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長嶋 有
パ ラ レ ル
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パ ラ レ ル
1──8月30日 昼[#「1──8月30日 昼」はゴシック体]
銀座の美容院で髪を切るというと驚かれる。髪型に気を遣うタイプには到底みえないらしい。野ウサギのように小さい知人の女性がえぇっと声をあげたりする。
担当の花山さんはそこの店長でもあり、とにかく腕がいい。切ってもらった当座は分からないことだが、安い床屋では、一月《ひとつき》もたたないうちに後ろ髪が不自然に重たくなったりする。彼女はそういうことがない。奥さんの紹介で来て、以後通い続けているという男の常連がたくさんいるらしい。僕も元はといえば妻の紹介だった。
せわしなく行き来する美容師たちの中でも、花山さんはとりわけ忙しそうだ。
美容師とはおしなべて痩せているものだが、彼女は特に細身だ。眼鏡もあいまって理知的な印象だが、鋏《はさみ》を操りながらの話題はいつも他愛ない。浦和レッズのファンだという。
オフシーズンには、厳寒でも練習場に通い詰める。イケメンの選手目当てで黄色い声援を送っている女の子の集団をみるたびに「防寒がなってないぜ」と思うそうだ。しっかりと防寒装備に身を包んだ彼女のつぶやく「なってないぜ」を想像したら笑いそうになり、目を閉じる。
「奥さん元気ですか」
「えぇ」
妻と別れてしまったことを花山さんは知らない。今年の正月明けに離婚届を出したが、今でもお互いに同じ人に髪を切ってもらっている。
新たに別の腕のよい美容師を探して、関係を一から築くのはとても面倒くさいことだ。僕は異様に老けてみられることもあれば、逆に学生と間違われたりもする。いつか床屋で肩をもまれながら「もう大学は休みなんだ」と気安く問われ、鏡の中に「ええ、まあ」などと返事をしてしまった。
素性を明かしているここでは誤解はない。そのかわりに「奥さん元気ですか」などと問われると戸惑う。不精な僕は二、三ヶ月に一度のペースだが、妻──いや、元妻というべきなのだが──は、もっと頻繁に通っているはずだ。離婚のことは、なぜか妻も彼女には打ち明けていないらしい。
「元気ですよ」間違いなく元気だ。昨日電話をもらったばかりなのだ。最近はお互いに声に張りが戻ったように思う。花山さんは背後に回り込むと親戚の結納の話をはじめた。
「僕も明日結婚式でね」
「多いですね。そういう年齢なんですよ、きっと」そうかな。そうですよ。広くとられた窓の外で夕立が降り始めた。
「夏の冠婚葬祭は憂鬱だな」つぶやく。えーなんでですか。
「厚着しなきゃいけないから」ですよねえ、男の人は礼服がねえ。そうだ、クリーニング屋に忘れずにスーツを取りにいかなければならない。
2──8月31日 午後7時[#「2──8月31日 午後7時」はゴシック体]
喫茶店やこぢんまりとしたレストランで、夕刻などに店長がくるまでの間、一人で店を任されている、そういう女に弱い。
任されているということは、間違いなく有能ということである。注文をとりにくる際の所作に意欲が、表情に明晰さが満ちあふれている様からもそれはうかがえる。
一方で、その女が|店長ではない《ヽヽヽヽヽヽ》ということの、野心のちょうどよさみたいなものも好ましい。
これで髪型がポニーテールだったりすると、それはまたちょっと行き過ぎというか、なにが行き過ぎなのか自分でもよく分からないのだが、ぽーっと見惚れるようなことにはならない。たとえば刑事が聞き込みにきたときに何事も異様によく覚えていて、張り切って喋り出す、そういうのではないタイプがいい。
津田に連れてこられた高い会員制バーの、今給仕してくれている女がまさに好みのタイプで、さっきから厨房の方が気になる。
津田はまったく彼女の魅力に気付いていない。ふかふかしたソファに身をずっぽりと沈めてくつろいでいたかと思うと、いきなり前のめりになったりしながら、これからいくキャバクラの話ばかりする。
女が灰皿を持ってきたり、空いた皿をさげにやってくるごとに津田の口から大声で発せられる話題はキャバクラキャバクラとそればかりで、同席している僕も当然同類に思われただろう。これでは出会いから印象最悪ではないかと暗澹《あんたん》とした気持ちになる。立ち去るときに女が肩をすくめたような気がしてならない。
昼からずっとネクタイをしたままだったと気付き、輪を緩めて頭から外した。自分ではネクタイをしめられないので、次の機会までこの輪を崩さずに、また使うつもりだ。鞄の中に、なるべくよれないようにしまう。津田が無駄なことを、という目で笑っている。
背後で「ごめんなさい先輩、遅刻しました」といいながら女が入ってきた。給仕の女に謝りながら厨房に小走りで入るから、ここで働いている子なのだろう。
足元に置いた白くて四角い紙袋をのぞきこみ、引き出物を取り出した。薄い箱と四角い箱とある。四角い方の包装をばりばりと破ってみれば透明の薄いプラスチックの箱にクッキーが入っている。津田も傍らのを取り出すと、薄い方を開けた。中に入っていたのはカタログだ。
「欲しいのないな」
どれ、と受け取ってめくってみる。ラジオ付き懐中電灯、ジノリのティーカップ、折り畳み傘、ドイツ製の皮むきと栓抜きのセット……。津田はごうっと大きな音のするライターで煙草に火を点けた。
「売価五千円ってところかな」
「三千円」
着替えを終えた遅刻の女がつまみを持ってくる。津田が気安く「今日、結婚式だったんだ」と話しかける。
「そうなんですか」愛想良く微笑む。この子もかわいいが、さっきの女にくらべればまあまあだ。
「俺、いらないから、これいらないからあげる」と津田は僕の手からカタログをうばい、そのまま差し出してしまう。
「いやあ、悪いです、いいです」困ったような笑顔で女はいう。津田とはすでに顔見知りのようだ。
「いらないんだ」津田のしゃべり方は、いつもなんだかふにゃふにゃしている。
「津田さん、今日もキャバクラですか」この女にはもうバレていた。
「そうそう、七郎とキャバクラ」津田は駄目を押してしまった。
このまま新宿のキャバクラにいくことになっていた。指名する女の子が出勤するまでの時間調整をしている。津田は入れあげるキャバ嬢がいると、口説いている途中で必ず一度僕にみせたがる。自慢するのか、意見をききたいのか。
どちらでもない。ただみせたいのだ。そう思うことにしている。
「前に付き合ってた、あの子はどうしたの」ほらあの、と手をぶらぶら動かして尋ねながら、その子の名前すら思い出せない。
「ああ、あいつね」フランス語の勉強をしていて、フランス人の彼氏が出来たのだそうだ。
「そうか」表情からしても、慰める言葉をかける必要はなさそうだが、一応声のトーンを落とす。
「まぁ、ラブのことだからね」津田はいった。ラブという言い方は最近の津田の癖というか、調子のようなものだ。呑む席で話が盛り上がると、蒸しタオルで顔をふきながら、あるいは梅酒のロックを一口なめながら、津田は名調子のように「ラブのことだからねえ」と詠嘆する。ラブはジョブと対になっている。なべてこの世はラブとジョブ、それが津田の座右の銘だ。
「でも、今でも仲いいよ。飯食ってセックスして。今でいうところのセフレですな」セフレ。
津田は女を口説くときに「予算をきる」。五十万から、多いときは百万円。それまでなら使ってもよいと自分で決めてしまう。予算をきるという言葉が出てくるのは、津田が社長だからだ。
実際には百万円も使うことなくオトしてしまう。オトしたという報告も、律儀になされる。
どこまでいけば「オトした」ことになるのか、「定義」を尋ねたことがある。一度寝ただけでいいのか。津田はオトした後があんまり長続きしない。
「とりあえずは、挿入だよ」津田はいった。
「挿入か」射精は特に必要なし、と。
「まあ、そうだな」でも九分九厘、射精まではいくじゃないか、挿入したらさ。
「まあね」
「で、とりあえずは挿入だけども、やはり二回はしないと駄目かな」津田はそう言い足した。もう一度してもいい、したいと女に思わせて、それでやっと認められる気がする、と。
「認められるって」その女にじゃなくて、誰かに、といって津田は上をみた。深く腰掛けているから天井はよけいに高くみえる。
「たとえば、浮気の定義はどこからか、なんていわれるけど、俺にいわせればそれも簡単だよ」津田はいう。やはり「挿入したかどうか」だそうだ。
「挿入」僕は津田の単語をしばしばおうむ返しにしてしまう。
「だからほら、西部の男たちは妻にさせるだろう、貞操帯を」
「今はさせないだろうけどね、西部の男たちも」
「だから駄目なんだよ」津田は眉間にしわを寄せて首をふった。駄目?
「あら、津田さんいらっしゃい」小型犬を抱きかかえて、ママが入ってきた。
「俺の、大学時代からの友達。ピルグリムシリーズの作者」津田は僕を紹介した。ママは首をかしげている。
「ほらテレビゲームの」ピルグリムシリーズの作者と聞いて反応するのは若い世代だけだ。しかしママは明るい声で
「ゲーム、じゃあとても儲かってらっしゃるんでしょう」競馬のゲームで、納税者番付にのった方もいますものね。すかさず名刺を僕に差し出した。「いや、僕はそんな儲かってないですし」とへどもどしながらポケットにしまう。すでに何枚か入っていた。結婚式場で津田の同業者達にもらった名刺だった。昼のことなのに、もう忘れていた。僕が名刺がないのを詫びると、ママはコースターの裏にメールアドレスを書かせた。アドレスを書き慣れていない。二行に分けて、なおも文字は尻すぼみになった。
外に出ると日が暮れている。昼の暑さはやっと少し収まってきていたが、僕はスーツを脱いで手に持った。タクシーに乗り、津田が行く先を告げる。道はずいぶん混雑している。運転手は無言だった。
津田の目指す店は七階建てのビルの七階で、エレベーターを出るといきなり門を模した入口になっていた。店内の照明は薄暗いが、安い居酒屋の中などよりも大きな喧騒に包まれている。案内されて席まで歩くとき、水槽の中にいるような気持ちになる。大きなソファに腰をおろし、僕と津田の左右に胸元のあいた服を着た女が座る。蒸しタオルで手をもむように拭きながら僕がまずいった言葉は「非常口どこ?」だった。
問われた左側の女の子は「えっ」と戸惑いながら、トレーに水割りの一式を載せて運ぶ背後の黒服を呼び止め、非常口ってどこですか、とハスキーな声で尋ねた。黒服も面食らった顔で、たしか、などといいながら向こうを指差した。二、三百メートルは遠くにあるような差し方だ。少し前に同じ新宿で起こったビル火災を覚えていないのか。
飛行機が離陸する瞬間の、少しだけ死を覚悟したような気持ちになりながら、水割りを薄めにつくってもらう。津田は眼鏡を外してタオルで顔もごしごし拭いているので、僕もそうする。今日はとにかくたくさん汗をかいた。
横の女に職業を問われて、ライターみたいなことしてる、というと、津田が「この人はテレビゲーム作ってる」と余計なことをいう。すると女たちは途端に話をあわせてくる。私、ナントカカントカ大好き、とか、私の弟が今ナントカカントカをやってて解けなくて、などという。水商売の女は案外ゲーム好きが多い。今やってて分からないところがあるから教えてくれ、と鞄から携帯型ゲーム機を取り出されたりもする。
「分からないよ、僕も」
いずれも、店のナンバー1にはなれない、そこそこのキャバ嬢たちだ。津田にいわせるとナンバー1になれる子は、相手が少しばかり特殊な職業についていると知っても、それを話題にしない。ボロが出るに決まっているということをあらかじめ知っている。
第一、僕はもう業界から遠ざかって久しい。最近のゲーム機は、ゲーム雑誌でのコラムのために借りているのがあるだけで、普段はろくに電源もいれていない。
津田は背後を行き過ぎようとした太った黒服を呼び止めた。男の顔がほころぶ。津田さん久しぶりです。気安い口調。
「俺の友人」またゲームデザイナーという呼称で紹介される。黒服は改まり、やっこれはどうも、とか大きな声でいいながら、うやうやしく名刺を差し出してきた。役職は副店長とある。前に銀座の同じ様な店に連れていかれたときも、津田の紹介で店長から名刺をもらった。津田は店の経営陣と仲良くなってしまう。それが目当ての女を口説く近道になるのか、単なる性分なのかは分からない。キャバクラにきて男の名刺もらってもなあ、と思いながらこれもポケットにしまう。
津田が紹介したいという子はまだきていないようだ。今、横についている女は津田の眼中にはないらしい。僕の横についた子から渡された名刺には斜めに傾いた書体で「Nanase」とある。
「『七瀬ふたたび』の七瀬?」と問うと、そうそうと反応が早い。
「読んだことあるの」ないんですけど、有名なんですよね。ナナセサンブサクでしょう。今までの客にも何度かいわれたという風だが、イントネーションからして、それが何か分かっていないようでもある。筒井康隆の原作について説明していると、津田も突然こっちを向いた。
「君、あれは名作だよ」だから読みなさい。津田はおじさんぽい念の押し方をした。はい。どうせ本名ではないのだろうが、女の子も神妙な顔で返事をした。
間もなくサオリがサオリでーす、よろしくお願いしますといいながらやってきた。僕に手を振りながら、津田の横に腰をおろす。サオリは銀座の別の店と掛け持ちでやっている「エスコート」だ。僕が会うのは何度目だろう。
「会う度に太るね、あんたたち」サオリが礼儀正しいのははじめだけだ。
「だって中年だもん」津田は普段以上にふにゃふにゃした声音になって言い返した。お腹をぽんぽんと叩く。
「やだなあ、二人とも金はそこそこあるんだから、あと必要なのは逆三角形だけじゃないの」逆三角形って体型のことですか。ナナセという女が尋ねる。
「そう!」あんたたちも服脱がせてからおっぱいが小さかったらがっかりでしょう。こっちもね、脱がせて逆三角形じゃないとがっかりなの。
「ね」といって先に座っていた二人に賛同を求めるが笑っているばかりだ。
「はい、じゃあ逆三角形じゃないと駄目って人、手あげて!」勢いよく手をあげる。僕も津田も女二人も面白そうにその様子をみる。サオリはまったくめげることなく
「ほら! 三十三パーセントもの女子が逆三角形じゃないと駄目っていってる!」サオリはなんだかいつにも増して元気だ。
「ねえねえサオリさん」シンスケさんはマホコさんとどうなると思いますか。津田の横の女が嬉しそうに尋ねる。あれは別れるでしょう。やっぱりそう思います? はじめ内輪の話題かと思ったが、何を喋っているのか急に分かってしまった。
「別れないよ」思わず口を挟んでいた。シンスケさんの持っていたカフスボタンは伏線なんだよ、あれは彼が大文字財閥の御曹司だっていう証拠だろうから……。
「そうか!」女三人、目が丸くなる。
「なにそれ」キャバクラにきて津田がきょとんとするのは珍しい。
「青い疑獄だよ」昼の一時からやっている連続テレビドラマだ。最近の生活は大体目が覚めてテレビをつけると「青い疑獄」のスポンサー紹介のあたりで、観る気はないのに、だらだら着替えたりしているうちに観終わっている。
「津田っち知らないんだ」サオリは露骨に馬鹿にする。知らないよ、津田は悔しくもなさそうにいうとまた煙草を取り出す。
「レイコちゃんは?」津田が尋ねる。あの娘は出勤遅いんじゃないの。津田の目当ての子はなかなか来られないようだ。
「ねえ、あんたたち葬式帰り?」津田の煙草に両手でライターをかざしながらサオリは低い声でいった。サオリのライターは細くて音も小さい。
「結婚式だよ」津田の口の先で煙草が赤く灯る。
「まじで?」サオリはうさんくさそうに眉毛を曲げた。
「スピーチしたよ」
「うそ」サオリもハスキーな声で、喋る職業だからのどをからせることが多いのかもしれない。したよね、と津田は僕にいう。
「したよな、俺、ちゃんとしてたよね」
「してたしてた」なおもサオリは疑わしげな表情で煙草をくわえる。結婚式のような晴れがましい場所に、おまえら出る資格があるのか、あまつさえスピーチなんてといいたいらしい。煙をはきだして足を組んだ。サオリの足は棒のように細くて長い。肉が付いていなくて、脚なのに腕を思わせる。
後ろでグラスかなにかの割れる音。一瞬、店の全員がそちらをうかがう気配がして、すぐに喧騒が戻る。
「引き出物みせて」急にぶりっこになってサオリはいった。空中に僕にはみえない様々な「気分」が浮かんでいて、吸い込む度にその態度になる、そんな風だ。
「みせてっていうか、頂戴」手を出してくる。
クッキーならやるよ。いらなーい。僕はさっきのカタログを取り出そうと紙袋に手を入れた。二つの包みに隠れていたが、底になにかあるのに気付く。まずはカタログを取り出してサオリに手渡す。カタログをつつんでいた包装紙をよけて覗きこむと、小さなビニールでラッピングしたものが紙袋の底にある。
サオリは正方形のカタログを「いらない、超いらない」といいながらめくっていく。
底にあるものを取り出してみる。金のモールで口をしばられている。透明な包装の中には、ラムネ菓子のような大きなピンク色の固形物。
「なにそれ、なにそれ」サオリはカタログをなぜか怒った調子で突っ返してきた(また別の態度になっている)。かわりに固形物を手渡すと、袋の裏面の小さな字を不思議そうにみている。
「あー、入浴剤だ、入浴剤」サオリはこれもさっと返してよこした。携帯電話のメールをみていた津田は、あいつ今日これねえって、と呟いた。
「やっぱりねえ」サオリは訳知り顔でいう。
「三十九度熱ある、だって」津田自身も信じていないような口調で、しかしあまりがっかりした風でもない。
「やるよ」津田はレイコという女にあげようと思っていたらしいクッキーも入浴剤も袋ごとサオリの方に押しつけるようにした。
「いらないってば」押し問答をする二人を、津田の左隣に付いた女が不思議そうにみている。回答を求めるように、視線を僕にうつした。
サオリと津田の関係は、僕にもなんだかよく分からない。一年前に銀座のキャバクラに連れて行かれたときにもそこにサオリはいた。キャバクラ嬢の「エスコート」というものについて、説明を聞いたのだが忘れてしまった。とにかくこういう出会い方がつづくと我々の行く先々にサオリが潜入して≠「るようにみえてしまう。敵か味方か峰不二子。僕は慣れない水割りを呑み干した。
アフター移動のタクシー内で津田は「星条旗通り」と行き先を告げるなり寝てしまった。津田が乗るとタクシーの運転手はなぜか絶対に話しかけてこない。さすがにもう道はすいている。
「ねえねえ、津田っちさあ、なんてスピーチしたの」サオリは後部座席から身を乗り出して、助手席の僕に尋ねた。
「結婚とは文化でありますって」なにそれ。
津田が目を閉じたまま、文化っていったら、そりゃおまえ文化だよ、と答えた。津田は酔うと口調が少しべらんめえになる。サオリがペットボトルの水を口にふくみ、津田がよこせという仕草をしたのがバックミラーに映る。
「だから、物語が終わるのは『悲しい』だけど、文化がなくなるのは『怖い』なんだ」水を飲んで少し明晰さを取り戻したという感じで、津田は昼間のスピーチのつづきを不意にいった。
「わかったかサオリ」わかんない。サオリは売り言葉に買い言葉のようにいったが、僕はその一言で津田の昼間のスピーチがさらに完璧なものになった気がした。津田は再び目を閉じてしまった。
タクシーのわずかな移動のうちにサオリの携帯電話は三回鳴った。サオリはすべて無視した。
3──8月31日 午前10時[#「3──8月31日 午前10時」はゴシック体]
気温は三十五度に達していた。駅前から式場のホテルまで送迎バスが出ていると聞いていたが、そのバスを待つのもうっとうしい暑さだ。すぐにタクシーに乗り込む。
「Aホテルまで」怒ったような口調になってしまったが、運転手は「はい」と活気のある声で応じ、暑いもんねぇ、とつづけた。僕が一人で乗るとタクシーの運転手はほぼ必ずといっていいほど話しかけてくる。一度など、二人で乗ったタクシーから津田が降りた途端に運転手が「私は佐渡の生まれでね」と身の上を出生から語りだしたことがある。
式場の新郎側控え室にはすでに大勢が集っていた。親族と思われる世代のばらけたかたまりがあり、子供がその周囲をうろうろしている。少し離れた壁際に友人、職場の面々。ざわついているようでも、静かでもある。端にいた津田に声をかける。
「これ、してくれる」ネクタイをしめてもらうのを皆が微笑ましげに眺めた。ビデオカメラで撮る奴までいた。
式場の中にあるという教会に向かい、皆でぞろぞろと階段を降りる。明るい、新しい綺麗な聖堂。
外国人の牧師が登壇したとき津田がそっと耳を寄せて「いんちきくせえ」と囁いたが、声はけっこう響いた。前の席の年配の親戚風がちらっとこちらをうかがう気配があり、津田は振り向いた顔に、頭を少し動かして非礼を詫びた。
今日の主役の二人には悪いが、自分の結婚式の教会は数段上等だったと思い返す。木造の、都内に残っているというのが信じられないような素朴な建物だった。台風が近付いて外は風がふいていたが、中の空気はとても親密で、オルガンは昔の小学校にあるようなおんぼろだったが、床の木目の隅々まで染み渡るような美しい音色だった。
ただ、どれだけよい教会で素敵な式をあげたところで我々は駄目になったのだ。人の結婚式にけちをつける資格などない。
式は滞りなくすすむ。全員で小さな紙片を両手に持って立ち上がり、知らない賛美歌を歌う。両脇に若々しい合唱団がいつの間にか立っていて、我々がろくに歌えずとも豊かな声量でカバーしてくれた。
牧師は晴れがましい表情で二人に言葉をかける。誓いの口づけでは、反対の新婦側の女たちがカメラをかまえる気配。
痩せた女が電子オルガンをひき、二人が退場する。オルガンの音色は隈無く響いた。よくみると両側の壁にボーズのスピーカーが設置されている。
再び立ち上がり拍手をつづけながら見送ると、出口の扉の上に大きく「非常口」の表示。拍手しながら、皆一瞬そこをみたと思う。僕の目は釘付けだった。これはなにかのメタファーなのか。汝と汝はどこへ脱出しようというのだ。
親族が別室で集合写真を撮っている間に津田の取引先の人間などを紹介される。新婦の父親から、新郎まで含め、男たちは皆、どこか場違いなところへきたような顔をしている。新婦の友人らしい一群は遠くで固まって、笑いあっている。男たちから受け取る名刺はどれも社長、専務など高い役職ばかり。医者、弁護士、CEOというのもあった。名刺を一枚も持ってこなかった非礼を詫びながら全部まとめて上着のポケットにいれる。
広くとられた窓から炎天の日射しが差し込む。強めの冷房のおかげで汗をかくことはないが、それでも暑気がうっすらと感じられる。ホテルの女が運んできた赤ワインに口をつけたらずいぶん渋い。渋いのは僕の口が奢《おご》っていないせいで、きっと高いのだろう。
「あの」向井七郎さんですか。
もしかして「ピルグリムサーガ」の向井七郎さんですよね。あーはい。僕はナプキンで口を拭って、女の方を向いた。
「あれのファンなんです」若い女の顔をまじまじと眺める。手にはこのあと行われる披露宴の着席表が握られている。僕の名をみつけて確認にきたのか。少し前、ゲームショーが幕張メッセで開催されていた頃、会場をうろついていると声をかけられることもあった。いずれも往年のマイコン少年という風なのばかりだった。
「馬の救出の場面が大好きでした」
「馬? ああ、城下町のところだ」女がいっているのは少し前に発売されたリメイク版のことだ。
「あの馬が、後になって主人公が王の息子であることを暗示しているという伏線にも驚きました」
「よく憶えてますね」僕は少し気をよくした。私、王様のファンでした。女はひたすら感激している。握手に応じると、恐縮しながら去っていった。
「まあまあだな」ずっと社長と談笑していたはずの津田が抜け目なくいう。
「まあまあだね」ああ、まあまあだ。女の容貌についていっているのかワインの味についていっているのか、グラスを片手に男たちの首が縦に動く。
「馬ってなんですか」弁護士が尋ねてくる。「ピルグリムサーガ」には捕らわれの馬を救い出すクエストがある。王様の愛馬だ。馬はいななくし、急いで移動させようとしても時折むずかったり暴れたりして、敵兵にけどられてしまう。気位の高い馬で、王族しか乗せようとしないはずの鞍を主人公に任せるというアイデアは「北斗の拳」からヒントを得たのだったが、さっきの女は気付いていないようだ。
「雲のジュウザだね」津田がいうと皆も知っていたらしく、また一斉に首が動いた。
「ピルグリは何本売れたの」このメンツだとやはりそんな話になる。
「リメイクもあわせて国内で数十万本だから、ヒットといえばヒットだけど」
「いや、それは十分メガヒットだよ。全世界でどれくらい?」実はよく憶えていないというと全員が目を丸くした。
「家建つな、買ったでしょう」社長がいう。
「建たないですよ、給料制だもの」
「うわ、それ勿体ない」
親戚と入れ替わって、今度は友人一同の集合写真撮影。天井の高いホールに通される。いかにも場慣れした感じのカメラマンが若いTシャツの男に指示を出している。手際よい指示にしたがって背の低いものが前に、僕と津田は三段目に移動する。
カメラマンはそこの人、半歩右、とか、襟だしてくださーい、などとてきぱきと遠慮のない指示をして中央のカメラに戻っていったが、なかなか写そうとしない。
誰かの赤ん坊がカメラのほうをみないのだった。
カメラマンは手ぶりや「こっちむこうねー」「はーい、ボクこっちですよー」などと幼児語で興味をひいたが、シャッターを持った手をあげると、子供の目はそれてしまうらしい。壇上にゆるい笑いが起こる。隣の津田は携帯電話を取り出した。そのままボタンを押し始める。なにか緊急の連絡でも入ったのか。
中央の花婿と花嫁がそろって首をまげ、横にいる子供のほうを、まるで自分たちの子供をみるように微笑ましい表情で眺めている。その様を、三段上からみる。
「困ったなあ」カメラマンはファインダーを覗き込んだり、こちらに顔を向けたりを繰り返している。
ぶるぶると自分の携帯電話が震えたのであわてて取り出すと件名なしの着信。
親族でもないのにガキ連れてくんなブス死ね[#「親族でもないのにガキ連れてくんなブス死ね」はゴシック体]
津田からのメールだった。津田は僕が文面をみているのと入れ違いに自分のをポケットにしまった。
しんぷがわ、いい女いる?[#「しんぷがわ、いい女いる?」はゴシック体]
?の記号を出すのに苦労する。それから自分でも新婦側の友人の横顔を背後からみられる範囲でみわたしてみるが、さっきワインを持ってきてくれたホテルの女が群を抜いている。
こっちですよー。カメラマンが遠くから辛抱強くあやしつづけている。新婦の友人らしいえらのはった顔の母親もあっちよ、などといっているがついに赤ん坊は後ろの僕の方に視線を向けてきて、目があったような気がする。赤ん坊はみるときはなんでも一生懸命にみる。負けずに見返す。
「おい、あれもってこい」といわれて駆け出していった助手の若者が別室から持ってきたのは大きな兎のぬいぐるみだった。笑いが起こる。赤ん坊はぬいぐるみに心を奪われたようだ。助手がカメラマンの背後で兎を掲げる。
「ハイ、チーズ」大人も全員、兎をみた。
段をぞろぞろ降りる途中で携帯電話に再び着信。
ロクナノイネエ[#「ロクナノイネエ」はゴシック体]
津田からの返信はカタカナだった。
そのまま緩慢な足取りで披露宴会場に移る。津田は新郎の上司、僕は「取引先の人間」ということになっていて、割と新郎新婦に近いブーゲンビリアの席に座らされた。さっき名刺をもらった弁護士と医者、社長が同席する。
「フカヒレだよ、フカヒレ」各々の席に置かれた硬い紙のメニューを両手で持ちながら向かいの社長は二回いった。前菜はビシソワーズスープ。カタカナなのに筆記体みたいに流れる書体だ。
室内が暗くなり、ざわつきが収まる。ドラマチックなインストゥルメンタルが流れ、前方のスクリーンに編集したビデオが流れる。
「いきなりお色直しみたいだな」
画面に大きく金文字でDAISUKEと出る。幼少時のスナップが数枚、重なるように次々と現れる。
「だいすけ」津田が棒読みした。
DAISUKEの文字が消え、&の文字が出る。
「アーンド」僕がつづける。
RYOKO
「リョーコ」二人で同時に読んで、笑う。
「十万円ってところだな」津田はなんでもすぐに見積もりを出す。
「制作費?」
「ていうか、ダイスケが払った額ですよ」ダイスケがね、ダイスケが。二人でダイスケダイスケいうのが面白くなって、小声でひそひそやっていると、インストゥルメンタルはフェイドアウトし、マライア・キャリーのような声量のある女性ボーカルの歌に変わり「新郎新婦、入場」となった。
ダイスケとリョーコが腕を組んで現れる。入口で出迎えたときにはなかったヴェールが花嫁の頭を覆っている。ゆっくりしたペースの拍手が起こる。後列の親類席を通り、前列との間を通っていく。僕と津田は尻を動かしてゆっくり向きを変えながら拍手を続ける。披露宴の拍手は長いのだ。
「あの大輔が結婚だもんなあ」今頃になってやっと津田は感慨深げな声を出した。
またポケットの携帯電話が震える。津田の方をみるが社長と談笑している。取り出すと、今度は妻からだった。
げんきー。私はこれから仕事です。[#「げんきー。私はこれから仕事です。」はゴシック体]
津田がこっちをみている。
「元妻からだよ」人には元妻といえるのに、自分の意識のうちでは妻のままだ。未練や執着ではないつもりだが、次の恋愛がはじまらないと呼称も「更新されない」感じがする。
「モトオクは元気なの」元奥。僕の「元妻」の発音も変な平坦さだったから、正さないことにして「元気元気」と答える。
面白いことに、津田はなんだか彼女のことを気にしている。狙っているというのと違って、興味深いという感じ。特に僕との不和を知ってから興味が増したようだ。
