涼宮ハルヒの消失
谷川流
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)十二月になった途端《とたん》、
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)商売|繁盛《はんじょう》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)[#「そいつ」に傍点]
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「涼宮ハルヒ? それ誰?」って、国木田よ、そう思いたくなる気持ちは解らんでもないが、そんなに真顔で言うことはないだろう。だが他のやつらもハルヒなんか最初からいなかったような口ぶりだ。混乱する俺に追い打ちをかけるようにニコニコ笑顔で教室に現れた女は、俺を殺そうとし、消失したはずの委員長・朝倉涼子だった! どうやら俺はちっとも笑えない状況におかれてしまったらしいな。大人気シリーズ第4巻、驚愕のスタート!
作/谷川《たにがわ》流《ながる》
兵庫県在住。2003年、第8回スニーカー大賞<大賞>を『涼宮ハルヒの憂鬱』で受賞し、デビューを果たす。また、電撃文庫より『学校を出よう!』シリーズも刊行中。趣味はバイクと麻雀。人生五里霧中。今一番欲しいものは安眠マクラと機械の身体。
カバーイラスト/いとうのいぢ
カバーデザイン/中デザイン事務所
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[#ここから目次]
C O N T E N T S
プロローグ…●(5)
第一章‥・●(30)
第二章…●(73)
第三章…●(103)
第四章…●(160)
第五章…●(195)
第六章…●(223)
エピローグ…●(246)
あとがき…●(252)
[#ここで目次終わり]
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口絵・本文イラスト/いとうのいぢ
口絵・本文デザイン/中デザイン事務所
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プロローグ
地球をアイスピックでつついたとしたら、ちょうど良い感じにカチ割れるんじゃないかというくらいに冷え切った朝だった。いっそのこと、むしろ率先してカチ割りたいほどだ。
とはいえ寒いのも当然で、それは今が冬だからだ。一ヶ月ちょい前の文化祭までがやたら暑かったと思えば十二月になった途端《とたん》、ど忘れを思い出したかのように急激に冷え込みやがり、今年の日本には秋がなかったことを身にしみて実感する。誰《だれ》かが商売|繁盛《はんじょう》の判じ物を呪文《じゅもん》と勘違《かんちが》いしたんじゃないだろうな。シベリア寒気団の連中も、たまにはルートを変更《へんこう》すればいいのに。こう毎年やってくることもないだろう。
地球の公転周期が狂《くる》ってやしないかと、俺が母なる大地の健康を気遣《きづか》いながら歩いていると、
「よっ、キョン」
追いついてきた軽薄《けいはく》な男が水素並みに軽い調子で俺の肩《かた》を叩《たた》いた。立ち止まるのはおっくうなので振《ふ》り返るだけにした。
「よう、谷口《たにぐち》」
と俺は返答し、また前を向いて遥《はる》かな高みにある坂のてっぺんを恨《うら》めしく眺《なが》める。こんな坂道を毎日のように上っているんだから、体育の授業なんざもっと削《けず》ってもいいんじゃないか? 毎朝がハイキングの通学路を歩く学生への心配りを担任|岡部《おかべ》他《ほか》の体育教師ももっとするべきだ。どうせ自分たちは車で来てるんだし。
「何をジジむさいこと言ってんだ。早足で歩け。いい運動だぜ。身体《からだ》が暖まるだろ。俺なんか、ほら見ろ、セーターも着てねえ。夏場は最悪だが、この季節にはちょうどいいぜ」
やたら元気なのはいいことだが、その素《もと》となるのは何だ。俺にも少し振りかけてくれ。
谷口はしまらない口元をニヤリとゆがめ、
「期末テストも終わっただろ。おかげで今年中に学校で学ぶことなんかもう何もねえよ。それよりもだ、素晴《すば》らしいイベントがもうすぐやってくるじゃねえか!」
期末テストなら全校生徒に対して平等に降りかかり、平等に終わった。不公平なのは採点されて戻《もど》ってきた解答用紙に書き込まれている数字くらいのものだろう。
俺はそろそろ予備校の心配をし始めた母親の様子を思い出しながら気分を暗澹《あんたん》とさせた。来年、二年になれば、クラス分けは志望校に沿って行われる。文系か理系か、国公立か私立か。さあ、どうしような。
「そんなこと後で考えりゃあいい」谷口は笑い飛ばした。「もっと別に考えることがあるだろ? 今日が何月何日がお前知ってるか?」
「十二月十七日」と俺。「それがどうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもねえ。一週間後に胸が躍《おど》るような日がやってくるのを、お前は知らんのか?」
「ああ、なるほど」俺は正解を思いついた。「終業式だな。確かに冬休みは心待ちするに足りるイベントだ」
しかし谷口は、山火事に出くわした小動物のような一瞥《いちべつ》をみまい、
「違うだろ! 一週間後の日付をよーく思い出してみろ。自《おの》ずと解答にたどり着くだろーが」
「ふん」
俺は鼻を鳴らして、もわっと白い息を吐《は》いた。
十二月二十四日。
解《わか》ってたさ。来週に誰かのでっち上げか陰謀《いんぼう》のような行事があるってことくらい、とっくにお見通しだ。誰が見逃《みのが》しても俺が見逃せようはずもない。俺以上にこの手のイベントをめざとく発見する奴《やつ》が近くの席に座っているのだからな。先月ハロウィンを見過ごしてしまったことを残念がっていたし、何かやるつもりなのは間違いない。
いや、実は何をやるのかも知っている。
昨日、部室で、涼宮《すずみや》ハルヒは確かにこう発言した…………。
「クリスマスイブに予定のある人いる?」
扉《とびら》を閉めるなり鞄《かばん》を投げ出したハルヒは、オリオンの三連星のような輝《かがや》きを瞳《ひとみ》に浮《う》かべながら俺たちを睥睨《へいげい》した。
その口調には、「予定なんかあるわけないわよね、あんたたちももうちゃんと解ってるでしょ?」みたいな言外のニュアンスが込《こ》められているようで、イエスとでも答えようものならたちどころにブリザードを呼び寄せかねない勢いであった。
その時、俺は古泉《こいずみ》につきあってTRPGをやっているところであり、朝比奈《あさひな》さんはほとんど普段着《ふだんぎ》となりつつあるメイド衣装《いしよう》で電気ストーブに手をかざし、長門《ながと》はSFの新刊ハードカバーを指と目だけを動かして読んでいた。
ハルヒは鞄の他に持っていた大きな手提《てさ》げバッグを床《ゆか》に置き、俺のそばにつかつかとやってくると胸を反らして見下ろす視線をよこし、
「キョン、もちろんあんたは何にもないわよね。訊《き》かなくても解るけど、いちおう確認《かくにん》してあげないと悪いような気がするから訊いてあげるわ」
世界一有名な猫《ねこ》のような笑いを浮かべている。俺は転がそうとしていたダイスを、いわくありそうな微笑《びしょう》をたたえる古泉に手渡《てわた》して身体をハルヒへ向けた。
「予定があったらどうだってんだ。まずそれを先に言え」
「ってことは、ないのね」
勝手にうなずいて、ハルヒは俺から視線をはずした。おい、ちょっと待てよ。まだお前の質問に答えてないぞ。……まあ、何の予定もないのは今回に限ったことでもないのだが。
「古泉くんは? 彼女とデートとかするの?」
「そうであったらどれほどいいことでしょう」
手のひらでサイコロを転がしつつ、古泉は芝居《しばい》じみた吐息《といき》を漏《も》らした。実にわざとらしい。イカサマの香りがプンプンする。
「幸か不幸か、クリスマス前後の僕のスケジュールはぽっかりと空いています。どうやって過ごそうかと、一人で思い悩《なや》んでいたところですよ」
そう言いつつ微笑するハンサム面《づら》に俺は嘘吐《うそつ》けとか思う。しかしハルヒはあっさりと信じ込み、
「悩むことはないわ。それはとても幸せなことだから」
次にハルヒが舳先《へさき》を向けたのはメイド少女の姿へである。
「みくるちゃん、あなたはどう? 夜更《よふ》けすぎに雨が雪へと変わる瞬間《しゅんかん》を見に行こうとかって誰《だれ》かに誘《さそ》われてない? ところで今時そんなことをマジな顔で言う奴が本当にいたら殴《なぐ》っちゃっていいわよ」
大きな双眸《そうぼう》を見開いてハルヒを見つめていた朝比奈さんは、いきなりの詰問《きつもん》にビビクンとしてから、
「いえ、そ、そうですね。今のところ何も……。ええと、夜更けすぎ……? あ、それよりお茶を……」
「とびっきり熱いやつをお願いね。この前のハーブティーってやつがおいしかったわ」
注文するハルヒに、
「は、はい! さっそく」
お茶を入れるのがそんなに楽しいのか、朝比奈さんは顔を輝かせてカセットコンロにヤカンをかけた。
満足げにうなずきつつ、ハルヒは最後の一人となった長門に言った。
「有希《ゆき》」
長門はページから顔を上げずに短く答えた。
「ない」
「よね」
小鳥の囀《さえず》りのように端的《たんてき》な会話を終え、ハルヒは改めて俺に偉《えら》そうな笑《え》みを向ける。俺は我関せずといった具合に本を読み続ける長門の白皙《はくせき》の顔を見て、そんな当意即妙《とういそくみょう》に答えなくてもいいものを、と少しばかり思った。ちょっとはスケジュールを思い出すフリくらいすればいいのに。
ハルヒは片手を振《ふ》り上げると、
「そういうことで、SOS団クリスマスパーティの開催《かいさい》が全会|一致《いっち》で可決されました。異論や反論があるならパーティ終了《しゅうりょう》後に文書で提出しなさい。見るだけなら見てあげるわよ」
つまり何があっても言い出したことを取り消したりはしないってことであり、とうに見慣れた展開でもある。言葉通りに一応だったが、全員の予定を聞いて回ったあたりは半年前くらいに比べると進歩と言えなくもない。それが予定でなく全員の意思であったらなおさらよかったのだが。
すべてがシナリオ通りに進んでいると言いたげな満足顔で、ハルヒは置いていた手提げバッグに手を突《つ》っ込んだ。
「でさ。せっかくのクリスマスシーズンなんだから、いろいろ準備もしないといけないでしょ? そう思ってグッズを用意してきたの。こういうのは雰囲気《ふんいき》作りから始めるのが正しいイベントの過ごしかただわ」
そうして出てきたのは、スノースプレー、金や銀のモール、クラッカー、ミニチュアサイズのツリー、トナカイのぬいぐるみ、白い綿、電飾《でんしょく》、リース、赤と緑の垂れ幕、アルプス山脈が描《えが》かれたタペストリー、ゼンマイで動く雪だるま人形、ぶっといローソクとキャンドル立て、幼稚園児《ようちえんじ》なら入れそうな巨大《きょだい》クツシタ、クリスマスソング集入りCD……。
子供にお菓子《かし》を配る近所のお姉さんみたいな笑顔で、ハルヒは次々とクリスマスっぽい品物を登場させてはテーブルに並べ、
「この殺風景な部室をもっとほがらかにするの。クリスマスを積極的、かつ前向きに味わうためには形から入るのが初心者向けね。あんたも子供の頃《ころ》にこんなことしなかった?」
するもしないも、後もう少ししたら俺の妹の部屋がクリスマス仕様になる。今年もその手伝いを母親に命じられるだろう。ちなみに当年取って小学五年生十一歳になる我が妹は、どうやら未《いま》だにサンタ伝説を信仰《しんこう》しているようだ。俺が人生のかなり初期に見抜《みぬ》いてしまった両親の巧妙《こうみょう》なる偽装《ぎそう》工作にまだ気づいていないのである。
「あんたも妹さんの純真な心を見習いなさい。夢は信じるところから始めないといけないのよ。そうでないと叶《かな》うものも叶わなくなるからね。宝くじは買わないと当たらないわ。誰かが一億円の当たりクジをくれないかなあなんて思ってても、絶対そんなことないんだからね!」
ハルヒは嬉《うれ》しそうに怒鳴《どな》るという器用な技《わざ》を見せながら、パーティ用の三角|帽《ぼう》を取り出して自らかぶった。
「ローマに行けばローマの、郷にいれば郷のしきたりに従わないといけないのよね。クリスマスにはクリスマスのルールに則《のっと》るわけ。誕生日を祝われてイヤな気分になる人間なんてそうそういないからね。ミスターキリストだってあたしたちが楽しそうにしているのを見て喜ぶわ、きっと!」
さすがに、生まれた年すらよく解っていないキリスト生誕日にまつわる諸学説をここでそらんじるほど俺は空気の読めない人間ではない。それにキリスト誕生推定日が複数あるなんてことを言えばハルヒのことだ、「だったらそれ全部をクリスマスにしたらいいじやない」とか言い出して、年に何回もツリーを持ち出すハメになりかねないし、いまさらA.D.の始まりが前倒《まえだお》しされても困るだけだし、太陽|暦《れき》だろうが古代バビロニア暦だろうが所詮《しょせん》は人間の勝手な都合だし、広大な宇宙を黙々《もくもく》と回る天体たちは別に何を気にすることもなく寿命《じゅみょう》の果てるまでそうやっていることであろう。ああ、宇宙はいいなあ。
などと大宇宙の神秘について思わず少年心をくすぐられる俺に夢想の猶予《ゆうよ》も与《あた》えず、ハルヒは部室内をサービス精神|旺盛《おうせい》なパンダのようにウロウロしながら、部屋のあちこちにクリスマス用小物を置いて回り、読書中の長門の頭にも三角帽を載《の》せ、スノースプレーをしゃかしゃか振ってガラス窓に『Merry Xmas!』と書き殴《なぐ》った。
いいけど、それ、外から見たら鏡文字になってるぞ。
そうこうしているうちに、ティーカップをお盆《ぼん》に載せた朝比奈さんがクルミ割り人形のようによちよちとやってきた。
「涼宮さーん、お茶入りましたよ」
メイドスタイルで微笑《ほほえ》む朝比奈さんの姿は今日も極上《ごくじょう》で、何度見てもそのたびに新鮮《しんせん》な潤《うるお》いを俺の心に届けてくれる。たいていハルヒが何かを言い出すごとに悲惨《ひさん》な目に遭《あ》う朝比奈さんも、今度のクリスマスパーティには不安を覚えていないらしい。バニーでビラ配りやセクハラな衣装《いしょう》で映画に出ることに比べたら、団員全員でこぢんまりしたパーティを楽しむことなど実際的|純粋《じゅんすい》的に楽しげなことだしな。
だが、本当にそうか?
「ありがと、みくるちゃん」
機嫌《きげん》良くハルヒはカップを受け取って、立ったままハーブティーをずるずるすすり込む。その様子を邪気《じゃき》のない笑顔で見守る朝比奈さん。
わずか数十秒で熱々の液体を飲み干し、ハルヒは先ほどまでの笑顔をさらに二乗にした。
イヤな予感がするね。何かいかがわしいことを考えているときの笑みだ。けっこう長いつきあいだ、それくらいは俺にだって理解できている。
問題は……。
「とってもおいしかったわ。みくるちゃん、お礼と言っては何だけど、あなたにちょっと早めのプレゼントがあるのよね」
「え、ほんとですか?」
目を瞬《またた》かせる可憐《かれん》なメイドさんに、
「これ以上の真実はないってくらい本当よ。月が地球の周りを回ってて地球が太陽の周りを回っているくらい本当のことだわ。ガリレイのことを信じなくてもいいけど、あたしの言うことは信じなさい」
「あ、はははい」
そうしてハルヒはまたもやバッグに手を差し入れた。
気配を感じて顔を向けると、まともに目があった古泉が微苦笑《ぴくしょう》を浮《う》かべて肩《かた》をすくめて見せる。何のつもりだと言いたいところだが、何となく解《わか》る。だてにハルヒの仲間を半年以上もやってないんだ、これで想像できないほうがおかしいだろ。
そう、と俺は思うのだった。
問題は、まさにハルヒの思いつきを抑制《よくせい》できる人間やそんな効果のある薬がこの世のどこにもないということなのだ。誰《だれ》か発明してくれたら個人的に勲《くん》一等を進呈《しんてい》したい。
「じゃじゃーん!」
幼稚《ようち》な掛《か》け声とともに、ハルヒがバッグの奥底から最後に出してきたクリスマスアイテム、それは――。
「そ、それは……?」
反射的に後ずさる朝比奈さんに、ハルヒは弟子《でし》に愛用の杖《つえ》を伝授しょうとしている老|魔法使《まほうつか》いのような表情で言い放った。
「サンタよ、サンタ。ばっちりでしょ? やっぱこの時期なんだから、季節限定の格好をしてないと示しがつかないからね。ほら、着替《きが》え手伝ってあげる」
まさしく、後退する朝比奈さんにゆっくりと詰《つ》め寄っていくハルヒが両手で広げているのは、サンタクロースの衣装に他《ほか》ならないのであった。
かくして俺と古泉は部室の外に放《ほう》り出され、内部で行われているハルヒによる朝比奈さん衣替《ころもが》えシーンをむなしく妄想《もうそう》するのみである。
「えっ」「きゃ」「わわっ」という、悲鳴にも似た小さな声が、いらない想像力を俺に与え、なんだか扉《とびら》の向こうを透視《とうし》できてるんじゃないかってくらいの幻覚《げんかく》を運んできた。いやあ俺もそろそろ本格的にヤバいのかもしれないな。
しばらく幻想夢物語に浸《ひた》っていると、
「朝比奈さんには気の毒ですがね」
ヒマをもてあましたか古泉が語りかけてきた。廊下《ろうか》の壁《かべ》にもたれて腕《うで》を組む無駄《むだ》な面《つら》と物腰《ものごし》のよさを誇《ほこ》るこの男は、
「涼宮さんが楽しそうにしている様子は、僕に安心感を与えてくれますよ。イライラしているところを見るのが一番心の痛む事柄《ことがら》ですから」
「あいつがイラつくと変な空間が発生するからか?」
古泉は前髪《まえがみ》を片手の薬指ですいっとかき上げ、
「ええ、それもあります。僕と僕の仲間たちが何より恐《おそ》れるのは閉鎖《へいさ》空間と〈神人〉の存在です。簡単そうに見えたかもしれませんが、あれでも苦労してるんですよ。ありがたいことに、この春以降、どんどん出現回数は減っていますが」
「てことは、まだたまには出てくるのか」
「まれにね。ここのところは深夜から明け方|頃《ごろ》に限られています。涼宮さんが眠《ねむ》っている時間ですよ。おそらく、イヤな夢を見ているその時に、無意識に閉鎖空間を作ってしまうのでしょう」
「寝《ね》てても起きてても、迷惑《めいわく》を生み出すヤツだな」
「とんでもない」
古泉にしては鋭《するど》い声が飛んできた。正直言うとちょっとだけ驚《おどろ》いた。古泉は笑いを極小に抑《おさ》えて、俺を強い目線で見据《みす》えた。
「あなたは知らないでしょう。高校入学以前の涼宮さんがどのようだったかをね。僕たちが観察を始めた三年前から北高に来るまで、彼女が毎日のように楽しげに笑う姿なんて想像もしませんでしたよ。すべてはあなたと出会ってから、もっと正確に言うと、あなたとともに閉鎖空間から帰ってきてから、です。涼宮さんの精神は、中学時代とは比較《ひかく》にならないレベルで安定しています」
俺は無言で古泉を見返した。視線を逸《そ》らすと負けのような気がして。
「涼宮さんは明らかに変化しつつあります。それも良い方向にね。我々はこの状態を保ちたいと考えていますが、あなたはそうではありませんか? 彼女にとって今やSOS団はなくてはならない集まりなのですよ。ここにはあなたがいて、朝比奈さんがいる。長門さんも必要ですし、はばかりながら僕もそうでしょう。僕たちはほとんど一心同体のようなものですよ」
それは、お前サイドの理屈《りくつ》だろう。
「そうです。でも、決して悪いことではないでしょう? あなたは数時間刻みで〈神人〉を暴れさせている涼宮さんを見たいのですか? 僕が言うのも何ですが、決していい趣味《しゅみ》とは言えませんね」
俺にそんな趣味はないし、これからも持つつもりはない。そればっかりは断言しておかなければならないな。
古泉はふっと表情を改めた。また元の曖昧《あいまい》スマイル状態に復帰する。
「それを聞いて安心ですよ。変化と言えば、涼宮さんだけでなく僕たちだって変化しています。あなたも僕も、朝比奈さんもね。たぶん長門さんも。涼宮さんのそばにいれば、誰だって多少なりとも考え方が変わりますよ」
俺はそっぽを向いた。図星をつかれたからではない。自分自身にはそんな実感はないから、図星なんかつかれようもないな。意外に感じたのは、長門がちょっとずつ変わりつつあるってことをこいつも気づいているってことだ。インチキ草野球に三年|越《ご》しの七夕、カマドウマ退治に孤島《ことう》の殺人劇やループする夏休み……。あれやこれやをわたわたとやっているうちに長門のちょっとした態度や仕草が、すべての始まりを告げた文芸部室での邂逅《かいこう》から微細《びさい》に変化しているのは確かだ。錯覚《さっかく》ではない。俺にだって手作り望遠鏡くらいの観察眼はあるんだ。思えば孤島でもあいつはちょっとおかしかった気がする。市民プールや盆踊《ぼんおど》り会場での様子もだ。映画|撮影《さつえい》での魔法使《まほうつか》いぶりもさることながら、コンピュータ研とのゲーム対戦ではさらなるおかしな振《ふ》る舞《ま》いを見せていた。……が。
それは良いことなんだろう。ハルヒはともかく、俺にはそっちのほうが重要に思えるね。
「世界の安定のためでしたら」と古泉が微笑《ほほえ》み混じりに言った。「クリスマスパーティの主催《しゅさい》くらいは安いものです。その上楽しいときたら、僕が言う文句はボキャブラリーのどこを探しても見あたりませんね」
反論のセリフが思いつかないことを何故《なぜ》か腹立たしく思っていると、
「もういいわよ!」
いきなり扉が開かれ、そして部室の扉は内開きになっていたものだから、そのドアに身を預けていた俺は当たり前の結果としてゴロンと無様に背中から転がった。
「ひえっ!?」
声の主は俺でもハルヒでもなく、朝比奈さんであり、ましてやその声は上から降ってきて、ちなみに仰向《あおむ》けに倒《たお》れた俺はイヤでも天井《てんじよう》を見上げる形にあったが天井は見えず、代わりに別のものが見えた。
「こら、キョン! 覗《のぞ》くなっ!」
そう叫《さけ》んだのはハルヒで、
「ふわ、あふっ」
うろたえた声を出して後ろに跳《は》ねたのは、朝比奈さんだろう。八百万《やおよろず》の神々に誓《ちか》う。足しか見えなかった。
「いつまで寝てんのよ! 起きなさいよっ!」
ハルヒに襟首《えりくび》をつかまれて俺はようやく立ち上がる。
「まったくこのエロキョン! みくるちゃんのパンツ覗こうとするなんて、あんたには二億五千六百年早いわ! さてはワザとね、ワザとなんでしょ」
合図を終えないうちにドアを開けたお前が悪い。これは事故だ。事故なんですよ朝比奈さん――と言おうとして、俺は目を奪《うば》われた。何にかと誰《だれ》か訊《き》くかい?
「わわ……」
頬《ほお》を朱色《しゅいろ》に染めて立っている朝比奈さんのお姿以外に何もないね。
白い縁取《ふちど》りをされた赤い服にぽんぽんのついた赤い帽子《ぼうし》……のみを身につけた朝比奈さんは、丈《たけ》の短い裾《すそ》を両手で握《にぎ》りしめ、恥《は》ずかしさのあまりか妙《みょう》に潤《うる》んだ目で俺を見つめていた。
どこから見ても完璧《かんペき》完全、一分の隙《すき》すら見つけることのできないサンタ姿である。耄碌《もうろく》の境地に達した老サンタがひそかに家督《かとく》を孫娘《まごむすめ》に譲《ゆず》っていた、その孫娘こそ今ここにいる朝比奈みくるの正体なのだ。
と、言われたら八対二の割合で信じてしまえることだろう。うちの妹なら絶対信じる。確実だ。
「非常によいですね」
感想を述べたのは古泉である。
「申しわけありませんが、常套句《じょうとうく》しか思いつきませんよ。ええ、とてもよくお似合いです。うん、そうですとも」
「でしょ?」
ハルヒは朝比奈さんの肩《かた》を抱《だ》き寄せ、目を白黒させているサンタ少女の顔に頬を寄せた。
「めっちゃくちゃ可愛《かわい》いわ! みくるちゃん、もっと自分に自信を持ちなさい。これからクリパまで、あなたはSOS団専用のサンタクロースよ。その資格があなたにはあるわ!」
「ふひー」
情けなさそうな吐息《といき》をつく朝比奈さんだったが、これだけはハルヒが正しい。誰も反対するものはいないだろうな、と考えて長門のほう見やると、小柄《こがら》なショートカットの無言娘は、当然無言のままに読書にふけり続けていた。
頭に三角|帽《ぼう》を載せっぱなしで。
その後、ハルヒは俺たちを整列させて、その前で何か言っていた。
「いい? この時期ね、街の中でサンタを見かけてもホイホイついていったりしちゃダメよ。奴《やつ》らは偽物《にせもの》なんだから。本物は地球上にピンポイントでしか現れないの。みくるちゃん、あなたは特に気をつけるのよ。知らないサンタから安易に物を貰《もら》ったり、言われたことにうなずいていたりしちゃダメ」
朝比奈さんをムリヤリ偽サンタにしておきながら言うセリフじゃないだろう。
よもや、こいつはこの歳《とし》にもなって妹同様に例の国際的ボランティア爺《じい》さんの存在を信じているんじゃないだろうな。織姫《おりひめ》彦星《ひこぼし》に向けて願望|充足《じゅうそく》メッセージを放つような奴だからあり得ないことでもないが、俺はまさかと思うに留《とど》めておいた。何と言ってもすでに聖朝比奈が部室におわしてくれているのだ。本物を超越《ちょうえつ》した贋作《がんさく》がここにある。それでいいじゃないか。これ以上何かを望んだりしたら北欧《ほくおう》三国のどこかからクレームが来るだろう。
俺が年一しか働かない怠《なま》け老人の闇《やみ》にまみれた資金源について考えていると、
「でさ、キョン。クリスマスパーティを盛大にやるのはいいとして、今年は思いつくのが遅《おそ》かったからキリストの誕生日だけだけど、来年は釈迦《しゃか》とマホメットの誕生会もしてやんないとね。でないと不公平だわ」
ついでにマニ教とゾロアスター教開祖の誕生日も祝ってくれ。信者でもない野郎《やろう》どもに祝われても雲の上にいるであろう彼らにすれば苦笑《くしょう》するだけだろうし、ハルヒは祝うためにそれをするのでなく騒《さわ》ぐ口実が欲しいだけなのでお互《たが》い様だが、バチを当てるのならハルヒだけにしてくれよな。俺は片棒の端《はし》っこをちょいとつまんでいるだけなのだからさ。
この場合どこの神様|宛《あて》にいいわけをすればいいのかと考える俺を尻目《しりめ》に、ハルヒは団長席に着いて、
「何がいい? 鍋《なべ》? すき焼き? カニはNGよ、あたしアレ苦手なの。殻《から》から身をほじくるのがイライラすんの。どうしてカニって殻も食べられるようになってないのかしらね。進化の過程でもうちょっと学ばなかったのかって言いたいわ」
そう思ったからこそ甲羅《こうら》を獲得《かくとく》したんだろうよ。連中はお前に喰《く》われるために海底で自然|淘汰《とうた》されてきたわけじゃねえ。
古泉が挙手の上、こう発言した。
「それでは店を予約しなければなりませんね。すでにシーズンに差し掛《か》かっておりますし、急がないとどこも一杯《いっぱい》になってしまいますよ」
こいつが紹介《しょうかい》するような店にはあまり行きたいと思わないな。また変な店主が出てきてディナーの最中《さなか》にキテレツな殺人喜劇が始まりかねない。
「あ、それは心配しなくていいわ」
俺と同じ感想を抱《いだ》いたのか、ハルヒは笑顔《えがお》で首を振《ふ》った。で、言ったのが、
「ここでやるから。必要な物は揃《そろ》ってるし、後は材料だけよ。そうね、炊飯《すいはん》ジャーも持ってきたほうがいいわ。それからお酒は厳禁よ。あたしはもう一生飲まないって心に誓《ちか》っているからね」
もっと別のことを誓って欲しかったが、それよりすんなり聞き逃《のが》せないことが先にあった。
「ここでやる?」と俺は部室を見回した。
確かに土鍋やカセットコンロは常備されている。冷蔵庫まで鎮座《ちんざ》しているのだ。どれもハルヒがSOS団|黎明《れいめい》期にどこかから運び込んで来たものだが、まさかこの時のために用意していたんじゃないだろうな。とりあえずコンロは朝比奈さんが本格的なお茶を入れるときの役には立っていたが、本来学校内それも古ぼけた部室|棟《とう》でそんな料理していいものなのだろうか。考えるまでもなくよくはない。棟内火気厳禁だ。
「いいわよ」
ハルヒはちっとも動じず、調理師|免許《めんきょ》もないのになぜか腕《うで》だけは確かな小学生料理人のような笑みで、
「こういうのはコソっと隠《かく》れてやるのが楽しいの。もし生徒会や先生達が乗り込んできたら、あたしの素晴《すば》らしい鍋料理を振る舞《ま》ってあげるわけ。そしたらそいつらもあまりのおいしさに感涙《かんるい》にむせび泣きながら特例を認めるに違《ちが》いないって寸法よ。寸分の間違いもないわ。完璧《かんペき》よ」
面倒《めんどう》くさがりのクセに、やるとなれば何であれ人並み以上にこなすハルヒのことだから、料理の腕前も口ほど並みにはあるのだろう。しかし鍋料理? いつのまに決まったんだ。話の流れではカニではないみたいだが、希望を募《つの》るフリだけして自己完結するとは――まあいつものことか。気にするまい…………。
と、いうようなことが昨日あったわけである。谷口にところどころ端折《はしょ》って話しているうちに高校に到着《とうちゃく》した。
「クリスマスパーティねえ」
校門を過ぎながら谷口は半分笑った顔をする。
「涼宮のやりそうなことだな。部室で鍋大会か。ま、マジで教師どもには見つからないようにしろよ。また面倒なことになるぜ」
「なんならお前も来るか?」
話した手前もあるので誘《さそ》ってやることにした。ハルヒも谷口なら気にしないだろう。こいつと国木田《くにきだ》、鶴屋《つるや》さんの三人は、困ったときの人数あわせトリオになっている。
しかし谷口は首を振った。
「いやあ悪いなあ、キョン。俺はその日、しょぼい鍋なんぞを喰い散らかすヒマはねえんだ。うけけ」
なんだその気味の悪い笑みは。
「あのなあ、クリスマスイブに変な仲間内で集まって鍋をつつきあうなんて、モテない連中のするこった。残念だが、俺はもうそっち側の男じゃなくなっちまった」
まさかとは思うが。
「そのまさかってヤツだと思ってくれ。俺のスケジュール帳の二十四日には赤いハートマークが刻まれているぜ。いや悪い。マジで悪い。ほんと、すまねえーなあー」
なんてこった。俺がハルヒやSOS団の面々と妙《みょう》ちきりんな遊びをやっている間に、谷口のアホ野郎に彼女ができていようとは。
「相手は誰《だれ》だ?」
できるだけひがみに聞こえないように気を付けつつ尋《たず》ねると、
「光陽園《こうようえん》女子の一年さ。無難なとこだろ?」
光陽園学院。山の下にある駅前の女子校か。ちょうど俺たちがえっちらおっちら山登りを始めるスタート地点に建ってるから、黒ブレザー制服の女子どもが大名行列のように歩いているところを毎朝見かける。割とハイソなお嬢《じょう》さん連中が通っているので有名だが、それより殺人的坂道を歩かなくてもいいのは羨《うらや》ましい話だ。いや別に谷口が羨ましいわけではない。
「いいじゃねえかよ。お前には涼宮がいるんだろ? 鍋《なべ》か……。あいつの手料理? 鍋に手料理もへったくれもないような気もするが、腹は膨《ふく》れるだろ。うらやましいなあ、キョン」
こいつめ、クリスマスイブの話を振ってきたと思ったら、自慢《じまん》したかっただけか。
「さあ、どこをどう巡《めぐ》るか、そろそろ段取りを決めねえとなあ。悩《なや》むぜ」
俺は憮然《ぶぜん》。さらに無言。
この日の放課後にはたいした出来事もなかった。部室ではハルヒが新たに持ってきた飾《かざ》りを部屋中に取り付けるという作業に俺と古泉が追われ、ハルヒは指を差して指示するだけ、朝比奈さんはサンタ姿でお茶くみ兼《けん》マスコット状態、今日も三角|帽《ぼう》を装着させられた長門は黙々《もくもく》とハードカバーを読んでいる。
それで一日が終わった。鍋の内容はまだ決まっていない。そのうち俺を荷物持ちにして買い物に出かけることだけは決まっているらしい。いったい何鍋になるんだろうな。闇鍋《やみなべ》は陰謀《いんぼう》の香《かお》りがするのでやめておいて欲しいのだが……。
さて、プロローグにしては長すぎるな。しかし、以上のことは本当に単なるプロローグに過ぎなかった。本題はここから、翌日から始まる。ひょっとしたら今日の晩には始まっていたのかもしれないが、そこんとこはどうでもいい。
この次の日、山風に凍《こお》り付くような十二月十八日。俺を恐怖《きょうふ》という名の奈落《ならく》に突《つ》き落とすようなことが起きた。
あらかじめ言っておく。
それは、俺にはちっとも笑えないことだった。
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第一章
朝、俺はいつものように妹の必殺|布団《ふとん》はぎによって、傍《かたわ》らで毛布にくるまっていた三毛猫《みけねこ》とともに目覚めさせられた。母親の命令を忠実に実行する朝一番の刺客《しかく》、それが妹である。
「朝ご飯はちゃんと食べろって、お母さんが」
にこにこと言いながら、妹はベッドにわだかまる猫《ねこ》を抱《だ》き上げて耳の後ろに鼻先をつけた。
「シャミも、ご飯できてるよ」
文化祭以降、我が家の飼い猫になったシャミセンは、ぼんやりした顔であくびをして、ぺろりと前足をなめた。この元おしゃべり猫だったオス三毛猫は、すっかり言葉を失って単なる愛《あい》玩《がん》動物の地位を我が家に築いていた。今思えばこいつが人間語を話したというのは聞き間違《まちが》いだったのかと思うくらい、一|匹《ぴき》のどこにでもいる猫と化している。人語とともに猫語も忘れたのか、ほとんどと言っていいほど鳴かないのはやかましくなくていいのだが、どういうわけか俺の部屋を寝床《ねどこ》にしているので、シャミセンにかまいたがる妹が足繁《あししげ》くやってくるようになったことには閉口する。
「シャミー、シャミー。ごっはんだよー」
調子ハズレな節をつけて歌いながら、妹は猫を重そうに抱いたまま部屋を出て行く。俺は朝の冷気に肌《はだ》を粟立《あわだ》てつつ時計の時刻をにらみつけていたが、暖かいベッドへの未練をすべて放棄《ほうき》し腰《こし》を上げた。
そして着替《きが》えと洗面を終えるとダイニングに下り、五分で朝食を済ませて妹より二足ほど先に玄関《げんかん》を出た。今日も順調に寒い。
ここまでは普段《ふだん》通りだった。
例によって坂道を上っている俺の目に、見覚えのある後頭部が映った。十メートルほど先行しているその姿は、谷口のもので間違いない。いつもは快調に登山道を跳《は》ね跳《と》んでいるくせに今日はやけにゆっくり歩いている。たちまち追いついた。
「よう、谷口」
たまにはこっちから肩《かた》を叩《たた》いてやるのもいいだろう、と思ってそうしてやったのだが、
「……む、キョンか」
声がやけにくぐもっているのも当然で、谷口は白いマスクを装着していた。
「どうした? 風邪《かぜ》か?」
「ああ……?」谷口はダルそうに、「見ての通り風邪状態だ。本当は休みたかったんだが、親父《おやじ》がうるさくてな」
昨日まで元気いっぱいだったのに、突然《とつぜん》の風邪があったもんだ。
「何言ってやがる。昨日も調子はよくなかったぞ。ゲホゲホン」
咳《せ》き込む谷口の弱りかけの様子には見慣れないだけにこっちのリズムも狂《くる》うな。しかし、昨日も風邪気味だって? 俺には普段通りのお調子者に見えたが。
「ん……そうだったか? 調子がよかったつもりはないんだが」
首を捻《ひね》る谷口に、俺は意地悪く笑いかけて言った。
「イブの予定を嬉《うれ》しそうに語ってただろ。まあ、デートまでには治せよ。そんなチャンスは滅多《めった》に到来《とうらい》しないだろうからな」
しかし谷口はますます首を捻り、
「デートだあ? なんのことだ。ゲホ。イブに予定なんかねえぞ」
なんのことだはこっちのセリフだ。光陽園女子の彼女はどうしたんだ。ひょっとして昨日の晩にでもフラれたか。
「おい、キョン。マジでおめーは何言ってんだ? そんなもん俺は知らねえ」
谷口はむっすり口をつぐんで、また前を向いた。どうやら風邪の症状《しょうじょう》が節々《ふしぶし》に効いているらしく、弱っているのは演技ではなさそうだ。それにこの分ではデートがご破算になったのも当たりだったようで、そりゃへばりもするよ。威勢《いせい》のいいことを言っていた手前、俺と顔を合わせるのも心苦しかろう。そうかそうか。
「気を落とすな」
俺は谷口の背中を押してやり、
「やっぱ鍋《なべ》大会に参加するか? 今ならまだ間に合うぞ」
「鍋ってなんだ? どこでする大会だよ、それ。聞いた覚えはねえな……」
ああ、そうかい。しばらくは何を言っても耳を素通《すどお》りするくらいショックだったのか。ならば俺は手を引こう。すべては時間という偉大《いだい》なる悠久《ゆうきゅう》の流れが解決してくれるさ。何も言わないことにしてやるよ。
のろのろ歩きの谷口に付き合って、俺もゆっくりと坂を上り続けた。
この時点で気づくのは、さすがにまだ無理だった。
驚《おどろ》いたことに、いつのまにか一年五組には風邪が蔓延《まんえん》しているようだった。予鈴《よれい》ぎりぎりに教室に入ったってえのに空席がいくつもあるし、クラスメイトの二割程度に白マスクが流行している。全員の潜伏《せんぷく》期間と発症時期が同期を取ったとしか思えない。
もっと驚いたのは、俺の真後ろの席が一時間目が始まっても空席のまま取り残されていることだった。
「なんと、まぁ」
ハルヒまで病欠してんのか。今年の風邪はそんなにタチが悪いのか? あいつの体内に侵入《しんにゅう》する勇気ある病原体がいようとは、ましてやハルヒが細菌《さいきん》だのウイルスだのに敗北を喫《きっ》するとは、にわかには考えがたい出来事だ。何か新しい悪巧《わるだく》みを思いついて、そのための下準備をしているといったほうがまだ納得《なっとく》できる。鍋以外にもまだ何かあるのだろうか。
どうにも教室内の空気が寒々しいのはエアコンがないせいでもなさそうだ。突然にして欠席者が増えるとはな。なんだか五組の総人口までもが目減りしているような気さえする。
ハルヒの気配が背後から迫《せま》ってこないってのもあるが、なんとなく空気が違《ちが》っている感じがした。
そうして漫然《まんぜん》と授業をこなし、順当に昼休みになる。
俺が冷え切った弁当箱を鞄《かばん》から取り出していると、国木田が昼飯片手にやって来て俺の後ろの席に着いた。
「休みみたいだから、ここに座ってもいいよね」
タッパウェアを包むナプキンをほどきつつ言う。高校で同じクラスになって以来、こいつと昼飯を喰《く》うのが半ば習慣化されている。もう一人の昼飯仲間、谷口はと探してみると、今日は学食なのか教室にはいなかった。
俺は椅子《いす》を横向きにして、
「なんか風邪がいきなり流行《はや》りだしているな。うつされなけりゃいいんだが」
「んん?」
几帳面《きちょうめん》に広げたナプキンの上にタッパを置き、中身を吟味《ぎんみ》していた国木田は、怪訝《けげん》な表情をして俺を見返した。箸《はし》をカニばさみのように動かしながら、
「風邪なら一週間前から流行の兆《きざ》しを見せていたよ。インフルエンザじゃないみたいだけど、かえってそっちのほうがよかったかもね。今は特効薬があるから」
「一週間前?」
弁当のホウレン草入り卵焼きをバラす手を止め、俺は聞き返す。
先週の今頃《いまごろ》に誰《だれ》かが風邪菌を撒《ま》き散らしていたような行為《こうい》はなかったように思う。欠席者はいなかったはずだし、授業中に咳《せき》をしている奴《やつ》だって記憶《きおく》にない。一年五組の誰もが健康体に見えたのに、俺の視界の及《およ》ばぬ範囲《はんい》でひそかに病魔《びょうま》は進行していたと言うのか。
「あれ? けっこう休んでいる人もいたけどなあ。キョンは気づかなかったのかい?」
まったく気づかなかった。本当の話か、それは?
