辻 邦生
天草の雅歌
わが愛《あい》する者《もの》の声《こゑ》きこゆ、視《み》よ、山《やま》をとび、岡《をか》を躍《をど》りこえて来《きた》る。
[#地付き]―雅 歌―
第一部
1 序の巻
長崎奉行配下の通辞《つうじ》(通訳)上田与志の密航事件に関する記録は、有名な長崎の犯科帳(裁判記録)にも見あたらない。この事件が寛永《かんえい》十七年(一六四〇年)におこったことでもあり、また犯科帳が寛文《かんぶん》六年(一六六六年)から記録されている以上、時期的にも、それが収録されなかったのは当然だが、キリシタン関係の事件は、その後になっても、犯科帳には記録されないのが通例なので、たとえ何らかの形で裁判記録がつくられたとしてもそれは別個の形で保存されていたに違いない。もちろん上田与志の事件が純粋にキリシタンに関係のある事件かどうかという点になるとかなり曖昧《あいまい》なところがある。ただ当時、日本人の海外渡航を禁じた鎖国令が出されており、それを犯した者は死罪をもって罰せられるのがわかっておりながら、あえてそれを犯すとなると、人々は、その動機をキリシタン宗門への死を賭《と》した信仰以外に求めることができなかったのである。まして上田与志その人が、交易事務を管理し、海外渡航を監視する長崎奉行所直属の通辞であり、さらにそのうえ、長崎奉行馬場三郎左衛門の信任を得た補佐役として活躍しており、事件発生当時すでに大目附《おおめつけ》井上|筑後守《ちくごのかみ》政重の祐筆《ゆうひつ》として江戸への転勤が決っていたといわれる。そうしたいわば官僚機構の中心部にいて、ひたすら昇進のコースをたどっている人物が、なぜ容易に発覚する可能性のある密航などを企てる気持をいだいたのか。おそらく密航や密交易に関しては、種々のからくりを知悉《ちしつ》しているはずの人間が、なぜ長崎港外に碇泊《ていはく》中の唐船へ泳ぎわたるというような、無知で向うみずな若者じみた行為を思いたったのか。
こうしたことは当時の人々にとって不可解だったばかりでなく、本人もそれについてはほとんど何も語らなかったらしい。幕府当局もそうした中枢部で発生した失態は、あまり公表を欲しなかったのであろう。上田与志は事件後、月ならずして、長崎奉行所牢屋敷で死を賜わっている。キリシタン弾圧の嵐が吹きまくっているさなかで、それは、何か部屋の片隅で、人眼につかぬ燈火《ともしび》が消えたような印象を残す。長崎交易のほうも、ポルトガル船の来航を禁じて間もないころであり、呂宋《ルソン》、天川《マカオ》、マラッカ、ツーランなどのあいだの通商戦は激しく、上田与志の死んだその年にも、長崎来航のポルトガル船が焼き払われているのである。
普通に考えれば、上田与志のような能力と地位をもつ人間にとって、それは十二分に腕のふるえる、機会に富んだ時代だったはずである。いったい何が彼を駆りたててこのような事件にむかわせたのか。
こうした疑問とともに、当時人々のあいだに流れた風聞によると、上田与志は切腹の際にあらぬ言葉を発して、武士らしくない見苦しい態度で死んだというのであり、他の噂によると、それは立会人の誰にも理解できなかった異国語であったというのであった。また別の噂によると、彼は刀を腹に突きたててから後、立ちあがって何事かを叫んだとも、また何か叫びながら、二、三歩あるいてから、刀の上に自ら倒れて死んだとも言われていた。
噂の内容はまちまちだったが、上田与志が最後に大声で何ごとかを叫び、その叫んだ言葉を誰一人わかる者がいなかったという点で、それぞれ奇妙に一致していた。
上田与志の晩年はその目ざましい活躍にもかかわらず、不思議と、無口で、陰気な印象をあたえた。彼は役目以外には、老僕が一人いるだけの長崎奉行所の下屋敷に起居し、終日家に閉じこもり、遊山《ゆさん》はおろか、上司や朋輩《ほうばい》のところに出かけることも少なかった。酒席でも酒は飲まず、ひとり黙って周囲の陽気な賑《にぎ》わいのなかにとりのこされていた。一度結婚したが、その妻とは別れていた。彼の身辺には、寂寥感《せきりようかん》というより、一種の冷たさ、暗さがつきまとった。もちろん役所で朋輩に会えば冗談の一つも口にするだけの社交性はあり、部下にも寛容であったが、それさえただ役目のうえの義務を果しているような印象をあたえた。
おそらくこうした晩年の印象が、彼の死にまつわるあのような奇妙な噂をつくりあげたに違いない。しかし当時、彼の周囲の人々、上司にせよ、朋輩にせよ、上田与志のこうした性格に対しては、むしろ寛大であった。もちろんそれは、彼の優れた才能と手腕のせいであったが、さらにそれだけでは説明できない何かがそこにあるようであった。しかし果してそれがどんな事情なのか、という話になると、誰しも奇妙に口をつぐむのだった。
上田与志は子供のころから、自分の父が士分をきらって、堺《さかい》で武具商を営み、磊落《らいらく》で、陽気で、物に屈託しない人物だったと聞かされていた。そしてその父の思惑は、合戦のはじまる間際に、城下に出むいて甲冑《かつちゆう》刀剣を売りさばくだけではなく、戦場にまで出かけて商売をすることにあったとも聞かされていた。
この上田与兵衛は関ヶ原合戦のさなかに行方不明となった。死体はついに発見されなかったが、流れ弾にでも当って死んだことはほぼ確実であった。
「おれの父は善人で、人眼に立つことならなんでもやったそうだ。三村社の祭礼のとき堺|会合衆《えごうしゆう》の依頼を受けて、花で飾った山車《だし》のうえで太鼓を叩く一番手は、おれの父だったということだ。父は怠け者ではなかったが、結局は善人だったのだ。一攫《いつかく》千金を夢みて、戦場へ商売をしにいったが、せいぜい侍大将あたりに鎧《よろい》具足を売りつけるぐらいが関の山だった。それでも、敵と味方の両方で商売ができたりすると、おれの父はひどく相好《そうごう》を崩して得意がっていたというのだ。おれは父の顔など憶えてはいないが、そんな話をきくと、その善人づらが眼に見えるような気がする。ところがその間に、たとえば堺の木屋とか伊予屋《いよや》とか、京都の角倉《すみのくら》などは、部将にとり入り、諸侯に金を貸しつけ、その金で自分たちの武器を買わせて、相手に恩を売っていた。彼らのおさえたのは侍大将などという小者じゃなくて、大名たちなのだ。木屋などはおれの父と大して身分の違わぬ商人だった。だが彼は木材廻船で儲《もう》けた金を、すべて徳川方にそそぎこんだ。家屋敷を売ってまで軍資金を立て替えたのだ。そんなとき、善人の父は何人の侍大将をだませるかと、鎧を背負って、戦場を歩いていたのだ。愚かしい死さ、おれの父の死は。それはおれの母も知っていたに違いない。おれの父は鎧を担ぎ、鼻唄でもうたっていたのだ。得意気にな。そのとき弾丸が父の胸板をつらぬいたに違いないのだ」
上田与志は同僚の通辞小曾根乙兵衛によくそう言っていた。小曾根はたまたま同じころ堺の町に住み、二人とも同時に大安寺《だいあんじ》の僧栄達のところで読み書きを学んだので、時には昔話が出ることがあったのである。
上田与志の母は、その後十年ほどして病気で世を去った。与志の十一歳の秋である。
当時、堺にはポルトガル船、オランダ船の姿はほとんど見られなかったとはいえ、なお朱印船交易で活躍する角倉船、末吉船《すえよしぶね》が賑やかに入港して、商人たちの権勢も盛んだったが、そうした堺にいて、上田与志が早くから商人を嫌っていたのは、こうした父の記憶があったからである。
「父は、堺の商人は天下御免だ、誰にも拘束されぬ、思いのままに生きられる、そう言っていたそうだ。この気楽な生活を思ったら、仕官する侍たちが哀れでならぬ、とな。だが父の言う気楽さとはどんなものか。そして父の言う思いのままとはどんなものか。おれはあのような愚かな気楽さは欲しくはない。おれは善人なんかでありたくない。気楽さなどは要らぬから、ひたすら利口でありたい。よく物を見きわめたい。父のように、むざむざと流れ弾などで死にたくない。父が生きていたらまだ商売のことを考えるだろうが、おれはいやだ。おれは堺で商売などやる気はない」
彼は小曾根に向ってそう繰りかえした。といって、そのころ通辞になるとか、奉行所に入るとかいう明確な目的があったわけではないし、また関ヶ原の合戦後、まだ十四、五年しかたっておらず、徳川幕府の全国統一が実現したとはいえ、なお人々の記憶には百年来つづいた戦国乱世の不安と恐怖とその日暮しがこびりついており、いかに上田与志が利口な子供であっても、徳川幕府|直参《じきさん》に仕官しようと考えていたはずがない。徳川幕府はまだ当時は豊臣に次いで立った一時的な覇者《はしや》にすぎぬという気分は民衆のあいだに瀰漫《びまん》し、諸国にはまだ牢人者が多く、騒ぎも絶えなかったのである。
だからむしろこうした商業的環境にあり、しかも上田与志を育ててくれた伊丹《いたみ》家が、堺有数の廻船問屋であった以上、一度は、上田与兵衛のような商売人ではなく、京都の角倉や、堺の木屋や伊予屋のような豪商として立ちたいと考えるほうが自然である。たしかに一時彼はそう思っていた。しかしそれを決定的に放棄させてゆくものが徐々に彼の中に育っていった。それは彼が引きとられた伊丹家の長男弥七郎の存在であったらしいことは、その後の事情からも明らかだ。
弥七郎は色の白い、病身の、痩せた子供で、好き嫌いが激しく、些細《ささい》なことによくいらだった。そんなとき、静脈が青く、その白い額のあたりに浮きあがった。彼は理由なく親戚のこの二歳年少の孤児をいじめた。与志のほうは年上の従兄からどのような仕打ちを受けようと、涙一つこぼさずに、それをひたすらこらえていた。弥七郎が土蔵の間の細い路地で、幼い与志を通せんぼして、「さあ、通りぬけてみよ。通りぬけてみよ。力ずくで通りぬけてみよ」と言いながら、手にもった笹の枝で与志の顔を執拗に打つとき、与志は黙ってうつむいて、一言も声をださなかった。たしかに神経質な弥七郎のいじめ方にもどこか異様な執拗さがあったが、それをこらえている蒼い顔をした与志の態度にも、人をいらだたせるような、冷たい、可愛げのない、かたくななところがあった。「月之助(与志の幼名)は腐れ魚じゃ。浜に打ちあげられた腐れ魚じゃ。灰色の眼をした腐れ魚じゃ」弥七郎はよくそう言って囃《はや》したてたが、たしかに与志のなかには死んだ魚に似た湿って冷たい感じがあり、大人たちを見つめる眼にも、暗い、沈んだ、諦めたような光があった。そして弥七郎にいじめられないときは、庭の奥の離屋《はなれ》の縁にうずくまって、ぼんやり膝《ひざ》をかかえているか、堺の町の通りを歩き、米市場で人夫たちが俵を運んだり、役人が大枡《おおます》で米を計ったり、商人たちが声をあげて相場を張っているのを眺めたりした。与志はまたよくひとりで御台場の先へ釣りにいくことがあったが、そんなとき、魚をつるというよりその遥明台(燈台)の下の石組みに坐って港に入ったり出たりする船を眺めているほうが多かった。いつか小曾根が通りがかり、何を考えているのだ、と訊《たず》ねると、彼は珍しくちょっと顔を赤らめて「おれはいつか伊丹の叔父のように、あんな大船を持って、遠く天川《マカオ》や柬埔寨《カンボジヤ》や呂宋《ルソン》に出かけて、大きな商売をしたいのだ」と答えた。
港には帆を張った角倉船や末吉船がゆっくりとむきを変え、そのたびに黒い波がまるで大きなうねりのように突堤に向って襲いかかり、高く白く上ったしぶきが石組みのうえまで濡らした。そうした船が現われるとき、港では銅鑼《どら》が打ち鳴らされ、小屋や番所から人々が港に駆けだし、綱をひく者、曳舟《ひきふね》を乗りだす者、手を振る者、声をかけ合う者たちで、港は一時に雑踏した。
異国船の場合は堺奉行をはじめ、代官、主だった会合衆、役人たちが船に乗りこみ、乗員調べ、積荷調べが行われた。そういうとき少年たちの眼にもひときわ目立ったのは、美々しい粧《よそお》いをした通辞たちの姿であった。彼らは多く南蛮風の長い黒いマントを羽織り、軽袗《カルサン》をはき、金糸の縫いとりのある上着を着ていた。明《みん》船の場合は僧栄達がよく通辞の役として呼ばれた。そんなとき、与志や小曾根乙兵衛は師の晴れ姿を感嘆にみちた気持で眺めた。栄達が唐通辞であるなどとは少年たちは知らなかったからである。
当時、こうした異国船や遠く異国へ航行する朱印船が運んできたものは、生糸、織物、香水、染料、鹿皮、鮫皮《さめかわ》、緞子《どんす》、黒砂糖、蜜、胡椒《こしよう》、水銀などであり、それらの珍しい商品は堺の大小路町はじめ各道すじの商店の店頭に並び、倉庫をみたしていた。子供のときから、そうした風俗に慣れていたとはいえ、やはり異国船から黒いマントをひるがえし、鍔広《つばびろ》の帽子をかぶった、赤ら顔の伴天連《バテレン》や、紺地に赤や金糸で飾った制服姿の甲比丹《カピタン》たちが、高級船員、下級船員、黒人などを引きつれて、奉行所まで列をつくって歩いてゆく姿は、そのたびに彼らの好奇心をそそり、見物の人波にもまれながら、いつまでも後についていったものである。
当時はなお、長崎に外国交易が集中される以前であり、堺も賑やかで、このうえなく繁昌していた。伊丹の家でも新たに五百石船を建造させており、ようやく角倉や末吉、平野らの朱印船に対して、新たな競争ができると当主治右衛門などが顔を輝かしていたのを与志はよく憶えていた。伊丹の家が廻船問屋として仕事をはじめたのは、かなり古く、足利将軍末期である。少年の頃、与志は、伊丹家の古い暗い土蔵のあいだを歩きまわり、立てかけてある舟虫に喰われた、重い、湿った船板や、軒から軒へ渡してある太綱を見ると、北の岬で風と戦ったり、南の瀬戸で波を乗りきろうとしている大船の帆のうなり、船体のきしみを耳で聞くような気がした。
堺の町では伊丹家は今井家、津田家と並んで、早くから頭角をあらわした一族である。しかしたとえば今井宗久が、足利|義昭《よしあき》を奉じて京都に入った織田信長にいち早く名器松島の壺と紹鴎《じようおう》の茄子《なす》を献上して機嫌をとり結んだり、大小路町の天王寺屋《てんのうじや》津田|宗及《そうきゆう》のように、はじめは三好《みよし》三人衆につき、石山本願寺と結び、それから後、信長の勢力が強くなるにつれて、手のひらを返すように信長に接近したりするようには、時の権力とは関係をもたなかった。ある意味では、堺の自治をとりしきる会合衆や納屋衆《なやしゆう》たちの意見を代表していたと見てもよく、その点では、堺をむしろ利用し、堺の経済力と輸送能力、海運力を背景に勢力を伸ばした小西隆佐、行長親子に対しては、はっきり敵対関係に入っていたといっていい。といって、木屋や伊予屋が関ヶ原の役に徳川方に味方し、多大の権益をその後与えられるようになったのに対し、伊丹家はこの時も、権力には無関係であった。こうしたそれぞれ微妙な立場の相違が、たとえば小西家の断絶、今井、津田家の没落、木屋、伊予屋の興隆、そして伊丹家の着実な発展という形となって現われたのである。
もともと堺は足利時代の対明交易港として栄え、後、戦国時代に入っては、上田与兵衛のような大小の武器商人が栄えた。とくに種ヶ島から鉄砲の製法を学んだ橘屋又三郎、また芝辻清右衛門の手によって堺は一躍鉄砲製造の中心地の一つになっていた。この鉄砲が逆に、後に堺の町の自治独立をおびやかして信長、秀吉に屈伏しなければならぬ原因になったのだが、町の本来の経済力は、つねに港を中心とした輸送力だった。この意味では廻船問屋として主として裏日本の米、伊勢、尾張、信濃《しなの》の木材を運んでいた伊丹家などは、もっとも堅実な典型的な堺の商人だった。
だが、それだけに、関ヶ原の後、徳川幕府による国家統一が完成しはじめると、すでにこうした堅実な商法に先んじて、大きな権益を手に入れ、それを事ごとに拡大している菱屋《ひしや》宗意、堺屋利左衛門、平野藤次郎、木屋弥三右衛門、伊予屋喜三郎などと伊丹家の間に、覆いようのない対立関係が一段と明瞭になっていったのも当然であった。
伊丹の当主治右衛門は、こうした状況をむしろ|ほぞ《ヽヽ》を噛む思いで見ていたといっていい。彼にしてみれば、すでに家康からの特別保護を受けている大商人たちが、一種の幕府の資金源であり、資金調達網を形づくっていたのをいやでも知らされていたからである。
もっとも徳川幕府にとっては、天下分け目の大戦争にようやく勝利を占め、その翌々年の慶長《けいちよう》八年(一六〇三年)に将軍になって幕府を開いたものの、戦後経営の財源は偏《ひとえ》にこれら商人団に仰がなければならなかった。商人団の経済力が伸びれば伸びるほど、幕府の財政は豊かになり、また幕府の権力の保護があればあるほど、この商人団の経済力は伸びてゆく。もちろん幕府は各地の金山、銀山をはじめ各種の鉱山の開発をはじめたし、およそ権益のともなう仕事はすべて幕府が直轄した。たとえば佐渡金山の直轄であり、また長崎交易の直轄である。
しかし幕府が開かれた当時、幕府自体の財政力はまだ不安定であり、貧弱であった。たとえばそのころポルトガル船船長から輸入生糸がまったく売れず困却し、その一括購入を嘆願する書面が幕府につたえられた。その時幕府にかわってこの生糸買附けを引きうけたのが前記商人団であったが彼らはその代償として多くの特権を与えられた。その一つが生糸買占めの権利であり、また、新たな渡航船への朱印状の交附である。京都では角倉、堺屋、平野が、堺では伊予屋と木屋がこの朱印状を受けた。治右衛門がこうした事情を、手をこまねいて黙ってみているはずはなく、彼は京都所司代板倉勝重に働きかけ、老中|土井利勝《どいとしかつ》の紹介によって、後になって、ようやく朱印状を手に入れたのである。
もちろん当時このような詳細な事情が十分見通されていたわけではない。人々にわかっていたのは、伊丹の店の者が伊予屋の連中と町で出会うと、互いに激しく敵意を燃やしたということだけだった。伊丹の若衆が伊予屋の誰それになぐりかかったとか、伊予屋の若党が伊丹の船から船道具を盗んだとか、そういった噂は、そのころ、実に頻繁《ひんぱん》に聞かれたものである。そしてそんな喧嘩になると、神経質な弥七郎までが若衆たちの口真似をして「伊予屋の奴らの根性は腐っているわ。徳川様を笠に着て、あちらへよろけるぞ、こちらによろけるぞ」などと囃していた。弥七郎がそのころからしきりと剣術と水練に精を出したのも、このことと無関係ではない。彼は店の若衆が、伊予屋に抱えられた牢人者に、こっぴどく叩きのめされるのを何度か見ていた。もともと堺では、自警のために、牢人たちをやとって、万一に備えるのを建前《たてまえ》としていたが、そのため町の一|区劃《くかく》は彼らに占められ、番所、木戸口、港口に詰めていた。もちろん彼らのなかには片手間に商売をはじめたり、まったく商取引に転向した者も出てきたが、多くは町の北の端《はず》れにある鉄砲遠打場で射撃の腕をみがき、奉行所裏の道場で剣術にはげんでいた。関ヶ原以後、彼らは多く家ごとに雇われ、用心棒となっていたが、伊丹の若衆が叩きのめされたのも、伊予屋が雇った牢人たちの手によってである。
弥七郎がこうして武芸に励んだことは、彼自身の性格を鍛えるうえで効果はあったように思われる。少なくともあの神経質な、いらだち易い性格は、ようやく青年期へ入ろうとする彼のなかから拭われていった。しかし同時に今までに見られない性格が現われてきたのも事実だった。それは一種の冷笑的な、ひとをからかうような態度であった。彼の顔は伊丹家の面長な形をうけついだが、その端正な目鼻立ちに皮肉な、どこか幾分残忍な感じが宿っていた。しかし弥七郎のこうした成長も、上田与志との関係を一向に変えることはなかった。むろん昔のような子供じみた反撥や憎しみは示さなかったが、それだけにむしろ憎悪は見えないところで燃えているようであった。弥七郎はかつて執拗に与志をいじめたように、いまは与志を下人《げにん》か非人《ひにん》でも眺めるように眺めた。時おり与志をみる眼にちらりと皮肉な光が走り、唇の端に笑いの影のようなものが動いた。与志のほうも弥七郎をほとんど気にかけていないようであった。暗い、無表情な顔は子供のころとほとんど変らなかった。変ったことといえば、彼が以前にまして学問に打ちこんだということである。
おそらくこうした感情の反撥には何の根拠もないものかもしれない。たとえば子供の弥七郎が養い子として連れてこられた与志に、母親を奪われはしまいか、というような恐怖、あるいは嫉妬を感じたのが原因であるのかもしれない。しかしこうした見えない傷が、肉体の傷痕《きずあと》がのちに大きくなるように、いつかひろがる場合もある。弥七郎が後年まで牢人者がどうしても好きになれず、船頭選びにも牢人崩れときいただけで、すぐにも断わってしまい、そのために出船を一月も延ばさなければならぬこともあったというのは、子供の頃の伊予屋との喧嘩の記憶のためであろう。また彼が最後まで徳川幕府の特権商人団、伊予屋をはじめ京都の堺屋、菱屋、平野、木屋たちを憎悪しつづけたのも、大人になってからの競争意識の結果というより、なんら正当な根拠や理由のある嫌悪感ではなく、ただ子供のころ、伊予屋の若衆が彼を襲ったことがあり、その後、たえず伊予屋と町や港や倉庫でいざこざがあったという、それだけのためである。
たしかに一見不条理に見えようと、人間の運命などというものは、こうした些細な事柄によって左右される場合が少なくない。弥七郎もそうだったが、上田与志の場合もまったく同様だったといえる。与志はすでに学問好きの、沈着な感じのする若者へと成長していて、外面的にはもはや暗い顔をした子供を思いおこさせるものはなかったが、それでもかつての執念深さ、陰気さ、かたくなさは、幼年時代に、無意識に彼の心に忍びこんだ本能的な嫌悪の対象にふれる場合、突然、彼の中から暗い怒りの発作をよびおこした。
たとえばある日小曾根乙兵衛が大安寺からの帰り、例の突堤の先の遥明台のそばで将来何になるかという話をしているとき、突然、上田与志が真っ青になって、にぎりしめた拳《こぶし》をふるわせてこう叫んだことがある。
「おれはどんなことがあっても、弥七郎と反対のことをやるのだ。おれは弥七郎がにくくて、にくくてならないのだ。おれはいまでも子供のとき、いじめぬかれたことを忘れやしない。弥七郎はいまではそんなことをすっかり忘れて、思いだしもしないが、おれにとっては、一生涯、消えない心の傷となったのだ。母上は実の母のようにおれに心を掛けてくださる。弥七郎があの方の子供だなどと、おれはどうしても信じることができない。弥七郎があの方の子供であることが、おれには、この世でいちばん悲しいことであるかもしれない。おれはどんなことでもいい、弥七郎の反対のことであれば、それでいい、そのことをやるつもりだ。弥七郎は剣術と水練にこっている。だからおれはどんなことがあっても剣術も水練もやらない。弥七郎は書物をひらくことを絶対にしない。だからおれは書物に読みふけるし、また、新しい通辞から異国語を習いはじめたのだ。おれは、以前、ここに来ると、遠い異国のことが眼に浮んだものだ。港にくる南蛮人や、黒人や、唐人たちが暮している塔のある町、象のいる町、運河の流れている町を心に思いえがいたものだ。そしていつかおれも伊丹の叔父のように、銅銭を積み、陶器や樽や小箱を持って、はるばる水の平らな、葉の重い木の茂る異国の港に行こうと思っていたのだ。女人の肌より柔らかいという唐の白絹や、日の光に七色に輝くという柬埔寨《カンボジヤ》の布地や、しなやかな天竺《てんじく》の鹿の皮を船いっぱいに積んでこの港に帰ってこようと思いつづけていたのだ。しかしいまはそれを弥七郎が思いつき、弥七郎がそれをやろうとしている。だからおれはそのことを投げだしたのだ。おれは弥七郎がやる以上、どんなことがあっても、やることはできない。だからおれは自分の夢をすてたのだ。惜し気もなく破りすてたのだ。おれは別のことを夢みればよかった。弥七郎と反対のことであれば、弥七郎に関係のないことならば、なんでもよかった。弥七郎は伊予屋を嫌っている。伊予屋ばかりではなく、伊予屋同様に徳川様の御庇護を受けている御用商人のかたがたを嫌っている。だからおれは伊予屋が好きになり、京都の菱屋や堺屋や平野のために尽そうと思うのだ。おれが異国語をやっているのもそのためだ。いつかおれは異国のどこかで、あるいはこの港で、弥七郎に思いきり、仇が打てると思っている。弥七郎に思いきり、おれが犬のように匐《は》いつくばい、馬や牛のように打ちのめされ、泥水を飲まされ、雪のなかに突き倒され、一日食事もなしに土蔵のなかに閉じこめられたのが、どういう思いだったか、思い知らせてやる。おれはどんなことがあろうとも、これだけはやってみせる。これだけがおれの生き甲斐だ。ただこれだけがおれに励め、励め、と言いつづけるのだ」
上田与志は、青ざめた顔で、身体をふるわせていた。激しい感情が過ぎさると、その顔には平静さが戻ってきた。微笑のようなものさえそこには見られた。しかし与志の眼の光のなかには、そうした表情の変化とはかかわりなく冷たい、疑うような、暗いものが漂っていた。その暗さが、小曾根乙兵衛にはいつまでも忘れられなかったのである。
2 火の巻
上田与志が堺を出て江戸にむかった正確な年月はわかっていない。わかっているのは、彼が長崎に通辞として着任する前に、江戸の松浦隆信《まつうらたかのぶ》の屋敷にいたことだけである。松浦氏の支配する平戸《ひらど》は、すでに古くからポルトガルとの交易で栄え、堺の商人たちも平戸まで船をつらねてポルトガル交易に参加している。上田与志が松浦氏に仕官した経緯には、当然、平戸と堺との関係が考えられる。彼が江戸屋敷に詰めたのは、おそらく当時オランダ、イギリス両商館がポルトガルとの交易利権をめぐって、たえず幕府の高官すじと交渉をくりかえしていたため、その仲介にたつ松浦隆信にとって、江戸詰めの通辞を何人か必要としたからであろう。
しかし上田与志が江戸屋敷を希望したのは明らかに幕府直属の役職を得る機会が江戸では多かったからである。さらに江戸での生活が彼にとって幸いしたのは、堺では十分に習得できなかったオランダ語を、江戸屋敷にいるあいだに、通辞の貞方《さだかた》利右衛門について習得したことだった。彼は日本橋の貞方の屋敷まで芝から歩いて毎日のように通った。オランダ人が松浦の屋敷に滞在するときは、他の同僚にかわって、異国人たちの身辺の世話から警固、走り使いまで引きうけ、オランダ語を話す機会を瞬時もうしなうまいとした。オランダ人たちも江戸屋敷で小まめに働く語学に秀でたこの青年を見て、許されるかぎりの好意を示した。
上田与志が松浦氏から老中井上|正就《まさなり》のもとに、推挙という形で出仕するようになったのは、直接には、オランダ、イギリス両商館から提出された書簡を、貞方通辞が不在のため、彼がかわって翻訳し、長文だったにもかかわらず、一夜でそれを仕上げたからである。
当時、通辞仲間はまだ職業が分化固定せず、後に見られるように、世襲されるということもなく、またポルトガル交易からオランダ交易への推移期であって、上田与志のように両国語を解するという能力が稀少《きしよう》価値をもち、またそれなりに重要視されていたのであった。
こうして上田与志が長崎奉行通辞に転じ、長崎へ派遣されたのは元和《げんな》九年(一六二三年)で、有名な長崎の大殉教の翌年のことである。彼は途中堺に寄って伊丹の家に顔をだそうと考えたが、堺に近づいてくると、急に理由もなく堺に立ちよろうとしていた自分が腹立たしく感じられた。彼にとって堺はもう遠い、ほとんど縁もゆかりもない町のように見えたのである。
上田与志が長崎に着いたのは、その年の秋で、平戸から海路をとり、途中までの数日は平穏な船旅をした。しかし長崎を目前にして、突然天候が悪化し、船は沖の伊王島《いおうじま》に退避しなければならなかった。
はげしい風が天草灘《あまくさなだ》を渡って吹きつけ、暗い海面には波が白く砕けていた。時おり季節はずれの稲妻がひらめき、紫の光が島や入江や暗い外海を一瞬不気味に照らしだし、雷鳴が島々にとどろいた。船頭や乗客の何人かは、前年に虐殺されたキリシタン宗徒五十五人の祟《たた》りに違いないと蒼ざめた顔を見合せていた。上田与志はむろんそんなことは信じなかったが、長崎を目前にして襲ってきたこの嵐の情景は、いつまでも彼に忘れられぬ記憶として残った。
長崎で彼を迎え、一切の面倒をみてくれたのは、かつて堺の大安寺でともに漢文を学び、ポルトガル語を学んだ小曾根乙兵衛である。彼は与志より四歳年長の温厚な人物で、長崎奉行所には、五年前に着任していた。
「別に江戸と変って、むずかしいことはないが」と小曾根は奉行所までの道々、与志に問われるままに長崎での仕事を説明した。「ここでは、直接、船にも出かけなければならず、積荷の検査、申告書の検討、密航人の調査、とくに伴天連《バテレン》の密航の調査などが、厄介といえば厄介だ。しかしキリシタン禁教は私たちの仕事ではないしな。それには、私は触らんことにしている」
与志は船中で目撃した人々の狼狽《ろうばい》ぶりや恐怖を話した。
「そりゃ、彼らが怯《おび》えるのは当然だ。去年の刑はこの長崎の西坂で行われたのだが、火あぶりでな、大勢の老若男女が殺されたのだ。おぬしも江戸でキリシタンの責め殺しは見て知っているだろう」
「いや、じかに見たりはせぬ。話では聞いているが」
「ここでは、そんな悠長なことは許されぬよ。江戸ほど広くないしな、私たちは通辞の仕事をすればいいわけだが、しかし長崎にいては、いやでも、彼らを見ぬわけにはゆかぬな。火あぶりになる若い女とか、穴のなかに吊《つる》される男とか、耳をそがれる老人とか……」
「だが、おぬしのような気弱なことでは、そうした極刑が行われなくなってしまうではないか」
上田与志は年上の幼な友達を揶揄《やゆ》するように眺めた。しかし小曾根のほうは真剣な表情でこたえた。
「いや、私は、あのような極刑には賛成できないな。おぬしはどう考えるか知らんが、いちど生身の人間が焼かれるあのたまらぬ臭いをかいでみろ。炎のなかで身もだえする彼らの姿をみてみろ。いずれ、いやでも奉行所で見なければならんが、火責め、水責め、逆さ吊り、簀巻《すま》き責め、その揚句に串刺《くしざ》し、鋸挽《のこぎりび》き、耳鼻そぎ、そして釘《くぎ》の出た板のうえに寝かせ、じりじり殺してゆくのだ。しかも彼らはその苦痛をよろこんで引きうけるのだ。この前の火刑のときだったが、ある若い女は炎が身に迫って、自分を結びつけていた縄が焼き切れると、その自由になった両手で、足もとの火をつかみ、頭にふりかけて、天を仰ぎながら、御許《みもと》に参ります、と叫ぶ始末だ。私はな、キリシタン宗徒がなぜあのように意固地になるのか、それがわからぬ。私が御禁教の趣を理解せぬ、などと考えてもらっては困る。私には、ただ御禁圧だけでは宗門追い払いは到底不可能ではないかと思えるのだ。おぬしもそう思わぬか。いや、私はただ……どうもこの血の臭い、火刑の黒い煙、刑場に立つ磔柱《はりつけばしら》、地下牢のうめきが、なんともいやなのだ。本当に、こんな陰惨なものがなくなるためにも、私は、キリシタン宗徒に早く転んでもらいたいと思うのだ。お前らはそれでいいかもしれんが、私らがたまらん、そういう気持なのだ……」
小曾根乙兵衛がこうした話題にふれたのは、久々で自分の幼な馴染《なじみ》に出会ったという心のゆるみもあったろうが、それ以上に、彼の内心に、前年の大殉教の記憶が、暗くこびりついていたからであろう。他方、上田与志にとっても、長崎の印象は奇妙に陰惨な、重苦しいものとして入りこんできた。後になって、明るい南国風の空や、青々と湾入する入江や、陽をあびて暖かそうに拡がっている背後の丘や山々を見ても、最初のこの暗い翳《かげ》りは、つねに風景のどこかによどんでいるように思えた。
しかし小曾根乙兵衛の危惧《きぐ》があったにもかかわらず、上田与志の仕事はそうした陰惨な迫害とは無関係にはじめられた。というのはその年の夏、薩摩《さつま》の山川港にイスパニア船サント・アンドレ号が到着し、長崎と薩摩、長崎と江戸のあいだで何度か使者が往復し、与志も使者たちがもたらす欧文書面の翻訳に忙殺されたからである。
山川港からはサント・アンドレ号の船長が強硬な文面で、長崎奉行長谷川権六にあてて、江戸へ赴き、ながらく衰微していた国交を恢復《かいふく》し、交易を再興すべく、将軍にその旨願いでたい、と訴えていた。彼は明日にも正使以下八十人の使節を率い、イスパニア王フェリペ四世の名のもとに、黄金の食器、シナの白糸一万五千貫をたずさえて、江戸へ出かけたいと書いてよこしたのである。
上田与志がこの文面を訳して長谷川権六に差しだすと、彼は浅黒い、頬に刀傷のある、面長の顔をわずかにゆがめて、じっとその文面に眺めいった。彼が上司の長谷川をそばから見ることができたのは、このときがはじめてであった。すでに長谷川権六について小曾根から種々の奇妙な噂を聞かされていた。たとえば権六は奉行になる以前から天川《マカオ》や柬埔寨《カンボジヤ》へ渡航する大船を所有しているのだとか、先代の末次《すえつぐ》平蔵と組んで、いわゆる末次船にも莫大な投銀《なげがね》(投資)を行なっていたとか、長崎奉行となったのも、このときの利権をまもり、幕府の御法度を犯した数々の不正を隠蔽《いんぺい》するためであるとか、権六自身はキリシタンであるにもかかわらず、それを隠すため、わざと禁圧を強化してみせているのだとか、そういった類いの噂である。もちろん噂であるから、小曾根乙兵衛自身それを頭から信じていたわけではないが、しかし潮の香りの濃く流れてくる料亭の離屋《はなれ》で、差しむかいに酒をくみかわし、酔いがまわってくるようなとき、小曾根はしきりと権六のこうした噂が真実かもしれぬ、と言いはじめるのだった。
「まさか長谷川殿がキリシタンなどと、そんなことが信じられるか」
上田与志も酒のために思わず声を荒くしながら言った。
「ばか、声が高い。月之助、声が高いわ。いいか、おぬしは長谷川殿を知らぬから、そんなことが言える。だが長谷川殿を知ってみろ。おぬしだって、この噂を一概には否めまいよ。村山|等安《とうあん》殿だって、いいかね、あの頭のいい、仕事のよくできた等安殿だって、キリシタン宗徒だったのだ。太閤様から、お前のキリシタン名は何という、と訊《き》かれて、アントまたはアントニオでございますと答えたところ、太閤様は、では以後、アントではなく、トーアンにせよ、と言われて、いいかね、それを得意にして自分の名にしていたあの男がだ。長崎の代官となり、金をふやすためにはどんな冒険もやってのけ、船も出す、投銀もする、密交易までも平気でやった。そしてその金を何に使ったと思うかね。女だ。それも一人、二人の女ではない。女、女、女なのだ。そのため妻も泣く、子供も嘆く、という有様だったが、いっこうに、その狂気はなおらなかった。病気にはなる。嫉妬に狂って女を殺す。男たちを極刑にする。もうそれは到底まともな人間とは思えなかった。いいかね。この村山等安がキリシタンだったのだ。おぬしはこんな男だから、さぞかしあっさり転んだ(改宗する)と思うだろう。どうして、どうして、等安はキリシタンとして刑に服した。しかも立派にキリシタンらしく天に眼をあげて死んだというのだ。どうだね。表面から見ていて、その人間がキリシタンか、キリシタンでないか、どうしてわかるかね。だから、私は、長谷川殿がキリシタンかも知れぬという噂を、あえて否まぬのだ」
こうした噂は、だが、はたして本当であろうか――と上田与志はそう思いながら、サント・アンドレ号船長ドン・アントニオ・デ・アルセオの手紙にじっと眼を通す長谷川権六の顔をそっと眺めた。唇の端を少しゆがめている。それだけが表情の変化といえるもののすべてだった。どこか冷酷な感じがある。だが、それ以上に、押しても突いても動かぬ、鉄のような、不思議な重さがある。これは老中の井上正就にも感じた。それはその人物にもともと備わっているものか、それとも人々を統御し、責任を負わねばならぬ地位、役目が、おのずとその人間に与えるものか。それはどちらともわからないが、少なくとも長谷川権六の容易に動こうともしない、計算するような眼の色は、彼固有のものにちがいない。
「通辞」と彼は与志のほうへ眼をあげた。「黒船の船長に、長崎まで出向いて、あらためて書面の趣を、じかに口頭で願い出るように申しつたえよ。文案はそのほうにまかす。奉行所の威信を十分に異国人に伝えるようにせよ」
長谷川権六はそう言いすてると席をたった。上田与志はその日、夜を徹してポルトガル語による書簡を書きあげ、翌朝一番の早馬でそれを山川港へ送った。
この要請によってサント・アンドレ号から大使一行が長崎にやってきたのはその年のおわりである。
「卿《けい》らの目的がもしキリシタン宗門に関係するものであるなら、いかに江戸表へ出むいて金品を差しだしても、それは全く無駄なことである。日本ではキリシタン宗は絶対に許されないからである」
と権六は、頭を低くして控えている大使たちに言った。それに対して彼らはただ国交の修復と交易の再開が目的なのだ、とこたえ、ぜひ江戸へ行く便宜をかなえて欲しい、と言った。上田与志はこの会見の席にいたが、通辞は八尾修右衛門が当り、彼は予備通辞として控えていた。彼はその席で権六と大使たちが交渉しているのを聞きながら、不意に、ひょっとしたら権六がキリシタンかもしれないという気がした。もちろん何の根拠も理由もない単なる感じであったが、なぜかその感じは当っているような気がした。強いてそのときの感じを説明すれば、イスパニアの大使たちを江戸まで行かせることを、長崎奉行の権限で、拒否することもできるのに、なぜ江戸の老中と相談すると言いだしたのか、という疑問が、ふと頭をかすめたからである。しかも権六は一行に先だって、自ら江戸に出発しようというのだった。全体の動きのなかに、たしかに説明しきれない何かがあるように思えた。
だが、もしその数日後、長崎のはずれの丘の天主堂で、上田与志が長谷川権六の印籠《いんろう》を偶然手に入れるようなことがなかったなら、彼のこうした印象や疑惑は、もう少し後になってから現われたにちがいない。権六が激しい偏頭痛になやみ、奉行所でもよく|顳※[#「需+頁」]《こめかみ》を押えていたり、印籠から南蛮渡りの丸薬を取りだし、口にふくんでいたりするのを上田与志も気づいていた。その印籠は黒漆に銀の浮彫りで竜がえがかれ、細い黒の革紐《かわひも》がついており、いかにも権六のような人物が持つにふさわしい唐渡りの品であると、与志は通訳の席で間近にそれを見たとき、思ったものだった。
彼が郊外の天主堂に出かけたのは、大使たち一行のなかにフェルナンドという男がいて、その男が夜ひそかに郊外のどこかの天主堂に出かけた形跡がある、という報告がもたらされ、与志がその調査を命じられたからである。もちろん長崎に来てまだ間もなかった上田与志にとって、天主堂を一つ一つ訪ねてまわるだけでも容易な仕事ではなかったが、それをあくまで隠密のうちにやるよう厳命された。もちろん彼は命令どおり、さりげなく信徒のような様子をして、サンタ・マリア天主堂から薬院、施療院へ、さらにトードス・オス・サントス天主堂へ、そこから丘の天主堂へまわった。
そこへ着いたのは、もう夕方おそくなっていて、天主堂の建っている山の中腹からは長崎の町が蒼ざめた靄《もや》のなかに黒く沈み、夕焼けの褪せた西空を冷たく映した細長い入江がすでに暗くなった岬のあいだに辛うじて光って見えた。彼は天主堂の入口にしばらく佇《たたず》み、あたりを注意深く見まわし、それから扉を押し内部へ入った。
堂内は人の気配がなく、正面のマリア像が乏しい蝋燭の光を浴びて、ほほえみながら浮びあがっていた。当時はまだ大殉教が行われたにもかかわらず、長崎周辺の天主堂のなかには破壊をまぬかれ、十字架もマリア像も堂内に安置されている場合があったのである。与志はその乏しい光を浴びた像が、光のせいで、妙になまなましく、生きた女のひとのように見え、一瞬、声をあげそうになった。マリア像は木彫で、彩色がしてあり、眼は青く、頬と唇は赤く、衣裳は金と紫に塗りわけられていた。そして蝋燭の火がゆらぐたびに、顔のかげがゆらゆら動き、頬のあたりの微笑が深くなったり淡くなったりし、唇がぬれたように赤く光った。上田与志はその女人像が伊丹の母に似ているように思った。静かで、穏やかで、ゆっくり話をする伊丹の母は、こんなふうに微笑したような気がする……。そのとき彼はなんとなく堺で伊丹の家に寄らずに来たことを後悔した。というより、伊丹の母のことを、他のいやな思い出のために、あのとき、なつかしく感じまいと強いて粧っていた自分に対して、一種の哀れさを感じたのである。
上田与志が会堂の奥に進み、マリア像の真下まで歩いていったのは、こうした後悔がましい気持が彼のなかに動いていたからだ。彼はせめて伊丹の母のかわりに、その女人像に何か話しかけたいような気がした。もちろんマリア像がキリシタンにとってどのようなものであるか、与志としても知らないはずがない。しかしそのときの彼には、その女人像はキリシタンとは何の関係もなかった。ただ伊丹の母の似姿として、ほの暗い光のなかに立っていたのである。
与志はしばらく会堂の最前列の椅子に腰をおろし、祭壇のうえをじっと仰いでいた。彼はその日は一日会堂から会堂へと歩きまわり、出入りする人々をそれとなく観察し、話しうるほどの人とはできる限り話をしていたのだった。そして、いまこの誰も見当らぬ会堂へ来て腰をおろすと、疲れが急に全身にひろがり、手足が妙に重たく、だるくなっていった。
そうして彼がぼんやり女人像を眺めていると、祭壇の下に、何か白く光るものがあるのに気がついた。はじめは玻璃《ギヤマン》の破片か何かと思っていた。やがてそれが破片などではなく、金属の彫刻であることがわかった。彼は、それがキリシタン宗徒の身につける十字架か、それに類する小像ぐらいに思って、祭壇のほうへ身をのばし、それを手にとった。
それが銀の竜の印籠だったのである。
もちろん最初は上田与志もそれが長谷川権六の印籠であるなどとは思ってもみなかった。それどころか、全く別個の印籠だと考え、それを手掛りに何か新しい事実にぶつかるかも知れぬ、と思ったほどだった。しかしそれを暗い蝋燭の光のそばで仔細《しさい》に調べてゆくと、その銀の竜のひげが、一本欠けているのに気がついた。それはらんらんと眼を輝かした竜が、雲を呼んで天へ駆けのぼろうとする姿であろう。口をひらき、身をよじって、印籠の表面をいっぱいにのた打っている。ところがその竜のひげが、なぜか三本あって、ながく、風にしなう鞭のように、そりかえっていた。このうちの一本が、鋭い鑿《のみ》で削りとられ、そのあとが小さく毛すじほどに、黒漆の表面に、跡となって残っている。与志は長谷川権六がたまたま代官の末次平蔵と談笑しているところに居合せたが、そのとき権六がこう言うのを聞いていた。
「この印籠には三本ひげの竜が彫られているが、私はなぜかそれが気になるので、いつか削り落させるつもりですよ。なんで六本指の孫の手とか、片耳の壺とかを唐人は好んでつくるのだろう。私は自然に合わぬものが、どういう訳か、不安でならない。この竜も、よくできた作品だから、とても棄てる気にはならないが、しかし三本ひげは、どうも縁起がよくないように感じる。私はひげを一本削り落させますよ」
もちろん与志は、実際にひげを削り落すのを見たわけではない。しかしこの符合は別人のものとすれば、あまり合いすぎる。どう見ても長谷川権六の印籠と考えないわけにはゆかない。だが長谷川殿がここへ自ら来るということがあるだろうか。それとも印籠を誰か別人に与えたのか。いや、そんなことは考えられぬ。あの偏頭痛は昨日や今日のことではない。とすれば印籠は片時も身体から離せぬものであるはずだ。では、長谷川権六は何かの必要があってここに来ていたのか。それはどういう必要だろうか。こんどの大使一行の江戸ゆきと何か関係があるのだろうか。それに、この印籠をどう処分すべきだろう。すてるべきか。届け出るべきか。それともそっと長谷川殿に手渡すべきか。万一、これが、あってはならぬ場所にあったとでもいうことになれば、これを拾ったことが、自分にとっても生命とりにならぬともかぎらぬ。
「おれのやるべきことは」と上田与志は黒い印籠を見つめてつぶやいた。「まず長谷川殿の印籠の有無を確かめることだ。もし長谷川殿のものとなれば、長谷川殿が自分でなくしたと思うような場所に、そっと置いておくほかない。この会堂と長谷川殿の関係は、いまのおれなどには到底理解できるものではない。これは小曾根にも打ちあけていいかどうか、疑問だ。だが、どうもこの関係には何かがある――これは事実だ。それを明らかにしなければならぬ。でなければ、おれは長崎に来ても、何一つ仕事らしい仕事をしないことになる。小曾根はキリシタン禁圧に関する仕事には手を出すな、と忠告した。だが、それが実際おれの昇進に関係があるなら、それにも手をつけなければならぬ。それにしても一体、何がこの長崎で起っているのだろう。ただキリシタンの禁圧だけだろうか。それとも、もっと大きな何かなのだろうか」
そこまで考えてきたとき、上田与志は背後に物音を聞いたように思った。彼は手にした印籠をすばやく隠しながら、ふりかえった。そして思わず口のなかで小さく声をあげた。
その蝋燭の光が辛うじて照らしだしている薄暗い闇のなかから、彼がいままで仰いでいた女人像が、白く、ひらりと、現われてきたように感じたからである。しかし次の瞬間、その人物のほうも上田与志を認めると、軽く声をあげ、あっという間もなく、身をひるがえし、闇のなかへ姿を消した。そのとき、はずみで倒した床几《しようぎ》の一つが、与志の足もとに転がらなかったら、その人物の出現も彼には疲労のための幻とも、うたた寝の瞬間の夢の姿とも思ったにちがいない。
その人物が若い女であったことは間違いなかった。しかし上田与志はその一瞬に現われて消えた女性ほど美しいひとをそれまで見たことがなかった。それは彼がたとえ瞬間であったにせよ、マリア像がそこに動きだしたかと錯覚したことからも理解できる。その若い女性には、不思議と静かな、穏やかな感じがあり、同時に、澄んだ冷たい感じがあった。そしてその端正な顔が白く一瞬に浮びあがり、一瞬に消えるあいだに、上田与志はそれだけの印象をつかみとるだけの、かなりはっきりした意識と視野をもっていた。
彼が彼女を追うようにして会堂を出ると、外はすでにすっかり夜になっていて、若い女がどちらへ駆け去ったか、見当をつけることさえ難かしかった。彼は印籠を懐ろに入れると、長崎の町へ向う道をとった。星明りを頼って、ゆっくり歩いてゆくよりほかなかった。夜になるなどとは思ってもみなかったので、灯の用意などは全くしていなかったのだ。だが、彼がその夜|提灯《ちようちん》の用意をしなかったことを悔ませる事件がその直後にもう一つ起ったのである。
それは彼が山を下りかけて小半時もたたぬころのことで、どこか道の近くを、何人か(あるいは十何人か)の男たちが息をひそめ、ゆっくり何か重いものを運ぶといった気配で通ってゆくのを感じたのである。
彼はそのとき不用意に声をかけると、その何人か(あるいは十何人か)の人影は急に動きをやめ、息をひそめて、近くの闇の底にじっと身を隠しているようだった。
上田与志は身体を地面に匐うように横たえ、星空の明りにすかして、何者が何を企んでいるのか、その黒い影なりと見出そうと努めたが、ついにその気配さえつかむことができなかった。彼は音をしのばせ、その辺りを丹念に探索したが、そのときはすでに一群の人々は音もなく姿を消したあとらしかった。おそらく野盗の群れでも通りすぎたに違いないと思いはしたものの、そこに漂っていた気配は、やはりただごとではなかった。この切迫した感じがあったために、上田与志は、印籠のこととともに、この一群の男たちのことも小曾根乙兵衛にも上司にも告げなかった。彼は彼なりに、それを自分で解明してみたいという気持を感じていた。与志の本心では、ひょっとしたら自分が重大な失態を犯したのかもしれぬという秘かなおそれがあったのだった。もしそうなら、それを今後取戻したいと思っていたのである。
与志が山を下り、町に近づいたころ、黒々と夜空につづく丘陵を振りかえると、闇に慣れた彼の眼に、峰と峰を結ぶように、小さな火が明滅するのが見えた。それは暗い海上に浮ぶ不知火《しらぬい》のように、ゆらゆらと燃えて、瞬時にして消え、また燃えて、もう一度消えた。それが不知火などでないことは与志にはよくわかったが、ようやく吹きはじめた冬の海からの風に枝をざわめかせる木々のなかで、その火はやはりあの不思議な美しい女とも、黒い見知らぬ人影とも結びついて、いつまでも、ちらちらと魂の燃える色のように感じられた。
3 糸の巻
サント・アンドレ号の処置について、老中の決裁を仰ぐために、長崎奉行長谷川権六が江戸にむけて出発したのは、上田与志が峰から峰へ渡る不思議な火を見たあの夜から数日後のことであった。たしかに奉行自身が長途の旅へ出立するにしては、それは、いささかあわただしすぎる印象を与えないではなかった。配下の与力、供廻りを引きつれて、風の強い日の早朝、長谷川権六が奉行所を出てゆくのを見送った上田与志は、そのあわただしさのなかに、どこか、先日来の謎めいた一連の出来事が尾をひいているような気がした。
長谷川権六がいなければ、与志は黒い印籠の所有をたしかめることもできないし、長谷川のまわりに集まる人物を観察する機会もなかった。与志は長谷川の突然の出発で、急にがらんとした奉行所の通辞溜《つうじだま》りで幾つかの場合をあれこれと空想した。ともかく差しあたっては、丘の天主堂へ何度か出かけて注意深く調査をつづけるほかなかった。少なくとも先日の事件の手がかりだけでも至急につかんでおく必要があるように思った。上田与志はフェルナンド探索を表面上の理由にして、その翌日、早速、町方調査の許可を得たのである。
与志はその日は前日の失態にこりて、燈火と短筒を用意した。短筒は堺にいたころ、小曾根と腕を競いあったこともあり、その技量には多少の自信はあったのである。しかし彼はそれを護身のためというより、威嚇のために使用する機会があるかもしれぬと考えたのだ。
途中、与志は慎重に道のたたずまいに注意をくばった。とくに、彼が先夜、何人か(あるいは十何人か)の男たちとすれちがったと思われる辺りでは、道からはずれて丘の斜面まで踏みこんで念入りに調べてみた。岩の露出した道には、足跡らしいものは見いだせなかったが、枯れ草のおおう斜面には、何人か(あるいは十何人か)の男が踏みつけたと思われる入りみだれた足形《あしがた》が、柔らかな土に、はっきり残っていた。
「これだ」与志は思わず声をだして、その場に、しゃがみこんだ。
その足形は、あきらかに、道を避けて、わざわざその斜面をえらんで、通っていったことを示していた。それは、与志の足音を聞きつけて、道から身を隠したのであるかもしれないし、また、もともと本道をさけてそこを歩いていたのかもしれない。というのは足跡はそこからなおしばらく丘の斜面にそって、のぼっていたからである。
その足形について上田与志に気がついたことがもう一つあった。それは、彼がその足跡を追って、丘の斜面を歩いていても、そこに残された足形ほどは、はっきりした足跡が刻印されないということだった。彼もはじめはそれに気がつかなかった。新しい自分の足跡が薄くしか残らないのを見ても、別に不審の念はおきなかった。しかしよく考えてみると、新しい足跡のほうが、よりはっきり刻印され、前の足形は雨や風で次第に薄くなるのが普通である。そのことに気がついたとき、上田与志はまた、声をあげずにはいられなかった。
「そうか。そうだったのか」
彼はそれからその辺を歩きまわり、自分の足跡と、残された足形とをくらべた。「そうだ。これはよほど重い人間たちか、そうでなければ、よほど重い荷物を運んでいったものにちがいない。あのとき、たしかに何かを運んでいる気配がした。それがあの天主堂と何か関係があるのだろうか」
しかし足跡は間もなく消えて、それなり、本道のほうにも、林の奥にも、見つけることはできなかった。上田与志は消えた足跡を追って、その後、何日かのあいだ、昼から夜にかけて、山の斜面の林をあちらこちら探索したが、その結果は、いずれもむなしかった。彼は時には、冬の日がかげって、寒々としたかげの落ちている谷間の底まで、足跡を追って、おりていってみたのである。
谷間には、小さな沼があったり、林の奥に朽ちかけた炭焼小屋があったりした。しかしそんなとき、どこにも人の気配はなく、ただ遠く峰々の頂のほうで天草灘《あまくさなだ》から吹きつける西風がごうごうと音をたてているのが聞えるだけだった。
その後、何日かにわたる与志のこうした調査は例の足跡の発見以外には、これといって目ぼしい結果が得られなかった。サント・アンドレ号から長崎へ潜入したと噂されたフェルナンドの行方についても、その真偽さえ、明らかにすることができなかった。
イスパニア大使の一行が長崎をたち、平戸にむかったのは、長谷川権六の出発よりわずか数旬おくれた二月終りのことである。おくれた大半の理由は八十名の使節団のための旅行準備がととのわなかったためであった。彼らは平戸から五隻の船に分乗して、海路兵庫にむけて出発したが、この大がかりな旅行準備には、小曾根乙兵衛も上田与志もともどもかりだされた。
八十名のための馬や輿《こし》の徴集や、贈物を満載した華麗な三頭立ての馬車の整備や、宿場ごとの食事、休息、宿泊の手配、平戸での大船の準備など、すべての面の折衝に、通辞の働きが必要だったのである。
しかしこの多忙な仕事が一段落する間もなく、それに追い討ちをかけるようにして、長崎奉行所を動転させるような報《しら》せが、時津《ときつ》から浦上《うらかみ》街道を駆けぬけてきた早馬によって、もたらされた。奉行長谷川権六が旅の途中、京都で突然病気で倒れたというのだった。奉行所からは、ただちに青野左兵衛ほか四名が京都へむけて出発した。京都からは、また、江戸にむけて、急使がたっていった。
江戸からの刻々の情報では、老中の意見はまだ一致をみないということだった。老中の意見がまとまらなかったのは、サント・アンドレ号が幕府直轄の長崎に現われず、薩摩の山川港に寄港したという事実があったからである。幕府の方針としては、西国大名から海外交易の利権を徐々に剥奪《はくだつ》して、彼らが富強になるのを防ぐという原則は確認されていたものの、そうした政策は、あくまで慎重に、別個の口実のもとに隠されて、すすめられる必要があったのである。
長崎奉行所では青野らが京都にむかった後、冬から早春にかけて、何かと落ちつかない日々がつづいた。たえず江戸から報告がもたらされる一方、京都の長谷川権六からも、入れ違いに別の報告が入ったり、命令が届けられたりした。
しかし春になると、それでも与志は仕事に幾らか余暇を見つけることができるようになった。彼の気持では、長谷川権六が長崎に帰ってくる前に、多少とも、黒い印籠をめぐる背後の事情をつかんでおきたいと思った。与志がイスパニア大使の件が一段落した早春の午後、よく奉行所をぬけだして、かつて鬼火のような火の明滅を見た山々に足を運んだのは、いくらかそうした性急な気持が働いていたからである。
そんなある曇った風の強い一日、与志は探索の方向をかえて、金比羅《こんぴら》山の裏の峰々を歩いてみた。林のなかはすでに枝ごとに灰緑色の芽が小さくふくらんでいて、山の斜面全体が淡い、やわらかな色調でおおわれ、冬の名残りの風のなかで、枝々は小刻みにゆれていた。しかし谷間では沼がまだ冷たく光り、林のなかの道は日にかげって寒々と沈んでいた。
与志がそうした谷間の一つで、いつか見た足形と同じ何人か(あるいは十何人か)の入りみだれた足跡を発見したのは、そろそろ峰と峰のあいだにせばまった空が光をうしない、曇ったまま、白く夕方にむかおうとするころであった。
彼は胸の鼓動が高まってくるのを感じた。気がついてみると、彼は懐ろに入れた短筒を右手でかたく握りしめていた。彼はそんな自分に苦笑し、それから、注意深く、足跡を調べてみた。足跡は湿った、やわらかい地面に前と同じように深くめりこんでいた。それが幾つも重なって、谷の奥へつづいている。道といっても、ほとんど炭焼きが通る小道にすぎない。そこを何人か(あるいは十何人か)の足跡は入りみだれて通っているのだった。
与志はその足跡をたどっていった。それは谷から別れ、林にとりつき、そこから支脈の稜線にむかってのぼっていた。与志がその林に足をふみこむと、不意に、そばから、鳥が大きな羽音をたてて飛びたった。
稜線に出たところで、足形の痕跡《こんせき》は消えていたが、林の下ばえが踏みしだかれて、人が何度か往来したあとを示していた。林は低いもう一つの谷間にむかって下り、それが尽きたあたりに広い草地が拡がっていた。その草地に、与志は一軒の廃屋を見たのである。
それは遠くで見ていたときに感じたよりは、ずっと大きな、古い建物で、住居というより船着き場に見られる倉庫に似ていた。窓は板戸で打ちつけられ、戸口には錆《さ》びた錠がおりていた。与志は建物に近づくと、その周囲を調べたが、手がかりになるものは見つからなかった。
与志は一度は諦めて、そのまま二、三歩、あるきだしたが、ふと思いかえして、刀の柄《つか》で、打ちつけた板をはがしてみた。なかは空屋のようにがらんとしていて、湿った、かびくさい臭いが、その隙間から、つめたく流れてきた。与志は板を三枚ほどこじあけると、そこから燈火を差しこんだ。オランダ風の龕燈《がんどう》になった照明燈の光が、暗闇になれた与志の眼に、黒々とした幾十とない箱のようなもの、梱包《こんぽう》された積荷のようなものを照らしだした。与志が自分の眼を疑ったのも無理はない。それがポルトガル船の船荷であることは、彼のような新参の通辞の眼にも、あきらかだったからである。
すでに与志のいる谷間は夕暮れていて、草地も古い建物も黒いかげのなかにあり、空だけが白く水のように暮れのこっていた。与志のそのときの判断では、船荷の内容が何であれ、これが抜け荷(密輸品)の一部であることには間違いはない、したがって、荷物をあらためるより、明るさの残っているあいだに、この倉庫の位置を確認しておくほうが先決だと思ったのである。
与志は板をもと通りに打ちつけると、あたりに注意を払いながら、建物から離れた。そして林に入ると、二間おきに木の小枝を脇差で切り、白く切り口を残しながら、斜面をのぼっていった。稜線から谷間をふりかえると、すでに倉庫のあたりは夕闇のなかに暗く沈み、彼がおりてゆこうとする谷間も、同じように暗くなっていた。彼はオランダ風の龕燈に火をつけると、それが照らしだす光のなかで、さっき辿《たど》ってきた足跡を、逆に辿っていった。
上田与志はその足跡さえ辿れば、簡単にはじめの谷間に帰りつくと考えていた。しかし実際は足跡は思ったより、判別しにくく、それもいつか跡絶《とだ》えていた。龕燈の光で照らしだされた地面の上の足形は、足跡にも見えたし、また、偶然の何かの痕跡のようにも見えた。すこし後にもどって、どこから足跡を見失ったか調べようとしてみたが、昼の光で見た場合と、龕燈の光でみる場合とでは、その印象はまったくちがっていて、もはや確実に足跡と思えるものは、とうの昔に見失っていた。上田与志は龕燈の光にだまされて、地面の何かの痕跡を足跡と思って辿っていたにすぎなかった。
そうなると、彼が林の小枝を切ってきたことが唯一の頼りだったが、それさえ、とぼしい龕燈の光では、見つけだすのに一苦労だった。彼はようやく疲労を感じた。と、同時に、抜け荷の倉庫をおさえたという功をあせる気持が、そうした見知らぬ谷間にまよいこんだ自分を、腹立たしい、愚かしいものに感じさせた。
上田与志が慎重に元の場所にもどって、そこからふたたび歩きなおすことをせず、いきなりその見知らぬ谷間から、おおよその見当で歩きだしたのは、多分に、こうした焦躁感《しようそうかん》が働いていたからだった。彼は向う見ずに、長崎と思える方向へむけて谷間を渡り、支脈らしい峰の斜面をのぼった。しかし茨《いばら》で傷をつくりながら、ようやく稜線まで出てみると、あたりは暗く、静まりかえっていて、どこか下の谷間で、渓流の流れる音がきこえるだけだった。星のない闇夜で、かすかに空よりも黒い山の稜線が、その闇夜の底に、重く横たわっていた。春とはいえ、膝から身体へと冷気が這《は》いのぼってくるのがわかった。風は落ちていた。
上田与志は自分の焦躁をおさえようとして、木の根に腰をおろした。もし道が見つからなければ、一夜明かしてもいいではないか、彼は自分を落着かせようとして、そう考えた。事実、そう考えると、彼の焦躁はずっとおさまってくるように思えた。与志は一休みすると、ふたたび気力をとりなおした。ともかくこの谷をおりてみて、そこで道が見つからなければ、野宿しよう。明朝になってから、もう一度、あの建物に入って荷物のなかみをあらためてみてもいいではないか。
上田与志が時津から浦上へぬける街道に偶然出たのは、それから間もなくである。街道に出てみると、やはりほっとした気持は隠せなかった。もちろんどこをどう通って街道に出てきたのか、まるで見当がつかなかった。しかし昼の光さえあれば、あの谷間までは辿ってゆける自信はあった。
間もなく彼は浦上の部落を通りすぎた。犬が闇のなかでしきりと与志に吠えかけてきた。
「おれが抜け荷の倉庫を見つけたと言ったら、小曾根のやつ、どんな顔をするだろう。おれはまだ長崎にきたばかりなのに、すでに、はっきりと、自分の腕で、功績といえるものをつかんだのだ。もちろんその抜け荷のなかみや、それを運んでいた人間たちの正体をはっきりさせなければならない。いずれおれの手でかならずはっきりさせてみせる。この仕事をやりとげて、おれはどうしても出世するのだ。出世しなければならないのだ。おれは、父のように好人物でいたくないのだ。温厚な小曾根のようにただ通辞でいればいい、というわけにもゆかないのだ。だが、あの抜け荷を運んでいるやつらは、いったいどんな人間なのか? 長谷川殿や黒い印籠や天主堂などと、それはどんな関係があるのか? 木箱や梱包された荷物のなかみがわかれば、おそらく隠された真実のかなりの部分がはっきりするにちがいない。明日にでも上司に報告して、この疑問を解かなくてはならぬ」
与志がそんなことを考えているうち、西坂の刑場に道がさしかかっていた。前年の大殉教以来、この辺りには昼でも、すすり泣きが聞えるとか、地の下から呻《うめ》き声がもれるとかいわれて、ほとんど人通りは絶えていた。与志の通りがかったのは亥《い》の刻限(午後十時)をすぎていたので、むろん人の気配はなく、左手の刑場の台地が暗い夜空にせりだしているのが、辛うじて、地形の気配で感じられるだけだった。
そのとき彼は遠くずっと背後に、誰かが歩いてくるような音を聞いた。正確に言うと、そのかすかな足音は、浦上の部落に入ったころからずっと聞えていたような気がしたが、それまでは夜の静けさのなかでひたひた鳴る自分自身の足音かもしれぬと思っていたのだ。しかし西坂にかかったとき、刑場のそばだということもあって、彼の神経は緊張していた。よしんば地の底からすすり泣きの声が聞えようと、それに冷静に耳を傾けるだけの覚悟はできていたのだった。その緊張した耳で、彼は、誰かが自分のあとを追って急ぎ足で近づいてくるのを聞いたのである。
西坂をすぎると道は下りになり、田圃をこえて長崎の町へ入ってゆく。右手から濃い潮の香りが流れていた。与志は町へ入るとすぐ、最初の土塀のかげにかくれて、彼の後をずっとつけていた足音の正体を見とどけようと思った。彼が身をひそませた土塀の下の闇には、溝の臭いにまじって、濃く甘い、蝋のような水仙の匂いがただよっていた。与志は一瞬、現実の彼とは無関係な、伊丹の家の庭を思いうかべた。春になると、土蔵の前で遊んでいる与志の鼻さきに匂ってきたのもこの水仙だった。しかしそうした甘ずっぱい感傷は花の匂いのように一瞬彼の心を横切ったにすぎなかった。
足音の主はちょうど土塀の前を急ぎ足で通りすぎようとしていた。その人物は明らかに与志の姿を見うしなって狼狽しているらしく、小走りに道を急ぎ、四つ角に来て、一度右にゆき、それから思いなおして左にゆき、結局もう一度思いなおして右に駆けだしていった。与志はその人物をずっと追って、奉行所近くの長い土塀のそばで、追いつくことができた。
与志に後ろから声をかけられると、相手は一瞬ぴくりと足をとめた。それからいきなり身をひるがえして逃げはじめた。暗夜ではっきり見たわけではなかったが、身体恰好が華奢《きやしや》で、小柄な感じだった。しかし逃げだすと、その足は早く、町の小路《こうじ》から小路へと曲り、坂をのぼったり、くだったりして、ようやく追いつめたかと思うと、路地の奥に、意外な石段があって、表通りにぬけていた。
与志は奉行所の界隈《かいわい》から牢屋敷のある桜町のあたりまで追いつづけて、結局、長屋の入り組んだ路地の奥で、その人物を見うしなった。与志はなおその辺りの闇をオランダ式龕燈で照らして廻ったが、どの路地も、寝静まった家々が、細格子の戸口を並べて、つづいているだけだった。
与志がこうして龕燈で物陰を照らしながら牢屋敷へ出る石段にさしかかったときだった。彼はいきなり背後から頭を強くなぐりつけられ、その場に昏倒《こんとう》した。
一瞬、反射的に身をもがこうとして腕を動かしたことのほかは、何一つ記憶に残っていなかった。
彼が意識をとりもどすまで、かなりながいこと誰かと争いつづけていたような気がした。また身体をがんじがらめに縛られていて、ながいこと、うんうん言いながら、もがいていたような気がした。意識がもどってきたとき、まだ頭痛がひどく、自分も、周囲のものも、また自分がどうなっているのかも、よく理解できなかった。それから、なお、何度か眠りのなかに落ち、何度かそこからもがき、匐《は》いでようとして、ようやく朦朧《もうろう》として意識の表面に浮びあがったのだった。
与志が最初に見たのは、ポルトガル風のガラスの火屋《ほや》のついた燭台であった。そのそばに一人の男がいて、与志が身体を起そうとすると、無言で押しとどめた。
「気がつかれましたかな」
別の男が暗いほうに坐っていた。燭台の火がその横顔を照らしていた。鋭い眼をした、髪の白い、肉づきのいい、耳の大きな老人だった。与志は自分が誰であり、何をし、いまどこにいるかを考えようとした。
「そのままに。貴殿がどなたであるか、私どもはよく存じています。私どもも奉行所には無関係の者ではありません。どうか安心されて、お休みください。貴殿が何者かに襲われたところに、私どもの家の者がちょうど通りあわせて、貴殿をお助けいたしたのです」
老人はそう言って、火影のほうへ顔をのばした。皺《しわ》が濃い影をきざんで、照らしだされた顔はいっそう重厚にみえた。
「何ともお礼の申しあげようもありません」与志は眼で相手に礼をして言った。「不審の者がおりました故、私はそれを追ってまいりましたところ、このような不覚をとりました。ところで」与志は身体を動かそうとして、なお、頭が割れるように痛みはじめるのを知って、思わず顔をしかめた。「ところで、この不審の者の件につき、至急奉行所と連絡をとっていただきたく存じますが。至急に連絡したい事柄があるのです。与力のどなたか、あるいは通辞の小曾根殿でも構いません。なんとしても今夜のうちに連絡していただきたい。失礼ながらあなたは……? さきほど奉行所と無関係でないとおっしゃっておられたが……」
「さよう。私は長谷川権六殿をよく存じあげています」老人は鋭い眼を与志にそそいで言った。
「長谷川殿と?」与志は身体を起そうとした。頭が割れるように痛んだ。
「長谷川殿とは、ながい附き合いでしてな。私は堺屋利左衛門と申す者です」
上田与志がそのとき声をあげなかったのは、それだけの気力がなかったためである。彼は堺屋利左衛門の顔を見あげながら、前年長崎奉行所に着任して間もないある日、小曾根乙兵衛と交わした会話を思いだした。ちょうど上田与志は分厚い通商記録帳を丹念に調べていたのである。
「なんとも厖大《ぼうだい》な取引だな」そのとき上田与志は息をついて言った。「この白糸(生糸)の取引高のことさ。ポルトガル船が一回に運ぶ白糸は、三万斤をこえている。おぬしはこの五年、こうした取引を見てきたわけか」
小曾根乙兵衛は上田の声に驚いて眼をあげたが、上田与志が半ば独りごとを言って、記録を夢中になって繰っているのを見ると、温厚な笑いをうかべて言った。
「おぬしもどうかしているな。私らにとって、白糸が天川《マカオ》から来ようが、呂宋《ルソン》から来ようが、そんなことは関係ないのだ。白糸などは、私らには、ただ袋に入った、やわらかな、そのくせ、ずっしり重量のある品物にしかすぎん。なるほど百斤二貫三百匁どころが昨今の相場だ。これをポルトガル船から堺屋利左衛門殿が一括して購入される。たとえ、おぬしが銀子《ぎんす》百貫目をもっていても、白糸を買うわけにはゆかぬ。これは堺屋殿のお仲間以外には、譲渡されることは禁じられている。つまり、私らにとっては、それは白糸でも何でもない。ただむやみと厖大な袋の山にすぎんのだ」
「堺屋殿のお仲間のことは、前に、伊丹の叔父から聞いたことがある」上田与志はなお記録から眼を離さずに言った。「しかしなぜ堺屋殿のお仲間だけがポルトガル船のもたらす白糸を一括して購入されるのか。よしんばおれにしても、おぬしにしても、白糸の相場によっては、一枚加わってみたいと思うのが、人情というものだが……」
「おぬしもそう思うだろう」小曾根乙兵衛は声をひそめて言った。「長谷川殿もそれに加わっておられるという噂もある」
「では、長谷川殿は堺屋殿のお仲間か?」上田与志は記録帳を思わず手から取りおとして、そう叫んだ。小曾根はあたりをうかがうような様子をして、口に指をあてた。そして低い声で言った。
「前にも長谷川殿にまつわる噂をおぬしに話したことがあったな。しかしこれはうそではなさそうだ。このことはたしかな人の口から私がじかに聞いたのだ」
「だが、なぜ堺屋殿のお仲間だけに白糸を一括購入させるのかね。伊丹の叔父のような商人連にも、入札させ、その権利金をご老中が管理すればいいではないか」
しばらくして上田与志はそう言った。
「それはおそらく白糸仲間が、買附けの権利を他に譲りたがらないためだろう」
「だが、それにしても、ご老中らしからぬ処置だな。公正を欠くと言われても仕方がない」
上田与志は相変らず記録帳を繰りながら、小曾根にそう言った。小曾根はさらに声をひそめ、与志のほうへ身体をにじりよせ、ほとんど耳もとに口を近づけて言った。
「いいか、他言は無用だぞ。堺屋殿のお仲間が白糸を一括して購入するのを、ご老中が許しているのはな、ほかでもない、そうやって一括して購入すれば、相場が立てられぬからだ。いいかね。たとえばだ、おぬしでも私でも、白糸が買いたいと思って、買附けに出れば、自然と相場はつりあがって、白糸の建値は高くなる。そして買い値が高ければ、売り値がさして動かない以上、利幅がずっと小さくなる。だから、利幅を大きくするためには、買い値を低くおさえなければならぬ。買い値を低くおさえるには、相場が立てられぬよう、買い手を一定数に限ることだ。どうだ、わかるかね」
小曾根乙兵衛は与志の顔をのぞきこむようにして言った。
「わかる。よくわかる」
「だから、堺屋殿のお仲間は、ポルトガル船がくると、こちらの言い値で白糸を売らせるのだ」
「ふむ。ポルトガル側では、値をつりあげようにも、それでは買い手がつかぬというわけだな」
「その通り」小曾根は深くうなずいた。
「では、ポルトガル船が、それでは商売にならぬといって、白糸を売らなかったとしたら、どうなる? 持って帰るかね?」
「ばかな。天川から海上千百里を、商品を売らずに、帰ってゆく船はあるまい。来た以上は売らなければならぬ。堺屋殿の目をつけられたのは、そこなのだ」
「ふむ。なんとも頭のいいお人だな」
「頭がいい? 頭がいいどころではない。堺屋殿はすべてをくらいつくすお方よ。そのためにはどんなことでもなさるお方よ……」
そうだった。その小曾根乙兵衛の言っていた堺屋利左衛門がこの老人なのだ。眼の鋭い、白い髪の、肉づきのいいこの老人なのだ。そう思った瞬間、彼は思わず大声で「わかった。そうだった。わかった」と叫んで身をおこした。
老人と、もう一人の人物は上田与志の身体を抱きかかえた。
「そうだ。あれは糸だった。糸だったのだ」そう叫ぶと、与志は立ちあがろうとした。あたかも眼の前に、何か異様な物体を見つめてそれを指さそうとしているような様子をした。そしてそのままふたたび意識をうしなったのである。
4 花の巻
三月に入っても、天草灘をこえてくる風にはなお冬の名残りのきびしさが感じられたが、それでもさすがに港をかこむ山々のたたずまいはすでに春であった。奉行所の長い土塀をこえて紅梅が咲きほこり、牢屋敷の正門の奥につづく白梅は散りかけていた。
しかしそうした静かな季節の移りゆきに関係なく、長崎奉行所の緊張はつづいていた。刻々と江戸から早馬で伝えられる報告によれば、老中の意向はまだ決定されず、京都にとどまる長谷川権六の病状も一進一退であるらしかった。
こうしたある朝のこと、番所詰めの下役人が奉行所正門をあけようとして、内から閂《かんぬき》を引きぬこうとしているところに、正門の屋根をこして、表から、石に結んだ告訴状が投げこまれたのである。
役人がそれをひろって、すぐに正門をひらいたが、そのときには投げこんだ者の姿はすでになかった。
長崎奉行所がキリシタン弾圧の指令を受け、長崎周辺の町村全域にわたって禁教を強化して以来、信徒の活動は徐々に表面から姿を消すようになっていった。もちろん殉教を覚悟のうえで、なおキリシタンとしての生活をつづけ、聖務やミサをとりおこなう人々もいたが、禁圧の手段が苛酷になり、死刑の極刑がひろく適用され、信徒の多くが火刑や斬首《ざんしゆ》に処せられはじめると、信仰の火を伝えるためにも、キリシタン信徒は次第に巧妙に自らの信仰をかくすようになっていった。当時はなお信徒仲間の組織が残っており、後にみられるほど、徹底した形での偽装ではなかったけれど、長崎奉行所ではすでにキリシタンの告発者に対しては、相応の賞を与える旨告示していたのである。
したがって告発はいろいろの形で奉行所に届いた。多くは仏教寺院、僧侶たちからのもので、告発の動機はつねに、仏教による葬儀埋葬をキリシタン信徒が拒むからであった。日々の聖務やミサは人眼につかぬ場所でとりおこなうことができ、また、人なかにまじっても、あえてキリシタン信仰を口に上らせない者でも、死に際して、仏式で葬儀をおこなうことは、さすがにはばかられたのであろう。
これについで多かったのは、人間関係の愛憎、利害関係のもつれから生じた告発で、それは相手をキリシタンとして告発して、憎しみや怨恨《えんこん》をひと思いに晴らそうというものだった。そして三番目に、純粋にキリシタンを悪魔の宗門と信じたり、単に金品を目当てにしたりする告発がくるのである。
仏僧の場合も、第三の場合も、告発はいずれも所定の手続をとった告訴の形をとった。つまり告発者はみずから名乗り出て、相手を告訴するのが普通だった。
ところが第二の場合は、たいていの告発者は、自分の名をかくし、相手だけを告発した。この場合は、詮議《せんぎ》の結果、根も葉もないまったくの讒訴《ざんそ》であることもしばしばだった。そのため、奉行所では、この種の告訴には、十分慎重を期する方針をたてていたが、そうかといって、それもまるまる無視するわけにもゆかなかった。そこでこういう告訴状が届けられた場合、極力、その告発者をとらえるよう指示されていたのである。
しかしその朝投げこまれた告訴状が奉行代理の青野左兵衛の手でひらかれると、そこにはつぎのような思いがけない文面が認《したた》められていた。
「われら左記連署の者、長崎奉行所通辞上田与志儀、切支丹《キリシタン》宗門追い払いの任を相果し申さず、当人自ら切支丹宗門に帰依いたすの段、誠に遺憾至極と存じておる。奉行所において直ちに詮議されたい。もし上田与志儀、切支丹宗徒であることを否認いたした場合、すべからく与志の所持にかかる品々すべてを御吟味いたされるべく、かならずや切支丹宗徒たるべき証《あか》しを見いだされるに相違なく云々《うんぬん》」
この告訴状を読みおわると、青野左兵衛は眉と眉のあいだに皺をよせて、じっと自分の前を見つめた。いままでに告発はいろいろの形でおこなわれたし、また告発された人間も種々様々だった。上は豪商、上級武士から下は下女、下郎に及んだ。しかしいまだかつて奉行所に所属する人間が告発されたことはなかった。奉行所そのものが告発の実権を発動する場所であったし、またそこに所属する以上、キリシタンであるということは事実上不可能だったからである。
しかし現にこうして告訴状が届けられたからには、何らかの詮議をおこなわなくてはならない。青野はこの事件が奉行長谷川権六の不在中におこったことにいささか迷惑なものを感じた。彼にはこの内部の醜聞を取調べるのがわずらわしかったのである。
といって、それを一日のばしにすることは、留守をあずかる彼の責任が果されぬことになる。そこで彼はまず内密に与力の原|隼人《はやと》に命じて、告訴状の連署人の身もとを調査させた。一両日おいて、原隼人からの報告により、これら連署人はすべて記載された住所には住んでいないことが判明した。
「おそらく上田がなんらか町方の恨みを買うようなことをして、それによる讒訴ではありますまいか」
原隼人はそう言った。これに対して青野左兵衛は神経質に眉に皺をよせて、言った。
「だが、この種の訴状はつねに告訴人の名を記さぬのが普通ではないか。おそらく連署したところをみると、多少なりとも、訴状に真実味をつけたいと望んでいたのかもしれぬ。それにしても奉行所役人を、たとえ通辞なりと、告訴するとはよくよくのこと。しかも上田は、着任してまだ一年にならぬのではないか。このような告発をうけるほど町方の恨みを買うとは、どうも信じられぬな」
「では、上田には多少なりとキリシタンの嫌疑が……?」原隼人は意外という表情で言った。
「いや、それはわからぬ。しかし告訴状が出され、他方、告訴人が知られぬ以上、上田を呼んで調べるほかあるまい」
青野左兵衛はにがにがしそうに言った。
その口調には、自分の配下が、事の真偽はどうであれ、そんな告発をされたことに対する憤懣《ふんまん》がはっきり感じられた。
「上田の所持品を調べろとは念の入った告発ですな」
原隼人は青野の気をひくようにそんなふうの言い方をした。原隼人にしてみれば、上田与志が万一キリシタンであった場合、上司の青野が多少とも責任をとらねばならず、彼がそれをおそれているのが、手にとるようにわかったのである。
「よしんばキリシタン宗徒がおりましても、奉行所にもぐりこむほどの鼠なら、証拠になるようなものは所持してはおりますまい。それに、私個人として、いままで町方の調査を依頼したこともありますが、上田にかぎって、そのような嫌疑はまったくありえないと思いますな」
原隼人は重ねて青野左兵衛の不安をとりのぞこうとして、そうつけ加えた。
上田与志が青野のもとに呼ばれたのは、堺屋利左衛門の邸から帰って四日目のことである。彼はなお時おり頭痛に見舞われ、記憶がひどくぼんやりしているのに気がついた。たとえば、谷間で見た倉庫に似た小屋とか、牢屋敷の前で見た人影とか、また堺屋利左衛門と名乗る老人や、そこにひかえていた蒼白い陰気な顔の人物とかが、夢でみた風景や人物のように、ひどく切れぎれに感じられ、しかもその一つ一つが暈《かさ》をかぶったようにぼんやり見え、もっとよく見ようと眼をこらすと、頭が痛んでくるのだった。
与志はそれらを一つにまとめるのに、幾らか努力しなければならなかった。そしてそんな努力に疲れると、ぼんやり軒先の紅梅を見あげた。障子をあけはなっても、もはや寒いということはなく、海からの微風は肌に心地よかった。ただそうして放心しているときにも、与志の心には、生糸のことがこびりついていた。彼はときおり前後の脈絡もなく、うわ言のように「あれは糸だった。糸にちがいなかった」とつぶやいた。
青野左兵衛から呼びだされたとき、彼は縁先でそんなふうに庭を見ているところだった。もちろん呼びだされた理由が与志にわかるはずはなかった。彼はいつか長谷川権六を間近に見た奥の部屋で、青野から直接、告訴状の一部始終を聞かされた。
上田与志がそのとき冷静にそれを聞くことができたのは、それがまったく根拠のないでたらめであることを確信できたからである。与志はかなりはっきりした口調で、キリシタン宗徒であることを否認したし、また自分は人に恨みをかうおぼえはまったくないと言った。すると青野左兵衛はようやく愁眉《しゆうび》をひらいたような表情になると、こう言った。
「それを聞いて、私も安心した。もちろんそうだとは信じていたが、お前の言葉を聞くまでは心配だったのだ。では、蛇足《だそく》とは思うが、お前の所持品一切を与力の立ち合いのもとで吟味を受けるよう。それで訴状が讒言だったことが明白になるわけだから」
この言葉を聞くと、上田与志の心は少なからず動揺した。彼の所持品のなかには、例の長谷川権六が愛蔵していた黒い印籠が、まだそのまま、小箱のなかにしまわれていたからである。
「だが、小箱はふだんは使わない衣服箱の奥に、虫よけの薬草入れと一緒にしてある。匂い草が入っていると言えば、わざわざあけてみることもあるまい。どうせ与力といえ、おれたちの同僚ではないか。それに万一それをあけさせられた場合、原殿だったら、おれにフェルナンド探索をお命じになったのだし、丘の天主堂の逐一を物語れば、この印籠を極秘にしたことも理解してもらえるにちがいない」
上田与志は与力らに附きそわれて自分の家にむかうあいだ、そんなことを考えていたのである。また事実、上田与志の所持品といっても、調度、衣類をふくめても、ごくわずかなものであった。かわったものといえば、ポルトガル書、オランダ書が一行李《ひとこうり》を占めていたことぐらいで、あとはわざわざ調べるほどのこともなかった。そして最後に、戸棚の奥から問題の衣服箱が引きだされ、季節はずれの衣服が一枚ずつそこから取りだされ、畳の上に重ねられていった。
「なかなか、おぬし、衣裳持ちだの」
