ぼくは落ち着きがない
長嶋 有
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)望美《のぞみ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)林|歌子《うたこ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)二の矢を待ち構えていた[#「二の矢を待ち構えていた」に傍点]
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[#挿絵(img/01_000.jpg)入る]
〈帯〉
人って、生きにくいものだ。
みんなみんな、本当の気持ちを言っているのかな?
文科系部活小説≠フ誕生!
第1回大江健三郎賞受賞の著者による最新長編
〈カバー〉
長嶋有 NAGASHIMA,YU
1972年生まれ。
東洋大学2部文学部国文学科卒。
2001年「サイドカーに犬」で第92回文學界新人賞を受賞してデビュー。
2002年「猛スピードで母は」で第126回芥川賞受賞。
2007年『夕子ちゃんの近道』で第1回大江健三郎賞受賞。
他に『ジャージの二人』『パラレル』『泣かない女はいない』など。
[#改ページ]
[#挿絵(img/01_001.jpg)入る]
長嶋 有 NAGASHIMA,YU
ぼくは落ち着きがない
光文社
[#挿絵(img/01_002.jpg)入る]
ぼくは落ち着きがない
[#地から1字上げ]装画:衿沢世衣子
[#地から1字上げ]装幀:木庭貴信(オクターヴ)
[#挿絵(img/01_003.png)入る]
1
西部劇だ。
望美《のぞみ》は思う。両開きのドアを勢いよく押し開け、さっと中に入る。入った後も背後では、まだ扉がゆらゆらと揺れる気配がしている。
静寂が訪れるだろう。西部劇の酒場で、ドアがこんな風に開け放たれたときには。
男たちの談笑がぴたりと止み、しけたトランプを持った手は静止する。その店にいる全員の、無言の一瞥《いちべつ》を受けながらカウンターまでつかつかと歩く。注文をすると、脇か背後に汚れた歯の男が近付いてきて、必ず下卑た冗談をいってからみ、店内はそこでどっと沸く。
……だがここは西部ではないし、酒場でもない。両開きの扉は、望美の背後でまだ少し揺れているが、中では学生服を着た男女が、書架の間を移動したり、テーブルにノートを広げたりしている。
左手にカウンターはあるが、バーのものではない。小柄な頼子《よりこ》が座っていて、本の貸し出しを受け付けている。
西部劇なら――望美は立ち止まったまま思う――マントの下でもう銃が抜かれていてもおかしくない頃合だ。音よりも先に、体ごとぶっとぶザコ。
一瞬のざわめきの後、にわかに戦慄《せんりつ》する店内。表情を変えず、しかし身構える望美。
「おーす」望美に気付いた頼子が野太い挨拶をする。望美の、首を動かした勢いと速さに、頼子は意表を突かれたようだ。どうしたの、と今度は野太くはないが低い声で問われる。
「ううん」なんでもない。望美は照れ笑いを浮かべ、カウンターに近づいた。二の矢を待ち構えていた[#「二の矢を待ち構えていた」に傍点]なんて、いっても伝わらない。
望美は銃ではなく、鞄《かばん》から本を出してカウンターに置く。
カウンターで一言「ミルク」というのは映画『シェーン』のジャック・バランス。
「返却ね」肘をついて、まだ望美はそれらしいポーズをとる。『シェーン』という映画を、実際にはみたことがない。年の離れた兄が、ミルクを飲む名悪役について熱く語ってくれた。
「シェーンといえばラストシーンばかりが云々されるけど、ジャック・バランスを忘れちゃいけない」通ぶっていう兄も、リアルタイムでみていたわけではない。その俳優がいいというのも、手塚治虫《てづかおさむ》の受け売りだということを望美は知っている。
貸し出しカードの束から望美の本に該当するものを探しだし、巻末のポケットに挟む頼子の手つきは素早く慣れたものだった。
だが「お腹減った」と呟く口調には沈痛な響きがこもっている。そう、それそれ。望美は思う。皆お腹が減るし、それを訴えるけど、お腹減ったー、と語尾を伸ばす。頼子は伸ばさない。
それでこそ頼子だ。今の彼女の様子を、望美は離れたところからみたいと思った。
「ナミエさん、またきてないの」カウンターには椅子が二つあって、頼子の隣が空いている。
「生理痛だって」疑っている口調で頼子はいう。ナミエと望美は同じクラスだ。昼休みの前の休憩の様子では、具合が悪そうにはみえなかった。
「これ戻してきてくれる」あ、はい。頼子はカードにスタンプを捺《お》すのもとても早い(早撃ちだ)。望美の借りていた本以外にも数冊、手渡される。
お腹すいたな。頼子と同じことを思いながら望美は図書室の奥に向かう。
斜めに固定された新聞台の前で男子生徒がスポーツ欄を熱心にみている。隣には円形のディスプレイ台。テーマ別に飾っていて、今月は綾の発案による「オカルト特集」だった。さらに右手には大きな柱を巻くように漫画の棚が四面。奥は書棚が五列と、閲覧の机。
書棚に立ち入る前に、数字を確認する。手に持った本の背表紙のシールを確認して、書棚を通る順番に並べ替える。
(あ、筒井康隆《つついやすたか》)これを読んだら、次は当然『七瀬ふたたび』だな。小説の「つ」の棚までいくと、やはり返却された『家族八景』の隣の一冊が抜けている。三部作で、まだ七瀬の活躍を読むことができると知るときの、誰かの高揚を想像する。望美は図書室にある筒井康隆はすべて読み終えていた。
順番に移動して、奥の書棚に最後の一冊を差し込む。振り向くと遠くにカウンター。空腹で不機嫌そうな頼子の肩と顔とがみえる。
ほらね。
頼子のさまざまな表情の中でも特に、不機嫌そうにカウンターに座った姿を、少し遠くからみるのがベストアングルだと望美は評価していた。今、彼女は背中を思い切り丸めているだろう。カウンターの地平線にそのまま夕日のように沈んでいきそうだ。置物みたいでもある。
眉間にわずかな皺《しわ》のよった表情までひっくるめて、完璧な置物だ。ひっくるめてしまうのは、頼子がいろんな理由ですぐに不満を抱くからだ。お腹減った。あいつまたサボった。売り切れてた。
望美は頼子のみえ方[#「みえ方」に傍点]が好きだったが、人間としてももちろん大好きだった。すぐ不機嫌になるのも、世界がもたらす事態にすぐさま、ちゃんと対している[#「ちゃんと対している」に傍点]という感じがする。
「壁によりかからないでください」戻りながら望美は女子生徒に声をかける。
「えーなに」訝《いぶか》しげに望美の方をみた女子だが、そのまま壁に視線をうつした。
『壁によりかかり禁止 薄くて壊れます』と貼り紙のあるのをみて、仕方なさそうに背中を離し、そもそもこんなところにいたくなかったのだという態度で歩いていってしまった。貼り紙は右下の画鋲がとれて端が丸まっている。もとより画鋲はささりにくい。入り口からみて左手の壁は、ベニヤの合板なのだ。
望美も新入生のとき、一度注意された。
「そこ、合板だから」金子《かねこ》先生が楽しそうに教えてくれた。そのときまだ金子先生という名前を知らなかった。白衣を着た、長い髪の――男の子なら全員あこがれそうな――美しい女性だった。
「合板」棒のようにいってしまった。
「そう、合板」顔は望美の方を向いたまま、こんこんと中指の第二関節だけで壁をたたき、微笑んだ。
(芝居がかってる)望美はひるんだ。
「気をつけてね」
ベニヤの合板で出来た壁の向こうにはまだスペースがある。本来の壁は、さらに二メートルくらい奥にあるのだった。
合板の壁はいくつかの細いアルミの柱で支えられている。柱は天井まで伸び、金具で固定されているが、壁と天井には隙間《すきま》がある。明かりを取り入れるため、蛍光灯の半分が書庫にも入るように設けられた隙間だ。はじめはいい加減な学校だと思った。最初から必要な設備を考えてから建物を設計すればよいのに。
あのときのやりとりを思い出し、自分が立っていたあたりをみやって、こんこんと壁をたたいてみる。
(そう、合板)そして微笑む。
「なんだ?」内側に響いたらしい。
「今、コンコンっていったぞ」
「あっちの方だったな」
「なんだろ」
「入ってまーす」トイレのやりとりに見立ててそういった声は、ナス先輩のものだ。
(全然違う)望美はがっかりしながらその場を離れる。体のラインや髪のつやが違うと、同じように壁をたたいても変なことになってしまうのだろうか。
芝居がかってると思ったのは中指でたたいた動作と台詞《せりふ》だけで、立ち去った金子先生の口調も歩き方も、ごく普通だった。だけど望美はその出来事があった翌日、クラスの友達に真っ先に「長髪の、白衣の先生」について尋ねた。美人は望美の好きなものの一つだったから。そのときは白衣を着ていたから化学の先生だと思ったが、金子先生は図書室の司書だった。
金子先生の格好いい瞬間が望美一人にだけ発揮されたのはほとんどあの出会いのときだけだ。だから、思い出すのも時々でしかない。
それに金子先生はもうこの学校にいない。
いまだに印象が残っているとはいえ、望美が図書部員になった理由も金子先生だけではない。
ベニヤの壁にそってカウンターの方まで戻る。貸し出し業務中の頼子を横目に、ドアを開けた。合板の壁の端に取り付けられたドアで、開けるときいつも、薄い壁が少し揺らぐのが感触で分かる。
ドアの奥の空間は書庫であり、図書部の部室でもあった。
部室には五人以上いた。壁際を「削って」作ったような書庫だから、部屋は細長い。奥の(本来の)壁は本棚で占められている。その手前にテーブルが二つ、縦にくっついていて、図書部員は横並びに座る。望美の席は大体いつもベニヤ側の、奥から三つ目。
「紅茶でいい?」綾《あや》がティーバッグをぶらぶらさせながら尋ねてきた。
「うん、ありがとう」望美は横歩きでテーブルとベニヤの間を歩いた。健太郎《けんたろう》の後ろも横歩きで通り抜ける。健太郎は向かいの一年生と喋ったまま椅子をひいた。席に座り、朝きたときに置いておいた弁当の包みを広げる。
図書部の部員の多くは、ここで昼食を食べる。
弁当箱の蓋を開ける。食べようか頼子を待ってあげようか一瞬迷う。
「先輩、お弁当箱替えたんですね」向かいから声をかけられる。
「うん」蓋は今から食べるのに関係ない物なので、手渡してみせる。
「わーなんか大人っぽいですね、これ」
「そう?」(弁当箱に大人っぽさを思うのか)今話しかけてきている一年生の名前をちゃんと覚えていない。今年は新入部員が多く、ヒヨコの見分けがつかないみたいになっている。
新入生に配布する「図書室の利用法」という冊子を作るのも図書部の仕事で、冊子は図書部員の勧誘を兼ねている。今年は春休み返上で冊子を作った。利用法のページよりも、勧誘のためのコラムやイエスノー方式の適性チェック表のページがはるかに多くなった。顧問の小田原《おだわら》先生は原稿をみてなんだこれと笑った。望美には、例年のものよりかなり面白い冊子を作ったという自負があった。四月の放課後、大勢集まった部員候補をみて部長は両手を腰にあてた。細長い書庫の奥に積みあがった重たい本の整理作業を何週かさせているうちにどんどん淘汰《とうた》されて、それでもゴールデンウィークを終えてもまだ四、五人いてはしゃいでいる。
「お湯まだある? こっちちょうだい」
「はいはい」
「あとさー、俺もティーバッグ、アールグレーで、アールグレー」手前の椅子の健太郎が立ち上がって、綾からやかんを受け取る。書庫の端(カウンター側)にはシンクと一口コンロもある。合板の食器棚にそれぞれマグカップを持ち込んでいる。ティーバッグは誰かが家のいただきものを持ってきた。最初のうち黒いパッケージの「プリンスオブウェールズ」が人気だったが、「つまりチャールズ皇太子だよね」と部長がいってから誰も淹《い》れなくなった。
「ちょっと先輩きいてくださいよ、ナス先輩がひどいんですよ!」望美の右隣で携帯型ゲームで遊んでいた登美子《とみこ》が話しかけてきた。
「ん」
「ひどくないよ、全然」その隣、一番奥のナス先輩も同じゲーム機を手に持っている。対戦してるらしい。
ナス先輩は女子に怒られるとき、とても生き生きとしている。俺、悪くないよとトボけてみせる。トボけ方がわざとらしい。
「今時感心な少年じゃ」という、漫画に出てきそうな年寄りの台詞を思い浮かべるが、すぐに間違っていると気付く。ナス先輩は感心な少年ではない。
(今時感心なほど[#「なほど」に傍点]少年じゃ)望美は弁当を食べてしまうことに決めた。
「ナスせんぱーい、セロハンテープってそっちにあったよねー」外から部長の声がする。
「はーい」ナス先輩は怒る登美子に自分のゲーム機を預けて立ち上がる。
ナス先輩は二年生だ。だから望美や部長にとって、本当は先輩ではない。でもいつの間にか、そう呼ぶことになった。ナス先輩は卓上の、文具がゴチャゴチャ置いてあるあたりからセロハンテープを――重たい台ごと――持って立ち上がった。
立ち上がるとナス先輩は小さい。狭い部室の、皆が座っている椅子とベニヤ板の間を身軽に抜けて外に出ていった。
最後の晩餐。望美はおかずに箸をつけながら、レオナルド・ダ・ヴィンチの名画を思う。キリスト様を真ん中に、横並びでとる荘厳な食事を。今は一年生が増えて、反対側にも座る人がいるようになったが、春休みまでは本当の横並びだった。向かい合うと、座ったお尻が飛び出る分だけ狭くなるから。大きく天を仰いでみたが特に神の恩寵は感じられず、長い蛍光灯が半分みえているだけだった。
弁当箱の下半分の、海苔を敷いたごはんに、陣地を侵犯するような気持ちで箸を入れ、食べる。もぐもぐさせながら向かいをみると、一年生の一人がやけに深くうつむいている。隣の会話にも混じらず、気配も少し異なっている。テーブルの下で、携帯電話の画面をみているのだ。うつむき方で分かる。
小田原先生は昼間、めったに部室にこない。けど、油断している。テーブルの真ん中をこんこんとたたく。
「気をつけて」目をあげた一年生に小声でいう。叱られたような顔でうなずき、ポケットにしまった。
「そんなにいらないよ」向こうから聞こえたのは部長の声。壁の近くだ。
「だって、ただちょうだいじゃ、どれくらい必要か分からないじゃないですか」抑揚のあるナス先輩の反論。
「そうだね、ありがとう」部長はナス先輩を気に入っている。
「入ったよ」ティーバッグの垂れたままのカップが、望美までまわされてくる。健太郎からやかんを再び受け取り、ガス台の上に置いた綾はやっとお茶当番を終え、わざとふらついた足取りで戻ってきた。
「健太郎」
「ん」名を呼ばれただけで健太郎は一つ左の席にずれて、あいた望美の左隣に綾が腰掛ける。一年生と年少組が壁際で、年長組がベニヤ側という配置はこの三週間くらいでなんとなく決まっていったことだ。健太郎は爪を磨いている。女子から借りた爪ヤスリで、爪を無駄なくらいぴかぴかにするのは、図書部員だけでない、校内の一部の男子で流行している。どうやら感触の激変するのが面白いらしい。
「お疲れ様」
「望美、トンちゃんがさぁ『カツクラ』に載ったんだよ」綾は一つ向こうでゲームをやっている登美子から、大判の雑誌を受け取って望美に差し出した。登美子は照れくさいのか、ゲームの画面に集中したままだ。
「みせて」『カツクラ』は、読書好きのティーンに向けた情報誌。ティーン向けといいつつ買うと千円くらいするので、部費で共同購入して回し読みしている。望美は、掲載されているイラストの、ペンネームの脇に記された年齢も気にしてみていたが、ティーン向けというわりには二十代が多いようだ。
綾と登美子は二人で白黒のイラストコーナーに投稿している。イラスト化する対象は「活字」ならとにかくなんでもよいらしく、ライトノベルやボーイズラブがたくさん掲載されている中にスタンダールや藤沢周平《ふじさわしゅうへい》なんかも「イラスト」になっている。いいのか? とめくる度にどきどきするが、いいもなにも、そもそも誰の顔色を自分はうかがっているのかと思いなおす。
「すごいね」すぐに返すと失礼な気がして、じっくりと眺めた。登美子が愛読する「僕は幽霊探偵」シリーズの主人公の一人、通称「ヤブイヌ」が、切れ長の眼差し、肩幅の広い美青年になっていた(望美の頭の中でヤブイヌはナス先輩なのだが)。ほかのイラストや投書もざっと眺める。
一年生たちも、よくノートを広げては好きなキャラクターを描いている。図書部にいるだけあって皆それなりに読書好きだが、好きな本の傾向はばらばら。一年生の誰かが何冊かみせてくれたボーイズラブ小説は、表紙に描かれた男子二人の様子よりは、題名の左下に添えられた文字の並びの方が望美には異様だった。
「これなに」そのときはうっかり尋ねてしまった。
「作者名ですよ」当然のことのようにいわれ、笑われただけだったが、望美はひやっとした。今も登美子を傷つけないよう、絵について下手な感想はいわないことにした。
ナス先輩が戻ってきて、狭い部室はさまざまな会話が飛び交い、にぎやかになった。
最後の晩餐が、毎日。
おかしなことだと望美は時々おもう。委員のナミエがサボったりはするけど、昼の図書部の仕事は貸し出し当番以外にない。めいめいのクラスで、友達と机をくっつけて食べればいい。なにもこんな窮屈な部室にきて食べることはないのだ。
部員たちは皆、屈託のない顔で談笑している。大体がおかしな箸の持ち方で、コーヒー牛乳をストローで飲んだり、もう食べ終えて漫画を読む者も。部員たちが教室で昼休みを過ごさないのは、特に意味はないのかもしれないけど、もしかしたらめいめいに事情がある。
「いけない、頼子が死んじゃう」登美子が口元を綺麗に拭いて立ち上がった。
「腹減った」入れ替わりで、さっきよりたそがれた口調で頼子が入ってきた。頼子も小柄だから、すり抜けてくるのが早い。登美子のいた席に座った。
「お疲れ、ナミエにはいっておくよ」
「いいよもう、委員なんか、いなくってもさ」頼子の弁当箱はでかい。不機嫌そうに蓋をあける頼子の、眉間の皺がやはり愛しい。
望美たちの通う|桜ヶ丘《さくらがおか》高校の図書室のもろもろを取り仕切るのは「図書委員」と「図書部員」だ。図書委員は、クラスから一名ずつ選抜される。昼休みや、ときには放課後も拘束される図書委員に立候補したがる人は稀で、大体「委員」というものを皆は嫌がる。
少し昔の漫画や学園小説を読むと、学級委員長や生徒会長が学校のエリートやスターのように描かれていることが多くて、望美はいつも違和感をおぼえる。桜ヶ丘高校の生徒会長は頭こそ良さそうだが、冴えない風貌の、ひ弱そうな男子だ。全校集会などで登壇してなにか喋ると、いつもどこかでクスクスと小さな笑い声が起こっている。尊敬されていない気配を当人も感じとるのか、虚勢を張るようにとがった声音になるが、威厳も格好良さもそこにはない。よくて注がれるのは同情的な視線だけだ。
図書委員も似たようなものだ。推薦で仕方なしに選ばれた者は、なにかと口実をつけて図書室の業務をサボってしまう。
望美の入学するより何年も前の代に、本好きの女子グループがあった。貸し出し業務をしてくれる者がいないと図書室は運営されない。自分たちの読みたい本も入荷しない。教師にかけあって、自発的に図書室の管理運営を執り行う「図書部」が発足した。
その、発足の瞬間に望美はよく思いを馳せる。何年か前の、自分と同じくらいの年齢の女子が、自分たちで思いついて、自分たちで動いて、何かをたちあげた。
それがどれだけささやかなものでも。「歴史」というものがはじまるとき、そこにはきっと、とてつもない興奮があっただろう。
先輩たちの立つ足とか、靴とか、笑い声のようなものまで空想する。だけど、顔は分からない。初代の図書部員に、望美は会ったことがない。前の三年生が懐かしそうに先輩の話をしてくれただけだ。その口調は懐かしそうなだけでない、いくぶん誇らしげでもあった。
放課後担当の委員もやってこない。望美は一人でカウンターに入った。ランニングの掛け声が遠くで響く。
カウンターから、入り口の扉が大きく開く様を横目にみるのも悪くない。こんなふうに両開きで、蝶番《ちょうつがい》がどちらにもぱたぱたと動くような扉は、自分の生活圏において、この学校の図書室の、この扉しかない。
なぜ皆、当たり前のように開けるのだろう。先生も、生徒も、なにげなく入ってきて、出ていく。皆の家ではこんな扉は普通なんだろうか。それでも、時々さっそうと押し開け、意気揚々とした態度で入ってくる人もいる。大抵は、男子だ。
いつか誰か異様な男が無言で入ってきて、ミルク、といわないか。
いうわけがない。知らない女子がバタバタときて、カウンターの正面に立った。申し訳なさを表すためか少し傾きながら、ごめんなさい二年二組の仲谷《なかたに》さんなんですけど、体調が悪いので今日の貸し出し当番お休みさせてくださいって、と早口で告げる。
分かりました。望美はうなずいてみせる。なぜか逃げるように走って出ていった。扉の向こうにその仲谷さんが待っているのだろう。望美は思う。嘘なんかつかなくてもいいのに。
皆、そんなにも、早く帰りたいのか。家に、あるいは帰り道に、楽しいことがたくさん待っているのだろうか。二駅離れた街にできたショッピングモールに、買いたい服や、おいしい店がどれだけあるんだろう。学校が楽しくないのかな。私だって、学校ものすごく楽しいわけではないけど。
昼休みにはこなかった、柔道部と掛け持ちの幸治《こうじ》が胴着のままやってきて、望美に手をあげて挨拶するとそのまま部室に入っていった。中でダベっていた男子連中といきなり盛り上がっている。胴着のにおいを嫌う頼子が「なんで着替えてからこないの」と口をとがらせている(きっと今、いい顔をしている)。右手をみると、幸治が揺らしたドアはまだ緩慢に動いている。
何人かの利用があり、調べ物をする人が数名いるだけになった。ランニングが終わったらしい、金属バットの音が響き始める。返却処理済みの本がたまったので、書架に持っていく。広く取られた窓の方までいくと、外は曇っていてグラウンドでは野球部の練習がみえる。
彼らのかけ声はラー、とか、スルァー、という風にしか聞こえない。書架を巡り、昼休みと同じベニヤの脇を通って戻る。画鋲が取れて丸まっていた紙の端がセロハンテープでぴんととめられているのに気付いた。
あぁ、と思い、望美はそれを撫でた。そしてまた中指で壁を鳴らしてみた。小さく鳴らしたから、今度は誰も返事をしなかった。
[#改ページ]
2
図書部の部室の机のへりの、けばだったところをむしってはいけない。
会議中、そこに座った人は必ずむしって、糸のような楊枝のようなゴミが床に散った。
「ここむしるの、やめよう」部長がむしっている自分の手元に気付いて、その場の会議で「決定」したのだ。
細長い部室の縦につないで並べてある二つの机の、その両方に同じように「けばだったところ」がある。
なぜ、ここだけがけばだったのだろう。望美は考える。かつて、デスクランプかなにかが固定されていたのだろうか。そこには、なにかをかませていた跡が四角くみえる。テーブルの底を指でさぐると、四角い跡の真下に大きなねじ穴がうがってある。
デスクランプにしては念入りに固定しすぎではないか。かつてそこにあった、なにかを考える。望美はこのへんの席に座ると、けばだちはむしらないが大きな穴に指で触れてしまう癖がある。ちょうど薬指が第二関節まで入るのだ。中指は、人差し指は、とあてているところを
「先輩!」けばだちをむしろうとしていると思われ、見咎められたこともある。
むしったのではない、釈明しようと思って、やめた。官能的なことをしていたというつもりはないが、そう解釈されるのではないかというような、自意識が働いたのだ。
朝一番に部室にきたので、今は見咎める人はいない。裏面の穴にどれだけ触れてみても、その由来は分からない。図書室の明かりをつけないと。立ち上がったところでノックがきこえた。
「おはようございます」小田原先生が部室の扉を開け、顔を覗かせた。
「中山《なかやま》さん、A4の紙ってどこだっけ」
「ああ、はい、行きます」
部室を出て、さらに図書室を出る。そうするとすぐ左手に「ビデオルーム」がある。そういう呼び名だが、なにに使う部屋か分からないし、誰もそのことを疑問に思わない。テレビと古いビデオデッキがあることはあるが、ここでビデオ鑑賞をしたことはない。一クラスの生徒全員が入れるほどの広さでもない。パソコン室や視聴覚室は別にあって、ここはなんだか先生たちの倉庫代わりになっているようだ。ビデオルームには旧式のコピー機が置かれている。職員室のコピー機がふさがっているとき、先生はここでコピーをとる。
望美はまず図書室の鍵を先生に返した。
「ありがとう」朝、一番早くきた部員が職員室にいき、顧問の小田原先生から鍵を借りて図書室を開けることになっている。
大きな荷物を運び入れやすいようにか、蝶番が両方にぱたぱた開く図書室の扉の鍵は、床にかがみこまなければ差し込めない。片手をつくと、床はいつもひやっとしている。鍵を差し込むとき、少し前に読んだ夏石鈴子《なついしすずこ》の小説を思い出す。大会社の受け付け嬢が主人公だった。朝一番に出社する主人公は、正面玄関のガラス扉の内鍵を開けるとき、やはり床にかがみこむ。鍵を差し込むときいつも、肩からバッグがどさっと落ちる。鍵を開けるという作業は、バッグの紐を肩に戻す行為まで、込みになっている。
その些細な描写を、図書室の鍵を開けるたびに思い出すのだったが、望美の鞄は手提げだから、肩から落ちない。ただ、傍らに置いてあるだけだった。
「早く大人になりたい」と思うのは、肩から鞄の紐がするっと落ちるのを直したりしたいと思うようなことなのかもしれない。
望美は先生につづいてビデオルームに入った。コピー機は起動して間もないようで、ファンの音が漏れ聞こえる。部屋の奥の、頑丈そうなスチール棚の下段に押し込まれた段ボール箱の一つから、A4の用紙を取り出す。封を開け、二センチほどの束をつまみ出した。束の端と端を持って、ぐにゃぐにゃと動かす。図書部の定期刊行物「図書室便り」の製作をしているから、コピー機の――特にこのビデオルームのコピー機の――扱いには慣れている。
小田原先生は短い顎髭をいじりながら、全部おまかせという風に望美の手つきをみていた。顔はそんなにおじさんぽくないのに、先生は老けてみえる。背広がどこか古臭いからだと望美は思う。
封から出した紙の束をそのままコピー機にセットすると、何枚か重なって排出されてしまう。紙詰まりも起きやすい。束全体をぐにゃぐにゃとよる[#「よる」に傍点]ことで、空気を入れるのがコツだ。さらに束の側面に、ふっと強く息をふきかける。隙間に空気が入り込んで、束が少しだけふくらんだ気配。
そういえば今年入部した一年生に、「ふっ」を恥ずかしがる女子がいた。
「やってくださいー」と薄笑いしながら健太郎に渡していた。なにが恥ずかしいんだろうか。
トレイを取り出す。トレイの中には少しも、一枚の切れ端さえ残ってない(当たり前だが)。空になったトレイはいつもなんだか健康的にみえる。すでにA4幅に区切ってある中に束を落とすように入れる(たんと食えよ)。
トレイをコピー機の腹部に、水平に差し込む。宇多田ヒカルがなにかのインタビューでいってた。
「電動歯ブラシの、電池の蓋がカチッとはまったときみたいな感じ」。なにを喩えたのか忘れたが、なんだかすごく分かる。望美も、コピー機にトレイをはめこんで奥でカチッと安定したときの、ピッタリする感じが好きだ。人間がそういう風に作って、別の人間がうまくいく。スムーズになる。
「お、ありがとう」小田原先生はそういって望美をみる。先生は書類をガラス面に置いて、慎重に蓋をする。
「で、どうするんだっけ」部長と小田原先生が付き合っている、という説がある。
「A4、にあわせてから、枚数を入力して、最後にこのボタンです」最近、頼子から聞いた。頼子は図書部の他の仲間にはその話をしていない。多分。
「あわせる?」望美は用紙選択ボタンを押してやる。
「あとは分かる、ありがとう」本当かなと思う。
「大丈夫、分かるよ」表情を読まれたか、念をおされた。先生が部長と付き合ってるかどうかを考えていたのだが。コピー機から光がもれ始めた。
会釈をしてビデオルームを出ると、図書室の扉がぱたぱた動いていた。直前に誰か入っていったのだ。あまり動かないようにそっと片方の扉を押して入ると、目の前に沙季《さき》の背中がみえた。
「おはよう」
「おはようございます」コピー用紙への「ふっ」を恥ずかしがった後輩だ。衣替えで二の腕の細さがよく分かる。
「明かりつけて」
「あ、はい」
まだ明かりをつけていない図書室は全体が薄暗い。今日、特に暗いのは外を雨雲が覆っているから。ちょうど扉の脇のスイッチのそばに立っていた沙季は、パチパチと押す。
遠くで近くで点灯管の音が鳴り、図書室全体に明かりが灯った。
「朝だから、左側だけでいいよ」
「ああ、そうですね」六個あるスイッチのどれをつければどこがつくか、沙季は把握していない。一つ押しては近くを消してしまい、あれ、といいながらまた別のスイッチを試して、そのたびに図書室全体に目をやる。
まあ、そのうち正しい明かりになるだろう。ベニヤ壁の奥の、細い部室に戻る。
「お、おはようございます」|尾ノ上《おのうえ》がスチール椅子に腰掛けて、漫画本を片手に天井をみていた。蛍光灯がついたり消えたりするのを見守っていたのだろう。
あれ、あれ、とまだいってる声が向こうで聞こえる。
「おはよう、今日は早いね」
尾ノ上は尾ノ上という名前ではない。本当はなんというのだったか望美は忘れてしまった。漫画の「金田一少年の事件簿」に出てくる尾ノ上という脇役にソックリだからというので、「速攻で」ついた名前だ。
「ほんと、速攻でしたよ」秒殺でしたよ。格闘技の試合結果みたいに聞いた。ナス先輩が不意に「おまえってさー、『金田一少年』の学園七不思議の事件で殺された尾ノ上みたいだな」といったら横長の部室中が沸きに沸いて、そうなったのだそうだ。命名の現場に望美は立ち会ってないが、そう聞いただけでやりとりがまざまざと思い浮かんだ。
本人は尾ノ上と呼ばれるたびに「やめてくださいよー」と今でも気弱に抗議することがあるので、望美はその名では呼ばない。でも本名を覚えていないから、困る。生白い肌で小太りの尾ノ上は、アニメ美少女が大好きないわば「ノーマルなオタク」だ。
「おはよう」綾と登美子がやってきた。
「おはよう」部長が沙季と一緒に入ってきた。幸治がきて、ナス先輩がきた。
図書部員たちの多くは朝、登校しても教室にまっすぐいかない。
まず二階の図書室に寄り、部室に弁当を置いていく。弁当だけでなく、雑誌や漫画や、携帯電話を置いていくのだ。あるいはゲーム機やデジカメや、私服やネイルセットやドライヤーを。携帯電話には特に一学期は厳しい学校だから、皆、部室でも巧妙に隠しているようだった。
荷物を置くだけ置いてすぐ教室にいく人もいるし、始業ギリギリまでダベっていく者もある。もう頼子の弁当が置いてある。コピーの紙をセットしていたわずかな時間にきて、早めに教室にいったみたいだ。頼子の弁当箱は大きい。女子にしては、という比較ではなく、全図書部員でも最大ではないか。
そのそばの、幸治が置いていったらしいスポーツ新聞を読ませてもらおうと広げたら、スポーツ新聞ではなくて競馬新聞だった。
「背伸びしたがり」綾が横目にみながらいった。赤鉛筆で丸がついていて、そうだよな、と望美は思う。いくら赤くても水性ボールペンじゃ、感じがでないだろう。ここは、削った赤鉛筆でないと。
分かるけど、競馬新聞の読み方は分からないので元の場所に戻して、誰かの置いていった漫画を手に取る。
「誰かさ、日本史の教科書貸して」始業ギリギリの時間に健太郎がきて、皆にヤドゥー、ヤドゥーと連呼されている。ヤドゥー、は図書部内の流行語で、やだ、という意味。意地悪そうにいいながら首を少し横に向ける。出典は分からないけど、きっと漫画だろう。
望美が鞄から取り出した教科書を手渡してやると片手を拝む形にして「サンキュー!」といった。
「でも私、四限が日本史だから、それまでに部室に戻しておいて」クラスに戻しにこられると、変な噂が立たないとも限らない。
「分かった」こういうのは持ちつ持たれつだから、ヤドゥーといってる連中も、単にヤドゥーといいたいだけで、本当は貸してあげる気はあったのだ。
「そろそろいこう」部長が少し引き締まった声音でいい、始業のチャイムの少し前に、全員がガタガタと席を立つ。
三限の後、健太郎に貸した教科書を取りにいくと、カウンターの前に富田《とみた》先生がいた。昼休みの前でも図書室は教師が調べ物で利用できるように開いている。少し前まで図書室には司書の金子先生がいたのだが、やめてしまった。四月から先生は各々の手で本を探し、自分で貸し出しの判を捺して処理していく。
「ヨーロッパの歴史資料集の合本ってどこにあったっけ」富田先生はいつでもアナウンサーのような明瞭な声。
「それは」部室ですといおうとして「書庫にあるので探してきます」慌てて言い直した。一義的には、あそこはあくまで書庫なのだ。
「悪いね」いつも理知的で怖い富田先生だが、額が広いところだけは、ひそかにおめでたい印象。
