふうに記憶している。
ある日、下沢が志功の家へ遊びに行っていたとき、版画に表から色をつけてみたのだが、うまくいかなくて困った……という話を聞いて、「それなら大和絵に『|裏具《うらぐ》』といって、裏から彩色する方法がある」と教えると、志功は部屋の一隅にすでに荷造りされていた作品の紐を解いて、部屋中に裏返しに広げた版画に、いきなり、いま聞いたばかりの手法を試み始めたというのだ。未知の手法を聞いた途端に、成程! と天啓が閃いたのか、だれかのところへ届けるばかりになっていた作品の荷を解いて、すぐさま実験に取りかかったというその素早さと大胆さと熱心さが、いかにも志功らしいリアリティーを感じさせる話だ。ちなみにつけ加えると、下沢が教えた「裏具」というのは、「表面の線描を生かしあるいは彩色の効果を増すために絵絹の裏側からも顔料をぬる」日本画の特殊な彩色法として、美術辞典や、普通の辞書でも大きいものには載っている古くからの技法である。下沢の話の場合の作品が、『観音経』であったのかどうかは判らない。また志功が『大和し美し』の表彩色に柳から文句をいわれたとき、ついでに裏彩色の方法も教えて貰っていたのか、それとも下沢に教えられた方法で彩色した作品を、先生に教えられた通り今度は裏から色をつけてみました、と柳のもとへ持って行ったものであったのかどうかも判らないが、いずれにしても裏彩色の端緒になったのが、『大和し美し』の表彩色に示した柳の難色であったことは確かで、初めは人から教えられた技法であったにしても、それをたちまち、
――裏彩色は色を多く入れると、かえって効果をそこないます。わたくしの場合には、藍、|代赭《たいしや》、|群青《ぐんじよう》とか三、四色のものをかぎって使うと良いようです。この観音経のときは、交互に、茶と藍をおいて、市松模様のように色をつけました。これが何とも言えない雰囲気をつくりだして、墨と黒でつくった、という以外に裏彩色からくるほのぼのとした効果が得られました。……
というところにまで消化してしまい、やがて見る者の胸奥に不思議な懐しさに似た感情を喚び起こす志功独得の裏彩色の手法に成長させて行ったことは、やはりかれの抜群の吸収力と創造力を示すものといわなければなるまい。
二人の子供の病気が治っても金がなくて退院させられずにいた貧乏のなかで「観音経」を完成して間もなく、『善知鳥』の帝展特選が伝えられて、長年にわたる不運が幸運に転じ始めたそのときから暫くのあいだ、志功はかなり有頂天になっていたらしい。水谷良一にあてた手紙のなかに、――先日与えられました得意冷然失意泰然の言葉、肝に銘じました。……というくだりのあるのが、そのころの志功の言動の昂揚ぶりを想像させる。
かれを意気軒昂とさせていたのには、帝展特選のほかに、会心の作である『観音経版画巻』を、秋の日本民芸館展に発表して好評を得たこともあったのだろう。翌年の春、その三十五図のなかから十二枚を選び、屏風仕立てにして国画会に出品した『菩提譜観音経版画曼荼羅屏風』は、さきに述べたように佐分賞の候補に挙げられた。いまや棟方志功の作品は、大きさばかりでなく、主題においても画風においても、ほかの版画とは劃然と異なっていた。見る人によっては異常であるとも、異端的であるともおもえたろう。独得な宗教的主題のうえに、不羈奔放な空想力と濃く太い描線を駆使することによって創り上げられた独自の世界。それに加えて今度は裏からの彩色という新機軸。かれが心のなかで受賞を強く期待していたとしても不思議ではない。
結果は落選であったが、裏切られた期待を次の機会に向かって、いっそう激しく燃え上がらせるのが、志功の真骨頂である。自分にとって会心の作だった『観音経』が、佐分賞を逸したときから、やがてかれの脳裡に鬱勃として浮かび上がって来たのが、『釈迦十大弟子』の構想であった。
三
いまでは多くの人が、志功の最高傑作として挙げる『釈迦十大弟子』の制作に取りかかった動機を、かれは「わたくしの身体位の大きさのものをつくろうと考え、大きなものは何が良いだろうかと考えました。その頃、上野博物館で興福寺の|須菩提《しゆぼだい》を見て十大弟子をやろうと思いました」と述べている。
天平彫刻の傑作として知られるこの須菩提の像において、だれの眼にも印象的であろうとおもわれるのは、汚れを知らぬ少年らしい清純な|俤《おもかげ》である。おなじ仏師(か、およびその一団)によってつくられた十大弟子像のうち、奈良興福寺に残る他の五体も、写真によって見ると、少年と老人の差、ほんの少し表情の違いはあるけれども、いずれも静寂さを感じさせる印象は共通している。ここから志功がどのようにして、あれほど異様なまでに野性的で、迫力とバラエティーに富んだ自分の『釈迦十大弟子』を彫り出すことが出来たのか……と考えると、あらためてかれの想像力と創造力の逞しさに驚嘆せざるを得ない。志功自身は制作の動機に続けて、
――これも伝説のようになっていますが、制作するときは、どれが須菩提で、どれが|目※[#「牛+建」]連《もくけんれん》か、そういうことはひとつもわからずにつくりました。唯、十人の釈迦の弟子の風体をした人間をつくったのです。名はあとからつければよいと思って、あらゆる顔、形、あらゆる人を十に彫ってみたいと思ったのです。それも別に利口者とか智慧者といった考えでなく、下絵も描かず、板木にぶっつけに筆を下ろしました。十大弟子は、右左のむきあい、衣の白と黒が、丁度五人ずつ出来ていますが、それもはじめに意識したことでなく、できあがったものが、そうだったという事を人から聞かされて、びっくりしました。……
といっている。その通りだとすると、かれは十大弟子について殆ど何の知識もなく、また特別な造型意識もなしに、それこそ本能だけの働きか、または他力の働きによって奇跡的に本願を成就したようにもおもわれるけれども、海上雅臣氏は著書において、志功がすぐ次の作である『|門舞神人頌《かどまいしんじんしよう》』について語った言葉のなかに、「十大弟子は利口すぎた位、板画の力、板画の面、黒と白の縁、そういったことに心を一杯にしてつくりましたが、……」とあるのを引いて読者の注意を喚起し、志功が造型効果を意識した着実な努力をしなかった筈はない、と示唆している。たしかに勉強家の志功が、十大弟子について何の予備知識も特たずに制作に取りかかったとは、ちょっと考えられない。『釈迦十大弟子』の制作当時を知る人のうち、ある人は志功が部厚い仏教辞典を参考にし、ある人は仏像の写真集に熱心に見入っていた姿を覚えている。
宗教哲学と美術の専門家である柳宗悦を師とし、いつも仏教書を含めて沢山の本を神田の本屋から取寄せている水谷良一を後援者に持つ志功は、仏教と仏教美術について、一番新しく最も質のいい文献や知識を見聞できる機会に恵まれていた。当時かれが参考にしていた部厚い仏教辞典として考えられるのは、望月信亨著の仏教大辞典である。昭和八年の暮に出たその第三巻には、十大弟子について、要約すると次のように書かれている。
――|舎利弗《しやりほつ》は智慧猛利にして、|能《よ》く諸疑を決了するが故に智慧第一の称あり。摩訶目※[#「牛+建」]連は神足軽挙し、能く十方に飛到するが故に即ち神通第一の称あり。摩訶|迦葉《かしよう》は十二頭陀を行じ、能く苦行に堪ふるが故に即ち頭陀第一の称あり。須菩提は恒に空定を好み、能く空の義を分別するが故に即ち解空第一の称あり。……
もし志功がこの辞書を開いていたとしたら、大いに感奮興起したに違いないとおもわれる。ここに挙げられている十大弟子たちの特徴は、ことごとく志功自身にも当てはまるようではないか。そこまではおもっていなかったにしても、十大弟子たちの達した境地はすべて、志功の理想としていたところでもあったと考えて間違いあるまい。
――|富楼那《ふるな》彌多羅尼子は能く弘く説法し、義理を分別するが故に即ち説法第一の称あり。摩訶|迦旃延《かせんねん》は能く奥義を分別し、道教を敷演するが故に即ち論議第一の称あり。|阿那律《あなりつ》は天眼を得、能く十方世界を見るが故に即ち天眼第一の称あり。|優婆離《うぱり》は戒律を奉持し、触犯する所なきが故に即ち持律第一の称あり。|羅※[#「目+侯」]羅《らごら》は禁戒を|毀《やぶ》らず、能く誦読して|懈《おこた》らざるが故に即ち密行第一の称あり。阿難は時を知り物に明かに、多聞にして憶持して忘れず、上に奉ずるに堪任するが故に即ち多聞第一の称あり。……
いずれにしても志功は、なんらかの辞書か、仏教書を開かなければならなかった。かれのいう通り、何の知識もなく制作を始めたのだとしても、終ったあとは彫り上げた十体のそれぞれに、これら十大弟子の名前を付さなければならないからである。かりにその本を、望月博士の仏教大辞典であるとして話を進めるなら、第三巻のその次の頁には、十大弟子像の写真が載っていた。これは奈良興福寺のものではなく、京都大報恩寺蔵のものである。興福寺のほうは六体しか残っていないが、こっちのほうは十体全部揃っていて、顔の印象も随分違う。違っている筈で、興福寺の十大弟子像は、天平六年(七三四年)ごろの作と推定されているのに、大報恩寺のほうは、うち二体に付されている銘により、ずっとあとの鎌倉時代の巨匠快慶(とその一門)の作で、建保四年(一二一六年)から三年間のあいだにつくられたものと推定されている。両者の顔がどのように違うかといえば、天平時代の興福寺のものは、温和な静けさを感じさせ、六体の人相にもそれほど大きな違いは認められないのに、大報恩寺蔵の快慶作のものは、政権の担当者が東国の武士に変った時代を反映してか、遥かに野性的で、十体の人相がそれぞれに違った個性を主張している。
快慶作の十大弟子の大半は「別に利口者とか智慧者」といった感じではない。とても高僧とはおもえないほど、|生身《なまみ》の人間臭を強く感じさせる顔が多い。要するに奈良興福寺の十大弟子像よりは、京都大報恩寺の十大弟子像のほうに、志功の『釈迦十大弟子』との共通点が、幾つか認められるのである。
志功の『釈迦十大弟子』と、かれがヒントを得たという興福寺の須菩提像および他の五体を比較して見れば、だれもがその違いの大きさに吃驚するだろう。大報恩寺蔵の十大弟子像とのあいだには、それほど驚くほどの距離はない。むしろ、似ている、とさえいえる。快慶の作品は、鎌倉時代を代表する兄弟弟子の巨匠運慶の作に比して、女性的で優美なのが特徴とされているが、それにしてもその一門の十大弟子像は、天平時代のものにくらべると明らかに野性味が濃い。そして三者を並べてみると、興福寺の十大弟子と、快慶の十大弟子と、志功の十大弟子とのあいだには、一種の必然的な進展をおもわせる筋道さえ感じられる。
だいたい志功の「制作するときは、どれが須菩提で、どれが目※[#「牛+建」]連か、そういうことはひとつもわからずにつくりました。唯、十人の釈迦の弟子の風体をした人間をつくったのです」それも別に「利口者とか智慧者といった考えでなく」仏に近づきつつある人間の姿を描こうとしたのだ……という制作意図は、かならずしも、かれの創見とはいえない。
まず興福寺の十大弟子からして、前代の崇高荘厳に理想化された仏像彫刻にくらべると、寺の内部か周辺にいた実在の僧の顔と姿でも写したのではないか、とおもわれるくらい、概して温厚な凡人体のものである。快慶の作は、それよりいっそう俗人臭が濃くなっており、志功の作では、さらに徹底して弟子たちの人間性と野性味が強調されているのだが、もともと十大弟子像の制作において、特別な利口者や智慧者ではなく、仏に近づこうとしている普通の人間として表現しようとするのは、すでに天平時代から提示されていた主題であった筈なのだ。
また興福寺の六体の風貌に、さしたる個性の違いはなく、快慶一門作の十体も、それより個性的になっているとはいえ、たとえば解空第一の須菩提と神通第一の目※[#「牛+建」]連、天眼第一の阿那律と多聞第一の阿難とのあいだには、さほど明確な特徴の差は認められない。つまり、これらの前例からしても、どれが須菩提で、どれが目※[#「牛+建」]連であるかは、それほど気にする必要のない問題であったともいえる。ところで志功は、自伝『わだばゴッホになる』において、彫り終ったあとに、
――辞書を見ましたら、彫った顔立ち姿勢が、恐ろしくなるほどピッタリばかりなのでした。/智慧第一といわれる舎利弗は利口に頭が抜けていて、説法第一というから弁護士の大将みたいな富楼那は、口を開いて舌までのばして説法しているのです。阿難陀はあんまり男前がよくて、女に好かれて釈迦が困ったほどの人ですが、目がツブラで大きく口元がキリッと締まって、キレイなキレイなシナまでつくっているには驚嘆しました。/摩訶不可思議、南無本師釈迦尊が与えてくれたのか、今でもわたくしはどうしてこんなことになったか判らずにいるのです。「志功の七不思議」のうち、NO1、2、3、4まではこの板画で占めています。……
と述べている。勉強家の志功が、前作の『観音経』のときは、大蔵経の一部を見たり観音経の訳書を見たりしているのに、こんどは何の知識もなく制作に取りかかり、彫り終った後で「辞書を見ましたら……」というのも腑に落ちない話だが、これは果たしてかれのいう通り、摩訶不可思議な偶然の一致だったのだろうか。それとも、眼に触れ得るかぎりの前例と参考資料を持前の強靱な胃袋で忽ち消化した末の必然的な結果であったのだろうか。この疑問に、志功独得の「私は自分の仕事に責任を持っていません」「私の仕事は仏様の手のなかで遊ばせて貰っているようなものです」といった言い方を重ね合わせてみるとき、その模糊とした靄のなかから浮かび上がって来るのは、ひとりの精悍で敏捷きわまりない狩人の姿である……。
おそらく志功は、釈迦十大弟子について相当の知識を得ていたとしても、制作にかかるときには、例によってそれを「無」に戻すことに努め、なにものにも|囚《とら》われることなく、白紙のうえに自分だけの十大弟子像を描き出そうとしていたのだろう。