「うん、本当。今週に入っていよいよヒドくなったね。学級|閉鎖《へいさ》は避《さ》けたいよね。冬休みが削《けず》られそうな気がするし」
ふりかけご飯を口に運ぶ国木田は、
「谷口もここんとこしんどそうにしてるなあ。親父さんの方針が病は気力で治せってもんだから、四十度を越《こ》さないと学校休めないみたいだよ。悪化する前に何とかしたほうがいいと僕は思うね」
俺は箸を止めた。
「国木田。すまんが、俺には谷口がしんどそうにしているのは今日からだと思うんだが」
「え、そんなことないよ。今週の初めにはもうあんな調子だったじゃん。昨日の体育も見学してたしさ」
だんだん混乱してきた。
待て、国木田。何を言ってるんだお前は。俺が覚えている限り、昨日の体育の授業では谷口はアッパー系のドラッグをやってんじゃねえかってくらい溌剌《はつらつ》とサッカーの紅白戦に出てたぞ。敵チームにいた俺が何度も奴の足元にスライディングタックルを決めてやったから間違いのないことだ。彼女のできた谷口をひがんでのことではないが、今日のことを知っていれば遠慮《えんりょ》はしていただろうな。
「そうだっけ。あれえ? おかしいな」
国木田はキンピラゴボウの人参《にんじん》を取り分けながら、首を傾《かたむ》けた。
「僕の見間違いかなぁ」
のんきな口調である。
「うーん、でも後で谷口に訊《き》いたら解《わか》ることだよね」
今日はいったいどうしたことだ。谷口も国木田も、なんだか靄《もや》に包まれたようなことを言ってる上、ハルヒなんか欠席している。ハルヒを除く全人類が困るようなことがまた発生しようとしている前兆ではないだろうな。あるわけのない俺の第六感が警戒《けいかい》警報をピリピリ発令し始め、首筋の裏側あたりに妙《みょう》な冷気が走った。
その通り。
俺の勘《かん》も捨てたものではない。それはまさしく前兆だった。勘で解らなかったのは、困るのは誰かってところだ。ハルヒを除く全人類……ではなく、この事態が発生しているのに気づいて困ったのは意外にもたった一人だけだった。そいつ以外の全人類は別に困りはしない。なぜなら事態の発生自体に気づくはずもないからだ。認識《にんしき》の外にあるものを認識することは決してできないのである。彼らにしてみれば世界は何も変わっていなかった。
では誰が困ることになったのか。
言うまでもない。
俺だ。
俺だけが困惑《こんわく》の中で立ちつくし、呆然《ぼうぜん》としたまま世界に取り残されることになったのだ。
そう、やっと俺は気づいた。
十二月十八日の昼休み。
形を伴《ともな》った悪い前兆が、教室のドアを開いた。
わあ、という歓声《かんせい》が教室前部のドア付近にいた数人の女子から上がった。入ってきたクラスメイトの姿を確認しての声らしい。わらわらと群がるセーラー服姿の隙間《すきま》から、重役出勤してきたそいつ[#「そいつ」に傍点]の姿がちらりと覗《のぞ》く。
通学|鞄《かばん》を片手にぶら下げたそいつ[#「そいつ」に傍点]は駆《か》け寄ってきた友人たちに笑顔《えがお》を向けて、
「うん、もう大丈夫《だいじょうぶ》よ。午前中に病院で点滴《てんてき》打ってもらったらすぐによくなったわ。家にいてもヒマだから、午後の授業だけでも受けようと思って」
風邪《かぜ》よくなった? という一人の質問に答え、柔《やわ》らかく微笑《ほほえ》んだ。それから短い談笑を終えると、セミロングの髪《かみ》を揺《ゆ》らしながら、ゆっくりと……こちらに――歩いて――来た。
「あ、どかないと」
国木田が箸《はし》をくわえて腰《こし》を浮《う》かせる。俺はと言うと、声帯の発声機能を丸ごと全部|没収《ぼっしゅう》されたように、むしろ酸素を呼吸することすら忘れて、そいつ[#「そいつ」に傍点]の姿を凝視《ぎょうし》していた。無限の時間のようにも感じたが、実際はそう何歩も歩いていなかっただろう。足を止めたとき、そいつ[#「そいつ」に傍点]は俺のすぐ横に立っていた。
「どうしたの?」
俺を見ながら不思議そうな口調で常套句《じょうとうく》を吐《は》いた。
「幽霊《ゆうれい》でも見たような顔をしているわよ? それとも、わたしの顔に何かついてる?」
そしてタッパを片づけようとしている国木田に、
「あ、鞄を掛《か》けさせてもらうだけでいいの。そのまま食事を続けてて。わたしは昼ご飯食べて来たから。昼休みの間なら、席を貸しておいてあげる」
言葉の通り、その女子生徒は鞄を机横のフックに掛けると、友人たちが待ちわびる輪の中へ身体《からだ》を翻《ひるがえ》した。
「待て」
俺の声はさぞヒビ割れていたことだろう。
「どうしてお前がここにいる」
そいつ[#「そいつ」に傍点]は、ふっと振《ふ》り返り、涼《すず》しげな視線を俺に突《つ》き刺《さ》した。
「どういうこと? わたしがいたらおかしいかしら。それとも、わたしの風邪がもっと長引けばよかったのに、つていう意味? それ、どういうことなの?」
「そうじゃない。風邪なんかどうでもいい。それではなくて……」
「キョン」
心配げに国木田が俺の肩《かた》をつついている。
「本当に変だよ。さっきからキョンの言ってることはおかしいよ、やっぱり」
「国木田、お前はこいつを見て何とも思わないのか?」
我慢《がまん》できずに俺は立ち上がり、不可解なものを見る目で俺を見ているそいつ[#「そいつ」に傍点]の顔を指さした。
「こいつが誰《だれ》だが、お前も知ってるだろう? ここにいるはずのない奴《やつ》じゃねえか!」
「……キョンさあ、ちょっと休んでただけでクラスメイトの顔を忘れちゃったりしたら失礼だよ。いるはずのない、ってどういうこと? ずっと同じクラスにいたじゃん」
忘れやしないさ。かつての殺人|未遂犯《みすいはん》を、仮にも俺を殺そうとした奴の顔なんてものを忘却《ぽうきゃく》するには半年とちょっとは短すぎる。
「解ったわ」
そいつ[#「そいつ」に傍点]はとびっきりの冗談《じょうだん》を思いついたような笑みを広げた。
「お弁当食べながらうたた寝《ね》してたんでしょう。悪い夢でも見てたんじゃない? きっとそうよ。そろそろ目が覚めてきた?」
綺麗《きれい》な顔をほころばせ、「ねえ?」と国木田に同意を求めているそいつ[#「そいつ」に傍点]は、俺の脳裏《のうり》に焼き付いて未《いま》だ離《はな》れない女の姿をしていた。
様々な映像がフラッシュバックする。夕焼けに染まった教室――床《ゆか》に長く伸《の》びる影《かげ》――窓のない壁《かべ》――歪《ゆが》んだ空間――振りかざされるナイフ――うっすらとした笑み――さらさら崩《くず》れ落ちる砂のような結晶《けっしょう》……。
長門との戦いに敗れて消滅《しょうめつ》し、表向きはカナダに転校したことになった、かつての委員長。
朝倉涼子《あさくらりょうこ》が、ここにいた。
「顔を洗ってきたらすっきりするわよ。ハンカチ持ってる? 貸してあげようか」
スカートのポケットに手を入れた朝倉を俺は手で制した。出てくる物がハンカチだけとは限らない。
「いらん。それよりどういうことか教えろ。何もかもをだ。特にどうしてお前がハルヒの席に鞄を置くのか言ってくれ。それはお前の机じゃない。ハルヒのだ」
「ハルヒ?」
朝倉は眉《まゆ》を寄せ、国木田に問いかけた。
「ハルヒって誰のことなの? そんな愛称《あいしょう》の人がいたかしらね」
そして国木田もまた、絶望的な回答をよこした。
「聞いたことないなあ。ハルヒさんねえ。どんな字を書くんだい?」
「ハルヒはハルヒだ」
と俺は目眩《めまい》を感じながら呟《つぶや》いた。
「お前たち、涼宮ハルヒを忘れたのか? どうやったらあんなやつを忘れることができるんだ……」
「涼宮ハルヒ……うーんとね、キョン」
国木田はいたわるような声で、ゆっくりと俺に、
「そんな人はこのクラスにはいないよ。それにこの席はこの前の席替《せきが》えのときから朝倉さんの席なんだよ。どっか他《ほか》のクラスと勘違《かんちが》いしてるんじゃないの? でもなあ、涼宮っていう名前には全然聞き覚えがないなあ。一年にはいないと思うけど……」
「わたしの記憶《きおく》にもないわね」
朝倉も俺に病気|療養《りょうよう》を勧《すす》めたがっているようだ。優《やさ》しい猫《ねこ》なで声で、
「国木田くん、ちょっと机の中を見てくれる? 端《はじ》っこのほうにクラス名簿《めいぼ》があるわ」
国木田が取り出した小冊子を俺はひったくった。一番に開くのは一年五組のページ。女子の名前が並ぶ列に指を這《は》わせる。
佐伯《さえき》、阪中《さかなか》、鈴木《すずき》、瀬能《せのう》……。
鈴木と瀬能の間にどんな名前もない。涼宮ハルヒの名前がクラス名簿から消えている。誰を捜《さが》してるんだ、そんな奴はハナっからいねーぜとページが語りかけているようで、俺は名簿を閉じて目も閉じた。
「……国木田、頼《たの》みがある」
「何だい?」
「頬《ほお》をつねってくれ。日を覚ましたい」
「いいの?」
思い切りやられた。痛かった。そして目は覚めない。目蓋《まぶた》を開けたとき、朝倉はまだそこにいて唇《くちびる》で半円を作っていた。
何かが起こっている。
気がつけば俺たちはクラス中の注目の的になっていた。まるでジステンパーに罹患《りかん》した年老いたノラ犬を見るような視線が俺に集中している。くそ、なぜだ。俺は何一つ間違ったことを言ってないぞ。
「ちくしょう」
俺は近くにいた数人に、二つの質問を浴びせて回った。
涼宮ハルヒはどこだ。
朝倉涼子は転校したはずだ。
得られた答えはまったく芳《かんば》しくなかった。全員|図《はか》ったように、
「知らない」
「してない」
と答えて、俺の目眩は吐《は》き気を伴《ともな》うまでになる。強烈《きょうれつ》な現実|喪失《そうしつ》感覚の襲撃《しゅうげき》を受け、近くの机に手をついて身体《からだ》を支えなければならなかった。精神のどこかが打ち砕《くだ》かれたような気がした。
朝倉が俺の腕《うで》に手をかけて、心配そうにのぞき込む。その髪《かみ》から漂《ただよ》う芳《かぐわ》しい香《かお》りが、俺には麻薬《まやく》のように感じられる。
「保健室に行ったほうがいいみたい。具合のよくないときって、そういうこともあるわ。きっとそうよ。風邪《かぜ》の引きはじめなんじゃないかしら」
違う!
大声で喚《わめ》きたい。おかしいのは俺じゃない。この状況《じょうきょう》だ。
「放してくれ」
朝倉の手を払《はら》って、俺は教室の出口へと向かった。肌《はだ》で漠然《ばくぜん》と感じていた違和《いわ》感が、頭の中に浸透《しんとう》していく。突如《とつじょ》として蔓延《まんえん》した風邪、谷口とのかみ合わない会話、名簿から消えたハルヒの名前、朝倉の登場……だと? ハルヒがいなくなる? 誰《だれ》も覚えていない? そんなわけあるか。この世界はあいつを中心に回ってるんじゃなかったのか。宇宙規模の要注意人物、それがあいつじゃなかったのか。
もつれがちの足を叱咤激励《しったげきれい》し、俺は這うように廊下《ろうか》へ進み出た。
まっさきに思い出したのは長門の顔だ。あいつなら事情を説明してくれる。寡黙《かもく》な万能《ばんのう》の宇宙人アンドロイドである、あの長門有希ならば。いつでもあいつはすべてを解決してくれた。長門のおかげで俺は生きていると言っても過言ではない。
長門なら。
この俺を窮地《きゅうち》から救い出してくれるだろう。
長門のクラスは近い。走るまでもなく数秒で到着《とうちゃく》した。何も考えることができないまま、俺はドアを開けて小柄《こがら》なショートカットの姿を探す。
いない。
だが絶望にはまだ早い。昼休みのあいつはたいてい部室で本を読んでいる。教室にいないからと言って、長門までが消え去ったと考えるのは早計だ。
次に思い浮《う》かんだのが古泉だった。旧館にある文芸部室はここからでは遠い。朝比奈さんの二年教室も向かいの校舎だ。一階下の一年九組に行くのが早い。古泉|一樹《いつき》、ちゃんとそこにいろよ。これほど古泉のニヤケ面《づら》を見たかったことはない。
廊下を小走りで駆《か》け抜《ぬ》け、階段を三段抜かしで飛び降り、校舎の隅《すみ》にある一年九組を目指しながら、俺はそこに超能力野郎《ちょうのうりょくやろう》がいることを祈《いの》った。
七組の前を通り過ぎ、八組も通過した先、そこに一年九組が……。
「……なんなんだ、これは」
やっとの思いで立ち止まり、もう一度|壁《かべ》に掛《か》かっているプレートを見直す。一年八組の左《ひだり》隣《どなり》が七組。そして八組の右隣《みぎどなり》には――。
非常階段に続く踊《おど》り場《ば》だけがあった。
ない。影《かげ》も形も。
「いくらなんでも、これはないだろう……」
古泉はおろか。
九組自体がなくなっていた。
参るしかない。
昨日まであったはずの教室がないなんて誰が想像する? 人間一人が行方《ゆくえ》不明になったわけじゃないんだぞ。クラスの全員が消え去り建物自体が縮んでいる。突貫《とっかん》工事でも一夜では無理だ。九組の連中はどこに消えた?
あまりの茫然《ぼうぜん》により、俺は時間の感覚を失っていた。どれだけそこに立ちつくしていたか、背を小突《こづ》かれてようやく意識を取り戻《もど》したものの、俺は教科書を抱《かか》えたマシュマロマンみたいな生物教師の声を上の空で聞いた。
「何してるんですか。授業はもう始まっています。教室に戻りなさい」
休み時間|終了《しゅうりょう》を告げるチャイムすら聞こえていなかったらしい。廊下には他に誰もおらず、七組の教室からは教師の張り上げる声だけがわずかに響《ひび》いていた。
よろよろと俺は移動を開始する。前兆を見定める時間は終わった。もう起こってしまったのだ。いるはずのないやつがいて、いなければいけないやつがいない。朝倉一人にハルヒと古泉および九組の生徒たちでは、交換《こうかん》するにもまるで尺があわない。
「なんてこった」
俺が狂《くる》ったのではないんだとしたら、ついに世界が狂ったのだ。
誰がそれをした?
ハルヒ、お前か?
おかげで午後からの授業をまったく何一つ聞けやしない。どんな声も物音も俺の耳を素通《すどお》りし、脳|細胞《さいぼう》に何の情報を植え付けることはなく、気がつけばホームルームさえ終わって、とうに放課後になっていた。
俺は恐《おそ》れていた。後ろの席でシャーペンを走らせている朝倉よりも、ハルヒと古泉が学校にいないってことにだ。誰かに改めて確認《かくにん》することすら、もうたまらなくイヤである。「そんな奴《やつ》、知らん」と言われるたびに、俺はずぶずぶと底の見えない沼沢地《しょうたくち》に沈《しず》んでいくだろう。椅《い》子《す》から立ち上がる気力もなかなかチャージされない。
谷口はあっさりと、多少は俺のことを気にしていた国木田も帰り道につき、朝倉は女子数人で笑いさざめきながら教室を後にした。出がけに振《ふ》り返り俺によこした目には、元気のないクラスメイトを本気で気遣《きづか》う光があって、ますますくらくらする。おかしい。何もかもが。
掃除《そうじ》当番の連中に引きずられるようにして、俺はようやく鞄《かばん》片手に廊下《ろうか》に足を踏《ふ》み出した。
どのみち放課後の俺の居場所はここではない。
そして悄然《しょうぜん》と階段を下り、一階にたどり着いた俺は、そこで一筋の光明を見いだして走り出した。
「朝比奈さん!」
こんな嬉《うれ》しいことが他にあるか。俺の女神|兼《けん》眼精|疲労《ひろう》回復薬が対面から歩いてくる。なお喜ばしいのは、その童顔グラマラス美少女の隣に鶴屋さんの姿まであることだ。あまりの喜びに気が遠くなりかけた。
――もうちょっと慎重《しんちょう》になっておくべきだったと思う。
我ながら異常な速度で二人の上級生に駆け寄って、俺は目を見開く朝比奈さんの両肩《りょうかた》をがっしとばかりに鷲《わし》づかみにした。
「ひえっ!」
驚愕《きょうがく》する顔は見えていたが、俺の口は勝手に喋《しゃべ》った。
「ハルヒがいないんですよっ! 古泉なんか漂流《ひょうりゅう》教室になってます! 長門はまだ確認してませんが、朝倉がいて、どうも学校の様子自体が変なんです。あなたは俺の朝比奈さんですよね!?」
ぽと、ごん。朝比奈さんが持っていた鞄と習字セットが床《ゆか》に落ちる音だ。
「えっ? あっ、ひっ。えっ。ちょ、その……」
「だから、あなたは未来から来た朝比奈さんですよね!?」
対して朝比奈さんは、
「……未来って? 何のことでしょう。それより放してくだ……さい」
胃の奥がキュウとなる。朝比奈さんが俺を見る目は飼い慣らされたインパラが野生のジャガーを見る目そのものだった。明らかな恐怖《きょうふ》の色である。それこそ俺が最も恐れていた色だ。
愕然《がくぜん》としていると、片手がぐいとひねり上げられた。関節がイヤな音を立てる。痛え。
「ちょいとっ少年!」
鶴屋さんが俺の手に古流武術系の技《わざ》を施《ほどこ》していた。
「いきなりはダメだよっ。ごらん、うちのみくるがすっかり怯《おぴ》えてるよっ」
声は笑っていたが目が菊《きく》一文字なみに真剣《しんけん》そのものだった。見ると確かに朝比奈さんは、うるうるした瞳《ひとみ》で腰《こし》を引かせている。
「みくるファン倶楽部《くらぶ》の一年かい? 物事には手順てやつがあるんだよっ。先走りはよくないなあっ」
今日何度目かの精神的寒気が背骨を滑《すべ》り下りた。俺は片手を腕《うで》がらみに取られた体勢のまま、
「あの、鶴屋さん……?」
鶴屋さんは俺を見据《みす》える。まるで知らない他人を見るように。
あなたもなのか、鶴屋さん。
「あれ。あたしを知ってるの? ところで僕ちんはどなたかなあ。みくるの知り合いかいっ?」
見たくないものを見てしまった。鶴屋さんの陰《かげ》で縮こまっていた朝比奈さんは、俺をまじまじと見つめてプルプル首を振ったのだ。
「しし、知らないです。あ、のう。人違《ひとちが》いじゃあ……」
そろそろ一年も終わりだが今期絶望宣告をくらった感じがして目の前が暗くなる。誰に何を言われようと俺はこたえないだろうが、朝比奈さんにそう言われるのは、幼少のころ憧《あこが》れていた年上の従姉妹《いとこ》が男と駆《か》け落ちして以来のショックだった。
朝比奈さんに朝比奈さんと呼びかけて人違いもくそもない。この朝比奈さんがどっか別にいる朝比奈さんであるのなら話は別だが……あ、そうだ。彼女が本当に俺の知っている朝比奈さんかどうか、判別する方法があるじゃないか。
「朝比奈さん」
自由なほうの手で自分の胸元《むなもと》を指差した。動転していたとしか思えない。俺は次のように口走っていた。
「あなたの胸のここらへんに星形のホクロがあるはずです。ありますよね? できたらそれ見せてもらえれば――」
思いっきり殴《なぐ》られた。
朝比奈さんに。グーで。
俺の放ったセリフにキョトンとした朝比奈さんは、みるみるうちに赤くなり、次に涙《なみだ》を目に溜《た》めて、それから緩《ゆる》やかで不器用なモーションでもって右ストレートを俺の顔面に炸裂《さくれつ》させ、
「……っう」
嗚咽《おえつ》のような声を漏《も》らして駆け去った。
「あっ、みくるっ。しょうがないなあ。ねえ少年、あんまりオイタしちゃダメにょろよ。みくるは気が小さいからね! 今度何かしたら、あたしが怒髪《どはつ》で突《つ》いちゃうからねっ」
最後に俺の手首をイヤと言うほどキツく握《にぎ》り、床に落ちた鞄と習字セットを抱《かか》えると鶴屋さんは朝比奈さんの後を追って走り出した。
「待ちなーっ、みくるーっ」
「…………」
茫然《ぼうぜん》と見送る俺の頭の中では木枯《こが》らしが吹《ふ》いていた。
終わりだな、もう。
明日まで命が保《も》つだろうか。朝比奈さんを泣かせちまったということが学校内に知れ渡《わた》れば、勢い込んで襲《おそ》ってくる奴《やつ》は枚挙にいとまがないと思われる。立場が逆なら俺だってそうするさ。辞世の句の用意をしていたほうがいいかもしれない。
いよいよ打つ手がなくなってきた。ハルヒの携帯《けいたい》に電話してみても戻《もど》ってくるのはオペレーターの『現在使われておりません』だけ、自宅の番号は記録も記憶《きおく》もしていないし名簿《めいぼ》からはハルヒの名前ごと抹消《まっしょう》されている。家まで出向くことも考えたが、よくよく思い出せば俺はあいつの家に行ったことがない。ハルヒが俺んちまで来たことはあるのに不公平だとか思ってももう遅《おそ》い。
消え失《う》せた九組はともかく、古泉とハルヒがどこかにいやしないかと職員室にも行って訊《き》いてみた。無惨《むざん》なものだ。涼宮ハルヒという生徒はどのクラスにも在籍《ざいせき》していない。古泉一樹なる転校生はこの学校に来ておらず存在もしたことがないときやがった。
処置なしだ。
手がかりはどこにある。これはハルヒによる人|捜《さが》しゲームか? 消えた自分の所まで辿《たど》り着けという、そんな遊びなのだろうか。だが何のために。
俺は歩きながら考え込んだ。朝比奈さんの一撃《いちげき》の効果か、少しは頭が冷えてきた。カッカしていてもいいことはない。こういう時こそ冷静に、冷静に。
「頼《たの》むぜ」
呟《つぶや》きを吐《は》いて俺が向かう先はただ一つ。最後の砦《とりで》であり最終絶対防衛ライン。ここが陥落《かんらく》したら一巻の終わり、打ち切り終了《しゅうりょう》だ。
部室|棟《とう》、通称《つうしょう》旧館にある文芸部部室。
そこに長門がいなければ、俺に何ができるというのだろう。
故意にゆっくりと歩き、時間をかけて部室へと移動する。数分後、古ぼけた木製|扉《とびら》の前に立った俺は胸に手を当てて心拍数《しんぱくすう》を確認《かくにん》する。平常運転にはほど遠いが昼休みよりはマシになっている。異常の連鎖《れんさ》に遭《あ》いすぎて、だんだん感覚が麻痺《まひ》してきたのかもしれない。こうなったらもうヤケである。最悪の結果を予想しつつ闇雲《やみくも》に前進するしかない。
俺はノックを省略し、勢いよく扉を開いた。
「…………!」
そして見た。
パイプ椅子《いす》に座り、長テーブルの片隅《かたすみ》で本を広げている小柄《こがら》な人影《ひとかげ》を。
驚いた表情で口を開け[#「驚いた表情で口を開け」に傍点]、眼鏡のレンズ越しに俺を凝視する長門有希を[#「眼鏡のレンズ越しに俺を凝視する長門有希を」に傍点]。
「いてくれたか……」
安堵《あんど》の息とも溜息《ためいき》ともつかぬものを吐き出しながら後ろ手に扉を閉めた。長門はいつものように何も言わず、にもかかわらず俺は手放しで喜べなかった。朝倉との一件以来|眼鏡《めがね》をかけなくなったのが俺の既知《きち》である長門有希だ。しかるに、ここにいる長門の顔には、かつてこいつがかけていた眼鏡が今もある。改めて思うが長門は眼鏡のないほうが見栄《みば》えがするな。俺の趣《しゅ》味《み》ではさ。
それに、そんな表情は似合わない。まるで全然知らない男子生徒にいきなり飛び込まれて不意を突かれた女子文芸部員のような顔じゃないか。なぜ驚くんだ。そんな感情から一番|離《はな》れているのがお前の特色じゃなかったのか。
「長門」
朝比奈さんとのことに懲《こ》りていた俺は、突っ込みがちな上半身をなるたけ抑《おさ》えてテーブルに近寄った。
「なに?」
長門は動かずに返答した。
「教えてくれ。お前は俺を知っているか?」
すっと唇《くちびる》を結び、長門は眼鏡のツルを押さえてしばらく沈黙《ちんもく》の時を過ごした。
俺があきらめたほうがいいかと出家先を考え始めていると、
「知っている」
そう答えた長門は、俺の胸の当たりに視線を注いでいる。希望がわいてきた。この長門は俺の知る長門なのかもしれん。
「実は俺もお前のことなら多少なりとも知っているんだ。言わせてもらっていいか?」
「…………」
「お前は人間ではなく、宇宙人に造られた生体アンドロイドだ。魔法《まほう》みたいな力をいくらでも使ってくれた。ホームラン専用バットとか、カマドウマ空間への侵入《しんにゅう》とか……」
言いながら早くも後悔《こうかい》の念が押し寄せてきた。長門は明らかに変な顔になっている。目と口を開き、俺の肩口《かたぐち》くらいに視線をさまよわせていた。俺と目を合わせるのを恐《おそ》れているような気配が長門の周囲に漂流《ひょうりゅう》している。
「……それが俺の知っているお前だ。違《ちが》ったか?」
「ごめんなさい」
耳を疑うようなことを長門は言った。なぜ謝る。どうして長門がこんなセリフを吐く。
「わたしは知らない。あなたが五組の生徒であるのは知っている。時折見かけたから。でもそれ以上のことをわたしは知らない。わたしはここ[#「ここ」に傍点]では、初めてあなたと会話する」
最後の砦は、脆《もろ》くも風化した砂上の楼閣《ろうかく》となって崩《くず》れ落ちた。
「……てことは、お前は宇宙人じゃないのか? 涼宮ハルヒという名前に何でもいい、覚えはないか?」
長門は「宇宙人」と唇を動かして面食らったように首を傾《かたむ》けた後、
「ない」と言った。
「待ってくれ」
長門でダメなら誰《だれ》も頼《たよ》れないことになる。生まれたてのツバメの雛《ひな》が親鳥に見捨てられたようなものだ。こいつに何とかしてもらうしか俺の正気を確保する機会はない。このままでは俺が狂《くる》ったことになる。
「そんなはずはないんだ」
だめだ、またもや冷静さが失われようとしている。頭の中で三原色の流星群が乱れ飛んでいるような混乱状態。俺はテーブルを迂回《うかい》して長門の側《そば》に歩み寄った。
白い指が本を閉じる。分厚いハードカバー。タイトルを見て取る余裕《よゆう》はない。長門は椅子から立ち上がると、俺から退くように一歩後ろに下がった。磨《みが》きたての黒|碁石《ごいし》みたいな二つの瞳《ひとみ》が戸惑《とまど》うように揺《ゆ》れ動く。
俺は長門の肩に手を置いた。朝比奈さん相手に失敗したばかりだが過去を顧《かえり》みる余裕も失われていた。逃《に》げられたくなかった一心だ。それにこうしてつかんでないと、そのうち知り合いすべてが手のひらからこぼれ落ちてしまうのではないかと俺は恐れた。これ以上誰を失いたくもない。
制服|越《ご》しに伝わる体温を手で受け止めながら、俺は背《そむ》けられたショートヘアの横顔に言った。
「思い出してくれ。昨日と今日で世界が変わっちまってる。ハルヒの代わりに朝倉がいるんだよ。この選手交代を誰が采配《さいはい》した? 情報統合思念体か? 朝倉が復活しているんだからお前も何か知ってるはずだ。朝倉はお前の同類なんだろう? 何の企《たくら》みだ。お前なら解《わか》りやすくなくとも説明はできるはずだ――、」
これまでそうだったように、と続けようとして俺は飲み込んだ液状の鉛《なまり》が胃腸に広がっていく感覚を覚えた。
この普通《ふつう》の人間のようなリアクションは何だ。
固く目を閉ざした長門の横顔、陶器《とうき》のように白かった頬《ほお》に朱《しゅ》が差している。薄《うす》く開いた唇から小刻み版溜息のような息を吐《は》き、ふと気づくと俺がつかんでいる華奢《きゃしゃ》な肩は、寒さに凍《こご》える子犬のように振動《しんどう》していた。震《ふる》える声が耳に届く。
「やめて……」
我に返った。いつしか長門は壁《かべ》に背を付けており、つまり俺は無意識のうちに長門をそこまで追い込んでしまっていたようだ。なんてことを俺はしている。これではまるで暴漢じゃないか。誰かに見られでもしたら即刻《そっこく》後ろに手が回ると同時に社会的制裁を受けること必至だ。二人きりの文芸部室でおとなしい女子部員に襲《おそ》いかかった外道《げどう》な畜生《ちくしょう》野郎《やろう》。客観的に見てそれ以外の何者でもない。
「すまなかった」
両手をホールドアップして俺は力なく、
「狼藉《ろうぜき》を働くつもりはないんだ。確認《かくにん》したいことがあっただけで……」
足がよろける。俺は近くにあったパイプ椅子《いす》を引き寄せて水揚《みずあ》げ直後の軟体類《なんたいるい》のようにぐんにゃりと腰《こし》を下ろした。長門は壁にくっついたまま動かない。部室を飛び出して行かなかっただけ僥倖《ぎょうこう》だと思わねばならないな。
改めて部屋内部に視線を周回させると、ここがSOS団秘密基地などではないことが一目で理解できる。この部屋にあるのは本棚《ほんだな》とパイプ椅子数個、折りたたみ式長テーブルとその上に置いてある旧式のデスクトップパソコンのみで、それもハルヒの奸計《かんけい》によってコンピュータ研から奪取《だっしゅ》してきた最新機種ではない。それより三世代ばかり旧型だ。あれと比べたら二頭立て馬車とリニアモーターカーくらいの能力差があるだろう。
当然ながら「団長」と書かれた三角錐《さんかくすい》も置かれるべき団長机もなかった。冷蔵庫も様々なコスプレ衣装《いしょう》の吊《つ》られたハンガーラックもない。古泉が持ち込んだ各種ボードゲームもなく、メイドもいなければサンタの孫娘《まごむすめ》もいない。ナッシングアットオール。
「ちくしょう」
俺は頭を抱《かか》えた。ゲームオーバーだ。もしこれが何者かの精神|攻撃《こうげき》なら、それはまんまと成功している。誉《ほ》めてやるぜ。で、誰の実験だこれは。ハルヒか、情報統合思念体か、見えざる新たな世界の敵か……。
五分くらいそうしていたように思う。どうにか気を取り直すフリだけして、俺は怖々《こわごわ》と顔を上げた。
長門はまだ壁に張り付いて俺に黒檀《こくたん》のような目を向けていた。眼鏡《めがね》がちょっとズレている。天に感謝したいことがあるとすれば、長門の瞳に浮《う》いているのが脅《おび》えや怖《おそ》れではなく、死に別れたはずの兄と繁華街《はんかがい》で偶然《ぐうぜん》再会した妹のような色彩《しきさい》だったことだろうか。少なくとも通報されることはなさそうだ。恐慌《きょうこう》状態の中にあって、ほんの少しだけ安心する要素である。
座ったらどうだ、と言いかけて、俺は長門の椅子を奪《うば》っていたことを発見した。座席を譲《ゆず》ってやろう。それより別の椅子を出したほうがいいか。いや、俺の近くに座りたくはないかもしれない。
「すまん」
もう一度謝って俺は立ち上がった。たたんだ状態で立てかけてあったパイプ椅子を持ち、部屋の中央へと移動する。長門から充分《じゅうぶん》な距離《きょり》だと判断したところで椅子に座り、引き続き頭を抱えることにする。
ここはただの零細《れいさい》文芸部だ。五月のあの日、制御《せいぎょ》の利《き》かない工業用ロボットみたいなハルヒに力ずくで連れてこられ、長門と初顔合わせした時分の俺が見た部屋模様である。その時ここにはテーブルと椅子と本棚と長門しか付属していなかった。雑多なものが増え始めたのはそれからだ。「これからこの部屋が我々の部室よ!」とハルヒが宣言してからなのだ。コンロやヤカンや土鍋《どなベ》や冷蔵庫やパソコンが備わったのは……。
「うん?」
俺は頭を抑《おさ》える手を浮かす。
待て、何が備わったって?
