辻井 喬
いつもと同じ春
一
高い建物に囲まれたビルの屋上に旗がはためいていた。旗は暗い空間に喘《あえ》いでいる偽《にせ》の生物のように見えた。どこかの社章を染めぬいた緑の布切れが、せわしなく動き、周囲の澱《よど》んだ空気を掻《か》き混ぜている。
前をオレンジ色の覆《おお》いをかけたトラックが走っていた。覆いのなかの荷物が何か分らない。私の車は高速道路を会社に向って、ほぼ同じ速度で追尾していた。積荷は重そうでも軽そうでもない。積み込み作業をしていたであろう男、輸送を命じた運送会社の係りの表情、伝票に肘《ひじ》を曲げて数字を書き込んでいたかもしれない女事務員の髪の形などをすっかり消して、幌《ほろ》を掛けられた塊りになった積載物は、私の目の前を道路のカーヴに沿って移動していた。
――それらを感じ、またその感じにもとづいて正しく公平に判断するには、いたって微妙な澄んだ感覚が必要である。それらは幾何学におけるように、順序を追って証明することはほとんど不可能である――
パスカルの『パンセ』のなかの一節が私の心に浮んできた。
少し前から、私は『パンセ』を読んでいた。学生の頃《ころ》からほぼ三十年近く経《た》っての再読である。新しく人生の教訓を得ようとしている訳ではない。読後感をまとめて発表しようと意気込んでいるのでもない。ただ、なるべく情緒的でない作品を持続して読むことで、自分がいつも同じように生きているという安心感を得たいのだ。
パスカルが何を指して、「それらを感じ」と言ったのか正確には思い出せないが、たしか繊細な直感力を持った人と幾何学者を対比させている文脈のなかでの言葉であった。私は随分長いあいだ幾何の問題を解く明晰《めいせき》さを、実務を処理する際の姿勢にしたいと願ってきた。しかし、明晰さを発揮し得たと自信を持ったような場合に限って、人はことさら私の行動を誤解し、情念の屈折や歪《ゆが》んだ感情の影を読み取ろうとするのだ。妹の久美子が、フランスで事件を起した場合がそうだったし、それ以前にも彼女の昔の夫、林田悟郎が伯父の会社を辞めるにあたって、私の示した態度は冷たいという非難を受けた。こうした世評に対して弁解をしないことが、事態を紛糾させない唯一《ゆいいつ》の方法だったとすれば、私は我慢のお蔭《かげ》で、辛《かろ》うじて破綻《はたん》をまぬがれていただけのことなのかもしれない。
「昨日、久美子女史ハカジノ法違反容疑ニヨリ逮捕サレマシタ。支払ヲ法人名儀ノ小切手ニテ受ケタノガ原因ト思ワレマス。女史ハ、何者カノ作為ニヨルモノトノ声明ヲ出サレマシタ。法的ニハ当社ニ関係ナキ事ナガラ、社会的信用上マイナスト思ワレ、小職モ苦慮シテオリマス。ナオ、他《ホカ》ニ脱税容疑モアル模様」
というテレックスを、パリ駐在部長の山田正夫が打ってきたのは、一年前のことである。
彼女が三年ほど前に、フランス人の友達とカジノをはじめた時から、私が心配していた事が起ってしまったのだ。彼女は私の三歳年下の妹であり、丸和百貨店の初代パリ駐在部長でもあった。
久美子がカジノの資金作りに帰国した時、私は反対したが、決心を変えさせることが出来なかった。もともと、彼女は丸和不動産の創立者であった父、西垣浩造《にしがきこうぞう》の性格を受け継いでいて、言い出すと相手の意見を聞き容《い》れなかった。理屈を超えた執念が胸中に燃え盛《さか》ってしまっているようで、何が久美子をそのように熱中させたのかと訝《いぶか》りながら、「やるのは君の自由だが、それなら社と縁を切ってからにしてくれ」
と私は宣告した。二十数年前にフランスに渡ってから、派手な恋愛の噂《うわさ》が絶えなかった彼女の身辺に、今度も新しい男の影を想像しながら。
久美子は黙って私を見ていた。私の言葉が本心から出たのか、百貨店の二代目社長としての発言なのかと探っている眼付《めつき》になった。彼女は私のことを文学をやりたかったのに心ならずも父親の後を継いだ男と考えていて、そのような観点から私の言動を観察するのを常とした。久美子の瞳《ひとみ》が、立場に忠実であろうとする私の内心の苦衷を読み取ろうとする色に染ったのを煩《わずら》わしく感じて、
「駐在部長をやめて自分でカジノをはじめるのなら、それはどうしようもないが、それでも僕《ぼく》個人は反対だ」
と念を押した。挑《いど》みかかるような負けん気の表情が動き、すると彼女の顔は顎《あご》が張って、驚くほど父親に似てきた。
「日本はまだ文化度が低いから、カジノと言うと、眼を血走らせた貧民が群がり集まる賭博場《とばくじよう》と思うんでしょう。競輪場のイメージよね。順造兄さんもそうに違いないわ」
語調は言葉の棘《とげ》を隠そうとでもするように柔らかかった。彼女が数年前から身につけた話術である。相手に理解させるのは諦《あきら》めたけれども、自分の考えと立場だけは明らかにしておこうとする頑《かたく》なさが、柔らかい語り口の衣裳《いしよう》を纏《まと》うのだ。
以前はそうではなかった。ヨーロッパに出張して久し振りに会うと、彼女はフランスと日本の違いについて饒舌《じようぜつ》になった。パリの生活で発見したことを分らせようとする気持が感じられた。熱中して早口になった。物柔らかな口調を身につけた背後に、数年前の、二人の子供との離別があるのだと思われた。その頃長女の林田八重はキリスト教に帰依《きえ》してカソリック系のロンドンの病院に勤めていたし、当時中学生だった四つ年下の充郎《じゆうろう》は、父親の手でアメリカの知人に預けられていた。その後しばらく経って精神に錯乱を起した充郎は強制送還処分を受けそうになり、今では私が日本に引取って養育している。久美子が相談できる身内と言えば、もう私と私の母親の二人だけだ。これから先、自分はひとりで生きていかなければならないと思う気持が、見えない圧力を加え続けた結果、纏わざるを得なかった幾重もの衣裳や鎧《よろい》を、彼女は一気に脱ぎ捨てようとしてカジノの仕事を思い付いたのかもしれなかった。
私には、計画の失敗は目に見えるように思えたし、とすれば丸和百貨店は彼女と縁を切っておかなければならない。
「日本人がフランスでカジノをやって成功する条件は何一つないよ」そう言っても、私の主張は再三「文化の程度の違いなのよ」と斥《しりぞ》けられた。
「それはそうかもしれない」
敗《ま》けず劣らず穏やかな、一層冷たい口調になって私は答えた。
「日本もきっとこれから大きく変るんだろう」
こんな具合に、その日の私|達《たち》の会話は味気ないまま終ったのであった。
あれからまだ足かけ五年しか経っていない。久美子は最初の計画どおり、パリから百|粁《キロ》ほど離れた大西洋岸の田舎町に華々しくカジノを開業した。開場式の晩には、ヨーロッパの貴族は勿論《もちろん》のこと、アメリカの社交界からも著名な富豪や芸能人達が参加したようだ。私はハリウッドの俳優達と並んで、ミンクのコートを着て微笑《ほほえ》んでいる久美子の写真を、後任のパリ駐在部長山田が送ってきたフランスの夕刊紙で見た。「東洋の女富豪、カジノを占領」という見出しがついていた。
私は久美子が求めていたのはカジノ事業ではなく、こうした華やかさだったのだと思った。眩《まばゆ》いシャンデリアと微笑と機智《きち》に富んだ会話、追従《ついしよう》、卓上に散るチップの響き、ロココ風に飾られた広間の雰囲気《ふんいき》に自分を没入させ、カジノに人生の賭《か》けをすり替えてしまいたいのだと思い、同時にそのように推測するのは、久美子が私を失意の男と見るのと同じように、彼女に対する私の思い入れなのかもしれないと考えた。しかし、宴会が終ってホテルに戻《もど》った久美子を取囲んだであろう大西洋岸の晩秋の夜の静けさを、私は自分が体験したかのように感じた。北フランスの冬は早いのである。
トラックはまだ私の前を走っていた。後方の幌が先程より少しめくれて、走行につれて起る風に烈《はげ》しく震えているが、やはりなかの積荷は見えない。左手に、朝日を受けて眩《まぶ》しく反射する窓を持った高い建物がある。毎日、私はこのビルの横を高速道路に乗って通り過ぎるが、内部に入ったことはない。半透明のガラスが嵌《はま》っているので、昼間は各階で影のように動く人の気配がするだけだ。
霞《かすみ》ケ関《せき》のトンネルを抜けると、道は高架になり、商事会社の黒い大きな建物が立ちはだかるように正面に現れる。合流地点にさしかかると、別の方角から来た道が弧を描いて近づいてくる。板橋や埼玉県南部の工場地帯に向うトラックが増えてくる。なかには丸和百貨店に商品を納入する車も混っている。
私の車は速度を落し、二つの流れはやがて一本になって、吸い込まれるように動きはじめる。高速道路は塵芥《じんかい》を集めて下ってゆく河みたいだ。私は塵芥の一つになって会社に向う。区政会館の表示、印刷会社の看板、紙流通センターの文字、「街に緑を」というスローガン、並んで走っている外廻《そとまわ》り線を越して、日本酒の広告、建築設計事務所のサインが見える。この道路が出来た頃は見透《みとお》しも良かったが、いつの間にか、高い建物が少しずつ高架を走る車の視野を遮《さえぎ》るようになり、その壁に看板が掲げられ出したのだ。人間の意志とは関係のない生物が、人知れず蠢《うごめ》いている感じだ。
夜はたいてい会合が入っているので、帰宅は夜半に近い。自分の部屋に戻った私を待っているのは、宴会を終えた久美子が持ったのと同じ静けさである。パスカルが言うように微妙で澄んだ感覚を持つのは困難だ。社に入れば、それ以後はむしろ幾何学を解く数学者の姿勢の方が有益である。それなのに仕事に、公理や定義がないように思えるのは、まだ修練を積んでいないからだろう。
私は胸ポケットから今日の予定表を取り出した。午前中に会合が二つ、それから常務達との昼食会、午後は来客が続いて、四時からの会合には、またこの道を逆に走って丸の内|界隈《かいわい》に出なければならない。道が混《こ》んでいれば地下鉄に乗った方がよさそうだ。予定表を見ていて、社に着いたら久美子の裁判費用をパリに送金する件で財務担当の部長と相談しなければならないのを思い出した。社との関係を断ったと言っても、世間ではそう見てくれないし、あまり原則だけを主張して彼女が有罪にでもなれば、会社の社会的信用がマイナスになるのは、駐在部長の山田が心配するとおりだ。
私の事務所は一月ほど前に高層ビルに移転したばかりである。エレベーターを五十二階で降りて左に折れると、老人が電気掃除器の柄《え》を押して絨緞《じゆうたん》を掃除していた。作業は毎朝八時四十五分から開始されるらしく、私の出社が五分遅れれば、彼は確実に五分間ぶんの掃除を終えていた。エレベーターホールからの間隔で作業の進み具合を測ることができる。
引越してきて初めて老人を見た時、私はある有名な作家の永年勤続≠ニいう小説を思い出した。長い間、下積みの仕事を黙々と果してきた作中の主人公は、定年を間近に控えた永年勤続者表彰式の朝、突然、自分でも説明できない焦立《いらだ》ちと虚《むな》しさに襲われて受賞を拒否する。かつて、一度も彼を対等の人間として扱ったことのなかった人々が、老人の真面目《まじめ》な勤めぶりを讃《たた》える儀式に連なっているのに、主人公は耐えられなくなるのだ。彼はたった一度の、効果のない反乱を起す。
この連想は清掃の老人が身辺に漂わせている頑なな雰囲気のせいであったが、私の方に感応する部分があるからでもあった。もっとも、私の胸中に巣喰《すく》っているのは、作中の主人公の造反の心とは異る、もっと捉《とら》えどころのない不安に近いものだ。
清掃の老人は生真面目《きまじめ》な男らしく、いつも下をむいて黙々と作業していた。私が声をかける時だけ、お義理のように顔をあげて会釈《えしやく》する。年齢からすれば戦争に行っているはずだから、あるいは相当偉い軍人だったのかもしれないと私は考えたりした。
彼が老妻と二人だけの生活をしているのか、妻とも死別して一人暮しの境遇なのか、あるいは息子達の反対を押し切って、健康のためと称して、今なお自立を目指しているのかは分らない。彼が家に帰ってから持つであろう時間の侘《わび》しさ、あるいは団欒《だんらん》についても何も知らない。私はただ彼の傍《かたわら》を通って自分の部屋に到達する。老人は定められた区域の掃除を終えて帰ってしまう。ある日、彼の姿が消える。翌日から別の男が同じ場所の掃除をする。
私は日頃、会社の部下や、仕事で識《し》り合った人の私生活について、つとめて関心を持たないようにしていた。関心を持ちはじめれば際限なく相手の身の上に絡《から》まっていって、途中で上手に突放すことができなくなりそうだった。そういう点で、私は如才なく振舞えない自分の不器用な性格を自覚していた。父親の跡を継ぐことになった時、突放しの姿勢は私に課せられたものだ。それでも時おり、私はどうしようもない感情の起伏に捉えられる。
精神を病んでいるとしか思えない甥《おい》の林田充郎の件はその一つだ。私の家に引取ってから五年になるけれども、甥の様子はいっこうにはかばかしくなかった。時々、気に入らないことがあると暴れるようになった。もう一度、徹底した治療を受けさせた方がいいのではないかと考えている時に、久美子が逮捕されるという事件が起った。
私の部屋からは、古くなって色褪《いろあ》せ、所々破れた細密画を想《おも》わせる町並みが眺《なが》められた。秋だから空気は澄んでいて、自動車の排気ガスも立罩《たちこ》めていない。市街地の遥《はる》か先に、牛が数頭伏せているような秩父《ちちぶ》の連山が黒々と横たわっている。富士はそのほぼ中央にあって、もう雪を被《かぶ》って輝いていた。あまり整った形なので造り物のようだ。かつて、人々の信仰の対象になっていたのが不思議なくらい現実の山という感じがしない。
ぼんやり見ている私の眼に、何か煌《きらめ》く物が見えた。それは山までの町の厖大《ぼうだい》な拡《ひろ》がりの中ほどにある。おそらく郊外のアトリエか写真館の明り取りの天井が、太陽光線を反射しているのであろう。
動かずに煌いている物体とは別に、一瞬光って消えるものが見えた。町角を曲る自動車の前面ガラスの反射に違いなかった。そのガラスの後ろには、出勤する会社員とか、幼稚園に行く黄色い帽子を被った子供達が乗っているのかもしれなかった。地上に降りて歩いていれば、ごく普通に見かけることができるそうした光景も、私の部屋からは瞬《またた》く間《ま》の光の反射として伝ってくるだけだ。時間が経過し、太陽の位置が変ると、動かない物体すらも輝きを失い、反射光は届かなくなる。その頃、天窓に撥《は》ね返された太陽光線は、五十二階を逸《そ》れて中空を走り、虚しく天空のどこかに消えてしまうのだろう。
高い処《ところ》にいるのに街を支配している感じは起ってこない。逆に捕えられているように思えるのは、会社から離れられない人間になってしまっているという意識からであろう。目に見えない無数の糸で繋《つな》がれていると感じるほどの多くの年月を、私は丸和百貨店の社長として過してきた。その間に会社は大きくなった。そうなるについて、初代のパリ駐在部長だった久美子の功績も大きかった。
その妹との関係は、彼女がカジノの計画に熱中しはじめてから壊《こわ》れてしまった。
私はこれまでにも幾度か、人間が突然変る場合を経験していた。目をかけていた男が、ある日家庭の事情を理由に辞表を出し、慰留も聞かずに社を去って、一月後には競争会社の幹部になっていた場合や、快活で職場の人気者だった青年が、いつの間にか帳簿に穴をあけていたこともあった。だから慣れているつもりであったが、妹となるとやはり勝手が違った。憤《いきどお》りも烈しく迷いも多かった。
躊躇《ちゆうちよ》する担当者を督促して私は久美子を解任した。当然のことだが、彼女は私のとった処置に反撥《はんぱつ》した。そのうちに、丸和百貨店は私の自由にならないのだ、創立者の西垣浩造が死んだ後、少しずつ私の立場が弱くなったのだと考えるようになった。
「兄は私の計画を助けたいんだけど、順造兄さんに反対の勢力が強くなって動きが取れないらしいの。だから私が頑張《がんば》らないといけないのよ」
と友達に洩《も》らしたりした。彼女は子供の頃から、自分の思いつきを言葉にのせているうちに、それが事実のように思い込んでしまう性格があった。
「ああ、可哀相《かわいそう》な順造兄さん」
と涙ぐんで語ったと言う。日本でのモダンバレーの発表会のために、久し振りに帰国した彼女の親友、今村奈保はそう私に話して聞かせた。幻想にでも頼らなければ辛《つら》すぎる状態なのだろうと考えると、私は久美子を長くパリに置きすぎたと悔んだ。
窓の外の風景は視野から消え、太陽光線の反射ももう届かなかった。
この部屋に移ってから、よくこういう状態に陥るのに私は気づいた。気分を変えたいと思い、心を落着かせ、考えをまとめようと、私は窓際《まどぎわ》に歩いてゆく。まだ珍らしくもあるので、目を凝らして見ていると玩具《おもちや》のように小さな緑色の電車がのろのろと走っていたり、学校の校庭で、豆粒ほどの生徒達が整列して体操をしているのを発見したりする。やがて、心はいつの間にか懸案の問題に向っていて、何も見ていない状態に陥っている。それは幹部の人事異動だったり、新しい店の企画だったりする。それだけ、仕事に追われているとも言えるが、広い眺望《ちようぼう》を持った場所に移ったので、若い頃からの放心癖が助長されたのかもしれない。
時には、数日前に夜の盛り場で遭遇した場面や、ずっと以前に見た光景が、その場にいた人物の表情や動作などを伴って蘇《よみがえ》ってきたりする。仕事に関連したこととは限らない。かつて女と交わした会話の一節、それを口にした時の彼女の辛そうな眼つきであったり、昔、同級生と改札口で待合せていた際、眼の前を通り過ぎた縁無し眼鏡の紳士が、駅構内に蹲《うずくま》っている乞食《こじき》を杖《つえ》で突ついていた一場面であったりする。おそらく紳士は彼が死んでいるのかどうかを好奇心に駆られてためしたのであったろう。
最初の結婚に失敗して以来、私は家庭を作っていない。その後親しくなった女も何人かいたが、いずれも長く続かなかった。離婚にふれて、母との間がうまくいかなかったからだと、かつて雑誌に書かれたりしたが、妻と具合が悪くなったのは私に好きな女ができたからであった。妻は憤り、私を憎んだ。そうしているうちに妻の方にも好きな男ができた。そんなふうな、ありふれた経過の末、妻の「別れたい」という要求を承知した。彼女から言い出すのを待っていたようなところがあり、その記憶は、しばらくのあいだ私を苦しめた。現在は八木律子という女と付合っている。彼女は美術関係の雑誌の編集長である。お互に忙しいから、別々に暮しながら週に一度ぐらい夜を共にするのがせいぜいだ。
彼女には商社に勤めている夫との間に啓一と呼ぶ男の子がいた。もう長いこと別居しているが、離婚歴は出世の妨げになると相手が思っているせいか、籍はそのままになっている。
数年前、八木律子は丸和百貨店が主催した絵画展の取材に来た。それから間もなく、地下鉄のなかで偶然会い、彼女が|ゲラ《ヽヽ》の送り先を聞くので家の住所を教えた。その頃《ころ》も、経営関係以外の連絡は、なるべく自宅ですることにしていた。
「会社にいると、どうも経営者の物の考え方や顔になっているらしいから、絵の話なんかするのうまくないみたいなんです」と説明した。「そんなでもなかったみたい」と律子は言ったが、私達は校正済みのゲラを渡す時の喫茶店を決めた。
その当日、仕事の話が済んでから二人で飲みに行き、途中から彼女の態度動作が獲物《えもの》を発見した小動物のように敏捷《びんしよう》になったのに気づいた。私が彼女に興味を抱いたことが、そのような反応を誘発したのだと思ったが、今でも律子は「先に好きになったのは私の方よ」と主張して譲らない。
律子は二人きりになると子供っぽく甘えたり、駄々《だだ》をこねたり、たちまち素直な女になったりした。美術界にかなりの影響を持っている雑誌の編集長とは思えないほどだ。自己中心的で我の強い絵描《えか》きや評論家達のあいだを、我慢して切り抜け、這《は》い廻ってきた分だけ、私にどさっと疲れをもたせかけるような具合である。それでいて自負心は猫《ねこ》の足指のあいだに隠されている爪《つめ》のように決して眠り込んではいない。
私は時々、これが父なら暴力を振るって相手を押え、支配を完全にしようとしただろうと考えた。そうした態度の方が、かえって律子に情愛の深さを教えるのかもしれないと思ってはみるが、そのように振舞えない。
彼女の住いはホテルが建っている高台から坂を降りていった、そこいらだけは戦争の際も焼け残った路地の一角にあった。周囲には古い小さな家が建て混んでいる。持ち主である老夫婦が二階に住む八木律子の家賃でひっそりと暮している家だ。夜遅く彼女の家を出て、車を拾うために人々が寝静まった道を歩いているような時、私は自分の生活を淋《さび》しく思う時があった。着地できないで空中を漂っている根無草のように感じるのだ。
どうしても地上に降りられない焦燥を意識しているうちはいいので、やがてそれも分らないほどに何事にも無感動になっていくのかもしれないと恐れたりした。この気持は、会社の部屋から遥か下の町を眺めているような時、不意に遠くの方で、かすかにではあるが滝のような音を立てはじめたりする。
久美子が長いパリの生活で受けていたのは、私の現在の不安とは異なった孤立感であったのだろうと思う。年月を経るに従って、かえってフランス人になりきれない自分を意識させられる事が多くなって、かといって、もう日本からもずっと遠くなってしまったという思いは、のっぴきならない状態に彼女を追い込んだに違いない。
夫と別れて十数年ぶりに会った子供|達《たち》と、久美子は母子《おやこ》の絆《きずな》を回復できなかった。二人目の充郎を生んで間もなく、遠縁の美術|蒐集家《しゆうしゆうか》に連れられてフランスに渡ってしまったのだから、無理のない話だった。
姉の八重はロンドンに行きたがり、その頃中学生だった充郎はアメリカに住みたいと言った。二人の子供がともに英語を話す国に住むのを希望したのは、それほど考えた末のことではなかったにしろ、パリに永住する気持を固めていた久美子にとっては心外であった。心の底から疎《うと》んじ、軽蔑《けいべつ》もしていたかつての夫、林田悟郎と、その彼が再婚した君子の影響が、明らかに二人の子の言葉遣いや動作に見て取れた。この発見は、日本を離れていた長い年月を、あらためて彼女に想《おも》い起させたに違いない。その直後、パリで久美子に会った私は、一緒にホテルの前の敷石道を歩いていて、
「ああ、順造兄さんの背中が見えない」
と叫んだのに驚かされた。振りむくと、彼女は両手で顔を隠して道端に蹲まっていた。
「どうしたんだ」と傍に立つと、やがて久美子はのろのろと立上って、
「見えなくなったのよ、どうしたんだろう」
と、声は弱々しかった。過度の心労から貧血を起したのであったろう。
「僕《ぼく》の影はそんなに薄いか」
と冗談めかして聞く私の足もとを微風に誘われた枯葉が駆けていった。マロニエの葉は大きくて、思いがけず向きを変えたりした。
私は少し前に、東京で受取った久美子の手紙を思い出した。その手紙の調子が、パリ出張を早めたのであったが。
――私が今一番強く望んでいるのは、一切の過去との別れ、つまり一切の執着と追憶への別れで、それを具体的に示すと、歯ブラシ、幾足かの靴《くつ》、何着かの服、二、三冊の本、レコード、ウイスキーと煙草《タバコ》、紙とペンなど、トランク二|箇《こ》ぐらいに納まる品物と共に、何も掛っていない四角く狭い白壁、ベッドと机と椅子《いす》だけある裸のホテルの一室に旅人として暮すこと――
と、彼女は書いていた。
手紙は、夏の休暇を過したイタリヤとの国境に近いスイスの別荘地で書かれたようであった。久美子は珍らしく一人で其処《そこ》に出かけたのらしい。
――これは客観的に見れば、極めてエゴイスティックな欲望だと思いますが、私の人生上のバランスシートを自然の状態にしておきたい気持は押え難《がた》く、この軽い状態をある期間支えて行くものは、「過去」よりもずっと透明なもの、生活の中にある一瞬に捉えられる一つの絵画的イメージ――
と、彼女は続けていた。
それまでも時おり受取っていた手紙とは急に変った文章の調子が私を驚かした。
彼女自身も「敢《あ》えて言葉にすると」とか、「更に気障《きざ》な表現を使えば」と再三断わってはいたが、読み進めるにつれて(何処《どこ》かおかしい)と思う気持が早くも動きはじめたのは、私が率直な告白など、興醒《きようざ》めることなしには聞けない環境に、深く這入り込んでいたからかもしれない。
――例えばそれは、陽光のさんさんと降りそそぐ南国の海辺に眼《め》を閉じて横たわっている金髪の美しい少年、風の吹いている晴れた秋の日の庭に見た白いテーブルと椅子、紫と白の細い縞《しま》の上着を着て、そこにアペリチーフのグラスを置いて立ち去る老イタリヤ人のボーイ。
バルベックへ向う細い埃《ほこ》りっぽい山道の向うに、突然あらわれる深い紺の山容の、母親のような大きな裾《すそ》の拡がりと、その麓《ふもと》に草を喰《は》む痩《や》せた黒い羊の群……とか、そんな一瞬のイメージ――
読んでいるうちに、私は久美子がこの文章にあるような仮構の時間や光景のなかに、自分を埋没させたいと願っているのだと思った。彼女は屡々《しばしば》、
「裕福な生活ができないなら、生きている価値はないと思うわ」と言ったり、
「私にとって贅沢《ぜいたく》は必要条件なのよ、アイデアもヒントもそこから生れるの」
などと言って、学生時代、社会主義の運動に熱中していた私を焦立《いらだ》たせたりした。それを思えば、この手紙に書かれているのは、まさに打って変った考え方であったが、さして矛盾しているようには思われない。現実の生活が希望から離れれば離れるほど、観念の助けが必要になったのに違いなかった。
二人の子供を手放してしまってから、久美子は以前よりも物に執着するようになっていた。私を驚かした手紙を書いたことなど忘れたように、パリに着いた私に向って、久美子は、いい物を身につけ、恵まれた環境に住むことが、外国で一人暮しをする女にとって精神衛生上どれほど必要なことかを力説した。便箋《びんせん》に向った時、彼女はどうしても過去を断ち切れない状態から脱《のが》れたいと思う気持に押されたのだ。心を偽って書いているという印象を受けながらも、その嘘《うそ》が説得力を持って訴えて来たのは、二つながら彼女の本心であったからだろう。
勿論《もちろん》、私だって憧《あこが》れ心など不必要だと言いきれるような、思いどおりの生活を送っている訳ではない。むしろその逆だ。丸和百貨店の仕事を続けながら詩や評論を書いているのは久美子のカジノ計画と同じようなものかもしれない。「どうやって切り替えてるんですか」とか「物を書くのはやっぱり深夜ですか」などと聞かれることもある。たしかに書くのは夜だが、切り替えについては自分でもうまく転換ができているとは思っていない。二人の自分を意志の力で統一しているのでもない。強い意志の所有者であればあるほど矛盾に敗《ま》けてぷつんと切れてしまうだろう。実際のところ、私はひどく投げやりで、何事もなりゆきまかせな自分を知っている。そうでなければ、相反する二人の自分は正面から対決することになってしまう。ただ、なりゆきまかせの皺寄《しわよ》せは誰《だれ》かが受けとめなければならない。
「あなたは、私がどう懇願したって、自分の生き方を通す人なのよ、何故《なぜ》なの」
私に親しい女がいるのを知って妻と言い争いになった時、彼女が責めた言葉は今でもはっきり耳に残っている。その時、私に罪の意識はなく、大学を出てすぐ結核にかかり療養していた頃、病院で出会って結婚した妻の烈《はげ》しい怒りの発作に呆然《ぼうぜん》としていた。
彼女は、私とは全く違った環境に育って、病院の組合の婦人部に属していた。学生運動に失敗し、深い自己|嫌悪《けんお》に陥って寝ている私の胸中にはおかまいなく、ある晩、枕元《まくらもと》に政府の医療政策を批判するビラを配りに来た。
「僕に見せたって無駄だよ」と私は言い、自分は仲間からも官憲のスパイかもしれないと疑われている分裂主義者なんだと話した。
私が所属していた学生運動の組織が分裂し破れたのは、外国の共産党が日本の党を修正主義と批判し、それを巡って大衆運動の組織そのものも罅割《ひびわ》れたからであった。その際に、私は最も悪辣《あくらつ》な分裂主義者と罵倒《ばとう》され、それまでの仲間との連絡さえ一切断たれてしまった。全く関与しない上層部の権力闘争の際に私の生い立ちが小道具として利用されたのは、世間から見て悪役と思われていた父の存在が有効に作用したからである。あの政商の西垣浩造の息子が良心的活動家であるはずがないという宣伝は説得力を持っていた。それに目をつけた反対派が政治の駆け引きに長じていたのであり、目をつけられた私の考え方や抗議などは、大きな政治路線の争いの前には無視しても差支えない要素なのであった。スパイときめつけて戦線から追放しても「あいつは生活に困らないのだから」と考えて、糾弾に賛成した仲間もいたはずであった。
そんなことは、会社の仕事の中では始終起っているのだが、はじめて大人の論理にぶつかった私は傷ついて、自分さえも信じられない気持に落ち込んでいたのだ。
そういった経験を聞いて彼女は、
「そんなこと、あなたの本質に関係ないじゃない」
と言った。
「大事なのはあなた自身の気持でしょう?」
「面白《おもしろ》いことを言うね」
「だってそれはそうよ」
と彼女は何事も真直《まつす》ぐに自分とのかかわり合いの問題として受けとめる、正直者の口調になって、
「貧乏していると、もっと口惜《くや》しいこともあるのよ、随分あるのよ」
と、歯切れよく主張した。
数日して勤務外の時間に病室を訪れた彼女は、はじめて若い女らしい恥らいを見せて、
「こんなもの書いてるわ」
と、破ったノートを乱暴に突き出した。俳句が数句、活字のように几帳面《きちようめん》な字で清書してあった。前に来た時私の枕元に詩の本が数冊あったのを目にとめていたからであったろう。宣伝のビラと俳句との取り合せを意外に思いながら読むと、
百日紅《さるすべり》の花憤ろし貧ゆえに
生きるとは酷薄なるか落葉踏む
というような作品が目に入った。その後も、彼女の作品には憤りを動機に書かれたものが多かった。
退院してからしばらく付合い、やがてここで彼女を裏切るようなことをすれば、自分は駄目になると考え、母の反対を押し切って一緒になった。
しかし、病院の制服を脱いで家庭に入ってしまうと、彼女は好き嫌《きら》いの烈しい、かなり自分中心の女であった。その彼女から見れば、私の周辺の人間は、いずれも何処か胡散臭《うさんくさ》い人物のように思われるらしかった。私は私で、家に帰るとすぐ書斎に入って詩や散文を書くようになり、妻ともあまり話をしない毎日が過ぎていった。
私は妻と言い争いながら、醒《さ》めた気持に落込んでいく自分を扱いかねた。かつて周囲の反対を押し切って一緒になった結果が、このように無惨《むざん》な姿を顕《あら》わしてきているのに我ながらうんざりしていた。議論している間にも、|〆切《しめきり》が迫っている原稿を書く時間が、どんどん少くなっていくのが気になった。議論自体にも倦《あ》きてきていたのだった。
「あなたはもう私を愛していないのよ」ときめつけられると、自分の不誠実な態度からみれば、そうかもしれないと、心弱く肯定してしまう。
やがて妻は、なりゆきまかせの私との格闘に疲れて去っていった。
それ以後、自分を受けとめてくれる女がいないのは不安だから、内心かなり焦《あせ》って都合のいい相手を探し続けている。
久美子は手紙で、「一切の過去と別れる」と言っていたが、私の経験を振り返ってみても過去はそんなに簡単に追跡を諦《あきら》めてはくれないと思われた。
「いつ帰って来ても、すぐ住めるように家を作っておくからって言ってちょうだい」
東京を発《た》つ時、私は母からそんな伝言を託されていた。彼女は母親としての体験から、子供と別れた久美子の胸中を推測しているようであった。
事実、私と母は彼女のために離れのような別棟《べつむね》を建てることに決めていた。私の旅行|鞄《かばん》のなかには、久美子に見せるための新しい住いの見取図が入っていた。ゆっくり話し合って、久美子が帰る気を起すきっかけを掴《つか》むのが、パリに寄った目的の一つであった。
彼女は、
「全くそのつもりもないし、第一、帰ってももう皆とうまくやって行けないと思うのよ」
と鰾膠《にべ》もなかった。「うまくやっていけない」相手のなかには、かつての夫であった林田悟郎に代表される父の周辺にいた男達があった。そればかりでなく、長くパリにいるあいだに、彼女が嫌う対象はさらに拡《ひろ》がってしまっていた。丸和百貨店の幹部達も、彼女の軽蔑の対象であった。
在任中、久美子はパリ駐在部長として、毎日のようにテレックスや手紙で東京の本社と連絡を取っていた。
「打てば響くように返事が来ることはまずないのよ。気候の挨拶《あいさつ》からはじまって御世辞《おせじ》が続いて、それから自分の立場に関する弁解になって、結局何を言おうとしているのか分らない。『よろしくお願いします』って言われたって、どうお願いされたのか曖昧模糊《あいまいもこ》としていて、男のくせにもっとはっきり自分の意見を言ったら、って思うのよ。日本人て、自分の立場や面子《メンツ》が第一で、イマジネーションも決断力も、まるで必要ないと思ってるんじゃないかしら」
久美子が住んでいるモンソール街の、スペイン風の家具をしつらえた部屋で私達は議論した。
「それは分るけど、そうばかりでもないと思うよ」
と、私の返事はあやふやになる。
「彼等《かれら》は仕事熱心だし、此処《ここ》の人みたいに懶《なま》け者《もの》じゃないよ」
「あーあ」久美子は焦立って、もうどうしようもない、というふうに上体を揺する。私は彼女の顎《あご》がいつの間にか二重にくびれているのに気付く。驚きや不満を表現する時の手や肩の動かしかたは映画に出てくる中年のマダムのようだが、演技しているようにも見える。あるいは、もうフランスふうが身についてしまったのかとも思われる。
「順造兄さんには、ソフィストケートってことが通じないのよねえ」
それから彼女は、欲ばりで嫉妬心《しつとしん》が強くて、頭は抜け目なく働かすが、決して身体《からだ》を動かそうとはしない、趣味のいいパリの男達や貴婦人の様子を描写する。彼等と対比して、あくせくと動きまわり、見栄坊《みえぼう》で金壺眼《かなつぼまなこ》の奥から相手を窺《うかが》ってばかりいて、自分からは何も新しく作り出せないモンゴール種族について述べる。その代表が私と一緒に働いているビジネスマンなのだ。その舌鋒《ぜつぽう》の鋭さに辟易《へきえき》しながら、文学好きだった彼女も、どこかで高村光太郎の詩根付《ねつけ》の国≠読んだのだろうと思う。そのなかで光太郎は、
――頬骨《ほおぼね》が出て 唇《くちびる》が厚くて 眼《め》が三角で 名人三五郎の彫った根付の様な顔をして 魂をぬかれた様にぽかんとして 自分を知らない こせこせした 命のやすい――
と日本人をこきおろしている。
すると、そのように故国を忌避していた光太郎は智恵子《ちえこ》に救われた、という物語が頭に浮んでくる。その代償として智恵子は狂ったのだと私は推測していて、年をとって暇ができたら、自分流の高村光太郎論を書いてみたいと考えていたのを想起する。私はかなり前から佐藤春夫と高村光太郎に関心を持ち、少しずつ資料などを集め、時おり二人についての短い文章を発表したりしていた。
「いかがですか、兄妹《きようだい》の久し振りの対談は」
久美子の夫ジスカールが、オープンサンドを盆に載せて御機嫌《ごきげん》伺い顔に部屋に入ってきた。年齢のわりに額が禿《は》げあがっていて福相の男である。
「あれで金銭には穢《きたな》いのよ。やっぱりフランス人でしょう」
ジスカールのいないところで彼女はそう語った。
「だから結婚した時から二人の財産ははっきり区分してあるの。別れる時ゴタゴタするの厭《いや》でしょう」
数年前、はじめてこの家を訪れた時、久美子に案内されて、部屋を見てまわった。その際、彼女は台所の食器|棚《だな》の前に立って、
「この扉《とびら》から右がジスカールので、左が私のものなのよ」
と説明した。
久美子を救済するために、智恵子が光太郎に対して果したような役割をジスカールが果してくれるとは思えない。彼はリヨンで生れた。その地方の法律家の息子で、新聞記者として東京に滞在したことがある。日本での生活には慣れているし、久美子がその気なら自分も喜んで東京に行くと言ったが、やはり本心はパリに居たいのであろう。私は彼女に帰国するようにと説得するのを諦めざるを得なかった。
そんなことを思い起すと、私はかなり以前から、やがて彼女の上に生起するであろう不幸を予感していたような気がした。久美子についてばかりでなく、自分達西垣の家の者が、次第に離散し、駄目《だめ》になってゆくのかもしれないという漠然《ばくぜん》とした不安のなかでの予感であった。ことに預っている甥《おい》の病気が思わしくないのを見ると、滅んでゆく種族という感じが強くなるのだ。
私の父西垣浩造が三国志の読み過ぎのような男∞徹底した権力主義者∞匕首《あいくち》の浩造≠ネどと、とかく芳《かんば》しくない呼称を世間から貰《もら》ったまま他界したのは、もう二十年以上も前のことである。彼はいささかも幻影を抱くことのない現実主義者であり、悪く言われたのは、それだけのことが、殊《こと》に創立期にあったのだろうと思っているが、林田悟郎はその父の三番番頭ぐらいの立場にいた男であった。働きながら大学を終えて、父が創始した丸和不動産に入社した林田は、忘年会の余興の際に、勢よく謡《うたい》を歌いはじめてたちまち詰り「御大《おんたい》の前では緊張してしまいまして」と汗をかいて引込んだ。その不器用で愚直そうな振舞いが父の目にとまって、やがて久美子と結婚するという、サラリーマン出世物語にあるような経歴の持ち主であった。
その頃《ころ》、久美子は両親の反対を押し切って駈《か》け落《お》ち同様に一緒になったダンス教習所の教師との結婚に失敗して家に戻《もど》っていた。傷もの≠フ噂《うわさ》が拡《ひろ》がる前に、早く真面目《まじめ》な男にと考え、また一方、信頼できる経理専門家を身内に欲しがっていた父にとって、林田悟郎は恰好《かつこう》の配偶者と映ったのだ。調べてみると実家も貧しく、謀反《むほん》を起す危険性も少そうなのが、また気に入った。父が身内の者に対して常に警戒を怠らなかったのは、「叛乱《はんらん》はたいていの場合身内から起る」という経験を、若い頃から重ねてきたからだろう。統制を保つためには、常に部下を威圧し、力を誇示すること、礼儀作法を徹底して守らせれば自《おの》ずと保たれると、幼かった私はよく父から聞かされた。そのように訓戒を垂れた私に対しても、この鉄則は適用されたのである。この点で林田悟郎は理想的な部下であった。
当然のことながら、久美子は気がすすまなかった。最初の結婚に失敗した直後であったし、早く世間体をくらます形に娘を閉じ籠《こ》めてしまおうとする父親の計算が見え透いていた。
「はじめての人と、ずっと一緒に暮せるのが一番幸せなのよ」
と、かつて味方になってくれていた母親が、林田との縁談にどっちつかずの態度を取っているのも淋《さび》しかった。一緒になってみると、ダンス教習所を足場にした女誑《おんなたら》しに過ぎなかった男の、気障《きざ》で粗暴な振舞いが鼻についてきて、何故こんな男に夢中になったのかと、久美子の胸中にはふがいない自分への復讐心《ふくしゆうしん》に似た感情が蠢《うごめ》いていたようだ。我と我が身を、思いきり傷《いた》めつけてみたいと希《ねが》う心と同時に、またとない出世の機会と眼《め》を輝かせている林田悟郎を翻弄《ほんろう》してやりたい誘惑を彼女は感じたのだろう。久美子にとって、それはそう困難なことには思えなかったはずだ。
父の方は、とにかく結婚させてしまえば、愛情は後から生れてくると確信していたようだ。それに、一度男を知った女は、男なしではいられないと言うことも。父親が若くて死んだ後、母親が幼い浩造を祖父の手許《てもと》に残して、たちまち再婚してしまった体験などから、父は女に対して冷たい見方を頑《かたく》なに守っていた。
親のすすめに従って一緒になれば、独立して暮してもいいと言われたので久美子は心を決めた。林田との結婚は、出直して本当の自立を手に入れるための妥協なのだと自分を宥《なだ》めた。
結婚して二年目に八重が生れた時、浩造は相好《そうごう》を崩して喜び、「久美子、よくやった、この次は男を生め」と命令した。その頃父は、私が自分の思うような後継者になりそうにないと知りはじめていたのだ。
それから四年|経《た》って充郎《じゆうろう》が生れた時、久美子はもう忍耐に限界が来ているのを感じたと言う。
長女の八重が生れてみると、想像もしなかった感情が起って、一度は夫を愛そうとした。子供に責任を負っていると考え、半ば永久に自分を耐え忍ぶ生活に閉じ籠められそうにさえ思った。
彼女は子育てに情熱を注いだ。育児書を幾冊も読破した。異常な潔癖症に陥り、襁褓《むつき》を日に三度洗い、そのたびにアイロンをかけて伸ばし、朝と晩の二回、部屋の隅々《すみずみ》にまで掃除器をかけて埃《ほこり》を取った。暑い時にも寒い日にも、一日中立ち働いて休まなかった。
しかし、夫への愛情はすぐ冷えた。林田のための世話はいっさいしなくなった。決めた日課に従って部屋のなかを行ったり来たりしながら、林田が出張の用意などをしているのを眺《なが》めると、久美子の胸中には、さすがに夫を憐《あわ》れむ気持が動いたが、それは憎しみと紙一重であった。背中を丸めて、鞄にYシャツや着替えを詰めている背後から、
「そんなにいじましい恰好は止《よ》したらどうお」
と一声浴びせたいのを、辛うじて我慢する晩もあった。
そんな夜にかぎって、林田は烈《はげ》しく久美子に挑《いど》んだ。まるで負い目を埋めようとしている卑《いや》しさだと醒《さ》めていって、彼女は天井の内張りの縁が少しめくれて来ているのを眺めながら、父親を取巻く幾人もの女の身の上をあれこれと考えた、と言う。その中には母も含まれていた。
母の実家は第一次大戦後の世界的な不況のなかで没落した銀行家であった。貴族的な環境に育った母は、倒産後の整理を手伝った野性的な父に魅《ひ》かれた。自分|達《たち》の家族にはない粗暴さを男らしさと錯覚した。管財人の助手として働きながら、野心に燃えていた三十代の父は、最初から母の美貌《びぼう》に魅かれた。持前の強引な説得力で口説いた。蝶《ちよう》ネクタイを締め、寸法の合わないYシャツの下から臍《へそ》を覗《のぞ》かせている父の様子を見て、母は誰《だれ》も父の身辺の世話をする人がいないのだと思った。それまでに、西垣浩造が幼い頃生みの母に捨てられて祖父の手で育てられたこと、丸和不動産という社名は、祖父|西垣和左衛門《にしがきわざえもん》の一字を取って名づけたのだ、というような話を聞かされていた。
春も終りに近いある日、母はかねて西垣浩造と打合せていた手順に従って、丸和不動産の社員に導かれて郊外の小さな家に父親に無断で移り住んだ。出奔であった。
父が既に結婚していて、旧市内に一戸を構えているのを知らなかった。とは言え、家を出たのは自分の意志であったから、誰を非難することも出来ない。「騙《だま》された」というのも事実であり、愛し合って一緒になったというのもそのとおりである矛盾のなかで、母は新古今ばりの短歌を詠《よ》むことで自分を支える以外に生き続ける術《すべ》を知らなかった。
「幾度、死のうと思ったか分らないわ、あなた達さえ居なかったら、私の生活は変っていたのよ」
母は幼い私と久美子にむかってよくそう語った。母はすぐに私を身籠《みごも》った。
そのような経過で生れた子は「妾《めかけ》の子」と呼ばれ、自分は二号さんと後指《うしろゆび》を差されるのだとは、後になって世間が教えてくれた呼称であった。それでも父はフロックコートを着込み片手にシルクハットを持って、角隠しを被《かぶ》った母と結婚の記念写真を撮った。
せがまれてのことではなく、気位の高い家に生れ育った母の懊悩《おうのう》を見て父から言い出したことであった。自分を引き立ててくれている政界の指導者の世話で一緒になった本妻であるから、おいそれと別れる訳にはいかず、別れるつもりもなかったが、本当に結婚している相手はお前なのだという証《あか》しとして父が考え出した儀式である。それは詐術《さじゆつ》であって同時に詐術ではなかった。
ずっと以前に見せて貰ったことがあるが、白い貸衣裳《かしいしよう》の内掛けを着、重い頭に耐えて少し上眼遣《うわめづか》いになって立つ母は可憐《かれん》に撮れていた。その母を眺める父は、自分が手に入れた女の値打を確かめる家畜商のような目をしていたに違いない。生れながらにして、私は父と対立しなければならない立場にあったのだ。それ以後も父の暴君としての振舞いは変らず、そのたびに母の心はまたもや愛憎の間を揺れ動き、私と久美子は大人の男女の、赤裸々な葛藤《かつとう》のあいだで、幼い皮膚を擦《す》り剥《む》きながら成長した。
(私はあんなふうには生きたくない)
久美子は夫に身を委《まか》せながらそう考えたに違いない。
「久美子、こっちを向け」
林田が息をはずませて焦立《いらだ》たしげに言い、彼女はじろりと夫を見て、ゆっくり身体の向きを変えたのであったろう。
子供の頃、「久美子が男だったらなあ」と屡々歎《しばしばなげ》いた父親の言葉を彼女は覚えていた。東京全体の、一万人に近い小学生の模擬試験で二番の成績をとった時など、虫を追いかけたり、望遠鏡で星を覗いたりばかりしていて、成績はいつも終りの方に近い私と比較して「順造と入替ったらよかった」などと言われたことも、かえって自分の惨《みじ》めな姿を照し出す辛《つら》い思い出であったはずだ。
久美子が二人の子供を置いてふたたび家を出たのは、私が丸和不動産の関連会社である百貨店に勤めはじめた頃であった。
娘の出奔を知った父は、部屋の中央に仁王立《におうだ》ちになって、「うぬ、また男を作りよったな」
と叫んだ。
やがて、銀座のバーに勤めていると報《し》らされた時、私が初めて見る辛い表情になって、
「何と言うことだ、西垣家の娘ともあろう者が」
と絶句した。
「代々、西垣の家は女子《おなご》に恵まれんのだ。どうしてだかなあ」
と慨歎《がいたん》する父の胸中には、自分を置き去りにした母親への思いもあったに違いない。母は黙って父の傍《かたわら》に正座していたが、一言も口をきかず、顔色も変えなかった。
母方の遠縁にあたる美術|蒐集家《しゆうしゆうか》が、渡仏する際に久美子を同行してもいいと申し出てくれたのは、醜聞が拡《ひろ》まるのを恐れていた父にとっても有難《ありがた》い話であった。
自ら希望した日本脱出であったが、パリに着き、美術蒐集家がやがて帰国してしまうと、久美子の心には西垣家から追放されたような淋しさが滲《し》み透《とお》ってきた。それまで、彼女はパリの冬が陰鬱《いんうつ》なものだとは知らなかった。毎日、薄日も射《さ》さない曇り空が続いて、気紛《きまぐ》れに雪が落ちてくるが、降ったというほど積りはしない。朝食付きの下宿の窓から見えるのは、隣のアパートのたたずまいと、暖房の煙を短い煙突から吐き続けるスレート張りの屋根の波ばかりだ。鳩《はと》が多い。彼等は淋しい胸の裡《うち》に諦《あきら》めの水滴を落しているような声で鳴き交わして熄《や》まない。
東京にいてフランス語を勉強しながら空想していた生活のなかに入ってみると、久美子はまたしても現実に手厳しく締めつけられている自分を感じない訳にはいかなかった。苦労して手にした外国での生活は、誰もふり向いてくれない貧しい日々の繰り返しであった。かといって身内は遠くにあり、西垣家は彼女を拒絶している。
久美子はいつも結果を考えずに行動を起した。それは常識のある者からは無謀な、場合によっては無知がもたらす行為に見えた。新しい環境に入った自分の心の動きは、予想を裏切って彼女を苦しめた。父親譲りの負けん気が頭をもたげるのはそういう時だ。
はじめてのパリでのクリスマスに、久美子は青い石に刻んだ甲虫のブローチを母に贈った。スカラベと呼ばれるそのエジプトの民芸品は、幸福のシンボルであり、太陽神を意味していると手紙の説明に書いてあった。私は久美子が、
「お母さんとは違う生き方をします」
と宣言しているようなその文章を母と一緒に読んだ。
「あなたもお幸せに」とスカラベは言っているのであった。その奥から久美子の淋しさが透けて見えた。
私のそうした読み方は母に対して苛酷《かこく》であったかもしれない。学生生活を失敗のうちに過したと考えていた当時の私から見れば、母もまた同じように人生に蹉跌《さてつ》したのであった。私はまだ父と母の、憎しみとうら腹になった男と女の関係の底深さを理解できなかったから、父の影響力の圏外に脱出することができた久美子を単純に羨《うらやま》しく思う気持が強かった。その気分に染って母を見る眼は、同時に自分の不甲斐《ふがい》なさを突放す視線でもあったと思う。
