長尾三郎
生き仏になった落ちこぼれ
目 次
プロローグ
第一章 修羅 わたしは人生の落ちこぼれや
1 生々流転の始まり
2 バラック建てのラーメン屋
3 闇ブローカーと妻の自殺
第二章 軍国少年 予科練で生き残った命
1 人間はここまで悪魔になる
2 暗い時代のはざま
3 泣き虫少年と軍国ファシズム
4 予科練、そして敗戦
第三章 出家 仏教のことなんか何もわからん
1 比叡山への道
2 子連れの坊《ぼん》さん
3 最澄の法灯を受け継ぐ小僧
第四章 三年籠山 「行」に命を懸けてみよう
1 比叡山の三大地獄
2 幻の常行三昧
3 千日回峰への挑戦
第五章 千日回峰 「生き仏」大阿闍梨誕生
1 もう後戻りはできない「捨身行」
2 風が吹き過ぎるごとく
3 堂入り
4 大阿闍梨誕生
5 昭和の「生き仏」
引用・参考文献
文庫版あとがき
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プロローグ
「千日回峰《せんにちかいほう》を満行《まんぎよう》して、半年後にはまた二千日回峰に入ったからね、体はなれているからわりにうまいことスムーズにいってたの。そりゃ『行《ぎよう》』をやっているんだから、楽なことはないわね、うん。なかでも大変なのは『堂入り』ね。二千日のときは心臓が|あがり《ヽヽヽ》そうになって、このときはもう死ぬかと思った」
比叡山《ひえいざん》・横川《よかわ》の「離れ谷」、飯室谷《いむろだに》の長寿院《ちようじゆいん》に住む酒井雄哉大阿闍梨《さかいゆうさいだいあじやり》は、今から四年前の昭和五十九年十月十三日、五十八歳という歴代の行者《ぎようじや》の中でも最高齢で、「堂入り」という凄絶な行に入ろうとしていた。
「堂入り」とは千日回峰を志す行者が九日間、不眠、不臥《ふが》、断食、断水で不動堂に籠《こも》り、ひたすら百万遍の不動真言《ふどうしんごん》と法華経《ほけきよう》全五巻を唱《とな》え、不動明王《ふどうみようおう》と同体になる、つまり生身《いきみ》の不動明王になろうとする修行《しゆぎよう》である。生きたまま出堂《しゆつどう》することができるかどうかはわからないため、一山の僧や先達《せんだつ》たちと「今生《こんじよう》の別れ」の儀式をして籠る、いわゆる「生き葬式」といわれるものだった。
酒井大阿闍梨が決意した千日回峰は、あとで詳しく述べることになるが、百日を一期として七年をかけて満行する。生半可《なまはんか》な行ではない。この行は「不退《ふたい》の行《ぎよう》」「捨身苦行《しやしんくぎよう》」といわれるように、一度行に踏み出したら、病気であろうと肉親の死にあおうと、一日として行を中断することは許されない。それは自ら死ぬことを意味する。
昭和五十六年二月二十八日、酒井阿闍梨はいつものように午前零時に起き、裏山にある二つの滝で身を浄《きよ》めた。そして白い浄衣《じようえ》を身につけた。これは「死に装束」であり、首吊り用の「死出紐《しでひも》」を肩から下げる。さらに「降魔《ごうま》の剣《けん》」と一緒に自害用の短刀を腰にさし、蓮華《れんげ》笠の紐の付け根には一文銭が六個、死出の旅への通行手形がついている。実際にはどこで行き倒れになってもいいように十万円の葬式代を懐中《かいちゆう》にし、「行き道は いずこの里の 土まんじゅう」という句を肌身《はだみ》に秘めている。
こうして七百日までは比叡山の東塔、西塔、横川の三塔十六谷を巡拝し、一日約四十キロ、堂塔や仏跡、墓所はむろんのこと一木一草、一石一水にいたるまで約二百六十ヵ所、そこに仏性《ぶつしよう》をみて礼拝《らいはい》して回る。深夜一時に庫裏《くり》から出峰し、小田原提灯《おだわらぢようちん》の火ひとつを頼りに、暗闇の峰道をただ一人巡拝する孤独な行である。
阿闍梨が行から戻るのは朝七時すぎ、そのあと、そばかうどん一杯、ゴマ豆腐一丁、ふかしたジャガイモ一個か二個の食事をとる。夕方もう一度同じものを食べ、食事はこれだけ。そして寺の仕事をこなし、一緒に住む老師の世話をし、寝るのは九時すぎ。一日の睡眠時間はわずかに二、三時間である。粗食とこの睡眠時間で人間わざとも思えぬ荒行《あらぎよう》に徹する「超人」は、強靱《きようじん》な精神力と肉体が合一した宗教体験の一つの極致を示している。
そして七百日を満行した当日から、次に待ち受けている最大の生死を賭《か》けた行が、「堂入り」の荒行だった。堂入りは、長寿院の隣にある不動堂で行われた。
堂内は内陣《ないじん》と外陣《げじん》に仕切られていて、阿闍梨が籠るところは屏風《びようぶ》で囲まれているが、その屏風は死者の枕辺《まくらべ》と同じく、いわゆる「逆さ屏風」である。阿闍梨はこの堂内で毎日、午前三時、十時、午後五時にそれぞれ一時間、内陣で法華経を読誦《どくじゆ》し、そのあとは外陣の籠り所で今度は十万遍の真言を唱える。
堂内には常時、香を焚《た》いたり、ロウソクを替えたりして、注意深く見守る二人の介添僧《かいぞえそう》がついているが、こちらは二十四時間で交代する。阿闍梨は五日目になると、うがいをすることが許され、「脇息護法《きようそくごほう》」と呼ばれる肘掛《ひじか》けが与えられるが、あとは不眠不休、九日間一心不乱に不動明王と一体になる行に生死をゆだねるのである。
壮絶な行のありさまを今、酒井阿闍梨が話す。
「三日すぎて四日目ごろから死のにおいがしてきたっていうね。そのうちに点々と死斑があらわれてきたのがわかった。しかしお経を唱えるのが大変なの。量が多くて。だから睡魔などは入りこむすきはなく、かえって感覚は異様に冴《さ》えわたってくる。自分の体内からすべてよごれたものが浄化されて、体全体が透明になっていくというか、そんな感じだね。そりゃ実際は朦朧《もうろう》としているんだろうけども、線香の灰がゆっくりと落ちて、それが粉々《こなごな》にくだけるさまが、まるでスローモーションのようにはっきり見えて、そのくだける音まで聞こえるんだ」
十月二十一日、阿闍梨は奇跡的に堂入りから無事に生還した。普通でさえ一五六センチと小柄な体は十数キロも痩《や》せ、顔は憔悴《しようすい》して頬がこけ、眼窩《がんか》は落ちくぼんでいたが瞳は澄み、表情には人間の顔を超越したような不思議な輝きと静謐《せいひつ》さがあった。
千日回峰のうち、七百日までの行は、自分自身のための「自利行《じりぎよう》」で、「堂入り」のすんだ八百日以降は、衆生《しゆじよう》の幸せのために祈る「利他行《りたぎよう》」とされている。天台宗の行の意義はここにある。
「悪事を己《おのれ》に向《むか》え、好事《こうじ》を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲《じひ》の極みなり」
酒井阿闍梨は昭和五十五年十月十三日に、すでに一回目の千日回峰を行満《ぎようまん》している。比叡山の千日回峰は、元亀《げんき》二年(一五七一年)、織田信長《おだのぶなが》の全山焼き打ちにあって堂塔伽藍《どうとうがらん》とともにその資料が焼失した。そのため文献は天正《てんしよう》十三年(一五八五年)以降のものとなるが、これでみても、酒井阿闍梨は四十六人目、戦後は九人目の千日回峰行者であり、しかも二回達成の二千日回峰となると天正以来四百年間でわずか三人しかいない。
この大阿闍梨はなぜ仏門に入ったのか。
阿闍梨の生涯をたどると、自ら「社会の落ちこぼれだった」という凡俗の徒が、昭和という激動の時代の中で、社会の荒波や修羅の世界にあえぎ、のたうちまわり、懊悩《おうのう》した末に、一筋の光明を求めて比叡山で得度し、厳しい「行」に生死をゆだねて、ついに人生の達人に解脱した姿が浮かびあがってくる。
そして今、「生き仏」と尊敬される阿闍梨の、苦悩に満ちていた真摯《しんし》な生きざまは、「日本人の生き方」の一つの鑑となって、カネ、モノ万能主義がはびこり、心の荒廃が叫ばれている現代人に、「こころとは何か」「人生とは何か」を鋭く問いかけてくる。
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第一章 修羅 わたしは人生の落ちこぼれや
1 生々流転の始まり
「予科練から帰ってきてから、兄《あん》ちゃん、すっかり変わっちまったね」
母ミカがつぶやくともなく、美佐子にいった。
大阪に養女にいった長女の美佐子は、家に戻って来ていた。敗戦直後の混乱した世相の中で、中野の道玄町《どうげんちよう》の自宅を焼失した酒井は、三鷹駅の線路沿いにある横河電機の社宅に仮住まいしていた。この社宅は、下が六畳と三畳に台所、便所、上に六畳間が一つある。ミカと美佐子は黙って二階のほうを見やった。
予科練から帰ってきた日、息子は母に、
「線香と灰皿はないかな」
といい、怪訝《けげん》そうな顔で手渡すミカから受け取ると、黙って二階に上がって行った。灰皿は湯呑み茶碗に灰を入れたものである。それからしばらく経っても、下りてこない。何をしているのかしら、とふと心配になったミカが二階の部屋をそっとのぞいてみた。蚊取り線香代わりに焚《た》いて、そのまま寝てしまったのかと、火が気にかかったからである。
外はすでに薄暗くなっている。部屋の中も夕闇が濃い。きつい線香の匂いがした。ほのかな淡い黄昏《たそがれ》の光の中で、息子が後ろ向きに座っていた。その肩が微《かす》かにときおり揺れる。泣いているようだった。粗末な机の上に線香がおかれていた。息子は放心したかのように力なくうなだれ、何事かつぶやいている。誰かに語りかけているようでもあり、それが途切れると、あとは押し黙ったまま嗚咽《おえつ》にむせんでいる。声をかけるのもはばかられるような、初めて見る息子の姿だった。
しばらくしてから、母が思い切って声をかけた。
「どうしたの? なかなか下りてこないから、姉ちゃんも心配してるよ」
「ああ、そこにいたの?」
息子が驚くでもなく振り返った。
「みんな死んじゃったからなあ。先輩も仲間も……。おれだけがこうして生きて帰ってこれたのも、みんなが代わりに死んだから……」
彼なりにその供養をしていたのだった。ミカは胸に熱いものがこみあげてきた。家族は、兄ちゃんが無事に帰ってきたことだけを喜んでいるけれど、彼の心の中は死んだ人たちのことで一杯だったのだ。その後も、息子は二階に籠って、自分だけの「密儀」のような孤独な時間を持つことが多くなった。線香を焚いて、黙祷《もくとう》と瞑想のひとときを過ごすことが、彼の心の安らぎになることを知ったミカと美佐子は、もう何も聞かなかった。社会復帰には少し時間がかかるかもしれない、と美佐子は思った。
昭和二十年九月、予科練から焦土の東京にたどり着いた酒井が、自宅の廃墟の前に茫然と立ちすくんで、数十分が過ぎた頃、突然声がかかった。
「もしかして酒井さんの、忠雄《ただお》さんじゃない? あ、やっぱり忠雄さん」
声の主は、以前近くに住んでいた家のおばさんだった。おばさんは、最初、酒井に気がつかなかったらしい。出征前の姿とずいぶん格好が変わっていたし、あたりが焼け野原の一帯には、いろんな人がうろついていたからだ。おばさんの一家も無論焼け出されて、急造の粗末なバラックに雨露をしのいでいた。おばさんは、酒井の帰還を喜んでくれたあと、酒井家の近況を教えてくれた。
「お宅も焼けてねえ、今は三鷹にいるっていったわ。そのうちに栄ちゃんか、保《やす》ちゃんがくるわよ。保ちゃんは学校に行ってるから、栄ちゃんがくるかな」
栄ちゃんとは三男栄治のことであり、保ちゃんは次男保二である。みんな無事で良かったと一安心しながら待っていると、保二が「のっこのっこ」とやってきた。
「あ、兄《あん》ちゃん、お帰んなさい」
保二はすぐにわかって抱きついてきた。
「保ちゃん!」
酒井も感きわまって、弟を抱きしめた。
「やっぱり、兄《あん》ちゃんは帰ってきた。必ず帰ってくると思って、栄ちゃんと二人で、代わりばんこにここに見にきたんだ」
保二は、家族はみな元気で三鷹に住んでいる、といった。五つ下の保二は、桃園第一小学校を卒業したあと、国立《くにたち》にある府立五商(現・都立第五商業)に進み、立川で学徒動員されて働いたが、戦地に行くのは免れた。このあと明大商学部を卒業し、やがて兄の仕事を手伝うようになる。
酒井は三鷹の新しい家に案内された。父岩吉は二度目に召集される前は横河電機に勤めており、その関係で、戦争に行っている間に東京大空襲で焼け出されたとき、たまたま空きがあった社宅に住むことができたという。長男が生きて帰ってきた酒井家に、久しぶりに明るい笑い声がはじけた。
「兄《あん》ちゃんが帰ってきた。良かった、良かった」
母ミカはただうれし涙にくれた。予科練に行った息子の命はないものと、心のすみで半ばあきらめていたからである。それが当時の、「軍国の母」の悲しい本音だったから、喜びもひとしおだった。
酒井家には喜びが重なった。長男が生還して間もなく、十月になって、父岩吉も戦地から帰ってきた。岩吉は先に戻っていた長男の生還を喜び、気持ちばかりのお祝いとなった。末っ子の四女慶子は昭和十九年、酒井が予科練に入った年の生まれでこのときまだ二歳、何も知らずに家の中ではしゃいでいる。これで家族十二人がみんな揃った。岩吉は、帰国のときの苦労話をしんみりと家族にした。
岩吉は朝鮮に送られ、北朝鮮(現・朝鮮民主主義人民共和国)の平壌付近で敗戦を迎えた。ソ連が、日ソ中立条約の不延長を日本に通告してきたのは昭和二十年四月五日。七月に日本の最高戦争指導会議は、終戦|斡旋《あつせん》依頼のため、対ソ特使として近衛|文麿《ふみまろ》元首相の派遣を内定、ソ連側に入国許可を申し入れたが、ソ連は拒否した。すでにヤルタ会談によって、ソ連は対日戦争に参戦する腹を固めていた。そして八月八日、ソ連は対日宣戦を布告。作戦通りに夜半過ぎ、満州、樺太《からふと》、北朝鮮に侵入を開始して関東軍を蹂躙《じゆうりん》し、民間日本人にも乱暴|狼藉《ろうぜき》した。日本軍兵士の多くは捕虜にされ、のちの残留孤児たちの悲劇も数多く生まれた。岩吉もそのままでは捕虜になるところだった。
そのとき、若い兵士たちがいった。
「ぼくたち若いものが残って、なんとかソ連軍をくい止めます」
岩吉は、その若い兵士たちは命を落としたか、ソ連軍の捕虜にされただろう、と声を落とした。
「わしなんか、シベリアに連れて行かれ、強制労働させられたら、生きて帰ってこれなかったろう。わしが無事帰国できたのは、あの若い兵隊さんたちのお陰だ」
酒井が、線香を持ってまた二階に上がっていったのは、それからしばらくしてだった。父の命を救ってくれた若い兵士たちの姿が、死んでいった先輩や仲間たち、若い特攻隊員たちの姿と重なり合って、激しく心を揺さぶられたからであった。彼らは死に、自分は生きのびた。皇国日本からGHQの支配する日本へ、百八十度転換した今、自分の新しい生き方を模索するのは容易ではなかった。
戦後日本の復興のエネルギーは凄まじいものがあったが、戦争の後遺症はあまりにも深くて大きい。太平洋戦争が終わったとき、一千万人以上の人たちが戦禍で家を失い、外地に取り残された軍人、軍属、さらに一般国民はそれぞれ三百万人を超えているといわれた。それらの人たちが徐々に復員、帰国してきて、新しい生活の設計に必死だったが、さしあたっては仕事である。労働組合法が昭和二十一年三月から施行され、公務員を含めた労働者に団結権や団体交渉権、争議権などが保障されたが、この恩恵に浴さない零細企業や個人業の人たちが一杯いた。酒井も、この網の目からこぼれ落ちている一人だった。
何か仕事を見つけなければならない、と二十歳になった酒井は焦った。ひょんなことから飯田橋にある法政大学の図書館に勤めることが決まった。本来ならそこは父岩吉が働くはずだった。復員してきた岩吉は、中野の軍人援護会に知っている人がいて、何か仕事がないか、と相談に行った。援護会のその友人が法政大学に勤めていて、大学も人手が足りない、ちょうど適任だから来て下さい、とすぐ話がまとまった。
ところが、その後、岩吉が別の仕事につくことになって、酒井が父に代わって、大学に断わりに行った。残念がった相手が聞く。
「あんたは何しているの?」
「別に今、何もしていません」
「それじゃ、お父さんみたいにはいかないだろうけど、うちもあんたぐらいの人を探しているから、あんた、来ないか。来るんだったら明日からでもいいよ」
「そうですか。家に帰って相談してから返事します」
そういって帰ってきたが、酒井は内心「しめた」と喜んだ。早速、家に急いで帰って履歴書を書き、その日のうちに持参した。そして、その日のうちに「おやじの代わりに入れ違いで」法政大学の図書館で働くことになったのである。今でいう司書のような仕事だったが、本を出し入れしたり、整理したり、仕事は忙しかった。戦後、学徒出陣で出征した学生たちも復学し、大学には再び学問的な雰囲気が戻ってきていた。戦争で抑圧された分だけ、知的なものを求める学生も多く、書籍の少ないときだったから、本に飢えてもいた。
貴重な本は貸し出しをしないから、教授たちが図書館の事務室にきて、そこで読む。そのときにいろいろと話しかける教授もいる。
「君は何学部の学生?」
教授は、酒井がいつも事務室にいるから、熱心な学生だと感心したらしい。
「いや、ぼくは学生ではありません。ここで働いているだけです」
酒井が答えると、教授がびっくりしたような顔つきで勧めた。
「もったいないな。せっかくここにいるんだから、学校に入りなさいよ」
しかし、「嫌いだったからね、勉強は」という酒井は、大学に入る気はさらさらなかった。当時の法政大学には、谷川徹三(哲学)、美濃部達吉(経済学)などの名物教授が一杯いた。酒井は、ある経済学の先生がいった言葉が心に残った。
「これから若い人たちにとって一番いい職業はセールスだよ。セールスは自分の努力と力でもってどうにでもなる。セールスはこれからの新しい職業だ」
この言葉があとで酒井に現実的な問題として甦《よみがえ》ってくるときがくる。
図書に囲まれて過ごす日々ではあったが、一方では、「りべらる」「ロマンス」「猟奇」などに代表されるカストリ雑誌≠ェ大量に街に氾濫《はんらん》していた。カストリ焼酎を飲みながら、カストリ文化を議論するインテリが、カストリゲンチャと揶揄《やゆ》された時代である。
戦後の大衆文化、闇市文化を語る上で欠かせないこのカストリ焼酎は、戦中戦後の酒がなかった時代に造られたご法度≠フ代用酒で、米や芋などで造った。少ない量で泥酔、乱酔気分になる。粗悪なものは工業用のメチルアルコールなどを混入したから、下手すると失明、最悪の場合は死亡というひどいシロモノまで売られた。それでも左党は、カストリ焼酎を求めて夜の街を徘徊《はいかい》した。売るほうからすればすごく儲《もう》かる。お互い、なりふりをかまってはいられない時代だった。酒井もやがて、このカストリ焼酎を秘かに売るようになるのだ。
昭和二十三年になると、戦争の悪夢≠思い出させるような事件が相ついだ。この年の一月、帝銀事件が発生した。容疑者として画家平沢|貞通《さだみち》が逮捕され、二十五年に東京地裁で死刑の判決を受けたが、このとき犯行の手口から、犯人は第七三一部隊の関係者ではないかという別の容疑者も線上に浮かんだ。結局、この線はなぜか途中で立ち消えになり、最高裁の上告棄却の判決があったあとも、犯行を否認し続けた平沢が刑の未執行のまま死亡したことで、不透明な終焉《しゆうえん》≠迎えるが、あとで酒井は、第七三一部隊の生き残り犯行説を知り、自分がかつて働いていた防疫研究室の実態を改めて垣間見る思いがした。
さらには同じ年の八月、横浜軍事裁判所で、九大生体解剖事件の判決が下って、世間の耳目を集めた。これは、昭和二十年五月、九州帝大医学部解剖学教室が、西部軍司令部から受け取った八人の米軍捕虜を生体解剖したり、肉を食べたりしたという事件で、軍関係者や第一外科教授ら五人に絞首刑、四人に終身刑、十四人に重労働の判決がいい渡された。これも戦時中における、日本人による悪魔の所業≠ナ、第七三一部隊の生体実験と本質的に変わらない。酒井は人間というもののおぞましさをつくづく感じた。そして自分もまた防疫研究所で働いた前歴を隠さなければならなかった。
「戦後、石井部隊のことがいろいろ騒がれたでしょう。満州でそんなんがあって騒がれたときに、週刊誌かなんかで見たのかな、や、よく似た話だと思ったら、あのときの部隊が満州へ行ってやったんだね。それで、わしも、何か知ってるだろうと聞かれたら、怖かったからね。いたことは絶対にいわなかった」
世の中すべてが大きく転換していた。たとえば、宗教界でも戦前からは想像もつかないような新興宗教が生まれていた。なかでも話題になったのは、四十九歳の農婦、北村サヨを教祖とする踊る宗教≠ナある。踊り舞うことによって無我の境地に入れば、これを「天人の舞い」といい、神の歌が自然に口をついて出る。北村サヨを中心にして信徒約二十人が、昭和二十三年九月、当時あった有楽町の数寄屋橋で踊り狂い、世間のどぎもを抜いた。そして「ゼネスト」をもじって「ゼニヌスト」(銭盗人)などと批判し、労働者たちのひんしゅくを買ったが、一方では拍手する人たちもいた。この宗派の正式名称は「天照皇大神宮教《あまてらすこうたいじんぐうきよう》」と称するが、不敬罪のあった戦前ならとうてい許されない名称である。そこに戦後の変貌があった。急激に増えたこれら新興宗教はこの年で百三十七派にも達した。
「けったいな宗教やなあ。踊るだけで人間、救われるのかいな」
宗教とは縁遠い酒井は、変わった世の中になったもんだ、とその程度の反応しか感じなかった。
既成の宗教はどうだったか。
天台宗に限っていうと、戦後すぐ比叡山に入った葉上照澄《はがみしようちよう》師は、日本再建のためには正しい教育が必要であるという悲願をたて、自分が帰依《きえ》している仏門の若い僧侶たちを相手に同法塾を開いて一緒に修行したが、やればやるほど「自分の至らなさ」が痛感された。そのため昭和二十二年、四十五歳で、「これまで夢にも思ったことのない、聞いたことさえない(参考文献1)」千日回峰という荒行に入った。
千日回峰については、あとで詳しく説明することになるが、百日を一期として七年の歳月をかけて、比叡山の三塔十六谷を巡拝して回る天台宗独特の修行で、千二百年の伝統を脈々と現代まで伝え、しかもそれが現代に生きている荒行である。満行するまでには「堂入り」、京都大廻りといった、さらに苛酷な行が加わる。
昭和二十二年に初百日を終えた葉上師は、この二十三年に二年目に入っていた。そしてこの年、勧修寺信忍《かんじゆじしんにん》師が千日回峰に入った。葉上師が満行するのは二十八年九月十八日のことであり、戦後二人目の大阿闍梨となる。翌二十九年には勧修寺師も満行して三人目の大阿闍梨の尊称を受ける。比叡山が衰えたときは法灯を守るため行が盛んになる、といわれるが、戦争に翻弄《ほんろう》された天台宗も戦後の新しい道を踏み出していく。のちに酒井の行の師となる箱崎文応《はこざきぶんのう》師が昭和に入って最初の千日回峰満行の大阿闍梨とすれば、戦後の第一号は、葉上師と同じ明治三十六年生まれの叡南祖賢《えなみそけん》師で、満行したのは二十一年のことだった。この叡南師ものちに酒井に深くかかわり合いを持つことになるが、この当時の酒井は、そんな世界があるとは夢にも思ったことさえない。聞いたことさえない。
酒井はいわば父の身代わりで、図書館の仕事にありついたが、少し仕事になれてくると、どうも仕事が自分に合わないような気がしてきた。勉強嫌いで、あまり知的関心が強いとはいえない酒井は、何か大学の雰囲気になじめない。結局、この仕事は二年ともたなかった。
「今考えると、あの時代はわしの人生の中でもっとも波風が立たなかった時代やな。ごく平凡な生活だったかもしれんが、あのままおとなしく図書館に勤めていたら、それなりに給料もあがり、結婚もして、今頃は課長ぐらいにはなっておったと思うわ。現に当時の同僚が今は偉くなっているしな。でも、特別の不満があるというわけでもないのに、わしは自分からやめてしまった。あれが、わしの人生の最初の転機やったかもしれん。その後の歩んだわしの人生といえば、まあ、人生の裏街道を歩いたようなもんやな」
戦後の生々流転の始まりだった。
2 バラック建てのラーメン屋
父岩吉も、戦後の社会になじめずにいた。会社勤めの給料では、このインフレーションと食糧飢餓の世の中、十二人の家族を養っていくことは容易ではなかった。予科練帰りの長男はあまり頼りにならない。岩吉は決断するときは速い。
「わし、会社辞めて、商売やろうと思う。これからの世の中はやっぱり商売や」
岩吉が妻のミカにいったとき、妻が別に反対しなかったのは、もともと夫は大阪で「八百亀」をやっていた商売人、それが一番性に合っていると思ったからであろう。博打《バクチ》に手を出さず、米相場に失敗しなければ、何も東京に夜逃げなどせず、今も店の主としておさまり、食糧の心配などせずにすんだはずなのである。
商売をするといっても、元手があるわけではない。岩吉は、知り合いの「野崎」という八百屋の店先を借りて、屋台を始めた。野菜の仕入れは千葉まで行く。岩吉はリュックを背負って、毎日、買い出しに出かけた。リュックの中にはいろいろな品物が入っていた。金はあっても物がない時代で、田舎の人は品物を喜んだから、一種の物々交換だった。父の背負うリュックも、長女の美佐子が、帯の芯をうまく活用して作ったものだ。
「私が洋裁できたから、いろいろな物を作りましたよ。暑いときお百姓さんがかぶるのにいいんじゃないかしらと、登山帽みたいのを工夫したり、奥さんのために割烹着《かつぽうぎ》を縫ったり……。もちろんお金は出すんですけど、物々交換でないと野菜を分けてくれませんから、相手が気に入るようなものをと、こっちも必死でしたね」
図書館の仕事を辞めた酒井も手伝わされたが、あまり役には立たなかった、と自分でいう。
「ときどき手伝いに行ったけど、ほとんどうちのおやじがやってたね。おやじはまめで、腰が軽かった。わしなんか、その頃は勇ましくパッパッとやるんじゃなくて、ぼけっとしていたほうじゃないかな。積極的にやるという気持ちにはなっていなかった。黙っていても、おやじがやってくれるからね、のんびり生きていたと思う」
当時は農家でも、米は強制的に供出させられていたから、余分な米はなかったが、その代わり、さつま芋一貫目一円二十銭が、闇値で五十円、大根一貫目六銭が三円というのが相場で、それを仕入れて買ってくると、飛ぶように売れた。
ところが昭和二十四年七月になって、日本中を震撼《しんかん》させるような大事件が発生した。
酒井家は三鷹駅のすぐ近くの線路沿いにある。七月十五日の夜九時すぎ、三鷹電車区構内の留置線から、突然電車が発車し、車止めを押し潰して駅の改札口と階段をぶちぬき、さらに駅前の交番を全壊させて民家にまで突入した。この暴走事件で、六人が即死、二十人の重軽傷者が出るという大惨事になった。
「いやあ、大騒ぎでしたよ」
と美佐子がいうように、救急車が急行し、事故現場は修羅場と化した。
二週間前の七月六日には、国鉄の下山|定則《さだのり》総裁が、常磐線の北千住《きたせんじゆ》と綾瀬《あやせ》間の線路上でバラバラ死体となって発見されたばかりである。下山総裁の怪死に次ぐ三鷹事件の発生に世間は騒然となった。ちょうど第三次吉田内閣が国鉄職員約九万五千人の人員整理を組合に通告した直後で、国鉄労組は人員整理反対闘争の最中だった。結局、事件は国労の日本共産党員らの共同謀議による犯行とされて十人が検挙されたが、裁判では同党員の九人が無罪となり、非党員一人だけ死刑が確定した。暴走した「モハ63型電車」は戦争中の設計になるもので故障が多いことも指摘され、故意か事故か、原因は今も不明である。
こうした物騒な世情の中にあって、酒井たちに明るい希望を与えたのは、同じ頃、ロサンゼルスで開かれた全米水上選手権大会で千五百、八百、四百メートル自由形に次々と世界新記録を樹立し、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋|広之進《ひろのしん》や橋爪《はしづめ》四郎ら水泳選手の快挙だった。号外が出て、日本中が沸きたった。さらにはこの年の十一月、湯川|秀樹《ひでき》博士が日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞し、自信を失っていた敗戦後の日本人に大きな希望と夢を与えた。
「日本にも偉い人がいるんやなあ」
酒井は、ノーベル賞の何たるかもよくわからず、しきりに感心した。酒井にかぎらず、これは日本人の多くが抱いた感想だった。
しかし、肝心の自分たちの生活はおぼつかない。三鷹事件のあおりを受けて、父岩吉は屋台をたたむ破目になった。屋台では、儲《もう》かったといってもたかがしれている。それに毎日、千葉まで往復して野菜を仕入れてくるのも大変だ。これより少し前、岩吉はコツコツ貯めた金で、同じ中央線の新宿寄り、荻窪《おぎくぼ》駅北口の駅前に建ったバラック建ての一画を、ツテがあって権利を譲ってもらっていた。「これからは何といっても儲かるのは食い物屋だ。それも手軽にできる中華そば屋なんかがいい。お前も手伝え」
岩吉が、定職を持たない長男にいった。忠雄も、中華そば屋ならやってもいいな、と思った。次男保二によれば「兄は小さいときからそば類が大好きだった」という。
井伏鱒二《いぶせますじ》は、広島県福山市外加茂村の疎開先で終戦を迎え、敗戦後二年何ヵ月目かに東京に転入、荻窪の自宅に戻ってきた。その頃の荻窪駅前のことをこう描写している。
〈久しぶりで荻窪駅に下車したわけだ。駅前の商店は殆どみんな戸を明けてゐても、休業したやうにしてゐるのが大半で、店を明けてゐる果物屋も明るい色の商品は置いてゐなかつた。林檎《リンゴ》やレモンなど一つもない。それでも私のうしろをついて来てゐた五つになる拙宅の男の子は、店屋がたくさん並んでゐるので驚きの声をあげた。
「あれ見いや。マンデー屋が仰山《ぎようさん》あるけェ」
マンデー屋とは私の在所にたった一軒しかない雑貨屋で、前土居屋といふ屋号である。店屋のことを、子供はすべてマンデー屋といふのだと心得てゐた。(参考文献2)〉
ここに出てくる果物屋は、酒井の記憶では「坂上屋」といい、その前の一角にバラック建てが建った。目の前に交番があり、近くにはシンコーマーケットが活気をみせている。青梅街道がすぐそばにあった。
バラック建ては中二階造りで、ベニヤ張りの店が五軒ずつ背中合わせに並んでいた。酒井家の店は、交番に向いたほうで、坂上果物店のほうからみると二軒目。手前の店も中華そば屋で「漢珍亭」といった。酒井の店は「永安」といい、三つ切りの布ののれんには、丸の中に安をかたどった※[#○に「安」]の屋号が染めぬかれていた。店の中は十人か十五人座れば満員になる、今でいうカウンター式の造りで、「屋台にちょっと毛の生えたみたいなやつ」だったが、酒井は張り切って働き始めた。今、荻窪はラーメン屋が多くて人気の街だが、酒井がいう。
「終戦のとき、要するに草分けはうちあたりだった。漢珍亭が第一号と違うかな。それとうちと二軒ぐらいしかなかった。駅前でね。そのうちもう一つ横丁のほうにできて、そこに三軒か四軒ぐらいできて、それがだいたい最初の頃だろうね。それからどんどん、青梅街道の通りにうんとふえてきたんじゃないの。丸福とか春木屋は、わしなんかがやっている頃、あとからできた口だ」
ラーメン一杯三十五円、チャーシューメン六十円。酒井はそれなりに研究して、味を工夫した。店はすぐ繁盛して、商売は図にあたった。夜逃げ同然で上京して、早稲田の伯父の家に寄宿した当時から知っている柴田という老女がいた。彼女が店にラーメンを食べに来て、
「いい味ね。これだけおいしいスープが作れるのなら、もう一つ、これを看板にするといいわ」
とほめて、長崎育ちの彼女が教えてくれたのが長崎チャンポン、これを八十円で売ると、またまた大評判になった。
今でもそうだが、おいしいラーメン屋では、外に行列ができて順番を待っている。|丸《ヽ》安もどんどん馴染《なじ》みの客がふえて、店が満員だとおとなしく並んでいる。客のほうも心得たもので、手早く食べて席を譲って出て行く。客の回転率も高く、一日の売り上げが二、三千円にもなった。昭和二十三年六月時点で、国家公務員上級職試験に合格した大卒の公務員の初任給が二千三百円の時代である。面白いように儲かった。
「あの頃から荻窪というのは不思議な街でね。終電車が過ぎてもお客さんは来ていたね」
客層も多彩だった。近所の人や学生はもちろんのこと、流行の超ロングスカートやいかり肩フレアコートを着たキャバレーのホステスたちが店がはねたあと、仲間や馴染みの客を連れて寄って、熱いラーメンや長崎チャンポンを食べた。キャバレー回りをしている楽団のバンドマンや歌手たちも常連客になった。風俗的にも日本はどんどん変わっていた。
戦争の抑圧から解放された庶民は、かつての敵国からどんどん流入してくるアメリカ型ライフスタイルに憧れ、風俗、ファッション、文化、すべてが右ならえする。チークダンスは若い男女の秘かな楽しみとなった。こうした風潮に対し、大仏次郎は『帰郷』という小説の中で、登場人物の口を借りて、アロハシャツ否定論を語らせた。
酒井もやがて時代に同化していった。客商売である以上、客と話を合わせなければならない。客から誘われることもあった。
「うん、スターダストとかいってたな。そこでトランペットを吹いている人がよくお店に来て、今度、日比谷公会堂でやるから聞きに来なよ、といってくれて、それで聞きに行ったことがあったね」
酒井は音楽ではジャズをよく聴いた。
進駐軍向け放送《WVTR》からは、しょっちゅうジャズのヒット曲が流れていた。ドリス・デイの「アゲイン」、ナット・キング・コールの「モナリザ」などで、日本の若者たちは、何とかして、そうした外国のレコードを手に入れようと、目の色を変えた。それが流行の最先端だった。酒井もジャズが聴きたい。しかし、まだ電蓄など珍しい時代である。友達に電気屋の息子がいた。酒井は、その友達と秋葉原に部品を買いに行き、それを二人で組み立てて、その電蓄でいろんなレコードを聴いた。国産のSP盤は昭和二十三年当時、一枚三十五円した。
「おやじからもらっている月給は安かったけど、売り上げがあるからね。おやじの目を盗んではよくくすねたので、小遣いには、まあ、不自由しなかったね。レコードを聴くのは、あの頃の唯一の楽しみだったな」
日本では、昭和二十三年十一月に、小倉市主催で初めて競輪が広まり、あっという間に全国を席巻していった。地方財政の補填のために公営競輪に踏み切る地方自治体が多くなったからだが、競輪は競馬とはまた異なった大衆ギャンブルとして急速に大衆の人気を集めるようになった。さらにパチンコも、手軽に景品を手にすることができる大衆ギャンブルとして定着したが、酒井はこうしたギャンブルには深入りしなかった。タバコは喫《の》んだが、酒も飲まず、店を閉じると、中二階に上がって、雑然とした小汚ない小さな部屋でひたすら眠りをむさぼるような青年だった。
そういう点では、面白さに欠ける若者だったともいえるが、世間ではヒロポン禍が少年までも蝕《むしば》み、社会問題になっていた。ヒロポンは覚醒剤の一つで、これを注射すると、疲労感の減退、恍惚感、自信と活力の回復などの作用があることから、太平洋戦争中にも、特攻隊の士気を鼓舞するために用いられたことがある。これが敗戦後、軍関係者が放出したことから、GHQの支配下で将来に希望を失った若者たちの間に広まり、高見順《たかみじゆん》などの文士や芸能人たちにも常用する人が多かった。昭和二十四年には全国でその数約二百九十万人といわれ、五万五千人以上が検挙された。これは中毒性が強く、薬が切れると不安感や幻想に襲われ、精神と肉体を蝕んだ。
こうした社会背景があっても、酒井の店は相変わらず客で混み合っていた。そこで交番から向かって右隣りの店も権利を買い取って店を広くし、中華そば屋だけでなく、日用雑貨品も売るようにした。物が不足している時代だったから、品物は何でもさばけた。品物は委託された物もあったし、酒井が休日に関西に行って買い込んだ物も並べた。砂糖、石鹸、ゴム長靴……手に入るものは何でも仕入れて運んだ。それが面白いように売れる。ご法度の闇屋だが、ただ運んでくるだけで儲かるのである。従業員もアルバイトを二人ほど使うようになり、酒井家の経済は安定してきた。
そうなると、父岩吉の血が騒ぎ出して、副業に株屋をやり始めた。中華そば屋と雑貨販売はすべて息子に任せ、自分は株屋の仕事に熱中しだした。酒井が苦笑する。
「当時の株屋は山師的なところが多くてね、一発当ててやろうという感じが強かった。おやじは博打が好きだから、やまねえんだ。結局、最後にはまたそこに戻ってきたんだろうな」
酒井は前にもまして店の商売に精を出した。ご法度のカストリ焼酎も常連客には出すようにした。みんな酒に飢えていた時代だ。口コミで伝わり、さらに別の種類の客が増えた。法律の網の目をくぐった闇商売だったが、この時代、良心だけでは生きていけない、みんな多かれ少なかれ、闇で品物を手に入れているのだ、客に喜んでもらい、それで儲けることが何が悪い、という居直った気持ちもあった。酒井は、交番の目の前で秘かにカストリ焼酎を売った。店の閉店時間は次第に遅くなり、朝の四時頃まで営業していることが多くなった。
「徳川夢声さんの家が、風呂屋の裏のほうにあって、よく来たね。娘さんがお米を頼みに来て、うちでお米をよく分けてあげたことあるよ。名前をあげちゃまずいけど、有名な俳優なんかもよくカストリ焼酎を飲みに来てたよ」
昭和二十五年に入ると、六月二十五日に朝鮮戦争が勃発し、日本は特需景気にわいた。このときも景気のいい客が押しかけてきた。時の池田|勇人《はやと》蔵相が、十二月の参議院法務委員会で、米価問題に関し、つい放言した。
「現在の日本人はみな同じものを食べているが、古来の習慣に戻って、所得の多いものは米本位、所得の少ないものは麦本位というようにしたい」
いわゆる「貧乏人は麦を食え」放言事件で、池田はその後も昭和二十七年、通産大臣のとき、「中小企業の倒産もやむを得ない」と発言しているから、政府の本音はあくまでも大企業優遇政策であった。国の恩恵を受けられないのなら、闇商売でも、ブローカーでもやって「米」にありつくしかない、酒井の反応は単純にして明快だった。
ところが昭和二十六年は、朝鮮戦争の戦略をめぐって、国連軍最高司令官のマッカーサー元帥が四月十一日に解任され、九月八日に対日講和条約と日米安全保障条約がそれぞれ調印されたが、酒井にとっても一大事件が発生した。
ちょうど市会議員選挙戦がたけなわだった。酒井は月曜日から土曜日まで、中二階に泊り込みでびっしり働いて、土曜日の夜は自宅に帰ってひたすら眠る。そんな習慣になっていた。土曜日は代わりに、次男保二と三男栄治が手伝いに来て、その夜は中二階に泊り込む。明け方、店じまいをして、保二と栄治は、
「さあ、寝ようぜ」
と中二階に上がり、いつもの土曜日のように、二人で枕を並べて床に入った。
寝入りっぱな、妙に息苦しい。保二がうつらうつら目をさますと、ベニヤ張りの隙間から煙が吹き出してくる。火がはじける音がして、次の瞬間には、バラックがメラメラと燃え出した。
「火事だ! 栄ちゃん、起きろ!」
保二は栄治を叩き起こすと、貴重品だけを手にして、階段を飛び下りて、外へ逃げ出した。真裏の店から出火したらしく、バラック建てはたちまち炎につつまれ、なすすべもない。消防車が駆けつけたときはあらかた燃えつき、わずかな残骸が黒焦げになっているだけだった。保二がそのときの恐怖を語る。
「あと、二、三分気付くのが遅かったら、二人とも煙と火に巻かれて脱出できず、焼け死んでいた」
警察が調べたところ、火元の店の経営者が火事になる前に多額の保険をかけていることが判明した。その経営者は放火の疑いで警察に連行されたが、三、四日後に証拠不十分で釈放され、結局、火事は原因がはっきりしないままうやむやになってしまった。しかも、バラックが建っていた場所は公有地で、火事をきっかけに完全に撤去されることになり、再建は許されなかった。バラックで店を構えていた酒井たちは、店を全焼させられた上、「もう十五万円とか二十万円という金でパーッと追い出されちゃった」と、酒井がいう。
「おそらくあれはあそこを区画整理するのに、邪魔だから、誰か火をつけたんだと思うな。結局、迷宮入りになっちゃってるんだ。誰か逃げ出すのを目撃したという人もいるね、放火だね、あれは絶対」
酒井は、一晩にして店を全焼させられた。それ以上にショックだったのは、権利がはした金で没収され、生活の拠点を失ってしまったことである。現在、バラック建ての跡はすっかり取り払われ、バスの回転する場所になっている。
酒井は、またも自分の拠《よ》りどころを失って、ただ茫然とした。せっかく繁盛していたのに、まったくついてないな、と運命を呪いたい気持ちだった。
3 闇ブローカーと妻の自殺
酒井は、父岩吉がやっている株屋の仕事を手伝うことになった。これまでも店の合い間には、父の株屋の仕事の手助けをしてきたから、ある程度のことはわかっている。それが今度は本職になった。店が全焼したあと、岩吉は、駅前の時計店の奥にある飲み屋の玄関先を借り受け、六坪ほどの部屋を作って、カウンターをしつらえ、そこで商売をしていた。名称は中外証券荻窪出張所となっているが、いってみれば証券会社の下請けで、客からとった株の注文を親会社に渡す。実際の株の売買は親会社がやり、手数料だけ株屋に支払うという仕組みで、電話一本でできる仕事だった。
「看板のない人は、そういう大きいところに吸いついていて、出張所にさせてくださいといって頼み込むと、内々でできちゃったんだな。戦後になって株屋は、わしたちが子供のときから考えていた株屋とはずいぶんイメージが違っていたものね。大衆化、一般化してきたんだろうね。そこらのおかみさん連中も、ちょいちょいお店をのぞきに来ては、相場を見てやってたもんね」
戦後の産業構造転換の光と影の中で、今やカネあまり現象を背景に右も左も財テクブームに狂奔する「マネー・ゲーム」のメッカ、日本の株式市場の栄枯盛衰については、拙著『二つの墓標』(講談社刊)に詳しく書いたので、ここでは繰り返さないが、酒井の人生を追う上で、これだけは知っていただきたい。
昭和二十一年春に始まった株式の封鎖売買は、新円交換に起因する換物運動の一つとして、通貨不安におののく心理と相まって、一般の新規大衆層も利用するようになった。さらに財閥解体のあと、いわゆる封鎖機関の所有株が大量に放出され、広く国民一般に分散して所有させるという「証券民主化運動」が全国的に大々的に広まった。これはGHQの後押しによるもので、「国民の一人一人が株主に」という標語さえ作られ、二十三年三月からはNHKが株式市況放送を再開した。
こうした証券取引は本来、日本証券取引場の市場立合いのもとで行われるべきものであるが、しかし市場再開は、なかなかGHQが許可を与えなかった。
〈一説には、最高司令官のマッカーサーの株嫌いのせいだともいわれた。マッカーサーの奥方がかつて株をやって大金を失ったため、とりわけ投機的と見られる日本の取引所の再開を容易に許したがらなかった、というのである。(参考文献3)〉
株式の取引所取引が、新しい証取法のもとで再開されたのは、昭和二十四年四月のことである。さらに新しい証取法は、これまでの銀行、信託その他金融機関に代わって、有価証券の引受、売出、募集または売出の取扱いを証券業者だけに限定した。これは有価証券の引受機構に一大変革をもたらすものだった。証券会社にとっては願ってもない時代が訪れてきたわけで、素人同然の酒井父子が中外証券荻窪出張所という、もっともらしい看板を掲げることができたのは、そういう時代背景のお陰だった。
株屋が乱立していた。のちには現在のような大証券会社中心に統合、再編成されてしまうが、過渡期のこの時代は一種の乱世で、一発あてれば一財産が築ける、という山師的な相場師≠ェ目の色を変えて、兜町にうごめいていた。株は魔物だ。魔物だからこそ人間の心を奪う。自分の力を試してみよう、酒井もまた魔物に取り憑《つ》かれた山師的な株屋≠フ一人となった。
「これがどういうわけか、最初は儲かるんだね。三越かなんかがものすごく急騰したとき、一時間に二百円ぐらい上がったときがあったものね。そのときはぼろ儲けしたわな」
株で一度大金を手にしたものは、さらに深みにはまる。当時の証券会社は、社員が株に手を出すことも自由だったから、酒井は客の注文を取るだけではあきたりず、兜町に通いつめて、自分から相場を張った。酒井の体の中にもやはり、博打好きな父の血が流れていたのかもしれない。
「その頃ボンボン勢いよく伸びてきたのは山種《やまたね》ね。それから、『大番』のモデルになったギュウちゃん、その全盛時代だったね。あの人が買ったとか売ったとかいうと、みんな震え上がる時代だった。あれが出て来たーというと、またそれに提灯つけて買ったり売ったりしてね。あの頃の儲け頭だった。そういう物語のある時代だ」
酒井父子も大儲けしたことがあった。酒井がまだ中華そば屋をやっていた昭和二十五年当時、株式市況はドッジ・ラインの影響を受けて低迷していた。七月には、株価がついに東証単純平均にして六十二円三十銭、ダウ平均にして八十五円二十五銭を記録し、市況はどん底に陥った。岩吉はあてがはずれて、たちまち苦境に追い込まれた。そこへ突如として降ってわいたのが朝鮮戦争による特需景気だった。
昭和二十五年六月二十五日早朝、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が突然、軍事衝突を起こし、北朝鮮側が境界線の三十八度線を越えて、韓国側に雪崩れ込んで来た。前年の二十四年十月一日には、毛沢東を国家主席とする中華人民共和国が成立している。アメリカにとって、韓国はアジア大陸防衛の重要な橋頭堡《きようとうほ》であり、しかも韓国では、この年五月の総選挙で、李承晩《りしようばん》大統領の与党が敗北し、南北統一の機運が高まっていた。事態を重視した国連安保理事会は、米軍主導の国連軍派遣を認め、マッカーサー元帥が国連軍司令官に任命された。
父岩吉は、自分が出征した朝鮮半島で勃発した戦争が他人ごとには思えなかった。
「日本の戦争が終わったら今度は朝鮮半島が戦争か。日本はまた戦争に巻き込まれるのと違うやろか」
「まさか。もしそんなことになっても、日本人で戦争へ行くものは誰もおらん。ぼくは今度は真っ先に逃げるわ」
予科練で先輩と同僚の死を見つめてきた酒井は、なぜ人間は戦争をするのやろ、と人間の業《ごう》をおぞましく思った。しかし、一年余にわたって一進一退を続ける朝鮮戦争は、日本にも飛び火して臨戦体制が敷かれ、マッカーサー元帥の指令で「警察予備隊」が作られた。日本は今や、米軍の前進基地として軍事強化を進めていく。
その一方で、朝鮮半島の不幸は、皮肉なことに日本に異常な好景気をもたらした。ニューヨークの株式市場は、この朝鮮戦争によって大暴落におちいった。しかし、日本は逆に、激しい軍需物資の買付け、つまり「戦争特需」によって、大いにうるおった。米軍から発注された特需の七割は物資で、三割がサービスの調達であった。この結果、綿布、毛布、麻袋などの繊維、トラック、鋼材、鉄線などが戦地に送られ、「糸へん景気」「金へん景気」と呼ばれた。
特需による日本の輸出総額も、昭和二十四年の五億九百七十万ドルから二十五年には八億二千万ドルと一気にハネ上がり、外貨保有高も、二十四年末の二億ドルから二十六年末には九億四千万ドルと約四・五倍にも急増した。日本は戦わずして漁夫の利≠得て、荒廃した戦後経済の復興をはかることができたのである。
酒井は、朝鮮戦争が自分たちにも関係してくるとは、最初、夢にも思っていなかった。そのうち、あれよあれよといううちに売買高が急増し、昭和二十五年七月十七日の東証売買高は九百四十四万株にも達し、二十五年中の最高を記録した。そして店を全焼した年の二十六年の大納会は百六十六円六銭となった。無論、半素人の酒井に、株式市況の全貌が理解できるわけではなかったが、店を失って茫然としていた酒井が、この朝鮮戦争で儲けて助かったこともまた事実だった。
中華そば屋どころの儲けではなかった。この頃は人も雇い、明治大学商学部を卒業した次男保二も働き始めた。酒井一家は、いずれ自分たちの大きな店を持とう、という夢と希望を語り合った。昭和二十七年は、メーデー事件など騒擾《そうじよう》事件が頻発する一方で、放送時間になると、銭湯の女湯が空っぽになると話題になったNHKの連続放送劇「君の名は」ブームにわき、十一月十日には、新憲法による初の国儀として、皇太子明仁親王の成人式および立太子礼が行われた年である。これで名実ともに公式に皇太子となったが、その式典で祝辞を述べた吉田首相が「臣茂」といって、あとで話題となった。この年、警察予備隊が保安隊に改組されて、再軍備の強化の方向に向かい、天皇・皇后両陛下が靖国神社に参拝するなど、かつての日本に回帰する動きも、だんだんと表面化してきた。
酒井にとって、戦争体験は忘れることのできない「負の原点」であった。しかし今、実際には朝鮮戦争という他人の不幸で儲けている。その後ろめたさはいつもついて回ったが、生きるために選んだ株屋の世界である。心の矛盾は矛盾として、株屋の仕事を放棄することはできなかった。
「しかし、こんな商売はやっぱり長続きしないものだね。順調にいっているときほど、後ろには魔物が忍び寄っているんだ」
その年は強気にまかせて、手一杯ひろげた株の読みがはずれて、落ち込みが激しかった。何とかして回復しなければならない、と焦った酒井は、借金をして株を買いあさった。そこに運悪く「スターリン暴落」が証券界を直撃してきた。
昭和二十八年三月五日、ソ連のスターリン首相が死亡した。さらに三月三十日、北朝鮮側が休戦会談を申し入れたことで、株価が大暴落した。血の粛清≠続けて恐怖の独裁政治を三十年近くもやってきたスターリンが死去したことは、本来ならば、資本主義陣営にとっても望ましい℃桝ヤであるのになぜ暴落したのか。それは若き後継者となったマレンコフ首相が、ソ連最高会議で「平和政策」を表明したからだった。それに呼応するように朝鮮戦争の休戦工作が動き出した。戦争が継続しなければ、特需も無くなって、日本の特需ブームは尻すぼみとなる。まさにスターリンの死去、マレンコフの平和政策、朝鮮戦争の休戦という一連の流れが、特需景気に浮かれていた日本の株式市況を、今度はあっという間に大暴落におとしいれたのである。
借金して買いあさった酒井の手持ちの株は、一夜にして半値以下に下落した。ダブル・パンチをくらって、酒井一家は一瞬にして崖《がけ》っ縁《ぷち》に追いつめられた。この急場を何が何でもしのがねば、と必死の思いで金策に奔走する酒井は、たちまち絶望感を味わった。好況のときは幾らでも金を貸してくれたのに、敗北者には手のひらを返したように冷淡で、酒井は人間社会の非情さに立往生しなければならなかった。結局、借金だけが残った。
次男保二が借金地獄≠思い出す。
「当時の金で三百万円以上もあった。信用買いをしていたから、その金を返済しなければならない。払えるだけの借金は払ったが、無論それで足りるはずがなく、借金のかたに店も看板もみな取られてしまった。丸裸のすっからかんですよ。その後も借金取りに追われっ放しでした」
父岩吉は、スターリン暴落によって二度と立ち上がれないほど叩きのめされた。安定していた家計はまた破綻《はたん》に瀕《ひん》した。末弟|昌幸《まさゆき》によると、「この破産が酒井家の運命を変えた」という。酒井は、二十代で財を蓄え、われ知らず有頂天になっていたときに、一夜にして奈落の底に突き落とされ、惨《みじ》めな負け犬になった。
「儲かったときにやめておけば良かった。もっともっとと欲張ったために、スコーンとやられちゃったのだ」
と後悔しても遅かった。
打算を弄《ろう》するものは結局打算に破れる。賭博にわれを忘れたものは賭博に復讐されて身を滅ぼす。それがおれだ、とほぞを噛んだ。その挙句が、借金に追いまくられ、友達や親戚ばかりではなく、自分を信頼してくれていた店の顧客からも、恥も外聞もなく、拝み倒して金をかき集め、それでも足りなくて借金取りから逃げ回っている。自分が惨めで情けなかった。