ハンガーラック、給湯ポット、急須《きゅうす》、湯飲み、食器、古いラジカセ……。
「違《ちが》う」
SOS団のアジトとなる前の部室にはなく、以後の部室にはあり、かつ今のこの部屋にもあるものを探せ。
「パソコンだ」
確かに種類は違う。電源コードしか床《ゆか》を這《は》ってないので多分ネットにも繋《つな》いでいない。しかし注意を喚起《かんき》されるものと言えばこれしかない。間違い探しの唯一《ゆいいつ》の解答だ。
長門は立ったままだった。そんなに気になるのか、俺をずっと眺《なが》めていたようだ。しかしこちらが顔を向けると、すかさず視線を床に落とす。注意深く見れば頬のあたりがまだ淡《あわ》く色づいている。ああ……長門。これはお前ではないんだな。お前が顔を紅潮させて困ったように目を泳がすことなんてないものな。
無理かもしれないができるだけ警戒《けいかい》されないように俺は自然を装《よそお》って立ち上がった。
「長門」
パソコン背面を指で差し、
「それ、ちょっといじらせてもらっていいか?」
長門は顔を驚《おどろ》かせ、しばらくして困惑《こんわく》がありありと解る表情に変化して、俺とパソコンを三度|交互《こうご》に見ていたが、大きく息を吸った後、
「待ってて」
ぎこちない動作で椅子をパソコン前まで持っていき、本体の電源スイッチを押してから座った。
OSが立ち上がるまでには買ったばかりのホット缶《かん》コーヒーが猫《ねこ》の飲み頃《ごろ》温度になる時間が必要だった。リスが木の根をかじっているような音がやっと終わると、長門はマウスを素早《すばや》く操作し、俺の推測ではいくつかのファイルを移動ないし削除《さくじょ》しているようだ。あまり人に見せたくないものがそこにあったのだろう。気持ちは解る。俺だってMIKURUフォルダを誰《だれ》にも見られたくない。
「どうぞ」
か細い声で長門は俺を見ずに言い、また椅子から離《はな》れて壁面《へきめん》の歩哨《ほしょう》となった。
「悪いな」
席に着いた俺はさっそくモニタをのぞき込み、知る限りのあらゆるテクニックを駆使《くし》してMIKURUフォルダとSOS団サイトファイルを探し求め、徒労感が肩《かた》を落とさせた。
「……ねえか」
どうやっても繋がりを見つけることができない。ハルヒがここにいたという証拠《しょうこ》がどこにもない。
先ほど長門の隠《かく》したデータが何だったろうかとも思ったが、監視《かんし》するような視線が俺の背後から届いている。見られてはマズいものを発見されそうになるや、即座《そくざ》に電源コードを引き抜《ぬ》こうと身構えているような気配である。
俺は席を立った。
手がかりはこのパソコンにはないのだろう。本当に見たかったのは朝比奈画像集でもSOS団ウェブサイトでもない。ハルヒと俺が閉鎖《へいさ》空間に囚《とら》われてしまったときに出現したような、長門のヒントメッセージが表示されるんじゃないかと思ったのだ。その期待は無惨《むざん》に投げ捨てられた。
「邪魔《じゃま》したな」
疲労《ひろう》した声で告げて俺は扉《とびら》に向かった。帰ろう。そして寝《ね》てしまおう。
ここで意外なことが起こった。
「待って」
長門は本棚《ほんだな》の隙間《すきま》から藁半紙《わらばんし》を引っこ抜き、ためらいがちに俺の前に立つ。そして俺のネクタイの結び目あたりを見ながら、
「よかったら」
片手を出してきた。
「持っていって」
渡《わた》されたのは白紙の入部届けだった。
さて。
せめてもの救いは今まで散々非常識な目に遭《あ》っておいてよかったということだ。でなけりゃ、とうにカウンセラーの姿を求めて走り回っているに違《ちが》いない。
状況《じょうきょう》を鑑《かんが》みると俺の頭がバッドな感じにオシャカになったか世界の気が違っちまったかのどちらかだが、今の俺は前者の可能性をほぼ排除《はいじょ》できる。いつだって俺は正気で、世界に転がる森羅万象《しんらばんしょう》に対するツッコミ役を自認《じにん》しているのだ。おかしくなっている世界にホラ、こうしてツッコミを入れることだってできるぞ。なんでやねん。
「…………」
俺は長門ばりに沈黙《ちんもく》する。色々な意味でうすら寒い。空《カラ》元気にも限度はある。
長門は単なる読書好き眼鏡《めがね》っ娘《こ》になってるし、朝比奈さんは見知らぬ上級生、古泉なんかはどこで学生をやっているのか、北高に転校もしてきていない。
何なんだよ、これは。
俺に最初からやり直せって言うのか? それにしては季節が変じゃねえか。リセットしてまた初っぱなから……つうのなら、高校生活初日に戻《もど》してくれてもいいだろう。誰がリセットボタンを押したのかは知らんが、時間の流れはそのままに環境《かんきょう》設定だけ変えちまってもオロオロするだけだぞ。現にすっかり狼狽《ろうばい》しまくっている。この役どころは朝比奈さんのものじゃなかったのか。
それにあいつはどこにいる。俺だけをこんな所におっぽり出しておいて、あのアホはどこでのうのうと生活しているんだ。
ハルヒはどこだ?
お前はどこにいる。
早く姿を現してくれ。不安になるじゃねえか。
「……くそ、何で俺があいつの姿を探さないといけないんだ」
それともハルヒ、ここにお前はいないのか。
勘弁《かんべん》してくれよな。どうして俺がこんなことを思うのかは俺にだって解《わか》らないが、お前が出てこないと話にならんだろうが。俺だけにこんな憂鬱《ゆううつ》で溜息《ためいき》な気分を押しつけるのは筋違いだぞ。何を考えていやがった。
王墓作りの材料となる巨大《きょだい》な石を担《かつ》いで坂を上っている職業|奴隷《どれい》の気分を味わいながら、俺は渡り廊下《ろうか》から見える寒々とした薄曇《うすぐも》りの空を見上げる。
ポケットの入部届けがカサリと音を立てた。
自宅の部屋に戻った俺を出迎《でむか》えたのはシャミセンと妹だった。妹は無邪気《むじゃき》に笑いながら先端《せんたん》にモジャモジャの付いた棒を振《ふ》って、ベッドに寝そべるシャミセンの頭をぺたぺた叩《たた》いている。シャミセンはめんどくさそうに目を細めつつ、時折手を出して妹の相手をしてやっていた。
「あ、おかえりー」
妹は笑顔《えがお》で俺を見上げて、
「晩ご飯もうすぐだって。ごはんだにぁあ、シャミー」
シャミセンも俺を見上げたが、すぐあくびをして妹の繰《く》り出す猫《ねこ》じゃらし作戦に投げやりな応戦をした。
そうか、まだこいつらが残っていたな。
「おい」
俺は猫じゃらし棒を奪《うば》い取ると、それで妹のデコをパスンと叩いた。
「ハルヒを覚えているか? 朝比奈さんでもいい。長門は? 古泉は? 一緒《いっしょ》に草野球して、映画に出たことはないか?」
「なーに、キョンくん。知らぁなぁい」
次に俺はシャミセンを抱《だ》き上げ、
「この猫はいつからこの家にいるんだ? 誰《だれ》が連れてきた」
妹はもともと丸い目をさらに円に近づけ、
「んーと先月。キョンくんが持ってきたよ? でしょ。外国に行っちゃうトモダチからもらったんだよね。ねぇシャミー」
俺の手から三毛猫をむしり取ると、妹は愛《いと》おしそうに頬《ほお》ずりし、眠《ねむ》そうに目を細めるシャミセンが悟《さと》りきったような顔で俺を眺《なが》めた。
「貸せ」
再び猫を奪取《だっしゅ》する。品物のようにやりとりされて迷惑《めいわく》そうにヒゲを震《ふる》わせるシャミセンには後で乾燥餌《かんそうえさ》で報《むく》いてやることにする。
「俺はこいつと話がある。二人きりでな。だからお前は部屋を出て行け。今すぐだ」
「えー。あたしもお話ししたい。ずるいよキョンくん。え?……シャミとおしゃべり? え?ほんとに?」
俺は問答無用で妹の腰《こし》を抱《かか》えると部屋の外に放《ほう》り出し、「絶対開けるな」と厳命してドアを閉じた。直後、
「おかーさーん。キョンくんがー頭おかしくなってるよー」
ひょっとしたら本当かもしれないことを叫《さけ》びながら階段を下りていく妹の声が聞こえる。
「さあ、シャミセン」
俺はあぐらを組んで、床《ゆか》にちょこんと座る貴重なオス三毛猫に言った。
「以前、俺はお前に絶対|喋《しゃべ》るなと言った。だがそれはもういい。むしろ喋ってくれたほうが今の俺は安心する。だからな、シャミセン。何か喋れ。なんでもいい。哲学《てつがく》ネタでも自然科学ネタでもいい。解りやすくなくていい。喋ってくれ」
シャミセンは俺を退屈《たいくつ》そうに見上げていたが、心底退屈になったのかちゃっちゃと毛繕《けづくろ》いを始めた。
「……俺の言ってることが解るか? 喋ることはできないがヒアリングはできるとか、そんなんか? だったらイエスの場合は右|前脚《まえあし》を、ノーの場合は左前脚を出してくれ」
手のひらを上向けて鼻面《はなづら》に突《つ》きつける。シャミセンはしばらく俺の指のにおいをくんくんと嗅《か》いでいたが、やはりというか、何も言わず何の意思表示もすることなく、毛繕いに戻《もど》った。
そうだろうな。
こいつが喋ったのは映画|撮影《さつえい》の間、それも短い間だけだ。クランクアップと同時にこいつは普通《ふつう》の猫になっちまった。喰《く》う寝《ね》る遊ぶくらいしか動詞を持ち合わせていない、当たり前の猫である。
一つ解った。ここは猫が喋るような世界ではない。
「あたりまえだろ」
脱力《だつりょく》して寝転がりながら俺は手足を伸《の》ばした。猫は喋ったりしない。だからおかしかったのはシャミセンが口をきいたあの時のほうで、つまり今はおかしくない。だが本当にそうか?
いっそ猫になってしまいたい。そうしたら何を考えることもなく本能のままに過ごせるだろうのに。
妹が晩飯の完成を告げに来るまで、俺はそうしていた。
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第二章
煮《に》こごりに閉じこめられたような十二月十八日が終わり、次の一日が始まった。
十二月十九日。
今日から短縮授業に入る。本来ならもっと早くに短縮されるはずだったのだが、この前の全国模試で市立のライバル校に総合成績を追い抜《ぬ》かれたことにムカっ腹を立てた校長が、学力向上というお題目を唱えて無理矢理《むりやり》変更《へんこう》してしまったのだ。その歴史は変化しなかったようだな。
変わったのは俺の周辺、北高、SOS団の周りだけか。何者かの恣意《しい》的な目論《もくろ》みを振《ふ》り払《はら》うことができないまま登校すると、五組の欠席者数はさらに増えていた。谷口もとうとう四十度が出たかのか、姿がない。
そして俺の後ろの席には今日もハルヒではなく朝倉がいて、
「おはよう。今日は目が覚めてる? だといいんだけど」
「まあな」
仏頂面で俺は自分の机に鞄《かばん》を置いた。朝倉は頬杖《ほおづえ》しながら、
「でもね、目が開いているだけでは覚醒《かくせい》してるってことにはならないのよ。目に映るものをしっかり把握《はあく》して、それで初めて理解の助けになるの。あなたはどう? ちゃんとできてるかしら」
「朝倉」
俺は身を乗り出して、朝倉涼子の整った顔つきに眼光を飛ばした。
「本当に覚えがないのか、しらを切っているのかもう一度教えろ。お前は俺を殺そうと思ったことはないか?」
ふっと朝倉の顔が曇《くも》った。またあの病人を見るような目だ。
「……まだ目が覚めてないみたいね。忠告するわ。早めに病院に行ったほうがいいわよ。手遅《ておく》れにならないうちにね」
それっきり口をつぐみ、俺を無視して隣《となり》の女子と談笑を始めた。
俺も前へと向き直り、ただ腕《うで》を組んで空中を睨《にら》みつける。
こういう喩《たと》えはどうだろう。
とある所にとても不幸な人がいたとする。その人は主観的にも客観的にも実に見事なくらいの不幸な人で、悟《さと》りの奥義《おうぎ》を極《きわ》めた晩年のシッダルタ王子でさえ目を逸《そ》らしてしまうような本質的な不幸を体現している人間である。その彼(彼女でもいいのだが、めんどいので彼にしておく)が、いつものように不幸にさいなまれながらの眠《ねむ》りに就《つ》き、ふと翌朝目を覚ますと世の中が一変していたとしよう。そこはまさにユートピアと言っても言葉が足りないほどの素晴《すば》らしい世界で、彼の上から不幸なる概念《がいねん》を一掃《いっそう》し、すべてにおいての幸福が彼の身体《からだ》と精神に隙間《すきま》なく充満《じゅうまん》している。もはやどんな不幸も彼の身に降りかかることはない。一夜にして彼は地《じ》獄《ごく》から天国へと誰《だれ》かに連れて行かれたのだった。
もちろんそこに彼自身の意思は介在《かいざい》しない。彼を連れ去ったのは彼の知らない誰かであり、その正体はまったくの不明なのだ。何を考えて彼をそのようにしたのかは解《わか》らない。きっと誰にも解らないであろう。
さてこの場合、彼は喜ぶべきなのだろうか。世界が変化したことで、彼は不幸せではなくなった。しかしそれは彼の元いた世界とは微妙《びみょう》に異なる場所であり、何よりもこうなってしまった理由が最大の謎《なぞ》として残されるのだ。
彼はそれでも幸福を得たことを最大の評価基準として、その何者かに感謝するのだろうか。
言うまでもなくその彼は俺ではない。程度が違《ちが》いすぎる。
あー……これは我ながら喩えが悪かったな。先日までの俺は別に不幸の底辺を極めていたわけじゃないし、今の俺がめったやたらに幸福なわけでもない。
だが程度問題を度外視さえすれば、当たらずも遠からずと言ったところだ。これまでの俺はハルヒにまつわる変な出来事に神経を左右されていたし、それは現在の俺にとってはもはや無《む》縁《えん》のものらしいからだ。
しかし――。
ここにはハルヒはおらず、古泉もおらず、長門と朝比奈さんは普通《ふつう》の人間で、SOS団なんてものは影《かげ》も形も存在しない。エイリアンもタイトムトラベルもESPもなしだ。ましてや猫《ねこ》が喋《しゃべ》ったりすることもない、非常に普通の世界である。
どうなんだ?
これまでと、この今と、どっちの状況《じょうきょう》がよりふさわしいんだ。どちらが喜ばしい状態なのだろう。
俺は、いま幸せなのか?
放課後、習慣的に文芸部室へと足が向いていた。毎日同じことを繰《く》り返していれば考えなくても身体が動くという典型的な自動的行動である。風呂《ふろ》に入って体を洗う順番が特に決めてないのにいつしか機械的に一緒《いっしょ》になってしまうのと同じことだ。
いつだって俺は授業が引けるとSOS団へと向かい、朝比奈さんのお茶を飲みつつ古泉とゲームをしつつハルヒの譫言《うわごと》のようなトークに耳を傾《かたむ》けていた。その習慣がたとえ悪癖《あくへき》であったとして、むしろ悪癖だからこそ今更《いまさら》やめろと言われても難しい。
だが今日はちょっと雰囲気《ふんいき》が違う。
「これ、どうする?」
歩きながら見ているのは白紙の入部届けだ。昨日の長門が俺にこれをくれたのは、文芸部に入部せよという意思表示だろう。しかし何故《なぜ》俺を誘《さそ》ったのかは解らない。他《ほか》に部員がいなくて廃部《はいぷ》の危機だからか? にしても、突然《とつぜん》現れて襲《おそ》いかかり同然のことをした俺を入部させようとはいい度胸じゃないか。長門だけに、この間違っている世界でもどこか奇妙《きみょう》なのは変わりなしか。
「ひっ」
部室|棟《とう》へ行く途中《とちゅう》で、また朝比奈さん鶴屋さんコンビとすれ違った。俺を見るなりビクッとして鶴屋さんにすがりつく愛らしい上級生に心を痛めつつ、俺は素早《すばや》くお辞儀《じぎ》をして早足で立ち去った。もう一度あの甘露《かんろ》を飲むことができる日常が来て欲しい。
今度はノックして、小さな返答を聞いた。扉《とびら》を開けたのはそれからだ。
部室にいた長門の視線が俺の顔面表皮を走り抜《ぬ》け、また手元の本に舞《ま》い戻《もど》る。眼鏡《めがね》をちょいと押さえた仕草がまるで挨拶《あいさつ》のように見えた。
「また来てよかったか」
小さな頭がこくりとうなずく。しかし目下の関心は広げている本のほうにあるようで、それきり顔を上げない。
俺は鞄《かばん》をそこらに立てかけて、さてどうしようかと次の行動を模索《もさく》したものの、だがこの殺風景な部屋では手に取る小道具もそれほどなく、仕方がないので本棚《ほんだな》を眺《なが》めた。
全段びっしりと大小様々な書籍《しょせき》が並んでいる。文庫やノベルスよりハードカバーが多いのは、この長門もまた厚物好きだからなのだろう。
沈黙《ちんもく》。
長門相手の沈黙には慣れたはずの俺だが、今日のここにおいてはそれはちと苦痛だ。何か喋ってないと余計に不安になる。
「全部、お前の本か?」
すぐさま反応が返ってきた。
「前から置いてあったのもある」
長門は持っていたハードカバーの表紙を見せて、
「これは借りたもの。市立図書館から」
市の所有物であることを示すバーコードシールが貼《は》ってある。ラミネート加工された表紙に蛍光灯《けいこうとう》の光がチラリと反射して長門の眼鏡を一瞬《いっしゅん》輝《かがや》かせた。
それで会話|終了《しゅうりょう》、再び長門は厚い書物の黙読《もくどく》に挑戦《ちょうせん》し、俺は居場所を見失う。
沈黙がたまらなく気詰《きづ》まりだ。俺は話の接《つ》ぎ穂《ほ》を適当に探し、適当な言葉を吐《は》いた。
「小説、自分で書いたりしないのか?」
四分の三|拍子《びょうし》ほど間があって、
「読むだけ」
レンズに隠《かく》されがちの視線がパソコンを一瞬|捉《とら》えたのを俺は見逃《みのが》さなかった。そうか、俺に見せる前の作業はそのためのものだったか。無性《むしょう》に長門の書いた小説とやらが読みたくなる。こいつならいったい何を書くだろう。やはりSFかな。まさか恋愛《れんあい》ものではないだろうな。
「…………」
もともと長門とは会話が成立しにくい。それはこの長門でも変わりがないようだった。
俺は再び本棚を相手に無言の行を開始する。
何気なく背表紙を見ていると一冊の本に目が止まった。
見覚えのあるタイトルだ。SOS団|勃興《ぼっこう》期の初っぱな、長門が貸してくれた海外SF大長編の一巻目で、恐《おそ》るべき文字数を誇《ほこ》る本だ。そういやまだ眼鏡っ娘《こ》だったあの時の長門は、有無《うむ》を言わせず俺にこれを押しつけ「貸すから」と言ってさっさと立ち去ったのだった。読了までに二週間かかったよ。あれから何年も経《た》った気がする。色々ありすぎたさ。
妙《みょう》に懐《なつ》かしい思いが生じ、俺はそのハードカバーを本棚から引き出した。書店でもないのに立ち読みするのは真面目《まじめ》に読むつもりがないからで、ぱらぱらと適当にページをめくって元の位置に戻そうとした俺の足下《あしもと》に、小さな長方形の紙切れが滑《すべ》り落ちた。
「何だ?」
拾い上げる。花のイラストが入った栞《しおり》だ。本屋が勝手に袋《ふくろ》に入れてくれるような――栞?
ぐるりと視界が回転したような気がした。そう……。あの時……。俺は自宅の部屋でこの本を開き……。この栞と同じ物を発見したのだ……。そして自転車に飛び乗った……。そのフレーズを俺はソラで暗唱できる。
午後七時。光陽園《こうようえん》駅前公園にて待つ。
息を止め、震《ふる》える手で裏返して――見た。
『プログラム起動条件・鍵《かぎ》をそろえよ。最終期限・二日後』
ハードカバーから舞い落ちた栞には、いつかの伝言のような明朝体の文章が書いてある。
とっさに俺は向き直り、三歩で長門のテーブル前に接近した。開かれていく黒い瞳《ひとみ》を見据《みす》えながら、
「これを書いたのはお前か?」
差し出された栞の裏面を見つめて、ややあって長門は首を斜《しゃ》に構えた。そして困惑《こんわく》した顔で、
「わたしの字に似ている。でも……知らない。書いた覚えがない」
「……そうか。そうだろうな。いや、いいんだ。知ってたらこっちが困ってたところだ。ちょっと気になることがあってな。いーや、こっちの話で……」
言いわけめいたセリフをこぼしながらの俺はまるで上の空にいるようだ。
長門。
やはりメッセージを残してくれてたか。無味|乾燥《かんそう》な文字列だけでも嬉《うれ》しいぜ。これは俺がすっかり馴染《なじ》んだお前からのプレゼントでいいんだよな? 状況《じょうきょう》を打破するヒントで合っているよな。でなければこんな思わせぶりなコメントは書かないだろう?
プログラム。条件。鍵。期限。二日後。
……二日後?
今日は十九日だ。今この瞬間から数えて二日後でいいのか、それとも世界がおかしくなった昨日からか。最悪それでいくとしたら期限は二十日、明日だ。
単発的な驚喜《きょうき》が地面をスローペースでつたう溶岩《ようがん》のように徐々《じょじょ》に冷えていく。何だか解《わか》らないがプログラムとやらを起動させるには鍵とやらを集めるしかないらしい。でも鍵って何だ? どこに落ちてんだ? 何個いる? 揃《そろ》えたとしてどこに持っていけば記念品と引き替《か》えてくれるんだ?
ハテナマークの群れが俺の頭上を旋回《せんかい》し、やがて一つの巨大《きょだい》ハテナとなった。
そのプログラムを起動すれば、世界は昔の姿に立ち戻《もど》るのか?
取り急ぎ俺は本棚《ほんだな》の本を片端《かたはし》から出しては戻ししながら、他に栞が挟《はさ》まってないかを確認《かくにん》した。長門のあっけにとられたような視線を浴びながら手間ヒマかけた結果、収穫《しゅうかく》はゼロ。他になし。
「これだけか」
まあ、多くを望んで色々|土産《みやげ》をもらったとして、その重みで立ち上がれなくなれば元の木阿弥《もくあみ》だ。目的地を定めず手当たり次第《しだい》に動き回っても時間とライフゲージを浪費《ろうひ》するだけである。まずは鍵とやらに当たりをつけんといかん。まだ山頂には遠いが、かろうじて指針が見えてきた。
俺はいいか悪いか尋《たず》ねた上でテーブルに弁当を広げ、長門の斜向《はすむ》かいで昼飯を喰《く》いながら考えも広げた。長門はちらほらとこっちを見ているようだが、俺は機械的に箸《はし》を使い、脳みそに栄養をせっせと運び続けることを急務とする。
いつしか弁当を喰い終わり、お茶をオーダーしようとして朝比奈さんがいないことに気づいたりして落胆《らくたん》しつつも考え続けた。ここが正念場だ。せっかくのヒントを無駄《むだ》にはできない。鍵だ鍵。鍵鍵……。
そのまま二時間ほど思案に熱中しただろうか。
俺は自分のバカさ加減にほとほと愛想《あいそ》を尽《つ》かす思いに満たされつつ打ちひしがれ、独り言を呟《つぶや》いた。
「まったく見当がつかん」
だいたい鍵っつっても漠然《ばくぜん》としすぎている。まさか本当に施錠《せじょう》に使うヤツではないだろうから、ここはキーワードとかキーパーソンとかのキーなのだろうが、そうは言っても範囲《はんい》が広すぎる。アイテムなのかセリフなのか持ち運びができるのかできないのか、その程度の情報もオプションサービスで付け加えて欲しかった。栞を書いた長門の思考を読もうとしても、思い出すのはあいつが難しい本を読んでいる心象風景くらいのもので、有り難《がた》くもまどろっこしい言説は俺の知る長門そのままである。
ふと気になって斜《なな》め向かいを見ると、こっちの長門は居眠《いねむ》りでもしているかのように動いていない。気のせいかもしれないが読んでる本のページも全然進んでいないように思える。だが午睡《ごすい》ではない証拠《しょうこ》に、長門は俺がぼんやり眺《なが》めているのに気づいて顔に仄《ほの》かな朱《しゅ》を差し込み始めた。こちらの文芸部員長門はどうやら極度の照れ屋なのか、人に注目されることに慣れていないかのどっちかだ。
外見のそっくり同じ娘《むすめ》が見慣れない反応ばかりするので、俺は新鮮《しんせん》な気分となった。わざとじっくり観察してやる。
「…………」
目の焦点《しょうてん》は本の文字上に合っているようだが何一つ読んでいないのは明らかである。長門は薄《うす》く開いた口で音もなく呼吸しており、薄い胸の上下運動もはっきり解るまでになってきた。弱々しげな頬《ほお》周辺がますます赤くなっていく。本心を言うと、そんな長門はちょっと――いや、かなり可愛《かわい》かった。一瞬《いっしゅん》だけだが、このまま文芸部に入部してハルヒのいない世界を楽しむのも悪くないかなと思ったほどだ。
しかし、まだだ。まだ投げ出すわけにはいかない。俺はポケットから栞《しおり》を出して折らないように握《にぎ》った。これを紛《まぎ》れ込ませてくれたということは、三角|帽子《ぼうし》をかぶって本読んでた長門はまだ俺に用があるのだ。俺にだってあるぞ。ハルヒの手製|鍋《なべ》料理を喰ってないし、朝比奈サンタもまだ目蓋《まぶた》に焼き付けていない。部室をデコレーションするのに忙《いそが》しくて古泉とのゲームは佳境《かきょう》で中断している。あのまま進めば勝っていただろうから、俺は百円損したことになる。
窓から西日が差し始め、傾《かたむ》いた太陽が巨大なオレンジボールとなって校舎の背後に隠《かく》れようとする時間になっていた。
じっと座っているのも疲《つか》れてきたし、これ以上|絞《しぼ》っても脳みそから有益なアウトプットを得られそうにもない。俺は椅子《いす》を立って自分の鞄《かばん》に手を伸《の》ばした。
「今日は帰るよ」
「そう」
長門は読んでいたのかそうでないのか解らないハードカバーを閉じ、自分の通学鞄にしまい込んで立ち上がった。ひょっとして俺が言い出すのを待っていたのか?
鞄を片手に提《さ》げ、俺が歩き始めるまでそのまま立ち続けるかのごとく動かない身体《からだ》に、
「なあ、長門」
「なに?」
「お前、一人暮らしだっけ」
「……そう」
なぜ知ってるのかと思っているんだろうな。
家族はいないのかと訊《き》こうとして、睫毛《まつげ》がひそやかに伏《ふ》せられるのを見て思いとどまる。調度品がほとんどない部屋を思い出した。最初に行ったのは七ヶ月前、気宇|壮大《そうだい》なスケールで語られるコズミックな電波話に色んな意味でビビった。次に訪《おとず》れたのは三年前の七夕で、そん時は朝比奈さんを伴《ともな》っていた。一度目より二度目のほうが時系列的には先ってんだから、俺も器用なことをしたものだ。
「猫《ねこ》でも飼ったらどうだ。いいぞ、猫は。いつもしまりのない態度でいるが、時たまこっちの言うことを解ってんじゃないかって気がするんだ。喋《しゃべ》る猫だっていても不思議じゃない。リアルにそう思うぜ」
「ペット禁止」
そう言ってからしばらく黙《だま》って悲しげな目を瞬《しばたた》かせていたが、ツバメの風切り音みたいな息を吸うと脆《もろ》い音声を吐《は》き出した。
「来る?」
長門は俺の爪先《つまさき》を見ている。
「どこに?」と俺。
俺の爪先が返事を聞いた。
「わたしの家」
二分|休符《きゅうふ》ほど沈黙《ちんもく》してから俺は言った。
「……いいのか?」
いったいどうしたことだろう。照れ屋なのか臆病《おくびょう》なのか積極的なのか全然解らん。この長門の精神状態はまるで一貫《いっかん》していない。それともこの時期の平均的な高校女子一年のメンタリティはクジラ座α星の変光周期並みに不規則なのか?
「いい」
長門は俺の視線から逃《に》げるように歩き出した。部室の電気を消し、扉《とびら》を開いて廊下《ろうか》に姿を消す。
そしてもちろん、俺も後を追った。長門の部屋。高級|分譲《ぶんじょう》マンションの708号室。客間を覗《のぞ》かせてもらうことにしよう。新たなヒントが見つかるかもしれない。
もし、そこで別の俺が寝《ね》ていたら、ただちに叩《たた》き起こしてやる。
学校からの帰り道、俺と長門の間に会話はなかった。
長門はまっすぐ前だけを向いて黙々と歩いているだけで、冷たく強い風に吹《ふ》かれるような歩調で坂道を下り続けている。短い風で吹き乱れる半端《はんぱ》なシャギーの入った後頭部を眺《なが》めながら、俺もまた事務的に両足を淡々《たんたん》と動かすのみだ。語りかけるべき言葉はあまりないし、なぜ俺を誘《さそ》ったのかは訊かないほうがいいような気がした。
延々歩き続けてようやく長門が立ち止まったのは、例の高級マンションだ。ここを訪れるのは何回目だろう。うち長門の部屋に入ったのが二回、朝倉の部屋の前まで行ったのが一回、屋上に上《のぼ》ったのが一回。
長門は玄関《げんかん》のキーロックに暗証番号を打ち込んで施錠《せじょう》を解除し、そのまま後ろを振《ふ》り返ることなくロビーに脚《あし》を進めた。
エレベータ内でも無言で、七階の八号室のドアに鍵《かぎ》を差し込み、開けて俺を招き入れるのも素振《そぶ》りだけで通した。
俺も無言で上がり込んだ。部屋のレイアウトは記憶《きおく》のまま変化していない。殺風景な部屋である。リビングにはコタツ机が一つあるきりで他《ほか》に置かれている物はない。カーテンがないのも相変わらずだ。
そして客間はあった。襖《ふすま》で仕切られた部屋がそれのはずだ。
「この部屋、見せてもらっていいか?」
急須《きゅうす》と湯飲みを持ってキッチンから出てきた長門に訊いてみた。長門はゆっくり瞬《まばた》きしていたが、
「どうぞ」
「ちょっと失礼する」
車輪でも付いているかのように襖は滑《なめ》らかに開いた。
「…………」
畳《たたみ》しかなかった。
まあ、そうだろ。そう何度も過去に行ったりしないよな……。
俺は襖を元通りに閉めて、こちらを見守っていた長門に両手を開いて見せた。さぞかし意味のない行動に見えただろう。しかし長門は何も言わず、コタツ机に湯飲みを二つ置くと丁寧《ていねい》に正座してお茶をつぎ始めた。
その正面に俺は胡座《あぐら》をかいて座る。最初に来たときもこうだった。長門の入れるお茶を何杯《なんばい》も無意味に飲んでいて、それからあの宇宙的一人語りを聞いたのだ。あれはやたら暑い新緑の季節のことで現在の寒さとは隔世《かくせい》の感がある。今のほうが心だって寒い。
差し向かいで黙々と茶を飲みながら、長門は眼鏡《めがね》の奥にある瞳《ひとみ》を下に向けていた。
なにやら長門は躊躇《ちゅうちょ》しているようだ。口を開きかけては閉じ、意を決したように俺を見上げてはまたうつむき、という仕草を繰《く》り返していたが、湯飲みを置いて絞《しぼ》り出すような声で言った。
「わたしはあなたに会ったことがある」
付け加えるように、
「学校外で」
どこだ。
「覚えてる?」
何を。
「図書館のこと」
それを聞いて脳の奥にある歯車がきしむかのような音を立てた。図書館での長門と過ごした思い出が蘇《よみがえ》る。記念すべき不思議探しツアー第一|弾《だん》。
「今年の五月」
長門は目を伏《ふ》せながら、
「あなたがカードを作ってくれた」
俺は精神的|電撃《でんげき》に打たれて動きを止めた。
……そうだ。そうでもしないとお前は棚《たな》の前から動こうとしなかったからな。ハルヒからの呼び出しが迷惑《めいわく》電話のようにかかってきていたし、急いで集合地点に戻《もど》るためにはそうするしかなかった……。
「お前、」
しかし、続く長門の説明は俺の記憶にあるシチュエーションとは異なっていた。この長門の小さなポツポツ声によると――。
五月半ば頃《ごろ》に初めて市立図書館に足を踏《ふ》み入れた長門だが、貸し出しカードの作り方がよく解らなかった。職員に一声かければ済むものの、少ない職員たちは誰《だれ》もが忙《いそが》しそうにしている。また、引っ込み思案で口べたな自分にはその勇気がなかった。そうして、いたずらにカウンターの前をうろうろしているところを、見るに見かねたのだろう、通りすがりの男子高校生がすべての手続きを買って出て、代わりに全部やってくれた。
それが、
「あなただった」
長門の顔が俺の方を向き、半秒ほど視線を合わせてからまたコタツの上に落とされた。
「…………」
この三点リーダは俺と長門のぶんだ。家具のないリビングに沈黙《ちんもく》が戻り、俺もまた言う言葉がない。覚えているかという質問に答えようがないからだ。こいつの思い出と俺の思い出は変な具合にズレている。図書カードを作ってやったのは事実だが、たまたま通りすがったのではなく、そこまで長門を連れて行ったのは俺だ。見つかりようもない不思議|探索《たんさく》パトロールを放棄《ほうき》して、暇《ひま》つぶしの場所として図書館を行く先に選んだんだ。黙《だま》ってついてくる長門の制服姿を忘れることは、いくら俺の物覚えがイソギンチャクの幼体程度だとしてもまだ無理である。
「…………」
俺の無言をどう受け取ったのか、長門は少しだけ悲しそうに唇《くちびる》をゆがめ、細い指先で湯飲みの縁《ふち》をなぞった。その指がほんの僅《わず》か震《ふる》えているのを見て、いっそう何とも言えない気分になり、実際、何も言わなかった。
覚えていると答えるのは簡単だ。あながち間違《まちが》っていない。ただ齟齬《そご》があるだけだ。そしてこの場合、その齟齬こそが最大の難問なわけである。
なぜ違ってしまったのか。
俺の知っている宇宙人はどこに行ってしまった。栞《しおり》だけを残して。
ぴん、ぽーん――。
永劫《えいごう》に続きそうな沈黙を破壊《はかい》したのは、インターホンのベルだった。突然《とつぜん》の音に俺は座ったまま宙に浮《う》きそうなくらい驚《おどろ》いた。長門も驚いたのだろう、ビクッと身体《からだ》を震わせて玄関《げんかん》へと振《ふ》り向いた。
再びベルの音。新たな来訪者か。しかし長門の部屋を訪ねてくるような奴《やつ》ってのはいったい誰だ。集金人か宅配業者以外に考えつかんが。
「…………」
長門は肉体から離脱《りだつ》したばかりの霊体《れいたい》のような動きで立ち上がり、足音も立てずに部屋の壁《かべ》際《ぎわ》に移動した。インターホンのパネルを操作して、何者かの声に耳を傾《かたむ》ける。そして俺を振り返ってちょっと困った顔をしてから、
「でも……」とか「いまは……」とか、おそらく断りの言葉を細々とスピーカーに話しかけていたが、
「待ってて」
押し切られたように呟《つぶや》くと、すうっと玄関まで行ってドアの鍵《かぎ》を開けた。
「あら?」
扉《とびら》を肩《かた》で押しのけるようにして入ってきた娘《むすめ》は、
「なぜ、あなたがここにいるの? 不思議ね。長門さんが男の子を連れてくるなんて」
両手で鍋《なペ》を掲《かか》げ持った北高の制服姿は、爪先《つまさき》を戸口の床《ゆか》に押し当てて器用に靴《くつ》を脱《ぬ》ぎ、
「まさか、ムリヤリ押しかけたんじゃないでしょうね」
こいつこそ、なんだってここにまで登場するんだ。教室以外でお前の顔を見るなんて、想定外のシーンだぞ。
「わたしはボランティアみたいなものよ。あなたがいることのほうが意外だな」
そう言って笑う秀麗《しゅうれい》な顔は、クラスの委員長で俺の後ろの席にいる奴だ。
朝倉涼子がやって来た。
「作り過ぎちゃったかしら。ちょっと熱くて重かったわ」
微笑《ほほえ》んで朝倉は大きな鍋をコタツの上に置いた。この時季にコンビニ行けばたいていこの臭《にお》いが出迎《でむか》えてくれる。鍋の中身はおでんだった。朝倉が作ったのか?
