[#表紙(表紙.jpg)]
長嶋 有
タンノイのエジンバラ
目 次
タンノイのエジンバラ
夜のあぐら
バルセロナの印象
三十歳
[#改ページ]
タンノイのエジンバラ
隣家の女の子を預かることになった。
それが隣の家の子だと思い出したのは、子供を置いて出かけなければならない理由をその母親から聞いている間に、ぼんやりとだった。時折団地のエレベーターで一緒になる子だ。言葉を交わしたことは一度もない。
母親の方では俺を知っているようで、なおかつこっちが自分たちをよく知っていると思っているみたいだ。独身の男の家に幼い娘を任せることの危険に思いは至らないのかと少し不安になった。
……大至急、知人に会わなければならない。知人は今仕事で熊本県の八代《やつしろ》というところにいるが、今日明日にも会って話をしなければ「身の破滅」である。俺は頭の中にぼんやりと九州の地図を思い描いてみた。でも、と躊躇《ちゆうちよ》したり、懸念を口に出そうとすると女はすぐにそれを遮《さえぎ》って窮状を訴えつづけた。その内容よりも、女の醸《かも》し出す色香のようなものに俺の気持ちはだんだん押し切られていった。ちょっと派手だが、なにしろ扇情《せんじよう》的な目つきをしている。その目がせっぱつまった様子で俺を見据える。子供の手前「知人に会う」といっているが、間違いなく色恋沙汰だろう。
分かりました、とりあえずそういってみて、この女もどこかでみかけた気がした。団地ではない。
預けるといっても隣だし、夜は自分の家で寝させるから、ご飯と火の元など最低限の安全さえ気を配ってくれればいいと急ぎ気味に話しながら、もう俺の手に壱万円札を握らせようとした。
いや、いいですよ、いいですけど。念のために連絡先を、といおうとしているうちに了解を得たと思ったらしく、女は大急ぎで走っていってしまった。正面からでは分からなかったが、走り去るときの女の顔を斜め後ろからみていたら、前に職安でみかけたことを思い出した。俺は女の子と公園に取り残された。公園のほぼ真ん中に。
このごろ毎日、桜の散った公園でぼんやりしていた。それまでは公園に長居してベンチで文庫をめくっている人などをみかけるととてもうらやましかったのに、自分が同じことをしてみても自由を満喫している気がしない。失業保険で喰っているせいかもしれないが。
失業保険給付の手続きではずいぶん脅された。朝早く徒歩で向かった。「ハローワーク」の看板だけが真新しくぴかぴかで、建物の古びた壁はくすんだりひび割れたりしている。入口に「給付金説明会においでの方は↑」と案内が貼られている。日当たりの悪い裏庭にプレハブの別棟があり、中にはパイプ椅子が二十か三十か、それくらい並べられていた。早起きしたつもりだったが、もう前の方の席しか空いていない。入口に置かれた一人一枚厳守というパンフレットを皆うつむいて眺めていた。前方の壁にビデオ上映用のスクリーンがある。映画館では前方の真ん中に座る癖があり、ここでもど真ん中に着席してしまった。
(早く終わらないかな)共通の空気が漂っていたが、着席した全員にまったく連帯感がない。これから生まれる気配もない。
説明会はビデオ上映から始まった。失業保険の給付期間中にアルバイトをしてその分の申告を怠ると、それは「必ずばれて」追徴金や罰則がこれだけあるというのを、分かりやすくドラマ仕立てで紹介していた。誰もが無言だった。上映のとき俺より遅れて最前列に座ったのがあの女だった。女は、そうすれば遅れが取り戻せるとでもいうように画面を凝視していた。
上映が終わるとハローワークの職員が壇上に現れた。パンフレットをめくりながらの説明が始まった。はじめのうち傍線を引くための筆記用具ぐらい持ってくるべきだったかと後悔したが、すぐにその必要はないと思った。職員はパンフレットに書かれた文章をなぞって読み上げるだけだった。読み上げはゆっくり、大きな声で行われた。「支給されるのは失業認定を受けた翌月からである」「月に一度、表に指示された時刻、三十分間のうちに受付で手続きしないと、給付金は絶対に支給されない」「印鑑は必ず持参する」……。高校の授業がこんな風だった。俺は受験の日に風邪を引いて失敗し、偏差値のとりわけ低い滑り止め高校に入学した。新学期にもらった教科書をみて驚いた。中学一年の時の教科書と同じなのだ。窓の外ばかりみていてもテストではずっと一番だった。
最後のページまで説明が終わり「質問のある方は並んでください。ない方は解散」と職員がいうと、最前列の女が真っ先に立ち上がって列を作ったのを覚えている。
ハローワークの斜め向かいのコンビニはうちの近所にはないミニストップだ。月に一度の失業認定日は手続きを済ませるとそこでソフトクリームを買って食べた。日当たりの悪い路地を歩いて帰る。雑居ビルの裏側の階段を登った三階にガレージキットとプラモデルの専門店をみつけたので、特にそんな趣味があったわけでもないのに立ち寄るようになった。
手続きの日に早起きしなければならないということ以外、俺の生活からあらゆるプレッシャーがなくなった。「人間の生理サイクルにしたがえば一日は二十五時間である」となにかで読んだ。寝る時間と起きる時間が一時間ずつずれながら回転する。
今朝は七時に起きた。時間は意味を失っている。俺は頭をむやみにかきながら、ワイドショーともニュースともつかぬテレビを眺めて過ごした。十時にならないと町は動き出さない。ただもう所在なく寝転んだり、むやみに屈伸したりした。
働いていた時は敷きっぱなしだった布団をたたむようになったが、部屋の狭さはほとんど変わらない。食パンがあれば何も塗らずに食べるのだが、ないときは近くの喫茶店に出向く。不味《まず》いモーニングサービスの時間が終わって普通のメニューになるころを見計らって外に出る。
腹を満たすといつものように公園に向かった。それほど狭い公園ではないのに周囲がビルばかりのせいか、平日はほとんど誰もいなかった。ベンチはいつも少し湿っているような気がする。文庫本をもっていったが読むことはあまりない。
最近は正午近い時間になると、二人の女がテニスともバドミントンともラクロスともつかぬものをやりにくる。先週あたりからきはじめたように思われる。前はたしかもっと小さなラケットで遊んでいた。
ひとしきり打ち終わると二人はラケットを同じ形の袋にしまいはじめた。来週はどんなラケットをもってくるのか。腕前のほうは先週と大差なかった。
向こうのベンチに寝そべっていた男がやおら起き上がり、傍《かたわ》らの自転車に急いでまたがると水飲み場まで漕いでいった。自転車をとめ水を飲み、今度はそのすぐ側のベンチに寝そべった。広島カープの帽子をかぶっている。
またしばらくするとがばりと起き上がって自転車に乗り、端のほうの公衆トイレの前で自転車をおりた。そのままトイレに入っていった。出てくると、その側のベンチに寝そべった。
そのまましばらく寝ていたが、また起き上がると胸ポケットから携帯電話を取り出して耳にあてがい、何度か頷《うなず》いた後で、また自転車に乗って、公園の真ん中を横切って出ていった。なんだか、住んでいるみたいだ。
俺は立ち上がった。腹が減った。公園から出ようとすると、入れ替わるように母子がやってきた。
母親は姿勢が悪く、歯が痛いのを我慢しているような顔をしている。子供はというと、母親に手を引かれたままだ。
母子は迷わずまっすぐ俺の方に歩いてくる。俺が反対側の出口の方に歩きだすと母子は進路を微妙に変えて、ますます俺に近づいてくるようだった。
なんだろうと立ち止まると母は子供の手を放し、さらに急ぎ足で近づいてきた。公園の真ん中で呼び止められて捕まったというわけだ。
母親が立ち去ってしまうと、俺の横でずっと一緒に正面を向いていた女の子は出口に向かってぴゅーっと走っていった。あぶなっかしい走り方で車道へ飛び出した。団地の方角だから一人で勝手に帰るつもりなのだろう。遅れて俺も歩き出した。
小さなスーパーに立ち寄る。オーストラリア産のステーキ肉二切れ九百八十円のパックと、新発売されたばかりの発泡酒の大きい缶をカゴにいれた。
団地は築年の古い高層住宅だ。エレベーターのワイヤーはいつもみしみしいう。六階で降りると左手に六戸。俺の部屋は奥から二番目だ。赤く錆《さ》びた手すりの向こうには都庁とその他の高層ビル群がみえる。新宿駅までバスで十分のところにあるというと知り合いはうらやましがるが、このうらぶれた佇《たたず》まいはどうだろう。引っ越してからずっと、住人をみたことがほとんどなかったが、職を失って暇になると昼間よく出くわすようになった。すれ違うのはほとんど男で、皆、薄暗い部屋で夜通しパソコンばかりやってるのか、変な薬でもやってるのか目が充血していた。たまにみる女たちの外見からは水商売以外の職業が想像できない。
俺の部屋の隣、一番奥の扉の前でさっきの女の子がしゃがんでいる。さっきは持っていなかったランドセルを傍らに置いている。二年生か三年生ぐらいだろうか。声をかけようとしてためらった。なんと呼びかけたらいいか分からない。大人に声をかける以上に勇気がいることに気付いた。そう思っていたら向こうから話しかけてきた。
「おじさん電話貸して」
「電話?」
女の子は俺を見上げて「電話」と繰り返した。母親に似ていない。鼻が低く目が腫れぼったい感じで、親の方がずっと美人だ。
「うち、電話とめられてるから」というので用心しながら女の子を招き入れた。携帯でいいんだけど、といいながらすぐに俺をすり抜けて先に部屋に上がり込んだ。
「なにこれ」
「電話」俺が床からとりあげた黒電話を不思議そうにみている。ダイヤル電話の実物をみるのは初めてらしい。
ダイヤルに指をいれてまわすたびに女の子はくすぐったそうに笑った。俺は外に出たが、なにもこの女の子をゲスト扱いすることはないのではないかと思い直し、中に戻ると電話はもう終わっていた。
女の子はまだ面白がってダイヤルを回し続けている。俺は電話機ごと奪い取った。奪ったあとですこし乱暴な動作だったかと思ったが、女の子は気にしたふうでもなく「お腹空いた」といった。
やはり俺が何か食べさせるべきなのだろう。握らされた万札は尻ポケットの中だ。ステーキ肉を分けてやるとしても、他におかずがないというのはどうだろう。俺は冷蔵庫をあけて中を覗き込んだりしてみたがもとより水とビールしか入っていないことは分かっていた。外食でもよいのだが、今から連れ出すのも面倒だ。
「どうしようかな」もっともらしく思案しているような声をあげてみたが、考えはなにもない。
仕方なく肉叩きの代わりにコップの底でステーキ肉を叩いてのばしていると、女の子は奥の部屋にいってしまった。
「オタクー」と叫ぶ声が聞こえてくる。書棚や机など、あちこちに最近飾りはじめたフィギュアのことをいっているのだろう。
「そうだよ、オタクだよ」俺はフライパンを熱して油をひき、換気扇もまわした。また向こうでなにか叫んだが、肉を焼く音で聞こえなくなった。
付け合わせのないステーキ肉だけ載った皿を二枚、奥の和室の座卓に運ぶ。ナイフは一本しかなかったので交代で使った。俺は発泡酒を、女の子はミネラルウォーターを飲む。食べきれなかったら残していいよと声をかけたが、女の子は脂身だけ除いて全部食べた。
食べ終わると女の子はトイレにいった。自分の家でしろよと思ったが、電話がとめられているのであれば、水道や電気がとめられていてもおかしくない。
トイレを出ると女の子はごちそうさまもいわずに外に出ていってしまった。隣家のドアが開いて、閉じる音がした。ランドセルを忘れている。拾い上げてみるとベルトの部分がずいぶん黒ずんでいる。ランドセルってこんなに小さかったかと思いながら金具をぱちんと開くと蓋裏のポケットの側に黒字で「愛川瀬奈」と書かれていた。アイルトン・セナが人気だった頃、あやかって名付けた親が結構いたというニュースを聞いたことがある。
俺も皿を台所にさげるとトイレに入った。トイレットペーパーがずいぶん減っていた。
西日の射し込む時間まで母親のことも子供のことも忘れていた。呼び鈴が鳴ったときも、セールスを警戒する気持ちしか浮かばなかった。ドアレンズの中で瀬奈の顔はかなり下の方にあった。仏頂面をしている。そのとき突然、俺は捨て子の可能性に思い至った。扉を開けると瀬奈は「お腹空いた」といって室内に上がり込んだ。
お母さんって携帯電話とか持ってる? 俺は試しに訊《き》いてみたが瀬奈は首を横にふった。まじまじと顔をみつめたが、瀬奈はテレビみていい? などといってくる。置かれた状況が分かっているのだろうか。勝手に家を探検しはじめた。和室六畳と四畳の台所とトイレと風呂。隣室も同じはずだ。
「おじさんの家、せまいね。物ありすぎ」俺のことは「おじさん」と呼ぶことに決めたらしい。抗議する気は起きない。瀬奈は部屋のあちこちのものを手に取ったりアンプのボタンを押したりした。俺は自分がどんな表情になっているだろうかと台所の脇の鏡をそっと覗いてみた。
しかし今時捨て子とは。「古風な」という言葉が浮かんだ。最近のニュースをみていると、すぐに折檻《せつかん》して殺してしまう話ばかり聞くから、あの母親はまだ偉いのかもしれない。相対的に考えれば大抵の物事に対して呆れるという気持ちがなくなってしまう。
今後のことはどうしようか。考えがなにも浮かばない。なにしろ自分の将来だって考えずに過ごしている(ゼロにかける数字がどれだけ増えたところで答えはやはりゼロ)。夕闇迫る街に晩の食材を買いに出た。今度こそ外食でもよかったのだが、瀬奈はさっきまでのぶっきらぼうな態度が嘘みたいな馴れ馴れしさで「晩ご飯作ってあげる」とはしゃいだ声でいった。
あまり利用しない商店街の八百屋でじゃが芋など買った。前を歩く瀬奈には緊迫感がまるでない。健気《けなげ》にふるまっているのではなく、本当に捨てられた可能性に気付いていないのではないかと思うと少し気が重い。二人縦に並んで歩く姿は親子にみえるだろうか。兄妹。誘拐犯と人質というのがしっくりくるかもしれない。不精髭をさすりながらそう考えた。
二人でカレーライスとは少々わびしい選択だったか、と思ったが瀬奈はキャンプにでも来ているような気持ちでいるらしい。換気扇をまわし、台所の窓際の細い蛍光灯をつけ、俺は発泡酒を早くも一缶あけた。私じゃが芋|剥《む》けるよ、と言い張るので果物ナイフを渡してやらせたが、もどってきた芋はものすごく小さくなっていた。それも一個で飽きてやめてしまった。
「ねえ知ってる?」瀬奈は切れない包丁で肉を切ろうと力を入れている俺のズボンを引っ張っていった。
「ねえ知ってる? バーモントカレーの辛口って、ジャワカレーの甘口と同じ辛さなんだよ。知ってた?」ここに書いてあるよ、と瀬奈は俺にカレールーの箱の裏をみせた。横長の箱には「辛味順位表」というのが書かれている。
「俺が子供のころは『こくまろカレー』なんて載ってなかった」箱をみながらいうと、瀬奈はへーっと驚いて
「おじさんが子供のころにもバーモントカレーなんかあったの?」といった。そしてずっと昔のことに思いをはせるような目で箱をみつめだした。
「あったさ」林檎と蜂蜜とろーり溶けてるって、西城秀樹が宣伝してたんだ。
「ふうん」
「秀樹カンゲキって」
「なにそれ」瀬奈は馬鹿にしたような顔をしてみている。俺はすこし酔っている。
「なんかしようよ」カレーを食べ終えると瀬奈はすっかりくつろいだ声になっていう。なついた、というのだろうか。
「なんにもしないよ」俺はさっさと皿を台所にさげた。スポンジにコンパクトサイズの台所洗剤を垂らして泡立てた。
「なんか誘拐みたいだよね」と台所までやってきて瀬奈は「きひひー」と大声で笑った。馴れ馴れしいのは平気だが笑い方は少しかんに障る。
「あとで脅迫状書いて」嫌だよ。
「書かないと叫ぶから」
「おまえが俺を脅迫してるんじゃないか」俺は皿を洗いながら怒った。だが皿をすすいで、濡れた手をタオルで拭《ぬぐ》うと急に気が変わった。俺は昨日の新聞をとりあげた。
「切り抜くんだ」筆跡からあしがつかないように。瀬奈は俺がとても誘拐に精通した人間だと思ったようで、頼もしげな目で頷いてみせた。
「はさみ、はさみがいるね!」瀬奈は嬉しそうにいうと玄関に投げ出されていたランドセルをとってきた。蓋を開けて、そのまま逆さにした。どさどさと様々なものが落ちてくる。プリクラのべたべた貼られた手帳。小さな鏡。バンドエイド。大きな派手な色の消しゴム。中におもちゃみたいな鋏《はさみ》があった。
瀬奈は鋏を手にするとプラスチックの鞘《さや》をとった。水色の柄《え》で、指を通す穴がとても小さい。刃は丸くて切りにくそうだ。
「波形に切れるんだよ」
「普通に切れるのはないのか」ない、と瀬奈はいった。
「切るときに鳴き声がするんだよ、今は電池が切れてるけど」ボタン電池ってある? と瀬奈は尋ねた。
「ない」
「LR44っていうんだけど」
「なにが」
「電池」
「知らないな」そっけなく返事しながら俺はやっと「お」の字を切り抜いた。
「コンビニで売ってる」
「いらない」
「あそこのローソンにあるよ電池」
「買わないって」俺が苛々した口調になっても瀬奈は気にする風もなく、新聞を切り抜くのを興味津津でみている。「お」「ま」「え」「の」までを切り取ったところで、「む」ここにあるよ、と瀬奈は新聞の見出しを指差した。
「それより『娘』ないかな」畳に新聞の切れ端が散らばる。「預かる」は経済欄にあるだろうか。俺は既にあちこち切れた新聞をめくった。
「娘」「は」「預か」「つ」「た」あたりで根気が続かなくなってきた。鋏は切りにくく指も痛いし、神経を使う。どのみち出すことのない脅迫状だ。
「あとはおまえが切れ」
「えーっ」瀬奈は不満顔で
「それより身代金は? ねえ身代金いくらにする?」と尋ねてくる。
「いくらぐらいかなぁ」いくらにする? という質問は、俺がいくらほしいのかという意味と、私の価値はどれぐらいだという意味と二種類ある。どちらの意味だろうと考えてみたが分からない。まあ一億円が相場だろうというと瀬奈も納得したようだ。俺は半ばやけになって切り抜きつづけた。
だが出来上がるころには瀬奈は脅迫状作りに飽きていて、アニメを熱心にみはじめていた。出来たぞ、と声をかけてみたが急に馬鹿らしくなった。
俺は瀬奈が薄暗い床に散らかしたままのランドセルの中身を手にとって眺めてみた。
「この下敷きは?」四人組の女がプリントされている。
「SPEED」
「SPEEDの子たちは解散したあと、どうしてるの」と尋ねてみて、親戚の消息を訊いているような口調になったと思ったが
「ソロでやってる」なにも心配するなという調子で瀬奈は答えた。
「この四人の中では誰が好きなの」と尋ねてはみたが、誰の名を挙げられても分からない。
「エリコちゃん」瀬奈は嬉しそうに中の一人を指差した。俺は下敷きを両手でふよんふよんとたわませた。誰が一番スピードが速いの、という質問も浮かんだが、馬鹿にしている上に向こうからも馬鹿にされることは間違いない。
「これは知ってる」別の下敷きには安室奈美恵が手を細い腰にあてて笑っている。下の方に斜体でAMUROと書かれているのは格好いいデザインとはいえない。汚れ具合からして、ずいぶん年季が入っている。下敷きを何枚も持ってどうするのだろう。
「今はもう落ち目なんじゃないの、安室は」
「安室は今でも好きだよ。でも小室は嫌い」瀬奈は聞いていないことまで教えてくれた。
「同じ『むろ』なのにな」
「関係ないよ、そんなの」馬鹿じゃないの、と瀬奈はいった。それから「CD聴かせて」と急にいうと、ランドセルのポケットからCDのケースを取り出した。
「CDか。CDは聴けないんだ」
「うそ」
「みてみろ。分かるだろう」俺は出窓の下に据えられたチューナーとアンプと、その両脇に置かれた大きなスピーカーを指していった。「CDプレーヤーがないだろう」だから聴けないんだ。
「パソコンで聴けるもん。知ってるもん」瀬奈は床の上に置きっぱなしのノートパソコンを指していった。実際、たまにCDを聴くときはパソコンのCD−ROMドライブを使っていた。仕方なく俺はアンプの電源を入れ、パソコンのジャックに金メッキのコードを接続した。瀬奈が渡してくれたCDは名前を聞いたことのない女のものだった。テレビで最近よく聴く歌が流れた。
「音あげて」瀬奈はいったが俺は逆に音量を絞った。
「なにこれ。うちのと違う」瀬奈は息をのんでいるが、最初なにを驚いているのか分からなかった。
「すごいね。すごくいいね」瀬奈は音のことをいっているのだ。瀬奈は二つのスピーカーの間のアンプの前までいって体育座りをした。
「いいスピーカーだから」
「これ? 大きいね」
「そう」タンノイのエジンバラ。
「タンノイのエジンバラ?」パイポのシューリンガン? 瀬奈は変な名前を聞いたときのような怪訝《けげん》な声をあげた。
「タンノイはメーカー名。そんなに変か」ソニーのウォークマンっていうのと同じだろう、と俺はいったが瀬奈はどうでもよさそうに頷いた。
タンノイのエジンバラ、タンノイのエジンバラ。瀬奈は巨大なスピーカーの側面の木目を手で慈《いつく》しむようになぞりながら呪文のように繰り返した。アンプも含めて父の形見だ。数年前に父が死んだとき、所蔵のクラシックレコードのコレクションは知人が持っていったが、スピーカーとアンプだけのこった。家族の誰も欲しがらなかったので、なんとなく引き取った。
幼いころ、父が蓋をあけて中をみせてくれたことを覚えている。スピーカーの前面の、下の方に鍵穴がある。父が金色の鍵を差し込むと、前面のパネルが扉のように開いた。箱は大きいのに中はがらんとしていた。父は感心させたかったのだろうが、俺はいんちきだとそのときは思った。大人になるにつれて、そこらのラジカセの音とは違うことが分かってきたが、今でも正直いって持て余していた。たまに自分で聴く音楽もこのスピーカーにふさわしいものではなかった。捨てずにいるのは、単にこれが高価なものだと聞かされていたからだ。金色の鍵もなくしてしまったから、今は中をみせることもできない。
そんなぞんざいな扱いをしていたくせに、こうして音の違いが分かる人を目《ま》の当たりにすると、それが子供でもつい誇らしい気持ちになる。
俺は安いティーバッグの紅茶をいれて出した。瀬奈はさっき商店街で買ったコアラのマーチの六角形の箱に小さな指を突っ込んで食べ始めた。スピーカーからは現実がどうしたとか時代がどうしたとか、悲壮な言葉ばかりが女の歌声で流れてくる。全部で十曲、CDの再生が終わると、瀬奈は立て膝になりパソコンに近づいた。教えてないのにトラックパッドを操って再びPLAYボタンを押した。それからアンプの大きなつまみを回して音量を上げようとするのを俺は押しとどめた。CDもとめた。
「もう戻って寝な」
「まだ十時半だよ」抗議を無視して俺はアンプの電源を切った。ぷつっと空気の切り替わるような音がして、静寂が訪れた。一瞬不満そうな顔をしたが瀬奈はランドセルに文具をしまうと、昼間と同じようにぷいっと出ていった。
「戸締まりきちんとしろよ」と声をかけたが聞こえたかどうか分からない。
静かになった部屋で、親に捨てられたかもしれないということを改めて考えてみた。もしそうならどこに連絡すればいいのだろうか。警察? 昼間電話を借りて彼女はどこに連絡していたのだろう。
あまり同情心が涌《わ》き上がって来ない。現実味を感じていないせいか。子供とはいえ他人事だからか。瀬奈の顔の造形があまりかわいくないせいかもしれない。こういうシチュエーションの映画があるな。孤独な男と若い女の子が旅をするような。比べれば現実はいつも垢抜けない。
俺は床に落ちている脅迫状を拾い上げた。自分でつくったのに、そんな気がしない。「おまえの娘は預かつた。かえしてほしくばいち億円用意しろ。」異様な迫力があり、俺は少し怯《ひる》んだ。それを持って隣家の前までいき、呼び鈴を押した。瀬奈は待っていたようにすぐ扉を開けた。一応寝巻に着替えてはいる。部屋の中にはほとんど物がない。テーブルと、箪笥が一つ壁際にあるだけだ。反対の壁際に布団が敷きっぱなしになっている。電気はとめられてないようだ。蛍光灯の照明は天井にはめ込むタイプの大きなやつで、明るすぎるくらいだ。
「寝ないと駄目だぞ」ほら。俺は脅迫状を手渡した。嬉しくもなさそうに瀬奈は傍らのランドセルにしまった。
「宿題あるもん」瀬奈はテーブルで書き物をしている途中だったようだ。布のペンケースからシャープペンシルと消しゴムが出ている。広げている紙はコクヨの原稿用紙、ということは作文の宿題だろうか。明日は平日だったのか。大体、今日は何曜日だったろう。見回してカレンダーを探したがなさそうだ。俺はテーブルの向かい側にあぐらをかいた。
「俺のときもこういう紙だったよ」懐かしくなって原稿用紙を手に取ろうとすると
「嫌」瀬奈は大声をあげて紙の端をしっかりと握りしめた。
「みせなよ」大してみたくもなかったが、嫌がるのをみるとついこういいたくなる。瀬奈は「嫌だ嫌だ」とかなり大げさに首を振った。
「だって、大人はすぐ褒めるから」
「じゃあ、褒めないからみせなよ」駄目。
「こてんぱんにけなすからさ」嫌。
電車の音が遠くに聞こえた。俺は一つしかない家具を仕方なく眺めた。箪笥の上には何も置かれていない。俺の生家の箪笥の上はもっと混沌としていた。くすんだ色のマトリョーシカや滅多に遊ばないオセロの盤、救急箱、箪笥に入りきらない箱入りの浴衣などを思い出しながら、だんだん所在なくなってきた。もう寝なよ。俺はもう一度いった。
「作文まだだもん」握って端のくしゃくしゃになった原稿用紙を広げてみせた。「今日は隣の家のおじさんの家にいった」でとまっている。これで褒められると思ったのか。
「家に、は一回でいいんだよ」というと瀬奈は書きかけの原稿用紙を丸めて後ろに放り投げた。紙は押入の襖に跳ね返って畳に転がった。
「今日はステーキ食べただろう」それとなくアイデアを出してみたが日記にふさわしいとも思えない。
「あと脅迫状作った」瀬奈がいった。
「じゃあそれ書けばいいだろ」といってから、同じ言葉をかつて自分もテーブルの向かいの大人にいわれたような気がしてきた。
作文出すのやめちゃえば? と思わず投げやりにいったら、そうだよね、そうだよねと急に表情が輝いた。いい提案をした褒美というわけか、台所から缶ジュースとせんべいを持ってきた。
それから瀬奈は押入の襖を開けた。上の段には布団が、下の段には引き出し式の収納ボックスが収められていた。ボックスから取り出したのはアルバムだった。
「アルバムみる?」瀬奈は小袋に入ったせんべいをがさがさいわせながらいった。
めくったアルバムの一枚目は母親と瀬奈だ。後ろに見える建物は、行ったことのない俺でもなんとなく知っている。シンデレラ城だ。よく晴れている。瀬奈は今よりまだすこし背が低い。二人とも眩《まぶ》しいほどの笑顔だ。めくると、ミッキーマウス型の風船を持ち耳のついた帽子を被った瀬奈の姿がある。母親が一人で写っているのもある。俺は思わず腕時計をみた。終電の時間だ。もしも帰ってくるとしたら明日の何時頃だろうか。
俺と一緒に母親の写真を凝視していた瀬奈は
「私も整形するんだ」とぽつりといった。その後であくびをした。もう布団に入れば、といってみると素直に従った。
俺は瀬奈が布団にもぐりこむすきにもう一度母親の写真をみてから、ゆっくりアルバムを閉じた。それから立ち上がって明かりを消した。なにかあったら呼びなよ。そっと声をかけジュースの空き缶を持って玄関に向かった。かがんで靴を履いていると