それにしても口惜しい、と酒井は自問自答した。
「中華そば屋も繁盛していた矢先に、火事で全焼させられて店を一夜で失くしてしまった。株の仕事も儲かってこれからだ、というときに潰されちゃった。おれが自分で潰したんじゃない。何か目に見えない力が、おれの成功をねたんでいるのだろうか。それともおれにはもう一つ運がないのかな」
自分に運がなかっただけだ、と思っても、さしあたってはまた次の仕事を探さなければならない。やむをえず、酒井は知り合いの店の店員になった。
荻窪駅前のマーケットの中に「コバルト」という名前の軽食堂があった。和菓子や餅菓子、今川焼き、夏ならかき氷などを売っている店で、日本そばと中華そばもやっている。主人は、終戦のときは大尉だった人で、よく酒井の店に相場を張りに来て、「兄《あん》ちゃん、兄ちゃん」と、可愛がってくれた人だ。酒井はその店で、中華そばを作ったり、店番をしたりして、しばらくの間働いた。
すでに世の中は、生活必需品の不足はおさまり、女性たちの間では、ミス・ユニバース・コンテストで、日本代表の伊東絹子が三位に入賞したことから「八頭身美人」が理想のプロポーションとされ、パリのクリスチャン・ディオールの専属モデルが来日したことから「ディオール旋風」が吹き荒れた。そして男たちは「街頭テレビ」の前に群をなして、プロレスの力道山の空手チョップ≠ノ熱狂的な拍手を送っていた。
だが、酒井は時代の波から遠く一人引き離されたように、無為な日が続いていた。自分の店を構えて、自分の才覚で切り盛りしてきた経験を持つ酒井にとって、人に使われる店員の仕事が楽しかろうはずがなかった。間もなくコバルトをやめた。「それから放浪生活や。一年ぐらいいてはやめ、また仕事を変えて」という無頼の生活が続いたあと、今度は菓子屋のセールスマンになった。三鷹に問屋があり、そこで働くことになり、菓子店を回って注文を取って歩く仕事だったが、ある程度仕事を覚えると、「もうやめた」といってそこもやめた。次男保二は、
「兄は、結論を出すまでは本人が一人で悩んでいるんでしょうけど、人には何もいわず、スパッとやめる人」
と、その性格を語っている。
人に使われるよりは、自分で独立して店を持ったほうが儲かるに決まっている。早く独立したい、と気持ちばかりが焦っていた。この頃から酒井の人生の歯車が狂っていく。酒井は、まだまだ十分に理解しているとはいえない菓子業界で、追いつめられたものの焦燥感から、成功することだけを夢みていた。
その頃、酒井家は三鷹から西荻窪へ移っていた。そこに「酒井商事」の看板を掲げ、社長兼運転手で仕事を始めた。表むきは問屋だが、品物などは何もない。菓子店を回って注文を取ると、「それじゃ、後で持って来ます」といって、その足で青梅街道や堀之内にある大問屋に行って品物を仕入れ、それをまた配達してゴマかすのである。
「まあ、早くいえば、体裁のいいブローカーだね。今の行商人と同じ。商売道具といったら車一台だけ。一日注文取りに行っちゃ納めに行って、納めに行ったとき、また注文を聞いてきてと、細かい商売をちょこちょこ、ちょこちょこやってた。毎日毎日同じ路線をぐるぐる回ってね。問屋さんにしてみたら、わしみたいのを売り子といってたんだろうな、小さい小型の問屋だよね。今の宗教でいったらミニ宗教みたいなもんや」
ここから這い上がって成功した人もずいぶんいる、という。しかし、酒井はすぐに壁に突きあたった。最初のうちは、「怖いもの知らずの一匹狼」で、大手のセールスマンが入っている菓子店でも、どこへでも飛び込んで行ったが、そうおいそれと顧客が取れるものではない。得意先が増えなくては商売にならない。焦り、追いつめられた末に酒井が取った行動は、商売道徳をまったく無視したものだった。
酒井は、なりふりかまわず、独立する以前に顔をつないでいた得意先に食い込もうとして、いわば殴り込みをかけた。大手のセールスマンは組織的に菓子店とつながっている。そこへ乗り込んでダンピングをして、大手の取引先を潰していくのだ。たちまち業界で悪評が立ち始めた。大手の問屋から、酒井が仕入れている問屋へ厳重な抗議が回ってきて、酒井はこう警告された。
「あんた、あんまりかき回さんとけよ。この間あそこのおやじがえらい見幕でうちに怒鳴り込んで来た。そいつに品物渡すなら、お前んとこ覚悟あるだろうな、と脅かされたぞ」
商売道徳を無視した殴り込みは、自分の首を自分で締めるようなものだった。商売は結構儲かるようになっていたが、また暗礁に乗り上げた形で行きづまった。酒井は、そんな自分にたまらない自己嫌悪を感じた。酒井は自分の中に「もう一人の自分」をみた。
「わしはこれまで表面的には、人あたりの柔らかい、評判のいい人間に見られていたと思う。それも確かにわしの一面やったけど、自分でも気がつかなかったもう一人の自分が心の中に棲んでおったんやね。商売をして、完全に行きづまって、どうしよう、と追いつめられたとき、もう一つの自分の顔が現われた。それは自分の弱さであり、醜《みにく》さや。人間の業《ごう》かもしれん。自分がもうたまらんかった」
酒井は、否応なしに自分の心のなかをみつめざるを得ない。中華そば屋といい、株屋といい、菓子のブローカーといい、浮いては沈み、沈んでは浮き、また沈む。次男保二は「兄は時代の歯車とうまく噛《か》み合わなかった」という。うまくいきそうだと思うと、すぐに失敗し、その繰り返しの連続。「根が生マジメな兄」は、その度に人生の波間に沈んだ。
法華経の中に有名な「三車火宅のたとえ」というのがある。
昔、インドに大長者がいた。代々住みなれた家は、調度も立派だが、先代のとき不景気に見舞われて、修繕が十分にいきわたっていない。外見は立派でも、中に入ってみると柱は根本から腐り、床は抜け落ちている。しかし子供たちはそれに気がつかず、わが家ほどよいところはないとばかりに遊んでばかりいる。ある日、台所から火が出て火事になった。長者は、まず遊びほうけている子供たちを避難させようとしたが、子供の遊んでいるところはまだ燃えていないので、なかなか動こうとしない。そこで長者は、お前たちが日頃から欲しがっている羊や鹿や牛が引く立派な車を外に用意したから、外へ出さえしてくれたら好きな車に乗せてやろう、といった。子供たちがその言葉に外へ出ると、そこには羊や鹿や牛の引く車ではなく、インドでも唯一つといわれる大白牛車という立派な車が待っていた。長者も子供もそれに乗って安全な場所に避難したが、子供たちは今まで住んでいたところが如何に苦しい穢《きたな》い世界であったか、初めて知ることができたという。
山田|恵諦《えたい》天台|座主《ざす》の解説はこうである。
〈私たちは、穢《きたな》い汚れたこの世界を住みにくいと云いながら、そこを離れる心も起らず、明けても暮れても、我利我欲に誘われて罪の上にも罪を造り、すこし偉くなると神も仏も忘れて自分ひとりが偉いものだと思うままに振舞い、苦情が出る喧嘩《けんか》が起こる、泣いたり笑ったり、惚《ほ》れたり恨んだり、みにくい闘争にその日その日を送りながら、娑婆《しやば》ほどよいところはないと執着して、すこしも出離生死の念を起こそうとしません。……仏の目からこれを見れば、先きの譬《たと》え話で長者の家に火がついているのに子供らはそれに気付かず、泣き笑い、争い踊っているのと同じです。……そこで、ほらここにこんなに立派な境界があるぞ、と教えられたのが法華経であり、仏の世界である、というわけです。(参考文献4)〉
酒井は今、その「子供たち」と同じで、まさしく火宅の中にある。それに気付くのはもっとあとのことである。
三十歳すぎても、酒井は確信の持てる生活を築けないでいた。相変わらず菓子店のブローカーをやっていたが、社長とは名ばかり、浮き草のような生活である。社会はすっかり落ちつき、テレビや電気洗濯機なども普及し始め、国民の生活は豊かな方向に向かっていたが、酒井の周辺だけが取り残されているようで、未来に何一つ希望が持てなかった。株屋の破産以来、何か歯車が狂ってしまった。
そんな長男を心配して、両親が結婚話を持ち込んできた。結婚すれば気持ちが変わり、生活に張りがでるだろう、という親心からだった。母ミカは旧姓吉田といい、兄の吉田善五郎が、大阪の御厨《みくりや》で鉄工所を経営していた。娘が二人おり、その妹はどうか、という話になった。相手は酒井とは四つ違いである。
長女の美佐子がその間の事情を明かす。
「中華そば屋をやっていた当時、両親は家を留守にすることが多いし、まだ小さい子も多かったので、お姉ちゃんが手伝いに来てくれていたのね。それで両親も向こうの家とは行ったり来たりしていたから、そのへんから結婚話が出たんだと思います。背丈は普通だけど、向こうのお父さんが美男子でそれに似たのか、細面の美人でおとなしい性格の方でした」
酒井は、三十二歳のとき、母ミカの兄の娘、つまり、いとこと関西で結婚式を挙げた。結婚後は、両親たちと一緒に西荻窪の自宅に住んだ。北口から五、六分歩いた住宅地にあり、離れの二階家を借りて、上に両親たちが生活し、酒井たちは下の部屋で新婚生活を始めた。
〈結婚は光だ、ということばがある。このことばは、当時の忠雄にぴったり当てはまりはしないだろうか。憑《つ》かれたように金儲けのために暴走したり、怠惰で無頼な日々に漂ったりしていた生活に光が射し入ってきたのだ。きらきらした新婚生活の充実感は、男を酩酊《めいてい》させ、決意させる。この妻を幸福にしてやらねばという、地味だが新鮮な決意が忠雄のなかに芽生えていたに相違ない。それはやがて子供が生まれて、つつましい家庭をかたちづくる生活の歓びを包みこんだ眩《まばゆ》いような、生命の実感ともいえるものだ。(参考文献5)〉
だが、そうはならなかった。
結婚後一ヵ月すぎたばかりのある日の夕方、酒井が仕事から戻ると、妻の姿が見えなかった。妻は何の書き置きも残さず、突然家出をしたのだ。酒井は、束《つか》の間の新婚生活から、暗黒の世界にまたもや突き落とされた。妻は大阪の実家に帰っていた。あとでわかったことだが、妻はその前日、阿佐ヶ谷に住んでいる美佐子の家に遊びに来ていた。そのあと、美佐子と一緒にやはり同じ阿佐ヶ谷の次女|基子《もとこ》の家にも寄った。美佐子と基子は二人で、酒井家の長男の嫁を駅まで送った。それだけに酒井から話を聞いた美佐子もびっくりした。
「特別何にも変わったところはなかったし、夫婦仲も良かった。だから何が何だかさっぱりわからなかった」
妻が実家に戻っていることを確認した酒井は、何はともあれ、無事であったことにひとまず安心し、すぐさま大阪行きの汽車に飛び乗った。妻は黙っていた。酒井も家出の原因を問いつめることはしなかった。妻の心がわからないわけでもなかったからだ。妻が、東京の生活になじめないでいることは薄々知っていた。そんなに東京が嫌いなら、このまま大阪で生活してもいいと思った。
「ほうっとくわけにいかないから、仕事をほっぽってそのまま来ちゃったわけね。それで一緒に東京へ帰って来るつもりで待っていたわけだよ。そのうち、わしも居ついちゃったわけ、早くいえば」
吉田鉄工所は十人ぐらいの零細企業で、吉田家、つまり酒井からすれば母方の本家の長男であるいとこが、中心になって働いている。いとこは腕のたつ、根っからの職人で、気のいい男だった。酒井もいとこに旋盤の仕事を教わったり、事務を手伝ったりして、一生懸命に融け込もうとした。菓子店のブローカーの「社長業」をやめることに何の躊躇《ちゆうちよ》もなかった。妻のもとに居たかった。
吉田鉄工所の上は住まいになっていて、そこに両親の善五郎夫婦、長男夫婦、それに酒井の新婚夫婦の三組が生活するようになった。妻はおとなしい性格だったが、結婚前は、ソロバンから旋盤まで何でもでき、鉄工所を手伝っていたという。次男保二が、それ以前、学生時代に遊びに行ったときは、「油だらけの手袋」をして現われたから、旋盤の仕事を手伝っていたのだろう、と感心したことがあった。
だが、酒井が一緒に住むようになってからは体の調子がすぐれず、酒井は妻を自転車の後ろに乗せて、よく病院へ連れて行った。酒井は大阪へ来て一ヵ月たち、仕事も慣れてきた。そこで悲劇が起こった。
四月七日のこと、酒井は、鉄工所で旋盤に使う刃物を研《と》いでいた。いつもなら一回でうまくいくのが、なぜかこの日に限って、何回やってもスムーズに研げない。なんか嫌な予感がしながら、酒井が作業を続けていると、火花がバーンと飛び散った。そのとき二階の居間では、妻がガス自殺をとげていた。
最初に発見したのは、いとこの嫁で、「なんか、ガス臭いわ」と気付き、部屋をあけると、義理の妹で酒井の妻が布団の中に倒れていた。それから大騒ぎになり、駆けつけた救急車で病院に運んだが、生命をとりとめられなかった。遺書はなかった。結婚してわずか二ヵ月で、妻が自殺をした。しかも、自分が作業している同じ時刻に、真上の部屋で、ガス自殺をするとは! 酒井は、悲しく戻ってきた妻の遺骸の前に座って、ただ放心していた。
「どうして自殺なんかしちゃったのよォ!」
家族たちが号泣しながら、死に化粧をほどこしている。酒井は、自分が責められているようで、針の筵《むしろ》に座っているような苦痛にただ耐えていた。自殺するまで妻が思いつめていたとは!それに気がつかなかった自分が悔やまれた。衝撃のあまり、言葉が凍りついて、悲嘆の涙にくれる妻の両親や家族たちに、夫として何をいったらいいのかさえわからない。夢を見ているような気がした。そのあとにまた無力感と絶望感が襲ってきて、酒井の心を激しくさいなんだ。
葬式には、東京から両親も駆けつけて来て参列した。長男の嫁が新婚すぐ自殺をしたことが信じられなかった。葬式でも酒井は放心状態にあった。荼毘《だび》に付すと、妻はひと握りほどの骨片と化し、骨壺の中におさまった。これが昨日までの妻の姿なのか……たまらず酒井の目から涙があふれた。
「結局ねえ……」
と今、酒井阿闍梨がしみじみという。
「わしの仕事がぱっとしてないからね、知らない東京に来て、先ゆき不安だったんだね。それでうちに帰って相談すると、そんなんだったら行かんほうがええ、ということになった。そこへわしが住み込むようになったもんだから、お前が行く気なかったら、もう東京に帰ってもらえ、とかいわれたわけやな。そういうことで板ばさみになっちゃって、自分がいなきゃ何とか片づくだろうというような考え方に追い込まれて、自殺しちゃったんだと思うんだ」
酒井は救いのない地獄に堕《お》ちて、無明の闇のなかでのたうちまわった。一体おれの人生て何だ。何をやっても失敗だらけだ。恥をさらし、人を傷つけるだけじゃないか。悔恨《かいこん》と慙愧《ざんき》の念だけが酒井の心を締めつけた。おれの人生は「あのとき」からすっかり歯車が狂ってしまった。自分の「負の原点」がどこにあるか、酒井にはわかっていた。いつも心の底にわだかまっている暗い原体験。生と死のはざまに翻弄された「あのとき」の記憶がつらく甦ってきて酒井をさらに打ちのめした。
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第二章 軍国少年 予科練で生き残った命
1 人間はここまで悪魔になる
固く閉ざされた扉の向こう側に、「秘密」があった。
酒井|忠雄《ただお》は朝、いつものように東京・中野区|道玄町《どうげんちよう》(現・本町《ほんちよう》)の自宅を出て、新宿区|戸山《とやま》にある「仕事場」に出勤した。少し高台になっている坂道をあがると、第一陸軍病院があり、隣りに陸軍軍医学校が並んでいる。軍医学校に入るにはゲートがあり、入口に衛兵が立っていて、身分証明書を見せなければならない。
酒井が身分証明書を示すと、「よし、通れ!」と命令調で許可された。最初のゲートの中に入って、ずーっと一番奥まで進み、学校の裏まで行くと、そこにまた二番目のゲートがあり、衛兵らが身分証明書を厳しくチェックする。そしてやっと仕事場に入ることができる。二重チェックを受けなければ入れない酒井の仕事場は「陸軍軍医学校|防疫《ぼうえき》研究室」といった。昭和十七年、このとき十七歳の酒井は、十人きょうだいの長男として、貧しい家計を助けるため、ここで雑用係として働いていた。わずかな給金ではあったが、仕事が終わったあと通学していた慶応義塾商業学校の夜間部の月謝にあて、家計の足しにしていた。
このものものしい防疫研究室とは何か。
「それがまた大変なところに行ってたんだ。あとで満州(現・中国東北部)で悪名をはせた石井部隊。すでにそのときの研究所所長が石井少将(のち中将)で、顔を見たこともありましたよ」
と酒井がいま明かすように、この防疫研究室こそ、旧満州でひそかに細菌兵器開発をしていた旧関東軍防疫給水部、いわゆる生体実験で知られる「第七三一部隊」の中枢拠点≠セった。
酒井が雑用係として働いていた防疫研究室は、『陸軍軍医学校五十年史』によれば、昭和八年四月に工費約二十万円で着工し、同年十月に完成したもので、新研究室は鉄筋コンクリート造二階建七九七平方メートル、延べ一、七九五平方メートルで、付属建物として動物舎、事務室、変電室および機関室、倉庫などがついている。
酒井は年少のアルバイトの雑用係であったが、そこで特殊な研究をしていることはわかってきた。
「若い人はそんなにいない。今の年齢からいったら、そうだね、高校卒業したぐらいの人たちが下っ端のほうで働いていたね。あとは瀬戸の窯焼《かまや》きの学校を出てきたとか、瀬戸の工業学校を出てきたとか、やっぱり瀬戸の人間がいた。そして土でね、濾過器《ろかき》を作ったり、ケースを作ったりしていた。だから窯焼き屋と同じで、瀬戸物を焼く窯みたいなものがあった。それで窯が始まると石炭をくべて、二十四時間体制でずっと見守ったり、要するに容器を研究してたわけだね。
それから、珪藻土《けいそうど》でもって茶色の、チョコレート色の何かを作っていたわ、薄うくしてね。何に使うんだと思ったら、手榴弾《しゆりゆうだん》。結局、話聞いてみると、その中に細菌を入れて飛行機から落っことすと、パーンと割れても瀬戸物だから菌が死なないでパーッと散るんだって。それで焼いてね、できあがったとか、できあがらないとか、みんなそういう研究やってたよ。わしなんか、ふふふーんなんていって、それの後片づけとか、人が入ってきたら困るから当直でもって見回りをやるとか、そういう仕事をさせられていた」
旧陸軍の細菌戦研究については、戦後になって、米国陸軍の調査団が石井四郎、北野政次ら元七三一部隊幹部を尋問した『フェル・レポート』『トムプソン・レポート』などがあるが、これらはいずれも関係者の供述が中心で、関係書類は破棄されたか、ほとんどが空襲のために焼失されたといわれてきた。
ところが、昭和六十三年八月二十一日付の朝日新聞が一面トップと社会面で、作家の山中|恒《ひさし》が、極秘の研究報告書『陸軍軍医学校防疫研究報告書』を発見したニュースを大々的に報道した。
これによると、「日中戦争での延べ一万人を越える陸軍防疫機関の組織や活動をはじめ、コレラやペスト菌の大量培養、フグ毒の大量精製、輸血のための乾燥血しょう技術など広い範囲」におよぶ防疫研究室の実態が明らかになり、さらに固定の防疫機関として、ハルビンに設置された以外にも、北京、南京、広東にも各防疫給水部が設けられ、昭和十二年の蘆溝橋《ろこうきよう》事件のあとは移動機関が編成されたのちに合計十八の師団防疫給水部が正式に設置されたことも記録されている。
〈旧日本軍の細菌兵器開発はこれまで、生体実験で知られる七三一部隊が中心とされてきた。しかし、この資料によって、防疫研究室は「石井機関」とも呼ぶべき大掛かりなネットワークの中枢にあり、七三一部隊など「防疫」を隠れみの≠ノした実践部隊を手足に研究を進めていたことが、初めて裏付けられた形だ。〉(同紙)
十七歳の酒井は、その中枢≠フ防疫研究室で雑用係としてアルバイトをしていたが、年少ということもあり、少なくとも居心地の悪いところではなかった。
「直接にわしがいた研究室の係の、今の会社でいったら課長になるのかな、管轄《かんかつ》の大将だった大尉が大阪出身の人で、わしの本籍が大阪だから同郷のよしみもあって、ずいぶん可愛がってくれたんだ」
しかし、同じ日本人にはやさしかった防疫研究室が旧満州でどんな残虐なことをしたか、当時の酒井は知る由もなかった。それは酒井にかぎらず、一般国民も同じだった。
第七三一部隊の恐怖の全貌については、森村誠一の衝撃的なドキュメント、正・続『悪魔の飽食』が、戦後の日本人に戦慄を与えたが、「陳列室」の内部を書いた部分を引用させていただく。
〈ホルマリン液の中には人間の生首があった。切断された首から上が、カッと目を開き、あるいは目を閉じ、頭髪をゆらゆらさせてガラスの容器の中にたゆとうていた。顔面がザクロのように裂かれて割れた生首。刀剣で頭部から耳の後方までが真っ二つにされた生首。鋸《のこぎり》で切断され、脳が露出した生首。顔面におびただしい糜爛《びらん》を生じ目と鼻と口の区別もつかなくなった生首。皮膚に赤や青や黒の斑点を生じたまま、ぽかんと口を開いている生首。中国人、モンゴル人、ロシア人。人種はさまざまであり、老若男女入り混じった生首が、入室者に、うす茶色の液の中からなぜ自分はここにいるのか、と物言わぬ怨嗟《えんさ》の問いを発していた。(参考文献6)〉
第七三一部隊によって、昭和十四年から敗戦の二十年までに虐殺された犠牲者は「三千人以上」といわれる。
山中恒が発見した『陸軍軍医学校防疫研究報告』によると、ハルビンに作られた旧関東軍防疫給水部(いわゆる石井部隊)には二百二十人の将校、技師を含む千八百三十八人が従事し、他の固定機関も六百人から千二百人規模の組織で、これに師団防疫給水部などを含めると、昭和十五年当時までの日中戦争に陸軍防疫機関全体に動員された将校、技師、下士官、技手、兵、雇員を合わせると、延べ一万人を超す。これにはむろん医師や学者も含まれている。
報告には、軍医以外の研究室の名前もあり、「石井元中将の母校、京都帝大や東京帝大など、主要な大学から学者が嘱託で研究に加わっていた」という証言もある。戦争が大義名分のもとにいかに人間を悪魔にし、狂気に走らすか、ナチス・ドイツのアウシュヴィッツのユダヤ人虐殺にも比すべき戦慄的な残虐行為を、一部の狂信的な軍部だけではなく、日本のエリート層も加担して実践した。これは日本人の犯罪である。その末端に酒井もいた。
〈七三一が貯えた細菌と何トンにもおよぶノミ、ネズミ類は、ひとたびこれがソ連の大都市に散布されんか、たちまちにしてヨーロッパ大陸に猛烈な伝染病を蔓延《まんえん》させ、純理論的には全人類を破滅にみちびいて余りある分量であった。(参考文献7)〉
石井元中将は、若いときから日蓮と法華経の説く「王仏|冥合《みようごう》」の国粋的理念に深く共感していたといわれる。
あとで詳しく述べるが、日本の仏教は、もともと国家権力と深く結びついて発展してきた。奈良仏教がそうであったし、酒井が帰依することになる天台宗を開いた最澄《さいちよう》も桓武《かんむ》天皇の庇護のもとに宗派の基礎を固めた。真言宗の開祖空海は嵯峨天皇との関係が深かった。奈良朝や平安朝の仏教だけではなく、鎌倉時代に成立した各宗派も、道元の曹洞宗を除いて、機会あるごとに政治権力に近づいたが、とりわけ日蓮の国家主義は異彩を放っていた。
「日蓮は日本国の柱なり、日蓮を失うほどならば、日本の柱を倒すになりぬ」という強烈な信念を持った日蓮は、蒙古が来襲した元寇《げんこう》、すなわち文永の役(一二七四年)、弘安の役(一二八一年)のとき、「此国は神国なり」といい、末法の世にあっては法華経のみが唯一の正しい仏法で、自分一人だけが法華経によって日本を救うことができると主張した。さもなければ、国は滅びるしかないというのである。
結局のところ、日蓮の主張は幕府の下級官吏の耳までしか届かなかったし、日本が滅びることもなかった。仏教学者、渡辺照宏は、「仏教史全体を通じて他に類例のない独善主義であって、仏教の寛容の精神から見て、まったく非仏教的な態度と言わなければならない(参考文献8)」と指摘したが、日蓮の主張する国家主義は明治以後になって復活した。渡辺が警告する。
〈明治十三年に田中智学の創始した蓮華会(のちの立正安国会、国柱会)がその著しいもので、この会は政治家や軍人にも影響してファシズムを鼓吹した。日蓮宗系統の新興疑似宗教団体には単に個人の救済を標榜するものが多いが、日蓮正宗の外郭団体である創価学会はこの宗派をもって日本の唯一の国教と定め、他のすべての宗教の禁圧を目的とするものであるから、日蓮の国家主義の現代版ともいえる。ただし日蓮自身は生涯不遇であったから、ただ主観的な構想のみにとどまり、活動が具体化されることはなかったのである。日蓮ないし日蓮の流れを汲む人々の考え方は、自分の宗派を国家権力と結びつけ、思想や言論の統制を図ろうとするものであるから、この点、注意すべきである。(参考文献8)〉
石井の「王仏冥合」の国粋的理念による防疫研究室の実態は、まさにこの典型であった。宗教の本質は人間の魂を救済するものであるが、いわば諸刃の剣で、独善思想のもとに悪用されないともかぎらない。その点で、宗教は、最も危険な要素も秘めている。
十七歳の酒井が、こうした「悪魔の使徒」だったわけでは無論ないが、それにしても雑用係とはいえ、なぜ防疫研究室で働くようになったのだろうか。激化していく戦争の暗い影がそこにあった。
「だんだん戦争が激しくなっていく。学生も、医学部と理工学部以外の文科の生徒は、徴用にもっていかれちゃう。軍医学校だったら、まあ軍属の親戚みたいなもんだからね、そこに行けば軍で仕事しているんだから徴用されないというわけよ。たまたま知っている人がそこにいたから、それで働こうということになったわけだね」
日中戦争は泥沼化し、すでに日本は太平洋戦争に突入していた。
前年の昭和十六年九月六日、御前会議は「帝国国策遂行要領」を正式に決定した。
こうした非常時態勢は、すでに実施されている砂糖、マッチ、炭など生活必需品の切符制や米・麦の配給統制強化となって、酒井一家をはじめ国民生活を圧迫しはじめ、「ぜいたくは敵だ」という戦時色一色になっていた。
日米交渉の解決のめどがたたず、近衛内閣が「閣内不一致」で総辞職すると、代わって東条英機内閣が成立、東条内閣のもとで、もはや開戦は避けられないものとなった。そして、十二月八日早朝、
「帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり……」
という大本営発表がラジオから流れ、太平洋戦争が勃発、日本人のすべてがそうであったように、酒井の人生も大きく変わっていった。
防疫研究室でアルバイトをするかたわら、慶応義塾商業学校の夜間部に通っていた酒井が昭和十九年を迎えたとき、彼もまた大きな運命にのみ込まれることになった。
「防疫研究室には、たしか三年いたんと違うかな。そのままもっといたら、一緒に満州に連れて行かれたかもわからんね」
防疫研究室で働いていた日々が、いわば銃後の戦い≠ニするなら、今度は彼自身が直接、戦火に身をさらすことになった。卒業をあと半年後に控えた昭和十九年のある日、酒井は学校で担任教師から、突然こう告げられた。
「酒井君、君はずいぶん欠席が多いね。しかも成績があまり良くない。現在の君の成績とこの出席状態では、卒業はできないよ」
酒井は自分で「あまり勉強は好きじゃない」というが、落第という言葉はこたえた。確かに欠席は多かった。防疫研究室の仕事はだんだん忙しくなり、宿直がふえた。宿直の夜は、当然学校を休むことになる。しかし、いざ卒業できないと教師から告げられると、両親がどんなに悲しむだろうか、と思った。
当惑する酒井を見て、教師がいった。
「落第せずにすむ方法が一つだけある。それは軍隊に志願することだ。軍隊に志願すれば、自動的に卒業することができるようになっている。ひとつ検討してみたまえ」
落第か、軍隊志願か、酒井は決断を迫られた。そのときの気持ちをこう話す。
「要するに、学徒出陣だとか、海兵だとか、とにかく軍隊に入ったら、そこの学校、最高学年にいた人間は、卒業の三月を待たずして行っても、とにかく三月になったら、お国のために軍隊に行ったんだから、この人は卒業と認めます、文部省で卒業させろという命令が出たわけ。その特典を学校の先生が教えてくれて、お前、とにかく兵隊に行けば卒業できるんだ、このままだったら落第だ、というわけでしょ。ずいぶん考えたね」
学校の壁に「予科練募集」の広告が貼りだされていた。予科練という字がやけに大きく目に迫ってきた。落第するよりはいっそ予科練に志願してみようか、どうせ軍隊に行かなければならないのなら、七つ釦《ボタン》は桜に錨《いかり》か、カッコウいい予科練のほうがいい、酒井はふっとそう思った。
酒井は、徴兵を避けるために防疫研究室で雑用係として働く道を選んだが、今度は、二重ゲートで隔離されていた秘密の研究室を出て、戦争の最前線へ飛び出していくことになった。
酒井は横須賀で志願し、予科練に入隊した。「第八期乙飛飛行機整備練習生」として採用され、昭和十九年十二月十五日、熊本県|人吉《ひとよし》の予科練に配属された。人吉海軍航空隊第八期二十三分隊(分隊長・牛島辰次海軍中尉)で、同期の桜≠ヘ二百九名いた。酒井もまた時代の子だった。予科練にはある憧れを持っていた。それは彼が生まれ育った「昭和」の戦前という時代環境と無縁ではない。
2 暗い時代のはざま
酒井忠雄は、大正十五年九月五日、大阪市の玉造に生まれた。父岩吉、母ミカの間の十人きょうだいの長男で、上に二つ年上の長女美佐子(セツを改名)、下に五人の弟と三人の妹がいる。父岩吉は祖父亀吉の時代から、「八百亀」という米屋と八百屋を手広く営んでいた。
長女美佐子の記憶によると、祖父亀吉は、無類の働きもので商売熱心、近くの連隊に米、野菜などを納入しており、毎朝、荷車に積んで運んでいた。生活に不自由はなく、どちらかというと、父岩吉は「ボンボン」だった。
酒井が誕生した大正十五年は、彼が生後三ヵ月のとき、大正天皇が十二月二十五日に葉山御用邸で崩御され、即日、御用邸で「剣璽渡御《けんじとぎよ》」というのが行われて、摂政をつとめていた皇太子裕仁親王が二十五歳で新天皇となり、元号が「昭和」と改められた。
「昭和」は『書経』の中にある「百姓昭明、万邦協和」が典拠で、政府は「君民一致、世界平和を意味している」という注釈をほどこした。陛下は、昭和元年十二月二十八日、宮中で「朝見《ちようけん》の儀」を行い、正式に即位した。ここから昭和の時代が始まるが、「君民一致、世界平和を意味している」という「昭和」の元号が秘める意味とは裏腹に、昭和は軍部の台頭によって、満州事変、上海事変、五・一五事件、ロンドン軍縮会議脱退、二・二六事件、蘆溝橋事件と続き、日中侵略戦争に突っ走っていく。酒井は昭和史の暗いはざまの中で生きていくことになるが、ちなみに大正十五年生まれ(昭和元年を含む)の出生数は約二百十六万八千人である。
大正十五年生まれは複雑な感慨を持っていて、たとえば川添登はこう述べている。
〈大正デモクラシーの時代から、軍国主義の時代、大戦、そして敗戦後の時代へという時代の移りかわりは、私たちが成長していく後から追っかけ、追いぬいていったが、その節目のたびに、古い側のびりっこにさせられてきたのである。要するに、私たちは大正世代のびりっこ、であるわけだ。しかし大正十五年というのは、昭和元年でもあるから、昭和世代のトップだということもできる。(参考文献9)〉
昭和は「大恐慌」とともに始まった。恐慌にともなう物価下落の中で、特に生糸の価格が著しく、農産物価格もどん底になり、米価がほぼ半分、まゆ価は三分の一となった。農村経済は破壊され、学校に弁当を持っていくことのできない欠食児童や、娘を身売りする農家の悲劇が相次いだ。
比較的裕福だった酒井家にも破綻《はたん》が訪れた。美佐子は「父はノセられてしまう性格というか、一杯飲まされると気が大きくなってしまう人」というが、酒井によると「山ッ気」もある人だった。
「話を聞いてみると、たとえば若いときに、堂島の橋のところで、リンゴの皮のむきっこをして、長かったほうが勝つんだとか、ようリンゴの皮むき競争をしたとか、そんな話をしてたよ。それから博打は好きだったみたいだね」
岩吉は「米相場」に手を出して失敗、店や家を手放す破目に追い込まれたのだ。幸い、巨額の負債は親戚が何とか肩代わりしてくれて、他人の手に渡ることはなかったが、酒井一家は「夜逃げ同然」で大阪を離れ、東京に移って来た。酒井が五歳のときである。したがって、十人きょうだいといっても、大阪で生まれたのは、長女美佐子、長男忠雄、次女基子の三人で、あとの次男保二、三男栄治、三女信子、四男|孝侑《たかゆき》、五男|則彦《のりひこ》、六男昌幸、四女慶子は東京で生まれた。このきょうだいたちが、のちに大阿闍梨になる酒井のために、大きな陰の力となるのである。
昭和恐慌は日本の経済を破綻《はたん》させ、さまざまな悲劇を生んだ。一家離散の家庭崩壊の憂き目にあった家族も多かった。酒井が五歳のときの「八百亀」の没落は、その後の酒井家の運命を大きく変えた。同じ年、東北では一人の男が人生の転機を迎えていた。
北の海では、春の時化《しけ》が猛威をふるい、小さな漁船を翻弄していた。津軽海峡の海は荒れ狂い、わずか十トン未満の木造船で命がけの漁に出る海の男たちを何人も地獄の海の底にのみ込んだ。それでも海の男たちは、生活のために出漁しなければならない。昭和の大不況で農村が貧窮にあえいだように、漁村もまた極度の貧しさの中にあった。
津軽海峡に出漁する漁船は、青森の漁船が多かったが、その漁師の中に「作さん」と呼ばれる雇われ漁師がいた。姓を箱崎という。
箱崎作次は明治二十五年、福島県の小名浜《おなはま》村(現・いわき市)の農家の生まれ。農家といっても、ささやかな田畑を耕す小作農で、生活は苦しい。そのため父は海の仕事に雇われて働き、母は野良仕事の合い間に鮮魚の行商をしていた。当時、小名浜は半農半漁の村で、そういう家庭はごく普通だった。
明治になって近代国家への道を急ぐ日本は、さまざまな矛盾をはらみながら「富国強兵」策をとり、日清戦争、日露戦争に国威を賭けたが、この日露戦争で長兄が戦死した。一家の最大の働き手であった長兄を失った箱崎家の生活は、ますます追い込まれ、少年の箱崎が代わって働かなければならなかった。
箱崎少年は東京に出た。だが、十四、五歳の少年にできる仕事はたかが知れていた。彼は職業を転々とし、流転の生活を重ねるうちにいつか苦い酒の味を覚え、暗い青春の中に身をおいた。再び小名浜に舞い戻ったが、仕事があるわけではない。彼は今度は北海道に渡り、小樽の魚問屋につとめることになったが、こんなことで一生が終わるのかと思うと、つい酒にまた手がのび、裏町のうす汚ない酒場で泥酔しては喧嘩をし、留置場に放り込まれた。青雲の志をえない青年の無頼の日々である。
さらに流転の人生が続き、箱崎はそのとき、漁船の雇われ漁師をしていた。小名浜にはすでに妻子がいた。のっぴきならない境遇の中であえぐしかない。しかも、北の海は危険な魔の海で海の仲間たちが何人となく海の藻屑《もくず》と消えた。
そのときも海が荒れて怒濤《どとう》が襲い、漁船が木の葉のように嵐の海に翻弄《ほんろう》されて、何人もの犠牲者が出た。この世の地獄である。
〈作さんの脳裏にはさまざまな光景が浮かんでは消えた。数知れぬ人々が海難事故のために生命を落し、どれ程の家族たちが悲しみの淵につき落されたことか、作さんには犠牲者たちの悲しい霊が手にとるように見えたのである。出家して下さい、助けて下さい、悲痛な叫び声が海の底から何重にも複合されて作さんの耳を襲うたのである。
剛毅な作さんの目から止めどもなく涙があふれる。どうしよう、何処へ行こう、作さんは、責任ある立場にあることも、妻や子のあることも忘れ果てていた。作さんの頭の中には、日本全国の霊場霊蹟が目まぐるしく通りすぎる。その中で比叡山だけが頭の中でピタリと止まった。未だ見たことの無い比叡山が何故こんなに懐しいのであろうか。(参考文献10)〉
命からがら奇蹟的に生きのび、青森港に入港したあと、箱崎はものの怪《け》に憑《つ》かれたように心は比叡山に向かっていた。途中、小名浜では妻子に因果をふくめ、恩愛を棄《す》てた。乞食をしながら、伸び放題の髪、泥まみれ、垢《あか》にこりかたまった着物、裸足同然の足で、ひたすら比叡山を目指し、辿《たど》り着いたのはその年、昭和五年の春、三十九歳のときであった。
それから得度を許されるまでには、さまざまな試練にさらされるが、翌昭和六年四月、箱崎はついに念願かなって仏門に入り、名前を文応《ぶんのう》と改めた。そして、比叡山の荒行に精進し、昭和に入って最初の「千日回峰」を満行した稀代の行者となるのである。
天台宗の副|執行《しぎよう》の要職にある小林|隆彰《りゆうしよう》師は、箱崎文応師について、こう記している。
〈回峰行門に生涯を掛け、更に広義の回峰行(全国の霊山を巡礼苦行)に心身を捧げ、現在は、比叡山中に回向《えこう》三昧堂を建ててここにたて籠り、専ら回向念仏三昧行に明け暮れる九十二歳の老行者、……不動尊と共に生き、不動尊に生かされて来た老師……。(参考文献10)〉
不思議な運命のめぐり合わせで、酒井忠雄が、小林隆彰師によって仏門に導かれ、そして箱崎文応老師を行の師として、二千日回峰の荒行をきわめることになるのは、この昭和五年から三十五年後のことである。
3 泣き虫少年と軍国ファシズム
昭和恐慌の世相の中で破綻し、夜逃げ同然で上京してきた酒井一家は、新宿区早稲田に居を構える岩吉の兄の家にひとまず落ち着いた。岩吉の兄は、書生などをしながら苦学して歯科医の資格を取り、早稲田の鶴巻町《つるまきちよう》で開業していた。
「おれの見習いの助手になれ。そして、お前も資格を取って歯科医になればいい」
兄はそういい、明治三十六年生まれの岩吉は三十歳で、一から出直すことになった。助手をしながら、岩吉は少しずつ仕事を覚えていったが、この兄というのが岩吉と同じで、なかなかの賭けごと好きだった。
「お前、留守番をしていろ」
と岩吉に仕事をまかせて、ひょいと居なくなってしまう。そこへ急患がくる。岩吉は、薬くらいはつけることはできるので、応急処置をすると、
「ちょっと迎えに行って来るから」
と兄を呼び出しに行く。これがまたなかなか帰って来ない。ミイラ取りがミイラになって、一緒に賭けごとをやっているのである。
そこの祖母(妻方の母)が、幼い美佐子にいつもぼやいた。
「岩ちゃんはお父さんを迎えに行ったのに、ちっとも帰って来ない。患者さんはおいたままだし、本当に困っちゃう」
そのうち、兄はやはり生まれ故郷の大阪が恋しいのか、大阪で開業する、といって引き揚げて行った。その頃には、酒井一家は中野区道玄町(現・本町)に借家を見つけて、移り住んでいた。兄一家が大阪に戻ったあと、岩吉は歯医者は性に合わなかったのか、あっさり仕事を変えて、今度は三越本店の仕入部に勤めるようになり、やっと定収入を得ることができた。
酒井一家が移り住んだ道玄町の家は、現在の青梅街道から中野|新橋《しんばし》のほうに入ったところ、藤島部屋(元大関貴ノ花)のあるあたりである。近くに神田川が流れており、川沿いに中野新橋の色街があった。当時の神田川は、護岸工事がなされている人工的な現在の川と異なって、両側には葦《あし》の生えた原っぱが広がり、水も澄んで、清流に魚が泳いでいた。
幼い頃の酒井は、魚とりに夢中になり、ときには川沿いに上って、杉並区の大宮公園まで遊びに行った。当時の子供たちがみなそうであったように、東京にまだ存分に残されていた原っぱを駆けまわる自然の子≠サのものであった。いたずらもよくやった。
「近くに福寿院というお寺があってね、よく遊びに行ってお坊さんに怒られたの。鉄の門をぶっこわしたり、塔婆《とうば》を引っくり返したりして、怒られたことを覚えているけどね。神田川でも遊んだけど、あそこは大雨が降ると一変してね。しょっちゅう荒れてたの。川が氾濫するとよく見に行ったもん。子供は危ないから向こうに行ってろ、なんて怒鳴られながら、ザブーンとすごい勢いで流れている川を何回も見たね」
激しい勢いで、軍国主義の暗い潮流が国民をのみ込もうとしていた。
当時の男の子たちの遊び道具はメンコとベーゴマであり、女の子はおはじきだった。酒井も近所の子供たちと、夢中になって勝負を競ったが、長女美佐子が、興味深い彼の性格の一面を明かす。
「メンコやベーゴマでも、最初のうちは全部、自分のものにしないと気がすまないタチで、夢中になってやるけど、一度手に入れると、あとは惜し気もなく、友達にみんなあげちゃうの。そういう意味では、異常な負けず嫌いというんですか、集中心はある反面、物欲というものはなかったわね。それは学校に入ってからも同じで、鉛筆やクレヨンなど惜し気もなく、みんな弟や妹にあげていました。もっとも勉強が嫌いだったからかもしれませんけど」
酒井は、昭和八年、日本が国際連盟を脱退した年の四月、近くの桃園第一小学校に入学した。昭和八年入学組から国語の教科書が色刷りに変わり、時代を反映して、皇国史観や軍国主義の色濃いものとなった。酒井は無論、何の疑いもなく「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」などと教わったが、勉強の好きな子ではなかった。
二つ上の学年に姉の美佐子がいたが、姉が苦笑しながら話す。
「勉強なんか全然しない子でね、成績は下から数えたほうが早いくらい。それでいて全然こだわらない子で、通信簿をみんなに見せちゃって。悪ノリする子っているでしょ。机の上で悪ふざけして、止まらなくなっちゃう」
あるとき、美佐子は担任の先生から呼ばれて赤恥≠かいた。
「弟さんがふざけすぎて止まらないから、すぐ来てくれ」
急いで弟の教室に駆けつけると、弟は一人ではしゃいで、教室中のひんしゅくをかっていた。もうどうにも止まらないのである。姉はそんな弟の姿を見て、自分まで顔が真っ赤になった。
「それに、あの子は意外と泣き虫でね。戦争ごっこをして遊んでいても、仲間にいじめられるとすぐ泣き出すの。私のほうが気が強いから、男のくせにみっともない、泣くんじゃない! って叱って、いったい誰が泣かしたの? 私が仇をとってきてやるって、仕返しにいったものよ」
その泣き虫が、後年、比叡山で得度して、孤独で凄絶な二千日回峰の荒行をしたことが、今も姉には信じられない思いをすることがある。
酒井が小学校に入学した昭和八年の夏、小唄勝太郎の歌う「東京音頭」が大流行し、東京市内各所で盆踊りが盛大に行われた。酒井家の近くにある中野新橋の色街でも、スダレ越しに浴衣姿の芸者たちが、
※[#歌記号]ハァ 踊り踊るなら チョイト東京音頭 ヨイヨイ
と賑やかに歌いながら踊っている姿が見てとれた。
この年の十二月二十三日、皇太子明仁親王が誕生した。大正十三年のご成婚以来、天皇家は四人の子に恵まれたが、いずれも内親王で、帝国憲法第二条に「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ、皇男子孫之ヲ継承ス」と謳われている親王が初めて誕生したことは、恐慌による大不況、軍国主義への傾斜など、重苦しい空気につつまれた暗い世相に明るい希望をもたらした。
昭和十一年から十二年にかけて、日本は昭和の歴史の中でも大きな曲がり角に直面していた。十一年には二・二六事件が発生。そして十二年七月七日、蘆溝橋事件が発生、参謀本部は派兵を政府に要求し、第一次近衛内閣は派兵を決定した。最初、「北支事変」と呼ばれていたこの軍事衝突は、ついで上海に飛び火し、中国国民政府が抗日自衛の声明を発表するにおよんで、北支事変から「支那事変」と改称され、本格的な日中戦争に突き進んでいった。
酒井が小学校六年になった昭和十三年、酒井家も戦乱の渦の中に巻き込まれていった。国家総動員法はこの年の五月五日から施行されたが、法律には「国民の徴用」が定められており、父岩吉にも召集令状がきた。このとき酒井家は、前の年に五男則彦が生まれたばかりで、七人の子供がいた。生活が苦しい上に、一家の大黒柱が戦争にとられてしまうのだ。
実際は八人の子供だが、酒井が小学校四年のとき、姉の美佐子が養女になった。岩吉の親戚が、
「そんなに子供が大勢いるんだから、一人うちによこさないか。どうせ女の子はお嫁に行ってしまうんだから、それならうちで育てたい」
と望んで、結局、美佐子が楠家の養女になって、大阪に移り住んでいた。
父岩吉は、福知山の連隊に入隊した。大阪にいた美佐子は、福知山の連隊に面会に行った。岩吉は、残してきた家族のことをしきりに心配していたが、すぐに戦地に送り込まれてしまった。そして中国で転戦するうち、敵の銃弾を受けて倒れた。幸い一命だけはとりとめたが、重傷だった。負傷兵となった岩吉は、台湾の陸軍病院に収容された。家族は面会に行きたくても、台湾は酒井家にとって、あまりにも遠すぎた。
大黒柱の父が出征、重傷というのっぴきならない家庭状況に追い込まれた一家の中で、子供とはいえ長男の酒井は決意しなければならなかった。美佐子によると、当時、母ミカの大阪の実家から「肉や野菜、子供たちのキャラメルなどの仕送りがあった」というが、もとよりそれだけで足りるわけがない。母ミカが細腕で内職をし、苦労しているのを見かねて、小学校六年の酒井は通学のかたわら、知人の紹介で麻布の天現寺にあった内閣統計局に給仕として働くことになった。
勉強は得意ではなかったが、酒井の取柄は性格に陰日向がなく、少しおっちょこちょいではあっても、根は真面目で、しかも体が丈夫なことだった。四、五歳の頃、一度、アンカで暖房をとる布団の中にもぐってそのまま寝てしまい、煉炭の一酸化炭素中毒でひきつけを起こし、ミカが医者に飛んで行ったことがあったが、それ以外は風邪も引かず、体は小柄だがいたって元気だった。
姉の美佐子と妹の基子には、強烈な思い出がある。
ある日曜日の朝、「弁当を作ってよ」というので、母がカツオ節と海苔でドカ弁≠こしらえて渡した。どこへ行くとも告げないで家を出た酒井が、夕方遅く少し足を引きずるようにして帰ってきた。心配していた家族が聞いた。
「今までどこへ行ってたのよ。こんなに遅くなって心配したじゃないの」
「上野まで歩いて、動物園を見てきたんだ。面白かったよ」
あっけらかんとしている息子に、今度は家族がびっくりした。中野から上野までは、電車でもゆうに一時間はかかる。それを酒井は、市電の路線を巧妙に継いで歩いて、小学生の足で往復を歩き通したというのである。
同じようなことを、五つ年下の次男保二は経験させられた。酒井が内閣統計局に給仕としてアルバイトを始めた頃、保二が忘れ物を届けに行った。
「一緒に帰ろう、というので電車で帰るのかと思ったら、歩こう、といってスタスタ歩き出した。ぼくは途中から電車に乗るのかなと思い、あとをついていくと、霞《かすみ》町から青山墓地の脇を抜け四谷通りに出て、とうとう中野の家まで歩いて帰っちゃった。三時間はかかったと思う。このときは兄が恨めしかったのを覚えているもの。なにしろぼくは小学校の低学年ですからね。でも、今思い出すと、すごく道順を知っていたから、兄は何回も歩いていたのじゃないかな」
酒井はこの当時のことを「あれは東京回峰だった」と懐かしむことになるが、酒井の健脚は子供のときから天性のものだったのかもしれない。
酒井は、小学校を卒業する段になって、進学に直面した。父岩吉は台湾の病院から傷痍《しようい》軍人として帰国し、大阪の病院で療養したあと、やっと傷が癒えて、また三越の職場に復帰することになった。日中戦争は膠着《こうちやく》状態となり、解決の目処《めど》が全くつかないまま、満蒙《まんもう》移民団に続いて、満蒙開拓青少年義勇軍まで創設されて、徴兵以前の満十六歳から十九歳の少年を、実質的に満州国防の第一線に送り込もうという、日満両国の共同国策まで立案されていた。
軍国教育を受けて育ち、戦争の非常時の中で成長した酒井も時代の子だった。小学校の高学年の頃は、木を細く削り、それで骨組を作って、今でいうプラモデルの飛行機を何機も製作し、天井中にぶら下げて飛行機だらけにしていた。ちなみに、太平洋戦争に「世界最強の戦闘機」として勇名をはせた零戦(正式名は零式《れいしき》艦上戦闘機)の試験飛行が岐阜県の各務《かがみ》|ヶ原《がはら》飛行場で行われたのは、酒井が小学校を卒業した昭和十四年七月である。酒井はやがて、この零戦が飛び交う最前戦基地で生死のはざまを生きることになるのだ。そして、八月にはノモンハン事件で日ソ関係も険悪になっていく。
当時の少年たちの憧れは陸士であり海兵だった。酒井は麻布中学(旧制)を受け、ものの見事に不合格になった。
「そりゃ落ちるわな。勉強できないのに、麻布中学しか受けなかったの。だって、あの頃、陸士とか海兵なんか麻布中学からよう行ったんだもん。だから、麻布中学といったら大変な学校だった。昔から。そこをできない人間が受けるんだから、なんぼ受けても受かるはずねえわな。勉強? しないしない。勉強嫌いだからしない。得意な科目なんてのも、何もありゃしない。全部嫌い。アハハハ。全然勉強はしないで、行きあたりばったりでやっていた口だから」
麻布中学の受験に失敗した酒井は、一浪した翌年も失敗し、アルバイトの給仕をしていた内閣統計局からさして遠くないところにあった慶応義塾商業学校の夜間部に入学することになった。
「夜間がその頃はあってね、そこはよく昼間の学校を落っこっちゃって、また昼間を狙う人たちが一時腰掛けに入ってきた。それから、そのまま行ってて大学のほうへ、学部とか予科とかあったでしょう、高等部とかね。そういうところへ入るためにそこで勉強している人もいたの」
合格の秘密も、酒井は恬淡《てんたん》として明かす。
「まあ、今でいうコネやね。なんぼ試験受けても受からないので困っていたら、ちょうどその頃、勤め先にいた人が慶応に行っていて、おれ先生を知っているから頼んであげるわって。それが英語の先生で、二世だったのかな。お母さんがアメリカ人かなんかなんだって。戦争中も一生懸命英語を教えていたらしいけど、そういういい先生がいて、その先生に入れてもろたんじゃ、うまいこと。アハハハ」
慶応義塾商業学校の夜間部に入ったことは、結果的には父が復員してからも苦しい家計の負担を軽くした。そして今度は昼間、防疫研究室の雑用係として働くことになった。そして次第に、防疫研究室で何が研究されているのか、薄々知るようになった。日本は前述したように、すでに昭和十六年十二月八日、太平洋戦争に突入している。
酒井が防疫研究室に働くようになったのは「徴兵のがれ」が一つの理由であったが、ハルビンの悪魔の関東軍防疫給水部、満州第七三一部隊に持って行かれたかもしれない直前に、酒井の足元から別の火が吹いた。
「あの頃は、もう勉強どころじゃなかったしね。第一、勉強もろくすっぽしないから、卒業が危ないときている。わしなんか、今でいう落ちこぼれ生徒や。まあ、落第生の優等生、落第生のチャンピオンや。勉強もしないし、欠席もする。落第するのは当然なんだけど、それがわかっていながらその屈辱に耐えきれない。それがまた人一倍強いんや。それで、どうせ戦争に引っ張られるなら、いっそ予科練に入ってやれ、と思ったわけや」
姉の美佐子によると、この予科練も「最初は落ちた」というが、一度決心した酒井の決意は固く、再度挑戦して志願を認められた。予科練生は、選抜されて特攻隊員となり、肉弾攻撃要員として敵艦へ、敵陣へ、生きて還らぬ出撃をすることを運命づけられていた。十九歳の酒井に、もはや明日≠ヘなかった。
4 予科練、そして敗戦
昭和十九年十二月、酒井が熊本県|人吉《ひとよし》の予科練に入隊するため出発する前夜、中野区道玄町の自宅で壮行会が開かれた。家族や親戚、近所の人、それに関係者たちが集まって、入隊する人の前途を祝し、無事の生還を祈る習わしは、戦局が著しく不利なこの時期にあっては、今生の別れ、いわゆる水盃≠意味していた。