部室に入ってこられたら困るなと、急いで探し出して戻るつもりが、富田先生はすぐに部室に入ってきた。あきらめて望美が書棚の上を指差すと、ありがとうと頷《うなず》いて見上げた。傍らの椅子を引っ張り出して靴を脱ぐ。
富田先生の靴下は大人の履く、薄いやつだった。椅子に乗り、一冊抜き取ると埃《ほこり》が舞った。
「おまえらさぁ、ずいぶん好きにやってるみたいだな」椅子から降りた先生は、机に載った部員たちの私物を見渡した。
「すみません」携帯電話を机上に出している人はいないようだが、ドライヤーだってゲーム機だって校則違反だ。おまえらさぁ、のニュアンスは親しげな風だったが、つづく「皆に持って帰るようにいえよ」は厳しい口調だった。小田原先生に注意するだろうか、推し量りかねる。
「はい、すみません」全員分の反省を一人で引き受けたように萎縮しながら望美は返事をした。日本史の教科書をとるのを忘れ、そのまま戻りそうになった。
小田原先生は昼休みに部室にやってきたが、注意ではなく次回の買い出しの件だった。
じゃあねと去っていった後でよかったと望美は思わず一人ごちた。頼子になにがと問われ、三限の休み時間の富田先生とのやりとりを話す。
「汚いな、ガサ入れかよ」話の途中でナス先輩が叫んだ。
「ご飯粒飛ばさないでよ」向かいの席の頼子が不快そうにいった。
「いや、ガサ入れというわけでは……」
「そんなこというなら、他の全部の部室を回るべきじゃん、不公平だよ」
「まあね」
「いや、別にガサ入れじゃないから……」
「ダメだよ、皆、持って帰らないと」部長がいう。昼食のときも会議のときも、部長は部長らしくいつもセンターに座っている。だが細長い部室では、こちらの話題が遠くの部員まで聞こえない。いつも二つか三つの話題が飛び交っている。
「下手すると、部室ごとなくされちゃうよ」と部長がいっている向こうで
「どうしたら女子アナと結婚できるんだろう」という健太郎の声が聞こえてきた。壁側の、奥の席の健太郎の横顔は、私物について憂う部長と同じくらい真剣だった。部長もナス先輩も、そっちに気をとられてしまった。
「女子アナっていいかぁ?」ナス先輩の声音で、他の話をしていた面々も黙った。健太郎は自明のこと、という表情。
「よく、スポーツ新聞なんかだとさ、プロ野球選手との熱愛が発覚したときの記事で『二人は共通の友人を介して知り合った』って書いてあるけど……」健太郎はそこまでいって、全員をひとしきり見回した。
登美子、綾、尾ノ上、沙季、部長、ナス先輩、望美、頼子……見回された順に皆、首を横にふった。「自分は女子アナと友人ではありません」という意味で。頼子は特に大きくふった。
そうだろう、という風に頷いてから
「なぜ俺には、女子アナと共通の友人がいないんだ」健太郎も忌々しげに首をふる。
「だってまだ若いんだから」綾がまっとうな反論をした。
「ここにいないで野球やらないと」登美子がいった。
「友人でもあなたには紹介しない」頼子は憎い敵をみるような眼差し(望美は、今のいい顔と思った)。
「ちがうよ」部長がいった。将来、この中の誰かが女子アナになるかもしれないでしょう、そんなことを部長はいうのだろうと思ったが、違った。
「プロ野球選手に女子アナを紹介するのは友人じゃないんだよ」部長はサンドイッチをもう食べ終えていた。いつも早めに食べ終えて、図書室の書架を巡ったり、貸し出しを手伝ったりするのだ。立ち上がってつづける。
「誰なんですか」
「タニマチのことを、記事では便宜的に友人っていってるの」
あぁ、なるほど。部室中に感心の声がもれる。部長は図書室に出ていった。
皆たぶん、タニマチの意味も正確には知らないだろうが、とにかく部長はいつもこうやって尊敬される。
「俺にはなぜタニマチがいないんだ」めげずにボヤく健太郎を今度は皆が無視した。
一年生が頼子の大きな弁当箱を褒めている。望美も立ち上がり、椅子の後ろを横歩きして部室を出た。部長はカウンターで、図書委員の手伝いをしている。
「望美さんこれお願い」返却処理を終えた本を手渡される。委員の女子は横でだるそうな顔。
いつものように書架を巡り、空いている箇所に一冊ずつ戻す。今時、コンピュータ処理じゃない図書室なんて、うちくらいのものだ。先生同士、ぼやいているのを聞いたことがある。いつかこのへんで、書棚の向こうから聞こえた。言葉は、それを聞いた場所にいくと思い出すことがある(当然といえば当然なのに、望美は不思議になる)。
あのとき先生は、ぼやいているのではなかったのかもしれない。感心していたのかも。書架を端から端へ、隣から隣へ運針の針の気持ちで移動し終えると、森を出て景色が開けるみたいになる。閲覧用の机に、生徒たちがノートや本を広げ、その向こうは広くとられた窓。
窓辺に立つと、校舎とグラウンドの間の道路を、生徒が小走りに出ていくのがみえる。六月になってもしばらく晴天が続いていたが、今日は今にもふりそうだ。
「さっきの、貸して」放課後、望美は健太郎から、昼休みに騒いでいた女子アナ熱愛報道の載っている週刊誌をみせてもらった。ヤドゥーとはいわれなかった。教科書の貸しがあるから当然だ。
雑誌は真ん中に座る綾の手を経由して、入り口近くの望美まで手渡された。
皆、読書傾向だけでなく、読む雑誌や漫画もなんとなく違う。健太郎はおじさんの読むような週刊誌をなぜか持ち込んでくる。柔道部と掛け持ちの幸治は「マガジン」や「ジャンプ」ではない、青年向けの漫画誌。麻雀漫画を愛読しているのだ。
堅いものにしろ表紙がアニメ風のものにしろ、この部室内で活字の本を読む人をみたことがない。誰が決めたわけでもないが、ここではあくまで弛緩してくつろぐのだという不文律があるみたいだ。
読みたかった週刊誌のコラムは休載だった。机に戻し、誰かが持ってきた古ぼけた漫画本を手に取る。誰かがお湯を沸かしに立たないかなと思いながら。
「頼子さん、これ」「図書室便り」のカットを描いている頼子に、まだ名前を覚えきれていない何人かの一年生のうちの一人がファッション誌を差し出した。
「ん、いい」頼子は、ファッション誌のアンケートを読んで激怒したことがある。自分と同い年の子が、クリスマスプレゼントにプラダの財布(五万円)が欲しいと回答していたのだった。
「プラダのサイフ、カッコ五万円って書いてある!」怒髪天とはあのことだ。そうだね、贅沢だね、ひどいね。いいながら望美は水をくんで持っていってやった。
「今週号は、でも性格診断のってますよ」
「どれ」頼子は手をまっすぐ伸ばした。
頼子は雑誌に「性格診断」が載っていると、それがどんなものであれ、必ずやる。春先に出した「図書室の利用法」で、新入部員勧誘のPRページに載った、六ページにわたる適性チェック表(どの選択をしても、図書部員が向いています、の一文で締めてある)は頼子と望美の労作だった。
「YESだったら……青い線、NOの人は赤い線」必ずやるのみならず、一度やってから、今度はすべての質問に、反対の答えをいって、その結果もみる。
「自分を飽きっぽい方だと思う、イエス」頼子は声に出して、間髪いれずに答えもいう。望美は開いた漫画から顔をあげて、誌面の矢印をたどる頼子をみた。
「賞味期限切れでも三日くらいなら平気、イエス」矢印と設問を目で追う様子がとても真剣で、そんな頼子を愛しいと思ってしまう。イエスが三回続いた。
やだ、雨ふってきた。ベニヤの外で女子がいった。うそー、慌てた様子でもう一人がいう。ふると思った。みられないので耳をすませてみる。
ベニヤは薄いし、外との距離も大してないのに、図書室やその外の天気がはるか遠くに感じられるときがある。そんなとき、少しだけ高揚する。兄が幼いころ、押し入れをコックピットにしてなにかを運転していたような、スヌーピーが犬小屋にまたがって愛機ソッピースキャメルを操って大空をかけるような、この細長い片面ベニヤの部室が一つの乗り物であるような気持ちになるのだ。
雨音が強まり、雷が鳴った。
「やー」短い悲鳴。嵐の大海原だ。甲板には到底出られない。狭い船室に私たちは押し込められているが、暗い顔をした者は一人とてない(今や方舟のもやいは解かれた)。
「デートするなら断然アウトドア、ノー」頼子は動じていない。
「コーヒー呑みます?」登美子が声をかけてきた。
「呑む」また雷鳴。私も、と頼子が雑誌から顔をあげる。
(行く先は、未知!)望美が古い漫画のページをめくるとそう書かれている。漫画の中でも、大雨がふっていた。
「呑む人」登美子は改めて確認を取りだした。ほぼ全員が手をあげたみたいだ。
「多少の浮気なら許せるノー」頼子のノー、に少し力がこもっている。
図書部員はやることがあってもなくても、五時くらいまでだらだらしている。五時からのアニメの再放送をみるんだといって早めに帰るのもいる。掛け持ちの柔道部を終えて、五時前にくるのもいる。
宿題が出たので、望美は今日は早めに帰ろうと思っていたが、傘を持ってきてなかった。一度雨脚をみようと部室の外に出る。新聞台のそばにいた女子二人が、部室から出てきた望美をみた。雷に驚いて動物が出てきたぞ、というような目だ。
カウンターには綾がいて、頬杖をついて文庫本を読んでいる。
「なに読んでるの」呼びかけると、綾は文庫を閉じた。カバーがかかっているから、買った本だ。
「ん、普通の本」教えてくれないが、きっと「僕は幽霊探偵」の最新刊だ。登美子も綾も、競ってイラストを描いていた。
「返却の本ある?」
「ないよ、大丈夫」綾は文庫を傍らに置き、督促状を用意し始めた。本用のカードと生徒用のカードは同じサイズで、クリップでとめてある。仕切りのついたトレイのうち、「延滞」のところに刺さったカードの束を取り出し、クリップを一度はずし、名前と書名を両方確認して、すでに文言の印刷された督促状用紙に記入する。
「この人、転校生なのに早くもソクトク状だよ」督促状の読みを間違って覚えている部員は多い。桜ヶ丘高校の図書カードは、表裏いっぱいに使わない限り、三年通して同じカードを使う。学年の上にシールを貼って更新するのだが、なるほど転校生のは真新しいカードにいきなり「3」年とある。
「転校生か」
「うちのクラスだよ、二週間前にきて、なんか、まだ浮いてる」片岡哲生《かたおかてつお》と、名前欄に書かれている。
転校してきたその日に貸し出しの上限の六冊まで借りて、それでも四冊は返している。
「ふうん」プライバシーと思いつつ望美はその六冊の書名をみてみた。色川武大《いろかわたけひろ》しか知った名前がない。片岡哲生は、ものすごい読書家なのかもしれない。
気にかかったが、視界の端に部長がみえて、そちらに目をやった。
入り口脇の細長い飾り窓から、その向こうの廊下とビデオルームの扉がみえる。ビデオルームから、部長と小田原先生が出てきた。部長が歯をみせて笑ったので、望美はさらに見入ってしまった。小田原先生は職員室へ戻っていったようだが、残された部長は普段みせないような満ち足りた表情をしている。
(本当に、本当かなぁ)朝、心をよぎった噂を思い出す。
別に、本当でも望美はかまわない。皆はどうだろう。綾はカウンターに座っているから部長の笑顔はみえなかった。
部長はすぐに図書室に入ってきた。部長はぱたぱた動く扉を、必ずぱたぱたさせないよう静かに開閉する。それでも入ってくるなり輝いた表情で、目のあった望美に告げた。
「明日、金子先生がくるって」
「えっ」綾の顔もぱっと輝いた。
それで、部室の連中がほとんど(動物みたいに)どやどやと出てきた。出てこなかったのは、熱心に漫画をめくっていた尾ノ上だけだった。
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3
ナス先輩のナスは、あだ名ではない。しかもナスは、苗字ではなくて名前だ。
そうなんだ。望美は初めて知った。
「そうだよ?」綾は望美の小声を聞き逃さなかった。望美ではなく沙季に説明していたから、知っているくせに、という目を向けた。
「野菜の茄子ですか?」沙季の声は、いつも少しだけかすれている。
「為せば成る、の為っていう字」
「そうなんだ」望美は同じ言葉を繰り返した。
「え、そうだよ」知らなかったの? 綾は呆れている。
かなり長い時間、望美は驚いていた。彼の貸し出しカードには、たしかに「渡辺為《わたなべなす》」と書かれている。下の字の読み方を気に留めたことがないわけではなかったが、現に呼ばれているナスという名となぜ結びつけなかったのだろう。ナスはナスで、なにか別の――それこそ漫画の脇役に似ているというような――由来があるのだろうと思っていた。
「腹立つ」頼子が乱暴に部室のドアを開け、薄いベニヤの壁がかすかに振動した。
「なにが」ベニヤ側ではなく、壁側に座っていた登美子が(位置からして目があったので)尋ねた。
「これ!」なにかつまんでいる頼子の指先を、部室の皆がみた。指先からなにか、足元まで垂れている。
「あぁ、クリップ」入り口近くにいた部長が頷いた。カウンターに常備されている、貸し出しカードをたばねたり整理するためのゼムクリップをつなげて一本の鎖にしてある。そういえば、少し前にベニヤの向こうで「もう!」と苛立つ頼子の声がした気がする。
「どうせナス先輩でしょうよ」綾がわざと平坦な口調でいった。
「あぁ、懐かしい」部長がいった。
「先代のころにもあった、そのイタズラ」
「そうなんですか」
「あいつ、どこ」頼子は芝居がかった感じで声を絞り出す。さぁ。全員、首を横にふるのも芝居がかってみえた。
クリップ入れの中のクリップをすべてつなげるのは大変だったろう。頼子が刑事のように飛び出ていった後で、望美はその動作にも感心したが、それよりもまだ「為」という名前を知ったことの余韻が心に満ちていた。綾は綾で、望美がそれを知った遅さにまだ驚いた顔をしている。
「じゃあ、じゃあ、登美子先輩はなんでトンちゃんなんですか」沙季があだ名の話題に引き戻した。
「それはトミコだからトンちゃん」
「トミコだったらトミちゃんじゃないんですか」
「えー、なんでだろう、考えたことない」登美子はなぜか嬉しそうに笑う。
望美は弁当を少し残して部室を出る。頼子が――部室だけでなく、図書室も――飛び出ていったせいで取り残されて困惑している委員の隣に座った。
貸し出し処理の列ができている。差し出された本からカードを抜き取り、日付印を捺しかけて、ふと手をとめる。
反故《ほご》の紙を切り揃え、束ねて作ったメモ帳に捺してみる。カウンター業務で最後にする仕事は、日付印を更新すること。日付印の側面に並ぶギザギザの歯車を一つ回転させて(週末は三つ、月代わりには隣の歯車も)明日に備えておくのだが、ナス先輩がこっそり回転させて、丸一ヶ月ずれていたことがある。
貸出 6・15 桜ヶ丘高校図書室
日付はあっていた。生徒から貸し出しカードを受け取る。何人か並んでいるから、記入は後で。とりあえずクリップ入れに手をのばすと中は空。
道理だ。今、クリップはつながって、頼子の手中にある。どこまで追いかけていったのだろう。
追いかける、なんてこと、もうずっとしてないな。頼子がうらやましい。
「どうしましょうね」横に座った委員の子が控えめにいった。彼女は、常につまらなそうな態度だがほとんど当番をサボらないし、仕事も覚えてくれている。
「ね」顔を見合わせる。ほとんど初めて、彼女と仕事の苦労(というのか分からないが)を共有した。
そこにナス先輩が通りかかった。何食わぬ顔で部室に入っていこうとするのを呼び止める。
「クリップつなげたの、ナス先輩?」
「俺じゃないよ」ずるそうな顔で、わざとらしく手をふる。
「頼子がすごい剣幕で探しにいったよ」
「じゃあ今、いないってことね」と部室の扉をみずに指だけ差した。今はいないけど、どうなっても知らないよ。頼子が怒る様子は好きだが、興奮して大声をあげるのは心配だ。「図書室は静かにしなければいけないのに部員が一番うるさいといわれている」と、ついこないだ小田原先生に叱られたばかりだから。
ナス先輩は俺じゃないのになー、と無駄な言葉をいって部室に入っていく。
「渡辺君って……」委員の子が貸し出し処理の手を休めずにいった。
「なんで『ナス』って呼ばれてるの」もしかして同級生なのか。
望美は答える前に、頷いてしまった。厳かに。(よくぞ聞いてくれた!)
「それはね」少し得意気に、さっき聞いたばかりの受け売りを言いかけたところで、新聞コーナーにたむろしていた男子連中が、なにかの冗談でどっと沸いた。
やりこめられているか、はたまたかわしたか。ナス先輩がかわしきったに一票。放課後、予想しながら揺れるドアを開けると、カウンターの前に尾ノ上と幸治と二人で立っていた。所在なさそう。部室に入るとナス先輩はやりこめられてなくて、かわりに頼子が机に丸くつっぷしていた。
「ねえ、なんで幸治君たちは入ってこないの……」いっている途中で異変に気付く。
頼子が泣いているのだった。うぅーとうめくような音が、そういえばベニヤの奥からもれていた。泣き声って、泣いている人をみているのでないと泣き声に聞こえない。登美子が傍らにつきそって背中に手をあてている。綾がコンロの前に立ち、両手を腰にあて、望美と目があうと神妙に頷いてみせた。コンロには火がついている。
頼子がやりこめられて泣く、が正解? なんだか腑に落ちない。クリップをつなげられたくらいで、そんな激しく言い合うものだろうか。
外に立っていた二人の所在なさの理由が遅れて理解できた。
「おーす」ナス先輩が元気よく入ってきて、異変に気付いて「あれ?」といった。綾がさっきと同様に頷いた。時折、登美子の――慰めているらしい――小声がもれるが、言葉をかけられるほどに頼子は声をはりあげて泣き始めた。
「なに、なに、どうしたの」戸惑う様子からして、ナス先輩が泣かしたのではないらしい。
「おぁーす」『お』と『あ』の中間のような発声で健太郎が入ってきて、すぐに「どうしたの」といった。綾が今度は首を横にふった。
「おまえ!」健太郎は気付くなり傍らのナス先輩を小突いた。
「俺じゃないよ!」同じ台詞でも、昼と違い今度のは真に迫っている。
「頼子、今、お茶いれるからね」綾はコンロの火をとめた。こういうとき、慰める役になった人は皆、すっきりした口調を選ぶ気がする。
頼子は子供のような大泣きになってきた。
「頼子、泣くなら図書室の外まで出ていって泣きな」部長が、部長には珍しい勢いのよさで入ってくるなり、きっぱりといった。外で、幸治か誰かから簡単に事情を聞いたのだろう。部長は、図書室で一番騒がしいのは図書部員という評をとても不本意に感じていたから。
頼子はいつだって部長には従う。嗚咽《おえつ》をもらしながらゆっくり立ち上がり、泣きを水平に保持したまま[#「泣きを水平に保持したまま」に傍点]、登美子を伴って出ていった。嗚咽が扉の向こうに移動し、図書室の外までいくのを、皆が耳をすませて見(聞き)届けた。
部員以外の、図書室にいた利用者は皆「変な人たち」って思うだろうな、「変な人だな」ではなくて。
頼子のために沸かしたお湯だったが、ティーポットに注いで皆でお茶を飲んだ。ナス先輩は部長の質問に何度でも「俺じゃないですよ」を、立ったまま繰り返した。
部長は大体いつも腰掛ける席――二つつないだ作業机の端の、テレビドラマの中の会議では社長が座る位置――に、自然に収まるように腰をおろした。
「まったく」部長の嘆息も、芝居がかってみえる。
いたずらばかりするナス先輩は普段からわざとらしい態度をとるが、部員の皆が、ときどき芝居のような態度をとる。
教室の皆はどうだろう。望美も椅子をひいて、腰をおろす。
「あーす」さらにあいまいな発声で樫尾《かしお》が入ってきた。「おはよう」から派生したような、曖昧模糊とした挨拶。放課後だから「おはよう」ではない。「こんにちは」も生徒同士にはあり得ない挨拶だ。
樫尾は美術部との掛け持ちで、先週から急に図書部員になった。新入部員だが二年生だ。
「なに、どうしたの」もう泣く者はないのに、異様な気配の名残に気付いたか、先の男二人と似た態度。誰も返事をしなかったが気に留めず、綾に近づいた。
「あー、俺もお茶もらいたいなー」綾はすかさずヤドゥーといって座った。
「お湯ないから、樫尾は自分で沸かして飲みな」自分のマグカップを両手で持ってお茶を飲み、はーおいしい、と綾はにっこりした。樫尾は、線の細さに似合わず腕時計はGショックで、携帯電話も防水のごついカシオ製。もしかして、「カシオ好き=樫尾」というあだ名なのかと先週尋ねたら、そうだと笑っていた。本当の苗字はナス先輩と同じ渡辺だとも。
「あーそうですか、そうですか」樫尾はいじけた声音を出し、コンロに近づく。傍らの棚から紅茶のティーバッグを取り出す。
我々は生きている。生きているというのはもちろんそれは、常に連続して生きているのに決まっているわけだけど、なにげなく演じたり、芝居がかったりする。そのとき少しだけ、ただ生きているのと違うことをしている。違う場所にいくわけでもないのだが、いつもの生ではない瞬間になる。なんのために我々はそうするんだろう。
……って、なにを考えているんだろう。上をみるとベニヤの壁と天井の隙間から突き出た蛍光灯の端が、かなり黒ずんできている。
登美子が一人で戻ってきた。皆、部室のドアが開くたびにいちいちそちらをみるようになっていて、だから登美子も怪訝《けげん》な顔をした。部長があらましを聞くと、知らないけど、泣かせたのは尾ノ上君だといった。
「尾ノ上ー」ナス先輩がすかさず声をあげた。部室から外にいる人を呼ぶとき、部員は必ず上をみる。皆、多分、銭湯を思い浮かべて。
部長がまたしてもあらましを聞きただすと、部室の入り口で立ったままの尾ノ上は、いや、なんか……と歯切れが悪い。
「ていうか、聞こえねえよ」ナス先輩は時々ガラが悪い。小柄だけど、凄むと尾ノ上なんかよりも迫力がある。
いや、なんか、分からないですけど……。しどろもどろだが、顔からは抵抗の色がうかがえる。
「頼子はどうしてる」部長は答えを待たずに登美子に尋ねた。
「今日はもう帰るって」
「弁当箱、忘れていってるね」
外で同級生とダベっていた幸治が入ってきて、やっと大体のところが判明した。頼子のもっているMDプレーヤーをみて、今時MDなんか使ってる人はいないと尾ノ上がいったのがきっかけだったという。
「だって普通のことですよ、今は普通、MP3プレーヤーだから……」尾ノ上はうろたえているが、原因が分かったことで、それも深刻ななにかではなかったことで安堵の空気が部室に広がった。
「普通普通って、おまえが普通を決めるなよな」
「そうだよ、なにか思い出のつまったプレーヤーを買い換えずに使っていたのかもしれないじゃん」
「いいから、誰かカウンター入ってあげて」委員が放課後の当番をサボっているらしい。今日は「図書室便り」に載せる書評を出さなければいけない日だ。部長も備品のノートパソコンを広げて難しい顔をしている。
お茶を飲み終えて望美は立ち上がる。もう書評は書き終えていた。
部室の入り口近くに立ったままの男三人の背後を通る。
「明日、謝れよ」
「でも僕、悪くないですし」
「悪いだろ」といい合っている。泣ーかしたー泣ーかしたー。そんな歌は誰も歌っていない。望美が、背後をすり抜けるときに心中で歌ったのだ。責められる尾ノ上だが、めげずに、MDが悪いとは一言もいってないですから、と抗議している。
部室を出て、カウンターに入る。左の席には健太郎がいる。カウンターでは左が主な業務で、右は委員が座る補佐の席だ。健太郎は椅子の背もたれをきしませながら、左手の指を広げ、その指をみつめていた。
「で、なにがあったの?」指から目を離さずに尋ねてきた。
「頼子に尾ノ上君がね……」説明している間に、健太郎は自分の指をふーっとふいたので、指ではなくて爪をみていたのだと気付く。その爪を乾かしているのだとも気付いて呆れた。傍らに置かれた誰かの――さすがに健太郎のではないだろう――化粧ポーチからベースコートが半分みえている。
健太郎の爪磨きは無駄に上達して、今や図書部の誰よりもぴかぴかだ。それで、女子部員の誰かが、マニキュアを塗ってみろとそそのかしたのらしい。
「今時MDプレーヤーなんか使ってる人いない、とかいったらしくて」
「そんなんで泣いたの?」ベースコートの上にも色をつけるつもりだろうか。健太郎はちょくちょく爪をといではうっとりしているが、ヤスリを入れる様子はナルシストのヤクザみたいだ。
「らしいよ」
「頼子ってクラスでは浮いてるっぽいけど、それは関係ないの?」
「今回は、ないんじゃない」クラスで浮いてるっぽいのは、図書部では頼子に限らない。
「でもさ、そういうこというよね、男子ってさ」
「そういうことって?」
「音楽プレーヤーがどうとか、携帯の機能がとかさ」爪をふうふうしながらいうせいか、妙な説得力が出ている。そういう健太郎だって、ついこのあいだ幸治と二人、次に買うべきテレビはプラズマか液晶かで激論を戦わせていた。動画速度が、とか、アリスパネルが、とか、望美ですらなんとなしに聞いたことのある単語が頻出して、面白かった。
「価格コムでは二十万円台前半まで下がってるんだから」といったのはどちらだったか、とにかく兄が家でいったのとまったく同じ台詞をいったのも忘れてない。
議論がエキサイトした末に健太郎が放った「そんなに世界の亀山工場が好きなら亀山に住めよ!」という啖呵《たんか》が望美のベスト賞で、「二人とも家で今使っているテレビはなんなの」と最後に部長に聞かれ「ブラウン管です」と口を揃えて終わったのも美しい着地と思う。
放課後の図書室はすいていた。遠くの机で何人か黙々とノートをとっている。もう少ししたら期末テストだから、机はびっしりと埋まるはずだ。かすかに、金属バットの音が聞こえるようになった。野球部がランニングを終えたのだろう。
尾ノ上が憮然としたような泣きそうな顔で部室から出てきた。カウンターの二人になにかいうでもなく、書架のほうにいってしまった。とりあえず謝ればすむことなのに、案外強情なんだな。
「あいつ、来なくなるかもね」
「図書部に? そうかもね」ナス先輩はもとより尾ノ上をよく思ってないし、女子の何人かも彼の態度やブツブツいう呟きを気味悪がっている。
尾ノ上は、望美と二人きりのときだけ、どもりながら何事か話しかけてくる。朝早くいて、買った漫画をみせてくれる。他の先輩と違って、この人は自分を分かってくれる……あるときなぜだか、そう見込まれた気がしていた。今も、隣に健太郎がいなければ、なにか言い分をボソボソといったかもしれない。
実際には、望美は尾ノ上のことを分かっていないしさして感情移入もしていない(むしろ頼子が気がかりだ)。誰にでも公平な態度で接しようとすると、結果として八方美人になってしまう。そのことは最近になって理解した。
「今時MDが古い、なんてことをいうなら、この学校に通うこと自体が間違ってるからね」
「そうだね」ノートパソコンのOSだって古いし、小田原先生のパソコンにデータを渡すときは、フロッピーディスクを使っている。
「でもそうだ。ここも近々バーコードの機械を入れるんじゃないかって、こないだ金子先生がいってた」
「そうなんだ」
「学生証もICチップ入りのカードになるらしいよ」
「そうなんだ」相槌をうちながら、残念な思いが頭をもたげる。
「俺らが卒業した後にな!」ハハーンと健太郎は笑ってみせる。残念なのは、貸し出し処理がバーコードになることではない。
金子先生に会えなかった。先週遊びにやってきた日に望美は風邪をひいてしまった。
金子先生はリストラされた、というのが部員たちの考えだ。
「そんなんじゃないよ」やめるとき、金子先生は明るかった。
「寿? コトブキ?」わくわくしながら誰かがきいても笑って首をふった。あの後、指に指輪があった、なかったといろいろ話したが、本当の理由は分からない。
部員の皆が金子先生を慕う理由はいろいろあるだろうが、その理由を話しあったことがない。優しいとか、世代が割と近いから話を分かってくれるとか、そういう言葉になるのかもしれないが、望美の会いたかった理由ははなはだ男子的なもので、金子先生がスタイルのいい美人だからだ。皆、そのことをロコツにいわないのが、むしろ不思議だ。
だからとにかく、もし会えても先生を囲む輪の後ろのほうに自分はいただろう。部長は、四月以降の「図書室便り」をファイルごとみせただろう。綾は円卓のディスプレイの苦心を語っただろう。でも望美には特に話したいこともみせたいものもない。
いつもの涼しそうな笑顔でやってきて、ナントカカントカのおいしいお菓子を持ってきてくれた、指輪はやはりしてなかった……後からいろいろと話を聞いたけど(お菓子も食べたけど)、やにさがった男子たちの笑顔だけで十分だった。髪型が変わっていたというのはみたかった。それも携帯電話のカメラで撮ったのをナス先輩がテーブルの下でみせてくれたから少しは満足したのだが、金子先生という名前が改めて出ると、やはり残念と思う。
「そういえば、中山さんに会いたかったなぁっていってたよ」と今になって健太郎に教えられても、それが金子先生の言葉だと思わず、遅れて驚いた。
「えっ」文脈からして、会いたかったなぁといっていた人が金子先生でないはずがない。
「いや、中山さんに会いたかったなぁって、先生が」
「なんで」片足で軽く床を蹴り、椅子を九十度回転させて健太郎の方を向く。
「なんでって、知らないよ」たじろいだ健太郎のかわりに、彼の座る椅子がきしんだ。
「なんでだろう」正面に向きなおる。心当たりがない。ないから余計にどきどきする。意味もなくまた椅子を回転させて健太郎の方を向き、また戻った。右の椅子は割と新しい油圧式のやつで、左のよりも軽く、車輪も大きいし、よく回転する。
頼子はこの椅子が好きだ。好きとか嫌いとか意識していないだろうが、右に補佐で座るとき、ほとんど椅子と一体化[#「椅子と一体化」に傍点]している。狭い中でよく動き、かつ回る。それだけではない。座面の下のレバーに手をのばし、油圧を下げ、椅子の高さを一気に下げて、下げきると急いでお尻を持ち上げてまた高さを戻すという動作を繰り返して遊んでいた。
かわいそうな頼子が、バス停に立っている様を想像する。泣き止んでも、きっとまだ悔しいだろう。いわれた言葉についても、泣いたということ自体も。
望美は立ち上がった。この時間なら、まだ次のバスは来ていないのではないか。金子先生のことを考えるのはいったんよして、頼子に弁当箱を届けよう。
大きな、空の弁当箱の包みを持ち、扉を勇ましく揺らして図書室を出る。階段を駆け下りる。頼子ほど真剣にではないが、自分が今「追いかける」をやっていることに満足した。あなたーお弁当。サザエさんの気分でどたばたと外に出ると、図書室ではかすかにしか聞こえなかった金属バットの音が大きく響いていた。サザエさんをやめて、校舎を振り返る。誰かがこちらをみていないかと図書室の窓のあたりをみたが、夕暮れの逆光で校舎全体が黒っぽくみえるばかりだ。
バスはもういってしまっていた。間に合うかもしれないと思ったことに根拠はなく、そもそも望美は徒歩通学で、路線も時刻表もよく知らないのだった。だからさしてがっかりもせず、でもとぼとぼと――つまり芝居がかった足取りで――来た道を戻る。頼子の弁当箱は大きいが、ナプキンの結び目のこぶも大きい。途中からそれを握って、大きく振りながら戻った。
「間に合った?」
「ううん」
「やっぱりね」
「うん」
右の席に戻る。昼から、利用者カードと貸し出しカードをクリップで束ねていなかったのを思い出す。仕方ないから利用者カードと本のカードを一揃いに、互い違いにして積み上げていたのだ。健太郎も暫定的に、同じやり方をしていたらしい。
クリップ入れにクリップは戻っていた。帰る前に処理しておこうといつものように手をのばしたら、クリップは一連なりになって引き上げられてしまった。
あっそうか。健太郎と顔を見合わせる。仕方なく一個一個、クリップを外す。
「全部じゃなくていいよ、使う分だけで」ナス先輩にやらせないと。
「そうだね」
関係ない、なにか別のことで部室内から皆の笑い声が響いた。
「なんだろうな」とつぶやきながら、健太郎が自分の担当した分にまずクリップをつけはじめる。
「こいつ、毎回たくさん借りるよなあ」と感心しながら手にしているのは「片岡哲生」のカードだった。
「いつ借りてったの」また、椅子を回転させてしまった。
「さっきあんたが、弁当箱もって駆けてった後きて、六冊返して、六冊借りてった」
マジですか。とはいわなかったが、そんな気分で、思わず舌打ちが出た。汝、まだ余の前に姿をみせぬか。
「なにどうしたの、今、『ちっ』ていったよ、『ちっ』て」健太郎は面白そうにいった。にやり、と笑みを返してみせる。
「なんでそこで『不敵な笑み』なんだよ。訳わからん」
「うん、訳わからんよね」望美は、今度は普通に笑った。その前の「にやり」は、今度もまた登場せずにカードの履歴だけを残した謎の男片岡哲生に、自分がなってみた[#「自分がなってみた」に傍点]のだ。
それから五時のチャイムが鳴るまで望美はクリップを外し続けた。健太郎は、右手の爪にもベースコートを塗った。
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4
放課後、揺れる扉を開けて望美が図書室に入ると、カウンターの前に健太郎と幸治と二人で立っていた。二人とも手ぶらで所在なさそう。なんだろうと思いながらカウンター脇の薄い扉を開けて部室に入ると、沙季が机に丸くつっぷしていた。
またか!
