TITLE : 逆転無罪
講談社電子文庫
逆転無罪
――少年はなぜ罪に陥れられたか
読売新聞大阪社会部
目 次
第一章 被告からの手紙
「絶対に無実なんです」
新聞記者のカン
妊婦暴行殺人事件
内縁の夫が“犯人”を追いつめた
消えた“五つの殺人事件”
第二章 説得力のない一審判決
疑問を避けている判決文
冒陳は「虚構の構図」か
起訴事実を公判で否定
検察は有期最高刑を求刑
血液型は不一致ではないか
第三章 予断を持った捜査
控訴審の力強い弁護団
取材班も本格始動
緊急逮捕の必要性はあったのか
供述調書はそろったが
自白への疑問
第四章 自供はウソだ
四十九枚の手紙の迫真力
決して忘れることができない体験
矛盾だらけの供述調書
被害者の乳房を噛んだのは誰だ
鑑定結果は無視された
第五章 アリバイ証人を見つけた
脅迫されたアリバイ証人
「良心の証言」
泣き寝入りはさせない
もう一人の証人は与論島に
友を裏切った苦しさ
第六章 無罪が見えてきた
「つらいから控訴はしない」
「実名報道でお願いします」
希望あふれる四人の年賀状
“脅し”を否定する刑事
一審検事の証言に新たな怒り
第七章 正月は悲しかった
四人は自ら無罪を訴えた
検察の“隠し玉”はなかった
「明々白々の無罪」を主張
判決の日が決まった
「早く母親の手料理を食べたい」
第八章 逆転無罪判決
七年間、待った言葉
裁判長は捜査官の誘導を批判
「ウソついたら恥ずかしい人間になってしまう」
無罪判決を認めたくない人びと
当然の上告断念
第九章 ボクも無罪や
新たな闘い再審請求
被告の能力を承知の上での誘導
仮出所目前の祖母の死
再審は決定したが……
ついに検察も即時抗告を断念
第十章 失われた青春
なぜ公訴取り消しをしない
常識はずれの論告・求刑
裁判長から異例の“謝罪の言葉”が
いま、ささやかな幸福を
終 章 法曹の反省
市民が被告になる時
松尾事件の教訓は?
悔やみきれない“一度の自白”
法曹からの提言
あとがき
文庫版へのあとがき
逆転無罪 ――少年はなぜ罪に陥れられたか
第一章 被告からの手紙
「絶対に無実なんです」
一通の封書が、読売新聞大阪本社社会部を経て司法記者クラブ員の私たちに届いたのは、昭和五十九年四月十七日だった。
差出人を示す住所――大阪市都島区友渕町一の二の五――がどこを示すかは、司法記者の私たち三人には即座にわかった。それは大阪拘置所である。だが「小池久也」という発信人の名前には、心当たりがなかった。
「拝啓、突然のお手紙で失礼致します」
こう始まる手紙は便箋七枚にわたっている。一枚一枚に、拘置所職員が発信のさい検閲したことを示す、桜の花びらの中に「大」の字を刻した「桜マーク」の印が押されていた。
以下、その全文である。
〈拝啓、
突然のお手紙で失礼致します。
貴社の「読売新聞」を毎日拝読致しております。
私、現在、大阪市都島区の大阪拘置所に強姦殺人の罪をかぶって、拘禁されております。
氏名、小池久也、昭和三十五年五月三日生れ(二十三歳)です。
本籍、大阪府××市内で母親と兄一人が住んで居ます。
此の度(たび)突然このような形でお手紙を書きましたのは、とに角私の無実を晴らして戴きたいのです。
この事件は昭和五十四年一月二十一日に大阪府貝塚市にて起こりました。
深夜の十二時前頃、南海電車、二色の浜駅から電車をおりて帰宅途中の当時二十七才の女性が畑のビニールハウス内にて強姦殺人、つまり絞殺されていたのです。
その事件当日から約一週間後ぐらいの一月二十九日(注 正しくは二十七日)、突然、貝塚署の刑事が家に来て有無を言わさずに私他四名も引っ張られて来ておりました。
私をふくめて全員で五名、この事件の「犯人」として、やってもいない強姦殺人事件の犯人に仕立てられてしまいました。
当時、私は十八才でした。
それから約二週間と言うものは、取り調べという名のもとに有りとあらゆる拷問を受け、毎日毎日殴られ蹴られ、このまま殺される!! 死んでしまう!! と思うぐらいきつい拷問が続きました。
そんな恐怖から一日も早く逃れたいという気持ちと、いづれ(マ  マ)「真犯人」が見つかるだろうと言う安易な気持ちで調書に指印を押しました。
毎日殴(ど)つかれコツかれて“自供”デッチ上げの調書に指印を押してしまったのです。
虚偽の自白です。
その後私の申し立ても全く聞き入れてもらえず今までに百回以上の公判があり判決が出ました。
昭和五十七年十月二十八日、求刑十二年!! そしてその後の昭和五十七年十二月二十三日、判決十年を言い渡されました。
もちろん直ぐ控訴致しました。「昭和五十八年一月四日付け」!!
その悪夢のような不当逮捕から、堺の拘置所に四年、昨年五十八年五月に現在の大阪拘置所に移送されて現在に至っております。
ざっと簡単に事情を説明させて戴きましたが、この他にも聞いてもらいたい事は山程あります。
又、無実を証明するアリバイや証人等も何人かおりますが、それもすべて信用してもらえず情けないばかりです。
すでに事件から五年以上の歳月が流れましたが、他の共犯者も意気消沈し、チームワークも乱れてきたように思います。
今までの数え切れない程の公判をふり返りますと、この事件には私自身思うことなのですが、腑に落ちない“変”なところが数多くあるように思うのです。
殺された女性は当時、妊娠していたことがわかったのですが、その女性と同棲していた男性のことですが、私たちの五人の中の一人で植月昇と言う者(当時十八歳)、少し知恵遅れのような感じの者で皆んなが連行される前に男に植月昇を海岸ぶちに連れて行かれ他のヤクザ風の二人、計三名に代わるがわる暴行を受け、その三人の人達に脅かされ用意されていた紙に「あの女性を殺(や)ったのはボク達です」と書かされたのです。
その後、その内縁の夫が警察に植月昇をつき出したのです。
そして次々に私たち遊び仲間四人が連行されたのです。
内縁の夫という男に脅かされた時に植月は指を切られ、その流れる血で指印を押しているのです。
それから警察に行ってみて初めて気付いたのは、私が行った時には、もうすでに調書は出来上っておりました。その調書の中には私達五名が次々に輪姦しているという風に書かれていました。
死亡検査鑑定書には、検出された精液は(A型)だけだと言うことです。
もし調書に述べられているように全員が輪姦しているのであれば(A型)も(AB型)もすべて検出されなければいけないはずです。(五名の血液型)
今後の裁判では弁護士の先生もそこのところをついてゆくと言っております。
私は誰が何と言おうと絶対に無実なんです。
これから後何年かかるかわかりませんが、いくらかかっても、最後!! 最高裁までもってゆくつもりでしております。
今から思えば警察の暴行拷問に負け無謀な権力に屈して自白した自分を恥じております。
デッチ上げの調書を作成した刑事、それとこんな警察の間違った捜査の方針を許すことが出来ません。
ぬれぎぬを着せられた貧困な者、弱い者は権力に泣き寝入りするのは情けない次第です。
断じて許されない事だと思うのです。
こんな名も知らぬ一介の男の私たちについやす時間などはないと思いますが一度最初から調べ直してくれればこの事件の事はすべてはっきりすると思います。
突然にこのようなことを文面にてお願い致すことは誠に失礼かとは思いましたが今はワラをもつかむつもりで貴社にお願いした次第です。
何如(注 何卒)お力添いの程を切に切によろしくお願い致します。
必ず“真犯人”は捕まると信じております。
心からお願いします。
調査をやり直して下さい。
弁護士の先生は山本浩三先生です。
尚、次の公判日は五月一日午前十時か十一時かどちらかです。大阪高等裁判所十階一〇〇一号法廷にて行なわれます。その次の公判日もきまっておりますので、五月十七日に午後二時に同じ法廷にて行なわれます。
何如(注 何卒)今後共よろしくお願い致します。
敬具
編集長様
小池久也
昭和59年4月16日
(ルビ、注以外は原文のまま)
新聞社には、宛書きにある「編集長」というポストはない。「編集局長」とするか、社会部でいうなら「社会部長」だ。この手紙の主は、新聞社の内情などには詳しくないのだ。
私たちの元に桜マークの手紙が届くのは珍しくない。多くは無実を訴え、裁判の不公平を恨み、弁護士が自分の言い分を聞いてくれない、不熱心だとなじるものである。専門家顔負けの難解な法律用語を駆使しているのもある。
そのたびに、私たちは関係者に裏付けの取材をするが、訴えはたいがい、すぐに底が割れ偽りと判明してしまうものがほとんどだ。
「彼はまたそんな手紙を出しましたか。放っておいたほうがいいですよ。私も迷惑しているんですから」
担当の弁護士からさえこう言われる手紙もある。そんな時、私たちは「今さら、何を」などとつぶやきながら、手紙を破り捨てたりする。
小池の手紙を回し読んだ司法ボックスの三人はしばらく顔を見合わせた。
「これまでの桜マークの手紙とはちょっと違うな」
新聞記者のカン
中之島の一角にある大阪簡・地・高裁合同庁舎。かつて威容を誇った煉瓦造りの建物から、現在は十一階建ての近代的なビルに建て替えられた。南側の大川の流れをはさんで、大阪市役所や中之島公会堂を見下ろしている。東側には大阪弁護士会館、大阪府警天満署、大阪地・高検の検察庁舎があり、法曹街を形成している。
手入れのいき届いた芝生とツゲを配した広い前庭があり、数百本のサツキが周囲を囲む。その季節にはみごとに花が咲き乱れ、大阪の花の名所の一つにもなっているのだが、一般市民にとって建物本体はなじみのない、一種近寄りがたい存在だ。
司法記者クラブは裁判所合同庁舎の二階にある。
読売ボックスは三畳ほどの広さだが、二つの机と本棚、ロッカー、ソファがあって、空間は一畳分もない。体を動かすときは蟹(かに)の横這いになるほどだから、記者三人が入るとそれだけで顔を突き合わせる形だ。小池の手紙を回し読みした私たちは、感想を話しあった。
決して達筆とは言えないが、一字一字、丁寧に力をこめて書かれていた。ボールペンの強い筆圧は便箋の裏にまで跡を残していた。訴えていることはひと通り、筋が通っている。
暴行殺人という重罪を自供したが、それは毎日、殴られるなどの「拷問」を受け、いずれ「真犯人」がわかるだろうという気持ちからだった。一審公判で無罪を主張したが聞いてもらえず、懲役十年の有罪判決を受けた。もともと、逮捕されたのは仲間の一人が被害者の関係者に脅されたからだ。アリバイ証人もいる。血液型の鑑定もおかしい――。
「私は誰が何と言おうと無実です。助けて下さい」
誰かにすがりたい。自分の胸の内を聞いてほしい。そんな必死の思いが強い筆圧の一字一字にこめられているようにも思えた。
「貧困な者、弱い者は権力に泣き寝入りするのは情けない。許されない」
冷静な自己分析とも読める、この言葉も心にひっかかった。
「自供しているんでしょう。公判になってから、警察での自供は暴行を受けたからです、と言い出すのはよくあることですよ。大体、してもいないことを自供しておいて、法廷で否認すればよいというのは虫がよすぎますよ」
「一審の裁判官は被告らの言い分を聞いたうえで、有罪と判断しているわけや。そんなにいい加減な裁判は考えにくいな。思ったより刑が重かったのでガタガタ言い出したんやないの」
「冤罪(えんざい)の多くは、旧刑事訴訟法から今の刑事訴訟法に移った昭和二十年代の事件だ。“自白は証拠の王”といった時代は終わっている。科学捜査の進歩も目ざましい。大阪府警捜査一課はこれまで凶悪な難事件を解決した実績も十分だ。捜査力の低い地方の警察事件ならともかく、大阪府警では考えにくい話やなあ」
私たちは、司法担当になるまではサツ回りと呼ばれる警察取材も経験し、懇意にしている捜査員もいる。それだけに「あの刑事たちが被疑者を殴ったり、そんな乱暴なことをしているんやろうか」「夜回り取材では極悪人をいかに更生させ、まっとうな人間にしたか、いう話をよう聞かされたんやが」と、複雑な思いだった。
だが、小池久也が全くのでたらめを書き連ねてきた、と言いきる自信はなかった。手紙にはそう思わせない、何かしら真実味に近いものが含まれているような気がした。
「まっ、ひとまず調べてみるか」
手紙の内容がウソなら、これまでもそうだったように事件経過や裁判の模様を調べているうちに、すぐにウソの感触がつかめる。小池の訴えが怪しくなれば、そのときは私たちは手を引き、裁判官に判断を任せればいいじゃないか。
私たちは小池がいう昭和五十四年一月二十一日に大阪府貝塚市で起きた殺人事件の記事のスクラップをとりよせた。
「やっぱりあの事件だ」
手紙を回し読みした時から、私たちの一人はひっかかりを感じていた。スクラップを見た瞬間、五年前の事件にしては鮮明な記憶がよみがえった。遊軍記者だったころ、警察担当の事件記者に混じって現場取材を手伝っていたのだ。
事件の経緯を新聞のスクラップをもとにとりあえず追ってみることにする。
妊婦暴行殺人事件
事件は大阪府南部の貝塚市沢(さわ)で起きた。そのあたりは泉州地域と呼ばれ、勇壮な秋のだんじり祭に象徴される独特の風土を持っている。現場はその泉州の南海本線二色浜(にしきのはま)駅から東に約二百メートル歩いたところにあるビニールハウスの中だった。
現在の泉州は、世界で初めての海上空港となる関西新空港の開港を平成五年度にひかえ、建設工事で活気に満ちているが、当時は新空港という言葉がようやく市民の会話に出はじめたころだ。
昭和五十四年一月二十二日午後零時半ごろ、ビニールハウスの所有者が栽培している春菊の様子を見るため、中をのぞいた。
女性の無残な死体があった。
死体はあお向けで、全裸に近く、両腕に赤いオーバーコートがまとわりついていた。誰が見ても殺人事件だった。
ビニールハウスの所有者からの一一〇番で、地元の貝塚署とともに、府警の捜査一課からも捜査員が飛んできて、貝塚署に捜査本部が設置された。
畑と新興住宅街が混在する静かな一帯は喧騒に包まれた。
『畑に女性の他殺体 貝塚 通行中襲われる』
読売新聞(大阪)は五段見出しで事件の一報を伝えた。
「ハウス内に乱れた足跡があり、かなり抵抗したとみられる」
「遺体の状況から死後約十五時間」
「捜査本部は、女性はこの道を通行中に襲われ、ビニールハウス内に引きずり込まれて殺されたとみて付近の聞き込みを続けている」
「死因は口を手か何かでふさがれた窒息死」
本文はわずか三十三行。取材時間が限られていたためか、若い女性が襲われて殺害され、犯人は不明という一級の殺人としてはあっさりしている。この時点では、女性の身元もわかっていない。
ビニールハウスと周辺の畑では、鑑識課によって綿密な現場検証が行われた。
道路とビニールハウスの間の畑には、約二十メートルにわたって、複数の人物が踏み荒した跡があった。鑑識活動の結果、ビニールハウスと周辺からは五十三個の足跡が見つかった。
地下たび、警察官用コンバットシューズ、靴底に模様がない短靴などだったが、犯人にすぐ結びつくようなものはなかった。
実況検分は翌日以降も行われ、犯罪の様相は一層、明らかになっていった。
ビニールハウスの外の畑に、被害者のものとみられる遺留品が散乱していた。
道路沿いにまとまって、ショッピングバッグ、布製の手提げバッグ、ビニール製の手提げ袋の三点。それらの中には、風呂敷、ハンカチ、ジーパンなどの衣類、ラーメン、パン、女性週刊誌、ハンドクリームなど。
女性の生活の匂いが感じられるものばかりだったが、身元割出しにつながる身分証明書、定期券の類は見つからなかった。
身につけていたとみられる衣類は、ひとかたまりになっていた。パンタロンのウエスト部分の止め金具は、ちぎれて糸が切れていた。
被害者の目、鼻、口、首筋、大腿部、下腹部に、ビニールハウス内の土が多量に付着していた。のちに行われた司法解剖の結果によれば、その土は、気管支にまで達していたことがわかった。遺体の周囲、約二メートル四方の土に、すくい取った跡があった。
加害者に直接、結びつくような遺留品はなかったものの、ビニールハウスから二個、遺留品から三十四個の指掌紋が検出された。
また、遺体の足元にひとかたまりの体毛が認められ、畑からも十数本が見つかって、鑑定に回された。
遺体の司法解剖は、その日の午後四時三十分から、大阪大学医学部法医学教室で、四方(しかた)一郎教授の執刀により行われた。
被害者の年齢は二十五〜三十歳ぐらい。身長一メートル五十九、体重六十二キロ。右大腿部に四針の手術痕。死亡推定時刻は二十一日午後十時から同十一時ごろ、とされた。特異な外傷として左乳房に噛まれた跡があった。
さらに、女性は妊娠していた。妊娠三〜四ヵ月。凶悪犯は二つの生命を奪っていたのだ。
四方教授は死因を頸部扼圧(やくあつ)による窒息死、とした。
捜査本部は暴行殺人と断定。犯人は女性のうしろから首をつかみ、顔を畑に押しつけて殺害した、とみていた。
通りすがりの凶悪犯罪か。有力な目撃者もない。捜査は難航が予想された。凶悪事件であればあるほど、市民は犯人の早期検挙を望む。捜査員はあちこちに散った。
犯行推定時刻一月二十一日深夜、そのころ、現場近くの民家で受験勉強中の女子中学生が、現場付近で女性の話し声がしたあと「ギャッ」というものすごい悲鳴がしたのを聞いたこと、また、数人の不審な男が目撃されたこと、現場周辺では痴漢がよく出没していたが、事件後は姿を消したこと――などの情報を、聞き込み取材に走った事件記者たちが集めていた。
捜査本部は不審者のリストアップを進めていた。
内縁の夫が“犯人”を追いつめた
女性の身元は急転回で判明した。現場近くに住むミニサロン店員、高倉春男(三十一歳)が二十三日午前零時三十分ごろ、貝塚署沢派出所に「女房が帰らない」と届けたのだ。
女性は高倉と同じミニサロンでホステスとして働いていた内縁の妻、小山喜子と確認された。二十七歳だった。兵庫県内に住む両親によっても身元は確認された。
女性が小山喜子と判明したあと、捜査は当然、犯人の割り出しに集中したが、通りすがりの犯行なら、目撃者が現われない限り、短期間に犯人が割れるとは思えなかった。
ところが、「犯人逮捕」は意外な局面展開で遺体発見の五日後にやってきた。
捜査記録などによると、内縁の妻を奪われた高倉は、捜査本部とは別に「恨みを晴らすため」独自の“捜査”を進めていた。
「内縁の夫が警察に植月昇をつき出したのです」
小池が手紙に書いていたのはこういうことだった。
高倉は、遺体発見の翌日の二十三日から大阪・キタの繁華街のはずれにあるミニサロンを休み、妻や自分と面識のある人間を捜し回った。
二十三日の昼過ぎ、自宅近くで顔見知りの植月昇(十八歳)と出会った。植月はいつもだと「オッチャン」と話しかけてくるのだが、その時は違った。
目をひきつらせ、顔を真っ青にして震えていたので、高倉は直感的に「こいつが喜子を殺した」か、あるいは「少なくとも喜子が殺されたことについて何かを知っている」と思った。
翌二十四日、高倉は骨あげがすんだあと、植月を自宅に呼んで喜子に線香をあげさせ、その様子を見たうえで何か手がかりをつかもうと考えた。
午後十時三十分ごろ、高倉は電話で植月を呼び出し「喜子がかわいそうだと思ったら線香をあげたれ」と言いながら、新聞に出ている喜子の写真を植月の目の前に突きつけ「かわいそうだと思わんか」と、怒鳴った。
この時、線香を持つ植月の手はブルブル震え、なかなか線香が立てられなかった。
高倉は「植月は喜子殺しにきっと関係しとる」と確信した。しかし、植月一人では殺人ができないと思ったのでその場は帰した。
その二日後の二十六日午後五時三十分ごろ、高倉は植月が貝塚駅前のパチンコ店の横にいるのを見つけ、貝塚市脇浜の海岸まで連れて行った。植月がはいているスリッパを見て「やっぱりお前は殺人現場に行ってるやないか。俺が警察で見てきた足跡と一緒やないか」「お前らは足跡を全部消したつもりやろうが、警察で見たのと一緒や」などと言いながら、植月のほおを殴った。妻を殺したやつの名前を何としても吐かせてやる。高倉は必死の形相で迫った。足跡の話はとっさに思いついて言ってみたにすぎないが、植月はおびえ、
「オッチャン、かんにんして、かんにんして、ビニールハウスに行ったよ」
「邦男、哲二、小池、佐藤と俺の五人で行った」
と、言った。
高倉は周到だった。持っていた手帳に植月がしゃべったという内容を横書きにメモした。
「岩槻クニオ、佐藤がナイフを喜ちゃんにつきつける。ハウス内に連れ込む。クニオが最初に喜ちゃんをおかす。2番目に佐藤がオカス。3番目に小池がオカス。4 中谷テツジ」
高倉はその下に署名するよう植月に求めた。植月は震える手で「まちがいありません。昭和54年1月26日午後7時半 植月昇 喜ちゃんを殺したのは4人でころしました 植月昇」と、同じく横書きした。高倉はさらに、植月に“血判”を求めた。指を包丁で切り、血染めの拇印が署名に重なって押された。犯行告白メモであった。
小池の手紙の「脅かされ用意されていた紙に『あの女性を殺(や)ったのはボク達です』と書かされたのです」は、このことだった。
高倉はこの五人が喜子殺しの犯人と確信し、植月を血判の告白メモとともに貝塚署の捜査本部に突き出した。
捜査本部は植月の“自供”に基づき、岩槻邦男、中谷哲二、小池久也、佐藤俊一、植月昇の五人を一月二十七日未明、小山喜子殺害容疑でいっせいに緊急逮捕した。岩槻がひとり二十一歳だったほかは、四人とも十八歳の少年だった。地元で素行不良グループとみられていた仲間だった。
『少年ら5人逮捕 内縁の夫が執念の捜査』
二十七日付夕刊で読売新聞はこう報じた。
実は、「犯人は少年ら」の報は朝日新聞が先行していた。
朝日は二十七日朝刊で、
『少年「仲間とやった」
被害者の夫問いつめ“連行”』
と、報じていた。
記事の最後に、“連行”のきっかけを「二十六日、喜子さんの内縁の夫の高倉春男さん(三十一)が日ごろ素行の悪いAらの犯行ではないかと見て、共犯の仲間と会うため南海電鉄貝塚駅に現れたAを問い詰めたところ、犯行を認めるような供述をしたためAを捜査本部へ連れてきた、という」と、書いていた。
朝日は、さらに翌二十八日朝刊の大阪市内版で「憎い犯人捕まえたよ 夫の執念実る」と、高倉が合掌する写真を添えて逮捕のサイド記事を掲載した。
「……犯人への憎しみは激しかった。涙をぬぐいながら『きっと喜子のかたきを取ってやる』といった。通夜の晩、まんじりともせず、最近身辺で見かけた不審な男をメモに書き上げた。十数人列挙した中で、高倉さんがもっとも怪しいとにらんだのは、実際犯人だったAのほか、勤務帰りの南海電鉄の終電車で二色浜駅までよく一緒になるミニサロンのウェイターと、喜子さんの勤めていたミニサロンによく来た客。
なかでもとくにAを捜すことにした理由は――。近所に住み、一緒に遊びに行ったこともある仲なのに、事件直後、顔を合わした時、Aの表情が妙に引きつっていた。……『おかしいな』と、ピンときたからだ」
愛する内妻殺しの犯人を捕まえた高倉を“悲しいヒーロー”に仕立てていた。
消えた“五つの殺人事件”
大阪府警の捜査は、新聞記事をたどると、その後、五人の余罪捜査に移ったらしく二月六日付読売朝刊では「女性五人殺して埋めた 元ホステス殺害犯が自供」を社会面トップで大々的に報じていた。他紙は報じていない。
小山喜子殺害事件は、少なくとも新聞紙上ではすでに結着がついていた。スクラップには小池がいうような拷問、ウソの自供、デッチ上げ……をうかがわせるようなものは一切、なかった。
ただ「他にも殺害」の自供の続報が見当たらなかったのは奇妙だった。「五人殺害」ともなれば、犯罪史に残る凶悪事件だったはずなのに……。
以後の捜査がどうなったのか。供述はウソだったのか。続報がないということは、自供の裏付けがとれなかったに違いないと推測される。とすれば「自供」とは一体、何だったのだろうか。スクラップが残した唯一、最大の疑問だった。
経過は前後するが、大阪府警の捜査本部は岩槻邦男、中谷哲二、小池久也、佐藤俊一、植月昇を逮捕した翌日の一月二十八日、五人全員を大阪地検堺支部に身柄送致した。大阪地検堺支部は五人の勾留(拘置)状を裁判所から得て、全員を“代用監獄”の貝塚署などに勾留した。勾留は延長を含めて二十日間。この間、大半は府警の捜査本部員が五人を取り調べ、ときおり検察官が調書をとった。
勾留期限の二月十七日、大阪地検堺支部の立岩弘(たていわひろし)検事は成人の岩槻邦男を暴行殺人容疑と小山喜子の財布を盗んだという窃盗容疑で大阪地裁堺支部に起訴(公判請求)した。
植月ら少年四人については、同じ日、暴行殺人容疑で「刑事処分相当」の意見をつけて大阪家庭裁判所堺支部に送致した。少年法の規定により、二十歳未満の少年の犯罪は家裁の審判に付されることになっているのだ。
が、「死刑、懲役又は禁錮(きんこ)にあたる罪について、その罪質および情状に照して刑事処分を相当と認めるとき」は、家裁は決定によって、成人と同様、管轄地裁を担当する検察官に送致しなければならない(少年法二〇条、ただし満十六歳未満はのぞく)。
この規定に基づいて、大阪家裁堺支部の市原忠(いちはらただし)裁判官は、十日後、四人を地裁堺支部に送致した。いわゆる「逆送」と呼ばれる手続きである。
立岩検事はこの逆送を受けて、三月八日、植月昇、小池久也、中谷哲二、佐藤俊一の四人も岩槻同様に暴行殺人容疑で大阪地裁堺支部に起訴した。
大阪地裁堺支部での公判は、司法記者らに注目されることなく進められていった。
事件が次に新聞記事になったのは、三年が経過した五十七年十二月二十四日付朝刊だった。
『主犯に懲役18年 他の4人には10年 ホステス暴行殺人』