政府はすでに昭和十六年一月、陸軍大臣東条英機によって、「皇軍道義の高揚」をはかるため「戦陣訓」を示達、その中に「生きて虜囚《りよしゆう》の辱《はずかしめ》を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿《なか》れ」という有名な一節がある。つまり、降伏して捕虜になるよりは、むしろ名誉ある死を選べ、ということで、このために痛ましい悲劇が数多く生まれた。
壮行会には、酒井が働いていた防疫研究室の上司や軍人たちも、酒を持参して、やがて盛大な酒盛りとなった。母ミカや近所の主婦たちが白い割烹着姿で料理を作り、それを肴《さかな》に酒を酌み交わしながら、酔狂の度が高まっていく。
次男保二がふと見ると、上座に神妙な顔をしてかしこまっていた兄の姿が見えない。しばらく待っても帰ってこないので、どうしたんだろう、と心配して、あちこち探すと、主賓は最初だけ顔を出して、あとは防空壕の中でグーグーと高いびきをかいていた。
「兄は暇さえあれば寝ている人で、休みの日でも遊びに行かないで、一日中グーグー眠っていた。むろん、若者だというのに、色気なんて一切ない。カタブツなんてもんじゃなく、石部金吉そのものでした。何考えているのか、腹の中がさっぱりわからない人です」
保二が明かすように、酒井は親きょうだいから「変わりもの」とみられていた。
実は、予科練に志願したことも、自分一人で決断し、親には全く内緒にしていた。合格通知がきて、初めて事実を知った親は、「予科練に行くなんて……」と驚愕して涙を流した。酒井は、親きょうだいに相談したら、反対されるに決まっている。それでも行くのだから、かえって余計な心配をさせるなら、最後にいえばいいという、彼にすれば、親きょうだい思いの気持ちから発して、そうしたのである。
酒井は翌朝、歓呼の声に送られて、東京府庁の集合地に急いだ。東京地区で志願し、人吉に配属された人たちは全員が府庁前に集合した。そして東京駅から汽車に乗って、九州の人吉まで何日もかけて揺られて行った。酒井が入隊した予科練は、人吉から少し離れた台地の上にある高原《たかんばる》飛行場に施設があった。
高原飛行場の周辺は人吉盆地で、水田地帯が広がり、近くを三大急流の一つ、球磨川がうねりを見せて流れている。人吉は熊本の中でも南寄りにあり、宮崎県と鹿児島県にほど近い。
九州には前線基地が多くなっていき、特に鹿児島の鹿屋《かのや》と知覧《ちらん》は、特攻隊の最前線基地として知られていた。
予科練に入隊した酒井は、襟に翼のマークをつけた七つ釦の軍服などを支給された。この「七つ釦は桜に錨」こそ、予科練の象徴だった。前年の昭和十八年、予科練の生活を描いた『決戦の大空へ』が映画化され、その主題歌の『若鷲の歌』(西条八十《さいじようやそ》作詞 古関裕而《こせきゆうじ》作曲)が一世を風靡《ふうび》した。
※[#歌記号]若い血潮の予科練の……
酒井はじめ予科練に志願した若者たちは、無論この歌を愛唱していた。その予科練に入ったという興奮が彼らをとらえていたが、酒井たちには厳しい現実が待ち受けていた。世界でも例を見ない少年飛行兵の予科練はなぜできたのか。
予科練は昭和五年ロンドン軍縮会議の結果生じた補助艦の不足を航空兵力でカバーするため、第一次軍備補充計画をたて、ロンドン軍縮会議の直後の五月に改正海軍航空隊令が公布された。そして、新たに二十八飛行隊の増隊を議会に求めた。この結果、既存の隊を含めると四十五隊になる。必然的に大量の操縦士が要求され、その要求を満たすために、少年飛行兵の制度が考え出された。ちょうど大不況のさなかで、「大学は出たけれど」就職につけない学生があり余っているときでもあり、若者たちは方向を見失っていた。
〈六月一日、横須賀航空隊の一隅にある瀟洒《しようしや》な二階建ての洋館に真新しい軍艦旗がかかげられた。建物の正面玄関に横須賀航空隊飛行予科練習部≠フ看板がかかっている。当時の関係者の話や写真から総合すると、予科練習部の建物は航空|廠《しよう》と隣りあわせの場所に在った。追浜《おつぱま》の海に面しており、そこの岸壁にはずらりと短艇ダビッドがならんでいた。うしろには小高い緑の丘を背負い、中腹には雄飛神社が祀られ、裏手には運動場ができていた。
建物内には、兵舎、講堂、食堂、浴場、理髪場、靴屋などすべての設備がそろっており、実施部隊とは無関係に独立した一画をかたちづくっていた。このこぢんまりとまとまった環境の中で第一期から第七期までの予科練が教育され、巣立っていったのである。(参考文献11)〉
自ら予科練の経歴をもつ福本|和也《かずや》の記録によると、昭和十二年、海軍航空隊のさらに急速な拡充が叫ばれて、甲種予科練(中学四年一学期修了以上)の制度が生まれ、それまでの予科練(乙種、高等小学校卒)と合わせて組織化されていく。その後、いろいろな曲折を経て、国際情勢が緊迫するにつれ、急速養成が始まり、酒井の頃は大量採用がなされた。
最初の頃は、予科練の教育は峻烈をきわめ、学科は「普通学」(修身、国語、算術、幾何、物理、化学、地理、英語など)、「軍事学」(運用術、航海術、通信術、航空術など)、「体育」(柔道、剣道、遊泳、銃剣術など)のほか、艦隊主力艦に実際に分乗して艦船乗員の勤務を体験する「艦務実習」などがあり、朝の五時起床から夜の九時就寝までの間、短期間でびっしりと叩き込まれた。
しかし、それも戦局が苛烈化してくると、普通学から英語、西欧の地理歴史が全廃されるなど、大幅に教程短縮がなされた。多くの予科練の学生は学業をなげうち、即実践訓練を受けるようになった。酒井が入隊した人吉はその典型だった。
「人吉は、普通の予科練と違う、新しい感覚の予科練の生徒をつくろうとしていた。要するに新しい企画を持ってたのね。飛行機乗りだったら飛行機だけのことしか知らないから、孤島でもって戦争するときに、結局飛行機が故障しちゃったら、応急手当てができないで、整備兵を待たないとならないわけね。そこで、とにかく整備もできて、飛んで戦争のできる兵隊をつくっていたわけ。要するに今でいう合理化なんだろうな。全部一人でできるという器用な兵隊をつくろうとして、人吉航空隊はそういう操縦と整備を一緒に教えるところだったね」
それはとりもなおさず、太平洋における「絶対国防圏」が次々と崩壊していることを意味していた。すでに連合軍は、昭和十九年一月に東部ニューギニアの北岸グンピ岬に上陸、二月には、日本防衛の最前線とされてきたマーシャル諸島のクェゼリン、ルオットの両島に上陸し、これを掌中にした。この戦闘で、両島を守備していた日本軍六千八百人が玉砕する悲劇に見舞われた。起死回生のインパール作戦も失敗し、ここにきて七月十八日、ついに東条内閣は総辞職し、代わって陸軍大将|小磯国昭《こいそくにあき》、海軍大将|米内光政《よないみつまさ》の連合内閣が成立した。そして八月には閣議で「一億国民総武装」を決定、学童たちは集団疎開をすることになった。老人や幼児、病人、妊産婦なども足手まといになるからと、疎開の対象になった。日本はもはや、「本土決戦」の最悪な状況にまで追いつめられていた。
酒井家には、また暗い大きな影がさした。父岩吉が再度召集されたのである。五十四歳をすぎた岩吉は、
「こんな年寄りがまた駆り出されるのだから、日本はもう駄目だな」
と妻のミカにいい残して、大阪の連隊に入り、そして船で朝鮮半島へ出兵していった。
特殊な任務を持つ場合を除いて、日本中の家庭から成人した男の姿が消えつつあった。すべては「聖戦」という名のもとに、戦場に追いやられたのである。
このとき、日本の宗教界はどうしていたか。
たとえば、天台宗の山田|恵諦《えたい》師は、このとき五十歳、山上諸堂の護持僧、山上警備の責任者として、山上宿院に起居していた。
山田師は明治二十八年十二月一日、兵庫県|揖保《いぼ》郡|斑鳩《はんきゆう》村(現・太子町|鵤《いかるが》西本町)に、農業を営む山田豊吉の四男として出生。十歳のとき得度し、信治を恵諦と改め、姫路市の延命寺に同寺住職、堀恵慶師(のち三千院《さんぜんいん》門跡、探題大僧正)を師僧として弟子入りした。
比叡山に上がったのは十六歳のとき、叡山中学から天台宗西部大学へと進み、大正七年に延暦寺一山の戒定院住職となり、その後、瑞応院、松禅院、恵心院に移って、修行を重ねた。この間、第一次世界大戦の際は「甲種合格」で、福知山の歩兵第二十連隊に入隊した戦争体験も持っている。
太平洋戦争のときは、召集を受けなかったが、比叡山の住職も若い人たちは全部召集されて出征して行った。戦争が激しくなり、旗色は日一日と悪くなるばかりである。戦争をしない僧侶の身としていかにすればよいのか。思案の結果、戦勝を仏力に縋《すが》ることにして、昭和十九年一月一日を開闢《かいびやく》として、観音経三千三百巻を読誦《どくじゆ》する誓願をたてた。一巻の読誦を五分として、十五巻、七十五分を毎日この祈祷に専念することを誓ったのである。
戦争は日毎に苛烈になり、内地でもあちこちが空襲を受け、軍需工場も次第に破壊されるようになった。三月に入って、延暦寺の特別信者の会社から、軍の要請に応えて、沖縄で黒砂糖から性能の高い航空燃料を産出することになり、その達成祈願を工場でしてもらいたいから、祈祷僧を派遣して欲しいという依頼があって、山田師が出向いて行った。沖縄群島を縫って航海していく途中、いたるところの島々で、大小の船が爆撃にさらされ、無惨な姿になっているのを目撃した。
那覇で百日の祈祷が終わったら、七月十九日に帰国することが決まり、沖縄の中学三、四年の男女千五百人が産業挺身隊として内地に働きに行くために乗る船団に同乗することになった。軍は護衛艦をつけることができないから、船団が申し合わせて然るべく航海せよ、と通告してきた。無防備の単独航海である。
山田師は、沖縄に来るときの惨状を思い出し、僧侶として何をすべきかを迫られた。
「十四、五歳の少年を死なせてはならない。折角、人間に生まれてきながら、尊い人生を味わうこともなく、何のために生まれてきたかも知らずに、無惨な死にようをさせることはできない。何とか助けなければならない。戦禍から逃れさせねばならない。どうしたら防げるか」
何とか助けてやりたい、助けねばならない。誰が助けるか、方法はないのか。いろいろと考えていたとき、山田師はふと、観音経の中に「たとえ一人でも念ずる者があれば、その船は沈まない」と書かれていることに気がついた。ただ一人だ、一人が念ずれば助けて下さるのだ。一人とは誰か。いうまでもなく仏に仕える自分ではないか。
〈私は身振いした。愚かなことであった。護衛艦でもなければ、船団長でもない。責任者は私なのである。私の責任である。私の信心を観音さまに通じねばならない、うけて頂かなくてはならない。千五百人を無事に内地へ送り届けるために、正月一日に立願した観音経を乗船の日までに読み上げて、観音さまにお縋りしよう。私は決意した。(参考文献4)〉
七月十九日の乗船日まで二十五日ある。山田師は毎日二、三時間の睡眠だけで、祈祷に精魂をつくし、読誦《どくじゆ》に真心をつくした。そして満願の日、祈祷を終了するとともに、読誦のほうもお礼の三十三巻を加え、三千三百三十三巻を無事に読誦し終えた。そして翌七月十九日、山田師は子供らと一緒に乗船した。船の中でも、子供たちの顔や姿を見ては祈り続けた。戦争が始まってから、鹿児島と沖縄の間を六回往復し、七回目の復路を航行中だという船長が、食事のときに不思議がった。
「いつもですと、護衛艦に誘導されているのにもかかわらず、戦々|兢々《きようきよう》、食事をする間も落ちついた心地がありませんのに、それが今回は沖縄を離れますと、どうしたことかすっかり気がゆるんでしまいまして、微塵《みじん》の不安も起こらず、のんびりした平時航海のような気持ちになり、久しぶりに航海中に風呂を仕立てたりしました。もう開聞岳《かいもんだけ》が見えるところまで帰ってきたから大丈夫です。安全航海を祝して乾盃したいと思います」
それを聞いて、山田師は思わず涙が出そうになった。観音さまが護って下さったのだ、と思った。そして深く反省もした。今まで観音経を何万巻読んだかわからない。学校でお経の講義も聞き、自分でも、滔々《とうとう》と講義をしてきた。
〈それが五十のこの歳になるまで、お経はお経として扱い、講義は講義として扱ってきたことの浅はかさを恥ずかしく思い、勿体《もつたい》ないと思い、なさけないと思った。遅ればせながらもこの時はじめて私は眼がさめた。今日以後、お経に説かれている通り、文句をそのまま素直な心で受け入れて、思召のままを頂くことを決意した。(参考文献4)〉
山田師はのちに仏門に入る酒井に学問を教えることになる。そして昭和四十九年十二月一日、第二百五十三世天台|座主《ざす》に就任するのである。
山田師と千五百人の子供たちが乗った船団は無事に航海を終えたが、その直後の八月二十二日、沖縄から学童を乗せた疎開船「対馬丸」が、米潜水艦の攻撃を受けて沈没、学童七百人を含む千五百人が死亡するという痛ましい悲劇が起きた。
本土もB29の空襲にさらされるようになった。開戦して間もなく昭和十七年四月十八日午後、B25双発爆撃機十六機が飛来して、東京、横須賀、名古屋、神戸などを空襲している。このときの空襲は散発的だったので、被害はさして大きくはなかったが、本土がいつも空襲の射程距離内にさらされているという、精神的な衝撃は大きかった。昭和二十年に入ると、空襲がさらに本格化し、無差別化していった。
そして三月十日、三百機をこすB29が東京を夜間空襲してきた。この「東京大空襲」で約二十七万戸の家屋が焼失し、約十二万五千人の死傷者が出て、罹災《りさい》者は百万人以上におよんだ。さらに五月二十四、五日、B29が再び来襲して、東京の残存市街地を焼きつくしていった。皇居も炎上した。無論、中野区道玄町の酒井家も焼け出され、住むべき家を失い、路頭に投げ出された。母ミカや幼い弟妹たちはどうしたのか。九州にいる酒井は、まだそのことを知らない。
酒井がいる人吉の高原飛行場も、酒井が入隊した昭和十九年十二月十五日以降、すでにB29の空襲の標的にされていた。敵機が来襲してきては機銃掃射をかけていく。
「敵機来襲! 伏せろ!」
上官の命令に、訓練中の酒井たちは脱兎のごとく駆けて、塹壕《ざんごう》に飛び込む。すぐ近くを機銃掃射のすさまじい弾列がはじけていった。命からがら頭をあげると、隣りで同僚が無惨に死んでいた。飛行場の一隅では飛行機が炎上していた。訓練すべき飛行機が火を吹いている。訓練どころではなかった。戦局が絶望的なことは、酒井たちの目にも明らかだった。「神州不滅」と叩き込まれてきた国土が、直接敵機の来襲を受けているのだ。しかし、誰も日本が負けるとは信じていなかった。いや、信じようとしなかった。
ただ、一人の将校がいた。彼は、予科練の新兵たちに、こんなことをいうようになった。
「もう、この戦争は勝ち目ないんだ。いいか、お前ら、腹くくってこれから先のことをようく考えろよ、戦争は負けだ」
戦争中、こんな物騒な敗北主義は、反逆罪ものである。だが、彼はまわりから無視されただけだった。その将校はノイローゼ気味で、いつも酒に酔っ払っていたからだ。酒井は今にして思う。
「あの時代、よういうたと思ったね、その人。だから、気違い扱いされてた。わしたちが聞いても、何だこの人、この頃おかしいんと違うかと思っていた。わしらは日本が負けるなんて思っていないからね。だけど、あれはおかしいんじゃなくて、本当の姿をいってたんだね。誰にいうてもわからないから、昼間から一杯飲んで、酒の勢いで酔っ払ったふりしてしゃべったんだね」
人吉で約半年の訓練を受けたあと、酒井たちは突然、宮崎の航空隊へ転属の命令を受けた。
「本当はもっともっと勉強するんだったけれども、飛行場は爆撃をくっちゃうわ、飛行機は無くなるわ、学校は吹っ飛ばされるわでしょ。そして実戦基地のほうもどんどんやられて、人手が足りなくなっている。そこで送り込まれたわけや」
配属の命令を下したあとで、上官がいった。
「君たち学生は、この人吉で訓練を受けたことに誇りを持って、今後は実戦基地で勉強しながら頑張ってもらいたい」
宮崎の航空隊では、さらに勉強どころではなかった。ここはもっと米軍機の来襲が苛烈だった。酒井たちは農家に寝泊りしていた。訓練といえば、爆撃機に積んである機関銃を担ぎ出して、山の土手に据えつけ、本土決戦に向けての訓練を繰り返すだけ。もはや訓練するために乗る飛行機もない。
「この頃からだね。これは絶対に負けるな、と思ったのは」
そう思ったとき、運命は非情で、昭和二十年六月、酒井たちは今度は、最前線基地の鹿児島県の鹿屋《かのや》飛行場に配属命令が下った。そこは特攻隊の基地だった。
鹿児島県は鹿児島湾をはさんで大隅半島と薩摩半島に分かれているが、大隅半島には鹿屋が、薩摩半島には知覧《ちらん》があり、両基地は敗色濃い日本の南方防衛の最前線基地になっていた。
鹿屋からは連日、零戦に搭乗した特攻隊が出撃して行った。特攻隊は、昭和十九年十月のレイテ沖海戦の際、第一航空艦隊司令長官大西滝治郎中将が組織的戦法として採用した決死隊で、神風《じんぷう》特別攻撃隊と命名され、十月二十五日に出撃した敷島隊の爆装零戦五機が、米空母四隻を撃沈、損傷を与えたことが最初の戦果となった。陸軍でも万朶《ばんだ》隊などが編成され、レイテ湾内の米輸送船団に突入、以後、特攻攻撃は米艦船に対する戦法となっていった。
酒井の同期からも特攻隊員に選抜されるものが出てきた。隊列を組んだ同期の中から、上官が「お前はこっち」とピックアップしていく。しかし、どういうわけか、その都度、酒井は選抜からもれた。妙な屈辱感があった。気がついたら、残っているのは病人か怪我人ばかりで、元気なのは酒井ほか数人しかいない。ようやく上官が酒井に気がついた。
「なんだ、まだピンピンしているのがいたのか。よし、お前はこっちだ」
それは特攻隊ではなく、「土方部隊」のほうだった。米軍機は連日来襲してきて、飛行場に爆弾を投下していく。その頃すでに鹿屋には迎撃する飛行機がいなかった。
そのため米軍機はわがもの顔で爆弾を投下し、蹂躙《じゆうりん》していく。酒井たちは防空壕に避難しながら、口惜しさをかみしめて、敵機の去るのを待つしかない。目的を達した米軍機が飛び去ると、ソレッと駆け出して、爆撃で傷《いた》めつけられた滑走路の穴を補修する。それが「土方部隊」だった。酒井たちがスコップで地ならしした滑走路から、今度は特攻隊が飛び立って行った。
米軍機は時限爆弾を投下していく。爆弾処理をする時間が無いから、とにかく一時しのぎで穴を埋め、特攻隊が飛び立てるようにする。そのタイミングが絶妙≠ナ、飛行機が出撃して行ったあと時限爆弾がボーン、ボーンと跳ねた。だが、埋めている最中、時間を間違えて、突然、爆弾が炸裂し、その犠牲になって爆死する悲劇もあった。
鹿屋は最前線の特攻基地だったから、朝鮮の元山《げんざん》基地などから飛行機が飛来して、基地で夕方まで待機し、爆装して戦場へ出撃していく。酒井は同僚が飛来してきた特攻隊員と話をしているのを見た。
「何だあいつ、あんなところで話してて……」
「あれ、兄貴らしいぜ。今夜、飛んで行くらしい」
酒井はそう教えられて、へえ、こんな偶然もあるんだな、と思った。それほど鹿屋はあちこちの基地から飛行機が飛んできた。
「結局、その飛行機の一隊は一機も帰ってこなかった。あのときはそいつの顔を見るのが辛《つら》かったもんな。なんともいえなかったね」
特攻隊は夕方、出撃していく。みんな酒井と同じ十代、二十代前半の若者たちである。離陸した飛行機は、両翼を左右に振って、地上に整列し、脱帽して見送る酒井たちに別れの挨拶をする。酒井たちは帽子をかざして、「無事に還ってこいよう」と心の中で叫びながら見送る。雲流れる果て、南の戦場に向かった彼らは、敵艦に突入、あるいはその直前に撃墜されて、若い命を散らした。敗戦までに特攻で戦死した若者たちは、陸海あわせて三千五百人以上もいた。
酒井は、自分だけが取り残されていくような孤独を感じながら、毎日がひどく不安でもあった。地上でも毎日、生死のはざまにさらされていた。十数機編隊のグラマンが連日襲ってくる。迎撃機のない飛行場は敵の思うがままで、超低空飛行の機銃掃射で狙い撃ちしてきた。その都度、地獄の修羅場が現出する。生と死はここでは紙一重だった。林の中に真っ先に退避したはずの同僚が、血まみれになって絶命し、逃げ遅れた酒井がまだ生きている。同期の中には、乗るべき飛行機がないので、「回天」(人間魚雷)や「震洋」(爆弾を装着したモーターボート)などの特攻兵器に回された人も多かった。おれはお国のために志願してきたのに、特攻隊になることができないのか。なんてできそこないのぶざまな男なんだ。酒井は仲間を見送るたびに、奇妙な敗北感に打ちのめされた。
「成績優秀なやつがどんどん早く死んじゃって、おれみたいな落第生がまだのうのうと生きている。おれはここでも落ちこぼれやなあ、そう思うと、なぜかたまらない気持ちだった」
酒井は、初めて自分の心の奥をのぞき、生と死を考えた。今、酒井がつぶやくようにいう。
「防疫研究室にあのままいたら、満州へ連れて行かれたかもわからん。落第するのがいやで予科練に入ったら、みんな死ぬのに自分だけが生きている。東京に残っていたとしても、東京大空襲でみんなやられちゃったしね。普通の人だったら兵隊に行って戦死したんだけど、予科練にまで行って助かったのはわしぐらいのもんと違うかな」
仏に生かされている、と感じるのはあとのことで、十九歳の酒井は、絶望的な戦局の中で生と死の間を漂流していた。
〈夕方、雲を染めて陽が沈み、しだいに野が昏《く》れてくる。空襲や機銃掃射の修羅が嘘のような、静かな夏の夕暮れである。
(死とはなんだろう。生きているいまの命はなんなのか)
鳴き声も高く夕空を飛んでいく野鴨の黒い鳥影を眺めながら、十九歳の酒井忠雄は、言いようもない空しさと、魂が滅びていくような寂しさが躯の深いところからさしのぼってくるのをおぼえ、ふうっと太息《といき》を吐いた。なぜか血みどろになって飛行場の夏草の上でこときれている自分の姿が、まざまざと脳裏に浮かぶのである。風のない、むし暑い夏の黄昏《たそがれ》だったが、ぞくりとする寒さが背中に感じられるのだった。無常感というものがあるとすれば、それは十代の若者の心を慄わせた無常感だったかもしれない。(参考文献5)〉
五月にナチス・ドイツが降伏すると、日本は孤立無援になった。アメリカは八月六日、わずか三週間前の七月十六日に実験が初成功したばかりの原子爆弾を広島に投下。一瞬にして広島市を破壊し、二十万余の人々の命を奪った。八日にソ連が対日宣戦布告。九日には長崎にも原子爆弾が投下され、八万余の命が阿鼻叫喚の地獄絵図の中で奪われた。
「今日は何か重大な放送があるらしい」
八月十五日、同僚たちがどこから聞きつけたのか、そんなことを触れ回った。酒井たちは騒然となったが、肝心の「玉音放送」は聞いていない。そのうち鹿屋全体が、流言、デマ、虚報などが混じりあって異常な雰囲気になり、どれが真実なのか、わからないまま、どうやら戦争に負けたらしいことだけが伝わってきた。
混乱と狼狽の中で、酒井ら予科練の生き残りたちは、右往左往している。
「負けたら大変じゃねえか。おれたちは今後どうなるんだ?」
「そうだ、酒井、お前は東京だろ? 早く帰らないと、米軍が箱根を押さえて、みんな奴隷に持っていかれちゃうらしいぞ」
「貴様はどうなんだ? 米軍はこの大隅半島に大挙して上陸して、おれたちをみな殺しにするっていう噂も聞いたぞ」
「軍服とか、兵隊の装備を持っている奴は、みんな捨てたほうがいいらしい」
昨日まで信じてきた「神州不滅」「皇国日本」は一瞬にして崩壊した。上官たちは「玉音放送」で敗戦を知り、茫然自失してなすすべを知らない。そのうちやっと、酒井たちは上官から、こう告げられた。
「全員、一時休職だ、それぞれの郷里に帰ってよろしい」
酒井たちは軍隊から見捨てられた。命令通り、鹿屋飛行場をあとにしたが、昨日まで厳しい軍律の中にあった予科練も、今は烏合《うごう》の衆だった。特攻隊員として自爆することを名誉の戦死と考えていたのに、今は生への執着の中で必死になって、少しでも遠く鹿屋から離れようとしている。酒井の部隊の同僚は、農家で軍服を取り換えてもらい、汚い格好に身なりをやつして歩いていた。
鹿屋駅周辺の鉄道は、空襲で破壊されていた。目的を失った予科練の生き残りたちは、いい知れぬ虚脱感の中で、魂のぬけがらのように、ただ黙々と線路を歩いた。酒井はそのときどんな気持ちで歩いていたのか、よく覚えていない。蝉が鳴いていたことだけが、記憶の底におぼろげに残っている。
九月二日、東京湾の米戦艦ミズーリ号上で、降伏文書の調印式が行われた。調印式の模様を取材する新聞記者の中に、葉上照澄《はがみしようちよう》がいた。
葉上は明治三十六年八月十五日、岡山県の和気町にある天台宗の名刹《めいさつ》、岩生山元恩寺に生まれた。葉上という姓は、臨済宗を開いた栄西禅師、葉上坊《ようじようぼう》栄西からきており、葉上坊というのは白河天皇から賜わったものである。照澄という名前も、父の慈|照《ヽ》の照と、伝教大師最|澄《ヽ》の澄をとってつけられた。もともと和気町は、和気清麻呂の出生地で、歴史の古いところである。
葉上は六高(岡山第六高等学校)から東京帝大文学部哲学科に進む。ドイツ観念論の全盛期で、フィヒテを研究した。フィヒテは、ナポレオン戦争のときに「ドイツ国民に告ぐ」という有名な演説をして、ゲルマン民族の奮起を促し、教育の再建を訴え、最後にはベルリン大学の学長になった哲学者である。葉上は東京帝大を卒業して、酒井が生まれた年の大正十五年四月、大学に昇格したばかりの大正大学の先生となる。長年、そこで教授をつとめたあと、昭和十七年六月から、山陽新聞(当時の合同新聞)で論説委員になり、必勝の信念≠ニいった論説を書いてきた。葉上の唯一の信念は「勝つまでやる」ということであり、したがって戦争が終わった日、「戦いはまだ終わっていない。このままで終わってはいけない」という感じを強く持った。敗戦の日が誕生日と同じ日だったからかもしれない、ともいう。そこでミズーリ号に乗船したときは、一つの決意を秘めていた。
〈日本の代表は重光|葵《まもる》外相で不自由な脚に杖をついてお気の毒でした。私は艦橋のタラップの側にいましたから、もしマッカーサーの態度がおかしかったら彼に体当たりして海に一緒に沈もうと本気で思っていました。私の内なる極《きわ》みです。しかしマッカーサーは淡々たる態度でした。後に彼がその時の気持ちを「祈りに似た気持ちだった」と回顧録に書いてますね。微塵も勝者のおごりがありませんでした。例の上着なしの軍服姿で、金のバックルのベルトをしてコーンパイプをくわえて、そして金の指輪をはめていました。
そのマッカーサーの態度を見たとたんに「ああ、負けた」と実感しました。勝つということ、負けるということは、ああこういうことかと自得したような気持ちで横浜港を去ったのを覚えています。勝つ者、怨みを招かん/他《ひと》に敗れたる者、くるしみて臥《ふ》す/されど、そのいずれも棄てて/こころ静かなる人は/起居《おきふし》ともにさいわいなり≠アれは法句経《ほつくきよう》の言葉ですね。(参考文献1)〉
葉上は昭和二十一年、比叡山上に籠って、同法塾を若い僧侶のために開き、翌二十二年から、四十五歳の年で千日回峰に入り、二十八年に満行した。その後も運心回峰千日、法華三昧という三千日の行を修め、酒井の大先達となった。そして仏教界の重鎮として、世界中の宗教指導者たちにも影響力を持つ高僧となっていく。
酒井は、葉上がそんな決意でミズーリ号に乗り込んだことなどは無論知らない。歩き疲れた末に、やっと貨物列車に乗ることができて、ようやく東京にたどり着いてそこで見たものは、焼け野原と化した焦土の故郷だった。こんなにひどくやられたのか、東京がこれじゃ、負けるのも当然だな、酒井は言葉にならない言葉をのみ込んだ。
中野の道玄町の自宅に行ってみると、そこら一帯も完全に焼失していた。茫然として立ちすくむ酒井。瓦礫《がれき》の山の中に、ところどころ雨露をしのぐだけのトタンをかぶせた廃墟が目につき、焼け出された人が辛うじて生きていた。母やきょうだいたちは、空襲でみんな死んでしまったのだろうか。自宅の廃墟に放心して身じろぎもしない酒井は、すべてのものを失ったことを実感した。皇国教育を受けて育ち、何の疑いもなく国がいうように「聖戦」と信じ、身命を賭して御国≠フために尽くしてきたつもりだったが、すべての価値観が崩壊し、絶対的存在だった天皇陛下の「戦争責任」を噂する声すら聞えてくる。酒井は拠《よ》りどころを失って、何か裏切られた気がした。
戦後、自棄《やけ》になった予科練出身者は予科練帰り≠ネどと、世間の鼻つまみになるものも出てきた。逆に、ある時期には予科練がことさらに美化された。甲飛十三期の元予科練体験者の鎮魂の一文がある。
〈戦後が形成されるまでに、おびただしい血を少年らは要求された。その犠牲の上に、戦後日本の民主主義はゆらゆら揺れている。予科練は無謀でも、無駄花でもない。予科練は「逃げていた大人たち」にかわって、唯一に存在する戦闘集団だった。予科練は逃げなかった。予科練は闘って、死んだ(参考文献11)〉
だが、荒廃した焦土の中に立つ酒井の心を今とらえているのは、自分だけがのうのうと生き還ってきた、という心の負い目≠セった。そしてまた、雑用係とはいえ、悪魔の防疫研究室に「存在」したという事実が、酒井をやがて苦しめるようになる。戦後になって、第七三一部隊の細菌兵器のことや満州での生体実験のことが少しずつ噂にのぼるようになった。酒井は、「何か知っているだろうと聞かれるのが怖くて」、防疫研究室にいたことを絶対に口にしなかった。
戦争は、人間の「原罪」のように、十九歳の酒井の心に大きな暗い影を落とした。そして、信じてきた「絶対」、皇国日本が崩壊した今、これから先どう生きていけばいいのか、酒井には皆目わからなかった。ただ虚脱状態で、廃墟の中に茫然としていた。
おれの惨めな人生は、あの焦土の東京に立ったときから始まったのだ。何もかも無惨な青春だった。おれの人生で誇れるものなど何一つありはしない。そして最愛の妻までも死なせてしまった。酒井は、妻が自殺した部屋に何日も何日も放心したまま座っていた。涙がにじんだ頬が哀れなほど痩せこけ、憔悴しきっていた。すべておれが悪いんだ。酒井は自虐的なまでに自分の心を傷つけ、切りさいなんでいた。
妻が自ら命を絶ったのも、もとはといえば自分がだらしないからだ。菓子屋のブローカーなどという得体のしれない商売をして、商売仲間から、商売道徳を無視した悪徳ブローカー、などと後ろ指さされ、妻が居たたまれずに大阪の実家に家出をすると、自分では出直そう、良かれと思って大阪に来たことが、結果的には妻を板ばさみにして苦しめてしまった。慙愧《ざんき》の念が酒井の心を八つ裂きにした。それまでの人生だって、ろくなものではなかった。予科練でおめおめと生き残ったあと、中華そば屋時代には闇屋まがいの、お天道さまの下を真っすぐ歩けないような裏街道を歩いて金儲けに熱中して、誰でも闇で食い物を手に入れているからおれもやましいことなんかない、と居直っていた。今思うと、火事で焼け出されたのは、あれは天罰だ。株屋では欲を出しすぎて結局は破産し、他人《ひと》さまに迷惑をかけ、恥を恥ともせず、人の好意を踏みにじってきた。そのあとの放浪生活、無頼で怠惰な日々。過去を振り返れば、なお居たたまれない。酒井は、いっそ自分をこの世から抹殺したかった。おれなんか生きていたって何になる、人間の屑みたいなもんじゃないか、人間失格だ。おれの人生は、同じようにくるくる、くるくる空回りしているだけだ。酒井は無明の闇に救いのないまま苦悶し、のたうちまわった。酒井は、魂のないぬけがらとなって、ただ妻の霊に手を合わせ涙をあふれさせて詫びるばかりだった。
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第三章 出家 仏教のことなんか何もわからん
1 比叡山への道
霧に煙った比叡山は、幽玄と静寂の世界であり、人の心を不思議な安らぎに誘い込む。「煙雨比叡の樹林」という言葉があるが、まさしく比叡山は全山が深い霧につつまれ、苔《こけ》むした千年杉や亭々《ていてい》とした古木や木々に覆われている日本仏教のふるさと、天台宗の聖域である。
比叡山は京都の東北に位置し、古来から都の鬼門を守る鎮護国家の霊山として知られ、天台山、北嶺、都の不二などの別称もあるが、風光|明媚《めいび》な山で、「世の中に山てふ山は多かれど、山とは比叡のみ山をぞいふ」と和歌にも歌われている。ただし比叡山という名前はなく、主峰は八四八メートルの大比叡岳、次峰が四明《しめい》岳、それに水井山、釈迦岳、三石岳と連なり、京都と滋賀の県境を南北に山脈《やまなみ》を形成している。晴れた日には、眼下に見下ろす琵琶湖の眺望が絶景であり、この山を訪れる人たちは多い。
酒井は、亡くなった妻の母、伯母にもあたる吉田千代に連れられて、比叡山の細い道をとぼとぼと歩いていた。
妻の自殺というショックから、毎日が放心状態で過ぎていった。酒井は無口になり、笑いを全くなくした男になった。終日、部屋の隅に黙然と座り込んで、茫然と窓の外の景色を眺めていることもあれば、不意に出て行って遅くまで帰って来ない。心配して伯母が尋ねると、
「生駒山まで歩いて来た」
とボソッと答える。
大阪から奈良へ行く途中にある生駒山まで何時間も歩き通しで登り、そこから大阪の街を眺めていた、という。酒井は自虐的なまでに自分の肉体を痛めつけていた。そうすることで耐えていた。妻が死んだ以上、吉田鉄工所を出るべきだと思う。しかし、初盆も初命日もこない前に去ることはできなかった。伯父と伯母も、無気力な婿は心配の種だったが、娘が亡くなったあと、悲嘆にくれている婿がいじらしくもある。もともと自分たちにとっては甥である。鉄工所でこのまま働くことを勧めた。
旋盤工としてしゃにむに働くことで、酒井は時間が過ぎていくのを待った。夜はまた「ポケーとした時間」に所在なく身をゆだねる。伯母は、酒井を立ち直らせるには何か精神的な支えが必要であると考え、ある日、自分が信仰している比叡山、無動寺谷にある弁天さま参りに誘った。
「一緒にお山に行かへんか。そしたら気分も少しは晴れるやろ」
「お山って?」
酒井は、比叡山を「お山」と伯母が呼んでることさえ知らない。それでも伯母が強く誘うので、ついて行くことになった。
比叡山に登るには、京都からバスで行くか、滋賀県の坂本からケーブルカーを利用すると便利である。伯母と酒井は、ケーブルカーに乗った。空高く登って行くにつれ、初めて見る比叡山は、酒井の目には変わった寺に映った。広大な山中の樹海の中に無数の寺が散在している。ケーブルカーの山上駅に降りると、目の下に琵琶湖がひらけていた。その反対側は深山で、入口に鳥居があった。
「へえ、お寺に鳥居があるわ」
酒井はびっくりし、変なところに連れてこられたものだ、と不思議がった。明治維新になって、廃仏|毀釈《きしやく》運動が起こり、仏教と神道が分離されたが、もともと比叡山は神仏習合の山であり、坂本には日吉神社がある。鳥居は不思議でも何でもないが、そのときの酒井は何の知識もなかった。
「仏教がどんなものだか全然知らなかったもん。天台宗がどういうものか、真言宗がどうだったか、真宗がどうだとか全然知らない。ただ、お坊さんといえば、村のお坊さんしか想像がつかない。だから比叡山に初めて上がったとき、鳥居があるんでびっくりしちゃった。何だ、うちのほうのお寺には鳥居なんかない、お墓があるだけだ。どうして鳥居があるのか、不思議だったね。鳥居というのは、氷川神社とか、そういう神社だけだと思っていたからね」
その鳥居をくぐると、坂道になっていて、両側に信者たちが寄進した朱色の献灯が並んでいる。砂を敷いた道は、きれいに掃き清められている。曲がりくねった急坂を下りていくと、「無動寺弁天堂」という案内板があり、また鳥居があった。二十分も歩くと、やがて弁天堂に着いた。左側は深い谷が落ち込んでいる崖《がけ》っ縁《ぷち》であり、そこに信者たちがくつろぐ休憩所と輪番の僧が住む塔頭《たつちゆう》が建っている。柱には「白蛇講」などといった講札が貼ってあった。そして奥まったところが弁天堂で、左右に狛犬《こまいぬ》が鎮座し、古色|蒼然《そうぜん》とした鳥居の中央には「弁才天」の額が掲げられ、いかにも歴史の古さを感じさせる。弁天堂にはすでにたくさんの信者たちが参詣して賑《にぎ》わっていた。
「この弁天さまはね、日本で一番古いご尊天さまで、ご利益あらたかなんだよ」
伯母の話を、ふうんと聞きながら、酒井はあたりを見回した。鳥居の脇に浄水が湧き出しており、ご利益を願ってたくさんの小銭が投げ込まれている。御堂の左側は切りたった深い谷であり、右側は山裾が崖になって迫っている。奥にも小さな祠《ほこら》があって、そこに詣でている信者も多かった。
酒井は弁才天のことなど何も知らない。弁天さまは七福神の唯一の女天であり、すぐ美女の仏さまを連想するが、本名は梵語でサラスバテーといい、日本では大弁才天女、大聖弁才天神、妙音楽天などと呼ばれ、諸芸、弁才智、福徳を司《つかさど》る女神である。つまり信者に現世の利益をもたらす仏さまとして、古来から親しまれている。
金光明|最勝王経《さいしようおうきよう》大弁才天女|品《ぼん》には、
「無量の有情《うじよう》、若し此の経典を聞かば皆な不可思議|捷利《しようり》弁才天|無尽《むじん》の大智恵を得、善く衆論及び諸伎術を解《げ》し、能《よ》く生死《しようじ》を出でゝ速かに無上正等|菩提《ぼだい》に赴《おもむ》かしめ、現世の中に於て寿命《じゆみよう》を増益《ぞうやく》し、資身の具を悉《ことごと》く円満たらしめん」
とあって、このお経を聞くだけでも、無尽の大福、大恵を得さしめ、この世で延命長寿と資産が満足するよう、弁天さまがお守り下さるというのである。
無動寺の弁天さまは、江ノ島、厳島《いつくしま》、竹生島《ちくぶしま》の弁天さまと並んで有名だが、歴史的には千百年余を数え一番古い。そして弁天さまというとすぐ蛇を連想するが、これは弁才天の現世の働きをされる宇賀神王の姿が、体は白蛇にして首《こうべ》は白い髪をのばした老人であり、たくさんの竜神が眷族《けんぞく》として随っているので、そこからきている。「白蛇講」などという講社があるのはそのためだが、無動寺の弁天さまは、たとえば一月は初巳《はつみ》、三月は婦人会、五月は巳成講《みなるこう》、十一月は白蛇講《はくじやこう》、十二月は浴酒大法《よくしゆだいほう》というように毎月縁日があり、特に毎年九月の巳の日に催される巳成金《みなるかね》の縁日には、大勢の参拝者で賑わう。伯母はこの弁天さまの熱心な信者であった。伯母にかぎらず、京都や大津、あるいは大阪など関西では、特に商売をしている人たちの間で信仰が厚かった。
酒井にとって、仏さまにお参りするなどというのは初めての経験であった。子供の頃、朝起きて食事をする前に、神棚に手を合わせて拝まされたが、これは戦前の家庭ではごく普通の習慣で、特に信仰心があってのことではない。酒井は神妙な面もちで、弁天さまに手を合わせたが、これも伯母につれて来られたから、そうしただけだった。
弁天さまの帰り、無動寺の谷のあたりを歩いた。無動寺谷は、比叡山の三塔のうち東塔に属しているが、あまりにも深山幽谷の地にあるため、比叡のはぐれ谷≠ニもかつては呼ばれているように、このあたりは起伏が多く、景観もどこか粗けずりでたけだけしい。酒井はむしろ、その景観に魅せられた。不思議な霊気が漂っており、妙に心が落ち着いた。
無動寺谷には、明王堂、護摩堂、法曼院《ほうまんいん》、南山坊、玉照院、宝珠院などの名刹《めいさつ》、塔頭があるが、酒井は比叡山の千百年余の歴史の中で、ここが相応|和尚《かしよう》の開いた無動寺回峰の修行の場であることも知らないで、ここは普通のお寺とはだいぶ違うな、と思った。
近くには大乗院と千手院が並んで建っており、大乗院の前に桜の木があった。この桜は「慈円桜」と呼ばれている。『愚管抄』の著者で、天台座主を四度もつとめた慈円大僧正慈鎮(一一五五―一二二五年)はこの大乗院に住んでいた。慈円はまた百人一首の歌人でもあり、比叡山を詠んだ次の一首は広く知られている。
おほけなく 浮世の民におほふかな
我《わ》が立《た》つ杣《そま》に墨染《すみぞめ》の袖《そで》 (拾玉集)
『徒然草』を著わした吉田兼好も、慈円を慕って入山、落髪したといわれ、また若き日の親鸞《しんらん》が入山したのもこの無動寺谷で、親鸞(一一七三―一二六二年)は九歳のとき、慈円のもとで出家し、二十九歳まで大乗院にいたと伝えられる。白砂がきれいに掃き清められている大乗院と千手院の入口には「親鸞聖人御修行舊跡」という石碑が建っていた。無動寺谷には千百年余の歴史が今も息づいている。
酒井が初めて弁天さまにお参りした時期、昭和二十八年に、叡南祖賢《えなみそけん》師に次いで戦後二人目の千日回峰を達成した葉上照澄《はがみしようちよう》師は、そのあと三年の運心回峰も成しとげ、三十三年からやはり三年、法華三昧の前行正行《ぜんぎようせいぎよう》に入っていた。
〈運心回峰とは、文字通り、心を運《めぐ》らして、この回峰を行ずることであるが、これまた一種の常坐三昧である。私は回峰行の中心の叡山無動寺明王堂の不動明王の宝前に、千日間毎朝三時半から端座して行じたわけで、回峰中に拝む三百何十ヶ所の、日本国中の神仏を、お呼びだし申し、一々ご真言を唱え、その間心経等を誦《じゆ》する行き方である。もとは日吉神社の順拝から起こったとも聞いている。テキストは天海蔵にもあるものである。
第三の法華三昧も、はじめの二年間は、いわば別行として、例の「法華懺法《ほつけせんぽう》」の勤行《ごんぎよう》を、六座を一度につづけて、無動寺建立道場で、普賢菩薩と法華八軸の前で、毎朝同じように行なったわけだが、最後の一年は、完全に外界との接触を絶ち、侍者一人のみの、本格的半行半坐三昧を行なった。前行七日、正行二十一日で、一年間一二回(その中間も、ずっと引きつづいてこれまで通り)行じたわけである。(参考文献1)〉
同じ時期、戦後三人目の勧修寺《かんじゆじ》信忍師に次ぎ、四人目の千日回峰行者となる叡南|覚照《かくしよう》師が、このとき荒行を継続中であった。覚照師は昭和三十五年に満行する。覚照師は祖賢師の養子であり、行門法流を伝える玉照院に住む。この前後、のちに七人目の千日回峰行者になる光永澄道《みつながちようどう》師が昭和三十四年五月、二十四歳のとき、比叡山に上がり、祖賢師のもとで再得度した。さらに前年の三月、八人目の千日回峰行者になることになる内海|俊照《しゆんしよう》師も、十五歳で比叡山に上がり出家得度、玉照院の覚照師のもとで修行することになった。無動寺回峰と呼ばれる千日回峰は、叡南祖賢師の法流のもとで厳しい修行を重ねていた。
そして、この数年後、昭和四十年に酒井もまた出家得度して、この無動寺谷の宝珠院の住職となり、やがて飯室谷《いむろだに》に移り、無動寺回峰とは異なる飯室回峰を復興させて九人目の千日回峰行者となるのである。仏教ではこれを「因縁」というが、むろん酒井はこのとき自分のそんな運命を知る由もない。だが、酒井は帰る頃には、霊気にみちた細い山道を歩きながら、ああ、こんな世界もあるのだな、と思った。今まで自分が生きてきた汚辱にまみれた都会とはまったく正反対の、聖浄な世界があることを初めて知った。
「因縁とか、そういうものはさらさら知らないわけよ、その時分はね。ただ、伯母さんにつれてこられて、ああ、山はええなあ、と思ったの。山とか、ああいう雄大なものにどこか憧れたんだね。今までの自分の生き方が、あまりにこせこせしていたからね」
大阪には、伯母が入っている弁天さまの信者のグループがあった。酒井は、グループの人たちからも、お参りするときは一緒に誘われるようになった。鉄工所が休みの日には、何もすることがない。妻に自殺された心の傷は癒《い》えることがなく、相変わらず魂のぬけがらのような状態が続いていたが、比叡山に来ると、妙に心が落ち着くのが不思議だった。比叡山には多くの寺があっても墓地はない。凡俗の徒の酒井にとって、死者の霊は、墓地という具体的な形の中に眠っているとしか考えられなかったのが、比叡山の霊気にふれると、妻のことがしきりに思い出された。自分が比叡山に来るようになったことを、亡き妻が喜んでくれるような気がした。予科練で死んだ先輩同僚たちの英霊のことが、不意に甦《よみがえ》ることもあった。酒井の中に何かが芽生えつつあった。こうして一年が過ぎ、二年が経つうちに、酒井はよく一人でも比叡山に足を運ぶようになった。酒井はふと、ここなら自分の新しい生き方が模索できるのではないか、と思うようになった。
それにしても、比叡山になぜ惹《ひ》かれるのか。自分の心がわからない。ある日、酒井は、玉造《たまつくり》の生家に行った。そこは五歳まで住んでいた家で、今は母方の姉夫婦が生活している。そこの神棚に奇妙なものを見つけた。虫の食ったあとがある古びた一体の仏像である。
「伯母さん、これ、なあに?」
と聞くと、伯母があきれたようにいった。
「なにって、お前、何いうとるんや。お前っとこのお父っちゃんが、東京に逃げて行ったときに、これを置いて行ったもんやから、うちはこれの始末に困ってるんや。今までうちがお祀りしてたけど、お前、欲しかったらあげるで」
「あ、あの仏像か。ほな、ぼくがもらうわ」
酒井は、役行者《えんのぎようじや》の仏像を手にした。この仏像にまつわる、母から聞いた話を急に思い出したからだ。酒井は、幼い頃、この仏像の祀ってある部屋に寝かされていた。ある晩、夢をみたのか、「役行者さんて怖いよォ」とうなされるので、母が驚いて、仏像を見たら、真っ黒い蟻がうじゃうじゃとうごめいていた。砂糖が置いてあったらしく、そのまわりに蟻がたかっていたのである。それで怖くなって、そこの部屋で寝なくなった。その仏像だった。
酒井は、仏像を持って、飯室谷に行った。この頃はもう比叡山のあちこちを歩き回っていたし、飯室谷に箱崎文応という偉い行者がいると聞いていたからだ。
「この仏像は、家にあったのをもろうたんで、天王寺の仏師のところに修理に出すから、その前にこれのお御霊《みたま》を抜いて下さい」
酒井が事情を話すと、箱崎師がジロッと鋭い目で一瞥《いちべつ》した。朝から一杯飲んでいる。そのままなかなかやってくれない。そのうち、
「ついて来ーい。拝んでやるぞ」
というなり、酔っ払っている箱崎師は裏の池に行って、水面に顔をつけてブルブルーッとやった。そして顔をふくと、平気な顔で本堂に入って拝んでくれた。酒井はそれを天王寺の仏師に持って行き、修理してもらった。
半年後、修理が終わった仏像をまた飯室谷に持参して、酒井は再び箱崎師にお願いした。
「今度はお御霊を入れて下さい」
そのときも箱崎師は酔っていたが、酒井の依頼を聞くなり、酔眼|朦朧《もうろう》とした顔で急にえらい勢いで怒った。
「お前、こんなもん持って来てどないするんだ。お前みたいなやつがこんなもん持ってたら、大変なことになるんだぞ」
「大変なことでもいいです」
「いったい、どないするつもりだ」
「ぼく、家に持って行ってお祀りします」
「バカモン、こんなもん、お祀りしたら、お前はこの裏山をのそのそ歩くような人間になっちゃうんだぞ。お前、歩く自信があるんなら持って行け!」
酒井は、なぜ怒鳴られるのかわからない。それで、「ぼく、持って帰りますから」というと、
「そんなら勝手にしろ」
と酒井の顔を睨《にら》んで、また池の水で酔いをさまし、本堂で御霊をこめるための祈祷をした。
酒井は御霊を入れてもらった仏像を持って帰り、それ以後ずっと自分の部屋に祀った。酒井は、吉田鉄工所はやめなかったが、そのうち伯父、伯母の家を出てアパートに移った。妻が亡くなったあと、いつまでも鉄工所の二階に厄介になっていることは気がひけた。それに束の間とはいえ、妻と新婚生活を過ごした部屋に一人で住むのは辛かった。酒井は、アパートに仏像を持って移り、それを拝むようになった。
それにしても、箱崎師はなぜ、この仏像を見て急にえらい見幕で怒り出したのか。凄絶な回峰行を続けてきた箱崎師は、酒井が持参した役行者の仏像の霊魂が、在家のこの男に憑《つ》くことを恐れたのである。
役行者は役小角《えんのおづぬ》ともいい、奈良時代の山岳呪術者で修験道の開祖とされている。大和(奈良県)の葛城山《かつらぎさん》を根拠に、吉野|金峰山《きんぷせん》、大峰山を開いて厳しい修行をしたことが、さまざまな伝説とともに後世に伝えられているが、その伝記は不明で、神仏調和の思想に基づいた山岳仏教にその名がある種の畏怖とともに語り継がれてきた。従者の名前が前鬼、後鬼というのも何やら鬼神めくが、修験道の研究家、久保田展弘は、役行者について、「まさに古代日本の重層的な宗教を背負った、雑密《ぞうみつ》的な典型的な山岳修行者を思わせる」と述べ、こう記している。
〈役の小角像は、右手に六輪|錫杖《しやくじよう》を握り、左手に密教法具によく見る金剛杵《こんごうしよ》を持ち、長|頭巾《ときん》をかぶっている。全国に分布の多い小角像は、概《おおむ》ねこの偉容に近い。脛《すね》を出して高下駄をはいた小角の姿は、地方に広がった修験道の勢力が、それぞれに大きな力を持ってきた室町時代ごろの修験者山伏の姿を写したものだろうか。(参考文献12)〉
箱崎師は、昭和十五年、五十一歳で昭和に入って最初の千日回峰を満行したあと、十七年に大峰回峰もなしとげ、その後も御岳《おんたけ》回峰など数々の荒行をしてきた稀代の行者である。仏門に入るまでの人生は、すでに前述したように無頼と修羅に満ちたものであったが、海で遭難した漁師たちの霊を弔うために、出家得度を志して青森から比叡山に向かったものの、出家得度が簡単に許されたわけではなかった。
乞食同然の姿でやっと比叡山にたどり着いた漁師作次は、人ひとりいない鬱蒼と大木の生い茂る坂本本坂を登りきり、山上事務所の戸を叩いた。事務所には中山玄雄という若い僧がいた。「修行する場所をお与え下さい」と必死に哀願する異形の男に、ただごとでないと思った若い僧は、西塔黒谷の青龍寺にいる大角実田《おおすみじつでん》という念仏行者を尋ねるように道を教えた。実田師は独生独死、天衣無縫の行者であったが、一目見て、尋ねてきた男を受け入れなかった。なぜなら実田師は、この人は無動寺の不動行者になるのこそ最もふさわしい、と判断したからである。
若い僧は、とぼとぼと舞い戻ってきた男を再び無動寺へ案内した。そこには奥野玄順大阿闍梨が住んでいた。奥野師も、出家する迄はあらゆる職業を経験した苦労人で、一念発起して回峰三千日に挑んだ大行者であり、電話主の声を聞いてその人の病気を治したという霊能者でもあった。
奥野師は、大正七年に最初の千日回峰を達成し、酒井が生まれた大正十五年に二千日満行をなしとげ、この当時は無動寺谷の宝珠院の住職で、さらに三千日回峰のとてつもない前人未到の荒行に挑んでいた。奥野師は、仏門に入りたいと尋ねてきた中年男を、とりあえず寺男として使うことにした。奥野師は三千日目の回峰中、足を痛めて駕籠《かご》で回ることになった。その駕籠を寺男にかつがせた。千日回峰では駕籠に乗ることなどは許されないが、三千日回峰ということで、これは異例のことである。漁師仲間から「作さん」と呼ばれていた作次は、師を乗せた駕籠をかついで回峰道を歩くことになった。
〈駕籠に乗って山道を巡る玄順さんも決して楽な修行ではない。足を地に引き摺って行かねばならぬ、運心回峰のように道場に坐ったままで行う修行も難中の難であるが、駕籠をかついでもらっての回峰行は歩くより心身の困憊《こんぱい》がひどい。作さんは駕籠をかついで三十キロの山坂道を歩いた。漁師よりも厳しい。ある日、日吉山王への降り坂に差しかかった時、いろはのつづれ道で急に肩の荷が軽くなった。振り向くと玄順阿闍梨が駕籠からころげ落ちていたのである。(参考文献10)〉
その日のうちに無動寺から追放された。行き場を無くした作次は、思いあまって阿闍梨の弟子である小森|文諦《ぶんたい》師が住職をしている大乗院に坐り込んだ。絶対に下山はしない、許されないなら死ぬ、という覚悟だった。小森師は何日も坐り込む決死の男に心を動かされ、師僧に遠慮しながらも寺に住まわせることにした。それから一年。独学ではあったが頭の良さと海で鍛えた強健な肉体は、大乗院に無くてはならない存在となった。