その頃の私は漸《ようや》く病床を離れたというものの、まだ無理はできなかった。早くも才能を世間に認められだした同級生も幾人かいるうえに、妹にまで先を越された思いの私からすれば、妻に逃げられた林田悟郎は話しかけやすい男であった。彼は惨めで、ただ気の毒という他《ほか》はなかったが、彼の少し猫背《ねこぜ》の歩き方や、微笑を浮べながら上眼遣いに話相手を見る癖などが境遇にぴったりした印象を与えるのであった。
丸和不動産を創立した西垣浩造の出戻り娘を貰《もら》った勇気ある彼の選択は、当然、昔の仲間に腹の底での軽蔑《けいべつ》と表面上の賞讃《しようさん》と、わざとらしい友情をもたらした。しゃにむに出世の道を選んだ時から、仲間とのあいだには見えない壁ができたのだ。彼等《かれら》の反応は林田が予想したよりは遥《はる》かに強かった。
その彼が置いてきぼりを喰《く》い、久美子はパリに行ってしまったとなると、同情の言葉も憚《はばか》られるほど林田悟郎の立場は哀れであった。それでも彼が耐えられたのは、アルバイトを続けながら黙々と勉学に精を出し、特待生の資格を得て、両親をも養いながら大学を終えた、幼時からの苦難の体験があったからである。
不利な時はじたばたしないこと、勿論《もちろん》できるだけの努力はするが、基本の姿勢としては機が熟し風むきが変って周囲の条件が有利になるのを待つことだ。
林田はそう自らに言いきかせて、丸和不動産の財務担当常務としての職務を、以前と変らない態度で続けていた。長女の八重と充郎が手もとに残されたのには困惑したが、考えてみるとこの二人が地位を保証してくれているのであった。西垣浩造は肉親の情に厚く、ことに孫には驚くほどの愛情を見せて憚らなかったから、子供と共に残された哀《かな》しき父≠フ役割を、過不足なく、というよりいくらか過剰に演じてみせるのは、この際もっとも重要な努力の一つと考えられたはずである。
林田悟郎は西垣浩造が家にいるのを確かめると、一歳の充郎を抱き、八重の手を曳《ひ》いて歩いて五分とはかからない西垣邸を訪れた。
彼等は歓待された。同情が舐《な》め合うように這《は》いまわり、林田に対する軽蔑と久美子への反感とがゆらゆらと立昇っては、何をおいても二人の幼児への憐憫《れんびん》に収斂《しゆうれん》した。部屋のなかはいっ時|賑《にぎ》やかになった。
子供達は、祖父の家に行けば我儘《わがまま》が許されるのを覚えて、林田に連れていってくれとせがむようになった。彼の思う壺《つぼ》であった。孫をそのように仕つけたのは、「二心を持っていない証拠だ、久美子は子供をわしに会わせたがらなかった」と林田は褒《ほ》められた。西垣家から古参の女中が子供の世話に派遣された。彼女の報告によって、林田悟郎に女がいたのではなく、出奔はまったく久美子の勝手からだったらしいと分ってくると、西垣浩造は彼をいつまでも一人にしておく訳にもいくまいと考えて母を呼んだ。夫の考えを聞いた母は、父がかつて自分が関係した女を林田と結婚させ、彼を一種の身内の男として引留めておこうと考えているのを察した。林田悟郎を呼んで、
「今度はしっかりなさいよ、人間どこかで自分の生き方を通さなきゃ駄目《だめ》よ。八重も充郎もいることだし、変な女を押しつけられたら、あなた終りになるのよ」
と忠告した。長年続いた葛藤の末に、父と母の間には不文律ができていた。家の中のことは母が取り仕切るが、父の旅行には決して同行しないとか、会社の仕事には関心を持たない、といったルールである。二人はどんなに争っていても、結婚式などには長年連れ添ったおしどり夫婦のような様子で出席したりしていた。林田は涙を見せて親切を感謝し、
「僕《ぼく》はいま心に思うような女はひとりもいませんので」と拳《こぶし》を固めて目頭を拭《ぬぐ》った。
私がはじめて林田を伴ってビヤホールに行ったのは、ちょうど母の忠告があった直後であった。私は詳しい事情は知らず、パリに手紙を書くのに子供達の様子を聞いておこうと考えたのだ。
「いろいろ大変でしょう、久美子も我儘だったし」
と、私は大人びた口をきいた。心の何処《どこ》かで林田を見くびっていたのである。
「いや、私のいたらなさから、岳父《おやじ》さんはじめ皆さんに心配をかける結果になってしまって、でも、本当に辛い結婚生活でした」
腹の探りあいではじまった会合であったが、突然林田の姿勢が崩れ、早くも涙ぐんだのに私は驚いた。
「いや、お互に善意でも、どうにもならないことだってありますよ」
そう軽薄に慰める私に、林田はズボンのポケットから皺《しわ》くちゃになったハンケチを苦労して引張り出して目に当てながら忙《せわ》しく頷《うなず》いた。
飲み進むにつれて林田の口はほどけていった。
「それにしても岳父さんはお盛んですなあ」
林田は西垣浩造のお伴で地方に土地を見に出かけるたびに、宿へ違う女が呼ばれたことなどを告げた。
「私がうっかり襖《ふすま》をあけると、岳父さんがこんな恰好をして……」と情事の現場に踏み込んでしまった話をし、父の姿勢を真似《まね》てみせて、
「いや、あれはまずかった」
と、鶏が喧嘩《けんか》をしたような、けたたましい笑い声を立てた。
林田の話は私にずっと昔の悍《おぞ》ましい光景を思い出させた。なぜ私だけがその場に居合せたのか分らない。女を安心させる小道具に父が幼児の私を使ったのかもしれない。
しかし本当に見たのだろうか。耳に残っているのは大きな物音と押し殺したような悲鳴だ。それからは後になって小説などで読んだ強姦《ごうかん》の場面の描写が想像力を刺戟《しげき》して架空の体験を作ったような気もする。父が女と争っていた。急に手を振りあげた。女は倒れ、唇《くちびる》が切れて血が糸を引いて畳に垂れた。妙にゆっくり相手を組み敷いていく父。やがて今度は小さな悲鳴。場面が紙芝居のように変り重なって、その時私がどうしていたのかは忘れられている。ただ、古い大きな家の埃《ほこり》っぽい空き部屋だった。買収したばかりのもとの貴族の家でのことかもしれない。あるいは、買収に印を押させるための暴力であったのか。とすれば相手の女は誰か。これは父を忌避するようになった一番最初の記憶だ。
林田は「あれはまずかった」と笑い声を立てて目の前で飲んでいるが、私は自分の体験を酒席の話題にすることができない。彼のように、甲斐性《かいしよう》のある男なら、誰でもしてみたい経験という具合には受けとめられない。私は不器用で些細《ささい》な事にこだわる性格から、五十を過ぎても完全には脱《ぬ》けきれていない。
久美子との結婚で昔の同僚から孤立してしまった林田は、彼等との|より《ヽヽ》を戻《もど》すのにどんな会話が有効か真剣に探し求めたのであった。その努力のなかで、西垣浩造の私生活の機微に触れた材料が、否応《いやおう》なしに彼等を惹《ひ》きつけるのを発見していたのである。垣間見《かいまみ》た女|達《たち》との交渉の場面、押入れから取り出した貰い物の饅頭《まんじゆう》が、からからに乾いてそのうえ黴《かび》が生えていたという、異常に吝嗇《りんしよく》な一面、昔の感覚のままに世間知らずで、「市電は何銭だ」と聞かれて、意味がよく分らなかったと言うような、やや誇張された話を林田から聞いて笑い転げているうちに、昔の同僚は林田が自分と同じ立場の男であり、それでいて西垣浩造に最も近い人間であることを認めてしまうのだ。
彼の話に調子を合せて頷き、時には軽い笑い声を立てながら、私はそのような話題を選ぶ林田の計算を感じた。見返すと彼の眼は狡猾《こうかつ》な鼠《ねずみ》のようにしばたたかれ、哄笑《こうしよう》の陰から私の様子を窺《うかが》っていた。眼が合った。お互が何を考えているのかが通じ合った。すると私の腹の底から、もう一つ別の笑いがこみあげてきた。(この憐《あわ》れな敗残兵|奴《め》)という声にならない言葉が勝手に浮んできて、ピンポン球のように跳ね、私の顔の上に落ちてきた。私は学生時代の生き方に敗れ、しかも病みあがり者として林田のような男達が屯《たむろ》する界隈《かいわい》に入っていたのだ。私は入院していた時|識《し》り合った俳句を作る女と結婚しなければならないと思った。
ビヤホールは勤め帰りの会社員で満員だった。話し声が弾《はじ》け、熱気を帯びて周囲に反響しあっていた。沸き返る騒音を縫って、白いエプロンを掛けた女が給仕をしていた。私達の笑い声は、たちまちホールを埋めている喧騒《けんそう》に吸い込まれていった。
二
雨の日に私の部屋は雲の中になって何も見えなくなる。大きなガラスに付着する水滴の数と、やがて糸を引いて流れる速さで雨の強弱を推測できるだけだ。
ここに移った時、丸和百貨店の家具装飾部のデザイナーが、白と光る鼠色の人工皮で椅子《いす》を張り、ガラスで会議用のテーブルを作ったから、霧が立罩《たちこ》めている日は、戸外の乳白色と室内が呼応して、私は地上から隔離された空間に閉じ込められているようになる。内と外との境界が透明なガラスなので、打ち破るべき壁が存在しない幽閉だ。気分の休まるような設計というデザイナーの意図からすれば、効果は逆だったのかもしれない。だが反対に、マホガニーのテーブルにゴブラン織りの布を被《かぶ》せた重厚な椅子などが配置されていたら、もっと不安定な気分に陥っただろう。超高層建物を包んで降る雨は、重い雲がそのまま落ちてきたように空間を水滴で埋めて視界を覆《おお》ってしまう。こんな日に部屋を訪れた客は「なんだか漂っているような感じだな」などと批評した。
私はこの日、夕方から広告製作者のグループとの会合を予定していたが、雨で高速道路が渋滞しているという秘書の連絡で地下鉄を使うことにした。帰宅する人々とは逆の方向なので、この時間、中心部にむかう電車は空《す》いているのだ。
自動販売機で霞ケ関までの切符を買った時、今から目的地を何処に変更しても本当はいいのだと思った。改札口で駅員は鋏《はさみ》を鳴らしながら手持|無沙汰《ぶさた》の様子だった。会合の場所は日比谷《ひびや》の近くの或《あ》る新聞社の地下の会員制のクラブである。しかし、私はそこへ行くのを拒否することもできるはずだ。
改札係りは行先には無関心に鋏を入れた。それは当り前のことだ。彼にとっては、私が手にしているのが大手町行きだろうと北千住《きたせんじゆ》行きだろうと一枚の切符であることに変りはない。私はそんなことを考えながらホームに向う階段を降りていった。壁に熱海《あたみ》の観光協会のポスターが張ってあった。私はその地名について幾つかの思い出を持っていた。数年前、はじめて律子と出かけたのも其処《そこ》だったし、父が死ぬ直前、西垣家の将来についての不安を語ったのも熱海の別荘であった。父は、どんなことがあっても久美子を西垣の家に入れるな、と言い「ただし食うに困った時だけは助けてやれ、事業の応援はするな、共倒れになるぞ」と指示した。それに続いて「お前も早く身を固めろ、家柄《いえがら》は問わんが前のみたいな生意気なのはいかん、但《ただ》し生娘《きむすめ》に限る。それはわしの経験から言うことだ」と断定した。その時、父はおそらく母を念頭に置いていたのであったろう。どんなに怒ったり歎《なげ》いたりしてもいいが、他の男と比較することだけは我慢できないというのが嫉妬深《しつとぶか》い父の本心であったに違いない。
それに付け加えて「順造、家は複雑にするな、一生苦労だからな」と珍らしく述懐する口調になった。
それを聞いて私は(自分で複雑にしておいてよく言うよ)と思った。その時の父の言葉には、おそらくいろいろの想《おも》いが絡《から》まっていたのであったろう。もう少し優しい態度を取ってもよかったと思うがもう追い付かない。
それ以後、父の指示に反して私は結婚しなかった。出来なかったと言ったほうが実情に合っているかもしれない。好きにはなるのだが、結婚を考える頃《ころ》にはお互に疲れてしまうのであったから。今も続いている八木律子との場合は例外と言えるのだ。最初はこんなに長く続くと思っていなかった。遊び心であったと指摘されれば、それを否定できず、事実彼女はよくそのことで私を責めた。
「言っておきますけど、あなたはその頃ほかに女がいたし、ちょっと試してみようってぐらいのとこだったのよ」
などと断定する。抗弁を許さない口調である。そんな時、律子はとても編集長という職業の女には見えない。佐藤春夫であったか、男と女はいくつになっても痴《し》れ者《もの》になれると書いていたのを読んだ覚えがあるが、それはまず律子が自然児のように振舞うからだ。私の場合は、いつも相手が先に雰囲気《ふんいき》を作り、私は後ろから肩をすぼめてそこへ入って行く。別れた妻と暮していた頃は、一緒に句会などにも出たのであったが、律子といるといつか同じような小動物めいた存在になっている。この小動物≠ニいう言葉は、はじめて彼女の家を訪ねた晩に思いついた。軋《きし》む階段を上ると小さな台所のついた部屋のなかは、本箱や洋服|箪笥《だんす》に区切られた奥に寝台が置いてあった。窓に向いている机の上には原稿が山積みになっていて、その横には雑誌に使う絵のカラースライドが散らばっていた。部屋のそこここにハンガーに掛けたブラウスやスカートが吊《つ》り下げられていて、朝起きた時の気分で、そのなかから着る物を決めるのだと言う。
夫と別れて住むようになってから三、四年になるのだが、八木律子はずっとこの部屋を使っていたらしく、他人に見られるつもりの全くない自分だけの穴倉が、その間に少しずつ整えられて、今では彼女の体臭を放っているのであった。すでに半年近く前からの関係なのに、砦《とりで》に招じ入れられて私は彼女がはじめて心を許したという印象を受けた。その気持を読みとったのか「ここに入ったのは、あなたがはじめてよ」と、彼女は長い間その部屋を占有していたものの落着きを見せて言った。その時、私にはまず穴居している小動物という考えが浮び、やがてそれが哺乳類《ほにゆうるい》に変ったのだ。
その彼女とはじめて泊ったのが、熱海の海を見下ろす小さな旅館であった。この地名にはそうした具体的な記憶があるのだけれども、もし全く自由な時間を与えられ、肩書きからも解放されたとしたら、自分が何処へ行くか見当もつかない。熱海のポスターを見たからといって、そこへ行くとは限らないだろう。戸惑って立往生してしまうかもしれないし、あるいは鹿児島や高松を選ぶかもしれない。北海道の場合だってあり得る。おそらくどの場合もはっきりした理由はないのだ。ただ地名の響きが気に入ったり、昔何かで読んだ原生林の風景を思い出したりしたから、そこに行きたくなっただけのことであろう。気を緩めれば簡単にそういうことが起りそうであった。
自分には頼りないところがあって、何かにふと取り憑《つ》かれると引き込まれていって、通常の判断とは異なる行動に出てしまう性格が蔵《しま》われているのを私は心ひそかに自覚している。子供の頃も、海が見たくなって家を出た前科がある。学校が厭《いや》だった訳ではない。厳しい訓育者であった母に反抗したのでもない。大人には説明の出来ない憧《あこが》れに誘われたのだ。何処までも拡《ひろ》がる浜辺に打ち寄せては崩れる波を見ていたかっただけだ。捜索願いが出され鎌倉の駅で保護された時、引取りにきた母は泣いた。私も泣いたけれども、それは母が泣いたからであり、自分の行為が決して大人達には理解されないだろうという予感に打拉《うちひし》がれてのことであった。授業中でも一つの考えが浮ぶと、空想がそれからそれへと拡がっていって、ぼんやりしてしまうことがよくあった。原因は校庭の片隅《かたすみ》に、その年はじめてみた菫《すみれ》の花であったり、国語の教科書に出てきた北原白秋の童謡の作用であったりした。教師の声が飛んできて、私は現実に引戻される。うろたえて立たされる結果になる。それから雪の日。
霏々《ひひ》と降る雪は灰色の空と暗い土地とを一つの空間に包んで、私はいつか現実の意識を失い、遠くに燃えている燈火《ともしび》を見たように思うのだ。少しでも明るさに近づきたくなって心があてどもなくさ迷いはじめる。私が眺《なが》めている空間は、荒れた北海に漂う漁船から見た吹雪の夜であったり、北陸の重い雪の下で暖かな炬燵《こたつ》部屋から眺めた街のたたずまいであったりする。いずれも体験したことのない、想像上の風景であったが、なかでも赤く燃える火だけは実在以上の確かさで、薄明かりのなかから私を誘うのである。もしかすると大学生の頃、社会主義の運動に熱中したのも、理論を信じたというより、私なりの燈火を望見していたからなのかもしれない。その頃の憧れは、何処へ行ってしまったのだろうと時々思う。
精神を病んでいる充郎を見る時、私が想い起すのは、そうした自分の体験だ。彼は家出をしても涙を流す母親を持ったことがない。都会育ちだったせいもあって、自然のたたずまいも、かつて一度も充郎の心に草花の囁《ささや》きや小鳥の囀《さえず》りの愛らしさを教えなかったようだ。
こんな事を考えている私はつい先刻まで、効率の世界にいたのである。私は合理性の鋏を持って忙しく差し出される切符を切っていた。省エネルギーに関連して総務部所管の経費を削減する案件、新しく開発した食料品についての宣伝方法の検討、外債発行に際しての幹事証券の選定、景気の変動に伴う月次予算の修正等々。
異った会議室に入るたびに、私は精神を集中し、分析を加え、部下が果すべき役割についての分担を決定する。廊下を歩いている間だけが用意を整える時間だ。集っている社員の顔ぶれを想定し、彼等《かれら》が主張するであろう意見を予測し、それについて示すべき判断を推敲《すいこう》しながら部屋に入る。ざわめいていた会議室が静かになる具合で、それまで人々を支配していたであろう空気を嗅《か》ぎ取って腰を下ろす。
地下鉄は予想したように空いていた。座席に掛けると向い側にスポーツ新聞を読んでいる男がいた。
――のダイナマイト打線|炸裂《さくれつ》――≠ニいう大きな活字が、上半分が折れ曲っているので逆に読める。終盤に入った前の晩の野球の記事らしいと分る。その男から少し離れた座席に、数名の中年婦人がいて、吊皮《つりかわ》に掴《つか》まっている仲間と信仰の話をしていた。多分、どこかの教団の集会の帰りなのであろう。次の駅で黒い制服を着た高校生が十数名乗ってきた。みんな背が高いので前の座席が隠れてしまう。駅に着くたびに、いろいろな乗客が降りたり乗ってきたりした。
電車も改札係りと同じなのだ、と私は思った。人間を運ぶのが役割であって、運ばれている男や女が、どんな問題を抱えているか、何に興味を持っているかには関係がない。むかい合って顔を眺めていても声を掛けるのでもなく、特定の感情が動く訳でもない。動いたとしても好き勝手な好奇心ぐらいのもので相手が応《こた》えてくることもまずない。そう分っていながら私は乗客の一人一人が身につけている雰囲気から別々の生活を想像してみる。効率の世界から脱《ぬ》け出してきた気楽さからだ。
電車に揺られながら、私はふたたび父を回想していた。効率性という点で父は徹底していたと思ったのがきっかけだった。それでいて人情家としての印象を強く社員に与えていたのは、あながち計算ばかりとは思えない。そこへいくと、林田悟郎や後妻の君子の場合は、単純すぎると言ってもいい駆け引きが眼《め》につく。
「久美子は娘でありますが、不出来で林田君に迷惑をかけた。しかし、今日までよく八重と充郎を可愛《かわい》がって、事故もなく育ててくれました。心から礼を言いたい」
林田悟郎の再婚の宴席で、異例の挨拶《あいさつ》を述べた父を思い出す。声涙ともに下る≠ニいう言葉が浮んでくるほど、父の語調は烈《はげ》しく抑揚し、満座は静まり返っている。その部屋に集っているのは丸和不動産の幹部と、丸和百貨店の重役だけだ。親族の席にいるべき父は主賓のテーブルで話している。いつもは着流しなのに、さすがに今日は袴《はかま》をつけ、両手をその袴の帯に差し入れて身体《からだ》を揺する。林田悟郎は俯《うつむ》いて、早くも眼鏡を曇らせている。
「君子を貰ったらどうかと薦めたのはこのわしでありまして、それは」
と、父は新婦の方へ顎《あご》をしゃくって、
「この娘が実の母親も及ばないほど八重と充郎の面倒を見てくれ、愛情を持っていてくれたからであります」
すると、
「君子は駄目《だめ》よ、私には分るのよ、御大《おんたい》は女と見ると甘いからねえ、あの品の悪いこと」
と、あしざまに批評した母の声が蘇《よみがえ》ってくる。
君子は丸和不動産で電話の交換手をしていた女だ。なんとなく男を魅《ひ》きつけるところがあったが、特に声は金木犀《きんもくせい》の匂《にお》いのようだ≠ニ言われて、外部のお客に評判が良かったという。
その君子を父のところへ連れていったのは林田であった。噂《うわさ》によると、その時すでに林田と君子は深い関係にあったのである。西垣家に住み込んで、近くにいる八重と充郎の面倒を見ているうちに父の手が付いた。父にしてみれば、かつて関係した女はいずれもかなりの年になっていて、丸和不動産の系列の旅館や料亭《りようてい》の女将《おかみ》などに納まっていたから、君子を自分のものにしてから林田に妻合《めあ》わせるのが、一番自然な方法と考えられたのだろう。林田と君子は、はじめからそうなるのを予期して、むしろ君子の方から父を誘い込んだのだとは、これも母の臆測《おくそく》であった。
どこまでが事実で、何処《どこ》からが想像か分らないと思いながらも、従来の父のやり方に照してみれば、臆測は真実味を帯びて聞えてくる。それでいて父は、計算した上でのことかどうかは分らないが無邪気である。少くとも無邪気に見える。自分の愛情によって林田悟郎を完全に心服させられると信じている素振りだ。
「中国の名将言行録にもあるが、頼りにならない身内よりも、忠誠を誓った部下を大切にするのは、わしの気持です。林田、君子、八重と充郎を頼む。久美子に替って愛情を注いでやってくれ」
電車が停《とま》り、高校生が全員下車した。国鉄との乗り換え駅なのだ。急に空いた車内で、ふたたび前の座席に腰掛けている乗客の顔が見える。スポーツ新聞を読んでいた若い男が、いつの間にか中年の町工場の親父《おやじ》ふうの男に変っている。目が合うと、彼が会釈《えしやく》して立上った。
「先日は大変御世話になりまして」
と言う。席を立とうとすると、「まあ、まあ」と押しとどめて、
「社長も地下鉄なんかにお乗りになるんですか」
などと聞く。
「ええ、まあ、この方が早いですし、時間も正確ですから」
私は理由もなしに弁解の口調になって答えるが、彼が誰《だれ》だか分らない。止《や》むを得ず、
「それで、このあいだの件はどうなりましたか」と聞いてみる。
「お蔭様《かげさま》で、まあなんとか、時間はかかると思いますけれども」
それを聞いて、私は誰かに紹介された問屋の主人かと推測したが自信がない。降りる駅が近付いたので、彼に断わって立ち上る。改札口をとおり、地下道を歩きながら記憶を探ったが、相手が誰だったかやはり分らない。
会合の場所は、有名な建築家が建てた石造りの建物の地下にある。石窟《せつくつ》を想わせるクラブには既に七、八名のメンバーが集っていた。スライドの画面が変ったように、先刻までの追憶は消え、私はその集会の仲間の一人になっている。
少し遅れたのを詫《わ》び、
「今年のテーマは成功だったと思いますが、来年はどうするかに入る前に、一応、私の社が計画していることを説明いたします」
と口火を切る。
広告のテーマを検討する時はいつもそうなのだが、内心、背徳的な行為に耽《ふけ》っているという印象を拭《ぬぐ》いきれない。それだからといって、私はこの仕事を嫌《きら》ってはいない。感覚の切れ味を見せる舞台と考えて好んですらいる。
「明後年は創立三十周年にあたっていて、我社のイメージを、もっとも現代的で質的にも高い百貨店として定着させたい、来年はその準備の一年ととらえています」
話している私の眼に中世の幻想画家が描いた光景が浮んでくる。食卓の上に、大きな鮪《まぐろ》が一匹載っている。顔は猪《いのしし》のようで、よく見ると四本の足が出ていて上向きに寝かされている。ナイフとフォークを持った数名の男|達《たち》が、今まさにその魚を切り取って料理しようとしているのだ。
「不思議大好き≠ニ言うのはどうですか」
と、一人が話しかける。
「先方がOKしてくれるかどうかは、まだ交渉していないので何とも言えないんですが、キャラクターには男優のH・Mあたりを使って」
彼の隣に坐《すわ》っていたコピーライターが立上って数葉のH・Mの顔写真を並べる。続いてコピーをいろいろな書体で書いた厚紙が取り出される。耳で聞いた時と文字で見た時とでは感じが違うので、私達はここ数年、目と耳で確かめてテーマを決めることにしている。私は念のために、その言葉が意味するものについて二つ三つ質問を出してみる。数名が話し出し、会議は次第に活溌《かつぱつ》になる。男達がナイフとフォークを使って、卓上の鮪に似た生物の料理にかかったのだ。
不思議大好き≠ヘ悪くないと私は思う。考えようによれば随分皮肉な言葉ととれるところがいい。私自身、不思議が嫌いでもない。ふと明るい宴会の席を脱け出して曠野《こうや》を走ってゆく男の姿が見えてくる。それは私ではない。もう一人の西垣順造だ。しかし、私は逃げようと考えている訳ではない。それにもかかわらず、今のように広告の主題を検討している場合とか、幹部社員の人事考課をつけている時、あるいは面接試験の際に、会場から脱け出そうとしている自分の姿を遠望することがある。
私の胸中にその走る男≠フ姿が浮んできたのは、二年ほど前、丸和百貨店の売り場を歩いていて、ホームランナー≠ニいう健康器具の立看板を見た時のことだ。そこには等身大の、駆ける中年男の写真が映っていた。体重計のような盤の上で駆け足の動作を繰返すにつれて、針が一目盛ずつ進み、ほぼどれくらいの距離を走ったのに相当する運動をしたかが表示される。団地の部屋のなかなどで、運動不足を解消する器具である。
映っている恰幅《かつぷく》のいい男は、満面に笑みを湛《たた》え、「これで私の健康も、したがって家族の安心も保証されるのです」という満足を現わしていた。孤独を感じることもなく、永遠に看板のなかを走り続ける男の自足した表情が私を捉《とら》えた。彼の肉体は地上に、しかも狭い部屋のなかに拘束されているが、心は空を飛んでいる、と私は同情と皮肉の混った気分のなかで考えた。彼が飛ぶ空は偽《にせ》の空だ。錯覚から生れる満足ほど美しい幻想はないとも思った。何かしら、自分がその男に似ているような気がした。
それ以来、時々彼は私の視野に現われて疾走を続けるのである。走っている男と、腰を下ろして会議に参加している自分とが同一人物に見えてきて混乱したりする。別々の行動をする二人の人間が、方向を失って同居してしまうのだ。
ふりかえって見れば、確かに私は何かに背中を押されて走り出したようだ。
――われわれは茫漠《ぼうばく》たる中間に漂い、つねに不確定で浮動し、一方の端から他方の端へおしやられる。どこかの端に自分をむすびつけ固定させようと思えば、その端は動揺してわれわれを引き離す――
と、前の晩読んだ箇所でパスカルが言っていた。
――人間はかれ自身にとって自然のなかでもっとも不思議な代物《しろもの》である。なぜなら、かれらは身体がなんであるかを知らず、まして精神がなんであるかを知らない――
とも。
この男達も走り続けて休むことがないのか、と私は広告製作者の仲間を見渡した。業界では秀《すぐ》れた仕事をしていて、若者の憧《あこが》れを集めていると言ってもいい専門家達だ。
「不思議大好き≠ヘいいじゃないですか」と私は言った。
この会合が終れば、私はもう一つ、経済界の指導者が著名な政治家を囲む会に出席する予定であった。「そろそろお時間です、車は来ています」
と、秘書の書いたメモがまわって来た。
部屋の外に出ると、クラブの会員食堂には大勢の客が食卓を囲んでいた。通路の向い側のバーにも談笑は漣《さざなみ》のように拡《ひろ》がり、片隅《かたすみ》でピアノが想《おも》い出のサンフランシスコ≠弾いていた。病気で寝ていた頃《ころ》、私はせめて友人と戸外に出て食事が出来るようになりたいと考えたものだ。自分が健康な人達から仲間はずれになり、どんどん遅れてしまっていると思い、重苦しい気分になり、確かなものを掴《つか》みたいとの希《ねが》いから古典の読書へと向った。最初にパスカルを読んだのはそんな時期であった。漸《ようや》く動けるようになってから、父の薦めに従って丸和百貨店に通いはじめた。その頃の会社は、ターミナル駅に附属する少し大きな売店にすぎなかった。その店を人並みの百貨店にするだけでもよかったのだ、と思う。一つの店だけを守って変化の少い商売をしていることも出来たはずだ。しかし、私はそうしなかった。と言うより、そう出来なかった。私は事業欲に取り憑《つ》かれたように、次々に新しい町に支店を作った。不動産事業にしか関心がない父が、百貨店の拡張に反対することが多かったのが、かえって刺戟《しげき》になっていたのかもしれない。その間に私は結婚し、数冊の詩集を出し、やがて離婚した。私は暗い通路を通って階段を昇り、出口に向う広いロビーを横切りながら、丸和百貨店に通うようになって、もう二十五年が経《た》ったと思った。
父が他界して四年経って、林田と君子の間に男の子が生れた。彼女がはじめてアメリカへ遊びにいった一年後のことだ。新しく母親になった君子に、久美子の子供達の処分を五月蠅《うるさ》く迫られた林田は、八重と充郎、それにカウンセラーの醍醐源太郎《だいごげんたろう》を同道してフランスに出かけた。その少し前から、充郎の反抗に手を焼いた林田夫婦は、著名な教育評論家でもある彼にカウンセリングを依頼していたのである。彼は週二回、林田の家を訪れて、充郎と話をし、一緒に遊び、屈折した子供の気持を解きほぐす作業に従っていた。充郎は驚くほど彼になついた。林田夫婦が外で一緒に食事をしようと誘っても拒むのに、醍醐と二人だと行きたがった。君子が見送っていると、彼にまとわりつき、手を結《つな》いで嬉《うれ》しそうに歩いてゆく。その様子にほっとしながらも、充郎の態度の豹変《ひようへん》は、君子から見れば意趣返しをしているのかとさえ思われたに違いない。
林田はその醍醐を同道してパリの久美子に引き合せ、それまでの自分の苦労を彼女に知らせておこうと考えたのであった。話を聞いて母は、「それ御覧なさい、林田は君子にせがまれて子供を捨てたのよ」と断言した。母に言わせれば日程にパリを組入れたのは、子供を捨てる責任の一端を久美子に被《かぶ》せようとした林田夫婦の奸計《かんけい》なのであった。彼女の手にかかると、人間は高雅な人物と低俗な輩《やから》の二種類に分類された。母はその高雅な人間とだけ付合い、自分の生活を大切に守っていた。彼女にとって、父と久美子だけがうまく分類できない例外だったのである。
久美子が林田と別れてしばらくたった頃、私は彼女を勤め先の銀座の酒場に訪れたことがある。その晩、私は久美子にパリ行きの話を持っていったのだ。丸和百貨店の美術展の指導をしてくれていた遠縁の美術|蒐集家《しゆうしゆうか》が「久美子さんをフランスに連れていってもいいよ」と親切に申し出てくれたからであった。その話が終って、
「林田とはもう全然駄目なのか」
と聞くと、
「それは駄目」と彼女の返事は明快であった。「出張のたびごとに、どうやって旅費を浮かそうか、小銭を溜《た》めようかと考えているような男との生活は思い出すだけでもぞっとするわ」
「子供はどうするんだ」
と聞き返した私にむかって、
「パリに行って落着いたら呼び寄せます」
と、小さく焦立《いらだ》たしげに叫んだ。
久美子がその言明を実行していたら、事態はかなり変っていたかもしれないと思うが、林田はその時はまだ子供を手放そうとしなかった。林田が八重と充郎を外国に置くようになったのは、西垣浩造が他界し、創立者の孫を養育している意味がなくなったからであった。遺産の相続や丸和不動産のなかでの地位も思うようにならず、それに君子との間に君麿《きみまろ》が生れたので、彼は二人を手放す決心をしたのだ。一方久美子の方は自分一人が生きてゆくのに精一杯だったのである。
私が充郎の異常を知ったのは、渡米から大分経って、すでに彼がアメリカの高校生になっていた時のことであった。社用でニューヨークに出張した私は、彼を呼び出して一緒に食事をした。充郎はレストランのメニューを手にしても、決して何が欲しいと言わなかった。その態度には、希望を述べれば、「学生のくせに生意気だ」と叱責《しつせき》されると頭から思い込んで、身を守ろうとしている頑《かたく》なさが感じられた。怯《おび》えているようでもあり、反抗しているともとれた。それにひどく臭い。
「風呂《ふろ》に入っていないのか」
と聞くと、
「日本人みたいに好きじゃない」と、ぶっきらぼうに答えた。気怠《けだる》い鬱陶《うつとう》しい声だ。私は自分の前に、突然見知らぬ生物が現われたような印象を受けて内心あわてた。久し振りに会った充郎は、驚くほど背丈が伸びていたが、表情は厚い皮膜を被っているように動かない。剃刀《かみそり》を使うことを知らないらしく、まだそう濃くない鬚《ひげ》が、うっすらと無表情な顔を覆《おお》っている。ボーイが私達を見較《みくら》べて妙な顔をしたが、後で同性愛の連れ合いと見られていたらしいと思い当った。
充郎が自分を日本人ではないと思い込もうとするのは、アメリカ人の中に入り込みたいからよりも、林田の家から弾《はじ》き出された結果ではないかという気がした。継母の君子に、「充郎ちゃんの考え方は、アメリカででもなけりゃ通らないよ」と言われていたのが引き金になっているのではないか。
そうであれば、ここの生活からも締め出されたら、彼の行く所はなくなってしまう。充郎がニューヨークの子供達から仲間外れにされる可能性はかなり高いと、気持は暗くなった。同じ暗さのなかにパリの久美子も住んでいた。彼女もパリの住民に受け容《い》れられているとは思えないのであった。
そうなったら、口をひらけば「アメリカに行きたい」と言っていた充郎の思い詰めようでは、落胆もまた大きいであろう。その危険を、数年ぶりに会った甥《おい》にどのように前もって分らせておいたものかと私は戸惑った。案の定、食事の終りに、彼は今通っている学校は自分に合わないから、西海岸に移住したいと言った。それも、手を変え品を変えして、やっと安心させ、「何かしてもらいたいことはないか」と尋ねた挙句のことである。ここでの学校の成績もあまり芳《かんば》しいものではないらしい。
「どうして西海岸がいいと思ったんだ」と聞くと「僕《ぼく》にはピッタリしているから」と言い、「今までに、たとえばカリフォルニアか何処《どこ》かに行ったことがあるのか」という問いには、ただ一言「ない」との返事が返ってくる。会話はそこで跡切《とぎ》れ、私の好意は身を守ろうとして纏《まと》った姿勢に弾かれて、どうしても充郎のなかに入っていかない。林田の家にいた時も、このような調子であったとしたら、君子でなくても充郎を疎《うと》んじる気持が生れたであろう。
ふり返って見れば、私はそれまでなるべく林田の家の内情や充郎のことにふれないようにしてきたのであった。かかわり合いを持てば何処までも深く入ってゆかねばならず、それは林田への干渉になると思われた。丸和百貨店は、父の死後不動産会社から独立したとはいえ、伯父との交渉も生れかねない。彼は父の正妻の兄で私と血の繋《つなが》りはなく、生真面目《きまじめ》で小心な男であった。新しく丸和不動産の社長になった伯父と林田の家のことを相談するのは気が重かった。下手に意見を言えばかえって充郎を苦境に追いやることもあり得ると考えたのは、彼が受けていると噂《うわさ》されるむごい仕打ちを目のあたりに見た訳ではなく、何処か半信半疑であったからだ。君子が私に見せる女っぽい印象のせいもある。
流し目に相手を見る眼《め》くばりや、小柄《こがら》な身体で科《しな》を作る様子が男好きのする君子は、林田が若手の経営者の組織の世話役に精を出していた頃、その仲間から人気があった。外の男と付合う時、癇《かん》の強さは表に出さず、誘われれば何処へでもついて行きそうな風情《ふぜい》である。それが同性の反感を買う原因にもなっていたのであるが。
長いあいだ久美子の侮蔑《ぶべつ》に耐えてきた林田にとって、彼女の少し鼻にかかった声と蠱惑《こわく》的な仕種《しぐさ》は、自分を男として扱ってくれる優しさに思えたのであったろう。会社の同僚の眼を盗んで、秘《ひそ》かに逢瀬《おうせ》を楽しむようになったとしても自然の成りゆきであった。林田はこの小さな冒険に必死であったのかもしれない。知人に発見されて噂が立ち、私の父に通告されるのを恐れて、会社からずっと離れた私鉄沿線の小さなホテルなどで過す夜、林田は久美子との辛《つら》い家庭生活について語っているうちに涙を流したりしたはずだ。男泣きに泣いて見せることが君子の歓心を買うのを計算しながら。
君子は夫が常に舞台の上で照明を浴びる役割を果すよう望んでいた。夫とともに自分が人々の関心を引く存在になることも。林田悟郎の、よく苦境に耐え、相手の感情の動きを窺《うかが》う性質が、どうかするといじけた姿に固まるのを許せなかったに違いない。結婚してから、君子は林田がより逞《たくま》しく疾走するよう鞭《むち》を当てる女に変身した。
先妻の子を慈《いつく》しみ、微笑《ほほえ》ましい家庭を作っている女性的魅力に溢《あふ》れた婦人という印象を強めるために、同行を渋る二人をようやく説得して連れて歩いても、八重と充郎は主演者である彼女を助けない困った助演者なのであった。継母だから子供がおかしくなったと言われまいとする、世間体をおもんぱかっての努力には限界があった。林田が帰宅すると、二人の子供、とくに充郎が言うことをきかないで「私は口惜《くや》しい」と訴える夜が多くなった。
そんな具合だったから、林田の心には鬱屈したものが溜《たま》っていったのであろう。彼は銀座の酒場で知り合った若い女に心を動かされた。君子は気配を察して私立|探偵《たんてい》を頼み、やがて相手のマンションに乗り込んで話をつけた。夫がこっそり蓄えていた貯金から手切れ金を払わせたが、それ以後も疑惑をすっかり拭《ぬぐ》い去ることはできなかった。派手な諍《いさか》いが子供|達《たち》の見ている前で繰返された。
ある晩、私は真夜中の電話で起された。
「さあ、順造さんが出たから、さっきのことをはっきりおっしゃい。あなたの言ってるのが本当かどうか、順造さんに言えるもんなら言ってみなさい」
と、けたたましい甲高い声が睡気《ねむけ》のなかに刺さってきた。
「いやどうも、こんな時間にお騒がせして、なんでもありませんので、もう済んだことですから」
「何が済んだことなのよ」
先刻と同じ君子の声が、今度は受話器の奥から悲鳴のように響いて切れた。
林田が好きになった銀座の女が久美子に似ていたので、殊更《ことさら》君子は狂ったのであった。
そんな電話が間をおいて三、四回あったある日、私は林田の訪問を受け、「別れようと思う」と相談された。
「もう僕は我慢ができないんです。ずいぶん耐えてきたんですが」
「それは君の決めることだけど」
と、言葉を選びながら私は答えた。
「たとえ別れることになっても、多分僕は反対しませんよ」
しかし、彼等《かれら》は別れなかった。別れないでしばらく経ってからであったが子供を作った。久美子との場合と同じ経過であった。彼女が、「あなたがどうしても別れるって言うんなら、私死んでやる。死んで化けて出てやるから」と頑張《がんば》ったために、林田の意志が挫《くじ》けた、と不動産会社の幹部がずっと後になってまるでその場に居あわせたかのように私に話した。生れた子は君麿と名付けられた。
屡々《しばしば》波風が立つにもかかわらず林田悟郎の家庭はいつも結局もとの状態に戻《もど》って続いて行く。(それは彼等が聡明《そうめい》だからではない)と私はほとんど嫉妬《しつと》に近い感情に駆られて断定した。私が持ちあわせていない強さを彼等が持っていると思う劣等感は、林田夫婦のいじましさ、見え透いた打算の総《すべ》てを否定した後でも、私の倨傲《きよごう》を嘲笑《ちようしよう》するかのように胸中に残る実感であった。たしかに、林田夫婦の悩みはいつも具体的で、掴《つかま》えどころのない不安といった類《たぐい》のものではない。彼はホームランナーの看板に映っていた走る男のように、自分の目標に向って走り続けてやまないのだ。よく泣くのも、悩みの姿が見えていて、心底に迷いがないからであろう。
数年前、不動産業界が不況に見舞われて、経理担当の常務であった林田の経営責任が問われた直後、彼は社内での自分の将来に見切りをつけて退社し、やがて保守政党から選挙に出て当選した。残された丸和不動産の幹部は怒ったけれども、彼の行動はむしろ果断な転進として雑誌などで賞讃《しようさん》された。
車が走り出すと同時に、ワイパーが忙《せわ》しく動きはじめ、私はたちまち信号機とヘッドライトと赤い尾燈《びとう》の流れのなかに入っていった。石窟《せつくつ》を想《おも》わせる地下の部屋は遠のき、私は予定表を胸のポケットから取り出して、今晩の予定がこれから参加する有力政治家を囲む会合だけなのを確かめた。会場である赤坂の料亭《りようてい》に着くまでに少し眠ろうと考えた。この道路の混《こ》み具合では、二十分はかかるはずだ。
かなり前から私は車のなかで眠る習慣を身につけていた。家に帰って原稿を書いたりするので睡眠時間が削られているから、それほど技術を要することではない。それに、テレビのチャンネルを切り替えるのと同じで、神経を組み換えるのにも都合がよかった。眠らない時はカセットテープをかけるかFM放送の音楽番組を聞くことにしていた。それでも、次の会合でなかなかその場の空気に馴染《なじ》めなくて、何だか場違いの場所に来ているように感じてしまう場合も多かった。これは私の弱点だった。経営者の立場に立ちきっていない時、足を踏み滑らせる陥穽《かんせい》は素早く私を取囲むのだ。自分の本質は何か≠ネどと考え出したら、不安定で首尾一貫しない姿が見えてきて、逞しい相手に押しまくられる結果になってしまう。
幸いなことに、私のいい加減さが危険を避ける役割を果してくれる。席上で交わされている話題の一部分が私の関心を刺戟《しげき》する。すると、たちまち軽率な体質が動きはじめ、身のほどを忘れて何か言いたくなってくる。
宴席には十五、六人の経営者が集っていた。そのなかには、ある都市の市庁舎跡地の払い下げを受けようとして丸和百貨店と競争している会社の社長もいた。私は多分彼と顔を合せるだろうと予想して会合に出席したのだ。有力政治家はその地方の出身であった。
部屋に入った時、私はリングにあがった拳闘《けんとう》選手の心境になっていた。相手があったから違和感に拘泥《こうでい》しているゆとりがなかった。自動的に切り替ったのだ。心にジャブの構えをつくり、フットワークを試す感じで、すでに集っていた先輩達に軽く会釈《えしやく》して端の席に坐《すわ》った。
競争会社の社長が、決定権を持っている市長と市議会議長に、次々に使者を送っているのを私は知っていた。敗《ま》けてはいられなかった。試合はリズムなのだと思った。考え過ぎてはいけないのだ。「秀才は駄目《だめ》だ」と父はよく私に言ったものだ。「インテリの弱者をあてにするな」とも。
パンチは低い姿勢からウエイトを乗せて当る瞬間に力を集中するのだ。力み過ぎたら肩に力が入って威力がなくなる。柔道六段だった父は、当て身の秘訣《ひけつ》を教えてそう言った。拳闘も同じだ。私は身体《からだ》の筋肉を自由にし、端近《はしぢか》の席から会場を見廻《みまわ》した。
話題は、行政改革臨時特別調査会といった長い名前を持った組織の活動に集中していた。略して臨調と呼ばれるその政府の諮問《しもん》機関には、財界の首脳が大勢参加していた。この会合でも、役所の無駄は徹底してなくすべきだと、臨調を励ます意見が多かった。私は、官僚出身のその政治家が、内心では臨調の動きを快く思っていないのを知っていた。だから、
「無駄をなくすのは賛成ですが、営利を追求する民間ではやれない仕事を官がやらなければならないって言う場合も随分あると思いますが」
と主張した。
「そりゃそうだが、そんなことを言っていたら役人を甘やかすことになるよ」
事情を知らない財界の先輩が私を窘《たしな》めた。ボディに隙《すき》を見せるジャブを繰り出して、相手の不用意なブローを誘うこと。その時、敵の姿勢は爪先《つまさき》に重心がかかり、パンチに恰好《かつこう》な標的となるのだ。
「西垣君の言うように、若い人の意見を臨調はもっと取り入れた方がいいんじゃないですか」
競争会社の社長が私をけしかけるような発言をする。こちらの考えを見破っている様子だ。
「アハハハ」と私は笑った。クリンチで逃げ、フットワークを利《き》かせて、はやらずに次の機会を狙《ねら》うことだ。
「しかし、うまくいきますかなあ」
別の先輩が、床の間を背負って中央に坐っている政治家に聞いた。
「それなんだが、どうも評論家やマスコミの雑音が多すぎてね。かえって皆さんがやりにくいんじゃないですか」
「とにかく、財界の皆さんの御支援をいただかないと」
政治家もまた自分の本心を少しも見せずに体を躱《かわ》す。会場に、ややお追従《ついしよう》の響きを含んだ笑いが起った。
政治が絡《から》む案件の際、私にとって有利なのは、父が政界と関係が深く、たくさんの知人を持っていたことだ。良くも悪くも「あの西垣浩造の息子」ということで自己紹介の手間も省け、面会の際の手続きも簡単になる。その遺産を利用しながら、私は会社の勢力を拡張してきた。あまり上品なことを言える身分ではなく、現在の自分が父から続いている線の上に在ることを忘れてはいけない。丸和百貨店の仕事をするようになってから、一度は拒否していた父の世界に身を置いたのだから。
現在の自分に対する私の拘泥《こだわ》りは、経営の世界に入り切れない部分があるからだと長い間思ってきた。しかし、もともと私はどんな場所にも帰属しきれない不真面目さを背負っているようだ。おそらく、満ち足りた安心感からは遠い性格なのだろう。いくら約束を守り、世間から与えられた役割を忠実に果しても、先輩達から何処《どこ》か胡散臭《うさんくさ》い男という印象を持たれてしまうのは、誰《だれ》も私を最後まで行動を共にしてくれる完全な味方と考えないからに違いない。それはそれで正確な見方だと認めない訳にはいかない。私自身、ラウンドが変れば、どんな気持になるのか見当もつかない不確かさなのだから。
会場に集っている人は、いずれもそれぞれの業界で功績をあげ、権威を確立している経営者ばかりだった。そのなかには、私が好感を持っている深尾卓三もいた。彼はエレクトロニクス関係の企業の創立者で、名誉職や勲章に恬淡《てんたん》としている男だった。知恵遅れの子の救済事業にも熱心で、私はその事を思い出し、一度、充郎の件を相談に行こうと考えた。
私の視野のなかに、あまり明るいとは言えない細い道を、とぼとぼ歩いている男の姿が見えてきた。何故《なぜ》だか分らない。こういうことがよくあるのだ。会合に少し退屈したのかもしれない。話題はアメリカの対日経済制裁に移っていた。
「我々は一所懸命に働いて、品質管理も徹底してやって優秀な製品を作ったんですから、輸出が伸びるのは当然なんです。自由経済の原則に立てば、それに文句をつけるのはおかしいんだ」
「それはそうだけど、こう貿易が一方的な出超になると、安保でアメリカの世話になっているんだから」
と、もう一人が異議をさしはさむ。
すでに遠くに向って出発した人とは別に、手前にある広場で烈《はげ》しく争い、喚《わめ》き、客を呼び込む大声をあげている人達の有様が、視界に浮び上ってくる。
「確かに性能の面でも日本の車は世界一ですよ。ヨーロッパは勿論《もちろん》だけど、フォードやGMに較《くら》べても、ずっと上なんじゃないですか。ジョイントベンチャーを大いに促進する以外に、批判を防ぐ手はないと思いますよ」
そう主張しているのは自動車工業界の指導者だ。
「社会福祉の行き過ぎっていうのは問題じゃないかな、国民を働かなくさせてしまうね」
今まで沈黙を守っていた別の先輩がひとり言のように口を挟《はさ》む。
経営者の集りではよく聞かれるそんな会話を耳にしながら、私の目は喧騒《けんそう》の市《いち》を脱《ぬ》けて目的地に辿《たど》り着けるかどうかも分らない旅程に入った男の後を追っている。彼が目指している場所は遥《はる》かに遠い所だと分っているだけで、何処にあって、どんな風景の土地なのかは漠然《ばくぜん》としているのだ。
そんな不確かさでも、どうしようもない想いに駆られて歩きはじめる男がいるのだ。周辺は展《ひら》けていて見渡すことができるのに道は薄暗く細い。なだらかに降りてゆく先は緩やかな上り勾配《こうばい》らしい。ずっと先に山のようなものがあるようだ。姿ははっきりしていないが。どうかすると、雪を戴《いただ》いた山脈が見えたように思える時があるが、本当に見えたのか、想像が生み出した幻影なのかははっきりしない。