大阪地裁堺支部の重富純和(しげとみすみかず)裁判長が小池ら五人に言い渡した判決を読売はそう報じた。「主犯」とは岩槻を指していた。
本文四十二行。普通に判決結果を伝えるだけだった。この記事からも小池が訴える「ぬれぎぬ」「デッチ上げ」「拷問」といったようなものはうかがえなかった。
有罪の理由の中で重富裁判長は「被告人らは事件後、知人にアリバイ証言を依頼しており、アリバイが成立しないのは明らか」と述べ、被害者が妊娠中だったことに触れて「新しい生命もろともに命を失った被害者の無念さは察して余りあり、犯行には一片の人間性もない」と、断じていた。
一連のスクラップの印象は、不良グループが重罪を犯し、アリバイ工作までして重い刑を受けた――それに終始していた。
事件はこれで世間の視界から消え、マスコミの取材対象からも忘れられていった。関係者だけが知る犯罪史の小さなひとコマにすぎなくなっていた。
第二章 説得力のない一審判決
疑問を避けている判決文
事件をスクラップで振り返った印象と、小池久也が手紙で訴えている内容はあまりにも落差がありすぎた。
そこで私たちは大阪地裁堺支部で言い渡された重富純和裁判長の一審判決文を取り寄せた。
昭和五十七年十二月二十三日付、四十ページ。小池ら五人の身上、経歴、犯行に至る経緯、罪となるべき事実、証拠の標目にほぼ半分が割(さ)かれていた。
小池が手紙でいうアリバイについては、
「捜査段階においていずれも本件各犯行を全面的に自供したうえ、右犯行後、他の被告人三名と別れて(知人の平井宗太宅へ)行き泊めてもらったこと、(平井ら)に対し、右内容に沿うアリバイ工作に及んだことを自認しており……」
など、と極めて簡単に触れているにすぎなかった。
「虚偽の自白」「血液鑑定のナゾ」「警察官の暴行」「被告の一人が被害者の内縁の夫に書いた犯行告白メモ」など小池の訴えについて、裁判所の判断は一切、示されていなかった。判断を避けたのか。
私たちが目にする刑事事件の判決文には弁護側、検察側の主張が整理され、それに対して、裁判所が排斥するもの、認めるもの、それぞれに対して判断を記述してあるのが多い。特に被告が法廷で犯行を否定する否認事件の場合はそうだ。
判決を記事にする時は、その判決文(実際には、まだ下書きであることが多く、のちにタイプされて正式の判決文になる)を裁判長が朗読するのを聞いて、「弁護側は……と主張していたが、裁判長は退け、有罪を言い渡した」といった原稿を書く。
さらに、必要なら検事、弁護士、関係者らに取材して原稿を補充する。
「不親切な判決やな」
「裁判所が被告に刑務所に行け、と宣告する時は、被告はかくかくしかじかの動機、方法で法を犯した、弁解は通用しないし、証拠上もあり得ない、と被告を納得させるものでなければならないはずだ」
「被告の言い分は聞き放しただけなのか」
「一審の弁護団は十分な弁護活動をしなかったのではないか」
「小池の手紙では、自白は強制されたものというのだから、弁護士も当然、アリバイのほかに、警官の暴行や血液型の矛盾などを強く主張したはずだ。裁判所がそれに答えないというのはおかしいな」
「起訴状を丸写しにしただけのような判決文やな。三年間の裁判では検察、弁護側は何をどう争っていたんやろか」
判決文を読んだ私たちの感想であった。一審公判への疑問が次々わいてきて、どうしようもなかった。
冒陳は「虚構の構図」か
「一審弁護団はどういう弁護活動をしていたんだ。手抜きしたんじゃないか」
という、判決文を読んだときの私たちの感想は、とんでもない思い違いだった。
五人の私選弁護人となったのは、岸和田市にある泉州法律事務所の浜本丈夫、山本健三、今口裕行、岡本久次、水谷保の若手弁護士五人だった。
実際には、三年間の法廷で、検察、弁護側双方とも、はげしい応酬を続けていた。その状況を、一審の公判記録が残していた。
事件からちょうど四ヵ月後の昭和五十四年五月二十一日、第二回公判で行われた罪状認否のさい、被告五人は起訴事実を全面的に否認。捜査段階での自供を 覆 (くつがえ)した。
裁判は最初から、検察と被告・弁護側が真正面からぶつかり合う形で始まっていた。
検察側は五人の罪状認否に続く冒頭陳述で、五人の犯罪の構図を次のように描いた。冒頭陳述は「冒陳」といわれ、検察側が証拠に基づいて立証しようとする犯罪の内容を陳述する手続きだ。
五人を取り調べ、起訴した立岩検事が、公判も引き続き担当した。
立岩検事はまず、五人の生活歴、家庭状況を陳述。続いて核心となる五人の犯行前後の行動について述べた。以下、冒陳で展開された五人の犯罪ストーリーの要約である。
五人は貝塚駅前の喫茶店で遊んでいたが、岩槻邦男が女性と肉体関係を結びたいと言い出し、暴行の共謀が成立した。喫茶店を出て岩槻が真っ先に暴行することになり、他の四人はジャンケンで順番を決めた。
女性を物色するため自転車三台に分乗して近くの二色浜公園に行ったが、声をかけた女性には逃げられた。このため、植月が知っていたビニールハウスに女性を連れ込んで暴行することになった。
次に犯行の状況。岩槻と佐藤の二人は、小池、中谷、植月の三人をハウスに待たせ、貝塚駅から一つ和歌山寄りの二色浜駅方面に女性を捜しに行った。午後十一時三十分ごろ、小山喜子を見つけ、佐藤が小山の腕をつかみ、岩槻がカッターナイフを突きつけ「止まれ、声を出すな」と脅し、道路から畑に引っ張り込んだ。ビニールハウスに連れて行こうとしたが、小山は激しく抵抗。
佐藤がパンタロンなどをはぎ取り、岩槻が畑で暴行しようとし、抵抗されたため、小山をビニールハウスの南側から入れた。
ビニールハウスにいた三人と一緒になって小山を押し倒し、岩槻、佐藤、小池、中谷、植月の順番で暴行した。
殺害の動機。暴行後、植月が「知っている姉ちゃんや」と言ったので「殺せ。殺せ」と言いながら一斉に小山に飛びかかり、首などを締めた。
殺害後、岩槻は死体を埋めようと、手で穴を掘りかけたが土が硬かったため、手ですくって死体に土をかけた。さらに、岩槻は植月が見つけた小山の財布に九千五百円が入っていたので盗んだ。
犯行後の行動。五人は再び、三台の自転車に分乗、貝塚駅前に向かい、岩槻は途中の近木川(ちかぎがわ)に小山の財布を捨てた。
岩槻と植月の二人は電車で友人の平井宗太のアパートへ行って泊まり、佐藤、小池、中谷の三人は岸和田市にある小池の親類の家に行った。
当時、この家には誰も住んでおらず、「門前の家」と呼ばれていた。この時、岩槻は平井に、佐藤らは一緒にいた女友達にアリバイ証言を頼んだ。
冒陳は五人の完璧な犯罪を演出した。
その証拠として、検察側は五人の供述調書などそれぞれ百点近い書面を提出し、裁判所に採用を求めた。
五人は起訴前の捜査段階で、全員がすでに全面的に犯行を“自供”していた。立岩検事の冒頭陳述は、五人の供述調書の内容に基づいている。
主犯とされている岩槻の供述調書を例にとると、冒陳と異なった記述が見られるのはわずか数ヵ所にすぎない。
〈冒陳〉佐藤が被害者の腕をつかみ……
岩槻が「止まれ、声を出すな」と脅し……
岩槻・佐藤の二人でビニールハウスに被害者を引っぱり込み……
全員で一斉に被害者に飛びかかって殺害し……
〈岩槻調書〉僕が被害者の腕をつかみ……
佐藤が「止まれ、声を出すな」と言って……
五人でビニールハウスの中に入れ……
僕が最初、女の人に飛びかかり両手で首をしめ……
他の部分は冒陳そのものといっていい。他の四人の供述調書もほぼ事情は同じだ。
検察側が供述調書の証拠採用請求をしたのに対し、弁護側は「採用は不適当」とし、「不同意」と意見を述べた。供述調書の任意性を争うとの弁護方針を明らかにしたのだ。
その理由として、警察官から「他の四人は自白している。物証もある。否認するとお前だけ不利になる」など脅され、暴行を受けたため、意に反して犯行を認めた供述だからだ、とした。
五人も法廷で次々に捜査段階での供述をすべて否定した。全面否認である。
被告五人はそろって、検察側が冒陳で明かした犯罪の構図はすべて「虚構の構図」と主張したのだ。
起訴事実を公判で否定
取り調べに対しいったん犯行を自供した五人は、公判で具体的にどのように否認したのか。五十五年五月十九日の第十七回公判での岩槻と検察官のやりとりを再現してみる。
捜査、起訴、公判に立ち会ってきた立岩検事は、この年の三月に退官、弁護士に転身していた。立ち会い検察官は滝口克忠(たきぐちかつただ)検事に代わっていた。
――君はとにかく二十七日に逮捕されて、どういう事実で逮捕されてるか、わかっているね。
「はい」
――一月二十一日の夜の十一時、そのころにビニールハウスで、女の人を強姦して殺害したといったことはわかっているわね、ずっと手続き的には。
「はい」
――裁判所でも聞かされたでしょう。
「はい」
――一月二十九日の勾留尋問の手続きを君は受けているんだけれども、これは逮捕されて翌々日の日になるんだけれども、その日に、死にたいとか、死んでしまったるとか言うて、警察でそんなこと言うて、調べ室の窓ガラスに頭突きをやろうとしてみたり、壁や机に頭をぶつけようとしたり、そんな行動に出てないか。
「あります」
――君は二十九日は興奮しておったか。
「興奮というよりも刑事がお前がやってないと言ってるけど、裁判官が認めたんだと、認めて家に帰らさしてもらえへんやろうと何やかんや言うて。それで、頭にきたから、ちょっとの間、黙ったりして。ほんだら、やった、認めろって。刑事さんが髪の毛を引っ張ったり、殴られたり。で、いやになったから窓ガラスを割ったりした」
…………
――前に示しておるカッターナイフ。これは見覚えないか。
「はい」
――カッターナイフで小山さんを脅かしました、と。家から持ち出して、事件があってから家の道具箱にしまったということを二月一日に言うておるんだが、そんなことは刑事が言うたのか、それとも君の方が言うたのか。
「刑事さんがカッターナイフで女の人を脅かして連れて行ったやろうと、そういうふうに言われたんです」
――その脅かしたのが、しかも君だというわけか。
「はい、そうです」
――君はそうです、と言ったのか。
「いや、最初のうちは、ぼく、知らんと言うて。そして、佐藤がカッターナイフを使うて、一緒に連れて行ったんと違うかと。そうや思いますと言うて。それから月日がだんだんたつうちに、みんながお前がカッターナイフ使ってるというふうになってきて、ぼくは使うたと言うたんです」
…………
――君はカッターナイフの図面を描いておるわな。記憶あるか。
「はい、図面描きました」
――これは君が描いたわけか。
「はい」
――このカッターナイフの図自体は、君が自分の考えで描いたわけか。
「はい、そうです」
――このナイフで女の人を脅かし、ビニールハウスに連れ込みました、と書いておるが、この字は君が書いたんか。
「はい、字はぼくが書きました。せりふは刑事の人がそういうふうに書けというから」
…………
次は公判が進み、結審が近づいた五十六年七月二十日の第三十三回公判での滝口検事と岩槻のやりとり。裁判長は山中孝茂(やまなかたかしげ)判事に交代していた。
――君はこれまでこの法廷でも、検察官や弁護士あるいは裁判官からいろいろ聞かれとるんやけれども、結局、五十四年一月二十一日の晩、君や後ろに座っておる五人で女の人を強姦して殺したということはなかったというわけやね。
「はい」
――その態度はまだ変わらんかな。
「はい」
…………
続いて山中裁判長が質問した。
――あなたは二十二日の日は平井のところにおったわけやな。
「はい」
――平井の家にはあんたも、それから植月もおったわけやな。
「はい」
一審で五人が起訴事実を否認する姿勢は一貫していたのだった。
検察は有期最高刑を求刑
警察や検察の調べに対し、犯行を認めていた者が、法廷に出ると否認する例は珍しくない。私たちはそういう場面をいくつも取材していた。警察から暴行を受けたから、と弁明する被告もしばしば見られる。しかし、否認がすんなり無罪判決につながるケースはむしろ稀だ。裁判所は法廷の証言より、捜査段階の供述を重視する傾向がある。
一審公判では被告だけでなく、アリバイ証人も捜査段階の供述を変更していた。
小池の友人の鈴木一は検事の調べに対し、小池と酒を飲んだのは、事件が起きた一週間前で、事件当日の二十一日はパチンコをしていた、とアリバイを否定する証言をしていた。そして、小池の女友達が「二十一日に一緒に酒を飲んだことにしといて」とアリバイ作りを頼み、彼女が小池を助けようとして十四日の事を二十一日にあったようにしようとしていることがわかった、と供述していた。
しかし、法廷では、一月二十一日は何をしていたかの記憶がない、女友達の言い方は、一緒に酒を飲んだのは二十一日だったろうと念を押すものであって、二十一日に飲んだことにしてくれと頼むものではなかった――と、アリバイ証言を頼まれたことを否定した。捜査段階のアリバイ否定から、「記憶にない」に変更したことは、アリバイの積極的な証言ではないにしても、弁護側に有利な材料であった。
一審公判は検察側と弁護側がことごとく対立したまま終結に向かった。
結審に先立つ検察側の論告は五十七年十月二十八日に行われた。
捜査段階の自供について「本件発覚に至る経過、被告人らの自白の状況やその内容、捜査官の取り調べ状況等に照らせば、被告人五名ともその自白の任意性及び信用性は十分である」と述べた。
五人が逮捕されるきっかけとなった植月の告白、被害者の内縁の夫、高倉に対して行った犯行自白について、植月は法廷で、高倉に殴られ、殺されると思ったからだ、と供述した。これに触れて論告は「暴行、脅迫があったとしても、本件のような凶悪、重大犯行について虚偽の自白をせざるを得ないほどのものとは認められない。自白したのは、それが真実であったからにほかならない。法廷での弁解は虚偽」と断じた。
五人の中でリーダー格の岩槻の自白については「同人が共犯者中の最年長者であり、死刑に処せられるかも知れないと思いながら自白したもので、そのため、自白は極力、自己の罪責を軽減しようとする点は見受けられるものの犯行の大筋において、ほぼ他の共犯者四名の自白と合致しており、任意性はもとより、信用性についても全体としてこれを認めることができるのに対し、公判廷の弁解はあいまい、かつ、不自然なもので、到底、信用することができないものであることが明白である」と自白調書にそった判決を求めた。
他の四人の法廷での供述も「あいまい、かつ、不自然」と、同様に退けた。
アリバイの主張に対してはどうか。岩槻と植月は、犯行時、友人、平井宗太の家にいた、と主張していた。滝口検事は、平井が法廷で、二人が来たのは犯行後の二十二日午前一時すぎだったが、逮捕される前に岩槻が、三時間ほど前の二十一日午後十時すぎに来たことにしてくれと頼んだ、と証言したことを取り上げた。
岸和田市の「門前の家」にいたと主張した小池、中谷、佐藤の三人のアリバイについても、一月十四日のできごとを事件当日の二十一日のことにすりかえたものとした。
論告は起訴事実の証明はいかに十分尽くされたかを論じ、犯罪の性質、被告の反省度などの「情状」を述べる。このあと求刑へと進むのだが、「情状」で罪を認め、反省し、被害者の冥福を祈ったりする態度が明らかにされれば求刑は低くなる。同じ殺人事件の求刑でも共犯者の間で差が出てくるのは情状の違いを検察側が考慮するからである。
五人に対する罪状は、峻烈を極めた。
「犯行は自らの獣欲を満たすため計画的に手段を選ばず敢行されており、被害者の人格を全く無視した悪質極まりないものである」
「その犯行たるや、極めて冷酷、残忍かつ非道であって、そこには被告人五名とも一片の人間性すら見出すことはできず、被害者の人格を無視し、これを冒涜(ぼうとく)、蹂躪(じゆうりん)尽くした所業は、天人ともに許さざるところである」
「捜査段階において、いったんは本件を悔い、一応、反省の情も表わしていたものの、公判段階に至るや一貫して本件犯行を否認し続け、虚偽のアリバイを主張する等、全く改悛(かいしゆん)の情が認められない」
「通り魔的な輪姦、殺人事件で犯行の残虐さ等から地域住民を震駭(しんがい)させ、社会的反響が極めて大きかった事犯である」
「岩槻は殺人の主犯であり、犯罪的性格も強く、将来、その性格が矯正される可能性はほとんどない」
そして、求刑である。
「相当法条を適用の上、被告人岩槻邦男を懲役二十年、同小池久也、同中谷哲二、同佐藤俊一、同植月昇をそれぞれ懲役十二年に処し、押収してあるカッターナイフを没収するのを相当と思料する」
懲役二十年は有期の最高刑であった。
血液型は不一致ではないか
検察側の厳しい論告、求刑に対して、弁護側は最終弁論で、無罪弁論を張った。
物証、自白の任意性、アリバイの三つの見地からの無罪の主張だった。
まず物証。
殺害後、岩槻が盗んだとされる財布が発見されていない。指紋、足痕跡から五人のものが発見されていない。五人の着衣、履物から犯行現場付近の土壌と類似する土砂が全く発見されておらず、「つっかけ草履に付着の砂は発見現場付近の土壌と相異する」との鑑定書が出ている。
無罪とする最大の理由には被害者小山喜子の体内からB型の血液反応が全く出なかったことをあげた。遺体から検出された血液反応はA型であった。小山もA型だった。
五人の血液型は、ABO式で岩槻、中谷がB型の分泌型、小池がA型の非分泌型、佐藤がAB型の分泌型、植月がAB型の非分泌型。分泌、非分泌型というのは、血液以外の精液や唾液、汗などの体液からも血液と同型の反応が現われて、ABO型の分類ができるか、否かで分かれ、できれば分泌型、できなければ非分泌型となる。
五人で次々に暴行したことになっているが、それなら被害者がA型でも、岩槻、中谷、佐藤の三人の体液によってB型反応が出るはず。A型反応しか出ず、B型反応が全く出ていないのだから「被告人らは犯人でないと断定せざるを得ない」と述べた。
「供述証拠はどのようにでも作り出すことが可能なものであります。物的証拠は作為の余地のないものであり、これらは検討した通り、全てが被告人らが犯人だと証明するものは何ひとつなく、このことがかえって被告人らが犯人でないことを雄弁に物語っているものであります。物証は被告人らは無罪であると叫んでいると弁護人は考えます」
次いで自白の信用性、任意性。
最終弁論の中でもっとも紙幅を割いている。
「暴行の共謀の時刻、場所、その方法(特に暴行の順番)について、被告人の間で差異、矛盾があり、供述調書の信用性は乏しい」
「主謀格の岩槻邦男が逮捕後二、三日間犯行を否認している他はいずれも逮捕当日には犯行を自供している形となっているにも拘らず、その後の被告人らの具体的行動についての供述内容は日を追うごとに変遷している」
「供述調書だけを取り上げれば、被告人らは逮捕直後には全部犯行を自白しているのであり、従って素直に犯行に至る状況について一、二名の供述内容に若干の相違点が認められるというならばともかく、五名の被告人の供述内容が全員相互に食い違っている事実は全く不自然という他ないものであり、さらに供述内容が捜査官の作出したと思われる統一基準に沿って変遷していく様を見れば一層その疑いを抱くものである」
「捜査官の暴力によりやむなく捜査官の描いた捜査官自身の供述調書に被告人らが署名、押印した代物であるというべく、任意性とともに信用性は全く認められない」
さらにアリバイ。
「被告人らの供述調書によると、犯行時間は一月二十一日午後十一時半から二十二日午前零時過ぎだったと思われるが、小池、中谷、佐藤の三人は、二十一日夜は友人の鈴木一ら四人と計七人で岸和田市の『門前の家』に集まり、翌日未明まで酒を飲んでいた。七人は岸和田駅前から二台のタクシーに分乗して『門前の家』に向かった。南海交通のタクシーが二十一日午後十時四十五分ごろ岸和田駅前から『女一名男二名』を乗せたという記録が同交通に残っている。
一方、岩槻、植月の二人は、二十一日午後十時過ぎ貝塚駅から南海電車に乗り、平井宗太のアパートに行って、泊まった。従って、五人は犯行には全く関与していない。
平井は捜査本部に出頭してこの事実を述べようとしたが、捜査本部は逆に平井を証拠湮滅(いんめつ)容疑で逮捕した。この結果、平井は自分の意思に反する供述をしてしまった。鈴木も平井と同様に逮捕されるかもしれないと恐れ、岩槻らに不利な供述をした」
一審弁護団は詳細、具体的に弁論を展開していたのだった。
だが、一審判決は、弁護団の主張を一顧だにせず、ほぼ求刑通りの判決を下した。いかにも説得力がないではないか。
判決は法律的な形式はともかく、検察側、弁護側双方の主張をひとつひとつ検討して判断し、有罪あるいは無罪の結論を導き出すものだ。訴えを全く聞き入れられなかったどころか、一方的に無視された五人にとって、一審判決はいかにも不満であったはずだ。
私たちはまだ五人がシロとは考えていなかった。それでも、この判決が通常、示して当然の判断を記述していない点には首をかしげた。
一審判決は裁判官室という密室での合議でどのようにして有罪の結論を導き出したのだろうか。有罪の心証はどう形成されていったのか。
合議した三人の裁判官は、ひょっとすると、捜査段階の供述と法廷での供述の違いの大きさに迷い、悩んだのではなかったか。そして、結局、弁護側の主張に判断を明らかにせず、というより、判断を示すのに困って、これを避け、捜査段階の供述に寄りかかった結論を出したのかもしれない。
一審の弁護団は有罪判決後、辞任した。
「私たちはできる限りのことはやったんです。考えられることはすべてやりました。控訴審は別の見地から別の弁護士に担当してもらった方がいいと思ったのです」
のちに弁護士らはこう話した。弁護団にも無力感と、裁判所への不信感が残った判決だったのだろう。
それにしてもどうにも理解できなかったのは植月が五人の中でただ一人、有罪判決を受け入れ、控訴せず、奈良少年刑務所に服役していたことだった。他の四人は、年が改まった五十八年一月四日に大阪高裁に控訴していた。植月は罪を認めたのか。五人共犯の事件で一人の服役は他の四人も犯人ということを推定させる。法廷では五人そろって否認していたはずなのに。何か背景があるのだろうか。理解に苦しんだ。
一体、どうなっているんだ。小池は植月の服役を承知した上で、今ごろになって、冤罪を訴えてきたのか。
凶悪な暴行殺人事件と、一審公判、その有罪判決に対して疑問やナゾが次々に浮かび、どれも結論が見出せないまま迷路をぐるぐる回っているようだった。私たちは小池の手紙にどう答えていいのかわからなかった。
第三章 予断を持った捜査
控訴審の力強い弁護団
私たちは一審の経過と検察、弁護側の主張を大略、整理したあと、一人が小池の手紙の末尾に書いてあった山本浩三(やまもとこうぞう)弁護士を訪ねた。
手紙が届いてから三週間余りたった五十九年五月九日であった。
山本弁護士の“本業”は憲法が専攻の同志社大学法学部教授。以前に法学部長を務め、学生紛争が激しかったころには学長も経験している。アメリカ・ハーバード大学法学部教授の「法廷に立ったことがない者がどうして法学を教えられるのか」という言葉に共鳴、五十一年に大阪弁護士会に登録したという異色の弁護士。死刑廃止論者でもある。
山本弁護士の平安法律事務所は京都駅から北へ徒歩で約十五分。新築の十一階建てビルの六階にあった。
「ほほう、あなたもあの事件に興味を持ちましたか」
笑顔を見せながら、山本弁護士は話した。
「私は控訴審からの国選弁護でしてね。控訴趣意書の提出期限が迫っているのに弁護士のなり手がなかったんです。四人全員の弁護を引き受けようとも思ったんですが裁判所から『それは気の毒ですから』と言われましてね。小池がそんな手紙を出していましたか。その通りだと思いますよ。これは無罪事件です」
いともあっさり「無罪」の言葉が山本弁護士の口から出た。
「裁判記録をざっと読んで、これはおかしいなと感じましたよ。自供内容の細かい点がバラバラで、複数の暴行だというのに体液からはひとつの血液型しか出ていない。アリバイ主張も解明されていない。捜査員による拷問の疑いもある。しかし、植月昇だけが一審判決後、確定させて服役している。家族か本人か誰の意思かわからないが、この点は不可思議ですね」
山本弁護士は一審判決への疑問をざっと述べた。
「やはり、一審判決はおかしいのか」
京都から戻った記者の報告を聞き、「これはえらいことになりそうだな」と私たちは感じ始めた。
服役した植月を除く四人の控訴審は、大阪高裁刑事一部に係属していた。書記官室で調べると、山本弁護士のほかに、平栗勲(ひらぐりいさお)、大川一夫(おおかわかずお)、黒田宏二(くろだこうじ)の三弁護士が担当していることがわかった。いずれも国選弁護士である。
次に私たちは、平栗勲弁護士を大阪裁判所合同庁舎に近い法律事務所に訪ねることにした。
平栗弁護士は、弁護士歴九年、医療過誤訴訟で活躍していた。この事件との出会いは偶然だった。
大阪弁護士会館一階にある国選弁護事件の受付カードで事件(罪)名と被告名を見て、大阪高裁刑事一部の書記官室をのぞいた。
「量刑不当を争っているのかな」
裁判所合同庁舎の一階から十階の書記官室に向かうエレベーターの中で、そう軽く思っていた。ところが、書記官がロッカーから出した公判記録は十二分冊からなる膨大なものだった。「うーん、難事件やな」。記録を読むにつれ「おかしい、おかしい」と感じた。判決文にさっと目を通した。
「不親切な判決だな」
私たちと同じ感想を、平栗弁護士は事件と対面したその日に抱いていたのだった。弁護士の使命感から、国選弁護を引き受けることを決めた。