そして翌昭和六年四月七日、漁師作次はついに念願がかなって得度を許された。四十歳のときである。法名・箱崎文応となった師は回峰行で、炎のような激しさで不動明王と一体になり、一代の行者になっていった。そういう修羅の過去といきさつを持つ箱崎師は、回峰行の地獄≠ニ
極楽≠誰よりも身にしみて知っている。だからこそ、役行者の仏像を持って現われた酒井に、そんなものを持っていると、在家のものは道をあやまる、とたしなめたのである。
酒井は、箱崎師のそんな心情などは知るべくもない。むしろ、今、自分の手もとに役行者の仏像が戻ってきたことの不思議さを思った。幼い頃に亡くなったので、祖父亀吉の記憶はないが、父岩吉から、祖父はなかなか信心深い人で、奈良の大峰山にもよく行っていた、と聞かされたことがあった。
長女美佐子も、父が小さいときから祖父に連れられて大峰山に行った話を聞いている。
「何でも逆さ吊り≠ノされる場所があるんですって。ものすごく怖かった、と父がいってましたね」
これは正確には「西の覗《のぞき》」といわれるもので、山上ヶ岳岩場での捨身行をさすものと思われる。前出の久保田の体験記がある。
〈山道をまっすぐ進むと、ゴツゴツした岩状の盛り上がりに突きあたり、その先は、垂直におよそ三○○メートルほどの谷へ落ち込んでいる。新客はここで、わが身の胴体をロープでくくりつけられ、二人の山伏の介添えによって、足首を持たれたまま、少しずつ真下に谷の見える空間へと、からだ全体が吊り下げられてゆく。
「親孝行するか……一生懸命働くか……」と、奉行役の山伏のたてつづけの問いを浴びながら、私は合掌をしながら、谷底を見、
「ハイ、ハイ……」
と答えるしかなかった。頭に血はのぼり、風の音が鋭く耳に突きささってくる。「西の覗《のぞき》」とは、この眼下に揺れ動く谷底を地獄と見る行《ぎよう》なのだろうか。
山道を登りながら唱えつづける掛け念仏の懺悔《ざんげ》によって、そしてこの「西の覗」によって、罪とわが身にこびり着いている筈の諸々の穢《けが》れを拭《ぬぐ》い去ってゆく。わが身を天と地のあいだに投げ出す(捨身の)行がこれだ。こうして、山中における行のくり返しによって生れ変り、甦ってゆく。(参考文献12)〉
酒井は、大峰山などで行をしたことがあるという祖父の血が、自分にも流れているのだろうか、と考えるようになった。役行者の仏像は祖父亀吉のいわば行の形見≠ノ思えてきた。こうしたいきさつがあって、酒井は飯室谷に来て、箱崎師とも話をするようになった。
箱崎師は毎朝、裏山から落ちてくる不動の滝に入り、真言を唱え、身を清める。酒井はある日、夢を見た。
「今と同じ池のかっこうになっていて、そこに一人の坊さんみたいな人が池のところでもって水を浴びている。池のところには滝はないんだよ。けれども、上から滝みたいな水がピューッとかかる感じで、よーく見たら、自分のおやじさんなの。本当の父親。うん、何だってこんなところで滝を浴びてるのかなと思ったね」
その夢を見たあと、また飯室谷にやって来たときに、よく見たら、箱崎師がいつも浴びる滝の少し上手《かみて》に、水がちょろちょろと少しずつしたたり落ちている。箱崎師がいった。
「ここのちょろちょろしている水を滝にすると、男滝と女滝になっていいんだがな」
「じゃ、ぼく作りますよ」
「本当にお前やる気があるのか」
そんなやりとりがあって、酒井は裏山に登り、水源を工夫して、もう一本の滝を作った。父が夢で、箱崎師の希望を酒井に教えてくれることになったわけだ。
この酒井がやがて仏門に入り、箱崎師に仕え、「行の師」として尊敬し、起居をともにするようになって、自分の作った滝で身を清めるようになる。これも「因縁」というしかない。
「なんか自分ではわからないけど、目に見えない糸があるんだろうな、不思議と。役行者さんのお御霊を抜いたり、入れてもらったり、滝の話とか、老師とのやりとりとかね。そして飯室にこうやって住んで、飯室で行をさしてもらうことになったんだからね」
酒井は、比叡山に千百年余も前から今に伝わる「行」に、強い興味を抱くようになった。
さらに酒井は決心を深める「儀式」に遭遇していた。昭和三十五年十月、高校を卒業して大成建設で働き出した末弟の昌幸が東京から遊びに来た。
「いいところへ連れて行ってやろう」
といって、酒井が昌幸を伴ったのは、やはり比叡山の無動寺谷だった。だが、この日は、明王堂の前にいつになく信者たちが集まっていた。
「何か、今日はあるんですか」
酒井が信者の一人に尋ねてみた。
「間もなく、偉いお坊さんが堂入りが終わって出て来られるんや」
数珠を手にした信者が教えてくれた。この時期、無動寺谷では千日回峰の行が相次いでいた。叡南覚照師がこの年満行したほか、戦後五人目の小林|栄茂《えいも》師が六年目に入っており、七人目の千日回峰行者になる宮本一乗師が「堂入り」の儀式に入り、偶然この日が出堂の日だったのである。いいところに来た、と二人も信者の列に加わって待っていると、やがて出堂の時間になり、固く閉じられていた明王堂の扉が開かれた。そして九日間にわたる不眠、不臥《ふが》、断食、断水の堂入りに耐えた宮本師が、そろりそろりと出堂して来た。信者たちからいっせいに真言を唱える声が高まり、無動寺谷には大鐘が鳴りひびいていた。
あまりの厳粛さ、崇高な出堂の儀式に、酒井は息をのみ、ひたすら宮本師の一挙手一投足に目を奪われていた。白装束姿の宮本師が、介添人に支えられて、明王堂から法曼院までの階段をゆっくりと下りていく。
「すごいお坊さんもいるもんやな」
酒井の口から嘆息と驚きの声がもれた。その表情は畏敬に満ちていた。昌幸は、「偶然この出堂を見たことで、兄も行者になりたいと思ったのではないか」と、のちに推測している。
その後も、酒井の無動寺参りは続いた。そして、一人の僧とめぐり合う。それが酒井の人生を変える運命的な出会いとなった。弁天堂の輪番をつとめている小林隆彰師に会った瞬間、酒井は一見して、強く惹かれるものを感じた。有徳の僧が自然にそなえている高貴さと温かい人柄に魅せられた酒井は、このとき今まで閉ざされていた自分の心に、初めて一条の光明が射し込んできたような感動を覚えた。
小林隆彰師は、昭和三年十月二十日、香川県|善通寺《ぜんつうじ》市の生まれ。四国は、弘法大師空海が讃岐(香川県)に生誕された土地柄だけに、古来から信仰心が厚く、今もお遍路さんの姿を見ることができる。小林師は幼くして父を失い、信心深い母の手で育てられたが、小学校六年のときに交通事故にあったことがきっかけで出家得度した。
「土讃《どさん》線でお遍路さんが私の目の前で汽車にはねられましてね、亡くなられた。その一週間後、今度は私が自転車に乗って登校する途中、同じ場所で汽車にはねられたんです。でも私の場合、自転車だけがこわれて、命に別状はなかった。仏さまのご加護があったんでしょうかなあ。それで子供なりに感じるところがあって、坊さんになりたい、と思ったんですよ」
男の子一人だったので、母は出家得度することに反対したが、決心は変わらず、十二歳のとき比叡山に上がり、旧比叡山中学を卒業。昭和三十年に大乗院の隣りにある千手院の住職になり、三十五年から三十九年まで弁天堂の輪番となった。弁天さまには、前述したように酒井の伯母が熱心に参詣しており、小林師も親しい。それで酒井も見知った。このときの無動寺長老は、若き日、箱崎師を案内した中山玄雄師である。
小林師は、大阪に所用で外出した折、信者の吉田鉄工所を尋ねたことがあった。そのとき、旋盤工として働いている酒井が、思いつめたような表情でいった。
「先生、比叡山に入りたいんですけど……」
小林師は、そういう類の男にはこれまで何回となく会っている。人生につまずいて、衝動的にそう思うが、冷却期間をおくと、自然と撤回していく。そういう例を数多く見てきたので、小林師の返事は酒井に冷たくひびいた。
「出家するといったって、そんなに簡単にはいかん。中年過ぎてからの出家願望は、いざとなったら逃げるのが多い。本当に出家したいのかどうか、もうすこし時間をかけて、自分の心をみつめてからでも遅くはない」
そのあとも酒井は変わらず小林師のもとに通って来た。本当に自分は俗塵《ぞくじん》を捨てきることができるのか。年老いた両親や肉親たちと訣別し、恩愛の情を断ち切ることができるのか。酒井は霧につつまれた比叡山でひとり自問自答することが多くなった。そして、酒井は自分の答を出した。これまでの恥多い人生の敗残者として逃避するのではない。予科練の傷痕、妻の自殺で受けた傷を癒すためでもない。無論、戦争で死んでいった数多くの英霊や妻の霊を弔《とむら》いたいという気持ちはあったが、同時にこれから自分の新しい生き方を模索するために、残りの人生をこの比叡の山にゆだねてみたい、という激しい心の疼《うず》きが、今、酒井をゆさぶっていた。
2 子連れの坊《ぼん》さん
「祇園精舎《ぎおんしようじや》の鐘の声 諸行無常《しよぎようむじよう》の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰のことわりをあらわす」。戦乱に明けくれ、この世常ならざる中世においては、高貴な方はものの哀れを感じて仏の慈悲にすがり、西行法師、兼好法師らは無常感から出家した。厭離穢土《おんりえど》、欣求浄土《ごんぐじようど》から仏門に入った時代もある。現代の人間はどんな動機から、現世を離れ、出家得度するのであろうか。
山田恵諦座主は、十歳で得度したが、生まれた兵庫県の斑鳩村鵤《はんきゆうむらいかるが》は、もともと聖徳太子にゆかりのある地で、太子が建立した観音堂、現在の天台宗|斑鳩《いかるが》寺を「お太子さん」と呼ぶほど、仏心の厚いところである。寺の法師さん(住職)は村長や校長よりずっと偉い人であり、尊敬されていた。そこで生育した師は「お坊さんて偉いんやなあ」と子供心にも感心し、それが動機で坊さんになった、という。
小林隆彰師も、空海にゆかりのある讃岐出身で、信仰を身近にして成長し、列車事故にあったにもかかわらず、奇跡的に命をとりとめ、仏に感謝して、十二歳で比叡山にあがった。葉上照澄師の場合は、やはり名刹の出だが、大正大学教授、新聞論説委員という知識階級に属し、太平洋戦争の敗戦を機に四十四歳で出家した。贖罪《しよくざい》の意味もあったかと推測される。
その点、箱崎文応師は根っからの在家のもので、人生の苦渋をなめ尽くし、漁師仲間を大勢海に奪われたあと、彼らの魂をやすめるために、自ら一念発起して比叡山を目指し、四十歳でやっと出家得度を許された。そこには漁師仲間の魂の救済のためという強烈な目的意識があり、得度する場所は比叡山でなければならなかった。
さて、酒井の場合はどうか。予科練から生きて還ったものの、戦後の混乱時代、さまざまな生々流転を経験し、人生の辛酸をなめ、無明の闇にあえぎ、はては妻の自殺という救いのない地獄≠ノのたうちまわったあと、気がついたときには自分が時代にただ流されてきた空しさを噛みしめた。そして偶然、伯母につれて来られた比叡山で、これまで自分が知らなかった世界があることに目をひらかれた。それは偶発的なものだった。だから、酒井は率直にいう。
「宗教でもいろいろあるわね。キリスト教だとか、あるいは仏教のなかにも、たとえば真言宗だとか、ね。もしきっかけがそういうふうに流れていったら、比叡山ではなく、そっちのほうに行っちゃったね。宗教がどうの、仏教がどんなもんだか全然知らなかったんだから。ただ何か生き方を模索していたのは事実だね」
何か得体の知れない激しさだけが心の中で渦まいていた。酒井はある日、急に比叡山が恋しく≠ネって、足が自然に歩き出していた。鉄工所が終わってアパートに戻り、一人でいたとき、矢も楯《たて》もたまらなく小林師に会いたくなった。電車賃がないわけではないのに、無性に歩きたくなって、夕方七時過ぎにアパートを出た。それから夜中通して大阪から比叡山まで歩き、弁天堂に着いたのは次の日の午後三時を過ぎていた。話を聞いた小林師は、これは、ただごとではない、と、このところ急激に変貌しつつある酒井の心をおしはかった。
「それじゃ、せっかく来たんだから、何かさせてあげよう」
そういうと、小林師は、弁天堂の本堂で「三千仏礼拝」の行を命じた。酒井は、まず滝に入って身を清めさせられた。礼拝行のことなど何もわからないから、ただ命じられるままにやる。三千仏礼拝は、一回百八遍礼拝して、弁天さまの真言をあげるもので、これを一日三回繰り返す。酒井は、小林師のもとで仮弟子≠フような形になった。小林師がそのときの模様を明かす。
「その頃、たまたまもう一人の中年男が来てましてね。とりあえず一ヵ月ほど様子を見ることにして、二人を預かったんです」
もう一人の男は、五十がらみの京都の家具屋で、妻と二人の子供がいるが、大変なギャンブル狂で、店の売上げ金を持ち出しては競輪、競馬、マージャンにつぎ込み、家庭は崩壊寸前だという。老父と妻がいくら意見しても効果がない。本人もギャンブルをやめようという気はあるが、店にいると悪い癖でつい店の金を持って、あとは元の木阿弥。思いあまって、比叡山に籠《こも》って出直したい、というのが小林師に泣きついた理由だった。
小林師はこうして自分より年上の二人の中年男を預かることになった。一人は三十八歳の旋盤工、一人は五十歳の家具屋、妙な取り合わせではあったが、人生の道に迷っている衆生を見殺しにはできなかった。正直いって、厳しい山の生活についていけず、一週間もすれば、山を去っていくだろう、という気持ちもあった。
しかし、二人は真剣だった。朝は早く起きて水をくみ、薪《まき》を割り、食事の用意、掃除、洗濯と不器用ながらも、真面目にこなしている。小林師がお勤めをするときは、二人も後ろにきちんと正座して、一緒にお経を読む。一日三千遍といわず、一日中やっておれ、と命ずると、その通り一日中真言を唱えている。小林師もひそかに舌を巻いた。家具屋からはギャンブルに憑かれた血走った目の光がうせ、おだやかな表情になった。
家具屋は十日間が過ぎた頃、自分の指を切った血でしたためた血書を差し出した。
「今後は一切、博打には手を出しません」
こういう誓約書を書いて、家具屋は、迎えにきた家族と一緒に正気の世界へ帰って行った。博打好きという憑きものが去れば、家具屋にとって山の生活は終わる。だが、酒井の場合は、人生そのものの道を模索しているのだ。酒井はなおも残った。空漠たる過去への訣別と何か確かなものを求めようとする激しさが、酒井の心の中でないまぜになっている。酒井はますます初歩的なものとはいえ、山での修行に傾斜していった。そうして一ヵ月が過ぎた。
かといって、正式に得度したわけでもない酒井は、いつまでも山にいることはできない。山を去る日が近づいた。小林師は、
「般若心経を二十一巻書きなさい」
と最後に命じた。
酒井は般若心経など筆で書いたことがない。体で覚える行にはすぐなれたが、勉強のほうはからっきし苦手である。いくら書いても上手にいかない。そこで一計を案じた。一枚だけなんとか丁寧に最後まで書き、これを下敷きにしてなぞることにした。「どうせわかりゃしねえだろう」と思って、澄ました顔で二十一枚を差し出した。
黙って見ていた小林師がおもむろにいった。
「お前、これ、本当に書いたのか」
「はい、書きました」
「お前、器用なやっちゃなあ」
「何でですか」
「間違ってるとこ、みんな同じだ」
酒井は、最初の下書きが一字抜けていることに気がつかず、そっくり丸写ししたのだから、みな同じ間違いをしている。お前、写しただろう、と怒られて、酒井は「ああ、人はだませても仏さんはだませねえ」と思った。
そんな児戯にも似たいきさつはあったが、小林師は、酒井が本気で出家を望んでいることをみてとった。吉田鉄工所を尋ねた折、酒井から「比叡山に入りたい」と相談されてから、もう何年も経つのに、酒井の心は揺らぐどころか、修行をしている姿は生き生きとしている。だが、小林師は「弟子を持たない主義」だった。酒井のことが妙に心残りになった小林師は、昭和三十九年三月に弁天堂の輪番を、弟弟子の小寺|文頴《ぶんえい》師と交代するとき、小寺師に秘かに伝えた。
「もし酒井が本気で望むなら、面倒をみてやって欲しい。あの男はもしかしたら求道者になる男かもしれん」
小寺師からみても、酒井は明らかに普通の信者とは違って、気迫がこもっていた。そして酒井に驚嘆する日がくる。毎年、弁天堂では暮れの十二月に「浴酒」といわれるお勤めが一週間続く。これは小林師によると、
「ヒンズー教の流れをくむ密教独特の修法で、弁天さまにお酒をかける行ですが、弁天堂の輪番は夜中に滝に入って身を清め、このお勤めをすることになっています」
というもので、小寺師は真夜中の二時、朝の八時、午後四時と、一日に三度のお勤めをした。京都の冬は冷え込みが厳しいが、比叡山はさらに五、六度も気温が低く、小雪が舞うことも多い。本格的な修行をつんだ比叡山の行者にとっても、真冬に滝で身を清めるのは容易なことではなく、瀑水が鋭い刃物のように肌を刺す。小寺師は、自分のあとにしたがって、同じように真冬の滝を浴びている酒井の姿に、尋常ならざる気迫を感じた。しかも、弁天堂での一日三度のお勤めも欠かさず、ずっと修法に加わってお経を唱えている。
酒井は、比叡山に通うようになって五年、この間に覚えた真言や念仏、知っているかぎりのお経を一心不乱に唱えた。その姿は凄絶で、小寺師でさえ圧倒される思いがした、とのちに小林師に報告している。
「それほどまでに出家をお望みか」
小寺師が尋ねると、酒井が両手をついた。
「お願いします。先生のもとで出家させて下さい」
「あなたのような方は初めてだ。本格的な信仰の道を望むなら、よし勉強をさせてあげよう。これはかねがね小林師とも相談していたことだ」
小寺師の言葉に、酒井は涙があふれそうになった。喜びと感動で胸がつまった。小林先生もおれのことをずっと見守っていて下さったのだ。酒井はただ深々と感謝の首《こうべ》を垂れていた。在家の恩愛を断ち切ることに今はもう何の未練もなかった。その覚悟はできていた。酒井は、親やきょうだいに一言も告げることなく、出家得度の日を迎えた。日本は前年の昭和三十九年十月、アジアで初めての東京オリンピックを成功させて、先進諸国への仲間入りし、敗戦から奇跡的に復興して、世界の一流国へのし上がろうとしていたが、酒井はそんな現世にはもはや煩悩の火を燃やすことはなかった。
この年、昭和四十年十二月十七日、比叡山は粉雪が舞っていた。酒井忠雄は、小林師を戒師として得度し、正式に天台宗の僧、法名「酒井雄哉」となった。三十九歳の遅すぎた出家である。小寺師が頭を剃《そ》った。
〈その頭は、ところどころでこぼこがあり、人生の哀歓、愛、憎しみを体験してきた頭であった。頭を剃られる酒井師は小刻みに震えていた。折からの寒さのせいか、厳しく遥かな仏道への門出の感動のゆえか、頭を剃り終って青白く光る頭になるまで、酒井師は震えつづけていた。(参考文献5)〉
この日、小寺師は二人の頭を剃っている。一人は酒井であり、もう一人は剃りあとが青白く光る青年の頭である。正式に得度した二人は、さっそく小寺師の自坊「霊山院」で小僧生活に入ったが、一週間後、青年僧は厳しい修行に耐えきれず、黙って姿を消していた。三十九歳の小僧が、七つ年下の小寺師に仕える仏門の生活が始まった。
小寺師の自坊・霊山院は、日吉神社のすぐ近く、県道|仰木《おおぎ》・浜大津線に面した一画にある。坂本の商店街を上がっていくと、右側に、最澄が産湯《うぶゆ》を使ったと伝えられる井戸のある生源寺が目につき、さらに少し進むと、日吉神社の大鳥居がそびえ立っている。その奥が日吉参道で、左側一帯に苔むした美しい石垣積みに囲まれた静寂な里坊《さとぼう》が並んでいる。この石垣積みは「穴太衆《あのうしゆう》積み」といわれるもので、坂本穴太町の石工たちが築いた。石工たちは穴太衆と呼ばれ、もともとは延暦寺の五輪塔の製作や石垣築きの仕事をしていたが、石垣積みの卓越した技術と創造性がやがて戦国武将たちの築城術に重用された。高い石垣の上に天守閣がそびえる城を最初に作ったのは織田信長であるが、その安土城の石垣を築いたのが穴太衆だった。以来、穴太衆の名声は武将たちに広まり、大阪城、彦根城、金沢城などに今もその石垣を見ることができる。
この美しい石垣に囲まれ、澄みきった疏水が流れる里坊の中で、延暦寺の総本坊、かつて歴代の天台座主が起居した滋賀院門跡の豪壮な造りはひときわ風格があり、すぐ隣りには近世の座主の墓や桓武天皇の宝塔をはじめ和泉式部、紫式部の供養塔などがあって、歴史の古さをしのばせる。里坊は、六十歳を過ぎた僧たちが、山上の厳しい堂塔、塔頭住まいから離れて常住することを許された里の自坊という意味で、これを天台座主から「里坊を賜う」といわれた。山田恵諦座主の住む瑞応院も、小林隆彰師の自坊も、この里坊の中にある。小寺師の自坊は、この里坊の一番日吉神社寄りにあり、「ビルマ釈尊像 霊山院」という石の門柱が立っている。
小寺文頴師は昭和七年生まれ。比叡山で仏教学を修めたあと、二十八歳でビルマ国際仏教宣教大学に二年間留学、帰国したあと天台勧学、龍谷大大学院博士過程を修了した学僧で、比叡山でも有数の密教・天台学者として知られていた。そこに「勉強が大嫌い」の酒井が弟子入りした。年齢は酒井が七つ上でも師は師、小僧は小僧である。得度はしたものの、仏教の本質的なことは何もわからない酒井は、小寺師に尋ねられて、いたって珍妙な答を連発して、師の苦笑をかった。
「ここは何宗だ?」
得度していたとき、天台宗だと教えられていたから、「天台宗です」と答えると、
「天台宗って何だ?」
「天台宗は天台宗です」
「バカ、そんなこと聞いてるんじゃない。じゃ、天台宗の御宗祖さまは誰だ?」
「うーん、わからない」
「天台宗の坊さんになっていて、そんなことじゃだめじゃないか。天台宗の御宗祖さまは伝教大師だ。伝教大師はいつ生まれて、どういうことをされて、何歳で亡くなったか、難しいことはわからなくてもいいから、そのくらいのことは知らなきゃね。一番いいのは学校へ行くことだ。そこに入れば、みんな教えてくれるからね」
と最後は諭《さと》すようにいい、小寺師はこうつけ加えた。
「それからもう一つ、あんたが将来、今の年齢からいうとこれから先、比叡山に残る可能性はない。地方に行かなきゃならなくなっても、行く行かないは別にして、学校に行けば友達がふえるし、地方へ行ったときにそういう友達に会ったりなんかして心強いから、学校へ行ったらどうだ」
酒井は、これはえらいことになった。今さらこの年で学校でもあるまいに、と思ったが、師がいうのだから、逆らうわけにはいかない。聴講生は試験がないから、とりあえず一年間は聴講生になり、次の年から本科生に編入する方法を、師が教えてくれた。酒井はこうして、叡山学院の聴講生になった。
しかし、実際には勉強どころではなかった。小僧は朝六時に起きて、お勤めする前に掃除、洗濯などの雑用をすませなければならない。小寺家には双子の女の子を含む五人の小さい子供たちがおり、そのお守りもある。奥さんは家事に追われ通しなので、酒井が双子の一人をおんぶし、一人の手を引いて買物にも行く。坂本の町の人たちは、酒井のことを「子連れの坊《ぼん》さん」と呼んだ。後年、酒井が千日回峰に入ったとき、人々は「へーえ。あの子連れの坊さんが?」と驚き合った。
子供たちは、酒井になついて離れない。男の子とは西部劇ごっこをして、馬になったり、ピストルで撃たれて死ぬ悪党になったりして遊び、双子の女の子はお風呂にも入れる。
「幼稚園の先生みたいなもんだな。あるときお風呂へ一緒に入れていたの。片一方入れて、片一方を出していつものように洗っていたわけよ。小さいから湯船の中に立って待っているわね。一生懸命夢中になって洗っていたら、いつの間にかおらへんのや。どこへ行っちゃったのかと思ったら、下のほうに沈んでいるんや。あわてて引っ張り上げ、両足を持ってお尻をペンペンと叩いたこともあった。あの子たちが三、四歳の頃かな」
将来、住職になれるかどうかの保証も何もない四十の男が、食事の世話から掃除、洗濯、買物、子供の遊び相手まで、ひたすら小僧になりきって働いた。それに学校も加わった。一月ぐらい経ってから、小寺師に呼ばれて「毎日、学校に行ってるか」と聞かれた。
「行ってます」
「いいこと教えてやる。聴講生でも平均点八十点以上取ったら、最終的に教授会で、これは本科生としての資格があるから、来年は本科生として二年に上げてもらえるよ。だから気張ったらどうだ?」
気張ったらどうだ、といわれても、勉強ができないから気張りようがない。困っちゃったな、と酒井は途方にくれた。酒井は、昼の疲れから、いつも夜八時頃にはぐうぐう寝ていた。ある夜、夜中に目がさめたら、書斎に明かりがついている。覗いてみると、師が一生懸命勉強していた。次の日も次の日も、同じように勉強している姿は変わらない。
「さすがに、わしがいくら図々しくても、お師匠さんが勉強しているのに、小僧がぐうぐう寝ているわけにはいかない。そうっと書斎に入っていってじっと見ていたら、これ整理しろ、ここだけちょっと写してこい、ということになったの」
まず、勉強する雰囲気を知った。自分でも少しずつ仏教の本や資料に目を通すようになった。小寺師は学問には厳しかった。ふだんの生活は家庭的でこだわらないが、学問のことになると、徹底して人が変わったように、甘えを許さなかった。たとえばレポートを提出するとき、問題点について聞くと、「お前はどう思うか?」とすぐ反問されるから、迂闊《うかつ》な聞き方はできない。自然に自分で調べることになり、勉強の楽しみがふくらんできた。ポイントをつかむコツを覚えた。師の書斎には書籍がつまっているから、疑問点はすぐに資料にあたることができる。その上でどうしても不明な点を質問すると、師は今度は丁寧に教えてくれた。
夏休みになって、成績表をもらう日がきた。その前に、小寺師に呼ばれた。酒井は、これは点数が悪いので呼ばれたんだ、やっぱりおれはだめだ、と直観した。
「そんなことになるだろうと思って、夜逃げするつもりでいたんだ。風呂敷包みを用意しておいて。怒られたら、その晩、大阪へもう帰っちゃおうと思った」
小寺師がいった。
「お前、頭が悪くて、勉強できないって嘘だよ。ちゃんと八十点以上取ってるじゃないか。このぐらいだったら、来年はもう本科でやれ」
思いがけない結果だった。それがきっかけで酒井は昭和四十二年に叡山学院本科に通うことになった。本科は三年、その上に研究科、専修科と続く。霊山院から叡山学院までは坂道を走れば五分ぐらいで着く。小僧としての朝の仕事を片づけると、四十を過ぎた小僧学生は、朝八時半の授業開始に間に合うように駆けつけた。本科に入る資格は「高等学校卒業者、または同等の学力を有する者」となっており、そのほとんどが二十歳前後の若者である。地方の寺の二世たちが、僧侶になるための基礎教育を受けるために入学したのも多く、彼らは寄宿生活をして勉強一途に励んでいる。同期生は当時二十人ぐらいいた。酒井は二重三重のハンディキャップを背負いながら、そうした若者たちと机を並べた。
授業内容は、一般教養科目、仏教学、天台学などに関する基礎教育が中心だが、教えるほうは錚々《そうそう》たる比叡山の学僧たちである。得度するとき、天台宗を開いた宗祖が最澄であることも知らなかった酒井は、聴講生として少し耳学問したとはいえ、本格的に勉強するのは戦争中の慶応義塾商業学校の夜間部以来、二十数年ぶりのことである。夜間部のときだって、勉強嫌いでろくに勉強なんかしなかった。そのため落第確実で、落第がいやさに予科練に入り、それから自分の人生が、裏街道ばかり歩くような暗い道にそれてしまった。それが今、めぐり巡って、比叡山に入り、小僧として勉強することになった自分の運命の不思議さに、酒井は自分の力や意志だけではどうにもならない、「やっぱり人間を超えた存在」がどっかにあるのかな、と思うようになっていた。そして学校で、宗祖最澄の生涯と天台宗について、いろいろな先生から教わったとき、今までの人生でかつて経験したことのない感動と異様とも思える戦慄的な興奮が、酒井の心を満たしていった。
3 最澄の法灯を受け継ぐ小僧
平安朝のはじめ、比叡山に天台宗延暦寺を開いた伝教大師最澄は、高野山に真言宗を開いた弘法大師空海と並ぶ、日本仏教の二大巨峰であることは周知の通りだが、不世出の傑出した宗教家であった二人の資質の違いを、小林隆彰師は、一言でいうならば、と前置きして、「最澄は偉大な教育者」「空海は天才で、彼自身が仏」と話す。それは最澄の生涯をたどればすぐにわかるが、虚構化された伝説のベールをはぎ、一人の生身の人間として最澄をみれば、その生涯はきわめて波乱にとみ、栄光だけではなく、挫折、傷痕、悲哀、敗北感……と、われわれ衆生と同じような苦悩と辛酸もなめているのである。
叡山学院教授、渡辺守順《わたなべしゆじゆん》の記述によると、最澄の誕生年は、学術的には天平神護二年(七六六年)説が有力であるが、天台宗では神護景雲元年(七六七年)八月十八日生まれの通説を今もとっている。
「大師、諱《いみな》は最澄、俗姓は三津首《みつのおびと》、滋賀の人なり。先祖は後漢の孝献《こうけん》帝の苗裔《びようえい》、登万貴《とまき》王なり」と、『叡山大師伝』にあるように、最澄の祖先は渡来人であった。最澄の父、百枝《ももえ》は三津浜一帯の首、つまり戸主だった。この三津とは志賀津《しがのつ》、大津、粟津を総称したもので、ここ一帯は往古、漢人が住み、渡来文化の開花した土地柄である。百枝は、浄足の音読が巨枝《きよし》と表記され、それが誤って百枝となったという説もある。母は藤子《とうし》。二人の間には子供が恵まれなかったので、百枝は山に登り、日吉神社の近く、大宮川に沿う聖地に小堂を建て、「男の子を授け給え」と祈願した。そして生まれたのが最澄で、幼名を広野《ひろの》といった。百枝が祈願した聖地には現在も「神宮寺旧跡」が、小さな祠《ほこら》となって残されている。二段の石段の上に鎮座している祠は、檜皮《ひわだ》ぶきの屋根が部分的に崩れ、祠を覆う形の切妻屋根を支える柱も古びている。現在の祠は、案内してくれた小林師によると、平安時代のものから数えて何代目になるかわからないというが、確かにここは深い谷底の静寂なところで、微かに大宮川の音が聞こえるだけである。酒井はやがて回峰行者として、この聖地を巡拝することになるのだ。
広野は十五歳で得度して法名・最澄となり、近江国分寺の僧として修行したのち、大僧(官僧)となるために奈良東大寺の戒壇院で受戒した。現存する「戒牒《かいちよう》」にはこう記されているという。
「僧最澄二十歳 近江国滋賀郡古市郷の戸主正八位下の三津首浄足の戸口、同姓広野。黒子が頸の左に一つと、右肘折れの上に一つある。(参考文献13)」
黒子のある最澄の顔がイメージ的に浮かびあがってくるあたり、「戒牒」の記録は簡潔でいて、きわめてリアリティがある。東大寺で受戒したのは、当時、大僧になるためには東大寺、下野《しもつけ》の薬師寺、九州の観世音寺の、いわゆる天下の三戒壇で受戒しなければならなかったからだが、しかし、最澄は受戒の三ヵ月後には南都に背を向けて去り、比叡山に登った。受戒して官僧になるということは、国家によって将来の出世を約束されたことを意味するが、最澄はその官僧栄達の道を捨て、自ら「山学山修」の厳しい実践的な宗教活動に入った。
最澄は、比叡山の東の霊地に草庵を結び、法華経、金光明経《こんこうみようきよう》などの「大乗経典」の読誦《どくじゆ》に専心したが、その学識の深さは、入山当初に仏道精進の覚悟のほどをまとめた『願文』にみることができる。
「悠々《ゆうゆう》たる三界《さんがい》は純《もつぱ》ら苦《く》にして安《やす》きこと無《な》く、擾擾《じようじよう》たる四生《ししよう》は唯《た》だ患《うれい》にして楽《たのし》からざるなり」
という無常観を述べた書き出しから始まる、この『願文』で、青年僧最澄は、末法の時代に生きる僧としての覚悟を堂々とした美文で書き連ねていくが、それが人の心を強く打つのは、最澄の自己凝視が徹底しているからだろう。最澄は、嗜虐《しぎやく》的なまでに悔悟し懺悔する。
「苦因《くいん》を知《し》りて而《しか》も苦果《くか》を畏《おそ》れざるを釈尊《しやくそん》は闡提《せんだい》と遮《しや》したまひ 人身《にんしん》を得《え》て 徒《いたず》らに善業《ぜんごう》を作《な》さざるを聖教《しようぎよう》には空手《くうしゆ》と嘖《せ》めたまふ
是《ここ》に於《おい》て
愚《ぐ》が中《なか》の極愚《ごくぐ》 狂《おう》が中の極狂《ごくおう》 塵禿《じんとく》の有情《うじよう》、底下《ていげ》の最澄《さいちよう》 上《かみ》は諸仏《しよぶつ》に違《い》し 中《なかごろ》は皇法《おうぼう》に背《そむ》き 下《しも》は孝礼《こうれい》を闕《か》く 謹《つつしみ》て迷狂《めいおう》の心《しん》に随《したが》い三二《さんに》の願《がん》を発《はつ》す」
最澄が生涯のうちに書いた文章の中でも、このくだりは最も有名な文章の一つなので、あえて紹介したが、つまり最澄は、釈迦の教え、諸仏の教えから遥かに遠く、皇法に背き、人間社会の孝礼を欠く自分は「最低の人間」だとして、謹んで願を発する。
その願とは次の五つ。真の仏道をきわめ、真理を照らす心を得ないうちは、「世間に出ない」「才芸を見むきもしない」「信者の法会にあずからない」「世間への人事、縁務につかない」、そして、修行によって得る仏の功徳は、自分だけではなく、すべての人たちに回旋して、「ことごとく菩提を得させよう」というものである。最澄は、自分が真の仏道をきわめることが、「仏国土を浄《きよ》め」「衆生を悟らせる」ことができると発願して、比叡山に入った。謙虚な自己反省と懺悔の裏には、青年僧らしい満々たる意欲もみえてくるようだ。最澄はなぜ、南都六宗が栄華をきわめてきた奈良を離れて、比叡山に籠ったのか。そこには自分の仏道をきわめ、正しい仏道を模索する青年僧の意欲もあったのではなかろうか。
〈そのころ、南都では桓武天皇によって長岡京遷都がはじまり、政界はいうまでもなく、仏教界も騒然としていて、最澄の夢を実現できる所ではなかったであろう。……一般には隠遁と見るのであるが、決して消極的に逃避したのではない。平城京から長岡京への遷都の動向をじっと見すえての入山であった。(参考文献13)〉
最澄の『願文』の中に出てくる「愚が中の極愚、狂《おう》が中の極狂」という言葉については、山田恵諦座主が、
「仏教では行にのみ専念して学のないものを愚といい、学にのみ片よって行がないのを狂という」
と解説するが、この言葉は、酒井にとってあとで重い意味を持ってくる。
最澄は山深く分け入り、比叡山の東の聖地に草庵をたて、ひたすら一切経論の読誦に励んだ。延暦七年(七八八年)、二十一歳のとき、一乗止観院《いちじようしかんいん》を建て、霊木に自ら刻んだ薬師如来の尊像を安置し、これを本尊とした。そして本尊の霊前に法灯をかかげて、「あきらけく後の仏のみ世までも 光りつたへよ法のともしび」と詠んだ。最澄の真摯《しんし》な祈りがこめられていた。この一乗止観院の跡が、現在の根本中堂である。
名声を高めていった最澄を、桓武《かんむ》天皇に推薦したのは和気清麻呂《わけのきよまろ》である。最澄が得度した翌年、五十四歳で即位した桓武天皇は、南都奈良の堕落した仏教界と政界の腐敗を断ち切るために、長岡京に遷都を断行しようとしたが、反対する勢力による暗殺事件などがあって失敗、今度は平安京に遷都を計画した。しかし、桓武天皇の生母、皇后などが次々と亡くなり、怨霊《おんりよう》に脅えた天皇は、平安京の東北が鬼門であることを知り、それにこだわった。このとき、比叡山で修行に励む最澄に、鬼門鎮めの祈祷をさせることを勧めたのが和気清麻呂で、桓武天皇は初めて最澄の存在を心強く思われた。そして延暦十三年(七九四年)、平安京が新しい都となった。同時に最澄は、桓武天皇という強力な大|外護《げご》者を得たわけである。
最澄は、延暦十六年(七九七年)に、宮中に仕える内|供奉《ぐぶ》十禅師の一人に選ばれ、三十一歳で初めて山を下りた。『願文』で発願してから十年余の籠山のあとで、最澄は桓武天皇によって、新都の指導的新仏教の若きエースとして迎えられたのだった。最澄は天皇の信頼のもとで、順風満帆の船出をしていった。
最澄は延暦二十二年(八○三年)、さらに仏法の奥義をきわめるため、天皇の命により、弟子の義真を連れて「還学生《げんがくしよう》」として入唐した。同じ遣唐使の船団の中に、七つ年少の空海が「留学生《るがくしよう》」として乗っていた。還学生は朝廷から費用が出ており、このときの最澄と空海の立場は大変な差があったが、奇しくも日本の仏教界に巨大な足跡を残すことになる双璧が同じ遣唐使の一員として「入唐求法」の旅に出、しかも四隻の船団のうち二隻が沈没し、別々に乗った最澄と空海の二隻だけが、無事に上陸したのも、不思議な因縁であろう。
最澄は天台山などで修行し、九ヵ月の在唐のあと、おびただしい経典を携えて帰国したが、桓武天皇がことのほか喜んだのは、最澄が金剛界《こんごうかい》と胎蔵界《たいぞうかい》の灌頂《かんじよう》を受け、密教の経典を持ってきたからだった。密教で大日如来《だいにちによらい》の「智」の面をあらわすのが金剛界であり、「理」の面をあらわすのが胎蔵界で、灌頂とはそれを授戒するとき、受者の頭頂に香水を灌《そそ》ぐ密教の儀式をいう。しかし実は、この密教は、帰国する船を待つわずかの間に修行したもので、本格的なものではなく雑密《ぞうみつ》だった。桓武天皇が天台宗を公認したあと、崩御されたのは、最澄が帰国して一年にも満たなかった。
最大の外護者を失った最澄と立場を代えるように、桓武天皇の死後半年目に帰国してきた空海が嵯峨天皇と結びつき、名声を確立していく。空海は「伝法《でんぽう》灌頂」という本格的な真言密教を修行してきた。桓武天皇に寵愛され、延暦二十五年(八○六年)に勅願の天台宗を開宗し、仏教界の最高地位まで上りつめた最澄だったが、最澄は年少の空海に弟子の礼さえとって、灌頂を授けてほしいと申し出た。密教の経典の借覧も申し込んだ。
最澄には自尊心がないのか。酒井のあと、昭和四十八年に出家得度した瀬戸内寂聴尼はこう書く。
〈私は最澄が自分の過ちを認めてから、空海に弟子の礼をとるまでの三年間の苦悩を、想像せずにはいられない。最澄はおそらく悩みに悩んだ末、虚心に過ちを認め、謙虚に自分を投げだし、見栄や虚栄の一切を捨てて、空海に頭を下げたのだと思う。それはひとえに最澄の持って生れた天真で玲瓏《れいろう》な純粋な性格によるものだろう。最澄の生涯の中で、この時ほど、最澄の稀有な人格の輝きを見たことはない。(参考文献14)〉
空海は最初、経典の借覧などに快く応じていたが、やがて最澄の最愛の弟子、泰範《たいはん》が間に入るにおよんで、二人の仲が決定的に離反していく。泰範は、最澄が空海から密教を学ばせるために留まらせた弟子だったが、最澄から空海に乗りかえた。ついに比叡山には戻らず、空海が泰範の代筆をして拒絶した。
「あなたは泰範に対し、生死を共にして天台宗を盛んにしたいと申されるが、竜の尾について名をあげたり、鳳凰の羽につかまって修行したのでは、蚊や蠅が苦労しないで大空を飛んだようなものです(略)。法華一乗と真言一乗とは優劣がないといわれるが、法を知る者でないと顕密の教えの区別がわからないようです。残念ながら泰範は帰りませんので許してほしい(参考文献14)」
という意味の手紙を、最澄はどんな思いで読んだのだろうか。最澄と空海は絶交するにいたった。
嵯峨天皇と空海が、かつての桓武天皇と最澄のように結びつき、空海は弘仁九年(八一八年)、高野山に伽藍《がらん》建立の結界を行った。このとき最澄は失意のどん底にあった。自分の原点は、法華一乗による「鎮護国家」と「衆生済度」にある、と改めて悟った最澄は、その後、南都仏教の徳一《とくいち》との間に激しく闘われた「三一|権実《ごんじつ》」の論争(後述)で、ますます法華一乗の信念に燃えた。南都旧仏教とはっきりと訣別するためには、大乗菩薩戒を授ける独立した戒壇院を建立しなければだめだ。優秀な僧侶も育てなければならない。最澄は、これが亡き桓武天皇に報いる道だと信じ、大乗戒壇の建立を願って、「天台法華宗年分学生式一首」(六条式)、「勧奨天台宗年分学生式一首」(八条式)、「天台法華宗年分度者・小向大式一首」(四条式)を嵯峨天皇に差し出したが、ことごとく黙殺された。南都仏教の猛反対を嵯峨天皇が恐れたからだった。この三つを総称して『山家学生式《さんげがくしようしき》』という。それでも最澄は、『顕戒論』三巻を書いて、大乗戒壇の建立を訴え続けた。
弟子の光定は、最澄の健康を気づかって、東奔西走した。弘仁十年(八一九年)に空海はすでに伝灯大法師位を授けられているのに、最澄は無視されている。やっと最澄にも下賜されたのは三年後の弘仁十三年(八二二年)である。だが、このとき最澄は、大乗戒壇の勅許がおりない失意の中で、病いに倒れ、余命の尽きることを予知していた。最澄は、天台法門と諸事を義真に託し、こまごまと遺言を残された。
「心形《しんぎよう》久しく労して 一生|此《ここ》に窮《きわ》まる」
という言葉が悲痛である。
そして、無念の思いは、自分の信念を未来に託する最後の遺言となって、弟子たちの頬をあつく濡らした。
「我が為に仏を作る勿《なか》れ。我が為に経を写す勿れ。我が志を述べよ」
最澄はこの年、弘仁十三年六月四日、中道院において、波乱と苦難に満ちた五十六歳の生涯を閉じた。悲願の大乗戒壇の勅許がおりたのはその七日後、六月十一日のことだった。そして翌弘仁十四年二月二十六日には、比叡山寺を改めて、「延暦寺」の寺号を賜わった。さらに貞観八年(八六六年)にいたり、相応和尚の奉によって、清和天皇から「伝教大師」の諡号《しごう》を賜わった。年号を寺号として賜わったのも、大師号の下賜も天台宗が最初であった。
天台宗は「天台、密教、禅、戒の四要素を総合したもの(参考文献3)」である。最澄の志は受け継がれ、鎌倉時代になって、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元、一遍といった各宗派の開祖を輩出し、比叡山は「日本仏教の母山」となった。
〈世人は、弘法大師は後輩ながら、入唐して完璧な真言密教を長安で学んだために、高野山の真言宗は完成されていたので、今日まで真言密教を伝えたといい、天台宗は未完成の仏教を伝教大師が伝えたから、鎌倉新仏教に分解してしまったという。しかし、伝教大師の円密禅戒の四宗相承の天台宗だったから鎌倉新仏教に発展したと言わねばならないのである。(参考文献13)〉
最澄の「不滅の法灯」は、その後今にいたるまで千二百年、連綿として消えることなくともり続け、山田座主、葉上師らの名僧知識、酒井ら回峰行者らに受け継がれている。そして最澄に伝教大師の諡号《しごう》を賜わった相応《そうおう》和尚《かしよう》こそ、酒井が生死を賭ける千日回峰の創始者なのである。
酒井は、最澄やその後の天台宗を発展させてきた慈覚《じかく》大師|円仁《えんにん》(七九四―八六四年)、智証《ちしよう》大師|円珍《えんちん》(八一四―八九一年)あるいは慈恵《じけい》大師|良源《りようげん》(元三《がんさん》大師)、恵心《えしん》僧都|源信《げんしん》といった名僧たちのことを勉強するにつれ、今まで歴史上の人物でしかなかった、自分には関係ない*シ僧たちが、どこかに自分と同じ人間くさいものを持っていることを知った。すると、意外にも身近な存在に感じられるときもあった。
「まあ、この時期がわしの人生の中で一番勉強したのと違うかな。小学校は遊びっぱなし、慶応の夜間は落第生、予科練は勉強どころじゃなかった。また落第生のレッテルをはられちゃうか、比叡山におられるか、その最後の分かれ道だったからね。やっぱり小寺先生のお陰やねえ。うん、勉強っていうのは、ホンマに環境やなあ。それで、ずうっとその勢いでもって、最終的には一番か二番で卒業できたんだ」
環境といえば、最澄は「おのずから住めば持戒《じかい》のこの山は、まことなるかな依身《いしん》より依所《いしよ》」という歌を詠み、心のあり方や持ち方も大切だが、修行する依所(環境)が最も大切だ、として、比叡山を「山学山修」の修行の場にした。酒井は「依身より依所」の有効性を身をもって証明した男で、本科三年を卒業するときは学院長賞を受けたほど勉強するようになっていた。それも相変わらず小僧生活をした上での努力である。そして昭和四十五年には研究科に進んだ。
研究科では、当時、叡山学院名誉教授だった山田恵諦師から、「法華経と伝教大師」という講義も受けた。
「お座主さんは原稿を持って来て、原稿を見ながら講義していく。これは大変だから、みんな一生懸命に筆記するんだ。その中から試験が出るからね。お座主さんの試験は難しかったね。でも、結構楽しく教えてくれていたよ」
酒井は研究科でも優秀な成績をおさめ、特に「伝教大師の神仏習合について」という卒業論文は、天台座主賞を受賞するという大変な名誉を受けた。仏教のことなど何もわからなかった男が、ここまできた。酒井はさらりとしかいわないが、並たいていの努力ではなかったろう。小僧生活と学業を両立させるためには超人的≠ネ努力があったはずである。小寺師も小林師も、酒井のために喜んだ。
ところで、酒井が優秀な小僧になったことで新たな問題が出てきた。比叡山の僧として修行するためには、幾つかの関門を通らなければならない。ことに住職に進むための「本山交衆《ほんざんきようしゆう》」に加入するためには、相当むずかしい規則と詮議がある。小僧としての生活を見守りながら、僧侶としての将来性があるかどうか、それを見きわめるのもその一つだが、本山交衆に進むには、「三十五歳以下の男子」と規則で決められていた。酒井はこのとき四十六歳で資格はなかった。
しかし、小林師は、酒井は立派な比叡山の僧になる、と確信した。小林師は本山交衆制度の創設にかかわり、規定を作成した一人である。そこで年齢制限の項に、
「ただし、執行《しぎよう》が認める者はそのかぎりではない」
と新しい一項をつけ加えることを、一山会議に提出した。
その前に、小林師は執行に相談している。執行は延暦寺行政の最高責任者であり、当時は、戦後最初の千日回峰を達成した叡南祖賢師である。
「酒井は、真面目なやつだから、何とかなりませんか」
「わしもそう思う。あれは古い形の最後の小僧となるのと違うか。山に置いとくことを考えてやらなくちゃなあ」
こういう話になって、一山会議で年齢制限の項に特別な一項をつけ加えることが提案された。一山会議に出席した一山の住職たちにも、これが酒井を前提にしていることはわかっている。全員が満場一致で承認した。
「それほど酒井に対する比叡山の僧たちの信頼が厚かった。あれは本物だ、とみんなが異口同音に認めて、誰一人として反対する人はいませんでした。一個人のために規則を変更するなんて、叡山の歴史始まって以来ですよ」
小林師の述懐である。
こうして本山交衆に加入することを全員一致で認められた酒井は、翌昭和四十六年四月一日から、三年籠山に入ることになった。
叡山学院で教えた山田恵諦座主は、学院時代の酒井のことをはっきりと覚えている。
〈親子ほどに違う青少年に伍して上手に融け合うて動いているその人柄が頗《すこぶ》る自然であり、その印象が私に顔や名前を覚えさせたのである。比叡山の坊さんになりたいという念願を持っていると聴いたので、方面によってはよい坊さんになれるかも知れないと夢を託した。求めようとしても求め得られない出世間的な日常生活が自然になされているからである。しかし結果は私の考えていた方面とは全く異った方面に進んで行った。年齢的に老化する体力が堪え得られない方向に進んで行ったからである。結果的に見て奇蹟である。しかもこれは前例もなければ将来再び生れない奇蹟ではないであろうか。(参考文献15)〉
酒井はその「奇蹟」に向かって踏み出そうとしている。
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第四章 三年籠山 「行」に命を懸けてみよう
1 比叡山の三大地獄
東塔、西塔、横川《よかわ》の三塔十六谷からなる比叡山には、昔から三大地獄があるといわれている。「回峰地獄」「掃除地獄」「看経《かんきん》地獄」のことで、地獄とは厳しい宗教的修行の極限の世界をさす。現在も比叡山に伝わる行は、東塔の無動寺を本流とする十二年|籠山《ろうざん》による千日回峰行、宗祖・伝教大師最澄の祖廟《そびよう》浄土院での「侍真《じしん》制度」による十二年籠山行が代表的な修行形態として知られているが、「回峰地獄」とは千日回峰行のことであり、「掃除地獄」は浄土院での修行の厳しさをいう。そして横川の修行僧たちがひたすら読経三昧に明けくれる「看経地獄」もまた想像を絶する。
酒井が昭和四十六年から入った三年籠山は、比叡山の住職になるためには必ず経なければならない修行で、その起源はいずれも最澄が定めた十二年籠山による山学山修の制度に端を発している。いわば十二年籠山の基本的原型である。
酒井は最初に横川の行院や居士林《こじりん》で基本的な修行をしたあと、浄土院での修行に入った。東塔にある総本堂、根本中堂から阿弥陀堂、戒壇院などを経て約一キロ余、比叡山で最も崇高な渓道《たにみち》を歩むと、樹海の底に浄土院がある。中道院で入寂した最澄の遺骸を、愛弟子の第三世天台座主、慈覚大師円仁が、中国五台山にならってここに浄土院を建てて葬ったもので、杉木立や樅《もみ》の木などが古色蒼然としてあたりを囲む祖廟は、天台宗にとって最も清浄、森厳な聖域である。
酒井は身が引きしまる思いで緊張した。ここに御宗祖さまが永遠の眠りにつかれ、われわれを見守って下さっている、その尊い祖廟にこれから自分が仕えるのかと思うと、心に熱い感動を覚えた。浄土院は、清浄な白壁が張りめぐらされた中にある。正面の門は開いてはいるが、前に柵があって、ふだんはここから入ることはできない。左側の脇門から入ると政所《まんどころ》があり、中庭は白砂が一面に敷かれ、きれいに掃除された清浄な庭には木の葉一枚落ちていない。正面に「浄土院」の額がかかった阿弥陀堂が建ち、右手を回ってさらに進むと、そこに最澄の祖廟が神聖な霊気につつまれている。祖廟の前には沙羅の木と菩提樹が一対、左右に枝を伸ばし、緑の影がやさしくあたりをおおっていた。無論、沙羅の木と菩提樹は、釈迦の悟りと入寂にゆかりのある聖なる樹である。
浄土院での修行は、それこそ全智全能をふりしぼって無私の精神で尽くさなければ成しとげることはおぼつかない。「侍真《じしん》」とは、宗祖・最澄が今も生きておわすがごとく仕えるのである。酒井は午前三時に「覚心」する。比叡山では起床を覚心、就寝を「放心」という。そして朝のお勤め、朝座をしたのち、特別の釜で精進料理を作り、最澄に「献膳」する。献膳は午前四時と十時の二回行う。そのあと額《ひたい》、両肱、両膝の五所を地につける五体投地の礼拝を繰り返し、読経を約一時間ほど、さらに阿弥陀堂での修法などがびっしりと組まれている。食事は献膳したものを拝受して一日二回いただく。十時にはまた昼座があり、午後には夜のお勤め、夕座に打ち込むのだ。
そして、この籠山行が地獄≠ニいわれるのは、昼座と夕座の間にする庭掃除があるからだった。宗祖・最澄の眠る霊域には塵一つ落ちていてはならない。庭には木の葉一枚散っていてはいけない。そのため酒井は這いつくばって雑草をむしった。それは比較的容易だとしても、祖廟は樹海の底にある。木の葉が風に舞って広い庭にすぐ散ってくる。それらの木の葉を一枚残らず掃き清めなければならないのである。拾っても拾っても木の葉は庭に舞い散る。いつも清浄な庭に保つのは大変な重労働だった。