「そうよ。大量に作ってもそう手間のかからない物は、こうして時々長門さんにも差し入れるの。放《ほう》っておくと長門さんはロクな食事をしないから」
長門はキッチンで皿と箸《はし》の用意をしていた。食器の触《ふ》れ合う音がする。
「それで? あなたがいる理由を教えてくれない? 気になるものね」
答えに窮《きゅう》した。来たのは長門に誘《さそ》われたからだが何を思って誘ったのかがよく解《わか》らない。図書館の話をするためか? そんなの部室でもできただろう。俺はと言うとここに鍵だか何だかのとっかかりがあるかと思ってホイホイとやって来たのだが、それをそのまま言うわけにはいかない。また頭の心配をされるのがオチだ。
俺の口はデマカセを喋《しゃペ》った。
「あー、ええとだ。長門とは帰り道に一緒《いっしょ》になって……。そう、俺はいま文芸部に入ろうかどうか悩《なや》んでいる。そいつをちょっと相談しながら歩いてたんだ。そうしているうちにこのマンションの近くまで来たからさ、話の続きもあるしで、上がらせてもらった。無理にじゃないぜ」
「あなたが文芸部? 悪いけど、全然ガラじゃないわね。本なんて読むの? それとも書くほう?」
「これから読むか書くかしようかどうかを悩んでいたんだよ。それだけだ」
コタツの上では蓋《ふた》の取られた鍋が食欲をそそる香《かお》りを四散させている。ダシ汁《じる》から見え隠《かく》れする煮卵《にたまご》がいい色になっていた。
左|斜《なな》め前に正座する朝倉が奇妙《きみょう》な視線を向けている。視線に質量があったら、俺のこめかみに小さな穴が開いているような、そんな険を感じるのは俺の気の回しすぎだろう。以前の朝倉は途中《とちゅう》で殺人鬼《さつじんき》と化したが、この朝倉の凛《りん》とした態度の裏には確立された自信らしきものが仄《ほの》見《み》える。きっとこのおでんだってどこで食べるよりも美味に違《ちが》いない。それが俺にはプレッシャーだった。目下のところ俺にはあらゆる意味で何の自信もない。ただ右往左往しているだけだからな。
やりきれない気分になって、俺は鞄《かばん》を手にして立ち上がった。
「あら、食べてかないの?」
揶揄《やゆ》するような朝倉の声に無言でもって答え、俺はリビングから忍《しの》び足で出ることにした。
「あ」
台所から出てきた長門と衝突《しょうとつ》しそうになる。長門は重ねた小皿に箸と練りカラシのチューブを載《の》せていた。
「帰るよ。やっぱ邪魔《じゃま》だろうしな」
じゃな、と立ち去りかけた俺の腕《うで》に、羽毛のようにやんわりとした力が加わった。
「…………」
長門が、俺の袖《そで》をそっと指でつまんでいる。まるで生まれたばかりの赤《あか》ん坊《ぼう》ハムスターをつまみ上げようとしているような、小さな力だった。
今にも消えそうな表情だ。長門はうつむいて、ただ指だけを俺の袖に触れさせている。俺に帰って欲しくないのか、朝倉と二人でいるのが気詰《きづ》まりなのか、だがこの消え入りそうな長門の姿を見ているとどっちでもよくなってきた。
「――と思ったが、喰《く》う。うん、腹が減って死にそうだ。今すぐ何か腹に入れないと、家まで保《も》ちそうにないな」
やっと指が離《はな》れた。なんとなく名残惜《なごりお》しい。長門の明確な意思表示なんて普通《ふつう》だったらまず見れない。希少価値がある。
リビングに舞《ま》い戻《もど》った俺を見て、朝倉は解っていたとでも言いたげに目を細めた。
俺の味覚はウマいと絶叫《ぜっきょう》していたが、心の奥底では何喰ってんだか解っていないような気分でひたすらおでんの具を口に詰め込んでいた。長門はちまちました食べ方で昆布《こんぷ》を齧《かじ》り終えるのに三分くらいかけていて、その場で明るく話しているのは朝倉だけで、俺は生返事に終始している。
そんな地獄《じごく》の門前でビバークしているような食事風景が一時間ほど続き、カチコチに肩《かた》が凝《こ》った。
ようやく朝倉は腰《こし》を上げ、
「長門さん、余った分は別の入れ物に移してから冷凍《れいとう》しておいて。鍋《なペ》は明日取りに来るから、それまでにね」
俺もそれに倣《なら》う。縛鎖《ばくさ》から解放された気分だ。曖昧《あいまい》にうなずいていた長門は、うつむいたまま俺たちをドアまで見送りに来た。
朝倉が先に出たのを確認して、
「それじゃあな」
俺は戸口の長門に囁《ささや》いた。
「明日も部室に行っていいか? 放課後さ、ここんとこ他に行くところがないんだよ」
長門は俺をじっと見つめ、それから……。
薄《うす》く、だが、はっきりと微笑んだ[#「微笑んだ」に傍点]。
目眩《めまい》がした。
エレベータで降りている最中《さなか》、朝倉は含《ふく》み笑いを浮《う》かべて言った。
「あなた、長門さんが好きなの?」
嫌《きら》いなわけはない。好きか嫌いで言えば前者だが、もともと嫌いになる理由なんかまったくない。命の恩人でもあるのだ。そうさ。朝倉、お前の凶刃《きょうじん》から救ってくれた長門有希を、俺が嫌うはずはないだろうが。
……とは言えなかった。この朝倉はあの朝倉ではないようだし、長門だってそうだ。ここでは俺だけが気を違えているようで、みんな普通の人間になっちまっている。SOS団はここにはない。
俺が答えないのをどう思ったか、美人の同級生は軽く鼻で笑った。
「そんなわけないか。あたしの考え過ぎよね。あなたが好きなのはもっと変な子なんでしょうし、長門さんには当てはまらないわ」
「どうして俺の好みを知ってんだ」
「国木田くんが言ってたのを小耳に挟《はさ》んだのよ。中学時代がそうだったんだって?」
あの野郎《やろう》、いい加減なことを言いふらしやがる。そいつは国木田の勘違《かんちが》いだ。聞き流しとけよな。
「でも、あなた。長門さんと付き合うんなら、まじめに考えないとダメよ。でないとわたしが許さないわ。ああ見えて長門さんは精神のモロい娘《こ》だから」
朝倉が長門を気にかけるのは何故《なぜ》だ。俺の居た世界の朝倉は長門のバックアップだったからまだ解る。まあ、最後にはトチ狂《くる》って消されてしまったが。
「同じマンションに住んでいるよしみ。なんとなく、放《ほう》っておけない気分なのよね。彼女を眺《なが》めていると危《あや》うい気分になるの。つい守ってあげたくなるような、ね」
解るような、解らないような。
会話はそれだけで、朝倉は五階でエレベータを下りた。505号室だっけな。
「また明日ね」
俺に向けられた朝倉の笑顔《えがお》を、閉じていく扉《とびら》が閉め出した。
マンションから出ると、暗い外の空気は生鮮《せいせん》食品用貯蔵庫のように冷え切っていた。吹《ふ》き下ろしの風が身体《からだ》から熱と熱以外の何かを奪《うば》い去っていく。
管理人のじーさんに挨拶《あいさつ》でもしようかと思ったが、やめた。管理人室のガラス戸は固く閉ざされていたし、電気も消えていた。寝《ね》ちまってるんだろう。
俺もさっさと眠《ねむ》りにつきたい。夢の中だけでもよかった。あいつなら他人の夢に出てくることだって無意識にやってのけるだろう。
「いてもいなくても迷惑《めいわく》なんだから、肝心《かんじん》なときくらい出しゃばってこいよな。たまには俺の願いを聞いてくれてもいいだろうが……」
夜空に語りかけている最中、自分が何を思っているかに気づいて愕然《がくぜん》として、そんな忌々《いまいま》しいことを考えてしまった頭をどこかに打ち付けたくなった。
「なんてこった」
吐《は》いたセリフが白い息となって散っていく。
俺はハルヒに会いたかった。
[#改ページ]
第三章
十二月二十日。
世界がおかしくなって三日目の朝、夢のない眠りから覚めた俺は、相変わらず胃の中に三十ミリ弾《だん》がダース単位で入っているような気分でベッドから身を起こした。掛《か》け布団《ぶとん》の上で寝ていたシャミセンがごろんと転がり落ち、でろんと床《ゆか》で長く伸《の》びた。その腹を軽く踏《ふ》みながら、俺は溜息《ためいき》をつく。
部屋の戸口から妹が顔を覗《のぞ》かせた。覚醒《かくせい》している俺を見て残念そうな表情を作り、
「ねえ、シャミ、喋《しゃべ》った?」
一昨日《おととい》の晩からこればっかり訊《き》きやがる。俺の返答も代わり映《ば》えしない。
「いーや」
足の指にかぶりつく猫《ねこ》の柔毛《じゅうもう》の感触《かんしよく》を味わっていると、自家製「ごはんの歌」を唄《うた》いながら妹がシャミセンを連れ去った。猫はいいよ、飯|喰《く》って寝て毛繕《けづくろ》いするのが仕事だ。一日くらい立場を入れ替《か》えて欲しいものだ。案外、俺が探しているアイテムを簡単に探し当ててくれる可能性もある。
そうだ、鍵《かぎ》はまだ見つかっていない。鍵が何だかも解《わか》らない。プログラム起動条件。今日中に何とかしないと、きっと世界はこのままだろう。もっと悪くなる怖《おそ》れだってある。期限か……。なぜそんなもんを設定した? 長門でも期間限定サービスが精一杯《せいいっばい》なことだったのか?
何も解らないまま、俺は学校に出かける。曇《くも》り空は今にも雪の粉をちらつかせそうな気配を人々の頭上に展開させていた。今年はホワイトクリスマスになるかもしれない。降ったら積もってしまいそうでもある。近年この辺りで積雪を観測したことはないが、今季のこの寒さでは充分《じゅうぶん》あり得るな。そうなりゃきっとハルヒは犬よりも喜んで冬季的なイベントをおっぱじめるだろう。ハルヒがいたら。
途中《とちゅう》で目を奪われるようなものを見ることもなく、いつものように俺は北高に向かい、坂を上がり、一年五組の教室にたどり着いた。気力のなさが体力にフィードバックしているせいで、のろのろ歩いていたから予鈴《よれい》ぎりぎりの着席だ。昨日同様に休みがちな級友たちだが、感心することに谷口は一日休んだだけで済んだようだ。マスクはまだ取れていないが、ちゃんと今日も登校している。こいつがこんな学校好きだったとは初めて知ったよ。
そして今日も後ろの席では、朝倉が意味ありげに微笑《ほほえ》んでいた。
「おはよう」
誰《だれ》にでもそうするように、朝倉は軽やかに挨拶《あいきつ》を口にする。俺は顔つきだけで返礼した。
チャイムが鳴り出すと同時に担任岡部は颯爽《さっそう》と登場、ホームルームが始まった。
なんだか曜日の感覚まで狂《くる》っているような気がする。今日の授業の時間割が俺の覚えている時間割のままなのかどうか、それすら曖昧《あいまい》になってきた。先週の今日と同じだと、今の俺にははっきり断言することも出来ない。昨日と今日の時間割が入れ替わっていたとしても気づけないように思う。やはりおかしいのは俺のほうなのか? 涼宮ハルヒなんてやつは最初からいない。朝倉はクラスの人気者。朝比奈さんは手の届かない上級生で、長門はたった一人の文芸部員。
そっちが正しく、SOS団なんてもんは今までの俺が夢見ていた妄想《もうそう》だったのか。
いかん、考えが後ろ向きになってきた。
一限目の体育、サッカーの紅白試合で自陣《じじん》ゴールを守る気のてんでないディフェンダーを演じ、二限目の数学を適度に聞き流しているうちに休み時間となる。
机につっぷして額を冷やしていると、
「よ、キョン」
谷口だった。マスクを顎《あご》の下にずらして、いつものヘラヘラ笑いを浮《う》かべている。
「次の化学だけどよ、今日は俺の列が当てられる番なんだ。ちょっと教えてくれ」
俺に教えを請《こ》おうとは身の程《ほど》知らずな。互《たが》いの学力レベルなんぞ、とうに解りきった仲だろうが。お前に解らん箇所《かしょ》が俺に解ったためしなどない。
「おい、国木田」
俺はトイレから帰ってきたコンビの片割れを呼んでやった。
「水酸化ナトリウムについて知ってる限りの情報を谷口に伝えてやってくれ。特に塩酸と仲がいいかどうかを知りたいらしい」
「まあまあいいんじゃないかなあ。混ぜたら中和されるからね」
やって来た国木田は谷口の広げた教科書をのぞき込み、
「あ、この問題ね。簡単だよ、まずモルで計算してそれからグラムに当てはめて出すんだ。ええとね、」
解りきった奴《やつ》が当たり前のように難問を解いていく姿には無力感しか覚えない。
谷口はひとしきりふんふんとうなずいていたが、国木田の計算がクライマックスに来たあたりで覚える気がなくなったようだ。俺の机からシャーペンを取り上げて教科書の余白に言われたとおりの数字と記号を書き込んでいる。
それが一段落ついてから、変な感じのする笑みを見せて、
「キョンよ、サッカーやってるときに国木田から聞いたんだが、お前、一昨日《おととい》何やら騒《さわ》いでたんだってな」
一昨日ならお前もいただろう。
「昼休みは保健室で寝《ね》てたさ。午後もダルくてボーっとしてたしよ。今日初めて聞いたぜ。朝倉がいるとかいないとか言って半狂乱《はんきょうらん》だったんだって?」
「まあな」
俺は手をヒラつかせた。とっとと立ち去れという合図だったのだが、谷口はニヤケ面《づら》のままで、
「その場にいたかったぜ。お前が喚《わめ》いたり暴れたりするとこなんぞ、そんなしょっちゅう見れるとは思えねえからな」
国木田も思い出し顔で、
「キョンももう気は確かになったみたいだね。朝倉さんにはつっけんどんだけどさ。彼女と何かあったのかな?」
説明しても頭が爽やかな人|扱《あつか》いされるだけだろう。だから言わない。筋道が通っているじゃないか。
「そういえば、誰かの代わりに朝倉さんがいるのがおかしいっていう話だったよね。その人見つかった? ハルヒさんだっけ。それ、結局誰だったんだい?」
蒸し返さないでくれるか。今の俺はその名を聞くと条件反射でビクってしてしまうんだ。たとえオウムの鳴き声のように単なる反復だったとしてもだ。
「ハルヒ?」
見ろ、谷口も首をひねっている。ひねりながら、こんなことを言った。
「そのハルヒってのは、ひょっとして涼宮ハルヒのことか?」
そう、その涼宮ハルヒの……。
頸骨《けいこつ》がギリギリと音を立てた。俺はゆっくりと同級生のアホ面を振《ふ》り仰《あお》ぎ、
「おい谷口、お前は今、何と言った?」
「だから涼宮だろ。東中にいたイカレ女だ。中学ではずっと同じクラスでなあ。そういや今頃《いまごろ》何してんだろうな。――で、なんでキョンがあいつのことを知ってんだ。朝倉の代わりってどういうことだ?」
目の前が一瞬《いっしゅん》真っ白になり――、
「てめえ、この! タコ野郎《やろう》!」
叫《さけ》びながら俺は飛び上がった。その勢いに恐《おそ》れ入ったか、谷口は国木田とテンポを合わせるように一歩下がって、
「誰《だれ》がタコだ。俺がタコだと言うんならお前なんかスルメがいいとこだ。それにウチは代々|白髪《しらが》の家系だぞ。将来のことを考えるならおめーのほうが危ねー」
うるせえ、余計なお世話だ。俺は谷口の胸《むな》ぐらをつかんで強引《ごういん》に引き寄せ、鼻先が付きそうになるまで顔を近づけた。
「お前、ハルヒを知ってるのか!」
「知ってるも何も、あと五十年は忘れられそうにねーな。東中出身であいつを知らない奴がいたら、そりゃ健忘|症《しょう》の心配をしたほうがいい」
「どこだ」
俺の声は唸《うな》り声さながらだ。
「あいつはどこにいる。ハルヒの居場所はどこだ。どこに行きやがった?」
「なんだよ、ドコドコと。おめーはタイコか。どっかで涼宮に一目惚《ひとめぼ》れでもしたのか。やめとけ。これは親切心で言うんだぞ。あいつはルックスは上級だが性格が破滅《はめつ》している。たとえばだ、」
校庭に白線で意味不明な幾何《きか》学模様を描《か》いたりな。よく解ってるさ。俺が知りたいのは過去のあいつの悪行じゃない。今、ハルヒがどこにいるかなのだ。
「光陽園学院」
と、谷口は言った。水素の原子番号を答えるように。
「下の駅前高校にいるはずだ。まあ、頭はよかったからな。バリバリの進学校にお行きなさった」
進学校?
「光陽園学院って、そんなレベル高かったか? お嬢《じょう》さん女子校だろ」
谷口は憐《あわ》れみの視線で、
「キョン、お前の中学じゃ何を教えていたか知らんが、あっこは前から共学だ。そいで県内有数の進学率を誇《ほこ》る名門だぞ。そんなのが学区内にあっていい迷惑《めいわく》だぜ」
何かと比べられるしな、という谷口の愚痴《ぐち》を聞きながら、手を放した。
なぜこんなことに気づかなかったのか、我ながら切腹ものである。
ハルヒが北高にいなかったことで、てっきり世界のどこにもいないと信じかけるなんて、俺の想像力はたった今カマドウマ以下に決定された。来年の夏に田舎に帰ったら、ともに縁《えん》の下《した》で語り合うのがお似合いだ。
「おい、どうした」谷口はシャツの前をはたきながら、「なあ国木田、やっぱまだこいつおかしいぞ。けっこうヤバイんじゃないか」
何とでも言ってくれ。この時ばかりはまったく気にならない。憎《にく》まれ口を叩《たた》く谷口より、深刻そうにうなずく国木田より、もっと腹立たしい奴《やつ》がいる。
なんて信じがたいハードラックだ。俺の席の近くに東中の奴がいたなら、一昨日の昼休みに谷口が教室にいさえすれば、俺はもっと簡単にハルヒの名を耳にできただろう。誰かが仕込みでもしているのか。出てこい、そいつ。一発|殴《なぐ》らせろ。しかしそれもまた後回しでかまわない。聞くべきことは聞き終えたのだ。なら、次は行動するだけだ。
「どこ行くの? キョン? トイレかい」
国木田の言葉に振り向きながら、それでいて小走りでドアを目指しながら、俺は答えた。
「早退する」
一刻も早く。
「鞄《かばん》も持たずに?」
邪魔《じゃま》だ。
「国木田、岡部に訊《き》かれたら俺はペストと赤痢《せきり》と腸チフスを併発《へいはつ》して死にそうだったと伝えておいてくれ。それから、谷口」
口を開けて俺の行動を見送っていた愛すべきクラスメイトに、俺は心からの感謝を捧《ささ》げた。
「ありがとよ」
「あ、ああ……?」
頭の横で指をクルクル回す谷口をそれ以上見ることなく、かくして俺は教室を飛び出し、一分後には学校を飛び出していた。
急な坂道をハイペースで駆《か》け下り続けるのは難しい。十分ほどは急激にテンションが上がったことで脇目《わきめ》もふらずに走っていたが、心はともかく両足と両肺が酷使《こくし》に抗議《こうぎ》行動を始めやがった。考えてみれば三時間目が終わってからでも充分《じゅうぶん》間に合ったな。この時期なら光陽園学院も半ドンになってるだろうが、終了《しゅうりょう》のチャイムまでに到着《とうちゃく》すればいいのだ。北高からなら散歩気分で歩いたとしても一時間もかからない。
時間配分の失敗に気づいたのは日課となってる強制ハイキングコースを下り終え、私鉄沿線にある私立高校が見えてきた辺りである。校内がしんとしているのは授業中だからだろう。俺は腕《うで》時計を確認《かくにん》する。俺たちの高校とそう違《ちが》っていないだろうから、たぶん今は三時間目だ。てことは門が開くには後一時間以上は楽にある。この寒空の下、手ぶらでボサッと待っていなければならない。
「それとも強引に乗り込んじまうか……」
ハルヒならそうするだろうし最後まで上手くやってしまうんだろうが、いかんせん俺にはその自信がなく、ぶらりと校門のほうへと歩き出して慌《あわ》ててUターンした。閉ざされた門の前に厳《いか》めしい警備員が立っている。さすが私立、金のかかったことをしている。
フェンスをよじ登って侵入《しんにゅう》してもいいが、てっぺんまでかなりの距離《きょり》だし有刺鉄線《ゆうしてっせん》まで付いてたしで、これは大人しく待機していたほうが良さそうだ。無理に押し入ってとっつかまりでもしたら何もかも終わりとなる。ここまで来てゲームオーバーは勘弁《かんべん》して欲しい。ハルヒとは違い、俺は自重すべき時はそうするんだ。
そうして待つこと二時間近く。
聞き慣れないチャイムが聞こえ、しばらくして校門から溢《あふ》れるように生徒たちが吐《は》き出された。
なるほど、谷口の言ったとおりに共学になっている。女子の黒ブレザー姿はそのままだが、彼女たちに混じって男子の黒い詰《つ》め襟《えり》姿が共々に下校の道を急いでいた。女子がセーラーで男子がブレザーの北高とは逆だ。男女の比率はやや女子のほうが多い気がするが……。
「何と、まあ」
男子の中に何人か見た覚えのある奴らがいた。一年九組の生徒たちだ。消えたと思ったら、こっちの高校に来ていたか。たまたまかどうなのか同じ中学出身の奴はいない。顔を知っている奴らも俺には気づかず、ただ胡散臭《うさんくさ》そうな視線をチラリとよこしてすぐ逸《そ》らすのみだった。今の彼らには別の歴史が刻まれているのだろう。北高に通うより幸せな歴史なのかもしれねえな。坂道を登らなくてもいいからな。
俺は待ち続けた。すんなり出会えるかどうか、確率は半々だ。万一あいつが何らかの部活に所属したり、または立ち上げたりして学内に残っているのなら、それまで俺はここで案山子《かかし》になっていなければならない。頼《たの》む。とっとと帰宅の途《と》についてくれ。そして俺の前に現れてくれ。
もし、この光陽園学院に別のSOS団が存在し、俺や他の連中たちの代わりに別の奴らがそこでよろしくやっているのだとしたら……。
そう思うと五臓六腑《ごぞうろっぷ》がデングリ返し的|叛乱《はんらん》を起こしそうになる。俺や朝比奈さんや長門や古泉が用済みってことになってはいまいな。それだと俺は脇役にもなれず、完全なる部外者となってしまうじゃないか。それだけは勘弁して欲しい。誰《だれ》に祈《いの》ればいいんだ。キリストか釈迦《しゃか》かマホメットかマニかゾロアスターかラヴクラフトか、何だっていい。この俺の不安感を取り除いてくれるなら、俺はどんな神話や伝承だって信じてしまえるだろう。街頭の怪《あや》しい宗教団体|勧誘《かんゆう》員にだってついていってしまえる。溺《おぼ》れる者は藁《わら》だってつかみ、そして甲斐《かい》なく泥沼《どろぬま》に沈《しず》む。その気分が今はよく解《わか》るぜ。
苛立《いらだ》ちと焦《あせ》りと後ろ向きな感覚に満ちた十数分が過ぎた。
「……ふーう」
俺の漏《も》らした息の意味を、俺自身にもつかみ取れない。どうして俺はこんな盛大な溜息《ためいき》を明るくつくのだろうね。
いた。
校門から吐き出される黒ブレザーと詰め襟の群れの中に、寿命《じゅみょう》が来るまで忘れようのない女の顔が混じっていた。
髪《かみ》が長い。入学式後の自己|紹介《しょうかい》であらぬことを口走り、クラス中の空気を固体化させたときと同じ、腰《こし》まで届くようなロングヘアだ。しばし見とれてから、俺は指折り数えて曜日を確認する。今日はストレートの日ではない。ここのこいつは髪型《かみがた》七変化をやっていないらしい。
光陽園学院の生徒たちが邪魔《じゃま》そうに左右を通り過ぎていく。立ちつくす他校の男子を彼ら彼女らはどう思っただろうか。どう思われようとかまわない。気にする余裕《よゆう》を俺は失っている。
俺は立ちつくしたまま、近づいてくるブレザー制服の女子生徒を見つめていた。
涼宮ハルヒ。
やっと――見つけた。
不覚にも微笑《ぴしょう》してしまう。発見したのはハルヒだけじゃなかった。
ハルヒの横を歩きながら何やら話しかけている詰め襟の生徒、それは古泉一樹の見飽《みあ》きた微笑みフェイスに相違《そうい》ない。思わぬ付録まで付いてきやがった。
ここでのこいつらは二人仲良く下校するような間柄《あいだがら》なのか。それにしてはハルヒは不機嫌《ふきげん》そうな、俺の記憶《きおく》にある高校入学初期の状態を維持《いじ》している。たまに横を向いてポツリと返答して、またムスっとした顔でアスファルトの地面にややキツイ目を落としている。
以前のあいつだ。SOS団の発足を思い立つまで、学内のどこでもそうしていたような、強い敵が見あたらないことにイラだって力を持てあましている格闘《かくとう》家のような表情が俺にはひどく懐《なつ》かしい。あの頃《ころ》のハルヒもこうだった。ありふれた日常に退屈《たいくつ》していたものの、求めるのに必死で自分で生み出そうとはまだ思いついていない時代のハルヒである。
いや、感慨《かんがい》にふけるのは後回しだ。二人の姿がだんだん近づいてくる。俺に気づいた様子はない。
情けないことに俺の鼓動《こどう》は抑《おさ》えようもなくアップテンポを刻んでいた。いま内科医にかかったら医者が耳から聴診《ちようしん》器をむしり取るくらいのパンキッシュなツービートが聞こえるだろう。このくそ寒いのに汗《あせ》まで惨《にじ》んできやがった。膝《ひざ》が笑っているのは気のせいだと思いたい。ここまで臆病《おくびょう》者ではないはずだ。
――来た。すぐ目の前にハルヒと古泉がいる。
「おい!」
何とか声を発する。
ハルヒの顔が上がり、目が合った。
黒ソックスに包まれた足が止まり、
「何よ」
冷蔵室に付着した霜《しも》のように冷たい視線だった。その視線が俺の全身をさっと一周し、ふいっと視線を逸らして、
「何の用? ってゆうか誰よあんた。あたしは知らない男から、おい、なんて呼ばれる筋合いまるでなしよ。ナンパなら他を当たってくんない? そんな気分じゃないの」
予想していたから衝撃《しょうげき》はそれほどない。やはりここのハルヒは俺と出会ってはいないのだ。
古泉も立ち止まって俺に無感動な目を向けている。俺のことなど見たこともないし一度たりとも会ったことなどあるわけがない、と言いたげな顔だった。
その古泉に声を掛《か》ける。
「お前とも、初めましてになるのか」
古泉はひょいと肩《かた》をすくめた。
「そのようですね。どちら様でしたでしょうか」
「ここでもお前は転校生なのか?」
「転校してきたのは春頃ですけど……なぜそれを?」
「『機関』という組織に思い当たることはないか」
「キカン……ですか? どういう字をあてるのでしょう」
当たり障《さわ》りのない無意味な笑《え》みは見知ったこいつのものだ。だが俺を見る目には警戒《けいかい》心が現れている。こいつも朝比奈さんと同じだ。俺を知らない。
「ハルヒ」
びく、とハルヒは頬《ほお》を動かし、あの大きな黒い瞳《ひとみ》で睨《にら》んでくる。
「誰《だれ》に断ってあたしを呼び捨てにするわけ? なんなのよ、あんた。ストーカーを募集《ぼしゅう》した覚えはないわ。そこどいてよ、邪魔なんだから」
「涼宮」
「名字だってお断り。だいたい何であたしの名前を知ってるのよ。東中出身? 北高よね、その制服。なんでこんなとこにいんの?」
ふん、とハルヒはそっぽを向き、
「かまわないわ、古泉くん。無視しましょ。こんな失礼な奴《やつ》にかまうことない。どうせただのアホな奴よ。行きましょ」
なぜハルヒと古泉が並んで通学路を歩いているのか、こっちでは古泉が俺の役割を課せられているのか。そんなことが頭をかすめたが、取り急ぎ考えることはそれじゃない。
「待ってくれ」
俺を避《さ》けて歩き出そうとしたハルヒの肩をつかんだ。
「放しなさいよ!」
ハルヒは腕《うで》を振《ふ》って俺の手を振り払《はら》う。本気の怒《いか》りがハルヒの顔に浮《う》いている。だがこの程度でむざむざこいつを見過ごすことはできない。何のためにここまで来たのか解らないだろ。
「しつこいわよ!」
すっと沈《しず》み込んだ体勢から、ハルヒは感心するほど流麗《りゅうれい》なフォームでローキックを放った。俺の踝《くるぷし》に激痛が走り抜《ぬ》け、いっそ悶絶《もんぜつ》したくなったが、のたうち回るのは当分保留だ。何とか立ち位置を確保しつつ、俺は心身共に悲痛な思いで言った。
「一つだけ教えてくれ」
我ながら勇気を振り絞《しぼ》らなくてはならなかった。これでダメならまったくどうしようもない。最後の希望――これから放つのは、そんな質問だ。
「三年前の七夕を覚えているか?」
立ち去りかけていたハルヒがピタリと止まる。長い黒髪《くろかみ》の後ろ姿に、俺は言葉を重ねた。
「あの日、お前は中学校に忍《しの》び込んで校庭に白線で絵を描《か》いたよな」
「それが?」
振り向いたハルヒは怒《おこ》った顔つきをしている。
「そんなの、誰だって知ってるわ。だからどうだっていうのよ」
俺は言葉を選びながら、それでも早口で言うことにした。
「夜の学校に潜《もぐ》り込んだのはお前だけじゃなかったはずだ。朝比奈……女の子を背負った男が一緒《いっしょ》にいて、お前はそいつと絵文字を描いた。それは彦星《ひこぽし》と織姫宛《おりひめあて》のメッセージだ。内容はたぶん 『わたしはここにいる』――」
続く言葉を発することができなかった。
伸《の》び上がったハルヒの右手が、俺のネクタイをひっつかんで思い切りしめ上げたからである。恐《おそ》ろしい力で引き寄せられ、前のめりの体勢を強《し》いられたあげく、額をハルヒの石頭に思い切りぶつけた。
「ってえな!」
クレームをつけようと睨みつけると、相手もこっちを睨んでいた。すぐ間近から鋭《するど》い眼光が俺の目へ脇目《わきめ》もふらずに飛んでいる。なんだか久しぶりに見るな。ハルヒの怒り顔っていうのもさ。
半ギレ女は戸惑《とまど》ったような声で、
「どうして知ってんのよ。誰から聞いたの? いいえ、あたし誰にも言ってない。あのときの……」
セリフを切り、ハルヒは表情を変化させて俺の制服を注視した。
「北高……まさか。……あんた、名前は?」
胸元《むなもと》をつかまれているから息苦しい。バカ力女め。だが今は、変わっていないハルヒパワーをしみじみ懐《なつ》かしんでいる場合ではない。俺の名前。未《いま》だかつて一回もこいつから呼ばれたことのない本名を言うべきか、すっかり定着してしまった間抜けなニックネームで答えるべきか。
いや、いずれにせよ今のこいつには通じまい。どっちも聞いたことのない名称《めいしょう》のはずだ。ならば、俺が名乗るべき固有名詞はこれしかない。
「ジョン・スミス」
なるべく冷静な口調を保ったつもりだが、なにしろ吊《つる》し上げをくっている最中《さなか》だ。やや苦しげになってしまったのは容赦《ようしゃ》して欲しいね……と思っていたら、次の瞬間《しゅんかん》、胸ぐらを圧迫《あっぱく》していた強固な力が消え失せた。
「……ジョン・スミス?」
ネクタイから手を離《はな》し、ハルヒは呆然《ぽうぜん》とした顔で片手を空中で静止させていた。いま俺は滅多《めった》に拝むことのできないものを見ているぞ。涼宮ハルヒが死神に魂《たましい》を抜かれたかのように、口をポカンと開けているのだ。
「あんたが? あのジョンだって言うの? 東中で……あれを手伝ってくれた……変な高校生……」
不意にハルヒはよろめいた。漆黒《しっこく》の長髪《ちょうはつ》を顔の前になびかせてグラリと傾《かたむ》きかけるところを、古泉が腕を伸ばして支えてやる。
繋《つな》がった。
手伝ったというかほとんど俺の仕事だったじゃねえか――と反論して時間を無駄《むだ》にするつもりはない。そうだ、俺はとうとう手がかりを見つけることができたのだ。おかしくなっちまった世界でたった一人、過去の記憶《きおく》を共有している人間を。
やっぱりお前か。
他《ほか》の誰《だれ》でもない、涼宮ハルヒ。
このハルヒが三年前の七夕に俺に出会っているというのなら、そこから三年後のこの世界はその時点から地続きのはずだ。何もかもが「なかったこと」になっているわけじゃあない。俺が朝比奈さんと三年ほど時間をさかのぼり、長門の力によってまた元の時間に復帰できた、その歴史は確かにあったのだ。どこから違《ちが》ってしまったのかはまだ解らないが、少なくとも三年前まではこの世界は俺の知っている世界としてあったのだ。
いったい何が生じて俺だけが正気で紛《まぎ》れ込んでしまったんだ?
だが、それを考えるのも後にしよう。
ハルヒの絶句という世にも珍《めずら》しいものを見ながら俺は言った。
「詳《くわ》しいわけを話したい。これから時間あるか? ちょっとばかり長い話になりそうなんだ……」
三人で肩《かた》を並べて歩いている最中にハルヒが言った。
「ジョン・スミスには二回会ったわ。あの後すぐ、あたしが家に帰ろうと道歩いてたら、後ろから声かけてきたの。なんて言ってたかしら……あ、そう! えーとね、『世界を大いに盛り上げるためのジョン・スミスをよろしく!』って叫《さけ》んでた。どういう意味だったの?」
そんなことはしていない。グラウンドからハルヒが消えるのを確認《かくにん》した後、俺は朝比奈さんを起こすとそのまま一緒に長門のマンションへ急いでいたからだ。他にもいたのかジョン・スミス。しかしよりにもよって、なんてことを言いやがったんだ、そのジョン・スミスは。
まるでハルヒに余計な入れ知恵《ぢえ》をするために叫んだようなものじゃないか。
「それは東中で会ったのと同じ奴《やつ》だったか?」
「遠かったもん。暗いしさ。どっちも顔は覚えてないわ。でも声と雰囲気《ふんいき》はそうね、あんたと似ているかも。北高の制服だったし」
何だかややこしいことになってきた。せっかく繋がったと思ったら、まだズレているのか。
とりあえず近くにあった喫茶《きっさ》店に入る。どうせならいつもSOS団が集合場所に使う駅前の御用達《ごようたし》喫茶がふさわしく思ったが、ここからではちょっと遠い。
「俺の知っているお前は北高にいて、入学式の後にこんなことを言ったんだ……」
注文の品が届く前から俺は説明を開始、運ばれてきたホットオーレが一気のみできるくらいに冷め切る頃《ころ》には、ほとんどを包《つつ》み隠《かく》さずダイジェストで話していた。宇宙人に未来人、超能《ちょうのう》力者《りょくしゃ》が揃《そろ》うSOS団。文芸部の部室。
特に七夕の時間旅行は念入りに語った。そこが一番大事な部分だと思えたからだ。
ぼかしたのはハルヒが神だか時空の歪《ゆが》みだか進化の可能性だかというところだ。どれが本当とも定かではないからな。単にハルヒに奇妙《きみょう》な潜在《せんざい》的パワー、世界を変えることができるかもしれない不確かな能力があるらしいと言うだけにとどめておく。
それでもこいつの気を引くには充分《じゅうぶん》すぎたようで、しきりに考え込むそぶりを見せた後に言った。
「どうしてあたしが考えた宇宙人語が読めたの? あたしならここにいるから早く現れなさいって書いたつもりなのは確かだけど」
「翻訳《ほんやく》してくれた奴がいたんだよ」
「それが宇宙人?」
「宇宙人に造られた対人類コミュニケート用ヒューマノイドインターフェイス……だったかな」
俺は長門有希に関するおおよそのことを話してやる。文芸部室のオマケだと思ってたら意外な設定を秘《ひ》めていた無表情の読書好き。それから朝比奈さんのことも教えてやる。等身大着せ替《か》えマスコット兼《けん》宣伝係兼部室専用メイドにして実態は未来人。俺は彼女に付き合って三年前の七夕の夜に時間旅行した。帰りは長門の世話になった。
「その時のジョンが、あんたなわけか。うん、信じてみても悪くないわね。そうか、タイムトラベルかあ……」
ハルヒは未来人を見るような目でまじまじと俺を見つめ、小さくうなずいた。
やけに理解が早いな。まさかこうも簡単に信じてくれるとは思っていなかった。だって以前、二人きりの不思議市内探訪をやった時には例の喫茶店でお前は俺の話をまるで信じなかったんだぜ。
「そのあたしは本当にバカね。あたしは信じるわよ」
ハルヒは身を乗り出して、
「だって、そっちのほうが断然|面白《おもしろ》いじゃないの!」
大輪の花を咲《さ》かすような笑顔に見覚えがある。俺が初めて見たハルヒの笑顔だ。英語の授業中にSOS団設立を思いついた時に浮かべていた、百ワットの笑みだった。
「それにさ、あたしあれから北高の生徒を全員調べたのよ。張り込みだってしたわ。でも、ジョンみたいな人はいなかった。もっと顔をよく見ておいたらよかったって思った。そう、三年前にはあんたは北高にいなかったのね……」
当時の俺は二パターンいた。一人は中学生活を漫然《まんぜん》と過ごしている俺。もう一人は長門の家の客間で朝比奈さんとともに時間を凍結《とうけつ》されていた。
ついでにこいつのこともご注進しておこう。
「そこにいる古泉が超能力者だった。お前にはいろいろ世話になったし、世話もしたぜ」
「それが本当だとしたら、驚《おどろ》くべき話です」
優雅《ゆうが》にカップを傾《かたむ》ける古泉は、半信半疑の目の色をしている。
俺はハルヒに向き直り、
「どうして北高に来なかった?」
「別に理由はないわ。七夕のことがあったからちょっぴり興味はあったけど、あたしが進学する頃にはジョンも卒業してるだろうし、だいいち探してもどこにもいなかったしさ。それに光陽園のほうが大学進学率が高くてね、中学の担任がぜひこっちにしろってうるさかったのよ。面倒《めんどう》だからそうしてやったわ。高校なんかどこでもいいと思ってたもん」
古泉にも水を向けてやる。
「お前はどうしてだ。なぜそっちの学校を選んで転校したんだ」
「なぜと言われましても涼宮さんと同じです。自分の学力レベルに見合ったところに行ったまでですよ。さして北高が悪いとは言いませんが、光陽園学院のほうが校舎も設備も充実していたものですから」
北高にはエアコンもないからな。
ハルヒが溜息《ためいき》をついた。
「SOS団か……。楽しそうね、すっごく」
おかげさまで。
「あなたの言葉を信じるならば」
横から口出ししてきたのは古泉だ。如才《じょさい》ないスマイルを若干《じゃっかん》抑《おさ》えたシタリ顔で、
「聞いた限りにおいて、あなたが陥《おちい》った状況《じょうきょう》を説明するには二通りの解釈《かいしゃく》が上げられます」
いかにも古泉が言いそうなことだった。
「一つはあなたがパラレルワールドに移動してしまった、というものです。元の世界からこの世界へ。二つ目の解釈は世界があなたを除いてまるごと変化してしまったということですね」
それは俺も考えたさ。
「しかし、どちらにも謎《なぞ》は残ります。前者の場合ですと、ではこの世界にいた別のあなたはどこに行ったのかが謎ですし、後者ではなぜあなただけが放置されたのかが解《わか》りません。あなたに不思議な力があるのならそれはそれで説明できますが」
ない。断言する。ない。
古泉は小憎《こにく》らしいほどスタイリッシュなアクションで肩《かた》をすくめた。
「パラレルワールド移動ならば、あなたは元の世界に戻《もど》る方策を探す必要があります。世界改変の場合では世界を元に戻すための方法論が必要です。いずれにしても早期解決の道はそれをおこなったのは誰《だれ》かを突《つ》き止めることですね。その行為《こうい》者なら元に戻す方法も知っている可能性が大ですから」
ハルヒ以外に誰がいるんだ。
「さあ、異世界からの侵略《しんりゃく》者が地球を舞台《ぶたい》に遊んでいるのかもしれませんね。案外そこらから突然《とつぜん》、悪そうな敵キャラが出てくるのかもしれませんよ」
本気で言っていないのは一目|瞭然《りょうぜん》だ。古泉はあからさまに投げやりな口調をしている。しかしハルヒは気づいていないのか、目を爛々《らんらん》と輝《かがや》かせていた。
「その長門さんと朝比奈さんって人にも会ってみたいわ。そうね、その部室にも行ってみたい。世界を変えたのがあたしだったら、そしたら何か思い出すかもしれないでしょ。ね、ジョン、あんたもそのほうがいいわよね?」
まあ、そうだな。反対する理由はない。この現象がこいつの仕業《しわざ》だったなら――俺はそう思っていたが――それで何かを感じてくれるかもしれないし、長門と朝比奈さんも俺のことを思い出してくれるかもしれない。宇宙人と未来人の手先が正気を取り戻してくれたら、たぶんこの事態を打開する方法も見つかる。で、ジョンってのは俺のことか。
「キョンだっけ? それよりマシじゃない。ジョンのほうがよっぽど人の名前をしてるわ。欧米《おうべい》ではありふれた名前よ。誰がつけたの? キョンなんていうダサダサなニックネーム。あんた、よっぽどバカにされてるのね」
命名者は親戚《しんせき》のおばちゃんで広めたのは妹だが、それでもハルヒの罵倒《ばとう》が心地《ここち》よく聞こえるのはなぜだろう。そんなに久しぶりというわけでもないのに。
「じゃ、行きましょ」
ほとんど口を付けていないダージリンティーを惜《お》しみもせず、ハルヒは光陽園学院|謹製《きんせい》の鞄《かばん》を手にした。
一応、尋《たず》ねてみた。
「これから? どこに」
すっくとハルヒは立ち上がり、傲然《ごうぜん》と俺を見下ろしながら叫《さけ》んだ。
「北高に決まってるでしょ!」
宣言するが早いかハルヒは喫茶《きっさ》店を競歩しながらスキップするみたいな足取りで出て行った。自動ドアが開くのも待ちきれないといった勢いだった。
実にあいつらしい振《ふ》る舞《ま》いで、俺はそこはかとなく安心する。
さすがだな、ハルヒ。お前はいつもそうだったよ。思いついたらその二秒後には行動しているんだ。それでこそお前だ。部室の扉《とびら》を蹴飛《けと》ばすように開けて登場するたび、お前は突然の決定を俺たちに知らせるんだ。驚《おどろ》かないのは長門くらいで……
「しまった」
腕《うで》時計に目を落とす。とっくに放課後になっている時刻である。昨日長門のマンションでした約束を忘れていた。明日も部室に行くと言ったのに、これでは遅刻《ちこく》だ。ドアのノックを一人で待つ長門のしょんぼりした姿が容易に想像できる。ちょっと待っててくれ。すぐにとんぼ返りするからさ。
残された伝票を古泉がすくい上げ、
「僕が奢《おご》るのは涼宮さんの分だけですよ?」
俺のも奢ってくれたらお前に教えてやってもいいのだが。
「ほう。何でしょう」
かつてこいつから聞いた話をそのまま返してやった。手短に。人間原理がどうしたとかいうハルヒ神様説。いかにしてこいつがハルヒの先回りにやっきになっていたかを。孤島《ことう》での自作自演等々。
考え込む古泉に、俺は改めて問うた。
「やったのはハルヒか、他にこの状況《じょうきょう》を生み出した奴《やつ》がいるのか。どっちが正解だと思う?」
「あるいは、あなたの言う涼宮さんが本当に神様みたいな力を持っているのであれば、その彼女がしたのかもしれません」
他に該当《がいとう》者を思いつかないからな。しかし、そうだとしたらハルヒは古泉だけを側《そば》に呼んで俺と長門と朝比奈さんをほったらかしたことになる。自分で言うのも何だが、ハルヒが俺たち以上に古泉に執着《しゅうちゃく》を持っていたとは思えない。これもハルヒの無意識がなせるワザなのか。
「選ばれて光栄、と言うべきでしょうね」
古泉はくっくと笑って、
「なぜなら僕は……そうですね。僕は涼宮さんが好きなんですよ」
「……正気か」
冗談《じょうだん》だろう?