国選で難事件の弁護を引き受けた経過を簡単に説明したあと、平栗弁護士は言い切った。
「被告は無罪ですよ」
気まじめそうな顔が一層、気まじめになった。
もう一人、私たちが訪ねた大川一夫弁護士は五十八年に弁護士登録、弁護士歴一年の若手だった。大川弁護士がこの事件とかかわるようになったのも偶然といえた。
大阪弁護士会の国選弁護委員会から所属する松本法律事務所に「誰も弁護を引き受けない事件がある。誰か若い人はいないか」と、電話があった。
先輩弁護士の勧めで回ってきた事件だった。
「灰色無罪かな」
記録を通読してそう思った。五人のうち植月がすでに服役していたことがやはり引っかかった。
灰色無罪というのはあいまいな言葉だ。純白の無罪でない、黒に近い無罪、真犯人であっても証拠が不十分なのを弁護技術で突き、無罪となる事件、裁判所が無実をはっきり認定せず消極的にしか無罪と認めない事件、などの意味で使われる。
捜査当局などは「罪を犯しているのは間違いないのだが、証拠が足りなかっただけのことだ。うまく言い逃れされた」との印象を持つ。これは「疑わしきは被告人の利益に」という刑事事件の大原則があるからだ。
ところが、大川弁護士の感想について、先輩弁護士はしかった。
「五人のうち四人が無罪を主張している事件だろう。しっかり弁護しろっ。無罪を取らなかったら、君の責任だっ」
大川弁護士は目がさめる思いだった。
山本、平栗、大川の三弁護士に、同じく国選弁護の黒田宏二弁護士が加わって、控訴審の弁護団が構成されていた。
他の冤罪を訴える事件に見られるような大弁護団でもなく、特に、刑事事件に強いという弁護団でもなかった。それぞれが偶然に事件と出会った、言ってみれば、即製の寄り集まりだったが、無罪を確信する力強い弁護団であった。
取材班も本格始動
私たちは本格的に暴行殺人事件を洗い直すことを決めた。社会部がひとつの目標、あるいはテーマを決めた取材を進めたり、キャンペーンを張ったりする場合、直接の担当記者に遊軍記者らが加わり、取材チームを作って、部長やデスクの号令一下に推し進めることが多い。取材班が五人になった場合、その取材力は十倍もの威力を発揮することがある。一人ひとりが担当の持ち場取材、デイリーワークから解放され、チームの目標へ向かって自由な取材をすることができるからだ。
しかし、今回の場合、司法記者クラブの三人を中心に取材を進めることにした。取材内容が短期決戦、大量動員でカタがつくようなものでもなく、むしろ、いつゴールがくるのか、全く見当がつかない長い取材が予想されたからだった。
裁判所北側にある、私たち三人がいつも息抜きに使う喫茶店「イーゼル」で、取材に対する基本姿勢を次のように話し合った。
「控訴審弁護団も一審の有罪判決に重大な疑問を抱いている。事件の背景には記録からはうかがえない事実が隠されているようだ。じっくり、取材し直そう。その結果、小池が手紙で言っていることと逆の結果が出てもそれは仕方ない。しかし、冤罪だったとしたらとんでもないことだ。少年らは極悪非道のレッテルを貼られたまま社会から葬り去られてしまう。家族も五人と同じ傷を負って生きていかなければならない。控訴審判決で無罪判決が出てからでは遅すぎる」
「読売は五人が逮捕されていた当時『他にも五人殺害』と書いた。仮に被告の一人がそう自供したのが事実としても、それが結果的に誤りであったとしたら、新聞は無責任と言われても返答できない。自白したやつが悪い、とすましているわけにはいくまい。自白はどんな状況でなされたのかが問題だ。取材の結果、暴行殺人は無罪と確信が持てたら、控訴審判決を待たずに五人の名誉回復をしようじゃないか。ただし、最終的に判断するのは裁判所だ。神ならぬ人間の裁判官だ。取材は慎重に進めねば……」
私たちは司法担当としての日々の取材の合間に、この事件を本格的に追い始めた。まず、殺人現場の南海本線二色浜駅近くの畑に向かった。五年ぶりに見る現場は、ビニールハウスが取り除かれ、畑の周囲に新しい民家が数軒建っていた。
五人が女性を物色したという近くの二色浜海岸は大阪府下で唯一の海水浴場で、シーズンにはにぎわう。だが、シーズン前の海ではウェットスーツを着た若者が数人、ウィンドサーフィンを楽しんでいるだけで、浜には人の気配が全くなかった。風に揺れる松林の音だけが耳に残った。まして犯行は真冬である。こんな場所に女を探しに行くという発想が不自然だった。女を探すなら他に適当な場所は近くにいくつもあったからだ。
事件を五人の逮捕から捜査資料などでたどることにした。
緊急逮捕の必要性はあったのか
五人は裁判官が出す逮捕状を必要としない緊急逮捕という手続きで、昭和五十四年一月二十七日午前二時から同五時すぎにかけて一網打尽に逮捕されていた。
緊急逮捕は死刑または無期、長期三年以上の懲役、禁錮にあたる重い犯罪を犯したことを疑うに足りる十分な理由がある場合に行われる。その際、被疑者には被疑事実と逮捕の緊急性を告げなければならないことになっている。
植月昇が高倉春男に脅され、小山喜子の暴行、殺害を認め、高倉の手帳に「喜ちゃんを殺したのは4人でころしました」と書いたのは、前日の二十六日午後七時半だった。植月はそのまま高倉に貝塚署の捜査本部へ突き出された。
捜査本部はその夜のうちに植月と、その“告白メモ”に登場した四人を逮捕した。植月の“自供”や“告白メモ”の裏付け捜査、五人のアリバイ捜査、さらに周辺捜査を十分にすることなく、寝込みを急襲し、緊急逮捕した。なぜ、逮捕状による通常逮捕にしなかったのだろうか。
一審記録の緊急逮捕手続書によると、その理由として「事犯重大であり、加えて共犯者が多数あり、急速を要し、逮捕しなければ逃走並びに通報、証拠湮滅(いんめつ)のおそれがあった」とある。
捜査記録では、逮捕に至る経過は次のようになっていた。
「捜査方針として現場の地理的条件や被害者の生前の行動から付近に土地鑑(かん)のある性的前歴者、素行不良者の犯行とみてこれらの洗い出し捜査をしていたところ、被害者の内縁の夫高倉春男からこの付近の不良で私が知っている者に植月昇という者がおるが、これが岩槻邦男、中谷哲二や小池久也、佐藤某等と付近をウロウロしている。ちょうど喜子の殺された月曜日の午後二時ごろにも出逢ったので私が留守だと知ってやったのと違いますかとの申告を受けた。
現場付近で聞き込みをしていたところ、同人等が不良グループとして名前があがっているので更に本件当日の行動等を内偵していたところ、本日午後十時三十分ごろ、高倉春男が植月昇を同行して貝塚署前に来たので事情を聞いたところ、貝塚駅前に植月昇がいたので連れて来ました。おかしいので調べて下さいというので植月昇を任意取調べたところ、……」
逮捕は高倉春男の“捜査”がきっかけだったことを記録している。逮捕時の新聞発表もこれにほぼ沿っている。それにしても、捜査記録は読みづらい。「ところ」「ところ」が続出し、どこからどこまでが高倉の話なのか、わかりにくい。
捜査本部はこの時点で、植月の“自供”を全面的に信用する証拠をすでに握っていたのだろうか。五人のうちの何人かはシロ、あるいは逆に五人以外にも共犯がいるのではないかといった疑問は生まれなかったのだろうか。記録からはうかがえない。
捜査本部より先に、いわば「素人探偵」が犯人を見つけたということにプロとしての捜査本部の冷静な判断力が失われた、ということはなかったのだろうか。一人が「仲間四人とやった」と言っただけで一斉に逮捕したのなら、極めて乱暴な緊急逮捕ということになるが……。
植月昇の緊急逮捕手続書の被疑事実を追ってみる。
「本年一月二十一日午後二時頃、貝塚駅前の喫茶店で友達の岩槻邦男、中谷哲二、小池久也、佐藤某の五人が集まり、女を二色浜で乱暴しようと相談して自転車に乗って行った。海岸の展望台の女はうまくいかなかったので日が暮れてから南海電車の二色浜駅の東側ビニールハウスの中に通行中の女を引っ張り込もうと相談した。
五人でハウスの中に入り、邦男が表に出て女を待っていたところ午後十一時ごろ、赤い服を着た荷物を持った二十五、六歳の女が帰って行くのを見て佐藤と岩槻が後から近づいて行き、佐藤が持っていたカッターで脅して荷物をとりあげ道の横の畑に連れ込んで下を裸にした。
それからハウスの中に連れ込み、自分が左手、佐藤と岩槻が首を押えつけてから岩槻、佐藤、小池、中谷の順に暴行した。自分はしていない。それから岩槻が殺してしまえと言って佐藤と二人で首を手で締めた。のどがゴロゴロと言ってカクンとして死んだ。埋めようとして土をかけたが直(す)ぐやめた。畑の中の荷物を一ヵ所にまとめた時、岩槻がバッグの中から緑の小さいガマ口を取った。
その供述は犯行の状況と一致して全く矛盾がなく、特に新聞等マスコミに未発表の緑色のガマ口の窃取の件や被害者のオーバーのすそが畑の土に埋まっていた点等、被疑者のみが知る事実についての供述があったことからこの者が罪を犯した疑いは十分である」
被疑事実は植月の高倉に対する“犯行告白メモ”に沿って作られているのは明らかだ。
「秘密の暴露」、つまり犯人しか知りえない事実の供述として、緑色のガマ口の窃盗を指摘していた。
こうした容疑事実を突きつけられた五人はどう反応したのか。どんな様子で逮捕されたのだろうか。同じく緊急逮捕手続書から引用する。
植月昇
「犯行を認め、逮捕に際し、何ら抵抗することなく素直に応じた」
中谷哲二
「『知りません』と否認したが、何ら抵抗することなく素直に逮捕に応じた」
小池久也
「『知りません』『何のことですか』と否認したが何ら抵抗することなく素直に逮捕に応じた」
佐藤俊一
「何ら抵抗することなく素直に応じた」
岩槻邦男
「『知りません』と否認したが、何ら抵抗することなく素直に逮捕に応じた」
中谷、小池、岩槻の三人は逮捕当初には容疑を否認していた。植月は容疑を認めたが、佐藤は認めたのか否認したのか記録からは判然としない。
供述調書はそろったが
容疑者が逮捕されて真っ先に作られる書類が弁解録取書、いわゆる「弁録(べんろく)」である。通常、容疑事実を認めるのか、否認するのか、といった簡単な内容となっている。
岩槻邦男の「弁録」を見てみる。
住居 大阪府貝塚市○○○○
職業 無職
氏名 岩槻邦男
昭和三十二年十二月二十六日生
本職は、昭和五十四年一月二十七日午前五時五十分ごろ、大阪府貝塚警察署において、右の者に対し、逮捕手続書記載の犯罪事実の要旨及び弁護人を選任することができる旨告げたうえ、弁解の機会を与えたところ、任意次の通り供述した。
一、私は只今読み聞かされたことは全く身に覚えありません。人など殺していません。一月二十一日の晩は貝塚駅前の喫茶店に行き中谷哲二や友達の植月昇君らと会ったことは会いましたが午後十時ごろ植月君と二人で羽倉崎の平井のアパートを訪れて行き泊りました。
二、弁護人のことはお聞きしよくわかりましたが家の者と相談し決めます。
岩槻邦男(署名)(押印)
右のとおり録取して読み聞かせたところ、誤りのないことを申し立て署名指印した。
当時二十一歳だった岩槻は、容疑事実を明らかに否定し、植月とのアリバイがあることを訴えている。
しかし、緊急逮捕時に否認していた他の二人、中谷哲二と小池久也は、数時間後に作られた「弁録」では一転して容疑を認めている。
(小池)「一月二十一日はにしきの浜の駅や海の方に行きました。言いたいことは只、申し訳ありません。それだけです」
「申し訳ありません」というのは被害者や遺族、罪を犯したことに対してわびた言葉なのだろうか。
「おかしいな。植月は高倉の態度が多少、乱暴だったとしても、犯行を告白している。岩槻を除く三人も、ほぼ逮捕の段階から容疑を認めている。やってもいないことをそんな早い段階で自供するやろか」
私たちは、五人のうち四人までが逮捕の時か、その直後に犯行を認めていることに驚いた。
「一審の裁判官が被告らの法廷供述を信用しなかった理由はこのあたりにあるんじゃないですか」
「いや、すぐ認めたからといって犯人だと単純に考えるのは危険だ。逆に長期間、頑強に否認し続けたからといって、やっていないともいえないだろう。自供すれば重い刑が待っているのだからな。凶悪犯が犯行を否認するのは、むしろ当然なんだ。それにしても、身に覚えがない殺人を五人のうち四人がそろって、早い段階で認めるとはなあ……」
「けったいな事件やな。公判資料には出ていない事実が何かあるんやろか」
「弁録」作成後、捜査本部は供述調書を作り始めた。本格的な暴行殺人容疑の取り調べとなったのである。
岩槻について一通目(五十四年一月二十七日付)の供述を追ってみる。
容疑事実部分の供述は以下のようになっている。
私は本日朝五時ごろ、一ヵ月程前に南海電車の泉佐野駅の改札口付近で偶然知りあいとなった
平井
という男の家で泊っていたところ刑事さんに踏み込まれ
本年一月二一日の夜中、南海電車の二色浜駅から二〇〇メートル位のところにある野菜栽培のビニールハウスの中で女の人が強姦され、殺された事件
がありましたが、その犯人としての容疑がある、逮捕状はすぐあとで請求するから貝塚署まで来てくれといわれ捕らえられ、お調べを受けているものです。
先に申し上げた事件は、私が
中谷哲二
佐藤俊一
植月昇
小池久也
の五人でやったものとの疑いがあるとお聞きし知りました。
私は、言われる様にこの事件には全(まつ)たく関係ありません。
と、申しますのは、事件があった一月二一日の晩は確か午後一〇時前頃から
植月昇
と羽倉崎の平井の家に行っているはずです。従って事件がおこったという晩の一一時半ごろは平井の家に居たので事件はうちようがありません。
誰がそんなことを言っているのか知りませんが、私と植月昇は、この事件には、絶対関係ありません。
一月二一日から後、佐藤俊一や小池久也ともあっていませんし、これらが事件に関係しているかどうかも判りません。
どうか充分お調べ下さい。
岩槻は、植月とともに事件発生時には友人の平井宗太のアパートにいたというアリバイを再び示して、容疑を否認する姿勢を維持している。
捜査記録といい、供述調書といい独得の文体をしている。体裁はあくまで岩槻が自分の口で話したことを刑事が筆記したようになっているが、実際はそうではない。刑事が要点を聞き出し「こういうことなんだな」「そうです」という問答のうえで作成されることが多い。問答をそのまま記載しないこのスタイルが実は問題で、とくに供述が自白の場合、法廷で争いの対象となることが多い。
逮捕時には否認し、弁録では認めたと受け取れる記述を残している小池の初めての供述調書(同日付)はといえば、犯行は全面自供、犯行の経過、手口、殺害の動機など具体的、詳細な調書ができていた。
否認を続けていた岩槻も逮捕されてから四日目には供述を変えた。自白したのである。一月三十日付の供述調書がそれだ。
(略)これまでは、どうしても本当のことが言えず嘘(うそ)を言っておりました。
私が本当の話が出来なかったのは通りがかりの関係の無(な)い女の人を五人もの者が寄って暴行しその上殺してまでいるので捕まったら当然、刑務所に入れられる。私のほかの四人は、皆、未成年ですし、大人は私独りです。
ですから私が大将になってやったと言われるでしょうし、殺してまでいることで裁判では死刑を言われるかも知れない。そう考えると、こわくてどうしても本当の事が言えなかったわけです。
それに事件をうった晩は、羽倉崎の友達の
平井  二〇歳位
の家で泊まっていますし、平井も泊まったことを言ってくれると思い
私は事件には関係がない。事件の晩は平井の家で泊まっていた
と、言って今日まで、本当のことを言わず押し通して来たのです。
一昨日、検事さんのところに連れて行かれ、聞かれた時も、その様言いましたし、昨日、裁判所に連れて行かれた時も判事さんの前でその様言いました。
ところが、全然私の言うことを取り上げてもらえませんでした。
そのことと、一緒に事件をうった四人も捕まったことを知り、この上、私一人だけがいつまでもそんな事を言って通るはずがないと知りました。刑事さんからいろいろお諭(さと)しを受け、本当のことを言って殺した人にもお詫びしたいと言う気持ちになりました。
これからは、嘘をつかず本当の事を、お話します。(略)
五人の自白がそろったことになる。
その後、岩槻は一月三十一日には、小山を道路からビニールハウスに連れ込む際、脅しに使ったカッターナイフの図を描いている。
二月三日には、ビニールハウス周辺の見取図とともに、ハウス内で、殺した場所、穴を掘った地点などを特定する図まで描いている。
見取図、地図などは、他の四人についてもそれぞれ自筆のものが残っている。
佐藤は「今の気持ち」と題した反省文まで書いている。
供述調書やこれらの図面、反省文から見る限り、五人の犯行は成立したかにみえる。
自白への疑問
「五人とも四日以内に自白しているじゃないか。地図まである。今さら、一審判決をひっくり返そうなんて無理やないの」
「小池は何を根拠に手紙を寄こしたのかな。やはり、いつもの桜マークの手紙だったのかな」
私たちの気持ちは揺れ動いた。
そんな時、事件記者の大ベテランがこんな話をした。
やっていないことでも熟練の捜査員にかかると“自供”することがあるということだった。
「昔、(捜査)一課のタンテイ(刑事)が話していたんだけどね。どんな被疑者でも一週間もあれば落とせる(自白させる)自信があるって。人間なんて弱いもんだって言うんだ。留置場に入った経験がないあんただったら三日もあればコロシ(殺人)の犯人にしてみせるとも言ってたな」
「断わっておくけど、そのタンテイは捜査技術に自信を持っているということを言いたかったんだよ。容疑者が真犯人の場合の話だよ。犯人だという確信がなければ落とせないってね。昔、警視庁で起きた子供の誘拐殺人事件で、ずっと犯行を否認していた犯人が敏腕刑事にかかり、取り調べの期限切れ直前に自供したという話を知っているだろう」
昭和三十八年三月、東京で発生した吉展ちゃん誘拐殺人事件のことだった。
「警察の取り調べで自白を迫るテクニックはすごいよ。これは経験した者じゃないとわからんと言うがね。それを忘れてはいかんよ」
私たちはひとつの裁判を思い起こしていた。
五十五年四月二日、奈良・葛城簡裁が無罪判決を言い渡した、偶然の重なった冤罪事件だった。
事件は五十四年八月二十二日夜、奈良県上牧(かみまき)町の鉄工所の事務室が荒らされ、据えつけ金庫がこわされ、中にあった五千円と事務所前のジュースの自動販売機から二万円が盗まれたという金庫破り事件だった。
奈良県警は複数の犯行とみて捜査、金庫内の小引き出しの背についていた三個の指紋から道交法違反の前歴のある会社員(二十五歳)を割り出し、十一月二十七日に逮捕した。会社員は、かつて勤めていた会社で金庫を扱ったことがあった。その金庫がのちに売られていた。会社員は「盗みなどしていない。金庫の指紋は私が扱っていた時についたのかも知れない」と、金庫の暗証数字も言って犯行を否認した。
しかし、捜査員は全く取り合わず、会社員も「わずか二万五千円のことや。起訴されたら保釈されるだろうし、出たら身のあかしを立てることができるかも知れない」という気持ちになり、十二月に入って自供を始めた。
自供、といってもしていないことを話すのだから、取り調べは捜査員から「へいがあったやろう」と言われれば「へいを乗り越えて入りました」、「一人ではやれんぞ」と言われれば「大阪のミナミで若い二人に誘われました」といった調子で、捜査員の顔色をうかがいながら、捜査員の出すヒントにそって“全面自供”した。
会社員はいったん“自供”したものの「なんで、してもいないことを言わないかんのか。懲役刑になったらたまらん」と、再び、全面否認したが、葛城区検は窃盗罪で起訴した。
会社員の弁護を引き受けた中川清孝(なかがわきよたか)弁護士は「指紋が残っていては無罪は難しい。被害額もわずかなことだし、弁償をして執行猶予つきの判決を目ざした方が得策」と、鉄工所を訪ねた。
ところが、鉄工所で聞かされたのは「うちの金庫破りの犯人は滋賀県警が捕えていますよ」だった。
「えっ、犯人が二人?」
中川弁護士が滋賀県警に問い合わせると、常習窃盗男(二十五歳)が鉄工所の金庫破りも自供、県警は裏付け捜査を終えていた。
「会社員は誤認逮捕。シロだ」
中川弁護士は執行猶予を考えたことを恥じ、問題の金庫の転売ルートを追った。
確かに、金庫は会社員がかつて勤めていた商事会社のもので、それが古物商の間を転々とし、鉄工所に渡っていたことがはっきりした。
指紋はまぎれもなく、会社員が商事会社で金庫番をしていた時につけたものだった。
偶然だった。
公判で、検察側は中川弁護士の主張をすべて認め、異例の求刑放棄をした。
五十五年四月二日の判決で、熨斗昌秋(のしまさあき)裁判官は「“自白”は不合理で現実性が乏しく、被告人と犯罪を結びつける証拠はない」と無罪を宣告。会社員の冤罪は晴れた。
この裁判は、中川弁護士が大阪弁護士会の所属だったことから私たちが取材した。印象深い事件だった。
「無罪の人でも、いったん逮捕、勾留されると、いかに捜査官の意のままに自白を迫られるかが明らかにされ、今なお起きるいわれなきとがめを告発する結果になった」
私たちはこの裁判をこう位置づけていた。
また、中川弁護士は、
「市民がふとしたことで不幸に見舞われた悲しい事件だった。強大な官憲の捜査能力に比べ、被告人も弁護人も立場は弱い。たまたま事態が被告人に有利に推移し、無罪を勝ち取れたが、罪のない人が容疑をかけられると無罪を明らかにすることがいかに困難であるかを知ってもらいたいと思う。この事件が捜査における人権尊重の警鐘になれば、不幸中の幸いである」
と、判決後、話していた。
もう一人、有力な情報を寄せてくれた記者がいた。
読売新聞が大阪で発刊した昭和二十七年十一月からずっと、社会部岸和田通信部にいた先輩である。泉州のことならすべてわかる。社会部の誰もが、取材先の警察、市役所などが一目も二目も置く大記者である。
「あの事件、洗ってるんやてな」
何度目かの現場取材のあと、岸和田市役所の記者クラブに先輩を訪ねたときだ。
「俺も思い出したわ。帳場(捜査本部)に入ってたタンテイが言ってたんやけどな。『しんどい事件や。自供が合わんのや。公判維持できるかな』とかなんとか言っとったわ。調べに無理があったみたいやな」
思わず、聞き返した。
「えっ、本当ですか。捜査本部の内部にそんな声があったんですか。しかし、五人とも自供はありますよ」
先輩は答えた。
「そこ、そこ。そこやがな。注意せないかんのは。自供がおかしいと言うとんや。しかし、一審で有罪が出とるしな。詳しい話は忘れてしもうたが……。洗い直す値打ちはありそうやで。がんばりや。何かあったら、いつでも言うといで。何でもするから」
うれしい言葉だった。
ベテラン記者は豊富な経験から適確なカンを働かせてくれている。
「五人の自白は――?」
第四章 自供はウソだ
四十九枚の手紙の迫真力
五人の「自白」には何かが隠されている。供述調書からは読み取れないものがある。
私たちは、服役している植月昇は後にして、控訴審で無罪を訴えている岩槻邦男、中谷哲二、小池久也、佐藤俊一の四人から“肉声”を聞くことにした。
いきなり拘置所へ行っても面会を断わられたらおしまいだ、と、まず四人に質問状の形の手紙を出した。
大要、次のことを質問した。
一審で弁護側は足跡、指紋などについて反論しているのに判決では判断が示されていないこと、アリバイ証言が後退していること、自供が大ざっぱすぎること――などから私たちは一審判決には疑問を持っているが、四人はどう思っているのか。
五年も前のことだけど、緊急逮捕された時の様子、弁解録取書、供述調書の作成経過、捜査員の取り調べの状況などをなるべくくわしく、言葉がつながらなければ、メモでもいいから教えてほしい、と伝えた。
小池から最初の手紙を受け取って約三週間が過ぎていた。
早い者は、二日後に返事を書いてきた。
とりわけ、中谷からの返事には私たちは驚かされた。
便箋四十九枚にびっしり書いてきたのだった。丁寧なことに、はじめの四枚には「序―1」から「序―4」まで番号をふってあった。もちろん、桜マークの検閲印はすべてに押されていた。
四十九枚の手紙を書く気力、体力に圧倒された。中谷の強い意志が感じられた。
「序」の部分は、新聞記事でいう前書きのようなもので、改めて、「私達五人は当時十八歳―二十一歳と若かったために、取り調べにおいて暴力や脅しを背景に警察の思い通りに調書を作られてしまいました」と、無念の思いを述べていた。
本文は、私たちの質問に答える形で個条書きになっていた。
自宅から連行された時の様子
三人の刑事の一人が私に「中谷哲二か」と聞いたので「ハイ、そうです」と答えました。それから「警察の者やけど、ちょっと一緒に来てくれるか。服を着替えて支度をしろ」と言いましたので、私は何が何だかわからないまま着替えました。その一方で「タンスを見せてくれ」といわれたので、六畳間のタンスを見てもらいました。「外に出てくれ」と言われたので事態がよくわからないままに、三人の刑事と一緒に外に出ました。その間、なぜ、私が警察に連れて行かれるのかについてひとつも説明はありませんでした。
連行中の様子
車の中に座ると、すぐに運転席の刑事がうしろを振り向いて、私に向かって「お前がやったんだな」と言いましたので、私は何のことか、全くわからないので「何をですか」と答えると、刑事が「このとぼけおって」と言って、いきなり、右手で私の顔を前方から殴ってきたのです。私はなぜ、こんな目にあうのだろう、と思いつつ、あっけにとられて言葉もありませんでした。