もしかするとその歩行者の姿は深尾卓三なのかもしれないと思う。彼の言動には、時おり何処かで何かを見てしまった男を想わせるものがある。同じ道の少し先を物故した父が歩いているようだ。死ぬまで働き続け、創設した丸和不動産を大きくするために、政商とか匕首《あいくち》の浩造という異名を与えられてもものともせず、事業以外のことを考えなかった父がそんな道を歩いているのは意外であった。もしかすると父も晩年には自分の努力の、限りある到達点を知っていたのかと思ってみる。いつだったか私は土地に絡む係争問題で、父があまりに強硬な主張を繰り出すので、たまには柔軟な姿勢を見せるのも、かえっていい結果を生むのではないかと献策したことがある。すると父は、
「お前の代になったらそうしてもいいが、今更わしがにこにこして見せても、皆、気味悪がるだけだろう」と答えた。そう言われればそうだと、その時素直に引き退《さが》ったのであったが、父の土地への異常な執着は、祖父の田畑を売って和歌山から上京したことへの贖罪《しよくざい》の感情に裏打ちされていたからではなかったかと私流に推測してみたりするのだ。
かつて、林田悟郎が情事の現場に踏み込んだ相手の女が、郷里の出身だったのも、父の当時の心情を探る手懸りになりそうである。父はおそらく還《かえ》りたかったのだ。喧騒の市で主役を演じながら、還るべき郷里が胸中で次第に美しく拡《ひろ》がっていったのだろう。それでいて彼は和歌山の人間を狭量で意地汚く、依頼心ばかり強いと忌避していた。
しかし、たとえ幻想であっても、還ろうとする土地を持っている方が幸せだろう。私は久美子が日本に帰ってくるのを希望していたが、それは現実的な心配からに過ぎなかった。彼女に、父が和歌山の村に対して抱いていたような感情があるとは思えない。私にしても故郷がないのは同じことだが。ただカジノの仕事は失敗するだろうとの予感があって、その現場から久美子を引離しておきたかった。
カジノを巡って私と衝突する前の久美子の手紙に、
――私に残されているのは、順造兄さんや御母様に対する肉親の感情だけです――
という表現が何回か使われていた。彼女は私にむかっては決して使わない表現を母への手紙には屡々用いる。|てにをは《ヽヽヽヽ》遣いまで異っているが、私も会う人によっていろいろな種類の日本語を使い分けているのだから同じことだ。死ぬまで和歌山弁を捨てなかった父を、恥しくも厭《いや》らしくも感じた子供の頃《ころ》のことを思い出す。
二人の子供を失い、駐在部長として毎日のように接触があった丸和百貨店の幹部達とも、感情の上で疎隔《そかく》が拡がっていた彼女にとって、手紙の言葉はおそらく本心であったろう。
父が死んでもう二十年に近くなるが、彼女が臨終に立会ったのは、たまたま百貨店の仕事で東京に来ていたという、全くの偶然からであった。
「順兄さんも、私の御大《おんたい》に対する恨みの感情は理解できないわよ」
と、社員が呼ぶように父を呼んで語ったのは、通夜《つや》の晩のことであった。
「私もずいぶんいろんな男を知っているけど、そのたびに御大の良さって言うのが出てくるのよ。皮肉なものよね。彼にあった原始的な力って言うか、粗暴なものって、もう今の男にはないんじゃないかしら」
父への愛憎が幾重にも捩《ね》じくれた結果、過度に素直に響いてくる彼女のそんな言葉は、この際ふさわしくないと感じながら、聞いているうちに、いや、かえってこれは父を送るのに一番ふさわしい会話なのかもしれないと考えなおした。
「パリの人達の生き方が見えてくるにつれて私が知ったのは」と久美子は長い沈黙のあとで、先刻とは違った落着いた声になって言った。
「母の迷妄《めいもう》だったわ。驚くほどの迷妄。そこいらのお内儀《かみ》さんのとは較《くら》べものにならない。情緒でたっぷり塗られた、どうしようもない鎧《よろい》を着て、母は自分を光り輝く気高さのなかに置いて眺《なが》めているんだわ。そうしなければ、妻妾《さいしよう》同居のような屋根の下で生き延びられなかったんでしょうけど」
その晩、久美子がそのように父に対する感情を描いてみせ、父と母との関係を分析したのは、やはり長いあいだ自分を押えつけ、パリ脱出の動機を作り、それ以後も意外に影響力が強くて、生きてゆく上で良くも悪くも標的になっていた父の死の昂奮《こうふん》からであったろう。「とうとうあいつも死んだか」というのが近親者も含めて多くの人の実感であったと思う。そうだとすれば、その男が人生の市の賑《にぎ》わいからぬけて、見果てぬ夢であった土地に向って歩きはじめてしまった後、彼女に残されたのは母と私への肉身の感情だけということになるのか。父のような男を巡っての久美子と母の感情の絡まりは、とても男の私が介在できないような錯綜《さくそう》したものがあるように思え、いつも深く立入るのを避けてしまう。近頃、結婚した八重の子供が小学校に通うようになって、時々私の家に遊びに来る。主人は医者で、現代風に鬚《ひげ》など生やしている好人物だ。彼等はロンドンの病院で知りあったのらしい。家中で釣《つり》に出かけて、大きい魚が釣れたと喜んでお裾《すそ》分けに来たり、七五三の宮詣《みやまい》りで子供のスナップを撮ってみんなで眺めたりして楽しげである。そんな有様を見ていると、人生って何だろうと書生じみた問いが胸中に戻《もど》ってくる。答えを出せないまま何時《いつ》の間にか忘れていたが、五十を過ぎた今思い返すと、意外に年よりじみた問いのようにも感じられる。
かつては私も妻との葛藤《かつとう》に主演者として登場していたのであったが。
父のようには振舞いたくない気持が強くて、久美子とは逆に私は温順な男の演技を最後までぎごちなく演じたのであった。それというのも、潔癖な妻の主張に、もっともなところがあると内心認めていたからである。学生時代の思想からすれば、私が参加した経営者の世界は矛盾だらけで、彼等《かれら》の生活も堕落しているとしか考えられない場合が多いのだった。私は仕事の関係の人間を家に呼ばなくなった。妻が彼等を受けつけず、それが態度に出るのに懲《こ》りたからである。それでも、やがて妻に俳句仲間の年下の愛人が現われなかったら、私|達《たち》の結婚は今でもぎくしゃくしながら続いていたかもしれないと思うと、私は厭な気分に陥るのだ。
好きな男がいるという事実を知っても妻を責めなかったのは、彼女の感情の動きに嘘《うそ》がなく、かつ私の心が冷えていたからであった。それでも、私達は最後まで何とか関係をもとに戻そうと効果のない努力を重ねた。私に女が出来、彼女の方も似た状態になってから、私達が閨房《けいぼう》で過す時間は長くなった。二人とも狡《ずる》くなかったと言った方がいいのかもしれない。が、週刊誌などが書く性的技巧の稚拙さが夫婦の仲を冷たくするというような記事を信じようとさえした経過もあった。妻を伴って大衆的な小料理屋に行ったのもその頃であった。店には狭い通路を挟んでカウンターのむかいに小さな座敷が三つ作られている。私達が婚約時代に何度か来たところだ。横坐りに向い合って坐った妻が数年間に驚くほど老《ふ》けたのを知って私は驚いた。かつて強い眼《め》の輝きに特徴のあった女を、このように疲れさせたのは自分だと、私は責められているような気分に陥った。二人でこの店に来た頃のことを思い出したのであろう、妻の笑い顔がべそをかいたようになった。彼女は出された菠薐草《ほうれんそう》の御浸しを何度もピチャピチャと汁《しる》に漬《つ》けてゆっくり喰《た》べた。
酒がまわってくると漸《ようや》く元気が出たのか妻は饒舌《じようぜつ》になった。いつの間にか彼女の酒量があがったのを私は今更のように眺めた。
「あなたのお父さんだから言うのではないけど、彼の場合は生き方がはっきりしているわ。昔の男の人はああいうタイプが多かったんでしょうねえ。嘘がないのは好感が持てるのよ」と彼女は言い、私は彼女が自分の父親について「嫌《きら》いなの。家が一番困っている時、変な女の人にはセーターなんか買ってあげながら、それを責めると、お母さんには贈り物をする気がしないって言ったのを今でも忘れないわ」と、持前の潔癖感で烈しく批難したのを覚えていた。その彼女が私の父に寛容な態度を見せたのは、私との確執の過程で妻は妻なりの苦しい反省の時を持ったからであったろう。
その頃、彼女は私の矛盾した内側に落込み、私自身もまたその狭間《はざま》で|※[#「足へん+宛」]《もが》いていたのだと思う。その後も自分の曖昧《あいまい》でいい加減な状態から脱出できたという自覚はない。ただ少し慣れて居直る狡さを身につけただけだ。
父が死んで少しした頃、私は母に「御大と暮したのは何年になりますか」と聞いたことがある。
「二十の時だったから三十三年かしらね」
と母が即座に答えたのは、やはり彼女も同じことを考えていたからであったろう。
「それなら、お母さんは少くともあと三十三年生きなければなりませんね。これからが、はじめて自分の時間なんだから」
「あら厭だ、そうなると私は九十になっちゃうわ」
と母は若やいで答えた。「いいボーイフレンドでも探したらどうなんです」と私は冗談を言った。
「もうたくさんよ、順造さんは親を揶揄《からか》うのね」
母はそう言って笑った。あれは、たしか昼に近い太陽が暖かく母の居間に射《さ》している、父の最初の命日が近い小春《こはる》日和《びより》の昼のことであった。その時私ははじめて、ひとりで細く暗い道を遠離《とおざか》ってゆく父の後姿を見たのだ。
その頃、林田悟郎は早朝のランニングを始めていた。私が遺産の相続を辞退し、伯父も丸和不動産の社長に就任できるのなら財産はいらないと同調して、林田の思うように事が運ばなかったから、彼はともかくも体力をつけて、将来に備える必要を痛感していたのであろう。
私はまだ朝靄《あさもや》の消えない大通りを、白い息を吐いて走っている彼に時おり出会ったものだ。朝食会がその頃流行していて、さしたる議題がなくても、ホテルの会議室などに早朝集ってみると、自分達が経済全体を動かしているのだという感じが生れてくるから、若い経営者も先輩達にならってよく集った。私も時おりそんな会に顔を出したが、私の家と彼の家を遠巻きにしたコースを走っている林田に会うのはそうした朝であった。彼は会釈《えしやく》し、早くも吹き出した汗を首に巻いた手拭《てぬぐ》いで拭《ふ》きながら駆け去ってゆく。
もともと彼は健康に人一倍気を遣う方で、出張の際は常に新薬を一袋持って家を出るのである。
「寒いですね」とか「偉いなあ、毎朝走っているの」とか「何とかの冷水って言うから、あんまり突張らない方がいいんじゃない」
などと、その時々のこちらの気分で私はいろいろな声をかけた。日によっては首の周辺の皮膚の表層が軽い炎症を起して線状に腫《は》れているのが見られたが、それはおそらく前の晩に君子と立廻《たちまわ》りを演じた名残《なご》りであったろう。彼の方も立ち止って、
「丸和不動産の例の件で、近くちょっと伺いたいんですが」などと言ったりした。それはたいてい不動産会社の実権を握った伯父についての悪口を私に吹き込むためであった。その頃、林田は私と伯父を対立させておこうと考えていた形跡がある。そうすることで彼の地位は安泰になり、事と場合によっては望外の機会に恵まれるかもしれないと期待をかけていたようだ。
或《あ》る朝、私は彼が犬を連れて走ってくるのに出会った。鎖に繋《つな》がれているのは、小さなスコッチテリヤである。
「一匹にしておいた方がいいと思いますよ、そうでないと犬屋のアルバイトと間違えられるから」
と、私は軽口をたたいた。それに答えて彼は、
「いやこの犬はね、××さんのところから貰《もら》ったんです。そら、あの経団連の副会長の」
と説明した。私の言葉には頓着《とんちやく》しない風情《ふぜい》である。
「××さんは犬好きでね、最近五匹も生れたんだそうです。一匹は最高検の検事の○○さんの所に行き、もう一匹は日本画の△△先生に貰われて、三匹目が僕《ぼく》のところに来たと言うわけでね」
そう言うあいだも、彼は首や頭から湯気を立てて駆け足の足踏みを止《や》めようとしない。
「君子がね、××さんの奥さんと仲良しでしてね、いつも家に招《よ》ばれたりしていて、いやあ、あいつも遠慮がないもんだから。でも、かえってああいう名家の人は遠慮しない人間に好意を持つんですよ」
そう語る言葉のなかに、烈しい足踏みに喘《あえ》いでハッハッと息を吐く音が混った。
宴席に連らなっている私の視野には幾人もの、思い思いの恰好《かつこう》で走っている人の姿が浮んでいた。著名な政治家を囲んで一部屋に集っている男達は、いずれも駆ける男であった。競争会社の社長のように、周囲の人間を政治力と闘志で威嚇《いかく》しながら駆けている者もいた。そこへいくと、林田は焦燥に尻《しり》を押されている部類に属するだろう。賑やかな市《いち》のなかを身体《からだ》を斜にして巧みに人混《ひとご》みを避けて蛇行《だこう》していく者もいる。すでに遠くの不確かな領域にむけて旅立った者は、駆けている男達に関係がない。そしてもう一人、市の気配には無関心に石蹴《いしけ》り遊びに興じている子供の姿が浮んできた。
丸和百貨店に通うようになって間もなく、私は充郎が林田の家の近くの路上で遊んでいるのを見たことがある。秋で、黄葉した銀杏《いちよう》が、長い影を曳《ひ》いて一人で遊ぶ充郎の周囲に散りかかっていた。久美子が八重と充郎を置いて家を出、パリに行って三、四年が経過した時期であった。林田が再婚する前のことである。もともと愛の薄い母親であり父親であったから、充郎はいつの間にか一人で遊ぶのに慣れてしまっていた。私は、人通りには全く関心を払わずに無心に遊ぶ充郎を見た時、立止ったまま声を掛けることができず、黙ってその様子を眺めていた。子供の充郎が漂わせている雰囲気《ふんいき》には、同情心から話しかけるのを躊躇《ちゆうちよ》させる狷介《けんかい》さがあった。
彼にとって、その時、石蹴り以外のことは眼中になかったのかもしれない。蹴ると石が転ってゆく驚き、思いどおりにはならないにしても、自分の働きかけによって石の運動が変化する愉快さが彼を捉《とら》えているようであった。銀座のクラブに行ってパリ行きの相談をした晩、久美子は二人の子供を「いずれ落着いたら引取ります」と焦立《いらだ》たしげに答えたけれども、それ以来、彼女は手紙でもこの約束に触れようとしなかった。今の私には前後の関係が曖昧になって、彼女の声が充郎の姿に重なって蘇《よみがえ》ってくる。当時、パリで一人で生きていくのに充分な給料は百貨店から支払われず、まだ円滑にはいかないフランス語を操りながら、彼女は悪戦苦闘を続けていたのであった。母親が頼るべき友人も見付けられないでいる時、残された充郎も一人であった。
おそらく充郎には、敵としての父親もいなかったのだ。林田は充郎に対して常に自信のない弱々しい態度しかとれなかった。ことに後年、気性の強い継母を連れ込んでしまった負い目から、訓育者の姿勢がとれず、ただ小遣いを渡して機嫌《きげん》をとることしか考えつかなかった。
私は近頃、幼い時いつも仇役《かたきやく》であった父が、経営者としての時間のなかに登場し、どうかすると指図さえするのを知って驚くのだ。
このような心の動きは、いつまで経《た》っても充郎の場合には起らないに違いない。彼には敵も味方もないのである。ただ、一度目標を見付けると、それはたちまち固定観念にまで昂《たか》まり、そうなると常人では及びもつかない緻密《ちみつ》な論理が組立てられ、要求は夜を日についで烈《はげ》しくなる。日頃受けている侮蔑《ぶべつ》を一挙に取り戻そうとしているような執拗《しつよう》さだ。
充郎の目標とは、ある時は世界の切手の蒐集《しゆうしゆう》であり、ある時は真紅の絨緞《じゆうたん》で自分の部屋を天井まで覆《おお》うことであったりする。
そんな主張にぶつかると、林田はあわてて、
「そんなに急に言ったって」
と愚痴をこぼしながら、少しずつ充郎に渡す小遣いの額を増やしていった。やがて、充郎の脅《おど》しは林田が苦心して浮かす出張旅費や交際費の余剰を上まわるようになっていったのだ。
時おり優しい気分になって充郎のことを考えると、彼はきまって夕陽《ゆうひ》を浴びて石蹴りをしていた。いつまでも彼は子供で、それ以外に何もすることがないかのようだ。家に帰るのが理由もなく恐しかったのだろう。そんな状態から脱《のが》れたくて、自分ひとりで遊ぶ毎日を送っているうちに、やがて現われた継母の暗示もあって、アメリカ行きを思いついたのだ。
見ていると、突然銀杏の葉が一斉《いつせい》に散りはじめた。黄葉した無数の葉は、夕陽のなかできらきら煌《きら》めくものに変化して、充郎の上に降り続け、彼はそれにも全く無関心で石蹴りに没頭していた。
三
充郎にとって、アメリカは理屈ぬきで自分が住むべき土地であった。それは、かつて私が社会主義の国々に憧《あこが》れたのと同じに見えながら、彼が「アメリカは僕に合っている」と言い、「僕はアメリカに合うらしい」と言わなかったのを思い返して今更のように不気味に思った。しかも、ニューヨーク郊外での生活が具合の悪いものであり、西海岸に移りたいと希望している状態でも、充郎の考えは少しも動揺していなかったのである。
何時《いつ》の頃《ころ》から、彼がこのような考えに取り憑《つ》かれたのかははっきりしない。継母の君子が憧れていたから、その気持が映ったとも言えるし、母が言うように、充郎を外国へ追いやるために、君子が理想郷としての姿を印刷するように反復して押し付けたのだと考えることも可能であった。
戦争が終った時、小学生だった君子にとって、アメリカは自由で目眩《めくるめ》くように豊かな国と思われたに違いない。フランスには先妻の久美子がいたから、充郎がパリに行ってしまうことを彼女の誇りは許容できなかった。子供を捨てて放縦《ほうしよう》に走った女の方が、自分の手許《てもと》よりも居心地がいいと、形の上にもはっきり出るのは耐え難《がた》い屈辱であり、その点では林田の考えも同じであった。西垣の家の人々とは違ったふうに、しっかりと現実を見詰めて生きてゆくのだという自負が彼女の胸中にはあったと思われる。蓄えも収入も充分ではないから、我慢しなければならないことも多いが、それだけに真面目《まじめ》に、手にとって確かめられる幸福を掴《つか》んでみせると、殊勝に言いきかせた時もあったはずである。一方では、久美子に対する敵愾心《てきがいしん》と、彼女のように心のおもむくままに振舞ってみたいと羨《うらや》む気持とが分ち難く絡《から》まっていた。この点でも、君子と林田の感情は歩調を合せるのであった。
久美子が出奔して間もなく、「本当に辛《つら》い結婚生活でした」と私の前で泣いた時は言わなかったけれども、再婚後、私と食事をする機会があった時、林田は酔って、
「僕は一度も久美子さんから西垣家の家族として扱われたことがなかったんだ」
と、卓を叩《たた》いて怒った。またしても涙が、少し下がった眼尻《めじり》から頬《ほお》を伝って流れるのを眺《なが》めて、多分そうであったろうと私は思った。母の気質を受け継いで、何事も貴族趣味の久美子が、爪《つめ》に火をともすようにして大学の夜間部を出た林田を、結婚したその日から疎《うと》んじたのは、自然のなりゆきであった。
私は彼女から、林田が異常なほど吝嗇《りんしよく》だとよく聞かされた。その度に「それは君が大まか過ぎるからだろう」と窘《たしな》めたが、この日彼が私を呼び出したのは、再婚の結果弱まった自分の地位を、同情によって補強しておこうという魂胆だと分ってしまえば、気分は醒《さ》めて、林田の涙に相槌《あいづち》を打つのも憚《はばか》られた。
まだ父が健在の頃、私は一度だけ林田が育った丹波の山奥の村を訪れたことがある。その村で、林田は苦学して幸運を射止めた甲斐性《かいしよう》のある男として尊敬を集めていた。
彼が卒業した小学校には、林田が揮毫《きごう》した努力、前進≠ニいう色紙が掲げられていた。その言葉は、字の下手な私の父が、頼まれると一つ覚えに書いていたもので、林田の字は書体まで父に似ていた。私は林田の依頼で、その地方の青年団の集りに講師として出かけたのである。演題は地域振興とこれからの流通≠ニいうのであった。当時の私の胸中には、林田に同情している部分があって、あまり得意ではない役割を引受けたのだ。話しはじめる前までは厭《いや》でも、一度壇に上ってしまえば、丹波の将来性を指摘し、これから比重が高まるであろう第三次産業と農業との結合の重要性を説き、それとなく林田を褒《ほ》めたりもした。
ちょうどプールサイドに立った水泳選手のような気持だったと言えるだろう。講演会ばかりでなく、テープカットとか結婚式の仲人《なこうど》などの晴れがましい場面に立つ時、私はいつも同じ気分を味う。ピストルが鳴って飛込んでしまえば、もう競泳者としてベストを尽さなければならない。
林田は吝嗇な彼としては珍らしく、母校になにがしかの寄付をしていた。講演会場はその小学校の講堂を使用して開かれたのである。後年、彼はその地方を地盤にして選挙に出たのであるが、その頃から他日を期して票田を培養していたとも考えられる。
講演が終った時、謝意を述べるために顔を出した年配の校長は極端な蟹股《がにまた》で先導して、私を林田の色紙が掲《かか》っている貴賓室に案内した。
彼は努力、前進≠指さして、教材に使わせて貰っていると話した。
「民主主義の世の中になりまして、二宮尊徳も乃木《のぎ》将軍も使えんような時勢です」
と、私に説明した。
時と共に輸入商品が増え、それにつれて屡々《しばしば》外国に出るようになった私は、飛行機やパリの町のなかなどで、時おりこの寒村での体験を思い出した。丸和百貨店の売場を歩いている時にも、律子から新しい美術の傾向について聞いている際にもそういうことがあった。すると足下に暗い大きな穴があいているような気分に陥った。軍刀を下げた配属将校ふうの自衛隊の幹部などが、股をひらいて腰を掛け、努力、前進≠フ色紙の上に天皇陛下の御真影を掲げれば、三、四十年は訳なく遡《さかのぼ》ることができそうな光景は、そのまま父や、私が日頃顔を合せている政界や経済界の指導者の顔に馴染《なじ》んでいた。
外国の取引先から来た通信文を読み、その裏に隠されている意図を探り、秘書に返信文を口述し、毎月の貸借対照表を検討し、数表になったことで見えてくる経営状態を判定し、社員を集めて訓辞を与えるという毎日を送りながら、私は丸和百貨店の仕事が、何処《どこ》でどのように世間と、また自分の生き方と繋《つなが》っているのかが分らなくなる。理屈で分らないのではなく、漠然《ばくぜん》とした不安に取巻かれている分らなさだ。もっとも、こんなふうに思うのは戦争の頃の経験が記憶に残っているからであり、青年時代に受けた思想の影響にもよるので、今の社会の弊害はもう至るところに現われはじめているのだから、軌道を戦争前に寄せて修正しようとする動きが出てくるのも当然かもしれないと思う部分も私にはあるのだ。そう気がつけば、自分はこの年まで生きてきて、確信に満ちて主張できるような思想を、ついに持てずに来てしまったと自覚させられて、一層頼りない気分に陥るのである。
林田はおそらく、こんな贅沢《ぜいたく》な不安は感じていないに違いなかった。もし心配があるとしたら、それは地位が失われ、生活に困窮するのではないかという恐れだ。
「あれは真面目にやっておりますでしょうか。気はいいのですが、調子者ですから、坊ちゃんのような方に助けていただかないと難儀でございましょう。あんまり偉くなると、いつか失敗をしやあしないかと、かえってそれが心配で」
藁葺《わらぶ》き屋根の母屋《おもや》に、応接間を後で建増したと思われる家から出てきた林田の父親は、私が訪ねたのを喜んで、しきりに息子を引き立ててくれるよう、眼を瞬《しばたた》かせて頼んだ。彼等《かれら》の親子の関係は自然で情が通い合っているように見えた。東京に戻《もど》って林田にその感想を伝えると、彼は私の実家訪問を率直に感謝し、生家が貧しいことを恥じた。それでいて、
「でも親父《おやじ》を甘やかさないでやって下さい。贅沢を覚えるときりがありませんから」
と、強い口調で付け加えることも忘れなかった。
こうした記憶が不意に戻ってきた際に感じる私の不安は、もしかすると周囲の人々が、互に心が通い合う関係をひそかに構築していて、私だけがそれに失敗しているのではないかとの自信のなさに通じていた。私を不安に陥《おとしい》れる相手は、林田親子のような場合もあれば、時おり垣間見《かいまみ》る識《し》り合いの経営者の家庭の時もあった。息子が成人するのを楽しみにしていて、そうなったら会社を譲って、老妻と外国旅行をのんびりしてみたいと、私にむかって楽しげに語る社長もいたし、勲三等は確実だと思う、もしかすると二等が貰《もら》えるかもしれないと、同業者の例をあげて熱心に説明してくれる会長もいた。
そんな話を聞いたりすると、私はぼんやりしてしまうのだ。彼等がそう語れるのは、父親の方針に素直に従う息子がいたり、叙勲を心から喜んでくれる家族があるからだ。はっきりした目標があったり、自分が目指すものは確実な価値を持っていると思えるのはいいことに違いない。ましてその目標が他の人々と同じならなおさら安心だ。心のなかで林田を疎んじながら、頼まれると丹波まで講演に出かけたりするのは、善良な一面に魅《ひ》かれてのことであるばかりでなく、彼の方が大地に足のついた生き方を掴んでいる多数派だと感じている部分があるからでもあった。
父が死んでからも、母は以前と同じ家に住み、私は別棟《べつむね》を使っていた。
「もしかするとお母さんは、そろそろ順造兄さんにもたれかかりたい年頃になっているのかもしれないわ。フランス人だったらそんなことはないけれども、なんと言ったって日本人ですからね」
と、いつか久美子は批判めいて話したけれども、私は内心彼女に同調しなかった。母は一人で短歌を詠《よ》み、周囲の人間を手厳しく観察しながら、小さな花壇に四季おりおりの草花を植えて楽しんでいた。長い間、まったく理解し合うことのない夫との生活で自分の心の領域を守る姿勢を身につけて、その年頃の女性には珍らしく愚痴もこぼさない毎日を送っていた。最近も『移ろう時』という歌集を出したばかりだ。
母は季節季節に姿を変える花を詠み、庭に来る小鳥に想《おも》いを託した作品を数多く作っていた。新古今調の歌であり、年にしては思いのほか烈《はげ》しい情念を籠《こ》めたものが多い。少女時代と老年が、諦観《ていかん》と見果てぬ夢とが交錯し、華麗な様式のなかに盛られている。
そんな歌を作る母の眼で庭を眺めると、芝生に自生している捩《ねじ》り草や花壇の紫式部、夜になると白い影のような花をつける烏瓜《からすうり》などが、ものの本にだけ見られる昔の武蔵野《むさしの》のたたずまいなのだ。渉《わた》り鳥《どり》の多い時期に、珍らしく一日書斎で書き物をしたりしていると、椋鳥《むくどり》や頬白《ほおじろ》、普通は河原でしか見かけない白鶺鴒《はくせきれい》などが見られる。私は、自然の移り変りが確かなことに感じられた子供の頃を思い出す。大人になって、父への感情が和らぐにつれて、かえって外界が不確かなものに思えるようだ。あるいは私が人工的な生産物≠フ世界としか呼びようのない環境に深く入り込んでしまったことが影響しているのかとも思う。
冬になると、もう都会では見られないと言われている鵯《ひよどり》や上鶲《じようびたき》、それに鶫《つぐみ》などが飛んでくる。庭の隅《すみ》にある小さな池に鴨《かも》が来たことさえあった。彼等はひそかに渉ってきて、ひと時を私|達《たち》の周辺で送り、またひそかに去ってゆく。表むきは消え去ったことになっていながら、小鳥達や花は、見えない仄暗《ほのぐら》い通路を辿《たど》って今に生き延びているのだ。そうでなければ、自動車がひっきりなしにゆきかい、排気ガスが立ち昇り、大小さまざまなビルが立ち並ぶ広大な地帯を越えて、私の家の庭に彼等がやってくることはできないだろう。鳥達ばかりではなく、ブッドレアが咲く頃になると、青すじ揚羽や、時には浅黄斑《あさぎまだら》までが飛んでくるのである。
まだまだ私の知らない生き物の棲息《せいそく》地帯がありそうだと考えてゆくと、固有の地域を持たず、移動することも変身もままならない自分の姿が、逆に囚《とら》われ人《びと》のように思えてくる。冬の日の窓ガラスを掠《かす》める鳥の影のように、それは瞬間に現れて、たちまち市《いち》の雑踏に消えてしまう。だが私は母の世界に住むつもりはない。今更住めそうもないからだが、子供の頃影響を受けた反動で、短歌を鑑賞することを避けてきたのだ。大学生の時は、五七五と弾む音韻律が、冷静に物事を見る眼を曇らせてしまうと学生新聞に書いたりした。そうでない短歌もあると知ったのは、ごく最近のことだ。作品に今も現れているような情熱に盲《めし》いて、若かった母は家を飛出して父と一緒になった。その後彼女は、情念の力を逆に使って、それからの三十三年を耐えてきたのだ。
私はそうした母を眺めてきた。その眼は自分で考えても庭の古い池を眺める時のように、決して暖かいとは言えなかった。私は時おり、仕事に疲れると池の畔《ほとり》に立った。
いつの頃からか、この池で人が死んだに違いないと信じるようになっていた。私の幼ない頃、父はこの屋敷を、倒産した鉱山主から購入していた。池で何があったかは全く伝えられていない。かなり悪徳を重ねた男だったらしいと人伝《ひとづ》てに聞いているだけであったから、私の推測は妄想《もうそう》の一種だと知っているが、それでもなお、死んだのは女に違いないと思っている。池は小さいけれども、誰《だれ》も底の深さを測った者はいない。八重と充郎が小さかった頃、父は周囲に頑丈《がんじよう》な垣根《かきね》を作らせたが、今はそれもない。父の死後取払わせたのは母であった。
水は常にどんよりと青みどろの緑に静まり返っている。心に屈託がある日は、死人にまつわる叫びや、怒り悲しむ声が底の方から聞えてくるように感じる。また別の日は、斜に射《さ》す午後の陽《ひ》の屈折に身を翻《ひるがえ》す魚鱗《ぎよりん》の煌《きらめ》きを見るのだった。いそいで目を凝らしても、魚は藻《も》のなかに隠れてしまったのか、一瞬の輝きを見せて姿を消したままだ。すでに動くものの気配すらない。私にはこの池が、過して来た時間の総《すべ》てを呑《の》み込んでいるように思われる。たしかに、希望は一時姿を見せて、たちまち飛去ったのだ。
結婚した頃、まだ私にはやって来ない多くの時間があって、そのどれを選択するかは全く自分の意志に委《ゆだ》ねられていると感じていた。当時の心の昂《たか》ぶりと表裏の関係で私が落込んでいた自信のなさ、焦《あせ》り、妻になった相手の力を借りて自立しようと考えていた時代の記憶は恥しさと共に懐《なつか》しい感情をよびおこす。
「あなたのもやもやをはっきりさせる前に結婚したのは、私にとってもあなたにとっても失敗だったのよ」
と、急に老《ふ》けてしまった離婚直前の妻が話している。そんな宣言を残して妻は、古い池の上を素足で歩いて何処かへ去っていったような気がする。人が死んだという私の妄想は、多分「総ての事業は大勢の人間の犠牲の上に繁栄するのだ」と信じていた、学生の頃の思想から生れたのであったろう。今では、水の中に沈んでいるのは母の情念と、私のかつての希望だと思っている。たしかに母は父との暮しに耐えるために、何度もこの池に自分を捨てに来たに違いない。女の足の形になった鬚根《ひげね》を水に漬《つ》けて蘇生《そせい》する水草の精のように、母は捨てた自分と引替えに、歌の主題を池から貰って、西垣浩造の支配する家に戻っていったのだ。そんな母は、久美子の出奔を知った時、やはり身を翻す魚族の煌きを見たのではないだろうか。最初の人と、ずっと一緒に暮せるのが女の幸せなのだと久美子に向って言った時、母は新しい時代の可能性を夢想していたのだ。世の中も変ったのだし、久美子ならしっかりやるだろうとの期待も強く働いていたに違いない。彼女の相手の男が、だらしない遊び人にすぎないと分ってからは、期待はそのままの強さで娘への失望となった。自立とか民主主義だとか、人生に賭《か》けてみたいなどと立派な理屈を並べてみせても、所詮《しよせん》、男と女の、しかもあまり純度が高いとは言えない煩悩《ぼんのう》に過ぎないではないかと、母の心は久美子にむかって冷えていったはずだ。
林田悟郎との結婚話が夫から持ち出された時、母が(さあ久美子ならどうするの)と突放す姿勢に終始したのは、自らの見果てぬ夢を託した娘が、その期待を裏切った恨みからであったろう。耐えて、涙を凍らせる時をくぐり抜けてこそ、光り輝く境地が訪れると思うのは、すでに長い間親しんできた建礼門院|右京大夫《うきようのだいぶ》の歌集や金槐集《きんかいしゆう》、それに新古今などによって培《つちか》われた、母の牢乎《ろうこ》として抜き難《がた》い美学であった。その物差しをあてはめて見ると、久美子は美と醜の境界を自由に出入し、聖と俗を二つながら体内に抱えている困った娘であった。母は彼女の俗の部分を夫の血のせいにした。男好きは夫の遺伝であり、損得に恬淡《てんたん》としているのは、由緒《ゆいしよ》正しい家に生れた自分の影響と見た。
「母は私のことを心配しているでしょう。そして本当は非難してるわね。それは分るのよ、仕方のないことだわ」と、彼女は否定の身ぶりをした私を目の片隅で見据《みす》えて「でも結局その非難は自分の上に降りかかっていくんだけど、ただ彼女はそれを自覚しない。決して自認もしない。情念の厚い鎧《よろい》が天にむかって吐いた唾《つば》を受け止めてしまって、彼女の意識には到達しないわ」
パリのホテルで、久美子が母のことをそのように分析したのは、おそらく娘としての甘えの特権を行使してのことであった。私との関係が、カジノの計画を巡って壊《こわ》れてしまうほんの少し前である。
その日私は彼女から絵を描《か》いているユーゴスラビア生れの青年を紹介された。白一色の画面の僅《わず》かな色調の変化だけで構成されている作品を描いているその男が、久美子の新しい恋人なのであった。スラブ人特有の、灰色に煙ったような眼《め》を持っていて、口は重かった。才能の有無は分らないながら、逞《たくま》しく生きてゆく人物には見えない。彼が帰ったあと、私は、
「今度の彼は別れる時|揉《も》めるよ」
と予告した。
「自分にあるものを表現するうまい方法が見付けられないと鬱屈《うつくつ》していく型に見える」
「そう言われると思った」
と、久美子は落胆を隠さないで、
「何とか引張り上げたいのよ、まだ固まっていないんだけど彼にはいいものがあるのよ」
と、弁護の口調になった。
前の日、日本に帰って来いと生真面目《きまじめ》な議論をする私に向って、
「日本には、いい男がいないしねえ」
とはぐらかし、
「いくら探しても、こっちにも理想的な男がいるという訳じゃないの。一人で総てを満たせる人物はまあ見付からないから、三人ぐらいと並行して付合って、家に帰ってからそのいい所を合成するのも楽しみよ」
と私の追及を躱《かわ》し、新しい恋人を紹介すると約束したのであった。しかし、そのユーゴの青年は、久美子をパトロンにして、何処までも凭《もた》れ掛って来そうに見えた。
一方、彼女が付合っている女は、とかく日本人の間で評判のよくない人物が多かった。昔はシャンソンなどを歌っていたが、今は、アフリカの某土侯国の首長夫人だったという肩書きで有名な社交家のマヤとか、不羈《ふき》奔放な交遊で男から養分を吸い取り、吸い取られた男は画家でも大学教授でも、自殺するか何処《どこ》かへ姿を消してしまうという噂《うわさ》の持主の洋舞家の今村奈保とか、久美子の女友達はいずれも悪女と言われる逞しさであった。そうした女友達とは打って変って、彼女はいつもひ弱な男を私の前に引張ってきた。久美子が庇護《ひご》しなければ、とても一人立ちはできそうにない男に心を惹《ひ》かれるのは、父に対する過剰な意識からか、母の苦労を見てしまった反作用なのかと私は訝《いぶか》った。日本に帰っても同じことが繰返されるのなら、まだパリの方が無難であろうかと考えたりもした。
「貴種流離|譚《たん》て言うのがあるでしょう。お母さんのはそれよ。だから俗界にいてもいつも心に盛装させて毅然《きぜん》としているけど、内心では甘えることに飢えていると思うわ」
彼女は(私は違った生き方をします)とでも言いたげに母の姿勢を批評した。
「それを全部|被《かぶ》る立場にあるのは順造兄さんでしょう。兄さんは日本に残ったことでその役割を選んだんだから。お互に傷を舐《な》めあい、いじましく労《いたわ》り合う湿気が私には我慢ならないのよ、分るでしょう。順造兄さんだって若い頃《ころ》はそう言っていたわね。私は私で生きていきますから、何かお役に立つことがあったら言いつけて欲しいのよ」
疲れてホテルに戻って、溜《たま》った洗濯物《せんたくもの》を洗っておこうと洗面|槽《そう》に湯を張りながら、私は今度会った久美子が終始落着きなく、焦立《いらだ》たしげに見えた原因を考えていた。
湯が溜るにつれて、汚れたシャツは濡《ぬ》れてしお垂れていった。それは一所懸命仕事をしてきた私の残骸《ざんがい》のように見えた。経営者の責任というようなことを考え、そのように自らを縛る己惚《うぬぼ》れをいつの頃からか身につけ、内心満たされていない感じを胸中に蠢《うご》めかせながら、しかし競争に敗《ま》ける訳にはいかないと言いきかせて働いてきた自分の姿が、くたびれて洗面槽の湯のなかに崩折れている下着に現われていると思った。父のように、目標を阻《はば》む者は総て敵として戦い、傍目《わきめ》もふらずに突進する役割は自分にはむかない。今の仕事もいずれ疲れはてて出来なくなるという気がした。
「批判精神をなくしたわね。パリにいて見ているとそれが良く分る、それとも順造兄さんも日本の年とった経営者みたいに狡《ずる》くなったのかしら」
そう久美子に指摘されれば、さて自分はどっちだろう、とだらしなく考えてしまう。たしかに学生の私にとって、父は自分の意志だけを正当と思い込み、相手の悩みや苦しみにはおかまいなく、ある場合には言葉巧みに共感を誘い、それが効果がないと見るや態度を一変させ、威力を示して屈従を強《し》い、奴隷《どれい》の心理に陥れて働かせる企業所有者の代表のように思われた。彼の前では反抗か屈従しかないのだ。学生時代の私はそのような父を倒すことなしには変革はあり得ないと思い込んで、丸和不動産に労働組合を作ろうと働きかけたりした。ひとりひとりが自分の環境を変え、力に怯《おび》える弱さを克服する努力をすることが、やがて大きな流れになるはずだ、それには思い遣《や》りや人情家の偽装に隠されている資本の論理を白日のもとに暴露する必要があると思いつめた。そうすれば社員達は一揃《いつせい》に反旗を翻すと信じて檄文《げきぶん》を謄写版《とうしやばん》で刷ったりした。その頃の私には父に対する反撥《はんぱつ》が先にあって、変革の思想はその感情を正当化する役割を果したという気がする。
いつだったか、そして何の目的でそんな行動をとったのか、もう正確には思い出せないのだが、ある晩、私は片手を欅《けやき》の太い幹にかけて燈火《ともしび》が洩《も》れてくる母屋《おもや》の二階を闇《やみ》のなかから見つめていた。やがて窓が荒々しく開かれて、父の情人になって間もない女が身体《からだ》を乗り出して嘔吐《おうと》しはじめた。苦しげな長い涎《よだ》れが、夜目に白い糸を引いて落ち、私は彼女が妊娠したのだと覚《さと》った。彼女は現場まわりをする父の身の廻《まわ》りの世話を言いつかって、旅先で手籠《てご》めにされたのだと書生達は噂していた。その日から女の態度が変り、公然と母を蔑《ないがし》ろにするようになった。
私が彼女を撲《なぐ》ったのが、その晩のことだったのか、それよりも前だったのかは憶《おぼ》えていない。私に打ち据えられて、部屋の片隅《かたすみ》に逃げた女のスカートから、剥《む》き出しになった白い太腿《ふともも》、その内側についている二つの黒子《ほくろ》が鮮やかであった。彼女はさらに私が撲りかかるのを恐れて、牡《おす》に乗られた牝鶏《めんどり》のような悲鳴をあげた。
私達の姿勢が、犯し犯されようとしている男女の構図に似ているのに気付いて、私は深く侮辱されている意識に狂った。女は、総ての動作を性的な意味に還元してしまう魔術を私に向って投げていた。暴力を振るっているのは私だったが、嚇《おど》かされているのも私だった。やがて、女は隙《すき》を見て、ガラス戸に爪《つめ》を立てているような声と共に父の部屋に逃げ込んだ。私は父が怒って部屋から出てくると思い、身構えて武器を探した。そうなったら母を苦しめている父と戦うだけだ。体力ではまだ敵《かな》わないかもしれない。私は刃物が欲しかった。夜の微《かす》かな光線を反射して鈍く光る匕首《あいくち》が、父の肥《ふと》った色白の下腹部に深く沈む、その快感に身震いした。
しかし父は現われず、やがて耳に伝わってきたのは、父とその女が睦《むつ》み合う気配であった。女に挑《いど》みかかるせわしない息遣いと、女の押し殺した呻《うめ》き声とが私を嘲笑《ちようしよう》した。私が女に暴力を振るったのを知って、彼女を奪い返そうとでもするように、女にかかっていったのだ。その物音は、私の勝利とそれ以上の敗北とを同時に報《しら》せていた。
充郎を見ていると、当時私の胸中にあった反抗の感覚と同じものが、意識するのも困難なほど深く皮膚に沁《し》みてしまっているように思えるのだ。久美子が生んだのにもかかわらず、充郎が、父を取巻いていた女達が協同して作った子供のように思えてくる。その充郎の面倒を見る立場に立った時、逆に私は狂気から遠ざけられてしまったみたいだ。久美子が批判するのも、その点なのかもしれない。何ものかへの怨念《おんねん》を深く体内に隠し持ちながら、表に出るのを危うく抑制し、事業にむかって奔流のように溢《あふ》れ出ていった父の執念、久美子を苛《さいな》む孤独、母の体内に燃え続けている渇仰《かつごう》、それらの総てが充郎に凝縮しているようで、彼の病いを他人事《ひとごと》と突放すことができない。
窓からカーテンを除《の》けて戸外を見ると雪が降っていた。気紛《きまぐ》れのように落ちてくる雪で、時々窓に近づいてきて、たちまち闇に沈む。これから毎日、こうした天気が続くのだろう。明日のチューリッヒ行きは大丈夫かなと、私は現実に戻《もど》った。
夜の遅いパリの町も、さすがに寝静まっている気配だ。大通りを走る車のヘッドライトが間遠に建物の灰色の壁に映って消える。
去年《こぞ》の雪いまいずこ
というリフレインを持ったヴィヨンの詩が浮んできた。生涯《しようがい》を放浪のうちに過して、何度も投獄され、野に果てた男だ。
かつての私は、雪が降るのを見ると何処というあてもなく迷い出しそうになったものだ。ずいぶん昔のことで、いつか忘れていたその性癖を思い出した。続いて俳人の山頭火や中原中也《なかはらちゆうや》のことも。朔太郎《さくたろう》にしても、終生心の棲家《すみか》を見付けられなかった男のように思われる。旅行に出ていると、こうした想念に陥ることがよくある。周囲は知らない人間ばかりだから、自分の内情を見破られる心配がないので落着くのだとも言える。夜の仄暗《ほのぐら》い光に、黒く影絵のように浮んでいる屋根の下では、ひとりひとり違って見えて、意外に同じ生活が続けられているのであろう。
パリは鳩《はと》の多い町です≠ニ久美子は、ここに住むようになった最初の頃手紙に書いていた。おそらく彼女は、まだ友達もいないこの町の冬を、鳩の声だけを聞いて過したのだ。その頃の、ひとりの時間の静けさのなかに聞えていたざわめきは、恋人が出来てからも、ジスカールと結婚した後も変らず胸中に響いていたと思われる。その彼とはもう別れてしまったが、次々に新しい相手が現れても、恋の積み重ねのなかで、かえって彼女の底冷えは深くなったのではないか。自分流の生き方を通して孤立したのだから、望むところのはずだけれども、私は彼女が、人々が寝静まったこのパリの闇に目を開いて、先々のことを考えているだろうと思った。それでも久美子は、八重や充郎の将来について思い惑っているのではないだろう。彼等《かれら》は彼等で生きていかなければならないと突放してしまったのだから。
そのような久美子を君子は無責任だと非難し、生みの親でなくても、立派に育てて見せると、一度は意気込んだのであった。
「私がどんなに目をかけても、充郎ちゃんは懐《なつ》いてくれないんです。心が捩《ねじ》れてしまったみたいで。やっぱり私がいけないんでしょうか」
そんな訴えを、君子から聞いたことがある。それは林田夫婦が醍醐源太郎にカウンセリングを依頼する直前のことであった。彼女はおどおどと医者に診断を求める患者の怯えた目で私を注視していた。その前日、会社に珍しく電話が掛ってきて、「充郎ちゃんのことで、どうしても御相談したいんです」
と呼び出されたのである。
彼女は、充郎がどうも知恵遅れのように思えるので、いい精神医かカウンセラーに見せたいと、交換手であった頃と少しも変らない甘い声を殊更《ことさら》低く絞って話した。
「せめていい学校に入れたいと思って、ずいぶん奔走して、やっと××校に入れたんですけど」
しかしその後の彼の成績はすこぶる芳《かんば》しくなかった。その学校に入るには一年ぐらい前から運動して現場の先生方に顔を売り、かつ上層部に寄附もしなければいけないのだと、君子はその部分は得意そうに報告した。私は彼女が、母や林田の同僚|達《たち》の目を意識して、なんとか充郎を名門校に入れようと計画したのを知った。自分が持っている魅力を十二分に駆使して、夏の暑い盛りを歩きまわっている光景が見えるようだった。汗のためにお白粉《しろい》が浮き、太めの首筋に皺《しわ》が寄っていたりするのが、多分かえって親しみやすい女の感じを、面会した教師達に与えたであろう。学校の幹部がよく集るクラブを探しあて、理事の先生方と踊ったり、誘われるままに何度か食事にも行ったらしい。
「あの人が、家のことも私のことも構ってくれないので、全部自分でしなければいけないの、ですからお忙しいのは分っていたんですけど、思いあまって」
と話しているうちに気持が昂《たかぶ》ってくる様子であった。
私は彼女が急に相談を持ちかけてきたのにはどんな隠された計算があるのかと警戒しながら、注意して話を聞き、問題児を扱っているいくつかの財団や組織を思い出そうと努力した。
数日後、その結果を持って彼女の家を訪れると、日曜なのに林田はいなかった。
君子は私が持っていった施設に関する資料をパラパラとめくると、すぐ傍《そば》のテーブルの上に置いて紅茶を薦めた。
「少しお入れになる」
と聞くと、私が辞退するのは意に介せず、上等のブランデーを思いきり注《つ》いだ。
「あの、心配ごとがあると癌《がん》になるって言うの本当でしょうか」
跪《ひざまず》いて酒を注いだ姿勢のまま私を見あげて、
「私、乳癌みたいなんです」
と唐突に言った。彼女の眼は恐怖にたじろいだ幼女が父親に救いを求めているように、まざまざと見開かれている。やがて唇《くちびる》は少し上向き加減に開いたまま、瞳《ひとみ》が私に目を逸《そら》すのを許さない輝きを帯びたかと思うと、
「ここのところに何だかぐりぐりが出来て」
言うやいなや私の手を掴《つか》んで自分の乳のところに持っていった。胸元が大きく開いたレースのついたブラウスを着ていたから、春の終りか秋のはじめのことであったろう。
あわてて手を引込めようとする私を目で制して、
「ねえ、なにか固いものが触るでしょう。厭《いや》だ、そんなんじゃ分るはずないわ」
思わず及び腰になった私を笑って身体を崩した。
彼女が父の推薦で林田と結婚できるようになったのは、やはりこのような誘いかけの経過があったのかと内心|頷《うなず》きながら、今こうして、充郎のことを口実にして私に接近を計るのは、林田と相談の上のことか、とすればその目的は何だろうと考え出すと、早くも私は疲れを覚えた。
それから二、三ケ月|経《た》って、充郎の学校の父母が十人ほど集っているので顔を出して欲しいと、再び君子から連絡があった。渋々ながら誘いに応じたのは、彼女にいくらか興味を持っていたからだ。
少し遅れて会場に入ると、有名な俳優や、そのファンと覚しき中年の女性、それに貿易商と称するイタリヤ人やアメリカ人が集っていて賑《にぎ》やかな宴会の最中であった。
「君子の旦那《だんな》さんか?」
と声をあげた男がいて、彼女は「林田の身替りの西垣順造さん」と私を一座に紹介した。二、三人拍手する者がいた。
宴はたちまち乱れ、男優の膝《ひざ》に乗って料理を口に入れて貰《もら》う婦人や、テレビのラブシーンを真似《まね》る男女もいた。その場の空気に溶け込めないでいる私にむかって、君子は、
「いつもこの会はこんなふうなのよ、これからみんな踊りに行くんだわ。いいでしょう、驚いた?」
そう言う彼女も、すでに大分飲んでいるらしく、話すたびに小鼻がふくらみ、目が据《す》わっている。