『釈迦十大弟子』の制作には、自分の体に近い立像を彫るのに丁度よい朴の板が六枚、手に入ったことも、きっかけになっていた。裁縫に使う裁ち板かなにかのように、先のほうが彎曲したり、端が欠けたりしている板だった。かれはその平面を少しも無駄にせずに表裏を利用して十体の像を彫ろうと考えた。この板の持っている力をすべて生かそう……。そう心に決めて彫り出すと、ちゃんとした板木とは違って正確な長方形にはなっていない板の制約が、かえってユニークで斬新な構図をかれに|齎《もたら》しはじめた。須菩提、目※[#「牛+建」]連、舎利弗、富楼那……といった釈迦の弟子たちを、自分の体とほぼおなじ大きさに彫ろうとする渾身の力は、約三尺の板の長さに遮られ抑えつけられて、なおも外に溢れ出ようとするおもいを内側に封じこめ極度に圧縮して、稀に見る緊迫感と量感に富んだ黒白の鮮烈なフォルムを創り出した。志功は造型本来の面白さに我を忘れて彫り進んだ。下絵を描かず、板木に直接に筆を下ろす。板が曲っていれば、その通りに弟子の姿体も曲げて行く。こちらの勢いと板の長さの関係で、弟子の頭の|天辺《てつぺん》が切れたり、頭の恰好が|歪《いびつ》になったりしても一向に拘泥しない。それらの偶然はすべて、単なる計算からは到底予期し得ない不思議な効果を生み出した。『観音経』のときの経文にかわって、かれを内側から|衝《つ》き動かしていたものは、倉敷で後援者の大原總一郎に聞かされたベートーヴェンの音楽だった。蓄音器から流れ出した幾つかの交響曲を正確に覚えていた訳ではない。ただ、ザッザッザッ……という印象で、体の芯に|棲《す》みついていたベートーヴェンの音楽を全身で反芻しながら、かれは『釈迦十大弟子』を彫り続けた。
――この制作のときは、調子の良い日は一日に三面できました。獣みたいな力でした。……
実際には獣というより、志功はそれを追う狩人と化していたのだとおもわれる。かれには大きな目標があった。前年に逸した佐分賞である。こんどこそ認めて貰わなければならない相手は、いわば身内のような柳宗悦をはじめとする民芸協会の同人や、すでに志功を認めている梅原龍三郎や宮田重雄ばかりでなく、藤島武二、小寺健吉、田口省吾、伊藤廉、益田義信……といった佐分賞審査員の洋画家たちだった。宗教的な主題や、作品のなかに織込んだ文学的な内容や、あるいは既成の版画の常識を破った画面の大きさだけでは動かせない。洋画家を納得させるに足りる純粋な造型の力、真に美術的な創造によって自分の版画を認めさせなければならないのである。
一心不乱の制作は、一週間で終った。十人の弟子だけでは六曲一双の屏風仕立てにならないので、左右の両端に文殊菩薩と普賢菩薩を配した完成作を見せられた柳宗悦と水谷良一は、口をきわめて激賞した。意表を突く釈迦の弟子たちの異相と、黒白の|動的《ダイナミツク》な造型美のなかに漲っている作者の凄まじいまでの気魄は、見る者を圧倒せずにはおかなかった。どうやら版画で文展を目ざしたさいの懸命の疾走が、秀作『善知鳥』となって結実し、見事に特選を射止めて以来、目標を高いところに置いて心を燃え立たせたときほど、自分の持っている全力を存分に発揮できるのは志功の本領になっていたらしい。
『|阿※[#「口+云」]《あうん》譜二菩薩釈迦十大弟子版画屏風』は、翌年春の国画会展に出品された。三十六歳の志功は、狙い定めて自信の矢をつがえた弓の糸を、おもいきり引きしぼった恰好であった。
四
狙いはほぼ的中して、香月泰男との二人受賞(したがって賞金も半分)ではあったが、志功は第四回の佐分賞を受賞した。授賞式は佐分真の命日である四月二十三日だった。
それから間もないある晴れた日に、佐分真の遺児で当時中学生だった佐分純一は、滝野川区西ヶ原の広い家の門の外で、喚くように案内を請うている男の大声を耳にした。門が開かれて、入って来た男は、書生っぽい紺絣の着物に小倉の袴をつけ、分厚い眼鏡の片方の。|蔓《つる》を紐で代用して耳にかけている顔の満面に喜色を浮かべて、自分の名前を告げ、佐分賞受賞への御礼を述べた。それから「佐分先生の絵を見せて下さい」というので、何枚かの遺作を見せると、かれはなかの一枚に声を挙げて、しきりに感嘆した。いまも佐分家に残されているその絵を見ると、志功の感嘆の理由が、よく判るようにおもえる。若い日の志功の憧れの的であった美少女を、いかにも油絵らしい印象的なタッチで描いた佳品なのである。大きなアトリエで、美しい少女をモデルに油絵の筆をふるう……それこそは本州北端の貧しい鍛冶屋に生まれ育った志功の最初の夢であったのに違いなかった。
志功はまた、宮田重雄や益田義信と一緒に、梅原龍三郎のもとへも、御礼言上に出向いた。益田義信の記憶によれば、梅原邸には福島繁太郎・慶子夫妻が先客として来ていて、志功が受賞の感激のあまり、慶子夫人の足を手と間違えて握ってしまったのは、このときのことであるという。のちに宮田重雄の書いたものには、志功が「Fの家に佐分賞候補の画を持ちこんだ時、感激してF夫人の足に、握手(は|可笑《おか》しいが)した」となっており、それがやがて、志功が佐分賞ほしさに「膝まづいて慶子夫人の足に接吻した」という噂になって喧伝されたりもしたのだが、益田によると真相は、以上のようなことであったらしい。いかに強度の近眼であるとはいえ、慶子夫人の足を手と間違えて握手した志功の突拍子もない滑稽な動作が、まわりにいた人たちを大笑いさせたのは確かなようだ。こうした奇抜な行動が目立つ志功に、沖縄旅行へも一緒に行った精神科の医師である式場隆三郎は、以前から興味を持っていたのか、そのころ性格分析を行なった結果を、『棟方志功の性格』と題して「月刊民芸」に発表している。のちに式場の著書『宿命の芸術』にも収録されたその文章によると――。
遺伝としては「彼の血統の中には特に記述すべき異常者はない。強度の近眼も遺伝的なものではないといふ。要するに棟方の遺伝的環境は、父の外向的な性情と工芸的な才能が賦与された点を記述すれば足る」。体格は「小柄ではあるが逞しい骨格である。クレッチュメルの分類に従へば、闘士型であらう。発毛はすべて濃く、頭髪は自然の電髪のやうである」…「筋肉の発達よく、しかも弾力がある。この特性があの大きな版画をうむ生理的条件をつくつてゐるのだ。腕力がなかつたらあの力強い線は生れない。近眼が大きな原因となつて棟方の絵の特徴を出すとは柳氏の評言であるが、私はそれに加へて体力の強剛さが滲み出るのだと思ふ」
それから式場は、五十の質問を発する向性検査法によって得た指数を「正常域の最高であつて、超外向域ではない」…「棟方は天下の奇人のやうであるが、本当は質実で常識に富んだ男であるといふ世間の一部に行はれる批評も、この結果を暗示してゐる」といい、注意力と精神作業速度を検査する「ブールドン氏抹消試験」の成績から、「注意力は相当に鋭く、精神作業能力も旺盛である。つまり微細な仕事にも秀でてゐる」…「棟方を奇矯な逸脱者のやうにみるのは皮相な結論で、彼は平常な面も広く、その範囲内での最高の活動を示してゐるとみてよい」と述べて、次のようにかれの結論を下している。
――私は棟方の天才を否定したのではない。ただ物指に測れないやうな逸脱者や奇人でないことを主張したかつたのである。更にまた童児のやうに天真無比であるとか、単純幼稚だといふ説を|斥《しりぞ》ける様な面をもつてゐる点を指摘したかつたのである。/彼にまつわる珍談奇談は誇張でないとしても、一方に堅実な棟方のゐることを忘れてはならないと思ふ。……
『釈迦十大弟子』の誕生の経緯と、その前後の志功の独得な言動から|窺《うかが》われるのは、農民型が多いわがくにでは珍しい、かれの敏捷な狩猟民型の特質である。狩人によく見られるタイプを、千葉徳爾氏は著書『狩猟伝承』において、およそ次の三つに分けている。
まず寡黙で、強いて聞かれなければ、何も答えないタイプ。次に一本気で我儘で、相手のいうことには殆ど頓着せず、自分のいいたいことだけを甲高い声で喋り続けるタイプ。ことに自分の手柄話になると、いつまでも語り続けて倦むことがない。それから別に嘘をつく気はなく、さほど自慢話をするつもりもないのだが、聞いている相手を楽しませようとするサービス精神で、喋っているうちに次第に客観的な事実から離れ、話にだんだん|尾鰭《おひれ》がついていくタイプ。このなかには、わざと失敗談を吹聴して、自分を道化者に見せる人もいる。
佐分賞をはじめ、のちに世界的な賞を二つも獲得した『釈迦十大弟子』について、何の知識もなく制作に取りかかり、出来上がってみたら、なんと摩訶不可思議にも、神か仏の助けか自分でも気づかぬあいだにあらゆることが符合していて、おもいもかけぬ傑作が誕生していた……と志功が語ったのは、つまり、前記の三つのタイプのうち後の二者が微妙な割合で混じり合った狩人の狩猟談であったのではないだろうか。こうした狩猟談を、すべて|法螺《ほら》であると|極《き》めつける訳にはいかない。たとえば大きな獲物を狙う狩人は、当然、相手の所在や習性について、でき得るかぎりの知識の収集に努めるだろう。けれど現実に相手と遭遇したとき、大部分の知識は念頭から消え、あとは主として長年にわたって体得したカンと反射神経に頼って行動することになるだろう。
(……風下から近づく。木や草叢を遮蔽物にして自分に迷彩を施す。相手に気づかれそうになる。素知らぬふりをする。足音を潜めて少しずつ接近する。ついに目が合う。逃げる。追う。地形によって行手を阻む様様な障害を迂回しながら、しかも絶えず正確な方向と最短の距離を選ばなければならない全力の疾走。その間かれは夢中である。しかしすべての意識は無意識に近づくくらい全速力で回転している。絶望的なほど困難な障害をなんとか乗りこえてみると、そこからの追跡が突然有利に展開することもある。とても飛びこえられそうにない谷がある。おもい切って飛躍する。対岸に辛うじて両手をかけ、転落しかけた体を必死に持上げて這いあがる。意表を突く。相手を追い詰める。そして遂に仕とめた相手の予想外の大きさに愕いて我にかえったとき、かれにはそれまでの追跡がまるで夢のように感じられ、自分一人の力による成果とは到底おもえず、神か仏に心から幸運を感謝したい気持になったのかも知れない……)
闘士型の体格をしている志功の言動に、時おり感じられる|韜晦《フエイント》、素早い|変身《ウイーピング》、トリッキーな動き、ときにオーバーとおもわれるほど身振りの大きな感謝の意の表明……等等は、いずれも狩猟型の人間の特質を示しているようにおもわれる。古い東北の狩猟民の生き残りであるマタギの話は、農民の話にくらべると格段にフィクショナルで面白い。それは狩猟が農耕と違って、本質的にスポーツ=遊びの要素を含んでいるからだろう。古語における〈遊び〉は、現代語の用法のほかに、神楽を演ずること、音楽を奏すること、歌をうたうこと、それに狩猟をすること、舟遊びをすること……などを意味した。とすると山野を駆け回り、川に舟を操って、獣や魚を追っていた古代狩猟民の生きるための仕事は、そのまま遊びでもあったことになる。そのような意味で、志功の仕事は、次第に〈遊び〉の境地に近づきつつあるようだった。
[#改ページ]
夢 と 現 実
一
『釈迦十大弟子』が佐分賞を得て、これまでの後援会員以外の人にも売れ始めたあたりから、長いあいだ貧困の状態にあった志功の暮しにも、ようやく|幾何《いくばく》かの余裕が生じはじめたらしい。そのころの友人知己が書いたものによると、志功の生活ぶりが、よく判る。
新婚早早の土門拳が、夫人とともに初めて志功の家を訪ねてみると、玄関を上がったところの三畳間にピアノが置かれており、それが部屋の大部分を占領しているので、二人は身を|窄《すぼ》めるようにしてそこを通り抜けなければならなかった。このピアノは長女のけようのためのものであったのだろう。後日、土門は濱田庄司から、志功が次女のちよゑのために、もう一台のピアノを買ったと聞かされ、いかにも棟方らしいとおもい、また、もう一台のピアノをあの狭い家のどこに置いているのだろう……とおもうと、笑いを禁じ得なかった。
まだ幼い二人の娘に、一台ずつピアノを買い与えたというのは、受取り方によっては成金趣味のようにもおもえる。一旦なにかを始めようとすると矢も楯もたまらなくなる熱中癖の強い志功にとって、姉がピアノを弾いている傍で妹が次の順番を待っているという状態は、とうてい坐視することのできないものであったのかも知れない。けれどもまた、狭い借家のなかで、幼い娘の弾く二台のピアノが同時に鳴っている、という事態も、並の人間には想像を絶することである。ましてその借家は、二階家を縦にふたつに割った形式のもので、壁を隔てた隣には、大家さんが住んでいたのだ。(当時のその大家さんに聞いてみると、別にそれほどうるさかったという記憶はなく、ピアノのほかに、ときどきオルガンの音が聞こえていたようだ……という話であった)
おなじころ、十年まえからの知己である料治熊太は、一緒に本郷の通りを歩いていて、ふと志功が大切そうに提げている風呂敷包みの中身を訊ねた。
「ああ、これか。これは双眼鏡ですよ。長岡で展覧会やったときに手に入れだんだけども、飛行機でもとんで来たら見ようとおもってね」
志功は無造作にそう答えたが、その双眼鏡は三百円もする高価なものであるということだった。志功にはそれだけの余裕が生じていたわけだが、紺絣の着物に|縹色《はなだいろ》の兵児帯という|扮装《いでたち》は、一銭の金にも窮していた十年まえと変っていなかった。そのような貧窮のさなかにおいてさえ、志功が近所の子供を五、六人集め、菓子をご馳走していた姿を、料治は見たことがある。
料治も焼物が好きだったので、余裕ができてからの志功と、河井寛次郎や濱田庄司の展覧会へ同行したことがあった。志功の買いっぷりは実に鮮やかだった。まず他のだれよりも早く会場へ行く。そして値段には一切頓着せず、足早に移動しながら目を近づけて、いいとおもったものに、「この茶碗」「この鉢」と息もつかせず店員に売約済の赤札を貼らせて行くのである。料治が|秋艸《しゆうそう》道人會津八一の書の展観を銀座の鳩居堂で催したときも、一番先にやって来て札を貼ってくれたのは志功であった。こうした買いっぷりのよさは、相手の芸術への傾倒と、欲しいものは手に入れないと子供のように我慢が出来ないかれの性格から発していたのだろうが、またそうすることで志功は、貧窮のどん底にあったころ、料治を通じて最初に水墨画を認めて買ってくれた會津八一や、たえず自分を支持し激励して導いてくれた河井寛次郎や濱田庄司の恩誼に報いていたことにもなる。
志功の金銭感覚は、生まれたときから三十代のなかばまで貧乏の期間が長かったわりに、みみっちいところが少なかった。もっと後になって、時計はパテック、万年筆はオノト、帽子はボルサリノ……と、身につけるものはすべて世界の一級品でないと承知しなかったのは、いささか成金趣味のにおいがしないでもないけれども、そうした一流趣味は、まだ貧乏だったころから、画業においても遺憾なく大胆に発揮されていた。料治はこう書いている。