取り調べの様子
貝塚署で連れて行かれた部屋は四畳半くらいで、机二つとロッカーがひとつあり、壁に時計がかかっていました。部屋に入ると、机を窓際に寄せ、部屋の中央に立たされました。正面に時計を見て、主任は私の横に座り、車を運転していた刑事Aは、私の正面に立ち、もう一人の刑事Bが私の左側に立ちました。
Aが「お前がやったんやろうが」と大声で怒鳴ったので、私が「本当に何のことですか」と答えると、いきなりAが軍手をはめた右手拳で、私の左側の耳の上部あたりを一発殴って来ました。その後、直(す)ぐにBが私の左足、ひざあたりをひざ蹴(げ)りして来ました。
殴られた痛さに驚くと同時に、私は何の事か、さっぱり、思いあたりませんし、そのまま、ずっと黙っていると、さらに、AやBは何回も私を殴ったり、髪の毛を引っ張って、むしるような事をしたり、さらには、私の後頭部を壁にぶつけたりしました。
私は寝込みを起こされたために下着のシャツ、薄いトックリセーター、ジャンパーの三枚しか着ていませんでしたので、真冬の夜明け前の冷え込みが、身にこたえ、取り調べの恐ろしさとで身体が震えっ放しでした。
この間、Aは何度か「お前がやったんだろう」とか「お前等(ら)がやっている事は分かっているんだから」、さらには、「お前が首を締めて殺したんだな」と、言って迫って来ました。私は、何度かにわたる暴力に耐えながら、そのつど「知りません」と答えたり、時にはバカバカしいと思ったりして、無言で黙っていました。
取り調べの途中でも、刑事は事件の中身には一切、触れないままでしたので、私には、何が何だか分からないまま「えらい事件に巻き込まれているんだな」と思い、とても不安でした。
そういった取り調べが一時間半ほど続いたころ、主任が「いい加減に吐いてしまえ」とか、「強情張っても、お前らがやった事は分かっとるんやぞ」等と、言ったりしました。
それでも、なお、私が認めないのを見て、主任は、私に向かって「お前はちょっと強情だな。それぐらいじゃ、吐きそうもないな」と言った後、主任は「こいつに一度、手錠をはめてやれや」と、Aに指示しました。
Aは言われた通り、私に手錠をはめ、さらに、私はその場に正座をさせられました。
床はセメントでしたので、正座はとても苦しいものでしたが、その状態でAとBの二人から殴られたり、蹴られたりの暴行を受けました。
Aは手錠を意識的に強くはめたので、手錠が私の手首に食い込み、その痛さにも耐えられないぐらいでした。
二〇―三〇分、正座させられた後、又、立たされて殴られたり、蹴られたりして、その後、又、正座をさせられるという繰り返しでした。
そういう状態が一時間強も続きました。
そうすると、主任が「他の連中はもう吐いているぞ。お前一人、いつまでも強情を張っとってもしょうがないだろう。認めてしまえよ」と言い始めました。
この間、手錠はずっとはめられたままで、どんどん手首に食い込み、痛くてたまらず、何度も「緩めて下さい」と、頼みましたが、聞いてくれませんでした。
疲れ果てていた私は、だれの事かはわからないが、他の連中が認めてしまった話を聞かされているし、私がいくら知らないと言っても聞き入れてくれないので、自分でも一体、どうしていいか分からず、その場の苦しさから逃れたい一心で、訳のわからないまま警察のペースに乗って、仕方なしに認めてしまいました。七時四〇分ごろだったと、はっきり覚えています。
警察でこのような取り調べを受けるのも初めてですし、本当にどうしていいのかわからないままに、前後の見境(みさかい)もなく、思わず認めるという形でうなずいてしまったのです。
「どうせ、私は無関係なのだから、今、認めてもあとで直ぐに、わかってもらえるだろう」ぐらいの気持ちで軽く考えていました。
“自供”調書を取られた時の様子
私としてはすでに「私が首を締めて殺した」という事を一度、認めてしまっている事ですし、何が何だかよくわからず、頭が混乱する一方で、どっちでも、同じ事だろうと思うと、気持ちはやけ気味になって警察の言う通りに合わしてしまったのです。
正直なところ、そういうやり取りにうんざりしてしまい、面倒くさいと同時に、わけもわからないままに、結果的に、警察の言いなりになってしまっていたのです。
元々、私は頭はあまり良い方ではなく、難しい話にはついていける方ではなく、又、口べたのために、私の言いたいことや、考えを十分に表現することができなかったのです。やり取りはこんなふうでした。
――(主任)だれが首を締めて殺したんや。
「私です」
――お前と違うやろう。首を締めたのは岩槻だろうが。
「いえ、違います」
――岩槻だろう。そうだろう。
「ハイ」
この時、岩槻もわけのわからない変な事件に巻き込まれているのを知りました。
――だれが先にやったんや。お前らがやったんだろう。
「イイエ、そんなことしていません」
――何を言っとるんや。やっとるから今、ここにおるんやないか。
このやり取りの時に、この事件が殺人だけでなく、暴行も関係していることがわかったのです。
――佐藤俊一、小池久也、植月昇。こいつら知っているか。
「ハイ、知っています」
――こいつらも一緒に、五人でやったんだろう。
当然、否定しましたが、何度も強く言われて、言われるままに同調してしまったのです。
――お前は何番にやったんや。
「三番にやりました」
――一番目はだれや。
「岩槻が一番です」
――お前ら、どういう順序でやったか、言ってみい。
「一番目が岩槻で、二番目が佐藤俊一、三番目は私、四番目が小池久也、五番目が植月昇の順序です」
適当に答えました。岩槻を一番にしたのは一番年長だったからです。適当なことでも言わない限り、許してもらえないと思い、やけくそな気持ちで、頭の中でデタラメを言ったら、その通り、調書に書かれました。
最初の調書にサインと指印する時にも、調書は読み聞かせてもらえず、いきなり、調書を目の前に示されて、サインと指印を求められました。その内容は全く、デタラメであり、警察の言うままに、でっち上げられた調書でしたから、このまま、サインや指印をすれば、本当に私が犯人にされてしまうのではないかと、とても不安でしたが、そういう気持ちをその場で言い出すこともできず、いずれ、真実はわかってもらえるはずだからと、あきらめ、イヤイヤでしたが、求められるままにサインと指印を押したのです。
中谷の手紙は、概要、以上だった。一枚目から四十九枚目まで字に乱れはなかった。断っておくが、手紙は明らかな誤字、脱字は訂正したほか、多少、読み易くするため 、。(句読点)を加えたり、削ったりしたが、すべて中谷の言葉のまま引用した。
中谷は、緊急逮捕手続書では「知りません」と、容疑を否認していた。
その数時間後に作られた「弁録」では素直に暴行殺人を認めたことになっていた。
否認から自白へ、供述を一変させた人間の感情など一切、排除したかのような調書の背景には、こんな事実があったのか。恐ろしいほどの“密室の暴露”だ。これまで調べてきた供述調書や一審の公判記録、スクラップからはうかがえなかった事実だ。
最初に小池が社会部に「警察の暴行、拷問、ウソの自白」と手紙に書いてきたのは、こういうことだったのか。私たちは慄然とした。
社会経験の乏しい少年が、いきなり警察に連行され、容疑内容も伝えられないまま厳しい取り調べを受ける。頭から犯人と決めてかかっている捜査員は「やっただろう」「吐け」と三人がかりで責めたてる。「他の者はすでに自供している」(この時点では、少なくとも岩槻は否認していた)というトリック。殴る、蹴るの暴行。コンクリート上の正座。手首に食い込む手錠。
取り調べがこの通りなら、少年はどう抵抗すればいいのか。少年は私たちが考える以上に防衛力が弱い。表現力も乏しい。「やってません」と、言い返すのがやっとのことだったろう。
こんな取り調べを受けたら、私たちでも、何が何だかわからないまま「ハイ」と言うかもしれない。人それぞれ、精神力、体力、恐怖に対する耐久力は違うが、「イイエ」と答えた時の恐ろしさを想像すると、そこから逃れる道は「ハイ」しかないというのは理解できることだった。
決して忘れることができない体験
返事は、先に無実を訴える手紙を寄こした小池からも岩槻、佐藤からも届いた。
小池は取り調べの様子を次のように書いてきた。
最初の取り調べの時、刑事は二人でした。グレーの背広姿のAと革ジャンパー姿のB刑事でした(注 中谷を調べたA、Bとは別)。
――お前、何をやったか、わかっとるやろ。言ってみい。
「何のことかわからん。知らん」
――全部、わかっとんやぞ。お前がやったんやろ。
「何も知らん」
――全部、わかっとんや。早く言わんか。
言い返している間に、A刑事が殴ってきました。手が痛いのか、今度はタオルかハンカチのようなものを巻いて、又、数回、殴られました。刑事の書いた用紙に「これに名前を書いて拇印を押せ」と言われ、暴行を受けるのが怖いのと、ただ無意識のうちに拇印を押したように覚えています。
午前七時三〇分ごろに、貝塚署から泉南署に移送されました。
――二十一日の夜はどこで、何をしとったんだ。
――邦男がカッターナイフ、持っとっただろう。
――知らん、やってない、言ってるのはお前だけやぞ。
――他の四名は、何もかもしゃべっとんやぞ。
――やったんやな。
――うそを言っとってもわかっとんや。ほんまのこと言え。
――他のやつの調書はもう全部でき上がっているんや。
――何ぼウソついても、ちゃんと指紋は残っとんやぞ。
色々、刑事から責められ、そのつど「俺は何も知らん」「俺はそんなことをしたおぼえはない」と、言い続けましたが、そのたびに殴られ、数十回は殴られ、「留置場の中で良く考えとけ」と言われて、二十七日はそれで終わったと思います。
岩槻は、刑事とのやり取りを次のように書いてきた。
――(主任)おんどれか、岩槻邦男というやつは。やった、と言わんか、われ(注 「われ」とは「お前」「貴様」といった意味)。
「本当にやってません。無関係です」
――われ、やっていないと言えば、通ると思っているのか。
――どの様にして殺したんや。早く白状せんか。お前がやったことはもうわかっているんや。
「それだったら、証拠を見せてくれ。俺は本当にやっていない。本当に知らんことや。刑事さん信じて下さい。本当にやっていないんです。どうか助けて下さい。お願いします」
――助けてやりたいが、事件を認めないことには助けることはできない。
――邦男、助けてほしかったら、素直に私がやりました、と認めることだ。
「ほんとうにやっていない。知らん。無関係だ」
――植月らは皆、素直にやったと認めているのに、われ一人だけがやってない、知らん、知らんで通ると思っているのか。知らん、知らん、やってないで通ったら、この世の中は真っ暗じゃ、警察はいらん。
この間、正座させられ、頭毛をつかみ、前後に振り、揺さぶられたり、首を押えつけられたりしました。
佐藤もなぜ、警察に連行されるのか、わからなかった。そのため、刑事との間でトンチンカンな問答があった、と書いてきた。
――何でお前らを捕まえたか、わかるか。
「友達の高木君とけんかしたことで連れてこられたんやと思います」
――けんか? そんなしようもないことで警察がわざわざ朝早くから家まで行くか。
――他に大きな事件をしたやろう。
「何もやってません」
――いや、他にもやってるやないか。
「やってない」
――やってる。
「やってない」
――二色浜のビニールハウスの中で女を乱暴して殺したやろう。
「そんなことやってません。アリバイがあります。調べてもらえばわかるはずです」
――お前が何ぼ言うても無駄や。他のやつは事件を認めとんじゃ。
この間、何度も頭を殴られたり、腹、太股等を何度となく蹴られました。
四人の手紙は作文と言えるだろうか。とても作文にはない現実感、迫真力がある。捜査員との言葉のやり取りまで再現している。五年前のできごとだ。
彼らにとって、あまりにも異常なできごとだっただけに、時間が経過しても鮮明な記憶として残っているのだろう。
いや、忘れようとしても、決して忘れることのできない体験だったのだ。恐怖の体験は、彼らの頭の中でコンクリートされていた。
「自分でやってないことを自白するはずはない」から「やってないことでも“自白”することはある」へ……。
私たちの“常識”は崩れて行った。
私たちは、
「自供にはウソがある」
と、確信に近いものを感じていた。
矛盾だらけの供述調書
ひと口に自供といっても、その態様はいろいろだ。「お前がやったのか」という追及にただ首を縦に振るだけでも「自供した」ということになる場合がある。
捜査当局が使う言葉に「本割れ」「半割れ」というのがある。容疑者が犯行を完全に自供した場合が「本割れ」で、自供をしかかってはいるが、まだ、罪から逃れたい気持ちが働いて肝心の部分は自供しないのを「半割れ」と言ったりする。
捜査員の誘導や、利益供与の誘いに乗ったり、暴行、脅迫に屈したりしてウソの自供をしても「自供した」という形にはなる。
小池や岩槻らが訴えるように殴る、蹴るなどの暴行を受けて「自供」した場合、その調書を詳細に検討すれば、必ず、無理が表われ、同一の犯行のはずなのに五人の間に供述の矛盾が見えてくるはずだ。
捜査員は一応、事件の概要、犯行現場の状況を整理して取り調べを進めるが、五人が捜査員の出すヒントを手がかりにしたり、恐怖から逃げたい一心だったりして、想像や推測で自供した場合は、供述が現場の状況と合わなかったり、食い違いが出てきたりするに違いない。単なる記憶違い、思い違いだったら修正はできるが、ウソから出発した話にはどこかに破綻(はたん)がある。
私たちは、すでにひと通り目を通し、「最終的には自供はそろっているな」と思った供述調書を、改めて点検し直すことにした。これは並の作業でないことはわかっていた。調書は五人の生(なま)の言葉でつづられているのではなく、捜査員の職業上の言葉で記録されているうえに、捜査本部に都合が悪い供述は伏せられているはずだからだ。
だが「自供にはウソがある」という確信に近いものを、より確実なものにするために避けられない作業だった。検察側が描いた「犯罪の構図」に従って、五人の供述を対比してみた。
五人は、南海電鉄貝塚駅前の喫茶店「水車」で暴行を共謀したことになっている。では誰が言い出したのか。
「岩槻が『女をいてまおうやないか』と、言い出した」(一月二十七日付植月、二月十六日付中谷)
「佐藤が『女をしてみたいな』と、言い出した」(一月三十日付岩槻)
岩槻なのか、佐藤なのか。早くも食い違いが見つかった。共謀はこれから犯罪を犯すという重大な緊張感を持つ話題である。しかも、五人は“自供”していた、はずである。お互いよく知り合っている仲間でもある。記憶違いが起きることはまずない。
共謀が成立したあと、五人は近くの二色浜で女性を物色したというが。
「展望台にアベックが二組いて、ひやかした」(二月三日付岩槻)
「展望台に若い姉ちゃんがいて、喫茶店に行くことを誘ったが、断られた」(二月二日付佐藤)
「堤防にアベック二組がいて、展望台にいた女の子を追っかけたが、松林に逃げ込んだ」(二月十六日付中谷)
「若そうな女がいるのが見え、佐藤が話しかけていた」(二月三日付小池)
「ピンクのスカートの姉ちゃんをひっかけそこなった」(一月二十七日付植月)
五人がそろって同じ行動をしたはずなのに五人とも別々の供述をしている。複数犯の場合、表現が違うのはむしろ自供の任意性を示唆することもあるが、アベックをひやかしたり、それとは別の女性に声をかけたり……。まちまちになっている。犯罪事実に入る前の行動である。五人が犯人とするならば、ウソを言う利はないはずだ。不可解な食い違いである。
供述調書を点検する作業に力が入ってきた。五人が手紙で説明してきた取り調べの状況が、調書に重なって見えるようになってきた。
調書の点検はいよいよ犯罪の核心に触れる部分にきた。小山喜子を見つけてからビニールハウスに連れ込むまでの状況の違いを見てみよう。
「植月が提案したビニールハウスにいったん五人全員が入ったのち、私と佐藤の二人が小山喜子を発見した。二人で追いかけてはさみうちし、私が持っていたカッターナイフを小山の顔に突きつけた。畑で乱暴しようとしたが、抵抗され、二人でビニールハウスに連れ込んだ」(一月三十日付岩槻)
ところが、この点での岩槻供述は、その後、二転、三転している。
「ビニールハウスに入ったのは、植月、小池、中谷の三人だった。小山を連れ込む時は、ビニールハウスにいた三人も飛び出してきて引っ張り込んだ」(二月三日付)
「最初はビニールハウスをのぞいただけだ」(二月十四日付)
中谷もこのくだりの供述を変転させている。
「五人(みんな)で小山を連れ込んだ」(二月六日付)
「岩槻が植月にビニールハウスを開けるよう指示した。植月から報告を聞いてから五人がビニールハウスに入り、その後、岩槻と佐藤の二人が出て行った。三人がハウスで待機していると、岩槻か佐藤のどちらかが、ナイフで脅しているのが見えた」(二月九日付)
到底、見のがすことができない食い違い、矛盾ばかりだ。どうしてこんなことになるのか。何十年も前の犯行を供述しているのではない。記憶を消そうと思っても消すことができないはずのつい先日のできごとではなかったのか。犯行現場で、五人がどう位置し、どんな役割を果たしたのか、さっぱり浮かんでこない。混乱するばかりだ。捜査本部は捜査会議で五人がどんな供述をしているのかを検討したはずだが、供述の“無理”は調書のあちこちに見えてきたのだった。
「『供述が合わんのや』とタンテイが言っていた」という岸和田通信部の先輩記者の言葉が、やっと理解できた。これらのことを指していたのだった。
多少の食い違いというのなら私たちもわかる。捜査員の捜査能力には個人差があり、調書を記録する力量にも人それぞれがあるからだ。しかし、五人全員が相互に食い違っているのは不自然としかいいようがなかった。
複数による犯行で供述がそろわないことは珍しいことではない。それは、少しでも罪を軽くしたい衝動から生まれる。罪のなすり合いといわれるものである。法廷で複数の被告が「主犯はお前だ」「いや、こいつだ」などとののしり合う場面もある。が、五人の相互矛盾はそういったものではなく、犯行の基盤そのものでの矛盾であった。しかも、自供しているはずの五人の供述がくるくる変わっている。
私たちはここでひとつの推測を立てた。
捜査本部は、植月の高倉に対する“犯行告白”から犯行の概要を作った。それに沿うように供述を求めた。しかし、五人は虚構を話すのだから捜査本部が描くようには供述できない。食い違いが生まれる。捜査員は「あいつはこう言っているぞ。どうなんだ」と責める。五人はどう話したら現在の苦痛が少しでも減るかを考えて捜査員に迎合する。捜査本部は五人の供述をそろえようとするが、風船のように、ある点を突くと、別の点が突出する、突出した部分を修正しようとすると、また、別の点が突出する。そうこうしているうちに風船は破れてしまった。無理に無理が重なり、矛盾が深まった。こう考えたのだった。
私たちは実行行為の自供の矛盾を整理する作業をさらに進めた。まず“主犯”岩槻の調書から。
「小山の首を締めたのは自分だ。佐藤、植月も協力した。いったん集めた小山の衣服や紙袋は、自分の指示で小池が衣服を、佐藤が紙袋を捨てに行った」(一月三十日付)
「最初に乱暴したのは自分で、その際、佐藤が小山の右手、中谷が左手、小池と植月が足を押さえていた。暴行は自分のあとは佐藤、小池、中谷、植月の順番だった。暴行のあと、植月が『この女、知ってる』と言ったので、自分が『殺せ』と指示し、首を締め、すぐ佐藤も首を締めた」(二月九日付)
中谷の供述の変転ぶりをたどってみる。
「乱暴の順番は、岩槻、佐藤、私、小池、植月」(一月二十七日付)
「順番は、岩槻、佐藤、小池、私、植月。植月が小山の右手を、私が左手を押さえ、佐藤は足を持ち、小池は口か目を押さえていた」(二月九日付)
暴行の順番が入れ替わり、犯行の中枢部分でも供述は食い違いを見せていた。
植月の供述にも奇妙な部分があった。
植月は一月二十七日付で「岩槻と佐藤が小山をビニールハウスに連れ込んだ時『高倉のおっちゃんの嫁さん』とわかった」と言っているが、この部分は、その後の供述から消えていた。
佐藤は、岩槻が二回乱暴したといったん供述し、のちに、一回だったとしている。記憶違いがまず起こり得ない事実の驚くべき訂正供述である。単なる食い違いとはいえない矛盾だった。
五人が真犯人であれば、暴行の順番を誤ったり、暴行の回数を勘違いしたりするものだろうか。「順番を一部忘れた」ならともかく、きちんと五人の順序を供述したあとで訂正している点に、捜査員による誘導あるいは強制が推定された。
この作業を始める前に予想した以上の明らかな供述の変転、矛盾の数々だった。私たちが抱いていた確信に近いものはもう間違いとはいえなかった。
被害者の乳房を噛んだのは誰だ
「これだけでも、被告人は無実、ということを示していますよ」
いつもは静かな語り口で、誇張した言い方をしない平栗弁護士が、例になく顔をやや紅潮させて、話した。
偶然から控訴審での弁護を引き受けた平栗弁護士は、一審弁護団から引き継いだ記録の山と格闘しているうち、大発見をしていた。
「書類の間からパラリと出てきたんですよ」
と、私たちの目の前に示したのは一枚のコピーだった。
『検査処理票』――それがB5判のコピーの表題だった。大阪府警科学捜査研究所の内部資料だ。部長、所長、科長の印が押してある。
被害者の小山喜子の両乳房についていた唾液をガーゼでふき取り、それで血液型を判定した捜査結果だった。書類の作成日は昭和五十四年一月二十四日。つまり、事件発覚の二日後である。
捜査結果は、
「A型の判定を得た」
とある。「A型」の下には、波線が引いてあった。
四方一郎教授が解剖した時、特異な所見として、小山の乳房には犯人に噛まれた跡があった。捜査本部は、このことから犯人の血液型の特定を進めたのだろう。検査結果は、犯人の血液型はA型であることを示している。
一方、五人の血液型だが、岩槻と中谷はB型分泌型、小池はA型非分泌型、佐藤はAB型分泌型、植月はAB型非分泌型。内縁の夫の高倉はO型非分泌型、ということは、一審段階で明らかになっている。
先にも述べたように、非分泌型は唾液などの体液からABOの血液型を判定できないという。犯人はA型の分泌型なのだ。
「と、いうことはですよ。被告人の誰とも、血液型が一致しないということです。犯人が小山の乳房に残した唾液の血液型と一致する被告人はいないのです」
平栗弁護士は、断言した。
「えっ! それじゃ、犯人は誰なんですか」
私たちは、思わず性急に聞き返した。
「被告人らは無実なのです」
平栗弁護士は、再び、言い切った。
司法解剖の結果、被害者小山の体内からはA型の血液型しか出なかったことは、一審弁護団も明らかにしている。このことを、一審弁護団は、無罪の証拠だと主張していた。
鑑定結果は無視された
取材の日時は前後するが、小山の体内からA型しか検出されなかった疑問を、ある大学医学部の血液学の専門家にぶつけてみた。
専門家の意見は、通常、血液型が違う複数の男が乱暴すれば、複数の血液型が検出されるだろう。しかし、そのような研究例は見たことがないし、具体例も知らない。乱暴されてからの時間的経過、天候などにも左右されるだろうし、小山のように畑の土がついた場合、農薬などの影響で、血液型は変化するかもしれない。しかし、それも研究例がないので断言できない、ということだった。
専門家は、疑問を抱きながらも慎重な見解を示した。
「法医学は今、慎重になっていますからね」
という言葉を聞いて別れたのだった。
これまでの冤罪事件で、法医学の権威といわれた学者の鑑定が間違っていた、ずさんだったと、再審裁判で指摘され、かつての有罪判決を支えた鑑定が次々に引っくり返されたことを指していた。
こうしたこともあって、私たちは、一審弁護団が主張した血液型の疑問は、疑問符をつけたまま置いていたのだった。
五人の血液型はどう鑑定されたのか。
逮捕二日後の一月二十九日には、捜査本部は、五人の唾液を採取した。科学捜査研究所は、二月三日には五人の血液型を割り出し、六日には捜査本部に電話連絡していた。
「ここを見て下さい」
平栗弁護士は、「検査処理票」のコピーの備考欄を示した。
「1/25(木)捜査本部にTELし済 PM1・00」とあった。
五人の逮捕は一月二十七日だ。備考欄の日付は逮捕二日前の二十五日に、遺体に残っていた唾液の血液型が捜査本部に連絡されたことを示していた。捜査本部は、五人を逮捕する前に、犯人の血液型はA型と知っていた。
しかも、逮捕後、それが五人と一致しないことも知っていた。
それでも、いったん五人を自供させた捜査本部はこの矛盾を無視して、相互に矛盾し、変転する“自供”をとり続けた。
小山の乳房の傷あとから、当然、五人の誰かが乳房をなめたり、噛んだりした供述が必要になってくる。それを無視すると、犯行の態様と供述が一致しなくなる。
確かに、供述はとってあった。
植月の供述調書である。
「小池が女の両方のオッパイや胸のあたりを自分の口で何回も吸いまくっておりました」(二月三日付)
「佐藤が最初、手で触ったりした後、やはり女の人の乳をつかんだり、乳に口をもっていってなめたり、かんだりしているようでした」(二月九日付)
中谷や小池の供述にもある。
「乳を吸ったりしながら乱暴しました」(中谷、二月十三日付)
「女を乱暴した後、五人で女の乳房をなめたり、触ったりして女を散々、 弄 (もてあそ)びました」(小池)