やがて皆が押し出していったのは、朝まで営業しているという六本木のはずれのマンションの地下であった。中央に小さな舞台があって外国人の楽団が演奏している。
「久美子さんは子供を私に押しつけておいて自由にやってるけど、私だってもっとましな結婚したかったのよ」
いつの間にか傍のソファーに来た君子が、演奏に負けまいと大きな声で区切りをつけながら話す。
「林田は私を騙《だま》したんです。プロポーズされた時、私にはちゃんとした人がいたの。真面目《まじめ》ないい人だったなあ。アメリカ人だったけど、一緒になったらデンヴァーに住むことになってたの、英語もその頃は一所懸命習っていたのよ」
「今でも、私、外国人が好き」
君子は私の肩に頭をもたせかけ、歌っているように話した。
「日本だって、そのうちに豊かな国になりますよ。もう大分そうなっている」
「馬鹿《ばか》ねえ、そんなことじゃあないのよ。順造さん、あなた私を馬鹿にしているんでしょう。お腹《なか》の中では笑ってるんでしょう。教養がなくて、愚かなふしだらな女と思ってるんでしょう。私の目を見て返事しなさい」
そう言うと君子は両手を伸ばして私の顔を掌《て》に挟《はさ》み、無理に自分の方にむけさせた。目は上瞼《うわまぶた》が丸く張って、薄暗い部屋に点々と浮ぶスポットの光を映して輝いている。真剣な表情が彼女をひどく子供っぽく見せて愛らしい。
「そんなことありませんよ」
と抗弁したけれども、弱々しくて我ながら説得力がないと思う。案外、君子は母の言うような悪い女ではなく、目の前に見えているだけの正直者なのかもしれない。
「私ね、奥さんやめて独立したいなあ。もうちょっと遅く生れていたら、大学まで行って、しっかりデザインかなにかの勉強しちゃって。林田みたいな田舎もん、どうなったっていいのよ」
「まあ、さっきから二人だけで――」
君子よりも五、六歳年上の婦人が、遠くから声を掛けながら私達の席にやって来た。彼女もまた君子と同じように、奥さん稼業《かぎよう》を辞めたいと思っている部類だろう。
君子の話を聞いているうちに、私は自分がひどく道学者めいて、偉ぶった心境になっているのに気付いていたから、
「踊りましょうか」
と、その酔眼|朦朧《もうろう》とした中年婦人の腕をとった。
秘密クラブめいた狭い部屋で踊っているのは、皆、醜くて、悲しげな人間ばかりだった。
気がつくと俳優達はいつのまにか姿を消していた。先刻から、目立たずに脱《ぬ》ける頃合《ころあ》いを見計らっていたのだろう。残されたのは、時代に置き去りにされ落伍《らくご》しつつある種族だ。
昼間私は家庭生活の外部化≠ニいう言葉を使ってレストラン業を本格的に展開しようと会社で話していたのだ。若い主婦が次第に家庭のなかでの従来の役割から解放されたいと考えるようになってきているから、新中間層の住宅が増えている郊外でのファミリーレストランは成長分野に属すると説明した。食堂業ではなく、外食産業と考えるべきだと話した時、多分私は軽薄であったろう。
「インダストリー、インダストリー」
と私は口のなかで呟《つぶや》き、中年婦人が「なあに」と幼さを感じさせる動作で首を廻《まわ》して私を見た。
こんなふうに考えるのは、ずいぶん久し振りだと思いながら、彼女の腰に廻した手に力を入れて廻転《かいてん》した。重かった。楽団はロックを演奏していた。周囲の若い人達はみんな離れてむかい合いリズムに乗っていたが、私達はそんなに早くは踊れなかったので、テンポを落して適当に会場を遊泳した。
「ここも雰囲気《ふんいき》が悪くなったわね」
彼女がまわりを眺《なが》めて言った。酔が少しずつ私の中枢《ちゆうすう》神経を麻痺《まひ》させていた。主婦の価値観とか、成熟社会に向っての離陸とか、変化への対応というような言葉を使っていると、こちらまでが何時《いつ》の間にか宇宙遊泳をしているみたいになってゆく。それは不思議なこと、いや当り前のことだと酔のなかで思った。
私は無数の遭難者が油が浮ぶ海に犇《ひし》めいている様を思い描いた。母船は沈んでしまったのだ。その光景は、実在するかのような生々しさで迫ってきた。
こういう際にたじろいではいけないと言いきかせて眼《め》を据えると、遭難者はいずれも魚の顔を持っているのだ。酸素が足りなくなって、養魚場の魚が一斉《いつせい》に水面に出てきて空気を吸っている有様が思い出された。耳からは相変らず烈《はげ》しいロックの響きが入ってくる。
彼等のなかには猪《いのしし》のように鼻の発達した魚もいれば、蝶々《ちようちよう》に似て優美に、翅《はね》をばたつかせ、やたらに鱗粉《りんぷん》を撒《ま》き散らす魚も見える。蹄鉄《ていてつ》を打った脚を持っている魚は、魚獣とでも呼ばれる生物なのだろう。彼等が忙《せわ》しく空気を吸う音が楽団の演奏を透《とお》して、時雨《しぐれ》がトタン屋根を打つようだ。その音の漣《さざなみ》のなかから、
「あんた、君子とまだね、だったらやめときなさい、喰《く》われちゃうわよ」
囁《ささや》きが送られてきた。
妻と別れるようになったのは、もしかしたら欠乏している酸素を吸うのに忙しくて、彼女を置いてきぼりにしたからであろうかと、私はふいに離婚の前後の経緯を思い浮べた。
「あなたの気持は私からばかりでなく、人間らしい生活から離れてしまったわ」と妻は言ったのだった。彼女に好きな男が出来たのが分ってから間もなくの夜である。
「あなたの仕事が忙しいから不満なのではないのよ」
彼女の話しぶりが落着いているのを聞いて、私達の関係が最後の段階に入ってしまっているのを覚《さと》った。
「そう言われてしまうと何とも言えないけど」
早くもこれからはじまるであろう彼女の攻撃を予想して私は口籠《くちごも》った。
「僕《ぼく》にゆとりがなくなったのは事実だろう。今の会社での立場がどうも馴《な》れないもんだから。君を避けているとか嫌《きら》っているのではないんだが」
「分っています。憎んだり、争ったり出来るうちはまだ救いがあったわ。あなたは可哀相《かわいそう》な人だと思うわ。もっと自分を大事にした方がいいんじゃないかしら」
それは私に対する訣別《けつべつ》の辞であった。
「同じことは君についても言えるんじゃないか」
と私は言い返した。
「そうよ、だからお別れした方がいいと思ったのよ」
もっと烈しい別れ方をしたかったと思ったが、口にはしなかった。そのかわりに私は微笑さえ浮べたのだ。「君はこれからどうするの」と聞いた。識《し》りあって、やがてお互の気持を確かめあった時のことが不意に生々しく蘇《よみがえ》ってきた。彼女を家の前まで送っていって、暗い街燈《がいとう》の灯《とも》っている路地ではじめて接吻《せつぷん》をしたことも。
「私はあなたのために滅茶苦茶になった人生を建て直したいんです。それは自分でしますから『これからどうする』なんて親切めかしたことは言わないで下さい」
突然、妻の顔に赤味が射《さ》し、目がかつてのようにキラキラと輝いた。識り合った頃の、看護婦の制服を着た美しい彼女だった。妻は別れることによってしか美しくなれないのだとしたら、私が身に帯びている毒素とは一体どんな性質のものなのかと思った。そんな自分からの脱出を願って彼女と一緒になったのに。
「多分|誰《だれ》とも結婚はしないでしょう。もう懲《こ》りたわ、きっと働くことになると思います」
そうして妻は低い声で、「ごめんなさい、強く言い過ぎたようね」と付け加えて笑おうとした。淋《さび》しい顔になった。
「句集は作った方がいいと思う。どんなに惨《みじ》めに思える経験だって、君ならプラスにするよ。こんなこと言うとまた怒るかもしれないけど」
回想は次々にいろいろな場面を引き出してきた。ここで踊っている女達も結婚している毎日を忌避しているのだろうが、別れた妻の場合とはずいぶん違っているように見えた。
頃合いを見計らって消えた方がよさそうだと、隅《すみ》に坐《すわ》っているはずの君子を眼で探した。彼女は、さっきまで私と話していたソファーで眠っていた。身体《からだ》がずっと小さくなったようで、ソファーに凭《もた》れた姿は、田舎から出てきて行き処《どころ》を失った路傍の孤児に見えた。
いつだったか「誰も私に構ってくれない。私は久美子さんのように綺麗《きれい》でもないし頭も良くないから、みんな馬鹿にするんだ」と地団駄《じだんだ》を踏んだのが想《おも》い出された。黙って脱け出したら、また怒るだろうと思った。林田はそのように荒れる君子を、そのまま認めているのだろうか。
久美子のことを、そんなに意識する必要はないのだと、帰り際《ぎわ》に一言いいたいのを我慢して中年婦人に目くばせすると、私は外に出た。
「順造さん」と声が掛り、見ると林田が会社の車に乗って待っていた。
「ああ、お迎えですか。彼女、出来上っちゃって眠っていますよ」
通りがかったタクシーを手をあげて止めていると、
「いやどうも、お世話さまで」
と、林田が珍らしく照れて車から降りて来たから、タクシーに乗り込む私と入れ違いになった。
何故《なぜ》林田は照れたのだろう、と動き出した車のなかで考えた。もともと私を嵌《は》めこむ計画だったのなら、店の前に乗りつけた車のなかから声を掛けることもなかったろう。それなら、ただ夜遊びしている妻を迎えに来た気の弱い夫の役割を恥じたのか。そんなことよりも、もっと理由のある照れのように感じられたが、酔った頭ではもうそれ以上考えるのが面倒になった。
何度も君子と別れようと心に決めながら、その都度林田の気持が萎《な》えてしまうのには、それなりの理由があった。林田は理屈を超えて彼女を可愛《かわい》い女だと認めていた。物怖《ものお》じせずに新聞記者とも学校の先生とも付合い、英語も使える君子を、自分には出来すぎた妻だと思う場合もあったろう。たしかに彼女は林田が出世してゆくには欠くことのできない伴侶《はんりよ》であった。そのためには、少々酒乱の気味があることや、男出入りが派手なのは、世間体を汚《けが》さない限り我慢するつもりであったと推測できる。
識り合った頃、彼はすでに丸和不動産の常務であり、君子は新入社員であったから、英会話|塾《じゆく》が同じという偶然がなかったら、結婚ということもなかったろうと、林田も君子も、その出会いを一種の不幸のはじまりのように振り返る日もあったに違いない。林田の心が近寄ってくる気配に、信用調査会社に頼んで、こっそり彼の収入や素行を調べると、君子から見れば羨《うらやま》しいとしか言いようのない高給を取っていることも分った。戦争で片脚を失《な》くしてから、家でぶらぶらしている父親と、まだ学生の弟を母と二人で養っていくために、丸和不動産から受取る給料では少なすぎたから、待遇がいい水商売に行こうかと迷ったりした、と君子は私に告白したことがある。
最初から二人の子供をどうするかが問題であったが、出来るだけ早い機会に手離すという林田の約束を彼女は信じた。「騙された」と君子が言う理由の一つはそのことであった。
それにもまして二人の間に影を落すのは、結婚に際して西垣浩造を利用したという事情であった。
結婚前、君子が私|達《たち》の家に住込んでいた頃、父が旅先で珍らしく風邪を引いて寝込んだことがあった。一週間ほど高熱を発し、肺炎になりかけた。母は父の出張には同行しない習慣だったので君子が呼ばれた。彼女は献身的に看病した。体調の思わしくない父親の面倒を見ていた経験が役に立った。漸《ようや》く熱も下がったと聞いて私は林田悟郎と熱海の別荘を訪れた。
「君子は感心な娘だ。わしが四十度の熱で魘《うな》されている時、鼠《ねずみ》がうるさいので、埃《ほこ》りだらけになりながら屋根裏に入りよった」
と父は林田を見て言った。
「だって、お父様がやっとお寝《やす》みになったと思うと天井裏を駆け廻るんですよ、私、気が気でなくて××さんと手分けして」と君子は書生の名をあげて「鼠の通りそうなところの穴を塞《ふさ》いで猫《ねこ》いらずを撒いたんですわ」
「この娘は、こうして押入れの天井の板を外して」
父は両手をあげて君子が攀《よ》じ上《のぼ》った恰好《かつこう》を真似た。
「いやだ、お父様、君子すごく御転婆《おてんば》みたい」
君子は甘えて布団《ふとん》の上に起上った父の膝に手を置いた。父と彼女の会話の雰囲気や言葉の抑揚は十日間の滞在のあいだに二人の間に何かがあったことを予想させた。父も君子もあえてそれを隠そうとしないのであった。
「あはーっ、それはどうも、いや、どうも」
林田の方が照れて汗を拭《ぬぐ》った。
このような経緯が林田と君子の結婚の過程には二、三度あった。西垣浩造とそうなるのは具体的に打合せた上のことではなく、二人の間の暗黙の了解のようなものだったのだろうと推測しているが、私の前で派手な諍《いさか》いを繰り展《ひろ》げても、彼等《かれら》は決して西垣浩造の名を口にしなかった。そのことに触れてしまえば、取返しがつかないという意識が働くからであったろう。ただ一度だけ、
「私があの事を言えば順造さんも驚くわ、どれくらいあなたが卑怯《ひきよう》な男かびっくりするに違いないわ」
君子が聞えよがしに叫んだことがあった。林田は目に見えて狼狽《ろうばい》して、
「そんな思わせぶりな口をきくのは止《よ》せ、順造さんは詩を書いてるんだから」
「詩とは何の関係もないでしょう」
私はそんな言いあいを呆気《あつけ》にとられて聞いた。
二人の諍いはいくら烈《はげ》しく繰返されても、破局を避けているのであった。そうした経験を重ねて、林田はただ彼女に気負けする男になったようだ。
「あんな男には御大《おんたい》の偉さが分らないのよ」
とは、林田を批評する際の母の口癖であった。西垣浩造が他界してから、林田の君子に対する気弱な態度は昂《こう》じた。伯父は慎重で気の小さい実務家であったから、西垣浩造に対して屡々《しばしば》見せ、それなりに効果があった林田のお追従《ついしよう》や君子の誘惑も成功しないのであった。独裁者に付き従っていてこそ発揮できた林田の才能は、使う機会を見出《みいだ》せなかった。また、翻《ひるがえ》って自分自身の態勢を立て直そうと離婚を考えても、
「あなたが私を追い出すんなら、順造さんのところに行って何もかもぶちまけるから」
と君子に逆襲され、林田の闘志はたちまち凋《しぼ》んでしまう。そんな彼に残された道は、一所懸命仕事に励んで社会的名声を得ることであった。
ちょうど林田が離婚を考えていた頃《ころ》、ある宗教団体の巨大な本堂建設を巡って、幾つかの百貨店の家具装飾部が受註合戦《じゆちゆうがつせん》を展開したことがあった。経営者のあいだに信者が多い予言者のような教祖の話を聞きに、林田が時おりその教団に顔を出しているのを知っていた私は、彼に依頼して一緒に集りに出た。
子供達は次第に成長して、八重はともかく充郎には不気味な性格が現われてきていたし、銀座の女との情事が発覚した余波もあって林田の家のなかでは諍いが絶えなかった。なんとかして秩序を取り戻そうと焦《あせ》っている林田にとって、宗教の集りは、そこに顔を出す著名な経営者との交遊を深める目的以上に、意味のあることなのではないかと、私は一緒に会場に足を踏み入れながら想像した。
教祖の話は、寛容と人間愛によってこの地上に平和を実現しようという穏当な内容のものであった。むしろ極端な抑揚をつけ、眼を宙に泳がせ、あるいは瞑目《めいもく》して語る様子に魅力の中心があった。「宗教は阿片《あへん》だ」と言ったマルクスの言葉を思い出しながら聞いているうちに、教祖が突然私を指差して「そこに真面目《まじめ》でない参会者がいる」と宣告するのではないかと恐れたほど、彼の身辺には呪術的《じゆじゆつてき》な雰囲気が醸《かも》し出された。
彼は通常の教団の指導者のように、他の宗教を攻撃しなかった。どんな教えにも耳を傾けるべき人間真理が含まれているから、登り口の選択の問題だと説いて、まず新しく参加した者を安心させるのを忘れなかった。
経営者のなかには、役員人事から株式配当の上げ下げまで相談に来る者があると言う。教祖は五十歳をいくらか越した年配に見えたがなかなかの男前で、君子ならばたちまち熱心な信者になるのではないかと思い、あるいはその方が林田にとっては幸せかと考えたりした。
教祖のもとを辞して近くの喫茶店に腰を下ろすと、
「法話の時、一番前列の端に坐っていた美人がいたでしょう。彼女が教祖のこれらしいですよ」
と林田は私に小指を突立てて見せた。
「ああいう人は、あっちの方もなかなかのもんらしいですなあ」
そう林田が言うのは、彼が説教に強い印象を受けているからであった。神を探しながら、直ちにその対象を地上に引き下ろそうと心が動くのは、彼の精神の安定を示しているのかもしれないと、私は厭《いや》な気持に陥りながら考えた。
「あれで相当の収入でしょうなあ。宗教法人は税金の特典があるから羨しいですね」
「どうですか、林田さんも教祖になったら」
「僕《ぼく》ですか、いやあ、あっはっは」
彼は嬉《うれ》しそうな笑いを顔いっぱいに浮べて、
「そりゃ順造さんの方が合っていると思いますよ、あなたの方が思想家だから」
と、謙遜《けんそん》してみせた。
この他《ほか》にも、林田は知人からイオン水が胃腸に効くと聞けば、すぐそれを飲んでみたり、青竹を踏めば脳溢血《のういつけつ》にならないと教わると血圧が高くもないのに毎朝踏んでみるというふうであった。それは一面、そのような努力を通じて、仕事のなかでは作りあげることの出来ない有力者との絆《きずな》を持とうとしているのでもあった。それでいて、いずれも長続きはしない。
そんな彼が一時期、伯父の指導や同意も得ずに、役に立たない土地を大量に買い込み、責任を問われる結果になったのは、社長の地位を彼に奪われたという気持が介在したからか、あるいは自分を馬鹿《ばか》にする君子に実力のほどを見せたかったからかもしれない。
日本に戻《もど》るよう説得するために過した久美子との三日間に、林田悟郎の話はほとんど出なかった。もうそれまでに語り尽したからであるが、彼を日本人の代表と思われてはたまらないという意識が私の方に働いていたからでもある。林田の話になると彼女の舌鋒《ぜつぽう》は一段と鋭くなり、攻撃の火の手は丸和百貨店の幹部にも及ぶのであった。
自分が、どうしてあのような男と、一時的にもせよ一緒になったのかと考えると、久美子の体内には押え切れない感情が湧《わ》いてきてしまう様子だった。もし子供がいなかったら、おそらく反応は少し違っていただろう。
その二人の子供を失った直後、私|宛《あて》に送られてきた手紙は、虚構に仮託して自らの幻想を述べているのも分らないほどに、彼女の心が乱れているのを示していた。パリでの長い一人の生活のなかで溜《たま》った疲れが、何処《どこ》かで音を立てているようであった。当時、危惧《きぐ》したとおり、彼女は「人生上のバランスシート」を貸し借りのない状態に戻すことができなかった。その不安が私のパリ出張を早めたのであったが、一緒に町を歩いていて「順造兄さんの背中が見えない」と眼を蔽《おお》って蹲《うずく》まったのは、自分自身が見えなくなっていたためであったろうか。
私には今度の旅行が、彼女に帰国を奨《すす》める最後の機会のような気がしていた。彼女がパリに住むようになってから、二十年以上が過ぎていたが、今のままの状態で生きていけるとも思われなかった。
もし将来、もう一度帰国の機会があるとすれば、それは不治の病いに冒された時だ。老いて頬《ほお》がこけ、白髪を乱した彼女が、飛行機から担架で運ばれるような光景さえ、私の不安のなかに見え隠れするのだ。
しかし勧誘の結果は恐れていたとおりであった。はじめ、
「私が今更帰れると思う?」
「どうして帰らなければいけないの」
と威勢よく拒否していた久美子は、私が執拗《しつよう》に奨めるにつれて寡黙《かもく》に、そして不機嫌《ふきげん》になった。
自分を締め出した日本から、そのなかに浸り切っている男がやってきて、何の反省もなしに「帰れ」と言い続けている。その鈍感さが許せない、というような言葉が、もう少しで口から出そうな緊張が、久美子を沈黙させているのだと思われた。私がこれまでのようにいい加減な態度がとれないのは、母から「今度はどうしても連れて帰ってきてちょうだい」と言われていたからであった。
充郎の様子が少しおかしいと報告すると、
「順造兄さんに迷惑をかけちゃあ悪いわね、私がここに引取りましょうか」と、探るような目付になった。充郎がアメリカに行ってしまう前、パリで十日ほどを一緒に過した記憶を久美子は思い出し、振り捨てたはずの過去が再び近づいてくる気配に身構えたのであったろう。躊躇《ためら》いがちのその口調は、彼女が引取る意思がないのを正直に示していた。母が年をとってきて心配していると繰返すと、
「あの人はロマンチストだから、離れている人間とだけいい関係が作れるのよ。毎日顔を合せて暮してごらんなさい、私だったらきっと衝突する。頭のいい人だから相手の欠点がすぐ見えるし、分ってしまうともう許せなくなるんだわ。御大のような男と、ずっと一緒にいた反動もあるんでしょうけど」
と譲らなかった。
母への批判は、いちいち久美子自身にもあてはまりそうだと思いながら、私は頷《うなず》いてみせるしかなかった。
パリに来た二年目に、久美子がフランス人との恋愛を題材にした小説を出したことがあったのを私は思い出した。『流浪《るろう》のアルバム』と名づけられたその作品は、フランスへの憧《あこが》れと、一人で住む淋《さび》しさから作者自身が脱《ぬ》け出せていない感傷的なものであったが、西垣家の令嬢が流浪の涯《はて》に綴《つづ》った、愛と傷心の記録≠ニいう広告が功を奏して、一時はベストセラーに入っていた。おそらく久美子は、数年|経《た》って自分の本を読み返して、書くのを止《や》めてしまったのであろう。パリ駐在部長としての忙しい毎日が、彼女から執筆の時間を奪ってしまったのも事実であったが。
出版が決った時、本名で発表するか筆名を使うかで彼女と言いあいになった。まだ父が元気な時であったから、私は父の不興を恐れたのである。
「たとえ君の言うように姑息《こそく》な手段だとしても、日常の自分とは違う自分をはっきりさせるには、ペンネームの方がいいと思う」
そう言う私に反対して久美子は、
「私は順造兄さんのように恐《こわ》いものなんかないし、正直に自分を出していきたいのよ。兄さんは西垣の名前から離れたいって言うけど、それでいて丸和百貨店で働いているんでしょう、矛盾してると思うわ」
と指摘した。
久美子との議論はいつも擦れ違いだったと思いながら、たとえ仮の目標であっても、本を出すような目途《めど》があれば、こういう際はずいぶんと支えになるのではないかと、私は妻と別れた時、句集を出したらと薦めたことを思い出していた。突然、異国に放り出された最初の二年間、彼女は『流浪のアルバム』を書くことで耐えたのであったから。
今でも久美子はファッション雑誌などにパリ便り≠フような文章を毎号寄稿していた。それを一冊の本にまとめてはと勧めてみようと思いついた。
次の日はもう議論をやめて二人で美術学校の近くの画廊を見てまわった。
モンマルトルの近くに長い坂があって、歩行者用の階段の途中に水飲み場があり、金髪の子供達が数名、その周辺で歓声をあげて遊んでいた。冬が来ようとしている前の、珍らしく晴れた束《つか》の間《ま》の太陽を楽しんでいるのであった。
「あれ、見てごらんなさい」
久美子がその子供達を指差した。
「ずっと前、小学校に入った頃だったと思うけど、なんだかひどく喉《のど》が渇いて私が水を飲みたいって言ったら、順造兄さんが水道のところへ駆けて行ったけど、栓《せん》が固くて駄目《だめ》だったことがあったわ」
「そしたら、ちょろちょろ垂れている水を掌《て》に溜《た》めて飲ませてくれた」ゆっくり歩きながら、彼女は私と変らない背丈をまっすぐに伸ばして遠くを見る目付をした。
「そう言えば、そんなことがあった」
と応じたけれども、何時《いつ》、何処でのことだったのか、私には思い出せなかった。それでいて、朝日を受けて燦《きらめ》きながら垂れている水の輝き、ランドセルを背負った久美子が乳房に吸いつく小犬のように少しずつ私の掌に溜っていった水を飲んだ姿が、見えてきてしまう。
今、久美子は、帰国を断わった淋しさのなかにいるのだと思いたかった。あるいは逆に、私を慰めようとしていたのであったろうか。
毎日の生活からすれば、私の方がより理性的で、人間の感情の動きをも冷静に計算して行動する習性を身につけていてもいいのに、彼女に会っていると、いつも久美子の方が乾いていて逞《たくま》しいような印象を受けてしまう。日本にいると、久美子の言うとおり、モンスーン地帯の湿潤な空気が作用してしまうのかもしれない。仕事をする際の姿勢と、感情とを使い分けているのだとすれば、私は最も日本的な、彼女の言う「狡《ずる》い生活」を送っていることになりそうだった。
「そう言えば同じ頃、お母さんが正月用に丸髷《まるまげ》を結ったことがあった」
と、私は思い出した。
「大《おお》晦日《みそか》かその前の日に髷を結ってきた彼女を見て、君は怖がって僕に抱きついて泣いたよ。いくら宥《なだ》めすかしても、説明しても、君はお化けだと言って泣きやまなかった。お母さんは困りはてて、とうとう折角結った髪をほどいてしまったなあ。君は子供の頃から変身が苦手だったんだ」
「そうだったかしらねえ、私は全然|憶《おぼ》えていないわ。でもありそうな話ねえ。彼女にはいつも髷を結っているようなところがあって、どうしてもそこが馴染《なじ》めないんだから」
四
街はいつのまにかすっかり雪に包まれていた。律子の部屋にいた時はそれほどに思わなかったが、軋《きし》む階段を降りて外に出ると、意外に積っている。激しく、音もなく、いろいろな形の雪が私の上に降りかかってきた。時々風が立った。
彼女の家の前の坂道は行きかう人影もない。
これまでも、夜遅く彼女の部屋を出てから、私はよく街を歩いた。疲れている日は、近くのホテルまで行って車を拾えばいい。のろのろ歩いていると、自分が地上にいるという感じが湧《わ》いてくるのだ。さっきまで一緒だった律子の匂《にお》いや、タオル地の部屋着を無造作に着て、私の前に洋酒の瓶《びん》を持ち出し、「さあ、今晩は飲もうよ」と楽しげに誘った表情が浮んできたりした。
その日によっては、自分はいつまでこういう生活をするのだろうと思う時もあった。「こういう」というなかには、通《かよ》い夫《づま》のような暮しも、会社での予定が詰った毎日も含まれていた。しかし私は、その一つ一つを取り出して分析はせず、律子を抱いた後の疲れに身を委《ゆだ》ねながら、燈火《ともしび》が洩《も》れてくる通りに面した家の中の気配や、離れた繁華街で渦巻《うずま》いている喧騒《けんそう》の、地鳴りのような響きを耳にして歩いていった。静かであれ賑《にぎ》やかであれ、幸せそうな集団から離れていると、いくらか淋しさを伴った落着いた気分になった。今夜は街の物音も、高い建物の間から遠くの空を明るく染めているネオンの反映も、降りしきる雪に吸収されてしまっていた。それだけに一層、いろいろな想念がむらがってくる。
思いのほか雪が烈《はげ》しいので律子の部屋に引返そうかと考えたが、先刻までの話の内容を思い出すとそれも躊躇われた。近頃《ちかごろ》は彼女を冷静に観察する姿勢が取れなくなっている。それまでは、久美子と充郎のことだけが私に感情の起伏を呼び起す事柄《ことがら》であったのだけれども。
今夜、律子は、夫から離婚届に印を押してもいいという連絡があったと報告した。
「いい女《ひと》が現れたらしいの。彼のことだから仕事にも役に立つ家のお嬢さんらしいんだけど『よかったわね』って言っちゃった。少し悲しそうなふりした方が良かったのかもしれないけれど、私って駄目なのよね」
律子にとっていい報《しら》せであった。美術関係の仕事仲間には彼女の私生活をとやかく詮索《せんさく》する者はいなかったが、夫の実家には旧弊な親戚《しんせき》もおり、戸籍上は妻である律子の行動について何かと口うるさい批評が断えなかったらしい。彼女は六歳になる啓一を、出来るだけ早い機会に引取りたいと願っていたから、「あんな女に子供の養育は委《まか》せられない」と言われるのを内心苦にしていた。かといって、自分に納得のいかない不自由な生活を送るつもりはない。時おり彼女はこうした窮屈に焦立《いらだ》ち、その焦立ちは私に対するあらぬ攻撃になって爆発するのであった。そんなことがあった数日後には、たいてい、「このあいだは御免なさい。あれの前だったの。いつもそうなんだなあ。私って生理の前になると落着きをなくしてしまうのよ。会社じゃそんなことないよ、あなたとの場合だけなのよ」などと律子流に反省してみせた。
彼女の攻撃の矢面《やおもて》に立たされている時、私は浅薄で、うわべの形だけを考えている、愚かしく口うるさい、それでいて他人の欠点を探し出すと妙に道徳家ぶることの好きな世間の代表にさせられてしまう。丸和百貨店の社長でいる限り、そうした配役が時おりまわってくるのは避けられないと覚悟はしているものの、律子にだけは分っていて貰《もら》らいたいと、その都度|辛《つら》い気分を味わった。虫の居どころによってはその配役を拒否して律子と諍《いさか》いになった。しかし、反撥《はんぱつ》してみると、たちまち自分自身の矛盾に足を取られてしまうのだ。それならばお前は、思いのまま生きているのかと、内心の声が反問する。やはり私は社員のことを考え、会社の体面を気にして不自由な生き方をしているのだ。私は彼女の反撃の前で立往生してしまう。
それでいて彼女は、
「せめて死ぬ前の二年ぐらいでもいいから、一緒にいたいなんて思うよ」
などと日頃口にしなかったようなことを今晩は言ったりした。
「結婚するつもりはないのよ。そういう点、私は男っぽいのかなあ。あなたが浮気《うわき》さえしなければそれでいいんだ。でも、お前さんはするなあ、絶対にすると思うよ。そうしたら私もすぐ男を作るからね」
途中から律子の語調は私を脅かすような低い声に変る。半分は冗談で半分は本気だと分る。彼女の唇《くちびる》は少し受け口で、そんな言い方をする時はことさら肉感的な雰囲気《ふんいき》を漂わす。
「でも、あれが出来なくなってから一緒になってもつまらないなあ」
穴の中で自分の艶《つや》のある身体《からだ》の毛繕いをする小動物が、その動作で自ら性的な刺戟《しげき》を受けたように、律子は小さく唸《うな》る。時おり、彼女は私から見て過度に率直であり、かつ具体的だ。毎号、前衛的な論調を掲げて、美術愛好家や絵描《えか》き達《たち》に刺戟を与えている雑誌の編集長という役柄から想像される姿と著しく異っているが、彼女の口からそういった言葉が出ても、さして妙な感じがしないのは、律子が持っている体臭のせいであろうか。たしかに彼女は、かすかな腋臭《わきが》を持っていた。その匂いは身体の状態によって、いくらか強くなったり、全く分らない時もあった。顔立ちも人を寄せつけないように整っているのではなく、大きな眼《め》も左右同じではない。
総《すべ》てが私の母とは反対であるが、それでいて久美子とひとまわり違う酉年《とりどし》なのを知った時、私は妙な気がしたものだ。不和になった久美子と入れ替りに彼女が現われたように思ったのである。いつだったか、
「お前さん、酉年にしちゃ重いじゃないか」
と、私は背中に乗っている律子を、首を捩《ねじ》って見上げながら文句を言ったことがある。
「お前さん」とか「こいつ」などと互に呼ぶ習慣が、いつ頃からか私達の間に出来ていた。その時、私は律子を背中に乗せて部屋のなかを這《は》っていたのである。二人とも少し酔ってはいたけれども。この運動はいつだったか律子が思いつき、それ以来私達のあいだで悪女遊び≠フ一つと決められたものである。私の仕事が詰っていたり、外国への出張で二週間以上も会えなかったような後で、律子は刑罰として私に馬になることを命じた。それは、世間様の良識の代表≠ニして批判の矢面に立つ役よりは好ましいものであった。
長く会わないでいて顔を合わせると含羞《がんしゆう》の表情を見せるのは、日頃|活溌《かつぱつ》に振舞っている律子が、本当は内向的な性格を持っているからか、あるいは無意識の媚《こ》びなのか分らない。妙によそよそしい口のきき方をするのは怒っているからではなく、どんな態度で接したらいいのか戸惑っているからだとは、頻繁《ひんぱん》に会うようになってから分ったことであった。そんな含羞をふっ切るのに「今晩は馬か?」というような言葉を私は選んだ。一年ほど前に腰を痛めてからは、この悪女遊び≠ヘ言葉だけのものになったけれども、そう言われると「うん」と律子はニッコリする。私達の間にあった空白の時間に雪崩《なだ》れ込んだ、たとえば編集の仕事の疲れとか、私の肩書きにまつわる評判とか、その他もろもろの夾雑物《きようざつぶつ》は消え失せる。
この悪女遊び≠ホかりでなく、律子に会っていると、私はよく、子供じみた演技をして見せたい欲求に取り憑《つ》かれた。それを自分の穴倉から観察している彼女がいる。私の演技は、鳥が雌を誘うのに翅《はね》を展《ひろ》げるのと違って、日頃の窮屈を発散する体操に近かった。長距離を息せききって走ってきた走者が、テープを切ってから、フォームもリズムも崩して駆けてみせる、平常状態に戻《もど》るための身体慣らしの動作とも言えた。
「まあ、一月ぐらいまではいいけれど、半年とか一年会えないんだったら、我慢しないからね」とよく律子は念を押した。日頃肩を張っているだけに甘えが溢《あふ》れ出るのかもしれなかった。貿易商であった父親の生活を見てきたからかもしれないという気もした。それでいて彼女の方は、職業柄、年に一、二度は外国の美術展の取材に行ったり、パリやニューヨークなどの美術界の様子を調べに行き、そこで絵描き達に会ってくるのであった。
彼女は東南アジアやヨーロッパから綿や絹の織物を輸入している横浜の古い家に育った。生れたのはジャワである。
「私ね、インドネシアの血が混ってるのかもしれないのよ。ほら、よくあるでしょう。犬でも一度違う系統のがかかっちゃうと、その次に生れてくる血統書|附《つき》の純粋種の雄との間の仔《こ》にも影響が出るっていうの。でも、そうすると母の方に間違いがあったことになるなあ、それはまずいなあ」
などと律子は話したことがある。そう言われてみれば、内部から透けてくるような皮膚の浅黒さは、三つの頃までいた南国の太陽のせいかと思われる。その後、焼け残った横浜の家に一家は戻った。写真が幾枚か律子のところにあったが、明治の頃の木造建の大きな洋館だ。昼でも、三階まで通っている階段ホールは暗くて、明り取りの窓に嵌《は》め込まれた南蛮ふうのギヤマンの赤や紺の色|硝子《ガラス》を透して落ちてくる光が鈍く階下を照していたという。律子が美術雑誌の編集長として、また展覧会の演出や、若い画家を発掘する面でも才能を認められるようになったのは、こうした環境で育ったお蔭《かげ》であろう。
「一緒に住むんだったら、海の見えるところがいいなあ。あんまり山に囲まれた入江みたいでない海」
などと今夜語ったのも、やはりジャワや、かつての横浜の海の記憶があったからに違いない。
「まあ、それはそん時の話よね。私も我儘《わがまま》だし。でも、尽すことは尽すよ、そうなったら。だけど、やっぱり今のままの方がいいかな、よさそうだなあ」
と、彼女は語尾にためらいを引張って言い、私は久美子が日本に帰った時に使うための離れが工事にかかったのを思い出していた。
雪のために街の物音が消えていたからか、今晩の会話はいつになく静かで、悪女遊びをはじめる雰囲気ではなかった、と思い、途端に足を滑らせて雪に手をついた。風が道に沿って吹いてきて、地上に落ちかかった雪を立ち暗《くら》んだように舞わせて過ぎた。子供の頃は降りしきる雪に閉じ籠《こ》められ、薄明に沈んでいる家並や風景を見ると、心の中に憧《あこが》れの気持が疼《うず》いてきたものだった。今、私は何に憧れているのか分らなかった。おそらく対象は何もないのだ。
私は足をふらつかせながら、用心して少しずつ坂を上っていった。それほど飲んだ覚えはなかったが、意外に酔が廻《まわ》ってきた。歩いているのは自分なのに、自分に似た男が背中を見せて遠離《とおざか》ってゆく感じがあった。その先に赤い火が見えるはずだと思って霏々《ひひ》と降る雪に目を凝らしたが、あたり全体がぼんやりと明るいだけであった。この坂を早く上りきってしまわなければならなかった。死んだ父も同じように考えて悪戦を続けたのだと思った。昔あれほどはっきり否定していたのに、私はいつの間にかなし崩しに同じ経営者の道に踏み込んでいるのだ。そうして雪に足を取られ、ただ目的もなく前へ進もうとしている。
私は立止って行く手を見究めようと顔をあげた。頬《ほお》に隙間《すきま》なく雪が刺さってきた。針のようだった。斜上方に暈《かさ》を被《かぶ》った丸い明るい輪が重なりあって浮んでいた。それは降りしきる雪に霞《かす》んで光が滲《にじ》んでいる鈴蘭燈《すずらんとう》だった。律子の家の前の道に、こんな街燈はなかったはずだ。雪に包みこまれて、考えながら歩いているうちに、方向を失って、いつもと違う道に入ってしまったのだと思った。そう言えばさっきから何回も転んだ。下ばかり見て歩いていたのだ。かすかな狼狽《ろうばい》が胸の裡《うち》に動いた。しかし、野原や森のなかなら、そうしたこともあり得るだろうが、街の中では変だ。子供の頃よく見た、歩いても歩いても出口が見付からない迷路に入りこんだ夢を思い出した。不安から逃れようとして、雪が常日頃は隠れている街の姿を私の前に現わしてくれたのだと考えた。
何時だったか、少し続いていた女と別れた日、通い慣れた繁華街の外れの道を歩いていて似たような経験をしたことがあった。女の家は町のまん中にあった。もう当分、このあたりに来ることはないだろうと思いながら足早に歩いてきて、ふと顔をあげると、目の前に見たこともない暗い路地が口を開けていた。ふらふらと踏み込んでみると、突当りに山門が見え、その奥は広い境内を持った寺であった。すぐ近くの喧騒の町が嘘《うそ》のようで、無人に見えるのに、何処《どこ》からか低く読経《どきよう》の声が流れていた。日常の、ほんの一本奥に全く違う空間が静かに横たわっている。律子と過す時間は、もしかしたら同じように日常の時間の一本外を流れているのだろうか。そのなかで彼女は男っぽい口をきき、私を求め、悪女遊びをして、私達は互に架空の生物になっているのかもしれない。啓一が戻ってきて、律子とのあいだに濃密な円居《まどい》を作るとしたら、それは山門が閉まってしまったようなものだ。彼女が今夜見せた、珍らしく躊躇《ためらい》の尾を曳《ひ》いた話しぶりは、この事と関係がありそうだ。山門を閉めるつもりはないものの、私との関係が、何か頼りない抽象的なものに思われ出したのだろう。
あの頃はまだ若かったから、一人の女との別れは、新しい相手に出会う機会が展《ひら》けたのだと、すぐに自分を慰めることができた。会社の仕事についても、まだ別の生き方を選ぼうと思えば、転職は可能だと思っていた。そうして、いつか二十数年が過ぎた。そのあいだ一所懸命に仕事をしてきた。しかしそのことよりも、今夜は周辺にいる誰《だれ》か一人でもいいから、私が幸せにしてやったと自信を持って言いきれる人間を見付けたかった。男でも女でもよかった。だが頭に浮んでくるのは別れた妻であり、久美子であり、病気が思わしくない充郎の顔である。
「あなたは、女を幸せにするのが下手なのよ」
律子はさっき私を前にして、事もなげにそう言った。前にも聞いた言葉だ。私に、どこをどう直せと言うのではない口ぶりが、諦《あきら》めを正直に伝えているようだった。
「それは、あなたが悪いんじゃなくて、どうもそういう具合になっているんだなあ。本当の不幸って、本人が不幸と思ってない場合のことよね。そう言うときつくなりすぎるけど、私もそうかもしれないからね。あなた、ネクタイ外したら」
ブランデーグラスを両方の掌《て》で弄《もてあそ》んでいた律子は、そう言ってむきなおり、襟元《えりもと》に手を伸ばした。
「この方が楽でしょう。そうそう、あなたにセーター買って来たんだ」
それから少し経《た》って律子は、
「人生の最後の二年でもいい、一緒に暮したいって思ったりもするけど」
と言ったけれども、それは西垣順造という男の中身が変るのを待つという意味ではなかったかと、私は彼女に貰ったセーターの襟に首を埋《うず》めて雪のなかで考えた。
やがて律子は話題を変えようとでもするように、少し前に彼女が企画した、ある新人の個展の話をした。彼は長い不遇の時代の後に最近ようやく権威のある賞を貰った。彼にとっては、その直後の最初の展覧会であった。飾り付けから、会場での茶菓の接待まで家族総出の努力であったという。夫人は会場に着てくる洋服がなくて、親戚から借りて来たと語るのも楽しそうで、最初に雑誌で彼を紹介したのが律子であったから、自分も嬉《うれ》しかったと、日頃の活気を取り戻して語った。そこへ、長い間、夫人の友人だった女流作家が男の子を連れて絵を見に来た。彼女は最近離婚したばかりで、週刊誌にもその記事が出ていたのを私も覚えていた。彼女は取材で近くインドに行かなければならないと言い、それを知っているからか小学生の男の子は機嫌《きげん》が悪かった。女流作家はその子を叱《しか》りながら、彼女が受持っているコラムに展覧会のことを書きたいと話し、彼の絵の特徴などを律子に確認した後で四人で喫茶店に入った。これから筆一本で男の子を育てていこうとしている女流作家の様子、また、この際、夫の絵描きとしての評価を、しっかりしたものにしたいと切望している夫人の話しぶりなどを見ていて、
「私、あんなふうに緊張して生きてるかなあって思ったわ」
と律子は述懐した。啓一が戻ってくることが影響しているのであろう、これも、いつもとは違う考え方のように私は思った。
今までも彼女は月に一、二度は子供に会っていたようで、だから母と子の気持は繋《つなが》っていて、久美子の場合に較《くら》べれば恵まれていると言えそうだ。
「啓一が私のところに来たいって言ったんだって」
「小さいうちは絶対その方がいいよ」と、私は充郎のことを想《おも》いながら断言した。
「僕《ぼく》だって小学生の頃は母親だけだった」
律子は完全に元気を取戻し、するといつもの、かすかに体臭を発散する穴倉の女主人の感じになった。
「ねえ、飲みましょう。今晩はお祝いなんだから」
律子は立上って戸棚《とだな》から赤い葡萄酒《ぶどうしゆ》を一本取り出し、私が腰を下ろしているベッドの脇《わき》の絨緞《じゆうたん》の上に、ブランデーの瓶《びん》と並べて置き、男のように胡坐《あぐら》をかいた。
私を送り出した後、彼女はこれからのことをいろいろ考えているのであろうと思うと、彼女の部屋が早くも侵入しにくい聖域になったようで引返すことが躊躇われた。
やがて律子と啓一が作り出す空間は、私が通り過ぎている戸を閉ざした家の中のように暖かい明りに照し出されているに違いない。子供が参加すれば、一人の女が穴居生活を営んでいるように見えた部屋の性格が変ると思われた。
雪に滲んだ街路燈にぼんやり浮き出している街は静かだった。突然、ドサッと雪の塊が落ちてきて肩にかかった。電線に積っていたのが落下したのだ。それを払い除《の》けながら、五十を越してこんなことに思い惑うのはずいぶん間の抜けた話だと考えた。ただ、私は生きてゆく上での何かの手懸りが欲しいだけなのだ。それでいて昼間は自信に満ちた様子で経営の采配《さいはい》を振るっている。
丸和百貨店の古いキャッチフレーズに皆様に幸せをお届けする丸和です≠ニいうのがあった。私が社長になってから、それは使っていないが、それでも外食産業の検討の際などは似たような考えを下敷にして議論している。会社での毎日は、幻想を演出して見せる努力の連続だ。夢を創《つく》っていると言えば聞えはいいけれども、人々を地上から引離す作業に精を出していることになりそうだ。しかし、それが丸和百貨店に要求されている役割なのだとすれば、私の悪戦苦闘にも意味があるのかもしれない。何処かで何かと馴《な》れ合っている感じはあるけれども。
漸《ようや》く坂を上りきったが、斜前方に見えるホテルの車寄せには一台の車も人の影もなかった。家までは此処《ここ》から坂をもう一度下って、ふたたび上って約二|粁《キロ》はある。たとえ空車が来ても、この雪では坂道を嫌《きら》って乗せてくれないだろう。律子の部屋の鍵《かぎ》を探そうとポケットに手を突込んでみたが、いつのまにか鍵が失《な》くなっていた。雪のなかに倒れ、態勢を立て直そうと|※[#「足へん+宛」]《もが》いているうちに落したらしい。
雪の勢が少し弱まったようだった。彼女はもう寝ているだろう。私は小便をしようとあたりを見廻し、比較的雪の少い電柱に近寄った。湯気を立て、雪のなかに点々と黄色い穴が出来るのを見ながら、いつだったか一緒に風呂《ふろ》に入っていて、律子が私の見ている前で小用をたしたことがあったのを思い出した。終って、
「今、何していたか分る?」と聞くので「トイレに跨《またが》っていた」と言うと、「馬鹿《ばか》ねえ、オシッコしていたのに」と説明した。律子をいとおしく思う気持が動いてきた。「君は幸せにならなくちゃいけない。その資格があるよ」と叫びたかった。
眠っているのならそっとしておいてやろうと思い、引返さずに歩きはじめた。疲労を覚え、からだが芯《しん》まで冷えてきたのを感じた。
広い道に出たので、雪のあまり積っていない車道の中央を歩いていった。人間が自由だというのはどんな状態を指すのだろうと考えた。久美子は思いのままに男を愛し、自分流に生きているように見えるが、どこか意志の力でそう振舞っているような感じがあった。律子の場合とは少し違うようだ。
ふたたび雪が烈《はげ》しく落ちはじめたが、今度は大きな牡丹雪《ぼたゆき》だった。私の視野に、荒れ狂う北の海を、波に見え隠れしながら、なお航行をやめない船の影が浮んできた。雪は暗夜の北海を埋めつくして、天地の区別もつかない烈しさである。赤い燈火がその中に沈み、また波の上に出る。船体が軋《きし》み、鳥のように躍り出たり奈落《ならく》に引込まれたりする。それなのにエンジンは全開のままだ。時々、スクリューが空をきる。
「なんという分裂だ」私は転びそうになりながら思わず唸《うな》った。
昨夜《ゆうべ》読んだ『パンセ』に、
――想像力、それは人間におけるあの欺瞞的《ぎまんてき》部分、誤りと偽りとのあの女主人、いつもわるがしこいときまっていないだけに、それだけいっそうわるがしこいものである――
という箇所があった。
――それがその主人公の心を、理性が与えるものとはまるでちがった十全な満足をもって満たす――
ともパスカルは述べている。十七世紀の半ばに、三十九歳で死んだ彼は、生涯《しようがい》理性を惑わせる世間の通念、愚かさ、人間の過度な情念の働きと戦った。少くとも、私はそう『パンセ』の著者を理解している。その彼の検討の対象に雄弁も想像力も入っているのだった。
会社の机の上には三つの紙挟《かみばさ》みがあり、外部からの通知、社内の議事録や報告、それに私信に分類して束ねられてある。毎朝のことであり、私は会社に着くと一時間近くの間に手早くそれらに眼《め》をとおし、簡単に決裁できるものと、少し考え、あるいは幹部と相談すべきものとを区分けする。たいてい数種類の案件だけが手もとに残って、その他《ほか》は判を押して秘書に返される。書類は文書課にまわされ、将来の参考や証拠として保存される。事故が起った時、決裁の欄に判が押してあれば、それは私の責任になる。ということは丸和百貨店の責任になるということだ。私は一枚一枚の書類が喚起する個人的な感情や、各々《おのおの》の通知が背後に曳摺《ひきず》っているであろう具体的な事情に想像力を働かせることなく、丸和百貨店の利害に照して次々に結論を出さなければならない。
外部からの通知のなかに、役員交替の報告が一通あった。有力取引先のその幹部の異動については、社内に烈しい確執があったと聞いている。名前を見れば、百貨店との取引を重視し、量販店に対しては消極的な派閥が勝利を占めた模様である。表面は政策の違いによる争いのように伝わっているが、実際は一族のあいだでの利害や感情の対立が介在していたのではないかと思われる。しかし結果は丸和百貨店にとって歓迎すべきものであった。敗れた者が、どんな口惜《くや》しさを噛《か》みしめているかを考える必要はない。
続いて、ある割烹料亭《かつぽうりようてい》が閉店するという報《しら》せがある。
――今回、一身上の都合により閉店させていただくことになりました。楽しかったこと、苦しかったこと等、想い出もたくさんございますが、とにかく一つの区切りとして十二年間大過なく商売ができましたことを御礼申し上げ――
という文字を走り読みする。この手紙は、女将《おかみ》に若い恋人ができ、久しく後援していた財界人と別れたことを意味している。私自身、ある女とこれに似た関係になり、途中で、それが父の閲歴に似ているのに気付いて逃げ出したことがある。女は心変りを責めたが、私は自分の心境の変化の理由を、うまく説明できなかった。