原隼人は部下が着物をとりだすのを眺めてそんな冗談を言った。彼もはじめから訴状に書かれたことなどまったく信じていなかったのである。
「これで全部だな」原隼人が言った。
「これで全部です。あと匂い草と、虫よけの薬草だけです」与志は答えた。
原隼人はからになった衣裳箱に眼をやって、「あの平らな小箱は何だね」と訊《たず》ねた。
「匂い草が入っております」
「匂い草か」原隼人はそう言って、その小箱をとり、鼻に持っていった。「なんだ、におわんな」
「ええ、もうかなり前のものですから」上田与志は動悸《どうき》が高まってくるのを感じながら言った。「私が江戸を立つ前から入れておいたものなのです」
原隼人はほとんど反射的な動作でその小箱をあけようとした。ふたをあけて、もう一度においを嗅《か》ごうとしたのである。
「原殿」上田与志は言った。「その小箱はおあけにならぬよう願えますまいか」
上田与志はそう言った。彼は隼人に懇願するような調子で言ったのである。
「なぜ、あけてはならぬ? いいではないか。ただあけて、においを嗅ぐだけだ」
「実は、そこには匂い草は入っておりません」
「匂い草が入っていない? では、何が入っているのだ?」原の表情がかたくなった。
「ここでは申しあげにくいのです」
「構わぬではないか。宮本にしても梅沢にしても、特別の任務を帯びてここに来ている。貴公がたとえ通辞であり、奉行所の人間であっても、私人として来ているのではない以上、何を話しても構わぬではないか」
「しかと、左様ですか」
「くどい。なかみは何だ?」
「……そこには……実は、先日、丘の天主堂で拾いました印籠が入れてあります。ごらんになればおわかりですが、これは長谷川殿の所持品かとお見うけいたしたものです。しかし場所が場所だけに、言いだしそびれて、私はそこにしまっておきました。いずれ時機をみて、長谷川殿にお渡ししようと思っていたのです……」
原隼人は長谷川権六の名をきくと一瞬そのふたをあけるのをためらった。彼も長谷川権六が印籠からしばしば薬をとりだしては口にふくんでいたのを見ていたからである。
「ともかく見せてもらう」
原隼人はそう言って、小箱をあけた。その瞬間、原の顔色は変った。そこには黒の印籠ではなく、まばゆいほどの金の小さな十字架が燦然《さんぜん》と輝いていたからである。
だが、原隼人よりおどろいたのは、上田与志自身だった。
「ばかな。こんなばかな話ってあるか。私は黒い印籠をここに入れたのだ。たしかに入れたのだ。原殿。あなたもご存じでしょう。あの銀の竜のひげが一本削りとられている印籠なのです。それなのに、十字架とは。こんなばかげた話はない。原殿。信じて下さい。私はまったく知らないのです。誰かが、私を罪におとしいれるために仕組んだ|わな《ヽヽ》に違いありませぬ。お願いです。お願いです。信じていただきたい。私はキリシタンなんかじゃありませぬ。これは何かの間違いです。どうか、原殿、私を信じて下さい」
しかし原隼人はすでにふだんの与力らしい冷たい無表情にかえって、「もちろんおぬしがそう言う以上、私はそれを信じるが、事が事だけに、おぬしも一応は所定の手続を踏んで、取調べを受けてもらわねばならない。私としては心苦しい次第だが」と言った。
とりあえず上田与志は謹慎を命ぜられて座敷に蟄居《ちつきよ》しなければならなかった。彼はその日の午後、障子にうつる紅梅の影が静かにその場所を移してゆくのを眺めながら、いったい自分の周囲に何が起っているのかを考えようとした。もちろん初冬以来の一連の事件は、彼の頭のなかで、前よりも一段と脈絡のないものと映った。どこかで結びついていることはわかっていながら、一つの影を捉えると、他の影が消え、それを追おうとすると、前に捉えた影像が逃れていった。
上田与志が青野左兵衛の命令によって奉行所牢屋敷内の地下牢に入れられたのは、その翌日のことである。青野の処置は、別の見方をすれば、幾らか条文どおりで、融通を欠き、やや苛酷であると見られぬこともない。しかし青野左兵衛のように神経質で、事物の細部にのみこだわり、自分の定見というものをもたず、たえず責任を回避しようと考える人物にとっては、キリシタン宗門の嫌疑者は一律に地下の土牢に押しこめるという一条がある以上、上田与志の嫌疑の根拠が薄弱だとわかっていても、あえて特例を設けるだけの決断が下せなかった。青野がもっともおそれていたのは、長谷川権六の意向だった。長谷川が自分の処置をどう判断するかが青野の唯一の関心だったのである。
しかしそうした上司の逡巡《しゆんじゆん》によって土牢に送られた上田与志の受けた衝撃は大きかった。彼は天窓のすき間からさしている乏しい光に照らされる土牢の片隅に端坐して、時おり恐怖におびえたように、太い仕切り格子を眺め、湿った壁を見まわし、床にこびりつく血痕《けつこん》を見つめた。
牢内には一種異様な悪臭がこもっていた。眼がそうした薄闇になれると、牢には与志のほかに、なお四、五人の人物が片隅にかたまっていて、あるいは端坐し、あるいはうずくまり、あるいは横になったりしていた。年のころははっきりしなかったが、牢内での態度はおとなしく、端正で、叫んだり、狂乱したり、反抗したりする様子はなかった。彼らは何か喋《しやべ》るときは、声を落し、時おり口のなかで誦文《ずもん》のようなものをながいこと唱えていた。
上田与志はふと数日前自分が心にえがいた出世の夢を思いおこし、いまの自分と思いくらべてあまりの変りように思わず胸がつまった。いったい誰がこのような|わな《ヽヽ》を仕組んだのだろうか。|わな《ヽヽ》を仕組んだ者は当然自分が黒い印籠を拾ったことを知っている。そしてまた、自分が印籠を拾ったことを知っている人間なら、あのときは気がつかなかったが、丘の天主堂の闇にひそんで自分を見ていたのにちがいない。
そのとき与志は不意に、あのマリア像の下の暗い燈火のなかに浮びあがった若い女の顔を思いだした。あの女もこのことと関係があるのだろうか。
しかし与志はその女の姿を思いうかべても、自分がその女に対して、いささかも憎悪や怨恨の思いが湧《わ》いてこないのを不思議に思った。その女の美しさから、あのとき、反射的に伊丹の母のことを思いうかべたが、それはいまもなお変りがなかった。与志の頭のなかでは、たえず若い女が伊丹の母と入れかわり、また伊丹の母がいつの間にか若い女になっていたのである。
こうした思いのなかで与志がもっとも不安に思ったのは、自分が隠していたのが長谷川権六の印籠だということだった。おそかれ早かれ彼が取調べを受けるとき、この事実はいや応なく、あかるみに出なければならない。だが、それが公の場所に持ちだされた場合、長谷川権六の立場はどんなものになるのか。なるほどそれを拾得したとき、長谷川は長崎をたち、不在だったために、それを自分の手もとに置いていたという与志の説明は成りたつ。しかしこんどは長谷川権六が何らかの釈明をしなければならないだろう。
そうだとすると、印籠をぬすみ、そのかわり金の十字架を残していった人物は、長谷川権六と何か関係をもっているのではないのか。だいいち与志が長谷川権六の印籠を拾得して小箱にかくしていると言ったとき、原隼人の顔には、はっきり訝《いぶか》しげな、疑わしさにみちた表情が浮んでいたではないか。「黒い印籠そのものが現にあるならばともかく、それがすでにうしなわれている現在、おれの主張には何の証拠もないのだ。そしてそれをあえて主張するとすれば、自分の上司を誹謗《ひぼう》することにさえなる。そのうえおれが十字架をもっていたことは疑いようのない事実として衆人の眼にうつっているのだ。その嫌疑からのがれるために、黒い印籠について申したてれば、人々はおそらくおれのことを、助かりたい一心に、上司を巻きぞえにする不届きな人間だと思うにちがいない。それに長谷川権六自身がこうしたことを取りあげるはずはない。とすると、おれは黒い印籠を手にしたために、自分の一生を棒にふったことになる。おれはこのまま闇から闇へ葬られてしまうかもしれぬ。いまおれが斬首されても、それだけの理由はそろっているのだ」
上田与志は眼の前が暗くなるような気がした。必死で自分を支えていても、気力がくじけ、自分が河の流れに押しながされ、いままで立っていた岸がどんどん遠ざかっていくような気がした。
こうした上田与志のところに幼な馴染《なじみ》の小曾根乙兵衛が訪ねてきたのは、牢に入って二日後のことである。
「おどろいたな、こんどのことは」小曾根は牢内の悪臭に顔をしかめながら、いつもの温厚さは失わずに言った。「だから、私が言ったろう。私ら通辞がキリシタン宗門にかかわりをもってはならぬと。ともかく長崎ではどこにどう網が張られているのか、私らにはわからぬのだ。私らがその網目の一つを見つけたとしても、別の網で捉えられるのがおちなのだ」
「いや、まったくおぬしの言うとおりだ。おれもまさかこんなことになるとは夢にも思わなかった。いまとなっては、おぬしだけが唯一の頼りだ。誓ってもいい。おれはキリシタンなんかじゃない。伊丹の家はキリシタンであったかも知れぬが、おれは一度だってキリシタンであったことはない。このことは、おぬしだけが知っていることだ」
上田与志は小曾根の手をとってそう言った。思わず声が激し、ひっそりした牢内にかえって不気味に反響した。ほかの囚人たちはひっそり息をのんで、与志の声を聞いているらしかった。
「それは私も信じている」小曾根は温厚な態度をうしなわずに言った。「だが、長谷川殿の印籠の件といい、十字架の件といい、いったいどんなことがあったのか、ひとつ詳しく話してくれまいか。私なりに全力をつくして考えてみたいから」
そこで与志は、初冬以来彼が経験したすべてを詳細に小曾根に物語ったのである。足跡についても、不思議な人の気配についても、また倉庫に似た小屋についても、その後に起った出来事についても、上田与志は何一つ省略を加えずに話したのである。
小曾根乙兵衛はそのあいだ腕を組んでじっとその話に耳をかたむけていた。やがて話をききおわると、眼をあげ、与志を見て言った。
「で、その老人のことだがな――おぬしを救いだし、屋敷につれていって手当をしたというその老人のことだが――その老人はたしかに堺屋と名乗ったのだな」
「そうだ。間違いなくそう言ったのだ。だから、そのとき、おれはおぬしの言葉を思いだし、その抜け荷は白糸にちがいないと思ったのだ」
「そうか。で、その人物の特徴は、いま言ったことのほかに何かないかね」
「いや、肉づきがよく、耳が厚く大きくて、眼が鋭くて、日焼けしたように浅黒かった。まるで潮風になめされたような皮膚だった。白い髪に、それがひどく対照的だと、あのときふと思った」
「ふむ。色が浅黒いか……。で、もう一人の人物については記憶はないのか。何か特徴といったものは?」
「もう一人の人物はかげになっていて、はっきり見えなかった。ただ、老人とくらべて、顔色が白く、ほとんど蒼ざめて見えるほどだった。面長で、考え深そうな、大きな眼をしていた」
「なにか、もっと特徴になるものを憶えていないか。たとえば|ほくろ《ヽヽヽ》とか、あざとか、切り傷とか……」
「あ、そうだった、いま、憶いだした」与志は不意に大声で叫んだ。「その男の右の眼のしたに、そういえば、大きな|ほくろ《ヽヽヽ》があったような気がする」
「しかとそうか」小曾根は強く念を押して、じっと与志を見た。「間違いあるまいな」
「間違いない。あの蒼白い男は、たしかに右の眼のしたに|ほくろ《ヽヽヽ》があった」
「そうか。それでいくらか、私には様子がのみこめてきた。もしその男がおぬしの言うとおりだとすると、それは小野民部にちがいない」
「小野民部?」与志はおうむ返しに言った。
「そうだ。小野民部だ。詳しいことはいずれ話す。だが、問題はその老人のほうだ。老人のほうが、どうもよくわからぬ」
「いや、さっき言ったではないか。その老人は堺屋利左衛門殿だ。だから堺屋殿に会いさえすれば、おれがいま話したことも、うそかまことか、はっきりするはずだ」
「ふむ。すると、おぬしはその屋敷を憶えているわけだな」小曾根は与志を見つめて、問いただすようにそう言った。
「いや、そう言われると……たしかあれは……いや、おれはその邸宅を堺屋殿の屋敷だと思っていたから……別にそんなこと、考えてもみなかった。堺屋殿の屋敷だといえば、誰だって知っていると思ったのだ」
「では、場所もわからぬのだな」
「わからない。あの夜おれは気をうしなって運びこまれたし、送りかえされた日は、奥座敷から駕籠《かご》に乗せられ、それに日の光を見ると頭痛がひどくなろうからといって、両側の窓を閉じた盲駕籠同然のものに乗せられてきたのだ」
「そうか。それでよくわかった。おぬしの会ったその老人はな、それは堺屋利左衛門殿ではない。それはまったくのにせ者だ」
小曾根が静かにそう言うのをきくと、与志は思わず立ちあがった。「まさか……そんな」彼の唇はかすかにふるえ、その手は牢格子をかたく握りしめていた。与志はそうやって、ようやくのことで、襲ってくる眩暈《めまい》に耐えていたのである。
5 木の巻
上田与志が牢屋敷を出たのは、もう桜の散りかけた四月中旬のことである。その出牢も突然だったが、釈放に先立って、なんの取調べも訊問《じんもん》も行われなかったことは、覚悟をきめていた与志にとって、いささか奇異にも見え、また拍子ぬけした、現実感のともなわぬ思いを味わわせた。与志は牢を出るとき、上司からただ一言、奉行長谷川権六から直接に呼びだしがあるまで、家で謹慎するように申しわたされただけであった。
与志が久々に眼にする長崎の町並は、すでに明るい春の日ざしのなかにあった。荷を担ぐ者、店に出入りする者、普請をする者、商売をする者、挨拶をかわす者、路傍に休む者、馬で行く者、車をひく者などが、その春の日ざしのなかで、自分の災難などとはまるで無関係に、いきいきと立ち働いているのを見ると、上田与志は妙に重苦しい気持を感じた。それは一種の腹立たしさであるとともに、泣きたくなるような、遣《や》り場のない、悲哀に似た感情であった。
家にかえって二、三日のあいだ、上田与志はほとんど放心に近い状態で暮した。彼は障子を細くあけて、庭に咲きみだれる連翹《れんぎよう》のうえに、春の日がかげってゆくのをじっと見つめていた。
与志がこの家にいなかった十数日のあいだに、ただ季節がすすんでいたというだけではなく、江戸から幾つかの重大な命令が長崎奉行所に届いていて、奉行代理の青野左兵衛以下全員が多忙な仕事に追われていたのである。その第一は、ながらく評議の決定をみなかったイスパニア船サント・アンドレ号の処置について、老中から、即刻退去せしめるよう指令が届いたことだった。長崎奉行所は老中の指令にしたがって、即刻、サント・アンドレ号を薩摩の山川港から長崎へ廻送させなければならなかった。また平戸を発して海路を江戸にむかったイスパニア大使一行にこの幕府の厳命をつたえるとともに、彼らをただちに長崎に連行しなければならなかった。大使一行が退去令を受けたとき、すでに彼らは備後《びんご》の室《むろ》まで来ていたのである。
この評議の決定と前後して、ながらく京都で病床にあった長谷川権六が、長崎に戻ってきた。サント・アンドレ号の長崎廻送から国外追放までの処置は、権六の直接の指示によって行われた。上田与志が突然釈放されたのも、むろん権六の指示があったからである。
もっとも上田与志の件については、権六自身からはなんの釈明もなく、また青野左兵衛の事大主義にみえる処置に対しても権六は何も言わなかった。
奉行所にふたたび姿を見せた長谷川権六は、その浅黒い、頬に刀傷のある、面長の顔を、いつもの癖で、わずかにゆがめるほかは、京都でながらく病気だったという割には、とくに窶《やつ》れた様子は見えなかった。
上田与志がこの長谷川権六に呼ばれたのは、サント・アンドレ号が長崎を追放され、奉行所の仕事が日常の軌道に戻るようになってからである。呼ばれた場所は正式に訊問を受ける御用場や対面所ではなく、庭に面した奥の書院だった。
与志が部屋に入ったとき、権六は縁に立って、庭の奥の、石垣を築いて迫《せ》りあがっている崖の斜面に、深々と枝をひろげる樟《くすのき》の大木を見上げているところだった。午前の光を浴びた樟の巨木は、高い奉行所の屋根をこえて、新緑を金鱗《きんりん》のように輝かせていた。
「見事なものだな」権六は上田与志の挨拶にはこたえず、いきなりそう言って、樟を仰ぎつづけた。
与志も縁先まで出て、言われるままに樟を見あげた。その繁みのうえを、淡い雲が流れ、一羽の鳶《とび》がのどかな鳴き声を落しながら、ゆっくり港のほうへ輪をえがいているのが見えた。
「そのほうが私の印籠をひろったというのは事実か」
権六は樟を仰いだままの姿で訊《たず》ねた。上田与志がその前後の事情から説明しようとすると、権六はそれを抑えるようにして言った。
「仔細は小曾根乙兵衛から聞いている。事実かどうかをこたえればよい」
与志は追いつめられるような気持で、事実である旨をこたえた。すると、そのときになって、はじめて長谷川権六は与志のほうにその浅黒い、面長の顔をむけた。
「そのほうは今度のことで私がなぜ詮議《せんぎ》もせずに出牢させたか納得できるか。いや、納得できぬはずはない。そのほうが青野に申したてたところによれば、金の十字架の一件はまったく身におぼえのない由。とすれば、そのほうの背後に、何者か知らぬが、そのほうを陥《おとしい》れようと目論《もくろ》む者がいるはずだ。そう考えるほうが自然であろう。どうか」
長谷川権六は与志の顔を見た。与志は眼をふせたまま、自分も十字架を見た瞬間に、そう思った、とこたえた。
「私がそのほうの申したてを真実《まこと》と信じたのは、ほかでもない、私自身が印籠をいつの間にか紛失していたからだ。そのほうが本当に印籠をひろわなかったなら、どう頭をひねっても、印籠のことなど申したてられるはずはない。また印籠を拾得していなければ、それが十字架とすりかえられたと主張することもできないわけだ。したがって何者かがそのほうに陥穽《かんせい》を仕組んだと見るのは極めて当然であろう。また陥穽を仕組むごとき者が存在する以上、私の印籠も同様に何者かによって、|わな《ヽヽ》として使われたと考えるのが自然だ。紛失するはずのない印籠が失われて以来、私は内心その理由をあれこれと考えてみた。そしてそのほうの申したてを聞いたとき、はじめて印籠が何に使われていたのかを納得できたのだ」
上田与志は権六の巧妙な言葉を聞いていると、ふとそこに、権六自身のすき間のない自己弁明が張りめぐらされているのに気がつかないわけにはゆかなかった。与志が自分の無実を権六に信じてもらうためには、その前提として、まず権六の印籠は奪われたのであり、権六自身は全くあずかり知らぬことであることを信じなければならないのである。自分が|わな《ヽヽ》に嵌《は》まったことを信じさせるためには、相手にも|わな《ヽヽ》が仕組まれたことを信じなければならないのだ。そうでなければ、自分の無実は成立しえないのである。それはちょうど自分の無実と、相手の無実とを交換するようなものだった。与志は、樟の巨木にふたたび眼を移している長谷川権六の横顔を見て、彼がなぜ自分を書院に通したかをいくらか理解したように思った。権六が自分とひそかに取引を企てていたのではないかと、ふと彼は思ったからである。
以前、小曾根乙兵衛から何回となく長谷川権六の巧妙な論理や、鋭い政治感覚や、敏捷《びんしよう》な利殖の才能について聞かされていた。しかし長谷川権六の威圧するような姿を眼のあたりにして、いまさらのように、この人物の謎のような内面を見るような気がした。
何を考えているのだろうか――与志はそこだけ色のうすれた頬の刀傷のあとを見ながら、そう思った。そこにある種の畏怖《いふ》が感じられたのも事実だった。
しかしこうした一切を与志は小曾根乙兵衛にも打ちあけなかった。小曾根にはただ彼の尽力によって無実がはらされたことを感謝するだけにとどめていた。温厚な小曾根は与志の無事放免を単純によろこんでいる様子だった。彼は与志をさそって、潮の香りの濃く流れてくる料亭の離屋《はなれ》へ出かけて、その放免を祝った。
「災難ということは誰にでもある。それは諦めなければならぬ。だが、それにしても、長谷川殿のように話のわかる方が奉行だったとは、おぬしも運がよいな。これが同じ長谷川殿でも、先代の奉行の、長谷川藤広殿のような方だったら、いまごろ、どうなっているか、わかったものではない。あの方は短気なお方でな、ものを考えるのが面倒になると、それを片附けるために、簡単に死罪を申しつけたものだ」
ふだんは口の重い小曾根乙兵衛は酒が入ると、誰から仕込んできたかと思われる豊富な話題を、つぎからつぎへと繰りひろげてみせるのだった。
「おぬしの入牢中にだな、妙な噂が奉行所で囁《ささや》かれていたのだ。それはな、長谷川権六殿が京都で病気になったというのは、まったくの偽りで、実のところは、江戸に入るのに二の足を踏んでいたというのだ。それというのも、多年長谷川殿を庇護《ひご》していた本多正純《ほんだまさずみ》殿が一昨年、幕閣で失脚し、新たに土井|大炊《おおい》殿や永井|尚政《なおまさ》殿が老中の主流にのしあがってきたことに原因があるというのだ」
「だが、そんな江戸の権力争いが本当にこの長崎までひびいてくるものかね」与志は酒をなめるようにしながら、半信半疑で言った。「まさか、そのために長谷川殿を失脚させるような動きがあるとも思えぬが」
「おぬしは何もわかっておらぬな。私ら通辞風情ならいざ知らず、長崎奉行ともなれば、すべて幕閣の勢力がそのまま反映するのだ。聞くところによると、本多殿の失脚は、駿府《すんぷ》の家康公側近の旧臣団に対して、江戸の秀忠公側近の新勢力が計った陰謀だということだ。それはともかく、旧臣勢力が失墜すると、いちばん困るのは長谷川権六殿だ。おぬしも知っているとおり、家康公の側室のお夏の方は長谷川殿の伯母上にあたるし、まあ家康公あっての長谷川一族だというのが、もっぱらの噂だ」
上田与志は小曾根の話を聞きながら、先日の長谷川権六の横顔を思いうかべた。「ではあのとき、長谷川殿が|わな《ヽヽ》に嵌められたと言ったことも、あながち強弁ではなかったのか」といくらか酔いのさめる思いで、与志は半開きの障子の外の闇を見つめた。
小曾根乙兵衛はひとり上機嫌に盃を重ねていたが、与志の頭の芯は、酒が入るにつれて、いっそう冴えてゆくような気がした。与志には前よりも自分の周囲の勢力関係や人間関係が一段と複雑なものに見えてきたし、そうした複雑さがいくらかでも理解できると、それだけまた奥行が深く拡がってゆくように思われたからである。
与志が再度長谷川権六に呼びだされたのはその料亭の晩の翌々日のことである。その日は書院に権六のほかに、もう一人、品のいい、背の高い老人が坐っていた。端坐した膝のうえで、煙草入れに結びつけた胡桃《くるみ》の実をたえず右手でいじっていた。
「これが、いまお話しいたした通辞です」
権六は上田与志を眼でさしながら言った。
すると老人は与志にむかって訊ねた。
「いま奉行から貴殿の一件を詳しく聞いたところだが、貴殿が見たという倉庫にあったのは、間違いなく白糸の梱包《こんぽう》であろうな」
柔和な老人の眼は、そのとき一瞬光ったように見えた。
「私の見たところ、それに間違いないと存じます」与志はその視線に射すくめられたように眼を伏せた。
「長谷川殿、もし白糸が隠匿されている事実があるとすると、これで先年のポルトガル船の強硬な態度も納得できますな」
「さよう。一括購入価格では絶対に譲れぬと、堺屋殿、あなたの要求を突っぱねましたな」
権六はそう言って短く笑った。与志は「堺屋」と呼ばれたその老人をおどろいて見つめた。それはいつかの夜みずから堺屋利左衛門と名乗った浅黒く日焼けした、肉附きのいい、耳の大きな老人とは、まったく別の人物だった。小曾根があのときおれの見た堺屋利左衛門はにせ者だと言っていたが、なるほど、いまここにいるのが、白糸を独占して購入している本当の堺屋利左衛門なのか。
「いかにも、あれだけ強硬に建値の変更を要求する以上、何かからくりはあると睨《にら》んでおりました。それが白糸の隠匿という手段だったわけですな。つまり建値で折合いがつかない場合、ポルトガル側は白糸をひそかに陸揚げして、どこかに隠しておく。そして建値がつり上った時期を見計らって、それを市場に売りに出すというわけですな」
堺屋利左衛門もそう言いながら、その|からくり《ヽヽヽヽ》がいかにも単純に仕組まれていることに苦笑した。
「と言って、さきほどあなたが言われたような手段は、私には尚早のような気がしますがね」長谷川権六は言った。「なるほど老中の方針は、まるで悪疫を退治するような勢いでキリシタンの禁圧を求めていますが、家康公が御存命になり、また本多正純殿が幕閣で力を振われておられたら、ポルトガル交易を危機に陥れてまでも、キリシタン禁圧を強行されたかどうか、私には疑問に思えますな。あなたが前に言われたように、どうもここ二、三年、家康公の御|薨去《こうきよ》を境に、なにもかも変ってゆくように思われます。と言って、ポルトガル交易を無にしてまで、キリシタン禁圧に踏みきるのは、この長崎という出先にいて、現場の事務を掌握する私としては、そう簡単には賛成できかねますな」
「だが、このまま、たとえば丘の天主堂のごときを放置すれば、それが直ちに白糸の倉庫として用いられるのは必定。その他ポルトガル交易に大きな財源をもつキリシタン宗徒にとって、彼らの持家、倉庫をそっくり白糸の保管所にするだろうことも自明ですな。とすれば、この際、一挙に残存する天主堂、キリシタン宗徒の船蔵、米蔵などを破却するのが、最善の方策ではないですかな」
老人は右手でしきりと胡桃の実をもむようにしながら、おだやかな顔でそう言った。権六は黙って、腕組みをしていた。彼らは、そばに上田与志がいるのを忘れたように、それぞれの考えのなかにしばらく沈みこんでいた。
やがて老人が言った。
「私の見るところ、御老中――とくに土井殿や永井殿は、明らかにキリシタン禁圧を強化する方針をとっておられますな。こんどのイスパニア船追い払いをご覧なさい。これはただ異国船をキリシタン禁圧の理由で追放しただけではない。明らかに御老中の意向が、異国との交易を打ち切ろうというところまできていることを示していると考えられませぬかな。これを別の言い方で言いますとな、キリシタン宗徒を禁圧できなければ異国交易もその犠牲になる。逆に禁圧がうまく進めば、異国交易もそれだけ被害がすくなくてすむ。私たちのとる道はおのずと明らかなのではありますまいかな」
老人が口をつぐむと、その時になって長谷川権六は上田与志の存在に気づいたように、部屋を退るように言った。「そのほうがここで耳にした一切については他言無用だぞ。いずれ倉庫の件に関しては、そのほうに働いてもらわねばならない」とつけ加えた。
与志が部屋を出るとき、権六は老人の言葉を引きとって、こう言うのが聞えた。
「天主堂や船蔵を破却するとしても、長崎の町方の有力な人間たちはすべてキリシタンですからな。もし禁圧を強行すれば、異国交易の事務万端がとどこおるばかりではない。長崎の町そのものも動かなくなりましょうな。もしそんなことにでもなろうものなら、奉行所一存ではどうにもなりますまい」
与志はそれに対する堺屋利左衛門の言葉を聞くことはできなかった。しかしそれでもこの二人の話から、容易に、小曾根乙兵衛が噂として伝えてくれた情報のある部分が、きわめて真実であったことを確かめられたのである。
彼は通辞溜りに帰ると、机を前にしてぼんやりと考えこんだ。与志の眼には、暗い地下牢で影のようにうずくまる何人かの囚人の姿が浮んでいた。彼らは、与志が牢にいるあいだ、何かと好意ある言葉をかけてくれた。時おり口のなかで誦経《ずきよう》に似た言葉をつぶやくのをのぞくと、彼らはむしろ普通の人々よりははるかに親切であった。与志が一度冷えこみのひどい夜に熱を出すと、彼らの中の一人は、持っていた薬草で、すぐに煎じ薬をつくって、与志に飲ませたのである。といって、彼らの態度が押しつけがましいとか、わざとらしいとかいうことはなかった。与志が病気からなおると、彼らは前よりいっそう控え目になったように見えた。彼らは与志が役人であることに遠慮しているのであった。
そういう囚人たちを、堺屋利左衛門のごとき人物は、胡桃を右手でもてあそびながら、いとも簡単に、殺害するよう命令するのだ。そしてほとんど顔の筋肉を動かすことなく、キリシタン宗徒の倉庫や家を破壊することを計画しているのだ。
長崎奉行所の部屋部屋は初夏の午後らしい静寂のなかにあり、ぴかぴかに拭きこんだ廊下に新緑のかげが淡くうつっていた。そしてその廊下をゆく目附役や支配組頭などの上司の姿が時おり見え、奥の用部屋で厚い記帳に筆を走らせている勘定役や支配調役の姿があけはなった襖《ふすま》のあいだから見えていた。港の荷役や町方の報告が末次屋敷から奉行所へ伝えられ、受理され、記録され、上司に説明され、裁決され、そして同じ順序を逆にたどって、港の荷役人や町年寄に伝えられる――そうした一貫した仕事の秩序のなかで、その一人一人は、正確な歯車のように、静かに、緻密《ちみつ》に働いていた。
だが、この働きとて、さっき見た二人の権力者の対話とはまったく無関係に、まるで自動運動のように動いているのだった。そのとき上田与志には、ふと、本来一つであるべきこうした奉行所の働きが、それぞれ別個に、無縁なものとして存在しているのが、ひどく奇異なことに思えた。彼はそれを深く考えることもできず、その理由もつかむことはできなかったが、そのときの奇異な思いはあとまでなまなましく残っていた。
与志はそれまでの成りゆきから、小曾根乙兵衛だけには権六たちの話を耳に入れておいたほうがよいと考えた。与志のほうから珍しく小曾根を料亭にさそったのは、そのためだった。
小曾根はいつものように温厚な様子で話をききおわると言った。
「それは私にはほぼ見当がついていた。おそらく堺屋殿のことだ。すでに老中の誰か、おそらく土井大炊殿あたりと、話はつけてあるのかもしれぬ。でなければ、京からわざわざ長崎に現われて、長谷川殿に天主堂の破却やキリシタン宗徒の家屋敷の破壊を要求するはずはない。おぬしの一件もおそらく江戸表まで報告されているにちがいない」
「まさか。おれのことなど、どうして……」与志は思わず小曾根の話を遮《さえぎ》った。
「伝えられるはずがあろうか、というのだな」小曾根は与志の言葉をひきとって言った。「いいかね、この長崎では、何から何まで筒抜けに江戸に伝わるのだ。長崎の町方は、それだけ口は堅い。言ってみれば、町方が一つの閉ざされた城砦《じようさい》のようなものだ。そこに私ら奉行所の役人がただまぎれこんでいるというだけだ。長谷川殿の言われたように、町方の長老の助力なしには、この長崎という町は何一つ動かない。船が港に入ることもできなければ、船荷を陸揚げすることもできない。積荷の吟味もできなければ、支払いも受取りもできないのだ。長崎奉行所は長崎の町方があってはじめて動ける。長谷川権六殿は長崎代官末次平蔵殿や、町年寄高木殿、後藤殿などがいて、はじめて奉行の職能を発揮できるのだ。しかもこれら町方の長老はすべてキリシタンなのだ。これは誰ひとり知らぬ者はない。だが、誰もそれを公言しない。それは暗黙の了解だからだ。今までは老中でもこのことは了解していたのだ。だが老中の方針が、堺屋殿の言われるように変ったとすると、これは長谷川殿も苦しいところに立たされるわけだ。京都で滞留していたという噂も、こう見てくると、あながち噂とだけで片附けられぬかもしれん。問題は長谷川殿がどのような手段で、この窮境を切りぬけるかだ。おぬしならどうする?」
小曾根乙兵衛は酒がまわりだすと、いつものように幾らか饒舌《じようぜつ》になっていった。
「町方の長老の助力なくしては奉行所は動けない。だが、老中の一部からキリシタン禁圧の強化が命令されている。そして町方長老はキリシタンだ。もし長老を捉えたり、天主堂を破却すれば、町方の機能はとまり、奉行所も動かなくなる。といって、禁圧しなければ長崎奉行自体が譴責《けんせき》されなければならないのだ。どうだ、おぬし、困ったことだとは思わぬかな。なんとか妙案は浮ばぬかな。ま、私らには無理だろうな、相手が末次殿、高木殿といった怪物だ。とうてい通辞風情の手に負えるしろものじゃない」
小曾根はそう言って、むしろ愉快そうに盃を重ねた。
その翌日、与志は書院にふたたび呼びだされた。用件は案の定、丘の天主堂から、船着き場の倉庫に似た谷間の建物までの再度の探索だった。与力の原隼人は巧みに薬売りの風体に姿をかえていた。その原隼人の前に拡げられた絵図面を見ながら、与志は迷い歩いた谷間の様子を詳しく説明した。原隼人はそれを一々紙に書きとった。
原隼人が奉行所から姿を消したのは、その夜も亥の刻限(午後十時)を過ぎてからである。与志はその後旬日にわたって原隼人の姿を町はおろか、奉行所でも見かけなかった。
町年寄高木作右衛門ほか七名に対する内々の評定《ひようじよう》が行われるという噂が上田与志の耳にとどいたのは、初夏もかなりおそくなってからで、奉行所の裏の樟の巨木が、海からの風にさわやかな夏らしい葉ずれの音をたてる頃であった。そして事実、間もなく上田与志にも、この評定に臨席するように上司から命令が伝えられた。
当日、与志が広間に入ると、おどろいたことには、長谷川権六の近くに原隼人がもとの侍姿で控えていた。その他に何人か査問の証人らしい人間が並んでいた。
町方の長老はその反対側に、庭を背にして並んでいた。彼らが広間に同席をゆるされたのは、町年寄としての地位と職能がそれだけ高かったからである。長老たちの表情には不安というよりは、何か暗い、陰気な沈んだものが現われていた。彼らはいずれも評定の内容について心当りがあるらしかった。
長谷川権六が左右に開かれた襖のあいだから広間に入ってきたのは、それから間もなくである。彼は中央の席に着くと、すぐ自分の前の記帳をひろげた。
「本日、長崎の町年寄である貴殿らに出頭願ったのは、他でもない、最近、一、二、町方の支配に落度があると思われる|ふし《ヽヽ》を発見したからである。もちろん当奉行所は必要以上の詮議をするものではない。だが、事は以下に述べるごとき重要な性格を帯びている。よろしく貴殿らにおいても、事の正否を申しのべるようにされたい」
長谷川権六は浅黒い、面長の顔を、ゆがめるようにして、言葉をつづけた。
「まず当奉行所通辞上田与志から申したての条々を読みあげよ」
書記役が数カ月前与志が目撃したすべて――丘の天主堂からの帰り、暗闇のなかで何人か(あるいは十何人か)の男たちにすれ違ったこと、重いものを運んでいる気配が感じられたこと、事実その後の調査でそこに足跡が残されていたこと、谷間に、船着き場の倉庫に似た建物を発見したこと、その建物のなかに抜け荷のごとき梱包された夥《おびただ》しい荷物が隠匿されていたこと――を読みあげたのである。それはまるで与志の心に数カ月前の奇怪な思いをまざまざとよみがえらせるほどに克明に記録されていた。おそらく小曾根乙兵衛がこの記録を手伝ったのかもしれない。もっとも事件に関係のないためか、その後出会った事件はすべて切りすてられていた。
書記役が記録を読みおわると、権六は与志にむかって、この記述に間違いないか、と訊ねた。与志は間違いない旨をこたえた。すると権六は、何人か(あるいは十何人か)の男たちが丘の天主堂を出て谷間に向ったことを証言する数人の農民の証言を読みあげさせた。それが終ると、こんどは原隼人のほうを向いて言った。
「そのほうは当奉行所から谷間の倉庫の調査に赴いたが、そこで発見した品目について報告せよ」
人々は瞬間、水を打ったように静まりかえった。その静寂のなかで、原隼人の声が幾分かん高く聞えた。
「ポルトガル銃三十梃、硝石火薬二十樽。その他刀剣、槍、長刀《なぎなた》など多数。これが問題の倉庫に隠匿されていたものに相違ございませぬ」
町年寄のあいだに信じられないような動揺がおこった。なかでも、ぎょろ眼の、肥った高木作右衛門は口から唾をとばしながら言った。
「それは何かの間違いだ。そんなものが隠匿されるのを、私どもが見のがすはずはない。それは何かの間違いでございます」
その言葉をきくと、長谷川権六は静かに町年寄の頭上から見おろすような表情をした。頬の刀傷が一段と白くなったように見えた。
6 波の巻
長崎奉行長谷川権六の詮議の意外な結果にもっとも驚いたのは、おそらく上田与志その人だったといっていい。与志が抜け荷と信じ、そのなかみは白糸(生糸)だと思いこんでいた梱包が、実は銃器刀剣だったということ、そしてそれを確認する証人が幾人か召喚されたほかに、事実、与志が龕燈《がんどう》で照らしだした荷物が証拠品として押収され、町年寄の前に示されたということ――それはなお与志に悪夢のつづきのような印象を与えたのである。
しかし与志がそれ以上に不気味に感じたのは長谷川権六の冷やかな、威圧するような態度であった。その口調には、どこか強いて押し殺したような、平静な、さりげない調子が感じられたが、それだけに異様に重く、暗い気魄《きはく》がこめられていた。ふだんは町年寄のなかでも、陽気で、洒脱《しやだつ》な高木作右衛門まで事の意外さに口もきけない様子だった。彼は大きな眼をぎょろつかせ、口を何度か動かしたが、声にはならなかった。「このたびの不行届きは、貴殿ら町方の支配に落度があったことを示すものである」長谷川権六は一切の証拠調べが終ったあとで、冷やかに言った。「しかもポルトガル銃などが天主堂から谷間の倉庫に運ばれたという事実からみて、当奉行所として、二重の意味で、貴殿らの落度を責めなければならぬ。すなわちすでにキリシタン宗門の禁制にもかかわらず、当長崎において、なお二、三天主堂を残存せしめているのは、貴殿らも承知のように、なにも宗門を黙認するためではない。施療院、薬院など、かつてキリシタン宗徒によって取り行われた諸事業の重要さを思い、また交易業務の繁雑さを考え、当港の特殊な性格から、あえて家康公以来、宗門禁止のうえで、これら建物は残されたのである。これら建物をあえて表向きに使用の段については、しかるべくキリシタン宗徒の詮議がなされること、必定である。その二つは、ポルトガル銃など武器の無断保有であって、この禁制を犯した罪状に関しても十分に吟味されなければならぬ。されば、まず何者がこれら武器を保有し、運搬せしめたのであるか。野盗であるか。一揆《いつき》の者であるか。それとも禁制を犯してのキリシタン宗徒であるか」
長谷川権六はそこまで言って町年寄の反応を見るように、しばらく言葉を切った。
「おそらく野盗の類《たぐ》いであろう。あえてご禁制を犯して、キリシタン宗徒らが武器を運ぶなどということは考えられぬ。いや、考えたくない。いかがであろう」
長谷川権六は無意識に頬の傷あとに手をやりながら、町年寄の誰へともなく、そう問いかけた。町年寄七人はいずれも頭を垂れ、じっと自分の前の畳を見つめていた。ようやく落着きを取りもどした彼らは、権六の言葉に直接の反応は見せず、いずれも押しだまったまま、身動きもしなかった。その重苦しい沈黙のなかで、樟の巨木が葉をさやさやと鳴らすのが聞え、時おり海からの微風が、初夏の照り返しのなかで、ようやく額に汗を浮べるほどの暑さのこもりだした広間に、吹きこんできた。
「そこで、私が貴殿ら町方支配の責任者に望みたいのは、いかようにしても、この武器保有者がキリシタン宗門とは無関係である旨、証《あか》しを立ててくれることである。その証しさえ立てれば、禁制の宗門に所属する者なき旨を江戸表にも報告でき、したがって武器保有者は野盗の類いと申しのべることもできる。しかし万が一、その証しが立たぬとなれば、あらためてキリシタン宗門の詮議をはじめなければならぬ。もしそこでキリシタン宗徒が発覚すれば、その者たちこそ、武器保有者と目さなければならぬ。すなわち、これらの者はご禁制の宗門を奉ずる罪のみではない。武器保管の罪をもあわせて二重の罪状から、死罪は必定と見なければならぬ。ここ数年、当長崎においては、このような不祥事はなく、貴殿ら町方支配の当事者も、なんら落度を責められることはなかった。だが、万一ここで多数のキリシタン宗徒が長崎で発覚し、同時に彼らが武器保有で告訴されるとすれば、貴殿らの進退もただではすむまい」
権六の傷あとは一段と色あせ、白くなった。
「されば、まず貴殿ら町方長老の手によって、長崎にはキリシタンは一人も潜伏しない旨、証しを立てることが肝要である。それ以外に、この落度を収拾する道はない。幸いにもその証しさえ立てれば、当奉行所としても、江戸表に月例の諸事とともに報告するだけでよく、一切を穏便に処理できると思うが、貴殿らはいかが思われるか」
長谷川権六は相手の喉もとに匕首《あいくち》をつきつけるようにして、それだけ言うと、黙って腕を組んだ。微風が樟の葉を鳴らし、広間を静かに吹きすぎた。上田与志のところからは、七人の町年寄が、庭の明るい日ざしを背にして、黒ずんだ置物のように見えた。誰ひとり返事をする者はなかった。
「さよう……」と肥った高木作右衛門が眼をぎょろりと光らせて口を開いた。「さよう、私どもの落度については、いまさら、いかような申し開きも意味をもちますまい。いずれ会所に戻りましてから、あらためて善後策を相談いたす所存ですが、ご奉行は、いかにして私どもが証しを立てられるとお考えですか。ふたたび宗門改めを長崎五十町村にわたって取りおこないますか。誓紙を各戸に提出いたさせますか」
「されば」と長谷川権六は冷やかに言った。「されば、貴殿らの発議において、当の天主堂はむろんのこと、谷間の倉庫、施療院、ポルトガル人名義の一切の建物、倉庫の類、すでに閉鎖したキリシタン関係のすべての建物をただちに破壊せられたい。破却すべき建物については奉行所から改めて貴殿らに指示されるであろう。問題は、あくまでそれを貴殿らの発議によってやってもらわねばならぬことだ。事態がここまで来ている以上、ほかに収拾する方法はあるまい。もし町方支配の貴殿らが、なんらかの躇《ためら》いを示し、また建物破壊の途中で懈怠《けたい》が認められ、さらに貴殿らに抵抗を加える者があれば、奉行所としては、先年の大殉教に優《まさ》るとも劣らぬ厳しさをもって、キリシタン探索にのぞまねばならぬ」
権六の言葉は鉛のような重さで町年寄のうえにのしかかった。その重さのしたで、長老たちは身をもがき、手足を動かそうとしたが、手も足もがんじがらめに捉えられているような感じがした。肥った、洒脱な高木作右衛門もさすがにそれ以上何一つ声にだして言えなかった。
事実、こうなった以上、町年寄のとる道は一つしか残されていなかった。それはここしばらく落着いている長崎のキリシタン弾圧を、根拠のない銃器保持のごとき口実で、開始させてはならぬということだった。そしてそのためには、否応《いやおう》なく奉行所の命じる建物の破壊に同意しなければならないのだった。五年前、幕府の密偵によって告発されたミゼリコルディア教会の閉鎖の場合と同じ苦悩が、町年寄の顔に刻まれていた。
長谷川権六が座を立った後、しばらくは誰も身動きする者がなかった。ちょうど権六の立ち去ったその場所に、何か空白に抜かれた像が、そのまま坐りつづけているような感じがしたからである。
丘の天主堂と谷間の倉庫とが破壊されたのは、それから間もなくのことであった。上田与志はその一部始終を、指揮に当った原隼人から聞いた。奉行所から破壊工事と警固のために何十人かの下役人が派遣されるのを、与志も実際に見ていたのである。屋根が剥《は》ぎとられ、壁がつき崩され、建物の骨組みがあらわになると、人々はそれに太綱をかけ、声をあわせて引いたのだと原隼人は話した。
「前の破壊工事のときには、人夫のうえに梁《はり》などが落ちたりして、大勢の死傷者が出たものだ。まだあのころは気違いじみたキリシタンが多くてな、人夫に破壊をやめるよう懇願したり、役人に取りすがる者もいた。彼らは鞭で叩きのめされ、血まみれになっても、工事場から立ち去らなかった。あのときに較べれば、こんどの破壊工事などは、まるで空屋をこわすようなものだった」
原隼人が去ってからも、上田与志は通辞溜りの片隅の机の前でじっとしていた。音をたてて崩れ落ちる天主堂が眼に見えるような気がしたからである。
いつかの夜、ほの暗い蝋燭の火にゆらゆら照らしだされていたマリア像はどうなったであろうか。原隼人の話だと、天主堂のなかには何一つなかったというのだから、当然祭壇もマリア像も運び去られたにちがいない。だが、あのとき闇から現われて、一瞬にして消えた人物は、いまごろ何をしているであろうか。おれは伊丹の母が姿を現わしたように思ったが、あの女もやはりキリシタンなのであろうか。おれは自分が冤罪《えんざい》で牢に入るまでは、キリシタン宗徒に対して、ちょうど原隼人が抱いているような、訳もない嫌悪と反感を持っていた。伊丹の家がキリシタンだったことも、こうしたおれの気持と関係があったかも知れぬ。だが、地下牢に入って以来、おれはなぜかキリシタン宗徒だというだけで、彼らを憎むことはできなくなった。正直のところ、頭では禁制の宗門であることは解っておりながら、心では彼らに同情を感じることがある。おれが冤罪に問われたとき、小曾根をのぞけば、親身におれのことを考えてくれたのは地下牢のキリシタンだけだった。彼らはおれが役人なので遠慮はしていたが、何かと好意を示そうとしていた。自分たちが明日にも死罪を申しつけられるかもしれないのに、おれが無罪であることを証言しようと言ってくれた。それはどんな気持の動きであるのか、おれにはよく理解できなかったが、彼らは、おれをキリシタンにするよりは、無罪であると証言することのほうが、いっそうキリシタンにふさわしい行動であると言っていた。本当なら、十字架一つのために、危うく生涯を台なしにし、生命までも失いそうになったのである以上、キリシタンを憎むのが当然なのに、どうしてもそうした気持にはなれなかった。いや、かえって、地下牢から出ると、彼らが不当に取りあつかわれているのではないか、という一片の疑いを抱くようになったのだ……。
「むろん、それは押し殺さねばならぬ」上田与志は、長谷川権六の浅黒い、面長の顔を思いだしながら、声を出して言った。「おれはなんとしてでも立身しなければならないからだ」
彼は自分にそう言いきかせた。そして頭痛でもこらえる人のように額に両手をあてて、机の上に拡げた積荷記録をあらためにかかった。幾つかの品目のポルトガル語を彼は翻訳していった。
小曾根乙兵衛が久々で上田与志を料亭の離屋《はなれ》にさそったのは、季節がすっかり夏に入ってからであった。天主堂破却とその後の事務処理のほかに唐船五艘が入港して、その交易事務のために、長崎奉行所はしばらく本来の繁忙のなかに追いこまれていたのである。
潮の香りの濃く漂う奥座敷に通ると、小曾根は畳のうえに大の字に横になって、「ああ疲れたな。おぬしもこんどはつめて仕事をしたものだな」と言った。
開け放った窓から、庭の黒々とした木立ごしに、遠い闇のなかで、碇泊中の唐船の小さな灯が幾つかまたたくのが見えた。廊下から蚊|やり《ヽヽ》の匂いが畳を低く匐《は》って流れていた。
「おぬし、いつかここで私が話したことを憶えているか」酒が運ばれると、小曾根は身体を起して言った。「長谷川殿がどんな具合に長崎の町方長老を扱うか見ものだ、と私はおぬしに話した。ところがどうだ。キリシタンの町方長老の手で、天主堂を破却させた。それもたかが三十梃のポルトガル銃という手品によってだ。やはり長谷川権六はただの鼠じゃないな」
「手品だと?」上田与志は口もとへ近づけた盃をとめて、小曾根を見つめた。「ポルトガル銃が手品だと?」
「おそらくな」小曾根は温厚な表情を変えずに言った。「私はそう睨んでいる。あれはおぬしの言うように白糸の抜け荷だったにちがいないと思う。だが、それでは、町年寄たちは動かんだろう。長老たちを動かすには、もっと深刻な犯罪が必要だった。誰もが黙認しているこの秘密をあばくような――少なくともそういう危険のあるような、重大な犯罪が必要だった。それを隠すためなら、天主堂の破却やキリシタン宗徒の家屋敷の破壊もやむを得ないと思わせる、そうした犯罪が必要だった。それをわずか三十梃の鉄砲で、つくりだしたのだ」
酒がまわると、小曾根乙兵衛はいつものように饒舌になっていった。
「だが、こうしてポルトガル船の売り惜しんだ白糸の隠匿場所を、キリシタン禁制に事よせて破却することができたわけだが、それにしても、堺屋殿も、長崎町方の長老連も、さぞかし寝ざめの悪い思いをしていることだろうな」
小曾根はそう言って盃を飲みほし、声をたてずに低く笑った。
「なぜだ? キリシタンのくせに天主堂を破却したからか」
与志は小曾根の温厚な顔を見つめた。
「もちろんそれもある。だが、おぬし、窓の外を見てみろ。なにが見える?」
小曾根乙兵衛は自分の背後に開いている窓を目で指して言った。
「なにって、ただまっ暗闇だ。唐船の灯がかすかに見えるだけで、他には何も見えぬ」
「それだけで沢山だ。問題はその唐船だ。なにも選《よ》りに選って、こんな時期にやってこなくてもよかりそうなものにな。いや、世間ってやつは、往々にして、こう皮肉にできているものだ」小曾根乙兵衛はそう言った。それから与志の盃に酌をすると、眼をあげて「おぬし、こんどの唐船の積荷目録を整理していたな。何が主な品目だった?」と訊いた。
「もちろんポルトガル船と同様、白糸だ」
「そうだろう。ところで、白糸の価格決定には堺屋、菱屋、高嶋、平野、松葉屋など割符《わつぷ》仲間の顔だけだったかね」
「いや、割符仲間以外の人々――高木殿も、木屋殿も、小西殿も集まっておられた」
「変に思わぬか」
「変といえば変だ。だが、こんどの事件のあと、なにか特別の事情があって……」
「いや、そうではない。割符仲間の商人たち――ポルトガル船の白糸を一括して購入される堺屋殿のお仲間たち――は、唐船についてはそうした特権を持っていないのだ。つまり資本さえあれば、誰もが――割符仲間以外でも白糸を購入できるのだ。おぬしだって、銀数千貫目あれば、堺屋殿や平野殿のむこうを張って、相場をたてることができるのだ」
「それでは、ポルトガル船の白糸を押えても、唐船の白糸の建値が高くなれば、どうすることもできぬではないか」
「だから皮肉なものなのだ」
小曾根乙兵衛は背後をふりかえり、闇のなかにまたたく唐船の灯を見つめた。
「たしか八、九年前のことになるが、堺屋殿のお仲間が老中に働きかけて、唐船の白糸にも、ポルトガル船と同じ一括購入を願い出て、一度は許可が出たことがあるのだ。だが、あの小野民部が……そうそう、いつか、おぬしは偽の堺屋利左衛門と名乗る人物に助けられたことがあったな。そのとき居合わした、眼のしたに大きな|ほくろ《ヽヽヽ》のある人物――それが小野民部だが、その小野が、家康公の亡くなられた直後のごたごたにつけこんで、一度出た老中の命令を撤回させるというような芸当をやってのけたのだ」
「なぜまたご老中がそのような……」
「さ、そこが老中の摩訶《まか》不思議なところだ。私の推測では、家康公側近と結んでいる堺屋殿や長谷川一族に対して、小野民部は秀忠公側近に働きかけたのだと思う。小野民部の背後には薩摩の島津が控えている。島津にとって、唐船が長崎に集中し、堺屋殿のお仲間に一括購入されてみろ。それでなくても窮迫した財政が破滅にまで追いつめられるだろう。小野はそのことを説いたのかもしれぬ。ともかく、小野民部の策動で島津は坊津《ぼうのつ》や山川港に唐船をふたたび迎えいれることができるようになったが、そのため堺屋殿はじめ割符のお仲間は、唐船に対する一括購入の権利をうしなってしまったのだ」
「その後は、なんの手も打ってはいないのかね」
「いや、そんなはずはない。現に、こんどの建値の決定にしても、割符仲間の誰よりも、仲間に入っておらぬ木屋殿や小西殿や伊丹殿などが熱心ではなかったか。ということは、堺屋殿のお仲間が、このままでは引きさがれぬということを意味するのだ。私の見るところ、唐船の白糸をめぐって、堺屋殿のお仲間と、それ以外の商人たちのあいだで、息づまるような駆引きや策動や陰謀がつづけられているにちがいないと思う。いや、これは確実なことだ。このままで平穏に終るとは思われぬな」
こうした小曾根乙兵衛の話はいつ果てるとも見えなかった。与志は、小曾根の該博な知識と詳細な消息に通じているのにいつもながら舌を巻いたが、ただ与志の場合は逆にそうした知識がつめこまれるにしたがって、前よりも一段と深く迷路のなかに踏みこんでゆくのを感じた。そして酒がすすむにつれて、堺屋利左衛門のもてあそぶ胡桃の実や、小野民部の眼のしたの|ほくろ《ヽヽヽ》や、銅鑼《どら》を鳴らして蛇踊《じやおど》りをする唐船の乗組員たちが、頭のなかで、ぐるぐるまわっているような気がした。窓のそばに立って空を見あげると、赤味を帯びたおそい月が、ちょうど背後の山稜から浮びあがったところだった。そしてその月もぐるぐると彼の眼の前で踊っているように見えた。
翌朝、与志が奉行所下屋敷で眼をさましたとき、まだいくらか頭痛が残っていた。彼は床から這《は》いでるようにして雨戸をあけると、外には夜明け前の薄明が蒼白く庭のあたりに漂い、露が下草のうえにおりていた。暑気がくる前の、すがすがしい冷気がゆっくりと雨戸のあいだから忍びこんできた。
与志が港の方角に|のろし《ヽヽヽ》があがるのを見たのは、縁先に汲んでおいた飲み水を一口飲んだときであった。彼は空を見あげた。|のろし《ヽヽヽ》の煙は、ようやく明けてゆく淡い空のなかにゆらゆら真っすぐにのぼっていた。それが入港船を報ずる遠見の|のろし《ヽヽヽ》であることは与志にはすぐわかった。しかし彼は、痛みの残る、朦朧《もうろう》とした頭で、後続の唐船が到着した合図だろうくらいに思うと、そのままふたたび寝床にもぐりこんで、出勤時までの幾刻かを熟睡した。
彼が眼をさましたとき、すでに日ざしは高く、暑くなりそうな気配がした。
役所に出ると、通辞溜りに小曾根乙兵衛がさっぱりした顔で坐っていた。彼は与志の顔を見ると笑って言った。
「どうも、冴えた顔ではないな。ひとつ港にでも出てみたらどうだ。久しぶりに、御朱印船が今朝がた入港した」
「では、あれは」と与志は頭のどこかに残っている|のろし《ヽヽヽ》のゆらゆらした動きを思いだしながらつぶやいた。「御朱印船の合図だったのか」
唐船が入港しているだけでも長崎の町々にはふだんよりも活気がみなぎっていたが、上田与志が奉行所を出る時刻には、御朱印船の到着が全町村につたえられていたらしく、港通りはおろか、どの町すじにも、祭りのような華やかな、うきうきした気分が感じられた。奉行所の船着き場には人足たちが唐船から小舟で運ばれてくる白糸の梱包を、つぎつぎに倉庫へ担ぎこんでいた。数量を数えたり、記帳したり、人足を指図したり、唐人たちと価格を話し合ったり、それを通訳したり、品目を照合したりする役人たちが、船着き場や倉庫や中庭や用部屋で立ち働いていた。その間にまじって、十数人の買附け商人たちが坐ったり、立ったり、話しあったりしていた。
与志が船蔵や荷物蔵の雑踏をさけて、波止場から出ると、朱印船を出迎える群衆が江戸町から築町《つきまち》のほうへあふれていた。
朱印船はちょうど十|艘《そう》ほどの曳舟《ひきふね》の列にひかれて、細長く湾入した長崎の入江のなかに静かに入ってくるところだった。赤や緑に塗りたてられた唐船と異なり、黒ずんだ船体で、その白い帆は朝の太陽に眩《まぶ》しく光っていた。
上田与志はそれを見ると、かつて堺の突堤の先で見た末次船や角倉船のことを思いだした。あのときも銅鑼が打ち鳴らされ、小屋や番所から人々が駆けだしてゆき、曳舟を乗りだす者や、綱をひく者たちで波止場は雑踏していた。そして船が向きを変えると、そのたびに大きな黒い波が、うねりのように突堤の石組みにぶつかって、しぶきをあげたものだった。あのころは意地悪だった伊丹弥七郎もいたが、伊丹の母もいて、よくおれをかばってくれたものだ。
ちょうど朱印船は入江の中ほどに来て、ゆっくりと向きを変えた。すると、堺の突堤で見たと同じ大きな波が、うねりのように、与志の立っている波止場の石組みに打ちよせ、そのしぶきが白くあがって、そこにいる人々の着物をぬらした。
人々はむしろそれをよろこぶように歓声をあげ、それから、前帆に書かれている屋号を、争って読もうとした。向きを変えたために、それは一段とはっきり読めるようになったからである。
「伊丹船だ。伊丹の船だ」彼らのなかの一人がそう叫んだとき、与志ははじかれたように眼を沖にむけた。
白く揺れている前帆に読みとられるのは、間違いなく伊丹の屋号であった。「では弥七郎が帰ってきたのだ」上田与志はほとんど無意識にそうつぶやいた。それからしばらく船がなおゆっくり動いているのを見つめていた。
弥七郎が朱印状をとりつけて、呂宋《ルソン》にむかったという報せを聞いたのは、与志がまだ江戸にいるころだった。弥七郎と別れてからすでに十年近い歳月がたっていたので、その報せを耳にしたときも、さして特別の感情はうまれなかった。むしろそれぞれに別々の道を歩き、自分は自分で、新しく通辞として、昇進の道を切りひらこうとしていることに、自信と落着きのようなものを感じた。弥七郎が船を仕立てて、南の呂宋や天川《マカオ》から富を集めてくるとき、自分もまた、それに匹敵するだけのものを手に入れられるように思ったのである。
しかしいま伊丹船を眼の前にすると、かつての堺をまざまざと思いだしたせいもあって、弥七郎の出航を耳にしたときのような無関心な気持にはなれなかった。もちろんそこにはある種のなつかしさはまじっていた。が、それ以上に、かつて味わった憎悪や反撥や呪詛《じゆそ》が遠くからのこだまのように響いていた。心をかたくなにさせるような、片意地な感情も、そこに感じられるような気がした。
与志はそんな感情を拭いきれないままに突堤をはなれた。伊丹の母がこんな自分の気持を知ったら、どんな気持になるだろうか。そう思うと、与志は、自分のためにも、そうした気持にずるずる引きこまれてゆくのが、なんとなくなさけなく、寂しかった。うつろな、ぼんやり放心した、悲しみに似た感情に包まれながら、与志は人々が叫んだり、笑ったり、話しあったり、駆けたり、手をふったりしているその港通りの雑踏をわけて歩いていった。
二日酔いの朦朧とした状態がまだ完全にぬけきっていないな――彼は奉行所波止場の白い土塀を見たとき、ふとそう思った。
ちょうど上田与志が奉行所波止場の角を曲ろうとしたとき、一団の商人や船大工風の男や牢人者たちが突堤のほうへ急ぎ足でゆくのにすれちがった。しかしそのとき上田与志はなおぼんやりと放心していた。そして奉行所の正門を入っても、まだそうした放心状態がつづいていた。
「あれは誰だったろう。どこかで見たことがある顔だ。誰だったろう」
上田与志が突然、つい今しがた、すれちがった男たちの一人を思いだして、思わずそうつぶやいたのは、彼が奉行所の玄関まで来ているときだった。彼は足をとめると、頭を二、三度軽く叩いた。
「どこかで見た顔だ。誰だったろう。誰だったろう」
すると、そのとき上田与志は自分でも驚くような声をあげた。「彼だ。あのときの男だ。そうだ、間違いない。あの男だ。なぜもっと早く気がつかなかったのだ」
与志は自分をとがめるようにそう叫ぶと、一団の男たちのあとを追って、ふたたび奉行所の門をとびだしていった。
港通りから波止場にかけて、相変らず群衆がひしめき、役人や人足や商人たちがその人波をわけて、小舟を出したり、荷物を運んだりしていた。伊丹船に至急入用の品を運びこんだり、連絡の船員を迎えたりしているらしく、そのたびに船で銅鑼を鳴らし、群衆がそれに和して歓声をあげていた。
上田与志はそうした群衆のなかに、あの男――眼のしたに大きな|ほくろ《ヽヽヽ》のある男を捜した。彼は小半時も群衆のあいだを歩きまわり男の姿を見つけだそうとした。しかし彼がすれちがった一団の男たちとすら出会うことはできなかった。そうしているうち、その群衆のなかに上田与志は思いもかけぬ人物を見いだした。その人物は沖の伊丹船に向ってしきりと手をふっていた。海からの風に髪をなびかせていたが、それがいつかの夜、丘の天主堂で一瞬姿を見せた若い娘であることは間違いなかった。
7 夏の巻
風に吹かれながら、娘は乱れる髪を左手でおさえるようにして、沖にむかって何かを叫び、時おり自分の左右にいる人々に話しかけ、首をふり、おかしそうに笑い、それから笑顔をまた沖にむけ、まぶしそうに眼を細めた。沖から何度か合図の銅鑼が鳴ったが、そのたびに娘の周囲に集まった一団の人々が、ひと際高く喚声をあげた。彼らが伊丹船の船頭や水夫たちの親戚縁者であるらしいことは、上田与志ならずとも、一目で見てとれたにちがいない。涙を拭いている女や、肩をふるわせている老婆や、手を合わせている老人や、母親の胸にとりすがって泣いている幼児などが、その一団の人々のなかに混っていたのである。
与志はなぜかそうした人垣をわけて娘の近くまでゆくのが憚《はばか》られた。危険な、ながい航海のあと、いま再会を眼の前にして、家族の一人一人があるいは泣き、あるいは笑いしている様子が、若い上田与志の気持を強くゆすぶったからだが、もう一つには、風のなかに立っているその娘の、マリア像に似た美しい面《おも》ざしに、一種の気おくれに似たものを感じたからである。
娘の声も、その話す言葉も与志のところにまでは聞えなかったが、笑ったり、首をふったり、話しかけたり、眼を細めたりする様子には、娘らしい、いきいきした、明るい感じがあった。ただ、その端正な顔立や、暗く見つめるような澄んだ眼《まな》ざしに、どこか憂鬱な美しさが感じられたとすれば、それは、おそらく娘が、長崎になお当時五、六十人は残されていた混血児の一人だったからにちがいない。
彼女たちの多くはポルトガル人を父として生れ、つつましい日本人の母とともに、長崎に住みついていた。そしてそのほとんどの場合、ポルトガル人の父親は船とともに、天川《マカオ》かゴアへ引きあげてしまったか、または、四年に一度、五年に一度という割合で辛うじて顔をあわせていたにすぎない。しかしそうしたポルトガル商人、役人、船員たちも幕府の禁教政策が厳しくなり、自由に長崎市内に宿泊できなくなると、次第に日本人妻を見すてるようになったが、また事実、当時急激に極東海域で勢力を得たオランダ、イギリス船団が、ポルトガル船を襲って、天川と長崎を結ぶ交易ルートを攪乱《かくらん》するようになると、こうした混血児の父親のなかには、その犠牲となった人間もいたのである。
上田与志もすでに混血児たちを見慣れていたし、長崎の住民たちもポルトガル人やオランダ人をことさら珍しく感じないのと同じだけ、混血児に何ら特別な感情をもっていなかった。混血の娘たちに一種の静かな諦念《ていねん》に似た憂鬱な表情が感じられるのは、町の雰囲気というより、むしろ父親の不在を宿命づけられたその境遇の寂しさのせいだといったほうがよかった。稀《まれ》には母親がポルトガル人のこともあったが、その場合、すでに母親のなかに異国住いの孤独感がしみていたのである。
またこれら混血の娘たちが、一様に美しかったというわけではない。時には異なった髪の色、異様に大きい眼、骨張った顔だちは、上田与志の時代には、むしろ醜く感じられることが多かった。にもかかわらず風に吹かれていた娘の端正な面ざしは、与志の眼には、静かな気品にみちたものに見えたのである。
与志はその横顔を見つめながら、いったいこの娘は、伊丹船とどのような関係をもつのだろうかと自問した。父親が船頭たちの一人として働いているのであろうか。それとも伊丹船に便乗したポルトガル商人なのであろうか。それにしても、この娘がなぜ丘の天主堂にいて、一瞬にして姿を消したのであろうか。その後に続いた黒い人影や、重い荷物の運搬に彼女は何か関係を持っているのだろうか。
「小曾根の言葉によれば、あの事件は何一つ片附いていないというのだ。すべて長谷川殿と堺屋殿によって、曖昧にされ、うやむやにされ、とどのつまりはポルトガル白糸の隠匿所とおぼしい天主堂や倉庫やキリシタン関係の建物を破壊する口実に使われた。それにおれを介抱した偽の堺屋利左衛門や、眼のしたに|ほくろ《ヽヽヽ》のある小野民部、ポルトガル家具や調度で飾られたあの邸――そうしたものすべては、おれには何一つわかっていない。ひょっとしたらあの娘が何か鍵を持っているのかもしれぬ。彼女の素性を知り、伊丹船との関係を明らかにすれば、その全部とはゆかなくても、一部なりと、判然とするのではあるまいか。そしてそれが自分でも納得ゆけば、小曾根がよく言うこの長崎の複雑さも幾らかはのみこめるようになるのではないか。少なくとも、いま長崎で起っているのは何なのか、おれは理解することができるはずだ。それがわからなければ、おれはどこから功名手柄をたてていいのか、見当もつかないのだ。うっかりすれば、また、あの地下牢へ叩きこまれぬとも限らない」
上田与志が群衆にまじって、娘にあえて近づくこともせず、さりとて奉行所役人として船着き場へおりてゆくこともしなかったのは、こうした意図があったからである。与志は何艘かの小舟が伊丹船から人々を乗せて近づくのを見ていた。大樽につめた飲料水を運んでゆく小舟もあり、魚や野菜を運びこむ小舟もあった。役人の船荷改め、乗員改めが終らないうちは、誰ひとり上陸することはできなかった。彼らは長い航海のあと新鮮な水と食料に欠乏していた。小舟が沖に荷をつんでいったのはそのためだった。船から一度戻ってきた男は、船員たちは皆元気だが、船のなかは、暴風《しけ》に遇って散々だ、と叫んでいた。
群衆のなかから「うちの息子は元気だったかえ?」とか、「亭主は元気でおりやしたか?」などという声がかかると、男は「喜八っつぁんかい、船のうえでぴんぴんしとったよ」とか「久太郎さんかな。早くお前に会いたいと言うとるよ。潮風に灼《や》けて、黒こげになって、男前が落ちたと言うて、悲観しとるがね」などと言った。そのたびに人々は笑い、囃《はや》したて、また女たちのなかには嬉しさのあまり泣きだす者もいた。
日が高くなると、風があったにもかかわらず、暑熱が地肌を焼き、通りには白い埃が舞いあがった。人々は船蔵の影に入ったり、木立のしたに立ったりした。扇や笠で日をよけながら海辺に立ちつくす人も多かった。
最初の興奮がすぎ、朱印船の船員たちが上陸するのは、その日の申《さる》の刻(午後四時)をすぎることが伝えられると、家族の一部をのぞいて、人々は動きはじめた。相変らず海岸通りは雑踏していたが、それは、新たに朱印船を見にきた人たちと、町へ引きあげる人々とが江戸町の海岸から浜町の築地へかけて、押しあい、へしあいしていたからである。
与志はこうした雑踏のなかで娘の姿を見失うまいと、一定の距離をとって、娘の動きにしたがっていた。彼女もまた何人かの男女とともに波止場から江戸町すじをぬけ、長久橋をわたって、浜町から舟大工町へ歩いていった。
娘の美しさはそうした雑踏のなかでも、人々の眼をひくらしく、牢人風の侍や商人や職人などが、一瞬、娘のほうへきらりと眼を光らせるのに、与志は何度か気がついた。万一誰か顔見知りでもいて、娘が挨拶でもすれば、その相手から、娘に気づかれずに身元がわかるにちがいない。そう思って与志は注意深く眼を配っていたが、娘のほうを眺める男たちのなかには、それらしい人物は見当らなかった。
娘の歩き方から、与志は彼女も特別の目的をもって雑踏のなかを歩いているのではないことがわかった。銅座の角で連れの男女と別れると、彼女は祭り見物をしているように、時おり道にたたずんでは沖を眺めたり、町角の物売りをのぞいたり、船蔵の日かげに入って休んだりしていた。
やがて娘はふたたび築町のほうへ足をかえすと、材木町から内下町の木立の深々と繁った崖下の道を歩いていった。正午に近い真夏の太陽が石垣に照りつけ、かたく石を敷きつめた坂道に眩《まぶ》しく反射していた。その坂を娘はのぼった。
坂をのぼりつめたあたりは宏壮な邸が並び、重々しい門や長い白い土塀がつづき、塀のうえにのびた樟《くすのき》や椎が濃いかげを道にひろげていた。海岸通りから離れると、日ざかりのことでもあり、そのあたりの道はひっそりとしていた。
与志は娘に気づかれないように距離をたっぷりとって後をつけていたが、娘のほうは与志の存在にはまったく気がついていない様子だった。屋敷町をぬけると、谷を一つ越えて、桜町の牢屋敷のほうに道が通じている。娘の姿はそこで突然消えた。与志が駆けつけて、その辺りを調べると、角をまがった場所にこんもり繁った木立に抱かれるようにして、古びた門があり、苔《こけ》むした敷石が植込みや石燈籠《いしどうろう》のあいだを、奥のほうへとつづいていた。
そこからは谷へおりてゆく道すじはまっすぐ見通せたので、娘が姿を消したのは、この屋敷のなかと考えるほかはなかった。与志はしばらくためらってから、誰かに呼びとめられることを覚悟で、門をくぐった。
屋敷のなかは葉を繁らす巨木のせいか、空気がひんやりと冷たく、それが、日ざかりの道を歩きつづけた上田与志の肌に心地よかった。屋敷のなかは思ったより荒廃していて、奥庭を隔てているらしい築地塀《ついじべい》もところどころ崩れ、雑草が丈《たけ》高く繁っていた。
どこか裏のほうで犬の鳴き声がしていたが、それがやむと、しんと静まりかえって、丈の高い雑草のうえを飛びかう羽虫の唸《うな》りが聞えるほどだった。
屋敷内には人の気配はなかった。そして誰にもとがめられず、屋敷の奥へ入ってゆくと、ふと彼の心には、丘の天主堂の一件以来、自分をまきこんでゆく事件の真相を自分で究明したいという、妙に片意地な気持が動くのを感じた。いまになってみると、長谷川権六も堺屋利左衛門も高木作右衛門ら町年寄も、互いに真相をかくしあっているのではないかという疑いが強くなる。事の進行は長谷川殿や堺屋殿の意向で、ある程度までは決ってゆくかもしれない。とすれば、なおさら彼は自分の眼で、事の進行とは別個の真相を確かめてみたいような気がした。「とも角、どんな家か見ておかねばならぬ」彼はそう独りごちた。
玄関が近づいてくるにつれて、与志の眼には容易にそれが、和風家屋にポルトガル風の細格子や露台や破風《はふ》をとりつけた奇妙な折衷建築であることが見てとれた。しかし玄関わきから庭に張りだした露台の、細格子に飾られた腰板や手すりは、灰色の塗料も剥《は》げ、一部は朽ち落ちていて、そこにも丈の高い雑草がのしかかるようにして旺盛《おうせい》に繁茂していた。
玄関わきに、船で使う銅鑼が鎖で吊ってあった。訪問客はこれを打ちならすよう指示されていた。与志は思わず太い撥《ばち》をとりあげた。なぜかそれを打ちならしたい衝動を感じた。しかし次の瞬間、自分の衣服箱のなかから思いもかけぬ金の十字架が出てきたときのあの恐怖と惑乱を思いだした。あのときも自分勝手に独走して、いつの間にか事件の網の目にがんじがらめになっていたのだ……。
もしおれがこの屋敷に乗りこんでみたところで、いったいどれだけの真実がわかるというのか。玄関先で体よく追いかえされるか、よしんば娘に会ったとしても、怪訝《けげん》な印象を相手に与えるにすぎない。ともかく、今日はここで思いとどまらなければならぬ。そして小曾根とも相談のうえ、娘の謎を解いてゆかなければならぬ。
与志は奉行所に帰ると、長崎内町の人別帳を借りだした。ちょうど与志が通辞溜りの机のうえにその分厚い人別帳をひろげ、地図と引きくらべているところへ、外出先から、温厚な小曾根乙兵衛が帰ってきた。
「二日酔いはもういいのか」
小曾根はそう言って、与志の手もとをのぞきこんだ。
「こんどは人別帳で何を当ろうというのだ。おぬしに捜せるようなものがあるかね」
「ひどいことを言うな。二日酔いのおかげで大へんな失策をやった。小野民部とすれちがいながら、おれはそれにすぐと気がつかなかったのだ」
上田与志はその後の逐一を話した。
「ところで、その屋敷はわかったかね?」
「これだ。間違いない。伊丹市蔵とある。船主だ」
「伊丹か、それで読めるではないか。伊丹の娘が波止場へ御朱印船を出迎えにいったのだ」
「では、この伊丹は、堺の伊丹の縁者なのか」
「そうだ。おぬしが育った伊丹治右衛門殿の縁戚にあたる。伊丹市蔵は慶長《けいちよう》、元和《げんな》にかけて、三回朱印状をうけている。そのあいだ市蔵はしばらく天川《マカオ》に滞留したことがある。たしかそのときポルトガルの女と結婚したのだ。この女は長崎に来る前に死んだはずだ」
「うむ。それは人別帳に記入されている。娘は日本名は|ふく《ヽヽ》、通称はコルネリアを用いるとある」
「それだけわかれば十分ではないか。その後のことは、われわれが地道に調べなければならないな。だが深入りは禁物だぞ。この前のようなことがあるからな」
「こんどの伊丹船とは、市蔵はなにか関係があるのかね」
「噂では、弥七郎に莫大な投銀《なげがね》(投資)をしているということだ。それにしても弥七郎の首尾は上々らしい。暴風《しけ》にあったのが唯一の不運だが、白糸は伊丹船だけで八千斤にのぼるという噂だ。明日、明後日には船荷改めで真相がわかるが、もしこれが本当だとすると、今秋の糸相場は、ポルトガル船が来ないから暴騰することになる。百斤あて銀子《ぎんす》二貫三百だったものが、五貫目近くまであがるのではないかと言われているのだ」
「では、堺屋殿の割符仲間はどうされるのだ?」
「さ、そこだ。唐糸が一船あたり四千斤、五艘で、しめて二万斤、それに伊丹船の八千斤。泣いても笑ってもこれだけで、ポルトガル白糸が入っていた頃は需要は三万から四万。これを堺屋殿のお仲間が一括購入していたから、京、大坂で売りだす場合にも、そうべら棒に上騰することがなかった。しかしこの秋は、堺屋殿のお仲間はさぞかし切歯しなければならないことになりそうだな」
上田与志が小曾根とこうした会話をとりかわしてから三日後、つまり伊丹船の積荷改めが終り、陸揚げがぼつぼつ開始されたころ、長崎の町に奇妙な噂がひろまった。
それは、伊丹船に伴天連《バテレン》が潜伏しており、夜陰にまぎれて長崎に潜入したという噂であった。そしてある者は伴天連が海を泳いでくるのを見たといい、また他の者は牢屋敷のあたりを徘徊《はいかい》していたと申したて、その噂の内容はまちまちであったが、そのいずれもが伴天連が伊丹船でやってきたという点で一致していた。
もちろん長崎奉行所がそうした噂の出所と目される何人かの人物を召喚して、問いただしても、噂を裏づける事実をつきとめることはできなかった。いずれの場合にも、彼らは単なる「また聞き」の範囲を出なかったからである。
しかしながらそうした奉行所の丹念な詮索《せんさく》の網のなかに、この噂を裏づけるような証人がひとりかかってきた。本紺屋町に住む桶《おけ》屋の庄吉と呼ぶ実直な男であった。桶屋庄吉の申したては、この男の人柄から言って、かなり信憑性《しんぴようせい》のあるもののように見られていた。庄吉は長谷川権六じきじきの取調べに対して、次のように答えたのである。
「へえ、その日は一日、桶を売り歩きまして、そろそろ日の暮れる頃でございました。築町から内下町のお屋敷にかかり、一休みと思いまして、道端に腰をおろしておりましたところ、とあるお屋敷の御門から、どえらく背の大きい虚無僧《こむそう》が出て参りまして、谷をおり、酒屋町のほうへ歩いてゆかれました。深編笠のため顔は見えませんが、身体の恰好、大きな紅毛のはえている手などから、これは、ひょっとすると伴天連じゃないかと思いまして、あとをつけたのでございます」
庄吉は本大工町の左官職の家に虚無僧が入っていったことを証言した。下役人が庄吉を伴って調べたところ、僧の出てきたのは伊丹市蔵の家だったことが判明した。
ただちに左官の源次が召喚されたが、もちろん彼はそれを否定して、まるで事実無根の中傷であると申したてた。また伊丹市蔵の家からは、市蔵が病気のため、娘の|ふく《ヽヽ》が奉行所に出頭した。むろん与志が海からの風のなかで見たあのコルネリアである。そして彼女もまた全く身に覚えのないことについて中傷されるのは、伊丹船の成功をねたむものがいるからである。奉行所はむしろそうした人々を詮議していただきたいと言った。
態度といい、論旨といい、三者が三様に真実を申したてているとしか思えなかった。長谷川権六は与力の原隼人に命じて伊丹邸の探索と、左官屋源次の家の調査を再度厳重におこなわせた。しかしその限りでは、原隼人はなに一つ証拠を押収することはできなかった。
唐船につづく御朱印船の入港で祭りのように賑《にぎ》やかだった長崎が、急にひっそりと翳《かげ》りを帯びはじめたのは、伊丹船の噂が囁《ささや》かれるようになってからである。そこには一種の重苦しさが感じられた。深刻な、不安な、陰気な気分が町年寄の集会や、町方会所での日々の仕事のうえにのしかかっていた。
その最大の理由は、二年前の大殉教が、平山|常陳《じようちん》が天川から伴天連二名を船にのせて日本に連れてきたことが発覚し、常陳はじめ船頭、水夫十三名が火刑、打ち首の極刑に処せられたことからはじまっていたためである。常陳を告発したのは、日本人の告訴人ではなく、ポルトガルと競争関係にあったオランダ、イギリスの船隊だった。彼らはキリシタン信仰の名目でポルトガルを対日交易から追いおとそうとし、また常陳の船に満載された商品を告発の代償に手に入れようと計ったのである。
万一いま同じ理由で伊丹船が告発されると、同じ経緯を経て、久しく鳴りをひそめていたキリシタン弾圧の口火が、いつ切られるかわからない。事実、平戸、大村、五島など長崎周辺の諸藩では毎日のように血なまぐさい、陰惨な殉教がおこなわれていたのである。
長崎の人々が突然声をひそめたのは、伊丹船が伴天連を、乗船させなかったという保証がまったくないのを知っていたからである。
町年寄の寄合いが頻繁《ひんぱん》に町方会所でおこなわれた。連日、空は青く晴れ、太陽は長崎の山々や入江や町村に激しく照りつけた。白い街道に砂塵《さじん》をあげて早馬が駆けてゆくことがあった。濃い影を落す木立のかげに入って休む男がいた。夏はいまが盛りであるように見えた。
上田与志が原隼人とともに左官屋源次宅を訪ねたのは、そうした酷暑の一日だった。前に何度か訪ねていた原隼人は、源次にもその妻にも言葉らしい言葉もかけなかった。彼は下役人を使って源次の家のなかに入りこみ、押入れをあけ、行李や木箱や櫃《ひつ》をひっぱりだし、天井裏を匐《は》いまわり、畳をひきはがして床下を調べた。
源次は肥ったおとなしい男で、妻の手から泣き叫ぶ幼児を抱きとってやった。源次の妻には乳呑児がまだいたのである。病身そうな、忍耐強い、静かな女で、下役人たちが家を荒しまわっているあいだにも、路地の隅でじっと立っていた。
「どうだ、おぬし、におわぬか? どうだ」原隼人は源次夫婦のほうを顎《あご》でしゃくって言った。「伴天連は一度はここに来たのだ。それから長崎を出たか、または周辺の山間部にひそんでいるか、だ。だが、必ずここに帰ってくる。私には、その臭いでわかるのだ。こいつらのなかに臭っているのはキリシタンの臭いだ。この臭いは、私には、ただ見るだけでわかるのだ。伊丹船には伴天連はいたのだ。それをみんながかくしている。かくしおおせたと信じていた。ところが天網恢々《てんもうかいかい》疎にして漏らさずだ。逃げようとしても逃げおおせることはできないのだ」
しかしその日の徹底的な調査にもかかわらず、痕跡《こんせき》はついにつかめなかった。帰る道々、原隼人は半日の探索が無駄だった腹立ちまぎれに、上司の優柔不断な態度に八つ当りして言った。
「だいたい長谷川権六殿が手ぬるいのだ。同じ長谷川でも伯父の左兵衛殿のほうがどんなに立派だったか知れない。左兵衛殿は家康公にじきじき可愛がられた。頭のきれる鋭い方だった。天主堂の破壊を指揮されたのも、キリシタン禁制を押しすすめ、火刑や拷問を採用になったのも左兵衛殿だ。それに引きかえ、権六殿はどうも煮えきらぬ。家康公がなくなられて、長谷川一族の寵愛《ちようあい》が一挙に消しとんだとも言われる。秀忠公側近は長谷川一族の追い落しにかかっているという噂もある。これは私が江戸表から貴重な代償を払って手に入れた情報だ。確かなすじの情報だと考えていい。とすると、なぜ長谷川権六殿はキリシタン禁制にもっと厳しい態度をとらぬのか。禁制は秀忠公側近によって一段とすすめられていると言われているのだからな。ところが長崎では大殉教以来、禁圧の手がゆるんだようにも見える。なるほどこの前の残存天主堂の破壊、キリシタン関係建物の破却は、見事であり、大仕掛だった。だが、私に言わせれば、なぜキリシタン宗徒がポルトガル銃を隠匿運搬したとして糾弾しなかったのか。あれだけの材料がそろっていたのだ。もしやる気があれば、前の五十五人|磔刑《たつけい》に優るとも劣らぬ大弾圧ができたはずだ。長崎ではいたるところでキリシタンの臭いがするのだ」
上田与志はこうした話を、軽く差しさわりない程度に相槌《あいづち》をうちながら聞いていたが、そのうち、以前、小曾根乙兵衛が言った言葉――長谷川殿はひょっとしたらキリシタンかもしれぬ――を思いだした。
たしかに原隼人の言葉をまつまでもなく、長谷川権六の態度にはどこか説明しかねる部分があった。権六殿が何者かに狙われ、追い落されようとしていることは、印籠《いんろう》の一件からも推測できる。だが、もしそれが原隼人のいうように、秀忠公側近の勢力であるとすると、それは長崎の誰につながっているのか。
「また小曾根に整理してもらわなければならないな」
与志は思考の糸がこんがらがってくると、思わず苦笑してそうつぶやいた。
しかし与志は小曾根乙兵衛と話をする機会をうしなった。彼が左官屋源次の家を探索した翌日、長谷川権六から呼びだしをうけたからである。
権六は浅黒い、面長の顔を例によって庭のほうに向けながら、その傷あとに無意識に手をやっていた。
「このたびの伊丹船の奇怪な噂については、そのほうも種々聞きおよんでいることと思う。だが、噂が噂であるだけに、当奉行所としては、その真相をあきらかにして、是は是、否は否としてゆかなければならぬ。原に聞いたが、そのほうは左官職源次宅の捜索に加わっていた由。ところで、源次宅の探索はどうであったか」