「明日ディズニーランドつれてって」暗い部屋から声だけする。
「混むよ」俺は暗い居間に返事をして立ち上がった。
「那須ハイランドパークは?」
「遠いよ」
「じゃあ、よみうりランドでいいよ」
「おまえはランドがつけばどこでもいいのか」向こうで笑う声がする。俺は再び玄関に腰を下ろした。
「ミッキーマウスの声って変だよな」俺はいってみた。
「どこが」
「オカマみたいじゃん」
「ネズミなんだからいいの」瀬奈は布団から起き上がったようだ。ミッキーマウスに関するあらゆる批判を許さないという剣幕だった。
「じゃあ、グーフィっているだろう」
「いる。グーフィの消しゴムもってる」
「プルートってのもいるだろう」
「いる」
「両方、犬だよな」
「そうだよ」
「どうしてグーフィは二足歩行でミッキーとも会話ができるのに、プルートは四つ足で歩いてミッキーに飼われているんだろう」なんでだ? プルートがかわいそうじゃないか。前から漠然と感じていたことを訊ねてみた。すこし意地悪な質問をした気分でいた。しかし瀬奈はまったくめげず即座に
「そんなの決まっているじゃない。プルートには彼女がいないからだよ」といったので俺もさすがに返す言葉をなくした。
「一人だけ彼女いないのに、皆と一緒に二本足で歩いていたら、やりきれないじゃないのよ」
「そうかな」
「そうだよ」暗がりから勝ち誇った声がする。
「整形とかいってる前に歯磨けよ」といいながら隣家を出た。自分の部屋に戻る気になれず、そのままエレベーターに乗った。たしかに例のねずみにもアヒルにも、ただの色違いみたいな彼女が、それぞれあてがわれていたように思うが、プルートにいないというのは本当だろうか。
彼女もいないのに皆と一緒に二本足で歩いていたらやりきれない。エレベーターを出てから心の中で反芻してみた。その通りだという気がしてきて愉快だった。夜道に出る。散ったまま道の端にたまっていた桜の花びらが、歩くたびに足元で小さく舞った。
あの子にもう少し優しく接するべきか。LR44のことだって本当は知っていたのだ。自分ならどうされたいだろうか、そんなことを考えながらコンビニで酒とつまみを買って戻ってくると瀬奈の家の台所の明かりがついていて、うがいをする音が聞こえた。
翌朝早く、母親は帰ってきた。呼び鈴で起こされて時計をみるとまだ六時過ぎだ。寝癖を手で押さえながら扉を開けると、朝焼けを背に母親は歯をみせて笑った。かなり遠くまで出かけたはずではなかったか。九州の、熊本のどこといっていたか。俺はまたぼんやり九州の地形を頭に浮かべようとしたが、熊本がどこにあるかすら思い出せない。
「すみません、朝早くに」いえ。俺は昨夜の瀬奈の言葉を思い出し、母親の顔を改めてみつめた。
本当に助かりましたとか、どうもすみませんとか、ありがとうございましたとか、母親は猛烈な勢いで謝罪とお礼を繰り返した。なにやら奇妙に明るい様子で、俺は少し怖くなった。昨日のせっぱつまった表情が反転して、人一倍目覚めている感じになっている。
「これからご出勤ですか?」
「いや、今日は職安へ」というと
「あぁ」と少し含みのある笑い方をした。かつては共に通った仲だったが、向こうはすごろくで先にあがった人みたいな余裕をみせている。パトロンとどのように折り合いを付けて帰ってきたのだろうか。
母親が帰ると俺は少し腹が立って、冷蔵庫を乱暴に開けてミネラルウォーターのボトルを手に取った。一万円を返さなければと思い、玄関を開けると母親はもういなくて、都庁が朝日に包まれていた。俺は水を呷《あお》るように飲んだ。それから部屋にもどりテレビをつけた。いつものワイドショーのようなニュース番組がもう始まっている。元気そうな声が「今日は快晴です」と告げている。眠いのか眠くないのか自分でも分からないまま、しばらく画面を眺め続ける。
給付金の手続きの日だということを忘れていた。気付いたときは締め切り時間の二十分前だった。全力で走りつづけて十五分ぐらいと踏んで、俺は溜息をつき、三文判をにぎって外に出た。運動不足は自覚していたが、これほど懸命に走ったのは人生において初めてかもしれない。
へとへとになって帰宅すると家の前に瀬奈がしゃがんでいた。
「よかったな、ちゃんとお母さん帰ってきて」俺は思わずそういってしまった。
「よくないもん」来週、引っ越すんだもん。
「急だね」俺が自室の扉を開けて促すと瀬奈はすっと中に入った。
「これ聴かせて」ランドセルのポケットからCDをむき出しのまま取り出した。かけてやった曲は昨夜聴いたのとほとんど同じように思えたが、瀬奈はぺたりと畳に腰を下ろして動かなくなった。シングルのCDを三回繰り返して聴いた。俺はまた紅茶をいれて出した。三回目で満足すると瀬奈はスピーカーを指して
「これちょうだい」と俺を見上げながらいった。
「ばかいうな」形見だぞ、というと「じゃあいい」とあっさり引き下がった。引き下がられるとなぜか、いいじゃないか、あげてもと一瞬思った。
「代わりにこれやるよ」俺はスピーカーの上に飾られたフィギュアを一つ渡した。
「高いんだぞ」本当は間違えて二つ買ってしまったもので、押入に同じのがもう一つあるのだった。
「なにこれ」瀬奈はあからさまに眉間にしわを寄せている。
「妖鳥シレーヌを知らないのか」デビルマンのかたき役だぞ。
「形見にもらっておく」
「俺まだ死んでないよ」瀬奈は「きひひー」と、またあのかんに障る笑い方をした。
「瀬奈」外から母親の呼ぶ声がするとチョロQみたいな勢いで出ていった。
荷物が少なかったからか、隣家の引っ越しは早かった。引っ越し便のトラックは軽自動車だった。狭い路地を縫うように行くトラックを俺は手すりから眺めた。
何日かして俺は就職が決まった。会社を興すという友人の話に安易にのった。仕事で必要になるので、雑誌の付録のCD−ROMからフリーウェアといくつかのパッチファイルをインストールしようとしたら、トレイから瀬奈の忘れていったCDが出てきた。ビールを飲みながら改めて聴いてみた。夢は信じるだけじゃ駄目、とかなんとか、聞いたふうなことを歌っていた。
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夜のあぐら
姉と二人で忍び込む。横開きの鉄の門を開くと、両脇を低木で囲まれた道に小石が敷き詰められている。昨夜の雪はほとんど溶けてしまったみたいだ。小石の道の真ん中には丸く平たい大きな石が歩幅にあわせて埋め込まれている。私が子供のころには、この石はなかった。
「元は石臼《いしうす》だったんだって」姉が振り向いてささやいた。夜の闇の中、白じろと目立つ丸い石を踏みながら姉はゆく。私は立ち止まり、家を見上げた。ゆるやかな傾斜のついた屋根が月に照らされている。家は全面的に改築して七年経つという。外壁も張り替えられていて、かつて私が住んでいたころの面影はない。洗濯ものを干していた広いベランダがなくなって二階部分が大きくなった分、建物はどこか迫ってくるような感じである。
玄関脇で姉はかがみこんだ。握り拳大の石を拾い上げて軽くひねると、かちっと音がして中から鍵が出てきた。父が外国で買った鍵入れだ。姉は扉を開けるとまた石の中に鍵を戻して地面に置いたが、石の上半分と下半分が少しずれている。
大きな扉にはしめ飾りがついている。私が子供のときも同じような立派なしめ飾りが毎年つけられていた。少し傾いたそれを姉はまっすぐに直した。
広い玄関にはサンダルと長靴が一組ずつ。下駄箱の上にはこれも立派な鏡餅が供えられている。姉はその脇の大きな懐中電灯に目をとめて私にそれを手渡したが、つけなくともよいと言い添えた。暗い中、目をこらすとまっすぐ風呂場につづいていたはずの廊下がなくなっていて正面に階段があるのが分かった。階段に沿ってのびている金属のレールは手すりかと思ったら、電動で昇降する椅子を取り付けるためのものだと姉はいう。父が椅子に座って降りてくる様が眼に浮かぶようだ。
右手は居間。左手が洗面所だろうか。記憶の中の家と現状を頭の中で比較しているうちに、姉は明かりもつけずにさっさと階段をのぼりはじめた。
ゆるやかにカーブする階段の途中で姉は振り向いて「私たちキャッツアイみたいだね」それだけいうと再びのぼりはじめた。
階段をのぼりきったところの壁に明かり取りの小窓がついている。外は暗く、遠くの送電塔がさらに黒くみえた。
三つあるうち突き当たりのドアに向かう。私が住んでいたころも二階はあったが、こんなに広々としていなかった。階段の位置からして違っているのだから黙ってつき従うだけだ。
大げさな装飾のドアノブをまわすと、中は広い洋間だった。姉は部屋の明かりをつけようとはせずに、奥まで歩いていってカーテンをあけた。大きくとられたアルミサッシの窓から月の光が入り込んで、部屋の様子がぼんやりみえるようになった。
弟が高校を中退して家を出るまでの間使っていた部屋だと姉はささやく。右側の壁にドガの踊り子の絵がかけられている。弟がゲームソフトを投げつけて開けた穴を隠すためだという。
「おぼえてる?」姉は右手の壁際に置かれたベッドの方を指差した。使われていないらしいベッドには大きな箱が置かれている。しばらくなにも思い出せなかったが、姉が自分で持ってきた細身の懐中電灯で照らすと、それは弟のおもちゃ箱だった。宝箱を模した凝《こ》った造りの大きな木箱だ。弟はいつもそこにプラスチックの剣を斜めに挿していたので、箱はいつでも半開きだった。
蓋をあけてみる。暗くて中はよくみえないが、おもちゃは入っていない。寝具入れになっているようだ。
左側の壁には大きなクローゼットと本棚。正面の窓際に金庫。姉はすっと本棚に近づいた。留め金のようなものを外して棚をスライドさせた。気付かなかったが二重棚だったのだ。つくりつけらしき棚の奥の部分は壁にめりこんでおり、外からみても奥があるとは分からないようになっている。
姉はその中をざっと照らし、真ん中の段の右から三番目の本を抜き取る。本の奥から鍵束を取り出した。「それらしくなってきたでしょう」といいながら姉がかざすと鍵束はじゃらりと音を立てた。すぐに金庫の側までいった。片膝をつくと把っ手に手をかけた。毎晩こんなことをしているのではあるまいな。姉の動きにはためらいがない。
把っ手を引っ張って開かないことを確認すると姉は鍵束から鍵を選びはじめた。金庫といえば、ダイヤルをちりちりと音たてて右に左に回すものと想像していた。この金庫にも大きなダイヤルが付いているが、姉は少しも回そうとしない。
「父さんは細かい操作が苦手だから、最初から正解にセットしてあるの」あとは鍵さえあれば開くというその金庫には少し興ざめした。昔も何度か父に対して抱いたのと同じような感じ。ぼんやり立ってみているのがだんだん所在なくなってきた。
「あれ、おかしいな」姉は片手に懐中電灯をもったまま、鍵束を床に置いて確認しはじめた。私も、さっき手渡された大型の懐中電灯のスイッチをひねった。とたんに大音量で音楽が流れはじめる。
「ごめん」私は慌ててスイッチを切った。ラジオ付きの懐中電灯だったのだ。
「びっくりした」姉は唇の端で少し笑ったが、私は怒られたような気持ちになった。
「大丈夫」こっちを照らさなくてもいいという意味だろう。姉は真剣な声でそういうと、懐中電灯も鍵束も床に置いて、自分も床にあぐらをかいた。
あぐらをかく姉をみるのは初めてのように思う。忍び込む姉も金庫やぶりをする姉も初めてなのに、私が感じ入ったのはあぐらだった。母はいつでも正座して新聞を読んでいた。なんとなく姉にも正座の印象があったのだが、だがそういえば姉の正座している姿をみたことがあっただろうか。あぐらといえば、むしろ弟だ。雑誌の付録の紙工作を切り抜くときも、漫画を読むときも、弟はあぐらをかいていた。
月明かりが姉を青く照らす。私は手持ちぶさたで、本棚の方を向いた。文学全集と百科事典、図鑑の類。かつて父が弟に買い与えたものだ。鞄から水筒を出し、蓋をくるくる回してお茶を飲んだ。はーっと声がもれる。
「買ったんだ。水筒」姉は髪をかきあげながらいった。
「うん、お姉ちゃんと同じやつにした」私は本棚にもたれるように腰をおろした。お茶を飲み込んだ後ではーっと息をはいてしまうのは年寄り臭いから、飲んだ後も息をはかずにいようといって、姉弟三人で試したことがある。まだ幼いころのことだ。どうしても駄目だった。お茶を飲み込んだ後、鼻から少しずつ空気を出すのだが、二人にみられているとどうしても笑ってしまうのだった。姉も弟も笑って、お茶を吐き出したりむせたりした。
今はもう大人だから、息をつくのも気にならない。はく息をつくづく白いと思いながら、真剣な様子で鍵を探し出そうとする姉を再びながめた。
姉から最初の電話があったのは大晦日の朝だ。今夜、会おうということだった。
大晦日にもアルバイトがあった。駅前の喫茶店の厨房《ちゆうぼう》で働いている。店はとても繁盛しており、昼は喫茶と軽食で夜はお酒も出す。その日は正午から夜の八時までの「中番」といわれるシフトだった。バイトを終え、お腹を空かせたまま電車に乗り、少し酔った。姉の指定した待ち合わせ場所のファミリーレストランに入ると、姉だけでなく弟も来ていた。姉はカヨちゃんも連れてきている。
弟とは月に一度は会っているが、姉とは半年ぶりだ。だがそういえば、姉弟三人が一時に顔をそろえるのは姉の結婚式以来だ。つまり四年ぶりということになる。
店内は大晦日なのに混んでいた。窓際の四人掛けの席に姉とカヨちゃんと弟が座っていて、空いた一つには各々のコートや荷物が置いてあった。弟は私をみつけると、隣の空いている椅子を勝手に持ってきて私の席を作った。既に三人とも食事は終わりつつあるようだ。
私は腰掛けてコートを脱ぎ、鞄をテーブルの下に置いた。備え付けのメニューを広げて眺める。通りかかったウェイトレスを姉と弟は揃って呼び止め、二人ともコーヒーのお代わりを頼んだ。慌てる必要はないのに、私も急いできのこ雑炊を頼んだ。
それから姉も弟もわざわざ選んだかのように下らない話ばかりをしはじめた。漫画の話が多いのは子供のころから変わらない。私たちは三人で別々の漫画本を買って回し読みをしたものだった。二人は手塚治虫の漫画に出てくるアセチレン・ランプのモデルは誰かで揉《も》めだした。姉はリノ・ヴァンチュラだと、弟は手塚の学生時代の友人のはずだと。両方正しいのだということを私は知っていたので少し得意になった。
私はメニューを閉じて「そういえば、手塚治虫に会ったことがあるよ」といってみた。地元の講演会に来たのを裏口で待ち伏せたのだ。このことはまだ二人には話していなかった。
両親が離婚したとき、高校生だった私だけが母にくっついて、実家のある山形県の米沢にいった。大学生だった姉はそのとき既に一人で暮らしていて、まだ中学生だった弟は父の元に残った。だから、私たちにはお互いの知らない数年間がある。
「本物かな」弟がすぐにかえした。
「よくみれば、パーティ用の鼻眼鏡した別人だったかもよ」あんな田舎に本物がいくわけがないだろうという。米沢に弟が来たことは一度しかない。
ずっと黙っていたカヨちゃんが突然、子供特有の響く声で「テヅカオサムってだれ」と口を挟んだので皆一瞬しんとなった。
ウェイトレスがコーヒーのポットを持ってきた。弟は「遅いよ」と文句をいい、私はひやりとした。喫茶店のバイト仲間が厨房で、こういう短気な客の陰口をいうのだ。私がヨーグルトパフェを頼むと、二人もつられたように頼んだ。ファミリーレストランで、元気に食欲旺盛にしているということが、なんだか恥ずかしい。
ウェイトレスがせっぱつまった様子で去っていくと姉は「じゃあ、今日の本題ね」といい、その改まった口調に私は少し驚いた。この集いには本題があったのか。私は弟の方をみた。姉は鞄からガムを取り出した。
「禁煙してるんだ」といいながら一枚ほおばり、父の具合がまた少し悪いようだと切り出した。きのこ雑炊が運ばれてきた。これさげてくださいと弟が空になった皿を示すとウェイトレスは不機嫌そうに、それでも丁寧に皿を持ち去っていった。
「悪いの」れんげにすくった雑炊をふうふうとさましながら尋ねる。
「さすがに、弱気になってるみたい」父は癌だ。癌と診断されてからもうすぐ二年になる。二度の手術で胃を切り、腸を切った。告知は二度目の手術前にしたという。それでも父は気丈で、なおも生涯現役で仕事をすることにこだわっていた。
「遺言をいっておきたいって」
「ゆいごんを」咀嚼《そしやく》しながら私は繰り返した。
「二年前にも遺言を、とかいわなかった」弟は私よりもさらに緊迫感がない。
「二人とも、今年は新年の挨拶に、一緒に来てくれない?」嫌だろうけど、と姉はいう。私も弟も父の家に行きたがらないことを姉は知っている。
「私一人が頑張ってもミドリさんと一対一になって、埒《らち》があかないんだ」頑張るとは、遺言の内容についてミドリさんと私たちの間に利害の対立が予想されるということだろうか。なんだか気が重い。
「別にいいよ、いっても」私は答えた。父の財産などあてにしてはいないのだが。弟は「いいけど、俺がいってまずくないの?」といった。姉は「いいのいいの」と簡単に請け合い、鞄から細身の手帳を出した。
「二日でいいかな」といい、私たちが黙っているのを了解と受け取って記入した。
「なんか労働組合の団交前の打ち合わせみたいだな」弟はいう。私は自分が就職していた時に経験した、あの不毛な会議を鮮明に思い出して目を見張った。弟はときどき得体の知れない面をみせる。就職したことがないくせにそんなことを知っているのが不思議でならない。
本題が終わりひとしきり食べると、急に口数が減った。二人はけだるい様子で
「今日、フェラーリみた」
「どうだった?」
「うん。赤かった」などといいながら髪の毛をかきあげたり、コンタクトレンズを器用に目から指ですくいとって、瞼をごしごしとこすったりしていた。
私は椅子に深く座り直し、ぼんやりと窓の外をみた。バイクが三台通りすぎていった。年の暮れという気分はまるでしない。三人が集うのは久しぶりだというのに、二人ともなんの感慨のあるでもなさそうにデザートを食べている。私もただ相槌をうっている。
私が米沢にいた数年間も、二人は割と頻繁に行き来していたようだ。再び上京してからは私も連絡をとるようになったが、二人の間の空気は私よりも濃い感じがした。
たとえば弟は姉のことは「姉ちゃん」と呼ぶが、私のことは呼びあぐねていて「ちょっと」とか「それとって」とか、まるで倦怠期の夫のような呼び方をするのだった。たまに「あなた」とか「きみ」という年寄り臭い言い方をすることもある。
暖房で火照《ほて》った頬をさすりながらレジに向かう。姉は伝票を素早く取って会計をすませてしまった。ごちそうさまと小声でいったが姉は聞き流した。弟には最初から払う気はなかったようだ。さっさと外に出てポケットに手をいれて姉の車の前に立っている。姉は私と弟を車で駅までおくってくれた。帰宅してから、まだたまっている仕事を片づけるという。空を見上げて、雪ふったらどうしよう、とつぶやきながら帰っていったが、私も弟も車を運転しないから姉の不安は実感できない。
姉の車がみえなくなるとすぐに「終電逃した」と弟は時計をみながらいった。
「どうするの」
「泊めてよ」嫌だよ。早いねえ返事、と弟は面白そうにいった。そして歩き出した。
「あなた、僕のあれでしょう。監視員でしょう」たしかに私は月に一度、弟の「保護観察」をしている。かつて父が姉に命じた役目で、今年からは私が引き継いだ。保護観察といっても、弟の暮らすアパートにいくだけで、指示することといえば「たまにはカーテンあけなさい」ぐらいだった。
「ほらほら、ちゃんと監視しないと。駄目だろう」そういって弟は私の前に躍り出て、後ろ向きに歩いた。私も終電を逃しそうだった。券売機で切符を買って釣り銭口の小銭を指で集めているうちに弟はなにかのカードで先に改札をくぐったので、それもなんだか憎らしかった。
ホームへの階段を駆け上がると弟は軽い足取りで横を付いてきた。本当に家に来るつもりだろうか。うっとうしかったが、ホームに大勢いる前で突っぱねるのもためらわれた。
少し混んだ電車に二人乗り込んだ。着物を着た女が吊り革につかまっている。ふさふさしたショールをみていたら気付いた。今日は大晦日だから終夜運転ではないか。
だが、耳元で弟に「大晦日だよ」と小声でいわれたら急に気が変わった。布団は一組しかないが座布団やクッションをまとめるか、こたつにでも寝てもらえばいいか。車窓に水滴がつきはじめた。雨だ。扉にもたれかかって窓の外をみている弟は、古くさいジャンパーのポケットに両手を突っ込んでいる。ちょっと薄着ではないか。弟は、そういえばいつも手ぶらだ。私も手ぶらが好きだが、他人が手ぶらなのをみると少し驚く。
弟は高校を中退した。しばらく自宅でぶらぶらしていたが、家を出て一人で暮らすようになった。ミドリさんに怪我をさせたのが原因だという。そのとき私は米沢だったから、夜中に電話で姉から伝え聞いただけだ。姉の声音が妙に落ち着いていたのをおぼえている。突き飛ばして腕を骨折させたらしい。ミドリさんは弟を恐れるようになったときく。
誰か別の人の話を聞いているようだ。弟のひょろひょろと細い身体の線をみるたびにそう思う。口だけは達者でいつも威張っているが、一度も働いたことがない。問題を起こされないようにと父が振り込む生活費と小遣いで、もう何年も暮らしている。
弟の暮らすアパートは私の今住んでいるところよりもずっと立派だ。東京の外れで駅からも遠いが、静かな住宅街を通り抜けると、どの家も庭が広く、立派な大木や手入れされた花壇などを塀越しにみることができた。フローリングのワンルームは狭く日当たりもよくないが、ロフトが設けられている。
「なにこれ」ロフトにあがるための木製の梯子《はしご》を初めてみたときの私の声は怒気さえはらんでいたと思う。
「梯子だよ」そんなことは分かっている。なにゆえこのようなお洒落な家が必要なのか。弟はまったく気にしていないようだ。
どう考えても体育会系ではない弟のことだから、将来はいわゆるオタクになるのではないかと漠然と思ってはいたが、弟の部屋にオタク少年にありがちな不潔さは感じられない。漫画本とパソコンやテレビゲームに囲まれてはいるが、それらのコレクションは綺麗に分類整理されていた。何台もあるテレビゲーム機は三段の棚に年代順に並べられている。その配線は分かりやすく束ねられ、壁に沿い、からまることなくテレビやオーディオ機器の裏面へと収束していく。
ロフトには漫画本が何列にも積み上げられて端まできている。圧巻だが、自在に閲覧とはいかない感じだ。積まれた下の方の漫画を取り出すときはどうするのかと尋ねると
「取り出すって?」と怪訝な声でいわれた。
弟の家にいくのは嫌いではない。大画面のテレビと5・1チャンネルサラウンドスピーカーを備えた最新のAVシステムでDVDをみせてもらうと、とても贅沢な気持ちになれる。
初めて訪問したときはレンタルビデオを借りて持っていったが「うち、デッキないんで」と冷たくあしらわれた。弟はVHSのテープを毛嫌いしていた。大きくて鈍重だという。みたいテレビはビデオカメラ用の8ミリビデオテープに録画していたが、最近はなにか別の方法があるらしい。
洗濯物は少し前まで売っていた青いゴミ袋にまとめて放り込んである。台所にもけっこう立派なシンクがあるのに使っている様子がない。シンクの下の扉を開けたらそこにも本がびっしりとつまっていて呆れた。冷蔵庫にはミネラルウォーターと、目を冷やすためのシートだけ。ゴキブリが出るのが嫌で部屋ではカップラーメン一つ食べず、完全に外食だそうだ。弟の部屋で映画をみせてもらっていると、よくお腹が鳴る。差し入れのつもりでコンビニで食べ物を買っていっても、眉間《みけん》に皺を寄せて「ごみは持ち帰ってよね」といわれる。
弟が私のアパートに来るのは初めてだ。なんだか緊張した。ホームを出ると雨はやんでいた。駅前の喫茶店の降ろされたシャッターに、元日から営業します、と札がかかっている。ここで働いているんだ、といおうとして、やめた。歩道のない道の端を一列になって歩く。弟は何度かくしゃみをした。鼻をぐずぐずいわせているので、振り向いてポケットティッシュを渡す。くしゃみも鼻をかむ音も、とても大きい。
弟は途中でコンビニに寄って夜食を買い込んだ。私の家のゴキブリが増えるのは構わないらしい。
「女おいどんだね」私の住むアパートをみて弟はいった。瀟洒《しようしや》なマンションの立ち並ぶ中、ぽつんと奇跡のようにある木造二階建て。住人は皆帰省したのか各戸はひっそり静まり返っている。互い違いの紋様のような滑り止めの凹凸のついた鉄の階段を登る。
「この鍵穴は、プロの窃盗団なら五秒であけられるタイプ」嫌なことをいう弟には構わず、私は急いで家に入り中を点検した。みられて困るもの、といってもそんなものは特にないが、下着などは出ていないみたいだ。
「よくみつけたね、ここ」弟は障子紙の襖を開けたり閉めたりした。呆れているのか感心しているのか。私はガスストーブをつけ、お湯を沸かした。
「自分で部屋を借りたこともないくせに」弟の今の住まいも父が契約したものだ。
「部屋を借りるってどんな気分?」逆に無邪気に問われて少し面食らった。そんなこと考えてみたことがなかった。
「そりゃあ、嫌なもんよ」そのせいか口調がヤクザな感じになった。弟はジャンパーを脱ぎもせずに部屋のあちこちを見回している。
「甲は乙に、甲は乙にってね」
「なにそれ」弟はそういうとテレビをつけた。私は台所で紅茶のポットに湯を注いだ。テレビが明けましておめでとうございますといっている。よく通る声だからどこかのアナウンサーだろうか。
弟はこたつにもぐりこみ、コンビニで買った菓子の箱をあけた。おまけを集めていて、菓子は要らないという。私も紅茶を出すと、読みかけの雑誌をもって反対側にもぐった。菓子箱の大きさに比べて中身のラムネ菓子のなんと少ないことか。おまけの人形の方がかさがあるのだ。この人形、といいかけて、人形という言い方がなんだか不興をかいそうに思えてやめた。こたつ越しに目が合うと弟は大げさに頷きながら
「そうかそうか。分かった分かった。よかったよかった」と早口でいった。父の真似だ。「そうか」と「分かった」と「よかった」でなんでもすませてしまうのだ。
「なにが」といいながら、父がこの家を訪れて様子をみたとしても、ほとんど自動的にそういうだろうと思った。いや、まったく反対に、こんなぼろい家はすぐに出なさいというかもしれない。
明けましておめでとうございます、テレビがまたいうと、弟はこたつの上のリモコンを操り、さっと消してしまった。何年もこうして一緒に暮らしてきたみたいに、二人とも無口になった。弟は私の書棚の本を何冊か抜き取って、そのうちに一冊をめくりだした。書店のカバーがついているので、何を読みはじめたのか分からない。私も寝転がって雑誌をめくる。紅茶を一口すするために起き上がると、文庫を読み耽《ふけ》る弟の気怠《けだる》い横顔が目に入った。倦怠期の夫婦という言葉がまた浮かんだ。
元日にも遅番でバイトがあった。勤めはじめてもうすぐ半年になるだろうか。喫茶店の上階には同じ会社が経営する映画館があり、頼めば無料で新作を観せてもらえるのが映画好きの私には嬉しかった。