この通知が出るまでには、欲が絡《から》んだ軋轢《あつれき》があったのであろうが、私には自分の恥しい経験を想起して時間を潰《つぶ》す余裕がない。いずれ仲間の宴会などで話題になるだろうが、それは狭い世間での出来事だ。
叙勲を受けたのでお祝いを贈ったことへの先輩の礼状もある。私は、孫が音楽に凝ってバンドを組織したのを恥しがっていたその先輩の顔を、「それは少しも恥しいことじゃありませんよ」と真顔で窘《たしな》めるように言った自分の声と共に思い出す。丸和百貨店が出資しているデザイン会社の決算報告書もある。帳尻《ちようじり》の数字を見ると、業績は順調に伸びているようだ。やがて正確な経営分析は、関連会社管理室が作製するだろう。
これらの通知の数々は、部屋の窓下に拡《ひろ》がる町並みと同じように多様で、変化に富んで犇《ひし》めいている。一つ一つが持っている具体性について思いを巡らし、それらの結末がもたらされた経緯について考えるのは、パスカルの言う想像力の一種かもしれない。少くとも経営者にとっては、あらずもがなの空想癖に属する事柄《ことがら》だ。
三百年以上|経《た》って、自分の書いたものがこんなふうに読まれているのを知ったら、パスカルはきっと苦笑するだろう。私にとって、毎晩読むものは、実は彼が批判しているモンテーニュでも、ラ・ロシュフコーでもよかったのだ。たまたま書店で手にとったのが『パンセ』だっただけだ。
カジノの経営を思いたった時、久美子を動かしていたのは、やはりこの想像力だったのではないかという気がする。新しい機能的な未来都市の構図に嵌《は》め込まれたロココ風のカジノの建物は、それだけでもう充分に人々の空想を刺戟《しげき》すると思われたに違いない。
彼女がこの計画に参画したのは、帰国の説得を最終的に拒絶してから間もなくのようであった。一年近く検討したあとで、久美子は突然東京に現われた。話を聞いて、私は漠然《ばくぜん》と危惧《きぐ》していたことが、思わぬ方向に具体化したのに驚きながら、彼女がそのように言う背後には、新しい恋人が出現したのではないかと恐れた。その前に紹介された画家志望のユーゴの青年とカジノの事業とは、どう考えても結びつかない。
「あれはどうした」と聞くと、久美子はおそらく私がそのように気をまわすだろうと予期していたふうで、にやりと笑って、
「別れたわ、順造兄さんが言ったように、今度はちょっと梃摺《てこず》りました」
と、手短かに答えた。
彼女が東京に来たのは、カジノ建設の資金を作るのが目的だった。場所はパリから百粁ほど離れた大西洋岸で、自分はその建築プランに参画し、出来あがれば支配人に就任する予定だから、一億ほどの資金があれば充分なのだ、と事もなげに言う。
この計画は、隣の町に観光客を奪われた市長が、都市の再開発で頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》しようと考えた結果なのだと、久美子は熱っぽく説明した。国際的にも有名な建築家のグループに依頼して出来たのがこのカジノの案で、自分はその若い建築家の仲間なのだと解説し、部厚い事業|目論見《もくろみ》書を私の机の上に置いた。
「もし、どうしても資金を作りたいのなら、業種から言っても丸和不動産の社長に相談したらいい。僕は反対だ」
私は書類を見もしないで宣告した。彼女の話を聞いているうちに苛々《いらいら》してきたのである。私は何事にも慎重な伯父が資金を出すはずがないのを知っていた。彼は丸和百貨店の拡大計画にも不安を感じて、それまで持っていた株を金融機関に売却してしまったほどなのだ。新しい計画を相手に賛成させようとする時、人々がもっともらしい作文を作るのに私は慣れていた。やりたいと思う気持が先にあって、説明は後から作られる。迅速な判断はすでに身についた習慣と言ってよかった。妹の久美子までが、自分の事業は天下の正義だと信じ込んでいる慈善団体の幹部のように、私を単純な資金提供者として扱ったのも不愉快であった。
「理由は簡単だ。外国人の君がカジノをやる必然性がないからだ」
そう言った時、頭には父の言葉があった。父は生前、「事業は数字ではないぞ、筋だ」とよく言った。場所が丸和百貨店の社長室であったのも、私の頭の切り替えを助けていたようだ。
「何か誤解してるんじゃないかしら、この事業の収益性は確実なのよ。大きいのよ。フランスでも、カジノの権利はそう簡単に手に入らないんです。Nという弁護士とも相談して、私の立場ははっきり保証されているのよ」
久美子は敗《ま》けずに抗弁し、議論になったが、会話は噛み合うことなく、彼女は私のカジノについての無理解を歎《なげ》いた。
彼女にとって、夢中になれるものがあったら、それはカジノでなくてもよかったのではないか、いや、本当に愛情を注げる相手がいたとしたら、彼女の行動は変ったであろうと思ったが、この際それを言うのは、必要以上に相手を傷つけそうなので口には出さなかった。
随筆集を出したらとの、以前の私の勧めは、すでに拒否されていた。二十年以上も外国にいるので、日本語で本を出す自信がない、毎月ファッション雑誌に送っているパリ便り≠焉A本にする価値があるとは思わないと言うのがその理由だった。彼女は本心を偽って、不当に頑《かたく》なな態度を取っている感じがした。そうなった過程を考えると、丸和百貨店のために、長年久美子を駐在部長として働かせた私にも責任があると悔まれた。身を守るためにつけなければならなかった鎧《よろい》の下から、孤立して痩《や》せた心が垣間見《かいまみ》えるようで、私は表面上は賛成しても資金は出さず、適当に励まして帰すという世慣れた態度を取ることができなかった。
彼女は、それなら独力で資金を作ってみせると言い切った。幾つかの銀行から問い合せがあったので、それ以後の久美子の動きが分った。私は事情を説明し、丸和百貨店とフランスでのカジノ計画とは関係がないと説明した。
「分りました。どうもそうではないかと思いましたが、いや失礼」
等《など》と返事をする銀行の担当者の安堵《あんど》したような口ぶりから、久美子の提案が彼等《かれら》にどんな印象を与えたのかが明らかであった。
結局、彼女は父から貰《もら》った別荘を売り、予定したのよりは遥《はる》かに少い資金を持って帰っていった。
「これから飛行機に乗るんです、いろいろ御心配をかけました」と簡単な電話があった。残されていた財産を処分したので、日本での彼女は無一文になった。
電話が切れてから、彼女がはじめてパリに旅立つ日、飛行場まで見送りにいったのを思い出した。西垣の家から、まず久美子が父の軛《くびき》を離れて自由になる晩であった。安堵と羨《うらやま》しさの気持が交錯して彼女の傍《そば》にほとんど無言で立っていた。結核からの回復がまだ充分でなかった私は、早く一人前の身体《からだ》になって、久美子の後を追いたかった。
「よく御大が許しましたね。僕はつい先刻まで久美子さんの渡航はとりやめになるんではないかと思っていましたよ」
同行する美術|蒐集家《しゆうしゆうか》が言った。
「向うに行ったらね、気をつけるんですよ、いろいろと。日本とは違うんだから。――さんから離れて一人で行動したら駄目《だめ》よ」
これだけは親として言っておこうと思いつめた顔で、母は幾度目かの注意を久美子に与える。
「大丈夫ですよ、僕が監督するから」
資産家の息子で、坊ちゃんのまま老人になった美術蒐集家が、生来ののんびりした口調で母に答える。彼は肥《ふと》った身体を動かすのが億劫《おつくう》そうに首だけ動かして久美子を見る。その動作は、あわただしい空港待合室のなかで彼をひときわ大人に見せる。さすがに久美子の頬《ほお》は上気して、母の注意は上の空だ。
「久美子さん、早くいい作品を書いて下さい。パリ通信でも何でもいいですから」
彼女が所属していた同人雑誌の主宰者が激励する。
「どちらが民族主義のエネルギーを掴《つか》むかが政治情勢を決定的に変えるんです。アラゴンの詩や書いたものがあったら送って下さい。お願いします」
そう言ったのは私と一緒に学生運動をしていて大学に残った仏文の友人である。彼とは久美子も面識があった。
次々に離発着する飛行機の便名と行先が放送される。大勢の人々が私|達《たち》が陣取っている部屋の前を行ったり来たりしている。子供を叱《しか》る母親、旗を立て群を作って移動するツアーの農民、抱き合ってキスを交わす外国人。それぞれの感情や性格が剥《む》き出しになっていて私の気持も落着かない。ゲート前の広場の片隅《かたすみ》で万歳の声が起る。
家に帰ると父は布団《ふとん》の上に胡坐《こざ》して私達の戻《もど》るのを待っていた。「無事に出発しました」と報告すると「そうか」と言ったきりで、くるりと後をむき、やがて身体を横たえながら、「順造、まあ久美子を頼む」と私の方は見ないで寝てしまった。もう|わし《ヽヽ》は見放したから、後はお前が面倒見てくれ、という意味のようであった。
久美子は父にとって一番手に負えない小癪《こしやく》な存在であったろう。一族のなかで彼女ほど公然と西垣浩造に逆らう行動を取った者はいなかった。父は久美子に腹を立てながら、しかし自分の血の影響を認めて、心の何処《どこ》かでは許している感じがあった。私に対する場合とは逆だ。
丸和不動産の社員を煽動《せんどう》した学生時代の私の行動は伯父に発見されて不成功に終っていた。働きかけた社員の一人が伯父の遠縁の男で、たちまち露見してしまったからである。この話は、少し時間が経《た》ってから、おそらく間接的な方法で父に伝えられたのであろう。慎重な伯父は、直接、御注進に及ぶような方法はとらなかったらしい。
事件からだいぶ経って父が、
「このあいだ公安調査庁の××が時局の説明に来たが、そのなかにお前がアカになっている噂《うわさ》があるという話があったぞ」
と言ったのでそれが分った。珍らしく父はそれ以上話さず、追及することもなかった。下手に追えば私が意地になって反抗しそうに感じていたからかもしれない。伯父の遠縁の男に働きかけた間抜けさが救いと言えば救いであったろうが、油断のならない奴《やつ》、との警戒心を植えつけたことは否定できない。
(こいつは少しおかしい、要注意人物だ)と内心思いながら、素知らぬ顔で仕事を続けさせるようなことは、ままあるのだと、経営者になってからの私は、その当時の父の胸中をおもんぱかった。「身内を一番警戒しろ」と言ったのは父であったが、その訓戒の実例が足下にあったと知って、やはりやりきれない気持になったはずだ。
こうした私との関係に較《くら》べれば、父と久美子の間は、少くとも彼女がフランスに去るまでは、互に皮膚の温《ぬく》もりを感じ合っている対立であった。
その父が心臓発作で倒れた時、久美子が東京に来ていたのは「虫が報せたのではないか」と母も訝《いぶか》るほどの偶然であった。
父は丸和不動産が新しく買収した伊豆《いず》の山を見に行こうと、東京駅の改札を通ったところで発作を起した。傍には、お伴《とも》を命ぜられたので遊びに行けず、不貞腐《ふてくさ》れた郷里の娘が附添っていた。
「御大が気分が悪くなって倒れた」
と、父の秘書から出先に連絡が入った時、私は広告費の値上げ問題の折衝のために新聞社を訪れていた。
三十分ほどして念のために東京駅に廻《まわ》ってみると、父はまだ改札口の横の国鉄職員休憩室で横になっていた。これはちょっと普通のこととは違うな、という気がした。私の顔を見て「脳溢血《のういつけつ》か」と聞くので、「いえ、どうやら少し強い貧血らしいですよ」と、咄嗟《とつさ》に無難な返事をした。自分の父親が脳溢血で急逝《きゆうせい》したので、父はそれだけを心配しており、心臓病は眼中になかった。心臓の強い男≠ニいう世評をひそかに自認していたから、医学的な心臓についてもなんとなく安心していたのであった。
父は私と前後して到着した救急車で大学病院に運び込まれ、医長の診断を受けた。やがて医局に呼ばれた私は、心臓の略図を書いて説明する医師から、容態は重大であり予断を許さない、と宣告された。
夕方、それまで喰《た》べたものを全部吐いた。強心剤を打ち、機能が回復するのを待つしかなかった。その晩は父も少し眠った。母が来て看病の態勢が整えられた。彼女は緊張していて、むしろ張切っているように見えた。一週間ぶんの着替え、便器、水差し、それに短歌を書きつけるノートを持って来ていた。
その頃《ころ》になると、私達は入院が長くなりそうだと感じはじめていた。
久美子が東京に着いたのはその翌日だった。父の意識はまだはっきりしていた。花瓶《かびん》に差してある花に明るい朝日が射《さ》していた。久美子の顔を見て「何しに来た」という顔をした。彼女が発病を聞いて駆けつけたと誤解されないために、
「海外駐在部の定期会議です」と私は適当な説明をした。
「お前は会議が好きだな」と父が小さな声で文句を言った。
「会議をしたからといって知恵が浮ぶものではない。責任が曖昧《あいまい》になるだけだ。決断は一人でするものだ」と、常々主張していたのである。
心臓の機能は回復せず、足の血管を切開して強心剤を注入することになった。寝台に両脚を括《くく》りつけられ管が通されてみると、父は完全な重病人の姿になった。翌日の昼頃から時々意識が混濁しはじめた。
私達よりも会社の幹部の方がより楽観的だったと言えるだろう。長いあいだ、ひたすら指示に従って働いてきた彼等には、父が死ぬとは考えられなかったし、考えたくない精神構造になっていたのだ。ただ林田悟郎はいち早く病院に現れて執拗《しつよう》に病状を尋ねた。治るかどうかについて通り一遍の説明では満足せず、もとどおりに仕事ができる状態にまで回復するのかと、医者にも質問を重ねたらしい。
「まあ、この二、三日が山ですけど、大丈夫でしょう、御大のことですから」
その都度私は判でついたように答えた。林田の対応で私は逆に父の病気の意味を教えられたような感じであった。医師と相談して私と母以外には病状を伏せておくことにした。林田は病院で久美子と顔を合せたが、二人とも挨拶《あいさつ》もしなかった。情報を集め終ると、林田は風のように姿を消した。
昏睡《こんすい》から醒《さ》めて病室に私しかいなかった時、父は「――を頼む」と郷里の娘の名前を口にした。また「××はちゃんとやるかな」とひとりの財界人の名前をあげた。その頃、ある国有財産の払い下げに父は熱心で、その財界人は何時《いつ》、誰《だれ》に払い下げたらいいかを決める審議会の委員であった。後年、そこに超高層ビルが建ち、そのなかの一部屋が社長室になったのである。
「今晩は私に看病させて下さい」
酸素吸入器が持ち込まれ、誰の眼《め》にも確実に病状が悪化したのが明らかになった夕方、急に久美子が言い出した。母も私も三日目に入ってかなり疲労していた。
「じゃあ、私と久美子と交替でここに寝ることにします。順造さんは家に帰って休んでちょうだい。朝は少し早く来てね、引潮は六時ですから」
と母が妙なことを言った。後になって、潮の流れが変る時に人間は息を引きとるという言い伝えがあるのを知った。その時、母はすでに父の死を覚悟していたのであった。
夜半、目を覚した父は手ぶりで久美子に酸素吸入器を外せと何回も指示した。自分を苦しめているのは枕元《まくらもと》を覆《おお》っている透明なビニールの箱と、その中央から突出て鼻と口にあてられている黒いゴム製のマスクだと思ったようだ。止《や》むを得ず看護婦に来てもらって外すと、父は寝台の上に起き上りそうにして、「久美子、家へ帰ろう」と言い、ふたたび昏睡に陥って、もう意識は回復することがなかった。後で彼女が話したところによると、それから父は何度か譫言《うわごと》を言い、その意味は不明であったが、彼女が見たこともなかった優しい表情が時おり死相を覆うようにして現われたと言う。
私が早朝病院に行くと、すでに母の指示によって次々に近親者や会社の幹部に連絡がとられていた。医長が部屋に入ってきて聴診器を胸に当てはじめて不審気な顔になった。父の首が突然ぐらりと横に倒れ、口から茶褐色《ちやかつしよく》の、見るからに苦そうな液汁《えきじゆう》が枕に垂れた。医長がゆっくり聴診器を耳から外し両手を合せた。待っていたように、そこここで泣き声が起って私は父が死んだのを知った。君子と郷里の娘の声がひときわ高かった。医長は腕時計を見て絶命の時刻を告げた。「八時三十五分、永眠されました」と落着いた低い声だ。母が父の上に覆いかぶさって診察のためにはだけた胸に耳をあてた。父の膚《はだ》のぬくもりを最後に確かめようとしたのかもしれず、その動作で、絶えて見せたことのなかった愛情を示したのかもしれなかった。すでに七十五年動き続けていた心臓はこと切れていた。
アメリカの駐在部長から、充郎が強制送還される危険があると報《しら》せてきたのは、久美子がカジノの資金集めに不満足な結果を持ってパリに戻《もど》って間もなくであった。充郎は進級に必要なだけ授業を受けず、成績も悪かったばかりでなく、夜になると通話料先方持ちの電話を四方八方に掛け「学園内において正常な人間関係を形成する能力に欠け、治療を要す」と断定されたのである。その上、放校処分のごたごたのなかで学生ビザの書き替えを怠ったために不法滞在の扱いを受ける始末になった。それまでに友人達から借りた金も、かなりな額になっていると言う。充郎のことだから、強制執行のためにポリスが踏み込めば、逃げ出してどんな事態が起るとも限らない。うまく逃げたとしても、その場合は行方が分らなくなってしまう危険がある。ヒッピーの群に入ったりしたら、まず発見は困難であろう。今のうちならば、よく事柄《ことがら》を言い聞かせて、一度日本に帰した方が安全と思う、と言うのが駐在部長の意見であった。
私は彼に、日本へ送り帰す応急措置を取ってくれるよう依頼した。充郎の身のふり方について、親身になる人間は、私と母以外アメリカにも日本にもいないのであった。
帰国した翌日、とりあえず泊ることにしたホテルで充郎に会った。すでに丈は私より高く、成人の年齢を超えていて、髪は燃えるような赤毛に染めた蓬髪《ほうはつ》である。
「失敗だった。事務的なミスだ。だいたい入った学校がいけなかった。僕《ぼく》に合わないひどい大学だった」
かなりたどたどしい日本語でそう語る彼は、私の方を向いているのに、眼の焦点は私を通り越して遠くに結ばれている気配である。
「ここのホテルは嫌《きら》いだ。ハッシュビーフがない。僕が毎朝喰べるものなんだ。――が脅かすのがいけないんだ」
と駐在部長を非難するので、
「だけどね、強制送還になるところだったんだよ」と窘《たしな》めた。充郎は目玉を剥《む》いてこちらを見たが、二つの瞳《ひとみ》はやはり私の顔の上で焦点を結ばない。
「さあ、どうですかね」
突然、それまでのとは違った低い声が喉《のど》の奥から洩《も》れた。一瞬充郎の表情は正気を取り戻し、林田悟郎に似た青年の顔になった。いままでの分裂した印象が演技だったのではないかと思われるほどだ。父親より顎《あご》が張っているのは、久美子を通して私の父の遺伝が出ているからだろう。見ているうちに充郎の顔にはまた雲がかかってきた。
私は大学病院にいる友人に精神科の医師を紹介してもらった。充郎の様子を話して診断を依頼すると、
「むずかしいケースのようですね」と首をひねって、
「普通考えられているほど、常人と異常者の区別ははっきりしたものではないんです。人間が正常と言われる状態を獲得するには、何億という要素が整った場合なので、一部の脳細胞の発育が何等《なんら》かの原因で遅れて跛行《はこう》が生じると、その程度によって正常と異常が区別されるのです。科学的治療といっても、闇夜《やみよ》に手探りで歩くようなものですよ」
と心細いことを言った。
日本で治療を受けて、正常との証明が得られなければ、再渡航のビザの取得が困難なのだと説明すると、充郎は意外に素直に頷《うなず》いた。アメリカ式の生活を主張する時の頑《かたく》なな態度とは、はっきりした対照を見せて、小学生のような素直さである。
入院の日、私は充郎を連れて郊外の分院に行った。途中で厭《いや》がって暴れたりするのではないかと恐れていたが、病人扱いにされる可能性があるなどとは考えてもいない様子で、むしろ検査が済めばまたアメリカに行けると、自分から受診を急ぐ素振りであった。
鉄格子《てつごうし》の嵌《はま》った病棟《びようとう》が施療棟《せりようとう》の北側にあり、その先の運動場では、光のなかをゆらゆらと患者達が陽炎《かげろう》のように輪を作って歩いていた。時々、呻《うめ》き声《ごえ》や、獣に似た叫びが聞えたように思ったのは、錯覚だろうか。
葉が萎《な》えて、頭だけが大きい虚弱児童を想《おも》わせる向日葵《ひまわり》が数本、中庭に立ち並んでこちらを見ていた。その花は、背後の病棟の薄暗い光のなかに浮き上ってくる。幻聴なのであろう。波の音が聞え、青年の頃私には輝く青い波濤《はとう》があったと思った。それを失ったのは私自身のせいか、それとも、年をとれば誰でも失うものなのか。とすれば充郎の精神は、生れてすぐ栄養を与えられないまま年をとってしまったのか。老人の顔をした小児の姿が、彼の脳の皺《しわ》のなかに隠れているようだ。待合室には一匹の虻《あぶ》がいて、先刻から小さく唸《うな》るような翅音《はおと》を立てて窓ガラスにぶつかっていた。海の幻想はその虻から導かれたのかもしれなかった。
病院の空気に次第に圧迫され、たとえ一時的にもせよその中に入ったら、充郎は本当におかしくなってしまうのではないかと私は危ぶんだ。そんな気分から逃れたくて海を想ったのかもしれなかった。
久美子が作るカジノは大西洋岸にあって、ギリシャ建築のような大理石の建物は、なかば海上に張り出し、その脚柱の周辺には、いつも紺碧《こんぺき》の波が踊っていると、彼女は説明していた。それは事業計画と言うよりは、心ならずも陥った閉塞《へいそく》状態から脱出しようとする夢を描いてみせているようで、社長室にいた私はいよいよその現実性に危惧《きぐ》の念を抱いたのであった。
私は、戦争の終った日の真夏の空が、カジノの脚柱を洗うであろう海の輝きのように青かったのを思い出した。あの日の静けさは、死の予感からの、急な、信じられない解放が訪れたための虚無感であったろう。カジノ建設を思いつくまでに彼女も死を考えた日々を持ったのに違いないと思われた。
学生運動に敗北して、行きどころを失っていた頃、一日海を見て過したことがあった。それは少年の日に家出をした経験に次ぐ二度目の海であった。どうしても取れない微熱と深い疲労に悩んでいる私の前で、海は大きく逞《たくま》しく波濤を輝かせて拡《ひろ》がっていた。
人も犬もいなくて浪《なみ》だけがある≠ニいう言葉ではじまる中野重治《なかのしげはる》の詩を思い出しながら、私がいなくても、この海の青さは変らず、北の方にも国があり、南の方にも国があって#gはそこでも崩れているのだと考えて、ぼんやりしていた。多分その時、私も死を想っていたのだ。まだ秋のはじめなのに、意外に冷たい風が顔に吹いてくると、自分が襤褸《ぼろ》のように擦り切れてしまっている感じが、いよいよはっきりしてきた。砂浜に人はいなくて、離れた斜面に取り残されて建っている小屋に網が干してあった。何の意味か、その屋根に小さい緑の旗が立っていて、烈《はげ》しい風にはためいていた。
それらの記憶も、今からふり返れば、若さの過剰がもたらした幼い感傷であった。私は海から帰還して赤い血を吐いた。
充郎を連れて精神病棟の外来患者待合室に腰を下ろしていると、その時々の波が、かわるがわる打ち寄せてきて、そのまんなかに病んだ向日葵の大輪が、こちらをむいているのであった。もう身体《からだ》は大人なのに、充郎の印象は、浜辺で鐔《つば》の広い麦藁《むぎわら》帽子を被《かぶ》って海を見ている少年のように思えてならない。目をつぶると、膝小僧《ひざこぞう》を抱えて後ろをむいている充郎の姿が見えてくる。
「パリのママはどうしてるかなあ」
と、私は充郎の気を引いてみた。
「まだ憶《おぼ》えているだろう」
「ああ」と、全く別のことを考えていた人が、急に声をかけられて、意識がまだ遠くに遊んでいるような返事が返ってきた。
やがて、
「ママはフランスが合うから」
会話はそれで跡切《とぎ》れた。充郎と話すたびに、私は彼から拒否されている感じを拭《ぬぐ》うことができない。
久美子と議論する時、私は日本人の代表になったり、狡《ずる》い経営者の見本にさせられたりして不愉快なのだが、充郎との場合は、いつの間にか常識と呼ばれる目に見えない抑圧の代弁者になってしまう。律子も、どうかすると久美子や充郎の側に立って責める。一方、林田や彼を支持する政界の雑誌や経済誌などは逆の立場から私を異端視して警告を発する。相反する両方の側から挟《はさ》み打ちにされている。誰からも、何も期待されない無用の身になって結核病棟に寝ていた時、私を締めつけ、一挙手一投足をも決して見逃さずに追ってきたのが、この、世間とでもしか呼びようのない無形の包囲網なのであった。それだけに充郎から世間の代表者のように見られていると知ると、私は何処《どこ》か間違っているのではないかという身勝手で不愉快な気分に陥ってしまう。病室で過去を振り返る感情は、それまで信奉していた思想にむかっても冷たくなっていったが、自分ひとりでなすべき省察に、他人が介入するのだけは、髪一本でも我慢がならなかった。
「これは俺《おれ》のことなのだ。俺だけのことなんだから放《ほ》っといてくれ」
と叫びたかった。
こうした私自身の経験を想い起すと、充郎の反抗的な態度も止むを得ない気分になる。
病気のあいだ私を苦しめたのは、それまでの自らの思い上りに対する恥の感情であった。政商と呼ばれ、匕首《あいくち》の浩造《こうぞう》と恐れられている西垣浩造の息子だという自覚もなしに、革新的な運動の指導者になろうとしていたのは、「世間様を恐れぬ不届きな奴《やつ》」と断罪されても致し方のない振舞いのように反省された。そう考えると、もう一人前の人間としてやってゆけそうにない疾病者《しつぺいしや》になったのは、それ相応の罰を受けたことなのではないかと、私は自嘲的《じちようてき》な感情のなかに身を横たえた。一方では一日も早く、せめて病棟の前の庭を歩けるようになりたいと願いながら。医者は、うまく助かったとしても治癒《ちゆ》するには十年かかるだろうと診断していた。その頃、漸《ようや》く市販されるようになったストレプトマイシンが結核を根治可能な病気にしてくれるとは、医師も考えていなかったようだ。しかし、その薬の効果で、常人よりもかえって耐久力のある健康体になって働き出したこと自体、架空の出来事のように思われる。あるいは、誰かが私に罰を科した結果であろうか。
二の腕に触っているとか、口移しにブランデーを飲むとか、常に具体的なものを求めてやまない女と会っていると、いつも自分がひどく抽象的な存在に思われてきてしまうが、やはり病気以後、妻がかつて言ったように私は迷妄《めいもう》の境に入ってしまったのかもしれない。だから人並みに振舞ってはいても、本当に求められているものを与えることが出来そうにもない自分の空虚さを感じ、相手に自信のない態度を取ってしまう。まして子供を作ることなど及びもつかない。そんな私にとって八木律子が好ましいのは、彼女がいつも自分流に闊達《かつたつ》に振舞って、私の内心の遅疑|逡巡《しゆんじゆん》に絡《から》まって来ないことだ。
「あなたはね、いい加減なところがあるのよ、上の空って言うのかしら、いい女と見ると優しげな顔をするけど、その実、心はそこにないんだから。それならそうと関心のない態度を正直に出せばいいのに『いいふりこく』でしょう。女は大抵愚かだから好意を持ってくれていると思うわ、油断も隙《すき》もありゃしない」
などとあけすけに言って、
「断わっておきますけどね、取材に行った時、部屋に入ってきたあなたを見て、ああ、この人を好きになるって私は直感したんだから。これが不幸のはじまり≠ナもいいと思ったのよ」
と、律子は識《し》り合った最初の出会いを復習してみせたりするのであった。だから、あなたが尻《しり》ごみしようが、恰好《かつこう》つけて気障《きざ》な態度を取ろうが、そんなことに影響されない、とでも言いたげに。そうしていつの間にか今のような関係になったのだけれども、そう言えば毎期赤字続きの丸和百貨店に通うようになったのも、慎重に考えてのことではなく、いつの間にか、なのであった。会社の業績がどんなに回復しても、自分はまだ経営者として一番大事な基礎の部分が出来ていない人間なのだと思う気持は、時おり不様な姿を現わして私を脅《おびや》かす。
ただ、そのような自信のなさが、かえって市場の変化や会社の欠点を客観的に見るのを可能にし、業績を伸ばすのに役立つという、奇妙な因果関係に私は捉《とら》えられていた。これはどう考えても一種の詐術《さじゆつ》であると自分でも思う。おそらく、多くの人が私に対して感じているであろう違和感は、こうした不確かな状態の結果であり、充郎は無意識の強さで、この私の欺瞞性《ぎまんせい》を指弾する審問官であった。林田と久美子の子なのにと思いながら、私は彼を放《ほう》っておけない。
――正常な人間関係を形成する能力に欠ける――と言う、アメリカの大学の添書は、他人事《ひとごと》とは思えない、私にむけての判定の響きを伴っていた。医師にも引用して聞かせた。充郎のなかに、強い抑圧があって、それを解除《リリース》できれば、かなり状態は改善されるだろうと医師は言ってくれたけれども、どんな方法がその解除に繋《つなが》るのかは分らない。そこで病院は「いろいろやってみる」ことになるのであった。|+《プラスマイナス》の電極で頭の左右を挟んで放電させ、その衝撃で脳細胞の覚醒《かくせい》を促す治療法ぐらいしか私には知識がなかったけれども、病院で聞いた幾つかの医学的処置は、いずれもすこぶる頼りないものに思われた。医師も率直に医学の限界について語っていた。私には放電の衝撃で気を失い、手足を痙攣《けいれん》させている充郎の、風呂《ふろ》に入らないために臭い裸の四肢《しし》が見えてきてしまう。
「治療なんか受けないで、今のままでいいから帰ろうか」と話しかけたい気持が動いた。
充郎と海の見える田舎の土地に住んで、私も烈しい競争の世界から離れ、気がむけば釣《つ》りをしたり、予定に追われることなく読書に耽《ふけ》ったりする日々が想《おも》われた。するとふたたび青い波濤の音が聞え出すのだ。畠《はたけ》には桃の花が咲いていたり、赤いカンナが燃えるようであったりする。そこは、夏には入道雲が立昇り、桃は桃らしく菜の花と一緒に春に咲き、コスモスは昔どおり秋にだけ可憐《かれん》な花をつける土地だ。
私が落着きなく腰を浮かせた時、白衣を着た医師が看護婦を従えて控室に現われた。
病院で様々なテストが行われたすえに、精神の歪《ゆが》みは認められるが精神病患者ではない、との診断が出た。ほっとさせるような、よく考えれば医学的に治療する方法はないと宣告されたのにひとしい結果であった。なお、一、二ケ月の観察と、若干の矯正《きようせい》処置を試みてもいいが、父母、あるいは同等の資格を持つ保護者の保証が必要であると言う。
林田悟郎は、すでに丸和不動産を辞め、個人事務所を開設して選挙に出るための準備をはじめていた。在職中に培《つちか》った若手経営者のなかでの知名度を利用した講演会や、小学校から大学までの同窓会の組織などが動きはじめている様子だった。私は年配の秘書役に依頼して、充郎が正式に入院する際に父親として保証人になってやって欲しいと伝言した。
翌朝、私の部屋に報告に来た秘書役は、無言で首を横に振ってから、
「とても話になりません」
と慨歎《がいたん》した。
彼が訪れた林田事務所は、選挙が近いという予想があるからか活況を呈していて、保守党の政治家ばかりでなく、有名な経済誌の主幹や財界人の秘書なども頻繁《ひんぱん》に出入りしていた。党の公認候補になれば林田悟郎の存在は彼の郷里の選挙区で台風の目になるのではないかと取沙汰《とりざた》されていた。丸和企業グループが、いよいよ政界に進出したと見ている者もいるらしい。自分の背後には丸和系企業≠ェあるという林田の宣伝が功を奏したのであった。彼が在任中、大きな負債を作ったことは会社としても公表できないので、伯父も私も聞かれれば一応林田を褒《ほ》め、「選挙になれば応援するつもり」ぐらいのことは言わなければならない。
充郎の件で林田事務所を訪れた秘書役が、招かれざる客の扱いを受けるのは当然であった。
「充郎さんのことで社長からの伝言を持ってきたのですが」と言うと、林田は周囲を見廻《みまわ》して、
「ここでもなんですから」と小声で答え、近くのホテルに部屋を取った。
彼は来意を聞くやいなや「もう勘弁して下さいよ」と言ったという。秘書役が咄嗟《とつさ》には意味を解《げ》しかねて顔を見ていると、
「もう僕は散々|辛《つら》い目にあわされて、ずっと針の蓆《むしろ》に坐《すわ》ってきたんだから、これ以上|苛《いじ》めないで下さい」と懇願した。
自分の説明が誤解されたと考えた秘書役は急いで、
「これは本当の話で、強制送還になるところを危《あやう》く連れて帰ってきたんです」とあらためて一部始終を説明する途中から、林田悟郎は目に見えて不機嫌《ふきげん》になった。
「僕はいつもこうなんだ。よくなりかかると邪魔が入って壊《こわ》される。最初の結婚の時もそうだった。もう僕は西垣の家とは一切交渉を持ちたくない。持つつもりもない。第一、連れ戻すにしても、なにもこの時期を選ぶ必要はないじゃないか。自分が選挙に出たいんなら出ればいいんで、僕を妨害しなくたっていいと思う、順造君はあんまりだ」
と怒り出した。激してきて顔が蒼《あお》ざめ、唇《くちびる》が小刻みに震えるのを見ても、秘書役にはよく事情が飲み込めない。
「でも、お言葉ですが、充郎君はあなたの――」と言いかけた。すると林田は降りかかってきた汚い水を振り払おうとでもするように身体《からだ》を揺すって、
「その手には乗らないよ」と立上り、
「あれはね、僕の子かどうかも分りゃしないんだ。この際だから本当のことを言うけどね。親が自分の娘を犯すってことだってあるんだから。それでも、今まで義務は果したよ、成人になった後でも、三年も養育費は払った。立つ鳥は跡を濁さずと言いますからね。だから、今になってとやかく言われる筋合はないんだ。断わります。勿論《もちろん》、保証人は願い下げにして貰《もら》いましょう。勝手に連れ戻した順造君が責任を取ればいいだろう」
憑《つ》かれたようにそう喋《しやべ》って、ふと口を噤《つぐ》むと、立ったまま呆《ほう》けて宙を見つめていたが、すぐ気を取りなおして、打って変った穏やかな微笑を秘書役に注ぎ、
「これから約束がありますので、失礼します。順造さんにもよろしく」
と、トラックの上からのように二、三度手を振って見せ、たちまち部屋を出ていってしまった。
秘書役は、保証人を断わられた様子をそのように報告して、
「私は昨夜、一晩中腹を立てていましたが、今朝起きた時、ふと林田さんが哀れなような気がしました」
と付け加えた。それは、私があまり怒らないようにと、おもんぱかっての発言のように聞えた。
「それなら、僕が保証人になればいい」
と言ったけれども、やはり私の胸中も穏やかでなかった。林田は必死の面持《おももち》で最後の機会に賭《か》けようとしているのであった。久美子と結婚さえしなかったら、彼はもう定年で田舎の両親と一緒に住んで、碁を打ったり釣りをしたりする、のんびりした生活を送っていたかもしれない。あるいは丹波のその地方の名士として学校の後援会長や商工会議所の役員におさまっていることもあり得た。しかし彼は別の道を選び、競争の世界に入って駆け続ける男になった。
やがて保守党の公認候補に決った晩、林田は昂奮《こうふん》して家の中で階段を踏み外し、階下まで転げて鼻血を出したと、見て来たような噂《うわさ》も伝わってきた。そんな彼にとって充郎の話は、出来ることなら忘れてしまいたい疫病神《やくびようがみ》の噂のように聞えるのであったろう。そうは思っても、精神病棟の前に佇《たたず》んでいる充郎がいる以上、私は林田を哀れんでいる訳にはいかなかった。
秘書役が帰ってから、私は席に戻《もど》り、机の上に置いてある地方新聞を読みはじめた。丸和百貨店に関連のある箇所が赤鉛筆の線で囲まれている。
町会長に聞く、急がず駅周辺の整備を≠ニいう記事の隣に塗り変えられる○○市の商業地図≠ニ大きな見出しが出ていて、百貨店誘致の都市計画決定によって、長い間、無風地帯と言われた○○市にも近代化の波が押し寄せてきた、とあり、進出は丸和か△△か
と二社の社名をゴチックにした見出しには、不安と期待の交錯する商店街≠ニ副題がつけられてあった。頁《ページ》をめくると、見開きに組んだ座談会が掲載されている。
真の地方の時代とは∞望まれる市の強い指導力∞既存商店街との協調を≠ニいうような小見出しが見える。百貨店進出と○○市の将来≠ニいう綜合《そうごう》タイトルを付けた座談会で、商工会議所専務理事、青年会議所会頭、商店街連合会長、それに県庁所在地にある大学の経済学部の教授が、テーブルを囲んでいる写真が大きく印刷されている。
それを見ていて、私はかつて林田の郷里の青年団の集会に講演に行ったのを思い出した。聴衆の青年のいくつかの顔、林田が書いた努力、前進≠ニいう色紙を掲げた下に腰を下ろしていた小学校の校長の顔が見えてきた。林田悟郎は多分当選するだろう、と私は思った。私が記憶に浮べた人|達《たち》にとって、林田は尊敬すべき人物であり、自分達のなかから出た指導者なのだ。
(いつも、あいつらは勝つんだ)
突然、憎悪《ぞうお》の感情が胸の裡《うち》を駆け上って来た。学生の頃《ころ》、運動が壁にぶつかるたびに、私は幾度か同じ感情を味わったのであった。(あいつら)とは、林田なのか、私の講演会に集った青年達なのか、学問と思想の自由の危機を訴えても、私と目を合せないようにして、遊びに或《ある》いはアルバイトに行ってしまう大勢の学生を指すのか、私にも分らなかった。要するに腹立ちには方向がなく、自分への憤《いきどお》ろしさにまみれていた。私は狼狽《ろうばい》し、机に載っていた別の書類を手に取った。
それは人事部から廻ってきた、来月定年をむかえる社員の名簿だった。彼等《かれら》の大部分は私が入社した時、すでに丸和百貨店で働いていた。経営者の交替があり、方針の変更が矢継早やに行われたなかで、彼等は目立たず、隅《すみ》の方にいたので、無事に定年をむかえることができたのだ。彼等のなかに、パリ駐在部勤務を命ぜられた時、辞退した男がいた。当時、パリは久美子が部長に就任したばかりで、彼は将来の幹部候補生として指名されたのであった。「僕はとてもお役に立つとは思えませんし、それに健康にも自信がありませんので」と、恐縮しきった真剣な表情で辞退の弁を述べた時の彼の顔を私は憶《おぼ》えていた。それは賢明な判断だったかもしれない。あの時パリに行っていたら、久美子に苛められて辛い立場に陥ったはずであった。しかし、辞退した時、彼は幹部に登用されるコースから外れたのだ。それ以来、目立たない場所で黙々と働き、無事に定年をむかえたのである。おそらく子供達はもう学校を卒業して、それぞれの職場で働き出しているだろう。決して駆けようとはしなかった彼の方が幸福だったと言えるかもしれない。彼と同期で、とうに社を去った者も多かった。事故を起した社員も、おそらく起きた事故の責任を黙って一人で被《かぶ》った者もいたはずである。なかには、後輩に抜かれたために、面白くなくなって辞めた男や、友人が事業をはじめる際に誘われて転身した者もあった。彼等の誰《だれ》が成功し、誰が不運に見舞われたか、消息は私のところまでは伝わって来ない。
無事に務めあげたということの意味を、書類を前にしてぼんやり考えていた。私の机は停車場のようなものだ。定年退職者の名簿が置かれてある同じ場所に、翌日は来年入ってくる新しい社員の身上調査表が載っているのだ。降りる人間があり、乗り込む若い人達があり、彼等がどんな希望や不安や緊張や落胆した心を抱いて往《ゆ》き来し、停車場に立っているのかに、私は触れることができない。
インターフォンのブザーが鳴り、秘書が、
「総務部長が事務所の件で御相談があるそうです」
と伝えた。
丸和百貨店は手狭になって数ケ所に分散している本部事務所を一箇所にまとめ、業務の円滑な進行を計って、国有財産の跡地に立った高層ビルに移転することになっていた。父が死の直前まで気にしていたその払い下げは財界の協力によって円滑に進んだ。私も地元の一員としてその会社の役員に名前を連ねている。三ケ月前に、本部移転の方針を決め、ビル会社との折衝はそれ以後総務部長が続けていたのだ。
部長は役員室と秘書室、役員会議室、企画室、広報室が入る五十二階の図面を小脇《こわき》に抱えて入ってきた。
本社の移転は総務部長の仕事のなかでも一番困難な作業だと言われていた。幹部達が使う部屋は、陽当《ひあた》り、眺《なが》め、広さ、社長の部屋からの距離等々、一つ一つ違いがあるから、移動する人達はみんな神経を尖《とが》らす。それにお互の好き嫌《きら》いの感情が加わるので、まず全員の満足を得るのは不可能に近い。同僚には文句が言えないから、役員の苦情は総《すべ》て総務部長に集中する。最後は社長決裁で押し切るしかないのだが、その前に有力者の大方の同意を固めておかなければならない。かといって、下手に根廻しをすれば、途中で情報が洩《も》れて進退に窮する場面が発生しないとも限らない。本社の移転を一度やれば、総務部長の首が一つ飛ぶという説もあるくらいであった。林田悟郎はこれらの瑣末事《さまつじ》を巧みに処理する男であった。久美子は瑣末事を軽蔑《けいべつ》して人々から浮き上る女であった。
「僕が決めたことだから文句は言わないけど、ずいぶん地上から遠くなるんだなあ」
私は口のなかでぶつぶつと感想を述べた。
広場には大勢の人が蝟集《いしゆう》し、右往左往し、声高に叫んだり、おかしそうに笑ったりしていた。そんな光景が私に見えてきた。終着駅のホールのようなその場所の天井は高く、大きな鳥籠《とりかご》に似た金枠《かなわく》に嵌《は》め込まれた窓ガラスは汚れていて、空との間を仕切っていた。人工的な光線の下で、人々はせわしなく歩き、寄り集ったり離れたりし、その間中、ひっきりなしに喋り、相手を言いくるめるように低く力を入れたり、明るく澄んで別れを告げる声を立てたりするから、空間は漣《さざなみ》のような音に満たされている。
そこへ、巨大な車体を黒光りさせて機関車が入ってきた。我先に乗り込む者がいた。ぶら下がったまま、乗るのでも降りるのでもない人の姿も見えた。
「機関車か」
と思わず呟《つぶや》いた。
「はあ?」
総務部長が怪訝《けげん》な顔をした。
「いやいや、それはいいんだ」
誤魔化して私は彼が拡《ひろ》げた図面に見入っているふりをした。エレベーターホールを中央にして矩形《くけい》のフロアーが幾つもの齣《こま》に仕切られ、応接室が東西の端に取ってあった。
見ているうちに、広場はいよいよ雑踏してきた。物売りが出ていた。焼売《シユーマイ》売りや絨緞《じゆうたん》屋のようで、いつか訪れた香港《ホンコン》や中近東の都市の記憶が混っているのであろう。
隅で歓声があがった。栄転した誰かが任地に出かけるのだと私は思った。たくさんの日の丸の小旗がうち振られ、出征兵士を送る一団がいるようであった。私はそうした駅頭風景をずっと昔に見たことがある。そう言えば、駅前に赤旗を立てて機関紙を売りながら、核兵器の禁止を求める署名運動をやったのは大学生の時であった。
私は場違いの所で、脈絡のない幻想が浮んできてしまう自分の性質を恐れていた。そんな時は、いつもあわててその原因を探って気分を落着かせることにしていた。機関車の姿が出てきたのは、おそらく朝、家で読んだ政治家の談話が頭に残っていたからだ。
「我国は、停滞する国際経済のなかで機関車の役割を果すべきであります」と、国際会議に出発する際に大臣が語ったのは飛行場での記者会見だ。
考えてみれば毎日が市《いち》なのかもしれなかった。私はどの市にも満足できず、身を委《ゆだ》ねることも出来なくて、しかし市のなかにいないと淋《さび》しくて、つい何処《どこ》か賑《にぎ》やかな場所を探してしまうようだ。
総務部長の説明がはじまった。三名の長老の部屋をどう取るかが、私に決めてもらいたい一番の案件であった。
彼等はいずれも丸和百貨店の功労者であった。私より先輩であり、古い時代の業界の知識を持っていて、他社を定年退職した後で技術顧問のような資格で来た者もいた。
「僕は一番悪いところでいいんだ、外を廻っていることが多いし、大体が会議だろう。資料のファイルがちゃんと出来れば、それで充分だ」
「いえ、それはいけません」
と、総務部長は真顔になって反対した。
「少し権威をつけていただかないと」
そう言われて、思わず笑いそうになったのを我慢した。確かに自分で考えても、私は権威があるようには見えないのだ。
「まあ、僕の場所はまかせるよ。彼と彼はどっちが年上なんだ。社にいた年限は?」
結局私は三人の長老の年と、丸和百貨店に勤めた年月の長さを聞いて彼等の部屋を離れ離れに配置した。
「ただ、僕の部屋はマホガニーのテーブルに皮張りの椅子《いす》というような具合にはしないでくれ。インテリアのA君に言って、なるべくモノトーンの無機質な感じがいい。君の言う権威とは反するかもしれないけど」
そう言った時、私は又もや充郎のことを思い出した。彼の入った病院は、患者の精神を落着かせる目的からか、どの壁も淡い緑に塗られていた。
(あいつ、馬鹿《ばか》だから、今頃医者を手こずらせているに違いない)
すると、ずっと前に、――トランク二個位に納まる品物と共に、何も掛っていない四角く狭い白壁、ベッドと机と椅子だけのある裸のホテルの一室に旅人として暮すこと――
と書いてきた久美子の手紙の一節が、記憶に戻ってきた。
総務部長の苦心の結果作られる新しい事務所を、重役や長老達は何年か使って、やがて去ってゆくのであった。ある日、急に一人の男の姿が見えなくなり、やがて秘書課の若い社員が彼の部屋を取り片付け、別の男が何事もなかったかのようにその部屋を使いはじめる。
二ケ月後に、予想されたとおり選挙が行われ、林田悟郎は新人であるにもかかわらず、持前の腰の低さと、経済が分る大物との宣伝が成功して、最高点で当選した。私は幹部食堂のテレビで何回も万歳を叫ぶ彼の姿を見た。傍《そば》で君子が手放しで涙をこぼしていた。それは微笑《ほほえ》ましい光景であった。苦労して栄冠を獲得したのだから、昂奮して人々が泣くのはごく自然であった。私は毎年、夏に行われる高校野球の場面を思い出した。心の半分ではまあ良かったじゃないかと思い、同時に、あんな男が当選するんだから、選挙なんて当てにならないと考えた。これは矛盾した反応であり、久美子や母に知られたら、一も二もなく遣《や》り込められそうないい加減さに違いなかった。それも反射的にそのように心が動いたのだから、私は救い難《がた》く駄目《だめ》な男と言われそうであった。
しかし林田は気が弱いだけ政治家のなかでは上質と言えるのだ。それに私も経営者なのだから、保守系の代議士が一人増えたのは歓迎すべき事なのだと言いきかせた。それでいて今度の選挙の際私はひそかに革新系の候補者に投票した。その政党を支持しているからではなく、何かが現状とは変って欲しいという気持からであった。過去の自分への儀礼的な感情も混っているのかもしれず、妙に意地を張っているのだとも言えそうであった。私は秘書役を呼んで祝電を打ち、酒をすぐ贈るように頼んだ。
「それは大変いいことです。すぐやりましょう」
彼は禿《は》げた頭に手をやって賛意を表明した。
五
早朝、ホテルで開かれた会合を終えて、私は深尾卓三の家に向って車を走らせていた。知恵遅れの児童の救済事業に熱心な彼に、充郎のことを相談するためである。
皇居前広場を走っていると、私の車は若い男女が手を繋《つな》いで鋪道《ほどう》を歩いてくるのに出会った。
朝食会で私は財界の長老に、若者達の価値観の変化や生活意識について解説したのであったが、その私の話など、すこぶる迂遠《うえん》なものに思われるほど、二人の様子は活々《いきいき》していた。自由であった。よく晴れた穏やかな冬の朝の陽《ひ》が、松が植っている芝生の上に注いでいる。二人の、幸福に浸りきっている様子が、この朝は殊更《ことさら》隔絶した風景に眺《なが》められた。彼等《かれら》は昨夜、あるいはたった今、確かめ合うことが出来た幸福のなかを、気もそぞろに遊泳しているのに違いなかった。
自分にも、そのような時代があっただろうか、と思った。あったようにも思えるし、なかったような気もした。しかし、学生の頃初めて好きになった少女と歩いている私の姿を、当時、今の私と同じ年輩の男が見たら、おそらく同じ印象を受けただろうと思った。
私は一緒に学生運動をしていた仲間が、アメリカ軍の占領目的に違反する活動を取締るポツダム政令三二五号に触れて逮捕され、軍事裁判にかけられた事件を記憶に蘇《よみがえ》らせた。私は救援活動に参加し、彼等の獄中闘争の記録を出版する編集委員になった。
そのなかで一人の学生が、