「魅力《みりょく》的な人だと思いますが」
どこかで聞いたようなセリフだ。古泉は真面目《まじめ》な口調で、
「でもね、涼宮さんは僕の属性にしか興味がないのです。転校生だという、ただそれだけの理由で喋《しゃべ》るようになったのですよ。なんせ普通《ふつう》の転校生なもので、最近|飽《あ》きられつつあるようですが。SOS団でしたか、そこでのあなたにはどんな属性が有ったんですか? ないのだとしたら、それは涼宮さんが本当にあなたを気に入ったということですよ。そこでの涼宮さんが僕の知る涼宮さんと同じ人格だったとしての仮定ですけどね」
今も昔も、俺には履歴書《りれきしょ》に書いたら病院行きを宣告されるような肩書《かたが》きはないのさ。知らず知らずおかしなことに巻き込まれるという使えない特技を除いては、な。
ハルヒがドアから顔を出して実にいい笑顔《えがお》で怒鳴《どな》った。
「何してんの、早く来なさい!」
古泉が三人前の飲料費を精算するのを待って、俺は暖房《だんぼう》の心地よい喫茶店から息の白くなる外界へと軽やかな第一歩を踏《ふ》み出した。
店の前にタクシーが止まっている。ハルヒが呼び止めたらしい。どうやっても素早《すばや》く北高に行きたくてたまらないようだ。ちなみに俺がたびたび古泉と乗ったどこかで見たような黒塗《くろぬ》りタクシーではない。普通のイエローキャブである。
「北高まで、全速力で!」
乗り込みながらハルヒが運転手に命じた。次に俺、最後に古泉が後部座席に収まる。小娘《こむすめ》の命令口調に初老運転手は気を悪くする気配も見せず、苦笑《くしょう》する様子で緩《ゆる》やかにアクセルを踏み込んだ。
「北高に乗り込むのはいいけどさ」と俺はハルヒの横顔に言った。「その格好じゃ、さすがに目立つぜ。他校の生徒が入り込むには多少の理由が必要だ。教師連中に見つかったら、少しは面倒《めんどう》なことになる」
ハルヒは黒ブレザーの上下で、古泉は学ランだ。短縮授業で午後にそれほど生徒が残っているわけではないとは言え、セーラー服と紺《こん》ブレの中にこいつらが飛び込んでいくのはいかにも部外者ですと大っぴらに宣言しているようなものだ。
「それもそうね……」
ハルヒは三秒ほど考えて、
「ジョン、あんた今日体育の授業あった? いいえ、なくてもかまわないわ。体操着を教室に置いてたりしてない?」
ちょうどいい具合に、今日は一限がサッカーだった。
「じゃ、体操着とジャージはあるのね?」
あるが、それがどうした。
ハルヒはニンマリと笑い、
「作戦を伝えるわ。ジョン、古泉くん、ちょっと顔を貸しなさい」
タクシーの運転手に聞かれても困ることはないだろうに、俺たちに顔を寄せさせてハルヒは作戦とやらを囁《ささや》いた。
「お前らしいよ」
と俺は応《こた》えて、眉《まゆ》を寄せる古泉の複雑な表情を見《み》遣《や》った。
北高近くで車を降りた俺は、まず自分の教室にとって返した。ハルヒが考案した北高|侵入《しんにゅう》作戦の準備のためだ。
ちなみにタクシー代は古泉に任せきりである。ここでのあいつはハルヒの財布代わり的ポジションに甘んじているようで、罰《ばつ》ゲームでもないのにご苦労なことだと思うね。本気でハルヒに恋愛《れんあい》感情を抱《いだ》いているのか? いったいどこに惚《ほ》れたのか聞いておきたいが、そういやハルヒは異常な行動にもかかわらず中学時代にやたらモテたと谷口が言ってたな。まあ北高でもSOS団なんて立ち上げなければ、あの女は誰彼《だれかれ》かまわず告白の列をバッサバッサと切り捨てていた可能性もある。ならばSOS団はハルヒにとって格好の風よけの役割を果たしていたとも言える。あんな謎《なぞ》クラブの首領として君臨してれば、たいていの常識的な男は暴投を見逃《みのが》すバッターのように回避《かいひ》行動に移るさ。バットを振《ふ》って三振《さんしん》や頭部|直撃《ちょくげき》のデッドボールより、四回見逃して一塁《いちるい》ベースに歩くほうがまだいいもんな。
そんなことを考えながら最上階を目指す。
校舎の中に人影《ひとかげ》は少ないが皆無《かいむ》というわけでもなく、帰宅してもすることのない奴《やつ》らが部活のために残っている姿が散見された。さいわいにして、一年五組の教室には誰もいなかった。そういや俺だって担任岡部に見つかってはマズいのだ。無断早退したやつがノソノソと戻《もど》ってきたのを発見すれば、俺でも理由が知りたくなる。
誰がやってくれたのか、俺の机の上は綺麗《きれい》に片づいている。朝倉かもしれない。出しっぱなしだった筆記用具やノートがどこかと見ると、きちんと仕舞《しま》われており、鞄《かばん》だけが机の横に引っかかっていた。目当てのブツはその鞄の反対側にぶら下がっている。
「色んなことを考える奴だ」
俺はハルヒへの感嘆《かんたん》を呟《つぶや》きながら体操着入れを持ち上げた。このデカめの巾着袋《きんちゃくぶくろ》の中には今日の一限でも使用した半袖《はんそで》のトレシャツと短パン、ジャージの上下が入っている。タクシーで来る途中《とちゅう》に聞いたハルヒ案による侵入作戦、それは「北高生に変装すればいいのよ」という至極《しごく》もっともなものであった。「古泉くんがあんたの体操着着て、あたしがジャージを穿《は》くのね。それで走りながら堂々と入っていったら、ロードワークから帰ってきた運動部員だと誰だって思うわ。うん、ばっちし」
昆虫《こんちゅう》が擬態《ぎたい》するように自分たちもそうしようというわけだ。それでも帰宅途中の北高生を男女一人ずつ襲《おそ》って制服を剥ぎ取るよりは随分《ずいぶん》とマシである。
「それでもよかったわね」
校門を出てしばらく行った曲がり角で、俺を待っていたハルヒはケロリとコメントした。体操着袋を受け取りながら、
「むしろそっちのほうが見とがめられにくいわ。あんたも、そんなナイスな考えを思いついたんならさっさと言いなさいよ」
そんな追い剥ぎじみたことができるか。
ハルヒは袋の紐《ひも》を緩めると、遠慮《えんりょ》が微塵《みじん》もない動作で逆さにした。四枚の衣類がアスファルトにボトリと落ちる。
「ちゃんと洗濯《せんたく》してるでしょうね」
一週間くらい前にな。
「ところで涼宮さん」
古泉は所々に泥《どろ》が染《し》みついている俺の体操着上下に、追いつめられた砂ネズミがモンゴル虎《とら》を見るような目を向けていたが、
「どこで着替《きが》えましょうね。近くに遮蔽《しゃへい》された空間があればいいのですが」
「ここでいいじゃん」
ハルヒはあっさりと答え、自らジャージの下を取り上げた。
「人通りもないし、寒いのはちょっとだけよ。ああ、安心して。あたしなら後ろを向いてるから。ジョンもそうしなさい。壁《かべ》役になるの」
俺に流し目を送っているのは何のつもりだ。
「あたしは見られてても全然かまわないしね」
ニカリと笑いながらジャージのズボンに足を突《つ》っ込み、そのままスカートの下に穿《は》いてしまうと、
「そんなに足が長いとも思えないけど」
しゃがみ込んで両足の丈《たけ》を折り返して長さを調節、再び立ち上がってスカートのホックを外した。ためらいもなく腰《こし》からスカートをストンと落とし、黒ジャケットも脱《ぬ》ぎ捨て、ついにブラウスのボタンに手をかけたあたりで俺は横を向いた。
「別にいいわよ。下にTシャツ着てるもの」
ジャケットとスカートの上にハラリと落ちるブラウスを、視線の端《はし》に引っかけながら目を戻す。白い半袖無地Tシャツと俺のジャージパンツを身にまとったハルヒが得意げに胸を反らし、長い髪《かみ》を風にたなびかせていた。それを眺《なが》めているうちに、なんとなくもう一度見てみたいと思っていた絵姿を思い出した。
「なあ、ポニーテールにしてみないか?」
ハルヒはきょとんと俺を見つめ、
「なんで?」
別に意味なんかないさ。ただの俺の趣味《しゅみ》だ。
ふん、と鼻を鳴らしつつハルヒは満更《まんざら》でもなさそうに、
「簡単そうに見えるかもしれないけど、ちゃんとするの、けっこう面倒《めんどう》なのよ」
言いながらも、ハルヒは地に落ちた黒ジャケットのポケットから髪留めゴムを取り出して、長い黒髪を器用に後頭部でまとめあげた。
「まあね、このほうが運動部らしいかもね。これでいい?」
ばっちりだ。俺の目には魅力《みりょく》度三十六パーセント増になったように見えるぜ。
「バカ」
他《ほか》にどういう反応をしていいのか解《わか》らなくなったとき、こいつはとりあえず怒《おこ》った顔を形作るのである。とっくに学習済みだ。
遅《おく》れることしばし、古泉の着替えも完了《かんりょう》した。この寒空の下で半袖短パンはさぞ涼しかろう。しかもそれが他人の体操服ともなれば格別の気分に違《ちが》いない。古泉は肌《はだ》を粟立《あわだ》てながら、
「涼宮さん、そのジャージの上着は羽織らないんですか? でしたら僕に貸して欲しいのですが」
同じように二の腕《うで》を剥《む》き出しにしているのに、ハルヒは寒気を吹《ふ》き飛ばすような笑顔で、
「これはダメ。鞄《かばん》を隠《かく》すのに使うから。せっかく格好を似せたのに持ってる鞄で正体が割れちゃ片落ちと言うものだわ」
確かに光陽園学院の通学鞄は北高の物とは微妙《びみょう》に異なる外観をしている。ハルヒはジャージの上衣を風呂敷《ふろしき》みたいに広げると自分と古泉の鞄を包み込み、俺に持つよう命じた。脱いだ二人分の制服は体操着入れへと直行する。これも俺が持たされた。
「じゃあ、これから」
ハルヒは脇《わき》を締《し》めて両手を腰にあてがった。
「いかにもマラソソから帰ってきた感じで走るわよ。いいわね!」
そりゃいいけどさ。俺はどうなんだ。こんな荷物を抱《かか》えて、しかも制服姿でロードワークに出ている運動部員ってのは何者だよ。
「マネージャーってことにしときゃいいでしょ。それ、ファイト! いちにっ、ファイト! いちにっ」
走り出したポニーテールを、一瞬《いっしゅん》顔を見合わせてから同時に肩《かた》をすくめた俺と古泉が追いかける。
俺もこの古泉もよく知っている。あらゆる意味で走り出したハルヒを止めることなど、あらゆる状況《じょうきょう》で無理なのだ。なら、後を追うしか選択肢《せんたくし》は他にない。
な、いつもそうだったろ?
いいのか悪いのか、北高の校門は山の下の私立と違ってほとんど常時開放状態である。警備員などどこを探してもいない。何の問題もなく素通《すどお》りし、ハルヒの掛《か》け声を聞きながらの短い偽装《ぎそう》マラソンはすぐ終了《しゅうりょう》、ゴール地点の玄関《げんかん》に無事たどり着いた。ハルヒと古泉を我が校舎へと招き入れるのにこんな手間がかかるとは、三日前までお前らは普通《ふつう》の顔してここに通っていたんだぞ。
「しょぼい校舎ねえ。この壁なんてプレハブじゃないの? 県立ってこんな貧乏《ぴんぽう》なわけ? 受験しなくて正解だったかも」
もっともな感想を聞きながら俺は立ち並ぶ下駄《げた》箱から目を離《はな》した。上履《うわば》きに履き替《か》え終え、さて二人の分をどうするかと来客用スリッパが落ちてないか探していたのだが、ハルヒはお構いなしだった。手近な下駄箱を開けて誰《だれ》とも知らない北高生の上履きを引きずり出している。
何もかもがハルヒのやりそうなことで、俺は自分でも知らないうちに変な笑みを浮《う》かべていたようだ。
「なに笑ってんの? すごいバカみたいな顔に見えるわよ。あたしは笑われるようなことをやってないんだからね」
言われて口元を改める。確かにそうだ。ハルヒの暴挙はともかくとして、笑っている場合では全然ない。
たぶん似たようなサイズだろうと思い、古泉には谷口の靴《くつ》を放《ほう》ってやった。
「恐《おそ》れ入ります」
ちっとも恐れ入っていない口調で礼を言いながら古泉は靴を履き替えた。元々履いていたスニーカーは谷口の下駄箱へ押し込んでやる。
俺はジャージにくるまれた二人の鞄を小脇《こわき》に抱え直し、
「案内する。ついてきてくれ」
「ちょい待ち」
歩き出そうとするとハルヒから制止を受けた。無意識にか、ポニーテールの先を指に絡《から》めている。
「長門さんっていう宇宙人は文芸部にいるのね?」
今では元宇宙人の一女子高生みたいなものだが、それでもあいつは俺が行くまで一人で待っていると思う。
「その長門さんは逃《に》げそうにないわね。先に朝比奈さんっていう未来人を捕《つか》まえに行きましょう。彼女はどこ?」
もう帰っちまってるんじゃあ……、と思ったところで閃《ひらめ》いた。俺のインスピレーションもまだまだ捨てたものではない。記憶《きおく》に探《さぐ》りを入れるまでもなかった。俺を知らないと言い切ってくれた朝比奈さんは書道セットを持っていたよな。でもってSOS団に拉致《らち》される前の彼女は書道部に在籍《ざいせき》していた。なら、ここでは今でもそうかもしれない。
「わかった。こっちだ」
長門すまん。もうちょっとだけ待っててくれ。書道教室を経由して行くからさ。書道部が本日|開催《かいさい》していることを祈願《きがん》しつつ、俺の足は自然と速まった。
その部屋のドアを開いたのはハルヒである。ノックなどという奥ゆかしさとは無縁《むえん》の奴《やつ》であり、俺にもその無礼を回避《かいひ》すべく働きかけるような気を回す余裕《よゆう》がなく、古泉は居心地《いごこち》悪そうに廊下《ろうか》に立ちつくしていた。
書道教室には三人の女子生徒がいて、書き初《ぞ》めのリハーサルに励《はげ》んでいるようだった。
「朝比奈さんってのはどれ?」
「……はい?」
こっちを見て目を見開いている三人の中で、ひときわ小さな人影《ひとかげ》が頼《たよ》りなさそうな声を唇《くちびる》から漏《も》らした。
「なんでしょう……」
椅子《いす》にちょこんと座っている朝比奈さんは、手にした筆を空中で止めている。
俺はハルヒの肩越《かたご》しに室内をさっと確認《かくにん》した。ホッとすることに鶴屋さんはいない。彼女は書道部ではなかったのだっけ。
耳元でハルヒが囁《ささや》いた。
「あの娘《こ》がそうなの? ほんとに二年生? 中学生に見えるけど」
「俺にも中学生に見えるが、彼女で合ってる。間違《まちが》いなく朝比奈みくるさんだ」
聞くなりハルヒはずかずか踏《ふ》み込んで、毛筆を構えた姿勢で固まっている小柄《こがら》な天使にデタラメを放った。
「生徒会情報室室長の涼宮です。朝比奈みくるさん、あなたに訊《き》きたいことがあるので来ました。ちょっと出頭してちょうだい」
Tシャツとジャージ姿でよく言うよ。
朝比奈さんは目をぱちくりさせて不安そうな声、
「生徒会……じょうほうしつ? 何ですかそれ……わたし何も」
「いいからいいから」
筆を奪《うば》って書きかけの半紙の上に転がすと、ハルヒは朝比奈さんの腕《うで》を握《にぎ》って強引に立ち上がらせた。他の女子部員さんたちは恐れをなしたか、まだ驚《おどろ》きの最中《さなか》なのか何も言ってこない。鶴屋さんがここにいたらハルヒとの異種|格闘技《かくとうぎ》戦を観《み》ることができたかもしれないが、ともかくハルヒは朝比奈さんの腰《こし》に手を回してガッチリ固定し、有無を言わせず連行してきた。
「あなた……。めちゃ胸デカいわねえ。うん、いいキャラしてる。気に入ったわ」
ハルヒは嬉《うれ》しそうに、捕まえた他校の上級生の胸をまさぐっていた。
「ひぃゃ! わわ、あのその……あっ!?」
入り口で待機していた俺を見た朝比奈さんがさらに目を大きくする。いつぞやの変態がまた現れたとか思われてんのかな。朝比奈さんは廊下で寒そうに足踏《あしぶ》みする古泉にも驚きの視線を投げかけ、古泉は他人を見るそのままの目で朝比奈さんを一瞥《いちべつ》して、
「一応、怪《あや》しいものではないつもりです。僕はね」
そんな格好でここまで来といて部外者|面《づら》しても通用せんぞ、古泉。
ハルヒはわたわたする朝比奈さんを、出かけ先が歯医者だと悟《さと》った子供の逃走《とうそう》を防ぐ母親のように抱《かか》えて、
「さあ、ジョン。残るは長門さんとやらよ。その彼女のところまで案内なさい」
言われるまでもない。
目ざとい同級生や俺の無断エスケープを知る教師どもに発見されないうちに、俺たちはそこに行かねばならない。
通称《つうしょう》旧館、部室|棟《とう》三階にあるSOS団|本拠地《ほんきょち》、正式には文芸部の部室へと。
今度の扉《とびら》はノックしてから俺が開いた。
「よう、長門」
テーブルにハードカバーの図書館本を立てかけて読んでいた眼鏡《めがね》の顔がすっと上がった。
「あ……」
長門は俺を見て安堵《あんど》したように息を吐《は》き、
「え」
続いて現れたハルヒに目を丸くし、
「……え」
そのハルヒに抱え込まれている朝比奈さんの姿に口を開け、
「…………」
末尾《まつび》をつとめた古泉の登場に至って絶句した。
「こんにちは」
と笑顔《えがお》を振《ふ》りまきながら、ハルヒは全員が部屋に入ったのを見届けてドアに鍵《かぎ》をかけた。がちゃり、という効果音に長門と朝比奈さんが同じ反応、ビクリと身体《からだ》を強《こわ》ばらせた。
「なんなんですかー?」
いつかのように朝比奈さんは半泣きだった。
「ここどこですか、何であたし連れてこられたんですか? 何で、かか鍵を閉めるんですか? いったい何を、」
このまったく同じ反応に俺まで泣きそうになる。懐《なつ》かしいぜ。
「黙《だま》りなさい」
いつかと同様、ハルヒはぴしゃりと一刀両断し、ぐるりと室内を見回して、
「そっちの眼鏡っ娘が長門さん? よろしく! あたし涼宮ハルヒ! こっちの体操服が古泉くんで、この胸だけデカい小さい娘が朝比奈さん。で、そいつは知ってるわよね? ジョン・スミスよ」
「ジョン・スミス……?」
怪訝《けげん》な面持《おもも》ちで眼鏡のフレームを押さえ、長門は不思議そうにこっちを見た。俺は肩《かた》をすくめて間抜《まぬ》けなニックネームを受け入れた。キョンでもジョンでも似たようなもんだ。
「ふーん、ここがそうなの。SOS団か。何にもないけどいい部屋だわ。いろいろ持ち込み甲斐《がい》がありそう」
ハルヒは新居に連れてこられたばかりの猫《ねこ》のように部室を隅々《すみずみ》まで歩き回り、窓の外を覗《のぞ》いたり本棚《ほんだな》の中身に興味深げな視線を送っていたが、俺に向かって言ったのが、
「でさ、これからどうする?」
お前、何も考えずにここまで来たのか。本当にハルヒそのまんまなんだな。
「この部屋を拠点にするのはあたしとしても賛成だけど、交通が不便だわ。学校が終わってからここに来るには時間がかかるしさ。あたしの学校と北高って全然交流ないしね。そうだ、時間を決めて駅前の喫茶《きっさ》店に集合ってことでどう?」
いきなり言い出したところで、こいつと俺以外の全員には意味不明だろう。
長門は戸惑《とまど》い顔の置き人形化しているし、朝比奈さんはオドオドと挙動|不審《ふしん》、古泉はだんまりを決め込んでいる。
とりあえず何か言おうと口を開きかけたとき――。
ピポ
突然《とつぜん》、手も触《ふ》れていないパソコンが電子音を発した。長門が反射的な仕草で顔を横向ける。
「ひえっ?」
朝比奈さんがへっぴり腰《ごし》になるのだけは辛《かろ》うじて認識できた。俺が持つそれ以外の状況《じょうきょう》識別能力のすべてがパソコンへと収束していく。
古めかしいCRTディスプレイがぱちぱちと音を立てながら、うっすら明るくなっていくのが解《わか》った。長門の眼鏡にその模様が反射している。
それに呼応してハードディスクが回転するシーク音が――続かなかった。前にもこんな事があったな……。いや、あの時は自分でスイッチを入れたのだったか……。OSを立ち上げず、別のものを表示したパソコンの画面を俺は見たことがある……。
「どいてくれ」
身体が勝手に動く。俺はハルヒを押しのけて全速力でディスプレイの正面に回った。
ダークグレイのモニタ上に、音もなく文字が流れ始める。
Y U K I .N > これをあなたが読んでいる時、わたしはわたしではないだろう。
……そうだよ。その通りだよ。長門……。
「何? スイッチも押してないのに、びっくりするじゃないの」
「タイマーがセットされていたのでしょうか。それにしても、えらく古いパソコンですね。アンティークものですよ」
背後でハルヒと古泉が会話しているが俺は聞いていなかった。一字一句見落とすことはできない。瞬《まばた》きも惜《お》しい。心臓がタップを踊《おど》り出す音を耳元で聞きながら、俺は画面を見つめていた。
Y U K I .N > このメッセージが表示されたということは、そこにはあなた、わたし、涼宮ハルヒ、朝比奈みくる、古泉一樹が存在しているはずである。
まるで俺の読む速度に合わせたようにカーソルは無骨なフォントを紡《つむ》ぐ。
Y U K I .N > それが鍵《かぎ》。あなたは解答を見つけ出した。
俺の出した解答じゃないんだ。古泉を伴《ともな》ってハルヒが勝手に押しかけてきたんだよ。こっちのハルヒもなかなか役に立つじゃないか……。それにしても長門、数日ぶりだな。
ディスプレイの文字を懐《なつ》かしい思いで読む俺である。声には出さず、だが胸の内で長門の平《へい》坦《たん》声で音読する。スクロールは続く。
Y U K I .N > これは緊急《きんきゅう》脱出《だっしゅつ》プログラムである。起動させる場合はエンターキーを、そうでない場合はそれ以外のキーを選択《せんたく》せよ。起動させた場合、あなたは時空修正の機会を得る。ただし成功は保証できない。また帰還《きかん》の保証もできない。
緊急脱出――プログラム。これが。このパソコンが。
Y U K I .N > このプログラムが起動するのは一度きりである。実行ののち、消去される。非実行が選択された場合は起動せずに消去される。Ready?
それで終わりだった。末尾《まつぴ》でカーソルが点滅《てんめつ》している。
エンターキーか、それ以外か。
気が付けばハルヒが後ろから覗《のぞ》き込んでいた。
「どういう意味? なんの仕掛《しか》けなの? ジョン、あんたやっぱりあたしをからかっているだけなの? 説明してよ」
ハルヒも古泉も朝比奈さんのことも俺は無視した。ポニーテールなハルヒも俺の体操服を着ている古泉もやっぱり可愛《かわい》い朝比奈さんもこの時ばかりは眼中にない。俺の注意はパソコンと、この部屋にいるただ一人に向いていた。驚《おどろ》きの表情で画面を見つめている眼鏡《めがね》少女に対してだけ言う。
「長門、これに心当たりはないか?」
「……ない」
「本当にないのか?」
「どうして?」
自分の意思表示を押し殺しているような返答に、これはお前が打った文章だからだ……と言いたかったが、この長門は面食らうだけだろう。
俺はもう一度最後の部分を見直した。
長門が残してくれたメッセージ。俺の知っている長門の、だ。緊急脱出プログラムとやらが具体的にどういうものかは解らない。保証できないってところにも一抹《いちまつ》の不安が発生する。
だが、今更《いまさら》くどくど悩《なや》んだりはしなかった。俺はあの長門に全幅《ぜんぷく》の信頼《しんらい》を寄せていたし、今も寄せている。あいつのやることに間違《まちが》いがあるとは思えない。何度も危機を救ってくれたのは大人しくて寡黙《かもく》な宇宙人製の有機アンドロイド、長門有希に他《ほか》ならない。あいつの言葉を疑うくらいなら俺は自分の頭を疑うさ。
「ねえ、ジョン。どうしたの? また変な顔してるわよ」
ハルヒの声すら遠くに聞こえる。
「ちょっと黙《だま》っててくれ。今、考えをまとめてるんだ」
ここは考えどこだ。違《ちが》う高校に行ってたハルヒと古泉、未来人じゃない朝比奈さん、何も知らない長門について考えて、俺が考えるべきはそんなことではないことを再確認する。
パソコンに表示された長門の自己表現。そのメッセージを疑うかどうかでもないんだ。
俺は背筋を伸《の》ばして深呼吸する。
そう――。
それより何より確かなのは、俺がこの世界から脱出したいってことだ。すでに馴染《なじ》みとなって俺の日常に組み込まれたSOS団とそこの仲間たちと再会したいのだ。ここにいるハルヒや朝比奈さんや古泉や長門は、だから俺の馴染みではないんだ。ここには『機関』も情報統合思念体もなく大人版朝比奈さんが来ることもないのだろう。それは間違っている。
決心までに、たいした時間はかからなかった。
俺はポケットからくしゃくしゃの紙片を取り出し、
「すまない、長門。これは返すよ」
差し出した白紙の入部届けに、長門の白い指が緩慢《かんまん》に伸びた。一回失敗して、二度目にやっとつまむことに成功する。俺が手を放すと、入部届け用紙は風もないのに震《ふる》えていた。
「そう……」
声まで震わせて、長門は睫毛《まつげ》で目の表情を隠す。
「だがな」俺は大急ぎで言った。「実を言うと俺は最初からこの部屋の住人だったんだ。わざわざ文芸部に入部するまでもないんだ。なぜなら――、」
ハルヒと古泉と朝比奈さんは「何言ってんだこいつ」みたいな顔で俺を見ている。長門の顔は髪《かみ》に隠れてよく見えない。かまわない。安心しろ長門。これから何が起ころうと俺は必ず部室に戻《もど》ってくる。
「なぜなら俺は、SOS団の団員その一だからだ」
Ready?
O.K.さ、もちろん。
俺は指を伸ばし、エンターキーを押し込んだ。
その直後――。
「うわっ?」
強烈《きょうれつ》な立ちくらみに襲《おそ》われ、俺は思わずテーブルに手をつこうとして、そしてぐるりと視界が回る。耳鳴り。誰《だれ》かの声が遠くから聞こえる。目の前が暗くなる。上下の感覚も失せた。浮遊《ふゆう》する感覚。急流に落ちた木の葉のように。くるくる回っている。俺を呼ぶ声がどんどん離《はな》れていく。何と言っている? ジョンかキョンか。それも解らない。ハルヒの声のような気がしたが違うような気もする。暗い。墜《お》ちているのか? どこへ。どこに墜ちようと言うんだ。
混乱する思考。俺の目は開いているのか? 何も見えない。もう何も聞こえない。ただ流されている気配だけがする。俺の身体《からだ》はどこだ。ハルヒは。ねじ曲がっている。古泉。朝比奈さん。ここは? 俺はどこに行こうとしている? 緊急《きんきゅう》脱出《だっしゅつ》プログラム。脱出する先に何が待っているんだ。
長門――。
「うわっ!?」
再び声を上げながら俺は砕《くだ》けそうになった膝《ひざ》をなんとか支えてやった。それから自分が立っていることに気づいた。
「何だ……?」
周囲は暗い。だが真の闇《やみ》ではない。大丈夫《だいじょうぶ》だ、俺の目はまだ見えている。
「ここは……」
窓から差し込む僅《わず》かな明かりを頼《たよ》りに、俺は自分の居場所を確かめる。ここは何かの部屋で、俺が手をついているのはテーブルの表面で、そのテーブルには旧式なパソコンが載《の》っている……。
「文芸部室だ」
さっきまでの。
だが長門はいない。ハルヒも朝比奈さんも古泉も消えている。俺一人。それに真っ暗だった。夕方になりかけの日差しが部屋を照らしていたのに、いきなり夜になっていた。窓から見上げた空には、まばらと言うにも少なすぎる星が申しわけ程度に瞬《またた》いている。時間がすっ飛んでしまったようだ。
室内の様子はつい先ほどまでと変わっていない。本棚《ほんだな》とテーブルがあって旧式パソコンが一台。それだけで悟《さと》った。俺は元の世界に戻ってきたのではない。ここにはSOS団の備品がまったくなかった。団長机も朝比奈さんのコスプレ衣装《いしょう》もなく、がらんとした文芸部室のままである……の、だが……。
額から汗《あせ》が流れて目にしみた。俺はブレザーの袖《そで》で汗をぬぐう。
何かおかしい。
この違和感《いわかん》は何だ。ここがどこだかは解る。文芸部の部室で間違《まちが》いない。おめーはタイコか。谷口のセリフが不意に去来した。どこ。問題はそれじゃない。そうだ。どこか、ではないんだ。
「ここは……」
唐突《とうとつ》に俺は違和感の正体を突《つ》き止めた。気づくと同時に体感温度が一気に上昇《じょうしょう》したように感じたが、そうではない。最初から気温はこうだったんだ。俺の体温変化による体感温度の錯覚《さっかく》ではない。
我慢《がまん》できず俺はジャケットを脱《ぬ》いだ。全身の毛穴が開いて次々と汗を噴《ふ》き出しつつある。上着を脱ぎ、ワイシャツの袖をまくっても部屋に籠《こ》もった熱気は収まらない。
「暑い」
と、俺は呟《つぶや》いた。
「まるで――」
まるで真夏の気温だった。
つまり、現在の俺が思うべき疑問は一つだけだ。
今は、いつだ。
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第四章
やってみりや解《わか》るが、夜の校舎での一人歩きは気味が悪い。
ジャケットを肩《かた》に引っかけて俺はそろりと部室を抜《ぬ》け出した。なるたけ音を立てないように階段を下り、廊下《ろうか》の曲がり角に出くわすたびに忍者《にんじゃ》のように張り付き様子をうかがうのは、精神的にもくたびれる仕事だった。ここがいつどこの北高かはまだ解らないが、宿直の教師に見つかれば困難なことになるだろう。こちとら何とも説明できかねる。説明して欲しいのは俺なんだからな。
もわっとした湿気《しっけ》と大気の中を汗まみれになって移動し、ようやく玄関《げんかん》までやって来れた。
「さて、何が出てくるか……」
そう言って開けた俺の下駄《げた》箱には、誰《だれ》かの上履《うわば》きが入っていた。俺のではないことだけは確かである。近くの奴《やつ》が間違って履いてったという可能性も即座《そくざ》に却下《きゃっか》でいい。ここの季節は真夏。俺はまた違う時空に跳ばされている。それくらいの連想能力は俺にもある。この下駄箱の主が俺ではなく別人である世界、または時代だ。我ながらあまり驚《おどろ》かないのは異常に慣れきってしまったからか、それとも驚く余裕《よゆう》すら失われているのか。
「しょうがないな」
上履きのまま外に出るのは不格好だが贅沢《ぜいたく》言ってる余地がない。まずは校舎から脱出《だっしゅつ》することだ。夜の玄関口にはさすがに厳重な施錠《せじょう》がしてあった。俺は近くの窓に忍《しの》び足で向かい、内側の鍵《かぎ》を解錠《かいじょう》して注意深く開いた。草の臭《にお》いがする夜風を肺に吸い込みながら窓枠《まどわく》に足をかけてジャンプ、石畳《いしだたみ》に着地する。以前の閉鎖《へいさ》空間で俺がハルヒに起こされたあたりだ。
十秒ほどじっとして、誰にも見られていないのを確信してから俺は動き始めた。
外に出ても暑さはほとんど変わりがない。じめっと蒸した日本特有の夏の気温だ。それまで厳寒の冬の季節にいたものだから、余計に汗腺《かんせん》が開いている。俺はだらだらと流れる顔の汗を冬用ブレザーで拭《ふ》きながら校門を目指した。
乗り越《こ》えるのは簡単で、てんで杜撰《ずさん》なセキュリティに感謝しながら鉄柵《てつさく》をよじ登るだけで済む。学校の敷地《しきち》から外に出ると、俺は先に投げておいたジャケットを地面から拾い上げ、しばらく星空を見上げて行くべき場所を考えた。
今は何月何日の何時何分なのかを知るのが先決である。過去か未来かでは大違いだからな。
とっとと坂道を下りるとしよう。途中《とちゅう》にコンビニがあったはずだ。そこらの民家に飛び込んで「今は何日だ?」と尋《たず》ねても精神の具合を悪くした高校生として、しかるべき所に通報されるだけだろうし、それより日時の知れる所に行ったほうがいい。
「しかし暑いな……」
着ているのが冬用制服なんだからしかたがないとは言え、足に汗でくっつくズボンの内側が鬱陶《うっとう》しい。ポリエステルの開発者がこの時ばかりは恨《うら》めしい。しかもこの制服は冬でもたいして暖かくないのだ。中途半端《ちゅうとはんぱ》な制服だぜマジで。
そんなことを考えるのも多少は頭が回り出したおかげかもしれない。もともと俺は冬の寒さに凍《こご》えながら春の到来《とうらい》を待ちわびるより、夏の暑さに文句をつけながら団扇《うちわ》でも煽《あお》いでいるほうが好きなのだ。それに高校一年の夏には様々な思い出がある。たいていは疲労《ひろう》したり脱力《だつりょく》したり呆《あき》れたりだったものの、まあ過ぎてしまえばいい経験だった。朝比奈さんの水着も拝めた。冬にはまだSOS団的なイベントをほとんどしていない。
喰《く》うはずだった鍋《なペ》の味を考えながら十五分ばかり道を下っていると、やっと目当ての明かりが見えてきた。下校途中、たまに買い食いするコンビニエンスストア。少なくとも、今はこの店ができる以前でも退店した以後の時間でもないようだ。
自動ドアが開くのももどかしく、入ってすぐ俺は壁際《かペぎわ》を見上げた。冷房《れいぽう》の感触《かんしょく》に慣れるまで少しかかる。その間、アナログの壁掛《かべか》け時計に熱い視線を注ぎ続けた。
八時三十分。
夜だから午後に決まっている。
では日付は? 今日は何年の何月何日なのだ。カウンターの前に何種類もの新聞がまとめて展示されている。どれでもいい。俺は一番手前のスポーツ紙を一部引き抜いて超《ちょう》特急で広げた。記事もどうでもいい。すべて誤報であっても問題ではない。だがどんな捏造《ねつぞう》タブロイド紙だって、紙面の一番上にある日付だけは嘘《うそ》っぱちを印刷したりはしないだろう。
泳ぎがちの視線を何とか固定し、俺は見た。
普遍《ふへん》的ラッキーナンバーのゾロ目が目に飛び込んできた。
いつの? 記された西暦《せいれき》をなめるように確認《かくにん》する。店員の兄ちゃんがウザったそうにしているが、かまうもんか。
四|桁《けた》の数字を何度も見直す。さっきまでいた十二月時代の西暦から、このスポーツ紙に印刷されている西暦の数字を引く。単純な計算だ。子供でも解る。
「そういうことか、長門……」
俺は新聞から顔を離《はな》し、大きく息を吐《は》いて天井《てんじょう》を仰《あお》いだ。
全国|一斉《いっせい》七夕デー。
今は、三年前の七月七日だ。
三年前の七夕。今日この日に何があった?
