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セイジ
内智貴
目 次
セイジ
竜二
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プロローグ
今はもう寂れてしまった475号線沿いに、一軒のドライブインが有る。
田舎の、埃っぽいアスファルトの道路の脇に、それは、ぽつん、と佇むように建っている。
コンクリートを無雑作に打ちつけただけの何か投げやりな感じのする店《それ》は、元は農家の納屋だったものを無理矢理に改造したものだという事で、そのせいか、入口の扉の脇には錆だらけのトラクターが一台どすんと置かれている。
訪れた客は一瞬何だと思うが、それが店のアクセサリーなのか、それとも片すのが面倒で、ただそこに置き放しにしてあるのか、客は勿論、店主自身にもよく分らないまま、開店の時からもう十年近く、それはそこにそうして置かれている。
店の向うには姿の良い山々が連なって見渡せ、店は、その山間《やまあい》に広がる田舎町を見下ろす様な格好で山の中腹の道路沿いに建っている。
辺りに何も無いアスファルトの道路に "COFFEE" と大きく書かれた看板がぽつんと置かれ、割に広い駐車場を挟んで、その店はある。
店の名は「|HOUSE《ハウス》 |475《ヨンナナゴ》」。
入口の厚い木製のドアの上に青《ブルー》のネオン管でそう示されている。
接触が悪いのか、「HOUSE」の「S」の部分だけが不規則な調子で、ジジ、ジジジ、と歌う様に点滅していて、その、だらしのないルーズな明滅が、辺りの風に、その店の繁盛《はや》らなさを無邪気にうちあけている様にも見える。
まったくの話、475号線はハヤラない通り[#「通り」に傍点]には違いなかった。
しばらくそこに佇んでみても車は滅多に通らない。ガランとしたアスファルトの上を、捨てられたコーラの空き缶などが風に転がされて行くばかりである。
昔は、そんな風では無かったらしい。
そこから車で西へ一時間ばかり行った所にかなりの都会があり、かつては、その街へ向かう車や、そこから他の街へ流れて行く車やらが二十四時間ひっきりなしに走り抜けて行く、そんな賑やかな通りだった頃もあったらしいが、近くにバイパスが出来、それが近隣の都市を直線に繋げてしまってからは、475号線はまるで客足の絶えた寂しい通りになってしまった。かつては争う様に建ち並んでいたモーテルやレストランなども一つずつ姿を消し、今はその店だけが、その界隈にぽつんと佇んでいる。
空のやけに青い、山間《やまあい》の、静かな田舎町にその店はあった。
僕が、旅の途中にふと立ち寄ったその店でひと夏を過ごしたのは、もう十年も前の事になる。
そして、それきり、僕はその店を、そしてその町を訪ねた事は無い。
この十年間、もう一度あの町を訪ねてみたい想いに常にかられながら、そしてそれが物理的には何時《いつ》でも可能な事を自分に確かめながら、それでも何故か、十年が過《た》った今でも、僕はそうした機会を持たずに居る。
そして折りに触れ、あのハウス475での懐しい日々を想い出しては、僕がその町で目にした、或る一つの忘れ難い「出来事」を、一人、心に映し出してみる。
それは僕の胸に灼きついたまま、今なおその熱を失う事無く僕の中に息《い》きつづけている。それは、或る意味で、確かに、一つの、奇蹟[#「奇蹟」に傍点]と言っていい出来事だった。
十年前、ひと夏を過ごしたその田舎町の片隅で僕が偶然に遭遇した、そんな、忘れ難い奇蹟の物語を、僕は、これから語ってみようと思っている。
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PART ONE
あの頃、僕は大学の四回生だった。
その夏、就職もほぼ決まった大学生活最後の夏期休暇を、僕は自転車旅行などに費《ついや》してみようと考えていた。
といって、そうした事の目的としてよく有りがちな日本一周だの何だのというヘンな志《こころざし》は僕に何も無かった。一周どころか半周する気も無かった。ただ休暇が始まって間も無い頃、下宿で一人退屈し切っている所に友人が訪ねて来て、そいつは毎年の様に自転車旅行なるものを敢行しては、どこまで本当だか知れない感動話を僕に聞かせる様な奴だったが、そいつが言うには、自分は故郷で就職しようと思っているので今年は自転車旅行を止《や》め、夏休み中故郷で色々な人と会う予定である、ついてはお前に自転車を貸すので、それで旅行してこい――と、どうしてそうなるのか分らないが、そいつは僕にそんな事を強制した。
「たまにはお前もそういう健康的な事をやらなくては駄目だ」と何やら保護者の様な事を言い、それから自分のこれまでの体験談などを、やっぱりどこまで本当なのだか分らないまま僕に滔々《とうとう》と述べた後で、「実は下に自転車と寝袋をすでに持って来ている、それで行ってこい、分ったな」と僕を見つめると、それで気が済んだのか、立ち上り帰って行くと翌日にはさっさと帰省してしまった。
下宿の庭に置かれた自転車をボンヤリと眺めながら、まァやってみるか、とそう思い、そして数日後、リュックに簡単なものを詰め込んで、僕はフラリと下宿を旅立った。
面倒になれば自転車だけ送り返せば良いとそんな風に考え、そして多分そうなるだろうと思いながらの出発でもあった。
だが、やってみると、それは思ったよりも快適で、なるほど、気分の良いものではあった。
風を全身に受けながらボンヤリとペダルを漕ぐうち、夕方には二、三十キロ離れた郊外の町に着いた。急行の停まらぬ小さな私鉄の駅があり、その駅前で食事をとった後、夜は更に十数キロ程先の町へ行き、その大通りにバスターミナルを見つけては深夜のベンチで軽く睡眠をとったりした。
旅はそんな風に始まり、そして、そんな風に続いていった。
食事は、適当に目にとまった店ですまし、大きな通りに出さえすれば真夜中でも営業を続けるレストランがあった。
夜は、神社だの、駅の待合室だので寝袋にくるまって寝た。屋外に、それも一人で眠るといった経験はそれまでに無かったので、多少、不安めいたものも無いでは無かったが、まァ死ぬ事は無いだろう、とそうも考え、そしてやってみると、成程、死ぬ程の事は無く、冬さえなければこうして一生過ごすのも悪くない、などとヘンな事を一人空の下で考えたりしていた。
そうして、僕は、気ままに、そして無目的に、ただボンヤリとペダルを踏みつづけた。
気の向くままに方向を定め、目にとまるままの風景に惹かれ、あても無く右に左に道を折れながら知らない町を幾つも過ぎた。
海に出れば、海を眺め、雨が降れば、雨を眺めた。
それは、旅行、というよりも、いわば、散歩に近いものだったろうと思う。
僕はもともとボンヤリ何かを考えたりしていると平気で十キロやそこらの距離を歩いてしまうタチで、いってみれば、それをただ泊まりがけで長々とやっているだけの事なのだった。
そうして、下宿を出てから六日めか七日めぐらいの事だったと思う。いつからか僕の漕ぐ自転車は475号線を走っており、それを往くうちに、やがて僕はあの町に入っていった。
四十キロ制限の二車線の道路の両側に小さな商店が絶える事なく軒を連ね、その、だんご屋だの、旅館だのといった看板を眺めながら僕はペダルを踏みつづけた。
左手に海がひろがり、その海岸線をローカル線の鉄道が走っていた。商店の屋根越しに海を眺めたりしながらペダルを漕ぎつづけるうちに通りは次第に賑やかさを増し、人の往来も繁華なものとなっていった。駅が一つあった事を考えると、その辺りは、駅を中心とした、その町の中でも一番ひらけた所だったのかも知れない。喫茶店やらゲームセンターやらが駅前の十字路に密集しており、観光客らしき姿こそ無かったが、近くに高校でもあるのだろう、制服の、少年や少女達が、思い思いにそんな十字路を行き交っているのが見えた。丁度、昼時でもあり、僕は少しの空腹を覚えていたが、その時は腹を充たす事よりも、そうした風景の持つ淡い旅情の中に、ただ心を浸しつづけてみた。
僕はまだ二十二歳の、それこそ四年前に高校を卒《で》たばかりの若造ではあったが、行き交う学生達のそれぞれの制服に何かひどく懐しいものを覚え、ましてや、恐らくもう二度と会う事も無い、その海辺の小さな町の少年や少女たち一人一人の、その人生、と言って大袈裟なら、その小さな毎日、小さな生活、そうしたものの中で、それぞれにある、幸福や、又幸福で無い事や、そんな事を一人勝手にアレコレ思っていると、何かひとの一生というものが、うつくしいような、残酷なような、或いはただ馬鹿馬鹿しいだけのもののような、そんなヘンな切なさを感じて、感じるまま、僕は、ただそこで何本も煙草を喫みつづけた。
単線の、小さな駅に、一時間に数本ほどかと思われる電車が幾度か着き、その度に、そこから人が疎《まば》らに降りたっては、その小さな町角に一つ一つの生活を散りばめていく―――――
誰ひとり知る人の居ない、そんな町角で、
(旅をしているんだな)
そんな事が、ふと思われた。
煙草を捨て、一つ背を伸ばし、僕は晴れわたった空に向けて、タン、と一つペダルを蹴った。
(いい夏だ)
とくに意味も無いそんな言葉を胸に呟きながら、僕は、旅を、またひとり走り始めた。
やがて通りから賑やかさは失せ、畑が広がったり、その向うにポツリポツリと農家が点在したりと、そんな風景がつづく様になった。
腹も少し本格的に空いてきた事も有り、さてどうしたものかと考えているうち、475号線は山に向かって緩やかな勾配を見せはじめていた。その旅の中で僕は極端な登り坂だけは敬遠しつづけて来たのだったが、丁度道路の側に居あわせた農夫に尋ねてみた所、それは頂きまで歩いても三十分程の峠であると、そう教えられた事も有り、それなら頂上《そこ》からひとつ海でも眺めてみるかと、僕は自転車を下り、それを押しながら、その坂道をゆっくりと登り始めた。
だが、ものの十分も行くうちに僕はすっかり疲れ果ててしまった。真夏の灼けつく様な日差しの中で、アスファルトの照り返しを受けながら自転車を押して坂道を上って行くには、余りに腹が空き過ぎていた。立ち止まり、晴れわたった真っ青な空を仰ぎ見てはそこに幾つも荒い息を吐いた。蝉がやたらと鳴きしきる峠道で僕は何度も汗を拭い、そうして、ウムだの、エイだのと、やたらに声を発しては、ただひたすら自転車を押しつづけた。
そんな事を何度か繰り返すうちに、やがて坂は了《おわ》り路は徐々に平坦なものになっていった。やれやれという思いで最後のカーブを一つ曲がり了えた時、そこから、森を切り拓いて真っ直ぐに伸びて行く475号線が僕の視界に一望に映し出された。
静まりかえった深い緑の中に、それは夏の陽に灼かれて、ゆらゆらと銀色にゆらぎながら一直線にどこまでもつづいていた。
そして、そんなアスファルトの直線の傍らに、あの「ハウス475」は、ぽつん、と佇むように建っていた。その、青《ブルー》の、Sの一文字《ひともじ》がルーズに明滅するイカレたネオンサインが、疲れきった僕の目に、何か蜃気楼のように淡く映った事を、今もよく憶えている。
店に近づき、自転車を立て、僕は入口のドアの前に立った。
音の無い午後の静けさの中に、ネオン管のジジジというかすかな音だけがドアの上から漏れおちていた。
傍らに置かれた錆だらけのトラクターが目にとまり、僕は農家の人が副業でやっている店かとそんな事を思ってみた。
その運転台にメニュー板が立てかけてある。コーヒー幾ら、ビール幾ら等と書いてある中に食事類はカレーとピラフぐらいのものしか見当らなかった。
(ピラフにしよう)
僕は考えを決め、入口の木製の厚いドアを引いた。
それが動かない。押すのかとそうしてみたがやはり駄目である。僅かにカタと動くきりそれ以上に開かない。腕の時計を見ると午後一時。夕方からの営業なのだろうかと落胆と一層の空腹を覚えたが、しかし見上げてみるとネオンは灯《つ》いている。入口を離れ、並んだガラス窓から店の中を覗き込んでみた。大きなコンクリートの箱のようなそのぶっきらぼうな外観とは対照的に、店内は、都会的で居心地の良さそうな装飾が施されている様に思われた。ただ残念な事に、そのフロアにもカウンターにも人影は見えない。
暫く無人の店内をそうして眺めていたが、何時《いつ》までそんな事をしていても仕方の無い事に気づいて、僕は少し途方に暮れる思いでそこに佇んだ。
その時、後ろの車道で、車のクラクションが二度、短く鳴った。
店の中を窺うのに夢中で気づかなかったが、ふり向くと、いつからなのか一台の乗用車がエンジンをかけたままそこに停車している。ピカピカに磨き込まれた左ハンドルの真っ赤なセダンで、その運転席から男の人が一人、こちらに顔を向けていた。三十前後の、何か俊敏《すばしつこ》そうな、しかしどこか気のいい感じのする顔をした人だった。
「何やってんだ? おマエ」
その人はどこかとぼけた口調で、僕にそう言った。
「はあ」と僕は頭を掻き、「食事をしたいと、思ったんですけど」
僕の立つ店の入口から車道までは駐車場を挟んで七、八メートルの距離があるので、少し声をあげて、そう応えた。
「食事は、おマエ、窓覗き込んだって駄目だよ、中、入んなきゃ」
そう言ってその人は、うひゃひゃひゃひゃ[#「うひゃひゃひゃひゃ」に傍点]とヘンなふうに一つ笑った。そして「開《あ》いて無いんだろ?」と何やら楽しそうな顔で僕に尋ね、はぁ、と肯《うなず》いて応えた僕に、その人は又、大きな声で、うひゃひゃひゃひゃ[#「うひゃひゃひゃひゃ」に傍点]と笑った。
最初はもしかしたら店の人なのではないかという期待を持ったが、どうも、そうでも無いらしい。何が可笑《おか》しいのか知らないが一人でうひゃひゃ[#「うひゃひゃ」に傍点]とただ笑っている。だが、その様子には、その店を良く知っているらしい、そんな感じはあった。
「ちょっと待ってろ」
その人は表情にまだ笑いを残しながら、そう言うと、ハンドルに手を掛けた。
そしてカカカとギアを入れると物凄い勢いで車をバックさせ、させながら向きを変えたかと思うと今度は唸る様に店めがけて車を突進させ、そうして僕のすぐそばまで車体を寄せると、横滑りする後輪からけたたましいブレーキ音を絞り出しながらまるで嵐のような騒々しさでそこに急停車した。
辺りにタイアの焦げついた匂いが、プンと一つ残った。
わずか七、八メートルの距離を移動するのにそんな大騒ぎする人を僕はまだ見た事が無かったので、半《なか》ば呆れる様な気持で僕は運転席のその人を見つめた。―――――
それが、僕が、カズオさん[#「カズオさん」に傍点]と会った最初の時だった。
僕は、後に親しくなる幾人かのハウス475の常連客達の中で、まず、そんな形でカズオさんと知り合いになった。
カズオさんは、その頃ちょうど仕事をやめたばかりの無職の状態で毎日ヒマを持て余している、そんな頃だったから、旅行者然[#「然」に傍点]とした僕を見つけて、もしかしたらいい退屈しのぎぐらいに、その時、思ったのかも知れない。
「どれ、俺サマが見てやろう」
そう言って、運転席から下りると、カズオさんは僕のそばに立ち、そして店のドアに手をかけた。それから、僅かに動くだけのそれをガタゴトと激しく揺すりながら店に向って大きな声を上げた。
「オイ、セイジ[#「セイジ」に傍点]っ、開けろっ、客だぞ客っ、めったに来ねェ客が来てるぞっ、開けねェと逃げちまうぞっ、開けろったら開けろっ、さっさと開けねえかこのバカヤロウッ」などと叫びながら暫くの間ひとりで騒いでいたが、ひとしきり騒いでようやく気が済んだのか、ドアに掛けていた手を離し、後ろをふり向くと、「まだやってない様だな」と分りきった事を僕に告げた。
「はぁ……」と力の無い声をおとし、僕はボンヤリと道路の彼方を見た。カズオさんはそんな僕の様子に少し目をとめていたが、それから傍らの僕の自転車に、じっと目をおとすと、
「コレ、おまえの乗リモノ?」
と僕にそう尋ねた。ハァ、と応えると、カズオさんは、なるほど、と一つ肯いた。そして、なるほど、なるほど、と更に二度、そう繰り返した。
カズオさんの「なるほど」を都合三回聞いた後で、「あの、この辺りに食事できる様な所、他に有りますか?」と、僕はそう尋ねてみた。カズオさんは首を少しハスに傾けながら、「……うん、まあ、少し行きゃ、無い事も無いが」とそう応え、それから、また傍らの自転車にチラと目を向けると、「でも、これじゃあなあ」と言って、うひゃひゃ[#「うひゃひゃ」に傍点]、と又笑った。
僕は小さく息をついて、ボンヤリと空を見上げてみた。
「まァ、もう少し待ってみちゃどうだ。あれだけ騒いでやったから今に出てくるよ」
カズオさんは僕を見るとそんな事を言った。
え? と僕は要領を得ずに小さく尋《き》き返した。
「出てくるって、誰が[#「誰が」に傍点]、ですか?」
「セイジがよ」
カズオさんはそう応えて、それから煙草を取り出しそれに火をつけると、吸うか? と言うように、それを僕に差し出した。ハァと一本を貰い、火をつけてもらいながら、「セイジさん[#「セイジさん」に傍点]って、この店のヒトですか?」と僕は尋いた。
「そうよ」とカズオさんは肯く。
「居るんですか?」
「居るよ」
「中に?」
「ああ。車が有るからな」
そう言ってカズオさんは駐車場の隅に僕の視線を誘った。なるほど、見ると古ぼけた国産車が一台そこに停まっている。
「あれが、その、セイジさんの車、なんですか?」
カズオさんは煙草をふかしながらコクリと肯くと、「セイジは夜眠れないタチだからな、だいたい昼過ぎまで寝てるんだ。町一番の変わり者よ」
そう続けて、はじける様に、うひゃひゃひゃひゃ[#「うひゃひゃひゃひゃ」に傍点]と又笑った。
段々うひゃひゃ[#「うひゃひゃ」に傍点]に慣れてきた僕も、つられて思わず笑ってしまった。空腹で半ばヤケ[#「ヤケ」に傍点]にもなっていた。
そんな僕が可笑しかったのか、カズオさんは一層おおきな笑い声でそれに反応《こた》えた。そしてそれにまた僕がはじかれたような笑いを返した。
そうやって二人向きあって店先で大声で笑いあっているうち、カタン、と錠の外《はず》れる音がして、店のドアが開いた。
「うるせえなあ、おまえら」
少し眩しそうに顔をしかめながら出てくると「セイジさん」はまず僕たちにそう言った。
素肌に白い綿のシャツをひっかけただけのルーズな格好で、顔には短い無精髭がだらしなく伸びていたが、痩身のせいか、そう不潔感といったものは僕に感じられなかった。
「おう、セイジ、起きたか、イヤ、こいつがな」と僕を指さしてカズオさんがそう言いかけた時、奥からもう一人、今度はきれいな女の人が姿を見せた。カズオさんとセイジさんは同じ位の年格好だったが、その女《ひと》は、それよりも少し年上であるように見えた。
「あ、どうも、翔子さん、コンニチワ」
とカズオさんはその女《ひと》にペコリと頭を下げた。
「あら、カズオちゃん、コンニチワ。随分騒いでくれてどうも有難う」とその女《ひと》はクスリと微笑《わら》ってそれに応えた。それから、その細い指先でカズオさんの愛車を一つ撫でると、
「また買ったの?」とカズオさんに尋いた。
「ええ、まあ」と頭を掻いたカズオさんに、
「いい歳《とし》をして車ばっかり磨いてないで、早くお嫁さんでも貰いなさいよ」
どこか姉が弟をたしなめる様な調子で、その女《ひと》はそんな事を言った。
カズオさんは、一瞬、顔を赤らめると、
「いえ。は。いや、僕はまだ、その、三十二、ですので、嫁サンなんて、そんな、うひゃひゃひゃ、まだまだ、あれですけども」
と、しきりにテレてみせた。
「何テレてんだか」と翔子さん[#「翔子さん」に傍点]は一つ微笑《わら》い、それから僕に小さな会釈をみせると、そのまま駐車場の隅に停めてあるセイジさんの車へ向って歩いていった。
「翔子さん、送ってくのか?」
煙草に火をつけようとしているセイジさんにカズオさんが、そう尋ねた。
「ああ」と応えたセイジさんは、店のカギらしきものをカズオさんにヒョイと投げて渡すと、「帰りに、どっかでメシ喰ってくるよ」そう続けて自分の車へ歩いていった。
「そうか。ヨッシャ。行って来い」とカズオさんはセイジさんを機嫌良く見送っていたが、ふと側《そば》の僕に気がつくと、「あ、いや、オイ、セイジ、このタビビト[#「タビビト」に傍点]がよ、ハラペコなんだってよ」と、その背中に声をかけた。
「ああ。中で何か喰わせてやれ」
セイジさんはそう応え、それから車のそばに立つと、「丁度いい、オレが戻るまで店に居てもらってくれよ」
そう言いのこして車に乗りこんだ。
エンジンがかかり、駐車場を一つ廻ると、やがて車は二人を乗せて路の彼方に走り去って行った。
それを遠く目で送りながら、
「きれいな人ですね」
と僕はカズオさんに言ってみた。
「翔子さんか? ああ、きれいだし、とても、いいひとだよ」とカズオさん。
「セイジさんの恋人なんですか?」僕は重ねてそう尋ねてみた。
「そんなんじゃねえよ」
カズオさんは明るく一つ笑って、さっさと店に入っていった。
結局、その日セイジさんは真夜中過ぎまで店に帰って来なかった。僕は店の奥の長椅子に身をもたせて、そこから見える遠い夜の風景を窓越しに眺めながら、ボンヤリと店主の帰りを待ちつづけてみた。
午後にセイジさんを表で見送った後、僕はカズオさんに促されるまま店に入り、そのカウンターに腰を下ろした。それから、勝手知ったる様子でカウンターに入ったカズオさんがピラフとスープをつくってくれ、それで僕はやっと人心地つく事が出来た。
そのうち日が暮れかかる頃から一人二人と店の常連の人達がカウンターに顔を並べ始め、カズオさんが僕のことを「親兄弟の無い天涯孤独の旅人だ、よろしくね」などとデタラメな紹介をして皆の哀れみを誘ったりしているうち、ポツリポツリとフリの客たちが入って来たりもして、店主不在のまま、店はそれなりの賑やかさをみせはじめた。
いつからか僕もカズオさんと一緒にカウンターに入り、そこでコーヒーを入れたり、カレーを温めたり、レジ打ちを間違えてカズオさんに一つヒッパタカレたり、そんなことをやっているうちに、田舎町のドライブインに、時はバタバタと慌《あわただ》しく過ぎていった。
それから又夜がすこし更け、一人二人と常連の人達も帰り、カズオさんはセイジさんが戻ってくるまで付き合ってくれるつもりだったらしいが、自宅から店に電話が有り、さっさと帰って来い[#「さっさと帰って来い」に傍点]とでも言われたらしく、「いつまでもヒトをガキ扱いしやがって」とそう腐りながらカズオさんもそのうち帰っていった。
帰りしなに、カズオさんは僕に、「まあそのうちセイジも帰ってくるだろう、どうせ宿無しなんだから、スキなもん飲んで、スキなもん喰って、その辺で勝手に寝てろ」そう言って一つ笑うと愛車のキイをカチャと握りしめ、店を出ていった。
無人の店内に一人残され、何だかおかしな事になったなと思ったが、といって考えてみれば別に困ってみるような理由《こと》も特に無く、それで真夜中のカウンターで一人コーヒーを入れ、それを持ってフロアの奥の長椅子にドシリと体を沈めてみた。
かたわらに大きな一枚ガラスの窓があり、煙草に火をつけ、コーヒーをすすりながら、僕はボンヤリと、その窓の向うに目を落した。
夜の闇の中に、黒く縁どられた山影が遠く近く折り重なるようにして連なっている。
その山々の闇の隙間から、彼方に賑わう都市の灯りがちいさく見通せた。
そのせわしない車の流れがジオラマのように微《ちい》さく息づき、建ち並ぶビルのネオンサインが、その辺りの空だけをぼんやりと薄明るく照らし出している。
明日はあの街に出て久しぶりに都会の匂いでも味わってみようか。僕はそんな事を考えてみたりした。
それから、すっと視界を手前に引き寄せてみると、そこにはまた異《べつ》の夜がある。
山間《やまあい》の小さな町は、夜のぶ厚い闇の底に今はもう沈みこんでいた。
深々とした樹々の眠る息づかいが辺りの大気にズシリと沈殿し、その重みが心地良い安定をその夜に与えている。
漆黒の山肌に人家の灯りがポツンと一つゆれ、アアあんな所にも人が棲んでいると、僕はいつになく、そんな事を思ってみたりした。
そのうち、その数日の疲れがどっと出たのだろう、何となくだるさを覚えはじめた体をそのまま長椅子に横たえると、眠いと思うが早いか、僕はストンと眠りにおちてしまった。
ふと小さな音に目覚め、寝返りをうちながらカウンターの方に目を向けると、セイジさんがカウンターの向うでコーヒーを飲みながら本を読んでいるのが見えた。
時計を見ると、午前四時。窓の外は、まだ夜である。
「ああお帰りなさい」と僕は横になったまま寝ぼけた様な声でそんな事を言ってみた。カウンターまでは少し距離があったが、声は届いたらしく、ふと顔を上げ、僕を見たセイジさんは、おう、と一言応え、それから、カウンターの内側から続いている細い通路をアゴで指すと、「奥にベッドが有るからそこで寝ててかまわないぞ」とそれだけを言って、また、本に目を落した。
「はあ」と僕は半身を起こしながらそう答えてみた。
それから大きなアクビを一つして、そのまま長椅子に背中をもたせたまま暫《しばら》くボンヤリした。
眠っていたのは三時間かそこらのものだった筈だが、余程深く熟睡していたのか、気分はヘンにスッキリとしていて疲れもさ程残っていないように感じた。
しばらくそうしていると、
「コーヒー、飲むか?」
とセイジさんがカウンターから僕に声をかけた。
「あ、貰います」と答え、僕は少しボンヤリしたまま立ち上り、カウンターへ歩いた。セイジさんは僕のコーヒーを入れてくれると、それを正面に腰を下ろした僕に黙って押しやり、それから特に何を言うでもなく、一つ足を組み直して、また本を読み始めた。
コーヒーカップを持ち上げながら、何だかおかしな店だなと僕は思った。
店主は店を出て行ったまま何処で遊んでいたのか真夜中を過ぎても帰って来ないで、そして馴染の客達は、その間店主の居ないその店で何とかかんとか客をあしらい[#「あしらい」に傍点]ながら営業を続け、そして見も知らぬ行きずりの僕に後を託して皆散り散りに帰って行った。そうして、やっと帰って来た店主はその見も知らぬ僕にコーヒーを入れてくれたまま、とくに何を尋こうともせず、ボンヤリこの夜中に一人本を読んでいる。
僕は苦笑するような思いでゆっくりとコーヒーをのんだ。
ポケットから煙草を出し、それに火をつけながら僕は改めて店内を眺めてみた。
カウンターから振り返って見るとフロアは、割に広い。
カズオさんが教えてくれた所によると、ここは時々、地元のアマチュアバンドの為の貸し切りライブハウスになったりもするとかで、その時は百五十人から二百人近い人間が椅子やテーブルを取っ払ったフロアを埋め尽くすという事だった。フロアの奥には小さいながら、ちゃんとした設備を整えたステージも有る。
ふと思い出す事があって、僕はカウンターに顔を戻しセイジさんに話しかけてみた。
「マコトさん[#「マコトさん」に傍点]って人、今日来てらっしゃいましたけど、すごく歌がうまいんですね」
僕はそんな事を言ってみた。
マコトさん、というのは、その夜カズオさんに紹介された、やはりこの町に住むカズオさんの中学の時の同級生だとかで、大柄で何かのんびりした感じの人だったが、歌がとてもうまくて、店が常連客ばかりになった時、皆に求められるままギターを弾いて二、三曲歌ってみせてくれた事を、僕は思い出していた。
セイジさんは小さく笑うと、カウンターに置いた煙草に手を伸ばし、その一本を口にくわえながら、「また、センチメンタルなフォークソングでも歌っていたか?」
そう言ってそれに火をつけた。
「ええ」と僕は微笑んで、それから、
「僕、ああいう歌、スキですよ」とそう続けてみた。
「そうか」
とセイジさんはカウンター越しに僕を見ると、「いい事だ」と、そう言ってニコリと笑った。
「はぁ、いい事ですか」と応えて僕も何となく笑ってしまった。セイジさんがそう言うと、何かヘンに、それが本当に「いい事」の様な気がした。
「タツヤさん[#「タツヤさん」に傍点]って人も来てました」
僕は、やはりこれもカズオさんやマコトさんの同級生だと紹介された、その髭の濃い横顔を思いうかべながら、セイジさんにそう言った。
「タツヤか。アレは、もっぱらハードロックだ」
セイジさんは、そう言うと、ボンヤリと煙草をふかした。
「ツノ先生[#「ツノ先生」に傍点]って方も来られてましたよ」
僕は、自分が何だか、店主にその日の店の様子を報告する従業員になった様な気分を覚えながら、そうつづけた。
「ツノ先生は、もっぱら懐メロ、だよ」
セイジさんは、ただそう言うと、ちいさく表情を微笑《くず》して静かにコーヒーを飲んだ。