供述は、いずれも五人の血液型について捜査本部が科学捜査研究所から電話報告を受けた二月三日以後になされている。
この血液型が合わない者の“自白”という重大な矛盾を捜査本部は、どう理解していたのだろうか。資料はない。
しかも、これこそ重要な「秘密の暴露」にあたる部分なのに、供述は極めて少ない。結局、五人の誰が小山の乳房を傷つけたのかも明らかになっていない。捜査の常道からは考えられないことだった。
平栗弁護士らは、「検査処理票」の疑問をすでに、控訴趣意書の補充書という形で、大阪高裁刑事一部に提出していた。
私たちにも「検査処理票」は控訴した四人の無罪を立証する決定的な証拠に思えた。
“自白”にウソがあることも納得はできた。血液型の不一致もはっきりと浮かび上がってきた。しかし、私たちは、これらの材料をもとに「五人は無実」と記事にするのは控えた。
アリバイの疑問が残っていたからだ。
第五章 アリバイ証人を見つけた
脅迫されたアリバイ証人
昭和五十九年のゴールデンウイーク。大川一夫弁護士は、かつての城下町、大阪府岸和田市に足を運んでいた。
アリバイの調査だった。
事件当日、五十四年一月二十一日の五人の行動を整理すると、岩槻、植月グループと、中谷、小池、佐藤グループの二つに分かれる。
まず、岩槻グループである。
午後六時四十五分 岩槻が南海本線貝塚駅前の喫茶店「水車」へ。森明子ら女友達三人と合流。
同八時 中谷、佐藤、植月が「水車」に来る。
同十時前 岩槻、中谷、佐藤、植月の四人が「水車」を出る。
同十時三十分―四十五分 岩槻、植月が南海電車で羽倉崎駅近くの平井のアパートへ。アパートには平井夫婦がいた。平井宅で岩槻は、二十二日午前零時二十分から始まったテレビのディスコ番組を見た。
次に「水車」で岩槻、植月と別れた中谷グループの行動である。
午後十時すぎ 南海本線岸和田駅で、小池が中谷、佐藤の二人と森ら女友達二人、遊び友達の鈴木一、大山朋之と合流。
同十一時 七人はタクシー二台に分乗して岸和田市内の「門前の家」へ。二十二日午前三時ごろまで酒宴。
こうして見ると、検察側が主張する犯行時刻には、岩槻グループには平井夫婦、中谷グループには鈴木、大山と二人の女友達のアリバイ証人がいることになる。
平井、鈴木らは五人が逮捕された直後、捜査本部にアリバイを証言していた。ところが、捜査本部は、平井を証拠湮滅容疑で逮捕するという異例の挙に出、平井は証言を変更した。当時、十八歳の少年だった鈴木は逮捕されなかったものの、これまた証言を引っ込めたのだった。
平井は大阪地裁堺支部の法廷で、「岩槻らが来たのは二十二日午前一時すぎだった」と証言した。これなら犯行後の時刻にあたる。被告五人には不利な証言だった。
捜査本部に逮捕されたあとの取り調べでは「岩槻から午後十時すぎに来たことにしてくれ」とアリバイ工作されたことまで供述していた。
鈴木も、一審の法廷で中谷らと酒を飲んだのは、事件当日の二十一日ではなく、ちょうど一週間前の一月十四日だったと、証言していた。
大川弁護士の岸和田行きは、鈴木に会って一審証言が真実なのかを確認するためだった。「被告人らの自供がウソなら鈴木の証言も無理やりさせられたおそれがある」と重大な疑問を持っていた。
事前に「会いたい」と手紙を出したが、返事は来なかった。「押しかけるしかない」と、すでに二回、岸和田まで来たが、二回とも自宅には誰もいなかった。
三回目の訪問で、やっと母親(四十七歳)が顔をのぞかせた。名刺を差し出したとたん、用件も切り出さないのに、母親は言った。
「今さら、あの子らどうにもならへんでしょう」
泉州なまりが混じる母親の言葉には、力がなかった。いったん判決を受けると、それで刑が確定すると思い込んでいるフシがあった。三審制という日本の裁判の仕組みを十分に理解していなかった。
大川弁護士は説明した。
「そうではないんです。無実を訴えて裁判は続いています。真実を話して頂ければ、あの子らの無罪は証明できるのです。本当のことを言ってください」
弁護士としての最大限の良心をぶつけた。
しばらくの沈黙のあと、母親が答えた。
「息子は(一審の)証言のあと、『しゃあないわ。警察、怖いし』とか『ウソ言うたから(被告らが刑務所から)出てきよったら、殺されるかもしれん』と言うてました」
鈴木の一審証言は偽証だったことが明らかになった。
数日後、大川弁護士はやっと鈴木本人に会うことができた。しかし、鈴木の口は重かった。
「本当のこと言うたら、また、警察に引っ張られるんじゃないの」
しきりに警察への恐怖を口にした。
大川弁護士は懸命に説明した。そんな心配は一切ない、と。すると、鈴木は予想外のことを口にした。
「警察で『一緒にいました』言うたら、『お前も共犯や、犯人や』言うて、しゃべらしてくれんかった。乱暴も受けた。警察が怖かった。今でも怖い」
捜査本部は容疑者に対してだけでなく、参考人に対しても容疑者同様の苛酷な取り調べをしていたのだった。
「何ということを」
大川弁護士は怒りとともに、悔しさを感じていた。
「良心の証言」
環直彌(たまきなおや)裁判長が訴訟指揮する大阪高裁刑事一部での控訴審は、すでに三回の審理を終えていた。
五十九年五月十七日午後二時から一〇〇一号法廷で開かれた第四回公判に鈴木一が弁護側証人として出廷した。
細身で、長身の鈴木は白シャツ、黒ズボンという質素な服装だった。
傍聴者は、これまで三回の公判でもそうだったように、私たち以外に小池らの家族、親類の六人だけだった。冤罪主張の重大事件にしては寂しい法廷風景だった。六人は傍聴席の奥にひっそりと肩を寄せ合っていた。
環裁判長が型通りに鈴木の氏名、年齢、住所を質問し、鈴木が証人宣誓書を読みあげると、大川弁護士が立った。
――五十四年一月二十一日の事件は知っていますね。当時はどこにいましたか。
「岸和田市の『門前の家』にいて酒を飲みました。小池と中谷と佐藤と大山とほかに女の子が二人いて、全部で七人でした。
十時ごろ、小池と会って『久しぶりに会ったから酒を飲もうか』という話になり、小池と大山が酒を買いに行きました。ひと晩中、飲んでいて、その途中、誰も席をはずしませんでした。
小池が逮捕されたことは(逮捕の)四、五日後、女の子から聞きました。
このころは『すぐにもどってくるやろう』と深く考えていませんでした。
一緒に酒を飲んだのは二十一日だったということは、はっきり、覚えています。なぜなら、警察や裁判所へ行ってウソを言ったことを覚えているからです」
――なぜ、ウソをついたんですか。
「警察が怖かったのです。事件の二週間後ぐらいに呼び出されて貝塚署へ行きました。午前八時ごろから午後の四、五時ごろまで四、五人から調べられました。
調べはきつかった。頭をどつかれたり、いすに座っていたら、いすごと放り投げられたりしました。
『一緒にいました』と言うたら「お前も共犯や、犯人や』と言われて、しゃべらしてくれなかったんです」
――なぜ、裁判所でもウソをついたのですか。
「勇気がなかったのです。警察が怖かったし。裁判所でもウソを言うのがつらかったから、証人として裁判所から呼び出されて、裁判所の前まで来て、逃げて帰ったこともありました。結局、ウソと知って証言しました」
――ウソの証言をしてどう思いましたか。
「みんなに悪いことをしたと、そればっかりでした」
――今、本当のことを言うのは、なぜですか。
「五年間、頭からこのことが離れなかったのです。五年もたっていますが、もし、皆に許してもらえるのなら本当のことを言います。母からこの五年間で人が変わったみたい、とも言われました。
アリバイを知っているもう一人、大山がどこにいるか知りません。警察が怖くて逃げているのかもしれません」
傍聴席は、静まりかえっていた。六人は目頭を押さえていた。被告席の四人は、じっと鈴木のうしろ姿を見つめていた。私たちはそれを「良心の証言」と、聞いた。
事実が法廷でやっと明らかになった。
傍聴席の六人の胸には「なんで一審で証言してくれなかったのか」という思いはなかったはずだ。鈴木が五年間、警察を恐れ、苦しみ、悩んでいたことが、この日の証言態度ではっきりしたからだ。私たちは「これでいいんだ」と、胸を熱くしながらメモ帳を埋めていた。
平栗、山本弁護士の補充尋問のあと、検察官が反対尋問を行なった。
――一審で、なぜ、酒を飲んだのは一月十四日と言ったんだ。
「警察からそう言われたからです」
――裁判所でウソをついたら罰せられるのは知っているな。
「それは承知でウソをついたんです」
――平気でウソを言うのか。
「警察が怖かったからです」
――今でも警察は怖いか。
「怖い」
――なぜ、今日はウソをつかないのか。
「五年間、ウソをついたことで、後悔しているからです」
検事の口調は鋭かった。わざと感情をさかなでするような質問もあったが、鈴木はひるむことなく答えた。
被告席の四人の目にもう怒りはなかった。一審で検察側のアリバイ崩しに沿う証言をした鈴木が、一審証言は偽証、と今明らかにしたのだ。弁護人席の平栗弁護士は、うなずいていた。山本弁護士は腕を組み、天井をにらんでいた。
小池、中谷、佐藤のアリバイは証言された。環裁判長も、ぐっと上体を乗り出して証言を聞いていた。
二時間の審理を終えたあと、法廷前の廊下で被告の家族ら六人は鈴木を囲んですすり泣いていた。感情に流されまいとしていた私たちも抗し切れなかった。
この日、弁護団は鈴木証言を補強するため、もう一人のアリバイ証人を申請した。
検察官は「すでに一審で調べているから」と、不要意見を述べたが、環裁判長は次回の六月十二日の公判に職権で呼び出すことを決定した。
しかし、その証人は裁判所には姿を見せなかった。
裁判所とは別に、平栗弁護士も手紙で出頭を要請し、自宅にも二回、面会に行った。それでも結局、出頭に応じなかったのだ。第五回公判は三十分で閉廷した。
「仕方ありませんよ。鈴木の証言でもわかるように、みんな警察に痛められて、心に深い傷を残しているんですから」
平栗弁護士は話した。
私たちも同じ暗い思いだった。真実を証言するということは、それほど人を苦痛に追いやるものなのか。小池らのアリバイは、鈴木の証言だけでも十分だった。
検察側が描き、一審判決が認定した「犯罪の構図」は崩れた。「冤罪の構図」が浮き彫りになった。私たちはそう判断した。
泣き寝入りはさせない
ここで四人の経歴や家庭環境に簡単に触れておきたい。そこに、この事件のもうひとつの特徴があるからだ。
岩槻邦男は宮崎県で、季節労働者の父親の長男として生まれ、小学三年まで宮崎で暮らした。その後、父親が静岡県の製紙会社に勤めたため家族とともに引っ越した。中学卒業の間際、大阪府に移り、卒業後、工員となったが、三ヵ月で辞めた。配管工、アルバイト店員などを転々とした。どれも長続きせず、逮捕される一年前くらいからぶらぶらと暮らしていた。生活は貧しかった。
中谷哲二は岩槻と似たような環境に育ち、中学卒業後は、工員、左官見習いなどを経てトラック運転手の助手をしていた。
小池久也は母親と兄の三人家族。父親は小学三年ごろ、病死した。中学卒業後、鉄工所の手伝いをしたりしたが、当時は無職で、一家の生活は母親が支えていた。
佐藤俊一は長崎で生まれた。中学卒業後、大阪市内で工員、コック見習いなどをしていたが、当時は家出中だった。
一方、被害者の小山喜子は、兵庫県の女子高を卒業、貿易商社に一年勤め、デパート店員になった。その後、喫茶店員になり、そこで知り合ったバーテンと結婚したが、一ヵ月で別れた。さらに、ミニサロンのホステスとなり、高倉と内縁の関係となっていた。自宅は、現場近くの南海電鉄の土堤に柱を立てかけただけのバラックだった。事件直後に訪れた事件記者は、線香がテーブル代わりのミカン箱の上に立てられているのを見ていた。遺影は、新聞の顔写真を切り抜いて置いてあった。
岩槻ら四人はいずれも恵まれた家庭とはいえなかった。社会から一歩、引き下がったような生活だった。小池が私たちに送ってきた最初の手紙で「ぬれぎぬを着せられた貧困な者、弱い者は権力に泣き寝入りするのは情けない次第です」と書いていたのは、自分たちの生活を彼なりにとらえての思いだった。
小山もまた、社会の片隅で、ひっそりと生きていた一人だった。OL、百貨店員、喫茶店員、ミニサロンのホステスと職業を転々、高倉との生活にほんのわずかな安穏を見つけていた。将来にどんな希望を持っていたのだろうか。
日本社会の繁栄のレールからずれたところに、加害者として裁かれる岩槻らも、被害者の小山もいた。無知、貧困の悲しさ、と口で言うのは易かった。
しかし、それを知ったからには、社会の片隅で起きた事件として忘却の流れにまかせておくことはできない。私たちは事実を読者に伝えるべき時期が迫ってきた、と判断した。いつも傍聴席に姿を見せる六人は「せめて私たちだけはあなたたちの無実を信じているからね」という思いを公判に姿を見せることで四人に伝えていた。四人はそれを支えとしてあくまで「俺たちは、やっていない」と、訴え続けている。読者に伝えなければ――。
「四人の無罪が立証されれば、服役している植月も無罪ということになる。五人の冤罪を晴らすため、これまでの取材結果をまとめて記事にしよう」
私たちは決断した。
昭和五十九年六月十九日付の朝刊だった。小池からの手紙を受け取ってから二ヵ月余りがたっていた。
一面と社会面を書き分けた。
一面は、平栗弁護士が“発見”した「検査処理票」の疑問と、鈴木が控訴審で一審の証言は偽証と証言したことを中心にまとめた。
社会面では、血液型のナゾとともに現場に残っていた足跡、指紋が四人のものと一致しないこと、岩槻が小山から奪いとったとされるガマ口が捜査本部の捜索によっても近木川から発見されなかった、アリバイ証言が変転したことなど、他の多くの疑問点をまとめた。
原稿を受け取った社会部デスクは、さっと目を通し、しばらく原稿をにらみつけ、黙り込んだ。約十分間、原稿をにらみ続けていた。
「素人でも疑問を持ちそうなことが、何の詰めもなしに見逃されていたとは。調書の矛盾点についても一審判決がほとんど素通りしている。こんなひどい捜査と裁判があるのか。少年たちの素行から警察は予断を持ったのではないか。あり得ることだ。人間の生死にかかわる重大事が余りにも軽々しく扱われている」
殺人事件の発生当時に当番だったデスクは、事件を思い起こし、唖然とし、背筋の寒くなる恐怖すら覚えていた。
急に立ち上がり、数メートル離れた整理部デスクへ向かった。二言、三言、言葉を交わす。整理部デスクは決断が速かった。一面と社会面のトップにこの記事を置くことを決めた。
「いくぞっ」
社会部デスクは改めて、原稿を手元に引き寄せ、青のサインペンで直しを入れ始めた。
(一面)貝塚の元ホステス殺し
弁護側が新証拠
遺留血液型は別
実刑4被告 府警の検査票
友人もアリバイ認める
(社会面)“無実の叫び”深まるナゾ
物証なし 元ホステス殺し公判
一致しない足跡
アリバイ証人消える
見出しが躍った。一面と社会面のそれぞれ三分の二を埋めた。
スクープだったが、この記事の場合は心は重かった。私たちが「無罪だ」と主張しても、判断するのは裁判官である。検察側は有罪を証明する“隠し玉”を持っているのではないか。そんな不安も皆無ではなかった。何より新聞記事だけでは四人は自由の身になれない。そして、植月も獄中から出ることはできない。
環裁判長ら三人の裁判官がこの事件にどういう心証を持っているのかは、つかめない。「弁護団の主張」という形で被告らの無実を強くにおわせた記事だったが、検察側が今後、どう対応してくるのかもつかみ切れていなかった。あくまで、私たち司法記者が取材し、記者の経験と常識で判断すると一審・大阪地裁堺支部の有罪判決は「おかしい」と疑問を突きつけた記事だった。
大阪高裁の判決が、もし有罪と出れば、誤報だ、判断を誤った、とのそしりは免れない。
「その時は、それで修正すればいいではないか」
といった意見もなくはなかったが、私たちは、そんな考えは持っていなかった。環裁判長が一審判決を支持する判決を出せば、上告を勧め、一審、二審とも「おかしい」ということを記事にすることを心に決めていた。それぐらい、ひとつの事件にこだわる新聞記者がいてもいいではないか。そう慰め合って飲んだ酒は苦かった。
記事に対する大阪府警からの反応は、素早く司法ボックスに届いた。
他のマスコミがこれまで一顧だにしなかった事件だけに「読売は、何を狂ったんだ」「三百代言の弁護士に踊らされて」「五人は自供しているんだ」「あとで恥をかくぜ」など、冷やかなものばかりだった。日ごろ、親しくしている検事さえ「大変な特ダネだね。大丈夫?」と皮肉たっぷりだった。
私たちは黙って聞き流すしかなかった。
もう一人の証人は与論島に
小池、中谷、佐藤のアリバイ立証は終わった。次は、岩槻、植月のアリバイを立証しなければならない。
証明できるのは、平井夫婦の二人しかいない。
平井宗太は事件当夜、岩槻と植月が自分の部屋にいたとアリバイを供述し、捜査本部に証拠湮滅容疑で逮捕された。逮捕後は供述をひるがえし、アリバイは頼まれた、と言い直して釈放され、一審でも同じことを証言していた。泉佐野市羽倉崎のアパートは釈放されたあと、逃げるように引き払っていた。
私たちは平井を追った。
和歌山市へ移転していた。だが、そこにもすでにいなかった。
「奥さんの実家が与論島(鹿児島)と言ってたから、そっちへでも行ったのでは」
そんな話を聞き込んだ。読売新聞西部本社の鹿児島支局に調査を依頼したところ、回答は意外に早く数日後に届いた。
平井はうわさ通り、遠く与論島にいたのだった。
「五十五年ごろから住んでいる。平井は島外の人らしいが、島出身の妻と一緒に暮らしている。昨年までは二人で喫茶店を経営していた。最近はサトウキビ工場で働いているらしい。ここ一ヵ月間は夫婦そろって姿を見かけないが、また自宅に帰ってくるのではないか、と近所の人は言ってます」
地図を広げると、与論島は鹿児島港から南約五百キロ。大阪からはいかにも遠い。なぜ、そんな遠くまで……。事件の影響が無縁でないことは推測できた。
平栗弁護士は早速、平井に手紙を書いた。簡単な裁判の経過とともに、岩槻、植月のアリバイについて本当のことを話してほしい、と頼んだ。鈴木は控訴審で、一審での証言は偽証だったと告白したことも合わせてしたためた。
予想通り、返事はなかった。
「外れてもともと。とにかく、行ってみようじゃないか。遅い夏休みを取ったつもりで」
五十九年八月二十九日、平栗、大川弁護士の二人は大阪空港から与論島に飛んだ。三泊四日のツアー客に混じっての旅だった。機内は夏のレジャーを楽しもうとする人たちで満席で、背広姿の二人はいかにもちぐはぐに映ったそうだ。私たちは大阪で吉報を待つことにした。
平井の所在はすぐわかった。まだ喫茶店を経営していた。
予期しなかった弁護士の来島に、南の島の青年の雰囲気をすっかり身につけていた平井はいぶかし気な顔を見せた。鹿児島支局からの情報とはちがって、妻とは離婚していた。妻からは手紙が一回来たきりで、現在はどこにいるのか知らなかった。
「手紙は読みました。でも、あの事件は思い出したくないんです。もう裁判にかかわりたくないんです。役に立ちませんよ」
平井は裁判に関係することをかたくなに断わった。再び逮捕されることを恐れていた。平栗、大川弁護士は「自分の記憶通りに証言する限り、逮捕されることはない」と説明した。
二人は、その日、強引に説得することはしなかった。鈴木のケースであの事件がすべての関係者に深い傷を残していることを知っているからだった。
「あす、もう一度、お邪魔します。考えておいてください。お願いします」
そう言って別れた。
翌日、平井は考えを変えていた。「一審の供述はデタラメです」と口を切りだした。
「それでは証拠湮滅で逮捕された時の様子を話してくれませんか」
「逮捕されて二日間は岩槻と植月にはアリバイがある、一緒に自分のアパートに泊まったんだから、と言い続けました。警察は聞き入れてくれませんでした。妻と面会できませんでした。『意地張っとると勾留をのばす』と言われたんです。妻からも『供述を変えないと、警察はずっと(留置場から)出さないと言ってる』と、供述を変えるように言われました。ちょうど、妻の腹の中に子供がいた時期でした。供述を警察の言う通りに変えたら、妻と面会させてくれました」
平栗、大川弁護士の気持ちは暗かった。
「やはり、そうだったのか。警察は妊娠中の妻を道具にして脅していたのか。暴力による苦痛にもまさる精神的な苦痛だったろうに……」
弁護士は質問を続けた。
「釈放された時はどんなだったのですか」
「『誰かに聞かれても調書通りに、岩槻、植月が来たのは二十二日午前一時ごろだった、と言えよ。別のことをしゃべったら指名手配するぞ。懲役だぞ。罰金だぞ。証拠湮滅でまたパクる(逮捕する)ぞ』と言われました。その時は、本当にそうなると信じていました。だから、裁判所に呼び出された時もウソの証言をしたんです」
鈴木一もそうだったが、捜査本部は証人にまで手を回し、自分たちの見解を押しつけて、岩槻や小池らの訴えを否定したのか。
証人が裁判所で証言する時、必ず「本当のことを言います」と宣誓する。裁判官はその宣誓を信じる。
しかし、一審の法廷で、証言態度などから裁判官は平井や鈴木の証言に不審を抱かなかったのだろうか。もともと、真実を見抜こうという姿勢に欠けていたのではないか。一審は何のための裁判だったのだろうか。
「今日、話してくれたこと、裁判所でも話してくれますね」
平井はうなずいた。
帰阪した平栗弁護士らは、平井の証人調べを申請した。環裁判長は、十月三十日に福岡高裁那覇支部で出張尋問することを決定した。平井を大阪に呼び出すのでなく、裁判官三人がわざわざ那覇まで出かけるということに、この事件にかける環裁判長の意気込みがうかがえた。
私たちは出張尋問を取材することにした。一人が前日の日本航空911便で那覇に入った。
その日、平井は日焼けした顔、サーファーカット、グレーのジャケットに幅広のネクタイを締めて現われた。どこにでもいるごく普通の青年に見えたのが、軽い驚きだった。
法廷の被告席には岩槻一人が紺色のスポーツシャツ姿で座った。岩槻、植月関係のアリバイ証人だから、植月も控訴していれば、そこにいるはずだった。弁護人席には平栗、大川の二弁護士。裁判官席の環裁判長らは、出張尋問は公判でないため、法服ではなく背広姿だ。傍聴席は私たちのほかは検察事務官が一人いるだけだった。
予定よりやや遅れて午前十時九分、
「では、証人を調べます。平井さん――」
環裁判長が開始を告げた。平栗弁護士が質問に立った。
――昭和五十四年一月二十一日(事件当日)の夜、岩槻や植月があなたのアパートに来た時の様子を話してください。
「あの日はスーパーのニチイへ買い物に出かけ、夕方に帰って、そのまま寝てました。そのうち、岩槻らが来て起こされたんです。時間ははっきりしませんが、テレビ番組からすると、午後十時半すぎだったと思います」
明確なアリバイ証言だった。
なぜ、一審ではウソの証言をしたのかを問われ、平井は二ヵ月前、与論島で平栗弁護士らに話した内容を繰り返した。
――改めて、今日、ここで証言することについてはどう思いますか。
「真実をいつか言わなければならないと思っていました」
午前中の出張尋問は午後零時二十五分まで続けられ、休憩後、午後一時三十五分、再開された。
陪席の青野平(あおのたいら)裁判官が質問した。かんで含めるような口調だった。
――古いことなので忘れているかもしれませんが、記憶に基づいてだけ話してください。岩槻らが来ることは予想していましたか。
「していなかったです」
――岩槻はどういう知り合いと思っていましたか。
「おもろいやつだなあ、と」
――翌日、(事件のことが出ていた)夕刊は読みましたか。午前中の証言では、場所、時間までくわしいところまで読んだと言っていますが。
「新聞を読んだ記憶があります。その後、事件の話をしたと思います」
事件の翌日に平井宅で事件のことが話題になった、という岩槻の供述が残っている。新聞記事をもとにして話をしたのなら問題はないが、新聞を読む前に事件の内容を知っていた場合「なぜ、知っている」という疑問が当然、生まれる。青野裁判官はその点を解明しておきたかったらしい。
最後に環裁判長が質問した。
――岩槻がおかしい、ということをちらっとでも思ったことはありますか。(岩槻が逮捕されたのは)全く、寝耳に水だったのですか。犯人であると考えたことはないですか。
「びっくりしました」
出張尋問は午後二時十九分、終わった。
平井は法廷を出る岩槻をじっと見つめていた。岩槻はそれに答えてこくん、とうなずいたように見えた。
私たちは平井とともに裁判所前の小さな喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。平栗弁護士が「ご苦労さんでした」と平井にねぎらいの言葉をかけると、平井の目が潤んだ。
「久し振りに岩槻を見て、どうでしたか」
「うん、あいつ、やせたなあ。あのころはもっと太っていて、髪はパーマをかけていたし。苦労したんだな」
平井はこう表現するのが精一杯だった。「苦労したんだな」という言葉の中には「この五年間、お互いに」という意味が含まれているようだった。一人は塀の中につながれ、一人はかつての自分の姿を消すかのように住所を変え、妻子とも別れて……。この事件の取材は気持ちを重たくさせることばかりだ。
友を裏切った苦しさ
大阪高裁での公判はほぼ一ヵ月に一回のペースで開かれた。公判の進行とは前後するが、もう一人のアリバイ証人の記録を続ける。