狂想曲《きょうそうきょく》のような『今年』の七夕、部室で短冊《たんざく》に願い事を書いた後、俺は朝比奈さんに誘《さそ》われるまま共に時間を遡行《そこう》してこの時間に来た。そこで大人バージョンの朝比奈さんに再会し、夜の東中学に行くよう促《うなが》された。それから校門に張り付いていた中学一年生時代のハルヒに直面し、グラウンドに石灰《せっかい》で宇宙に向けたメッセージを描《か》くハメに陥《おちい》った。
そしてTPDDとかいうタイムマシンみたいなものを紛失《ふんしつ》した朝比奈さん(小)を連れて長門のマンションに行き、二人してそこで三年ほど寝過《ねす》ごすことで元の時間に戻《もど》ってきた……。
「ということは……」
引き算より簡単な計算だ。覚えていることをそのまま思い出せばいい。そうだ、俺はようやく手に入れたのだ。狂《くる》った世界を元に戻す、そのために必要な状況《じょうきょう》を。
だって、そうだろ?
足がガクガクしてきたのは、決して恐怖《きょうふ》のせいじゃない。そうだとも。これは武者|震《ぷる》いだ。
三年前。七夕。東中。絵文字。ジョン・スミス。
様々な要因が俺の頭の内部でこんがらがり、やがて結論を出した。実にシンプルで、明白な結論だ。もう一度言おう。
「ということは……」
ここ[#「ここ」に傍点]には、彼女たち[#「彼女たち」に傍点]がいる。
魅惑《みわく》のグラマー朝比奈さん(大)と待機モードの長門有希。
助けを借りられそうな人材が、この時間には二人もいるのだ。
後先考えず、新聞を放り出して俺はコンビニを飛び出した。そして走りながら考えた。
最初に三年前――今だ――に来たとき、光陽園駅前公園のベンチで目を覚ました俺に朝比奈さんは、現時刻を「午後九時|頃《ごろ》」と言ったはずだ。三十分も走ればここからそこまで何とか間に合う。問題があるとすれば何者かによる世界改変がこの時間にまで及《およ》んでいたのかどうかだが、だとしたら俺がここにいるはずもないだろう。なんとしても朝比奈さん(大)かマンションにいる長門のどちらかに接触《せっしょく》しなくてはならない。あるいはその両方にだ。ならば目指す場所は二つあることになるが、今行くべきはあそこだ。
マンションに住んでる長門には後でも会える。しかし朝比奈さん(大)には、あの時あの場所でしか会えない。
女教師みたいな格好で訪《おとず》れた成長した朝比奈さん。俺に白雪|姫《ひめ》のヒントをくれ、すぐに帰っていったもっと未来の朝比奈さんだ。眠《ねむ》り姫となった朝比奈さん(小)のほっぺをつっつき、楽しそうに微笑《ほほえ》んだ彼女を昨日のことのように覚えている。
あの朝比奈さんなら俺のことも解ってくれる。そうであるはずだった。
その公園は駅前にほど近く、なのに周囲の人通りは少ない。夜という時間帯のせいでもあるだろう。だから夜に蠢《うごめ》き出すあやかしにとっては都合のいい場所とも言える。ここは変わり者のメッカなのだ――と七夕の日に俺は思い、今もそう思っている。
あからさまに登場するわけにもいかないので、俺は夜陰《やいん》に紛《まぎ》れるように公園を囲うブロック塀《べい》に沿って歩いている。塀と言っても高さは俺の腰《こし》程度で、そこから上は俺の背丈《せたけ》程度の金網《かなあみ》になっている。しかし周囲には定|間隔《かんかく》で樹木が植えられているから、真っ昼間ならともかく夜に公園内から見つけられないように中を窺《うかが》うのは簡単だ。むしろ背後の道を行く通行人に変な目で見られることのほうが注意|事項《じこう》だろう。
あの時に俺が目覚めたベンチの場所を思い描《えが》きながら、俺はじりじりと塀沿いに移動していた。格好のポイントを探す。
時間はまさに午後九時を過ぎようとしている。
垣間《かいま》見るという行為《こうい》はまさに俺が今やっていることだろう。首を伸《の》ばし、青々と茂《しげ》る木々の間から俺は目的の光景を見た。
「……あれか」
映画に出演している自分を見ているような、あるいは自分の姿を客観的に見下ろしている夢を見ているようだ。
「しかし、まあ何という……」
外灯の光に照らされたベンチがスポットライトを浴びたように暗闇《くらやみ》に浮《う》かび上がっていた。遠目からだが見間違《みまちが》えようがない。二人とも北高の制服を着ている。全部、記憶《きおく》通りだ。
かつての俺と朝比奈さんがそこにいた。
その『俺』は横になって朝比奈さんの膝《ひざ》を枕《まくら》代わりに寝《ね》ていた。あれでグッドテイストな夢を見ていないのであれば、そっちのほうが嘘《うそ》だろうな。地球上で最も貴重なものを枕に寝てんだ、あの状態で健《すこ》やかでなければこの世に安眠《あんみん》の素《もと》など存在しなくなるっていうもんだ。
膝枕をしている朝比奈さんは自分の太股《ふともも》に乗っている俺の顔を覗《のぞ》き込み、耳に息を吹《ふ》きかけたり引っ張ったりして遊んでいる。何て羨《うらや》ましいことをされてんだ……いや、されたんだ俺は。
一瞬《いっしゅん》、『俺』を引っぺがして俺がその役を演じたくなったが、どうにか衝動《しょうどう》を抑《おさ》え込む。あの時の『俺』は別の俺を見てはいない。なら、ここで俺が飛び出したりしては帳尻《ちょうじり》が合わないことになる――のかな? 何にせよ時空の混乱をこれ以上自ら招くことはない。
俺は意思と関係なく動きそうな身体《からだ》を自制して、ピーピングトム(解りやすく言うとノゾキだ)の任を続行した。こんなわやくちゃな状況下でも自分を保っている俺は比較《ひかく》的人格者なのかもな。誰《だれ》かに誇《ほこ》りたい気分だよ。
そんな感慨《かんがい》に満たされながら観察していると、朝比奈さんが何かを言うように唇《くちびる》を動かし、膝枕で寝ていた『俺』は身じろぎをして、のっそりと身体を起こした。今の俺がいるところには声が届かない。だが覚えてはいる。朝比奈さんは「起きた?」と言ったはずだ。
『俺』と朝比奈さんはちょぼちょぼと会話をしているようだったが、すぐに朝比奈さんはくたりと『俺』にもたれかかり――、
ガサガサと揺《ゆ》れたベンチの背後の植え込みから、あのお方が登場した。
白い長袖《ながそで》ブラウスに紺色《こんいろ》タイトスカートという女教師みたいな格好を忘れるはずもない。
五月の終わり頃《ごろ》、彼女は俺を手紙で呼び出して白雪姫のヒントを与《あた》えた。ついでに自分の星形ホクロの位置まで教えてくれた。そしてこの日、七夕の日に朝比奈さん(小)を眠らせてハルヒのもとに行くように指示して、あっさりと立ち去ってしまった……。
朝比奈さん大人バージョン。
背丈とプロポーションが何年か分加算された、未来人朝比奈さんのさらに未来の姿。朝比奈さん(大)。
あの時のままだ。
如実《にょじつ》に思う。俺は三年前の七夕の日にいる。すべてが記憶にある筋書き通りだった。
朝比奈さん(大)は『俺』に二言三言話しかけると、しゃがんで朝比奈さん(小)のほっぺを指で押したり身体を撫《な》でたりしてから、また立ち上がって『俺』に何やら話しかけた。
――ここまであなたを導いたのはこの子の役目で、ここからあなたを導くのはわたしの役目です。
――あー、これはいったい……。
そんな感じのやり取りだったはずだ。
呆然《ぼうぜん》とした態度の『俺』に、朝比奈さん(大)は言うべき事を言い終えると、未練を感じさせることもなく公園の外へと歩き始めた。外灯のスポットから退場する。東中方面とは反対側の公園の出口へと向かっていることに、俺は今初めて気づいた。
『俺』のほうはまだぼやぼやしている。眠り姫《ひめ》となった朝比奈さん(小)の横顔を見下ろして何か考えている素振《そぶ》りである。何だっけなと思ったのも数瞬で、俺は記憶遡行《きおくそこう》の旅を放棄《ほうき》した。朝比奈さん(大)の姿を見失うわけにはいかない。
隠《かく》れていた物陰《ものかげ》から身体を浮かせ、急ぎ足で公園の外側を回った。もはや身を隠す必要はない。なぜなら俺が『俺』だったとき、『俺』は俺を見ていないからだ。この時の『俺』は、他《ほか》にこの時間にやってきた俺を見てなどいない。思いつきもしなかった。当たり前だ。まさかここまで俺の時空がねじれているとは、過去の『俺』がチラリとでも発想できたはずがないだろう。背中の朝比奈さんが気になるあまり、他に何を考えることもなかった、その『俺』を顧《かえり》みず、俺は走る。
公園の角を曲がると百メートルほど前方に彼女はいた。こちらに背中を向けて歩いている。ハイヒールが立てるカツカツという音がリズミカルに聞こえた。急いでどこかに行こうとしている様子ではなさそうだが、あいにく俺は彼女に急ぎの用事がある。ここで見失うことがあったら何のためにここまで来たのか知れたものではないじゃないか。
再び俺は走り出した。近づくにつれて、夜の僅《わず》かな光の下《もと》でも綺麗《きれい》に伸《の》びた手足やセミロングのふわふわ髪《がみ》が輝《かがや》いているかのように見えてきた。後ろ姿だが間違《まちが》いない。
すぐに追いついて、俺は呼んだ。
「朝比奈さん!」
ぴたり。小気味よく歩いていたヒールの音が止まった。背中に柔《やわ》らかくかかっている栗色《くりいろ》の髪がふわりと揺れる。スローモーションのようだった。ゆっくりと彼女が振《ふ》り返る。
俺は彼女のセリフを予想した。
――なぜ? さっき別れたばかりなのに。
――追いかけてきた……んじゃないですよね。
――あれ、もう一人のあたしは?
どれでもなかった。
「こんばんは、キョンくん」
記憶《きおく》にある通り、美しい顔をした彼女は、艶《つや》やかな微笑《ほほえ》みで俺を迎《むか》えてくれた。
「あなたとは[#「あなたとは」に傍点]お久しぶりですね」
大人版朝比奈さんはそう言って片目を閉じた。五ヶ月ちょいのご無沙汰《ぷさた》だ、この笑顔を見るのも。
朝比奈さん(大)は安心しきった子供のような表情で、
「でも、よかった。ちゃんとここで会えて。ちょっぴり不安だったんですよー。わたしがうっかりミスをしてないとも限りませんから」
今でもポカが多くて、と朝比奈さんは可愛《かわい》らしく舌を出した。腰《こし》が砕《くだ》けそうになるくらい魅《み》力《りょく》的な仕草だったが、ここでヘナチョコになってしまっては元も子もない。
この朝比奈さんは知っている。これから俺がどうすべきかを。
俺はもつれそうになる舌をどうにか制御《せいぎょ》して、
「朝比奈さん、あなたは俺がまた来ることを……。この時間、この場所に俺がもう一度来ることを知ってたんですか」
「ええ」と朝比奈さんは首肯《しゅこう》した。「既定事項《きていじこう》でしたから」
「七夕の日に、小さい朝比奈さんに俺を三年前の七夕……つまり今です、へ連れて行くように仕向けたのはあなたですね」
「はい。どうしても必要なことでした。でないと、今のあなたはここにいないでしょう?」
東中学の校庭に地上絵を描《か》くことがなかったなら俺は中学一年のハルヒにジョン・スミスと名乗ることもなかった。当然、あの光陽園学院高校一年のハルヒもその名を知らないことになる。すなわち俺が繋《つな》がりを見つけることもできなくなっていただろう。その名前以外、先刻まで一緒《いっしょ》にいたあのハルヒと俺との接点はなかったのだから、その結果、部室に五人が揃《そろ》うこともなく、脱出《だっしゅつ》プログラムも起動しなかった。
ここで疑問が発生する。もう一人のジョン・スミスとは……まさか。
「あなたですよ。キョンくん。今のあなた」
朝比奈さん(大)が白|薔薇《ばら》のような微笑みをくれた。
「立ち話では疲《つか》れますから、座れるとこに行きましょう。まだ時間はあるわ」
その笑みと言葉は、俺の身体《からだ》を覆《おお》っていた焦燥《しょうそう》と混乱を取り除くに充分《じゅうぶん》なパワーを持っていた。
ここに朝比奈さん(大)がいるということは、未来はちゃんとある。十八日を境に狂《くる》ってしまった世界の未来ではない。俺と俺が知るハルヒや朝比奈さんの未来だ。
何とかなる。
安堵《あんど》を誘《さそ》う確信を俺は得て、それを裏付けるように彼女は言った。
「これからあなたを導くのはわたしの役目です。でも、それ以降は、あなたは自分自身を導かねばなりません。わたしはあなたの意志に従うだけ」
そうして片目を閉じた。膝《ひざ》が落ちそうになるくらいの、パーフェクトなウインクだった。
俺たちはさっきの公園に舞《ま》い戻《もど》り、『俺』と朝比奈さん(小)が座っていたベンチに改めて腰を下ろした。座る前、朝比奈さん(大)は祖先の遺品に触《ふ》れるような顔と手つきでベンチを撫《な》で、俺も何となく荘厳《そうごん》な気持ちとなって座った。温《ぬく》もりがまだ残っている。五ヶ月前、この三年前へとやって来た俺と朝比奈さんの温もりだ。
さっそく俺は切り出した。
「時間の流れはどうなっているんです? 俺がさっきまでいた時間と、この七夕が連続しているのは解《わか》ります。でなけりゃ俺は来られなかった。じゃあ朝比奈さん……あなたの未来とさっきの改変された時間は繋がっていないんじゃないですか?」
「詳《くわ》しいことは話せません」
だと思った。禁則事項だからでしょう。
「いいえ」
朝比奈さん(大)は頭を振った。
「解るように説明できないからよ。わたしたちのSTC理論は特殊《とくしゅ》な概念《がいねん》上の方法論に立脚《りっきゃく》しています。それを解るように伝えるのは言葉では無理なんです。初めてわたしが正体を告白したときのことを覚えてる?」
川沿いの桜並木で、可愛い上級生でしかないと思っていた朝比奈さんの仰天《ぎょうてん》未来人発言を俺は聞いた。
「あの時のわたしは全然要領を得ないことを言っていたでしょ? あんな感じにしかならないの。混乱させるだけになるわ」
こんこんと側頭部をノックのようにつつきながら、朝比奈さん(大)は片目を閉じた。そんな何て事ない動作の一つ一つが色っぽい。
「言葉を用いない概念は言葉以外のものでしか伝えられません。わかる?」
わかりようがない。ただ頭グルグル状態の俺に、朝比奈さんは幼稚園児《ようちえんじ》に微分《びぶん》方程式とは何かを説明するような口調で、
「うん、でも、あなたにもそのうち解ります。きっと。今のわたしに言えるのはそれだけ」
そのうち解る――ってのは夏休みの直前くらいにも他の奴《やつ》から聞いた言葉だ。そうだ、長門もそんなことを言っていたな……。待てよ。
シナプスがヒラメキ電流を発し、俺は次のように応《こた》えた。
「夏休み前に……巨大《きょだい》カマドウマ事件で長門が言っていたあれは……。未来のコンピュータが今のような物じゃないっていうのは、ひょっとして……」
「あ、鋭《するど》い。覚えてました? そうです。わたしたちの、この時代でいうコンピュータとかネットワークに相当するシステムは、んーと、物質に依存《いぞん》してません。それはわたしたちの頭の中に無形で存在しています。TPDDもそうなの」
なくなるはずがないのになくしちゃった、というアレだ。
「それがタイムマシンですか」
「タイムプレーンデストロイドデバイスです」
それこそ禁則事項なのではないんですか。
「うん、あの時のわたしにとっては禁則でした。今のわたしは、もうちょっと規制が緩《ゆる》くなっています。ここまで来るのにけっこうがんばったんだから」
ブラウスの前ボタンを弾《はじ》き飛ばさんように朝比奈さんは胸を張った。物理的にあり得ないようなプロポーションが強調され、俺の目を惑《まど》わすことしきりだったが、残念なことに精神のほうは今そこにある光景を視神経の保養所とする余裕《よゆう》を失っている。俺は訊《き》いた。
「何が原因なんです。俺のいた未来が変わっちまったのは解りました。でも、いつ変わったんですか?」
「詳しいことはこの時間にいる長門さんに聞いたほうがいいです。でも一つだけ、あなたのいた時間平面が改変されたのは、『今』から三年後の十二月十八日早朝です」
俺の体感では二日前のことだ。時間平面の改変か。てーことは……。俺は古泉が言ってた二通りの解釈《かいしゃく》を記憶《きおく》から掘《ほ》り起こした。パラレルワールドじゃないほうが正解だったか。
「そう。一夜にしてSTCデータ……ええと、世界自体が変化してしまったんです。あなたの記憶だけを残してね。遠い未来からでも観測できる、すごい時空|震《しん》だったわ」
STCや時空震なるテクニカルタームに興味がないわけではなかったが、そんな些末《さまつ》なことにツッコミを入れる時間がもったいない。もっと重要な質問がある。
「朝比奈さんがここで待っていたということは、俺が巻き込まれた未来の異変を何とかするのも、あなたがやってくれるんですか?」
「わたしだけでは無理なの」顔を曇《くも》り気味にして、「長門さんの助けがいります。それから、もちろんキョンくんも一緒《いっしょ》じゃないと」
「やったのは誰《だれ》です? どうせハルヒだと思いますが」
「違《ちが》います」
笑顔《えがお》を引っ込め、朝比奈さんは沈《しず》んだ声でおっしゃった。
「涼宮さんではありません。他の人が犯人なんですよ」
「新たな登場人物ですか? どっかの知らない異世界人|野郎《やろう》が――」
「いいえ」
俺の言葉を遮《さえぎ》り、朝比奈さんはなぜか憂《うれ》いた声で言った。
「あなたもよく知っている人です」
もう少し時間的余裕がある、と朝比奈さん(大)は腕《うで》時計を見せながら言って、SOS団での思い出を懐《なつ》かしそうに語った。俺にしてみれば、その思い出すべてはこの一年以内のことなのだが、彼女にとっては何年も前のことらしい。ハルヒに拉致《らち》されて部室に連れて行かれたことから始まって、強制バニーガール、七夕の願い事とか島で出くわした殺人事件劇、盆踊《ぼんおど》りで着た浴衣《ゆかた》、団員みんなでやった夏休みの宿題、映画のロケでの出来事……。俺の記憶深度の浅い部分にやってくるにつれ、朝比奈さん(大)の喋《しゃべ》り方はだんだん遅《おそ》くなった。
俺は自分の未来エピソードが聞きたくて彼女が口を滑《すべ》らすのを期待していたのだが、さすがにこの朝比奈さんは慎重《しんちょう》だった。本当に四方山《よもやま》話しかおっしゃらない。
「たいへんだったけど、全部いい思い出です」
最後にとってつけたような総評を述べ、朝比奈さんは口を結んで言葉を切った。そのまま黙《だま》って俺を見つめ続けている。
俺も何かそれらしい感想を言ったほうがいいのかなと考えていると、柔《やわ》らかくて暖かいものが俺の肩《かた》に乗っかって、それは朝比奈さん(大)の頭なのだったが、いったいこの行為《こうい》にどのような意味が隠《かく》されているのか、ぴったりくっついている彼女の身体《からだ》の重みには同重量の黄金ほどの価値があるに違《ちが》いないと脳ミソが渦《うず》を巻き始めるくらいに芳《かぐわ》しい香《かお》りと感触《かんしょく》が全神経に伝達され俺をダメ野郎にしようとしていた。シャツの布地|越《ご》しに伝達する甘やかな体温。何かを伝えたいのだろうか。または俺から何か感じ取ろうとしているのか。目をつむって俺の肩に顔を寄せている朝比奈さん(大)、その唇《くちびる》が音もなく動く気配を感じる。声を出さずに彼女は確かに何かを言った。なんだったのだろう。
まさかなあ、と俺は虚《うつ》ろに考える。このままこの朝比奈さんも眠《ねむ》り込んでしまい、また背後から別の朝比奈さんが現れて、またまた変なことを言い出すのではないだろうな。そうやって俺は永遠にこの時間で違う朝比奈さんに出会い統けるのでは――。いかん、思考が脱水機《だっすいき》に絡《から》まった洗濯《せんたく》物のように同じ所で回ってる。なあ、いったい俺は何をしているんだ? 誰か教えてくれ。
朝比奈さん(大)は一分くらいそうやって寄り添《そ》っていたが、
「ふふ」
俺の考えを読みとったように微笑《ほほえ》んで、
「そろそろ時間です。行きましょう」
何事もなかったように立ち上がった。残念ながら俺も我に返る。そうだった。行かなくてはならないのだ。えーと、どこへ?
第二の行き先へ。
朝比奈さんの腕時計は午後十時前を表示していた。『俺』が中一ハルヒの共犯役として東中のグラウンドにイタズラ描《が》きを施《ほどこ》し、ベソをかく朝比奈さんの手を引いて長門のマンションに上がり込んでいる時間。その『俺』の時間はもう止まっている頃合《ころあ》いだ。
もう一度、長門の世話にならなきゃな。
「その前に」
朝比奈さんは心に染《し》み入る笑みを満天の星空のように広げ、
「やっておかないといけないことがあるでしょう?」
公園から少し離《はな》れると、そこはもう住宅地である。
俺は朝比奈さんのキューに従い、路地裏から一歩踏《ふ》み出した。
夜道の先に、威勢《いせい》よく歩いている小さい人影《ひとかげ》があった。Tシャツ短パンから生える細い手足と半端《はんぱ》に長い髪《かみ》をせわしなく動かして歩き去ろうとしている。
「おい!」
遠目に見えるTシャツ短パンの背の低い影《かげ》が振《ふ》り返る。こっちに気づいたのを確認《かくにん》し、俺は手をメガホン代わりにして叫《さけ》んだ。開き直り気味の音量で、
「世界を大いに盛り上げるためのジョン・スミスをよろしく!」
その中学一年生女子は、じっとこちらを見ているようだったが、なぜか怒《おこ》ったような動作で向き直ると、そのままスタスタと歩いていった。
今どうにかしなくても北高を訪ねれば俺に会えると思っているからだろうか、ちっとも迷いのない去りっぷりだった。中途半端《ちゅうとはんぱ》に長い黒髪《くろかみ》に、俺は小声で付け加える。
「覚えておいてくれよ、ハルヒ。ジョン・スミスをな……」
この時はまだ十二歳のハルヒ、これからも東中で無茶《むちゃ》なことをし続けるであろうハルヒに、俺は心の底から祈《いの》っていた。
忘れないでいてくれ。ここに俺がいたことを。
すっかり道順を暗記している高級|分譲《ぶんじょう》マンションへは、今や目をつむってでも行ける。俺は斜《なな》め後ろで控《ひか》え目に歩いている朝比奈さん(大)を同伴《どうはん》し、二十数時間前にもやって来た真新しい建築物を見上げていた。朝比奈さん(大)は、まだ誰《だれ》も出てきてないのに俺の背後に隠れるようにナイスバディな身体を縮めて、
「……キョンくん、お願い」
哀願《あいがん》されて拒否《きょひ》する理由はまったくない。いつの時代の朝比奈さんでも、あなたの依頼《いらい》を袖《そで》にするほど俺はへそ曲がりな人間ではありませんからね。
「ごめんね。わたし、ちょっと長門さんって今でも苦手で……」
そういや部室や前回ここに来たときの朝比奈さん(小)もそんな雰囲気《ふんいき》だったな。ハルヒを除いて、宇宙人・未来人のどちらにもニュートラルに接していたのは古泉くらいだ。
「まあ、なんとなく解りますよ」
俺は思いやるように言い、玄関《げんかん》入り口のパネルでテンキーを708と押してからベルのマークが付いたボタンを押す。
数秒の間があって、ぷつんとインターホンが接続する。
無言と無音の二重奏が返礼となって俺の耳に届けられた。
「長門、俺だ」
――沈黙《ちんもく》。
「すまん、ちょっと説明しづらいことが起きて、また未来からやって来た。朝比奈さんもいる。大人のほうの。ええとだな、異時間同位体だったか?」
――沈黙。
「お前の手を借りたい。というか、俺をここに飛ばしたのは未来のお前なんだ」
――沈黙。
「そこに俺と朝比奈さんがいるはずだ。時間を止められて客間で寝《ね》ている……」
玄関のロックがカシャンと解除された。
『入って』
インターホンごしに聞こえる長門の声が耳に心地《ここち》よく響《ひぴ》いた。いつものように冷たい静けさを伴《ともな》った平坦《へいたん》な声。どこか驚《おどろ》きと呆《あき》れの旋律《せんりつ》が混じっているような気もしたが、真実気のせいだろう。長門なら何でもありだ。この状況《じょうきょう》だって何とかしてくれる。でなきゃ、困るんだ。
ハイヒールで塀《へい》の上を歩いているような緊迫《きんぱく》感を持って、朝比奈さんは俺のベルトに指を引っかけている。エレベータが口を開き、俺たちを吸い込んでから上昇《じょうしょう》する。
お馴染《なじ》み、708号室へ。
ベルのボタンもあったが、そんな気分じゃない。俺は物言わぬ扉《とびら》をノックした。ドアを隔《へだ》てた向こうに誰かがいるような気配はしなかったが、鉄の扉はすぐに開いた。
「…………」
眼鏡《めがね》をかけた小振りな顔が扉の隙間《すきま》から覗《のぞ》く。俺をじっと見つめ、視線を振って朝比奈さん(大)に注目の眼差《まなぎ》しを照準し、また俺に戻《もど》して、
「…………」
まるっきりの無表情で無言、何か適当な感想でいいから言ってくれよと頼《たの》みたくなるくらいの空虚《くうきょ》な反応だった。まさしく長門だ。初対面時期の長門有希。とりつく島が皆無《かいむ》だった春|頃《ごろ》の、そして『三年前』に『俺』が頼《たよ》ったこいつそのままだ。
「入っていいか?」
考え込むような沈黙の後、長門は一ミリくらい顎《あご》を引いて、すっと部屋の奥へと下がった。イエスという意味で合っているはずだ。俺は背後で息を詰《つ》めている連れの美女に言った。
「行きましょう、朝比奈さん」
「ええ……。そうね、きっと大丈夫《だいじょうぶ》」
自分に言い聞かせているような口調である。
それにしても、いったい上がり込むのは何回目だ? 紀伝体では四回目、編年体では二回目ということになるのか? 俺自身の時系列がワヤになっている。よく体内時計が狂《くる》い出さないものだと思う。冬から夏に舞《ま》い戻ったり、三年前に二回も来たりしていれば体調がおかしくなってもよさそうなものだが、今のところ俺はまったく正常だ。むしろこれまでの人生でも数えるほどしかない冴《さ》えた思考を保っている。慣れてしまったのか? こんな現実的とも思えない状況を多々|繰《く》り返すことで、通常の神経回路が焼き切れてしまったのかもしれない。
生活感|皆無《かいむ》な長門の部屋は、記憶《きおく》に留《とど》まっているままの殺風景さを俺の網膜《もうまく》に映し出した。以前の『三年前』と変わっておらず、五月に初めて訪問したときともまったくの同じ情景だ。
安心したのは、長門有希が俺の知る範囲《はんい》での長門そのものってとこだ。無表情で無感動。何事にも狼狽《ろうばい》したりしない、完全|無謬《むびゅう》な宇宙人の雰囲気そのままな。
靴《くつ》を脱《ぬ》いでフローリングの細い廊下《ろうか》を進み、リビングルームに足を踏《ふ》み入れる。長門はそこで待っていた。ぽつんと立って、俺と朝比奈さんに何を言うこともなく目だけを固定していた。仮に驚いているのだとしても、俺には長門の顔から一|欠片《かけら》の感情も読みとることは出来ない。もしかしたら長門にとって未来から俺がやってくるのは日常|茶飯事《さはんじ》になっているのかもな。そう何度もこの日にタイムスリップする事態になるとは思いたくないが。
「自己|紹介《しょうかい》の必要はないよな」
長門が座らないので俺と朝比奈さんも立ったままだ。
「この人は朝比奈さん大人バージョンだ。以前、お前も会ったことが、」と言いかけて、それは三年後のことなのだと思いだし、「いや、会うことになるんだ。でもまあ、朝比奈さんで間違《まちが》いないから、別にいいよな」
長門は朝比奈さん(大)をセンター試験の数学UBの設問を見るような目で見て、次に客間のほうへと視線を滑《すべ》らせ、また俺の後ろに隠《かく》れるようにしているグラマーな身体《からだ》を眺《なが》めて、
「了解《りょうかい》した」
髪《かみ》を揺《ゆ》らさない程度のうなずきを返した。
長門の視線を追っていた俺は、やはりどうしてもそこが気になる。リビングルームの隣《となり》、そこに襖《ふすま》で仕切られた特別な部屋がある。
「開けていいか?」
客間を指した俺に長門は頭を振《ふ》った。
「開かない。その部屋の構造体ごと時間を凍結《とうけつ》している」
残念のような、ホッとするような。
首筋に暖かい息がかかった。朝比奈さん(大)の漏《も》らした柔《やわ》らかな吐息《といき》である。彼女も俺と同じ感想を抱《いだ》いたらしい。俺と仲良く枕《まくら》を並べて寝ている自分を見たら、朝比奈さん(大)は何を思うだろうか。訊《き》いてみたい気もしたが、今は事情説明のほうが先だ。
「長門、たびたび押しかけて来てすまないんだが、とりあえず話を聞いてくれ」
隣室《りんしつ》で凍結されてる『俺』はどこまで話したっけな。七夕事件までのSOS団史くらいか。なら今の俺はその後のことを話せばいい。憂鬱《ゆううつ》だった春以降に発生したハルヒの退屈《たいくつ》しのぎアレコレを経由して、俺の溜息《ためいき》の元凶《げんきょう》となった映画|撮影《さつえい》とその後日談までの約半年間の物語だ。そう、そこには長門、お前もいてだな、俺はお前の行動に助けられたり慌《あわ》てたり色々あったんだぜ。一昨日《おととい》目を覚ますまでな。それが何故《なぜ》かなかったことになっちまってて、それで俺はここまで来たんだ。長門製|緊急《きんきゅう》脱出《だっしゅつ》プログラムの助けを借りてさ。
詳細《しょうさい》を語り始めると何時間もかかりそうなので、俺はハルヒに語ったやつ同様のダイジェスト版をお送りした。細かいところは飛ばして、大まかなストーリーラインだけを語る。こいつにはそれで充分《じゅうぶん》なはずだ。
「……というわけで、俺がまたまた舞い戻《もど》ってきたのは、お前のおかげなんだ」
論より証拠《しょうこ》とばかりに、ジャケットのポケットでしなびていた栞《しおり》を取り出した。幽霊《ゆうれい》にお札を渡《わた》すような気分で、そいつを長門に示してやる。
「…………」
長門は栞を指先で摘《つま》み上げ、表面のフラワーイラストを無視して裏の文字に瞳《ひとみ》を落とした。白亜紀《はくあき》の地層から液晶《えきしょう》テレビを掘《ほ》り出してしまった考古学者のような目でそれを見ている。そのままいつまでも見ていそうだったので、質問で割り込んだ。
「どうすればいいんだ?」
「わ、わたしは異常な時空間をノーマライズしたいと思ってます」
朝比奈さん(大)の声は、意中の男性に愛を告白するような緊張《きんちょう》感にまみれていた。長門に対してはいつもおっかなびっくりだった朝比奈さんの習性は、何年後かになっても変わっていないらしい。この時の俺はそう思った。
「長門さん……。あなたに協力して欲しいんです。改変された時間平面を元通りにできるのはあなただけなんです。どうか……」
朝比奈さん(大)は神社の御《ご》神体を拝むように両手を合わせて目を固く閉じた。長門大明神様、俺からも頼《たの》むよ。部室に朝比奈さんがいて、入れてくれたお茶を飲みながら古泉とボードゲームやってて、その横にお前が彫像《ちょうぞう》みたいに本を読んでいる姿があって、そこにハルヒが飛び込んでくるような世界を復帰させて欲しい。俺の願いもそれなんだ。
「…………」
栞から顔を上げた長門は、真摯《しんし》な眼差《まなざ》しで虚空《こくう》を見つめていた。朝比奈さんの緊張も理解できる。長門と意見が対立すれば勝つみこみはないのだろう。いったいこの世の誰《だれ》が長門に太刀《たち》打ちできるのか。ハルヒくらいだ。
防音設備の行き届いたマンションの部屋には、ほとんど何の音も届かない。時間が止まっているような静けさだった。長門の目が俺の目と合わされた。肯定《こうてい》の仕草。あの、ミリ単位での首の動きだ。
「確認する」
と、長門は言い、何を確認するのかと問う前に目を閉じて、
「…………」
待つまでもなく目蓋《まぶた》を持ち上げ、闇《やみ》色の瞳が俺に向いた。
「同期不能」
短い音の連なりを発して、俺をじっと見つめる。微妙《びみょう》に顔つきが違《ちが》って見えたのは多分、俺の錯覚《さっかく》ではないと思う。春以降から夏にかけてのこいつの顔だ。古泉も気付いていた、出会った直後から微小な変化の途上《とじょう》にある長門の表情である。ただし冬までの長門には至っていない。
淡《あわ》い唇《くちびる》が薄《うす》く開き、
「その時代の時空連続体そのものにアクセスできない。わたしのリクエストを選択《せんたく》的に排除《はいじょ》するためのシステムプロテクトがかけられている」
意味は解《わか》らないが不安になる。おいおい、待ってくれよな。「手の施《ほどこ》しようがない」とか言うんじゃないだろうな。
長門は、そんな俺の危惧《きぐ》をよそに、
「だが事情は把握《はあく》した。再修正可能」
そっと栞の文字を指でなぞる。そして、新雪が積もる音のような声で説明を始めた。
「その時空改変者は涼宮ハルヒの情報創造能力を最大利用し、世界を構成する情報を部分的に変化させた」
聞き慣れた静かな声だ。赤《あか》ん坊《ぼう》時代にきいたオルゴールのサビのように、俺の心に染《し》み渡る。
「ゆえに改変後の涼宮ハルヒには何の力も残っていない。情報を創造する力はない。その時空には情報統合思念体も存在しない」
よく解らないが、とてつもないことなのだろう。ハルヒの周辺にいた俺以外の人間たち、そのすべての過去を新しく生み出したのだから。女子校を共学にしたり、北高に通っていた奴《やつ》の何割かをそっちに割り振《ふ》ったり、それがちっともおかしくないように関係する人間すべての記憶《きおく》を改変したり、『機関』の連中や宇宙人の長門と未来人の朝比奈さんにも違う人生を用意する。朝倉を再登場させ、北高の生徒からハルヒが存在したという記憶を消し、朝倉はいたがハルヒはいなかったという歴史を作り上げる。長門の親玉すら消してしまう。
むちゃくちゃだな。
「涼宮ハルヒから盗《ぬす》み出した能力によって、時空改変者が修正した過去記憶情報は、三百六十五日間の範囲《はんい》」
つまり去年の十二月――俺が来た時間から見て――から、今年の十二月十七日までを改変したわけか。三年前の七夕――なんと今日だ――までは手が回らなかったんだな。おかげで助かった。ハルヒがあの七夕事件を覚えていたせいでここまで来れた。しかしいったい誰だ、そんなハルヒ並みのバカをやったのは。
長門は俺から視線を外さず、
「世界を元の状態に戻《もど》すには、ここから三年後の十二月十八日へと行き、時空改変者が当該《とうがい》行為《こうい》をした直後に、再修正プログラムを起動すればよい」
じゃ、これから俺たちと三年後に行ってくれるんだな? 再修正をしてくれるのは、お前なんだろう?