「ビシソワーズってなんだろう」
「スープなら分かる」それは俺でも分かるよ。右隣の弁護士が「ジャガイモの冷たいポタージュのことですよ」と教えてくれる。
ああ。二人で納得したような返事をして、給仕が注いでくれたシャンパンをあおる。
「乾杯の音頭がまだだよ」向かいの社長に苦笑いされる。司会がプロらしい流暢すぎる話し方で披露宴の開会を告げた。苦笑いした社長は、そのまま乾杯の音頭をとるべくマイクに向かって歩いていく。座席の上でまた尻を動かし、マイクの方に向きを変えると、さっきの「まあまあ」の女と目があった。軽く会釈をされる。
「乾杯!」一応という感じで両隣の津田と弁護士と空のグラスを軽くあわせた。歓談のざわつきが広がり始めたので津田に尋ねてみる。
「なあ、まあまあぐらいの女のときって、おまえどうする」
「とりあえず性欲用ってことで口説くかな」津田は即答した。
「うわあ、津田さん鬼畜だあ」弁護士がはしゃいだ声をあげた。
「それでは、ここで新郎がお勤めの株式会社ピージー社長、津田幹彦様よりご祝辞を頂戴したいと思います」司会がいったので自分が挨拶しろといわれたように驚く。津田がスピーチを頼まれていたとは知らなかった。式次第をやっとめくると、たしかに乾杯の音頭の次は主賓挨拶、津田幹彦とある。
津田は口元を拭うと立ち上がり、手ぶらで歩いていく。大丈夫か。
「大輔君」津田は、そこでマイクの角度を調節した。
「亮子さん、ならびにご親族の皆様。この度はまことにおめでとうございます」新郎新婦は立ち上がって、神妙な表情だ。
「あ、座ってください。食べて食べて」津田は今度はくだけた口調で二人に着席を促し、場内に和やかな笑いが広がる。
津田は明朗に語りだした。新郎の職場での働きぶり、貢献ぶりにそつなくふれていく。結婚式のスピーチの文例集にでも載っているような内容だ。
「さて、結婚とは文化であります」といったとき津田の声は少しかすれ、マイクがハウリングを起こしたが、表情は落ち着いている。
「文化などと大げさな言葉を申し上げましたが、実はまったく些末な事柄なのです。
先日、サッカーの中継をみていたら、アフリカの選手がゴールを決めたときに、不思議な踊りをしました。あの踊りが我々には分からない。だけど彼らにとっては重要な意味がある。彼らをして彼らたらしめるものといっていい。文化というのは、そんな風に国や民族に生じる固有のものであります。だけども、都道府県にだって、町にだってその地域ならではの文化が生じます。そのように考えていけば、一番小さな文化の単位は家族、ひいては夫婦ということになるのではないでしょうか」ブーゲンビリアの席のレザボアドッグスみたいな男どもも少しばかり感心している。
「恋人が長くつきあうと、最近なんだか夫婦みたいだ、などといいます。互いの存在に慣れてきて、かつてのときめきがなくなった。ここでつい夫婦という言葉をネガティブなものとしてとらえがちになりますが、それは違います」
かたまりでかじるフカヒレは、今一つありがたみが分からない。ナイフで切るのか、丸ごとフォークで刺して食うのか。咀嚼《そしやく》しながら津田のほうをみる。手を後ろ手に組んで、鼻にかかった声だが堂々としたものだ。
「夫婦のようになった、と感じるとき、その二人の間には確かに文化が芽生えているのです。食卓でそれとって、といっただけで『それ』がソースか醤油か分かる。たてつけの悪い扉を開けるときの力の入れ加減を二人だけが会得している。そういう些細なものの集合はすべて文化で、外側の人には得られないものなのです」
津田は軽く身振りを交えてなおも語る。
「今の時代、籍を入れて結婚することの意味はゆらいでいます」といったあたりで、かすかにあったざわめきやフォークを動かす音すらなくなり、場内はしんとしていた。子供が声をあげはじめたことで余計に静寂が意識させられた。上手にまとまりそうだった話の矛先がみえなくなった、と誰もが少しの緊張を感じたようだ。
「籍を入れずに同棲することを選ぶカップルもいます。恋人のままでいいじゃないか、と。だけれども、これは断言してもよいですが、文化のない場所に人間は長くいられません」津田は言葉を切った。
言い切ったな。なにか例示があるかと思ったが津田は少しの沈黙の後、まとめに入った。
「お二人は夫婦という文化に守られるのではなく、結婚によって自分たちを守る文化を築いていってください。お二人とご親族の皆様のご多幸をお祈りして挨拶に代えさせていただきたいと思います」津田はネクタイの先が地面につきそうなほど深々と頭を下げる。喝采といえば大げさだが、大きな拍手が湧いた。
4──9月1日 午前2時[#「4──9月1日 午前2時」はゴシック体]
「星条旗通りですけど」運転手がいう。後ろからサオリが、あ、ここでいいですと声をかけ、津田を叩いて起こし、引っ張るように車から降ろす。支払いは僕がすませた。
津田はふらふらと歩き出す。麻布の、多分目当ての女とアフターで来るつもりだったのだろう、高そうな佇まいの店が並んでいる。途中で津田は水銀灯にもたれかかった。
「ちょっと」しっかりしてよ、サオリはかがんで津田をゆすったが、反応がない。
「吐きそう」と津田がいうとサオリは素早く二、三歩遠ざかり、サーモンピンク色の携帯電話の画面を開いてかちかちやりはじめた。メールかと尋ねたら匿名の掲示板を覗いているというので、どういう掲示板をみるのと尋ねたら即座に「整形」といわれる。
「津田っち明日も仕事でしょう」今日は解散にしようよ。サオリは声をかけるが、津田は「あぁ」と呻くようにいうだけだ。
「津田」倒れ込みそうな肩を揺する。家まで送っていった方がよさそうだ。不意に太い羽音がして、虫が落ちてきた。水銀灯にぶちあたったか。
「びびったぁ」サオリは顔の前をすり抜けて落ちた虫をつまみあげた。長く綺麗にみがかれたサオリの爪につかまれているのは雌のカブトムシだった。
「雌かあ」サオリはつまらなそうに水銀灯めがけて放った。空中で羽を出して、カブトムシは飛び去った。
もう八月も終わるね。男勝りだったりぶりっこだったりするサオリの口調が、その一言だけなんだかただの少女のようだった。サオリの脚はやっぱり棒のようにまっすぐにみえる。
目を離していた隙に再び倒れていた津田だが、手を貸す前に起き上がって、いくか、と呟いた。空車のタクシーはいくらでもあった。
サオリは逆方向というので、津田をタクシーに押し込み、僕も乗る。津田の今の住処はオートロックのマンションの二階だった。都心にあることを思えば家賃はけっこうなものになりそうだ。
部屋に入るころには津田は少し意識が戻ったようだ。「じゃあ帰るよ」という僕をいいからいいから泊まっていけと引き留めた。津田の家に入り浸っていた昔を思い出しながら靴を脱ぐ。
津田は上着を脱いでベッドにあぐらをかいた。ネクタイをゆるめ、ノートパソコンでメールのチェックをしている。
部屋は独身男性の住まいにしては片づいている。調度品のセンスも悪くない。ごくシンプルなものばかりで、しかしなにか寒々しい気配がある。テレビとビデオデッキが一体化したものはメーカー名が記されていない。無印良品だ。
シャワーからあがった津田が替えの下着を取り出したラックの引き出しは布でできていて、いいね、シンプルで、と褒めようとして、不意にこれらがすべて無印良品だと気付く。ベッドも掛け布団も、すべてがだ。なぜか一瞬鳥肌がたった。
そんなに無印が好きなの、という質問をしかけて、のみこむ。そうではなくて、なんでもいいんだろう。
そう、なんでもいいのだ。僕も同じだった。妻との不和で別居を決め、引っ越しの荷造りをするときに、それが分かった。食器や家具を分け合う段になり、妻は「できればこれは私が」という思い入れをいくつかの品に主張したが、僕はなんでもよかった。結婚祝いでもらったしゃれたワイングラスやタンブラー。一つも愛着はない。妻はなるべく「公平に」といいながら分けていったが、一つしかない綺麗な皿などを包むときは必ず僕に確認した。
津田はテレビをつけて、しかし画面をろくにみようとしない。昔からそうだった。F1中継や海外のスポーツ映像を音楽のように流しっぱなしにする。無印のソファに腰をおろすと、無印のタオルケットを投げてくれた。ソファの脇に落ちていたギャンブル漫画を読み始めたら夢中になってしまった。
うつ伏せでノートパソコンをいじっていた津田がベッドにもぐりこんだので、僕も漫画本をとじて立ち上がり、部屋の明かりを消し、ソファに横になる。
津田は手をのばして壁際の間接照明のスイッチをつけた。床にあった、紙製シェードのランプが暗い部屋にぽっと灯る。
「津田」僕はいった。津田は渋い顔で枕元のめざましをあわせている。
「僕と一緒のときにムードを高めるのはやめてくれないか」どうせセックスの前にこんな暗さにするんだろう。
あぁ、まだ漫画読むかと思って。そういいながら津田は手だけ動かして間接照明も切った。僕はテレビも消した。
エアコンの効き過ぎた部屋で明け方まで眠れず、結局、津田が寝静まった後でやたらムードのある間接照明を手元に引き寄せてギャンブル漫画を読み耽った。喉が渇いてそっと台所にたつ。
シンクの脇に観葉植物があるが、大きな葉っぱにうっすら埃が積もっていた。狭いシンクにはコップが転がっている。あとは電熱器にやかんがあるだけ。コップを手にとるが、水道水がいかにもまずそうに思えてきた。冷蔵庫も、やかんも無印良品だ。そっと開いた冷蔵庫の中にはペリエばかり六瓶もあった。ライムと、なぜか栓抜きまで冷やしてある。
少しずつ増やすのではなく、津田はいきなりすべてを揃えてしまう。なるほどここには文化がない。
5──2年前 12月中旬 午後10時[#「5──2年前 12月中旬 午後10時」はゴシック体]
自宅の前に立っていた。この時期にしては暖かかったが、花山さんに髪を切ってもらったばかりで、風がすーすーと襟から入ってきた。自分の暮らすマンションの前でコートのポケットに手をつっこんでいた。
「悪天候で着陸できない飛行機はね、いつまでも上空でぐるぐると同じところを回りつづけるんだって」
いつか妻はそういっていたが、家の周囲をぐるぐる歩き回るうちに、それは僕のことかと思われてきた。なにしろ家に入るのが億劫だ。駐車場に回ると、三階の窓のカーテンの向こうから明かりが漏れている。妻は帰宅しているらしい。
家に帰ればまた口論がはじまるだろう。しかけるのは僕なのだが、原因は妻にある。いや、もはや原因は分からない。男をつくったのがいけないのか、僕が仕事を投げ出すようにやめたのがいけないのか、鶏が先か卵が先か。どちらなのかは分からないが、間違いなく険悪だった。
悪天候どころか空は晴れていた。月にただ一筋、小さな雲がかかっている。遠くに巨大なボーリングのピンがたっていて、学習塾の窓だけが明るく灯っている。
白い息をはいて、自宅に背をむける。
マンションの裏手の河原まで歩く。街灯の間隔もまばらで、川面はまるでみえない。ただ川の流れる音だけが聞こえる。
川沿いの未舗装の小道を歩きながら、まだ幸福だったころを思い出す。春だった。おひたしにする菜の花を妻と二人でつみにきた。
そんな暮らしがほんの少し前まであったことに愕然とする。
街灯の下まできた。河原の下の辺りまで雑草の茂っているのを照らしているが、川面はやはりみえない。当然だが菜の花も咲いていない。せせらぎだけが少し向こうで間違いなく響いている。
川沿いに建設中の建物があって、鉄壁の覆いの脇には作業員のために設置された自動販売機がある。こうこうと輝く販売機で、飲みたくもないコーヒーをここで買うのが癖になっていた。妻が男と会いにいっている夜は、家にいられなくて駅まで出向いてみた。もしかしたら泊まらずに帰ってくるかもしれないなどと考えてしまうのだ。終電のなくなった駅にいくと、幅広のシャッターが降ろされている。
大きなシャッターをまじまじとみあげて、仕方なくきびすを返して、そのまま川にやってくる。手ぶらでいるのがなぜか怖くて、いつもコーヒーを買い求めた。
川沿いにはところどころにベンチがあって、どれか一つに腰をおろす。そうして、仕事をやめたからなどではない、考えられ得るもっと根元的な理由、自分の魅力や実力や性的能力の無さについて考え続けた。コーヒーは、ただ座っていると他にすることがないから、口に運ぶ。夜明けまで座ったり、無闇に川沿いを歩くうち、犬の散歩をする人たちと会釈をするようになった。どの人も歩きやすそうなスニーカーを履いている。革靴は僕だけだ。「おはようございます」柔和な声色になる。犬も人も、これから元気に活動する足取りだ。こっちは眠れるぐらいまで疲れの訪れるのを待っているのだった。
この夜もベンチに腰をおろしてはみたが、さすがに胃が冷えてきたので引き返した。マンションの入口で郵便受けの中を覗いてみる。ダイレクトメールやチラシに混じっていくつか手紙がある。階段を降りてくる足音に驚く。自分の家のポストをのぞいていたのに、あわてて手紙の束をひっつかむと外に出た。
「悪いんだけど今夜泊めてくれるか」僕は津田の会社に電話をかけた。僕は昔から友達が少ない。津田に断られたら、観念して家に帰るか、ファミリーレストランででも過ごすほかない。僕は酒が強くないから居酒屋には長居できないし、ホテルの空調も苦手だった。
「いいよ」津田は簡単に請け合った。
「いいけど俺、引っ越したから」
「あ、じゃあいいよ。ほかをあたる」
「いいから。いっていいよ」津田は変な言い方をした。
「使ってないんだ」帰れないんだ俺は、といった。何日も会社に泊まり込みだという。津田は念願の合資会社を起業したところだった。銀座の並木通りの外れに小さいオフィスをかまえた。胃に穴をあけるまで働いた会社をやっと退社したばかりなのに、津田はまた同じ様な激務に自らを投じている。
「そうか」僕の相槌は溜息混じりになったが
「だから何日でも全然つかって」津田は例のふにゃふにゃした鼻声で屈託なくつづけた。
津田の借りたというマンションは池袋から私鉄で五駅のところだった。二度乗り換えて、最終の一つ前の電車で駅に降りた。僕の街よりも都心に近いがホームは閑散としていた。
降りたのは僕を含めて三人ぐらいしかいない。自動改札は既に電源がきられている。
ガラス張りの向こう側の駅員は僕の切符にはろくに目を向けず、手元の食パンにいちごジャムを塗り付けている。二、三歩あるいたところで振り返ってみたが、やせた中年の駅員はいよいよパンの端までジャムをまんべんなく行き渡らせることに余念がない様子だ。
仕事中にあんなことでいいのかな。いいのか。これがジャムパンだったら腹をたてたかもしれない。食パンにジャムだと構わないと思うのはなぜだろう。
妻もいちごジャムが好きだった。
いちごジャムならなんでもよいのだった。アイスクリームみたいな紙の容器に入った安いゼリー状のジャムを常に買い置きしてあった。それを薄く塗って、濃くて熱い紅茶と一緒に流し込んだ。紅茶をいれるのは僕の役目だった。
夜道を歩いていると遠くで若い男の笑い声がきこえる。駅を降りるときに楽器を抱えた若い男をみた。駅前は円形の広場になっているのだ。そこに何人か少年たちが集っているらしい。バイクのエンジンをふかす音も遠くにきこえる。
津田の新居はビルを改造したようなマンションだった。窓は大きいがベランダがない。冬なのにチキチキ、チキチキと虫の鳴く声がする。
中は天井が高く、床は大理石を模したタイル張り。ロビーには使わなくなったどこかの会社の事務机や大きなファイル保管箱などが捨て置かれている。
郵便受けをみると個人名もあったが、なにをしているのか分からない横文字の事務所もいくつかあるようだ。
エレベーターの中で携帯電話をかけた。津田が再び僕に指示をおくる。いわれたとおりに五階でおりると廊下は薄暗かった。非常口の緑色の灯りと非常ベルの赤いランプだけが輝いている。
なんだか忍び込んでいるみたいだ。無線で指示を受けながら敵地に潜入して機密を盗み出すゲームがあった。
「階段をのぼってすぐのところのファイル箱だ」津田の指示もどことなく犯罪めいて聞こえる。
津田の部屋は五階の端だった。
「エヌの棚? エヌ? エム?」僕はノイズ混じりの携帯に何度も聞き返した。手袋を口でつまんで指からとると、廊下のファイル箱の「N」の引き出しをあけた。まさぐるがひんやりとしたプラスチックの感触しかない。すぐ上の「M」の引き出しをあける。鍵を取り出して部屋に入る。僕は耳元に携帯を押しあてたままで灯りのスイッチを探した。
「右のあたり?」
天井に家庭では使わないような長い蛍光灯が埋め込まれている。点灯すると十分過ぎるほどに明るくなり、目がくらんだ。
廊下の続きかと思うほど細長い部屋だった。靴をぬぐ、いわゆる玄関もない。
一応入口の右脇に電熱器とシンク、左にシャワーとトイレルームが設けられている。細い扉をあけて中を覗く。便器に腰掛けながらでないとシャワーできないほどの狭さだ。
床はタイル張りで、一部はがれかけているのを、足で元の位置にはめなおそうとしてみたが簡単には直りそうもない。
部屋の右手にはくすんだ緑色のソファが置かれている。窓際には事務机。左手の壁に横長の大きな機械がでっぱっているのが目をひく。右手の壁にはフックがいくつかついていたが、どれもクリーニング屋の袋をかぶったままのスーツやコートでふさがっていた。
ソファの背もたれの部分を倒すとそのままベッドになり、たいして大きくもないのに部屋はいっぱいになった。寝心地は悪くないと津田はいう。
壁のでっぱりは巨大な業務用エアコンで、両手を広げたぐらいの横幅がある。これも入居前から据えつけられていたと津田は説明してくれた。最大出力にすれば五十平方メートルのオフィスの冷暖房をまかなえるほどのパワーがあるという。
壁に埋め込まれたエアコンのスイッチをつけてみると、ぐおんというものすごい音とともに圧倒的な量の温風がたちまちふきだされた。風の音もコンプレッサーの音もばかみたいに大きい。まるでこの家が実はロケットか何かで、どこか別のろくでもないところに向けて発進しはじめたのではないかと思えるほどだった。
ごく弱いパワーに設定しても汗をかくほど暑くなった(夏でもスーツのまま過ごせると津田は変なことをいった)。ホテルの空調の方がまだましだったか。
事務机の下には1ドアのサイコロみたいな冷蔵庫。中は全部黒ビール。机の上にはデジタル表示の世界時計とソニー製のヘッドマウント型のディスプレイ。テレビゲーム機と小型のビデオデッキがつなげられている。頭に装着すると二メートル先に五十二インチの大画面が楽しめる(実際、ここの部屋には二メートルも先はないかもしれないから、装着していたほうがむしろ部屋が広く感じられるかもしらんと津田はいった)。
窓は小さくはなかったが、ビジネスホテルにあるような手前に傾けて開けるタイプのもので、大きく開けて外の空気をとりこむようなことは出来ない。外の景色も鏡にうつしたかのように似たビルの壁面。
右手の壁に「トレインスポッティング」の大きなポスターがかけられているのが唯一部屋の持ち主の趣味嗜好を伝えるものといえる。津田はあの映画が好きなのか。あの映画はセンスだけで内容は普通だったじゃないか。少しばかり意外な気持ちになった。
「あと少ししたら仕事も一区切りつくから、そしたら呑もう」津田は電話をきった。
なんというか、荒んだ部屋だ。しかし僕はソファの下にずり落ちていた毛布を拾ってベッドの端まで──パンにジャムを塗るように広げながら──リラックスしている自分に気付いていた。
電熱器の脇のゴミ箱に、焦げ付いた小さな片手鍋がまるごと捨ててあるのをみつけた。「グロリア」という映画の中で主人公が卵を焼いているフライパンをそのまま捨ててしまう場面を思い出した。津田も気まぐれで自炊しようと思ったのだろう(電熱器でどうすればここまで焦がせるのだろうか)。そしてすぐに失敗したか飽きたかして、やめてしまったのだ。
この部屋は、僕の将来をも暗示しているかのようだ。ソファに浅く腰かけ、駅からここへ来る途中のコンビニで買っておいた百五十円の食パンに僕はジャムをたっぷりと塗り付けた。食器はないのでコンビニでもらった割箸を割らずにバターナイフがわりにした。愉快な気持ちがした。濃くて熱い紅茶が飲めればなおいいのだが、シンクにはやかんすら置かれていない。
食べながら我が家のことを思った。寝る前に電話してみたが、誰も出ない。明かりがついていたが、夜になって再び出かけたのだろうか。それとも寝付いてしまったか。暗い室内の隅々まで屈託に満たされた空気を思った。
しかし食べ終えるとすぐに眠りに吸い込まれた。このソファの寝心地は、たしかに悪くない。
6──9月1日 午前5時[#「6──9月1日 午前5時」はゴシック体]
あのときの大きなソファベッドにくらべると、無印のソファの寝心地は数段落ちる。ほとんど寝ないうちに外が明るくなった。始発電車が動き出したころ合いに、書き置きをしようかどうか迷った末、あとでメールをいれることにして、津田の家を出る。
白々とあけた街を駅まで二十分かけて歩く。駅の立ち食い蕎麦屋がちょうど開店するところで、男が麺の入った箱を押し台車に乗せて運び込んでいる。食べていこうかとおもうがやめて、ホームへの階段をのぼる。電車の中は朝帰りらしい、くたびれた顔の男女ばかり乗り合わせていた。
駅を出て、高架下をくぐる。高架下はなぜか自動販売機の密集地帯になっている。付近にコンビニがないせいだろうか。七台並んだ自動販売機で、煙草もビールも缶飲料も大体のものは手に入る。酔い覚ましのお茶を買うと、ドリンクの落下する音が高架下に反響した。
坂をのぼる。小山ばかりだったところに線路を敷いて、周囲を開発していった土地だから、町にはとにかく坂が多い。
帰宅すると、六畳間にクリーニング屋のハンガーと、包装のビニールがやぶかれたまま散らばっている。
風呂に湯をためる。ズボンを脱いで折り目をあわせてハンガーにかけ、上着は別のにかけてみると、途端によそよそしくみえる。自分の着ていたものという気がしない。ワイシャツも靴下も下着も脱いだ側から洗濯かごに放り込む。
築三十年以上の木造アパート。洋服のハンガーはすべて鴨居にかかっている。和室の窓枠はアルミサッシだが、玄関側の窓は古くてねじ込み式の錠をどれだけきつく回してもすきまがあって風が入り込む。風呂釜からはごくわずかずつ水が漏る。妻との別居のとき、どこでもいいやと家賃だけで決めた物件だが、離婚後も特別に不自由を感じないのでそのまま住んでいる。訪ねてくる者も特にないし、隙間風は厚着すればしのげる。女を家に呼ぶようなことになったら、こういう家は好かれないかもしれないが、できてから考えればいい。
浴槽にお湯がたまり、裸になってから入浴剤のことを思い出した。引き出物の紙袋から取り出し、金のモールをほどく。入浴と同時に甘い匂いのする固形物を湯に落としてみる。沈んでぶくぶくと気泡が出るものと思っていたら、それは浮かんだまま、ゆっくりほぐれていった。花びら状のものが湯舟いっぱいに広がって気味が悪い。
「……フラワーペタルのバブルバスはローズの花びらが溶け出して心地よいリラクゼーションにいざないます。花びらを楽しんだ後は勢いよくお湯を足し、泡立ててください」なんだか騙されたような心持ちで、袋に貼られたシールの小さな文字を最後まで読む。説明の上の部分は封を開けたときに破れて読めなくなってしまった。
「……お肌にあわない場合はご利用を中止してください」原材料名パラベン・香料というあたりまで活字を追ったところで入浴剤ではない、これは石鹸のようなものだと分かった。お湯をためてからではなく、先に湯舟に散らしてからお湯を入れて泡立たせるものだったらしい。大体が横長の西洋風バスのためのものではないか。湯舟から突き出たすね毛の合間に漂う石鹸の花びらをみつづける。こんな酒があるな。女たちの好きな。たしかサンガリアといったか、サンゲリアだったか。
風呂の中でうとうと眠ってしまう。長い一日だった。
「結婚とは文化であります、か」声に出してみる。着替えて布団にもぐりこんで、何度か寝返りをうつ。膝の裏がなぜかかゆく、手を伸ばしてかきながら、もしやお肌にあわなかったかと考えているうちに眠りに落ちた。
7──91年[#「7──91年」はゴシック体]
津田とは東京大学の近くにある、さほど偏差値の高くない私立大学で知り合った。二人とも夜間部の学生だった。
学内の掲示板や廊下のあちこちには「災害時の避難場所は『東大』です」と堂々と大書されていて、それは地理上のこととはいえ、どこか自分たち学生の気持ちの中途半端さを象徴しているように思えた。
津田は一浪だったから、僕より一つ上だが同じ一年だった。同じ散文詩のゼミを受講していた。
ある発表者がプロレタリアの、戦争で弾圧を受けた詩人を取り上げた。好んで取り上げたわけではない。先生は「現代詩集成」から適当に課題を割り当てた。どの発表のレベルも、自分からみてもすこぶる低いものだった。このときは発表のみならず、取り上げられた詩もよくなかった。
すすみ過ぎる文明は我々を豊かにしただろうか。自然の恵みを忘れて、大きな工場を建てて兵器を作る愚かな人間、とかなんとか。ずいぶん単純な主張ではないか。
学生は皆、ゼミの発表とはすべからく褒めなければならないと考えているようだった。小学生の読書感想文じゃないんだから。対象を褒め、讃えることはもちろんかまわないのだ。だが発表者は皆、本当は散文詩への熱意などない、授業だから仕方なく調べてきたということが分かる内容で、それは嫌だった。かじりつくように常に最前列で勉学に励む連中もいないではなかったが、ほとんど誰もが「とりあえず大学に入ってみた」という顔だ。だから発表者の褒め言葉にも、その詩と同じくらい通りいっぺんの単調さがあった。僕も、確たる目標のあるでなく「とりあえず」入学したクチだったが、心のどこかで恥ずかしさも覚えた。
散文詩の先生は、誰のどんな発表にも憤慨することはなかった。ありがとうといって、その後で、どの発表よりも詳しく丁寧な読解を披露してくれる。だが、内心は馬鹿にしているのだろうと思った。
先生はその夜も発表者に礼をいって席に下がらせた後で、いつもするように、自分で解説する前に数名の意見を求めた。ゼミには三十名近くいたが、津田はこのとき初めて当てられたと思う。
津田は「戦争中にこのようなことを敢えていった勇気は素晴らしいんじゃないかと思います」といった。
なるほど。先生は頷くと、もう次の人に当てようと首を動かし、僕に当てた。だが津田の言葉には続きがあった。
「だけど、今の時代に通用する普遍性はありませんね」津田は一刀両断してしまった。先生は津田の顔をみた。初めて学生の顔をちゃんとみたという感じだった。僕は控えめに
「自然が素晴らしくて文明が悪というのは、単純な二項対立ですよね」と付け加えた。大した意見ではないが、教室に少し緊張が走っている。ゼミの発表者が、自分の発表を否定されたかのような憮然とした顔になっている。先生は僕の方もみた。
「でも、現在なら二項対立として片付けられる表現の、これは先駆けであったかもしれません」僕は無用のフォローまでいれた。
「そう、でも普遍性がないんだな」津田は当てられてもいないのに、念を押した。
授業が終わると先生は廊下に出ようとする僕を呼び止めた。
「君の発表は来月だったね、期待しているよ」といった。期待されるほどの発言ではない。それに今日の手柄は津田にあったのだが。その津田はさっさと席をたっていた。
蛍光灯の鈍く光る旧校舎の、煙草の自動販売機の前で津田はかがみこんでいた。
「おう」津田が煙草を取り出して立ち上がると、大きな丸い首飾りが大きく揺れた。津田は痩せていた。体にぴったりした服を好んで着たから余計にそうみえたのかもしれない。
「ゲーセンよってかない?」津田は煙草の封を切ると、僕をゲームセンターに誘った。対戦型の格闘ゲームが流行しはじめた頃で、パチンコ屋の地下のゲームセンターには、向かい合わせに対戦できるように設置されたゲーム機の筐体《きようたい》がずらりと奥まで列になっていた。
津田は腕まくりをしてコインを投入した。背後でお手並みを拝見することにする。レバーを決められた順番に、タイミングよく動かすと必殺技が出る。津田はレバーを逆手に握った。闘いながらなにかこっちに向かって話しかけてきたが、店内はゲーム機の喧騒で満ちていて津田の言葉はなにも聞こえない。タイミングを計ってレバーを動かすたびに、津田の首の丸いBMWのエンブレムみたいなのが何度もぶらん、と揺れた。
何度目かに津田は敗れて僕と交代した。僕は津田とちがい、上からかぶせるようにレバーを握る。
津田が敗れた相手に僕は雪辱した。僕もまた津田に対してみろ、とかなんとか声をかけたが、やはり聞こえなかったようだ。目をあわせようとして、レバーを握ったまま顔を横に向けたが、津田は側にいなかった。両替機の側に立って、見知らぬ女に話しかけている。
ぬいぐるみのクレーンゲームが流行しはじめたころで、それ目当ての女の子やカップルは少しずつ目につくようになっていたが、ゲームセンターは相変わらず男子の遊び場で、女は珍しい。鋭い目をした髪の長い女だ。
対戦台の向こうには別の人間が腰をおろした。第二戦がはじまったのだが、津田の方に気を取られる。
「おねえさん、今日はどう」さっきは大声でなにかいわれても聞こえなかったのが、津田が女をナンパする言葉だけはなぜかはっきりと耳に入った。特にそれは大声ではなかったのだが。
おねえさん? 気が散った僕は押し込まれて負けてしまった。
津田は女と一緒にいなくなった。クレーンゲームで運んでいったような感じだ。僕はそれから数戦遊んで、一人で帰った。
その後の付き合いにおいても津田のナンパは突然はじまり、その第一声は大体「おねえさん」と呼びかけるのだった。
数日後に食堂でばったり会うと、津田はうちおいでよ、といった。散文詩の授業で明朗に感じた津田の声が、なんだかふにゃふにゃしていた。
大学は八階建ての大きな新校舎を建築中だった。トタンの囲いがあちこちにある構内を歩きながら津田に「あの女の人はどうなった」というと、ダメだったよ、と言った。