父も田舎の母も、私がきちんとした会社に就職していると思っている。離れていれば嘘は簡単に通る。姉と弟には話したがなにも心配されなかった。前の職場をやめたときも、その理由を二人とも追及しなかった。「疲れて」といっただけで「そう」と流してくれた。本当は人間関係でごたごたがあったのだが、なくてもいつかやめていただろう。人が一日に八時間働くというのが信じられない。八という数字はどこからきたのだろうか。なんだか、三時間でいいんじゃないかもう、という気が最近はしている。
閉店の深夜0時まで働いて帰ってくると、弟がまだいた。
昼間起こそうとしても起きないので、こたつにバナナと鍵を置いて出てきたのだが、奥の四畳半の襖をあけると弟は私の布団にくるまっていた。
「風邪、ひいた」とだけ弟はいった。額に手をあててみる。体温計も取り出して渡した。三十九度近くあった。「やっぱり」と声が出た。薄手のジャンパーで肩をすぼめる姿をみたときからこうなるんじゃないかと思っていたのだ。
やっぱりって、なにが、とぜいぜいした声で尋ねるのを無視して、すぐに大きめのTシャツに着替えさせた。汗くさい。脱がせるときに力なくバンザイをする弟を久しぶりにみた。昔はもっとずっと小さかった。
洗濯機にそれまで着ていたものをすべて放り込むと、ため息が出た。
家には頭痛薬しかないが仕方ない。温めた牛乳を大きなマグカップに注いで、再び部屋に入る。
弟は頭痛薬を口に含み、牛乳を全部飲んだ。そしてなにかいいそうな顔つきになったが、なにもいわずにカップを私に手渡した。そしてばたんと倒れた。
横になった弟の身体をみて大きいなあ、と改めて思った。このアパートに男性がやってきたのは初めてだったが、なんともいえぬ存在感がある。特に大柄というわけではないのだが、高熱を発しているせいもあってか部屋の空気を一個の肉体が強く支配しているという感じ。
二、三日は居座られることになるかもしれないが仕方ない。弟にではなく、病人には優しくしなければ、と考えることにした。
空《から》になったマグカップを持って部屋を出た。こたつの上のバナナの皮をゴミ箱に捨てる。今度は自分のためにお茶を沸かして、こたつにもぐりこみ、昼間みるのを忘れていた年賀状に目を通した。自分からは出さないので、わずかな枚数しかこない。
「あけましておめでとう。今年こそ結婚するぞ」
「ハッピーニューイヤー! 教習所通いで地獄の日々Death! 免許とったらドライブいこうね!」
特に筆まめではない知人たちが、無味乾燥な賀状にならぬようにと添えてある手書きの言葉は、どこか無理をしたようなはしゃぎ方をしている。
父とミドリさんの賀状はただの印刷だが、宛名の文字は達筆だ。母の賀状は小さな文字だ。元気ですかと書いているのをみるとこっちが心配になる、そんな感じ。
一通だけ「スケボーの板に石油タンク乗せて、ガソリンスタンドまで転がしながら灯油を買いに行ったら、そこの男の子たちに大笑いされた。なにが可笑しいものか」と、謹賀新年の一言もなく近況だけを書いているのがあった。末尾に「おもちを食べ過ぎないようにね」と下手な字で書き添えてある。裏の差出人をみるとそれは姉からだった。宛名の字も大人の書いたものとは思えない。だが文面や文字よりも、姉が年賀状を寄越したことに驚いた。しげしげと眺めていたら襖の向こうで弟が咳をした。
姉はおととし離婚して、今年四歳になる娘のカヨちゃんと二人で暮らしている。在宅でWebデザインの仕事をしている。もともとは会社に勤めていたのだが、光ファイバーが開通したら自宅のほうが仕事がはかどるようになって、いつの間にかフリーになったという。いつも忙しそうで、八時間労働どころか、納期の近いときはほとんど一日中パソコンに向かっているらしい。姉の働くところをみたことはないが、ひっつめ髪にしてモニターを凝視する姿はなんとなく思い浮かぶ。
弟は父というスポンサーのもとで毎日ぶらぶらしているが、一日中パソコンやゲーム機のモニターを凝視しているのは姉と同じだ。ひところは姉に負けない長髪で、部屋では姉からもらった髪止めでひっつめにしているのが気味悪かった。
そして私はといえば、なんとなく一人で暮らしている。再上京の理由も田舎の無気力な様子に閉口したというくらいのものだった。父は一緒に暮らそうといってきたが断った。友達のつてで就職した。何度か職を変えて、今はアルバイトだ。年賀状の友人のように結婚に焦《こ》がれているのでも、目標に向かって頑張るのでもない生活。不安は感じない。木造の古いアパートで贅沢をしなければ一人でもなんとか暮らしていける。
姉との約束を忘れかけていた。二日は新年の挨拶にいかなければならないのだった。大晦日には請け合ったが、いざとなるとやはり気が重い。弟はともかく、私と父一家との間に確執らしい確執はないのだが。
上京してから私は父とはほとんど顔をあわせなかった。実家には一度も足を運んでいないし、入院中にお見舞いにいくことも稀だった。たまにいってもちょっと言葉をかけて、すぐに帰ってきてしまう。
いきなり「おとうさん」と呼びかけられないほどに、離れていた時間は長かった。女をつくった父を母は憎んでいたから、上京して距離が近くなったというだけで簡単に仲良くしてしまうことへのうしろめたさもあった。
だが、本当にそうだろうか。うしろめたさなど、本当に私は感じているだろうか。自信がない。私はそれより以前から父が、ただなんとなく苦手だったのだ。親同士の行き違いを、自分が距離を取る方便にしているだけではないか。
父は私に憎まれていると考えている。会話が弾《はず》まなくても仕方ないとすら思っているようだった。上京して間もないころ、現金書留で札束が届いたことがある。数えなかったが、とても分厚かった。姉を通して返してしまったのだが、姉もそのときから「妹は父に対し複雑な感情を持っている」と感じたようだった。弟と違って、私は早く自立したいと考えただけなのだが、説明するのは面倒だし誰が困ることでもないので、気まずいままにしている。
いろいろ考えた末、普段着で出かけた。父は今は都心の高層マンションで生活している。吉祥寺の実家は病院から遠いので、体調が悪くなるとこちらに移って暮らすのだそうだ。
エントランスの部屋番号を押すボタンは冷たく、硬かった。すぐにインターホンからミドリさんの声で「どうぞー」と聞こえ、錠が電動で回転する音がきこえた。私は緊張した。
エレベーターを降りるともう外通路にミドリさんがいて、「おひさしぶりねえ」と笑った。ミドリさんは年をとらない感じがある。化粧が上手なんだと姉はいうが、年齢不詳なのは顔だけではない。つやのある声も、言葉遣いも、少し派手な服装もそうだ。
「姉は」と尋ねたがミドリさんはほぼ同時に「あけましておめでとうございます」といってまた笑った。言葉の抑揚が強いとも弱いとも感じられ、おばさんのようにもおねえさんのようにも思えてくる。弟は「ミドリさんは、なぜか知らないがア行の発声だけ、ほかの行より少しだけ強い」と細かいことをいっていたが、そこまで微細には分からない。
外通路を歩いてドアを開ける。玄関に姉の靴はない。まだ来ていないのか。リビングに通され、紅茶を出された。
「あなた結婚はしないの?」と出し抜けにいうので少し驚いた。私が一口目を飲み終えたときを見計らったかのようだった。心配性の母でさえ、一度もいったことのない言葉だ。
「いや、しません」と思わず断言したが、ミドリさんは「そう」と笑うだけだ。
キッチンは対面式になっていて、こういう対面は嫌だなあと思っていたら、奥の部屋から父が出てきた。私が声をかけようとすると「大丈夫だ」と父はいった。
父はのろのろと歩いてテーブルの、私の向かい側の席に腰をおろした。ミドリさんがカーディガンを背後から父の肩にかけた。ついさっき家で布団から半身を起こして食パンを食べていた弟と姿がだぶった。
「大丈夫だ」父はまたいった。痰《たん》がからんでいる。父は縮んだ。前に会ったのは病院で、身体が布団に隠れていたから分からなかった。弟の保護観察を姉からひきついだと報告すると、「頼むぞ」と、病人とは思えない強い力で手を握られた。今、あのときの握力が父にはあるだろうか。
新年の午後の、窓からの明るい陽射しが父をさらに弱々しくみせている。
「お雑煮食べます?」ミドリさんがいう。父が「食べようかな」といったとき、胸がせつなくなった。
「私はいいです」そういって紅茶をすすった。椅子の下の、自分の足先のスリッパをみた。スリッパなんて履くのは久しぶりだ。
父の手元に椀が置かれた。箸は手渡しで受け取った。雑煮を父はおいしそうに食べた。
「あいつは」一口食べ終えると父がいった。思い出したような口調だった。あいつは、なんだろうかと続きを聞こうとしているとキッチンからミドリさんが
「帰りました」といった。私は声をあげそうになった。
「さっきまで、きてたんだけどね。あなたと入れ違いになって」ミドリさんは私の方をむいて苦笑いをした。やれやれという調子だ。
父は焦点の定まらぬ目でぼうっとしている。私は再びスリッパに目を落とした。テーブルの下に細長いものが落ちている。椅子をひいて、かがんで手にとると、それは姉の持っていたガムだった。そっとポケットにしまった。
では、遺言はどうなったのだろう。父は再び笑顔をみせて「元気にしてたか」などという。私はとりあえず頷きながら落ち着かなかった。
「あいつは」また父がいった。私はミドリさんの方をみたが、ミドリさんは鍋の火加減を調節している。しばらくすると父は
「元気でやってるのか」とつづけた。雑煮の椀は空になっている。食欲はあるみたいだ。
「元気だよ」今度は弟のことだろう。げんきげんき、と馬鹿みたいに繰り返してしまった。そうかそうか、よかったよかった、父も例の早口でいった。
「あいつのことを頼むぞ」まだ保護観察のことを忘れてないようだ。手を差し出してくる。親とする握手というものに妙な感じがある。前の握手をなんとも思わなかったのは病院のベッドにいたからだろうか。前と同じくらい強い力で握られた。
仕方ないので「やっぱりお雑煮もらえますか」といった。食べなければ間《ま》が持たない。雪深い米沢の実家に帰省して、時間と食べ物だけあって話題がない、そんな気分だ。
「うれしいわ」ミドリさんは瓶のビールを出して栓を抜いた。冷蔵庫から重箱も出てきた。ミドリさんのおせちは味付けが甘すぎるからなあ。いつか聞いた弟の評を思い出した。
「あなたは駄目ですよ」酒のことだろう。父は少しうつむいて笑った。もう何十年も連れ添っているかのようだ。
お雑煮には小さく切られた餅がいくつも入っていた。つま先にひっかけるようにしていたスリッパをぬいで、雑煮をすすった。
私は携帯電話を持っていない。姉の携帯は、なぜかいつかけても留守電になっている。連絡が取れたのは帰宅してからだった。姉は仕事が一件あるから、翌日の昼に会って話そうといった。
弟はまだ熱があるので起こさずにきた。姉は小田急線の郊外にマンションを借りて住んでいる。
天気のよい昼下がりに姉の地元の駅前で待ち合わせた。東口の改札を出たところにブロンズ像があるから、それと同じ格好で待っててと姉はいっていた。嫌だよと返事をしておいたが、東口にはブロンズの裸婦が両手を頭の後ろにあて、片足を前にすらりと一歩踏み出して立っていた。しばらくまじまじと眺める。間もなくやってきた姉の車の助手席に乗り込む。
「カヨちゃんは」
「お隣さんのところに預けてきた」
姉の運転はとても上手だった。田舎での母の雑な運転を思い出す。
「ねえ、富士山みたくない?」姉はいった。みたい、といったが本当はみたいともみたくないとも思わなかった。
「いい富士なのよ、これが」自分の持ち物のようなことをいって姉はハンドルをきった。物珍しげに運転の様子をみる私を、姉も不思議そうにみかえした。
駅前はにぎやかだったが、少しいくと畑が目立つようになって、そこには少し前に降った雪が残っている。凧《たこ》が飛んでいた。車窓からの景色に張り詰めたものが感じられないのは正月だからだろうか。見晴らしはよかったが富士はみえない。
在宅で働いていると、仕事をしているとき以外はずっと外出していたくなるの、と姉はいった。時間がとれると昼から酒を飲んで散歩したり、近所をこうして無意味にドライブしたりするという。
「ミドリさん、なんかいってた?」姉の口調は昔、何度か聞いたことのある感じだ。
母さん、なんかいってた? 階段の上まで呼ばれて、私は台所の母の様子を報告した。高校時代の姉は母とよく衝突していた。反抗期だったのだ。
「なんにも」私は昨日のガムを取り出して手渡した。ポケットからガムと一緒にのし袋が出てきた。昨日の帰りがけにミドリさんからむりやり持たされたお年玉だ。来てくれてありがとうと何度もいわれながら渡されたのを忘れていた。
「いくら入ってた」
「まだみてない」ふくらんだ袋をあけて中身をたしかめる。五万円入っていた。
「ミドリさんのお金じゃないんだし、もらっておきな」姉は前を向いたままいう。それから
「そうか、身内を味方につけようって腹だな」とつぶやいた。やはり昨日、一悶着《ひともんちやく》あったのだろう。もとより姉とミドリさんはそりがあわないようだと感じていたが、今日の姉の口調には露骨なものがある。昨日のミドリさんの態度は決して意地の悪いものではなかった。私はミドリさんが嫌いではない。
「甘かったよ、おせち」といってみると姉は笑った。それから父の話をした。父には年金と貯金があるが、バブルのころに買ったいくつかの土地が値下がりしたせいで借金もあった。父の死後の支払いのためには、いくらかのまとまった金が必要になる。
「土地を買いあさったのはミドリさんだよ」姉はしっかりした口調で付け加えた。
「で、どうするの」
「吉祥寺の実家を売って工面するって」
「なるほど」というと姉は、なるほどじゃないでしょう、と怒り出した。私は会話の流れや空気を読むのが不得意だ。
「なんであの女の尻拭いに、私たちの実家を売らなければいけないの」実家がなくてもミドリさんにはあのマンションが残る。だが私たちの、という言葉に自分が勘定されているという実感がない。
姉はいつの間にかガムを噛んでいた。私もほしくなった。赤信号で車は停車し、子供が横断歩道を渡る。
「父さんはいいなりだから」姉は苛々した口調になっている。あなたは駄目ですよと酒を禁じられ、うつむいて笑う父を思い出した。食べようかな、といった父にかつての頼もしさはなかった。
父は晩婚で、私が物心ついたころには五十歳近くになっていた。半導体製造会社の社長で、国内だけでなく、アジアのあちこちに製造拠点を設けることで少しでもコストを下げようと奔走していた。
出かける前夜、母が「明日はどちらですか」と尋ねるとき、それは羽田空港か成田空港かという意味だった。パスポートなども収納できる大きな財布を手渡す。
何度か羽田まで見送りにいったことがある。子供にとってそれはちょっとした旅行だった。モノレールは怖いくらいにカーブするし、途中で停車する駅はどこも閑散として怖かった。またその淋しい駅で降りる人が一人か二人はいて、その人の行く末を思うと胸がしめつけられた。
空港のロビーは広大で人の気配が遠くにあって、これも怖かった。幼い弟はきれいに磨かれた床にしゃがみこんで遊び、姉と母は無言で立っていた。父は駅の切符を買うような気軽さで搭乗手続きをすませ「じゃあ」といってさっさとゲートをくぐっていく。私は帰る前にもうぐったり疲れてしまったが、父はこれからさらに仕事をするのだと思い気が遠くなった。
遠方から帰宅してもすぐに別の目的地に飛行機でいかなければならないこともあった。父が帰宅するとき、母は花瓶に新しい花を飾り、テーブルクロスも取り替えた。だが父はどうも気付いていないように私には思えた。そして母は父が気付いていなくても大してがっかりしていないようだった。
帰宅した父はいつもとにかく上機嫌で、おみやげを母に渡す。ミャンマーで絵。チェンマイで絵。シンガポールで菓子。子供にはうれしくないものばかりだ。おみやげを預けるとすぐにネクタイを取り替えた。「なんか食うものないか」といって、答えがかえってくる前にテーブルの上のバナナを手に取った。「黒くなったところがうまいんだ」などといいながら皮を剥《む》いたりした。そうしてまた慌ただしく出発する。母は父の忙しさが好ましいというか、誇りに思っていたような気がする。タクシー呼びましょうかなどといって、むしろ急《せ》かしたりする。私たち子供が学校の課題をみせようとしても、母は「今度になさい」といった。
母自身はどこにもいかない人だった。友達に誘われた旅行を理由もなく土壇場でキャンセルしたこともあった。いったんはOKするのだから、外出したいという気持ちはあるのだろう。いけばいいのに、というと「いいんだよ私は」などという。そうではなくて約束した友達に失礼だからというと、「いいんだよ」と怒ったような声をあげた。母は今でも米沢でひっそり暮らしている。姉や弟に会いに来ることもない。
姉は左手でガムを口から出した。父は姉に遠慮してか、実家は三分の一ぐらい切り売りすれば後は残していいといったそうで、その遠慮ぶりがまた腹立たしいようだった。
「ケーキじゃあるまいし」吸殻入れに噛み終えたガムをむき出しのまま押し込んだ。
「そっちはどう?」姉は不意に話題を変えた。弟があれから私の家にきていることを話した。熱を出して寝込んでいる。熱が下がっても、まだしばらくうちに居座りそうで厄介だといった。
寂しいんだよ。姉はありがちな結論を口に出して、ふふっと笑った。左手に川原がみえてきた。
「寂しいっていうけど、自ら選んで、あんな暮らしをしているんでしょう」川面《かわも》が光を反射させて眩しい。手をかざして遮りながら姉の顔を見る。
「そうだけどね」姉は笑い出しそうな顔をしているが「なんでもかんでも自分の意志で選んで生きてこられたわけがないでしょう」とつづけた。車は右折し、幅広の川は背後に遠ざかる。
「高校をやめたのだって」といいかけて、姉はポケットから携帯電話を取り出した。片手でハンドルを操りながら、そのまま液晶の画面を横目にみている。
そういえば弟が高校をやめた原因を私は知らない。いつか弟がしてくれた説明は「別に。なんとなく」である。姉にその先をうながすと
「いじめだってさ」と、これも当然のようにいう。いいながら携帯電話をポケットにもどす。
「でも。たのか、られたのか、は聞いてない。私もそのとき離れて暮らしてたし」
「ふうん」
父は難解な局面でも悩まないで結論を出す人だった。母や姉が家庭の問題をいろいろ説明していると突然例の「分かった分かった」がでる。とてもはっきりした若い声のせいで、説明は遮られてしまう。父の解決策はいつでも単純だった。いじめのときも弟はすぐに退学させられ、家庭教師をあてがわれた。胃を切除するという医者の説明も「分かった分かった」と遮ったのではないか。二年前に手術すると聞いたとき、私はそんな想像をした。
「今はお姉さんができて嬉しいんだよ」などと姉は変なことをいって笑った。
十字路でハンドルをきると突然正面に富士山があらわれた。平坦な住宅街が遠くまでつづく中、富士は思ったよりも大きく、間近にあるように思われた。
「いいでしょう」
真正面からみる富士は綺麗だが恥ずかしい。すこし道を折れただけですぐにみえなくなった。
「あの道路の、あの角度でしか綺麗にみえないんだよ」
姉はホームセンターの駐車場に車を停めて、ちょっと買い物してくるといって降りた。私も降りようとしたが、姉は「すぐもどる」といってどんどん入口へと歩いていってしまった。駐車場は広く姉の足は速く、車から出るのはすぐに面倒になった。
バックミラーにぶらさがったマスコット、後部座席に固定されたチャイルドシート、その横にはスケートボード。これにポリタンクを載せて歩道を押して歩く姉を想像したら笑いが込み上げた。
ダッシュボードの上に置いてあるガソリンスタンドのサービスカードを広げ、スタンプが真ん中あたりまで捺《お》してあるのをみて、また元の場所に戻したりしているうちに眠くなった。
いつのまにか広い場所にきていた。起こされて車を降りると、大きな公園の入口だった。入口付近のベンチに並んで腰をおろす。公園の入口には全長三メートルぐらいのししおどし型のオブジェがあるが、動く気配はない。公園の奥の方にはスケートリンクがあって、様々な色の防寒着を着た人の姿がみえた。歓声もかすかに聞こえてくる。どの人の滑りも地上からみる飛行機のように、ひどくゆっくりにみえる。
「あんた、もうすぐ三十だっけ」姉は唐突に尋ねた。
「来年だよ」
「そうか」姉は頷いた。妹の年齢ぐらい覚えていてもいいのにと思ったが、私も姉が三十二か三十三か自信がない。
「子供のころに漠然と考えていた三十歳って、どんなだった?」姉はベンチの背もたれに両腕をだらんと伸ばし、前を向いたまま尋ねた。
私も前を向いた。子供のとき、三十になる自分というものをそもそも考えたことがなかったように思う。
「姉さんは」
「もっと大人だと思ってた」もちろん今の私も大人なんだけどね。姉は付け加えた。ちゃんと働いて稼ぐし、人に迷惑もかけないし、リスクは背負うし、ちゃんと大人なんだけど。
姉は考え込んでいる。車から降りるときに助手席にあった紙包みを脇に置いていたが、きっと昼ご飯だろう。さっきからお腹がすいていた。遠くまで晴れていて、ゲイラカイトが空中でかすかに揺れている。あれはたしか簡単に、よく飛ぶのだ。弟は幼いころ、あれが遠くまで飛び過ぎて泣いたことがある。糸巻を手に持ったまま泣きつづけ、側にいた私はおろおろして、姉はたしか笑っていた。
「子供のころは三十歳ぐらいになったらもうスナック菓子とか買わないような気がしていた」長く考えた末に姉はそういった。
「あと、年賀状にお餅を食べ過ぎないようにね、みたいな決まり文句を書かないようになるとか?」深刻な話になるのか笑い話になるのか、見当がつかない。
「あれはわざと」姉はすずしい顔でいう。
「子供のころ考えた大人って、どんなだったの」
「ワイングラスでワイン飲んだりさ。海にいっても泳がなかったり」姉が真顔でいうので私は笑った。
「それに、なんだろう、もっと落ち着いていて、分別があって」
「ないんだ、分別」ないかもね。姉は笑って足をぴんと伸ばした。ないかもね、という口調の投げやりさからは十分、大人っぽさが感じられるのだが。
「恋愛とか仕事でじたばたしたりしないんだと思ってたなあ」
「じたばたするんだ」
「するさ。するともさ」二度繰り返して姉は笑う。姉はワイングラスのことやスナック菓子のことではなく、恋愛や仕事でじたばたすることを話したいのだろうか。相手がなにか話したがっているのかもしれないと思うと、私は黙ってしまう。水を向けるというのが苦手なのだ。
姉はやっと紙包みを開けて、家で作ってきたというサンドイッチと水筒のコーヒーを私に分けてくれた。「いいね、これ。軽くて」私が銀色の水筒を褒めると、姉は笑って
「もうずいぶん前だけど、オートレース場に持っていく時に買った」といった。オートレースという言葉が心で映像を結ばないでいるうちに姉は話をつづけた。
「いい年してスマップのこと好きになってさ。森君がよかったの。なんかテレビに出ていても、その場に馴染みきれない顔してて。『星はヒュルっと消えていた』……って歌ってた自分が消えちゃうんだもんな」
私は、それはなんていう歌だっけと思いながらサンドイッチのパン屑をぼろぼろ口からこぼした。姉はその落下を目で追いかけて笑った。
「それで、オートレース場に?」
「そう。追っかけっていうわけじゃないんだけど」
「追っかけじゃないの」そうかな。姉はそういわれるならば、それでも構わないという風だ。
森君目当てで押しかけてくるであろう客をあてこんで、急ごしらえで作られたとおぼしき女性用の「パウダールーム」が、これが笑ってしまうぐらいにぴかぴかしていて、と姉はいった。
「森君は、すごく好きだったんだけど、一度みたら満足しちゃった」
「どうだったの」
「傾いてた。傾いてたよー」こんなに、というなり姉は体を横に倒して私の膝の上に頭を載せるようにした。パン屑がまた少し、私の口から姉の横顔に落ちた。姉はくすぐったそうに少し笑い、指で頬についたパンを取って口に運んだ。私は戸惑ったが、そのままにしておいた。姉は笑って目を閉じた。眠いのか、涙がにじんでいる。
ししおどし型の噴水が不意に動き出した。水が盛大にこぼれだす。姉は一瞬目をあけてそれをみると、甘えるように私の膝に頬をすりつけた。小声でなにかいった気がした。ん? 聞き返しても姉はなにもいわない。洗面器に張った水に顔を浸けている人みたいに沈黙している。不意に顔をあげ、がばりと起き上がった。恐ろしく低い声で「あぁ」とつぶやいた。
「ちょっと」と声をかけた後で、言葉が続かなくなった。姉は立ち上がるとさっさと車の方へ駆けていった。
水の音がやんだ。ゆっくりと音をたてずに、巨大なししおどしが首をあげる。姉は小声でなんといったのだろうか。紙包みを手に、私も立ち上がる。
「どうしたの」助手席のドアを開けて尋ねてみる。目をみるが、赤くなっているでもない。
「寝そうになった」と姉は笑った。シートベルト、と短くいい、姉はエンジンをかけた。泣いていなかったので安心して、小声でなにをいったか尋ねるのはやめてしまった。
「せっかくきたんだから家に寄っていけばいいのに」仕事があるというと姉はさぼっちゃいなさいよ、とずるそうな顔をしていった。
仕事を終え帰宅すると台所に下着姿で弟が立っていた。寝癖だらけの頭でとても不機嫌そうだ。私はまたスマップのあの歌を思い出したが、弟の脇をすり抜けて風呂場にいった。浴槽に水をためると薄い壁の中の水道管が音をたてはじめた。
「風邪はどう」コートを脱ぎながら尋ねる。
「うん」弟は昨日買ったばかりの牛乳パックを差し出した。
「あけて」という。まさか開け方を知らないのかと思って顔をみつめたら、そうではなくてという風に首を振り「力、入らなくてさ」という。私が弟のことで心配になるのは、無職だとかオタクだとか社交性がないとか、そういうことについてではなくて、こういうときだ。
「でもさ。久々にみたよ。一リットルの牛乳パック」弟はそういうと、部屋に戻ってしまった。家ではミネラルウォーターしか飲まないのだから久々にみたというのも変ではない。
弟はいつまでぶらぶらしつづけるつもりなのだろう。保護観察にいっているときには一度も考えなかったことが急に深刻に思われた。
「なんだかもう、余生をおくってる気分」弟は普段から、悪びれずにそんなことをいっている。かつて父は一人息子の弟に期待していた。弟だけ塾通いを命じられたし、日曜日に職場に連れていったこともある。離婚したとき東京に残ったのも父の強い希望だった。高校を中退すると途端に、今度は問題を起こされないようにということしか案じなくなったが、その父も今はまさに余生をおくっている。
母は米沢から電話や手紙こそひんぱんに寄越すが、やはり内にこもっている感じで心もとない。姉は「着てる服が毎日同じじゃなければ大丈夫でしょう」とまるで心配していない。監視役をしていながら私も普段はなにも不安を感じない。そうすると、問題があるのは弟だけではないようにも思えてくる。弟の非生産的な生活も、面倒くさがりなのも、家族全員の連帯責任ではないかと。
弟はガスストーブに張り付くようにして文庫を読んでいる。開いた本に目を落としたまま「なにやってんの、毎日」と、私が尋ねたいと思っていたことを聞いてきた。
「なんで」
「そう聞きたそうな顔してたから」そう?