「わたしは行けない」
なぜだ?
なぜなら、と長門は客間に指先を向けて、
「彼らを放置できない」
そこで寝《ね》ている俺と朝比奈さんの時間を凍結《とうけつ》し続けるには、この時空を離《はな》れるわけにはいかないのだ、と解説する。長門は時報を告げるような声で、
「エマージェンシーモード」
「じゃ、どうしろってんだ」と俺。少し焦《あせ》る。
「調合する」
相変わらず説明不足の物言いだ。
長門はゆっくりと眼鏡《めがね》を外すと、両手で包み込むように持った。見えない糸に吊《つ》られているように、眼鏡は掌《てのひら》の上に浮《う》かんでいる。普通《ふつう》の人間がやるのを見れば本当に見えない糸が指から伸《の》びているんだろうが、言うまでもなく長門はそんな普通のことはしない。
ぐにゃり。
レンズごとフレームが歪《ゆが》んで、奇怪《きかい》な渦巻《うずま》き模様になったかと思うと、一瞬《いっしゅん》前まで眼鏡だったその物体は別の物へと変化していた。見たことのある形状だ。あまりお世話になりたくないと思わせる、人間ならば本能的に恐《おそ》れおののくべき器具である。
俺は躊躇《ためら》いつつ評した。
「でかい注射器のようだが……」
「そう」
無色|透明《とうめい》な液体がたんまり充満《じゅうまん》している。そんなもので誰《だれ》をどうしようというのだ。
「時空改変者に再修正プログラムを注入」
俺は注射器から生える鋭《するど》い針を見て反射的に目を背《そむ》けた。
「あのさ……。もうちょっと穏便《おんぴん》なやり方はないのか? 残念だが俺はすべての意味で無|免許《めんきょ》だ。刺《さ》す場所を間違《まちが》えちまったら困るだろ」
長門は握《にぎ》った注射器に電源の切れた液晶《えきしょう》ディスプレイ色の瞳《ひとみ》を向けていたが、
「そう」
再び両手を開き、注射器を渦巻き状にして違う物を提示した。その形が何を表しているのかを悟《さと》って、俺は息をのんだ。
「また物騒《ぶっそう》な物を出してきたな……」
今度は拳銃《けんじゅう》だった。ただし口径はやけに小さいしステンレスのような材質をしている。
長門は金属|光沢《こうたく》も生々しい新品のモデルガンみたいな小銃を掌に載《の》せて差し出してきた。
「着衣の上からでも成功率は高いが、できれば直接皮下に撃《う》ち込むことが望ましい」
「弾《たま》は? まさか実弾《じつだん》じやないだろうな」
外観から察するにはアルミかプラスチック製のようだが。
「短針銃。針の尖端《せんたん》にプログラムを塗布《とふ》してある」
太い注射器で刺すよりは心理的な抵抗《ていこう》感は少ない。俺は銃を受け取って、あまりの軽さに驚《おどろ》きながら、
「ところで」
あえて訊《き》かないでおいた質問をようやく発する。
「誰が犯人だ。世界を変えたのはどいつだ。ハルヒでないならそれは誰だって言うんだよ。教えてくれ」
朝比奈さん(大)が小さく息を吸い込むのが聞こえた。
長門は淡々《たんたん》と唇《くちびる》を開き、無表情にそいつ[#「そいつ」に傍点]の名を告げた。
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第五章
「…………」
俺が発するべきコメントを到底《とうてい》探し得ないでいると、長門は朝比奈さん(大)に向かって、
「目標の時空間座標を伝える」
「あ、はい」
朝比奈さん(大)は忠実な大型犬がお手をするように片手を伸ばした。
「どうぞ……」
長門の指が、朝比奈さん(大)の手の甲《こう》にちょんと触《ふ》れ、緩《ゆる》やかに引っ込められる。……それだけ? しかし朝比奈さん(大)にはそれだけでよかったようで、
「解りました、長門さん。そこに行って『彼女』を修正すればいいのね。難しいことではありません。そこの『彼女』には何の力もないはずですから……」
何事か決意したように握《にぎ》り拳《こぶし》を作る未来人に、宇宙人が言った。
「待って」
眼鏡《めがね》をなくし、素顔《すがお》を晒《さら》す長門はあくまでも淡々と、
「そのままでは、あなたたちも時空改変に巻き込まれる。対抗《たいこう》処置を施《ほどこ》す」
音もなく手を伸ばしてくる。
「手を」
何だ。握手《あくしゅ》でもしようってのか。素直に俺は右手を差し伸べ、長門のひんやりした指が手首を握るのにドキリとした直後、
「…………」
すっと沈《しず》み込んだ長門の顔が俺の腕《うで》に寄せられ、
「うわ」
思わず声が出てしまった。だが、それも仕方のない反応だと思うね。屈《かが》み込んだ長門が俺の手首に唇を触れさせ、あまつさえ歯を立てているんだからな。映画の中で散々見た、朝比奈さんへの噛《か》みつき攻撃《こうげき》だ。
痛くはない。じゃれたシャミセンが時々するような、敵意の籠《こ》もっていない甘噛みだ。しかし俺は、小さな犬歯が肌《はだ》に刺さる感触《かんしょく》をむず痒《がゆ》く味わっていた。確かに突《つ》き立っているのに痛みを派生させないのは、痛覚を麻痺《まひ》させる物質が長門の唾液《だえき》に混じっているのかも。まるで蚊《か》だな。
五秒か十秒か、長門は俺の手を噛んでいたが、ゆっくりと顔を上げて、
「対情報操作用|遮蔽《しゃへい》スクリーンと防護フィールドをあなたの体表面に展開させた」
長門は赤くなってもおらず、照れもしていない。朝比奈さん(大)のほうが両手で口を覆《おお》って驚いているくらいだ。俺は妙《みょう》な痺《しび》れを感じて手首を見やる。吸血鬼《きゅうけつき》に襲《おそ》われたように空いていた二つの穴が、見る間に跡形《あとかた》なくふさがっていく。映画|撮影《さつえい》時の朝比奈さんのように、これで俺も長門特製ナノマシンを体内に混入されてしまったというわけだ。
「あなたも」
長門に請《こ》われ、朝比奈さんもおずおずと片手を震《ふる》わせながら出して、
「……こうされるのも、久しぶりですね。あの時は本当にご迷惑《めいわく》を……」
「わたしは初めて」
「あ。そ、そうでしたね。つい……」
きゅっと目を閉じたまま、未来人は宇宙人の口づけを手首に受け、俺の時よりも短い気のする得体《えたい》の知れないナノマシン注入時間を終えると、空咳《からせき》を一つしてから、
「では、行きましょう。キョンくん。これからが本番です」
だとしたら、ずいぶん長い前振《まえふ》りでしたね。ですが、俺だって必死の前説をやってたんですよ。もう二度とやりたくないですが。
「ありがとな」
俺は冷静な顔を崩《くず》さずにいる部屋の主に呼びかけた。沈黙《ちんもく》の権化《ごんげ》と化した長門は何も答えない。表情に何の自己ピーアールもなかった。それなのになぜだろう。背筋を伸《の》ばしてキリリと立つ長門の姿が、やたらと寂《さび》しげに見える。やっぱりそうなのか? 俺の思ったとおりのことだったのか。
「また会おう、長門。しっかり文芸部で待っててくれよ。俺とハルヒが行くまでさ」
命を吹《ふ》き込んだ雛《ひな》人形のような動きで、宇宙人製有機生命体はカクリと首を縦に振った。
「待っている」
その小さな声に俺は胸に奇妙《きみょう》なモヤモヤが発生するのを自覚する。だが消し忘れたタバコの煙《けむり》のようなモヤの正体が何かを考えるより早く、朝比奈さん(大)が、
「時間|酔《よ》いするといけませんから」
ちょんと俺の肩《かた》を突っついた。
「目を閉じて」
言われたとおりにする。朝比奈さん(大)が正面に立つ雰囲気《ふんいき》がする。両手首が握られた。
「キョンくん……」
ひそめた囁《ささや》き声がとても甘美《かんぴ》だった。サービスでキスの一つくらいはあってもいいのではないかね。
「行きますね」
どうぞどうぞ。いくらでも何回でも、キツイのをお見舞《みま》いしてください、と考えていると――、
劇的にキツイ立ちくらみがやってきた。目を閉じてて良かった。目を開けていてもブラックアウトしていたことだろう。安全装置の外れたジェットコースターに乗せられているみたいだ。血の気が引いているのか頭に昇《のぼ》っているのか判然としない。重力源のつかめない浮遊感《ふゆうかん》が連続し、瞑《つぶ》っているのに目が回る。気を失わなかったのは、ひとえに腕に感じている朝比奈さん(大)の肌の温《ぬく》もりが所以《ゆえん》だ。
いったい何分俺はこうしているんだろう。何時間か? 空間|認識《にんしき》能力と共に時間を把握《はあく》する能力も失《う》せている。そろそろ限界だ。吐《は》きそうなんですけど、朝比奈さん……。
失礼してエチケット袋《ぶくろ》の代わりになりそうなものを手探《てさぐ》りで探していると、
「ん……着きました」
消えていた足裏に接地する感覚が蘇《よみがえ》った。冷たい大地の温度が靴下越《くつしたご》しに伝わってくる。同時に、全身に作用する地球の重力も復活した。嘔吐《おうと》感が嘘《うそ》のように引いていく。
「もう目を開けていいです。よかった、長門さんの指示してくれた場所と……時間です」
見上げる。夜の空に輝《かがや》いているのは冬の星座だ。空気が澄《す》んでいるぶん、夏よりはっきりと見える。首の向きを変えると、民家の屋根の上に北高の校舎の頭が確認できた。
現在位置はどこかと見回してみる。夜陰《やいん》に紛《まぎ》れていたが間違《まちが》えようがない。数時間前にも俺はここにいた。ハルヒのポニーテールと古泉の体操服姿が場所の記憶《きおく》と共にある。
偶然《ぐうぜん》にもハルヒと古泉が着替《きが》えをした場所だった。偶然――だと思う。
それで、今はいつなのか?
腕《うで》時計を見た朝比奈さん(大)が教えてくれた。
「十二月十八日の、午前四時十八分です。後五分くらいで、世界は変化します」
二十日にエンターキーを押して三年前に飛んでった俺からしたら、十八日は二日前のことだ。その日、何の気なく目を覚ました俺はいつものように学校へ行き、すっかり様変わりした北高の様子に恐慌《きょうこう》状態に陥《おちい》った。存在しないハルヒに、いるはずのない朝倉。俺を知らない朝比奈さんと、普通《ふつう》の人間になってた長門。
なにもかもはここから始まったのだ。始まりの時に居合わせている現在の俺。ならば、始まらないようにすることだって出来るのだろう。そのために今、俺はここにいる。
シリアスな心意気に浸《ひた》っていると、
「あ、靴。忘れて来ちゃった」
慌《あわ》てたように朝比奈さん(大)が小声で呟《つぶや》いた。
居間から靴も履《は》かずに来てしまったからな。さすが朝比奈さん、年を経てもうかつなところは変わってない。
「長門さん、保管してくれてるかなあ」
不安そうなお言葉に、俺は頬《ほお》を緩《ゆる》ませた。だいじょうぶだと思いますよ。あいつは短冊《たんざく》だって三年間も保存していた。ならば靴だって捨てずに持っててくれてるでしょう。今度、あいつの部屋に行ったら下駄《げた》箱を見せてもらいますよ……。
のどかに考えていると、身体《からだ》が急に電流に当てられたように震《ふる》える。
裸足《はだし》なのもさることながら夏から真冬に舞い戻《もど》ったおかげで異様に寒い。思わず提《さ》げていた制服のジャケットを着込もうとして、朝比奈さん(大)が両手で身体を抱《だ》きしめているのに気づいた。まあ、ブラウスとミニタイトの格好じゃこの気温の下では凍《こご》えるだろう。
「貸しますよ、どうぞ」
俺は上着を震える肩にかけてあげた。紳士《しんし》的な振る舞いに勝手に自己満足する。
「あ、ありがとう。ごめんね」
何のこれしき、安いもんだ。あなたが三年前で待っててくれたから、俺はまたここに戻って来れたんですよ。それを考えれば着ている物を全部あなたにあてがってしまいたいくらいです。
「うふ」
朝比奈さん(大)は、見る人間の半数を腰砕《こしくだ》けにするような色気と可愛《かわい》らしさが絶妙《ぜつみょう》にブレンドされた微笑《ほほえ》みを浮《う》かべ、すぐに真顔に戻った。
「そろそろ、です」
靴を忘れてきたのは正解だったかもしれない。足音を立てることなく歩けるからな。それでも俺と朝比奈さん(大)は呼吸もはばかるように抜《ぬ》き足|忍《しの》び足で北高の校門前へと歩き出した。曲がり角で足を止め、尾行《びこう》の標的を覗《のぞ》き見するように顔だけ出して暗い道の向こうへ視線を飛ばす。
街灯の数は少ないが、ちょうど門の前に一本だけ立っている。拡散したスポットライトのように、そこだけがぼんやりと明るくなっていた。充分《じゅうぶん》な光源とは言えないものの、誰《だれ》かがそこにいれば解るくらいの明るさではある。
「来ました……」
暖かい手が俺の肩《かた》に添《そ》えられていた。朝比奈さん(大)の緊迫《きんぱく》しつつも甘い吐息《といき》が耳たぶにかかり、平常心の俺なら途端《とたん》に陶然《とうぜん》とするところだったが、この場ではそんなリアクションも念頭から消えている。
時空改変者が夜の闇《やみ》から街灯の下へと歩いてくる。
北高の制服だ。長門が言っていたとおりの人物である。そいつ[#「そいつ」に傍点]が俺たちの世界を変換《へんかん》し、SOS団のメンツをバラバラにして単なる人間に変えてしまった張本人だ。俺の記憶だけを残し、俺以外の全員の記憶と歴史を変えちまった。
そいつ[#「そいつ」に傍点]が、今からそれをするのだ。
まだ飛び出すわけにはいかない。すべてを見届けてから、というのが長門のアドバイスである。いったんそいつ[#「そいつ」に傍点]に世界を改変させておいて、それから修正プログラムを撃《う》ち込む。そうでないと俺が脱出《だっしゅつ》プログラムを起動させる歴史が生まれないからなんだという説明には、まるで納得《なっとく》も理解もできないが、長門と朝比奈さん(大)にとっては自明のことらしい。この二人には時間がどういうふうに流れているのか解《わか》っているのだろう。俺には解らない。どうやっても解らないのなら、解る奴《やつ》の指示に従うだけだ。あの長門は嘘を吐《つ》かない。いつだって生真面目《きまじめ》な顔で俺たちの側《そば》にいてくれた……。
俺は長門のくれた短針|銃《じゅう》を握《にぎ》り直して、その時を待つ。
そいつ[#「そいつ」に傍点]は、静かな歩調で北高校門前まで歩いて、暗がりに包まれた安物の校舎を見上げるように足を止めた。
セーラー服のスカートが風になびいている。
様子をうかがう俺たちには気付いていないようだ。長門が注入したナノマシンのおかげだろう。遮蔽《しゃへい》スクリーンと防護フィールド。
そいつ[#「そいつ」に傍点]は不意に片手を挙げて、まるで空気をつかみ取るような動きをする。何者かに操《あやつ》られているような、妙《みょう》に不自然な所作ではあるが、そうでないというのは俺には既知《きち》のものだ。
「すごい……」と朝比奈さん(大)が感嘆《かんたん》するように、「強力な時空|震《しん》だわ。こんな力があったなんて……。実際に見ても信じられません」
見るも何も、俺の目には何一つ変化しているように見えない。単なる夜の続きだ。しかし朝比奈さん(大)には、何らかの手段で今まさに世界の歴史が改変されている工程が感じられているのだろう。未来人だからな、そのくらいはできるはずだ。
朝比奈さん(大)は身体を俺に預けるようにピッタリくっついている。本来ならここにいる俺たち二人も、そいつ[#「そいつ」に傍点]の世界改変に巻き込まれるところだったんだろうが、長門の噛《か》みつき行《こう》為《い》によって免《まぬか》れているってわけだ。長門と朝比奈さん(大)。やはりこの二人がいないとダメだったんだな。俺は正しく行動したんだ。次の行動が、この事態を収束させる最後のアクションになるはずだ。ラストでトチるわけにはいかない。
息を殺して見ていると、そいつ[#「そいつ」に傍点]は手を下ろし、不意にこっちを向いた。俺たちが潜《ひそ》んでいるのに気付いたかと思いきや、単にキョロキョロしているようだった。
「大丈夫《だいじょうぶ》です。見つかっていません。彼女はたった今生まれ変わったんです。時空震……世界の改変が終了《しゅうりょう》したの。キョンくん、今度はわたしたちの番です」
朝比奈さん(大)の硬《かた》く真面目な声が合図だった。
俺は闇から身体《からだ》を逃《のが》し、校門へ向かって歩き出す。慌《あわ》てなくても逃《に》げやしない。案の定、そいつ[#「そいつ」に傍点]は街灯の光に照らされた俺の姿に気付いても、校門前での棒立ちを続けていた。変わったのは表情だけだ。その顔に驚《おどろ》きを見出《みいだ》して、俺はなんとなく憂鬱《ゆううつ》な思いを抱《いだ》いた。
「よう」
俺は声をかけ、久しぶりに会う友人であるかのように歩み寄った。
「俺だ。また会ったな」
朝比奈さん(大)の口ぶりで漠然《ばくぜん》とは感づいていた。俺が知っている奴の中で、ハルヒ以外にこんなことができそうな奴は誰か。考えてもみろ。十八日以降、SOS団の連中は全員変な秘密のプロフィールを失っていた。しかし性格までは変化していなかった。その中で唯《ただ》一人、今までにない行動や表情や仕草を見せる奴がいた。
暗がりの中で、小柄《こがら》な北高の制服姿が所在なげに立っている。どうして自分はこんな所にいるのかと悩《なや》む、目覚めたばかりの夢遊病|患者《かんじゃ》のように周囲を見回すその姿は――、
「長門」
俺は言った。
「お前のしわざだったんだな」
眼鏡《めがね》付きだった。これはあの長門だ。十八日以降の、文芸部の一部員でしかない長門有希。宇宙人でも何でもない、引っ込み思案な読書好き。
その眼鏡の長門はさらに驚いた顔をする。わけがわからないというような。
「……なぜ、ここに、あなたが」
「お前こそ、なんだってここにいるのか自分で解ってんのか?」
「……散歩」
長門は微《かす》かな声を出した。目を大きく開けて俺を見つめる少女の顔で、眼鏡が街灯の光を反射していた。それを見ながら俺は思う。
そうじゃない。そうじゃないんだよ、長門。
こいつは疲《つか》れていたのだ。ハルヒの思いつきに振《ふ》り回されたり、俺の身を守ってくれたり、おそらく俺たちの知らないところで秘密の活躍《かつやく》をしていたり――、そんなことに色々な疲労《ひろう》が溜《た》まっていたんだ。
ついさっきまで俺がいた長門の部屋で、三年前の長門は言った。
『わたしのメモリ空間に蓄積《ちくせき》されたエラーデータの集合が、内包するバグのトリガーとなって異常動作を引き起こした。それは不可避《ふかひ》の現象であると予想される。わたしは必ず、三年後の十二月十八日に世界を再構築するだろう』
そして淡々《たんたん》と、
『対処方法はない。なぜならそのエラーの原因が何なのか、わたしには不明』
俺には解る。
長門が自分でも理解できない異常動作の引き金が何だったのか。積もり積もったエラーデータとやらが何なのか。
それは思いっきりベタなシロモノなんだ。プログラム通りにしか動けないはずの人工知能でも、そんな回路が入っていないロボットでも、時を経たらそいつを持つようになるのがパターンなんだ。お前には解るまい。だが俺には解ることだ。たぶんハルヒにも。
俺は長門の困惑《こんわく》した顔を心ゆくまで観察した。文芸部員の儚《はかな》い女子生徒は、居心地《いごこち》が悪そうに立ちつくすのみだった。その今にも消え入りそうな姿に俺は心中で語りかける。
――それはな長門。感情ってヤツなんだよ。
お前は無感動状態が基本仕様だから尚更《なおさら》だったんだろう。たまには喚《わめ》いたり暴れたり誰《だれ》かにお前なんかもう知らんと言いたかったことだろう。いや、こいつがそう思わなかったとしても、そうすべきだったのだ。そうさせてやるべきだったのだ。責任は俺にもある。ついつい長門任せにする癖《くせ》のついていた俺の依存《いぞん》心。長門なら何とでもしてくれるだろうと考えて、そこで思考停止していた愚《おろ》か野郎《やろう》。俺はハルヒ以上に性質《たち》の悪いバカだ。誰を罵《ののし》る権利もない。
おかげで長門は――こいつは世界を変えちまおうとするくらいにおかしくなっちまいやがった。
バグだと? エラーだ?
うるせえ。そんなもんじゃねえ。
これは長門の望みだ。こういう普通《ふつう》の世界を、長門は望んだのだ。
俺の記憶《きおく》だけを残して、それ以外を、自分を含《ふく》めたすべてを変えてしまったのだ。
数日間俺を悩ませていた、この疑問の答えだって今なら自明だ。
――なんでまた俺だけを元のままにしておいたのか?
答えは単純、こいつは俺に選択《せんたく》権を委《ゆだ》ねたんだ。
変えた世界がいいか、元の世界がいいか。俺に選べというシナリオだ。
「ちくしょうめ」
選ぶもくそもあるか。
確かにSOS団だけなら修復可能だとも。ハルヒと古泉は別の高校にいるが、そんなもんたいした障害にはならん。学外活動にしてしまえばいいだけだ。いつもの喫茶《きっさ》店を溜まり場とする謎《なぞ》のサークルにしちまえばいい。そこでもやはりハルヒはわけの解らんことを言い倒《たお》すだろうし、古泉は笑っているだけだろうし、朝比奈さんは狼狽《ろうばい》しているだろうし、俺は仏頂面で遠い目をしているという情景が目に浮《う》かぶ。そして長門も、あの情緒《じょうちょ》不安定な性格のままでそこにいることだろう。黙《だま》って本を読みながら。しかしな――。
それは俺の知っているSOS団ではない。長門は宇宙人じゃなくて朝比奈さんも未来人じゃなくて古泉も単なる一般《いっぱん》人、ハルヒにも不思議な力は全然ないという、まことに常識的な、単なる仲良しグループでしかない。
それでいいのか。そのほうが良かったのか。
俺はどう考えていたんだ? ハルヒの巻き起こす色んな出来事、非常識な事件の数々に、俺はどう思っていた?
うんざりだ。
いい加減にしろ。
アホか。
そろそろ付き合い切れねえぞ。
「…………」
心臓が強烈《きょうれつ》に痛む。
心ならずも面倒《めんどう》事に巻き込まれることになる一般人、ハルヒの持ってくる無理難題にイヤイヤながら奮闘《ふんとう》する高校生。それが俺のスタンスのはずだった。
それでだ、俺。そう、お前だよ、俺は自分に訊《き》いている。重要な質問だから心して聞け。そして答えろ。無回答は許さん。イエスかノーかでいい。いいか、出題するぞ。
――そんな非日常な学園生活を、お前は楽しいと思わなかったのか?
答えろ俺。考えろ。どうだ? お前の考えを聞かせてもらおうじゃねえか。言ってみろよ。ハルヒに連れ回され、宇宙人の襲撃《しゅうげき》を受け、未来人に変な話を聞かされ、超能力者《ちょうのうりょくしゃ》にも変な話を聞かされ、閉鎖《へいさ》空間に閉じこめられたり、巨人《きょじん》が暴れたり、猫《ねこ》が喋《しゃべ》ったり、意味不明な時間移動をしたり、ついでに、それらすべてをハルヒに包み隠《かく》さなければならないというシバリの効いたルールで、不思議な現象を探し求めるSOS団の団長だけが何にも知らない幸福状態、張本人なのに気づけないってこの矛盾《むじゅん》。
そんなのが楽しいと思わなかったのかよ。
うんざりでいい加減にして欲しくてアホかと思って付き合いきれないか。はん、そうかい。つまりお前はこう思っていたわけか。
――こんなもん、全然|面白《おもしろ》くねえぜ。
そうだろ? そういうことになるじゃねえか。お前が真実ハルヒをウザいと感じて、ハルヒの持ち出してくるすべてが鬱陶《うっとう》しいんだとしたら、お前はそれらを面白いなどと思わないよな。違《ちが》うとは言わせねえぞ。明らかだろうが。
しかしお前は楽しんでいた。そっちのほうが面白かったんだ。
なぜかと言うか?
ならば教えてやるよ。
――お前はエンターキーを押したじゃねえか。
緊急《きんきゅう》脱出《だっしゅつ》プログラム。長門の残したやり直し装置。
Ready?
その設問に、お前はイエスと答えたんだ。
だろうが。
せっかく長門様が世界を落ち着いた状態にしてくれたのに、お前はそれを否定したんだ。四月に涼宮ハルヒと出会ってからこっちの、クダランたわけた世界のほうを肯定《こうてい》したんだよ。一つの学校に宇宙人だの未来人だのエスパー少年がフラフラしているような、妄想《もうそう》みたいな世界に戻《もど》りたいと思ったんだ。
なんでだ、おい。お前はいつもブツブツ言ってばかりだったんじゃないのか? 己《おのれ》の不幸を嘆《なげ》いてばかりじゃなかったのか?
だったらよ、脱出《だっしゅつ》プログラムなんぞ無視してりゃよかったじゃないか。そっちを選べば、お前はハルヒとも朝比奈さんとも古泉とも長門とも、普通《ふつう》の高校生仲間として知り合えて、ハルヒ先導のもと、それなりに楽しい生活を送れてただろうさ。ハルヒに何の力もなく、日常が歪《ゆが》み出すような現象とは無縁《むえん》のな。
そこではハルヒは偉《えら》そうにするだけのただの人間で、朝比奈さんは未来人なんていう特殊《とくしゅ》属性を持ってない愛らしい萌《も》えキャラで、古泉は背後に変な組織のない一般的な高校生で、そして長門もおとなしい読書好き少女で変な使命を持つこともなく変な力を発揮するわけでもなく誰《だれ》かを監視《かんし》したり誰かさんを守っていたりすることはなく、そうだな、いつもは無表情なのにしょうもないジョークに不意に笑ってしまった後に赤くなるような、時間をかけて少しずつ心を開いていくような、そんな奴《やつ》になっていたかもしれないんだぞ。
そういった別の日常をお前は放棄《ほうき》しやがった。
それはなぜだ。
もう一度訊くぞ。これで最後だ。はっきり答えろ。
俺は、迷惑《めいわく》神様モドキなハルヒと、ハルヒの起こす悪夢的な出来事を楽しいと思っていたんじゃないのか? 言えよ。
「あたりまえだ」
俺は答えた。
「楽しかったに決まってるじゃねえか。解りきったことを訊いてくるな」
面白いかそうでないかと訊かれて、面白くないなどと答える奴がいたら、そいつはホンマモンのアホだ。ハルヒの三十倍も無神経だ。
宇宙人に未来人に超能力者だぞ?
どれか一つでも充分《じゅうぶん》なのに、オモシロキャラ三連発だ。おまけにハルヒまでがそこにいて、より一層のミステリーパワーを振《ふ》りまいているんだぞ。これで俺が面白くないわけないだろうが。そんな立場が不満だと言ったら、そんなことを言う奴を俺は半殺しにするかもしれん。
「そういうことだ」
俺は言った。開き直りと呼べばいい。
「やっぱりアッチのほうがいい。この世界はしっくりこねえな。すまない、長門。俺は今のお前じゃなくて、今までの長門が好きなんだ。それに眼鏡《めがね》はないほうがいい」
その長門は俺を見返し、不審《ふしん》そうな表情を作った。
「何を言っているの……」
俺の知っている長門有希はこんなセリフは絶対言わないんだ。
この三日間、俺が異常に気付いた朝から今までのことをこいつは知らない。当然だ。この長門はさっき生まれ変わったばかりで、まだ俺と何も過ごしていない。文芸部室に飛び込んできた俺を驚《おどろ》きの視線で見上げたりもしていない。
この長門には、偽造《ぎぞう》された図書館での記憶《きおく》しかない。それ以外の俺との思い出はこいつにとってはこれからのことだ。
以前、俺はハルヒと灰色の閉鎖《へいさ》空間に二人だけで閉じこめられた。古泉いわく、それはハルヒが新しい世界を創《つく》ろうとしたからだ。
長門が利用したのもそれだろう。長門はハルヒから例の謎《なぞ》パワーを掠《かす》め取ったか横取りしたかして、この世界を創造したのだ。
それは便利すぎる力だ。誰だって一切《いっさい》をやり直したいと考えるときがある。現実そのものを自分に都合良いように変えちまいたいと思うことだってある。
だが、普通はできないもんだ。しないほうがいいんだ。俺に一からやり直すつもりはない。だから俺はハルヒと一緒《いっしょ》に閉鎖空間から戻ってきたんだよ。
今度のことは、神様だか何だか知らないがそのへンテコパワーがハルヒから長門に移っただけだ。ハルヒは無自覚に、イカれた長門は自覚的に世界を変えた。
「長門」
俺は立ちすくむ小柄《こがら》な人影《ひとかげ》に歩み寄った。長門は動かず、じっと俺を見上げている。
「何回言われても俺の答えは同じだ。元に戻してくれ。お前も元に戻ってくれ。また一緒に部室でなんかやってようぜ。言ってくれたら俺もお前に協力する。ハルヒだってそうそう爆発《ばくはつ》しないようになってきてたじゃないか。こんな要《い》らない力を使って、無理矢理《むりやり》変わらなくていい。そのままでよかったんだよ」
眼鏡|越《ご》しに見える瞳《ひとみ》が、脅《おび》えたような色を浮《う》かべる。
「キョンくん……」
朝比奈さんが俺のシャツの裾《すそ》を引いている。
「この長門さんには何を言ってもだめよ。だって、彼女はもう自分を作り変えているもの。この長門さんは、何の力もないただの……一人の、女の子だわ……」
唐突《とうとつ》に思い出す。
髪《かみ》の長いハルヒ。俺をジョンと呼び、北高まで乗り込んできた神様でも何でもない一般人のハルヒ。俺の語ったSOS団物語に目を輝《かがや》かせて聞き入り、「面白そう」と笑ったあいつ。
そのハルヒを好きだと言いやがった古泉のハンサムスマイル。俺の体操着を着て複雑な顔をしていた優良転校生。
入部届けを押しつけて自室に招いたあげく、嘘《うそ》っぱちな俺との記憶を述べた眼鏡の長門。ぜひもう一度見たいと思わせる薄明《はくめい》のような微笑《ほほえ》み。
あいつらとはもう会えなくなる。正直、心残りが皆無《かいむ》なわけじゃないさ。だが連中はもともと偽《いつわ》りの存在だったのだ。俺のハルヒと古泉と長門と朝比奈さんではない。さよならを言いそびれたのは残念だが、俺は俺のハルヒと古泉と長門と朝比奈さんを取り戻《もど》す。決めた。
「すまん」
俺はピストル型装置を構えた。長門が身体《からだ》を凍《こお》りつかせ、その反応にかなりの罪悪感を強いられる。しかしここに来て躊躇《ちゅうちょ》は無用だ。
「すぐ元に戻るはずだ。また一緒にあちこち出歩こう。とりあえずクリパで鍋《なべ》喰《く》って、それから冬の山荘《さんそう》でも行こう。今度はお前が名|探偵《たんてい》をやってくれ。事件が発生した瞬間《しゅんかん》に解決するようなスーパー名探偵ってのはどうだ、それが――、」
「キョンくん! 危な……! きゃあっ!!」
朝比奈さんの叫《さけ》びと同時に、俺の背中に誰《だれ》かがぶつかってきた。どん、という衝撃《しょうげき》が身体を揺《ゆ》らし、街灯の光を受けた俺の影《かげ》も揺れた。その影に何者かの影が溶《と》け合っている。何だ? 誰だ?
「長門さんを傷つけることは許さない」
首をねじって振り向いた。肩越《かたご》しに女の白い顔が見えた。
朝倉涼子。
「な……」
言葉が出なかった。脇腹《わきばら》に冷たい物が刺《さ》さっている。平べったい物が深々と体内に侵入《しんにゅう》している。やけに冷たい。激痛よりも違和感《いわかん》が勝《まさ》る。なんだこれは。なんなんだ。なぜここに朝倉がいるんだ。
「ふふ」
笑うはずのない仮面が笑ったような微笑《びしょう》だった。朝倉は滲《にじ》むような動きで俺から離《はな》れ、俺の横腹に突《つ》き刺していた血まみれの長い刃物《はもの》を引き抜《ぬ》いた。
それで支えを失い、俺は錐《きり》のように回転しながら地に倒《たお》れ込んだ。その俺の目の前で――長門は腰《こし》を抜かしたように尻餅《しりもち》をついていた。わななく唇《くちびる》が、
「朝倉……さん」
朝倉は俺の血が絡《から》みつくアーミーナイフを挨拶《あいさつ》するように振《ふ》った。
「そうよ長門さん。わたしはちゃんとここにいるわよ。あなたを脅《おびや》かす物はわたしが排除《はいじょ》する。そのためにわたしはここにいるのだから」
朝倉は嗤《わら》った。
「あなたがそう望んだんじゃないの。でしょう?」
嘘だ。長門が望むはずはない。思い通りに鳴かない鳥はいっそ殺してしまえなんて思ったりしない。違《ちが》う。異常動作を起こした長門。その長門が再生させた朝倉も異常なヤツになったんだ。こいつは長門の影役だ……。
朝倉は俺の上に薄《うす》い影を落とした。朝倉の頭上に欠けた月が見えて、すぐ翳《かげ》った。
「トドメをさすわ。死ねばいいのよ。あんたは長門さんを苦しめる。痛い? そうでしょうね。ゆっくり味わうがいいわ。それがあんたの感じる人生で最後の感覚だから」
振り上げられるゴツいナイフ。その切っ先の下には俺の心臓がある。だくだくと血液が流れ出ている。これだけでもすでに致命傷《ちめいしょう》じゃないのか……? そんなことをぼんやり思う。現実感覚が遊離《ゆうり》している。殺人鬼《さつじんき》、朝倉。ここでのお前の役割はそれだったのか。長門有希のバックアップ……。
そしてナイフが振り下ろされ……。
閃光《せんこう》のように横から手が伸《の》びた。
「――!」
ナイフの刃《は》を誰かがつかんでいた。素手《すで》で。
「誰!?」
素手だって……? いつかどこかで見たような光景だな……。
混濁《こんだく》しつつある意識ではその顔がよく解《わか》らない。光が足りない。もっと光量を上げろ。街灯の光が逆光で顔が暗い。ショートカットの女……北高のセーラー服……眼鏡《めがね》はない……くらいしか見えないぞ……。古泉……照明係は何をしているんだ……?