――彼はほんのすこし|金《きん》がいる時でも、何円もする金粉を、一袋パツとあけて塗りたくるのが好きである。油絵を描く場合でも、決してうすめてつかはない。いくら高価なものでも、数の少いものでも、用ひる時にはチユーブから絞り出したまゝつかふのである。その不屈な強気が、作品の上に現れずにはをられない。彼の芸術が、つねに高い位を持つてゐることは、そこに源を発してゐるのである。……
不屈な強気は言動にも現われていた。態度は以前よりも、いっそう昂然となっていた。芸術論になると、興奮して熱に浮かされたように喋り続け、酔ったように大言壮語し、だれも太刀打ちできないような調子で激しく叱咤した。
「芭蕉の馬鹿野郎!」ときにかれは感極まったような声を出して、こう怒鳴ることがあった。「岩にしみいる蝉の声、ではなくて、岩にしみいる棟方の声、だよ!」
料治も芸術論にかけては、なかなか人に引けを取るほうではなかったのだが、こうなってくると、黙って聞いているしかなかった。
けれども無論、あらゆる人が『釈迦十大弟子』のまえに|拝跪《はいき》していたわけではない。料治も志功芸術の「この荒々しい野性美に近い表現に、鋭い批判を加へる人も出てくるやうだ。しかし、志功先生を知る人は、彼がどんな構想によつて、自分の芸術を組み立て、表現に、最も効果的な手法を選んでゐるかを知つてゐる筈である」と書いているが、その「鋭い批判」の好例は、昭和十六年一月二日合併号の「月刊民芸」の棟方志功特集に寄せられた恩地孝四郎の一文であろう。これまで志功の作品に好意的であった創作版画界切っての理論家であり指導者でもある恩地孝四郎は、その文章を次のように書き出していた。
――今や彼の所業は神の業に移らうとしてゐる。人間の業が神の業に移らうとするときは、|蓋《けだ》し人間として甚だ危険な時である。丁度本誌執筆の依嘱を受けて三四日してから画友と一夕棟方志功を論じたことだつたが、その年若い画友は、棟方志功が画も神業にならねばだめだといつて、それを感嘆して僕に話したことだつた。僕はどだい雪舟の作を感心してゐる人の心が知れない種類の人間である。彼は神の業を人間の手でやつた。そこにスポーツはあるが、そこにタッチの跡はあるが、どこに芸術があるか分らないのである。僕に分るのは彼の驕慢があるだけだ。神の業だと思ふ驕慢があるのである。棟方君の作は従来ずつと感心して来た。そして昨年の国展作仏陀十大弟子をみて、彼も遂に神の業にのり移つたことを知ると同時に、そこに逸脱の危険も感じたことだつた。……
それから恩地は、都会人らしい気遣いを幾分かまじえながらも、「……気魄を持つ作品はそれが佳品たると悪品たるを問はず共に凡眼を打つ。大砲の音が誰の鼓膜をも衝撃するのと全く同じであつて平面上の物理的現象である。彼の一気呵成的な作画法は東洋風なる画論に於て誠に気魄充溢である」「と同時に東洋画の陥る空疎なる充実、変な言葉であるが、真に充溢するものなくしてしかも如何にも充溢してゐるかの如く感ぜしむる運動的な、筋肉的な、肉体的な緊張だけしか示してゐない底の危さをも感じさせるもの少くないと云へる」…「その奔放主義に毒されたのが十大弟子ではないかと思ふのである。本年度作、奉祝展のものは又甚だ巧者なものが覗いてゐる。棟方志功が世渡り上手にならざらんことを望む次第である」…「彼の持つ雷鳴的なるもの、爆発的なるものは彼の作が民芸でなく、美術主義的な驕奢に発してゐる」「強ひて云へば民芸風なるものの狂ひ花とでもいふべきである」……と、まことに手きびしく辛辣な評言を書きつらねたあとで、こう文章を結んでいた。
――僕はいままで棟方君をかいた文章ではいつも彼を、彼の作を甚だ賞めて来た。むろんその当時は、彼はいい方へいい方へと躍進して来てゐたからであるが、しかし今でも賞めることには|躇《ためら》はない。だが丁度この頃彼の作から感じたものを開陳して棟方君にきくと共に世にもきいてみた次第である。所で彼棟方はこの文をみて昂然と笑ふであらう。それでいいのだ。美しき一つの星。……
この結びの言葉には、版画界の第一人者と目されていた恩地の志功に対する訣別の気配がうかがわれる。都会的で知的な詩情を本領とする恩地には、初期の志功の素朴な土俗味が、近頃では段段に鬼面人を|嚇《おど》すていの誇大な作風に変りつつある……とみえて、所詮、相容れないものを感じ、それとともに志功への讃辞を声高に合唱している人人の評価が、心外なもののようにもおもわれていたのだろう。
民芸協会の人人は、雑誌「工芸」の昭和十四年十月号に二度目の棟方志功特集を組んでいた。それから幾らも経っていない昭和十六年の年頭に、こんどは「月刊民芸」の棟方志功特集である。|一方《ひとかた》ならざる力瘤の入れ方だが、かなり強引な感じもしないではない。丁度このころ、京都の河井寛次郎を訪ねた志賀直哉が、志功に対する河井の「鉄斎以上ですよ」という評価に疑問を感じて、まえに柳宗悦が木喰仏の微笑を推古仏の微笑以上だと推賞したのをおもい出し、「一つの運動を起す者の心理で、嘘とは思はないが、さりとて一緒にさう思ふわけには行かない事も時々ある」と書いているのも、そのあたりの事情を指しているのだとおもわれる。
民芸協会のグループの強力な支持は、志功に自信を与え、内部に隠されていた力を引き出して、そこから佐分賞の受賞と経済的な安定も齎らされて来たのだが、反面においてそれは、志功が民芸作家の一人であると見られて、美術界からは長いあいだ|疎《うと》んじられる一因にもなったのだった。
二
そのころ蔵原伸二郎が、大和町の家へ訪ねて行くと、志功は河井寛次郎作の志野風の|白釉《はくゆう》の茶碗に、これも河井作の鮮やかな青色の土瓶から番茶を注いで出してくれた。焼物好きの蔵原にとって、それはなによりのもてなしであった。
――そして途方もないでつかい声で一間と離れてゐない台所の貞淑賢明な奥さんを小うるさく、とてもせつかちに呼びつけて、それお菓子、それ干物、それ果物と何しろいそがしくど鳴られる。その合間に芸術論をやり、お子さんの頭をたたく様になでまはし、なめるやうに抱き上げて愛撫する。とても忙がしい。ああいそがしくては冬でも汗をかくのは当然だ。……
太宰治の名作『津軽』を読んだ人なら、それに先立って書かれたこの蔵原の文章から、すぐにあの蟹田でのSさんが、珍客の太宰を歓迎しようとして、熱狂的な大活躍を演ずる場面をおもい出されるだろう。奥さんを立続けに呼びつけて用をいいつけるところ、それ干物それ果物、と怒鳴るところ、その合間に芸術論をやるところ、子供の頭を叩くように撫で回すところ……と、志功とSさんの接待ぶりは、驚くほど瓜二つである。違っているのは、Sさんは酔払っているのに志功は|素面《しらふ》であることで、とすれば志功は素面であっても、いつも酔払いに近いくらい言動のオクターブが上がっていたことになる。太宰は、この疾風怒濤のような「Sさんの接待こそ津軽人の愛情の表現なのである。しかも、生粋の津軽人のそれである」「津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるのかも知れない」「私も木曾殿みたいに、この愛情の過度の露出ゆゑに、どんなにいままで東京の高慢な風流人たちに蔑視せられて来た事か」と書いているが、蔵原も志功について、次のように書いている。
――棟方は熱愛する。それが陶器、器物のやうなものの場合は結構であるが、奥さんや子供さんを熱愛する様は何とも早涙が出さうで見てゐられない。時々その熱愛で失敗するのは、小鳥等の場合である。何時か奥多摩に二人で出掛けて買つて来た|るり《ヽヽ》鳥等も可愛がりすぎて落したのではないかと思ふ。……
こうしてみると志功は、愛情を過度に露出する津軽人の典型ということになる。かれの場合は、精力がそれに加わっているので、いっそう目まぐるしく、蔵原は志功がぼんやりしたり、ただ凝としていたりするところを、一度も見たことがなかった。ことに壮観なのは、大きな肉筆画を描くときだった。二階の画室のなかを、まるでグラウンドのように駆け回り、あるいは紙のうえを這い回り、転げ回っているようなのである。
画室の床の間や壁には、いろいろなものが飾られたり貼られたりしていた。まず福士幸次郎の書。「為棟方志功君、感激とは万朶の火華」という言葉のほかに、「|青女子《あおめご》の村のはづれの古沼に春|闌《た》けて萌ゆGoghの柳」という自作の歌を書いたものもあった。愛する津軽の風景のなかに、志功の尊敬するゴッホの名前が詠みこまれている歌である。次に日本で最も尊敬している梅原龍三郎の油絵。版画界の第一人者恩地孝四郎が昭和十二年の国画会展に出した大作『海』三部作、親友松木満史のパリ留学中の代表作『ポレットの来訪』。柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司の三人の写真を収めた横額。それに成田山の御守礼。床の間には河井や濱田の陶器が置かれていた。
同郷の後輩である関野準一郎も昭和十五年ごろ、黒光りしている『釈迦十大弟子』の板木が床の間の隅に立てかけられていたこの画室で、志功の制作ぶりを見ていたことがある。アツシの仕事着、手織木綿のモンペ姿で、|蟇《がま》のように這いつくばった志功が、汗だくになってそのとき描いていたのは、鯉の肉筆画であった。かれは、自分の描く鯉は他の画家が描く鯉とは違う、という自信を持っていて、
「棟方の鯉は、池の中を泳ぐ鯉ではない。われの|臍《へちよ》コのうしろから出て来て、土の中をもぐり、家の中を転げて暴れ回る鯉だ。われの絵は、この鯉だ|様《けんた》に紙の上をゴロゴロと転げ回っているうちに出来上がってくるんだ」
全身を駆使して、たちまちのうちに色紙何枚かの鯉を描き上げながら、そういった。関野は若いころから絵の巧さに定評のあった画家だが、そのかれの眼から見ても、丸く太って、尾を|裳裾《もすそ》のようにして跳ねている独創的な志功の鯉には、不思議な魅力があった。それは多分、志功が上田秋成の原作をもとに、版画『夢応の鯉魚』を彫った前後のことであったのだろう。秋成の『雨月物語』のなかのその一篇は、鯉の絵を得意とする僧が、夢幻のうちに鯉に変身して、水中に遊ぶという話である。鯉となったかれの行手には、意外な運命が待構えていた……。
夢と現実の不可解な関係を物語って、これほどおそろしいまでの深さに達した短篇は、めったにあるまい。変身すること、夢想のなかに遊ぶことが大好きで、しかも仕事と遊びの一致を理想の境地としていた志功にとって、それはまさに打ってつけの|主題《テーマ》であった。
三
志功が上田秋成の『夢応の鯉魚』を取上げたのは、装幀を引受けた保田與重郎の『後鳥羽院』(思潮社・昭和十四年十月刊)に収められている一文を読んだことが、きっかけになっていた。日本文学の源流と伝説について語った一連の論文のなかの『近代文芸の誕生』において、保田は初めのほうにこういっている。
――近代文学の祖は西鶴であるか芭蕉かさういふことは、一寸のことにはまづいへることでないが、近代小説家の祖は秋成か綾足か、はいへることである。(中略)ともかく私は近代小説家の祖を、秋成と綾足に味はふのである。……
このあたりから志功は早くも完全に文章のなかに引込まれた筈である。なぜならここで、秋成とともにわがくにの近代小説家の祖に|擬《なぞら》えられている綾足は、同郷の津軽の産で、かつ絵描きでもある人物であったからだ。|建部綾足《たけべあやたり》は、強情我慢の熱情家であったこと、女性関係に幾つかの事件があったこと、諸方で俳諧を学んで江戸へ来てからは芭蕉を攻撃し、また大名にも楯突くなど権威に対する反抗心が強く、生活が安定しかかると自らそれを投げ捨て、生涯、流転して居が定まらなかったこと……といった点において、津軽の無頼派の元祖ともいうべき畸人である。
著名な国文学者の文章にも、綾足の衒学癖とその実の無学ぶり、衒気と|佶屈《きつくつ》の多い振舞いを軽侮の口調で書いたものが間間あるが、保田與重郎はかねて「私は建部綾足が好きである。江戸期の多くの小説家、詩人、画家の中で、とりわけ近接感を感じる人の一人であつた。綾足は東北の産である。東北に生れた奇才であり、天才であつた。私は風土が人間に影響するといふことをかなりに信用する、それは風土の中には代々の歴史と文化がのこされてゐるからである」と述べていた。「俳句研究」という雑誌に発表され『戴冠詩人の御一人者』(東京堂・昭和十三年九月刊)に収められていたその『建部綾足』という文章を、志功はたぶん読んでいた筈で、綾足が芭蕉を批判したこともそのなかに書かれており、とするとこのころの志功が芸術論に激すると、「芭蕉の馬鹿野郎!」と叫んでいたのは、このへんに端を発していたのかも知れない。
悪評も少なくなく軽視されがちな綾足を、保田が「天才」と呼んだのが得意の|逆説《イロニー》であったのかといえば、そうではなくて、『近世畸人伝』の著者|伴蒿蹊《ばんこうけい》の評によれば綾足の「……なすところ、云ふところ、虚実定まらず」「生涯酔へるが如く、醒めたるが如く」「ともかく世を|翫弄《がんろう》して遊びしと覚ゆ」るあたりに共感をおぼえ、さらに国学を学んで尚古の思想に傾いてからの綾足が、日本武尊を自らの文芸の祖として仰ぐに至ったところから、保田もまたかれの考える日本の浪曼派の先達として綾足を尊重するようになったものとおもわれる。津軽から東都や上方へ出て行った無頼派が、あっちへ行っては壁に頭をぶつけ、こっちへ来ては自ら足を滑らせて転倒したりしたあげく、同時代に痛憤と嫌悪の情を覚えて、やがて復古主義に辿り着く、という道筋は、どうやら江戸時代からあったものらしい……。
とまれ同郷の文人兼画家として言わば大先輩にあたる綾足を、「天才」と呼んだ保田がこんどは秋成と共にわがくに近代小説家の祖に擬しているのだから、行を追う志功の目の色が変らなかった筈はなく、この論文における保田の主眼が、結局は秋成の作品のなかでも、とりわけ秀れているのは『蛇性の婬』『夢応の鯉魚』『白峯』等であって、「これらは絶対的な傑作であり、この三篇によつてのみでも、秋成はわが国の国宝的な第一級の古典詩人である」ことを強調するところにあったのだとしても、志功は次のくだりを読んだとき、文章に引込まれていた心が、もういちど大きく波打つのを覚えずにはいられなかったろう。保田はこう書いていた。