「そう聞かれると、少しむっとするでしょう」私は頷いた。
「風邪をひくと、髪の毛がどこまでもどこまでも伸びていく気がするよね」弟は伸びすぎた髪を片手でかきむしった。お風呂、はいればというと、素直にうんといった。水、とめて。お湯、沸かしてきて。キッチンタイマーを二十五分にセットしてね。弟は立ち上がった。立ちくらみがしたらしく、狭い部屋でふらついた。
「でも、髪の毛は本来どこまでも伸びるもので、忘れているだけなんだ。風邪をひいていないときには」なるほど、と応じると弟は風呂場に歩いていった。なにかいったが聞き取れない。蛇口が閉じられると聞こえるようになった。
「懐かしいね」弟の声は弾んでいる。
「子供のころの風呂だ」ガス式の追い焚き機能付きの風呂釜に感動している。弟は点火の方法を知らなかった。私が田舎にいってすぐに実家はマイコン制御の浴槽にリフォームしたという。
風呂釜には点火方法を書いたシールが貼ってあるが、水垢で文字が薄れて読めなくなっている。私は神妙な気持ちで弟に風呂の沸かし方を教えた。コックを「口火」の位置に合わせて押しながら、着火レバーをがちんと回転させる。小窓から青い炎をのぞき込み、十秒間待つ。火が消えていないことを確認しながら「点火」のところまでコックをひねる。
ごうっと音がして、小窓の中の炎が大きくなった。弟は慌てて小さな窓をのぞきこんだ。
「遠いなあ炎が。遠いよ」それは、ある晴れた日に東京タワーにいって、背伸びして望遠鏡をのぞき込んだときにいうような、そんな言い方だった。
弟はそれから何日も私の家に居座った。もう風邪はほとんどよくなっていたようだが、布団は占領した。毎晩、座布団を敷いてこたつで寝る間際だけ、早く帰ってもらおうと思うのだが、すぐに寝入って翌朝には忘れてしまう。弟は時折「今日はナントカカントカの発売日だ」と飛び起きて、寝癖も直さずに朝早く家を出て、そのまま自分のアパートに帰ったのかと思うと夜には戻ってくるのだった。
ある夜、バイト先の特典で映画をみてから帰宅すると、弟が買ってきた本やゲームソフトを部屋いっぱいに広げていた。テレビにはよく分からない機器を勝手に接続している。
「遅かったじゃない」弟は私をみずにいう。家に居座られることより、弟に私の行動についてなにかいわれたことが窮屈に感じられた。
「あんたねえ」疲れていた私はいつになく不機嫌になった。
「足元のやつ踏むなよ」弟はいつもの調子でいった。
「働きもしないで。人の家で何やってるの」私の剣幕は、口にした自分も少し驚くぐらいだった。弟はちょっと動きをとめたが、まったく動じませんという口調で
「今更いうなよ」といった。
「そういうことじゃない」といいながら、私の方が怯んでいた。私は怒り慣れていない。監視の役を任されてからも説教などしたことがなかった。
「いいよ。もう帰るから」と弟が片づけ始めたころには私のほうが気抜けしてしまっていた。とはいっても、帰ってほしくないというわけでもなかったので、無言でコートを脱いだ。風呂に水をため、風呂釜も点火して、キッチンタイマーをセットして戻って、弟が片づけている本の山を眺めた。すべてあわせたらどれくらいの値段になるのだろう。あのロフト付きの部屋で膨大な漫画とゲームとに囲まれる姿をみているときも、ときどき思う。父の金が途切れぬ限り、弟は若くして余生を過ごすことになる。
「そういえば、姉ちゃんから留守電になにか入ってるみたいだよ」そう。私は部屋の入口に立ったまま、しばらく弟の様子をみていた。弟は漫画本をいくつかの紙袋にしまう。なにか私には分からない分類があるみたいで、ときどき、どの袋に何をいれるか、ジグソーパズルをしている人みたいに悩んでいる。
留守番電話の再生ボタンを押すと、父の容態がまた悪化したという。再入院して、三度目の手術になると思います、また連絡します。姉の口調は淡々としていた。このまま父が死んだら遺言はどうなるのだろうか。私自身は、実家が売られてもなんとも思わない。父と母が離婚したときに私が漠然と思い浮かべた言葉は「解散」だった。全員がばらばらの気持ちで、異なる進路に向かおうとしている。そんな風に思った。
なぜ実家に固執するのか、私には分からないといったら姉は怒るだろうか。そういってみると弟は顔をあげずに
「実家はどうでもよくて、ミドリさんに対抗意識があるんだろう」といった。
「それはそうだけど」
「それにあの人、ファザコンじゃん」
「えー」私は笑ったが、弟はかがんだまま私をみあげた。眉間に少しだけ皺がよっている。
「結婚した男だって、親父っぽい奴だったろ」そうだったっけ。気難しそうな様子は憶えているけど。
「だって、スマップの森君をおっかけてオートレース場までいくような女だよ」といってみたが、スマップの森君がどんな男かも、私はよく知らないのだ。
「どうして姉さんは離婚したんだろうか」ぶっきらぼうに尋ねてみた。
「夫婦が離婚する理由なんて一つしかないだろ」一つって、と聞き返そうとしたときに風呂場のタイマーが大きく鳴った。私が知っている「一つ」は、自分の両親の件だけだが、本当に一つなのだろうか。弟の確信に満ちた言い方にも驚いた。
弟に限らず、皆どうやって物事に定見をもつに至るのか分からないときがある。部屋を出て服を脱いだ。浴槽につかりながら、ため息ばかり出る。私の膝に頭を載せた姉が思い出されて。これまで姉を弱い人と思ったことがなかった。結婚したり離婚したり、子供を産んで育てたり、私よりもはるかにタフに、人生の矢面《やおもて》に立っている感じがしていた。一方で大人の女性とも思えぬ馬鹿な言動からは楽天的なものを感じとっていた。だがそれらは、姉という人間の輪郭をなぞるものでは、実はないのではないか。
風呂から上がり、着替えて部屋に戻ると弟は
「でも姉さんに男が出来たのか、旦那に女が出来たのか、それは分からない」と、止まっていた時間が動いたみたいに急に話の続きを口にした。
姉は弟がいじめられたのか、いじめたのかを知らなかった。弟は姉の離婚の原因をちゃんとは知らない。深刻なことなど特にない人生ではあるが、二人は私のことも知らない。
弟は翌朝早くに帰っていった。弟は「本、借りていい?」といって読みかけらしい一冊を書棚から抜き取った。私はみるからに寒そうな弟にマフラーも貸した。弟のマフラーの巻き方は下手くそだった。手を貸そうかと思ったが、適当に巻き付けて勝手に納得しているらしいので黙っていることにした。それから律儀に玄関まで見送った。弟がいなくなるといきなり部屋が広く感じられた。弟が持っていった文庫はなんだったのかと思い書棚をみてみると、モンテ=クリスト伯の最終巻が抜けていた。久しぶりに布団で寝直そうかと思ったが、とりあえず窓を全開にした。朝日とともに冷たい空気が入り込んだが、構わずに布団を干し、シーツを洗濯機にいれた。
姉からまた電話があったのは成人の日の前夜だった。父の手術は明日の夜になりそうだという。
今の父さんには手術に耐えられるだけの体力があるかどうかは分からないから、今度こそ覚悟はしておいて。明日、病院にきてよ。父さんのこと嫌いだろうけど、やっぱり来なきゃ駄目だよと姉はいう。
受話器を置くと、弟が寝泊まりしていた奥の部屋に入り、クローゼットを開けた。一着しかない黒い服に目がいった。この服は母の持ち物だった。
明け方まであれこれ考えたせいで午後まで寝過ごした。バイト先に休みの電話をいれ、普段は飲まないコーヒーを飲んでから病院に向かった。到着したのは午後六時だった。
病室に行ったが父には会えなかった。手術はまた延期になり、麻酔で寝ているという。暗い廊下に姉とミドリさんと知らない女性がいた。戸惑った様子で姉が「こちらはええと、橋田さん」といった。
橋田さんと呼ばれた女はぎこちなく会釈した。会釈を返す私は一瞬品定めをするような目をしたかもしれない。四十代か五十代か。アクセサリーをたくさん身につけている。何者だろうか。訝《いぶか》しむ気持ちが表情に出そうで、私はすぐに顔をそむけてしまった。
先日は来てくださってありがとうと横からミドリさんがいう。どうも、などととりあえずいいながら、妙な集いだと思った。私だけでなく皆が変な顔をしていた。橋田さんという女性は、今日は帰りますといって去っていった。ミドリさんは怒ったような困ったような複雑な表情で、橋田さんの後ろ姿から目を離そうとしなかった。
「新しい」といいかけた後で姉はミドリさんの方をちらっとみて「お父さんの愛人だって」と小声でつづけた。鈍感な私でもいわれる前に答えがなんとなく分かっていた。
橋田さんと入れ替わるように弟が現れた。風邪がぶりかえしてもおかしくないような薄着だ。弟はミドリさんに「どうも」などといって軽く会釈をした。ミドリさんは少し身構えた様子で、だが会釈は返した。姉は表のレストランで少し話でも、と言い出した。ミドリさんを廊下に残し、三人で外に出る。
「別に気をつかって引き離すことはないのに」事情の飲み込めていないまま、弟はいった。病院ならまた怪我させてもすぐに治療してもらえるし、などといったが姉は取り合わなかった。なんだか腹をたてている様子だ。私は、姉には申し訳ないが笑いたかった。麻酔ではなく、父はきっと狸《たぬき》寝入りをしているのだ。姉は怒った足取りで歩く。怒れば怒るほど滑稽ではないか。弟は「なに、なに?」と姉の前に出て、後ろ向きに歩きながら尋ねる。
大晦日に食事をしたのと同じ系列のファミリーレストランが病院の真向かいにあった。弟は姉の真剣な様子に遠慮してか軽口は叩かなかったが、たくさんの料理を注文した。私も出がけにコーヒーしか飲んでいなかったのでパスタとサラダを頼んだ。よく食べる私たちを姉はしばらく無言でみていたが
「こうして姉弟がきちんと顔を揃えるのも久しぶりだね」と口を開いた。
「なにいってやがる」大晦日に会ったばかりじゃんか。弟はご飯粒を飛ばしながらいった。
姉は並んで食事をつづける私たちの向かいに座って、やめていたはずの煙草を取り出して吸った。実家がいよいよあぶない。煙をはきだしながら話す姉には迫力があった。愛人の発覚は、実家を売りに出す話をさらに加速させるだろう。
「愛人って」弟は首を真横に勢いよく動かして、私に尋ねた。私はふきだしそうになった。いたんだよ、私は笑わないように一言でいった。姉は考えながらゆっくりと話をつづけた。
父はかつて『この家は俺が死んだらおまえらのものだ』とはっきりいった。私たち三姉弟のために残すといってくれたのだ。ほかの財産はいらないが、実家だけは我々がもらうべきだ。
「実家をもらうといっても、俺たち三人に相続税は払えないだろ」弟はいう。
「なんとかなる」と姉はいうが、私も弟もお金はないから、姉一人がなんとかするという意味だろう。
あの橋田という愛人は十年以上前から関係がつづいているといっているそうで、法的にはなんの相続権もないが、慰謝料だのなんだのでごねないとも限らない……。
私と弟は相槌をうちながらよく食べた。姉が話し終えたところで弟が
「で、父さんの容態は」といったので、姉もはっとしたみたいだった。煙草をもみ消し、慌てて現状を説明してくれた。脈拍や血圧などはやや持ち直しているので、様子をみて明日の夜に手術をしようと医師はいっているそうだ。
「ビデオカメラを買ってくるというのはどうだろう」姉は額に手を当てていう。背後の席で学生グループが笑い声をたて、観葉植物の向こうをウェイトレスが小走りでゆく。私はコップの水を飲んだ。
「手術が成功して父さんが回復するにしても」確約を得るチャンスは今しかないかもしれないと姉はいうのだった。私は気乗りしなかった。ビデオに撮影しても口約束は口約束だ。姉はどういうつもりなのだろう。
弟は「そんなことするより、いっそ、実家の土地の権利書をうばってしまえばいいんだよ」といつもの調子でいったが、姉の
「それ、いい」という言葉で、提案した本人がぎょっとした。
「大丈夫。私はあそこには何度も出入りしてるんだから。権利書の保管場所だって分かっているし、ミドリさんも病院につきっきりになるし、やれる」まだ弟も私も冗談だろうという風に聞いていたが、姉の実家への思い入れを考えるうちに心配になってきた。
弟がトイレに立つと姉は私をみて「変な目でみないでよ」といった。変な目でなんて、みてないよ。いいながら私はうつむいてしまった。
また姉が近くの駅前までおくってくれた。私と弟は電車に乗り込んだ。今日は大晦日と違って終電がある。
雪が降りはじめた。車窓にあたるのは小さな粉雪だった。相当気温が下がっているんだと私はいった。
「雪が降るとクリスマスという感じがするな」弟は私の貸したマフラーに埋めた口でいった。ホワイトクリスマスとはいうが、実際に十二月二十四日の晩に雪が都合よく降るわけがない。「だから雪が降ったらその日をクリスマスってことにすればいいのに」と弟はひとりごちた。
「実家のこと、どう思う」と聞いてみたが、それは姉のことをどう思うかというのと同じ意味だった。権利書を盗んだところでどうにもならないことは分かっている。すぐにばれるに決まっている。ただ、おそらくミドリさんはそれを知っても、さわぎたてたりしないだろう。大きい声でわめいた方が勝つという、これは子供の喧嘩だ。そして姉は、はばかることなく大声をあげようとしている。
「あれは、変だよ」そうだよね、私は同意したが弟は首を横に振って
「精神的になにか少し、参ってるんじゃないか」と真顔でいった。私は否定できずに黙った。
弟は私のアパートに忘れ物をしたというので、じゃあおいでよと誘った。大晦日の時のようにうっとうしい気持ちは起こらなかった。姉のことを一人きりで考えるのが嫌だったのかもしれない。
駅を出る。交差点で、漫画喫茶の看板を背景に雪が落ちるのをみていた。自動車は一台も通らないのに、律儀に赤信号を守って立っているのは馬鹿みたいだった。
「そうか。雪、珍しくないんだもんな」弟は私をみて急に思い出したようにいった。私も弟が雪にみとれていたことに今まで気付かなかった。
「米沢ではね。カマキリが木の枝の高いところに卵を産んだら、その年は大雪っていわれてるの」
「ふうん」
「でも、毎年高いところに産んで、毎年大雪なんだけどね」弟はまだ雪のふる空を見上げている。
「もしも、俺が米沢にいってたら」と弟はいった。信号が青に変わる前に弟は歩きはじめた。
「いってたら?」弟がそんなことをいうのは初めてだった。東京に残ったのは父の希望だったが、弟がそれを望まなければ、母は認めなかっただろう。弟はその後も「田舎は嫌い」といってろくに遊びにも来なかったのだが。
「いや。田舎にいっても俺の性格なら、やっぱりいじめられただろうなあ」
「いじめられたんだ」
「なんの挫折もなくしてあんな暮らしを続けている、とでも?」弟はさっぱりした声でいう。爆音がして右手から車がすごい勢いでやってきた。小走りになる。渡りきるところで滑った。派手に転ぶと、車はすぐ脇を走り去った。弟は戻ってきて手を貸してくれた。立ち上がってお尻の雪をはらった。
「あのときも手を貸そうとしたんだった」
「あのときって」弟はすぐに歩き出した。私は後を追った。
「廊下で突き飛ばしたんだ。口論の、弾みで」ミドリさんの怪我のことだ。
「慌てて駆け寄って、手を貸したんだけどね」
「貸したけど、どうしたの」
「失神してたんだ。驚いたよ。人が動かなくなるのって初めての感じだったからね。殺してしまったと思った」今、手を差し出したときに、あのときの感じをちょっと思い出したと弟はいった。私は弟がするみたいに、前に躍り出て顔を覗いてみたいと思った。弟はそれに気付いてか、少し早足になった。
T字路で弟も転んだ。背後から助け起こすと、さっきの私と同じように尻をはらった。T字路の真ん中の街灯には飛び出し確認の丸い鏡が備え付けられている。鏡に映る自分を弟は見上げた。鏡には私と弟と、舞う粉雪と、弟の転んだ跡が映っている。
「ミドリさんのことは、姉さんみたいに嫌ってるわけでもないんだ。いつか謝らなければいけないとも思ってるけどさ。でもやっぱり、一緒に暮らすことは出来なかったと思うな」うん。鏡の中の弟に私は頷いた。二人ともアパートにたどりつくまでにもう一度ずつ、転びそうになった。
部屋に入ると暗がりに留守番電話のランプが点灯していた。明かりをつける前に電話の再生ボタンを押した。姉の声で短く「明日の夜、決行」と録音されている。「決行」という言葉を私は口に出してみた。弟は玄関で髪やコートについた雪を払いながら「なにがなんだかわからんが、とりあえず、よろしくフォローしてやってよ」といった。
「フォローってどうすればいいの」私はタオルを投げてやった。
「いくんだよ」
「盗みにいくの、止めにいくの」
「わかんない」わかんないじゃ、困るよ。弟は髪の毛をタオルでくしゃくしゃとふいた。
「あんたは来ないの」俺はあれだから、あれの発売日だから。弟はずるそうにいった。姉に似た笑い方。
「おにぎり食べる?」
私はアルミホイルの包みを鞄から取り出した。出がけに家でつくってきたのだ。金庫に向かっていた姉は「食べる」というと膝をついたまま近づいてきた。二人並んでおにぎりを食べた。弟のいうフォローってこういうことだろうか。
二口食べて「おかかだ」というと姉は私の食べかけをのぞき込み、梅か、といった。私は水筒のお茶も差し出した。
「そういえばあんた、まだアルバイト続いてるの」
「ん」ごはん粒ついてるよ。姉は私の頬に指をつけた。あのころは二人ともかわいかったな、ごはん粒つけて。姉はしみじみといった。姉は私や弟の面倒をよくみてくれた。
「よく、羽田まで見送りにいったときも、ロビーの大きな椅子に並んで腰掛けて、おにぎり食べたよね」姉はいう。
「そうだっけ」おにぎりは、たしかに食べた。
「楽しかったよね」えっといいそうになった。淋しい食事だったと思い起こしていたからだ。
「モノレールが嘘みたいにすいていて、カーブでものすごく曲がって。大井競馬場の馬が厩舎《きゆうしや》を歩いているのがみえたりして、気持ちよかったよね」姉は、楽しかったのだ。
「友達のお父さんは電車や車で通勤だけど、父さんは飛行機で、かっこいいと思ってたなあ」
「そうか」私と考えていたことがまるで違う。
「ここで皆でご飯食べたよね、ベランダで」そうか、ここは昔ベランダだったのだ。あらためてゆっくり見回してみる。「ここで」食べたことはたしかだ。しかし食べたのは今目の前に広がっている「ここ」ではない。私は返事に困った。
「バーベキューの焼き上がったときに雨が降ってきて、皆で傘をさして食べたり」といわれて、少し思い出した。姉は今もベランダにいるような調子で天井を見上げた。
「あそこにあった枇杷《びわ》の木が」といって反対側の壁を指差す。
「ずっと実がならなかったのに、ある年だけどっさりなったんだよね。お父さんが脚立をベランダに持ってきて、肩車してとったの。憶えてないか」小さかったもんね。姉が指差した先の壁にはドガの絵がかけてある。
「それをお母さんがジャムにして。枇杷のジャムなんてと思ったけどおいしかった」そういえば母はジャムが得意だった。
「離婚したとき、お母さんのことを馬鹿だって思った」親指をなめながら姉はいう。話がずいぶん飛んだ気がした。
「もっと慰謝料がっぽりふんだくってやればいいのにって思った」私は何を思ってきただろう。いつでも特に感想を持たなかった私と違い、姉はいろんなことを感じて生きてきたのだ。
「でも、自分が離婚したときに、お母さんの気持ちが分かった」
「どう分かったの」姉は答えずに、親指以外の四本も順番になめた。
「私たちの思い出はこの家にしかない」姉はいう。今度は私が答えなかった。
「少なくとも、あんな馬鹿な女たちにみすみす渡すことないでしょう」言い聞かせるような口調だ。
「鍵が分からないから金庫ごともっていく」えっ。私は立ち上がりそうになった。姉はおにぎりで元気が回復したようで、金庫に勢いよくにじりよった。
「それじゃ、泥棒だよ」
「そうだよ」姉はなにしにきたんだという調子だ。姉はしゃがんで、金庫に手をかけようとする。側面のへりに手をかけ、前部に手を移動したり、把っ手を掴んでみたりしたが、なかなか持ち方が定まらないようだ。
「どこかから、毛布もってきて」姉はいう。戸惑ったが、そういえばおもちゃ箱に毛布のようなものが入っていたのを思い出した。箱を開けて一番上のを手にとる。
それはとてもいい手触りの、多分カシミヤの毛布だ。手渡すと姉はそれを金庫の前に無造作に広げた。
「もっと、ぼろいの探してこようか」
「いい」でも、カシミヤだよ。姉は無視した。金庫の側面に両手をつけて、足を踏ん張って思い切り引っ張った。やがて壁際の金庫はゆっくりと、わずかに傾いた。動かして出来た隙間に姉は手をいれた。ふんばると、金庫はさらにゆっくりと傾きはじめる。転がして毛布に載せようというわけか。
「ちょっと」姉は苦しそうにいう。
「持って」私は慌てて金庫に近づいた。倒れる金庫のへりを持ったがびっくりするぐらい重い。
「指、指はさんじゃ駄目よ」姉は早口でいう。
どん、と大きな音とともに金庫は九十度倒れて、毛布の端に載った。慌てて手を離した私は尻餅をついていた。
「はさまなかった?」うん。これだけの動作で、もう額から汗が流れた。
「やめない?」私は小声でいった。
「毛布にさえ載せてしまえばあとは引きずるだけだよ。それに、玄関から車まではスケボーがあるから」
「灯油運ぶやつ?」
「そう。あれで二度目にいったら、ガソリンスタンドの若造に『スケボーの姉さんがきたっすよー』って奥に大声で叫ばれた」私は笑った。
「金庫なんか載せたら、スケボー壊れちゃうよ」そうかな。姉は立ち上がった。右のへりを姉が、左のへりを私が、それぞれ両手で押して扉の前まで動かした。気付いたがこの家は扉と扉の間に段差がない。バリアフリーとは金庫を盗むのに向いた造りだ。それでも、金庫は重い。二人でコートを脱いだ。姉は靴下を脱いで裸足になった。
夜の廊下を二人、金庫をすべらせた。スケボーも心配だったが、その前に階段はどうするつもりだろうか。姉は多分なにも考えていない。(精神的に、参っているのではないか)。弟は私よりも年少で社会経験もないのに、どうしてあんなに冷静な見方ができるのだろう。
二階の廊下から見下ろす階段は暗いせいもあって断崖のように感じられる。やる気に満ちた姉の顔をみて、さらに不安が高まる。
金庫を階段の端まで寄せた。回転させながら一段ずつ落とすという。
「落とすって」
「少しずつ力を抜いて置いていけば大丈夫じゃないかな」
幸い階段の左右は広く、二人で両側からはさむように金庫を抱えることができる。
最初に金庫を動かそうとしたときに、姉があちこち手で探り直したわけが分かった。金庫には持つ場所がないのだ。私も何度も手をあてがって持つ場所を変えたが、しっくりくるところはない。姉と同じように片手で上部のへりを、片手で反対側の底を掴むようにした。
「いくよ。せーの」
「待って待って待って待って」私は自分の腰がひけてしまっているのを感じた。姉は度胸がすわっている。
「せぇのっ」底を持ち上げて傾ける。持ちきれるだろうか。落としたらどうしよう。緊張して、顔がかっと熱くなる。私と姉は「待って」「待って」ばかり言い合った。手が汗でにじむ。金庫の角が刺さるようで痛い。
「待って!」姉が大声で叫んだときに金庫はどすん、と一段下に降りた。私は自分の手が無事なのを一瞬遅れて感じ取った。指をはさまれていたらと思うとぞっとする。
「大丈夫?」急いで声をかけた。
「大丈夫」いいながら姉は怖い顔をして、肩で息をしている。私は胸に手をあて、深く溜息をついた。姉は再びさっきと同じ体勢に入ろうとした。
「急ごう」姉はいったが私は立ったまま「もうやめよう」といった。なにいってるの、と言いかけた姉を遮るように
「もう、やめようよ」はっきりといった。
「無理だよ」なにもいわない姉に、私はもう一度いった。
「無理だよ、こんなの。絶対に」私はそういって階段を見下ろした。姉はむっとして「ここまできて!」と叫んだが、私の顔のこわばりをみてとると、うつむいた。二人ともまだ呼吸が荒い。
「無理だよ」しばらくして私はもう一度つぶやいた。それが合図のように、姉はぐったりと金庫にもたれた。うつむいたまま何もいわなくなった。私もしばらく何もいわなかった。
ふうう。
やがて姉は唸《うな》るような声をあげた。ふうう。ふうう。私はかがんで姉に顔を近づけた。姉は口から荒い息を漏らして、ぼろぼろと泣いているのだった。姉の綺麗な目から、大粒の涙がこぼれて平らな金庫に落ちた。
ふうう。ふううう。姉はしゃくりあげながら、なにかいった。嗚咽《おえつ》に混ざって聞き取れなかったが、あなたは楽でしょうといったような気がする。公園でつぶやいたのも、もしかしたら同じ言葉だったのではないか。甘えられたのではなく、責められていたのかもしれない。
私は途方に暮れた。私は姉のことを本当に何も知らない。そのことだけは十分に思い知った。それはやるせない、でもない。はがゆい、でもない。「いかんともしがたい」という言葉が浮かぶと、それだという感じがした。汗がひき、寒気を感じる。号泣する姉を私はただ見下ろしつづけた。
どれくらい経っただろう。階下で音がした。私は身構えた。玄関に鍵のささる音。ノブのまわるかちっという音。そういえばほんの少し前に車の音がしたようにも思う。
「まずいよ」私はいそいで姉の肩を強くゆすった。だが姉はもう戦意喪失といった体で動こうともしない。なんてことだ。私は絶望的な気持ちで、それでも身構えつづけた。まっすぐ階段を登る音。
「泣いてるのはどっちだ」
弟の声だ。私は二階の廊下に置いてあった懐中電灯をつけた。弟はジャンパーのポケットに両手を突っ込んだままゆっくりあがってきて、私たちの二段下まできて立ち止まった。私は力が抜けて、弟を照らしたままその場にへたりこんだ。金庫をはさんでくずおれる姉二人を弟が見上げる。
「死んだよ」弟は白い息をはきながらいった。
私は顎で姉をさした。姉はなおも泣きつづけている。どうすれば泣きやむのか見当がつかない。
弟はジャンパーのポケットからゆっくり手を出し、そのままズボンのポケットに手をつっこむと、何かを取り出した。そして、何もいわずにそれを姉の顔のそばに差し出した。
それはハンカチだった。
姉はそれを掴むとすぐに目にあてがった。鼻水もずいぶん出ているようだ。私はその心配りよりも、弟がハンカチを持っていたことに驚いていたのだが、ぐずぐずしゃくりあげる姉が顔に広げると、それはハンカチではなくてジーンズの丈をあわせたときの余り布だった。
私は弟のリーバイスをみた。姉は顔をごしごしとこすった。
「帰ろう」弟は姉が静まったのをみるといった。姉はまだ涙を流しながら力なく立ち上がった。
「これ、どうしよう」金庫を思うと私は不安だったが
「ほっとけ」弟は簡単にいって階段を下りはじめた。のろのろと姉が続いた。
弟は階段の途中で立ち止まった。振り向くと今度はジャンパーのポケットから蜜柑を取り出した。弟はその場で皮を剥き、三つに分けると、姉に二つ手渡した。姉は振り向いて私に一つくれた。
「おいしい」姉はまだ少し湿った声でいった。
広い玄関には弟の靴が乱暴に脱ぎ捨てられていた。私は二階に戻って洋間のカーテンをしめ、散らばったアルミホイルをかき集めて鞄にいれ、脱ぎ捨てられた靴下と上着もひっつかんだ。毛布は急いで箱に戻し、金庫の脇をすり抜けるようにして、急いで階段を下りた。
玄関は開きっぱなしだ。下駄箱の上の鏡餅をみると蜜柑がなくなっている。その脇にラジオ付きの懐中電灯をお供えするようにそっと置いた。姉は弟に付き添われて石臼の上をゆっくり歩いていた。
私は扉に鍵をかけた。石型のケースに鍵を戻し、合わせ目が分からないようにぴったりとケースを閉じる。そっと玄関脇に戻して、小走りで外に向かった。臼だったという白く平たい石の埋まった道を眺めて、ここをスケボーで行くのは不可能だったろうと思う。石は夜のわずかな光をあびて白くつやめいていた。門の外に出ると弟の乗ってきたタクシーの代金を姉が代わりに払っている。
タクシーが去ると、泣いていた姉がこわばった顔のままで運転した。「大泣きした後の息ってなんでいつも、こんなに温かいんだろう」姉は鼻声でいった。
「大泣きしたことないもん。分からん」弟は眠そうに眼を閉じた。分かるよ、と私は心の中でいった。
後部座席に座っていた弟は「久々にミドリさんと口きいたよ、電話で」といった。それで手術の結果を知らされたのだという。私は弟になぜ説教をしないのか分かった気がした。
「俺のじゃん」弟は座席の下のスケボーを拾い上げた。スポーツもやれと父に買い与えられたがほとんど使わなかったのだと弟はいった。
「これ、今はカヨが使っているの?」
「気が散るから黙って」
私は曇った窓を手で丸くふいて外をみた。住宅街を抜けて、吉祥寺駅前のみなれた通りに差し掛かっていた。
葬儀は実家で執り行われた。私は忙しく働いた。遺影をみてもしみじみした気持ちになるだけだった。遺影の父は老けた、私が疎遠になっていたころの父だ。死ぬ前に一緒に雑煮を食べることが出来てよかったと思った。
姉は父の死に際してもよく泣いたが、それにはあまり驚かなかった。ファザコンという弟の説に与《くみ》したわけではないが。
ミドリさんももちろん悲しかったはずだ。だが喪主としての責任感が悲しみより先にたつようで、あくまでも気丈にふるまっていた。
母も上京してきた。当然といえば当然だが、私は少し意外に感じた。弟をみて大きくなったと、父の遺骸をみて小さくなったと、私をみて変わってないと、いちいち感じ入って母は泣いた。
橋田さんもやって来て焼香《しようこう》していったらしいが、私はよくみていなかった。何度もお湯を沸かしてはポットにため、たくさんの湯飲みにお茶を注いだり、お悔やみの電話を取り次いだり、税務署からの電話を弁護士に転送したり、座布団を運んだり、襖を外したり取り付けたりした。少し読経《どきよう》をきいては、すぐに酒を買いに走ったりした。ミドリさんと交互に何度も二階と一階を往復した。金庫をよけながら。
金庫はまだ階段に置かれていた。誰も持ち上げることが出来ないのだった。当分置いておくしかない。金庫を運んだ犯人役は弟が買って出た。姉はそれはよくないといったが、私はいいからといって弟に全部任せてしまった。
「イタズラなんかじゃない」盗もうとしたのよ。絶対に。ミドリさんは私に小声でいったが、弟に直接なにかいうことは出来ないようだった。弟はそうやって怒らせておいて、少しの力仕事も手伝わなかった。
火葬場から帰ってくると、弟はかつて過ごした二階の部屋にこもって出てこなくなった。母が帰り支度をはじめたので二階に呼びにいくと、弟は壁ぎわに張りついていた。ドガの踊り子の絵が外されて立てかけてある。壁にあいた穴に弟は片腕をつっこんでいるのだが、壁に腕がめりこんでいるようにみえる。
なにやってるの、と問う前に「昔、ここに投げつけたファミコンのソフトをね、回収してる」と説明してくれた。
「今売れば三万円になる」と苦しそうな表情でいう。そういえば火葬場で父が焼かれている時、姉が珍しく「これからどうするつもり?」と尋ねた。弟は「秘蔵のコレクションをネットのオークションで切り売りするよ」といっていた。
「今の日本で俺ほどのディレッタントもおるまい」とも。姉は心配そうな顔を崩さなかったが、私はもう楽観していた。なぜ弟は大丈夫だと思うのか、ちっともうまくいえないので仕方なく姉の肩にそっと手をのせた。
それより弟があけた穴の大きさに驚いた。ファミコンのソフトなんかでこれほど大きな穴が出来るものだろうか。それはかつての弟の屈託を象徴しているように思える。手ごたえを掴んだという表情になると、弟は腕をひきぬいた。紐の先に粘着テープをつけた仕掛けで、ゲームソフトは釣り上げられた。箱ごと投げつけたのだ。手にした箱に弟はふっと息を吹きかける。明るい部屋に埃がふわっと舞い、弟は嬉しそうに笑った。