私たちは、大山朋之を追っていた。事件当夜、岸和田市内の「門前の家」で一緒に酒を飲んでいた一人だ。当時は十八歳。鈴木一とともに小池、中谷、佐藤のアリバイを語れる証人だ。小池、佐藤の二人とは小学校以来の幼な友達だった。
大山もまた、五人が逮捕されたあとアリバイを主張していた。しかし、捜査本部では、逆の調書が作られた。調書は一審有罪の証拠のひとつにもなった。その大山は五十四年三月以降、ぷっつりと行方を断っていた。
平栗弁護士らの調査でも、私たちの取材でも、どこに住んでいるのかはつかめなかった。
実家には時たま電話をかけてきていたが、母親が居どころを聞くと、電話は切れた。
私たちは実家や親類にもし電話があったら、住所を聞かなくてもいいから、私たちが是非とも会いたがっている、とだけ伝えてほしい、と頼んでいた。
電話を頼んでから数週間たった五十九年十一月二十六日の昼過ぎだった。社会部の電話が鳴った。
「私です。大山と言います」
名指しされた私たちの一人が出ると、何かを決意したかのように、大山は名を告げた。
「会おう、とにかく会おう。場所と時間を指定してほしい」
私たちは勢いこんだ。
「今日の午後五時半。京都の京阪電車四条駅前の喫茶店『ケニア』にいます」
大山は、そう指定した。
「ケニア」には大山が先に来て、待っていた。捜さなくてもすぐわかった。モスグリーンのブルゾンにパーマ頭。
こちらは控訴審のスクラップを持って行ったが、大山には見せなかった。ある種の予断を持って話をされたら困ると思ったからだ。なるべく、真っさらの状態で大山の気持ちを引き出したかった。
大山は一気に、五十四年二月二十三日、貝塚署で取り調べを受けたときの様子を話し始めた。その前日、自宅に刑事が来て、
「あす、ちょっと署に顔出してくれ」
と言った。大山は二十三日午前九時ごろ、貝塚署に行った。
「小池たちにはアリバイがあることを説明するつもりだったんです」
それは、大山のとんでもない思い違いだった。捜査員は道場みたいなところに連れて行き、正座を命じた。ひざを崩すと、横から押されたりした。
「お前ら、ウソついとるらしいな。ええ加減なことを言うな。言いたいことがあれば、言うてみい」
と、一喝した。
大山は小池、中谷、佐藤らとの行動を説明した。
「そうとは違うやろ。うそついたらお前も一緒や。五人も六人も変わらん。今、検事に連絡したから、もうすぐ来る。逮捕状を請求する。弁護士や親に頼まれて、アリバイがあるとウソついとるんやろう。金はなんぼもろうたんや」
捜査員はまくし立て、小池の“自供調書”を見せた。
「あいつ、やってへんのに、なんで言っとるのかなあ。無理に言わされとるんやな」
と、大山は感じた。捜査員は大山の持病のゼンソクを責めてきた。
「留置場は寒いぞ。何日でも入れたろか」
就職したばかりの兄にも触れ「兄貴も働けんようになるな」とも言った。
とうとう、アリバイを否定する供述をしてしまった。
「もうあと戻りできんな。友達を裏切ってしまって顔を合わせることができん。もうまともに生きていかれへん。親が死んでも大阪に帰られへん。でも、自分一人ではどうにもならん」
「自分が犯人にされてもおかしくなかった」
大山は絶望的な気持ちになって、数日後、三万円だけ持って家を出た。
大阪で約二ヵ月間、働いて、東京に転勤になった。約一年後、大阪地裁堺支部から呼び出し状が届いた。手紙を握りつぶし、翌日、無断で会社を辞めた。法廷の友達の前で、さらに裏切りの証言をするのが怖かった。
流転の旅が始まった。もう実家に住所を連絡することはやめた。
五十五年五月 静岡
〃 十月 名古屋
〃 十二月 岐阜
五十六年一月 福岡
〃 二月 京都
〃 八月 東京
五十八年四月 京都
調理師見習い、マージャン店員、サウナのボーイ……。仕事も転々とした。どこへ行っても、友達を裏切った思いが消えなかった。
二度目の京都で知り合って結婚した妻にも事情は話していなかった。今日、ここで私たちと会ったのは、子供が産まれて「本当のことを言わなければ」と、踏ん切りをつけたからだとも話した。
真摯な話しぶりだった。事件は、大山の人生まで狂わしている。私たちの気持ちは沈んだ。
テーブルのコーヒーは、ひと口も口をつけられないままだった。
「ありがとう。よく話してくれました」
私たちは頭を下げた。
別れぎわ、大山は迷いをふっ切るように「ぼくも法廷で証言します」と言った。青年の一途な純心さがあった。
大山は年が改まった六十年一月三十一日の第十一回公判で、証言台に立った。佐藤たちは大山を恨んでいなかった。
佐藤が手紙を寄こした。
「彼には本当の事を言ってくれたと感謝していますが、感謝しても感謝しきれない気持ちです」
一審の有罪判決はおかしい、と本格的な取材活動を始め、五人は無実と確信した私たちは、真犯人が現れてくれることを願った。冤罪であることを証明するには真犯人を見つけ出すのが早道である。真犯人に関する情報は社会部にいくつか寄せられたが、すぐに消えるものばかりだった。真犯人探しは、いかに取材努力を払っても報われる保証のないことだった。
それよりも、いま私たちがするべきことは、一審判決の矛盾点をひとつひとつ事実で突き崩し、被告らの無罪をもっと確かなものにしていくことだった。
第六章 無罪が見えてきた
「つらいから控訴はしない」
裁判の最大の疑問は、なぜ、植月が一審の懲役十年もの有罪判決を受けて、控訴せず、服役してしまったのか、だった。それは山本弁護士らも感じていた疑問だった。
他の四人の逮捕の引き金になった高倉への“犯行告白”と“告白血判書”は、なぜ、生まれたのか。捜査員でもない高倉に、なぜ、「違う」「いや」と言えなかったのか。どうしても解明しておかなければならない疑問。
これは、植月の育った家庭環境を無視しては理解できない問題だった。
事件当時、植月昇は七十歳の祖母、五十二歳の工員の父、兄、妹の五人暮らしだった。母親は植月が四歳の時に死亡し、父は再婚しなかったので、祖母が母親代わりだった。
生まれて間もなく病気で高熱を出し、以来、知能の発育が遅れた。四歳くらいまでほとんどものを言わなかった。小学校の成績はいつもビリで、人並みの勉強は続かなかった。体は健康だった。
逮捕後の大阪家庭裁判所堺支部の調査によると、国語の基礎学力が皆無に等しく、現実に対する把握が未熟で、安易だった、との記録がある。
幼い時の性格は「物事を注意すると、一週間くらいは注意を守るが、その後は忘れてしまう」「誘われたらいやと言わず、友達について一緒にやる」(祖母の供述)。
中学校に入ってからも、勉強の成績は一番下の方だった。担任の先生は「植月君は成績は全く良くないが、性格はおとなしく、みんなから好かれている」と評価していた。
中学卒業後、父と一緒に仕事をしたりしたが、どれも長続きしなかった。事件当時は鮮魚店の店員として働き、三千円の日給をもらっていた。休みの日にはパチンコをするか、喫茶店に行くぐらいだった。
「おとなしく気の良い、人に利用されやすい」
「気が弱くて自立心がなく万事に消極的で他人からの強要に対しても抵抗することがなく、唯々諾々と従うことが多かった」
「はい、いいえがはっきり言えず、自分の思ったことをうまく表現できない」
近所の人の植月評である。芳しい評判はほとんどなかった。
自己主張ができない植月の性格は一審の公判記録の随所に見られる。法廷という緊張した空気の中で、供述は、一層あいまいで表現力の貧弱なものになっている。
五十四年十一月三十日の第十回公判で検事から逮捕された時の様子を聞かれた。以下はそのやりとりである。
――君は今度の事件で、逮捕されて、警察や検察庁の調べを受けましたね。
「はい」
――その間に、何か、取り調べにあたった人から乱暴されたというようなことはありますか。
「はい」
――何べんぐらい、ありますか。
「もう毎日ぐらい」
――一番最初は、いつあったですか。
「捕まってから」
――捕まってから、どのぐらいしてから。
「捕まってから四日ぐらい」
――君が捕まったのは、何日か覚えている。
「一月の二十六日」(注 緊急逮捕は二十七日未明)
――そうすると、その乱暴があったとかいうのは、何日ということになるわけですか。
「捕まってからでも、された。どついたりされた」
――捕まってから四日ぐらいしてから、何かされたというんでしょう。
「はい」
――だから、二十六日に捕まったんなら何日になるかということを聞いているんですが。
「三十日ぐらい」
――三十日ごろに、どんなことをされたんですか。
「やっぱり、どついたり」
――どんなことをして。
「いろいろ、やっぱり、髪の毛、引っ張ったり……、顔をどついたり……」
――どついたというのは、どんなことをされた。
「服、持って……」
――どうされた。
「で、ここら……」
――顔、たたかれたというの。
「はい」
――誰がしたというの。
「警察」
――誰が。
「…………」
――警察官の名前はわかりますか。
「名前、わからへん」
――どんな人やった。年とか体とか。
「年は四十歳か……」
――体は。
「普通ぐらい」
――何か特徴はないですか。眼鏡をかけているとか、やせているとか、何かないの。
「眼鏡かけとった」
――名前、全然わからんの。
「はい」
――一月三十日ごろ。
「はい」
――それは警察官ですか。
「はい」
答えはおよそ、内容のある問答になっていない。理詰めの質問に、植月は思っていることを理路整然と説明することができなかったのである。検事が事前に植月の性格などを調べていたなら、また、真に被告の言い分を聞き出す姿勢があったなら、質問方法を変えていただろう。いや、逆にわざと答えにくい質問を選んだのかもしれなかった。
そんな植月が、十三歳年上の「おっちゃん」と呼んでいた高倉に、風の音だけが聞こえる暗い海岸に連れ出され、「刃物を胸に突きつけられ『やったと言わんと殺すぞ』と脅された」(一審での供述)とすれば、植月は高倉の言いなりになったことが想像できた。
植月は裁判に明るい希望を持っていた。むしろ裁判を信じていた。平仮名しか書けなかった植月が四人にあてた手紙がその一端を示している。
「さいばんにけいさつがきてもこわがることはありません ぼくはじじつのことをゆいますので ぼくたちはなんでこんなことになったのかふしぎです しんぱいすることはありません べんごしさんはかならずたすけてくれる」(五十四年五月三十日)
ところが、一審判決は植月らの言い分を黙殺した。
「なんや、裁判所は、なんぼ言うてもわかってくれへんやんか」
祖母は、有罪判決を聞いて、「もう、あきらめ」と、言った。
「私があんたは何もしてないことを一番よく知っている。しかし、偉い人たちはわかってくれん」
と、罪に服することを勧めたのだった。無実なのに刑務所に行くことを承知しなければならない。常識の理解を超えた行動も植月の独得な性格から生まれていた。
植月は“おばあちゃん子”として育った。
祖母は孫の無実を信じ、拘置所での面会、裁判の傍聴に欠かさず通った。小柄な祖母は、腰を折り曲げ、不自由な足を引きずり、階段を一歩一歩のぼって、やって来た。大阪拘置所堺支所にいたころ、夏の炎天下、汗を流しながら、急な横断歩道橋を渡る姿は痛々しかった。面会しても交わす言葉は少なかったが、植月は誰よりも祖母を頼りにしていた。
その祖母が「あきらめ」と言った。祖母に反対してまで「控訴して無実を証明したい」と、言えただろうか。
植月は、罪を認めて刑に服したのではなかった。裁判に不信を感じ、不承不承、四人と別れたのだった。
五十九年九月十六日の控訴審第七回公判に、服役中の植月は、証人として出廷した。坊主頭、洗いざらした灰色の半そでシャツという受刑者スタイルで、刑務官に付き添われて姿を見せた。
環裁判長に名前を呼ばれると、背筋をピンとのばし、法廷内に響く大声で「はいっ」と答えた。刑務所暮らしのくせが身についているらしかった。
「いろんな人に聞かれているが、今日は、今、本当だなと思っていることを言ってくれればいいのです。これまで裁判所、検察官、警察官に言っているからでなく、今、考えている本当のことを言ってくれればいい。これが本当だと思うことを正直に言ってください」
環裁判長が異例の注意を与えた。平栗弁護士が立った。法廷は静まり返った。「大丈夫だろうか。ちゃんと証言できるだろうか」。傍聴席に不安がよぎった。
――犯行に加わったことで服役しているのですか。
「加わっていません」
――どうして控訴しなかったのですか。
「もう、つらかったから」
――実際の心境はどんなですか。
「控訴したかったです」
――正当な判決を受けたいと思うのが普通だと思うのですが。
「考えました」
――考えたけど、つらいからやめたのですか。
「はい」
――高倉春男とは知り合いですか。
「そんな知り合いではありません」
――(事件の前に)家に行ったことはありますか。
「ありません」
――高倉から疑われたのは、いつごろかわかりますか。
「…………」
――高倉から犯人じゃないかと疑われていると思ったのは、いつごろですか。
「…………」
――高倉の家に連れて行かれたのは、どういう理由なのかわかっていましたか。
「わからなかった」
――事件のこと、どういうふうに聞かれましたか。
「お前、やったやろう、て」
――何回もしつこく聞かれましたか。
「知りません、言うた」
――疑われている、と感じたね。どう思いました。
「なんで、疑われるんやろう、と」
――あとで、高倉から呼び出されたね。どういうことをされたの。
「殴られた。ナイフで脅かされた」
――なぜ。
「してません、言うたら」
――どう思いましたか。
「殺される、と思った」
――怖かった。
「はい」
――手帳に書いたね。
「はい」
――どういうことで書くようになったのですか。
「言われて」
――全部、あなたが書いたのですか。
「はい」
――脅されて、殺される、と思ったから、思いつきで書いたのですか。
「…………」
――岩槻邦男の名前はどうして出したのですか。
「殺されると思って、思いつきで」
――ナイフで脅されて、ハウスに連れ込む、と書いてありますが。
「高倉が言ったから」
――乱暴の順番まで書いていますが。
「思いつきで」
――警察から暴行を受けたことはありましたか。
「やったやろう、と」
――暴行受けて、やった、と言ったのですか。
「はい」
――調書は、なんで言えたのですか。具体的なことを言えたのですか。
「刑事から聞いた」
――警察の暴行はいつまで続いたのですか。
「鑑別所に行くまで」
――どういう時に、暴行受けたのですか。
「みんなと話が違う、と」
表現は稚(おさな)いが、植月にとって、生まれて初めての自己主張だったのではないか。被告席の四人は「おーっ」という表情を見せていた。約三十分の休憩後、法廷は再開した。平栗弁護士が再び質問した。
――高倉の家から帰って、泣いたそうですが、どうしてですか。
「犯人にされると思って」
――情けなくて泣いたのですか。
「はい」
弁護側の主尋問は、これだけだった。植月が控訴しなかった動機、高倉に犯行を“告白”したいきさつ、警察で暴行を受けて自供したことが裁判官の前で明らかになった。
続いて、検事が反対尋問を行なった。検事は、植月が描いた犯行現場などの図面を示しながら質問した。
――どういういきさつで描いたのか。
「刑事がまわりを描いた。刑事が下描きして、あとで真似して描いた」
弁護士の質問に対する答えと違って、聞き取れないほど小さな声。検事の質問は尋問のテクニックとして当然、植月が答えにくいこと、答えたくないことに的をしぼっている。環裁判長はたまらず「もう少し、大きい声で」と、緊張しきっている植月を促した。
――財布の形も描いているね。覚えているか。
「覚えていません。あてずっぽうで描いた」
――あんたは何でもあてずっぽうで描くのか。
「…………」
――高倉にナイフで脅された、と言ったが。
「包丁みたいな。三十センチぐらいの」
――いくつぐらい殴られたのか。
「六発ぐらい」
――高倉はそんなに殴ってないと言っているが。
「殴られました」
――警察にも、殴られたと言っているが、(犯行を)認めているんだろう。それなら、暴行を受けることはないと思うが。どんな時に殴られたのか。
「みんなと話が食い違う時」
――殺しの動機は、小山と顔見知りだったとなっているんだが。
「警察から知ってるんちゃうか、言われて」
――被害者に対して、どんなに思っているのか。
「何も思っていない」
――高倉に対して、何か考えているか。どんなに思っているか。
「腹が立つ」
――服役したのは、つらかったからと言っているが、どういうことなのか。
「未決で(拘置所に)入っているのがつらいから」
――今の方が楽なのか。
「はい」
天井の空調機の音が響いていた。検事の反対尋問は主尋問に対する植月の答えをぐらつかせることはできなかった。反対尋問が結果として何を狙ったのか、不明だった。むしろ、弁護側の質問を補充したように見えた。最後に青野裁判官が聞いた。
――学校の成績はどうだったのですか。
「一番、悪かったです」
――すればできたのですか。
「できません」
――被害者の顔は知っていたのですか。
「警察で写真、見せられた」
――手帳に書く時、殺されると、思った、と言いましたが。
「殴ったり、ナイフで脅されたから」
――よほどのことがないと殺さないと思うのですが。
「…………」
――やっていないと言っているが、犯人についてのうわさは聞いたことはありませんか。真犯人について聞いたことありませんか。
「聞いていない」
「実名報道でお願いします」
裁判官も何を聞き出したかったのか、傍聴席からは推測できなかった。植月の証言を聞いて数日後、四人から次々に「桜マーク」の手紙が私たちのもとに届いた。無罪への手応えを感じ取っていたのだろう。
その中から中谷からの手紙を紹介する。
「先日の公判では、植月が本当の事をちゃんと証言してくれましたのでホッとしました。
彼のことだから、又、アヤフヤなことしか言えないのではないかと、少し心配していましたが、本当によく頑張ってくれたと思います。
私達も控訴中で辛いですが、彼は彼なりに辛い思いをしていることも分りましたし、一人だけ控訴をせずに務めに行ってしまった事情も、直接、本人の口から聞いて納得しました。
今までは、私達を裏切ってケシカラン奴だと腹も立っていましたが、彼は彼なりに苦しんでいる様子も分りましたし、今は、そういった感情も薄らぎました。
願わくは、私達が無実を勝ち取ることが出来、その結果として、彼も救われることになれば、何よりだと思っています」
同じ部屋の人から本を借りて、格言をノートに写して勉強している、と書き加えていた。
小池は、
「植月昇が証人として出頭し“やってない”との真実の証言をしてくれ、本当に心嬉しく感じました。
此(こ)の時ほど無罪への手ごたえをガッチリ感じた事はありません。
真実の重みは何事にも変えがたく裁判長にもどうか此の重みを感じとってもらい正義と真実の判決を祈りたい気持ちです。
何とか此処迄こぎつける事が出来ましたのも読売新聞様の尽力のたまものと深く感謝して居(お)ります。
此れからも無罪の判決まで何とぞ紙面を通じてのバックアップをしていただく事が出来ましたならば此れ程心強いことはございません。
面会に訪ねてくれる母のすがたも日増しに年老いてゆく様で見るのも忍びない様な心境です。
一日も早く母そして兄と生活を共にする事の出来る様に一生懸命頑張りぬきます。
そして年老いた母を安心させてやりたい。
どうか応援して下さい。お願い申し上げます」
と、伝えてきた。
未成年の犯罪は、少年法の規定によって、新聞記事では原則として容疑者名を仮名とする。逮捕時だけでなく、成人した後の裁判、続報の時も同じ扱いにしている。私たちも逮捕された五人のうち四人は、AとかBという仮名で報道してきた。
ところが、小池は「実名で書いてほしい」と書いてきた。
「一つお願いがございます。
事件の起こった時は少年であっても今では成人になってしまいました。
今後の報道を差しつかえなければ実名でお願いしたいのです。
私は絶対に殺(や)っていません。少年の保護と云(い)う観点から仮名報道で扱われている事と思うのですが、現在の私は少年ではないし、殺ってもいない事に対して保護してもらう必要性が無いと思うのです。
私には一切差しつかえはありませんので、実名報道をして下さい。
それによって世の中の反響を直接、知りたいと思うのです。
何分、御検討の上、よろしくお願い致します」
勇気ある要求と思った。実名報道を迫る理由にも一理あった。しかし、小池だけを特別に実名にするわけにはいかない。私たちは、その後も人権報道の原則に従って報道を続けた。
それにしても、こんな形で無実を訴える小池の胸の内を考えると、何としても早く拘置所から出してやりたい、という思いがつのった。
希望あふれる四人の年賀状
弁護側が逆転無罪を目指す控訴審の公判は、序盤戦はアリバイ証人の涙の証言、消えた証人の出現など、明らかに弁護側の思惑通りに進んだ。環裁判長の意欲的な訴訟指揮もきわだった。傍聴席は相変わらず寂しかったが、中盤に入っても弁護側の攻勢は続いた。
五十九年九月二十日の第八回公判。涙のアリバイ証言をした鈴木一の母親が弁護側の証人として出廷した。弁護側は、鈴木の証言を一層、強固なものにしようという狙いだった。
母親は半年前、大川弁護士と初めて会った時「どうにもならんでしょう」と、もらした。今は「どうにかなる。どうにかしなければいけない」との思いを胸に秘めて証言台に立っていた。
大川弁護士は、五人が逮捕されたことを知った時の鈴木の家での態度を尋ねた。
「『小池は俺と一緒にいたのになんでやろう』と言ってました」
捜査本部で調べを受け、帰宅した時の態度も尋ねた。
「『誰でもあんなになってしまう』と警察を怖がっていました」
「あんなに」とは、すでに述べた、警察で苛酷な取り調べを受けたら耐え切れず、ウソの供述で虚構の世界に逃げ込んでしまうことを意味している。
一審での偽証について答えた。
「一度目、裁判所から呼び出された時は、証言せずに帰ってきました。『本当のこと言うたら警察が怖いし、ウソのこと言うたら小池らに申し訳ないし』と、言ってました。二度目に裁判所に行って、証言したあとは『ああ言わな(偽証しないと)、もう、しゃあないわ。警察、怖いし』と、言ってました。『連れ(小池らのこと)が出てきたら殺されるかもしれない』。そうも言ってました」
母親の証言は、慣れない法廷での緊張のためか、早口なうえ、小さい声だった。
が、鈴木は母親に率直な感情をもらしていたことはよくわかった。
弁護側の攻勢に対して、検察側は不首尾が目立った。
第九回公判は十一月二十二日に開かれた。
四人を大阪拘置所から連れてくる刑務官の制服が冬服に変わっていた。
この日、検察側は出張尋問で岩槻、植月のアリバイを証言した平井宗太の前妻を証人として尋問することにしていた。前妻は「(岩槻らは事件後の)午前一時すぎに来た」という供述調書を残しているからだ。平井宗太の出張尋問での証言を崩そうと、証人申請し採用されていた。
しかし、大阪高裁一〇〇一号法廷に前妻は現われなかった。
「呼び出し状は送ったが、兄の家を出て、帰ってきたあと、再び出て行って、所在不明です」
と、検事は環裁判長に報告した。
さらに、以前に証人採用されていた大阪府警科学捜査研究所の技官は入院中で来年一月までは出廷できなかった。
四人に気持ちのゆとりが出てきた。
中谷が私たちにあてた手紙である。
「前略。早いもので十月も今日で終わり、晩秋の季節となりました。娑婆(しやば)の方では、紅葉でにぎわうことでしょうが、私はその紅葉を見られなくなってから、これで六年目になろうとしています。美しい紅葉をこの目で見れる日は、一体、いつになるでしょうか。
その日の一日も早からんことを祈り、頑張って行きたいと思います」
いつもながら難しい漢字を混えて書いていた。辞書と首っ引きだったのだろう。
その“六度目”の正月が明けた。
四人は年賀状を送ってきた。
「新年明けましておめでとうございます。昨年は色々とお世話になり、誠に有難度(ありがと)うございました。新証拠が見つかったり、平井さん、鈴木君が法廷で本当の事を言って呉れたり、前途多難の中にも明りが見えて来た様な気がします。
その上、去年暮れには行方不明だった大山君が見つかり、今年一月三十一日の裁判で法廷に立ち、本当の事を言って呉れるとの事で私も喜んでいる次第です。今年は無事、無実を晴らして、一日も早く社会復帰をしたいものです」(佐藤)
「私に対する裁判の先行きが良くなって来る事が私も良くわかっておりますが、人間は誠実が勝つと心より祈っております。又、春になれば暖かくなると同様に私の公判も今後、私の為に一段と良い方向にと進んでくれますことを私は祈ります」(小池)
「おかげさまで私も新年を迎え、今年こそは希望の年でありますように念願しております。
幸い、暖かい正月で何か心までが暖かくなるような気持ちです」(岩槻)
“脅し”を否定する刑事
五年間の沈黙を破った大山のアリバイ証言を受けて六十年三月二十六日に開かれた第十二回公判から、検察側は反証を始めた。
検察側は大山を取り調べた大阪府警捜査一課の刑事を証人として呼んだ。取り調べでは大山らが言うような暴行などはなく、適切な捜査だったことを立証する予定だった。
――はじめ、(大山に)何を聞きましたか。
「名前、住所、被告人との関係です」
――大山は、はじめ「覚悟しろ」と言われた、と言っているんですが。
「そんなこと言った覚えはありません」
――何時までかかったのですか。
「(午後)二時すぎ。調書もできました」