しかし、この「行」は、修行僧を苦しめるためになされるものではない。祖廟を清潔に保つ意味ももちろんあるが、一方で、修行僧の健康保持の運動ともなっているのだ。比叡山には、「論《ろん》、湿《しつ》、寒《かん》、貧《ひん》」という言葉がある。琵琶湖によって湿気が多く、冬の厳寒時は零下十度以下になるほど寒い。こうした厳しい自然環境の中で、清貧に甘んじ、厳格な学問と修行に励むのが比叡山の修行僧である。どうしても健康管理が必要となる。ことに浄土院のある場所は摺《す》り鉢の底のような樹海の中にあり、真夏でも二、三時間しか陽がささない。阿弥陀堂に籠っているだけでは、たちまち結核か大病を患いかねない。そこで庭掃除をすることによって陽にあたり、体を動かして血行を良くするのである。したがって、掃除地獄は、一方で修行僧が生存する上での大事な支えにもなっており、地獄どころか極楽だ、と感謝するようになるのである。
この庭掃除が終わり、夕座のあとは自室で読書などをして自己研修し、午後十一時に放心(就寝)する。これが一日の日課である。酒井は最初の一日が終わったあと、緊張と重労働でさすがに疲れを覚えたが、酒井はすでに、勉強嫌いで、暇さえあればすぐ寝てしまうような懈怠《けたい》な男から変貌して、仏門の中に入って新たに生き甲斐を模索する男に生まれ変わっている。最澄がなぜ山学山修にこだわったのか、そして「十二年籠山制度」をもうけ、十二年という年月にどんな意味を込めたのか、酒井が勉強すべき疑問は次々とわき、自室でも激しく勉強に精励していった。
比叡山では、天台宗を開いた伝教大師最澄を「根本《こんぽん》大師」とも尊称するが、最澄は南都仏教と訣別し、新しい仏教の天台教団を確立するために、弘仁九年(八一八年)、仏教史上かつてなかった『四分律』に基づく小乗二百五十戒の棄捨を宣言した。『四分律』というのは南都仏教が依っている戒律で、僧侶になるためには、国家の法律「僧尼令」に定められた国家公認の東大寺、九州筑紫の観世音寺、関東|下野《しもつけ》の薬師寺のいずれかの戒壇で小乗二百五十戒を受けなければならない。これに対して最澄は、『四分律』の戒に代え、『法華経』の精神に基づいて『梵網経《ぼんもうきよう》』に説かれている大乗戒に依るべきだ、と主張した。その結果、南都仏教の代表的宗派である法相宗の名学僧・徳一との間に「三一権実」論争といわれる凄絶な対立論争が五年間も展開されたのである。
徳一は藤原仲麻呂の息《むすこ》といわれ、徳性、見識、人格いずれにも秀でた法相宗の名僧知識で、法相宗では「五性各別」といって、人間にも区別があり、誰でもが仏になれるわけではない、と説く。奈良国家を支えたエリートの僧侶階級に受け入れられたのは当然だった。しかし、最澄はこれに対し、「一切衆生悉有仏性《いつさいしゆじようしつうぶつしよう》」、つまりすべてのものが仏になる性質を持っている。一切の生類の有情≠セけではなく、一木一草、草木や石など精神作用のない無情≠ノさえも仏性があるとする「有情無情」を説き、発心すれば誰もが菩薩になれる、という。法華三乗教と天台の法華一乗教のどちらがすぐれた仏教か、というこの論争は、奈良の南都仏教と新都平安京に生まれた新興仏教の熾烈《しれつ》な対立でもあった。
〈公正に言ってどちらも釈尊の教えならば優劣があるわけはないが、伝教大師は時代観、日本の国土観などの立場から、天台法華一乗の教えが最高だと考えられての論争であった。三一権実論は仏性の問題である。徳一は法相宗の立場から三乗とは小乗仏教のことであり、声聞《しようもん》、縁覚、菩薩の三つの乗りものを考え、それぞれに仏果を得る修行と方法とがあるとする。しかし、伝教大師の一乗仏教は大乗仏教なので、一切衆生ことごとく仏性があるから、『法華経』の教えに従えばすべてが成仏できるとし、五性各別を主張する徳一を批判し、釈迦の真実義は一乗仏教だと主張したのである。(参考文献13)〉
大乗仏教を広めるためには、大乗戒による天台宗独自の菩薩僧を育成しなければならない。最澄は朝廷に差し出した六条式に、天台宗に二人の年分度者を認めて欲しいと嘆願したが、朝廷から勅許が出なかった。この六条式を含む「山家学生式」を酒井たちは叡山学院で教わった。その冒頭は今ではそらでいえるほどだ。
「国宝《こくほう》とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名《な》づけて国宝と為す。故に古人の言わく、径寸《けいすん》十枚これ国宝に非《あら》ず。一隅を照らすこれ則《すなわ》ち国宝なりと。古哲又言く、能《よ》く言いて行うこと能《あた》わざるは国の師なり。能く行いて言うこと能わざるは国の用《ゆう》なり。能く行い能く言うは国の宝なり。三品《さんぽん》の内、唯言うこと能わず行うこと能わざるを国の賊と為すと。及《すなわ》ち道心あるの仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極《きわみ》なり」
最澄は、「道心」(菩提心)のある人を国宝とし、「一隅を照らす人」「悪事を己に向け好事を他に与える人」を仏教の理想的人物像、つまり菩薩僧と規定した。そして「国宝《こくほう》」「国師《こくし》」「国用《こくゆう》」と三種に分けて人材育成を図った。現在では、「一隅を照らす」という言葉は、天台宗の社会的な実践運動の精神になっている。そして、「悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極なり」、つまり「忘己《もうこ》利他《りた》」の精神は、天台宗の最も大切な宗教的なバックボーンである。
こうした菩薩僧を育成するには、汚辱と腐敗に満ちている市井ではできない。それは奈良の都市仏教の頽廃ぶりをみれば明らかだ。中国の天台大師が、天台止観を実践するには深山幽谷が最上と考えていたことを最澄は知っていた。そして末法思想を持っていた最澄は、「この五濁悪世の法滅の時代に法を守り清浄を守れるのは、山学山修による以外にない(16)」という信念を持っていた、と叡山学院助教授、武覚超《たけかくちよう》は指摘している。
最澄の天台宗は「顕密一致」の実践宗教である。得度を認められたものは「止観業《しかんぎよう》」(顕教の修行)か「遮那業《しやなぎよう》」(密教の修行)のどちらかを専攻する。止観業というのは、天台止観を専攻して「四種三昧」を実践することであり、遮那業は天台密教を専攻して、「大日経」や諸種の密教真言および護国の真言などをきわめることになっていた。その修学方法は、前半の六年間は「聞慧《もんね》」(学問修学)を主とし、「思慧」(思索)と「修慧」(実践修行)を従とする。また毎日の修学内容は、三分の二を「内学」(仏教学・天台学)、三分の一を「外学」(仏教以外の学問)にあてるよう規定した。そして後半の六年間は、前半の六年間とは逆に、思慧と修慧を主とし、聞慧を従とした。
武覚超が指摘する。
〈このような聞・思・修三慧の修学課程は、仏教の教えを単に知識や学問として学ぶだけでなく、それを熟読玩味して深く思索し、さらに教えを自らの体験として日常生活の上に具現していくことを示したもので、仏教を学ぶ者の真のあり方を示唆したものといわなければならない。(16)〉
ここに「偉大な教育者」の最澄の精神をみることができる。この十二年間は、比叡山に籠って、ひたすら修学修行に励まなければならない。乞食《こつじき》以外に山を下りることは一切許されなかった。ところで、なぜ籠山を十二年間と定めたのか、最澄は『顕戒論』にいう。
「明らかに知んぬ、最下鈍の者も十二年を経れば必ず一験を得る」
いかに最下鈍、能力の劣ったものであっても、一つのことを十二年間続けるなら、必ず一験を得ることができる、という最澄の信念からきていた。
酒井の胸を激しく揺り動かしたのは、この「最下鈍の者も十二年を経れば必ず一験を得る」という最澄の言葉だった。人生の落ちこぼれ≠フ自分も、この比叡山でひたすら修行すれば、何か「一験」を得ることができるのだろうか。最澄と直接|共に《ヽヽ》生活し、お仕えした浄土院での一ヵ月の修行は、たちまちのうちに終わってしまった。酒井はその次には、無動寺での「百日回峰」に入らなければならない。
本格的な浄土院での侍真制度による十二年籠山行は、これを十二年間続けるのである。
この侍真制度が確立するのは、元亀二年(一五七一年)の織田信長の全山焼打ち後、叡山の復興が成り(参考文献16)、中世末期の乱れた天台教学を正し、「頽廃堕落した僧風を刷新せんとす。戒律復興の運動」が起こった江戸時代の元禄年間に霊空光謙《れいくうこうけん》(一六五二―一七三九年)が、久しく途絶えていた十二年籠山制を復活させ、この侍真制度も定めてからである。それ以来、現在籠山中の侍真・北沢宏泰師に至るまで百十五名の侍真僧を数えるが、一紀十二年満行した僧は七十八人である。
無論、誰もが十二年籠山行に入れるわけではない。「好相行《こうそうぎよう》」といわれ、一仏に対して一つひとつ焼香、供華《くか》し、各仏名を唱えながら五体投地の礼拝を一日三千回、不眠不臥で繰り返す。すると身心清浄となり、「仏の好相を感得する」とされる。それを認めるのは、すでに好相を感得された先達である籠山比丘で、先達が認めないうちは無制限に続けなければならない。この一日三千回の五体投地は苛烈きわまりないもので、喉はつぶれ、体中が流血して肉がはみだし、意識が朦朧としてそのまま悶絶することもある。昭和に入って三人目、昭和四十五年に遮那業で満紀した中野英賢師は、肉体的な苦痛よりも、精神的な苦痛が苛烈だったと告白している。
〈疑惑、不安、甘え、おごり、焦燥、憎悪、絶望、自棄、神も仏もあるものか、という狂気にも似た怨念。ついには死んでもよいと思う諦め。それらの想念に身を焼かれる毎日だった。(参考文献17)〉
そして、ついに三ヵ月目、中野師は「好相を見た」と認められ、侍真として十二年籠山行に入ることを許されたが、好相を感得した瞬間を、「激しい感動と歓喜に打たれた。森羅万象すべてが光に満ち満ちた。私は光を観た」と、劇的に記している。『梵網経』には、
「好相とは、仏来りて摩頂し、光を見、華《はな》を見る種々の異相にして、便《すなわ》ち罪を滅することを得るなり」
と説かれているが、こうした宗教的奇瑞は体験した僧でなければわからないのだろう。
天台宗の修行僧の間ではよく交わされる独得の秘語がある。
「きみは不動明王を見たか」という言葉がそれで、特に初めて「百日回峰」を行う新行《しんぎよう》の間で交わされるが、不動明王を感得しなければ一人前の行者とは認められないからだ。
酒井も、この三年籠山中に不思議な体験をした。四十六歳の酒井は、二十代の若い人たちと互角に籠山するためには、自分が人一倍努力しなければならないことを自覚していた。若い人たちは一回で何でもできるが、自分は二回も三回も復習しなければ追いつかない。そこでみんなが一回お勤めするところを、深夜、みんなが寝ている間に自分だけはもう一回よけいにお参りした。ある夜、根本中堂から浄土院の政所に帰る行の途中で、不思議な光景にあった。
「ちょうど夜が明けてきてね、琵琶湖のほうからスーッと、かげろうみたいに帯状に真っ赤に燃えた太陽が上がってきたの。西の空にはね、まだでかいお月さんが出ていて、白夜みたいな青白い光を発している。朝日と月の光が渾然《こんぜん》となって不思議な世界なの。自分中心のところに、白夜のようなお月さんと真っ赤な太陽があるわけ。そのとき思ったね。弁天堂の曼陀羅《まんだら》を見たことがあるけど、こっちにお月さんが赤く塗ってあって、太陽が上がっている。そんなばかな話があるかと、そのときは思っていたけど、あの絵は嘘じゃないな、と初めてわかったの」
根本中堂の本尊、薬師如来の脇侍は日光菩薩と月光《がつこう》菩薩である。太陽が日光菩薩で、お月さんが月光菩薩なら、本尊の薬師如来はどこだ。それはとりもなおさず、立ちつくしている自分ではないか。
「ああ、これはお薬師さんのように、自分の心の中に仏さんを見ろ、ということだと思ったね。それで、自分なりにこじつけちゃってね、お薬師さんは医療の仏さまというか、心の病にある人たちを救ってくれる仏さまでしょ、これから先、お前さんはできることなら『行』で生きていったほうがいいよ、という暗示を与えてくれたのかなと思ったの。結局、それが自分のためにも人さまのためにもなる、お薬師さんの精神にもかなうわね。そのときから、行に残りの人生をゆだねてみようと真剣に考えるようになったんだ」
酒井はこの年、昭和四十七年三月二十九日から「百日回峰」に入った。回峰行の流派としては、東塔無動寺谷の「玉泉房流」、西塔の「石泉坊流」、横川の「恵光坊流」の行門《ぎようもん》三流があるが、正教坊流はすたれ、横川の恵光坊流は、箱崎文応師が昭和十九年に百日回峰をして一回復活させたが、あとはまた途絶えている。無動寺の流れが「本流」とされ、回峰行の創始者、建立大師相応和尚が創建した明王堂を本堂として、信長の焼打ち以後は現在にいたるまで連綿として回峰行が伝承され実践し続けられている。相応和尚が千日回峰を始めたいきさつについてはあとでふれるが、回峰行は、役行者《えんのぎようじや》を開祖とする南山修験に対して北嶺の修験ともいわれる。三塔十六谷の聖跡二百六十余ヵ所を「一切衆生|悉有仏性《しつうぶつしよう》」、あらゆるものに仏の姿を見いだして礼拝巡拝する「但行礼拝《たんぎようらいはい》」の難行である。
酒井は、三月二十九日出峰の一週間前から「前行」に入った。酒井のように初めて百日回峰を行う新行さんは、比叡山中の峰道を約三十キロ巡拝するために、まずどこで何を礼拝し、何を唱えるのか、それを正確に覚えなければならない。かといって、すぐに覚えられるわけがないから、「手文《てぶみ》」という、いわばメモ帳を作る。昔から伝承されてきた原本をもとに、和紙に毛筆で書き写す。そして道順と礼拝の場所や所作《しよさ》を頭の中に叩き込むのである。この「手文」を作る美濃紙も叡山から渡される。
回峰行は、昭和の比叡山の行の中興の祖≠ニもいわれる叡南祖賢師が細かく書き残した記録によって、きちんと伝承されてきたが、その規則は厳格で、回峰行に一度入ったら、途中でいかなることが起きようとも、絶対にやめることは許されない。そのときは「自害」しなければならないのだ。
酒井は「手文」を写しながら、自分が興奮しているのがわかった。
「偶然、宮本一乗さんの出堂の光景を見て、初めて千日回峰のことを知ったんだけど、そのとき回峰行の行者さんて凄いな、と憧れみたいなものを持った。それがまさか、自分が回峰行をするようになるとは夢にも思わなかったからね。うれしさが半分と自分にできるのかな、という不安もあった。手文を写していると、巡拝する場所が浮かんできてね、いよいよだと思った」
初出峰の朝、酒井は午前零時にはもう起きていた。百日回峰に出発するといっても、朝、昼、夕方のお勤めはいつものようにやる。「法華|懺法《せんぽう》」「不動明王供養経」「建立大師|法楽《ほうらく》」などのお経を唱えながら、酒井は回峰行の成功を祈願した。勤行をすませてから、出発の準備をする。白の麻の浄衣を着て、野袴をはいて、手甲|脚絆《きやはん》をつける。すべて白一色で、これは「死に装束」を意味する。素足に草鞋《わらじ》をはいた。この草鞋は坂本の農家で編んだ回峰行者用のもので八葉蓮台形のものである。百日回峰では足袋をはくことは許されず、しかも百日を八十足でまかなうことに決められている。身仕度がすむと、最後に「死出紐《しでひも》」を肩にかけ、降魔の剣と同時に短刀を腰にさす。これは万一、行ができなくなった場合、この紐で首を縊《くく》って死ね、ということであり、短刀も自害用のものである。さらに蓮華笠には、三途の川を渡るときの六文銭がついている。この笠もかぶることは許されず、「未敷蓮華《みふれんげ》」といって、蓮華がまだ開いていない形のまま持って歩く。そして、「手文」や供華などを入れた供華袋を肩から吊し、右手に檜扇、左手に念珠を持つ。この念珠も「梅大なる珠」と決められている。準備が終わると、酒井は玄関先で先達を待った。初日だけは先達が回峰道を案内してくれるのである。先達は光永澄道師だった。
午前一時半、酒井はいよいよ出峰した。小田原提灯で足元を照らしながら先達が先を進む。酒井も遅れないように早足であとを追う。無動寺谷を出峰した先達と酒井は、根本中堂へ出て総本堂にまず礼拝し、戒壇院に回る。戒壇院は、最澄が悲願とした大乗戒を受けたお堂で、生前には間に合わず、没後七日目にようやく勅許を受けた。このとき弟子たちは相擁して感泣したという。これは天長五年(八二八年)、第一世座主義真によって創建された。比叡山中で最も重要なお堂であり、内陣には釈迦牟尼仏《しやかむにぶつ》と文殊《もんじゆ》、弥勒《みろく》両菩薩が祀られている。石段を登ると、重要文化財に指定されている二層の戒壇院が、小田原提灯に照らされて浮かびあがってきた。
東塔から西塔へ抜けて、祖廟浄土院を礼拝する。自分も一ヵ月ほどここで仕え、今も籠山比丘の律僧が修行している。闇の中の薄明りになぜか心が安堵した。浄土院から常行《じようぎよう》堂、法華堂へと急ぐ。ここは同じ型のお堂が並んでいて、渡り廊下でつながっている。弁慶のにない堂ともいわれるのは、弁慶がこの二つのお堂をかついだ、という伝説があるからだ。酒井は百日回峰のあと、このにない堂で凄絶な「常行|三昧《ざんまい》」に挑むことになるのだ。
にない堂から釈迦堂へと進む。釈迦堂は、信長の焼打ちのあと、豊臣秀吉が三井寺《みいでら》の金堂を移築して本堂にしたもので、最澄が自分で刻んだ釈迦如来を祀ってある。近くには信長の焼打ちからただ一堂焼失をまぬがれた瑠璃《るり》堂がひっそりと建っている。西塔から横川へは峰づたいに行者道を歩く。途中に「玉体杉《ぎよくたいすぎ》」という周囲十メートルはあろうかと思われる巨木の老杉が天を突いて立っていた。そこに蓮台石がある。
「ここだけは腰をかけてよろしい。ただし休むのではなく、ここから御所《ごしよ》を拝むのだ」
先達がそう教える。酒井はいわれた通りにした。「手文」を写すとき、ある程度は覚えたつもりだったのが、いざ出峰してみたら、希望に満ちた夢などは雲散霧消して、光永師のあとを追うだけで精一杯なのである。
これは新行さんなら誰でも経験することで、たとえば、酒井より前、昭和三十八年に二十八歳で百日回峰をした光永師自身でさえこう回想している。
〈途中、玉体杉がある。そこで、京都の御所に向かって、玉体加持をする。玉体、つまり天皇のお体である。天皇のお体の安穏を念じることで、国の平安を祈る。……このとき、都の灯がたしかにこちらの網膜にうつるはずだが、灯を見たか、といわれても、まるで記憶はない。ただ、前を行く覚照阿闍梨の火だけが、頼りなのである。そのうえ礼拝所に着くたびに、手文をとりだして、提灯のあかりをたよりに、型どおりの作用をしなければならない。それはもう、しどろもどろなのである。(参考文献18)〉
ここまでが約四分の一の行程である。横川《よかわ》では、慈覚大師円仁が創建した首楞厳院《しゆりようごんいん》のあとの横川中堂がひときわ壮麗な伽藍《がらん》を誇っている。これは昭和十七年に落雷のため炎上し、昭和四十六年に再建されたもので、国宝の聖観世音菩薩が祀られている。さらに横川は、『往生要集』の著者であり、日本浄土教の開祖、恵心僧都源信にゆかりのある地で、昔は阿弥陀堂があった。現在はないが、それも在るもの≠ニして礼拝するのである。横川は無動寺谷のちょうど反対側の北にあたり、横川から今度は八王子を一気に坂本へ下る。そして日吉神社を巡拝したあと、また坂を上って無動寺谷に帰って来たのは十時半を過ぎていた。約三十キロを九時間かかったことになる。
次の日からは一人の孤独な回峰になった。漆黒の闇の世界を、小田原提灯の火一つで歩くのは、得体の知れない恐怖に襲われる。自分の足音が妙に大きく聞こえる。峰道を登るとき、ガサッと音がした。野兎が駆けて行った。酒井は「手文」を見ては、礼拝し、真言を唱え、印を結ぶ。とにかく前へ進まなければならない。同じ時期、酒井を入れて五人の新行さんが百日回峰を行っていたが、回峰行は一人でやるものだから、毎朝それぞれが時間をずらして出峰して行く。しかし、三十キロという長い道のりになると、どうしてもスピードに差が出てきて、顔を合わせる場面もある。すると、どうしてもライバル心が刺激されて競争になる。酒井は、若い連中に負けていられない、という思いにかられた。それには一日も早くコースを覚えて、「手文」を見なくても巡拝できるようにすることだ。
しかし実際にはもたつきの連続であった。お経にしても、聖跡によってそれぞれ違ってくるのだ。少しなれてきたのは一週間が過ぎたあたりからだったが、そこで初めて気がついた。今まで無我夢中でわからなかったが、足が異様に腫れあがっていた。比叡の行者道は、三月下旬から四月上旬でもまだ残雪が何ヵ所にもある。素足に草鞋でそうした難所を三十キロも毎日走るがごとく歩くのだから、足に異常があらわれるのは当然だった。
やがて足も治り、少し余裕が出てくると、今度は、なんでこんなに毎日毎日同じ道を真夜中に歩かなければならないのだろう、という思いに一瞬襲われることがあった。その度に、自分で選んだ道じゃないか、おれはいったい何を考えてるんだ。この年で若い連中にまじって行ができるだけでも幸せと思わなければバチがあたる、と思い直す。一ヵ月が過ぎ、二ヵ月に入ると、心がすわり、迷いはもはやなかった。
そして七月六日、酒井は回峰初百日を立派に満行した。自分にもできたという満足感と同時に、苦しかった百日回峰がいざ終わってみると、意外にあっけなかったような、もっと続けていたいような感慨に襲われた。酒井には十分な余力が残されていた。
2 幻の常行三昧
酒井は百日回峰を無事に終わると、次の行に入ることが義務づけられていた。三年籠山中に果たさなければならない修行として、祖廟浄土院での侍真奉仕、百日回峰、そして「四種三昧」のうちから「常坐三昧《じようざざんまい》」か「常行《じようぎよう》三昧」のどちらか一つ、この三つが定められている。四種三昧とは、比叡山で最も歴史が古く、基本的な修行で、「常坐三昧」「常行三昧」「半行半坐三昧」「非行非坐三昧」の四種をさす。これは天台宗の高祖、中国の天台大師が法華経の修行法を説いた「摩訶止観《まかしかん》」に示されている止観業の修行である。
たとえば、常坐三昧は、静寂な堂内に一人で籠り、九十日間を一期として、ひたすら座禅に専念する。二度の食事と便所に立つ以外は結跏趺坐《けつかふざ》して、「すべての世界の一つひとつの動きはみな仏の顕現であり、自己もまた仏と同体である」と観想するのである。睡眠も深夜、二時間ほど仮眠が許されるだけだ。
酒井は、常坐三昧ではなく、常行三昧のほうを選んだ。これは小寺師と小林師をびっくりさせた。これは常坐三昧にもまして凄まじい行である。期間は一期九十日間で同じだが、こちらのほうは堂内に籠って、「ナムアミダブツ」を口称して、昼夜を分かたず本尊の阿弥陀仏のまわりをぐるぐると繞堂《にようどう》する。つまり、念仏を唱えて歩き回る。決して坐臥することは許されない。仮眠も一メートル四方の縄床で二時間ほどしか許されない。いかに厳しいものか。明治時代にある僧がこれに挑んだが、足が腫れあがって倒れ、一週間後に「常行三昧はしないようにして欲しい」と遺言をして死んだ、と伝えられている。以後は途絶えていた。それ以前にも、そういう死亡例が幾つかあったと推測される。その荒行に挑戦してみたい、と酒井はいうのだ。
小寺師は反対した。
「常行三昧で死んだという話は聞いているけど、やりとげたという人の話は聞いたことがない。命を落とすようなことをしちゃいかん。お前さんは、叡山が規則まで変えて、三年籠山を許した男なんだから、命は粗末にするな」
比叡山に伝わる行を、小寺師が反対するというのも妙な話ではあったが、小寺師は学僧だけに、余計に弟子の酒井のことを心配したのであろう。しかし、酒井は一度決心したことは、師の反対といえども変えなかった。これは自分のための行だ。坐りっぱなしの常坐三昧より、歩き回ったほうが自分には向いている。明治以来絶えているというなら、それに挑戦してみるのもおもしろいじゃないか。自分は得度したのも遅いし、僧として出発したのも遅い。罪障消滅を願う心の一方で、叡山で修行したあかしを何か残しておきたい。そんな思いがこの時期の酒井にはあった。
酒井は昭和四十八年六月から、九十日間の常行三昧に入った。場所は西塔にある「にない堂」で、ここは釈迦堂を背景にして朱塗りの宝形造りの堂が、双子の堂のような形で並んでいる。右側が法華堂、左側が常行堂で、文禄四年(一五九五年)の建立と伝えられる。にない堂は杉木立の静寂の中にある。周囲の苔の緑が美しい。恵心僧都源信の流れをくむ浄土真宗の宗祖親鸞も、かつてはこの常行堂の堂僧であった、と伝えられている。
酒井が常行三昧を発願したとき、高川|慈照《じしよう》という二十六歳の青年僧が、これもまた同じく常行三昧を発願した。酒井と高川は親子ほど年齢の差があるが、叡山学院でも同期、本山|交衆《きようしゆう》も同じ三期生で、やはり三年籠山の最中だった。まったく同じ時期に、二人の男が常行三昧に入るとは比叡山の歴史にもないことで、全山が注視するところとなった。
六月一日、酒井は法華堂に籠り、高川は常行堂に入った。両堂とも五間四方の広さだが、内部は阿弥陀仏のまわりに朱塗りの中柱が四方に建っている。その柱と柱の間は約三メートル、手すりの横木が渡され、一つの隅に縄床が置かれてある。便所はお堂の横に設け、食事は助僧が運んでくる。酒井は堂内に籠って、ただ念仏を唱えながら阿弥陀仏の周囲を歩き回るのである。
「朝にお題目、夕に念仏」といわれるほど、法華と念仏が一体となっているのが比叡山の特徴で、にない堂はその象徴ともいえる。酒井が籠っている法華堂では法華経を誦《よ》んで礼拝を繰り返す。だが、このときは法華堂に小さい阿弥陀仏が特別に祀られた。常行堂の本尊は阿弥陀如来だから念仏を唱える。
常行三昧は、「歩々《ぶぶ》・念々《ねんねん》・唱々《しようしよう》・唯在阿弥陀仏《ずいざいあみだぶつ》」といわれるように、「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」と唱《とな》えながら、昼も夜もなく阿弥陀如来のまわりをぐるぐる回る。いってみれば単調な行である。百日回峰のように周辺の景観が次々と変わり、礼拝する堂塔や聖跡、あるいは野仏、一木一草というように対象が変化すれば、それなりに巡拝の楽しみもでてくる。しかし、今や酒井は孤独な世界で、ただ阿弥陀如来と対峙していた。そのうち四角いお堂の中をただ行歩するだけだから、感覚が無くなってきた。三日たち、五日過ぎ、一週間が経過する頃から睡魔との闘いになった。なにしろ一日わずか二時間、縄を張った椅子にもたれるようにして仮眠するだけで、一日二十時間以上は歩きづめなのである。
しだいに幻覚、幻視症状が出てきた。足が泥沼に吸い込まれるように沈んでいく。疲れきって足が上がらないのだ。酒井はある修行僧から聞いたことをふと思い出す。動きがとれなくなったら、体の動きと心の動きを一つにもっていくように静かにせよ。足を動かすときに息を吐け。足は絶対に上げてはいけない。摺り足で行け。その通りにするとまた歩ける。またしばらく日が経つと、河の中に白い道が一本伸びている。それを渡ろうとすると、水がひたひたと足もとに迫ってくる。琵琶湖の岸壁に立っているような恐怖感に身がすくむ。どこからか、「横は見ないで、真っすぐ歩きなさい」という声がする。行が終わってから、「水がひたひたと迫っているとき、そばに火が燃えていなかったか」と聞かれ、酒井は思いあたった。それは「二河白道《にがびやくどう》」というものだった。「観経疏《かんぎようそ》」に出てくるたとえで、人間の煩悩を水と火の二つの河でたとえ、水火の間を貫く一つの白道を求道心に象徴したものだ。彼岸から声がして、「汝、一心に正念《しようねん》して直ちに来たれ。我よく汝を護らん。すべて水火の難《なん》に堕せんことを畏《おそ》れざれ」と、救いの手を差しのべるのである。
酒井は今、その白道を歩いている。小林師は深夜、幾度となくにない堂をそっと訪れて、陰から凄絶な行に励む酒井と高川を見守っていた。夜のしじまを破って、二人の念仏をひたすら唱える声が聞こえてくる。小林師はそっと合掌した。
小林師が、そのときの様子を今あかす。
「なにしろ明治以来しばらく途絶えていた常行三昧をやるというのですから、一人よりは二人のほうが、お互い声も聞こえるし、励まし合って心強いだろうと思って、一緒にやらせたんです。最初のうちは二人とも元気でしたよ。それが最後のほうになると、若い高川のほうの声が小さくなって、死にそうな感じなのでだいぶ心配しました。しかし、酒井のほうは変わらず、念仏を唱える声にも力がこもっている。そっとのぞいて見ると、合掌したまま、姿勢も崩さずに行歩している。たいした男だなあ、と頭が下がりました」
仏縁があって、自分が得度させた男が、ひたすら苦行し、精進している。小林師は、百日回峰はしているが、常行三昧はしていない。自分がやれなかった難行を、四十七歳の酒井が九十日間、わずかの仮眠だけで頑張り通している。思わず小林師の頬を熱い涙がぬらした。師は闇の底で、そっと涙をふいた。あと少しだ、頑張れよ、と心の中で念じながら、師はそっとにない堂から立ち去った。
幻の行とされてきた常行三昧が終わりに近づいた頃、酒井は「普賢菩薩を感得した」という。普賢菩薩は、文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍《わきじ》をつとめ、六牙《ろくげ》の白い象に乗っている。左手に剣を立てた蓮華を持ち、右手は、掌を上に向けてくすり指と小指を曲げる三業《さんごう》妙善の印を結んでいた。普賢菩薩は、仏の功徳をほどこし、仏のもつ「慈悲」を象徴する菩薩とされている。法華堂の本尊はこの普賢菩薩であった。
〈無我夢中で仏さんと一体になれば、念仏が自然に出てくるんだ。自分の頭のなかでもって、念仏を唱えなきゃというんじゃなくて、ふっと湧き出てくるんや。で、その『南無』と言うときは、もう左の足が勝手にあるきだす。それを身につけると、時間の感覚がなくなって、苦しくもない。ぐるぐる、ぐるぐる回るけど、桃源郷に入ったような感じで、楽しかったというのはそこにあるんだよ(参考文献5)〉
酒井と高川は八月三十日、九十日間の常行三昧をやりとげ、見事に満行した。両足はかなり腫れていたが、気分はなお凜々《りんりん》として充実しており、小寺師や小林師らを驚嘆させた。酒井は「比叡山時報」でこう語っている。
「……気負いのようなものはなかった。しかし今考えてみれば、生きてこのお堂を出ることができないかもしれないという心の用意があったことは否定できない。身の回りのものを整理し、ある先輩に祝い事があり、満行の後でもよいものを先渡ししていたことを考えてみれば、いつでも死ぬことの出来る覚悟をしていたのであろう。
立派な理由があって常行三昧に入ったのではない。罪障消滅、それだけであったと思われる。この常行三昧九十日、摩訶止観の教えの全てが実践できたとは思えないが、六割ほどはできたのではないだろうか。法華堂の柱がどこまでも太く揺れ、そびえて立ち迫ってきた。そしてローソクの光だけであるのに堂内がさん然と光り輝いたのである。法悦からの調和というのではないだろうか。あたたかい善知識のおかげで、九十日を終えることができた」
酒井は常行三昧をなしとげたことによって、歩くリズムを会得することができた。それが千日回峰へつながっていくのである。
3 千日回峰への挑戦
千日回峰は、最澄の祖廟、浄土院の侍真制度による十二年籠山と並ぶ比叡山の二大難行だが、無論、これは誰にも許される行ではない。たとえ千日回峰を希望しても、千日回峰行者で構成する「先達会議」が許可しなければ、行に入ることはできない。百日回峰を終えた行者であることがまず最低条件で、行者が「回峰行許可願」を先達会議に提出すると、そこで厳しい詮議がなされる。千日回峰の荒行に耐える強い求道心はもちろんのこと、強靭な精神と肉体を備えているか、行者としての戒律を最後まで守ることができるか、など、あらゆる角度から資格が問われるのだ。
昭和四十九年三月三十一日、三年籠山を終えた酒井は、初めて比叡山の住職になることを認められ、無動寺谷宝珠院の住職として配された。宝珠院は、無動寺回峰の聖地、明王堂や護摩堂のすぐ近くにある。無動寺坂を少し下れば、行門法流を伝えてきた玉照院がある。酒井は、自分には学僧になるような頭はない、歩く行が一番向いている、という見きわめから、千日回峰に命をゆだねてみたい、と激しく希望するようになっていた。
「千日回峰をやってみたいのです。わしは行に生きようと思います」
酒井が小林師に相談すると、師もうなずいた。
「そうやな、お前さんには行が一番ふさわしいかもしれんな。しかし千日回峰となると、これはえらいこっちゃで。なにしろお前さんは年が年やからなあ」
最大の障害はそこにあった。千日回峰は七年をかけて満行するが、百日回峰もそこに加算されるので、正確にはあと六年かかる。酒井はいま四十八歳、満行のときは五十三歳か四歳になる計算だ。途中には「堂入り」という最大の難関も控えている。年齢的にこの荒行に耐えきれるか。過去の千日回峰行者の年齢をみても、心身ともに体力と気力が充実している三十代に修行に入っており、最近では昭和四十五年九月十六日に満行した光永澄道師は三十五歳で大阿闍梨となったし、その頃、無動寺谷で千日回峰に挑んでいた内海|俊照《しゆんしよう》師はまだ三十一歳である。常識的な通念からすれば、四十八歳でこれから千日回峰に入るのは無謀ともいえた。
だが、千日回峰を志す以上は、生死を超越した強い信念に酒井は燃えている。酒井の決意は固かった。一度決意したら、絶対にやりとげるという酒井の芯の強さを、これまで何回となくみてきた小林師も、この男ならやるかもしれない、とついに同意した。酒井の希望は先達会議にかけられ、正式に認められた。先達たちも、小僧時代の頑張り、叡山学院での努力ぶり、そして三年籠山中に示した百日回峰と常行三昧を見守ってきて、酒井なら必ずやりとげるだろう、という結論を下したのである。
ただし、一つの条件が加えられた。これはすでに、酒井が叡山学院研究科を卒業したあと、本山交衆への加入を認めるかどうか、年齢が問題になって一山会議が開かれ、比叡山の規則が変更されたときからついていた「ただし書き」だった。特例を認める代わりに「ただし書き」をつけた。その内容は、「将来は飯室谷《いむろだに》の箱崎文応師のもとで、起居する」というものである。先達会議は、酒井の千日回峰を認めると同時に、この「ただし書き」を適用させた。箱崎師は、飯室谷の長寿院で一人で起居し、八十三歳の今もなお激しい行に生きている。これまで何人もの後継候補者がいたが、あまりの厳しさにみんな一ヵ月ともたずに逃げ出した。そのため誰も居つかず、小僧さえいない。これは小林師の考えでもあったが、酒井なら根性がすわっているから、「箱崎師の後継者になれるのではないか」というのが叡山の考えで、その条件のもとで酒井の千日回峰が認められたのである。
こうして酒井は、無動寺谷宝珠院の住職のまま、飯室谷長寿院の箱崎師の弟子となり、八月に東塔から横川へ移って来た。まさに「仏縁」だと、酒井は不思議な見えない運命の糸を思った。得度する前に、役行者《えんのぎようじや》の仏像を持ってきて、お御霊≠抜いてもらい、そしてまた入れてもらったことがあった。箱崎師から、そんなもの持っていると、裏山をのそのそ歩くようになるぞ、と怒鳴られたが、それでもお御霊≠入れてもらった役行者の仏像を手元から離さなかった。その結果は、師の予知通りに、自分も仏門に入り、千日回峰まで挑戦するようになってしまった。しかも師のもとで。酒井はもちろん役行者の仏像も長寿院に持ってきていた。さらには滝。自分が作った女滝は「加行《けぎよう》之滝」と呼ばれて今も裏山からしぶきとなって行場に落下していた。
今、長寿院の一帯は、石段を上がると、正面に不動堂があり、左手に鐘つき堂、右側に長寿院と庫裡《くり》が立派になっているが、酒井が住むようになった昭和四十九年当時は、長寿院も廃寺のように荒れ果てていた。
「不動堂と長寿院だけだったね。ここの不動堂は昔からあるわけ。四百年前からね。しかし屋根は朽ちてぼろぼろだった。長寿院もひどかったね」
酒井は箱崎師に深々と頭を下げて挨拶した。
「今度、老師のお世話をさせていただくことになりました。よろしくお願いします」
「おお」
とうなずいた箱崎師は、どこかで見たような顔だな、という表情をしたが、あとは何もいわなかった。酒井はその無言の姿から「激しい気魄の放射」を感じたという。一緒に生活を始めてみると、老師は聞きしにまさる豪僧だった。長寿院の左手は裏山に面して池があり、裏山から滝がしぶきをあげて落下していた。箱崎師の朝は早い。二時にはもう起きて滝に打たれて行をする。そのあと朝の勤行《ごんぎよう》をし、酒井が四時頃、目をさましたときにはお勤めが終わっていた。酒井はあわてた。次の日から老師より先に起き、師が朝の行とお勤めをしている間に、朝食の支度をし、そのあと片づけ、掃除……夜も同じで夕食の準備、お風呂の用意、と息つくひまもないような生活が始まった。何のことはない、四十八歳で小僧にまた逆もどりである。その間に自分も滝に打たれ、お勤めをしなければならない。
長寿院へ来ると決まってから、小寺師から聞かされたことがあった。小寺師もかつて飯室谷で箱崎師に仕えたことがあった。夕方、学校から帰ると、「小僧、ロウソクを持って来い」といわれた。こんなに暗くなってから何をするんだろう、と思いつつ、ロウソクを差し出すと、それを持って外へ出て行く。あとをついて追うと、師は鍬を持って畑で耕し始めた。当時は自給自足のために近くに畑があった。暗がりの中で畑仕事をしているうち、鍬がざっくりと師の足指を切った。血が噴き出し、指がぶらんぶらんしている。師は一言、
「おお、切れたな」
と表情も変えず、手で足の指をくっつけると、何事もなかったように、また畑仕事を続けた。小寺師のほうがびっくりして、二、三ヵ月で逃げ帰った、という。老師の日常をみていると、酒井も、さもありなん、と畏怖に似たものを感じた。
しかし、老師は酒を飲んで機嫌がいいときは、自分がしてきた行のことをポツリ、ポツリと聞かせてくれることもあった。それは聞きしにまさる凄絶苛烈な行の連続だった。
海で遭難した漁師仲間の霊を弔うために、肉親の恩愛を断ち切って、比叡山にたどり着き、やっと許されて得度したあとの箱崎師の行への打ち込み方は、まさしく「不動明王のごとく」であった。昭和九年三月、師は千日回峰を許されたが、どこの馬の骨とも素姓のわからない中年男が得度して挑んだ行に対して、比叡山の僧たちは、万一、千年を超える千日回峰の伝統を汚されては困る、という目で監視を怠らなかった。師はそうした厳しい視線の中で、昭和十五年十月に、昭和に入って最初の千日回峰を満行したが、行門の大先達から「正式の修行にかなっていないから千日回峰として認めるわけにはいかない」という意見が出された。
〈回峰は相応和尚が創始して以来、順次整備せられて現在のような道順や儀式が完成された。歩く道も行門先達の指示に随って行う。例えば、山内の巡礼箇所の中では、最初と最後の七日はお堂の前まで足を運ぶが、その他の日には道場から遥拝するところもある、などである。ところが、文応行者は、最初から最後まで遥拝しなかった。省略はもったいない、と言ってすべて実拝したのである。故に文応行者は他の行者よりも遠い距離を歩いたことになる。それがいけない、と言うのである。先達の言葉に従わなかった、というお叱りであった。(参考文献10)〉
箱崎師はあやうく、比叡山から追放されるところまで追いつめられたが、幸か不幸か、追放しようとした元老の行者が、間もなく死去したため、この問題は自然消滅した。しかし、箱崎師は無動寺谷には落ち着く寺も場所もなかった。困窮にくれる師にやっと出された助け舟は、それまで人が住んでいなかった飯室谷長寿院の住職になるなら一山に残してやろう、というものだった。そして師が無人の長寿院にやってきたのは昭和十八年のこと、酒井が予科練に入る前の年である。
ここで少し酒井に深い関係をもつ飯室谷について語ることになるが、飯室谷は、第三世天台座主、慈覚大師円仁が、自らの隠棲修行の場所として開いた谷で、もともと比叡山では歴史と由緒がある谷である。円仁は十五歳で最澄の門に入り、最澄が入寂するまで十四年間、その膝下で学問修行した高弟の一人で、承和五年(八三八年)から十四年(八四七年)まで約十年間、唐にわたり、五台山で念仏三昧法(五会念仏)を相承した。さらにこの入唐求法の旅で、最澄が果たせなかった天台密教の充実をはかった。この円仁に次いで第五世天台座主、智証大師円珍も入唐求法し、法華円教、真言密教を相承してくる。さらに真言の教理を五大院|安然《あんねん》が大成したことによって、空海の真言密教に勝るとも劣らない天台密教を作りあげた。天台密教を台密《たいみつ》、真言密教を東密《とうみつ》というが、円仁は台密の基礎固めに大きく貢献した高僧である。
比叡山では「三聖二師」という。三聖とは、宗祖伝教大師と慈覚大師、智証大師であり、二師とは安然尊者と慈恵大師良源(元三大師)をさす。この慈覚大師円仁が入唐する前、四十歳の頃、体が弱り視力が極度に衰え、余命いくばくもないことを悟って、山中静閑な横川に自らの隠棲修行の場所を求めた。そこで草庵をたて修行を怠らなかったところ、心身が快復し、入唐することになるのだが、飯室谷はその横川時代にひらかれた。
ある日、大師は何か目に見えない力に導かれるように、現在の飯室の森のあたりまで下がって来た。幽玄静寂な環境に心惹かれた大師は、そこに草庵を作り、一心不乱に礼拝を続けていたとき、忽然とあらわれた不動明王を感得した。打ち伏しながら心眼でとらえ、強く脳裡に刻みこんだ大師は、森の中に分け入り、霊木を得て、やがて自らその不動明王の姿を刻み始めた。
〈そのとき、「大師のお世話をいたしましょう」と一人の老爺が現われ、身の回りや食事などの世話はもとより、周辺の片づけなどにも手を貸してくれました。やがて、見事な不動明王像が完成しますと、その老爺は、「今度は、お納めして、お祀りする本堂をお建てなさい」と勧め、大師も至極もっともなことと思われ、里の人たちの協力も得ながら、本堂建立に力を注がれたのです。本堂も完成して、開眼法要が済みますと、老爺は「私の名前は飯櫃童子《ぼんきどうじ》と申します。弁財天のご命令で貴僧の修行のお手伝いをいたしました」と言い終わると、あたかも煙のように姿が消えたのです。(参考文献15)〉
比叡山では有名な伝承で、弁財天にはその福徳を分担して、衆生にそれを与える十五人の童子が仕えているが、飯櫃童子は食物を司《つかさど》る童神である。不動明王の彫刻や本堂完成までの霊的な仕事は、なるほど神仏のご加護がなかったらできなかった、と深く感銘された大師は、飯櫃童子の一字をとって、以来この谷を「飯室谷」と名づけられ、飯室不動堂が創建された、と伝えられている。
比叡山は三塔十六谷からなり、それぞれの谷が独自の修行で仏門に仕えながら、比叡山延暦寺という巨大な教団を支え、組織を発展させてきた。三塔十六谷とは、
東塔 東谷、北谷、南谷、無動寺谷、西谷
西塔 東谷、南谷、南尾谷、北尾谷、西谷
横川 般若《はんにや》谷、兜率《とそつ》谷、解脱《げだつ》谷、戒心《かいしん》谷、香芳《かぼう》谷、飯室谷
のことをいうが、東塔、西塔が五谷なのに横川だけが六谷になっているのは、この飯室谷があるからで、横川の離れ谷≠ニいわれるゆえんである。
その後、門弟三千人といわれ、「比叡山中興の祖」と称《たた》えられる第十八世天台座主、慈恵大師良源(九一二―九八五年)も飯室谷に住み、その弟子の第十九世天台座主、慈忍和尚|尋禅《じんぜん》(飯室中興の祖)らの高僧が威徳を崇めたてまつられた頃が飯室谷の全盛で、念仏の声が終日、谷にこだましていたといわれ、飯室の名は全国各地に伝わった。良源はおみくじ≠始めた大師で民間信仰が厚く、一月三日に七十三歳で入寂したので、世に元三《がんさん》大師ともいう。
しかし、栄枯盛衰の言葉通り、千年もの歴史の変遷の中で、飯室谷は次第にさびれ、いつか堂塔は荒廃、消滅していった。あとにはまた深い幽谷だけが残された。それから数世紀たった明治十年、堀覚道という乞食僧が横川を訪れ、「念仏を唱える場所をお貸し下さい」と懇願した。何か事情ありげな僧に、道元が得度した寂定坊の小屋を与えると、僧は自力で荒廃していた坊を修復して、そこで念仏三昧の修行に励んだ。この僧は、西南戦争に従軍した政府軍の兵士だったが、戦争の悲惨さに無常を感じ、妻子との恩愛を断ち切って、比叡山にたどり着いたのである。僧が修復した寂定坊には、信者が集まるようになった。横川の住職たちは、僧の信仰心のあつさに打たれ、廃寺になっている飯室谷の不動堂の輪番として住むことを勧めた。こうして堀覚道師が、歴史の中にすっかり埋もれていた飯室谷にまた一条の光明をもたらすことになった。この僧の遺徳は今も、谷と里をつなぐ「覚道坂」として残っている。
また歳月が流れ、昭和十八年に飯室谷に住むことになったのが箱崎文応師だった。堀覚道師といい、箱崎師といい、修羅の人生を生き、同じようにこの世の地獄≠みて、比叡山にたどり着いた人である。酒井もまた「人生の敗北者」という意識を捨てきれず、恥多かった人生の罪障消滅を願って出家し、飯室谷へ住むことになった。慈覚大師、元三大師、慈忍和尚ら、比叡山の「正統の高僧」たちがひらいた仏徳に満ちた飯室谷で、堀覚道、箱崎文応、酒井雄哉という、いわば「異端の行者」が修行するのも、仏縁の不思議さを感じさせる。
比叡山追放をまぬかれて飯室谷に移ったあとの箱崎師の行への執念は、鬼気迫るような凄絶なものだった。昭和十七年にはすでに、役行者が修行した原始修験道の聖地、大峰回峰に挑み、吉野から山頂まで片道二十四キロの険しい難路を天上返し≠ナ一日往復四十八キロ、これを二十一日間つづけてやってのけ、さらには蔵王堂から六田《むた》におりて吉野川で身を清め、再び山上往復する荒行を二十九日間重ねた。そしてきわめつきは「奥駆《おくが》け」の峰入り。奈良、和歌山の山岳霊場を巡拝する回峰行で、その当時、全行程を踏破した人はいなかったが、箱崎師は古い「手文」をもとに全行程を二十日間をかけて巡礼踏破した。熊に出合い、蛇の恐怖と闘いつつ、不動明王の真言だけが頼りの破天荒な難行だった。帰路には伊勢神宮まで歩きづめという百二十日の空前の荒行だった。
その後も、前人未到の御岳回峰という荒行に挑む。木曽回峰と名付け、濁り川から山頂まで二十キロの往復だが、この行中に凄まじい雷鳴と豪雨にあい、そのとき「五大明王」を感見したという。
〈髪の毛をそば立て、後に雷の火柱をいただき、顔は真赤であった。仏画で知る明王の姿が単なる想像でないのを知ったのも、この修行の時である。(参考文献10)〉
箱崎師が仏門に入ることになった原点は、海での漁師仲間の遭難である。いわば「水」である。海の底に船を沈めるのも水なら、断食修行中のうがいの水の一滴のありがたさ、大峰奥駆けの貴重な生命水《いのちみず》。水は生命の根源であることを悟った箱崎師は、昭和二十三年春、五十九歳のときに、昔、三百坊を数えた神仏一体の霊山、比良《ひら》山に籠って、山頂を始めとする要地に百体の地蔵尊を祀った。最初は狂人扱いにしていた村人たちも、やがて師の仏心に感謝して協力を惜しまなくなった。このときから「比良八講(荒)」が復興し、海難無事故を祈った琵琶湖まつりも亦、師の信仰からほとばしった宗教行事として始められた(参考文献11)」のである。師の行は果てしなく、十二月の暮れから正月にかけては、決まって九日間の断食、断水の修行をし、これまで三十六回以上も繰り返している。
「ただ無心になって山を歩く、それだけだよ。自分が辛いと思ったら、そのとき行は崩れる。行を楽しむことだ。行のなかに楽しみを見つけて前に進むのが行道というものだ。人間のつけた屁理屈など何もいらん」
箱崎師のいう言葉に秘められている深い意味を、酒井が自ら理解するようになるのは、千日回峰に出峰して何年も経ってからのちのことである。
酒井にとって、箱崎師は「行の師」となった。小林師は「仏門へ導いてくれた師」、小寺師は仏教とは何であるかを教えてくれた「学問の師」である。酒井は三人の師≠ノ恵まれた。小林師が、酒井を箱崎老師のもとに住まわせたのは、老師の世話をすることももちろんだが、実はもう一つの目的があった。
箱崎師は、無動寺谷コースの千日回峰を満行したあと、昭和十八年に、久しく絶えていた飯室回峰の復興を発願した。千日回峰には、玉泉房流(東塔・無動寺回峰)、石泉坊流(西塔・正教坊回峰)、恵光坊流(横川・飯室回峰)の三つが|あった《ヽヽヽ》ことはすでに述べたが、石泉坊流はすたれ、恵光坊流も途絶えていた。長寿院に住む仏縁から箱崎師は、その恵光坊流、つまり飯室回峰を復興させようと発願したのである。
比叡山の千日回峰は「師資相承《ししそうしよう》」の形で、千百年余の歴史を刻んできたが、信長の焼打ちにあって、それ以前の文献資料はことごとく灰燼《かいじん》に帰した。したがって現在残っている文献は、焼打ち以後のものだが、「大行満名帳」によると、
「天正十八年九月、横川、飯室谷松禅院第二世大阿闍梨慶俊、賜|綸旨《りんじ》」
とある。天正十八年は西暦一五九○年で、この年、慶俊が飯室回峰を満行したのを最後に、記録に飯室回峰のことは出てこない。それを約三百五十年ぶりに復興しようとしたのが箱崎師だった。そして、その陰の力になったのが、当時、長寿院の近くにある名刹松禅院の住職をしていた山田恵諦現・天台座主である。
山田座主は、箱崎師を長寿院の住職に推挙した人でもあるが、当時のいきさつをこう話す。
「箱崎を何とかせにゃならん、ということになりまして、私がさる方に相談して、お前さん、ここに入れ、というわけで、長寿院に入れたんです。その時分、私は松禅院の住職をしておりましたので、松禅院に伝わっている飯室回峰の手文を、これで飯室回峰を復興してくれ、といって箱崎に渡したんです。それまでにはとにかくやりたい人もあったんですけど、学がないので、許可が得られなかったんです」
山田座主によると、「飯室回峰は慈覚大師の叡山巡拝が基本になっている」という。慈覚大師は、飯室谷をひらかれてからも、日吉神社から八王子山に登り、神宮寺旧跡に礼拝して、悲田谷を経て、根本中堂にお参りすることを繰り返された。多分、帰路は西塔、横川を経て、飯室谷に戻られたものと推測される。飯室回峰の「手文」は、慈覚大師の巡拝のルートと同じに回峰行歩するのである。
箱崎師は、松禅院に伝承されてきた古い「手文」をたどりつつ、この年、飯室回峰に挑み、百日回峰を見事に満行した。その結果、飯室回峰は約三百五十年ぶりに復興され、比叡山に伝わる千日回峰の歴史に新しい一頁を加えたが、飯室回峰の千日回峰はまだなされていない。小林師たち一山の関係者は、酒井をその候補者として選んだ。つまり、酒井が無動寺谷宝珠院の住職でありながら、長寿院に配されたのは、箱崎老師の世話をしながら、老師の手ほどきによって、飯室回峰の千日回峰を完全復興させるという重大な使命が託されていたのである。
それほどまでに比叡山が重くみる千日回峰の行とはいかなるものであろうか。
慈覚大師円仁が約十年におよぶ入唐求法の旅から帰国して、東塔の前唐院に住んでいた頃、一人の若い僧が目にふれた。十七、八歳の若い僧は毎夕、人知れず静寂な山中に入ると美しい花を摘んでは、根本中堂の薬師如来にお供えし、五体投地して一心不乱に拝んでいる。円仁がその様子を黙って見ていると、若い僧は雨の日も風の日も雪の日も一日として欠かさず、その礼拝を続け、七年の歳月が過ぎていった。この僧は俗姓を櫟井《いちい》と称し、近江国の出身、十五歳のとき、東塔定心院十禅師の職についていた高僧、鎮操《ちんそう》大徳の導きで初めて比叡山に上がり、十七歳で剃髪《ていはつ》出家した。そして法華経の勉強をするうちに、その中の「常不軽菩薩品《じようふぎようぼさつぼん》」に深い感銘を受け、なんとか常不軽菩薩の境地に達したいと発願して、この礼拝行を続けていたのである。常不軽菩薩についてはのちに述べる。