――「夢応の鯉魚」など、実に近代文学としての絶品である。私はそれをよむたびに人の知らない小説家の悲しみの自覚に心痛む思ひがする。夢応が絵に巧みでよく水中に入つては魚の生態をうつしてゐた。神がそれをめでて魚の姿と性を与へた。欣んで水中を遊んでゐたが、そのうち空腹になつたので釣絲の餌の香しさにひかれる、釣師を見ると己の知人ゆゑ、必ずことわりをいへば放してくれるだらうと思つて、餌に食ひついたところ、ひきあげられてみると、口はあいてもものがいへず、そのまゝ市に出され台所に運ばれる、この話は、悲しい寓意をもつたいのちの物語である。……
鯉は志功が青森にいたころから、最も好んで得意にして来た画題である。また変身もかれの大好きな主題であった。人間から魚に変身する絵描きを主人公にして絶品であるという秋成の『夢応の鯉魚』に、志功が強く心を惹きつけられたであろうことは疑えない。
そしてまた、保田の文章からここに引用した部分、すなわち神によって魚の姿と性を与えられ、喜んで水中を遊び回っていたが、いったん水面の上に引揚げられてみると、口は開いていても何も物がいえず、市から俎上に運ばれて行く……というのは、殆どそのまま後年の保田自身と日本浪曼派の運命を予言しているようにもおもわれるのである。
まだほかにも幾つかある『夢応の鯉魚』とそれに感応した人間の運命との不思議な暗合について語るためには、まず秋成の叙述にしたがって、水中に入り、魚に姿を変えてみる必要がある。
「むかし|延長《えんちよう》の頃、三井寺に|興義《こうぎ》といふ僧ありけり。絵に|巧《たくみ》なるをもて名を世にゆるされけり。|嘗《つね》に|画《えが》く所、仏像山水花鳥を事とせず。寺務の|間《いとま》ある日は|湖《うみ》に小船をうかべて、|網引釣《あびきつり》する|泉郎《あま》に銭を与え、|獲《え》たる魚をもとの江に放ちて、其魚の|遊躍《あそぶ》を見ては|画《えが》きけるほどに、年を経て|細妙《くわしき》にいたりけり」
とはじまる名文の|趣《おもむき》をそこなうきらいはあるが、以下、その物語を意訳して要約すれば……。
……あるとき絵の制作に心を凝らして専念しているうち、根が疲れて眠気に誘われ、われ知らずうとうとと|微睡《まどろ》むと、ゆめの|裏《うち》に自分の体は水中に入っており、大小さまざまの魚と遊んでいた。やがて、ふとわれにかえった興義は、いま目にしたばかりの姿を絵に描いて壁に掲げ、みずからそれを「夢応の鯉魚」、すなわち夢中に感応した鯉魚と名づけた。見事な出来映えに、その絵を欲しがる人が多かったが、興義は「生き物を殺し、|鮮魚《あざらけ》を食べる世間の人に、わたしが大切に飼っている鯉を差上げることはできません」と冗談めかしていい、決して|需《もと》めに応じようとはしなかった。
それからやがて、病にかかった興義は、床について七日目に、瞑目して息絶えてしまった。弟子や友人たちは、枕辺に集まって歎き悲しんだが、一人が胸のあたりに手を当ててみると、まだ少し生温かい。これはひょっとすると生き返るかも知れぬ……と見守っているうちに三日をすぎたころ、手足が僅かながら動きはじめ、間もなく長い吐息をついて、眠りから醒めたように起き上がった興義は、卒然として人人にいった。
「わたしは大分長いあいだ人事不省になっていたようだが、いったい幾日ぐらい経ったのだろう」
「息がなくなられたのは三日まえです。それでも胸のあたりが温かいので、もしや、とおもい、葬りもせず、お待ち申し上げているうちに……」
そう答えた一人にあわせて、口口に師の蘇生を喜びあっている人人に、興義は合点して言葉を続けた。
「だれでもよい、わが檀家の|平《たいら》の|助《すけ》の殿の|館《やかた》に参り、殿にはいま酒を酌み、肴に|鮮魚《あざらけ》の|鱠《なます》をつくらせておられるだろうが、しばらく宴を中止して、寺においでいただきたい、いま不思議に生き返った興義が、稀有の物語をお聞かせ申し上げる、と伝え、様子を見るがよい。わたしがいったことに、ひとつも違いはない筈だ」
命じられた使いの者が、首を|傾《かし》げながら平の助の館へ行って見ると、興義のいった通り、一同は酒宴の真最中だった。平の助も使者の言葉を聞いて吃驚し、すぐに箸を置いて立上がり弟や家来を連れて、寺にやって来た。
興義は助に御足労をかけたことを謝し、助も興義の蘇生を祝って、挨拶が一段落したところで「あなたは……」と興義のほうが先に問いを発した。「あの漁夫の文四に、魚を注文しはしませんでしたか」
「その通りです」助はまた愕いて「しかし、どうしてそんなことを……」
「あの漁夫は、三尺あまりの大魚を籠に入れて、おたくの門に入った。あなたは御令弟と座敷で碁を打っておられた。そばで大きな桃を食いながら観戦していた|掃守《かもり》は、漁夫が大魚をもって来たのを喜んで、|高杯《たかつき》に盛った桃を与えたうえ、酒も十分に飲ませた。それから料理人が、したり顔の包丁さばきで、魚を鱠にしはじめた……。どうです? 違いますか」
聞いていて、怪しんだり、戸惑いの表情を示したりしていた助は、どうしてそんなに詳しく知っているのか、と逆に問い返した。興義は事の次第を語り始めた。
――わたしは病床についてから苦しさのあまり、自分が死んだのも知らず、熱を少しでも|冷《さ》まそうと杖を頼りに門を出ると、やがて次第に苦しさが薄れ、籠の鳥が大空に解き放たれて自由を得たような気分になり、足の向くままに歩き回っているうちに、いつもの湖の岸に出た。見ていると水の|碧《みどり》色に惹かれて|虚《うつ》けたような心地になり、わたしは衣を脱ぎすて、水中に身を躍らせて飛びこみ、あちこちと泳ぎ回った。幼いころから、さほど水練に熟達していたわけでもなかったのに、そのときは不思議に自分のおもうさま奔放に泳ぎ回ることができたのだが、いまにしておもえば、いささか思慮のない夢見心地であったような気がしないでもない。
しかし人間が泳ぐのは如何に巧くても、所詮、魚には及ばない……と魚を羨む気持になっていたら、大魚に導かれて|水底《みなそこ》から現われた|冠装束《かむりしようぞく》の人が「海神の|詔《みことのり》あり、老僧かねて|放生《ほうじよう》の|巧徳《くどく》が多く、いま魚の|遊躍《あそび》を願うにつき、かりに|金鯉《きんり》の服を|授《さず》けて、水中の楽しみをせさせ給う。ただし餌の|香《かんば》しきに|晦《くら》まされて、釣の糸にかかり身を|亡《うしな》うことなかれ」と告げて、ふたたび|杳《はるか》の底に消えて行った。不思議のあまりわが身をかえり見ると、いつの間にか金色の鱗をそなえた一匹の鯉に化身していた。
それを怪しいともおもわないで、わたしは尾を振り、鰭を動かして、心のままに水中を逍遥した。|長等《ながら》の山おろしに立つ浪に身を預け、志賀の入江の|汀《みぎわ》に遊び、歩く人に驚かされて|比良《ひら》の山影が映る深い水底に身を隠そうとしても、夜になると|堅田《かただ》の|漁火《いさりび》に引寄せられて行くのは是非もない夢心地である。日が暖かいときは水面に浮かび、風の荒いときは|千尋《ちひろ》の底で遊んでいたが、あるとき急に空腹を覚えて、どうにも我慢が出来なくなった。見ると目の前に、文四が釣糸を垂れており、その餌がまことに香しい。海神の戒めをおもい出し、「わたしは仏の弟子だ。あさましい気持を起こしてはなるまいぞ」と必死に自戒に努めたが、ついに堪えかね、この餌を|掠《かす》めたくらいで捕えられる筈はあるまい、それに文四は相識の者である、なんの遠慮をすることがあろう……と餌を呑みこんだ。
途端に文四は糸を引き、わたしは水上に引揚げられた。「何をするんだ!」と叫んだが、かれは聞こえない顔で、わが|腮《あぎと》を縄で貫き、籠に押入れて、助殿の館に運んで行った。殿は御令弟と碁を打っていた。|掃守《かもり》は横で桃を食っていた。文四が持って来た大魚を見て、みんな大喜びしているので、「あなた方はこの興義を忘れたのか、許してくれ、寺へかえしてくれ」とわたしはしきりに叫んだが、やはり一向に聞こえない風である。調理人はわたしの両眼を左手の指でとらえて|俎板《まないた》にのせ、研ぎ澄ました包丁で切りにかかった。「仏に仕える僧を殺すという法があるか、助けてくれ、助けてくれ!」と|哭《な》き叫んでも、相手の耳には届かず、とうとう包丁の刃をわが身に当てられ、切られた、と感じたところで、わたしは夢から醒めた。……
興義の話に、人人は慄然とし「成程、師が鯉となって言葉を発したというあたりの度ごとに、魚の口の動くのが見えましたが、声は一向に聞こえませんでした」といい、従者を館に走らせて、残っていた鱠を湖に捨てさせた。この物語の結末には、次のような一節がある。
「興義これより病|癒《いえ》て|杳《はるか》の後天|年《よわい》をもて|死《まかり》ける。其|終焉《おわり》に臨みて|画《えが》く所の鯉魚|数枚《すまい》をとりて湖に|散《ちら》せば、画ける魚|紙繭《しけん》をはなれて水に|遊戯《ゆうげ》す。ここをもて興義が絵世に伝はらず……」
よく知られているように、原典は中国の説話で、またいかにも秋成らしい怪異譚であるけれども、この作品については、すでに昭和九年に佐藤春夫の「ホフマン風芸術家的小説」という評言があり、たしかに僧を芸術家、海神を美神として読めば、これは勤勉な司法官と放埓な作家の二重生活を送ったホフマンの幻想小説に似た様相を帯び、夢想と現実、芸術と実生活の矛盾と対立、というかげの主題が、ありありと浮かび上がって来る。
それでなくても感情移入の傾向が強い志功は、鯉の絵を得意とすることによって世に名を知られた僧興義を、当然わがことのようにおもって読み進んだに違いない。そうであったとしても別に不思議ではなく、興義が制作に疲れ果てた末、夢中に感応した鯉を描き、あるいは死に近いまでの苦しみの果てに、現実から離脱し鯉に化身して遊んだ……というのは、志功の制作方法と、酷似しているようにおもわれる。そして「絵も神業にならねばだめだ」といっていた志功は、雪舟にまつわる伝説をおもわせる結末の、湖に投じられた数枚の鯉魚が、絵から抜け出して水中に泳ぎ出した……という一節を読んだとき、よし、こんどはわれもそすた鯉を描く、と心に決めたのではないだろうか。
なにものかに取憑かれたような仕事ぶりは、保田の深夜の執筆もおなじであったらしい。夜型のかれは、あたりのしじまが深まるにつれて蘇ったようになり、水中の鯉のように夢想の波紋をひろげて、ひたすら尊崇する|皇神《すめかみ》の声に耳を澄ませて日本の美の伝統について書き続け、あるいはそれらについて述べられたさまざまな先人の説を口寄せして、つまり自分としては純粋に文化と芸術の問題だけを論じていたつもりであったのかも知れなかったのだが、やがて水中から外の現実に引戻されたとき、ほぼ弁解不能の立場に置かれ、文字通り俎上の魚、|俎板《まないた》の上の鯉の立場を身をもって経験することになった。
敗色が決定的となった戦争の末期、病中に召集を受けて中国大陸に渡り、辛うじて聴覚だけが機能として残っている危篤状態の体を、陸軍病院の病床に横たえていたときが、まずそうだった。さらに敗戦後、大東亜戦争の精神的推進者として指弾されて沈黙したとき、また意中を述べようとしてもその声は最早ほとんどだれの耳にも届かなくなっていて、川村二郎氏の表現をかりれば保田與重郎というその名の五つの文字に「一種神秘的な|劫罰《ごうばつ》」を受けた人を目にするような戦慄を感じさせたころもそうであった。
秋成の『夢応の鯉魚』を「近代文学としての絶品」と呼び、「よむたびに人の知らない小説家の悲しみの自覚に心痛む思ひがする」と書いたとき、かれはすでにそうした後年の自分の運命を予感していたのだろうか……。
四
保田與重郎のほかに、以前から『夢応の鯉魚』に感応していたのは太宰治で、秋成の作にヒントを得て昭和八年ごろに『魚服記』という短篇を書いている。太宰が秋成のこの作品にどれほど魅了されたかは、主人公の娘が変身した「鮒は滝壺のちかくの淵をあちこちと泳ぎまはつた。胸鰭をぴらぴらさせて水面へ浮んで来たかと思ふと、つと尾鰭をつよく振つて底深くもぐりこんだ」という一番肝腎の場面の描写が、鯉魚と化した自分を「あやしとも思はで、尾を|振鰭《ふりひれ》を動かして心のまゝに逍遥す」という秋成の文章を、殆どそのまま踏襲していることからも明らかだが、実際にかれ自身、そのころ次のようにいっている。
――魚服記といふのは支那の古い書物にをさめられてゐる短い物語の題ださうです。それを日本の上田秋成が翻訳して、題も夢応の鯉魚と改め、雨月物語巻の二に収録しました。/私はせつない生活をしてゐた期間にこの雨月物語をよみました。夢応の鯉魚は、三井寺の興義という画のうまい僧の、ひととせ大病にかかつて、その魂魄が金色の鯉となつて琵琶湖を心ゆくまで逍遥した、といふ話なのですが、私は之をよんで、魚になりたいと思ひました。魚になつて、日頃私を辱しめ虐げてゐる人たちを笑つてやらうと考へました。/この企ては、どうやら失敗したやうであります。笑つてやらう、などといふのが、そもそもよくない料簡だつたのかも知れません。……
このなかのかれが「せつない生活をしてゐた期間に……」というのは、『雨月物語』が山口剛の編により改造文庫の一冊となって出た昭和六年から、七年にかけてのころであったのだろうか。だとすればそれは前に書いたように、共産党への弾圧が一層きびしくなった東京から、逃げるようにして青森へ帰り、非合法政治活動から離脱して青森警察署へ自首して出た時期に当る。保田に先立って、太宰は早くもこのとき、自ら俎上の魚となる運命を選んでいたのだった。
秋成が『夢応の鯉魚』を書いたのにも、大坂の富裕な商家に養われて友人たちとの気儘な遊蕩と文芸の趣味に|耽《ふけ》る青壮年期を送っているうち、三十八歳のときに火事に見舞われ家財を|尽《ことごと》く失うという災難に遭い、それまでとは打って変った人人の冷たい仕打ちをわが身に受けて現実のきびしさを痛切におもい知ったときの深刻な体験が、契機のひとつになっていたらしい。