――調書はいつから作り始めたのですか。
「(午前)十時すぎからです」
――どういうことを聞いたのですか。
「事件の概要を言うて、友人をかばうのもいいが、事件にはかかわり合いを持つな、と言いました」
――身分関係の次に、何を聞いたのですか。
「アリバイについてです。大山は初め、小池らにはアリバイがあると言ってたんですが、それは、女友達から『助けてほしい』と頼まれたからそう言ったということをです。それは実際は十四日の夜にみんなで酒を飲んだのを事件のあった二十一日に置きかえて、アリバイがある、と言ったことをです。アリバイがあると言ったのは実は違っていた、という供述は三十分ぐらいで変わったのです」
――大山は道場に連れて行かれた、と言っていますが、どうですか。
「そんなところでは調べたことないです」
――暴行を受けた、とも言ってますが。
「絶対、ありませんっ」
――正座させられて、乱暴された、と。それは午後二時ごろまで続いた、と言っているんですが。そんなことがあったのですか。
「ありません」
――調書は三時から作り始めた、と言っていますが。
「でたらめです。当日、宴会があったので、覚えている。もっと早かったです」
弁護側の反対尋問は、まず、大川弁護士が立った。
――取り調べできつい言葉は使っていませんか。
「参考人だから、(そんなことは)ありませんっ。大山は悪いことをしていないのだから」
――大山の体にさわったことはありませんか。
「ないっ。暴行はありません」
次は、平栗弁護士が立った。
――アリバイの供述が変わったきっかけは何でしたか。
「いろいろ諭(さと)して。本人が困っているようだったので。事件にかかわり合いを持つな、と諭したんです」
刑事の証言によると、大山は調べに対して、初めはほんの少しだけ友人のアリバイを述べたが、諭されると、すぐに供述を 翻 (ひるがえ)した。その間、刑事はきつい言葉などは一切、使わず体に触れることさえなかった。大山は非常に率直にアリバイ否定の供述を続け、調書もわずか四時間でできた。友人を裏切るかもしれない、偽証で一生、負い目を感じることになるかもわからない重大事について供述を変更したのは、あくまで「諭した」結果ということになる。
取り調べは容疑者や参考人によってまちまちだが、私たちの取材経験からすると、大山がくるりと供述を変えたというのは現実離れし、刑事の証言はいかにもできすぎていた。
逃避行を続けたうえ、人生の区切りをつけるため、友人を裏切ったことをわびながら行なった大山の証言とは、あまりにも落差がありすぎた。正と負、十と零の関係だった。被告席の四人は、刑事のうしろ姿に怒りの視線を送っていた。私たちも「刑事は本当のことを話していない」と、直感した。
それまでいらいらした表情で尋問を聞いていた環裁判長が質問した。
――取り調べ日誌をつけていますか。
「つけていません」
――アリバイ主張をメモしましたか。
「メモしましたが、今はありません」
――二十分や三十分で供述を変えた、というのは短かいと思うが。弁解をくわしく聞いていないのではないですか。説得ばかりしていたのではないですか。法廷でも(証言には)何時間もかかるのですよ。
「(説得ばかり)していませんっ」
環裁判長の質問は鋭かった。刑事が証言した「諭す」という言葉を「説得」と受け取っていた。皮肉にも聞こえた。明らかに刑事の証言に疑問を抱いていた。法廷を軽く見られた、と受け取ったのかもしれなかった。証言する刑事のほうもいら立った表情だった。
青野裁判官が続いた。
――大山は警察が怖くてウソを言った、と言っているのですが、穏やかな説得では供述は変わらないと思うのですが。供述が変わるのは何かあるのではないかと思うのが自然なのですが。(大山が)怖く思うようなことがあったのではないですか。
「わかりません」
――大山を怒鳴りつけたことはなかったのですか。
「なかったです」
青野裁判官も環裁判長と同じ心証を持ったようだ。刑事の証言は逆効果だった。言っていることと逆のことが現実にはあったのではないか、と思わせる証言だった。質問は、聞かずもがなのことで、刑事はすでに答えていた。裁判官は質問というより、感想をもらした、という印象を私たちは受けた。刑事は肩を怒らせて、法廷を出た。その背中に傍聴席の家族は怒りの視線を投げていた。
一審検事の証言に新たな怒り
捜査関係者の法廷でのかたくなな態度は、のちの法廷でも見られた。六十年七月十一日に開かれた第十五回公判に、五人を捜査、起訴し、大阪地裁堺支部での一審公判にも立ち会った立岩弘元検事(四十六歳)が検察側証人して出廷した。
「元」が付いたのは、一審公判の途中で退官し、弁護士に転じていたからだ。立岩弁護士は、背広のえりにつける弁護士バッジをはずしていた。この日の公判から大阪高検の担当は、これまでの山下松男検事が広島法務局長に転勤したのに伴い、能登哲也検事に代わった。
平井、鈴木、大山のアリバイ証言の信用性を否定しようというねらいだった。
能登検事は背広の上着をぬいで質問した。傍聴席には四人の家族と私たちのほかに、大阪府警の関係者が姿を見せるようになっていた。
――(鈴木、大山らの)供述調書の信用性についてどう判断しましたか。
「間違いないと思いました」
――(十四日に鈴木、大山が佐藤ら被告三人と酒を飲んだのを事件当夜の二十一日のことにすりかえたという話は)警察で作り上げてもできない話と思うが。
「すりかえの話は、その子がしゃべるまでわかりませんでした」
――鈴木、大山の調べで(警察に)指示した具体的なことはなんですか。
「佐藤が一時的にもアリバイを主張したので……」
――(被告らは)もっとアリバイの主張をすればいいのに。もっと明確にすればいいのにと思うのだが、小出しにしてすぐに引っ込めるというのは、どういうことなのか。
「アリバイ作りを頼んだので、ちょっと言うて、検事の様子をみてみようかと……」
十五分間の休憩後、大川弁護士が反対尋問した。
――(五人が)いつ、アリバイ工作したとの心証を持ちましたか。
「事件当日の夜でした」
――工作をしていたら、逮捕されてから(アリバイを)主張すればいいと思うのですが、しなかった。どうしてですか。
「くわしい打ち合わせをしないまま逮捕されたからではないかと思いました」
――鈴木や大山は警察と検察の違いがわかっていましたか。
「当然、わかっていたと思います」
――平井は控訴審で供述を変えたが、どう思いますか。
「誰かに頼まれたのではないかと思います」
――鈴木も変えていますが。
「ウソをついていると思う。そう思います」
――大山も初めて証言しているのですが。
「…………」
被告席の四人は怒った。傍聴席の家族も怒った。
「何を今さら。白々しい」「平井は頼まれた、だと、鈴木はウソをついている、だと。よくも言えたものだ。逮捕された五人どころか、家族や友人の一生まで目茶目茶にしておいて、何という言い草だ」。そんな思いがつきあげたに違いない。
小池は大阪拘置所に戻っても怒りは収まらなかった。早速「ウソ八百並べたものだ」と手紙を書いてきた。立岩元検事の証言の中に「検事調べの時、部屋には刑事はいなかった」と、あったことに腹を立てていた。
「いかにも本当らしい口ぶりでしたが、あそこまでウソを並べると後ろで聞いていていやになりました。他の三人も同様だと思いますが(元)検事が『警察を部屋の中に入れていません』というのは全くのウソです。
実際に私の時は刑事が部屋の中で、私と検事の会話を横で長椅子に座り、聞いていました。私は今でもはっきり記憶しております。他に色々とウソを並べておりましたが、聞く耳を持ちませんでした」
と、検事の部屋の図面まで描いていた。
小池が検事室にこだわって怒るのには理由があった。捜査本部で調べられたあと、検察官調書を作るため大阪地検堺支部に行く時、刑事は、必ず、「警察でしゃべったことと同じことをしゃべれよ」と、念を押した。違ったり、ずれたりしたことを検事の前で供述すると、警察に帰ってから「違うやないか」と怒鳴られたり、暴行を受けたりしたからだ。その痛みは六年余りたっても消えるものではなかった。
私たちも立岩証言は「おかしい」と感じていた。鈴木の涙ながらの証言態度や、大山が五年間、居所を転々としなければならなかった胸の内の苦しみを知っていたら、「頼まれたのではないか」「ウソをついていると思う」と言い切れただろうか。
立岩元検事は、警察の捜査に一点の疑いも抱かずに五人を捜査し、満々の自信を持って起訴したのだろうか。警察の捜査をなぞっただけではなかったのか。
一審公判が始まり、立ち会い検事となって、五人が次々と捜査段階の供述を覆し、無実を訴えるのを見ても、一切の疑問や不審を持たなかったのだろうか。完璧な裏付けを持って有罪立証へ向かったのだろうか。
かつての職場への遠慮、配慮もあったのだろう。それとも、五人を暴行殺人の犯人とする絶対的な根拠を持っているのだろうか。持っていたなら法廷で堂々と証言すべきではなかったか。
私たちの立岩証言に対する疑問は何ひとつ解明されなかった。
「仕方ないですよ」
同じ弁護士仲間の証言後、平栗弁護士は悲しそうにポツリともらした。それ以上、多くは語らなかった。
第七章 正月は悲しかった
四人は自ら無罪を訴えた
「逆転無罪」がしっかりと見えてきた控訴審の公判は、大阪府警の刑事が出廷した昭和六十年三月二十六日の第十二回公判から四人の被告人質問が始まった。公判は通常、被告人質問の開始以降、終局へ向かう。
これまで被告席で、いろいろな証人の発言を「そうだ」と納得したり、「冗談じゃない」と怒ったりして聞いていた四人が、自らの言葉で無罪を裁判所に訴える機会だ。
最初は、“主犯”とされた岩槻邦男だった。
平栗弁護士がいきなり核心から質問した。
――(被害者を脅したとされる)カッターナイフの図面を描いていますが、これはどういうことですか。
「刑事がカッターナイフと言ったのです」
――(ナイフのある)場所は。
「『(ナイフを)出せ、出せ』と言うたので、家にあるかもしれんと言うたのです」
――図面はどうですか。
「父が使っていたナイフを思い出して描きました。しかし、警察が押収したものと形が違っていました」
――(被害者から盗んだという)ガマ口を捨てた場所の近木川の写真がありますが。
「(警察が捜して)川から見つからなかったので、蹴られた。刑事は『オヤジの顔がつぶされた』と言ってました」
弁護側は質問をこれだけで終えた。しかし、十分だった。供述調書も、添付されている現場の見取図などの図面も、刑事の誘導で作られたことを立証した。警察がいったん“自供”させると、それに添う地図や図面を作ることは簡単なことだったろう。四人は捜査員の掌の中でもてあそばれていたのだった。
これに対して、検察側の反対尋問は、この日と五月二日に開かれた第十三回公判の二回にまたがり、合わせて二時間近く要した。
第十三回公判では、環裁判長は開廷と同時にスポーツシャツ姿の岩槻に、いすに座ったまま質問に答えてよい、との気配りを見せた。検事の質問は細部に及んだ。岩槻の口は重く、今さらなんで答えにくいことばかりを聞くという表情を見せていた。
――平井の家へ行ったのは何時か。
「(五十四年一月二十一日午後)十時半か十時四十分ぐらい」
――逮捕された時の供述は十時前と言っているんだが。
「そんなことは言ってません」
――平井の奥さんは食事を作ってくれたのか。
「作らなかった」
――二十一日夜は何か食べたのか。
「食事とコーヒー」
――逮捕されるまで新聞は何回、見たのか。
「一回だけ」
――新聞の写真にビニールハウスは載(の)っていたのか。
「載っていたような気がします」
――カッターナイフは佐藤俊一が使ったと言っているのだが、どうか。
「刑事にそう追及されました」
――サイフの絵はどうしたのか。
「刑事が言うたんです」
――なんで刑事がそんなことを知っているのか。
「知りません」
――平井に十時ごろに来たことにしてくれと頼んだことはあるのか。
「(時間を)確認したことはあります。『早かったなあ』と。正確な時間は言うたことはないです」
――平井から二回、金を借りているが、返す日は約束したのか。
「決めていませんでした」
――仲加奈美は誰と付き合っていたか。
「佐藤と」
――森明子と最初に会ったのはいつか。
「中一の時から顔を知っていました」
――明子が佐藤と付き合うようになったのはいつからか。
「知りません」
質問はあちこちに飛んだ。一体、何を聞き出したいのか。裁判所に何を訴えたいのか、つかめなかった。そんな質問で証人や被告を煙に巻いておいて、その中で唯一つ、ピシッと動かぬ発言を引き出す尋問テクニックもあるが、この場合がそうとは思えなかった。
被告人質問は、この日、佐藤俊一についても行われた。
大川弁護士の質問に対して、佐藤は、事件の起きた五十四年一月二十一日の行動を朝から時間を追って答えた。
一月二十七日未明に逮捕されてから“自供”するまでの様子は次のように答えた。
「殺人の説明を受けたのは午前十一時ぐらいでした。『やってない』と言いました。アリバイも話しました。刑事は『他にもやってることあるやろう』と問うてきました。『やってません、やってません』と答えました。そのうち、刑事が植月を調べ室に連れて来て『こいつがやったんやろう』と植月に聞いていました。植月は首をたてに振っていました。十二時ぐらいに“自白”しました。手錠はめられたまま調べられました。足を蹴られました。羽がい締めにされました。耳を引っ張られました。スリッパでたたかれました。“自白”後もどつかれました。『みんなと言っていることが違う』と言って、です。どう答えていいのかわからなくて想像で話したこともありました」
これまで私たちにあてた手紙で書いた通りの内容だった。
最後に「おやっ」と思わせることを口にした。
「(五十四年)二月十五日の最後の検事調べの時、本当のことを言いました。しかし、警察も検事も同じように思っていました」
そうだったのか。彼らは、警察官と検察官の区別がつかなかったのだ。ましてや、検察官調書と警察官調書に違いがあるなどとは思いもしなかったのだろう。
警察でウソの自供をさせられても、検察官の前で本当のことを供述すれば、ウソの自供を撤回できる、という知識はなかった。
それまでの取り調べでは、警察から「検事の前でも同じことを話せよ。そうしなかったら承知しないぞ」と、厳しく言われていた。違うことをしゃべった場合、警察に帰ってから何が待っているか。それを思うと、言いしれぬ恐怖に襲われた。だから警察が命ずるままウソの自供を検察庁でも繰り返していたのか。
佐藤が「警察も検事も同じように思っていた」と振り返っているところを見ると、のちには両者の区別がわかったようだ。しかし、所詮、同じ、自分たちを犯罪者に仕立てる人間としか映らなかった。検事に言っても仕方ないわ、という気持ちが強く働いて、強く「自白はウソです」と言えなかったのだ。
逮捕された五人は、岩槻を除いて四人とも十八歳の少年だった。しかも、中学卒業で社会に出ており、高等教育を受ける機会はなかった。
世間からほめられるような日常生活はしておらず、社会的常識を身につけていたとは思われない。法律知識はゼロに等しかったに違いない。
刑事も検事も同じ、区別がつかないのは当然だ。だから「検事の前でも同じように話せ」と言われて、それに従ったのだろう。暴行に対する恐怖とともに、自白を求める捜査員の術中にたやすくはまったに違いない。
無知の悲劇だった。
佐藤に対する検察側の反対尋問は、六十年五月十六日の第十四回公判で行われた。
他の四人と知り合った時期、殺人事件が起きるまでの行動を質問した程度で、見るべきものはなかった。
私たちは、五十九年六月十九日付朝刊で、「弁護側が新証拠を提出、遺留血液型は別」と報道してから、公判の動きはどんなささいなことでも記事にすることを基本姿勢としてきた。
しかし、被告人質問に入ってからは内容の大筋はすべて報道ずみだったから記事にはしなかった。ノートにメモすることも少なくなった。
小池がそれを心配してきた。
「前回までは翌日にその日の裁判の記事が記載されておりました。今日の朝刊に目を通しますと記事が載ってない事に、もしや、皆様の御身体の調子が良くない為に御仕事をする事ができず、記事は載らなかったのではなどと一人考え、心配しております。
今回の様な事は初めてですので心配しておりますので、宜しければ御便り貰えれば幸いに思います。
毎日、大変でしょうが呉々も御身体には充分御気を付けて下さい。
皆様が現在の私の心のささえです。
最後の最後まで宜しくお願い致します。
敬具」
私たちは苦笑した。早速、理由を書いた返事を出した。
検察の“隠し玉”はなかった
六十年八月、日航ジャンボ機墜落という大惨事が起き、世間は騒然としていたが、大阪高裁刑事一部では淡々と「無罪を証明する」審理が続いていた。
このころには「今日の法廷では何が飛び出すか」といった一種の期待感やおそれは薄くなってきていた。
「もういい、早く無罪判決を出してほしい」
というのが、五人と私たちの率直な気持ちといえた。
環裁判長は明らかに審理を急いでいた。
弁護側の被告人質問が終わった日、環裁判長が発言した。
「十一月いっぱいで結審したいと思います。検察官、弁護人とも弁論準備を進めてほしいと思います」
環裁判長は翌六十一年の二月二日に定年退官の予定だ。すでに、シロ、クロの心証はできあがり、退官前に判決を言い渡す考えを示唆していた。弁護側は無罪の確信をさらに深めた。
六十年十一月五日、第十八回公判。佐藤に対する反対尋問が行なわれた。検察の尋問もこれが最後だ。
実はこれまでもそうだったが、検察官が反対尋問をする時、私たちは決まって腹具合がおかしくなった。検察側から“爆弾質問”が出やしないか、“隠し玉”が飛び出しやしないか、という思いがふっ切れなかったからだ。
もう検察の“隠し玉”に対するおそれはほとんど抱かなくなっていたとはいえ、万一、ということがある。
五人の無実を私たちが少しでも疑っていたからではない。たとえば、何かの拍子に小山喜子のものと思われるガマ口が近木川下流で発見される――植月や岩槻があてずっぽうで描いた調書の絵にそっくりな緑のガマ口が仮に出現したら、裁判官はどんな心証をもつだろう。そんな悪夢のような運命のいたずらで、無実の罪に苦しむ例だってあるのだからと思うと、腹具合に変調をきたすことになるのだ。
この日の前夜もそうだった。が、それは杞憂だった。
検察側の立ち会いは、能登検事に丸谷日出男(まるたにひでお)検事が加わり、佐藤に対する反対尋問をした。
能登検事は、事件が起きた翌日の一月二十二日の佐藤らの行動を尋ねた。顔を合わせた岩槻、小池、植月、平井、森明子ら計十人について、一人一人の持ち物を順番に質問した。
平栗弁護士らは、
「何を立証しようとするのかな」
と、頭をひねっていた。傍聴席の私たちにもわからなかった。
続いて丸谷検事は、佐藤からの答えは期待していないかのように検察官に対する数通の自供調書を示しながら一方的に質問を重ねた。
――相当くわしい調書だが、どうしてできたのか。自分から素直に言わないとできないはずだが……。自発的にスラスラしゃべったからできたのではないのか。
「…………」
――途中で(被害者の首から)手を離したとあるのは、少しでも自分の罪を軽くしようと思って言ったのではないのか。
「…………」
――他の調書に比べてかなりくわしく言っている部分がたくさんあるが、自分から進んで言ったのではないのか。
「違います」
――検察官に反抗したり、アリバイを主張したことはあったのか。
「なかった」
――乱暴の順番は記憶した通りに言ったのではないのか。
「違います」
――検察官調書には警察で言っていることよりはるかにくわしくなっているが、自分から進んで言ったのではないのか。
「違います」
――図面があるが。
「検事の前で描いた記憶はない。警察で何枚も描かされた」
「調書の任意性の立証か。警察官調書はともかく、少なくとも検察官調書は警察官の暴行、誘導によるものではない、ということか」と私たちは、尋問の意図をあれこれ推測していた。尋問は“隠し玉”とはほど遠い内容に終始した。
事実審理最後の十一月十四日の公判では、小池と岩槻への反対尋問が簡単に行われ、閉廷した。
「僕たちは、やってないっ」
四人は、それぞれの言葉で無実を訴え続けた。傍聴席にいた七人の家族らは、ほっとした表情を見せていた。
この日、大阪では低気圧の接近で、北東の冷たい風が吹いていた。
「そうだ、君たちは、やっていない。よくわかった。これで無罪が出なかったら日本の裁判は本当にどうかしているよ。もう少しの辛抱だ。それにしてもどうしてこんなことに」
私たちは肩をすぼめながら考えていた。
「明々白々の無罪」を主張
検察、弁護側双方がこれまでの公判で明らかになった証拠を集大成し、その主張の正当性を訴える最終弁論は、環裁判長の希望通り、六十年十二月十二日午後四時から行われた。五十九年二月一日の控訴審初公判から数えてちょうど二十回目の公判だった。
中谷は青のジャンパー、小池は白のセーター、岩槻は黒いセーター、佐藤は白のダウンジャケット。それぞれ、冬装束に身を固めて出廷した。傍聴席の家族に目礼したり、笑顔を送ったりする余裕を見せていた。
最終弁論はわずか八分で終わった。検察、弁護側双方とも弁論要旨を法廷で朗読せず、裁判所に書面で提出した。
あっけない幕切れだった。手錠をかけられた四人は、何かもの足りなさそうに退廷、家族らも傍聴席から引きあげた。
平栗弁護士から受けとった五十二枚の最終弁論要旨は、真っ先に血液型の矛盾を指摘していた。
「乱暴事件のように、被害者の体内に犯人の体液が残されている場合、この血液型と被告人の血液型の符合が大きな判断要素となる。
ところが、被害者を解剖した四方鑑定人によれば、被害者の体内の血液型反応はすべてA型であった。
被害者がA分泌型であるから、被害者自身の血液型も表われてくるのは当然である。
仮に被告人ら全員が乱暴しているとすれば、当然、被告人らが残した体液によりB型反応も含めたAB型も出てこなければならない。
ところが、被害者の体内からはA型しか出てこないことは、被告人らと犯行のかかわりを強く否定するものである」
さらに、被害者のオーバーの裏側についていた体液の血液型もA型、被害者の乳房についていた唾液もA型だったことを挙げ、
「犯人はA分泌型の血液型を持つ男と強く推定され、被告人らが犯人でないことを裏付ける決定的な決め手になる」
と、断じた。明解な論理だった。五人の誰とも血液型は合致しない以上、全員無罪は明らかだ、と主張しているのだ。
さらに、平栗弁護士は、現場検証で見つかった五十三個の足跡痕、三十六個の指掌紋がどれも被告のものと一致しなかったこと、現場付近を歩き回った、とされる植月のスリッパには現場のものとは別の砂がついていたこと、被害者が持っていたとされるガマ口は、岩槻が盗んだと“自供”しているのに見つからなかったことなど物証の疑問点を明らかにした。
「アリバイについては、岩槻、植月のグループと小池、中谷、佐藤グループの二つに分かれ、ともに完全に成立している」
と、アリバイ証人が証言を変えて行った経過と動機をくわしく述べ、平井、鈴木、大山の控訴審での証言こそが真実、とした。
四人が逮捕されるきっかけとなったのは、植月の高倉に対する“告白”だが、平栗弁護士は、
「これらの予断、偏見のもとに捜査機関はその後の強引な捜査を続け、物証上の重大な疑義や、アリバイ証人が現われてもこれをつぶすことに血道をあげてきた」
と、捜査を厳しく批判した。
自供調書の信用性、任意性については、まず、植月の供述の変転から、
「全く事実に反するデタラメな供述をしており、辻褄(つじつま)を合わせるため、さらに、その場の思いつきで適当な事実をつけ加えて述べたりしている」
と、した。
他の四人の供述についても、
「一貫性がなく、内容は相互に矛盾している。これは身に覚えのないことを、捜査官の暴行に耐え切れず、当てずっぽうに述べたことを露呈したものであり、任意性も信用性もない」
と、供述調書は捜査本部の“作文”であることを示した。
「被告人らはいずれも無罪であることは疑問の余地なく明白である」
平栗弁護士はこう結んだ。
小池を担当した山本弁護士は、アリバイ、物証の欠如、捜査員の拷問の三点を指摘、憲法学者らしく、
「何人(なんぴと)も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」という憲法三八条三項を引用して無罪判決を求めた。
大川弁護士も血液型、アリバイ、供述調書の疑問について平栗弁護士と同様、詳細に弁論を展開、最後にこう結んだ。弁護士としての率直な告白である。
「私がこの事件を引き受けて最初に記録を見た時、弁護人としては、真っ白な無罪の主張ではなく『疑わしきは被告人の利益に』による無罪主張事件ではないかと思ったものである。共同被告人であった植月の服役や原審におけるアリバイ工作等、記録上には『疑わしき』部分が少なくなかったからである。被告人の話を聞き、記録を読み直して物証の不存在により被告人の無罪を信ずるに至ったものの、それでも私の正直なところを告白すれば『一点の疑念もない』というものではなかった。
しかしながら、その後、何人もの関係者に会って事情を聞いていくうちに、私自身完璧な無罪を確信するに至った。
とりわけ、決定的だったのは鈴木一を訪ねて行き、鈴木には会えず、母親に会った時のことである。
私は用件を伝えた。
母親は独得の語り口で「あの子らやってへんのに」としゃべり始めたのである。実に静かな口調であった。しかし、はっきりと彼女は語ったのである。