そんなセイジさんの言い方には、何か音楽の好みでその人の人格[#「人格」に傍点]を僕に説明してくれている様な、そんな感じが有った。
人格[#「人格」に傍点]はともかくとしても、言われてみると確かに、タツヤさんのその青々とした髭の剃り跡はハードロック、という感じがしたし、カズオさん達の恩師であり、今も町の中学校で教鞭をとっているという、ツノ先生の、そのボサボサの白髪頭は、やはり確かに、懐メロ[#「懐メロ」に傍点]を愛するに似つかわしい、そんな感じがした。
「……あれだな、この店に来る奴は、皆んな、歌が好きだな。放っとけば土曜日なんか一晩じゅう歌ってるよ」
セイジさんはプカリと煙を吐いてそう言うと、何か苦笑するような表情をそこにうかべて見せた。それがどこか、そうした人達に向ける愛情を映したものであるように僕が感じたのは、セイジさんも又、歌がとても好きな人である事を、そうした常連客の人達の会話の中から僕があらかじめ知っていたせいだったかも知れない。
「セイジくらい歌[#「歌」に傍点]が好きな奴は居ないよ」
マコトさんはセイジさんの事をそんな風に言った。
「うん」とカズオさんは、そのマコトさんの言葉を引き継ぐように、こんな話をした。
「ヤツの車にな、あいつが自分で編集したカセットテープが有るのよ。ま、セイジのお気に入りの曲をゴテゴテ寄せ集めたヤツなんだろうけど、聴いていいか? って言ったら、ああ、って言うんで、いつだったか何かの用事で街まで乗せてって貰った時、それ聴いてたんだけどな、聴いてるうちに、オレ、噴き出しちゃったよ。まず、プレスリーが始まってな、二曲めが突然、ピンクフロイドなんだ。なんかメチャクチャな選曲だなぁ、と思ってたら、次に、バイオリンで、トロイメライなんかが、ゆったりと聴こえてきて、天気の良い日でさ、何だかいい気持でウトウトしていると、その後に、村田英雄の威勢のいい歌が始まったのよ。トロイメライの後に村田英雄、だぜ。それから街へ着くまでの間、いろんな曲が、そこから飛び出してきたよ。バッハから、コルトレーンから、サム・クック、ザ・ピーナッツ、ボブ・ディラン、挙句にゃ、南部牛追い唄なんて岩手県の民謡まで入ってたな。オレ、可笑《おか》しくなっちゃってさ、それで、セイジ、お前いろんなの聴くなぁって言ったら、セイジの奴、イヤ俺はいい曲しか聴かないんだ[#「イヤ俺はいい曲しか聴かないんだ」に傍点]って、そんな事ぬかしやがった」
カズオさんが聞かせてくれた、そんな話を、僕は目の前のセイジさんの横顔にふと重ねてみたりした。
セイジさんに関しては、その他にも幾つかの事が、カズオさん達の話から知る事が出来た。
セイジさんは、元々はこの町の人では無く他所《よそ》から来た人であるという事も、その一つだった。そして何処から来た人なのかを特に誰も知らないという事も、僕には何か、おもしろく[#「おもしろく」に傍点]感じられた。
「確か東京生まれだったんじゃないかなあ」とカズオさんが自信無げに首を捻ってみせた位の知識しか皆もっておらず、また、そんな事が別にどうでもいいと言えばどうでもいい感じで、セイジさんは「ハウス475」の店主として皆に親しまれている様でもあった。
といっても店自体はセイジさんの所有《もの》では無く、オーナーは、昼間カズオさんが「翔子さん」と呼んだ、あのきれいな女《ひと》であるという事だった。正確に言えば、翔子さんと、その翔子さんの別居中の御主人とが共同で所有する店だという事らしかったが、その頃はもう、運営面においても、また名義の上においても事実上のオーナーは翔子さんであり、御主人は、もう殆ど「ハウス475」には関与していないという事だった。
翔子さんの御主人は、475号線の先に広がる大きな街でレストランチェーンを持つ、かなりの実業家であり、翔子さんも又、同じその街で自分の趣味も兼ねた小さなコーヒーショップを経営していた。
街角のその翔子さんの店に、バッグを一つ下げたセイジさんがフラリと立ち寄ったのが一年ほど前で、翔子さんが御主人と別居生活を始めて半年程が過《た》った頃らしい。
その時、セイジさんを何となく「気にとめた」翔子さんが、あんまりハヤラないので暫く閉めていた「ハウス475」を、セイジさんに任せることにしたのだという事だった。
実際、ハウス475は、近くに街へ直結するバイパスが造られてから話にならない程の赤字続きで、辺りに建ち並んでいたホテルやらレストランやらがばたばたと店を閉めて逃げ出した事は先に述べたとおりだが、そんな中で、ハウス475だけが最後まで残ってなんとか営業を続けていたのは、その店が、翔子さんが初めて持った店であり、また、その設計から何からを翔子さんが自分自身で行なったという、少なからぬ思い入れがそこにあるからだという事だった。
それでも経営は、いよいよ立ち行かなくなり、御主人の主張もあって一旦は店を閉めた。場所的に新たな買手もつかぬまま店はそのまま放置されていたが、御主人との別居生活が始まった頃から、翔子さんは、またこの店に灯を入れたい思いをつのらせていて、フラリと立ち寄ったセイジさんに会った時、ああこの人にあの店をやってもらおうか[#「ああこの人にあの店をやってもらおうか」に傍点]、と何となくそう思ったのらしい。
そうして店を再開させてみたが、別に、そこで利潤を上げようなどというつもりは特に無く、御主人と別れて暮していても、それなりの資産を持つ翔子さんは、まあ致命的な赤字にさえならない限りはやりつづけてみようと、そんなつもりでセイジさんに任せてみたのだという事だった。
それは店に対する思い入れ[#「思い入れ」に傍点]、と同時に、セイジさんに向ける思い入れ[#「思い入れ」に傍点]、といったものも、またそこにはあったのだろうと、これはカズオさんの言である。
ともかくも、そうして店を開けてみると、暫くは、やはりサッパリだったらしいが、そのうち以前には無かった常連客などが付き始め、近隣の人達にも割に利用されるようにもなり、又バイパスの渋滞に辟易し始めた車が多少は戻ってきた事などもあって、「儲かる」とはいえないまでも、何とか経営を維持して行く位の収益は上げている様子だった。
ついでに言っておくと、セイジさんと翔子さんの関係は、僕が最初に感じた様な、いわゆる「恋人」といったような関係《もの》では無かった。初めて二人に会った時の感じから、僕はてっきりそう思い込んでいたのだったが、カズオさんが「そんなんじゃねえよ」と言った様に、確かに二人の関係は「そんなの」では無く、翔子さんは、とにかく、この店が好きで、街|中《なか》の自分の店が了《おわ》るとタクシーでここへやって来て、そして馴染の顔ぶれとひと時を過ごし、皆が帰ってからも、夜更かしのセイジさんと、話をしたり、古いレコードを聴いたりしながら、夜を明かしてゆく、そんな事が割に頻繁に有るのらしい。
だからといって二人の関係が「デキている」といった風には、不思議な事に誰も考えている様子は無く、それは、セイジさんという人を、また、翔子さんという人を、僕などよりも深く理解《し》る人達の思いであるから、きっとそうなのだろう、と僕は思ったし、又結果的に、それは確かにそういう事なのだった。
だが、それは或る意味で、だからこそ、恋[#「恋」に傍点]だったのかも知れないと、僕は今になると、そんな風に思ってみたりもする。少なくとも翔子さんの内《なか》には、セイジさんに向ける、或る特別な「想い」というものがあり、それを僕は後に翔子さん自身の口から聞かされる事にもなるのだが、その時はまだ、無論、そんな事を知る筈も無かった。
真夜中のカウンターで、セイジさんと二人、暫くの間そんな風にボンヤリしていたが、そのうち、僕はふと、店のドアのすぐ内側に僕の自転車が立ててあるのに気がついた。
表に出しっぱなしにしていたのを、多分セイジさんが入れてくれたのだな、と思い、僕は礼を言おうとカウンターに顔を戻して、セイジさんを見た。
セイジさんは、煙草をくゆらしながら何かダルそうな表情で本に目を落し続けている。その横顔が、何か、そんな事の礼を言われたりするのがうっとうしい[#「うっとうしい」に傍点]とでも言っている様な、何故かそんな横顔に感じられ、少しためらう内、結局僕は礼を口に出さずにそのまま呑み込んでしまった。
礼は言わなかったが、その代わり、僕は、ふと突然思いついた事を、自分でもよく分らないまま、気がつくと、そのまま口にしていた。
「セイジさん、僕、しばらく、ここに置いてくれませんか?」
セイジさんの横顔に僕はそんな事を言ってしまっていた。
セイジさんは、本から顔を上げて僕を見ると、「ああいいよ」と、何か、風が一つそよぐような、そんなこだわりの無い調子で、ただそう応えてくれた。
その時、どうしてそんな事を、突然口にしたのか自分でもよく分らなかったが、ただ後から思えば、僕は「セイジさん」という人に何か漠然とした興味を感じていたのだろうと思う。
会って僅かな時間のうちに、僕はセイジさんの中に、何か「誰にも似ていない」妙なものを、ぼんやりとではあるが、どこかで感じとっていた様な気がする。
セイジさんは、確かに、それまでの僕の知る誰にも似ていなかった。
友人の誰それとも違い、また先輩のどの人とも違い、父親とも違えば、恩師の誰とも、また違っていた。
人間が一人一人それぞれに違うのは当り前の事ではあるだろうが、セイジさんの持つ「違い[#「違い」に傍点]」は、そうした事とは又違う、何か異《べつ》なもののように僕には思われた。それが何となく僕の気持を惹きつけ、そしてふいに思いつくまま、僕は、そんな事を言ってしまったのだろうと、今はそう思う。
ともかく、それからその山間《やまあい》の町に秋の気配が漂い始めるまでの数週間の日々を、僕はハウス475に居候して過ごしつづけた。
カズオさんやツノ先生ら馴染の常連客達は、殆ど毎晩のようにカウンターに顔を並べては、そこで賑やかにひと時を過ごしていった。また翔子さんも頻繁に顔を見せては、そこで僕達と語り、そして時には一緒に歌をうたったりもした。
山間《やまあい》の、田舎町の、寂れた通りの脇に建つその小さなドライブインに、夜が、そして昼が、幾つも訪れては、通り過ぎていった。
ハウス475に店休日というのは特に無かったが、その代わり、なのかどうか、その店主であるセイジさんは、時折フラリと出かけたかと思うと、そのまま暫く帰って来なかったりする事が、それからもよく有った。
尤も、店に居たところでセイジさんは、それほど役に立つ店主でも無い。
概《おおむ》ねカウンターの内側《なか》でボンヤリ煙草ばかり喫んでいる。
出来るものならそこから一ミリたりとも動きたくないという顔さえしている。
また事実、動かない。
カウンターの内側で、まるで拐《さら》われてきた人質のようにボンヤリとしては、そこでコーヒーを入れ、ビールの栓を抜き、そして相手が見慣れた客なら、声を掛けてそれをカウンターまで取りに来させたりしている。
掃除もろくにしなければ、利益《あがり》の計算なども殆どしない。
しないどころか、客がレジに立つと「三百円」と言うのが口癖で、それはコーヒー一杯の値段だったが、しばしば客の方が、「いやカレーも喰ったよ」と訂正《おし》えてくれるような始末だった。
よくこんなヒトを店主に雇ったものだとオーナーである翔子さんに感心する思いで僕はハウス475のそんな風景を眺めていたが、それでも、そんな店主が変に面白いのか、客は邪険に扱われても二度三度と店を訪れて来たりもする。
僕が居候をはじめてからでも、そうした客が割に目についた。
「近頃お客さんが少し増えたんじゃないですか?」
僕がそう言うと、
「そうか……?」とセイジさんは退屈そうな顔でそう応えた。それから、有難い事ダナ、とそうつづけたが、その実、その表情《かお》は、どうでもよさそうな、そんな顔をしていた。
そんな、いい加減な店主のくせに、しかしセイジさんのおもしろい所は、毎日、昼過ぎには律義に店を開ける事だった。―――――
「だってオマエ、店でも開けてなきゃ、この世[#「この世」に傍点]にセイジのやる事なんて何も無いじゃん」
僕がそれを言った時、カズオさんは、そう言って可笑しそうに笑った。
なるほど、言われてみれば何となく、そんなような気もした。
セイジさんにとって、やる事は、たしかに他に何も無さそうにも思える。
山間の、たいしてハヤってない店の、そのカウンターの内側でボンヤリ一日を過ごす、その事だけがセイジさんの全てだ、と言われればなるほどそんな気もたしかにするのだ。
そして、それすらも、やりたくてやっているのか、やりたくもないのにやっているのか、傍《はた》からは容易に窺いにくいその表情には、いつもただ、だるそうな、退屈さだけが映し出されていた。―――――
「ああもう面倒臭えなあ」
誰に言うでも無く、セイジさんは、よくそんな事を口にした。
店の仕事の事を言っているのだろうと思っていたが、どうも、そういう事でも無いらしく、セイジさんは、とにかく何もかも全てが面倒臭い[#「何もかも全てが面倒臭い」に傍点]と、そう言っているのらしかった。
「オレはもう、腹がヘルのも、メシを喰うのも、クソをするのも、めんど臭いよ」
そんな事をセイジさんは時々冗談ともつかずに口にした。
「腹がへったり、メシを喰ったり、そのメシを喰うために働いたり。――そんな事は、もしかしたら人間が生きる[#「生きる」に傍点]って事を邪魔してる[#「邪魔してる」に傍点]んじゃないのかな――」
そんな事を僕に言うことがあった。
僕は、逆だろう、と思い、「どうしてですか? 生きる事を支える[#「支える」に傍点]為に、人間は、メシを喰ったり、喰うために働いたりするんじゃないんですか?」そう反論してみた。
「そうか」とセイジさんはただそう応えると天井に向けてプカリと煙を吐いた。
それが何か僕を嘲笑する様な仕草に見えたので、「だってメシを喰ったり、喰うために働かなきゃ生きていられないじゃないですか」僕は少しムキになって、そうつづけた。
「――まあ、なあ」とセイジさんは微《ちい》さく笑うと、「……だけど、それは、言ってみれば病院の生命維持装置[#「生命維持装置」に傍点]みたいなもんなんじゃないか? 点滴[#「点滴」に傍点]みたいなもんだろ。ながらえる[#「ながらえる」に傍点]って事には確かに必要だが、しかし、生きる[#「生きる」に傍点]ってことは、また少し違うんじゃないかなぁ」何か自分自身に呟く様な調子で、そんな事を言った。
そしてそのあとに口にしたセイジさんの言葉を、僕は今も印象深く憶えている。
セイジさんはこう言った。
「百年ながらえる[#「ながらえる」に傍点]より、一瞬でいいから俺は生きたい[#「生きたい」に傍点]と思う事があるよ」
だるそうな声でそう言ったセイジさんの横顔を、僕は、ただぼんやりと見つめていた。
「セイジさんは、ここへ来る前は何をしてたんでしょうね」
僕はカズオさんにそう問いかけてみた事がある。
「……さあなあ。何をやってきたんだか」
カズオさんは、プウと煙草をふかして、そう応えたが、それから、ふと、つけ足すように、
「だけど、セイジの事だから何をやっても、駄目だったんじゃないか?」
とそんな事を言った。
「どうしてですか?」
「変わってるからよ」
そうつづけて、カズオさんはうひゃひゃひゃ[#「うひゃひゃひゃ」に傍点]と笑った。
「たしかにね」
とだけ呟いて僕もプウと煙を吐いた。
(ヘンなヒトではある)。そう思った。
だが、どこがどう「ヘン」なのだろうと改めて考えてみると、それがどうも、分るようでよく分らない。
むしろ、どうかすると、「とてもマトモな人」なのではないかと、そんなふうに思わされてしまう事が、その短いうちにも僕に何度かあった。
たとえば、僕がハウス475に住みついて一週間ほどが過《た》った頃だったろうと思うが、こんな事があった。
その昼下がり、数人の身形《みなり》のいい男女が店に訪れた。彼らは県の名士達に依って、構成、運営されている民間の動物愛護団体委員という事で、日常、市内でそうした運動をしているという彼らは、その足を延ばして、その日は、その山間に散在する民家や店舗などをまわりながら何やらの署名を募っている様子だった。
午後の、店を開けたばかりの時間の事で、僕は腹ごしらえにトーストをほおばり、セイジさんはカウンターに両足をのせた格好でコーヒーをのんでいた。
「この数日〇〇地区で起きている動物虐待の話はすでにお聞き及びの事だと思いますが」
縞の背広を着た、彼らのうちのリーダー格らしい壮年の恰幅のいい男は、セイジさんに向かって、まずそう話を切りだした。
セイジさんは、カウンターに足を投げだしたまま、ボンヤリと目の前に立つ名士達を見た。
セイジさんは多分、そんな話は全然「お聞き及び」ではなかったと思う。もともと何をお聞き及びになるつもりも無い人なのだ。
「……何ですか?」
さすがに、カウンターにのせていた足を下ろして、セイジさんは、そう尋《き》いた。
「……ええ、例の、〇〇地区の事なのですが」
そう繰り返す縞の背広に、「……はあ」と応え、それから、ぼんやり天井をみたあとで、「知りませんね」セイジさんはそう言って、彼らに目を戻した。その、いかにも気が無さそうな表情に、名士たちはチラと互いの顔を見合わせながら、そこにわずかながら不快な色をうかべた。
だがそれも一瞬の事で、縞の背広は穏やかな表情をたたえて[#「たたえて」に傍点]こう続けた。
「あの地区の民家に、シカやイノシシなどが出てきて、それらが農作物に被害を及ぼしているという事で、農家の人たちが県の猟友会などと一緒になって、そうした動物を無差別に撃ち殺しているという現実が今有る訳なんですが、近隣に暮す方として、そうした事をどうお感じになっているか、ぜひ御意見をお聞かせ頂きたいと、こうしてお邪魔させていただきました」
男は張りのある声でそう言った。
僕はセイジさんを見た。
「……さあ」
とセイジさんは気の無い顔でコーヒーを一つ飲んだきり、それ以上の反応を何も示さなかったが、あまり無反応で居るのも悪いと思ったのか、手近にあった布巾を手に取ると、それで珍しくカウンターなどを所在無げに黙って拭きはじめた。
(………こいつは、ダメだ)
といった様な顔で、リーダーの男は連れの数人に小さく目配せをした。それから、かすかな苦笑を彼らだけに見せると、傍らの水玉のブラウスを着た女性から署名簿を受け取り、それをカウンターに丁寧に置いた。
「とにかく、そうした動物たちを救おうと今署名を募っている所なんです。どうでしょう、お願いできませんか?」そう言ってセイジさんに微笑みかけた。
「……いや。オレは、あまり、そういう事には興味が無いから」
セイジさんは、応えた。
縞の背広は、大きく肯き、いかにも「そんな人間の扱いには慣れている」といった調子で、
「そうですか。残念ですね。でも、ま、動物たちのため[#「ため」に傍点]になる事ですから、署名だけ、ひとつ、お願いしますよ」
と妙な笑顔をうかべながらカウンターの署名簿の上にパシリとペンを置いた。
それがセイジさんの神経に微《すこ》し障《さわ》った様でセイジさんはジロリと一つ男の顔を見たが、とくに何も言わず、ただ少し不機嫌そうな声を出すと、「悪いけど興味無いんです。興味の無い事に署名なんか出来ませんよ。邪魔なんで帰ってくれませんか」そう応えた。
名士達は明らかに気分を害した様子だった。なにしろ名士なので、こんな無愛想な応対を受けたことがなかったのだろう。いわんや「邪魔」とは何事か。当然のことながら、店の空気は、ちょっとばかりいや[#「いや」に傍点]な感じのものになった。
そんな空気をまるで嗤《わら》う様に、セイジさんは、今度はサイホンなどを持ち上げて、それをキュキュキュ[#「キュキュキュ」に傍点]と拭き始めた。ハァ、とか言ってガラスに息を吐きかけたりしている。目の前の彼らを、もう見ようともしなかった。
そんな様子にじ[#「じ」に傍点]っと目をとめていた、リーダーの脇に立つ水玉のブラウスが、その顔に不快感を露《あら》わにしながらグイと前に出た。三十前後の、さながら壮年男達に交じった紅一点、といった感じだった。紅一点は、今やバクハツ寸前の火山の様な顔をしていた。何をそんなに怒っているのだろう。
リーダーの縞の背広は、「いや、〇〇さん、もう出ましょう」とバクハツする水玉を抑えようとしたが、水玉は構わず更にグイと前に出た。周囲《あたり》の空気が微《かす》かに揺れて、そこに強い香水の匂いが厚ぼったくただよった。その強い匂いの中で、水玉はセイジさんにこう言った。
「あなた、もう少し社会人としての自覚を持ったらどうなんですかっ、こうしているうちにも哀れな動物たちが片端から殺されているんですよっ、そういう間違った行為を何とかやめさせようと、私達はこうして運動し続けているんですっ、そういう私達の趣旨に沢山の人が賛同したからこそ、こうして、これだけの署名がここに集まってもいるんですっ、こんな愚劣な方法ではなく、もっと動物たちに対して、愛[#「愛」に傍点]をもった解決をと、私達は県民の皆さんと一緒に訴えているんです。それを興味が無い≠ニはなんですかっ、いいトシをして、すこしは身の廻りで起きている出来事に関心を持ったらどうなんですかっ、邪魔≠ニは何ですかっ、あまりにも人間としての自覚が無さすぎるんじゃないですかっ、そんな立派な体をして、あなたっ、恥ずかしいと思いませんかっ」水玉はセイジさんの体格にまで言及して、そんな事を言った。
セイジさんはそれで、かるく切れちゃった[#「切れちゃった」に傍点]らしい。
ゴトリ、と持っていたサイホンをカウンターに置くと、
「オレに言わせりゃな」
とそう言って彼らを見た。
「ただ人間が多すぎるだけの事だ[#「ただ人間が多すぎるだけの事だ」に傍点]」
そう続けた。
「人間が増えりゃ増えただけ、人間より弱い他の生きものはいやおうなしに隅へ追いやられてゆくんだ。分りきったことじゃねえか。なるようになってるだけの事だ。自分の場所さえ有りゃシカもイノシシも人里になんか出て来やしねえよ。動物《あつち》も生きてりゃ人間《こつち》も生きてる、それが衝突《ぶつか》ってその最前線に農家のオヤジが居るだけのこった。そのオヤジの後方《うしろ》にゃ世界中六十億の人間がひしめいてんだぞ。おまえらヒマ人が遠足みたいに連なって、それで一体何を解決するつもりでいるんだ、笑わせるな」
セイジさんはそうつづけて煙草に火をつけた。
水玉の表情に険しさが増した。
「そ、それじゃ貴方は、このまま何もしなくていいと言うんですか? 人間は強いから仕方がないと言うんですか? なんて傲慢な。そんな人間の傲慢さが動物といわず植物といわず今この地球全体を破壊しつづけているのが貴方には分らないんですかっ?」
水玉は大袈裟な身振りを添えながら、しごく正当《もつとも》な事を言った。
「……傲慢かどうかオレは知らないがね」
とセイジさんは小さくわらった。
「このままじゃ良くないともしアンタが本気で思うんなら、さっさと首でもくくって地球の為に人間を一人減らしてやることだな。でなけりゃせめて、そんな無意味に香水ふりまいて生活するのをやめる事だ」
段々めんど臭くなってきたようで、セイジさんは天井に向けてプウとひとつ煙を吐いた。
水玉は、一瞬言葉を見失った様な顔をした。ポカンとした顔で側に立つリーダーにチラと目をやると、それから、「私の、香水が、何ですって?」とどこか不安げな顔でセイジさんを見た。
「それも、銃[#「銃」に傍点]だと言ってるんだ」
セイジさんは応えた。
「何も猟銃だけがシカやイノシシを殺してる訳じゃ無い。アンタの香水や、オレの転がすクルマや、そこのオッサンがたまにやるかも知れないゴルフや、そういうものの全てが殺しているだけの事だ、地球が壊されているというなら、そういうものの全てが壊しているだけの事だ。ぜんぶ、同じだ。目クソとハナクソだ。オレは目クソで、アンタはハナクソだ。アンタは自分をハナクソだと分った上で話をしてるのか? 動物を愛するのも地球を愛するのも結構な事だがその前にその悪い頭をなんとかする事だな、署名なんかしない、めんど臭いから帰れ」
そう言うとセイジさんは、どすりとカウンターにまた足をのせた。
――セイジさんにはそんな所がある。
「セイジもしょうが無ェな、まったく」
セイジさんの居ないカウンターでこの話が出た時、カズオさんはそう言って苦笑してみせた。カズオさんはこの話を役場に勤める友人から聞かされたらしく、その友人と、その上司は、県の名士である団体委員達に町として悪い印象を与えてしまったのではないかとそんな事を気に病んでいたということだった。
「何もオマエ、署名ぐらい、ちょちょちょ[#「ちょちょちょ」に傍点]としてやりゃあいいじゃねえか」カズオさんはそう続けてコーヒーを飲んだ。
「まあセイジにしてみりゃ、そうもいかない所があったんだろう」
セイジさんをとりわけ好いている様子のあるマコトさんが、セイジさんを庇うようにそんな事を言った。
「香水が臭かっただけなんじゃないか?」スプーンに掬ったカレーを口に運びながら隣で背広姿のタツヤさんが、そう言って可笑しそうに笑う。
タツヤさんは、その地方で最大手といわれる建設会社で設計の仕事をしているが、その日は残業を了《お》えての勤め帰りにそこで遅めの夕食をとっている所だった。
そのタツヤさんに僕は大きく肯いて、「いやホントに臭かったですよ、トーストが変な味しましたからね」何か告げ口でもする様な調子でそう顔をしかめてみせた。
「きっと化粧も濃かったんだろうなあ……」カズオさんが溜息を吐《つ》くようにそう一人ごち、その隣でツノ先生が楽しそうに声を上げて笑った。
「でも、ま、俺はセイジの言う事、分らないでも無いな」
食べ了えた皿にカチャリとスプーンを置くと、タツヤさんはそう言い、それからカウンターの中に立つ僕にコーヒーを注文《たの》んだ。
「そうかあ?」
とそれを受けてカズオさんは、
「だけどお前、ボランティア相手にそんな理屈コネたってしょうが無ェだろ。ちょちょちょ[#「ちょちょちょ」に傍点]と書いて、ハイどーも、それで向うも満足、イノシシもゴキゲン、べつにそれでいいじゃねえか。可哀相だよ、イノシシ。昔、学校で飼ってたもんな。なあ先生」
と傍らのツノ先生をみた。
「そりゃまあ、そうだが、それより恩師に向ってなあ≠ニは何だ」
カズオさん達の嘗《かつ》ての担任であり今も現役の老教師であるツノ先生は、そう言ってゴツッとカズオさんの頭をゲンコツで殴った。
「だけどセイジも、変に他人《ひと》とブツカってしまうとこ、有るよな」
マコトさんがのんびりした調子で、カウンターの端から、そんな事を呟く。
「それよ。オレが言いたいのは」
痛かったのだろう、殴られた頭を摩《さす》りながらカズオさんが、そう声を上げた。
「この世の中で上手《うま》くやっていこうと思うなら、人間、もっと心に柔軟性を持たなきゃ駄目だって事をオレは言ってるんだよ」
カズオさんは大きな声で、そう言うと、
「分ったか、タビビト」
とカウンターの中の僕に向って、訓辞を了えたどこかの校長の様な顔をしてみせた。
「はい」と一つ笑って応えながら、僕はカウンターにタツヤさんのコーヒーを置いた。
それを手元に引き寄せながら、タツヤさんは、「だけどセイジは、世の中とうまくやっていこう[#「うまくやっていこう」に傍点]なんて気は、サラサラなさそうだよ」
そう言って笑った。
「無い、無い」とマコトさんも笑う。
「まあな」とカズオさんも、それには肯いて、「でなきゃ、いい歳をして、こんなシケた店で仙人みたいな暮しは、してねえよな」
そうつづけてコーヒーを口に運んだ。
「あら、シケた店[#「シケた店」に傍点]で悪かったわね」
いつ入ってきたのか、気がつくと翔子さんが丁度入口のドアを内側から閉めている所だった。
げほ、と飲みかけたコーヒーに一つむせると、「あ、いや、オレは別に」とカズオさんは慌ててつくろおうとしたが、そのカズオさんの後頭部を、通りすがりにコツンと一つハンドバッグで叩くと、翔子さんは微笑《わら》いながらカウンターに腰を下ろした。
「私にもコーヒー頂戴」
そして、僕にそう言うと、何の話? と誰に尋くでもなく、そう言って皆をみた。
「いや、セイジがね」
とマコトさんが、セイジさんの署名うんぬん[#「うんぬん」に傍点]の話をすると、翔子さんは、いきなり、けらけらと笑いだし、「それじゃ、イノシシに冷たい店って事になって、またお客が減るわね」
そう言ってくすくすと笑いつづけた。
「でも、翔子さんだったら、どうします?」
とタツヤさんがマコトさんを挟んで、翔子さんに顔を向ける。
「署名?」と翔子さん。
「ええ」