先週も頼子が泣いたばかりだ。沙季の傍らには、堀越《ほりこし》さん(あまり熱心にこない一年生で、沙季とは普段から仲良しらしい)がいて背中に手をあて、ね、ね、と慰めの言葉を囁いている。樫尾がコンロの前で両手を腰にあてていて、望美と目があうと訳知り顔に頷いてみせた。コンロには火がついている。前回とまるで同じ構図。
「今度はなによ、なによ」望美に続いて入ってきた部長は一目みるなり憤然とした表情で、しかし努めて小さな声で尋ねる。
昔は、そんな表情をしなかったなぁ。望美は狭い部室を横歩きで移動し、ベニヤ側の席の一つに腰掛けながら思う。一緒に入部した当時、まだ皆が「大岡《おおおか》さん」と呼んでいたころはいかにも文学少女然としていた。昨年の秋に部長を引き継いだときもまだ「そんな表情」をみせなかったが、四月に新入部員を迎えてから態度がバンカラになってきた。部長はいつもの席に座り、樫尾君、私コーヒーね、と樫尾の方を一瞬しかみずにいった。
誰も泣いている理由を説明しないので、部長はあらためて沙季のうずくまる姿を凝視した。
「携帯電話の液晶が今時白黒だっていわれた」人差し指を立て、部長は「正解」を探る。
「ブー」奥の席で座ったまま携帯型のゲーム機で遊んでいた岩田《いわた》――滅多に部活動にこない――が、画面に目を向けたまま不正解を告げる。
「携帯電話が今時50i《ゴーマルアイ》シリーズっていわれた」とゲーム機で岩田とワイヤレス対戦しているナス先輩が、やはり画面に目を向けたまま回答した。
「ブ、ブー。『今時〜』から離れましょう」
「50iシリーズでなにが悪いの」向かいの席の頼子が口を挟む。
「携帯電話が今時アンテナつきで、しかもその先っぽが取れてて、中に入ると出てこなくなるから、先っぽにタコ糸をつけて引っ張れるように工夫しているっていわれた」
「なにが悪いの!」頼子が側《そば》にあったペンを投げる真似をした(部長がいなかったら投げていただろう)。ナス先輩はなおもゲーム機を小さなハンドルのように握って、画面内と画面外、二重の攻撃を避けるように身をよじった。あまりいうと泣いている人数が二人になる、望美は頼子の表情をそれとなくうかがった。
「ブー。携帯電話から離れましょう」
本当に皆、携帯電話が大好き。誰がなんのキャリアのどの機種を使っているか、その人の血液型とか誕生日といった情報と同程度に詳しいし(望美は他人の血液型にも誕生日にも関心が薄かったが)、誰かが機種変更するとそれは結構なトピックになる。
でも今この場で古い・新しいを検証するなら、不正解のときに「ブー」というのが、なんだか古いと望美は思った。
「DEAN & DELUCA を洋服のブランドだと思ってて馬鹿にされた」
「それは私じゃなくて望美先輩ですよ」沙季がつっぷしたまま抗議した。泣き声に少し笑いが混じっている。
「『デスノート』の|L《エル》が死んじゃったところまで読んだ」岩田が混じる。ブー、と繰り返しているから正解を知っているのかと思ったのに。
ナス先輩の「ブー」を遮るように、ずっと黙っていた登美子が「えっ、死ぬんですか!」と漫画本から顔をあげた。ちょうど手に「デスノート」を持っている。
登美子は怒った。
「ネタバレ禁止……!」声を荒らげると、全員がすぐに口に指をあてる。ベニヤ一枚へだてただけの図書室の座席は、期末テスト前のこの時期きっちり埋まっているから、部室では「絶対に小声令」が布かれている。
「……ですよ!」声を落として登美子は抗議を続ける。
怒ったり怒らせたり、クイズを気取ったり、対戦ゲームをしたりしているけど、皆、本当は別のことも同時にしている。
本当は、図書部員も期末テストの勉強をしなければいけないに決まっていて、そのことから考えをそらす[#「考えをそらす」に傍点]ということを全員が(示しあわせたわけではないが、一丸となって)しているのだ。いつも好成績の部長だけは別として。
望美も今回の出題範囲の五分の一もやってないと頭の片隅で絶望しながら、昨日から連続で「金田一少年の事件簿」なんか読んでいる。
「うそ、望美、また『金田一少年』読んでるの」綾は呆れていったものだ。
「またじゃなくて、初めて」
「うそ、望美、まだ読んでなかったの?」ずっとそこにあったのに。綾は先週につづいてまた一つ、望美に対してある印象を抱いたようだ。
望美の上の代の先輩が部室の書棚に置いていった、もうずいぶんくたびれた本だ。横溝正史《よこみぞせいし》が好きで、漫画の「金田一少年の事件簿」をバカにしていた望美だったのに、読み始めたら止まらなくなった。一巻からではなく、適当に手にとった後半から読んでるが、まるで困らない。
一つの事件が解決する直前、主人公の金田一少年は一ページ大ゴマで「犯人はこの中にいる」と見得を切る。そのところで必ず顔をあげてみる。
別にそれほど没入しているわけではない、視界の中に犯人がいるわけでも(もちろん)ない。望美はしばしば、本を読む途中で顔をあげてみる。読書はときどき素潜りのようだ。本を読むとき、いつも首を下に向けているから、その上下運動が潜る、浮上するという行為を連想させるのだろう。
だけどもっと大げさな、それこそ水面下と空気のある地上というくらいに隔たったところから戻ってきたような錯覚がある。安心と残念と、純粋な驚きとを感じる。
顔をあげたときに世界がまるっきり変わっていはしないか試してみるという感じもある。
「死んじゃうんだ……」登美子は望美以上に没入して読んでいた漫画の筋を知ってしまい、まだ放心している。
つっぷしていた沙季も不意に顔をあげて世界に(部室に)浮上した[#「浮上した」に傍点]。
「なんでもないです」沙季はもうすんだことみたいに赤い目で微笑んだ。沙季のかすれ声は色っぽいが、このときは表情も大人びていた。立ち上がり、大丈夫ですと部長に声をかけ、部室を出て行った。
「フラれちゃったんですよ」慰めていた堀越さんが正解を告げた。ブーブーいっていた二人は揃って、へえ、という表情。
「誰に?」部長は横でコーヒーを淹れている樫尾をみて、次にナス先輩の方をみた。
「まさか」ここの部員じゃないですよ。堀越さんは一笑に付した。その笑いの中に、少しの侮りをみてとれた。ふるとかふられるというのは、あなたたちの多くにはあまり縁のない事柄だろうという。だが部長は頷き、ほかの皆もなにもいわなかった。
外に出た沙季は、健太郎や幸治とも親しげに会話をしているようだ。「絶対に小声令」の中、それはくぐもったやりとりだったが、ベニヤの壁は薄いのでやりとりの気配は伝わってくる。その気配を感じる前から、健太郎や幸治が原因ではないだろうと、なんとなく思っていた。
部長は樫尾からうやうやしく差し出されたコーヒーを当たり前のように受け取ってありがとう、と短く礼をいい、既に自分のものみたいに馴染んだノートパソコンをいじりだした。期末試験なんかすでに終え、卒業もすっとばして就職して、あまつさえ部長(会社の)くらいまで昇進したみたいな貫禄を漂わせている。
期末試験が終わったら、図書室のすべての蔵書にバーコードのシールを貼る作業がある。桜ヶ丘高校の学生証はICカードになり、図書の貸し出しもバーコードによる機械処理になる。
自分たちが卒業した後の利便のために作業するなんてバカらしいから、二年生以下にやらせるべきだと健太郎と幸治は主張したが、部長は「皆でやる」と頑強にいっている。三年生は受験もあるから秋までだとしても、どうせ秋の文化祭の準備で夏休みにも登校するのだから、並行してやるつもりだ。部長はその分担でも頭を悩ませているのだ。
沙季と入れ替わるように健太郎が紙の束を手に戻ってきた。幸治も手ぶらで――最近彼には「腕まくり」というあだ名がつきつつあるが、このときは腕まくりせず――入ってきた。
「ハサミ」健太郎が一言いうだけで、ナス先輩がゲーム機をみたまま、傍らのクッキー缶から鋏を取り出した。間の望美の手を経由して健太郎に鋏が手渡される。
「図書室便り」のために各自が書いた原稿とイラストを切りはじめた。イラストと一緒に台紙に貼って、区切り線を入れて完成。写真だけは、じかに貼り付けて印刷しても汚くなるので、小田原先生にパソコンで処理してもらう。部長の隣に(仕事のない秘書のように)座って自分もコーヒーを飲んでいた樫尾がバカにするが、誰も耳を貸さない。
「DTPソフト使いましょうよ」
「こっちの方が早い」健太郎は切るのも早い。
「ハサミといったら、のりでしょうが」台紙を広げ、頼子が手を伸ばす(誰の方もみずに)。文具は、奥の席のそばのクッキー缶にまとめて入っている。ナス先輩はヘッドホンを外し、ゲームを中断して缶からのりを出す。
「そっちじゃない方」頼子はスティックのりではなく、アラビックヤマト派。ナス先輩の手からやはり望美を経由して、頼子の手にのりが渡る。
「やだ、なにやってんのこれ」貼り付けながら頼子が眉間にしわを寄せる。
「なに」望美は立ち上がって手元を覗き込んだ。
先月から始まった「私のオススメ!」のコーナーだ。読書好きの生徒にオススメの一冊をインタビューする。読書好きといっても、図書室を何度か利用しているだけでよいということになっていた。今回は一年生の菱井琴子《ひしいことこ》さんで、校内でも評判になるくらいの美少女だった。
「このコーナーがどうしたの?」
「みてわからない?」
「えーと」インタビュー記事に目を走らせながら、二週間前のやりとりを思い出す。
今回、インタビュー係は望美の順番だったが、その日になって相手が菱井琴子と知った健太郎が「代わってくれ」と訴えたのだった。
「後生だから!」綺麗な爪を持つ手をあわせる。望美ではなく、綾と頼子がヤドゥー、ヤドゥーと相次いで声をあげた。
「なに、そんなにいいの、その子」お弁当のえびフライを口にくわえたまま登美子がのん気に尋ねる。
「もうね、あのね、三井のリーハーウースーって感じ」美少女が出てくるコマーシャルの歌を健太郎は口ずさんでみせた。
あっさり「別にいいよ」と返し、インタビュー用のICレコーダーをバトンのように手渡したので、今度は綾と頼子の抗議を望美が受けることになった。
「なんで!?」「駄目だよ!」ヨコシマな気持ちの人間に、みすみすいい思いをさせることはないだろう、と。
「いいじゃない、やりたいっていう人がやれば」本当は、そのほうが面白いことになりそうと思ったのと、後生だから、という健太郎の言葉の選び[#「選び」に傍点]にうたれたのだ。よく後生だから、なんて知っていたな。
「えぇ!?」今度は幸治が不満の声をあげた。
「だったら俺にやらせてよ」幸治も手をあわせたが、こっちは男の子らしい黒い爪だ。
健太郎はたとえ数十秒でも先約を得た者の権利というものを体中から発散しながら幸治をにらんだ。
「ひっこんでろ腕まくり!」鋭く牽制し、皆が笑った。幸治は格好つけなのか、衣替えの後も学ランで、その袖を肘の手前までまくって折り返しているのだが、とにかくこのときから腕まくりというあだ名がついた(怒るので面と向かってはいわないが)。
「うるせえよマニキュア!」言い返したが、これは効きが弱い。
結局、部長の(名前通りの大岡)裁きで、健太郎がやることになった(部長は「順番通り望美がやりなさい」というと思ったから意外だった)。
その日の放課後遅く、健太郎と幸治はどういうわけか、ついさっき啖呵を切り、にらみあったとは思えない、グーフィーとドナルドダックみたいな無邪気な仲のよさで戻ってきた。図書室のパタパタ動く戸の開け方が、もうなんだかほろ酔い気分だ。
「どうだった?」(三井のリハウスどうだった?)カウンターにいた望美も思わず弾んだ声をかけた。一拍、ためを作り、振り絞るように健太郎曰く
「……良かったよ!」
ほとんど花輪和一《はなわかずいち》「刑務所の中」の受刑者が甘いお菓子を食べて帰ってきたときの至福の顔(どうだった、と尋ねる自分の顔もだ、と望美は思った)。
「もしかして、二人でいったの?」二人、双生児みたいに揃って頷く。
「俺がインタビュアーで」健太郎がいう。
「俺は録音係」幸治が続ける。いつの間にか「係」が増えている。
「録音係ってなにやるの?」幸治は例のICレコーダー――総理大臣の定例会見のとき、首相の顔の前に何本も差し出されるあのひょろ長い機械――を胸ポケットから取り出してみせた。
「ICレコーダーの、録音ボタンを押す」
「それから?」
「インタビューが終わったら、ICレコーダーの停止ボタンを……」もう、皆までいうなという気持ちで笑いながら返却の本を手に立ち上がる。幸治はそのために柔道部もサボったのだろうか。
昼休みにはクラスの用事で部室にこれず、インタビュー権の争奪に加われなかったナス先輩は露骨にうらやましがっていて、二人の声を聞くなり部室から身軽に飛び出てきた。
「ちゃんと写真とったんだろ、みせてよ」デジタルカメラは健太郎の胸ポケットだ。背の低いナス先輩だが、飛び上がりそうな勢いと素早い手つきで健太郎からカメラをひったくった。
「誰か人がきたら、カウンター入って」図書委員は例によって休んでいていないので、三人の誰にともなく告げて望美はカウンターを出た。
「あぁ、俺持つよ」ナス先輩が望美の抱えた本に手を伸ばしたが「大丈夫」と遮る。
そのまま書架に移動し、返却の本を一冊ずつ、あらかじめその本の分だけわずかにあいた隙間に差し込む。隙間がなくなっている場所もあるので、左右によせて空間を作ったりする。そうして手持ちを減らしていきながら、カウンター近くの三人の男子をみやる。
「この画像、全部メールしてよ、使わないやつもな」ナス先輩はカメラの液晶画面に目を落としながら何度も念を押している。
そんなにすごい、絶世の美少女が本を借りにきたことがあったっけな。
そのインタビューにも今はまだ写真は入っていないから、こうして記事になっても顔は分からない。
「で、なにが問題なの」
「これ!」頼子は美少女の名前のあたりを指差した。よくみると、すべての名前の横に「さん」とあるべき敬称が|※[#全角クン]《クン》になっている。
「そんな琴子|※[#全角クン]《クン》の好きな作家は?」「好きな男性のタイプは嘘をつかない人という琴子|※[#全角クン]《クン》でした」
幸治や健太郎が部室に持ちこんでくる写真週刊誌の、大橋美歩|※[#全角アナ]《アナ》とか、ほしのあき|※[#全角クン]《クン》の書き方だ。
「写写丸《しゃしゃまる》かよ!」樫尾は対面《トイメン》から覗き込むなり大喜び。
それこそDTPソフトを使わずに、どうやったんだろう。望美も笑ったが、部長と目があうと苦々しい顔。樫尾が大声をあげたからだ。
「えーなに、こっちにもみせてよ」奥の席のナス先輩も面白そうな匂い[#「面白そうな匂い」に傍点]を感じてもうニヤリとしながらいった。
「すみません」ノックと女性の声で、皆、身をこわばらせる。
「ビデオルームの、コピー機の紙が詰まってしまったんですけど」全員、ほっとする。写写丸かよ! で怒られるのではなかった。
「はーい、いきます」紙詰まりといえば出番だろ、という目で何人かがみるので、望美は入り口あたりにまだ立っている健太郎と幸治の後ろを通って部室を出る。幸治か健太郎か、なにかいい匂いのものをつけているなと思いながら。
図書室の窓から夕日が差し込んで、机に取り付いてノートを広げている生徒たちを、一様にオレンジに染めている。
「小田原先生にいったら、図書部の人に直してもらえって」カウンターの前で待っていた女生徒は、なぜかつまらなそうな口調。違和感を抱きつつ、ビデオルームに移動する。
詰まった紙を取り出すや、すぐに彼女に奪われたのだが、一瞬みただけでなにかの題名と、その下に文芸部の谷地《やち》さんの名がみえた。頼んできた子も文芸部員だと分かる。
文芸部と図書部は、険悪ということはないのだが、昔――それこそ図書部創立時のあたり――から、張り合っているのだ。今でも部長は文芸部を話題にするとき、含みのある表情になる。綾や頼子には、もっと露骨に「自分たちは文芸部(なんか)とは違う」という意識がある。ナス先輩は「桜ヶ丘の腐女子軍団」とまでバカにしているが、それは多分、面白がっているだけだ。
張り合っているといっても、特に共通の土俵で競い合うということはない。活動目的が違うのだから。ただ図書部の子も文芸部の子も、「カツクラ」にイラストを投稿するし、文芸部の子も書くばかりでなく本を読むし、図書部員もまたなんらかの創作をしている。見せ合ったり、同じ賞に応募するということはしない。ただただ、相手への無根拠な優越や、近親憎悪を抱きあう。
目の前のこの子も、図書部員の手を借りるのが屈辱なのだろうか。努めて冷静に、コピー機を再起動させる。
「どうぞ」
お礼もいわず、おまえはまだ側にいるのか、という目でみられ、さすがに望美も困惑した。
戻ろうと振り返ると入り口に谷地さんが立っていて驚く。
「駄目でしょう、ちゃんと、お礼をいいなさい」女子を一喝する。
「あ、はい、すみません」ありがとうございました。(望美にではなく、谷地さんに)恐縮して、女子はオドオドと(谷地さんにではなく、しかし望美にというよりは望美のいる方向に向けて)お辞儀をした。
「どうもありがとう」谷地さんもあらためて望美に声をかける。谷地さんは文芸部の部長だ。恰幅がよくて、眼鏡の奥の目が据わっていて、自分も新米の文芸部員みたいに萎縮しそうになる。
「あ、いえいえ」
「私たち、文化祭の展示内容はもう決めたから」望美が通り過ぎようとする、そのタイミングで谷地さんはいった。
「大岡さんにそう伝えて」
「はい」(ははーっ)ひれ伏すような気持ちでいって、急ぎ足で図書室に戻る。ちょうど五時の鐘がなり、下校をうながす校内アナウンスもはじまった。多くの生徒が鞄を手に、くたびれた表情で図書室から出てくる。
部室に戻って「金田一少年」の置いてある自分の席に座ろうとすると、部長がいった。
「谷地さん、なんかいってた」パソコンの画面をみたままそういったので、望美はさっきよりも驚いた。
「あの、文化祭の展示、決まったって」その言葉のせいなのか、部長のキーを打つ手が早まった。なんなんだ、この人たち。二人の部長に畏怖の念が浮かぶ。
「あのデブ、なにするんだろうな」ナス先輩もすぐに理解して、(五時を過ぎたので)よく響く声でいった。
「デブっていわないの」頼子がすぐさまたしなめる。
「知ってる? 谷地さんってさ、ハーフなんだよ」
「嘘ー」綾が顔をあげた。皆、普通にしゃべってもよくなった心地よさもあって、声が弾んでいる。
「あ、本当だよ」部長もいった。
「下の名前はリンナだよ」
「えぇっ!」
さっきの紙詰まりにみえた名は、谷地の下は別の漢字だったが、あれはペンネームということか。
「谷地リンナ|※[#全角クン]《クン》」ナス先輩が週刊誌の下世話な「君付け」を声でしてみせて、皆(頼子でさえ少し)笑った。
「私たちもそろそろ考えないとね、展示」部長は腕を組んだ。文化祭は十月だが、夏休みを準備期間に充てるから、企画は早めに決めなければいけない。文化祭を終えると、三年生はほぼ引退だ。
頼子は記事を貼り終えた「図書室便り」の仕切り線を書き終えて、部長にひらりと渡した。
「……まあ、いいんじゃないの」文章の内容はすでに部長はチェックずみだ。
「さすが部長、洒落が分かる!」
「その、琴子君がこれみて怒っても知らないよー?」そういう部長の目は眼鏡の奥で少し笑っている。
望美も部長から受け取った「図書室便り」をあらためて眺める。図書部の仕事はどれも好きだが「図書室便り」は特に好きだ。「|※[#全角クン]《クン》」のみならず、悪ノリで忍者のイラストまで左下に付け足されている。
「誰、これ描いたの」
「はーい」と携帯電話の画面をみながら綾が手をあげた。
帰宅前に職員室に持っていこうと頼子と二人で部室を出ると、ちょうどカウンターに小田原先生がいた。放課後後半の当番の(部員の中で一番存在感の希薄な)浦田《うらた》と話している。
「……なにこれ、写写丸?」出来たてを手渡された小田原先生は髭をさすりながら、端の忍者のイラストを指していった。
「先生もああいう週刊誌、読んでるんですか」やだもう、ありえない。頼子はかぶりをふった。
「おまえらこそ、若いくせにそんな週刊誌をまわし読みしてるんだろ」チョーありえない。小田原先生は当世風に発音してみた、という感じで声をあげる。
カウンターの浦田は顔をあげ、なにか自分の意見をいうかいわないか迷っている顔だが、督促状作りを再開させた。
先生は立ったまま「図書室便り」を読み続け、何度か含み笑いをして、顔をあげると、
「次回は、あの、あれにしようよ」といった。
「あれってなんですか」
「インタビューのコーナーさ、浦田、おまえいってたろ、六冊借りて、六冊返すを繰り返してる転校生がいるって……」
「彼ですね」すでに裏まで日付印のびっしり捺された貸し出しカードを浦田がすっと抜き取った。片岡哲生だ。あぁ、と望美は思う。
「やだ、来月号のインタビュアー私じゃん」頼子が貸し出しカードを受け取っていう。
「こんなすごい読書家にインタビューできない」聞くことないし。
(代わってあげようか)。もし今、そういっても、心中の、片岡哲生への多大な興味を怪しまれることはないだろう。健太郎たちが美少女に示した興味と同列には思われまい。頼子はただの親切とだけ受け止めるだろう。でもいわなかった。
腕まくりの幸治が鞄を二つもって部室を出てきた。まだ部室にいる皆も帰り支度をはじめた気配。
「おお、あっちはどうだ」小田原先生は通り過ぎる幸治の襟首を掴む真似。
「もうすぐ二段の試験ですよ」幸治は鞄を持ったまま背負い投げの真似。
「じゃあ、明日なー」と全員に手をあげ、なにかいい匂いを残して図書室を出て行ったとき、望美はひらめく。
録音係という手があるな。頼子のそばで、神妙にボタンを押して、ただいるだけの自分。そんな哲生|※[#全角クン]《クン》の好きな本は?
……って、それこそチョーありえない。
「何笑ってるの」小田原先生に不意にいわれ、望美はさらに笑いだしてしまう。なんでもないですといい、笑いつづけながら書架の向こうをみる。
「え、なんか『ツボ』だったの?」頼子もいう。なんでもないよ。泣く理由と同じくらい、笑う理由だって不可解なときがある。みっしりと埋まっていた机に今はもう誰一人いないのが不思議に思えるまで、望美の笑いはとまらなかった。
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文化祭の展示は、人気小説「僕は幽霊探偵」の特集に決まった。
ビデオルームから運び込まれたホワイトボードのせいで、細長い部室のベニヤ側は、端の席に一人座れるだけだった。部室にはほとんどの部員が揃った。会議にはなるべく出るようにといわれていたから。奥の席に横並びで、社長席に部長。男子の数名は立ちながらの会議だった。
登美子がホワイトボード上の正の字を数える。彼女は図書部の書記だが、四月に任命されていたものの、普段ほとんどやることがなかった。数え終えるのを待つまでもなく「僕は幽霊探偵」特集には「正」が一つ。他はすべて「一」か「T」だ。
「じゃあ、決定ね」部長は宣言し、投票した五名は歓声をあげた。部長がわざと快活な声を出したのが望美には分かった。それが部長の好みでないことは明らかだったが、「僕は幽霊探偵」は、図書部員だけでなく図書室での貸し出し人気も高い。部長は好みよりもフェアネスを優先させる人だから、結果を尊重するのはもちろんのこと、表情や声音に少しでも遺憾の意を表すまいとしているようだ。
「では、具体的になにをやるか、挙手で……トンちゃん、書いていって」いわれた登美子は小さめの黒板消しみたいなのを手にとって、投票結果を勢いよく消しはじめた。部長はきっと江戸川乱歩《えどがわらんぽ》特集をやりたかったろうな。望美は板上の文字が消されるのを名残惜しい気持ちでみるが、登美子は頓着せずに手を動かし、ホワイトボードを真っ白にしてしまった。
「フィギュアをつくろう」美術部兼任の樫尾がいう。登美子がボードの端に「フィギュア」と書いた。
「フィギュア?」頼子が眉間に皺をよせる。
「作品の魅力を伝えるために、登場人物紹介をするってことでしょう」綾がもうフィギュアに賛成という勢いでフォローする。
「オタクくさい」ベニヤ側の端にただ一人座った沙季がホワイトボードの方に顔をねじるように向けながら、嫌そうな顔をした。
「ちゃんと作れるの?」綾が尋ねる。
「桜ヶ丘高の松村《まつむら》しのぶといわれるこの俺の造形技術を知らないな」樫尾は不敵な笑み。
「ていうか誰だよ、松村って」
「えっ知らないの? 海洋堂のカリスマ原型師を」岩田が口を挟み、話が脱線してきた。
「オタクでなにが悪いの」綾は机上の文庫本をとりあげて皆にみせた。表紙はアニメ調の人物画。
「『幽霊探偵』の特集なんだから、ある程度オタクになるに決まっているでしょう」
「紙にキャラクターのイラストを描いて壁に展示したら、その方がオタクくさくない?」
「まあ、いいから。とにかく登場人物紹介は必要」部長がいう。
お湯が沸いた。立っていて一番コンロに近い幸治がお茶を淹れる。
「もう、紅茶、あのやつしかないぞ」あのやつというのはプリンスオブウェールズという黒いティーバッグ。
「俺それでいい」俺クリープいれて。私コーヒー。俺ミロ。俺もやっぱミロ。砂糖もね。牛乳いれてー。肩揉んでー。ガリガリ君買ってきてー。
「わかんねえよ、いっぺんにいわれても!」振り向いて幸治は怒鳴ったが笑ってもいる。皆に注目されてる状態がちょっと嬉しいのだ。
飲み物がいきわたると部長は「ブレーンストーミング」といって皆を眺め渡した。フィギュアの隣にブレーン……まで書きかけた登美子を部長は「それは書かなくていいから」と制した。ずず、ずず、とあちこちで紅茶をすする音。
「大勢の頭で、どんなくだらないアイデアでもいいから、どんどん意見を出し合うのをブレーンストーミングっていうの。今はとにかくアイデアを出そう」頷いて登美子はブレーンを消し、フィギュアの文字の下にカッコ書きで(人物を紹介)と書き足す。
「じゃあ、水着でコスプレ!」
「誰がやるの」BL的な人気の高い幽霊探偵だが、作中には美女、美少女も出てくる。
「ていうか、水着の意味あんの」
「菱井さんに栗子《くりこ》をやってもらおうよ」
「菱井|※[#全角クン]《クン》いいねえ!」今月の「図書室便り」を読んだ菱井琴子はカンカンだったと聞いたが。登美子は困った顔で――水着コスプレもボードに書くかどうか迷って――部長をみたが、部長は肯定とも否定ともとれる頷き方をした。
ここで「ナス先輩がヤブイヌ(のコスプレ)をやったらいい」といったら、女性陣がブーイングだろうなと思う。その題名から、てっきり探偵が幽霊なのかと(幽霊の探偵がさまざまな容疑者に憑依《ひょうい》しながら真相を暴くのだろうと)思っていたというだけで不興を買ったのだ。実際には、主人公のヤブイヌは人間の探偵で、死者から依頼を受け、死者に聞き込みをし、時には死者の犯人と渡り合うのだった。望美は机上の「僕は幽霊探偵」シリーズを一冊、手に取る。表紙には白衣姿の栗子が描かれている。彼女は幽霊だから足がおぼろげ。自信に満ちた表情の栗子は年上のお姉さんキャラだから、菱井琴子だとイメージとあわない。こういうさっそうとした年長の人は金子先生がぴったり。
「たしかに、ただ紹介文を大きく書いて貼りだすのも地味だしね」腕組みをしていた部長だが、どんな意見も否定したら、それはブレーンストーミングではなくなるという「ルール」に厳密でいることに決めているようだ。
「そう、そこでフィギュアですよ」樫尾に限らず男性陣は最近、部長にゴマをするような「口調」が増えてきている。本当にへつらっているのではなくて、そういう風に演じるのが楽しいのだ。
「いや、水着ですよ」岩田の言葉を受け、登美子は「水着でコスプレ」と書いてしまった。
「著者の人の、『幽霊探偵』以外の著作を紹介するコーナーもないとね」部長がいい、登美子が書く。
「林《はやし》先生に、きてもらえないかな」望美は控えめにいってみた。
「え、林にきてもらってどうするの!」綾が拒絶反応を示す。
「そっちの林先生じゃなくて、『幽霊探偵』の原作者の方の」日本史の林先生は喋るときに唾を飛ばすので嫌われている。
「えっ! あーびっくりした」林を呼んでどうするよ。綾はときどきツッコミをいれるような口調になるが、いつも効きが弱い。
「きてくれるわけないよ!」健太郎がいうのを、女性陣の「それいい!」が遮る。
「林先生って、林|歌子《うたこ》先生?」
「きてもらうって、どうやって」
「メールしてみるとか」どうやって、なんてなにも考えずに口に出したのだ。
「公式サイトに、連絡先がのってる」机の下で携帯電話をいじっていたらしい樫尾が顔をあげていう。
「きてもらってどうするの」
「公開インタビュー!」
「いいね!」「もしもきてくれたら、どの展示よりも人気出るよね!」「文芸部の展示がかすむね!」「これはもしかして、今のうちに体育館借りる手続きしないといけないんじゃない?」作者を呼ぶというアイデアには、幽霊探偵に投票しなかった者まで沸き立っている。初めは盛り上がる提案をしてよかったと感じていた望美は急に不安になった。断られたときの、皆の消沈を想像して。
「きてくれないだろ」健太郎はまだ皆の楽観性にむすっとしている。
「出演料っているのかなぁ」
「学割ってことでそこは一つ!」樫尾は部長にゴマをするときの口調が普段の会話でもクセになっているみたいだ。
「誰が林先生にメールするの?」頼子が疑義を挟むようにいうと、全員が望美をみた。あわてて首を振る。コピー機の紙詰まりをなおすぐらいならいくらでも引き受けるが、それは筋合いじゃない。
「私は全巻読破してるわけじゃないし、林先生に思い入れが強いわけじゃないから」いいだしっぺが書くべきだという論調に運ばれそうなところを、思い入れのある者が書くべきだという方向にもっていかないと。
「俺、今うとうか?」樫尾は携帯電話のブラウザで林歌子公式サイトにアクセスしていて、クリック一つでメールを送信できるようだ。
「なんて」
「駄目」部長はメールの送信を禁じたのではなく「携帯しまいなさい」とつづけた。樫尾は、話し合いの必要上のことなのに、と言いたそうな顔になったが「はい」とだけいって、手の中の電話をぱくんと折りたたむ。
今はもう、教室で携帯電話を出していても先生たちは熱心に怒らなくなった。授業中はともかくとして、昼休みや放課後には、皆ごく普通に取り出してメールをうっている。何人かの強面《こわもて》教師以外は、みつけても鷹揚に見逃してくれるようになっている。昨年もだ。新入生の入る春には携帯電話に厳しくて、でも一学期の終わるころには堂々とみられるようになった。解禁と明示されることはない、ただいつの間にか先生も含めてそういう「空気」になっていく。図書部内では今や教師ではなく部長だけが「強面」だ。
「文面は皆で考えようよ、皆で招くんだから」樫尾への叱責で硬くなった空気を自ら打ち消そうとしたような部長の明るい言い方に、皆が頷いた。
望美はホワイトボードの板面をみた。とうに消されてしまったが、望美は部長の「江戸川乱歩特集」に一票入れていた。そして板面に記入されなかった、自分自身の本当にやりたかった企画のことも思う。
「ピカレスク」の特集にすればいい。「人間喜劇」のヴォートラン、「ファウスト」のメフィストフェレス、モリアーティ教授、バイキンマンに「デスノート」の夜神月《やがみライト》まで!