そうたずねる権六に対して、上田与志は、まったく痕跡もなかった、と答えた。
「ここだけの話だが」長谷川権六は障子をあけはなった書院の窓から奥庭に眼をやって言った。「私はこんどの噂はいずれも根拠不明の噂であると思っている。昨日の源次宅の探索の結果がそうなら、なおのこと、私はそう考えないわけにゆかない。しかし他方、伊丹市蔵の屋敷が残っている。また桶屋庄吉の証言も検討する必要がある。そこで私の頼みだが、そのほうと伊丹一族とは縁者に当る由。だとしたら、いっそう事は進めやすい。当の市蔵邸へ出向いて、十二分に奉行所が納得ゆくまで探索してもらいたい。私がなぜそのほうにこの役目を委託したか、むろん察してもらえよう。ひとつ万端とどこおりなく進めてもらいたい」
上田与志は権六の話を聞いているうち、あの荒廃した巨木や雑草のなかに、見棄てられたようなポルトガル風の破風《はふ》や露台や庇《ひさし》のついた家を思いだした。そしてこんどは正式の任務をもって、あの屋敷を訪ねることを思うと、胸の高鳴りをおさえることができなかった。それはもちろん謎めいた遠い縁者の家に対する好奇心からでもあったが、それ以上に、コルネリアとそこで、いや応なく顔を合わさなければならないという事態がさし迫っていたからである。
与志には、それがなぜか、森の中に一点木洩れ日がさして明るんでいる草地のように感じられた。なんとない暗い重い任務のなかに、コルネリアのいる場所だけが、明るく切りぬかれているように感じられたのである。
8 鳥の巻
上田与志が伊丹の屋敷に出向いたのは、その日の午後のことである。奉行所から末次屋敷の前をぬけ、勝山町から牢屋敷の白い長い塀にそって歩いてゆく道々、暑い日ざしのなかで蝉《せみ》が鳴きしきり、乾いた通りには人影らしいものは見当らなかった。時おり海からの風が白い埃をまきあげながら、路傍に影を濃く落している一群の夾竹桃《きようちくとう》をゆらして、吹きすぎた。
伊丹屋敷は前日と同じように静まりかえり、繁茂する、丈の高い雑草のうえには羽虫が飛びかっていた。与志は下役人を数人、屋敷の背後にまわらせた。
長谷川権六の意向は、あきらかに、伊丹屋敷から犯罪の証拠をさがすことではなく、逆に、伴天連密航の噂を事実無根とする潔白の証拠を見いだすことにあった。それは与志が権六の書院に呼びだされたときからわかっていた。問題は、なぜ自分が特別にそのような任務を遂行するために選ばれたのか、という点にあった。理由は種々考えられたが、少なくとも与志が長谷川権六のキリシタン対策に同調するか、同情的な立場にいると考えなければ、この種の仕事は委《ゆだ》ねることはできないはずだ。
「だが、おれはいままで長谷川殿と直接にこうした問題について話したこともないのだ。ただ考えられるのは、十字架の一件で長谷川殿から救いだされているということだ。おれはあのとき奉行の迅速な決断によって、詮議《せんぎ》らしい詮議もなく、放免された。それというのも、おれと長谷川殿は同じ陥穽《かんせい》のなかに落しいれられようとしていたからなのだ。しかし長谷川殿に対する恩義は恩義として残っている。まさか御奉行が自らキリシタンなどということは信じられないが、こんどの噂に対する処置や態度は、まさしく原隼人が批判するごとき宥和策《ゆうわさく》にほかならぬ。だが、それには、なにかおれたちには理解できぬ深慮があるのかも知れぬ。おれの果すべきは、とも角、長谷川殿の意向のままに事を処理してゆくことだ。いずれ真相はそのうちに明らかになるにちがいない」
上田与志は役人たちの監視を指揮しながら、そんなことを考えていた。
おそらくそうした職務上の緊張感が与志にあったためか、玄関の銅鑼に応じてコルネリアが現われたときにも、彼は思ったより自分が冷静でいるように感じた。彼はふだんよりはゆっくりした口調で、伴天連潜入の真偽を詮議するため、長崎奉行所より出向いた旨をコルネリアにつげた。彼女は頭をさげてそれを聞いていたが、与志の言葉が終ると、一礼して「お役目、ご苦労でございます」と言った。
コルネリアはそう言ってから、静かな、幾らか憂鬱な感じのする、その端正な顔をあげ、上田与志を正面からじっと見つめた。前の日のはしゃいだ、娘々した様子とは違って、肩の先までのばした髪や、かたい表情や、正式に粧《よそお》った着物のために、別人のように落着いた若い女に見えた。
与志はコルネリアに案内されて、玄関の間につづく広間から探索をはじめた。彼には同心が数人従っていた。雑草の茂るにまかせた庭園と同じく、伊丹屋敷の部屋部屋には、どこか空家に似た荒廃した気分がただよっていた。ポルトガル風の細格子で飾られた露台の見えている、庭に面した広間は、華奢《きやしや》な脚の卓や、椅子が並び、壁側の頑丈な、彫刻のある箪笥《たんす》のうえに金の置時計や、玻璃《ギヤマン》の盃、小瓶《こびん》が飾られていた。
同心たちが箪笥の引出しをあけたり、天井や壁を叩いたり、露台に出る扉を開いたりしているのを、コルネリアは静かな表情で眺めていた。掃除はよく行きとどいているものの、上田与志には、その部屋がながいこと使われないままに閉ざされていたらしいことはすぐにわかった。部屋のなかに人気のない、ひんやりした、土蔵の空気に似た黒ずんだ臭いがとじこめられていたからである。
同心たちは詮索が終ると、次の部屋に移っていった。そこは納戸《なんど》ふうの暗い部屋で、天井に太い梁《はり》が見え、中二階がつくりつけられていた。同心たちはオランダ式の龕燈《がんどう》を照らして、天井の隅々、中二階の押入れの隅々まで調べまわった。屋根の気づかぬような隙間から、真夏の午後の光が幾すじか、眩しい糸のように、細く流れこんで、屋根裏部屋の闇のなかに、淡い紫の薄明りをひろげていた。
コルネリアは探索されている部屋の片隅に静かに坐っていて、同心たちの動きを、じっと眺めていた。その彫りの深い、端正な顔には表情らしいものは浮んでいなかった。冷やかな、かたい顔つきのまま、注意深く同心たちの動きを見まもっていた。
そこには敵意のようなものも、嘲《あざけ》りのようなものも浮んでいなかった。上田与志がコルネリアの表情から何かを判断しなければならないとしたら、彼は当惑するほかなかったにちがいない。
しかしそのコルネリアの顔に表情の変化のあらわれたのは、探索があらかた終って、最後に彼女自身の部屋と伊丹市蔵の居室へ同心たちが足を踏みいれたときであった。とくにコルネリアの部屋の戸があけられた瞬間、反射的に、彼女の眼の奥を、燃えるように激しい色が横切るのを見たとき、上田与志は思わず彼女に何か声をかけずにはいられなかった。それほどにも、その一瞬の感情の炎には激しいものが感じられたのである。
「これはすべてお役目です」と与志は言った。「他意があるわけではありません。誰も好きこのんでこんな探索をしているのではないのです。どうか失礼の段は重々お許し願いたいと思います」
その言葉をきくと、コルネリアは驚いたように顔をあげ、与志の顔をじっと見つめた。彼女には、与志のそうした言葉が、そのような状況のもとで聞かれるとは、思ってもいなかったからである。
しかし与志のほうは、コルネリアの幾分青味を帯びた、澄んだ眼で見つめられると、自分が奇妙な狼狽にとらえられるのを感じた。それは与志がそれまで味わったことのない混乱した気持で、相手が何か眩しいものでできてでもいるかのように、思わず視線をそらさずにはいられなかった。
与志がそのときコルネリアに重ねて言葉をかけたのは、この不意の狼狽からひたすら逃れたかったためである。
「伊丹船の荷揚げも間もなく終ることですから」と与志は言った。「そうしたら、この屋敷もさぞかし賑《にぎ》やかになることでしょうね。伊丹弥七郎殿はこちらへ参られるのですか」
「はい。弥七郎さまをはじめ伊丹の船の主だった方々は、長崎では、私どもへお泊りになるのが、ならわしでございます」コルネリアは奉行所の役人とは思えない与志の口調を訝《いぶか》しく感じながら言った。「弥七郎さまをご存じでいらっしゃいますか」
「ええ、存じております」と与志は言った。「ただ存じているばかりではなく、私は、子供のころ、堺の弥七郎殿の家で育てられたことがあるのです。弥七郎殿の母上に、実の母も及ばぬようなお世話を受けたのです。私は堺の伊丹とは遠縁の者なのです」
「まあ、それは……」コルネリアは驚きから、しばらく口もきけない様子だった。「堺の伊丹と私どもとは縁戚でございます。弥七郎さまの母上|妙《たえ》さまはわたくしの父の姉でございます」
そうだったのか。それですべてが理解できる、と与志は思った。丘の天主堂ではじめてコルネリアを見たとき、伊丹の母に面影が似かよっていると感じたのは、理由のないことではなかったのだ。
「そうでしたか」と与志も驚きを言葉にひびかせて言った。「こちらの伊丹家が堺の伊丹と縁戚であるとは存じておりましたが、そんなに近い間柄とは思いませんでした。では堺の伯父上たちとはよく往き来しておられるわけですね」
「いいえ、私どもはながいこと天川《マカオ》に住んでおりました。わたくしが生れたのも、むこうでございますし、母が亡くなりましたのも、そこでございます。で、長崎に参りましてから、わたくしはまだ一度も堺に出向いたこともなく、伯父さまがたにお目にかかったこともございません。弥七郎さまとお会いしたのも、伊丹の船が出かける前後のことで、こんどお目にかかるのが二度目でございます」
コルネリアの言葉はなぜか与志の心を妙に明るくした。その心の動きは与志自身にも意外だった。彼はコルネリアが伊丹の縁戚であると知って以来、無意識のうちに、彼女を弥七郎と結びつけて考えていたことに、そのとき、気がついたのだった。それは明らかに弥七郎に対する消しがたい敵意から生れた嫉妬だったが、それを与志はその瞬間までまるで意識しなかったのである。
コルネリアの部屋には、かすかに香《こう》の匂いが流れていた。鏡や箪笥や衣裳戸棚が並び、中央に螺鈿《らでん》を象嵌《ぞうがん》した唐風の卓がおかれていた。簾障子《すだれしようじ》の外の濡縁には、軒に幾つかの鉢が吊《つ》られ、蔓《つる》をもった紫の花が絡まりながら鉢の外へ垂れていた。
与志は同心たちに声をかけて、箪笥や戸棚をわざわざあけて詮索する必要はないだろう、と言った。同心たちもその言葉にうなずいた。彼らも、部屋に漂っている何とない優美さ、なまめかしさに気おくれのようなものを感じていたのである。
伊丹市蔵の病臥《びようが》している部屋も含めて、すべての部屋を調べおわったのは、それから二時間ほどたってからである。念入りの調査にもかかわらず、伴天連潜入を証拠だてるものは少なくとも表面的には何一つ発見できなかった。もともと長崎奉行の意向が伴天連潜入の噂を否定することにあった以上、不審な点の見当らぬことが、こんどの詮索の目的だったわけだが、左官屋源次の家の場合と同じく、伴天連潜入の気配《ヽヽ》は、どこかこの伊丹屋敷にも感じられたのである。
それはたとえばコルネリアが丘の天主堂にいたということ、そしてその後に起った一連の出来事と無関係ではなさそうだということなどからも容易に疑ってみることができた。また伊丹市蔵の居間の調度が、以前、何者かに襲われて与志が失神した夜、介抱された部屋のそれと酷似していたことなどからも、その疑惑は深められたといっていい。(じじつ市蔵の居間を見たとき、与志は思わず声をあげそうになったのだった。)
しかしそれだけに、伊丹屋敷から直接何の手がかりも証拠も見つからなかったことは、コルネリアのためにも、伊丹一族のためにも、ほっとした思いを与志に抱かせたのである。まして与志が屋敷を引きあげるとき、「こんどはお役目などではなく、お出かけになって下さいませ」と言ったコルネリアの言葉を思いだすにつけ、何事もなくてよかったと真実思ったのだ。
上田与志の報告は長谷川権六から町年寄に伝えられ、しばらく差しとめられた伊丹船の積み荷の陸揚げが、その翌日からはじまった。町々にはふたたび活気が戻ってきた。いまわしいキリシタン弾圧の不安が、一時的であるにせよ、遠のくと、長崎の町の住民たちは、朱印船のもたらした富を一人でも多く享受しようと、めまぐるしく立ち働いているように見えた。船大工たちは小舟を乗りだして、長い航海のあと、疲労しきった伊丹船の修理に当っていた。一時的に禁足を命じられていた船員たちはどっと盛り場や遊廓《ゆうかく》にあふれだした。歌や音曲の聞える店もあれば、高笑いや女たちの悲鳴や嬌声《きようせい》の聞える店もあった。荷をほどく者もいれば、ほどいた荷を新たに梱包《こんぽう》する者もいた。船荷の主要品目である白糸はその大半を京都、大坂、江戸へ送ることになっていたが、長崎で売りさばかれる数量も決して少なくはなかったのである。ましてつねづね糸割符《いとわつぷ》仲間にのみ独占的に分配され、その利潤にあずかれなかったポルトガル白糸とはちがって、誰もが自由に買いつけることのできる朱印船の白糸に、商人たちが飛びついてくるのは自然の勢いだった。会所で町年寄たちが話す話題も、町の呉服問屋の店さきで交わされる話題も、すべて白糸価格や、買附けに殺到した商人の名前などで占められていた。誰それがいくらでせり落そうとしているとか、割符仲間の商人たちも買附けに狂奔しているとか、誰それは京大坂から言い値で買附けるよう言われているとか、そういった話題が尾ひれをつけて、口から口へと伝えられていったのである。
上田与志も小曾根乙兵衛とともに何度か波止場つづきの検査所まで出向いていって、天川《マカオ》で積みこまれたポルトガル製の玻璃《ギヤマン》の器類、鉄砲、家具、衣服、調度品などの調査にあたった。彼らは年度ごとの適正な価格をしらべ、天川の交易価格から判断して、その年度の適正な価格を割りだし、それを奉行所へ具申しなければならなかった。幕府は長崎奉行所を通じて、輸入品目を監察するとともに、その価格を適正に保ち、異国交易による国内物価の変動を、神経質なまでに押えようとしていたのである。
小曾根乙兵衛は仕事が一段落すると、海の見える通辞溜りで、与志にこんな説明をした。
「もういまから十五年も前になるが、そのころまでは老中の御意向も、だいぶ現在とは違ってな、白糸価格などは上れば上るほど有難いと思っていたのだ。というのは、割符のお仲間たちの手を通して、将軍家もかなりの白糸を買い占めていたからなのだ。つまり幕府の財政をまかなうために、ポルトガル白糸を買いに出ていたのだ。高値がつけば、それだけ財政もうるおうというものだ」
「現在はどうなのだ? おれたちにこんな算盤玉《そろばんだま》をはじかせるのは、もう高値をつける必要がないというわけなのか」
「その通りだ。幕府の御金蔵も、佐渡金山や生野《いくの》銀山はじめ多くの鉱山を掘るようになってから、だいぶ余裕がでてきたのだな。私はそう睨《にら》んでいる。ポルトガル交易の利潤も前ほど老中の関心をひかなくなったのだ。だいいちキリシタンの御禁教以来、交易実績が年々下落しているんだからな。これでは交易に期待するほうが間違っている」
「なんとか交易を盛りかえすことはできんのかね」与志は荒廃した伊丹屋敷やコルネリアのことを思いうかべながら言った。「ポルトガルやオランダに頼らずに、たとえば朱印船で天川や呂宋《ルソン》に出かけるというような手段で。なにも長崎にとどまって、異国船の来るのを待っているだけが能ではあるまい?」
「おぬしはまた、いつから朱印船交易論者になりかわったのかね」小曾根乙兵衛は年長者らしい温厚な笑いをうかべて言った。「この前まではそんなことは、おくびにも出さなかったのだがな。まあそんなことはどうでもいい。おぬしのそうした意見に賛成する人間もかなりいる。老中にも何人かは朱印船交易を主張する人がいるのだ。キリシタンの御禁教を犯さずに交易を増大させるのは何か。それを老中の交易論者は模索しているのだ。だが、それに反対の連中もいる。老中の多数派はそれだし、有力な商人のなかにもかなり反対派は多いと見ていい」
「たとえば……?」
「たとえば博多《はかた》の島井一族のように、多くは異国船に投銀《なげがね》をして、その利潤で商売をする連中だ。こうした連中はみずから船をつくり、危険を冒して異国に出かける必要はないと考えている。彼らは安全こそ経済の妙諦《みようてい》と信じているのだ」
「堺屋殿などはどうなのだ?」
「割符のお仲間は主として反対論者と見て差しつかえない。それというのも、朱印船の運んでくる白糸は、誰にでも自由に売られるからだ。お仲間だけで独占するポルトガル白糸ほどのうま味は、他の唐船でも朱印船でも味わえないのだからな」
「だが、おれにはよくわからぬ」上田与志は腕を組みながら、窓から吹きこんでくる海の微風のほうへ顔をむけて言った。「おぬしはいま将軍家ではもはや異国交易にはあまり期待はもたないと言った。ご老中の関心をひかなくなったと言ったな」
小曾根はうなずいた。
「すると、割符のお仲間たちに白糸を独占させていたのは、将軍家が同じように白糸売買によって財政をまかなわなければならなかったからではないのか。そこなのだ、おれのわからぬのは。財政上の必要から将軍家が割符のお仲間にポルトガル白糸の独占をゆるしていたとしたら、その必要のなくなった現在、なぜお仲間が相変らず独占をつづけようというのだろう?」
「それは、そのほうが利潤が莫大だからだろう。彼らの仲間だけで、自由に利益を分配できるからだ」小曾根は言った。
「それはわかる。だが、将軍家で財政上の必要がなくなった以上、お仲間だけで独占するという意味もなくなったのではないかね」
「なかなか鋭いことを言うな」小曾根は温厚な微笑をうかべていたが、その眼は笑っていなかった。
「もしそうだとすれば、なぜ割符のお仲間はポルトガル白糸の独占を固執するのだろう? それに御禁教以来、ますます交易量は減っている、と、いま、おぬしは言った。おそらくポルトガル交易にあまり期待をしなくなったために、キリシタン御禁教も強化されるようになったのではないかね」
小曾根乙兵衛は黙ってうなずきながら与志の言葉を聞いていた。与志はつづけた。
「とすれば、御禁教がすすめばすすむほど、ポルトガル白糸は少なくなってゆくばかりではないか。それなのに堺屋殿などは、この前の天主堂破壊には、膝づめで、長谷川権六殿の宥和策をなじっておられたのだ。これは、まるで、自分で自分の首をしめるようなものではないのかね。もし御禁教をすすめるのだったら、割符のお仲間がすすんでポルトガル白糸を棄てるべきではないのか。逆に言えば、もしポルトガル交易を増大させたいのなら、キリシタンの御禁圧をなんとか緩和するよう、ご老中にとりなすほかないのではないのか。そこがおれにはわからぬのだ」
「おぬしにしては、よく考えたものだな」と小曾根は眼を海のほうに移しながら言った。「おそらくおぬしの言うのが正しいのだろう。だが、割符のお仲間は逆にポルトガル白糸が天主堂やキリシタン信徒の家に隠匿されていると頑《かたく》なに信じこんでいる。いや、じじつキリシタンの組織を支えている財政は、もっぱらポルトガル交易の利潤からまかなわれているのだ。これは奉行所で明細に調べられている。だから、割符のお仲間が白糸の隠匿所をこわせば、運びこんできた白糸をそのままその年の価格で手に入れられると思ったのも無理からぬことなのだ。しかもその口実として、御禁教を利用するというのも、理解できぬでもない。だが、すでにご老中の意向が変っているのに、ただキリシタン御禁教という一点だけを見て、なお自分たちは将軍家の意向を体しているのだと思っている割符のお仲間たちは、たしかに、自分で自分をしばっているところがなくはない。おぬしの疑問はまったく正しいし、すじも通っている。だが、それはあまり他言しないほうがいい。いまの情勢は時の勢いというものでな、おぬし一人の力でどうなるものでもない。行きつくところまで行かなければ、事態が変るということもないだろうからな」
上田与志は小曾根のこうした慎重さに、以前ならば、強い反撥をおぼえたにちがいなかったが、長崎の複雑な権力関係、人間関係のからみ合いを知ったいま、むしろ小曾根の忠告の重さがわかるような気がした。
ただ与志にとって、そのとき気がかりだったのは、一連の割符仲間の圧力と思われるものが長崎奉行所にかかって、伊丹屋敷やコルネリアに何か不利なことが起りはしないかということだった。おそらくコルネリアに会う前だったら、少なくともこうした切迫した気持で、交易問題の揺れ動きを眺めることはなかったにちがいない。
また、こうした面から眺めてみると、なぜ長谷川権六がこんどの伴天連潜入の噂を、まるで、もみ消しでもするかのように否定させたのか、おのずと理解できるような気がした。「ひょっとしたら、長谷川殿はご老中の朱印船交易論者と同じように、キリシタンの御禁教をゆるめることなく、同時に交易もすすめようと努めているのかもしれない。それとともに割符のお仲間の交易をも、結果的には萎縮《いしゆく》させることのないよう、努力しているのかもしれない。おれにはよくわからぬ、もっと大きな、全体の見通しを持っているのかもしれない」
与志は、権六の浅黒い、頬に刀傷のある、面長の顔を思いうかべながら、そう思った。
上田与志が伊丹屋敷で行われる伊丹船の歓迎宴に招かれたのは、それから数日後のことである。
彼はコルネリアの筆になる文面をなんどか読みかえした。弥七郎が与志のことを聞いてどんなに驚いたか、どんなに会いたがっているか、そしてまた伊丹船の者たちもどんなにお目にかかるのをたのしみにしているか等々の言葉がそこに認《したた》められていた。しかし与志の眼には、その文面がそのまま彼女の心をあらわしているように思えてならなかった。彼はその手紙のむこうに幾らか青いかげりの浮ぶ静かな眼を思いえがいた。そしてその眼ざしがはじめて自分にそそがれたときの、思わぬ狼狽を思いだした。別れ際に言ったコルネリアの言葉の抑揚を思いだした。そのどれもが平生はおよそ物を冷静に見ることに慣れた上田与志の心に、不思議な酩酊感《めいていかん》をよびおこした。それは何か甘美な酒にでも酔っているときのような、放心に近いこころよい痺《しび》れを彼の心のなかにそそぎこんだのである。
伊丹屋敷の祝宴が数日後にせまった八月半ばのある夜、上田与志は遠くで鳴る半鐘の音で眼をさました。表通りを叫びながら走ってゆく人々の声が聞え、やがて彼の寝起きする下屋敷のまわりも急にさわがしくなった。
与志が外へ出てみると、すでに港の方角の空が赤々と焼けているのが見えた。半鐘が遠近の町町で打ちならされ、暗い通りを走ってゆく人声や足音も多くなっていた。
空の赤く焼けた具合から見ると、その火災は相当の火勢で燃えあがっているものと思わなければならなかった。奉行所の庭は番所詰めの下役人たちでごった返し、提灯がゆれ、号令がとび、点呼の終った組から次々に騒然とした市内にくりだしていった。消火作業は主として町年寄の管轄にゆだねられ、町方の仕事だったため、大火の場合、奉行所の役割はもっぱら混乱した市内の治安を確保し、無用な騒乱を未然に防ぐことだった。
与志は中庭の雑踏のなかで小曾根乙兵衛と顔をあわせた。
「ずいぶん燃えているようだな。どのあたりだろう」与志は赤い炎の反映がゆれている空をながめながら言った。「検査所の方角だな」
「まさか検査所が燃えているとは思わんがな。たしかに検査所の見当だな。検査所でないとすれば、外浦町のあたりか。まあ、おおかたその辺のところだな」
二人がそんなことを話しているところに、あわただしく馬を乗りつけてきた同心の一人が、「火事は御朱印船から出ている。伊丹船が燃えているのだ」と叫んだ。
与志は一瞬、その言葉が信じられなかった。
「伊丹船が燃えている? それは本当か」
「本当かどうか、港まで出てみられるといい」
与志に呼びとめられた同心は不機嫌そうに言うと、奥へ走りこんでいった。
「いったい、どうしたことだろう? 船火事が起るなんて……」
与志は茫然としてそう独りごちた。
「いや、船火事はめずらしいことではない。夜廻りが燈火を落したり、酔った水夫が燈火に蹴《け》つまずいたりすることは、よくあるのだ。ま、港のなかで起ったのが、不幸中の幸いだ。消火も早いだろうし、乗員も救出できるだろうからな。ともかく波止場へ行ってみたらどうだ」
小曾根は慰めるように言った。
与志が波止場についたのは、それから半時ほど後である。暗い海上に、黒い船体が炎につつまれ、炎の舌がゆらめくにつれて、火の粉が金粉をはじくように闇のなかに飛び散っていた。人々の叫び、ものの爆《は》ぜる音、風が炎を巻きあげる音が暗い波のうえを伝わってきた。多くの舟がすでに消火のために海上へ漕《こ》ぎだしているらしかった。そして突然の火に驚いた数羽の鳥たちがあわただしい羽音をたてて、どこか暗い上空を飛んでゆくのが与志に感じられた。その鳥の羽音をきくと、ふとコルネリアはどうしているだろうかと与志は考えた。
9 岬の巻
その年の夏は暑さがいつまでも残り、九月になっても秋らしい気配はなく、倒れかけた胡瓜棚《きゆうりだな》や南瓜畑《かぼちやばたけ》の白い土を強い日ざしがじりじりと焼いていた。
上田与志はその日ざしのなかを、朝早くから長崎の町に出ていった。与志は主として町年寄を中心に、最近の伊丹船の成功をねたんだり、極端に利害関係の対立したりする交易商、船主、商人らの聞きこみをつづけた。八月半ば伊丹船の大半を焼いた火災に、どことなく不審火の疑惑があったからである。それは町の人々の噂でも、ひそひそささやかれていたばかりでなく、伊丹船に当夜乗りあわせていた船頭、不寝番、舟夫《かこ》たちの申し立てを審議した奉行所でも、同じような疑惑を抱いていたのである。
船頭たちの述べるところによると、火災はまったく火の気のない船首の倉庫から起ったが、すでにそれより以前に、倉庫の積荷は陸揚げされ、事実上、空倉庫だったというのである。さらに、その火災の直前、船頭の弥兵衛が舟夫とともに船内見まわりをやっており、その空倉庫にも火の気はまったくなかったことが確かめられていた。船頭たちの申し立ては、たとえ口裏をあわせたとしてもあまりにそれぞれ符合した。もう一つの疑惑は、甲板で不寝番をしていた舟夫の多助が、火傷《やけど》のまったくない水死体となって浮びあがったことだった。もし多助が火を発見して、他の仲間たちに告げることを忘れ、真っ先に水に飛びこんでいたとしても、水泳に練達した腕をもつ多助が、繋留点《けいりゆうてん》から陸までの距離を泳ぎきれず、水死することはありえない。また多助が附け火をした犯人だとしても、多助が自分からそれをやったとは思えず、そのかげに誰かそそのかした人物がいるはずである。もしそうだとすれば、水死するような危険な状況のなかで放火するはずはないから、多助はその何者かによって水死せしめられたという可能性が強くなる。おそらく多助は多額の金品を受けとり放火を引きうけ、放火してから海へ飛びこむというような手筈になっていたのかもしれない。ところが、いよいよ海へ飛びこんで、自分を救ってくれるはずの船に泳いでゆくと、そこで逆に多助は殺されたのかもしれない。
奉行所ではまた多助はまったく潔白であって、甲板にいるとき、何者かに襲われ、海中に投じられたという見方もしていた。この場合、その曲者《くせもの》が附け火の犯人であることに間違いない。
生き残った証人たちの言葉から判断すると、平生は無口で、おとなしい多助が、どのような誘惑があっても、おいそれとその口車にのるとは考えられない。また火を見て、仲間にもつげず海に飛びこむことも、多くの人々は否定した。いちばん可能性のあるのは、最後の場合――つまり何者かに多助が襲われ、その何者かの手で火がはなたれたとする考え方であった。
しかし船頭側の申し立てがいかに真実味があっても、それをそのまま鵜呑《うの》みにすることは、いくら奉行所でもできなかった。そこで、内々、原隼人を中心にして探索がはじめられたが、与志はとくに権六に請うて、伊丹屋敷探索の場合と同様、こんどの詮議にも加えてもらったのである。
もっとも原隼人らの意見では、伊丹船の内部の誰かが、買収され、多助を襲ったことも考えられるとして、その内偵もすすめられていた。
奉行所に申告された伊丹の損害は、大船一|艘《そう》、死者十二名で、積荷はすでに陸揚げが終っていたので直接の被害はなかった。しかし大船をつくることは幕府からきびしく禁止され、西国大名には五百石以上の大船はすべて引きわたすよう布告されていたから、伊丹船の炎上は、事実上、伊丹弥七郎がこれ以上異国との交易ができないということを意味した。したがって奉行所が不審火の一件を究明して、その犯人を見つけることができれば、ひょっとしたら、船の再建も望めないことではないので、その原因と犯行の究明には、伊丹一族の死活がかかっているとも言えたのである。
与志は弥七郎と会って、何度となく、長崎に潜伏していると考えられている犯人について話をした。しかし弥七郎は、ねばり強い父の治右衛門とちがって、こんどの事件には、さすがに打ちのめされたようになって、口数も少なくなり、じっと窓の外を見ていることが多かった。与志が犯人の目ぼしについて、あれこれと話しても、半ば諦めたような口調で「もう何年も日本を離れていたし、長崎のことにも暗いし、誰が私らに恨みを抱いているのか、見当もつかんな」と言った。それはいかにも与志の同情や努力を、かえって迷惑がっているような口調にきこえた。
もちろんそれが弥七郎の性格の弱さを示すことを、与志はよく承知していた。弥七郎には激しい、片意地な、頑固な一面と同時に、木の枝が折れるような、脆《もろ》い、危なかしげな、ひ弱さが隠されていた。子供のころ、そうした弱点が、与志をいじめたり、悪戯《いたずら》をしかけたり、むら気を起させたりした原因となったのである。しかし後年、異国交易に乗りだすようになると、そうした弱さはかなり克服されたように見えた。安南の密林をわけて、現地人の荷担ぎたちを使いながら、日本からの到来品を奥地の王宮まで運んでゆくとき、弥七郎の不屈な意志だけで、それを支えていたといっていい。ここには、父の治右衛門の重厚さ、ねばり強さ、克己心などがはっきりあらわれていた。
だが、こんどの事件は、日本に安着して緊張のゆるんでいた瞬間を突然襲ったため、弥七郎は茫然として、自分でも何を考え、何を言っているのか、よくわからなかったのだった。
繁った丈の高い草が、一夏の疲れからなだれるように倒れかかるのを、弥七郎は、毎日、伊丹屋敷の窓から眺め、時おり地球儀や地図を出しては、波乱の多かった最後の航海を追想するような眼で、それをじっと見つめた。
弥七郎のこうした放心状態にたいして、コルネリアの反応は、まったく対照的なものだった。彼女は伊丹船が炎上しているとき、すでに人の雑踏する波止場に姿をあらわし、与志とともに、検査所の船で、火災の現場まで出かけ、消火を助けようとさえした。与志がそばにいなかったら、彼女は伊丹船に乗り移ったかもしれなかった。
その後、奉行所がひそかに内偵をはじめたとき、コルネリアは与志のところに町の噂を細かく聞きこんではそれを知らせてきた。彼女がどういう知り合いを持っているのか、その情報はかなり正確で、信憑性《しんぴようせい》の高いものだった。
たとえばコルネリアは死んだ多助には女房子供はなく、道楽もなく、伊丹船に住みついた男であって、自分の船を焼くようなことは、まかりまちがってもありえない、という話を聞きこんできた。あるいはまた、火災の出る前に、何人かの黒装束の男たちが大浦の入江からひそかに舟を漕《こ》ぎだすのを、夜釣りに出た漁師たちが見ていた、という噂があり、その漁師を見つけて、証言を得たのも、コルネリアの力だった。
もちろんそうした活動にもかかわらず、附け火を確証するものは見つからず、ただなんとなく疑惑をつよめる材料が集まったというにすぎなかった。
与志はコルネリアと会うために伊丹屋敷に出かけることもあれば、時どきは大浦の入江とか、山寄りのひっそりした寺院の境内とか、あるいは町に住む奉行所同心の一人の家とかがその場所に選ばれることもあった。そういうとき、与志もコルネリアも、役目の重要さのほうに気をとられて、二人が頻繁《ひんぱん》に会うという事実にも、会うのが人気のない場所だという事実にも気がつかなかった。二人はあくまで情報を交換するために会っているのだという気持があり、それが二人の無意識の口実となっていた。だから、もし誰かがいて、二人にそういう事実を教えてやったら、彼らは自分たちのしていることにさぞ驚いたにちがいない。
コルネリアが大浦の入江を見おろす小高い岬のうえを二人の会う場所にえらぶようなとき、コルネリアには、その地形を実際に見、調査することが何よりも先の問題として感じられていたし、与志もコルネリアのそうした言葉や考えをそのまま素直に受けとっていたのである。しかし二人が大浦の青い入江を見おろし、白い波がレースのように入江の曲線にそって打ち寄せているのを見ていると、そうした役目を果しているだけにしては、余りに強烈な、一種の幸福感が二人を襲うことがあった。
二人は大浦の漁師たちの話している噂の真偽について意見をかわしたり、黒装束の男が舟を乗りだしたのはこれこれの場所からだと説明したり、大浦から伊丹船の繋留点までどのくらい時間がかかるかと計算をしたりして、しばらくその岬のうえに立っていた。
日ざしは強く、残暑が木立や草地や白い乾いた道にむっと漂っていたが、しかし岬に吹いている海からの風は、もうどこか冷たいものを含んでいて、足早に変ってゆく季節の移りをかくすことはできなかった。
その海からの風に髪を吹かれながら、コルネリアの美しい額は、白く冷たく澄んでゆくように見え、静かな、幾らか憂鬱な感じのする、その端正な顔は、遠く湾入する海のほうにむけられていた。彼女にしてみれば、自分が伊丹船再建のための手がかりを一つ一つ集めているのだという気持が、つねに生きていて、それが、いままで感じられなかった強い生き甲斐を呼びおこしているのだと信じていた。与志に会えるという日の朝、コルネリアは急に駆けだしたり、歌でもうたったりしたいような気持に襲われ、自分でも、そうした晴れ晴れした幸福感をおさえることはできなかったが、彼女は、それをつねに、自分が伊丹船炎上に関しての真相を究明しているからだと思っていて、それを一度も上田与志の存在と結びつけて考えてみようとは思わなかったのである。
上田与志にもこれと同じ事情は認められた。つまり与志自身もコルネリアに会うことに言い知れぬ酩酊感を覚え、その甘美な陶酔のなかにいつまでも浸っていたいような気持になるのだったが、彼はそれをコルネリアその人に結びつけて考えなかった。むしろ彼はそれを伊丹船や弥七郎や伊丹一族のために働いているいまの自分の境遇に結びつけて考えていた。自分が真相究明に乗りだし、伊丹一族の役に立っているという思いが、彼を幸福にしていると考えたのである。
しかしこの二人が理由に何を持ってこようと、強いよろこびを感じるという事実には変りなかった。彼らはそのために前よりも頻繁に会う口実をつくり、それも、二人だけで会える場所をおのずと選ぶようになるのだった。
もちろん上田与志が自分でそれと意識せずにコルネリアのことを考えていることはよくあった。たとえば、しばらくコルネリアに会わないまま、通辞溜りで記帳の整理をしているようなとき、役所のうえに覆うように大枝をのばしている樟《くすのき》に、乾いた音をたてて風が吹きすぎるのを見て、もはやそれが夏に吹いていた風と、肌にふれる感じも違い、葉音も違うと思ったりしたが、そんなときに限って向いに坐っている小曾根乙兵衛に声をかけられるのだった。
「上田、何を考えこんでいるのだ?」
与志はその声に、悪戯を見つかった子供のような狼狽を感じて、言葉を濁して曖昧な笑いを浮べた。
「いや、別に何でもない。ちょっとぼんやりしていただけだ。なんとなく葉ずれの音が、こうひんやりした、乾いた音に変ったような気がしたものだから……。おぬし、そんなふうに感じられないかな。暑い暑いと思っていたが、もうすっかり秋めいている。空の色も、風の肌ざわりも違ってきた」
「まったく早いものだな。夏だと思っているうちに、もう秋風が立つ。これで今年も船はおおかた出航ということになるな。春に、はるばる風に乗って北上し、秋にまた、風に吹かれて南に帰ってゆく。交易船は渡り鳥のようなものだな」
二人はそんな話をかわして、どちらからともなく樟に吹く風音に耳をかたむけた。
しかし与志は、小曾根にそんなふうの答え方をしたにもかかわらず、自分が実は我知らずコルネリアのことを思いうかべていたのに気がついたのだった。小曾根の言葉に狼狽を感じたのも、むろんそのためだったのである。
コルネリアが上田与志のことを考えるのは、必ず堺の伊丹と結びつけてであった。おそらくコルネリアの慎ましさが、無意識のうちにも、与志その人を単独に思いえがくことを不謹慎なことと思わせたからであろう。しかし弥七郎と結びつけて与志のことを考えたり、あるいは弥七郎の母に育てられている子供のころの与志の姿を考えたりすることはよくあった。
しかし慎ましさのゆえに、恋が自分を偽ることは、恋の焔《ほのお》を消すことではない。むしろそれが恋の激しさを物語る場合も少なくない。コルネリアが上田与志と会って話した事柄がすべて伊丹船炎上と結びついていたとしても、もちろんそれだけが彼女の心のすべてだったとは言えなかった。
九月から十月にかけてコルネリアと上田与志はこんなふうにしてよく会っていた。時には、伊丹船にふれることがまったくないような日もあった。そんなときコルネリアはふと与志のほうを見て「しばらくお目にかかりませんでしたでしょう。ですから、何か新しい事実がわかっているのではないかと思いましたの」と言った。それから眼をそらして、「でも、何も新しいことがわかっていなくても、お目にかかると、わたくし、気持が安心するんですの。そのせいでしょうか、とても仕合せな気持になりますの」と言いそえた。
十月に入ると、間もなく出航する唐船への積荷がはじまった。長崎奉行所検査所の中庭には、すでに取調べが終って梱包《こんぽう》された積荷や、梱包されないままに並べられた積荷でごった返していた。役人たちが並んだ荷のあいだを、帳簿を片手に点検してまわり、倉庫や船着き場には人夫たちが荷を担いだり、積みあげたりしていた。日ざしは澄んで、なめらかに倉庫の屋根のかげを中庭に投げていた。鰯雲《いわしぐも》の流れている青空に、枝もたわわに実った柿が、まるで一粒一粒、象嵌《ぞうがん》したように、鮮やかな色で光っていた。
町では日本を離れる唐人船員たちが最後の買物や歓楽を求めて賑わっていた。酒に酔って大声で歌うものもいれば、店の奥で女たちに別れをつげるものもいた。眼を皿にして品物をあさり歩くものもいれば、逆に、自分の持ち物を町角で売ろうとするものもいた。彼らは片言の日本語をあやつり、間もなく故国に帰れるという興奮から、笑ったり、怒鳴ったり、肩を組んで町をねり歩いたりしていた。
唐船の船長|鄭隆之《ていりゆうし》が何者かに刺されたのは、こういう騒ぎが最高潮に達した十月終りの夜であった。鄭らの船隊はその翌日、出航することになっていた。
上田与志がその報せを聞いたのは、夜おそくなってからだった。彼は奉行所から緊急の呼びだしでそれを知ったのである。すでに町すじの木戸ごとに番卒が立ち、事件のあった界隈《かいわい》がくまなく探索されているということだった。
唐通辞たちがあわただしく奉行所を出ていったかと思うと、探索の結果を報告する役人が馬をとばして奉行所の中庭に駆けこんできた。奉行所の部屋部屋には灯がともされ、時ならぬ物々しい気配がみちわたっていた。
鄭隆之の傷は深く、生命をとりとめうるかどうか、医者たちにもわからなかった。下手人は脇差をぬいて身体ごと鄭にぶつかったらしく、脇差はその下腹部にくいいっていた。医者たちの見解によると、その刀傷は剣を心得ている者によって加えられたものではない、というのだった。
「もし剣の心得のある者なら、必ず斬ります。しかも傷の深さから考えますに下手人は鄭を殺そうと思っていたようです。剣の使い手が殺意を抱いた場合は、本能的に斬るものです。決して刺しません」
医者の一人はそう断定した。立会った役人たちの意見では、剣をたしなまぬ町人か、唐人同士か、それとも牢人者が犯行をくらますためにわざとこうした刺し方をしたか、そのどれかであろうということだった。
ところが、その夜明け、一人の男が山沿いの寺院裏の井戸で身体を洗っているのを、見廻りの下役人に捉えられた。燈火に照らされた男の衣服は血で汚れていた。役人が提灯を男の顔に近づけると、男は何かを叫び、両手で顔をかくすようにした。そのとき役人たちは異口同音に叫んだ。
「伴天連《バテレン》だ」
男は顔を泥で黒くしていたが、赤毛の髪といい、窪《くぼ》んだ青い眼といい、とびだした鼻といい、異国人であることは明らかだった。男は興奮して、傷ついた獣のようにあばれた。下役人たちが縄をかけても、身をのたうって、獣のような声をあげた。男の用いた脇差は井戸の傍らに置かれていた。
男は奉行所に引きたてられると、一たん、牢に入れられた。男はしばらくうめき声をあげ、何かを怒鳴りつづけていたが、夜明け近くなって眠りこんだ。時どき、身体をふるわせては半身を起すが、また横になった。昼近くなって牢役人が男を呼びにいったとき、男はぐったりと牢の隅に寝込んでいた。
男の詮議を通訳したのは小曾根乙兵衛だった。
小曾根はまずポルトガル語で男の氏名を訊《たず》ねた。すると男は首を横にふった。
「なに、お前はオランダ人か」
小曾根はおどろいてそう言った。そして奉行にむかって「こやつはポルトガル人ではないと申し立てております」と言った。そしてあらためてオランダ語で国籍と氏名を訊ねたのだった。
ゆっくり眠ったせいか、オランダ人は前夜よりはずっと落着いていて、小曾根の訊問《じんもん》にはっきり答えた。赤毛にとりまかれた顔は、肉厚で、ひしゃげていて、どこかずるそうな感じがした。小曾根は男が平戸に来ているオランダ船の船員だと申したてるのを意外な思いで聞いた。
「伴天連ではないのか」
傍らから原隼人が叫んだ。
「どうだ? お前は伴天連であろう? 伊丹の屋敷にかくれておった伴天連であろう?」
原は激しい口調でそう問いつめ、男のそばまで歩いてゆくと、平伏している頭に土足をのせ、力まかせに、男の頭を地面にこすりつけた。小曾根乙兵衛は男が原隼人の足の下でもがくのを見ていた。そしてオランダ語で、お前が聖職者であるかとこの方は訊《き》いておられるのだ、早く正しい返事をするように、と言った。男の頬から血が流れた。
「おれは平戸に来た船員だ。日本人に頼まれて、あの唐人を刺したのだ。日本人はおれには罪はねえと言ったんだ。その日本人にきいてみてくれ。おれには罪がねえと言ったんだ」
男の言葉を小曾根は奉行につたえた。
「何だと? 日本人に頼まれた?」
原隼人は憎悪に顔をゆがめながら、その足に力を入れた。男は悲鳴をあげ、足の下から頭を抜きだそうともがいた。
「男はそれは真実だと申しております」
小曾根が言った。一瞬、取調べの役人たちは顔を見合せ、おしだまった。
その沈黙のなかで、息を切らせたオランダ人の喉がぜいぜいと鳴っていた。オランダ人の様子には伴天連らしいところはなかった。それは原隼人にもなんとなくわかるような気がした。しかしそれでも彼はその足を男の頭からはなさなかった。
10  秋の巻
秋もおそくなると、長崎の港は南にむけて出帆する唐船やオランダ船で賑わった。平戸に碇泊した異国船もつぎつぎに長崎に現われ、しばらく碇泊ののち季節風にのって、帆をいっぱいに張って、港外へ姿を消していった。
長崎奉行所の樟の巨木もさやさやと港に吹きこむ風に乾いた音をたて、その風音に追いたてられるようにして、唐人で賑わった町々も次第にもとの静けさを取りもどしていった。
その年出航する朱印船は末次平蔵の船のほか、京都の角倉《すみのくら》からも久々に船が仕立てられるという噂がひろがっていた。おそらく伊丹船がおさめた近来にない成功が何人かの商人を刺戟したことは考えられたが、このところ朱印船を自らの負担で呂宋《ルソン》、天川《マカオ》に送るより、異国船に投銀《なげがね》(投資)して利潤だけを確実に手に入れる方法が交易商人たちの一般の風潮だっただけに、この噂は長崎の人々をひどく驚かしたのである。また事実、伊丹船がこんどの交易で得た利潤は、船火事で蒙《こうむ》った被害をはるかに上廻るものだというのが、長崎で信じられていた噂であった。もちろんその噂の根拠は曖昧であったが、人々はそんな詮索をする気にならなかったほど、それは自明のことと感じられていたのである。
長崎からは末次船が久々に出帆するということもあって、船大工場では索具、帆、綱などを取りつける職人たちが忙しく働いていたばかりでなく、搬出品を扱う商人たちが港の通りを往来するのが見られた。刀剣類、工芸品、嗜好品《しこうひん》などが、遠く京都、江戸から運ばれたものまで、末次平蔵の所有する宏大な土蔵におさめられた。
時おり長崎に接する大村、有馬で、キリシタンの詮議がおこなわれ、そのたびに十何人かの信徒が無残な極刑に処せられたという報せが誰の口からともなく伝わったが、長崎では、かえってそうした血なまぐさい報せが現実感をもって感じられないほど、天主堂破壊以後、この種の事件は起っていなかった。そうした状況は、上田与志のように、すでに過去のさまざまな事件を聞かされ、またみずからも危うく事件に巻きこまれて土牢にまで入れられた人間にとっては、なぜか不気味な静けさのように感じられた。とくに長崎の町々が活気を帯び、職人たちが働き、馬や車が荷をつんで往き来するのを見ると、いったい長崎にはもはや詮議すべきキリシタンはいないのだろうかと、上田与志などは不審の思いを抱いたのだった。すでに伊丹市蔵の屋敷を調べた折に感じた疑惑――ひょっとしたら長崎奉行長谷川権六その人がキリシタンではないだろうか、という疑惑が、またしても頭をもちあげるのを、与志は押えることができなかった。
長崎のいまの繁栄と安逸な気分は、ただ長谷川権六が、事が起る前に、一つ一つもみけしていて、何ら表だったことを起さぬよう慎重に配慮している結果としか思えなかった。とくに上田与志が伊丹屋敷の探索を命じられて以後、そうした印象はいっそう強くなったといっていい。
「もしあのとき、おれがコルネリアなり市蔵なりを告発しさえすれば、それから芋づる式に、何十人かのキリシタンか、キリシタンに関係のある人間を、さぐりだすことは簡単だったはずだ。そしてその結果、おれが長崎に来る前年にあったあの大殉教と同じような処刑騒ぎを引きおこすこともできたわけだ。それを、おれがやらないのは、長谷川殿の意向におれが従おうと思っているためにすぎぬ。むろん原隼人のように、逆に、長谷川殿をキリシタンだときめつけて、命令に抗《あらが》うことだってできる。おれがそれをしないのは、ただコルネリアに何とない好意を感じているからだ。おれがコルネリアの美しさに酩酊するような魅惑を感じなかったとすれば、おれも、原隼人のように考えたし、告発という手段をとっていたかもしれぬ。とすれば」と上田与志は考えつづけた。「おれのコルネリアに対する仄《ほの》かな思慕に似た感情が、何人か、何十人かの処刑を未然に押えているにすぎないのだ。それは、まるで、蜘蛛《くも》の糸で岩を吊《つ》るよりも、危なっかしいことではないだろうか。いったい世の中の重大事などというのは、そんな人間の、ちょっとした思惑によって、左右されるものだろうか」
上田与志はそのときふと、あのおだやかな顔をした、上品で背の高い堺屋利左衛門を思いだした。この老人は煙草入れの端についた胡桃《くるみ》を右手でもてあそびながら、事もなげに、天主堂の破壊を、長谷川権六に示唆していたではないか。
こうした考えは、時おり、上田与志の眠りのなかにも忍びこんで、与志はよく悪夢にうなされて夜半に目覚めることがあった。そんなとき暗い虚空に何十人とない屍衣《しい》を着た人々が血まみれになってうめいていたり、堺屋老人が不気味な怪物にふくれあがっていたり、顔のない男や、髪のぬけ落ちた女などがげらげら笑っていたりした。
そうした夢は感覚にあまりになまなましく残っていて、与志は夢からさめた後も、たとえば髪のぬけ落ちた女の笑い声をはっきり耳に聞く思いがしたのである。
たしかに与志がそうした悪夢に一段となやまされるようになったのは、例の唐人船長の殺害をはかった男の取調べがはじまってからだったから、その日々の疲れも悪夢の原因だったのかもしれない。
男の鼻はつぶれ、右の眼は灰色にどんより曇ったまま動かなかった。せまい額のうえに赤毛が垂れかかり、その髪のあいだから、もう一方の眼が、青く、憤怒《ふんぬ》を浮べて光っていた。垢《あか》まみれの身体は臭く、吐きかける息は、腐った動物の死骸のような臭いがした。男は牢のなかでも時どき狂暴な発作にかられてあばれまわるばかりでなく、取調べの最中にも身体を地面に投げて転げまわることがあった。そのため男の身体は厳重にしばりあげられ、狂暴な発作にかられると、そのまま柱に、がんじがらめに、しばりつけられた。
与志が疲れたのは、男がこうした狂暴な、粗暴な態度で返答を拒んだり、悪態をついたりしたためもあったが、それ以上に、男が多くオランダ語と異なる言葉でわめきちらしたからである。与志のほかに小曾根乙兵衛その他が男の訊問に当ったが、はじめはオランダ語で答えるものの、そのうち、通辞に理解できぬ言葉をわめきはじめるのだった。
男の言葉のなかから、オランダ語に似た語彙《ごい》を幾つか聞きだす能力があったのは通辞のなかでは、与志ぐらいで、小曾根も鋭い勘で、男の意向をたしかめることはできたものの、言葉を聞きとる段になると、与志のほうが、いくらか優れた力を示した。
「おぬしは案外、いい耳をしているな」
温厚な笑いをうかべて小曾根はよく与志にそう言った。
「だが、しんの疲れる仕事だな、あの化けものから何かを聞きだすのは。いったい、あれが喋《しやべ》っているのは、どこの言葉だろう。オランダに似たところは確かにある。音は違っているが、形として似たところがある。そこに気がついたので、おれには少し意味が汲みとれるようになったのだ。だが、どこの言葉だろう」
与志は小曾根と通辞溜りでオランダ語の万国大観や地図をとりだしては、男の言葉を探索した。男の前に地図を示して、どこから来たかを知ろうと試みたこともある。しかし男は地図をしばらく睨《にら》んでいたが、そのうち赤毛を振り、地図のうえに唾をはきかけた。男は地図など見たこともないらしかった。
しかし男の吐きちらす言葉の断片から、赤毛の男が平戸に碇泊するオランダ船の船員であること、唐人船長の殺害は人に頼まれたのであること、依頼人の名前はわからないが、日本人であること、男はその依頼人の手でひそかに長崎に送られたのであること、などが明らかになってきたのだった。
「どうも信じられんな。いい加減な言い逃れを言っているのではあるまいな」
取調べに当った原隼人は与志にそう言って腕を組んだ。原は何度か男に拷問を加えたが、男は痛みに耐えかねて絶叫するときにも、自分は本当のことを言っているのだと主張しつづけた。
結局、男の申したてを一応認めて、その依頼人の真偽をたしかめることに決ったものの、男の言葉が判然としないうえ、その申したてもひどく曖昧なもので、依頼人がいたとしても、果してそれが武士なのか商人なのか、背の高い男なのか低い男なのか、決定することは困難だった。ともあれ船長鄭隆之の生命が奇蹟的に助かったため、唐人側の態度もいくらか変化していた。
原隼人は、このオランダ船員の罪状を確認した以上、唐人側に引きわたすよう進言したが、それに対して長谷川権六はその依頼人の詮索をつづけるよう指示した。そして唐人たちには、罪状の確認がすすまない故、来年の渡来までに一切の決着をつけることを約して、彼らを出航させることにしたのである。
最後の唐船が長崎をはなれたのは、末次船の出帆と前後した秋も半ばを過ぎた頃である。その唐船が長崎の青く湾入する港を出てゆくのを見送っていると、上田与志は急に疲れが全身にひろがるのを感じた。
「まったく、とんでもない事件を取りあつかったものだな」
与志は傍らの小曾根乙兵衛にそう言った。ともかく唐船がふたたび来航するまでは、男のわめきちらす言葉をしばらく聞かなくてすむわけだった。
「その依頼人のことだがな」小曾根乙兵衛はしばらく唐船の消えたあたりに眼をやっていてから言った。「私には、何か意味があるように思えるが、おぬしはどう思う?」
「どう思うって、おれには何のことやら皆目《かいもく》見当がつかないのだ。平戸のオランダ船からは正式に雇った船員ではないという返事だし、これも言いのがれと考えられなくはないが、ともかく身元不明の男だ。その男が、全く見も知らぬ唐人を、いきなり刺すなどということは、常識から言っても、ありうべからざることだ。だから、おれは、男の言うように、誰か日本人の依頼人がいることはわかるが、では、なぜその依頼人は唐船の船長を殺害しなければならぬのか、という点になると、まるでわからぬのだ」
与志はいくらか窶《やつ》れの見える顔を沖のほうにむけたまま、眉をひそめるような表情をした。それからやや憂鬱な調子で言った。
「それに、例の伊丹の船火事の件も一向に手がかりがつかめていないしな」
「それは、ひょっとしたら、こんどの事件以上に困難かもしれぬ」小曾根は腕組みをして言った。「何しろおぬしは伊丹の娘を背負いこんでいるからな」
上田与志は小曾根の言葉に思わずはじかれたように振りかえった。
「そんな馬鹿正直な顔をするな。いまのは冗談だ。ただ、おぬしが伊丹の娘を助けるつもりで附け火の犯人を捜すのはいいが、それは、おぬしが考えているほど簡単なものじゃない。それは伊丹の娘も知っているはずだ」
「なぜ伊丹の娘が? なぜコルネリアが?」
「あの娘も渦中の人間だからだ」
「コルネリアがか?」
「そうよ。おぬしも以前、丘の天主堂で娘を見たと言ったではないか」
「うむ。たしかに、おれは天主堂でコルネリアに会ったのだ」
「その後の事件にも無関係とは言えまい?」
「…………」与志はふと伊丹屋敷に失神したまま運ばれたことを思いだした。それは伊丹屋敷を探索したとき、はじめて気がついたことだったが、それは与志ひとりの胸に入れておいて、小曾根にも話していなかったのである。
「いや、無関係どころか、あの娘は主役のひとりと言っていい」小曾根はおだやかな表情のまま言った。「私は、おぬしが伊丹の娘に好意を持とうが持つまいが(いや、打消さなくてもいい)、ただあの娘が普通の娘のように単純に生きているのではないということだけを知っておいて貰いたいのだ。まさか、伊丹の娘だって、おぬしを利用してかかるとは、私も信じない。だが、おぬしもすでに自分の生涯の務めを定めた人間だ。それに背馳《はいち》するようなことがあってはならぬし、かねておぬしが言っていたように、幕府の人間として立身しなければならぬ。それは、この私も同様だ。とすれば、幕府につらなる人間としての掟《おきて》なり、規律なりに従わなければならぬのは、理の当然だ。前にも言ったように、長崎では、すべてが複雑だ。一人一人が二重にも三重にも敵対者をもっている。すでに、おぬしも経験したように、いつどこで、私らが襲われるともかぎらない。相手の性格も二重、三重にできている。伊丹の娘だってそうだ。それが長崎なのだ。それが何らかの力と力の間に置かれた人間の姿なのだ。いつか私らもそうなってゆく。自分では気がつかぬうちにそうなってゆく。だが、それが人間の生かもしれぬ。いまさら嘆いてもはじまらぬ」
上田与志は小曾根のこうした言葉を聞きながら、風に髪を吹かれているコルネリアの美しい顔を思いえがいた。たしかに温厚な小曾根の言葉には根拠がある。いままで、すべてはほぼ小曾根の言葉どおりに起ったのである。だが、ただ一つ、コルネリアのことだけは小曾根の言葉を信じたくなかった。なるほど天主堂以来の一連の出来事にコルネリアを置いてみると、それは一すじの赤糸で縫ったように、奇妙に関連を持った一つづきの事件に見えてくる。そしてそれは、小曾根の言うように、伊丹船の火事や唐人船長の傷害まで影をのばしているのかもしれぬ。だが、それとて確証があるわけではない。コルネリアはたまたま天主堂にいたのかもしれないし、また伊丹屋敷も全くの空似《そらに》であるかもしれぬ。少なくともコルネリアの言動のなかには、ごく単純な動機しかない――つまり彼女は父の市蔵や伊丹一族のために働いているということだ。有形無形にコルネリアが動きまわるのは、ただその目的のためだけである。小曾根の言うような暗い陰謀や葛藤《かつとう》などに彼女が加わっているとは思えない。彼女はそんな存在さえ知らないのかもしれぬ。
オランダ船員の取調べが一段落した後、上田与志がすぐコルネリアを訪ねなかったのは、幾らかこうした思いが彼にためらいに似た気持を起させたからである。冷静に考えれば、伊丹弥七郎に対する嫌悪から、与志は商人としての道をとらず、おのずと官途を選ぶ結果となったのである。しかも弥七郎がともかく現在交易商のあいだで成功者の地位を築いた以上、与志自身も何かの形で自分の立身に励まなければならないはずである。
しかし与志が当初考えていたほど、官職のなかでの立身は容易ではなかった。小曾根に言わせれば、自分がどの上司につくかによって一生の大半が左右されるというのである。与志は奉行所に着任した当時、何をおいても長谷川権六の配下として同輩より優れた存在になろうと心掛けていた。彼が経験した出来事も、もとはといえば、通辞の職掌をこえたそうした意図が原因だったといっていい。だが、次第に奉行所内部や、幕府のなかにおける長崎奉行所の位置や、幕閣の重臣と奉行との関係などがわかってくるにつれて、そう単純に長谷川権六の気に入られたからと言って、必ずしも立身が計れるとは決っていなかった。いや、かえってすでに噂されているように、万一長谷川権六が老中の誰かと対立するというようなことがあれば、権六の親しい配下であることが負い目にもなりうるのだ。
小曾根乙兵衛はその点いつも温厚な微笑を浮べているにもかかわらず、鋭く一切を見通しているようなところがあった。といって積極的に何か事を行おうというのではない。ただ時おり与志にそれとなく感想をもらしたり、参考意見を述べたりするだけである。酒が入れば、大いに論じることもあるにはあったが、それもその場だけのことにすぎない。どこか飄然《ひようぜん》として捉えにくいところがある。そのくせ、たとえばコルネリアのことなど、ぎくりとするくらい正確に与志の心を読みとっていたりするのだ。
与志は結局二日間の非番を下屋敷の座敷に閉じこもって暮した。庭の奥に芒《すすき》が穂を銀色に輝かして並んでいる。葉を落した枝に柿の実が、鮮やかな赤さで点々と晴れた空に象嵌されているのが見える。午後の光はおだやかな斜めの線になって、油色に部屋に差しこんでいた。音らしい音もなく、時おり障子を影になって横切る小鳥の声がするくらいである。
「どうしておれはこうした静かな暮しを選ばなかったのだろう」と、ふと与志は独りごとを言った。「野心も何もなく、与えられた仕事だけを果し、コルネリアのような美しい女を妻にもって、季節の花々や風月を愛し、ひっそりと市井に暮すことができたら、どんなに仕合せなことであろう。どうしておれはそうした生活を選ばなかったのだろう。弥七郎に対する意地など、いまになってみれば、まったく下らぬものだ。こうやって無為に、ただ横になっている。やわらかな日の光になぶられ、まるでおれは無欲な猫のようになっている。だが、それにしても、こうした無為は、なんとこころよいことだろう。甘く、うっとりとして、このまま光のなかに溶けていってしまいそうだ」
そのとき与志は庭の外に何か人の気配がしたような気がした。誰かが声をかけたような気がしたのである。
「小曾根も退屈しきって、とうとう出てきたものとみえる」与志はそう思って玄関にまわってみた。すると、そこには、思いもかけず、コルネリアが笑って立っていた。
「奉行所のほうに参りましたら、お休みとのことでしたので、お邪魔かしらと存じましたが、是非お目にかかりたくて、思いきって伺うことにいたしましたの」
与志は、はじめて自分の家を訪ねてきた女性を前にして、ひどく狼狽した気持を感じた。コルネリアも、港ではじめて会ったときの敏捷な、子供っぽい、明るい印象とも違い、また伊丹屋敷のときのような冷たい鋭い表情とも違って、何か眩《まぶ》しいものを見ているような、若やいだ、ういういしい表情をしていた。その顔をみると、与志は二日も彼女に会うのをためらっていたことが悔まれた。コルネリアのこうした様子から、小曾根の考えるようなさまざまな疑惑を引きだすことは不可能だった。「せいぜい彼女は、没落している伊丹市蔵を助けるために、彼女なりの努力をしているのだ。そうでなければ、どうしてこんな明るい、ういういしさを保つことができるだろう」与志はそう思った。そして幾らかほっとした気持を感じた。
「ここしばらく例のオランダ船員の取調べがありまして、私のほうもお目にかかる時間がつくれなかったのです」
「ええ、よく存じております。それに、別のほうから取調べの内容を詳しく話していただきました。上田さまがご苦心なさったことも、わたくし、よく存じておりますのよ」
「で、その後、附け火の犯人については何か聞きこみでもありましたか」
「直接の証拠ではありませんが、大浦のほうで漁師たちの喧嘩がありましてね、そのとき大怪我をした男が(この男は間もなく死んだのですが)死に際に、伊丹船に附け火をしたので、自分がこんな目にあう結果となったのだから、このうえ地獄に堕《お》ちないように祈ってくれと、土地の僧に頼んだというのです。わたくしもその坊さまに会って、それが本当であることを確かめました。万一を思って、坊さまに書状を書いてもらいました。ですから、附け火であることはこれで間違いなく証拠立てられたわけです。あとは、この死んだ男と一緒に伊丹船に乗りこんだ仲間を捜すことなのですが、わたくし、大浦の漁師たちを訪ねましてね、かなりのことを聞きこんで参りましたの」
それからコルネリアは、その死んだ男(伊助という名前だった)と仲間だった男たち、船火事当夜の伊助の足どり、その夜、居酒屋で伊助と飲んでいた男たちなどを記した紙をとりだした。
「これを、あなたがひとりで調べたのですか」
その克明な記録を見ると、思わずそう叫んで、上田与志はコルネリアのほうを見た。
「いいえ、わたくしひとりではございませんわ。わたくし、いつも上田さまとご一緒にいるつもりでおりましたの。大浦に行きました折も、上田さまとご一緒に来たことを思いだしました。そうしたら、とても勇気が出ましたの。ですから、これは、やはり上田さまとご一緒に仕上げた記録でございますわ」
上田与志はコルネリアの視線をどうしてもまっすぐ受けとめることができなかった。彼は記録を繰りながら、その細部を読むようなふりをしていたが、実際は何も眼に入らなかった。彼はそうでもしていないと、その場に坐っていられないような気がしたのである。
上田与志がその夜長谷川権六の家を訪ねたのは、むろん権六から直接に船火事の一件を調査するよう指令されていたからである。与志は権六に大浦で調査されたすべてを報告した。コルネリアがそれに当ったことも与志は附け加えた。
「伊丹の娘か。なかなかの執念だな」権六はそう言って、面長の、浅黒い顔を与志のほうに向けた。その眼はかすかに笑っているようであった。頬の刀傷は燈火のかげになって見えなかった。
コルネリアの報告にもとづいて大浦一帯の漁師が喚問されたのは、その翌日のことである。直接犯人と見られた数人は、喚問に先立って、夜が明けると間もなく逮捕されていた。
漁師たちはほとんど土気色の顔をしていた。附け火はすべて死罪をもって罰せられるのが当時の慣行だったからである。彼らは伊助の祟《たた》りだと言って、いずれも素直に罪状を認めた。彼らは、異口同音に、|ある人《ヽヽヽ》から依頼されて附け火をした。報奨が莫大なので、それに目がくらんだのだ、と言った。犯人たちは無口な伊助をおどして、その舟で伊丹船を襲ったのである。そして伊助を死に到らしめた大喧嘩は、罪をおそれた伊助が大浦をすてて他処に移ると言いだしたことからはじまったのだった。彼らは伊助のうえに自分たちの眼を光らせていなければ、やはり不安だったのであろう。伊助を引きとめる、引きとめないではじまった喧嘩が、結局は彼らの墓穴を掘らせることになったのだった。
しかし奇妙なことに、犯人の一人一人を拷問にかけても、誰ひとりとして、附け火を依頼したその|ある人《ヽヽヽ》が誰であるのか、知る者はなかった。その人物は顔を包み、声をふくみ声につくっていたと彼らは申したてるのだった。何かすこしぐらいの特徴がつかめなかったのか、という役人の追及に対して、彼らはただ一様に、その覆面のあいだから覗《のぞ》いている眼が異様に鋭く、こわいようだった、と言うだけで、背丈《せたけ》も肉づきもこれといった特徴を覚えていなかった。その人物が武士であり、莫大な報酬を出したことや、言葉つきからいって、かなり身分のある人物であることが推測できるくらいだった。
幾日かして、犯人のうちの一人が「そのお武家は、覆面のあいだから見えていた右の眼の下に、かなり目立った|ほくろ《ヽヽヽ》があったように思う」と申したてた。この証言は何人かの犯人によって確かめられた。覆面にかくされていたし、夜だったし、はっきりしたことは言えないが、そう言えば、覆面で隠れるか隠れないかあたりに、|ほくろ《ヽヽヽ》があったようだ、と犯人たちは言うのだった。
この申したてを聞くと、思わず上田与志は小曾根のほうへ眼をやった。小曾根乙兵衛もたまたまその取調べに列席していたのである。すると、小曾根も与志のほうに大きくうなずいた。
「では、やはりそれは、あの得体の知れぬ小野民部なのであろうか」
与志はいつかの夜、暗い火影のもとで自分を見ていた、右眼のしたに|ほくろ《ヽヽヽ》のあった小野民部の顔を思いえがいてみた。
「だが、あのとき、堺屋利左衛門を偽って名乗ったのは伊丹市蔵だったのではないか。そしてその伊丹と一緒にいたのが小野だったのではないか。そうすると、伊丹と小野はどういう関係にあるのだ? 敵なのか、味方なのか?」
また頭のなかの糸がもつれてきそうだった。その混乱した糸の向うで、コルネリアが静かに微笑しているように感じられた。与志は一切をぶちまけて、コルネリアから、彼女の知っていることを聞きだそうと決心した。
その間にも、取調べが白州《しらす》のうえでつづいていた。彼らはいずれも取調べに対して素直に罪を認めており、かつ自ら犯行を意図せず単なる煽動《せんどう》によるものであるから、死一等を減じて遠島に処するという判決が読みあげられていた。犯人たちは砂のうえに頭を何度もすりつけていた。そしてその彼らのうえを秋の終りの風が落葉を巻いて吹きすぎていった。
犯人たちを島に送る船が長崎を出たのはそれから一月ほど後のことである。与志はその犯人たちの船が港の外に見えなくなってから奉行所に引きかえしたが、事件はまだ何一つ解決していないのを感じた。彼はふと牢屋敷まで行って桜町の角を曲る気になった。突然コルネリアに会いたいと思ったからである。
11  潮の巻
上田与志が久々に足をふみいれた伊丹屋敷の木々は、すでに黄葉し、屋敷につづく石だたみの道は落葉に覆われ、湿った土の匂いの漂う立ち枯れた草のあいだから、しきりと虫の音が聞えた。
玄関先の銅鑼《どら》をうちおわってしばらくすると、奥から、コルネリア自身が姿を現わした。彼女は、そこに、予期しなかった上田与志を見出したからであろう、頬がみるみる血の色に染まった。
「弥七郎さまがいらしたとばかり思っていましたの。驚きましたわ」
すでに与志が詮索《せんさく》の折に見知っている玻璃《ギヤマン》の盃の飾ってある部屋に通されたとき、コルネリアはようやく落着きを取りもどして、そう言った。
「伊丹船の再建のことで、父が弥七郎さまをお呼びしているんですの。附け火の逐一が明らかになりましたからには、船の再建もお許しいただけようと父などは申しております」
コルネリアは、ここまで漕《こ》ぎつけたのは、与志と一緒だったからだというように、眼をきらきら輝かせて、与志のほうを見つめた。
「実はその件で、今日は、あなたにいろいろお訊《き》きしたいことがあるのです」
上田与志はコルネリアの視線を辛うじて受けとめながら言った。「このことは前々から何度も考えては、どうしても口にすることができなかった事柄なのです。しかし私が、これからも、ずっと、あなたとお会いすることができ、いままで以上に、あれこれお話しできるならばそのためにも私には、幾つかあなたにお訊きしたいことがあるのです。もちろん私は、いまの長崎で、何から何まで、十分に明らかにしうるとは思っていませんし、私が役所に勤める人間である以上、あなたにも、私にお話しできないこともあると思います。それでも私は、あなたと一緒にいたい――いいえ、一緒にいることを仕合せに感じている人間として、あなたから、何もかも話していただきたいのです。あなたのこと、あなたの父上のこと、伊丹家を取りまく人々のこと、見えない影のように長崎の町々を通りぬけてゆくさまざまな噂の正体などを。そうです。私は、そのために、万一それが私の職掌と相反するものならば、よろこんで役所を辞める決心です。いまの私は、ただ、すべてを知って、それだけいっそうあなたのそばに自分を感じていたいと思うだけなのです」
与志は熱に浮かされたように、それだけ、早口に喋った。コルネリアの顔がかすかにこわばるのが感じられた。それは、ほとんど苦痛を耐えているような表情だった。
「わたくしもいつかはそうしなければならないと思っておりました」コルネリアは声を落して言った。「もしそれができないなら、わたくし、上田さまとお別れしなければならないと思っていましたの。辛うございましたが、本当にそう決心していましたの。でも、いまのお言葉で、わたくし、もう、そんなことを考えなくてよろしいんですわね」
最後のほうは、声がかすれてほとんど与志にも聞きとれなかった。それは海辺で髪を風に吹かれている凜々《りり》しい感じのコルネリアでもなければ、冷たい、物に動じぬ若い女としてのコルネリアでもなかった。上田与志は、自分の前で、声もなく顔を伏せているコルネリアを何か無限に小さくなってゆく、か弱い、柔らかな、頼りない存在のように感じた。
「こんどの詮議で、大浦の漁師たちが口を揃えて申し立てている人物が、小野民部ではないか、という疑惑については、どうお考えですか」
与志は、自分に抗うような気持で、言葉を一つ一つ押しだすようにして、そう訊いた。
「そんなことは考えられないことですわ」コルネリアは、むしろはきはきした調子で言った。「小野さまは父と親しい間柄の方ですし、附け火のあった頃は、ちょうど長崎を離れておられました」
「しかし小野民部の特徴などを……」
「目の下の|ほくろ《ヽヽヽ》でございますか」
「そうです。それに背恰好など……」
「闇夜でございましたし、|ほくろ《ヽヽヽ》だけで小野さまと決めるわけには参りませんわ。もし目の下に特徴となる|ほくろ《ヽヽヽ》があったとしても、別の人がそれをわざわざつけることもできますわ」
「なぜそのようなことを……」
「理由はわかりませんが、たとえば小野さまに罪をなすりつけようとする者がいないとは限りませんもの」
「確かですか」
「小野さまが附け火をそそのかすような方でもなく、そのような理由も持っていらっしゃらないからには、そう考えるよりほか、仕方がございません。伊丹の者はみなそう考えております」
「では、その小野殿に冤罪《えんざい》を負わせようとする者についての心当りは?」
「それはわかりませんわ。小野さまはおひとりで敵方に乗りこんでおられるような方ですもの。伊丹の者をのぞいたら、みんな敵方と考えてもいいほどですの」
「聞くところによると、小野殿は薩摩の交易を扱っておられるとか」
「ええ。でももとは大坂で朱印状をお受けになった方でした。伊丹とは、その頃から親しくしておられるとか」
「たしか元和二年の禁令が出た折――唐船まで含めたすべての異国船が、長崎以外の港に入ることを禁じたあの禁令が出た折、小野殿は老中を動かして、わずか二、三カ月のうちに、その禁令を撤回させたと聞きましたが」
「ええ、父の説明によりますと、もしそうなると、それまで山川港や坊津《ぼうのつ》港に入ってくる唐船と取引をしていた薩摩の財政は、ひとたまりもなく崩れたに違いないということです。小野さまはそれをおひとりで支えられたわけです。そのため、長崎に港を制限して、白糸取引を一手に占めようと考えていた割符《わつぷ》仲間の方々からは、大そうお怨まれなさったとか。でも、それは小野さまだけに限りません。伊丹の者をはじめ、自分で交易を行おうとする者はすべて、割符仲間の方々とは、何ごとにつけて、火と水のようなものですもの」
「では、冤罪を負わせようとした者は、その割符仲間の誰か――たとえば堺屋利左衛門だというようなことは考えられませんか」
「伊丹の者のなかには、そう言いたてる者もおります。附け火をそそのかすような者も割符仲間の方々だとも言いたてております。でも、これには証拠がございません。ただ船火事が附け火だったこと、それをそそのかした誰かがいたこと、その誰かは小野さまではないこと――それだけが確かにわかっていることですわ」
上田与志は腕組みをし、畳のうえに視線を落して、コルネリアの説明をききながら、かつて小曾根から聞かされた割符仲間と朱印船交易家のあいだの利害の対立、感情的な反目のことを思いだした。
「割符仲間の商人たちはただポルトガル船だけが可愛いのだ。それも運んできた白糸を残らず言い値で売ってゆくときにな。割符仲間がポルトガル船に投銀している金高は莫大だから、天川《マカオ》と長崎のあいだを船が動いてくれるだけで、十分過ぎる利潤はあがるのだ。何年も前のことだが、オランダ船隊が天川港のポルトガル船を攻撃したことがある。そのときポルトガル国にかわってオランダに抗議したのは幕府だった。つまり割符仲間の商人たちが幕府に働きかけて、オランダに抗議させたのだ。もっともオランダも割符を受けるようになり、一括して割符商人に売り渡さなければならぬようにでもなれば、話はまた別だ。しかし当分はオランダは勝手に相手方を選べるからな。割符仲間とオランダはまだまだ深刻な争いをつづけるだろうな」
小曾根はそんなふうに説明したが、オランダ船が割符を受けず、自由に交易できるとすれば、それは唐船にしても事情は同じだった。したがって割符仲間の商人たちは唐船に対しても、敵対しなければならないはずだ。
そのとき、与志の眼の前に、赤毛をふりみだして叫んでいるオランダ船の下級船員の顔が思いうかんだ。
「あの事件のあと、唐船の船員たちは武器を手にして、オランダ船を見つけ次第、襲いかかるのだと言って、いきりたっていた。もし唐人をそそのかすのがこの傷害の目的だとしたら、あの赤毛の船員の申したてるように、誰か日本人が糸を操るということも考えられなくはない。そしてこの場合も、どうやら割符仲間の豪商たちと糸がつながっているような気がする……」
上田与志は夢から覚めたように、腕をほどくと、眼をあげて、コルネリアを見て笑った。
「いろいろのことがはっきりしてきました。ここしばらく、もつれた糸のように頭のなかで判然としなかったことが、やっと理解できるようになりました」
「それで、わたくしも安心いたしました」
「ついでに、もう少しお訊きしたいのですが、私も実は小野殿と会っているのです」
コルネリアは、はっとしたように、顔色を変えた。
「それは、前に申しあげようと思ったのですが、このお屋敷のなかでです。私は、この前、伴天連《バテレン》の詮議でここをお訪ねした折に、そのことがわかったのです。ですが、あのとき、なぜ私がここに運ばれてきたのか、そして――あえて言わせていただきますが――なぜ伊丹殿が――あなたのお父上が、私に、いつわって、堺屋利左衛門と名乗られたのか……?」
コルネリアはしばらく顔を伏せるようにしていたが、やがて静かな声で言った。
「上田さまは、では、なぜ詮議のあと、そのことを御奉行におっしゃらなかったのですの」
与志は、反射的に、よほど、あなたのためだと答えたかった。しかし彼はただ「おそろしかったからです」とだけ答えた。
コルネリアは驚いて、眼を見はった。
「なぜかわかりません。私には、そのことのまわりに何か重大なことが隠されているように感じ、単純にそのことを報告するだけではならない、と直感したのです。ええ、たしかに私は、そのとき、あなたのことも考えました。しかし本当は、ただおそろしかったのです。何か私に予想できないことが起りそうで、それがこわかったのです……ですが、あの疑問は疑問のままで残りました。私は、それをいつか知りたいと思いました。私が直感したおそろしさの本体も、それによって、おのずとわかるのではないかと思ったからです」
与志はコルネリアのほうへ答えをうながすような視線をむけたが、コルネリアはふたたび顔を伏せていた。彼女の表情は身体のなかの痛みをこらえるように、こわばり、唇がふるえていた。
「いまは申しあげられませんの……」コルネリアはようやく顔をあげると言った。その顔は蒼白《そうはく》で、唇がふるえつづけた。「いずれ、すべてお話しできるときが必ず参ると存じます。それまでは、どうしても申しあげられませんの。それは、上田さまだからというわけではございません。伊丹の者でも、そんなことを存じている者は父のほか何人もございません。これは当分は、ただ、うちうちのことにしておく必要があるんですの。私どもが……、いいえ、わたくしが上田さまを信じないから、それを申しあげないのだ、などと思っていただいたら、わたくし、悲しゅうございます。そうではないんですの。それだけは信じていただきとう存じます。でも、それを申しあげられるときが参りましたら、わたくし、まっ先に上田さまのところへ参りますわ。そして何から何までお話し申しあげて、本当に上田さまのおそばにいるのにふさわしい女になりますわ」
コルネリアの声はふるえ、ほとんど聞きとれないほど低かった。それだけ言うと、蒼白な顔を伏せ、唇をじっと噛んでいた。
上田与志はコルネリアの白い顔に寄せられた苦しげな皺《しわ》をみると、それ以上、自分の疑問を追究する気持はなくなった。いまコルネリアが言った言葉だけでも、間接には、事のある種の内容は推測できる。それだけでもう十分ではないか。与志はそんな気になった。そしてこれ以上自分の訊いたことを気にしてくれぬようコルネリアに言った。自分は時がくるまで待つことができるし、お互いの気持がわかり合えれば、そんな疑問などはもうどうでもいいのだ。与志はそう言った。
与志が伊丹屋敷を出たのは、暮れるに早い晩秋の日が、西空にわずかに夕焼けの名残りをとどめているころだった。長崎の町々には宵闇が流れ、その暮れてゆく町すじを海からの風が吹いていた。
与志は全身がひどく疲れているのを感じた。それは一種の酩酊感にも似ていたし、またひどく虚脱した疲れにも似ていた。コルネリアと話しているとき、つねに感じることだったが、どんな話題のなかにも、コルネリアは自分で気づかずに、彼女の思いをそれとなく織りこんでいると同じように、与志も、話題が当人同士のことに触れない場合に、かえって自分の気持を話に託《たく》して喋ることができるような気がした。二人の話が必要以上に迂路《うろ》をたどったのは、そうした間接の告白をつづけることが、お互いの心に甘美なしびれを呼びおこしたからだが、それは、その日のように、コルネリアから直接に疑惑を解明してもらえなかった場合にも、まったく同様だった。
たしかにコルネリアの拒否は、二人の置かれた立場の相違、立っている距離の遠さをまざまざと思い知らせたが、にもかかわらずそうした拒否によって、はからずもあらわなまでに示されたコルネリアの思いが与志の心を幸福感でみたした。
その冬から春にかけて、長崎奉行所も町方会所もふたたび静かな日々を送った。相変らず島原や大村ではキリシタン信者の斬首《ざんしゆ》や火刑が行われ、その処刑の無残な模様はいつとなく長崎の町町にも噂となって流れてきた。それだけに長崎の平穏な日々は一種の重苦しい静寂と感じられないでもなかった。もっとも朱印船が仕立てられた年にふさわしい正月の賑わいが、一時、そうした懸念を長崎の人々から忘れさせたのも事実だった。今年は角倉や船本まで朱印状を受けて船を出すそうだという噂が、正月の賑わいを一そう景気づけているように見えた。
そんな平穏な日の流れを破るようにして、四月のある日、琉球を経て長崎に着いた早船が、おどろくべき報告をもたらした。数十という唐船がオランダ船の根拠地である台湾《タイオワン》を攻撃し、澎湖島《ほうことう》の城塞《じようさい》に火がかけられたというのだった。
その後オランダ側からの報告もとどいた。上田与志はその報告文を翻訳しながら、長崎でおこった唐人船長殺傷事件が、この海戦の直接の動機であることは間違いないと思った。しかしそれは、考えれば、何も本当はオランダ船と唐船のあいだの事件ではなく、そう仕組まれた芝居にすぎないのだ。それなのに、幾十とない唐船が海を渡ってオランダの根拠地を襲っている。いったい誰がこの出来事の引き金をひいたのだろうか。
上田与志がそんなことを思いめぐらしているうち、こんどは東支那海を渡ってきた唐船が福建都督《ふくけんととく》からの書をもたらした。それによると、日本の交易船がしばしば唐船を襲い、ときには沿岸の人家をも侵すことがあるというのだった。それに対して、都督は幕府の厳重な処分と、今後の監督を要求していたのである。
間もなく台湾島の紛争が一時終結した旨の報告が入った。その後、澎湖島の城塞が破壊され、倉庫、商館ともどもそこから台湾島へオランダ人は引きあげたという報せが入ったのはその月の終りであった。
福建都督の抗議文はただちに早馬で江戸表へ送られたし、台湾島の紛争の真偽をたしかめるため、長崎奉行所と末次屋敷から選ばれた数人が船で南にむかった。それをめぐって、あわただしく長崎をたってゆく者もいれば、また長崎にやってくる者もいた。