――訊問《じんもん》のために連れていかれた取調べ室の窓から、隣接する公園を若い恋人達が楽しげに語り合っている姿が眺められた。彼等の平和を僕達《ぼくたち》が支えているのだと思うと、アメリカ帝国主義の走狗《そうく》になった検事に対する闘志が湧《わ》いてきた。私は大声で「黙秘権を行使します」と叫んだ――
と書いていたのを思い出した。
その文章は「我々経営者がこうして頑張《がんば》っているから、日本は保《も》っているんじゃないか」と語った、先刻の会合での財界長老の言葉を想《おも》い起させた。深く真面目《まじめ》に政治にかかわっている人達にはおそらく不謹慎で背徳的なものに思える連想であった。しかし、どんな思想や信仰にも加担できない立場からすれば、互に対立している彼等が、自信を持っている使命感は、羨《うらやま》しさの混った私とは縁のない同質性としか受け取れない。その私が、充郎の救済のために忙しく車を走らせ、すれ違った恋人達を見て、(今の若者にも心配はあるに違いない、私達の頃《ころ》よりは掴えどころがないだけに、不安はかえって深いのではないか)などと考えているのは、ずいぶんいい気なもので、しかも見当が外れていて締らない話だ、という気がした。その頃、私が抱いていた未来に対する恐れも、今となっては若さゆえの充実感であったと振り返られる。時代そのものも今と較《くら》べれば若く、単純な原理が対立して活気があった。
若い男女の後から、トレーニングシャツを着た中年の男が走って来た。彼は苦役に耐えている真剣な表情で、たちまち二人を追い越してゆきすぎた。首に巻いた手拭《てぬぐい》で走りながら額の汗を拭《ふ》く。垂るんだ腹が上下に醜く波打ち、疲れているのか、両脚が水槽《すいそう》を泳ぐ金魚の鰭《ひれ》のように踊っている。
彼が向い合っているのは、自己の肉体的限界なのか、|だる《ヽヽ》な日常なのか分らない。何かを引裂いて別の空間に脱出することができれば、走る必要もなくなるのであろうが、排気ガスの沈澱《ちんでん》した穏やかな冬の空気は、何処までも彼を押し包んで放さない。
走るにつれて彼が柔らかいガウンに包まれて、燃えさかるストーヴの側《そば》で冷えたビールでも飲みたいと考えるとしたら、限界を試したことで、よけい強く日常に捉《とら》えられる結果になるのではないのか。もしかしたら、彼はそのような安心を求めて走っているのかもしれない。
深尾卓三の家は高輪《たかなわ》の閑静な住宅街の一画にあった。小さなマンションの四階を占領している。管理室の受付で来意を告げている横で、清掃人がモップを押して入口のホールを磨《みが》いていた。それを見て私は毎朝事務所の廊下を掃除している老人を想った。今朝はホテルでの朝食会から此処《ここ》にまわったので、その老人に会いそこねたのであった。
充郎に関する病院の再検査の結果も以前と同じだった。精神の歪《ゆが》みは認められるが、それは治療の対象になるような疾患とは断定できないと言うのである。
私から事情を聞くと、深尾はオールバックの髪を無造作に掻《か》きあげながら、
「これはむずかしいケースだなあ」と医師と同じことを言った。
「相当の年齢になっているしねえ、子供のうちほど直しやすいんだが」
彼は、自分にも知恵遅れの子が一人いるが、妻の家系にも深尾家の方にも精神病者は見当らず、全く神の意志としか言いようのない偶然で、その子のことを気に病んで妻は早死したと言ってもいい、千人に一人ぐらいの比率でそのような子が生れるらしいが、原因が分らないので医学的に治療する方法は今のところないのだ、と言った。深尾が救済事業を思い立ったのは、そのような具体的な条件があってのことだったのである。さして感慨を混える様子もなく事実を話す彼の前では言う言葉もなかった。
やがてアメリカで充郎が起したトラブルの内容を報告しながら、私は何処をとってみても、誰《だれ》からも充郎の出生は歓迎されなかったのだと、あらためて確認していた。林田悟郎は、
「あれは僕の子供ではないかもしれない」
とまで言うし、久美子は、
「油断があったのよ。八重の時はそれでも子供が出来たら我慢できるんじゃないかという気もあったんだけど、産制の失敗だったのよねえ」
と正直に述懐するのであった。
そして君子である。彼女にとって、充郎は自分を馬鹿《ばか》にしているはずの久美子の子なのだ。(林田のような子連れの男と再婚したのは、財産目当てに違いない)と皆が、ことに久美子とその母親が思っていると考えると、君子は意地になって二人を一流校に入れた。しかし、充郎は二年生になってから成績が落ち、このままでは留年は必至であると言われて、私にも相談し、児童カウンセラー醍醐源太郎《だいごげんたろう》のところへも、縁故を辿《たど》って頼みに行ったのであった。
醍醐は教育者のあいだでは、かなり名前を知られており、著作も多かったから、そのような著名人にまで相談したという実績は、君子にとって意味あることに思われた。
私は数回その醍醐源太郎に会っていた。指導に正確を期するため、生みの親であるパリの久美子さんに面会したいので、よろしく取計らって欲しいとの彼からの依頼で会ったのが最初であった。私が電話で「林田さんの意見は」と尋ねると、「勿論《もちろん》相談の結果です。彼は、その必要は認めるが、久美子さんの件については自分からはあなたに頼みにくいので、費用も分担する訳にはいきませんが、私から直接相談してみてくれ、というのでお電話したのです」との答えであった。
「充郎君は、とてもいい子です」
ホテルの部屋に入ってくるなり彼は言った。
「素直で、それに頭もいいですよ。むしろ平均より上でしょう。御存知のような家庭状況で、成績が落ちたのは、一種の意思表示なんですね。私のような仕事は、子供に愛情を感じなかったら出来ませんので」
と、巧みな自己紹介と状況説明であった。濃い太い眉《まゆ》と、浅黒い細面《ほそおもて》の顔立ち、顔の筋肉の動きとは離れて、活々と動く眼《め》の光、時おり沈黙した後で憑《つ》かれたように話し出す間の取り方……などは、彼が醍醐育児教室≠ニいうテレビ番組を持つようになった条件を素直に物語っていた。
私は前日お忙しいでしょうが事前に聞いておいていただくと大変好都合ですので≠ニいう添書きと共に醍醐から届けられたテープを聞いていた。彼と充郎との会話の録音である。
充郎と八重は姉弟で家出を計画したのであった。その相談のために醍醐は充郎から電話で呼び出され、予定外のカウンセリングを行った模様である。
「この家で今の家族との共同生活は、どう考えても限界が来たという気がして」
と、充郎は知恵遅れとは考えられない大人びた明晰《めいせき》な話しぶりであった。
「遅くとも、来年まで滞在ということは、実際には可能であろうとも、精神ではもうやっていけないと思うの。今のママとパパと別れてアメリカ行きを出来るだけ早めたいということもあるけど、この家を出ていって、フランスのママに会って、それで出来ることならママの世話でアメリカに行きたいんです」
充郎はそうした望みを、全く抑揚のない話し方で醍醐に向って喋《しやべ》っていた。
私は充郎と会わなかった数年間、そして林田悟郎とも次第に疎遠《そえん》になっていた同じ期間に、状態がひどく悪化しているのを知った。
自分の家で暮すのを滞在≠ニ表現しているのは、もしその言葉遣いが意図的としたら、醍醐の言うように知恵はむしろ遥《はる》かに常人を上廻《うわまわ》ると考えられる。家出の計画を、君子が依頼したカウンセラーに相談するのは、ホッとする幼さであったが、他《ほか》に話を聞いてくれる大人が一人もいなかったのだから、姉弟は全く追いつめられていたと言えよう。
「今朝の電話では、君子ママがアメリカに行っていると聞いたが、それは本当なの、先生にはどうも話が突然で飲みこめない点があるんだよ。気持としては分るけれども。すると、そのあいだに家を出たいと言う訳だけど、パパとの相談とか――」
と言いかけて、醍醐源太郎は思いあたったらしく、
「パパとは話し合いがあったわけ」
と低い声になって聞き返している。
姉との関係についても、
「ぼくは話したんです。そうしたらお姉さんも、そうせずにはいられないと言うので」
と、充郎は自分が言い出したのを隠そうとしない。
「パパは、そこまで言われちゃあ、あとはお前たち、やっぱり将来というものが、あるだろうし、そういうことであるならば、やっぱり親としても、まあ、そこまで来た場合は、もうどうにも、そういうようにするより、他に方法がないなら、それがいいだろうと、ママとの関係においても、またママのためにも、いいはずだから、多分、いいと思うが」
充郎が父親の会話を醍醐に伝える表現は、間接的であるのに、林田の性格と狼狽《ろうばい》の様子がそのまま出ている正確さである。おそらく彼は息子の話しのなかに久美子の、そして自分が仕えた西垣浩造の性格を見て気押されながらの答弁であったのであろう。
醍醐は、少くとも十年以上世話になった君子ママに、一言も相談しないで出てしまうのは不自然だし、その点に疑問は感じないかと、漸《ようや》く態勢を整えて充郎に質問している。
「いえ、感じません」
断乎《だんこ》として答えるが、内容に比して語調は無機質と言ってもいい抑揚のなさである。押し問答になり、充郎の訴えが次々に家庭の状態を明るみに出す。
「普通のケースなら先生の言うとおりでしょうけど」
「…………」
「ママの立場に立って、もう一度考え直してみるのは、ちょっと無理です」
「…………」
「勿論、黙って出かければ、それがママとの永遠の別れとなるでしょう」
充郎は醍醐の説く「人間としての順序の踏み方と感謝の気持」に素直に同意しながら、自分の家にその考えを適用することについては完全に拒否してたじろがない。
「かりにフランスへそういう形で行ったとして、やはりそこにも青い鳥はいなかったというような形で、ふたたび日本に戻《もど》る可能性を考えたことはないのかい」
醍醐の最後の質問に対しても、充郎は「たとえそうなったとしてもいいんです」と眠たげに聞える声で答えている。
君子がアメリカへ遊びに行ったのは、充郎とは違う意味で憧《あこが》れていた国だからだ。そのために丸和不動産の交換手をしながら英会話|塾《じゆく》に通い、やがてアメリカ人の恋人ができて結婚の約束までした。その会話塾で林田に会い、心が変らなかったら、彼女は今頃《いまごろ》はデンヴァーに住んでいたかもしれない。しかし、働けない父と、まだ学生の弟の面倒を見る責任を負っていた当時の彼女にとって、アメリカ行きは困難な夢であった。あるいは林田がその無理を指摘したのであったろうか。
そんな過去もあったので、彼女は常にアメリカに旅行した際に、旅先で世話になるつもりの知人を作っていた。漸く夢がかなった最初の旅行には、時代劇で屡々《しばしば》主役を演じ、いつか私が顔を出したパーティにも来ていた俳優なども混った数名の同行者があったようだ。一行は一刻も早く君子の姿が見えなくなるのを待ち構えている八重と充郎に見送られて、賑《にぎ》やかに、無邪気にふざけあいながら出かけていったのであったろう。君子がデンヴァーに行ったのかどうかは分らない。かつての恋人は海兵隊の隊員であったらしいから、おそらく居所もはっきりしていなくて、再会は出来なかったと思われる。君子は気の合った日本の遊び仲間と派手な旅行をしながら、娘時代を回想し、広い平野に沈む太陽を見て、涙を流したりしたかもしれない。彼女の父親はすでに他界していたが、林田と結婚したお蔭《かげ》で弟は一流会社に就職も出来、自分は家族のために犠牲になったのだという気分は、日没を見る彼女の気持を甘い感傷へと誘ったに違いない。
その君子の旅行中に林田はそそくさと出張し、充郎は醍醐に電話したのである。カウンセラーとしては、両親の不在のあいだ、子供|達《たち》が妙なことにならないように引き止めなければならない立場であった。
林田の家には丹波の郷里から祖父母が上京してきていたらしい。テープを聞いた翌日、醍醐から前後の事情を説明されて、私は実直そのもののような祖父母と八重と充郎が一つの家に住んでいる、ちぐはぐな静けさを想像した。考えてみれば、二人の子供がいなくなるのを本心から反対する者はいないのであった。
「どうも、これは愛情の欠落から来る心理的なものじゃないかなあ。病気と言うより」
深尾卓三は腕組みをしたまま私を見ないでそう言い「いい本がある」と立上った。
やがて「これですがね」と深尾が持ってきたのは、アメリカのDという学者が書いた親こそ最良の医師≠ニいう本であった。
「風呂《ふろ》に入らないとか、部屋の掃除をしないとか、周囲の人間の迷惑に気付かないって言うのは、生れてから四、五歳までのあいだに、親との愛情の交流が欠落していた場合の特徴なんだよ」
と深尾卓三は説明した。
「それで、親父《おやじ》さんという人は何をしているの」
「今、売れっ子の代議士なんです。××派の、このあいだ当選した」
と私は答え、深尾はただ「ああ、あの」とだけ言った。
もし林田と醍醐源太郎に連れられてパリに行った時、久美子と充郎のあいだに、母子の感情が生れていたら、事態はすっかり変っていただろうと、私は今でも時おり残念に思う。カウンセラーとしての醍醐の努力にもかかわらず、母と子の会見は不成功に終った。私はその経過を醍醐から聞いていたが、困難は彼と久美子との会話がうまく通じないところからはじまっていた。ずっと後になって、私が入手した醍醐と久美子の長い会話の録音によると、久美子の彼に対する印象は良くなかったようである。彼女は、
「私は大変優しい、むしろ優し過ぎるところがあって、根本的には非常に冷淡なんだけど、他人に尽してしまうんですよ。それで相手はそれを愛情と錯覚するんです。この性質は兄にも幾分ありますけど」
と、醍醐を混乱させるような、人を喰《く》った発言で会話をはじめたのであった。彼女が数年間一緒に暮したジスカールと別れる準備をはじめた時期であったことも、彼等《かれら》のパリ訪問にとって不運であったかもしれない。彼女は醍醐に、人生に対する自分の自己流の態度は、源を辿《たど》れば父にまで達するのだ、「私は人生への借りを返さなければならないんです」、と述べている。
それは、自分と順造兄さんがいたために、母が犠牲的な生き方を強《し》いられた、だから借りを背負って成人したのだ、という意味なのか、父親に反撥《はんぱつ》しながらも、その庇護《ひご》に頼って育ったことを意味しているのか、醍醐にとっては、必ずしも理解しやすい説明ではなかった。だから、
「そうしますと、寂しくはないですか、そう言う生活は」
と、あやふやな質問しかできず、
「ええ、ですから空虚ですね」
と、久美子の答えもお座なりになって、少しも弾まない会話が続いたのである。
「子供達が来ると聞いて、八重と充郎への愛情が、その空虚を埋めるだろうかと自問自答してみたわけですけど、私があと幾ばくかの生命《いのち》を生きる場合、その全部を二人の子供に注ぎ得るかどうか、心が満たされるかと考えてみたんですが、おそらく死の間際《まぎわ》まで、空虚は残ると思うんです」
そんなふうに話されれば醍醐は喰下らなければならない。
「失礼ですけど、久美子さんが使われる用語なり論理の展開なりが、翻訳物を読んでいるように僕《ぼく》には感じられるんです。別の言い方をしますと、非常に理性的であり、そのなかに、なにか親としての発露だとか、感情の動きとかが見当らないのですが」
「私、それ大嫌《だいきら》いなんです、殊《こと》にそれを表現するのはものすごく」
そう応酬して、さすがに強過ぎたと思ったのか、
「例えば八重が眠っている顔を見てますとね、溢《あふ》れてくるものがある訳ですよね、ところが彼女が目を醒《さ》まして『おはよう』と言って部屋から出てくるとね、私は淡々とするわけね、他人に対すると同じように。激しいものがないという訳ではないけど」
「そのあたりを突き破らないとね、突き破るべきでしょう、親としては」
醍醐はカウンセラーの立場に立って久美子を追及する。彼は日本人の心情を彼女の内部に呼び醒ます方向でしか会話を畳みかける術《すべ》を知らない。
二人の議論は、絶えず冷たい不信感と烈《はげ》しい応酬とを交錯させながら、三日にわたって繰返された。林田悟郎は、いち早く彼等を残してロンドンに飛び、そこで二日の日程を消化して、二度目にアメリカに渡っていた君子と合流するために、ニューヨークへまわっていた。
日本から初めてパリに来て、親の責任と子への愛情の論理を武器にして迫ってくる醍醐に対して、久美子は時に皮肉を混え、時に内心の迷いを露呈させて答えたのであった。
「私は初めから意志が強かったのではないんです。これは訓練によるものです」
と述べた時、彼女はもっとも素直になっていたと言うべきだろう。肉親の情緒が纏綿《てんめん》とまといつくのを拒否し、一人の人間として生きようとする姿勢は本来のものではなく、パリで生活するなかで必要に迫られ苦労して身につけたものだ、自分にそのような姿勢を強いておいて、今更愛情の論理をふりかざされても、どうしたらいいか分らないではないかと言った時、その言葉は日本を代表している醍醐源太郎にむけられていたが、同時にその場にいない私にむかって発せられたのでもあった。しかし、醍醐に彼女の真意は通じなかった。
久美子は焦立《いらだ》って、
「大変はっきり申し上げますと、八重と充郎の存在が消えたままでいてくれれば、その方が私にとってはよかったわけです」
とまで言った。充郎を救おうと意気込んできた彼には、許し難《がた》い発言であった。
「『先生、僕ママに会うんですね、緊張するなあ』って充郎君は言ったんですよ」
と醍醐は報告した。
「充郎は私に関心はあるわけですか」
この久美子の言葉は(私に偉そうにお説教するなら、その前に自分の考えを一度疑ってみてからにしたらどうなの)と言い募りたいのを、辛《かろ》うじて押えた皮肉なのであったが、醍醐は勢いづいて「そうなんです」と身体《からだ》を乗り出した気配であった。
「あなたと通じ合いたいという願いは持っている。それも、とても強く。持っているけど表には出さないし出せない。充郎君は自分の誇り高い性格を、充分な能力で抑制してしまうんです。これは彼を語る場合、見逃せない特性なんだ」
そう語る時、醍醐は善意に満ちたカウンセラーであった。だから、貴女《あなた》はそれを理解してやるべきなんです、と彼の熱を帯びた眼は訴えていた。彼は情熱に駆られずに喋《しやべ》ることが出来ない性格だった。
パリに着いた晩、充郎は久美子の家に泊るか、醍醐と一緒にホテルの部屋で寝るか迷ったのである。充郎は長い躊躇《ちゆうちよ》のあとで、
「矢張り醍醐先生のところで寝る」
と言った。
「ママはあの程度にしか僕のことを思っていないからね、僕やっぱり先生と寝るよ」
十数年ぶりの対面が終った後で充郎はそう言ったのだと、醍醐は非難と、自分の方が充郎君と心が通じ合っているといういくらかの勝利の気分を混えて久美子に報告した。
「僕と寝ると言ってしまわなければ、彼の気持が落着かなかったんですよ、可哀相《かわいそう》に。なんとか久美子ママは御自分の今の気持、内面の葛藤《かつとう》を打開できないんですかねえ」
「突き破るとしたら、それは私の役目って言うわけね」
東京から急に出てきて、子供を残して外国に来てしまった女の心を知るはずもない秀才が「愛だ」「挫折《ざせつ》だ」「内面の葛藤だ」と口にするたびに、久美子は(こういう手合には、教養のない女だけが騙《だま》されるんだ)と反感を覚えながら、醍醐の顔を見た。彼は久美子に言わせれば眉目秀麗《びもくしゆうれい》の自動機械のように喋っていた。
「僕はね、兄としての順造さんが一番久美子ママを理解しているような感じを受けたんですよ。妹への思いやりとかね」
と、自動機械はなかなか俊敏であった。二度会っただけの私の話を持ち出して、攻撃の方法を変えたのである。
「私はいつも大変ハラハラさせる存在だったので、彼にとってね」
そうして久美子は可笑《おか》しそうに「クッ、クッ」と笑った。
おそらく彼女は、物事を妙に重苦しく考えるくせに、本当のところが何も分っていないように見える兄の私が、自分が率直な行動を起すたびに狼狽《ろうばい》し、立腹し、しかし結局は追認して協力した経験、その際の私の表情や話し方、首を振って洩《も》らした歎声《たんせい》などを想起したのであったろう。私は醍醐と久美子の会談を録音したテープを、ずっと後になって手に入れてこの件《くだり》を聞いた時、彼女との生れた時からの関係をあらためてふり返ったのであった。
「まあ、兄の場合は私と幼年時代を共に生きたという面で、おそらく何等かの連帯感があるんだと思いますよ。そこへいくと醍醐さん、私は充郎とは一緒に生きたことがないのよ。子供を残して出た時、自分との繋《つなが》りはもう母と兄しかいないと考えて、その二人に対して一応意識的にも自分の情熱を注いだんです」
「…………」
「父が死んだ時、私はたまたま日本にいて最後を看取《みと》ることができたんですけど、その時充郎に会ったんです。彼は私を『おばちゃん』と呼んだんですね。それは考えてみれば当然のことだったと思います」
そう言われれば、久美子が充郎に対して、なかなか母親として振舞えないのも無理のないことだと醍醐は認めざるを得なかった。
このテープは、結局充郎をアメリカの林田の知人の家に預けて単身帰国した醍醐が、二年後に急死しなかったら、私の手に渡ったかどうか分らない。彼の死後、夫の遺品を整理していた未亡人が、私への宛名《あてな》書きのある袋を発見して届けてくれたのであった。
その中には四本のテープが入っていて、すでに私がそのコピーを聞いていた充郎君との対話≠フ他《ほか》に、林田夫人との対話∞久美子ママとの対話T、U、パリのホテル・エイグロンで≠ニ内容が明示されていた。
おそらく醍醐はそれらの総《すべ》てを私に聞かせて、充郎の救済策について相談する必要を認めていたのであったろう。しかし日本に帰ると、テレビの仕事や執筆活動の予定が山積していて、私との面会を果さないうちに日時が経過し、そのあいだに私の側にも醍醐を疎《うと》んじる状態が生れてしまったので、そのままになってしまったのであった。
その私の方の事情というのは、久美子がパリから母宛に送った手紙に端を発していた。彼女は醍醐について、
――日本のインテリの典型的な傲慢《ごうまん》さを持った男でした。自分の頭で分析し尽せないものはないという、マルクス主義者などによく見られる自惚《うぬぼ》れと、多くの雑多な知識、そして人間の心を決して理解できず、しようともしない鈍感さ、そのうえ日本の男に共通する事大主義と女性|蔑視《べつし》を備えていました――
と烈しい非難の言葉を書き綴っていた。
母はその手紙を私に見せて、
「醍醐ってどういう人なの」と聞いた。なかなか有能で、充郎のことを真剣に考えてくれているようだと言うと、
「そうかしらねえ、順造さんは人がいいから。だって林田が見付けて来た男でしょう。気をつけた方がいいわよ」
と忠告した。
父が他界してから、母は少しずつ子供っぽく無邪気に、それにつれて私とのあいだは友人のようなものになっていた。律子を気軽に紹介できたのも、こうした関係のお蔭《かげ》であった。勿論《もちろん》、母には識《し》り合いの雑誌編集長と説明して、一緒に食事をしただけであった。結婚を認めて貰《もら》おうという下心は私にも律子にもなかったから、私達は気楽に飲み、話も弾んだ。もっとも、私の胸中に、いつか生活を共にする場合を予想する、いくぶん希望を混えた期待がなかった訳ではない。母は私と連れ立ってホテルのなかのレストランに現れた律子に鋭い一瞥《いちべつ》を投げたが、全く物怖《ものお》じしていない彼女の態度から、その日の会合の性格を察したのか、窺《うかが》うような姿勢から背中を伸ばして、目に見えて上機嫌《じようきげん》になった。
熱いスープが出てきた時、母が律子に言った。
「順造さんはね子供の時から猫舌《ねこじた》だったのよ。ライスカレーまでふうふう吹いて喰《た》べるくらいなの。これは性格と関係あるかしらね」
「あら、やっぱりそうなんですか。お風呂に入る時、順造さんの後では、よっぽどお湯を足さないと、私風邪を引きそうになってしまうんです」
「アッハッハ」と母が珍らしく男みたいな笑い方をした。それは私が狼狽したのがおかしかったのか、昂然《こうぜん》と事実を呈示した律子の振舞いを愉快に思ったからなのかは分らなかった。いずれにしても、その高笑いで母は敵対したかもしれない自分と律子の関係を乗り超えたのであった。律子が気に入ったらしく、それからの二人の話題は、日本の男が、面子《メンツ》や体面ばかり気にして、いかに魅力がないか、ということを中心にして展開した。それは、パリで久美子が持ち出す題材によく似ていた。
母は総てを心得た様子で、家に帰る途中、
「いい娘じゃない、少し年とっているけど、あなただってそう若くはないんだし。××よりよっぽど魅力的だわ」とかつての私の妻の名前を口にした。
「男はね、いろんな女と付合った方がいいのよ。あんまり真面目《まじめ》なのも考えものね。でないとお父さんのようになってしまう」
少し考えて、私は母が、銀行家で昭和の初期の不況の際に倒産した父親のことを言っているのだと分った。話によると、父親はなかなかの趣味人で、休みになると好きな狩猟のためにいつも山を歩いていたと言う。母はその父親のことを近頃《ちかごろ》時おり口にするが、彼女にとってその頃の記憶は、自らの少女時代と共に聖域のようなものになりつつあるらしい。
律子に会って、むしろ交際を奨励するような気配さえ見せたのは、形の上ではずっと独身生活を続けている私のことを、やはり気にかけているからであろう。それとも母は律子のなかに久美子に似たものを見ていたのだろうか。
律子を紹介してから数日|経《た》って、庭隅《にわすみ》の古い池の側《そば》で母に会った時、彼女は、
「でもね、子供を作るのはよく考えた方がいいわ。子供が出来るとね、苦労しますよ」
と念を押した。それは久美子の場合を思い出しての言葉か、君子を頭においての話かと私はあまり愉快ではない気分で母を見返した。
眼《め》が合い、池の側にいる母の瞳《ひとみ》が、深い水の色に同化しているのを見た。現実を離れた地域を眺《なが》めているようで、自分が注視されているという気がしない。私は母が、私と久美子を生んだ自分を振り返って「子供を生むな」と言ったのだと覚《さと》った。とすれば、それは律子への伝言である。話しはじめる前、母は朝の池の傍《かたわら》に来て、水のなかから散り散りになった自分を取り出し、過ぎ去った時を編み直していたようだ。母の場合父と共に生きた苛酷《かこく》と言ってもいい時間を作り変える作業は、庭の草花の手入れや小さな旅行になっていた。そしておそらく、彼女のライフワークとも言える自己救済は、短歌の形をとりながら、常にこの、設計上は何の趣向もなく、枝振りのいい松も名石も周辺に置いていない、ただ水が深く澱《よど》んでいるだけの池に戻《もど》ってくるのではないかと思われた。
私にしても病気からの回復期、よくこの池の端《はた》に佇《たたず》んだ。水を眺めて臍《ほぞ》を噛《か》み、それまでの傲慢な姿勢を恥しいと思う気持を投げ込み、底の方からもっと本当の自分を見付けたいと、時おり煌《きら》めく魚鱗《ぎよりん》の影や、水面に漂う散った花水木《はなみずき》の薄紅色の花弁を見詰めたのであった。
「順造さん、時間ある? 久美子から手紙が来たのよ、目を通しておいた方がいいと思うから」
母の声が遠くからのように聞えたのは、私の方がいつか現実を離れた地域に想念を放ち、それに乗って時間を遡《さかのぼ》っていたからであろう。
そうして私は醍醐源太郎に対する久美子の酷評を読んだのであった。
あの時、真剣に醍醐を弁護し、彼の力を借りて充郎を救おうと努力したら、もう少しなんとかなっていたかもしれないと、私はテープを聞きながら、当時の自分の不鮮明な態度を残念に思った。彼の熱っぽい口調、情熱的な目の輝きを想《おも》い起し、醍醐の才能を認めながらもついていけないような印象が心の隅にあったことも、母の意見を押し戻せなかった一つの原因であった。しかしこれは彼の責任ではない。熱心な宗教家の説教、政治家の獅子吼《ししく》、あまりに真摯《しんし》な思想家の信条吐露、その他なんでも熱中している人間を見た時、まずまっ先に警戒心を抱いてしまう根性は、もうずっと以前から私の胸中に抜き捨て難い太い根を張り巡らしてしまったのだ。
これは経営者として社員を指導する場合には好ましくない性格の一つである。自社の製品こそ一番|秀《すぐ》れていると経営者が思い込まなければ、セールスマンは頑張《がんば》れないし、この会社に勤めるのが、なんといっても幸福なのだと社長が固く信じていなければ、やはり社員も不安であろう。教育には、何らかの思い込みが必要なのだということについても、私は無知であった。もっと単純で、健康な姿勢こそ、指導力の源泉だと、いろいろな機会に教えられ、私は少しずつ態度を切り変えることを学んだ。本心はともかく、信じ込んでいるように振舞うことも上手《うま》くなった。それは丸和百貨店を競争力のある強い企業に仕立ててゆく必要性が私に課した訓練のようなものであった。「私ははじめから意志が強かったのではないんです。これは訓練によるものです」と醍醐に述べた久美子の言葉が思い出された。
私は目黒から首都高速道に乗った。騒音防止のために両側の塀《へい》が高くなっているので、車は深い溝《みぞ》のなかを目的地にむかって走る輸送機械のようになる。自分の用事で動いているのに、運ばれてゆく物体のような感じだ。
そんな状態で走っていると、もう少し別な生き方があったのではないかという気がしてくる。
深尾卓三に相談した結果は満足すべきものだった。彼は充郎をD教授が主宰するフィラデルフィアの研究機関に送ることを薦め、日本でのその機関の代表者に紹介してくれたのである。
私が徹底した治療を思い立ったのは、数日前の朝、母と交わした会話が直接の動機になっていた。彼女は、
「私|達《たち》がこうして元気なうちはいいけど、大地震で東京が全滅しちゃったら充郎なんかどうなるのかしら」
と言い出したのである。その前日にかなり大きな地震があり、新聞は早晩周期的な激震が起るかもしれないと報道していた。たしかに、大きな災厄《さいやく》が近づいている予感があったが、それは必ずしも地震のことだけではなかった。戦争に敗《ま》けた日本がこんなに繁栄し続ける訳がない、と言う人もいたし、世の中が乱れ過ぎている、こういう時はきっと何かが起ると予言する者もあって、むしろ漠然《ばくぜん》とした不安が前方に揺蕩《たゆた》っているように思われた。
充郎は今でも私には内緒で、毎月入国査証の申請に領事館に出かけていた。赤く染めた頭髪を長く肩まで垂らし、焦点の合わない眼で決して左右を見ることなく、彼が真直《まつす》ぐに受付けに近寄るたびに、領事館の人達は、「またあの変な青年が来たよ」と話の種にしていると、そこに務めている知人から私は聞いた。そんなふうに言われているといくら話して聞かせても、強制送還の問題と同じで、自分が作り出した外界の情況が彼の頭には入っていかない。
「それでも、何か目標があることは救いだね、治療の手掛りになる」
と深尾卓三は言い、そう言われればそうかもしれないと頷《うなず》きながら、醍醐源太郎が急逝《きゆうせい》したのを、今更のように残念に思った。
充郎の滞米記録を見ると、快適な生活を送っていたという事実は何処《どこ》にもないのだ。その彼が未《いま》だにアメリカ行きを希望してやまず、そこに素晴らしい土地があると信じているのは、その考えに縋《すが》ることがただ一つの救いであるからだろう。
アルバイトを薦めると充郎は必ず英語を話しアメリカ人と接触する可能性のある会社を探して勤めるが、いつも三月ぐらいで解雇される。するとふたたび、一日中部屋に籠《こも》って一歩も外に出なくなり、英語の雑誌と英文のSF小説を耽読《たんどく》する生活がはじまる。充郎は英字新聞に「友人を求む」という広告を二、三ケ月に一度の間隔で載せている。
――若いアメリカ人と会いたいのです。私は二十六歳の学生、自分の意志に反して東京に滞在しています。去年、オクラホマの大学から入学証明書の更新を受けました。オクラホマは以前、カンサスにいた時(七七年)に行ったところです。どうという理由なく若いアメリカ人に会いたい。特に男、年は二十歳ないし三十歳、十八歳ぐらいでもいいのです。日本に在住している人を含みます。アメリカ人歓迎――
――僕《ぼく》の望むアメリカ人からの返事を待っています。同時にスインガー誌を送って下さい。どのくらいの値段で? どうかお願いします。日本に住んでいるアメリカ人の住所、電話のリストが載っているスインガー誌が僕には必要なのです。あなたが、僕を助けてくれることを切望します。僕はアメリカに行きたいのです――
机の上に散らかっている原稿を見ると、綴《つづ》りは数ケ所間違っていた。構文も直した方がいい部分がいくつかある。ベッドの周囲には、英文の雑誌やSF小説が、使い捨てた夥《おびただ》しいチリ紙に混って投げ出してあった。いくら注意しても、日課を作って壁に張り出してやっても、彼は部屋を掃除することを考えつかない。彼の独特の匂《にお》いは、この部屋の悪臭が沁《し》みついているからなのだと、時おり部屋を訪ねるたびに腹立たしくなる。
私は充郎の英語の力で、スラングの多い小説が本当に読めるのか、それに必ずと言っていいほど恋愛問題が絡《から》まっている内容が、どれほど興味を惹《ひ》くのだろうかと訝《いぶか》った。
おそらく、新聞社の方で文章は広告文らしく修正してくれるのであろう。私はこの文章は、国外の同志と連絡を取ろうとしている政治犯の獄中からの暗号通信のようであり、同性の愛人を探しているホモセクシュアルの青年の、宛名《あてな》のないラヴレターのようだとも思った。いずれにしても、そこに聞えるのは抑圧からの解放を求める声だ。
充郎の部屋は母が使っている母屋《おもや》の離れで、父が元気だった頃は丸和不動産の秘書室であった。西垣浩造はこの部屋で表沙汰《おもてざた》にはしにくい作戦の実行や、政治献金の帳簿づくりなどの作業を住み込みの書生達に命じていた。死後、そうした業務がなくなったために空いていたのを、充郎の住いに改造したのである。彼にとって、其処《そこ》ははたして城なのか、あるいは囚《とら》われの場所として意識されているのか。彼にとって日本全体が獄のようなものであってみれば、ふたたびアメリカに行ける前の仮寓《かぐう》に滞在《ヽヽ》しているだけのことなのであろう。あるいは充郎にとって、人生そのものが滞在なのであろうか。
私は彼が自分の部屋で頻繁《ひんぱん》に自涜《じとく》に耽《ふけ》っているのを知っていた。いつだったか、前を通りかかって苦しげな呻《うめ》き声を聞き、あわてて踏み込むと、彼は寝台に背を凭《もた》せかけ、ズボンを脱いだ脚を床の上に長く伸ばしていた。咄嗟《とつさ》に私は扉《とびら》を閉め、少し考えてから強くノックし、やや間《ま》をおいて部屋に入った。
「どうしたんだ、呻いていたのは充郎君か」
と聞くと、彼は首を捩《ねじ》って振り返り、「ああ」と胡乱《うろん》な声を出した。のろのろと上体だけを起して「何か御用ですか」と間遠に眠たげな声で聞く。
「また部屋を散らかしているね。たまには窓を開けて空気を入れ替えろよ、臭気が籠って健康に悪いぞ」
そう言うと私は委細かまわず手荒くガラス戸を開いた。少し先に池が見え、花水木の花が咲いていた。身体《からだ》を乗り出してそれを眺めながら、どんな注意をしたものかと考えたが、適切な言葉が見付からない。私は充郎が立上り、並んで庭を見ることを期待した。そうすれば顔を見ないで優しく話して聞かせることも可能だと思われたが、いつまでたっても充郎は動く気配がない。止《や》むなく振り返ると、黄色いティッシュペーパーが床の上に所狭しと散らばっているのがあらためて目に入った。私の視線を受けて彼は仕方なく、紙屑《かみくず》の海に漂う水母《くらげ》のように頼りなげに立上った。
「紙屑は、ちゃんと屑籠《くずかご》に入れろよ」
そう言って取り片付けようと踞《しやが》むと、指先に生温かい精液が触れた。充郎は身体の両側にだらりと腕を垂らして私の動作を見ているが、何か言うのでもなく、手伝う素振りも見せない。父が機密の作業に使っていた部屋で充郎が自涜に耽っているのが私には悪い冗談のように思われてならない。
アメリカの大学で「正常な人間関係を形成する能力に欠ける」と断定され、大人になることを拒否しているような彼に恋人が出来る可能性はなさそうだった。しかし、祖父の血を継いで性欲が強いとすれば、自涜に走るしか手段がないに違いない。その際、彼はどんな相手を頭に想《おも》い描いているのであろう。あるいは空想の対象は人間の異性ではなく動物だろうか。しかし都会育ちの充郎には自然もありのままの姿では存在していないのだ。
車は騒音防止の壁を抜けて視野の展《ひら》けた路線に入っていた。屋上の金網の囲いのなかでテニスをしている人が見えた。彼等《かれら》は高速道路の外廻《そとまわ》り線に数珠繋《じゆずつな》ぎになって渋滞している車や、そのなかで焦立《いらだ》っているであろう人間には全く無関心で昼休みの競技にうち興じていた。球が緩慢に往《い》ったり来たりしてテレビゲームのように見えた。高架になっている道路を挟《はさ》んだ反対側に、古いアパート群が現われ、ベランダに数多い植木鉢《うえきばち》が見え、屋上庭園という言葉が思い出された。地上から切り離された場所で植物を育てているのは、どこか抽象的な自足を現わしている頼りなさであった。私は古代バビロニアには広大な空中庭園が作られていたという記述を読んだことがある。それは遥《はる》か昔に滅んだ帝国の賑《にぎ》わいを示す史実であった。
続いて私の視野に近づいて来た新しい高層マンションの手摺《てす》りには、布団《ふとん》や洗濯物《せんたくもの》が生活の旗印のように垂れ下がっていた。滑り落ちないように湾曲した布団挟みで留めてある。それはどの家も同じ水色の鋳物である。一軒一軒の家の内臓を太陽に曝《さら》し出しているようで、逞《たくま》しさとも猥雑《わいざつ》さとも見える。
会社に着くと、パリの駐在部長の山田正夫から連絡が入っていた。
久美子の裁判が進んで、カジノ経営に関する違法行為が審議される過程で、彼女の駐在部長時代の会社の事務処理に為替管理法違反の容疑が出て来たというのである。それが社の指示によって行われたのだとすれば、丸和百貨店の責任が問われ、彼女が独断でやったことだとすれば、久美子の裁判が不利になる形勢である。その二者択一に直面して、山田は困惑し、私に指示を仰いできたのであった。何度も同じところを巡る彼の電話は、山田の混乱を率直に表わしていた。
「そういう時は、会社経営の原則で考えるしかないだろう」
私は宥《なだ》める口調になって答えた。
「公私を区別して、公を優先させるしかない、つまり結果は考えずに、企業を守ることで頑張って欲しい。僕が言うんだから、安心して社の潔白を主張してくれ、責任は持つから」
「いいでしょうか、それで大丈夫でしょうか」
と問い返す山田の声には、内心ホッとした響きがあった。泣いて馬謖《ばしよく》を斬《き》る≠ニいう古い諺《ことわざ》が浮んできたが、私は口にしなかった。
それは、父がよく使った言葉であった。
山田と話している時、私は父と同じ考え方をする人間になっていたのだ。久美子が私のことを分らないと言うのは、このように立場を使い分けているからではないかと思った。パリの会社の弁護士が「久美子さんを告訴すべきだ」とまで言っていると聞いて、私の胸中には新しい疑念が生れた。こちらの弁護士が相手側に通じている場合だってあるのである。久美子が逮捕されカジノが倒産したことによって被害を受けた債権者からすれば、まず久美子を有罪にして、それから鉾先《ほこさき》を丸和百貨店にむける作戦をとることだって考えられないことではない。しかし私はその疑惑を押し殺すことにした。経営指導に際しては、自分の思いつきや不安を軽々しく口にすべきではない。自信ありげに振舞って、自分の判断の成否について迷ったりしない態度が肝要なのだ。そう言えば醍醐源太郎も、経営者ではなかったが、決して自分を疑わない男だった。
窓の外が急に暗くなった。自動ゴンドラがガラス窓を掃除しながら下っていった。部屋が翳《かげ》り、また明るくなった。
ヘリコプターが、眼と同じ高さを横切って飛んでいる。地上から見るのと違って、浮いているのが分る視角だ。秘書がメモを差入れ、常務会の準備が出来たと報《しら》せてきた。今日の議題は来期の予算方針、組織と人事計画、○○市の市庁舎跡地の競争入札をひかえての丸和百貨店の応札価格の決定、商事部の不良売掛問題の処理等であり、時間がかかりそうなものが多い。八名の常務の他《ほか》に、企画室担当の役員、記録係、それに案件を説明する者が二、三名入れ替りで参加するから、つねに十三、四名が机を囲んで討議することになる。しかし昼間の会議だから、食卓を囲んで巨大な魚を料理する中世の幻想絵画の雰囲気《ふんいき》には陥らないですむだろう。むしろ数学の問題を共同で解くような冷静さが望ましいし、多分そうなるはずだ。或《ある》いは私の立場からは役員同士の葛藤《かつとう》や対立が見えないだけなのかと思ってもみるが、もし見えたとしても私は気付かぬふりをして事務的に処理していくだけだ。
普通は二時間だが、今日の場合は三時間を予定している。毎日、仕事は澱《よど》みなく流れている。その間にいくつもの緊張した瞬間があり、驚いたり腹を立てたり我慢したりしているうちに時が過ぎる。そうした流れのなかに或る日一人の男が登場する。新聞や経済雑誌は彼の人となりや横顔を紹介する。なんの誰兵衛《たれべえ》、四十五歳、慶応大学経済学部卒、昭和三十四年入社、××店庶務課を振り出しに総務人事畑を歩いて五年前に中国地方の店舗担当に就任、競合他社との商戦に業績をあげて今回の昇任になった。本命コースを走っているエリートである……というような記事が書かれる。取引先は彼の性格や環境を検討する。趣味は、夫人の実家は、子供は、といった具合だ。彼を中心に新しい関係の網の目が作られ、彼と入れ替りに消えた男のことは、いつか忘れられる。昼食会の時などに誰かが思い出して話題になり「じゃあ一度、お見舞をかねて僕が顔を出してみましょう」と面倒見のいい男が連絡役を買ってでる。
この日も常務が一名欠席していた。数日前の朝、彼は胸部に激痛を覚えて病院に担《かつ》ぎ込まれた。検査すると冠動脈に異常が認められ、放《ほう》っておくと危険だと言われたので急に手術することになったと夫人から電話が入った。彼は毎朝テニスを欠かしたことがなく、ニコンという渾名《あだな》がついていた。いつもニコニコしている円満なスポーツマンという言葉を短縮したのだと解説する者もあったが、今ではニコンという音の感じが彼にふさわしいと皆が思うようになっている。
「どうしてニコンなんですか」と外部の人に聞かれれば殆《ほとん》どの仲間が「つまり、その、彼はニコンなんだなあ」と言うぐらいに、親しまれていたから、その報せを聞いた者は誰もが、「えっ、ニコンが」と驚いた。血管の異常は何が原因で起るか、とその日の昼食会で遠慮のない会話がかわされた。人々のあいだに、倒れたのはニコンで自分ではなかった、といった感慨が生れていた。戦争に出て、隣の兵士に弾が当った時、やはり想いは同じであったか、と年輩の役員に聞いてみたかったが私は黙っていた。
妻と別れたあとの一時期、私は金魚を飼っていたことがあった。仲間が死んだ傍《かたわら》を、美しい尾鰭《おひれ》を揺らめかせて泳ぐのを見て不思議な感じがしたのであったが、人間の場合も、倒れた同僚は見えないところにいるだけで、生き物はみんな金魚と同じなのだと妙なことを考えた。
私は、経営者の立場から、久美子に対して社の利益を優先させる指示をパリにいる山田駐在部長に与えたばかりなのだ。その結果、彼女は一層不利になり、私がそのように決めたと知ったら、精神的にも打撃を受けるだろうと思った。山田正夫は生真面目《きまじめ》だから、「これは社長の決定でそうなりましたので、小職の勝手な判断ではありません」と、言わずもがなの説明を附け加えるだろう。それにしても駐在部の弁護士の意見は少しおかしい、この疑問はどんな方法で解いたらいいのか。
私は目をつぶって常務会の席に腰を下ろしていた。ニコンが倒れたので常務のポストが一つ空いてしまったし、社の業務が拡大したことを考えれば来期は三名ほど役員を補強しなければならないだろう。手術が成功しても、ニコンが発病前と同じ役職に耐えられるとは思えない。六月が株主総会だから、その直後の役員会で新しい常務を任命するとすれば、半年ぐらい前から心づもりをしておかなければならない。資料を整理して候補者の資格を持っている者の名簿を作ってみよう。少し前に調べたところでは、丸和百貨店の幹部の平均年齢はこの五年のあいだに二・六歳ほど高くなっていた。経営に若さを導入することは、特に市場が変化している際には大事だと分っているから、出来れば三十台の役員も作りたい。
そう思うと、銓衡《せんこう》の対象になりそうな若手幹部の顔を次々に頭の中で並べはじめた。普段私はひとりひとり性格やものの考え方や感情の動きが違う消費者を所得階層分類や統計数値で把握《はあく》できると思うのは、本当のビジネスマンの姿勢ではないと言っているのだ。その私が、社内の状態を掴《つか》むために数値を頼りにしなければならなくなっている。
昔は二百人たらずの社員であったから人事部長の言う個体管理≠ェ出来たのであったが、今の丸和百貨店では不可能だ。だが、現在の方がお前にとっては楽なのだ、という声も私の内心には聞えてくる。事故を起した社員を辞めさせるのも、組織が代行してくれるのだ。私はその社員の家族のことや、年老いた母親などを想像しないで済む。金魚鉢のなかの金魚のように、目の前にそれを見なければならないのだったら、私はおそらく経営者としての職務を遂行することができないだろう。いや、そうなったらなったで、お前は相当強硬な措置も平気で実行するだろう、何と言っても西垣浩造の血を引いているのだから、という別の声が聞えてくる。お前が恐れているのは、本当は自分が西垣浩造と同じ経営者になってしまう、あるいは成れてしまうことなのではないか、とその声はもう私を脅《おびや》かす響きを持ってくるのだ。
今日の商事部の問題では、おそらく二、三名の犠牲者が出るに違いなかった。担当役員は二年の任期が切れた後、再任しないことになるだろうが、部長は監督不行届のため降格、直接の責任者は引責辞職になるだろう。こうした賞罰も、当事者の日頃《ひごろ》の評判や人気によってかなり左右されるのだけれども、今度の場合は取引先の要求が無理と知りながら、架空の伝票操作をして、先方の資金繰りを手伝ってやっていたのだから、弁明が困難なのだ。先方が倒産したために丸和百貨店の不良買掛債務だけが残った。
直接の責任者の課長は私とほぼ同じ年頃だった。剽軽《ひようきん》な男で、若い頃は一緒にスキーなどに行くと女子社員に一番人気があった。たしか、ミス丸和と言われた奉仕係りの女子社員を一所懸命口説き落して結婚したはずであった。彼は世帯《しよたい》を持ってからもよく事故を起した。それも本人の欲からではなく相手に利用されてしまうからであった。しかし社内では美人を貰《もら》ったので無理をしている、と言われた。考え続けてゆくと、幾人もの林田悟郎や山田正夫が犇《ひし》めいている海を、いかにも超越したように眺《なが》めている、その実、内心の弱さを押し隠した自分の姿が見えてくるようであった。
定年を翌年に控えて、彼は最後の賭《か》けに出て失敗したのかもしれなかった。成績をあげれば部長に昇格して、あと二年定年が延びる可能性があったのがいけなかったのかもしれない。彼の浅黒い、引締った頤《あご》を持った丸顔は女子社員から「黒兎《くろうさぎ》のようで可愛《かわい》らしい」と言われていた。そのよく動く小さな目は、どうしてこうなったんだろうと訝《いぶか》しげに、また訴えるような光を帯びて私の想像の海を浮き沈みしていた。彼は難破しつつあるのだった。
つい先刻、私は久美子を海に沈めて来たばかりだ。常務会は、かつて女子社員に人気のあった黒兎≠取り囲んでいる。それは良識と規律の海だ。私は黒い法衣を着て正面に坐《すわ》っている審問官であった。いつの日か、「いや、お役目ご苦労であった」と言ってあの世から迎えが来るだろう。その使者が、頭に角を生やした地獄からの使者か大天使かは分らない。どちらでも私にとっては同じことのように思われる。
監査報告があり、懲罰委員会の提案が配られはじめた。予想どおりの処分案であった。
私は、
「アメリカ人歓迎、僕《ぼく》の望むアメリカ人からの返事を待っています」
と訴え続けている充郎の文章を思い出した。彼も難破して、暗い荒れた海から救助を求める合図を送っているのだった。
秘書がメモを持って私の席にやってきた。いつかの政界の有力者からの電話だ。
「大体、君のところに落札するように話しておきました。やはり百貨店の格が違うから、と言っておいた。それはそうと、今度のパーティの切符頼みます、秘書と相談しておいてくれませんか」