当時の津田の下宿はフローリングのワンルームで、家賃高いんだろうなあと正直に感想を述べたら「まあね」と、特に悪びれもせずにいうのだった。津田の父親は社長だという。調度は無印良品ではなかったと思う。テレビゲームが三台もあった。黒いのと、灰色のと、白くて小さいのとがスチールのラックに上手に収まっていた。それで夜通しゲームをした。
津田は僕を「ゲーム用の友達」に選んだらしい。いつも後ろの席に座る、遊び回っていそうな連中とつるむときには、僕に声をかけることはなかった。僕はというと、津田以外に友達らしい友達ができなかった。男たちも女と同じように仲良しグループが形成されていくのが不思議だった。典型的なゲームオタクたちとつるむのも、なんだかもてなくなりそうで嫌だったし、どうも僕は同世代の連中を馬鹿にしてみているところがあった。津田の誘いを断ることはなかった。
津田は反射神経の求められるものだけでなく、戦略を練るゲームも得意だった。新作ゲームが発売されるとすぐに買っていた。ゲームマニアには、価格が下がるまで待つ、あるいは逆に売り切れる寸前におさえるなど、在庫の有り様をみる楽しみもあるから、津田の買い方はマナーがないとまではいわないまでも、少々乱暴に思われた。
それでいて中古ゲーム屋めぐりとかしないの、と問えば「いいね、今度いこう」と軽々にいうのだった。
秋葉原に海外のゲームも仕入れている店があって、案内した。当時はまだ日本のゲームの方が数段優れていたが、センスの点でみるべきものがあると僕は感じていた。
銀行の前に中古パソコン店のビラを配っている男がいた。男はいつ何時にいっても同じ場所で「あすいよー」と発音も曖昧に、酒焼けした顔で、背筋の曲がった、いかにも哀れを誘う様子で立っている。片手だけをつきだしてビラを渡そうとしていたが、誰も受け取ろうとしなかった。駅前のティッシュ配りの若者に感じられるような、無害さ、存在感の希薄さがその男にはなかった。なぜこの男にビラを配らせるのか、僕だけでなく通りがかる誰もが不思議だったろう。
津田はその男からなんでもないことのようにビラを受け取った。
8──9月1日 午後1時30分[#「8──9月1日 午後1時30分」はゴシック体]
起きてすぐにパソコンを立ち上げてメールの着信を確認する癖は昔から変わらない。どうせろくなメールはきていないのにといつも心で自身に毒づきながら、それでもみてしまう。三通のうち見知らぬアドレスから二通きていた。一通目はカタカナの名前で、厳しい残暑を当店のスタミナ新メニューとおいしいお酒で乗り切ってください、とある。これはおそらく定型文だ。下に「昨夜はお越しいただきありがとうございました。またお会いできるのを楽しみにしております」とつづく。昨夜コースターに書いたアドレスに、もうダイレクトメールが来るとは。もう一通は知らない女の名前だった。
[#ここから2字下げ]
[#ここからゴシック体]
突然のメール失礼します(店長からアドレスを教わりました)。あとでピルグリムサーガの作者と聞いて驚きました。あのときはお話しすることができませんでしたが、あなたの作品(作品といわせてください!)がとても好きです……。
[#ここでゴシック体終わり]
[#ここで字下げ終わり]
誰だろう。結婚式の女か。名刺を渡した覚えはないが。二度読み返して、あの店で働いていた女だと気づき、座り直す。あの店には女店員が二人いた。すごくいい女と、遅刻してきたまあまあの女と。どちらだろうか。いい方の女をかなり気に入っていたのに、顔がよく思い出せない。
読むうちに、遅刻してきた方だと分かり少し落胆する。店のママにいわれての、誘客のメールかもしれないと思って読むが、かなりゲームに詳しいようである。
メールのおしまいの方は、もう二年間も新作を発表していないことを心配し、待望する主旨だった。そんな熱心なゲーマー風にもみえなかったのに。時代は変わった。
(チャーンス!)サオリがことあるごとに叫ぶ台詞が脳裏をよぎる。すぐに返事を出すのはがっついているのが見透かされそうで、少し置くことにする。
もう一通はK社の元後輩の植松から。「また一緒に仕事しましょうよ」と定期的にメールを寄こし、声をかけてくれる。自分が誰かになにかを待望されているということに戸惑いを感じながら、パソコンを閉じる。携帯電話もノートパソコンも蝶番《ちようつがい》で折り畳めるというのは利便ではなく、気持ちと動作が連動することを見越してのことではないかと思う。
9──92年[#「9──92年」はゴシック体]
一年生の終わり頃に新校舎が出来あがった。屋上にヘリポートもあるというが、いつ何のために用いるのか誰にも分からなかった。ビュッフェ形式の、半地下の食堂で津田と僕は飯を食った。高い天井を斜めに切って一面ガラス張りになっているのは採光を考えた結果だろうが、夜間部の人間にそれほどの恩恵はない。
学生食堂にあるまじき香草入りのパスタだとか、ラタトゥーユなどがメニューに並んでいた。津田は金持ちだが舌が奢っているわけではなくて、前の食堂にあったのと同じラーメンやカレーを頼んだ。
「バブル」が「はじけた」という言葉が広まったのはこのころだ。しかし天井の高い、新校舎のぴかぴかした床を歩くと、景気が悪くなっているという実感は湧かない。就職活動を始めていた上の学年は明らかに顔色が変わっていたのだが、僕は呑気だった。
散文詩の先生を少しだけ見直させたものの、僕も津田もガリ勉する方ではなかった。それに、津田は二年で中退した。
ある日、いつも学食にいるはずの時間に津田が来ていなかった。今日は休みかと一人で食事を済ませ、講義を受けて帰る途中の地下鉄のホームのベンチに、津田が座っていた。近付くと、学校やめるんだと津田はいった。
「そうか」電車がきたが、津田は立ち上がらなかった。
津田のことだから、なにか別にやりたいことがあって、居場所を移すように辞めるのだろうと思ったのだが、そうではなかった。学費が払えなくなったのだ。
津田は深刻そうな顔だっただろうか。今となってはうっすらとしか思い出せないのだが、いつもと違う顔だったことだけはたしかだ。「いつもと違う顔だ」と強く思ったから。深刻な顔というよりも、津田自身が深刻な人をみているような顔だったという覚えがある。
電車の扉が閉じ、行き過ぎる。僕たちは何本か電車をやりすごしながら話をした。
津田の父親は二十億の負債を抱えて逃げた。
「大変だな」と言葉にしてみたが、到底実感できる数字ではない。津田自身にもぴんとくるものではないみたいだった。
「とりあえず家は差し押さえられて」津田はフローリングのワンルームも引き払い、千葉県の公団住宅に母と二人で暮らすことにしたという。
「そうか」僕はお悔やみをいうように声の調子を落とした。津田はズボンのポケットに手をいれて、線路の向こうの、駅名の表示された看板に視線を向けている。電車が停車し、扉が開いて客が乗り降りして、また扉が閉じて発進しても、ほとんど視線を動かさなかった。
「スチールのラックいる?」うちも狭いからと断ると、今度は津田が
「そうか」といった。
津田がいなくなると大学は色あせてしまった。気付くと僕は前にも増して同級生を馬鹿にした目でみるようになっていた。
千葉の団地にまで遊びに行った。
くよくよ悩んだりしていないだろうと思って会いに行ったがその通りで、駅まで迎えにきた津田のぬけぬけとした表情も変わっていない。
夕暮れの街を津田はポケットに手をいれたまま先導した。
「ここも少しは変わった」と津田はいった。小学校から高校までこの街に住んでいたという。父の夜逃げの後、住み慣れたところがいいという母の希望でまた戻ってきたのだ、と。
もともとは自衛隊の基地が間近にある、殺風景な野原みたいなところだった。鉄道が通るようになり、急行が止まるようになり、徐々に都心に向かうサラリーマンたちのベッドタウンになっていった。
だだっ広い土地にマンションがどんどん建った。数年前に私立大学の分校が出来てからは駅前も多少はにぎやかになった。今ではファーストフードの店も、居酒屋もファミリーレストランもある。不動産屋と銀行のキャッシュディスペンサーもできた。今風のお洒落なパチンコ屋とかカラオケボックスなどが入った雑居ビルもある。
しかし、にぎやかなのは駅前だけだ。建物はどれも薄っぺらで、芝居の書き割りのようにしらじらしい……。
津田の説明に背後から相槌を返した。津田は一度も振り返らなかったし、相槌があってもなくてもよさそうだった。
駅前広場を左に歩けば商店街で、津田は右手のマクドナルドの脇を抜けた。脇道の坂を下るといきなり小さな畑がでてくる。道の脇に錆びた自動販売機が立ちっぱなしになっている。
三叉路のガードレールはぐにゃりと折れ曲がったままで、ずっと直らない。
「何度か新しく直したんだよ」ガードレールの折れ曲がった部分に軽く触れながら津田はいった。それでも度々事故が起こる場所らしい。ここで三人ぐらい死んでるとつぶやいた。我々は巨大な高層団地に近付いていた。
「あそこ」と津田は歩きながら指差した。団地住まいと聞いて、四階建てぐらいの、同じ形の棟がいくつか連なっている建物を想像していたから驚いた。巨大な一棟が付近一帯を日陰にしている。横長だが、周囲に背の高い建物がないせいで群を抜いて目立っている。見上げながら窓を数えてみたが、途中で分からなくなる。
「八階建てで十六列ね」津田が教えてくれる。
他を大きく引き離すというより、一人だけ大きく育ってしまったという感じだ。築年も古そうだ。自転車置き場を抜けて芝生を抜け、四つある入口の左端に入る。
暗いエントランスの天井は決して低くなかったが、真上にあれだけの数の部屋が乗っかって、そこで人が住んで暮らしが営まれていることを思うと、押しつぶされそうな気がする。壁にはおびただしい数の郵便受けが鈍く光っていて、どの口からもちらしやビラが無造作に飛び出ている。津田は自分の家の郵便受けの中身を出して、大事な手紙の一つもないことをざっと確認すると、上下左右の別のポストに適当につっこんでしまった。
二台あるエレベーターのうちの一つに乗り込んだ。みしみしとワイヤーがきしんだ音をたてた。外廊下もひんやりと涼しく、これだけの世帯があるのに人の気配がない。廊下から下を覗き込めば落下防止用の鉄の網が張ってあるが、外国の刑務所映画みたいなアングルに見える。
中はごく普通だった。自分のかつて暮らしていた田舎の団地とよく似た構造だと思って眺める。
僕たちはコンビニで買ってきた平たい弁当を食べ、チーズ鱈を広げ、缶ビールを呑みながらゲームをした。このころから、津田の遊ぶゲームは立身出世する内容のものばかりになっていた。戦国武将になって天下統一を目指し、ビルのオーナーになって収益をあげる。そうではない単純なゲーム、宇宙の最果てで行われる、銃器の使用も許されたルール無用の無重力カーレース、たまにそんなのを遊ぶときでも津田は自分の成績を丹念にノートにつけて、自分自身を出世させていくのだった。
割と遅い時間に津田の母親が帰ってきて「お友達が来るなら先にいっといてよ」とうろたえた声をあげた。
「いいんだよ、七郎だから」
「七郎さん? いつもお世話になってます」津田の母親は僕の名を聞いたことがあるみたいだった。晩婚だったのか、少し老けてみえる。夜中にホットケーキを焼いて紅茶と一緒に出してくれた。なにもなくてすみません本当に、と母親は繰り返した。
「もう寝ろよ」津田が迷惑そうにいうと、母親ははいはいと襖をしめた。夜遅くトイレにたつと、いつの間にかU字型の便座にグリーンのカバーがついていた。
千葉の団地の居間には大小二つのテレビが並んでいた。大きなテレビでゲームを遊びながら、傍らの十四インチのテレビでF1の衛星生中継をみた。当時はセナ、プロスト、マンセルやピケなどがいた。僕も津田も典型的なにわかF1ファンで、二人とも当時はマンセルを応援していた。荒っぽい走りで素人にも分かりやすい。
リアウイングとダウンフォースの関係や路面とタイヤとの相性についてどれだけ解説を聞いても、分かったような気になるだけだった。レギュレーションなんて、その言葉の意味すら分かっていなかった。分からないまま、そういった様々のカタカナの名詞に魅了された。チーム名の、ウィリアムズ、ベネトン、ロータス、ミナルディ・コスワース……。欧州から南米まで揃ったレーサーの名もそれぞれに印象的だった。ゲルハルト・ベルガー、マウリシオ・グージェルミン、アレッサンドロ・ナニーニ……。ブームの過ぎ去った今でもそれらの名前を──おそらくそれは顔と一致させることはできないだろうが──覚えている。
「もっと前の、スーパーカーブームだって同じことだろ」津田はいつかいっていた。
「日本中の数人しか、そのスーパーカーを持っていなかったんだから」カウンタックやランチア・ストラトスという名前だけが「ブーム」だったのだ、と。
ずっとあぐらをかきながら、F1カーの延々と周回を繰り返す様子を横目にしていた。
そうやって徹夜した翌日は、さすがに身体がなまって二人で駅前まで歩いた。牛丼を食べ、パチンコ屋が開店しているとすぐに吸い込まれた。二人並んでパチスロをやった。いつも津田は僕の分も目押しをしてくれて、大体勝った。
家にいくたびに、津田の部屋には起業のための本が積み上げられていった。「失敗しないゼロからの起業」「その経営は間違っている」「単純な技術で会社は興せる」……。津田はパソコン通信の会社をつくろうとしていた。まだインターネットがなかった時代だ。そんな、普通の書店で売っているような本を読んで、本当に会社を興すことなど出来るのだろうか。もっとこう、現場でたたき込まれたノウハウのようなものがなければ通用しないものなのではないか。
ゲームにおいては津田は大体成功していた。僕がせいぜい一部上場だったり、地区大会で優勝するぐらいで飽きてしまったものでも、津田に貸すと、返ってくるゲームのバッテリーに残っているデータはかならず大成功で、征夷大将軍になったり、グランドスラムを達成したりしていた。
津田と遊ぶのはいいが、散々やりこんでテレビゲームにはだんだん飽きがきていた。
「最近のはどれも紙芝居みたいで、シナリオも押しつけがましい」不満を語ると津田は
「おまえが作ればいいよ」と簡単にいう。
「プログラムとか出来ないよ」というと
「そうだな」と、それも簡単にいった。
あるとき津田は団地の屋上に僕を連れだした。風の強い夕暮れだった。物干し竿が縦にも横にもたくさん並んでいて、洗濯物がはためいているのが壮観だが、なぜか取り込む人の姿はない。
金網越しに遠くまで一望できた。ガードレールの事故多発現場や、いつもいく牛丼屋。パチンコ屋のネオンは消えていて、くすんでみえる。学校、清掃工場の煙突など、どこにでもあるような町並みだ。
津田は金網越しにゆっくりと屋上を回った。駅から歩いてきて見上げると平らな団地だが反対側は各戸のベランダのあるごとに凸型になっている。周囲の景色を眺めながら、さらにあちこちの建物の説明をしてくれた。
「中学生の頃あそこの楽器屋のおっさんからベニヤのエレキギターを買った。ベニエレ」
「子供の頃あそこの交差点でドラム缶を満載したトラックが横転して、その後ずっとタールくさかった」
「あのへんには小さな家があってさ。この団地が建って日当たりが悪くなったんだけど、そこに住んでいた人が『富士山がみえなくなった』って署名運動をしはじめた。俺も子供だったけど道で無理矢理サインさせられた。あんな署名、有効なのかな」津田は思い出したエピソードを独り言のようにつづけた。
「俺の家はあのへん」でもなくなっちゃった。この団地には昔、コマヤとハラショーが住んでいて。
「ハラショーって」
「友達だよ。原田正一っていうんだ」いいあだ名だな。
「コマヤにも一時期ズゴックってあだ名があった。なで肩で猫背だったから」久しぶりにズゴックなんて名前をきいた。
「あいつは心なしか動作もモビルスーツぽかった。関節がギュッギューンって鳴ったもの」うそつけ。津田は笑った。
「コマヤとハラショーと三人で屋上から立ち小便した」さらにゆっくりと歩きながら話をつづけた。屋上は広かった。沈む陽光が目に刺さるようにまぶしい。
「俺たちはいろいろ悪いことをした。夏は屋上で花火したけど、人に向けないで遊ぶことなんて出来なかったし、おとなしいやつの靴とか取り上げてここから投げたり。だけど、立ち小便は実は嫌だった。今思えばいかにも少年らしいところが嫌だったんだ。
でもやったよ。そしたらおしっこの筋が団地の壁に三本のこっちゃったんだ。放物線を描くわけだけど、最後の勢いの弱まったあたりが線状に垂れ落ちたんだな。
俺達三人はしょっちゅう屋上で遊んでいたから、当然疑われて大人達に取り囲まれたんだ。でも三人とも分かっていた。問いつめられたり決めつけられたりしても相手の目を見据えて真顔で否定すればいいって。
そのうちに、この子達はやってません。目を見れば分かりますとかなんとか、誰かが周囲の大人に言い出す。でもまだ気持ちを張りつめさせてなきゃいけない。疑いつづけている大人は常にいるから。解放されてもしばらくは憮然としていなければならない。三人とも示しあわせなくてもそのことを分かっていた」
「今でも二人と会ったりしてるの?」
「いいや」津田は首を振った。だんだん暗くなり、津田の表情がみえにくくなっていた。風も強くなっている感じだ。
「ハラショーは競輪の選手になったけどデビュー戦でケガをしてやめた」
「その後は?」知らないとまた首を振った。
「ズゴックは?」
「コマヤは暴行で一時期少年院に入った」
「その後は知らない、と」津田は頷いた。
「でも俺は成功するよ」ずっと金網の向こうをみつめていた津田だが、そういって僕の方を見据えた。暗くて、津田の姿がほとんど輪郭だけになっていて、どんな表情か分からない。
「寒いから入ろう」うながすと、エレベーターまで歩き出しながら、起業までの具体的なプランを熱心に語った。
家に戻ると津田の母親が帰宅していた。母親はいついっても僕の訪問を津田から教えてもらっておらず、そのことに文句をいいながら、必ず甘いお茶うけや塩辛いつまみを作って出してくれた。
津田から誘われる機会はだんだん減っていった。津田は中途入社で就職したのだ。個人で起業するにはなんだかんだで最低でも三百万円かかる。まずは貯金をしなければならない。
僕は僕で将来の展望など持てずにいたが、大学のおしゃれ食堂に誰かが置き忘れた就職情報誌をめくるうちに、ゲーム会社の募集要項には「プログラマー」「営業」以外に「企画」とあるのに気付いた。大学の国文学科がどんな授業をするか知らずに受験したのと同じで、企画という言葉になんの具体的な印象も持てなかったが、興味を抱いた。コンピュータの知識不問とゴシックで書かれている。理系でなくともよいらしい。いくつか載っていた中で、下請けでパソコンのゲームをつくっているKというメーカーに履歴書をおくった。下請け中心だから無名だが、マニアの間では評価の高いゲームを昔からいくつも手がけている。
K社は埼玉県にあった。就職誌の切れ端を握りながら歩いていくと住宅地に入り込んだ。Kの事務所は小さな普通のマンションの二階の、三室あるうちの二室で、どちらの扉にもKというプレート看板がかかっていた。どちらの呼び鈴を押せばいいのか迷った。奥の三室目の鉄扉が開いて、おばさんが僕を睨むような目で観察しながら通り過ぎていった。
右を押したのだったか、左を押したのだったか。出迎えてくれた男は、自分が社長だと名乗った。中身も普通の住居だ。社長はスーツ姿だったが、靴を脱いでいるのがなんだか不自然だ。普通の居間だが、キャスターつきのホワイトボードがある。フローリングの床にソファと応接テーブルが一応それらしく備え付けてあったが、そこには男が毛布をかぶっていた。太田君、太田君、面接だよ。社長は優しく気遣うような声音で男を起こす。男はあぁはい、といって洗面所の方にいった。
「それでは面接をはじめましょう」テーブルに放り出されているのは僕の履歴書が一枚、それだけだった。僕は中学時代からKのゲームが好きでした、とか、パソコンのプログラムについては、すがやみつるの「こんにちはマイコン」を読んだ程度の知識しかないとか、そういうことを述べた。
「最近印象にのこったゲームはなんですか」
「ハットリスです」テトリスの作者アレクセイ・パジトノフの手がけた新作で、画面の下に並ぶ男の頭に、今度はブロックではなく、降ってくる様々な帽子を次々かぶせて消していく。評判は散々だったが僕は爆笑してしまった。
「うん、うん、なるほどね」社長は履歴書の端にハットリス、と書き入れて丸で囲んでいる。
具体的につくってみたいゲームを喋らされている途中で、向こうでシャワーを使う音が聞こえはじめた。背後で玄関があいて、痩せた男がおれーす、とかうえーすとか、しまりのない挨拶をしながら引き戸をあけて入っていった。奥は和室のようだった。
これまでKでは、数名のプログラマーが企画から物語まで考えていたのだと社長はいう。下請けのうちはいいが、自分たちのブランドを確立させるためには企画を強化しなければいけない。そんなことを社長はいい、採用となった。さっきソファで仮眠をとっていた男がタオル一枚で出てきて、冷蔵庫から栄養ドリンクを取り出して飲んだ。社長もシャワーを浴びた方がいいな、と思った。
社長は、大学はきちんと卒業したほうがいいといいながら一方では「明日からバイトでこないか」と矛盾することをいった。八〇年代までは家出同然に転がり込んでくるようなゲーム小僧がそのまま社員になったりすることも多かったのだという。僕もまた、大学はほとんどさぼって入り浸るようにバイトをはじめた。
津田からはパソコン通信のメールで「エイズ検査の病院で知り合った看護婦とやった」とか「人妻に押し掛けられてる」とか、ときどき黒いメールがきたが、そのうち途絶えた。お互いに多忙になったのだ。
僕が結婚するまでに津田から連絡があったのは一度だけだ。
久しぶりに電話をもらった夜、僕の家には当時付き合っていた彼女が遊びに来ていた。テレビを付けてみろと津田はいう。
「アイルトン・セナが死んだ」いわれるままにチャンネルを合わせると、現れたのは異様に静かなサーキットの映像だった。
彼女が風呂から出てきた。古い木造だがユニットバスではないきちんとした風呂のあるのが当時の僕の下宿のささやかな自慢だった。
「あ。今宮さんだ」女は知り合いのようにいった。画面にはアナウンサーと解説の「今宮さん」が並んでいた。今宮さんは顔がくしゃくしゃになっている。横のアナウンサーも沈痛な表情。
「川井ちゃんは? 川井ちゃんいないの?」女の口調はさらに気安くなったが、F1に興味などないのだ。
画面の中の今宮さんは立ったまま泣いていた。泣きながらなにかしゃべっていたが、ほとんど嗚咽にまぎれて聞こえなかった。号泣とはまさにこのことだ。公共の電波でこんなにあからさまに、それも演技せずに心から泣いている人の姿をみたことがない。
「死んだんだ」
「死んだ」津田は少し興奮しているようだ。僕も津田もアイルトン・セナが好きではなかった。アンチ、といってよかったかもしれない。荒くれ者のマンセルに肩入れしたのも、セナ人気への反動が大きかった。言動は紳士。走りは正確。いかにも優等生にみえた。
「今期はまだ一勝もできていなかったんだ」ポールポジションは取れていたんだけど。僕が飽きてしまった後も、津田は熱心にみつづけていたのだ。
衛星生中継で、しかし一台の車も走らないサーキットが上空から映しだされている。アナウンサーの声に、解説者の嗚咽が混じる。なんという放送だ。スローモーションで事故映像を幾たびも再現。いつもの中継とは様子ががらりと異なっている。
コマーシャルになり、そのセナがにこやかに微笑んだ。カーオイルのコマーシャルだった。
F1人気を象徴していた人が、死ぬことでまたなにかの象徴になろうとしている。コマーシャルが終わるまで津田と僕はほとんど無言で、しかし電話を切らなかった。
中継に戻ると今宮さんは相変わらず泣きながら、それでも解説を続けようとして、ほとんどなにをいっているのか分からない、みる側の動揺すら誘う喋りだった。
「今も会社から?」そう、会社。やっと少しだけ近況を語り合う。津田はずっと会社に泊まり込みで、家にほとんど帰れないといっていた。久々に会おうよともいわず、じゃあまたとだけいって電話は切れた。
あとで知ったのだが、そのころ津田の母親はクモ膜下出血で倒れていた。幸い発見が早く奇跡的に助かったそうだが、そのことは報告すらしなかったのに、セナのことは僕と見届けたかったのだ。
「アイルトン・セナが死んだんだって」僕はやっと受話器を置いて、半裸でなにか冷たい物を手にしていた彼女の方を向いていった。みると彼女も頬に二筋、涙の跡をつくっているではないか。
「なに、なんで泣いてるの」
「だって、あんなに泣いて可哀相」僕はそのとき絶句したのを覚えている。これまでF1中継をみても興味を示すのはせいぜい「今宮さん」とか「川井ちゃん」のことぐらいだったくせに。
気の毒な今宮さんはなおも何かいおうとしていた。ろれつの回らない口から聞き取れたのは「それでもレースは続けられなければならない」というような意味だった。
「ショウマストゴーオン」と歌ったのは誰だったか。本当かなあ。セナが死んだので終わりますでもいいんじゃないか。
彼女とはほどなくして別れた。あの涙は心変わりの予兆だった、そんなはずないのだが、あの見事なもらい泣きと別れの言葉は記憶の中で一緒になっている。
10──9月1日 午後2時[#「10──9月1日 午後2時」はゴシック体]
どうせもう夕方だろうと諦めたような気持ちでテレビをつけたら「青い疑獄」が終わるところで、まだ二時前だとわかる。気を取り直して外に出ることにした。
なにかの本で、有名な小説家に読者が質問していた。「あなたにとって、もっとも幸福な食事はどのようなものか」と。作家はいった。
「たとえば商店街の肉屋さんで揚げたてのコロッケを買って、ソースも買って、公園のベンチにいく。そしてコロッケにソースをしょしょっとかける。そして食べる」
隙のない答えだと思った。洒脱すぎず、贅沢でもない。「しょしょっと」というところに幸福感がにじみ出ている。真似してやれ、と商店街の肉屋でコロッケを買い求める。使い切りの、小包装のソースをつけてくれた。
駅の反対口にある公園にいくと、今日は平日だったと気付かされる。そこは、子連れの主婦達──少し大袈裟にいうならばベビーカーとベビーとマザーが一体化した生き物とでもいうべき一群──に支配されている。三十過ぎの髭面の男が乗り込むのに、気後れしないわけにはいかない。それでもあえて公園を選んだのだ。
僕だってベビーやマザーたちと同じ市民だ。公園のベンチでコロッケにソースをしょしょっとかけて食べて豊かな気持ちになってもいいのだ。最近では居心地の悪さを楽しむような気持ちで公園に出向く。まだ、母親に子供をかばう仕草をされたことはない。
ベンチに腰をおろしてソースの口を切ると、手に小さくついた。親指を舐めながらソースをかける。しょしょっと心の中でいってみるが、勢いあまってコロッケをおさえる指に半分くらいかかってしまう。それも舐め取って、ソースの味が舌に残っているうちに急いで一口ほおばる。
つづけてコンビニの袋からビールを出した。ビールは、小説家のいう幸福には入っていなかった。暑いのだから付け足してもいいはずだ。喉をならしてあおる。
隣のベンチに若い女が座った。大きなバッグを傍らに置いている。ここは日当たりが強い。木陰のベビーカーの一群に混ざる気はないのか。混ざることができないのか。妙に唇の赤く、厚い女だ。下唇がほんの少し突き出て、不平をいう形になっている。
立派なげっぷが出てしまい、女がこっちをみた。僕は女の斜め後方で遊んでいる子供の顔をみているふりで、微笑みを浮かべたりしてごまかす。
津田の、ロケットの家で出会った女に似ている。似ているというか、あの女ではないか。
ベンチの女も僕に気付いたか、視線を寄越してくる。そこで携帯電話が鳴った。女は「もしもし」と声をあげて立ち上がり、病院のある方に歩く。鳩の群がいっせいに飛び立つ。女が群の真ん中をつっきったからだ。そのまま市立病院のみえる出口から出ていった。
僕はコロッケをかじり、ビールの残りを呑む。昼のビールがやめられなくなったのも、あの津田の家で暮らしたころからだ。どこからかしゃぼん玉が飛んできた。視界を横に流れていく。遅れて、子供達の「次、俺やらして」「貸して」と口々にせがむ声。子供の輪の真ん中に少年がいて、得意げにしゃぼん玉をとばしている。ベビーカーに乗るほどでもないが、学校に通う年齢でもない小さな子供達だ。
やっぱりあの女だ。遠ざかる女のバッグから筒状に丸めたポスターのようなものが飛び出ているのをみつけて、ますます確信を深めた。前に会ったのはクリスマスの夕方だった。
11──2年前 クリスマス[#「11──2年前 クリスマス」はゴシック体]
新宿から各駅停車の私鉄で三駅目を降り、車通りの多い幅広の道をしばらく歩いてから中に折れると、ひっそりとした住宅街の角地に、木造の古ぼけた教会が建っている。
我々は結婚式をそこで挙げた。建物は古いが桜ややつでなど大小の木の植えられた庭は広く、よく手入れされているのが分かる。芝生にボールや輪のような玩具が散らばっているから、日曜学校の子供たちがここで遊んでいるのだろう。
門をくぐると外から直接二階に行ける階段がある。あがってみたが誰もいない。薄暗い礼拝堂の中に入り、左右に長椅子のある通路を奥までまっすぐ歩く。不謹慎かと思いながらそのまま壇上にあがってみた。
牧師の立つ講壇に聖書が置かれている。かたむいた聖書に窓からの光があたっていた。その位置から礼拝堂を見渡す。木の窓枠の外には曇り空がみえている。式を挙げる前に何度か通った礼拝のときに自分たちが座っていたあたりをみやった。僕も彼女もいつもあそこらへんで欠伸をかみ殺していた。出来の悪い学生のような気分だったが、欠伸がでるのは早起きが苦手だからで、礼拝に退屈していたわけではなかった。