葬儀の後で父には愛人問題のほかに、まだいくつか借金があったことが発覚した。実家は来月末には銀行に差し押さえられることになった。管財人はすました顔で階段の金庫を簡単に開けて、中身をごっそり取り出した。帰り際に管財人は「この石も高く売れます」と臼だった敷石を指していった。表まで見送りに出たミドリさんも姉も管財人の指した先の石をみつめた。思うところはおそらく違っていただろう。私も二人の姿を玄関からみつめた。
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バルセロナの印象
大晦日にグエル公園にいる。グエルという名前の由来をさっき聞いたばかりなのにもう忘れている。年末だからか、割とすいている。空は曇っている。女たちは園内のあちこちに施されたタイル張りの一つ一つをみて回って、その意匠をいちいち誉めては写真におさめている。
十数時間飛行機に揺られて体調はすこぶる悪い。機内で二度も吐いた。おまけに明け方まで眠れなかった。ホテルの壁の向こうから集団で足踏みをする音が聞こえてきたのだ。朝、ホテルを出てみると隣はフラメンコのライブ劇場だった。
「スペインらしくていいじゃない」妻も姉もけろっとしている。妻は朝からガウディガウディとはしゃいでいた。この公園もガウディの手によるものだという。
ゆるやかな広い斜面に作られた公園は階層構造になっていた。広場があったり遊歩道があったり、ギリシャ神殿風の柱で構成された不思議な空間があったりして、階段を登っていくごとに「次はどんなモチーフなのだろう」と思わせるつくりだ。段々になっている上の階層から、ついさっきまで自分たちが立っていた下の広場の様子などを眺めることが出来るというわけだ。女たちのペースに焦《じ》れて、僕はろくに見物もせずにさっさと最上段までのぼった。
フリルのふちどりのようなうねうねとした外壁をもつ広場で、ベンチにもなっているそのふちどりに腰かけて辺りを見回すと、いるのは観光客ばかりでもないようだ。
大きさも毛並みも立派な犬を散歩させている男がいて、周囲の誰もが犬をみやっている。男は誇らしげだ。
それから、前輪と後輪とでスポークの色の違う派手な自転車に乗った少年の一団が走り去っていった。
ジョギングしている人もいる。冬なのにランニングと短パンの本格的な姿で、これで胸にゼッケンをつけていたらどこかのマラソン大会から抜け出してきたようにみえる。
なんだかまるで、日本にいるみたいだ。皆、散歩をしたりジョギングをしたり自転車に乗ったりしている。当たり前だよと笑う妻の声が、考えを口にする前から聞こえてくる気がした。
もちろん観光客もいる。日本のおばさんは必ずほかのおばさんとつるんでいる。木陰の目の青い女は、ナップザックを背負っていかついカメラを手に佇んでいる。大きな望遠レンズのついた一眼レフだが、なににレンズを向けるでもなく、明らかにもてあましている。
最上段まで追いついてきたところで二人はトイレにいきたいといった。案内板にトイレのマークは一つ、それも入口近くにしか記されていない。そこのベンチで待ってるといって別れる。
飛行機に慣れていないせいか、それとも出発当日の朝まで仕事をしていたせいか、二人に比べてとにかく疲れやすい。椅子とみれば座りたくなるし、喫茶店とみれば入りたくなる。妻は「まだ二十代なんでしょう?」と呆《あき》れる。仕事もまだ終わっていないのだ。アルカリ乾電池で駆動する小型のワープロを今も持ち歩いている。
最上段の岩壁を削った中に売店がある。岩を削ったのではなくもとからあった穴に店が後から入ったのかもしれない。
妻に持たされた小さな鞄からスペイン語の会話文例集を取り出す。すでに妻の手で付箋がいくつも貼ってあり、癖がついているページをめくる。
「ウノ〜〜ポルファボール=〜〜を一つお願いします」と大きくゴシック体で書かれているのを覚えて列に並ぶ。きっとポルファボールはいわなくてもよいだろうと勝手に決めて「ウノコーラ、ウノコーラ」と心の中で、さりげなくいえるように練習をしていたが結局「コーラ」だけいってあとは身振りで買うことが出来た。缶のままのコーラにストローがついて三百ペセタ。高いのか安いのか分からない。
ベンチに戻る。寄ってくる鳩を、時折足を踏みならして追い散らしながら二人を待ち続ける。鳩のもつ独特の図々しさは日本と変わらない。コーラの味も日本のものと大差ない。
特に目的のない旅行だった。姉を元気づけようという大義名分があるにはあったが、気分的にはただの旅行だ。旅に目的など必要ないのだと妻はいった。
妻には「どこにもいかないなら、いってもいい」と告げた。矛盾するロジックだが実感としては伝わったようで、バルセロナの一都市から動かないプランが組まれた。
妻はそのような注文などものともせず、はりきって計画を練った。一人、旅行代理店と交渉を繰り返し、安いチケットを求めて奔走し、ガイドブックを何冊も検討して宿を予約した。
姉にとっては初めての外国旅行になるのだが、とても楽しみにしていたようだ。あちこち移動しないプランも「そのほうが疲れなくてよい」と歓迎してくれた。
使わなくてもよかったストローを抜き取ると、コーラがはねて眼鏡についてしまった。前日に空港で買い求めた眼鏡ケースをとりだす。眼鏡拭きを使って、また蓋を閉じるとバチンとものすごい音が響き渡り、鳩が何羽かばさばさと飛び去った。買ったときには気に入っていたが、蝶番《ちようつがい》のバネが強すぎる。まるでカスタネットだ。
木陰のカメラの女が歩き始めた。僕のいる広場よりも一段下に降りたので、今度は斜め上方から見下ろす形になっている。その顔をもっとよくみようとしていると、背後から妻の声が聞こえた。振り向くと、さっきからずっとそこにいて呼び続けていたという感じで立っていた。
「美人をみていたんでしょう」といったが、口調に咎《とが》める響きはない。妻も美人が好きなのだ。美人なんていないよ、とこっちは抗議するような声音になった。
「あそこの人がちょっと綺麗だけど」と付け足す。妻は「どこのどこの」とふちどりから身を乗り出した。姉は僕と妻とを少し不思議そうにみた。女は男と連れだって歩き出していて、もう背中を向けていた。あのカメラも男の手に移っている。
妻と姉も店に飲み物を買いにいった。コーヒーを手に戻ってきた二人は洞窟の中で商いをしているようなその店を気に入り「こういうところで働きたい」などといった。妻が小銭を渡そうとすると姉はいいからいいから、と拒《こば》む。姉は飲食のお金を払いたがった。割り勘で精算できるよう旅行前に共用の財布を設けた(妻のアイデアである)のに、ちょっと小銭がないとなるとすぐに「私に払わせて」という。地下鉄の切符を買うときもホテルのフロントでのやりとりも、すべて英語のできる妻がやってくれている。姉はそういうことで相手に負担をかけるのが申し訳ないし、また負い目をもっていたくないのだ。姉は昔と変わっていないと思った。
美人がいないのではなくて、美人がみえないのではないか。妻はさっきの話のつづきをいった。
「だってあなた、空港に着いてからこっち、日本の観光客の顔が皆同じにみえるっていってたでしょう」それと同じで、何かを識別する感覚が旅の緊張のせいで麻痺しているのではないかと。
「子供が皆かわいくみえるのもそうかな」というと、いよいよ間違いないといって二人は笑った。僕が子供嫌いなのを二人とも知っている。
姉と同じ部屋で寝る。バルセロナでも治安が悪いといわれる区画にあるホテルの、日当たりの悪い部屋だった。万事よろしく手配してくれた妻だったが、宿だけは実際に部屋をみて選ぶことは出来なかった。同じホテルのダブルとシングルを一部屋ずつ借りたので、二人と一人の組み合わせで、交代で寝ることにしたのだ。
今日は僕と姉が一緒というわけだったが、あらためて思えば姉と同じ部屋で寝るのは何年ぶりのことだろう。年齢が九つ違うから、子供のときは姉弟といっても保護し、される関係だったし、大人になってからは互いに離れて暮らしており、頻繁な行き来があるでもない。懐かしい話に花が咲くのか、それとも会話の少ない気まずい夜になるのか予想がつかない。だが、いざ部屋に入ると僕はすぐに寝てしまった。
夜中に起きてトイレにいくと、遠くの方で歓声と地鳴りのようなざわめきが聞こえてきた。ダンス劇場のそれとは違う。年が明けたのだ。寝ている間もかけっぱなしだった眼鏡を外してケースに入れ、音の鳴らないようにそっとしめて、また寝直した。
明け方早くに目をさます。隣の姉は布団をかぶったまま、袖机の上のランプに顔を近づけた不自然な格好で文庫を読んでいる。
「よく眠れたかい」とこっちをみずにいう。
「目に悪いよ」親のような言葉をいってみたが姉は気にする様子がない。
「パトリシア・コーンウェル、これが面白いんだ」僕はその作家を知らない。しかし姉が夜更かしだったことを思い出していた。
まだ幼かった頃、夜中に部屋の襖をそっと開けると、いつでも姉はとても不機嫌そうだった。襖を開ける前から不機嫌なことは分かっていた。それでも何故、何の用事があって襖を開けたのだろうか。
姉は「どうしたの」と、ぶっきらぼうに尋ねる。黙っていると「眠れないの」と向こうが答えを教えてくれる。頷くと、やっと少し笑みを浮かべて部屋に招き入れてくれる。
あのころ姉はアガサ・クリスティを読んでいた。今と同じように寝室のベッドサイドの灯りだけを頼りにして。
「別に好きなわけではないんだ」姉は照れ隠しでもなんでもなくて、本当につまらなそうに読んでいた。
姉はビートルズが好きだった。同じイギリスの作家クリスティなら、きっと作中にビートルズのことを何らかの形で登場させるだろうと考えたのだという。
それでアガサ・クリスティの文庫を片端から読んでいたのだが、熱病にとりつかれたように一気に読み通すわけでもなく、ゆっくりと作品を楽しんでいるわけでもないようだった。黙々と仕事をこなすという感じだ。一度読み終えた本はもう一度読み返す気などないらしく、パイプベッドの下に捨て置かれた。床にはいつくばり、その山を覗きみると社会科で習った貝塚というのを思い浮かべた。
僕は小さかったからビートルズとかクリスティとか、そういう「カタカナのこと」に気をとられて、姉はなんだか格好いいことをしているとしか思わなかった。
今再びこうして夜中に起きている姉をみていると、あのころの夜更かしと少し違ってみえる。なんだか動物のような目をしている。初めての外国旅行の緊張が現れているのだろう。妻ともうち解けて仲良くしているが、だからといって緊張のないわけがない。
妻も僕と姉という家族に対して緊張しているようだったし、僕は僕で女たちに対してある緊張を抱いていた。二人と一人の組み合わせで部屋を取り替えようというほとんど思いつきのようなアイデアも、「それいいね」「いいかも」と話の勢いだけで決定したが、なにがいいのかについては誰も触れなかった。
二人でするおしゃべりのためではなくて、一人の気楽さを公平に分けたいということだったのだろう。三人の少しずつの緊張が、だからこそ旅行を楽しいものにしようという、特に取り決めたわけでもない方針を明確にしているように思える。
我々の結婚は半年前で、姉の離婚とほぼ同時期だった。姉の夫だった人は姉よりも十歳以上年下のギタリストだった。あまり売れないスタジオミュージシャンで、勤め人だった姉には助けられていたはずだったが、ある大物ミュージシャンのツアーのメンバーに選ばれてから生活が荒れだした。女付き合いが派手になった。姉はすぐに離婚し、田舎にひっこんだ。
きっぱりと清々しい決断をしたと思えたが姉の表情は晴れなかった。離婚を後悔しているようですらあった。かといって、よりを戻すつもりもないらしい。
妻は僕の親戚の中でも特に姉と意気投合して、電話などでいろいろと話し合ったりするようになった。この旅も妻の発案だった。
「お姉さんを励まそう」とはいったが、離婚に関して励ますのではない。長く飼っていた猫が行方不明になったのだった。広い田舎に引っ越してなおも放し飼いにしていたら野狐かなにかに襲われても不思議ではない。数週間たっても諦《あきら》められないようで、姉は「捜索用のチラシを作ってみた」と、東京まで猫が来ているかもしれないと思ったわけでもないだろうが、ファックスを送って寄越した。届いたファックス用紙の猫の写真はほとんど真っ黒になっていた。それをみていた妻が急に「旅行でもいこう」といいだしたのだ。僕は仕事をため込んでいたので、出発当日の朝まで荷造りすらしなかった。
「新婚なのに悪い」となかなか一緒にいきたがらない姉を熱心に説得した。旅費は僕が奮発した。プレゼントのつもりだったのに姉は「来年必ず返す」といって譲らない。
姉は文庫を閉じ、ベッドから出て窓際にいった。天井の高い部屋だ。
「本当に朝なのかなあ」長くて分厚いカーテンを少しだけめくり、それにくるまりながら外をみている。
時計をみると六時をさしているが、姉がカーテンを開け放つと窓の外は真っ暗だった。ちょっと外に出てみようということになった。二人ともスペイン語はおろか英語もろくに話せない。それでも少しなら、遠くにいかなければ大丈夫だろう。
ホテルを出るとあちこちから新年を祝う人のざわめきが聞こえてくる。
「ランブラス通り」姉はいう。初めての旅行だからきちんと勉強しなくちゃ、と出発前から姉はガイドブックを丹念に読み込んでいた。
港の方に向かっていくと、ショッピングモールのような建物が遠くにみえて、多くの人の群れがそっちに向かっていた。その群れに混じるようにして木でできた横幅の広い橋を渡っていくと、途中で下は海だと気付いた。組まれた木々の隙間から黒く光る海面が遠くみえて、足がすくみあがるのが分かる。
「膝が笑うよ」姉は小声でいって笑った。
ショッピングモールの黒い床には空き瓶やクラッカーの紙吹雪なんかが散乱していて、大勢がニューイヤーの瞬間を祝ったのが分かったし、まだその余韻にひたってたむろする若者が大勢いた。開いているのは二十四時間営業のダンキンドーナツぐらいで、今なお大勢が橋を渡ってここにやってきているが、どのように散らばってなにをしているのかは分からなかった。これは彼らの新年で、自分たちの新年ではないという気がする。
時折姉のほうをみると、物思いにふけっているような表情をしている。姉が口を開いたのは「膝が笑うよ」といったときだけだったし、話しかけるのもはばかられる感じもしたが「あけましておめでとう」といってみた。口にした途端に、とてもつまらないことをいってしまったような気はした。
姉は目を見開いて「今日って新年だったんだ」と笑った。
ホテルの朝食の始まる七時三十分頃に引き返してみても外は真っ暗なままだ。妻と姉は今日はどこにいこうかと話し合いはじめる。
昨日の疲れが完全にはぬけていない。仕事もある。日中は二人と別行動をとることにする。そう告げると
「一人で大丈夫、迷子にならない?」妻はからかうように聞いた。大丈夫、外に出ないからというと二人とも呆れている。妻は「一応」といって会話文例集をベッドの上に置いていってくれた。
小型ワープロの簡易型表計算ソフトを起動し、三択クイズの問題を入力していく。インターネットの早押しクイズゲームのサイト用で五十問が一セットで五千円。初めは無尽蔵にとれる漁場に網を降ろして引き上げるようなぼろい仕事に思えたが、すぐに煮詰まった。人一人が考え出せるクイズの問題には上限が決まっている気がする。ジャンルや難易度にも幅をもたせなければならない。図書館もインターネットもない状態では思いつきのような問題しか作れないが、それでも旅行中に少しでも進めておかないと納期に間に合わない。
「0、2、5。じゃんけんでチョキの時に出す指の数は?」
「情婦、波止場、裏窓。ビリー・ワイルダーの監督作品は?」
「肘、膝、くるぶし。笑うものは?」
そういったことを延々と考えていくのは、頭脳労働なのに肉体労働の気分である。日本では煮詰まると散歩に出るのだが、ここではもう初めから煮詰まっている。コートを着込み、文例集をポケットに入れて外に出る。
近所のカフェに腰を落ち着けるつもりだった。しかし元日だからかマクドナルドすら開いていない。ランブラス通りだったか、を五分ほども歩き続けると過ぎゆく人の誰もが人相悪く思えてくる。二回ほどダフ屋風の男に声をかけられるのをつっぱねて歩く。
開いているカフェもあるにはあったが、中を覗けば新年の喜びを分かち合う常連ばかりが集っている風にみえる。ドアを押し広げた途端に、内部で行われていたあらゆる談笑がぴたりと止まり全員が一斉にこちらをうかがう、そんな西部劇のような様子を想像した。
三十分ほどあちこち歩き回ったあげく、ホテルのすぐ側まで戻ってきてしまう。ちょうど開店したところらしい隣のカフェの中を覗き込むと気弱そうな男が一人でコーラを飲んでいるきりだったので、ままよと入り込む。
カウンターには恰幅のよい女が一人。後からトイレから出てきたエプロン姿の男も店員のようだったが、間違いなくカウンターにいる女が店の主人だろうと思われた。
すでにホテルのバイキング形式の朝食をいやしくがっついていたので、腹は減っていない。コーヒーを頼んで女主人に三百ペセタ払い、人心地ついて外を見ると雨が降りはじめた。教会を観に行くといっていた二人は傘を持っていっただろうか。
しばらく窓外の石畳に打ち付ける雨足の強さに見入っていると、雨宿りに駆け込む客が次々と店に入ってきた。
後から入ってきた客同士も皆顔なじみのように気軽に言葉を交わし合い、店の女主人もにこやかに応じている。あまり混んでくるようなら、いつまでもここに陣取っていてはいけないかもしれない。それに先ほど覗いたカフェの、気のおけない常連たちの愉快な集いのようなムードにどんどんなってきたらどうしようか。
僕の様子がよほど不安そうにみえたのか、奥の席に給仕にいった女主人が、戻り際に肩をぽんと叩いた。まるで外の世界は魑魅魍魎《ちみもうりよう》の跋扈《ばつこ》する恐ろしい世界で「おまえはここにさえいれば安全なんだ」と保証するように。コーヒーのお代わりをもらって、それからやっと少しだけ仕事がはかどった。
ホテルに帰ると二人は戻っていた。ガウディの作った小さな教会にいったという。ちょうど新年のミサを行うところで、二人はそれに参加したのだそうだ。特別扱いされたわけではない。日本人としてでも旅行者としてでもなく、神のもとにミサに訪れたただの人として迎えられたのだろう。
「一緒にくればよかったのに」二人はとても残念そうにいった。
しかし僕は、自分が冴えない散策の果てに小さなカフェで女主人に見守られて仕事をしたことや、二人が異国で「本物の」ミサを体験したこと、二人が僕の不在を残念がったこと、僕が二人は雨にうたれていないかとつかの間思いを巡らせたこと、その出来事の全体を素晴らしいと思った。旅行をしているという実感があった。
夜は一人部屋の日だった。フラメンコの足踏みを聞きながら眠るのにも慣れたが、翌朝二人はくすくすと笑って僕をみた。妻は姉から僕の子供時代のことを、姉は妻から今の僕のことを、どんどん聞き出し語り合ったのだ。それぞれがとっておきのエピソードを披露して、さぞかし盛り上がったことだろう。
「それは楽しかったことでしょうな」とそっけなくいうと、女たちはますます目を輝かせて笑った。
朝食をとってから、飴細工のようにぐねぐねとしたアパートの屋上にいる。このぐねぐねもガウディの手によるそうで、少し呆れる。最上階と屋上は観光客に開放されてはいるが、住んでいる人もいるという。
エレベーターで上にいくと、最上階の天井は放物線状になっていてとても薄暗い。ところどころに窓が設けられていて、それらすべて大きさが違う。
内部の展示説明もなにやら凝っている。床が円筒状に浅くくりぬかれ、その壁面一杯にはめこまれたモニターに文字が浮かび上がるのを覗き込む趣向も格好よく、ボタン一つでこの建物やガウディについて検索できるPCのデザインも洒落ていた。屋上にのぼって、ぐねぐねとしたふちから下をみれば、大通りの十字路に二階建ての、というよりは二階の屋根のないバスが停車していて、座席の人々の頭がよくみえた。今日はよく晴れている。
信号が変わりバスは十字路を右折していった。屋上を見渡していると、遠くの出入口から僕より遅れて、つまりきちんと展示を見学してから屋上にのぼってきた二人の顔がみえた。
まぶしそうに空を仰《あお》ぎみた後、妻は遠くのなにかを指差した。にこやかな表情で口が動いている。姉は笑みを浮かべながら相槌をうっている。外国の夫婦にカメラを渡された妻はまるで自分が写真に写るみたいににこにこと笑いながらシャッターを押した。姉も妻の後ろで微笑んでいる。
それから二人は各々のカメラを取り出して、公園でもそうしていたようにあちこちを撮り始めた。妻は姉を、姉は妻を中心にして建物や風景をおさめている。僕は妻から予備として預かっていた使い捨てのカメラを取り出して、二人の写真を一枚だけ撮った。後で現像すると妻のフィルムには僕と姉、姉のフィルムには僕と妻ばかりが写っていることになるから、この一枚は貴重だ。
そのうちに二人は端にいて座っている僕に気付き、手を振りながらこちらにやってきた。
「また座っているね」僕が展示をろくにみないでやり過ごすのを、楽しんでいないと二人は考えているようだ。「こんなにいいのに」「有り難みの分からない男だ」などと口を揃えて非難する。
二人はバルセロナに到着して以来、ガウディの建築物のみならず、街にあるものすべてを「センスがよい」と褒めそやした。ショーウィンドーの中の雪だるまがよいと褒め、石畳に停車中のフィアットを褒め、地下鉄のポスターを褒め、信号機の柱が日本と違って黄色いのがいいとまでいいだした。
「センスセンスセンスセンス」僕は吐き捨てながら、どこかにセンスの悪いものはないかと思って探したが、バルセロナはたしかにお洒落な街でなかなか隙をみせない。昼過ぎに入ったレストランの卓上に時代遅れのファンシーグッズのような蝋燭立てをみつけたときには、思わず声をあげてのガッツポーズがでてしまい、店中の人間を振り向かせた。
帰りの地下鉄の中で姉が礼をいった。「本当につれてきてもらってよかった」「ありがとう」などと、大げさなくらい力を込める。妻と二人で照れてみせたが、旅はまだ終わっていない、とも僕は思った。
夜、洗面台で歯を磨いていると妻がいった。
「お姉さんを誘ってよかった。本当に」うん、といいかけながら気が晴れない。さっきの礼は成田空港でお別れの時にいうような改まった言い方で、まるでこのあと失踪してしまうような、はかない感じがしたのだ。
それに姉が感謝の気持ちを抱いていることは間違いなかったが、本当に心から楽しんでいるのかどうかは分からなかった。我々の手前、幾分過剰に喜んでみせているのかもしれない。
昔から姉は気をつかう人だった。父の葬式のときも、哀しんでいる時間よりも、遠方からきた親戚に挨拶をしたり、向こうが述べる悔やみの言葉を神妙に聞いたりする時間の方が長かったはずだ。葬式とはそういうものかもしれないが、姉は母よりも率先してそれをやっていた。そのときの印象と、夜中に襖を開けたときにみせた不機嫌な印象が僕の中では交錯している。姉は襖を開けたときの顔を我々にみせていないだけなのではないか。
最近とみに思うのだが、僕は他人の気持ちが分からない。表面上では喜んでいても本当は哀しんでいる人とか、感謝の気持ちをもっていても素直にいえない人とか、そういう人の裏の気持ちが僕には見抜けないのではないかと思うことがある。そういえば僕はイクふりをする女というのが分からない。自分には絶対に見抜けないだろう。
そうすると、世の中すべての人や物が僕にもたらす印象を、まるごと頭から信じるしかない。そう、姉はこの旅を楽しんでいるのだ。
「そうだね」僕の相槌はかなり遅れていて、口は泡まみれだったからもごもごとしていたが、妻は気にしなかった。
「ピカソのTシャツ、もっと買えばよかったかな」「明日はどこにいこうか」部屋にいる妻の言葉に歯ブラシをくわえたまま相槌をうっている自分の姿が鏡に映っている。ずっと洗面台の前に突っ立っているのが馬鹿馬鹿しく思えてきて、狭い部屋を歩き回りながら歯を磨いた。
スペインやバルセロナに対して僕個人の思い入れはほとんどなにもなかったが、バルセロナ・オリンピックのマスコットキャラクター「コビー」のグッズを手に入れるのを楽しみにしていた。ピカソにちなんで、顔が横向きにも正面にもみえる犬のキャラクターである。スポーツイベントのマスコットというと、子供に媚びをうった安っぽいものしかなさそうだが、コビーはとても味わい深いデザインで、スヌーピーやミッキーマウスに負けないくらいの人気になると思っていたのだが、そうはならなかった。
出発前、妻はガイドブックをぱらぱらとめくって「オリンピックスタジアムにいけば今でも売っているし、それとは別にコビーを手がけたデザイナーの専門店もあるらしい」といったので楽しみにしていたのだが、現地につくとそのような専門店はそもそもないらしいということが分かった。
今日まで行けずじまいだったスタジアムも午後には閉館してしまうようだ。レストランで時計をみるともう午後三時だった。明日の夕方には帰国だから、もうチャンスはないことになる。
旅費を捻出した代わりに案内役を妻に任せた気になっていた僕は、唯一楽しみにしていたグッズが手に入らないと分かって不機嫌になった。これまでに姉の行きたかった美術館も妻のしたかった買い物もすませ、二人の希望はほぼすべてが満たされていたから、急に自分だけがないがしろにされているようで腹立たしくなった。二人は僕の様子を敏感に察知して「とにかくすぐにスタジアムにいってみよう」といった。
オリンピックスタジアムはケーブルカーでなんとかの丘をのぼったところにある。僕は巨大なスタジアムと聞いて東京ドームのようなものを思い浮かべていた。水道橋の駅を降りた途端に押し寄せる喧噪《けんそう》と人混み。そんな感じを想像していたが、スタジアムの周囲は廃墟のようだった。
肌寒い夕暮れの丘の上に大きなスタジアムがあって、すぐ側の車道を、時折スピードを出して通り過ぎて行く乗用車があるきりで、人の姿はほとんどない。
我々は暗い気持ちで、それでもスタジアムの周囲をぐるりと回ってみようと歩き出した。姉は沈痛な表情で「向こうを回ってみる」といって走っていった。妻はしょんぼりして「ごめん」などとポツリという。
ケーブルカーの中でうっかり「あれだけが楽しみだったのに」とつぶやいたのが余計にまずかった。二人ともまるで、子供の留守中におもちゃを壊してしまったことを必死に隠す親のような不自然な懸命さで「まだ売っているかもしれない」「あんなよいキャラクターを売らないはずがない」などととりなしはじめた。
こうまで気をつかわれると今更「別にいいんだよ」などといったところで認めてもらえない気もしてきていた。不愉快な気持ちの一方でそんなことを思っていると、反対側をみにいっていた姉が向こうから走ってきた。大きな円形のスタジアムに沿うように、遠くから懸命に駈《か》けてくるのだった。
「向こうの売店で売っている」そういって息を切らす姉の手には人形らしきものが握られていた。売り切れてしまうとまずいと思ってとにかく買ったという。
三人で戻っていくと、スタジアムの側の車道の脇に観光客向けのおみやげもの屋があって、サッカー選手のグッズに混じってコビーのグッズがいくつかあった。
どのグッズも店晒《たなざら》しという感じで、人形などは色が黒ずんでいるぐらいだったが、二人は胸をなでおろしたような表情だ。スタジアムは今はサッカー場になっているようだ。閑散とした周囲の状況からも、コビーグッズはもう過去のもので、あと何日どこを探してもこれ以上のものは手に入らないことがはっきりと分かった。それはもちろん二人のせいではない。思えばバルセロナ・オリンピックからは何年も経っているのだ。
結局、当時発行されたコビーの切手だけを買った。姉がさっきの人形を強引に握らせて
「これはあげる」といった。陽が落ちつつあった。
それから近くにあるミロの美術館にいった。姉のリクエストだ。
白い建物の周囲はスタジアムと同じぐらいに閑散としていたが、中に入るとたくさんの人がいた。一時間後にクロークの前で待ち合わせることになった。
巨大な布に描かれた作品以外、特に目を引くものもなく、二人よりも先に進んで二階にいくと中央にベンチのある部屋がある。右隅に自転車の車輪を使ったオブジェがみえた。背もたれのない丸椅子の上に自転車の車輪がさかさまに固定されている。
中央のベンチに腰をおろしてぼんやりしていると、青い制服姿の大男が背後から現れた。男はまるで初めて目にする美術品をもっと近づいてみてやろうとしているかのような足取りで、右隅のオブジェに近づいていった。そうして立ち止まってしばらくじっと眺めている。僕はその様子を視界の端にいれながら座っていた。
「また疲れたの?」やがて妻がやってきていった。妻はミロの美術館は何度かきていたから、僕と同じようにすいすいとみてきたようだ。
「またっていうけど、疲れは回数じゃないんだ」僕は理屈をいった。妻は僕の隣に腰をおろして室内の絵やオブジェをぐるりと見回した。僕はその横顔をみた。この旅行中も何度か意識して横顔をみた。注意して長くみたわけではなく、振り向いた拍子にちょっと目がいったというぐらいの短さで。すぐに妻が不思議そうにこちらを向く。
「どうしたの」
「横顔をみてた」僕はいった。妻は少しも照れずに
「私もお姉さんが絵をみる横顔をみたよ」といった。
姉は一枚一枚を真剣に時間をかけて観ていたという。口中の飴をかまずに溶かして味わうようにして、と妻はいった。
「私は割とすぐにかんじゃうけど」といって笑う。僕もそうだよといって入口のあたりを見るとさっきの男が、今度はいかにも美術館のガードマン然として立っていた。右隅に目を戻すと、オブジェの車輪はさっきよりも多少勢いよく回っている。
車輪を回すのも男の役目なのだろうか。だとすると男の存在も展示の一部に思えてくる。男は気怠《けだる》そうに手を後ろ手に組んで立ちつづけている。
帰りはタクシーを拾った。車中で僕は姉のくれた人形をなくしてしまったことに気がついた。さっきの人形をもう一度みせて、と妻にいわれて気付いた。
姉は怒った。妻も呆れていたが、それよりも姉の怒りは計り知れなかった。三人が今日まで意識して築き上げた楽しいムードがすべて台無しになるほどの怒り方だった。僕が人形をなくしたことに落胆していないのが余計に腹立たしいようだ。さきほどの僕への気のつかいようを思えば無理もないか。
タクシーの狭い後部座席で何度も「悪かったよ」「すまなかったよ」などといってみたが、どれだけいっても心のこもっていない言い方にしかならなかった。
ついに一言も口をきいてくれないままホテルに戻った。姉はフロントでシングルルームのキーを受け取ると、無言でエレベーターに乗り込んでいった。
「明日、もう一度謝るのがいいと思うよ」ツインベッドの向こうの方で妻の声だけが聞こえる。妻も姉と同じくらいに怒ってもよさそうなものだが、怒っていないどころかその声はのんびりとして楽しそうですらあった。あなたたちは姉弟なんだねえといった。
「似ているかな」
「頑固なところがね」
暗闇で僕も妻もそれぞれの寝床にいた。しばらく黙っていたが、やがて妻が口をひらいた。なにか僕を励ます言葉を考えつづけていたらしい。
「おとといの夜、お姉さんいってたよ、『弟が明るく楽しそうにしている姿を初めてみた』って」
「そんなことをいってたんだ」そんなに暗くて楽しくなさそうだったかな、僕は自分の子供の頃を思い浮かべた。こっちにきてからそんなに明るくて楽しそうだったか、とも。
「時々夜中にお姉さんの部屋の襖を開けて、顔を半分だけ出して、何も用事がないのに立っていたんでしょう?」