特定の作品や作者ではなく、魅力的な悪役を特集すれば、漫画でも純文学でも、あらゆるものを網羅できる、皆が皆の好みを投影できる。作者にメールを出して、というアイデアも、あらゆる作者にアンケートをとるというつもりだったのだ。皆が夏中をかけて、あらゆる創作の中の悪役たちの系譜を練り上げていく作業を空想して、望美は試験勉強が手につかないどころか夜、眠れなくなったりもしたのだった。
「それだったらさぁ」会議が始まってからずっと、ほとんど黙っていたナス先輩が口を開く。ナス先輩は、がっちりした体躯の幸治の脇に半分隠れるように立っていた。皆がそっちをみると、机上の、ティーバッグのマグカップに(幸治の脇から)手を伸ばして紅茶を飲んだ。
机上にマグカップを置くと、きっぱりした口調でこういった。
「それだったら、俺、呼びたい人は別にいるな」
「えぇっ」今更なにをいうのか。部室はざわついたがナス先輩はいつになく真剣な顔をしていた。
「俺さ、会いたい人がいる」
「もう特集は決まったんだからね」綾が抗議してもナス先輩はそっちをみもしなかった。
「分かってる」とだけいった。
ナス先輩は今、本当の気持ち[#「本当の気持ち」に傍点]をいってる。なにかを得心した顔もしている。
「ナスは誰を呼びたいの」部長が尋ねる。
「いや、いいです。『幽霊探偵』とも関係ないから。単に今、個人的に『あっそうか』と思っただけで」ブレーンなんとかを続けてください。ナス先輩はおとなしくそういって、幸治の背後に隠れるように引っ込んでしまった。
そう、そうだよ。
望美は彼が誰に会いたいのか知る前から頷きそうになる。誰かに会いたければ、とりあえずただノックすればいいんだよ。ほとんどの場合、会ってくれないかもしれないけど、世界にノックだけはできる。
部室の皆をさりげなく見渡し、蛍光灯の半分飛び出してみえる天井をみあげ、外のことを思う。今、このベニヤの壁の外にあるのは図書室だけではない。世界の全部があるのだ。ベニヤで区切られた外側の世界のすべてが。
部員だけではない、皆いつだって、うつむいて携帯電話の液晶の画面をみて、メールをしている。自分で自分にメールをうつ人はいない。皆、「誰か」にしているんだ。だけど、本当に、皆、この世界そのもの[#「この世界そのもの」に傍点]をノックしているのかな……。
ナス先輩は会議が終わるまで、意見どころか、いつもの混ぜ返しやギャグ一ついわなかった。
夏休み前は「長期貸し出し」があるので、図書室は繁盛する。通常は二週間のところ、夏休み明けまで借りてよいことになるから、大勢がいつもより多めに借りる。明日は終業式で皆、早く帰りたがるから、今日が貸し出しのピークだろう。
「『僕は幽霊探偵』ってないですか」
「貸し出されてます」残念そうに望美は答える。
「えー」女子生徒はムカツク、という表情。そんな顔されてもと思うが、とにかく学園祭に林先生を呼べば人気が出そう。きてもらえなくても、メッセージくらいもらえるかもしれない。学生時代の藤子不二雄《ふじこふじお》が手塚治虫から直筆の返事をもらい、二筋の涙を頬に流して喜んでいる様を思い起こし、決して悪い方向にはいかないだろうと考えるようにする。
返却本を戻しにいく。文庫本の棚の「僕は幽霊探偵」のところは、すでにごっそり空いて空白になっている。少し前、特に人気のある本は複数冊購入してはどうかと会議になったことがある。公営の図書館が現にそうしているからだ。図書館のパソコンで検索したら「ハリー・ポッター」の新作は何十冊も入荷して、それでも三百人待ちだったと登美子がいっていた。
予約カードを記入する生徒も、そういう言葉をボヤくことがある。もっとたくさん入荷すればいいのに、と。
小田原先生ですら「もう一セット買うか」といった。
部長は頑強にその案を否定した。先生に「駄目だよ!」と即座に返し――その言い返す速度や言葉自体に、頼子と望美は二人の親密さを深読みしたのだが――自説を全員に述べた。
図書館というものは、断じて、人気のある本をてっとりばやく読むための施設ではない。たとえそれが少数でも、どこかの誰かが読みたいと願うあらゆる本を、長く保存して未来の読者に託す場所なのだ。
貸し出しカードに捺されたハンコの日付が十年以上前のことがある。前に借りられたのは十年以上前ということだ。そんなとき望美は部長がいった言葉を興奮とともに実感する。世界文学全集とかの、うっすら埃をかぶっているあたりを歩くとき、どこかの誰かって誰かな、と思うこともあるけど。
返却本を戻してくると、胴着姿の男が図書室のドアを静かにゆらして現れた。幸治の知り合いだろうと思う。
「幸治君はいないですよ」先回りしていってみるが、よくみると、幸治がたまに身に着けている胴着と違う。真っ白で、胸に桜ヶ丘高校空手部と刺繍があった。
「三年の南出《みなみで》さんいますか」望美の言葉には頓着せずに尋ねてくる。野太い声に太い眉。立派な顔立ちに、幸治並のがっしりした体。
「南出さんって、頼子のこと?」頼子になんの用事があるのだろうか。カウンターにいた図書委員の能見《のうみ》さんが顔をあげる。
「頼子ー」望美がベニヤの方に声をかけると、すぐになあにと出てきた。男と目が合うが、心当たりのないらしい怪訝な顔。
(おいどんはー、当年とって十八歳……)男気に満ち満ちた口上を心中でアテレコしつつ、遠慮して遠ざかるべきか、職務としてカウンターに戻るか、迷う。能見さんが困惑顔を向けてくるので、カウンターに戻ることにする。
男は直立不動で、頼子を前に緊張した気配。愛の告白だろうか。(ヨリコはん、おいどんと付き合ってください)妙なイントネーションでの告白を思う。
「弁当」弁当?
「……自分は、二年二組の大野《おおの》といいます」いきなり用件では唐突と気付いたのだろう、西郷どんというよりは、体育会系特有のはきはきした迷いのない口調で自己紹介をした。
「南出さんの、弁当箱が、聞けば、なんでもかなり大きいということを聞いて、みせてもらえないかと思ってきました」
頼子は――能見さんも望美もだが――黙ってしまった。それはまあ、なんという噂だろう。
「自分には、桜ヶ丘高校で一番大きい弁当箱を持参しているという自負があります」
望美は、自分のことを「自分は」というこの男の登場に目を丸くするばかりだったが、頼子はすべて心得たとばかりに部室に取って返し、それ[#「それ」に傍点]を持って戻って来、突き出すように差し出した。
対決だ! カウンターの向こうでなんでだか分からないが突然発生したこの勝負。頼子の弁当箱を包んだ布の、結び目の大きなこぶを望美も握ったことがある。たしかにそれは大きい、頼もしいこぶだったし、もちろん包まれた弁当箱も大きい。
図書部の部室を背に頼子、入り口側に男、その真ん中に、頼子の手から突き出された弁当箱。解説者席(ではなくて本当はカウンター)には能見さんと望美。はらはらと行方を見守る。
勝負は一瞬だった(それはそうだ)。男の顔に冷笑的な笑みが浮かぶ。
「その程度でしたか。いや……お手数をとらせました」では失礼。
(カンラカンラ)とは笑わなかったが、意気揚々とひきあげようとする男を頼子は呼び止めた。
「あんたのも、みせてみなさいよ!」威勢のいい言葉に、えっと思う。頼子は突然発生したようにみえる「価値観」に対し、もとよりプライドがあったのか。
「では、みにきますか?」勝者の余裕をあらわにして男はいい、頼子はずんずんという好戦的な足取りで共に出て行ってしまった。
能見さんと顔を見合わせる。彼女も、簡単に感想が出ないようだ。
「ちょっと頼子ー、次号のイラストどうするの?」部室内から、ほったらかしにされた登美子が出てきていう。
カウンター前にはいつの間にか貸し出しと返却の行列ができていた。仕事の早い能見さんと一緒の日でよかったと思う。せっせと処理しながら、まだ唖然とした気持ちでいたら、片岡哲生が六冊借りたのを見逃してしまった。
貸し出しカードの名前に気付き、急いで背筋をのばし顔をあげたが、ちょうどそれらしい人物が図書室を出ていくところだ。この時期は六冊借りる人が多いせいで、すぐに気付かなかった。
もう、わざとだろうと思う。彼はわざと姿をみせないのだ。
いろんなことが起きて、考えることが多すぎて、残念に思う気持ちが湧き起こらなかった。まずは、さっきの出来事。「なんだか分からないが頼子イカス!」ということと、「頼子イカスけど、なんだか分からない!」という、同じようで異なる二種類の感情を交互にしみじみと味わった。
「イラストどうしよう」登美子は、単に頼子からだけではない、いろんな(面白い)ことから取り残されたということは自覚したらしい、実につまらなそうな声でつぶやいた。
夕方、貸し出しの生徒がひけたころになっても頼子は戻ってこなかった。能見さんはぽつんと「頼子さんって、面白い人ですね」といった。
「うん」ありがとうと思わずいいたくなる。あんたいい人だ! 握手すらしたくなるが、とりあえず笑顔を向ける。能見さんも笑っている。
能見さんの、今の言葉が口に出るまでに時間がかかった、そのことも嬉しかった。さっきの出来事をみてすぐに分かる面白さだけではなく、それまでカウンターから(委員だからわずかに)みてきた様子を、彼女は心の中でちゃんと咀嚼《そしゃく》、あるいは醸成してくれたのだ。
頼子はクラスではハバにされているらしい。高校一年の二学期からずっと、なにかでペアを組むといつもあぶれる。もう中学生ではないから、クラスの誰もが、めいめいの色恋や受験やいろいろと忙しくて、だから露骨なイジメはないようだけど、部員以外の友達をみたことはない。弁当箱の噂だって、意地の悪いニュアンスで広まっていたのかもしれない。
だが、「いじめ、よくない」というスローガンのような気持ちの手前に「さもありなん」という気持ちもある。あんな風に喜怒哀楽の独特に過剰な人は絶対に「浮いてしまう」だろう。
でもそれは、乗用車の中にF1カーが交じったら、というような意味でだ。
教室の皆に自分が仲間はずれにされているのではない、自分が皆を置き去りにして仲間はずれにしているんだ――部室で続く「最後の晩餐」のとき、そういう逆転の見立てを、部員のうちの気弱そうな何人かは抱いているようにみえる。だけど頼子はそういう虚勢すら張っていない。ただもう目の前のアクションに、全力で正直なリアクションを返している。
不意に尾ノ上のことを思う。部員からも嫌われてしまった尾ノ上は、今どこでご飯を食べているだろう。
終業式の放課後は皆、声が大きい。足取りも軽い。
「おえーす」「おーす」とカウンターの望美に声をかけ、部室に入っていく部員の多くの手にはコンビニの白い袋がある。終業式だから、昼飯を外で買ってきたのだ。どこの家のお母さんも弁当作りは大変だろう。大変だけど、作るのが偉い。自分が毎朝、冷凍のカニクリームコロッケやプチトマトをせっせと詰め込んでいる未来というのが想像できない。
そういえば、昨日あんなこと[#「あんなこと」に傍点]があって、頼子の弁当箱が重箱のようになったらどうしようと思っていたが(どうしようもなにも、どうしようもないのだが)登校時にみたら変わらなかったので、安堵なのかガッカリなのか望美は分からなかった。空手部の人の弁当箱はどうだったか、尋ねてみたかったが出来ずにいた。
「おつかれ」部長の声まで少し大きく、明るい。昨年も、おととしもそうだった。成績が悪かった者も、もっと悪くて補習のある者の心も、とりあえずは解放感に満ちる。この放課後はいつもの、翌日までのインターバルとは違う。先まで当分ずっと続く長い長い放課後の始まりなのだ。
家族で長期旅行する沙季以外は皆、夏休みも部室に入り浸るだろう。
「おえーす、あっ」樫尾は景気よく通り過ぎそうになって、あわてて戻ってきて鞄から分厚い本を取り出した。図書室の本ではない。
「これ、前にいってたやつ」といって電気グルーヴの本を手渡してくれた。何度も読んだらしいソフトカバーのそれは、死神の描かれた表紙もボロボロだ。
「絶対に面白いから!」
「ありがとう」人のオススメ本を借りるのは、本当は少し苦手だ。つまらなかったとき、当たり障りないことをいって返す。でもそういう態度を上手にとる度に、この世界のなにかを欺いている気がする。望美は友達と映画を観にいかない。劇場では「高校生友情プライス」なんて煽ってるけど、あれはマズイと思う。感想が違うと、それだけで険悪になりうる。電気グルーヴの本は、面白いに決まってるという確信があったから、安心して借りた。
皆と同様に白い袋を提げて入ってきたナス先輩は、部室ではなくカウンターに入ってきた。望美の隣の油圧式の方の椅子に座った。
「どう」
「終業式の日は、いつも暇だよ」
「そうか」終業式の放課後に本を借りに来るのは先生ばかり。
「昨日のインタビューの子、どうだった?」菱井琴子へのインタビューが(当人にはどうであれ)校内中の評判を呼び、次の「私のオススメ!」欄も、本の虫みたいな片岡哲生なんかではなく、「写写丸路線」でいくことに決定してしまった(部員女子から「美少年路線」の希望はなぜか出なかった)。本当の「雑誌」みたいな生き物っぽさをそこには感じたから、望美も賛成してしまった。
「うん、普通だった」好きそうな話題をふってあげたのに、そっけない返事。ナス先輩はこないだの会議以降、物静かになった。
「夏休み、どこかいくの」
「ん、どうだろう」ナス先輩は回りだした。
小柄だから、狭いカウンター内でも椅子の回転ができる。片足で軽く床を蹴り、くるんくるんと回り、片足でブレーキをかけてとまる。頼子と同じくらい上手だ。「あのさぁ」というナス先輩は俯き気味だ。なにか、話したいことがあるのだ。だから部室に入らなかった。望美は俄《にわ》かにどきどきした。
「どうしたの」
くるんくるんと回り、また椅子がとまった。いうことに決めたんだと分かった。
「中山さん、俺、作家になる」望美の方をみて、ナス先輩はいった。
「そう」望美は前から分かってたみたいな頷き方をした。
「うん、前から決めていたんだ」
「そうなんだ」
「もしその、作家の林さんて人が文化祭にきてくれたとするでしょう」
「うん」
「その後になって『俺、作家になる!』じゃ、もろに影響うけたみたいでしょ、だから一人だけにでも、今のうちにいっておこうと思ってさ」
「ナス先輩!」沙季が勢いよく声をかけてくる。
「どうでした、昨日の写写丸インタビュー!」
「駄目だよ、健太郎がはしゃぎすぎたからさ、全然教えてくれないの!」ナス先輩は瞬時にいつもの態度になった。
「メアドも?」
「ていうか、もうね、『マネージャー通して』って感じ」
「タカビーなんだ?」
詳しくは健太郎に聞いてみろよ。ナス先輩は、追い払っているという風に聞こえない言い方をした。沙季はハハハと喜びながら小走りで部室に入っていく。
「あいつのスカートの短さは犯罪的になってきたな」後ろ姿に、少し照れくさそうにつぶやいた。
「誰かにいうことはいつ、決めたの」尋ねながら、望美はナス先輩をみた。ただナス先輩をみるだけでなく、彼の座っている場所[#「場所」に傍点]をみているのでもあった。昨日、同じ場所に(もっとおとなしくだが)座っていた能見さんが頼子についてもらした感想を思い返していた。
「いつからだっけ」
あの会議のとき、ナス先輩は幸治の体に半分隠れていたけど、気配は濃厚だった。恋をしていることに気付いてしまった少年みたいだった。
……皆、本当に実感したことはすぐにいわない。心にためて、助走をつけてそれから「いう」んだ。
ナス先輩はいいたいことをいえたからか、優雅に一回転してみせ、部室に入っていった。
[#改ページ]
6
片岡哲生に関するさまざまな目撃談
〈1〉
綾は五月の放課後、図書室の入り口で「つぶやかれた」という。
昨年まで同じクラスだった女子生徒――仲が悪くもないし、友達というほどの関係でもない――と、円卓の前で話していた。本を探しにきた彼女のために調べて、貸し出し中であることを告げ、「そうか」といわれ、あと特に用事はなくて、「ダベっている」状態。円卓には部長が担当した「映画化原作本」が扇状にディスプレイされている。皆で映画雑誌のコピーやインターネットの情報をもとに、めいめいの思い入れの言葉も書き添えて、書店のポップのようにそばに配置した。『ハリポタ』『セカチュウ』に混じって、三島由紀夫《みしまゆきお》の『春の雪』や、筒井康隆の『時をかける少女』、山田詠美《やまだえいみ》の『風味絶佳』、ジョン・アーヴィングの一連の長編、少し古いものだとバロウズの『裸のランチ』など、何人かの部員の背伸びした趣味が反映されている。だけど扇が崩れていないということはあまり手にとってもらってないということ。目の前に立っているのに、彼女も気にしていない。
先日発売された、誰某のCDを買おうかどうか迷っているという話題に綾は相槌をうっていた。自分が目の前のどの本をディスプレイしたか、彼女に教えなくてよいと思いながら。
インディーズ時代からずっとファンで、シングルもアルバムも逃さずに買っていたが、最近は迷っている。うんうん。
それは、「だんだん好きではなくなってきたから」ではなく、彼らが「売れてきた」からだという。まだあまり売れていないうちは応援にも熱が入ったが、売れてしまうと嬉しい反面、自分が買わなくてもいいような気がしてくる……。綾はそのミュージシャンに興味がなかったが、「そういう気持ち」が内面に兆すことについては、自分にも覚えがあった。「分かる分かる」といおうとした、そのとき
「そりゃ、買うべきだね」横合いから声があがる。
円卓の横の、新聞台の新聞をめくっていた男子生徒が、二人のほうはみないでつぶやいたのだった。
「なんで?」というその子の問いは、前から知り合いで、会話も最初から男を交えてのものだったというように自然なものだった。
「すぐ廃盤になるから」
「売れているのに?」会話の始まった二人の、その両方を綾はみた。話に出ている新曲は知っていた。テレビの音楽番組で歌っていたから。
「すぐだよ、すぐ」
綾と女子生徒は顔を見合わせる。
「十年後に欲しいと思っても、手に入らないよ」そういうと、新聞は(まだめくっている途中なのに)もういいという風に、すっと場を離れていってしまった。
「なんでそんなこと分かるのさ」
男子はもう入り口の扉をゆらしていた。
「誰」
「なにいってるの、あんたのクラスの片岡君だよ、転校生の」彼女もそういう表情ではあったが、綾はそれよりもう少し釈然としなかった。
〈2〉
ナス先輩は五月の終わりの昼休みに体育館で出会ったという。ナス先輩はクラスにも友達が多いから、ときには昼休みに図書部室にこなかったりする。
片岡哲生はものすごいロングシュートを決めたのだった。
(「スリーポイントどころではなかった」)
最終ピリオド――といっても昼休み休憩は、昼食をとる時間を差し引くと短いので、前後半あわせて二ピリオドなのだが――ナス先輩は、現在NBA下部のチームに所属、再昇格をうかがう田臥《たぶせ》選手ばりの小回りで(実際に心中で「田臥抜いた!」とアナウンスしながら)しつこいディフェンス二人の間をかいくぐった。シュート!
見上げたとき、ボール[#「ボール」に傍点]がバックボードに勢いよく当たった。ボールはそのままバスケットに入り、あれ、と思った。なぜなら、まだシュートしてないから。かなり遠くからのシュートだったというのはバックボードに当たった角度と強さで分かる。ぶるぶると震えながらボールは、ゆっくりネットを潜り抜けてくる。
皆、いきなり動作をやめることができなかった。ゴールを背にしたディフェンスはナス先輩のボールを払い落としてしまった。
振り向くと、謝る形に片手をかかげ、男が近づいてくる。
「なんだよ」抗議の声をチームメートがあげる。ゴールを奪ったボールは勢いを失ってはいたが、背後でまだはずんでいる。
「邪魔してごめん、つい」男が、かなり遠くから歩いてきたので、ナス先輩はゴールを振り返って、改めて距離を目算しようとした。
二面に分けられたコートのもう片方ではドッジボールが続いている。こちら半分だけ時間が止められてしまったみたいだ。
つい、という以上の弁明の言葉は男から出なかった。ナス先輩は男の体をじろじろ観察してしまう。空手部の大野のような太い腕を思ったのだが、むしろほっそりと華奢なムード。
「ごめんね」男は制服を着替えてもいない。バスケットボールを片手で掴んだ瞬間に、ナス先輩は思い出した。
顔をではない。その掴みに見覚えがあるのだ。カウンターから差し出した六冊の単行本を片手で易々と掴んで持っていく、その手に。
皆、あのとき呆気に取られたのだとナス先輩は思っていたが、男が去るとすぐに試合は再開したし、試合後に話しても、「そんなすごかったっけ」という言葉が返ってきた。皆、あのロングシュートを信じなかった[#「信じなかった」に傍点]のだとナス先輩は思う。
シュート体勢の視界に別のボールが入ってきたとき、瞬間、SFのように思ったのだとナス先輩は語る。
〈3〉
沙季は美術室の窓際にたたずむ姿をみた。
片岡哲生は泣いていたという。
(何人かが手をとめ、顔をあげた)
六月の、衣替えのあった翌日の朝、沙季は美術室にいった。樫尾に借りた漫画を返しにいったのだ。三桁の数字を合わせる錠の番号は893、ヤクザと教わっていた。
美術室には何度も遊びにいっていた。部員でもないのに入り込んで、樫尾も含めて何人かでダベる。そうやって出入りしていて、これまで思ったことがなかったが、この日の部室はひんやりとしていた。
きっと、急に半袖になったからだ。外は曇っている。細い両肘をさするようにして室内を歩く。美術室は二部屋に分かれていて、授業に用いられないこちらの部屋はイーゼルだらけ。
樫尾の描いている絵は「ビヨーン ビヨビヨ BE YOUNG」という題名。
カンバス全体にビヨビヨしているとしかいいようのない描きかけの油彩画があって、椅子に座って少し待ってみる。両耳に、買ったばかりのMP3プレーヤーのイヤフォンを耳に入れた。プレーヤーは小さくてかわいいだけでない、プラスチックの材質が安っぽくないところが気にいっているが、沙季の小さな耳にイヤフォンのサイズが合わず、すぐに取れてしまうのは困る。
どのカンバスも同じほうを向いていて、その中心にモデルが立っていたみたいにみえるが、どれにも違う絵が描かれていた。美術部員は全員、市が開催する芸術展に応募することになっている。入賞すると、秋に市民会館で行われる表彰式で、ウグイス嬢のようなアナウンサーが、題名を読み上げる。
「その、アナウンサーが真面目な声でいうときに一番変な」題名を樫尾は考え抜いたのだというので、沙季は樫尾が佳作でいいから入賞してくれないかとわくわくしている。
前方の扉があいて、男の子が入ってきた。
イーゼルとカンバスで、後方の沙季のことはみえないようだ。そのとき沙季は、なぜみつからないほうがいいと思ったのか、自分でもよく分からなかった。音漏れのないよう、MP3プレーヤーの音量を下げたりした。
ビヨーンビヨビヨの向こう側にみえるのは、たまにみる顔だ。美術室ではなく図書室で、いつもたくさん借りていく男。借りていった後で、真っ黒な貸し出しカードを「ほら」と部長にみせてもらったことがある。
男は憂いありげに窓の外をみている。
いつもそうするように、沙季は遠慮なく男を値踏みした。顔は悪くないけど、痩せすぎかな。窓からは野球部の早朝練習のかけ声が、図書室にいるときよりやや小さめに響いている。美術室は図書室の上階だから、小さめなのは道理だ。
なにを憂いありげにしているんだろう。なんだかナルシスティックにみえた。本当の本当に憂いというもののある同世代の男を、沙季はみたことがない。総じて男の子は幼いものだ。それなのに、ときどき一足飛びな行動で、戸惑わせてくる。
目の前の男に、八つ当たりのような念を送ったら、その頬に、つー、と一筋涙がこぼれた。
えっ。
(ただアクビしたんじゃなくて? 頼子がいった。沙季は首をゆっくりとふる)
沙季はまず慌てて、ますます首を引っ込める。でも様子はみたいから、結局、今度はビヨビヨの横からのぞき込んだ。
「バーッチコイラー」窓外から聞こえてくる野球部のかけ声は、いつまで聞いていても、なにをいっているのか決して分からない。
(男は窓の外のなにをみているんだろう。もう、何人も登校してきているはずだが、見下ろして誰かがくるのを待っているという風でもなさそう。涙の筋のついた横顔をみているうち単純に、とにかく何かあって、悲しいんだろうと思った。「かわいそう」という単純な言葉が浮かぶ。自分の失恋を思い出し、胸が少し痛む。本当に、ただ悲しいだけなんだ。失恋した人に、「もっといい人みつかるよ」なんて励ましの言葉をかけてもそれは無意味で、本当は誰もが「ただもう無闇に悲しい」だけ。男も女も、きっとそう。沙季は男をみてそういう風に思ったことは皆にいわなかった)
片岡哲生は中指の腹で女の子みたいに涙をぬぐった。ぬぐい終えると、泣くことが主な目的だったみたいに、少し鼻をならし、出て行ってしまった。
惜しい! 上靴の踵《かかと》は踏んでいていいけど、靴下がすれているのはちょっと駄目。沙季の値踏みはまだ続いていた。
(駄目なの? 幸治が素朴に尋ね、沙季は首をゆっくりとふる)
〈4〉
岩田は放課後遅く――何月だったかは忘れたが――校舎内で自転車をこぐ[#「自転車をこぐ」に傍点]姿をみた。岩田はヘッドホンから聞こえる歌を口ずさみながら廊下を歩いていた。美術室、男子トイレを過ぎて端の角を曲がれば階段。
「嘘だろ 誰か思い出すなんてさー」
というサビの一番いいところで角を曲がり、そこで階段をのぼってきた男とばったり出会った。しまった! 反射的に、とにかく口をつぐんだ。
(あるね、そういうの、と手を動かしたまま健太郎がいい、なにその歌、と頼子がいい、知ってるそれ、と綾がにやりとした)
しかしいつもなら生じるはずの気恥ずかしさがなかったのは、男はマウンテンバイクをかついでいたからだった。たくさん借りていく、たしか「片岡」という男だ。
思わず後戻りして、角を曲がっていった片岡の様子を追ってしまった。
自転車?
廊下に出た片岡は、かついでいたマウンテンバイクをおろして、またがるところだった。
えっ。岩田の驚きには頓着せず、というか背後の岩田を気にせずに、そのままこいで遠ざかっていく。ターラーラーラー……片岡はメロディを口ずさんだ。自分がさっき歌っていた曲の、間奏を片岡哲生が引き継いだということに気づくのが遅れた。廊下の窓から差し込む夕日に、歌う片岡と自転車の影が反対側の壁に伸び、伸びきって消え、伸びて伸びきって消え、を繰り返す。向こうからきた女子生徒二人組が「うわっびびったー」「びびらすなよ哲生ー」と、岩田が言いそびれた言葉を野太い声でいった。
〈5〉
登美子は谷地リンナと会話する姿をみた。
七月の初めの休み時間。階段を上っていく途中の、踊り場に二人はいた。やはり、あれだけたくさん借りる男だから、文芸部の人と仲がいいんだな、とだけ思い、通り過ぎようとした。
「あなた」鋭い声音で登美子は谷地リンナに呼び止められる。
(リンナに似てるー! と綾がいい、登美子はさらに似せようと両手を腰にあてた)
「あなた、トンちゃん……大岡さんに伝えてくれる」威厳に満ちた態度。
「はぁ」なんで私のあだ名を知っているんだ! 登美子は後じさりそうになる。
「私たち今度、A市の主催している市民文学賞に全員で応募するから……って」
「はい」(ははーっ)。ほとんど会話したことはなかったのに、もう主従が決定づけられている、そして自分は下であるということがいきなり了解され、登美子は会釈と同時に小走りで階段を下った。三階の教室に用事があったのに、図書室に引き返さなくてはと思ったのだ。
片岡哲生が面白そうな顔で二人のやりとりをみていて、登美子は少し恥ずかしくなった。階段を急いで下りながら考える。あの読書家が文芸部の人とともにいるのはなんだかマズいことなのではないか、と登美子は漠然と不安になった。
(別に関係ないよ、ナス先輩がハサミを動かす手を休めていった)
〈6〉
頼子はよく片岡哲生をみる。
体育館の、全校集会で各クラス男女二列に並ぶと、左斜め前が片岡哲生なのだった。転校生ということも、ある日突然左斜め前に「挿入」されたことで分かっていた。
頼子は別にどうという印象もない。ただの「左斜め前の男子」だ。
……ただ、あれ、と思うこともある。集会の最後の、校歌を歌うときだ。
ものすごく、うまいのだった。妙に甘いテノール風が混じっているなと思ったら、左斜め前からだ。
それに転校生のはずなのに、彼は歌詞もいきなりきちんと覚えているようだった。サビの「チェリーブラッサム」のところの発音も照れずに「ブラッサン!」と歌っている。二声のところも、きちんとハモっている。皆、校歌なんてものは適当に歌うものと思っていて、誰もがだらけた顔になっているものなのに。彼の姿勢はいつもぴんとして、こぶしも軽く握られている。頼子は、きちんと歌わなければと思っているわけでもなかったが、ふてくされた態度も嫌だったから、きちんと歌った。それできちんと歌う左斜め前の男に好感が湧いたかというと、そういうわけでもなかった。
(本当? 綾のからかうような声を頼子はにらみ返す)
むしろ頼子としては、なんだか気味が悪い。そう思うくらい無駄なうまさだから。貸し出し処理をするとき、頼子は今でも不審そうに片岡哲生の顔をみてしまう。
〈7〉
樫尾は校舎裏で五人の不良を相手に立ち回る姿をみた。
(何人かが大笑い、何人かが嘘だーという顔をした)
校舎の――文字通りの――「角」を曲がる、その前から異様な熱気が感じられた。曲がると、遠くの焼却炉のあたり、もう殺気立った雰囲気。五人に囲まれているのは図書室で六冊借りていくあの男。とばっちりを受けてはいけない。踵を返そうとしたが、ヤバそうな一人がこっちをみた。むしろ動けなくなった。先生を呼びにいったなどと誤解が生じかねない。
表情を変えずに、襟首を掴まれている男がなにかいったようだ。
「……んだと、コラァ!」つかんだ不良の手をそのままねじり返すようにして一人目をノックアウト! すぐさまやってきた二人目の正面からの突きをスウェーで避け、そのまま接近、腹部に膝を決める!