「うーん、どうかしら。分らないけど、でもセイジ君がこの場合それをしなかったってのは、何だかよく分るわね」
「なにしろ、変わってるからなあ」
カチャと煙草に火をつけて、カズオさんがそう呟く。
翔子さんは一つ微笑んでみせると、
「そうね、かわってる」
と小さく肯いたが、
「でも、正確に言うと、かわってるというよりも、ちがってる[#「ちがってる」に傍点]、というべきなのかも知れない」
とそんな事を言った。
「違ってる[#「違ってる」に傍点]?」
「ええ。この場合も、そう。そのボランティアの人達とセイジ君とじゃ、多分、思考の基本になっているものがまるで違っているのよ。セイジ君の場合は、何というか、人間と人間の居るこの世界の核[#「核」に傍点]のような所にその考えの根っ子があるのだと思う。それに対して相手は、表層の、現実に起きている出来事の処理[#「処理」に傍点]という所にその思考も行動も終始している。どっちがどうじゃ無くて、はじめから思考の土俵が違うのよ。まあ、異種格闘技みたいなもんね。セイジ君は、ずっと、世の中を相手に、そんな土俵の違う格闘技をして来た人かも知れない。そんな気がするわ」
翔子さんは、そう言って小さく微笑《わら》うと、僕の出したコーヒーを静かに受けとった。
セイジさんは、確かに、人間[#「人間」に傍点]、という事、その人間が生きる[#「生きる」に傍点]、という事、そうした事をいつもどこかで考えているような、そんな人だったように僕も思う。
そしてそんなセイジさんの個性は、そのままハウス475という店それ自体の持つ空気の中にも自然に投影されていて、ハウス475のカウンターは、時に、そうした、人間[#「人間」に傍点]、或いは人生[#「人生」に傍点]、そんな風なものに向けるそれぞれの思いが語られる、そんな場所となる事もあった。
或る夜、セイジさんがやはり何処かへ出かけたきり戻ってこないときがあり、それでも、ハウス475のカウンターには、いつもの顔が、いつものように揃い、その時は、居ないセイジさんの悪口みたい[#「みたい」に傍点]な事を言い合っては皆で笑ったりしていた。
「でも、あなたが居てくれるからセイジ君もきっと安心してるのね」翔子さんは、そんな事を言ってカウンターの中に立つ僕をみた。僕がすっかり店の従業員ぶりが板につきだした頃の事だった。
「こいつが居ようが居まいが、アイツはどうせ[#「どうせ」に傍点]店を空けちゃう奴ですよ」
隣でタツヤさんが、そう言い、カウンターに並んだツノ先生、マコトさん、カズオさんらが、その言葉に、それぞれ一つずつ肯いてみせた。
「まあ、それもそうね」
と翔子さんも一つ微笑《わら》い、それから僕に目を戻すと、「でも助かってるわ。バイト代、考えとくからね」
と店のオーナーらしく、そんな事を言った。
その言葉にカズオさんがグイと顔を上げ、
「あ、それだったら、翔子さん、オレも随分手伝ってますよ、この店。オレの分も考えて下さいよ。オレ、今、全然、カネ無いんだから」と懇願する様な調子で翔子さんにそんな事を言った。
そのカズオさんの頭を、毎度《いつも》の様にツノ先生がゴツリと殴り、
「いつまでも無職で居《お》るからじゃ。さっさと仕事を見つけろ、この阿呆」
そう怒鳴りつけた。
いて、とカズオさんは殴られたそこ[#「そこ」に傍点]を忙しく手で摩りながら、
「先生よお、オレはもう中学生じゃ無いんだからよ、頼むからそんなに気軽に殴るなよ、俺の事」
そう言って口を尖らせた。
フロアのテーブルに居るカップルの客がくすくすと笑い、カズオさんはクルリと振り向いてその客を一つにらみつけては、また隣のツノ先生に殴られたりしていた。
カズオさんは高校を出て街のデパートにずっと勤めていたらしいのだが、ひと月ほど前に口論から客を殴りつけてしまい、その勢いのままデパートを辞めると、それ以来、何をするでも無く実家でブラブラと暇を持て余しているようなそんな状態だった。
「わしはな、お前のおっ母さんからくれぐれも頼まれとるんじゃ。わしのゲンコツは、おっ母さんのゲンコツだと思え」
「……すげえおっ母さんだなあ」
カズオさんは溜息を吐《つ》く様に、そう嘆いてみせた。
「――だけど、先生」
少しの間があって、タツヤさんがツノ先生にそう声をかけた。
「何だ?」と先生が応える。
「はたらく[#「はたらく」に傍点]ってのは、一体どういう事なんでしょうね」。何か言葉を探すような調子で、タツヤさんはそんな事を言った。
「そんな事ァ、お前、分りきった事じゃねェか。金を貰う[#「金を貰う」に傍点]って事だろよ」
ツノ先生の代わりにカズオさんがそう言ってタツヤさんを見た。
「じゃあ、金を貰う[#「金を貰う」に傍点]って事は、どういう事なんだよ」とタツヤさんはカズオさんに尋き返す。
「分らねェ奴だな。金を貰う[#「金を貰う」に傍点]って事は、それでモノを買ったり、メシを喰ったり、そうやって暮して行く[#「暮して行く」に傍点]って事じゃないか。げんにお前は今そうやって暮してるんだろう?」
「まあ、そうだ」
タツヤさんは、大きく肯いてみせた。
「うなずいてやがる。よわった奴だな。オレ以外は皆んなそうやってハタラキながら暮してんだぞ。知らなかったのかオマエ」
カズオさんはプウと煙を吐いた。
その煙をボンヤリと眺めながら、
「――じゃあ、暮す[#「暮す」に傍点]ってのは、どういう事なんだよ」
タツヤさんはそんな問いを繰り返した。
「お前、気をつけないと、段々セイジに似てきたぞ」
カズオさんのそんな言葉に翔子さんがクスリと微笑《わら》った。
「気をつける事にしよう[#「気をつける事にしよう」に傍点]」タツヤさんも、そう言って苦笑してみせた。
「――仕事、キツイのか?」
ツノ先生がタツヤさんに尋く。
「あ、いえ」
そう応えて先生を見たタツヤさんは、「ですから、ただの観念論みたいなものなんですけど」とそう前置きをして、それから、こんな事を言った。「――何というか、仮りに生活[#「生活」に傍点]というものに縛られる事が無ければ、人間は、もっと、違う風に生きる[#「違う風に生きる」に傍点]事が出来るんじゃないかって、そんな事を、ふと思ってみたんです。――それとも、生活に縛られてこその人間[#「生活に縛られてこその人間」に傍点]、なのかなって、――そんな事も」
「ふむ」
と一つ肯くと、
「まあ、わしには、よく分らんが」
そう言いながら、ツノ先生は背広のポケットから煙草を出して、それに火をつけた。
「ただ、今の話を聞いていて、何となく思い出した事があるよ」
そう言ってプカリと煙を吐いた。
「昔読んだ本の中でな、誰かが、こんな事を言っておった。――一番エライのは、何もしない奴[#「何もしない奴」に傍点]、だとな。そんな事を言っとったよ。別に答にも何にもなっとらんだろうが、何となくな、そんな事を今思い出した」
「何にもしない奴[#「何にもしない奴」に傍点]って、どんな奴だよ、先生」
とカズオさんが隣のツノ先生を見る。
「さぁ。何にもせんと言えば、そりゃ、やっぱり、何もせん[#「何もせん」に傍点]というこっちゃろう。何にもせずに、ただボーッとしてる奴の事なんじゃないか?」
そう答えた先生の顔をカズオさんは暫く不思議そうに覗き込んでいたが、
「そんな人間が本当にエラいと思うのか? 先生」
とどこか呆れる様な調子でそう尋いた。
「だからわしには、よう分らんよ。どっちにしろ、お前は来月から働け」
そう言って先生はけらけらと笑った。
つられて僕達も笑ってしまったが、先生はそれから、ふとボンヤリした顔をすると、ぽそりとした調子で、こんな事を言った。
「まあしかし、わしが思うに、そういう奴[#「そういう奴」に傍点]は頭が良すぎる[#「頭が良すぎる」に傍点]のかも知れんな――」
「そういう奴[#「そういう奴」に傍点]って、誰よ?」とカズオさん。
「そういう、何もせん奴[#「何もせん奴」に傍点]よ」
少し興味をひかれた様子で、翔子さんがカウンターの端から先生に目を向けた。
「わかんねえな。何で頭が良いと何もしなくなるんだよ。東大を卒《で》た奴が皆んなグータラになっちまったらニッポンはエライ事だぞ、先生」
というカズオさんの言葉に、
「いや。そういうんじゃ無いんだ」
先生は、またプカリと煙を吐いた。
「わしの言うのは、つまりものごとが、みえすぎる[#「みえすぎる」に傍点]、わかりすぎる[#「わかりすぎる」に傍点]、そういう神経を持った人間の事だ。感じすぎてしまう[#「感じすぎてしまう」に傍点]人間の事だよ」
そして先生は、こんな事をつづけた。
「ものごとが、みえすぎる、感じすぎるというのは、これは、まあ、不幸、と言えば不幸であるかも知れんな。人間は或る意味じゃ鈍感だからやっていけるんだろう。だからこそ社会というものも成り立っていけるんだろうと思う。みえすぎる目で眺めてみると、この社会なんてのは汚れと欺瞞のカタマリなのかも知れない。不可解でやりきれないものの巨大なカタマリなのかも知れないな。それを感じてしまう[#「感じてしまう」に傍点]心は、不幸だろうな」
先生は、ゆっくりとコーヒーを一つ飲んだ。「………ただ同時に鈍感な者には見えないキレイなもの、ウツクシイものも、またそこには見えてくる事も有るだろう。それは逆に大変な幸福だということも言えるかも知れない」
ぼんやりとした調子で先生は、そんな話を続ける。
「だけど、どっちにしろ、そういう人間は孤独にならざるを得ないだろうな。――まあ誰であれ、人間は皆孤独なのかも知れないが、しかし大概の人間には、余りものごとを感じ過ぎないですむ鈍感さ[#「感じ過ぎないですむ鈍感さ」に傍点]というものが備わっておる。絶望を緩和してくれる鎮痛剤の様なものかも知れんな。それも無しにむきだしの孤独[#「むきだしの孤独」に傍点]を目《ま》のあたりにして生きる苦しさ、というのは、どういうものだろうな。――わしには分らんが、そういうタチ[#「タチ」に傍点]の人間にしてみれば、何もかも大概の事が、ただもう、馬鹿馬鹿しく、面倒臭いだけなんじゃないかな。ボーッとして居るしかテ[#「テ」に傍点]が無いのだろ。わしは、そんな気がするよ」
そうつづけて、先生は、また一つゆっくりとコーヒーをのんだ。
カウンターに、ぼんやりとした静けさがおちた。
カチャ、と一つコーヒーカップの音がして、
「ただな」
と先生は、ふと顔を上げると、こんな事をつづけた。
「そんなふうな、もはや、何にも関心が持てない、空っぽの、ガラン[#「ガラン」に傍点]とした心には、どうかすると、妙なモノ[#「妙なモノ」に傍点]が、ふと棲みつく事がある」
「妙なモノ[#「妙なモノ」に傍点]って?」
そう尋いた翔子さんの言葉に、
「そうだな。――ロマン[#「ロマン」に傍点]とでも言うかな」先生はそうひと言答えて、プカリと煙を吐いた。
カウンターの中で、そんなツノ先生の話をききながら、僕は、そこに浮びあがってくる一人の孤独な人間の影に、いつかしら、セイジさんの姿を重ね合わせてみている自分を感じていた。―――――
僕は、あの町の、そしてハウス475の想い出を語ろうとしながら、いつかしら、やはりセイジさんの事を語り始めている様に思う。だが僕にとって、あの想い出を語る事は、それはそのままセイジさんを語る事でもある。
夏が終りに近づき、僕があの町を去ることになる、その直前に、セイジさんが僕たちに見せた、あの、一瞬の衝撃[#「一瞬の衝撃」に傍点]こそが、そこに居合わせた誰もを驚愕させ、そして、あのひと夏を忘れる事の出来ない強烈な想い出として僕の胸に灼き付けていったのだから。
――だがそれを語る前に、やがてそこへ行き着くセイジさんの日々というものを、僕はもう少し、語ってみたいと思う。
その短い夏の中で、僕が見、そして感じた、セイジさんの日々というものを。
こんな事があった。
僕がハウス475に居候を始めてひと月が過ぎようとする頃だったが、セイジさんは毎日の様に夕方になるとフラリと一時間ほど何処かへ散歩に出かける様になった。少し興味を惹かれ、或る夕方、やはり出かけようとするセイジさんに、従《つ》いていっていいですか? と尋いてみた。いいよ、と相変わらずこだわりの無い調子でセイジさんはそう応え、それから店の前の道路脇から山の中へ入って行く小道を、僕はセイジさんの後ろから従いて歩いていった。
暫《しばら》く森深い山道を往くと、ひょいと割に開けた商店などの建ち並ぶ一画に出て、その正面に、深い山々を背にした古い校舎がどしりと建っていた。
「県立高校だ」
とだけセイジさんは教えてくれた。
それから、家々の間の入りくんだ狭い道をまた暫く歩くと、その高校の校庭を見下ろす小高い丘に出て、セイジさんはそこにゆっくりと腰を下ろした。僕も隣に腰を下ろし、それからボンヤリとそこからの風景を眺めてみた。
陽は山々の稜線の向うにとうに沈み了え、うす茜《あか》い空気がその古びた校舎や校庭をぼんやりと映し出していた。
夏休み中のせいか、人影は見えない。
ただ、ふと気がつくと、そんな風景の何処からかピアノの音が聞こえていて、そしてそれに合《の》せた女生徒たちの合唱する歌声が、僕達の座る丘の上に、やわらかく届いていた。
(ああ。夏が終れば文化祭の季節なんだな)
ふと僕は思い、そしてその歌声は、きっとコーラス部か何かの女子生徒達がその発表のための練習をしているのだろうと、そう思った。
暮れてゆく校庭に波のようにうちよせてくるその歌声は、黄昏の切なさと相まって、何か僕に、センチメンタル[#「センチメンタル」に傍点]という言葉を思い出させたりした。
「煙草を忘れたな」
セイジさんが一人言の様にそんな事を言い、有りますよ、と僕はポケットから出したそれを差し出した。
「――お前、役に立つな」セイジさんは、そんな事を言って小さく微笑《わら》った。
セイジさんに火をつけてあげ、それから僕も一本をくわえると、それにゆっくりと火をつけた。
セイジさんと二人、丘の上でボンヤリと煙草を喫みながら、僕は暫くその歌声に耳を傾けてみた。
他に音の無い、茜《あかね》色の黄昏の中に、その歌声は、どこかたよりない、かげろうの様な心細さで僕達にうちよせていた。
「二度と無い、この若き日を」と、何かそんなふうな事を女生徒達は繰り返し歌っていた。
二度と無い、この若き日を―――――
僕は聴こえてくるままに、その言葉を胸につぶやいてみた。つぶやいて、何だかありふれた歌詞だな、とそんな事を思った。
「………あのコ達が」
とセイジさんがポツリと口を開いた。
え、と僕は隣のセイジさんをみた。
「………あのコ達が、今歌っている歌詞の、その本当の意味を知るのは、これから十年、二十年が過ぎた時の事なんだろうな………」セイジさんはボンヤリとした声で、そんな事を言った。「………十年、二十年が過ぎて、その言葉の意味が分り過ぎる程に分った頃には、もう誰も、あの歌を、あんな澄んだ声で歌えやしないのさ」そう言って小さく微笑《わら》った。
「………俺たちの、行きっパナシの人生はよ、そうやっていつも、置き忘れたものを追いかけて追いつけない、まぬけな旅だよ………」
そうつづけて、指に挟んだ短い煙草を、また静かに口元に運んだ。
「………ええ」とだけ僕は応えた。
「人間はよぉ」
とセイジさんは空を見た。
「はい」と僕はその横顔に目を向けた。
「なんだか、せつないなあ、オイ」
そう呟いて、ふう、と一つ、セイジさんは黄昏の中に煙を吐いてみせた。
暮れなずむ空に、それがゆれながらゆっくりと消えてゆくのを、僕は黙ってみていた、そんな事があった。
痩せて、何か乾いた木片を思わせる様なその風貌とは不釣合に、セイジさんの内面には、或る意味で豊か過ぎるほどの何かが、絶えず波のように打ち寄せつづけている様でもあった。
セイジさんと、こんな話をした事がある。
山を見る事の好きなセイジさんは、少し手が空くと、フラリと店裏に廻り、そこに腰を下ろして、そこから遠い山や谷の風景をボンヤリと、よく眺めていたが、時々は僕も、それに付き合ってみたりする事もあった。
それは、夏がその盛りを越え、どこか冷んやりとした風が黄昏を渡って行く、そんな頃の事だったが、二人で、そうして山を眺めながら時を過ごしているうち、何の話からだったか、僕がこんな事を口にした事があった。
「人間は、だけど、一体何の為に生きてるんでしょうね」
普段の僕なら、仮りにそんな事をひょいと思ってみたにしても、それを特別誰に尋ねようとは多分しなかっただろう。僕がその時、別段テレもせずにそんな事を口にしたのは、それは恐らく、暮れて行く黄昏の静けさと、そしてその静けさに向き合って座るセイジさんの、そのゆったりとした横顔のせいだったのかも知れない。
セイジさんは、僕の問いかけに特に応える風も無く、何か古い流行歌のようなものを小さく口ずさみながら黄昏の空を眺めつづけていた。中天の、茜《あかね》と群青《ぐんじよう》の二つの色が微妙に溶けあうそのあたりに顔を向けて、歌を口ずさみ、そしてボンヤリと煙草をふかしつづけていた。
「どうなんでしょう?」
僕は、そんなヘンな催促[#「ヘンな催促」に傍点]をしてみた。
セイジさんは、チラと僕に目を向けて小さくわらうと、
「……まぁ、アレじゃねえか。人間はよ、多かれ少なかれ、カナシイ[#「カナシイ」に傍点]思いをする為に生きてるんじゃねえのか」
そう言ってプカリと煙を吐いた。
「――たのしい[#「たのしい」に傍点]思いをする為に、じゃ無くて、ですか?」
そう尋きかえした僕に、フウ、と又一つ、今度は空に向けて遠く煙を吐いたあとで、セイジさんはこんな事を僕に言った。
「……人間はよ、カナシクなるほどに、色んな事に気がつくものさ。カナシくなりゃなるほど、色んなものがみえて[#「みえて」に傍点]来もする。日が暮れるにつれて星の光にふと気づく様なものかも知れないな。――星は、いつだって空にあるんだけどよ、明るいうちは見たくったって、見えやしないのさ。――まぁ、星に興味の無い奴は、ずっと陽の当るところに居ればいいがよ、だけど人間は、もしかしたら、星を目にするために生まれてきたんじゃないのかな。……オレは、そう思う事があるよ」
何か遥《とお》い黄昏に話しかける様な調子で、セイジさんは、その時そんな事を言った。
自分でも思いがけない事だったが、その時僕は、そこにセイジさんの孤独[#「孤独」に傍点]といったようなものを一瞬強く感じた様な気がした。――そう感じた事に何も特別な理由は無かった。もとより孤独[#「孤独」に傍点]などといったものを理解するには僕は若すぎたし、十年の歳月を重ねた今でも、それはうまく分らない。
セイジさんの孤独。―――――それを或る程度具体的な形で僕に示《おし》えてくれたのは、翔子さんだった。
その日僕は、街なかにある翔子さんの店へ店内の模様換えの手伝いに来ていた。
装飾品を取り換えたり、椅子やテーブルの配置を変えたりと、そうした事を二人で昼過ぎから始めて、それがほぼ片付いたのが、夕方の六時頃だった。
「おかげで助かったわ。有難う」
そう言って、翔子さんが夕食を作ってくれ、その後コーヒーを飲んだりしながら、僕は初めて、翔子さんと割に長い話をした。
僕の大学の事やら、翔子さんの実家の話やら、お互い、聞いたり聞かれたりしているうちに、話は、いつかセイジさんの事になった。
「ちょっと珍しいタイプの人ですよね」
僕はセイジさんの事を、そんな風に評してみた。
「そうね」
と一つ応えた後で、
「――セイジ君はね、陸の魚[#「陸の魚」に傍点]なのよ」
翔子さんは、そんな事を言って、ちいさく微笑《わら》った。
「陸の魚[#「陸の魚」に傍点]?」と僕は尋いた。
「そう。……あの人は、環境に適した生き物じゃ無いのよ。この人間社会で上手《うま》くやっていける様な体質《タチ》じゃ無いの。陸の魚。放っとけば、死ぬわ」
翔子さんは、ほの白い微笑をうかべて、そうつづけた。
え? と聞き返したいような思いで僕は翔子さんをみた。
死[#「死」に傍点]などという、そんな言葉が、何か突然とびこんできた異物の様に僕の中で奇妙な響きを放った。
「どういう意味、ですか?」
「……何が?」
「いや、死ぬ[#「死ぬ」に傍点]って――」
「だって、きっと、そうだもの」
そう応えて、小さく微笑むと、翔子さんはテーブルのコーヒーカップを静かに、かき回してみせた。
「昔ね、良く似た人と付き合った事があるの。だから、分るのよ」
翔子さんはそんな事を言った。
「――似た人[#「似た人」に傍点]って、セイジさんに、ですか?」
「そう。とても、良く似た人。その人も、やっぱり、陸の魚[#「陸の魚」に傍点]だった」
翔子さんは、そう続けて、スプーンを置くと、静かにコーヒーカップを持ち上げた。
「……私が、大学に入りたての頃。私ね、美術の学校、行ってたの。その人は、その頃、もう三十を少し過ぎていたけど、アルバイトをしながら、絵を描いていた。ちょっとした事で知り合ってね。それから、まあ、その人と恋をしたのよ」
そうつづけて、ふっ[#「ふっ」に傍点]と笑うと、
「聞く? こんな話」
と翔子さんは僕をみた。
「……ええ」と僕は小さく微笑んでみせた。
微笑みを僕に返し、それから、少し目を細めるような表情をみせた後で、翔子さんは「その人」の事を静かに語り始めた。
「………優しいだけの人だったわね。まるでもう、どうしようも無い程に優しい、それだけの人だった。……私にも優しかったし、私の友人達にも優しかった。大袈裟《おおげさ》なことを言えば、道端の石コロ一個にだって優しい様な、そんな人だった。………いま思えば、それは、優しかった[#「優しかった」に傍点]んだか、それとも弱かった[#「弱かった」に傍点]んだか、………でももしかしたら、だからこそ強かった[#「強かった」に傍点]んだか―――何だか思い出しても良く分らないそんな人を、私は、その頃、ただいっしょうけんめいに、すきだった。―――――
目の前で幼《ちい》さな子供が転んだりすると、もうそれだけでオロオロしたりしてね。泣きじゃくる子供のそばで、ただ途方に暮れる様に、いつも立ちつくしていた。―――他人の、いろんな哀しさや淋しさに触れては、その度にオロオロして、そうして、いつも、ただそこに立ちつくす事しか出来ない人だった………。
この世界に一人でも不幸な人間が居る限り自分は幸福にはなれない―――って、そんなことを言った文学者が昔居たけど、――あの人にそこまでの信念が有ったかどうかは分らないけど、でもあの人は、いつだって他人の淋しさや哀しさで胸をいっぱいにしている、そんな人だった。
――いい絵を描かなくっちゃ、って。それが口癖でね。俺はいい絵を描かなくちゃいけないんだって、いつも、そう言っていた。――あの人は、自分の絵で、たとえば転んで泣いている子供を抱き起こしてやりたかったんだと思う。哀しさや、淋しさの中に居る人たちを抱きしめてやりたかったんだと思う。あの人が生きるという事は、きっとそういうことで、それ以外には何も出来る事の無い人でもあった。――食パンにジャムを塗って、そんなものを毎日、毎日、食べていた。私も食べた。私は、ただもう、胸がつぶれるほど、その人の事が好きだった。――」
ゆっくりとコーヒーカップを持ち上げ、翔子さんは窓向こうの黄昏の街に目を向けた。
それから、こんな事を、ぽつりと口にした。
「……付き合って三年目の秋だったな。――その人ね。死んじゃったの、首を吊って」
――え? と僕は思わず翔子さんの顔を見た。それから、どう応えたものか分らないまま、ただ「――はぁ……」とだけ小さく口にした。
「……原因は――何だったんですか?」
すこしの沈黙のあと、僕は翔子さんにそう尋ねてみた。
「さあ……」と翔子さんは少し首をかしげていたが、
「たぶん、生まれてきたことじゃないかしら[#「生まれてきたことじゃないかしら」に傍点]」
とそんな事を僕に応えた。
そして、それきり、翔子さんは、なんとなく言葉を閉じてしまい、僕は黙って何本目かの煙草を喫んだ。翔子さんは、時折コーヒーを持ち上げながら、遠い昔の、そんな恋愛を、ぼんやりと想い出している様にも見えた。気がつくと、店の窓向こうを走る車がヘッドライトを灯し始めている。壁の時計に目をやると七時を過ぎていた。カタリ、と一つ音がして、目を戻すと、カップを置いた翔子さんが、微笑みながら僕をみた。
「……今の主人と結婚して、もう十年になるわ」
再び口を開くと、翔子さんは、そんな事を話し始めた。
「主人は、死んでしまったその人とは、まるで正反対のタイプ。やり手[#「やり手」に傍点]でね。社交性も豊かで、機械みたいに正確で合理的な人。私は、きっと、初めての恋を、あんな形で失ったから、そういう、けっして首など吊りそうに無い人を、どこかで求めていたのかも知れない。……」
翔子さんは、そう続けて、ふっとまた窓を見た。
「……だってねえ。二十歳《はたち》を出たばかりの私にとって、あれは、相当に、強烈な出来事だったわ。こんな事が有るのかしらって、何か悪い夢でもみている様な気持だった。前の日まで、明るく、屈託無く笑っていた人が、翌日、首を吊って死んでるんだもの。……悲しみの後に、ものすごく裏切られた気がしてね、死んだその人が憎くて仕方が無い気さえした。そうして、自分一人悲劇の被害者みたいな気分になって、死にたい程の苦しさの中で明るく生きていた、少なくともそう生きようとしていた人の哀しさというものを、私はまだ、思いやれずに居た。……二十五の歳に、今の主人《ひと》と見合いをした時も、私は、この人は私を置いて死んで行く様な事はしないだろうかって、ただそれだけを考えていたわ」
それから翔子さんは、小さく自嘲めいた微笑みを見せると、「でも、駄目ね。きっと最初から無理していたのかも知れない。何とかかんとか、やってきたつもりだったけど、いい歳をして別居する破目になっちゃった」
そう一つ笑い、「まあ子供が居ない分だけ救われるわね」そう続けて、傍らのバッグから煙草を取り出すと、それに火をつけて、ふうとたよりなく煙を吐いた。
コーヒーを一つ飲み、僕は静かに翔子さんを見た。翔子さんは、窓向こうに流れる街の灯りに目を向けながら、ぼんやりとした調子で、こんな事をつづけた。
「……今の主人は、死んだあの人みたいに、一文にもならない夢を追いかける様な人じゃ無かった。……そして、あの人みたいに、愛[#「愛」に傍点]だの心[#「心」に傍点]だの、そんな誰も見た事の無いものをさがしている人でも無かった。あの人みたいに、敏感で、傷つきやすくて、他人の哀しみを自分のものとする様な人でも無かった。そしてそれ故に、人と交わる事に苦しみ、苦しみながら愛し、愛しながらも突き離すしか無かった、そんな複雑な迷路のような内面は、今の主人にはカケラも無かった。……私は、その事に、安心したわ。だって私は、敏感で、傷つきやすくて、他人の哀しみにさえ苦しんでしまうような、そんな人間は、この社会の中じゃ死んでしまうしか無いという事を、――もう知っていたから。……」
僕は、指先の煙草をみつめながら、翔子さんのそんな話を黙って聞いていた。
「……他に何も無い、愛する事だけが上手な人だった……。そして、そんな自分を誇りに思いたくても、そんな事が何の誇りにもならないこの地上に、あの人は生きていた。――陸の魚[#「陸の魚」に傍点]。あの人も、セイジ君も、それなのよ。いつか神様に会う事があったら、どうして、あんな苦しむだけの人間を、この世界に送りだすのか、それを少し尋ねてみたい気がするわ。……」
そう言って翔子さんは煙草を灰皿に押しつけた。その、テーブルに静かに立ち上《のぼ》る煙を目で追いながら、僕はボンヤリとセイジさんを想った。
山間《やまあい》の、道路脇の、ネオンサインのイカレたあの店のカウンターの中で、今頃は多分、煙草の煙で輪っかでもつくって遊んでいる、そんなセイジさんを想いうかべてみた。
或いは、今夜も来ているだろうカズオさん達とバカ話でもしているセイジさんを想ってみた。
変な話だが、なんだか、ひどく懐しい気がした。
[#改ページ]
PART TWO
気がつくと山間の田舎町に夏の盛りはいつか過ぎていた。
ハウス475は、通り脇にポツンと佇んだまま、そんな季節の移ろいをボンヤリと見上げつづけていた。そしてそこに集《つど》う、カズオさんやツノ先生やマコトさん、タツヤさんなども又、翔子さんと、そしてセイジさんとともに、そこにそれぞれの時間《とき》を寄せ合い、そうして笑ったり、歌をうたったり、そんな夜を繰り返しながら、何事も無く、穏やかに次の季節を迎えようとしていた。
あの事件[#「あの事件」に傍点]が起きたのは、そんな夏の終りの事だった。
ゲン爺《じい》という樵《きこり》が山の麓《ふもと》に暮《す》んでいた。
といっても「樵」がゲン爺の職業だったのかどうか、僕は知らない。