一瞬の後、あっと思った。姉も覚えていたのか。
あのころ姉はどんな気持ちで僕のことをみつめていたのだろう。分からない。姉も僕がみていたときの気持ちは知らない。ただとにかく二人で同じ場面を覚えていた。覚えていたというよりも、姉も同じ場面を思い出していた。
「明日の朝、もう一度謝ってみるよ」といったが妻はもう寝ていた。
翌朝、姉は部屋にいなかった。すぐさま妻がベッドの上に地図を広げて、探す場所をてきぱきと決めた。別々にいくとはぐれるかもしれないので、しばらく二人で探すことに決めて外に出た。
姉はショッピングモールにいるのではないか。妻の案内なしにいけた場所はあそこだけだからだ。妻も同意して、海の方に向かった。
元日の朝と違って人はほとんどいない。まるで違う場所を歩いているようだ。朝の七時半に東京ではあり得ないこの暗さ。橋の上を歩きながら、昨夜みせた姉の怒りに対して僕は妙な共感を抱きはじめていた。
『ちょうどよく』怒ることができないのは僕も同じだ。いつだって言い過ぎたり、言い足りなかったりする。誰かに怒りをぶつけた後で、後悔しないときはない。
姉もきっとそうだ。いつでも怒りすぎる。そして、うまく許すことが出来ない。自分の楽しい気分を台無しにして、場合によっては相手との関係も全部おしまいにしてしまう。そうしてもやもやとした気持ちをくすぶらせる。
姉と別れた男とのことを思い浮かべてみる。姉は好きでもないミュージシャンのコンサートにつきあって、それでも嬉しそうだった。あの男が昨夜の僕のように「悪かったよ」とか「すまなかったよ」などと心のこもらない感じでいい、姉が身体を硬くしながらその言葉を耳から遠ざけようとしている場面がありありと浮かぶ。
「お腹空いたね」いったん戻ろう、妻はいった。
「お姉さんもお腹は空くよ」確信に満ちた言い方で続けられて、僕も引き返す気になった。
ホテルのロビーに戻ると姉が壁際のソファにうつむいて座っていた。顔を上げると泣いていたので慌てたが僕たちをみると笑顔になった。
「さっきね。猫がいてね」姉は涙の理由を説明した。暗い路地の石畳にいた猫が行方不明になった飼い猫にそっくりだったのだという。僕も妻も、姉が猫のことで落ち込んでいたことを忘れていた。
「白と黒のぶちで、顔の模様も、ほら、あの通りでさ」姉は記憶を促すように僕をみたが、どんな模様か分かるはずがない。機械音痴でファックスも使い慣れていないはずだ。僕たちの受け取った写真がどうなっていたのか、多分知らないのだろう。
食堂に向かう途中で姉は、昨夜はごめんと僕よりも先に小声でいった。
出発前に、有名ないわゆるガウディの塔をみにいく。バルセロナを訪れるのはもう四度目だという妻だが、ガウディの塔は欠かさずにみるという。最初のうち僕が「いわゆるガウディの塔」というたびに「サグラダ・ファミリア教会」と正されたが、覚える気がないのを悟ったらしく、もう何もいわない。
百年以上前から作りはじめて、未だに未完成で、ガウディの死後も作りつづけているのだという。だから行くたびに少しずつ様相の変化があって飽きることがないのだそうだ。作者の死後も作りつづけているというのを感動的なことと受け止めるべきらしい。山田康雄の死後も物まね芸人をつかって放映を続けるルパン三世のようなものかと思う。妻のガウディへの思い入れが並々ならぬものであることは既に分かっているから、そんな意見はいわない。
地下鉄を降りてホームにたつと妻は、地上に出たら私がよいというまで絶対に上を見上げてはいけないといった。友人と二人で初めてバルセロナにきたとき、同じことをいわれたという。うつむいたまま連れていかれ、上を向いたら間近にあの塔がそびえていたときの驚きと感動を我々にも味わわせたいと。
僕と姉は分かった分かったといい、まだ地下鉄の構内にいるときからうつむき気味に歩きはじめた。
ところが妻は地下鉄の出口を間違えた。我々は塔の裏側に出てしまった。妻は、表にまわるまで絶対に塔の方を向いては駄目だといった。言われるままにうつむきながら歩いていくと、歩道の人間も、傍らを過ぎゆく車の中の人すらも上を見上げている。ワーオなどというあからさまな感嘆の声も聞こえる。
妻は我々を先導しながら時折振り向いて「もう少しだから」「あとちょっとだから」となだめるようにいってまた歩き出した。
我々はうつむいたままガウディの塔を右手に巻くようにして正面に回り込んだ。妻は「はい、どうぞ」と改まった口調でいった。
見上げればそびえたつ塔。姉は「すごい! これはすごい」と驚いた。何度もテレビや絵はがきなどでみたあの有名な形の物が、実物大で青空の下に建っている。僕も興奮したが、この興奮はすこぶるミーハーなものだ。ガウディの塔が感動的なのは町の中にあるせいでもある。前触れもなく突然視界に入れば誰でも興奮するだろう、と僕は思った。
塔の内部に入る。かねてより漠然と四本だと思っていた塔は表裏の四本ずつ、計八本あるのだった。塔を実際に登ることが出来ることに驚いた。我々はそのうちの一本を登りはじめた。恐ろしく狭い螺旋階段を、つまさきをすぼめるようにして歩く。
上から降りてくる観光客とすれ違うときは、広い場所まで戻らなければならない。それでもなおすれ違うときにはお互いの身体を密着させることになる。足を滑らせれば石の階段を転げ落ちて、何人もの人を巻き添えにしてしまうだろう。
ソーリーとか、スクージィなどとかぼそい声をかけあう登る者と降りる者の間には、出会った瞬間に連帯感ができあがっていた。降りる人間はこんなことをしている自分に自分で呆れているふうであったし、登る者は既に登ってきた者の目をみてさらに怯えを強くする、といった具合だ。その連帯感が塔の下からてっぺんまでを空気となって支配していた。妻一人だけが平気で、すいすいと登っていく。僕と姉は不思議そうに顔を見合わせながら後につづく。
四本の塔はところどころでつながっていて、適当にあっちの塔、こっちの塔と移り渡りながら登っていくうちに、自分が四本ある塔のどれを登っているのか分からなくなる。
ところどころにある踊り場に見晴らし台のようなスペースが設けてある。外をのぞくと裏門の塔が四本みえて、その後ろにバルセロナ市街を見通すことができた。
よく目をこらすと、向こうの四本の塔の小さな窓からも人が顔を出しているのが分かる。塔と塔をつなぐ通路にたっている人もいる。妻は遠くの知らない人に向かって大きく手をふった。姉もふったので、仕方なく僕もふった。向こうの人はまるで気付いている気配がない。
最上段まで登りつめ、セルフタイマーで三人の写真をとった。バルセロナに来て初めて三人でとる写真だった。
「さあ、帰ろう」降りるのも妻は早かった。
美人をみた。空港にいくバスの中でガムを噛んでいる女を妻がみつけ、窓の外をみていた僕の裾を引っ張った。
女はジーン・セバーグのような短髪で、窮屈な座席でポストカードになにかを書き付けようとしていた。右手にカードをもち、ボールペンのキャップを口ではずして書きはじめた。恐ろしく不機嫌な顔をしているが、間違いなく美人である。
「左利きだね」妻はめざとくいった。
みとれていたら降りるべき空港のターミナルを間違えた。広いターミナルを引き返すように移動しながら、妻があれこれ買った品物にかかる税金の返金手続きをしに税関を探しにいったすきに、姉に昨日はごめんというと「いいの」といって笑った。
飛行機の中で姉は文庫を読みはじめた。僕はワープロから顔をあげて、そういえば、と切り出した。
「アガサ・クリスティの小説にビートルズのことはでてきたの」クイズの問題に使おうと思ったのだ。
姉はしばらくぽかんとしていた。なにをいわれているのか分からないという感じだった。子供の頃、夜中に襖を開けて交わした会話を再現してみせた。アガサ・クリスティを読みはじめたきっかけを尋ねたことや、その返事もすべて再現したが、姉は他人事のように聞いていて
「別に、ビートルズが目当てだったわけではないよ。なにしろ私はほとんど完読したんだから」と異議をはさんだ。
「ビートルズが活動していた期間なんて、せいぜい八年ぐらいでしょう。クリスティは、その何十年も前から書いているんだから。もしビートルズだけが目当てなら晩年の作品だけ読めばいいってことになるじゃない」面白いから読んだんだよ、と。
「でも思い出した。そうそう、ビートルズはね。本当に代表作でもなんでもない短編で出てくるのよ。一度だけね」それも「若者がビートルズとかいう音楽をきいている」というぐらいのおざなりな書き方だったそうだ。
「そんなこと、ずっと忘れていたのに、よく覚えていたね」姉は呆れている。
それからしばらく姉は妻と昨日までの旅のエピソードを一つ一つ振り返っては大笑いしつづけた。機内が暗くなってからは姉は再び文庫本に没頭した。妻は窓際で寝ていた。僕は通路側の席にいた。いつ吐きそうになってもすぐさまトイレに駆け込めるように。
クイズも思い浮かばず、妻が持参してきていたガウディの伝記を今になってぱらぱらと読みはじめた。首がこるまで読んで分かったのは、ガウディという人間は女にふられてばかりだったらしいということだ。うねうねとしたガウディの建築物や、肖像画の屈託を隠し切れぬ目をつかのま思い出してなるほどと思ったが、帰国したらそんな印象もやがて忘れてしまうかもしれない。姉がアガサ・クリスティを読みはじめた理由を忘れてしまっていたように。喫茶店で雨をみたことも、美人がいないと思ったことも、美人がいたことも、忘れてしまうのかもしれない。せめて二人が僕に残した様々な印象を覚えつづけよう。忘れないように努めようと思う。
姉がうとうとしはじめて文庫本を取り落としたので、狭い床をまさぐったがなかなかとれない。あきらめて自分も少し寝ようと眼鏡を外し、うっかりケースをしめたらバチンと大きな音がして今度は妻が目覚めた。妻は眠りに落ちた姉の横顔をみて、お姉さんは楽しんでくれただろうかとささやいた。
「お姉さんを励ます旅行のはずが、自分だけが楽しんでしまったようだよ」と妻はいった。それでいいんじゃない、と僕はいった。人を励まそうとして、励ますことができたなんて実感は、僕はこれまでもったことがない。そういうと妻も
「そうか」とあっさり納得した。僕に軽く微笑みかけるとまたすぐに目を閉じた。僕は二つ並んだ寝顔を横目に、成田までをついに眠らずに過ごした。
[#改ページ]
三十歳
秋子はグランドピアノの下で寝ている。むりやり敷いた布団はピアノの足と足の間でよれているが、秋子は小柄なので平気だ。目覚めるといつも視界にピアノの底がある。
音大の近くのワンルームアパートの四階に月八万円の家賃で暮らしている。住人は皆、音大の学生だ。
穴蔵から出るようにもぞもぞと起き出す。ピアノ用の椅子に座って歯を磨く。背もたれのない椅子は壁際にぴったりくっついている。鍵盤の蓋に積もった埃を眺めて、壁にもたれる。部屋はグランドピアノのほかには小さな机とビデオと一体型の小型テレビ、クローゼットと本棚と小さな冷蔵庫ぐらいしかない。冷蔵庫にはミネラルウォーターしか、クローゼットに上着は四着しか入ってなかった。
歯ブラシをくわえたまま、お尻を動かし横長のピアノ椅子をすり抜けるようにして窓際にいく。狭い部屋をピアノが占領してから、窓を開閉するには椅子を乗り越えるか、下をくぐるしかなくなった。
カーテンを開ければ道一本隔てたすぐ側を電車が走っている。歩いてすぐのところに駅があり、目の前の道は駅に向かう人と出てくる人とが常に行き来している。
出窓も開けるとちょうど通り過ぎる電車のパンタグラフがみえた。その向こうにはくすんだ壁のビル。秋子と同じ目線になる窓には太いテープか紙で「ダンス」と書かれている。電車の振動も踏切の警笛も、隣人の楽器の音も秋子には気にならない。
出窓に置かれた鉢植えの花はとっくに枯れている。もらった鉢植えだが、なんという名前の花だったのかおぼえていない。花の名の書かれたプレートは道に落としてしまった。プレートの刺さっていたところに切れ込みのような穴が残っている。ひからびた土に触れてみると硬かった。
夕方、外に出ると気持ちのよい晴天だったが、踏切で般若《はんにや》≠ニ出会った。パチンコ屋「オリオン」の常連客で、般若の面のような顔だちだから店員にそうあだ名されている。ワンピース姿で不機嫌そうな顔。うつむきながらすれ違う。会釈するべきか迷ったが、女はすぐに通り過ぎてしまった。パチンコ屋にはほぼ毎日きて、数時間は頑張っているから一日に数万円はすっていることになる。振り向いてなんとなく後ろ姿を見送ってから、ゆっくりと職場に向かう。
駅前のオリオンで景品係としてバイトを始めて二カ月になる。カルチャー教室のピアノ講師の仕事をやめて、ぶらぶらしていたらやがて貯金はなくなった。とにかくピアノと無関係の仕事ならなんでもよかった。フィルム会社の事務の面接に落ちた帰り、駅を出たところで「新装開店・バイト募集」の貼り紙をみつけた。時給の高さとアパートからの近さに惹かれ、その場で電話をかけ、すぐに面接を受けた。前の面接のときに返された履歴書をそのまま渡した。すぐに採用になった。
知人は不思議がった。「なぜそんな場所で」とか「あなたには似合わない職場だ」などといった。知人どころかオリオンの同僚や上司にまでいわれる。秋子を面接した副支配人は「真面目そうだからキャラがあわないかと最初のうち心配だったけど、うまく溶け込んでくれたね」といった。
ビルの裏口から事務室に入ると机に一升瓶やつまみの袋などが置かれている。すでに栓のあいたビール瓶も数本。紙コップがいくつか転がっていて、またかと思う。支配人がちょくちょく皆に振る舞うのだ。宅配ピザや缶コーヒーのことが多いが、仕事中に酒が出るのはまずいのではないかと少し心配になる。タイムレコーダーの前に立つ秋子が飲むとも飲まぬともいわないうちに副支配人が紙コップを手渡してビールを注いだ。今日はなんですかと尋ねると、支配人の奥さんの誕生日だから、という。
「そういえば、さっき般若さんをみましたよ」といってみた。
「般若さん?」副支配人は笑った。口にした秋子も「さん」付けが妙に思えた。
「もう店にきてるよ」といいながらいくつかある監視モニターのうち右端のものを指す。ワンピースの女がたしかに映っている。反対の方角に歩いていったのにと少し驚く。
「あいつサラ金に相当借りてるよ」副支配人がモニターの中の女をみつめているうちに、手渡された紙コップを机の上に散乱している飲み残しの間にまぎれこませる。
階段を上り更衣室で着替え、店内に戻る。今日は玉運びの男連中も酔って真っ赤な顔をしている。だが、へまをやらかす者はいないようだ。
整然と並んだパチンコ台やパチスロ台の発するけたたましい電子音や釘にぶつかる玉の音。有線から大音量で流れつづけるヒット曲。ヘッドセット型の無線マイクを使わないと満足に会話もできない。
だが、うるささも限度を超えると、無音と同じくらいに気にならなくなってしまう。カウンターに立って指定された景品を客に渡し、店内の清掃をするだけでよい。たまにする玉運びも苦にならなかった。玉数測定の器械(店員の誰もこの機器の正式な名称を知らなかった)にパチンコ玉が吸い込まれる様をみるのも面白い。喧噪《けんそう》と煙草の煙さえ我慢できればそれほどきつい仕事ではない。むしろ、なにも考えなくてもよいと許可してくれているような桁外《けたはず》れの喧噪を秋子は愛した。
休憩時間が近くなったころ、有線放送で聞き覚えのある曲が流れた。
「ねえ」一緒に景品カウンターに入っていた遥に秋子は尋ねてみた。
「なんですか先輩」一年以上前から職場にいるのに遥は秋子を「先輩」と呼ぶ。「だってなんだか『センパイ』って感じがするんです」とこのあいだいわれた。
「これを歌っている歌手、誰だろう」
「歌手、ですか?」遥は秋子の「歌手」という言い方を面白がっている。
「分かりません私。こういうヒット曲とかって、興味ないっていうか。聴かないんです私」遥はなぜか慌てていった。「こういうヒット曲」に精通しているようなミーハーな人間だと思われるのは不本意なことらしい。
遥は首にかけていたヘッドセットをおもむろに装着すると「誰か、この曲なに?」と口元まで伸びたマイクに向かって大声でいった。景品カウンター係に無線マイクはその一つしかあてがわれていない。目を宙に泳がした遥の少し曲がった眉毛を秋子はみつめた。何度かうなずいた後で遥は
「トランスワールドの、ラブプリズナーだって」といった。
「ありがとう」秋子は遥のマイクに口を近づけて礼をいった。少し遅れて遥が大きな瞳をくりくりとさせながら「どういたしまして、だって」とほほ笑んだ。
遥は十八歳で高校を卒業して、すぐにここで働き出したそうだ。すぐにバイトの入れ替わるパチンコ屋で一年勤めればベテランだ。
「声優になるのが夢なんです私」と知り合って間もないころ遥は早口でいった。声優の専門学校に通うお金をここで稼ぐのだという。遥だけではない。自主制作映画の資金作りとか豊胸手術とか、目的のために働く者が少なくないのだ。
「声優っていっても、ほらあの、オタクっぽいんじゃないですよ。ガンダムとかエヴァンゲリオンとかそういうのじゃなくて」洋画の吹き替えですか? というと
「ヨーガ?」遥は怪訝《けげん》な顔をした。
「……ああ外国の映画のことですね。そういうんじゃなくて、ほらたとえば」といって遥はエヴァンゲリオンではないカタカナのアニメの題名をいくつか挙げてくれたのだが、秋子にはそれが「オタクっぽくない」ものなのかどうかは分からなかった。
遥に限らず職場の誰ともこんな調子で、副支配人の洞察の通り「キャラがあわない」ことは間違いない。それでも秋子の方ではあまりストレスを感じていない。好かれようとか溶け込もうとか元から思っていない。これは年齢による落ち着きだろうか。オリオンでは新米だがもうすぐ三十歳になる。
休憩時間になると秋子はいつも屋上にいく。日に二回あるトイレ休憩のときはまっすぐ向かう。四十五分ある食事休憩のときは裏口の脇に設けられたプレハブの休憩室で早めに食事をすませ、灰皿を持ってから向かう。秋子は屋上が好きだ。七階建ての屋上からの景色はなかなか見飽きることがない。手すりに肘をのせながらまだ暮れ残る町並みの、遠くの国道にテールランプの並ぶ様や、街灯に照らされる薄暗い路地を眺める。
真下の裏口に目を落とす。休憩室の外でバイトの数人がプレハブの壁によりかかりながら立ち話をしているのがみえる。その側の、割と大きめの駐車場から男が自転車で薄暗い路地に漕ぎ出ていくのがみえた。安っぽいワイシャツと黒ズボンはオリオンの制服だ。見慣れない感じだ。といっても屋上からだとどの人も見慣れないのだが、数日前のミーティングで紹介されたばかりの新入りかもしれない。なんという名前だったか。秋子は同僚の名前と顔もまだ完全には一致しないのだ。
路地をゆく自転車をみているうちに、かつて勤めていたピアノ教室のことが思い出された。受け持ちの生徒にも一人だけ自転車で通う男がいたのだ。中年のサラリーマンだったが、ダイエットのためといって片道六キロの道のりを自転車で往復していた。秋子はその自転車通学も屋上からみたことがある。
働く人のための、趣味のピアノ教室だったので、勤務時間は今と同じ夕方から夜にかけてだった。個人指導の生徒が急に休むなどして時間があけばいつでも屋上に出ていた。金網のすき間から下をのぞくようにしていると、歩道を縫うようにして男が自転車を漕ぐのがみえた。秋子のいるビルに向かってくる。都心の歩道は人通りも多く、自転車は通り抜けるのに難儀していた。ビルに駐輪場はなかった。男はどこに自転車を停めていたのだったか、記憶がない。どこに停めているのか尋ねたことがあったかもしれない。「そのへんに」という返事だっただろうか。よく思い出せない。
出来の悪い生徒だったことはおぼえている。それなのに難しい曲を弾きたがった。年に一度の発表会では必ずそのときはやっているドラマの主題歌を演目に希望した。それは今の実力では難しいのではないか、やんわりと示唆しても男は聞き入れない。秋子は自宅に楽譜を持ち帰り、ドラマ主題歌の譜面を簡素なものに書き替えなければならなかった。ほとんどそれはバイエルみたいなアレンジになったが、それでも発表会のめどがついたと思っていると直前になって「やっぱり別の曲をやりたいんです」などと言い出してうんざりさせられた。
課題をきちんとこなせるまで練習してきたことは一度もなかった。同じ曜日にきていた生徒の一人は、あの人に廊下でひどいエッチなことをいわれたと怒った。私には一度もいわないと秋子がいうと「だって先生はちゃんと怒る人だからですよ。相手を選ぶんですよ」といわれた。サービス業だから、と我慢していたがいい印象はまるでなかった。
それなのに、太った男が自転車で混雑の中をよろよろと通り抜けていくのをみると、そのときだけは悪い感じがしなかった。なぜか好ましい感じすらした。
屋上からみているからだと秋子は思った。混雑した道を歩いていて遭遇したら疎《うと》ましいだけだ。屋上からみれば男の存在は動きだけになる。男にまつわる情報も印象も点のように小さくなってしまうのだ。
秋子の視界の端に、再びさっきの自転車がすうっと現れた。細い路地をまっすぐ駐車場にやってくる。コンビニの白い袋をハンドルにかけている。そろそろ休憩時間の終わりだ。
自転車とはとてもいいものだと秋子は思う。向かいのビルから出てきて歩きだした作業服の男と比べても、信号が変わってゆっくりと動き出した自動車の流れと比べても、男の操る自転車のなんと軽やかなことだろう。野原で蜻蛉《とんぼ》をみている感じに似ている。すばやくて、ゆっくりだ。
男は速度をゆるめずに駐車場に入ると、バイクなどが並んでいる脇の方ではなく、白線で区切られた車の駐車スペースの方に向かった。あれっと思いながらみていると、男は車を駐車するところに自転車を停めて降りた。スタンドを起こし鍵をかけると、休憩室に駆け込んでいった。男もなんだか蜻蛉のようだ。私も戻らなくてはと思いながら、秋子はもう一本煙草に火をつけた。
カゴも荷台もない、シンプルな自転車だ。もうずいぶん暗くなっており、色は分からない。それが四角く区切られた白線にしたがって整然と並ぶ乗用車の合間にぽつんと停まっているのを、秋子は煙をはきながら眺めつづけた。
閉店して、終礼を終えると秋子は裏口を出て駐車場を通り抜けてみた。男たちは全員、明日の新台入れ替えのために居残りをしている。あの自転車は同じ場所にあった。赤い自転車だ。いいなと思うが、自分で買おうという気は起きない。大きな荷物はグランドピアノだけでいい。
ピアノはもともと母の持ち物だった。昨年の夏、脳梗塞で倒れた。まだ五十代だったが、祖父も若くして同じ脳梗塞で倒れたので、まさか遺伝というわけではないだろうが、秋子はあまり驚かなかった。どこか普段から幸薄いような、重きに入りがちな、そんな印象の母がそうなったことで「やっぱり」という言葉を、姉も口にこそしなかったが、どこかで思っている節があった。
脳梗塞という病名よりも、手術後に面会したとき、母の髪が半分以上白くなっていたことや、老眼鏡のレンズが厚くなっていたことの方が秋子を驚かせた。数年間会っていなかったのだ。
母は命はとりとめたものの脳には障害が残り、家族の顔も分からなくなってしまった。姉はすぐに自宅の近くの施設を手配して母を預けた。ピアノは売るという話だったが買い手がつかなかったようで、解体すると聞いてあわてた。もったいない、というと姉は「じゃああんた引き取る?」といった。姉は偉い。どきどきしながらそう思った。きれいごとや感傷が現状を改善することはないと姉は知っている。引き取ることにした理由は自分でもよく分からない。売り言葉に買い言葉などというものではない、あえていえば「反射的に」返事をしたのだ。
それまで部屋で弾いていたデジタルピアノを知人に譲ってワンルームの部屋に入れてみて、さすがにその大きさに感心した。デジタルピアノだけでなく家具をいくつか減らさなければならなかった。もともと持ち物の極端に少ない人間だったし、テレビの画面に迫力を求めたりもしないので、生活に支障をきたすことはなかったが。
実家は貧乏だった。小学校のクラスでは秋子だけがジャージの膝につぎをあてていた。参観日にやって来たよその家のお母さんに「あなたのお母さんは質素で偉い」と褒められた。父親とは離婚しており、母の帰宅はいつも遅かった。何かをねだることが出来なくても、似たような食事が続いてもそれを苦にしたことはなかったが、居間の中央に置かれたグランドピアノは異様に思われた。小さなテーブルを端に置いて三人で食事していると、ピアノに遠慮しながら生活しているような気がした。ピアノの周囲の床だけ補強されて感触が硬く、ピアノに近づくだけで足の裏から緊張していった。
秋子が生まれるより前からあったピアノの鍵盤はくすんだ象牙だ。母は調律も欠かさず、よく手入れしていたものだ。
秋子も姉も毎日必ず練習させられた。母は厳しかったが、プロのピアニストになってほしいわけではないようだった。母自身も演奏は上手だったがプロではない。
「手に職をもっておいてほしいの」母はいった。大人になってから心強いのだ、と。母は父と別れるときに慰謝料も養育費も要求しなかったそうだ。裁判など面倒だと一人で働きはじめた。
「あんたのお母さんは立派だった」さっぱり、きっぱりしていてね。昨年、施設に母を見舞った時に叔母がいっていた。母は自分のことをいわれていると分かっていないらしい、ぼんやりした顔で聞いていた。
本当にそうだろうか。ピアノに近づいてカーブした側面に片手をかけると、背伸びして蛍光灯の紐を引っ張る。部屋が明るくなると、壁際の椅子を飛び越えるようにして窓際に移り、カーテンをしめる。
戻る途中で椅子に座り、ピアノの蓋にさわる。蓋の真ん中についた傷をなでる。「私が噛んだの」母は笑いながらいった。子供のとき、練習が嫌で嫌で、ふてくされて噛んだの、と。
なるほど歯形にみえるが、秋子は母の子供のころをどうしても想像できない。母といえば噛む姿ではなくて「手に職をつけさせようと」ピアノの前で腕組みをしながら監視する姿しか思い浮かばない。
母は疑いようもなく立派だった。だが「さっぱり、きっぱり」していたのだろうか。
かすかに歯形のついた蓋を久しぶりにあけてみる。フエルトの細長い布を少しだけめくろうとしたら、するりと床に垂れ下がった。鍵盤の黄色いくすみが懐かしい。芸能人って歯を漂白しているんですよ。オリオンの遥にいつか景品カウンターで耳打ちされたことを思い出した。鍵盤に指を置いてみるが、音を鳴らすのがためらわれ、指がすくむ。半分垂れ落ちた布を拾い上げ、元通り鍵盤にかぶせて蓋をしめる。
ピアノの下で寝ていると闇がいっそう深く感じられる。実際には下からみるピアノはエナメルの黒ではなく、木目がむきだしているのだが。暗闇で目を開けると最近ではあまり会うことのない姉のことを思い出す。
子供のころ、二段ベッドの下の段に秋子は寝ていた。「あんたは下ね」と姉が決めた。どちらでもいいと思っていたから従った。ベッドに横たわりながら、その天井をみつめることは、すぐ上の姉を意識するということだった。姉は夜中によく話しかけてきた。顔をのぞかせたりはせずに、声だけが聞こえる。母の機嫌を天気予報のように予想したり、学校の体育教師を罵《ののし》ったりした。そのころセクハラという言葉はなく、姉が好んで用いた単語は「スケベ」だった。エッチではなくてスケベの時代。
秋子の返事は仰向けにみつめている天井に向けて放たれた。そうだね。嫌だね。うん。いいよね。相槌は天井に吸い込まれるみたいだった。
だから大人になってピアノの下で寝るようになって、その底をみていると姉の存在を思い出すのだ。
姉は結婚して富山の旦那の実家にいる。専業主婦ではなく、地元の薬品工場に勤め、旦那と同じくらい稼いでいる。昨年の母の入院までずっと会っていなかった。二人の子供と二匹の犬に囲まれて暮らしている。毎年送って寄越す表面のつるつるした写真入りの年賀状をみれば、文字通りそれらに囲まれているのが分かる。
自分はといえば、三十歳になるのにパチンコ屋でアルバイトなどしている。今でも一人「下の段」で寝ている。そう思いながら寝返りをうつ。(声優になりたいんです私)。遥ぐらいの年齢のときに自分がなにになりたかったのか考えてみるが思い出せない。
姉には身につかなかったが、秋子はピアノ教室の講師になったから「手に職を」という母親の願いは一応かなえたことになる。講師になって嬉しいということはなかった。第一、もうやめてしまった。
妻子ある職場の上司と関係した。もちろん、初めのうちは「関係している」などとは思わず「愛し合っている」つもりだった。
奥さんと別れるはずがないとは半ば分かっていたが、ずるずると何年も続いてしまった。今はもう「関係した」という言い方しか浮かんでこない。うまくいっているときもそうだが、恋愛の渦中にいるときの気持ちは言葉にすると、どうしても常套句以外のものにはならない。少し前なら自ら異議を唱えたくなるような「関係した」という言葉にも、反論する元気が今はない。
レッスン中の教室に奥さんが泣きながら乗り込んできて「関係」は終わることになった。スポーツ中継のリプレイのように、乗り込んできた場面は今でも思い出せる。そのときの自分の顔さえみえるように思う。秋子はそのとき自分がほっとした顔をしていたような気が、なぜかするのだ。
仕事をやめてみても、寂しい気持ちはしなかった。ただ、ピアノは弾かなくなった。
翌日、男子更衣室を遥と掃除していると、先日のミーティングで紹介されていた新入りの男が「やべー」といいながら駆けこんできた。
「遅刻だよ安藤くん」遥が笑う。遥がもう新入りの名を覚えていることに少し驚く。安藤は手に持っていた鞄を机の上に無造作に放り出した。それから傍らの大きなワゴンに山盛りになっているクリーニング済みのワイシャツを一つ手にとってばりばりとビニールを破いた。二人がいるのに平気で着替えを始める。遥が嬉しそうに目くばせしたが、なんの意味か分からない。なかなかいい男だ、といいたいのだろうか。安藤は脱いだTシャツを机に放ったまま大急ぎで出ていった。階段を降りる音が慌ただしく響く。
「あの人、自転車で通勤してるんだって」知ってると秋子が答えると遥は意外そうな顔をした。
トイレ休憩の時間に屋上にいってみた。霧雨が降っているが構わずに手すりまでいくと下をのぞきこんだ。両隣の車は出払っていたが自転車はやはり白線で四角く区切られた真ん中に堂々と停められている。黒く濡れた地面が広くみえる。
はかったように安藤が裏口から出てきた。男のバイトと女の休憩時間のシフトはずれていることが多いから、この時間に出てくるということは副支配人になにか用事をいいつけられたのだろう。雨を気にする様子もなく小走りで自転車に近づく。スタンドを倒しサドルを手でぬぐうと一瞬上をみあげた。のぞき見をしているような気持ちだったので、思わず身体をそらしてしまう。安藤は自転車に飛び乗ってすぐに発進した。立ちながら、しかしゆっくりと漕いでゆく。秋子はさらに目で追ったが、やがて安藤は細い路地に曲がり、建物の屋根に隠れてしまった。
やはりあの自転車は安藤のものだった。それを確認出来たからどうなるということもないのに、なぜか満足感を覚えて屋上を降りた。
休憩室に戻ると副支配人がきていた。なにやってんの、風邪ひくよと副支配人は秋子の濡れた髪をみていう。駐車場のことを尋ねようと思ったが、副支配人は不意に「はい、今いく」と険《けわ》しい顔になった。無線マイクだ。話しながら、きびきびと出ていってしまった。差し入れに持ってきてくれたらしい机の上のピザがもう二切れぐらいになっている。食べ終えた同僚はめいめい漫画を読んだり携帯電話の画面をみつめたりしている。もうすぐ休憩時間が終わる。秋子は立ったまま急いで一切れ口に運ぶ。