そうして忙しく電話は切れた。受話器を置いて窓を見ると、遠くに白銀に輝く富士が見えた。空気が澄んでいるのは、きっと寒風が吹いているからだろうが、部屋は頑丈《がんじよう》なサッシュに嵌《は》め込まれた厚いガラスで外界から遮蔽《しやへい》されているので分らない。またヘリコプターが風に流されているように浮いて、私の視野を遠離《とおざか》っていった。
六
毎晩寝る前に少しずつ読んでいた『パンセ』も、いつの間にか中ほどまで進んだ。昨夜は、思考の尊厳≠ニいう章の終りの部分を読んだ。
――多くの確実なことがらで矛盾するものがある。多くの虚偽のことがらで矛盾せずにとおるものがある。矛盾することが虚偽のしるしでもなく、矛盾しないことが真理のしるしでもない――
その解説に訳者が――パスカルは一個のキリスト者として、デカルト哲学の合理主義にたいして、矛盾の有無によって真理を判断することを拒んだのである――と註《ちゆう》をつけていた。私はその箇所に鉛筆で線を引いた。我田引水の姿勢で読めば、この部分は大変納得のいくものであったから。
私が物を書くようになったのは、病みあがりの時期に友人が出していた小冊子に現代経営者の孤独について≠ニいう短文を発表したのが契機になっていた。そのなかで私は、――常に客観的判断者でなければならない経営者としての本質は、現代においては孤独の形をとってしか現われ得ない――などと書いた。その頃、私は三十歳になったばかりで、今ほど経営者的ではなかったから、気楽に衒学的《げんがくてき》なことが書けたのであった。これが、ある編集者の目にとまって、原稿を依頼された。同じ頃、
素朴《そぼく》なものを信じて
美しく生きた人の話が聞きたい
というリフレインを持った詩も、別の編集者の目にとまっていた。それ以来、時おり註文を受けると書くようになったので、経営者としての毎日を送りながら、経済界の動きに批判的な文章を発表したり、詩を作ったりすることに矛盾を感じないか、などと聞かれるのだ。その質問は時によっては糾弾の響きを持つ。
「矛盾していたらいけませんか」「人間は誰《だれ》でも矛盾しているので、それが全くない人なんて純粋の化物でしょう」などと開き直ったこともあったが、結果はすこぶる悪かった。相手は呆《あき》れた顔になって、私をよっぽど傲慢《ごうまん》な男か、変人と思い込むようであった。そういった経験を積重ねて、近頃ではあまり肩を張らずに「いや、なんとなくこういうふうになってしまったので」等《など》と曖昧《あいまい》な逃げの答弁に切り変えている。そんな具合だから、パスカルのこの言葉を発見した時は嬉《うれ》しかった。学生の頃読んだ時に、どうしてこんな重要な箇所を見過していたのだろうと思った。
久美子の事件の処理について、会社の利益を優先させる方針を出してから、社の内外で私への批判が強くなっていた。
久美子の親友で、成田空港から直行したという洋舞家の今村奈保は、私の五十二階の部屋に入るなり、
「なんだか宇宙遊泳しているみたい」
とステップを踏んでみて、洋舞家らしく身体《からだ》でその感覚を覚えておこうとしている様子であったが、漸《ようや》く腰を下ろすと、
「順造さん、久美子を救ってあげなきゃ可哀相《かわいそう》よ」
と言った。彼女は久美子からの伝言を持ってきたのだった。不当な弾圧と戦うために書類を作製し、コピーを取る作業場とタイプを打てる業務秘書がどうしても必要で、資金的な応援をしてほしい、というのがその内容であった。その言葉は私の胸中に学生時代の記憶を呼び起した。仲間が逮捕された時、私|達《たち》は毎日のように不当な弾圧≠フ事実を指摘し、救援活動に奔走したのであった。フランスでは少し前に社会党と共産党の連合政権が出来ていた。しかし、そのことによっても久美子の苦況は少しも変っていないようである。
「もう毛皮や宝石なんかも全部お金に替えてしまったらしいのよ。この間、私のところに『指輪を買う人を見付けてちょうだい』って持ってきたんで分ったんだけど、何とかしてあげて欲しいのよ」
今村奈保はそこまで一気に喋《しやべ》ってから、急に口を噤《つぐ》んで周囲を見廻《みまわ》し、
「ここ、こんな話をしても大丈夫?」
と声を潜《ひそ》めた。
その意味が分らずぼんやりしていると、
「あなたの周囲には密偵《みつてい》が大勢いて、電話も盗聴されているかもしれないって久美子が言っているわ」と解説した。
「それ、一体どう言うこと?」
「だってあなた自由がないんでしょう。久美子を助けられるの? 外へ呼び出そうと思ったんだけど、電話も信用できないし、かえってそれでは危いかと思って、それなら思いきって敵地に乗り込もうと考えて、それで此処《ここ》へ来たんだわ」
私はそれが久美子の妄想《もうそう》であると説明しなければならなかった。説明しているうちに、自由がないと彼女が言うのは事実かもしれない、ただ私が捕えられているのは自分で作った組織であって、その組織は見えない糸で世の中に張り巡らされた網の結び目の一つになって、この五十二階を包囲しているのだと思われてきた。
さらに今村奈保が語ったところによると、久美子は彼女を憎む丸和不動産の一味が、日本の財界の有力者に依頼して、自殺と見せかけて始末してしまおうと、パリに刺客を派遣した形跡があると話したらしい。そうなれば、私の冷たい仕打ちに非難が集り、「順造兄さんも失脚するから、最近台頭いちじるしい丸和百貨店のことを快く思っていない伯父の一派にとっては一石二鳥なのよ」と声を潜めたと言う。
そこまで聞けばたとえ私の環境の異常さを認めたとしても、久美子の錯乱は明らかなように思われた。私は今村奈保に今までの事件の経過を話し、久美子が生活に困らないように月々送っている金額を報告し、弁護のための費用は別建てで送金していると説明した。伯父との関係にしても久美子が想像するように敵対的なものではなく、彼も刺客を送るほど非常識ではない、むしろ慎重すぎて彼女とは肌合《はだあ》いが違う人物だと解説した。
「どうも少し変だと思ったのよ」
そう言って今村奈保はだんだん落着いてきたが、それでもまだ、そうだとすれば私の態度の冷たさは腑《ふ》に落ちないと思うのか、時おり首を傾《かし》げて疑い深そうな眼《め》にもなるのだった。それほど、久美子の話は説得力に満ちたものであったのだろう。彼女は物柔らかで静かな話し方をしたのだ。久美子が諄々《じゆんじゆん》と語れば、長いあいだ郷里を離れていた今村奈保のような人間や、日本を東洋の不思議な国と考えているフランス人などは、やはり惑わされるに違いない。とすれば、彼女の妄想が、あり得ることとしてパリの取引先に拡《ひろ》がっていることも充分考えられる。まずそれを防がなければならない。私は経営者の眼になって、今村奈保の骨張った細い指先の漆黒のマニキュアを眺《なが》めた。
保釈になって家に戻《もど》ってみると、それまで彼女を励まし、法律的に知恵をつけてくれていたフランス人の弁護士は、国外逃亡を薦めたそうである。そのNという、久美子よりだいぶ年下の弁護士こそ、彼女をカジノの計画に誘った張本人なのだ、と今村奈保は話した。「理想的な男はいないから、三人ぐらいと並行して付合って……」と久美子が得意げに話していたのを私は思い出した。
「勿論《もちろん》、美男子の建築家もいましたけどね、久美子の気持はNに傾いていたらしいの。それが様子のいい男なら分るんだけど、蟹股《がにまた》で背も低くて何処《どこ》がいいのか理解できないような人物なの。有名婦人に次々に取りついて、醜聞を作りあげては弁護を買って出て名をあげようって手合なの。ポンプ・ウォッチって言うのかしら、いずれは政治に出るって話だわ」
「マッチポンプって言うんでしょう」
そう訂正してやりながら、事実がそうだからなのだろうが、奈保の話が次第に下世話《げせわ》になってゆくのを、私は又してもという気持で聞いた。
久美子が捲《ま》き込まれた事件の反響が大きいのに驚いたNは、彼女が拘置されているあいだに自分にかかわりがありそうな書類を全部彼女の書斎から抜き取って処分し、さっさと別の女の家に移っていったのらしい。
「その移った先と言うのがね」
今村奈保は身体を乗り出して、
「久美子がずっと可愛《かわい》がっていたマヤなのよ」
マヤと言うのはシャンソン歌手で、何時《いつ》の頃からかパリに住みつき、フランスの資産家やアフリカのある国の王侯の思い者になったりして、社交界を遊泳している女だった。日本の大使館や銀行、商社の連中が敬遠して取り合わないのを、久美子は持ち前の姐御肌《あねごはだ》の性格を発揮して、何くれとなく引き立て庇《かば》っていた。日本の男達が排斥しているというだけで、無条件にマヤを擁護したくなる心情が久美子の側にはあった。
取引に利用できるあいだは、卑屈な態度さえ見せてマヤを利用しておきながら、相手が落ち目になると見知らぬ他人に対するよりも冷たく爪弾《つまはじ》きにするのは許せないと、久美子は私に語ったことがある。
「あの人は皆の言うように悪い人ではないわ。無邪気で思うままに正直に生きているだけよ。自分の人生は何処かへ置き忘れてしまって、体面ばかり気にしている日本のビジネスマンよりも、どれくらい嘘《うそ》のない生き方をしているか分らない、でなければ三十そこそこであそこまではやれないわ」と、その時の久美子の語り口は、マヤの身の上を自分に引きあてている熱っぽさであった。
それならば、君子も同じように弁護されていい女ではないか、とその時私は思った。ただ彼女が日本に住んで林田のような男と一緒になったので形が変っただけなのだ。林田に資産があるか、君子の実家が裕福であれば、彼女もアメリカで久美子と同じような生活を送ったかもしれない。自分流に生きようとすればするほど、相手の男によって変ってゆくのは女の持って生れた運であろうかと、母のことを思い浮べた。すると反射的に律子にだけは彼女自身の納得のいく生涯《しようがい》を送らせたいという考えが浮んできた。
保釈になって家に戻った久美子は、不在中に家が荒らされているのを知った。久し振りに会ったNが彼女を拒み、国外逃亡を薦めたので、はじめて彼に対する見方を改めた。何喰《なにく》わぬ顔で見舞に来たマヤに、久美子は自分の発見を報《しら》せた。
「あなたも気をつけた方がいいわ。あれは油断のならない男よ。穢《きたな》いわ。弁護料も法外だって言うわ」
マヤは自分達のことが早くも久美子に露見したと錯覚し、彼女が嫉妬《しつと》しているのだと思い込んだ。
「そうかしら、でも可愛いところがあるわ、あなたもそう言ってたじゃない、それに」
と久美子を見返したマヤの眼は俄《にわか》にキラキラと光って、獣が獲物《えもの》の前で舌なめずりをするような表情が、一瞬の光彩で彼女の美貌《びぼう》を浮き立たせたと言う。今村奈保も見舞に行って、二人の会話の途中から居合せる結果になったのらしい。
「弁護料のことなら御心配なく。私、自然の持ちもので支払っているから大丈夫なのよ」
この時、マヤは彼女なりに復讐《ふくしゆう》したのであった。
確かにそれまで久美子は彼女を引立ててくれてはいた。しかしそのやり方は優越感に彩《いろど》られた寛大さで、マヤの自尊心を傷つけることも屡々《しばしば》であったと思われる。彼女から見れば久美子は金持の令嬢であり、丸和百貨店を背景にして振舞っているとしか思えなかった。貧しい家を支えようと銀座のクラブで歌っているところを、敏腕の商社員に見出《みいだ》されてパリに渡った。それ以来の有為転変を考えると「馬鹿《ばか》にするのはおよし」と久美子のお嬢さんぶりを窘《たしな》めたい場合も多かったに違いない。彼女の庇護《ひご》が必要であったから、今まで我慢していたが、もうその関係も終ったのだ。これからは私が主役だと思う自負と解放感がマヤの方にはあったのであろう。
今村奈保は、それから二人が演じた立廻りを見てしまったと報告した。止めなければと思っても手足が萎《な》えてしまったようで、
「おやめなさい、見っともないじゃない」
と嗄《しわが》れ声で言うのがやっとであったという。
そこには、私の全く知らない久美子のパリでの生活が覗《のぞ》いていた。闇《やみ》のなかで相手の髪を毟《むし》り、爪《つめ》を立てて戦う二匹の獣の姿が見えた。二人が互に撒《ま》き散らし、しゅうしゅう音を発して投げあっている憎悪《ぞうお》は、はたして相手に注がれているのか、自分自身に向けられているのか分らない哀れさであった。スペイン風の古い家具をしつらえた高雅な部屋で、マヤと掴《つか》み合う久美子の顔は、土地の権利を確保しようと戦う父さながらであったに違いない。真剣な時、人はどうかすると落ち目のように見えるものだ。それは執念の焔《ほのお》を口から吐いて|※[#「足へん+宛」]《もが》く姿だ。疲れを覚えても、気丈さが彼女を休ませない。パリの生活で身につけた恋の駆け引きも、男を操る手練手管も、年と共に使えなくなってきたと感じている時、カジノの計画を提げて現われたNと、相棒の若い建築家、背後にいる市長の奸計《かんけい》にまんまと引掛ったのだとすれば、夜の留置場で久美子が噛《か》みしめたのは自らの臍《ほぞ》であったはずである。彼女から思ったほど資金が引き出せないと分った時、市長達からすれば久美子はもう邪魔者でしかなかったのだ。
しかし、自分を陥《おとしい》れた穽《わな》の発見は、決して彼女の闘志を萎えさせはしなかった。今村奈保によると、彼女は部屋いっぱいになるほどの厖大《ぼうだい》な資料を整然とファイルし、カジノ計画のはじまりからのメモと照合して、三日かかっても言いたりないほどの陳述書を作製しているようだ。その話から、私は充郎が生れた直後、久美子が異常な整理癖を示して一日中部屋を片付けまわっていたのを思い出した。しかも、一つの取り片付けが済むたびに石鹸《せつけん》で手を洗って。
自分に対して嗜虐的《しぎやくてき》な部分をのぞけば、やはり久美子は西垣浩造の娘であった。父も、いくら相手を変え、場数を踏んでも、性的な交渉によっては満たされない渇仰《かつごう》に振りまわされ続けたのだ。丸和不動産を興した頃の苦闘ぶりは、世間にも知られている成功物語だけれども、その経緯と分ち難《がた》く絡《から》まって、女に狂った生涯《しようがい》があった。狂うたびに父はより一層迷いを深くし、裏切られ、「女と子供は甘やかしたらいかん。どこまでも付けあがる。社員も同じだ。いつも心して箍《たが》を緩めてはならん」と自らに言いきかせるように私にむかって訓戒を垂れた。
部下に対してはその思想を実行できた父も、相手が女の場合には失敗の連続、しかも年をとるにつれて完全な失敗へと落ちていった。最晩年、郷里から出てきた娘に翻弄《ほんろう》された老醜の父の姿が私には懐《なつか》しくさえある。
久美子が看病した最後の夜、「家へ帰ろう」と言った時、父の頭には藁《わら》を葺《ふ》いた大きな屋根の郷里の家があったのに違いない。二、三度、父に連れられて訪れたことがある郷里は、安珍清姫《あんちんきよひめ》の伝説や白い蛇《へび》にまつわる逸話が伝る地方に近かった。鬱蒼《うつそう》と茂る深い森に囲まれ、山を二つ越えた峠に立てば遥《はる》か遠くに明るく太陽に輝く海を見ることができる、そんな奥深い山襞《やまひだ》にあって人々の情念は血のなかに濃い影を沈潜させたのだと思われる。その古い村で父は幼年時代を送ったのだ。再婚する母親を小川の畔《ほとり》まで送っていったと、いつだったか父は回想して聞かせたけれども、私達が訪れた時、その川はもう汚れていて塵芥《じんかい》に澱《よど》んでいた。多分それは父の四、五歳の頃《ころ》のことであったろう。その年で祖父の手に残された父の孫にあたる子供達が、母親に置き去りにされ、充郎が神経を病んでいるのは、巡りあわせとしか言いようがない。久美子の出奔を知った時、まっ先に父の脳裡《のうり》を過《よぎ》ったのは、因果応報という言葉ではなかったかと思う。
もっとも、去った母親への、ついに満たされることのなかった怨念《おんねん》が、父を突き動かしていたと思うのは、私の空想癖からくる思い入れなのかもしれない。たとえ、閲歴にあるような体験がなくても、終生女に狂ったに違いないと、心の片隅《かたすみ》で私はひややかに推測している。それは父が、何処か分らない遠く暗いところから受け継いできた血のなせる業だ。
私は段々畑の僅《わず》かに西日だけが当る西垣家の墓を見た時のことを覚えている。西垣和左衛門と並んで、とめ、きく、西垣長三郎等々、一族の名前が刻まれた十数塔の墓石が夕日を受けて群立し、群立していることでかえって淋《さび》しげであった。父の母親の名前はなかった。国鉄の駅を降りて山あいの父の村に辿《たど》り着く途中に、野長瀬と呼ばれる昔滅びた豪族の墓石の聚落《しゆうらく》があった。西垣の家もいつかこのように滅びるのかと思ったのは、私の裡《うち》にやはり父の家系を継いだという意識があったからか。私は死んでも西垣家代々の墓の群には入らないだろうし、入りたくないと思った。父が羨望《せんぼう》や妬《ねた》みと戦って、ある時は力で身内を捩《ね》じ伏せたのは事実のようだ。匕首《あいくち》の浩造などという渾名《あだな》は単なる呼称ではなく、丸和不動産を作りあげる過程で実際に見せた行動に由来しているらしい。常軌を逸した猜疑心《さいぎしん》の強さは、自分が身内に対して取った仕打ちの裏返しに違いない。
「××はお前の親父《おやじ》に殺されたようなものだ」と私は何人かの年配者に聞かされている。父の従兄《いとこ》が早死しているのは「浩造さんに責任がある」と伯父が話していたのも私の記憶から消し難い。その内容がどんなものなのかは分らないが、たとえ知っていても伯父のことだから話さないと思う。丸和不動産が、はじめその従兄と一緒に創業されたことは私も知っている。戦争が終るまでの二十年間、会社はいつ倒産してもおかしくはない程、内容が悪かったようだ。戦災で東京が焼野原になった時、買集めた土地が値上りして、はじめて今日の基礎が固まったのも事実である。敗戦直後の混乱の時期に共同経営者であった従兄は変死している。父との間に意見の対立があったという話も伝わっているが、その内容は明らかではない。推理小説の材料にでもなりそうな、そんな風聞は他《ほか》にもある。それだけに、父の郷里に対する愛憎は深かったのであろう。私にしても結核に患《かか》らず革命的な運動を続けていたらどんな仕打ちに遭ったか分らない。とすれば久美子の妄想も創業者の父が背後に引摺《ひきず》っていた閲歴の反映と思われ、あながち根拠のないことではないのだ。
その影の部分に私はずっと目をつぶってきた。物事の解釈はどのようにでも可能なのだと自分に言いきかせて。幸い父が物故してから、年と共に疑惑の影も薄れていって、丸和不動産の創業者という事実だけが世間に残った。そうして私には短歌で武装して父の時代を生き延びて来た母と、迷いを重ねる久美子が残され、林田夫妻のいじましい欲望の犠牲になった充郎が吹き寄せられてきたのである。
近頃、久美子のことを考えていると、いつも父を連想し、いつのまにか父の立場に立って観察してしまう。彼女が、似た生き方をしようとしているからだ。ただ母の影響を受けている分だけ彼女は善良で騙《だま》され、現実的でない夢を見て算盤《そろばん》が脱《ぬ》け落ちるのだ。
父の作った環境に捲《ま》き込まれまいと身を躱《かわ》してきたはずなのに、父の所業は、追い払っても消えない暗雲となって執拗《しつよう》に追跡をやめない。戦争中、生きるために人肉を喰《く》った兵士の背後には、ひかり苔《ごけ》が発するような紫の輪が月夜の晩に浮び上るという話を聞いたことがあるが、父もやはりそのような光背を背負って走り続けたのであろうか。指導者はみんなそのような業から逃れられないのだとも思うが、「それならば丸和百貨店の社長のお前はどうだ」という脅しの声は、いくら耳を覆《おお》っても内部から聞えてくるので防ぎようがない。物を書いたりするのは、その声を突放すためだから、抒情的《じよじようてき》な恋の歌や経営者が好んで書く人生訓などは私とは無縁である。自分も同じような紫の輪を背負っているのを忘れないようにするのが、私に出来るたったひとつのことだという気もする。かつて心の優しい友人が、私の詩集の巻末に――魂が傷ついているとしても、それはすでに過ぎ去った遠い時刻の出来事で、現在の周囲をとりまいている世界によって加えられた生々しい傷痕《きずあと》とは見えない――と、私が使う暗喩《あんゆ》にふれて解説したことがある。この文章は柔らかな表現で、一面私の作品の弱さをも指摘していたのだけれども、これを読んで明晰《めいせき》さを持って聞えた友人の丁寧な分析に気恥しさの混った感謝の気持を抱くと同時に、私がひとり取り残されている気分を味ったのでもあった。
それ以後、状態は少しも変っていないから、私は今も宇宙遊泳者のように五十二階の霧のなかを漂い、ある時は薄明の道を汗を拭《ふ》き拭き駆けているのだ。このような私を八木律子はいつまで受けとめてくれるかと、時おり自信のなさが顔を覗《のぞ》かせる。彼女も、もう四十に手の届く年になっているのである。
母が久美子を見る見方は、その時々で大きく揺れた。評価と非難とが容易に交錯して応対に戸惑うほどだ。そこには自分が果せなかった自由な生き方をとおしている久美子への今なお消えない期待と反撥《はんぱつ》が含まれている。カジノの問題が起って、彼女をパリ駐在部長の地位から外すことに決めた時、報告に行くと、
「また変な男に騙されてるんじゃないの、あの人はその点が御大《おんたい》にそっくりなんだから」
と感想を述べた。
母のことを想《おも》うと、私はいつも何かで読んだ水草の精の話を思い出すのだ。その女は、人間の男の妻になったが、夜になると家を脱け出して池の畔《ほとり》に行き、足を水に浸して生気を回復するというのである。
母は今でもよく庭に出て池の畔に立っている。その水に映った母の顔を私は見たことがない。覗けば異形《いぎよう》のものの相貌《そうぼう》が浮んでいるような気がするからだ。母の整った顔が私に恐ろしさを感じさせる。それでいて自分だけの世界をさ迷う想念が解けた時、母の大きな目は子供のように活々《いきいき》と動き出すのだ。その眼《め》が「久美子は駄目《だめ》よ」と断定したり、「あの娘は男みたいなところがあるからねえ」と言ったりする。
母が、父の死を英雄の死として感動的に見送ることが出来た唯一《ゆいいつ》の人間であったことは間違いない。
みまかりし夫《つま》の面影《おもかげ》≠ニ詠《うた》い出したのは、西垣美津子、歌人としての名を光子と呼ぶ水草の精が、池に足を浸して送ったメッセージであった。現実の父は、ずっと以前から存在せず、母にとってはただ相聞歌《そうもんか》や挽歌《ばんか》を歌いかける対象として在ったと言ってもいい。死後も、父にむけての相聞歌は送られており、健在であった時にも挽歌が数多く詠《よ》まれているのを見ても、母と父の関係は明らかなように思われる。
私は臨終の床で父の口から流れ出した茶褐色《ちやかつしよく》の液汁《えきじゆう》を覚えていた。一生の悪戦の苦い滓《おり》を最後に吐き出したと私は眺《なが》めたが、それさえも母の目には、英雄としてみまかりし夫《つま》≠フ口から咲き出た幻花と映ったのであった。
久美子の恨みは、自分が一番助けを必要とした時に、母が短歌の世界から外に歩み出してくれなかったことであった。それも、今になってみれば、自分が充郎を救えなかったと同じように、あの時は動けなかったのだと分ってもいいのだが、久美子はそのようには考えない性質だ。
マヤとの暗夜の葛藤《かつとう》のただなかにも八重と充郎のことは、彼女の想念のうちに忍び込んで、戦闘の姿勢を掻《か》き乱したと私は思いたかった。過去との絶縁が出来あがり、あまりに乾いてしまったならば、私|達《たち》のどのような通信も跡絶《とだ》えてしまうのであったから。
八重と充郎がいなくなって間もなく、醍醐源太郎と君子が交した会話の録音テープも、未亡人が送ってきた彼の遺品のなかに含まれていた。久美子が醍醐の要請を、迷いはしたけれども結局拒否し、充郎が一人でアメリカの知人の家庭に引き取られた直後の採録である。
「私達に連れられて、珍らしくはしゃいで、しかし緊張は隠せず羽田を旅立つ二人の姿を見て、また子供達の放浪の生活が始まるのかと、暗澹《あんたん》とした気持に僕《ぼく》はなりましたね」
と醍醐は君子に語りかけていた。
「しかしまあ、子供達は行ってしまったんです。すべてそれらは過去の出来事となりました。林田さん自身にしてみますと、十年以上にわたって子供達を幼い日から育ててきたという、この事実は動かし難いことだと思います。現在も空き部屋になっている子供達の部屋を見れば、たまらない気持になるのも分るんです」
と君子に話しているのを聞けば、林田は彼にむかって、二人の子供がいなくなった後の淋しさを涙ながらに訴えたのに違いなかった。君子の立場は大変不利であった。
「何回も何回も話してくれましたが、林田さんは今日までの自分を変えて、地味で落着いた生活を送るなかで、悲しみもやがて癒《い》えるのではないかと考えているようです」
「あああああ」
と言う、悲鳴とも歎息《たんそく》ともつかぬ声がテープにはっきり入っていた。彼女は醍醐の前で身を捩《よじ》ったのであったろう。金木犀《きんもくせい》の匂《にお》いと言われた声に雨が降っているようだ。
「どうしたらいいんでしょう、私」
「…………」
「私は本当に初心に還《かえ》って、一所懸命にやるという、それ以外には何もございません。先生、私を助けて下さいまし」
しばらく君子は震える声で独白を続け、醍醐の声は聞えなかった。
やがて、それも突然に、君子は交換手であった頃を思わせる若々しい声になって、
「充郎ちゃん、そして八重ちゃん、いけないママを許してちょうだい。お願い。いずれは帰って来て下さいね。ママは待っています」
と、今は離れ離れに遠い国に行ってしまった二人に呼びかけるのであった。おそらく彼女は、醍醐の前で眼を空の彼方《かなた》へ放って両手を差し上げたのであろう。
「亡《な》くなった西垣浩造さんが話されたなかに、鋭くあなたの役割を諭された部分があると林田さんから聞きました。二人の子供達を立派に育てて、西垣家にとって有用な人間になれとね。御主人からも、いろいろプライベートな問題の御相談まで受けてきた僕としては、今後も喜んで協力すると御約束できます」
「有難《ありがと》うございます。きっと、さすがに君子はやったなって言われるように頑張《がんば》ります。そう言う人生を送ります。先生が側《そば》にいて下されば、私、なんだか勇気が出てきて」
その感謝の言葉の後に、声にならない微笑の気配があって、礼を言いながら君子は小さく丸い目をいっぱいに開いて醍醐を見詰め、悪戯《いたずら》っぽく肩をすくめて見せたのではないかと私は想像した。涙まで浮べて改心を誓った後に見せたその微笑は、驚くほど幼い純真さに思われて、きっと愛らしい女の印象を醍醐に与えたに違いなかった。
律子は自分の家でよく見せる姿勢で、先程から宿の畳の上に胡坐《こざ》してトランプ占いを繰返していた。仲間からは敏腕な編集長として警戒もされているのに、彼女には占いを信じたりするところがあって、これまでも時おり姓名判断などで私との関係を観《み》てもらっていた。
「私達は相性なんですって。でも浮気《うわき》だけは気をつけなさいって言ってたぞ!」
彼女は途中から脅かすような口調になって幾度かそんな話をした。
トランプ占いは、ひとり暮しの無聊《ぶりよう》を慰めるものであったろう。啓一と住むようになってからはその習慣も間遠になり、穴居を営む小動物という感じは薄れた。別れた夫の母親が可愛《かわい》がっているので、啓一は時々そちらの家へ泊りに行った。そんな晩、彼女の心は不安定になった。久美子の場合と同じように、どこまでも追いかけてくる過去と向いあって律子は焦立《いらだ》ち、現在の状態への不満は私めがけて発散される。遊び方を知らない私は、何を占っているのか分らないながら、肩を斜に上げてカードを引き抜く動作から、よほど気にかかる事柄《ことがら》を試しているのだと思った。
ひと月ほど前、私は彼女に、啓一と一緒に住もうと提案したのであった。この私の希望は、具体的な計画というより空想めいた部分が多く、彼女達の住いは久美子のために建てた離れを充《あ》てるつもりだった。私の話を聞いた時、律子は言下に「厭《いや》だ」と言った。「私、やっと一人になれたのよ、それで啓一を引き取って暮しはじめたばかりじゃない、そんなこと言わないで」
思いの外強い拒絶に会って私はあわてた。何か彼女の心を傷つけるような部分があったのかと自信を失《な》くし、「一緒になれるんだったら何処《どこ》でもいいんだけど」などと訂正したりした。律子は黙り込んでしまった。時々、顔に掛ってくる髪を五月蠅《うるさ》そうに首を振って払う。そうなるとじっとしているしかなかった。私の提案は彼女が作りはじめた巣を荒しにきた侵入者のようなものであって、それで律子は身体《からだ》を低く伏せて唸《うな》ったのであろうか。「根本的には非常に冷淡なんだけど、他人に尽してしまうんですよ、この性質は兄にも幾分ありますけど」と醍醐源太郎に語った久美子の言葉が思い出された。敏感な律子が拒否するのは当然だ。しかし、私は心から一緒に住むことを望んでいたのだ、と思った時、(ほんとうにそうだったのか)という声が何処かで聞えた。律子との生活に躊躇《ためら》いがないとは言えない。別々に暮しながら時々会っているからこそ、うまくいっているのだと心の片隅で考えているのは事実だ。
「僕は自分勝手で、ひとり暮しのなかでそれを助長させてしまったようなところがあるなあ」
心弱く、探りを入れる姿勢になった。あるいは私は見当違いにあわててたのかもしれない。律子はジロッと眼を向け、なおも沈黙を守っている。理由が明らかでないままに私は敗北した感じに落ち込んだ。「人生の終りの二年でもいい、一緒に住みたいね」と言ったのは律子ではなかったか、と中っ腹にもなった。彼女の気配が動き、固い肩がほぐれて「私達がもう少し若かったら、こんな分別は押し切ったかもしれないね」と、話の途中から淋《さび》しい笑顔を見せた。
今度の旅行は、同棲《どうせい》を断わった律子と断わられた私のための慰安旅行と言えた。四月号の編集を終えた彼女を誘って南紀に来たのである。久し振りにトランプ占いを続けている律子を見ていると一月程前に私達のあいだに交わされた会話が戻《もど》ってきた。
私達は父の生れた村へは行かず、鳥羽《とば》から長い海岸線を辿《たど》って新宮《しんぐう》に来た。三月のはじめのこの地方には、もう春が訪れているはずであった。
私が南紀を選んだのは、二十年ほど前に物故した作家である佐藤春夫について、三十枚ほどの評論を書いて欲しいと、ある出版社から依頼されたからである。私は以前からこの作家に興味を持っていた。父の生家から比較的近かったせいもある。胸を病んでいた時に伝記を読んだ。中学生の頃《ころ》、放火犯と疑われたり、幸徳秋水の大逆事件に危く連座しかかったことを知って、彼への関心が強くなった。この事件は、官憲の捏造《ねつぞう》の部分が多かったと思われるのだが、町の名望家であった医師、大石誠之助が犠牲者にまつりあげられて刑場に送られるのを見ても、町の人々は固く口を閉ざし、識《し》り合いであったことすら否定して、助けようとしなかったらしい。
数年前には、彼がうぬぼれかがみ≠ニいう随筆のなかで「ぼくは人生には芸術以外のなにものもないと感じた」と書いているのを読んで、私は分るような気がすると同時に、自分にそう言いきれるものが何かあるだろうかと考えた。丸和百貨店の経営者として毎日忙しく動き廻《まわ》っているが、「事業以外のなにものもない」とは言いきれない。どんな生き方からも距離を置いている姿勢を、私の父は「インテリの弱者」と軽蔑《けいべつ》するのを常としたが、私はまさにそうした態度に終始しているようだ。最近は、そのようにしか生きられないのだから仕方がないと居直ってさえいるが。今度の律子との喰い違いは、日頃の優柔不断のツケが一度に廻ってきたような感じであった。
「なかなか出ないんだよねえ」
律子が困惑したように眉《まゆ》を寄せて私を振り返った。どんな札を待っているのかは分らない。彼女はふたたび次のカードを掌《て》の中から力を入れて引抜こうとして目をつぶった。「出ろ」と言う掛け声と共にトランプを返したが、たちまち能面になったのは期待はずれであったからか。
突然「やめた」と歎声を発して律子はカードを自分の前に投げ出した。それを見ていた私は、なんとなく今抜いた札が悪かったのではなく、次に出るもの次第では凶にも吉にもなる瀬戸際《せとぎわ》に占いがさしかかってきたので、賭《か》けるのを避けたのだと思った。まだカードに未練を残している風情《ふぜい》でぼんやりしている律子に、
「今晩は占いはやめて飲もう」
と励ますように声を掛けた。人間はどんな時に総《すべ》てを賭けた行動に出られるのかという疑問を、自分の言葉で遠くへ押しやりながら。
「うん、飲もう」
律子は元気よく応じて、宿に帰ってきてはじめて笑顔を見せた。
頼んだ刺身が私達のあいだに置かれてみると二人だけの酒盛りの雰囲気《ふんいき》になった。皿《さら》の上には盛りだくさんの鮪《まぐろ》や鰺《あじ》のたたきや赤貝が載っている。
「いつも、どういうふうにして喰《た》べてるの?」
ふと思いついて、今までに考えてもみなかったことを聞いた。「今は啓一が一緒だからね」と答え、「お料理は案外上手よ」と自慢したが、私は台所で立働く彼女を想像できない。ただ、いつだったか鶏《とり》の好きな律子が山盛りに唐揚げを作ってくれて二人で喰べたことがあった。骨付の鶏のぶつ切りを両手に持って、軟骨を音を立てて噛《か》み砕く様子を感歎して眺めたのを思い出した。その私達の食事は狩猟の後の野外の宴《うたげ》に似ていた。それでいて何処か抽象的な儀式だったように思えるのは何故《なぜ》だろう。
「お前は、わしと違う生き方をしろ」と死ぬ少し前に熱海の別荘で父が言った。言われなくても若い私はそうするつもりであったが、その頃、漠然《ばくぜん》と考えていたのはこのような生活ではなかったはずだ。では、どんな、と聞かれると答えられないけれども、ただひとつはっきりしているのは、あの時、父は私に引導を渡したということなのだ。長い間、死期を予感しての述懐と理解してきたが、それは甘い判断だった。
私はその際の父の目付を記憶に蘇《よみがえ》らせた。彼の瞼《まぶた》は少し細められ、黒眼の周辺がやや黄色い光を帯びていて冷たかった。私を観察し値踏みしている支配者の目だ。私の胸中に久しく忘れていた憎悪《ぞうお》が燃え上った(死んでまで俺《おれ》に点数をつける気か。それなら言うが、俺の点数は零《ゼロ》だ、同じ物差しで計られてたまるか)。
そんな言葉が、かつての若々しい私の声で心のなかに響いた。(見ろ、丸和百貨店だって何十倍も大きくしたじゃないか)。そうして私の憤《いきどお》りは急速に萎《な》えた。私の得たものは、着地点を見つけることができない律子との生活だ。
久美子の迷いも、考えてみれば父の影響なのだ。私とは性格も違うし、女だから、別の道を歩いて日本から離れてしまった。充郎と同じことだ。
今朝、私は律子と連れ立って宿から歩いてすぐの小高い岡《おか》の上に立っていた。眼下には斜面に生えている闊葉樹《かつようじゆ》の梢《こずえ》越しに海が見えた。川は河口に近くなって澱《よど》み、青い淵《ふち》を作って熊野灘《くまのなだ》に入ってゆく。暗く深い森と岩に囲繞《いによう》された澱みを抜け出て、俄《にわか》に広くなった川下に赤い鉄橋が架《かか》っていた。時々、小型の汽船が吃水線《きつすいせん》を見せてその下を通り、橋桁《はしげた》に凭《もた》れて、いつまでも佇《たたず》んでいる男の姿が小さく眺められた。彼は年恰好《としかつこう》も私に似ていた。彼からは、私達はどのように見えただろう。律子と旅に出た時、私はまだ何かをあてにしていたようだ。
何処で立止っても、背後に迫っている山の前方には明るく広い海があった。長いあいだ、この地方の人達は、その海の向うにこせこせしていない自由な異国があると想像してきたのだ。学生の頃の私が、日本とヨーロッパの間には理想に輝く国家があると思っていたように。父が生れ育った紀伊山脈の裏側の村は一年の半分ぐらいが雨だというが、眼前にあるのは、ただ虚《むな》しく明るい海である。時々、私は律子が傍に立っているのを忘れた。
「もっと、ぐっと飲みなさい」と律子の声が掛った。「明日は何時に起きたっていいんだから」
そうして、宿の内儀《おかみ》が沖縄の客に貰《もら》ったという泡盛《あわもり》をコップになみなみと注《つ》ぐと少し舐《な》めてみて、これはと言うように頷《うなず》いた。「あなたもどうお」
やがて、
「私って夫に関心がなかったみたいねえ。ゴルフって言われれば、『ああ、行ってらっしゃい、頑張《がんば》ってね』と言うだけで、『何処で』とか『帰りは何時』とは聞かなかった。マージャンで徹夜になるかもしれないって聞けば、『大変ねえ』とは言ったけど『誰《だれ》と』とも質問しなかった。きっと彼は、そんな私を物足りないと思ったかもね」と述懐した。彼女は飲みながら過去のなかに、あてどなく自分の実像を探っているのだ。肩を寄せ合っているのに、何だか別々に飲んでいるみたいだ。
それでいて律子は私と旅行すると、必ず正露丸《せいろがん》と風邪の薬を持ってきた。それは商用で水や気候の悪い国へ出張する機会が多かった夫との生活で習い憶《おぼ》えた用意であったろう。そんな時、環境に順応してしまう本能が、意志とは関係なく律子のなかで働いているのを見たような気がした。商社マンの模範だったらしい男との結婚の経験から、律子は今後は納得のいく生活を送ろうと心に決めたのに違いなかった。
私に会いはじめの頃、啓一はよく反抗的な態度を見せた。子供の直観で母親を取られるように思うのだろう。彼女の部屋に行くと、黙って律子に擦り寄って母親の陰から私を試すような目で観察した。人見知りしているばかりではなく、動物の仔《こ》のように瞬《またた》かずに注視するのである。彼女に似て大きい目だ。白眼《しろめ》の部分が少し青い。時には、はっきりと反撥《はんぱつ》の色を浮べてつと目を逸《そ》らし「××ちゃんがねえ」と学校の友達の名前を口にして律子を二人だけの会話に誘う。「啓ちゃん、御挨拶《ごあいさつ》は」と彼女が気を兼ねて注意すると、「今日は」と渋々言って一層母親に寄り添う。それでも、近頃は少しずつ打ち解けて私と遊ぶようになった。旅行に出てくる前の日も、私がウルトラマンを真似《まね》て両腕を垂直と水平に交差させ、光線ビームを放つ恰好をすると、
「おやっ」と私を見直した表情になって、
「おじちゃん、僕《ぼく》がウルトラマンだよ」
と叫ぶから、いきおい私は土竜《もぐら》怪獣モングラーになり、続いてバルタン星人の役割を演じた。本気になって掛ってきて、二人は熱烈な格闘を演じ、ついには啓一が勝って私は組み伏せられた。やがて私は馬になり啓一を背中に乗せて絨緞《じゆうたん》の上を這《は》い廻った。律子と啓一と、母子《おやこ》で私を馬にしたと思うと、内心おかしくて、這い這いしながら上目遣いに彼女を見ると、同じことを考えていたのであろう、律子はニヤリと笑って「啓ちゃん、おじちゃん重いって、可哀相《かわいそう》だからもう止《や》めなさい」と窘《たしな》めた。
啓一が日によって、はっきりした感情の起伏を見せるのは、母親ゆずりなのかもしれない。反抗するようでなければ、強い男に育たないのだと、啓一を眺《なが》めるのだけれども、それは私自身の歩いてきた道を肯定したいからである。
啓一の反抗的態度を、ゆとりを持って見ていられるのは、自分の子ではないからかと思う。息子なら、私だって丸和百貨店の後を継がせようとするだろう。確かに父は私に事業を憶えさせようとしていた。中学生から高校を卒業するまでの頃、よく工事現場に連れ出したりした。
「あの山から、この河まで」と社員が拡《ひろ》げている図面を指して「思いどおりに絵を描《か》く。道をつけ、家を建てて町を造る。事業というのはそういうものだ。どうだ、愉快だろう」
と語りかけた。父の口ぶりにはなんとなく私の機嫌《きげん》を取ろうとする雰囲気があり、かえって居心地の悪さを感じさせた。自分がどんな応答をしたかは憶えていない。おそらく父から見れば、頼りない返事であったろう。
今、私が創《つく》りあげたとも言える丸和百貨店を継いでくれそうな身内は誰もいない。啓一が経営者の素質を持っていれば嬉《うれ》しいのだが。そう思った時、そのような期待で啓一を観察する目は、かつて私を値ぶみした父と同じに違いないと悟った。五十二階の事務所にいる時、おそらく私は同じ目付をしているだろう。顔の表情のように誤魔化すことができないのだ。
「どうしたの」
私が唸《うな》ったのを聞きとがめて律子が聞いた。「また、何か別のことを考えてたんでしょう」
たしかにそうだった。
「私は変った子供だったみたいよ」と律子が話している。
「昼間行った場所が夜になると気になってたまらなくなるの。今日、海を見てたでしょう。あの海が、今、月の光に照されて波がキラキラ輝いてるんじゃないかと考えると、それは私が見ていなくちゃいけない光景だと思えてきて、我慢できないの。私って所有欲が強いのかしらねえ」
もともと不確かな人間の間に作られる信頼関係なんて、お互の錯覚の上に辛《かろ》うじて成立している幻影のようなものではないか、と私は私で別のことを考えている。そんな考えを持った男が経営者の椅子《いす》に坐《すわ》り続けているのは確かに少し変だと思う。酔いがまわってきたのかもしれない。でも律子は、はじめ私のそうした危かしい部分に興味を持ったのであったろう。二度目に会って飲み歩いた時、彼女は私の矛盾を嗅《か》ぎあてたのだ。「好きになったのは私の方よ」と主張するのはそのためだ。別れた夫には破綻《はたん》がなさ過ぎたのかもしれない。
律子は佐藤春夫に興味を示した。それが今度の旅行が実現した理由の一つになっていたのだ。律子にとって私は何なのだろうと時々思う。いつだったか彼女は、
「晩年はあなた淋《さび》しいって出ていたよ」と占いの結果を報告した。「気をつけて、私を放しちゃ駄目《だめ》よ」と忠告するのを忘れなかった。しかし律子は何故私を好きになったかを説明したことがない。別れた妻なら箇条書きふうに並べて教えてくれるところであろう。律子は「理由なんてある訳ないじゃない。好きなものは好きなんだから」と、質問がおかしいという様子で取り合わない。
彼女がコップを空ける速度が早くなった。いよいよ深く自分の想念のなかに入ってゆく気配だ。
「私ねえ、芝居を作ってみたいのよ」と、遠くからのような声が聞える。
「カンヴァスに描く空間て限界があるような気がする時があるわ。芝居って虚構のなかの虚構でしょう。本物に見えるだけそうだと思うのよ。本物ってそういうものだとも思うのよ」
律子は終りの「そういうものだとも」という部分を言い間違えそうになって、ゆっくり、発音しにくそうに喋《しやべ》る。彼女が私の傍で自由に振舞い、話しているのはいい気分だ。私は私で勝手なことを考えている。視野のなかに久し振りに駆ける男の姿が浮んできた。汗を垂らして踊るような足つきで駆けてゆく男、満面に笑みを湛《たた》えて「これで家庭は幸福です」といった表情を浮べている男、闇《やみ》の中に燈《あか》りを望んで、顔をこわばらせて走り去る男もいる。彼等《かれら》はいずれも自分だけの軌道を駆けているのだ。目指す土地は彼等の頭の中に描かれているが現実にはない。そこへいくと父は目的地を持っていた。自分中心の野心に過ぎないと言えるのだが、奮闘する姿は嫌悪《けんお》を催させるのと同じ強さで魅力的である。父の女狂いは、それを受け容《い》れる女がいてのことであった。目標に熱中する男がいて、それに魅《ひ》かれる女がいる構図は、私には何やら絵空事めいて感じられる。彼女が芝居を作りたいというのも頷ける。私と律子はただ手を取り合っているだけだ。目の前には土地の人が憧《あこが》れ、希望の視線を放った明るい海が拡がっている。地球が丸いのが分るほど、水平線が僅《わず》かに弧を描いている。遮《さえぎ》るものは何もない。私|達《たち》の背後は、神が棲《す》むという隠国《こもりく》の深い山だ。その狭間《はざま》に立って私が見ているのは駆ける男の群だ。彼等は波の上でも雲のなかでも駆けてゆく。ただひとり、もし輝く影があるとしたら、それは石蹴《いしけ》りをする充郎だ。それも、彼自身が輝いているのか、背後に降っていた銀杏《いちよう》の落葉が光っているのかは分らない。
昼間、海は荒れていた。雲が多く、沖の一部に青空の見える裂《き》れ目があって、束になった光の箭《や》が落ちていた。海は白い波頭を騒がせてそこだけが明るかった。鴎《かもめ》が太い光の箭の周りに群れていた。風が強く、律子の髪がほつれて靡《なび》くのが見えた。黒い雲はいくつもの塊りになって流れていた。あの明るい空間には行けないな、と思った。そこだけが聖地のようであった。長い間、私達は沖の聖地を眺めていた。頬《ほお》に冷たいものが当ったかと思うと驟雨《しゆうう》が来た。汀《みぎわ》の海が細かく泡立《あわだ》ちはじめた。鴎が不機嫌に鳴いた。ふと軒を打つ雨の音が酔った耳に聞えた。現実に引き戻された。もう夜半であった。
「雨かな」と呟《つぶや》くと「雨だわ」と律子が言った。
南紀の旅行から帰ると、折り返しのように律子から手紙が来た。
――私を甘やかさないで下さい――と書き出しにあった。
――決してあなたを嫌《きら》いな訳ではありません。本当よ、大好きです。前に一緒に住みたいって言ったのは私でした。でも自信がありません。私は今迄《いままで》、何度か男を好きになりました。スマートに素敵にやって来たつもりです。悪く言えば楽しんだとも言えるでしょう。だから、はじめてあなたに会った時、今度もうまくやれると思ったんです。現在の私にその資格はないみたい。
旅行から戻ると啓一がいませんでした。彼の祖母が離したくないと言っています。でもだからあなたとのことをやめようと言おうとしているのではありません。ただ少し時間が欲しい。これも甘えかもしれません。そして多分|我儘《わがまま》でしょう。あなたに一週間でも会えないのは苦しみです。男と女なんですから一緒に暮したいし、暮したらかえってうまくいかなくなるかもしれません。今まで思うように生きてきた私が、こんなふうに考えるようになったのはあなたの影響です。あなたは女を幸せにするのが下手なのよ。浮気《うわき》性で、ほどがよくて、そのくせ変に融通が利《き》かなくて。
楽しい旅行でした。有難《ありがと》う。太地《たいじ》で生簀《いけす》に泳いでいる鯨を見ていた時、遠くの岬《みさき》から間をおいて燈台《とうだい》の光が海を渡ってきて私達を照し出していました。
私が主宰した展覧会が終るのは来週です。そうすれば外国から来た絵かきさん達との付合いも終ります。でも、会えなくても電話は下さい。毎日声を聞きたいんです。そして少しのあいだ放っておいて下さい。どこまで自分を制禦《せいぎよ》できるか自信はありませんけど。微意、お汲《く》み取り下されたく、ってところかな――
七
丸和百貨店は落札した○○市庁舎跡地に関して市と契約を交わし、開発計画を発表した。それは若い幹部で作られたプロジェクトチームが苦心してまとめたものであり、百貨店の他《ほか》に、プールやテニスコートを持ち、二百室のホテルを作る構想であった。
朝、羽田を発《た》つ飛行機は、社用のために大阪に向う人で混《こ》んでいた。それは高速道路と同じように、人員を輸送する機関であった。乗客は行儀よく十一列の座席に収納され、やがて発進の轟音《ごうおん》に包まれた。輸送機関は地上を離れ、旋回して機首を西に向けた。中央の列に坐《すわ》っていると風景は見えない。
前方のスクリーンに閑静な郊外の住宅と道が見え、子供が三輪車に乗って画面に近付いて来て向きを変える。よく肥《ふと》っていて幸せそうな男の子である。私は啓一を思い出した。それは丸和百貨店と競争的な立場にある会社の広告だった。幸せを創《つく》る○○百貨店≠ニいう文字が映し出される。日常の生活は、離れている時だけ輝かしく魅力的に見えるのかもしれない。律子が私との共同の生活を断わったのは賢明と言えるだろう。乗客の多くも、この広告を見て、仕事に追われ、生活とは縁が切れてしまっている毎日を振り返ったに違いない。忙しく働いていればいるほど、何か大事な事をなおざりにしているという意識に責められるのは何故《なぜ》だか分らないが、それは果して、家族との、のんびりした一日とか、妻と二人だけで、ゆっくり、いくらか贅沢《ぜいたく》な食事をすることなのだろうか。私にしても、きっちり歯車が噛《か》み合って廻《まわ》っているような予定のなかに自分の肉体を這入《はい》り込ませる隙間《すきま》を見付けることがなかなか出来ない。五十二階の部屋は会合と面会と決裁が矢継早やに通過する中継地点に過ぎない。