ただ、たまにセイジさんと山歩きなどをしていると、必ずといっていいほど、斧を片手のゲン爺と出会った。そうした時にセイジさんと短い話を交わすのだが、話の中でゲン爺は、自分の事を、決まって「樵」と称していた。
歳は七十近く。小柄な頑固者で、だが、その気の良さから、皆に、ゲン爺、ゲン爺、と親しまれている、そんな老人だった。
ゲン爺は、しかし実際には樵をする程の事も無い、かなりの資産家で、その辺りの山を三つほど所有する、そんな老人という事でも又あった。売って欲しい、という話は頻繁に有るようだったが、しかしゲン爺は山をあるがままに放っておくのが好きで、頑として、どこにも売らない。
そうして斧を片手に自分の山を歩き廻り、人に呉《く》れてやる為の野菜や薪を背負っては何時《いつ》も山道を急いでいた。
たまに、昼間フラリとハウス475に顔を見せると、そこで一、二杯の日本茶を飲んで行く。
「――お茶ぐらい」と、最初の時にセイジさんが料金を受け取らなかったらしく、それ以来無理に金を置いていこうとはしないで、いつもフラリと店を出て行くのだが、代わりに卵だの野菜だのを時折持って来ては、ホレ、と言ってカウンターに置いて行く。
数年前に連れ合いを亡くし、大きな、だだっぴろい田舎造りの屋敷に一人暮しをしていたが、街の方に、嫁いでいった娘が居て、ローンの残る建売の住宅で会社員の御主人と小さな家庭を営んでいた。ゲン爺の何よりの楽しみは、嫁いだ娘が時折連れて帰る八歳になるたった一人の孫娘の顔を見る事だったという。
惨劇は、その娘一家の上に起きた。
市内の、小高い丘にある新興住宅地に営まれていた、その細《ささ》やかな幸福は、精神に異常を来した一人の男の凶行によって粉々に打ち砕かれてしまった。
男は、日曜日の午後、親子三人が庭で遊んでいる所に斧を振りかざして突然乱入し、そして父親の胸と、母親の首筋にそれを打ちつけて、それぞれを絶命させると、泣きながら母親に駈け寄ったその一人娘の左手首をスパリと切り落とし、それから、大声で、何か奇怪な叫び声を辺りに残しながら何処かへ走り去っていった。
新しい宅地の事で、両隣の土地はまだ買手がつかず、空地で、そして庭の前方は低い崖になっており、その下には、ただ鬱蒼とした森が茂っているだけだった。
だから近所の者がその出来事に気づくまでには、裏手の主婦が、少女の激しい泣声を聞きつけて庭を覗き込むまでの数分の時間が必要となった。
現場を目にした主婦は、一瞬、腰が抜ける程の衝撃を受けながらも、気を奮い立たせ、縁側から土足で室内に飛び込むと、受話器を持ち上げ、震えの止まらぬ指でまず救急車を呼んだ。
不幸だったのは、少女の手首が、どうやら崖下の森の中に落ちてしまったらしい、という事だった。切り落とされた際にそこまで飛んで行ったのか、或いは凶行の中で犯人が蹴り落とすかどうかしたものなのか、原因は分らなかったが、いずれにせよ、それは、懸命な捜索にもかかわらず、結局は見つからず、関係者達は首を捻りながらも、やがて捜索を断念せざるを得なかった。
出血多量による死こそ免れたものの、リツ子ちゃん[#「リツ子ちゃん」に傍点]という、その小学三年生の少女の左腕に、その手首が再び戻る事は、もう無かった。
犯人は、血まみれのシャツで市内を彷徨している所を、時を置かずに捕えられたが、少女の心には、癒しようの無い傷が奈落の闇のように深く刻みつけられた。
「……ひどい事をしやがる。……」
カズオさんはカウンターに目を落としながらただそう呟いた。
後につづく言葉は無く、ただ、「ひどい事をしやがる」と、カズオさんは、それだけを、やりきれない表情で幾度も繰り返した。
その出来事以来、ハウス475のカウンターは、言い様の無い怒りとかなしみに覆われつづけた。
ツノ先生も、マコトさんも、タツヤさんも、そして翔子さん、セイジさんにしても、「ひどい事をしやがる」と、そう呟くしか無いカズオさんと、その想いは同じだったろうと思う。
皆、ゲン爺が手をひいて、誇らしげに連れて歩くその愛らしい少女の姿を幾度となく目にした事があった。そうして、声をかけてみたり、抱きあげてみたり、また、そのサラサラとした髪を、一つ撫でてみたり、それぞれが、それぞれに、その、リツ子ちゃんという八歳の少女に向けた愛情というものを心に持っていた。
人一倍、気の優しいマコトさんなどは、そうしたリツ子ちゃんの姿を、多分、ふと思い出すのだろう、黙ってコーヒーを飲んでいても、突然、小さな声をあげ、そうして、声を噛み殺すように低く嗚咽した。
「……今日、ゲン爺の家、寄って来たんだって?」
タツヤさんが、ポツリとカズオさんに尋く。
「……ああ。……」とカズオさんは応えた。
「……どんな風、だった?」
「……ああ。やっぱり、あんな調子だ」
カズオさんは、リツ子ちゃんの状態を、そんな風に告げた。
事件の後、リツ子ちゃんは、病院からゲン爺の家に引きとられ、そこで医師と看護婦に付き添われながらの静養を続けていたが、しかし、その出来事によってリツ子ちゃんの心は完全に壊されてしまっていて、無邪気で、屈託の無い笑顔を持っていた八歳の少女は、今は、そのかけらさえも持ち合わせない、廃人のような日々を、ひっそりとした静寂の中で送っていた。
その瞳《め》は、ただ虚空に向ってポカリと開かれ、そして、言葉を発する事を忘れた口もとからは、低い、喘ぐ様な声だけが、時折、漏れおちていた。
自ら食事を摂る事もせず、看護婦が無理矢理のように流し込むスープ類と、あとは点滴に依る栄養の摂取のみによって、その生命は辛うじて繋がれている、そんな状態だった。
小学校の二学期の始まりを十日ほどの後に控えていたが、少女が再び教室へ復帰するのは恐らくもう無理だろうと、医者に言われるまでも無く、ゲン爺も、そして僕達も、そう思わざるを得なかった。
「やっぱり、あんな調子だ」というカズオさんの言葉は、そうしたリツ子ちゃんの状態に快方《かわり》は無いと、そう応えたものだった。
「……そうか」
と、やはり数日前に少女を見舞ったタツヤさんは力無く呟いた。
ツノ先生も、マコトさんも、翔子さんも、皆それぞれに時間をつくってはゲン爺の家にリツ子ちゃんを見舞った。
それは少女の快方を祈る気持と、それに向けて何かをせずには居られないそれぞれの心情の表れだったが、同時に、ゲン爺の心労をいたわり、またそれを案じる意味からの事でもあった。
実際、ゲン爺の衰弱は、かなり重《ひど》いものに思われた。
もともと山で鍛えた元気者であるだけに体力的には充分なものを持っていたが、ただ、事件の後、時として見せるゲン爺の、その精神の乱れ様に、皆、気づかうべきものを感じざるを得なかった。
ゲン爺は若い頃から熱心な仏教信者で、特定の団体や組織などに属す事こそなかったが、或いは、だからこそ、純粋に、所謂《いわゆる》、仏さま、観音さまといったものを信じて疑わぬ、そんな人生を生きてきた人間であったようである。「南無観世音菩薩」と、一つ憶えのそんな言葉を呟きながら、両手を合わせて、いつでも、どこでも一礼をするのが常だったし、自分の所有する山のあちこちに、かなりの金を費《か》けて多数の仏像やら地蔵やらを置いては、そこに灯りを絶やす事の無い程だったが、そうした、仏像、地蔵の全てを、ゲン爺は数日のうちに悉《ことごと》く破壊し尽くしてしまった。くそっ、くそっと狂った様に叫びながら、使い馴れた、その斧の背中をそれに打ちつけては、それらのものを粉々に破壊しつづけた。
そうしたゲン爺の様子に、町の者は皆、同情と哀れみを禁じ得なかったが、同時に、何か見るものを不安にさせる狂気[#「狂気」に傍点]といったものも又、そこに感じさせられた。
だが、ゲン爺は、そんな不安定な精神状態の中にあっても、遺《のこ》されたリツ子ちゃんへの愛情と責任を見失う様な事は決して無く、そして、恐らくそれゆえに、そうした破壊的な衝動と、それから、少女のたった一人の保護者としての自覚との、その狭間《はざま》で、ゲン爺の心の緊張は、もう、その限界に達しようとしているかに見えた。
誰も特に口を開こうとしないまま、ハウス475のカウンターには重苦しい沈黙が流れた。そんな空気の中で、僕は、ふと傍らのセイジさんに目を向けてみた。セイジさんは椅子に足を組んだまま、ただ黙っていた。指に挟まれた、その煙草の先端が、今にも折れ落ちそうな長い灰になっているのに少し目をとめながら、僕は、事件の数日後、昼間フラリとゲン爺が店に入って来た時の事を思い出していた。
セイジさんが棚の急須を下ろし、ゲン爺の為だけに置いてある日本茶を入れようとした時、「酒をくれ」そう言ってゲン爺はカウンターについた。
「ウイスキーしか無いが」
セイジさんがそう応えると、「くれ」と、ゲン爺は、そう繰り返した。
やがて注がれたグラス半分程のそれを一気に呑み干すと、ゲン爺は唇を拭いながら、「……ヤケになってる訳じゃ無ぇ。心配するな」とそう言った。
それから、「煙草を一本くれないか」そう続けたゲン爺に、セイジさんは、カウンターに置いてある自分の煙草を指で押しやった。
火をつけてやると、それを一口喫み、ゆっくりと煙を吐きながら、ゲン爺はセイジさんを見た。
「……なあ、セイジ、教えてくれ。人間は何の為[#「何の為」に傍点]に、生まれて来るんだ」
セイジさんを見つめるゲン爺の目は露のように濡れていた。
「いや、他人の事は、どうでもいい。あの子は、リツ子は、一体、何の為に生まれてきたんだ」
ゲン爺は唇を震わせながらそう続けた。
「……父親が目の前で殺されるのを見る為なのか? それとも母親の首がくずれ落ちて行くのを見る為なのか? そうして、あんなボロギレのようになっちまう為なのか?………なあ、セイジ、教えてくれ、人間は、そんな事の為に、生まれてくるものなのか?……教えてくれよ、リツ子は、一体、どうしたらいいんだ」
そう言ってカウンターにうなだれると、ゲン爺は、後はもう何も言えずに嗚咽した。
セイジさんは黙っていた。
僕はそんなセイジさんの横顔を見つめていた。
僕は、セイジさんは、それに応え得る言葉を或る程度持っている人だった、と思う。
ぶ厚い書物を、セイジさんはよく読んでいたが、それは大学で哲学を専攻する僕の友人がよく持ち歩いている様な本であったり、或いは又、様々な宗教に関しての本であったり、そして、文学であったり、歴史書であったり、その内容は様々ではあったが、しかしセイジさんがそうした書物の中にいつも探していたのは、この人間[#「人間」に傍点]という生きものの持つ意味[#「意味」に傍点]、いわばそういうものだったろうと、僕は思う。
「人間は何の為に生まれてくるんだ[#「人間は何の為に生まれてくるんだ」に傍点]」
ゲン爺が口にしたその問いかけは、そのまま、セイジさんが探しつづけている問いかけでも又ある筈だった。
もし、それが、観念論であり、酒のつまみの雑談であれば、セイジさんは、それをセイジさんなりに語ったかも知れない。
だが、何を語ろうと、それが目の前のゲン爺を救う事など出来ない事を、そして現実に粉々に砕かれた少女の心を甦らせる事など出来ないという事を、その時、セイジさんは感じずに居られなかったのだろうと思う。
そして僕もまた、人間の、肉体を伴って生きる、この実人生に於ての、言葉の無力さ、観念の心細さ、そして学問というものの頼りなさを、やはり強く感じずには居られない気がした。
「明日は日曜だし、皆でゲン爺のところへ行ってみないか。どうです、先生」
とタツヤさんはそう言ってツノ先生を見た。
「うん、そうだな」と先生は短くそう応えた。
「オレも行くよ。オレ達行くと、ゲン爺、少しは、ほっとした様な顔してくれるからな」カズオさんも、そう賛成した。
「私も」と応えた翔子さんの隣で、マコトさんも、うん、と一つ肯いてみせた。
「セイジ、お前も行くだろ?」
カズオさんはカウンター越しにセイジさんを見ると、そう尋いた。僕はセイジさんを見た。
事件直後、リツ子ちゃんが、まだ街の病院に入っている時、誰よりも早く傷ついた少女のもとへ駈けつけたのはセイジさんだったが、それきり、この町へ移されて来たリツ子ちゃんを皆が交代の様にして見舞う中、セイジさんだけは、どうしてか、もう、そうしようとはしなかった。
セイジさんは恐らく行かないだろう、と僕は思った。
「――オレは、いいよ」
セイジさんは、やはり、そう応えた。
そう応えたセイジさんの横顔には、僕が初めて見る、弱々しい翳りがあった。
カウンターに僅かな気まずさが漂った様に思ったが、皆、そうしたセイジさんの内面のあり方を少なくとも僕などよりよく知る人達の事で、
「――まあ、いいさ。明日は、とりあえず、オレ達だけで行こうや」
カズオさんがそう言い、皆が一つずつ肯いて、セイジさんを除いた五人は、翌日の午後、ゲン爺の家で会う約束を交わした。
翌日の午後、ハウス475のカウンターには、ツノ先生が一人居た。
奥さんが朝から街の方へ用事で出かけていて、先生はそこで昼食をとりながら奥さんの来るのを待っている所だった。
ツノ先生は車の免許を持たない。代わりに奥さんが軽乗用車を運転する。家がハウス475の近くなので、先生は店にはいつも歩いて来るが、ゲン爺の家は車でも二十分程の距離があるので、昼過ぎには用事を済ませて帰るという奥さんを店で待ち、それからゲン爺の所へ送って貰う事になっているらしかった。――その奥さんから店に電話があり、立ち上り、受話器を取ったツノ先生のその応対から、奥さんは「かなり遅れてしまいそうだ」といった様な事を先生に告げているらしかった。
「ふむ」と一つ呟きながら、受話器を置くと、「――君は、運転、出来たんだっけか?」
と先生は僕を見た。
「……あ。いえ、出来ません」
僕は応えた。
「そうか」と先生は肯き、それから、セイジさんに目を移すと、「セイジ君、すまないけど、送ってくれないか?」と、そう頼んだ。
「……ええ」と応えたセイジさんは、しかしすぐに動こうとはせず、どこか逡巡する様な表情で、少しの間カウンターを見ていたが、やがて静かに腰を上げると、後ろの棚から車のキイをゆっくりと摘《つま》みあげた。
「君も、どうだ、行こう」
先生に声をかけられ、店をそのままにして、僕達三人は、セイジさんの車でゲン爺の家に向かった。
車の後部座席に揺られながら、僕は、自分の口にした嘘[#「嘘」に傍点]を、ぼんやりと考えていた。
どうして、咄嗟に、あんな嘘[#「嘘」に傍点]を口にしたのだろうと僕は自分に問いかけてみた。
僕は車の免許は持っていた。
普段、そう運転する様な事は無かったが、それでも友人達と出かけたりする時に僕がハンドルを握ったりする事もある。どうして運転出来ないなどと応えたのだろうと僕は自分に問いかけてみたが、しかしその答は、問いかけと同時に、すでに僕の中で明らかになっている様にも思った。
僕はセイジさんを引っぱり出したかった[#「引っぱり出したかった」に傍点]のだ。
何故だか分らないが、引っぱり出して、そしてリツ子ちゃんの前にセイジさんを置いてみたかったのだ。ツノ先生に尋ねられた時、僕は恐らく無意識のうちにそんな事を一瞬思い、そして嘘をつく事でセイジさんを引っぱり出そうとしたのだと思う。
そしてセイジさんは出てきた。
それが、あんな結末を誘おうとは、その時の僕に分る筈も無かった。
車は庭木の生い繁るゲン爺の屋敷の敷地に入ると、広い庭の、その突き当りにある納屋の前に静かに停まった。
カズオさん、マコトさんなども、もう来ているようで、見馴れた数台の車が、すでにそこに停められていた。
ツノ先生は、急《す》ぐに車を出る事はせず、吸いかけの煙草をプカリとふかすと、「カズオらも、もう来ているようだ」と、そう一つ呟いて、そこに並んでいる車を暫くの間ボンヤリと眺めつづけた。
それは、どこか、セイジさんに対し、一緒に上がらないか[#「一緒に上がらないか」に傍点]と、そう誘いかけている仕草のように僕には感じられた。
セイジさんはどうするだろうと、僕は運転席のセイジさんを後部座席からそっと窺ってみた。そこには表情の左半分が僅かに見えているにすぎなかったが、僕は、セイジさんのその表情の奥に有るものを僕なりに理解する事が出来る様に思った。
ものごとを、おそらく鋭敏に感じすぎてしまうセイジさんの様な人にとって、廃人同様となった少女の姿は、とても、見るに耐えられるものでは無かったのだろう。それは恐らく僕などが目にする以上の増幅されたむごたらしさ[#「増幅されたむごたらしさ」に傍点]となってセイジさんには突きつけられてくるのだろう。そして多分、ツノ先生にもそれは理解《わか》っていた。
陸の魚。
僕は翔子さんがいつか口にしたそんな言葉を思い出していた。
そして多分ツノ先生もまた、セイジさんの中にそうしたものを感じとっている人間の一人だったのだろうと思う。
僕は、そしてツノ先生は、その「陸の魚」をリツ子ちゃんの前に置いてみる事に、どこかで何か形の無い期待[#「何か形の無い期待」に傍点]を漠然と抱いていたような気がする。―――――
この地上で、その生きにくさ[#「生きにくさ」に傍点]ゆえに喘《あえ》ぎつづけている、一体の生き物。
しかしその「喘ぎ」の内《なか》に、僕は、そしてツノ先生は、喘がない自分たち[#「喘がない自分たち」に傍点]には持ち得ない何かが絶えず脈打っている事を確かに感じ、そしてそれが闇に閉ざされた少女に、たとえかすか[#「かすか」に傍点]にでも何かを与えてくれるのではないかと、それを思い、そしてそこに何かを賭けてみるような、今想えばそんな気持で居たのかも知れない。
少しの息苦しい時間が車内に流れた。
セイジさんは車を出ようとはせず、ただ降るような蝉の声だけが、僕達に重い静寂を感じさせつづけた。―――――
そのうち、何かを一つあきらめるように、ツノ先生は、ふっと気づいた様な素振りで灰皿に煙草を揉み消すと、
「や、どうもありがとう、助かったよ」
セイジさんに、そう礼を言って、助手席側のドアをガチャリと開けた。
セイジさんは僅かにそれに応えると、ギアを入れ、車の向きを変えようとした。
その時、丁度表に出て来たゲン爺が、車を下りたツノ先生を目にとめ、ああ、といった様な微笑をうかべながら僕達の方へ歩み寄って来た。
「……先生、どうもありがとう」そう言いながら側《そば》まで来ると、ゲン爺は、ふと車内のセイジさんに気づき、
「おう、セイジ、お前も来てくれたか」
と運転席の方へ廻ると、事も無く、そのドアをガチャリと開けた。
「久しぶりだな。リツ子に会ってやってくれ」
そう言って車からセイジさんを引っ張り出すと、「さ、アンタも早く」と後ろのシートに座る僕にも、そう声をかけた。
戸惑うセイジさんの肩に手を掛け、そのまま僕達三人を玄関へと誘いながら、「ありがとう、本当に、皆んな、ありがとう」と、ゲン爺はそんな事を何度も繰り返し呟いた。
僕達は、リツ子ちゃんの居る部屋に入った。
縁側の有る風通しのいいその部屋の中で、布団に半身を起こしたリツ子ちゃんは、もの言わぬ人形の様に、壁に体をもたせかけていた。青白い蝋の様なその表情には生気というものがまるで無く、その瞳は、ただ宙に向って虚《うつ》ろに開かれたまま、何も見ようとはしていなかった。そしてその瞳を少しも動かす事の無いまま、少女は訪れた僕達を迎えた。
入って来た僕達に気づいたカズオさんや翔子さん達が少し座を空けてくれたが、僕達三人は、無言のまま、その後ろに静かに腰を下ろした。
室内は、驚くばかりの数の花々に満たされている。開け放した縁側から見える庭先にも、やはり沢山の花が置かれていて、それらは町の小さな花屋などよりも多いかと思われる程の量だった。近所の人達や、また小学校の教師やクラスメイトたちなどから贈られたものも有った様だが、そのすさまじい数の花々の殆どは、ゲン爺が、毎朝のように業者に運び込ませ、とり換えさせつづけているものだった。
ゲン爺は、事件の後、持っている山を皆売った。足元をみた業者に買い叩かれながら、それでもかまわずに、二束三文の様な値で、山といわず、田畑といわず、あるだけのものを皆売り払い、そして、その金を、ゲン爺は、全部、リツ子ちゃんの為に費《つか》う気でいた。
数人の看護婦を雇い、それを二十四時間、交代でリツ子ちゃんに付き添わせた。医者も、日に一度は必ず訪れさせる様にした。尤も、リツ子ちゃんにさし迫った生命の危険というものは無い様にも思われた。必要な栄養さえ摂れば、肉体自体は「正常」に機能しており、問題は、ただ、その「心」の喪失という事だけに有った。事件の後、病院では数度にわたる検査がリツ子ちゃんの脳に対して行なわれたが、最新の医療機器もそこでは殆ど力を持つ事が無く、ゲン爺は、そこに託した希望を諦めると、医者の許可を得て、リツ子ちゃんをその広い屋敷に連れ帰り、そしてそこで少女にその心を取り戻させる為の考えられる限りの事をしてやろうとしていた。
担任の教師や仲の良かったクラスメイト達に頼んで、その子らがリツ子ちゃんに呼びかけるビデオを録り、それを傍らに置かれたテレビから絶えず流しつづけていたりもした。また、数台置かれたテレビの、別のものには、少女が好きだったというアニメ番組などが、やはり繰り返し映し出され続けていた。翔子さんは少女の側に腰を下ろしては、リツ子ちゃん、これ憶えてる? リツ子ちゃん、これ好きだったわね、と絶えずそうした事を話しかけながら、その髪を幾度も撫でていた。
溢れんばかりの花と、そして、そうした沢山の人達の愛情につつまれながらも、しかし少女の瞳は何も見ておらず、そしてその心は、どこか得体の知れない遠い暗がりに、ただ閉ざされつづけていた。
「一寸《ちよつと》、薪を割るよ。……」
かなしさに耐えられなくなると、ゲン爺はそう呟いて縁側を下り、そしてそこに積まれた薪をいつまでも割り続けた。
為すすべも無く少女の前に座る僕達の耳に、カツン、カツン、と一定の間合で繰り返される、ゲン爺の、その使い馴れた斧の確かな音が聞こえていた。その中に、手応えのうすい空虚な音が、ふと混じる時、僕達は、それはきっと涙に視界を遮られたゲン爺が、その手元を狂わせたのだと、そんな事を思った。
ゲン爺は、暫くそうした後で、ゴトリ[#「ゴトリ」に傍点]と斧を縁側に置くと、そこに腰を下ろし、そして、力無く、一人うなだれた。
誰もが、ただ、やり切れなかった。
何しに、こうして集ったのかと、そんな気にさえ僕はなった。
何も意味は無い様に思われた。ただ、かなしさを確かめに来たに過ぎない、とも思った。
それでも僕は、そこに居る人たちの中で一番冷静な者では有ったのかも知れない。
元気で、愛らしさに満ちていた頃のリツ子ちゃんを、僕は知らずに済んでもいた。
僕の目の前で半身を起こしている、その少女は、ただその姿だけを、たとえば一枚の写真に撮ってみるとするなら、それは、表情を持たない、痩《や》せた、誰も人間とは認めそうに無い、一体の置き捨てられた人形のようでしか無い様にも思われた。
――リツ子は何の為に生まれてきたんだ[#「リツ子は何の為に生まれてきたんだ」に傍点]。
いつかゲン爺の口にしたそんな言葉が、そこに、また、聞こえるような気がした。そして、それは、隣で同じように少女を見つめているセイジさんの胸にも、やはり、聞こえている筈の言葉でもあった。
その時、隣に座るセイジさんが、無言のままゆっくりと立ち上るのを、僕は視界の隅に見たような気がした。
それから数十秒のうちに起こった事を、僕はどう語ればいいのだろう。
僕は、僕が目にしたままの事を、ここに記そうと思う。
セイジさんは、立ち上り、縁側に置かれた斧を掴むと、静かに少女の側に立った。
そして、腰を下ろし、左腕を畳に寝かせると、右手に握りしめた斧を大きく振り上げ、そして、それを、自分の左手首に向けて、力のまま、一気に振り下ろした。
音が、一つして、気がつくと、セイジさんの左手首はそこに切断されていた。
噴き上った鮮血が激しい勢いで辺りに飛び散り、それは正面に半身を起こしている少女の、その青白い頬や首筋の上にも鋭い音をたてて疾《はし》り抜《ぬ》けていった。――――
一瞬の静寂の後、僕達は、今、自分達の目の前で何が起こったのかを、ようやく理解した。そして、誰もが、何をどうすれば良いのか早《す》ぐには分らない喧噪が始まった。
まず翔子さんが短い悲鳴の様なものをあげセイジさんのその左腕の切り口に飛びついて出血を止めようとした。それから、「救急車だっ!!」とカズオさんが叫んだ。「いえっ、こちらから行った方がっ」と看護婦が怒鳴るように言い、「連絡を入れておくので、どなたかの車で向って下さいっ」と最寄りの救急指定の病院名を告げた。タツヤさんが「車を廻すから、セイジを縁側から出せっ」と大声を上げ、「手首を忘れずに持っていって下さいっ」と包帯を取り出しながら看護婦がまた叫んだ。マコトさんが、ダッと駈け出し、カズオさんはTシャツを脱ぐと、それで畳の上のセイジさんのそれ[#「それ」に傍点]を包んだ。看護婦に応急の処置を施されながら、少しよろけたセイジさんは、翔子さんに抱きとめられ、それから急速に血の気を失っていく唇を歪めながら、少女に、何か語りかける様な表情《かお》をした。
僕は少女を見た。
飛び散った鮮血を受けたその顔の、その裂けそうな程に見開かれた少女の二つの眼は、目の前のセイジさんを、明らかに、見ていた[#「見ていた」に傍点]。開いた口元からは、それまでに無かった荒い息づかいが、いつからか、はげしく洩れている。僕は自分の鼓動に体じゅうが揺れる様な昂まりの中で、少女の、その「表情」を凝視しつづけた。
少女は、自分の外の世界[#「外の世界」に傍点]に対して、確かに反応している様に見えた[#「反応している様に見えた」に傍点]。セイジさんの、論理も何も無い、まるでムチャクチャなその行為が、閉ざされ続けていた少女の心を、無理矢理の力で、強引にこじ開けてしまったように思われた。
車が縁側につき、皆に抱えられてセイジさんが担ぎ出される中、僕は部屋に残り、少女を見つめ続けた。その正面に顔を置くと、はっ、はっ、という、少女のはげしい息づかいが肌に感じとれた。(……治るかも知れない[#「治るかも知れない」に傍点])ふとそんな予感が僕の背中を疾り抜けた。やがて少女は小刻みに体を震わせ始めた。しだいに激しく、歯が音をたてるほどに震え始めたその小さな両肩に、僕は、そっと手を置いてみた。純白の、パジャマの、その幼《ちい》さな手触りの中で、――少女は、僕を見た[#「僕を見た」に傍点]。
「……リツ子、ちゃん……」
僕は少女にそう呼びかけてみた。
――それから、十年が経《た》つ。
セイジさんの、そんな「行為《こと》」があってから、二週間程の後、僕は、あの町を離れた。
その間、僕は、ハウス475に一人寝起きしながら、病院のセイジさんを見舞い、そしてリツ子ちゃんのもとを訪ねつづけた。
セイジさんが店に戻って来るまで何とか滞在したいと思っていたが、就職を来春に控え、いつの間にかやらなければならない事が僕に山積してもいた。
ただ、町を離れるにあたっての心残りを極めて軽いものにしてくれた事に、その十数日間のうちにリツ子ちゃんが僕達に見せてくれた、その、心の、めざましい快復ぶりというものがあった。逆に言えば、それが僕に町を離れる決心をさせてくれたと言ってもよかった。
僕は、正直な事を言えば、あの[#「あの」に傍点]直後のリツ子ちゃんの「変化」というものに対して一抹の不安を感じていた。セイジさんのとった行動は、確かに、リツ子ちゃんの心をこじ開け、そこに外気を送り込む事に成功したものでは有ったが、それが或る意味で乱暴すぎる無茶苦茶なこじ開け方[#「こじ開け方」に傍点]であった事を思うと、それは少女の心の病いというものを更に悪化させてしまう事も有るのではないかという危惧を、僕はどこかで感じずには居られなかった。
しかし結局の所、それは僕の杞憂に終ってくれた。リツ子ちゃんは、明らかに、その本来の心を急速に取り戻しつつあり、それは、その紅《あか》みの差した肌に映し出される柔らかな表情からも、それと確信できるものに思われた。黒々とした瞳《め》には光が宿り、それは、ゲン爺を見つめ、又、僕達を見つめ、そうした周囲の目に映る全てのものを見つめながら、それらを求め、またそれらに求められようと願う、そんな、少女の無垢な想いに満ちた輝きをそこに映していた。
言葉も日に日に自由なものとなり、街の方から時折訪ねてくるクラスメイト達と、まだ少しぎこちなくも、しかし嬉しそうに言葉を交わしている、そんな風景さえ僕達は目にする様になった。
(もう大丈夫だろう)。僕達は、それを確信した。事実、九月に入り、新しい学期が始まると、転校の手続きを了えたリツ子ちゃんは、ゲン爺の家から、近くの小学校へ元気に通い始めた。
――元気に[#「元気に」に傍点]?