それに、そうした事件のたびに時おり長崎の町に奇妙な噂が流れたのも事実である。たとえば日本船が唐船を襲ったのは真実のことであって、日本から出てゆく船はほとんどすべてがこうした海賊行為をやってもうけているのだ。それというのも、日本から船を仕立てて出かけていっても、経費ばかりかさんで真の利益があがらないからだ。それで、結局は海賊の真似などしなければならなくなるのだ。あんな威勢よく船出をし、花々しく帰ってくる朱印船の実情はこうなのだ――そんな噂は、いかにもまことしやかに話されたので、事の真偽をたしかめる前に、人々はその話を真実と思わざるをえないような気持になった。
町方会所の有力な町年寄のなかにも、あえて朱印船を送りだすのに反対を唱える者も現われた。何回かの会合で、そうした議題が論じられるのは近来ではめずらしいことだった。
「伊丹船の成功だって、本当はどんなものだったか知れたものではない。あの火事だって、唐人の仕返しかもしれぬ」
その町年寄はそんなふうに苦々しくつぶやいた。それに対して長崎代官の末次平蔵や、長老として信望を集めていた高木作右衛門などは、はっきり怒りをあらわして反対した。
「私は朱印船を自分で安南に送りだしているから言うのではないが、朱印船にかぎり、そんなことは断じてない。こんな噂や、冤罪をそのまま見過すなら、日本の船はますます海の外へ出られなくなる。この会所で、そんな噂や偽報を信じていたのでは、今後のことが思いやられる。当会所においてまずこの疑惑をはらさなければならないのだ」
末次平蔵は太い眉のしたから、ぎょろりとした眼をむきだすようにして、そう叫んだ。また事実、平蔵は会所でそうした意見を述べただけではなく、直接、配下の数人を江戸に送って、老中に事の真相をうったえもしたのである。
この老中からの指令が長崎奉行所に届いたのは、それから数旬とたたないうちであった。老中は平蔵の言葉をいれて、ただちに福建都督に逆に抗議文を送るよう伝えてきた。
「あなたのご努力もみのりましたな」
長谷川権六は奉行所奥の書院で、末次平蔵に老中からの文書を手渡しながらそう言った。二人の顔には、安堵《あんど》に似た微笑がただよっていた。ちょうどそれを上田与志は権六に呼ばれて書院に出向いたとき、見かけたのだった。与志が呼ばれたのは、都督からの抗議文と前後して、台湾島のオランダ代表から長文の書が届き、それを日夜兼行で翻訳しおわったところだったからである。
「一難去ってまた一難、というところですな」
長谷川権六はしばらく与志が浄書したオランダ文書の翻訳に眼を通してから、それを平蔵に渡した。
「お読み下さい。オランダ人らが高砂(タイオワン)から日本人の引揚げを要求してきました。それに今後高砂での交易には、一割の賦税《ふぜい》を負わせると通告しておりますよ」
権六は浅黒い面長の顔をかすかに歪めて笑った。頬の傷あとがその日はことに色が変って目についた。
平蔵は同じように黙りこくってオランダ文書に眼をおとしていた。
しばらくすると彼の顔色はみるみる変った。平蔵は思わず腰を浮かせ、唾をとばしながら怒鳴った。
「ばかな。ばかな。こんな無法なことがあるものか。福建の都督のは、あるいは何か根拠のある言い分かもしれぬ。だが、これは、まったく無法な横車だ。日本人が高砂に入ってはならぬ? だが、高砂は誰のものなのだ? だからわしは前々から老中にも申しておったのだ。ただ日本にぬくぬく居すわっていて、懐手《ふところで》して、投銀をしていればそれでいいというものじゃない。高砂だろうと安南だろうと、こちらから出かけてゆき、根拠地をつくらねばならんと……。それなのに、誰ひとり耳を傾けようとはしなかった。そしてとどのつまりはこういう結果だ。誰が高砂から引きあげるものか。誰が一割も賦税を払うものか。むこうがその気なら、こちらにだって考えはある。ご老中だって、まさか、この無法に目をつぶるほど弱腰でも、怠慢でもあるまい」
平蔵は太い眉をぴりぴり動かして、同意をうながすように、そのぎょろ眼を権六のほうにむけた。
権六は軽く頭で相槌をうち、いずれ江戸表に早馬を仕立てねばなりませんな、と言っただけで、眼を庭のほうにむけた。しかし平蔵はそんなことにお構いなく、ひとりで唾をとばしながら、オランダ人をののしった。そして最後には、懐手して投銀をしているだけの割符仲間の商人たちを罵倒《ばとう》した。
「まったく、あの手合いときたら、炬燵《こたつ》に入って眠りこけている猫のようなものだ。あれで商人というのなら、商人の屑《くず》にしかすぎん。商人とは、自分で品物を背負って、危険を冒しても、遠くから物を運んでくる人間だ。だからこそそれに伴う利益も正当なものになるのだ。それなのに割符仲間ときたら、他人におぶさって銭儲けをしようとする。ひとの褌《ふんどし》で相撲をとろうとする。かつては幕府の御金蔵をあずかったかもしれぬ。また、交易の一部が幕府の勘定に大きくひびいていたかもしれぬ。だからこそ、割符による一括購入という便法も許されたのだ。それなのに、ひとたびこの便法によって自分らの利益をひとり占めできるとなると、それが幕府の勘定に何の寄与もしなくなってからも、なおこの便法にすがりつこうとする。自分たち以外の商人、交易家を追い落そうとする。いや、追い落すだけならいい。術策を用い、奸計《かんけい》をつかって危害さえ加えようとするのだ。こんどの伊丹船だってそうだ。わしは割符仲間の仕業と睨《にら》んでいる。いや、奉行所で調べがつかなくても、わしにはわかっているのだ」
平蔵は膝をのりだすようにして、長谷川権六にそう言った。
「長谷川殿、あなたはなぜ堺屋老人をあのまま放っておかれる? 老人が長崎に姿を見せてから、朱印船交易家はもちろんのこと、割符仲間以外の商人たちが、事ごとに面倒をおこしている。伊丹船の火事から路傍での言いがかり、窃盗、破壊など数えればきりがない。なぜあなたはそれを見て知らぬふりをしておられるのか」
「いや、いずれも事件は十分に詮議いたしておりますよ」
権六は末次平蔵の激昂《げつこう》に対して、むしろ冷たく、憂鬱な調子でそう答えた。
「むろんそれはわしも知っている」と平蔵は唾をとばして言った。「だが、真の犯人は挙げられていない。それはわしらのあいだでは誰知らぬ者はない。それをなぜあなたは追及せられぬのだ? 堺屋老人はじめ割符仲間の策謀をほうっておくから、こんどの福建の事件といい、高砂の事件といい、おこってくる。そう思われぬかな?」
「だが、そう思っても、証拠がありませんのでな。それに、いまは、朱印船が一|艘《そう》でも多く海外へ出ることを取りはからったほうがいいのではないかと思いますな。移り気なご老中のことですから、一つ一つ実績をあげて、それによって説得してゆくほかありますまい」
「いや、それは当然だ。わしもそれには同感だ。だが長谷川殿、問題は堺屋老人らがこれから後、何をたくらむかだ。それに先手をうって、あくまで海外に伸びてゆく日本商人をまもらなくてはならん」末次平蔵は権六の冷静な顔にいらいらしている様子で言った。「そのためには、ポルトガル船の渡航を差しとめなければならぬ。先年の差しとめによって、割符仲間の損害は数十万両にのぼったというではないか。もしポルトガル船さえ来航しなければ、割符仲間はあっても無いと同然。いずれ堺屋老人も懐手をしているわけにもゆかず、先代のように船を仕立てるようになる」
「そうゆけば結構ですな」権六は相変らず憂鬱な調子で言った。
「いや、そうする手段はある。それは、割符仲間の使う手を逆用しさえすればいい。ポルトガルはキリシタンの故、交易の差しとめをご老中に願い出れば事はいと簡単なはずだ」
この言葉を聞くと、長谷川権六ははじかれたように顔をあげた。
「いいえ、それはいけない」
権六の声はほとんど反射的に口をついてでた。すくなくとも、そこに控えたままだった上田与志の耳には、そう聞えたのである。
12  天の巻
長谷川権六は、思わず口に出たその鋭い語気に気がついたのか、苦笑いをしながら、もう一度、ゆっくりと「いや、それは穏当とは思えませぬな」と言った。それから目で上田与志のほうへ退るよう合図をすると、末次平蔵にむかって、さらに言葉をついだ。
「もし彼らをキリシタンとして告発しても、あなたが問題にしているオランダはどうなります? オランダのカピタン自身が江戸まで出向いて自分たちはキリシタンではない、自分たちはポルトガルとは異なるのだ、と申したてているではないですかな。オランダがエゲレスと連合して、ポルトガル船を襲ったのも、つい前々年のことだし、ご老中がポルトガル船の苦情をみとめて、わざわざポルトガル保護のため、オランダ側に抗議を申し入れたのも、まだ耳新しいことではありませぬか。いまここで、ポルトガルがキリシタンである故を申したてて、その交易の断絶を願いでるとすれば、なるほどそれは、割符仲間を抑えることはできるかもしれぬが、しかし同時に、貴殿が憤慨されているオランダ商人どもを喜ばせることになりはしませぬかな。そのうえ、朱印船交易に従事する者は、とかくキリシタン信者の眼をもって眺められるのは、今までと同然である以上、万一ここで交易にキリシタン問題を関係させれば、それは当然、貴殿がた朱印船交易家の身のうえにふりかかるは必定。とすれば、ここではなんとしても交易とキリシタンとは切りはなさなくてはならぬのです。これは亡くなられた駿府《すんぷ》の大御所がかねがね抱いておられた希望でもあったことくらい、貴殿も重々ご承知のはず……」
上田与志は書状を畳み、封におさめて退席するあいだ、奉行長谷川権六がゆっくりした口調で話すこれらの言葉を聞くともなく聞いた。そして与志が部屋を出るとき、見た権六の顔には、前にもまして物思わしげな表情が浮んでいるように感じられた。
権六のこの言葉に対して末次平蔵が果して何と答えたか与志は聞きとることはできなかったが、廊下の向うから聞えてくる平蔵の声にはまだ憤懣《ふんまん》の調子が残っているようだった。
しかし老中に申入れるという権六の言葉を裏づけるようにして、台湾《タイオワン》紛争の報告とそれに対する朱印船交易家の意見、とくに長崎代官としての末次平蔵の意見書が早馬で江戸に送られた。また権六自身の駕籠《かご》が奉行所を出て、末次平蔵宅にむかうのを見かけることもあれば、どこからか権六が単身で馬をとばして帰ってくるのに出会うこともしばしばだった。奉行所全体が何かあわただしく動いているような感じで、上田与志のところにもつぎつぎに、至急に翻訳を要するオランダ側の文書がまわってきたし、時にはそれを大急ぎで浄書して江戸へ向う役人に託することもあった。
例年ならば交易船が南から順風に乗ってやってくる季節で、長崎の町にはそれを迎える商人たちの活気が戻ってくるのだったが、その年はつねの年よりもひそやかな緊張した雰囲気が感じられ、桜までなぜかあわただしく散り急いでいるように与志なども感じたほどである。
こうした町の雰囲気を敏感に反映したかのように、梢《こずえ》に残る白い花びらが、海から吹く季節はずれの生暖かい風に、吹き散らされている四月終りのある晩、突然、酒屋町辺から火が出て、あたりに密集した人家が十数軒焼けた。
上田与志は夜半に半鐘が乱打されるのを聞き、いったんは雨戸をあけてみたものの、連日の仕事の疲れから、わざわざ奉行所まで出る気力はなく、ただ火の手が桜町の牢屋敷の方角からあがっているのを確かめただけだった。
翌朝、与志が奉行所に顔をみせると、温厚な小曾根乙兵衛が声をひそめて「ちょっと昨夜、困ったことがおこってな。そのうち、おぬしも呼び出しがあるだろうが、例の左官屋源次の家が昨夜の火事で類焼してな、とんでもないものが見つかったのだ……」
上田与志は咄嗟《とつさ》にいつか詮議の折、路地の奥で、乳呑児を抱いて、じっと立っていた源次の妻の青ざめた顔を思いだした。
「まさか、キリシタンの……」
「いや、まさかではない。まさしく伴天連を隠していたに違いない、壁と壁の間の、二尺足らずの小部屋が見つかったのだ……」
小曾根の話によると、源次宅はたまたま半焼のままで消しとめられたが、その際、火消したちの鳶口《とびぐち》が突き崩した壁のあいだから、小さな押入れのような小部屋がのぞいていて、検分に出向いた原隼人がそれを見つけたというのだった。
「もう源次は何の申しひらきもできまい。小部屋からはキリシタンの使う祭具が出てきたのだからな……」
小曾根はそう言って腕を組んだ。
与志はそれを聞いたとき、反射的にコルネリアのことが頭に閃《ひらめ》いた。もし源次宅からキリシタンの証拠品が出たとなると、その伴天連が伊丹屋敷からそこへ行ったと証言されている以上、伊丹一族に当然詮議の手がのびるはずである。また、伊丹屋敷を取調べた与志自身にもなんらかの詮議はあるに違いない。それは、小曾根の言うとおりであった。
「だが」と上田与志はその時ふと考えた。「伊丹屋敷の詮議を適当に|けり《ヽヽ》をつけるよう暗黙に指示していたのは、長谷川殿自身だった。とすると、この事件はどこまで拡がってゆくのだろうか。おれはあくまで伊丹屋敷に何らの嫌疑もない旨、申したてるべきか。それとも長谷川殿の指示があった旨、明白に申したてて、一切を明らかにすべきか。だが、もしそんなことにでもなれば、コルネリアだってどうなるか分らない。おれは奉行所内でなんとか頭角を現わそうとして、長谷川殿の意向にそうよう努めてきた。そして事実、それだけ努めた甲斐はあったと思う。最近、何か重要な仕事といえば、長谷川殿はじきじきおれを名ざしで呼ばれるようになっている。奉行所内でもそれは誰ひとり知らぬ者はない。だが、そんなにまでしておれが献身している当の長谷川殿が、いったいどのような考えで、伊丹屋敷の詮索を手加減するよう命じたり、伴天連の存在を否認させたりするのか、その点になると、おれもかいもく見当がつかないのだ。長谷川殿が朱印船交易家に肩をもつことはわかる。そのためキリシタン騒ぎをなるべく穏便に取りはからおうとしているのもわかる。だが、こんどのキリシタン露見で、長谷川殿のそうした方針が一挙にくつがえされはしまいか。いや、ひょっとしたら長崎奉行所の方針そのものが江戸表から糾弾されることになりはしまいか。そうなったら、おれはどうなるだろう。コルネリアはどうなるだろう。おれたちはまるで荒波にもまれている木の葉同然ではないか。いつ波に巻きこまれて沈むか、わからないのだ……」
いつもなら、そうした上田与志が深刻な表情で考えこむと、横から冗談を言って、気をまぎらわせてくれる小曾根も、その日はめずらしく腕組みを解こうともせず、考えこむ様子をしていた。
「この前、原隼人がこの事件の処置に不満を申したてていたときから、こんな予感がしないでもなかったがな」小曾根は机の前を見つめて与志に言うともなくそう言った。「これはどうも火の手がひろがるほかなさそうだ。そのうち隠れていた伴天連も見つかるだろう。そうなると奉行所もまたしばらく厄介な仕事をかかえこむな」
「長谷川殿もこんどは何とも処置の仕方があるまいな」
与志は小曾根のほうに眼をむけた。
「そうさな。老中から本多正純殿がぬけられてからは、長谷川殿の頼みの綱である家康公以来の重臣がたはもう幕府の中におられなくなったからな。この辺で長谷川殿を長崎から追いだそうとしている奴らが、江戸で何を企んでいるか、わかったものじゃない」
「前にも、おぬしはそう言っていたな」
「確かなところ長谷川殿の交易優先策に疑惑を感じているご老中も多いのだ。一昨年、家光公が将軍職につかれて以来、ご老中の勢力も、駿府の大御所から秀忠公へ、そして秀忠公から家光公側近へと移って、ますます国のなかを整備しようという気構えが強い。国の外へ商売に出かけるというのが、どうも昨今では、時代おくれのように受けとられている。すくなくとも江戸の連中は何よりも国のなかを固めよと主張しているのだ。キリシタン宗門改めも、いわば、外国種の異分子を排除しようという江戸の意向の結果なのだ。それだけに、こんどのことは交易のほうにも、かぶってきそうだな」
上田与志は小曾根とそんな話をかわしながら、その日の午前をおくった。午後、仕事が一段落すると、そのままじっとしている気持にもなれず、昨夜の火事場あとに一人で出かけた。
すでに源次宅から隠し部屋が見つかったという噂は町じゅうに伝わっていたらしく、火事場あとは大勢の野次馬で雑踏していた。それを下役人が制止し、警棒で群衆を支えていた。源次宅はちょうど家屋の半分が黒こげになって残り、その残った部分の壁の崩れから、身体を横にしてやっと坐れるだけの低い小部屋がのぞいていた。それは小部屋というより、何か穴ぐらとか、物置とかいった感じの空間だった。二つの部屋の間に挟《はさ》まっていながら、どちらから見ても、そこに、そんな小部屋があると見えないように巧妙につくられていた。もちろん家ができてからあとで、源次がこっそり工夫して、つくったものに違いなかった。もしここに伴天連が入っていたとしても、身体を横にし、頭を低くかがめていなければ、とうていそれだけの空間に人ひとり入れるわけはなかった。「伴天連はそうやって入っていたのだろうか」そんな考えが、前後の脈絡なくふと与志の頭を横切った。
与志はその場を警固していた顔見知りの役人と一と言、二言、言葉をかわしてから、火事場を離れた。
彼はともあれこのことでコルネリアに会って話しあわなければならぬと思った。
しかし伊丹屋敷にはコルネリアは居らず、見なれない船頭風の男が数人で家の修理をしているだけで、家のなかの気配はいつもと同じく、ひっそり静まりかえっていた。
「ひょっとしたら、すでに危険を感じて、姿を消したのだろうか」そんな考えが一瞬与志の頭に浮んだが、伊丹に嫌疑がかかっているならいざ知らず、いま姿を消せば、いたずらに自らの有罪を証明するようなものだ。「万一そんなことになるのだったら、コルネリアは何かの方法で、おれに連絡してくれるに違いない」
それは自惚《うぬぼれ》でも何でもなく、ひどく自然な確信として与志の心のなかに浮んできた。与志が桜町の牢屋敷のそばで、後ろから声をかけられたとき、それが自分を呼ぶ声だと気がつかなかったのは、こうしたコルネリアをめぐるさまざまな思いのなかに、すっかり浸りきっていたからである。
「上田様。上田様じゃございませんか」その声は与志の後ろから近づいてきた。与志がふりかえると、行商人風の背の低い男が、手に一通の紙きれを持っていた。「上田様にこれをお渡しするよう頼まれましたんで」
男は紙きれを渡すと、与志が紙片の字を読んでいるあいだに、ふっと姿をかくした。与志がコルネリアの筆蹟で、前に丘の天主堂のあった場所で、戌《いぬ》の刻(午後八時)に会っていただきたい、至急にご相談したいことがある、と書いてある文面を読んで、目をあげると、男はもういなかった。
なぜそんな時刻に丘の天主堂にゆくのか――そのことが与志の気にかかった。いったいコルネリアは一人でそんな場所にゆくのだろうか。他の人間に見られたくなかったら、もっと別の場所があるだろうに。選《よ》りに選って、なぜそんな場所に呼びだすのだろうか。
もっともそうした考えはほんの一瞬与志の頭をかすめたにすぎず、すぐコルネリアと会う思いで胸が高鳴った。コルネリアにも情況は差しせまっていたように、こんどは与志の身辺も必ずしも全く無疵《むきず》でいられるというのではなかった。少なくともすでに彼も幾つかの秘密を隠している以上、そうした秘密で結びついた、共通の危険にさらされているという気持が、いつもより、いっそう与志に激しい興奮を与えたのは事実だった。
暗くなるのを待ちかねたようにして、与志は数年前、あの鬼火のような怪しい火を見た峰に向って、長崎の町を離れた。彼は念のために龕燈《がんどう》と短筒を携えていった。前のこともあり、万一に備えておいたほうがよいと判断したからである。
その夜は前夜ほど風はなかったが、しかし天主堂跡につづく道の両側に迫る木々は、黒くごうごうと枝をゆらせた。与志は時おり足をとめては周囲の気配をうかがった。ことに、自分をつけている人間がいないかと、闇の中を二度、三度とたしかめた。
天主堂跡はこの前来たときよりは、なぜかずっと近いように思われた。暗闇に慣れた眼には、はっきりと土台石の散乱しているのが見え、その跡に建てられた小さな仮小屋が、闇よりもいっそう黒い影になって立っていた。近々この天主堂跡に、さる仏教寺院が建立されることになっていた。小屋はそのためのものと思われた。
与志はあたりを見まわし、小声にコルネリアの名を呼んだ。彼はよほど龕燈を照らそうかと考えた。しかし万一のことを思って、暗闇のなかを、ゆっくりと土台石の散乱するほうへ足を運んだ。そこで、与志はもう一度コルネリアの名を呼んだ。それからふと、自分のほうが先に来たのかもしれないと思った。彼は土台石の一つに腰をおろすと、あたりの木々のざわめくのに耳をかたむけた。しばらくそうしていると、その木々のざわめきのなかに、たしかに与志を呼んでいる声が聞えたような気がした。
与志は立ちあがり、コルネリアの名を呼んだ。黒い影が仮小屋を離れると、与志のほうへ近づいてきた。
「上田さま?」
低くささやくようなコルネリアの声であった。
「ごめんなさいませね。わたくし、上田さまがいらしたとき、万一のことがあるといけないと思い、この辺を見てまわっておりましたの。それでお待たせしましたの」
その声は、むしろ浮き浮きと弾んでいるように聞えた。そんな危険を冒して人と会おうとしている女の声には思えなかった。
「なぜこんなところへ呼びだされたのです? こんどの火事の一件はもうお聞きでしょう。キリシタンの詮議はまたいっそう厳しくなるのです。ですから、私たちの安全のためにも、ほかの場所を選んだほうがよかったと思います。誰にも見られずにお目にかかる必要があるとしても……」
与志はむしろコルネリアのそうした明るい声を上から抑え、さとすような調子で言った。
「それはわかっていましたの。ですから、いまも見まわりにいったんです。そうしてでも、わたくし、上田さまとここでお会いしたかったんです」
「なぜです? ここでなければならぬ理由があるのですか」
「ええ、ありますの」
「なんです?」
「わたくし、ここで、はじめて上田さまとお目にかかったんですもの」
上田与志は一瞬、あたりが、しんと静まりかえったような気がした。そしてその静寂のなかで、コルネリアが妙に子供っぽい、稚い感じで、与志のほうへ身を傾けてくるような感じがした。
「わたくし、今夜、どうしてもお話ししなければならないことがありますの。それは、この前、お訊きになったとき、どうしてもお答えできなかったことですの。でも、昨夜の事件で、すべてが変ってしまいました。もう何もかもお話しして、いまは、上田さまのお力をお借りしたいんです」
与志はとりあえずコルネリアを仮小屋のかげの土台石に坐らせ、自分はその向いに腰をおろした。コルネリアはあえぐような口調でつづけた。
「この前、上田さまに隠しごとをするなんて、それは悲しいことだと思いました。そしていつか、きっと何もかもお話しできるときがきて、わたくしたちの間に、もう隠しごとなんてなくなったら、そのとき、わたくしは本当に上田さまのおそばにいられる女になれるのだと思いましたの。そして今夜、わたくし、そうなれるんですの」
コルネリアの顔がほのかに闇のなかに白く浮んでいた。その眼は暗闇の中からきらきらと与志のほうを見つめていた。
「今夜はそういう晩ですもの。わたくし、上田さまと他の場所でお目にかかりたくなかったんです。もう天主堂はありませんけれど、それでも、はじめてお目にかかった場所で、もう一度お目にかかりたかったんです」
コルネリアの声は、あえぐような息づかいのために一瞬とだえた。
「わたくし、なんだか、あまり仕合せな気持で、自分が何を言おうとしているのか、忘れてしまいそうですわ」
コルネリアはそう言うと、まず昨夜の事件の結果、なぜ一切を打ち明けられるような情況になったかを説明した。
「昨夜おそく、実は長谷川さまが父のところに見えたんですの」
「ご奉行が? 伊丹殿のところへ?」
「ええ。長谷川さまは、父がまだ堺におりましたころからのお知り合いで、小野さまとも近しくなさっておられるんですの」
「小野民部と? あの薩摩の交易方の……」
「長谷川さまご自身が、長崎奉行になられる前は、ご朱印船で安南に交易なさっておられたのですわ」
与志にもそのことは初耳だった。あんなにいろいろと消息に明るい小曾根乙兵衛でさえ、そんなことは一言も言わなかった。
「父のところへ来られた長谷川さまは、伴天連隠匿の事実を、なんとか江戸表へ内輪な事件として報告したいが、よい方策はないだろうか、とご相談なさいました。長谷川さまは、いまのご老中の雰囲気では、この事件がそのまま伝わると、大がかりなキリシタンのご詮議が必ず行われるだろうと、おっしゃるのです。それでは、せっかくここまで盛りかえした日本船の渡航が、また何かとむつかしくなって、今までの苦心も水の泡だと申されました。お代官の末次さまにも、会所の方々にも、キリシタン宗門に関したことだけに長谷川さまはご相談できないんですの。だって、本当は宗門の詮議をなさる方が、事件を内輪にして、もみ消そうとなさるんですものね。それで、父と相談されて、この事件に直接関係した源次夫婦と、現在、桜町の牢屋敷にいる者数名を科人《とがにん》として江戸に報告することになりましたの。そして隠れていた伴天連がつかまり次第、その伴天連は源次宅を一歩も出なかったという供述をとることに決りました。で、その供述をとり、それを翻訳されるのを、長谷川さまは、上田さま――あなたがなさるようにと言われましたのよ」
上田与志は何か重いもので頭を強くなぐられたような感じがした。地面が足のしたでぐらぐら揺れているようだった。
「その供述があれば、事件は源次夫婦の関係した者たちだけですませられると、長谷川さまは申されます。それを上田さまに伝えるのが、今夜のわたくしの役目でしたの」
「もちろん長谷川殿のご命令である以上、私は何でもいたしますが、でも、なぜ長谷川殿があなたに……」
「父がそう申しましたの。それに、前にも、わたくし、いろいろ長谷川さまのお仕事を手伝っているんですの」
「あなたが……長谷川殿の……?」
与志は思わず唸《うな》るような声をだした。コルネリアはそれがおかしかったのか、声を低くして笑った。
「そんなふうにおっしゃっては、いやですわ。わたくし、そのことを、この前には、申しあげられませんでしたの。長谷川さまのこうした内密のお仕事がわかったら、その迷惑はどこまで拡がるか、わかりませんもの」
確かにそうに違いなかった。だが誰がいったい、当の長崎奉行その人がこうした工作をしていると想像できたろう。伊丹コルネリアのような娘を使っていると考えられたろう。与志は何か茫然とした気持でコルネリアの言葉を聞いていた。
「この前、なぜ父がいつわって堺屋さまの名前を名乗ったのか、とお訊《たず》ねになったとき、お答えできなかったのも、このためですの。そうですわ。あれは、ちょうど、わたくしがこの天主堂ではじめて上田さまとお会いした時の、抜け荷の事件でございました。あのとき上田さまはこの峰の先で抜け荷を運んでいるらしい人々に会ったと申されましたわね」
「そうです。十数人の男たちが、何か重いものを持って、すれちがったような気配がしたのです」
「そして抜け荷の白糸が谷の倉庫で見つかったのに、いつか、それがポルトガル銃と火薬にかわっていたのでしたわね」
「その通りです。その工作をなさったのが長谷川殿だということは、私も、あのとき知っていました。そしてあのときも、たしか、その工作で、キリシタンの詮議は回避されたように記憶します」
「でも、大事なことがまだかくされていますわ」
「大事なこと……?」
「ええ、とても大事なこと……それは、上田さまの会った、荷を担いだ男たちのことですわ」
「というと……?」
「その男たちは、ポルトガル船から白糸を抜け荷して天主堂に隠していたキリシタンの者たちではないのです」
「でも、あの当時、誰もが、それはキリシタンの者たちだと信じていましたし、長谷川殿もキリシタンの仕業だと考えておられたと思います。もしそうでなければ、あのように、キリシタン詮議が行われるのではないかと危惧しなかったはずです」
「ええ、おっしゃるとおりですの。でも、それが本当にキリシタンの者たちだったか、どうか、誰も確かめてはおりませんわ。たしかに白糸の抜け荷を天主堂に隠す、そしてそれを他処に運ぶ――そういうことだけ見れば、誰だってそれはキリンタンの仕業と思うに違いありません。でも、誰もがそう思って、露ほども疑わないからこそ、それに目をつけ、それを利用する人がいないとは申せません。いいえ、現に、そこに目をつけ、それを利用した人がいたのですわ」
「それは誰です? どうしてそんなことを……?」
「堺屋利左衛門さまですわ。堺屋さまは、ご自分の人足をひそかに高いお金で雇われて、わざわざ白糸の抜け荷に仕立てた梱包《こんぽう》を、この丘の天主堂から谷間の倉庫に運ばせたのですわ。そしてそれは、キリシタンの者たちが抜け荷をしている、抜け荷を天主堂にかくしている、という噂をふりまくためだったのです」
「それでは、私はわざわざ堺屋殿の仕掛けた|わな《ヽヽ》にはまりにいったようなものだったのですか」
「いいえ、結果から言えば、そうではなかったのです。もし噂が人知れず流れ、それから詮議がはじめられたとすると、いくら長谷川さまでも、あのように、白糸を鉄砲にすりかえて、目もさめるような早業で、割符仲間の計略の裏をかくことはできなかったのです。あのとき、白糸隠匿の噂がひろがる前に、上田さまが単身さぐってこられたので、あのようなことも、長谷川さまはお出来になれたのですわ」
「では、あのとき、なぜ父上が堺屋どのの名前を……?」
「それは、あの抜け荷事件が堺屋利左衛門と結びついていることを、上田さまに申しあげるためでしたの。でも、上田さまは、そうはお取りになりませんでしたのね」
「いや、まさか、こんなことだとは夢にも思いませんでした。私は、本当に偶然助けられたと思ったのです」
「あのとき、ずっと上田さまのあとをつけている者がございましたでしょう?」
「ええおりました。西坂の鼻をまがる辺りで気がつきました」
「あれは、実は、わたくしでしたの」
与志は二の句がつげなかった。彼は闇のなかに浮ぶコルネリアの顔を見つめた。コルネリアは何もかも打ちあけられるよろこびに酔っているようだった。彼女は笑った。
「でも、上田さま、あのとき、意地悪なさいましたわ。途中で、姿をくらましてしまうんですもの。あとで長谷川さまに叱られましたわ」
「長谷川殿に……?」
「ええ、わたくしが丘の天主堂で上田さまにお会いしたとき、長谷川さまもいらっしゃったんですわ」
「それであの印籠があった謎はとける」与志は渦の中にいるような気持でそう思った。
「あの夜、長谷川さまがご自身で、堺屋さまの人足たちが抜け荷を運びだすのを確かめられたのです。人足たちが堺屋さまの合図で――たいまつの火を振るのが合図でした――峰に散りぢりになるのを、わたくしたちはずっと確かめていたんですの」
「あの鬼火もそうだったのか」与志はほとんど独りごとのようにそう言った。
「さあ、これで何もかもお話しいたしましたわ。もう隠してあるものは何一つございません。ああ、やっとこれで上田さまのおそばにいてもおかしくない女になれましたわ。もう何もかも申しあげましたの。隠しごとなどもう一つもありませんわ」
コルネリアはそう言うと、自分の胸には、もう何もないのだとでもいうように、両手を前にのばした。与志もそれを見ると、「ええ、私もこれで、まるで悪夢みたいだったあのころの一切が、はっきりしました。何もかも、よくわかりました。ほら、急に身体の呪縛《じゆばく》がとれたみたいに、身が軽くなりましたよ」
と言って、彼もまたその手を前にのばした。コルネリアはその手を探るようにして執った。そしてどちらからともなく、二人はその手をかたく握っていった。
二人は峰に吹きつける風に木々が音をたてて揺れるなかを、間道づたいに山を下った。コルネリアは驚くほど山の地形には詳しかった。しかし下りの斜面で二人は時おり足をすべらし、そのたびに二人は身体を支えあった。そうした瞬間、幸福感が目もくらむような酩酊感となって、二人の身体を走りすぎた。
与志は道々、自分の果すべき役割のことをコルネリアに確かめ、長谷川権六がこんども事件を巧みに回避できるだろうと話しあった。伊丹船の再建も権六の口ぞえで老中に伝えられており、近々にもその許可がおりるだろう、とコルネリアは言った。与志はそれに対して、弥七郎はいったいどうしてあんなに元気がないのだろう、もう少し伊丹の者らしく強気になるべきだなどと言った。
二人の話はそのまま自分たちの将来につながっていった。なぜか、それはなにひとつ障害のない、平坦な、明るい道のように見えた。二人は、口にこそ出さなかったが、長谷川権六が、いつか近い将来、自分たちが結ばれるとき、その間に立ってくれるような気がした。この浅黒い、面長の顔をした不思議な冷たさと重厚さをもつ長崎奉行以外に、その役は、ふさわしくないような気がしたのである。
その後、なお何日か長崎奉行所のあわただしい動きがつづいた。長崎周辺の探索にもかかわらず、源次宅を逃れた伴天連を捕えることはできなかった。他方、南方からは台湾《タイオワン》島でふたたび紛争が起り、こんどは唐船のみならず、そこには日本船まで含まれているというのだった。与志はそのため日夜報告書の翻訳に追われ、ゆっくりコルネリアと会うこともできなかった。すでに季節は初夏になろうとし、奉行所裏の樟の大木が新緑を日にきらめかせていた。
その年、長崎に来航した異国船はさすがに例年より少なかったが、交易量にはさして変化は見られなかった。長崎の町は交易がはじまると、やはりそれなりの賑わいを見せたのである。幸い、町の人々が危惧したような出来事は起らなかった。上田与志の生活も、町々の暮しも、その年は不思議と平穏だった。台湾や天川にも一時的な小康状態が訪れているようだった。
非番の日、上田与志はコルネリアを伊丹屋敷に訪ねたり、小曾根乙兵衛に誘われて天草灘《あまくさなだ》まで釣りに出かけたりした。
夏には伊丹船再建の許可が江戸から伝えられた。伊丹弥七郎の顔にはかつての意欲が戻ってきた。与志も時おりコルネリアとともに船大工場に伊丹船の建造を見にいった。上田与志は、なぜか、船ができあがるとき、彼とコルネリアの関係にも自然と新しい状態がうまれるのではないかという気がしたのだった。
船の本体が完成したのは翌寛永三年の正月であった。これで艤装《ぎそう》さえ終れば、その年の交易にはゆっくり間に合うはずであった。伊丹屋敷は久々に活気をとりもどし、商人や船頭たちが出たり入ったりしていた。夜おそくまで玻璃《ギヤマン》の盃や小瓶《こびん》を飾った座敷から人々の笑い声が聞えていた。そうした伊丹屋敷を見ると、上田与志には伴天連の詮議におののいていたことが嘘のように思えるのだった。
「何はともあれ長谷川殿のおかげだ」
彼は伊丹屋敷を訪ねる折、理由もなく、ふとそんなつぶやきを洩らすのであった。
そんなふうにして五月に入り、そろそろ異国からの一番船の噂が聞かれるようになったある午後、与志は上司に呼ばれた小曾根乙兵衛が、めずらしく動揺を顔にあらわして通辞溜りに戻ってくるのを見たのである。
上田与志は小曾根の言葉を待っていたが、小曾根は机の前を見つめたまま、黙っていた。与志は机ごしに声をかけた。
「おぬし、どうした? まるで雷に打たれたような顔をしているではないか」
小曾根はその声をきいても、しばらくは言葉の意味がわからぬように、じっと与志の顔を見ていた。それからしばらくして太い息をつくと言った。
「そうだ。えらいことになったのだ。いま江戸から長谷川権六殿の解任を伝えてきたのだ。長谷川殿は長崎奉行を解任されたのだ」
上田与志は自分の耳を信じることができなかった。長谷川権六が長崎奉行を罷《や》める? そんなことがどうして起ったのか? それでは源次の一件はどうなるのか。キリシタンの詮議がまたはじまるのか。せっかく立ちなおった伊丹一族はどうなるのか。朱印船交易はまた後退してゆくのか。いや、それより、おれはどうなるのか? いや、いや、おれではない。おれとコルネリアはどうなるのか? まさか、長谷川殿の解任で伴天連潜伏の嫌疑がまた表沙汰になるようなことはないだろうか? ――何か与志の眼の前を巨大な建物が崩れつづけているようであった。与志は思わず立ちあがり、廊下に出て、高い樟の梢を仰いだ。そこには、そうした下界の事件に無関心な五月の青い空がひろがり、その空には静かな白い雲が、海からの微風に追われて、ゆっくり東へ流れていた。
与志は物を考えることはできなかった。いろいろのことが断片的に浮んでは消えた。それは丘の天主堂のマリア像だったり、地下牢にうずくまっていたキリシタン宗徒だったり、伊丹屋敷の一部だったりした。しかしそこに何一つ一貫したものはなかった。
そうした放心した上田与志の耳に、そのとき樟の梢の上空を輪をえがいてとんでいる鳶《とび》の声が聞えてきた。その明るい鋭い声は、しかし、そのときの与志には、なにか乾いた悲しみの音に聞えた。そしてふと、この解任の報せをコルネリアも同じような悲しみの音色できくに違いないと思った。
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第二部
1 夜の巻
上田与志が長谷川権六の解任を知ってからはじめて伊丹《いたみ》屋敷に出かけたのは、五月末の夜おそくである。勝山町から牢屋敷の長い土塀について曲り、細い石段を下り、崖下の道を通って、ふたたび高台へのぼる。道をのぼりきったあたりの屋敷の塀沿いに、夜の目にも白々と白《しろ》躑躅《つつじ》が咲きみだれ、朧月《おぼろづき》がそれを照らしていた。与志はそれに眼をとめると、これから会いにゆくコルネリアの感じをふと思いだした。白く寂しげで清楚《せいそ》でありながら、どこかなまなましく、華麗な感じが匂っている。与志はふだんそんなことに気がつかない性格だったが、その夜の心の重さが、かえってコルネリアのそうした女らしさを思いださせたのかもしれない。
伊丹屋敷の暗い木立のあいだから、月の光のにじんだ雲が、葡萄の房のように粒々と波立っているのが見えた。与志はいつものように玄関の銅鑼《どら》をならした。
コルネリアは与志の来訪を予期していたように落着いて彼を迎えた。
「なんとも大へんなことになりましたな」与志は、玻璃《ギヤマン》の盃や小瓶の飾ってあるポルトガル趣味の座敷へ通されると、声を落して言った。「あまり突然のことで、どうすればよいのか、見当さえつきません」
「ほんとうに、私どもも、そうなんですの」コルネリアは眼を伏せたまま言った。「長谷川権六さまが奉行をお罷めになると、いままでいろいろ計画した事柄を、はじめから考えなおさなければなりません。前からお話ししていた伴天連《バテレン》の通訳の件も、そのままの手順では進められないように思いますの」
「しかし伴天連と伊丹屋敷が無縁であることの証言は、長谷川殿がおられなければ、いっそう、必要だと思いますが……」
「ご心配、心から有難く思っております」コルネリアは軽く頭をさげた。「でも、様子が前とはすっかり変ってしまったみたいですの。つい先刻も小野民部さまがみえて、父といろいろ相談されてゆきました。小野さまはいつもは冷静なかたですのに、今夜はひどく気がたかぶっておられたようでした。何か大がかりな事件が起るのではないかと……」
「キリシタン御禁圧の……?」
「さあ、それははっきりわかりません。でも小野さまは薩摩の隠密も大勢使っておられます。きっと確かな|すじ《ヽヽ》からの報せなのかもしれません」
「それで、伴天連の証言は不要になったのですか」
「いいえ、必要なことには変りないのです。ただ差しあたっては、伴天連を伊丹と結びつけて、伊丹を陥《おとしい》れることよりも、もっと大がかりな事件が別に企てられているらしい、というのです」
「誰がですか」
「さあ、よく存じません。伊丹に反対なさる方々でしょう」
「糸割符《いとわつぷ》仲間の方々ですか」
「その辺のところかと存じます。ともかく長谷川さまが心配されたように、伴天連と伊丹を結びつける危険は、すくなくとも、ここ当座はなくなったようですの」
「それはそうかもしれません。しかし伴天連は実際にいたわけでしょう。左官屋源次宅から証拠品も出てきたのですから。としたら、いずれは、この伊丹屋敷も睨《にら》まれるに決っています。すくなくともその対策だけは考えておかなければいけません」
「ええ、もちろん、そのときは、上田さま、あなたのお力をお借りすることになりますわ。でも、差しあたっては、もっと別のことが問題なんですの」
「それはどんなことなのです? 割符仲間の方々が何を企てておられるのです?」
「それはわたくしにもよくわかりませんの。ただわたくしは近々父とともに天川《マカオ》に出かけなければなりません。向うで何かが起るということですの」
「天川で?」
「ええ、天川や台湾《タイオワン》で……。長谷川さまも私どもとご一緒なさいます」
「長谷川殿が……?」
与志は茫然としてコルネリアの顔を眺めた。
「ええ。ながい期間ではありませんが、でも、上田さまとしばらくお目にかかれなくなります。わたくし、それが悲しいんですの」
「しかし何であなたが天川まで……?」
「向うには母の親戚も多いのです。有力者も何人かおります。わたくしでないと、できないことは、やはり、あると思いますの」
コルネリアの顔は燭台の光を受けて、昼よりも、陰翳《いんえい》が濃く刻まれていた。青いかげを帯びた眼がきらきらと光って与志を見つめた。
「それでは、そのあいだ、私は奉行所の通辞溜《つうじだま》りで、ぼんやりしていなければならないのですか」
与志の声は思わず高まり、言葉の終りがいくらか震えた。それは驚きの声とも、憤懣《ふんまん》の声ともとれる調子だった。コルネリアは、与志の、こうした駄々をこねるような口調に、ふと微笑して言った。
「いいえ、長谷川さまは上田さまにお願いしたいことが、いろいろおありとか、申されておりました。私どもからも、お願いしたいことが山ほどございますわ」
上田与志がコルネリアと、なお、彼女の育った天川の風物や、彼女の母の話などをして伊丹屋敷を辞したのは、夜半に近い時刻だった。風はほの暖かく海から吹いていた。与志は空を見あげ、雨になるかもしれないと思った。どこからか、そうした夜のなかを、花の香りが濃く蝋のように流れていた。
長谷川権六が奉行を退いたのち、水野|河内守《かわちのかみ》が着任するまで長崎奉行所は二カ月余り奉行不在の日々がつづいた。しかしその年は天川、台湾、呂宋《ルソン》からもたらされる報告が多く、上田与志も、同じ通辞として働く同郷の小曾根乙兵衛も、その翻訳に忙殺された。
文書の内容は天川、台湾、呂宋等でおこった日本側とオランダ、ポルトガル、唐の四つ巴《どもえ》になった複雑な紛争に関するものばかりであった。時によっては、内容の真相を確かめるため、平戸のオランダ商館まで通辞が早馬で出かけることもあった。
そんな初夏のある日、上田与志は奉行所上屋敷で後任の水野河内守を待っている長谷川権六から、呼びだしをうけた。
権六は、奉行所の書院で会ったときと変らぬ冷静な重々しい表情で、上田与志を待っていた。浅黒い頬に残る傷あとが、そこだけ色が変って、細く新月のように見えていた。
「わざわざご足労願って忝《かたじけ》ない。気楽な気持で私の言うことを聞いてもらいたい」
権六はそう前置きして、与志の前に台湾、呂宋、天川、天竺《てんじく》に及ぶ地図をひろげた。
「実は、しばらく前、小耳にはさんだのだが、先月、平戸を出たオランダ船に百人余の牢人者が乗りこんで、天川にむかったということだ。目的はわからない。誰の意図によるものかもわからない。ただ交易が目的でないことは確かなのだ。なぜなら先月出帆のオランダ船は、これといって大きな取引をせずに引きあげているからだ。別の報告によると、かなりの刀剣類が積みこまれたという。これは私も別途に調べて、真実である証拠をつかんでいる。だが、間もなく牢人者の目的も明らかになるはずだ。伊丹の娘が内々調べをすすめているのでな」
権六はそう言って上田与志のほうを見た。
「コルネリア殿が?」
「そうだ。コルネリアがすでに調べたところからも、何が目論《もくろ》まれているか見当がつく。そのほうは元和《げんな》八年の夏、天川を、オランダ、エゲレスの連合水軍が攻めたのを知っているか」
「承知しております。私が通辞となる前年のことだったと記憶しております」
「それなら話が進めやすい。天川は、そのほうも承知のとおり、ポルトガル人が占有している。言うなれば天川と長崎を結ぶ線はポルトガル交易の表街道だ。これをオランダ、エゲレスが邪魔をする。船を攻撃することもあれば、積み荷を奪うこともある。ポルトガルが老中にしばしば苦情を申したて、日本側からの庇護を願いでたのは、このためだ。糸割符商人たちもしきりとポルトガルに同情して、老中に口ぞえを行なった。糸割符仲間がポルトガルの糸に依存しているからには、これも当然だ。ところで、こうした事情のもとに、刀剣を携えた牢人者百名余りがオランダ船に乗って、異国へむかったという。これをどう考えるのが自然であろうか」
権六は頬の傷あとのあたりを無意識にさわりながら、上田与志のほうを鋭く見た。
「さよう……オランダとポルトガルの紛争に使われましょうか?」
「そのとおり。百名余の牢人者は天川か台湾か呂宋か、それはわからぬが、どこかで、この両国の紛争に使われると見て間違いない」
「では、牢人者を送り出そうと企てるのはオランダ人か、それとも唐交易に力を入れている誰かか……すくなくとも、ポルトガル交易に依存している糸割符のお仲間ではなさそうだと存じます」
「私もそう思った。しかし伊丹の娘が聞きこんだところによると、以前にも、得体の知れぬ男女が、天川や呂宋に船で送りだされていたという。これなども、はっきりした理由もなく、ただ、むこうの日本人町に住みこむために行くらしい。そして最近、天川や呂宋から届けられる報告は、しきりと日本人町の騒擾《そうじよう》を訴えている。詳しいことはわからぬが、以前は、こうした種類の騒擾事件はあまり起らなかった。ところが最近は、いたるところで、この種の事件が頻発《ひんぱつ》している。それは日本人と現地人の争いのこともある。日本人とポルトガル人の争いのこともある。あるいは唐人とオランダ人の争いに日本人が加わることもある。ともかく日本人が何かの形でこうした騒ぎにまきこまれている。だが、なぜ近頃になって、こうした騒ぎが多くなったのか。なぜ近頃になって日本人が騒ぎを主謀したり、それにまきこまれたりしているのか。何か新しい事情が異国でうまれているのかもしれない。オランダ、エゲレスとポルトガルの争いが前より激しくなったのかもしれぬし、私らの考えられぬ原因が加わったのかもしれぬ。そこから、最近の牢人者の渡航なども考えてみる必要がある。いったい牢人者と、日本人町の騒擾事件と関係があるのか。オランダとポルトガルの争いにどれだけ牢人者が関係しているのか……」
権六は地図に眼をおとしながら、それだけ喋《しやべ》ると、ふと我にかえって、与志のほうへ視線をむけて、笑いながら言った。
「すでに奉行職を退いた私が、こんなことに身をいれるのも妙だと思うかもしれぬが、そのほうも知ってのとおり、私は若年の頃から交易方として働いたし、自ら朱印船を所有したこともある。異国交易のことは、奉行を退いてからも他人事《ひとごと》と思えぬ。ま、雀百まで踊り忘れずの類《たぐ》いだな」
「長谷川様ご自身で天川に出かけられるとか、伊丹コルネリア殿が申しておりましたが、真実でございますか」
上田与志はコルネリアの名前を口にするとき、ふと躇《ためら》いを感じながら、そう訊《たず》ねた。
「奉行職を退いた以上、長崎にとどまっておるわけにもゆくまい。さりとて、京に隠棲《いんせい》するにはまだ血の気が多すぎる。江戸には頭のかたい老中が控えている。とすれば、もう一度、異国交易に乗りだしてみるのも、あながち年寄りの冷水でもあるまいと思うが」
「コルネリア殿は、長谷川様が近々起る何か大がかりな事件を危惧《きぐ》されて、それで天川へ出かけられるとか、そのように申されていたようでしたが……」
「いや、先刻話したような一連の騒擾事件が、何か計画された出来事のように思われてならぬし、その他、二、三の不穏な噂も聞いている。ま、できることなら、大事に到る前に、そうした事件を回避したい。これは前奉行としてより、一朱印船交易家として考えていることだ。そんな目的で、天川や安南へ出かけて、詳しい実情を調査してみたい。私の本心はまずそんなところだが、それについて、実は、そのほうに折入って頼みたいことがある」権六は与志の心の動きを見逃すまいとするように、鋭い眼で、じっと相手を見た。「頼みというのは他でもない。私とともに天川まで出かけてもらえまいか」
与志は一瞬何か鋭い刃物で自分の胸もとを刺されたような痛みに似た衝撃をうけた。天川へ出かける――それは、とりもなおさず、コルネリアとともに船に乗ることではないか。与志も、異国交易の業務にたずさわる人間として、水際まで緑の葉をしげらせた遠い安南や呂宋の地を夢みることがなかったわけではない。いつか天竺や、さらに遠くエウロッパまで旅してみたいと考えなかったわけではない。しかしそれ以上に、奉行所内の仕事や、昇進のほうに、生活の実体があるように思っていた。上田与志にとっては、奉行所通辞から通辞頭となり、祐筆《ゆうひつ》となり、江戸詰めとなって昇進してゆく人生のすじみちが、波乱や危険を含んだ安南交易などより、はるかに自分の肌に合った、着実な生き方のように思われたのである。
この点は、同僚の通辞小曾根乙兵衛より与志のほうが生真面目で、几帳面《きちようめん》で、堅苦しかった。小曾根は酒にも強く、温厚だが、豪放で、融通自在なところがあったが、与志はむしろ神経質なまでに生活なども規則正しかった。そこには従兄の伊丹弥七郎に対する反撥も加わっていたかもしれない。また、商人たちの派手な暮しぶりや、営利を目ざして一喜一憂する生活の不安定に対する嫌悪が働いていたかもしれない。しかし長崎に赴いてから後の与志の生活は、必ずしもこうした形ですすんでゆかなかった。一つには、彼のまわりに次々におこった事件に巻きこまれて、落着いた着実な日々を送ることができなかったからだが、もう一つには、与志自身のなかに、従来のそうした狭い、几帳面な自分から脱《のが》れたいという気持が働いていたからだった。とくにコルネリアと知るようになってからは、自分が、いかにも小さく設計した階段を用心深く登っているような気がして、時おり自己嫌悪に陥ることがあった。コルネリアのように、もっと大きな、影響力の強い仕事に身を投げだすべきではないか、という気持が、そんなときの上田与志の心を激しく駆りたてた。彼は通辞溜りの机の前に坐って、厚い帳面に細々した事項や年月を記入する仕事に我慢できなくなることがあった。与志は奉行所の廊下を歩きまわり、裏の樟《くすのき》の巨木を見あげたり、庭池のそばで水面に映る雲の影を見つめたりした。
もちろんコルネリアの日々の仕事が実際にどのようなものであるのか、そのすべてを彼が知りつくしているわけではなかった。にもかかわらず、彼女が権六の命令をうけて丘の天主堂に現われたり、伊丹船の附け火の犯人を突きとめたりしたような働きのなかに、ふつうの娘たちが考えたり行なったりするのとは全く違った、もっと大きな仕事――たとえば朱印船交易の発展とか、町方の会所の活溌な動きとか――に結びついた役割が見てとれるのであった。
それは彼女が単に伊丹家と結びついているからではなかった。ある日、コルネリアは与志にこんなことを言ったことがある。
「わたくしは母がポルトガル人だということを悲しんではおりません。といって、わたくしが苦しんだり悩んだりしたことが皆無だったというのではありません。これからだって、そのために、わたくしはきっと多くの苦しみや悲しみを味わうかもしれません。わたくしにはその覚悟は今ではできているつもりですの。わたくしのなかで日本の血と異国の血が一つに調和していることは本当ですわ。わたくしの眼からは、異なった国だからといって、いがみあったり、争ったりすることが、不自然に見えてなりません。それはわたくしには全く理屈に合わない、無意味なことに見えるんですの。なぜってわたくしのなかで、それは完全に一つにとけあって、調和をつくっているのですもの。だからわたくしがやるべきことは、日本がいろいろの国と調和し、盛んに交易して、豊かな国になるよう、力をかすことだと思っていますの。そのための苦労だったら、どんなことも厭《いと》わないつもりです」
おそらくこうした言葉はコルネリアの真情だったであろう。そしてこの言葉を聞いたとき、上田与志は、自分ひとりのことを考え、昇進を願って、日々わき目もふらずに働いていることが恥ずかしかった。自分がいかにもちっぽけな人間に感じられた。与志が小曾根にからかわれながらも、奉行所を出て、通辞の仕事以外のさまざまな危険に首を突っこんだのも、偏《ひとえ》に、こうしたコルネリアの刺戟があったからである。
上田与志が前奉行長谷川権六から安南、天川の同行を求められたとき、最初に頭に閃《ひらめ》いたのは、こうしたコルネリアとともに、いままで味わえなかった激しい情熱をかけて、何か大きな仕事へ打ちこめるのではないか、という期待と興奮だった。しかし同時に、得体の知れぬ長崎の町を包む黒ずんだ葛藤《かつとう》に巻きこまれて、自分が、地道な官職の道から足を踏みはずしているのではないか、という不安が頭をもちあげた。彼は心ではそうした不安を抑えつけようとしたが、やはりどこか落着かないまま、それは水のうえの油のように、いつまでもねっとりと残っていた。もちろんここでもコルネリアに対する激しい気持がすべてに優先した。上田与志は権六のほうに眼をあげ、ぜひ同行させてくれるように言った。自分としては通辞の仕事以外にあまりできることがあるとは思えない。が、異国に渡ることは、通辞の職掌からいっても、あながち無益とは思われない――そんな趣旨のことを権六に言ったのである。
権六の部屋を退いたとき、与志がまっ先にやりたかったのは、コルネリアのところへ飛んでいって、天川ゆきに同行するようになったことを彼女に告げることだった。しかし奉行代理が何と返事をするか、まだわからなかったので、一切が正式に決るまで、この取決めを外部にもらすまいと決心した。
長谷川権六を中心にして小野民部、伊丹市蔵たちのこうした計画がひそかに進められていたある日、長崎の交易事務や町方事務を扱う会所で、末次平蔵が不機嫌そうに、高木作右衛門をつかまえて、先年以来、台湾でおこっている紛争について論じていた。
「あなたは長谷川殿を惜しい人物だと言っているが、私らにとっては必ずしもそうは言えんと思う。先年も私は台湾の紛争を至急に解決するよう長谷川殿に申し入れた。台湾は日本人がはじめから占有しておった土地だ。なにもオランダ人があそこに城をつくって、ふんぞりかえっているのを許しておくことはない。まして台湾で唐人が白糸を売買するのを禁じたり、日本人の白糸売買に一割も税をかけたりするなどとは、まったく言語道断だ。私は平戸のオランダ商館にも何度か抗議したし、ご老中にはここ数年来何度上申書を書いたかわからない。だが、平戸の松浦様からもオランダ商館からも鼻薬がたっぷりきかしてあるのか、オランダに関しては一向にご老中は動こうとはしない。それに町方の会所だって、私の意向に賛同を示してくれる人は少ない。あなただって、ご自分で船を安南に出しておられるのに、当面の競争相手はポルトガルだと考えておられる。だが、いまや、本当の相手はオランダだ。オランダがいるかぎり朱印船の安南交易はたえず不安にさらされる。台湾交易はますます不可能になる。私らが結束するのは、オランダ征伐に乗りだすという点でなければならぬ。すくなくとも町方の会所の意見を、その方向にまとめてゆかなければならぬ――私はそう思う。それに先月オランダ商館から、また朱印船を誹謗《ひぼう》する報告が江戸にもたらされたというではないか。いや、台湾からオランダ代官が乗りこみ、江戸にじきじき出向くという噂さえある。それを考えると、例の伊丹船の附け火も、伊丹船で伴天連が密航してきたという噂も、ひょっとしたらオランダ商館あたりから出ているのではないかという気がする。いや、ひょっとしたら、ではない。これは間違いなくオランダ商館から出ているにちがいない。先月江戸に送られたオランダ商館の報告にどんなことが書いてあるのか、まだ詳しくはわからないが、いずれ台湾紛争を自分らに都合のいいように曲げて訴えているにちがいない。それにまた帰港する朱印船に|けち《ヽヽ》をつけていることは必定だ。私はこれ以上こうしたオランダ側の所業に我慢することはできぬ。町方の会所で意見がまとまらぬのなら、私は一人でも、やってのけるつもりだ。なに、ご老中の後楯《うしろだて》がなくとも、百人、二百人の侍どもを集めて、台湾征伐に乗りだすことくらい、末次平蔵ひとりで沢山だ」
平蔵はそう言いおわると、太い眉をぴりぴり動かして、高木作右衛門のほうをぎょろりと眺めた。高木老人は背の低い、小柄な人物で、皺《しわ》の多い陽気な顔をしていた。老人は長崎代官の激しい言葉を黙ってきいていたが、相手が言葉をきると、しばらくして、ゆっくりした口調で言った。
「いや、おっしゃることは一々ご尤《もつと》もです。だが、私たちはあくまで朱印船交易家であって、何も事を構える八幡船《ばはんせん》まがいの海賊ではない。もし朱印船交易家が異国で事を構えたらどうなりますかな。まず喜ぶのは糸割符の方々ではないですかな。そうでなくてもキリシタンご禁制にからめて、何かと言いがかりをつけられておる始末。長谷川殿が奉行を罷められたからには、キリシタン宗門についても、いっそう詮議《せんぎ》がやかましくなるという、もっぱらの噂です。ここは、どうあっても穏便に事を運ぶのがよくはないですかな」
高木老人は長崎代官のほうを見た。しかし平蔵の太い眉は相変らずぴりぴりと動き、頬のあたりの筋肉まで引きつれていた。末次平蔵は老人の顔を見ず、横をむいたまま、
「いや、もう私はこれ以上我慢できませんな。あなたが動いてくれず、会所の方々が動いてくれぬ以上、私一人でやるほかない。いや、これは邪魔して貰いますまい。平蔵ひとりでやらせて貰います」
と言った。高木作右衛門は皺の多い陽気な顔を、いくらか緊張させながら、なお何度か平蔵に穏便策を切りだしてみたが、平蔵はずっと横を向いたまま、一言も返事をしなかった。
末次平蔵の番頭浜田弥兵衛が江戸にたったのはその年(一六二六年、寛永三年)五月のことである。そしてその翌月十七日、濃い緑の木立のうえに豪雨の降りしきる午後、諫早《いさはや》街道を、供廻りの行列をしたがえて新奉行水野河内守守信が到着した。
久々で長崎奉行所の内外に忙しく立ち働く下役人の姿が見られた。
数日後、長崎の町の人々は奉行所前をはじめ辻々の制札場に墨の色も新しい高札が掲げられるのを眺めた。そして人々はそこに新任の水野河内守が、キリシタン宗門の禁圧を一段と強化すること、告訴人の賞金を銀百枚増加すること、転ぶ者(改宗者)には特に恩赦を与えること、新たに宗門改めに踏絵を用いることなどの文字を見出したのである。
2 渦の巻
新任の長崎奉行水野河内守守信は初老に達した謹直で一徹な人物であった。彼は早朝から奉行所に姿をあらわし、大通辞の貞方《さだかた》利右衛門が説明する交易状況に耳をかたむけ、上田与志たちの翻訳した天川《マカオ》、台湾《タイオワン》、呂宋《ルソン》、暹羅《シヤムロ》からの報告書の厚い綴りを丹念に読んでいた。また原隼人を呼んでキリシタンの取締り状況に関して詳しく質問し、幕府のキリシタン禁圧の方針にそって、部下を厳しく督励するように命じるのであった。
水野守信は長谷川権六とちがって自分から交易状況の将来を見とおしたり、キリシタン宗門と交易とを絡みあわせて考えたりすることはなかった。水野守信の取り柄はその職務に対してただひたすら謹直であるということだけだった。水野が笑うところを見た人は奉行所のなかには一人もいなかった。といって、新任の奉行が不機嫌だったというのではない。彼はきちんと机に向って書類に眼を通しているか、部下の報告に注意深く耳をかたむけているか、急《せ》きこんだ口調で命令を与えているか、そのいずれかだった。そして夕刻になると、よほどの重大な仕事が残っていないかぎり、さっさと帰ってしまった。その癖、水野は仕事が渋滞したり、報告が遅れたりすると、居てもたってもいられぬらしく、書院の廊下をせかせかと歩きまわっていた。
そんな水野守信の性格を反映してか、着任の四日後には、島原と大村で捕えられたキリシタンが長崎に送られ、牢屋敷の地下牢に入れられた。新奉行が増加した賞金と新たに立てた高札の効果は歴然としていた。水野守信は捕えられたキリシタン信徒たちに率直な口調で、ぜひ改宗するように、とすすめた。そんな奉行の口調には、キリシタン信徒が改宗を拒むなどとは思ってもいないような、単純な、人の好い、善意のようなものが溢《あふ》れていた。彼は、信徒たちが、一人残らず改宗を拒んだとき、心から驚いたような声をだして言った。
「お前たちが転ぶ(改宗)のを拒むと、私は、どうしてもお前たちを火刑にしなければならぬのだ。全く困ったことではないか」
しかし水野守信のこうした言葉を聞いても、むろん笑う者は誰もいなかった。重苦しい沈黙が奉行所の白州《しらす》のうえにのしかかっていた。そのなかで長崎奉行の、甲高《かんだか》い、驚きにみちた、急きこんだ声が響いた。
「私を困らすのが嬉しいとも思えぬがな。誰か転んでくれんか。でないと、お前たちを火刑にせねばならんのでな」
水野は誰一人口を開こうとしないのを見ると、頭をふって、信徒たちを牢に引戻すように言った。
信徒たちが西坂の刑場で火刑に処せられたのは、それから半月後の、七月はじめの早朝であった。
日かげには朝露が冷え冷えと残っていたが、太陽のあたりはじめた広場には、すでに暑気が感じられた。十三基の柱に縛られた信徒は足もとから噴きあげる火煙のなかで身をよじった。太陽は、赤黒く歪《ゆが》んで炎のかげろうのなかでゆらゆら揺れていた。水野守信は正面の桟敷から貧乏ゆすりをしながら、じっと火刑が執行されるのを見つめていた。
十三人の信徒が首を深く垂れるようにして息が絶えると、水野守信は頭をふって、何事かを口のなかでぶつぶつ呟《つぶや》きながら、足早に刑場を離れた。彼はその日一日、神経質な様子で、書類に眼を通したり、報告書を書いたりしていた。
久々に西坂刑場で行われたキリシタン処刑は、長崎の人々に異様な衝動を与えた。
七月半ばには、左官屋源次夫婦をはじめとする八名の男女が処刑された。男たちは火刑、女は、子供ともども斬首《ざんしゆ》の刑に処せられた。処刑の理由は伴天連を潜伏させ、ひそかにミサを行なっていたためだった。
上田与志は左官屋源次が処刑された日、ひそかにコルネリアを大浦の岬に呼びだした。そこは、かつて伊丹船の不審火を調べあぐんでいたとき、二人でよく会った場所である。青い入江が小高い木立のなかから見えていた。遠くに、黒い舳先《へさき》をそらせたポルトガル船や、赤、青に塗った唐船が銀灰色の夏の靄《もや》のなかに浮んでいた。岬までの登り道は灼《や》けつくように暑かったが、岬のうえは、風がよく吹き通っていて涼しかった。
コルネリアはすでに木立のなかの、窪みに腰をおろして、海のほうを眺めていた。
「源次夫婦がとうとう処刑されました」与志は汗を拭うと、コルネリアの横に腰をおろし、同じように、遠くの船を見ながら言った。
「子供もですの?」コルネリアの声にはどこか放心したような調子があった。
「ええ、子供もです」上田与志は、いつか路地の奥で、蒼ざめた源次の妻が抱いていた幼児の姿を思いだした。
「むごいことをしますのね」コルネリアの声には、まるで抑揚がなかった。声の艶《つや》までなくなった感じだった。
「どうすることもできなかったのです。長谷川殿でもおられたら話は別ですが」与志は視線を落して、じっと足もとの草を見つめた。木立を洩れてくる光が、草のうえに、明るい斑点を投げていた。「源次たちは気の毒でした。しかしそれよりも、今の私には、伊丹屋敷に嫌疑をかけられることのほうが恐ろしいのです。原隼人殿の配下の者たちが、すでに屋敷の附近の調べに乗りだしているんです」
「それはわたくしも気がついておりました」コルネリアは憂鬱な調子で言った。「でも、そんなこと、なんでもありませんわ。上田さまが、私どもの味方をしてくださる以上、恐ろしいことなど、なにもありませんわ」
「前にも、あなたは、伊丹屋敷の件は大して重要ではないとおっしゃった。しかし万一伴天連が捕えられ、伊丹屋敷のことでも洩らすようなことがあれば、一大事です。私が通辞として白州に出ていれば、それでもなんとかなりましょう。でも、長谷川殿がおられぬからには、私が通辞を勤められるかどうか、確かではありません」
「でも、万一そのときは私ども覚悟はできております」コルネリアは相変らず抑揚のない声で言った。「私たち、まだそうなる前にしなければならないことが沢山あるように思いますの。たとえば天川のことなど……」
上田与志はそのときふと先日会った長谷川権六の言葉を思いだした。不穏な状態のつづいている天川港、オランダ船に乗り組んだ百人余の牢人者、オランダ、エゲレスの攻撃に押されているポルトガル、台湾で争っている日本とオランダ、江戸にのぼった末次平蔵の番頭浜田弥兵衛……たしかに一つ一つ取りあげてみても、どこから解決していいのか、わからぬような問題ばかりだった。
「長谷川さまもおっしゃるように、ただ伴天連やキリシタンのことだけを考えていては、こうした事柄が解決するとは思えませんの。いいえ、これは、みんな、どこかで繋《つな》がっていると思います。ですから、天川の事件が解決したら、キリシタン御禁圧も、もうすこし明るい方向へ進むかもしれません」
コルネリアはそう言って上田与志のほうを見た。しかし与志は、彼女の青いかげりを持った眼が、沈んだ色を湛《たた》えているのを見逃さなかった。
「私たちが天川に出かけるのは、いつになりましょう? 長谷川殿から何か新しい報せでもお聞きになったのですか」
与志はコルネリアの眼をじっと見た。コルネリアは眼をふせて、頭をふった。
「いいえ。何も……」
彼女はそれっきり口をつぐんだ。眼は沖の銀青の靄のなかに浮ぶ船に向けられていたが、彼女が何か別のことを考えていることは、与志にもよくわかった。二人はそれから間もなく、別々の道を通って長崎に帰っていったが、その道々、与志は、コルネリアの黙りこくった顔が気になった。また新しい事件が起って、彼女の背負いきれないものが、重くその肩にのしかかっているのではないか――そんな気がしたのである。
しかし長崎に帰ると、彼はゆっくりコルネリアのことを考えている暇はなかった。奉行所の通辞溜りに顔を出すと、小曾根乙兵衛が彼を待ちうけていた。
「おぬし、早速平戸まで出かけて貰わねばならぬ。何やらオランダ商館で長崎奉行所をなじって、ご老中に上申書を出したらしい。できることなら、オランダ側と折衝して、どの点に不満があるのか、訊《き》きただして、穏便にすむものだったら、うまくとりまとめて貰いたい。こちらからはおぬしのほか青野左兵衛殿が出向くことになっている」
上田与志が平戸で折衝したコンラート・クラーメルは日焼けした、背の高い、豪放な人物で、海緑色の眼をしていた。クラーメルは上申書がすでに老中に渡されたこと、問題は台湾の権益に関していること、日本の朱印船交易家たちが台湾で横暴を働いていること、長崎奉行所はそれを知っていながら、見ないふりをしていること、などに触れてから言った。
「なんとしても私は江戸まで出かけます。台湾の問題だけでも解決して貰わなければ、私どもの平戸商館も商売ができなくなりますからな。長崎奉行所は会所と一つになっているから、あまり信用できません。町方の会所は末次平蔵殿の言うがままでしょう。末次殿は、オランダを目の敵にしておられる。だが、商売は協調してやるものではないですかな」
青野左兵衛が言葉をつくして奉行所の立場を説明しても、クラーメルは頑固に頭をふりつづけて言った。「いや、江戸でないと、話はつきません」
上田与志はクラーメルのこうした態度が何か確乎《かつこ》とした自信のうえに築かれているような気がした。オランダ商館からの帰り、そのことを青野に話した。
「何か目算があるからこそ、江戸でご老中と会うことを、あのように強調しているのではないかと存じます」
青野左兵衛は律義な男らしく、しきりと頭をひねった。
「クラーメルの唯一の頼みの綱は、平戸藩主の松浦隆信殿だけのはずだ。そのほかに、これといった心当りはないが……」
「しかしクラーメルの口調では、ただ松浦殿の口ぞえだけ、ということは考えられません。何か、もっと確かな保証があるに違いないと存じます」
「おぬし、心当りがあるのか」
「いや、これと言って、心当りがあるわけではありません。しかし調べあげておく必要はあるように思います」
青野左兵衛が長崎に引きあげたあと、上田与志がなお平戸にとどまって商館内外に関係する人人と、それとなく話しあったのは、こうした疑念を明らかにするためだった。
しかし与志の慎重な態度にもかかわらず、商館出入りの商人、取引先からも、これといった手がかりはつかめなかった。
与志が長崎にかえった頃、いつか夏は終っていて、日中には残暑が、街道わきの、土埃を浴びた薯畑《いもばたけ》をじりじりと灼いていたが、朝夕は海からの風が冷えて、木の葉のそよぎにも、乾いた音がまじるようになった。
与志はそんな一日、下屋敷の自宅に落着いて机にオランダ語彙《ごい》の一冊をひろげた。彼が長崎に赴任以来、時間があると、すこしずつ筆写していた辞典で、大通辞貞方利右衛門の書庫から借りだしてきたものである。非番の折、コルネリアと会うようなときをのぞくと、友人づきあいの少なかった与志は、半日はたっぷり語彙の筆写に過すのがつねだった。
昼近くなって庭先に足音がしたかと思うと、同僚の小曾根乙兵衛が、小肥りの、温厚な顔を現わした。
「相変らず勤勉だな」
小曾根は丹念に筆写された冊子を取りあげると、ぱらぱらめくった。与志は言った。
「商館に来ているクラーメルに聞いたが、やはりこの辞引がオランダでも一番すぐれているものだそうだ。おれがそれを筆写していると言ったら、クラーメルはおどろいていた」
「クラーメルといえば、その後、おぬしのほうで、何か新しい手がかりがつかめたかね。青野殿もクラーメルには手を焼いたようだな」
小曾根は温厚な顔でにこにこと笑った。
「平戸では何もつかめなかったな。おぬしは何か聞きこんだのか」
与志は小曾根の顔をみると、そう訊ねた。
「まあな。クラーメルが平戸をたったのは、おぬしが引きあげてすぐだったな」
「そうだ。おれが平戸を離れるのを見計らったように、江戸にたった」
「ところが、クラーメルは江戸まで行く必要がなくなったのだ」
「では、ご老中から何か書状でも届いたのか」与志は急きこんで訊ねた。
「いや、そうではない。クラーメルは京都で将軍家にお目通りを許されたのだ」
「京都で? それはなぜだ?」
「クラーメルは京都で堺屋利左衛門の屋敷に滞在していた。そこへ家光公が上洛《じようらく》された。クラーメルは早速松浦侯と堺屋殿を通じて、お目通りを願いでた。そしてそれが許されたというわけだ」
「堺屋利左衛門か……」与志はうめくように、そうつぶやくと、腕を組んだ。「松浦侯のほかに、誰かが陰にかくれていると思った。が、それが堺屋利左衛門だったとは思わなかった」
「堺屋の屋敷には伏見屋、小西、中屋など糸割符《いとわつぷ》のお仲間がずらりと集まったという報せも入っている」小曾根乙兵衛は与志のくやしげな顔を、おかしそうに見て言った。「おぬしは平戸ではそんな気配も感じなかったのか」
「いや、まったく感じなかった。それに、糸割符のお歴々はポルトガルと親密な間柄だ。ポルトガルとオランダは今や犬猿の仲になっている。おれは、当然の結果として、糸割符仲間とオランダは敵視し合っていると信じこんでいた」
「長谷川殿もそう考えておられるかね」
「いや、それはどうだか……。少なくともおれはそう考えていた。まさか糸割符仲間とオランダが手を結ぶとはな。だが、なぜ、敵対し合った同士が手を結ぶのだろう? どんな共通した利益が生れたのだろう?」
与志は、長谷川権六が地図を見ながら思いをこらしているときの横顔を、ちらと、思い浮べた。
「長谷川殿はこれをどう説明するだろうか。この前、コルネリアがすべては密接に絡み合っていると言ったが、あの言葉は、このことも意味したのだろうか」与志は腕を組みながら、そんなことを考えた。
「私は、堺屋殿が、一か八か、クラーメルに賭《か》けたのじゃないかと思う」小曾根は温厚な微笑に似合わぬ鋭い口調で言った。
「それはどういうことだ?」与志は眼をあげて訊ねた。
「台湾だ。台湾をオランダに渡そうというのだ」
「わからぬな。なぜ糸割符仲間が台湾をオランダに渡すことを望むのかね。オランダが台湾を所有すれば、一段とポルトガル勢力がおびやかされるだけではないかね。ポルトガルの白糸に全運命をかけている糸割符の商人たちが、そんなばかな真似をすると考えられるかね」与志は不審げにじっと小曾根のほうを見つめた。
「そこが、堺屋殿たちの賭なのだ。目ざしているのは、オランダでも、ポルトガルでもない。問題なのは、末次平蔵なのだと思う。末次船に代表される朱印船交易家全体だと思うのだ」
「なぜだ? なぜそんなことをする必要があるのだ?」
「それは前にも話したことがあったんじゃないかね。朱印船が運びこむ白糸には、糸割符仲間のつけた建値を、そのまま押しつけることができないのだ。朱印船の白糸は、自由に売ることができる。割符仲間には、それが気にくわないのだ。それが商売の邪魔になる。そこで、どの道、毒にも薬にもならぬオランダと手を結んで、朱印船の勢力を台湾から追い落そうと考えたのかもしれないのだ」
「ありうることだ」上田与志は大きな息をついた。
「だが、オランダは、だからといって、ポルトガルの追い落しをやめることはない。それは糸割符仲間の人々だって知っているはずだ。とすれば、どこでオランダと手を結び、どこで手を切るか、その辺のところが問題だ。これから当分、そこらが見どころだな」
小曾根は温厚な微笑を浮べて、他人事のようにそう言うと懐ろから煙管《きせる》をとりだした。
「おぬし、煙草を吸うようになったのか」
与志は驚いて訊ねた。
「ま、一度はじめたら、奇妙な悪癖だな、もうやめられない」
小曾根乙兵衛はそう言って火口《ほくち》に煙管を近づけると、紫の煙を吐いた。煙は初秋の日ざしのなかに糸のように絡まり合った。
与志は黙って、煙が絡まりながら光のなかに漂っているのを見ているうち、小さく「あっ」と声をあげた。小曾根がそれを訝《いぶか》ると、急用を思いだしたのだ、と、言いわけをした。そして腰をあげた小曾根を門まで送りだすと、与志自身もそのまま下屋敷の角をまがった。
道は大工町のほうへ向い、間もなく人家の並びから離れて、山に向って田のせりあがっているあたりに出た。
木立に覆われた山が、風にゆれる林の奥につづいている。長谷川権六が起居する長照寺の離屋は、この林のはずれにあった。与志は田のなかの道をのぼりつめると、林に沿って寺の白壁の塀までゆき、そこから裏にまわった。どこかで釣瓶井戸《つるべいど》を汲む音がしていた。
権六は書院風の座敷に端坐して書見をしているところであった。彼は与志を迎えると、めずらしく上機嫌な表情を顔にあらわした。
「この頃、暇になると、異国語でも学んでみたいという気がするな。ひとつ、そのほうの指南でも仰ぐことにするか」
浅黒い、引きしまった、面長の顔が、白い歯を見せて、たのしげに笑った。しかし頬の細い傷あとは、そんなときにも、笑いからとり残されているようだった。
与志は小曾根から聞いたばかりのクラーメルの一件を報告したあと、しばらく息をついてから言った。
「実は、この話をきいているうち、オランダ船で出かけていった牢人者とは、糸割符のお仲間が集めて、送りだした者達ではないか、そんな気が、ふと致しました。もしそうだとすると、牢人者は、ポルトガルを攻めるのではなく、天川や呂宋の日本人町で、交易に従事する人々の邪魔をするのではないか、そんなふうに考えられてなりません」
「それは十分に考えられることだ」権六は無意識に頬の傷あとに触りながら言った。「だが、クラーメルの件はまだ末次平蔵殿は知るまい。番頭の弥兵衛が江戸に出かけて、一向にらちがあかなかったという話を聞いた。弥兵衛はクラーメルに、まんまと裏をかかれたわけだ。だが、このことは、末次殿によくよく言っておかなければならぬな」
上田与志は新奉行水野守信が開始したキリシタン禁圧について触れ、伊丹屋敷の安否が気になると言った。それに対して権六は重ねて、おそらく伊丹屋敷は、キリシタンとしての吟味はなされないだろうと言った。問題の赤毛の伴天連が伊丹屋敷にいたとしても、それを証明するものは何もないし、この伴天連は日本をすでに離れているという噂もある、と附け加えた。
その秋から冬へかけて、台湾での紛争を報じる文書は、オランダ側と日本側の双方から奉行所に届けられた。他方、天川港のポルトガル総督は、オランダ、エゲレス連合水軍が来襲するのではないかという危惧をすてきることができず、その年、呂宋島の守備に当っていたイスパニアの水軍に、援助を要求し、イスパニアはその代償として対日交易の斡旋《あつせん》を天川の総督に依頼した。
こうした情勢のなかで、突然、奉行水野守信から、上田与志は、末次平蔵の船に乗って、台湾の実情を調査するように命じられた。それは権六が前に依頼した天川行きの件とは全く別個の仕事であった。与志はコルネリアと別れて、半年か一年、異国への旅をつづけなければならないことに、ある種の寂しさを感じた。しかし権六も言うように、差しあたって伊丹家に何の危惧、不安もない以上は、異国交易の実態を見とどけるには、このうえない機会であった。
その年の秋もおそくなって、船は天川、呂宋へ三十年来渡海している浜田弥兵衛の指揮のもとに長崎を出帆した。弥兵衛は末次平蔵の深い信任を得ている男だけあって、堂々とした偉丈夫で、白いものが加わった髪が、赤銅色の肌を、逆に、燃えたつように、くっきりと囲んでいた。ながいこと、波風と争った声は、渋く、低く、なめされていて、風の強い日にも、その声はよく響いた。がっしりした大柄の体躯《たいく》を上甲板の風のなかにさらして、鋭い眼はたえず水平線を見つめていた。
船は三、四日、左舷に低く九州の緑の山々を眺めていたが、ある昼、甲板に出てみると、もはや水平線のほか何一つなかった。濃い紺青の波が大きく、ねばっこくうねり、波頭の白い泡を烈風が吹きさらっていった。帆は風圧のしたで軋《きし》り、ごうごうと風が吼《ほ》えた。飛び魚が波頭を幾つも越えて、つぶてのように、波のなかに消えた。
雲塊がゆっくり空を横切っていった。船はいたるところで歯を軋らせるような音をたてていた。船室には商人たちが双六《すごろく》をして遊んでいた。酒は一切禁止されていたので、船のなかは清潔で、遊蕩《ゆうとう》の気分はなかった。
数日すぎると、左舷に平坦な島がみえた。気温があがっているらしく、船を吹く風も、春風のようになごんでいた。緑の木々が島を覆って、海岸線まで迫っていた。海岸には岩に波が白く砕けているのが遠く見えた。
弥兵衛は舷側に立っている与志のそばにくると、島々の姿を指して言った。
「琉球です。もう五日の辛抱です」
五日目の朝、与志は立ち騒ぐ人々の声で目を覚ました。すぐ甲板に出てみると、船はゆっくり、灰青色の陸地にそって進んでいた。ちょうど太陽が海のうえにのぼったところで、白銀色の靄がみるみる晴れて、青い波がなめらかな揺らめきをみせて拡がっていた。
船はなおまるまる一日、陸地を左舷に見たまま航行し、夕刻、あたりが落日に赤く染まるころ、視界に、四角い城塞《じようさい》にまもられた港が現われた。
浜田弥兵衛は舳先《へさき》に立って、帆の動かし方、舵《かじ》のとり方を大声で指揮していた。
船は銅鑼を鳴らし、赤い雲をうつした平らな波のうえを、ゆっくり進んでいった。
「ごらんなせえ、ゼーランディア城でがす。おととし、唐船と戦ったとき、築城したものでがす」
船頭の一人が与志にそう説明した。
深く湾入した入江の岬に、切石を積み重ね、銃眼をめぐらし、幾つかの丸櫓《まるやぐら》がその壁面をつないでいた。切りたった高い壁面は、上端が凹凸のある胸壁となっており、下は海岸の岩をがっしり踏まえていた。
船が進むにつれて、ゼーランディア城の全体の姿が次第に現われ、細い入江のうえに、のしかかるようにして聳《そび》え立っていた。暗く、きびしい要塞といった感じであった。
与志は、その城の窓や銃眼から多くの兵隊たちが銃を構えて、こちらをうかがっているのを、すぐに見わけた。おそらく城のどこかでは大砲も発火用意をして船を狙っているにちがいなかった。
「おそろしい城になったものだな」弥兵衛は舷側をすぎてゆくゼーランディア城を仰いで、舌打ちした。「早いところ、ご老中が決断を下さないために、オランダ側にすっかり先手を打たれてしまった感じだ。敵ながら、見事な築城だな」
船はその夜は港内に碇泊、翌朝、台湾長官あての書状を持った浜田弥兵衛が、十人ほどの供廻りをつれて、ゼーランディア城にのぼった。
上田与志は直接には浜田弥兵衛とは行を共にしなかったが、第一日目の長官との会見には出席した。広間の大机を間にして台湾長官ピーテル・ヌイツは髭《ひげ》だらけの顔をして椅子にそりかえって浜田弥兵衛を迎えた。
ヌイツは早口に喋り、浜田がゆっくりした鄭重《ていちよう》な動作で書状を手渡すのを、いらいらしながら待ちうけていた。ヌイツの傍らに赤毛の年若い瘠せた長身の青年がひかえていた。青年は長官からカロンと呼ばれていた。カロンは身軽く長官のそばへ寄っては、書状の内容を翻訳したり、浜田弥兵衛のそばに走り寄っては耳もとで、かなり巧みな日本語で、ヌイツの言葉を通訳したりした。その身体の動かし方は、まるで舞踏でもたのしんでいるふうに、軽々と石敷きの床のうえをすべっていった。