ちょうど円仁が第三世天台座主に就任した時期にあたり、宗祖最澄が入滅してからまだ三十数年しか経っていない。新興の気に満ちた天台教団には、なお多くの問題が山積していたことであろうし、円仁も大きな希望と抱負を抱いて、天台座主職を相承したと思われる。七年後、円仁は初めて二十五歳になった僧に声をかけ、自分の直弟子にした。斉衡《さいこう》三年(八五六年)のことで、僧は法名「相応」と呼ばれるようになった。相応は、最澄の定めた「十二年籠山」に入り、ますます修行を重ねた。その五年後、円仁から「不動明王法」「別尊儀軌護摩法」などの秘法を親しく授けられた相応は、山中さらに幽深の地を求めて、一段と激しい山学山修の行に入った。そうしたある日、相応は、根本中堂の薬師如来から夢告を受けた。
「吾が山は三部の諸尊の峰なり。此峰を巡礼し山王の諸祠に詣でて毎日|遊行《ゆぎよう》の苦行せよ。是れ不軽菩薩の行なり。読誦経典を専《もつぱ》らにせず、但し礼拝を行ずるは事に即して真なる法なり。行満せば不動明王本尊となり一切|災殃《わざわい》を除くべし」
経典の読誦、勉強ばかりするな、礼拝苦行することが「真なる法」で、それを行満したとき不動明王そのものとなり、一切のわざわいが取り除かれるだろう、というお告げだった。これを「不専読誦《ふせんどくじゆ》、但行礼拝《たんぎようらいはい》」といい、「山川草木|悉有仏性《しつうぶつしよう》」の天台の教えからきている。山や川、一木一草、石ころにいたるまで、みな仏性があるのだから、比叡山をすべて巡拝して行をせよ、という夢告を受けた相応は、薬師如来が示された地に草庵を結び、苦修練行の日々に入った。これが東塔無動寺谷の歴史の始まりであり、千日回峰の起こりである。そのため相応は別名「建立大師」とも「無動寺大師」とも呼ばれる。
〈無動寺の草庵では、最初三ヵ年は常に六時の行法を行ない「鎮護天下国土」を祈請《きしよう》し、暇さえあれば大般若経を転読しつつ、自他の罪障消滅を祈るのが主たる行儀となっていた。また当時は山林|抖藪《とそう》の修験道的な色彩が、すでに各地の名山大岳においても盛んに行われつつあったが、相応和尚もまた草庵生活の間にはこの行法をも修禅生活の内に次第に取り入れ、整備大成して一種独得の山岳遊巡の法を編み出し、これを回峰修験と称した。(参考文献19)〉
相応和尚によって始められた回峰行は、やがて玉泉房流(無動寺回峰)、石泉坊流(正教坊回峰)、恵光坊流(飯室回峰)の三塔三流派に発展していったが、小寺師は「比叡山回峰行の史的展開」という論文の中で、その発展経由をこう記述している。
〈北峰修験の比叡山回峰行は千年一日のごとく続けられているけれども、その歴史的な形成過程には、次のごとき四段階があったと思考される。
第一期 山林巡行時代
(八三一〜一一三○)
第二期 三塔巡礼時代
(一一三一〜一三一○)
第三期 比叡山巡礼時代
(一三一一〜一五七○)
第四期 比叡山回峰時代
(一五七一〜現在)
第四期の比叡山回峰時代というのは、元亀の兵火で全山焼打ちにあい、比叡山復興が促進されるとともに巡礼がいつしか回峰と呼ばれ、千日回峰行の形態が完成する時代をいうのである。〉
これによれば、現在のような回峰の形態とコースができたのは室町時代以降とみられ、先にあげた三塔三流派の回峰コースも、第四期の頃にできたものと思われる。
現在行われている千日回峰は「十二年籠山」し、そのうち七年間かけて満行する。無動寺回峰の場合でいうと、一年目から三年目までは毎年百日間、四年目と五年目はそれぞれ二百日計七百日、一日約三十キロを歩き、七百日終了から九日間、不眠・不臥・断食・断水の「堂入り」がある。六年目は京都の赤山《せきざん》禅院往復一日約五十キロの行程を百日、七年目は前半百日を「京都大廻り」一日約八十四キロ、後半百日を一日約三十キロ行歩して都合千日、これで満行となる。
しかし、飯室回峰の場合は巡拝するコースも異なるし、一日に歩く距離も無動寺回峰より長い。しかも無動寺回峰は、酒井もかつて百日回峰で行歩したように毎年「新行さん」が歩くし、千日回峰行者もいるので、比較的に峰道も整備されているが、飯室回峰の場合は、箱崎老師が百日回峰して以来、大塚善忍師が歩いたが、それ以後は閉ざされている。初百日は無動寺コース、百一日目からは飯室回峰という変則で、いよいよ酒井の千日回峰に挑戦する日が近づいてきた。
酒井は、昭和五十年の正月を迎えた。いよいよ出峰する年である。いつ出峰するか、出峰の日を決めることになって、箱崎師がいった。
「酒井よ、四月七日に出峰してはどうか。わしの誕生日なんじゃよ」
その瞬間、酒井は心の中で、ああっ、と思った。その日こそ妻が自殺した日であり、今年は亡妻の十七回忌にあたっていた。老師の誕生日と亡妻の命日が同じ日であったとは、何という仏縁であろうか。しかも、その日に自分が千日回峰に出峰する。まさにこの世の生と死、祝いと弔いが一如となった数奇な出峰である。千日回峰は同時に「十二年籠山」に入ることを意味する。これより十二年間、比叡山の結界から俗界へ、いかなることが起きようとも一歩たりとも出ることは許されない。煩悩がうごめくニュースであふれる新聞、テレビ、ラジオも遠ざけ、ひたすら厳しい仏道に修行しなければならない。そして行が中断するときは自害するのが掟である。もはや後戻りすることはできない。
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第五章 千日回峰 「生き仏」大阿闍梨誕生
1 もう後戻りはできない「捨身行」
昭和五十年四月七日、酒井は午前零時に起床すると、すぐ褌《ふんどし》一つの素裸で庭の一隅にある滝に入った。滝つぼへ唸るような音をたてて落下する不動滝の音。その飛沫《ひまつ》の中に仁王立ちになった酒井は、印契を結び、低いがよく通る声で不動真言を唱え始めた。
「ナーマク サーマンダー バーサラナン センダン マーカーロ シャナ ソワタヤ ウンタラター カンマン。……」
この真言を唱えながら、飛瀑の中で微動だにしない。やがて不動滝から加行《けぎよう》之滝に移り、ここでは激しく体を動かす。裏山の岩に向かって相撲の鉄砲をやり、四股《しこ》を踏む。厳しい肉体鍛錬の一つである。やがて身を清めた酒井は、すぐ不動堂に入り、朝の勤行《ごんぎよう》を始めた。約四十分、ひたすら不動明王に祈り、千日回峰の成就を祈願した。それから庫裡《くり》に戻り、出峰の準備である。特別の気負いはなかった。
すべて白一色の「死に装束」。野袴をはき、手甲脚絆をつけ、浄衣を身にまとう。素足に草鞋といういでたちである。三百日までは足袋をはくことを許されない。着衣がすむと、「死出紐《しでひも》」を肩から下げ、自害用の短刀を腰に差した。百日回峰で経験ずみだから、一分の隙もなく、出峰の準備がととのう。「未敷蓮華《みふれんげ》」の笠を手に持つ。これも三百日まではかぶることができない。
〈回峰行者はかく生身不動明王の表現とされているから、その衣帯装束はみな不動尊の象徴になっている。頭には蓮葉の檜笠《ひがさ》を頂き、草鞋は蓮華台を表わす。腰に降魔《ごうま》の剣を差し、右手には檜扇《ひおうぎ》、左には念珠、みな生身不動を擬する姿とされる。白衣の袈裟《けさ》は息災衣とよばれ、檜笠は不動尊頂上の蓮台を表わしている。檜扇は不動の利剣、笠の紐は羂索《けんさく》を象《かたち》どるという。(参考文献19)〉
なぜ不動明王なのか。山田座主がこう話す。
「私どもは、世間一切のものが相対的であるという一つの原点にたっている。陰と陽、裏と表、上と下というように、すべてが相対的になっておる。仏さまにも相対性がある。慈悲の相対、悲を中心にする人、慈を中心にする人、この二つの面があるんです。慈を中心にしたときに観音さんになる。悲を中心にしたときに不動さんになる。衆生は煩悩の徒ですから、悪縁にとりつかれることもある。まず第一番にその苦しみを取り除いてやることだ。それで不動さんを先に遣わして苦しみを除いてやり、そのあとに観音さんがいかれて慈を施される、こういう考え方になっているわけです。不動さんの必要性はそこにある。悪縁を断つ。
仏というのは性善じゃないんです。性悪もある。全部ある。その悪心をようけ使うか使わないかによって、その人の幸せ、不幸せが出てくる。これは天台だけの教えです。他はみな仏は性善ですが、天台は性悪説をとるんです。人間なるがゆえに悪はあるんだと。けども、悪を使えば苦しみが生まれるから、絶対に悪を使わない修行をする。それが達成せられたのが仏なんです」
「善人なをもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」の「悪人|正機《しようき》説」を説く浄土真宗の開祖、親鸞が天台宗から出たこともゆえなしとしない。
人間の理想像はいうまでもなく仏陀である。釈迦もその仏であり、悟りをひらいた境地で完成されている。次が菩薩で、これは永遠に完成への途上にある修行の位《くらい》。そしてこの仏陀と菩薩の働きを助けるのが不動明王で、仏道修行を邪魔する悪鬼悪獣などを退治するのが役目だから、利剣と羂索を持ち、目をカッと見開いて忿怒《ふんぬ》の形相も凄まじい。不動明王は、降三世《ごうさんぜ》、軍荼利《ぐんだり》、大威徳《だいいとく》、金剛夜叉《こんごうやしや》とともに「五大明王」として仏法の守護にあたっているが、実はこれも仏陀の化身した姿である。
〈仏陀はご自身の位に留まっているから、自性輪身《じしようりんじん》といい、ボサツはまさに身をもってわれわれを教え導いてくれるから正法輪身《しようぼうりんじん》という。それでもなおかつ救われないもののために教令輪身《きようりようりんじん》という恐るべき姿を示す。仏陀の命令を実行する姿である。この教令輪身を明王という。明王は仏陀が派遣した使者であるが、実は仏陀ご自身の変身にほかならない。これも仏陀の方便である。(参考文献20)〉
恥多き過去と訣別し、罪障消滅を願って千日回峰に出峰する酒井が、不動明王のもとで修行をする。人生に迷っているときに、偶然のことから比叡山に来て出家得度した。山田座主は「ここに因縁の尊さがある」というように、不動明王のいでたちをした酒井は、午前一時半、長寿院から第一歩を踏み出した。小田原提灯を左手に、右手に二メートル余の杖だけを歩く支えにして、酒井は特別に気持ちの昂ぶりもなく出峰した。箱崎老師の言葉が耳に焼きついている。
「後戻りは許されないぞ。気を抜くな。今お前が歩いている道が行者の墓場だぞ」
初日だけ、戦後七人目の千日回峰行者になった宮本一乗師が先達を勤めてくれる。宮本師は、箱崎老師から図面の上で飯室回峰の伝法を受けていた。宮本師の出堂を偶然みて、酒井は結果的に千日回峰行に入ることになった。そして今、その宮本師に先導されて出峰する。これも奇しき仏縁であろう。
酒井は、不動堂に祈願すると、まず近接している松禅院の前を通って、不動堂から二、三分の距離にある慈忍和尚の墓所に詣でた。飯室中興の祖といわれる慈忍和尚の墓所は、十七段の石段を駆け足で上がっていくと、昼でも薄暗い霊域は夜のしじまの中で月の光一条も通さぬ暗黒の世界、ここは元三大師の墓所などと並んで、「比叡山三魔所」の一つと恐れられている。老杉の巨木がつながる細い参道を奥に進み、「手文」にしたがって礼拝した酒井は墓所から引き返すと、今度は林の中にある奈良坂を一気に山裾の道まで駆け下りた。帝釈寺《たいしやくじ》、西教寺を経て、日吉神社東本宮に至るまで約三キロほどで、途中は新興住宅街の一画も通る。都市化の波は飯室谷の山裾までおよんできているが、比較的平坦なのはここまでで、あとは奥深い比叡の山中の峰道をたどることになるのだ。
日吉神社東本宮で初拝し、山王二十一社をくまなく巡拝した酒井は、生源寺前の鳥居に出て、坂本の諸方諸神を遥拝した。それから先達たちが住む里坊《さとぼう》に進み、滋賀院、真乗院、妙徳院、そして小寺師のもとで小僧生活に入った霊山院へ至り礼拝、さらに走井《はしりい》堂、日吉神社西本宮を回り、いよいよ八王子山の急坂にさしかかった。ここは道幅は結構あるが、かなりの勾配があり、くねくねと迂回しながら八百メートルほどの坂道を登っていく。無動寺回峰の場合はこの坂を駆け下って来る。酒井が急坂を登りつめると、八王子三の宮が二棟、崖っぷちの上に京都の清水寺のように組まれた足組に支えられて建っている。二つの社の間には畳五枚分はあろうかという巨石が山に張りついている。山岳信仰は、こうした巨石などに神霊が宿っていると信じたところから始まっている。二つの社には男|御輿《みこし》と女御輿が奉納されており、毎年、山王祭の神事には急坂を若い衆たちに担がれて、豪快な神事を展開する。そのため道幅が広いのである。
三の宮に礼拝した酒井は、左へ折れて深い緑につつまれた山の中の小道に入った。人ひとりがやっと歩けるような険しい道が深い谷へ落ちている。真っ暗闇の世界を、酒井は小田原提灯の火を頼りに下りていく。緑の新芽の匂いがきつい。二十分も下ると、突然、平坦な地になった。最澄の父が参籠《さんろう》したと伝えられる神宮寺旧跡がそこにある。酒井は小さな祠に礼拝し、先を急ぐ。大宮川の渓流が静寂な夜の谷間に音をたてていた。丸太橋を渡るとき、酒井は橋の中央に仁王立ちになって、川上に向かって印契を切り、真言を唱えた。このあとはさらに厳しいけもの道≠フような悲田谷を登らなければならないのだ。
酒井は、歩くことにはそれなりの自信を秘めていた。百日回峰も最後の頃になるとさして苦労もなく満行できたし、至難の行といわれた常行三昧もやりとげ、その自信から千日回峰に挑んだ。だから初めての飯室回峰といえども、歩くことには不安を持っていなかった。だが、現実に出峰して、こうして比叡の山道を行歩していると、なんとなくリズムが合わないのである。足が自由に動かない。足の動きが自然でないのだ。それだけ緊張していた。悲田谷は森の中から一転して、湿地帯の感じになる。喬木《きようぼく》はあまりなく、その代わりに背丈ほどの雑木や葦などの雑草が繁茂して、草を踏みつけながら登っていく感じになる。ここら一帯は野生動物の宝庫で、猪や鹿、猿、野兎などが棲息していた。酒井は今でも「蛇が大嫌い」というが、「番傘のような太さ」の一メートルを超す蛇もいれば、蝮《まむし》もいる。初日は緊張のあまり、そんなことを気にするゆとりもなく通りすぎたが、このあとに「恐怖との遭遇」が何回となく訪れてくるようになる。
悲田谷を登りきると、また杉木立の世界に分け入った。樺芳峰《かぼうみね》で、ここに第三世天台座主・慈覚大師|円仁《えんにん》の墓所がある。円仁は貞観六年(八六四年)一月十四日、七十一歳で入滅されたとき、門弟たちに、
「山上に廟墓《びようぼ》を営むものは宗祖のみ、他のものは一切これを営んではいけない。自分の墓も唯一本の松樹を植えて標識とすればこと足りる」
と遺言した。その言にしたがい、円仁の廟所は東塔東谷の尾根の突端、琵琶湖を一望できる静寂の地にごく簡素に営まれたというが、現在の墓地は大正十二年の遠忌記念に改修されたものである。石塔が左右に配され、石の扉の奥にある墓は玉垣で四方を囲まれている。
円仁の廟墓に恭《うやうや》しく礼拝し、「慈覚大師廟道」と呼ばれる渓道を進むと、長方形の広場がひろがり、両側に百基を超える墓群が整然と並んでいる。苔むした墓石は「執行探題《しぎようたんだい》大僧正」といった天台宗史に名を残す高僧たちのものである。昼でも、樹間のほのぐらい渓道は荘厳で神聖な霊気に満ちている。酒井はここから浄土宗の開祖・法然が得度した旧跡法然堂を経て、そして東塔本坂を登って根本中堂上の広場に出た。ここは天台宗の中心地で、昼は観光のメッカでもあるが、朝はやっとほのかに白みかけた頃である。酒井は天台宗発祥の霊域であり、「鎮護国家」の道場である根本中堂《こんぽんちゆうどう》、本源堂、大講堂、戒壇院といった聖地を巡拝して、今度は比叡山の最南端にある無動寺谷に向かった。
無動寺谷はいうまでもなく千日回峰行の本拠地であり、自坊・宝珠院もある。酒井は今、宝珠院の住職でありながら飯室谷の長寿院に住み、飯室回峰復活の回峰をしている。自坊を通り過ぎながら、深い感慨が一瞬かすめたが、そのまま感慨にふけっているゆとりなどはない。玉照院まで下り、また無動寺坂を折り返し登ってくる。無動寺谷にある明王堂、護摩堂、法曼院など各所をそれぞれ巡拝した頃には、朝が白々と明け始めていた。時計を持たないのでわからないが、六時頃であろうか。
酒井は無動寺谷から再び大比叡への登りにさしかかった。これまで暗闇の中を小田原提灯の火と杖を頼りに、霊所を巡拝しながら無動寺谷まで歩いて来た。そのときだった。いつしか空がほの明るくなり、樹海の木立ちや緑の葉が微かに形をあらわし始めた。杉木立の間をおおっていた白い霧が流れていく。一瞬、キラッと光るものが酒井の目を射た。最初は何だかわからなかった。次の瞬間、光はさらにまばゆく広がった。琵琶湖の湖面が朝の陽に光っていた。名状しがたい感動が酒井をとらえた。思わず真言を唱えながら朝の陽の光に合掌すると、不意に涙があふれた。なぜだか訳もなく涙が出てとまらない。こんな経験は初めてだった。
「まあ、今から考えれば、いろいろ理由はつけられるんだろうけど、そのときは訳もなく涙がこぼれてきたという感じでね。一つのトンネルをくぐり抜けたっていうのかな、朝の光に輝く湖面が神秘的に映ったんだろうね。最初の日のことは緊張していたせいか、よく覚えとらんけど、これだけは忘れられないわね」
深い感動を大切に、酒井の白い浄衣姿が大比叡の中腹を駆けていく。最初は妙にぎこちなかった足のリズムも、このあたりまで来ると少しは慣れてきた。中腹には第五世天台|座主《ざす》・智証大師円珍の廟がある。円珍は、弘法大師空海の姪の子といわれるが、十五歳で比叡山に上がり、第一世天台座主・義真に師事。円仁に次いで入唐求法《につとうぐほう》し、天台密教の確立に大きく寄与した。円仁を前唐院大師、円珍を後唐院大師とも呼ぶ。帰国後は三井《みい》の園城寺《おんじようじ》を天台の別院としたため、その後、天台宗は座主職の争奪などによって、「山門《さんもん》」派と「寺門《じもん》」派に分裂することにもなった。
円珍の廟の先を右に折れ、阿弥陀堂から西塔の山王院を経て、急坂を下ると浄土院である。酒井は最澄の祖廟の前に立つと、いつも心が引きしまる思いがする。三年籠山のとき、ここで宗祖にお仕えしたのが、つい昨日のような気がした。ここからにない堂は近い。常行堂と法華堂へ急ぐ。にない堂は静寂な朝靄《あさもや》の中に今はひっそりとたたずんでいた。にない堂の渡り廊下の下をくぐって釈迦堂に詣でると、今度は横川に続く峰道となる。
昭和四十一年に、延暦寺と法灯護持会会員が株主になって「比叡山奥比叡開発株式会社」というのが設立され、比叡山にドライブウェーが作られた。「比叡山を俗化させる」として反対する声も強かったが、比叡山全域が容易に参詣できるようになったのも事実だ。峰道はこのドライブウェーに見え隠れする形で、西塔から横川まで約五キロ、馬の背のように尾根づたいに続いている。左手には京都の街が遠望でき、右手には琵琶湖がのぞめる。峰道の中ごろに「玉体杉《ぎよくたいすぎ》」がそびえている。酒井はここまで来ると、初めて蓮華座を刻んだ石に腰を下ろした。しかし、これは休憩するためではない。酒井は遥かな御所に向かって礼拝し、玉体の安穏を祈願をした。天皇は明治維新後、東京に移ったが、天台宗は、最澄と桓武天皇の関係から、「鎮護国家」を基本的な思想としている。それが今もなお形式として千日回峰の中に残っているのである。
玉体杉からは下り坂になる。酒井は横川に向かった。横川は三塔の中でもいちばん北にあり、最も奥山に位置する。地主権現から阿弥陀ヶ峰を通って横川中堂に出た酒井は、朱色の柱と欄干がまばゆいばかりの回廊を一回りし、元三大師の墓所に詣でた。ここは「三大魔所」の中でも最大の魔所だといわれる。第十八世天台座主・慈恵大師良源は、「仏教の興隆は人の養成にあり」として多くの弟子を育成した。三千人といわれたその門下から恵心僧都源信や檀那《たんな》僧正覚運など名僧が輩出したが源信、覚運に覚超、尋禅《じんぜん》を「四哲」と呼ぶ。良源の教え方は、
「学問を励むには努めて論議を行え。論議は要点をつかみ易く、悟りを得るのに最も便である」
というもので、「広学竪義《こうがくりゆうぎ》」を興して、後世永く論議の道を開き、比叡山中興の祖といわれた。またおみくじ≠フ元祖であるばかりでなく、鬼《おに》大師、角《つの》大師、魔滅《まめ》大師など変化相のお札が、日本全国の民家の入口に貼られたもので、元三大師に対する民間信仰は厚いものがある。叡山では元三大師の墓所だけ「御廟《みみよう》」と呼んでいる。横川には元三大師の四季講堂、末寺子弟の修行道場である比叡山行院などがあるが、酒井はすべての堂塔を巡拝したあと、恵心僧都の墓所から、斜め道を一気に飯室谷に駆け降りた。酒井が一時半に出峰して長寿院に戻ったのは十時前後だった。初日は九時間くらいかかったことになるが、以後は七、八時間で踏破することになる。飯室回峰の全行程は約四十キロ。無動寺回峰より十キロ距離が長いうえ、巡拝の仕方も若干異なっている。
「拝む対象が飯室回峰は実拝《じつぱい》といって、どういうわけか墓地を通過するのが多い。まず比叡山の五大堂を全部実拝する。それから伝教大師さんとか、慈覚大師さん、元三大師さんとか、檀那僧正という偉いお坊さんね、あるいは慈忍さんとか、恵心僧都とか、そういう比叡山の歴史に残る、要するに学校で、こういう偉いお坊さんがおりましたよ、と教わるお坊さんのお墓を実際にお参りしている。無動寺回峰は、向こうの山に僧院がありますって、こちらから遥拝する。そういうところの違いがあるわね」
無事に長寿院に帰って来たからといって、それで一日が終わるわけではなかった。今度は小僧としての仕事が待っていた。箱崎老師は食事をしないで待っている。酒井はすぐ浄衣を脱ぐと、すぐ食事の支度をして老師のもとへ持っていった。老師が食事をしている間に風呂をわかす。老師が入るためだ。それから掃除、洗濯などやることは山ほどあった。普通、千日回峰に入れば、周囲が配慮して、たとえば食事も小僧が作ってくれるから、回峰行以外のことは考えずに行ひとすじに専念できるが、酒井の場合はその逆だった。老師はそれを当然のようにみている。
「道が違う、環境も違う、食べ物も違う。わしは老師の面倒をみながらやったというとおかしいけど、まあ、二重の意味でこれは大変だと思ったね。普通の人よりは倍は行しているみたいなもんだな。その当時はそう思ったの」
荒行《あらぎよう》が始まっても、酒井の食生活はいたって質素なものだった。一日の行から戻り、老師の世話をしたあと、自分の食事をとる。メニューは、そばかうどん一杯、ごま豆腐半丁、じゃがいもの塩蒸ししたのを二個。これだけである。同じものを夕方にもう一度食べる。この食生活は今に至るまで続いているが、まず消化がいいこと、それにたくさんの食事の量をとれば、それだけ排泄物が多くなる。万一、行の最中に便意を催したときなど、「山川草木悉有仏性」の精神から巡拝する酒井にとって、比叡山のすべてが聖地である、そこを汚すわけにはいかない、という配慮が含まれていた。さらに七百日を満行したあとにある「堂入り」に備え、体の細胞を改造しておく必要があった。これでマラソン選手と同じ距離を、しかも起伏の激しい峰道を毎日行歩するのである。
『仏教健康法入門』という本の中で、こういう試算をしている。
〈一日の摂取カロリーは多く見積って一四○○〜一五○○キロカロリー。これは回峰中も変わらない。ところが、今年六十歳(このときは四十八歳)の酒井師の基礎代謝量を一三○○キロカロリーとすると、何もしなければ二○○キロカロリー分が身につく計算になる。ところが、回峰行中は毎日四十キロの道のりを七時間近くかけて歩く。こちらのエネルギー消費は少なくとも二○○○キロカロリー。基礎代謝と合わせると三三○○キロカロリー。つまり一日一八○○キロカロリーのマイナスである。単純計算すると、これは一ヵ月に体重が五〜六キロ減ることを意味する。一年では体重がゼロになっても不思議ではない。〉
しかし、酒井はこの食事で体重が減りもしなければ、病気にもならなかった。強靭な肉体を強い精神力が支えていたことになる。むしろ行に出たほうが楽だった。箱崎老師は酒を飲む。在家の頃、酒に溺《おぼ》れて修羅の人生を送ったことのある老師は、やはり根は酒が好きなのか、近頃ではまた深酒をたしなむようになり、ひどいときには酒乱≠フ気を呈した。それはまだいい。来客があると必ず酒になり、小僧の酒井は、酒の肴《さかな》を作ることを命じられる。酒が延々と九時すぎになっても続くのだ。明日に備えて休むどころではない。師の命令は絶対である。老師は、酒井が千日回峰に入っていることなど関係ないとばかりに、酒井を小僧扱いにして、夜遅くまで酷使した。午前零時に起きるためには、夜の九時過ぎには眠りたい。老師はそんな酒井を無視して、三日も四日も連続して来客と遅くまで酒をくみかわし、肴を作ることを相変わらず酒井に命じた。翌日は寝不足のまま出峰し、四十キロを歩く。一日の睡眠時間がわずか二時間で出たときは、さすがに人っ気のない山の中で、このまま引っくり返って寝たら、さぞ気持ちいいだろうな、と何度も思った。しかし、無論、眠ることなどはできない。回峰行はいかなることがあろうとも歩き通さなければならない。それが掟だ。それができなければ首を吊《つ》るか、短刀で自害するしかない。酒井は「酔っ払ったような千鳥足」で行歩する。暗いうちはまだしも、朝が明けてくるとそうはいかなくなる。誰が見ているかわからない。いや、誰がというより、仏さまが見ている。そう思うと、最後の気力をふりしぼって急がなければならない。そして帰って来れば、また寺の仕事が待っているのだった。
「お寺にはいくらでも仕事があるんだ。回峰行より他の仕事に追われっ放しで、何回、老師を密かに怨んだかわかんないよ。体を動かしているときはまだいいの。お勤めのときが一番辛い。目があいていても、体が寝てんだね。お経は同じところを何回も空回りしているし、あるときなんか、拝んでいるうちに体が前のめりになってきて、ロウソクの火で火傷しそうになったこともあったね」
一期百日のうち、七十五日目に「切り廻り」といって一日だけ、京都大廻りをする。この日は一日に九十四キロも歩かなければならない。その「切り廻り」よりも、最初のうちは睡眠不足で歩く四十キロがこたえた。
歩きながら幻をみることがあった。それも「いつも決まった場所でみる」という。悲田谷がその場所で、雑草が生い繁った路傍に、何体もの石地蔵が立っている。いつの時代、誰が何の供養のために立てたのかわからない地蔵たちは、長い風雪にさらされて崩れているものもあれば、傾いているのもある。酒井がその場所にくる頃は五時前後で、朝のほの白い光の中で石地蔵たちが、まるで生きている人間の顔のようにみえてくる。自殺した妻の顔が不意に浮かんだ。その顔はつきつめた表情ではなく、静かに微笑をたたえていた。別の顔が浮かんでくる。予科練時代に機銃掃射を浴びて死んだ同僚の顔だ。特攻隊員の顔も浮かんできた。過去にふれあった人たちのさまざまな顔がオーバーラップする。酒井はふと我にかえって思う。
「嫁さんや戦友たちが、やっぱりおれを仏の世界に導いてくれたんだろうか。嫁さんも戦友たちも、今は幸せに極楽とやらで生きているのかなあ」
そう思うと、酒井は胸がつまった。妻が生きていた頃の生活が急に甦ってくる。あのとき、もっとおれがしっかりしていれば……という後悔の念に息苦しくなった。罪障消滅、仏に許され、救われるまで、自分はもはや行をするしかない。老師のことなど気にしたら自分が潰れるだけだ。あのくらいのことに耐えられない自分なら、「堂入り」などとてもできっこない。九日間、不眠、不臥《ふが》、断食、断水の荒行は遠い先のようでもあり、すぐ近づいてくるような怖さもあった。とにかく一日一日歩くだけだ。酒井はそれからしばらくして幻をみることもなくなった。
「峰の白鷺《しらさぎ》、谷のすず虫」
と言葉のひびきは美しいが、それとは裏腹にこれほど厳しい世界はない。峰の白鷺とは、白い浄衣をまとって峰道を飛ぶように歩く回峰行者の「回峰地獄」をたとえたものであり、谷のすず虫とは、修行の鈴の音はするが姿を見せない横川の僧の「看経《かんきん》地獄」をさす。
その年の七月十五日、二百日を満行し、翌昭和五十一年四月三日から三百日へ向けて歩き出した酒井は、峰道にもなじんで、かなり自分のペースで巡拝することができるようになっていた。もともと酒井は足が速いほうである。慣れた峰道を、さながら白鷺が舞うように、浄衣を風にひるがえして駆けていく。「歩々・念々・唱々」の言葉通り、ひたすら歩き、三塔十六谷を巡拝し、およそ二百六十ヵ所の堂塔伽藍、先師たちの霊跡墓所、あるいは野仏、一木一草に至るまで、「手文」にしたがい、印契を結び、般若心経、不動真言、念仏の名号、自我偈《じがげ》、礼文《らいもん》などを唱えていく。さらに旧暦の四月十五日から九十日間は、毎日出峰するときに「供花《くげ》」作法を修し、巡拝するところに花(樒《しきみ》の葉)を供える。これは無論、相応|和尚《かしよう》が、毎日、根本中堂へ美しい花を供えた故事からきていた。一ヵ所で長くて二、三分、そして次へと行歩してまた拝む。「但行《たんぎよう》礼拝」の精神で修行する回峰行はまた「歩く禅」ともいわれている。余計なことは考えず、ひたすら目の前の仏性に礼拝して行くのである。この時分になると、何時頃どこを歩いているか、ある程度リズムもつかめていた。
坂を駆け下りるときにはコツがある。先輩の千日回峰行者・光永《みつなが》澄道師は、最初の百日回峰のとき、叡南覚照師に先達してもらったが、覚照師の足どりが、まるで舞踏のように、様式的にきめられたように、山道の変化に応じて踏み出す足の位置まで決まってしまっていることに圧倒されている。
〈たとえば、山坂を下るとき、普通の人ならまっすぐに道のとおりに駆け下りる。ところが行者はそうではない。蛙のように、右に跳び左に跳びして、加速のつくのを制御しながら下りていく。そうでなければ、途中で加速がついたら最後、下まで駆け下りねばならず、下り着いたところでバッタリ倒れるのがおちだからである。そういう足の運びはもう、実際に体でおぼえるしかない。(参考文献18)〉
光永師がそのコツを会得したように、酒井もやがて回峰行の峰道が完全に自分の道になっていく。いかに凄いスピードで坂道を駆け下りるか。ある夜、酒井は急坂で跳び上がり、大地に足が着いた瞬間、草鞋の下でぐにゃっと何かを踏みつけたと思った。後ろを振り返る暇もない。第一、回峰行とは忘れ物をしても、絶対に後戻りすることは許されないのだ。翌日の行で、同じ場所に来た酒井は、提灯で照らしてみた。そこに押し潰された蝮《まむし》が一匹死んでいた。いかに凄い力で大地を蹴り、大地を踏みしめて坂を駆け下りているかがよくわかる。
毎日が晴れの日とは限らない。雨の日もあれば、嵐の日にもぶつかる。強風に吹き飛ばされそうな日もある。三百日満行までは、毎年百日ずつ歩く。比叡山の回峰行者にとって、絶対に欠かすことができない「葛川夏安居《かつらがわげあんご》」という修行が毎年七月十六日から二十日まで行われる。その日までに一期百日の回峰行が終わるように逆算して行に入ると、雪が溶けてすぐ毎年四月上旬には出峰しなければならない。行の期間中に梅雨どきと重なるので、どうしても雨にたたられることも多かった。しかし、雨や嵐の日だからといって、一日たりとも行を中断することは許されない。千日回峰は、踏み出した以上、絶対に後戻りはできない「行不退《ぎようふたい》」「捨身苦行《しやしんくぎよう》」といわれている生死を賭けた荒行なのである。さらに三百日を満行するまでは蓮華笠をかぶることも、足袋をはくことも認められない。雨のときだけ油紙でつつんだ笠をかぶることを許されるが、雨があがったらすぐとらなければならない。蓑合羽《みのがつぱ》だけをつけて、ずぶ濡れになって行をする。起伏の多い山中は泥沼化している場所もあるし、森の中の小道は滑りやすい。それはまさに苦行であった。
根本中堂の前に、「ねがはくは 妙法如来正偏知 大師のみ旨 ならしめたまへ」という宮沢賢治の歌碑が建っている。賢治は、熱心な法華経信者で求道者だった。この句は、大正十三年四月、宗祖最澄千百年の御遠忌《ごおんき》のとき、賢治が父親と二人で、日本の心のふるさと∴ノ勢神宮、日本仏教の源流の比叡山、日本文化の開花の地、法隆寺の三ヵ所に巡礼したときに詠んだ十二首の歌の第一首で、昭和三十二年、二千日の運心回峰行を終えた葉上照澄師が建立したものである。
宮沢賢治の詩や童話は、法華経の精神が込められていると葉上師は指摘しているが、賢治の有名な詩、「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/欲ハナク/決シテ瞋《イカ》ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル」云々と誦《じゆ》することのできる詩句は、回峰行のことを詠ったともいわれている。さらに、こういう詩がある。
あらめの法衣《ころも》身にまとい
城より城をへめぐりつ
上慢四衆《じようまんししゆう》の数ごとに
菩薩に礼《いや》をなしたもう
これは相応和尚が礼拝行を始めるきっかけになった法華経に出てくる「常不軽《じようふぎよう》菩薩」のことを讃えた詩である。常不軽菩薩とはどんな菩薩なのか。釈迦が入滅したあと、増上慢の比丘《びく》(男の僧)が勢力を持っていたとき、一人の菩薩がいた。この菩薩は自分の出あうあらゆる比丘、比丘尼(女の僧)、優婆塞《うばそく》(男の在家信者)、優婆夷《うばい》(女の在家信者)に対してことごとく礼拝し、
「我、あえて汝等を軽《かろ》んぜず。汝等はまさに仏となるべきが故なり」
と繰り返すのみで、経典を読誦《どくじゆ》せず、ただ礼拝を行い続けた。相手に邪険にされ、悪口をいわれ、また衆人に木で打たれ、石を投げつけられても、相変わらず「我、あえて汝等を軽んぜず。汝等はまさに仏となるべきが故なり」といい続け、礼拝をするのみだった。それで「常不軽」と呼ばれるようになった。増上慢の比丘たちもついにはみな常不軽菩薩の教えを聞いて信伏し、法華経を説くようになったので、その功徳によって仏になることができたというのである。
相応和尚は、この常不軽菩薩に感動して、「不専読誦、但行礼拝」しているところを慈覚大師に認められた。そして、根本中堂の薬師如来から夢告を受け、無動寺谷をひらいて千日回峰の創始者になったことはすでに述べた。相応和尚は無動寺谷をひらいたあと、文徳天皇の女御《にようご》の重病を祈祷で平癒させたことから、その息障修験の効力と盛名が一時に洛陽に高まった。しかし再び大願を発して山に戻り、二十九歳のときさらに静寂、幽谷の地、裏比良の峻崖《しゆんがい》に多くの飛瀑がかかる「葛川《かつらがわ》」という聖地を見出して、そこで修行に入った。
〈……満願の日、観念をこらして深い滝壺をみつめたところ、たちまちに滔々《とうとう》たる瀑水のうちに、火焔を帯びた明王の色身を感得した。この瞬間、生来の念願成就を果たした和尚は、思わず深い滝壺に飛びこみ、明王の御体にいだきついたところ、これは一本の桂の古材と化して水上に浮かんだので、直ちにこの霊木を引き上げて石上に据え、千日|五穀《ごこく》を断つの難行を発願し、この材を御衣木に一刀三礼の不動明王像を刻みはじめた。(参考文献19)〉
相応和尚は霊木から三体の不動明王を刻み、第一は無動寺の明王堂、第二は葛川の明王院、第三は湖東の道場伊崎寺不動堂の本尊になったと「無動寺|聖《ひじり》之記」は伝えている。「葛川|夏安居《げあんご》」は、相応和尚の遺徳を讃えるとともに、その苦行の一端を体験し、自分も不動明王に一歩でも近づこうとする回峰行者の夏の荒行である。これには千日回峰行者、百日回峰行者全員が参加することが義務づけられており、これを「葛川参籠」という。
酒井もその年の回峰行が終わると、「葛川夏安居」で必ず五日間の参籠をした。たとえ初百日の回峰行を奉修しても、この夏安居に参加しなければ、初百日満行の行者として認められない。また年齢や法臈《ほうろう》(出家得度してからの年数)、あるいは僧階の上下に関係なく、参籠の度数(回数)によって席次が決められるという独得の伝統を持つ。行者の呼称は、「新達《しんだつ》」(初度から七度参加したもの)、「先達」(八度から十四度)、「大先達」(十五度から二十四度)、「大々先達」(二十五度以上)の四つ。昭和五十一年七月十一日に三百日を満行したばかりの酒井は、もちろんまだ回峰行の世界では新参の「新達」だった。
2 風が吹き過ぎるごとく
千日回峰に挑んでいる酒井は、自分のリズムを会得し、元気に「但行《たんぎよう》礼拝」の行を続け昭和五十二年四月九日から四百日満行を目指して歩いていた。初百日満行から始まり四年目のこの年から春百日、秋百日と一年に二百日歩く。これは翌年も同じで、五年目で七百日を満行することになる。
酒井は、四百日を目指して歩き始めた頃から、自分のなかで何かが変わってくるのを、実感した。これまではひたすら義務感で、一分の隙もなく「手文」通りに行歩してきたが、このあたりから行を楽しむゆとりさえでてきた。かつて箱崎老師は、酒井が出峰するとき、「行のなかに楽しみを見つけよ、それでなくては崩れる」と訓戒したが、その意味が初めてわかった。
たとえば、朝起きてすぐ滝で身を清める。その水の冷たさが日一日と違っている。四月が過ぎ、五月になるとあたたかさが増し、六月に入れば肌に苦痛がなくなる。落下する水の激しさも、天気が続けば落ち着いているし、前の日に雨でも降れば、水量が多く滝壺に叩き込まれそうになる。それを肌で感じる。生きて今日も行ができる喜びを二つの滝に感謝するようになった。滝の水にも「いのち」があることを知った。
それでも梅雨どきのじめじめした雨の中を、ずぶ濡れになりながら山野を行歩するのは辛い。長寿院から出峰しただけで、浄衣に水がしみ込み、体を冷やす。しぼると水がしたたるほど雨を吸いつくしている。鉄砲水があふれて、谷に突き落とされたこともあった。さすがに、何でこんな日に歩かなければならないのか、とわが身を恨めしく思うこともあった。深夜、誰が見ているわけでもない。途中で引き返し、やったようにふるまうことだってやればできないことはない。だが、それは酒井にはできなかった。誰のためでもない。自分から発願して千日回峰に入ったことなのだ。自分の心は仮に騙《だま》せても、仏が必ずどこかで見ていると思うと、むしろ仏に畏怖さえ感じた。酒井は濡れて重い浄衣を身にまとって、やはり黙々と歩いた。
「今になって思うと、わしの人生は行者になるようになっていたと違うんかな。これもすべて仏さまのはからいなのよ。人生の運命の糸なんて、自分には見えないけど、やっぱりあるんだろうな。仏さまは全部お見通しで、ホラ、孫悟空じゃないけど、お釈迦さまの掌の上で、グルグル回っているようなものやね。またそれがもう自分の生き甲斐になっているのよ」
ある日、ぬかるみの峰道を歩いているとき、ふと顔を上げると、朝のやわらかい光の中で琵琶湖が鈍く波うっているのが目に入ってきた。いつも見なれているはずの光景なのに、酒井は、あっ、と心で叫んだ。あの水だ。満々とたたえた琵琶湖の水も、もとはといえば一滴一滴の水が集まったものだ。自分が嫌がっている雨が大地にしみ込み、あるいは渓流となり、川になり、琵琶湖に注がれて、それが人間生活に必要な「いのちの水」となっている。これが自然の輪廻だ、そう気がついたときから、もう雨の日は嫌ではなくなっていた。むしろ雨に感謝する心さえわいてきた。
爽やかな日には心が躍った。月の形も変わるし、位置によって光が微妙に変化するのがわかる。昨日の景色と今日の景色が違っていることに気がつく。比叡山は動植物の宝庫である。夜が明けて陽が昇りはじめると、深山の闇の中から緑の木の葉がきらきら光って、朝の山鳥たちがさえずり出す。草深い藪の中にひっそりと咲いている可憐なエイザンスミレなどにいとおしさを感じるようになった。樹陰にはエイザンカタバミが白い五弁の花をひらいている。釈迦堂前の石段の両側でもよく目につく花だ。五月頃から梅雨のあとさき頃が小鳥がにぎやかになるときで、夜半に深山幽谷の比叡山だから聞くことのできる仏法僧が「ブンパン、ブンパン」と鳴く。それが近づいていくとブッパンソウと聞こえてくる。叡山第一の名鳥といわれる三光鳥は、大きさは雀くらいだが、雄は紫紺褐色、雌は紅褐色の長い尾羽をたれて樹海を飛ぶ姿が優美そのものだ。ホトトギスは、「ホンゾンカケタカ」と鳴き、ジュウイチは「ジュウイチ」と鳴くことから、「慈悲心鳥」とも呼ばれている。小鳥たちのさえずりは、酒井に今日もお互いに生きて挨拶≠オあうことの幸せを与えてくれた。
比叡山にはいうまでもなく千年杉やモミなどの神霊を宿した立派な古木が至るところにそびえている。その樹間を歩くときは、自然の営みの悠久とした時間の重さを感じて、崇高な気持ちになった。由緒ある名木も数多い。特に浄土院の最澄の御廟の前にある沙羅双樹は夏頃に白い椿のような花を咲かせる。三年籠山のときここで仕えた酒井は、花がひらく季節に浄土院までくると、その幻のような白い花が目に浮かぶのである。花は蕾《つぼみ》から満開に咲いていのちを全うし、やがて散っていき、そしてまた次の年に花ひらく。草も一本一本が日ごとに伸びていくのがわかる。一木一草が生きている。「山川草木悉有仏性」、酒井はそれらを礼拝して歩く毎日が楽しくなってきた。四十キロという山野の峰道が短いとさえ感じるときがあるようになった。
動物にも出くわす。特に悲田谷のあたりに多く、昨夜歩いたときは何でもなかったのに、大きな穴があいている。猪が木の根っ子を引っくり返してしまうのだ。野生の猪はときとして凄い音をたてて突進してくる。よけそこなったら大変だ。事実、酒井はこのあと猪に襲われて怪我をして歩けなくなり、自害を覚悟するところまで追い込まれるのだ。鹿は遠くでけげんそうに見ていて、近づくと一瞬にして逃げ去ってしまう。猿も多い。猿は古来から日吉神社の神使いとされていて、比叡山には多数棲息している。日吉神社は神猿でも有名だ。猿は「魔|去る《ヽヽ》」として、大事にされているのである。酒井の嫌いな蛇もいた。大蛇のようなアオダイショウ、ジムグリ、シマヘビ、カラスヘビ、ヤマカガシ、そしてマムシ。とぐろを巻き、鎌首をもたげて攻撃態勢に入っている蛇が、急に提灯の明かりの中に浮かび上がると、さすがに恐怖をおぼえて思わず後ずさりした。そういうときは勢いをつけて、蛇をひょいとひと跨ぎして駆け去るのだ。
比叡山は、最澄以来ずっと殺生禁断の霊場である。信長によって一度全山を焼打ちされたものの、その後徳川家康が山林竹木伐採禁止令などを出して保護した。また家康に登用され、家光の代まで徳川家の政治顧問として権勢をふるった天台宗の高僧・天海大僧正も殺生禁断、山林竹木伐採の法度を出して保護を加えた。動植物にとっての聖域は長く守られ、今も国指定の禁猟区になっている。行者にとって、野生の動物もみな共生すべき自分の友である。最初の頃は出あうたびに、ドキッとして恐怖感を抱いた酒井も、この動物たちが今日も元気で生きているように、ちゃんと自然の食べ物にありつけるように、と祈るようになっていた。そこを通るたびに、亡くなった妻や戦友たちの顔が去来していた悲田谷では、今では死者たちの悲しみを乗り越えて、生きとし生けるものの今日のいのち、明日のいのちを祈る心に変わっていた。飯室回峰を歩き始めた二百日、三百日、そして七月に四百日を満行した酒井にとって、行者道は毎日異なった表情をみせてくれるから、同じ道のような気がしなかった。それだけ行の奥ゆきは深い。
深夜の回峰行を続ける酒井に、心強い仲間ができた。黒と白の犬で、名前もクロとシロという。クロは無動寺谷の明王堂にいた犬で、飯室谷に移ってきた。シロはクロの仔である。この犬が酒井の伴をするようになった。以前は、犬が大嫌いで、「噛みつかれるかと思って逃げて歩いていた」酒井だったが、今や二匹の犬が孤独な行の欠かせない友となった。毎日毎日歩いていると、酒井自身の五感も動物と同じようになってくる。峰道の道の窪みから雑草が生え繁っている場所もすべて体がおぼえている。この頃になると、悲田谷の熊笹の中の道を歩いても、足跡の歩幅も右と左の足の動きも決まっていて、ちゃんと同じ場所を踏んでいる。真っ暗闇の中にあってもそれは変わらない。酒井もまた叡南覚照師のごとく、まるで舞踏のように、様式的に決められたように、峰道の変化に応じて踏み出す足の位置がぴたっと決まるようになっていた。
回峰行はますます厳しくなっていく。七月に四百日が終わると、八月からすぐ五百日満行の行に入った。一年のうちに二百日歩くのは初めての経験だ。しかも今までは春先から初夏にかけての行だったが、今度は真夏から秋口にかけての行である。相変わらず、箱崎老師の世話をする小僧としての生活と回峰行者としての厳しい行を両立させなければならない。老師の酒はだんだん凄味をまし、夜遅くまでこき使われた。体が疲れて酒井の動作が少し緩慢になり、酒の肴を用意するのに手間どると、挑むような目になって、こんなことでもたもたするくらいなら、行なんかやめちまえ、と癇癪玉《かんしやくだま》が炸裂《さくれつ》した。稀代《けだい》の老行者からみれば、酒井の行など何ほどのこともないのだろう。心の中でムッとなったが、ここで老師に逆らったらすべてが終わりだ。酒井は耐えた。当然、例によって睡眠時間は極度に短い。そんな酒井に対して、老師は「歩きながら寝りゃいいんだ」と、こともなげにいう。そして、一人の泥棒の話をした。
箱崎老師の生まれた在所の小名浜に泥棒がいた。この男は仲間と一緒に飲んでは遊び、表面はそこらへんにいる村の衆と変わったところがないが、実は大泥棒だった。村が寝静まった頃、そっと家を抜け出し、小名浜から仙台まで一晩で二十里の道を往復し、仙台で盗みを働いて、みんなが起きる頃には家にちゃんと戻っていた。そして昼間は村の衆と変わらない。一体いつ寝るのか。
「その泥棒は、歩きながら体の部分部分を休めているんだ。体全体で歩かないで、肩で歩いたり、腰で歩いたりして、ちゃんと体を休めていたんだよ」
その話をして、老師がいわく、
「お前も、休みながら歩くコツをおぼえんかったら、一人前の行者にはなれん」
酒井は、そんなことできるわけないわ、と思ったが、泥棒の話には続きがある。
「その人、酒屋の息子だったらしいが泥棒になってね、遠出をしては荒稼ぎしていた。すごい健脚だったんだろうね。しかし最後にはお医者さん宅に泥棒に入ったはいいが、そこの女中さんにバーンと投げられちゃったわけ。おれももう女に投げられるようじゃおしまいだ、といって泥棒をやめた。女の人は柔道の三段だったんだって。まあ、それでわしも歩きながら休む方法をいろいろ練習したら、これができるんだね」
もっとも、可能になったのはのちのことで、酒井は苦しい試練に耐えながら、この年十月十九日、五百日を満行した。五百日を終わると「白帯《びやくたい》行者」と呼ばれるようになる。比叡山はもう冬を目前にしていた。
同じ時期、無動寺谷の明王堂では、内海俊照師が「堂入り」の荒行に入っていた。内海師は昭和十八年一月三十一日生まれ、香川県|坂出《さかいで》市の出身。十五歳のとき比叡山に上がり、叡南覚照師のもとで出家得度し、修行した。覚照師がちょうど千日回峰の七百日目の行の最中に比叡山に上がった内海師は、以来、行を見ながら成長し、叡山学院研究科を卒業した四十一年三月に初百日の回峰行に出峰して七月に満行。酒井の一年前、四十九年三月二十七日から千日回峰に挑んでいた。そして、この年十月十三日から堂入りに入った。
酒井が毎日、回峰行で明王堂までくると、透明な緊張感が堂のまわりに張りつめていた。
〈堂内では飲まず食わず、起きてじっと坐っておればよいかといえば、それだけではありません。決められたとおりに護摩壇に上がって午前三時と十時、午後五時の勤行《ごんぎよう》を繰り返します。そのほかの時間は外陣の隅に畳二枚をしき、逆さ屏風で囲った中で、じっと坐るのです。これはお不動さまの許《もと》に行って験《ため》されているわけですよ。このときも一落叉《いちらくさ》、十万遍といって、十万遍の真言を唱えなければなりません。(参考文献21)〉
内海師はこの荒行に耐え、十月二十一日に堂入りから無事に生きて戻ったが、頬はげっそりとそげ落ち、五十八キロの体重は九日間で十六キロ痩せていた。それでも出堂の折、前もって覚照師から「だらりとして介添人にもたれて出るんじゃないぞ。人に憐《あわれ》みをこう行者じゃいかん」と忠告されていたので、内海師は、最後の気力をふりしぼって自分の力だけで出堂した。千日回峰行者の凄まじい精神力をそこにみる。
酒井も翌年にはこの堂入りに生死を賭けることになるのだ。
翌昭和五十三年四月九日、酒井は元気に六百日を目指して長寿院を出峰した。気力は充実していた。その一ヵ月後の五月九日、酒井はいつものように滝で身を清め、午前零時すぎに不動堂に入って、朝の勤行を始めた。天台宗では「朝題目、夕念仏」といって、朝座には不動明王の供養|品《ぼん》と法華経の安楽行品をあげ、夕座には阿弥陀経と般若心経を唱える。酒井は数珠をまさぐりつつ一心に読誦していた。次の瞬間、不吉なことが突然起きた。
法華経のお祈りが終わりに近づいた頃、両手で擦り合わせていた数珠の糸が突然切れた。そして数珠の珠が、静寂な堂内の床に音をたてて飛び散った。行者が肌身を離さない数珠は大きい。張りつめていた堂内の空気を鋭く切り裂いて、飛び散る珠の音が異様に高く酒井の耳をうった。不吉な予感が走った。こんなことは今までになかったことだ。しかも数珠はつい最近新しいものと取り替えたばかりだった。何か変事の前兆ではないか、酒井は胸さわぎがした。
その直後、霊山院の小寺師のもとへ、東京から電話が入った。父岩吉の危篤を告げる連絡だった。だが、小寺師は出峰前の酒井には知らせなかった。行中の酒井の心を乱さないという配慮からだったが、そればかりではない、一度千日回峰に入ったら、俗界の恩愛をすべて断ち切り、たとえ肉親の死といえども、行を中断することは許されないのだ。
酒井は不吉な胸さわぎを覚えながらも、いつものように「死に装束」の浄衣に身をつつみ、死出紐《しでひも》と自害用の短刀を身につけ、蓮華笠をかぶって、午前一時半に出峰し、三塔十六谷を巡拝して、八時すぎに長寿院に戻って来た。小寺師が沈痛な表情で待っていた。
「お気の毒だが、お父さんが亡くなられた」
小寺師が告げる父の死を聞いて、酒井は愕然《がくぜん》とした。あの数珠が突然切れたのはこれだったのか。しばらくの間、言葉もなく合掌した。
「腹膜炎で、今朝の午前二時三十四分に亡くなられたということだ」
「すると、出峰して間もなくのことだったんですね。実は……」
と酒井は、勤行中に数珠が突然飛び散ったことを小寺師に話した。二時半すぎといえば、日吉神社の山王二十一社を巡拝し、坂本の諸神仏に礼拝していた頃だ。父岩吉は、長男がどんなところで修行しているのか、比叡山も坂本も一度も訪れることなく、七十四歳で亡くなった。
「お葬式にはぼくが代わりに行ってこよう」
「よろしくお願いします」
酒井は再び父の死に合掌した。
仏門の身にありながら、肉親の葬式に出ることもできない。親不孝といえば、これほど辛い親不孝はなかった。比叡山の結界から一歩も俗界へ出ることは許されない身だ。自ら千日回峰を発願したときから、酒井は生死を超越した厳しい行道に踏み込んだのだ。世間的な意味での肉親との恩愛を断ち切らなければ、「捨身苦行」を成しとげることはできない。そして、この千日回峰は、自分のための「自利行」から入ったとはいえ、究極的には、一個人の肉親の恩愛を超えて、衆生全体の幸福のために尽くす「利他行」に、その本来の目的が秘められているのである。