そう、確かに、それは、一見すれば何処にでも居る、元気な、愛らしい一人の少女には違いなかった。
だが、少女に、すでに両親は無く、そしてその左腕の先には、ほかのどの少女もが持ちあわせている小さな手のひらさえ備わって居なかった。
――全てを想い出す事は、全てを忘れ去る事よりも、或いは苦しい事であるのかも知れない。心を取り戻したリツ子ちゃんは、何もかもをその心から閉め出して一人虚空の中で生きていた、あの頃よりも、恐らくは、更に苦しい時[#「時」に傍点]を、それから歩み始めたのだろうと僕は思う。しかしそれは、少なくとも、人間が本来持つべき「未来」を内包した苦しさではあるのだと、少女を見つめながら、僕達はそう思い、そしてそれを信じようと努めた。―――――
僕は今、三十二歳。
東京の、中堅どころの出版社で幾人かの部下を持つ職に就いている。
あれから十年。その間僕は一度もあの町を訪ねた事は無い。
あれからあの町がどう変わったのか、或いは何も変わらないのか、そして、ハウス475に集《つど》ったあの懐しい人達が今どうしているのか、僕は知らないし、或いは知らずに居ようとしている自分なのかも知れないと、そう思ったりもしてみる。
――ただ、十年前、大学に戻って数カ月が過ぎた頃、下宿に翔子さんから一枚のハガキが届いた事がある。
多くは書かれておらず、そこにはただ、「みんな元気です、ハウス475は相変わらずです、リツ子ちゃんは、ほんとうに、強く、元気に過ごしています、安心して下さい」と、そう書かれてあった。
僕があれからのあの町に関して知る事といえば、それ位のものだったが、――ただ、もう、一つ。
実を言えば、そのリツ子ちゃんに、僕は、つい数日前、この東京で会った[#「会った」に傍点]のである。――
[#改ページ]
エピローグ
リツ子ちゃんは、上京して、東京郊外のミッション系の短大へ通っていた。
それを知ったのは、会社の同僚達と居酒屋でくつろいでいる時の事だったが、初秋の、月曜の夜のことで、幼稚園に通う息子を持つ一人の同僚が、その前日に幼稚園で催《ひら》かれた運動会の事を、酒のつまみに盛んに話していた。
その中で、リツ子先生、という美人の若い先生の話が出た。僕は少し興味をひかれて、どんな先生なんだ? とその同僚に尋ねてみた。同僚は、短大へ通っている研修生で恐らく将来幼稚園の先生になろうとしている人なんだろう、とそう応えた。子供達に大変人気が有って、リツ子先生、リツ子先生、と慕われていたと、同僚はそんな事を話した。
ふうん、と一つ肯き、すこしぼんやりする想いで煙草に火をつけた時、その同僚はつづけてこんな事を言った。
「……だけどなあ、何の事故だったのか知らないけど、すごくきれいな先生なのに、その人、左の手首から先が、無いんだ」
僕はその幼稚園の名前と住所を手帳に書きとり、翌日、会社から電話を入れてみた。
「リツ子先生」は、あの、リツ子ちゃんに間違いなかった。水曜日と金曜日の午後、幼稚園の方へ手伝いに来て貰っている、という事で、僕は、次の日の水曜の午後、社を早退すると、その足で、その幼稚園へ向った。
最寄りの駅で下り、教えられた道を行くうちに、やがて、それは早《す》ぐに分った。
その木造の古い園舎を僕は一つ見上げ、そしてそこにこぼれている子供達のにぎやかな声に足をとめた。その低い垣根から園児たちの遊ぶ広場が見通せ、それを少しの間眺めているうち、僕の目は、その子供達を広場の真ん中で整列させようとしている、一人の若い先生の顔に注がれた。
正確には先生の研修生[#「先生の研修生」に傍点]であるその人は、まさに、僕の憶えている、八歳の頃のリツ子ちゃんの面影をそこに残していた。
見ていると、機関車か何かのつもりなのだろう、大きなロープの輪の中に園児達を二列に並ばせると、彼女は、両手を腰の辺りで回転させながら、シュッ、ポッ、シュッ、ポッ、と小さく駈け始め、それに連《つ》いて子供達も、ばたばたとその頼りない足取りで後を追いかけて走り始めた。
リツ子ちゃんの、その、シュッ、ポッ、シュッ、ポッ、と腰に回転する、ブラウスの、その左腕の先の空虚なたよりなさ[#「たよりなさ」に傍点]が、ただ僕の目に、音も無く染みた。
小さな息を一つして、僕は、ゆっくりとその広場へ入っていった。
丁度入口の方へ向って来た、その「機関車」の先頭に立つリツ子ちゃんの目が僕を見た。
「あ」、と反応した、リツ子ちゃんのその表情に、僕は、彼女が僕を憶えていてくれた事を理解した。僕は、彼女に、ただ小さく微笑んでみせた。
リツ子ちゃんは、何か戸惑う様な、そして状況がうまく把握できない様な、何かそんな表情を少しの間見せていたが、それから、ひどく人なつっこい笑顔をひとつ浮かべると、
「……なつかしい」
とそんな言葉を短く口にした。
「うん」
と僕は、ただ笑ってみせた。
彼女の周囲《まわり》の子供達が、何やら興味深げに、僕と「リツ子先生」の顔を交互に見つめている。
その子供達に向ってクルリと振り向くと、
「解散っ!」と、リツ子先生は大きな仕草で、そう一つ声を上げた。何が嬉しいのか、わぁっ、と大きな声を上げながら子供達は思い思いの方角へ見事に「解散」していった。
それから、彼女の案内で、広場の隅のベンチに腰を下ろし、そこで僕達は二、三の話を交わした。
お互い思うように言葉を見つけ出せないような所があったが、言葉を勝手に選んでいたのは或いは僕一人の事だったのかも知れない。いたずらにあの頃の想い出話などをするのが、何か僕には、ためらわれる様な気がしていた。
広場の子供達は、いつの間にか皆園舎の中に入っていて、昼寝の時間ででもあるのだろうか、気がつけば、ひどく静かな日差しだけが辺りにそそがれていた。
空が、ぬけるように青い。
煙草に火をつけ、煙を吐きながら、その空を何げなく見た時、青空の中、園舎の屋根に立つ古びた十字架がふと目にとまった。目を移せば中庭の向うに教会が建っているのが見える。ミッション系の幼稚園なんだな、とその時初めて知った。
「短大《がつこう》も、キリスト教の関係なの?」
僕はそんな事を尋いてみた。
「はい」
とリツ子ちゃんは微笑んで僕を見た。それから、
「でも、爺ちゃんは、あれ以来[#「あれ以来」に傍点]、神様とか仏様とかを恨み[#「恨み」に傍点]に思っているから、今でも余り気にいらないみたいです」
そうつづけて、くすり、と笑った。
僕は少し微笑んで、また一つ煙草を喫んだ。
そして、「君は、信じているの?」と、ふとそんな事を尋ねてみた。
何を? という風に、リツ子ちゃんは僕をみた。
「神さま、を」
と僕は言い足した。
彼女は静かに微笑むと、
「だって、私」
とつぶやいて、晴れた空をみた。
僕は、その横顔に目をとめたまま、彼女の言葉の続きを待ってみた。彼女は、少しの沈黙の後で、僕に、こうつづけた。
「……だって、私、神さまを目の前で見たんだもの」
そんな事を、空に向けて呟いた。
僕は、煙草を持った自分の指先に目を戻しながら、
「……そうだったね」
とだけ、こたえた。
青空の中に、ぽつんと浮かぶ十字架を目にとめながら、僕は、自分の手首を自分で切り落とした、あの乱暴なカミサマは今頃何をしているだろう、とそんな事を思ってみた。
僕は空をみた。
その晴れわたった真っ青な空に、どこからか、鐘の音がきこえた。
[#改ページ]
竜二
─────
もう やる事は終ったと
黄昏の街を 歩いている
もう やる事は終ったと
どこか遥くを 眺めている
もうやる事の終った黄昏に
星が綺麗に うかんでいる
「もう、やる事は終った」
そう呟いて ひとり空を見上げている────
あの星は
十万光年彼方だそうだ
隣の星は
百万光年彼方だそうだ
俺は産まれて 四十年
気がつけば あの星の下に居た─────
あの星は
俺の産まれた時をみた
あの星は
俺の生きた日々をみた
あの星の下で すべてのものたちが
うまれ いき 死んでいった
何の為に ? ─────
「死とは」
黄昏の彼方で 星が言う
「日の暮れた道を、ひとり故郷へ帰ることだ」
「生きるとは」
「日の暮れるのもおぼえぬまま、夢中で続ける遊戯のことだ」
「せかい[#「せかい」に傍点]とは」
「それぞれがそれぞれの遊戯を続けている広場のことだ」
そう星は言う ───
「俺は俺の この遊戯を」
もうやめようと思うのだが
星は いつまでも黙っていた ───
いま 一つの遊戯に倦《あ》きて
俺はこの広場を去って行く
かつて幾百億というものたちが 去って行ったように
俺も この広場を去って行く
ポケットに
沢山の思い出
一つ一つをとりだして
日の暮れるこの道に 置いてゆくのです
─────
竜二の事を、話してみようかと思っている。
竜二という、この詩を書いた私の古い友人の話だ。
その竜二と、私との、この数カ月の交わりの果てにあった、或る日の事を、私はこれから語ってみようかと思っている。
何もそう勿体《もつたい》ぶって始める程の話でも無い。
しかし、ちょっといい話ではあると思っている。
少くとも私は、その日の事を思うと今でも、なにか胸の温度が高くなるような気がする。そのまま泣いてしまいそうな気持にさえなる。人間が生きる、という事の何ごとかが、そこに感じられてくる様な、そんな気持になる。
べつに一杯の掛け蕎麦を三人ですすった[#「すすった」に傍点]とか、そんな類いの話では無い。苦しむ農民たちのために七人の侍が闘ったとか、そんな立派な話でもない。いわんやゴジラを倒す為にモスラがザ・ピーナッツに死ぬほどコキ使われたとか、そんな話でも、むろん、無い。
これはただ、一人の男が見上げた、小さな青空の話だ。
小さくて、けれど私達人間というもの全ての上に広がる、巨きな青空の話だ。
私は、そんなふうに思っている。
竜二は、よくこんな夢を見たそうだ。
何処《どこ》か分らない、陽の照りつけるコンクリートの広場の様な所を、竜二が一人歩いている。
歩いてゆくその向うに、背筋を真直ぐに伸べた竜二のお兄さんが、一人立っている。立って、近づいてくる竜二を、じっと見つめている。そんな広場を、竜二は戸惑いながら、お兄さんに向ってゆっくりと歩いてゆく。
お兄さんは、自衛隊の白い制服を着ている。制帽を被《かぶ》り、そのがっちりとした体を一本の鋼《はがね》の様にして凛《りん》と立っている。その足元に、夏の強い日差しが濃い影をつくっている。竜二は次第に胸の鼓動が高鳴るのを覚える。(兄貴が怒っている………)そんな気がする。滑稽な程に緊張していく自分が分る。―――竜二は子供の頃から、このお兄さんにいつも叱られてばかりいた。そんなお兄さんを、竜二はいつも畏《おそ》れていた。畏れながら、しかし愛してもいた。お兄さんが叱りながらも竜二を愛している様に、竜二も畏れながら、お兄さんを愛していた。だが向き合うと、やはりいつも気が臆《おく》した。そのお兄さんが、前方に一人立っている。竜二は逃げだし様もないまま、ひとりそこへ向って歩いてゆく。やがて、お互いの顔が向き合う程の距離になった時、目深《まぶか》に被《かぶ》った制帽の庇《ひさし》の下のお兄さんの目が、ギロリと光って竜二を見る。竜二はドキリとして、(泣きそうにさえなって)―――そしてそこで、いつも目が覚める。―――――
竜二は、そんな夢をよく見たそうだ。
「―――いい歳をして、未だに兄貴だけは恐いよ」
この話を私にした時、竜二はそう言って、苦笑してみせた。
竜二は四十歳になる。私とは故郷の幼なじみだ。中国地方の、海にほど近い小さな地方都市に、私と竜二の故郷はある。そこで私達は、お互い、十八歳までを過ごした。
私は、そこで高校を卒《で》て、進学のため故郷から遠いこの東京へ出て来た。
大学を出て、就職し、私は今もこの街に住んでいる。
この街で妻を持ち、子供を持ち、ささやかな住いを持ち、その間ときおり帰省する事は有ったものの、この二十数年間のほとんどの時間を、私はこの街で過ごしてきた。
竜二がこの街へ一人|上京《で》て来たのも、私とほぼ同時期の事だったらしい。私が進学で上京した、その少し後の事だった様だ。それ以来、竜二もずっとこの街に居た。
だが、私と竜二とがこの街で偶然に再会したのは、この、ほんの数カ月前の事だ。
人がすれ違いつづけるこの巨大な街で、二十数年間、私と竜二もすれ違いつづけて来たという事なのだろう。
この二十数年、この街での日々に追われながら、私はしばしば、竜二の事を想い出す事があった。(どうして居るだろう)そう思う事があった。お互いの子供時代からを知る竜二を、私は他のどの旧友たちよりも懐しく感じていた。
―――会ってみたいな。時にそう思いながらも、忙しさに紛《まぎ》れるうち、いつの間にか二十数年が経った。会おうにも友人の誰一人として竜二の居所を知らないという事も有った。しかし、それ以上に、私自身、めまぐるしく展開し続ける自分の人生というものに、ただ追《つ》いていくのが精一杯の二十代、三十代、という事でも有ったのだろうと思う。
そんなとき、この街で竜二と、ばったり会った。暖かな春風の吹く、夜更けの街角での事だった。
そのとき竜二は、街角の高架《ガード》下で、ギターを弾いて歌を唄っていた。
私は、その竜二の前を、最初、とくに気にとめる事も無く歩き過ぎた。
長年東京に住んでいても、そこは殆ど、私の訪れた事のない街だった。知った者が居るとも思わなかったし、ましてや二十年来会っていない幼なじみに会う[#「会う」に傍点]などとは、露ほどにも考えていなかった。
その日、先方の都合に適《あ》わせた商用の為の待合せを、その街でし、それを終えて、私は駅へつづくアーケード街を、一人歩いている所だった。夜の十時を過ぎた頃だったと思う。
マッサージやピンサロの呼び込みに軽く手を振って応えたりしながら、私は、いつからか癖になっている急ぎ足で、やがて見えてきた駅に向って歩きつづけていた。
歩きながらふと[#「ふと」に傍点]気がつけば、人が行き交《か》う駅前の、屋台や客引き達の賑わいに混じって、もうシャッターの下りた商店の前などに何人もの若者たちが気儘《きまま》に座り込んでいるのが見えた。座り込んで、彼らはギターを弾き、そして歌を唄っていた。それぞれが数人の「聴衆」を前に、オリジナルらしい歌やら、誰かのコピーやらを大声でがなりたてていた。
(なるほど………)と私は歩調を緩《ゆる》めるでもなく、彼らにただぼんやりとした興味を向けた。
そこが、そういう街[#「そういう街」に傍点]であると、私も知ってはいた。若者たちが毎夜《よごと》大通りで歌を唄っている、そういう街であると、知ってはいた。自由な格好をした若者や、もう若者とは言えない者たちが、しかし永遠の若者であるかの様に、ギターを弾き、或いは打楽器を叩き、一晩じゅう歌を唄っている、そこはそんな街だった。背広にネクタイを締《し》め、書類バッグを手に下げた自分がどこか居心地の悪い気のしてくる様な、そんな街でもあった。
竜二に気がついたのは、その姿を認めたからではなかった。
ふと通りすぎる私の耳に聞こえてきたその歌[#「その歌」に傍点]を、私が知っていた[#「知っていた」に傍点]からだった。
それは竜二が高校の時に自分で創った歌で、竜二と私と、あと限られた者しか知り様のない歌だった。私は、そんな歌[#「歌」に傍点]があった事さえもう思い出す事の無い日々の中に居た。それが突然、故郷を遠く離れたこの街角で、二十数年という時を経て、私の耳に飛び込んできた。
え? という思いで立ちどまり、私は振り向いた。振り向いたそこに、竜二が居た。四十になった竜二が、マクドナルド脇の高架《ガード》下に座り込み、そのくそ懐しい歌[#「くそ懐しい歌」に傍点]を唄っていた。遠い昔、高校の文化祭の特設ステージで唄っていたその歌[#「その歌」に傍点]を、いま、都会の雑踏に座り込む四十歳の竜二が、ギターをかきならしながら歌っていた。
なにか馬鹿げた夢でも見ている様な気持で、私はただ呆然《ぼうぜん》と竜二を見つめつづけた。ふと両手の力が抜けて、持っていたバッグを落しそうにさえなった。
竜二は、むろん私に気づく筈もなく、その古い歌を唄いつづけていた。そばに数人の若者と、ホームレスの様な男が座り込んで、リズムをとりながら、竜二の唄う、その歌を聴いていた。(………ホームレスでもリズムをとるんだな)ぼんやりする頭で私はそんな事を考えてみたりしていた。―――――
「竜二か?」
と、歩み寄って尋ねようとも、私は思わなかった。
尋ねるまでもなく、それは竜二以外の何者でもなかった。そんなに簡単に確かめるのが、何かもったいない[#「もったいない」に傍点]様な気さえした。私はただ、小さな輪を成す数人の聴衆の後ろに佇《たたず》んで、そのくそ懐しい歌を聴《き》きつづけた。私の頭の中には、めまぐるしく、様々な記憶の断片がうかんでは消えていった。
「今度、こんな歌、つくったんだ」
そう言って、故郷の私の部屋に上りこんで、その歌を得意気に唄っていた十六歳の竜二の姿までが、鮮やかに思い出された。私がコーラスをやらされ、それをテープに録《と》って、(確かどこかのレコード会社のコンテストに送ったっけな……)そんな事まで思い出していた。ふいに何か噴き出したい様な可笑《おか》しさを覚え、私は、それを堪《こら》えながら、ただぼんやりとそこに佇みつづけた。
そのうち、歌い続ける竜二の目が、ふと私を見た[#「見た」に傍点]瞬間が有った。
だが、その目は、私の姿を一瞬なでた[#「なでた」に傍点]だけで、ことも無くどこかへ通り過ぎていった。竜二は歌を唄い続けた。だがそのうち、その流れていった竜二の目が、どこか慌《あわ》てる様に、また私に戻された。戻ってきて、数秒、私の上に止《とど》まった。そしてギターが止《や》んだ。
「………高橋、か?」
竜二が驚いた様に、私の名を口にした。
辺りに立っている者達が、振り向いて私を見た。
「―――この野郎、カビの生えた様な歌、唄いやがって」私は笑ってみせた。
可笑しくて、懐しくて、私はなんだか、自分でもよく分らないほど、嬉《うれ》しかった。
「………ああして、歌を唄って、生活してるのか?」
マクドナルドのカウンター席で、私は隣の竜二に尋ねた。
「まさか」と笑って、竜二は紙コップのコーヒーを飲んだ。
「まさか[#「まさか」に傍点]、だよな」私は肯《うなず》いて、ポテトを口に入れた。―――――
どうでもいいがマクドナルドは呆《あき》れるほど騒がしかった。私は苦笑する思いで、油っぽいポテトを噛んだ。私は、どこか、もっとちゃんとした[#「ちゃんとした」に傍点]所で、竜二との再会を祝したかった。新宿まで出れば取引先との商談などによく利用する落ち着いた店が有る。私は其処《そこ》を考えてみた。
だが竜二は、「めし[#「めし」に傍点]でも喰おう」という私に、うん、と笑って応えると、ギターを傍らの若者に渡し、さっさ[#「さっさ」に傍点]と私をこのくそ騒がしいマクドナルドへと連れ込んだ。そして私を窓辺のカウンター席に座らせると、ひとりまたさっさ[#「さっさ」に傍点]とレジへ行き、チーズバーガーとコーヒーを二つずつ、そして山ほどのポテトを買って来て、嬉しそうにテーブルに置いた。
私は竜二のそんな様子が、なにか可笑しく、また懐しくもあった。私は、マクドナルド自体が本意[#「本意」に傍点]で無い上に、チーズバーガーでいいか? とすら尋ねて貰えなかった。(相変わらず勝手なやつだ)私は小さく笑い、包みを開けて、それを頬張《ほおば》った。そして、旨《うま》いのか不味《まず》いのか良く分らないコーヒーを飲んだ。
「―――ときどきな、なんだか歌いたくなると、ああして若いヤツに混ぜて貰うのさ」竜二は笑いながら、煙草に火をつけた。
その煙が、店内の空調の具合なのか、私の顔をモロ[#「モロ」に傍点]に撫でて流れた。
竜二は、ふと席を離《た》つと、反対側に廻り、よいしょ、とそこに腰を下ろして灰皿を引き寄せた。煙草の煙は、私と反対の方へ、静かに流れて行った。―――――
(竜二は、何も変わってないな)と私は思った。人の意見も尋《き》かずに勝手にチーズバーガーを買ってくる乱暴さと、自分の煙草の煙にこうして気を遣う或る種の繊細さは、どこか矛盾しながらも、確かに昔から竜二のものだった。
―――お、悪いナ、と別にそんな事を言うでもなく、ただ面倒臭そうに自分の周囲に神経を使っている。使いながら、結局やる事はいつも乱暴で、いき当りバッタリでもある。
そんな抱《かか》え持った矛盾のこすれあう[#「こすれあう」に傍点]摩擦の様なものが―――こいつに小説[#「小説」に傍点]なんか書かせるのかな、私はふと思った。
そう、私はその時はじめて、いつかの同窓会で友人の誰かが口にした言葉を思い出していた。―――「竜二は、なんか、本[#「本」に傍点]を出したらしいよ」そんな話だった。そのくせ友人の誰も、その本を持ってなかったし、問い合わせてみても、もう絶版になっているという返事だったという。
「おまえ、なんか、本を出したんだって?」
私は隣の竜二を見た。
「ああ、一冊だけな」竜二は笑った。
「なんか、小説だって聞いたけど」
「ああ」
「売れたのか?」と尋いた私に、竜二は一つ笑い、「売れてりゃ、そんな質問は今ここに存在しねえよ」そんな事を言った。
なるほど、と私は心で肯いた。「論理的だ」そう呟《つぶや》いて竜二を見つめた。そして、「……おまえ、ホントに変わらないな」私は心から、そう言い足した。―――――
竜二は、本当に、呆れるほど変わっていなかった。まるで誰かが二十数年間真空パックして納《しま》っていたのじゃないかと思うほど、その、声も仕草も表情も、私の記憶に有るそのままの竜二だった。痩《や》せた体つきも何も変わってなかった。すっかり腹の突き出た中年商社マンそのままの自分とは、まったくエライ違いだと私は思った。
それでも仔細に見ると、そんな竜二にも(当り前のハナシだが)、やはり一人の人間として四十年を生きて来た、その跡が、顔に、体に、確かに刻まれてもいる様だった。
その髪に、数本の白いものを見つけたとき、
「白髪《しらが》だっ」
と私は鬼の首でも取った様に、思わず叫んでいた。叫ぶほどの事でも無いなと思いながらも、なんだか、叫んでいた。叫びながら、同時に、自分たちに過ぎていった長い歳月というものを、私は思わずに居られない気もした。故郷の田舎道を夢中で駈けていた幼いあの日から――たしかに長い時が流れたのだなと、竜二の数本の白い髪に、私はそれを改めて思い知らされる気がした。
店内には賑《にぎ》やかなロックミュージックがかなり[#「かなり」に傍点]の音量で流れ続けていた。それと混濁《こんだく》して客達がそれぞれに交わし続ける様々な会話が、対流する波の様に空間をぶ厚く埋め尽くしていた。
フロアのテーブル席はほぼ[#「ほぼ」に傍点]満席で、そこを埋めているのは、その殆《ほとん》どが、金髪のおニィちゃんや、鼻にピアスを刺しまくったおネェちゃんといった若者達だった。そしてそのテーブルの脇には必ずと言っていいくらい、ギターが、或いはベースが立てかけられてあった。
そんなおニィちゃんの一人が、いつそば[#「そば」に傍点]に来たのか、ふいに竜二に声を掛けてきた。
「―――竜二さん、今ヨシオが借りてる、キング・クリムゾン、オレ、そのあと、借りていいスか?」
革のジャケットに、革のパンツ。背中にブ[#「ブ」に傍点]厚い虎の刺繍《ししゆう》がしてあり、肩から袖口までは銀色の金属製の飾りモノが、びっしりとしつらえ[#「しつらえ」に傍点]てある。(重くないか? お前)私は心で思いながら、竜二に親しげに話しかけるその若者を興味深く見つめた。
「いいよ」
と応えた竜二に、一つ笑い、「じゃ、借ります」そう言って、若者は奥のテーブルに戻っていった。自分の息子と似た様な年齢の、その痩せた後姿を見送りながら、
「ともだち[#「ともだち」に傍点]か?」
と私は竜二に尋いた。
「ともだち[#「ともだち」に傍点]だ」竜二は笑って応えた。
革のパンツのともだち[#「ともだち」に傍点]は、テーブルに戻り、そこに腰を下ろした。向いにカノジョらしい鼻ピアスのおネェちゃんが座っていた。おネェちゃんはそこから、竜二に一つ手を振ってみせた。
「………ともだち、か?」私はもう一度尋いた。
「ともだちだ」竜二は紙コップを傾けて応えた。
―――今、何をやってるんだ?