我々は牧師の純粋培養されたような素朴なキャラクターや、木造りの椅子と祭壇とが醸し出す雰囲気とを愛した。
「向井さん」
突然呼ばれて振り向くと入口に牧師の奥さんが立っていた。
「きていただけたのですね」奥さんはにこやかに笑い、折り目正しくお辞儀をした。会場は下なんですよ、と奥さんはいった。一年前と変わっていない。好ましい人柄が佇まいから伝わってくる感じがする。
「二人で来るつもりが、急に妻の方に予定がはいってしまって」
「まあ」残念、牧師の奥さんは表情を曇らせた。
一階に降りると、壁には子供たちの描いた絵や、紙の飾りが貼られていた。
会議用の横長のテーブルがコの字型に並べられて、白いテーブルクロスがかけてあった。真ん中に牧師が腰をおろし、周囲には礼拝に通う信者や、教会員たちが座っている。端の空席に案内された。
どうやらクリスマス会に集ったメンバーのうち男性は子供を除くと牧師と僕だけのようだった。
この教会で結婚式を挙げようとした若者が珍しかったせいか、我々は随分親切にしてもらった。
僕が来るのを待ちかねていたように牧師は立ち上がって
「今日は遠いところを皆さんようこそいらっしゃいました」と挨拶をはじめた。
「人はすべてその人にふさわしいものを得るといいます」と牧師はいった。その言葉は突然僕の中に入り込んで、いきなり腑に落ちた。講釈も譬え話も必要なかった。
そうだ、すべて人はその人にふさわしいものを得るのだ。幼いうちに交通事故にあうとか、不慮の災難にみまわれるのでもない限り。
津田の家と暮らしがそうだ。今の僕の暮らしがそうだ。
「毎週土曜に中央教会の勉強会に通っております。先日遅刻しそうな時刻に家を出まして、駅までいったときに回数券の入ったカード入れと財布をうっかり忘れてきたことに気付きました。ポケットをまさぐりながら下を見るとちょうど往復運賃分の五百円玉が落ちていました。
……まさに人はすべてふさわしいものを得るといいます。来年も皆さんどうかよろしくお願いします」
牧師が冗談口をきくのをはじめてきいた。珍しいものをみたという感じで座が盛り上がり、拍手と歓声が起こった。
落としても割れないプラスチックの皿に料理が盛りつけられて出てきた。かぼちゃのスープとバジルの入ったポテトサラダ、メインディッシュの焼き豚の煮込みはとろけそうなほど柔らかく煮付けてあった。
どれもおいしい、と僕は思った。食欲が戻ってきている。いいことだ。無心に食べていると、僕の脇の席のテーブルクロスがめくれて、中から子供がデザートの林檎を手にもったまま飛び出してきた。
「こーらっ」遠くで信者の一人にコーヒーを注いでいた牧師の奥さんがたしなめる声をあげているうちに、二人、三人と次々に僕の側を抜け出ていった。追いかけられていた最初の一人はもう廊下に飛び出している。大人たちがは、は、はと笑いながら眺めている。
食事がすむと女たちが前のほうにぞろぞろと並んで、全員で賛美歌を歌った。牧師の奥さんが指揮をとり、度の強い眼鏡をかけたおばあさんが皺だらけの手でオルガンをひいた。子供たちはまったく聞いておらず、廊下から室内を入ったり出たりしながら遊び回っている。
座って聴いているのは僕と牧師だけだった。曲の終わる度に僕と牧師の拍手だけがひびいた。それでも歌い終えた女たちは皆満足そうだった。
賛美歌が終わると、今日出された料理の作り方を知りたいという声があがり、皆はそのまま厨房のほうに歩いていった。おばさんの一人が恥ずかしそうに話す声が聞こえる。
「とても簡単なのよ。豚肉の塊を買ってきてね。紐でしばって表面をこんがりと焼くの」女たちは一様にうなずいている様子だ。
「あらかじめ紐で縛った肉を売っているお肉屋さんもあるから、それでもいいのよ。それを鍋にいれてひたひたに水をいれ、固形のブイヨンを五個ぐらい、それで玉ねぎとレーズンをいれてね。あとはひたすら煮込むだけ……」
それだけなの? そうなの、簡単でしょう、などと交わす会話をききながらコーヒーを味わっていると、牧師が近づいてきて
「本日は遠いところをようこそおいでくださいました」といった。
牧師も変わっていない。温厚で物静かで、しかし意志の強そうな表情。我々夫婦のような憎しみや執着など今までに一度だって抱いたことなどないように思える。
いや、本当のところは分からない。そう決めつけるのはむしろ失礼かもしれない。だが、牧師のこの顔をみたくて僕は今日ここまできたのだ。完璧な人間がいないと知るのは安心することではあるが、それと同じくらい、自分には出来ぬことをちゃんと出来る人間がいるらしいと知ることも僕を安心させる。
「奥さんもお元気でやっていらっしゃいますか」牧師は僕の隣の空いた席に腰をおろして、気さくに話しかけてくれる。僕の仕事のことや、不況のことや、駅前の再開発のことなど、礼拝で語る話とは無縁の所帯じみた話ばかりを牧師はした。
勝手口から隠れていたサンタが出てきて、皆に大阪弁でプレゼントをふるまった。家に戻り、包みを開けるとクッキーと紅茶だった。
紅茶には自信がある。要するにこれは、厳密なマニュアル作業なのだ。津田の家の狭い台所にはポットが見あたらない。
「食事も一人で作れたけど、紅茶のありかが分からない」とかなんとか、歌う曲があったなと思いながら、ポットを探す。
津田の荷物は、すべて隣の部屋に置いてあった。津田は二部屋借りていたのだ。好きなものを取り出して使ってよいといわれたのに甘えて、隣室に入った。
隣室は足の踏み場がなかった。ほとんどの荷物は梱包されたままになっているようだ。大小様々の家具は緩衝材でぐるぐるまきにされていたし、引っ越し会社のロゴのついた段ボールはほとんど開けられた様子がない。
いくつか適当に開けてみるうちに背の高い花柄のティーポットをみつけた。新品同様で、結婚式かなにかのお祝いでもらったのをそのままとってあるという感じだ。ポットだけあってカップが一つもないのはおかしい。あちこち探してマグカップをやっと一つみつけた。
まずはポットとカップにお湯を少し注いで温める。温めているうちにお湯をさらに沸かしてぐらぐらと沸騰させる。
温まったところでポットとカップの湯を捨てる。ポットに付属の茶こしをとりつけて、ティースプーンに山盛り一杯の茶葉をいれる。カップに沸騰したお湯をいれてから、ポットにうつす。ほら、少しも難しくない。
ところが、注いだお湯は茶こしに入った茶葉の浸るところまで届かずに底のほうに溜まっている。一人分にしてはポットが大きすぎた。
茶こしを使わずに直接葉をいれて、注ぐときに茶こしを使ってもよかったのだが、一度お湯を注いでしまったからいまさら遅い。僕は舌打ちした。
このままでは茶葉がもったいないので、マニュアルからは外れることになるが、茶葉をさらに足して、やかんにあった残りのお湯をほとんど注いだ。食器を洗うつもりで多めに沸かしておいたのだ。たっぷり三人分はあるだろうが、どうせおかわりをするからいい。
再び隣室に走る。使えそうなカップを探した。マグカップ以外には、ビール用のコップや計量カップしかない。茶葉が開く時間は三分だから、もたもたしてはいられない。できればそれらのカップにも残りのお湯を注いで温めておきたい。
こういう性格が妻の気持ちを冷ましていったのか。一瞬立ち止まる。
茶碗をみつけた。それではまだ余ると考えて、仕方がないから「耐熱」と書かれた計量カップを使うことにする。
やがて台所に三本の湯気が立ち上った。マグカップを手にとり、口を近づけてすすって、満足した。とてもいい茶葉だと思い、教会でのもてなしを思い返す。天国とは、あの空間そのもののことではないか。
マンションの扉に鍵のささる音がした。まだ夕方の六時だ。津田がこんな時間に帰ってくるはずがない。不審者かと思い身構える。身構えたところでいざというときになにをすればいいのかは考えられなかったが。
扉が開き、知らない女が現れた。大きな鞄を手にもっている。津田の、新しい彼女か。女は怪訝な、というよりもなんだか不機嫌そうな顔をしている。
「どうも」僕は津田の友人で、少し前から泊めてもらっているのだと説明した。
「もしかして七郎さん」といったので驚いた。女は赤くつやつやした唇の端で笑ったように思えた。コートの襟のファーが純白なので唇が余計に目立つ。台所に三人分入った紅茶と、僕の下着姿を見比べながら女はいった。
「誰かくるの」
「いや」僕はマグカップを置いて、ベッドから半分ずり落ちているズボンを急いではいた。
「よかったら、それ飲んでいいよ」津田の彼女? と訊こうとして
「津田の知り合い?」と言い直す。女は答えずに、台所の茶碗をじろじろとみた。
「彼は?」
「今日も仕事みたいだよ」
「だったら伝えて。いくって決めたって」女は突然きっぱりとした口調でいった。
「どこにいくって」女はいえば分かるといった。くだらないことをきくなという感じだった。
「『私じゃなくても、いつか誰かに刺されるよ』って、彼にいって」女は僕を見据えて言い放ったが、その前の「分かる」の断定だけで僕はもう十分すぎるほどうろたえていた。
女はふと紅茶を手に取ろうとカップに触れて「熱ーい」といってますます不審げに僕を見た。飲むのはやめにしたらしく、そのかわりというように女は煙草を取り出して火を点けた。ずいぶんと細身の煙草で、すぐに吸い終えると、小さなシンクに押しつけた。
それから部屋を歩き回るとただでさえ少ない部屋の中のものをどんどん持ってきた鞄の中にいれていった。
ソファの下から引っぱり出したケースの中の下着や衣類を乱暴に放り込む。いくつかあるケースの一つにはちょうどいい大きさのカップや、なくて困っていたいろんな食器類が入っていた。ここだったのかと思う間もなく女はそれらを衣類にくるんで鞄につめてしまう。立ち上がってソファの上の毛布もひっぱがすと折り畳んで鞄にしまった。コートかけの上着も一つとって、コートかけのハンガーとフックまで壁から取り外して鞄にいれた。津田の上着はソファの上にだらしなく置かれることになった。
彼女の作業の邪魔にならないように、床にあった自分の鞄や衣類をあわててかき集めるようにして手にもったが、女は、僕が自分の持ち物をうっかり彼女の鞄に詰め込まれないように用心しているとでも思ったようだった。狭い風呂場までいってシャンプー類を鞄につめると、手付かずなのは窓際の事務机だけになった。
机の上のヘッドマウント型のディスプレイを、接続されたコードを引き抜いて鞄につめた。それからビデオデッキの「取り出し」ボタンを細い指で押した。隠れても駄目だというような手付きで出てきたテープをつかんで、それも鞄にいれた。
ビデオデッキとテレビゲーム機を鞄につめないのはそれが彼女の持ち物でないからではなく、重くて持ち帰るのが面倒だからに違いなかった。
机の引き出しをあけて幾冊かの本を鞄にいれているうちに、不意に存在に気付いたという様子で冷蔵庫の扉を開けた。
黒ビールを全部取り出すと、奥に隠してあった缶詰、多分キャビアかなにか、を取り出して、ポケットから出したビニール袋にくるんでポケットにいれた。
用意周到のようにも思えるが、ディスプレイの本体だけ盗んでコードやACアダプターを忘れていたりする。指摘すべきか、それとも行為そのものをたしなめるべきか悩んでいると女はヒールの高いブーツを片方ずつ脱いだ。ジッパーを降ろす音が鋭く響く。ブーツを床に脱ぎ捨てると、ソファにあがった。
女は壁にむかって両手を大きく広げ、ポスターをはがしはじめた。
ポスターをくるくると丸めると、鞄の少し開けたすき間に突き刺した。ブーツを拾い、ゆっくりと履く。
まだ台所に突っ立っていた僕のそばに戻ってきて、恐る恐る紅茶の入った茶碗を口に付けた。
おいしい、と目を丸くして、少し機嫌が回復したようだった。最後に七郎さんに会えてよかった、といって彼女は出ていったので、また驚いた。津田は僕のことをどんなふうに紹介していたのだろう。会えてよかったとはいったが、出会えたからというよりも、みることができて、という感じだった。
細身の煙草をつまみあげる。吸い口には口紅がついていなかった。水道水につけて、ゴミ箱に捨てる。片手鍋を捨てたのは津田ではなくあの女だったのかもしれない。
女が去ると部屋は前にもまして殺風景になった。窓から下をのぞき込むと、不格好にふくらんだ鞄をかつぐようにして女が足早に駅の方向へと向かうのがみえた。逆サンタクロース。
遠ざかる鞄から「トレインスポッティング」のポスターが飛び出ていた。
12──9月1日 午後2時30分[#「12──9月1日 午後2時30分」はゴシック体]
五階の窓からみたつづきを、真夏に公園でみせられたようだ。唇にだけ気を取られたが、女は薄着で、あのときは分からなかった胸の大きさが露わになっていた。まさか二年前と同じポスターをいまだに持ち歩いているわけではないだろうが。
「誰かが手に持ったかばんや袋の中からなにかがはみだしているのをみるとわくわくする」といつか妻はいっていた。
「スーパーのビニール袋からごぼうや葱がはみでていると、あれで今夜はどんな料理をつくるのだろうと思うし、東急ハンズの袋から細く丸めた紙がでていると、どんな楽しいものをこれから作るんだろうと思って楽しく、少しだけうらやましくなる」
実際にはあの女のようなのもいる、妻にいってやりたいと思った。
ズボンのポケットがぶるぶると揺れる。ちょうど妻からメールが届いた。
げんきー? わたしもきょうびよういんにいってきました。[#「げんきー? わたしもきょうびよういんにいってきました。」はゴシック体]
一瞬、病院と読み間違えてどきっとする。私も、の「も」は、おととい僕も花山さんに切ってもらったことにかかっているのだろう。
返事はうたなくてもいいだろう。向こうも気を遣って、返事をしなくてもよさそうな内容をわざと書いているのだ。多分。
携帯電話を元通り折り畳んで、ポケットに戻す。妻からは離婚して半年以上たった今も、二日に一度以上のペースで必ずメールがくる。「げんきー?」とか、「新しい傘買った」とか他愛無いもので文面も短い。ほとんど返事をうち返したことがない。
仮に元気だよと返事をしたとして、二人の間に一体なにを育むというのか。彼女は心身を失調しているようだ、とは共通の知人からきいたが、たまに会うとやつれている風にもみえない。
もうメールとかやめにしないか、ともいえずにいる。放っておくと何日かに一度、電話がある。文面と同じような、白々しいくらいに他愛のない会話になる。やり直そうという合図なのだろうか。それならきっぱりと断りの言葉が繰り出せるのだが、そういうわけでもないようだ。
「へぇ、また傘なくしたの」そんな上滑りな相づちで、彼女は満足なのか。妻は出勤前の、駅に向かう道すがらに電話を寄越す。時折高架下をくぐるかなにかで回線が切れると、そのままかかってこないこともあるが、そんなときはメールで「さっき切れちゃったごめんね」などとくるし、また数日すると電話は鳴るのだ。これから女を口説くとき、間違いなく邪魔なメールであり電話なのだが。
ビールを呑み干して立ち上がる。いつの間にかしゃぼん玉が増えている。せがまれて、親たちが何人かに買い与えたのだろう。買ってもらえなかったのか、それとも転ぶかなにかしたのか、子供の泣く声も混じっている。公園を抜けて家に戻ることにする。
津田の家にいつまでもいては申し訳ない、逆サンタクロース女の出現でますますそう思ったが、結局、別居先を定めたのは年が明けてからだった。
津田もそうだろうが、僕も住む家に頓着はしない。都心から離れて、ベビーカーを押してさんざめくママたちが大勢いるような住宅街に暮らしているのは、別にこの町が好きになったからではない。どこでもいいというだけだ。住めば都というほどではないが、少なくとも住めば家だ。
僕が津田の家に転がり込んだ、その晩に妻も家を出ていた。明かりがついていたとき、ちょうど荷物をまとめているところだったとずっと後できいた。将棋の感想戦のようだった。妻は家に書き置きをのこしていたが、僕がそれをみたのは年明けだった。
二人ともが一ヶ月近く家を空けていたことが分かると、さすがにこれは別居しようという気持ちになった。いきなり離婚しようというふんぎりはつかなかった。やり直しの余地もあるわけだし、と言い聞かせてはいたが、希望があるわけではなかった(文化がなくなるのは怖いのだ)。
「どこでもいいよ」君が住むところを定めたら、そこから二駅くらい離れたところにするからさ。変な提案をしているな、といいながら思ったが、妻は真面目に頷いた。
別居となると、両親に報告しないわけにはいかない。賃貸契約の保証人にはいまだに親の印鑑が必要なところばかりだ。
仕事の道具が増えすぎたので仕事場を別に設けたいとかなんとか言い訳をして、『スープの冷めない距離のご近所別居』を演出しなければならなかった。
高架をくぐる途中で自動販売機で立ち止まって、傍らの缶専用と書かれたゴミ箱の丸い穴にビール缶を押し込む。そのまま立ち止まって物色し、何も買わずに帰宅する。性欲用という単語を思い浮かべながら、顔の思い出せぬ女のメールに返事をする。つづけて津田にも、いかにも女が喜びそうな食い物屋を紹介しろとメールをうった。返事は一日おこうと思っていたのに、気持ちがそわそわしている。一度目で口説くのは安っぽいが、二度目で決めてしまおう。明らかに女に飢えているのだった。たまにはいい服着ていくか。いつかテレビに出たときにしつらえた、エルメなんとかゼニアの服を。狼のようなメールを送信し終えて、夕暮れの街に飯を食いに出た。
13──9月5日 午後7時[#「13──9月5日 午後7時」はゴシック体]
待つのが苦手だ。苦手なことは相手も同様に苦手だろうと思うからこそ、いつも間に合うようにいく。すると半々の確率で、こちらが少し早くなる。先にいると、よっぽど会いたかったのかと思われるのではないか。待つときは所在ない顔をしているに違いなく、それをみられるのも嫌だ。相手にではない。誰かにみられるのがだ。誰かとは誰なのかと問われれば答えようがない。三十を過ぎてなおこの自意識過剰。
都心の駅の改札で待ち合わせをすると、出てくる人がほとんど皆知り合いのように一瞬思われて、気付くと身構えている。やましいわけではないのだが、相手よりも先に気付きたい。似た顔と思うとじっとみてしまう。それで最近は改札に背中を向けるようになったが、改札に向かう人の群だってあり、あまり意味がない。
「あれえ、七郎さん」植松とばったり会う。こんなところで人待ちですか。
「まあね」女じゃないんですか。からかう口調になっても、植松はいつも柔和そうな顔をしている。ドカベンに微笑という名字の奴が出てきて、地顔が笑っているのだが、そんな風だ。
「メール読んでくれてますか」植松は腕時計を気にしながらも、僕と話をしたそうだ。
「読んでるよ」また一緒にやりましょうよ。嫌だよ。
ピルグリムサーガはK社の倒産の後、新型ゲーム機用にリメイクされることになったのだが、フリーの契約で参加した僕は発売元と衝突を繰り返した末に喧嘩別れしてしまった。納期の過酷さもそうだが、内容についてストレスのたまることばかり要求された。魔法のエフェクトをもっと派手に演出しろとか、ヒロインは冒険者にあるまじき薄着にしろとか、かとおもえばコスプレ需要にあわせてローブを着せろとか。何千円も払うのだから、五十時間は遊ばせなければ駄目だとか、それらの注文を受け入れることもだが、他のゲームとどんどん似てきてしまうことが嫌だった。
「だったら、僕の名前はいらないでしょう」エンドクレジットにも名前は残さないでくれと言い放った。発売されたゲームのデモンストレーションを店頭でみた。オープニングに(多分エンディングにも)きんきんした声の変な名前のアイドル声優の歌が入っていた。
「あ、今日あれなんで、またメールするっす」じゃ、植松は大急ぎで改札に走っていき、ほっとする。馬の場面を残してくれたお礼をいうんだった。しかし、あのリメイクプロジェクトのおかげで家庭まで滅茶苦茶になった。逆恨みなのだが、嫌なことをあれこれ思い出してしまう。
「すみません、遅れて」改札を出た女が笑って近付いてきても僕はぼうっとしていた。こんな顔だったか。女ははじめに店であったときと違い、表情に感激がある。
どうも。笑顔を返す。女も高そうな上着を着ている。津田に教わって予約した店まで並んで歩き始めた。
女は紙袋を提げている。街で買い物をしていたといった。高層ホテルのエレベーターに乗り込み、横顔をみる。この子を口説いたら、同じ職場にいるあの聡明そうな子のことは諦めないといけないのだなと思う。いや、まだ紹介してもらうという手がある。
年齢を尋ねると
「二十です」メールにも書きましたといわれて慌てる。
「そうだった、そう書いてたよね」女と細長いグラスで乾杯をする。女は迷わず強めの酒を頼んだので大丈夫、と優しそうな声音で問えば
「食前酒は少し強めがいいんですよ」といわれる。胃が空腹を自覚するのだそうだ。高層ホテルの二十三階の窓の大きなレストランだった。歯が浮くという言葉があるが、いるだけで存在が浮くような居心地の悪さ。夜景の明かりの粒の一つ一つが、津田の家の間接照明と地続きになっている。
ゲームの映像表現から、最近の映画の話題になった。女はこだわりを語る。タイタニックとか、ああいうの観て泣く人って許せないんですよ、と嬉しそうにいう。ハリウッド映画の、カーチェイスやラブロマンスの「配合されている」感じが好きではないという。
「分かる、分かる」やだよね、などと適当な相槌を返す。
「ほんと、嫌ですよ」女は勢いを得て語気を強くした。それからまた嬉しそうに笑う。歯が嘘みたいに白い。性欲用というときの津田の顔が度々思い浮かんで困る。
照明を抑え気味にしてある店で二人、肉料理を平らげる(ラグーのパッパルデッレってなんだ)。今時めずらしいバブリーな感じの店だね、とわざと肩をすくめるようにいう。本気で選んだと思われるのもマイナスだろうと思ったからだが、女はこういう贅沢が嫌いではなさそうでもある。
「すごいですよね」とアトラクションかなにかの中にいるみたいに声を弾ませている。二十歳ということはバブルも体験していないはずだから、高層ビルの中の瀟洒《しようしや》なレストランが夢物語のように映るのかもしれない。さりげなく、店のもう一人の女のことを聞き出そうとしてみるが、すぐに彼氏がいることが分かる。
「すごくかっこいい人ですよ」やっぱり。がっかりして赤ワインを飲む。
昔のゲームのことを褒められるが、落胆で耳に入ってこない。
「最近の、CGばかりが立派なゲームは嫌いですけど」と多くの人にいわれるのとまったく同じ台詞が出てくる。
「でも向井さんのは許せます」ああ、あの映像は向こうが後から勝手につけたものだから。僕は怒ってるんだけどね。フィル・スペクターのアレンジに憤ったポール・マッカートニーのようなものかと一瞬思う。そんな格好いいものでもなかろう。肉を口に運び、夜景に目をやる。
女はおそるおそるという感じで文庫を取り出した。僕はピルグリのノベライズも手がけたのだ。
「ペンネームなのに、よく僕が作者と分かったね」
「ネットで検索かければすぐに分かりますよ」本当に、近頃の女は機械に強い。ひところまで、パソコンなどいじる男性のことは白い目でみていたくせに。
「これも向井さんがお書きになってるんですよね」私、本当はこれが一番好きで。表紙が少し汚れている。やめてくれ、思わず目をふせそうになった。読み返すのも恥ずかしいものだ。久しぶりに表紙を目にする。アニメ調の、目の大きな少年と少女が荒野にたっている。
ゲーム中の準主役の青年の過去を書いたものだ。体から電気エネルギーを発する能力を持った少年。戦争中に敵に捕らえられ、肉体を電気人間として改造されたのだ。心を洗脳されて兵器として送り出される寸前に救出された。
少年は兵隊学校のような施設にいれられるが、電気人間に肉親を殺された少年達の目の敵にされ、元改造人間として差別を受ける。物語に差別を取り入れるのは手塚治虫のころからの常套手段だが、従来のテレビゲームの物語ではあまり掘り下げて描かれたことがなかった。
少年はもとから無口だったがさらに心を閉ざし、いじめや迫害にもじっと耐える。実はピアノの才能があって、旧校舎のピアノをこっそりとひくことが唯一の楽しみだった。学内には彼を理解する、もちろんまあまあなんかではなく美しい少女がいる。皆の前ではマドンナとして、少年を一顧だにしないようふるまうが、真夜中に二人は落ち合い、少年は彼女のために何曲でも演奏をする。
この世界が自分の能力や存在をきちんと認めてくれない。そんなルサンチマンを抱える人間が都合よく夢想するシチュエーションで、顔から火が出そうだ。だがこのノベライズはバカ売れして、今なおわずかながら僕の貯金を潤している。続編の話はもちろんあったが、断った。別のライターが引き継いだはずで、オリジナルビデオアニメの脚本にも僕はコミットしていない。
「またこういうゲームを作らないんですか」うん、なかなか難しくてね。そうですか、大変ですものね。きっと。
本当は、もうゲーム制作に携わりたくなかった。僕以外にも新作を発表しなくなったフリーのゲームデザイナーを何人か知っている。理由は様々だろう。売れないからと決めつけられて好きな作品を作らせてもらえない、労働に対してギャラが少ないなど。
「わがままいってるだけでしょう」リメイクの仕事をやめたと告げたとき、妻には手厳しくいわれたものだ。
女が絶賛してくれた「ピルグリムサーガ」のオリジナルはK社の社員としてつくったわけだから、世界で何百万本売れたところで僕の懐は特に暖まらない。ゲーム業界に携わるほとんどの人間はそれを当然と思っている。青色の発光ダイオードを開発した男が特許を巡って会社に訴訟を起こした話を聞いても、自分たちの環境を顧みたりはしない。
K社は僕の入社と前後して飛躍的に大きくなっていった。僕はパソコン用に三本、テレビゲームの下請けで二本を手がけた。都心のビルを借り、プログラマーだけでも数十人の規模になった。パーテーションで区切られた事務所は、ゲーム小僧が家出同然で転がり込むようなムードではなくなった。
バブル後の市場の冷え込みつつある中で、ヒット作に恵まれたK社は無謀な金の使い方をしていた。視察と称して海外のアミューズメントパークへの大規模な社員旅行が何度も組まれたりもした。ワンマンで気が大きくなっていた社長と社員の間には徐々に溝が広がっていった。ヒット作が出たからよいものの、パソコンゲームの需要は尻すぼみだったし、家庭用ゲームも次世代機戦争を間近に控えて先の見えない状態だったのに、上には危機意識がなかった。あるとき中堅どころがいっせいに会社を抜けた。僕は誘われたが断った。忠誠心があったのではなく、単に呑気だったのだ。
僕以外に残ったのは古参の幹部クラスとなにも知らないバイト青年だけだ。そのころから資金繰りにも苦しんでいたようだ。給料の遅延がしばしば起こり、やがて倒産した。
あのころバイトを雇う面接の時に僕が必ずしていた質問を不意に思い出し、女にしてみる。
「テトリスというゲームに、人はどうして熱中できるのか分かりますか」というのだ。
「単純なルールだから」「ラインが消えるのが生理的に快感だから」「スリルがある」大体、そんな答えが返ってくる。どう答えても結局採用したが、僕は満足しなかった。
「シンプルでスリルがあるからでしょう」女もいった。
テトリスは一ライン消すと一〇〇点が、四ライン消すと一六〇〇点が加算される。四ラインで四〇〇点ではない、そのことが面白さの源なのだと何故、誰も喝破しないのだろう。面白さはプログラムや映像が作ってくれるのではない、人間が恣意的に作り出すものだ。
そこを分からない連中と一緒では、よいものは出来ない。何ヶ月もタイトなスケジュールをこなすのならば、せめて甲斐のあるものにしたいではないか。
妻だけではない、同業者にもそんなの甘えだといわれる。どの業界も過酷だし、食っていけないと誰もがいった。でもそれは思考停止ではないのか。
同い年も含め、昔から若いスタッフ達は嬉々として会社に幾晩も寝泊まりを続けた。その光景は学生時代に埼玉のマンションを訪れてみたものと同じだ。モニターの上をめいめい気に入りのフィギュアで埋めながら、ヘッドホンで好きな音楽だけをきいている。大声で呼んでも誰も振り向かないので、僕は用件を伝えるために何度もヘッドホンのつるを指でつまみあげた。まずくてカロリーの高そうな食事をつづけ、健康状態をどんどん悪くしていく。待遇の悪さを愚痴りながら、彼らの顔はにやついている。実は好んでそういう暮らしをしたいのだ。業界や、そこにいる自分の将来を真剣に考えている人間はほとんどいなかった。
大体が人は一日に三時間も働けば十分だと僕は思っている。する事も特にないのに数あわせでいる奴は帰った方がましだし、何時間も集中力を持続できるはずがない。
携帯電話やメールに触れ、その便利さを実感する毎に思う。これで楽になって浮いた時間の分は、働かない方向に費やされればいいのに、世界は一向にそうならない。空いた時間を詰めて次の仕事をいれるようになっていくだけだ。
いつか三時間労働説を唱えたら津田は目を丸くして
「うん、おまえはそれが正しい」といった。僕の正しさと津田の正しさとあるということか。
そのころ津田もまさに幾晩もの寝泊まりを繰り返していた。会社に三年休まずに勤め、胃に穴をあけて入院したりしていた。
デザートと一緒にコーヒーがきた。デミタスカップは何度みても慣れるということがない。女は実家のエスプレッソマシンの話をしはじめた。おいしいのはいいけど、つくるたびに大袈裟な蒸気が出て怖い、と笑う。
「うん、尋常ならざる湯気が出るよね」相槌をうった後で、壊れてるんじゃねえのそれ、とサオリのようなことを思う。思いながらトイレにたつ。
会計をすませて、そのままトイレで小便をするが少し前からはじまっていた勃起がおさまらない。まあまあなのか、まあいいかなのかよく分からない。初回のデートで口説くなんてのは最悪の手。しかし、相手が感激している場合は?