「げっ」不良の口からへどが出る。残り三人は早くもびびった様子。しかし男は容赦がない。近づきざま昇竜拳! 昇竜拳! そして竜巻旋風脚! ……You win ! そして着地。
(岩田が「古いなー」と笑い、頼子がうさんくさげに顔をあげた)
手負いの不良たちは逃亡した。樫尾の脇をすごい勢いで――怖い対象からというよりは、その場にある屈辱から逃げるように――通り過ぎ、角を曲がっていってしまった。
ぱんぱん、と手を払うかと思ったがその動作もなく、男はこっちに歩いてきた。
「哲生くーん」頭上から声。見上げればいつの間にか空が晴れ渡っている。三階の窓から女子生徒が手を振っているらしい。逆光で顔はよくみえない。哲生は軽く手をあげ返し、歩き出す。いたって涼しげな足取り。樫尾は慌てた。引き返すのも立ち止まっているのもなんだか不自然で、樫尾はついそっちに歩き出してしまった。校舎と塀の間は幅広で、肩をぶつけあうようなことはないだろう。
さっきの不良と自分は無関係で、さも、その向こうに用事があるという風に――といってもその奥には焼却炉しかなかったが――歩いてみた。さらに思いついて、いつものごつい携帯電話を取り出す。着信のあったふりで「ああ、もしもし? 俺オレ」などといいながら通り過ぎる。なにがオレオレだ、と自分のことながらバカバカしく思ったが、なにげなく演じるのに夢中で、通り過ぎるとき哲生が会釈をしたのに、無視した形になってしまった。
思わず通話の演技を忘れ、振り向いてしまう。なんで。哲生の脚はすっすと速く、すぐに角を曲がる。
なんで俺、あいつに会釈されるんだ。そこで樫尾の携帯電話が本当に[#「本当に」に傍点]着信し、丸いサブ液晶画面が輝いた。
「もしもし? あぁ、うん……なに、別に、なにもしてない」煙草を吸いにきたということすら、樫尾は忘れていた。
〈8〉
幸治は二つ先のバス停前のコンビニでメンチカツパンを買い食いする姿をみた。腹が減って仕方がないという風に袋から取り出し、パクつく片岡哲生……。
(「なんか、今までのイメージとちがーう」沙季が顔をあげていった。「本当なんだって!」幸治は真顔で頷く。「茶々いれるなよ! やり直し!」)
〈8〉
幸治は二つ先のバス停前のコンビニでメンチカツパンとサイダーを買い食いする姿をみた。
(増えてるし、と健太郎がシールを貼りながらいう)
桜ヶ丘高校前のバス停からさらに一つ分歩くと、買い食いに最適なコンビニがある。部活の合間にここまで歩いて買い物に来るのを図書部でも柔道部でも「遠征」と呼んでいた。
買い食いしているのは、図書室で何冊も借りていくことで話題になっている男だ。ザキパンのメンチか、ふむ。幸治は一瞬でみてとった。ヤマザキパンのことを幸治は「ザキパン」と呼ぶ。幸治の一番のお気に入りはダブルソーセージパンだが、売り切れのときはメンチを選ぶ。
総菜パンのコーナーまでいくと、どちらも売り切れていた。ちっと舌打ちをする。入り口近くの漫画雑誌のところまで移動して、バス停の前でモグモグやっている姿をうらめしくみやる。
男は携帯電話を取り出した。
「あぁ、もしもし? 俺? あぁ」
(本当にそんな口調? 綾が笑う。「本当だって、作ってねえよ!」)
「マジで? うっそマジで? あぁ、うっそ超ウケる」だらしなくしゃべり続けている。
電話の話し声が漏れ聞こえるのはコンビニに人が出入りして自動ドアが開いているときだけで、その後あまりドアは開かず、会話は断片になった。
窓の外の男はとにかく気安い様子で、その携帯電話が発売されたばかりの、ワンセグ放送とネットもみられる最新型だということに幸治は注目した。男性雑誌のコーナーから、いつも健太郎が持ってくるオヤジ週刊誌を取り出し、立ち読みのふりで見守る。聞き取れた男の会話の合間に「琴子はさぁ」というのが混じった気がしたからだ。学校一のアイドル、菱井琴子|※[#全角クン]《クン》と会話しているのではないか? バス停には男の他、誰もいない。
だとしてもどうということもないのだが、よりよく聞き取るべきと幸治は思った。しばらくオヤジ雑誌越しに観察していたが、驚いたのは、男がもう一個、携帯電話を取り出したからだ。
それは、幸治がこれまでみたこともない、未来的な形の電話だった。ワンセグの電話の相手になにかいって慌てて切った後、男は白くて小さいすべすべとした電話に持ち替えた。バスがやってきて停車した。エンジン音で会話はまったく聞こえなくなった。男はさっきとはうってかわった、とても深刻な表情になっている。
バスを降りたうちの一人がコンビニに入ってきた。
「うまくやります。抜かりありません」自動ドアがあいているうちにわずかに聞こえたのは敬語だった。
客がすべて降り、バスの扉が閉まる、空気の漏れるような音に続きまたエンジン音。バスが行き過ぎると、大人びた表情になった男は小さな電話をポケットにしまった。
ガラス越しに目があった。男はにこっと微笑み、唇を動かした。幸治の手元を指さして、また同じ唇の動かし方。
写・写・丸。男の唇はそう動いてみえたが、本当にそうか分からない。とりあえず幸治はうなずいてしまった。それで、男は学校と反対方向に、手ぶらで歩いていってしまったのだった。
〈9〉
「じゃあ、俺はね……」透明の保護シールを貼る手先に集中したまま、健太郎がいった。
「三階の男子トイレの小便器に大便をする片岡哲生をみた!」と健太郎。どっと沸く一同。
「それはさすがにちょっと……」ナス先輩が笑いながら本を置いた。
「本当だって」
「……ないだろう!」
「大体それは昨年の話でしょ!」本当にそういう事件があったのらしい。全校集会で校長先生が怒って、しかし怒っているからではなく、その内容に騒然としたのだった。静粛に! と教頭先生が二、三度いさめたのだ。
望美はなんとなく天井をみた。そんな話があったな、という思いと、それがもう去年のことということの驚きが入り交じった。またもうすぐ、昨年のように文化祭の準備で泊まり込みになる。出前をとったり、怖い話で誰か泣かせたりするんだ。
「あれって犯人分かったんだっけ?」
「さあ」
「分かったらヤバいでしょ」
「だから、片岡君だって」と健太郎。
「まだ、転校してきてないじゃん!」綾のツッコミはやはりいつもまっとう過ぎる。
「あ、お帰りなさい!」登美子が明るい声をあげ、入り口に背を向けていた皆もふりむいた。
「あんたたち、冷房効かせすぎ」部長が浦田と二人で立っていた。背後で両開きの扉が揺れている。二人とも両手に大きめのコンビニ袋。樫尾が立ち上がり、受け取りにいく。片手の荷物を預けると、部長はすぐさま壁により、照明スイッチのそばのエアコンの温度調節パネルに近づく。
「休憩休憩!」部室ではない、図書室内のテーブルで作業をしていた部員全員がほっとした表情。影の薄い浦田は黙って部室に向かった。きっと自分の買い物を冷蔵庫に納めにいったのだ。
「けっこう頑張ったね」貸し出し処理の電子化のためのバーコード貼り付け作業の、今日は初日だった。本の埃をとる役、特殊なバーコードの印刷されたシールをハサミで切る役。本の背に貼る役。透明の保護シールを切り分ける役。透明シールを貼る役。皆、のびをしたり立ち上がったりした。
「あと一週間もかからないかもね」カウンターに読み取り用のパソコンが導入されるのは夏休み明け。蔵書に読み取り用の特殊なバーコードを貼る必要がある。全蔵書は無理だが、よく借りられる文芸書、漫画だけでも夏休み中に終わらせるというのが部長の希望で、皆、ぶうぶういっていたが、ほとんどの部員が作業に集まった。
「野郎どもー、戦利品だー」コンビニの袋をテーブルにどっさり載せたナス先輩は海賊口調になって、椅子にのって皆を鼓舞した。
「イェー!」
小田原先生が買ってくれた差し入れの袋の、「物資」を皆で見分する。登美子が「あっそうか」といってお湯を沸かしに部室に戻る。
「エンゼルパイ!」エンゼルパーイ!
「みたらし団子ー!」ミタラシー!
「マクビティのダイジェスティブビスケット」マクビティ!
「おせんべー」オセンベー! 皆、変なかけ声をあげだした。
「ケーキもあるよ」部長が背後で腕をくみながらいう。さっき浦田が冷蔵庫に持っていったのがそれだろう。
ケーキィ! あちこちでハグする者、うなずきあう者……甲子園出場を決めた応援席みたいだ。皆、疲れていたんだな。日が高いから気がつかなかったけど、野球部もいつも通りのかけ声だったけど――望美は窓の外をみる。もう、だって六時だ。
「まだ、望美先輩が話してなーい」沙季がいう。紙皿に載せたケーキを部室ではない、図書室で食べる。いつもの部室よりも広く開放的で、皆、どこか動作が大きいのはそのせいだ。買ってきたケーキにバリエーションがないのが、望美には少し残念だった。大勢で箱の中のケーキを囲むときの醍醐味は、チーズとかチョコといった好みの主張や譲り合いにこそある。でも、どうせ喧嘩になるだろうから、という「心地よい子ども扱い」が感じられて、それはとても部長らしいことだ。
「そうだよ、そうだよ」
まだ部長と浦田だって話してない。
「特になにもないよ」ケーキを取り囲むフィルムを紙皿の脇に置いて、普通の抑揚で望美はこたえる。
本当は、なにもないどころではない。片岡哲生をまだ一度もみたことがない[#「一度もみたことがない」に傍点]といったら皆、驚くだろう。本のバーコード貼り作業の間ずっと交わされた、本当か嘘か分からない遭遇話のどれよりも奇異なことかもしれない。まるで何か大きな力が邪魔しているかのように、その不可思議な男に自分だけが会えない。もう、そういう運命なんだろうと思っている。
皆も結局、片岡哲生のことがよく分かってない。あんなに面白がったのに、今はケーキに夢中だ。それに皆、掛け値なしの本当の目撃談を話したであろう人でも、そのとき思ったり感じたりした、その全てを話してくれたわけではないだろう。それはそうだ。紙皿の上のケーキは少し食べるとすぐに倒れた。
皆、騒いでいたから、両開きの扉が揺れたことにしばらく気づかなかった。
「谷地さん!」部長がいった。入り口から数歩入った、ディスプレイの脇に谷地リンナが立っていた。恰幅のいい体で、両手を腰につけると勝ち誇ったようだ(さっきの登美子の物真似があったので何人か、笑いそうになった)。手に、雑誌が丸められている。文芸雑誌だ、望美は気づいた。
部長はフォークを置いて立ち上がった。
「どうなさいました」昨年も、文化祭の演《だ》し物の様子を、互いの陣地に向かって探り合った。今年、図書部は出遅れているが、林歌子公式サイトに、皆で考えた文面のメールを出したばかりだ。
「あなたたち、司書の金子さんのことご存じ?」谷地リンナは文化祭のことではない、やめていった金子先生の名前を出した。
「金子先生がどうしたの」
「受賞したの、金子さんが文学新人賞を受賞したの!」望美はまずナス先輩の顔色をうかがった。それから部長の顔を。
「嘘!」ナス先輩が大声をあげた。
「そう、あなたたち、知らなかったんだ」少し間をとって発した谷地リンナの声にはいくぶんか、優越感がにじんでいた。何人か驚きの言葉を発したきり、皆、黙ってしまった。驚きと喜びと、そして、何に対してか分からないが焦りのような、簡単に言語化できないがたくさんの気持ちが心いっぱいに広がる。
望美は、冷笑されることはどうでもよくて、そのことが載っているらしい、谷地リンナの手の中の文芸雑誌をみたい、すぐにでも。切実に思った。
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7
望美はコピー機の前でコピー用紙の束を揉みながら、OLになった自分を想像する。自分と同じ制服(ダサい)を着た後輩に、同じようにコピー用紙を揉んでみせている様子を。
「『ふっ』ってやるの」いいながら、束を渡す。
「ふっ?」手渡された堀越さんは自分がそうされたみたいに、くすぐったそうな顔。四月ごろだったか、沙季も、すぐに来なくなった一年生もそんな顔をした。
「何度かふって息をふきかけて、束の中に空気を入れないと、紙詰まりしやすいから」いわれた堀越さんは束の側面をみつめる。堀越さんは初めのうち沙季に連れられてたまに顔を出していたくらいだったのが、だんだん図書部全体になじんでいった(餌付け成功、と部長はいっていた)。沙季みたいに嫌がるかと思ったら、堀越さんはふーっと息をふきかけた。
「もっと強く」離乳食を冷ますんじゃないんだから。
「アハハ」堀越さんは笑う。望美も少し笑う。自分の今の喩えが、けっこう的確だった気がして。
「やっぱり先輩やってください」やはり束を返される。
「ンモー」
望美は一年生のときに金子先生に教わった。金子先生はこんな風にマンツーマンで伝授したのではなかった。新入部員を集めて、まとめて指導したのだ。
金子先生があのとき例としてつかんだコピー用紙の束は、今、望美がつかみとって堀越さんに渡した量の三倍、蕎麦に対してのうどんくらいの差はあった。コピー機のトレイには一度に五百枚の用紙をセットできるが、望美はいつも二、三回に分ける。金子先生は――さすがに五百枚ではなかったかもしれないが――一度ですませてしまうのだった。
「こうして、まず紙を揉むのね……」いわれたが望美は手元だけでなく、仁王立ちというべき脚のスタンスも見逃さなかった。その様子は電話帳を破る前のレスラーを思わせた。
「そして、間に空気を入れないと、機械に二枚同時に送られて、そうすると紙詰まりするから……」
ふっ!
金子先生が何度か強く息をふき込むと紙の端が音を立てて震え、みっしりとした束は真ん中から少し脹らみをみせた。空気が通り抜けて脹らみはおさまったが、側面には、それが紙の集合だということがより分かるズレの層ができた。
皆、黙ってみていた。望美は昔テレビでみた人工呼吸を連想したが、その――技術や度胸を含めたあらゆる意味での――見事さに気づいたのは、自分でやるようになってから。
「駄目、やって」金子先生の白衣の立ち姿や、あるいは部長の威厳ある態度を思い出しながら(思い出すことで、少しでも威厳が我が身に乗り移るよう意識しながら)紙を堀越さんに返す。
今、図書部では、この「ふっ」は、おおむね望美の仕事。別に構わない。でも、自分が卒業した後、困るだろう。誰かがこれを伝承[#「伝承」に傍点]しなければ。
「北斗神拳は一子相伝」と、兄は無駄に厳かな口調でいってたっけ。堀越さんに受け継いでもらわないといけない。
「えー」堀越さんは望美の顔をみて、それから背後のビデオルームのドアを振り向いた。
「誰もみてないみてない」
「えー」堀越さんは諦めず、もう一度望美の顔をみる。
本当をいうと、女の子が「ふっ」をためらう様子は、その寸前までとてもかわいい。観客が自分しかいないのが勿体無い。「うら若きおなごのコピー用紙にふっをためらうこそいとよけれ」と、嘘の古文体で思ってみたりする。
背後で扉があいて、富田先生が入ってきた。手にプリントを持っていて、急ぎのようだ。
「紙詰まりか? 急いでるんだけど」
「あ、すぐに紙いれます」ずるそうに笑いながら、堀越さんは望美に束を渡した。
「ンモー」
ンモーは最近の図書部の流行。かつて先輩が部室に置いていって、少し前の部室内大掃除で発掘された[#「発掘された」に傍点]「かりあげクン」(一冊だけ)の、女性キャラクターがイタズラされて困惑するときの台詞だ。
やるとなったら、金子先生の手本のようにやる。ほら、全然恥ずかしくない。金子先生のことを思うとき、気持ちが高まる。「テンションあがる」というべきか。(こんな風にためらわずに、ふっとしていたから……)トレイに紙をセットして、コピー機の腹に綺麗に差し込んでみせる(新人賞も、受賞できたんだよ)。ガチンといい音が鳴り、コピー機上部の液晶表示が輝き出す。
「おまえら、今からもう文化祭の準備してるんだってな、調子はどうなんだ」終始だんまりというのも気まずいと思ったらしい、富田先生が話しかけてきた。
「そりゃもう、バッチリですよ」先生に対してそんな必要ないのに(そこまで気安い関係でもないのに)、堀越さんは揉み手をするような口調で応じた。樫尾や岩田とたくさん接して、部長にお追従《ついしょう》をいうキャラ≠ェ移ってしまったのだ。
「そうか、バッチリか」富田先生も夏休み中で、少しリラックスしてみえる。おめでたい額が、さらに明るくみえる。自分のコピーが終わると、先生は出てきた紙だけ手にとって立ち去ろうとした。
「あ、先生、こっちも」コピー台を開けて、原稿をつまむ。コピー台のガラス面に指紋をつけないよう、紙の中央に力をかけてつまみとるのがコツ。
「そうだった」振り向いた先生は照れ笑い。
「沙季はいいなー、今頃、ケロッグの水着で」先生が出ていくと、文芸誌をコピー台に載せながら堀越さんは南国に旅行中の沙季に思いを馳せる。
「ケロッグの水着」望美は反芻する。文芸誌は分厚いから、蓋をしづらい。職員室にあるコピー機は最新式で、用紙をはさむ蓋に仕掛けがあり、本のコピーもしやすくなっている。しかし富田先生もビデオルームまで旧式コピー機を使いにきたくらいだから、自分たちがいっても長時間待たされるだろう。
「買ったっていってました」コーンフレークのパッケージに描かれている、あの国籍不明の、ぐにゃっと伸びそうな虎のキャラクターが描いてあるんだろうか。
「『いいなー、今頃ハワイで』じゃないんだ」コピー機の中で光の棒が往復しているらしい様子を眺めながらいう。
「ハワイは別に。でも海にはいきたいです」そういって堀越さんは窓の方をみる。
やっぱりね。望美は思う。どこかよそのことに思いを馳せるとき、必ず「外」をみようとする。野球部は合宿にでもいっているのだろうか、数日前からグラウンドは静まり返っている。
金子先生の受賞作のために、望美は初めて文芸誌を買った。書店のレジに出したとき、無理に背伸びをしているようで、少し高価な服を買うときに似たためらいがあった。部員は皆、望美から借りたがった(文庫ばかり読む綾や登美子は裏面の価格をみて火傷したような勢いで「高っ!」と声をあげた)が、コピーするにはページ数がけっこうある。
「受賞の言葉」と選考委員の「選評」だけでも、図書室の壁に貼り出そうよと部長がいった。夏休みが終わる前に、ディスプレイも「金子先生おめでとう特集」に変えよう、と。
「受賞の言葉」のページには金子先生の顔写真も掲載されていた。白衣は着ていない。紙質もよくないし白黒だったが、それでも先生の美しさは伝わる写真だった。いつもの少し(なんにかは分からないが)誇らしげな顔より、やや堅めの表情。
先生の受賞の言葉をすでに望美はほとんど暗記していた。
[#ここから1字下げ]
十代を正しく無為に過ごし、二十代はいろいろ面白いぐらいに間違えました。遅れてやってきた自意識と戦い、さまざまなハラスメントを鈍感さで乗り切ったところで三十代。読み、書くことで世界を知り、受賞したことで、今後なにが起きても自分は勝ちだと思えるようになった。自分の出会ったすべての異性に感謝。あ、同性にも!
[#ここで字下げ終わり]
一文ごとに、さまざまなことを思わずにはいられない。血が泡立つような興奮があるし、尊敬の念も増す。一方で十代ごとに実感が変わるのは論語のようで案外古典的なフォーマットだとも思う。少し軽い口調には、逆に掲載される場所[#「場所」に傍点]への意識も感じ取れる。
部長は「先生だなぁ」と得心のいくところがあったらしく納得していたし、ナス先輩は食い入るような目だった。
ところで受賞作の内容について、部員たちの感想の言葉はいたって控えめだった。
『命の方が死にたがった』という題名からして不可解だった。選考委員の寄せた選評の中の「エクリチュール」という単語を、皆はティッシュかなにかだろう、おいしそう、などと言い合っていた。死体を運ぶ男女の一夜を描いた筋自体は特に難しいわけではなかったが、作中に頻出するセックスシーンに対しては、饒舌な批評をいうことも、逆にあまりうぶな言動をすることもためらわれた。
結局、樫尾の「うん、なかなかいいんじゃない?」という、「この味がいいね」みたいなカジュアルな言葉に皆で同意したが、踏み込んで話し合ってボロが出るのを、全員が等しく避けたのかもしれないと望美は思う。部長の「先生だなぁ」だけは、内容に対して漏れた言葉でもあるのかもしれず、ナス先輩は分からないからこそ熟読しているのかもしれなかった。
伏せた文芸誌のページを一枚めくってはまたコピーを繰り返す。すぐに退屈したらしい堀越さんは、狭いビデオルームを移動して棚を見回した。
「あれって、なんですか」紙袋からクリスマスの飾り付けみたいなフサフサしたものがはみ出てみえる。
「先生の私物らしいよ」答えながら望美は堀越さんの背後の、壁際に置かれたホワイトボードに目をやる。部長はガッカリだろうな、とまた思い出す。
キャスターつきのホワイトボードは、少し前、図書部室内に運び込まれた、学園祭の展示テーマについて多数決を採ったときのものだ。
他の部活動だと、三年生のやりたいことを優先したりするみたいだけど、図書部は完全に民主制だった。「残念」とはいったものだ。本当に、念がそこに[#「そこに」に傍点]残るんだ。登美子の一拭きで消されてしまったが、ホワイトボードに書かれていた部長の案、その文字を望美は鮮明に覚えている。
でも今、部長はガッカリだろうと思ったのは、通らなかった案のことではない。金子先生を学園祭に呼んで公開インタビューする企画を、文芸部に出し抜かれてしまったことだ。たしか彼女たちは「占星術」特集をするといっていたはずなのだが、先生の受賞と同時に切り替えてきた。
受賞の言葉を先行で展示しても、そんなものはただのコピーだ。当人がきてインタビューするのには負ける。
図書部から人気作家の林歌子先生に打診したメールの返信は、まだない。「そりゃもう、バッチリですよ」なんて、とんでもない。
文芸部と合同でやるように持ちかけてみては、とも思ったのだが、到底通らないだろう。文芸部に断られる以前に、図書部員が皆、異様な対抗意識を燃やしているから。
コピーをひらひらさせながら図書室に戻ると、部室がなんだか沸いている。客人の気配。
部室にはOBの加藤《かとう》先輩がきていた。
「こんにちは」挨拶しながら、手前の「社長席」にいる部長に、とってきたコピーを渡す。部長は台紙となる色紙にコピーを置いて、レイアウトの見当をつけ始めた。ナス先輩が待ち焦がれたように手をのばすので、コピー台に置かれて癖のついた文芸誌を手渡した。すでに一度読んだくせに、大事そうにページを開く。
「久しぶり」加藤先輩は冷蔵庫を指して「これ、いいよね」といった。コピーを取っている間もその話題で盛り上がっていたようで、加藤先輩の「いいよね」は、改めてという調子だった。
「はい、いいです」教科書英語の翻訳みたいな返答(イエス、イットイズ)。そういえば去年まで、冷蔵庫あるといいのに、は部員全員の(特に夏場の)合言葉だった。今年の四月に別の先輩が引越しでいらなくなったからと持ってきた一ドアの冷蔵庫だったが、狭い部室には邪魔なので、最近まで奥で電源を抜かれていたのだ。
「そんな緊張しないでよー」加藤先輩になぜか緊張していると解釈され、気安く腕を叩かれて「この人苦手だ」という意識を思い出す。
「……彼女は」
「堀越さん、少し前から部員になったの」
「下の名前は?」加藤先輩はかわいい子を前にすると態度が変わる。なんというか、注意深く[#「注意深く」に傍点]なる。
「え、美知《みち》です」それがなにかという口調。堀越さんはいきなり引き[#「引き」に傍点]気味。
「加藤先輩から差し入れもらったよ」登美子がいう。ペットボトルの飲み物とスナック菓子――袋入りのと筒状のと――が奥のテーブルの真ん中あたりにあって、一つはすでに開封されていて、望美もお礼をいいながら横歩きして、壁際の、なるべく奥の椅子に座る。
「いいっていいって」既に皆にひととおりお礼の言葉をいわれたらしい加藤先輩は上機嫌で、年長者が差し入れするのって気持ちいいんだろうなと望美は感じる。
それから先輩は机に尻を載せて、綾とアニメの話を始めた。望美にはかろうじて「ケロロ軍曹」のネタ(「〜であります」という語尾)だけが分かった。
健太郎と岩田はスナック菓子を食べながら、大掃除で発掘された十年前の雑誌をめくっている。ときどき「これ、ナツカシー」「あったなー」と片方が叫び、「どれどれ?」と片方が覗き込み、壁側の席の登美子も気にして首を伸ばしたりしている。
シール貼り作業も一段落して、学園祭の準備といってもまだそんなに切羽詰まってないから、部室にくる必要はないのだが、皆大体いる。ここのところ頼子の姿をみないが、来なければいけないわけでもないから誰も話題にしない。
望美も「少年ジャンプ」みたいに分厚い、昔の「歌本」をめくる。雨ざらしだったみたいにゴワゴワしていた。すでに皆の手に一通り渡って、ナツカシーと言い合っていたものだ。九〇年代のSMAPの歌詞はどれも、なんとまあ世知辛いこと。「セクハラ上司を笑顔でかわし」たり、「仕事だからとりあえずがんばりましょう」なんていっている。
本を置き、またOLになった自分を想像してみる。熱心に文芸誌に目を落とすナス先輩(同僚)の髪をみて、部長(部長)をみて、立ったまま綾に軽口をいっている加藤先輩(セクハラ上司)をみる。
金子先生も、九〇年代の歌の中の人みたいに、セクハラ上司をかわしてたんだろうか。……鈍感さで?
加藤先輩の差し入れには手をつける気になれない。自分で鞄に忍ばせていたチョコレートを一かけ頬張る。「鞄に板チョコ」は、金子先生の受賞作に出てきたので影響された。
普段あまり食べないから忘れているが、板チョコはいつも律儀に、期待通りに、その都度、同じようにおいしい。端までずっと一様に同じ味。口の中でかけらを溶かしつつ、夏休みがもうすぐ終わるなーと思いながら、ノビをする(少なくとも今、我々は無為に過ごして[#「無為に過ごして」に傍点]いるな)。
始業式の数日前に、貸し出し処理用のコンピュータがやってきた。皆の予想に反し、ノート型だった。テンキーがないことに男性陣が、タッチパッドに女性陣が不満をもらす。
「私、あれ動かすの駄目。マウスじゃないと苦手なんだよなぁ」
「分かる! 特にさ、お風呂あがりにあれいじるとさ、なんかこう、変に動くよね」
「うん、あらぬ方向にいく」
「暴れ馬」
「それ、なんかエロくない?」
「そう思うアンタがエロい」
カウンターの、一段低い作業スペースに置かれたそれを小田原先生が操作する。皆で背後を取り囲み、借りる役で向こうに回った登美子がカウンターに本を置く。
「まず貸し出しカードな」いわれて登美子は「あぁ、はいはい」とおばさんみたいに言いながらカードを差し出した。シールで上書きされたバーコード風の模様に、ペンのような読み取り機械をかざす。電子音とともに画面に「増田《ますだ》登美子」と名前が表示された。
先生は次に本を手にとり、機械をかざす。電子音が鳴り、今度は画面に書名が表示される。
「な?」
皆、頷いた。登美子の三冊を次々手にとり処理をして、小田原先生は得意げだ。調子にのって次に並んだ部長の本も手にとって読み取ると、登美子が四冊借りたことになってしまった。
「……今のは悪い見本な」
「出た、『今のは悪い見本』!」健太郎が喜んで手を叩く。
「現状だと、七冊でも八冊でも貸し出し処理できてしまうから、六冊以上借りようとする人に気をつけてな」
「そんなに借りるのアイツしかいないよ」
「ほーだよほーだよ」一番後ろでみていた頼子はなにか頬張っているらしい。
皆、スルー≠オたが、望美は気になった。
頼子はたしかに大飯喰らいだ。弁当箱は桜ヶ丘高内で二番目の――暫定だが――大きさ。だが、部室の外で食べ物をモグモグさせたりしない。
久々に部室にきた頼子だったが、どこかいつもと違っている。髪を切ったからだろう、ぐらいに最初は思っていた。しかしたとえばついさっき幸治が柔道部の練習の合間に汗だくでやってきても、「ンモー」しかいわなかった。
普段はもっと怒るし、それにそういう部室内の流行のフレーズを簡単に口にする頼子も珍しい。
皆は新しいパソコンをいじりたがってカウンター前にたむろしていたが、頼子はすぐに部室に引き上げてしまった。望美もそっと後を追う。
カウンターではなく、部室に二人きりというのは珍しい状況だと思いながら、頼子の隣に腰をおろす。
学園祭の準備で、分担で読むことになっていた「僕は幽霊探偵」を頼子は机に積み上げ、あとずっと健太郎の持ち込んだオヤジ週刊誌をめくっている。テーブルのささくれだった部分に左手をあて、こするようにして、むしっているみたいだ。
「珍しいね、そんなのめくってみるなんて」
頼子は仏頂面で、その不平の噴出する寸前のような表情はいつもの頼子だ。
「髪、切ったね、よくなったね」
「………」
なにか怒らせるようなことがあっただろうかと不安になってくる。外見について褒める機会が少ないから、白々しいと思われただろうか。本当によくなったと思ったのに。
「幽霊探偵どうだった? 『受け』と『攻め』を会得できた?」ボーイズラブ、やおいの属性とは「会得」するもの、綾と登美子の教えから望美が実感したことだ。ステレオグラムのように、一度みえるようになると、あらゆる男子二人組が(活字だろうと動画だろうと絵だろうと写真だろうと)そういう風に[#「そういう風に」に傍点]みえ始めるのらしい。頼子は返事をしないでページをめくる。
「金子先生の小説は、もう読んだ?」話題を探しながら、どんどん気詰まりになる。
「あいてない」頼子は仏頂面のまま、週刊誌のヌードの袋とじが切り取られていないのを望美に示した。とっさに用具入れのハサミに手を伸ばしかける。
「頼子どうしたの、なにかあった?」袋とじをみたいわけじゃないだろう、さすがに。気づいて手をひっこめて、思い切って尋ねる。
頼子は頷いて、いった。
「私さー、あのさー」
「うん」
「あのさー、二学期から不登校になるから」
いわれてすぐに「えっ」と驚く声が出た。
「なるんだ」
頼子は頷く。「えっ」と声が出たものの、なんだかおかしいなと思った。不登校ってそんな風に宣言してから、するものだろうか。
「親の都合とかなにかで」
「違うよ」頼子は否定したが怒った口調ではなかった。
「私に問題があるから、私が私を通わなくするの」
望美は言葉を返せない。深刻な内容だからではない。その日本語の並びが[#「並びが」に傍点]深刻に思えたから。
「あー、だから皆にもいっといて、学校には来なくなるけど心配しないでって」いたってさっぱりとした口調。言い終えたからその件はおしまい、という風に頼子は週刊誌に目を落とした。
望美は頼子をみつめた。
いつかの放課後のように泣き伏す様子もない。ベソもかいてない。でもさ、といいかける自分をなにかが遮った。
「分かった」いいながら望美は、自分の目元をさすってしまった。自分がそこで泣く道理はないし、実際に悲しくはない(不可解なだけ)。それでもなぜか、自分は今泣くべきだという気がし、実際に泣いている気さえしたのだった。
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8
職員室に向かう、途中の廊下で部長に会った。
「おはよう」という部長の手にはもう鍵が握られている。望美も鍵を取りに向かったところだった。二人並んで引き返す。
朝、一番にきて図書室を開けるのは、大体いつも部長か望美のどちらか。
図書室の扉の鍵穴は床のあたりだから、開けるとき、部長もかがむ。部長は廊下に膝をついたりしない。しゃがんで丸くなった。開けにくそうだ。
「いつも、この扉を通るときにさ……」そういえば、いつもどちらかが一人で扉を開け終えていて、朝、二人同時に入室するのは初めてだ。開けにくそうな姿をみて、そのことに気付く。
「うん」
「昔観た医療ドラマの場面を思い出す」
「『ER』?」
「『ER』じゃないけど、外国のドラマ。車輪のついた担架がすごい勢いで手術室に入っていって……」
「お医者さんと看護婦さんが押していくのね……」
「それで、患者の家族だか恋人だか、追っていくんだけど、この前で謝絶されるの」たしかにテレビドラマで、こんな扉に患者が手術室に送り込まれる場面があったかもしれない。
「看護婦の一人に押しとどめられて、担架は姿を消していて、それで、扉だけがこう……」部長は立ち上がって、鍵を開けたばかりの両方の扉をどん、と押してみせた。
当たり前だが扉はゆらゆらと揺れ、二人それを眺めた。
「うん」分かるという意味で頷きながら、部長が揺らした戸を手でおさえ、中に入る。
「あと、大きなレストランの厨房の場面とかね」
「あるね」部長が照明のスイッチに向かうので、望美は連携プレーのように窓際まで歩く。夏場は、エアコンをつける前に少しでも換気をすることになった。窓を開けると、たしかに外の澄んだ空気が入り込んでくる。野球部員の駆け足の音が響く。まだ登校の生徒はまばら。
自分は西部劇を、『シェーン』のジャック・バランスを思い出すといったら通じるだろうか。照明が、部室のある側だけ灯った。部長は雑誌コーナーの、映画雑誌を一冊手にしている。薄い扉を開け、一緒に部室に入る。
「この休みは十本も観られなかったよ」
「そう」部長は相当な映画好きで、月に一度「スクリーン」などの映画雑誌が届くと、なにげなく部室でめくっている。ひいきはジョニー・デップだが『パイレーツ・オブ・カリビアン』の話題をふってもはかばかしい反応はない。ジャック・スパロウ役が大当たりする前のジョニー・デップが好きなのだ。もっと好きなのはスティーブ・ブシェーミという人だが、その話題についていけるのは樫尾くらい。
「望美は?」自分と二人きりのとき、部長はリラックスしているように望美は感じる。
「この夏は一本も観てないなぁ」いいながら、お湯を沸かしにいく。シンクの手前の床に無理やり置かれた一ドアの冷蔵庫にまだ慣れず、膝をぶつけて「ンモー」と呟く。
「ナスの小説、読ませてもらった?」
「まだ」
「私もまだ」部長は笑った。
皆が冷たい飲み物を買い置くようになっても望美はお湯を沸かしてお茶にする。朝早いうちにきて、まだ静かな部室で飲むコーヒーが一番「ひたれる」。壁がベニヤとか、書棚が漫画だらけとか、そういう要素は意識から排除して、努めて大人っぽい気持ちで飲む。
文化祭まで三週間、今日から本格的に学園祭の準備をするのだが、今年はなんだか志気があがらない。ナス先輩は小説の執筆に没頭して家に帰ってしまうし、頼子もいない。
「頼子はどうだった」映画の雑誌をめくろうとしても、部長はいつもの部長席に座るとやはり、図書部の話題をした。なにげない口調だが、本当は最初からずっと気にしていたのかもしれない、真面目な切り出し方だった。
「うん、なんというか元気だった」
「そう、来られそうなの?」
「どうだろうね……」
九月の新学期から――予告どおり――五日間学校に来ないので、図書部を代表して様子をみにいった。望美は頼子の「不登校宣言」を、部長にしか伝えなかった。
金曜の放課後、これまで一度も乗ったことのなかった通学バスに乗った。電車も、いつも乗らない駅から乗った。車内は桜ヶ丘高の生徒だらけ。自分もだが、と心で思いながら、いつも降りない駅で降りた。
「望美ー!」
改札を出たところに頼子がいた。携帯電話の留守電に「行く」と告げてあったが、迎えに来るとは思わなかった。頼子は自転車できていた。
「あ」手をふって近づきながら、なんかおかしいなと思う。手をふる頼子が笑顔なだけではない、頼子の着ているTシャツもまた笑顔。サングラスをかけた大きな太陽が、切ったスイカのような大口で笑っているプリント柄。
頼子ははじめ自転車を押して住宅ばかりの道を歩いた。
「望美ってさー、歩くの速いよね」と途中から、自転車に乗ってゆっくりと伴走した。
「そうかな」中学のときも同じことを友だちにいわれたのだった。
頼子の家は特に荒《すさ》んだ様子ではなかった。明るい色調の家具でまとめられたリビングで、出迎えてくれたお母さんは優しそうな人だった。おかしい。
階段の上の部屋のドアは閉ざされ、お母さんの目の下には隈(下手すれば殴られた青あざ)、ドアノブつきの天岩戸の向こうからは「帰って!」の一点張り……そんな状態を想像していたのに。
だいたい、夕方にお母さんが出迎えてくれるというだけで豊かな感じ。望美の家も含め、周囲は共働きの両親ばかりという気がする。
頼子の部屋が二階にあることだけは想像(というか空想)の通り。望美はベッド脇のクッションに座り、部屋を見渡す。特徴のない自室の椅子でも頼子は、図書部員なら誰でもこなす綺麗な回転を繰り返してみせた。
お盆にお茶を運んできた母親は、当然のように夕飯をすすめてきた。
「食べてってよ」
「あー、でも」頼子の方をみると、別にいいんじゃない? という、なんだか他人事のような涼しい顔。
「えーと、あー、じゃあ、はい」いただかせてもらいます。お母さんはなんだか嬉しそうな顔で部屋を出て行く。
「なんか、かわいい人だね」お茶を手に持つ。
「うんと年上なんだよ、もうすぐ五十だよ」だまされるな、という口調。頼子の私服姿もまだ珍しくみえて、みつめてしまう。
「学園祭の準備はどう?」みつめたからか、頼子は伏し目になって、学校の話題をふってきた。
「うん、今年はなにしろシール貼りがあったから、遅れてる分を頑張らないと」
「昨年の手塚治虫特集ほど、ネタないよね」
「あ、だから、綾も登美子も本当にやるらしいよ、コスプレ」望美はお茶を一口飲む。おいしい。
「まあ、そういうのがないと、ただ紙に作品紹介書いて、壁に貼るだけになるもんね」
「頼子はなにやる?」
「私は不登校だもん」
「学校には、やっぱり来ないつもり?」
「うん」頼子の抑揚は普通。
「放課後、部活だけでもきたらいいよ」放課後と、あと昼休みだけ。
「そんなの、望美に許可できること?」
「できないけど」沙季がときどきわざとするような、「てへっ」という顔をしてみる。
「できないんじゃない」
「どうしてなの?」望美は踏み込んでみる。
「なにが」そうだ、主語を欠いてはいけない。
「どうして、不登校にするって決めたの? 自分で自分を」先日の、頼子の言い方を正確なラリーを返すようにして、踏み込む。
こないだ初めて買った文芸誌で、ある作家が書いていた言葉。
「『人と人の距離感を巧みに描いた作品』だなんて褒められても、なんのことか分からない。私が書きたいのは人と人の距離だけだ」と。それは小説についての言葉だが、印象に残ったのだ。
自分も、頼子との「距離感」なんか大事にしないんだ。「別に」頼子はうつむいたまま机上の携帯電話を開いた。部室でも滅多にしない動作。部室ではメールをかちかちうつこともない。みせて、という意味で手をのばすと、渡してくれた。
塗装のはげた銀色の古い携帯電話だ。聞きしにまさる、といいたくなるボロさ。アンテナの先っぽが取れて、入って出てこなくならないように糸を巻き付けて工夫してあるのも本当だった。糸は凧糸《たこいと》だ。折り畳みを開くのはマナー違反と思って、アンテナだけ観賞して、返す。
「そんなの、いろいろあるんだよ」望美には、分からないだろうけど。受け取って机上に置き、頼子はまた一回転。
「そんなの」そのまま言い返す。
いろいろあるんだよ、なんて、いかにももっともらしいけど、もっともらしいだけだ。頼子はいつもと同じ、不機嫌な表情。でも今日は、その顔にいつもと同じ価値を見いだせない。駅前まで笑顔で迎えにきて、なんか変だな、どういう不登校なんだと感じていたときまでは、安心していた。いつもの変な[#「いつもの変な」に傍点]頼子だ、と。
「いろいろなんて……」さらに問い詰めようとして、黙る。遠慮したのではない。
これは「残念」だ。
頼子が、いろいろあるんだよ、だなんて類型を、紋切型をいうのが残念なのだ。望美は部屋をみる。いつか絨毯の上の座布団から、特徴のない女子学生の部屋をみたとき、残った念を思い出すかもしれない……。
「おはようございます」普段あまり聞かない、か弱い声音がして、思考が遮られる。
「あ、尾ノ上君」という望美の声にかぶせるように
「山内《やまうち》君!」と部長がいい、間違ったと思う。そういえば尾ノ上というのはあだ名だった。
頼子について思い返していた思考は吹っ飛んでしまった。山内であるところの尾ノ上が、実に尾ノ上だったので。
ずっと前にそのあだ名がついたとき、その「元ネタ」を望美は知らなかった。彼が来なくなってから、漫画の「金田一少年の事件簿」の「学園七不思議殺人事件」で殺される尾ノ上という生徒をみつけて、これは申し訳ないが本当によく似ていると思った。
当人を久々にみて、ため息すらもれた。
尾ノ上は、奥の壁際に向かう。本当に、なんというか、殺されそうな顔だ!