その日終電までの時間を一緒に過ごしながら、結局私は、竜二にそう尋ねる事は無かった。
結婚は? とも、住いは? とも尋く事は無かった。
帰りの電車の中で、ふとそのことに思い当り、私は吊革に揺られながら、何かぼんやりする思いがした。
私達は、幾ら話しても話し足りない昔話ばかりを、マクドナルドの騒がしさの中で語り合った。そのくせ、お互いの現在《いま》≠ニいうものを結局何一つ交わす事は無かった。私は竜二の現在《いま》を何一つ耳にしなかったし、私も私自身の現在《いま》を、恐らく一言も口にしなかったろうと思う。
―――二十数年ぶりに会ったと言うのに
私はそれを、何か奇妙な事の様に思ったが、しかし同時に、それがあの時間の自然ななりゆき[#「なりゆき」に傍点]だった様にも思えた。
やつ[#「やつ」に傍点]と居るうち、私はまるで自分達が故郷の喫茶店で喋《ダベ》っている二人の高校生の様な気分に、いつの間にかなってしまっていた。そんな気分で交わす会話の中に、「いや、息子がさ」といった様な類《たぐい》の言葉が私の口をつく筈も無かった。息子の事も、妻の事も、細《ささ》やかなマイホームの事も、そしてそのローンの事も、仕事の事も、あの時間私はキレイサッパリどこかに置き捨てて竜二と過ごしていた、その事に改めて気づく思いがした。
ひとつには、竜二があまりにも変わっていない[#「変わっていない」に傍点]という事が有ったのかも知れない。同時に、何か、そうした互いの現在のハナシなどというものを、竜二が何処かで拒んでいた[#「拒んでいた」に傍点]という事も、もしかしたら有ったのかも知れない。何処かで拒もうとしている竜二のそれを、無意識の内にも私が感じとり、そして感じるまま私達は、ただ遠い昔話ばかりを、ああして懐しく重ねつづけたのかも知れない。―――――
吊革に揺られ、規則正しいレールの音を耳にしながら、私はぼんやり、窓外に流れる街灯りに目を向けた。
現在《いま》を語り合い、或いは未来を語り合う事などに何の興味も無い、そんな場所に、竜二は棲《す》んでいる様な気がした。
私達は、その後、頻繁に会った。
電話番号ぐらいは教えあっていたので、それで連絡を取った。もっとも、竜二は、何度電話をしても容易につかまる様な奴では無かった。何処を出歩いているのか、昼でも夜でも、夜中でも、竜二は余り部屋には居ない様だった。
竜二が、まだ独身で居る事は、とくに尋ねるでもなく、私に分った。独身で、アパート暮しで、そしてこの数年、殆ど無職[#「無職」に傍点]の状態で居る事なども、竜二と交わすその後の会話の中で窺い知れた。無職のくせに一体どこをほっつき歩いているのだろう、と、私はそれが何だか可笑しかった。同時に、どうやって暮しを立てているのかと、それを少し心配してみたりもした。しかし肝心の本人は、とくにそれを心配しているふう[#「ふう」に傍点]でも無かった。生まれて死ぬまで俺は無職だ、といった顔すらしていた。本人が心配している様子の無い事を、私がアレコレ気を揉むのも何か馬鹿馬鹿しい気がしたりもするので、私はそれを余り気にかけない事にした。いよいよ困れば相談してくれるだろうと思ったし、その時できるだけの事をしてやればよいと考えた。
忙しさに追われる毎日の中で、私はふと、そんな竜二を思い出しては、その都度、やつ[#「やつ」に傍点]に無性に[#「無性に」に傍点]会いたくなる自分を感じた。
私は思いつくと、ふらりと竜二の街へ足を向けた。遅く仕事を了《お》えた九時、十時といった時間が多かった。電話をしてもどうせつかまらないやつ[#「やつ」に傍点]を追いかけるより、駅前に行く方が早かった。
マクドナルドの脇で歌っている竜二を早《す》ぐに見つける事も有ったし、やつ[#「やつ」に傍点]が居なくても、そこには竜二を知る誰かが必ず居た。
竜二を介して、いつしか親しくなった、そんな若者達や、ホームレスのオヤジなどと楽しく過ごしているうち、自転車に乗った竜二がフラリと目の前を通りかかったりする事も有った。また頃合を見て掛け直した電話に竜二が珍しく出る事も有った。
「竜二さんなら、さっき」と誰かが探しに行ってくれたりする事も有った。
私はしばしば、そんなふうに竜二を待ちながら、そこで彼ら[#「彼ら」に傍点]と、ひと時を過ごした。過ごしながら、どこか興味深い思いで、私は彼らのそうした風景[#「そうした風景」に傍点]を眺めつづけていた。
マクドナルド脇に限らず、駅の周辺には、そういう若者達がいつも気儘《きまま》に座り込み、そこで細やかな自分達の表現≠、街の雑踏の中に解き放っていた。歩み過ぎたり、或いはふと立ち止まってみせる行きずりの聴衆≠前に、彼らはギターをかき鳴らし、歌を唄っていた。
彼らと過ごすうち、私は、彼らはそうする事[#「そうする事」に傍点]で、そこに何かを訴えて[#「訴えて」に傍点]いるのだろうと、いつからかそんな事を思う様になった。
そういう意味では、鼻のピアスも、腕の刺青《ほりもの》も、やはり何かに向けた訴え[#「訴え」に傍点]には違いないのかも知れなかった。怒り≠ナさえあるのかも知れなかった。
何[#「何」に傍点]への怒りなのか、私には分らない。おそらく彼らも、分らないでいるのだろう。
それはつまり、誰にも分らない重苦しい何かが社会に、とりわけ若い彼等に、息苦しく圧《の》しかかっていると、そういう事ではないのかと、私は思ってみたりした。
私は別に、自分が若者にリカイの有る大人であるなどとは思わない。そうありたいとも特に思わないし、そもそも理解[#「理解」に傍点]など出来るものではないとも思っている。エジプトの古い粘土板に書かれた碑文の中にさえ近頃の若い奴は[#「近頃の若い奴は」に傍点]≠ニいう一節が有るというではないか。
太古の昔から、若者はいつも「大人」にとって理解のしにくい苦々《にがにが》しい存在だったのだろうと思う。だから若者にリカイ[#「リカイ」に傍点]の有る大人など本当に居る筈は無いし、そんなやつは居てはいけないのだとも思う。だから私も、彼らをリカイなどしない。ただ、リカイはしないが、すきにはなれた。
彼らは、このヤヤこしい社会の片隅で、言おうと思えば言いたい事が山ほど有るに違いないこんな時代の片隅で、しかし彼らは、いつもラブ・ソングを歌っていた。
そのことを、私は、すてきだと思った。
そんな彼らとの時間を重ねるうち、私もいつしか、路上で大声あげて歌を唄ってるヘンな中年オヤジになっていた。
「―――アンタ、声がいいよ」などとホームレスのオヤジに誉められ、ワンカップの酒を一口奢《ひとくちおご》って貰ったりする事も有った。
そのオヤジはジョン・レノンの「イマジン」が好きだと言っては、傍らの若者にそれをリクエストしたりしていた。誰かに歌詞の内容を教えて貰ったらしく、「曲もいいが、詞が好きだネ」などと言っていた。
一つの世界を、皆で分けあっていると思ってごらん
なるほど、ホームレスにはたまらないフレーズに違いない。
(このオヤジとなら世界を分けあってもいい)王様でもないくせに、私はそんな事を考えたりもした。
近頃の歌など殆ど知らない私ではあったが、その街角では、ビートルズが、ストーンズが、そして吉田拓郎や古いフォークソングが、よく歌われていた。
まさにどれも、これも、私のツボ[#「ツボ」に傍点]と言っていいジャンルだった。そこをグイと押されると「あ、イイ」と身をよじってしまう様な箇所だった。
ネクタイを緩《ゆる》め、緩めたネクタイをいつか外し、外したそれを調子にのって振り回したりしながら、私は息子の様な彼等と、また父親の様なホームレスと一緒になって、そこで幾つもの歌を唄った。
歌う私の正面に、ほのぼのレイクのネオンサインが見えていた。隣に、〇〇銀行、××銀行が並んでいた。電光掲示板が「新宿で異臭騒ぎ」などというニュースを流していた。
―――ツマラナイ世の中になったものだ
普段、思ってもいないそんな事が、ふと思われたりする事が有った。
ジョン・レノンの「イン・マイ・ライフ」を、ストーンズの「ルビー・チューズディ」を、吉田拓郎の「今日までそして明日から」を唄いながら、私は、そこで大声を上げて泣いてしまいたい様な、なぜだかそんな気がする事さえ有った。
「来てたのか」
泣きそうになっている私に、フラリと目の前を通りかかった竜二が、そう声を掛ける事もあった。
「うん」と私は子供の様に笑って応えたりした。
そうして、会うと何時《いつ》も、竜二と私は、くそ騒がしいマクドナルドの硬い椅子に並んで座った。座って、旨いんだか、不味いんだかよく分らないコーヒーを飲んだ。飲んで、尽きない話をした。
竜二が夢の話をしたのは、そんな時間の中での事だった。
陽の照りつけるコンクリートの広場に、お兄さんが一人立っている―――そんな夢の話だ。
それを、よく見る、と竜二は言った。
「怖いものなんて、何も無くなってしまったけど」そう言って私を見ると、
「兄貴だけは、やっぱり、怖いよ」そうつづけて、笑った。
お兄さんの高志さん[#「高志さん」に傍点]の事は、私もよく憶えている。
故郷の町の、ウルトラガキ大将だった人だ。
ムチャクチャに喧嘩が強くて、ムチャクチャに素早《すばし》こくて、とにかく言葉よりもまず体が動いてしまうケモノの様な人だった。
反面、面倒見が良くて、子供なりの正義感にも溢れ、なにより強いリーダーシップを持っている、そんな人だった。
そんな高志さんを、町の子供達は皆、心から慕っていたし、私も当時、そんな子供達の中の一人だった。
あの頃はどこもそうだったろうと思うが、子供達の世界には、必ずガキ大将が居た。そしてその下に、子分達が居た。その子分達の中でも、きちんとした序列の様なものが、暗黙の内に成立していたりもした。三年生よりも、四年生が威張って当然なのだった。四年生には、五年生が命令して当然なのだった。そこには、四年生であり、五年生であるそのことだけが、すべての意味を持っていた。威張り、威張られ、命令し、命令される関係性の中で、しかし歪みの無い子供だけの世界が、そこに自然に構築されていたりもした。
私達の子供時代にも、やはりそんな階層《ピラミツド》が有った。そしてそんなピラミッドの頂上に、高志さんは当然の如く、そびえ立っていた。
むろん、子供の世界のリーダーは、時の流れと共に世代交代してゆく。私も何人かのリーダーに「仕え」たし、やがては、自分がリーダーに準ずる様な立場になったりもしたのだったが、しかし私や竜二が小学校二年生で、四つ上の高志さんが六年生だったその頃が、私達の組織[#「組織」に傍点]が最も強力だった頃だったと、今振り返ってもそう思う。
どこの町の奴等とタタカっても負けた事は無かったし、タタカう以前に、高志さんを見ただけで、相手は風の様に逃げだしてしまったものだった。
この頼もしい親分[#「親分」に傍点]に、みな敬意を持って従って居たし、ことに小学校低学年だった私などは、さながら一兵卒が将軍を仰ぎ見る様な気持で、高志さんを見上げていた。見上げて、その後ろを連《つ》いて回っては、山で、川で、毎日の様に皆で遊びまくっていた。
竜二も又、そんな中に居た一兵卒だったが、しかし高志さんが、自分の弟[#「弟」に傍点]という事で竜二を特別扱いしたりする様な事は無かった。
むしろ、高志さんは、竜二をいつも大声で怒鳴りつけていた。
「おまえ、こんな木にも登れんのかっ」山の中ではそう怒鳴りつけていたし、「こんなザリガニ一匹《いつぴき》、掴めんのかっ」川の中では、そう声を上げていた。
竜二がその度に、かなしそうに項垂《うなだ》れていた様子を、私は今も憶えている。
竜二は、高志さんとは対照的に、さして体力の無い、ひ弱[#「ひ弱」に傍点]な子供だった。そして繊細で感受性の強い子供でもあったのだろうと思う。
竜二は、本当は、荒っぽい野遊びなどをするよりも、きっと、部屋でひとり本でも読んで居たかったのだろうと、のち、私は振り返ってみたりした事がある。
竜二が、辛そうに息をゼイゼイと言わせながらも、それでも必死で、毎日私達の集団に連《つ》いて回っていたのは、――――ただ高志さんが好きだったからだ。怒鳴られても、情けながられても、四つ上の、強い「兄ちゃん」のことが、竜二は好きでたまらなかったからだ。私は他の誰よりも、その事を知っているつもりでいる。
―――兄ちゃんが、
と竜二は幼い笑顔で私に言った事がある。
おまえは歌が上手い[#「おまえは歌が上手い」に傍点]≠ニ言った、と、誇らしげにそう話した事がある。下校前の掃除の時間、小学校の焼却炉の前での事だ。
前日、一緒に風呂に入って、竜二が何か学校で教わった歌を何げなくうたった時、お前は歌が上手いな[#「お前は歌が上手いな」に傍点]、と高志さんがそう言ったのだと言う。そんな一言《ひとこと》を、竜二はかけがえの無い宝ものの様に受けとめて、そしてその宝ものを、幼い両手をそっと開く様にして私に話してくれた、そんな事があった。―――――
竜二は、高志さんという兄が、とても好きだった。それだけに、その兄に好まれる様な[#「好まれる様な」に傍点]自分でない事を、いつもかなしく思っていた。走るのが速かったり、機敏に木へよじ登れたり、或いはザリガニやヘビを怖れずに平気で掴んだり、そんなふうな自分だったら、どんなにいいだろうと、竜二はいつも思っていた。
「そうしたら兄ちゃんと」
もっと遊べるのに―――幼い心で、竜二はいつもそう感じていた。
私は、竜二が子供の頃、一度ひどい怪我をした事を思い出している。
夏休み中の事だった。
その日、高志さんを先頭に皆で山遊びに向う時、その途中に、よく小魚をとったりしている小さな小川があった。
幅六、七十センチほどのその川を、私達はことも無く飛び越えて、先へ進んだ。すこし遅れて私達に連《つ》いて来ていた竜二は、しかしその川を飛び越えきれずに、川に落ち、前のめりに倒れるまま、川岸の石で顔を打った。突然、後ろから聞こえてきた竜二の激しく泣きじゃくる声に、私達は驚いて振り向いた。
「馬鹿たれっ!!」
高志さんは大声で怒鳴りつけると、駈け寄り、そのまま額から血を流す竜二を背負って、走って自宅へ連れて帰った。ものすごい体力である。私達もドキドキしながら、その後を追った。
その後、行きつけの医院で、右の眉の上を三針ほど縫う事になったのだが、自宅の座敷で応急の手当などをしながら、お母さんは、とつぜん、可笑《おか》しそうにくすくすと笑いだした。
そばに居る高志さんと、膝に寝かせた竜二を見比べながら、「―――お前たちは、おんなじ私のお腹《なか》から産《で》てきたのに、本当に、まるで違うんだねえ」
それが可笑しくてたまらないと言うように、お母さんはいつまでもひとり笑いつづけた。
縁側に立っていた私たち子分[#「子分」に傍点]も、なんだか可笑しくて、くすくす笑ってしまった。お母さんのそんな様子が、私達の緊張を、いっきにほぐ[#「ほぐ」に傍点]してくれた感じだった。
「竜二はもう、遊びには連れて行かんっ!!」
高志さんは破れる様な大声で、そう怒鳴った。お母さんのそばで、竜二はただ、痛みもこらえて、しょんぼりしていた。
その翌日、放課後の校庭で、私は、竜二が頻《しき》りに何か跳《は》ねているのを見た。
近寄り、何をしているのか、と尋《き》いた私に、竜二は何も答えなかった。答えないまま、一人で、何度も走り幅跳び[#「走り幅跳び」に傍点]の様な真似を、そこで続けていた。
そこには、二本の線が引かれていた。竜二はその線と線との幅[#「幅」に傍点]を跳ぼうとしているのらしかった。それが、あの小川の幅を想定したものであることは、やがて私にも分った。
線の上[#「上」に傍点]に幾つも残る小さな靴の跡に、私は、(まだ、跳べないで居るんだな)そう思った。
冷やかすのも憚《はばか》られる必死の形相《ぎようそう》で、何度も何度もそれを跳ぼうとし続ける竜二の傍らに佇《たたず》みながら、私は、子供なりに、竜二のかなしみが分る気がした。―――
小さな黒いランドセルが、そばにぽつんと置かれていた。
日の暮れる小学校の校庭に、跳べなかった川を跳ぼうとする竜二と、それをただ見ている私の影が、長く長く延びている、そんな風景を、私は今も思い出す事が出来る。
それから三十数年という時間が過ぎた。
マクドナルドのくそ騒がしいカウンターで、私はふと、隣に座る竜二の横顔をみた。その右の眉には、うっすらとではあるが、遠い日に縫った傷跡が、今も小さく残っていた。
「………お前、結局、あの川とべたんだっけ?」私は、そんな事を尋いてみた。
「とべなかった」
竜二は、小さく笑ってそう答えた。それから、
「きっと、今でも、俺はあの川を、とべてないんだ」
そんな事を言った。
竜二はしかし、その後、身長も伸び、体力もついて、中学へ上がる頃には、健康で快活な少年に成長していた。
兄の高志さんの成長がまた、それに輪をかけた凄いもので、高志さんはいつのまにか鉄人28号の様なヒトになっていた。
空こそ飛べなかったが、その鋼鉄の様な体は弾丸をもハネ返しそうだったし、その強烈な個性は場合によっちゃ人に弾丸をも喰らわしかねないものだった。
幸い誰を絶命させる事も無く、その情熱は、もっぱらスポーツへと注がれ続けた様だったが、それでも学校でのアダ名は、ずっと「親分」だったという。
町のウルトラガキ大将だった、そのままに、高志さんは、中学の、高校の、ガキ大将でありつづけた様だった。
そういう意味では、竜二もまた、幼い頃の竜二そのままに年齢を重ねていったと言っていい。
竜二は、スポーツなどよりも、楽器をいじったり、それで曲を創《つく》ってみたり、また時に熱心に書物に向き合ったりと、そんな少年として、いわば、思春期の門をくぐった。――――
その後、高志さんは高校を卒《おえ》て、海上自衛隊に入った。
高志さんは、ずっと水泳をやっていて、その能力を求《か》われて二、三の大学から奨学生としての話も有った様だったが、高校在学中に、お父さんが亡くなり、高志さんは進学を諦め、海が好き、という、多分それだけの理由で海上自衛隊への道を選んだ。性《しよう》にも適っていたらしく、「いきなり、隊のガキ大将になってしまった様だ」と、その頃竜二が私に話してくれた事がある。私達が中学三年生の頃だ。
高志さんは、自衛隊でガキ大将をやりながら、しかしせっせ[#「せっせ」に傍点]と竜二のために大学への進学資金を貯めてやっていたらしい。
もともと、悪い家柄ではなかった竜二の家は、お父さん亡きあとも、そう苦しい暮しぶりに陥る様な事は無かったと思うが、やはり高志さんとしては、竜二の父親代わり、そんな気分が有ったのだろうと思う。
竜二は、子供の頃から勉強は出来る方だった。高志さんが、そんな竜二に、高志さんなりの期待を寄せていた事は、傍《はた》で見ている私にも、強く感じられていた事だった。
だが竜二は、結局、大学へ進む事はなかった。それどころか、高校すら途中で退《や》めてしまった。退めたその事を、私なりに竜二に代わって語ってやりたい所も有る。だが、それをどう[#「どう」に傍点]語ればいいのか分らない所に、竜二という男のむつかしさ[#「むつかしさ」に傍点]が有る様にも思う。
私は竜二と同じ県立高校へ通っていた。
入学して暫くは、竜二もそれなりに高校生活を楽しんでいたと思う。映画同好会に入部したり、校内でロックバンドを組み文化祭のステージで自分の創った歌を唄ったり、そんな事をやりながら、勉強の方もそれなりにやっていた筈だと思う。
だが、その内面にどういう変容が有ったのか、竜二は、いつからかサッパリ学校へ出てこなくなった。
私は、竜二のそんな状態を心配した。
私は家が近いせいもあり、竜二のお母さんや、高志さんの気持を、私なりに理解している所があった。放っておく訳には、とてもいかなかった。
「出てこいよ」私は竜二に何度もそう言った。だが竜二は、朝、一応家を出るものの、学校へは来ず、そのまま映画館に一日じゅう居たり、なじみの喫茶店の二階で寝ころんで居たり、付き合っていた女と何処《どこ》かで夕方まで過ごしたり―――と、そんなふうな毎日を、ただそこに重ねつづけていた。
じつに、けしからん話だと思う。
しかし、―――と私はあの頃も思ったし、今でもやはり、そう思わずに居られない気がする。映画館に一日居たり、喫茶店の二階で寝ころんでいたり、女と何処かで一日じゅう過ごしたり、そんな事が、はたして竜二は、本当にたのしかったのだろうか、と。
私には、そうとばかりは言えない様な気もする。つまらなかっただろう[#「つまらなかっただろう」に傍点]、とさえ思う。それでもそうしている方が、学校へ来るよりも、竜二には、まだマシだったという事なのだろうか。―――――
お母さんは、再三、担任の教師と相談[#「相談」に傍点]の時間を持った。高志さんは、自衛隊の遠い勤務地に居たが、わずかな休日を利用して帰省しては、激しく竜二を怒鳴りつけた。昂《たか》ぶると、言葉よりも体が先行してしまうタチ[#「タチ」に傍点]の高志さんは、おそらくそういう時、竜二を殴りつける様な事も有ったと思う。
教師の前で恐縮するお母さんと、期待を裏切られ続ける高志さんと、だがその二人と同じ位、竜二もまた、かなしかったに違いないと私は思う。誰ひとり得[#「得」に傍点]をする事の無いそんな風景を、どうしてわざわざ自分から造りだしてしまうのか、平凡に高校を出、平凡に大学へ進んだ私には、それは理解したくても、出来ない風景だった。
「東京へ行く」
そう言いだした竜二に、「勝手にしろっ」高志さんは、そう言って、竜二の為に貯めた預金通帳をそこに投げつけた。お母さんは、ただ、お前のやりたい事をやればいいよ[#「お前のやりたい事をやればいいよ」に傍点]―――そう言って優しく微笑んでくれたそうだ。
そして竜二は、この街に一人でてきた。私が進学で上京して、しばらくしての事だったらしい。
それから二十数年、竜二がこの街で、どんなふうに生きてきたのか、私は知らない。
幾つかのロックバンドをつくった事と、幾つかの恋愛をした事と、そして一篇の小説を書き、それが一部に認められて、一冊の本になった事と、―――この数カ月の竜二との再会の中で私が知り得たのは、そんな、竜二の、この二十数年の、ほんの断片でしかない。だが、そんな断片の向うに、ぼんやりとではあるが、私にみえてくるものが有る様な気もした。
「俺は未だに、あの川をとべないで居るんだ」
そう言った竜二の言葉を、私は私なりに、理解できる気がする。
人間はみな、いつかその人生のどこかで、ちいさな川を跳び越す様にして大人というものになってゆく。
だが、いつまでもその川を跳び越せずにいる者が、世の中には、ときに居るのではないか。越せずにいつまでも、川の向うで遊びつづけるしかない人間が、ときに居るのではないか。
―――竜二が、そうだ、
と言い切れる程、私は竜二を理解している訳ではない。だが、私がこうして、忙しさに追われる毎日の中で、時折むしょうに[#「むしょうに」に傍点]竜二に会いたくなるのは、それはつまり、私自身が川の向こうに[#「川の向こうに」に傍点]置いてきた忘れたくない何かを、竜二にみている、―――そういうことなのではないだろうか―――――
「貰って、いいか?」
カウンターに置かれた竜二の煙草に、私は手を伸べて尋いた。
竜二は、百円ライターをカシャと鳴らし、それを私に差し出した。その火を貰い、深々と一つ、煙を喫《の》んで、私は、長男が産まれたとき以来つづけてきた禁煙を、その夜、破った。
竜二の話を、もうすこし続けてみたいと思う。
竜二という、私などとは少しばかり異《ちが》った気分を持った一人の男の話を、私はもう少し語ってみたいと思う。
あの日[#「あの日」に傍点]、やつの頭上に広がっていた、あの静かな青空の風景を、これを読む人にも感じとって貰えたらと、私は、それだけの思いで、こんなものを書いている。
思い出せるまま、私は何とか、それを最後まで語ってみたいと思う。―――――
竜二は、一度、この街で「就職」した事が有るらしい。数年前の事だったというから、三十七、八の頃だったのだろう。
仲間の口ききなどで適当に、その場つなぎのアルバイトばかりをつづけてきた竜二にとって、「ちゃんとした」「勤め」というのは、それまで全く経験の無い事だった。
生まれて初めて履歴書というものを書き、それを持って新聞で求人を出していた葬儀会社の面接を受けて、採用になった。スポーツ紙の紙面で、たまたま目についただけの会社だった。年齢的に就職可能な職種が、他に余り無いという事も有ったらしい。そうして竜二は、ともかくも、一人の「会社員」というものに、或る日突然なった。
そうしよう[#「そうしよう」に傍点]、と思った気持の変化の様なものを、竜二はとくに語らなかった。
ただ私は、話を聞きながら、竜二は、川を跳ぼうとしたのじゃないか[#「川を跳ぼうとしたのじゃないか」に傍点]、とそう思った。遅ればせながらにも、跳んで、そしてこの社会≠ニいうものに、ささやかにでも「ちゃんと」身を置きたいと、そう思ったのじゃないか―――私はそんな風に考えた。
何かの本で読んだ事だったが、人間には、食欲や性欲を充たす欲求よりも以前に、何かに「帰属」したい、とする欲求が、根源として有るのらしい。
集団としての安定した何か[#「何か」に傍点]に身を寄せていないと、人間というものは不安でたまらず、そしてそうした状態[#「そうした状態」に傍点]を永く続けた場合、ときには精神に変調を来《きた》す事すら有る―――と、それはそんな事だったように憶えている。