やせ我慢をして終電前に別れた。駅の改札で、また是非誘って下さいと熱心にいわれる。往年のマニュアル通り。津田に電話を入れてみる。
現在、津田の会社は銀座の歌舞伎座裏のビルのフロアを二つ借り切っている。
こないだの、お店の女と飯食ったよ。津田も気にしていたみたいだ。成果報告ということで合流してしょんべん横丁で呑むことにした。
カウンターだけの狭い店に店員が二人、知らない国の言葉を交わしながら焼き鳥を焼いていた。小さな丸椅子に並んで腰かけて、酎ハイを頼む。
「なんだか、最近の女の子には根拠のない自信が感じられる」
「そうだな」
「どの女もまあまあだし」ブスなんてほとんどいないね。
「化粧がいいんだろうな」
「年齢も分からないし」津田はまあまあの女は性欲用に口説くといったが、実際には面食いだ。いや、以前も同じ話題になってサオリに抗議する口調で指摘されたとき、面食いじゃないよ俺はと言い張っていた。
「面食いじゃなくて、俺は顔面至上主義なんだ」と。
「何。何主義だって」
「顔面至上主義」津田は繰り返した。顔が倉木麻衣ならば、身体は小錦でもいいんだ、俺。
「なるほど」それは面食いとはいえないね。簡単に懐柔された僕だったが
「いません!」サオリはすぐさま叫ぶようにいった。いつも口の悪いサオリが、丁寧語になってさらに迫力が増していた。
「そんな人いません!」つっこみをいれるというよりもう少し激しい勢いだった。
「いればの話だよ、いればの」ネバーエンディングストーリーとかに出てきそうだろう。出てきませんよ。くるよ。二人はしばらく言い合っていた。
あのサオリは元気かと尋ねようかと思っていると、津田はモツ煮をすすりながら
「あ、サオリ呼ぼう」といって電話を取り出した。今日はあの非常口の分からない店にいるはずで、もうすぐ閉店の時間だ。
そういえば、こないだ近所であの女にそっくりなのをみたよといってみる。
「あの女?」あの、ほら、唇の赤い、丸めたポスターを鞄にさした女といってみるがまるで通じない。どの唇の赤い子、などという。家中のものをおまえの部屋から奪っていったやつだといってみてやっと
「あぁ!」と思い出したようだ。彼女、トレインスポッティングのポスターを、仕上げのように厳かに外したんだ。
「トレイン……なんだって」津田は空になったコップを持ち上げて、店員におかわりを告げた。津田は自室に飾られたポスターがなんだったかも憶えていない、というか多分、それがなんのポスターだったかはじめから知らなかったのだろう。僕もおかわりを頼んだ。
サオリはのれんをくぐってやって来るなりポケットから新型の携帯電話を取り出した。印籠をかざすように、津田ではなく僕の顔に近づけた。
「教えて、これ」ダウンロードしたゲームのことを教えてくれという。最近はゲームをやらないから分からないよ。と思って画面をみたら、自分がK社に入ってはじめに企画したパソコンゲームのリメイクだった。今、このゲームの版権は植松の会社にいっているのだ。
そういえば少し前にビジネス雑誌で植松のインタビューを読んだ。K社を抜けた後で立ち上げた会社は失敗し、別のカタカナの新会社をこしらえて社長になった。携帯電話の性能は、十年ぐらい前のテレビゲームのそれとほぼ同等であるから、我々にはそこで有効なコンテンツを提供するノウハウがある、と語っていた。
『最近の派手な画面にはない、昔ながらのゲームのよさってあると思うんですよ』植松もやはり、おふくろのつくる味噌汁みたいなことをいっていた。
タイトル画面から目を背ける。教えてよ、ここなんだけど。サオリが「つづきから」を選択すると昔と同じ音楽も鳴った。いやでも思い出して、どれ、といって遊んでみるが、自分のつくったゲームなのに恐ろしく難しい。霧に覆われた迷路を探索して敵を倒す。主人公が一度歩いたところは霧が晴れるが、霧の中でしかみえないシャドウという敵と、霧の中ではみえないフォグという敵といるから、やみくもに迷路を歩いても、動かずにいてもいけない。分かっているのに、すぐにやられてしまった。
「こんなボタンでできないよ」
「つかえない男」サオリは携帯電話を折り畳むと、店員の女に食べ物を注文した。応じる声からして日本人ではなさそうだ。
「ところで津田っちのラブはどうなの」レイコ、今日も店にこなかったよ。
「そうだ、こないだ紹介してくれるはずだった子はどうしたよ」僕もサオリに調子をあわせた。
「ラブか、ラブはもういい」津田は弱気にいうと焼き魚を箸でほぐしはじめた。
「最近は、ラブよりも弟子にあこがれる」とつづけた。弟子? そう、弟子。津田は持論を披露しはじめた。
「師匠と弟子は、世にあるあらゆる関係の中で、今やもっとも珍重すべきものだ。
恋人は裏切るし、夫婦は干からびるし、家族だって持ち重りが過ぎる。部下だって上司だって、扱いってものがある。バイトやパートはすぐに帰ってしまうし、美人秘書にはべらぼうな高給を払わないといけないだろう」
「まあ、美人はおしなべてそうだね」だろう、というように頷くと津田はおかわりのつもりで空のジョッキを持ち上げた。
「……とはいえ忠誠心に満ちた家臣だの執事だのといった連中もうっとうしい。彼らは、ときどき己の守るべき本分を越えて意見したり、果ては勝手な行動をとったりしてうるさい。『殿を思えばこそです、お許しを』とかいってな」津田ははき捨てた。かつてだれかにそう言われたことがあるかのようだ。
「だが、弟子は違う」弟子は言い返さない。絶対的な服従、それだけがある。
「会社でやなことでもあったの」サオリが口を挟む。
「社長なんだから、部下が大勢いるでしょう」サオリは携帯の画面をみたままいった。
「いやいや」津田は首を何度もふった。おかわりのジョッキが手早く運ばれてくる。
「社長は孤独だよ。一人だから、派閥すらつくれない」津田はもう論旨の全体が伝わっただろうという満足そうな表情を浮かべた。
「師弟は、体育会系の主従とも違うというわけか」弟子はときに師匠をあなどってもよいのだ。そうだとも、津田は頷く。サオリは携帯電話の画面に見入っていて聞いているのかよく分からない。
「師弟というのは、公と私、さらにはSとMの同時性なんだよ」そこまで話すと津田は携帯電話を取り出した。
「もしかしてレイコ?」サオリがいう。
「そう」津田は素早く返信をうちはじめる。
「フォロー入っております」サオリが実況解説者のようにいう。今月、彼女ピンチらしいしね。
「ふうん」分かったような返事をするが、フォローとか、ピンチという言葉の内実はよく分からない。津田に何度も連れていってもらうが、キャバクラ嬢の給与形態、休日のとり方、ヒエラルキー、それから彼女たちはなにをステータスとするのか、いつどんな理由でやめていくのかもみえてこない。門やソファや薄暗さというものであの世界はカムフラージュされている。
とにかく津田にメールを寄越したレイコという女は「今月ピンチ」で、津田に近日中の「同伴」を求めたい。もちろん津田は「挿入」まで持ちこみたい。どちらが魚か分からない釣りのようなものだ。
「ラブより弟子じゃなかったのか」といってみると津田は、弟子と関係を持つのもやぶさかでないと、関係あるようなないような返事をした。女からメールの第二信がきた。黙る必要はないのに一瞬三人とも沈黙した。
「悪い俺、ちょっと会ってくる」二通目を読み終えた津田は珍しく少し慌てた様子で立ち上がり、一万円札を置いて出ていこうとした。多いよ、こんなにとつまんで返そうとしたが、津田は構わずに出ていってしまった。
「大丈夫かなあ」津田が女に振り回されている印象というのは長い付き合いの中でもあまりない。取り残されて二人で呑む。
「七郎は、なんで七郎って名前なの」七人兄弟なの。ちがうよ、深沢七郎からとったらしいよ。
「誰それ」二人で呑むのは、そういえば初めてだ。
「ねえ、七郎はさあ」どうして離婚したの。ん。いろいろあったんだよ。
「いろいろってなあに」サオリは語尾の伸びた、どこかべたべたとした口調になっている。
「ラブのことだからね」抑揚をつけて津田を真似してみた。津田はいつか、喋りの下手なキャバ嬢は箸の使い方が下手だといっていた。津田の箸づかいは上手だが、魚の食べ方は汚かった。骨をつついて身を丁寧にとって、残りを食べる。
「寝取られたの、それとも自分がやったの」「青い疑獄」の展開を尋ねているようだ。
「そんなの」みれば分かるでしょう。自嘲気味にならないように、今度は抑揚をなくしていう。そうねえ、とサオリは答えた。
「津田にきいたけど、七郎の前奥、すごい美人なんだって」写真とか持ってないの、ねえ。
「ないよ」
「津田っちは歴代のガールフレンドの画像をほとんど携帯電話に入れてるらしいよ」そんなことをするのは津田だけだ。
「ねえ、前奥に未練とかないの」
「うん、ない」少し考えていった。綺麗に食べきった魚の皿を店の女がさっとさげる。
ほんとにぃ? 語尾を伸ばして笑うサオリの質問は、僕に対して尋ねているのではないみたいだ。視線が僕の背後のさらに遠くをみているようだった。
皿を洗う女と、料理を盛りつけている男がにこやかに異国の言葉で会話する様子が、なぜかだんだん恋人同士にみえてきた。我々が無駄飯を食う側でかいがいしく働き、美しさが相対化されている。
サオリは明日から京都だそうだ。なにしにいくの、と尋ねると前とまったく同じ調子で「整形」と返ってきた。京都は整形のメッカだという。本当かなあと思いながらサオリの横顔をみる。サオリはもう十分に美しい。言い換えるとすれば、もう十分に整形されている。
「まだやるんだ」カウンターに片肘をつき、テレビの画面を眺めるように横顔に目をやった。
「やるよー」やるとも。サオリは毅然といった。
「サオリに足りないのは微笑みだよ」率直に口にした後で、とてもくさいことをいってしまったと思った。だが、サオリはザッツライト! という顔で僕をまじまじとみて
「分かってるんだよ、そこなんだよ、そこ」と力強く賛同した。
サオリだけではない。津田がこれまで「オトして」きた女たちも、顔面至上主義と豪語するだけあって美しいのだが、表情の抑揚に乏しい感じがあった(全員が整形しているかどうかは分からないが)。実はこれまで羨ましいと思ったことがない。唯一、僕が激しい表情をみたことがあるのはあの唇の赤い女だけだ。
サオリは津田の恋人ではない。セックスフレンドでもない。津田はそう断言していたが、本当かどうかは分からない。
「でもやるんだ」もう一度訊くと、やるよ、とまたいった。
津田の一万円で支払いをすませ、二人、別々のタクシーで帰る。珍しくタクシーの運転手が話しかけてこないので目を閉じる。弟子のゲームはどうだろうか。
昔はアイデアを思いついたときのためにノートを持ち歩いていたのだが、ないので腕組みをして考える。
ウィザードリイの昔からロールプレイングゲームといえば、個性の異なる複数のメンバーで冒険をするものが主流だが、そこには魔法使いや戦士などの職業の概念しかない。対等なメンバーよりも上下関係があった方が、より面白い会話が生じるはずだし、物語にも奥行きが出るのではないか。西遊記や、義経と弁慶のように印象が深まるだろう。
テレビゲームはキャラクターが地図上のフィールドを一列縦隊になって歩き回るものばかりだ。それを「弟子が捨て犬のように勝手に後をついてくる」図式に置き換えてみたら。弟子も猪八戒のような愚鈍な奴からサンチョ・パンサタイプまで様々に造形して、どんな街で出会い、どんな因果で同行するはめになるのか、考えるだけで面白そうだ。
「お客さん」やはり話しかけられる。なんとか通りを通っていいですか。
「あーはい」多分。車に乗らないから、道順も分からない。
はじめのうち、実は主人公一人で闘った方がよほど強いことにすること。ゲームバランスをそのように調整しておくこと。プレイヤーは足手まといの奴を置いていくこともできるようにしよう。そのことに気付いたプレイヤーは十中八九、自らの意志で弟子を置き去りにしようとするが、弟子は必ず追いかけてきてしまう。「せんせーい」と叫びながらひたひたと健気に走り寄ってくる様には多くのユーザーがぐっとくるだろう。メディアが変わろうと表現が過激になろうとも、イノセントがうけないなんてことはないはずだ。
目を開けて窓の外をみれば月。眠って、起きたら忘れてしまうかもしれぬ。なにかいいことを思いついたという感触だけを覚えている、なんてことがままあるのだ。
14──9月10日 夜[#「14──9月10日 夜」はゴシック体]
またあの女と会う。こうなれば、とことん往年のマニュアルっぽく口説いてやろうと高層ホテルの一室を予約した。ホットドッグプレスのような雑誌が幅をきかせていたころ「マニュアル男」という言葉も同じように浸透していた。それを遂行するだけの予算も面の皮の厚さも当時の僕にはなかった。今ある貯金にしたって、ゲームがもたらしたわけではない。数年前に例のノベライズが当たった。今は印税を取り崩して生活しているようなものだ。
手始めに演歌のかかる赤ちょうちんの飲み屋に連れていく。
「こういう雰囲気の店って、好きです私」女はマニュアルに乗ってくれるようである。日本酒をぐいぐいとあおる。
「本当は働きたくないんです」昼間は秘書の学校に通い、夜も店で働いているというのを褒めると、女は溜息混じりにいった。
「じゃあ結婚したいの」というと、そんな「牢獄」はいやだと返される。学校の同級生は玉の輿のことしか考えていない馬鹿ばかりだという。
「なんか自分の将来のこととか真剣に考えている人って、いないですね」僕のようなことをいう。
「本当はディレッタントとかデカダンに憧れるんです、私」
「デカダン」相槌をうつが、僕が発するとなにかが動いた音みたいだ。
「そろそろ出ようか」といってから驚く。今、そろそろ出ようかっていったのか。そんな台詞が、自分の口からも自動的に出てくるものなのだ。勘定をすませる。日本酒は久しぶりだ。勃起しているし、トイレにいきたい、その両方でよろめく。先、いってて。店の奥のトイレに入る。シャツの内側で手をふいた後で、今日はちゃんとハンカチを尻ポケットにいれていたことを思い出した。
いつかホテルのロビー脇の喫茶店で知り合いにばったり会ったことを思い出した。早く部屋にたどりつきたい。不倫するなら、最上階に喫茶店のあるホテルにしろと週刊誌に書いてあった。エレベーターで知人と偶会しても言い抜けが出来る。その有用性が身に染みて分かる。そわそわと急ぎ足になりそうな意識を押さえつけながら、部屋までの廊下を歩く。
携帯電話の電源を、女に悟られないように切る。切りながら、変だと思う。やましいことはなにもないのに、妻からの電話やメールの着信を説明するのが面倒だ。
女は部屋を暗くさせた。服を脱がし、肌に触れると敏感に身を動かし、声をあげるようになった。
だが、津田が大事にするところの挿入という段になると女はぐっと身をかたくして「ゴムして」と、そこだけ平らな声でいった。マニュアル外から発せられた声だ。いや、これこそがマニュアルか。女の前でコンドームをつけるときの気まずい静寂を思い出す。上手に下着を脱がせることができても、これだけは片手間にできない。
入れるときに、女の側が脚を大きく開かなければいけないのは少しだけ嫌だろうな、といつも思う。自分がそうするのを想像すると滑稽で恥ずかしく、興奮が少し冷める。男が大きく脚を開いて女が閉じたままで結合するのは不可能か。津田だったら社長らしく「仕様だから」というだろう。
「ん」嫌だろうと思いながら入っていき、意地汚くどんどん大きく開かせてしまう。
「あっ」女はあえぎながら腰に脚をからめてきた。腰の裏に、なにかささくれのようなガサガサした感じがあたって気になる。久しぶりだからすぐにいってしまうかもしれないと思ったが、酒の呑み過ぎか、いつまでもいけない。「九分九厘、最後までいく」のではなかったか……。
行為が終わると、向井さんって激しいんですね、とからかわれる。女は携帯電話の目覚ましをセットして、割とすぐに寝てしまった。初めて寝ると、その後で女は順番に目をつぶらせて利き目はどちらかを確認したり、手をとって爪の形や艶をたしかめ、栄養状態が悪いとたしなめたりすることが多いが、もう小さな鼾をかいている。拍子抜けの気持ちで起きあがり、窓から夜景を眺める。ホテルに備え付けの薄い浴衣はもうはだけている。朝までにもっとひどく着崩れてしまうだろう。
翌朝、また会って下さいねと明るくいわれる。
「うん」歯切れの悪い言い方になったが女は、忙しいですもんね、と勝手に了解してくれた。
「まあ、でも出来たら連絡しますよ」昨夜の『そろそろ出ようか』が、ですます調になっている。
「ほんとですか」忙しいといえば簡単に信じてもらえるのは楽だ。
電車に乗って家に帰る。こないだの始発と違い、車両にいるのは通勤客ばかりだ。電車の中で携帯電話の電源をいれると、少しして妻からメールが届く。
おはよう。今日はいい天気だね。[#「おはよう。今日はいい天気だね。」はゴシック体]
いつもは午後なのだが、今日に限ってこんな早い時間の送信。僕の行動を見透かしているのか。だが離婚もして八ヶ月もたって、このうえなにを見透かそうというのか。女の直感というような言葉を僕は信じていない。信じていないのだが、それは「女の直感」という言葉を信じていないだけで、そのもの自体は信じざるを得ないと思うときがある。
帰宅すると、アパートの窓の前に家を出る前にはなかった足場が組まれていた。こんな古い建物に、今更何を施すつもりだろう。カーテンをずっと買わずにいたので、敷きっぱなしの布団も、散らかった部屋も丸見えだ。とっかえひっかえして、着なかったスーツがそのまま畳に広げてある。舌打ちをして、しかしそのまま布団にもぐって眠ってしまう。
目覚めたときには足場のことを忘れていて、昨夜の行為を思い出しながらうっかり自慰にふけりそうになった。窓の外を人の気配がして慌ててがばりと起き上がる。気付かれたか、気付かれていないか、足場の位置は高くて、長靴と太股しかみえないから多分気付かれなかったろう。立て膝になって窓際に近付くと、向こうも気付いてすみません、と声をかけてきた。開けて応対する。男はかがんでいった。
「樋《とい》が壊れて、お隣さんの敷地に雨水が垂れ落ちるって苦情があったんですよ」隣の塀も、家の壁もとても近い。見下ろすと、僕が少し前に落としたバスタオルが、向こうの塀と壁の間の地面にまみれているのが分かる。住人のためではなく隣のための工事ときいて腑に落ちる。
「かかりますかね」そうねえ一週間ぐらいだと思います。そうですか。窓をしめるが落ち着くはずもなく、外に出る。曇っているがまだ少し蒸し暑い。いつもの公園にいく。こないだの女はいない。子供の姿が多く、父親らしい男の姿もみえる。土曜日か。しゃぼん玉は誰もやっていない。ソフトクリームを食べている子が多い。
妻から電話。朝のメール届いたかとやはり尋ねてくる。僕は端っこのベンチに腰をおろした。空いているベンチには理由がある。いつもじめじめしていたり、極端に日が当たったりするから空いているのだ。我慢して腰をおろす。
「読んだよ」やはり妻は返信のこないことに不満をいわない。無事に届いていてなにより、という風に「よかった」という。
「そういえば髪切ったって? 僕も少し前に切ったところ」十日ほど前のメールの文面の話題から、美容師の花山さんの話で盛り上がる。子供達が通り過ぎるたびにソフトクリームを食べたい気持ちが増していく。ソフトクリーム食いてーな、うっかり漏らすと
「アイスじゃないけど、もらいものの、おいしいシュークリームがあるから今から持っていくよ」妻は嬉しそうにいう。断るのだが、いいからいいからと言い張るので公園にいると告げる。
「ベビーカーとベビーとマザーの公園ね」僕の言い方を真似て妻は電話を切る。車で、十分かかるか、かからないか。
「太った?」妻の第一声はそれだった。うん。最近は津田と会って呑んでも必ず一度は『子猫ちゃん』の話になる。
「子猫ちゃん?」そう。お腹に子猫ちゃんを飼い始めたよなって。僕は腹を愛おしそうに撫でてみせた。ベルトの穴が移動しないので太っていないだろうと思っていたら、中年太りはまずベルトの上に乗っかってくるのだ。
「あの人は太ると思うな」津田のことを妻はそういった。
「あいつは夜遊びばかりしてるしな」そうじゃなくて、顎のラインで分かるのだという。
津田を彼女に紹介したときのことはよく覚えている。まだ津田は激務の会社に在籍していたが、婚約の報告をすると「ぜひ会いたい」といって時間をつくってくれた。妻はもうすぐ僕と一緒にいく旅行の話をした。津田はしきりにうなずいた。メディチ家ですよね、とか、その辺りでF1が開催されるんですよ、などと当意即妙なことをいって会話を弾ませたが、最後に「行きたいところがあるっていいですね」といったのが妻にはひっかかったようだ。後で「津田さんって如才ないけど、なんだか馬鹿にされてるみたいだった」と感想を述べた。
「そんなに太ったなら、シュークリームやめとく?」いや、食うよといって手を差し出す。長四角の箱にシュークリームが三つ入っている。ずいぶん大ぶりだ。取り出してかぶりつき、指に付いた粉砂糖を舐め取る。通り過ぎる子供が羨ましそうにこっちをみた。隣に腰をおろした妻はシュークリームに手を付けようとはせず、視線だけをそれに向けながら私さあ、トロントにいくかもしれないんだといった。
「トロント」口の周りも舌で舐めながら、昨夜もそんな風なカタカナの言葉を間抜けみたいに反芻させられた気がした。すぐに「なんで、また」と言い足す。
「うん。今、ほら……お付き合いしている人がね」いいにくそうにする必要はないのだ。
「彼氏ね」そうそう、彼が仕事でね。そういえば海外で働く人ときいたことがあった。妻は困った顔をしているが、こっちもどう返事をすればいいか分からない。
のこりのシュークリームと箱をみながら、これはもらいものではないなと思った。僕は鈍い男だが、気付くときは気付くのだ。妻はトロントのことをいいたかったのだ。
忙しいんだね、いいじゃない。そういおうとしたが、やっぱりやめて
「トロントってカナダだっけ」にする。
「そう」オンタリオ州の州都だってさ。そういって妻もシュークリームを一つ手に取った。遠くで子供が一人、またとても羨ましそうな顔をしてみている。
「オンタリオ」こんなふうに地名だけを繰り返しいったことがあった。妻とではなく津田とだ。
「そう」オンタリオ湖のある。妻はシュークリームをかじり、僕と同じように指をなめた。
15──2年前 クリスマス[#「15──2年前 クリスマス」はゴシック体]
唇の赤い女が肩をいからせながら去った後で、津田に電話を入れた。部屋中のものをすべて持っていかれたと間抜けな説明をする。
「今夜呑もうぜ。会社まで出てこれるか」津田は状況がのみ込めないのか、予想していて気にしていないのか、そんなことをいった。
パソコン通信からインターネットの時代になって、津田はWebページ制作の会社を立ち上げていた。
コートの襟をたてて、ついさっき女の歩いた道をたどるように駅に向かう。ベンチャーで会社を興した知人の話から、合資会社は有限会社とくらべても失敗時のリスクが大きいということは知っていた。津田は焦っているのではないか。
並木通りの外れの方は、道を折れたわけでもないのに、途中からいきなり人通りが減って静かになる。何とか画廊隣、とおつかいにいかされた子供みたいに心中で繰り返しながら歩いたのに、通り過ぎてしまった。後戻りしてみつけたビルはシャッターが半分降りている。壁面も古そうな佇まいだ。
身体を折ってシャッターをくぐると婆さんがうさんくさそうに僕をみた。足元に猫がいる。毛並みの悪い、強そうな猫だ。狭い階段をこつこつのぼっていくと三階の扉は木製で、ピージーとプレートが白じろとかかっている。金のドアノブは幾たびも人の手に触れたらしく、いい感じにくすんでいる。
チャンドラーの探偵小説のような扉にぞくぞくとする。いい、この雰囲気。津田、でかした!
だが僕を喜ばせているようでは会社としては成功しないかもしれない。ノックする前に津田が出てきた。部屋の中央に机が四つ、向かい合わせになっている。パソコンが四台。タワー型のが三台と、一台は当時出て間もないiマックの新機種で、ほうと声がもれた。
バイトの若者が一人、ヘッドホンをしたままマウスをいじっている。かつて僕がみてきた職場と同じ光景。天井は埋め込みの蛍光灯だが、アルミサッシではない、古い木の窓枠に僕はまた感激した。
「スチームもいいね」壁ぎわのそれに手を触れそうになって、思いとどまる。あと、猫もいい。
「ああ、大家の飼い猫な」津田はお気に召さないらしい口調で、コーヒーメーカーのコーヒーを紙コップに注ぎ、手渡してくれた。
夜だね。窓に寄り添って外を見下ろす。向かいの寿司屋が、ちょうどのれんをしまうところだ。道は静かで、さっきのとは違う痩せた俊敏そうな猫が油断なさそうな足取りで歩いていた。いつもこんな遅くまで頑張ってるの。
「ここのところは泊まり込みだな」な。津田が同意をうながすと、端の席にいる貧相な体つきのバイトの若者が頷いた。ヘッドホンからかすかに音がもれていて、なにをいわれたか本当は分かっていないのではないか。
胃に穴があくまで働かされて病床で起業を決意したのに、やはり同じように働くんだな。口から出かけた言葉はまるで親のような、おせっかいなものだった。
「実績のない会社は、最初が肝心だからさ」表情に出たのか、逆に励ますような言い方をされた。
売り上げみる? というとバインダーを開いて寄越した。表計算のソフトでグラフが描かれている。
「こっちが先月、これが今月」へぇ、すごいじゃない。
昔、散々みせられたテレビゲームの大学ノートと同じだ。津田オーナーはいくつビルを建て、津田部屋からは、横綱を何人輩出したのだったか。
女やゲームのように仕事までその成果をみせたがるのは、自慢といえばその通りだが、その表情は自慢げというよりも無邪気だ。猫が、鼠をつかまえてきて、飼い主の目の前でぽとりと落とす。僕は別に津田の飼い主ではないのに。
「おい大輔」津田は僕が以前ゲーム開発部の若者たちにしていたのと同じように、バイトのヘッドホンのつるを持ち上げていった。
「今から七郎と飯いくけどおまえもくるか」大輔と呼ばれた若者は、あーいいです、もう少しやっちゃいますと返事した。
津田は、今日は家の近くで呑もうといった。妻の仕事場もここから遠くない。近場で呑もうといわれず、ほっとする。ロケットの家かと思ったら、千葉の団地の方向に乗り換える。
「お母さんはその後どうなの」ん。まだ通院してるけど、とりあえず大丈夫。あの団地は出て別のマンションに住んでいて、空いたところに津田は女と暮らしているという。
かつてよく吸い込まれたパチンコ屋の裏に津田の馴染みの店はあった。店内は暗かった。津田には「馴染みの店」がいくらでもあった。ジャズが流れているバーだったり、うらぶれた路地裏の居酒屋だったりした。だがどこに連れていってもらっても、照明は暗いのだった。今日連れてきてもらった店は、奥に畳の座敷もあるのに手前にはピアノが置いてある変な居酒屋だった。
腰かけてメニューに目をやりながら津田が尋ねてくるであろう質問、家を出た理由を頭の中であれこれ考えた。
「ちょっと喧嘩してさ。くだらないことでさ」本当はそうではなかった。
「喧嘩の理由って、大抵くだらないよな」津田は笑った。まったくなんの追及もしてこなかった。
「俺の前の彼女なんか、部屋の灯りは蛍光灯じゃ駄目で電球でないとぬくもりがないって泣いたんだ……それで別れたわけじゃ、もちろんないけど」
「うちの喧嘩も似たようなことだよ」そうではない。感情的に言葉を発したのは僕だけだった。彼女は最初から最後まで落ち着いていた。
「喧嘩するほど仲がいいっていうもんな」津田は店員に焼酎を頼んだ。親しげに頷く店員は津田のことを見知っているようだ。
津田はいつの間にかスーツ姿が似合うようになっていた。シンプルだが高そうなシャツの間で揺れていた丸くて大きな首飾りなど、初めからしたことなんかないような顔をしている。僕の記憶にだけあの揺れが残った。なぜ二人が意気投合したのか、改めて不思議に感じる。
そういえば津田は焼酎を呑むような男ではなかった。カクテルに詳しくて、当時からいくつもあった馴染みの店でてきぱきと注文をして、おすすめのカクテルを呑ませてくれた。津田がナントカカントカを一つ、と告げると、店員は馬鹿みたいに高いところから酒を注いでみせてくれた。
「あのころはバブルだったし、俺は嫌なガキだったから。それに、あのころはカクテルの知識ぐらいでひっかかる女もいたけど」焼酎をすすりながら津田は懐かしそうにいった。
「そういうのはやっぱり駄目なのが多いな」津田はこのときは性欲用という言い方まではしなかった。
「でも、おまえたちは羨ましいよ。本当に仲がいいものな」お世辞じゃなくて本当にそう思うんだと津田は繰り返す。
何もいえずにいると携帯が鳴った。「フニクリフニクラ」のメロディだ。周囲の誰もでようとしない。随分間近で鳴っているように思える。しかめつらをしていた津田がしばらくして急に
「俺だ」と驚いていった。あわてて背広から携帯を取り出して
「はいもしもし」と送話口をおさえるように(そうしないといまのふざけた音が先方に聞こえてしまうとでもいうように)、会話をはじめた。しきりに相づちをうち、電話を切ると
「あいつ、勝手にメロディ編集しやがった」といまいましそうにいった。
「嫌いなこと知ってるんだよ、俺があの唄。七日前から付き合い始めた女なんだけどさ。ノートパソコンの壁紙も、寝てる間に勝手に書き替えちゃったんだよ。それも変な、花畑みたいなの」最近の女はメカに強いな。
「そういえば昼間、女がきたけど」
「どんな女だった」津田はいきなり真顔になった。今現在、何人の女と付き合っているのかという疑問が浮かんだが、それは後回しにすることにした。
「なんか、唇がすごく赤くて」
「あいつか!」津田はいった(このときはすぐに通じた)。目が正面を向いている。怒っているのだろうか。
「ひどいんだ!」津田は大声で叫び焼酎をがーっと呑み干すと
「本当にひどかった。ひどいことした」といってふーっと息をついた。遠くでレジスターがレシートを印刷するカタカタいう音が響いた。
「なんかいってたか」今の口ぶりや昼間の女の様子から「ひどいことをした」のが津田だとは分かったがどんなひどいことをしたのかは津田はいわなかった。携帯のメロディを勝手に入力した女とはもちろん別人であるらしい。
女が別れの言葉をいいにきたことは察しているようだった。「刺されるよ」のところはとりあえず置くことにして
「いくことにしたって」
「ヘルシンキにか」
「ヘルシンキ」僕は反芻した。さあ、そうなの?