「どうしてたの?」部長は尋ねる。
「や、別に、ご心配なく、平気です」小声でいって、他にもなにかモゴモゴといいながら奥の椅子に座った。書棚から、漫画本を手に取る。
部長はキッパリなにかを言いそうな顔になって、だが言いよどんだ。部長の「どうしてたの?」は、部活に来なかったことの心配も含まれていたかもしれないが、決められた当番の仕事をサボっていたことへの釈明を求めて発せられたのだ。
尾ノ上は、もう何事もなかったように漫画をめくった。そういえば、頼子を泣かせた件で男子部員と悶着があって間もないころ、尾ノ上は一度だけ部室に顔を出した。皆、当惑したが、尾ノ上は「普通に」ふるまおうとした。遅れて部室に入ってきたナス先輩が、部室の奥に尾ノ上をみつけ、すぐさまかけた揶揄《やゆ》の言葉を望美は忘れてしまったが、居合わせた部長が割と強い口調で叱責したのは覚えている。
「そんなこといわなくていい」と。
その言葉で、尾ノ上は単純に、この人は味方だとジャッジしたんじゃないか。
だが、あれは大袈裟にいえば「(その場の全員に、みえないけどあるべき)人間の尊厳」を守ろうとしていったのであり、尾ノ上個人をかばったのではない。
早朝にくれば、いるのは部長か、意地悪をいわない自分だから、この時間を選んで部員でいよう、ということだろうか……。
「夏休み中の作業は義務ではないからいいけど、貸し出し当番にはちゃんときてね」部長はそれだけいい、尾ノ上はさっきよりも小さな声ではい、と目をあわせずにいう。
その後、部員たちが弁当を置きに部室にやってきたが、特に悶着は起きなかった。皆は尾ノ上を上手に無視したし、尾ノ上は読みたい漫画を読んだだけ。
休み時間、健太郎に貸した教科書を取りに部室にいくとき、まだ尾ノ上が朝と同じ場所で同じ漫画を読んでいるような気がした。でもさすがにいなくて、ほっとする。
尾ノ上の評判は、一貫してよくない。鞄を置いた椅子の側に立って「そこ座っていい?」とか声をかけてくるのではなく、じーっと(荷物をどけるのを)威圧的に待っていたとか、書店で(それも堀越さん曰く「全体的に肌色めいたコーナー」で)エロい雑誌を物色していたとか、バス停で声をかけたらじっとみられたとか、女子連中も気味悪がっていた。
でも、そんなことどうでもいい。同じような場面を目撃されても、まるで違う印象になる人だっているだろう。
尾ノ上の発した「平気です」が、ナス先輩らにひどい態度をとられたが自分は平気だ、という意味なのだとしたら、その鈍感さこそが問題だ。集団が彼を排斥してしまう一因だろう。
壁際の書棚の、彼の読んでいた漫画を手に取ってみる。しおりが挟んであった。でも、ただ漫画を読みたくてきているのだろうか。本当は、声をかけられたいのか。
人って、生きにくいものだ。
などと急に大きなことを思うのは、尾ノ上個人に対しては同情の気持ちが湧き起こらないからだ。漫画を持ち、折り畳みのスチール椅子に座り、後ろ脚だけでバランスを取る。
望美も、少し前から綾と気まずい。自分のなにが彼女のカンに障ったか、よく分からない。
「私や登美子の趣味を馬鹿にしている」と綾は感じているらしい。
直接抗議されたら弁明もできるのだが、ただなんとなくつんけんされている。
自分がされている側なのに、難儀だなあと相手に思う。そういう気持ちが伝わって、綾を苛々させるのかもしれない。そういう気持ちは、傲慢なものだから。背もたれに力をくわえ、さらに背後に傾く。
みんなみんな、生きにくい。コケそうになって慌てる。傾くのをやめて、尾ノ上の漫画をめくってみる。息子の部屋に掃除機をかけにきた、どこかの、お母さんみたいな気持ちで。髪の長い美少女と、髪のもっと長い美少女と、のんびりした口調のお姉さんと、チビももちろん美少女。全員、洋服のセンスが古い。
「あれ、なんだこれ」部室の外からカングラに似た声。カングラは二年前に赴任した教頭先生のあだ名。
「あ、パソコン壊れてます」いいながら部室を出ると、はたしてカングラが立っていた。カングラが図書室に来るのは珍しい。声だけですぐに誰だか分かった自分に望美は驚いた。
「そうか」カウンターの前で、コードを読み取る機械を手に持っている。カングラの眼鏡はすごく高価なところのものだと、誰かがいっていた。
「週末に業者の人が直しにくるまで、今までどおりの処理でって小田原先生が……」
新しい貸し出し処理のパソコンは新学期の一日目に動かなくなった。俺たちの地獄のシール貼りはなんだったんだ! 健太郎は大袈裟に頭をかきむしってみせたものだ。
「つまり今は壊れてるのね、了解」カングラはカングラらしく、格好良く手をあげて理解したことを示した。望美は横から手を出し、カードを抜き取り、日付印も捺してやった。
「ありがとう」カングラは生徒にではなく、部下の社員にいうみたいな感じで図書室を出ていく。
カングラ、さすがに「センキュー」とはいわなかったな。望美は日付印の――もう捺した後だったが――日付がちゃんと切り替わっているか、かざしてたしかめながら思った。
昨年、地元のスピーチコンテストに入賞した何人かへの表彰式で、教頭は賞状を渡す役だった。体育館の壇上で賞状の文面を読み上げ、手渡す寸前に、教頭は必ず「Congratulation !」と言い添えた。
カングラチュレイシャン! もちろん賞状には書かれていない。
それで、図書部ではカングラだが、美術部ではチュレイション、文芸部ではカンチュレという具合にさまざまなあだ名が派生した。
「あれ絶対、発音に自信あるよね」「いいたいんだよね」皆でいいあったのは去年の今頃のこと。
皆、容赦ないなぁ。そういう「隙」は、年少でも(年少だからこそ、か)見逃さない。望美はマグカップのお茶をすすりながら思ったものだが、やっぱり、人って生きにくいものだ。休み時間終わりの鐘が鳴り、教科書を持って図書室を出る。
昨年もおととしもそうだったのだが、二学期になるとクラスの図書委員たちは皆、大体貸し出し当番に来なくなる。これは統計学的にも(調査すれば)裏付けがとれる。休んでも特に罰則がないことを――委員の皆に横のつながりがなくとも、めいめいが――徐々に知っていくのだ。一学期はまだ、低血圧とか、いろいろ理由を用意していたのがもう、なにもいわずにフケてしまう。
そんなのよくない、と望美は思わない。そんなのつまらないと思う。なにがつまらないのか、うまく言語化できないのだが。
特に放課後の貸し出し当番はほぼ壊滅状態で、だから二学期も唯一きてくれている能見さんの、その手をとってひしと握りしめたくなる。戦場の最前線に踏みとどまった看護婦をみるような敬虔な気持ち。
「これ、貸し出しお願いします」
「はい」パソコンが壊れたのも、望美は少し嬉しい。故障がなおれば徐々に移行してしまうのだろうが、それでも卒業式に手渡されるのが平たい電子式のカードじゃなく、自分の履歴が目で見える紙のカードでよかったと思う。
それは紙とか手書きといった事柄に「ぬくもり」があるからではない。情報が「現物」になって、目にみえるのが記憶の「役に立つ」から、いいのだ。
思い出とは情報のことだと望美は定義する。本も情報だから、現実の思い出と混ざることがある。
たとえば、綾が「馬鹿にしている」と思って、よそよそしく接するのを望美は居心地悪く思っているが、単によそよそしい接し方をされるだけではなく、殴られた[#「殴られた」に傍点]ような錯覚がある。
それは、たまたま最近読み終えた『サイダーハウス・ルール』という小説に、殴る場面があったから。主人公の口癖「ライト(そういうこと)」の繰り返しに、ずっと共に暮らしている仲間の男がかっとなって殴りかかる。それは明らかに唐突だったのに、主人公は殴られたのを詮方なしと了解している。
「返却お願いします」
「はい、学年と名前をお願いします」望美は休まずに手を動かし、考えつづける。
仲間の男は、単に繰り返される口癖に苛々したのではない、上下巻ある本を初めからそこまで読むことで、同じ「時間」を経験しないと分からない、殴りかからざるをえなかった「苛々」が望美に手渡された。
その読書と綾が急につんけんする現実とが、混ざりあっている。殴られた気がしてよりショックということではなくて、あるいは逆に「読書で救われる」という気持ちでもないのだが、とにかく今、自分は単に「気まずくて嫌だ」ではない感じ方になっている。
次に並んだ人の借りた本が、一学期の最後に刊行した「図書室便り」で、綾が推薦図書としてレビューを書いた本だった。
綾に教えてあげたいけど、きっとろくに口をきいてくれないだろう。綺麗にスルー。カウンターの前を、部室の扉だけをみすえて素通りする姿がみえるようだ。
あの小説のやりとりが現実に混ざったということは、突然嫌われる(殴られる)ことが自然なことだったと、心のどこかで思っていたということだ。
本当は、誰とでも仲良しなんて無理だもの。
「あの弁当箱の南出さん、きてないんですね」貸し出しの行列が一段落すると、横で能見さんがタイムリーなことをいう。おー、我がナイチンゲールよ。
「そうなの!」今まさに、right といいたい。頼子のことの方が、私が無視されることなんかよりも今の私には重要なのだ。望美の返事の万感こもった強さに、能見さんは少し面食らった顔。
ちょっと今の返事は芝居がかってしまったか。望美はクリップ入れに手をのばして、視線を変える。パソコンの故障を知って嘆く健太郎のオペラ歌手のような身振りを思い出し、笑いそうになる。
この世の中の人は、誰もがただ会話するだけでも芝居がかる。即興で「キャラを演じる」。役割の中でボケたり、ツッこんだりもする。
部室の皆だけでない、誰もがテレビや本や、あるいは先人たちのふるまいや、それぞれの心の中に降り積もった情報を参照して、言葉を外部に発しているんだ。
上手にふるまえない人は、しんどい。当意即妙に冗談がいえたり、余計なこといわなかったり。「空気読めない」のは生きにくい。
頼子もときどきズレる。芝居以上に嘘のようなふるまいになる。部室では受け入れられているけど教室ではどうだったろう。
とにかく横紙破りに生きている。世間に反抗したりしないで、普通に「皆」の中にひっそりしていて、でも間違いなく横紙破りだ。
それが「いろいろあるんだよ」だなんて。朝の思考に突然戻る。休日の約束を反故にした、子供向け漫画の中の、大人の台詞そのままだ。
頼子の家の晩御飯は(弁当箱から類推するに)蛮族たちの酒宴のよう(牛一頭丸焼きとか)かと思ったが、普通だった。味噌汁と、御飯と、鮭のソテーと、野菜の煮込みスープ(「ラタトゥイユ」とお母さんは教えてくれた)。
あまつさえ、頼子は御飯を残した[#「御飯を残した」に傍点]!
「もういい、食べたくない」といって。
「食べなさい」
「食欲ない」茶碗を置き、それに箸を載せて立ち上がる頼子。
「そう」と母。そのやりとりにも驚いた。それこそ、ドラマの中みたいだ。
望美は御飯を残したことがない。帰り道、そのことに気を取られた。自分の家で同じことをいったら、怒鳴られる。一度「食欲ない」といって、茶碗の中の御飯を半分残して、深刻そうに立ち上がって部屋に引っ込んでみたい。
頼子は、そこはドラマっぽくなく、居間のソファに裸足で飛び乗り、新聞をめくった。
「ね、頼子ね、弁当箱は大きいのに、家では晩御飯残した!」今や頼子ウォッチャーの仲間となった能見さんに教えてあげる。
「そう」能見さんは面白そうに笑う。
そこに綾が登美子と並んで入ってきた。カウンターの前を華麗に「スルー」。
「綾」無視されてもいいや。名前を呼ぶ。綾は仕方なさそうに立ち止まる。登美子は戸惑った顔。
「こないだレビューしてた本、さっき借りられたよ」貸し出しコーナーに入った、まだ真新しいカードを取り出して、かざしてみせる。綾の好きなものを私は理解できないかもしれないが、自分のレビューした本が借りられたら嬉しい気持ちは一緒のはず。そこだけは正直に伝えよう。
「そう」一瞥だけくれて、やはりすっすと部室に入っていってしまう。想像の中のスルーとほぼ同一の軌跡。登美子がもっと戸惑った顔で綾の背中とカウンターの望美をきょろきょろと見比べて、綾を追う。
でもいいんだ。望美はまるで明るい気持ちだ。いつか仲直りできるかもしれないから、ではなくて――むしろ卒業したりすることで、綾だけではない、いろんな人とどんどん疎遠になっていくだろうと確信しているのだが――本を読んでいたことで、この気持ちを、殴られた痛みまで含めて、あらかじめ知っていたからだ。
本はつまり、役に立つ!
[#改ページ]
9
朝、鍵を取りにいく途中の廊下で、谷地リンナに出会った。
「おはようございます」
「閲覧したい本があるんだけど、いい?」
「あ、今、鍵もってきますから」
「ありがとう」
文化祭はおととい終わった。林歌子先生は来てくれなかったが、かわりに丁寧なメールが届いた。
[#ここから1字下げ]
桜ヶ丘高校図書部の皆さん、こんにちは。いつも林歌子の作品を愛読くださり、ありがとうございます。
現在、全国の学校からインタビュー、取材の依頼が多数寄せられ、どこか一校だけ引き受けるということが出来ない状況です。ご了承下さい。
皆さんの熱いメールをみせたところ、林はとても喜び、また懐かしがっていました。
「私も学生時代は図書部員で、といっても栄第一高校では『図書局』という呼称だったが、文化祭ではクトゥルー神話の特集をしたし、文芸部と張り合ってケンカしたり、新井素子《あらいもとこ》先生に手紙を書いて、読書会に来てもらおうとしたりしたものだ」とのことです。
文化祭、どうぞ頑張ってください。今後とも、応援よろしくお願いします。
林歌子公式サイト・スタッフ・M
[#ここで字下げ終わり]
本人からのメールではなかったものの、部員は(特に林先生のファンではなかった者も)喜び、興奮した。
「林さんのサイトからメールがきたぞ!」と岩田の呼ぶ声がして、外で作業していた全員がぞろぞろと部室に入っていくとき、「乗組員」と望美は思った。潜水艦か宇宙船か、ソナーに、潜望鏡に、重要な、待ち望んだ、アレが映った。ノートパソコンを操る岩田を皆で取り囲んだ。すぐ側に立ち、腕組みをしたお馴染み部長には艦長の威厳。
林先生が文芸部ではなく[#「ではなく」に傍点]図書部だったことに皆は満足した。「勝った」という顔。望美は「ケンカしていた」というところに感じ入った。
今の図書部と同じ状況だから共感したというよりは、残像のように過去にもどこかに自分たちがいた[#「自分たちがいた」に傍点]ような気がしたのだ。
職員室から鍵を取って戻ってくると、谷地リンナが立っていて、違和感を覚える。
「待っててください」リンナの前で床にかがみこむ。違和感の理由を考えながら。
部長が膝をつけずに鍵をあけていたので、真似してしゃがんだ姿勢で鍵穴と向かい合うが、すぐによろけて、床に尻がついてしまう。駄目だーと思う。
体勢を立て直して見上げると、やはりリンナはただ立っている。
鍵をあけて立ち上がると、立ちくらみ。
「どうぞ」レディファーストのように扉を手で示す(自分も女だが)。
「ありがとう」リンナにつづいて図書室に入り、窓を開けにいく。もうエアコンなしでもいい気温だが、空気の入れ替えは自分の判断で続けている。
入り口まで戻って照明をつける。いつもは部室のある左側だけつけるが、谷地リンナが書棚に向かったので奥の照明もつけてやる。書棚を歩むリンナは蛍光灯を見上げ、入り口の望美にありがとうという意味だろう、会釈をした。
部室に入り、お湯を沸かす。やはりリンナに違和感。文化祭を終えて、柔和になったような気がする。
ノートパソコンの液晶画面が開いている。背面にシールがべたべた貼ってある、これは岩田の私物。文化祭間近、小田原先生からいちいちパソコンを借りるのが面倒で、岩田が持ってきたのだ。私も欲しいな、と思いながら蓋を閉じる。部員の多くは携帯電話があればいいというが、受験が終わったら買うつもりだ。望美はもっと小さくて軽いのが欲しい、シールもべたべた貼らないだろう。
しかしノートパソコンの背面をみていたら最近話題の、ネットの「裏掲示板」のことを思い出した。新聞を読んだ母親が心配そうに尋ねてきた。学校別に裏の携帯サイトがあって、在校生の悪口などを匿名で語っている、あんたたちの学校のサイトもあるのかと。さぁねえ、と返事をしたが、桜ヶ丘高校にも専用の「裏掲示板」があることはあるらしい。少し前に遊びに来た加藤先輩が教えてくれたのだ。
「皆は、そんなものをみてはいけないよ」と諭しながら、それを知っていることの優越感がにじんだ、矛盾した表情をしていた。
お湯は一人分だからすぐに沸く。三角形のティーバッグは黄色い箱形の袋に入っているが、ジッパーが、いつもうまくしまらない。
苦手な加藤先輩の言葉だから、余計にネガティブに聞こえてしまったのかもしれない。だが、インターネットの混沌ぶりについて語るとき、皆、当事者ではないという口調で、事情を知る者特有の強い[#「強い」に傍点]顔をしている。もちろん彼らのほとんどは誹謗中傷を書き込んだりする「当事者」ではないのだろう。だけど閲覧しているだけで少し嬉しそうな態度[#「嬉しそうな態度」に傍点]になっていることに、皆、案外気付いていない。
深刻なことを思っていたのに急に噴き出しそうになる。小田原先生が、裏の掲示板について心から他人事のような顔をしてみせたのを思い出したから。
「オッソロシーなぁ」と先生はいったのだ。
頼子の不登校の原因をあれこれ話し合っているうちに「裏掲示板」の話題に移った。小田原先生はそれで初めてその存在を知ったらしく、オッソロシー、オッソロシーと繰り返した。
「そんな、不特定多数が参加する掲示板で自分の悪口書かれたり、秘密を晒されたりして、しかも誰が書いたか分からないなんてさ、俺が十代ならショックで死んじゃうな。おまえら、あれだな、恐ろしい時代に暮らしてるな、大変だな」
(いやいやいやいや、先生でしょうアンタ)大変だな、じゃなくて! 健太郎がツッこんだ。
「どこでみられるの?」部長が尋ね
「簡単にみつかったら裏の意味がないんですよ」岩田がいう。
「ふーん、おまえらは知ってるの?」と先生。
「いや、噂だけ」皆、顔を見合わせる。得意そうに説明していった加藤先輩も、アクセス方法は教えてくれなかった(あの人は知ったかぶりだろうとナス先輩が断定した)。
裏掲示板はパソコンではなくて携帯電話でのアクセスが基本。頼子の携帯電話はボロボロの旧式。到底そんなところにアクセスする機能はなさそう。頼子はなにしろメールの返信すら「了解」とか「わかった」くらいのハードボイルドさ。だが、だからってなにかの拍子に教わって、書き込みを目にしないとも限らない。
「いっそ、そういう掲示板とか全部、法律で禁止にしちゃえばいいのに」岩田が不機嫌そうにいう。
「そうだけど、でも表現の自由ってあるだろ」
「校則では服装とかの表現の自由もいろいろ禁止してるくせに」ナス先輩がいった。
「そうだよなあ」小田原先生はやはり他人事みたいにいって皆に笑われたが、でも先生は頼子の家を訪問すると約束してくれた。
その掲示板を探すべきかどうか、そのときは結論が出なかった。
図書室の扉の開く音。ベニヤの向こうで挨拶を交わす声がする。部長でも尾ノ上でもない声。
「渡辺君」
「あれ、谷地さん」
「望美さんに入れてもらったの」
「そうなんですか」渡辺って誰だ。
「こないだはありがとう」リンナがいっている。なにがありがとうなんだろう。三角形のティーバッグを上下に揺らす。
「いやいや、あれは、敵に塩をおくる上杉謙信みたいなものですよ」なにが敵に塩をおくる上杉謙信みたいなものなんだろう。樫尾の声だと遅れて分かる。樫尾は図書部でのあだ名で、本当は渡辺というのだというのを、いつも忘れてしまっている。こんな早朝に珍しいが、展示のための絵画制作で朝早いのかもしれない。
「借りはすぐに返すけどね」一瞬、リンナの声が厳しくとがる。
「『べ、別に、助けてもらいたかったわけじゃないんだからね!』っていってくださいよ」樫尾の「つんデレ」知識は最近になって綾や健太郎に教わったもの。
「いいません」リンナのその返事こそが、やや「つん」ではないか。樫尾はカウンターで、リンナの貸し出し処理もしているみたいだ。リンナがまた「ありがとう」というのが聞こえる。これは「デレ」か?