或る意味で、誰にも、何[#「何」に傍点]にも「帰属」する事なく、ひとり真空の中で呼吸しつづけている様な、そんな暮しが、竜二はもう、そのとき、耐えられなかったのかも知れない。
ともかくも採用を受けて、竜二は、東京郊外の、その、割に大きな葬儀会社へと毎日電車に乗って通い始めた。
生活は、一変した。
毎朝きちんと髭を剃るのも初めてなら、会社から支給された黒い背広《スーツ》を着てネクタイなどを締めたりするのも初めての事だった。何より、朝ちゃんと人並に起きるという事自体が、竜二にとって、もう何十年とやっていない事だった。全《すべ》ての事が、そんなふうに「初めて」の事ばかりの中で、銀行のキャッシュカードを持つ[#「銀行のキャッシュカードを持つ」に傍点]、というのも、竜二にとって、やはり初めての事だったのらしい。
多くの会社がそうである様に、従業員百人ほどを抱えるそこでも、給与は、やはり銀行振り込みで行なわれていた。その為、入社と同時に、竜二は会社のつくってくれた一枚のキャッシュカードを手渡された。竜二が言うには、それが、「なんだか、嬉しかった」のだそうだ。
小さなアルバイトの様なものしかやってこなかった竜二にとって、それまで銀行のカードなど、持つ必要も無かったし、持ちたいという気持も無かった。だが、持ってみると、それは、なんだか「嬉しかった」のだそうだ。
今どき小学生でも持っている様なキャッシュカードを、いい歳をした男が、初めて手にして「嬉しかった」という、その風景を、話を聞きながら、私はただ、ぼんやりと考えてみた。―――――
竜二は、真面目に、毎日仕事にハゲんだらしい。
まだ見習いのことで、多くは祭壇を運んだり、弔問客の詰めかける駐車場の整理をしたり、と、概ねそんな事で一日は暮れた様だったが、そのうちには葬儀それ自体にも立ち合ったりと、そんな事もやる様になったらしい。
そうして、ひと月ほどが経ち、その口座に初めての給与が振り込まれた。
二十数万ほどの金だったという事だったが、これといって趣味も無く、また、妙な遊びをする様子も無い竜二にとって、それは家賃を払って、毎日のメシを喰う以外、とくに使う事も無い金に思われた。
ちょうど五月の初めの頃の事で、街に母の日≠ニいう言葉が氾濫している時でもあった。ふと、そんな街角のポスターに目を止め、竜二は、お母さんに何か贈りものをしよう、とそう考えた。はじめての事だった。
あれやこれやと考えたすえ、少し無理をして、数泊の旅行を贈る事に決めた。近くに、お母さんの姉である伯母さんが居るので、二人で行けばいい、そう考えた。駅前の旅行代理店で、そこに置いてある数種類のパンフレットを持ち帰り、安アパートの畳に寝ころがって、それを眺めた。そこに並ぶ、様々な旅行プランを、どこか弾む様な気持で、一つ一つ、みていった。
そうするうち、はじめてのプレゼントという事で多少の昂《たか》ぶりの様なものも有ったのか、
「どうせなら、いいものを」とそんな気持になった。
そうして、パンフレットの中に「いいもの」を探してみたが、しかし「いいもの」は、当然、値も張った。
ふと、会社からキャッシュカードを渡された時、勧められるまま、何か銀行の会員の様なものに契約させられた事を思いだした。ガサゴソと契約書《それ》を探し出し、読んでみると、貰ったカードに、そのままキャッシュ・ローンが組み入れられてあって、それで三十万円までをその銀行から借りられると、そういう事の様だった。契約書の、その無味乾燥な文章に時々主語を見失ったりしながら、竜二はともかくも、それだけを理解した。返済は、≪毎月一万円ずつの定額返済で≫とそう明記されてあった。スーパー・リボルディング・システム!! などとも書いてあったが、こっちの方は何のことやら分らなかった。
―――月、一万ずつ位なら、
返していけるだろう、と竜二は思った。
そう思わせたのも、やはり、はじめて「ちゃんと」した職に就いているという事への、小さな昂ぶりの様なものだったのかも知れない。
結局、二十万ほどの金をカードで借り、それに手持ちの中から幾らかを足して、それで、お母さんと、伯母さんに一週間程の旅行をプレゼントしようとした。―――――
しかし、信じ難いほどにばか[#「ばか」に傍点]な話だが、借りて、銀行の封筒に入れたその二十万円と、手持ちの中から足した併せて三十万ほどの金を、竜二は、牛丼屋のカウンターに置き忘れ、そしてそのまま紛失してしまった。気がついて駆け戻り、息を切らして尋ねる竜二に、店員は、「……さあ」と首を捻るばかりだった。再び借りる気力もなく、プレゼントは、あきらめた。落胆する竜二の手元に、ただ銀行への借金だけが残った。
最悪な事に、それから十日程の後《のち》、竜二は、ようやく馴れてきた葬儀会社の勤めも辞めてしまった。辞めた理由は、竜二らしい[#「竜二らしい」に傍点]、と言えば、そう言ってもいいものだった。
その会社には、事務棟と隣《となり》合わせの様な格好で斎場が建てられていた。
かなり巨《おお》きなもので、そこでは、Aホール、Bホール、Cホール、などと、遺族の予算に応じて、各スペースが使い分けられていた。
ちょっとした有名人や、地元の有力者たちの葬儀には、最上等であるAホールが大体使用された。その葬費は一千万円を軽く超す事さえ有るという事だった。飾りたてられた豪華な祭壇には無数とも思われる花が置かれ、大勢の弔問客を迎えるその空間の広さは、一寸した体育館並のものだった。
一方、その地下には、三畳ほどの小部屋が幾つか有り、そこでは、身寄の無い老人の為の弔いなどが数万円ほどの予算で、ひっそりととり行なわれた。区の民生委員の様な者が一人付き添うだけのそうした弔いには、安物の生花が、ひと盛り、無雑作に置かれているだけだった。
階上の華やかな葬儀と、地下での、そんな静かな弔いとの、その両方に幾度か立ち合いながら、竜二は、そこに、人間が死ぬ[#「人間が死ぬ」に傍点]ということの、或いは、生きるということの、その何ごとか[#「何ごとか」に傍点]を思わざるを得ない気がした。
或る時、そんな二つの葬儀が、階上と地下で、すれ違う様に、行なわれた時が有った。
竜二は、朝から、地下の方の葬儀を担当していた。
公営の老人ホームで死んだ、身寄りの無い、七十幾つの女性だった。
霊柩車の助手席に乗り込み、病院から遺体を受け取り、竜二はその人を、斎場へ連れて帰った。
支度部屋で、遺体に死装束を着せ、白木の棺に寝かせ、それを専用のエレベータで地下へと降ろした。
死装束も安物なら、棺桶も最下等のものだった。担当させられている社員さえもが、まだ不馴れな「安物」の自分だった。
(この人の最後の世話をするのが本当に自分の様な者でいいのか)と、竜二は、そんな事を考えた。立ち合う区の若い女性職員の、その、どこか親身になってくれている様子だけが、竜二にとって、わずかな慰めに思われた。
支度をほぼ[#「ほぼ」に傍点]終え、竜二は生花を貰う為、階上へ上り部長を探した。
生花を盛るのは、別の、専門の人間だったが、花はコスト的に安いモノでは無い為、部長は、花瓶一つ動くのにも自分の許可を必要とさせていた。社長も頭の上がらぬ様子の、ヤリ手[#「ヤリ手」に傍点]の部長だった。
その部長を、やがて葬儀を終えたばかりのAホールで見つけた。
そこで部長は、元議員だったという人物の、その大掛りな葬儀の後片付けを部下達に指示している所だった。三十分後に其処《そこ》での葬儀がもう一つ予定されている為、誰もが忙しく立ちまわり続けていた。
「―――花を、お願いしたいんですが」
竜二は、部長の背中に、そう声を掛けた。竜二と同年齢の、背の低い小太りの男だった。
「花?」
と部長は振り返り、竜二を見た。それから、
「ああ、地下のやつか[#「地下のやつか」に傍点]」と放り投げる様に呟いた。
「………今、生花造りも、次の葬儀でフル回転なんだがな……」どこか面倒臭そうにその人がそう続けた時、丁度、花を運んで行く一人の社員が、二人の傍《そば》を通った。役目を終えたばかりのおびただしい[#「おびただしい」に傍点]花々を台車に積んで、斎場裏の処理場に捨てに行く所の様だった。
呼びとめ、台車に歩み寄った部長は、そこに腰をかがめて花を覗き込んだ。
二時間程の華やかな葬儀を務め了《お》えたそれらは[#「それらは」に傍点]、照明の熱や、人の熱気やらで、あきらかに、すでに萎えている様に竜二には見えた。
部長は、それらの一つ一つに軽く指を当てたりしながら、やがて十本ほどを適当に選《え》り分け、それを、空けた一個の花瓶に、器用に盛ってみせた。そして、
「これを持って行きなさい」
とそれを竜二に差し出した。
「これらは、高値《たか》い花だからね。下のじいさん[#「下のじいさん」に傍点]も喜ぶだろう」そう言って、台車の傍らに佇む部下に笑ってみせた。部下も、それに応えて小さく笑った。
差し出された花に、すこし目をとめ、「………おばあさん[#「おばあさん」に傍点]、です」竜二は、そう言って部長を見た。「………今日、亡くなったのは、七十八歳の、おばあさん、です」
そう続けた竜二を、部長は怪訝《けげん》そうにみた。そして、
「―――どっちでもいいよ、これを使いなさい」そう花を押しつけると、ステージで祭壇を組み直している部下たちの方へ足早に歩み去って行った。
皆が忙しげに動き続けるホールの隅に、竜二は、ぽつん、とひとり残された。
渡された花を、すこしの間、見つめ、それを持って、出口へと歩いた。
歩くうち、たった今、自分が仕度を整えてやった老婆の姿が、思い出された。
何か、やりきれない気持になり、コトリ、と竜二は、ホールの扉の辺りで、花瓶を床に置いた。
―――かわいそうじゃないか、
そう思った。
そして、入った事の無い、生花の保冷室に入り、目についた花を、片っ端から花瓶に差し、それを持って地下へ下りていった。
地下の、その狭い小部屋には、立ち合いの区の女子職員が、一人遺体のそばに付き添っていた。
僧侶が来たのかと振り向いた彼女は、そこに、大きな花瓶を抱えた竜二を見た。
簡素な弔いに立ち合い馴れている様子の彼女は、その場違い[#「場違い」に傍点]に思える豪華な生花に、目を丸くした。
竜二は、自分を見つめるその人を見る事も無く、花をそこに置き、そして階上へ上がって事務所へ行くと、着替えて、そのまま会社を後にした。
誰に辞めるとも告げぬまま、ひと月と少しで、竜二は、そこを辞めた。
10
暫くは何をする気にもならぬまま、ただボンヤリと安アパートに寝転がり、窓から空を眺めて過ごした。
気が向けば、街を、あてもなくブラブラと、いつまでも歩きつづけた。
仲間からの誘いに応じるのも面倒で、鳴る電話にも出なかった。誰かが訪ねて来れば夜明けまでも談笑に興じたが、しかしそうしながらも、全てが、何かもう、竜二にはどうでもよく思われた。
自分という存在が、この世の何処にも使い途《みち》の無い、ただの無駄ないきもの[#「いきもの」に傍点]の様に思われた。完成したジグソーパズルの傍らにぽつんとのこった、一個の不用な割片《ピース》の様だった。
そんな自分を持て余す様に、竜二は、ただ過ぎて行くままの日々を迎え、見送った。
そのうち、当然、金は尽きた。
そればかりか、銀行への借金の返済も有った。
ふと、カードでもう十万円ばかり借りられる事に思い当り、そうしようとした。
銀行へ行き、カードを入れ、ディスペンサーに表示された、その案内を見て、竜二は、少し驚いた。
カードを造って僅かな内に、借り入れ限度額が大幅に拡大され、百万円までが借りられる様になっていた。
とくにためらいも無いまま、竜二は、それを利用した。
その後、金が底を尽く度に、適当な額の金をそこから借り、借りては、借りた金の中から銀行への返済もまかなった[#「まかなった」に傍点]。
半年もそうしている内、借り入れ限度額は二百万にまで拡大された。世の中は好景気で、のちにバブルと呼ばれる馬鹿騒ぎの最盛期でも有った。
(………俺に金を貸すなんて、銀行は俺より馬鹿だ)
怠《だる》い苦笑を浮かべる様な気分で、竜二はカードでの暮しを続けた。
やがてその二百万という金も借り尽くし、また生活は行き詰った。
(何か働《や》るか……)そう思いながらも、何をやる気も起こらなかった。家賃も払えぬ状態になり、ローンの返済も滞《とどこお》り始めた。
やがて、銀行からの支払請求通知書が、相次いでアパートに送り付けられる様になった。
横須賀の基地に入港した、兄の高志さんが、竜二の様子を見に来たのは、そんな頃だった。
11
高志さんは、お母さんの意を受けての事も有り、数年に一度ほどは、関東の港に入る度、竜二の様子をそうして見に来ていた。
そして見る度、相変わらずな[#「相変わらずな」に傍点]竜二の暮しに、高志さんは、いつも苦《にが》い思いだけを抱いて帰って行った。
竜二の様な生き方は、おそらくは、高志さんの理解の外に有った。そしてそれは、誰にとっても、理解の外に有るものなのかも知れなかった。
「いい歳をして、一体いつまで、お袋に心配をかければ気が済むのだ」
高志さんには、それが腹立たしかった。
自分の弟が、一体何を考えているのか、兄として見当もつかない気分だった。
それでも訪ねれば、連れ出し、食事を供にして、別れ際《ぎわ》には必ず数万の小遣いを与えた。四十にもなった弟に小遣いを遣《や》る兄の気持はどんなだろうと、受取りながら、そのたび、竜二は思った。―――――
その日、高志さんが数年ぶりに竜二のアパートを訪ねた時、竜二は留守だった。
何度かノックをして、返事の無いそのドアの前に、高志さんは、少しの間、佇《たたず》んだ。
そうしていると、ふとバイクの音がアパートの玄関に聞こえ、郵便配達員が、その古い階段を上がってきた。ドアの前を離れ、帰ろうとする高志さんに、配達員は、「ご本人ですか?」と、勘違いして尋《き》いた。ちょうど部屋を出て行こうとする本人に見えた様だった。
高志さんは、配達員を見た。その手には、銀行の名の入った厚い封筒が有り、右上に「内容証明在中」という印が朱《あか》く押されて有った。
一瞬何かを思い、高志さんは、「そうですが」と応え、サインをして、それを受け取った。
配達員を見送り、ひきちぎる様にして封を開けると、そこには銀行からの、どこか脅しに近い文面が長々と記されてあった。法的処置[#「法的処置」に傍点]、という言葉が、そこに幾度も繰り返されていた。
驚愕《きようがく》する思いで、それに目をおとしている時、―――竜二が帰って来た。
高志さんの姿を認め、「………やあ、兄貴」と戸惑いがちに微笑む竜二を、高志さんは、ものも言わずにいきなり殴りつけた。
吹きとんだ竜二は、壁で頭を打ち、そのまま崩れる様に廊下に蹲《うずく》まった。その竜二を見下ろし、―――しかしそんな時言葉がうまく出ない[#「うまく出ない」に傍点]性質《たち》の高志さんは、竜二の背中に銀行からの封書を投げつけ、そして音をたててアパートを出ていった。
廊下に並ぶ幾つかのドアから、訝《いぶか》しむ様な住人の顔が探る様に覗いた。
12
借金は、高志さんが数日の内に全てを清算した。嫂《あによめ》の啓子さんが、電話でそれを竜二に伝えて来た。
「お義母《かあ》さんは知らない事だから、竜二さんも、言わない様に」啓子さんは、それをくれぐれも竜二に言い聞かせた。「それと、お金、少し振り込んで置いたから」そうも言った。
一介の公務員の暮しに、二百万という金が決して小さなものでは無い事は竜二にも分った。四十にもなった弟の心配をしなければならない、その事が、兄貴はどんなに情けないだろう、そうも思った。自分という人間のつまらなさ[#「つまらなさ」に傍点]だけが、ただ、思われた。
結局、自分が生きているのは、兄貴に迷惑を掛けるだけなのだ、そう思った。お袋に心配をさせるだけなのだ、と思った。
それ以上に、もう、どう[#「どう」に傍点]生きていったらいいのか、竜二には分らない気がした。
おろかにも、死のうか、と考えた。
そうしようか[#「そうしようか」に傍点]、と竜二に思わせるものが、他にも有った。
竜二は、一時期、医者にかか[#「かか」に傍点]っていた事が有った。
神経の患い、と言っていいものだった。
13
いつごろからか、竜二は「異様な」精神状態に襲われる事が有った。
目の前の風景が、ただ虚無[#「虚無」に傍点]としか言い様の無いものに変容[#「変容」に傍点]してゆく得体の知れない感覚に、ひとり苦しむ事が有った。
そんな時、突然呼吸がしにくく[#「しにくく」に傍点]なり、脈拍は100を超えた。心臓は胸を突き上げる様に打ち続け、全身の肌が鳥の様にあわ[#「あわ」に傍点]立った。
目の前からは全ての意味[#「意味」に傍点]が消え失せた。
横なぐりの風雨が絵の具を溶け流して行く様に、意識からこのせかいの全ての意味が消えおちて[#「意味が消えおちて」に傍点]いった。―――――
むろん、私には、よく分らない。
竜二は、こうも言った。
犬を見ても、それはすでに犬では無く、ただ犬[#「犬」に傍点]という一つの記号[#「記号」に傍点]でしか無いのだと。空を見ても、それは見知った空とは、まるで異《べつ》な、巨大な死んだひろがりでしかないのだと。人も電車も、街の賑わいも、全てが無限の距離に隔てられた、現実感の無い無機質な記号の空間でしかなく、そしてそれを見ている自分は、記号すらも持たない一個の閉じ込められた無[#「無」に傍点]の様なものになってしまうのだと。そして全身を塞がれたまま闇に吸い込まれていく様な、そんな狂った様な恐怖に心がしめつけられるのだと―――竜二はそう言った。
廃人の様に街角に座り込み、ひとりそんな恐怖に耐えつづけた―――そんな事が、数度あったと、そう言った。
専門の医療機関を電話帳で探し、竜二はそこを訪ねた。医師は、話を聞き、幾つかの質問をした後で、カルテに何やらを書き込んだ。逆向きの竜二の目に、それは「―――神経症」と読めた。安定剤を処方され、竜二は、暫くの期間それを服《の》みながら暮した。それほど深刻なものではなかったのだろう、半年程も通った後、状態は安定し、「もう大丈夫でしょう」医師にそう言われ、通院をやめた。異常な症状に襲われる様な事はもう無かったが、しかし虚無[#「虚無」に傍点]は、竜二の内《なか》に痕《のこ》った。一度幽霊を見た者がもうその存在を疑う事が出来ない様に、竜二は虚無[#「虚無」に傍点]を疑えなかった。まるで一枚の絵画の裏がわ[#「裏がわ」に傍点]を正面[#「正面」に傍点]から見せる様に、それはこのせかいの剥《む》きだしの実相の様なものを竜二に感じさせつづけた。
腹が減れば何かを喰い、眠くなれば眠りはしたが、しかし他に何をする気にも、もうなれなかった。そんな自分に、生活に、竜二は確かにもう、どこかで倦み果ててもいた。
死のうか、とそう考えた時、それを拒むに足る確たるものを、竜二はもう、持たなかった。心は、静まりかえった沼の様に、波ひとつ立つ事の無い虚しさに履われつづけた。―――――
わずかに、その心を動かすのは、自分の周囲に広がるこのせかいへの漠然とした愛情の様なものだけだった。
底知れぬ虚無への埋めあわせの様に、せかいは時折、輝く様なうつくしさを、竜二に表《み》せた。
虚無は、或いは豊饒な何かと一体のものなのかも知れなかった。
その豊饒さの中に立つ時、一本の草の姿が、したわしく、一個の石ころさえが懐しかった。全ての意味[#「全ての意味」に傍点]が理解《わか》る気がした。自分は誰よりもこのせかいを知っている[#「知っている」に傍点]とさえ思った。このせかいの全てが、ただもう、泣きたい程に、いとおしかった。
しかしそれが、自分に生活[#「生活」に傍点]というものを続けさせる力を持っている訳でも、当然、無かった。
どこかで死を思い定めながら、竜二は毎日街を歩いた。
歩きながら、人を眺め、ビルを見上げ、自分を見つめた。
もう俺にやる事は無い、そう思った。
そう思えば、何か生まれてはじめて、心が落ち着く様な気もした。
そうして、自分の生きて来た事の全てを街の空にバラ撒《ま》いては、いつまでもそれを眺めた。
画家が一枚の絵を見つめる様に、或いは化学者が試験管に目を凝《こ》らす様に、竜二は、自分[#「自分」に傍点]というものを眺めた。当然、それは、人間[#「人間」に傍点]というものを見つめることでも有った。
そんな時間のなかで、ふと、こころに思われてくるものが有った。雑踏のなかで、竜二はそれを一篇の詩に編んでみた。編むと、その詩の周辺に、ぼんやりとした物語が胸の中で組みたてられていく気がした。
数日、部屋に籠《こも》り、不馴れな文章で、それを書いた。
皮肉にも、というべきか、投稿した文学賞で、それが認められ、やがて一冊の本となって世に出た。
売れはしなかったが、それは竜二に、もて余しつづける自分のこころの置場所の様なものを、何かわずかでも与えてくれたのではないかと、私は思う。
竜二は、その一冊の本を、故郷のお母さんと、高志さんに送った。若い頃から読書が好きだったというお母さんに、それはせめてもの、贈りもののつもりだった。だがその頃、お母さんは、もう永い闘病生活を自宅で続けているところだった。
―――竜二には知らせてくれるな。お母さんは周囲の者に、そう言い続けた。「あの子は心配するから」そう言って微笑んでみせた。竜二が自分の妙な患い[#「妙な患い」に傍点]をお母さんに知らせなかった様に、お母さんもまた、それを竜二に知らせ様とはしなかった。
だが、いよいよいけなく[#「いけなく」に傍点]なった時、故郷から、それが竜二にはじめて知らされた。
私と竜二とがこの街で再会して、数カ月が過ぎた頃の事だった。
14
知らせを受けた竜二は、その足で、私の会社へやって来た。
そして、思い詰めた様な顔で、飛行機代を貸してくれ、と言った。
飛行機代は無論の事だが、話を聞いて私は、「俺も一緒に、帰るよ」おうむ返しの様に、そう応えた。
おばさん[#「おばさん」に傍点]は、私にとっても懐しい人だった。大切な人でもあった。考えてみれば、たまにする帰省さえ何時《いつ》もあたふたとした落ち着きの無いもので、(おばさんにも、もう随分会ってなかったな……)私はその事に、改めて気付かされる思いだった。
幸い金曜日でもあり、さし迫ってやるべき事も無い、その日の午後、私は、自宅に一本の電話を入れてそのまま早退し、竜二と二人、空港へタクシーを走らせた。
15
中国地方の、海にほど近い人口二十万程のその地方都市に、やがて機は着いた。
空港を出た私達は、地下鉄で市内へ入り、そのまま、お母さんが運び込まれたという病院へ向った。
病室には、嫂《あによめ》の啓子さんと、お母さんの姉、竜二にとっては伯母に当るその人が居た。ひとつもちなおした[#「もちなおした」に傍点]という事で、高志さんは小さな用事を済ませる為、基地に戻っていた。
個室の殺風景な、その部屋で、お母さんは静かに眠っていた。想像していた様なものものしい[#「ものものしい」に傍点]医療装置などは無く、顔色こそ悪かったが、ベッドの上のお母さんの寝顔は、とても穏やかなものに見えた。
そのうち、ふと、お母さんの目が開いた。
開くなり、
「……竜二」とベッド脇に立つ竜二に、白く微笑んだ。おそらくは二十数年会うことのなかった母子《おやこ》は、しかしまるで、ついさっき庭先で別れたばかりの様な微笑みで、静かに見つめ合った。
それからお母さんは、隣に立つ私に目を移し、小さく肯いて、微笑みかけてくれた。「……なお[#「なお」に傍点]ちゃんも、立派になって」と幼い頃の呼び方のままに、私にそんな事を言った。
そこに寝ているのは、子供の私を、竜二と一緒に、叱ったり、撫でてくれたりした人だった。おいしい御菓子を焼いてくれたりした人だった。
私は、かなしかったが、おばさんの笑顔は、私や周囲の者達が哀しむ事を拒んでいるものの様にも見えた。私はただ、静かに、その人に微笑みを返した。
「………竜二」
と、お母さんは、かわいた唇を小さく開《ひら》いて、息子の名を呼んだ。呼んで、
「これ……」と枕もとに置いてある一冊の本を目で示した。
「……お母さん……お前の本を、昨日も読んでたよ」そう言って、竜二を見た。
「今朝も、読んだよ」そう言って、微笑んだ。
「―――さっきも、読んでた」そうつづけて、自分で可笑《おか》しかったのか、お母さんはベッドの上でくすくすと笑った。
笑う事が、その体力を、また僅かに奪ったのだろう、少し苦しそうな目で、お母さんはぼんやりと天井を見た。
「……お母さんはね、お前の、あの詩が、すき」呟く様な声で、お母さんはそう言った。「……あの小説の中で、死を思い詰めた主人公が呟く、あの、もうやる事は終って、黄昏の道を歩いてる=c…っていう、あの詩が、すき」そう言った。「………何か罰当りな事を言っている詩の様にも読めるけれど、あれは、おまえという人間が、本当によくでていると思う………おまえなりにみつけた、ひとの生き死にというのが、きちんと書けた、いい小説だと思う………いま、自分がこういう状態になって……いっそう、おまえのあの小説が、よく分る気がする……」お母さんは顔を横に向け、またゆっくりと竜二を見た。そして、言って置きたい事を、いま残さず言っておこうとする様に、静かな声で話し続けた。