「あ……?」
疑問|符《ふ》付きの小声を出したのは、地べたに尻《しり》を付けている長門だった。眼鏡が街灯の光を反射して、表情までは見て取れない。恐怖《きょうふ》か、驚愕《きょうがく》か……。
「なぜ!? あなたは……!? どうして……」
朝倉が叫んでいる。ナイフを止めてくれた奴《やつ》に言っているらしいが、その相手は無言のまま答えない。
朝比奈さんの声が間近で聞こえた。
「ごめんね……キョンくん。わたし、知ってたのに……」
「キョンくん! キョン……。ダメ! ダメだよう」
朝比奈さんの姿がだぶって見えた。一人は大人の朝比奈さん。もう一人は、子供のような俺の朝比奈さんだ。二人とも同じ泣き顔で俺の身体を揺さぶっている。朝比奈さんたち、痛いですよ?……。
……あれ、どうしてここに朝比奈さん(小)がいるのだろう。大人版朝比奈さんが取りすがってくれるのは解る。ここまで一緒《いっしょ》に来たんだからな。でも、小さい方の朝比奈さんはどこから現れたんだ? ああ、そうか。俺はよくて幻覚《げんかく》、悪けりや走馬灯《そうまとう》を見ているんだ……。
苦痛よりも勢いよく流出する血の感覚が恐怖だった。
やばい、死ぬ。
辞世の句を用意していなかったことを悔《く》やんでいると、誰かの気配が俺の頭の上に感じられた。そいつは俺と仲良く地面に転がっていた長門製注射装置を拾い上げる。
聞いたことのあるような、でも誰《だれ》だか解らないような声が、
「すまねえな。わけあって助けることはできなかったんだ。だが気にするな。俺も痛かったさ。まあ、後のことは俺たちが何とかする。いや、どうにかなることはもう解ってるんだ。お前にもすぐ解る。今は寝《ね》てろ」
何を言っているのか、誰が言っているのか、どうなって何がなんとかなるのか、朝倉のトドメの一撃《いちげき》や地面に手をついている眼鏡の長門有希や二人の朝比奈さんや違《ちが》う学校の制服を着ているハルヒやらの映像がまぜこぜになって、
俺の意識が消失した。
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第六章
シャリシャリ。
耳に涼《すず》しい音が届いている。
闇《やみ》の中、浮上《ふじょう》しつつある意識の端《はし》っこで、俺はぼんやりと考えていた。
夢だったのかもしれない。何だか物凄《ものすご》く面白《おもしろ》い夢を見ていたことを覚えていて目覚め後五分くらいはスゲーとか思っているのだが、歯を磨《みが》いているあたりで徐々《じょじょ》にディテールがあやふやになって飯|喰《く》っているうちに霧散《むさん》していき、気が付けばそれは「物凄く面白い夢だった」という輪郭《りんかく》だけしか残っていない。そんな経験なら何度もある。
そしてちっとも面白くない夢なのに詳細《しょうさい》が明確にいつまでも脳裏《のうり》にこびりついていることだって何度もあった。あるいは夢のようで夢でないものだったのかもしれない。ハルヒと閉鎖《へいさ》空間に籠《こ》もらされたあの夜のような、実際にあって、しかしなかったことになっている、あの記《き》憶《おく》のように。
俺が目を開けたとき、最初に思ったのはそんなことだった。
白い天井《てんじょう》が見える。自宅の俺の部屋ではない。朝か夕方か、透明《とうめい》感のあるオレンジ色の光が天井同様白い壁《かべ》を彩《いろど》っていた。
「おや」
徐々にはっきりしてくる頭に、その声は敬虔《けいけん》な信徒が聞く教会の鐘《かね》の音のように安らぎに満ちて聞こえた。
「やっとお目覚めですか。ずいぶん深い眠《ねむ》りだったようですね」
俺は首をねじ曲げて声の主を探した。そいつは横たわる俺の脇《わき》にいて、椅子《いす》に座ってリンゴの皮を果物《くだもの》ナイフで剥《む》いていた。シャリシャリ。つるつると赤い皮が切れずに垂れ下がる。
「お早うございますと言うべきでしょうか。夕方ですけど」
古泉一樹の、穏《おだ》やかな微笑《ぴしょう》がそこにあった。
見る見るうちに古泉はリンゴを一個|丸裸《まるはだか》にすると皿に載《の》せ、引き出されたサイドテーブルに置いた。そして紙袋《かみぶくろ》から二個目のリンゴを取り出して俺にニッコリ笑いかけた。
「目を覚ましていただいて助かりました。本当に、どうしようかと思ってたのですよ。おっと……、ぼんやりなさっておられますが、僕が誰だか解りますか?」
「お前こそ、俺が誰だか知ってんのか?」
「変なことを言いますね。もちろんです」
この古泉がどちらの古泉なのか、それは格好を見れば解った。
紺《こん》ブレザーの制服姿。黒い学ランではない。
それは北高の制服だ。
俺は被《かぷ》さっている掛《か》け布団《ぷとん》から片手を出した。点滴《てんてき》のチューブがぶら下がっている。それを見つめながら、
「今はいつだ」
古泉はこいつにしては驚《おどろ》いた表情となって、
「目覚めて最初の質問がそれですか? まるで自分の置かれている状況《じょうきょう》を把握《はあく》しているようなセリフですが、お答えしますと今は十二月二十一日の午後五時過ぎです」
「二十一日か……」
「ええ、あなたが意識不明になってから、今日で三日目ですね」
三日目? 意識不明?
「ここはどこだ」
「私立の総合病院です」
俺は周囲を観察した。なんだか立派な一人部屋、そのベッドの上で俺は寝ている。個室に入れられてるとはな。我が家にそんな財源があったとは知らなかった。
「僕の叔父《おじ》の知り合いがここの理事長なので特別に便宜《べんぎ》を図《はか》ってくれた――ということになっています」
では、そうじゃないんだな。
「ええ。『機関』に頼《たの》んで手を回してもらいました。一年くらいは格安で寝泊《ねと》まりできますよ。とは言え、三日で済んで僕も胸をなで下ろす気分です。いえ、お金の問題ではありません。僕がついておきながら何をしてたんだとね、上に散々言われました。始末書ものですよ」
二十一日の三日前は十八日だ。その日の俺に何が起きたのかと言うと……。ああ、そうか、俺は出血多量で死にかけて、それで病院に担《かつ》ぎ込まれた……いや、待て、おかしい。
俺は着ている病院服を怖々《こわごわ》とめくり、右脇腹《みぎわきばら》に触《ふ》れてみた。
何ともない。こそばゆいだけで痛くも痒《かゆ》くもない。三日で治る傷じゃないはずだ。誰《だれ》かが修理してくれたのではない限り。
「俺がここにいる理由は何だ? 意識不明だって?」
「やっぱり覚えてないんですか? 無理もありませんね。ひどく頭を打ったみたいですから」
俺は頭に手をやった。こちらも髪《かみ》の毛しかなかった。包帯が巻かれていたりメッシュをかぶらされているわけでもない。
「そうなんです。不思議なことに外傷はまったくなかったんです。内出血もありませんでしたし、脳機能に異常も見られませんでした。どこが悪いのか、担当医も首を傾《かし》げていましたよ」
ですが、と古泉は言った。
「僕たちはあなたが階段から転がり落ちるところを目撃《もくげき》しました。それはもう、見事なばかりの階段落ちでしたね。正直言いまして青ざめました。なんとなく、そのまま永眠《えいみん》してもおかしくないようなすごい音がしましたからね。その時の状況を言いましょうか?」
「言え」
部室|棟《とう》の階段を下りている最中《さなか》に俺は足を滑《すペ》らせたか何かして段差を踏《ふ》み外した。そのまま頭から転がり落ちると、後頭部を踊《おど》り場の床《ゆか》に、ガーン! とぶつけて動かなくなった。
古泉の説明によるとそういうことになっているらしかった。
「大変だったんですよ。救急車を呼んだり、ぐったりしたあなたに付き添《そ》って病院まで来たりね。血の気の失《う》せた涼宮さんなんてものを初めて見ましたしね。ああ、救急車を呼んだのは長門さんです。彼女の冷静さには救われました」
「朝比奈さんはどんな反応をしてた?」
古泉は肩《かた》をすくめて、
「あなたが思い描《えが》く通りだと思いますよ。泣きながら取りすがってあなたの名前を呼び続けていました」
「それが起きたのは十八日の何時|頃《ごろ》の話だ。どこの階段だ」
矢継《やつ》ぎ早《ばや》に質問する。十八日と言えば世界が変わっちまって俺が慌《あわ》てふためいていた初日である。
「それも覚えていないんですか? 昼過ぎのことです。SOS団全体会議を終えた僕たちは五人で買い物に出かけようとしていたんです」
買い物?
「それすら記憶《きおく》から飛んでしまいましたか。よもやとは思いますが、忘れたふりをしているんじゃないでしょうね」
「いいから続きを教えろ」
唇《くちびる》を緩《ゆる》めて古泉は笑う。
「その日の会議の主題は、ええとですね、二十五日のクリスマスの日に涼宮さんの地元で子供会の集会があるんですが、そこに我々SOS団がゲスト出演するというものでした。朝比奈さんのサンタ衣装《いしょう》を有効利用しようというわけです。彼女がサンタ役を演じ、子供たちにプレゼントを配るという心温まるイベントですね。涼宮さんが手配をつけてきました」
いつも通り、勝手なことをしやがる。
「ですがサンタ一人ではリアリティに欠けると思ったのでしょう。涼宮さんは誰かにトナカイの着ぐるみを着せ、朝比奈さんを乗せて会場に登場するというシナリオを書いていました。クジ引きで決めたんですが誰がその役を射止めたか、それはどうです? 思い出してきましたか?」
さっぱりだな。元々ない記憶を思い出すことが出来たら、そいつは立派な詐話師《ぺてんし》だ。別の病棟《びょうとう》に入院する必要がある。だがこの古泉に言っても詮《せん》ないことだった。
「まあ、あなたになったんですけどね。そういうわけでトナカイの着ぐるみを手縫《てぬ》いすることにしたんですが、そのための材料を街まで買いに行こうと部室棟の階段を下りていたとき、あなたが落ちてきたんです」
「間抜《まぬ》けな話だ」
そう言うと古泉は小さく眉《まゆ》をひそめた。
「あなたは最後尾《さいこうぴ》を歩いていました。ですから、その時の様子を見た人は誰もいません。我々の横を、こう、」古泉は右手に持ちかえたリンゴを転がり落として左手で受け止めるというパフォーマンスを演じ、「ゴロゴロと転がり落ちてきたのです。ですけどね、」
再びリンゴの皮むきを始めながら古泉は、
「ピクリともしないあなたに駆《か》け寄った後、階段の上に誰かがいたような気がしたと涼宮さんは言っていました。踊り場の角で制服のスカートが一瞬《いっしゅん》翻《ひるがえ》って、すぐに引っ込んだような気がするとね。僕も気になって調べてみたんですが、その時間の部室棟には我々以外誰も残っていませんでしたし、長門さんも首を振《ふ》りましたね。幻《まぼろし》の女ですよ。誰かに突《つ》き落とされたかどうか、あなたの証言待ちだったんですが……」
覚えていない。ここはそう言っておくのがベストなんだろう。ただの事故。俺の不注意が招いた単なる自損事故だ。てことにしておけ。
「見舞《みま》いはお前だけか?」
ハルヒは、と言いかけてすんでのところで唇を止める。だが古泉はくすりと笑みを落とし、
「さっきから何をキョロキョロしているんです? 誰《だれ》をお捜《さが》しでしょう。ご心配なく。僕たちは時間交代であなたを見舞うことにしているのです。あなたが目を開けたときに誰かが側にいるようにね。そろそろ朝比奈さんが来る頃合いです」
古泉の視線が妙《みょう》に気になった。エイプリルフールの嘘《うそ》話をあっさり信じ込んだ友人を見て心で舌を出しているような、その目は何だ?
「いえ、あなたを羨《うらや》ましく思っているだけです。羨望《せんぼう》と言ってもいいでしょう」
この状況《じょうきょう》で言うセリフじゃないだろ。
「僕たち団員は交代制ですが、団長ともなると部下の身を案じるのも仕事のうちだそうでして」
古泉は剥《む》き終えたリンゴを几帳面《きちょうめん》に切り分け、ウサギの彫刻《ちょうこく》を施《ほどこ》してから台の上の皿に置くと、
「涼宮さんならずっとここにいます。三日前から、ずっとね」
指差された方角を俺は見た。古泉から俺のベッドを挟《はさ》んで反対側。その床《ゆか》。
「…………」
いた。
寝袋《ねぶくろ》にくるまったハルヒが、口をへの字にして眠《ねむ》っていた。
「心配していたのですよ。僕も彼女も」
哀愁《あいしゅう》に満ちた口調が芝居《しばい》くさい。
「特に涼宮さんの動揺《どうよう》ぶりと言ったら……いえ、これはまたの機会にお話ししましょう。とにかく今は、あなたが真っ先にしないといけないことがあるでしょう?」
誰も彼《か》もが俺に指示をしたがる。朝比奈さん(大)や、この古泉や……。だがそんなツッコミは封印《ふういん》だ。古泉が切りすぎているリンゴを誰が喰《く》うんだというくらいのどうでもいいことだった。
「そうだな」と俺は言った。
寝顔《ねがお》にイタズラ書き……ではない。それもまた、別の機会でいいだろう。これから何度だって来るさ、そんなチャンスはな。
俺はベッドに座ったまま手を伸《の》ばし、怒《おこ》ったような顔で眠る顔に指先を触《ふ》れさせた。
ポニーテールには足りない長さ。俺の目にはたまらなく懐《なつ》かしい。その黒髪《くろかみ》がむずかるように揺《ゆ》れた。
ハルヒが目を覚ます。
「……ぉが?」
何やら呻《うめ》きながら薄目《うすめ》を開いたハルヒは、自分の頬《ほお》をつねっているのが誰だか気づいた途端《とたん》、
「あ!?」
寝袋に入っていることを忘れていたらしい。バネ仕掛《じか》けのように起きあがろうとしてあえなく失敗、ごろんと横回転してシャクトリ虫のように蠢《うごめ》いていたがワタワタと這《は》い出して、すっくと立ち上がるや否《いな》や、俺に人差し指を突きつけて叫《さけ》んだ。
「キョンこらぁっ! 起きるなら起きるって言ってから起きなさいよ! こっちだってそれなりの準備があるんだからね!」
無茶《むちゃ》を言うな。だが、そんなお前の大声が現在の俺には何よりの薬だ。
「ハルヒ」
「何よっ」
「ヨダレを拭《ふ》け」
唇《くちびる》と眉をぴくぴくさせながらハルヒは口元を慌《あわ》ててぬぐい、そのまま顔をべたべたなで回しながら俺を睨《ね》め付けた。
「あんた、あたしの顔にイタズラ書きしてないでしょうね」
したかったけどさ。
「ふん。で、他に言うことはないの? あんたさあ、」
思った通りに答えた。
「心配かけたようだな。すまなかった」
「わ、解《わか》ってるんだったらいいわよ。そりゃそうよ、団員の心配をするのは団長の務めなんだから!」
ハルヒの怒鳴《どな》り声を耳に心地《ここち》よく聞いていると、ドアをノックするか弱い音がした。古泉が如才《じょさい》なく立ち上がってスライド式ドアを引く。
そこに立っていた第三の見舞客《みまいきゃく》は、俺を見るなり、
「あ。あっあっ」
うろたえた声を出して、花瓶《かぴん》を抱《かか》えたまま戸口に立ちつくした。ふんわりした髪《かみ》、奇跡《きせき》のように愛らしい童顔、背は低いけどグラマラスな北高の上級生。
「やあ……。朝比奈さん。どうも、」
久しぶりなのかどうなのか、今の俺にはまったく解りませんけどね。
「ふえ……」
朝比奈さんはポロポロ涙《なみだ》をこぼし始め、
「よかった……。本当に……よかったあ……」
いつかみたいに抱《だ》きついて欲しいところだったし朝比奈さんもそうするつもりだったのかもしれないが、すっかり花瓶を離すことを忘れているみたいで、ただただ泣き続ける彼女だった。
「大げさねえ。ちょっと頭打って昏倒《こんとう》しただけじゃん。あたしはちゃんと解ってたわ。このキョンが目を覚まさないわけはないの」
ハルヒはどこかうわずった声で、俺を見ずに言う。
「だってあたしが決めたから。SOS団は年中無休なんだからね。絶対みんなが揃《そろ》ってないといけないの。頭打ったからって、眠りっぱなしになってるからなんて、そんな理由じゃ病欠は認めらんない。解ってる? キョン、三日分の無断欠席は高くつくわよ。罰金《ばっきん》だからね、罰金! それと延滞料《えんたいりょう》も!」
古泉は軽やかに微笑《ほほえ》み、朝比奈さんは大粒《おおつぶ》涙《なみだ》を床《ゆか》に落とし続け、ハルヒはあらぬ方角を向いて一見怒っているように見える。
その全員を見ながら、俺はうなずいて肩《かた》をすくめた。
「解ってるよ。延滞込みで、いくら払《はら》えばいいんだ?」
ハルヒは俺を睨《にら》み、嘘《うそ》のような笑顔となった。単純な奴《やつ》だ。
その場で俺は人数分茶店|奢《おご》り三日間を言い渡《わた》され、どうやら定期を解約しないといけないらしいと考えていると、
「それからね」
まだあるのか。
「うん、だって心配料は別枠《べつわく》だもん。そうだわ、キョン。クリスマスパーティでね、あんたトナカイの衣装《いしょう》着てあたしたちの前で一発芸を披露《ひろう》しなさい。あたしたち全員が大ウケするまで何回でもやり直しなんだからね! つまんなかったら異次元にすっ飛ばすわよ! ついでだから子供会でもやんなさい。いいわねっ!」
ハルヒはプリズムのように瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせ、再び俺に人差し指を突《つ》きつけた。
目が覚めたはいいが即《そく》退院とはいかない。駆《か》けつけた医師による問診《もんしん》の後、俺は検査室に運び込まれて様々な機械にかけられた。改造人間にでもしようかというような勢いすら感じられ、俺はほとほとウンザリする。おまけに、もう一日が様子見と各種検査によって費《つい》やされることになって、今夜も病室で寝《ねと》泊まりしないといけないらしい。今夜もと言いつつ俺にとっては今日が初めてだし、入院なんかしたこともなかったからいい機会かもしれない。
ハルヒと古泉、朝比奈さんは、俺のオフクロと妹が来るのと入れ違《ちが》いに帰ってった。いちおう遠慮《えんりょ》したものと見えるが、そんな神経がハルヒにあったとは驚《おどろ》きだ。
妹と母親の相手をしながら、俺は脳を回転させている。
あのままだったらどうだろう。長門と朝比奈さんと古泉は単なる一人間で、非常識な正体をハナっから持っていない。長門は無口な本好き文芸部員、朝比奈さんは高嶺《たかね》の花の上級生、古泉は他《ほか》の学校の単なる転校生。
そしてハルヒも性格がちょっとヒネているだけの女子高生だったとしたら。
そこから始まる物語もあったかもしれない。現実|認識《にんしき》がどうのこうの、世界の変容がああだこうだといった、歪《ゆが》んだ日常とは無縁《むえん》の物語。
きっとそこには俺の出番はまるっきりないのだ。俺は淡々《たんたん》としたスクールライフを送り、淡々と卒業していったことだろう。
それのどちらが幸せだったのか。
もう解っている。
俺は『今』こそが楽しかった。そうとでもしないと、死にかけてまで俺のやった行為《こうい》はすべて無駄《むだ》になってしまうじゃないか。
ここで質問だ。キミならどちらを選ぶ? 答えは明らかなはずだろう。それとも俺一人がそう思っているだけか?
やがて我が家族も帰途《きと》につき、消灯時間を迎《むか》えた病室で俺は天井《てんじょう》を見上げていた。することもないので目を閉じて暗闇《くらやみ》を求める。
俺のこの三日間。この世界の俺はその三日間をずっと眠《ねむ》って過ごしていた、らしい。
ならば――。
そうなるように改変しなければならない。
この世界は二度改変されている。あの長門が歪めた世界を再び改変して元に戻《もど》した世界が、ここだ。では誰《だれ》が二度目の再改変をやったのか?
ハルヒではない。あの三日間のハルヒにそんな力はなかったし、ここのハルヒは改変されたことを知らない。
では誰が?
朝倉のナイフ一閃《いっせん》を素手《すで》で止めてくれたのは、そんなことが出来そうなのは、それをするだろう奴は――。
長門しかいない。
そして俺が意識を失う前に見た二人の朝比奈さん。大人でないほうの朝比奈さん、あれは俺の朝比奈さんだ。この世界にいる、俺がよく知っている愛らしい未来から来た上級生だ。
加えてもう一人、あの声の主もそうだ。最後に俺に呼びかけた、どっかで聞いたことのある声。
思い出そうと努力して、そんな努力は必要ないことに間もなく気付いた。
あれは俺の声だ。
「なるほど、そうか」
と言うことは、だ。
もう一度、俺はあの時間に行かなくてはならないのだ。十二月十八日の朝っぱらまで時間|遡行《そこう》しなくてはならない。この時間にいる朝比奈さんと長門と三人で。
そうして、世界を今ここにある形に戻すのだ。
朝比奈さんの役目はあの時点に俺と長門を連れて行くこと。長門の役目は狂《くる》った三日間と狂わせたあの長門の正常化だ。またハルヒの力を借り受けるのか、情報統合思念体がそれをするのかは知らないが。
でもって俺にも役目がある。
だってそうだろう? 俺はあの時、自分の声を聞いた。聞いたからこそ今の俺がある。俺を俺にするために、俺は過去の俺にセリフを投げかける必要がある。
「すまねえな。わけあって助けることはできなかったんだ。だが気にするな。俺も痛かったさ。まあ、後のことは俺たちが何とかする。いや、どうにかなることはもう解ってるんだ。お前にもすぐ解る。今は寝《ね》てろ」
セリフを練習してみた。たしかこんな感じだったと思う。一語一句違ってやしないかどうかは自信がないが、だいたい合ってるよな。
凶刃《きょうじん》に倒《たお》れた自分の代わりに、例の注射装置を使うのもこれからの俺なわけだ。
マッドな朝倉の襲撃《しゅうげき》から助けてくれなかった理由もよく解る。あの声の俺は、あの時|慌《あわ》てて駆けつけたのではなく、あらかじめ近くに隠《かく》れていたに違いない。朝比奈さんと長門とともに、出てくるタイミングを計っていたのだ。早すぎず遅《おそ》すぎず。俺は朝倉に刺《さ》されなければならなかった。なぜなら、あの時の俺にとって、それは確かにあった過去だったからだ。朝比奈さんならこう言うだろう。
「既定事項《きていじこう》です」、と。
夜も更《ふ》けてきたが、まだ眠ってしまうつもりはない。
俺は待っていた。何を待つかって? 決まっているじゃないか。ここにやって来なければいけない奴《やつ》の中で、まだ来ていない奴だ。そして来なければ絶対的に嘘《うそ》だと思われる奴だ。
ベッドに横たわりながら俺は天井を見つめ続け、それが報《むく》われたのは深夜になってからのことだった。面会時間はとっくに過ぎている。
病室の扉《とびら》がゆっくりとスライドし、通路の光が小さな人影《ひとかげ》を床《ゆか》に落とす。
この日、最後に俺を見舞《みま》いに来たのは、セーラー服を着た長門有希の姿だった。
長門は、いつもの無表情でこう言った。
「すべての責任はわたしにある」
安心するほど平坦《へいたん》な声で、なんだか途方《とほう》もなく久しぶりに聞いた気のする口調だった。
「わたしの処分が検討されている」
俺は頭をもたげる。
「誰が検討してるんだ?」
「情報統合思念体」
自分のことではないように、長門は淡々《たんたん》と続けてこう語った。
もちろん長門は、自分が十二月十八日未明にしでかすことを知っていた。俺と大人版朝比奈さんが三年前の長門に会いに行ったせいだ。知った上で、ああなることを避《さ》けようと努力をしていた。しかしどうにもならなかった。たとえ事前に知り得た未来でも回避《かいひ》することができない場合がある。いや、あったのだ……。
夏以降、どこか違《ちが》って見えた長門の挙動が頭をよぎる。
「だとしても」と俺は口を挟《はさ》んだ。「お前がバグることは三年前には解っていたんだよな。なら、いつでもいいから俺に言えばよかったじゃないか。文化祭の後でもいいし、何なら草野球以前でもいい。そうすりゃ俺だって十二月十八日の時点で素早く行動できたってもんだ。さっさと全員を集合させて、三年前に戻《もど》ることができたのに」
長門は決して笑うことのない表情で顔表面を覆《おお》っていた。そして、
「仮にわたしが事前にそれを伝えていても、異常動作したわたしはあなたから該当する記憶を消去したうえで[#「該当する記憶を消去したうえで」に傍点]世界を変化させていただろう。また、そうしなかったという保証はない[#「そうしなかったという保証はない」に傍点]。わたしにできたのはあなたが可能な限り元の状態のまま十八日を迎《むか》えるように保持するだけ」
「脱出《だっしゅつ》プログラムも残してくれただろ。充分《じゅうぶん》だよ」
礼を言いつつ俺は腹を立てていた。長門にじゃない。自分にでもない。
淡《あわ》い口調が病室の壁《かべ》に小さく響《ひび》いた。
「わたしが再び異常動作を起こさないという確証はない。わたしがここに存在し続ける限り、わたし内部のエラーも蓄積《ちくせき》し続ける。その可能性がある。それはとても危険なこと」
「くそったれと伝えろ」
そう吐《は》き捨てた俺に対し、長門は無言で首を二ミリだけ傾《かたむ》けた。パチリと瞬《まばた》き。
俺は伸《の》ばせるだけ手を伸ばし、細くて白い手を取った。長門は抵抗《ていこう》しない。
「お前の親玉に言ってくれ。お前が消えるなり居なくなるなりしたら、いいか? 俺は暴れるぞ。何としてでもお前を取り戻しに行く。俺には何の能もないが、ハルヒをたきつけることくらいはできるんだ」
そのための切り札を俺は持っている。ただ一言、「俺はジョン・スミスだ」と言ってやるだけでいいんだ。
ああ、そうとも。俺にはヘチマ並みの力しかないとも。しかしハルヒには唐変木《とうへんぼく》な力がある。長門が消えちまったら一切《いっさい》合切をあいつに明かしてすべてを信じさせてやる。それから長門探しの旅に出るのだ。長門の親玉が何をして長門をどこに隠そうが消し去ろうが、ハルヒなら何とかする。俺がさせる。ついでに古泉と朝比奈さんも巻き込んでやろうじゃないか。宇宙のどこにいるのかも解らん情報意識体なんぞ知ったことか。んなもんどうでもいい。
長門は俺たちの仲間だ。そしてハルヒは、SOS団の誰《だれ》かが行方《ゆくえ》不明になったとしたらそのまま放置するような諦観《ていかん》とはほど遠い。長門だけじゃない、俺や古泉や朝比奈さんが突如《とつじょ》どっかに行っちまったとしても、たとえそれが本人の意思なんだとしても、あいつはそんなものを認めはしないだろう。何をどうやっても連れ戻すに違いない。涼宮ハルヒとはそういう女だ。身勝手で自己中で他人の都合を考えない、ハタ迷惑《めいわく》な俺たちの団長様なんだ。
俺は長門を強く見据《みす》えた。
「つべこべぬかすならハルヒと一緒《いっしょ》に今度こそ世界を作り変えてやる。あの三日間みたいに、お前はいるが情報統合思念体なんぞはいない世界をな。さぞかし失望するだろうぜ。何が観察対象だ。知るか」
言ってるうちにますます腹が立ってきた。
情報統合思念体がどれだけ高度な連中なのかは知らん。きっととてつもなく頭のいい存在だか何かだろうよ。円周率の小数点下一兆|桁《けた》まで二秒で暗算できるような、そんな感じの奴らなんだろうさ。恐《おそ》ろしく高等な技《わざ》だっていくらでも使えるよな。
だったらな、と俺は言いたい。
この長門有希にもっとまともな性格を与《あた》えることだってできただろうが。殺人鬼《さつじんき》になる前の朝倉みたいに、クラスの人気者になるような、明るくて社交的で休みの日に友達とショッピングモールで買い物してるような、そういう奴にだってできただろう。なんだって一人|寂《さび》しく部屋に閉じこもって本だけ読んでそうな、鬱《うつ》な娘《むすめ》を設定しやがったんだ。そうでないと文芸部らしくないからか? ハルヒが目を付けそうにないからか? 誰の思い込みだそれは。
ふと我を取り戻せば、俺は長門の手を強すぎる力で握《にぎ》りしめていたようだった。だが、読書好きの有機アンドロイドはその行為《こうい》に対しては何も言わない。
長門はただ、俺をじっと見つめたまま、ゆっくりとうなずき、
「伝える」
やはり平坦《へいたん》な声で呟《つぶや》いた。
「ありがとう」
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エピローグ
さて、と俺は考える。
終業式はすで終わって担任岡部から通知票を拝領し、今年中の高校生活はこれで終わりだ。
本日の日付は十二月二十四日。
消え失《う》せていた一年九組とその生徒はちゃんと復活して、今回ほとんど出番のなかった古泉一樹もそこにいた。朝倉は半年以上前に一年五組から姿を消していたし、谷口は引き続き浮《う》かれていたし、俺の後ろの席には今日もハルヒが陣取《じんど》っていたし、風邪《かぜ》も流行《はや》ってなどいない。講堂で見かけた長門の顔には眼鏡《めがね》がなく、終業式終わりに偶然《ぐうぜん》出くわした朝比奈さん鶴屋さんコンビは揃《そろ》って挨拶《あいさつ》してくれた。通学|途中《とちゅう》に確認《かくにん》したところ私立光陽園学院もまっとうなお嬢《じょう》様女子校に戻《もど》っていた。
世界は元通りになっている。
しかしながら選択《せんたく》権はいまだ俺の手の中にある。俺と長門と朝比奈さんがもう一度過去に――十二月十八日未明に――戻らないと世界はこの通りにはならない。行ったからこそ元通りになったのだ。だが、いつ行くかはまだ決めていない。朝比奈さんにも説明していない。彼女は大人バージョンの自分に事情を教えてもらっただろうか。ここ数日のお姿を拝見する限りでは、もう一つよく解《わか》ってなさそうだが。
「まったくな」
意味もなく呟き、部室|棟《とう》へ続く廊下《ろうか》を踏《ふ》みしめた。
サーキットで開催《かいさい》されるモーターカーレースのように俺は同じ地点に戻ってくるルールを背負わされているのかもしれない。二周目と三周目にそれほどの違《ちが》いはなくて、あったとしてもそれを決めるのは俺の仕事じゃないが、オープニングラップとファイナルラップでは同じ道、同じ光景であろうと、まったく異なる意味を持つように見えるだろう。せいぜいリタイアに注意しながら最後まで走りきり、ゴールラインを無事通過できたらそれでいいのさ。そう、誰《だれ》かがチェッカーフラッグを振《ふ》るその時まで。
……まあ、それもこれも全部ひっくるめて余計な理屈《りくつ》でしかないのは解っている。
どう言いわけしようとも無駄《むだ》なことだ。なぜなら俺はこっちを選んじまった。ハルヒのような無意識ハッピー大暴走とはワケが違う。あくまで自らの意思で空回りするバカ騒《さわ》ぎのほうを選んだのだ。
ならば、最後まで責任を取るべきだろう。
長門でもなく、ハルヒでもなく、朱《しゅ》に交わったあげく赤くなっちまったこの俺が。
「ざまーねえな」
気取ったつもりになって自嘲《じちょう》してみた。どうも様になってそうにないがかまやしない。誰も見てない。と思ったら、通りすがりの名も無き女子生徒と目があった。さっと視線を逸《そ》らしてささっと小走りで駆《か》け上がる後ろ姿に呼びかける。ただし聞こえないように、
「メリークリスマスイブ」
陳腐《ちんぷ》なドラマの最終回なら白い結晶《けっしょう》が一粒《ひとつぶ》パラリと落ちてきて、それを掌《てのひら》で受け止めながら
「あ」とか何とか言うべき日なんだろうが、どうやらホワイトクリスマスになりそうになかった。今日は呆《あき》れるくらいの快晴である。
俺は階段の一段目に足を乗せた。
これで完璧《かんぺき》に当事者の一人になってしまった。見てるだけでいいとか思ってた時期は、とっくの昔に銀河の彼方《かなた》に消え失せて過去のものになってしまったわけだ。
「だからどうだって?」
今頃《いまごろ》になって確認していてどうする。俺はこっち側の人間だ。んなもん、とうの昔に解っていたことだろうが。ハルヒに手を引かれて行った文芸部で部室乗っ取り宣言を聞いたときに。
SOS団の他のメンツと同じく、俺はこの世界を積極的に守る側に回ってしまったのだ。誰から押しつけられたわけでもなく、望んで手を挙げたんだ。
となれば、することは一つだろう。
同じ倒《たお》れるのだとしても前がかりのほうが起きあがりやすいってもんさ。むしろ倒れた自分を助け起こしに行くのだから、結局のところそれは自分のためでもあるんだ。
階段を上りながら、そろそろ開始される予定のイベントへと心を移した。買い出しは最終的にはハルヒと朝比奈さんの二人で行われた。荷物持ち係に内定していた俺だったが病《や》み上がりということで免除《めんじょ》が言い渡《わた》されたのである。ハルヒなりの配慮《はいりょ》と言うよりは、ぎりぎりまでメニューを伏《ふ》せておきフタを開けて中身に全員|驚嘆《きょうたん》――という計画であるようだ。孤島《ことう》での経験を活《い》かすつもりなのかもしれない。安上がりな闇鍋《やみなべ》クリスマスパーティ。
いったい何が飛び出てくるのかね。ハルヒのことだ、サプライズを優先させるあまり、人類の料理史においてかつてないような実験的|猟奇《りょうき》鍋になっているかもしれない。けど、何がグツグツいってようがたいていのもんは煮《に》たら喰《く》えるよな。いくらハルヒでも自分の胃腸が消化できない物をぶち込んではいないだろう。あいつが怪獣《かいじゅう》並の胃袋《いぶくろ》を持っているのなら別だが、常識外れなハルヒだって胃腸くらいは人間に準拠《じゅんきょ》してるさ。人類レベルを超《こ》えているのは頭の中だけだ。
しかも鍋大会のオマケのように、俺はトナカイをかぶって余興を披露《ひろう》する手はずになっていた。ネタ考えるこっちの身にもなってくれよな。
「やれやれ」
先月|封印《ふういん》を決意したばかりの感嘆詞《かんたんし》が口を突《つ》いて出たが、なに、気にすることはない。発音が同じでもそこに込《こ》められている意味合いが違えば、それはやはり別の言葉なのだ。
後付けの弁解を組み立てながら、俺は脳内スケジュール帳に予定を一つ書き込んだ。
その予定は既定|事項《じこう》だ。俺が現在もここにいることができるように、絶対しなければいけないことだ。
――近いうちに世界を復活させに行かなきゃならない。
部室に近づくにつれて、なんとも芳《かんば》しい香《かお》りが鼻の粘膜《ねんまく》を刺激《しげき》する。それだけで腹が満たされそうな気分になってくるが、この満足感の正体はなんだろう。遠からず時間|遡行《そこう》して片を付けなきゃならないってのに、まだ何もしてないうちから満足してれば世話はない。
――でも、まあ、その前に。
時間はまだある。それをするのは今から未来の俺だ。遠い未来というわけにはいかないが、今すぐってわけでもない。
文芸部室のドアノブに手をかけて、俺は世界に問いかけた。
なあ、世界。少しくらいは待てるだろ? 再改変をしに行くまで、ちょっとくらい待機しててくれてもいいよな。
せめて――。
ハルヒ特製鍋を喰ってからでも、別に遅《おそ》くはないだろう?
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あとがき
あとがき代わりの思い出話でご容赦《ようしゃ》願います。
小学六年生の時に同じクラスになった彼は天才と言っても決して言いすぎでなかった。彼はクラスの中心人物で頭が良ければ家柄《いえがら》も良く、一貫《いっかん》して周囲に明るい雰囲気《ふんいき》と笑いの空気を振《ふ》りまいている優《すぐ》れ者だった。彼には眩《まばゆ》いまでのカリスマ性があった。そんな彼と僕が親しくなったのは当時の彼と僕の趣味《しゅみ》が同じだったからである。釣《つ》りと海外ミステリ。食い合わせがいいのか悪いのか解《わか》らない。
クラスの班分けでも彼と一緒《いっしょ》だった。班長は当然彼である。ある日、クラスを代表する班がそれぞれ学年全員の前で芸を披露《ひろう》するというイベントがあった。我々の班は何をすべきかギリギリまで決まらず頭を悩《なや》ませていたとき、彼は「では劇でもやろう」と言ってオリジナル脚本《きゃくほん》を書いてきた。忘れもしない。そのシナリオを読みながら僕は涙《なみだ》を流して笑い転げた。この世にこんな面白《おもしろ》いものがあったのかと。
そして我々は彼の演出のもと、そのシナリオを忠実に再現した。我々が演じたその劇を見た六年生全員が笑っていた。先生たちも笑っていた。我々の班は金賞を獲得《かくとく》し、木彫《きぼ》りの盾《たて》をもらった。その時僕が演じた役が何だったかは昨日のことのように思い出すことができる。
その後、中学をともに過ごしたのち彼は遠くの高校に進学し、さらに遠くの大学へと進んだ。
時々考える。あれほど誰《だれ》かを笑わせることが果たして僕にできるだろうか――、そして、あの彼の脚本によって僕のどこかにあったスイッチが入れられたのではなかったか――。
その思いは僕の内部に根を張って、決して忘れ得ない記憶《きおく》の一部となっている。
……ちょっと足りませんか。続いて思い出話第二|弾《だん》。
高校時代、僕は一瞬《いっしゅん》だけ文芸部に所属していた。メインの部活動が他《ほか》にあったので足を向けるのは一週間に一度もあればいいほうだったが、もともと週一でしか開いていなかった。部員が一学年上の女子生徒一人だけだったからである。僕が初めて門を叩《たた》いたとき、眼鏡《めがね》をかけた理知的な顔つきの彼女が唯一《ゆいいつ》の部員で部長で先輩《せんばい》だった。その先輩と当時の僕が何を話したのか、何か話すことがあったのか、全然覚えていない。ひょっとしたら何一つ話などしなかったのかもしれない。
入部しばらくして文芸部の会誌を二人で作った。僕が何を書いたのかはあんまり思い出したくない。小説ではなかった。表紙は僕が描《えが》いた。これも思い出したくない。二人だけではページが埋まらないので先輩は彼女の友達数人に声をかけて文章を寄稿《きこう》してもらっていた。関係ないがそのうち一人の名前がとても印象的で今もよく覚えている。
三年生になると先輩は部活を引退して受験勉強に専念するようになった。期を同じくして新入部員が五人くらい入ってきた。なぜだか解らない。もう一つの部活のほうが圧倒《あっとう》的に楽しくなっていた僕も間もなく文芸部に行かなくなった。
先輩とは彼女の卒業の日に会った。そこでの会話も記憶にない。たぶんあたりさわりのない会話をして淡々《たんたん》と立ち去る後ろ姿を見送ったのではないだろうか。
その先輩の名前を思い出すことができない。きっと先輩も僕の名前を覚えていない。だけどあの時そこに誰かがいたことは彼女も覚えているんじゃないかと思う。
僕がそうであるように。
……という感じの嘘《うそ》くさくイタい思い出ポエム二連発であとがきページを埋めているあたりにアップアップ感が漂《ただよ》っていますが、しかし自分のボンヤリした記憶の中をさまよっていると笑えるエピソードよりも頭を抱《かか》えたくなることのほうが多くて卒倒《そっとう》しそうになりますね……。もうちょっと何とかできただろうと考えなくもないのですが、そんなの川に落っこちてプカプカ流れているサッカーボールの運命を考えているのと同じなので、もっと違《ちが》う方向に目を向けたほうがいいようにも思います。
最後に、この本の出版に関係していただけたあらゆる方々と読んでいただけたすべての方々に感謝の踊《おど》りを捧《ささ》げつつ、それではっ。
[#改ページ]
涼宮《すずみや》ハルヒの消失《しょうしつ》
谷川《たにがわ》 流《ながる》
角川文庫
平成十六年八月一日 初版発行
S-168-4 ISBN4-04-429204-3 C0193