「ヘルシンキっていったら」二人で居酒屋の天井の照明をみあげる。
「フィンランドか」僕がいうと津田は、ふんと鼻を鳴らしてまたコップをあおった。
「フィンランドっていったら、あれか」と津田は続けようとしたがなにも思い浮かばないらしい。僕も浮かばない。
「北欧だな」
「そうだな」
「なにしにいくって」
「聞いてない」おまえは聞いてないの、というと津田はうん、と頷いて焼酎を呑み干した。ちょっとピッチが早くないか。
「何人と付き合ってんの、今」やっと尋ねることが出来た。津田は、それに答える代わりに
「俺はね。恋愛は駄目だよ。他人の気持ちが分からないんだ」と弱音をはいた。自嘲ではなくて言葉の通りだという。
「だって他人は俺じゃないから、分からない」女は、分からないことが分からないようなんだ。分かろうとしないだけでしょう、なんていうんだ。
「ああ、分かるよ。分からないのが分かるよ」僕も力強く賛同して焼酎を呑む。
「いや、おまえたちは分かり合ってるじゃないか」と津田はいった。おまえたちはいい、おまえたちはいいと何度もいって机に突っ伏した。
「よくないよ」離婚するかもしれないんだ。僕はついにいったが、津田は泥酔して寝入っているようだった。
いつのまにか客は我々二人しかいなかった。何度かレジの音と「ありあとあしたー」という店員の声がつづいていたので、客は閉店で次々と店を出たのだろう。
店員があちこちの椅子をテーブルの上に積み上げはじめている。津田が常連だからか閉店した後も声をかけないでいてくれているようだった。
「俺、もうカタギの女は口説かない」といってみたり、「大輔がもっと育ってくれればなあ」と職場の話をしたり、ぶつぶつとうわごとを繰り返していたが不意に
「なあ七郎、おまえ俺が女に刺されるかなにかで死んだらさあ、ヨットで沖まで出て、夜明けに俺の骨を散骨してくれるか」などといいだした。船舶免許もないしヨットも持ってないよと答えるとガバリと起き、僕の顔をみて
「俺、おまえのそういうところ好きなんだ。いつでも打てば響くように台無しな答え方してくれる」と微笑んで、またテーブルに突っ伏した。「いつでも」ってことないだろう。抗議しようか迷っていると
「ピアノひいてもらおう」津田は横顔をぺたりとテーブルにつけたまま目だけ僕のほうを向いていった。
「ここ、あるんだよ」焼酎なんか出すくせにさ。センスないんだよ。ピアノなんかあるんだ。
「マスター、ピアノ」津田は大声で叫んで立ち上がった。
マスターと呼ばれたのは椅子の片付けをしていた気弱そうな男だった。入口脇のカウンターの側のアップライトのピアノの上には洋酒のボトルがいくつも置かれている。置物や知らない人の色紙なんかが置いてある。
「すみません」調律狂ってると思いますよ。マスターがいった。
「すみません」僕も謝った。
マスターはジムノペディをひいた。聞いている津田はろくでもない酔い方をしている。
マスターが少しだけひいて演奏をやめると、津田は机に突っ伏したままで手をふった。つづきをひけということだ。
しばらく聞いていたが、津田はよろよろと立ち上がり僕の肩に手をのせた。それから入口脇のトイレにかけこんだ。
マスターは、津田が吐いている間演奏はどうしたものかと思ったようだがとりあえず向き直った。トイレの扉が薄いのか、ピアノの音に混じってうぇーっという声と、吐瀉物が便器をぴたぴたと叩く音が聞こえてくる。とたんに今度はこっちが吐き気に襲われた。
出てくる津田と入れ代わりにトイレにかけこんでしこたま吐く。外から津田のうー、と呻く声が聞こえてくる。
マスターはセロニアス・モンクをやった。妙なためをつくったり、無駄にうまくて気味が悪い。津田がまたトイレにかけこみ、胃液だけになった液状のゲロの音がまたかすかに聞こえ、入れ違いにまた僕がトイレにかけこんだ。曲はラウンド・アバウト・ミッドナイトだった。
16──9月11日 午後[#「16──9月11日 午後」はゴシック体]
妻と一緒に公園を出る。妻は別に引き留めて欲しかったわけではないようだ。
「いこうかどうしようか迷っている」ということだ。僕は一応「トロントって寒いんじゃないの」といった。馬鹿みたいな助言だと分かってはいたが、妻が無類の寒がりなことを知っていたのだ。
「そこ、そこなんですよ」(ザッツライト!)妻はサオリみたいな言い方をした。
「んじゃまたね」路肩に停めた軽自動車に乗り込む。
「運転気をつけてな、その、あ、車のね」車名を間違えていいそうになる。軽自動車はなぜか全部アルトといってしまうが、妻はホンダにこだわりを持っていて、間違えると怒る。
「わかってる」妻の車は公園をまくように右折して病院の陰に消えた。別居中はもう少し心配な気持ちになったが、今はそれほどでもない。発進も上達し、右折もスムーズになったからだが、他人になったというのも大きい。
シュークリーム一個入った横長の箱をぶらぶらさせて戻る。帰宅したところで津田から電話がきた。
結婚式の夜に時間調整で入った高いバーで待ち合わせる。コンクリートのうちっぱなしのビルの四階の、会員制の店だったが似たビルが三棟隣り合っていて、どれだったかうろ覚えだ。前回はホテルからタクシーで乗り付け、津田のお尻にくっついていて、よくみていなかった。路上に看板などもない。
歩道で建物を見上げていると、足元に犬が走りよってきた。赤い紐を垂らして引きずっている。スコティッシュなんとかいうやつだ。道の向こうから女がすみませんと声をかけてきた。一瞬誰かと思うが、店の給仕の女と気付き、慌てる。
「紐、うっかり離しちゃって」すみません、女は近付いてきて紐を掴むとまた謝った。
「津田さんと一緒にきていた方ですよね」また待ち合わせですか。女は笑っている。僕のことを例の同僚からなにか聞いただろうか。今日は長い後ろ髪を結わえてポニーテールにしているが、全然構わないと思わせるどころか、いっそう知的にみえた。
ボクは違いますよ。キャバクラとか、そういうところにはいかないですから。津田の付き添いだったんですから。と今ここでいったらどう思われるだろう。
ボクはバツイチで、君の同僚の子を口説いて寝てみたけど、やっぱり愛のあるセックスの方がいいな、とつくづく実感したところですから。
「犬の散歩ですか」
「そうなんですよ」狭いエレベーターに女と乗り込む。犬は女の足元でおとなしくしている。二人、階数の表示を見上げる。向井さんって、ゲームデザイナーなんですよね。女は僕の顔をみていった。
「はあ、まあ」
「すごいですね。頭良さそうですもんね」つまらないことをいってしまったというふうに女は俯いた。頭良さそう、は「いい人」と同じくらいに見込みのない、男をへこませる言葉だ。エレベーターの扉が開くと犬がととっと走り出した。カウンターの手前に立って客と談笑していた女主人のところに駆け寄る。
津田は先にきていた。前と同じ奥のソファ席でくつろいでいる。スーツでなく普段着だったので少し驚く。
やがて制服に着替えた女が僕に微笑んでタオルを渡してくれた。
携帯電話のカメラで撮ったという例のレイコという女の写真をみせてもらう。旅館の浴衣を着ている。
背後で犬がないて、カウンター席の中年客がどっと沸いた。女はトレーを片手に戻っていった。顔を忘れていたのに、会うと未練がましくなる。向こうで中年が犬の名を尋ねている。
「プリウスですよ」教わると、抱きかかえ、キスしかねない距離で、かわいいねぇとべたべたした声をあげている。ビールをトレーに載せて厨房から出てきた女はまた少し首をすくめるような動作をした。
「そういえば、サオリは京都にいってるんだっけ」
「今日は料亭にいったってよ」また携帯電話で、サオリから届いたという画像をみせてもらう。懐石の小鉢を映している。
「なんか、向こうに一人パトロンみたいなのがいるらしいよ」
「みたいなの」つまり、パトロンとは違うんだ。そう。パトロンてのは、寝るでしょ。そうじゃなくて援助交際みたいに、いろいろよくしてもらえるんだよ。
「挿入なしってことか」そう。飲み込みがよくなったな、という感じで津田は頷く。
釣り銭を手渡すときも、女は感じのいい笑顔をみせた。
例のキャバクラで津田がレイコを紹介してくれた。入店二ヶ月目で一位をとった子で、その後先月まで三ヶ月間一位をキープしていたという。
「今月はサボりが多くて順位を下げた」二人で温泉にいったそうで、つまりもう二人は付き合い始めていたのだ。真剣に相槌をうつのが馬鹿らしくなる。しかし、かつて激務を続けてきた津田が休暇をとって温泉にいけるようになったというのはなんだか嬉しい気もした。
津田の会社は今や五十人の社員を抱えている。最古参の大輔は二十代でもう専務で、僕が私服で遊びに行くと必ず深々と頭をさげる。
「もう小さな仕事は大輔がさせてくれない」津田は笑う。
女は名刺をくれた。REIKOと書いてある。携帯電話の画像で知っていたが、間違いなく美形だ。
女はつづけて薄い袋からCDジャケットを取り出した。それはピルグリのゲームディスクだった。
「私、子供の時、超はまっててこれに」といいながら僕にサインを求めた。僕はこのリメイクには殆ど携わっていないと言い訳をしたが、構わないといって油性のサインペンまで取り出した。「子供の時」という言葉のショックが遅れてやってくる。
「レイコってどう書くの」思わずはじめにK社のマスコットマークを書き入れてしまう。ニッコリマークのような単純なデザインだ。サインらしいサインなど書きたくないし、しかしただ名前だけ書くと見栄えが悪い。昔、ゲームショーの会場などでサインを求められると、必ずそのマークを書き添えるのが癖だったが、それが出てしまった。
「あ、本名はシズエです」静かに江戸。女はそこだけはしゃいだ声音でなく、しっとりといった。隣についた別の女は僕がサインするのを訝《いぶか》しげにみている。
「ゲームデザイナーってすごくないですか」変なイントネーション。ナンバー1にはなれない子だ。津田は静江の方ばかりみている。
津田は常に人気のある子を好きになる。いつもつるんでいるサオリももちろん店では人気がある。例の顔面至上主義とはまた別の意味で、津田は人気のある子、人気の出るであろう子だけを口説く。自分が社長だから、変な話だが経営者的な才覚のある子と気が合うのかもしれない、と自己分析していた。キャバクラとは自分を売り物にしての営業みたいなものだ。
ソファに腰掛けると、その背後でも横でも男たちが胸元の広くあいた女たちに囲まれて、どの顔にも笑みがたたえられている。はにかみの、喜びの、余裕の笑みが。
だが、どの男たちも九分九厘見込みがないのだ。いつだったか津田とサオリは口を揃えていっていた。褒められて嬉しくない女はいないというが、それは嘘だと。
「まず、キャバ嬢の顔を褒めても効果はまるでない」かわいいね、ありがとう。その会話は発せられなかったのと同じだ。君ほんとかわいいね。ありがとうございます。目がかわいいね。いわれるんです。
「それは昨日もその前も、さかのぼれば人類発祥の昔からずっと繰り返されてきたパターンに過ぎない」サオリは「そんな昔にキャバクラないし」とつっこみをいれた。
津田は「俺は靴を褒める」という。靴はあの薄暗い照明の店内で、腰掛ければ当然テーブルの下にあるわけだから、男たちは誰も目をつけない。知らない銘柄の靴でも、褒めれば少なくとも会話にはなる。
その後で津田はまずその子のお婆ちゃんの名前を聞く。本名を聞き出そうとする男は、それこそ「人類発祥から」いるが、お婆ちゃんの名前を聞き出そうとする男はほとんどいない。祖母のいない子はいない。話は絶対にはずむ。なるほどと納得しそうになり、そうかなあと思い直す。
蛍の光が流れる。店を出てタクシーを拾おうとすると、この後も一緒に呑もうと誘われた。
「二人でデートしたらいいのに」いや、いいからいこう。静江ちゃんも喋りたそうだったし。そうかな。そんな表情をしていただろうか。僕は今の店で女の靴どころか、顔もろくにみえていなかった。
「お待たせ」間もなく夜の街路に現れた女は胸のあいた服を地味なシャツに着替えていた。ベルトの上のへそにピアスの輪がみえる。星条旗通りに繰り出して、真ん中に巨大な水槽のある、薄暗い半地下の店に入る。津田はここの店員とも顔見知りになっていた。店内は青い照明で、四人掛けの席はすべて個室のように区切られている。
一時間もしないうちに静江が今日は先帰るね、とソファから立ち上がって出口に歩いていくと、津田は「あいつもあやしいよね」といった。
「ん」男が他にいそうってこと? そうそう。
「ラブのつもりが枕営業ってこともあるからなあ」枕営業? 津田は疑わしいというより仕方ないという諦め顔だ。
「そういう津田はどうなんだ」
「俺はほら」津田は頭の斜め上で手をひらひらさせながら
「俺はパラで走らせてるから」といった。パラで走らせる。なんの業界用語か、意味を問う前から、とにかくひどいことをいっていると直感で分かる。
恵比寿のイメクラの子と、美容師。それと静江とを「パラで走らせている」そうだ。
相変わらずもてるな。十年前のゲームセンターを思い出していう。
「いや、俺はもてないんだよ」もてないから一生懸命、手練手管をつくすんだよ。キャバクラでもそうだ、と。
「津田、そのノウハウでいつか本でも書けよ」僕は冗談で薦めたのだが津田はそのうちね、と真顔でいった。
また津田の家に泊まらせてもらう。部屋にはコルクのコースターが置かれていた。真ん中に兎のミッフィーが描かれている。前にはなかったから、静江が持ち込んだのだろうか(それか、美容師か恵比寿の子だ)。おいてある漫画本もギャンブル漫画から「女帝」というのになっている。僕が指摘するより前に、ベッドの端であぐらをかいていた津田は手を伸ばしてコースターをつかみ
「静江ちゃんが好きなんだ、この兎」といった。兎。津田はのびをして、かたわらのノートパソコンを開いた。
津田、それはミッフィーちゃんという名前なんだと教えようかどうしようか、迷う。エロ劇画のような画風の「女帝」だが、濡れ場はない。水商売の立身出世物語だ。テレビではF1をやっている。津田はどうやら僕と違って、レギュレーションもダウンフォースも、意味が分かっているらしかった。
津田は前と同じようにベッドにもぐってノートパソコンをいじっていたが、ぱたんと閉じて照明を切った。僕はテレビを消す。
「でもさ。俺もね。そろそろ身を固めようとか思ったりもするよ」
「結婚か」すすめないよ、といおうかと思うが、いいやと暗くなった部屋で思う。僕の正しさと津田の正しさとあるように、僕と津田の結婚は違う。
兎の名前も、知らなくてもいいんだ、と思い直す。知らなくても、もててるんだから。
津田の寝息が聞こえ出して明かりをつけずにトイレに立つ。台所の蛍光灯をつけると、あのとってつけたように置かれていた観葉植物の埃が綺麗にぬぐい取られてつやつやと光っていた。便器に長い長い小便をする。結婚はともかくとして、僕も愛のあるセックスをするぞ、と、夕方考えた言葉を思い返す。
17──9月13日 夜[#「17──9月13日 夜」はゴシック体]
しかし、まあまあの女とまた会ってしまう。いいワインを知人からいただいたので呑みませんかと誘われたのだ。女のワンルームまで手ぶらでいく。コンビニでコンドームだけ買って、住宅街の中のワンルームマンションをみつけだす。入口でインターホンを押すタイプだ。
「あ、はーい」小さなスピーカーから間延びした声がして、電動で鍵の開く音がする。津田の今の住まいと同じタイプだ。同じ会社が作ったものだろう。
「もうすぐデリバリーの人が届けにくるはずなんだけど、遅いです」女は僕のよく知らないデリバリーの店からディナーセットを注文していた。手料理に腕をふるったりしていなかったのでほっとする。サンガリアかゾンゲリアか、例のフルーティな飲み物を出される。
二人、旺盛な食欲を発揮する。
「人間って、もうそんなにあくせく働かなくてもいいような気がするんです、無駄ですよ」僕と同じようなことをいうのに、共感できないのはなぜだろう。妻が僕の仕事の愚痴をきいて軽蔑のまなざしをむけたのは、きっとこういう風に聞こえていたからだ。
学校の秘書志望の同級生達が玉の輿を望んでいることは前にも聞いた。
「結婚するよりも、収入の安定した人の愛人になるのが一番効率的なのに、分かってないですよね」はあ。なんだか日本語として間違っていると思いながら頷く。いや、日本語はあっているけど、なにかの前提が間違っている。「愛さえあれば年収一千万ぐらいでいい」と十年以上前にテレビで女がいっていた。結婚相手についての街頭インタビューに答えての台詞だった。
すべての人はふさわしいものを得る。女の家の鍋つかみにも無表情な例の兎が刺繍されていることに気付いた。
「私、キティちゃんは嫌いなんです」でもミッフィーは好き、と。女はディック・ブルーナの描線へのこだわりを熱っぽく語ってみせた。キティちゃんもミッフィーちゃんも同じようにみえるといったら、それはもう大変な不興を買いそうだ。テーブルの下で組んでいた足をそっとのばす。グラタンのアルミ容器や、チーズのこびりついた厚紙の箱がテーブルの上に残骸のように残る。
ベッドの上で女に覆い被さると、明かりを消すようにいわれる。指差された壁際のスイッチまでいって上をみれば、エアコンも、壁に据え付けられたエアコンのリモコンまで津田の家のと同じ型だ。間接照明はなかった。
一度目のホテルではよく分からなかったが、女とのセックスの相性は悪くない。
いや、相性がいいのか、単に久しぶりだったせいか、とにかく意地汚く求めていたら、二度目の後でコンドームが外れてしまっていることに気付いた。女も僕も裸のままで息を呑んだ。
インバーター式の蛍光灯はすぐに点灯した。
「どうしよう」多分安全日、とは思うけど。シーツの上に落ちたふにゃふにゃのコンドームを拾い上げる。明るくなった部屋で女は裸を隠そうともせずにすたすたと歩いて冷蔵庫までいった。ミネラルウォーターを取り出して
「まあ、できたらできたで」悩んでも詮無いという風にいった。あれだけ着用をきっぱりと要求してきたのに。
できたらできたで、どうするんだろうか。うん、と余裕のあるふりをして頷く。
それから女の生理がくるまでの間、金のない無力な高校生のように気持ちが萎縮しつづけることになった。
妊娠していたら、どうやっておろしてもらおうかとそればかりを考え続けた。おろしてもらって、なおかつひどい男にならないような、そんな言い方はないものか。
我がことながら笑いたくなるくらい、露骨に自分のことしか考えなかった。多分、おろしてくれるだろう。なんせデカダンだもの。生理がきたかどうかだけを知りたくて、幾たびか電話をいれた。その度に女は弾んだ声をあげた。元気ですよ。生理がきたとも、こないとも教えてはくれない。こっちはそれしか聞きたい事柄はないのだ。見透かされているのかもしれない。電話をかけたときの声が嬉しそうなのがまた気になる。
やっぱり子供を産みたくなったなどといわれたらどうしようか。二人で結婚式を挙げる様子など想像もつかない。では認知するとして、養育費っていくらかかるのだろうか。慰謝料は。津田ならば簡単にパソコンをかちかちと叩いて「そうね、これくらい」と見積もりを教えてくれそうだ。
日曜に、妻が古いカーテンを持ってきてくれた。
「これかあ」一緒に暮らしていたときに、リビングにかけていたやつだった。
「まだ捨ててなかったんだ、これ」ん。別に思い出を捨てられないとか、そういうんじゃないよ。妻は念を押した。
「分かってる」
大袈裟な足場が組まれたものだと感じていたが、たかが樋の修繕にずいぶん時間もかかっている。日中から窓の外をうろうろされつづけるのはどうにもバツが悪いとこぼしたら、すぐにやってきたのだった。
「顔色悪いね」そうかな。いわれて頬をさする。離婚してなお、いつまでこういう行き来があるのだろう。
アリゾナ、いくことにしたの? カーテンの金具をリングに通していく。
「アリゾナじゃありません」妻は反対側のカーテンをつけながら腹を立てた。
「あなたってそういう人」
我々は子供を作らなかった。妻は結婚前も、その後もずっと「別にいいや」といっていたが、好きな男との子供は欲しがった。
「本当は私、子供が欲しかったんだって後から気付いた」別居前、思いつめた顔で妻はいった。妻の当時の恋人は、子供を産みたいと真っ正面から迫られて露骨に尻込みをしたそうだ。
「今の人は子供を産ませてくれそうなの」不意に思いついて尋ねる。離婚後の僕は、妻にはなんでも端的に尋ねるようになった。嫌そうな顔をしながらも、妻も大体率直に答えた。
「駄目じゃないかな。今は、男の人はみんな尻込みするね」
「そうなんだよ。お腹を痛めないから嫌なんだよ」つい力説した。
「いっそ痛めたいんだよ、その方が楽なんだ」産むにしてもおろすにしても、自己責任だもの。
「ほんと、男が妊娠したいよ」大きな懸念を抱えているから、僕の台詞には実感がこもった。
「変な人」妻はふっと笑った。お互いに両側からカーテンをしめると畳の部屋がうっすらオレンジ色になる。顔が近付くと気まずそうに妻はうつむいた。アリゾナは、といいかけて
「私まで間違えたじゃない! もう」とまた怒って「トロントは、まだ決めかねているんだ」と続けた。
妻はいつものように愛車で去っていく。僕はボロアパートの鉄階段の手すりから見送る。アリゾナとトロントは全く違うなあと思いながら、妻の置いていったアイスクリームを食べる。
いくらなんでも、もうきていていい頃だろう。二週間ほど待って、重苦しい心を奮い立たせて電話をかける。あのう、生理はきたの。
「え、ああもう終わってますよ」と呆気なくいわれたときはくらくらとして、腹立ちさえ感じた。
「ああ、そうよかった」そうすると急に、この女に僕はどれだけひどい人と思われても構わないと思った。なぜなら僕は間違いなく彼女にひどいからだ。同時に、女がやっぱり子供を産みたいなどと熱望するというのが馬鹿げた妄想に過ぎなかったと思われてきた。おろすからお金出して下さい。そういったのではないか。身勝手なことを思いながら、そのうちまた会いましょうと適当なことをいって電話を切る。
樋の修繕が終わり足場が外された頃にサオリからメールをもらった。
18──9月29日 午前9時[#「18──9月29日 午前9時」はゴシック体]
久しぶりに新幹線に乗る。富士山を見逃した。僕は愚かにも、大人になるまで京都は大阪よりも西にあると思っていた。修学旅行のときもろくに地図をみていなかったのだ。
サオリは京都に整形にいったのではなかった。堕胎手術を受けにいっていたのだ。上旬に診察を受け、今週になって荷物を持ってもう一度京都に出向き、手術を受けた。津田には内緒で京都まできてくれないかというメールの文面だった。
平日の新幹線はすいていた。売り子から駅弁とコーヒーをもらう。サオリは一体どういうつもりで僕を呼びつけたのか。断ってもよかった。九月も下旬とはいえ、紅葉には早いし、京都になにかみたいものがあるでもない。あのまあまあの女の誘いならいくらでも断ることが出来た。女は僕の多忙を疑わない。
しかしサオリは僕を忙しい職種かもしれないと考えたこともなさそうだ。津田はみるからに忙しそうだ。一緒に呑んでいてもしばしば携帯電話が鳴る。キャバ嬢と「青い疑獄」で盛り上がったりしたら、白羽の矢が立っても文句はいえない。
膝上の弁当の中の小さな紙手ぬぐいを広げて両手でこすりあわせた。割り箸を割るのに失敗して長さがちぐはぐになったが、かまわずに食べる。冷えた御飯がおいしく感じられる。
昼過ぎに着くともう腹が減っている。サオリの携帯電話にかけると、今病院、と眠そうな声が返ってくる。
病院のロビーのベンチにサオリは座って男性向けの劇画雑誌を読んでいた。病室のベッドで横になっている元気のない様子を想像していたから戸惑う。大丈夫なの。
「大丈夫、もう済んだから」顔をあげたサオリは腫れぼったい目をしている。サオリが目を通していた連載は「女帝」だった。廊下の奥からきた看護婦が「お大事に。なにかあったらすぐに連絡くださいね」と優しい声をかけ、それから戒めるような目で僕をきっとみつめて通り過ぎたので慌てる。
違いますよ、違いますよ。ボクじゃないです。
うろたえぶりが顔に出たのかサオリにどうしたの、と問われる。
「元……じゃなくて前奥と、離婚届を出したときみたいだったから」
「あんた、離婚届を二人で出したの?」変なの、とサオリはいった。
19──1月下旬[#「19──1月下旬」はゴシック体]
離婚届には印鑑が二ついる。離婚するまでそのことには気付かない。夫の欄と妻の欄と。婚姻届のときにも二つ必要だが、あれは違う姓のものが一つずつあればよいのに対し、離婚届は同姓のものが二つだ。
自分の姓の印鑑は一つしか持っていなかった。大学の卒業祝いで親戚が作ってくれた、少し立派な篆刻《てんこく》の印を実印と銀行印に兼用していた。認めに使っているシヤチハタは不可ということで、離婚のためにわざわざ印鑑を新造しなければならなかった。彼女は旧姓に戻ったから、僕の手元には割と立派な印鑑が二つ残った。
保証人も二名必要だった。婚姻届のときにはあまり思わなかったが、結婚や離婚について、保証人は、そのなにを保証するのだろうか。結婚する、あるいは離婚する。「する」ことを保証「する」人。
僕側の離婚の保証人は、もちろん津田以外にあり得ない。平日の夜遅くに、渋谷ののんべえ横丁で待ち合わせた。
常日頃から彼は結婚反対のみならず、離婚賛成を唱えている。単に面食いというのでは足りない男に相応しい、一歩踏み込んだ主張だ。フリー恋愛、フリーセックスを身上とする津田には、己のみならず他人の結婚も邪魔なのだ。とはいえ津田はずいぶん長いこと夫のいる人と不倫していたこともあるから、相手が結婚していようとしていまいと関係はなさそうなのだが。
ともかく、離婚の一端を担う光栄にあずからせようぞ、と打診をしたが、引き受けてはくれたものの津田は神妙だった。
「次に婚姻届を出すときは、絶対に保証人の判をおさせてくれよ」とまでいった。離婚賛成じゃなかったのか、あんた。
「それはそうだけど」コントのセットみたいにうらぶれたのんべえ横丁の中で唯一小綺麗で高い料理を出す料亭のカウンターで、津田は背後にかけたコートのポケットから印鑑と、丸く大きな朱肉を取り出した。
「職場の受付から出がけにもってきた」という朱肉の蓋をひねる。料亭のカウンターではーっと息をかけ、立派な印が捺されるのを、狭い厨房で働く女が楽しそうにみている。
「俺なら絶対に離婚しないけどな」酔いが回ると神妙さも少し薄れて、津田はそういった。じゃあ、どうやって克服するの。
「自分も二股かけるとかなにかひどいことして、イーブンに持ち込んであげるな」そして続けるのだ、と。
「なるほど」そういう愛し方もあるか。僕はいつも津田には簡単に説得されかかる。
「でも僕は、そのスキルがないから」
「いや、スキルのある男は、今度は入口で警戒されるから、恋がはじまらないんだ」だからおまえの奥さんのようなタイプとの恋愛は俺の場合あり得ない。
「だから俺は七郎が羨ましいんだよ。だって、はじまるだろう」
「はじまるけど、終わるよ」
狭い店のカウンターで会話が間近に聞こえているはずなのに、料亭の女店員はすました顔で小皿に盛りつけていた。
離婚届は本籍地に出すことにする。妻と、普段はあまり足を運ばない僕の実家近くの駅前で待ち合わせた。歩くかバスかタクシーかと尋ねると、バスで、と妻はかたい表情でいった。歩くには少しかかるし、市役所にタクシーで乗り付けるのは、たしかにはしたない感じがする。
一人で出してくるよという僕に、妻は私もいきたいといったのだ。そのときから表情はかたかった。
曇天の午後、市街をゆくバスは少し混んでいた。バスからの視点は歩くときよりも高くて、たまに乗るといつでも少し気持ちが高揚する。クリスマスセールの繁華街をかつて二人で買い物したことを思い出す。過去の自分たちの姿を探すように妻は窓に手をあてて見下ろす。
市役所に来るのは久しぶりで、物珍しい気持ちで周囲を見渡した。ロビーの、各種届け出用紙の置かれた記入台で離婚届を広げる。記載漏れがないか確認しながら「津田って社長だけあって、判子が立派だよなあ」と横を向くと、傍らの妻がぽろぽろと泣いていたので驚いた。
「なに」ちょっと、なんで、なんで泣くのよ。ねえ、ちょっと。おいおい。大丈夫? すいません。ねえってば。妻の肩に手をおずおずと置いて、突然のことに、笑いそうになる。
もうお互いに幾たびも話し合ったではないか。長い別居を経て、これ以外にないと納得しあったではないか。ここにきて紙を提出するなんてことは、ただの形式的な儀式で、もう悲しみの暗雲を抜けてきたはずではないのか。
慰めながら理不尽な気持ちがする。おまえが悲しくて泣くんじゃない、僕が悲しくて泣くんだ。いや、泣かないけど。
すぐ後で、心にひやりとしたものが走った。ここに至って涙のでない自分の心の方が異常なのだろうか、と。不意に横から手がのびて、誰かがボールペンをペン立ての穴に戻した。
違いますからね。違いますからね。
心の中で僕はとりつくろう。なにが違うんだか、誰にいってるんだか。彼女は、だってここを出て自分のマンションに戻れば、週末には恋人もやってきて、愉快に楽しく暮らすんですから。一緒に料理を食べて映画をみて笑ってセックスをして、手をつないで眠る相手がいるんですからね。いないのはボクですよ。それに、いいたかないが、浮気をしたのも、隠し事をしたのも、ボクではなくてこの人ですからね。
周囲を見回すが、我々を気にとめるものなどない。どの人も馴れない様子で、めいめいの用事をすまそうとしている。
周囲にみられないように妻の間近に立ち、慰めの言葉をかけた。どんな言葉をかけたか、もう憶えていない。多分、適当な言葉だ。とにかく、声を立てて泣かなければいい。そのまま鎮まってくれ。
だが妻は嗚咽をもらしながらトイレに走っていってしまった。確実に何名かがこちらを窺《うかが》った。
違いますからね。違いますからね。ボクも泣きましたから。ボクも泣いて、彼女より先に泣きやんだっていう、それだけですからね。
などと軽薄な言い訳を心で繰り返しながら椅子に座る。僕だって市役所の椅子に座ったっていいだろう。なぜかすっかり憮然としていると、妻が真っ赤な目で戻ってきてごめん、といった。
「出直してもいいんだよ」ううん、ごめんと首を振る。届けのカウンターに座った女性は教会の牧師の奥さんのような笑みでそれを受け取った。きっと何年も受け付けているうちに、そんな表情を会得したのだ。
「お腹すかない」僕もそれを見習って、優しそうな声音で尋ねてみる。うん、とまだべそをかいた声で妻は微笑んだ。先に泣いたのがどちらでも。こわばった妻の顔をみて思う。悲しみの総量は等分になる。離婚するというのはそういうことなのだろうか。
「じゃあなんか食べて帰ろう」むやみに元気な声を出しながら外に出ると小雪がちらついていた。
20──9月29日 午後1時[#「20──9月29日」はゴシック体]
「お腹すいた」サオリもまたぽつりといった。病院の人が優しいから、かえって責められてるみたいな気がして泣けたんだよ。
「泣くとお腹すくでしょう、だから」サオリはそこで言葉を切った。すぐに病院を出るならタクシーを待たせておくのだった。がらんとした路地を歩く。
だから、なんだろうか。大きなバッグを持たされ、サオリに先導されて歩く。
「誰の子供かとかって聞かないの」
「興味ないよ」聞かないような男だから、他の誰かではなく僕を呼びつけたのだと思っていたのだが。
「いっておくけど、津田っちの子じゃないからね」
「知ってるよ」というとサオリはむっとして
「なんで知ってるのさ」といった。知ってるっていうのは言葉のあやだよ。お互いにとげとげしく言い合いながら、橋を渡る。中古レコード屋を通り過ぎ、普通のラーメン屋に案内される。もっと京都らしい店にしようよ、といってみる。パトロンに奢ってもらうのだってやぶさかではない。
「懐石料理の画像をみたよ」ああ、あれ、大したことなかったよ。サオリは津田と三人で飯を食うときも評価は常に辛口だ。
「ラーメン食べたいもん」ラーメンとかカツ丼とか、そういうのはほら、まずくてもうまいじゃん。
サオリは店内に入るとメニューもみずに「ねぎラーメン」とまずいった。先にきたビールを呑み、ギョウザをつまむ。お酒いいのか、という間もなく、サオリはコップ一杯を呑み干してしまう。ラーメン屋のテレビで「青い疑獄」をみる。
「ほら、カフスボタンが証拠になったろう」僕は指さした。シンスケさんは今度は財閥の力でマホコさんの行方を探し、呼び戻そうとするだろうけど、もうそのときには意に添わぬ結婚をしてる、と。サオリは聞きたくない聞きたくない、と耳をふさぐ。
「そういえばなんで京都なの」誰の子かよりも、そっちが気になった。
「だって評判いいんだもん」京都出身のキャバクラの子に教わったのだそうだ。都内にもいい産婦人科はあるんだけど、私そこだと二度目になるし。嫌じゃん、なんか。さっきみたいに親切にされて、泣けてくるしさ。
「親切なのが一番嫌だ」嫌っていうか。サオリは正しい言い方を探して眉間に皺をつくる。
「冷たくされたり、ののしられたりするのは、本当のことだから楽だ」今日のところは、やっぱり親切だった。なんでだろう。
「腕はすごくよくて、態度はひどいところがいいってことか」そう。そうなの。
「ひどい人間にはひどい仕打ちが相応《ふさわ》しいって、心から思うんだけど、でもやっぱりひどい噂の産科に自分からはいけないもんな」サオリは津田に似た苦笑いをした。
タクシーに乗るとサオリは「清水寺」と告げた。なにしにいくの。