父岩吉の葬式のため、小寺師と長寿院によく手伝いに来てくれている大阪の寺西智恵子という女性が東京に向かった翌日も、酒井はいつものペースを崩すことはなかった。滝で身を引きしめ、朝の勤行をやり、午前一時半に出峰した。しかし、厳しい行の掟《おきて》とはいえ、酒井も人の子である。父を亡くした悲しみが心にあふれていた。朝のお勤めのときは父の冥福を祈り、三塔十六谷を巡拝する道すがら、父の面影がよぎった。二百六十余ヵ所の堂塔や伽藍に礼拝するとき、父の供養を込めた読経が、いつもよりつい長くなった。葬式にも出ない親不孝を許して欲しい。これからは毎日、父の冥福を祈ることで親不孝を詫びるしかなかった。悲しみに濡れた酒井の心に、最後に会ったときの痩《や》せた姿が切なく浮かんでは消えた。
酒井は仏門に入るとき、親きょうだいには一言も相談しなかった。すべては自分一人で心を決め、出家得度した。予科練に入るときもそうであったように、人生の岐路に直面したとき、酒井は自分だけで悩み、考え、そして決断した。そこに意志の強さと情に流されない決断力をみる。両親には、出家したことを手紙で知らせた。長男が比叡山に入ったことを初めて知った父岩吉と母ミカはびっくりしたが、もう長男を自分のもとへ引き戻すことはできなかった。岩吉が家族の前でつぶやいた。
「忠雄に坊さんが務まるのかねえ。あんな何事も最後までようやらん兄《あん》ちゃんが、よりによって坊さんとは……。しょうがねえなあ、長男坊のくせに」
ミカも深くため息をついた。
「……お嫁さんがあんなことになっちゃったから。兄ちゃんの気持ちを思うと、可哀相で……」
長女の美佐子や弟の保二たちも、「へえ、もの好きねえ」「兄貴、変わってるなあ」と、声をひそめた。岩吉は、「兄弟が多いから、一人ぐらい坊さんになるのもいいか」と、最後はあきらめた。親きょうだいの中で、最初に酒井に会いに来たのは四女で末っ子の慶子だった。酒井が霊山院の住み込みの小僧となって間もなく、新婚旅行で奈良や京都を回った慶子が夫を伴って、霊山院を訪ねて来た。夫に兄を紹介するためだったが、慶子がそこで見たものは、双子の世話を焼き、子供たちのお守りをしながら、掃除、洗濯、買物と雑事に追われている兄の小僧生活だった。坊さんになったとだけ聞かされていた慶子は、想像もしていなかった兄のそんな姿を初めて知って驚き、新婚旅行の夫の手前、羞恥心と戸惑いをおぼえたのであろう、早々に帰って行った。
酒井も妹夫婦の不意の訪問に狼狽した。妹の表情から失望の色をみてとったが、しかし、これが隠しようのない自分の現実の姿であった。反面、妹が訪ねて来てくれたことで、出家以来ずっと途絶えていた家族とのつながりがまた復活した。家族たちに会いたい、という思いが無性につのってきた。昭和四十一年の夏、酒井は大阪に移って以来八年ぶりに初めて東京の家族に会いに戻った。そこでは突然の悲報が待ちうけていた。
酒井が杉並区阿佐ヶ谷の長女美佐子の家に着くと、きょうだいたちが集まっていた。両親は美佐子のすぐ前の家に住んでいる。父岩吉は感慨無量の思いで長男をみつめ、母ミカはそっと涙ぐんだ。久しぶりの親子の再会である。肉親のぬくもりにつつまれて、ポツポツと出家したあとの生活ぶりを酒井が話し始めたとき、突然、電話が鳴った。美佐子が出ると、池袋に住む三女の信子が泣きじゃくって告げた。
「お父ちゃんが死んじゃったの」
信子の夫が急死したというのだ。酒井の再会の日が一転して悲運の日に変わった。その日はひどく雨が降っていた。酒井は家族たちと妹の家に駆けつけた。信子は突然の夫の死に放心状態でいた。通夜、お葬式とあわただしく続き、酒井はまだ十分におぼえていない読経をして、妹を慰めるしかなかった。久しぶりに帰宅した日に妹の夫の死に遭遇するとは、これも悲しい仏縁だ、と酒井は心のなかで死者の冥福を祈った。
次に東京に戻ったのは、清瀬の結核療養所に入院している父の見舞いのためだった。このとき酒井は三年籠山を終わり、宝珠院の住職になっていた。千日回峰に入ると、同時に十二年籠山といって、延べ十二年間は比叡山の結界から一歩も俗界へ出ることは許されない。その前に家族に報告に行った。内心では、ひょっとしてこれが家族との今生の別れになるかもしれない、との思いがあったからだった。
「これから十二年間、お山に籠って行をすることになった」
酒井がいうと、美佐子が尋ねた。
「行ってどんなことをするの?」
「お山を毎日歩かせてもらうんだ」
「あ、そうなの」
千日回峰のことなど何も知らない美佐子は、山登りでもするのかな、と別に気にもとめなかった。
このとき、父岩吉は胸を患っていた。もともと細身で体が丈夫なほうでなかった岩吉は、戦争に行ったとき中国で敵弾を足に受けてばったり倒れた際、胸を強打し、それがあとあとまで尾を引いた。酒井と株屋をやっている時代も疲労がたまると、胸の痛みを訴えていた。そしてついに老人性結核症のような病気になり、清瀬の結核療養所に入院していたのである。
酒井が、美佐子に伴われて療養所に父を見舞うと、同室の患者たちが異様な目で坊主姿の男を見た。無理もない。死と闘っている患者たちに坊さんが現われたのは不吉なものに映ったのだろう。岩吉がそんな空気を察して、同室の患者たちに酒井を紹介して回った。
「これが比叡山で修行している伜《せがれ》です。どうぞよろしく」
出家以来、二度目の父子対面である。特別な会話は交わさなくても、父子の心は通じ合った。岩吉は今では、比叡山に入った息子の心が理解できるようになっていたのかもしれない。酒井は、千日回峰に入れば、やがて堂入りがある。不眠、不臥、断食、断水で自分がどこまでやり通せるか、その結末だけは是非おやじに見てもらいたい、と思った。不肖の息子の、それがこの世に生をさずけてくれた父に対する今の気持ちだった。
「兄ちゃん、体だけは気をつけて励みなさい」
「お父ちゃんこそ気をつけて。一度、比叡山にくればいい」
「ああ、そうするよ。楽しみにしている」
これが父子の最後の会話となった。
酒井は長寿院に移った最初の頃は、頑《かたく》なに家族の者が山に来ることを拒んでいた。母ミカは息子を案じて、内緒で一度、比叡山を訪れたことがあったが、長寿院がどこかもわからずに行きくれた。あいにくその日は強い雨で、ミカは行き倒れ状態となり、山の警備員に発見された。結局、息子に会うこともできず、空《むな》しく東京に引き返して行った。
後日、それを知った箱崎老師が、己に厳しさのみを課す酒井に諭した。
「肉親がお前さんのことを心配して、年に一度二度会いに来たからといって、修行の妨げになるものではあるまい。行の本当の心はそんなものではないぞ。温かく迎えてやることだ。お前は生一本すぎる」
その言葉に心をひらかされた酒井は、家族が来るのを拒まなくなった。長女美佐子が最初に訪れて、八ミリで比叡山で修行している酒井の姿を写して帰り、それを父に見せた。岩吉は、
「ええとこやな、春になったら是非一度、長寿院に行ってみよう」
と希望を持っていたが、それもかなわず、二ヵ月後の五月九日午前二時三十四分、腹膜炎のため死亡したのである。
母ミカと姉の美佐子は、葬式に来てくれた小寺師から、千日回峰がどんなに苛酷な行かを初めて知らされて、思わず絶句した。
「……そんなに厳しい行を、兄《あん》ちゃんが。少しも知らなかった……」
ミカの脳裏を、深夜の比叡山を一人黙々と歩いている息子の孤独な姿がよぎった。お父さんの葬式にも出られず、一人耐えて、山の寂しい道を小田原提灯ひとつの火を頼りに、毎夜歩いている息子を思うと、胸が切なく締めつけられた。美佐子にしても思いは同じである。小さい頃、度胸だめしになるといつも臆病で泣き虫だった弟が一人暗い夜道を、と考えただけで息が苦しくなった。母と姉は、居ても立ってもいられなくなって、比叡山に向かった。千日回峰という行の妨げになるなら、陰からひっそりと見守るだけでもいい、一目でいいから会いたい、ミカの思いがつのる。この前は会えなかったが、元気なのだろうか、それとも痩せ衰えているのではないだろうか、と心がせく。母からすれば子供は幾つになっても子供である。心配だけがミカの心をかすめた。
娘に案内されて、初めて飯室谷に行ったミカは森の深いのに驚かされた。老木のうっそうと生い繁った森はミカには不気味でさえあった。朝靄《あさもや》の中で母と姉はひっそりと待っていた。深い木立の中から白い浄衣を着た行者が姿を現わした。その姿がだんだん近づいてくる。ミカが初めて見た息子の「死に装束」姿である。兄《あん》ちゃんがこんな格好で行を。ミカの胸の奥に急にあついものが奔《ほとばし》った。行から戻ってきた息子に、何かねぎらいの言葉をかけてやりたかった。が、しかし、それは言葉にならなかった。行者姿の息子は、肉親の情が入り込む隙がないくらい厳しい雰囲気を漂わせていた。ただミカの目から涙がとめどもなくあふれ落ちた。美佐子も歯をくいしばって涙をこらえていた。
酒井は一瞬にして、向こうにいるのが母と姉であることを知った。あっ、来てくれたの、といおうとして、やはり言葉にならなかった。酒井は母と姉に黙って会釈をした。父の葬式にも出られなかった親不孝を詫びたのだ。万感の思いを込めた感情がお互いに交錯した。
その夜、ミカと美佐子は長寿院に泊まった。次の日はまた雨が降った。それも入梅時のすごい土砂降りの雨だった。酒井は黙々と準備をし、蓑《みの》をつけ、蓮華笠をかぶった。
「こんな雨でも行くの?」
驚くミカに、酒井はただ笑って、いつものように午前一時半に出峰して行った。自然にミカと美佐子は手を合わせ、豪雨の中に行者の姿が見えなくなるまで、合掌して見送っていた。
酒井は、肉親の死という悲しみを胸に秘め、その後も相変わらずペースを崩さず、千日回峰を続けていた。酒井はもはや昔の酒井ではなかった。自然の微妙な移ろいに、生きとし生けるものの「いのち」を感じ、頑なだった自分の心を老師にひらかれて以来、虚心|坦懐《たんかい》、素直な心で天然自然と一体になることができた。酒井が、風の吹き過ぎるごとく三塔十六谷を巡拝する一年がまた流れ、昭和五十三年十月二十六日に七百日を満行した。
そして、いよいよ最大の難関、堂入りに生死をゆだねるその日がやってきた。
3 堂入り
昭和五十三年十月二十六日朝、無動寺谷は荘厳な空気につつまれていた。
酒井は、いつもと変わらず三塔十六谷の巡拝を無事にすますと、午前八時すぎ、この日は無動寺谷の自坊・宝珠院に戻ってきた。そして、お勤めを始めた。ふだんと変わらないお勤めだが、この日は「結願《けちがん》」といって、七百日回峰が無事に終わったことを報告し、さらに今日から「堂入り」をする祈祷を行った。
堂入りに先だって、酒井はすでに比叡山一山の関係者、行門の先達、信者たちに次のような案内状を送っていた。
「恭《うやうや》しく大聖不動明王の本誓を仰ぎ、謹んで回峰行門始祖建立大師の冥加《みようが》を被《こうむ》り、行道七百日を満じ、来る十月二十六日、堂入りの厳儀を相迎えますことは、無上の喜びで御ざります。ここに愚鈍の行者雄哉、畢生《ひつせい》の悲願を凝《こ》らし、九日間断穀断水、心身を清めて明王の心地に到達せんことを期す覚悟をいたしております。(後略)」
無動寺谷に続々と人々が集まり始めた。ざわめきがさざ波のように広がっていたが、その空気は重苦しかった。信者たちが心配そうに囁《ささや》き、うなずき合っている。
「なにしろお年だからなあ。五十二歳で堂入りなんて、これまで聞いたこともおへん」
「初めてでっしゃろ。こんな高齢で、ホンマに生きて出られんのやろか」
ざわめきはこの一点にかかっていた。九日間におよぶ不眠、不臥、断食、断水の堂入りは、たとえどんな健康な二十代、三十代の行者でさえ、再び生きて出堂することができるかどうかわからない荒行である。普通の人々なら九割九分九厘……間違いなく途中で死ぬ。それに酒井は五十二歳の高齢で挑もうとしている。仏門に入るのが遅かった箱崎老師でさえ、堂入りは四十七歳のときであり、戦後二人目の千日回峰行者になった葉上照澄師は四十九歳だった。
高齢の上に、酒井は痩せてみえた。普通の行者は堂入りに備え、いつもより余計に食べて食いだめ≠するが、酒井は逆に一週間前から茶碗一杯の流動食に切り換えて、それで回峰行をしていたから、なお体が痩せ細ってみえた。この日の最後の食事≠燉ャ動食である。姉の美佐子が手伝いに来て、酒井にいわれた通り作った、野菜とじゃがいもを使って作ったポタージュ風の流動食を一杯口にしただけだった。
前年に堂入りを満行し、先達を務める内海俊照師がそれを見て、首をかしげた。
「これだけですか」
一山の関係者の間からも、懸念する声がもれていた。
「どうやら酒井は、堂入り前の調整に失敗したようだ。これはえらいことになった」
酒井の態度は、こうしたざわめきの中で微動だにせず、少しの動揺も表にあらわさないで、静かに堂入りのときを待っていた。
正午ちょうど、明王堂のすぐ下にある法曼院の大広間で「斎食儀《さいじきぎ》」が始まった。大広間には四十を超える食膳を前に、正装に威儀を正した一山の高僧たちが居並んでいる。上座には、千日回峰を大行満《だいぎようまん》した光永澄道師や内海師などの行者が白装束で正座し、その左端に酒井が厳粛な表情で端座していた。斎食儀とは、これまでお世話になった一山の僧とのお別れの宴のことで、再び生きて戻れるかどうかわからないことから、今生の別れともなる。座奉行《ざぶぎよう》と呼ばれる僧が挨拶をした。
「北嶺行者酒井雄哉は、これまで|自利行《ヽヽヽ》を行ってきたが、本日、堂入りをすることに相成りました。もし、不動明王が|利他行《ヽヽヽ》を許すとおっしゃるなら、生きて再び皆さま方と相まみえることができましょう。しかし、その必要がないと判断されましたならば、今日が永遠のお別れにござります」
堂入りのことを「生き葬式」ともいう。斎食儀は、まさに生前の別れをする最後の食事の儀式でもあった。酒井の目は中空の一点を凝視している。斎食儀は約三十分で終わった。酒井はその間、箸をとることはなかった。生前の儀式はとどこおりなくすんだ。
午後一時、無動寺谷に鐘が鳴りひびいた。入堂の合図を告げる鐘の音は、谷風にのって殷々《いんいん》とこだました。真新しい白の浄衣に身をつつんだ酒井は、先導職の内海師に導かれて、法曼院を出、明王堂への急な石段を一段また一段と踏みしめるように上った。明王堂のまわりには、信者たちがつめかけている。信者たちは酒井の姿に合掌し、数珠音も高く、
「ナーマク サーマンダー バーサラナン センダン マーカーロ シャナ ソワタヤ ウンタラター カンマン。……」
といっせいに真言を唱え始めた。それは真言の大合唱となって、うねり合い、重なり合って、無動寺谷全体をおしつつんでいった。酒井は粛々として歩を進め、午後零時半堂内に入った。そのあとに信者たちの列が続く。
堂内に入った酒井は礼盤《らいばん》に上がり、護身法を結んだ。内海師に先導されてほの暗い堂内を三周し、そのあと百八遍の真言を唱える礼拝に入った。三百三十回の五体投地を重ねる。その間に、最後の堂内での姿を見とどけた信者たちが合掌しながら、一人二人と堂内から去っていく。一山の高僧たちの姿もやがて消えた。明王堂の堂内には酒井一人が残された。鈍く軋《きし》む音をひびかせて、正面の大扉が固く閉められた。不眠、不臥、断食、断水という人間の限界を超えた九日間の、「生き葬式」といわれる堂入りが始まったのである。
明王堂はすでに述べたように、千日回峰を創始した建立大師相応和尚がひらいた聖地であり、ここの不動明王は、相応和尚が葛川《かつらがわ》参籠中に不動明王を感得したときに桂の霊木から自ら刻んだ三体の一つといわれる。堂の案内にこうある。
「此の明王堂の不動尊は、特に顕密の総合として回峰行の御本尊で、法華経の常不軽《じようふぎよう》菩薩の上求《じようぐ》菩薩、下化《げげ》衆生の御姿で御精神形体共、全仏教の根本と考えられる」
酒井は堂内に籠ってひたすら不動明王と一体になれるよう、生死を賭けて精進するのだ。堂内は内陣と外陣に仕切られている。酒井はまず午前三時、十時、午後五時にそれぞれ内陣の正面に座って約一時間、法華経を読誦《どくじゆ》する。九日間のうちに法華経二十八品、つまり法華経の全部を読み終えなければならない。読誦が終わると、今度は外陣の籠り所に退いて、そこで十万遍の真言を唱える。真言は千遍あげるだけで、元気なときでさえ一時間弱かかる。それを十万遍唱えるのだから、大変な時間がかかる。とても休む暇などはない。
どうやって間違いなく数えることができるのか。これは数珠を使う。数珠の数は一輪が百八個ある。真言を唱えながら珠を一つずつまさぐっていき、一回転すると百八回唱えたことになる。数珠には二本の房がついていて、一本の房には珠が十個ついている。そこで一本の房では百の位、もう一本の房の珠では千の位を数える。実に巧妙にできたソロバンである。
こうして毎日、内陣と外陣で読経三昧のお祈りをする。この行がいかに苛酷なものであるかは、籠り所のまわりを囲っている屏風の天地が逆になっている、つまり死者の枕辺におかれる屏風と同じく、いわゆる「逆さ屏風」になっていることからもわかろう。堂内には、実は二人の助番僧がついている。ロウソクを替えたり、香を焚《た》いたりする雑用をこなすが、これは監視役ともいえる。そして助番僧は裏堂に控えていて、二十四時間で交代するが、行者は九日間、飲まず、食わず、さらには一睡もせず、横になることさえも許されず、ただひたすら生死の極限で行を続けるのだ。いかに体力を消耗しないか、これが生死の分かれ道になるから、読誦するときは声を出さない。黙読することが許されている。
堂内に籠りっぱなしの酒井が、一日一回だけ堂の外に出る儀式がある。これは「取水《しゆすい》」といって、毎日午前二時、堂から約二百メートル離れた「閼伽井《あかい》」まで、不動明王に供える水を汲みに行くのだ。閼伽井とは霊泉のことで、堂から出て、樹齢数百年の苔むした杉の巨木がそびえ立つ道を歩むと、奥まった角のところに木の柵に囲まれた水屋があり、そこから汲む。酒井は、天秤棒の前後に小さな桶をさげ、その棒を肩にかついで閼伽井まで往復する。先頭には松明《たいまつ》を持った先導の僧、その次には提灯をさげた僧が続き、介添の僧が酒井につき添う。深夜二時に行われる取水は、行者にとっては外気にふれる一日一回の機会だが、やがて堂入りの日が進むにつれ、極度に衰弱した体にはこれがまた苦行となるのである。初日は十五分ですんだ。
信者たちはむろんのこと、一山の僧でさえ、酒井の堂内での姿は垣間見ることはできず、取水のときに元気なのか、衰弱しているのか、判断するしかない。酒井の家族は親きょうだい全部が無動寺につめて祈る毎日だった。深夜一時、通り道を掃き清める日が続く。次男保二は、二日目に取水にくる兄の姿を待ちわびた。酒井の顔に心配していた憔悴の影はさほどなかったので、少し安心したが、兄の表情はこれまで見たこともないように澄み切っていた。神々しいまでの表情に、保二は思わず合掌していた。
次男保二が、肉親関係を超えた感動をにじませて話す。
「身震いがするというか、そんな感じでした。あの兄貴がこれか、となかなか信じられなかった。でも、やっぱり血を分けた兄弟なんでしょうねえ。ぼくは神仏なんか信じないほうなんだけど、気がついたら一心不乱に、無事に生きて出堂できることを仏さまに祈っていましたよ」
老杉に囲まれた暗闇の参道を、松明と提灯の火に守られた酒井の行列が、さながら白い幻のように進んでいく。保二の目はたちまち涙でかすんだ。「三日目が勝負」というが、二十八日の取水のとき、酒井が明王堂に着くのを待っていたかのように雨になった。堂入りの行者にとっては、むしろ晴天続きよりも雨が降って、大気が湿っていたほうが体にいい。晴天で空気が乾いていると、堂内にいる行者の唇が乾燥して裂け、体の水分が涸れていく。酒井には仏の加護があったのか、保二の祈りが天に通じたのだろうか。二十九日の取水は雨の中で行われた。雨にうたれる酒井の表情にはまだ生気があった。
堂入りは三日目あたりから変化があらわれてくるという。酒井の場合、睡魔は入る余地がなかった。法華経と真言を読誦、唱える時間に追われ、眠いのはもう通り越している。かえって頭は異様に冴えわたっていた。空腹感も特別になかった。酒井は一週間前から流動食しかとらず、そのために痩せて、調整に失敗したのではないか、といわれた。だが、そうではなかった。自分で意識的に一週間前から断食状態にもっていったのだ。腹の中には何も入っていないから、体も締まってきた。それがはた目には痩せてきたように映っただけである。断食状態で一週間も巡拝したのだから、まさに超人的といえよう。
ただ、不思議なことに、飲まず、食わずでも、最初のうちは排泄作用があった。酒井は少ないほうだが、二日間は小水が出た。明王堂の輪番で、酒井の堂入りで導師を務めた光永師は昭和四十三年十月二十六日から十一月三日まで堂入りしたが、その間の生理についてこう明かしている。
〈不思議なもので、堂入り中にも、小用は足す。当然のことながら、最初は普通に出る。それが次第におさまってゆき、ついにスポイトで落とすほどになり、しまいには目薬みたいになる。それでもたとえ一滴でも出るのだから、不思議であろう。ほとんど脱水状態の極限に達しながらも、なお循環器系統が健全な証拠である。(参考文献18)〉
酒井に今、二人の助番僧がついているが、光永師が堂入りしたとき、裏堂で手伝いをしたのが、当時、霊山院の小僧をしていた酒井だった。排泄のときも酒井が面倒をみた。これも不思議なめぐり合わせである。
四日目あたりから、酒井は体が冷たくなってきたのがわかった。手先の爪、足の先、頭などにさわってみると非常に冷たくなっている。そのうち腕などに死斑が出てきた。においもしてきた。いわゆる死のにおいである。堂内は線香の煙とロウソクの煤煙で空気が乾いている。それに酒井の体が死人くさくなって、そのにおいを消すため、強烈なにおいの線香を焚いているから、異様な臭気がたち込め始めた。取水のとき外に出ると、空気の味がわかる。新鮮な空気は「すかっとして」おいしかった。そして、また生気が少し甦ってくる。五日目の朝は、二日続いた雨があがったが、外では落葉を舞い散らせる冷気が厳しかった。
五日目は堂入りの中日で、この日から毎日一回、口をすすぐことが許された。ただし、一滴たりとも飲み込んではいけない。それを確かめるため、また吐き出した水の量を計るほど厳しい掟になっている。酒井は「一口飲みたい」という強い誘惑にかられたが、無論、飲んでしまったら、これまでの修行もすべて水の泡である。伝統と戒律を厳しく守り続けてきたからこそ、千日回峰も堂入りも連綿として現在まで受け継がれているのである。
また五日目からは「脇息護法《きようそくごほう》」といって、脇息、つまり肘掛けを使うことを許された。酒井は眠くはないが、横になりたいという誘惑にはかられた。頭が重くなり、背中が痛くなっている。酒井は、人間の頭ってこんなに重いものか、と初めてわかった。脇息を使うと、体が少し楽になった。
しかし、実はこのあたりから酒井の意識は朦朧《もうろう》とすることがあった。周期的に睡魔が襲ってくるようになった。うとうとしているとき、ふっと夢を見る。お山を歩いている自分がいる。あれっ、いま堂入りしているのにおかしいなと思う。堂入りしている最中に歩けるわけがないのにな。でも、一生懸命歩いているぞ。そうすると、堂入りはいつの話なのかなあ。幻想なのか、現実なのか、まるでわからない。おかしいなと思っているうち、何かの折に頭がガクンとなって、ハッと目がさめ、ああ、やっぱり堂入りしているんだ、と現実に戻るのである。
堂内では、二人の助番僧と話を交わすことなどはもちろん禁じられている。本尊の不動明王と真っ正面に向かい合って、読誦し、唱え、生と死のはざまに自分の全存在をゆだねている。その内部の模様は外からは一切|窺《うかが》い知れないが、実は堂内に一台の赤外線カメラが密かに設置されていた。無論、酒井もそんなことは知らされてはいない。NHKの和崎信哉ディレクターが、堂入りの行者の姿を追うため、延暦寺の了解のもとに、ロウソクの淡い光でも映る特殊な赤外線カメラを隠していた。
千年来の秘儀を公開するという英断に踏み切ったのは当時、教化部長をしていた小林隆彰師であったが、小林師としても実は「もしものことがあったら……」と心配と不安で酒井を見守っていた。神秘のベールをぬいで特殊カメラが生々しくとらえた堂入りの酒井を追った、このドキュメンタリーは、『行』というタイトルでのちにNHK特集で放送され、千日回峰の荒行の凄さをまざまざと見せつけた。
和崎が、裏堂に控えて、交代で酒井の世話をしている僧から、
「行者さんの瞳孔が開いたままになっていますよ」
と聞かされたのは五日目である。
〈取水のとき、酒井師の顔をじっと見つめた。ろう人形のようである。目は大きく見開かれたままで、まばたきもしない。身体全体が宙に浮かんでいるかのように、ゆっくり、ゆっくり進んでいく。その姿だけを見ていると、本当に、松明《たいまつ》の明かりも、周りの僧侶の姿も、忘れてしまいそうになる、酒井師の姿、ろう人形のような顔だけが、暗闇の中にぽっかり浮かび、静かに、時間をかけて移動していく、という感じなのだ。幻想的というようなものでなく、気味が悪いほどに神秘的な光景である。(参考文献22)〉
取水に往復する姿も蹌踉《そうろう》として、時間がかかるようになった。一山の僧や信者たちが、心配して見守る。信者たちから思わず真言を唱える声がわきあがり、叫ぶ人もいた。
「行者さん、あと少しです、頑張ってくださあい」
酒井は、「信者さんの励ましが支えだった」と述懐している。もはや肉体的には極限状況に近い。堂内に籠っていると、意識が途切れたかと思うと、次の瞬間には、また異様に感覚が冴えわたる。
「線香の灰が落ちて砕ける音が大きく聴こえるんだ。まるでスローモーションのように、砕ける様子も音もはっきりとわかったね」
異常聴覚については、光永師も書いている。
〈たとえば、下界の音がとどろく。電車の音がし、大津あたりの工事現場でやっている工事の金属音が、たしかに耳にとどく。こういうと、なんと大げさな、と思われるかもしれないが、線香の灰の落ちる音まで聞こえるのである。普通の観察では、ハラリと落ちるというのがいいところであろう。それが「ドサッ」と落ちる。誇張でもなんでもなく、そう聴こえるのである。(参考文献18)〉
八日目が最大のヤマ場だった。お勤めの最中に、酒井の体がひとりでに前に倒れそうになった。かと思うと、今度は急にガクンと後ろにひっくり返りそうに反《そ》る。瞬間的に意識がとぎれているのだ。後日、酒井は和崎にこう明かしている。
「ふうっと意識がとぎれそうになる中で、このまま木乃伊《ミイラ》になれたらどれほど幸せだろうと思った」
十一月三日、午前二時。酒井が二人の僧に支えられて、最後の取水にあらわれた。天秤棒をかつぐのはもう形ばかりで、実際は肩の上に浮いている。介添僧が前後でこの棒を持っていた。酒井の頬は鋭くそげ落ち、蒼白な顔面に目だけが大きくまばたきもせず見開かれている。明王堂の周辺はもう信者たちの波であふれていた。その中に数珠を固く握りしめた母ミカや姉の美佐子の姿もあった。二人は合掌したまま涙ぐんでいた。酒井の体が揺れるたびに、ハッとした表情になった。家族は出しゃばってはいけないと自戒し、ひっそりと人々の陰で見守っていた。信者たちの真言の合唱が次第に大きくなり、無動寺谷が深い感動で渦まいている。酒井の取水は約四十分かかった。
再び堂内に入った酒井は、いよいよ最後のお勤めに入った。これが終われば、九日間の堂入りが無事に満行するのだ。酒井は、このときは気力も比較的しっかりしていた。最後までやりとげ、再び生きて出堂できる喜びが甦ってきたからであろう。
午前三時、本堂横の扉が開かれた。「出堂の儀」である。法曼院|政所《まんどころ》職の誉田玄昭《ほんだげんしよう》延暦寺|執行《しぎよう》が、堂入りの行が終わったことを認める証明文を読みあげた。次いで、先達の内海師が三度叫んだ。
「ほおの湯、ほおの湯、ほおの湯」
すぐ木椀が運ばれた。ほおの木を煎じて作った薬湯が入っている。酒井はそれを大事におしいただき、それを頭上に三度高く捧げた。そして形ばかりの口をつけた。木椀を元に戻す。今度は、不動明王を礼拝しながら、堂内を三回回る。最後の難関だった。誰の手も借りてはいけない。二回りしたとき、突然動きがとまった。周囲に緊迫感が走った。九日間、不眠、不臥、断食、断水で行をやりとげた酒井は、いま生きた不動明王となって出堂しようとしている。ここは何としてでも動かなければならない。酒井は最後の気力をふりしぼって再びゆっくりと回り、最後の儀式をとどこおりなく終わらせた。
午前三時半。明王堂の鐘が鳴りひびいた。出堂の合図である。九日間、固く閉じられていた正面の大扉が、再び軋む音をたてて今開かれた。
「生き仏さまがお出ましになる」
「ようあのお年で、えらいことどすなあ」
信者たちが一瞬どよめき、それから水を打ったように静寂になった。
酒井は蓮華の葉をかたどった笠を手にして、ゆっくりとした足どりで再びこの世に生きて還ってきた。信者たちの間に声にならない感嘆の波がうねり、「生き仏」を迎える真言の唱和が鐘の音とともに、いつまでも無動寺谷にこだましていた。ミカと美佐子は、ただただ数珠を握りしめて、酒井の姿を追っていた。「死者の顔」の酒井は、一段また一段と明王堂の石段を下りるたびに、「生者の顔」に戻っていく。
「ナーマク サーマンダー バーサラナン センダン マーカーロ シャナ……」
信者たちの真言の大唱和に迎えられて、堂入りから生還してきた酒井は「当行満阿闍梨」となった。しかし千日回峰を満行するためには、まだまだ苦行を続けなければならない。
自坊・宝珠院に戻った酒井は、一種の興奮状態の中にあった。九日間の絶対孤独の中にあったせいか、家族や親しい信者たちに誰かれとなく話しかけ、なかなか休もうとしない。母ミカはかえって心配した。
「早く寝てもらわんと、体がもたん。普通の体やないんやから」
酒井がやっと横になったのは、それから二時間ほどしてからだったが、すぐに目がさめた。九日間の不眠状態がまだ続き、目が冴えて眠れなかった。
「そのときの感覚が体にしみついているから、うとうとして目をあいたらドキンとするわけよ。まだ体がお堂の中にいるんだね。それが様子が変わっちゃって、パッと目あいたら天井がみえる。その天井が、何か板の囲ったところに見えるの。その瞬間、なんでこんなところにいるんだろうってドキンとするわけ。あ、そうだ。もう終わったんだ。そういう感じだったね」
翌日にはもう早く起きていた。意外に元気がよく、声もしっかりしていて、周囲を驚かせた。酒井は五十二歳という最高齢で、堂入りという千日回峰の中で最も厳しい行を乗り越えた。それは強靭な肉体と精神力で自ら克ち得た極限の宗教的体験だった。一山の僧の中には「歴代行者で酒井が一番元気だった」という人もいた。
酒井は今、しみじみと振り返る。
「わしのような人生の落伍者が、ここまでやれたのは仏さまのご加護があったからだよ。とうとうやったあ、成就したぞ、という気持ちよりも、お堂を出るときは、むしろもっとお堂の中に籠って、お不動さんと話していたい、そんな気持ちやったから、さみしいというか、ちょっと複雑な気持ちだった。お不動さんが、わしみたいな人間でも生きて還して下さったのは、今度は生まれ変わって、みんなの幸せのために、日本国中の人たちのために功徳を施しなさい、ということだと思って、それを肝に銘じてお堂から出てきたんです」
断食のあとはその三倍の時間をかけて元の食事に戻せ、といわれる。酒井は出堂の日、うがいをし、スプーン一杯の水を飲んだだけである。二日目から美佐子が作った甘酒の上澄みをスプーン三杯とコップ一杯の重湯というぐあいに、何回にも分けてとり、堂入り前の食事、といっても、うどんかそば、じゃがいもの塩蒸し二個に戻ったのは、十一月二十日であった。出堂から一ヵ月もすると、完全に元の体に回復したが、精神的にはより強靭なものを内に感じるようになっていた。
元気を取り戻した酒井は、箱崎老師に堂入りの報告をした。老師は無論、愛弟子が無事に終わったことをすでに知っていたが、その言葉の厳しさは変わらなかった。
「なあ、酒井よ。お前さんが、無事にお堂から出られることは信じておったから、わしは何も心配せんかった。問題はこれからだ。心しておけ。決して慢心するな」
それから、老師はふっと顔をなごませた。
「それにしても、酒井よ、ようやった。わしはうれしい。ようやったな。わしがお前にしてやれるのは何もない。もう足腰も動かんし、そばについていてやることもできん。けどな、修行は自分の力でやるもんや。ただ一つ、お堂から出てからのほうが大変だということを忘れるな。頼むぞ、なあ、酒井よ」
酒井は、老師の温情にふれて、たまらず涙があふれそうになった。今ははっきりとわかった。老師は、千日回峰で歩いているというのに、ことさら厳しくあたった。夜遅くまで酒の肴を用意させられ、寝る時間もなく朦朧として歩いたときは、あまりの仕打ちに怒りさえこみあげ、深く恨んだこともあった。それは自分が至らないからだと、そう思ったのだ。老師の深い心の奥底の愛情がわからなかった。老師は自分を徹底的に鍛えてくれたのだ。こんなことも我慢できんやつに、堂入りの荒行に耐えられるわけはないと。
酒井が今、こういう。
「獅子はわが子を千仞《せんじん》の谷底に突き落とすというけど、あれやね。どんな行にも耐えきる力をつけさせるためには、自分も本気になって突き放してやらねば、甘えるだけや。老師は、雑草は踏みつければつけるほど強くなることを知っとった。老師もわしもこの世の雑草なのよ。エリートっていう、なんやわからん言葉があるけど、エリートと違って、わしら雑草はどこの世界へ行っても一人で生きられる力を持たなあかん。鍛えて人間をつくる、これは行道だけじゃなくて、すべての道に通用する基本や。人間、甘やかしちゃいかん。老師はわしにとって、行の師だけじゃなく、人生の師やった。わしがここまでこれたのも、老師のお陰や」
酒井は、最大の難関だった堂入りから無事に生還することができた。箱崎老師は、堂入りのあとが大変だ、と改めて戒めた。まさに、その通りであることを、酒井はわが身をもって体験することになる。酒井は自害を覚悟して、短刀の切先を自分の咽喉もとに突きつけるところまで追いつめられることになるのだ。
4 大阿闍梨誕生
「悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」
斎食儀の際の座奉行の挨拶の中にもあったが、千日回峰では、七百日までは、「自利行」、つまり自分自身の魂の救済のために修行し、堂入りで不動明王と一体になってからは、衆生の幸せを祈る「利他行」に入ることになっている。「忘己利他」の最澄の精神は、この「利他行」に受け継がれているのだ。これは信者たちに仏の功徳を施すお加持《かじ》≠ニいわれるものであった。
堂入りを終わった酒井は、回峰行の定めに従って、また無動寺回峰に戻り、六年目の百日(八百日)は、比叡山を巡拝するほかに、京都の洛北、修学院にある赤山《せきさん》禅院にお参りする行に入ることになっていた。無動寺回峰の三十キロに赤山禅院への往復約二十キロが加わるから、一日五十キロの行程を歩く。これを称して「赤山苦行」という。
酒井は翌昭和五十四年三月二十九日に赤山苦行に出峰することになった。堂入りから約半年が経ち、体もすっかり回復し、訓練も重ねた。酒井は最後の準備を長寿院で行っていた。その最中にとんでもないアクシデントが発生した。
比叡山の春は遅く、三月の上旬になっても深い谷には残雪が至るところに白く光っている。長寿院も裏山には雪が消えずに冬の名残りをとどめていた。その雪が凍ったのか、滝の水の流れが悪くなった。酒井は水源の調子をみるため裏山に登った。クロとシロもついてくる。今では片ときも離れない。水源に近づくと、突然、犬が吠えた。そこに大きな猪がいた。餌を探しにここまで下りてきたのだろう。水源のところをほじくっている。それで滝の水がつまったらしい。
猪は犬が吠えても平然としている。そこで酒井が持っていた杖をぽんと放ると、やっと上のほうに登っていった。酒井が杖を拾って、水源を直そうとしたときだった。何を勘違いしたのか、猪がくるりと一回転して、すごい勢いで戻ってきた。避ける間もなく猪に体当たりされた酒井は、水源の溝に猪とともに落っこちた。猪はまた行ってしまったが、酒井は長靴をふっ飛ばされ、したたかに足を打った。一瞬の不覚だった。
そのときは寒かったので足の感覚がなく、あまり痛みを感じなかったが、翌日の朝、草鞋をはいたとき、何か紙みたいなものが指の間にはさまっているような違和感があった。足が軽くしびれている。日が経つにつれて、痛みがだんだん激しくなり、十日目ぐらいになると、本格的に足が腫れてきた。これはまずい、と思ったときは、赤山苦行の出峰が目前だった。酒井は最悪の状態で、毎日五十キロの道を歩かなければならなくなった。
赤山苦行は、初百日回峰をした無動寺コースを巡拝したあと、雲母《きらら》坂を一気に下って、京都左京区にある赤山禅院に参り、帰りは登って戻る五十キロの難路である。赤山禅院は、中央に赤山明神、右手に雲母不動堂、左手に地蔵堂、弁天堂など大小七つのお堂と社が祀られている神仏一体の霊地であり、昔から大津市坂本の日吉山王に対し、ここは比叡山の西の守護神とされ「西坂本」とも呼ばれている。
赤山禅院は、本尊が明神さまであることから「赤山明神」の名で親しまれているが、もともとは第三世天台座主、慈覚大師円仁の入唐求法《につとうぐほう》に伴って渡来した中国山東省の赤山法華院に祀られていた護法神の別称だという。
〈……入唐した円仁はまず赤山法華院に詣でて、同所の山神に求法成就の大願を発し、もし自分が大乗求法の願望を達成した暁には日本の地にも必ず勧請《かんじよう》して、永く崇敬の誠を捧げたいと祈請を立てたことに基づくもの……(参考文献23)〉
しかし、この誓いは円仁の生存中は実現せず、没後に弟子安恵らの手によって初めて創建された。天台宗にとっては由緒ある名刹で、千日回峰行の中でも不可欠のコースになっている。一日五十キロ、行者の足でも十四、五時間かかる。そこを足を怪我した酒井が百日間歩くのだ。
酒井の左足の人差指は親指ぐらいにふくれ、親指は普通の二倍以上に腫れあがり、紫色に変色していた。爪もはがれてない。足を小石にぶっつけでもしたら、電気にうたれたように体中に激痛が走った。とても歩ける状態ではなかった。だが、千日回峰は「不退の行」であり、もう後戻りすることも、中断することもできない。そのときは自害するしかないのだ。酒井の悲愴きわまりない赤山苦行が始まった。雲母坂は至るところに岩が露出していて、木の根も這い、急勾配の坂道である。酒井はその坂道が自分をためしている、と思った。
堂入りが終わった酒井のお加持≠待つ信者たちが、赤山禅院で待っているから、時間に遅れるわけにはいかない。京都の信者たちは、千日回峰行者になじんでおり、だいたいの到着時間がわかる。まして今日は、堂入りから無事に出堂してきた酒井の最初の日である。赤山禅院には信者がつめかけていた。
酒井は痛みをこらえ、足を引きずるようにして歩いて、さして時間に遅れもせず到着した。凄絶な努力で、忍耐心の限界と闘っていた。信者たちの前に、自分の不注意から起きたぶざまな足の怪我をさらすわけにはいかない。酒井は普通にふるまい、お加持≠した。沿道に膝をついて座り、首を垂れて待つ一人ひとりの頭に、真言を唱えながら手にした数珠をつけて、この信者に幸せあれ、と仏の功徳を施して回るのである。善男善女たちは合掌して、酒井のお加持≠受け、涙を流して法悦に感激する人もいた。
酒井はまた痛みをこらえながら、雲母坂を今度は上って山へ戻ってきた。自坊に帰ると、うん、うんとこらえきれずに唸った。体中に悪寒が走る。ストーブをたいても、寒気はおさまらない。お勤めでは正座をしなければならない。これは地獄の責苦≠セった。次の一日はすぐ始まった。足がすごく熱をもっている。
「足が水を欲しがるのかな。やたらに水のあるところに足を突っ込んでね。お寺の水屋があると、その水屋の水をジャブジャブとひっかけて歩いたの。それでも何分もしないうちにまた熱くなってね。それで泥の水であろうが、ドブの水であろうが、足を突っ込んで歩いた」
酒井が足を怪我していることが、小林師や小寺師にも知られてしまった。小寺師は、
「霊山院に必ず寄るように」
と伝言をよこした。
酒井は寄らなかった。小寺師が医者を呼んでいることを察知したからだ。医者が診たら、すぐ切開するに決まっている。そうしたら次の日歩けなくなるかもしれない危険性があった。酒井は、小寺師の心配してくれる親心≠ノ感謝しながら、師に背いた。
足の傷はますます悪化した。もう足袋をはくことさえできなくなった。仕方がないから親指と人差指の部分を切りとって穴をあけ、そこから暗紫色に腫れあがった指を露出して歩いた。我慢にも限度があった。九日間の不眠、不臥、断食、断水の堂入りにも耐えきった酒井が、絶体絶命のピンチに追いつめられた。
無惨なまでに腫れあがった左足は、もはや足としての機能を果たさなかった。足が歩けないのなら這いつくばっても行かなければ、と心で焦っても、不可能なことは酒井が一番よく知っていた。片道だけでも赤山禅院までまだ五キロ以上もあるのだ。堂入りを満行したのに、まさかこんな形で挫折するとは夢にも思わなかった。しかも、もとはといえば自分の不注意から起こったことだ。不覚だった、と内心ではほぞを噛んだが、その一方では決断を迫られていた。このまま座して死を待つか、荒療治して死中に活を求めるか。酒井は生と死の絶壁に立たされた。
四月二十七日、酒井は途中でもう一歩も歩けなくなった。酒井は、ああ、もうだめだ、とうめいて杖にすがった。ちょうど崖の上に岩があった。酒井は岩の上に腰をかけると、差していた自害用の降魔《ごうま》の剣を抜いた。短刀は、第二十七代|関孫六《せきのまごろく》が特別に作ってくれたもので、刃渡り三十センチ、不動明王の剣と同形で諸刃の剣である。酒井はその剣で、ええっ、と裂帛《れつばく》の気合とともに、まず親指をスパッと切った。血があたり一面に飛び散った。次に人差指も切って化膿している部分を取った。麻酔もかけない荒療治だから激痛に身をよじり、脂汗が流れた。
これで歩けなかったら、もう自害するしかない。どちらかに決めなければいけない。酒井は、今度は刃の切先を咽喉に向けて、岩に腰をおろした。あと三十分か一時間のうちに足の痛みが引いて歩けるようになるか、それともやっぱりだめなら死ぬしかない。そう覚悟を決めた。これも自分の運命なら仕方がない、と酒井は思った。ここでこのまま意識がなくなれば、自分は岩から転落して、その瞬間に間違いなく切先が咽喉を突き刺して死ぬだろう。そのまま酒井は座っていた。凄絶な時間だった。
いつの間にか、酒井は失神したように、何が何だかわからなくなった。いい気持ちになってうとうとした。眠ってしまったらしい。目がさめたのは三十分ぐらい過ぎてからだった。崖の下から吹き上げる冷たい風に我にかえると、自分は死にもせず、足の痛みも少しひいていた。ああ、まだ生きている。しかも、この異常とも思える恍惚《こうこつ》感は何だろう。自分は確かにいま何か不思議な世界をさまよっていた。目がさめたら傷の痛みがひいていた。これは仏さまのお慈悲だ。酒井は思わず感涙し、合掌していた。
「ああ、これは仏さまのご加護だ。わしは仏さまに生かされ生きていると思った。普通なら、あそこで切先が咽喉を突き刺しているよ。こっちは失神しちゃっているんだから。頭をガクンと垂れたら一巻の終わり。わしもその覚悟でいたんだから。このときも、自分以外に何かすばらしいものがあるな、と感じたね」
午後三時頃に赤山禅院に着くのが、この日は四十分遅れた。四十人近い信者たちが待っていたが、酒井は足指の切開のことは一言もいわず、いつものようにお加持≠施すことができた。超人的な所業といっていい。酒井に箱崎老師の言葉が今さらながら重く甦ってきた。
「酒井よ、お前がいま歩いている道、それが行者の墓場だぞ」
酒井はやがて老師から贈られた一句をいつも肌身に秘めて歩くようになった。
「行く道は いずこの里の 土まんじゅう」
それからいつ、どこで行き倒れになっても、迷惑をかけないよう十万円の葬式代を懐中にして行歩するようになった。まさに千日回峰は「死出《しで》の旅」であり、ある許された何人かの行者だけが成就できる荒行なのである。酒井は七月六日、回峰八百日、赤山苦行を満行した。
「千日回峰は、まあだいたいスムーズにいったけど、この赤山苦行だけは本当に大変だった。行をやっているんだから、辛いのは当然で、その辛さ、苦しさを基準にして、なおかつもっと辛かったのが赤山苦行だったね」
一度は自害を覚悟した酒井に、今度は「京都大廻り」という最後の難関が待ち受けていた。行程は赤山苦行よりもさらに長く、一日八十四キロも歩き通さなければならない。堂入りが「静の荒行」なら、京都大廻りはさしずめ「動の荒行」である。
昭和五十五年三月二十八日、酒井は、京都大廻りに出峰した。この日、いつものように午前零時に起床した酒井は、朝のお勤めをしたあと、浄衣に着がえて明王堂に向かった。そこで先達の光永師、内海師の見守る中、古式の作法に従って不動明王に参拝した。そして、まずレギュラーコースの三塔十六谷三十キロを巡拝して、いったん自坊・宝珠院に帰った。このあとさらに五十四キロを歩くのである。
酒井は再び無動寺坂を上り、根本中堂を経て、雲母《きらら》坂から赤山禅院へ駆け下りた。ここまでは前年、歩きなれた道である。自害を決意した岩の前を通ったときは、さすがに感慨無量のものがあった。午前九時半に赤山禅院に着くと、京都|息障講《そくしようこう》の渡辺|丈吉《じようきち》はじめ、数多くの信者たちが待っていた。京都大廻りは行者一人ではできない。息障講はじめ多くの信者たちに支えられて初めて可能になるのだ。
息障講の歴史は、千日回峰の歴史と同じくらい古い。「京都息障講社」と坂本の「台鹿《だいろく》息障講社」の二つがあるが、いずれも行者の世話をする信者たちの集まりで、京都息障講の場合は京都大廻りや切り廻りの世話、台鹿息障講は、回峰行が始まるときに行者道の草刈りや道の整備など、下働きに徹している。京都息障講のパンフレットにはこうある。
「この息障講という講社は、今から千百年ほど前からあって、比叡山の回峰という行≠中心に、その本尊としての不動明王≠拝み、絶大な御力を頂くと共に、自からも一分の御不動様となって、その御誓願の下座奉仕をさせて頂き、この世を浄い社会にして行こうという集まりであります。(以下略)」
本来は、京都に三代住んだ人しか入れなかったが、現在では比叡山無動寺の信者であれば誰でも入ることができ、会員数は約百人。「お先《さき》」と呼ばれる先導をつとめる渡辺丈吉も京都出身ではない。明治三十八年八月十五日、岐阜県の生まれというから、叡南《えなみ》祖賢師や葉上照澄師より二つ下になる。農家の六人兄弟の末っ子とあって、二十三歳で京都に出て商売を始め、食料品店を経営していた。無動寺の弁天さんの熱心な信者で、酒井が伯母に連れられて初めて弁天さんを訪れ、その後小林師のもとに足繁く通うようになった頃も、渡辺は妻の八重子と一緒に弁天さんにお参りしていた。酒井は今、その渡辺に先導されることになった。
渡辺と回峰行者の関係は深い。
「葉上さんのときに初めて息障講に入れてもらって以来、四十年近く行者さんのお世話をさせてもろています。行者さんが心おきなく修行に打ち込めるようにするのが、私らの勤めでんな。かといって、奉仕しているという気持ちやなしに、行者さんのお供をさしてもろてるという感謝の気持ちが大切ですな」
渡辺自身も息障講の人たちから「仏さまのようなお人柄」と慕われている人物で、酒井とは千日回峰のあと、さらにもう一度深いかかわりを持つことになる。
京都大廻りは「利他行」、つまり生きた不動明王として、衆生に功徳をわかつ行であり、最澄の説く「国宝とは一隅を照らす人」を実践する行である。酒井は巡拝しながら街の辻々でお加持≠して回る。
コースは赤山禅院から出発して、昔のままの行者道を通る。旧白川通りを歩いて真如堂《しんによどう》を参拝し、平安神宮へ進む。桓武天皇と孝明天皇を祀っている社に参拝したあと、三条粟田口、青蓮院《しようれんいん》を経て、白川にかかっている「行者橋」を渡る。渡辺を先達として、細い行者橋を渡る行者の姿は、いかにも古都を感じさせる風情だった。これから先は八坂神社―八坂|庚申《こうしん》堂―清水寺―六波羅蜜寺《ろくはらみつじ》―出世稲荷―北野天満宮―西方尼寺―上御霊《かみごりよう》神社―下賀茂《しもがも》神社といったところを巡拝し、上京区寺町通り広小路にある清浄華院に向かう。ここが宿坊で、酒井が着いたのは午後七時半すぎだった。午前一時に出峰して十八時間以上歩いたことになる。
しかも酒井は、宿坊で二、三時間仮眠しただけで、翌朝は午前一時に出発、このコースを逆回りして比叡山へ戻るのだ。この一日八十四キロの京都大廻りを百日間続けるのである。凄まじい行歩だったが、歩くことに自信がある酒井は、さして苦にせず、お加持≠して回った。そして七月五日に百日を満行した。堂入り、赤山苦行、京都大廻りを達成したあとは、山内の回峰を残すのみである。
最後の百日は、歩きなれた三塔十六谷の巡拝で、これはいわば七年をかけて千日回峰に挑んできた行者が、無事に満行できることを感謝して回る意味も含まれているのだろう。したがって最後だけは百日ではなく、七十五日で打ち切られる。つまり千日回峰は、正確には九百七十五日の行ということになる。
昭和五十五年十月十三日、酒井はいつもより深い感慨の中で歩いた。三塔十六谷の峰道はすっかり体になじんでいる。目をつむっても巡拝できるくらいだ。根本中堂では仏門に引き入れてくれた天台宗に感謝し、浄土院では三年籠山を思い出し、常行堂・法華堂のにない堂では常行三昧に挑んだ日々がよぎる。玉体杉では心から国家の安泰と国の平安を祈った。京都の街あかりが美しかった。横川《よかわ》から八王子・坂本へ、日吉神社を巡拝した。霊山院も近い。小寺師、小林師、そして箱崎老師の「三人の師」のことを思った。仏縁をさずけてくれたことに感謝した。そして再び無動寺谷へ急いだ。
酒井の律義なところは、翌日は飯室回峰を巡拝していることだった。無動寺回峰と飯室回峰は巡拝するコースが異なっているからだ。
酒井は七時すぎ、無動寺谷の宝珠院に戻ってきた。一山の僧や、信者たち、そして母ミカや家族が待っていた。酒井の心には「やりとげた」という深い満足感があった。
この日、昭和五十五年十月十三日、酒井雄哉は千日回峰を満行して、「大行満大阿闍梨《だいぎようまんだいあじやり》」となった。五十四歳の大阿闍梨は、おだやかな顔にやわらかい微笑を浮かべていた。千日回峰を満行したのは戦後、酒井が九人目である。ちなみに阿闍梨とは、サンスクリット語で「弟子を導く高僧」を意味し、千日回峰行者に与えられる尊称である。
酒井阿闍梨は十一月十三日、京都御所で「土足参内」を許された。これは回峰行の始祖、相応和尚が清和天皇の招きで参内、病気平癒を祈祷した故事にならった儀式で、千日回峰を達成した行者にのみ許される名誉である。明治以来途絶えていたが戦後三人目の千日回峰行者となる勧修寺《かんじゆじ》信忍師が公家出身だったので尽力し、戦後最初の叡南祖賢師が「土足|参内《さんだい》」を許されて、また復活した。
この日午前十時、参内の行列が粛々と清和院御門をくぐった。山田恵諦天台座主、誉田玄昭延暦寺執行、恩師の小林隆彰師ら比叡山の高僧とともに、浄衣姿の酒井阿闍梨が緊張した面持ちで進む。礼服・留袖姿の一般信徒も延々と続く。総勢千人近い行列の中にはもちろん母ミカや長姉美佐子をはじめ弟妹たちの正装姿も加わっていた。行列は建礼《けんれい》門から宜秋《ぎしゆう》門へ向かう。昔は大名もここで木の浅沓《あさぐつ》に履き替えたが、大行満は土のついた草鞋を履いたまま入ることを許された。「土足参内」はこれに由来する。「諸太夫の間」に上がるとき草鞋を脱ぎ、白足袋になった。宮内庁京都事務所長の出迎えと挨拶を受けてひと休みしたあと、やがて酒井阿闍梨は緋《ひ》の衣に探題《たんだい》帽の山田座主にしたがって「小御所《こごしよ》」に入った。小御所は諸大名などの拝謁や、明治維新の際に有名な小御所会議が開かれた場所である。