ヌイツは尊大な表情を髭だらけの顔に露骨に示しながら、「自分としては、今までのオランダ側の見解を曲げるわけにはゆかぬ。台湾はあくまでオランダ領であり、オランダが日本人に課税するのは当然である」と言明した。入江に多くの唐船、ジャンク船が浮んでいる事実が示すように、シナ産の白糸はほとんど台湾に運ばれ、そこから朱印船に積みかえられて、長崎なり平戸なりに運ばれることになっていた。末次平蔵や平野藤次郎らにとって、台湾は、いわば重要な商品の中継地点だったのである。それを一方的にオランダ側で課税することは、理由が立たぬばかりでなく、全く不条理も甚だしいと言わなければならない。浜田弥兵衛はその点を強調した。彼は、踊りをおどるように、ヌイツと弥兵衛のあいだを行きつ戻りつしながら、耳もとに口をつけるようにして通訳する若い長身のカロンにむかって、顔を赤くしながら、何度も、そのことを繰りかえしたのである。
最後に弥兵衛は「オランダ側の言い分は一方的な、なんら根拠のないものである故、今回も、オランダの言い分に従うわけにゆかない。唐産の白糸、鹿皮、絹布などは大量に買い附ける故、新たに台湾から唐船数艘を借り受けたい」と言った。
この言葉を、カロンが踊るような動作でヌイツに近づき、耳もとで通訳すると、こんどは髭だらけのヌイツが椅子から立ちあがって、何やらわめきはじめた。そこに居合せた紅毛人たちも顔をこわばらせて、いっせいに立ちあがった。
上田与志にはその言葉がよくわかった。長官ヌイツは浜田弥兵衛にむかってこう言ったのである。
「いまいましい猿め。黙っていればつけあがって、税金を払わぬばかりか、船まで貸せとぬかしおる。わしらはお前らに貸す船など一艘もない。あったとしても貸してなど、やるものか。お前たちは厚かましい猿だ。台湾は、お前たちより先に、オランダ人が住みついたのだ。わしたちの土地として、ここに、所有と維持を、はっきり表明したのだ。ただ住んで、気ままに生きているのとは、わけが違うのだ。こちらは生命がけで、この土地を自分たちのものと宣言し、それを維持しているのだ。ここに立っているのは人間の意志だ。緊張と努力だ。漠然と、そこに土地があるから、それは、おれのものだと考えて、あとは何もしないのとは、わけが違う。わしらは、ここに、人間の住居を建てる。人間の土地に変えてゆく。人間の意志を屹立《きつりつ》させるのだ。だから、わしらは、これを奪いに来たものとは戦うのだ。あくまで人間の土地をまもるのだ。お前らのように、ただそこに土地があるから、それは、自分のものだ、と言うのではない。自分の土地として護りぬくからこそ、はじめて自分のものとなるのだ。それがこの台湾だ。それがこのゼーランディア城だ」
さすがに長身の気のいいカロンも、この激怒した長官ヌイツの言葉をそのまま伝えかねた。彼は踊るように軽々と床のうえを歩いてくると浜田弥兵衛の耳もとで、長官はジャンク船は貸すことはできない。なぜならオランダ政府には、それだけ資金の余裕がないのだから、とだけ通訳した。
浜田弥兵衛は立ちあがると鋭い眼でヌイツをながめ、「唐船が見つかるまで、しばらく台湾に滞留させてもらう。ただしオランダ側の命令など一切受けつけないから、そのつもりでいて貰いたい」と言った。
別れは冷やかなものだった。ほとんど双方とも怒りを含んだまま、顔をこわばらして別れていった。事務官、書記官といった下級役人たちと顔見知りだった弥兵衛の配下の者たちも、こうした空気のために、互いに顔を合わせても、ただ目礼をかわすだけで、言葉をかけることはできなかった。
浜田弥兵衛は早速その日から商売を開始した。百人をこえる日本商人は唐人街に入り、馬車に満載した刀、脇差、弓矢をはじめ、金細工、銀細工、小袖、蒔絵《まきえ》、屏風《びようぶ》、傘などを売り、唐人からは莫大な量の白糸を買いつけた。
噂を伝え聞いた唐船が続々とゼーランディア城に集まってきた。幾十とない白糸の梱包《こんぽう》が末次船に積みこまれた。港は幾日も幾日もこうした人夫たちで雑踏した。
ある日、上田与志が積荷を舷側から眺めていると、船頭の一人が近づいてきて話しかけた。
「あなた様は異国の言葉が話せやすかい」
与志はうなずいた。
「台湾人の言葉も喋れますかい」
「さ、それはわからぬ。私はポルトガルとオランダだ」
「いや、あれ達はオランダは喋ると思いますがな。ひとつ、会ってやってくれませんかな」
「どんな用なのだね」
「会ってみてくださりゃ、わかりまさ」
船頭はそう言った。
与志は船頭につれられて、町はずれの、白壁の、みすぼらしい人家に出かけた。
家のなかには、ぼろを着た男女が十人ほど床にしゃがんだり、転がったり、膝をかかえたりしていた。
「何の用か」
与志はオランダ語で訊ねた。男たちの一人が床からのろのろと立ちあがり、ぼろを捲いた自分の身体を開いてみせた。胸から背にかけて、桃色に引きつれた傷あとが、幾すじも、交錯していた。
「鞭、打たれた」男は、片言のオランダ語で言った。「オランダ人、打った。私らを打った」
その言葉につられて、男たちは一人一人身体をみせた。どの身体にも、日焼けした肌に、桃色にふくれあがった細長い傷が、蛇のようにうねっていた。
一人の女は被《かぶ》りものをとった。髪が切られていた。女は両手を顔に当てると泣きはじめた。
上田与志は茫然としてそこに立ちつくした。
3 海の巻
船縁《ふなべり》から下をのぞくと、紺青のうねりのうえを、船首のかきわける泡立った白い波が、ざわざわと騒ぎながら拡がってゆく。時おり帆柱がきしり、船員たちの声がひびく。潮の流れに乗った船は、船体をゆっくりと前後にゆらせながら、かなりの速度で、琉球の沖を過ぎていた。
「どうもオランダ船は見えませんな」
遠眼鏡を手にした浜田弥兵衛が、船縁から海を見ていた上田与志に声をかけた。赤銅色の顔を囲んだ半白の髪のほつれが、風に揺られていた。その鋭い眼は、銀色の雲が光っている水平線に向けられたままだった。
「四、五日前に出帆した船に、そう容易《たやす》く追いつけるものですか」
与志は、堂々とした弥兵衛の体躯を見ながら訊《たず》ねた。
「それは潮と風向き次第ですな。半月後に出発しても、こちらが先に着くこともあります。ここまで来てオランダ船が見えないとすると、むこうも順風に乗っていると考えてもよさそうですな」
弥兵衛はそう言って、遠眼鏡で、また、雲の光る空虚な水平線をひとわたり眺めた。
弥兵衛たちが突然|錨《いかり》をあげて、長崎にむけ台湾《タイオワン》を出帆したのは、台湾長官ヌイツを乗せたオランダ船が、七月二十四日にひそかに平戸へ出発したことを知った直後だった。
前年の秋のおわりに台湾に来てから、弥兵衛は何度か髭だらけのヌイツと会って、オランダ側が押収した白糸を返却するよう交渉した。また大明《だいみん》から直接白糸を運んでくるため、唐船を数艘借りうけることを申し入れていた。しかしいかに弥兵衛が委細をつくして説明し、赤毛の年若い瘠せた長身のカロンが踊るような動作で二人の会談を通訳しても、いっこうに話の折合いはつかなかった。ヌイツは最後には必ず真赤になって怒鳴りはじめたし、弥兵衛は弥兵衛で、怒気をふくんで立ちあがり、半白の髪に囲まれた赤銅色の顔に、血管がみるみる膨れあがってくるのだった。
二人の話合いがつかないままに、その年も終り、春があわただしく過ぎて、暑い湿った夏が近づいていた。弥兵衛がヌイツから長い航海に耐えられる唐船を借りうけたいと望んだのは、彼が主人の末次平蔵や朱印船交易家の平野藤次郎らの莫大な投銀《なげがね》をあずかっていたばかりでなく、さらに、前年江戸で、台湾紛争について老中や若年寄を説得してまわったとき、内密に、彼らからも、かなりの資金を委託されていたからである。だが台湾には、それだけの投銀に価する白糸は集まっていなかった。ここは、なんとしても、大明本土まで出かけて、投銀分だけの白糸を購入しなければならなかった……。
弥兵衛は前年、江戸でなめた苦い味を忘れることができなかった。彼は、その頃はまだ、平戸の松浦隆信や、堺屋利左衛門ら糸割符商人が巧妙に手をまわして、オランダ人に有利に事が運ぶよう画策していることに気がつかなかった。江戸では、老中永井尚政の屋敷にいっても、井上正就の屋敷にいっても、煮えきらぬ返事しか聞かれなかった。突っこんで訊ねると、「よく考えておこう」とか、「いずれ調べたうえで」とか言って問題をはぐらかされた。弥兵衛はこうして何日か過すうち、ひょっとして、彼らのところに、届けるべきものが足りないのではないかと考えた。むろん末次平蔵の名で、それぞれ十分の金品は届けてはあった。しかしこうした利権の駆引きでは、それは多すぎるということはないはずだった。そこで弥兵衛は朱印船への投銀がいかに莫大な利潤をあげるかを、例を挙げて説明し、もしよろしければ、自分がそれを引きうけてもいいのだ、と提案した。案の定、弥兵衛の経験や度胸にほれこんで、投銀を内密に委託する重臣たちが現われはじめた。弥兵衛は、白糸の買附けさえ成功すれば、この投銀はかなりの儲けをもたらすし、その結果、実質的に金品を贈るのと同様の効果をあげるうえ、朱印船交易がいかに有利な仕事であるかを、認めさせうることになる、と考えたのだった。
しかしようやくそうした仕事が緒につきはじめたとき、クラーメルが京都で将軍家に会ったという報せがつたわった。言ってみれば、弥兵衛がそれまで地道に積みあげてきたことは、この一事で、すべて瓦解《がかい》したようなものだった。弥兵衛はそれから幾晩かは、口惜しさのあまり、眠ることもできなかった。
彼はそれまで、自分は単なる交易家でも船頭でもなく、末次平蔵の意向を実現しうる有能な政略家であると信じていた。すくなくとも、こうした心の動きが、江戸で、弥兵衛の活躍する原動力になっていたのである。それが松浦隆信や糸割符商人たちの陰謀で、まんまと裏をかかれたのだった。弥兵衛の気持は、ただ口惜しいではすますことができなかった。
当然、浜田弥兵衛にとっては、老中から秘《ひそ》かに委託された投銀を、なんとか、意地にでも、生かして、三倍なり五倍なりの利潤をあげなければならなかった。それは、必ずや、老中の意見をひっくりかえすだろう。台湾がいかに日本にとって重要であるかを、そのことから、いや応なく気づいてゆくであろう――弥兵衛はそう考えた。そして江戸から帰った足で、そのまま、飛び乗るように朱印船に乗り組み台湾へ向けて出発したのである。
弥兵衛にとって、白糸が手に入らぬということは、こんどの場合、ただ交易が不成功に終るというだけではなく、老中、若年寄の信用を失い、朱印船交易に関して失望と嘲笑を買うことを意味した。こんどだけは、石に齧《かじ》りついても、白糸を買附けなければならない。そしてそのためには、何が何でも、唐船を借りうけなければならない。彼は航海のあいだ、そう思いつづけていた。その揚句に、台湾に来て、長官ヌイツに会ってみると、前年に取りあげた白糸の梱包《こんぽう》をかえさないばかりか、唐船さえ貸すことを拒んでいるのだ……。
これは当然、弥兵衛の眼に、平戸のオランダ商館と打ち合せて打った芝居と映った。しかもその年、澎湖島《ほうことう》あたりから来る小型の唐船はあっても、支那海を横切る大船は一向に姿を現わさなかった。弥兵衛は、配下の商人らとともに、いたずらに日をおくるほかなかった。ともかく季節風が吹きはじめる初秋には、長崎にむけて出帆しなければならない。せめてそれまでの間、台湾附近で買い求められる白糸だけでも集めておこう――弥兵衛はそう考えて、台湾(安平)を出て、陸地にそって小航海を試み、十日ほどたって、ふたたびゼーランディア城のそびえる台湾の港に帰ってきた。彼は、そこで、留守の間に、長官ヌイツが急遽平戸にむけて出帆したことを知らされたのである……。
弥兵衛がそのとき最初に感じたのは、自分の迂濶《うかつ》さに対する腹立たしさだった。むろんオランダ人の狡猾《こうかつ》さ、悪辣《あくらつ》さに対して、いまいましい気持を感じた。とくに髭だらけのヌイツが椅子にふんぞりかえっている姿には、何か胸のむかむかするような感じがした。しかし反面、このオランダ人の機敏さ、巧妙さ、大胆さには、弥兵衛のような人間の舌をまかせるようなところがあった。遠い海を渡り、未知の生活に挑んでいる人間の、鞣《な》めされたような、しんの強い、不敵な面魂があった。弥兵衛はそれに敏感に反応した。「負けられぬ。どうしても負けられぬ」彼は心のなかでそう叫んだ。江戸の苦杯は、もう二度となめるものか――彼はそう思いながら、長官ヌイツが立ちさったあとの、静まりかえった入江を眺めた。真夏の午後の太陽が、青い入江にぎらぎら照りつけ、ゼーランディア城の石畳が、その入江の平坦な水面に、雲の影とともに、くっきり倒影になって映っていた。
しかし弥兵衛の心からは、オランダ人に出しぬかれたという気持を拭うことはできなかった。先に平戸に着いた彼らが、松浦隆信や糸割符商人たちと結んで、台湾紛争のことを、どのように歪《ゆが》めて伝えるか、わかったものではない。彼らが自分に都合のいいことばかり並べて、老中を説得することは、前年の経験からいっても、火を見るより明らかだ。ここは、何としても、彼らに先んじて長崎に着き、江戸の重臣に対しても先手を打っておかなければならなかった。
「だが……」とそのとき浜田弥兵衛は半白の髪に囲まれた赤銅色の顔をぎらぎら汗で光らせながら、考えつづけた。「現在、まだ十分の白糸が買い集められていない。このまま江戸に行けば、ご老中や重臣の失笑を買うほかない。オランダ側より先に江戸に着いたとしても、これでは何もならぬ。いや、かえってオランダ側につけいらせるようなものだ」
弥兵衛は船が錨を入江の奥に投げこむのをぼんやり見つめた。ゼーランディア城を警備する兵隊たちも、石畳のうえから、日本船が錨を投げるのを眼で追っていた。
「といって、このまま、当てにならぬ白糸の買集めに、今後なお幾日も無駄にするわけにはゆかぬ。いや、日数はもう無駄にしすぎているのだ。とすれば、とりあえず、手持ちの白糸を江戸の重臣たちの分として売りに出すほかない。平野殿や平蔵殿は立腹されるであろうし、長崎の商人連は私を見限るかもしれぬ。だが、今の急場は、ほかに、なんとしても切りぬけようがない」
弥兵衛は汗を拭うと、太い眉をしかめて、港のほうへ視線をめぐらした。波止場には、何人かの土民たちが半裸の身体を汗で光らせながら、綱を曳《ひ》いたり、積荷をかついだりしていた。弥兵衛の眼は、土民たちの一人の身体に釘づけされた。その男の、日焼けして浅黒い肌の背から腹にかけて、色の変った、ひきつれたような傷が見てとれた。
弥兵衛は手をたたいて、船頭の紋十郎を呼んだ。
「あの人足の傷だがな」弥兵衛は眼でその男を指しながら紋十郎に言った。「あれが、前に、上田与志殿が話していた土民なのか」
「へえ、左様で」紋十郎は懐ろから手拭を出すと、額の汗を拭いた。凪《なぎ》が来て、入江は油を流したようにどろりと静まりかえり、暑熱が息苦しいまでにのしかかっていた。「ゼーランディア城の工事に楯《たて》をついたやつらでがす。上田様がお慈悲をかけられたもので、どうしても日本船の人足になりてえと申しまして、あれの仲間が十人ほどおりやす」
「たしかオランダ人を憎んでいるという話だったな」
「それあ、もう……。なにせ、田畑はとられる。人足には駆りだされる。その上、年貢まで巻きあげられると言いやすからな」
「それでオランダ人を憎んでいるわけだな」
弥兵衛は半裸の男の傷を眼で追いながら言った。
「へえ、そりゃ、間違いのねえことと思いやすよ」
紋十郎は答えたが、それに対しては弥兵衛は何も言わず、相変らず半裸の男の筋目になった傷をじっと見つめていた……。
上田与志が、顔馴染の土民たちの何人かが弥兵衛の船に乗せられていることを知ったのは、船が台湾を出て、陸地が青く海の涯《はて》に見えるようになってからだった。
ある日、与志が甲板に出ていると、弥兵衛の召使が呼びにきた。与志は召使について船内の狭い梯子《はしご》をおりていった。汗臭い、むんむんと暑気のこもった船底の部屋に、十二、三人の男がうずくまっていた。弥兵衛はその部屋に立っていた。
「上田様、ご足労をいただき、誠に恐縮に存じますが、この者どもに、この先、何の不安も懸念もない旨、よく申しつたえていただけませぬか。昨日あたりから、急に不安になった模様で、時には騒ぎだしたりする男も出るような始末でして……」
与志は、はじめ、弥兵衛が何の理由で土民たちを乗船させたのかわからなかった。彼らは与志とはよく話を交わしたばかりではない。与志から食糧や銀子《ぎんす》なども与えられていた。日本船の荷積みをして働くようになったのも、与志の取計らいがあったからである。それに、出帆の前夜にも、彼らは、乗船のことなど何も話していなかった。彼らのなかには、与志と別れるので、涙を流した男もいたのである。
それなのに、なぜ彼らは、与志と同じ船で日本に向っているのだろうか。与志がおどろいてそのことを弥兵衛に訊ねると、彼はこう言った。
「台湾のことを長崎奉行や江戸の重臣がたに話してもらいたいと思いましてな。この者たちは言わば生き証人として長崎まで来てくれると申すのです。しかも自分から進んで、そう申し出ましてな」
それなら、その男たちが、なぜ急に不安になりだすのであろうか。そのことが、与志には腑《ふ》に落ちなかった。むろん土民たちもそのことについては、話したがらなかったし、弥兵衛もそれ以上は詳しく説明しなかった。与志はただ「長崎まで行って、仕事が終れば、十分の謝礼をして、台湾に送りかえす」という弥兵衛の言葉だけを通訳した。男たちは与志の口からその言葉を聞くと、安心がいったのか、急に静かになった。
こうして弥兵衛の船は帆をいっぱいに張って、長官ヌイツの乗ったオランダ船を追っているのだった。弥兵衛は潮の流れに乗って西に流れすぎないように、夜になると、しきりと星を観測して航路を修正した。暗い舷側から、昼よりも一段と荒れ騒ぐ波の音が聞えた。船頭たちは、海で溺《おぼ》れた亡霊たちが、生者を引きずりこもうとして騒いでいるのだ、と話していた。帆は星空に黒黒とふくらみ、まるで生きもののように唸《うな》り、身もだえし、軋《きし》んだ。そんな夜、上田与志は、一年ぶりで会うコルネリアのことを考えた。彼は、はじめて日本を離れてみて、日本の本当の姿がわかってきたような気がした。台湾《タイオワン》には、江戸や長崎では考えられないような人間たちが、まったく別の風俗、習慣にしたがって生きている。言葉も違えば、考え方も違う。食事も違えば、挨拶の仕方も違う。それでいて、ここでは、それが立派に通用した。それが、ここの生活なのだ。日本などとは何の関係もない生活……江戸も知らぬ。将軍家も知らぬ。キリシタン禁圧も知らぬ。それでいて、結構、魚や野菜に恵まれ、何の痛痒《つうよう》もなく生きている……。与志は台湾に来た当初、幕府や奉行所や禁圧や聞きなれた噂などとまったく無関係に、勝手気ままに生きている人々を見て、何とも説明のつかぬ混乱した気持を味わった。与志は、もちろん通辞という職掌からいっても、頭では、そうした異国が存在していることを知ってはいた。しかし実際に台湾に来るまでは、やはり人間が幕府や奉行所やキリシタン禁圧と無関係に生きられるなどとは思ってもいなかった。与志のような人間でさえ、台湾に来てみて、はじめて、自分がいかに日本という国のなかにすっぽり包みこまれ、それを外側から見ることができないか、を、つくづくと思い知らされたのである。
コルネリア殿は、時おり私などの思いも及ばぬようなことを平気で口にするし、考え方も、小曾根や私などと大いに違う。あのひとのなかには、物に捉われずに、自由にものを見る眼がある。ながいこと、その理由がわからなかった。だが、いまになって、ようやくそれがわかるような気がする。コルネリア殿は日本を外側から見ることができるのだ。日本のほかに、いろいろの異国があって、それぞれに自分に合った生き方で暮しているのを、あのひとは、よく知っているのだ。
上田与志は、数日後に再会できる今となって、かえってコルネリアのことが、甘やかな痛みをともなって、何度も思いだされた。彼は、コルネリアが髪を風に吹かれながら、海の遠くを見ている姿を、幾度となく、そこに思いえがいたのである。
浜田弥兵衛の船が長崎に着いたのは七月終りの暑い日であった。上田与志は土民たちの宿舎や食事について弥兵衛と話しあってから、長崎奉行所に入った。奉行所からは、青野左兵衛らの上司のほか、小曾根乙兵衛も出迎えていた。町方の会所の役人も雑踏していた。
「おぬし、なかなかよく勉強したな。おぬしの報告で、台湾や天川《マカオ》の事情はかなり明るくなった」
小曾根は温厚な微笑を浮べて言った。
「それにな……」小曾根は、ちょっと面映ゆそうな表情をして附け加えた。「おぬしの留守のあいだに、女房を貰った」
与志は一瞬まじまじと小曾根の顔を見つめた。
「なんだ、妙な顔をして。私が女房を貰うのが、そんなにおかしいか」
「いや、めでたい。めでたいが、どうも、思いもかけなかったのでな。正直言って、おどろいた」
二人は声をあわせて笑った。小曾根の話すところによれば、彼の妻は、江戸の旗本泉田平左衛門の娘で、小曾根とは遠縁に当るということだった。
「なにしろ長崎くんだりまで、ひとりで来るのが心細いというので、妹が一緒に来ているのだ」
小曾根は奉行所に着くまで、しきりと新世帯の話をした。一も二もなく彼は新妻に参っている様子であった。温厚ながら、時には辛辣《しんらつ》な言葉を漏らす小曾根が、自分の妻のことを、珍しい小動物ででもあるかのように話すのを見ると、与志は、自然と微笑をさそわれた。小曾根の人の好さが話のなかに滲《にじ》んでいるようであった。
長崎奉行水野守信はせかせかと上田与志を迎え、早速、台湾の事情を報告させた。彼は与志の報告書をめくったり、附箋《ふせん》の貼《は》ってある箇所を小曾根にただしたりして、その話をきいていた。そして報告が、弥兵衛の連行してきた土民の件に及ぶと、急に眉をひそめて「これは厄介なことになりはせぬかな」と独りごとのようにつぶやき、腕をくんだり、ほどいたりした。
それに対して、与志は、土民に関しては末次屋敷が一切の責任を負うこと、土民連行の目的は江戸の重臣に向けられていること、したがって長崎奉行所としては、別命のない限り、この件に触れる必要は認められないこと、などを、申しのべた。
しかし末次屋敷で土民たちをどのように取扱い、どのような形で証人に用いるのか、与志にもわからなかった。彼は、顔見知りの男たちが不当な取扱いを受けないよう、町外れの、入江に臨んだ、格子窓の家を何度か訪ねた。男たちは座敷に寝ころんだり、立膝をしたりして、退屈そうに暮していた。片ことのオランダ語を喋《しやべ》る男が、弥兵衛が来たこと、近々江戸に連れてゆくと言ったこと、弥兵衛の言うとおり証言すれば多額の金品を与えると約束したこと、などを与志に打ちあけた。「私ら、帰ること、できるか」と男は心配そうに言った。
「そのことは奉行所で責任を持つ。安心して貰いたい」
与志はそう答えた。
末次屋敷からの報告で、弥兵衛が、末次平蔵の名代の使者を即刻江戸に送ったことを与志も知っていた。もちろん老中、若年寄らの投銀《なげがね》に関しては何一つ知らされていなかったが、弥兵衛が長官ヌイツに先んじて江戸と連絡をとろうとしていることだけは容易に見てとれたのである。
弥兵衛の船が長崎に入った七月三十日には、オランダ船はまだ平戸に入港していなかった。あとでわかったところでは、ヌイツが平戸のオランダ商館に入ったのは、翌八月一日のことで、日蘭双方の船は支那海をほとんど前後して北上していたことになる。もちろんヌイツもすぐ旅装をととのえ、八月十五日には海路平戸を出発した。松浦隆信と京都の糸割符商人たちを後楯にしていたオランダ使節は、江戸の重臣たちの説得にこんども十分の自信をもっていた。ただ、八月はじめ、平戸のオランダ商館にも、弥兵衛が台湾の土民を連れてきたという報告が入っていた。そのことがヌイツには気がかりといえば気がかりであった。
八月後半は長崎も暑い日がつづいた。しかし台湾の灼熱《しやくねつ》の太陽にやかれてきた上田与志には、日中でも風のよく吹き通る奉行所での仕事は、さして苦痛ではなかった。
「台湾も暑いところだが、天川まで行けば、もう冬がないということだ」
与志は通辞溜《つうじだま》りで同僚に旅の土産話をしながら、黒く日焼けした腕をまくって見せて、そう附け加えた。
相変らず律義な奉行水野守信は長崎一帯のキリシタン取締りに当っていた。禁圧を告げる高札の数をふやしたり、告訴人の賞金を増額したり、町方の警固を厳重にしたりしていた。
八月半ばには五人の男女が原隼人の手でとらえられ、水野の前に引きだされた。男たちはほとんど口を閉じて、一言も水野の問いに答えなかったが、二人の女たちは、水野が真剣な表情で「どうか転んでくれんかな。そうでないと、わしは、お前らを火焙《ひあぶ》りにせねばならんのでな」と言ったとき、ひどく驚いたような顔をして、初老の謹直な奉行のほうを眺めた。水野守信は二人の女を別室に呼んで、「どうか、わしを悩まさんでくれ。わしは好んで火焙りなぞしているわけではないのだ」と繰りかえして話した。
原隼人の部下の話では、女キリシタンは二人とも水野の率直な態度に打たれて転んだということだった。水野守信はその日一日上機嫌で、めずらしく青野左兵衛らと食事をともにし、酒も少少たしなんだ、という噂だった。
八月下旬には平戸にさらに一艘オランダ船が入港した。末次屋敷で、末次平蔵や浜田弥兵衛らが神経をぴりぴりさせて、平戸からの報告を待っていた。長崎奉行所からも通辞二名を含む使者が平戸に立っていった。長崎にはポルトガル船が白糸や鹿皮を満載して、久々に入港し、糸割符商人の配下の者たちが町方会所附近に集まり、倉庫に入ったり、呉服屋や糸屋と話し合ったりしていた。
間もなく、平戸に入港したオランダ船は、弥兵衛たちが台湾で狼藉《ろうぜき》を働いたという偽りの報告を江戸に送るために来たのだ、という噂が、長崎に流れてきた。弥兵衛はこれ以上一刻も長崎にとどまっていることはできなかった。なんとしても、台湾の実情を老中に理解させなければならない、日本の商人が自由に取引ができるように、台湾をオランダ人から奪いかえさなければならない――弥兵衛はそう思った。そして末次平蔵から莫大な銀子を受けとると、台湾の土民を連れて出発した。九月初旬の秋めいた日で、諫早《いさはや》街道に両側からせまる崖の斜面には、芒《すすき》が、すでに、銀色に眩《まぶ》しく光る穂を、午後の日ざしにきらめかせていた。
台湾から帰国してから、上田与志がコルネリアに会ったのは、わずか二回で、一度は、港に出迎えて貰ったとき、もう一度は、その二、三日あと土産物をもって伊丹屋敷を訪ねたときで、いずれも、ゆっくり話をする時間がなかった。その後、報告やら、翻訳やらに追われて、気がついてみると、すでに季節は秋に入ろうとしていた。与志は非番の日にでも一日ゆっくりコルネリアと山歩きをたのしんでもいいと思った。いつもは忙しく会って別れるだけだった大浦の岬にでも、こんどは、遊山《ゆさん》のつもりで、出かけてみるのも悪くはない――そう思った。
しかしその非番の日、小曾根乙兵衛からぜひとも妻と妹を引き合せたいゆえ、当方に出向いて貰えまいか、という伝言を受けとった。
小曾根の家は奉行所の上屋敷に属し、与志の住む下屋敷からは、末次屋敷の前を通り、樟《くすのき》の巨木の繁る山寄りの道を歩かなければならなかった。以前、小曾根と会うときは、海沿いの料亭を用いたので、この同郷の先輩の家を訪ねるのは、これがほとんどはじめてのことだった。
小曾根の妻|幾《いく》は二十三、四の、落着いた、綺麗《きれい》な眼をした女で、いかにも旗本の家で厳しく躾《しつ》けられたひとらしく、挙措が端正で、爽やかな感じがした。幾の妹|妙《たえ》は、姉と瓜《うり》二つほどによく似ていたが、年が若いせいか、まだ、おかしがったり、皮肉な物言いをしたりして、姉に叱られていた。
「江戸がそろそろ恋しくなりはしませんか」与志は妙にそう訊ねた。
「いいえ、江戸に帰りたくもございません。それより、台湾や天川のほうに出かけたいと存じます」
幾が傍らから妹をたしなめた。しかし妹のほうは姉の言葉には耳をかさずに言った。
「お兄さまのお話によりますと、台湾も天川、天竺《てんじく》なども、大そう暑い国のよし。常夏《とこなつ》の国などとは、いったいどんなところでしょうか。一度は出かけてみとう存じます」
すると小曾根がその言葉を受けとって「お前も、上田のように、まっ黒こげになるぞ。むこうには、黒こげの女がいくらでもいるそうだからな」と言った。
「まあ、本当ですの。黒こげの女たちがおりますの」
妙は与志の浅黒い顔をしげしげと眺めてそう訊ねた。
与志が酒肴《しゆこう》のもてなしを受けて小曾根の家を辞去したのは、そろそろ夕日が入江に赤い光を投げかける頃だった。ちょうど末次屋敷のそばの店に用があるという妙が、奉行所の前まで与志を送ってゆく恰好になった。
風は海のほうから吹き、樟をさやさやと揺らせていた。
「本当に台湾や天川には秋や冬はありませんの」
妙は、小曾根が言ったこの奇妙な事実が、どうにも腑に落ちないらしく、道を歩きながら、そう訊ねた。
「夏に較べれば、いくらか冷えることはあります。でも、袷《あわせ》を着るぐらいですんでしまいます。花は年中咲いています。それも、色のもっと濃い、見たこともない花です」
「で、本当に、女のひとは日に焼けるんですの」
「いいえ、小曾根殿はあなたをからかったのですよ。そんな黒い女なんておりません。黒人というのは、もっと遠く、天竺よりもっと遠くの国から来ると言われています」
「そうでしたの。お兄さまって、本当にひどい。帰ったら、うんと、とっちめてやります」
与志は、妙のそんな言い方に思わず笑った。
そのとき奉行所の長い白壁の塀を曲って、不意に、コルネリアが姿をあらわした。与志もコルネリアも一瞬声を出しそうにして、ほとんど同時に足をとめた。
「いま、上田さまのお宅にお訪ねしたところでしたの」
コルネリアは青いかげの浮んでいる異国風な眼で、与志と妙を半々に見ながら、そう言った。その言葉は、語尾のほうが聞きとれないくらい、かすれていた。
与志は手短かに小曾根の義妹を紹介し、そこで妙と別れると、コルネリアに、もう一度、家まで引きかえして貰えまいか、と頼んだ。
コルネリアは黙って、顔をゆっくり縦にふった。
下屋敷に帰ると、庭からは、夕づいた空が青く冷たく見えた。雲が赤く染まって、金の羽毛のように流れていた。海のむこうの、どこか遠い国を見ているような気がした。
与志は、せめてこんどの旅で天川まで行ってみたかった、と言った。「あなたの生れた町を見ることができなかったことが、かえすがえすも残念です」
「いいえ、きっと、がっかりなさいますわ。長崎ほどの美しさもないし、住んでいる人間もさまざまですもの」
「そんなことはない。私は、こんど日本の外に出てみて、はじめてコルネリア殿の偉さがわかったのです」
「わたくしの偉さ? まあ、いやですわ。わたくし、そんなこと、考えてみたこともありません。わたくし、本当は、つまらない女です。この頃、つくづくそう思いますの」
「そんなことはない。あなたのように、物を自由に見たり考えたりできる人は、長崎にも江戸にも、そんなに多くいないのです。私の知るかぎり、長谷川殿ぐらい……」
「長谷川さまとわたくしとは、月とすっぽんほどにも違います。わたくしは、ただ、普通の娘のように、平凡な、あたり前の境遇に生れあわせなかった。それだけのことですもの。普通の娘さんが羨《うらや》ましいと思いますわ。何も知らず、お花やお茶の稽古をして、静かに日を送っていられますもの」
「あなただって、そうしていけないことはありませんよ。いや、そうすべきです」
上田与志は声に力を入れて言った。
「ええ、できれば、わたくしだって、そうしたいと思います。でもわたくしは日本の娘ではありません。ここにいれば、自分が異国人だということを、いや応なく、感じさせられてしまいます」
「そんなことはない。あなたは立派な日本の娘じゃありませんか。伊丹殿のお嬢さんじゃありませんか」
「でも、わたくしは半分ポルトガルの人間です。わたくしがまだ見たこともない国の血が流れているのです。わたくし、それがよくわかりますの。自分が、どこの国の人間でもないことが、よくわかるんです。たとえば、さっきお会いした綺麗な方――ああいう方にお目にかかると、自分が異国人だってことが、よくわかるんですの。わたくしも、ああいうふうになりたかったって、本当に思うんですの」
「あの人はあの人、あなたはあなたです。あなたがなさってきたこと、いまなさっていることは、あなたでなければできないことじゃありませんか」
「そんなこと、しないですめば、したくなかったと思います」
「そんなふうに考えるべきじゃありません」上田与志は声を大きくして言った。「船のうえで、私はコルネリア殿のことを考えていました。私もあなたと同じように日本だけではなく、ほかの国や、それぞれの国の人たちのことを考えられるようになった、と思ったのです。それは間違ったことでもなければ、どうでもいいというようなことでもありません。日本はこれからも異国と交易をつづけるでしょうが、そうなればいっそう異国のことも日本のことと同じように考えられるようにならなければなりません」与志は言葉をさらにつづけた。「私たちの仕事はこれからが大へんです。私は、そのことを、こんどはじめて理解したのです。私たちは大切な時代に生きていると思います。私たちの力は小さいかもしれません。しかしその力を出しあって、何とか道を切りひらいてゆかなければなりません。だが、コルネリア殿、このことを私に教えてくれたのは、あなたなのです」
すでに空からは夕映えの光は消えていた。紫を帯びた暗い雲が、青ざめた、水のように澄んだ宵空に浮んでいた。部屋のなかも暗くなっていた。その薄闇のなかで、異国風のコルネリアの眼だけが、にじんだように、光っていた。
4 冬の巻
十月に入ると、長崎奉行所の裏手を深々と覆っている樟の巨木も、海からの風に、いっせいに葉裏をかえして揺れ、乾いた、細かい葉ずれの音を梢《こずえ》から梢に伝えた。そうした葉音を聞きながら、上田与志は江戸から送られてくる浜田弥兵衛に関する報告を読んだ。そして時おり、同行した台湾《タイオワン》の土民たちがどうしているだろうかと、不安な思いに駆られた。
「用がすみ次第、必ずかえらせてやる。私が請けあう」土民たちが諫早街道を江戸にむかって出発する日、与志はそう言って彼らを見送った。
しかしその後、末次屋敷から伝えられた話によると、浜田弥兵衛は老中の屋敷を廻って、土民たちが日本に来たのは、台湾全土を幕府に献上するためだ、と説明しているというのだった。しかしそれは末次平蔵がはじめから弥兵衛にひそかに命じていたことで、長崎をたつ前から予定されていたというのである。
むろん上田与志にそんなことは何一つ知らされていなかった。彼が知っていたのはただ土民たちがオランダ人から迷惑を蒙《こうむ》っており、その事実を証言して、幕府から何らかの保護なり、仲介なりを願っているということだけだった。もっともそのことにしても、後から考えると、どうも、台湾を出帆する直前、弥兵衛が急に思いついて、土民たちに説きつけたふしがないでもなかった。しかし与志は、長谷川権六やコルネリアを含めた伊丹一族が、朱印船交易をすすめるために、台湾が、オランダ人によって占領されるのは思わしくない、と感じていた。台湾は従来どおり大明と日本との交易の中継地となり、自由に交易活動が行われて然るべきだ、と考えていた。そのため、多少、弥兵衛の遣《や》り口に強引なところが感じられても、あえてそれには眼をつぶろうと決心していた。そのかわり台湾から連行した土民の安全だけは、彼は、何としてもまもりぬこうと考えていたのだった。
ところが、その土民たちが、いつの間にか、台湾全土を献上するために到着した住民代表として老中に報告されていた――このことは、上田与志の鷹揚《おうよう》な、信じやすい気持をひどく傷つけた。同時に、末次平蔵や浜田弥兵衛が時と場合によって今後どんな手段を講じるか分ったものではないという、ひどく不気味な不安な気持を感じさせた。それは、長崎に赴任して間もなく、土牢に誤って入れられたときの気持に似た、暗い、心の冷たくなるような不安だった。
さらに与志の懸念を増したのは、浜田弥兵衛におくれて江戸に到着した台湾長官ヌイツが、松浦隆信や糸割符商人たちの八方の奔走にもかかわらず、将軍家と謁見できないばかりでなく、老中の誰とも顔を合わしていないという事実だった。長崎奉行所から江戸に送られた青野左兵衛や通辞貞方利右衛門の報告によって、長官ヌイツは松浦家に近い寺に宿泊していること、老中酒井忠世の屋敷に何度か通辞を送っているが、老中は会うと言っては、急に約束を取消したり、前言をひるがえしたりして、ヌイツがいらだっていること、オランダ側が将軍家に朱印船交易の廃止と、台湾事件に関する裁判を要求した文書を差しだしたこと、その文書は途中で差しとめられ、ヌイツが激怒したこと、などが詳しく伝えられた。
別の噂によると、糸割符商人らは浜田弥兵衛の策謀の裏をかくために、台湾土民を誘拐して、弥兵衛に不利な証言を取りつけようとしきりと働きかけているというのだった。そのため、牢人者がわざわざ江戸で雇われたとか、いや、江戸で雇われたのではなく、京都で雇われ、ずっと江戸まで土民を奪還する機会を狙っているのだ、とか、その風説はまちまちであった。
しかしいままでの経緯から考えると、糸割符商人たちが、こうした思いきった手段に出ることも考えられなくはなかった。おそらく弥兵衛のほうだって、おいそれと土民たちを奪われることもないだろうが、そうした争奪のあいだに、土民の誰かの身に万一のことが起らないとも限らない。事実、上方で土民たちが疲れと病気で倒れたという噂も流れていたのである。台湾や天川からの連絡のため、与志は長崎に残っていたが、貞方利右衛門とともに江戸に出かけるべきだったかもしれない、と、こうした噂を聞くたびに、彼は考えた。
江戸ではそのころ、台湾長官ヌイツが老中や重役たちのぬらり、くらりとした応対に、逆上したり、焦躁したりしながら、日を送っていた。他方、台湾からもたらされた報告書を中心に、連日、オランダ使節たちの間では会議がひらかれていた。イスパニアの統治する呂宋《ルソン》では、オランダ商船を攻撃するために戦闘準備をすすめているということだったし、台湾では長官ヌイツが出発したあと、唐人と日本人が叛乱《はんらん》を企て、ゼーランディア城を攻略しようとしているということだった。また商品売上げ代金と長崎、平戸で集めた投銀《なげがね》(投資)を積んだオランダ船が間もなく日本から台湾にむかって出帆するが、その情報がすでに大明や九州各地に流れ、海賊船がそれを狙って動きだしているという報告もつたえられていた。
そのため会議はつねに二派にわかれ、一方は江戸に残って、あくまで台湾問題の根本的な解決を計ろうと主張し、他方は、むしろいますぐ台湾にかえって、差し迫ったこうした問題を処理すべきだと主張した。
秋も終りになって毎日江戸に雨がつづいた。雨のなかで黄葉が散り、地面に貼りついた葉に泥がまみれた。オランダ使節の宿泊している浅草の養源寺の庫裡《くり》はこんな雨の日には暗く、火鉢がほしいほど冷えこんだ。背の高い、日本語の達者な、赤毛のカロンは、洋服の衿をたて、両手を組んで、雨の降りしきる境内を眺めていた。
雨がやむと、急にあたたかな日が戻ってきた。また、風が吹く日があり、そんな日には、夕焼になると、西空が赤々と焼けて、富士の姿をくっきりと紫のシルエットに切りぬいた。
カロンは連日、通辞の貞方利右衛門をつれて老中の屋敷を駆けずりまわった。利右衛門が行けないときは彼一人で出かけた。
十一月になって間もなく、カロンは松浦隆信から近々老中の沙汰が下るだろうという報せを受けとった。しかし定められた日、カロンが出かけてみると、老中から渡された書面には、長官ヌイツの要求が認められるどころか、ヌイツの代表資格について疑義があるという点を筆頭にした幾つかの理由を挙げて、将軍家との謁見も、老中との対面も許可せず、できるだけ速やかに江戸を退去するよう、鄭重《ていちよう》な表現で述べられていた。
むろんオランダ側には浜田弥兵衛らの策謀があることはわかっていた。しかし長官ヌイツには平戸侯松浦隆信との親密な関係に対して自信があった。松浦隆信のほうも、何かとオランダのために片肌をぬいでくれている。それに、つい前年、クラーメルが京都で将軍家光に謁見を許され、オランダ交易に対して好意的な見解を聞かされていた。京都、大坂、堺の糸割符商人たちの後楯もあった。ヌイツが浜田弥兵衛の動きを知り、台湾土民に関する報告を受けながらも、何ら特別の手をうたなかったのは、こうした一連の事実に十分の自信を持っていたからである。
それが、土壇場《どたんば》にきて、予想もつかぬ形で、裏切られたのだった。将軍に会えぬどころか、老中たちまで、手のひらをかえしたように言を左右にして面会しようとせず、とどのつまりは、資格が疑わしいと言って追いかえす――あまりといえば、ひどい仕打ちだった。長官ヌイツは赤毛のカロンの翻訳する書面の内容を知ると、ぶるぶると震えながら立ちあがった。顔はさっと蒼ざめ、眼は髭だらけの顔から飛び出したように大きく見開かれた。その口からは苦痛とも呪詛《じゆそ》ともつかぬ呻《うめ》き声が何度か洩れた。
ヌイツが恨みをのんで江戸をたったのは十一月初旬の早朝のことだった。あれほど将軍との謁見に固執したヌイツは、他の使節全員の反対を押しきって、こんどは、即刻、単身で江戸を出発したいと言いはったのである。
「約束は何一つ守らない。安請合いをして、その履行を迫れば、何かと言って逃げる。気をひくことを言うかと思えば、ただうわべだけだ。来いと言うから行くと、居留守を使う。待てと言うから待つと、下男を遣わして追いたてる。日本人ってのは、何を考えているのだ? うわべだけいいことを言うのは、憎まれるのがこわいのか? 憎まれるようなことをするのなら、はじめから、なぜ憎まれることを覚悟しないのか。憎まれるのがいやなら、憎まれるようなことをしないことだ。私はもうこれ以上こんな猿どもを相手にするのはごめんだ。へどがでる。もう我慢ができん。もうあのへらへら笑いは沢山だ」
ヌイツは髭だらけの顔を朱にして、怒りに震えながら、そう叫んだ。
長官ヌイツを追ってオランダ使節全員が江戸を引きあげたのは十一月十一日の早朝である。彼らは東海道を馬で下り、秋の長雨に増水した安倍川《あべがわ》や富士川で足どめをくいながら同月二十六日大坂に到着、大坂からは海路平戸にむかい、翌十二月六日昼ごろ平戸の沖に到着した。風の強い晴れた日で、平戸港には初冬らしい紺青の海面に、荒い波が白く牙をむきだしていた。
しかしオランダ使節一行が平戸商館に帰りつくと、彼らは、長官ヌイツが後続を待たずすでに三日前に台湾にむけて出帆していたことを知った。激怒にかられたヌイツはこれ以上一日も日本にとどまる気がしなかったのである。
上田与志はこうした一部始終を刻々長崎奉行所に届けられる報告で知っていたが、とくに彼を憂慮させたのは、オランダ使節より先に出かけた台湾の土民たちが大坂をすぎたころから発熱し、全身に発疹《はつしん》が出はじめたという報告だった。それまで噂で、それに類したことが流れてはいたが、彼はそれをむしろ糸割符側の悪宣伝ぐらいに考えようとしていた。しかし報告によると、京都から末次平蔵の懇意な医師が治療に当っているが、どうも全員が疱瘡《ほうそう》らしいというのだった。浜田弥兵衛は病人を残して、江戸に出立し、病人のなかには一人、ふたり死んだ者がいるらしいという報せもつづいて届けられた。与志はそれを聞くと顔色をかえて小曾根乙兵衛のところへ相談にいった。
「おぬしの気持はよくわかる」小曾根は温厚な表情をして言った。「だが、もし本当に疱瘡なら、おぬしが出かけたところで、どうにもならぬ。あれほど土民に執着していた浜田が、途中で見棄てていったくらいだから、簡単になおるような病気じゃない。それだけは確かだ。だからこそ、おぬしが行っても無駄だと言うこともできる。酷《むご》いようだが、土民たちも、災難と思って諦めてもらわなくてはならない。もしおぬしが責任をとることがあるとしたら、こうした災難ではなく、彼らを出来るだけ速やかに帰国させられるか、どうかということだ」
「だが、せめて看病とか、もし病死したら、埋葬とか、何でもやってやれることはあるはずだ。おれは、長崎を出立するときの土民たちの心細そうな顔が忘れられないのだ」
与志は沈痛な顔でそう言った。
「もう少し待て。詳しい報せが入ってから決心してもいいではないか」
小曾根は与志をなだめるように答えた。
しかしその後、土民たちの病気は一進一退ということで、誰かが死んだという報せはなかった。上方から来た商人の話では、台湾の土民たちは末次平蔵が特別配慮したさる屋敷にかくまわれているということだった。もちろん糸割符商人の雇った牢人者に襲われるのをおそれたからである。小曾根はこの話をきくと「末次殿も、土民たちは掌中の珠だからな、滅多なことはすまいよ。ま、安心して待っていたほうがいい」と言った。
その言葉を裏づけるように、十月半ばになって、末次平蔵は自ら京都へ出かけた。土民たちの病状が恢復《かいふく》にむかったので、彼らを江戸に連れてゆくためだということだった。
江戸に一足先に到着していた弥兵衛の働きは、前のときとは、まるで違っていた。なんといっても、彼が老中、若年寄、重役たちから集めていった投銀が厖大《ぼうだい》な利潤をもたらしたことが、こんどは大きな効果をあらわしていた。朱印船交易に対する見方は、まったく一変していた。従来は、ポルトガル交易の白糸独占だけで十分に利益があがると考えていた老中にとって、日本人の独力の交易が、なおこれほど利潤をあげうるとは、一つの驚きだった。いままでは、安南交易に明るい松浦隆信の言葉を信じて、朱印船交易は危険だけが多くて、利益は思ったようにあがらぬものと考えていただけに、この交易結果は、老中、若年寄の心に深い印象を残した。
さらに弥兵衛はしきりとオランダ人が台湾に城を築いて、力によって自分たちの根拠地を統治しようとしている事実を申したて、土民たちが苦しんでいる点を強調した。
「うまいところを浜田は狙うな」小曾根乙兵衛は久々に上田与志を海に臨む料亭に連れだし、酒を飲みながら、話が弥兵衛たちに及んだとき、言った。「ご老中は、イスパニアやポルトガルが武器をとって戦をしかけてきはしないかと鵜《う》の目、鷹《たか》の目なのだ。だから、台湾が武力で支配されたとなると、当然、オランダ人を疑惑の眼で見るようになる。下手をすると、オランダ商館も閉鎖になるかも知れんな」
上田与志は小曾根の話を聞きながらも、江戸にむかった台湾の土民のことが気にかかって、何となく心が重かった。
「おぬしのことを妙《たえ》がしきりと聞きたがって困る。妙は伊丹殿のお嬢さんと会ったとか言っていた」
小曾根は与志の気持を引きたてようと、話題をかえたが、与志はそんな話にもあまり乗ってこなかった。
江戸からの報告によると、末次平蔵は土民たちを連れて将軍家光に謁見し、虎皮五枚、南蛮渡りの毛氈《もうせん》二十枚、孔雀《くじやく》二十羽を献上したということだった。長崎の会所に集まる朱印船交易家たちは、幕府の台湾対策もこれで多少変化があるのではないか、などと話し合った。浜田弥兵衛からは、幕府のなかにも台湾征伐、呂宋征伐に乗りだすべきだという意見の重臣たちが現われたと報じてきた。
季節はいつか秋から冬に移って、凍ったような風が終日海から吹きつけるような日々がつづいた。上田与志は、台湾から送られるオランダ側の報告を翻訳したり、平戸商館あての書簡を作成したりして忙しく日を送っていたが、事情が複雑になるにつれて、いったい自分が何のために、誰と協力して働いているのか、わからなくなることがあった。
そんな一日、彼は思いきって、長照寺の離屋《はなれ》に長谷川権六を訪ねてみた。
この前訪ねたときと同じく書院風の座敷に端坐して、権六は呂宋、天竺の地図を拡げているところだった。
「何か事件があったのかな」
権六は浅黒い、端正な顔を地図からあげると、無意識に頬の傷あとを手でなぜながら言った。与志は手短かにここ半月ほどの江戸での経緯を話してから、いったいご老中が何を考えているのか、奉行所はどんな態度に出るのか、誰と誰が真に敵なのか、まったく混乱して判らなくなったと言った。
「台湾などに行ったため、よけい、すべてが複雑になってしまい、理解できなくなったように思えてなりません」
「それは当然だ。物というのは、ある程度距離をおいたほうが、はっきり判るものだ。事件の渦中にいては、何が何だか判らなくなる。その全体が判るのは、それが過ぎ去ってからあとだ。ま、私のように局外にいる者には案外よく見えるのかも知れんな。岡目八目《おかめはちもく》とも言うではないか」
権六はめずらしくそんなことを言って笑った。
「私に言えることはただ一つだけだ」権六はしばらく地図のうえに眼を転じてから言った。「それは、情勢が複雑になっているように見えるが、以前と何一つ変っていないということだ。つまり糸割符のお年寄仲間が、この事件全体の糸を引いているということだ。なるほど江戸では浜田弥兵衛のお膳立てがうまかったので、末次平蔵が大いに面目をほどこした。糸割符仲間も、こんどだけは、手も足も出なかった。完全に糸割符側の敗北だった。表面から見れば、オランダ商人たちの敗北のように見える。だが、オランダはこんなことでは、びくともしない。ヌイツは飛ぶように台湾に帰ったというではないか。向うで何かたくらんでいるに違いない。あれだけ江戸で侮辱を加えられたのだから、ただですむはずはない。だから、オランダについては勝ちとも敗けとも言えない。だが、糸割符商人たちは別だ。これは完全な敗北だ。末次屋敷や船本屋敷に集まる朱印船派の勝利だ。糸割符のお歴々もまさか台湾土民を連れてくるとは思わなかったからな」
権六はそう言って冷たい笑い方をした。それからさらに言葉をついだ。
「むろんあのお歴々がこのまま引っ込むはずはない。いや、引っ込むどころか、朱印船交易家に次の打撃を加えようと、駆けずりまわっている。松浦殿とオランダ商人をうまく利用したつもりが、まんまと裏をかかれた。それで、いよいよ次の手を打ってくるというわけだ」
「どのような手を……?」与志は権六の鋭い、澄んだ眼を見た。
「さ、まだ、それはわからない。この前、私が危惧したように、天川《マカオ》あたりで騒ぎがおこるかもしれない。あるいはまたキリシタン問題に絡ませて、押しまくってくるかもしれない。その方法はともあれ、糸割符商人のお歴々が、なんとか巻きかえそうとしているのは事実だ。つい先刻も、この辺りを牢人者らしい男がうろついていた。どうも数日前から、牢人者の群れが長崎に入ったという話もある。そのほうも十分に気をつけるがいい。こんどの台湾行きも、伊丹家と懇意であることも、おそらく糸割符商人には筒抜けだと思われるからな」
与志は丘の天主堂の事件以来、愛用の短筒を離したことがなかったが、権六にそう言われてみると、あらためて、懐ろに入れたその重さをもう一度計ってみたい気持だった。
上田与志が長照寺を出たのは、もう日暮れに近く、冬の濃い菫色《すみれいろ》の夕空が冷たく澄んでいた。道は、稲の切株の並ぶ乾いた段々状の田のあいだをぬけて、淡い影が重なりあっている大工町の家並のなかに入っていた。風は海のほうから吹きつけ、崖にそった林の木々を鳴らした。そのとき、与志はふと伊丹屋敷に寄ってみようと思った。糸割符仲間の雇った牢人者が長崎に入りこんでいるという報せぐらいは、むろんコルネリアも知っているだろうが、しかしキリシタン詮議《せんぎ》に乗じて何が企まれているか、わかったものではない。
与志はそんなことを考えながら、道を左にとって川を渡り勝山町にむかう坂をのぼった。町に入ると、急に風が落ち、白い土塀のうえに枝をのばしている木々だけが揺れていた。
ちょうど与志が伊丹屋敷を見通せる町すじへ来たとき、寒々とした宵闇の流れているなかを、何人かの男たちが、音もなく、町角から姿を現わし、通りを影のように横切って、あっという間もなく姿を消した。それは、どこか、その辺の土塀から突然姿を現わし、横っ飛びをして、向い側の土塀に吸いこまれたような感じだった。一瞬のことだったし、暗さもあって、風体や人数はわからなかったが、その身のこなしから、職人や人足の群れでないことは確かだった。長崎に流れこんできた牢人たちだろうか――与志は一瞬そう思い、伊丹屋敷に近いということもあって、何とない不安を感じた。
男たちが消えたあたりは、路地が塀に沿って折れていて、路地の先はだらだら坂になって曲っていた。まだ空は淡い菫色に澄んで、明るみが残っていたが、路地の奥は宵闇がおりはじめていて、男たちが果してどこへ駆けぬけていったかを知ることはできなかった。
それでも上田与志は注意深く土塀のあたりを見まわし、異常のないことをたしかめた。その土塀がちょうど伊丹屋敷の西南隅に当っていたからである。彼は土蔵の屋根のうえに銀色の月が細くかかっているのを仰ぎながら、二、三歩、土塀に沿って伊丹屋敷の玄関のほうに足をむけた。
そのとき何か説明のできない、妙な気がかりが残っているのを感じ、彼は、念のために、もう一度、土塀のはずれまで戻った。さっき、路地の奥をうかがったとき、路傍の石か何かのように見えたものが、彼の心にひっかかっていたのである。
路地の奥はすでに暗かった。彼は闇をすかすようにして、注意深くその黒いものを眺めた。次の瞬間、彼は前後を忘れて、地面のうえに横たわっているその黒い影にむかって走りよった。
倒れていたのは若い旅姿の侍であった。鋭い幾太刀かを浴びせかけられ、すでに息は絶えていた。与志は一瞬侍の処置をどうすべきか迷った。息があれば、伊丹屋敷にでも運びこんで介抱すべきだろうが、すでに死体となった以上、むしろここに残しておいて、奉行所の検視を待つべきだろう。おそらく下手人はあの一群の影のような男たちにちがいない。だが、この若者はいったいなぜ殺害されるような羽目になったのだろう。もしもあの男たちが糸割符商人の雇った牢人者だとしたら、この若侍と、糸割符商人の利害とのあいだに、何か関係があるのだろうか。この侍を殺害しなければならぬような関係が、そこにあるのだろうか――こうした思いが、その路地の奥に佇《たたず》んでいた短い時間に、与志の心のなかで明滅した。
とりあえず彼は伊丹屋敷に顔をだし、事の次第を告げて、奉行所に戻るつもりだった。
玄関先に姿を見せたコルネリアに、与志は挨拶もなしに、いきなり「この屋敷に何か変ったことはありませんでしたか」と訊ねた。
コルネリアは青いかげの浮ぶ異国風な眼を大きく見ひらいて、不思議そうに与志を眺めた。
「いいえ。別に何もございませんが……。上田さまこそ、何かございましたの」
コルネリアはそう訊ねた。与志は、長谷川権六を訪ねたこと、牢人者が長崎に流れこんでいること、その背後で糸をひいているのは糸割符商人であること、などを一口に話して、つい今そこで、その牢人者に殺されたらしい侍がいるのだ、と言った。
与志の気のせいか、そのコルネリアの顔が一瞬こわばったようだった。しかしその声は平静だった。
「どんな様子の方ですの?」
「若い男です。二十一、二歳の男です。長崎の者ではなさそうです。旅姿でした」
「旅姿……?」
コルネリアの声が急にかすれた。
「どうしました?」
与志がコルネリアを支えた。彼女の体が崩れおちそうに見えたからだった。
「それはどこですの?」
「お屋敷の角の、土塀を曲った路地の奥です」
「連れていっていただけます?」
「それは構わないけれど、どうしてです? 心当りのある人ですか」
上田与志は不安が心にのぼってくるのを感じた。
「見てみないとわかりませんが、ひょっとすると……」
与志は龕燈《がんどう》を持ってコルネリアを路地まで連れていった。しかし若侍の姿はそこには見えなかった。
「たしかここに……」与志はそう口のなかで言いながら、龕燈の光を路地のあちこちへ動かした。
「誰かが死体を動かしたとしか考えられません」
与志は呆然とした表情で言った。
「血のあとが残っておりますわ。きっとその方のですわ」
コルネリアは注意深く地面を見て言った。
「ここにその侍が倒れていたのです」
与志は龕燈の光でその辺を強く照らした。路傍の水たまりがすでに凍りはじめているらしく、白い濁った色に光っていた。寒さが夜気のなかに鋭くしみこんでいた。
二人は路地のあちらこちらを捜した揚句、ふたたび伊丹屋敷に戻った。
座敷で火鉢をかこんだとき、コルネリアは、その若い侍がどんな様子だったかを、もうすこし詳しく話してほしいと言った。
「暗くなっていたし、調べたわけでもないので、たしかではありませんが、顔立の整った若者だったように思います。異国の言葉でも学びに来たといったような感じでした」
「何か持っていたようなものはありませんでしたの」
「なかったと思います」
コルネリアはしばらく黙っていてから、思い切ったように言った。
「実は、その若い方は、伊丹屋敷へ来られた方ではないかと思います。つい、さきほどわたくしが玄関までお送りしたのです」
与志は顔色をかえた。
「もしその方だとすると、なぜ殺されるようなことになったのか、それがわかりません。その方はただ父に薩摩のある方からの伝言を持ってきて下さっただけですの」
「何かに間違えられるというようなことは……?」
「さあ、それは……。伊丹と関係のある者が疑われたり、こんな仕打ちを受けるのでは、たまりませんわ」
めずらしくコルネリアの青いかげの浮ぶ眼に憎しみの光のようなものが漂っていた。
「しかしともかく奉行所に一切を報告しなければなりますまい。長崎の会所と糸割符仲間の争いが、こんなところまで飛火するとしたら、奉行所でも厳重に取締らなければなりません」
上田与志が奉行所に帰ったとき、もう夜勤の役人のほか、誰も見当らなかった。彼は、事の大要を当直の与力に報告すると、すぐその足で、小曾根乙兵衛の家を訪ねた。
小曾根は与志から話を聞くと、腕組みをして、しばらく考えてから言った。
「伊丹家に対するキリシタンの嫌疑はまだつづいているのではないのか」
「さ、それは……。この前、左官屋源次の一件が落着した際、伊丹屋敷に伴天連《バテレン》が潜入していた疑いは晴れたはずだが……」
「むろん表面上はそうなっている。だが、原隼人などは決してそう思っておらぬようだ。人伝《ひとづ》ての話だから、真偽のほどはわからぬが、原隼人は酒など飲むと、何か伊丹のしっぽを捉えるのだと言って、息まいているそうだ。こんどの件が、まさか、そうしたことと結びつかんといいが……」
「まさか、そんなことは考えられないが」
与志はそう言ったものの、伊丹屋敷に伴天連が潜伏していたのを彼だけは知っていた。長谷川権六も知っていたが、朱印船交易の立場から、あえて知らぬふりをしている。上田与志も、強いて立場を明らかにしなければならないとすれば、権六に近い立場をとることになろう。だが、彼は、権六ほどは確乎《かつこ》とした信念をもって朱印船交易を押しすすめるべきだと考えているわけではなかった。同じ朱印船派でも、安南交易に力をそそぐ伊丹家と、台湾交易に力を入れる末次屋敷の人々、とくに末次平蔵や平野藤次郎とは、おのずと利害も競争関係もちがってくる。その辺の微妙な差異も与志にはよくわからなかった。
彼ははじめはコルネリアに好意を感じているうち、親戚の伊丹弥七郎のことなどもあって、次第に朱印船交易の意味を認めていったのだ。そして台湾に出むくに及んで、ようやくコルネリアたちが単に交易をすすめるために朱印船を動かしているのではなく、さらにもっと広く、そうした交易によって、さまざまな国の理解を深めていることを知ったのだった。風俗や言葉の違いが、そこではかえって狭い閉ざされた場所から、広い視野へと日本人を連れだす機縁となることを与志も次第に気づくようになったのだ。
たしかに京、大坂や堺にくらべると、長崎の人々は、いまの与志のこうした気持を、ごく自然のこととして受けいれる。たとえばコルネリアのような異国の血をまじえた若い娘を、ことさら奇異な眼で眺めるような人間は、この長崎には一人もいない。だが、それだからといって、ポルトガル船の白糸を買いつけたり、ポルトガル商人に資金を貸しつけたりして、自分たちは懐手して国内にとどまっている糸割符仲間の豪商たちを非難するほど、こうした事情を深く理解している人は少なかった。長崎でさえ、そうなのであってみれば、京、大坂、まして江戸では、朱印船交易を単なる商売という意味をこえて理解できるような人々がいるほうが不思議だった。
上田与志自身が、こうした広い見方ができるようになるには台湾まで出かけなければならなかったのである。しかし、そうした広い意味を朱印船交易に認めうる人が少ないからといって、このまま糸割符商人たちの意のままに、交易をポルトガル船やオランダ船にまかしていてはならない。すくなくとも、こうしたことを教えてくれたコルネリアに対する愛にかけても、何とかこの問題は解決しなければならない――上田与志は小曾根の言葉を聞きながら、そんなことを考えていた。そしてこの問題を解決するためには、どうしても末次屋敷と伊丹とのあいだのぎごちない関係をときほぐしておく必要があると考えた。
彼は、浜田弥兵衛が江戸から帰り次第、その紹介で末次平蔵に会おうと決心した。おそらくそれがコルネリアの将来を安全にするだろう――彼はそう思ったのである。
5 星の巻
台湾《タイオワン》長官ヌイツが平戸を出帆した年、長崎からは町方会所の年寄をつとめる高木作右衛門の船と、建造を終った伊丹弥七郎の船とが、相ついで南へ出発していった。ポルトガル船の入港も、この年は少なくなく、長崎の町々は紅毛の船員たちや唐人の商人たちで賑《にぎ》わった。ポルトガル船が入るたびに、長崎奉行所の波止場は陸揚げする白糸の梱包《こんぽう》で足の踏み場もなかった。荷をかつぐ人足や、それを指図する船頭や、荷を数えて記帳する役人などが、積みあげられた梱包の山のあいだで雑踏した。
割符《わつぷ》を受けた白糸は波止場から荷車で椛島《かばしま》町や浦五島町に並ぶ倉庫に運ばれた。夜になると、海に臨む料亭では、船旅をねぎらう酒宴が開かれ、燈影がおそくまで波に赤くうつっていた。
ただオランダ使節と末次平蔵らとの反目が、それとなく噂となって長崎にも伝わっていたので、例年にない活況にもかかわらず、町方の会所あたりでは、ポルトガル船を歓迎しない様子が見てとれた。たとえば町方の会所の年寄たちが糸割符側の宴席に揃って顔を見せなかったり、白糸を堺に廻漕《かいそう》する船が錨《いかり》を切られ潮に流されたりして、どこか不穏な気分が漂っていた。
こうしたなかで、伊丹市蔵や高木作右衛門たちは、この両者の関係を調停しようと奔走した。めずらしく長照寺から前奉行の長谷川権六が呼ばれて、対立する年寄たちの談合に顔を見せることがあった。しかし町方の会所の末次平蔵らは台湾を奪いかえし、オランダ征伐をすべきだと主張していたし、糸割符仲間の豪商たちはあくまでオランダと手を組もうとしていたので、議論はいっこうに噛み合わなかった。
長崎奉行水野守信は小曾根乙兵衛から報告を受けると、眉と眉のあいだに皺《しわ》を寄せて、「まったく訳のわからぬ亡者《もうじや》の集りだな、この長崎の町は」と言って腕を組んだ。水野守信はここ数カ月というもの、キリシタンの疑いで告訴された男女を桜町の牢屋敷に入れたまま、白州《しらす》に引きだすこともしなかった。たしかに水野守信は何度かキリシタンたちを裁こうと試みはした。しかしその都度、どうせ裁判にかけても、彼らが死を願って転ばぬ以上、それはただ死罪を申しつけるためだけに呼びだすようなものだという実感にとらわれた。水野守信には、それが耐えがたかった。彼は一度火刑になるのを見て以来、何ともキリシタン取締りは苦痛だった。といって、キリシタンの告訴がある場合、これを放置しておくわけにゆかなかった。彼は原隼人をやってキリシタン信徒を捕えたが、その詮議はさまざまな口実をつけて延ばしていた。
しかし長崎奉行所のもう一つの職掌である交易取締りについても彼は表面的な事務にしか関心を示さなかった。水野守信には、交易の複雑な思惑や駆引きがわずらわしく感じられた。長崎奉行にとって、安南交易が栄えようが、衰えようが、あまり問題にはならなかった。ただ大過なく役目が果せれば、それでよかった。老中や若年寄が年功序列にしたがって、彼を、長崎奉行所から、大坂なり江戸なりの町奉行所に転任させてくれる日の来るのが、唯一の希望だった。彼はこんな場所でキリシタンを焼き殺して、悪い後味を残したくなかった。「熱からず、冷たからず」というのが水野守信の処世訓だった。彼は定刻に奉行所に姿を見せ、必要な書類に眼を通し、必要な裁決だけを下した。せかせかと話をし、せかせかと廊下を歩いた。笑うこともなく、といって怒ることもなかった。そして定刻が来ると、さっさと帰っていった。
この水野守信の転任の噂が流れはじめたのは、その年がそろそろ終りかけたころで、誰からともなく奉行所のなかで、ひそひそと、その噂はささやかれた。上田与志が通辞溜りで同僚の小曾根乙兵衛にその真偽をたずねると、小曾根はいつもの慎重な口調で「さて、そんなことも考えられなくはないな。とくにいま末次平蔵殿が老中の土井殿や永井殿と会っている最ちゅうだからな」と言った。
「末次殿は奉行に対して何か遺恨を含んでいるという意味か?」
上田与志は訊ねた。
「いや、そうではない。お奉行はあのように恪勤《かくごん》精励のお人柄だ。末次殿は、おそらくもっと台湾征伐に肩を入れるような奉行を、老中に、願いでているのではないかと思う」
小曾根は声を低くして言った。
「それは本当だろうか」
「むろん確かなことはわからない。しかし江戸からの報告だと、ご老中、若年寄のお歴々は、太閤殿の見果てぬ夢をまた末次殿に吹きこまれた節がある」
「台湾征伐のことか?」
「そうだ」小曾根は二、三度、頭をふって言った。
江戸から末次平蔵が配下の浜田弥兵衛と台湾土民を連れて長崎に帰ってきたのは、翌寛永五年のはじめである。町には松の内の飾りはとれたが、商家のつづく通りではまだ若い娘たちの笑い声や追羽根の音が聞えていた。
上田与志は土民たちが長崎に帰ってきたと聞くと、すぐに彼らの宿所である町外れの、入江に臨んだ、格子窓の家を訪ねた。一同の首領株で片言のオランダ語を喋《しやべ》るジカが、与志の顔を見ると涙ぐんで、仲間が病死した次第を物語った。
「江戸、寒かった。旅、つらかった」
ジカはそう言った。
与志は土民たちを安全に台湾に送りかえすまで責任が果せぬ気がして、そのことを、もう一度確かめるため、浜田弥兵衛を末次屋敷に訪ねた。
弥兵衛は大きな火鉢の前に上田与志を坐らせると、半白の髪に囲まれて燃えたつように見える赤銅色の顔を崩して笑った。
「もう末次船の支度はととのっております。土民らは間違いなく台湾へ送りとどけます。ご安心下され」
「いや、それを承って安堵《あんど》しました。ヌイツ殿が交渉の決裂のまま、帰ったことを聞きましたので、今年の出帆は取りやめるのではないかと危惧《きぐ》しておりました」
与志は真実ほっとしたような表情で言った。
「いや、ヌイツめには手を焼きますな」弥兵衛はいまいましそうに舌打ちして言った。「噂によると、ゼーランディア城はまた防備を固めているとか。ここは何とか、ご老中のお力を借りなければ、ヌイツめをますます増長させることになりますな」
「私はオランダ側の態度に非を認めないわけではありませんが」上田与志は伊丹市蔵やコルネリアのことを考えながら言った。「台湾で何とか協調の道はないものでしょうか」
「それは、私どもが言いたいことです」弥兵衛は煙管《きせる》を火鉢に打ちつけて言った。「こちらが協調しようとしているのに、オランダめが横車を押しおるんですからな。これを黙っているわけには参りません」
「それはわかりますが、糸割符のお仲間たちは、それにつけこんで、オランダをかげで操っているのではありませんか」
与志はじっと弥兵衛の顔を見た。
「そのことは末次殿もご同様の意見でしてな。糸割符の商人連はオランダと末次殿との争いを煽りたてておいて、そこで漁父の利を占めるという寸法でしょう。だからといって、オランダめの横車はゆるされませんな」
「しかし万一そのために御朱印船差止めというような事態になったとしたら……」
「そんなはずはない」弥兵衛は声を高くして、半白の頭を激しく振りながら言った。「そんな気遣いはないですよ。いやいや、どうして、どうして」弥兵衛は何を思ったのか、おかしそうに笑いながら附け加えた。「ご老中は、いまごろになって、ようやく御朱印船交易の意味を理解されたのです。御朱印船が差止められるなどとは、到底考えられませんな」
末次屋敷を出たとき、すでに町は暮れかけ、そこからほとんど三丁も離れていない奉行所のがっしりした屋根組みが、影絵のように、淡い樺色《かばいろ》の空を区切っているのが見えた。与志が奉行所に帰ると、通辞溜りで、天川《マカオ》からの報告を翻訳していた小曾根乙兵衛が顔をあげ、彼に一通の書状を差し出した。
「伊丹殿のお嬢さんがみえた。ついさっきだ」
与志は急いで書状を開いた。書状には、伊丹市蔵の名で、今夜、伊丹屋敷に至急ご来駕《らいが》いただきたい、と認《したた》めてあった。
「伊丹殿から呼びだしだ」
上田与志は考えこむような調子で言った。
「どうも不穏な形勢だな」
小曾根は、机の上の書類や筆硯《ひつけん》を片附けながら言った。
「不穏?」与志は身体をぴくりと動かした。「伊丹屋敷に何か……?」
「いや、伊丹屋敷ではない。天川のことだ」小曾根は一度片附けた書類を開いた。「この報告によると、また天川で日本人とポルトガル人との間に乱闘事件が起ったらしい」
「そう言えば、ここしばらく静穏だったな」上田与志は書類にざっと眼を通した。
「一昨年の暹羅の乱闘事件を覚えているかね」
小曾根が書類をふたたび片附けると、机の前から立ちあがった。
「日本人の牢人とオランダ人との乱闘事件だな? それなら覚えている。たしかメナム河口に碇泊していたイスパニア船をも襲ったという事件だったな?」
「そうだ。牢人たちはオランダもイスパニアも見さかいがつかなかったんだな。そのときの抗議文が、どういう訳か、天川の日本人町に送られ、そこから奉行所に廻ってきた。あの翻訳はおぬしだったな?」
「いや、貞方殿だ」与志は言った。
「こんどの天川の乱闘は、この暹羅事件と関係があるらしい。日本人はイスパニアから抗議を受ける覚えがないと言っているのだ。天川の日本人は昨年オランダ軍船が天川を攻めたとき、ポルトガルの味方をして、オランダ撃退に力をつくしたと言っているのだ。どちらの言い分が正しいか、現地にいるのでないので、よくわからぬが、どうやら牢人者がまた動きだしたことは事実のようだな」
小曾根乙兵衛は与志と並んで奉行所の門を出た。二人はそこで足をとめた。
「その事件と台湾のオランダ人とは無関係だろうか」
与志が訊《たず》ねた。
「それは、私のほうが訊《き》きたいくらいだ」小曾根は星が冷たく凍りついて光っている空を仰いだ。「ここでも天川でも星は同じように光っているんだろうが、人間なんて、下らぬことで争うものよな」
上田与志はそれには答えなかった。彼は、糸割符商人たちが送りこんだと噂される牢人たちのことを考え、彼らの引きおこす騒擾《そうじよう》事件の真の目的は何なのか、見極めようとした。
「まるで、何の目的もなく、八つ当りでもしているようだ。だが、何か理由があるにちがいない。それは一体何だろう」与志は小曾根と別れてから伊丹屋敷に着くまで、歩いてきた道すじも覚えていないほど、この問題に没頭しきっていた。
与志が伊丹屋敷に着いたとき、もう何人か先客があるらしく、ポルトガル風に飾った客間に燈影がゆれ、人々の話声がぼそぼそ聞えた。
「皆さまがお待ちかねですわ」コルネリアは玄関に姿を見せると、うれしそうに顔を輝かせた。
「皆さま?」与志は訝《いぶか》しげに訊いた。
「ええ、長谷川さまも小野さまも……」
座敷に入ると、正面に長谷川権六の浅黒い面長の顔が見えた。その右には、眼のしたに|ほくろ《ヽヽヽ》のある小野民部が、腕を組み、視線を落して、何か考えこむ様子をしていた。
与志が姿を見せると、急に一座が動いた。
「さ、こちらへ、長谷川殿の隣へ」
伊丹市蔵は遠慮する与志に上座の一つを示した。
「今夜は、わざわざご足労いただいて忝《かたじけ》ない。用というのは、他でもない。先夜、伊丹屋敷のそばで殺害された薩摩の侍の一件について、二、三、相談に乗ってもらいたいことがあるのだ」
長谷川権六は右手で頬の傷あとを無意識にさわりながら言った。
「その後、奉行所の詮議はどの程度まで進んでいるのかな?」
与志は訊ねられるままに、原隼人が与志の証言に基づいて、影のように道を横切って消えた牢人者を探索していること、その結果はまだ出ていないこと、持ち去られた屍体《したい》もその行方がつきとめられていないこと、などを語った。
「原殿も、糸割符のお仲間が牢人者を雇ったという噂を重視されて、堺屋殿の長崎屋敷には何人かの同心を張りこませておりますが、今日までのところ、手がかりはつかめていないということです」
「いや、いや、しっぽを出さずにはいまい」
そのとき不意に小野民部が腕組みを解いて言った。「糸割符仲間の仕業であることは明らかだし、辰野伊織の屍体も堺屋の長崎屋敷を探せば出てくるに決っている」
「しかし糸割符の年寄たちが、そうたやすくしっぽをつかませるとは思えない。奉行所の詮議を承知のうえで、事を運んでいるのだからな」長谷川権六が小野のいらだちを押えるようにして言った。「それより上田に薩摩の事情をよくのみこんでもらうことのほうが大事だ」
「権六殿の言われるとおりだな」傍らから伊丹市蔵が言葉をそえた。
小野民部はうなずくと、こんどは与志の顔を鋭い眼で見つめた。
「私が薩摩藩の交易方をあずかっていることは、そこもともお聞き及びのはずだ」小野はしわがれた低い声で話しだした。
「島津では、太閤殿の朝鮮征伐以来、藩の財政が底をついている。そのうえ万余の若者が朝鮮で死に、さらに関ヶ原でも死んでいるのだ。国に残された老人や婦女子が猫の額ほどの土地にすがりついて、荒地を耕しているが、ご承知のように、薩摩は火山国、どこを掘っても思うように農作物はとれぬ。そこで藩の財政は、ただ琉球、唐との交易にまつほかない。これさえ、現在では、家康公存命のころと同じように盛況であるとは言いがたい。先ごろも藩の財政をあずかる家老が、苦しまぎれに、粗悪な貨幣を鋳造して死罪を仰せつけられた。罪はにくむべきだが、侍たちの日日の苦しみ、百姓たちの飲まず食わずの生活を見ていると、かような罪も、あながち、非難していればすむというようなものではない」
小野民部の顔は一段と厳しくなった。眼のしたの|ほくろ《ヽヽヽ》が暗い燈影のなかでも、はっきり与志の印象に刻みこまれた。
「しかし薩摩がただ財政の欠乏や食糧の不足でなやむだけだったら、問題は簡単だ。薩摩の人間が老若男女を問わず働けばいいのだからな。しかし薩摩藩にとって問題なのは、江戸のご老中、若年寄の多くが島津家をなお疑惑の眼で見ていることなのだ……」
小野民部はそう言って苦しそうな表情をした。そして上田与志に、朝鮮征伐以後、島津家が辿った道すじをかいつまんで説明した。
小野の言葉では、島津義久は太閤秀吉の信任を得るため、朝鮮に出陣したが、これには、義久が総大将小西行長の女婿に当っているという事情が大いに関係していたというのだった。島津軍が朝鮮で華々しい軍功を挙げたことは誰一人知らぬ者がなかった。だがその半面、朝鮮の山野で死んだ薩摩の若者の数も少なくなかった。義久の子島津義弘が関ヶ原の役で西軍についたのも、太閤への恩義だけではなく、小西家とのこうした関係が切りすて難かったからである。関ヶ原後の賞罰、転封《てんぽう》に際して、島津家は異例の取扱いを受け、薩摩で命脈をながらえることができたが、それだけに、幕府から薩摩に送られる密偵の数も多く、たえず疑惑の眼で見られていた。すでに福島|正則《まさのり》をはじめ外様大名の取りつぶしが相ついでいたため、それでなくても神経を緊張させていた薩摩の家老、重役たちは、夜もおちおち眠ることができなかった。
幕府では薩摩藩の琉球、唐交易について、キリシタン潜入のおそれがあること、利潤が厖大《ぼうだい》となれば叛逆《はんぎやく》する危惧も増大することなどの理由を挙げて、事ごとに反対の態度を示し、一度などは、唐船を長崎一港に集中させ、事実上、島津から交易権を取りあげるようなことを企てたのだった。
小野民部の名が幕閣に知られるようになったのは、この唐船の長崎集中令を撤回させることに成功し、島津を窮地から救いだしたからであった。
「現に島津家久公は、なんとか幕府の誤解や疑惑をとくために、必死で、あれこれと対策を考えておられる。一昨年、家老の伊勢貞昌がご老中土井利勝殿と談合なされ、家久公の御令室を江戸に移し、全国諸侯の妻女在府の策を進言したのも、ひたすらこの誤解をとくための努力だった。ともかく伊勢貞昌の進言は功を奏した。島津家の信任は日に日に恢復《かいふく》していったからな。しかしこれは糸割符仲間の薩摩嫌いに油と火をかけたようなものだ。このぶんだと、唐交易はそのまま薩摩の手に残されそうだ――そう思うと、彼らはもう黙っているわけにゆかなくなった」
小野はちょっと黙り、それから言葉をついだ。
「幕府の反島津派と糸割符仲間は、血眼になって攻撃の目標をさがし、とうとうつい先日、義久公の御令室堅野様がキリシタンであると告訴した。堅野様はじめ二十数名は江戸屋敷から薩摩に送られることになったのだ。おそらく島津家にキリシタンが出たのは、唐や安南と交易をつづけるからだという口実を設け、ふたたび交易権をとりあげにかかるだろう。まして糸割符仲間はオランダをも長崎に集めて、白糸を一括購入しようと企んでいる。このまま進めば、幕閣の反島津派と糸割符仲間とは、容易に手を組んで、薩摩に何らかの術策をめぐらしてかかるだろう。これに追討をかけるようにして江戸や上方から牢人を集めて、しきりと薩摩を挑発にかかっている。気の毒に辰野伊織が殺されたのも、こうした一連の挑発の犠牲なのだ」
小野民部は話を終ると、ふたたび腕組みをした。伊丹市蔵がそのあとを引継いで言った。
「実は、殺された辰野殿は、私のところに、天川で交易するはずの物品目録を届けに立寄ってくれたにすぎないのです」
しばらく座敷のなかに沈黙がおりた。外で風が出たらしく、木立がざわめく音がした。しばらくして長谷川権六が言った。「大体、いま聞かれたような次第で、薩摩としても、交易はうしないたくない。といって、ご老中に疑惑の眼で見られぬようにせねばならぬ。なかなか苦しい立場だ。いま小野殿が危惧しておられるのは、殺された辰野伊織を偽りの証拠に用いたりして、あらぬ嫌疑を薩摩藩になすりつけはしないか、ということだ。そこもとも知ってのように、陰謀にはこの種のことはよく使われる。で、万一そのようなことがあった場合、辰野伊織の潔白を証言できるのは、そこもとしかいない。もちろんどのように証言して貰うか、相手の出方次第だが」
「たとえば辰野伊織がこれこれの書状を携えていたとか、キリシタンの疑いがある品を持っていたとか、言いがかりは何とでもつく。そのとき、そこもとが、屍体をあらためた唯一人の生き証人として、そのようなものは見当らなかった、と言って貰いたいのだ」
小野民部はそうつけ加えた。
「どうやら近々にそうした騒ぎがおこるような気配がありますんでな」
市蔵は上田与志のほうに頭でうなずきながら、そう言った。
上田与志は、あのとき、彼が辰野伊織の屍体を伊丹屋敷に運びこんでおけば、こうした憂慮すべき事態にならなかったはずだ、と言った。「あの一瞬の判断の誤りを後悔しております」
「いや、そんなことを言われる必要はない」長谷川権六は、与志の言葉を聞くと、それを遮《さえぎ》るようにして言った。「誰だってそのくらいの判断の間違いはある。ましてあの場合、身元のわからぬ屍体を放置して検視を待つのが常法だ。何もそのことを苦に病まれぬがよい」
話が一段落したところで、コルネリアがポルトガル産の赤葡萄酒を玻璃《ギヤマン》の瓶《びん》に入れて運んできた。彼女の青いかげの浮ぶ異国風の眼は、ゆれる燈火のなかで、きらきらと光って見えた。
「お疲れでございましょう」
彼女はまるい玻璃の盃に葡萄酒をついだ。
「美しい色ですな」
長谷川権六は玻璃の盃を燈火にかざした。赤紫に澄んだ異国の酒は、上田与志の眼には豪奢《ごうしや》で妖艶《ようえん》な夢のように映った。話はひとしきり天竺《てんじく》よりさらに遠いエウロッパの風物に移った。伊丹市蔵は、石だたみを敷きつめたというリスボアの町の話をした。
「町には並木が通りを飾っており、細格子の戸を入ると、石を敷きつめた、影の濃い中庭があって、そこで客と話をするということですな」
市蔵は亡き妻が話したという異国の風物を懐かしそうに思いだしていた。コルネリアも末座にひかえて、市蔵の話に耳を傾けた。そして時おり、上田与志のほうに視線を動かし、眼が合うと、何とはなしに微笑した。
話が一段落したとき、与志は、先刻小曾根乙兵衛から聞いたばかりの天川《マカオ》の乱闘事件について話した。
「同僚の小曾根の意見では、一昨年の暹羅の乱闘事件と関係があるとのことです。天川の牢人たちは、暹羅で被害を受けたイスパニア人が、日本人町に抗議を申込むのはけしからん、と言って騒ぎだしたとか、申しておりました」
この話を聞くと、赤葡萄酒のおかげでくつろいだ席が、ふたたび緊張した重苦しい気分に変った。与志が気がついたとき、コルネリアはもう姿を消していた。話題が変ったのを察して、いち早く席を退いたのであろう。
「これは、どうもただで終りそうもないようだな」権六は、浅黒い、端正な、面長の顔を考えこむように伏せて言った。「こうなるとわかれば、小野殿が計画されたとき、天川に出かけるべきだったかもしれないな」
「いつぞや、私がコルネリア殿に一緒に行くように言われたときのことでございますか」上田与志は権六に訊ねた。
「あのときのことだ。暹羅の事件も、オランダ側の天川攻撃も、同じあの年におこったのだ」
「なぜ天川ゆきは中止なさったのでございます?」