「みに」サオリはギョウザもラーメンも半分以上残した。休んだ方がいいよといってみるが、サオリはみるといって譲らない。
二人でにわか観光客になり、人群に混ざってぞろぞろと歩く。僕は津田の近況を話した。例の静江という子とうまくいっているらしい。一緒に温泉にいったそうだ。サオリはよくやる、という調子で相槌を打った。
段をのぼっていくと、開けた舞台に出た。大勢が立ち止まって景観を眺めたり写真をとったりしている。
「ここが見所らしいよ」木の床をみつめながら
「そうだ。俺もそろそろ身を固めたいなんていってたよ」という。
「津田は一人で固まっちゃえばいいんだよ」セメントかなんかでさ。迷惑じゃんか。どうせ結婚した後も好き放題やるんだろうし。
「いや、だから女遊びを一通りすませてから、結婚したいんだって」はぁ? サオリはこうしてみると表情をけっこう豊かに変える。ほとんどが呆れたり、訝る表情だが。
「あ、ここから飛び降りるんだよね」思い出して僕はいった。
「誰が、七郎が?」
「僕じゃないよ」昔の人がいったんだよ。
「昔の誰がいったの」二人、手すりから下をみる。舞台を見終わった観光客の歩く列がみえる。
「とにかく清水の舞台から飛び降りるっていうんだ」修学旅行の時は、改修工事でこの舞台にあがることができなかった。
「なんで」なんでっていうか。有名だよ。
「知らない」清水寺なんてそれしかないのに。
「きっと紅葉したら、もっと綺麗なんだろうな」せめて、ぐるり四方の景色をみてから降りようと思う。
携帯電話にメールが入る。妻からだった。今、京都にいるといったら驚くだろうか。珍しく僕は返信をした。すぐに電話が鳴る。
「なんでまた京都になんか」妻は笑っている。サオリは遠くで携帯電話のカメラで清水の舞台からの景色を撮影している。あんな粗い画像で、記念になるのだろうか。
「そうだ、京都いこうって思って」なにそれ。
この後我々は京都でなくてもみられる映画をみて、別々の部屋をとって一泊した。映画は話題作だったが、つまらなかった。貧乏な兵士と貴族の娘の禁断の恋。のはずが、娘の許嫁の伯爵の態度が一貫していない。はじめは貧乏な兵士を策を弄《ろう》して処刑しようとまでするくせに、最後の場面ではなんの脈絡もなく改心して「おまえはいい目をしているな」みたいなことをいって、青年とヒロインの恋を認めて立ち去る。
我々は晩飯も料亭などではなく、東京にもチェーン店のあるただの居酒屋ですませていた。サオリは御飯粒をとばして映画の文句をいった。
「そういえばあんたのゲームの、あの台詞よかったよ」中の女の子が「いい目をしてるっていうけど、どんな目よ」っていうでしょう。あれって本当だよね。死んだ魚みたいな目をしたいい奴もいるよね。褒められて悪い気はしないが、死んだ魚みたいな目をしたいい人というとなぜか津田しか思い浮かばない。屋上から小便をして、しらを切り通したまま大人になった男。
「口直しにもう一本」サオリはホテルのフロントでレンタルビデオショップの場所を聞き出した。こんなところでビデオか。とことん京都にいる意義を踏みにじるつもりらしい。
「いいじゃん、歩いていけるところだし」
サオリはだんだん元気が出てきたようだ。夜の京都市街を歩く。繁華街にちらほらとみえた学生服の集団の姿もなくなっている。
「一泊料金こんなするの」京都のレンタルビデオショップはアダルトコーナーばかり大きかった。一般作はインディジョーンズとか、どこか古くさいのが店の手前に申し訳程度に置かれている。単なるカムフラージュだ。
古本のコーナーも併設されていて、ヌード写真集が並ぶ棚からサオリは一冊抜き取った。
「これ私だよ」みたい? サオリは尋ねて、笑った。みたいといってもみたくないといっても失礼になる気がした。
「そんな仕事してたんだ」そんな、といってしまって、軽蔑した抑揚にならなかったかとひやっとしたが、サオリはそうなんだ、ソロで出したのもあったよ、とレジに持っていってしまった。
我々はどこかの幅広の橋を渡っていた。サオリのヌード写真集を手に持たされていた。薄いビニール袋にいれてくれたが透けて丸見えだ。写真集には三人の女の写真と名前が、やはりローマ字の斜体で書かれている。MINAKO、FUMIE、RISA。サオリという名はなかった。真ん中の挑発するようなまなざしの女が昔のサオリか。整形前というのでじっくり顔を眺める。顎のラインが今の方がより鋭角的になっている。昔のままで問題ないのに。サオリは写真集を僕の手からとった。
「ねえ、七郎。私ってやっぱり笑顔が足りないかな」鏡をみるように写真集をかざしていう。そこなんだよ、と同意していたのに、素朴に尋ねてくる。
「いや、この顔は逆にちょっと媚びを売りすぎ」写真集の顔を差す。
「それはリサだよ」私はこっち。下を差される。
「ああそうか」学生時代の集合写真から人を探すのが苦手だったりするが、三人ですら間違えてしまう。
「七郎ってそういう人」サオリは口調がいつもより優しくなっている。
「どんな仕事だった」質問が大づかみに過ぎるかと思いながら当時のことを尋ねると、サオリは橋を半分まで渡るまでうーんと考えた末に、寒かったと呟いた。
「裸だから?」そうそう。冷え性で暑がりなんだ。蛇みたいなものでね。くしゃみが出て鼻かむたびに撮影中断で、カメラマンもしまいには切れて。
我々は橋を渡り終えた。なんだかきっと由緒ある橋なんだろうと思った。
ホテルのエレベーターでサオリは
「とにかく津田には内緒にしておいて」といった。
「ああ、やっぱり恥ずかしいんだ」
「ヌードじゃないよ」そうじゃなくて、おろしたこと。おろした? 鈍いことをいってしまい、サオリもさすがに黙った。あんまり屈託がないので、手術のことを忘れてしまっていた。
「あぁ、内緒ね。分かった」やはり津田の子供なのだろうか。津田もサオリも普段から関係を否定しているが、あれは小学生のような照れなのか。通俗的な想像ばかり浮かぶ。
21──9月30日[#「21──9月30日」はゴシック体]
生八つ橋なんか買って帰宅すると、薄い扉の小さな新聞受けに封筒が挟まっている。達筆な宛て書きで、大輔からだった。友人一同の集合写真。ワープロの礼状の下に万年筆で「先日はありがとうございました、七郎さんの新作に期待しています!」などと一筆添えてある。
写真を眺める。皆レンズの背後の名もない兎をみているのだ。笑い出しそうな顔、顔。笑っている顔もある。津田はいつもと同じ不真面目そうな表情。僕も津田もよくみると携帯電話を握っているのが前の人の列のすき間から分かってしまう。
植松からまたメールがきていた。相変わらず愚直に「そろそろ復帰しませんか」と声をかけてくる。こないだ津田と会話してから少しずつ考えていた企画を話してみようかと思ってもいる。あれからレポート用紙に書きかけた。前は家にホワイトボードがあった。倒産したK社のものだ。様々な発想を思いつくまま書き込んで矢印でつないだり消したりしていくのに、紙では到底たりない。別居したときに処分してしまったのを少し後悔した。
「友人に」と植松への返信を書きかけて手をとめる。サオリは友人なのか。定義の言葉としてしっくりとこない。津田とサオリの関係がよく分からないせいだ。友人の友人という風でもない。友人の、よく分からない人。一緒に京都で映画をみて清水寺もまわったから、友達ということでいいんだ。
「友人に携帯電話用ゲームのリメイクをみせてもらったけど、なかなかうまくつくってるね」そんな返信を書いて送ったら一分もしないで電話がなった。
「どうですか最近」社長の声は、メールを読んですぐに電話をするときの声が誰でもそうなるように、どこかおどけた調子を帯びている。
「雑誌のインタビューみたよ」
「いやあ、あれはいいんですよ」照れている。
「それより最近なにやってんですか」植松は、K社では僕の部下だった。だから口調が弟子っぽい。
「なんか、京都いってた」
「ということは、任天堂ですか」いや、仕事じゃなくて観光だよ。手元の生八つ橋の包みをみながら答える。生ものだから最初にコンタクトのあった人間にあげてしまおうと考えていた。最初に連絡があるのは妻か津田だろうと考えていたら、昔の仕事仲間とは。オッズ十倍。
「ああ、女の子ですね」そう。いや、そうだけど、そうじゃない。
「ふうん、たまには晩飯でもどうっすか。これから」いいっすね。「で」を抜いてのやりとりはかつての職場を思い出す。
夕暮れの街に出るといつになく涼しい。歩くのはもう長袖の人ばかり。
「社長になって思いましたけどね」あんまり善良な顔だと、取引でなめられたりして困るんですよ。そういって植松はタオルでごしごし顔をこすった。津田の場合は年齢をいっていた。二十代と知ると、途端に取引の額面が小さくなる。三十と二十九では信用のされかたが違うんだ、と。年齢は数字だから繰り上がればそれでいいが、顔は一生涯のものだから仕方ない。
「京都にいい整形外科があるらしいよ」なんすか、それ。相変わらず人を食ったことをいうんだから。植松は笑って、居酒屋の大きなメニューの右から左まで、たくさん注文をした。
話し込んでいくうちにやはり復帰を求めてきた。
「一つ企画があるけど、商品化できないと思う」
「なんすか、それ」やりましょうよ。簡単に食いついてくる。
「俺の考えるようなゲームって、もう古いんじゃないの」携帯型ゲーム機でやるから、性能的にもちょうどいいんですよ。
「昔ながらの古き良きゲームにこそ、味わいがあるっていいたいんだろう」そうそう、それですよ。植松は僕の言葉の否定的なニュアンスをくみ取ることが出来ない。だったらインベーダーでも作ればいいじゃないか。
「それは、ほら、ちがうじゃないすか」社長は子持ちししゃもをおいしそうに食べる。焼酎もうまそうに呑む。近々発表される新型携帯ゲーム機のスペックを熱っぽく語ってみせるが、僕はその熱っぽさにも飽きていた。少し前にも当時のゲーム機のスペックを、かつての我々は熱っぽく語ったのだ。繰り返しだ。
「奥さんも、仕事やめて不安がってないですか」社長は攻め手を変えてきた。
「がってるよ」実際には過去形だ。それに不安がるどころではなく、妻は怒った。
22──2年半前[#「22──2年半前」はゴシック体]
どういうわけか分からないのだが、どんな事柄であれ、正しさを主張する人間は色気を失う。それは後になって実感したことだ。このとき僕には言い分があった。我々は結婚にあたって明快なルールを定めた。お互いに依存しないこと。家賃は折半で生活費を共通の口座に振り込み、残りの稼ぎは各自好きにつかう。そういう取り決めだったから、それさえ守れば、あとはどんな仕事をしようと、あるいは一時的に仕事をやめたって関係ないはずだ。
でも普通それは奥さん不安がりますよ。あとで誰に話しても異口同音にいわれて、釈然としない。
ピルグリのリメイクプロジェクトをやめてきたと聞いて妻はパンにジャムを伸ばす手がとまってしまった。僕はその手元をみつめながら正しさを説いた。だが妻は冷たい目でみつめつづける。なにかいわなければ。
「僕はもっと自分らしいやり方で仕事をしたいんだよ」言葉にしてみて、そうじゃないんだと思った。親のすねかじりや、ぼんぼんの学生や、甘えた若者がいうのと同じ台詞になってしまった。僕だって過酷な納期とたたかってきた。皆でサービス残業しないと、気弱に引き受ける勤勉な者の健康をどんどん奪っていくことも、分かっている。分かってなお、そのやり方は違うといいたいのだ。
「そんなこという人だと思わなかった」妻は僕から目を離さない。訂正しようと思う。思うが、どういえば説得力のある言い方になるのか、咄嗟には分からない。妻は僕をさめた目で見続ける。
「みるなよ」えっ、妻はさらに信じられないという表情を深める。
「馬鹿を相手に諭すみたいに見るの、やめてくれないか」僕は馬鹿じゃないんだから。
「分かった」妻は気配を消すようにいった。
不安だが、自分の意志をみせ、少しずつ安心させていくよりほかはないだろう。妻の態度は翌日からもとに戻ったように思えた。いってきますという妻を玄関まで見送る生活が始まった。僕は脳天気だった。散歩をしたり、本を読んだり、すいている店で買い物をして、気楽な生活を満喫した。妻には、家にいる分掃除しておくよなどといって家事にいそしんだ。料理は下手だが余り物を平らげて悦にいったりした。自分は主夫になりたかったのかもしれないなどと思った。家賃も生活費もきちんといれているし、向こうも心配することはなかったと気付いたのではないか。妻の帰りはだんだん遅くなってきた。
このとき妻の偉かったのは、はじまった不倫を隠そうとしなかったことだ。偉かったと思うのは、ずっと後になってからだ。妻は逆上する僕の様子に「やっぱり打ち明けるのではなかった」と僕の方ではなく横の壁のあたりに向かっていった。仕事をやめたくらいで、不当な仕打ちではないか。
妻は「あなたの仕事のこととは関係ない」と強調した。あなたとは無関係に、とにかく好きになったのだ、と。励ますつもりでいったのかもしれないが、むしろそれはとどめをさす言葉だった。
23──9月30日 夜[#「23──9月30日 夜」はゴシック体]
「もう離婚したんだよ、今年の一月にね」いきなり告げると植松は目を丸くして、マジすか、バツイチすか、とかつてのバイト学生みたいな声に戻った。
「でも、円満離婚だよ、今も仲いいし」心配させぬよう付け足したが、社長は目をぎらぎらと輝かせた。いつですか、へぇそうなんですか。ひとしきり驚いた次に「いいなあ」といった。
社長は烏賊《いか》の脚をマヨネーズの上に乗せて、頬張りながら、ふんふふんふふんふよ、といった。しばらくくちゃくちゃと口一杯の烏賊を噛みつづけていたが、ごくりと飲み込むと
「バツイチが一番もてるんすよ!」と大声になった。
ふんふふは。僕も烏賊を口に入れていた。
「そうですよ!」だって、結婚していたら不倫になっちゃうし、結婚を経験しているのは「一度はきちんと人を愛し抜こうと思ったことがある」ことになるから、独身にくらべても誠実さが実は上なんですよ。
「でも、愛し抜くのに失敗しているのがバツイチという状態なのだから、誠実さは否定されたことになるんじゃないの」
「お互い様なんですよ。今、失敗しない女の子なんていないじゃないですか」いないんだ。いないですよ。挫折には寛容なんです。
「いいなあ、どうやったら円満離婚できますか」まだ新婚だろう、おまえは。
えへへと笑った植松だが不意に「ん」となにかを感知した顔になり、携帯電話を取り出した。ラブか、ジョブか。
「どうした」相槌の様子が険しいものになっている。普通の電話機の受話器をおさえるように、携帯電話を手で覆うようにしながらいった。
「七郎さん、ちょっと問題出たんで、みてこないといけなくて、すんません」戻ります。一万円札をさっと置いて立ちあがる様子も津田にそっくりだ。多いよ、一応いうが、社長はいいですいいです、じゃあまた連絡しますから、さっきの企画、考えておいてください、と出ていった。社長と入れ替わるようにお茶漬けが二つきた。生八つ橋も残った。
終電前の電車は混雑していた。どの顔も不機嫌そうにゆがんでいる。ぎゅうぎゅう詰めの電車を降りたホームで携帯電話がなる。妻だ。
「生八つ橋あるけど、いるか」
ありがとうという声ががらがらしている。
「風邪ひいたのか」
妻はせき込んでいる。そういえば急に涼しくなったが。
「病院にはいったの」
「いってない」離婚して健康保険も僕一人の名義になったのだが、妻はその後の手続きをさぼっていて、いくとまだ高いから市販の薬をのんで寝ているそうだ。
階段をのぼり、反対のホームの階段を下りる。真夜中に妻の住む家まで見舞いにいくことになった。そういえば別居して以後、妻の家にほとんど足を運んだことがなかった。引っ越した直後と、昨年の確定申告の日だけだ。
24──前年 2月[#「24──前年 2月」はゴシック体]
我々にもやり直そうという気運が生まれたことがあったのだ。
津田のロケット部屋から戻り、一月に別居のための家探しをして、二月の初めには揃って別々の部屋に引っ越しをした。妻は僕の新居をみにきて呆れた。
「浪人生の部屋じゃん」そうかな。妻は不精髭の僕の顔をみて笑った。
「貯金、まだあるんでしょう」でも、障子襖は悪くないね。妻は風呂場をみて、トイレをみて、古ぼけた台所をみて、段ボールから食器を出してしまってくれた。食器は少なくて、すぐに和室に戻ってくる。
照明をつけようとして、紐がないよという。僕はかさの上のスイッチをひねった。前の住人が置いていったものだ。今時めずらしい古い陶器の照明で、百ワット電球が一つついているだけ。つけるにも消すにも立ち上がらなければいけない。前の、その前の、そのまた前の住人から使われているものかもしれない。
「せめてカーテンぐらい買いなよ」東向きの窓の、すぐ向こうの壁をみていった。
「いいんだよ」よくないよ。カーテンないと寒いんだよ。
「いいんだよ、やさぐれてるんだから」なにそれ。責められていると感じたらしい妻はむっとした顔になった。
「そっちの部屋はどうなの」妻は間取り図のコピーをコートのポケットから出して、みせてくれた。
「なにこれ。僕のところよりも狭いじゃん」ベランダの形が不自然に丸みを帯びている。小さなワンルームで、収納もほとんどない。
てっきり妻は新しい恋人と同棲するのだとばかり思っていたから、ワンルームマンションに一人で住むと知って、あれと思った。
「だって向こう、奥さんいるもん」
「あれ」声に出た。奥さんと別れてくれるんじゃなかったの。
「それが、なかなかね」分かるでしょう、という顔で僕をみる。妻の恋愛はうまくいっていないらしい。一人暮らしをはじめるうちに心細くなっていったみたいで、このころからだ、妻が電話をかけてくるようになったのは。僕も一人になって妻の様子を他人事のような目でみるようになった。その分、受け答えにトゲがなくなっていたのだろう。話題は寒さのことや、新しい住まいの周辺の様子なんかになっていた。
げんき? と電話で尋ねる妻の声にだんだん元気がなくなっていく。このまま離婚となれば、彼女は多くを失うことになる。
知るものか。彼女が僕を愛さないのは勝手だ。結婚という契約だからということで仕方なく添い遂げられても嬉しくはない。ただ、向こうがうまくいかないからやっぱりこっち、という具合にされるのは嫌だ。自分の行動に少なくともリスクを背負うべきだ。
僕は色気のない正しさを胸に抱いていたから、努めて素っ気なかった。別居前にいつも怒鳴られて怯えていたらしい妻は、その素っ気なさを僕の優しさと感じているみたいで「最近優しくなったよね」といった。なんだか誤解がある、僕はまだ腹を立てていると思ったがいわずにいた。
そのうちに妻は「ちゃんと食べてるの」などといいながらタッパーにいれた総菜を持ってくるようになった。「お茶でも飲んでいきな」とやかんをコンロにかけて、変だなと思った。二人で小さなちゃぶ台で一緒に食事をしている。妻は障子が気に入ったみたいで、不必要に開け閉めしては、いいねといった。別居先を話し合ったときに冗談でつぶやいた『スープの冷めない距離のご近所別居』になっている。妻はなんだかこの状態を楽しみはじめているようだ。
コラムの原稿のために借りたまま積んであるテレビゲームを妻は遅い時間までプレーして、セーブして、泊まらずに帰っていくようになった。
ある夜、仕事を終えて僕の家にまっすぐやってきた妻は、台所のガスコンロにかけられた深鍋をのぞきこんで目を丸くした。
「つくった」というと、こんなの作ったの、と驚いた。
「簡単さ」台所に立ったまま焼き豚の煮込みをふるまう。小皿にとって渡すと、さい箸をつけながら、妻はうまい、おいしいを連発した。豚のブロック肉の表面をこんがり焼いて、ひたひたの水と、固形のブイヨンを五個いれて煮込んで……。クリスマスに教会で聞いたままに作ってみて、本当にうまかったので自分でも驚いていた。
「どこで知ったの」それはほら、こっちには情報網があるんだよ。僕は得意になった。
「じょうほうもう?」妻は笑う。おいしいものはどんな時でも人の顔をほころばせる。まあ、座って食おうぜ。二人でビールを心地よく酌み交わした。ずいぶんと楽な気持ちだ。僕たちは憎しみあうことに疲弊していた。
このまま友達みたいになっていくのだろうが、それでも構わない。
その日の妻は長居して、終電も間近になった。僕が確定申告の書類を作成している背後で、小さなストーブに貼りついてゲームに熱中している。泊まっていけばというのは変なので、ゲーム機買えばといってみた。するとテレビの前で体育座りをしていた妻は振り向くと甘えた声で
「もう、鈍いんだから」といった。
えっ。今、なんか変なこといわなかったか。
ここにきて、鈍いという言葉はなんだろう。今夜は、もっと遅くまでともに過ごしてもいいのに、ということか。そもそも僕はそんなことを期待していない。期待していると思われているのだとしたら、なんという不本意だろう。もしかして焼き豚が勘違いさせたのか。
友達のようになるならまだしも、やり直すのなら話は別だ。好意の表明の前にまず贖罪《しよくざい》があるべきだ。僕は考えていた。理由はどうあれ戦争を仕掛けておきながら、補償なしで再び同盟を結びましょうとはムシのいい話だ。「鈍いんだから」という言葉には、自分が好意をみせさえすれば、僕は喜んでそれを無条件で受け入れるであろうという自信まで感じられて、なんだか怖い。
そういったことをすべて口に出すのは、間違いなく色気がない。帰りなよ、とだけいうと、ちぇっという感じで妻は分厚いマフラーを巻いた。
「気を付けてな」妻はまだ車を買っていなかった。夜道は暗いし寒い。大丈夫だろうか。勝手に来るだけだから駅まで見送ったことなどない。
じゃあね、帰るね。また少し甘い声で妻はいい、鉄階段を音を立てて降りていく背中を見送った。着膨れてなければ、少しうっとりしてしまったかもしれない。
焼き豚などたわむれに振る舞ったのはその日だけだったが、妻の訪問とタッパーとゲームと甘い「じゃあね」は連日のようにつづいた。そのたびに、飼い猫がすれ違うときにわざわざ足先に触れていく、そんな感じが心に残った。
やりなおしてもいいか。
特にきっかけもなく思うようになったのは、妻が少しばかり消沈している様に同情させられたことと、媚びを売っているともいえそうなほどの妻のなつき方に、もう大丈夫だろうと楽観する気持ちが芽生えたせいもある。
やりなおしたがっているのは間違いなく僕ではなくて妻の方だ。津田もサオリもいつだったか、恋愛は有利不利だと断言していた。そういう言説は二人に限らずあらゆるところで見聞きする。そんなもんかなあとそのときは思うのだが、有利なポジションでやりなおせることの心地よさを感じずにはいられなかった。
それに、離婚という答えを出してしまうことに踏ん切りがつかない。浮上するのと同じくらい、落ちきるのにもエネルギーが必要なのだった。不和の到来から別居までにも時間がかかった。「文化を失うのが怖い」津田の言葉にはっとしたのは最近のことだが、このとき僕も妻も、それが怖かったのだ。
25──10月1日 午前0時[#「25──10月1日 午前0時」はゴシック体]
反対の、都心に向かうホームはもう電車もまばらで、しかも階段を下りているうちにいってしまった。かつてこっち側のホームに、これくらいの時間に妻がいたことを思う。
十五分待って乗り込んだのはさっきの混雑とはうって変わった、がらがらの車両。タッパーを持って僕の家を訪れた妻は、こんなふうに二駅離れた自分の家に帰っていたのだ。もっとずっと寒い季節だったが、この暗さの、この静けさの中を。細長いコーヒーのスチール缶がころころと転がって反対側の座席にぶつかってとまる。
かわいそう。
そうかな。かわいそうなんかではないのではないか。愛されないのは愛さなくなったからだし、離婚も円満そのもの。慰謝料も請求されなかったし、今だって恋人がいる。
それでも、かわいそう。こんな時間のホームに無言で佇み、がら空きの車両に乗り込んで、一人で帰るのは。
自業自得。そういう正しさを幾たび心の表面で転がしてきただろう。電車は割と大きな川をまたぐ。
「電車に乗っていて、大きな川を渡るときが好き」いつか妻はいった。
「それが昼でも、夜でもね」考えて、そう言い足した。夜の川面は黒く、街灯や車のライトの列がはかなくみえる。橋を越えると二駅はすぐだった。
妻の暮らすのは首都高沿いのマンションだ。ガウディ風のフリルのようなベランダの形が異様で遠くからも目を引く。デザイナーズマンションとして高額で売り出されたが不況で値段はずいぶん下がった。それでも実は空きが多いという。
駅を出て首都高の下を並んでのびる国道を歩く。高架の向こうに梅の木がある。立派な木だ。最後にここを歩いたときは、満開だった。最後に歩いたのは昼間だった。
コンビニエンスストアでビタミンC入りのドリンク剤と、ヨーグルトとおでこに貼り付ける冷却シートを買い求める。白い袋をぶらさげて道に戻る。妻は空のタッパーを持って、甘い声を出して、それからこの暗い夜道を一人で帰った。車道をゆく車は遠慮のない勢いで、夜でも途切れることがない。テールランプの、進むようでのぼるようで、でもだんだん小さくなっていく動きをいくつも見送りながら、妻は歩いたのだ。
26──前年 3月15日[#「26──前年 3月15日」はゴシック体]
ある夜、妻がこなかった。僕は深鍋に料理を用意していなかったが、にわかに心配になった。終電の時間を意識して、時計を何度かみたり、電話の着信をみたりして、妻を待っている自分に気付いた。
携帯電話にかけたが不通だった。二度くらいしかかけたことのない妻の新居にも電話をかけるが、出ない。終電の時間は過ぎている。僕は眠れなくなった。
数年前にクモ膜下出血で倒れた津田の母親のことを思い出した。毎晩職場に泊まり込んでいた津田が、久しぶりに定時に退社した、その日だったそうだ。あと十分でも津田の帰宅が遅れていたら、間違いなく手遅れだったと医者はいったという。
やり直したがっている妻をのらりくらりとやり過ごしているうちに、あの小さな寒々しいワンルームマンションで妻が倒れているのだとしたら。
このときの僕は滑稽なくらい、妻がどこかで男と一夜を過ごしている可能性のことを考えていなかった。僕は合い鍵をもっていなかった。家までたどり着いても部屋をあけることはできない。あのマンションには管理人も常駐していなさそうだし、大家の連絡先だって分からない。
頼むから出てくれ。念じながら、十分おきに電話をいれた。胸が張り裂けそうだ。恨めしくなった。まずは不和で苦しめて、不本意な別居に追い込んで、やっと心が平静になったころに、まだ苦しめるつもりなのか。
その日は確定申告の書類提出の締め切り日だった。眠れぬまま夜を明かし、書類を茶封筒にまとめると、朝一番の電車に乗り込んだ。明け方の車道脇を歩く。行き過ぎるのはトラックばかり。妻のマンションは朝靄の中そびえ立っていた。
部屋番号を押して呼び鈴を鳴らす。頼むから出てくれ。寝ぼけた声をきかせてくれ。応答はなく、チャイムだけが間抜けに鳴り続ける。僕はボタンを力強く押し込んでいた。妻がゲームに熱中してコントローラーを握る肩が持ち上がっているのをみて「力を入れても入れなくても結果は同じなんだよ」と笑ったことがあった。僕の心の平安のために、どうか出て欲しい。僕もこれからはそうするから。皆、誰かの安心のために生きているのではないのか。
マンション前の駐車スペースの柵に不動産屋の電話番号が書いてあるのを確定申告の書類の入った封筒に書き写す。不動産屋の出社時刻は九時だろうか。業種からしても十時ということはあるまい。
妻が死んでいるかもしれないときに確定申告なんか、と思ったが、駅まで引き返した。杞憂だと思いこみたかったのだ。税務署は妻の最寄り駅の側の橋を渡ったところにある。駅前のドーナツ屋でコーヒーを飲み、ドーナツを食べる。咀嚼して、頬がこわばっていることに気付く。僕はべそをかいているのか。目は涙こそ出ないがしょぼしょぼしている。食べ物も飲み物も、胃に納まったという感じがしない。
ここで妻が死んだら僕は一生後悔するだろう。僕が許せば、許していれば妻は発見されて、早急に病院に運ばれた。
僕は税務署で、確定申告の書類を九時かっきりに提出した。こんな早い時間でも提出しようとする人が大勢きていた。税務署の裏は川だった。川の向こうには、妻の風変わりなマンションが小さくみえる。僕は封筒の裏に殴り書きした番号に電話をした。
陽光に輝く川面をみながら応答を待っていると、明るい声の女が出る。そちらのマンションの件なのですが。僕はあらましを説明した。マンション住人の家族だが、連絡がつかない。部屋の中でなにかあった可能性があり、確認したいので部屋を開けてもらうわけにはいかないだろうか。
「少々お待ち下さい」中年の男の声に変わる。僕は同じ事情をもう一度話した。鉄橋を電車が走り抜けるのがみえる。
「家族といいますと、ご関係は」聞き難いことをおききしますがね、という口調。
「夫です」僕はうろたえたが、はっきりと答えた。
「旦那さん、合い鍵はお持ちでない、と」
「はい」
「そういうの、よくあるんですけど、うちとしてはですね、確認のしようがないんですよね」
「あ、本当に夫です。今は別居してますけど……」
「あー、そうじゃなくてですね」さえぎり方で、相手がやり手かどうか分かるときがある。これは海千山千の声だ。
「今、その家にお住まいになっている方が、そうしてもらうことを望んでいるかどうか、確認のしようがないでしょう」疑われていることにやっと気付く。
「不在中に安全の確認のためにと言い張って、不本意な人が侵入するということですか」
「そうです」男は端的だった。
「後になってから、お住まいの方に、どうして家にあげたのかと抗議された場合、こちらも責任がとれませんし」
なんと正しいことをいっているのだろうか、この男は! 一言も反論できない。息が漏れる。感心してしまうぐらいに、打ちのめされた。正しさとは、こういう言葉のことだ。
「そうですね」お勤め先の会社などにまずは電話してみてはいかがですか。慇懃にいわれ、そうしますと、ほとんどいわされている感じで電話を切った。
寄る辺ない気持ちで、それでも僕は橋を渡り、マンションに向かって歩き出した。日は高く昇り、町は動き出している。排気ガスのたちこめる道路脇を歩いていると携帯電話が鳴った。妻の名前がディスプレイに表示されていて、あぁ! と思う。
「どうしたの? なにがどうしたの」混乱した声をあげていたが、間違いなく妻の声だ。
「無事なんだな」僕は叫ぶようにいった。無事って、どうしたの。妻は外にいるみたいだった。
「今、なんか不動産屋さんから変な電話があって」
妻は、僕からの着信には居留守をつかい、不動産屋の電話番号は登録がないから出た。
「ずっと電話にも出ないし、家にもいなかっただろう。ずっと呼び鈴をならしたんだ」
「寝てて気付かなかった」妻は言いよどんだ。僕が鳴らしたチャイムは、寝ていて気付かないような回数ではない。今どこにいるの。妻はまだ取り繕うことが出来ると思っているみたいだ。
「君の家の前だよ」僕はマンションをみあげた。
「寝ていたのならすぐに出てこいよ」妻は黙った。
「でも、いいんだよ」でも、の意味が妻には分からないだろう。僕はもうマンションに背を向けて歩き出していた。
「生きててよかったよ、本当によかった」僕はぼろぼろ泣いていた。心から、出てきた言葉をいった。クモ膜下出血で、死んだのでなくてよかった。生きていたことの安堵と、僕のせいではなかったことの解放感とがない交ぜになった。
この後、彼女がどこで誰とどう過ごして、どんなろくでもない死に方をしても、それは間違いなく、僕のせいではないのだ。自分のためによかった、何度も思った。来るときには背後から追い抜いていった自動車が、前方からやってきて次々通り過ぎていく。
歩きながら、昨夜から今までの自分の滑稽さや楽天性に思い至って笑いたくなったが、涙がどんどん出てきてとまらなかった。駅に戻ると向こうに梅の紅色が鮮やかにみえた。見事な梅だった。携帯電話がぶるぶると震えているが、僕は力強くボタンを押し込んで、電源を切った。
27──10月1日 午前0時30分[#「27──10月1日 午前0時30分」はゴシック体]
マンションの玄関口にたどり着き、あの部屋番号を押す。マンションの入口までは石畳の小道になっていて、植え込みが規則的に並んでいる。昼には気付かなかったが、地面に埋め込まれた照明が植え込みを下からライトアップしていた。
テレビゲームの中のような静かさだと思う。無人で廃墟みたいということだけではない。いつ足を運んでもその佇まいであるということの、記号っぽさ。
妻は一度で出て、がらがら声で「ありがとう」といってロックを開けてくれた。中に入ったのは引っ越して間もないときに様子をみにきて以来だが、外に負けないくらい、中も不思議な造りだ。
目玉焼きのようにいびつな円筒形の内側に部屋が貼りついている。真ん中の空間は螺旋階段が上まで伸びている。エレベーターもあるから、階段は飾りのようなものだ。しかし、子供のような気持ちでそちらを選んでしまう。誰でも当然そうすると思っていたら、妻は呆れていた。最上階までクエストをこなす気持ちで段をのぼる。一階のぼる毎に「ざっざっ」と心のなかでいっている。テレビゲームの、階段をのぼるときの効果音は昔から変だ。「ざっざっ」という音だが、石階段を昇降するときそんな音はしない。妻の部屋は最上階だ。円周上に同じ扉がずらりと並んでいる。久々の来訪で、何号室か僕は忘れている。(N? それともM?)