「おはよう」樫尾は入ってくるなり一ドアの冷蔵庫に近づき、ペットボトルを取り出した。
「おはよう、今は市民展の準備……だっけ」
「そうです」樫尾が準備している油彩画の題名はなんだったか。
「なんだっけ、『にょろーんにょろにょろニョーLONG』だっけ」
「すみませんが望美さん、かなり間違ってますから」
「ごめん」
「ヘビが長いオシッコをしている絵じゃないですか、それだと」いわれるまま思い描き、自分で笑いそうになる。
「そうだね」沙季の「テへ」をやってみせる。
「でもまあ、似たような感じですけどね」望美のテヘ、を無視し、手の甲についた絵の具汚れを望美に示してみせながら、樫尾は岩田のパソコンの電源を勝手に入れる。ワ――ンという起動音が鳴る。パソコンの起動音は他の何の音にも似ていない。樫尾はそのままパソコンの前の席に腰を下ろす。望美も側の椅子に座った。
樫尾と部室に二人きりは珍しい。
「あ、あの本、ずっと借りっぱなしでごめんね」
「あの……って、電気グルーヴの? いいよいいよ、いつでも」でもあれ、面白いでしょう。
「面白い! めちゃくちゃ尊敬するよ、あの人たち」
「でしょう!?」樫尾は得意げな笑み。自分の好きな本や漫画を褒められると男の子は皆、とても喜ぶ。好きなゲームやCDを褒めるよりも、もしかしたら喜びは大きいかもしれない。
「九〇年代に十代だったらよかったのになって思いますもん、俺」
「樫尾は、年の離れた兄弟がいるの?」
「いるいる、十歳上の姉が」やっぱり。望美も年の離れた兄から少し前のカルチャーを教わる。樫尾にも「指南役」がいるんじゃないかと感じていたのだ。
「そういえばさっきのリンナさんだけど、なにが『ありがとう』なの」ティーバッグを取り出して、カップの縁につけて水分を落とす。
「え、ああ、あれね」ペットボトルのスポーツドリンクを一口だけ飲み、蓋を閉めた。
「俺もやっぱり紅茶にしよう」昔のパソコンだから、起動に時間がかかるらしい。立ち上がりながら樫尾は、さっきよりももっと得意げな笑み。
文化祭の前日の夜遅く、望美が買い出しにいっている間のこと。図書室にリンナたち文芸部員が現れたのだという。図書部員は忙しかった。床に広げた大きな模造紙に靴を脱いで乗っかり、解説の文字を書く者、フィギュアの取れた髪の毛を真剣な顔で接着する者、こぼしてしまった塗料を拭く者。皆がてんてこまいで、そんなとき訪れた文芸部員に全員が冷淡なというよりは怪訝な顔を向けた。
リンナ曰く「方位磁石を持っていたら貸してくれないか」と。
図書部が林先生の招待に失敗したように、文芸部もインタビューしようと思っていた金子先生に連絡はつかなかった。それで文芸部の展示は当初の予定通り占星術の特集になった。演出の一環として、部室の床に悪魔召還のための巨大な魔法陣を描くことにし、シルバーのテープで円を描いたところまではよかった。
「悪魔召還? それは占星術というか、ゲームの『女神転生』だよね」
「だよねえ」回想する樫尾も首をかしげる。
円の内部の、肝心の五芒星を描く段になって困った。きちんと決められた方角に星の角をあわせないと効き目がないのだ。
「効き目、か」文化祭の当日、文芸部の展示をみにいったから、望美は魔法陣もみている。円の内部にはいわゆる星形が描かれ、ルーン文字もちりばめられいかにもそれらしかったが、円の端の三十センチほど、テープが張られていない。壁際に説明書きがあった。
「魔法陣をすべて描いてしまうと召還の危険があるので、円には切れ目を入れさせていただいております」と書かれていて、(いいたかったんだな、それ)と強く思ったことを覚えている。そんな注意書きをするならばなおさら、星は本式でなければならない。
「なるほど、方角は大事だ」間違えていたら、片腹痛いといわれてしまう。誰にかは分からないが。自分が文芸部の部長だとしても、一度それをやると決めたら、ゆるがせにしないところだろう。
「でね、科学部の連中は案外早くに展示の準備を終えて帰っちゃってて、理科室では借りられなかったらしいんだ、磁石」文芸部員は模擬店の準備を進める各クラスを巡ったが、誰も方位磁石など持っていない。職員室に居残った先生に尋ねても大ざっぱな方角しか指さしてもらえず、近所に住む友達に電話までしたが万策尽き果て、一番最後に宿敵の図書部までやってきたのだ。
「誰か持ってたの」展開を先読みして望美は尋ねた。尋ねながら、すでに少し感動を覚える。どうせ客にはバレないだろうと適当に星を描くのと、憎き図書部に頭を下げてでも正確な星を描く方法を探すのと。私が文芸部の部長だとしたら苦しむだろう。お湯はやはりすぐに沸き、樫尾はティーバッグをカップに落とす。
「持ってたんだよ、それも俺がね」
「へぇ」そこでメールでも着信したのか、樫尾は携帯電話を取り出した。
次の瞬間、望美はあっと声をあげてしまう。樫尾は一度開いた携帯電話を少しいじるとすぐにパクンと閉じた。メールではなく、折りたたまれた携帯電話そのものを望美にみせてくる。愛用のごついカシオ製Gショック携帯電話の、背面の丸い液晶が白く輝いた。
「すごいね!」そこにはたしかにN−S、E−Wと方位を示す記号が描かれていた。
「まさか、この機能が役に立つときがくるとはねー」樫尾は照れくさそうに方位をみつめる。もう製造されていない、頑強な防水の携帯電話は皆にからかわれていた。樫尾がまったくアウトドア派ではないからで、それは缶コーヒーでブラックを選ぶようなカッコつけの背伸びと見做《みな》されていたのだ。
夜遅くの図書室の入り口で、背の低い文芸部の女子たちが樫尾の掌の中を覗き込み、そのまま部室にワッショワッショと引っ張っていったのだという。その場に立ち会いたかった! ただ磁石を貸して借りて、ではない。大げさにいえばそれ自体、神話のようではないか。文芸部員たちの安堵の様子もありありと思い浮かぶ。
「カシオ製」というときの(語尾の上がった)社名の発音が「苗字っぽい」ということでそのままあだ名になった男の、その名にも意味があった。
「向こうが南か」まだ表示され、かすかに揺れ動いている液晶の方位磁石をみながら、樫尾はベニヤの壁をさす。今、我々もまた方位を知る。
「そうか、そうだね」冬、部室が寒いのは、こちらが北側だからだ。
「おはようございます」尾ノ上が部室に入ってきた。
「お、尾ノ上、おまえ知ってるか、こっちが北だからな」樫尾はお湯の入ったカップを片手に尾ノ上に近づくと、わざと馴れ馴れしく肩に手を回し携帯電話の表示をみせた。
「え、はい」
「高度は百二十五メートルな」へぇ、と望美は思う。
「はぁ」尾ノ上はビクビクと身構えているが、樫尾に悪意がないのは見て取れるから放っておく。
文化祭が終わったせいなのか、学校中が脱力している。放課後の図書室はがらんとしていた。大学を受験する三年生の多くは強化補習か塾だ。
三年生なんだから受験の準備で、望美も貸し出し当番から解放されるはずなのだが、そうすると貸し出し係は到底足りない。結局今日もカウンターに座っている。
「能見さんはどうするの」進路を尋ねながら能見さんを横からみる。能見さんの進路について、本当はあまり興味がない。興味があるのは姿の方。能見さんの髪の毛は今日もたしかにつやつやしている。
たしかに、というのは、沙季が指摘して初めて気付いたから。少し前にカウンターを通り過ぎようとして、沙季は立ち止まり、感嘆の声をあげた。肌が綺麗だなあとは思っていたのだが、そういえば髪もサラサラだ。
「サラッサラですね!」
「そうかなぁ」
「向こうから、こういう風に……」といって沙季は入り口まで戻った。颯爽とした動作で数歩歩いてみせて
「……歩いてきてくださいよ、シャンプーのCMの人みたいに」沙季は弾んだ声をあげた。
「えぇー」能見さんは笑うだけ。健太郎や幸治だけでない、女の子も美人が好き。誰かが褒めることで価値が増していくことはよくあることで、望美は能見さんの隣で仕事をしながら見惚れるようになってしまった。
「私は地元の大学を受けるつもりです、中山さんは?」
「私、私はなんにも決めてないなあ」本当は、東京の夜間大学に行くつもりだった。夜間大学は私立でも学費が安いというだけの理由で決めたのだが、そういわなかったのは自意識のせいではない。東京の夜間大学に行く自分の姿をまるでイメージできず、それで言葉にも出来なかったのだ。
「私、中山さんは作家になるのかなって思ってました」能見さんに顔を覗き込まれる。
「え」なんで。
「だって、海外の文学とか、たくさん読んでいるでしょう、だから」
「別に……」といいかけて、考える。正確に[#「正確に」に傍点]返答したいと思ったから。自分は海外の文学ばかり読んでいるわけじゃない(それこそ、電気グルーヴを又貸ししてあげたい)。海外の文学は立派で高尚で、だからそれを読み込む人は作家になる、そういう見立てだとしたら、たくさん言葉を費やしてでも誤解を解きたい。
本は、すべて、ほら、ほぼ同じ形をしている。目の前の、返却された本のいくつかを手にとってみる。ライトノベル、ギターの弾き方、幽霊探偵。すべて表紙がついて、綴じられて、活字が行になって並んでいる。本を読む人の格好も、ほとんど同じになる。だけど、そのすべてに全然ちがうことが書いてあるし、読んでいる人の心の格好[#「心の格好」に傍点]もバラバラになるだろう。
そういえば文学好きで、ベストセラー本を馬鹿にする人がいるけど、そんなのおかしい。クラシック好きが演歌を馬鹿にしているようなものだ。
「私たちの好きな本を馬鹿にしている」という綾の感じ方は、だからこそ発生する。それは逆にいうと、望美が読んでいる本を差別している考え方でもある。
文学というジャンルがあるとして、それが立派そうにみえるのだとしても、それはやはり外側からの見立てでしかない。下らない文学は、どこまでも下らない。過激なのも、笑えるのも、無為なものも、エロいのも、いくらもある。
だけど「過激で笑えるんだよ」と啓蒙しても仕方ない。その本を手に取った人が文字を目で追って、そう感じたときに初めて、過激さや笑いはこの世に(その人の心の中という「この世」に)生じる。生じるのは、そのとき「だけ」だ。
だからやはり、誤解を解くのは難しい。外側からみて立派にみえてしまう行為らしいことに、望美はいつまでも戸惑わなければいけない。
また、この学校の図書室で文学作品を率先して読む(望美自身の希望で入荷もする)のは、高校生の小遣いで買うには値段がやや高い(特に海外のそれは)からでもあるし、放っておくとすぐに書店からなくなってしまうからでもある。
「下らない本も読むよ」結局、能見さんにはそれだけいった。樫尾に断って、あの本を貸してあげよう。
「それに、うちの部員で作家になるのは私じゃなくて……」といいかけたら、ちょうど作家になるつもりのナス先輩が図書室の扉を元気に開けて入ってきた。
「あの人」
「え、なに?」ナス先輩はとぼけた口調で立ち止まる。軽快な足取りを久々にみる。
「あ、なんでもない」小説を書いていることを、そういえば口外していないのかもしれなかった。
「作家になるんですか?」能見さんは尋ねてしまう。ひやっとするが、ナス先輩は屈託がなかった。
「芥川賞を最年少で受賞するとしたら、もう本当に時間がないんだよなー」といったので安心する。
「今書いている短編のさ、出だしから先がなかなか進まないから、一度みてくれないかな」といって、原稿用紙の束を取り出した。
「みていいの?」ナス先輩は能見さんの方をみて一瞬、ためらった。望美に「作家になる」と打ち明けたとき、自意識による選別があったはずだ。
ナス先輩は「いいよ」と頷いた。能見さんの聡明さをすぐに見抜いたのかもしれないし、単に彼女がかわいかったからかもしれない。
「手書きなんですね」能見さんが感心する。
「俺、パソコン持ってないもん、メールは携帯電話しかないし」皆が、パソコンを欲しがっている。
一行目に「『横たわった世界』渡辺為」と書かれている。
「これ、なんて読むんですか」横から覗き込んだ能見さんが尋ねる。
「ナス」
「えぇっ! 本当にナスって名前なんですか」能見さんのその驚きを懐かしく感じ、笑いながら読み始める。
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『横たわった世界』 渡辺為
序章 委員長の決断
西暦二〇五〇年。増大する地球の人口は千億人を超えようとしていた。
限りある土地を巡り、国家間の対立は深まり、世界各地で紛争が相次いだ。二十年前から宇宙への移住計画が進められ、惑星探査ロケットが幾度か送り込まれたが、人類の居住できる惑星は発見できずにいた。
西暦二〇七〇年。地球の人口はついに二千億人に達しようとしていた。統一国家元首、O・ナットウスキー委員長は決断を迫られて……
[#ここで字下げ終わり]
「七〇ひく五〇は、二十年で千億人、増えるのか」
「ナットウスキー、コメディっぽい名前ですね」
「そういうのは仮だから、後で直すからさ!」
「あぁ、ごめんごめん」
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……ナットウスキーは決断を迫られていた。
「もう、決断していただくほか、ないでしょう」部下のモロヘイヤが決断を促す。
「うむ」頷きながらもナットウスキーはためらい、窓の外をみやった。広くとられた窓の向こうには高層建築が林立していた。それらのほとんどは途中で折れて瓦解している。下界は埃と煙にまみれて、視認できない。
「宇宙探査ロケットからの朗報が届くまで、次善の策ではありますが」
「しかし、国民の混乱は避けられない」
「このまま手をこまねいていることこそ混乱のもとです」いつだってモロヘイヤは粘り強さが身上だ。
「分かった」
「放送用の映像は、用意してございますから」モロヘイヤは気遣うような声音でそういい、お辞儀をした。
「……君の、その美しいお辞儀をみるのも、これが最後かもしれないのだな」
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能見さんは読むのが早く、望美の脇から手を伸ばして、原稿用紙を半分めくって、先のページを読み始めた。笑っている。
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「委員長のその威厳のあるお姿も、しばしの見納めです」モロヘイヤはお辞儀をしたままそういい、部屋を出た。自動ドアが音を立てずに開き、モロヘイヤが辞去すると、ナットウスキーは再び窓の外に目をやる。遠くで煙。黒煙だ。少し前から頻発している航空機の爆破だろう。分厚いガラス越しでサイレンは聞こえない。度重なるテロと内戦で、この日本もかつての平和な姿が嘘のように荒んだ国になっていたのだ。ナットウスキーはかぶりをふる。
(本当に、この手しかないのでしょうか、お父さん)
[#ここで字下げ終わり]
(お父さんっていってる!)望美も急いで能見さんを追いかける。しばらくカウンター前に立っていたナス先輩だが、照れくさがってか「二人だけで読んでね」と小声でいうと、部室に入ってしまった。
「あー、お前なに、例の掲示板みてるの?」入るなりナス先輩は声をあげる。
「ヤバいよ、これ」部室のやりとりも気になったが、それよりも小説に気を取られる。
[#ここから1字下げ]
その夜、全世界衛星中継による3Dフルハイビジョンホログラムサラウンド放送で、委員長の新法案が発表された。
「新建築法」――それは以後、この世界に建てられるすべての建造物の天井の高さを、最高で一メートルに限定するというものだった。
「これにより、これまで三十階建て、千人収容のビルディングが、単純にいって九十階建て、三千人収容のものとなります」
映像の中の自分がいうのを、ナットウスキーは自室の立体ホログラムでみていた。
「爆発的人口増加、それに伴う超過密社会をすみやかに、平和な住環境に移行させる、そのためにはこの新建築法の施行をおいて、ほかありません!」
ナットウスキーは高価なワイングラスをテーブルに置き、なにを思ったか絨毯に寝転がった。
「実際には、五十センチだ」そうつぶやいて、ナットウスキーは恰幅のよい自分の腹を撫でた。
絶対につっかえるだろう。ナットウスキーは苦笑いを浮かべる。ハハハハハ。苦笑いのつもりがいつしか声をあげて笑い出していた。
ハハハハ、アハハハ、アーッハッハッハ! 笑わずにはいられなかった。その滑稽さに。
我々人類はこれ以後ずっと、寝て暮らす、そう、寝人間になるのだ!
序章 完
[#ここで字下げ終わり]
「望美ー」部長が呼んでいるので立ち上がる。能見さんと目が合うと二人とも笑った。彼女がさらに続きを読みたいかと思ったが、一応、原稿用紙の束をつかむ。
「今度ちゃんと読ませてください」
「うん」部室に戻る。
ナットウスキー委員長の笑い声が三段階なのはどうなんだろうとか、序章という割に短いとか、いろいろ思ったが、ナス先輩に向かって「面白い!」の意味で大きく頷いてみせる。岩田がいじるノートパソコンの側に張り付いていたナス先輩だが、ニヤリとしてみせた。
部長がみてみて、といって小さな新聞を望美にみせる。部長が興奮してるのが表情で分かる。奥では健太郎と登美子が携帯型ゲームで盛り上がっている。綾は「カツクラ」の人気投票ページを確認している。幸治と岩田とナス先輩はパソコンを囲んでいる。沙季と堀越さんは誰かのヘアワックスの丸い容器をころころと卓上でもてあそびながら話をしている。
「ビヨーンビヨビヨビーヤング」
「ボヤーンボヤボヤ坊やーん」
「トローントロトロ討論ー」
「どんな討論なの」アハハ。樫尾の絵の題名から「膨らませて」いるらしい。
部長に渡された「週刊読書人」は新聞紙サイズの業界紙。来月の文芸誌の予告が載るので、部長も注意してみるようになったのだ。
部長が指したところに金子先生の名前がある。二作目の小説が掲載されるのだ。望美は、朝、樫尾に携帯電話の方位磁石をみせてもらったときのように「あっ」と声をあげてしまった。
[#ここから1字下げ]
金子|留《とめ》、新人賞受賞第一作
『僕は落ち着きがない』(三百枚一挙掲載予定)
[#ここで字下げ終わり]
その、題名をみただけで望美には確信が生じたのだ。
これは、私たちのことを書いた小説だ[#「私たちのことを書いた小説だ」に傍点]と。
絶対にそうだと思った。それを裏付けるみたいに、常にも増して部室内はにぎやか。
「ウソだー」「ンモー」「ヤバいって」それで誰も望美の「あっ」という声には気付かなかった。
[#改ページ]
10
Forbidden という言葉だ。格好いいのは。
画面の中の文字をみながら望美は思う。
「もう一度クリックしてみる」健太郎が何度かボタンを押す。
音もいいが、スペルも意味も格好いい。
ブラウザが改めて「読み込み」をして、画面の左上に再び黒くそれが表示される。下段に小さな文字で文章が少し続いて、あと真っ白という画面全体もいい。これ Not found だと、普通。
週が明けた放課後には、桜ヶ丘高校の裏サイトは|なくなって《forbidden》いた。
「あるいはこっそり移転したのかもしれませんね」望美の隣に立った一年生男子がいう。まだ望美は名を覚えてないが、先週いつのまにか入部していて、もう打ちとけつつある。
「かもな」背後の幸治もシリアスそうな声音で同意する。声はシリアスそうだが、幸治は梨をかじっている。タッパーに入れて持ってきたやつ。
幸治は腕まくりをしていない。一学期にからかわれたのをまだ気にしているのかもしれない。
「めぼしい関係者だけにメールで新たなアドレスが送られるんでしょう」一年生男子は訳知り顔でいう。そういうものなのか。
しばらく斜め後ろから覗き込んでいたが、窮屈だったのでその場を離れてベニヤ側の席の一つに座る。梨、食べたいと思いながら。
先週の放課後にみつけて「ヤバいよ」と言い合っていた裏サイトも、そこでの話題は頼子のことではなく、もっぱら別の生徒同士の「ディスりあい」についてだったが、「O先生が生徒と付き合っている」という噂も盛り上がった。
「本当に誰だろうな」先週、柔道部の合宿があって盛り上がりに参加できなかった幸治が改めてその話題を持ち出す。
「O先生も気になるけど、生徒は誰だ」
「菱井琴子|※[#全角クン]《クン》じゃないだろうな」
「ないない」幸治が梨をシャリシャリいわせる音がおいしそう。
「能見さんじゃないだろうな」と健太郎。
「え、能見さん、知ってるの」つい口をはさんだ望美の声音は聞き捨てならぬ、という風になってしまった。
「知ってますよ」「誰、ノーミさんって」健太郎と幸治と、違う言葉がかぶった。
「なにおまえ、知らねえの?」侮った口調でいいながら健太郎は幸治の手元のタッパーから梨をとって頬張る。
「何食ってんだよ」幸治もメンチを切って応じる。
「おまえだけの梨じゃねんだよ」健太郎はシャリシャリいわせている。
「俺だけの梨だよ」「なんでだよ」
「俺のだよな、なあ」幸治は誰にともなく、テーブルの面々に呼びかける。顔をあげた沙季がいった。
「幸治さん、眼鏡替えましたね」
「立ってる人、誰でもいいからお湯沸かしてー」イラストを描く手をとめずに綾がいう。
「にしてもさ、O先生って誰だ」
「O、オーって多いよな、オーク田、オー川、オーチ合……」
「女教師が男子生徒と付き合ってる可能性もありますよ、オー場……」一年生男子の敬語がなんだか新鮮だ。
「そういえばオー田原先生は……」「ないない」「ないない」小田原先生は先週の同じやり取りのときもオチになっていた。そのとき望美は部長の方をみないように[#「みないように」に傍点]気をつけた。今は部長がいないから、顔を伏せなくてもいい。
「たしか、相手の生徒の名前も出てなかったよな」皆に囲まれている健太郎はパソコンをいじりながら続けた。
「その子に気を使ったのかな」
「いや、リークされてないっぽかったな」健太郎がいう。気付けばいつでも、パソコンを囲みつづけるのは男ばかり。女子は後ろから覗き込んでも、割とすぐにその場を離れる。
「リークされてないですね」一年生が頷いていった。幸治もシリアスそうな表情を崩さず画面をみたまま、梨の入ったタッパーを机に置いた。側に座っていた沙季が手をのばして、タッパーごと引き寄せてしまった。
食べちゃいましょう、という(全然シリアスじゃない、ずるい)顔で向かいの望美をみる。なんとなく頷いて、二人で残りの二つを手にとってしまう。
うまい。梨うまい。画面をみれば画面の単語に、梨を食えば梨のことに、いきなり気持ちが支配されてしまう自分に呆れる。梨はシャリシャリしてる。梨とか菓子パンとかうまい棒とか、口に入ればうまいって思うよな、きっと。裏サイトに書き込む人も。
こないだオッソロシーという言葉を大人から与えられて、それで初めてオッソロシー気がしてくる。下半身の画像を公開するとか、電話番号を出会い系サイトにさらすとか、そこまで傷つけなくてもいいと思うところまでためらわずに出来てしまうんだ。ためらわずに出来るというのは、加害者も殴った感触が残らないということ。それは実は、加害者にも恐ろしいことだ。
皆、シリアスな表情で語り合うけど、そういうシリアスな顔も望美はうまく出来ずにいる。
「もう、替えないとね」ベニヤ壁の向こうから声がする。我々にいわれている言葉だと望美は思った。
そうだねと返事をしようかと思ったら、すぐに部長が入ってきた。部員の中でもっとも影の薄い浦田と並んで(だから先の台詞も、浦田にいっていたのかもしれない)。入ってくるなり、部長はやはり天井をみる。点滅している蛍光灯のことだと、入ってくる前から分かった。長い蛍光灯は、ベニヤと天井の隙間に半分が部室、もう半分は図書室にまたがっているから、向こうからも把握できる。部長が指差した箇所は、夏休み前に二本のうち片方を替えた。だから片方はすべすべつやつやしている。
「本当は、二本同時に取り替えるべきなんだよね」天板の分厚い、頑丈な部室の机に背の高い樫尾が乗って取り替えた光景を思い出す。
「ですよねー」健太郎はお追従の口調が樫尾ほど上手じゃない。
「裏サイトはどうなったの」いつもの部長席に、部長は腰掛けなかった。壁側の、沙季の奥に、あいてる? と確認して移動していく。文化祭を終えてもう部長ではないから。手に持っているのも問題集とノート。
「あー、リークされてないですね」幸治がいう。
「そのリークの使い方はちがうから」と健太郎。
「先輩、今リークっていいたかっただけでしょう」
「いいじゃんか、フィーリングで喋ってるんだから……ああっ!」幸治が空のタッパーにやっと気付く。
「おいしかった」いい感じの怒声に、沙季がいつものテヘ、という顔で返す。
「ごちそうさま」望美もテヘ、をやろうとしてやめて、笑いながら頭を下げる。
「黙って食うことないだろ」幸治は女の子に甘いから、怒声がまろやかになっている。
「メンゴ!」沙季は古い漫画の謝り方をした。
「ドワッハッハッハッ」すかさず堀越さんが横でいう。いった後で本当に笑っている。
「な、なにがおかしいのよ!」沙季のその怒り方も様式どおりで、いい終えた口許がやはり笑ってる。美術室から拾ってきたという八〇年ごろの少女漫画が、少し前から流行していて、「メンゴ!」と謝るのや「ドワッハッハッハッ」と(大しておかしくないのに)笑うのと、「トクン……トクン……」と心臓の音をいうのが、女子部員の間で定番になった。
台詞の笑いではない、本当の笑い声が部室の外から聞こえる。新聞台の周囲にたむろしている男子生徒だ。ちげーよ、とか、こえーよ、という会話も混じっている。
「とにかく俺は、反対だけどね」健太郎は大声をあげる。
「なにが」
「先生が女生徒に手を出すの」
「なんで」
「いいじゃん、別に」
「俺らの漁場荒らすなや、といいたい」
「倫理的な話じゃないんだ」
「漁場じゃないよ漁場じゃ」
「健太郎は女子アナと結婚したいんでしょう、関係ないじゃん」
「それはそれだよ、あと漁場ですよ、漁場」
「女子はそう思ってないもん」
「百歩譲って付き合うにしても、せめて、ちゃんと俺に報告してほしい」皆、そこで爆笑。
「報告ってなんで健太郎に報告がいるの!」綾のツッコミはやはり、そのまんまだ。
「それは……」
部室内も外も騒がしくなってきたことで、むしろ集中した望美は、ナス先輩の小説の続きを読むことにした。
[#ここから1字下げ]
寝人間の世界では、人は皆寝て暮らしている。
すべての建物の天井は五十センチの高さになり、人はごろごろと転がるか、膝を交互に動かして移動した。台車やスケボーのような移動の道具も使われた。床はすべてつるつるのエナメル素材か、もしくはほどよい弾力が心地よいテンピュール素材になった。寝ながら運転する寝カーも開発され、天井には寝テレビがすえつけられた。すべてのドラマはベッドシーンだけになり、子供はいつまでもチャンネルを変えさせられつづけた。
柔道(の寝技)以外のスポーツは世界からほぼなくなった。サッカーはオーバーヘッドシュートしか出来なくなり、バスケットボールは誰でもすぐにダンクシュートが出来てしまうからだった。国技として寝相撲が試みられていたが、勝敗が分かりづらい上に、満員御礼の垂れ幕が力士の顔にかかってみえにくく、不評だった。
「寝相撲に国民は大喜びですぞ」モロヘイヤが寝癖を片手でおさえながら報告した。
嘘付け。床ずれのシップを貼りなおしながら、ナットウスキーは思った。押し出しと寄り切りしかない相撲なんて誰が嬉しいもんか。
実際、嘘だった。すべての国民が、ナットウスキー委員長を憎悪していた。
寝人間の世界で一番の重罪は立ち上がることだった。寝警察《sleeping police》、通称SPがこれを厳しく取り締まった。
「待て!」といわれて、待つ者はいなかった。ほとんどの犯人をSPは取り逃した。立って走るほうが、寝ている者より足が速かったからだ。だが長い立ちくらみにふらついている間に取り押さえられた者には極刑が待っていた。
「では、失礼します」手を敬礼の位置に持っていくと、モロヘイヤの髪の毛がぴょこんと立ち上がった。素早い膝の動きで身を反転させ、扉に向かう。床すれすれについた鍵にカードをかざすと、横長の一扉が開く……。
[#ここで字下げ終わり]
ナス先輩は、これまでに図書室の扉の鍵を開けたことがあったっけ。
原稿用紙から顔をあげてもナス先輩はいない。二年生は修学旅行にいっている。携帯電話にメールしてみようかと思ったが、やめておく。どこの新人賞に送ろうかと相談されていたのだが、どこに送ればいいのか、読んでも読んでもまったく分からなかった。純文学という風ではない。SFだろうか。面白いけど、予選を通過するかどうかもまるで見当がつかない。原稿用紙よりも、大学ノートに一気に書いてあったらもっと似合う小説と思ったが、そういったら「バカにしている」ことになるだろうか。皆、どんなことで傷つくか分からないから難しい。
健太郎はまだ「先生が女生徒と付き合うの禁止」を力説していて、全員に遠巻きに面白がられている。少し早めに部室を出ると、さっき大笑いしていた男子生徒は一人もいなくて、ブラバンの練習の音がかすかに聞こえた。
当たり前だが、修学旅行が終わっても二年生たちにはなんの変化もなかった。放課後の部室でおみやげを配っているが、コンビニで買ってきたお菓子を分けるのと同じテンション。
あえていえば樫尾の携帯が変わっていたくらいだが、携帯電話が変わったのは修学旅行となんの関係もない。望美は別になんの変化を期待していたわけでもないのだが、修学するって、大したことないな、と――自分自身の昨年の旅行を思い出しても――思う。
「あー樫尾、機種変したんだー」
「うん」
「しかもドコモになってるー」
「裏切りものー」あ、Nにしたんだ。PかNで迷うよね。うん、迷う迷う。ピーとエヌってなにが違うの。知らないの? エヌはナショナルで。それ、ちがうよ……
皆、新しい携帯電話が大好きだ。NがNECでPがパナソニックだということは、これでもう樫尾は樫尾というあだ名ではなくなるんだろうか。
「新しいのって、すごーく薄いんだね」薄い薄い。もうすっかり呼びなれているから樫尾のままかもしれない。ナス先輩は来年は本当に先輩だから、そのままだろう。呼びなれていても、卒業したら、もう呼ばない。
我々はいつか「同窓会」のような集いを持つだろうか。インターネット上の、なにかの場所でつながって連絡を取り合ったりするんだろうか。しなければこれからもう一生、呼ばないかもしれない。
もうあだ名を呼べないことの寂しさは、もう会えないということの寂しさと似ているけど、区別したい。m&m's ミルクチョコレートのコーティングされた中身と、外側のコーティングと、必ず一度に頬張るわけだけど本当は違う味。
「MNPだから番号は変わらないよ」
「MNPってなに」タッパーからラ・フランスを取り出して頬張りながら登美子が尋ねる。先週以来、タッパーに果物を入れて持ってくるのが流行している。冷蔵庫がもたらした変化だ。頼子の弁当箱のインパクトに隠されていたが登美子の方が実は食いしん坊で、いつもなにか食べている。
「ナンバーなんだっけ、ナンバーポータビリティ」
「ナンバーポータビリティだったら、ただのNPじゃないの」Mってなんだよ、Mって。ナス先輩が理屈をいった。ラ・フランスはいい匂いで、部室の皆が登美子をみた。
「え、いいよ皆、食べてよ」みられただけなのに登美子は褒められた人みたいに照れた顔で、大きめのタッパーを机の中央に押し出す。
ベニヤの向こうで幸治が「あけろー」と間延びした声でいう。新刊買い出しに出かけていた組が戻ってきたのだ。幸治は新刊の詰まった段ボール箱を両手に抱えていた。
「お疲れ」
「買ってきてくれた?」幸治の後ろからつづいた部長に望美は尋ねる。
放課後、新刊購入のついでに買ってきてもらった文芸誌の目次を広げても(あ、目次ってそこなんだ、と登美子が横からみていった)、どこにも金子留の名は載っていなかった。望美は未練がましく何度も全ページをめくってみた。
元部長になった部長はわざわざ文芸誌の編集部に電話をして確認をとった。予告を掲載した後になって掲載は翌月以降になったとのこと。
「じゃあ、今日はもういくね」元部長になった部長は早上がり(とはいえ、買い出しの帰りだからもうすぐ閉館時間なのだが)。新しく部長になったナス先輩は、三年生にはなるべく貸し出し当番をさせないようにと当番シフトを切り替えた。
それ以来、少し早めに帰るようになったものの、部室には毎日必ず立ち寄ってしまう。一、二年生たちは入り口に近いテーブルで会議の準備、三年生は奥のテーブルでダベったり勉強したり。定年退職した後することない、ってこんなかなぁと考えたりする。
「中山さんさ、次回、能見さんのインタビュー、なんとかならないかなあ」新部長のナス先輩はすでに編集長然とした態度でもある。
「写写丸路線に舵を切ってから、『図書室便り』の人気は高まる一方だからな」
「一部でね」綾が漫画に目を落としたまま(自分も写写丸のイラストを模写しているのに)醒めた口調でいった。
「さあ、いってみるけどね」三年生でも委員は休まないことになっている。だから能見さんだけは週に一度、カウンターに座る。委員は誰もが勝手にサボるのが慣例だったので、休ませる制度がこれまでなかった。サボっていいんだよ、とはいえないし、だから望美は自分もカウンターに入りたい。申し訳ないし、つまらない。
「誰か鳴ってるよ」綾が(漫画に目を落としたまま)いう。携帯電話の着信に望美はいつも遅れて気付く。床に置いた鞄を探ると奥の方でぶるぶる震えていた。メロディも鳴らないのに、わずかな振動によく気付いたなと感心する。ありがとうの意味で綾に目を向けるが、やはりこっちをみない。
(頑《かたく》ななんだなぁ)携帯電話を取り出して、機種変更したいと思う。頼子の携帯電話がずばぬけてボロいと思っていたが、樫尾の真新しい、薄い携帯電話をみたら、自分のもけっこう古ぼけていることに気付いてしまった。
頼子から、着信履歴だけ残っていて留守電にはふきこまれていない。かけなおすが不通だった(なんだろう)。一、二年生たちのテーブルでは会議が始まった。
「まず、もう十月も後半なんだから、いいかげんに部室前のポスター貼り替えようよ」樫尾がいった。
「読書の秋、みたいな感じに?」沙季がつづける。
「円卓はどうする?」会議中のナス先輩は先代の部長と違い、立ったままのスタイル。
「書評の割り当てもあるよな」
「まずポスターどうする、樫尾は美術展、もう出したんだろ」ナス先輩より小柄の一年生は、熱心そうにいちいちうなずいている。
「出したけど、まだ別のもあるし、時間とれるかな」
「……僕がもっといいポスターを描いてきてあげますよ」会議席の一番端に座っていた尾ノ上がぼそっといった。尾ノ上が自ら発言するのは珍しいので、望美は顔をあげた。
「マジで? 描けるの、じゃあ頼む」樫尾は一瞬面食らったがすぐにそういって、ナス先輩も一年生たちも「あまりキモい絵でなければいいよ」と特に異議なし。頼っているというより、誰が描いてもいいものだからという風ではあったが、じゃあ頼む、といわれた尾ノ上自身がいつまでも戸惑った顔をしていた。書記の登美子は大学ノートに書くことが多すぎて焦っている。
また着信、今度はメールだ。頼子からの文面は件名に「バス停で待つ」とだけあって、急いで立ち上がる。横歩きして、外に出してもらう。頼子からメールときいて、綾もすぐに椅子をひいてくれた。
走り出しながら、少し前にも弁当箱を携えて、階段を駆け下りたなと思い出す。外に出ると、ランニングする空手部とすれ違った。あわてて振り向くが頼子と弁当箱で張り合った彼がいたかどうか、分からない。やりとりだけを強烈に覚えていて、顔も名前も忘れてしまっていた。
走っていったがバス停に頼子はいなかった。電話をすると、一つ前のバス停のコンビニだという。走るのはやめることにする。
「あぁ」コンビニの雑誌コーナーで立ち読みをする姿が、外からみえる。難しい顔をしているが、めくっているのは多分女性週刊誌。
中に入っても気付かない。ヘッドホンをして音楽を聴いている。肩をたたくとき、少し緊張した。
「雅子様って、逆から読んでもマサコサマだよ」たたかれた頼子は首を動かしていう。
「知ってる、有名だよ」いってから、有名とかそういう事柄ではないなと思う。頼子は女性週刊誌を戻す。
「ここのコンビニのトイレ入ったことある?」ないよ。なにも買わずに外に出る。コンビニといえば買い食いというイメージだが、頼子は弁当箱が大きいというだけで、食い意地のはったところは(実は)ない。
「トイレに、男と女の両方のシルエットが並んでるんだけどさ、なんかその……ヌードっぽいの」
「輪郭が?」
「そうそう」今度みてみて。外に出たものの、頼子は右にも左にも歩き出さない。頭部に水滴を感じて望美はみあげる。
「どうしたの」
「いや、なんか、雨、ふってきたかなって」答えながら、どうしたの、はこっちの台詞だと思う。ただ立っているだけって所在ない。煙草を吸ったり、ペットボトルのお茶を飲んだり、したい。二人で学校から遠ざかる方向のバスを待ってる状態だ。頼子の横顔をみて、お茶を買おうかといってみるか迷って、また正面を向く。僕は落ち着きがない。金子先生の小説は掲載されなかったが、望美は予告された題名を心で反芻する。
「部室にくる?」乗用車が何台か通り過ぎる。バスはまだしばらく来ない。学校の方から男子生徒が数人やってきて、コンビニに入っていった。
「いこうと思ったんだ」
「ほんとう?」
「いこうと思ったんだけど」だけど、か。
「押してみて」不意にいわれたが、言葉の主語が分からない。頼子は学校の方を向いて二、三歩すすんだ。
「背中をぐっと押してみて」なにをいわれているか分からないまま、背中を軽く押す。
「もっと強く」強く押すが、頼子は動かない。なにをさせられているか、まだ分からない。
「もっと」抗議するような口調なので、思わず両手で重い扉を押す気持ちで押すと、頼子はよろけて前に踏み出した。
「なに」
「動けないんだよ」
振り向いた頼子は、これまでにみたことのない困った顔をしていた。
「学校にいこうと思ったけど、ここで足がすくむんだ」コンビニの扉が開いて、さっきの男子生徒のうち一人が菓子パンを片手に出てきて、学校のほうに戻っていく。
まず、制服を着ることがどうしてもできなかったと頼子はいう。私服でなら出かけられるので、私服で学校にいってみようと思ったら、バスが近づくにつれて動悸が激しくなり、ついにこのバス停で降りてしまった。
「本当に体が動かないから面白くてさ」
いやいや、面白くない。
少し前、部室で頼子の不登校について話し合ったとき、皆、すごく物分かりがいいのが不思議だった。「私も、鬱になったことあるから分かる」と誰かがいって、誰もが頷いてみせた。「俺も、『落ちる』ときあるから分かるな。そういう、ちょっとひどいときあるもんな」「心のケアっていうか、そういうのが必要なんだよな」「俺も分かるよ、布団から出られないときあるある」「それは違うから」「眠いだけだから」
くだらないやりとりになると安心する自分に望美は気付いた。皆、なんで気持ちが分かる[#「気持ちが分かる」に傍点]んだろう。
とにかく今、目の前の頼子は具体的に動けない。でも、そんなの本当だろうか。ひんやりとした風がふいて、頼子のおでこの髪を揺らした。部室やカウンターにいるときには髪が動かないから、珍しげにみてしまう。
右足と左足を、交互に動かせばいいんじゃないのか。動かないのは、動かないと決めている[#「決めている」に傍点]だけではないのか。
半球を二つくっつけて、中の空気を抜いて、双方から馬に引っ張らせた実験のように、あるいは医者にいきたくなくて木につかまったスヌーピーをピーナツ村の全員が数珠繋ぎでそうしたように、頼子を皆で引っ張ってみたらどうだろう。
おもむろに頼子の腕をとって、思い切り引っ張ってみた。
「ちょっと、なに、痛いよ」頼子が戸惑うのも構わないことに、決めた[#「決めた」に傍点]。
「おおきな、かぶ!」いいながら、全力で引っ張る。望美の体はほとんど斜めに傾いた。
「かぶ?」頼子は意味が分かったらしく少し笑って、それでも頑強に踏ん張り、抵抗した。コンビニを出てきた男子生徒が不思議そうな目でみて、二人をよけて通り過ぎていった。
「嘘だ、動けないなんて……」望美も笑って、力をこめる。こんなに力をこめて何かを動かそうとするのは久しぶりだ。頼子も全力で抵抗しているのが分かる。体が熱くなってくる。相手の腕の痛みを思い、胸に動悸が走った。それでも強く引っ張り続けると、ついに二、三歩動いた。頼子は掴まれた手をふりほどこうとして、出来ないと分かるといきなり肘に顔を寄せてきた。急に身を寄せられ、転びそうになる。
「痛!」頼子は望美の服の上から思いきり噛み付いたのだったが、しばらくなにをされているか分からなかった。肘が痛むと同時に、本気で噛んでいることが分かって、やっと手をふりほどいた。
二人とも荒い息をしていた。頼子はうつむいている。
泣かせた。そういう感触があった。
「なーかしたーなーかしたー」コンビニから出てきた私服の若い男が、通り過ぎざまに小声でいった。
「うるさい片岡、泣いてない!」頼子は顔をあげてすぐさま抗議した。本当だ、泣いてない。
望美は「ごめん」といったが、それは反射的なものだった。なぜか、頼子が噛み付いたことで、少し満足していた。言い訳もしなかった。
「俺も落ちるときあるから分かる」だなんて、そんな言葉、嘘だ、意味ない、具体的に動かない人のことはただもう引っ張ってみるしかないじゃないか。
「ううん、いい」ちょうど頃合だろうという感じでやってきたバスに頼子は乗った。
それから望美は痛くなくなってからも、ときどき肘をさするようになった。
噛まれた日からずっと曇天つづきのまま、十一月になった。朝晩寒くなってきたと思い、そう思う自分をおばあさんみたいだとも思いながら図書室の鍵を開ける。床に手をつくと、やはりいつになく冷たい。コンロに火をつけたところで尾ノ上がやってきた。
替えなきゃといいあってからだいぶ経つのに蛍光灯は取り替えられていない。いわれたせいでその気になったみたいに[#「その気になったみたいに」に傍点]点滅は激しくなっていた。頭上の光がちかちかしていても、尾ノ上は気にしなかった。
富田先生とカングラが揃って部室に入ってきた。ノックもない、なんだか乱暴な入室だ。
「おはようございます」という望美を無視し、二人は天井を指差して、なにか話し合っている。
「それがいいと思います」
「一日で出来るかな」蛍光灯の話だろうか、たかが蛍光灯にしては二人のやりとりにシリアスな気配。
「はい、半日でしょう」やっと望美と目があった富田先生はあっさり「ここの壁、なくすから」といってベニヤの壁をみやった。
「え」二人がさらに事務的な会話を続けている間、望美は焦燥感とともに、『頭の体操』を思い出していた。背表紙に河童のマークの描かれた新書サイズの、家に昔から何冊もあるクイズの本だ。子供のときから(家族揃って)何度も読み返して、それはもうボロボロになっている。
「六十センチの紐を一日に一回、五センチずつ切っていくことにしました。何日目に切り終わるでしょう」という問題があった。ページをめくるとすぐに答えが載っている。望美はどの問題も我慢できずに、すぐめくる。五センチずつだから六十÷五=十二日と思うのはひっかけ。十センチになっている紐に鋏を入れれば、残りも五センチになるから、十一日目には切り終わる、が正解。
今「壁をなくす」という言い方をしているけど、それはひっかけ。壁をなくせば空間がなくなるから、「部室がなくなる」が正解。
「おまえら、来週中に私物、全部出せな」(ページをめくればすぐに答えが載っている)やっぱり!