「ご老中が朱印状の給附をやめるのではないか、という噂が流れたからだ。朱印船に伴天連《バテレン》が潜伏して、長崎に着く前に、小舟で逃亡するという噂が、まことしやかに江戸あたりまで囁《ささや》かれた。そのため崇伝殿などは朱印状だけは筆をおろさぬと言って激怒されたということだ」
長谷川権六はそう答えた。
「それはとも角として、今後は、天川、台湾、呂宋、暹羅の動向を見ないと、どのように方策を立ててよいか、ちょっと思案がございませんな」
伊丹市蔵が一同に葡萄酒をつぎながら言った。
「それに今年は弥七郎の船も暹羅にまわりますし、高木作右衛門の船もたしか暹羅に寄ると申しておりましたから、詳しい様子も間もなく判明するでしょう」
その後、権六も小野民部も日本人町の紛争事件がどのような意味をもつかについて話しあった。
与志が伊丹屋敷を辞去したのは、すでに亥《い》の刻(午後十時)を過ぎていた。異国の酒のせいか身体は暖かかった。屋敷の玄関先までコルネリアが送ってきた。二人は門の前で足をとめ、星空を仰いだ。
「どこか夜空が青味がかっておりませんか」与志はそう言った。
「そうかしら。冷たくて、お星さままで凍っているみたい」
「いや、どこか青味がかっています」
「どうしてでしょう?」
「どうしてって、理由はありません。そんな気がするだけです」与志は空を仰いだまま言った。
「南の天川の夜空はそんなでしたわ」
「台湾でもそうでした」
「じゃ暖かくなるのかしら」
「間もなく梅が咲きましょう」
「ええ、梅が咲きますわね」
二人はそうして星空を眺めてから、近日また会うことを約束して別れた。
与志は懐ろの短筒を握りしめた。辰野伊織を狙った牢人者は、いつ、与志を襲ってくるか、わかったものではない。しかし与志はそのことをとくに恐れもしなければ、そうなったことを後悔もしなかった。
彼は奉行所の片隅の通辞溜りで翻訳の仕事に精を出す一介の通辞でありながら、そうした特殊な仕事のおかげで、江戸の幕閣を中心に次第に勢力を形づくってゆく一団の人々がいることを理解した。たとえば水野守信のように、長崎奉行から江戸、大坂の町奉行になり、勘定奉行になり、江戸城代の家老か大目附になり、やがて若年寄、老中へと出世してゆくことだけを願って、恪勤精励する型の人々もいた。また松浦隆信や糸割符商人のように財貨を貯えるために老中や重役、奉行所にまで働きかけて、ひたすら狂奔してまわる人々もいた。さらに島津一族のように自分の封土《ほうど》と領民にかじりつき、幕府の威光に臣従し、その代償に土地と人民の安堵を熱望している人人もいた。
だが、これらの人々は形こそ異なっていても、江戸に徳川家光を置き、老中、若年寄を中心として、全国に配備された大名、旗本、武士、商人、百姓にいたる世間の落着きを、何よりもまず願っているという点では、同じ共通した気持を抱いていた。彼らはもう関ヶ原の合戦や大坂冬の陣、夏の陣のような争乱など望んでいなかった。それよりも世間が落着き、官職も一定し、役職、土地、制度が決ることが何よりも望ましかった。
上田与志が通辞を振り出しに徐々に奉行所内で立身し、いずれは江戸城|祐筆《ゆうひつ》ぐらいにまでは頭角を現わしたいと望んだとき、彼もまた、同じ気持に立っていたのである。
財貨を積むことを目ざして狂奔する人々も、結局は、世間が落着き、貨幣も安定していたほうが危険は少なく、利潤を着実に儲ける道を見つけることができた。
しかし考えてみれば、彼が長崎に来たころ、まだ大坂夏の陣の余熱のようなものがあり、一攫《いつかく》千金を狙ったり、世間からはみだしたり、地方から地方へと渡り歩いたりすることは当然のことと思われていた。それがここ僅か十年足らずの間に、世間はすっかり落着いてしまっていた。誰がどう言い出したのか、わからないが、いまだに世間を渡り歩いている男は、何となく、うとましく、うさん臭い人間と見られた。一攫千金を狙って、一日一日を着実に稼《かせ》がない人間は、危険な横着者と考えられた。武骨一点張りの侍は無意味な滑稽な男と見なされるようになった。
たしかに、十年ほどの間に、世間が変りつつあった。そして長崎奉行所もまったく同じ変化のなかに立たされていた。
「どうしてこんなふうに世間は変ってゆくのだろう」
上田与志は伊丹屋敷から帰る道々、小曾根乙兵衛でも考えそうなこうした物思いに捉われるのを奇妙に感じた。そして自分もいくらか長崎をめぐる|からくり《ヽヽヽヽ》がわかってきたような気がした。たしかにそれは長谷川権六などと共にいるために生れてくる幻想のようなものであることはわかっていた。にもかかわらずこうした見方が自分なりに理解できるようになったのも事実だった。
上田与志が奉行所下屋敷までの道を、短筒を握りしめて歩きながら、そうした自分のえらんだ境遇に後悔を感じるどころか、ある種の矜恃《きようじ》を覚えたのは、ただコルネリアを身近に感じられたためばかりではなく、こうした新しい見方が自分の前にひらけていたからである。
長崎奉行水野守信が噂どおり大坂町奉行に転任したのは、その年の春三月である。水野守信は旅支度をととのえ、晴れ晴れした顔で奉行所の門を出ていった。彼は眼を細めて、白い土塀のうえに枝をのばして咲きほこっている紅梅を眺め、首を転じて、遠く海のほうに迫っている西坂刑場のほうを見た。すると、急に、彼は眉をしかめ、せかせかした動作で馬頭を転じると、奉行所役人の見送るなかを諫早《いさはや》街道へ向っていった。
翌四月、浜田弥兵衛の船がいよいよ台湾にむけ出帆するという噂が伝わった。江戸からはすでに一月に弥兵衛のもとに朱印状が届いていた。長崎奉行所の手続も一切終っていた。にもかかわらず弥兵衛が出帆を遅らせていたのは、牢人の頭数が十分にそろわなかったからである。
むろん弥兵衛はこうした一切を極秘のうちに進めていた。表向きには、弥兵衛は、長官ヌイツを説得する自信があると言っていた。あるいは、それは彼の真意だったかもしれない。そして万一のことを慮《おもんぱか》って、弥兵衛は百余名の牢人や無頼の男たちを乗船させたのかもしれない。
だが、それは、かえって長官ヌイツの心証を害する結果となった。弥兵衛は台湾土民を無事に乗船させ、上田与志をほっとさせたにもかかわらず、台湾では、事態は予想と違って進行していった。
五月二十七日、弥兵衛の船が碧青《へきせい》の安平の入江にゆっくり入っていったとき、ゼーランディア城の一角から大砲が火をふき、水煙が弥兵衛の船のそばにあがった。弥兵衛は船をとめた。城砦《じようさい》からつぎつぎに武装した兵隊たちが小舟に乗って近づいてきた。弥兵衛の船では牢人者が総立ちとなって甲板から身をのりだした。
すでに夏に近い南国の空の下で、青い入江が不気味に静まりかえっていた。
6 蛍《ほたる》の巻
浜田弥兵衛は、日焼けして赤銅色になった顔に、ほとんど表情らしいものを見せず、末次船に近づいてくる小舟の群れを眺めていた。すでに入江のなかに入りこんだ以上、いまさら、じたばたしても、大した効果はなさそうだし、ましてゼーランディア城から大砲で狙われているとすれば、勝ち目はまったくないといってよかった。
たしかにうかうかと港に入りこんできたのは軽率であったかもしれないが、しかし、まさか台湾《タイオワン》長官がこんなに敵意をむきだしにするとは、予想もできなかった。なるほど長官ヌイツは江戸で侮辱を受け、憤慨して台湾に引きあげたのは事実だが、平戸にはオランダ商館もあり、日本との通商関係はつづいているのである。その一切を破壊するようなこうした態度に出るなどとは、常識では考えられないことであった。弥兵衛が、平常どおり、防備もなく船を港に進めたのは、油断というよりは、こうした常識的な判断を下していたからである。
しかし現に異常な事態が迫っている以上、ともかくオランダ側の出方を見まもるほかはない。弥兵衛はそう考えて、赤銅色の顔をかこむ銀白の髪を南国の海の風に吹かれながら、腕組みをして立っていた。
武装した兵隊にかこまれた金髪の副官が、近づいてくる小舟の先頭に立ち、しきりと弥兵衛たちに何か話しかけていた。オランダ語のわかる弥兵衛の息子の新蔵が船べりから身をのりだして、何かどなりかえした。
「何と言っているのだ?」
弥兵衛は新蔵に訊ねた。
「船のなかを調べる、と言っています」
新蔵が父の顔色を読むような表情で答えた。
「何の理由でだ?」
「単なる商取引以外の、軍事品をも運んでいる疑いがあると言っています」
「そんなばかな……。疑わしいなら、波止場についてから、そのうえで取調べるがいい。こんな海上で、海賊同然にみなして、召しとられるなどとは、不当もはなはだしい。その紅毛に言ってやれ。弥兵衛の船には、交易品以外は何もない、と」
新蔵が何かをながながと話していた。
「命令なので、どうすることもできないそうです。ともかく命令どおりにしないと、ただちに大砲で攻撃をしかけるそうです」
そのうち小舟は末次船の舷側に達した。
弥兵衛は副官の命じるとおり、数人の主だった船頭とともに、オランダの小舟に乗りうつるほかなかった。新蔵もそのなかに加わった。
弥兵衛たちを乗せた舟が動きだすと、それまで待機していた小舟がぞくぞくと末次船の舷側に集まり鈎《かぎ》のついた綱を投げては、それをよじのぼってきた。弥兵衛の留守をあずかる柴田八左衛門がオランダ人たちの前に立ちはだかった。
「邪魔をしたり、抵抗をしたりすれば、カピタン弥兵衛殿の身が危険だぞ」
先頭に立った眼の青い、若い士官がそう叫んだ。通辞がそれを八左衛門に通訳した。
「私たちは船のなかを捜索するように命じられた。こちらで必要とするものは押収する。邪魔をすれば、カピタン弥兵衛殿の生命はなくなる」
眼の青い士官はそう言うと、部下を指揮して、船底の部屋部屋、船倉などをくまなく捜索し、刀剣、火縄銃、槍などを甲板に集めてきた。火薬もかなりの量が発見された。
商人に化けて、船尾に集まっていた百人余の牢人たちは、歯ぎしりしてくやしがった。
「なぜ弥兵衛殿はのこのことオランダ船に乗り移ったのかな。人質をとられていたんでは、手の出しようがないではないか」
彼らはそう言って、船縁《ふなべり》を力まかせに叩いたり、太綱を蹴《け》とばしたりしていた。牢人たちからも刀剣はとりあげられた。
「なぜこのように多量の武器を運んできたのだね」士官は、八左衛門に、押収した刀剣、銃の山を顎《あご》でしゃくって言った。「これは、船をまもるための武器ではない。明らかにゼーランディア城を攻める意図を持っていた証拠だ」
「冗談じゃない」八左衛門も負けてはいなかった。「東支那海の海賊たちのことを考えたことがあるかね。これだけの装備はぜひとも必要だ。自衛のためにも、ぜひ、これだけは備えなければならぬ」
そこで相手も、八左衛門の言葉をうけて、
「しかしこれだけの武器があれば、ゼーランディア城だって攻められる。海賊を防ぐためには十分すぎる」と言って青い眼を細め、皮肉な顔をした。「それに、平戸から、お前たちに関する噂が、すでに伝わっているのだ。お前たちは武器ばかりではなく、侍たちを大勢乗せてきたというではないか」
間もなくそこへ船倉に近い部屋から、青ざめた台湾土民がぞろぞろ甲板に集められた。
「土民たちをどうするんだ?」
柴田八左衛門は若い士官の前へ飛び出していった。
「長官からの命令だ。土民はすべてオランダ側が引きうける。異存があるなら、カピタンを通じて、長官のほうに申し出てもらいたい」
士官の言葉を通辞が八左衛門に通訳しているとき、オランダ兵の別の一隊が梱包された品々を幾つか担ぎだしてきた。兵隊たちは士官に何か報告をしていた。その梱包を見ると、八左衛門の顔色が変った。
「それだけは手を触れてはならぬ。それに手を触れると、あとで問題が大きくなるぞ。それは刀剣でも銃でもない。だから、それは船に残しておいたほうがいい」
「これは何だね」
眼の青い士官は荷を横目で見ながら訊ねた。
「将軍からの拝領品だ。将軍が土民たちにお与えになった品々だ」
八左衛門が、将軍という言葉に力をこめて言った。通辞がそれを強めて通訳した。しかし若い士官は、別に、これといった反応を示さなかった。そしてただ兵隊たちに、顎で、それを運びだすように命令すると、八左衛門の怒りを無視して、兵隊たちに大声で号令をかけた。
刀剣や銃はつぎつぎと小舟に積みこまれ、土民たちもそれに分乗させられた。そして、任務を終えた兵隊たちは、鈎綱を伝って、それぞれの舟に乗りうつり、ゼーランディア城に引きあげていった。
青い眼の若い士官は、最後に船を離れるとき、八左衛門に、停船位置を変えぬこと、無断で移動、ないし出港しないこと、などを言い渡した。「万一の場合、砲撃をうけてもやむをえないし、カピタン弥兵衛殿の生命も保証できない」
士官はそう言うと、舵《かじ》と櫂《かい》をとりはずさせ、舷側を跨《また》ぎ、身軽に鈎綱を使って船をおりていった。
二|艘《そう》の末次船は、夕暮の迫ってくる入江のなかに、静かに浮んでいた。時おり微風が帆桁《ほげた》をゆっくり軋らすほか、音らしい音もしなかった。舷側から下を見ると、青い南国の海に、半透明な魚が銀の群れとなって泳いでいた。赤い夕焼けがひろがり、やがてそれが褪せると、艶々《つやつや》と空気の光りそうな南国らしい夜が、海のうえに滑りこんできた。
末次船の艫《とも》にも舳先《へさき》にも赤いオランダ式の角燈《ランプ》がともった。八左衛門は、残った船頭や商人頭、目附役などを集めて、善後策を協議したが、これという名案もなく、相手の出方を待つほかはなかった。牢人者のなかには、夜陰に乗じて、対岸に泳ぎつき、見張りから武器を奪って、ゼーランディア城に攻めこむことを主張する者もあったが、弥兵衛の身に万一のことがあっては、という慎重論に押えられた。
翌日、八左衛門は使者を送って弥兵衛らの身柄を要求したが、相手側はそれを取りあげる様子も見せず、使者を追いはらった。午後になって、弥兵衛から、全員無事である旨の走り書きの書状が届いた。しかし何の理由で連行されたのか、いつまで監禁されるのか、今後いかに振舞うべきなのか、何一つ書かれていなかった。
太陽がのぼると、暑熱があがり、海上の遠くは白く霞《かす》んでいた。ゼーランディア城の石畳の上には、兵士たちの休む草葺《くさぶ》きの小屋が見えていた。船底は蒸し風呂のような暑さだった。船頭も商人も牢人も末次船の甲板に出て、褌《ふんどし》一つの姿で、日かげを捜しては、ごろごろ横になっていた。
三日ほどして弥兵衛たちが小舟で帰ってきた。しかし台湾長官は末次船が出港することを固く禁じ、昼も夜も武装した船が港の入口を監視していた。ゼーランディア城から威嚇のためか、時おり大砲が轟《とどろ》き、その音が入江のなかに反響した。
暑い一日が終って、壮麗な夕焼けが、ふたたび、雲を赤に、金色に染めながら、入江のうえに拡がった。
さらに幾日かが無為に過ぎた。浜田弥兵衛は新蔵をつれて一日に数度、ゼーランディア城に出かけ、長官か、商館長に会わせるよう交渉した。しかし交渉はいっこうにらちがあかず、双方は押し問答をくりかえすほかなかった。
末次船の商人たちのなかには、こうして無為に過すくらいなら、弥兵衛と長官ヌイツの交渉がまとまるまでの時間を利用して、白糸(生糸)の買附けに、大明《だいみん》まで出かけるべきだ、という意見の者もいた。弥兵衛がその点をオランダ側に交渉すると、間もなく白糸を満載したオランダ船が大明から戻ってくるから、それを待つように、と言って、その申し出も拒絶された。
暑い一日一日が、ゆっくりと入江のうえを過ぎていった。もちろん白糸を積んだオランダ船も入ってこなければ、末次船に満載した商品を唐人たちに売ることもできなかった。
すでに十日が過ぎようとしていた。
船内では、もうこれ以上待っても何の結果も期待できないのなら、日本に帰るなり、大明に渡るなりしたほうがいい、という意見が強くなっていった。牢人たちは、弥兵衛や八左衛門が穏便な態度で交渉をつづけようとするのに反対した。
「私たちが船に乗ったのは、日本人の実力を見せるためではなかったのかね? 末次平蔵殿だったら、オランダのこんな遣《や》り方に我慢はしておられんでしょうよ」
牢人の一人はそう言って弥兵衛をなじった。商人たちも、いたずらに滞在をながびかすだけで、何ら誠意を見せぬオランダ人の態度に憤慨した。
ついに弥兵衛を中心に、商人、牢人たちからなる十数人の代表が、ゼーランディア城に出かけることになった。彼らはどんなことがあっても、長官と会うまでは帰らない、と言って、オランダ側にくいさがった。押し問答の末、ようやく長官ヌイツは面会に応じた。
弥兵衛たちは、かなり長いこと、城内の広間で待たされた。広間の外には番卒たちが眠そうな顔をして立っていた。牢人たちは広間の外で待たされていた。
長官ヌイツが髭だらけの顔で姿を見せたのは、人々が、いい加減、しびれを切らせたころであった。しかし長官ヌイツは、人を待たせたという様子など、まったく示さず、広間の中央の椅子に腰をおろすと、足を組み、「いったい、お揃いで、何のご用かな」と言った。
長身の通訳者カロンが、踊るような動きで、弥兵衛たちのところへ来て、長官の言葉を巧みな日本語に通訳した。
「貴殿が私たちから船の自衛に必要な武器をとりあげ、港に抑留してから、すでに十日になる。こんなことをしていても、互いに何の利益もない。ここで仕事が進展しない以上、台湾《タイオワン》を引きあげるほか方法がない。すでに起ったことは致し方ないとして、とやかく言わぬから、出港の許可だけ出してほしい」
長身のカロンは、また踊るような歩き方でヌイツの席までゆくと、この言葉をオランダ語で伝えた。
「いや、出港は許されない。あなたがたは、まだ、ここに止まっていなければならぬ」
ヌイツは頬髯《ほおひげ》をひっぱりながら、そう言ったが、顔が急に赤らみ、額の血管がふくれあがった。彼はそのとき、江戸でじりじりと過した一カ月余のみじめな日々の記憶を、突然、思いおこし、新しい忿怒《ふんぬ》が燃えあがってくるのを感じた。
「あなたがたは、決定がはっきりするまで、ここに止まらなければならない。それに、こうして待たされることは、大して苦痛にならんでしょう。あなたがたの国でも、決定はなかなか下してもらえないし、長いこと待たされるのは当然のことになっているんだから」
ヌイツは皮肉な調子でそう附け加えた。
この言葉を聞くと、弥兵衛の赤銅色の顔にもみるみる怒りの色がみなぎった。
「あんたは江戸のことを根に持っているらしいが、それは、私らのあずかり知らぬ老中、重臣の方々のなさったことだ。それを、私らに当てつけるとは、見当違いもはなはだしい。私らは一介の商人だ。あんたの江戸滞留には何の責任もない。だが、あんたはここの責任者だ。あんたは、私らを帰す、帰さぬの決定権を持っているのだ。あんたの一存で、私らは帰れるのだ。私らは一刻も早くここを出たい。これ以上、ぐずぐずしているわけにゆかないのだ」
弥兵衛の言葉を赤毛の長身のカロンは早口で通訳した。
「いや、いや、そうは簡単にゆかない。私だって、一存で、あなたがたを帰すわけにゆかない。それは台湾の評議会の権限なのだから。評議会が、港を出てはならぬ、と決議した以上、あなたがたは港を出てはならないのだ」
髭だらけのヌイツは、この最後の言葉を、威嚇するように強く言った。
「どうしても駄目なのか」
弥兵衛は、ヌイツと長身赤毛のカロンとを半々に見て言った。
「くどいですな。駄目なものは駄目ですよ」
ヌイツは皮肉な調子で言った。
その瞬間、あっと言う間もなく、弥兵衛は長官ヌイツの身体にとびかかった。新蔵も父につづいてヌイツの腕をねじりあげた。何人かがカロンにおどりかかった。
「ばかな真似はやめなさい」
カロンは日本語でどなった。長官は髭をふるわせて、大声を出そうとした。しかし弥兵衛が匕首《あいくち》をその喉元につきつけた。新蔵がオランダ語で「静かにしなければあなたの生命がない」と一語ずつ区切って言った。
ヌイツは襟飾りの白布をびりびりと破かれ、それで手首と足首を縛られた。カロンも同様に縛られて、ヌイツのそばに転がされた。
そのとき、たまたま商務員のホーマンが、口笛を吹きながら、長官のサインを求めるため、広間までやってきた。ところが、広間のドアをあけると、日本人たちがヌイツを縛りあげているところだった。ホーマンは手にした書類を取り落すと、悲鳴をあげて駆けだした。
彼は広間の外廊の窓から、日本人が叛乱《はんらん》をひきおこしたこと、長官ヌイツが縛られていることをわめきちらした。牢人の一人がホーマンを追って、その背後から斬りつけた。
ホーマンは鳥が絞め殺されるような叫びをあげて倒れた。しかしホーマンの叫びでゼーランディア城は騒然となった。
番卒や商館員たちが手に手に鉄砲をとると、広間の外廊で抜刀している牢人たちを狙撃した。牢人たちは壁の窪みや大きな植木鉢のかげに隠れて、番卒たちが近づくのを待って襲いかかったが、刻々に城内の兵隊たちの数が増えるとともに、じりじり後退し、ついに広間の戸口まで押し戻された。
城壁から広間の窓にむかって銃撃しているらしく、木の割れる鋭い音が、しきりと聞え、一、二度、天井の漆喰《しつくい》が銃弾をうけて、粉になって、はじけた。弥兵衛はどなった。
「鉄砲をうつとヌイツの生命はないぞ。カロン、みなにそう伝えろ。すぐに発砲をやめさせろ」
カロンは窓際までゆくと、身体を隠したまま、大声で、弥兵衛の言葉をつたえた。
オランダ兵たちは牢人の群れを押し戻しながら、広間の入口になだれこみ、長官を救いだそうとした。
「鉄砲をうったり、それ以上近づいたら、長官ヌイツの生命はないぞ。近よるな。近よるな」
カロンは弥兵衛の言葉を伝えた。オランダ人たちは弥兵衛らを遠まきにして、息をころしていた。弥兵衛がヌイツの喉元に突きつけた匕首が冷たくきらりと光った。一同ははっとした。
ヌイツは大声で商務員や兵隊たちに叫んだ。
「オランダ人たちは広間の外へ出ろ。日本人は気が狂っている。お前たちが外へ出ないと、私は殺されてしまう。お願いだ。早く外へ出てくれ」
オランダ人たちは手も足も出なかった。弥兵衛をにくにくしげに睨《にら》みながら、一人ずつ広間の外に出ていった。
なお、あちらこちらの部屋で、深追いした牢人たちがオランダ人の番卒と斬りあっていたが、間もなく、それもおさまった。手負いの人間が何人か階下の医療室へ運ばれていった。ゼーランディア城は重苦しい沈黙につつまれた。太陽の照りつける城壁や城内の石だたみや砲台のまわりは、目のくらみそうな照り返しが強かったが、それだけに、物の影は濃く、淡い菫色《すみれいろ》の反映が感じられた。海からの風が、涼しく、そうした重苦しい暑熱のなかを吹きすぎていった。
そのうち、また城内に動揺がおこった。末次船から、ゼーランディア城の発砲騒ぎを耳にした牢人たちが、百人ほど、それぞれひそかに隠していた刀を取りだし、小舟で上陸してくるのが見えたからである。長官ヌイツは、主だった商務官や士官に絶対に抵抗しないよう命じた。さすがのヌイツも蒼白な顔をし、眼は緊張のあまり吊《つ》りあがって見えた。
やがて牢人たちは城内に到着した。オランダ人兵士たちは彼らの前に道をあけたが、何人かが拳を高くあげて、怒りや敵意をむきだしにしていた。
オランダ側では緊急の評議会を開き、長官ヌイツをどうして奪いかえすか、その方法を相談したが、名案はなかった。長官を戻さなければ、日本人をみな殺しにすべきだ、と主張する者もいたが、結局は、長官ヌイツの生命が第一だ、ということになって、それも見送られた。
そのうち、ヌイツの筆蹟の紙片が評議会にもたらされた。そこには、日本人と交渉の余地があること、そのためには、秩序を維持して、無駄な刺戟を日本人に与えぬこと、などが書かれていた。
評議会の構成員たちは、ともかく長官に直接会って、その指示を受けるべきだ、という点で意見が一致した。そこで温厚なルモルトルと長官秘書が一同を代表して広間へ出むいた。
弥兵衛は二人を広間のなかに入らせた。彼らはオランダ語にフランス語をまじえながら、早口で、評議会の模様を伝えた。ヌイツは髭だらけの顔を相変らず緊張させて、間もなく妥協に達するはずだから決して軽挙|妄動《もうどう》しないでほしい、と何度もくりかえした。
「ともかく明日まで様子を見ていてほしい。できたら窓から飛びおりて逃げてみるが、それも、ちょっとむつかしい」
ヌイツはこの最後の言葉をフランス語で喋った。新蔵もフランス語はわからなかったので、それは暗号のように長官とルモルトルの間で使われたのである。
間もなく宵闇が近づき、城砦の哨所《しようしよ》ごとに角燈の灯が赤く燃えはじめた。
食糧が長官の命令で広間へ運ばれてきた。牢人たちが交替で立番をしていた。長官は両手を自由にされ、葡萄酒を飲み、葉巻をふかした。長身のカロンは広間の重苦しい気分を軽くするためか、巧みな日本語で冗談を言って、商人や牢人たちを笑わせた。しかし弥兵衛も新蔵もカロンの話には乗らず、きびしい顔をしていた。それで、人々の顔から笑いはすぐ消え、重苦しさがふたたび広間にのしかかってきた。
翌日、長官は、温厚なルモルトルを呼んで、昼までに相談がまとまるから、それまで十分慎重に待つように、と言いつけた。
「私の生命がかかっているからな」
ヌイツは一晩眠ったせいか、いくらか余裕を取り戻し、ルモルトルに冗談めかした調子で、そう附け加えた。温厚な老商務員は深くうなずいて出ていった。
弥兵衛は通訳カロンを間に入れて昼までヌイツと話し合った。ヌイツが弥兵衛の要求を拒んで首をふると、彼はすぐ匕首を喉元に突きつけて、一言でもいやと言えば、生命はないのだ、と脅迫した。
昼になって、長官ヌイツは弥兵衛との取決めを紙片に書き、それを評議会に送った。それによると、オランダ側はヌイツの息子ラウレンスはじめ五人の主要商務員を人質として弥兵衛たちに引き渡すこと、そのかわり弥兵衛の息子新蔵はじめ五人がオランダ側に人質となり、オランダ船に乗って日本にゆくこと、日本で人質を交換したあとで長官ヌイツが釈放されること、などが取決められたのだった。
評議員たちはこの取決めをめぐって賛否にわかれ、相互に激しく自説を主張した。しかし結論らしいものは、いっこうに見出せなかった。反対派が心配したのは、日本での人質交換のやり方だった。日本まで行けば、またどんな難癖をつけられるかわからない。あくまで台湾の問題は台湾で解決すべきた――反対派はそう主張した。
しかし長官ヌイツは評議会の疑惑に対して、絶対にオランダ人の身柄は安全であるから、この取決めどおりに従ってもらいたい、という文面の手紙を認《したた》めた。この懇願によって評議員たちはヌイツの決定を承認した。
評議員たちが会議室を出たのは、もう夕方もおそかった。その日は雨雲が海から陸に移動していて、夜になると、豪雨がゼーランディア城を包んだ。城壁の下で岩を噛む波の音が、雨の音にまじって聞えた。
翌日も雨が降りつづき、めずらしく気温がさがり、城砦のなかは肌寒いくらいだった。
人質の引渡しはヌイツのいる大広間で行われた。しかしいざ引渡しとなると、弥兵衛は、最初に連れ去った土民と、土民に与えられた将軍の賜品、それに、刀剣その他の商品を返却するように要求した。
弥兵衛のこの土壇場での駆引きに長官ヌイツは感情を害したらしかった。彼は、将軍の賜品と、押収品一切の返却は認めたが、土民については反対した。江戸の恨みがヌイツの心にしみこんでいたのだった。
せっかく開かれた交渉会議はすぐ閉鎖され、オランダ側は広間から引きあげていった。評議会のなかでは、これはひょっとすると、長官ヌイツが時間を稼ぐための芝居を打っているのであって、その間に、実力で長官を奪還することを望んでいるのではあるまいか、という意見が持ちあがった。そこで、ふたたび、ひそかに兵隊たちは戦闘配置につき、命令があり次第、日本人を撃てるよう準備した。
長官ヌイツの真意をただすために、ふたたび温厚なルモルトルが長官の前に現われ、フランス語で、評議会の考えをつたえた。長官の顔はさっと蒼くなった。
「一発でも発砲したら」とヌイツは髭をふるわせながら言った。「私はたちどころに殺されてしまう。日本人は気が違っているのだ。常識で考えられるようなことをする人種じゃない。オランダ人の流儀で考えては駄目だ。私は本当に殺されてしまう」
この言葉を聞くと、温厚な老人のルモルトルは涙さえ浮べて、評議室へ戻っていった。
その翌日は昼から暑かった。弥兵衛たちはたえずヌイツに匕首を突きつけながら、取決めの文書を交換した。長身のカロンが鵞《が》ペンをぎしぎし鳴らして、オランダ語を日本語に訳していた。
この取決めで弥兵衛は前年オランダ側に没収されていた白糸を全部返還させた。白糸の荷を倉庫から運びだす人夫が、それから二、三日のあいだ、波止場に雑踏していた。
人質とヌイツを乗せた弥兵衛の船が、台湾をあとにしたのは、事件がおこってから二週間後の、寛永五年六月十日(旧暦)のことである。末次船二艘のほかに、日本人の人質を乗せたオランダ船エラスムス号と、唐船とが船隊を組んで、東支那海を北上した。海は青く、飛び魚が波を蹴《け》って飛びたち、あとから、あとから、波をこえていった。
長崎奉行所が台湾事件の詳細な報告を受けたのは、それから半月後、弥兵衛の船が他の三艘ともども長崎に着いたときである。すでに長崎奉行は大坂に出発し、後任はまだ到着していなかった。奉行所では奉行代理の青野左兵衛がひとりで右往左往していた。彼は末次平蔵を呼ぶかと思うと、長谷川権六のもとに報告を送って意見をきかせたりした。また上田与志にゼーランディア城の様子を詳細に説明させた。しかし青野はこの事件をどう取り扱っていいのか、まったくわからなかった。
末次平蔵は長崎代官として弥兵衛から報告を受けとると、オランダ人を海に臨んだ格子窓の家に監禁した。
オランダ人たちはこうした取扱いは協定違反であると激しく抗議したが、一切受け入れられなかった。長崎の入江に浮ぶエラスムス号と唐船から、舵が取りはずされた。長崎奉行が不在のため、すべて末次平蔵の命令のままに行われた。
奉行所内部では、平蔵のこうした遣り方に対して非難がないわけでもなかった。上田与志も上司や同僚から、オランダ人の不法な監禁は、末次平蔵の私怨《しえん》をはらすためだ、というような声を聞いた。しかし与志は、長官ヌイツが憐れな土民を捕えたうえ、彼らから将軍の賜品まで取りあげたことが、やはり許せないような気がした。
江戸からはまだ何の指令も届けられなかった。末次平蔵は台湾事件をもとにして最大限の利得を引きだそうと考えていた。彼は、ひょっとしたら、人質のヌイツを使って、台湾の入港税や商取引税を撤廃させ、台湾からオランダ人を引き揚げさせられるかもしれぬ、と考えていた。
彼は、勝手に、さまざまな申し出をし、時に応じて言葉や態度を変えた。オランダ人たちは激昂《げつこう》した。しかし平蔵は、おどしたり、すかしたりして、台湾からオランダ人を追いだそうと試みた。
その年の夏は長崎もうだるような暑さだった。夜になって海から涼風が吹きこむ時刻に、海上に、しきりと花火があがった。それは華やかに夜空と海面にまるい光の花笠をひらいては、鋭い音を入江にこだまさせた。オランダ人たちはそれを不安な眼ざしで眺めていた。
八月半ばを過ぎたころ、長崎に入ってきた朱印船がおどろくべき報せを奉行所にもたらした。報告によると、高木作右衛門の朱印船がメナム河口に碇泊中、イスパニア船隊に攻撃され、五十人の日本人が捕えられ、暹羅《シヤムロ》から呂宋《ルソン》に連行されたというのだった。
その夏から秋にかけて、長崎奉行所はかつてない多忙に見舞われた。上田与志も額ににじむ汗を拭き拭き、翻訳に没頭した。
八月末になって、異国交易を主張する老中井上|正就《まさなり》が暗殺されたという報せが、江戸から長崎奉行所に届いた。その報告を聞いたとき、小曾根乙兵衛の顔色が変ったのに、上田与志は気づいた。
夕刻、めずらしく小曾根が与志を海辺の料亭に誘った。
「久々におぬしと飲みたくなった」
小曾根乙兵衛はそう言ったが、表情はさして明るくなかった。
「しかし幾《いく》殿がお待ちだろう。おれは遠慮したほうがよさそうだ」
「いや、今夜は、すこし折いって話したいことがある。つきあって欲しい」
与志は小曾根の口調がふだんより重いのを感じた。それに昼、井上正就暗殺の報せを聞いたときの小曾根の態度にも、何か気がかりなところがあった。
「ま、たまに忙中閑と、しゃれるのもいいだろう」
与志はそう答えた。
小曾根は窓から、入江に浮ぶ唐船やポルトガル船の常夜燈を眺めながら、酒を飲みはじめても、なかなか本題を切りださなかった。そしていきなり「おぬし、このごろコルネリア殿に会っているか」などと訊ねた。
「うむ。時おり、伊丹屋敷にゆく。たまに、大浦の岬にゆくこともある」
「いつ一緒に家をもつつもりだ?」
小曾根は与志のほうを見ないで訊ねた。
「いつと決めてあるわけではないが……」与志は言いよどんだ。「そんなに先にならぬうちに……コルネリア殿も承知しているのだ……私たちは遠い縁つづきでもあるし……」
「私はな、家をもつのだったら、早いほうがいいような気がする」
小曾根は真剣な顔をして言った。
「なぜ急にそんなことを?」与志は笑いながら言った。「そんなことのために、おれを誘ったわけではあるまい?」
「いや、このことをいうために誘ったのだ」
小曾根は、にこりともせず、そう言った。そして酒を与志のほうに差しだした。
闇のなかを蛍が明滅しながら飛ぶのが見えていた。小曾根は盃を持つ手をとめてそれにじっと眼を向けていた。与志は、それを見て、ふと、今夜は、よほど小曾根は気が滅入《めい》ることがあるに違いないと思った。
7 風の巻
寛永五年の初秋になって、長崎奉行所は、老中の命令で、長崎に碇泊中のポルトガル船五艘を抑留した。江戸からの指令によると、それはその年五月、暹羅のメナム河口で捕えられた高木作右衛門の朱印船に対する報復措置なのであった。もちろん奉行所では、奉行代理青野左兵衛や大通辞《だいつうじ》貞方利右衛門らが老中に対して質問状を発し、メナム河口で朱印船を捕えマニラに日本人船員を連行したのは、ポルトガル船ではなく、イスパニア船であること、今回の事件にはポルトガル側は一切関知していないこと、したがってポルトガル船の抑留はまったく理由がないこと、などを上申した。長崎奉行所としては、万一ポルトガル交易が差しとめになれば、その利潤を独占する糸割符《いとわつぷ》商人や、それにつながる幕府交易方の収支にも、影響がすくなくないと考えたからである。
「どうも、こんどのご老中の遣《や》り口は、末次平蔵殿にでも焚《た》きつけられたのでしょうかな。こんな無茶な禁令を出したら、今後、異国交易はますます袋小路《ふくろこうじ》に追いこまれますのにな」
長照寺の離屋《はなれ》で、伊丹市蔵は長谷川権六にそう話していた。開けはなった書院風の座敷の窓から、さやさや樟《くすのき》の葉をゆらして風が爽やかに吹きこんでくる。
「いや、先刻、上田与志が来て話していったところによると、どうもこんどの抑留の件は、平戸のオランダ商館長ナイエンローデの指金《さしがね》らしい」
長谷川権六は浅黒い、面長の顔に、考えこむような表情を浮べながらそう言った。彼の右手は無意識に頬に残る傷あとをさすっていた。
「それはまた意外な伏兵ですな。オランダ側はどんな思惑をもっているのでしょうかな」
「おそらく商館長ナイエンローデはこんどの台湾《タイオワン》事件で、幕府の心証を害したかもしれぬと考え、ま、その対抗策として、競争相手のポルトガルを牽制《けんせい》しておこうと企んだのではないかと思う。末次平蔵にしてみれば、思わぬところで、仇《かたき》から恩をほどこして貰ったようなものだ。いまごろ江戸で驚いていることだろう」
権六は冷たく笑った。
「なぜオランダ商館長は、目の仇の末次平蔵殿を喜ばせるようなこんな対抗策を考えたのでしょうかな」
「オランダ側としては、日本の朱印船など問題にしていないのだ。天竺《てんじく》から暹羅、安南、ジャガタラにかけて、オランダはポルトガルを追い落そうとしている。私は、そのことも、ご老中に具申しておいたが、どうも、側近で、つまらぬ雑音を入れる者があるらしく、すっきりした政策が打ち出されない。こんどのポルトガル船抑留にしても、結果として朱印船の活躍を助けることになっても、オランダ側はそれで目的を達したのだ。オランダにとっては、日本からポルトガル商人を追いだせば、それでいいのだ」
「しかし末次殿は、これを機会に、オランダの勢力を押えようと考えているのではないですかな。台湾長官ヌイツらは長崎から大村の牢に移されたといいますからな」
伊丹老人は平蔵の遣り口には我慢がならぬというように、思わず顔を怒りで赤らめ、強い語調で言った。
「そのことも考えられなくはない。しかしオランダとしてみれば、台湾を譲っても、日本との交易権をまもったほうが得策だ、という考えのようだ。もっとも上田与志が調べたところでは、オランダ内部も二派に別れていて、一方は台湾長官ヌイツのように強硬派で、あくまで台湾を譲らぬという人々、もう一方は日本との交易権がまもれればそれでいい、という人々がいるらしい。しかし私は天竺から日本までのオランダ、ポルトガル両国の対立抗争を見てくると、日本との交易権を優先させる考え方のほうに勝ち目があるようだ」
「では糸割符仲間の年寄連はどうなりましょうかな。虎の子のポルトガル交易を、ご老中の手で、差しとめられるなどとは、考えてもみなかったことでしょうからな」
「糸割符の年寄たちには寝耳に水だったろう。どうやら朱印船交易のほうが、ポルトガル交易よりも、利潤が大きいという平蔵あたりの説得が、十分に、ご老中はじめ幕府の重役たちを納得させた結果かもしれない。堺屋利左衛門にせよ、菱屋《ひしや》宗意、松葉屋忠右衛門などにせよ、このところ、平蔵にすっかりしてやられた恰好だな」
「しかし糸割符仲間もこのまま手を拱《こまね》いている訳にはゆきますまい。何らかの手を打ってくるものと考えなければ……」
「当然打ってくる。しかもいよいよこんどは必死の手段に出るだろう」
「オランダ交易の独占というようなことでしょうかな」市蔵は考えこむように腕組みをした。
「それもある。その他唐交易の独占なども考えられる」
「なるほど……」
「それに朱印船交易も手中に入れようと考えているかもしれぬ」
「まさか……もしそうならば堺屋殿でも菱屋宗意殿でも、自分で船を仕立てられればいい。先代や先々代はみな私たちと同じように朱印船で異国まで出かけましたのにな」
「いや、それはまだ家康公のご存命のころの話だ。いまでは糸割符仲間の考え方が違ってしまった。ながいこと幕府の特別の保護をうけているうち、その考え方が、先代、先々代の、裸一貫で叩きあげてきた人々と、まったく変ってしまったのだ。彼らは坐して安楽、安全に金をもうけることのほか何も考えない。幕府の重役連にとりいって特別保護を願い出ることしか頭にない。だが、それだけに、こんどのご老中の措置は身にこたえたろう」
権六は書院の外に眼をやって、樟がさやさや初秋の風に鳴るのを見つめていた。
「ま、それだけに、糸割符仲間がどんな対抗策を打ちだしてくるか、予断はできませんな。とくに唐船の件となると、以前のこともあり、小野民部殿もいっそう困難がふえますな」
それから二人は声を落して小野民部と薩摩公易方の最近の動き、殺害された薩摩藩士辰野伊織のその後の消息、交易論者の井上正就の暗殺の影響などについてながいこと話していた。
やがて伊丹市蔵は腰をあげ、離屋から玄関につづく廊下に出ると、ふと、そのとき思いだしたというように、見送りに立った権六を振りかえって言った。
「実は、近々、上田殿とコルネリアの婚約が取りかわされることになりましてな」
「ほほう」権六は浅黒い、面長の顔をほころばした。「それはめでたい。なかなか似合いの夫婦になりそうではないか」
「私も娘がポルトガルの血すじを引きますゆえ、上田殿が申しこされたとき、いろいろ考えましたが、両人の気持を考えますと、老人の取越し苦労がかえって邪魔になるかもしれぬと思い、当人同士の気持を重んじることにしました」
「それがいい。私もそう思う。それに上田は着実で心根のやさしい男だ。コルネリア殿も安心して頼れる良人になろう」
「そのお言葉で私も安心しました」
伊丹老人はほっとした気持をその語調に響かせて言った。
「そのうち、二人に、拙宅にも出向くよう伝えられたい。私も何か気持だけでも祝わせてもらいたいのでな」
権六は市蔵の気持をいたわるようにそう声をかけた。老人は、日焼けした皺《しわ》の多い顔を権六のほうにむけ、「必ず両人に申しつたえます」と言った。しかし彼は権六の顔をそれ以上見ていることができなかった。老人らしい感情の昂《たかぶ》りから、急に眼がしらが熱くなったからである。
上田家と伊丹家のあいだに婚約がととのったのは、十月になって間もなくのことであった。上田家といっても、実際には、与志ひとりしかおらず、すべて後見にかかわる雑事は年長の同僚の小曾根乙兵衛が引きうけた。というより、こんどの婚約まで何から何まで積極的に働いたのは、温厚で、よく道理をわきまえた小曾根だった。そして奉行所で翻訳の仕事で追われているとき、小曾根の妻の幾《いく》がかわりに伊丹家に行くこともあった。コルネリアが幾や、幾の妹の妙《たえ》と親しく口をきくようになったのは、それからあとのことである。
上田与志自身も遅くまで仕事がつづく夜もあって、コルネリアと会う機会があまりなかった。しかしたまに二人が顔を合わすようなとき、以前にくらべると、与志もコルネリアも奇妙に言葉が少なくなった。それは、前のように、二人が話し合うことでお互いに知り合ったり、相互に気持を理解したり、確かめ合ったりする必要がなくなった、という事情もあったかもしれない。彼らはただ沈黙のなかでじっと自分や相手のことを考えるだけで十分なような気がした。たまに小曾根夫妻に招かれたり、逆に伊丹屋敷に夫妻を呼んだり、また、大浦の岬の茶店に休んで、青い入江に浮ぶポルトガル船を眺めたりするとき、二人は話をかわすより、何となく小曾根たちと喋ったり、小曾根の話をきいていることが多かった。
しかしコルネリアが黙りがちであったのは、ただそれだけの理由ではなかった。そのことを与志は長照寺へ紅葉を見がてら権六と会っての帰り、コルネリアが洩らした言葉から理解したのだった。
その日、上田与志は長照寺から海のほうに出て、大浦へつづく道のほとりの茶屋に腰をおろした。小さな入江が湾入していて、入江の向うに木立におおわれた岬が切り立って、海に臨み、岬の先には漁師の家が何軒かと、引き舟の舟蔵《ふなぐら》が建ち並んでいた。岬から背後の風頭山《かざがしらやま》につづく山稜は、すでに黄葉した木々が目立った。茶屋の先は切石の崖で一段低くなっており、その先の平坦な砂浜に波がひたひたと寄せていた。
「上田さまは本当に満足していらっしゃいますの?」
茶屋に休んでしばらくしてコルネリアが訊《たず》ねた。
「もちろんです。なぜ、いまごろ、そんなことをお訊《き》きになるんです?」
与志は驚いてコルネリアの青いかげの浮ぶ眼をじっと見つめた。端正なコルネリアの顔に、何か苦痛に似た表情が刻まれていた。
「なぜってことはないのですけれど、わたくし、自分がとても仕合せな気持でおりますので、急に、それが、こわいみたいな気になるんです。上田さまもほんとうにお仕合せな気持でおられるのかと……」
「仕合せですとも。あなた以上に仕合せです」
「わたくしね、小曾根さまの奥さまや妙さまとお目にかかると、いつも思うんです、上田さまにも、あんな純粋な日本の女のかたらしい奥さまがよろしいのではないか、と。わたくしなんか、あまり変りすぎていますもの」
「コルネリア殿、あなたは前にも一度それに似たことをおっしゃいましたね。なぜ、あなたはそのことにこだわるのです? 私にとっては、あなたはこの世に一人しかいない。私の妻は、あなたでなければならないのです。日本人とかポルトガル人とかいう問題ではありません」
「わたくしは妙さまのように綺麗じゃありません」
コルネリアは異国風の眼を伏せるようにして言った。長い睫《まつげ》が青いかげりを眼の隅に濃く漂わせた。
「どうしてそんなことをおっしゃるんです? あなたは綺麗だし、それに、私には、あなたのその面ざしなしには生きられないような気持です。それは、幾殿や妙殿も美しい方には違いありません。しかし私にとって、あなたがあなただということが大切なのです。あなたがこの世に生れてきたということが、時々、信じられないような気持になることがあるのです。あなたがただそこにいるという単純なことが、私には、驚くべき事実に感じられることがあるんです。これはただ仕合せとか何とかいう気持とは別のものです。私は他の誰でもなく、まさしく私という人間です。そしてそのことはどうにも動かすことはできません。それとまったく同じように、男と女の出会いにも、どうしようもない、そうした定めというものがあるように思えるのです。私はオランダの書物でこうした考えを読んだことがありますが、それは私の実感でもあるのです。私が私であるように、私の妻はあなたなのです。私は多くの人間の中から自分を選んだのではありません。いくらもがいてみても、他の人間になり変ることはできません。しかし人間は結局自分が自分であることに誇りと喜びを感じるように、男と女の出会いにも、それ以外の結びつきが起りえなかったということが不思議なのです。そのことが喜びでもあり、誇りでもあるのです」
上田与志はコルネリアの眼から涙があふれそうになるのを見た。彼女は顔をそむけると、涙をぬぐい、それから眩《まぶ》しそうな表情でほほえみながら言った。
「わたくし、自分がつまらない考えに捉われていたことがよくわかりました、それに……」コルネリアは顔をそむけて附け加えた。「わたくしは妙さまにねたましい気持を感じていたのかもしれません。いいえ、そうなんです。わたくしは、そうした気持にいままで打ちかつことができませんでした。とても上田さまのような考え方ができなかったからなんです。でも、今日から、わたくしは急に自信が出てきました。ねたましい気持など、感じないですむことと思います。そればかりか、わたくしがコルネリアだったことを誇りに思い、嬉しくさえ感じるようになると思います。そして上田さまとお目にかかれ、私たちがこうして生涯を契ることができたことを唯一無二の不思議な邂逅《めぐりあい》だと自信に満ちて感じられるようになると思います」
秋の午後の日ざしが流れる林をぬけて与志とコルネリアは長崎へ戻っていった。林はすでに黄葉し、落葉の匂いにみちていた。コルネリアは道々、はじめて与志と出会ったころの思い出を、また、浮きうきした調子でくりかえした。与志もその話し振りにつられて何度か声をあげて笑った。
ポルトガル船の抑留が指令されてから半月と経たぬ十月半ばに、台湾事件の報復措置としてこんどは長崎、平戸のオランダ船が抑留された。平戸のオランダ商館長ナイエンローデは蒼白いすきとおるような顔を暗くしながら毎晩おそくまで幕府に送る意見書を書いていた。時々ナイエンローデは咳《せ》きこんだが、鵞《が》ペンを離すようなことはなかった。彼はオランダとポルトガルの宗教の相違、植民政策の相違などから説きおこし、両国の交易の性格がまったく異なっていることを強調した。台湾は交易の中継点としてオランダが所有しているのだから、それに代るものがあれば、いつなん時たりとも、それを放棄する用意がある――そうナイエンローデは書いた。日本の事情に通じていた商館長には、唐商人と土民とから成る村落が点在するにすぎぬ台湾より、はるかに日本交易のほうが重要に思えたのである。それに彼は髭《ひげ》だらけの尊大な台湾長官ヌイツが、単純に自尊心や支配欲だけで行動するのを好まなかった。ナイエンローデは政治的な駆引きよりは地道な商売を重んじ、こつこつとよく働いた。そして長官ヌイツが引きおこした台湾事件を腹立たしいものに感じたが、反面では、かえって小気味いいような気持もしていたのである。
ポルトガルとオランダ交易が差止めとなり、例年ならば白糸の梱包の積みおろしで賑わう奉行所波止場や米蔵と糸蔵の並ぶ椛島町から浦五島町にかけて、町すじもひっそりして、手持ち無沙汰な船職人や荷担ぎたちが海のほうを見て、立ったり、坐ったりしていた。それだけに唐船の入港時には町々の商家や料亭はにわかに活気づき、唐船からおりた商人や船員たちの声高な話声が町の雑踏のなかでも一際耳についた。爆竹《ばくちく》や唐風の笛太鼓を鳴らして、その秋は、祭礼もことさら例年より賑やかに行われた。
上田与志がコルネリアを誘って諏訪《すわ》神社の祭礼を見たあと、浜町|界隈《かいわい》まで足をのばしたのは、こうした唐人たちの賑やかな催しを見るためだった。集まった人々のなかには、抑留されたポルトガル船の船員や長崎に住むポルトガル商人たちもまじっていた。彼らは、与志と並んで歩くコルネリアを見ると、その美しさに一瞬驚いたような表情を示した。
与志がコルネリアを伊丹屋敷まで送っていったのは、もう夕焼け空がいつか澄んだ水のように青ざめて、星が一つ二つ輝きはじめる時刻であった。屋敷内の葉を落した木々のむこうに、細い眉のような月がかかっていた。
与志は玄関先でコルネリアと別れるつもりだった。彼にはなお急いで翻訳する仕事が残っていた。
「お茶一杯ぐらい、よろしいではございませんか」
コルネリアはそう言って与志を引きとめようとした。
そのとき、玄関先の二人の気配に気がついたらしい伊丹市蔵が顔を出した。
「いま、長谷川権六殿からのご連絡で、奉行所の与力原隼人が牢人風の男に殺害されたということです。詳しいことはわからないが、何か重大なことがあったらしい。上田殿は早速奉行所にゆかれた方がよろしいかと思う」
市蔵の言葉を聞くと、その瞬間、与志は、不安に似た奇妙な感じが湿った陰気な風のように胸のなかを吹きぬけるような気がした。
「牢人者というのは、まさか辰野伊織殿を殺害した者たちでは……?」
与志は思わずそう訊ねた。彼は、前に目撃した影のような侍たちの群れが原隼人に襲いかかる情景を思い浮べた。
「いや、前後の事情は皆目見当がつきかねます。だいいち辰野伊織の屍体《したい》すらまだ行方知らずなのですからな……」
市蔵はひどく疲れたような顔でそう言った。
与志が奉行所にゆくと、すでに夜陰の濃く流れる中庭のいたるところに篝火《かがりび》がたかれ、その明りのなかで、鉢巻姿の地役人や警固の下役たちの姿が物々しく動いていた。
小曾根乙兵衛は通辞溜《つうじだま》りで分厚い綴込《とじこ》みをめくっていた。
「おぬし、まだ残っていたのか」
上田与志は小曾根の姿を見ると思わずそう言った。
「いや、居残っていたのではない。私はいったん家に帰り、休んでいるところに、事件の報せを受け、出てきたのだ。非番のおぬしなどとはわけがちがう」
「それは悪かった。何か夢中で調べものをしている様子なので、ずっと仕事をつづけていたのかと思った。いったい何を調べているのだ?」
与志は分厚い綴込みをのぞきこんだ。
「キリシタン宗門改めの控え帳だ」
小曾根は綴込みを与志のほうに差しだした。
「なぜそんなものを調べるのだ? 原殿の殺害と関係があるのか?」
「いや、それはわからぬ。しかし原隼人はキリシタン詮議《せんぎ》に人一倍熱心だった。前奉行の水野殿の遣り方を、手ぬるいと言って、つねに髀肉《ひにく》の嘆《たん》をかこっていたものだ。それで一応キリシタン詮議で、原隼人に捕えられた者のうち、牢人者を使えそうな一族、あるいは士分の者で、怨みを含みそうな者を、ひとわたり見当をつけておこうと思ったのだ」
「まったくおぬしは通辞風情にはもったいない人物だな。キリシタンの報復とはよく推量したものだ」
「いや、推量したのではない。原隼人は実は伊丹屋敷に出かける途中で殺害されたのだ」
上田与志は何か棒のようなもので頭を強くなぐられたような気がした。一瞬、耳が聞えなくなり、五官が痺《しび》れたようになっていた。
「伊丹屋敷へ? 何のために?」
与志はようやく自分を取り戻すと、喘《あえ》ぐようにそう訊ねた。
「何のためか、わからないのだ。だが、何かの詮議のために伊丹屋敷へ出向こうとしていたのは確かなのだ。同心仲間にもそう言ってあり、下役の者たちも伊丹屋敷に行くように命令していた。ところが原隼人はどういうわけか単身で出かけた。おそらく途中で別の用事があったらしく、寄り道をして誰かに会っている。そしてその後で殺害された」
「どうしてそれがわかるのだ?」
「原隼人が頭巾で顔をかくした男と歩いていたのを見たという証人がいるのだ」
「その頭巾の男は町の者か」
「武家らしい。その者も夕暮時ではっきり顔を見ていないのだ」
「なぜ原殿だとわかったのだ?」
「二人を見た男が実は原隼人の屍体を見つけたのだ」
「牢人者に殺されたという報告は誰が?」
「それは別の男だ。原隼人が死んでいた銅座町のはずれの海ぞいの道を、四、五人の牢人風の男が大浦のほうへ走っていったのを見たと言っている」
「前の薩摩の若侍の殺害とは関係ないのだろうか」
上田与志は不安そうな表情で訊ねた。
「なぜだ?」
「いや、なぜという理由はないが、あの若侍のときも数名の牢人風の侍たちだった。それで、ひょっとしたら同じ連中が何者かに殺害をそそのかされているのではないか、と、ふと思ったのだ」
「そういうことも考えられなくもないが、なぜ薩摩の侍を殺した者が、原隼人を殺さなければならないのか。その動機は何なのだ、もしそういうことが考えられるとすれば……」
「さあ、それはおれにもわからぬ。ただふとそんな感じがしたのだ。だが、ちょっと不安なのは薩摩の侍が殺されたのは伊丹屋敷のそばだった。その若侍は伊丹屋敷から出た直後だった。原殿は伊丹屋敷へゆく直前に殺されている。それがどうも不安なのだ。まさか伊丹と関係はあるまいと思うが……。いったい原殿は何の詮議のために伊丹屋敷へ出向いたのだ?」
「それが誰にもわかっていない。原隼人も何かひとりで考えるところがあったらしい。詮議というより、何かを聞きだしに出かけたのかもしれぬ。それで、私はキリシタンの詮議を思い出したのだ。伊丹に関係あるものだけではなく、薩摩にも、例の左官屋源次の一件も詳しく当ってみようと思っている。おぬしが心配するように伊丹屋敷に何か関係があるのかもしれぬ。だが、その辺はまだ何一つわかっていないのだ。無駄な取越し苦労はしないことだ。それよりコルネリア殿がまた心を痛めているだろう。明日でも行って、こちらの調べでわかったことを話してあげるといい」
上田与志はその夜おそくまで奉行所に残って天川《マカオ》からの報告を翻訳した。しかし時おり重苦しい不安がのしかかってきて、ながいこと、筆をとめて、ぼんやり自分の前を眺めていた。
翌日、上田与志は伊丹屋敷にコルネリアを訪ねると、さすがに彼女も原隼人が伊丹屋敷に出かける前に殺害された事実を知って、顔色を変えた。与志はいままでにわかった事実を詳しく話した。
「小曾根はあなたに心配なさらぬようにと言っておりました。キリシタン宗門改めの綴込みなどを早速調べたりしてあれこれ頭をひねっておりました。事情に詳しい男の言葉ですから、信用なさっていいと思います」
「ええ、それはもう……」コルネリアはかすかにほほえんで言った。「小曾根さまは、心配ごとがあるときでも、心配するなとおっしゃるようなお方ですもの。本当に安心のゆく方ですわ。でも、わたくしね、ちょっと心配なことがあるんですの……」
コルネリアは言いよどんで、与志のほうから眼をそらした。
「実は、昨夜、上田さまがお帰りになったあとで、小野民部さまが父のところへ訪ねてこられましたの」
与志は思わず声を大きくした。
「小野殿が……?」
「それはただごとではないご様子で、おそくまで父と何か相談なさっておられました」
「するとあなたのお考えでは……」
「ええ、何かこんどの事件と関係があるのではないかと……」
もし原隼人殺害に小野民部が関係しているとしたら、原が一緒に歩いていた頭巾の男が小野なのであろうか。もしそれが小野だとしたら、なぜ原隼人が伊丹屋敷に出向く直前に小野は原と会って話し合ったりしたのだろうか。いったい原隼人はなぜ伊丹屋敷の詮索に乗りだしたのだろうか。
小曾根乙兵衛はキリシタン詮議のためだと言っている。たしかに伊丹屋敷にイスパニアの伴天連《バテレン》が潜伏していたのは事実なのだ。その事実は、左官屋源次の一件が明るみに出たとき、危うく露見しそうになったが、長谷川権六の計らいで不問に附されることになった。
このことには上田与志も荷担している。与志自身も伊丹屋敷の秘密に加わっているのだ。むろん与志はその秘密全体を知っているのではなかった。彼はただ伊丹屋敷が危険にさらされることはコルネリアの身に危害が及ぶことであるために、こうした秘密に荷担し、伊丹の危険を防ごうとしたのだ。
しかし幸い、いままで直接に伊丹屋敷に危害が及ぶということはなかった。それには長谷川権六の尽力もたしかに大きな影響があった。キリシタン詮議や異国交易など全体の情勢が、伊丹屋敷の疑惑を晴らすように動いていたことも事実だった。
「だが、こんどは、前とは事情がまるで変っている」上田与志はコルネリアの話をききながら考えた。「原隼人が伊丹屋敷に出向いたのは、キリシタン詮議のためなのだ。おそらく小曾根乙兵衛は何かのことでそれを知っていたのだ。ひょっとしたら、何かの偶然で、原隼人と会って、そんなことを耳に挟《はさ》んだのかもしれぬ。あるいは原隼人の詮索のあとをずっと探っていって、それを知ったのかもしれぬ。それはともかくとして、原隼人は伊丹屋敷にふたたびキリシタン潜伏の嫌疑をかけたのだ。昨夜、小曾根が調べていたのは、そのことだったにちがいない。そうなのだ。小曾根は、原隼人がなぜふたたび伊丹に嫌疑をかけたのか、を知るために、宗門改めの綴込みを調べていたのだ。だが……」
与志は、真剣な眼ざしで彼を見つめているコルネリアを、遠くの人のように眺めながら、考えつづけた。
「だが、それならば、なぜ小野民部は原隼人と会ったりしたのか。原隼人の殺害に小野が直接関係がないとしても、全く無関係ということはありえない。コルネリアの言葉はそのことを証明している。小野民部は薩摩藩の財政のたてなおしには唐交易以外には道がないと言っていた。しかし唐交易のおかげで、幕府の反島津派と糸割符仲間が手を組んで、さまざまな圧迫を加えているということも話していた。あの薩摩の若侍が死んだのも、そのためだと説明していた。おれは、あのとき、小野から薩摩の苦しみを訴えられ、薩摩から交易権をとりあげるようなさまざまな陰謀と戦うように依頼された。おれは、それが伊丹家のためになることなら、役に立とうと決心した」
だが、あのとき長谷川権六や小野民部が心配していたような、殺害された辰野伊織を口実に用いて薩摩を圧迫するという事件は、その後起らなかった。上田与志は、むしろ台湾事件に気をとられて、薩摩藩の直面していたこうした危機を、何となく遠いものに感じていた。しかしコルネリアの言葉によって事件は直接このことに結びついていると、与志は、即座に感じたのだった。
キリシタンと島津を結びつけて交易権をとりあげようとする企みは、島津義久の令室堅野が江戸でキリシタンとして告発されたころから、着々と進んでいた。とすれば、こんどの原隼人のキリシタン詮議と小野民部との関係はほぼ推察できなくもない。伊丹家と小野とは古い複雑な関係で結ばれている。伊丹をキリシタンとして詮議することで、小野や薩摩の交易方を苦境に陥れるような糸口が、案外つかめると、原隼人は考えたのかもしれない。いや、ひょっとしたら、確実な糸口をつかんだのかもしれない。
与志はこうしたことをコルネリアに打ちあけた。以前、小野民部と同席した夜のことなども、そのまま話した。
「そのころから、市蔵殿も長谷川殿もこのことは危惧しておられたのです。しかしそのために、原隼人殿が殺されたとすると、問題はもっと難かしくなります。もう私などの証言だけでは片附かないところまで来たようですから」
「このあと、どうなるでしょうか。長谷川さまにでも、また出てきていただかなくては、事件はうまく解決しないのではないでしょうか」
コルネリアは青いかげの浮ぶ眼をじっと与志のほうにむけた。
「私もそう思っていたところです。帰りに長照寺へまわってみましょう。何かわかったら、夜ぶんにでも、また参ります」
しかし与志は伊丹屋敷から長照寺へまわり、離屋に長谷川権六を訪ねたが、部屋のなかから返事がなく、渡り廊下のむこうから、小坊主が長谷川権六はついさっき長崎へ出かけたと言った。
与志は、急に、心の支えをはずされたような心もとない、不安な気持に襲われたが、そのまま、長照寺の山門を出た。
長崎の町はちょうど斜めに射しこむ夕日の光のなかに赤々と照らされ、異国の銅版画を見るように、くっきりと家の一軒一軒が際立ってみえた。しかしそのときの与志の眼には、その家の一軒一軒に言い知れぬ秘密がかくされているように見え、思わず身体が震えた。
風が長照寺の白い土塀にそって吹き、土埃を舞いあげた。すでにそれは初冬の冷たさを含んだ風であった。
8 影の巻
新たに竹中|采女《うねめ》が長崎奉行として赴任したのは寛永六年(一六二九年)七月のことであった。前奉行水野守信が長崎の町をはなれてから、ほぼ一年半ぶりの奉行の着任である。
しかし台湾《タイオワン》事件といい、メナム河口の朱印船|拿捕《だほ》事件といい、重要な事件が相つづいておこったこの一年余のながい期間、長崎奉行を不在のまま放置しておいた責任は、やはり幕閣の老中、若年寄の権力争いと、海外交易に対する意見の不統一に帰さなければならなかった。
江戸にいる有力な親戚から、さまざまな噂を聞きこんでくる小曾根乙兵衛のおかげで、上田与志も、幕府の中央部で、どんな派閥が対立し、どんな意見が述べられているか、ほぼ見当はついていた。たとえば江戸城西丸に引きこもっている徳川秀忠の周囲で勢力のあった森川重俊、永井尚政、酒井忠世、土井利勝などの老中は、新たに将軍家光の側近として頭角をあらわした松平信綱、阿部忠秋、稲葉正勝などとは、おのずから意見も異なり、幕府内の統制や各藩の取締り方についても、それぞれ別個の主張を持っていた。双方が自説を譲らないようなとき、江戸城内の奥座敷では夜おそくまで燈火が輝き、重臣たちの白熱した論議がつづくということだった。
「昨年、老中の井上正就殿が暗殺されてからは、異国交易に対する重役の方々の意見がずい分と変ったな」小曾根乙兵衛は奉行所の帰り、上田与志と西浜町の居酒屋に寄った。窓の下に黒く掘割が見え、満潮とみえて、向い岸の燈火がゆらゆらと水面に揺れていた。「いまでは将軍家側近の勢力のほうが、どうも強くなってきているらしい。人の話によると松平信綱殿などは、異国交易などより、国内の整備の肝要を、事あるたびに、主張されているということだ。ま、各藩の城廓《じようかく》、銃砲、刀剣、交通の取締りとキリシタン御禁教が天下|焦眉《しようび》の仕事であると言うのだ。家光公側近にとっては、台湾の出来事など対岸の火事ほどにも関心をひかない。しきりと土井殿、青山幸成殿あたりが異国交易の必要を説いて、台湾を幕府の手中に入れるよう主張しているが、松平殿は、朝鮮征伐の二の舞を繰りかえすだけだと言って、反対に努めているということだ」
「だが、こんどの奉行は、やはり森川重俊殿あたりの息がかかっているということだが……」上田与志は奉行竹中采女の青白い、痩せた顔を思い出しながら言った。「なんとなくぴりぴりしたお人柄のようだな」
「江戸からの噂では、人選にいろいろ難航したらしい。結局、秀忠公側近と家光公側近の争いのようなことになり、それで長いこと奉行が決らなかったのだ。秀忠公側近は、言わば家康公以来の異国交易を存続させようとする。家光公側近はまずキリシタン禁教を強化し、長崎奉行が交易よりも、異国からの渡海者を締めだすことに専念すべきだと主張する。とどのつまり、長老格の土井殿あたりの折中案が通って、竹中殿に決ったらしい。だから、今後は、奉行所もまたキリシタン御詮議と異国交易と双方で忙しくなることだろうな」
しかし小曾根乙兵衛のこの言葉は、軽く聞きすてればいいというものではなかった。与志にとって、キリシタン詮議の強化はただちに伊丹コルネリアに結びついていたし、伊丹屋敷全体に感じられる何とない秘密の匂いにも関連していた。さらにキリシタン詮議に向った原隼人の死とも別ちがたく絡まり合っていた。眉と眉のあいだに深い皺を刻んだ、青白い竹中采女は、前奉行水野守信のような、温厚で小心な人柄ではなさそうだった。いかにも権力対立のなかで各派の人々を納得させた人物らしく、どこかひどく冷酷な実行力を身辺に漂わせていた。采女が長崎奉行所に到着した日、奉行代理その他が、キリシタン禁制の立札の数が足りないという理由で早速|叱責《しつせき》を受けたということだった。
事実、竹中采女は着任すると間もなく、キリシタン取締り方の与力、同心、地役人をふやし、長崎の町々の探索はもちろんのこと、近隣の町村まで大勢の役人を差しむけ、各戸の宗門調べに取りかからせたのである。
訴人があれば、ただちに役人が出向いて、疑いをかけられた当人だけではなく、親戚から知人にいたるまで、桜町の牢屋敷に引きたてられた。牢がキリシタンの被疑者であふれると、残りは大村牢へ送られた。下役人にかこまれ、裸足《はだし》のまま、大村へ送られるキリシタンの群れが毎日のように西坂刑場の下を通っていった。
竹中采女はキリシタンの被疑者に従来どおりの拷問を加えるだけではなく、配下の与力の進言を入れて、新たに踏絵による宗門改めを行なった。水野守信が奉行だったあいだは、キリシタン信徒と判明してからも、ほとんど拷問は加えられず、もっぱら改宗するように説得するだけだったが、竹中采女の着任以来、桜町牢屋敷から埃をかぶった責め道具が奉行所まで運びこまれた。
采女は奉行所役人をたびたび呼び集めては、キリシタン宗門改めによって信徒を根絶やしにするよう厳令した。采女は青白い骨張った顔に冷たい笑いを浮べて、自分は先任の奉行とは違い、キリシタン退治のためには、どのような手段も選ばぬつもりである、と言明した。「もしキリシタンを責める手段を考えついた者は遠慮なく申し出よ。十分の褒賞《ほうしよう》をとらせよう」采女はそう附け加えた。
新たに簀巻《すま》き責め、海老《えび》責め、逆《さか》さ吊《づ》りなどが採用され、信徒が転ぶ(改宗)までその拷問は繰りかえし繰りかえし行われた。もちろん、その激痛と苦悩に耐えかねて転宗する者も少なくなかったが、その大半はその苦痛に耐えて、転宗をこばんだ。彼らは火刑台にのぼるのを栄光のしるしと考えていたのである。
こうして竹中采女が赴任してから、長崎はもとより、大村、有馬、島原でもキリシタンの処刑が目立って多くなった。なかには数年前に伴天連を泊めたという事実を密告されて斬首《ざんしゆ》された老人もいた。また母がキリシタン信徒であったために、ともに火刑にされた赤子もあった。竹中采女が赴任した年だけで、処刑された者は老若男女あわせて二百数十名にのぼると言われた。
なかでも長崎の人々を震えあがらせたのは、竹中采女が、キリシタン信徒を雲仙の地獄谷へ追いこんで殺しているという噂だった。未明に諫早《いさはや》街道にゆくと、裸足で雲仙岳に追いあげられるキリシタンが、数珠《じゆず》つなぎになって歩いてゆくのが見られる、という噂が、一時に、長崎の町にひろがった。
上田与志は同じ奉行所にいながら、こうした取調べに直接かかわりを持たなかった。彼はただ、通辞溜りから、竹中采女が廊下を足早に通ってゆくのを、時おり見かけるだけだった。しかしこの突然の宗門改めの強化は、刻々に、与志の不安を高めていった。それは、奉行所内でも、原隼人殺害の下手人を早く探索しなければならぬという声が強く、新奉行竹中采女もそれには少なからぬ関心を寄せていると噂されたからだった。万一、奉行が本気で原隼人の事件の探索に乗りだしたらどうなるだろうか――たとえば原隼人と伊丹屋敷、伊丹屋敷と小野民部、さらに小野と薩摩交易方、そして伊丹屋敷のそばで殺害された薩摩の若侍辰野伊織――こうしたものが、一つの糸につながって、そこに何か与志にもわからない秘密があばかれたらどうすればいいのか。与志はそう考えただけで不吉な風が吹いてくるような感じがした。与志は一度長谷川権六を長照寺の離屋に訪ねたが、権六もこれらの結びつきに関しては詳しいことはわかっていないらしかった。事実、権六はしばしば長崎の町に出かけ、堺屋利左衛門の屋敷や末次平蔵の屋敷で長いこと話しこむことが多かったのである。
上田与志は、コルネリアがまた暗い、不安そうな顔で考えこむようになったのに気がついたが、彼は、あえてそのことに触れるのはさけていた。彼はただ彼女だけには、こうした世俗の心配はかけたくなかった。あたり前の娘のように、花を活けたり、縫物をしたり、季節ごとのたのしみをあれこれ考えたりするだけで、日々を送れるのだったら、どんなにいいだろうか、と考えていた。すくなくとも与志は、コルネリアが妻になったならば、こうしたわずらいから、いっさい、解放してやりたいと思った。何も思いわずらうことなく、季節の花々を眺めているコルネリアを見たなら、どんなに仕合せであろう――上田与志はあるとき伊丹屋敷で漠然とそんなことを考えながら、コルネリアを見つめていた。すると、そんな与志の思いが、コルネリアに伝わったかのように、彼女は、青いかげりの浮ぶ眼をあげて、一瞬頬をそめた。
「そんなふうに、ご覧になるものじゃありませんわ」
そう言って、コルネリアはうつ向いた。
しかし与志の願いにもかかわらず、彼女は、そうした心労から解放されるどころか、前よりもいっそう忙しくなっている様子だった。与志が知ったかぎりでも、長谷川権六と会ったり、伊丹の使用人たちと有馬まで出かけたり、一度は市蔵とともに天草下島へ船で渡ったりしていた。もちろんコルネリアはそのたびに上田与志にそうした一切を報告していたが、与志はコルネリアの表情から、こうした動きの真の目的が、彼女の説明以外のところに隠されているのを直感した。しかし与志はそれに触れたいとは思わなかった。おそらく彼女が真実を語らないとすれば、それは伊丹市蔵か、長谷川権六か、あるいはこの正体の不明な動き全体を統御している別の人物かが、コルネリアに、そう命じていることが、よくわかっていたからだった。
「だが、いつか、おれの働きが必要なとき、コルネリアは必ずそれを打ちあけるにちがいない。そのときは、すべてが、もっと有効に動いてゆくように、おれも全力を尽したい。それがコルネリアをこうしたわずらいからぬけださせる唯一の道なのだ」
彼はそう考えた。
原隼人殺害の下手人の探索は、与志の予想ほどには進展をみせなかったが、キリシタン迫害に関しては、事態は好転するどころか、いっそう悪化していた。奉行竹中采女は日を追って宗門改めを強化し、その拷問や処刑にも刻々と残忍な方法をとらせるようになった。いまでは、雲仙岳の煮え湯の噴出する地獄谷でキリシタン信徒がなぶり殺しにされる事実を知らぬ者はなかった。長崎でのキリシタン迫害は、急速に隣接の大村、有馬、諫早、島原から九州全域へ拡がった。
キリシタン信徒のなかには三人、五人とかたまって、自分の家を棄て、山中に逃げこむ者も少なくなかった。なかには昼は山や森にひそみ、夜になって里に姿を現わす者もいた。
京、大坂から駆りだされた乞食《こじき》や病人たち七十名あまりが長崎に送られてきたのも、その前後のことであった。奉行所ではその処置に困《こう》じはて、ついに呂宋《ルソン》に船で送りだすことに決定した。乞食たちはいずれもキリシタンと目されていた。しかし彼らは確たる証拠もないうえ、けがれた非人、病人だったため、奉行所でも、あえて宗門吟味を避けたのであった。
竹中采女はこうした処置を、いささかの躊躇《ためらい》なしに次から次へと判断し、決定し、実行に移していった。死罪が確定すると、ほとんど即日、火刑、ないし斬首刑が執行された。しかし采女の仕事は異国交易においてもまったく同じ調子に進められた。貞方利右衛門や小曾根乙兵衛に命じて異国交易の実体を詳しく報告させ、腕をくんで黙って聞いているかと思うと、通辞溜りまで来て、翻訳途中の文書をぱらぱらめくり、あれこれと思いついたことを通辞に指図した。また青野左兵衛を連れて突然町方会所に乗りこんで、町年寄から交易の現況を聞いたりした。
竹中采女は青白い、冴《さ》えない色艶《いろつや》をしていたが、病弱というのではなかった。ただ眉と眉のあいだに寄せた皺や、いらいらと手で羽織の紐《ひも》をいじる癖などは、彼が人一倍細かい神経をはたらかしていることをよく語っていた。彼は朱印船交易家とも糸割符《いとわつぷ》商人たちともよく会って、それぞれの言い分を聞いていた。たとえばある酒席で酔った交易家の船本弥平治が、毎年異国へ出かけるのに、江戸まで朱印状をその都度請いに行くのは、無意味だ、というような意見を開陳すると、竹中采女は脇息《きようそく》にもたれて、面白そうな顔をして、それに耳をかたむけていた。彼は盃を飲みほすと、船本弥平治にむかって「それなら、どんな方法があるというのかね」と訊ねた。すると船本は言った。
「私の名案と申しますのは、ほかでもございません、お奉行の御判をいただければ、それだけで、異国へ渡海できるようになる、ということでございます。いちいち江戸まで出向いて朱印状を受ける必要もなく、それでいて、直接、異国交易を取締るお奉行の指図には従っている、というわけで、まあ、一石二鳥の名案と存じますが……」
采女は船本弥平治の話を聞くと、面白そうに笑い、たしかにそれは名案だ、と言い、なおも脇息にもたれたまま笑っていた。
たしかに竹中采女の着任によって、懸案のポルトガル交易もいくらか打開の見通しがついてきたようだった。ポルトガル船の運ぶ白糸にその運命のすべてを賭けていた糸割符商人たちは、竹中采女を丸山の料亭に招いて、一刻も早く交易を再開するように懇願した。
「そのほうたちも、なぜ自分で船を仕立てぬのだ? 末次平蔵の言葉ではないが、朱印船交易のほうが、はるかに利潤が大きいというではないか」
竹中采女は酒盃を重ねても、いっこうに赤味のささぬ顔で、糸割符の商人連を見まわした。商人連にしてみれば、キリシタン取締りを強化している奉行から、こうした意見を聞こうとは思ってもいなかった。彼らにしてみれば、キリシタン取締りは、裏返せば異国交易の取締りだと考えていたからである。
「なにをそう意外に思うことがあるのかな」采女は脇息に寄りかかって言った。「利潤の多いものを求めるのが、商人の掟《おきて》ではないか」
たしかに竹中采女のこうした態度は、天川《マカオ》政庁から送られてきたポルトガル側との折衝を円滑に進めるのに役立った。上田与志は采女の命令で、天川政庁あて、交渉のための使節の派遣に同意する旨のポルトガル文書簡を起草した。
他方、台湾紛争で一切の交易活動を禁じられているオランダ側でも、何とか妥協策を見出そうとして苦慮していた。上田与志が翻訳したジャガタラからの報告によると、総督ピーテルスゾーン・クーンは台湾長官ヌイツの行動を傲慢《ごうまん》尊大で友好精神に欠けるとして、長官を解任し、新たにウィルレム・ヤンスゾーンを長崎に派遣するということだった。
与志はその報告文の翻訳を竹中采女のもとに提出した。奉行はそれに眼を通すと、与志に訊ねた。
「ヌイツはいま大村牢につながれているのだな」
「いいえ、目下、平戸の小川庵という屋敷に閉じこめてございます」
「しかしヌイツを解任したとなると、よほど譲歩するつもりでいるわけだな」采女は眉と眉のあいだの皺を寄せた。
「左様かと存じます」
「とすると、末次平蔵が言うように、台湾を日本領土にすることも可能なわけだな」
「さ、そこまで申してよいかどうか……」
与志は言いよどんだ。
「いや、一押しすれば、そこまでゆく。一押しすることが必要なのだ。何であれ、利潤をあげることが重要だからな……」
竹中采女はほとんど独り語《ごと》のような調子でそう言った。たしかにこうした言葉を奉行の口から聞くことは意外だった。しかし着任以来の竹中采女の言動を見ていると、いずれ、彼自身で船を仕立てて交易に乗りだしそうな感じさえした。しかも一方ではキリシタン禁圧を徹底的にやりぬこうとしているのだ。
与志は通辞溜りにかえってからも、奉行の人柄についてあれこれ考えたが、どこかよくわからぬところが残った。
特使ウィルレム・ヤンスゾーンが平戸に来たのは寛永六年の九月初旬のことであった。平戸島には低い雲がたれこめ、平戸の瀬戸には波が白い牙をむきだしていた。ヤンスゾーンの目的は、平戸のオランダ商館の館長はじめ館員たちの安否をたしかめ、幕閣の重役たちと交易再開の交渉をするためだった。
しかし江戸からの指令は、ヤンスゾーンの帆船を抑留し、船長以下全員を軟禁することを命じてきた。
その報告は翌日、長崎奉行所にも早馬で齎《もたら》された。それと前後して末次平蔵が江戸へ出発した。竹中采女からの意見書も老中宛に送りだされた。采女の意見書には、幕府はあくまでオランダに対して強硬な態度でのぞみ、決して譲歩せぬことが望ましいと述べられ、その理由として、ジャガタラからの報告文が添えられていた。
秋の終りになって、特使ヤンスゾーンが赤毛で長身のカロンを随《したが》えて江戸に向ったという報せが長崎に入った。カロンは、ヌイツと同行して江戸に出向いたこともあり、日本語も達者なこともあって、オランダ特使の唯一の頼みの綱だったが、その活躍にもかかわらず、江戸では、以前と同じく、いっこうに埒《らち》があかなかった。
江戸から長崎奉行所へ伝えられた報告によると、末次平蔵が相変らず精力的に立ちまわって、幕閣の重臣たちを説いて歩き、オランダ側に乗じる余地を与えなかったというのである。それに、竹中采女の意見書の影響も見落すことはできなかった。幕閣の重臣たちの意見は急速に対オランダ強硬策に傾いていった。松平信綱や堀田正盛の国内優先策は押し切られた形だった。
幕府から、末次平蔵を台湾に再度派遣するという命令が長崎奉行所に届いたのは、翌寛永七年の正月早々のことである。老中の意向では、末次平蔵に交渉の全権をあたえ、直接ジャガタラのオランダ政庁に出向いて、台湾事件の解決に当らせようというのだった。
平蔵は、その交渉で、少なくともゼーランディア城を日本に引き渡すか、それができぬ場合、城砦《じようさい》を破壊してオランダ人が引きあげるか、のどちらかを要求することに決めていた。末次平蔵は人質として平戸に軟禁されていたヌイツのほか、大村牢に捕えられていた数人のオランダ人を同行させることにした。
ヤンスゾーンと赤毛のカロン、それにオランダ人水夫ら十六名とともにオランダ帆船ゼーランディア号で平蔵が長崎をたったのは、寛永七年二月のはじめである。
その後、台湾から帰ってくる朱印船によって伝えられた便りによると、平蔵らは一旦ゼーランディア城に立ち寄り、そこで船をかえて、さらに南のジャガタラへ向ったということだった。
ヤンスゾーンの交渉は結果的には何ら実を結ばなかったが、まったく無意味でもなかった。というのは、平蔵のジャガタラ派遣で気持のうえに余裕のできた幕府の重臣たちは、平戸のオランダ商館に対して、在庫商品の売出しを、商館維持の経費を得るためにだけ、許可することにしたからであった。
その後ジャガタラから送られてきた報告によると、ヌイツは長官解任を不当としてオランダ総督と論争し、総督におどりかかったため、兵隊に捕えられ、バタヴィア城へ監禁されたというのだった。
その報告を翻訳しているとき、上田与志は髭だらけのヌイツの尊大な顔を思いだした。向う見ずで、単純で、一徹なこのヌイツが、いま、バタヴィア城の地下牢で、どんな思いをしているか、と考えると、与志は、なんとない憐憫《れんびん》を感じた。ともかく信念を曲げまいとして猪突《ちよとつ》した男には違いない。その気概だけは買ってやる必要がある――与志はそんな気がした。
上田与志がコルネリアから呼出しの手紙を受けとったのは、こうした報告書の翻訳に忙殺されていたその年の初夏のことである。
手紙には至急伊丹屋敷に来ていただきたいとだけ認《したた》めてあった。時刻はすでに戌《いぬ》の刻(午後八時)をまわっていた。長崎の町々は暗く寝静まっていて、時おり、蛍が明滅しながら、崖下の道を横切っていった。
伊丹屋敷には、コルネリアのほか誰もいなかった。
「何かあったのですね」
与志はコルネリアの顔を見ると、そう訊ねた。コルネリアの顔には血の気がなかった。
「つい今しがた、小野民部さまが大浦に血まみれになって舟でお着きになったということですの。大浦の漁民が報せてくれました」
「舟で大浦へ……?」与志はコルネリアの言葉がよくわからなかった。「なぜ小野殿が舟で大浦へ着いたのです? しかも血まみれになって……?」
「わたくしにも、よく、わかりませんの」コルネリアは泣きそうな表情になった。「父が漁民とすぐ大浦に向いました。オランダ医を連れて参りました。もし生きていて下されば、詳しい事情がわかるはずです。でも、どうしてそうなったのか、わたくしにも、見当がつかないんですの」
「でも、なぜ舟に乗っていたかぐらいは、見当はつきませんか。いつか、あなたが天草へ行かれたと言っていましたが……」
「あれは別です。あれは母の遺品を天草の島に埋めてまいりましたの。前に、そう申しあげましたわね。母はもちろんキリシタンでございました。わたくしは、母の遺品だけは、どんなことがあっても、離したくなかったのです。でも、いまのようなご詮議では、万一のことがないとも限りません。それで天草に参りましたの」
「あなたが知っていることで、今夜の事件と関係のあることを、何か思い出しませんか。小野殿を恨んでいた人物とか、そうした事件とか……」
コルネリアはしばらく自分の前の虚空をじっと見ていたが、やがて、口をひらいた。
「わたくしね、一度、小野さまが辰野伊織さまと会っておられたのを、偶然見たことがありますの」
「屋敷のそばで殺された薩摩の若侍ですね。どこでです?」
「それが、おかしいんです。諏訪神社のお祭りのときでした。辰野さまは飴売りの恰好をなさっていました。それで、わたくし、ながいこと、それが辰野さまだったと気がつかなかったんですの。でも、いまから思うと、間違いありません。小野さまは何か激しい調子で叱っている様子でした。遠くからで、よくわかりませんけれど、何となく小野さまが興奮しておられたように思います」