本当に風邪をひいたようだ。秋子は帰りにドラッグストアで栄養ドリンクを買ってみた。効くのかなと思いながら高そうなのを買い物カゴにいれる。細長い箱はすぐに倒れて大きなカゴの端まですべった。
帰宅すると待ち構えたように姉から電話。少し前までは週に一度、母を見舞う金曜の夜にだけかかってきた電話だが、最近は不意打ちで鳴る。
「どうなの、仕事みつかったの」
「だから、パチンコ屋で」といいかけると
「そういうんじゃなくて、ちゃんとした仕事」と遮られる。
「しっかりしないと駄目だよ」うん。熱があるみたいだ。姉は話しつづけている。どれも秋子の身を案じる言葉だ。
元気なの。うん。貯金あるの。うん。どれぐらいあるの。うーん。
「ねえ、ちゃんと聞いてる?」
「ごめん今ユンケル飲んでた」というと、姉はため息みたいな音をたてた。不味いよ、と付け足したが姉は無反応だ。
母の様子を聞いて電話を切るとすぐに上着を脱いで明かりを消し、敷きっぱなしの布団に潜り込む。カーテンを閉め忘れていたと気付くが、起き上がる気力はない。
きっと熟睡するだろうと思っていたのに目覚めてビデオデッキの表示に目をやるとまだ三時間も寝ていない。損をしたような気がする。カーテンを閉め忘れた窓から夜の光が入り込んでいる。適当に返事をしたが姉のいったことはすべて覚えている。姉は秋子の身ばかり案じて自分の家庭の愚痴をまったく語ることがない。大したもんだと思う。母の扶養に関する費用も、秋子は少しも出していないが、姉はなにも咎めない。
身体を起こしてみて、勢いに自分で驚く。栄養ドリンクが効き過ぎだろうか。ピアノの下から身体を抜くように這い出る。壁際の椅子を乗り越えて窓にいく。こういう動作を日々繰り返していると、自分がトカゲかクワガタか、そんな生き物になった気持ちになる。ケージの中でいつもいつも同じ位置に置かれた倒木や石を、同じようによけたり乗ったりくぐったりしているような。
カーテンを閉めようとした手をふと止めて、すでに電車も人も通らない外を見下ろす。窓を開けると梅雨寒の空気とともに誰かの歌声が聞こえてきた。
明け方まで起きていて寝坊した。雨の中を走る。遅刻はせずにすんだ。事務室でタイムカードを入れて、更衣室で着替えをすませて外に出たところで安藤がどかどかと階段を登ってきた。目があうなり「この服似合います?」と聞いてくるが、肌にぴったりとした服よりも靴底十センチはありそうなロンドンブーツの方に目を奪われた。
「鋏《はさみ》あります?」さっき買ったから、まだタグがついてるんですわ。秋子が首をふると、安藤は首の後ろに手をいれてタグを出し、背中をむけてみせてくれた。
「僕ね。女物の服しか買わへんのよ」といった。なるほど細身だし、何を着ても大丈夫そうだ。知ってます? 男の服と女の服って、ボタンとボタン穴の位置が逆なんよ。なんだかイントネーションのあやしい関西弁だ。知ってますといってから、いつそれを知ったのか少し考える。安藤は男子更衣室に入っていった。自転車のことを訊《き》きそびれた。
階段を降りて交換所に入る前に休憩室に寄る。遥が玲奈とおしゃべりをしていた。秋子もそばの椅子に腰掛けた。玲奈は秋子と同時期に入店したバイトの女性だった。遥と同い年で普段からよくつるんでいる。輪状のピアスを耳たぶ狭しとつけている。数えてみると片耳だけで六個もある。パルプ・フィクションに端役で出ていたロザンナ・アークエットのつけていたピアスはいくつだったか。
「なんとかいってやってくださいよ」みとれていると、遥が呆れたようにいう。システム手帳のようだというと玲奈は嬉しそうに笑った。
「うちのバイトのメンバーでピアスしてないのって、私と先輩の二人だけなんですよ」と遥はいった。遥の場合はポリシーがあってのことかもしれないが、秋子はなんとなくしていないだけだ。
いや待てよ。誰某《だれそれ》さんはしてたっけ、何某《なにそれ》君は最近してない……遥は同僚のピアスの着用について、それを正確に把握していないとなにかまずいことでもあるかのようにぶつぶつといいはじめた。
玲奈は遥の話をろくに聞いておらず、首を秋子のほうにねじるようにむけると
「知ってる? 魚って、泳ぐのやめたら死んじゃうんだって」とまるで関係ないことをいった。玲奈が手の中でもてあそんでいるのが車のキーだと気付き、秋子は駐車場のことを尋ねてみた。
「月に二千円、給料からさっぴかれるよ」ということは、安藤はわざわざ自転車を停車するために二千円を払っているのだろうか。
いつものように屋上へ出る。雨後の湿気が空気に残っている。屋上の床面にもあちこち水たまりが出来ている。手すりに灰皿をそっと載せる。空は曇ったまま暗くなってきている。みおろすと、安藤が自転車を操って現れるのがみえた。停車して、自転車の鍵を抜き取った安藤が上を見上げた。目があうと、あっという表情になった安藤はすたすたと建物に入っていった。
しばらくぼんやりしていると、屋上の扉が開いて安藤がやってきた。ずっと見下ろしてみていたが間近にくると縮尺が変わるような、妙な感じがある。
安藤は軽く手を上げるような格好で秋子の方に歩いてきて
「トランスワールド、好きなんですか」といった。
安藤は間近まできて自分もセブンスターの箱をとりだしたがすぐに、くださいといって空の箱をみせた。
秋子が無言で自分のを差し出すと、それじゃま、ひとつ、というような手付きで一本抜き取って、上着のポケットをまさぐりはじめた。
「今度、倍にして返します」などといいながら安藤は秋子の隣にきて、手すりをつかむようにした。
階段で会話したときもそう思ったが、少しなれなれしいタイプかもしれない。くるりと向きを変えて手すりに背を向けてみたが、屋上には二人しかいなかった。
「トランスワールドの曲のこと、きいてたじゃないですか」安藤はいいながらまだポケットをさがしている。尻ポケットの片方から蛍光色の「確率変動中」のプレートが飛び出ている。もう片方のふくらみは無線マイクの本体だ。そうか。あの日、有線放送でかかった曲名を教えてくれたのは安藤だったのか。秋子は自分の使い捨てライターを差し出そうかどうか迷っていたが
「ああ、あったあった」と尻ポケットの奥の方からジッポを取り出した。手で囲いを作りながら素早く火をつけて、音を立てて蓋をしめると、ポケットにしまおうとせずにしばらく手の中でもてあそんでいる。
その間秋子はこの場を立ち去る口実はないものかとぼんやり考えていたが、いざとなれば口実などなくても立ち去ってしまえばいいと思い直してそのまま手すりにもたれた。
「これ、ジッポにみえるでしょう」親指と人差し指でライターをつまむようにして秋子にみせた。横目でちらとだけみた。
「実はジッピーなんですよ」というので、ちゃんと顔を向けてみると、安藤が近づけてきたライターの表面にはZippieとロゴが書かれていた。
「ほんとだ」
「ニセモノなんですよ。俺の知り合いが目黒でアンティークショップやってて。こないだこれを百個ぐらい仕入れてきて」
「百個」
安藤は蓋をあけて、またしめてみせた。
「しめるときに、蓋が入り過ぎるんですよ」閉じた後の蓋がかすかに斜めに傾いている。寸法があっていないのか、安藤は親指でくいくいと蓋を平行に戻した。
「今、俺らの間ではやってるんですよ。『なに、君、ジッポつかってるの? 俺なんかジッピー』って」秋子は笑ってしまった。向きをかえてまた安藤と並んで外を眺めた。
「まだ二ダースはあったと思うから、今度もらってあげますよ」
「別にいらない」
「そうっすか」気にした様子もない。安藤の肘があたり、手すりに載せていた灰皿がするりと落ちる。あっと声をあげると安藤の腕がぬっと伸びた。
灰皿の端を安藤の指が掴み、灰だけがゆっくりと暗がりの地面に舞い落ちていく。少し火の粉も混じっている。あー、と二人声をあげながらながめた。
「あの自転車だけど」そのままの姿勢で秋子は指差した。
「あれ俺のですよ」暗くても安藤が笑顔になったのが分かった。
狭いユニットバスだが最近は必ずお湯をためる。うずくまる姿勢が苦にならないのはピアノの下で慣れたせいだろうか。
かつて秋子はカプセルホテルというものに憧れていた。電車からみえる看板に「女性の宿泊不可」とあって、何故だろうといぶかしむと同時に憧れはさらに募《つの》った。当時付き合っていた恋人が実情を教えてくれた。別にカプセルに入るわけではないらしい。壁面に六角形の大穴がぼこぼこ蜂の巣のようにあいており、それぞれの穴に厚手のカーテンがついているだけだという。穴に潜り込むと、ちょうどいい角度に小型テレビや、明かりを消すスイッチなどが備え付けてある。
「でもなあ、外から歯ぎしりとか鼾《いびき》が聞こえてくるし、とても荒《すさ》んだ気持ちになるんだ」秋子はずいぶんがっかりした。まさにカプセル状の物体に入り込むのだと思っていたから。ボタンを押すと流線形のカプセルが割れるように上蓋が開き、出てくるときはドライアイスかなにかがカプセルから漏れ出てくるような。
「漫画の読み過ぎだ」と恋人はいった。
たしかにあのときは漫画の一場面に入り込むような他愛ない空想に過ぎなかったが、闇の中ピアノの下で横たわっていると、この願望にはもっと違った意味があるのではないかと思えてくる。いい年をした男が幼児の格好をしてあやしてもらうプレイ。カプセルのようなタンクに人間より比重の重い液体を貯め、暗い中で浮かび続ける施設。それらと似た、退行への願望。
鳴った電話をすぐにとる。金曜日だからもうそろそろだと身構えていた。
「もしもし」姉は少し驚いた声だ。
「どうなの、普通の仕事みつかった?」最近は必ず尋ねられる。普通の普通のっていうけど、普通ってどういう意味ですか。まっすぐな十代の少女のように尋ね返す場面を想像する。
「探してるよ」
姉は秋子が仕事を辞めた理由を知ったときずいぶん怒った。あなたは、母親の姿をみて育ったはずではないかといって責めた。母は父親の一方的な心変わりで、子供二人と一緒に捨てられたのだ。あなたは父親を奪った女と同じことをしたのだと。
秋子は反論を口にはしなかった。私はむしろ母親と同じことをしたのだ。母が父にうらぎられた時にそうしたように平気な顔をしてあきらめたのだ。だが、姉には分かってもらえないと思った。
パチンコ屋でバイトしてるといったときも、仕事をやめたとき以上に怒った。どれだけ怒られても秋子はなにも感じない。苦言をうっとうしいとさえ思わない。きょとんと頼りなくしているわけでもなく、きちんきちんと相槌を返すので姉は呆れることも出来ずにいる。毎回、話せば通じるだろうとばかりに同じことをいう。貯金しているか、変な男と付き合っていないか。変なもの買ってないか。
「ちゃんとしなさいよ」ちゃんと、と、しゃんと、が混ざったような発音になっている。
「うん大丈夫」変な男というのは、たとえば駐車場に料金を払ってわざわざ自転車を停めているような男だろうか。でも、変なものってなんだろう。電話を切ってから思う。
安藤はその後も会うたびになれなれしくしてきた。たまに休憩時間が重なると屋上にやってきた。
「トランスワールド好きなんですよね」え、と聞き返した。
「こないだ質問してきたでしょう」そうだ。前に屋上であったときも同じ質問をされた。
「めっちゃいいですよね」え、とまた聞き返す。
「トランスワールド、めっちゃいいですよね」安藤は携えていた小さな鞄からCDウォークマンを取り出した。オリオンの景品で六千発で交換できるのと同じ機種だ。ボタンを押すと頼りなげにふわっと蓋が開き、CDの銀盤がみえる。
「おととい買ったライブ盤」安藤はCDの縁を五本の指で掴むとプレーヤーから取り外し、かざしてみせた。秋子はCDではなく、安藤の指の細さに少しみとれた。
「貸しますよ」え、といいそうになって、あわてて「いや、悪いよ」といった。
「いいですよ。もうMDにも取ってあるし。Rにも焼いたしMP3でハードディスクにもいれちゃったから」でも、といいながら、安藤のいった言葉の意味はあまりよく分からないのだった。そのせいか断りの言葉は押しの弱いものとなり、気がつくと十二センチの銀盤を五本の指で掴んでいた。
「ありがとう」といいながら、CDを掴む自分の指をみた。子供のときに特に仲の良かったわけでもない男の子がわざわざやってみせてくれたカーブ、シュート、フォークボールの握り方を思い出した。
「トランスワールドのドラマー、鬼ですよ」嬉しそうにいいながら、手でドラムを叩く真似をしてみせた。安藤もドラムをやる。休憩室には安藤のドラムスティックが置きっぱなしになっている(休憩室には漫画から口紅からグローブまで、あらゆる人のあらゆる私物があった)。
ある食事休憩のとき玲奈が「やってみせてよ」と、支給された弁当の梅干しの種を口から出した後でいった。安藤は皆が読み終えた少年ジャンプをドラム代わりにして叩いてくれた。「チャーン、チャ、チャチャチャラチャーン」とハミングしているのは、どうやらコージー・パウエルのカバーした序曲「1812年」。バスドラは足踏みで、リズム感はまあまあだ。
楽器ができるっていいですよね、と遥は梅干しを箸で脇によけながらいった。
「ああ、早くライブやりたいわー」演奏を終えると安藤は椅子の背にもたれかかった。プレハブの外では雨が降っている。秋子が食後も屋上にいかずに皆の会話に混じっているのは雨のときだけだ。
「ドラムって、痩《や》せる?」玲奈が尋ねる。
「ドラムはね。痩せるよ、太ったドラマーってあんまりいないよ」ね、と急に秋子は話題を向けられた。そうかもね、と呟《つぶや》いた。
「先輩、楽器とかやるんですか」遥が尋ねる。
「ピアノをね」秋子も平たい容器に盛られたご飯の真ん中の梅干しを口に含んだ。オリオンでピアノという単語を発したのはこれが初めてだ。
「えっピアノ」途端に安藤が張りのある声を出す。
「うちのバンドでキーボードやりません?」
「いや、そういうんじゃないから」そういうんじゃないってどういうんだろうと自分でも思いながらもごもごと返事をする。口の中に梅の酸味が広がる。不意に部屋が輝いて玲奈がうわ、とハスキーな声でいった。遅れて落雷の音。皆で小さな窓をみた。
さて、いきますか。細い腕にまかれた細い腕時計をみて玲奈がいい、皆、のろのろと立ち上がる。遥は弁当の容器を集めはじめた。秋子も口から梅干しの種を取り出して、遥が両手で広げた白いビニール袋の口にそっといれた。
洗濯物を部屋に干すと、久々にピアノの蓋をあけた。布をよけて、鍵盤を眺める。立ったままいくつか一本指でおさえてみる。調律が狂っている。家に招いた若い調律師に押し倒されそうになったというかつての同僚の話を聞いてから、家に調律師を呼ぶのがためらわれている。
もうずいぶんピアノを弾いていない。安藤に誘われたからではないが、ずっとピアノを弾かずにいるのが、傷ついている自分に酔っているように思われてきた。小さな本棚からチャイコフスキーの譜面を探す。序曲「1812年」を弾こうと思ったのだが、処分してしまったらしい。下着のままで秋子は椅子に腰をおろした。
代わりに譜面台に長く置かれたままの楽譜を広げる。弾いてみてすぐに舌打ちが出た。調律もだが、腕が落ちている。もつれたり、つっかえたりしながら、それでも弾きつづける。まだ雨が降っているらしい。激しい曲を弾けば洗濯物がよりはやく乾く。そんなわけないと思いながら、叩くように弾いた。
翌日になっても洗濯物は乾かない。表は晴れているので着ているうちに乾くだろうと考え、生乾きのままのTシャツを着て外出する。いつもより早く、昼過ぎに出て街の大きな本屋を物色した。もううっすら冷房が入っている。身体をさすりながら店内を移動していると少女漫画のところに安藤がいた。真剣な顔で棚の上段を見上げている。なにか探している漫画がある風だ。声をかけると安藤はすぐに「今から漫画喫茶いきません?」といった。音大のほかに近くに私大があり、街には漫画喫茶が急速に増えていた。
「少しだけなら」並んで本屋を出る。
安藤は向かいの漫画喫茶の看板を素通りした。
「ここよりもいいところ、あるんですよ」と歩きながらいう。駅を抜けて反対側の口に出る。西口のほうが栄えている。繁華街をしばらく二人、無言で歩く。途中、煙草の自販機の前で立ち止まり、安藤はポケットからむき出しの千円札を取り出した。みると尻ポケットには例の「確率変動中」の札が入っている。制服のズボンが格好悪いからと店に交渉して、自前のズボンで働いている男が多いのは知っていたが、少し驚く。
もどってきてしまう千円札を何度かのばして入れ直しながら
「ロンドンブーツって、どういうところがいいか、分かりますか?」と安藤は尋ねた。分かりませんと首を振ると、嬉しそうに秋子の方を向いて
「背が高く見えるんですよ」と、当たり前のことをいった。秋子は笑った。千円札がようやく滑り込み、ランプが点灯する。
「これにも慣れましたわ」と安藤は急にいうと足を高くあげてみせた。セブンスターのボタンを押す。
「走れっていわれたら走れますよ。セリヌンティウスのところまででも、走りますわ」
「大変だ」そんな名をよく覚えていたなと感心していると、安藤はかがんで煙草と釣り銭を取り出し、そのまま人混みを十歩ぐらい駆けてみせた。
安藤が連れてきた漫画喫茶は思ったより広く、内装も清潔だった。店員はパチンコ屋と似た少し安っぽい制服を着ている。
安藤は「ホラー」の棚から表紙のよれた「漂流教室」を手にとった。私、楳図かずおと握手したことあるよ、とぼそっといったら安藤はまじっすか? と目をみはり、秋子の右手を掴んだ。
「この手でですか」
「うん。いや、どっちだったかな」握手した安藤の指はドラマーとは思えぬぐらいにすべすべしている。握られているうちに目と耳の間が少し熱くなった。安藤は自分の指の綺麗さを自覚しているだろうか。
二人掛けのボックス席は薄いベニヤで仕切られていた。ソファの前にはテレビとDVDデッキが備えてある。
ボックスの入口はカーテンで遮ることが出来るようになっていた。並んで腰をおろすと安藤は唇を求めて来た。安っぽいシチュエーションだと思った。拒まなかったが、唇よりも指の方がずっと感動した。
しばらく目を開けたまま唇をあわせていた。Tシャツが生乾きなのがばれるかもしれない。安藤も目を開けた。目があったので秋子は密着してくる安藤の身体を両手で冷静にひきはがすようにした。そうしながら、何故こんなに自分は冷静にしているのだろうと感じてもいた。
安藤はなにも感じなかったのか、飲み物とってきますわ、と身軽に立ち上がってどこかへいってしまった。有線で例のトランスワールドの曲がかかっている。
「ねえ、これ」安藤は紙コップを両手に戻ってきた。天井のあたりをみあげている。
「うん」オリオンよりもぐっと抑えた音量だ。
「最近、ドラマの主題歌になってるんですよね」そうなんだ。安藤から紙コップを受け取り、一口すする。
「テレビみないから」ああ、そんな感じします。安藤も手に持っていた紙コップを一口すすり、隣に腰をおろした。
「これのオリジナルを探してるんだ、ずっと前からね」
「カバーだったんですか」そうだよ。コニーというミュージシャンの六〇年代の曲で「愛の囚人」という邦題がついていたはずだ、と教えた。子供のころ、家の中でピアノと同じくらいに幅を利かせていたのが和室に置かれたレコードプレーヤーだった。テレビもなく友達と遊ぶことも少なかったから、学校から帰ってもすることはなく、家にあるレコードを聴いていた。レコードは合板のラックに何十枚も収められている。針を載せることや、曲が始まるまでの緊張感が好きだった。ひんやりとした和室の隅で、どの曲が好きとも嫌いとも思わないままただ順番に聴いたが「愛の囚人」という曲はなぜか特に気に入ってしまった。それが収録されたアルバムの題名も忘れてしまったが、はねるような明るいピアノが楽しくて、そのくせ囚人などという邦題がついているのも印象的だった。姉は歌詞のsay somethingのところを「千円札って聞こえる」と笑った。母はなにを聴いてもこれぐらい弾けるようになりなさい、しかいわなかった。
「六〇年代だとレコードですね。CDになってませんかね」
「多分ね」大きいだけで、特に価値があったわけでもないレコードプレーヤーは何年か前に処分されてしまった。レコードも業者にまとめて引き取ってもらったはずだ。
「俺、絶対に探してみせますよ」ないと思うよ、結構あちこち探したんだから。今度は秋子が立ち上がり、漫画をとりにいった。今のやりとり、難題をふっかけるかぐや姫のようだったろうかと思いながら棚に目をやる。
それからはお互いに横を向いてバイトの時間まで漫画を読みつづけた。交互に立ち上がり、鳥が巣にエサを持ち帰るみたいに漫画を手に戻ってくる。何を持ってきたかみせあうときと、時折くっくっと笑う声がしたときだけ顔をあげた。
二人で店を出る。集中していたからとても疲れた。安藤はバイト休みのはずだ。どうするの、といったら親指をつきだして「パチスロ」といった。オリオンとは別のパチンコ屋に通いつめているのだそうだ。駅前までいくと、停めてあった例の自転車の前で安藤はかがんだ。
「ねえ、その自転車」秋子は駐車場のことを初めて尋ねた。雑談の機会はずっとあったのに、やっと尋ねることができた。
最初は車で通勤するはずだったが、駐車場の契約をした後で車を友達に貸したらその友達がぶつけてしまったのだ、と安藤はいった。
「でもせっかく駐車場契約したのに、使わないと勿体ないじゃないですか」そんなものかな、と思う。
自転車を押しながら一緒に歩いていたが、安藤はまた立ち止まった。パチンコ屋の前だ。
「パチスロって面白いの」パチンコ屋はお客様に負けてもらう商売です。新人研修のときに副支配人がいっていた言葉を今も覚えている。監視モニターを背にそういったときの副支配人はやるせない顔をしていた。
「パチスロもパチンコもね。すすめませんよ」安藤もいう。じゃあ、どうしてするの。
「俺は負けんからね」自信に満ちた声だ。実際、安藤はバイト中も常連客にしばしば呼ばれている。「リーチ目」というものが出たときに目押しの代役を頼まれるのだ。客になりかわってパチンコやパチスロを操作するのはサービスの一つとして黙認されている。
ちょっとやっていきますかといわれて、いい、と断った。安藤が足を踏み出すと自動ドアが開いた。表口のドアはオリオンと同様、二重になっている。
「そうだ、今度ライブに来てくださいよ」ふと思いついたように安藤はいった。あ、はい。今度っていつだろうか。安藤はいわずにパチンコ屋に入っていこうとする。尻ポケットに「確率変動中」のプレートをみて、それ、といって引き留める。
「これ? 人生、いつ確変くるか分からんからね、いつきてもいいようにね」と笑う。秋子はパチンコの確率変動の意味がいまだに分からない。「CR機」のCRの意味も知らずにカウンターに立っている。研修で説明されてもぽかんとしていた。パチンコで「当たり」が出るときに、一定の確率で次もすぐに当たりがくる状態になるのを「確率変動」という。次もすぐに当たりが来ると分かってしまうのはスリルがないのではないかとか、それなら複数回の当たりで儲けさせる分の玉をいっぺんに出せばいいのではないかとか、そういう合理的な考えは暇潰しの娯楽であるパチンコと相容れないものらしい。
内側のドアが開いて男が出てきた。つかのま、喧噪が響く。じゃ、と手をあげて安藤は中に入っていった。外側のドアが閉まると、すぐに音は聞こえなくなった。安藤の気配も吸い込まれたみたいになくなった。
職場につくと事務室で遥がロンドンみやげを配っていた。そういえば一週間ほど休みをとっていた。一人だけでいってきたの、と副支配人が尋ねる。そう質問されるのを待っていたみたいに「一人です」と胸をはった。
「ガイドさんに連れられていっても、旅って面白くないじゃないですか」「観光名所とか、興味ないんです」「自分の足と興味で歩き回らないと、本当の感動には出会えないと思うんです」土産話のような主張のようなものを聞きながらタイムカードを入れる。遥はマーキーという狭いライブハウスで拾ったというブレスレットをみせてくれた。差し出された腕の輪ではなく、秋子は遥の指先をぼんやりとみた。
「先輩へのおみやげはこれです」と遥は薄い紙袋をくれた。振るとかさかさと音がする。ロンドンでもふりかけかなにか売っているのかと思ったが、家で開けてみると花の種だった。仕方なく出窓の、鉢植えの側にたてかけた。
安藤のライブがあったのは六月の終わりの土曜日だった。ライブハウスはオリオンの裏口からそう遠くない、景品を現金にする交換所の隣だった。雑居ビルの前に数台のバイクと一緒に赤い自転車が停まっている。地下一階に降りる階段の手前の壁にビラが貼ってあり、二つのバンド名とメンバーが載っている。一つ目のバンドのDsの名前の上に白い紙が貼られて安藤の名がマジックで書かれていた。向かいのラブホテルの屋上に自由の女神が建っている。以前住んでいた街にも同じホテルがあったと思い出しながら階段を降りる。受付で千円札を二枚渡して「drink」とボールペンで書かれた紙片を受け取った。会場に入り、カウンターで小瓶のビールと細いグラスと交換してもらう。立ったまま自分で注いですぐに一杯飲み干す。ライブをみるのはいつ以来だろう。客数は三十人ぐらいだろうか。前のほうに陣取っているほかはまばらに散っている。見回す限りパチンコ屋の同僚もいないようだ。ビールの残りをグラスに注いだところで奥の楽屋から出てきた安藤が近づいてくる。同じビールの小瓶を持っている。
「いつもは大勢いるんだけどね、グルーピーが」まんざら冗談でもなさそうにいう。
「今日はピンチヒッターだから」終わったら飲みにいきましょう、というと別の何人かの客にも声をかけて楽屋に戻っていった。
ビールを飲み終えたころ照明が落とされ、しばらくしてから歓声の中メンバーがゆっくりと狭いステージに現れる。コージー・パウエルとは違った、静かな曲がはじまる。壁にもたれ、目を閉じてリズムをとる。これではピアノのレッスンの聴き方ではないかと気付き、目を開けると同時に大音量の曲が始まった。前の方の客のタテノリを眺めながらビールをもう一杯注文しようと思う。
外に出ると自由の女神の掲げた松明《たいまつ》の上に月がみえた。遅れてメンバーと一緒に出てきた安藤に飲みにいきましょうといわれたが秋子はもう酔っていた。それより家にこない、と小声で口に出していた。ホテルにいってもいいのだが、なんだかあの部屋をこの男にみてもらいたいと思ったのだ。メンバーと別れて、二人で歩き出す。
「うちはピアノしかないから」秋子はわざわざいってみた。歩き出す前に安藤も自由の女神をみあげた。
「ここからしかみえないんですよ」車窓からでも目立つようにと建設したが、すぐにより高いビルに囲まれてしまったのだという。
秋子のアパートはスカイハイツという名だったが、一階にある消費者金融の「ローンさかい」の看板の方が大きい。
「ローンさかい荘だ」と安藤は面白そうにつぶやいた。
玄関をあける。安藤はかがんだまま、ややしばらくブーツの紐と格闘していたが、顔をあげるとすぐに
「すげー」といった。部屋にあがりこむと玄関でブーツがぱたんと倒れた。
「音大が近所にあって」と背後から言い訳のように説明する。ときどき隣室からトランペットやよく分からぬ民族楽器の音が聞こえてきてにぎやかなのだと。住人だけでバンドが組めるかも、というと
「ローンさかいバンドだ」と安藤は笑った。暑くないですか、といいながら身軽な動きでピアノをくぐり窓際までいくと、出窓を大きくあけた。夏を予感させるような微かな熱を含んだ風が室内に入り込んだ。安藤は身を乗り出してすぐ側を通る線路をみおろしつづける。
「なに、あの声」振り返らずに尋ねた。発車する電車の音に混じって、間近に悲痛な叫び声が聞こえてくる。
よく聞いていると声は苦しそうな呻《うめ》きになったり、狂ったような笑い声になったり、泣き声になったりを一定の間隔で繰り返している。
「ああ、あれ」
「『ああ、あれ』って」そんなに落ち着いていていいのかという戸惑った表情で秋子をみる。最上階に住む声楽家がときどき奇声をあげるのだと教えると、安藤はふーん、といった。
奇声はかなりの大声で続いていたが、駅の南口から出てそのままマンションの下を行く人たちも誰一人足を止めることなく歩み去っていった。
「俺にピアノ弾かせてくださいよ」安藤はピアノ椅子に浅く腰掛け、蓋をあけた。フエルトの布を簡単に取りのけて、鍵盤をみてまた「すげー」といった。
「高いんじゃないですかこれ」でも、母のだから。秋子はなぜか小声になった。
「お母さん、ピアニストなんですか」ちがうよ、と首をふる。
「ピアニストでもないのに、こんなでかいピアノ買ったんだ」なんで、と尋ねる安藤はどこまでも屈託がない。母がこのピアノを手にいれた、その謂《い》われすら秋子は知らない。生まれたときから当たり前のようにあったピアノだ。こうして問われてみるとなんで、と感じなかったことが不自然なことに思えてくる。なんでだろうね、と半分笑いながら、秋子はうろたえていた。
「それより、何を弾く?」そういうと安藤は鍵盤に視線を戻し、右手の人差し指をたてて
「真ん中のドは?」と尋ねた。教えると、ぽーんと音を鳴らした。安藤は『燃えよドラゴンのテーマ』が弾きたいといった。
「その曲知らない」
「じゃあね、えーとですねー」本棚から初心者向けの教則本を手渡すと、安藤はデニーズでデザートを選ぶような調子でページをめくりはじめた。
「あのー、ほら、あのタララタララっていうやつ」ベートーベンの「月光」の第一楽章だ。秋子は安藤の隣に並んで腰かけた。楽譜をめくって手本を披露する。かなり酔っていたが、ちゃんと弾くことができた。安藤は遠く離れた鍵盤を指で押さえて、なんとか最初の小節を弾いた。弾き終えると
「トノマって知ってます?」唐突に安藤は尋ねた。
「ドカベンでしょう」反射的に答えが出た。椅子に座り鍵盤の前で神妙にしていた安藤は急に顔をほころばせた。
ピアノを教えていた間、何人の、いや、何十人の生徒にドカベンの話をきかされただろう。ドカベンに出てくるトノマという男は、指の股を切る手術をしたのだ。天才ピアニストとして、オクターブ以上の鍵盤に指が届くようにだ。
皆、指を大きく広げる練習の段になると決まって嬉しそうに語り出した。全員が男性だった。
秋子はドカベンを読んだことがない。トノマというのがどんな男なのかも知らない。生徒たちの語りに熱気の混じる様子をみていると、面白い男なのだろうとは思っていた。語尾に「づら」というのが口癖だ。
生徒たちのドカベンの話にはイワキという男のこともよくでてきた。イワキというのはいつも口にハッパをくわえているのだ。
「そのハッパに時々花が咲くんでしょう?」といってやると男たちは自分に花が咲いたような笑顔をみせた(どんなにリズムや指の運びを誉めてもこんな笑顔はみせないと思ったものだった)。
安藤はイワキの名前は出さずに「うちにドカベン全巻ありますよ」と自慢げにいった。秋子はどんどん楽しい気持ちになった。
もっとピアノを弾いてとせがまれて、窓を閉めて椅子に座り直す。ずいぶん久しぶりだな、弾くのも、聴かせるのも。そう思いながら秋子は「愛の囚人」を弾いた。何曲か弾きおわると安藤は拍手をしてみせた。一人にされるかわいた拍手を久しぶりに聴いた。鍵盤にふれても悪い感じはしない。嫌なことも思い出さない。
「やっぱりバンドやりましょうよ」
「考えとく」秋子は照れた。
シャワーを浴びて部屋に戻ると、安藤はピアノの下に身体をいれて、ペダルと足の間に無理矢理敷かれた小さな布団に窮屈そうに寝そべっていた。体を折り曲げながら通信販売の雑誌をめくっている。そうか、華奢《きやしや》にみえても男性は体が大きいのだ。
「これじゃ、できないね」近づいていってかがみこんで秋子がいうと安藤は
「できるよ」といって笑った。
夜更け過ぎに目がさめる。隣でぽき、ぽき、と音がする。