「なにかあったんですか」
「新しい部長に伝えとけよ。それにおまえらはもう受験なのにこんなとこにいるべきじゃないだろ」富田先生はそれだけ告げ、さっと出て行ってしまった。カングラはなにもいわずに後に続く。
尾ノ上が変わらずに漫画を読み続けていて、まるで景色みたいだ、と思う。
[#改ページ]
11
二学期いっぱいで小田原先生が転勤することになった。期末テストが終わりもうあと数日で冬休み、安堵感や解放感が広がっている部室にもたらされた大ニュースだった。倒れた親の看病のため、自ら故郷の近くの欠員補充に志願したという先生自身の説明を、部員の多くは信じなかった。
「陰謀だよ、陰謀」健太郎は主張した。
「ですよねえ」半端な時期に入部した小さな一年生にはマツオというあだ名がついていた。
「だって、これだろ」と健太郎はつづけ、腕をくんだまま、顎で壁をさした。
図書部のベニヤ壁の除去作業は結局、冬休みに延期されたのだったが、部室がなくなることと顧問がいなくなることには、皆、なにかの結びつきをつい感じてしまうのだ。
「タイミングがよすぎるよ」夏前の、PCの導入が伏線だったと健太郎は持論を展開する。地獄のバーコード貼りのときから体よく騙されていたのだ、と。マンハッタン島をわずかな額のドルで売らされたインディアンの逸話を話しているみたいだ。
「図書部自体、廃部になるのかな」登美子は悲痛な表情。
「ってことじゃねえの?」樫尾も珍しく少し語尾が荒い。
ナス先輩は腕を組んで、一言も口をきかない。部長になってなんだか落ち着きが出てきた、少し前に元部長がそういっていたけど、今黙っているのは、落ち着いているからではない。本当に腹を立てているから、黙るのだと望美は思う。三年生は三学期を少し過ごせばもう卒業だが、ナス先輩たちには来年に関わる話だ。
いくらなんでも転勤と壁は無関係だろう、廃部も考えすぎなのではないか。そう思っても簡単に口に出せない気運になっている。
ただ、一年でも女子部員に深刻さはない。ベニヤの向こうから聞こえる沙季と堀越さんの声はいつも通り弾んでいる。大事な話をしてるから出てけとナス先輩に怒られても、はいはいと笑っていた。今も貸し出し利用者がいないのをいいことに、カウンターでおしゃべりを続けている。
今読んでいるのを切りのいいところまで読んで、早めに帰って勉強しようと思っていた望美だが逆に出ていけなくなった。今このタイミングで席を立ったら、薄情にも三年生には関係ないもんね、といってるかのようだ。いや、そんな気持ちはないのだから、堂々と帰ればいいのだが、綾も健太郎も幸治も、我が事のように真面目な表情で相槌をうったり語気も激しく意見をいっている。
向こうで歓声があがり、皆一瞬ベニヤの壁をみる。
「やだ、これかわいい」
「いいでしょう」きっと沙季がポケットから新しい手袋を取り出したのだ。薄手でグレーの、手首のところにフワフワのファーがついたやつ。昼休みに「私って末端冷え性なんですよ」と、冷え性であることが嬉しいみたいにみせてくれたやつだ。
苛立った表情でナス先輩がテーブルに視線を戻し、呼応するように皆の視線もテーブルに戻った。深刻ななにかがそこに載ってる[#「そこに載ってる」に傍点]みたいだ。望美はまだベニヤをみていたが、二人の会話に興味はなかった。皆がみたベニヤをみていたのだ。
少し前、望美は残念と思った。ビデオルームのホワイトボードをみるたびに、少しだけ思い出す。元部長がかなえたかった文化祭の企画のことを。でも、ベニヤ壁がなくなったらベニヤをみるたびに感じていた「念」はどこにいく?
壁だけではない。巨大な二連なりの作業机も、椅子もなくなるのだ。二学期終了とともに、図書室自体が閉鎖されて、大改装が施される。西部劇のあの扉もなくなってしまうのか。
「癒着だよ、癒着、まだつかえる建物の改装工事発注して、マージンで得する奴がいるんだ」樫尾がいう。
「ユチャクだな」幸治がもっともらしく頷く。
ドワッハッハッハ! また向こうで軽薄な笑い声がする。いつもなら自分たちでもついあげていそうな声だが、苛立っているナス先輩は部室の外に出て、怒った。
「貸し出し、一人でできるだろ」連れ戻されて席に座る堀越さんは怒られて不満そうでもあり、笑い出しそうな顔でもある。あなたたち、なにを真剣にやってるんだ、といいたげな。
「でも、それでなぜ小田原先生が転勤させられるの?」綾がいう。
「改装に反対したからだよ」健太郎が即答したが、それはもちろん憶測にすぎない。
「そんなわけないでしょう」口を挟んだ堀越さんは、怒られたことの仕返しをするような不敵な表情で、望美はまずいと思う。
「皆、本当に分かってないんですね」女子特有の意地悪と優越感が口調にもにじんでいる。
「なにがだよ」
「いってみろよ」
ワーーー! なんでもないなんでもない! ワーワーワー!
そんな話、どうでもいいからさぁ、暗い顔してないでさー、それより皆でウノでもやらない? ウノやろうよ、ウノ。そんな「キャラ」ではないのに、そうやって割って入りたくなる。大きな音を立てて、注意をひこうか。そばにあるのは週刊誌の山で、落としてもバサバサいうだけだ。誰かのピカピカした音楽プレーヤーが置いてあるけど、これをベニヤでない方の壁に投げつけるか(怒るだろうなぁ)。とっさに判断できず、望美は思わず立ち上がってしまう。
「小田原先生は部長と付き合ってるのがバレたんですよ」
あー。いった。
望美が勢いよく立ち上がったのと、堀越さんの言葉と同時だった。皆は、望美をみるのと、場に放たれた言葉について考えるのを同時にさせられて、明らかに混乱しているようだった。
「やっぱり、本当なんだ」ナス先輩はつぶやいた。
「いや、噂だよ」望美はあわてて座った。だが、立ち上がった望美の表情から、ナス先輩も皆も真実を読み取ってしまったようで、まるで逆効果だ。えー、そうではありませんでして、今、立ち上がったのはゴキブリが自分の足をかじったからでありまして、えー毎度バカバカしいことでありまして。堀越さんの言葉と私の立ち上がりは無関係でありまして。落語家みたいな言葉がぐるぐるする。
「うっそ」健太郎も真剣に受け止めている。
「マジかよ!」やはり、主に驚いているのは男子連中。
「沙季から聞いたことはあるけど」樫尾だけが静かに漏らした。ナス先輩はなにもいわない。沙季と呼び捨てにした、と望美は思ったが、誰も注意を払わなかった。
堀越さんは重大なことをいってしまったと気付いた顔。
「あくまでも噂だよ」望美はもう一度、今度は、この場所全体に刻印するようにいった。そして考えをめぐらす。堀越さんも、ナス先輩に怒られて気分を害さなければいわなかっただろう。ナス先輩も、図書部にまつわる学校の処遇がなければ堀越さんを怒らなかっただろう。言葉が放たれたのは、壁がなくなるから。そのときからの必然で、これは仕方なかったのかもしれない。
元部長との交際で先生が転勤。図書部を守る人がいなくなって部室がなくなる。そうすると元凶は元部長。そういう「論調」になったら、どうしようか。
いや、そんなことを自分は心配しているのではない。もっと単純なこと。元部長が、部の皆だけでなく、大勢に好奇の目でみられるかもしれないことが、望美はイヤなのだ。
「そうだよ、噂だよ」入り口の外から元部長の部長の声で、皆、またいっせいに首を動かす。
薄い扉を開いて元部長登場。言葉や仕草だけでなく、タイミングが芝居がかるときもある。
「お茶、いれなおす」皆も飲むでしょう。落ち着きを取り戻した望美は、今度はゆっくり立ち上がった。
「なくなるんですか」能見さんが望美をみつめる。終業式まであと二日の放課後、カウンターには行列ができていて、能見さんが一人で貸し出し処理を捌《さば》いていたから、一年生の当番を呼ぼうとして、やめて、そのまま隣に座ったのだ。
「うん、冬休みには」ベニヤの壁がなくなるなんてこと、図書部以外の生徒たちにとっては、ニュースでもなんでもないことだ。能見さんも今まで知らなかった。
「そうなんですか」皆にとってなくなるのは「壁」だ。「部屋」はなくならない。むしろ、広がる。もう、長い蛍光灯はとりかえられていて、他と色が違う。
「なんだか寂しいですね……あ、返却日は一月の第二週の木曜になります」いいながら手際よく処理していく。すっすと抜き出されたカードがすべるように望美の方に出される。日付印をとんとんと捺し、生徒の差し出したカードと一緒にクリップでまとめるころには、次の生徒の返却本が能見さんから渡される。
「寂しいかなぁ」思った以上にそっけない返事が自分の口から出た。カード入れから、手早く取り出して、書名とカードを照合する。
望美は遅れて立腹していた。自分たちはたしかに、部室で少々騒がしくしていたかもしれない。部室は各クラスでの異端者の溜まり場だったかもしれない。でも図書室に、学校に、一切の貢献をしなかっただろうか。自分たちはいなくてよい存在[#「いなくてよい存在」に傍点]だったか?
その場で怒れないって、損だ。読書を啓蒙するポスターが視界に入る。先週尾ノ上が描いてきたポスターは、一、二年の全部員に速攻で却下されてしまい、結局は樫尾がその場で描いた。
尾ノ上が描いてきたのは「ビキニアーマー」と呼ばれる、硬質の水着風のものだけを着用したアニメ絵の美女が、魔法書のようなものを手に読書を啓蒙する内容で、「キモい」という以前にオタク的見地からみても「絵柄が古い!」のが不採用の理由だった。それはまだ部室に丸めてある。
壁にポスターを貼っても、本を読む人がにわかに増えるわけではない。円卓のディスプレイも、本の買い出しも、趣味だろうといわれればそれまでだ。
「あ、クリップなくなる」能見さんがいう。
でも、皆、本を借りるじゃないか。生徒も先生も。返却処理を終えて役目を終えたクリップを一個手渡す。図書カードと貸し出しカードを束ねておくためのクリップだから、貸し出しが多ければ多いほど減る。返却処理がすめばクリップ入れに戻るのだが、先生が勝手に持って行ったりもするらしく、気づけばどんどんなくなっていく。
自分たちの愛する場所がなくなるから残せ、なんていうのは感傷の押し付けだ。新しい図書室で、新しい生徒が新しい思い出を作るのだ。
でも、新しい思い出が、あの場所で行われても別にいいじゃないか。望美の座る方の椅子は回らない。くるっと回転できない。不平そうな顔で、回りたいのに。クリップの補充を取りに立ち上がる。カウンターを一度出て、部室に「クリップあるー」と呼びかけながら、扉を開ける。
一年生のマツオがクリップですね、クリップクリップ、とむやみにきょろきょろしている。まだしまってある場所を覚えていないのだ。
綾が珍しく差し出してくれる。
「ありがとう」
部室の奥で健太郎が、まだ先日の続きのような表情をして座っているのがみえて、笑ってしまう。先生が生徒と付き合うの禁止、を強く唱えていた健太郎は元部長が出て行ったあと、「ダーー」といいながら髪をかきむしっていた。とにかく無性に、ショックだったのらしい。
アハハ。改めて思い出し笑いをして、カウンターに戻る。
あのとき、部室に入ってきた元部長は噂だと言い切ったが、その表情はまるで逆だった。
「本当だったとしても、先生が先生のリスクを負ったという、それだけのことだよ」元部長は机の上の丸いチョコ菓子を一つつまんで、「それに」といいながら口にいれた。
「どこかで誰と誰がセックスしていても、それが私と小田原先生だったとしても、そんなこと、実はどうでもいいことじゃない?」そうまでいわれたら、皆、頷くしかない。
「どうでもいいです」
「いいです」幸治とマツオがバカみたいに反芻した。元部長はチョコレートを食べ終えた親指と人差し指を、軽く唇に触れた。
あんなにショックを受けているということは、健太郎は元部長のこと好きだったのか。能見さんに、カウンター越しにクリップの箱を手渡す。
誰と誰がセックスしても、どうでもいいじゃない? なんだか丸め込まれた気もするけど、そんな言葉いってみたい。アナーキーだ。
「そういえば頼子さんは、まだ登校しないんですか」
「うん」
能見さんは心配してくれている。頼子の名前が出ると、望美はバントのサインみたいに自分の肘を触ってしまうが、誰もおかしな動作と思わない。
肘に触れると、頼子が動かなかった、その感触を思い出す。次の日になっても淡々と思い返していたが、あるときなんのきっかけもなく気付いた。あのとき、真っ黒の、どん底の、腫れ上がった、どこまでも哀しい気持ちが彼女の心を支配していたのだろうということを。そうでなければ一人の人間が動かないはずがない[#「動かないはずがない」に傍点]。そう気付いたのは、少し後になってからのこと。
バカだな自分。そう思うと泣きそうになる。今もだ。唇をむすぶ。その場ですぐに察したとしても、なにも出来なかっただろうけど、とにかくバカだった。
悪いことを訊いてしまったという風に、能見さんが腕に手を触れてくれた。
両開きの扉が勢いよく開き、富田先生がやってきた。急ぎ足で、まっすぐ部室に向かう。部室の扉も勢いよく開いた。
「おまえら」いつもの明瞭なアナウンサーのような声でいいながら富田先生はそのまま中に入っていった。能見さんと顔をみあわせる。
「終業式、あさってだぞ! 荷物全部出せるんだろうな!」皆、ぜんぜん、片付けていない。
「なにやってんだー、んー、おまえら?」先生が生徒に呆れるとき特有の抑揚。部室内だけでなく、閲覧している利用者も静かになって、行く末を見守る。望美は立ち上がってもう一度部室に戻る。
富田先生は手に漫画本を持っている。そばの席の登美子の手からひったくったらしい。登美子は泣きそうな顔で、漫画本から視線を外さない。
「なにやってるもなにも、部活動です」ナス先輩だけが椅子から立って、対峙していた。
「おまえらを引きこもらせるためにある部屋じゃないぞ」
「引きこもりじゃありません、ちゃんと仕事もしてます」
「こういうのを読むのが、か? んー?」先生は漫画を突きつける。触れるのが汚らしいという風に二本の指で挟んだ、侮蔑的な扱い。
緊迫したやりとりにはらはらしつつ、富田先生は先生をやるのがうまいな、とも望美は思う。
そういえば小田原先生は、先生じゃないみたいだった。ただのおじさんが、先生をやってみてるみたいだった。ジョニー・デップとは似てないと思うけど、人間っぽかった。そして小田原先生も別の生き物を観察してるみたいに、自分たちのことを面白がってみていた。
「他の部室でも、皆、漫画ぐらい読んでます」ナス先輩はひかなかった。
「だからいいってことにはならないだろうが!」先生、今度は怒鳴る。緩急だ。フェアにみて、先生は正論をいってる。背後の部員は怯えた表情。強面の幸治は柔道部に出てる。望美自身、自分の顔はこわばっているだろうと思った。ナス先輩だけがにらみ返している。
「そういう風に口ごたえばっかりうまくなってな、狭いところでとじこもって、好きなものだけ摂取してな、それで将来どうするんだ」
「皆は知らない、俺は作家になります」その言葉を鼻で笑ったのは、フェアにみても富田先生、よくない。
「なんだ、その顔は」にらまれようと、先生は先生をやめない。高圧的に出たら、まっとうしなければならぬ。富田先生はそう決めたようだ。
「どっちのいってることが正しい? んーどうなんだ」こづくか、肩を押すか、手を伸ばした先生の手をナス先輩は思い切り振り払った。
「うるせえ、俺はおまえが嫌いだ!」先生よりも大声で叫び、反対にどんと押し返した。
憤りが爆発すると、男子でも涙が出るんだ。ナス先輩は部室を出ていった。がたがた、と皆、席を立ち、ナス先輩の後を追った。誰も富田先生をみなかった。
「あさって持ち帰ってなかったら、全部捨てるからな!」富田先生は出ていく皆にいった。威厳を取り戻すように溜息を一つつき、眼鏡をかけなおした。
「ちゃんといっておけよ」残った望美に改めてそう告げ、扉を強く閉める。強すぎて、扉はバウンドした。
ナス先輩はどこまで走っていったんだろうか。さすがに全員で追いかけるのは変と思ったか、カウンター前には樫尾と登美子と綾とで、所在なさそうに立っていた。目をあわせて、皆、なんだか分からないが頷きあった。
貸し出し処理を受けている女子生徒は、変なものをみたという顔。貸し出し処理をする能見さんは、図書部が変なのはもう慣れてるという顔。
「これ、処理終わりです」
「あ、はい、ありがとう」返却のすんだ数冊を能見さんに示されて、そのまま抱えて書架に移る。富田先生もいなくなり、図書室にはいつものざわめきが戻っている。
部室はなくなる。壁もなくなる。全部捨てられる。決定は覆らない。なのに望美はすっきりした気持ちだ。
啖呵は切ったもの勝ち。うるせえ、俺はおまえが嫌いだ! って。無茶苦茶だ。論議にならない。でも、タイミングよく言い放ったもの勝ち。この世界はときどき、いや、ときどきじゃなくてしばしば、正しい方ではなくて格好いい方が勝つんだってこと、望美はもう知っていた[#「もう知っていた」に傍点]。なぜ知っているのかも、もちろん分かっていた。
そう誰かに本気で言い放つことなんて、一生のうち、一度もできないかもしれない。ナス先輩、かっこいい。いいなあ。うらやましい。数冊の本を書棚に戻し、振り向くと入り口の扉が揺れていて、それはナス先輩が飛び出ていったときの揺れではなかっただろうが、ずっと見続ける。
揺れがおさまると書棚を見渡す。今、自分を取り囲んでいる本が、そのこと[#「そのこと」に傍点]を教えてくれていたのだ。片方の書棚の隙間から夕焼けがみえた。
終業式の日の朝、図書室の鍵は開いていた。鍵を開ける行為も、朝、一人で過ごすのも、これが最後かもしれないと思い、最近は毎日早めにきていたのだったが。
ナス先輩の小説に出てきたモロヘイヤは、冬の早朝、官邸の扉の鍵を(寝そべりながら)開けるときに、遠くからごろごろ転がってきた殺し屋に刺されて死ぬ。あまり遠くから転がりすぎた殺し屋が、三半規管の揺れがおさまるまで動けなくなる場面が好きだ。ナットウスキー長官は十二キロ先の低層[#「低層」に傍点]ビルから狙撃されて死ぬ。スナイパーは常に寝そべって狙撃するから、世界の激変にも対応できたのだった。ナットウスキーはこときれる前に「オクラ……」と恋人の名を呼んだ。
二人とも、死なないでほしかった。いいコンビだったのにな。自分も最後は、寝そべって鍵を開けてみるか、それはいくらなんでも奇行だろうか。そう思っていたら鍵は開いていて拍子抜けだ。
尾ノ上は早くくるけど、職員室に鍵を取りにいくことはない。元部長だろうか。
扉を開ける。片方だけ動かせば、出入りできる幅だ。でも両方をどんと押して入る。やはりいつだってガンマンの気持ちがする。ディスプレイの円卓と、書棚と、閲覧机がみえる。左手にはカウンター。円卓はクリスマス特集。右手の窓から差し込む光は、まだかすかに赤味がある。
蛍光灯は部室のある側だけついている。暖房はついていない。背後で扉はまだ揺れている。アハハ、と笑い声が聞こえてきた気がする。
部室の中だ。扉を開けると私服の女がいた。誰だっけ。コートを着たままだ。女は椅子に座って、机の下の穴をさわって、けばだった部分をむしっていた。
「あ、中山望美さんだ」こちらを向いた女は望美をフルネームで呼び、笑顔になった。吐く息が白い。
「金子先生」望美は息をのんだ。髪をバッサリ切っていたから、一瞬分からなかった。粒子の粗い、文芸誌に載った写真とも違う雰囲気。
「こないだは望美さんに会えなかったから、嬉しいな」いわれて頬が赤くなる。望美は尾ノ上のことを嫌いではないが、今朝はできればこないで、と願った。
「すごいゴミだね」細長い部室の奥の方にはビニール袋が天井近くまで積まれていた。他にも壊れたCDラジカセ、カラーボックスまで置かれている。
「それはですね」全部捨てると富田先生にいわれ、部員全員で、昨日、柔道部や美術部や、皆の家のいらないものをありったけ持ってきて積んだのだ。おとといの富田先生とのやりとりを話して聞かせる。
「うそー! ここ、なくなるんだ!」ダーーと頭を抱えた健太郎と同じポーズ。
「でも、じゃあ今日みにきて正解だ」顔をあげ、あっさり立ち直る。
「しかしナスはさ、イカすよね、名前がいいしね」
「イカします」小説もみせたくなる。
「どう、惚れた?」問われて少し考える。
「惚れたというより、うらやましかったです」あぁ。得心のいったという顔で、金子先生は腕組み。先生は、格好いいブーツを履いてる。
「私もあなたくらいの時、格好いい男の子みると、好きにならなかった。その人になりたいって思った!」
照れくさくて、先生の方をみずにお湯を沸かす。
「でもさ、たくさん好きになった方がいいよ」はい。やかんの前にたったまま返事をする。
「読書もすごくいいものだけど」はい。
「恋愛は読むもんじゃなくて、するもんだよ」はい。
「だよねえ!」自分でいったくせに金子先生はそう叫んで、補習嫌だ、みたいに机に突っ伏した。
「恋愛小説ばっかり依頼されてさ私、なんだかうんざりなんだ!」
「作家って、大変ですか」
「大変、だけど、他のことはもっとできないから仕方ない」アハハ、と笑う。
「恋愛小説ばかり依頼されますか」
「デビュー作で、ハードに恋愛のこと書いて、それで評判になったから。依頼があるのはありがたいけど。最近なんだか編集者って皆、本当に本が好きなのかなぁって、疑ってる」
そうですか。望美はさっきからロボットみたいな相槌。簡単には相槌をうてない話だから仕方ない。気の利いた言葉をいえるわけがない。金子先生は唇をとがらせて不平をいう子供みたいになってる。
「だってさ。安易なことばっかりいうんだもん。『遠距離恋愛をテーマにして、ちょっぴり泣ける話を』とか、『デビュー作の主人公で続編を書きましょう』とかさ。いや、それでも、依頼されるだけありがたいんだけどね」ありがたい、の部分は自分に言い聞かせるみたいだ。お湯が沸く。ちょっぴり泣ける話ぃ? 先生はもう一度反芻して、おえーっという顔をしてみせる。
「ナス先輩は『作家になる』っていってます」いいながら、ティーバッグを二つ用意する。マグカップのいくつかはもうなくなっている。めいめい持ち帰ったのだ。
「いいよー、作家は。皆でなろうよ」いっせーのーでなろうよという口調。
「今、うんざりって」望美は笑った。大人の金子先生が、生徒の座る席に座っている。皆と同じに、むしっている。むしるの禁止令を先生は知らない。
「どんなに不幸でも、それ書けばいいんだもん、すごい職業だ」
「そうなんですか」お湯を注いで、カップを手渡した。
「部室がなくなるってことは、この机も移動するんだ」それとも捨てちゃうのかな。
「どうでしょう」
「これ、もともと木工室のだよ。昔、木工室があったの、ここに万力が固定されてた」けばだった部分を指差した。
「まんりき」
「知らない? なんでも固定しちゃうやつ。万力って見た目だけでも怖いんだー」そうか、その万力があったから、穴が開いてるんだ。望美は自分の親指と中指を、そっとこすった。
頼子のこと、部長と小田原先生のこと、聞いてほしいことはたくさんあった。聞きたいこともある。
「おいしい」お茶を手に満足そう。これ皆で食べて、いいながらお菓子の箱を出す。
「先生」
「皆で、といいつつ、今開けちゃうか、私も食べたい」
「先生が私に会いたかったっていうのは、なぜですか」
「えー、だって」先生は、椅子の後ろ足部分だけでバランスを取った。
「それは望美さんが、次に書く小説のモデルなんだもん」いたずらっぽい目。バランスを取るのはすぐにやめた(倒れそうになったのだ)。望美は受け取った箱を開ける。沙季が話題にしていた洋菓子店のバウムクーヘン。切れない果物ナイフを使い、二人分を皿に載せる。フォークが、といいかけると「いいよいいよ」と制される。望美も立ったまま手づかみでかじる。甘い。
「私がモデルですか」それは、予告されたあれのことですか。金子先生の、自分への関心の理由を探るなら、なぜモデルに選ぶんですかと尋ねるべきだったのだが、びっくりして質問がずれてしまった。
「そうそう! 予告なんてよく読んでるね」
私って落ち着きないかなあ。少しショックだ。
「部長も私も、皆、楽しみなんです」
楽しみになんかしないでよ。先生は照れた。照れながら、バウムクーヘンを口に入れる。
「皆、誰かに期待なんかしないで、皆、勝手に生きててよ」
「じゃあ、そうします」望美は笑う。うん、でも本は買ってね。金子先生も笑う。二人でバウムクーヘンを食べ、お茶を飲み終え、立ち上がる。
「望美さんに会うことができて、よーくみたから、もういくね」バッタリ会いたくない先生とかもいるしね。いいながら先生はコートのボタンをとめた。二人で部室を出る。
「そういえば、鍵はどうしたんですか」図書室の扉まできて尋ねる。
「え、ここの鍵、もう開いてたけど?」
昨日、最後に出た一、二年生がかけ忘れたのだろうか。かなりきつくいって聞かせたことなんだけど。
金子先生を玄関まで見送ってから図書室に戻り、なんとなく部室ではなくカウンターの椅子に腰掛ける。普段あまり座らない、くるくる回る方の椅子に座った。
日付印を手に取り、反故の紙におしてみる。日付はあっている。おととい足したばかりのクリップを手に取ったらすべて一連なりにつながっていた。引き出すと、長い鎖がカウンターに垂れる。
誰かがそれをやった。可能性を考える。昨日の当番の、真面目な浦田がそれをやるわけがない。今日の昼休みの当番はナス先輩だ。そして図書室の鍵を開けたのが金子先生ではないとしたら。
「頼子!」望美は確信とともに慌てて立ち上がり、図書室の扉を大きく揺らして飛び出していった。
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初出:「本が好きー」(小社)二〇〇七年二月号〜二〇〇八年一月号(二〇〇七年七月号は休載)
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底本
光文社 単行本
ぼくは落《お》ち着《つ》きがない
著 者――長嶋《ながしま》 有《ゆう》
二〇〇八年六月二十五日 初版一刷発行
発行者――駒井 稔
発行所――株式会社 光文社
[#地付き]2008年10月1日作成 hj
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置き換え文字
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90