「それは、たしかに、何かありますね。長谷川殿は、それが何であるかご存じでしょうね」与志が訊ねた。
「わたくし、なんとなくおそろしくて、まだお訊きしたことはありませんけれど、ひょっとしたら……」
「小野殿が、たとえば糸割符仲間の雇った牢人者に襲われたと仮定することもできるわけですね。辰野殿の場合、そう仮定されたわけですから……」
「ええ、それは考えられますけれど、でも、どんな理由で……?」
「それは辰野殿の場合にも言えます。あの若侍は、どんな理由で殺害され、そのうえ、屍体までなくなったのでしょう?」
コルネリアは黙った。窓の外に、初夏らしい青味を帯びた夜が、植込みの葉を黒々と包んでいた。花の香りが窓から流れてきた。
「辰野伊織さまがここに来られたときの用件については、わたくし、父より何も聞いておりません。ただ、辰野さまのお話が……ドン・ジェロニモ・デ・マスレータに関係があるらしいことは……」コルネリアは言いよどんだ。「それも、わたくし、お部屋に茶菓を持って入るとき、言葉のはしに聞えたもので、確かなこととは言えませんけれど、その名前は、耳にしたんですの。ですから、デ・マスレータと関係はあると存じます」
「デ・マスレータとは、例の……?」
与志はコルネリアに眼で訊ねた。コルネリアも青いかげりの浮ぶ眼で、そうだ、というふうに答えた。
では、薩摩の若侍辰野伊織は、何かの理由で、伊丹屋敷に潜伏したことのあるあの伴天連と関係を持っているのだ。とすれば辰野伊織は薩摩のキリシタンなのだろうか。島津家でも、令室堅野がキリシタンであることが発覚して以来、藩内の取締りを極端に厳しくしているという話だった。飴売りにまで姿をやつして長崎へ来たのには、それ相応の理由がなければならぬ。ひょっとしたら、辰野伊織は、伴天連の潜伏場所を知っていて、それを長崎のキリシタンに連絡しようとしたのかもしれぬ。あるいは小野民部がその役を引きうけていたのかもしれぬ。それとも薩摩藩の取締りを逃れて長崎に来たのか。そんなことで何か意見の相違が生れ、それがもとで、二人は議論していたのかもしれぬ。
「だが、なぜ辰野は殺されたのか。しかも殺害者らしい牢人者七、八名を、おれは見ているのだ」
与志はそこまで考えて、ふと、いままで気がつかなかったある考えにぶつかり、思わず声をあげそうになった。
辰野伊織を殺したのは、糸割符仲間の雇った牢人者だと頭から決めていたが、別に、はっきりした証拠があるわけではないのだ。辰野を殺したのは、薩摩の侍たちかもしれないではないか――彼はそのときふとそう思ったのである。
たしかにそう考えると、多くの点で説明がつく。辰野伊織はキリシタンとして藩を追われていたかもしれず、また、何か藩内で憎まれたり、敵対したりする任務を持っていたかもしれぬ。それは薩摩交易方の小野民部とも意見の対立をみるようなものだったかもしれぬ。少なくとも彼は伊丹屋敷に隠れていた伴天連デ・マスレータと関係があるのだ……。
とすると、今夜、小野が深手をおったのも、この薩摩の侍たちの仕業でないと言いきれない。コルネリアも天草へ渡った。それは、島ではまだ、長崎周辺ほど、宗門改めが徹底していないからではないか。とすると、小野民部も天草から漂流してきたのかもしれぬ。ここにも伴天連が絡んでいることも考えられるのだ。何か伴天連のことで、薩摩の侍と小野が対立し、小野が斬られたという考えも成りたつ。
与志はその夜おそくまでこうした仮定をいろいろと話し合った。そしてそれがキリシタンと結びついているかぎり、異国交易は次第に不可能になるだろう、ということでは意見が一致した。
伊丹市蔵が帰宅したのは子《ね》の刻(午後十二時)をまわっていた。市蔵の柔和な顔には疲れと心労がこびりついていた。
「幸い一命はとりとめた。しばらく大浦の漁師の家に匿《かく》まってもらうことにした」
「下手人はわかりませんの」コルネリアが不安そうに訊ねた。
「まだ、わからない。しかし小野が喋れるようになれば、すべてがはっきりする。もっとも大体のところ、見当はついているが」市蔵はそう答えた。
この事件は、上田与志に、伊丹屋敷を包む秘密が奥深く広大であるらしいのを予感させた。それは単純に長崎だけですむような問題ではなさそうだった。しかしコルネリアもその本すじになると、はっきりしたことをつかんではいなかった。市蔵もコルネリアには詳しい説明はさけているようだった。
その年の七月、青い長崎の入江に、天川からポルトガル特使ドン・ゴンサロ・シルベイラを乗せた帆船が入ってきた。入江には相変らず抑留されていた五艘のポルトガル船が浮んでいた。波止場には、特使を見ようという人々が、早朝から集まっていた。長崎の町に住むポルトガル商人たちも、抑留船の船員たちも、特使を一眼見ようと、群衆のなかにまじっていた。ポルトガル人たちの大半は、手持ちの商品もなく、貯えも底をついていたので、取引再開まで、糸割符商人たちから生活費を借りて暮していた。そのせいか、同じ町に居留するオランダ人にくらべて、身なりもすっかり貧しくなり、破衣に近い恰好の男たちも少なくなかった。
シルベイラは奉行所上屋敷に入り、虎皮や玻璃《ギヤマン》の盃や精巧な目覚し時計を携えて、数日後、江戸にむけ出発した。
その年、長崎の町は例年になく活況に溢《あふ》れ、船大工や船倉関係の仕事は、いくら人手があっても足りないくらいだった。糸蔵《いとぐら》から送りだされる白糸の梱包も、ポルトガル船とオランダ船が入ってこないのに、例年以上の数が輸入された。もちろん唐船と朱印船の運んできた白糸だったが、長崎で、ひそかに囁《ささや》かれている噂では、これら朱印船のほかにも、かなりの日本船が安南や呂宋《ルソン》や天川に出かけているというのだった。
上田与志はこうした噂を小曾根乙兵衛の家に遊びに出かけたおり確かめてみた。
「いや、まったく根拠がないとは言えないのだ」小曾根はちょっと考えこむような表情をして言った。「長崎に入ってくるときは唐船だが、異国へ着くと日本船に早変り、というような|からくり《ヽヽヽヽ》があるらしい」
「それはまたどういうことだ?」与志は驚いて訊ねた。
「つまりだな、船の名義は唐人になっているが、実際の持主も荷主も日本人なのだ。こうしておけば、長崎でも平戸でも山川港でも好きな港に入れるばかりではない。わざわざ朱印状を貰いに江戸にゆく必要もない。ただ奉行の許可状一つで異国交易ができるのだ」
「なるほど。それは巧妙な抜け道だな」
「唐人の相棒が口がかたい男なら、絶対に安全な道なのだ」小曾根が言った。
「だが、なぜ近頃になって、そんな噂がひろまったのだろう?」
「唐船の数が増えたからだろう。ポルトガルとオランダが白糸を運びこまないのに、糸はかなり潤沢に出廻っているからな」
「だが、奉行所では、その取調べに乗り出す気はないのだろうか」上田与志は訝《いぶか》しげに訊ねた。「それを取調べるのも奉行所の役目ではないか」
「いや、ここ当分はそんなことは行われないと思う」小曾根乙兵衛は確信にみちた顔で言った。
「なぜだ?」
「なぜって、私には、そう思えるからだ。おぬし、最近、お奉行が船を仕立てて呂宋に出かけるという噂があるのを知っているか」
「まさか」上田与志は半信半疑の表情をした。
「いや、そういう噂があるのだ」小曾根はそう言って、それは間違いないことだというように首をたてにふってみせた。
9 島の巻
上田与志が上司の青野左兵衛とともに、再度、平戸のオランダ商館に出向いているあいだに、末次平蔵が長崎の私邸で急死したという報せが届いた。もちろん上田与志は、台湾《タイオワン》事件が上首尾に結着する直前に、その立役者だった平蔵が死んだことに、何か決められた宿命が、突然、無理矢理にねじまげられたような感じをうけ、一瞬、不安に似た気持を味わったが、オランダ商館側の衝撃はもっと大きく、その反応も複雑だった。
たとえば商館長のナイエンローデは、蝋のように青白く痩せ衰え、つねに咳《せ》き込んでいたが、平蔵の死の報告を聞くと、青い眼玉をむきだして、何とも言えぬ叫びをあげ、階段をかけのぼると、たまたまジャガタラからきていたウィルレム・ヤンスゾーンの身体にかじりついた。上田与志は商館事務室で在庫品目の書類に目を通していたが、このナイエンローデの叫びに驚いて目をあげた。報告をもたらしたのは長崎に駐在していた商館代理人であった。
「末次殿が急死されましたぞ」ナイエンローデはほとんど歓喜に近い声を出して言った。「もうこれで台湾で紛争をおこそうとする者はいない。商館事務もこれから平生に戻れますぞ」
しかしナイエンローデに抱きつかれた特使ヤンスゾーンのほうは、もっと冷静にこの報告を受けとった。
「いや、いや、末次殿の死が、ただちに台湾紛争の張本人の死と考えるわけにはゆかぬ。前長官ヌイツはバタヴィア城に監禁されている。末次殿は急逝《きゆうせい》した。言ってみれば、ゼーランディア城の紛争の当事者が二人ともいなくなったわけだ。しかしこうした事件は一度はじまれば、結局は、何らかの結着がつくまではつづくのだ。軽挙も禁物だが、単純に喜んだり悲しんだりすることも禁物だ」
上田与志には、その後、ヤンスゾーンが何を言ったのか、聞きとれなかったが、末次平蔵の死後の暗い見通しについてナイエンローデと話しているらしかった。
たしかに平蔵はゼーランディア城を破壊するか、台湾の主権を引渡すか、どちらにせよ、オランダに対して強硬な主張をしていたのは事実だったが、その限りでは、あくまでオランダとの交易を第一に考え、むしろポルトガル交易には眼をむけなかった。
しかし平蔵の死後、間もなく糸割符《いとわつぷ》仲間の豪商たちの奔走で、ポルトガル使節シルベイラが老中と対面し、メナム河口事件の誤解を解いて長崎に抑留されていた五艘のポルトガル船が出帆し、ふたたびポルトガル交易が活溌になりそうな気配が長崎に漂いはじめたのである。ポルトガル人の経営する小商館や糸屋、唐物屋《とうぶつや》、呉服屋などが急に活気を帯び、店の構えを変えたり、新たに資金がどこからか流れ、品数もみるみる豊富になった。京、大坂から買附けにくる商人たちの数も目立って多くなっていた。
こうした活況に平戸のオランダ商館が無関心でいられるはずはなかった。しかし特使ヤンスゾーンの予想通り、末次平蔵が死ぬと、江戸でオランダのために論じたり、奔走したりする人物がいなくなって、逆にオランダを誹謗《ひぼう》してまわる側近が幕閣で勢力をもちはじめた。その結果、ヤンスゾーン自身、平戸から江戸にむけジャガタラ政庁の意向を携えて出発したにもかかわらず、ついに大坂以東に向うことは許されなかったのである。
上田与志が平戸の仕事を終えて長崎に帰ると、同僚の小曾根乙兵衛が、待ちかねたように、ともに天草島の探索に出かけて欲しいと言った。
「どんな詮議の|すじ《ヽヽ》で出かけるのだ?」
上田与志は、天草島と聞くと、血まみれになった小野民部や、いつか人知れず島に渡ったコルネリアのことを思いだして、いくらか緊張しながら訊ねた。
「最近、天草島の漁民から妙な訴えがあってな。それによると、天草島のあちらこちらに荒天狗《あらてんぐ》のような男が出没していると言うのだ。背は高く、ぼろぼろの衣服を着て、髪は茶色、顔は赤く、鼻が大きいと言うのだ。それが本当なら、潜伏伴天連が天草島を徘徊《はいかい》しているということだが、実は、それに、もう一つ附け足しがある。というのは、この荒天狗は、つねに、かなりの人数の牢人者らしい男と一緒だというのだ。漁民たちの話だと、どうもキリシタンとは思われぬふしがある。というのは、最近、天草代官の報告によると、島の豪族、郷士の家だけを目標にして押し込む盗賊が横行しているというのだ。代官所も、その神出鬼没の動きには手を焼いているらしいが、その代官所報告のなかに、盗賊の頭目らしい男は、背が異様に高いと記されているのだ。これは下島か上島かの郷士の下男の証言らしい。だが、私の勘では、この頭目らしい男と、荒天狗のような男とは、どうも同一人物のように思われる。おぬしはどう考えるか知らぬが、私はこのことがちょっと気にかかっているのだ……」
小曾根乙兵衛はそう言うと、与志のほうには眼をあげず、天草諸島の図面をひろげた。ところどころポルトガル語が記してあるところを見ると、最近出帆したポルトガル船から押収した地図であるらしかった。
「まずここが志岐《しき》だ……」
小曾根は指の先で天草下島の北端の岬を指した。
「すこし待ってほしい」上田与志は注意深く小曾根乙兵衛の温厚な、いくらか肥りはじめた顔を見つめた。「天草の件はよくわかったが、なぜおぬしはおれを連れてゆくのだ? まだほかにも通辞はいるし、だいいちおぬしには通辞の必要はないはずだ。おれは平戸商館の書類が残っているのだ……」
「ほんとうに、おぬし、私がおぬしに同行して貰いたい気持がわからないのか?」
小曾根乙兵衛はそのときはじめて地図から眼をあげると、与志の眼の奥を読むような表情で与志を見つめた。
一瞬、与志は返事につまった。小曾根の言うことはわからぬではない。だが、小曾根だからと言って、伊丹の秘密をどこまで話していいのか、与志にもわからなかったのである。
与志は黙って首をふった。「どうか、先をつづけてみてくれ」
「実は、コルネリア殿が例のデ・マスレータという男と会うために島に渡ったのだ」
小曾根の言葉に与志は思わず顔色を変えた。
「まさか……。いつのことだ?」
「おぬしが平戸にたってから間もなくだ。前奉行の長谷川権六殿も同行している。おそらく伊丹市蔵殿も一緒だろう。だが、まだ誰も、伊丹に関係の者が天草に渡ったことを知っているものはない。おぬしと私をのぞいてはな」
「では、なぜそれをおぬしが……?」
「不思議でも何でもない。コルネリア殿が出かける前に、一切を、私に書き残していった。そしておぬしと一緒に天草島に来てほしいと……」
「なぜ伊丹の人々が、潜伏していたデ・マスレータに会いに出かけなければならなかったのだ?」
「いずれそれは説明する。私もこの件は詳しく調べ上げた」小曾根は気遣わしそうな顔をして言った。「それに伊丹屋敷の件についてはコルネリア殿が私に打ち明けていった」
「おぬしに……?」上田与志は、コルネリアの気持をどう考えていいのか、一瞬戸惑った。
「なぜコルネリアは小曾根に伊丹屋敷の秘密を喋《しやべ》るような気になったのだろう?」彼は黙って考えつづけた。「たしかに小曾根はおれたちに親身の情をかけてくれる。かつては同郷の先輩であり、奉行所ではこのうえないよき同僚であった。そして現在ではおれたちの親代りだ。だが、小曾根だって、立場がある。伊丹の秘密が、彼の立場と抵触するようなことがあれば、小曾根が苦慮することは明らかだ。それを知らぬコルネリアではないはずだが……」
「そんなに深く考える必要はないのだ」小曾根は相変らず気遣わしそうな表情で言った。「コルネリア殿は伊丹屋敷に潜伏していたデ・マスレータを単純に国外に立たせたいと考えているのだ。長谷川殿も目下その考えらしい。とくに奉行が現在のように宗門改めを村ごとで行なっている以上、それ以外に、デ・マスレータを救いだす道はないし、伊丹屋敷の疑惑もそれ以外には晴らす道はない」
「よくわかった。ただおれは、おぬしが……」上田与志は言いよどんだ。
「いや、言うな。私には、よくわかっている。そこで、私たちの間だけの話だが……」小曾根は声を低めた。「問題は、デ・マスレータを国外に逃亡させればすむということではないのだ。そうだ、さっきも言ったように、この男は、ただの潜伏伴天連ではない。盗賊の頭目かもしれぬ。また別の役目も引きうけているのかもしれぬ」
上田与志は頭がくらくらしそうだった。いったい、この事実をどう考えればいいのか。小曾根乙兵衛は何でこのようにすべての事情に通じているのか。ただの通辞では、これだけ機敏に、複雑な事情に通じられるはずがない。
「おぬしはすでに小野民部の襲撃事件を知っているはずだな」小曾根は上田与志の考えにはお構いなしに言った。「鍵はそこにあるのだ。私の調べ上げた事実と、天草で探索している長谷川殿やコルネリア殿の知り得たことを並べれば、かなり多くのことがわかるかもしれぬ」
「だが、奉行所与力がやるべきことをおれたち通辞が……」
「やってはならぬという法はあるまい。それに、いま言ったすべては、まだ誰も知らぬはずだ。奉行所与力は代官所の報告にもとづいて、盗賊たちの逮捕に向うかもしれぬが、私たちのような詮議には向わないだろう」
上田与志が小曾根乙兵衛とともに茂木《もぎ》から小舟を乗りだしたのは、寛永七年の秋もずっと深くなってからである。天草の海は青く、早崎海峡を吹きぬける風はすでに肌寒かった。蓑笠《みのかさ》で身体を覆っていたにもかかわらず、時おり舳《へさき》に砕ける波が雨のように降りそそいだ。
「思ったより、しけているな」
上田与志は次第に遠くなる茂木の漁村を振りかえりながら言った。櫓《ろ》を漕《こ》いでいたのは小曾根の昵懇《じつこん》の若い漁師だった。
「いや、この辺は潮の流れがあってな、それで舟が進まないのだ。だが、この沖あたりでは、二尺程の大鯛《おおだい》もよく釣れる」
漁に詳しい小曾根は、それからひとしきり、どこの沖で何が釣れるかを細々《こまごま》と与志に説明した。
「まったくおぬしのような人は羨《うらや》ましい」与志は息をついた。「こんなときにも釣りの話などしていられるんだからな。それに奉行所の仕事の合間に、よく釣りに出かける暇がつくれるものだ」
「それは私がおぬしのようにオランダ語|語彙《ごい》の筆写などせず、怠けているからだ」小曾根は顔にかかったしぶきを拭いながら言った。「おぬしはいままでのように仕事と学問に打ちこめばいい。私は私で、釣りのほうを受けもつ。おぬしの分まで釣ってやろう」
上田与志は、そのとき、小曾根乙兵衛の話し方が、いつもとすこし違っているように感じた。まるで釣りなど面白くもなく、義務でやっているのだ、とでも言いたげな調子だった。しかし与志は他に考えることがあったので、それ以上、そのことには触れなかった。
二人が鬼池に上陸したのは、それから四時間ほどした午《うま》の刻(十二時)を過ぎた頃で、天草島を覆った美しい黄葉が明るい日ざしに照らされていた。小さな入江に入ると、青い海が静かに凪《な》いでいて、波打際に寄せる波の白さが与志の眼にしみた。
小曾根は鬼池の代官屋敷でその後の盗賊の動きを訊ね、馬を借りると、志岐にむかって海岸沿いの道を辿《たど》った。
「天草といっても島は五つ。いずれも広大で山も深い。おぬしと私がいくら頑張ったとしても、風のような野盗たちを追うわけにはゆくまい。私たちはとりあえず伊丹の人たちに会うことだ。それがいちばんの近道だ」
小曾根乙兵衛は馬のうえからそう声をかけた。
志岐はかつてキリシタン伝来の当初に伴天連たちが上陸した町で、深くくれた入江にのぞんでいた。
「昔からここの天主堂は大いに栄えていて、代官が支配するようになってから、ようやく壊すことができたという。ただキリシタンの詮議はいっこうに進んでいないようだ。竹中殿もそれを歯がゆがって、特別に天草宗門改め役を送りこむという噂だ」
志岐の町に入ると、小曾根はそんな説明をしながら、とある大工職の家の前に馬をとめた。彼はそこで二こと三こと伊丹の人たちのことを訊ね、それからふたたび馬に乗ると、志岐の低い家並をぬけて、町を離れた。
「まるで、おぬし、志岐の町を諳《そら》んじているように、よく知っているな。あの大工は面識の男か」
「以前、長崎に住んでいた大工だ。転びキリシタンでな、いまは奉行所の宗門改めに一役買っている男だ」
それから小曾根は、コルネリアたちが下島の奥の鬼谷と呼ばれる小部落に出かけたと言った。
二人は志岐を出ると、細い谷間の道を辿った。黄葉した谷間に午後の日が照らし、青空を背に山の端の芒《すすき》の穂が銀色に光っていた。
目ざす鬼谷部落についたのはすでに黄昏《たそがれ》があたりに漂う頃で、銀の月が大きく谷の稜線のうえに浮んでいた。部落といっても十数戸の家が細い谷にそって並んでいるにすぎなかった。上田与志は、小曾根が大して迷いもせずに、山間のこんな部落を探しあてた勘のよさに驚いた。
「実は、去年、ある詮議のすじで、この道を辿ったことがあるのだ」
小曾根乙兵衛は種明かしでもするように笑って言った。
「おぬしが? ひとりで?」
上田与志は、いつも通辞溜りの奥で端坐して、オランダ関係の書類を丹念に翻訳する小曾根の姿から、単身で天草まで出かけるなどということは想像できなかったので、ひどく驚いたような顔をした。
「宗門改めの件でか?」与志は、谷間の道を下りながら訊ねた。
「いや、あのときは抜け荷(密輸)の件で出かけたのだ」
鬼谷部落に入ると、時ならぬ騎馬の二人を見て、家々から、男たちが飛びだしてきた。いずれも農民というよりも、郷士ふうの男たちであった。
「奉行所の通辞小曾根という者だが、西村|掃部《かもん》殿を訪ねて参った。西村殿にお取りつぎ願いたい」
男たちの一人が大声で何か喚きながら駆けていった。
部落の中央にがっしりした門構えの宏壮な屋敷が建っていた。小曾根と与志は男たちの見守るなかを西村の屋敷に向った。与志はそうした雰囲気のなかに一種の殺気立った敵意のようなものを感じた。
「西村掃部は昔の八幡船《ばはんせん》の船主の直系だ。この部落の者はほとんど西村の配下の男たちだ」
小曾根は馬をおり、並んで屋敷の門をくぐるとき、すばやく与志にそう耳うちした。しかし上田与志がそうしたことに驚く間もなく、屋敷から背の高い、鬚面《ひげづら》の男が現われた。男のうしろに長谷川権六の蒼白い細面《ほそおもて》が見え、さらに、伊丹市蔵がつづいて顔を出した。
「至急にお報せする件があり、上田与志ともども参上いたしました」
小曾根乙兵衛は長谷川権六の顔を見ると、そう言って一揖《いちゆう》した。
「お疲れのことであろう。ご苦労であった」
権六は傷跡のある頬に手をあて、鄭重《ていちよう》に言った。二人は西村家の奥座敷に導かれた。座敷は池をへだてた向うに繁みがあり、その奥を土塀が区切っていた。銀の月が大きく傾き、暗い菫色《すみれいろ》にあせてゆく空に刻々と輝きを増しはじめた。座敷につくと、風が肌に冷たく、虫の声が庭に満ちていた。
「風流なお庭ですな」小曾根は座敷につくと、西村掃部にむかってそう言った。
「いや、いや、こんな山家住いですからの、とても風流な庭などとは申せませぬ」
西村掃部は武骨な手で黒い鬚をこすりながら言った。
「ところで、デ・マスレータとはお会いになりましたか」
小曾根乙兵衛が権六のほうに顔をむけた。
「先日、ようやく牛深《うしぶか》の入江で会った」権六は冷たい浅黒い横顔を与志のほうに向けていた。「竹中|采女《うねめ》の許可状が出されぬかぎり、天草から離れぬと言っている。薩摩の無法者どもも承諾する様子を見せぬ。何とも手詰りという感じだな」
「代官所からの報告では、無法者どもが豪族を襲っているとの由。また、その頭目格にデ・マスレータらしい男が加わっているらしいという届け出がございます」
「その件については……」と西村掃部が鬚面をこすりながら言った。「私たちも牛深、本渡《ほんど》、志岐など入江ごとに見張りを置いて、注意しておりますが、まだいっこうに姿を見せませぬ」
「西村殿には……」と権六が小曾根に説明した。「配下の船を勢揃いしてもらって、抜け荷船があれば、見つけ次第、襲ってもらうことにしてある」
「それを聞いて安心しました」小曾根は息をついて言った。「ひょっとして糸割符仲間の誰かに先手をうたれはしまいかと……」
「その点は十分に注意している。いまも富岡にコルネリア殿が行っている」権六は上田与志のほうに眼をやった。「明日には戻ってくるはずだ。差し迫った事情ゆえお許し願いたい」
与志は伊丹市蔵と挨拶を交わしたとき、すでに市蔵がそのことを小声で話してくれたので、権六の話には、さして驚かなかった。しかし小曾根が権六と話している事柄に関しては、何から何まで知らないことばかりであった。デ・マスレータと薩摩藩と関係があるらしいことは、コルネリアが話していた。しかし薩摩の無法者というのはどんな男たちのことなのか、この男たちと竹中采女の渡海許可状とはどんな関係があるのか、天草の豪族を襲う盗賊たちはこの薩摩の無法者なのか、なぜ西村掃部が抜け荷船を見張って浦々に部下たちを配置しているのか――こうしたことは何一つ理解もできなければ、その間の関係もまったく見当さえつかなかった。
一同の話が終り、西村家の人々のもてなしを受けた後、与志たちが、池に臨んだ離屋《はなれ》に導かれたとき、与志は待ちかねたように、小曾根に一切を説明してくれるように頼んだのだった。
「こんどの事件はすべて、おぬしが平戸に出かけているあいだに起ったのだ」小曾根乙兵衛は床のうえに仰向けになると、じっと天井を睨《にら》んだまま言った。離屋のまわりで虫の声が一段と高くなり、どこかで水の流れる音がしていた。「平戸に出かける前、おぬしに唐船の|からくり《ヽヽヽヽ》について説明したことがある。おぼえているだろう?」
「うむ。日本船が唐人名義で奉行から許可状をうけ、安南交易に出かけるという例の|からくり《ヽヽヽヽ》だな」
「そうだ。糸割符仲間の豪商連が、朱印状交附を制限するよう、老中に働きかけている。それに、江戸まで朱印状を申請に出かけなければ、交附を受けることができない。そのうえ申請にともなう献上品も決して少ないものではない。それで朱印船は出したいが、朱印状が手に入らぬので、やむを得ず、手を拱《こまね》いているという商人たちも多い。とくに大名たちは島津と松浦をのぞけば、事実上、交易は禁止されているようなものだ。だから朱印状は喉から手が出るほど欲しいのだ。そこに竹中采女が着任して、長崎奉行の御判一つで渡海許可が出るということに決められた。これは老中で決めたのでもなく、奉行所内の談合があったわけでもない。ただ何となく、竹中は、交易振興は幕府の方針であるから、片方でキリシタン禁圧を強化すれば、許可状を濫発《らんぱつ》しても差しつかえあるまいと考えたらしいのだ。しかしはじめのうち、竹中采女の許可がそれほど多く出ているとは誰も気づかなかった。しかし豊後《ぶんご》府内の竹中の居城に豪勢な屋敷が建てられ、能舞台や東山ふうの茶室まで造られているという噂があり、その財源をたぐったところ、竹中の許可状を受けた商人たちが浮びあがったのだ。しかも噂のように、商人たちの船はすべて唐人名義となっている。しかも老中の松平信綱殿などは、この商人のなかには、九州の大名たちの代理をしている者もいるのではないか、と考えておられるのだ」
小曾根乙兵衛は息をつき、相変らず天井を見つめていた。燭台の火がゆらゆらと揺れた。
「ところが、薩摩の交易方をあずかる池田|修理《しゆり》という男がいる。これは小野民部などとは意見の合わぬ家老の一人だが、この池田が、竹中采女の許可状を受けて、単に唐交易、琉球交易だけではなく、遠く安南、ジャガタラまでも出かけることを主張したのだ。そして池田の意見を奉ずる男たちが、小野殿を押えて、竹中の許可状を手に入れるように狂奔した。それをまた、堺屋利左衛門や木屋弥三右衛門などの糸割符の豪商たちが仲介し、唐人の名義まで用意しようと申し出ているのだ」
小曾根はそこまで話すと、寝床のうえに起きなおり、上田与志のほうを見た。
「おぬしのいない間に、この池田修理が、天草の入江を隠れ場所にして、デ・マスレータの運びこむ抜け荷を受けとっていることがわかり、デ・マスレータが伴天連ではなく、実はイスパニアの交易商人であることが判明したのだ」
「では、伊丹屋敷に潜伏していたのは、伴天連ではなかったのか」
「うむ。いまから考えれば、伴天連ではなかったということになる」
「伴天連でないとすると、たとえ伊丹屋敷に潜伏したことが発覚しても、伊丹には何の落度もないわけだな」
与志はほっとした調子で言った。
「表面的にはそうだ」小曾根がつづけた。「表面的にはそうだが、このデ・マスレータが最近取りあつかっているのは鉄砲、火薬の類《たぐ》いなのだ」
「鉄砲、火薬?」与志は声を高めた。
「これはコルネリア殿が牛深まで出かけて、抜け荷の内容を調べてみてわかったのだ」
上田与志は何年か前、長崎の裏手の谷間で見た抜け荷の梱包《こんぽう》を思いだした。
「はじめデ・マスレータはイスパニア交易を再開しようとして呂宋《ルソン》から潜入した。当時、伊丹殿も長谷川殿もイスパニア交易の再開には肩を入れていて、それで伊丹屋敷にこの男を隠し、幕府に働きかけていたのだ」小曾根は言葉を切った。虫の音が部屋を包んでいた。「ところが、その後、イスパニアは老中に嫌悪されるばかりでなく、全く交易を禁じられた。そのためデ・マスレータは九州の大名にひそかに武器を売ることを考えた。そこで呂宋で知り合った牢人者を使って、ひそかに運んできた鉄砲類を売りさばこうとした。白糸は駄目だが、武器となれば、ひそかに買う大名もいるに違いないと考えたのだ。このことは、ながいこと誰にもわからなかった。しかし薩摩の池田修理が天草でそれを買附けてから、デ・マスレータの売込み先はもっぱら薩摩藩ということになった」
「おどろいたな」与志は深い息をふーっと吐いた。
「このことに気づいたのが小野民部だった。小野殿は何とか池田修理を説いて鉄砲交易をやめるように言った。万一この事実が発覚すれば、ただちに島津家の改易となることは目に見えている。そうでなくても糸割符商人は、薩摩から唐交易の権利をとりあげようと鵜《う》の目|鷹《たか》の目だ。どんなことで、糸割符仲間につけこまれぬとも限らぬ。小野民部はそのことを主張して池田修理の計画を断念するようすすめたのだ。結局、小野民部は池田一派に襲われる結果となり、おぬしも知るとおり、辛うじて小舟で逃げることができたのだ」
上田与志は伊丹屋敷の背景にこのような事実が隠されていたことに息をのんだ。こうした事実はコルネリアさえ知らなかったのだ。
「だが、もしそれだけなら、問題は薩摩一藩の事柄で解決できたかも知れない。長谷川殿が何としてもデ・マスレータに会おうとされたのは、池田修理が竹中采女の渡海許可状を手に入れて、船を仕立てて呂宋まで直接武器を購入に出かけようとしているからだ。もちろん名義は誰か唐人の名前になっているのだろう。しかしそれが万一江戸にでも発覚すれば、薩摩が処罰されるだけではなく、朱印船全体が渡海を禁じられるおそれさえ生れてくる。事実、老中松平信綱殿が永井尚政殿に反対して、交易を厳しく取締るように主張する理由は、九州大名がなおひそかに交易により少なからぬ利潤をあげ、幕府統轄の阻害となっている点を挙げているのだ。当然、この事実が明らかになれば、交易禁圧は避け得ない」
「それはよくわかった。だが、なぜデ・マスレータが野盗の頭目に?」与志は眼を光らせながら訊ねた。
「さて、それが私にもよくわからぬ点だ」小曾根は考えこむような表情をした。「私もあれこれ考えてみている。むろん確かなことは言えない。しかし考えうるのは、池田修理が、天草での抜け荷を隠すために、わざわざ代官所の眼を他へ向けようとしているのではないか、ということだ。あるいは何か別のたくらみがあるのかも知れぬ。だが、盗みそのものが目的でなさそうなのは、押込みが仰々しいわりには、盗みとってゆくものが僅かだからだ。案外、これが真相かも知れぬ」
小曾根はひとりでうなずいて与志のほうを見た。
「では、これからどうすればいいのだ? 伊丹のためにも、朱印船交易家のためにも?」与志は暗い顔をして訊ねた。
「ともかく、糸割符仲間の年寄たちは、手ぐすねひいて、朱印船の渡海禁圧の機会を狙っている。もしデ・マスレータの件が知られたら、もうそれだけで渡海禁圧には十分だろう。長谷川殿が困っておられるのもその点なのだ。しかしデ・マスレータも池田修理一派も竹中采女の許可状を楯にとって、どうしても交易をやめないのだ。それで長谷川殿はまず抜け荷の現場を押えること――そのために西村掃部の配下の舟を入江ごとに見張らせているわけだ。それから、その抜け荷が鉄砲、火薬である事実を押えて、それで池田修理を責めること、この二つを考えておられるのだ」
「伊丹屋敷のそばで殺された辰野伊織の件は?」
与志は自分の眼の前を影のように走っていった牢人風の男たちを思い出しながら訊ねた。
「辰野は伊丹屋敷にいるはずの小野民部のところに、池田修理とデ・マスレータが会う日時と場所を記した密書を携えていたらしい。辰野は小野民部の腹心の部下で、薩摩の交易方の若手で、オランダ語にも通じていたらしい。むろん池田の手の者が辰野を追っていたのだ」
そうだったのか――上田与志は大きな息をついた。いままで糸割符仲間の年寄たちが、伊丹を陥れるために策動しているとばかり信じていたことが、すべては別の方向に拡がっていたのである。「では原隼人が小野民部に殺されたのも、この事情を原が探知したためなのだ」与志はそう思った。
翌朝、与志が木立の間で鋭く鳴く鳥たちの声で眼をさますと、すでに母屋《おもや》のほうが騒がしかった。小曾根の姿は見えなかった。
与志が身仕度をして母屋に顔をだすと、そこには、長い髪をくるくると巻いて、別人のように見えるコルネリアが、長谷川権六と小曾根乙兵衛に何か話しこんでいた。彼女は与志の顔を見ると、顔を上気させ、立ちあがって、一揖した。
「小曾根さまにお願いして、お出でいただいたんですの」コルネリアは青いかげりの浮ぶ眼をきらきら光らせた。「しばらく天草から離れられそうにありませんの」
小曾根はその言葉を引きうけて言った。
「いま、コルネリア殿が富岡で聞きこんでこられた報せによるとどうやら竹中采女は自分の名で呂宋へ船を仕立てるらしい。島原の松倉重政が一枚これに加わっているということだ」
「また、なぜ長崎奉行自身が呂宋へ船を?」与志は驚いて訊ねた。
「いいえ、船を仕立てるのは池田修理さまだという噂です。竹中采女さまはただ名義だけお貸しになるとか」コルネリアが与志に答えた。
「すると、竹中殿まで交易家になるわけですか」与志が訊ねた。
「交易家どころか……」小曾根が吐きすてるように言った。「どうやら鉄砲、火薬の買附けにゆく様子だ」
一瞬、権六もコルネリアも口をつぐんだ。竹中采女の本心をどう理解してよいのか、誰もが考えあぐねているといった気配だった。
そこへ主人の西村掃部が黒い鬚をこすりながら顔を出した。伊丹老人がそれにつづいた。人々はコルネリアの報告をくりかえした。
朝の光が斜めに射しこむ座敷で、みな黙りこくって意外な事実にどのように対処すべきかを考えた。
黄葉した木々のなかに、杉の老木が黒ずんだ緑で谷間の斜面に立ち、朝の光が木立のあいだを縞になって流れていた。谷間からは霧がのぼりはじめた。
上田与志はじっと鳥たちの声に耳をかたむけていた。その声を聞いていると、かえって座敷で黙りこくっている人々が、まるで架空の世界のように見えてきた。
やがて権六が蒼味を帯びた細面の顔をあげ、「誰か呂宋に行って、この交易をさまたげるほかない」と言った。彼はそう言ってから頬に残る傷あとにそっと手をあてた。
10 誓の巻
寛永七年の秋、たまたま竹中采女の御判を受けて長崎を出帆する朱印船のなかに、伊丹弥七郎の船が入っていた。弥七郎は前々年五月、高木作右衛門の船がメナム河口でイスパニア船に拿捕《だほ》されたとき、わずか十五日ほどの差で、この難を逃れたのだった。伊丹船の焼失以来、ながい間、異国交易に打ちこむことのできなかった伊丹弥七郎が、暹羅《シヤムロ》に出かける計画を抱いたのは、伊丹市蔵が資金と朱印状給附に奔走した結果であった。さらに、イスパニア水軍の攻撃からまぬかれるという幸運も重なって、弥七郎は、ふたたび異国交易の将来に、昔ながらの熱意をとりもどしていた。
その弥七郎の船に、長谷川権六は奉行時代からの配下だった松村主膳を乗りこませることを提議した。権六の考えでは、竹中采女の船が呂宋《ルソン》で鉄砲、火薬の交易をする以前に、松村主膳を送りこんで「竹中らの船は呂宋に戦《いくさ》をしかけにきた」と宣伝すれば呂宋ではメナム河口事件の後のことでもあり、日本軍が復讐にきたと思いこみ、到底、交易にまで話はすすむまい、というのであった。
「まして鉄砲、火薬類の交易など思いも及ばぬことになろう」長谷川権六は伊丹市蔵や小曾根、上田与志の顔を見て言った。「日本製の鉄砲も、異国製の鉄砲や天川《マカオ》の火薬も、取引することはともに不可能となるはずだ。おそらく糸割符《いとわつぷ》仲間の木屋弥三右衛門あたりが、こうした危ない橋を渡るように、かげで焚《た》きつけているにちがいない。だが、それに、まんまと乗れば、ご法度《はつと》の品々を交易することになり、交易家全体が迷惑する。当の竹中や松倉は交易家ではなく、それに生命を賭《か》けているわけではないから、まだいい。しかしそれに身体を張っている朱印船交易家たちの迷惑はこのうえない。いや、それでなくても、異国交易の利害得失を秤《はかり》にかけ、交易の縮小に傾きがちの老中のことだ。こうした事件をきっかけに、どんな処置に出るかわかったものではない。ひょっとしたら朱印船交易の禁止という事態も引きおこしかねない。そんなことにでもなれば、すべて糸割符仲間の商人連の思惑に引っかかることになる……」
上田与志は、権六の頬の傷をじっと見ていた。いまでは弥七郎に対する敵意や競争心がまったく消えていることに、彼は、軽い驚きを感じた。おそらくコルネリアのおかげかも知れず、また、立身に対する彼の考え方の変化のためかも知れなかった。彼はただ弥七郎がうまく松村主膳を呂宋まで届けてくれればと考えた。
「あれだけ熱意をそそぎはじめた異国交易の将来のためだ。弥七郎もできるだけの努力は払ってくれるだろう」
与志は、最近めっきり先代の伊丹治右衛門に似て肥りはじめた弥七郎の顔を思いうかべながら、そう考えていた。
弥七郎の船は、ひとまず天川に寄港し、その後、安南海岸を南下して暹羅に達することになっていた。松村主膳の計画では伊丹船に天川まで便乗し、そこで呂宋に渡る唐船に乗りかえ、なんとかマニラに到着する予定だった。もっとも天川到着が遅れたり、すぐ唐船が見つからなかったりすれば、竹中采女の船におくれて呂宋に着くこともありうる。そうなれば、せっかくの計画もすべて水の泡になるが、他によい思案のない現在、これに一切を賭けるほかなかった。
伊丹船の出帆が半月ほど繰りあげられたのはそのためだった。上田与志は、なお天草島でデ・マスレータの探索をすすめる小曾根乙兵衛と別れて、伊丹市蔵やコルネリアとともに長崎に戻り、伊丹船の出港を見送った。船は季節風を帆にはらんで長崎の青い入江をゆっくりと出ていった。船尾に立つ弥七郎の姿にコルネリアはいつまでも手を振っていた。弥七郎のそばには、特命を帯びた松村主膳のきびしい顔が見えた。船のまわりには、見送りの小舟が動いていた。そのなかには鐘や太鼓や三味線で音頭を囃《はや》している屋形船も浮んでいた。
伊丹船と前後して、その年の朱印船やポルトガル船、唐船が長崎の港を出てゆくと、細長い入江は急にひっそりとして、稲佐《いなさ》岳から吹いてくる風が波を刻み、長崎の町をかこむ裏山の木々の葉をざわざわとゆらせた。町すじには、なお出帆にともなう港の賑わいの名残りがただよっていたが、坂や石段の多い屋敷町を吹きぬける風は、秋らしく冷んやりと澄んで、土塀沿いの道は人影も見えなかった。
上田与志がコルネリアから竹中采女の船が島原の口之津《くちのつ》から呂宋に出港したという報せを聞いたのは、十一月も半ばをすぎた頃だった。島原の領主松倉重政の船が竹中の船のあとにつづいた。コルネリアの調べたところによると、竹中、松倉の両船とも、一応幕府の認可を得ているということだった。
「しかし薩摩の池田修理という男も、物のわからぬ男ですな」
上田与志は伊丹屋敷の庭に向った部屋でコルネリアのいれた天川の茶を飲みながら言った。
「父の話では、正直な、一徹なお方だとか。薩摩のことを思うあまり、前後のことがわからなくなっているんですって」
「それにしても小野民部殿を殺害しようとしたり、デ・マスレータと一緒になって盗賊を粧《よそお》ったり、やることが常軌を逸していると思いませんか」
「ええ、それは、どこか、血迷った手負いの獣といった感じが、たしかに、ありますわ。でも、父などは、まだ説得できると考えているようです」
「小曾根は反対意見のようですね。デ・マスレータと池田修理を早く捕えて、糸割符仲間に、口実を与えぬようにすべきだと言って……」
「先日も堺屋利左衛門さまがみえました。父と何かながいこと話しておられましたわ」
「糸割符仲間の元締が何を考えているのでしょうかね。なんでも、末次平蔵殿が死んだあと、堺屋はオランダにも働きかけているという噂です。なにしろ平戸のオランダ商館は交易差しとめで、商館員の衣食にも事欠く有様ですからね。藁《わら》でもつかみたい気持なのです。そこへ糸割符の商人連が言葉巧みにいろいろと誘いをかけているわけです」
「何を望んでいますの?」
「それは、ポルトガル白糸と同じように、オランダ白糸も糸割符商人の独り占めにしようということでしょう」
「そんな申し出をオランダ商人が引きうけるでしょうか」
「それはわかりません。でも、すでにポルトガル交易は再開されました。オランダはこのまま、じりじりと貧困に追いこまれるよりは、どんな条件でもいいから、交易再開の許可が欲しいというのが真情でしょう。オランダ人というのは、名目より実質を重んじる人間ですからね。ヌイツのように例外的な男もおりますが……」
それから与志は台湾《タイオワン》で会ったヌイツの性格や風貌などをコルネリアに細々《こまごま》と話した。コルネリアは青いかげりの浮ぶ眼を大きく見開いて与志の話を聞いていた。そんなとき、コルネリアはただ当り前の若い娘のように単純で感じやすかった。天草の山の奥で会ったときの、きびきびした、敏捷な感じは、まったく姿を消していた。
与志は、そうしたコルネリアの変り方を見るにつけ、早く彼女を異国交易やキリシタン禁圧などから引きはなして、自分の妻として、ひたすら守ってやりたい気がした。もちろん与志は何度かコルネリアにそう言ったし、長谷川権六も小曾根乙兵衛もそう望んでいた。しかしそのたびにコルネリアは、もう少しのあいだ、ひとり身のまま働かしてもらいたい、と言うのだった。
「わたくしが、どんなにそうなりたいと願っているか、与志さまがいちばんよくご存じだと思います。前だったら、わたくしもすぐにも与志さまに守っていただこうと思ったかも知れません。でも、いまは少し違うんです。わたくしね、ときどき、つらいこと、恐ろしいこと、困難なことがあると、与志さまのところに逃げてゆきたいと思うことがありますの。でも、わたくしが与志さまに守っていただいても、その恐ろしいこと、困難なことは、なくなったわけじゃないんです。ただわたくしひとりが助かるだけの話で、それだって、またいつそうなるか判ったものじゃありません。大切なのは、恐ろしいこと、困難なことから逃げることではなく、それをよく見極め、それと戦って、それをなくすことなんです。わたくしは異国交易が盛んになり、異国と日本が一つになって生きるときにだけ、意味をもつ女ですの。日本だけでも意味がなく、異国だけでも意味がないんです。ですから、それを脅やかす人々や企みとは戦わなければならないと思うんです。もしそれから逃れて与志さまにかばっていただいても、わたくしは本当に幸せでいられるかどうか、自信がありません。むしろこうして与志さまと一緒に働かせていただいたほうが、ずっと幸せで、落着きますの。自分の家を一歩一歩築いているような感じになるんですの」
上田与志はこうしたコルネリアの言葉を聞くと、なぜか、彼の心に痛みのような感覚が走りぬけるのを感じた。それは決して悲しみの感覚ではなかったが、どこか、宿命の抗《あらが》い難さを前にした人の感じる悲痛な諦念《ていねん》に似ていた。コルネリアの言葉は、彼女が単に朱印船交易家の娘に生れたというだけでなく、彼女のなかに、異国の血がまじっていることによって、いっそう厳しい色合いを帯びていた。そして与志もコルネリア同様、ただ彼女を時代の波風から守るだけでは、何も解決できないことはよくわかっていた。多くの人々が、異国を遠い国として感じ、日本の国内のことだけに夢中になっているとき、その遠い異国と一つになろうと努める自分たちの宿命を、与志は、ふと、不思議なものに思った。ちょうど異国へ出かけたり、異国から来たりする人々で賑わう波止場で、こうした人々を動かしているのは何であろうか、と考えるときと同じく、自分たちを動かしているものの不思議さを感じないわけにゆかなかったのである。
天草島では、その後、デ・マスレータの消息がつかめないまま、時おり野盗の噂だけが流れていた。小曾根乙兵衛も秋の終りになって、天草島の探索を打ち切って長崎に戻ってきた。
上田与志はそれと入れ違いにまた平戸に出張を命ぜられた。平戸ではオランダ船二艘が松浦藩の手によって抑留され、長崎奉行所から青野左兵衛が取調べに赴いたからである。
しかし平戸で上田与志は糸割符商人堺屋利左衛門や高石屋宗岸たちが、すでに、この事件に関係しているらしいことを探知した。松浦藩内にささやかれている噂では、従来のオランダ親交策に反して、松浦家の家老たちがオランダ船抑留に踏みきったのは、糸割符商人たちが幕閣の重臣との交渉を斡旋《あつせん》することの代償に、オランダに対する藩の態度の変更を求めたからだ、というのであった。そしてそれを証拠だてるように平戸に堺屋利左衛門や高石屋宗岸が訪ねて、松浦藩の家老と会ったり、オランダ商館長ナイエンローデが堺屋たちの泊る延命寺を訪れたりしている事実が確かめられた。
上田与志が赤毛で長身の書記カロンからようやく聞きだしたところでは、堺屋利左衛門は、台湾事件の責任者として前長官ヌイツの引渡しを要求しているというのだった。
「オランダは困りきっていますからね。末次殿が急死して、日本の責任者もいなくなりましたしね。ジャガタラの長官も早く交易再開を望んでいますから、ヌイツ殿の引渡しに応じるかも知れませんよ。ここの館長は反対していますが」
カロンは巧みな日本語でそう言うと、踊るような歩き方で、室内を落着きなく歩きまわった。彼自身、ここ二年ほど、江戸で、特使ヤンスゾーンとともに交渉打開のため奔走したにもかかわらず、いっこうに埒《らち》があかないのに業《ごう》をにやしていたのである。
もちろんオランダ側でも意見はさまざまに対立していた。たとえばヌイツ引渡しの件でも、特使ヤンスゾーンは一刻も早く交易を再開すべきで、そのためヌイツ引渡しも止むをえないという意見だった。しかし蒼白く痩せおとろえた病身の商館長ナイエンローデは、咳きこみながら、こうした特使の考え方に強く反対した。ナイエンローデはあくまでオランダ人の権益は守りぬかねばならぬと主張した。
「だいいち大村や有馬の牢に入っているオランダ人は不当な人質として幽閉されているんですぞ。日本の役人たちはわれわれをだまして、そのあとは知らぬ顔をきめこんでいる。長官ヌイツは事件の責任者だが、何もヌイツだけが悪いのではない。いや、むしろ日本人の駆引きが露骨すぎるのです」ナイエンローデは何度か咳きこみながら、そう主張した。
その後、上田与志が青野左兵衛とヤンスゾーンの通訳をしながら判ったことは、堺屋利左衛門や高石屋宗岸が平戸で画策しているのは、単にオランダ交易再開だけではないということだった。ヤンスゾーンは次のように言ったのである。
「私たちは交易再開のためにはどんな努力も致します。ヌイツの引渡しにも協力致しましょう。しかし糸割符商人たちが要求するように、白糸を彼らの独占で買附ける一括購入《パンカド》を認めるわけにまいりません。ポルトガルに対してそれをやるのは結構です。しかしオランダはオランダで、やはり独立して商売をする権利があります」
それに対して青野左兵衛は曖昧《あいまい》に言葉をにごして、そうした決定は奉行所の権限ではないので、いずれ老中の談合により決められるであろうと言った。
しかしポルトガル交易が再開されたことは、それまで末次平蔵や朱印船交易派に押えられていた糸割符商人の自信を急速に強めたようだった。事実、いままで奉行所や町方会所に滅多に顔を出さなかった堺屋利左衛門や高石屋宗岸だけではなく、山崎屋助一、中屋助右衛門、菱屋宗意など有力な糸割符仲間の豪商たちまでが、長崎の堺屋屋敷や菱屋屋敷に会合を開き、白糸倉庫や、糸問屋の店先にも、ここ数年見ないような賑わいが戻っていた。
さらに町々の噂によると、堺屋利左衛門は高石屋宗岸を語らって、長崎の町に住むポルトガル商人から、貸附け金の取立てをはじめ、負債返済の能力のないポルトガル人については、天川の資金の差押えを要求している、ということだった。
これも従来のようにポルトガル交易が逼塞《ひつそく》しているときは考えることのできない態度だった。それは、ポルトガル人に支払能力がないというばかりではなく、もし無理にポルトガル側を圧迫すれば、白糸を運んでくる商人たちを直接苦しめ、白糸の搬入量を低下させることになり、それはそのまま糸割符商人自身の首をしめることになったからである。
しかしこうした一連の動きは、天草の武器の抜け荷事件や、竹中采女の御判で渡海する唐船の増加や、前より一段と厳しくなったキリシタン宗門改めなどと考えあわせると、糸割符仲間の勢力が強化され、それだけ伊丹はじめ朱印船交易家の立場が弱められていることを意味した。上田与志は平戸で通辞の仕事にかかりながら時おり心が晴れぬ思いを味わったのは、こうした事情が背後にあったからだった。
寛永七年はこうした幾つかの未解決の出来事をかかえたまま暮れた。天草灘から吹きこむ風が長崎の町々の正月飾りをゆらせ、追い羽根に興じる娘たちの笑い声をのせて、町すじを走りぬけた。
竹中采女と松倉重政の船が呂宋で抑留されているという報せが権六のもとに届いたのは、松飾りがとれて間もない頃であった。便りをもたらしたのは、台湾を経由して呂宋から来た唐船の船長で、ひそかに松村主膳の手紙をたずさえていた。それによると、松村は竹中の船より半月ほど先に呂宋に着き、日本の軍船が来寇《らいこう》するという噂を流すことができ、その結果、竹中、松倉の両船は、港に入ると同時に、待ちかまえたイスパニア船に拿捕されたというのだった。
「まず第一段階は成功したようですな」
長照寺の離屋に呼ばれた伊丹市蔵は、腕を組んでいる権六にそう言った。権六は、頬の傷あとを無意識にさわりながら、じっと眼の前に拡げた安南、呂宋の地図を眺めていた。
「松村もよくやってくれたものよな。もし武器交易でも成立すれば、幕閣では、ただちに交易差止めに出ることだろうからの。いずれ、多少の曲折はあるとしても、交易を守るためには、この道しかなかったのだ」
長谷川権六はそう低い声で言った。
「こんどの船には糸屋が乗りこんでいるらしゅうございますな」
伊丹市蔵が松村の手紙に眼を通して言った。
「さよう、朱印船交易家としては豪胆でもあり、気力もある男だが、竹中采女の遣《や》り口が、かえって朱印船交易を危険に追いこむとは考えていないのだな。それだけ先が読める人間が、もう少しいてくれたら、事情は変っていようがな」
長谷川権六は寂しそうな表情を顔にのぞかせながらそう言った。市蔵もそれに対して同意するように頭をふった。
長崎奉行所に、バタヴィア政庁から、前台湾長官ヌイツの身柄引渡しに同意する旨の通告がとどいたのは、同じ正月の終りである。与志は、通告書を翻訳しながら、糸割符商人たちの歓声が聞えるような気がした。オランダ側が、交易再開のためには、どんな妥協にも応じる意志のあることは、この通告によっても明らかだった。そうしたオランダ側の焦慮と弱気につけこんで、堺屋利左衛門ら糸割符商人が巧みな駆引きをし、それが一歩一歩成功しているのだった。それなのに、朱印船交易家で屈指の評判のある糸屋随右衛門のような男が、うまうまと竹中采女の危険な交易振興策に乗っているのである。
むろん上田与志が、糸屋の行動を歯がゆく思うのは、権六や市蔵から事情を詳しく聞いていたためだが、しかし権六の言うように、そうしたことがわかるのは、ほんの一握りの人間でしかなかった。そのことが与志の心を何とない不安で満たした。こうした動きそのものが、与志には、コルネリアの運命とじかに結びついているように感じられたからである。
二月も終りになって、天草灘から吹く風が急に柔らかい感触を帯びはじめ、長崎の入江の波の動きにも、不思議と、青々した、なごやかさが漂うようになった。上田与志は非番の日などにはコルネリアを誘って、早春の風のなかを、よく大浦の岬まで散歩した。
「小曾根から、先日、なぜ私たちが早く祝言をかわさぬのだと文句を言われました」
与志は、とある岬の先端に出たとき、海のほうを見たまま、ぽつりと、自分に無関係なことを口にするような調子で言った。
「実は、わたくしも、そう言われましたの」コルネリアは何か可笑《おか》しなことを思いだしでもしたかのように答えた。「で、わたくしが、この前申しあげたようなことを言いますとね、とてもこわい顔でお睨《にら》みになって、そんなことでは、いつまで待ってもお嫁にゆけませんぞっておっしゃるんです。わたくし、いろいろ言ったんですけれど、言い負かされてしまいました」
「私もいろいろと言われました。ふだんは無口のくせに、事があると、よく弁のたつ男ですね」
「わたくし、小曾根さまにお約束しましたの。もう今年中には上田さまのところへゆくって……」
コルネリアは、相変らず、可笑しなことを思いだしてでもいるかのような調子で、浮きうきと喋った。
「もちろん私はうれしいが、あなたの気持が……」
「小曾根さまはね、わたくしが物を大げさに考えすぎるとおっしゃるんですの。わたくしはふつうの娘のように振舞わなければいけないんですって。なまじ自分が異国の血をもっていると思っているから、大事な道をおろそかにしているんですって。小曾根さまの眼には、わたくしは、幾《いく》さまや妙《たえ》さまと変りなく見えるんですって。だから、何もそう気負わずに、上田さまのところへゆくべきですって……」
上田与志はコルネリアの声がいくらか変ったのを感じた。コルネリアの青いかげりの浮ぶ眼に涙が浮びあがった。
「わたくし、ほんとうは、そんなに偉ぶるつもりはなかったんです。でも、小曾根さまと話していて、やはりそう感じましたの。わたくしね、自分のことを大げさに考えていました。わたくしに大事なことは、上田さまのところへ参ることしかありません。それがよくわかりましたの」
上田与志はコルネリアの手をとった。
「あなたが大げさだなんて、そんなことはない。小曾根は間違ったことは言わないが、あなただって、いつも正しいんです。それとは別に、あなたが決心して下さったことは、私には、何にも代えがたく嬉しい。ちょっと言う言葉が見つからぬほど嬉しいのです」
与志はそう言って、コルネリアを腕のなかに抱いた。コルネリアの眼から涙があふれ、頬を伝って流れた。与志はその涙を拭いてやりながら、コルネリアがいまほど静かな美しさにみたされているのを見たことがないと思った。海からの微風がコルネリアの髪を吹き、大浦の岬の木々をざわざわとゆらせた。与志は、ふと自分たちがそのままどこか中天に消えてしまいそうな気がした。
寛永八年二月になって長崎奉行所にバタヴィア政庁から二度目の書簡が届いた。それによると、前長官ヌイツの身柄を日本に引きわたすため、便船のあり次第、ジャガタラを出発させるということだった。平戸のオランダ商館では、蝋のように蒼ざめて痩せた商館長ナイエンローデが、相変らず咳きこみながら、せっせと書類をつくっていた。幕府や長崎奉行所との交渉に疲れはてた彼は、ヌイツが来ても、事情は好転するとは考えていなかった。そのため何度かヌイツ引渡しに反対の手紙を書いたのである。
そうしたナイエンローデの態度を知った堺屋利左衛門は高石屋宗岸とともに、平戸の料亭に商館長を招き、ヌイツさえ引渡せば、オランダ交易はかならず再開できると説きつけた。しかしナイエンローデは酒盃《しゆはい》を口にしようともせず、時どき咳きこんでは、疑わしそうに首をふっていた。
呂宋で竹中采女と松倉重政の船が拿捕されたという正式の報告が奉行所に入ったのは、権六のもとにもたらされた便りよりずっと遅れて、同じその二月のことであった。すでに松倉重政は急死していたので、問題は、もっぱら竹中采女ひとりの判断にかかっていた。彼は報告を聞くと、青白い、鋭い顔を緊張させ、眉と眉のあいだの皺《しわ》を深く寄せた。そして大通辞の貞方利右衛門や小曾根乙兵衛、交易に明るい青野左兵衛を呼んで、呂宋で、なぜ一般の交易船が拿捕されたのか、その理由を訊ねた。
しかし不思議なことには、竹中采女が呂宋で禁制の武器の交易をしているらしいという噂が、誰言うとなく、長崎や大村に拡がった。竹中采女がキリシタン宗門を厳しく禁圧し、相変らず残酷な拷問や死刑が跡をたたなかっただけに、竹中のこうした噂は、一種の毒を含んだ調子でささやかれた。唐人名義による奉行御判の交附といい、呂宋での禁制品の交易といい、竹中采女がいかにも私腹をこやしているような調子が、その噂にこめられていたのである。
しかし間もなく竹中采女自身も、呂宋交易の失敗は、何者かの中傷によるものであることを理解しないわけにゆかなかった。というのは、老中土井利勝から、突然、呂宋交易の真相を詳しく報告するように命じられたからである。本来は長崎奉行所を経て、はじめて老中に伝えられる事柄が、なぜ先に老中に報告されたのか、誰がいったいこうした報告を行なったのか――こうした実情は、さすがに頭の鋭い竹中采女も想像することはできなかった。ただわかっていたのは、誰かが、竹中采女の行動を監視し、それを老中に報告しているということだった。采女は眉と眉のあいだの皺を深めると、激怒から、顔が、ほとんど紙のように白くなった。彼は、もしそうした密告者を見つけたら、八つ裂きにしても、あきたらぬと思ったのである。
竹中采女は、老中にあてて、異国交易の振興のため、自ら範となるように船を仕立てた旨の長文の返書を認《したた》めた。もちろん彼はそのなかで鉄砲、火薬類の取引には一切触れなかった。
しかし長崎奉行のこうした行為は老中土井利勝を憤激させた。彼は、異国交易より国内の藩体制の編成を優先させようとする松平信綱や阿部忠秋を説得して、竹中采女を奉行に推した一人だっただけに、奉行の独善が腹にすえかねたのである。といって、異国交易の制限を譲歩すれば、それだけ家光側近の勢力者たちに、つけ入る余地を与えることになる。老中筆頭の面目を保つためにも、交易振興は従来どおりに行われねばならなかった。しかし、松平信綱が、堺屋利左衛門や高石屋宗岸などの豪商から聞きこんでくる話では、単に奉行の許可一つで、渡海ができるようになっているというのだ。事実、土井利勝の手もとにも、長崎奉行所にひそかに送られている幕府隠密から、詳細に、竹中采女の許可状の発給先と数が報告されていたのである。
老中の討議は奉行決定のときと同様、激しい意見の対立をみた。しかしこんどは以前のように意見対立のまま幾カ月も対策決定を引きのばすわけにはゆかなかった。すでにオランダ問題の解決は迫られていたし、呂宋問題、唐船問題などがつづいていた。そのため土井利勝はとりあえず、もう一度、異国交易を、はっきり幕府の統制のもとに置くことを主張し、その方法として、従来の朱印状所持者が、さらに、渡海ごとに、幕府に奉書の下附を願いでることを提案した。
この処置の可否をめぐって、なお何日か江戸城の奥座敷で議論が戦わされたが、結局、土井利勝の言い分がとおり、老中から直接奉書を受けた者だけが渡海できるという奉書船制度が新たに決定し、長崎奉行所に通告された。寛永八年六月のことであった。
この決定は、明らかに、長崎奉行の独断に対する一種の譴責《けんせき》を含んでいた。しかし竹中采女は自分の処置を反省するどころか、逆に江戸城内の秀忠側近者と家光側近者の勢力の対立を利用してかかろうとしていた。そのため、奉書船制度が通告されても、あえて奉行職を退く意志を表明しようとはせず、かえって、異国交易の振興を幕閣に進言したりしていた。秀忠側近の重臣にとっては、異国交易が、勢力維持の有力な砦《とりで》であることを、竹中采女はよく知っていたのである。とくに、竹中采女に目をかけていた青山|幸成《ゆきなり》、森川重俊などは、長崎奉行の処置は何から何まで理にかなっていると主張して、采女を擁護していた。異国交易を制限しようというのは、何よりもまず異国との交渉によってキリシタン信者が流入するおそれがあるためだが、竹中采女は、キリシタンの根絶に努め、そのうえで交易をすすめている。竹中の交易振興策には一点の非の打ちどころもないではないか――青山幸成も森川重俊もそう言って采女の肩を持ったのである。
しかし奉書船制度が朱印船交易家に与えた衝撃は大きかった。とくに伊丹市蔵は、呂宋での計画が一応上首尾にすすんでいただけに、幕閣の態度の硬化が身にこたえたのである。
長谷川権六も、いずれは竹中采女の行状が幕府に知られるのは当然だとしても、異国交易とは切りはなした形で、報告されるように画策していた。そのため、奉書船の話を聞いたとき、さすが冷静な権六も、たまたま手にしていた銀の印籠《いんろう》を取り落したほどであった。
もっとも伊丹市蔵はただちに伊丹屋敷に朱印船交易家たちの集りをひらいて、奉書船制度が敷かれた以上、交易家は必ずこの制度を厳守して、奉行の許可状一つで安直に渡海することを自粛するように呼びかけたのである。というのは、奉書船の処置が布告されてからあとも、長崎の町では、ひそかに、奉行御判一つで渡海できるという噂がささやかれていたからである。そして事実、暹羅から帰ってきた伊丹弥七郎のもとに、資金調達の話で訪ねてきた男が、もし渡海を急ぐのなら、奉行の許可状を自分が世話しようと申し出たのだった。男の言葉によると、奉書とはあくまで名目上の事柄で、何といっても長崎では奉行の御判がすべてなのだ、というのだった。
「堺屋か高石屋あたりが、朱印船交易家を焚《た》きつけているにちがいない。ともかく自粛してもらいたい」
伊丹市蔵は伊丹屋敷の大広間で交易家たちにそう呼びかけたのである。
人々のなかには、ようやく事情をのみこみはじめた交易家も増えていた。自分たちが目先の安直な利益を追うことが、結果においては交易家全体の墓穴を掘っていたことが次第に納得されるようになっていたのだった。
朱印船交易家もまた直接に幕府の重臣と会って意志を疎通させなければならぬ――そんな声も聞かれた。たしかに奉書船制度は朱印船交易に新しい気運を逆に呼びおこした。長崎の町は、かえってそのために一段と活気がみなぎったほどであった。市蔵たちの努力は思った以上の効果をあげたように見えた。交易家たちは奉書の下附を願うために、幕府に対して詳細な見積りを差し出した。こうしたことが朱印船交易家を以前より団結させるようになったのである。
伊丹市蔵はこうした気運によって、ひょっとしたら、現在の困難が乗りきれるかも知れぬ、と考えていた。
そんな気持でいたある夜、突然、伊丹屋敷の玄関を叩く音が聞えた。市蔵が出てみると、長谷川権六からの至急の手紙であった。市蔵はそれに目を通してから、しばらく黙って、そこに立っていた。
「何でしたの?」
コルネリアが市蔵の顔を横からのぞきこんだ。
「天草島で、デ・マスレータが捕われたらしい……」
市蔵はそう言って、権六の手紙をコルネリアのほうに差し出した。
11 雲の巻
上田与志が天草島に着いたのは、その翌日の夜になってからであった。手慣れた船頭の手びきで、柔らかい砂浜におりたが、それが果して目ざす鬼池の浜なのかどうか、与志にはまるで見当がつかなかった。ただ波の音だけが、昼よりは、一段と荒々しく耳についた。与志のそばには、伊丹市蔵とコルネリアがいたが、二人とも、黙りこくっていた。
間もなく闇のなかから足音が近づいてきて「伊丹殿か」と訊《たず》ねる声がした。小曾根乙兵衛の声であった。
三人は小曾根に導かれて、鬼池のはずれの漁師小屋に入った。なかは片附いていて、燈火がちらちらと燃え、若い男が入口を見張っていた。
「手紙でお知らせしたように、デ・マスレータは、糸割符仲間の雇った牢人者の手で捕えられました。潜伏場所がわからず、天草島を探索しているうち、牢人たちに一足先んじられたわけで、何とも面目ない次第です」
小曾根はそう言って頭をさげた。
「いや、いや、それは私たち全体が背負うべき問題です。あなたも西村殿も全力をつくされたことはよく承知しております。で、その後デ・マスレータはどこに……?」
「牛深の奥の部落に監禁されております。西村殿が何度か話合いに出むきましたがまだ埒《らち》があきません。糸割符の商人連は、いずれにせよ、デ・マスレータとの交換にさまざまの条件を申し出るものと思われます」
「というと……?」市蔵は、大きく壁にうつる影を不安そうに動かしながら小曾根のほうを見た。燈火のせいか、その顔には深い皺が濃く刻まれていた。
「つまり糸割符商人たちは、デ・マスレータが、薩摩と禁制の鉄砲火薬の取引をしたという証拠を血眼で捜しておりますが、まだ幸い証拠は握っていないのです。それでデ・マスレータを責めれば、事実を自白するだろうと言っておどしをかけているわけです。万一あのイスパニア人が事実を喋《しやべ》れば島津家の断絶は必定ですし、そうなれば薩摩が黙ってそれを受けるわけはありますまいから、九州一円でふたたび戦《いくさ》がおこることも考えられます。小野殿も、それをおそれて糸割符の言いなりになるほかないと考えておられるようです」
「で、いったい、どのような条件を糸割符商人らは申し出ておるのです?」
「薩摩で買いつける白糸の建値を、糸割符仲間の一括購入価格と同一にすることです」
「しかしそうなると……」市蔵は暗い表情で言いよどんだ。
「さよう、薩摩は唐船から安く白糸を買いつけていたため、藩の利潤も多かったわけですが、それは望めなくなりましょう。ま、糸割符商人は強敵を一人倒したことになりますが」
小曾根は低い声で言った。
そのとき上田与志が口をはさんだ。
「しかし糸割符商人たちの条件をのんだとしても、薩摩の一件を不問にするという確実な保証はどこにもないではないか。鉄砲抜け荷の件を噂にでもして流せば、幕府の重臣だって黙っているわけにはゆくまい。その点は、おぬし、どう考えているのだ?」
「その心配はある」小曾根は考えこむようにして言った。「しかし薩摩藩が譴責《けんせき》されれば、イスパニア、ポルトガルも同罪なはずで、ふたたびポルトガル交易は禁止されよう。そんなことにでもなれば、糸割符としては元も子もないから、抜け荷は見逃そうという気でいるのではないか。狙いは、ただ白糸を有利に売り買いすることだけだと思う」
「では、条件をのめば、一切はうまくゆくだろうか」与志は念を押すようにして言った。
「おそらくな。むろん先のことはわからない。しかしいま考えられる限りでは、他のことはありえないと思うな」
小曾根はそう言った。そして長谷川権六も大体その考えであり、それが唯一の解決策ではないか、とつけ加えた。
翌朝、雨が降るなかを市蔵たちは鬼池をたった。上田与志はコルネリアと馬を並べた。二人の前を市蔵と小曾根の馬が進んでいった。
「ともかく小野殿が折れて、薩摩が多少の損失を覚悟してくれれば、朱印船交易家も助かるわけですね」
与志は右手に弓なりの海岸線が淡く雨のなかにつづくのを見ながら言った。沖は暗く閉ざされ、雨のなかで海は白い波を刻んでいた。
「ええ、小曾根さまもああおっしゃったのですから、それがただ一つの解決策かもしれません。でも、わたくし、なぜか、それだけでは安心できないような気がするんですの」
コルネリアは笠をあげて、雨が波のうえに斜めに降るのを眺めた。
「何か別の考え方でも……?」
与志はコルネリアの沈んだ顔を見た。
「いいえ、そうじゃないんです。ただ何となく不安なんですの。自分でも昨夜から理由をあれこれ考えてみたんですけれど、はっきりわかりませんの」
「もちろん油断はできないと思います。しかし抜け荷の件さえ解決すれば、デ・マスレータの処置は案外簡単にすみますよ」
「そうでしょうか」
「大丈夫です。問題は鉄砲の抜け荷だけだったのです。小野殿が薩摩の損失を覚悟して、糸割符商人の要求さえのめば、これは解決します」
「わたくしは逆にずるずる後退してゆくような気がしますの。一歩譲ると、それだけ後退してゆくような気になるんです」
もちろん上田与志も先がすっかりわかっていたわけではなかった。しかし問題の危険人物デ・マスレータさえ捕えて口を封じれば、薩摩の危機も、朱印船交易家の不安も、一挙に除くことができるはずだ。たしかにそうだがそこに一抹《いちまつ》の不安も残っていた。コルネリアには勇気づけるような言葉を口にしたくせに、彼のなかにも、いつか危惧の思いがうまれていた。たしかにコルネリアの言うように、その譲歩は、解決のための譲歩ではなく、後退の、敗北の譲歩でないと誰が言えよう。糸割符商人たちの真の狙いがどこにあるのか、誰も知ってはいないのだ。ひょっとしたら、長谷川権六も小野民部も事の成りゆきを誤って判断していることもありうるのではないか――そう考えると、上田与志は胸の奥によどんだ重い黒ずんだものを拭いさることができなかった。妙に湿っぽく締めつける不安が与志の気持を暗く閉ざしてくるのだった。
雨に打たれた一行が鬼谷の奥の西村|掃部《かもん》の屋敷に着いたのは、すでに午《うま》の刻をまわっていた。屋敷には長谷川権六、小野民部のほか、薩摩の重臣たち、それに糸割符商人の代表として堺屋利左衛門と高石屋宗岸の顔が見えていた。廊下や離屋《はなれ》には牢人者や薩摩の侍たちが控えていた。黙りこくり、互いに無関心をよそおっていたが、殺気だった気配が、ひっそりした雰囲気のなかに感じられた。庭木や土塀は雨にしとど濡れ、山の斜面の杉木立のあいだに雨雲が白く流れていた。上田与志が久々に見る小野民部は、頭と顎のあたりに刀傷のあとがはっきり残っていた。頬が凹《くぼ》み、黄ばんだ顔をし、眼のしたの|ほくろ《ヽヽヽ》だけが大きく、前よりも目立った。
談合は西村掃部が仲介役に入り、小野と堺屋、高石屋とのあいだで進められた。長谷川権六も伊丹市蔵も黙って腕を組んでいた。
小野民部は、薩摩交易方の内紛について語り、彼が反対派の池田修理に襲われた顛末《てんまつ》を詳細に語った。
「鉄砲の抜け荷が薩摩の一部の乱脈な侍たちの所業にすぎず、薩摩交易方はむしろそれと戦ってきたことは、以上の話でもおわかりと思う。藩はそれに関係がない。しかし過失は過失だ。それは償わなければならぬ。そこで話だが、薩摩としては唐到来の白糸の建値を貴殿ら糸割符仲間にまかせる。今後は薩摩は貴殿らと同じ建値で買い入れる。そのかわり、デ・マスレータを薩摩に渡してもらいたい。南蛮人ゆえ、何を喋るともわからぬ。条件といえばそのくらいのものだ。どうだ、この話をのんではくれぬか」
「それもよろしいでしょう。しかしデ・マスレータの処置如何によっては、条件が変ってきますな」
高石屋宗岸がぬるりとした横顔を相手に向けたまま、商人らしいしぶとさで言った。
「南蛮人は薩摩で軟禁し、便船があり次第送りかえす。二度と日本に入らせぬようにする。これは確約してもいい」
「禁を犯した人間に対して、それでは少し軽い刑罰ではないですかな。私らはむしろ伴天連《バテレン》として火刑にでもしてほしいですな」
「しかし罪には違いないが、何も死罪にするには及ぶまい。故国への追放が最大の罰であると思う」
「いや、デ・マスレータの引渡しには、この男を伴天連として奉行所に差し出すという条件を入れてほしいと思いますな」宗岸はねばっこい口調で言った。
小野民部は、すでに昼を過ぎていることゆえ、小半刻休んで、そのあとで、この件について返事をしたい、と申し入れた。商人たちはそれを承知した。
別室には長谷川、小野、市蔵のほか薩摩の重臣、小曾根や与志、それにコルネリアが集まった。
「なぜデ・マスレータを伴天連として処刑することに固執するのか、それがわからぬ」
小野は腕組みをした。
「要するに、自らの手を下さずに腹|いせ《ヽヽ》ができるからに過ぎぬと思いますな。そんなに深い考えがあるとも思われぬが」
重臣の一人が言った。市蔵も、デ・マスレータには不憫《ふびん》だが、国外に逃がすより、奉行所に引渡すことを要求している以上、そうするほかないのではないか、と言った。
長谷川権六は頬の傷に無意識に手をやりながら冷たい表情でじっと自分の前を見つめていた。
「私もデ・マスレータを奉行所に渡すほかないと思う。しかし糸割符商人らは、つねに何らかの計画なしには事を運ばない。それがいままでの遣り口だった。私たちはそれに対抗して、一つ一つ手を打ってきた。しかし考えてみると、私たちは、自分たちの活動をまもることだけに限定して、他を陥《おとしい》れるような計画をめぐらしたことがない。糸割符商人連はその反対に、自分たちの利益と独占のために、あらゆる陰謀をめぐらし、他を陥れ、平気で幕閣にも取りいっている。といって、私は、朱印船交易家たちがそうあってほしいとは思っていない。いや、私自身もそんなことはしたくない。ただその結果、私たちが譲歩しただけ、それだけ私たちの領分が狭くなってゆく、ということは否めない。それが事実である以上、私たちはそれを認める必要がある。こんどは薩摩藩が唐の交易で糸割符に譲歩しようとしている。糸割符商人の狙いはむろん唐交易を独占することにある。老中も幕閣の重臣たちも、糸割符商人の利潤は直接幕府の御金蔵につながっていると信じているゆえに、これを保護している。そして朱印船を乗りだして交易する商人たちは、かえって異国に馴致《じゆんち》するゆえに、異国の手先だという偏見にみたされている。この考え方を押しすすめると、日本国内にとどまる者だけが真の日本のことを考えており、国外に出る者は日本を忘却している、ということになりかねない。いま松平信綱殿をはじめ家光公側近の才人たちは、国内の大名小名の統制に頭をなやましている。到底、異国のことを考えるのはむりかもしれない。だからといって、そうした幕閣の方針に迎合して、国内に居すわって交易するだけで利益を追っていたら、最後には、自分自身の首をしめることになる。日本は異国のあいだに立って孤立してしまい、天竺《てんじく》やエウロッパや安南やジャガタラと共に生きてゆくことができなくなってしまう。そうなれば、私たちは世界のなかで物を考えたり感じたりできなくなってしまう。よかれ悪しかれ日本のことだけしかわからなくなり、盲目となり、井のなかの蛙《かわず》となり、傲慢《ごうまん》になり、無知になる。私はそのことをおそれる。異国交易というのはたしかに物品の流通だ。しかしそれ以上に知識や感じ方や考え方の相違を教え、私たちを狭隘《きようあい》な独善から救いだしてくれる。私はデ・マスレータを奉行所に引渡すことには反対しない。しかし糸割符商人の言うなりになれば、次第に日本の門戸が閉ざされてゆくような気がしてならぬ。私が心配するのはそのことだけだ」
権六の浅黒い顔は話しているうちに、幾らか紅潮した。しかしその口調は平静で、むしろ冷たいくらいだった。
権六が話しおえると、部屋のなかは重苦しい沈黙に支配された。たしかに前奉行の言うことは一つ一つが真実だった。事実、竹中采女に奉行の渡海許可状を出させたことなどは、幕閣の重臣たち、とくに交易に反対の松平信綱などを刺戟して、渡海を制限させる遠謀ではないかと疑われてくるのだった。ましてそれに便乗して渡海に乗りだす交易家がふえたことなどは、いま考えれば、たしかに軽率なことだった――上田与志も腕組みをしてそう考えた。それは伊丹市蔵が伊丹屋敷で朱印船交易仲間に口をすっぱくして説いてまわっていたことだった。しかし現在、薩摩藩が唐交易で大きな譲歩をせざるをえないところまで追いこまれてきて、上田与志はあらためて、糸割符商人たちの仕組んでいた|わな《ヽヽ》がいかに巧妙で複雑であるかを痛感した。
たしかに偶発事は幾つかあった。メナム河口事件もあったり、台湾事件もあった。末次平蔵の急死やヌイツの罷免《ひめん》もあった。そして時にはそれが糸割符仲間に直接不利に見えたこともある。たとえばポルトガル交易差止めなどは一時糸割符商人たちの倉庫を空にし、投銀《なげがね》を回収しえないのではないかという恐慌を与えたことはたしかだった。しかしそれすらも全体から見れば、糸割符商人たちの白糸を独占して交易するというあくない執念に、好都合に働いていた。
こんどのデ・マスレータの抜け荷でも、薩摩をおどして唐交易に価格の制約をつけ、唐からくる白糸を次第に独占しようと企んでいる。そのため無数の牢人者を天草に送りこんで、市蔵たちよりも一足早くデ・マスレータを見つけだした。その遣り口は機敏で、無駄がなく、まるで銭勘定をやっているようだ。そのくせ、いったん目的を達すると、薩摩が違法を犯そうが何しようが、自分たちの利害にふれぬかぎり、いっさい無関心なのだ。いったい糸割符商人とはどんな種類の人間なのであろう――上田与志がそこまで考えてくると、不意に自分の名を呼ばれたような気がして、彼は、はっとして我にかえった。一座の人々が与志のほうを見ていた。与志は思わず赤くなった。
「おぬしの意見はどうだ? デ・マスレータを奉行所に引渡すべきかどうか……」
小曾根乙兵衛が言葉を補ってそう言った。
「私も薩摩一国のためには致し方ないと存じます。ただあくまで朱印船交易をまもりぬくという条件ですが……」
与志はそう言ってから、すぐコルネリアの不安を思いだした。「わたくしはずるずる後退してゆくような気がします」コルネリアはそう言った。この譲歩も、そうした後退ではないのだろうか――一瞬、彼の心にそんな危惧が閃《ひらめ》いた。そのとき小野民部の声がした。
「一座の方々の意見が出そろったわけだが、デ・マスレータを受けとるためには、糸割符側の条件をのむことは仕方がない、という点では、ほぼ意見の一致をみた……」
「申訳ございませんが」そのとき突然コルネリアが言った。「そのことを、もう一度、お考えいただくことはできないのでしょうか」
コルネリアの言葉は唐突だったので、人々は驚いて彼女のほうをふりかえった。
市蔵は物思わしげな暗い表情で娘を見たが黙っていた。小野民部は淡赤い刀傷の残る首をねじるようにしてコルネリアをぎょろりと見た。
「いや、各人各様に異論はお持ちだ。しかし薩摩の死活がかかっている。デ・マスレータを伴天連として引渡す以外に方法はない」
小野民部の眼のしたの|ほくろ《ヽヽヽ》が、眼ばたきするたびに、生きているように、ひくひくと動いた。小野の声は冷たく、コルネリアが二度と言葉をつぐのを厳しく拒んでいた。「たしかに小野民部もそこに何かたくらみの臭いを感じている。だが、薩摩のために、この条件をのもうとしているのだ」与志はコルネリアの耳もとで、小声に、そんな意味のことを囁《ささや》いた。与志はその言葉のなかに「何か事があれば、あなただけは自分が護りぬいてみせる。だからあなたも勇気を出さなければいけないのだ」という気持をこめて、そう囁いたのである。コルネリアは小野に黙って頭をさげると、それから与志に青いかげりの浮ぶ眼をむけた。与志は後になってからも、そのときのコルネリアの、遠くのほうから眺めているような、悲しみをたたえた眼をよく思いだしたものであった。
西村屋敷で関係者が約定《やくじよう》を取りかわし、署名、血判を終ったのは、すでにその日の暮れ近くだった。雨は午後おそく晴れはじめ、人々が屋敷を去る頃には、西空の雲が切れて、艶《つや》をうしなった空に、点々と、ちょうど南の海に浮ぶ島々のように雨雲の名残りが漂っていた。
与志はコルネリアを誘って庭に出ると、雲が徐々に赤く染まってゆくのを眺めた。
「どこか、あの先に天川《マカオ》でもあるみたいな感じですね。船の舳先《へさき》から遠くの海を見たらこんな感じでしょうね」
与志はそう言った。
「本当に綺麗《きれい》。この世にあるごたごたなんか、すっかり忘れてしまいたいほど綺麗ですわね。でも、あんな綺麗な海に船出したら、もう二度と、ここには帰ってこられないでしょうね。いいえ、こんな世の中に帰ってくる気がしなくなるんじゃないかしら……」
コルネリアは髪を風に吹かれながら、眼を細めて、遠い西空に見入った。屋敷の前の谷川の音が急に耳につきはじめた。与志はその音につられて庭のはずれまで歩いていった。低い土塀をこえて、杉木立の並ぶ向いの谷の斜面が深く落ちこむのが見えていた。しかし谷川は見えず、瀬音はそこまでゆくと、いっそうはっきりと聞えた。
薩摩の諸港で売買される唐船の白糸が、長崎、平戸と同一価格をまもるように決めた幕府の内示が長崎奉行所と薩摩藩交易方に届いたのは、天草の談合からひと月とたたない頃であった。それと前後して、背の高い、赤ら顔のデ・マスレータが褐色の蓬髪《ほうはつ》のまま、桜町の牢に引きたてられてきた。長崎の町々では、天草で伴天連が捕えられたという噂がひろがり、デ・マスレータが長崎に着いた日、牢屋敷の前は黒山の人だかりだった。
竹中采女はデ・マスレータに逆《さか》さ吊《づ》りや簀巻《すま》き責めの拷問を加えたが、デ・マスレータは頑強に自分が伴天連であるとは言わなかった。
上田与志は、直接、デ・マスレータの通辞として白州《しらす》に出ることはなかったが、人伝《ひとづて》に、そうした様子を聞くと、内心、不安な気持をおさえかねた。与志は、デ・マスレータが伴天連であると白状すれば、かえって事が簡単に終るのに、なにを、あんなに頑張っているのか、と、まったく筋違いの腹立たしさを感じたりした。デ・マスレータの素性がわかれば、薩摩一国が危ういどころか、冷たい眼で見られている朱印船交易全体も一挙に壊滅するおそれがある。早く偽証して、死んでくれたほうがいい――時おり、与志に似つかわしからぬそんな気持に駆られることがあった。
ある朝、与志が通辞溜りの机の前に坐って、前日やり残した翻訳をはじめようとしていると、廊下に足音がして小曾根乙兵衛が顔を出した。そして与志を見ると、眼で、席を立って外に出るように知らせた。
小曾根は黙って役所の建物を出、裏庭をぬけ、馬場の近くまで来た。
「昨夜、デ・マスレータがな、いきなりイタミに潜伏していたと言いだしたのだ……」
小曾根の顔は不眠のための疲労がこびりついていた。
「イタミに……?」
与志はすぐには意味がのみこめなかった。
「そうだ。デ・マスレータは伊丹屋敷に隠れていたことを喋ったのだ……」
「伊丹屋敷のことを……?」
「長崎の隠れ家を責められて、とうとう伊丹の名を口にした」