時々、職業を間違えたのではないかと思うことがあるが、それでは、どんな仕事をしたかったのかと自問してみると、答えは返ってこない。こうした生活に慣れてしまっているので、たまに夜の予定が一つしかなくて九時前に終ると、何か忘れているような気分に陥ったりする。昔は仕事が終ってから、銀座や新宿に飲みに行くのが楽しみだった。どこの土地にも、そう年の離れていない、気を惹《ひ》かれる女がいて、彼女の手を握ったり、顔を見てとりとめのない話をし、時には食事に誘ったり、寝室を共にすることも人並みにあった。
気がついてみると、いつのまにか飲み仲間は減っていて、会うのは経営者ばかりになっている。かつては、良い意見と分っていても、立場上賛成する訳にいかず、嘘《うそ》の考えを口にした後などは、出来れば早く仕事を変え、納得のいく生活に戻《もど》りたいと思ったものだ。しかし今では、何が納得のいく生き方か分らなくなっている。ただ、やるべきことだけはきちんとしなければと思う気持に後ろから突き動かされている。私は訳が分らないままに駆け続けるのだ。
大分前に外国に出張した際、朝ニューヨークからシカゴに行く飛行機に乗って、乗客の大部分が書類|鞄《かばん》を提げた勤め人であるのに驚いたことがあった。通勤電車と同じように飛行機が利用されている様子は、滑走路に離陸を待つ機体が列を作っているのにも現われていた。世界を支配しているアメリカの経済力の一端に触れた感じであったが、いつの間にか自分が同じ流れのなかの人間になっているのだ。ただ、アメリカのビジネスマンの場合と違って、羽田からの客は言葉を交わさない。新聞を読むか、書類に目を通すか眠っている。黙々として運ばれていく有様は、私を含めて大多数の乗客が深く会社の組織に埋没している状態を示しているようだ。
私はかつて引力の場の飛翔《ひしよう》≠ニいう題の詩を書いたことがあった。はじめて空を飛んで、昨日までの生活が地上の風景と共に遠のいて行く印象を持ち、しかし自分は固く物理学でいう引力の鎖に縛りつけられていると考えて作った詩だ。丸和百貨店に入って三年ぐらい経《た》った頃《ころ》であったろう。引力とは、会社の組織の柵《しがらみ》であり、私を絡《から》め取って放さない人間関係の暗喩《あんゆ》であった。結婚して間もなくでもあった。それでも当時は、たとえ縛られていても、時代の変化への展望は自分のものだと公言する勇気と虚勢を持っていた。自負心もあった。しかし今は飛ぶこと自体がより一層強く組織のなかに入っていく行為であり、自らその柵を綯《な》ってさえいるのだ。
そんな私にとって、列車が停《とま》ると急に渓谷《けいこく》の流れが響き出し、ホームの端の花壇に咲いている空豆の花が震えているようだった田舎駅の静けさは、記憶のなかの事実とも、想像上の光景とも判別し難い遠い鮮やかさである。山峡《やまかい》の駅の、沈黙の空間に投げ出されると、自分が時間の流れに佇《たたず》んでいる小さな点のように感じられる。その頃、父も母も久美子も、そして私自身も、怒ったり歎《なげ》いたり悩んだりしながら、しかし現在よりもずっと真剣に生きてきたように思うのは、やはり懐《なつか》しさに染ってふり返るからであろう。
父は訓育し、指導し、統制することで、私が反撥《はんぱつ》し闘志を燃やすべき相手であった。冷静に考えると、父に対する感情ははっきり私のなかで二つの性格を持っている。かつて、西垣家代々の墓を見て抱いた父への疑惑は、口に出すことのできない性格のものであっただけに、一層深く私の胸中に沈んで蟠《わだかま》ったまま黒い塊りになっていた。
匕首《あいくち》の浩造《こうぞう》≠ニいう渾名《あだな》の由来を私は父から聞いたことがない。ただ、いつだったか創業期の苦労を語った時、郷里の人達の土地への執着は町に住んでいる人間にはとても理解できない、屡々《しばしば》血の雨が降る争いになった、と述懐したことがあった。また、空襲で焼野原になった盛り場をどうやって買収したかも、好んでする自慢話であったが、直接、渾名につながるような話は聞かないままに父は他界したのである。
もう一つの父に対する私の感情は、家庭のなかでの、色濃い愛憎が絡まったものだ。
そこには、温水プールで泳ぐ白い巨腹があり、母の上に乗って、子供の私には腕立て伏せをしているように見えた閨房《けいぼう》の男がいた。貯水池の土手の芝生で、丸和不動産の幹部と角力《すもう》を取っている父の姿も憶《おぼ》えている。
腕力でも体力でも、相手を圧倒することが支配を容易にすると父は確信していて、私にも柔道を習うように命令し、強い人間に育てあげようと腐心したのであった。
中学生になった私は、父の手引きで稽古《けいこ》をはじめた。はじめは厭々《いやいや》であったが、やがて仲間に敗《ま》けると口惜《くや》しくて強い選手になろうと励んでいった。それは講演を引受けた時や、丸和百貨店の経営者になった際と同じ心の動きであった。はじめてしまうと、やはり褒《ほ》められるような働きをしたい。自分の生き方を決める場合と違って、かえっていい加減に済ませておくことができず勤勉ぶりを発揮するのである。
中学校に入った年に、私は西垣姓を名乗るようになっていた。それまでは母方の苗字《みようじ》を使っていたのである。正妻とのあいだに子供がなかったから、父は私を籍に入れ、後継者として仕立てようと考えたのであろう。教師の見ている前で、柔道着を着て、乱取と呼ばれる練習を行った。私は幼く、父にとっては威圧する必要を感ぜずに訓育できる年頃であった。
当時、父はよく私を伴って丸和不動産の工事現場を視察した。貯水池の土手の上での角力の光景は、そうした現場巡りのなかでの一場面であったが、眺《なが》める私の胸中には、父が勝つことを願う一方、敗けるのを期待する心が早くも蠢《うごめ》いていたのである。
今でも家父長としての父の権威の実体はいくつかの光景として残っているが、私自身は家のなかで誰《だれ》ともそのような関係を結んでいない。だいいち、家族と呼べるものを持っていないのだ。母は父と暮していた母屋《おもや》に住んでいるし、私は別棟《べつむね》にいる。充郎は、離れに蟄居《ちつきよ》している恰好《かつこう》だ。律子と一緒に啓一を引き取って、まがりなりにも家庭を構成しようとした私の計画は当分実現しそうにもない。父が他界して以後、私にとっての権威とは、鋭い眼光や腕力を持っている実在の人物ではなくなっていた。もし私を外側から規制しているものがあるとすれば、それは評判と呼ばれる得体のしれないものであり、コンピューターに記録されている情報の集積であり、メカトロニックに作動する商業施設であり、私自身が作った店舗運営マニュアルであった。父の死後、西垣の家が徐々に崩壊に向っているという感じを拭《ぬぐ》うことができない。久美子の蹉跌《さてつ》もそうだし、充郎の精神の変調も、林田の離反と政治家としての独立も、そして私が家庭を持てず子供を作っていないことも、総《すべ》てこの徴候と言うことができる。
ホームに降りて身体《からだ》を伸ばす子供の私の眼《め》に、枕木《まくらぎ》の間に落ちている光る物体が入ってきたのを思い出した。レールは油を塗ったような鋼色《はがねいろ》の縞模様《しまもよう》を浮べて山裾《やますそ》の方に伸びていた。よく見ると、光るのはサイダーの王冠のようであり、その少し先のは、ガラスの破片に違いなかった。
レールが鳴り出して、遠くから微《かす》かな規則正しい響きが伝わってきた。信号機の矢羽根が音を立てて動き、発車のベルが鳴った。渓流の木魂《こだま》が消え、列車のなかから「早く乗れ」と父が怒鳴る。皺《しわ》の寄った顔や、脂切《あぶらぎ》った赫《あか》ら顔《がお》、弁当を拡《ひろ》げていた女の顔が、ぼんやりと線路を見詰めていた私を注視している。何処《どこ》へ行く旅行の際の光景であったかは覚えていないが、多分、最初に父の郷里を訪れた時の記憶であろう。
空を飛んでいても、窓際《まどぎわ》に坐《すわ》れば、地上の光る物体や、太陽光線を反射して鏡のような沼などを俯瞰《ふかん》できるはずだ。しかし、今の私の目に入るのは、不機嫌《ふきげん》に押し黙っている人々の後頭部と横顔ばかりである。スチュアーデスが、微笑を浮べて、紙コップに容《い》れたスープを配ってまわる。彼女達は、ひらひらと蝶《ちよう》のように通路を歩いているが、それは会社の訓練の高い水準を示す動作だ。
空港から名神高速道に入って一時間後に目的の市に着き、私は市長や商工会議所会頭、商店連合会の代表と面会した。午後は記者会見の席上で、丸和百貨店の市庁舎跡地再開発計画を発表した。商業施設のほかに、美術館や小劇場も作ってほしいという要望が婦人団体から提出された。
大阪に戻ったのは夜だった。関西支社の常務と夕食を済ませてから、久し振りに北新地に出た。数年前まで、関西に来るとよく会った大学時代の友人は、既に新聞社を辞めて郷里に引込んでいた。飲みに入った店には、銀行の重役や取引先の幹部の顔があって、そこが今でも、「夜の財界社交室」として使われているのを物語っていたが、働いているなかに顔見知りの女はいなかった。
翌朝、私は早く東京に帰らなければならなかった。ホテルの部屋に戻って予定表を調べ、上衣《うわぎ》を脱いでテレビを入れた。ちょうどニュースの時間だった。
はじめに脱線事故のために運休していた国鉄関係の写真が出た。大きなクレーン車が来て客車を吊《つ》り上げていた。復旧は明日の朝になると言う。
「次に△△神社の大祭の模様です」とアナウンサーが感情を押えた声で言い、南北朝時代の忠臣を祀《まつ》ったその神社のお祭りをめぐっての光景が報道された。その地方出身の大臣や保守党の政治家が参列し、著名な音楽家が壇上に立って忠臣を讃《たた》える演説をしていた。境内の外では、この大祭に反対する野党の代議士がトラックの上から、「軍国主義復活の意図に警戒を怠るな」と叫び、その前をゼッケンを着けた小人数のデモが歩いていた。
「続いて外電をお報《しら》せします」
アナウンサーの顔が出て、南米での飛行機事故の写真が「乗客に日本人はいない模様です」という解説と共に映し出され、「次」という声と共に、イランの反米デモの光景が出た。
新聞の社会面に相当する国内のニュースは、東大阪の火災と、兵庫県の田舎町で覚醒剤《かくせいざい》男が通行人に切りつけた事件が犯人の顔写真と共に報道され、続いて「長い間、再開発を巡って紛糾していた○○市庁舎跡地の利用計画が決りました」とアナウンサーが説明した。突然、クローズアップされた私の顔が、「御支援をいただいて、消費者の皆様に喜んでいただける百貨店その他の施設を建設したいと考えております。勿論《もちろん》、商店街とは共存共栄の精神を原則として――」と話していた。声が小さくなって、深々と頭を下げる様子を、私は不思議な人の不思議な行動を見るように眺めた。
「次」再びアナウンサーが原稿をめくり、岐阜県の小都市の下水道工事に絡む汚職事件と、動物園の豹《ひよう》に赤ちゃんが生れたニュースが伝えられた。チャンネルを廻すと、見るからに悪相の男が人を斬《き》った場面が出て、ブラウン管に血が飛び散り、主役である町奉行の顔が大映しになった。時代劇がはじまったところであった。
私もこのテレビと同じように、次々に場面を切り替え、チャンネルを廻して流れてくる案件に対応しているのだ。ある時は丸和百貨店の社長の顔であり、ある時は西垣浩造の息子の、時には政府の審議会の委員として良識の代表の顔になり、そして夜は物書きの表情になって日程を消化している。何の目的で、ということはない。また、どれが本当の顔だと言うのも不可能だ。そのうちの一つをテレビなどで見ると奇異な感じがするのは、映し出されない他の顔が異議を唱えるからだろう。総てが仮面のようであり、どれを取っても素顔のようにも思われる。
久美子の事件も、おそらくフランスのテレビで地方都市の出来事として放映されたはずである。いくつもの事件と事件の間には何の関係もなく、その間に挟《はさ》まって映し出された久美子の顔写真を見て(ずいぶん心臓の強い女もいたものだ、へえ、日本人か)と思ったフランス人が、次に報道された核兵器反対のデモ、その集会で演説する社会党出身の新しい大統領を見て、快哉《かいさい》を叫んだり、苦々しい表情をしたであろう。
久美子の裁判はパリの他《ほか》、四つの地方裁判所でひらかれていた。フランスの法律は日本とかなり違うらしく、何故《なぜ》そのように分割して行われるのか分らなかったが、刑事問題、商法上の民事裁判、彼女が逆に告訴した○○市の市長と、カジノの支配人に対して原告として出廷する裁判等の審議が並行して行われるので、久美子は弁護士みたいに、常に旅行して法廷に立っているようであった。なかでも、ツウルーズでの裁判の決着が、全体に大きな影響があるとあって、彼女は最強の弁護士を投入して争っていた。私は結局会社から借りた資金を裁判の費用としてフランスに送った。費用の方はそうしたが、丸和百貨店の立場はカジノ経営とは関係がないと主張した。参考人として出廷した駐在部長の山田正夫は、その旨《むね》を陳述し、結果として彼女は不利になったようである。事実がそうなのだから仕方がないと、電話で山田を慰めながら私は自分をも納得させた。それだけに悪い結論が出るのを私は恐れていた。何故、兄である私が、そのように冷たい態度をとるのかという非難は、今村奈保の口ぶりを待つまでもなく私の周辺に漂っていた。
久美子は、この事件はあくまでも○○市長とその共謀者が彼女を罠《わな》にかけ、結局は自分|達《たち》でカジノの利権を掌中に収めようとした陰謀だと主張してやまなかった。
事の成りゆきを心配して、フランスの取引先に関係のある弁護士達が和解を勧告しても、不正とは徹底して戦うと聞き容れない。その非妥協的な態度は、父を想起させた。父は相手が国であろうと昔の仲間であろうと、丸和不動産の利益を擁護して戦い、訴え、あるいは仮処分の申請や差押えなどもやって、強引で気の許せない男と煙たがられる場合が多かったのである。それはよく言えば事業に対する情熱だ。自分の考えを信じ、計画の実現に夢中になって邪魔を排除しようとしたのだ。常に旗幟《きし》鮮明だったと言えた。今、父が私の立場にいたら、久美子の事件にどのように対応しただろうと考えた。会社の利益を優先させて私と同じように振舞ったかもしれないし、家族に対しては人情家の半面を躊躇《ためらい》も見せずに押し出して、彼女を助けそうにも思われた。
父が死んで間もない頃は、寿司屋《すしや》などに入ると、よく私を息子と認めてであろう、「あーあ、西垣浩造の奴《やつ》もやっと死んだか」などと声高に、聞えよがしに言う年配の男に会った。たいてい父に近い年齢であったから、彼等《かれら》は人生の何処かの時点で父と衝突し、傷ついたのであったろう。政治家を動員して攻撃する父から上役を庇《かば》うために、責任を負って社や役所を辞め、出世コースから外れたような間接の被害者もいたに違いない。生存競争なのだから、それは止《や》むを得なかったのだ。敗れたのは本人に運がなかったからだと割り切れれば、世界はずっと住みやすいものになると思う。いずれにしても、父は世間のかなりの部分に怨念《おんねん》を播《ま》き散らして死んだのだ。負債を負っているという久美子の発言には、このような意味も含まれていると思われる。
「そこへいくと息子は少し違うようだ」と言われるのは、私の旗幟が鮮明ではないからであった。
「だんだん死んだ親父《おやじ》に似てきたよ」
と言われるのは、会社に競争力がつくと同時に、経営者としての私の態度が明確になったことへの、非難と評価の一体になった批評であった。私は加害者の立場になる場合が増えたのだ。それならばそれだけ、私自身のチャンネル切り換え操作は手もとが重くなっているはずである。自分のことを、「はずである」と言うのは、無責任な話だと知っているが、正直なところ、そうとしか表現できないのだ。私は大罪を犯した男が警官に追及されて、「何故、私があんなことをしたのか、よく分らないのです」などと述べて、罵倒《ばとう》される芝居を見た覚えがあるが、犯人は一所懸命に本心を吐露しているのであろうと、その時も同情したものだ。勿論、私は罪を犯しているつもりはないが、それも自分で考えることだから分らない。
普段はたいして気にしていないが、テレビなどで自分が喋《しやべ》っているのを見ると、奇妙な、少し恥しい気分であった。久美子ほどではないが、ブラウン管に映った私の表情や物腰は往年の父に似ていた。
久美子の主張を手紙で読むと、事件はどうも市長とその仲間の画策から起ったとしか思えない。彼女の方にも、その罠に掛ってしまうような法律や事務処理上の無知があったのだろう。今は内閣が替って退任したが、相手が、もとの内務省高官につながる市長であれば、外国人である彼女には歯が立つまい。日本の評判は、ヨーロッパでは悪くなる一方で、日本製の自動車や家庭電機製品がフランスを占領し、反感が高まっているところに久美子の事件が起ったのであった。市長達の仲間は巧みに、その風潮に乗って事を起したと考えられた。カジノが開業した時、「東洋の女富豪、カジノを占領」と報道した新聞記事を私は覚えていた。こうした表現にも、反感の底流が表れていたように思うのだが、彼女が無邪気に得意になっていたのは、やはり日本での虐《しいた》げられた時間のせいであったか。私にはとても久美子のように「あくまで不正と戦う」と叫ぶ元気はない。私は屡々《しばしば》、むき出しの党派性が威力を振るい、思慮深い声は掻《か》き消されてしまうのを、学生運動に参加していた頃から見てきている。これは思想や政治的立場に関係なく、総ての運動や組織に共通した性格のようだ。丸和百貨店の社長として、もう大上段に振りかぶった社会問題や経済政策論議には背をむけ、店を一つずつ作っていこうと考えていたところへ、久美子の事件が発生したのであった。彼女の熾《さか》んな闘志は、単に追いつめられたからというばかりでなく、そこに仕事を進めていく者の本来あるべき姿勢があると、今度も私は久美子の行動を追認するのであった。まして、競争や角逐《かくちく》の世界のただなかにいる者にとっては、情熱が脱《ぬ》け落ちてしまったような態度は許されない。そう考えていけば、模範的なのは、やはり父の取り続けた態度であるだろうか。またもや、父だったらこの際、どのように振舞うだろうと考えている自分に気づくと、我ながら可笑《おか》しく、かつ幾分哀れな感じがした。
あるパーティの席上で、代議士になった林田悟郎に久し振りに会った私が、彼を面罵したのは、このような反省がいくらか作用していた結果であろう。それは著名な政治家の喜寿の祝いの会であった。
私と鉢合《はちあわ》せすると、彼は気弱な笑いを顔いっぱいに浮べて握手を求めてきた。ついつられて手を取ったが、掌《たなごころ》を通して伝ってくる体温を感じると、急に不快な感情がこみあげてきて、「何だい、この手は」と穢《きたな》いものを払うように彼の手を払った。保守党内部の再編成で、林田は巧妙に立廻《たちまわ》って、新人ながら次の内閣改造の際は、大臣になるのではないかと言われていた。あるいはそれは林田自身が流した噂《うわさ》かもしれなかったが。
彼と一緒にいたのは、丸和不動産の社長の伯父だった。林田は差し出したままの手の遣《や》り場《ば》に困って、奇異なものを見る目付で私を見詰めている。私は伯父に向って、周辺の人に聞えるような大きな声で、
「林田君には子捨て代議士≠ニいう渾名《あだな》があって、自分の利益のためには子供まで捨てる男だから、気をつけた方がいいですよ」と言った。何人かの客が、驚いたように私達を振り返った。林田の顔が歪《ゆが》み、背中を丸めると、人々の脇《わき》の下をかい潜《くぐ》るように逃げ出した。
後から考えて、私は何故あの時自分が発作的な行動に出られたのかと訝《いぶか》しく思った。私の態度には秩序だった計算はなかった。チャンネルを切り違えただけのことなのかもしれず、日頃《ひごろ》抑圧されているもう一人の私が突然反乱を起したのかもしれなかった。
D教授が主宰するアメリカの児童救済組織からは、その数日前に連絡が入っていて、なにぶん年齢が年齢なので成否は覚束《おぼつか》ないが、とにかく一応預って治療してみてもよい、但《ただ》し、林田充郎本人がそれに同意することを前提とする、と言ってきていた。深尾卓三に紹介された日本の代表が、親切に要請してくれた結果であった。治療が目的ならば、保護者が付添っての入国は許可されるらしい。必要な書類を作製するために、私は林田と相談しなければならなかったのだ。それなのに、いきなり面罵したのは、どう見ても適切な行動ではなかった。少し前に私は充郎の戸籍|謄本《とうほん》を取り、渡航手続を進めるよう秘書役に依頼してあったのである。
私は充郎を呼んで、D博士の事業について説明し、治療を受ける目的ならばアメリカに行くことができると話した。彼の顔は俄《にわか》に光り輝き、
「そうか、それはよかった。もっと早くそうなるべきだったんだ」
と言った。私は少し心配になって、
「でもね、治療は受けなければいけないんだよ。勿論《もちろん》、いつか行ったような精神病院じゃない。知恵の遅れた子供達の面倒を見る役割を果しながら、君自身も自分の欠陥を是正する努力をしなきゃあいけないんだ」
とつけ加えた。
「それは軍隊みたいな所かなあ」
充郎は心配そうな顔になった。彼が留学していた頃、アメリカの学生達の間には、兵隊にとられてベトナムに連れていかれるのを恐れる空気が強かったのを私は思い出した。徴兵を忌避して行方をくらましたり、反体制運動に走った若者がたくさんいて、麻薬患者やヒッピー族が輩出し、学園が荒廃していった時期に、充郎は学生生活を送っていたのだ。彼の今の状態には、そのような環境がいくらか影響しているのかもしれない。
「いや、そうじゃない。そうじゃないが、規則正しい生活は送らなければいけないんだよ。風呂《ふろ》にもちゃんと入らなければいけないし、使ったチリ紙なんかも屑籠《くずかご》に捨てるんだ」
「そう」と充郎は気乗りのしない声を出す。
「僕《ぼく》はアメリカに行けば適合するんだ。日本ではそうする気がしなかっただけなんだ」と言い、ついに一言も私に対する感謝の言葉を口にしなかった。
とにかく、彼が渡航の目的を知ったうえでアメリカ行きに同意するならば、結果は未知数でも、一つの賭《か》けがはじまるのだ。
翌日は日曜日であったので、私は事の顛末《てんまつ》を報告しておこうと母に連絡した。彼女は庭に出て花壇の手入れをしているから「庭にいらっしゃい、あなたもたまには散歩ぐらいした方がいいのよ」と家人をつうじて返事がきた。
桜の花が咲いていた。
私は父が死ぬ一月ほど前、丸和不動産の重役が家に集っていた時、「どうだ、たまには皆で写真を撮るか」と珍らしいことを言い出したのを思い出した。皆も後で考えて、死期を予感していたのではないかと話し合ったものだ。
母はゴム手袋をはめて、初夏に咲く矢車草を移植していた。この花が咲く頃になると、母はきまって「函館《はこだて》の青柳《あおやぎ》町こそかなしけれ、友の恋歌矢ぐるまの花」という啄木《たくぼく》の歌を誦《よ》んで聞かせるのであった。母が節をつけて短歌を朗読するのを聞くたびに、私は気恥しい想《おも》いに捉《とら》えられてしまう。
花壇の仕切りには紫式部という名の灌木《かんぼく》が植えられ、日陰になることの多い隣には、鷺草《さぎそう》や|おだまき《ヽヽヽヽ》の花のような高山性の植物が大事に栽培されていた。母は父の死後、自らの世界を少しずつ拡げ、愛玩《あいがん》し、確かめているようであった。
母が立ち上って、庭の隅《すみ》に設けられた手洗場に歩いていくので、私も黙って付いていった。咲き誇っている桜を見やって、「西行の歌があったわね」と言うので、母も同じことを考えていたのだと知った。重役連中と写真を撮った時、父は「美津子、桜の下で死にたいとかいう歌があったな」と言い、母は即座に、
「願わくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月《もちづき》のころ」
と、抑揚をつけて詠《よ》んだのであった。
「北面の武士だった頃、いろんなものを見てしまったんでしょうね」
と母は言い、漂泊の旅に出た西行は、それまでの役職のなかで、確かに「見るべきほどのこと」を見てしまったのだろうと私は思った。経営者の場合も、もし仕事に生甲斐《いきがい》を感じ、総《すべ》てをそれに賭けていれば、絶望もまた明らかな形となって迫ってくる立場にいるのであろう。学生運動の失敗は、幾らか似たような経験であったけれども、それ以後、私は上手に振舞って、いつも自分を退却可能な場所に置くように努めてきたのである。漠然《ばくぜん》とした不安を感じるだけなのは、絶望にまで突進めない立場に身を置いているからか。
「充郎のことなんですが」と私は切り出し、彼がアメリカで治療を受けられることになりそうだと報告した。
「そりゃ良かったわね。うまくいくかどうか分らないでしょうけど、その間は地震が来ても大丈夫ですからね」と母は言った。少女の頃、東京の下町にいて体験した関東大震災の記憶が染《し》み込んでいるのか、母は地震については異常に神経を病むのであった。
「でも順造さんにも苦労かけるわね、久美子のこともあるし」
「まあ、そういう巡り合せなんでしょう」
と答え、私は今度も林田悟郎は保証人にならないだろうと思った。
母は立ち上って手を後ろに廻して腰を叩《たた》いた。
「私もおばあさんになってしまって駄目《だめ》だわ」
「もう何年になるでしょうかね」
「さきおととしが十七回忌だったから、二十年かしらね」
「そうすると、まだ十二、三年はたっぷりありますね」
この会話は大分前に私が、父と共に暮した年月よりも長い間「自分の思いどおりの生き方をしなきゃあいけませんよ」と話したのを受けてのことであった。
「だんだん世の中が悪くなるようね」
と、母は言い、言葉とはうらはらに落着いた微笑を浮べた。母は現在七十五である。彼女は果して父との生活の回想に生きているのだろうか。幸せな結婚生活を送った女によくある、夫との想い出に浸って余生を過す未亡人の話が母にあてはまるとは思えない。それは、父に対する遺恨の感情をとおして見た私の勝手な判断ではないはずだ。それにしても、もし私が丸和百貨店の社長になっていなかったら、父を想う母を観察する目は、もっとさっぱりと客観的なものに変質していたに違いない。父への感情の屈折は、私自身の屈託の反映であった。
私は高校生の頃、母の文箱《ふばこ》の下から父にあてた恋文を発見して裏切られた感じを強く受けたことがあった。今になれば母にとっての救いの証《あか》しに思えるそのことが、高校生の私には大人の世界への不信感につながっていた。幾人かの女との交渉を通じて、男と女の感情の錯綜《さくそう》を知った後では、当時の反抗心を我ながら懐《なつか》しむ気持になっているが、それは多分心が衰えた結果、自分の生き方の曖昧《あいまい》さを許すようになったからであろう。
時間が経《た》つにつれて、私には律子の手紙の意味が少しずつ見えてくるようであった。それは私に対する拒絶であり、その上での受け容《い》れであった。そのどちらの部分を取るかは私が決める番だ。律子が「自信がない」と書いているのは珍らしく自分の主張を押えた表現であって、本当は、私が体内に抱えている矛盾のなかに西垣の家にまつわる暗さや、執念の匂《にお》いを嗅《か》ぎとっていたからなのに違いない。彼女は動物的な勘で自分が闊達《かつたつ》に振舞えるような家ではないと洞察《どうさつ》していたのだ。もともと、そのなかに生れ育った人間だけしか棲息《せいそく》できないほど、西垣家の空気には酸素が不足しているのかもしれない。母でさえ、水草の精のように古い池に鬚根《ひげね》を浸して活力を吸い上げなければ生き延びることができなかったのだから。
律子が関心を持ったのは、その家の外に出た私なのだ。彼女と会うのに社外の場所を指定したのは、それほど考えた上のことではなかったが正確な選択であったようだ。その頃から私自身にも自分が身につけている疾《やま》しさについてのそれとない自覚があったのだ。律子にすれば啓一を私の環境に引き込むのは厭《いや》に違いない。
その後、啓一は再び律子と一緒に住めるようになったらしく、彼女は落着いている。
私は今まで充郎の異常を、ずっと林田夫妻のせいだと考えてきた。確かにそれは引き金になっているのだけれども、彼等の設けた引き金が有効に作用してしまったのは、西垣家の歴史がその背後にあったからだ。海の見えない、日本で最も雨の多い山襞《やまひだ》で醗酵《はつこう》した父の血は、善意や修養ではどうしようもない性格を潜めていたと考えられる。佐藤春夫のように芸術に向えば、あるいはその血は才能の開花に役立ったのかもしれないが、寒村に育った父に芸術への機会は与えられていなかった。「あなたは、女を幸せにするのが下手なのよ」と書いたのは、むしろ彼女の温かさだろう。温かい理解が時には一番適確な批判になるのだ。「甘やかす」のは彼女の勘を鈍らす罠《わな》であると律子は知っていたのだ。あるいは占いに看《み》てもらったのかもしれないが。私には、彼女の懇請をそのまま受けるしか方法がない。私達の関係は今までと同じに続くことになるだろう。まさしく、私が何事もはっきり区切りをつけられない人間になっていることを示す結末だ。ただ私は、息子の病気治療の保証人を拒否する林田は許すわけにはいかないと思い、その頑《かたく》なさだけが、自分に残された最後の信用できる部分のような気持がしていた。久美子が烈《はげ》しい闘争心を見せて、自分を陥《おとしい》れた市長一派を逆に告訴し、あらゆる和解勧告をはねつけて法廷を駆け廻っているのも、それが生きている実感を確かめられる行為だからであろう。マヤと弁護士のNを取り合って、深夜の高雅な部屋で髪を掴《つか》み合って争ったのも、二人ともそのような行為にしか、信用できる自分の姿を見出《みいだ》すことが出来なかったからではないか。もしかすると、母だけが美しく安住できる自分の世界を持っているのかもしれない。
「来週、○○市の幹部が四人ほど上京して来ますのでね、おいしいフランス料理を御馳走《ごちそう》したいんだけど」と私はねだった。
「そう、また百貨店ができるんですって、そんなに作っても大丈夫なの」
母は喜ばしそうに泥《どろ》を洗い落した手袋を左手に束ねて持ちながら私を振り返った。頼られると無邪気に喜ぶのは、彼女の昔からの性格だった。風が吹いて、桜の花が散ってきた。二、三片が、もうほとんど白髪になった母の髪に止った。
母と別れて、私は池の畔《ほとり》に歩いていった。春になると、一年中動くこともない水草も、色だけがいくらか明るくなる。どんな魚が棲息しているのか、はたしてそれは魚なのか、見たこともないけれども、鱗《うろこ》のひらめきが冬の池よりはよく眺《なが》められる。一瞬、屈折した光に煌《きらめ》いて消えるのだが、そういう季節ほど、私は長い髪をした女が身悶《みもだ》えする幻影を水のなかに見てしまうのだ。
池は静かだった。歎《なげ》く女の姿も現われなかった。立っていると、また桜の花が散り出したらしく、花びらが数片、風に泳がされてきて水の上に浮んだ。
もし事故が起らなかったら、充郎の治療のためのアメリカ行きは五月のはじめ頃に実現するはずであった。D博士の施設から正式の招待状が届いたので、ビザを申請しようとしていた矢先、彼は夜の六本木で喧嘩《けんか》をして腕を折ってしまった。翌日、彼の部屋に見舞いに行って、
「どうして警察を呼ばなかったんだ」
と聞くと「ポリスは好きじゃない」と、抑揚のない返事が返ってきた。昨夜|怪我《けが》して家に帰って来た時に見せた昂奮《こうふん》はすっかり治っている。医者に往診して貰《もら》うために、大急ぎで掃除した部屋のベッドに彼は上体を起して私とむかい合っていた。首から垂らした三角巾《さんかくきん》に折れた腕を吊《つる》して充郎は煙ったような顔をしている。真新しい白いシーツに身を沈めた彼の姿は、陰画の中の人物像に似て影のようにしか見えない。昨夜、アメリカでもよく喰《た》べていたハンバーグステーキが欲しくなってレストランに入ったが、なかなか註文《ちゆうもん》した品が来ないので、黙ってその店を出てしまったのらしい。しかし他《ほか》の店も混《こ》んでいたので、ふたたび戻ったところを店員が見付けて文句をつけた。おそらく充郎は目を剥《む》いて相手に顔をむけたが、一言も発しなかったのであろう。それに瞳《ひとみ》の焦点が壁のあたりに合っているので、相手は侮辱されたと思ったようだ。彼は腕ずくで店の外に連れ出され、撲《なぐ》られた。その時、大柄《おおがら》な充郎の顔に、それまでと打って変って小学生が浮べるような怯《おび》えの表情が浮んだのを見て、相手は獲物《えもの》に飛びかかる獣のような加虐心《かぎやくしん》をかきたてられたのであったろう。充郎は投げ飛ばされ、のしかかってきた男|達《たち》に更にしたたかに撲られて腕を折った。渋る充郎からようやくそんな模様を聞き出して、内心、彼から仕掛けた喧嘩でなかったことに安堵《あんど》しながら、私は起りそうなことが起ったのだと認めない訳にはいかなかった。
「まあ、仕方ないさ。アメリカ行きは癒《なお》るまで延期して貰うから、早く治すんだ」と柔らかく言った。
「僕は日本は嫌《きら》いなんだ。こんな目にあうのも伯父さまの責任だ」
突然充郎が叫びはじめた。何処《どこ》からそんな声が出るのかと思われる声量で、記憶に戻ってきた恐怖を追い払おうとでもしている烈しさである。
「どう言うことだ、もう一度言ってみろ」
「そうじゃないか。アメリカから連れ戻したのも伯父さまだろう。僕は帰らなくたってよかったんだ。その責任をちっとも取ってくれないじゃないか。僕はアメリカに行きたいんだ」
私の憤《いきどお》りはたちまち鎮《しず》まった。
「まあ、落着けよ」と押えるように言うと、叫んだので気が抜けてしまったみたいに充郎はぼんやりし、虚《うつ》ろな目になって遠くを見ている。ふと、充郎の面倒を見るのは私の責任なのだと林田が吹き込んだのではないかと気付いて「最近パパに会ったのか」
と聞くと、
「電話をした」と私の方を見ないで言う。
「どうして?」
「誕生日だったから、お目出とうを言おうと思って。だけど、弟が出てパパはいなかった。だから夜になって掛けたけど、すぐ切れて繋《つなが》らなかった」
おそらく異母弟の君麿は君子に言われて、掛けたのが充郎だと分ると二度目の時はそれだけで電話を切ったのであろう。つねづね彼は充郎のような兄がいることは林田の家の恥だと聞かされていたのに違いない。少し前に、私は君麿に縁談があるという噂《うわさ》を聞いていた。そのために林田や君子はなるべく充郎とかかわり合いを持ちたくなかったのであろう。彼等《かれら》は正常な家族であり、西垣の家の者は、どことなく異常で危険な存在なのだ。あるいは大臣になれる機会を逃してはならないと、何かにつけて家を守る意識が高まっていたところなのかもしれない。
「パパに会いたかったのか」
私はかつての醍醐源太郎の気持を想像しながら辛抱強く問いかけた。
「パパは日本のことを考えるために政治家になったんだから、僕と会っている暇はないんだ」
その答えは林田が言い聞かせたのであろう内容を正直に伝えていると思われた。
「ママとはどうなんだ。アメリカに行く時、パリに寄ってみるか」
私は暴行を受けて混乱し、沈んだ充郎の気持を何とかして引き立てたいと問いを重ねた。「あの人は遠いしね、忙しいんだ」と充郎が答えた。私は一ケ月ほど前、充郎の部屋に珍らしく週刊誌が放《ほう》り出してあったのを思い出した。その時は急いでいて内容を見ていないが、確か久美子の記事が掲載されていた週刊誌だったと今になって思いあたった。それには西垣家令嬢の挫折《ざせつ》と周辺の困惑≠ニ言うようなタイトルで、久美子の写真が数葉印刷されていたはずである。「そうか」と私はひとりごちた。
「アメリカには行けるからね、心配しないでいい、招待状も、もう届いたから」
「ああ」充郎は何か別のことを考えている様子で気のない返事をした。
翌日も穏やかな春であった。私は社長室に着いたら深尾卓三に充郎の治療の件について報告とお礼の電話をするつもりだった。
「お早ようございます」
エレベーターに乗合せた数名の社員が挨拶《あいさつ》した。時間によって朝の一階の広場には三回のラッシュが出現する。八時三十分前後の第一回目は九時開始の会社であり、それから九時、九時三十分と三十分おきに波がくる。エレベーターはコンピューターによって管理され、その波に合せて頻繁《ひんぱん》にやって来たり運転回数を間引いたりしていた。私も彼等に会釈《えしやく》して視線を移動させたが、名前を知っている社員は一人もいなかった。丸和百貨店に入社した頃《ころ》は三百人ほどの規模であったから、全員が互に性格や家庭の様子まで知っていた。それが具合の悪い場合もあったが、朝の会話はもっと活溌《かつぱつ》で、笑い声なども起ったのであった。
そんなことを考えているうちに五十二階に着いた。ドアが開くとモーターの音が聞え、いつもの老人が前こごみになって電気掃除器を押していた。私はもう、彼が偉い軍人だったか、どこかの大会社の総務係長だったのか、家には孫がいるかどうか等《など》と考えなかった。見慣れてしまったことが、そうした関心を失わせていたのである。
机の上にはいつものように、報告書と議事録、私信などの手紙類、それに印刷物の三つの山が整理されて出来ていた。それを読みはじめた時お茶が運ばれてきて、「パリの山田部長から至急御連絡をいただきたいというテレックスが入っています」と秘書が報告した。裁判の結果が出るのは、まだ四、五ケ月先と聞いていたので不安になった。経営者にとって緊急の連絡は、まず不吉な報《しら》せである。それはパリからの場合ばかりでなく、国内でも同じであった。
大分前、アメリカの駐在員が突然錯乱状態になったことがあった。ミスターK・フォール・イン・イラショナル・シチュエーション、という英語の意味がとれず、米人の支社長が、とうとう「ヒー ビカム クレイジー」と言ったので漸《ようや》く分り、分ったことで、かえって何のことかと混乱してしまったのを覚えていた。それは毎日規則正しく運行されている業務が、人間の世界以外の要素によって突然破壊された驚きを私に与えた。よく考えれば、そのような突発的な事件がある方が、より人間らしい現象なのであったが、とにかく緊急連絡は私に不安を与えるのだ。
「いいお報せなのですが、久美子さんが急に無罪になる可能性が出てきました。ほとんど確定的といってもいいくらいで、少くとも商法上の形式的違反以外は白だと思います」
こんな時でも、山田正夫の話し方は一言一言、原稿を朗読しているような、感情を交えない口調であった。
「どういう訳だ、執行|猶予《ゆうよ》ではなくて無罪なのか」と私は聞き返した。
山田の説明によると、政府が変ったために、もっとも頑迷《がんめい》な保守派だった○○市の市長とそのブレーン数名の贈収賄《ぞうしゆうわい》事件が発覚し、その捜査の過程で彼等が久美子を陥れようとした証拠が摘発された。それに関する報道が昨日解禁になった、というのであった。
「今日のこちらの新聞に大きく出ていますが、久美子さんは腐敗した旧体制の犠牲者という扱いになっています。一つの新聞は悲劇の女富豪の春≠ニいう見出しを掲げていますし、別の新聞にはアンシャン・レジームに疑惑、東洋の女性まで喰《く》いものに≠ニ出ています。この事件は前内閣の幹部にまで及ぶのではないかとの観測もあるようです」
そう山田は言い、私は簡潔に話すために、彼がメモを作って読んでいるのではないかと思った。
「まさか、こういう具合に急展開するとは思っても見ませんでしたので、原則論ばかり申し上げて御心配をおかけしました」
山田は社の利益を優先させるために、久美子の一身上の不利益は止《や》むを得ないという私の決定を自分の責任のように詫《わ》びた。私は彼を慰めなければならなかった。山田の真面目《まじめ》さが何やらちぐはぐな感じになり、それにもまして経営者のモラルを振りかざしていた私の素振りが、大時代で滑稽《こつけい》に見えてきた。
新しい政府が、長く続いた保守系の政治の腐敗を摘発する動きは、少し前からはじまっていたようであった。久美子の事件はその恰好《かつこう》の材料になったわけだ。これは勝利なのだが、彼女が自分の力で勝ち取った結果ではない。
私は彼女が張合いをなくして呆然《ぼうぜん》としてしまったのではないかと気になった。早手まわしに考えれば、彼女自身の危険は、戦いの終った後にやってくるのかもしれなかった。記者が大勢彼女のマンションに押しかけ、久美子は「不正はいつか敗北すると思っていました。私はフランスの知性に感謝したい気持です」と語ったという。この談話は新政府を喜ばすに違いなかった。まだ判決が出た訳ではないのだから、喋《しやべ》らない方がいいのに、と私は後見役の心理に陥って心配した。
電話を終えて私は窓際《まどぎわ》に歩いていった。いつの間にか太陽は高く昇っていて、部屋から見える町並みは、朝のうち長く曳《ひ》いていたはずの影を縮めて、淡くかかった靄《もや》のなかに蹲《うずく》まっていた。そのなかから、時おり光が送られて来たが、それは走っている車の前面のガラスの反射か、誰《だれ》かがマンションの台所の押し窓を開くかしたからであろう。その後には、夫を会社に送り出してから立働く主婦がいたり、入学式を間近に控えて先生方の家へ挨拶まわりに急ぐ、車を運転する母親がいるはずであった。
――人の所有するすべてのものが流転《るてん》するのを感じるのは、恐ろしいことだ――
とパスカルは述べているが、その流転はいつも偶然に支配されるのだと、私は久美子の事件の顛末《てんまつ》を思い、それに自分の学生時代の体験を重ね合せて考えた。もっとも、そうしたことは、会社の仕事のなかでは始終起っている。丸和百貨店との取引が停《とま》ったために、倒産に追い込まれた問屋がいたとしても、取引先の数を減らし、残った会社と集中した商いをすることで利益を増やし、経費の高騰《こうとう》を補おうという政策の前では、一人の担当者の善意とか献身はほとんど何の効用もない。
勝利の陶酔が去った時、久美子が受け取る感情は、カジノの開業の華やかな宴《うたげ》のあとでホテルの個室に戻《もど》った夜の気分と似ているのではないかと私は推測した。
見ていると、靄のために輪郭のはっきりしない遠い建物の一つ一つが、雑然と密集している低い家屋も含めて、かすかに身じろぎしているようであった。見渡す限りの下界で、それまで身を伏せていた町が起き上ろうとして蠢《うごめ》き、道は丸みを帯びてうねり、それらの動きが全体として大きな波動のまとまりを見せようとする気配があった。もっとも、そう考えるのは私の空想で、町の動きは、これから次第に衰退してゆく痙攣《けいれん》と見ることも出来そうであった。広い空と、不安定で逞《たくま》しく拡《ひろ》がっている街の中間を、羊の群のような白い雲がゆっくり移動していた。
眺めていると幻影がさらにむらがり起ってきそうで窓際を離れた。三つの文書の山を手早く整理しなければ、次に控えている日程の消化に差支えるのだ。
社内の会議の議事録は斜に読み、黒い台紙に束ねられた稟議書《りんぎしよ》は、役員の意見の欄に注目して、議論が分れているものだけを取り除《の》けた。後でゆっくり検討するためである。椅子《いす》に腰を下ろすと下界は見えなくなり、遠くの山脈が目の高さにあって芝居の書き割りのようであった。
年配の秘書役が書類を持って入ってきた。
「これを見ると、充郎さんは二ケ月ほど前に分籍されています」と言う。
複写された分籍届には分籍する人の氏名、林田充郎≠ニ書き込んだ欄の下に私の家の住所が載っていた。充郎は母屋《おもや》の離れに住んでいたから、そこを本籍地かつ現住所と定めて、アメリカの施設に治療を受けに行こうとしている彼が一家の戸主になったのであった。古い本籍地は、私がかつて訪れたことがある林田の郷里であった。アメリカ人になりたがっている充郎を言いくるめて、分籍に賛成させるくらいは、政治家になった林田にとって容易な作業であったと思われる。私はふたたび君麿と財界有力者の娘との間に結婚話が進んでいるという噂を思い出し、その話をまとめる上で、とかく問題が多い充郎を戸籍から抹消《まつしよう》しておくことが林田夫婦にとって緊急の必要事であったのだろうと思った。
西垣順造様方、林田充郎殿≠ニいう配達証明の朱印が押してある宛名《あてな》書きの裏面は、林田悟郎が差出人になっていた。それを眺めていると、
「これからは反省の日々を送って、さすがに君子はやったなって周囲の方々にも言われるように、充郎ちゃんを立派に育てて」
と涙ぐんで醍醐源太郎に誓った録音テープの声が蘇《よみがえ》ってきた。それは可憐《かれん》な響きを伝えていて「金木犀《きんもくせい》の匂《にお》いの感じ」と言われた声である。あれから十年以上も経過したのだから、君子の考えが変ったとしても不思議はない。この配達証明付の手紙は、おそらく私のいない時に家に届けられ、家人が宛名だけを見て、事務的に充郎に渡してしまっていたのだ。林田が、君麿の結婚によって、現在の自分の地位を強いものにしておきたいと考えるのは、従来の彼の生き方からすれば極めて自然であった。政治には資金が必要なのだ。そして私は、そのような行為を容認すべき経営者の立場にいるのである。
この事実は、今結婚しようとしている君麿や、その相手の娘の値打とは直接の関係はない、と私は自分に言いきかせた。親達が、どんなに利に聡《さと》く、あこぎに振舞ったとしても、そのような計略の下で付合いはじめた若い二人の間に愛情が生れることだってあるのだ。私が父との確執のなかで苦労して手に入れたのは、そういう考え方だったはずだ。
私はふたたび立ち上って窓際に歩いていった。それが物を考える時の癖なのを知っている秘書役は黙って部屋を出て行った。私は窓の外に目を向けていたが、実は何も見ていないで、(一瞬の油断が敗北を招く、僕《ぼく》がいるのはそういう世界なのだ)と考えていた。林田悟郎が法律的にも疑問がある除籍と言ってもいい措置をあえて実行したのは、必要に迫られてのことであると同時に、私に油断があったからだという気がしきりにした。何とかして這《は》い上ろうと努力する林田の生き方に、自分にはない逞しさを見て感心している隙《すき》を衝《つ》かれた思いであった。
私の目にふたたび遠くから鋭い光を送ってくる物体があった。おそらく天空の太陽の位置が変ったので、画家のアトリエか古い写真館の天窓のガラスが反射しはじめたのであろう。先刻までの、子羊を連れて歩いているような、のどかな白い雲の姿はもうなかった。その替りに「僕は一度だって西垣の家の一員として扱われたことなんかなかったんだ」と怒って食卓を叩《たた》く林田の顔が浮んでいた。彼は久美子や私の母や、そして私への復讐《ふくしゆう》をしたのかもしれなかった。しかし犠牲になったのは充郎なのだ。これは戦いなのだから、相手の立場をおもんぱかったりしていてはいけない、林田の非を責めなければいけない、それでこそ私は生きているという実感を味うことができるのだ、と考えたりした。
それでいて私は何処《どこ》かで自分が嘘《うそ》をついているような気がした。理由はよく分らなかったが不安であった。充郎が分籍についてどう考えているかをよく聞いてみなければならないと思った。一家の戸主になった方が入国ビザは取りやすいと林田が言ったのではないかと思われたが、あるいは充郎からそれを望んだのかもしれないのだ。
その時、また下界で何かが光った。我にかえって瞳《ひとみ》を凝らすと、その光はすでに消えていた。どこまでも拡がる厖大《ぼうだい》な雑色の街の上に薄いヴェールのように靄がかかり、私はその上で充郎が無心に石蹴《いしけ》りをしている幻影を見た。充郎は不確かな雲に乗って私の方を振りむきもせずに遊んでいる。春なのに、幻の空間に色づいた銀杏《いちよう》の葉が降りはじめた。葉は引力に抵抗しているように、向きを変え、身を翻《ひるがえ》しながら落ちてゆく。私はその充郎のところへ幼ない啓一が駆け寄り、その後ろに律子がいる光景を望んだのであった。久美子も母もその場に集ってくる団欒《だんらん》の幻想はテレビドラマの結末のようであった。ただはっきりしていることは、皆が集る核のような存在がなければ駄目《だめ》だということであり、そこで、もう一つ明らかなのは私がその核になれないし、なろうとしていない事実であった。
銀杏の葉は降り続けている。その黄色い落葉は光の驟雨《しゆうう》のようにあたりを満たし、あわただしく静かに奈落《ならく》に吸い込まれていく。私をそのなかに引き入れそうな烈《はげ》しさで。新宮の浜に立っていた時も、私と律子の上に驟雨が降ってきたのだった。
秘書が入ってきて、
「皆さんお揃《そろ》いになりました」
と告げた。この日は定例の営業部長会がある日だった。
「ああ、すぐ行く」
そう答えて私は窓際を離れた。うららかな春の日の、いつもと同じ昼前の時間が、扉《とびら》のすぐ前まで来ていて、私が入っていくのを待っていた。
[#地付き]引用文献
[#地付き]由木康訳・パスカル『パンセ』白水社刊