また太宰がその短篇を書いた当時は、『夢応の鯉魚』の原典を『古今説海』のなかの『魚服記』であるとする山口剛教授の説が一般であったが、駒田信二氏の考証によれば、それに先立つ唐の『続玄怪録』のなかに、『|薛偉《せつい》』というほぼ同文の小説があり、したがって秋成がどの本に|拠《よ》ったかにかかわらず原典は『薛偉』とするのが正しいとのことで、駒田氏が和訳して紹介しているその小説とくらべてみると、秋成の作は翻訳といっていいくらい、原文を大部分そのままうつしていることが判る。ただし秋成は、主人公の官吏を画僧に変え、冒頭にその人物説明を行ない、途中には鯉となった興義の琵琶湖周遊紀行の名文(……と見せて実は、芸術家の内面の精神生活を物語っている部分)を挿入し、最後に興義の描いた鯉が湖中に|遊戯《ゆうげ》して消えてしまった……という逸話をつけ加え、さらに興義という名前が『古今著聞集』に出ていることを暗示し、かれがあたかも実在の人物であるかのように、つまりこの不思議な物語を実話であるかのように装うことによって、かえって芸術とはつまるところ現実とは別次元の遊びであり虚構である……という主題を、見える者の眼には鮮明に浮かび上がらせる「芸術家小説」に仕立て直しているのである。
このようなパロディの妙手である「秋成の小説家としての抜群さは、彼の教養や、ないしその小説の種本の存在と別のところにあるものである。若干の原本を云ふことは、別に秋成の幻想的浪曼主義の創造的才能を左右することではない」と保田はいう。和訳太郎と名のる戯作者でもあった秋成の上方風の「わやく」(悪戯、無茶、ふざけ、韜晦、などの意か……)に共感を示して、『夢応の鯉魚』を最大級の形容で絶讃したかれは、そうした秋成の方法を、よほどよく学んだふしがあるようにおもわれる。
たとえば処女出版で第一回の池谷信三郎賞を受け、大阪高校の同窓である伊藤佐喜雄も「天才出現の霊気」にみちみちていた……と回想しているくらい、鮮やかな保田の出世作となった『日本の橋』において、まず読者の多くを驚かせたのは、西欧と日本の文明、文化の違いを橋によって論ずるというその着眼の卓抜さと、古今東西の橋に関する蘊蓄の深さであったろう。
けれどもこれには先例がない訳ではなく、大正十三年一月の大阪朝日新聞に連載され、のち大正十五年に岩波書店から刊行された『橋と塔』に収められた『橋』というエッセイ(そのなかには「日本の橋」という一章もある)のはしがきを、京都大学の考古学教授である濱田青陵博士は、次のように書き出していた。
――私が橋に興味を持ち出したことも久しい。|併《しか》し南仏「ポン・ド・ガール」の|羅馬《ローマ》の古橋の上に立つて、此の偉大なる人工を閑寂たる夕暮に、人里離れた自然の間に眺め入つた時ほど、橋に就いて深く感じた事は無かつた。其後羅馬の古都に昔ながら残つてゐる当年の古橋を渡り、ヴェネチヤの「リアルトの橋」、フィレンツェの「ポンテ・ペッキヨ」と中世以後の橋を見るに及んで、私は故国にどれ|丈《だ》けの古橋が残つてゐるかを考へさせられた。/日本には勿論こんなに幾百千年と言ふ古い橋は一つも残つてゐない。併し橋の美しさは決して古い橋には限らぬ。|周防《すおう》の錦帯橋の奇観は別としても、ホイスラーの如きはたゞ名も無い日本の橋を画題として、あの様な名画を作つてゐるのでは無いか。……
保田が中学生のころの新聞に載り岩波から本になって出たこのエッセイを、実際に読んでいたかどうかは判らない。だが、かれの『日本の橋』の前半におけるフランス、イタリアからペルシャに至るまでの橋についての博引旁証は、ことごとく濱田博士の叙述と一致している。「若干の原本を云ふことは、別に幻想的浪曼主義の創造的才能を左右することではない」という説にしたがって、さらにいえば保田の『日本の橋』は最後に、名古屋熱田の精進川に豊臣秀吉の小田原攻めに従って陣中に戦死したわが子の三十三回忌の供養のために母が架けた裁断橋の、青銅の|擬宝珠《ぎぼし》に刻まれた平仮名の多い銘文を引用して、
――本邦金石文中でも名文の第一と語りたいほどに日頃愛誦に耐へないものである。……
と述べ、その橋と銘文に籠められた子をおもう日本の母の心情の美しさを切切と語って、つまりそのことが筆者のいわば結論になっているのだけれども、濱田博士の前掲書のなかにも、おなじ橋の銘文を引いて「我が国の古金石の銘文は|固《もと》より、数多い古文書の中にも、|斯《か》くも短かくして、斯くも直截に人の肺腑を突く至情の文は、他に其の例が多くあらうか。……」と語り始め、ほぼ同一の趣旨を説いた『熱田の裁断橋』という一文があり、これはちょっと偶然の一致とは考えにくい。
西欧の古代の橋から説き起こし、ペルシャの橋や中世の防護橋の話を経て、それらにくらべればずっと貧弱な日本の橋の特色を語り、最後に熱田の裁断橋を架けた母の心情に行き着く……という構成において、保田の『日本の橋』は、それが書かれるおよそ十年まえに出た濱田青陵の著書と、殆ど軌を一にしている。
けれど濱田の文章を読んで記憶にとどめていた人であっても、その本では三頁ほどしか割かれていない日本の橋について、保田が「神代の日の我国には数多の天の浮橋があり、人々が頻りと天上と地上を往還したといふやうな、古い時代の説が反つて今の私を限りなく感興させるのである。水上は虚空と同じとのべたのも旧説である」といい、『古事記伝』において「神代には天に昇降る橋こゝかしこにぞありけむ」と述べた本居宣長の説や、わがくにの様様な古典から、橋に関して触れた箇所を次から次へと博捜して引き、日本中を周遊して実際に目にした橋と風景の印象をまじえて、熱情的に延延と語ったあたりは、保田のオリジナルな部分として認めたにちがいない。秋成の作にたとえていえば、このへんが夢応の鯉魚となって、存分に水中を遊泳したところであったのだろう。わがくにの古典の熱心な渉猟と、それに古代の神話を考古学者濱田青陵が例に挙げているような科学的な、あるいは歴史的な話と同一の平面上に置いて、すこぶる奔放に、もしくは恣意的に論を進めて行くのは、保田の|独擅場《どくせんじよう》であった。
濱田の『橋』は外遊の産物であると考えていいだろう。大正二年、京都大学助教授に任ぜられたばかりのかれは、渡英して英仏伊の諸国に留学した。途中、南仏の壮大な古橋の上に立って、「橋に就いて深く感じた」のは前に引いた通りだが、イタリアで橋づくりの天才であるローマ人が紀元前に架けた幾つかの橋に接したときは「今も変らぬ石橋の形式と、昔ながらの頑丈な構造を見て、是が果して二千年にも近い|古《いにし》への人の作つた橋であるとは、恐らくベデカーの案内記を持たない人には信じ得ないであらう」と嘆声を発している。こうした西欧の橋の上に立ったとき、明治十四年生まれのかれが|翻《ひるがえ》って祖国日本の橋の貧弱さを痛感せずにいられなかったのは当然であろうし、またその貧弱さのなかに胸が|疼《うず》くような一種いい知れぬ懐しさも同時に覚えたとしても不思議ではない。
帰朝してから数年後に、画家ブラングウィンとスパローの共著『橋の書』(A Book of Bridges)を手にしたとき、自身もスケッチを得意とする濱田の胸底に、こんどは曾遊の地への懐しさが|油然《ゆうぜん》と湧き上がって来たものとおもわれる。やがてかれは大正十三年の一月に『橋』を書き、それから二年後に雑誌「国民史談」一月号に引用されていた熱田裁断橋の銘文に惹かれ、東京を訪ねた帰途、熱田に下車し、「一言の道案内を乞はずして、地図の上に名も無い此の橋を尋ねあてることが出来た。|恰《あたか》も何者かゞ私を|冥々《めいめい》の中に其の場所に引張つて行つたかの様に。……」といういきさつを経て、前記『熱田の裁断橋』を書くに至ったのである。したがってかれの著書の構成は、そのままかれの精神史を物語っているといってよい。
しかし濱田の著書を読んで、それが「日本回帰」を説いたものと感じた人は、おそらく数少なかったろう。かれは西欧、中東、中国、朝鮮の橋の特色と美を語って、まことに公平かつ|国際的《インタナシヨナル》であるし、他国に対するのと同程度の頁を割いた「日本の橋」の章の結びも、「斯の如き貧弱極まる橋の歴史を持つ日本人が、橋梁に対して大なる趣味を有しないのは、|寧《むし》ろ自然のことであつて、之を多く大工職人の手に任せて、たゞ賑かに渡り初め式丈けをやれば|宜《よ》いと思つて居たのは何の不思議もあるまい」と、はなはだ素っ気ないが、西欧の橋上に立って感じたであろう遥かなる祖国への憐憫は、目には見えない地下水のように全篇の底を通じて流れており、保田の敏感な耳は、その微かな地底の|細流《せせらぎ》の音を聞き逃さなかったものとおもわれる。
保田の『日本の橋』は、こう書き出されている。「東海道の田子の浦の近くを汽車が通るとき、私は車窓から一つの小さい石の橋を見たことがある」…「海岸に近く、狭い平地の中にあつて、その橋が小さいだけにはつきりと蕪れた周囲に位置を占めてゐるさまが、眺めてゐて無性になつかしく思はれた。東海道を上下する度に、その暫くの時間に見える橋は数年来の楽しみとなつた」…「いつか橋を考へてゐるなら、その瞬間にこんな橋を思ひ出す、それはまことに日本のどこにもある哀つぽい橋であつた」
この書き出しに滲み出ているのは、遠隔の都会と郷里を休みごとに列車で往復する学生生活を送った者には、馴染み深い感情である。それとともに外国からの新帰朝者のような眼も感じられる。人並み外れて愛郷心が強く、現代に生きながら郷里の町を「大和国桜井」と好んで記していた保田にとって、東京と桜井の関係は、濱田の場合の西欧と日本に当たるようにおもわれるのである。
保田は大学の卒業論文にドイツ・ロマン派の詩人ヘルデルリーンを書いたが、伊藤佐喜雄の『日本浪曼派』には、大阪高校の同級である肥下恒夫が、「そやけど、保田はな、ヘルデルリーンって発音、あんじょうでけへんのやでェ」といったという、つまり保田が語学に不得意であったことをうかがわせる挿話があり、このことは保田自身『日本浪曼派の時代』のなかに「私は長らくドイツ語を学びつゝ、ドイツ語を国語にいひかへる技術を全然修得できなかつた」と語っていることで、そうしたかれにとっては、その年の全国の官立高等学校文科のなかで一校だけ入学試験科目に数学が除かれていたために、それだけ、のちに同人雑誌「コギト」の主力となったような語学にも強い異才が多く集まったといわれている大阪高校の文科乙類時代と、東京大学文学部美学美術史科時代が、一種の外遊のようなものであったのではないだろうか。
外遊≠終えて、西欧的な教養よりも、わがくにの古典を重んずるようになり、万葉少年の昔に帰ってからの保田は、さながら水を得た魚になったようだ。「コギト」には客員格で加わっていたが「日本浪曼派」には反撥を覚えたという野田又夫氏も、次のように書いている。「保田がまわらぬ舌でルチンデという名をくりかえすことをやめ、日本武尊とか|大津皇子《おおつのみこ》とか後鳥羽院とかについて書くようになってからも、私は同感を失わなかった。保田が古事記や万葉や中世の歌を本当に面白がって読んでいることが明らかであって、その点が国文学者の講釈の多くのものが与える印象と異なっており、また古事記の中に何か為になる哲学を探そうとした人々ともちがっていた。保田には何か『本もの』という感じがあった」
そのような経過をへて、保田は前記の書き出しから、濱田博士が描いたのとほぼ同一の模様をたどりながら、巨大な西欧の橋の人工の美と、貧弱な日本の橋が持つ自然の相を対比させ、全体として遥かに「日本回帰」の色合いが濃い自分の『日本の橋』を織っていたのである。こうした織り直し方が、つまりかれのいうイロニー≠フ論法であったのだろうか。まず伝えうけた西欧の文明の壮大さについて語り、次いでそれを反転させて、日本の美の発見にいたる……この構成もまた、保田自身の精神史であったといえるのかも知れない。
かれもそのなかで「依然若い心は異国遠距離のものが楽しいのである」と書いているように、むきだしの日本主義は、まず大抵の時代において若い心はとらえられないだろうが、保田が世に投じた最初の一石である『日本の橋』は、次第に当時の青年たちのあいだに波紋をひろげていった。
その波紋の行手を追うまえに、『夢応の鯉魚』とそれに感応した人間の運命との不思議な暗合について、いまいちど語っておかなければならない。太宰の『魚服記』は、鮒になった主人公が、――やがてからだをくねらせながらまつすぐに滝壺へむかつて行つた。たちまち、くるくると木の葉のやうに吸ひこまれた。……という場面で終っている。保田の場合とは違うが、これも太宰の後年の運命を予言しているようではないか。そして『夢応の鯉魚』を版画に彫ろうとした棟方志功にも、そうした暗合がなかったわけではないのである。
五
有望な新進画家に与えられる佐分賞の受賞者であるとはいっても、画壇とよほどの絵画愛好家の一部、それに民芸協会の人たちをのぞけば、棟方志功の名を知る人は、まだ数少なかったろう。
だが当時の殊に東京の読書人には、棟方志功の名前は知らなくても、かれの独得な画風と色彩感覚と書体にはわりと接する機会があった。というのは、昭和十四年の十月から十七年末までのおよそ三年間にわたって、続けざまに二十五冊も出た「新ぐろりあ叢書」の装幀を、すべて志功一人が担当していたからで、いまその一冊を手にしてみると、裏彩色と表彩色を併用しているとおぼしい色彩感、それに意匠、ともに見紛うかたのない棟方調で、隅に大きく「棟」という一字の款印が捺されており、したがってそれらの本が一団となって書店の店頭に置かれていたときには、いまと違って本の出版点数が少なかった当時、共通した感覚の装幀によって「新ぐろりあ叢書」の存在を、周囲に対して強烈に主張していたものとおもわれる。
この叢書のプランナーであった保田與重郎は、棟方画伯の装幀による本が一度に書店の平台に並べられたときは「風靡といふ言葉そのまゝ」の景観であった、とのちに追想しているが、それだけに保田と及び日本浪曼派に反撥を覚えていた人たちに与えた威圧感も、相当のものであったろう。執筆者の大部分は昭和十三年の八月に解散した雑誌「日本浪曼派」の旧同人と、その近くにいた人たちだった。東奥日報主催の「在京芸術家座談会」で志功と火花を散らした太宰治は、翌月から本屋へ行くたび、次から次へと出て来る棟方調一色の叢書を目にして、たぶん渋面を禁じ得なかった筈である。
まず最初に、伊藤佐喜雄、蔵原伸二郎、岩田潔、前川佐美雄、保田與重郎の著書五冊が同時に出たことは、まえに書いた通りで、それから二箇月後の昭和十四年十二月には、中谷孝雄『むかしの歌』と森本忠『僕の天路歴程』が出た。その翌年からは……。