「……お母さんは、快復できるかも知れない……。できないかも知れない……。できなかったにしてもどうしてだか、気分がいいの。……お母さんは、高志と、お前を、産んで育てて、そうして、いま誰か[#「誰か」に傍点]に、おつかれさま≠チて、そう言って貰っている様な、本当に、そんな気がするの……。お前が、あの詩の中で言っている様に、お母さんもやがて、いろんな事のあったこの広場を、一人で出て行くんだと思うの……ここ[#「ここ」に傍点]でいろんな事があったなあ、って、眠っていても、ずっと色んなことを思い出したりしているの……いろんな事があったけど、でもしあわせだったなあ、って、そう思ってるの……。そう思いながら、憶えている事の全部を、手のひらに並べる様にして、それをみているの……。そしてお前の言う様に、そのとき[#「そのとき」に傍点]には、それを一つ一つ、日の暮れるこの道に、お母さんも置いていくわ……そして懐しい人たちがいっぱい待っている何処かに、お母さんは、先に帰ってるわ……。竜二」
と、お母さんは、掛布団の下から、白く細い腕を、竜二に差し出した。竜二は、その手を、黙って取った。
「……お前はまあ、ほんとうに、いろいろ心配させてくれたけれど……でも、お前の、そんな四十年が、お前に、あの詩を書かせたんだね……お前はきっと、四十年かけて、お母さんに、あんなプレゼントを、くれたんだね……」お母さんは、そんな事を言った。
「……お前から見ると、お母さんは、唇はかわいて、息もたよりなくて、随分、哀れに見えるかも知れないけど、―――そんな事ないの。心配しなくていいの……」そして少し言葉を切ったあとで、「有難う……」と竜二にそう言った。「……お母さんは、高志も、お前も、ほんとうに、すき……」そう言って、微笑んだ。
お母さんは、その翌朝、亡くなった。
その顔は、臨終を確かめた医師が暫く見つめ続けたほど、おだやかに、澄んでいた。
16
次の日、竜二は海の上に居た。
実家で、お母さんの葬儀が営まれているその時間、竜二は海を走るボートの上で、遥か沖あいをぼんやりと眺めていた。
前夜、通夜の客もあらかた絶えた深夜の座敷で、「明日、東京へ帰る」そう口を開いた竜二に、居合わせた者たちは、みな目を丸くした。泊まりがけで駈けつけた親戚の人達などが、すでにそこに顔を揃えていて、皆で翌日の葬儀の相談などを交わしている、その最中《さなか》の事だった。
「……帰る[#「帰る」に傍点]言《ゆ》うて、竜ちゃん、明日、お母さんのお葬式じゃろうがね。何ゆうとるん、あんた」喪服を着た、お母さんの姉さんが、呆れる様に竜二を見た。
その伯母に、どこかふてくされた様な横顔を見せたまま、竜二は、座敷のその古い壁をにらみ続けていた。そのうち、つと立ち上ると、黙ってそのまま廊下に出て、奥へ歩き去っていった。
その様子を、皆が何かぽかんとした顔で見送った。どこかに苦々しさが入《い》り混じった表情《かお》でもあった。
私は腰を上げ、竜二の後を追って、座敷を出た。出る時、チラと向いに座る高志さんの顔が目に入った。高志さんは、火の出る様な目で、竜二の歩き去った廊下を睨《にら》みつけていた。私は溜息を吐《つ》きたい様な気持で、立ち上り、竜二を追いかけて廊下に出た。
竜二は、台所で、ひとりコーヒーを入れていた。
入ってきた私を見る事もなく、
「………飲むか?」とだけ、尋いた。
ああ、と応えて、私はそのまま、テーブルに腰を下ろした。一つ溜息を吐《つ》き、
「なあ、竜二」
と私は竜二の背中に声を掛けた。
―――とにかく、高志さんとうまく[#「うまく」に傍点]やれよ。
私はそれだけを言いたかった。
(もう、二人きり[#「二人きり」に傍点]の兄弟じゃないか)そう言おうとして、しかし私は、竜二の、その思い詰めた様な横顔にふと言葉を阻まれ、ただそれを見つめる事しか出来なかった。
お母さんの死が、竜二を相当に動揺させている事は、私の目にあきらかだった。他の人間から見れば、竜二の行動は、何を考えているのか分らない奇矯なものとしてしか映らないのかも知れないが、幼い頃から同じ背たけ[#「背たけ」に傍点]で同じ空を見てきた私には、竜二の心の内が透《す》けて見える様な所が有った。
竜二はうろたえているのだ、と私は思った。
お母さんの死という突然の出来事の前で、ただ、どうしていいのか分らないまま、おろおろと一人うろたえているのだ、そう思った。
その事と、葬儀への列席を拒むというその事とが、何らかの形で直結[#「直結」に傍点]しているのか、いないのか、私には分らなかったが、分っている事は、私が「出ろ」と言ってみた所で、竜二が聞く筈も無いという事だった。
仮に―――と私は、そんな竜二を見ながらふと考えた。
いつか自分が親を失ったとき、自分は、竜二が今うけているだろう程の強い何かを、果して感じるだろうか―――――
当然感じるだろう、とも思ったが、同時に、(すこし、ちがうかも知れない―――)そうも思った。
それは、私には妻があり、子供が有るという事だ。親とはまた別に、心をそそいでゆく自分の家庭が有るということだ。そのことが、もしかしたら、親を失くしてゆく喪失感に対する、(おかしな言い方だが)或る種のクッション、になってくれるのではないか―――そんな気がした。
新しく築いてゆく何かがあればこそ、失ってゆく大切なものたちを見送ることも出来る、―――人というものは、つまりそういうものなのではないかと、そんな事を考えた。
竜二は、つまり、未だに全身が、ただ、お母さんの息子なのだ。
誰かの夫でも、誰かの父親でもない、ただ、お母さんの子供、それだけのものなのだ。
時の流れの外[#「外」に傍点]に生きている様な竜二は、或る意味で、お母さんに永遠を見ていたのではないか。そしてそれを、信じてさえいたのではないか。自分が四十にもなるくせに、お母さんが幾つになっているのかさえ、竜二は考えてみた事も無かったのではないか。お母さんは、竜二にとって、立ち戻ればいつも、そこに元気で居てくれるはずのひととして、心に在りつづけていたのではないか。
そのひとが、忽然と目の前から居なくなってしまった―――竜二の受けている強い衝撃は、それが全てなのだろうと私は思った。
それは例えば、遺体にすがって大声で泣きわめくよりも、もっと深い、もっと救われようのない、かなしみなのかも知れなかった。
私にはまるで、竜二が、道端に一人置きすてられた子供の様に見えた。
(―――だからこそ)
と私は、そこに高志さんの存在を思った。ひとり途方にくれている様な、竜二の横顔に、「高志さんが居るじゃないか」、私はそう言ってやりたかった。
しかし竜二は、その高志さんさえも、自分で断ち切ろうとしているかのように見えた。或いは竜二にとって、それはすでに、高志さんの方から断ち切られてしまったきずな[#「きずな」に傍点]に見えているのかも知れなかった。断ち切られても仕方のない自分を、そしてあきらめている様でもあった。―――――
小さな溜息を一つ吐《つ》いて、私は、竜二に向けていた目を、静かにテーブルに落した。そして目の前のコーヒーカップに、ゆっくりと指を掛けた。
ふと人の気配がして、目を上げた私は、台所へ姿を見せた啓子さんと目が合った。
啓子さんは、私に小さな会釈を見せ、それから静かに竜二を見た。
「……竜二さん、お葬式には、ちゃんと居ないと、駄目よ………」
困惑を極めた様な表情で、啓子さんは言った。
「いいんだ」と竜二は応えた。
「でも……」と啓子さんは、竜二の、その固い横顔を少し見つめ、それから、どこか途方に暮れる様な顔のまま、廊下を振り向いた。そこに高志さんが立っていた。
「……いいんだ」竜二は静かに、そう繰り返した。「………明日の朝、帰る」。高志さんを見る事なく、しかし目の前の嫂《あによめ》を通して、竜二は高志さんにそう告げた。
私は目を落した。私にはとても、高志さんの顔を見る勇気はなかった。高志さんは、音をたてる様に踵《きびす》を返し、奥へ消えた。
そんな事があった今朝、葬儀の準備が進む竜二の家に、高志さんの高校時代の友人という、村井さんという人が来た。
高校を出た後、高志さんと一緒に入隊し、今も現役の自衛官であるというその人は、やはり水泳でもやっていたのか、肩幅の広い、がっちりとした体つきをしていた。
私は竜二と、台所で朝食をごちそうになっている所だった。竜二と一緒に東京へ帰る事にした私は、前夜、一旦自分の家へ帰り、迎えがてら、朝から竜二の家に来ていた。
私は、本当の事を言えば葬儀には列席したかった。しかしそれ以上に、竜二を一人にしておく事が、何か不安でもあった。(暫く、そばに居た方がいい―――)私はそう感じていた。
私達の傍らには啓子さんが立ち、食事をする私と竜二の世話をしてくれていた。その顔には、どこかやはり、葬儀にも出ないで帰るという義弟への、隠し様の無い困惑がまだ残っていた。
すこし離れた座敷の方からは、葬儀会社の人間が祭壇を飾りつけたりする音が聞こえ続けていた。庭には白と黒の幕が張られ、その前に受付けのテーブルやら焼香台やらが次々に並べられていた。近所の人や、親戚の人達などが忙しげに行き交うなか、なぜか高志さんの姿だけは朝からどこにも見えなかった。竜二と顔を合わせればその場で殴りつけかねない自分を、親戚の人達の手前、そうする事で抑えているのかと、私はそんな事を思った。
そこへ村井さんが、勝手知ったる、という様子で、ひょっこり現れた。―――――
「おう、竜二、元気そうだな」
ごつい[#「ごつい」に傍点]体に似合わぬカン高い声で、村井さんは、竜二にそう笑いかけた。
「おっ母さんの葬式にも出んで帰るそうやないか。かわったやっちゃ」そう続けて、可笑しそうに笑った。
「―――ほんとに」と啓子さんは溜息を吐《つ》く様にそう言い、村井さんの前に静かに茶を置いた。その茶を取りながら、
「―――まあ、ええよ。欲ボケのボーズにお経など上げて貰った所で何の足しにもならんわい。足がシビれるだけ無駄じゃ」そう言って、声を上げて笑ってみせた。
し[#「し」に傍点]っ、と啓子さんが口に指を立てて、その豪快な笑い声を咎めた。
「飛行機、じゃろ?」
村井さんは、茶を一つ飲み、竜二に尋ねた。肯《うなず》いてみせた竜二に、
「わしのボートで送るよ、さっさとメシ喰って、仕度せえ」村井さんは、そんな事を言った。
「ボート?」と竜二は箸《はし》をとめて、村井さんをみた。
「おう、ボートじゃ。去年買ったのよ。わしの長年の夢じゃったからな。空港なら、ちまちま[#「ちまちま」に傍点]電車なんぞで行くより、わしのボートで一直線じゃ。F港に着ければ、そっからすぐだろが。そうせえ」
竜二はぼんやり村井さんを見ていたが、
―――海もいいな
とでも思ったのか、「……じゃ、そうしよう」と案外すなおに、そう応えた。
「おう、そうせえ、そうせえ」
村井さんは愉快そうに笑った。―――――
そして今、私達は村井さんの走らせるボートの上に居る。舵《かじ》を操る村井さんの後ろの座席に座り、そこから前方に砕け散る波しぶきをぼんやりと見ている。
青空からふりそそぐ陽光をうけて、波は目に痛いほど、白くきらめき立っていた。
「おばさん[#「おばさん」に傍点]は、残念やったな」
波を砕くエンジン音の中で、ふと村井さんが後ろの竜二に、大きな声で話しかけた。
竜二は、とくに返事もせず、ただ海の遠くを眺めつづけていた。
「ええ人やった」
村井さんは一人言の様にそう言い、少し眩しげに目を細めて遠くを見た。
「わしは、高志の一番の悪友やったからな、高校の頃も、卒業して隊に入ってからも、しょっちゅう、お前の家には遊びに行かせて貰《もろ》た。そのたんび、おばさん得意のコロッケつくって貰って、山ほど喰ったもんじゃ。―――わしら、演習で、アメリカやらどこやらに行って色んなもの喰うとるが、わしは世界じゅうの喰いもんの中で、あれが一番すきじゃ」
空に投げつける様な大声で、村井さんは、そんな事を言った。それから、一つ辺りを眺め、「―――竜二、海は、ええなあ」そう言って、風を吸ってみせた。
「―――おばさんは、あかるい人やったからな、こうして、眩しい光の中でサヨナラ言う方が、よっぽど似合うとるわい。座敷で、皆でしみったれてうなだれとるより、よっぽどええ」
そう言って笑った。
私の内《なか》に突然、抑え様のない激しいものが、自分でも意外なほど強く、突き上げてきた。幼い頃の思い出の一つ一つが、いちどきに胸にこみ上げてくる様だった。そしてそれらが、風に吹き上る写真のたば[#「たば」に傍点]の様に、心の中に激しく舞い上った。
舞う、その一つ一つの場面に、幼い竜二と私が居た。また高志さんが居た。そして、まだ若く元気なおばさんの顔が、そのどの場面にも、優しく微笑って映っていた。私は抑えようもないまま、気がつけば竜二の隣で、声を上げて泣きだしてしまっていた。両親が健在な私は、人が死ぬとはこういうことなのかと、―――こんなに、理不尽で、納得のいかない、哀しいものなのかと、それを初めて思い知る気がした。私は両目にふきこぼれ続ける涙を、どうしても止められなかった。
村井さんと、竜二が、そんな私の様子に、どこかあたたかく、ひとつ微笑った。私も鼻をすすり上げながら、照れ臭く、二人に笑い返した。
晴れ渡った青空の下に、広い紺色の海が、おだやかにどこまでも波うっていた。
その波を割って駆りながら、私達は、それぞれの思いで、もう居ないそのひとを、青空に見送っていた。
17
ボートは海の上を走り続けた。
昔、遠足で行った憶えの有る山やら丘やらが、波の彼方に遠く姿を見せ続けていた。
やがて三十分もそうしている内、前方にぼんやりと白い埠頭の姿が見え始めた。
「―――どうじゃ、近いもんじゃろ」
村井さんが舵を取りながら、陽気な声を上げた。
普段、船などを利用する事の殆ど無い私は、何か懐しい気分で、子供の頃に見たきりのその埠頭の姿を、ボートの上からぼんやりと眺め続けた。
波の向うで次第にその輪郭をはっきりさせてくる港の様子に目をとめる内、ふと私に気づかれてくる事が有った。そこは、その地方有数のかなり大きな港だったが、それが何か狭いものに感じられてくる程、そこには何隻もの巨きな船が着けられていた。
その船影が、どうも民間のものでは無い様に思ったのは、また暫くボートが走り続けてからの事だった。
(……あれは自衛隊の艦《ふね》じゃないか?)
そう思った私は、それを前に立つ村井さんに尋ねた。
「おう。ありゃ自衛隊よ。大砲の備《つ》いとるんは、大体、自衛隊じゃ。あんまり漁船には付いとらんよ」村井さんは笑って応えた。
それからまたボートが幾らか走り続ける内、埠頭の様子が沖からもかなり仔細に見てとれる様になった。
眩しい陽光に目を細めながら、それを見つめる私に、何か真白な長い線[#「線」に傍点]が、広い埠頭に引かれているのが分る気がした。妙に厚みのある線[#「線」に傍点]だなと思い、それに目を凝《こ》らし続ける内、やがてそれが白い礼服に身を包んだ自衛官たちの隊列らしい、という事が分った。
「……あれ[#「あれ」に傍点]、自衛隊の人達、ですよね?」私はまた、村井さんに尋ねた。
「おう、ありゃ自衛隊の人達[#「自衛隊の人達」に傍点]じゃ」村井さんは人ごとの様に応えた。
竜二は、私の隣で、黙ってそれ[#「それ」に傍点]を見つめ続けていた。
「今日、何かやって[#「やって」に傍点]るんですか?」私は尋いた。
「ああ。開港記念日でな、総理が来《こ》られとるんじゃ」
「へえ、総理が」と私は呟いた。
「―――なにしろ日露戦争からの由緒ある軍港じゃからな。総理でも草履でも何でも来るわい。ちょっと御愛嬌で艦内を見て廻られたりされとるんじゃ。もう下りてこられるじゃろ」そう言って村井さんはチラと腕の時計を見た。「埠頭の向うにヘリが待機しててな、それでお帰りになられるんじゃ。皆でそれを、お見送りする所よ。基地《ウチ》の下士官以上は殆どあそこに揃っとるわい」
「村井さんは」と私は尋いた。
「行かなくて、よかったんですか?」
「わしは竜二のおっ母さん[#「おっ母さん」に傍点]見送るんで忙しいけの、総理見送っとるヒマは無いよ」村井さんは一つ笑って、ボートを停めると、
「―――どれ、この辺で少しプカプカしとくかい、あんまり近づくとミサイルぶち込まれるからな」
そんな事を言いながら、エンジンを切った。
18
沖で静かにゆれるボートの上からは、埠頭の様子がよく見えた。
純白の礼服に身を包んだ隊員たちが、長い列をつくり、そこで整然と一人の政治家を待ち続けている。
やがて、一人の小柄な老人が艦上に姿を見せ、何人もの屈強そうな男達(恐らくSPだろう)に護《まも》られながら、埠頭から延べられたタラップをゆっくりと下りはじめた。
埠頭に下り立ち、老人が軽く片手を上げたりしながら隊列の前を歩き始めた時、そこに並ぶ全ての制服の男達が、いっせいに、音をたてる様に敬礼を捧げた。―――――
頭上に広がる空の青さと、白い制服の男達の、その凛とした姿が、沖で見つめる私に、何か一枚の絵の様にとても綺麗に見えた。
商談と、接待と、企業論理に明け暮れる私の生活には少くとも無い、何か鮮やかな、それはうつくしさに見えた。
やがて総理を乗せたヘリが、ゆっくりと地上を離れ、そしてそれが青空の中の小さな点になってゆく時まで、隊員たちの敬礼は続いた。―――――
機を送り終え、敬礼を解いた彼等は、それぞれの持ち場に戻るのだろう、まるで一枚の静止した画像が突然動き出す様な機敏さで埠頭をいっせいに動き始めた。歩く者は無く、一人一人が、それぞれの目的に向って小気味よく駈けだして居た。
高志さんが隊を愛する気分の様なものが、ふと私に理解できる様な気がした。
(高志さんに良く似合うせかいだ)そんなことを思った。
「―――どれ、行くとするかい」
村井さんがそう言い、ボートにエンジンを入れた時、私は、今朝見かける事の無かった高志さんの事を、ふと考えた。高志さんは、私達が家を出る時にもとうとう顔を見せなかった。今思えば、それはとても、高志さんらしくない[#「高志さんらしくない」に傍点]ことの様にも思われた。
考えてみれば、竜二の家にやって来た村井さんにしても、「高志は?」と、たとえば啓子さんに尋ねたりする事は無かった。それに―――と私は、改めて考えてみる。この広い埠頭なら、祝典を避けてどこか適当な所にボートを着ける事も出来た筈だったろう―――
(……高志さんは、もしかしたら、あの中[#「あの中」に傍点]に居るのじゃないか……)そんな気がした。
19
ボートは、ずいぶん埠頭に近づいた。
隊員達のほとんどは、それぞれの持ち場に、すでに戻り、或いは戻りつつあった。あの整然とした隊列はもうそこに無く、人の姿もみるみる広場から消えていく様だった。―――――
そんな中に、ぽつんと佇む一つの影が有った。気のせいか、その影は、埠頭に近づいてくる私達の方を見ている[#「見ている」に傍点]様にも思えた。
長身の、がっしりとした白い制服姿の、その影が、夏の強い陽だまりに、一人立っている。
(……高志さんだ)確信に近い感覚で私がそう思ったとき、竜二が戸惑う様な声で、「……あれは[#「あれは」に傍点]……兄貴、みたいだけど……」とそう村井さんに尋ねた。
「そうかも知れん」
とだけ、村井さんは応えた。
ボートは、やがて埠頭に着いた。
20
ボートを下り、コンクリートの岸壁に造られた短い鉄の階段を昇り、私と竜二は、埠頭に立った。
その前方の、陽の照りつける広いコンクリートの中ほどに、高志さんが一人立っていた。立って、そこから、私達を見ていた。
ほかにもう人影は無く、遠く離れた艦の方からきこえてくるかすかな音だけが、小さく陽だまりに落ちていた。
「―――その広場を突っ切って大通りを右に行けばすぐ空港じゃ」村井さんがボートの上から、私達を見上げてそれだけを言った。―――――
竜二と私は、静まりかえった陽だまりの中に佇んだ。目をやれば、陽の当るコンクリートの広場に制服の高志さんが一人立っている。
(いつか見た夢だ[#「いつか見た夢だ」に傍点])竜二は思った。
足元に落ちた自分の濃い影に暫く目をおとし、―――やがて竜二は、静かに足を踏みだした。
私は、何かためらわれる気持で、竜二との距離を少し置きながら、その後ろを歩いた。
竜二は、どんな気持で居るだろう、と私は考えた。―――怖いだろう、と私にはそれが容易に想像できた。
竜二のだいすきな高志さんは、たえず、竜二にとって怖い兄さんだった。幼い頃から、いつも叱られてばかりきた、四歳上の、だいすきで、怖い兄さんだった。
怖いのは、しかし高志さんその人ではなく、高志さんに映る自分自身の姿というものが、竜二をいつも畏れさせるのだろう―――私はそう思った。それは、かなしさ[#「かなしさ」に傍点]、と言ってもよかった。幼い頃、トカゲ一匹掴めない自分がかなしかった様に、四十にもなって何一つ満足なものの無い自分の暮しというものが、竜二はただ、高志さんに対してだけは、辛く、かなしいのだった。竜二の畏れ[#「畏れ」に傍点]は、すべて、そこに根ざしたものだと言ってよかった。―――――
その高志さんと竜二との距離が、夏の陽だまりの中で次第に小さなものになっていく。
陽光をはじき返す純白の制服に身を包んだ高志さんが、竜二の前方に黙って立ち塞がって居る。その姿が、次第に威圧する様な巨きさを持って私達に迫ってくる―――――
(高志さんは、どういうつもり[#「どういうつもり」に傍点]なのだろう)
私は考えた。何をするつもりなのだろう、そう思った。
―――殴るのだろうか、
ふとそう思い当り、まさか、と思いながらも、私は少し足を速めて竜二に追いつこうとした。そんな場面は、とてもじゃないが見たくなかった。が、そのとき竜二はもう、高志さんの正面で、静かにその歩みを止めようとしていた。
その竜二を、高志さんの強い眼差しが、ぎろり、と音をたてる様に見た。子供の頃から近所じゅうの者たちを威圧してきたその鋭い目が、突き刺す様に目の前の竜二を見た。
―――だが私は、そのとき、高志さんのその目の奥にあるものが、少なくとも怒りではない事が、一瞬のなかで分る気がした。強い眼差しと、岩の様に結ばれたその固い口元は、確かに人をたじろがせる厳しい表情に見えはしたが、幼い頃からずっと高志さんを見てきた私には、その表情の奥にある怒りではない何かが、確かに理解できる気がした。
高志さんは、竜二に何か言おうとしていた。言おうとして、しかしそうする事なく、それを呑みこみつづけている風にも見えた。そうして目の前の弟を、頭一つ高いところから、まるで怒った様にじっと睨みつけていた。―――――
ふと私は、高志さんの手に一冊の本が有るのに気がついた。病床のお母さんがだいすきだった竜二の本が、制服の高志さんの、その左手の白い手袋にかたく握られていた。
(………高志さんは、竜二を誉めてやりたいのじゃないか)私は思った。
竜二の、あの一冊の本は、お母さんの、その最期の日々のなかで、けして小さなものではなかったと私は思う。高志さんにも、それは分っていた。高志さんは、竜二が、自分には与えてやりようのない何かを、母親に与えてくれた、その事を、兄として誉めてやりたいのではないか、―――そして、そのことで、高志さんは、だらしのない弟の生き方のなかにある何かを、初めて認めた、のではないか―――――
高志さんは、そうした気持の何かを示したくて、村井さんに頼んで竜二をここへ連れて来て貰った、―――それがやっと、私に分る気がした。
その時もし、その固く結ばれた口元が開く事があったとすれば、高志さんはきっと、そうした何かを竜二に告げたのだろうと思う。
有難う、と言っただろうか。
頑張ったな、と言っただろうか。
それとも幼い日、風呂場で竜二の歌を誉《ほ》めた時の様に、おまえは文が上手いな[#「おまえは文が上手いな」に傍点]、とでも言っただろうか。―――――
だが高志さんは、結局、最後まで、その口を開く事はなかった。押し黙ったまま、しきりに何かを言おうとしながらも、結局は、そうしなかった。
そして代わりに、その右手をゆっくりと持ち上げると、高志さんは、竜二に向って、静かに、一つ敬礼をした。―――――
長いような、みじかいような時が、そこに過ぎた。
私は、少し離れた場所から、そこに向きあう兄弟をみつめた。
青空が、すべてをつつむように、二人の頭上にただ静かにひろがっていた。
(……竜二、ほめられるのは二度目か?)
潮の匂う陽だまりの埠頭で、私はそんなことを、胸につぶやいていた。
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内智貴(つじうち・ともき)
一九五六年、福岡県飯塚市に生まれる。七七年、東京デザイナー学院商業グラフィック科卒業。七八年から三年間、ビクターレコードにシンガーとして在籍。後、ビクターを離れライブハウスなどでバンド活動を続ける。九九年「セイジ」が第十五回太宰治賞最終候補作に選ばれる。二〇〇〇年「多輝子ちゃん」で第一六回太宰治賞受賞。のびやかな文体と作家的資質に対して高い評価をえた。二〇〇一年五月「多輝子ちゃん」と書下し作品「青空のルーレット」を収録した『青空のルーレット』を刊行。その後、『いつでも夢を』『ラストシネマ』『信さん』を発表している。
本作品は二〇〇二年二月、筑摩書房より刊行された。