携帯電話で尋ねようとしたら、扉がゆっくりと開いた。
「やあ」僕は白い袋と、生八つ橋の包みを掲げた。
変な時期に風邪ひいたね。僕はあってないような狭い玄関に突っ立ったまま、袋と包みを差し出した。折り畳みのベッドが部屋を支配している。
「恋人はお見舞いにこないの」彼、今海外だもの。袋からビタミンCの栄養ドリンクを取り出して、開けようとしている。
「貸して」受け取って、キャップをひねる。ありがとう。手渡すと妻の掌は熱かった。
もう離婚して随分たつのに、寄る辺ないんだな、お互い。ぽつりというと
「ごめんね」妻は布団に戻った。クモ膜下出血じゃなかったのに、そしてもう離婚しているのに、風邪をひいていると見舞いにきてしまう。きたくないというわけではないのだが、これは僕の役目ではないのではないか。
「ゴミは分別してるの」靴を脱ぐ。
「うん、小さい方」声を出すのが辛そうだ。シンクの脇に大小二つのポリ袋が口をあけている。ボトルのキャップを、小さな袋の口に落とす。調理台には電熱コンロのうずまきが埋め込まれている。ミルクパンのような小さな鍋におじやのようなものができていて、少し安堵する。ペアのワイングラスの片方に、歯ブラシが傾いている。
「それ、つくったけど食べきれないから、食べる?」妻は小声だった。いや、いい。
「僕はさっきお茶漬けを二杯も食べた」冷蔵庫いれとくよ。傍らの1ドアの冷蔵庫をあけるが、片手鍋のでっぱりがうまく入らずに苦労する。
別居のときに妻は家電品を新たに買いそろえた。私の事情でする別居だから、今ある家電品はあなたが持っていって。
道理だと思って引き取ったが、男の一人暮らしに3ドアの冷蔵庫は大きすぎた。今も妻のつくったカレーや総菜がタッパーに入れられて冷凍庫に凍っている。
かがんで、瓶やタッパーを出し入れするのを妻は半身を起こしてみていた。これでよし。僕はわざと明るい声でいった。
なんかあったら連絡してな。生八つ橋は早めに食べろ。病院いけよ。風呂はいれよ。
「宿題しろよ、でしょう」そう。立ち上がると、立ちくらみがした。
「見送りいいから」といって部屋を出る。ゆっくりと、螺旋階段を三階下りたところでみあげると、手すりから妻が見下ろしていた。
「いいから、寝ろってば」怒った声になる。急いで駆け下りる。そんな泣きそうな顔をされても、いいんだ。ただの風邪なんだから、いいんだ。勝手にされたんだから、いいんだ。一周降りる毎に切なさが増す仕組みなのか。
螺旋階段を下りきって、見上げると手すりに妻の姿はなくて、マンションの輪郭がよく分かる。本当に、落ち着かない変な形。
もうなにがあっても僕のせいじゃない、と泣きながら歩いた道を引き返す。終電もなくなっていた。二駅くらい歩こうか。迷ってやはりタクシーにする。年をとった。最近は徹夜が辛くなってきた。
珍しく、運転手が語りかけてこないタクシーだった。そうだ、今度のゲームにはああいうダンジョンをいれよう。夜になるとライトアップされている、エレベーターもあるものを。いつの間にか新しいゲームを作る気になっていることに気付く。弟子がついてきたり、裏切ったり、恋したり、失ったりする、そんな物語にしよう。
自動販売機の並ぶ高架下で降りる。涼しくなってきて、ホットドリンクは加温中のところがちらほら出てきたくらいだが、ここは真夏でもホットを売っていた。
ポケットに手を入れて物色していると、横から女がやってきた。ドリンクの横の煙草の自販機に立って、迷わずにボタンを押した。細長の外国の煙草。
顔をみるとそれは唇の赤い女だった。がたんと機械の動く音が高架下に響く。
さされた? 自動販売機からあのときの煙草を取り出して女はいった。
「えっ」僕はあたたかい缶コーヒーを選んで、小銭を投入した。
「あいつ、刺されたかって」女は握り拳を腰の辺りで水平に突きだして刺す動作をしてみせた。
「刺されてない」首をふりながら、寝起きの子供のような声音になったと思った。ガタンとさっきよりも大きな音が響く。女はそうか、といって笑った。顔からあのときの張りつめた表情が消えているように思えて、安心した。女は煙草を手に、僕は缶コーヒーを手に、公園のベンチまで歩いた。開口一番に尋ねてきたのがそれということは、近付いてくるときから、なんといって声をかけるか相当考えてのことだろう。僕も考えて
「あのソニーのディスプレイ、動いた?」ああ、あれ。女は苦笑した。フィンランドにはいったのか、という質問も浮かんだのだが。
「アダプター持ってくの忘れてさ」しくじったよ。
「知ってる」家帰ってから、早速大画面でビデオみてやれと思ってジュラシックパーク借りてきたのに、電源が入らないんだもん。女は楽しそうにいう。遠くにホームレスとおぼしき男が一人二人いるほかは公園は無人で、ベンチはどこでも座ることが出来た。だが女は端のベンチまで歩いた。
「映画好きなんだね」トレインスポッティングのポスターのことをいってみる。
「あれはいまいちだったけど、ユアン・マクレガーがなにしろよくて」ベンチに腰をおろすと、女は煙草のフィルム包装を爪でむくようにはがして、一本取り出した。蛍光色の百円ライターをじっと鳴らして、細身の煙草をうまそうに吸う。ベンチに背をもたせかけて、顔を少し上に向けて、赤い唇から煙をふくようにはきだした。夜の公園の空に細い煙がゆるやかに広がる。
津田が腹をたてたのはキャビアだけだよ。隣のベンチに腰をおろした僕も、煙にあわせるように少し上を向いていった。
ひどいことしたと居酒屋では殊勝なことをいっておきながら、カムフラージュして隠したキャビアを持ち去られたことには激怒した。それをいいつつ、あの量はずいぶん高額なのではと思い返す。病院の窓の明かりがついている箇所を端から目で数える。
「前からここに住んでた? 住んでないよね」驚いちゃったよ、私。平日の昼間から、危ない顔の男がビール呑んで座ってるじゃん。女はあのときよりも気安く、饒舌《じようぜつ》だった。僕は缶コーヒーを開けながら、引っ越したことや、別居から離婚まで手短に話してしまった。
「なんだ、じゃあもうずっと同じ町で暮らしてたんだ」
津田は僕のことをなんといって紹介していたのかを尋ねる。あなたが七郎さんね。別れ際に女がそう微笑んだのを、僕は忘れていない。
「なんであんなのと友達なの」逆に問われて困る。
「だってさ、私のことが面倒くさくて帰れないような家に、代わりにあなたを住まわせていたわけでしょう。玄関を開けた途端にぐさっと刺したかもしれないんだよ、私」
「津田は危機を知っていて、僕を住まわせていたのか」推理ドラマの中の人のように、言葉を引き継いでしまう。
「でも刺されると感じていたら、僕を住まわせなかったと思うよ」口に出してみて、本当にそう思う。女は煙草を吸い終えた。細いと、すぐに減るのかもしれない。
「で、津田は僕のことをなんていってたの」気軽な口調で尋ねる。
「あなた金輪際の七郎でしょう」コンリンザイ? 風車の弥七、霧隠れの才蔵。変なあだ名が知らないところでついていた。
「なんか、学生の頃、一緒に相撲取りのゲームをやっていて、あいつがいうには、俺は横綱を何人も育てたけど、友達の七郎っていうのは違っていて……」そういえばそんなゲームをやった。
「津田は説明書なんかろくに読まないんだけど、七郎ってのは熟読してて、そのときも『弟子に稽古ばかりさせて休息させないでいると、夜逃げしてしまうことがあります』って書いてあるのをみつけて、ぜひとも夜逃げするところがみたいって言い出して」そんなことを言ったような気がする。力士を育成するときのコマンドは各種「稽古」のほかに「休息」もあった。「こづかいをやる」なんていう生々しいのもあった気がする。
「それで、せっかく育てた力士を夜逃げさせるのは勿体ないから、夜逃げする場面をみるためにわざわざ新たな力士を入門させて、それに金輪際ってしこ名をつけたの」覚えていない。
金輪際は僕のいじめに耐え抜き、序ノ口のデビューで七番とって二勝五敗だった。千秋楽に二勝目をあげたときのコメントは「がんばります」だったが、場所後に夜逃げした。そのとき画面に出たコメントは「親方、夜逃げです!」。女は細かいところまですらすらいってみせた。
津田にはインパクトが大きかったようで、ある夜寝ているとき不意に、金輪際は可哀相だったなあ、と呟いたのだという。
僕はそのしこ名すら忘れていた。
「ひどいね」他人事のようにいうと、女は笑って頷く。
「『がんばります』っていって、でも辛かったんだよ」赤い唇が艶めいている。
「津田はあなたって人が羨ましいみたいだったよ」といって立ち上がる。ウラヤマシイ?
「自分にはない破天荒さがあって、好きなことを仕事にして、奥さんとも仲がよくてって」破天荒なのは金輪際のエピソードだけだろう。
女は、仕事しなきゃ、といって立ち上がった。
「陰と陽みたいに思ってたんじゃないの」そうかな。
津田は君にひどいことしたって叫んでいた。そういおうと思ったが
「君の、名前はなんていうの」なぜか名前を尋ねていた。
「私はアオイ」青って書いてアオイって読むの。真っ赤な唇で女はいった。
「格好いいね。ゲームのヒロインみたいだ」
「多いんだ、そういわれること」と困ったようにいう。
「僕ね、テレビゲーム作ってるんですよ」市立病院のある方に歩き出した女に、少し大声でいってみた。女はそう、というと手をふって去っていった。
28──10月上旬[#「28──10月上旬」はゴシック体]
九月中に一度津田と呑む約束をしていたのだが、お流れになった。「ちょっといくつかトラブルがあって」建て直しに必死なのだという。Web制作のことなど、いくつかの初歩的な言語しか分からない。津田は社長としてどのような業務に携わっているのか、長い付き合いなのにまるで知らない。
「でも大丈夫」そうか。頑張って。
その間に僕はどういうわけか唇の赤い青《あおい》と付き合いはじめた。駅前の焼鳥屋で呑みながら、弟子の話をした。津田の受け売りだ。弟子なんかつまらないよ、といって青はトイレに立った。戻ってきたところで、弟子が嫌なら恋人になろうよ、するっといっていた。
家にやってきた青にも焼き豚の煮たのをふるまった。青が津田の恋人だったことはあまり気にならなかった。青はもっと気にしていなかった。
「いいね、このライト」夜、うつぶせに寝たまま青は枕元のマグライトをつけた。つけたまま床に転がして、煙草をつかみ、灰皿もひきよせて火をつけた。夜中にトイレに立つときに、照明をいちいちつけるのは面倒だし、まぶしい思いをさせないようにと枕元においたものだ。
「それ、結婚式の引き出物だよ」ふうん。最近の結婚式は変なものくれるね。カタログだからね。僕たちはそれをつけてセックスをした。彼女の体のあちこちや、股間に埋めたときの顔を照らすと「馬鹿みたい」と青は笑ったが、消せとはいわなかった。
電話が鳴る。ピージーの小川と申しますが。丁寧な口調で誰だかしばらく気付かなかった。
「大輔君か。どうしたの」
「あのう、津田さんいますか」連絡つかないんですよ。
「いや、こっちも連絡ないよ」僕は青の顔をみた。
「連絡きたら、こっちに電話するよう伝言お願いします」深刻そうな声ですぐに電話を切った。
津田から電話があったのは真夜中だ。連絡は、あるような気がした。経過からなにから、僕にはなんでもみせようとする男だ。
「俺さ、俺の会社さあ、倒産するわ」
さっき大輔から電話あったよ。小声でいってみる。青は寝息をたてている。僕はそっと立ち上がって玄関までいった。床に投げ出したズボンをはき、ハンガーの上着もとる。津田に、今から家を出ることを気取られぬようという意識がなぜかあった。青は寝返りをうった。
「知ってる」あいつにも、まだ知らせてないんだ、倒産のことは。上手に会社をたたまないと、あちこちに迷惑がかかる。泣かせるのは銀行と国だけで十分だから、とにかく今は大輔にいうなよ、絶対に。
「大丈夫なの」ギャング映画のように、コンクリ詰めにされた津田が海に投げ込まれる想像をした。障子の向こうの様子をうかがい、扉をあけて表に出る。月が明るい夜だった。
「三百万円までなら貸すよ」考えて具体的な数字をいってみた。返してもらわなくていい金額だ。
「ん、いらないって、大丈夫だって」津田は少しべらんめえになっている。
「前ほどじゃないし」
「前、前って、そうか」父親のことだろう。僕は夜道を手ぶらで駅に向かって歩き出していた。
「夜逃げ親子だよ」夜逃げする気か。津田は鼻で笑う。
「今、どこだよ」酔っているのだろうか。不安が高まる。
「大丈夫だから、じゃ」というなり電話は切れた。酔っているようだが、いつものぬけぬけとした感じでもあった。背後で流れていた、無駄に上手なピアノに聞き覚えがある。
僕は割り増しのランプを点灯させたタクシーに手をあげていた。車中で青から電話がかかってくる。手短に事情を話す。
「今からいってみる」友情ですな、といって青は笑う。
気弱そうなマスターは僕のことを覚えていた。
「津田さんだったら、家に帰るっていってましたよ」ひんやりとした道を体をこすりながら歩く。パチンコ屋の前を通り、曲がったガードレールを通り過ぎると、遠くで改造した車の爆音が響いた。そびえるような団地に近づく。いくつか窓に明かりがあるのに、団地全体は暗闇よりも黒くみえる。
夜明け前のエントランスは以前よりも寒々しい。狭いエレベーターから新聞配達が降りてくるのと入れ違いに乗り込んだ。津田の家は八階だった。長い外廊下を靴音をならしながら奥まで歩いた。呼び鈴を三度ならす。無人の室内にベルの音が染みこむみたいだった。
もう一度エレベーターに乗って屋上に出た。なぜ屋上だと思ったのだろう。夜でもない、朝日もまだでていない、色のない空がある。
取り込み忘れたのか、ずっと干しっぱなしなのか、物干し竿のあちこちに白い布がはためいている。空も地上も濃紺の景色の中、色といえばパチンコ屋のネオンサインが鮮やかに点滅を繰り返しているだけだ。夜明け前とはこんなにも色がないものであったか。
津田。声に出してみる。揺れる布のすきまからみえるものに目を凝らす。
津田。もう少し大きな声を出しながら端まで歩く。
「七郎」もっと大きな声で呼ばれて振り向くと、津田は端の、凸型になった向こう側に立っている。こちらと向こう、それぞれに金網がある。
「なんでいるんだよ」津田は驚いているようだった。心配だったからだよ。
「なにが心配なんだ」
「倒産して、酔っぱらってたら、考えるのは飛び降りだろう」本当はそんなことを考えたわけではなかった。
「ああそうかぁ」間抜けな声をあげる津田の姿はほとんど輪郭だけしかみえなかったが、口元が赤く灯っていて煙草を吸っていることが分かる。その煙草を金網の間から捨てる。ぐるっとまわって近付こうとしたが、津田は目の前の金網をよじ登りだした。
「なにを」するんだ。言いかける前に「そっちいくから」という津田の声は平静だった。津田は金網を降りて屋上のへりに立つと、よっと声を出してこちらに飛び移った。こちら側の金網も身軽によじ登り、ほとんど飛ぶように降りてきた。ぐるっとまわってくれば十秒もかからない距離なのに。
「子供の時からやってるから、平気」津田は僕の顔をみてそういった。そうだ、ためらわない奴は、子供の時からためらわないんだ。
「夜が明けないね」津田と二人で遠くのネオンをみやる。近付いてもお互いにシルエットで、やはり輪郭しか分からない。
津田は広い屋上をゆっくり歩いた。床のコンクリートはあちこち細かくひび割れている。
「女たちは占いを信じるだろう、でも俺が信じるのはどっちかっていうと遺伝だなあ」ラブもジョブも下手くそで、長続きしないんだもの。
それは無念なのか、悲しいのか。それほどでもないのか、それともものすごく腹が立つのか。知りたいと思った。
顔がみえないから分からない。大学をやめたときにも、地下鉄のホームで、僕は分かりたかった。
「うん」分からないから、僕はいつも棒のような相槌になってしまう。
「結婚とは文化でありますって、あれも親父の受け売りなんだ」親戚の結婚式でね。
「その後で夜逃げしたときにはなにを偉そうにって思った」でも、あれは文化が自分には得られないものだから、余計にいいたかったんじゃないかなあって今は思うよ。
「津田は得られるよ」僕はなぜかむきになった。
「そうかなあ」津田はまた大きな音のするライターを使った。
「津田」僕はいってみた。
「おまえの顔がみえないんだよ」風がふいた。朝日が昇りつつあるらしい。
エレベーターのある壁際まできて津田は懐かしいと小声でいった。うっすらとしかみえないが、ボタンの下のほとんど床に近いところに五寸釘かなにかでひっかいて書かれたハラショーという文字を津田はしゃがみ込みながら指でなぞった。
「仕事してるとき、つい検索しちゃうんだ」
「検索サイトで?」
「そう。親父とか、原田正一とか。入力すると全然知らないどこかの津田さんや原田さんのページや経歴がたくさん出てくる。日記なんかもあってさ、読むとどこかの津田さんや原田さんは皆なぜかはしゃいでいるようにみえて、俺は無性に腹が立つんだ」
「ふうん」僕は次の言葉を待ったが、話すのをやめたのか、それで終わりだったのか、津田は再び屋上を歩きだした。後をついていきながら、僕にとってはなんの思い出もない町並みを眺めた。電車の音も聞こえるし車の行き来も増えている。学校のチャイムのような音も、かすかに聞こえてくる。
不意に我に返ったような声で津田はいった。
「そういえば俺さ、こないだまでサオリと結婚しようと思ってたんだよ」なんかあいつ、少し前に子供おろしたらしいんだ。知ってる、といいそうになる。口止めの多い友達ばかりだ。
「面倒だからおろしたんだって言い張るんだけどさ」
「津田の子なんだ」分からないけど、多分ね。あいつも何人か候補がいて分からないっていうんだけど。
「大変だな、パラで走らせるって」
「俺はね。結婚してやろう、のつもりだったけど、倒産して無理になってみると、結婚してほしかった、なのかと思うよ」自分のことなのに分からないような声でいう。結婚してっていってみればいいじゃないか。根拠もなく、そう口にしてみた。
「腐れ縁も縁のうちだよ」長かった別居の、終わりの頃に思った言葉をいった。
「そうかなぁ」津田の顔がみえるようになってきた。夜目が利くというのではなくて、明るくなってきたのだろう。それは、いつものぬけぬけとした津田の顔だった。津田は二本目の煙草を地面に捨てて足で踏んだ。
「腹減らないか」津田はいった。牛丼食べにいこう。二人でエレベーターに向かって歩き出すと声がきこえた。
津田さぁん。
どこからか大きな声が屋上いっぱいに響いた。
津田さぁん。
荒野で叫んでいるような、町中にこだまするような大声だ。どこからだろうか。金網の周囲に沿って歩いて、声に近づいていく。津田は足早になった。
「なんでおまえまでここにいるんだよ」津田が向こうで、さっきのようなすっとんきょうな声をあげる。
「津田さん俺、さっきメール開いて、それで心配で」大輔だ。ほとんど金網に張り付いている。その背後に朝日。
津田はさっきと同じように金網をよじのぼって、向こう側にひょいと飛び移った。僕も真似しようとして下をみて、足がすくんでやめた。金網をまわって二人の方に向かう。大輔は涙ぐんでいる。どうやってここを探り当てたのか。きっと彼にも、なにかぴんとくるヒントが与えられたのだろう。
駅まで歩きながら津田は「大輔が俺の弟子だったんだなあ」と前を歩く大輔には聞こえない小声でいった。僕はもう頭の中でゲームの一場面にしてしまっていた。
二人でよく入った駅前の牛丼屋に三人で入る。津田と大輔は紅ショーガをどっさりとった。津田は七味もふりかけ、大輔の牛丼にも横から勝手にかけた。
「あーっ」大輔が悲鳴をあげる。
「大輔、おまえ会社の方、あと引き継げよ」会社は大山さんのところに、買い取ってもらうよう話はつけるからな。
「津田さんはどうするんですか」
「俺はリタイアする。リタイアしてキャバクラの本を執筆するよ」それはいい、といおうとしたが
「冗談はやめてくださいよ、倒産の後がどれだけ大変か分かってるんですか」大輔はがみがみと怒りだした。眠気を感じながら、牛丼をお茶でかきこむ。僕も家に帰ったらゲームの企画書をまとめよう。調子のいい柔和な植松にみせてみよう。
29──12月上旬[#「29──12月上旬」はゴシック体]
銀座の美容院で髪を切るというと、青はやはり驚いた。僕だって美容院くらいいくよというと
「そうじゃなくて、銀座ってところに驚いたの」私でさえ、地元で切ってるのに。
三ヶ月ぶりに会う花山さんは相変わらずおしゃべりだった。
「奥さんいよいよですね」といわれてなにが、と尋ねそうになる。
「ああそう、そうなんですよ」あわてて何度も頷いてしまい、花山さんは手をとめた。
「トロントって知らないけど、かなり寒いでしょう」花山さんは妻に、防寒についてアドバイスをしたという。浦和の練習場とトロントでは気温が一桁違う気もするが、妻はふんふんと真剣に聞いていたそうだ。
「来年の春だから、今から心配することないですけどね」
「離ればなれで寂しくないですかって聞いたら、うんでもお互い勝手だからって笑ってましたよ」
「勝手なのか」
花山さんは金八先生の再放送で不覚にも泣いたという話を淡々としながら後ろ髪を揃え、手に持った鏡で仕上がりをみせてくれた。僕が鏡の中に頷くと、すぐに次の客のところに歩いていった。
美容院を出ると雨がやんでいた。銀座の街で妻に会う。妻の職場は美容院からも遠くない。大きな十字路の一画で電光掲示のニュースを眺めていると、やあやあという感じで手をふって近付いてきた。
「それか。こないだ買った傘って」
「いいでしょう。今度こそなくさないんだ」閉じた傘を持ち上げてみせる。
「銀座を二人で歩くなんて久しぶりだな」
「二人で歩くことが久しぶりだよ」たまの銀座だから鰻でも食べようといったのだが、妻は最近出来た喫茶店がすごくいいらしいので案内してあげるといった。自分がいってみたいのだ。妻の、この類の提案にさからったことはない。
裏通りを歩くと猫が飛び出した。毛並みが悪く、目つきもよくない。あ、猫。妻が近寄るとたたっと建物の間に消えた。
「津田の事務所にいた猫に似ているな」事務所だった雑居ビルは一本向こうの通りだ。
「そういえば津田さんの会社、潰れたんでしょう」その後は大丈夫なの。
「大丈夫だよ。明日会うよ、結婚式で」
「まさかあの人結婚するの」妻は呆れた声になった。
「いや、共通の友人がね」サオリは友人っていうのかな。まだ迷いながら答える。
「しかも、なんと僕がスピーチすることになって」大丈夫? バツイチのスピーチなんて説得力ないじゃない。
「僕もそういったよ。ネクタイもしめられないような男に大事なスピーチを頼むなんて、よくないって」それに、僕よりもまず津田に頼むべきだ。
そういったのだがサオリは、倒産した女たらしの挨拶なんて縁起が悪くて嫌だ、七郎の方がなんだか学がありそうだからというのだった。
「ネクタイしめられないの、少し自慢に思ってるくせに」妻は意地悪く笑う。
たどり着いた喫茶店は混雑していたが、二階にあがると窓際の人がちょうど席を立つところだった。喫茶店の醍醐味はなんといっても窓際。妻は常々いっていたから、ほくそ笑む顔になった。
店員は注文した紅茶のポットと一緒に変な形の砂時計を置いていった。よくみると砂ではなく色の付いた液体が入っていて、落ちずに上がりきれば終わりらしい。二人でぷくぷくと上がる色つきの水玉に視線を向ける。
「で、なんてスピーチするの」なぜ女は男のスピーチを心配するのだろうか。
「結婚とは信じることでありますって」わざと笑いながらいうと「あいたたた」と、妻も頭の痛そうなふりをしてみせた。
「もっとうまく騙せばよかったのに」こういう台詞が悪態としてではなく、すっと口から出るようになっていた。妻は身構えたが
「僕は単純だから、本当にあのとき、クモ膜下出血の可能性しか考えてなかったんだよ」というと、神妙になった。
あれほど決定的なことがあっても翌年の正月まで離婚せずにだらだらしたのは、両親にきちんと報告するために帰省する時間がなかなかとれなかったせいでもあるが、つくづく文化というものが強靭なせいだと思う。
色水がすべて上がりきった。慎重にポットを持ち上げて傾ける。
「いつもあなたからは電話もメールも寄越さないし、何度家にいっても嬉しそうじゃなかったくせに、なんで一晩いないだけで心配するのさ」妻はしんみりと抗議した。
「あなたの紅茶の方がおいしい」そうかな。
「あ、もう仕事」妻は五百円玉を置くと、じゃあまたね、といって階段を降りていった。
傘を忘れていることに遅れて気付く。細身の、柄の部分が綺麗な丸みを帯びた高そうな傘。手に持って階段を下り、僕は妻を背後から追いかけた。奈美。
雑踏で振り向いた妻は、もうなにか言葉をかけられた後のような、意外そうな顔をしていた。近づいて、僕はいった。
「僕も、やっと好きな人ができたんだよ、だから」電話とかされても、これからは返事ができないかもしれない。
「別に、僕たち仲が悪いわけじゃないし、いいんだけど、でもほら、相手の人が気にするかもしれないし……」妻はさっきのようにしんみりするか、はかない表情をすると思ったら、笑顔になった。
「よかった」といって傘を受け取った。
「やっと私の名前を呼んでくれたね」
「呼んでなかったっけ」
「そうだよ、あれからずっと」ちょっと、とか、ねえ、だったでしょう。そうだっけ。
「よかった」妻はもう一度、なにかに刻みつけるようにそういった。
「じゃあね、そのことは分かったからね」好きな人が出来てほっとしたよ、よかった。と屈託なく微笑んで、雑踏を遠ざかっていく。着膨れていない妻の後ろ姿は美しいと感じた。
多田君子という女から結婚式の招待状がきて、どこから沸いて出てきた女だろうと思ったら、君子がサオリの本名だった。
最近は津田とサオリで結婚すればいいと思っていたのだが、相手はサオリをずっと口説き続けたサラリーマンだそうだ。やっぱり、とも意外、とも思える。浮かない顔だね、と青に声をかけられる。
「いいんだけど、津田と結婚するんじゃないかと思ってたからさ」
「えぇっ」津田が結婚なんてあり得ない、相手がかわいそうだと青はぶうぶういった。鴨居にかけっぱなしのスーツは埃だらけだった。構わずに袖を通す。ポケットから忘れかけていた名刺が束で出てきた。弁護士、社長、キャバクラ嬢の名前が書かれている。多分もう会うこともない人たちだ。机に置くと、青が手にとって眺め始めた。
「そういえば、仕事やめてから、彼はどうしてるの」
「キャバクラ本を出してベストセラーを狙うらしいよ」それにも呆れるかと思ったら、それはいいかもしれないと笑った。
「だって、あれは経営の才能はまあまあぐらいしかないよ」
「まあまあか」
「だって、若くて年商五十億とかいってる奴の顔みたことある?」あれは人間じゃないもの。津田は黒さも半端だから、物書きくらいがちょうどいいね。
「物書きだって、なれるとは限らないだろう」といいながら、僕も津田の将来はまるで楽観している。青はスーツについた埃を、ちぎったガムテープで乱暴に叩いてとってくれた。
「スピーチ考えたの」あぁ。なんとかね。机上のアンチョコをポケットに入れる。
ネクタイがないないと部屋中をあちこち探して、あきらめてノータイでいくしかないかと鞄を開けたらよれよれになったのが出てきた。夏にしまいこんだままだった。僕は鞄も持ち歩かないから、そのまま忘れていたのだ。
駅からタクシーに乗り込んだところで妻からメールが入る。
げんきー。私は今日も仕事です。[#「げんきー。私は今日も仕事です。」はゴシック体]
「そのことは分かった」といってなかったか。座席に頭をもたせかけて、液晶の中の文面を眺める。
まあいいや。メールぐらい、いくら来たっていいではないか。目をとじると、運転手が結婚式ですか、大変ですねという。
「ええ」
ホテルのロビーに貼り出された案内に従って階をのぼる。新婦側と新郎側とで列席者の控え室が分かれていたが、新婦側の部屋にいるのはほとんど女性だ。サオリは細身のウェディングドレスで、背もたれの長い椅子に腰掛けている。大勢の友人に囲まれてちやほやされているようだ。キャバクラでともに働いていた顔があるかと思ったが、覚えている限りでは見あたらない。
近付いていって挨拶すると、サオリは座ったまま、背後の母親らしい人物を呼んで「七郎だよ、今日スピーチしてくれる世界的ゲームデザイナー」といった。会釈をする。
「七郎は、私のー」とのばしながら、サオリはやはり呼称を考えあぐねて首をねじった。
「友人友人」と僕がいうと
「そうそう、親友」と笑った。すぐに別の女が写真いい、と近付いてきたので、離れる。コートをクロークに預けようと部屋を出たところで津田に会った。
「あ、俺も預けよう」津田も身軽にきびすを返した。クロークで二人、丸いプラスチックの札を受け取り、控え室に戻る。途中で新郎側の控え室を覗いてみる。正装の新郎は逆三角形かどうか分からないが痩せた、背の高い男。その友人と思われる男たちの様子は、やはり所在なくみえる。親戚か、職場の人間か、着飾った女たちの姿もみえる。傾くように中を眺めながら津田は
「ろくなのいる?」と囁いた。
皆いいんじゃない。適当な返事をする。スピーチが近づき、緊張してきたのだ。
写真を撮られていたサオリだが、津田をみつけると立ち上がって「遅ーい」と文句をいった。
「スピーチ俺に頼めばよかったのに」感動的なのをしてやったものを。津田は笑って近付く。
「嫌。七郎に頼んだんだから」あ、そうなんだ。へぇ。僕は気になってアンチョコを取り出した。素早くサオリの細い腕が伸びて、紙片を奪われた。
「あ、おい」
「えーとなになに」サオリは小声で読み上げ始めた。
夫婦円満の秘訣は信じることです。信じるとは、なにか疑わしいことがないから信じるのではなくて、ただもう無闇に信じるのです。屁理屈も理屈、邪道も道、腐れ縁も縁。
「なにこれ」サオリは眉間にしわを寄せた。
「これは要点だけ。本番ではもっとそれらしくやるんだから大丈夫」いいながら不安になってくる。まあいいや、という感じで紙片を返される。
「いいね。すごくいい」津田は何度も頷いた。また別の女二人が銀色の小さなカメラを持って近付いてきた。壁際に移動して、テーブルのグラスワインを手に取って口に付ける。
津田は壁際から携帯電話のカメラで、遠くのサオリを撮影した。
近くで一緒に撮ればいいのにというと、いいんだよサオリはこれで、と呟いて、画面の中を眺める。
「そう」不意に思いだし、手にしていたグラスをテーブルに置いた。
「あとでこれしめて」僕はポケットからネクタイを取り出して、津田に差し出した。
初出誌 「文學界」2004年2月号
単行本 2004年6月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十九年六月十日刊