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昭和十五年――芳賀檀訳『ドイノの悲歌』、山岸外史『芥川龍之介』、吉原公平訳『ボグド・ビダルマサヂ汗物語』、木山捷平『昔野』、小山祐士『魚族』、平林英子『南枝北枝』、斎藤史『魚歌』、津村信夫『戸隠の絵本』、田畑修一郎『狐の子』、浅野晃『楠木正成』
昭和十六年――影山正治『みたみわれ』、大山定一『詩の位置』、森亮訳『ルバイヤット』、外村繁『白い花の散る思ひ出』、田中克己『楊貴妃とクレオパトラ』
昭和十七年――田中武彦『瑠璃』、堀場正夫『遠征と詩歌』、伊崎浩司『討伐日記』
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といった具合で、「新ぐろりあ叢書」は一冊あたりの平均初版部数が千二百部程度だったというが、なかには版を重ねたものもあったろうし、だいいちこうも矢継早に、しかも決して都会的に洗練されているとはいえない一種のアクの強さを感じさせる志功の装幀で次次に出されていたのだから、東京の読書人には、かなりの印象を与えたものと想像して間違いあるまい。志功はこの叢書のほかに、前述の『後鳥羽院』や『改版 日本の橋』や『近代の終焉』といった保田與重郎の著書も装幀しており、もし当時の読書人と文筆家の一部に、保田と日本浪曼派≠フ著書が、いまにも文壇と出版界を席捲しそうな勢いを感じさせたとすれば、それらの本を一様にかざって、見た者に忘れ難い印象を残す志功の独得な装幀と書体のイメージのせいもあったのかも知れない。
「新ぐろりあ叢書」の勢いのかげには、もう一人の人物がいた。発行者である「ぐろりあ・そさえて」の伊藤長蔵である。播磨の大地主の家の次男で、神戸高商を出てから渡英したかれをよく知る寿岳文章氏に、その人となりをうかがうと、まず「自信の強い人でしたね」という。日本人のアマチュア・ゴルファーでありながら、ゴルフの本家本元である英国の口ンドンで、「ゴルフ宝典」とでも訳すべき英文の本を出版した……というのだから、これは確かに並の自信家ではない。そして以下、激情家であり投機家でもあったという明治二十年生まれのかれの、小説的であるといってもよい波瀾に富んだ生涯を手短に辿ることは、そのまま忽ちのあいだに、わがくにの大正から昭和にかけての激動を典型的に物語ることにもなるのである……。
かれが渡英したのは、家督を継いだ長兄が大檀那となっていた西本願寺の大谷尊由氏が外遊したとき、イギリスの上流社会の賓客となるために必須の条件であると考えたゴルフの相手として、同行したのだった。前記の「ゴルフ宝典」は、かれ自身の著作ではなく、イギリス人の名手たちの著書からの抜粋による|名言集《アンソロジー》であったのだが、それにしても|編纂者《アンソロジスト》にはそれだけの識見が必要とされるわけで、ゴルフを始めて間もない国から数百年の歴史を持つ国へやって来てそんな本を出すのは、やはり相当の心臓であるといわなければなるまい。この本の出版の世話をしてくれたのが、チャールズ・ダーウィンの孫にあたる人で、その人を通じてかれは、詩人、工芸家、社会主義者にして造本家、装幀家でもあるウィリアム・モリスの存在を知り、モリスはすでに死んでいたが、その流れを汲む|私家版家《プライベート・プレス》を尋ね歩いて、美しい理想の本づくりの研究に熱中しはじめた。つまりかれは、ゴルフの修行のために渡英し、モリスの影響を受けた|愛書家《ビブリオマニア》となって日本に帰って来たのである。
第一次大戦中、神戸には船成金が続出したが、かれはその一人だった。戦争が終ったあとには、豪遊やら相場の失敗やらで無一文になり、準禁治産者の宣言を受けていた。そこからなんとか立直って、洋書の輸入と念願の出版業を兼ねた書肆「ぐろりあ・そさえて」を設立した。趣味と実業を重ね合せようと考えたものらしい。
そのころ、イギリスでは死後百年に近くなっていたウィリアム・ブレイクの再評価の機運が高まって、全集や研究書などいろいろな本が出始めていた。天才的な詩人にして版画家であったブレイクは、絵と文字を|浮彫腐蝕版画《レリーフ・エッチング》にして印刷し手彩色を施した少部数の自作詩集を出版した点で、モリスの先駆者ともいうべき存在だが、その百年まえの手づくりの芸術品は、まったくの|稀覯《きこう》本となっていて、殆ど手に入らない。かれ――伊藤長蔵は懸命になって、複製本その他の書物を蒐集し、書誌の作成を京都に住むブレイク研究の専門家寿岳文章に依頼して来た。
丁度そのころは、わがくにのブレイク研究の先達である柳宗悦も、震災に遭ったあと京都に来て住んでいた。柳の七百数十頁に及ぶ大著『ヰリアム・ブレーク』は大正三年(一九一四年)に上梓されている。本国のイギリスでも、まださほどブレイクが重視されておらず、なかば狂人扱いされていたころに、柳が早くもそれだけの著作をなしとげたのは、銅版画家として明治四十二年に来日したバーナード・リーチに貸して貰った詩集が、ひとつの契機になっていた。ちなみに鶴見俊輔氏によれば、柳の朝鮮陶磁器に対する関心も、リーチから伝わったものであろうという。いささか煩瑣であるかもしれない叙述を、このように続けるのは、単に土俗的なもののように見られがちな民芸運動にも、最初はどれだけ海外の潮流が加わっていたのかを確かめておきたいからである。
ブレイクの死後百年にあたる昭和二年、伊藤長蔵は、柳宗悦と寿岳文章、それにブレイクを最も早く日本に紹介した六高の山宮允教授の協力を得て、ブレイク百年忌記念展覧会を、京都の恩賜博物館で開催した。またその年の四月から柳が雑誌「大調和」に連載していた『工芸の道』に感激した伊藤長蔵は、それを是非「ぐろりあ・そさえて」から単行本として出したい、と寿岳を通じて柳に申入れた。ただし、これが翌年、本となって出るまでには、イギリスで幾つかの|私家 版家《プライベート・プレス》を実地に見て造本と装幀に一家言を持ち、自信家であって激情家でもある伊藤長蔵と、やはり造本装幀には独自の見識を持っていて、ウィリアム・モリスが理想の書物をつくるために創設したケルムスコット・プレスの刊本であっても「工芸とはなり得ずに終つた美術である」といい、自分の信念は決して曲げない柳とのあいだには、たびたび決裂状態に近づくまでの激しい対立があった。
わがくにの初代の茶人たち、およびジョン・ラスキンとともに、モリスを自分の工芸美論の先駆者として敬意を示しながらも、「用の美」を重んずる柳は、ロマン派の画家ロセッティの門下に入ったモリスを、次のように批判していた。「……|抑《そもそ》もロマンティシズムと、現実に即すべき工芸とに調和があり得るであらうか」…「現実から遊離した夢幻の世界は美術とは成り得ても工芸の立場とは成り難い」…「彼は工芸家になり得たのではなく、|畢竟《ひつきよう》一個の美術家に終つたに過ぎぬ。遂に個人作家であつて、民衆に交はることなくして終つた」…「私達は彼の如く贅沢な、美術的な、さうしてロマンティックな作に工芸の本道を托すことが出来ず、又托してはならぬ。私達は彼の作の如き貴重品や装飾品にではなく、質素の中に、雑器の中に、日常の生活の中に工芸を樹立せねばならぬ」
こういった柳自身は、しかし、ロマンティストではなかったのだろうか――。その問題は、ひとまず|措《お》くとして、柳と伊藤の対立は結局、「おれはやめた。あんなとこから本は出さん」という柳に、「それなら全部お任せしますから、どうぞ、お好きなように……」と伊藤が頭を下げることで落着した。イギリスで「ゴルフ宝典」を出した伊藤長蔵の鼻っ柱の強さも、いったんこうと決めたら挺子でも動こうとしない柳宗悦の頑強さにはかなわなかったらしい。
寿岳氏によると、伊藤長蔵には「地道な商売にはやや不向きなところがあったようだ」という。「ぐろりあ・そさえて」は次第に左前になり、詳しい事情は省くが柳宗悦とも喧嘩別れのような状態になって、|逼塞《ひつそく》したかれは東京に移った。その東京で、またもや相場で大金を掴むのである。金ができると、すぐに始めたくなるのが出版であって、かれは日本浪曼派≠ノ興味を示した。遠縁にあたる長尾良が、保田の後輩で「コギト」の同人だったせいもある。かれは長尾良を通じて保田に、「ぐろりあ・そさえて」の再興に力を貸してほしい、と申入れた。保田はそれを引受け、装幀者として棟方志功を推薦した。
独学者、同時代の人人から狂人ではないかとおもわれもした神秘思想家、産業革命の矛盾の批判者、理知よりも奔放な想像を重んじた神話的世界の創造者、想像力と愛と精力こそが最高最大のものであると主張し、宇宙的感覚によって生命をとらえようとした詩人にして版画家……それらの点でイギリスにおけるロマン主義復興の先駆者と目されているウィリアム・ブレイクに傾倒していた伊藤長蔵は、おなじような志功の特異な才能と性格に、すぐさま感応したのだろう。このころかれは「棟方志功という非常に秀れた版画家を装幀者に起用して、こんど『新ぐろりあ叢書』という本を出す」という便りを寿岳氏のもとへ寄せている。寿岳氏が棟方志功の名前を知ったのは、このときが最初であった。
熱情家の伊藤は、打てば(その何倍にも)響く、といった感じの反射神経を示す志功に、当然、自分がW・モリスの流れを汲むイギリスの私家版家に学んで造本と装幀に並並ならぬ関心を持つ者であること、天才的な詩人画家ブレイクの版画本、詩画集の蒐集家でもあることを力説し、志功もまた全巻を一人に任せるというかれの期待と好意に応えようとして、「新ぐろりあ叢書」の装幀に、全力を挙げて取組んだものとおもわれる。
猪突猛進型の投機家であり、夢想家でもあった伊藤は、採算を殆ど無視し、周囲の人を案じさせるほどの打込み方で日本浪曼派≠ノ賭けた。立続けに出版される「新ぐろりあ叢書」の勢いのかげには、こうした存在もあったのだった。かれは敗戦後の昭和二十五年一月四日、不遇のうちに没している。
伊藤長蔵の生き方は、一見いかにも振幅が大きい。けれども大正の初年には、英国で理想の社会主義社会を夢みたモリスの影響を受け、やがて産業革命の矛盾の批判者である反近代の神秘思想家ブレイクに傾倒し、昭和の初年には柳宗悦の民芸運動と結びつき、昭和十年代に入ってからは保田與重郎の日本浪曼派≠ノ惹かれていったかれの動きは、わがくにの知識層の一部に共通していた漠然たる意識の流れを、あるいは典型的に体現していたのではないだろうか。モリス―ブレイク―柳宗悦―保田與重郎。この流れの底にあったのはいったい何であったのだろう。
保田與重郎自身も十年ほどまえは、柳の思想に強く惹かれていた青年であった。「月刊民芸」の昭和十五年一月号に発表した『現代日本文化と民芸』という文章に、かれはこう書いている。
――私が柳宗悦氏の『工芸の道』や『信と美』といふやうな本をよんだのはもう十年以前のことである。高等学校の文科生であつた私は、『工芸の道』に大さう感激して、その読後感のやうなものを誌して、学校の校友会雑誌に載せようとしたが、雑誌の遅刊のため発表をためらつた。私の書いた文芸評論のやうなもののそも/\の始めが、小説家の批評でなく、活動写真の評判でなく、さういふものであつたといふことを、私は何か自分で大へん妙としてゐるのである。私らのそのころは、日本の古典や古美術と西洋の近代文学の混合の中に、ある入りまじつた情緒を愛してゐた。さういふものを私らは浪曼主義と云つてゐたのである。
――柳氏の運動がどういふ展開をされるかも知らない日に、年少の学生であつて私は、その精神美学に感嘆したのである。(中略)ある美学の運動として、近世の黎明に利休が完成したやうな、決定的な変革事業に近いものがあつた。美学の学生にならうと考へた私は詩人であり、又美学者であつた利休などの発想とその事業に、一等親近した現代のものを工芸の道に発見したのである。……
後年の『日本浪曼派の時代』において保田は大学の専攻に美学を選んだ理由を、「私は日本の文学を学ぶことを最も好いてゐたが」「古典の文章を簡単に現代語にいひかへることが殆ど出来ないので」国文学の専攻はあきらめ、まだ学問らしいかたちをとっていない学問である社会学と美学のうち、美学をやることにしたと書いており、また中学生時代から和辻哲郎の『古寺巡礼』に気質的な反撥を感じていたとも書いているからそのせいもあったのかも知れないが、前記の文章は、柳宗悦の影響が、かれの美学専攻の一因になっていたのではないかとさえ感じさせる。のちに「コギト」をつくった仲間たちは高校時代、西欧の哲学者とともに、折口信夫の古代研究と、柳宗悦の民芸論について、熱心に論じ合っていたのだという。
だが保田は「工芸の道」には進まなかった。そしていまのかれは、民芸運動が、贅沢で美術的な貴重品や装飾品にではなく、質素の中に、雑器の中に、日常の生活の中に工芸を樹立せねばならぬ、というところから出発しながら、――つまり柳氏はブルヂヨアのお茶漬にあたるものを提供した皮肉な結果となつたのです。……と書くようになっていた。それでもいいのであると保田は逆説的にいっているのだけれども、これはやはり、かなり痛烈な批評であるといわなければならない。
六
香港に生まれて幼時を京都の祖父母のもとで過ごしたこともあるバーナード・リーチが、大きな|銅版画《エツチング》の印刷機とともにイギリスから日本にやって来て、上野桜木町の寓居に落着き、「エッチング教えます」という広告を新聞に出したのが明治四十二年、かれが二十一歳のときであったというから、棟方志功は小学校へ入る前年、まだ大火に遭うまえの故郷青森の善知鳥神社あたりで夢中になって遊び回っていたころである。新聞の広告を見て恐る恐る訪ねて行ったのが、里見|※[#「弓+享」]《とん》と児島喜久雄で、そこから白樺派との交遊が始まった……と伝える久守和子氏の『ブレイク受容史の一断面』によると、当時の模様がよく判る。
白樺派のなかでも、とくにリーチと親しくなったのは、学習院高等科在学中で二つ年下の柳宗悦だった。知合って間もなく話題になったのが、リーチの最も尊敬する詩人であり、おなじ銅版画家でもあったブレイクのことで、リーチは持っていた二冊の同じイェーツ編の詩集のうちの(一冊は愛読のあまり|摩《す》り切れてしまっていたので)一冊を柳に貸し、「タイガー! タイガー!」という言葉で始まる『虎』の最初の一節を、朗誦して聞かせた。
Tyger! Tyger! burning bright
In the forests of the night,
……
虎よ! 虎よ! ぬばたまの
夜の林に燃ゆる虎よ、
いかなる不死の眼、また腕なればとて
よくも作りし、汝が怖るべきを均整を?