「ねえ」声をかけてみた。安藤君。初めて名前で呼びかけてみる。
「ん」暗闇から声だけが返ってくる。夜闇に目が慣れると、安藤が両手を天井にかざすようにして指の骨を鳴らしているのが分かった。途中で目覚めたのか、ずっと眠れなかったのか。一本一本ゆっくりと、右が終わると今度は左の指を順番に鳴らしていった。途中で一度頭をさすった。
「大丈夫?」さっきセックスの途中でピアノの底に頭をぶつけたのだ。安藤は闇の中で笑ったようだ。再び指を鳴らす。楽器のような音だ。両方の指を鳴らし終えると、安藤は寝たままの姿勢で片足を折り曲げた。足の先が秋子の腿に触れた。
安藤は手で足の指の骨も鳴らした。ぽきぽきと、連続してすべての指を鳴らすと、足を戻して、反対の足を折り曲げた。今度は秋子の腿に安藤の膝がふれた。
「すごいね」と感心していった。
「こないだテレビでやってたけど」と安藤はいう。なんで、指の骨が鳴るのか、分かってないんだって。医学的にも。
「エイズの特効薬とか出来ても、まだ尊敬しない。人間もまだまだだな、って思いますよ俺は」と安藤はいった。秋子は首だけ動かして横を向いたが、表情はやはりみえない。
「あと、牛乳パックの口、いまだに時々失敗するでしょう、開けるとき。あれもちゃんと作ってくれないと」それから安藤は人類の未だ至らない事柄を思いつく限り述べた。コンビニで買う餃子についてくるラー油の封を切ると必ず指に付いてしまうこと、割引のカードが多すぎて財布が分厚くなってしまうこと……。秋子のくすくす笑う声がピアノの下でくぐもって明け方まで続く。
目を覚ましたときには安藤はやべー、バイトが、などといいながらあたふたと着替えていた。オリオンのほかにもなにかバイトをしているのか。二日酔いで少し頭痛のする頭で玄関まで見送る。
「次は俺の家で会いましょう」と安藤はいいながら元気よく出ていった。出窓までいって見下ろすと、アパートを出た安藤は道路脇の自動販売機で煙草を買おうとしていた。またしても吐き出されて戻ってくる千円札を何度か辛抱強くのばし直している。ボタンを押して釣り銭と煙草を取り出すと、大股で走り出した。ロンドンブーツで危なっかしい走りだ。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、中身はほとんど残っていなかった。ボトルのキャップは男の力で固くしめられていて、強くねじってもなかなか開けることが出来ない。
やっと開いたボトルの水をすべて飲み干して、自分は安藤のなにを気に入ったのか考えた。秋子は自分が面食いであることを知っている。が、そのほかには「面白いから」とか「人なつこい」などといったありきたりのもの以外なにも浮かばなかった。強《し》いていえば、安藤はとても綺麗な指をしている(しかもその指は打楽器のような音で鳴る)。
ピアノ講師をやめるまで付き合っていた男についても覚えているのはそういう些末《さまつ》なことだ。コーヒーをおいしそうに飲むことや、よく響く声。そういう印象をどれだけ思い返しても、何年も執着するほどの理由にはとても思えない。
奥さんが教室に乗り込んでこなかったとしても、いつかは別れていただろう。泣き崩れる奥さんを目の当たりにしたときは、心のどこかに「よかったね」という気持ちが湧き起こっていた。明らかに被害者はこの人で、加害者は自分だ。そういうことを有無を言わさずに思い知らされる泣き方だった。そのときは不憫《ふびん》と感じたが、今ではタフな行為と思う。
逆の立場でも、泣きながら相手のテリトリーに乗り込むようなことは自分には出来ないし、したいと思わない。そのことと自分が傷つかないというのは別のことなのだが。
気付けば手にしたペットボトルを押しつぶしていた。部屋の隅で口をあけたスーパーの袋に投げ入れる。
安藤はなぜ自分を口説いたのだろう。なにがよかったのだろうか。あまり複雑なことはとりあえず考えてなさそうだ。女とみれば誘ってみる。ライブがあれば来てねという。ソファに二人きりなら唇を求める。目の前にグランドピアノがあればすげーという。年上で、面倒なことをいわないようにみえたからかもしれない。
お腹が鳴った。頭痛がおさまったらなにか食べ物を買いに行こう。ピアノの足にもたれかかる。そのまま後ろ手に蓋をさわる。かすかについた母の歯形をさぐった。
その夜、休憩室で安藤の噂をきいた。管理人付きの高級マンションから出てきたのをみた人がいて、だから実は社長の息子だとか、いや、彼は男娼でマンションから出てきたのは客と会ってきた後だとか言い合っている間、秋子は自分の「ローンさかい荘」に管理人なんていなかったよな、と分かり切ったことに思いを巡らしていた。
「どうでもいいじゃないですか」遥はゴシップなど聞くに耐えないという風にいった。ここのところ遥は苛々している。声優になるために始めた歯列矯正で痛みを感じているからでもあるし、それが当初考えていたよりも予算がかかりそうだというのもある。保険がきかないとか、器具が特殊なもので余計に費用がかかるとか、そういうことを遥は事細かに話してくれるので、彼女が声優の専門学校に通うのにあといくら貯金がいるか、そのためにはあとどれくらいオリオンで働きつづけなければいけないかは、皆の共通の知識になっていた。
玲奈がそうね、そうね、といつものように相槌をうってあげている。秋子は玲奈の相槌を聞くたびに自分の祖母を思い出す。こたつで蜜柑の皮をむきながら、祖父の埒《らち》もない愚痴にそうね、そうね、と繰り返していた。そっと屋上に向かった。梅雨明け宣言はまだだが、既に夏のそれに近い陽射しに目を細める。しばらく佇んでいるうちに、建物の陰からほんのすこしだけみえる水色の突起が自由の女神の松明だったのかと不意に気付く。なるほど、と思いながら大きく煙をはきだす。
視線を足元に移して駐車場に一台分の空白があるのをみて秋子はふふっと笑い出していた。
笑いはどんどんこみあげてくる。一人で笑うと、みている人は必ず不思議そうな顔をする。笑う側もそれが不思議に思える。子供のとき漫画を読んで笑いながら顔をあげると姉はいつもきょとんとしていた。
秋子は振り向いて辺りを見回した。安藤はいない。もちろん他の人も。安心したが、こみあげていた笑いも収まった。
安藤の家は隣町の住宅街にある木造アパートだった。その外観をみている秋子の表情を安藤は怪訝そうに覗き込んだ。秋子は一応「管理人」を探していたのだ。
鉄の階段を切れかかった蛍光灯が照らしている。郵便受けには知らない人の名が書いてある。前に住んでいた人のポストを、面倒くさいからそのまま使っているのだと安藤はいった。
彼が「客間」と称する、玄関に近い方の部屋は清潔に掃除されていたし、日当たりもよい過ごしやすい空間だった。しかし奥の和室には漫画と本とCDの山が積み上げられていて、比喩でなくて天井に届こうとしていた。
秋子は奥の部屋を覗き込むだけで中に入る気が失せた。漫画や本は棚に収めようと努力した形跡もうかがえたが、その棚の上にも新雪が降り積もるように新しい本や漫画が乱雑に積み上げられている。
本の山は塔となり、塔はいくつも連なって壁を作り、壁は入り組んだ迷路のように並び、特殊な移動の法則を知らない人間が入り込めば、たちまちあちこちに体をぶつけて山の全体を崩してしまいそうに思えた。CDの山は既に崩れ始めている。よく聴くやつほど床にあるんだと安藤はいった。安藤は割と無造作に漫画やCDを扱った。
秋子は客間から「『アドルフに告ぐ』の三巻」とか「『パタリロ!』の最初のころのやつ」などと頼んでとってきてもらった。自分の持ち物なのに安藤は、探すのに手間取った。
「ドカベンはないの」
「ドカベンは、実家だから」安藤はあわてていった。
七月も半ば頃には週に二度は会うようになっていたが、泊まるのはほとんど安藤の家になった。ピアノの下はセックスに不向きだともう分かっていたからだ。安藤の家からバイト先に通うような真似はしなかったが、本を読むのも食事をするのもこっちのほうが断然過ごしやすいのはたしかだ。寝て起きてすぐに出かけるだけの生活に不満はなかったはずなのに、広い和室で大の字になって漫画を読むと、こういう暮らしをしたかったのだ、と思っている自分に気付く。
安藤の家にはなんでもある。客用の座布団もあったし、食器だって一通りとまではいかないが、間違いなく秋子の家よりは揃っていた。ソーサー付きの花柄カップに注がれた紅茶を角砂糖入りの壷と一緒に豪華なトレーにのせて安藤が両手で運んでくれたときは、秋子は笑いでしばらくカップに口をつけることが出来なかった。
新聞までとっていたが安藤はテレビ欄しか読まなかった。その分、秋子が読んだ。二日前の日付の新聞を読んでいると、風呂からあがった安藤が玄関に置いてあった新しい新聞をもってきた。
「それはおとといの。今日の新聞はこっち」体から湯気がのぼっている。
「うん、でもコラムを読んでいるから」というと、不思議そうに秋子をみる。
「なにが書いてあんの?」
秋子はそばにしゃがみこんだ安藤に、発掘された人骨の記事をみせた。
「アフリカで七百万年前の猿人の骨がみつかったって」
アフリカのチャドというところでみつかった猿人の化石は今までのものより百万年古いものかもしれないのだと秋子は要約した。人骨の写真を指して安藤はいった。
「なんでここに五百円玉が写ってるの」
「それは、骨の大きさを分かりやすくするためだよ」
「そうか」安藤は大きな声を出した。それからぴょんと立ち上がって台所に歩いていった。
「昔から不思議だったんだ、ハイライトの箱とか。なんでこんなとこに全然関係ないものが写ってるんだろうって」安藤はビールをあおる。
「昔から気付いていたの。なんだこれって思ったことないの」ずいぶん感心しているようだ。
「ない、かな」答えながら、本当にそうか自信がなかった。
「女は鋭いからなー」安藤はビールを飲み干すと
「こないだ一緒にみた映画も、すぐに真犯人分かったっていってたもんね」とつづけた。それと鋭さとは関係ないのではないか。秋子は自分を鋭い人間だと思ったことがない。
安藤は一緒にいるとき携帯電話の電源を切った。大抵はみていないときに切っているようだ。一度気付いたので「切らなくてもよい」といったのだが二人きりを邪魔されたくないとか、いろいろ理由をつけていた。切らなくてもよいと秋子がいったのは、他の女の子と付き合っていても構わないという意味だったのだが、そういう風にいうのは、たとえそれが本心でもはばかられる。何故、はばかられるのだろうか。あなたとは遊びであると宣言するようなことだからだろうか。
遊んでいるつもりもないのだ。ではなんのつもりかというと、なんのつもりでもない。そこまで考えて秋子は寝返りをうつ。
本当は嫌なのだ。別の女がいることではない。以前の恋人も同じように携帯電話の電源を切っていた。そうするとその人の個性が遠ざかり、生き物に共通の習性をみせられている感じがしてしまう。もっともっと、逸脱してほしいのに。なにに。どのように。自転車を駐車場の真ん中に停めるように? 似合わないトレーに紅茶を運んでくるように? 分からない。逸脱という言葉だけが主語を伴わないまま秋子の心の中で躍る。
梅雨のあけたころから、安藤はバイトをさぼるようになった。はじめは断った上で早退したり欠勤していたが、七月の最後の週にはまったく来なくなってしまった。バイト仲間の間では解雇されるだろうと噂がたった。副支配人も眉間に皺を寄せながら遥や玲奈に安藤の連絡先を尋ねた。有能なのですぐに解雇するのは惜しいと思っているようでもある。秋子もときどき留守電にふきこんだが連絡はつかない。人手が足りず、女の景品係もホールに立たなければいけなくなると、安藤への風当たりは強くなった。噂がぶりかえした。無人のキャッシュ貸付コーナーから出てくるのを何度もみたとか、バンド仲間と女のことで揉めて追われているとか。横で聞いていると秋子も、なんだかもう二度と会えない気がして不安になる。アパートまで安否を確認しにいってもよいのだが、それもなんだか出来ないままぐずぐずしている。
屋上は陽射しが強く、長い時間はいられなくなったが、それでも秋子は片手で顔を覆うようにしながら屋上のへりに立った。例の駐車場の空白を安藤の不在の象徴をみるような気持ちで眺めていると不意に名前を呼ばれた。
入口に遥が立っている。遥の休憩時間はまだ先のはずだ。向こうも不可解そうな顔で近づいてくる。
「安藤から」携帯電話かと思ったら、遥が手渡したのは無線のヘッドセットマイクだ。
「どこなの」装着して、すっとんきょうな声が出た。無線マイクが通じるということはここから遠くではないはずだ。手すりをゆっくりと巡りながら路上の安藤を探す。遥は立ち去らずに、まだ秋子をみつめている。無線マイクの音は途切れがちで、とても聞き取りにくい。
「レコード売っているところ、みつけた」といっている。ああ。レコードのことなど忘れていた。今どこなの? 自分の声を相手のスピーカーが拾ってしまい、焦った自分の声を自分で聞くのは苛々する。
「明日の午後二時に秋葉原電気街口出たところのトキワムセンの前で待ってて」
「アキハバラ?」だって明日は仕事あるよと言葉を続けたが無線は切れた。遥はなにかいいたそうな顔で立っている。ヘッドセットを返してどうもありがとう、と付け加えて、前にもこういう顔をみた気持ちになる。風が吹きはじめた。
台風が来ているらしい。明日は関東地方を直撃するおそれがあるとテレビがいっている。おまえたち絶対にさぼるなよ、来いよ、と三回か四回、副支配人は休憩室までやってきて繰り返した。秋子も明日は昼から出勤するよう頼まれているのだ。
夜、姉から電話があった。施設に見舞いにいってみてきた母親の様子を教えてくれる。うつろな目で無言だった母が、最近は笑うようになったという。それは家族の顔を分かってのものではなく、よく会いに来てくれる人に対しての親しみの笑みであるらしいが、それでもずいぶん嬉しい……。
「今度」秋子はいった。
「ん」
「今度、私も会いにいくね」殊勝な言葉をいうと姉は少し戸惑っているようだった。
「そうだよ、たまには会いにおいで」
「うん」
「台風きてるんでしょう」
「うん」窓をみる。風が強くなっているみたいだ。明日の午後二時、仕事を差し置いて、台風をものともせずに秋葉原に向かう自分を想像する。安藤に会いたい気持ちは強いが多分、自分はそうしないだろうと思う。母に会いにいくというのも口先だけなのだ。
大雨と風の中、前傾姿勢でたどりつくとオリオンはすし詰めの大混雑だった。事務室で監視モニターをみつめる副支配人は奇蹟をみているような紅潮した顔で「台風はかきいれどきなんだよ」といった。更衣室には缶コーヒーがバイトの人数分、既に置かれていた。
「なにさ、こんなの」金一封ぐらい、くれてもいいよね。濡れた髪をタオルでかきむしりながら玲奈が愚痴る。秋子は素早く着替えて階下におりた。
カウンターに立ち、喧噪のただ中にいながら思考はいつも以上にくっきりととぎすまされる。景品カウンターからは向かい合って並んだパチンコ台の列が奥までみえる。昼の勤務は初めてだが店の雰囲気は夜と変わらない。長靴をはいている者やずぶ濡れで服の色が変わっている者がいるせいで外は大雨だと分かる。台風の中やってくるのはよほどのパチンコ好きなのか、特に常連が多い。奥の天井に据えられた監視カメラをみつめ、すぐに視線を落とす。安藤のことは気がかりだったが、気が騒ぐというほどでもない。会いにいきたいのと同じくらい会いにいかなくてもいい、どちらも本心に思える。
そんなことを考えてから秋子はふと顔をあげる。顔をあげてから、自分がずっとうつむいていたことに気付く。聞こえなくなっていた喧噪や店内の明るさを急に意識する。
いつの間にか常連の男がカウンターの前に立ち、玉数の記されたカードを提示している。短い指の爪が真っ黒に汚れているのを遥は嫌っていた。そういえば今日は般若が来ていない。カードを受け取り、換金用のプレートを男に手渡す。
休憩時間になり、休憩室に向かう。プレハブの小窓からみると雨は少し弱まっているようだ。スチール椅子に腰をおろし、安藤の置きっぱなしにしているドラムスティックをもてあそんでいると
「たいへん、たいへん」と叫びながら遥が部屋に飛びこんできた。
「玉がね」遥ははあはあと息を整えている。
「玉が?」
「こぼれてるの」なんだろうとホールにもどると、店内には異様な音がしていた。床中にパチンコ玉が散らばっている。無数のパチンコ玉が水の流れて広がっていくようにホールの床を満たそうとしている。二人、息を呑んだ。
「脚立もってこい、脚立!」副支配人が怒鳴りながら、自分で裏口に走っていく。バイトの何人かは玉拾い用のスティックを使って床の玉を集めているが、無駄だとあきらめているようでもあった。台に向かう客もほとんどが座ったまま、不気味な生き物の行進でもみるように床のなりゆきを見守っている。どさくさにまぎれて玉を拾う人が相次ぎそうなものだが、中年の客が一人、二人いるぐらいだ。遥が天井を指差した。天井裏に通じるダクトの四角い蓋がぱっくりと開き、どういうわけか玉がどんどん漏れ出ているのだった。
「段ボールを折って、ブルドーザーみたいにさ。通路ごとに玉を一カ所にかき集めて」どこからか脚立をとって戻ってきた副支配人は幾分冷静になっていた。
なるほど、と考えながら秋子も裏口にさっと走っていった。まだ遥も玲奈も他のバイトも呆然としているらしく、後に続く者はない。段ボールがあったはずだと無人の休憩室をみまわしているうちに突然、自分がどさくさにまぎれたっていいんだよな、と閃《ひらめ》いた。耳をすませてみると店内の騒動が遠くの滝の音のように聞こえた。
秋子はビニール傘を持つと、休憩室を飛び出し、駐車場を抜けて駅に走り出していた。駆け落ちか、刑務所からの脱走か、自分がとても思い切ったことをしているような気持ちになりながら。
午後二時を過ぎても安藤は現れない。秋葉原電気街口のいわれた店の前に立ちながら、疲れはじめていた。台風は過ぎ、雑踏は蒸し暑い。過ぎ行くのは男ばかり。
「こんにちは」二十分ほど過ぎたときに、知らない男が現れた。なにか小型のパソコンのような器械を片手に持ち、その画面と秋子の顔を交互に見比べている。それから秋子さんですよね、といって会釈をした。つられて会釈すると
「じゃあいきましょう」と男はいって駅を出た。あわてて後を追う。
「安藤は来れなくなった」男は前を向いたままどんどん歩く。理由を尋ねる間《ま》は与えられない。男を見失わないように人混みをぬってついていかなければならなかった。この男は女の子とデートして、歩調をあわせてくれと怒られたことはないのだろうか。
電気街の大通りは歩行者天国になっていた。人混みの中を男は巧みにすりぬけていく。通り過ぎるのは不健康そうな汗だくの男ばかり。はぐれてしまってもいいや、一人で帰れば、と考えたら少し気が楽になった。
背後からよく観察していると男の歩き方は上手なのではなくて強気なのだった。まっすぐ突っ込んでいくような前傾姿勢で歩くから、向こうから歩いてくる人が道を譲っているのだ。秋子は弱気だから、人混みの中でつっかえているうちに二人の間にだんだん距離が出来ていった。
男はやがてとある店の前で足を止めて振り向くと
「ちょっと待っててください。すぐにすむから」と大声でいって一人で中に入っていった。男が店に入っている間にやっと追いつくことができた。男が入っていったのはゲームソフトの販売店らしい。入口に貼ってあるポスターの題名に聞き覚えがある。遥がいつかいっていたアニメってこれのことか。どこがどうオタクっぽくないのだろう、とぼんやり眺めていると男は本当にすぐに出てきて、次へと促すように頷きかけ、またすぐに歩きはじめた。大通りを折れて、人の歩かない裏道に入っていく。人混みを外れて少しほっとした。
「さっきの店では買おうと思っているゲームの値段を確認しただけですから」と男は説明する。店によって同じゲームでも販売価格が違うから、めぼしをつけた何軒かを回って一番安いのを買うのだという。中古の場合は状態もみると付け加えた。ということは、これから何軒も似たような店を回るのに付き合わされるのか。
レコードはどこに売っているのか、もし場所を教えてくれたら一人でいっても構わない。やっと呼び止めてそういうと
「いや、大丈夫、大丈夫。次だから安心して」といった。話し方は歩き方と違って紳士的で気配りに満ちていた。
「ただ、この町でなにか掘り出し物を手に入れたいなら、急がないといけないんですよ」と男はいった。
「エリシャ・グレイって知ってます?」男は早足のまま尋ねてきた。
「知りません」
「発明家ですよ。電話を発明したんです」でも特許を取りにいったら、その発明なら二時間前にベルって人が取ってしまいましたよって。秋子はほとんど小走りになって男についていった。
「秋葉原にいると『本当に価値のあるもの』が次の瞬間にはなくなってしまう。だから立ち止まったらいけないし、立ち止まらなければそれだけ、本当に価値のあるものを手に入れることができる」
ベルになって後世に名を残すかもしれないし、エリシャ・グレイになるかもしれない。この町にいれば瞬間瞬間にベルかグレイかが問われる、そんなことを男はいった。安藤も似たようなことをいっていた。たしか「人生、いつ確変くるか分からん」だ。
男が案内した店はビルの裏の非常階段を登っていった三階の、普通の事務所のような扉の中にあった。思った以上に中は広い。
内装は店というより事務所で、スチール製の棚にCDやLPがぎっしりと並んでいる。埃っぽい部屋だった。なにかの塗料の匂いもする。蛍光灯がやけに眩しい。バイト先の非常時を放り出して自分はここでなにをしているのだろう。
棚はジャンル分けもろくにされていなかった。邦楽と洋楽だけがかろうじて店の右半分と左半分に分かれていて、奥の一画はすべてゲームやアニメの関連だと男はいった。
洋楽もABCではなくアイウエオ順で並んでいた。キース・ジャレットの次がキッスだったりライオネル・リッチーの次がリチャード・クレイダーマンだったりした。
男が店の人間(普段着でぼうっと立っていたから客だと秋子は思っていた)に「メールしておいたあれだけど」と小声でいう。
「あるよー」と、友達に口を利くような気安さで店員はいった。普通のCD販売だけでなく、中古レコードや廃盤CDの音をデジタルデータの形で保存して売っている場所らしい。
「合法ではないよ、無論ね」男はまじめな顔でいった。
「データだけなら家でもダウンロードして買えるけど、レコードはここでないと駄目」店員はジャケットごとみせてくれた。海外でコピーした海賊盤だという。母が持っていたものよりも真新しくて、なんだか気味が悪い。
「ウチはこういうのは直輸入で仕入れているから。インターネットで知り合ったアメリカの友人が向こうでプレスしたのを直送してくれる」と誇らしげにいう店員はとても痩せていた。度の強い眼鏡をしている。
「二枚買っといたら」横から男がいう。
「僕はいつでも三枚買う。聴く用と保存用と、将来値段があがったときに売る用と」
「一枚でいいです」秋子はいった。
まさか二、三軒回ってから値段を比べて一番安い店のを買えなどと言い出さないだろうなと振り向くと、男はもう外に出ていこうとしていた。入口で別の店員になにか一言二言しゃべっている。
「いっちゃうんですか」
男はさっと手を上げると降りていってしまった。
せめてお礼をいわなければ。安藤のことも尋ねたい。秋子は階段をかけ降りたが、男はもういなかった。
帰宅して顔を洗い、服を脱ぎ捨て、風呂の中で疲れた、と思った。慣れない町を歩いて慣れない場所にいったせいだし、昔から欲しかったものを手に入れた後のやるせなさも押し寄せていた。
風呂を出てミネラルウォーターを飲みながらジャケットを手にとって眺める。ジャケットは綺麗すぎるくらいに再現されているが海賊盤だからライナーノーツも日本語訳もない。大きなジャケットから薄いレコード盤を取り出すときの感触は懐かしいが、それだけだ。プレーヤーもないから聞くことも出来ない。
「これは記念だ」とつぶやいてみたが、なんの記念なのか、自分でも分からなかった。多分、安藤と出会ったことの記念だ。ピアノの譜面立ての部分にジャケットを置いた。何度か電話をかけてみたが、やはり安藤は出ない。
バイトに出る。昨日のことで怒られるのを覚悟しながら休憩室の扉の前に立つと「死んだって」という玲奈の声が聞こえた。中に入ると玲奈はネイルアートをふうふう息でかわかしている。たくさんのピアスはとってしまったらしい。
「どこいってたの、昨日」
「ごめんね、いろいろあって」いろいろねえ。玲奈は特に怒っていないみたいだ。
「まあね。昨日はほとんど業務にならなかったというか、私たちいてもいなくても関係なかったっていうかね」のんびり話す横では遥が机に突っ伏している。うつむいたまま顔をあげようともしない。なぜか泣いているようだ。死んだって、というさっきの言葉を思い出す。横で玲奈が手を振って口を動かしている。チガウノ、チガウノ、といっているようだ。遥はやおら立ち上がって外に走り出ていってしまった。
「安藤がね。逃げたらしいよ」といった。えっと聞き返すと「もてあそばれたんだね」と続ける。自分のことをいわれているのだと思いうろたえたが、玲奈はにっと笑って「あの女じゃねえ」という。もてあそばれたのは遥だと急に気付いた。泣いて出ていったわけも分かった。
「貯金みついだらしいよ」実際にはお金こそ取られなかったが、秋子ももてあそばれていたのだ。「もてあそばれる」という言葉が「関係した」のと同じように常套句みたいに感じられる。
「じゃあ、死んだっていうのは」死んだのは、般若だよ。自殺。借金一億円だって。朝のテレビでいってたよ。死ぬことないじゃんね、一億ぐらいで。玲奈はにやりとした。
ふうん。なんだか力が抜け、秋子は座りたくなった。さっきまで遥が座っていた椅子に腰をおろす。副支配人が何も知らない顔でやってきて、なんであいつは泣いているんだ? と尋ねた。さあ。玲奈は首をゆっくりと傾げる。
秋子は自分も泣かなくてはいけないのではないかと思ったが、涙は出てこなかった。
仕事が終わると、ライブハウスにいってみた。自由の女神、漫画の棚を見上げていた駅前の本屋、一緒にいった漫画喫茶、すいこまれるように消えていったパチンコ屋まで順番に巡ってみた。それから駅に戻り、電車で安藤の住む隣町に向かった。会いたいと思ったわけではない。ただ巡っているだけだ。家の前までいくとあの自転車が停まっている。台所の明かりがついているのが外からでも分かった。急いで階段をのぼり、ノックした。出てきたのは安藤ではなく、昨日秋葉原で秋子を案内したあの男だった。予想していたわけでもないが、秋子は驚かなかった。昨日の昼間と同じような会釈をした。
「あぁ、どうも」と昨日よりも幾分の親しさをこめながら男はいった。男は秋子を丁重に「客間」に招き入れると、座布団をすすめ、紅茶をいれてくれた。ハンガーに背広がかかっている。
安藤は三カ月ほど前からここに居候していたのだと男はいう。二カ月の長期出張の間、部屋は安藤に貸しっぱなしにしておいた。三日前に研修から帰ったばかりで、安藤が崩したCDや漫画の山を整理し直していたところだといった。
あいつ、貸しておいた車もぶつけちゃったっていうし、散々だよと男は苦笑いした。すると、赤い自転車もこの男の持ち物だったのだ。なんとぬけぬけと乗りこなしていたことだろうか。
この男は新聞をとっていてもおかしくない。ソーサーの付いた花柄のカップを一式もっていても不自然ではない。
女は鋭いからな、という安藤の言葉を思い返した。今思えば意地悪な言葉ではないか。消息を尋ねてみると
「新潟に帰ったんだよ」と簡単にいう。
男の説明によると安藤は新潟の長岡の人間だった。バンドの活動資金を作るために単身上京しては稼いでいた。
「あいつ、あの顔と、あの人なつこさでしょ。二年ぐらい前からホストクラブでがっぽり稼いでいたんだよ」女をのぼせあがらせてたくさん貢がせて、頃合いを見てさっと帰郷してしまうのだと。
「ホストは身体を許したら負けだ」というのが安藤の口癖だったそうだ。曰く「一度許したら、女はつけあがる」かつては女が男にいう台詞だったと秋子は思った。
それが少し前に貢がせた女があぶないタイプで、新潟の実家の住所まで突き止められてしまったのだという。
「実家にフェラーリの鍵が送られてきてしまったらしくて。さすがにヤバいと感じたんだろうね」しばらくホストをやめて実家にも帰らずに男のところに身を寄せていたのだという。
「あいつはとにかく常にバンドのことを一番に考えている男だったよ」だから、隠れている間も普通のバイトをみつけてはせっせと稼いでいたのだ。
新潟には長年同棲している彼女がいて、普段遊び歩いている安藤も、結局いつも最後は彼女の元に戻るのだという。
「でもあいつ、君からはお金取ろうとしなかったんでしょう。気に入られてたんじゃないのかな」慰めるようにいわれたが、果たしてどうだろうか。
「CDじゃなくて、絶対にレコードで探してくれって、うるさくいわれたからね」絶対に、という台詞を秋子も聞いたから、そのときの声の感じがありありと分かる気がする。
「煙草すっていいですか」オリオンでは誰も口にしないような台詞を男はいう。どうぞ、というとあの偽物のジッポを取り出して火をつけた。閉じるときに入り込みすぎた蓋を指で元に戻している。
紅茶に口を付ける。安藤がいれたものとはまるで違う、おいしいものだった。
「ごちそうさまでした。おじゃましました」秋子は立ち上がった。
「あいつの実家の住所分かるけど、知りたい?」秋子は首を振った。それよりもむしろ読みかけの「ジョジョの奇妙な冒険」の続きを全冊貸してもらえればと思った。
電車に揺られながら思い出すのは楽しいことばかりだった。恨みがましい気持ちはまったく湧き上がってこない。電車が速度を落とすと自分のアパートがみえる。「ローンさかい」の看板がみえてすぐに停車する。また雨が降りはじめたようだ。
濡れながら家に帰ると暗い部屋の中で留守番電話の着信ランプが点滅していた。着信が二件。安藤の声がする。
「短い間だったけど、もう会えません。ごめんなさい。あのレコード、みつかったみたいで本当によかったすね」と悪びれない声で入っている。
ピアノの椅子に腰をおろす。二件目は姉からだった。
「今日、母さんがあなたの名前を呼んだよ」と、少し興奮した声で入っている。がちゃ、と受話器の置かれる音がするまでじっとしていた。それから蓋の歯形をそっとさすってみた。譜面台にはレコードが置かれている。窓際までいき外をみると雨は本降りになりはじめていた。もう次の台風が近づいているらしい。
道路には誰もおらず、道路の向こうの駅にはちょうどやってきた電車が停車しようと速度をゆるめているのがみえる。窓を開けて、自動販売機の明かりが濡れはじめた路上を照らしているのをみているうちに秋子は急に思い立ち、あーっと声を出してみた。
それから、自分でも信じられないほどの大きな声で叫んだ。声が出尽くすと、また息を吸って、金切り声をだした。声を振り絞ると体がびりびりと震えるのが分かった。手をにぎられて、目と耳が熱くなった瞬間に似ていると思った。はずみで目から涙がぽろぽろと出てきたが、気にせずに叫んだ。悲しいのだから、涙は出てもいいのだ、と秋子は思った。
停車していた電車が動き出した。駅の改札から出てきた何人かの人が、傘を広げ、あるいは小走りで秋子が叫びつづける真下の道を通り過ぎる。
初 出
タンノイのエジンバラ 「文學界」2002年2月号
夜のあぐら 「文學界」2002年5月号
バルセロナの印象 「文學界」2002年10月号
三十歳 「新 潮」2002年10月号
単行本 2002年12月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十八年一月十日刊