「まさか……それでは、伊丹の家の者はどうなるのだ? デ・マスレータは伴天連ということになっている。伴天連をかくまえば死罪だ。伊丹ではまだそのことを知らないのか」
与志は顔色をかえて、声をひそませ、早口に言った。
「いや、昨夜のうちに伝えた。ともかく伊丹殿とコルネリア殿は夜のうちに天草にたった。一時、西村屋敷に身をかくしてもらったのだ」
「一時的にせよ、それ以外に道はない。だが、こうなった以上、デ・マスレータが伴天連であると言うわけにはゆかぬ。真相を奉行に申し出るのだ。それ以外に伊丹を助ける道はない」
「それはならぬ」小曾根がきびしい声で言った。「デ・マスレータが伴天連でないことがわかれば、鉄砲の抜け荷はすぐ発覚するだろう。そうなれば島津の改易か、九州の戦《いくさ》かだ」
「と言って、伊丹殿やコルネリア殿をいつまでも天草にお尋ね者として隠しておくわけにはゆかぬ。おぬしが不承知なら、おれがお奉行に申し出る。真相を話して伊丹家がまったく無実であることを証《あか》しするのだ」
上田与志は激昂《げつこう》して叫んだ。
「いいか。よく聞け。そんなことをすれば九州が戦になるだけではない。その結果、かならず朱印船交易は差止められる。それでは元も子もないではないか。伊丹殿やコルネリア殿にはお気の毒だが、いましばらく我慢していただき、もう少し情勢が落着いてから、あらためて計画をたててもいいではないか」
小曾根乙兵衛は温厚な、まるみを帯びた顔でじっと与志を見つめた。しかし上田与志はそんな言葉も耳に入らぬ様子だった。
「おれは、いままで、おぬしの言葉を聞いてきた。長谷川殿の言葉ももっともだと思ってきた。しかしその結果、コルネリア殿の言うように、一歩一歩後退するばかりだ。おれは、コルネリア殿に、そんなことはないから安心するように言ったのだ。だが、安心どころか、天草島に逃れて、揚句の果てはお尋ね者になってしまったではないか。おぬしは、もう少し待てという。だが、いままで待った結果が、これなのだ。いまとなっては、一切はとりかえしがつかぬではないか。なぜおぬしにせよ、長谷川殿にせよ、真相をご老中に伝えないのだ? なぜ竹中采女が不当に渡海許可を与えていることや、鉄砲の抜け荷をしたことや、交易商人から金品を得ていることなどを老中に報告しないのだ? なぜ糸割符商人たちが不正を働いていることを告げないのだ? それでも、おぬしは、まだ待てと言うのか。コルネリア殿をお尋ね者にしておいて、おれに、なお、このうえ、じっとしていろと言うのか」
与志は小曾根にとびかかりそうにして言った。
「私の言うことを信じてくれ」小曾根乙兵衛は与志をなだめるように言った。「竹中采女に関してはすでに江戸で何度か評定が開かれている。いま老中では森川重俊殿が竹中を身贔屓《みびいき》しているだけだ。竹中采女が奉行にとどまっていられるのはそのためだ。交易派の青山幸成殿さえ竹中采女には愛想をつかしているのだ。だから間もなく江戸から必ず譴責がくる。これは信じてもらっていい。糸割符商人たちの不正もすべて報告されている。これも近いうち断罪されるはずだ」
「では、デ・マスレータの件も報告すべきではないか。そうすれば伊丹が無実であることはすぐわかるはずだ」
与志は急《せ》きこんで言った。
「しかしそのかわり九州はまた争乱にまきこまれる」
「どうしてそれがわかる?」
「島津でも加藤でも夥《おびただ》しい鉄砲、火薬が用意されている。天草五島だけでも相当の数だ。それが一つにまとまってみろ。かなり強い兵力となる。かりに幕府が、九州の戦で手こずったとしてみろ、どこの大名が叛旗《はんき》をひるがえさぬともかぎらぬ。おぬし、大坂の残党が天草の牢人者のなかに、どれだけまぎれていたか、見当ぐらいつくだろう。いたるところ、不平不満の牢人者ばかりだ。火をつけさえすれば燃えあがる。おぬしだって、関ヶ原以来、ようやく世間が落着いてきたのを見たではないか。もう一度、関ヶ原の昔に戻すのか。いや、いや、そんなことはあってはならぬ。そのためには、いま九州で戦を起さぬことだ。そしてそれには、薩摩の失態を不問に附することだ」
「では伊丹はどうなる? そのために伊丹が無実の罪を着なければならぬという法はない」
「だから、待てと言ったではないか。竹中采女でも変れば、宗門改めも緩和されるかもしれぬ」
「そんないい加減な見通しでは困る」
「だから、私を信じろというのだ。私を信じてくれ。私は、おぬしのためにも、コルネリア殿のためにも、生命をかけているつもりだ」
小曾根の温厚な顔が厳しくなり、眼が鋭く光った。
与志は小曾根の言葉を聞くと、はっとした表情をした。それから声を落して素直に言った。
「言いすぎた点は許してほしい。おれはおぬしの苦労を考えもしないのに、おぬしは、おれのために、そんなことを言ってくれる。おれは、一生、おぬしのいまの言葉は忘れない。おぬしが、もう二た昔も前、堺の遥明台のそばで、おれの話を聞いて、おれをなぐさめてくれて以来、おれは、おぬしを兄と思ってきた。しかしおれは、おぬしがおれのことを考えているほど、おぬしのことを考えていなかった。おれは、昔は弥七郎に負けまいと、しきりと立身を夢みた。コルネリア殿のおかげで、そうした迷蒙《めいもう》から醒《さ》めたが、しかしこんどは自分とコルネリア殿のことで愚かにも盲目になっていた。そのことをコルネリア殿は何度かおれに言った。しかし今の今まで、おれはそれに気づかなかった。おぬしの今の言葉を聞くまで、おれは、愚かな盲目に気づかなかったのだ。乙兵衛、おれの愚かさを許してくれ。おれは、おぬしの言葉を一生忘れまい」
小曾根乙兵衛は黙って首をふった。それから二人は昔、堺の波止場でそうしたように、馬場の土手の桜の幹が影を落している芝のうえに並んで腰をおろした。すでに暑気があたりの芝のなかから立ちあがっていた。彼らはなおそこで天草島との連絡の仕方を打ち合せた。
デ・マスレータの詮議《せんぎ》からは、その後、新しい事柄は知ることができなかった。伊丹屋敷に潜伏した事実も、伊丹市蔵らが姿を見せぬ以上、真偽のほどを調べるわけにゆかなかった。それに、デ・マスレータはあくまで伴天連ではないと言い張っていた。彼は単なる船員にすぎず、船の苛酷な労働に耐えかねて天草島に逃げだしたのだと説明していた。
もちろん竹中采女はそんな言葉には耳をかさず、昼といわず夜といわず拷問を加えた。デ・マスレータの身体は紫に腫《は》れあがり、無数の傷が肌を切りさいなんでいた。
上田与志が桜町の牢屋敷にデ・マスレータを訪ねようと最初に思いたったのは、伊丹の名がその口から出たときだったが、その後、小曾根の言葉を信じて、時がくるのを待とうという気持になった。たまたま、夏の終りのある日、天草島から、西村|掃部《かもん》の配下の者がコルネリアの手紙を届けてきた。与志は、手紙を読みながら、コルネリアがそうした突然の出来事にさして動揺していないのを見て、いくらか、ほっとした。彼女は、与志に会えないこと、結婚がのびたことなどが唯一の心残りだ、と書いていた。「そのことを除きますと、島には島の暮しがあり、心をなぐさめる花なども多く、静かな日が流れてゆきます。ただ浜に出て海や雲を見ておりますと、父が最悪の場合は天川《マカオ》に渡るつもりにしていることを思い、悲しい気持に胸がふさがれます。天川の遠さが、いかにもそこに感じられるからでございます」
コルネリアはそう手紙を結んでいた。与志はそれを読むと、小曾根の言葉があったにもかかわらず、突然、デ・マスレータに会って、自分で直接、何か証言を聞きだしたいという気持に駆られた。デ・マスレータはどのみち伴天連として処刑されるのだ。それはまず避けられぬことだ。だから与志はデ・マスレータの家族や知人のことを聞き、彼らに彼の望むだけのことをしてやるよう申しでるつもりだった。そのかわり、彼はデ・マスレータの口から伊丹屋敷に隠れた事実を否認させようと思ったのだった。一切の事実を話せば、デ・マスレータもその気になってくれるかもしれぬ。虫のいい取引には違いない。だが、それ以外には、伊丹の人々を助ける方法はない――与志は桜町までの道々、そんなことを繰りかえして考えつづけた。
牢番は通辞の来訪を奇異とも思わず、地下牢の道を説明した。与志は手を振って、自分は、ここの道なら隅から隅まで知っているのだ、と言った。牢番は驚いたような顔をして与志をまじまじと見つめた。与志は、もっと早く、デ・マスレータのところを訪ねるべきだったと思った。なぜ直接に説得するのを、いままで延ばしたのか、自分でもわからなかった。彼は一切がうまくゆきそうな気がした。牢に近づく足が、興奮から、思わず舞いあがるような感じだった。
地下牢は薄暗く、外から来た与志の眼は、提灯をかかげてもよく見えなかった。間もなく牢の格子や低い天井や壁や壁の隅が浮びあがってきた。彼は眼をこらして格子のなかを見まわした。牢の隅に黒い影がうずくまっていた。与志は、デ・マスレータの名を呼んだ。そして最初はポルトガル語で、つぎにはオランダ語で、彼が来た理由を言った。しかし牢のなかからは何の反応もなかった。
与志は声をあげて、何回かその名前を呼んだ。最後には「奉行所の者だ。なぜ返答をしないのか」ときつい調子で怒鳴った。彼の声が湿った土牢の天井に反響した。
与志は牢番を呼びにいった。牢番は、不貞寝《ふてね》をきめこんでいるにちがいない、と言って、鍵をもち、警杖《けいじよう》を抱えて、おりていった。内からは何の返事もなかった。牢番はぶつぶつ言うと、鍵をあけ、牢の格子を開いた。与志と牢番は同時に提灯の光をかかげた。
デ・マスレータは壁を背に、足を前に投げだして坐っていた。牢番はいらいらして、警杖の先で南蛮人の肩を突いた。すると、男の身体は、ずるずると傾き、そのまま地面のうえに、砂の袋か何かのように転がった。
牢番は男のうえにかがみこんだ。「死んでいる」牢番がうめいた。デ・マスレータの胸のあたりに、鋭い細身の手裏剣が突き刺さっていた。
与志は思わずデ・マスレータの身体をゆすぶった。
「おい、何か言ってくれ。コルネリアのために、何か言ってくれ。おぬしが伴天連として死んでしまっては、もうコルネリアは助かりようがないのだ。伊丹の者は一人残らず死罪なのだ。おぬしの言葉だけが頼りだった。おい、なぜ何も言わないで死んだのだ? なぜ何も書き残さずに死んだのだ?」
もちろん与志がいかにデ・マスレータの身体をゆすろうと、その生命がかえってくるわけではなかった。彼は茫然として牢の前に立ちつくした。
下手人の探索はすぐ開始されたが、誰かが牢屋敷に入ったという痕跡《こんせき》は見つからなかった。
数日して、探索に当った与力たちは、デ・マスレータが伴天連である事実を否認していたことを知ったキリシタンが、神の罰を代行して殺したにちがいない、という結論に達した。そして犯人の目星をつけるため、長崎の町でも、日を極めて町内ごとに踏絵を励行するように取り決められた。
牢屋敷から戻ったあと、上田与志は放心したようになって日を送った。小曾根の妻が何度か見舞いに来たが、与志は、ただ眼だけを動かしているだけだった。
寛永八年の秋はながかった。天草島から何回かコルネリアの手紙が西村配下の男たちの手で届けられた。一度は西村の家来と小舟に乗り、天草灘の沖までコルネリアに会いに出かけたが、激しい風浪のため、目的を達することができなかった。
寛永八年の暮から長崎の町に大雪が降った。正月になっても、それは降りやまず、どの家の門松も白い小山のように雪に埋もれた。
上田与志は小曾根の家で正月を祝ったほか、ひっそりと家にこもって暮した。伊丹屋敷が与力たちの手で封印を受けたという報せが届いたときも、与志はただ頭をふっただけで、ぼんやり自分の前を見つめていた。
正月の終りになって何日か雨がつづき、長崎の町々は残雪と泥で汚れた。そんな一日、江戸から前将軍秀忠が病没し、側近の森川重俊が殉死したという報せが届いた。ほとんどそれと前後して、蝋のように蒼ざめ、咳きこみながら、事務をとりつづけていたオランダ商館長ナイエンローデが平戸で息を引きとった。しかし上田与志はまるでそうしたことに無感覚の人のように、ナイエンローデの死をつたえる報告書の翻訳をつづけていた。
12 結の巻
「昨日、大村と有馬のオランダ人が釈放されたということですな」
高石屋宗岸は盃になみなみとついだ酒を一息に飲みほしながら、高嶋四郎兵衛と堺屋利左衛門のほうを眺めた。
「では、ご老中もよほどヌイツの引渡しには満足だったわけですな」
高嶋四郎兵衛は銚子を宗岸のほうに差しだしながら、利左衛門と眼でうなずきあった。
「オランダ商人がこれほど簡単に折れてくるとは思いもよりませんでしたからな。末次平蔵殿があれだけ手こずった相手だから、ここで一荒れ、二荒れはあると覚悟しておりました」
高石屋宗岸は四郎兵衛の酒を受けながら言った。
「いや、平戸で赤毛のカロンに幕府の重臣がたの意見を伝えておきましたし、もうこれ以上、手荒な手段に出れば、交易差止めは長引く一方と見きわめをつけていたのだろうと思いますな。それにポルトガル交易がこのところ勢いを盛りかえしてくるのを見ては、このまま、じっと手をこまねいているわけにもゆかんでしょう」
高嶋四郎兵衛は長老らしい重厚な様子で、自信にみちた調子で言った。
「私なども平戸で交渉したときには」堺屋利左衛門は先代に似た小肥りの老獪《ろうかい》そうな顔で言った。「到底オランダが折れるとは予測できませんでした。やはり商館長が死んだので、むこうとしても、急に方針を変えたのではありませんか」
「いや、それはその通りです」宗岸はすでに赤くなった頬を、ちらちら揺れる燈火の光に照らされながら答えた。「なにしろあのナイエンローデという男はねばり強い男でしてな。油断のできぬ商人でした」
「それにしても」と若い利左衛門は先代と同じように胡桃《くるみ》の実を手にしながら言った。「亡くなった父などは、オランダ白糸だけは割符《わつぷ》で買附けられまいと申しておりました。それなのに、交易の再開の条件に、割符を受けると申しいれたのですから……」
「それはこの宗岸殿や、先代の堺屋殿、菱屋殿など、糸割符仲間の結束した力のおかげですよ」四郎兵衛は長老らしく利左衛門に説明するような口調で言った。「ま、これで、オランダもポルトガル同様、糸割符商人の意のまま取引するようになったわけで、目出たいことですな。さ、どうか、一杯、あけてください」高嶋四郎兵衛は若い利左衛門にそう言って銚子を差しだした。
「それに薩摩の白糸も、割符の建値で売られることになったのですから」高石屋宗岸は相好をくずして言った。「異国渡来の白糸はこれですべて、糸割符商人の手中におさめられたも同然ですな」
「それでは、残るのは」若い利左衛門は前に身体をのりだして言った。「朱印船の運んでくる白糸だけですね、糸割符商人の意のままにならぬのは……」
「まあ、そうあせらずに、あせらずに」高嶋四郎兵衛が重々しく言った。「打つ手は打ってありますからな。なにしろ先代の堺屋殿は度胸もあったが、頭もよく切れた方でしてな。堺屋殿の計画で、私なども、ずいぶん東奔西走しましたな。その成果が、いまごろになって、日一日と、はっきり現われてきます」
「まったく、このぶんでは、ご老中は間もなく、糸割符商人だけに白糸の扱いをさせる気かもしれませんな」高石屋宗岸は赤いてらてらした顔を四郎兵衛にむけて言った。「もともと白糸は糸割符商人のものでしたがな」
「全くその通りだ」四郎兵衛がそう言って笑い、利左衛門がその笑いについて笑った。
糸割符商人たちの愉快そうな声は、夜おそくまで、料亭のあけ放った窓の外に聞えていた。料亭の庭の植込みの先には、石垣が切りたっていて、その先は長崎の入江の波が、暗い闇のなかで、つぶやくように鳴っていた。
暗い沖には、その年のポルトガル、唐、安南の交易船の燈火が、赤く、点々と見えていた。
それは寛永九年の秋がようやく半ばを過ぎようとしているころであった。上田与志はバタヴィアのオランダ長官からのヌイツ引渡しに関する書類を翻訳しながら、時どき|顳※[#「需+頁」]《こめかみ》を押えた。オランダ側は交易の再開さえ許されれば、どのような条件にも応じる旨、書いていた。以前の与志だったら、こうした情報を何か貴重なことのように伊丹屋敷に報告にいったはずであった。時には長照寺の離屋《はなれ》に長谷川権六を訪ね、それが、伊丹船をはじめ朱印船交易にどのような影響があるのかを話しあったにちがいなかった。
しかし与志は、そうした翻訳を機械的に終えると、それを上司の貞方利右衛門に渡し、一揖《いちゆう》してそのまま暗い顔で奉行所を退出した。同僚たちと話すことも少なかった。小曾根乙兵衛ともあまり口をきかなかった。小曾根が誘っても、あれほどよく通った海ぞいの料亭に、足を運ぼうとはしなかった。
上田与志がコルネリアと会うため最後に天草島にむかったのは、デ・マスレータの殺害があって間もなくのころであった。もちろん表向きは、天草に潜伏|伴天連《バテレン》やキリシタン信者の探索という名目で出かけたが、与志が志岐《しき》に着くとすぐ、島の役人たちは与志が単独で行動することを遠慮してほしいと申しでた。
「私に何か疑いのすじでもあるのですか」
与志は怒りと恐怖とが交互にゆれ動くのをおさえて、冷静な口調で言った。
「いや、そういう訳ではない」島の役人は、与志の顔色をうかがうような様子をして答えた。「デ・マスレータの逮捕以来、天草五島は雲仙と等しく潜伏伴天連がまだ隠れている気配が濃厚なので、ご領主からも、いや、長崎奉行からも、探索には、かならず三人以上の同役連行のことという一条が定められた。きまりである以上、それに従っていただきたい」
上田与志はそれに対してあえて反対を唱えることはできなかった。彼は島の役人二人をつれて、いたずらに島のなかを馬で歩きまわるほかなかった。その山一つこえれば、コルネリアが隠れている鬼谷部落へ出られるというのに、与志にはそれができなかった。それに万一、コルネリアが何かの偶然で彼の面前に現われるようなことがあったら、それはただコルネリアの逮捕と死罪をしか意味しなかった。上田与志は馬上から道端の繁みが風にざわめくのを見るようなとき、あるいは遠くから人影が近づいてくるようなとき、全身を緊張させ、冷汗が身体を伝わって流れるのを感じた。もしそれがコルネリアだったら、彼は同行の役人を殺してコルネリアとともに逃げるつもりだった。しかしそれはただ天草五島の役人たちをいたずらに刺戟し、伊丹親子の探索をうながす結果になるのは、火を見るより明らかだった。そのため与志の足は次第にコルネリアのいる場所から遠ざかってゆき、ただ、即刻天草を離れるわけにはゆかないので、そのためだけに島のなかを歩きまわる結果となった。
与志は、その日の苦痛を終生忘れられまいと思った。彼は一日が終ると、緊張と絶望感とから頬が落ちくぼみ、眼が血走っていて、到底、正常な人間の表情とは思えなかった。
役人たちは、与志が身体の変調をうったえて、天草探索を早々に打ちきるのをいぶかりながら、志岐の港まで彼を送ってきた。しかし与志には、それは単なる見送りではなく、彼が本当に島を離れるかどうかを監視するために、港まで来たように感じられた。
与志がコルネリアに会う機会は、彼が奉行所役人であるために、かえって、前よりいっそう少なくなっていった。それに伊丹親子が天草に潜伏しているのではないかという推測は、すでに与力たちのあいだに出ており、上田与志もそのことについて青野左兵衛からじきじき訊《たず》ねられさえしたのである。
その後、一度だけ、与志は大浦へコルネリアが来て、彼を待っているという報せを受け、夜、ひそかに出かけたことがあったが、そのときは、急に危険が迫ったので、予定が変更されていて、結局、与志はコルネリアと会うことができなかった。
その夜、与志は、何も知らないまま、一晩じゅう、大浦の浜で、波の音が打ちよせるのを聞いていた。波の音のなかに人声が聞えはしまいか、と、彼は聞き耳をたてていた。闇のなかでは、もちろん浜も海も岬も見えなかった。時おり、波の音のなかに、何か、がやがやいう人の声のようなものが聞えるような気がした。与志は、そのたびに、胸をとどろかせて、波打ち際まで駆けおりていった。彼は声をしのばせてコルネリアの名を呼んだ。伊丹市蔵の名を呼んだ。しかし返ってくるのは、相変らず波の音だけだった。
こうして与志は夜が青白く薄れてくるまで浜辺の石に腰をおろしていた。夜が明けきると、曇った空の下に鴎《かもめ》が飛び、稲佐《いなさ》岳のうしろの空が一すじ赤くなっただけだった。入江には唐船が数艘、波にゆっくり帆柱をゆらせながら碇泊していた。漁に出る人が大浦の浜に一人二人と姿を見せていた。風が舟小屋の屋根に低い音で鳴っていた。与志は、もう何度も見まわした浜辺を、最後に、もう一度見て、大浦を離れた。彼の胸はいまにも破れそうな気がした。
与志は何度か小曾根乙兵衛とともに、デ・マスレータ殺害の下手人を探索した。奉行所与力の意見では、下手人はほぼキリシタン信者であろうと考えられていた。しかしデ・マスレータが伴天連ではないことを、キリシタンたちが知っている以上、彼らがこのイスパニア商人を殺害するはずはなかった。そのことは与志や小曾根には見当がついていた。しかしそれ以上のことになると、むろん二人にも何一つわからなかった。なぜデ・マスレータを殺さなければならないのか。すくなくとも伴天連として殺される男を、なぜそのように性急に殺す必要があるのか。
「このことは、私にまかせてくれ」小曾根は、いきりたつ与志を押しとどめて言った。「お願いだ。こんどの失態の責任は、私にもあるのだ。この探索は私にまかせてくれ」
上田与志は小曾根の言葉を黙って聞くほかなかった。事実、その言葉どおり小曾根はその年の秋から冬にかけて奉行所に出仕しなかった。与志は、なぜ小曾根乙兵衛が奉行所にそれほど長く姿を見せないのか、わからなかった。同僚たちも、小曾根はおそらく江戸に祐筆にでもなって転出するのではないか、と噂しあっていた。
寛永九年が暮れて、寛永十年の正月が賑《にぎ》やかな唐人たちの爆竹や蛇踊りとともにやってきた。町々は追い羽根や凧《たこ》あげで賑わい、ポルトガル人たちも晴着で取引先や倉庫や商会に新年の挨拶廻りをしていた。
そうした正月の気分が残っているある夕刻、上田与志は一通の書状を小者風の男に届けられた。書状には、ただ「御朱印船御舟蔵西の二番、亥《い》の刻」と書かれているだけだった。しかし与志はその字を見ると、一瞬、息がとまるような気がした。それはまぎれもないコルネリアの筆蹟であった。
「では、あのひとは天草島を離れたのだろうか」与志は急いで書状に火をつけると、そう考えた。「竹中|采女《うねめ》が気違いのようになってキリシタン宗門改めをつづけている長崎に、なぜ戻ってきたりしたのだろうか。竹中采女は異国交易での失態や不正を隠蔽《いんぺい》しようとして、ここ半年ほどのキリシタン狩りは、とても正気の沙汰とは思えない。伊丹屋敷でさえ、キリシタンの隠れ家として取り壊しになったばかりか、伊丹親子の首には、とくに銀五百枚という賞金をつけてさえいる。コルネリアはそんなことも知らずに、長崎に戻ってきたのだろうか」
上田与志は燃えつきた書状が白く縮んでゆき、灰になるのをじっと見つめていた。
御朱印船の舟蔵は、西坂の岬からさらに奥にくびれこんだ入江に臨んでおり、背後に木立におおわれた切りたった崖が迫っていた。西から一番蔵、二番蔵とならび、朱印船の出入りの盛んだったころは、どの舟蔵も修理の船が並び、舟大工たちの槌音《つちおと》や、船をひきあげる職人たちの掛声で賑わっていた。しかし奉書船の制度がしかれて以来、一時盛んになりかけた異国渡海がふたたび下火になって、舟蔵にも船がひきあげられ、いたずらに舟喰虫の匐《は》いまわるままになっていた。
そこは、コルネリアが与志を待つためには、たしかに、他のどこよりも人眼につかぬ場所といえたかもしれない。しかしいかにさびれているとはいえ、蔵番もいれば、舟手役人も近くに住んでいる。宗門改めの与力たちが徘徊《はいかい》していないともかぎらない。そんなところに、なぜコルネリアが来たのだろうか――そうした危惧は、与志のなかに目ざめさせた幸福感を、みるみる蒼ざめた不安に変えていった。
与志は、ふと、前に何度かそうだったように、こんどもコルネリアに会えないかもしれないと思った。与志は、そう思っただけで、身体が絶望感のために冷たくなってゆくような気がした。彼は、今夜は、いつかの大浦の浜で味わったようなあの苦痛は味わいたくないと思ったのだった。
与志が、奉行所下屋敷を出て、わざわざ遠まわりをして、西坂の岬に着いたのは、すでに亥の刻(午後十時)に近かった。彼はかつて抜け荷探索のため、この辺りを通ったことを思いだした。「そうだ、あのとき、誰か、私をつけてくる足音がした。この辺りで、それに気がついたのだ。そしてそれが、なんとコルネリアだったとは。たしかに奇妙なめぐりあわせだ」与志はそんなことをふと考えた。
コルネリアが指定した西二番蔵は、満潮になった入江の波が、その石垣をひたひたと洗っていた。与志は杙《くい》のうえに渡してある板をすり足で歩きながら、舟蔵の入口まで来た。戸口には錠はおりておらず、与志が押すと、音もなく開いた。
蔵のなかは、空虚な寺院の堂内のような感じで、潮の匂いと、湿った木の匂いがみちていた。巨大な船がその暗い闇のなかにあるらしく、どこか闇のなかに、いっそう漆黒の濃密な闇があるような感じだった。
与志は小声でコルネリアの名を呼んだ。しかしその声は奇妙な具合に反響して、与志はひやりとして身体をかたくした。しばらくして、闇のどこかに、赤い、にじむような明るみが感じられたかと思うと、オランダ式の角燈《ランプ》が、与志の頭上にゆれた。
「上田さま……?」
コルネリアの声は、まるで闇の中の与志を手探りでとらえるように聞えてきた。
「私です。どこにいるのです?」
「船の上ですの。すぐ梯子《はしご》をおろします」
コルネリアのかかげる角燈の光のなかを、舷側《げんそく》から縄梯子がおりてきた。
与志が舷側から船にあがると、コルネリアは角燈を台のうえに置き、二、三歩、前に出ると、与志の身体を抱いた。
「上田さまですの? 本当に、上田さまですの?」
コルネリアは声をつまらせ、与志の身体をまさぐった。与志はコルネリアの頬が涙に光っているのを見た。
「本当に上田さまですわね? 夢じゃありませんわね? いいえ、夢なんかじゃない。本当に上田さまですわね」
コルネリアはうわ言のように言って、しゃくりあげた。コルネリアは、船底に一部屋、密室になっている場所があって、そこに隠れているのだ、と話した。
「で、この船は?」
「弥七郎さまの船ですの。本当なら、いまごろ、天川《マカオ》から安南に行っているはずですのに」
コルネリアは角燈をとり、与志を船底に案内しながら、そう言った。コルネリアが隠れている部屋は複雑な吊梯子をかけて下っていった、細長い一室で、オランダ風の角燈の下に、寝台と腰掛けがつくりつけてあった。
「この部屋で、あるパードレ(神父)が日本まで隠れていたことがあるんですって」
コルネリアは、部屋を物珍しそうに見まわしている与志にそう言った。机のうえには葡萄酒と玻璃《ギヤマン》の盃とパンが並んでいた。与志は、眼で物をたずねるように、コルネリアのほうを見た。
コルネリアは角燈の光から顔をさけるようにして、一言一言、区切るように言った。
「わたくしね、今夜、私たちの結婚のお祝いをしたいと思いましたの」彼女はそう言うと、耳まで赤くなってうつむいた。
どのくらい時間がたったのだろうか。与志はしばらくうとうとしたらしい。眼をひらくとコルネリアはじっと与志のほうを見つめていた。角燈の光は細長い部屋を明るく照らしていた。
「お休みにならないのですか」
与志は眩《まぶ》しいものを見るような表情で訊ねた。
「いいえ、また夜が明けたら、天草へ帰らなければなりませんもの。そうなれば、いつお眼にかかれるかわかりません。すこしでも多く与志さまを見ておかなくては」
コルネリアは青いかげりの浮んだ眼でじっと与志の顔を見つめた。
「なんとも申しわけないことです。私などが不手際だったために、あなたが天草に隠れなければならないなんて……」
与志はコルネリアの手を取って言った。
「いいえ、与志さまも小曾根さまも、ほんとうによく働いて下さいました。でも、こうなるほかなかったのだと思います。父などは、薩摩が、異国交易に関係していなければ、もっと事が好転しただろうと申しておりました」
「たしかにデ・マスレータの一件などは池田修理が関係さえしていなければ、こんなことにはならないですんだかもしれませんね」
「いいえ、そればかりではありませんの」コルネリアは眉を曇らせて言った。「小野民部さまも、結局は、薩摩一藩の大事のために、朱印船交易を裏切るようなことをなさったのですって。父がそう申しておりました」
「と言いますと?」
「小野さまは、桜町の牢屋敷でデ・マスレータを殺害なさったのです」
与志はコルネリアの言葉が信じられなかった。小野民部はもともとデ・マスレータを生きたまま故郷へ帰すことを主張していたはずである。それに、キリシタンとして処刑される男を、なぜ自分で殺害しなければならないのか。
「父が申しますには、デ・マスレータが伊丹の名を口にした以上、いつ池田修理さまや薩摩の抜け荷のことを喋《しやべ》るかわからない、とそう考えて、小野さまはデ・マスレータを殺害されたのだろうって……」
「たしかな証拠でも?」
「西村掃部さまのご家来衆のなかで、小野さまの仕事をしている者がおりまして、たしかな話として聞いてまいりました」
与志は急に地面が前にかたむき、そのなかに自分がのめりこみそうな気がした。いったい誰を信じたらいいのか――与志はそう思って、あたりが暗くなるような気がした。
「父は、実は、小野さまと会って、事の決着をつけるために長崎に参りましたの。しかしすべてはもう手遅れで、小野さまはただ薩摩の利害のことしか眼にございません。いまさら何か話をもち出しても、かえって父の身が危うくなります。長谷川さまもその意見で、わたくし、父を思いとどまらせるために、こちらに参りましたの。長谷川さまもご一緒でした」
――では、小曾根はいったい何をしているのだろうか。あの早耳の男が、なぜ小野のことを耳にしなかったのか。いまごろ、まだ、デ・マスレータ殺害の下手人を追って、どこかをうろうろしているのだろうか。たしかに誠意ある男だが、肝心のところがぬけている。もう事件はどんどん他の方向にむかって進んでいるのだ。
与志はコルネリアの言葉を茫然とした気持で聞きながら、頭のどこかでそんなことを考えていた。
「長谷川さまは、私たち交易家は天川《マカオ》にいって、そこの日本人町を根拠に交易をし、そのうち日本にも変化がうまれそうだから、それを気長に待つべきだ、というお考えです。でも、わたくしは、天草に残るつもりです。天川にゆけば、与志さまとはもう絶対にお目にかかれませんもの」
「いや、そうなれば、私も天川に参ります。もう奉行所にいて立身する気など毛頭なくなりました。私は、こんどというこんど、コルネリア殿と離れることが、どんなに苦しいことか、よくわかりました。天草にだって、ほんとうは、帰したくないのです。いや、できることなら、私も天草島に渡りたい。でも、そうなれば、あなたも私も先のない逃亡者になるほかありません。いや、それだっていい。それしか道がないなら、それでもいいのです。しかし私はまだ伊丹家の潔白をあきらかにすることができるかもしれないし、小曾根もそのために奔走してくれているはずです。あなたを放したくない。いつまでも、こうして一緒にいたい。それなのに、なんという運命なのだろう」
与志はそう叫ぶと、コルネリアを両腕に抱きしめた。そのとき、与志は、不意に、自分がコルネリアなしでは、生きる意志すらないのをはっきりと感じた。「私はあなたを放すまい。どんなことがあろうと、私はあなたと一緒にいるのだ」そういう声が与志の心のなかで響いていた。
上田与志が舟蔵を出たとき、そろそろ夜が白みはじめ、長崎の入江をかこむ山々の稜線が黒い影となって、星影の薄れた空を区切っていた。与志は注意深く舟蔵を離れると、西坂の崖をのぼった。刑場の台地はそこから見えなかったが、こんもり繁った木々は暗く、陰気に風にゆれていた。
しかし与志の身体には、いままで感じたことのなかった、落着いた、深い浄福感があふれていた。陰気にゆれる木々のざわめきを聞き、刑場の火刑台をちらと眼にしても、彼の心は不思議に動揺しなかった。万一コルネリアがキリシタンと見なされ、この刑場で死刑に処せられることがあったら、与志自身もここでコルネリアとともに死ぬのだ――彼はそう思うと、いままで彼を悩ましていた不安や恐怖が不思議と消えてゆくのを感じた。むろんいままでにも、同じようなことを考えないではなかった。しかしいまはコルネリアは真に自分の妻であり、真に自分の身体の一部のように感じられた。この疑いようのない一体感が、幸福の余韻をなお彼の身体のなかに響かせながら、与志の気持を不動のものにしていた。
与志は舟蔵を出ると、その足で長照寺に向った。コルネリアが舟蔵の戸口のところまで与志を送ると、そこで、長谷川権六との連絡を頼んだからだった。彼女は西村配下の男たちと、すぐに天草に渡ると言ったのだった。
「長谷川さまを大浦の浜でお待ちいたします。戌《いぬ》の下刻(午後九時)とお伝え下さい」
与志はコルネリアのこの伝言をもって、長照寺の離屋に久々に長谷川権六を訪ねたのである。しかし長照寺の境内は奉行所役人たちがひしめいていた。与志の胸の鼓動は急に高まった。まだ夜が明けて間もなくのころで、乾いた田のうえを風が吹いていた。遠くの長崎の町はまだ起きだしていない様子だった。
彼は思いきって長照寺の境内に入ると、顔見知りの役人に、長谷川権六に何か変ったことがあったのか、と訊ねた。相手は、与志のことを訝《いぶか》りもせずに、権六がキリシタンであるとの投げ文があり、竹中采女がじきじき召しとり方に出向いたのだ、と語った。
「いや、おどろいたことには」と相手はつづけた。「長谷川殿の部屋に踏みこんだら、何とお尋ね者の伊丹市蔵が潜伏していたのだ。これで長谷川殿がキリシタンであることは明白。もはや白州でのお裁きの必要もない。即刻、切腹仰せつけになるだろう」
与志はその言葉を最後まで聞くことができなかった。彼は境内の入口にある老松の幹に手をついて辛うじて身体を支えていた。空も塀も寺の屋根も役人たちも、彼の眼の前をぐるぐる廻るように思われた。
彼には単なる告訴人が奉行所に投げ文をしたとは考えられなかった。だいいち長谷川権六は隠居の身であるといっても、もと長崎奉行である。よほどの証拠でもないかぎり、そこらの転びキリシタンなどが告訴するとは思えない。まして伊丹市蔵がたまたま権六の家をひそかに訪れたときを狙って、役人に訴文を投げこむなどとは、よほど事情に明るい者でなければできないことだ。
――では、これも小野民部の仕業だろうか。たしかに伊丹市蔵も長谷川権六も薩摩の抜け荷については誰より詳しく知りぬいている。デ・マスレータを殺したのが小野なら、この二人を密告したのも小野でないと誰が言えよう。
上田与志は、馬上の竹中采女を先頭にして、囚人用の二|梃《ちよう》の駕籠《かご》をかこんだ与力はじめ下役人が列をつくって長照寺を出てゆくのを、放心したように眺めていた。そのなかに上司の青野左兵衛もいて、皮肉な調子で、小曾根にでも聞いてきたのか、耳が早いの、と、与志の姿を見ると声をかけていったが、与志のほうは、それに何と返事をしたのか、思いだすこともできなかった。
――いったい小曾根は何をしているのだろう。こんどのことは自分にすべてをまかせろと言って姿を消したきり、消息一つ寄こさない。そのあいだに情勢はすっかり変ってしまったのだ。いったい、小曾根は何をしているのだろう。いや、それより、このおれは何をすべきなのか。
「大浦の浜へゆかなくてはならぬ。コルネリアは二人の逮捕を知らずに、待ちつづけるだろうし、そのあいだに小野が何を企まぬともかぎらない」
上田与志はそう考えると、急ぎ足で奉行所に戻った。所内は長谷川権六と伊丹市蔵の逮捕で誰もが興奮しきっていた。下役人たちは投げ文がどうやって投げこまれたか、投げこんだのはどんな人間だったか、について声高《こわだか》に話し合っていた。
与志が通辞溜《つうじだま》りにゆくと、一通のオランダ文報告書が彼を待っていた。与志がひらくと、それは平戸商館長後任に関する報告で、急逝《きゆうせい》したナイエンローデのあとは、ピーテル・ファン・サンテンが就任する、という文面であった。上田与志はそれを翻訳しながら、コルネリアのことが気がかりで、妙に落着かなかった。前夜のコルネリアの記憶が不意によみがえってきて、与志は、ふと喉がつまるような気持になった。
与志がその簡単な文書の翻訳を終えたのはすでに夕刻に近かった。彼はそれを上司に渡すと、その足で奉行所を離れ、五島町の釣舟屋へ出かけた。与志はそこの舟を借りうけて、大浦に出たほうが安全だと思ったのである。
しかし与志が沖に舟を出すと、向い風が思ったより激しく、明るいうちには大浦に着けそうに思えなかった。
彼は、そこで、いったん奉行所の舟着き場に戻ると、そこに釣舟を残し、徒《かち》で大浦へゆこうと考えた。彼は顔見知りの下役人に、風のため釣りをあきらめたから、釣舟を適当な場所にあずかって貰いたい、と言って、心づけを渡した。それから、季節はずれでがらんとした交易検査所をぬけ、通辞や検査役人の溜りの前を通った。
そのとき、与志はふと溜りの人々の誰かが、しきりと、伊丹という人の名を口にしているのを耳にして、足をとめた。彼は、伊丹市蔵の逮捕について人々が話しあっているものと思ったのである。そのうち誰かが「伊丹の娘も同罪だそうだ」と言う声が聞えた。そのあと、天草に潜伏していたのだ、とか、キリシタンのなかでも大物だから、芋づる式に大勢また信者が捕えられるだろう、とか話す声が聞えた。
与志は思わず溜りの格子戸をあけた。なかの役人たちは、蒼ざめた与志の顔をまじまじと眺めた。
「ただいま、通りすがりに耳に入れましたが、伊丹の娘が同罪、とか申されたのは、確かなことでしょうか」
すると、それを口にした役人が、やや憤然とした調子で、「確かも確か、つい先刻、桜町の牢に引きたてられるのを、この眼で見てきましたからな」と言った。
与志は相手の顔をじっと眺め、それから口のなかで何か言うと、そこを出ていった。
彼はどうやって自分の家に帰ったのか、まるでわからなかった。彼は一度桜町の牢屋敷に立ち寄った記憶があった。しかしそこで何をしたかは思い出せなかった。どこか海辺に立って、暗い沖を見ていた記憶もあった。しかしそれがどこであり、何をしていたのか、彼は思い出すことができなかった。
彼が暗い部屋に入り、燈心に火をつけ、机の前にくずれるように坐りこむと、彼は思わず自分の眼をこすった。部屋の隅に小曾根乙兵衛が旅装束のまま横になって眠っていたからである。小曾根のほうも与志の気配に気がついて身体を起した。
「どこへ行っていた? ずいぶん待ったぞ」
小曾根乙兵衛は、長崎で何が起っているのかも知らぬげに、気楽な声で笑った。
「おぬしこそ、どこへ行っていたのだ?」与志の声は思わずふるえた。「長崎では、大へんなことが起った。長谷川殿も伊丹殿もキリシタンの疑いで召しとりになった。そのうえ、コルネリア殿も……」
与志は最後まで言えなかった。鼻がひくひくと動いた。
「諫早《いさはや》街道をくる途中で、コルネリア殿のことは聞いた。あのひとは自分から奉行所へ出向いたそうだな」
小曾根は意外だというような調子で言った。
「市蔵殿も捕えられれば、コルネリア殿としては、もう他に希望がもてなかったのだろう」
与志は膝に手をつき、じっと顔をうつむけたまま言った。
「しかしコルネリア殿には、おぬしがいるではないか」
「いや、おれは、もう力尽きたのだ。これ以上、何をやっても、できることは知れている。おれは、自分というものがわかったのだ。まるで大きな水車にむかってゆく蟷螂《かまきり》のようなものだ。おれは、何かいつまでもつづく悪夢をみている感じだ。おれはいまは、ただ、コルネリア殿のそばにいたい。コルネリア殿がキリシタンで死罪となるなら、おれもキリシタンとなって死罪となろう。おれには、もうそれ以外の望みはない。小曾根。おぬしはおれのために、兄弟も及ばぬような親身な世話をしてくれた。だが、もういい。私たちは、おぬしがいなかったが、真に夫婦《めおと》になった。ささやかな祝いを二人でした。赤い酒を玻璃《ギヤマン》の盃についでな。おれにはそれで結構だ。おれには、もう思い残すことはないのだ」
すると、小曾根乙兵衛は与志のほうへにじり寄ると、その手をとって、厳しい声で言った。
「そうか。それはめでたかった。私は、それを聞いて、心から、ほっとした。おぬしたちが夫婦になることを、私がどんなに願っていたか、おぬしはわかっているはずだ。だが、同時に、コルネリア殿が、なぜ自分から奉行所に出頭したのかも、よくわかった。コルネリア殿は自分の潔白を証しするため奉行所へ行ったのだ」
「しかし奉行は気違いのような竹中采女ではないか。竹中はキリシタンを焼き殺せば、それだけ自分の不正が隠しおおせるとでも思っている男だ。その竹中の前に出るなんて、自分から死を願いでるようなものだ」
「いや、そうではない」小曾根が厳しくさえぎった。
「なぜだ? なぜ、そうではないと言い切れるのだ?」与志は身体をふるわせた。
「竹中采女は間もなく罷免《ひめん》される」
小曾根乙兵衛はぽつんと言った。
あたりの音が絶えたようだった。「竹中采女は罷免されるだけではない。切腹を仰せつけられる」
「まさか……?」
「いや、嘘ではない。ご老中からの書状が、いまごろ大目附井上政重殿から竹中采女に手渡されているはずだ」
上田与志は小曾根の肩にしがみついた。
「おぬしは江戸まで行って……?」
「むろん私一人の力ではない。だが、誰かが竹中の罪状をご老中に伝える必要があった。それを私がやったまでだ」
小曾根乙兵衛は声を落してそう言うと、与志の手を握った。
長崎奉行竹中采女が異国交易に関する数々の違法と私財蓄積のかどで切腹を命じられたのは寛永十年二月十一日のことであった。井上政重がその切腹に立会い、奉行所の役人全員はその日一日、謹慎のため自宅に閉居を命じられた。
長崎の町の人々は、早朝から肌を刺す寒風のなかに立ち、物々しく警戒された奉行所の白い塀を遠くから眺めていた。誰ひとり声をたてる者はいなかった。ただ風の音だけが奉行所裏の樟《くすのき》の大木に鳴っているだけだった。重苦しい長い時間がのろのろと過ぎていった。
やがて辰《たつ》の刻をすぎるころ、大目附井上政重の姿が奉行所の門に現われた。馬に乗り、顔をやや俯《うつむ》けて、何かじっと物を考えるような表情で、上屋敷のほうにむかった。それを見ると、人々のあいだに、突然、深い吐息のもれる音がきこえ、囁《ささや》きがざわざわと波のようにひろがった。大目附の表情を見れば、誰の眼にも、竹中采女が切腹して果てたことが明らかだったからである。
後になって、その切腹に立ちあった役人の口から、最後まで、竹中は冷やかな笑いを頬に刻んでいたという事実が伝えられた。それはいかにも残忍なキリシタン迫害をつづけた竹中の性格にふさわしいものだった。しかし人々は、そこになにか背すじの冷たくなるような不気味なものが黒くよどんでいるのを感じないわけにゆかなかった。ただ与志の気持をほっとさせたのは、小曾根乙兵衛が予期したように、竹中采女の死とともに、キリシタン信徒の召捕りとその審議が正常の形にかえったことだった。たとえ訴状や訴人があった場合にも、奉行所で慎重な吟味が繰りかえされた。大目附井上政重がこうした宗門改めの全般を指図した。井上政重の方針はキリシタン信徒を殺すことよりも、もっぱら転宗させることにむけられていたのである。
そのため大目附直属の頭の鋭い役人たちが何人か江戸から呼ばれ、キリシタン信徒の訊問にしたがった。夜おそくまで燭台の灯のしたで、信徒たちに転宗をすすめる役人たちの姿は、熱烈な論議をたたかわしている若い宗門志願者のように見えた。
こうした奉行所の方針の変化は、伊丹市蔵とコルネリアの待遇と審議のうえにもただちに反映した。二人は地下牢から座敷牢へ移されるとともに、上田与志や伊丹弥七郎との面会も許された。書籍の差入れも和漢書にかぎり自由になった。
市蔵は、久々で静かに読書ができると言って、むしろそうした境遇をよろこんでいるようにさえ見えた。コルネリアは井上政重から直接の訊問があったことを与志に物語り、「まるで井上さまは天川《マカオ》やエウロッパのことをしきりと知りたがっておられるみたいでした」と言った。
たまたま三月に入って間もなく、長崎の町年寄藤木三右衛門がキリシタンの疑いで逮捕され、井上政重がじきじきに審問に当った。そしてその吟味の最中に、伊丹屋敷に潜伏していたデ・マスレータは伴天連ではなく、単なるイスパニア商人にすぎないことが判明した。井上政重は、デ・マスレータが果して何の売買を目的で日本に潜入したかを詮議する必要を感じたが、すくなくとも伊丹市蔵とコルネリアをこれ以上牢屋敷にとどめておく理由は認めがたいと判断した。
井上政重の意見はただちに奉行代理青野左兵衛のもとに届けられた。青野左兵衛はいつもと同じように、ひどくあわてたような様子で、伊丹市蔵とコルネリアの無罪を宣告した。長谷川権六に関しては老中より直々の赦免状が届けられることになっていた。
コルネリアが奉行所の門に出てきたとき、ちょうど桃が白い塀のうえに点々と花をひらいていた。上田与志は小曾根乙兵衛と門のそばでコルネリアを迎えた。
「どうか、こんどは私も加えてあらためて、結婚の披露をしていただきたい」
小曾根乙兵衛が真面目な顔をして言った。コルネリアは驚いたように小曾根を見あげ、それからみるみる頬を染めた。
上田与志とコルネリアが新しく移った勝山町の家に、小曾根乙兵衛がよばれたのはその同じ月の十四日のことであった。その日幕府から、長崎奉行として曾我又左衛門と今村伝四郎の両人が同時に赴任することが奉行所に通達された。小曾根は与志の家にゆく前に、その報せを聞き、ちょっと頭をひねった。彼が江戸で老中松平信綱に意見を具申しているおりには、そうした話は一切出なかった。松平信綱は、竹中采女の庇護者だった老中森川重俊が殉死したので、竹中の不正を糾明しやすくなった、と言っただけだった。もちろん後任として誰が適当だろうかなどと時おり訊ねたことはあった。しかし長崎奉行を二人にするというようなことは、小曾根は、江戸城にいるあいだは聞いていなかった。松平信綱の頭に、はじめからこうした考えがあったのか、それともあとになって思いついたのか、小曾根には、その辺のことは分らなかったが、ただ漠然と松平信綱の柔和な顔を思いだし、重臣のなかでめきめき頭角をあらわしているこの老中は、何を考えているか、わからぬ人物だ、とふと思った。
小曾根乙兵衛は与志とコルネリアにそのことは話さなかった。ただ、薩摩が朱印船交易を邪魔することがなくなったので、かえっていままでより奉書船も多くなるだろう、ということだけを強調した。上田与志は珍しく愉快そうに小曾根の盃をうけ、おそくまでよく喋った。
その年の春はめずらしく好天がつづいた。上田与志はコルネリアと連れだって大浦の岬のほうへよく散歩をした。岬をまわって浜におりると、波のうえに、桜の花が白く散って、砂浜にひたひたと打ち寄せるたびに、花びらは、点々と、波形の模様をえがいて、平らな濡れた砂に貼《は》りついた。コルネリアは微風に吹かれながら、いつまでも、波が、白い花びらを打ちよせるのを眺めていた。
奉行所の仕事も、急に渡海船が少なくなったため、暇なことが多かった。幕府へ報告する事項も、曾我又左衛門と今村伝四郎のあいだで討議され、結論がのびのびになり、従来のような事務の迅速な処理は見られなかった。上田与志は平戸のオランダ商館から届けられる短い報告書を訳すほかは、ほとんど仕事らしい仕事はなかった。与志はそうした時間を利用して、ながいこと中断していたオランダ語|語彙《ごい》の筆写をふたたびはじめることにした。彼は仕事の手のあいた昼さがり、晩春の風が、眠気をさそって吹きぬける通辞溜りの一隅で、丹念に筆を走らせた。
「点滴石を穿《うが》つというが、おそろしいものだな。もうそろそろ半ばをこえるではないか」
そう言って、小曾根乙兵衛は与志から筆写した紙束をとりあげた。
「おぬしのオランダ語の字体は見事だな。平戸商館の書記にすぐ雇ってもらえそうだ」
小曾根乙兵衛は温厚な笑顔を浮べてそんな冗談を言うと、また通辞溜りを出ていった。上司から特別な仕事を命じられているらしく、小曾根乙兵衛が通辞溜りの机の前に坐っていることは、このところますます稀《まれ》になっていた。与志はそれに気づいていたが、あえてそれを訊《き》こうという気持にはなれなかった。小曾根のほうもそれについては一言も喋らなかった。たまに通辞溜りに顔を出すと、与志とコルネリアの暮しのことだけを話題にして、あまり江戸の様子についても朱印船交易についても話したがらなかった。
その小曾根乙兵衛が厳しい顔をして、非番で家にいた上田与志を訪ねたのは、それから間もない初夏の雨の降る午後のことであった。
与志は、小曾根が家に入ってきても、口をひらこうとしないのを見て、直覚的に、何か悪いことが起ったのだ、と思った。小曾根は、与志が何か言っても、ながいこと、口をつぐんだままだった。与志はこんな小曾根を見たことがなかった。小曾根が何か話しだしたとき、最初の言葉はききとれないほど、かすれていた。
「いましがた、江戸のご老中から異国渡海を禁じる幕令が届いたのだ」やがて小曾根は大きく息をつくと与志の前に幕府の禁令の写しを差しだした。与志はそれを手にとり、食いいるような眼で読んだ。
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一 異国へ奉書船の外舟|遣《つかは》し候儀、堅く停止《ちようじ》之事。
一 奉書船の外に日本人異国へ遣し申し間敷《まじく》候。若《もし》忍び候て乗参るもの有之《これある》に於ては、其《その》ものは死罪、其船並船主共に留置《とめおき》、言上|仕《つかまつ》る可《べ》き事。
一 異国へ渡り住宅有之日本人|来《きた》り候はば死罪申付可く候。但し是非に及ばざる次第|有之《これありて》而異国に逗留《とうりゆう》致し五年より内に罷帰《まかりかへ》り候ものは、遂穿鑿《せんさくをとげ》日本にとまり申可きに付而《ついて》は御免、併《あは》せて異国へ又立帰る可きに於ては死罪申付可く候事。
一 異国船に積み来《きたり》候白糸、値段を立候|而《て》残らず五ケ所へ割符《わつぷ》仕る可きの事。
一 異国船戻り候事、九月廿日|切《ぎり》たる可き事。但し遅く来り候船は、着き候而五十日切たる可き事。
一 異国船売残しの荷物預け置候儀も、又預り候事も停止の事。
一 五ケ所の商人、長崎へ参着候儀七月廿日切たるべし。それより遅く参り候ものは、割符をはづし申す可き事。
一 薩摩平戸其の外何れの浦に着し候船も、長崎の糸の値段の如くたるべし。長崎にて値段立て候はぬ以前、商売停止の事。
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上田与志は写しを読みおわると、茫然とした表情で小曾根を見あげた。
「私は自分の不明を詫《わ》びたい。いや、幕閣のことがすっかりわかっていると思っていた愚かな自惚《うぬぼれ》を罰したい。上田、私はな、松平信綱がこんなことを考えていたとは、真実、夢にも思わなかったのだ。こんなに見事に裏をかかれるとはな。私には松平殿が、なぜこんな幕令を出す気になったのか、まだわからぬのだ」
小曾根は与志の前に頭を垂れた。
「何も、おぬしのせいではない」与志は言った。「おぬし一人が頑張ってみても、こう決っていたものを、どうすることもできない。時の勢いというものもある」
上田与志はそう言ってみたものの、自分が何を考えようとしているのか、何を言おうとしているのか、よくわからなかった。与志は、そのとき、なぜか、こうした事態が来て、自分が、いまと同じような気持で、茫然としているだろうということを、ずっと前から知っていたような気がした。まるで、自分が、前に、そうした事態を一度経験したことがあって、それは何から何まではっきりそのときのままのような気がした。茫然とした与志に辛うじてわかっていたのは、ただ、自分たちがあんなにも長いことかけて打開しようと努めてきた一切が、音をたてて崩れている、ということだった。朱印船交易の前途を重く閉ざした壁が厚くのしかかってくるのが、そうしてじっとしていても、はっきりと感じられるような気がした。長谷川権六の奔走も、伊丹市蔵の画策も、コルネリアのながい忍耐も、結局、この禁令で、すべて空《むな》しくなる――そんなことはどう考えても納得できなかった。与志にはまるで信じられなかった。自分が悪夢をみているのではないかという気がした。幕令を読みちがえているかもしれぬと思った。そして彼は繰りかえして禁令の文字を読んだ。
「私は、老中がこのような禁止策を考えていようとは、真実、思わなかった。私は松平信綱の心のなかまで読んでいたと思っていたのだ。何とも愚かな自惚だった。自分の愚かさに、いまほど愛想のつきたことはない」
小曾根は吐きだすようにそう繰りかえして言うと、歯をきりきりと音がするほど噛みしめた。
コルネリアが茶菓を運んできたとき、空が一段と暗くなり、雨の音が激しくなった。
「きっと、また新しい手だてが考えられますわ」コルネリアは暗い顔をした小曾根にそう言った。「いいえ、考えださなくてはなりません。ご老中では、まだご朱印船渡海のことを、本当にご存じないんですわ。もしご存じだったら、こんな無法なご禁令を出されるわけがございません。きっとまだ道は残っておりますわ」
「コルネリアの言うとおりだ。まだ道はあるはずだ。おぬしがそんな暗い顔をしては困る」
上田与志はそう言ってから、また、禁令の文面に眼をやった。そしてほとんど無意識に禁令の最後の句をつぶやいた。「長崎の糸の値段の如くたるべしか」
すると、そのとき、庭先をしとど濡らして降る雨を見つめながら、物思いにとらわれた小曾根が顔をあげた。
「そうだ。天草島でデ・マスレータを引渡す際、薩摩藩が糸割符仲間に約束した一項がここに明記されているのだ」
「なぜわざわざご老中はそんなことまで明記する必要があるのだろう?」上田与志は考えこむように言った。「糸割符仲間と薩摩だけの話にしておいてもいいことではないのか。それとも糸割符仲間では、はじめからこれを望んでいたのだろうか」
「条文に明記すれば、薩摩としても、もはや幕府に対して後ろ暗いところはないわけだからな。天草島で小野民部がとりつけた約束を、こういう形で、糸割符商人らが果したのだろう」
そう言ってから小曾根乙兵衛は急に黙りこむと、音をたてて降りこむ雨の庭をじっと見つづけていた。
渡海禁止の幕令はその夜のうちに朱印船交易の主だった船主や船頭、商人たちのあいだに伝えられた。末次屋敷や船本屋敷には、長崎の町年寄をはじめ船主や交易商人がぞくぞくと集まった。そして夜おそくまで、燭台の火に赤々と照らされながら、善後策を話しあったが、これと言った意見もでなかった。奉書の発給を何度か老中に願いでていた高木作右衛門のような強気の船主まで、黙って頭をふり、当分は、安南交易は思いとどまるほかあるまいと言った。
「わたしは江戸と往復するので、もう疲れきりました。閣老の方々は、まるで本気で異国交易を考えようとはしませんからな」
高木老人はそう言って息をついた。
渡海禁止令は長崎をはじめ大村、有馬、平戸などに居住する交易関係者やその家族に思いもかけぬ衝撃を与えた。彼らは、異国渡海が先細りになるのをひそかに不安に思いはしたものの、まだ渡海船も多く、異国に出て働いている日本人も決して少なくなかった。そうした実情からみれば、いきなり渡海を禁じるなどということは夢にも考えられなかった。まして天川や安南、ジャガタラに親兄弟の住んでいる人々にとっては、この禁令は、いわば一家の生き別れを意味しているようなものだったのである。
禁令が出て間もなく、長崎奉行所は嘆願、陳情、哀訴するこうした家族たちでごったがえすようになった。ある老婆は息子をぜひ呼び戻すから、死罪を免じてくれるようにと、泣きながら役人に訴えていた。別の女は、安南に渡ったきり消息のない良人を捜しに出かけさせてほしいと頼みこんでいた。「このまま、あの人をほうっておいたら、あと五年や十年、むこうに住みつくにきまっているんです。そのくせ日本に帰れなくなれば、とても生きてゆける人じゃないんです。このまま何も知らせずにおくなんて、それは、あまりむごい仕打ちじゃありませんか。私がゆけば、あの人はすぐに戻って参ります。どうか私を渡海させて下さいませ」
女は奉行所の土間に頭をすりつけてそう叫んでいた。
上田与志は通辞溜りに入ったり出たりするおりに、こうした人々の群れに眼をとめた。それは十人、二十人ですむ数ではなかった。彼らは樟の巨木の根もとに腰をおろしたり、石垣にもたれたりして、役人から呼びだされるのを待っていた。なかには、上田与志を担当の役人と間違えて、その袂《たもと》をとらえ、眼をすえて哀訴する女などもいたのである。
与志は非番の日に、あらためてコルネリアを伴って伊丹市蔵や弥七郎を訪ねたが、二人とも、異国渡海の将来には、もはや希望がもてないかもしれぬと暗い顔をして話した。長照寺の離屋に長谷川権六を訪ねても、明るい話は聞かれなかった。与志は、まるで、小さな虫が、途方もなく大きな甕《かめ》のようなものに押しつぶされるのを見るような気がした。末次屋敷も船本屋敷も火が消えたように陰気だったのにひきかえ、糸割符会所や堺屋屋敷などは、明るい笑いにみち、豪商たちがつぎつぎに集まっていた。
そんななかで上田与志はポルトガル人、オランダ人の長崎市中の居住を禁じる法令を翻訳したり、オランダ特使クークバックルと赤毛のカロンが江戸で老中の気に入られて、交易について特別の措置を許されたという報告をオランダ語に訳したりしていた。
上田与志は時おり翻訳の筆を休めると、通辞溜りの窓から見えている樟の大木に眼をやった。暗い部屋のなかに較べて、そこには明るい初夏の光がきらめき、樟の密集した葉群《はむら》が金緑色に泡立って見えた。樟のうえには深い青空が拡がり、淡い雲がゆっくり海からの風に送られて流れていた。何もかも静まりかえり、その静けさのなかを、騒がしい世間をこえた何か悠久なものが流れているような気がした。
上田与志は自分の前に拡げた翻訳の書類を見て、世の中にまだこんなつまらぬものがあるのが信じられないような気になった。オランダ人が江戸にゆこうが、平戸商館が移転しようが、そんなことはどうでもいいような気持だった。
与志がヌイツ引渡しに立会うため、平戸に出張するように命じられたのもその前後のことだった。しかし与志はなぜか平戸にいってヌイツに会う気持になれず、他の同僚に交替を頼んだりした。与志の本心では、単純で尊大なヌイツが、オランダ人にすべて背をむけられ、孤立無援の思いで平戸に上陸する姿を、どうしても見たくなかったのかもしれなかった。彼は、台湾のゼーランディア城の広間で、鬚だらけの顔を真っ赤にして怒り狂っていたヌイツの姿を思いだした。考えようによれば、ヌイツこそは、一徹で、頑固な、単なる正直者だったのかもしれぬ。そのために、激しく変ってゆく日本との交易や、南海の勢力争いの現状に適応できず、バタヴィア城でオランダ総督に反抗して拘禁され、いまは、交易再開のための人質として幕府に引き渡されたのであろう。
与志の眼には、その融通のきかなさ、一徹さは、どこか朱印船交易家の単純な正直|一途《いちず》の性格に似ているように見えたのである。それに引きかえ、オランダ特使クークバックルや赤毛のカロンは糸割符商人たちと同じように打算に長じ、抜け目なかった。その変り身の早さも見事というほかなかった。また、事実、上田与志が翻訳する報告書から推しても、彼らが仕組んだヌイツの引渡しは予想以上の効果を及ぼしているようだった。たとえば、つい一年前には、ヤンスゾーンとともに大坂で足どめされた平戸商館長ピーテル・ファン・サンテンは江戸城の大広間でこんどはクークバックルとともにじきじき将軍家光に謁見をあたえられたばかりではなく、オランダ側の献上品――白糸二百斤、紅糸十斤、繻子《しゆす》十巻、白綾子《しろりんず》十反、緋綾子十反、緋縮緬《ひぢりめん》三十反、麝香《じやこう》二斤など――がこの気負った将軍にことのほか気に入られたというのだった。前だったら、こうしたことが、一つ一つ、与志の心をとらえ、その進展を、翻訳の筆を持ちながら、一喜一憂して見まもったものだった。しかし今は、むしろそんなことに気持をひかれるどころか、そうしたことがまだ前と同じようにあることが、なぜか納得できないことのように思えたのである。
そんなある日、上田与志は青山左兵衛からオランダ船エラスムス号が売立てに出るという話をきいた。「もし手があいていたら、ひとつこの一件の通弁と手続に当ってもらいたい」左兵衛はそう言った。
エラスムス号は台湾《タイオワン》事件の後、浜田弥兵衛はじめ日本側の船員を乗せて長崎にやってきた船だった。与志はそれを台湾に行ったおりにも見ていた。三本|帆柱《マスト》の、舳先《へさき》のそった、軽快な感じの船だった。上田与志は同じような型のヒュースデン号やフレーデ号などにも乗船したことがあり、眼をつぶれば、容易にその形を思いえがくことができたが、しかしエラスムス号にはどことなく遠い海を渡ってきた船らしい不敵な感じがあって、与志の心を奇妙にひきつけるものを持っていた。船に年齢があるとすれば、与志が知りはじめたころのエラスムス号は、まだ壮年の生きいきした感じをとどめていた。しかしその後、五年のあいだに、つづいて大暴風《おおしけ》にあっていて、一度などは、長崎に着いたとき、帆はずたずたにさけ、帆柱も三本のうち二本までが途中で折れて用をなさなかった。曳《ひ》き舟《ふね》にひかれて入江に入ってきたエラスムス号は、死に瀕《ひん》した老人が蹌踉《そうろう》として匐《は》いずっているような印象を与えたのだった。
その後、与志も、噂では、エラスムス号が再起するだろうという話は聞いていた。しかし実際に船が港を出ていかなかったのか、あるいは出港して後、ふたたび長崎を訪れたのか、その辺のことははっきりわからなかった。ただ誰かの話で、エラスムス号がその後ずっと梅ヶ崎の舟蔵《ふなぐら》に引きあげられているということだけは小耳にはさんでいた。
おそらく修理費のかさむ老朽船を、オランダ側は、前々から手放す意向であり、たまたまオランダ使節が将軍に厚遇された時期をえらんで売りに出したのであろう――与志は梅ヶ崎に出かける道々、そんなことを考えた。舟蔵で与志を出迎えたのは、台湾で顔見知りだったウィルレム・フェルステーヘンで、赤味を帯びた髪は、すっかり禿《は》げて、以前の若々しい商館員と同一人物とは思えなかった。
「あんたのほうは、ちっとも変らんじゃないか」
フェルステーヘンはそう言って何度も与志の手を握りしめた。彼は平戸商館から長崎に派遣された出張員で、割符を受けて売買されるオランダ搬入白糸の管理に当るのだということだった。
エラスムス号は舟蔵のなかの船台に乗って、以前と変らず舳先を空中にそりかえらせていたが、舷側にはあちらこちら孔があき、船板はぼろぼろに崩れていた。もちろん帆柱もなければ、翼のように風を白くはらんでいた帆もなかった。それはもはやエラスムス号と名づける船ではなく、翼も毛もむしりとられた名もない船の残骸にすぎなかった。
舟蔵のなかに足を踏み入れたとき、上田与志は、鼻につんとくる古材の腐った異臭の前で立ちどまった。
「これがエラスムス号なのだ。だが、何という変りようだろう。誰があの雄々しい帆船と同じ船だと信じよう? エラスムス号が白い帆をいっぱいに張っていたころ、誰が、このようないまの運命を予想しえただろう? いや、あのころはエラスムス号を見てさえ、おれの気持は躍ったものだった。それは何か大海原を自在に羽ばたく大鵬《おおとり》のような感じだった。自在で、大胆で、気品があった。おれは、それが朱印船交易の未来であるように思ったのだ。いつかコルネリアと天川《マカオ》か天竺《てんじく》か、さらに遠くエウロッパの町を歩くことを夢みていた。いや、それは夢ではなく、現実のことと思えたのだ。このエラスムス号の帆のふくらみを見ていたときは……」
すると、突然、与志は悲哀の感情が胸にあふれてくるのを感じた。
「この饐《す》えた臭いのするエラスムス号の残骸は、いまのおれたちの境涯に、いかにも似つかわしい。おれたちにも、輝くように白い帆もなければ、自在に波を蹴《け》る舳先もない。あるのは、一度渡海すれば死罪をもって迎える冷たい奉行所役人の眼だけだ。もう天川もエウロッパも見はてぬ夢となったのだ……」
与志はそれでも舟蔵の親方の五郎作が、しきりとフェルステーヘンに食いさがって、売値で駆引きするのを通訳した。そんなことでもしていなければ、彼の胸はやぶれそうに思えたのである。
その年の夏は暑く、上田与志は通辞溜りで汗をふきふき仕事をした。そんな役所勤めを終えて与志が家に帰ると、コルネリアは水を打った夕づいた庭で、月見草が花を開くのを、ぼんやり眺めていた。もはや奉書を受けて異国へゆくという船の噂も聞かれなかった。
「このごろ長崎も変りましたわ」
ある日、縁先で夕月を見ていた与志に、コルネリアがそう話しかけた。
「船の賑わいも、もう見られなくなったし、異国人の市中雑居も禁止になったから、これで随分町の気分も変ったな」
「異国人のための出島は、もう工事にかかりましたの?」
「間もなくかかるということだ。いま検査所の庭には、埋立用の石や土砂や材木で足の踏み場もない」
「出島がつくられますと、異国人は、市中に出られなくなるという噂でございますが、本当でしょうか」
「老中ではそう考えているようだ」
「わたくしね、長崎の町のひとも、前とは、異国人に対して、ずいぶん変った態度をとるようになったと思いますの」
「そんなふうに見えるかい?」
「ええ、わたくしなどにもね、ときどき子供が小石を投げたりするんですの」
「小石を投げる?」与志は気色ばんでコルネリアのほうをふりかえった。
「子供ですもの、相手は。そんなこと、わたくし、何とも思ってはおりません。でも何となく町のひとの見る眼つきが違ってきたとは思うんですの」
コルネリアは団扇《うちわ》で風を入れるような仕草をした。
「前に市蔵殿が言っておられた――長崎だけは、異国人も日本人も何の区別をつけぬ特別の町だ、と。それがそんなに変ったとすれば、やはり老中の意向が反映しているのかもしれぬ」
「悲しいことですのね」
コルネリアはそう言って、青いかげりの浮ぶ眼を伏せた。
「しかしまた時勢が変れば……」
与志はそう言いかけて口をつぐんだ。そんなことを言ってみても、どうにもならぬことは与志にもコルネリアにもよくわかっていたのである。
その夏の暑さもそろそろ終りに近づき、朝夕が幾らかしのぎやすくなった頃、与志は奉行所で、長谷川権六が江戸に出向き、老中筆頭の土井利勝に会いに行ったらしいという噂を耳にはさんだ。
与志は奉行所の帰り市蔵の寓居《ぐうきよ》に寄ってみた。
「長谷川殿は京へ戻られたという話でしたが……」
与志はそう訊ねた。
「私もそう思っていた。しかし土井利勝殿にじきじき会う以外には、もう長谷川殿としても手だてはなかったことを思えば、あるいは江戸まで行かれたのかもしれぬ」
市蔵は茶をすすめながら答えた。
「長谷川殿と土井殿とは、先代から昵懇《じつこん》の間柄だった。それに松平信綱殿を押えうるのは老中筆頭の土井殿しかおらぬのだ」
「では、何か望みがもてましょうか」
与志は急《せ》きこんで訊ねた。
「いや、何とも申せぬな」市蔵は宵闇が流れている庭のほうに眼をむけて言った。「松平殿が表面では土井殿に従うこともあろう。しかし……」
「しかし?」与志は鸚鵡返《おうむがえ》しに言って、市蔵の横顔を見つめた。
「しかし松平殿は何を考えておられるのか、まったくわからぬお人だからな。こんどの渡海禁止をみても、松平殿が異国交易に好意をもっているとは言いかねる」
市蔵はそう言うと、縁に出た。夕月が銀色の光を増して、版画のような藍《あい》の濃くなる空にかかっていた。上田与志は、そうして月を仰いでいる市蔵の姿を見ると、いままで気づかなかった老年の衰えをそこに感じた。それは、かつて安南王から当代随一の交易家と呼ばれ、王宮修復にも力をつくした豪快な男とは思えぬ憔悴《しようすい》と苦悩の後ろ姿であった。そして与志はコルネリアがすでに市蔵のこうした衰えに気づいているであろうかと、ふと考えた。与志は、できることなら、こうした市蔵をコルネリアには見せたくないと思ったのである。
その年の秋も前年のように長崎には雨が多かった。まだ花の残っている夾竹桃《きようちくとう》が長雨にしとど濡れていた。上田与志は奉行所からの帰り、門を入りながら、塀のうえに枝をのばした夾竹桃の繁みをぼんやり見あげた。
そんな雨のなかを、ある日、伊丹市蔵が蒼ざめた顔をして訪ねてきた。眼は血走り、震えている唇には色がなかった。与志はちょうど奉行所から帰ってきたところだった。
「どうされました?」
与志はそう言って、市蔵の身体をかかえるようにして座敷にあげた。市蔵は与志の腕にかじりついた。
「小曾根がな……」市蔵はそれだけ言って、しばらく言葉が出てこなかった。
与志は、市蔵の銀色に光る剃《そ》り残しの髯《ひげ》が艶のない頬のうえで震えるのを見つめた。コルネリアは水を市蔵に差しだした。
「小曾根さまが、どうかなさいましたの?」コルネリアは市蔵の背をさすった。
「小曾根がな……薩摩の小野民部を斬った」
市蔵は喘《あえ》ぐようにそう言うと、急に、その場に坐りこんだ。
「小曾根が? 小野民部を?」与志は市蔵を支えた。「また何で小曾根はそんな……?」
市蔵は息をついた。与志は茫然としてコルネリアと顔を見合せた。
「私にはな、前から、小曾根はそう洩らしていた。いつか、小野を斬らなければならないとな……」
「なぜです? なぜ小曾根が小野民部を斬る必要があるのです?」
「小曾根はこれ以上小野の裏切りを看過しえなかったからだ」
市蔵は肩で息をついた。彼はコルネリアに葡萄酒を一口貰えまいかと言った。彼女は玻璃《ギヤマン》の盃に赤く澄んだ酒をそそいで市蔵に差しだした。彼はそれをうまそうに眼をつぶって飲んだ。それからゆっくりした口調で言った。
「小曾根は前から渡海禁令のことで悩んでいたのだ。小曾根が江戸で松平殿と会ったときまでは、禁令の話は出ていなかった。それが一年とたたぬうちに、突然、禁令が出ることになった。小曾根は、なぜこのような変化が閣老のなかに生じたのか、その理由を突きとめたいと思ったのだ。そのため、かれは京都から、さらに江戸まで足をのばした。松平殿にも実情を確かめた。そしてこの一連の禁令が、薩摩の交易方、とくに小野民部の駆引きから生みだされていることがわかったのだ」
市蔵は息をついた。与志はまざまざと小野民部の蒼ざめた冷静な顔と、眼のしたの|ほくろ《ヽヽヽ》を思いだした。市蔵はコルネリアのつぐ葡萄酒を飲むと、話をつづけた。
「小曾根は江戸にいって、ここ数年のあいだに、万事がいかに変ったかを見ておどろいたのだ。むろん江戸風俗が華美になったことなどは、さしておどろくに当らなかった。かれがおどろいたのは、たとえば江戸城詰めの旗本、与力ら定番衆の勤務が厳しく統制され、従来のように濶達《かつたつ》自在に勤務するわけにゆかなくなったことだった。役割分担が細かく決められたばかりではない。その勤怠は上司により監視され、違反者は厳しい科料をもって罰せられるのだ。江戸城に入っただけで、もう息がつまりそうだ。こんなことは、数年前までは考えられなかったと小曾根は言っていた。さらに関東の知行地の入替え、大名の国替えなど、ここ数年来、一々調べきれぬほど頻繁《ひんぱん》に行われている。こうした変化はすべて松平信綱殿を中心とする将軍側近の六人衆の意向から生れている。要するに、小曾根が江戸でつかんだのは、先年の前将軍秀忠殿の死後、急速に、国のなかが変って、息苦しく統制されつつあるということだった。それが九州統治に反映しないはずはない。松平殿は九州を同じように、強固な統制のもとにおくことを主張した。豊臣残党と旧西方大名のなし崩しの排除はすでにここ二十年来の幕閣の変らぬ方針だった。熊本の加藤直純が改易されたのも、その単なる一例にすぎぬ。しかし松平殿はそれをさらに徹底しようと考えられた。できることなら、九州の諸大名を、三河以来の譜代大名と入替えさせたいと考えたくらいだ。とくに、その中でも問題なのは、薩摩藩だ。なるほど島津は一貫して必要以上に恭順の意を表わそうと懸命になっている。だが、松平殿の意向はそんなことと一向に関係なく、島津を改易することにむけられていた。これはさまざまな証拠から、事実とみていい。小野民部が苦慮していたのもその点だ。とくにデ・マスレータの抜け荷が加わって、小野の苦悩が一通りでなかったことはたしかだ。しかし小野民部は、抜け荷の件を闇に葬る一方、松平殿のこうした方針に対して、さまざまな手段を考えた。小野が、幕府に対して単なる恭順策で対応したならば、いつか島津家が取りつぶしになるだろうと見ていたのだ。小野民部は稀にみる炯眼《けいがん》の男だ。事実、もし島津がひたすら頭を畳にこすりつけるようなことをしていれば、いまごろ加藤家同様、領地から放り出されていただろう。小野民部はそれを見抜いていたから、逆の手に出たのだ。松平殿が幕府の統制を急ぐことの裏には、何より騒擾《そうじよう》をおそれる気持が動いていることに、小野は気づいていた。小野はそれを利用しようと考えたのだ。そこで、まず、小野民部が眼をつけたのが小曾根乙兵衛だった……」
「なぜ小曾根を?」
与志はおどろいて叫んだ。
「いまだから話すが、小曾根はご老中の隠密をつとめていたのだ」
「では奉行所通辞は……」
「左様、表向きの仕事にすぎなかった」
上田与志は何か喋ろうとした。しかしそれは声にはならなかった。彼は半ば口をあけたまま、まじまじと市蔵の顔を眺めた。
「いや、おどろくのも無理はない」市蔵は言った。「私もそれを知ったのは、つい最近のことだ。小曾根は隠密として九州一円の南蛮銃、火薬、牢人者の数など詳しく調べあげていた。かれは、それが九州を戦火にまきこむのをおそれて、そのため、万一のとき、幕府が未然にそれを押収できるよう、綿密な報告をつくった。しかしそれが老中を刺戟するのをおそれて、小曾根は報告をためらっていた。実は、小野民部が眼をつけたのは、この報告書だった。小野は、薩摩の実情を報せる代償として、小曾根の調べた報告を提供してほしいと申しいれた。人も知るように、薩摩の実情はたとえ隠密でも、外部の人間にはなかなかつかみにくい。そこで、小曾根は、その報告を極秘にするという約束のもとに、情報を交換した。しかし小野民部はその取決めを無視して、それを恐喝の材料に使ったのだ。九州の火砲の実態に、実のところ、松平殿は震えあがった。そして南蛮銃や火薬の渡来を禁止するには、ただ渡海と交易の禁止しかないと思いこんだのだ……」
上田与志はじっと雨が夾竹桃のうえに降るのを眺めていた。
「小野民部はわざわざ朱印船交易が危険なこと、薩摩が九州一円を押えるかなめであることを強調した。松平殿が渡海禁令を突然決定したのは、この小野民部の教唆があったからだ」
上田与志はぼんやり市蔵の声を聞いていた。彼は自分がどこまで市蔵の話を理解しているのか判然としなかった。彼にはただ雨がしとど降りつづけ、庭先の苔《こけ》に白露が銀色に光っているのが見えているだけだった。温厚な小曾根の小肥りの顔や、堺の波止場で話しあった姿や、ゆっくりオランダ語を勉強したいと言っていた言葉などが、きれぎれに与志の記憶によみがえった。
「だが、なぜ小曾根は小野民部を斬ったのだろう?」与志は雨が夾竹桃のうえに降るのを見ながら考えつづけた。「小野が裏切ったからか? そうかもしれぬ。だが、あの温厚な男が、それだけの理由で小野を斬るだろうか」
もちろんその疑問を与志は市蔵にもコルネリアにも言わなかった。しかしそれはその後、事あるたびに与志の心のなかに生れては、彼に解答をせまった。
小曾根乙兵衛が屍体《したい》となって大浦の浜に打ちあげられたのは、それからしばらくたってからであった。それは、小曾根が小野を斬ったという報せを聞いたときから、与志もコルネリアもすでに予期していたことだった。それにもかかわらず小曾根の屍体が海から上ったという報せは二人を深く悲しませた。コルネリアは顔をそむけ、ながいこと、声を忍んで泣いた。それから雨のなかを奉行所上屋敷にある小曾根の家に、妻の幾《いく》を訪ねた。
小曾根乙兵衛の死の三年後、寛永十三年(一六三六年)五月、藤が淡い花房を庭先に飾るころ、上田与志は奉行馬場三郎左衛門に呼びだされた。それはかつて長谷川権六が奉行だったころ、よく出入りした奥の書院だった。その書院の窓からも淡い藤の花が見えていた。
馬場三郎左衛門は日焼けした皺《しわ》の多い初老の奉行で、好人物そうな、やさしい眼をしていた。与志は奉行から茶をすすめられ、何とない世間話を聞かされた。
「ところで」しばらくしてから馬場三郎左衛門は声をあらためて言った。「失礼ながら、そのほうの妻女は異国人の血を受けているといわれるが、本当か」
「妻の母はポルトガル人でございます」
与志は膝のうえに視線を落して言った。
「左様か」馬場三郎左衛門は大きく息をついて言った。「実はな、そのほうには誠に気の毒であり、私として言い難いことだが、このたび、ご老中でな、異国人の血をうけた者は、国外へ追放することを決めたのだ。誠に私としては申し難いことだが、上意は背きがたい。妻女のことは十分に監視して貰いたい」
与志は身動きもせず奉行の声を聞いていた。彼の眼は、意味もなく庭先の藤の花房を見つめていた。世の中から音が消えはてたような感じだった。そしてその音の消えたなかを、風もないのに、花房から花がたえずほろほろとこぼれていた……。
季節がゆっくり移っていった。
町では祭礼があり、火事があり、唐船やオランダ船の入港があり、倉庫が賑わい、舟大工が走りまわっていたが、上田与志の家はひっそり静まりかえっていた。
一日に何度か与力が与志の家を見廻り、コルネリアの在宅を確かめていった。
コルネリアは座敷の奥で着物を縫っていた。天川にいったら、日本の着物は手に入らないだろうから、と彼女は言っていた。与志はコルネリアからとくに悲嘆の言葉を聞かなかった。それだけに、時おり、裁縫の手を休めて、庭先に眼をやっているコルネリアの姿に、彼は、言い知れぬ孤独な影を感じて、胸をつかれた。
そんなある日、ふと、小曾根のことを思いだした。そして彼が、すでに以前から異国人の血を受けた者が追放されることを知っていたのではないかと思った。おそらく小曾根はそれを阻止するか、そんな話し合いをするために小野民部を訪ねたのではなかったろうか。
与志にはなぜかそれがたしかなことのように思われた。
「それを拒まれたからこそ、小曾根は小野民部を斬って、自分も死を選んだのだ。それ以外に理由はない」
与志はそうつぶやくと、身体のなかで、何かが音をたてて崩れるような気がした。
コルネリアが、他の混血児たち二百八十九人と天川に追放されたのはその年の九月二十日のことであった。
樟の巨木をざわめかせる初秋の風のなかをポルトガル船四艘に分乗した男女が長崎の入江をあとにした。
与志は遠ざかる船の艫《とも》にコルネリアが髪を風に吹かれじっと立っているのを見まもった。船は帆に風をはらみ、ゆっくり入江を出ていった。浜には身を投げて泣く人々が満ちていた。
*  *  *
それからすでに十年の歳月が流れていた。天川の海峡を低い雨雲が閉ざし、風が山ぞいに激しく吹きぬけていた。コルネリアは木々の葉が白くひるがえって、激しく枝がゆれるのを眺めていた。
コルネリアは、ちょうど、長崎から渡来したオランダ船の船長から六年ぶりの故国の便りを受けとったばかりだった。彼女はその手紙をもって、丘の上の天主堂にゆこうと思ったのである。
彼女は風に吹かれながらもう一度その手紙に眼をやった。それは、奉行所のもとの同僚から、ひそかに送られてきた手紙で、そこには上田与志の不慮の死が告げられていたのだった。はじめコルネリアはその文面を信じることができなかった。もとの同僚は上田与志の密航事件とその切腹にいたる細かい経緯を報告したあとに、こう書いていた。
「与志殿は、最後まであなたを異国へ追放させたのは自分の責任だと信じていました。与志殿は、ながい年月、孤独な生活をされた揚句、与志殿自身を異国へ追放する以外に、その責めを果せぬように思ったのでしょう。与志殿にとって、すくなくとも、あなたが異国で孤独に苦しんでおられるのに、日本にこれ以上とどまることはできないと思ったのです。おそらく与志殿は死のことも考えておられたのかもしれません。でなければ、なぜあのように簡単に発覚するような方法で異国へ渡ろうと試みられたのでしょうか。私は与志殿の死に立会った者として、その立派なご最期に深い感銘を受けたことを申上げなければなりません。与志殿は一度腹を一文字に切られてから、立ちあがり、あなたの名を呼ばれ、何事かを叫ばれたのです。何を言ったのか、死に立会った人々には、わかりませんでした。誰ひとり、与志殿の最後の言葉を理解できなかったのです。しかし私にはわかりました。私には、その身体の奥からふきあがってくるような叫びがわかったのです。与志殿はポルトガル語で〈いとしい妻よ、私たちを引き裂くものは何もない〉と叫ばれたのです」
コルネリアは手紙から眼をあげると、じっと風の吹きぬける海峡を眺めた。そこには海を閉ざす低い雲のほか何一つ見えなかった。白い帆を傾けて過ぎてゆくエウロッパの船も見えなかった。
しかしその海峡を、見えない大きな意志のようなものが吹きぬけていて、それがたえず彼女のほうに吹いているのを、コルネリアははっきり感じた。彼女は眼を閉じて風のなかに頭をあげ、その風を全身に受けて立っていた。彼女にはそこに、上田与志の最後の叫びがなお聞えるように思えたからである。
昭和五十一年七月新潮文庫版が刊行された。