(寿岳文章訳)
………
柳は以前にもブレイクの詩に接したことはあったのだが、この詩人の理想とする精力の象徴的な造型として絶唱ともいうべき『虎』の朗誦を耳にして、魂が震撼させられるのを実感し、以来ブレイクの詩が、頭に取憑いて離れなくなった。かれは学習院の高等科を恩賜の銀時計を得て卒業し、志賀直哉の追想によると、学生時代から丸善に洋書の借金を千円も溜めていたくらい抜群の語学力と読書量の持主で、東大の文学部では心理学を専攻したのだけれども、それには飽き足りずに、かえって神秘思想家ブレイクヘの関心が、ますます強まって来たものらしい。
「心理学は純粋科学たり得るや」という卒業論文を書いて大学を出たあと、「白樺」と「三田文学」にブレイクについてのエッセイを書き、それらをもとに大著『ヰリアム・ブレーク』を書き下ろして洛陽堂から刊行したのが、二十五歳のときである。この年に柳と結婚した兼子夫人は、前記久守和子氏のインタビューに答えて、その本の執筆当時のことを、こう語っている。
「私がお嫁に来たとき、柳はちょうどこれを書いてたところだったんですよ。あのひとは英語は強かったけど、漢字が駄目なんで、ずいぶん手伝った。柳は大学じゃあ、心理を専攻したんです。でも論文書いてるうちに、なんだか科学的な学問の限界を痛感したとかで……それでキリスト教とかブレイクとかって神秘的なものに惹かれたんじゃないんですか? 夜中に大きな声で寝言を言ってると思うと、ブレイクの詩を暗誦してるんですね。皆しーんと寝しずまった夜中に。年とってからもそうでしたよ。学問で究明しきれない超自然的なものに、ずいぶん魅力を感じてたらしいんですね。あの頃とくに」
ブレイクに取憑かれた直情径行型の青年の姿が、目に見えるようである。当時は英国でも理解者が稀であったブレイクの難解な著書と参考文献を殆ど読み尽して、柳が描き出したこの詩人版画家の像は、およそ次のようなものだった。
……一見して異常な顔。五尺余りの短躯。それでいて均整のとれている強健な肉体。いつもは優しく音楽的であったが、ときに驚くほどの速度で興奮し、頭髪を逆立てて激し叫ぶ声。そうした場合、相手を沈黙させずにはおかない強烈な意志的断定、もしくは独断。行動の鋭敏さと腕力の強さは、精神的活動の熾烈さに比例しており、殆ど休息の欲望を知らず、病気を知らず、妻の言葉によれば「読書中か睡眠中の外は一時たりとも手を休めたことがなかった」
かれは自分が描くことすら意識せず、神の心のままに筆を運んだ。激情家ではあったが、その激情には求心力が働いており、苦痛に耐える力においても人を凌駕していた。かれの一生は刻苦の連続だったが、かれ自身は満足であり、幸福であった。なぜなら生活と創作活動は、かれにとって同義であり、そのほかに何の願望も持っていなかったから。かれは|向日葵《ひまわり》の向日性と幼児を愛して、愉快そうによく笑った。けれども、かれの傲然たる自負とありのままの自我の露出は、たびたび誤解を招き、「私はソクラテスだ」「キリストにも逢ったことがある」「私には精霊の声が聞こえる」「幻像がこの眼に見える」といった発言から、狂人ではないか、と疑う人も少なくなかった。いまの世でさえ、そう訊ねる人がいる。人人はいまもかれの奇癖のゆえにその思想と芸術を避けているが、やがて心ある者は、かれの芸術のなかに人類の思想の宝庫を見出すであろう。……
そして柳宗悦は、理知よりも熱情、論理的な思考よりも直感をとったブレイクの芸術の核心は「想像力」にあり、想像の世界は、自己と神、自我と自然、心と物……が触れ合って渾然と一体化し、自と他、内と外、主観と客観……の別が消えさって入神の法悦境にはいったときそこに姿を現わして来るものであって、そうした自己の実現こそが、ブレイクの生涯であったとした。このように描き出された詩人にして版画家の像に、人は棟方志功との類似を感じないであろうか。
柳の『ヰイリアム・ブレーク』を読むとこの十九世紀の初期に死んだ英国人と、志功の共通点の多さは驚くばかりである。もしかりに柳がリーチに触発されてブレイクに傾倒することがなかったとすれば、のちに志功を認めることもなかったかもしれない、ともおもえるほどだ。まだごく少数の理解者しか持っていなかった昭和十一年春の国画会展の会場で、途方に暮れていた志功の作品と才能の可能性を、柳が一目で看破し、自信を与えて後の力作群を引き出すきっかけとなったのには、まずそれに二十数年も先立って、かれのこのようなウィリアム・ブレイク体験があったのである。
後期印象派の天才たちを論じた『革命の画家』を明治四十五年一月号の「白樺」に書き、二年後にブレイクを論じて「一切の偉大な天才は狂者と呼ばれてゐる」…「凡庸は人類の恥辱であつても決して祝福ではない」と述べたころの柳は、天才至上、芸術至上主義の立場にたっていたものとおもわれるが、それから十数年後には、
「凡夫さへも美に携はり得る道、それが工芸の一路である」…「ここは凡夫衆生の道であるから選ばれた天才に|委《ゆだ》ねられた世界ではない。吾々に仕へるあの数多くの器は、名も知れぬ民衆の労作である」
と説くに至った。この間にあったのは何であったのだろう。
「これらの品は当時、|毀《こわ》したり損じたりしはしないかという心配なしに使われていた別に珍しくもない日用品であるが、われわれはそれを素晴しきものと呼ぶ。そして、それらは如何にして作られたのか。偉大な芸術家が、教養に富み高い報酬を得て良い家に住み衣服と美食に恵まれていた人間が、それらの文様を描いたのであろうか。決してそうではない。それらの素晴しき作物は、所謂「民衆」が日常の労働において作ったのである」
これも前記の文章とおなじく、柳のものとしても怪しむ人は少ないだろうが、実はウィリアム・モリスが一八七九年に『民衆の芸術』と題して、バーミンガムの市公会堂で行なった講演の一節である。
柳自身は「私は私の工芸美に関する思想に於て極めて孤独である。幸か不幸か私は先人に負ふ所が殆どない」と述べているけれども、すでに小野二郎氏が「民衆工芸――略して民芸運動の唱導者としての柳とモリスとの交渉は、影響関係というよりはむしろ深い血縁関係というべきものである。柳のモリスに関して発する言言からのみ、この関係を理解することはできぬ」と指摘しているように、たとえば柳が『中世紀への弁護』において、ゴシック建築を最高の綜合芸術であるとした説のまえには、おなじ趣旨を詳述した中世主義者モリスの『ゴシック建築論』があり、柳が昭和二年につくった「上加茂民芸協団」のまえには、モリスの共同制作集団の実験があり、柳の「|上手物《じようてもの》」に対する「|下手物《げてもの》」の美の強調は、「|大 芸術《グレート・アーツ》」に対して「|小 芸術《レツサー・アーツ》」の重要性を唱えたモリスの説を想起させる。モリスは柳が七歳のときに没しており、いうまでもなく柳の影響を受ける立場にはいなかった。一方、柳は無類の読書家であって、また白樺派以来の同志であった富本憲吉が早くからモリスに共鳴しており、かれについての文章を明治四十五年の美術雑誌に発表したりしていたのだから、その存在を知らなかった筈はなく、したがって国際的かつ歴史的にいうなら、柳の民芸運動は、モリスの工芸運動を日本において受継いだものと見られても仕方のないところがある。
柳が最初に心酔したブレイクは、科学の法則性を憎み、想像力の自由奔放な|飛翔《ひしよう》による幻想的な神話世界を創出した点で、イギリスにおけるロマン主義復興の先駆者とされており、モリスも機械文明に背を向けて手工業と自然を重んずる架空の国を舞台にした『|夢想郷《ノーホエア》からの便り』を書き、社会主義者でありながら過去の中世への憧憬を抱いていた点で、ロマン主義者といってよいかとおもわれる。してみると、日本浪曼派の根のひとつが、ドイツ・ロマン派にあったように、わがくにの民芸運動の根のひとつも、イギリス・ロマン派から発していたことになる。
そして夢と現実の食い違いはここにもあって、「民衆による民衆のための芸術」を説いたモリスに対しては、「上流あるいは中流階級の俗物たちはモリス商会の美術品や家具を買いこんで、おのが生活の中に吸収してしまった。これはモリスにとって皮肉な現実といわなければならない」という批評(中橋一夫氏)があるように、民芸運動に対しても「柳氏はブルヂヨアのお茶漬にあたるものを提供した皮肉な結果となつたのです」という批判が生じて来たのである。
もちろん柳も、自分の工芸美論の先駆者として、モリスの名を挙げてはいる。「……一つの結論に到達し得た今日、工芸に関する過去の思想史を省みて、私は私に先んじて、二種類の先駆者があつたことを気附かないわけにゆかぬ。もとより私は私の思想を構成するに際して、何等それ等の人々と直接な関係がなかつたとは云へ、私は顧みて彼等に特殊な敬念と親しさを感ずるのを抑へることが出来ぬ。一つはあのラスキン、モリスの思想であり、一つは初代茶人達の鑑賞である」というのである。まるで後年の志功が『釈迦十大弟子』を完成したあと、気がついてみたら、無意識のうちに肝腎な点がすべて符合していた……と述べた感想のようでもあるけれども、これを柳の意識的な韜晦とみることはできず、またかれが自分はだれに教えられたのでもなく「……目前にある驚くべき工芸品彼等自身から直接教へを受けたのである」といっている言葉も、疑うことはできない。なぜなら柳が、かれの工芸美論を完成するまでには、ブレイクによって啓示された宗教的関心の深まりがあり、さらにリーチ(と富本憲吉)の示唆に始まる朝鮮陶磁器との遭遇、すなわち無名の工人たちによる数数の雑器の美の具体的な発見があったからである。
個性の沈黙、我執の放棄、他力による美の実現を説く柳の工芸美論は、モリスの民衆芸術論にくらべると、著しく宗教的で東洋的な色彩が濃くなっている。主観性の強いかれがそれを主に自分の直観と内省によって獲得したものと信じ、モリスの論とは異質であってより深いものと自負していたとしても、それほど不思議ではない。残るものは、その理論の独自性を証明する名称の問題であった。「民芸」という言葉が成立した時期その他については諸説があるが、登場人物の一人である濱田庄司によれば、
――大正十四年春、柳宗悦と河井寛次郎と私の三人で伊勢へ旅した時の、道中の汽車の中で生まれた。三人で「何か新しい言葉はないか」と話しているうちに、「民衆の工芸」を詰めて「民芸」という言葉を得たのである。ドイツ語には、ちょうど相当する言葉があるが、英語には見当たらないようだから、「フォーククラフト」という造語を贈ろうということにもなった。「アーツ(芸術)」ではなくて、あくまで「クラフト(工芸))」なのである。……
という。このとき柳がモリスの「|民衆 の 芸術《ジ・アート・オブ・ザ・ピープル》」という言葉を知らなかったとはおもえない。後日、英語に堪能なかれが富本憲吉に「民芸」の英訳として「フォーククラフト」とする妥当性を問うた……というのは、つまりモリスの理論とは違うという独自性の確認を求めたものともおもわれる。しかしモリスと柳は、結果的には前記のように同じ批判を受けることになった。実は資本主義の社会であるかぎり、手づくりの良質なものが、機械による大量生産の品よりも高くなり、結局、金持の所有に帰して行くのは当然であって、それゆえにモリスは「民衆による民衆のための新しい芸術」の確立のために、社会変革の必要をも訴えたのである。
柳も昭和三年に、伊藤長蔵の「ぐろりあ・そさえて」から刊行した『工芸の道』の緒言において、「私は経済問題に入ることを最少限に止めよう」と前置きしながらも、「工芸の問題に関しては、ギルド社会主義 Gild Socialism が経済学的に最も妥当的な学説であると考へられる」といい、その本文では、たびたび「民衆」という言葉が使われていた。つまり初期の民芸運動は、そのなかにごく一部にもせよ社会変革への欲求もふくむものだった。だからこそ民芸運動は、昭和初期の大不況により激化した労働農民運動が、左翼への弾圧によって退潮して行くなかで、過激なマルクス主義には同伴できず、といって社会の矛盾を黙過する後ろめたさからも逃れられずにいた若い学生や知識層にとって、僅かに残された曙光のように見え、あるいは地方から都会に出て来て故郷喪失感に悩み、アイデンティティの分裂を感じていた人たちや、逆に都会に憧れながら地方にとどまらざるを得なかった人たちの意識下の願望をもあわせて広く人人の心をとらえることができたのである。他力による美の実現のために、忠順、謙遜、誠実の徳を語り、反抗心や衒気や自我への固執を戒める柳の説の、良心的で穏健な人たちの耳から心へ入りやすいものであり、また実際に柳の説によって眼を洗われてみると、それまで目立たなかった身近な雑器の美は、確かに心を慰め落着かせる新鮮な発見であった。その事情は、いまも変るまい。けれど、いまの「民芸」という言葉に、かつての人人の心を微妙に波立たせた「民衆」という言葉の響きは感じられるであろうか……。