酒井阿闍梨は「中段の間」で古式の作法に従って、御簾《みす》越しに天皇陛下がおわすがごとく陛下の安泰を願う「玉体加持」と鎮護国家を祈祷した。お加持の時間は約十五分だったが、緊張で身が引きしまった。お加持の儀式がとどこおりなくすむと、酒井阿闍梨が護符を献上し、代わりに宮内庁から土足参内の証明文を受け取り、すべての儀式が終了した。
「土足参内」から一週間たった日の朝十時、長寿院の電話が鳴った。酒井が出ると、相手は東宮(皇太子殿下)の侍従職で、こう伝えた。
「東宮が陛下から、阿闍梨に対してお|ねぎ《ヽヽ》の言葉をいただいてきた。これは大変なことです」
酒井は恐懼《きようく》した。陛下は土足参内して玉体加持したことをご存じなんだ、と思うと、感激し、急に胸がドキドキした。昭和が始まった年に生まれ、「天皇は現人神《あらひとがみ》」の教育を受けて育ち、「皇国日本」のために予科練に行き、生きのびた。この原体験をもつ酒井にとって、戦後、「人間宣言」された天皇陛下が、直接自分のことを皇太子殿下に話されたと聞くと、やはり感激で体がふるえた。
社会の落ちこぼれ≠ェ仏門に入り、千日回峰という行によって得た名誉だった。
5 昭和の「生き仏」
紅蓮《ぐれん》の炎が燃えあがり、酒井阿闍梨が祈祷しながらまた護摩木を投じると、火焔はさらに天井まで焼きつくすかのように凄まじい火勢でめらめらという音をたてた。「ナーマク サーマンダー バーサラナン」「センダン マーカーロ シャナ」「ソワタヤ ウンタラター カンマン」。信者たちが唱和する真言が、一大合唱となってそれに和する。一つひとつ護摩木に込められた衆生の祈願を声に出して読みあげ、それを火焔の中に投じる阿闍梨の顔は、真っ赤に炎に染まり、さながら生きた不動明王を彷彿《ほうふつ》とさせていた。
昭和五十八年十一月十六日、飯室谷は信者たちの人波であふれていた。いま比叡山の三塔十六谷のうち、飯室谷がもっとも活気があるという。一人の千日回峰行者が飯室谷を再興させたのである。不動堂と長寿院の下の敷地に、この十月、新しく建立されたばかりの護摩堂で、「十万枚大|護摩供《ごまく》」が始まった。大護摩供は、千日回峰を満行した行者が自ら発願してやるもので、七日間の断食、断水をやりながら、信者たちの祈願が込められた護摩木を焚き、煩悩を焼き尽くす行である。火あぶり地獄≠ニもいわれる炎の荒行だった。この大護摩供を満じて、初めて千日回峰が完全に満行する。
護摩供は密教の秘儀で、「慈救呪《じくのじゆ》」と称する不動明王の真言を唱えながら、不動明王に対して火中に供物を投じて供養する。酒井阿闍梨は手に印契を結び、口に真言を唱え、心を仏と化して祈祷するのだ。これを「身口意《しんくい》の三密」というが、仏の三密と衆生の三業《さんごう》(体と口と心でする働き)とが感応しあって、人々は初めて仏の大慈悲を受け、成仏することができる、とされている。阿闍梨は今、人々の幸せを願って、その大護摩供に自らの使命を果たそうとしていた。
普通は、千日回峰行が終わって二、三年のうちに営むのが慣例になっているが、酒井阿闍梨の場合は、飯室谷に護摩堂がなかったため、新しく建立されるのを待って、この日から七日間行われることになったのである。これまでも第二日曜と毎月の二十八日には、千本単位の護摩供は不動堂で行ってきたが、十万枚大護摩供といったら桁《けた》が違う。無動寺谷には護摩堂があるが、阿闍梨は飯室回峰の復興に悲願を込めている。全国の信者たちは阿闍梨の念願をかなえようと勧募に奔走し、建設構想から四年、この年の十月二十八日に護摩堂が完成した。落慶法要は、山田天台座主はじめ小林師ら一山の高僧たち、工事関係者、多数の信者らが参列して厳かに営まれた。阿闍梨は、木の香もかぐわしい立派な護摩堂の完成に感涙し、これで飯室回峰行の本拠地ができた、とさらに修行を心に誓った。
護摩堂建立には無論、莫大な金を必要とした。近親者の話では「約二億円」かかったというが、阿闍梨は、自分のような人生の落伍者にとっては身にあまる信者たちの寄進に、ただただ感謝の念をあらわした。それには行で報いるしかない。建立を推進した陰の母体は「飯室会」という信者組織で、特に建設委員長の小沼光雄をはじめ、岡島正造、川野澄雄、本間茂、飯島雅義といった東京の信者グループの力が大きかった。次男保二(現、エレクトロニクス社長)、末弟昌幸(現、大成建設東京支店機材室室長)ら弟妹たちも陰の力となって奔走した。これらの人たちも無論、大護摩供に姿を見せていた。
末弟昌幸は兄の影響で在家得度し、「昌哉」という法名を持っているが、小寺師からいわれて、親きょうだいといえども今は「阿闍梨さん」と尊敬して呼ぶ。
「阿闍梨さんは、たまたま私を連れて比叡山に登ったとき、宮本一乗師の出堂のお姿を見られて、自分も行者になることを考えられたと思うんですね。それから、私は大成建設の人間として、サンシャイン、交通会館、新有楽町ビルなどの建設現場にたずさわったんですが、サンシャインを建設するとき、あそこは刑務所の跡地でしたから、阿闍梨さんに頼んで工事安全の祈願をしてもらったことがきっかけで、大成にも飯室会ができたんです。それで護摩堂も、文化庁に行って許可をもらったりして、皆さんのお力添えで完成したわけです。まあ、工事はうちは本職ですから……」
火あぶり地獄≠ニいわれる大護摩供は、阿闍梨でさえ「堂入りしながら護摩焚いているようなもの」という苛酷きわまりない炎の行で、さらにその前に百日間の厳しい前行が加わる。それは「五穀断ち」というもので、百日間、五穀と塩を断つのである。五穀とは米、麦、粟、豆、稗《ひえ》(または黍《きび》)をさすが、「五穀断ち手文」はさらに茄子《なす》、柿、西瓜《すいか》、梅、桃、海苔、昆布、ひじきなどの果物、海草類も一切禁じている。阿闍梨はこの年の八月九日から十一月十六日まで前行に入ったが、これではほとんど食べるものがない。
「空気だけパクパク吸っているわけにもいかないから、じゃがいもと松の実とクルミを食べていたの。そば粉にキャベツなどを細かく刻んで入れて、薄い煎餅みたいに焼いたりして工夫もしたけど、塩気が全然ないからね、最初は口にあわないの。でも、この塩断ちがあったから、大護摩供に耐えられたわけね。行というのはすべて理にかなっているんだよ」
阿闍梨が前行に入っている間にも、全国の信者たちから、祈願の護摩木が寄せられ、準備がなされていた。一本一本の護摩木には、病気平癒、安産母子健全、家内安全、商売繁盛、社運隆盛、入試合格、学芸増進、七福増進、七難消滅、厄難《やくなん》消除といった願い事から景気回復、不況脱出といった深刻なもの、さらには世相を反映して「浮気防止」とか「我身安楽死」というのもある。人間の煩悩、願望、欲望がここに集約されていた。護摩木は十万枚をはるかに突破している。これはある意味で、千日回峰行者の庶民人気のバロメーターともいえた。
十一月十六日、この日、阿闍梨はいつものように滝で身を清め、お勤めをしたあと、飯室谷の社堂を巡拝した。自分が箱崎老師のもとに来たとき、長寿院は荒れ果てていた。谷周辺の風景も荒涼としていた。それが今、護摩堂が建立され、隣りには信者たちがいつでも利用できる行場もできている。飯室谷に再び信者が戻ってきたことを、かつて栄華の歴史を秘めた飯室谷の社堂に感謝し、報告したのだろう。
午後二時、入堂のときがきた。白い法衣に身をつつんだ阿闍梨が護摩壇に上がった。護摩堂に隣接して桟敷《さじき》席が設けられ、五十人を越す信者たちが数珠を手に座っている。この桟敷は全天候型で、たとえ七日間に雨が降ろうとも、連日昼夜の別なく参詣の信者がこられるようになっていた。
阿闍梨は経文を誦したあと、最初の護摩木を読み上げ、点火した。それから一本ずつきちんと祈願と名前を読んで祈祷し、火炉に入れていく。信者たちから不動真言が合唱となって湧きあがり、護摩堂は荘厳な雰囲気と化した。火焔の中に護摩木が積みあげられるようにして一本一本と投じられていき、炎の柱が新堂の中に燃えさかる。道場係として選ばれた若い坊さんたちが七人ずつ交替で、阿闍梨へ護摩木を次々に手渡し、燃焼して炭化した護摩木を手際よく搬出していく。護摩壇の火炉の前で、阿闍梨は汗をほとんどかかず、平然として炎の行に身を挺している。塩断ちをしたお陰もさることながら、不動明王に身を捧げ、知慧の火で信者たちの煩悩の護摩木を焼き、人々の幸福を祈祷する阿闍梨の行に賭ける激しさが、火焔にもまして烈々と燃えさかっていた。
しかし、火あぶり地獄≠ヘ極限まで体力を消耗させていく。炎と煙で呼吸も苦しくなってくる。二時間が一つの限度である。一日に何本の護摩木を焚くのか、集まった総数から付添いの僧たちがあらかじめ割り出して予定を組んでおり、全部を七日間、昼夜分かたぬ行で奉修していくのだ。やがて別室に退がり、椅子にかけてしばらくの間、体を休めた。眠ることは許されるが、横臥することはできない。体力が充実しているうちに、なるべく沢山の護摩木を焚くことが秘訣とされる。十七日の午後四時までに五万七千五百本の祈祷を終えていた。
三日目が過ぎ、四日目になると、阿闍梨の額と頬は赤く焼けただれたようになり、唇は乾いて裂け、火炉に直接かざす手は赤黒く変色していった。それでも気力は凜々《りんりん》として、護摩木を読み上げる声の張りは衰えない。信者たちはそこにまさしく生きた不動明王の姿をみて、「ナーマク サーマンダー バーサラナン……」とひときわ高く真言を唱和し、そのうねりが飯室谷にいつまでもこだましていた。
不眠、不臥、断食、断水で挑んで八日目、二十三日午前九時、阿闍梨は疲労憔悴の極限に近づいていたが、渾身の精神力をもって自らを励まし、最後の護摩木を手にして、頭上高くかかげると、それを静かに火中に投じた。十五万三千六百十二枚目だった。阿闍梨はゆっくりと護摩壇から離れた。そして台上で差し出された「ほおの湯」の薬湯を少し飲んだ。堂入りは九日間、大護摩供は七日間の凄まじい行だった。そのあと信者たちにお加持≠した阿闍梨は、合掌する信者たちに見送られながら、最後の力を振りしぼるようにして本堂への石段を上って行った。ゆっくりではあったが、足元に乱れはなかった。不動堂に入ると、阿闍梨は十万枚|大護摩供《だいごまく》奉修満行《ほうしゆうまんぎよう》の報告をし、また明日からの行の無事を祈願した。
酒井阿闍梨はこのとき二回目の千日回峰に入っていた。二千日回峰といったら、これはもう破天荒な行で、無論、戦後は誰一人として挑戦し、満行したものはいなかった。比叡山に語り継がれる伝説によれば、相応和尚の弟子の|遍※僧都《へんごうそうず》(九○二―九七七年)が、現在の千日回峰的にいえば、三千六百日の大行を成しとげたというが、記録は残っていない。
現在、記録として残っているのは、東塔、無動寺谷宝珠院の奥野|玄順《げんじゆん》大僧正が大正七年に千日満行、同十五年に二千日、昭和九年に三千日を満行しているのが最高だ。比叡山にたどり着き、寺男として雇われた箱崎老師が、三千日を目指して回峰中の玄順師を駕籠から振り落として首になった話はすでに述べた。玄順師は滋賀県の出身。在家時代はさまざまな職業を流転し、三十九歳のとき、無動寺谷の行者、正井観順《まさいかんじゆん》師の行徳を慕って入山した。そして三千日満行のあとは法曼院、宝珠院などを復興し、さらに「利他行」のために護摩堂を創建した。百日の穀類と塩断ち、十七日にわたる断穀、断水による十万枚大護摩供を始めたのも、この玄順師であり、箱崎老師の師にあたる。
玄順師が師事した正井観順師は、青森県の人で、明治三十八年に千日を満行するとともに三千仏名礼、大乗経典の書写をやり、「来世得脱の因」を積み、行道遊行を重ねた。そして明治四十二年に四十八歳で二千日を満行、なおも三千日を目指したが、ちょうど二千五百五十五日に無動寺坂の一番険しい場所で行道中に往生をとげた。大正二年九月十八日、五十一歳のときであった。いわば行き倒れであるが、観順師は、小田原提灯をきちんとたたみ、頭を北にして西に向かって従容として往生しているところを発見された。観順師は、自ら琵琶湖畔に建てた大きな石灯籠を見ながら大往生していた。灯台代わりになっているこの石灯籠こそ、出家の動機とつながっている。
この観順師も数奇な人生を経て仏門に入った人で、葉上師はこうしのんでいる。
〈何でも奥州南津軽の猿賀村神宮寺の門前にあった雑貨屋さんだったとか。ある年、難船があって夥《おびただ》しい人が溺死し、その悲惨な現状を目撃して無常を感じ、さらにこれらの亡霊を救わんがために、妻子を捨てて山へ来られたのである。四十三歳が第一回の満行ゆえ、少なくとも七年前として三十六歳頃に入山されたことになる。(参考文献24)〉
まさしく箱崎老師と同じ青森の出身で、出家の動機も同じだったが、日本のこの時代の修羅を垣間見る思いがする。信長の焼打ち後、記録に残っている二千日以上を満行した行者はこの観順師と玄順師の二人だけである。そしてここで気がつくのは、比叡山の千日回峰の行門では「異端」ともみえる箱崎―酒井の系譜が、もっとさかのぼれば、観順―玄順―箱崎―酒井と続く「行一筋」に生きた稀代の行者の系譜だということである。酒井が二千日回峰を発願したのは、こうした行門法流に身をゆだねたものの仏縁というべきか。そして、最初に満行した千日回峰は、無動寺回峰と飯室回峰をミックスした変則的なものだった。飯室回峰を完全な回峰行として復興したいという気持ちがあったと思われる。
「別に記録を作るとか、そういうことじゃなかったの。千日回峰は終わったが、十二年|籠山《ろうざん》だからあと五年は籠山しなければならない。わしみたいな人間は、その間にまた怠けものに逆戻りしちゃうかもわかんないからね。だから行をすることによって、いつも仏さまと向かい合っていたいわけ。それに信者のみなさんが、ロウソク代にとか、お線香代に使って下さい、といって持ってきてくれるから、わしは坊さんのお勤めをさせてもらうことができる。それに報いるためにわしにできることといったら行しかない。お山を巡拝しながら、そういう人たちに幸せになってもらいたい、と祈ることしか、わしにはできんのよ」
阿闍梨は、千日を満行した翌昭和五十六年三月二十八日には、千一日目を出峰していた。今度は最初から飯室回峰のコースを歩くことになった。箱崎老師は千日回峰を満行した弟子に対し、
「酒井も立派な行者になった。わしは隠居する」
といって、もう何もいわなかった。
ただ、相談を受けた小林師は最初反対した。
「千日回峰というのは、千日を満じれば生きた不動明王になるということだ。それをまた二千日やるとなると、あの行者は千日回峰で何も得ることができなかった、という噂にもなりかねない。千日回峰そのものにも傷がつくとして、先達会議でも認めるかどうか」
小林師のいうことはもっともだった。しかし、酒井の決意は固かった。
「行だけが私の人生の最後の砦《とりで》だから、行を続けたいんです」
「うむ、それもそうやなあ。下手に体をもてあまして、マスコミやまわりから生き仏さん≠ニちやほやされ、常不軽《じようふぎよう》菩薩の心を見失っても困るわな。やっぱりお前さんは、お山で行をするのが一番いいのかもしれん」
「私も初めからそのつもりでした」
酒井の不動の決心を改めて知って、小林師は、規則を変えてまでも酒井を残した叡山の目に狂いはなかった、酒井は立派な大阿闍梨になる、と確信した。
山田天台座主は、本来、無動寺回峰と飯室回峰は違うものだ、と話す。
「飯室回峰は相応和尚ではなく慈覚大師が開基であった。飯室回峰は地味なもので、本当に一人でやる行なんです。だから千日一区切りもなければ、五百日したからどうのとか、そういうこともなかった。先達会議も要らんのです。京都大廻りもなかった。とにかく一人でお参りすればいいんです。慈覚大師の精神からいくならば、三塔を巡拝すればいい。日吉神社も加えてですね。それが本来の飯室回峰の姿です。それをのちの行者が、相応和尚の流れをくむのが回峰行者ということから、無動寺往復をとり入れた。回峰行は同じところを通らないで一回りする。ところが飯室回峰だけは無動寺を往復するというのはそこにある。大廻りもするようになった。これがないと信者が納得しない。こういうわけで今の飯室回峰は昔と違って、名前は飯室回峰であっても、いってみれば無動寺回峰に準じてやっているという形になっているわけです」
その結果は、三塔十六谷の巡拝コースが、無動寺が三十キロに対して飯室は四十キロで十キロ長い。その分、赤山苦行も京都大廻りも飯室のほうがよけいに歩き、時間もかかるようになっているが、どちらがより困難か、などという比較は、山田天台座主が「対照しないほうがいい」と戒めた。回峰行は自分のためにするものであり、他人の目を意識した難易度の比較などは、凡俗の徒の発想ということだろう。
ともあれ、酒井阿闍梨はまた歩き出した。勝手知ったる峰道である。二千日回峰は順調に満行を重ねていた。昭和五十六年十月十三日、千二百日満行、五十七年は春と秋二回歩き、十月十三日に千四百日満行、五十八年七月四日に千五百日満行。そしてこの年の十一月二十三日に十万枚大護摩供も満行したのだった。
阿闍梨は翌昭和五十九年、三月二十八日から歩いて十月十三日に千七百日を満行した。そして、二度目の「堂入り」を迎えたのである。
今回の堂入りは、毎日お勤めをしている不動堂で行われるが、何といっても憂慮されるのは五十八歳という高年齢だ。危ないといわれた最初の堂入りからさらに六年経過している。九日間の不眠、不臥、断食、断水の凄絶な行に再び耐えきることができるのかどうか。小林師はじめ一山の僧たちでさえ、「無事に出堂できたら奇跡に近い」とみていた。
阿闍梨にも不安は濃くつきまとっていた。前に一度成功しているから、今度もうまくいくという保証はどこにもない。堂内でどうすればいいのか手順はわかっているが、年齢の開きとか、堂入り最中の天候、気圧の変化とか、未知の体験が多すぎる。不確定要素に対応できなければ、それは即座に死を意味した。
その日、十月十三日、阿闍梨は滝に打たれて身を清めながら、心の平静を保てるように祈った。そして三塔十六谷を巡拝し、七百日を満行して戻ると、「結願」の報告をし、真新しい「死に装束」に着がえた。「斎食儀」が始まり、挨拶する座奉行の声にも、緊張感が強くにじんでいた。
「……もし不動明王が利他行を許すと仰せになるなら、生きて再び皆さま方と相まみえることができます。しかし、その必要なしと判断されたら、今日が永遠のお別れでござります」
時間がきて、阿闍梨は不動堂に入った。飯室の不動堂は、無動寺の明王堂に比べるとはるかに小さく、内部も狭い。内陣と外陣に仕切られ、「逆さ屏風」になっていることは全て同じだが、狭いだけに圧迫されるような息苦しさがあった。入堂の儀式が終わり、いよいよ不動堂の正面の扉が閉じられた。堂内には阿闍梨と二人の助番僧が残された。助番僧は正確には、不動明王に仕える矜羯羅《こんがら》、制咤迦《せいたか》の二童子に擬したもので、寝ずの番でロウソクを取り替え、灯をともし、香を絶やさないように、甲斐がいしく世話をやく。無論、みな無言の行である。
阿闍梨は午前三時、十時、午後五時の時間がくると、内陣で法華経を読誦し、そのあとは外陣の籠り所でひたすら真言を唱えた。光永師によると、最初のうちは「一日に一万遍も唱えられるものではない」と明かしているが、とにかく出堂するまでに十万回唱えなければならない。数珠の珠をソロバン代わりに使って数えるのは同じである。この点は二回目なので、スムーズにいっている。
午前二時、最初の「取水」の時間がきた。無動寺の場合は、「閼伽井《あかい》」まで二百メートルとやや距離はあったが、比較的平坦な道だった。飯室の閼伽井は坂道の下にある。前後に小桶のついた天秤棒をかついだ阿闍梨は、まず不動堂の五段の石段を下りて出堂すると、右に折れてゆっくりと鐘楼の脇を抜け、その先を鋭角に曲がった下り坂を下りた。閼伽井はちょうど護摩堂の真下にある。
不動堂の閼伽井は、慈覚大師が不動明王の霊感によって発見したとされる霊水で、爾来今日までご本尊をはじめ諸天善神に献ずる霊水として千百年余、大切に守られてきた。古来から「明王水《みようおうすい》」と称されて、諸病平癒、健康増進に不思議な力があると尊ばれてきた。閼伽井で取水がすむと、今度は上り坂になる。日《ひ》にちが進み、体力が衰弱していくにつれ、取水が重荷になっていった。そして悲劇はこの取水のときに起こった。
それまでは順調に堂入りの儀式が進行していた。四日目頃から、死臭がただよいだし、体に点々と死斑が出てきたが、前回でそれは経験ずみだから、あまり気にしないことにした。五日目から「脇息護法」になって、肘掛けが与えられ、うがいを許されたことも助かった。意識だけは異様に冴えているから、自分が今どういう状態にあるのかは知覚できるのである。排泄は阿闍梨の場合、三日を過ぎると、もう尿意はなかった。自分の体内から全て古いものが排泄されてしまって、何か体全体が透明になって細胞が全て生まれ変わっていくような気がした。
光永《みつなが》師は、聴覚が冴え、野鳥の声に「観想」した自分の内面を明かしている。
〈鳥は、たしかに屋根の上にいる。そして光永は、線香くさい堂の中に不眠不臥で閉じ込められている。が、その|囚われ《ヽヽヽ》の光永にも、鳥はさえずりかけてくれるのである。チチッと啼けば、こちらの胸の内も、チチッと啼いている。そしてその鳥は、明王堂の屋根の上にはとどまらず、比叡の峰々へ飛翔してゆくであろう。そのときこそ、自由に翔べるのである。鳥が光永であり、光永が鳥であった。
すると、野鳥が啼くたびに、光永澄道の「魂」は、明王堂を抜け出して、はるかな天空を駆けめぐるのであった。事実、目の前に景色が見えた。山上から鳥瞰《ちようかん》した都も見えたし、琵琶湖のかがやきも見えた。それは、回峰の行中に実際にこの肉眼の網膜にうつった実景より、なおあざやかだった。浄土教でいう「観想」とはこれなのであろうか。心を凝らして弥陀を念ずれば、浄土の相形が見えてくるというのは、これをいうのであろうか。(中略)光永は、このとき完全な自由を得た。不動明王の手の網から解き放たれた世界に遊んでいた。まったく、仏教の極意でいう「遊戯三昧《ゆげざんまい》」であった。(参考文献18)〉
阿闍梨も、同じような「観想」をしている。三塔十六谷の峰道を自在に翔ぶ自分が幻なのか現実なのか、わからないような状態で、しかもなおはっきりと|みえ《ヽヽ》る。深層心理が浮きあがっているのか、とも思った。最初の堂入りのときよりは心のゆとりがあった。一日一回、取水に出堂するときの「空気の味」が、いつも生きていることを実感させてくれた。
ハプニングは中日すぎた取水のときに起こった。ある懇意にしていた地元のカメラマンが、厳禁されているフラッシュをたいたのだ。不意をつかれて一瞬たじろぎ、そこから逃れようと、ちょっとペースをあげて歩いた。そのため呼吸のバランスが崩れた。
「堂に入っても、もう明らかにいつものドキン、ドキンと違ってね、何かもう心臓がとまっちゃうような苦しさなの。それがいつまでも治らず、これはもうあかんと思った」
三十分以上たっても心臓の異常はおさまらず、ますます呼吸が苦しくなった。これはもうだめだ、と阿闍梨は直感した。堂入りの最中に死ねば、みんなに迷惑をかける。どうせ死ぬなら、いつも体を清めてもらった滝で「自害」しようと最後の覚悟を決めた。あたりの様子をみると、ちょうど助番僧が交代するときなのか、誰もいなかった。本来なら途中で堂を出ることは許されないが、自害する覚悟である。そんなことはもう無視して、堂を抜け出し、不動滝の下に立った。十月下旬、真夜中の滝である。普通なら心臓麻痺で死ぬのがおちであろう。まして心臓に異常をきたしている身だ。阿闍梨は訪れる死を待ちながら、真言を唱えていた。
そのうち不思議なことが起こった。生気が甦《よみがえ》ってきて、呼吸が正常に戻ってきたのだ。ああ、仏さまが奇跡を授けてくださったのだ、まだ生きていろということだな、と阿闍梨は、仏に守られている自分を感じた。自分の体であって、自分だけの体ではない、と素直にそう思った。そっと堂に戻ると、裏堂にいる助番僧たちは何も気がついていない。これも不思議だった。
「ほんの瞬間だから、やっぱりそういうときっていうのは、何だろうね。不思議だね。みんなそのときにかぎって熟睡してるか、妖怪じゃないけども、何かにパーッとつつまれたみたいな感じになるんだね、あれ」
心臓の異常が治った。この分なら最後までいけるな、と酒井のなかで不思議な力がわいてきた。そして十月二十一日、阿闍梨はまさしく奇跡的に堂入りから生還してきた。すでにつめかけている信者たちから、「ナーマク サーマンダー バーサラナン」「センダン マーカーロ シャナ」「ソワタヤ ウンタラター カンマン」という真言の合唱が絶えまない潮騒のように高く低くうねっている。二千日満行に挑み、二回も堂入りから生きて出てきた「生き仏」を迎えるのだから、飯室谷には異様などよめきが渦巻いていた。
「ありがたいお姿だ、この方こそ昭和の生き仏さまだ」
立派な身なりの紳士が、合掌しながら感きわまったようにつぶやいた。信者の中には、思わず土の上に座り込んで礼拝する中年の女性もいた。真言はますます高まるばかりだ。阿闍梨の顔は憔悴して頬がこけ、眼窩《がんか》は落ちくぼんでいたが、瞳は澄み、表情には人間の顔を超越したような不思議な輝きと静謐《せいひつ》さがあった。
阿闍梨は、堂入りがすんだ翌昭和六十年三月二十八日から赤山苦行に入った。今度は足の怪我もなく、雲母《きらら》坂を一気に駆け下り、駆け上がり、七月五日に千八百日を満行した。そして六十一年三月二十八日から、一日九十四キロの行程を歩く京都大廻りに入り、両側に土下座して待つ衆生にお加持≠して回る「利他行」に入った。これは文字通り「峰の白鷺」になって飛んで走らなければ時間に追いつかない。阿闍梨は雲母坂を時速二十キロのスピードで洛北へ下った。睡眠時間はわずか二、三時間だから、歩きながら眠っていることもある。助かるのはこの大廻りのときは一人ではなく供《とも》がつく。供は腰押し棒といって、先が馬蹄形になった棒で、阿闍梨の腰にあて、後ろから押してくれるのである。
〈供というと聞こえはいいが、じつは補助エンジンのようなものであろう。|時代的《ヽヽヽ》にいえば、ジェット戦闘機のアフターバーナーだと思ってもらえばいい。(参考文献18)〉
洛中五十四キロのコースは、例によって京都息障講が世話をしてくれ、八十歳を越した渡辺丈吉が元気に「お先」を務めてくれる。渡辺は西京区|大枝《おおえ》に住み、毎朝、赤山禅院までバスで通う。今でこそ座席に座るが、以前は座れば袴にしわがついて行者さんに申し訳がないと、立ちづめで通ったような古武士的な風格を持つ。十年ほど前に隠居するために「渡辺|乾物《かんぶつ》店」を閉じたときは、閉店挨拶を配って回り、「閉店のときこんなことをするのは渡辺さんぐらい」と惜しまれた。在家の時代、菓子のブローカーをやっていた頃、商道徳に反する悪徳ブローカーと爪はじきされた酒井が、今は阿闍梨となって、この渡辺の先導を受け、京都の大道を歩いていく。
今回の大廻りにはもう一組、「京都不動明王朝の会」という信者組織が、交通整理などの役を担った。会長は西村泰治といい、昭和十四年、京都生まれ。左京区で石油スタンドを経営している社長で、芸能界に幅広い顔を持つ。社長室には阿闍梨が揮毫《きごう》した「日日是好日」という額と一緒に、「我慢 稲川聖城」という色紙が同居している。
西村もまた自分を落ちこぼれ≠セという。
「中学卒業してすぐ、もうどうしようもあらへん。勉強ができへんさかいに、|そういう道《ヽヽヽヽヽ》にいかなしようないのと違うか。仏心なんてもの、これっぽちもなかった。仏の心も何も、やんちゃばっかりして、もう極悪な男やと思っておった。こんなに悪い男いんと思うわ。人は傷つける、やんちゃでほんまにどうすることもできない男や。ほんまにもう人はわしの顔を見たら、毛虫やダニと思うような、今でもそういう裏の面があると思うのやな。そんなわしが、阿闍梨さんに会ったら一目惚れや。コロッといかれてしもうた。阿闍梨さんのためなら、わし、何でもやるわ。なんでそないに阿闍梨さんに惚れてしもうたのか、考えてみた。わかったわ。あのお方も修羅場をくぐってきたお人だったんや。そやから、わしらの気持ちまでようわかるんのや。阿闍梨さんこそ、ホンマの生き仏さまやなあ」
朝の会のメンバーは約十五人。「西村君、今度京都大廻りするから来てくれ」と阿闍梨にいわれたとき、西村は身ぶるいするぐらいうれしかった。それで元気にお伴する朝の会と息障講の人たちの間に、いささかトラブルが生じたが、それをまとめたのはやはり渡辺だった。
渡辺は、葉上師のお伴をしたのが最初で、それ以来、勧修寺信忍、叡南覚照、小林栄茂、宮本一乗、光永澄道、内海俊照の各師と今回の酒井を含め、戦後九人のうち八人までの阿闍梨の世話をしてきた。決して比較ではないから誤解しないように、と断って、千日回峰行者の印象をこう話す。
「葉上師は、菊池寛の『心の日月』のモデルになった方で、学者としても最高やな。ご前さま(叡南師)は発想のすごい方、小林師は禅宗の坊さんという感じ、光永師は自分の行に厳しい方、内海師は神経の細かい方、そして酒井師はそうやな、大らかで心やすい阿闍梨さんでんな」
この京都大廻りのとき、赤山禅院で瀬戸内寂聴尼も頭を垂れて、阿闍梨を待ち受けていた。寂聴尼も大廻りの一行について、阿闍梨と行歩をともにする。二度ついて回ったが、最初のとき、清水寺のところでダウンし、しゃがみ込んで動けなくなってしまった。するとお付きの人が、「瀬戸内さんが後ろで目をまわしているから見てあげなさい」と阿闍梨にいわれたと、飛んで来た。
「阿闍梨さんは一度も後ろなんか振り向かないんですよ。それでもわかるみたい。お加持≠烽謔ュきくの。清水寺でしていただいたけど、霧が晴れるようにすっきりしましたね。私もかつて無神論者でしたけど、自分はどこからきて、どこへいくのか、こうしたこの世の不思議に思い悩むとき、人は宗教、信仰と出あうのではないでしょうか。阿闍梨さんはわが身を捨てる捨身の行で、ひたすら衆生の幸福や健康、この世の平和を祈っている。まったく頭の下がる思いで、精神力のすごさ、信じることのすごさを教えられます」
寂聴尼は岩手県にある天台宗の古刹《こさつ》、天台寺の住職に請われ、これを見事に復興させたが、阿闍梨に護摩を焚いてもらい、関孫六の降魔の剣をお守りとしてもらっていった。ふだんの阿闍梨はやさしいが、ある日、赤山禅院から大廻りに出発するとき、行中はみだりに写真を撮ってはいけないと禁じてあるのに、不作法なカメラマンがシャッターを切り続けた。突然、阿闍梨が大音声で一喝した。
「行中は写真を写すなといっているのに、なぜ写すのか、さがれ!」
その声の大きさと、満面朱をはいた怒った阿闍梨の顔の厳しさは、さながら火焔につつまれた不動の憤怒の形相で、寂聴尼はそれを忘れることができない(参考文献15)。
行はそれ自体としては意味がない。強い信仰心を内に秘めて、相互の裏付けがあってこそ意義があり、「人間が人間でありながら、しかもそれ以上のものとなり得る(参考文献24)」というのが天台宗の教えである。人間が「それ以上のもの」になり得るとはどういうことなのか。これは凡俗の徒には理解し得ない深淵な世界であるが、あえていえば、「現実的な現象」として顕現されてくる不思議な霊能力≠ヘその一つかもしれない。
回峰行の始祖、相応|和尚《かしよう》は天安二年(八五八年)、彼の外護《げご》者であった西三条良相の娘で、文徳天皇の女御《にようご》だった藤原多賀幾子が重病にかかり、危篤に瀕したため、その祈祷を懇請された。名医の治療、高僧たちの祈念もいっこうに効き目がなく、恩師慈覚大師を通して西三条家から相応和尚が招請されたのである。相応和尚はそのとき十二年籠山中であったが、あえて山を下りて殿中に参上すると、殿中には諸方の名山大寺から集まった名僧知識たちが居並んでおり、みすぼらしい相応和尚の姿をみて軽蔑の目を向けた。委細《いさい》かまわず、相応和尚は殿中には上らず、はるか庭上の白洲から病床を望んで祈祷を始めた。
〈修験祈祷の咒《じゆ》を誦しはじめた処、いくばくもなく一人の上臈《じようろう》が几中《きちゆう》からまろび出で、飛ぶように和尚の座前に来り、転々しつつ高声を発したが、和尚の指示によってやがて平静の状に還ると静かに几帳の内に還って、さしもの奇病も立ちどころに平癒することとなった。西三条大臣の感謝と随喜は言うまでもない。(参考文献19)〉
三千日回峰の荒行を達成した大先達、奥野玄順師は、「電話主の声を聞いてその人の病気を治した(参考文献10)」というほどの霊能力を持つにいたった。箱崎老師は何回となく不動明王を感応、感得した話を酒井に伝えている。
酒井阿闍梨もまた特殊な霊験≠示すことが多くなった。その一つが、瀬戸内寂聴尼が体験したお加持≠ノよる力だった。
瀬戸内寂聴尼がいう。
「私も最初はお加持≠ネんて信じていなかった。だけど、清水寺で阿闍梨さんにお加持をしてもらったとき、本当に効きましたね。宗教的な奇蹟というのは確かに起こり得ると実感しました。科学や哲学では説明できないことが宗教にはあると思う。それが神秘的にうつるわけですね。阿闍梨さんにはその後もお加持をしていただきましたが、降魔の剣でお加持をしてもらうと、あれはもっと効き目があります」
京都大廻りのとき、信者たちが千日回峰行者のお加持≠求めて、道の両側に土下座して待っているのは、それなりの現実的な霊験があることを体験的に知っているからである。
昭和六十年八月十二日、日航機が墜落し五百二十人という大量の犠牲者を出した大惨事があったとき、飯室谷の長寿院で不思議なことが起こった。阿闍梨が犠牲者たちの冥福を祈って勤行すると、翌十三日の朝、庭の池で大きな鯉が三匹往生した。そのあと信者三人から、その日日航機に乗る予定だったが、それぞれの理由で搭乗せず、命拾いをした話を聞かされた阿闍梨は、「それは鯉が身代わりになって成仏したのです」と話した。信者たちは驚嘆して鯉に感謝したという。長寿院ではそれを機に「放生会《ほうしようえ》」を復活したが、この放生会とは仏教では大切な意義をもつ。
約千四百五十年ほど前、中国の天台大師|智※[#「豈+頁」]《ちぎ》は、漁師に自分の衣を与え、わなに捕らえられた多くの魚を助けた。『金光明経』の中にこんな話が出てくる。流水長者という人がいて、まさに涸渇《こかつ》しようとしている池で、死を待つ魚をみて憐れみ、国王より象二十頭を借りて水を運び、魚を助けたところ、魚たちは仏に姿を変え、恩返しにこの長者のもとに多くの財宝をもたらした。天台大師智※[#「豈+頁」]はこの仏の教えにしたがったものだが、仏教では「六道輪廻《りくどうりんね》」といって、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄のいわゆる六道に、生きとし生けるものはすべてさまざまな姿をして輪廻する、と説く。鯉が人間の身代わりになって成仏した、というのはそのことをさす。阿闍梨の仏徳がここにもおよんでいる、と信者たちは、今に伝わる殺生への自戒と供養を改めて行なっている。
修行を積み重ねた高僧として知られる明恵上人(一一七三―一二三三年)は、現実に行う修行も夢も同等の価値あるものとして、密接に関連し合っているものとして受けとめ、自分のみた夢を克明に残している。この夢については河合|隼雄《はやお》が『明恵 夢を生きる』で詳しく論証しているが、その中に承久二年「放生会《ほうしようえ》」八月にみた夢のことが記されている。
「身心凝然として、在るが如く、亡きが如し。虚空中に三人の菩薩有り、是れ、普賢、文殊、観音なり」
これは、「おそらく身も心もひとつになり、しかも、それは極めて軽やかな、あるいは、透明な存在になったのであろう。明恵の場合は、修行を通じて、その身体的存在が心と共に変化するところが特徴的である」と河合は分析している。
明恵上人は、空から降りてきた瑠璃《るり》の棹によって、「兜率天《とそつてん》」へと上昇するが、そのとき引き上げてくれたのが普賢、文殊、観音の三菩薩であり、兜率天に昇る明恵上人の体には大きな変容が生じる。まずその顔が「明鏡の如く」になり、次に体全体が「水精の珠」のように、さながら「透体」のような状態になる。そして、そのとき「諸仏、悉《ことごと》く中に入る。汝今《なんじ》、清浄を得たり」という声を聞くのである。兜率天とは、将来、仏となるべき菩薩の住処で、釈迦もかつてここで修行され、弥勒菩薩が説法をしていると説かれる欲界六天の第四番目の天のことである。
酒井阿闍梨の修行もまた、明恵上人のような境地にたどりつくための行にほかならないだろう。
京都大廻りは七月五日に満行した。この荒行がいかに凄まじいものか。世界的な冒険家の植村|直己《なおみ》が生前、ある新聞紙上でこう脱帽した。
「自分がなしとげた五大陸最高峰登頂の記録など、回峰行者に比べれば、恥ずかしい限りだ」
阿闍梨が京都大廻りを無事に終えてまた山へ帰って行くとき、赤山禅院まで見送った息障講や朝の会の信者たちが名残りを惜しんで三々五々と散る中にあって、西村がいつまでも阿闍梨の後ろ姿に絶叫していた。
「阿闍梨さあーん。お気をつけてお帰りくださーい!」
阿修羅のような顔から滂沱《ぼうだ》として涙が落ちていた。阿闍梨によって魂を救済された男が初めてみせた涙だった。渡辺は渡辺で、ひっそりと最後まで阿闍梨を見送って立ちつくしていた。
阿闍梨は、昭和六十二年三月二十八日から七月五日まで、最後の三塔十六谷の山内の巡拝を行った。霊山院に寄ると、必ず一杯のお茶が用意されている。小寺師は昭和五十七年二月十八日、四十九歳で亡くなった。霊山院は次男が継ぐが、長男|康頴《こうえい》は今、阿闍梨の弟子として修行中である。小寺夫人の心づくしの茶を喫しながら、阿闍梨は亡き小寺師に毎日、何を語りかけているのだろうか。この間の食事は、三男栄治がきて作った。メニューは相変わらずかけそば一杯、ゴマ豆腐半丁、缶詰の果物と粗食だった。大行満の七月五日、阿闍梨が長寿院を出峰するときはすさまじい豪雨だった。さすがの犬たちもお伴をしない。着茣蓙《きござ》をつけ、油紙で巻いた蓮華笠をかぶって出峰した阿闍梨が、朝八時に多数の信者やマスコミが待ち受ける長寿院に戻ってきたときは、雨がすっかりあがり、信じられないような上天気になっていた。
「これも仏さまのおぼしめしだ」
と感謝した阿闍梨は、二千日回峰を満行し、飯室回峰を天正十八年以来、実に三百九十年ぶりに完全に復興させて、「北嶺《ほくれい》飯室大行満」となった。二千日回峰は観順、玄順の両師に次いで三人目、戦後は無論初めてである。地球を二回り約八万キロ踏破したことになる。
九十三歳になる第二百五十三世天台座主・山田恵諦|猊下《げいか》が、なお凜然《りんぜん》として話す。
「伝教大師は、愚が中の極愚、狂《おう》が中の極狂《ごくおう》、といわれておるが、仏教では行にのみ専念して学のないものを愚といい、学にのみ片よって行がないのを狂という。一つではだめなんです。酒井阿闍梨は、時間の短さ、奥の浅さ深さは別にして、学を修めてから行に入ったのでうまくいった。いつも菩薩の心を失わないかぎり、生き仏といってさしつかえない」
阿闍梨は昭和六十三年三月十七日から二十四日まで八日間、二千日回峰を満行したあと、悲願としていた二度目の十万枚大護摩供を奉修した。焚いた護摩木は実に十八万三百三十六枚。再び紅蓮の炎につつまれ、生きた不動明王として、ひたすら衆生の幸福を祈り、併せて国家の平和を祈願する酒井雄哉大阿闍梨。昭和の「生き仏」の姿がそこにあった。
酒井阿闍梨は今、深い感慨の中で、
「天台宗に偶然拾われて出家し、行というものにめぐり逢えたからこそ、わしのような社会の落ちこぼれ人間≠烽アこまでこれたんや」
と仏縁に感謝し、「人生こそ無始無終の行」という。
「行には、始めもなければ終わりもない。死ぬまで行をやるだけだ。回峰行は人生の旅と同じで、谷もあれば山もある。雪や雨の日もあれば、爽やかな日もある。人生と同じや。そのときそのとき精一杯生きていれば、その人の人生にとってマイナスなんて何もない。どんな些細《ささい》なことでも後になって役立つのよ。人間は積み重ねや。まず第一歩を踏み出さなければ何も生まれん。わしは千日回峰をやってそれを知った。わしのような落ちこぼれでも、仏によって救われた。人間、ほんとは落ちこぼれなんてないんだ。それは学校の先生やまわりがいうことであってね、これが問題や。みんなそれぞれ違うんだから、それぞれ違った生き方があっても不思議ではない。そこが原点やね。本然《ほんぜん》に返れというのが仏教です。原点に返ることが、全ての基本にならないといけないわね」
酒井忠雄は「歩く」ことに自分の生き甲斐を見出して、昭和の「生き仏」となった。人間は誰でも何か一つはとりえがある。そして「こころ」があるかぎり、どんな修羅の過去をもとうとも、そのとりえ≠生かして自分の人生を発見し、たゆまず努力するかぎり、この世に落ちこぼれ≠ニいう人間は存在しないことを、酒井雄哉大阿闍梨は自らの生きざまを通して教えてくれる。
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引用・参考文献
1 『願心』(葉上照澄著、法蔵館)
2 『荻窪風土記』(井伏鱒二著、新潮社)
3 『証券』(小林和子著、日本経済評論社)
4 『比叡山延暦寺座主・山田恵諦法話集』(平凡社)
5 『行道に生きる』(酒井雄哉 聞きがき 島一春、佼成出版社)
6 『悪魔の飽食』(森村誠一著、光文社)
7 『続・悪魔の飽食』(同右)
8 『日本の仏教』(渡辺照宏著、岩波書店)
9 『大正十五年生まれ』(河出書房新社編集部編、同社)
10 『不動明王のごとく生きる』(小林隆彰、『天台』bU所載、中山書房)
11 『ああ、予科練』(福本和也著、講談社)
12 『修験道・実践宗教の世界』(久保田展弘著、新潮社)
13 『伝教大師の生涯と思想』(渡邊守順、『比叡山』所載、法蔵館)
14 『「比叡」への道』(瀬戸内寂聴『比叡山延暦寺1200年』所載、新潮社)
15 『道遥かなり・酒井雄哉写真集』(比叡山飯室谷長寿院飯室会)
16 『比叡山の行』(武覚超、『比叡山』所載、法蔵館)
17 『一隅を生きる』(中野英賢著、白川書院)
18 『ただの人となれ』(光永澄道著、三笠書房)
19 『相応和尚伝』(景山春樹、『葛川明王院』所載、葛川息障明王院)
20 『不動明王』(渡辺照宏著、朝日新聞社)
21 『北嶺のひと』(内海俊照 聞きがき 村上護、佼成出版社)
22 『阿闍梨誕生』(和崎信哉著、講談社)
23 『新羅明神と赤山明神』(景山春樹、『比叡山と天台仏教の研究―村山修一編』所載、名著出版)
24 『道心』(葉上照澄著、春秋社)
また、『北嶺修行回峰雑記』、『辨財天』、『道心』、『仏教の年中行事』、『比叡山』、『生きている観音経』(小林隆彰著)、比叡山時報、飯室会報などの比叡山関係の本や新聞と『二千日回峰行』(菊池東太・野木昭輔著、佼成出版社)さらに『道心は国の宝』(山田恵諦著、佼成出版社)、『法華経と傳教大師』(山田恵諦著、第一書房)、『大乗仏教』(玉城康四郎、法蔵館)、『比叡山U』(葉上照澄、光永澄道他、大阪書籍)、『「法華経」を読む』(紀野一義著、講談社)、『法華経現代語訳(下)』(三枝充悳著、第三文明社)、『明恵 夢を生きる』(河合隼雄著、京都松柏社)、『山岳霊場巡礼』(久保田展弘著、新潮社)、『比叡山』(梶原学、佼成出版社)、『最澄と天台仏教』(読売新聞社)などを参照した。辞典は『新・佛教辞典』(中村元監修、誠信書房)を使用した。それ以外にも、『知覧』(高木俊朗著、朝日新聞社)、『神風特別攻撃隊の記録』(猪口力平・中島正著、雪華社)などを参照、歴史的記述にあたっては『昭和史事典』(昭和史研究会編、講談社)を参照した。
なお、『二千日回峰―道はるかなり』(テレビ東京)、『こころの時代』(NHK)のVTRを参考にし、朝日新聞、京都新聞などを資料にしたことを付記する。
文庫版あとがき
胸が切なくなるような、一羽の奇妙な鳩を見た。
比叡山に通うようになった昭和六十三年六月のある日、発車間際の新幹線の窓から何気なく隣のホームを眺めていると、線路から一羽の鳩がホームに飛び上がった。そして、あまり人のいないホームで餌を求めていた。その動き方がどことなくぎこちない。よく観察すると、鳩は一本足だった。左足が胸元から完全になく、右足一本だけでぴょんぴょん飛ぶようにして餌をついばんでいる。
目が放せなくなった。どんな原因で左足が切断されたのだろうか。しかし鳩は上手にバランスをとりながら飛びはねている。そのうち、数羽の鳩が集まってきて、群れをなし始めた。一羽が歩き出すと、他の鳩もあとに続いて移動する。先頭に立つのはいつも、不思議なことに、一本足の鳩だった。片足と感じさせない敏捷《びんしよう》さで動き回るその鳩のあとを、正常な鳩たちが従う感じである。健気《けなげ》に生きている片足の鳩に、私は切なく胸をつかれ、そして感動した。
湖西《こせい》線、叡山《えいざん》駅で下りて、坂本の町を日吉神社のほうへ上がり、手前を右に折れて西教寺を過ぎると、やがて深山に入る。蛇喰谷という谷を通ってさらに小一時間ほど登ると、そこが飯室谷である。急な石段を登ると、建立されたばかりの護摩堂と行場がひときわ目立ち、さらに後ろの石段を上がっていくと、正面に不動堂、右に長寿院がある。不動堂と長寿院は廊下でつながっており、中庭は大小数百匹の鯉が泳いでいる倶梨伽羅《くりから》池をはさんで裏山に接し、不動滝(男滝)と加行《けぎよう》之滝(女滝)の二つから勢いよく瀑水が落下している。阿闍梨が毎朝体を清める滝である。
阿闍梨の仏間《ぶつま》に招じ入れられると、そこは赤い絨毯が敷きつめられた二十畳ほどの広さで、内仏が二つある。右側の内仏には伝教大師最澄と天台大師|智※[#「豈+頁」]《ちぎ》の肖像の掛け軸がかけられ、左側の内仏には不動明王の本尊がおかれ、阿闍梨はいつもここでお勤めする。因縁の役行者の仏像は二十センチぐらいのもので、厨子《ずし》に入れられて安置してあった。
想像していた筋骨たくましい修行僧のイメージと違って、内仏の前の座卓に座っている阿闍梨は小柄で、むしろ身のこなしは猫のようなしなやかさを連想させた。いたってざっくばらんで、着ているものも白のトレーニングウェアというラフなスタイル。ニコニコと微笑を血色のよい顔に浮かべて、最後まで心やさしい態度は変わらなかった。
「生き仏なんて、そんなこといわれるとテレくさいわな。アハハハ。在家では、わしは社会の落ちこぼれだった。いろんなことをやったけど、恥をかき散らし、人さまに迷惑もかけ、いってみれば人間失格みたいなもんやったな。あのとき成功してたら、坊さんにはならなかっただろうな、はっきりいって。今ごろ会社の社長になっているわ。アハハハ。それができないから坊さんになっちゃったということだね。落ちこぼれが仏に救われたのよ」
磊落《らいらく》に笑いとばす阿闍梨には、修羅にあえいだあげく、仏門に入って行に徹したあと、解脱した人生の達人の明るさがあった。
この本は、瀬戸内寂聴尼が「現代の聖僧」とたたえる酒井雄哉阿闍梨の、修羅にみちた生きざまを描いたもので、よくあるような高僧伝≠意図したものではない。阿闍梨は大正十五年生まれ。つまり「昭和の時代」を生きてきた。戦前、皇国教育を受けて育ち、予科練で生きのびた青年が、戦後の混乱期をどう生々流転し、三十九歳でなぜ仏門に入るようになったのか。自ら「社会の落ちこぼれ」「人間失格だった」と語る阿闍梨が、千二百年の法灯を守る天台宗の荒行「千日回峰」を二回も成しとげた陰には、どんな傷だらけの修羅の人生が秘められているのか。それを可能なかぎり克明に追ったのが本書である。
故植村直己が「自分が成しとげた五大陸最高峰登頂の記録などは、回峰行者に比べれば恥ずかしい限りだ」と頭を垂れた「千日回峰」の荒行を二回達成したのは、織田信長の全山焼打ち(一五七一年)以後の記録ではわずか三人しかいない。戦後は無論初めてである。阿闍梨とはサンスクリット語で「弟子を導く高僧」という意味で、千日回峰行者に与えられる尊称である。
私はこれまで植村直己を書いた『マッキンリーに死す』をはじめとする死すシリーズ℃O部作や、二人の企業戦士の自殺までの軌跡を追った『二つの墓標』など、「死」をテーマにしたものが多かった。が、知命の歳になって「生とは何か」「魂の救済とは何か」を改めて考えるようになった。その意味でも、私にとって意義のある本となった。
酒井雄哉阿闍梨には何回にもわたって貴重な時間をさいていただき、波乱に満ちた人生を腹蔵なくお話しいただいた。お目にかかれた仏縁をしみじみありがたく感謝している。長姉美佐子、次弟保二、三弟栄治、末弟昌幸の各氏ら、肉親の皆さんにも快くご協力いただいた。これもお礼を申し上げる。
また、第二百五十三世天台座主・山田恵諦猊下をはじめ、執行《しぎよう》・小林隆彰師、瀬戸内寂聴尼、あるいは「京都|息障《そくしよう》講社」の渡辺丈吉氏、「朝の会」の西村泰治氏ら、天台宗延暦寺の高僧や関係者の皆さんが、仏教にうとい私のために、多忙な時間をさいて下さった。特に小林師には、千日回峰の回峰ルートを案内していただいただけでなく、大切な資料もお借りした。心から深甚な感謝の意を表す次第である。
比叡山の三塔の聖跡をたどり歩いていると、不意に最澄や慈覚大師、恵心僧都源信、あるいはここで学んだ法然、親鸞、日蓮、道元といった人たちが、深い木立の中からひょいと現われてもおかしくない雰囲気があり、そんな幻覚にとらわれる。まさに千二百年の歴史が凝縮している世界に、酒井阿闍梨が生きていることを実感した。
こうした世界には、いわゆる宗教的奇瑞や伝説がつきまとっているが、無論そうした話は極力避け、私なりのノンフィクションの手法を踏襲したつもりである。
なお、本書は、朝日新聞社発行の『アエラ』(昭和六十三年八月二日号)に掲載した作品を大幅に加筆したもので、文中は一部敬称を省略し、登場人物たちの年齢(満)、肩書などは特別に断らないかぎりその当時、もしくは掲載当時のものであることをお断りしておく。『アエラ』では富岡隆夫編集長、関戸衛編集部員(共に当時)にお世話になったことを感謝する。
この本が上梓《じようし》されるにあたっては、講談社取締役・鈴木俊男氏、学芸図書第三出版部・湯浅智機氏の激励と助言によるところが大きい。文庫化に際しては文庫出版部の生越孝氏にお世話になった。改めてここにお礼を申し上げたい。
酒井阿闍梨は二千日回峰を満行し、「十二年籠山」があけた平成二年三月から、自由に外界に出られるようになり、その秋九月十八日から二十一日間をかけて、宗祖伝教大師(最澄)が歩いた中山道を「東下り」して、京都から上野寛永寺まで七百五十キロを加持行脚された。
さらに平成三年九月には、回峰行のルーツをたどり、慈覚大師(円仁)が修行された中国仏教の聖地であり、日本仏教、ことに天台、真言の両宗にとってもきわめて大切な聖地である中国の五台山を巡礼して、長年の念願を果たされた。
「生涯修行 無始無終」の旅はこれからも続く。
酒井阿闍梨のやわらかい微笑につつまれると、本当に心のやすらぎをおぼえる。ひたすらご健康をお祈りするばかりである。
平成三年十二月
[#地付き]長尾三郎
※この稿は、単行本の「あとがき」に一部加筆したものです。
[著者]長尾三郎 ノンフィクション作家。日本ペンクラブ会員。一九三八年福島県生まれ。福島高校卒。早稲田大学第一文学部演劇科中退。在学中から著述業に入り、政治、社会問題、スポーツなど幅広い分野で活躍、現在に至る。「未知の領域」に挑戦した人間の生きざまを描くことをライフワークとする。主な著書に『マッキンリーに死す』(第8回講談社ノンフィクション賞受賞)、『エベレストに死す』『サハラに死す』(編)の死す<Vリーズ三部作をはじめ、『氷海からの生還』『生き仏になった落ちこぼれ』(本書)『古寺再興』『魂を彫る』(以上講談社文庫)、『鎮魂』(徳間文庫)、『対決』『沙婆に還った生き仏』(以上講談社)、『精鋭たちの挽歌』(山と渓谷社)、『神宮の森の伝説』(文藝春秋)などがある。
この作品は一九八八年十二月、講談社より刊行されたものです。
本電子文庫は、講談社文庫版(一九九二年一月刊)を底本としています。