弾圧の激化による止むを得ない成行きでもあったが、民芸運動からは間もなく、社会の変革を望む側面が薄れていった。わがくにの「民衆」の多くは、強まる一方の弾圧をひとごとのようにおもい、「夢応の鯉魚」のように自分たちが未曾有の大試楝に向かって進みつつあることを、まだはっきりとは実感していなかった。
七
※[#歌記号]|金鵄《きんし》輝く 日本の
|栄《は》えある光 身にうけて
いまこそ祝へ この|朝《あした》
紀元は二千六百年
あゝ 一億の胸は鳴る
…………
昭和十五年は、前年の十月に一万八千余の応募総数のなかから、紀元二千六百年奉祝会と日本放送協会によって選定されたこの歌で明け、暮れた一年だった。全国津津浦浦どこへ行っても、松平晃、伊藤久男、藤山一郎、霧島昇、松原操、二葉あき子、渡辺はま子、永田絃次郎、長門美保、奥田良三……といった各社一線級の流行歌手とクラシック歌手の動員による競作でレコードに吹込まれ、ラジオから流れ出すこの歌が聞こえた。それが何十度となく繰返されるたびに、多くの人人は歌詞の通りに胸が高鳴るのを覚え、また自分たちも声に出して歌っているうちに次第に昂場した気分になっていくのを、身をもって実感していた。
志功の『夢応の鯉魚』は、この年の十月一日から二十二日までにわたって開かれた「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」に出品された。この展覧会は、例年の文展を休み、かわりに内閣奉祝会の事業として行なわれたもので、出品作には、『奉祝二千六百年』『国境の勇士』『前線ニ送ル』『北支ニテ』『重慶夜間爆撃行』『鷲(空の勇士に捧ぐ)』『あゝ萬世一心』……等等、題名にも戦時色の横溢したものが少なくなかったが、『慈航寺縁起・雨月譚「夢応の鯉魚」版画鏡』と題された志功の作品は、内容的にも、まったく何の時局色も感じさせないものだった。これまでの志功の生き方と、作品の主題の選び方からすれば、これは少少奇妙なことのようにも映る。
大体かれの作品は、秘められた主題において、そのとき恩をうけているだれかへの|頌歌《しようか》であることが多い。たとえば『華厳譜』において全世界を|遍《あまね》く照らし出し人人を目覚めさせる光明の毘盧舎那仏は、おそらく柳宗悦であったのだろうし、ほかの作品にも、河井寛次郎や濱田庄司や水谷良一といった人人が仏や菩薩に姿をかえて登場していると見て、それほど的外れではあるまいとおもわれる。志功は、以前から皇紀を用いて年号を記したりしていたくらい時局に敏感で、もともと復古と浪漫の趣味があり、震災後に上京してから左翼的な風潮が高まりを見せた昭和の初年にかけて帝展落選が続いていた一時期に、プロレタリア文学に共感を示し、アンデパンダン運動を推し進めていた反アカデミズムの画家横井弘三に近づいたことがあったのをのぞけば、ほぼ権威と権力に反対する立場をとったことがなく、|傍目《はため》には並はずれた熱狂心の持主で、「天皇陛下万歳」を叫ぶことにかけても決して人後には落ちなかったであろうから、国を挙げての祝典の一環として行なわれる内閣主催の展覧会の出品作には、建国神話の一大ロマンか、あるいは皇祖皇宗への頌歌を高らかにうたい上げたとしても、不思議ではないところではないか。
それなのに、かれが出品したのは、大きさこそ例によって約一尺四方の図を二十枚並べるという、当時の創作版画としては桁はずれのものであったけれども、図柄は以前よりずっと抽象化されていて、構成にも即興や狂熱の気配がさほど感じられず、『釈迦十大弟子』の奔放さに疑問を呈した恩地孝四郎をして、「本年度作、奉祝展のものは又甚だ巧者なものが覗いてゐる」といわせたくらい、原作の持つ文学的な、もしくは思想的な内容よりも、拓摺りによる白と黒の純美術的な効果の画白さを狙ったとおもわれる作品であった。その間にあったのは、どのような計算であったのだろう。時局に便乗した作品が多く集まることを予想したうえで、人の意表を突く得意の素早い身の躱し方であったのだろうか。前年の第三回文展に『|斑鳩《いかるが》譜・上宮太子御代伝版画巻』を出品していたので、似たような主題が続くのはうまくないと考えたのか、それとも、権威と権力に反抗したことがないとはいえ、かれの胸の底にも、時流に逆らう|天邪鬼《あまのじやく》が棲みついていたのだろうか。
この昭和十五年の流行語は「新体制」と「一億一心」、そして「バスに乗遅れるな」だった。名門貴族の知識人であり良心的でもあるように感じられた点で最初は国民の期待を集めていた近衛文麿とその|周辺《ブレーン》によって「新体制」と名づけられたバスが、いま発車しかけている、だから乗遅れるな、というのである。われわれが、バスに乗遅れることを何よりも恐れ、車が走り出し、行列が出来ている……と聞くと、ろくに行先も確かめずに先を争い|雪崩《なだれ》を打って一箇所に殺到する国民であるのは、今も昔も変りがない。
眼の悪い志功は、他の画家のようにバスに乗遅れまいとして戦地に従軍しようとしたとしても、それは不可能だった。かりに従軍しても、リアリスティックな戦争画を描くことはできなかったろう。写真に近い戦争画が|持《も》て|栄《は》やされ始めてきているときに、異色を発揮しようとすれば、時流に抗して前衛的な抽象の方向へむかわざるを得なくなる。それに並はずれて熱狂性と自己顕示欲の強い人間には、人に先駆けて踊り出すのならともかく、周囲が一斉に熱狂して騒ぎ始めると、かえって白け気味になって冷静になり、舌打ちして横を向いてしまう……といった事情もあったのかも知れない。
そのように、あらゆることを計算ずくか、意識的なことのように推測するのは|穿《うが》ちすぎであって、本当は、変身と鯉の好きな志功が、保田與重郎に教えられて知った上田秋成の傑作に魅了されて、現実と世俗のことは一向に意に介することなく、原作の夢想と観念を、白と黒の美術的な効果に変えて表現していく面白さのなかに浸りきって遊んでいたのだ、とおもうべきなのであろうか。
志功は翌年に制作した『|門舞神人頌《かどまいしんじんしよう》』に関する後年の感想のなかに「表現派」という言葉を使っているが、そのような造型意識は、まずこの作品から始まっているようにおもえる。そして芸術家であって同時に庶民の一典型でもある志功が、「紀元二千六百年」を奉祝する美術展への出品作の主題に、『夢応の鯉魚』を選んだことのなかには、本人が意識していたにせよ意識していなかったにせよ、おそろしいまでの予兆性が含まれていた。ちょうど夢遊病者とそれを操る病院長を描いたドイツ表現派の映画『カリガリ博士』がのちに、ヒトラーの出現を予言していた、といわれたように……。
快晴の十一月十日――。天皇皇后両陛下の臨御を宮城外苑に仰いで行なわれた紀元二千六百年式典の会場は、五万余の参列者で埋め尽されていた。それは四年前から内閣に紀元二千六百年祝典事務局が設置されて準備され、翌年から始まった国民精神総動員運動と並行して、国民の生活のありとあらゆる分野にわたって着着と綿密に、かつ強力に推し進められて来た挙国一致体制の、最後の総まとめにあたる式典であった。官製のものとして始まった運動には、いまや官吏と官公立の学校の教師ばかりでなく、ジャーナリストや芸術家も続々と加わって来ていた。わがくにを代表する朝日新聞の記者の感激の名文によれば、式典の模様はこう伝えられている。
「迎へたり、紀元二千六百年! 雲一つなく壮麗に明けた十日、緑深い大内山を仰いで民一億生けるしるしありの感激こめて宮城外苑に|展《ひら》かれた紀元二千六百年の式典はげに荘厳にして典雅、雄大にして若く、参列者五万余人をたゞつんざくやうな感動と燃ゆるやうな新しい希望に包んだ聖なる一瞬であつた」…「目をつむれば目がいつか熱くなつて来る、目を開けば立つたまゝ身じろぎもせぬ民草五万、『仰げば遠し皇国の、紀元は二千六百年…』見た! 身を正して立つ参列者のひとり、目に白く光るもの、其隣も、そのまた前も…頌歌が終つた、正面階段前に進んで威容を正した近衛首相が天にも|徹《とほ》れと奉唱する声だ『天皇陛下万歳!』感激は遂にせきを切つた、我知らず|迸《ほとばし》る万歳の奉唱、高くあがる双の手、いま一億の民が全日本を万歳の声で|掩《おほ》ふ歴史の凱歌だ、『万歳!』国土のどよめき一億胸うつ鼓動、又も地の底から湧く様な万歳、時に十一時二十五分三十秒、……」
文体が現在のオリンピック開会式あたりの報道とさほど変らぬように、新聞記事を批判的に読む習慣を持たない点においても、われわれは昔も今も変らない国民である。ラジオからは『紀元二千六百年』の歌が流れ出して耳に入り、新聞を開けばこのように昂揚した記事が目に飛びこんでくる毎日のなかで、「民草」もまた、ただひたぶるに感激し興奮していた。木山捷平の『酔いざめ日記』には、十一月十日の項に「今日より五日間奉祝、昼酒もゆるされる」と記されており、十二時頃に訪ねて来た小田嶽夫と連れ立って、飲み屋を二軒ほど回った様子であるが、そうした行動は民一億のなかのごく少数派に属するものであったろう。「いま一億の民が全日本を万歳の声で掩ふ……」というのは新聞記事の誇張ではなく、実際にこの日(日曜日)は、日本中のどんなに小さな町や村でも、おなじような式典が催されており、それが終ったあとは日章旗の小旗を打振る行進になって、おなじ歌が晩秋の空に響いていた。
…………
正義凛たる 旗の下
明朗アジヤ うち建てむ
力と意気を 示せ今
紀元は二千六百年
あゝ |弥栄《いやさか》の日は上る
…………
およそこれだけ多くの人間が、ごく短期間にこれほどおなじ歌と叫びを声高く繰返したのは、人類の歴史においても、ほかに例が少ないのではあるまいか。奉祝は五日間にわたって続いた。新聞が「国民進軍の世紀を|寿《ことほ》ぐ歓喜の大休止=vと呼んだこの五日間は、全国民が「夢応の鯉魚」となって湖中に遊んだ一時期であったのかも知れない。東京では奉祝の花電車や、御輿が出たほかに、二日目の夜は数万の提灯行列が、宮城前広場を一面に揺れる灯の海とした。二重橋の橋上からそれに応えた提灯の光のなかには、皇后陛下が手にしていたものもあったという。当時の人の眼に、それは夢幻のように美しい眺めと見え、とても怪異談の不思議を感じさせる光景とはおもえなかったろうが、秋成の作の原文に当てはめるなら、このへんがつまり「……深き|水底《みなそこ》に|潜《かず》くとすれど、かくれ|堅田《かただ》の漁火によるぞうつゝなき」というあたりであったようにおもわれる。
五日間の奉祝が終った翌朝、東京の街角には各所に「祝ひ終つた さあ働かう! 大政翼賛会」という看板が立てられた。このとき人人は祭りのあいだの夢見心地から、果たして本当に現実のなかへ立戻ったのだろうか――。翌年八月の新聞は、箱根で行なわれた大政翼賛会中央訓練所の第一回特別修練会で、元拓務大臣の小磯国昭大将らとともに、作家の中村武羅夫、横光利一、瀧井孝作氏らが、みそぎ§B成に入っていることを伝えた。|禊《みそぎ》は白衣をまとった身を川で洗い清めて、神人合一の境地を求めるためのものであるという。「人間の業が神の業に移らうとするときは、|蓋《けだ》し人間として甚だ危険な時である」というのは、棟方志功に対する恩地孝四郎の評言であったけれども、新感覚派文学の旗手も、神人合一の境地を、合掌して現実に求め始めていたのである。神|憑《がか》りになりかけていたのは、むろん横光氏だけではなかった。科学的な根拠を持たない「紀元二千六百年」が国民大多数の一致によって公認され、神話と歴史、夢想と現実の|区別《けじめ》が完全に見失われた昭和十五年を境目に、大日本帝国の忠良なる臣民は、共通の幻想を追う「一億一心」の大集団となって、「夢応の鯉魚」のように、やがて全員が俎上の魚となる運命にむかって走り出していたのだ。
[#地付き]〈鬼が来た上 了〉
〈底 本〉文春文庫 昭和五十九年九月二十五日刊