その後、鈴木一に会い、平井宗太に会い、大山朋之に会って、私自身の無罪の確信はゆるがなくなった。これは、表現上のレトリックではない。文字通りの無罪の確信なのである。
全ての審理を終えた今もその確信はゆるがない。
被告人は一点の疑いもなく明々白々に無罪である」
自信に満ちた、素晴らしい宣言であった。大川弁護士の背広のえりの弁護士バッジは、その経歴の短かさを示すように、まだキラキラ光り輝いている。バッジにはひまわりと秤(はかり)が描かれている。常に太陽に向かって公平に、ということを表わしている。青年弁護士は、その理想に沿って、裁判所に向かい正直な思いを投げかけたのだった。私たちはその一途な熱い思いに感動した。
判決の日が決まった
検察側の大西慶助(おおにしけいすけ)大阪高検検事による弁論要旨は三十二枚。すべてを、アリバイを否定することに費した。
鈴木、大山の控訴審での証言は「明らかに虚偽」とした。警察官から暴行、脅迫を加えられたという証言は「虚偽」で、捜査段階での検察官に対する供述が「真実」とした。控訴審の証言の価値は「皆無」で、「架空」であることは明らか。平井の証言も「全く価値ない」などと、決めつけた。
ところが、不思議なことに、弁護側が最大の無罪の根拠とした血液型、指掌紋、足跡などの不一致については一言も反論していなかった、「これでは論争にならんじゃないか。検察は一体、何を考えているのか」。検察側の対応は理解できなかった。反論のしようがなかったのかもしれない。
双方が弁論要旨を提出後、環裁判長は「調べを終えることにします」と、審理の終了を宣した。判決言い渡し日について「裁判所としては、是非、この日にしてほしいと思う日があります」と、六十一年一月三十日午後一時三十分を指定した。検察、弁護側とも応じた。
これは異例な言葉だった。通常、裁判長は期日を決める時は、何通りかの日時を示して検察、弁護側双方に同意を求める。一方的に特定の日を指定することは少ない。
「やっぱり、そうなのだ。判決日は退官の直前。環さんは裁判官として最後の判決にこの事件を選んだのだ」
私たちは、環裁判長はこの事件の判決に、大げさにいえば裁判官生活のすべてをかけていると感じた。
「大丈夫です」(平栗弁護士)、「判決を甘くみてはいけません。五分五分です」(山本弁護士)、「裁判所は無罪以外、書きようがないと思います」(大川弁護士)。弁護士らは、それぞれ簡単な感想をもらした。
「来年は、ちょっと遅い目のいい正月を迎えましょう」
そう言って私たちは平栗弁護士、家族らと握手をして別れた。
「早く母親の手料理を食べたい」
大阪拘置所にもどった四人は、それぞれ、最終弁論の感想を寄せてきた。残念ながら、彼らは六十一年の正月も拘置所で送らなければならない。
佐藤は、勝訴を確信しながらも、検察側の最高裁への上告を予想して決意を書いてきた。
「控訴審では、ひとつ、ひとつ良い結果で終わったと思います。
未だ、判決を聞くまでは無罪が晴れるかどうか分りませんが……。
きっと今度こそは確信して居(お)りますが、私達がこの控訴審で晴れましても、きっと今度は検察側は上告する事でしょう。来年一月の判決で無実が晴れましても私達の戦いはまだ終らないのです。
できたら、今度、無罪判決があったら検察側は素直に認めてほしく思います。
多分、これからも戦いは続くと思いますので、どうぞ、今後とも私達を見守り、お力ぞえをお願い致します」
小池も同じ思いだった。
「今まで辛い、厳しい、長い道でしたが、弁護士さん、皆様方のお陰でやっと終止符が一応、打てそうです。本当に有り難うございました。でも、判決で無罪が晴れても、多分、検察側は最高裁へ上告する事でしょう。その時は戦います」
中谷は簡単に書いてきた。
「一審の時の様ないい加減な判決は、二審では絶対に有り得ない事を信じたいです。今は最後の最後まで気を緩める事なく、ただ真実を信じてがんばって行きたいと思います」
四人にとって七回目の年が明けた。一月三十日の判決が近づくにつれ、四人の心は揺れ、家族への思いをつのらせていた。
中谷の手紙である。
「辛くて、悲しいお正月でした。しかし、拘置所でのお正月を迎えるのも今年が最後と思い、何とかこれまでの正月とは少し違った気持ちで迎えられたと思います。そして、社会に戻ったら、まず、一番会いたいのは、やっぱり家族です。一日も早く私達の元気な笑顔を見てもらいたいです。食べたい料理もたくさんあるのですが、母親の手料理を早く食べたいです。
私達、皆をこんな苦しい立場に追い込んだ警察官や検察官は絶対に許す事は出来ません。何もやっていない無実の私達を誤認逮捕した事を今すぐにでも認め、誠意をもって私達、皆に謝罪してもらいたいです」
佐藤は判決の日の夢を見ていた。
「『今年の正月は家で過ごしたかった』と思うと、気持ちが沈むし、おせち料理ものどを通りませんでした。判決の日が決まってから一日一日の時間がたつのが遅くて仕方ありません。
ここを出たら、真っ先に、昔、遊んだ街などが、どれだけ変わったか、ゆっくり、歩いてみたいです。それと、私達を信じて長い間、待っていてくれた祖母が二年前に亡くなったので、墓参りに行きたいと思っています。寿司が食べたいです。
今度こそ、無実が晴れると信じていますが、不安な気持ちも一杯です。最近はよく判決当日の夢を見るのですが、無実が晴れて、みんな法廷で抱き合って泣いている夢を見る時もあれば、有罪判決を受けて、呆然としている夢を見る時もあります」
小池は「もうこんな生活はいや。出たい、出たい」と、素直に気持ちを表わしてきた。
「身に覚えのないことで逮捕され、絶望の果てに自ら命を果てようとしたこともありました。でも、あの時、くち果てていたら、一生、真実は闇に葬り去られていたと思います。
今年の正月は、辛い思いをしなくて正月のラジオ番組などを聞くことが出来ました。今までの年は、レコード大賞、紅白歌合戦といった番組を何だか聞くことがむなしく思えてラジオがかかっても避けるようにして眠る努力をしていました」
第八章 逆転無罪判決
七年間、待った言葉
一月三十日の判決が近づいてきた。弁護士がその良心と誠意をかけ、私たちがキャンペーンとして取り組んだ事件に、裁判所の答えが出る日だ。
私たちは、逆転無罪判決を信じ、それに向けて取材、原稿の準備を開始した。
一審記録、判決を読み直し、控訴審の弁護側、検察側双方の最終弁論を対比させて、争点を整理した。メモ帳を点検して法廷での光景、証言台に立った人たちの態度、言葉を思い起こした。捜査関係者への取材は拒否されたが、大阪府警の周辺からは「あいつらが犯人に決まってるやないか」という“うわさ”が私たちの耳に届いた。書記官筋からは「なんでそんなに騒ぐの」といった牽制(けんせい)球も投げかけられたが、私たちの確信はもはや揺るぎようがなかった。
社会部デスクを中心にしてまとめた出稿予定は逆転無罪をにらんだものばかりだった。
通常、刑事裁判の判決の原稿を準備する場合、有罪、無罪の二通りを用意する。公判経過を見て、私たちが「この被告は無罪や」「有罪や」と“素人判断”で決めてかかって準備すると、とんでもない結果を招くことがある。失敗例も多い。「九分九厘、無罪」と思っていても「有罪」の原稿も一応、用意しておく。
今度の裁判だけは、そうした“慣例”を無視した。「有罪だったらどうするんだ」という一抹の不安もなかったといえば嘘になるが、「万一、そうなったら、みんな家に帰ってふとんをかぶって寝ようや」と笑っていた。
昭和六十一年一月三十日、判決言い渡し。
控訴審判決の取材の要領に「ほ」と「げ」というのがある。
裁判長の第一声が「ほ」だったら「本件控訴を棄却する」で、大概の場合、二審の判決は一審通りである。よほど、一審判決が注目を集めた裁判でない限り、記事にならない場合が多い。反対に「げ」だったら「原判決を破棄する」のことで、有罪にしろ無罪にしろ一審判決が変更されるのだからニュースになりやすい。今回の場合は、「げ」でなければならない。
大阪高裁一〇〇一号法廷は、四十五席ある傍聴席が初めて全部埋まった。これまで四人の無実を信じてずっと通い詰めてきた家族のほか、一般傍聴者、各社の取材記者が席を占めていた。
「前へ」と、促された四人は三人の裁判官の前に立った。
環裁判長がカゼ声で宣告した。第一声は「げ」だった。
「原判決中、被告人らに関する各部分を破棄する。被告人らはいずれも無罪」
逆転無罪――。
四人が七年間、待った言葉だった。
四人は青白い顔で深々と一礼した。小池と佐藤はポロポロと涙をこぼし始めた。中谷は振り向いて傍聴席に笑顔を見せた。
傍聴席の最前列で岩槻の母(五十四歳)と妹(二十三歳)の二人はハンカチで顔を覆った。妹はすぐに法廷を飛び出した。
「どれだけ、この日を待ったか。兄の無念を思うと、たまりません……」
あとは言葉にならなかった。
両手を合わせ、目を閉じて祈るように判決を待っていた小池の母(六十五歳)は「無罪ですね」と、両隣の人に何度も念を押し、「やっと息子を返してもらえます」と、泣き崩れた。
家族にとっても辛い七年間だった。
小池の母親は、夫と死別し、織物工場で働きながら女手ひとつで息子二人を育てた。逮捕後はやせ細り、まわりの目が気になって銭湯へも行けない辛い日々だった。
工場をやめたあとは、痛む足を引きずり、わずかな年金を交通費にさいて裁判の傍聴と拘置所への面会に通い続けた。
「無実やというあの子の力になってやりたかったけど、貧乏やし、学もないし、何もしてやれんのが情けのうて」
誰もいない家で一人で何度も泣いた。
事件当時、小学生だった岩槻の弟は学校で「人殺しの弟」といじめられ、泣いて帰ってきた。母も町を歩いていると、後ろ指をさされた。「やってない」という岩槻からの手紙が心の支えだった。
裁判長は捜査官の誘導を批判
環裁判長の判決理由の朗読は二時間十分にも及んだ。検察側の主張が次々に否定されていく。四人は、うん、うん、とうなずき、青白かったほおは紅潮してきた。
検察官席の能登検事は、唇をかみしめ、下を向いたまま。途中で丸谷検事もかけつけ、渋い表情で判決を聞いた。
判決は捜査段階での各被告の自供調書の任意性、信用性のほか、被害者の体内から検出された体液、唾液の血液型と被告四人の血液型の不一致など物証上の疑問点を詳細に検討した。
環裁判長はまず自供の任意性について判断した。四人の逮捕のきっかけは、植月が小山喜子の内縁の夫、高倉に対して犯行を“自白”したことだが、この自白を「暴行や、ナイフなどによる脅迫による追及に対してなされた疑いがあり、任意性に疑いがある」とした。
四人の自供も「警察官の暴行を受けたために自供したという公判での供述には真実性があり、虚偽として排斥できない。検察官に対する自白も警察官による不当な影響が遮断された状況でなされたものとは認められず」と、警察官調書、検察官調書の両方とも任意性を否定した。
そのうえで環裁判長は、物的証拠の検討に移り「被害者の体から検出した体液や唾液の血液型は、被告人らの血液型と異なっている」「現場から被告人の指紋や足跡が全く発見されなかった」と、認定。これらの事実は「犯行と被告人らとの結びつきに積極証拠がないというだけでなく、被告人らが犯人でないとの疑いを抱かせる消極的状況証拠になる」と、述べた。岩槻の自供で自宅から押収された凶器のナイフについても「犯行に使用されたという証明はない」とした。
さらに、裁判長は、四人の自白調書の信用性について「いわゆる秘密の暴露に当たるものはなく、自身で知っているのかどうか疑わしい事実を詳細に供述しているなど、各供述には見過ごし難い変転や食い違いが数多くある」と、指摘。
弁護側主張を全面的に採用し、「被告人らはいずれも捜査官の誘導あるいは押しつけによりまたは自らの想像で捜査官の想定する事実を供述、あるいは供述させられた疑問すら生じる」と、取り調べを批判、その信用性を否定した。
平栗弁護士らが奔走し、私たちも協力したアリバイ主張や、鈴木の涙の偽証告白、大山の五年ぶりのアリバイ証言に関しては「アリバイが成立するとまで認められないし、成立しないとも断じ難い」と、明確な判断を避けた。
そして結論として述べた。
「植月が原判決に控訴の申し立てをしなかったのは、同人が真犯人であったからではないかとの推測も成り立つし、被告人らまたはそのうち誰かが真犯人でないかとの疑いが全くないわけでないが、疑わしきは被告人の利益に従い、原判決を破棄したうえ被告人らに無罪の言い渡しをする」
この部分は論議を呼び、のちに環裁判長は、灰色無罪ではないと“弁明”する。
言い渡しは終わった。
裁判官として最後の判決を言い終えた環裁判長は、さしたる表情は見せず、いつものように二人の陪席裁判官を従えて、法廷奥の扉に消えて行った。
「ウソついたら恥ずかしい人間になってしまう」
これまで静まり返っていた傍聴席にざわめきが起きた。無罪判決を受けた四人は、いったん大阪拘置所にもどり、七年間分の荷物をまとめて釈放、ということになる。四人の目から涙は消えていた。さわやかな笑顔だけがあった。家族らとうなずき合い、「あとでな」と声をかける者もいた。被告専用の扉を出る四人の両手には、もう手錠はなかった。
法廷前の廊下で、私たちは平栗弁護士とがっちり、握手した。「良かったですね」に「うん、うん」とだけ答えた。大川弁護士は多少、憮然としていた。環裁判長の最後の言葉が気に入らなかったのだ。二人はたちまち、新聞記者たちに囲まれた。ひと固まりになっていた家族らにも記者の輪ができた。
「ちょっと遅い目の正月」は現実になった。
この日の無罪判決を泉州にいて、一人静かに聞いていた女性がいた。長い拘置生活に耐えた四人の心の支えだった森明子である。
明子は事件当時、十四歳の中学三年生。岩槻の妹と友達だったことから、事件の夜、小池、中谷、佐藤と一緒に岸和田市の「門前の家」へ遊びに行った四人のうちの一人だった。
小池らの逮捕後、他の三人と相談して「小池君ら三人は私たちと一緒にいました。アリバイがあります」と貝塚署へ出頭した。すでに、自供を得ていた捜査本部からは、男友達を助けたい一心のアリバイ工作と見られた。他の三人は言いたいこととは逆に、一審有罪判決の有力証拠になるアリバイ否定の調書まで強引に作成された。しかし、明子は下校途中、セーラー服のまま何度も貝塚署と高石署に呼ばれて、足を運んだ。聞かれることは決まっていた。
「まだ、あいつらのアリバイを言っとるのはお前だけや」
深夜まで八時間の事情聴取が続いた日は、狭い調べ室でカンカンに燃えるストーブの火のせいか、のぼせて鼻血がスカートにしたたり落ちた。
頑強さに手を焼いたのか、警察では目の前に手錠を突きつけられて「お前も鑑別所に入れたろか」と、脅されたり、逆に「よし、わかった。今日はうまいもん食わしたる」と、急に優しくされたりした。「やっと、わかってくれた」と、喜ぶと、次の言葉に背筋が凍りついた。
「もう家へは帰れんからなあ。外のメシは今日が最後や」
情けなくなって、「もう何をしゃべっても一緒や」と、くじけそうになったのも数え切れない。
「岩槻らに会わしたる」と、呼びつけられたこともあった。心配した母と一緒に警察へ行くと、刑事は「ほんまのこと、言うか」と、アリバイ証言の撤回を迫ってきた。「間違っていません」と、言い終わる間もなく「いねっ(帰れ)」と、追い返された。
明子は振り返る。
「自分の目の前に手錠をチラチラ見せられた時は『ほんまは小池君らがやったんか。私一人の勘違いか』と怖かった。『明日は着替えを持ってきてもらう』と言われた翌日は、もう警察に行くの嫌やった。夜は家まで警察の人が車で送ってくれるんやけど、何や、私が悪いことをして調べられてるみたいで、近所に格好悪うて、もう泣きたかった。でもウソは言えんかった。『日付が一日、間違っている。前の日のこととちゃうか』と、勝手に調書を作って『拇印押せ』と、何時間も怒鳴られた」
それでも、明子は押捺(おうなつ)を拒否した。
平井がアリバイ証言を逆手に取られて証拠湮滅容疑で逮捕されたことは知っていた。
「一緒にビールを飲んだんや」
と、言うと、刑事は「未成年が酒を飲んだら法律違反や」と、切り返してきた。『鑑別所』の三文字が現実になるかもしれない恐怖だった。刑事の取り調べのテクニックを見破る人生経験はなかった。思いは、「私が言うてることが本当や」だけだった。
「私にもお兄ちゃんがいる。あんな目にあったら、私、ウソついて、自分だけが助かるやろうか。自分が小池君らの立場やったら、ウソついて見放した友達をどう思うやろうか。一生恨むやろうな。ツッパってた明子が警察に脅されてウソまでついたら笑われるやろうな。小池君らも覚えのない事件で辛い目にあってるけど、ウソついたら私も、死ぬまで、もう誰にも顔を合わせられんぐらい、ここに住んでいられないぐらい、恥ずかしい人間になってしまうんや。そんなこと考えたら、絶対、負けたらあかんと思うた。けど、中学生の女の子やったから、逮捕されんかったんやと思う。逮捕されていたら、どうなっていたか……」
明子は一審法廷でもはっきりとアリバイ証言をしていた。一審判決は一顧だにしていなかった。
鈴木と法廷で顔を合わしたこともあった。鈴木はアリバイ否定の証人として来ていた。
証言後、鈴木は明子に向かって、聞きもしないのに、
「『みんなと一緒にいた』と、警察に言うたら、『お前も犯人や』と、言われたんや」
とだけ言い残して立ち去った。鈴木の気持ちが、明子には痛いほどわかった。
有罪判決は法廷で傍聴した。
「ごっついショックやった。退廷する時、四人と目が合ったけど、笑いかけるのもおかしいし、どんな顔をしてよいのか、辛かった。こんなんやったら、他にも無罪で刑務所に入っている人は何人もいるんじゃないのかと思った」
母親になった今も、明子の警察への不信は消えていない。
無罪判決を認めたくない人びと
もう一人の女性、被害者、小山喜子の母は兵庫県内の自宅で、何ともやるせない思いで判決を聞いた。
小山は殺された五十四年一月二十一日の夕方、ひょっこり実家に帰ってきた。チャーハンを食べたあと、二階のたんすの中からカーディガンなど冬用の衣類とラーメンなどをショッピングバッグに詰め、午後九時すぎに実家を出た。これが母娘の最後の別れになった。
事件後、捜査本部が岩槻ら五人を逮捕した事を聞いたとき、喜子の母は、親の恨みをぶつけた。
「五人は鬼畜にも劣る。腹の中が煮えくり返る程の腹立たしさを覚えます。五人には喜子が味わった以上の苦痛を味わわせたい。死刑にしてもらいたい」
被害者の母の情として当然の気持ちだった。五人を真犯人と思って娘の霊を慰め、親の悲しみ、怒り、悔しさを抑えてきた。ところが、五人は犯人でないことがはっきりした。親としてはどこに怒りをぶつけたらいいのか。冤罪が生まれるたび、被害者の家族は足元が崩れるようなショックを受け、やり切れない思いに言葉を失う。
「判決がどうなったのか知りたくもありません。もう遠い昔のことです。早く忘れたいのです」
と、母親は、ドア越しに消え入りそうな声で語った。
誤認逮捕、誤判は、ここにも新たな被害者を作った。
植月を追及し、事件の“早期解決”に導いた高倉は姓も変え、一人で滋賀県内に住所を移していた。事件の功労者どころか、妻を失った恨みが裏目に出て、冤罪のきっかけを作ってしまった。
「信じられない。今日の判決は一過性のものに過ぎない。最高裁では必ず正しい判断が出ると思う。それでも無罪になるようなら、世の中に正義はない」
こうまで言い切った。五人を真犯人と信じ、こみ上げる怒りを抑える口調で語った。高倉も新たな被害者といえた。
判決後、捜査関係者の談話が発表された。
事件当時の捜査班長、平野雄幸(ひらのゆうこう)・大阪府警捜査一課長の話。
「判決内容を見ていないので詳細は判らないが、当時の捜査については適正かつ妥当なものであって、有罪であることを確信していただけに残念である」
谷山純一・大阪高検次席検事の話。
「意外な判決と受けとめている。判決内容をよく検討し、上級庁とも協議のうえ、上告の要否を決めたい」
無罪判決が出た時の捜査当局のコメントはいつもこうだ。もっと、ちゃんとしたことは言えないのか、と感じる。有罪を確信しているなら、どこを根拠にと。まして、平野課長は、当時、捜査本部を指揮した責任者だ。捜査本部の内情を知っていたのだ。「判決を読んでない」と言うのなら、「警察官は被告人に暴行を加えた」などの捜査批判にはどう答えるのか、判決文を読んでからでも、きちんとした見解を発表すべきだ。それが捜査幹部の責任の果たし方ではないか。
だが、この種の無罪判決、捜査批判に対して、捜査当局はいつも、真相を調べようとしない。法廷で検察側が主張した通り「警察官による暴行など、ない」「被告人は嘘を言っている」だ。自分たちの言い分は公判ですでに述べてある、警察官が証人として述べてもいる、ただ裁判所が認めてくれなかっただけだ、という態度に終始するのである。
当然の上告断念
大阪拘置所に戻った四人はあわただしく手続きをすませ、午後五時すぎ、次々に正門に姿を見せた。家族や知人ら十数人が拍手で迎えた。「よかった。よかった」という言葉に四人は目をうるませた。逮捕されてから二千五百六十二日目だった。
知人の一人が佐藤の頭髪を見て、素っ頓狂な声を出した。佐藤の頭は脱毛症を起こしていた。控訴審の時はすでにそうなっていたから私たちは不思議に思わなかったが、逮捕されるまでは、髪がフサフサしていた、という。佐藤は照れて、頭を隠した。拘置生活の後遺症だった。
その夜、四人は大阪市内の佐藤の家に集まり、ささやかに無罪を祝う宴を張った。食卓には佐藤が拘置所の中で食べたいと思っていた握りずしもちゃんと並べられてあった。
岩槻、中谷、佐藤の三人は一睡もできず、一晩中、語り明かした。朝、岩槻は佐藤の母親にラーメンをねだった。母親はまだシャッターが閉まっていた食料品店に行き、店員を起こして買ってきた。
「きのうのごちそうよりラーメンが一番だ」
憎まれ口をたたいて、みんなを笑わせた。
小池は前夜の祝宴の後、泉州の自宅へ帰り、母親と水入らずの夜を過ごした。翌朝は、拘置所の早起きの習慣のせいか、午前六時には起床し、裁判中、応援してくれた友人からの祝福の電話の応対に追われていた。
四人は心の中で同じことを考えていた。
「事件以来七年間、心配をかけ続けた母親を連れ、一緒に温泉旅行に行こう。そのためにも一生懸命働こう」
一月三十一日付読売新聞朝刊は無罪判決を一面、二面、社会面を使って報道した。同時に第二社会面で逆転無罪までの軌跡をたどった十回の連載をスタートさせた。無罪判決だけを想定して事前に取材した結果をまとめたものだった。昭和五十九年六月十九日の朝刊から「五人が有罪というのはおかしいぞ」と報道を始めた。公判経過は逐一、読者に伝えた。特集にまとめた記事も作った。無罪判決も、他のどの新聞よりも内容を濃く、記事量もたっぷりと報じた。取材記者も時間も投入した。
しかし、それでも、私たちはもの足りなかった。読者に伝え残していること、訴えたい事実が残っているのではないか。いや、新聞の使命として訴えなければならないことがもっともっとある、と強く感じていた。
冤罪を作ってはならない。その悲劇は何度となく繰り返され、どうして起きるのかという議論がなされる。「あってはならないことなのだ」と思っていても、新たな冤罪事件を耳にした時、むなしい思いは強くなるばかりだ。そのむなしさを今度こそ少なくしたい、読者と一緒に考えたい。そういう思いもあった。
連載は、なぜ私たちがこの事件にこだわっているのか、から始めた。
刷り上がったばかりの新聞を手に「新聞記者をやっていてよかった」と、私たちはしみじみ感じていた。私たちがキャンペーンを続けたから無罪判決が出たのではない。弁護団が頭脳と足を使い、その力を十分に発揮し、アリバイ証人の重い口を開かせ、被告らが無実を必死に訴え、それに裁判所が答えた結果だ。私たちは審理に関する限り「傍観者」にすぎなかった。
彼らは「極悪非道」のレッテルを貼られていた。そのレッテルが大きな誤りであることを記事にし、その原因にできる限り近づこうとした。逮捕報道の時に私たちが犯した誤りを正し、彼らの名誉回復に少しは役立った、という自負はあった。控訴審の判決まで待っていたらこうはならなかったと思う。ありきたりの裁判記事で済ませてしまったかもしれない。彼らの痛みは少しも理解できなかったとも思う。冤罪の恐怖も本当のところ、わからなかっただろう。
朝刊の紙面を確認し、未明、帰宅するタクシーの中で、私たちはそれぞれに四人の無罪を心から祝い、弁護士の苦労を讃えた。頭はいつまでも冴えていた。
翌日から私たちは大阪高検の動きを追った。最高裁へ上告するのか、しないのか。上告すれば、四人は再び「被告人」と呼ばれ、いつ終わるとも知れない苦しみを味わい続けることになる。「上告をするな」と願っていた。
「上告断念」の空気が、数日後に伝わって来た。大阪高検の谷山純一次席検事が上告期限にあたる二月十三日の午前十時三十分から記者会見で正式に発表した。
「判決内容は承服しがたいが、争点は事実認定の問題に帰し、適法な上告理由が見出し難いので、上告しないことを決めた」と、述べた。
私たちは最近の最高裁は客観的裏付けのない自白を厳しく排斥していることなどから、検察は上告審で高裁判決を 覆 (くつがえ)すのは困難と判断したのだろう、と推し測った。岩槻、中谷、佐藤、小池の無罪は法律的に確定した。
四人は、二千五百六十一日間にわたって身柄を拘束された代償として四人の合計七千三百七十五万六千八百円の刑事補償を請求、大阪高裁刑事二部(山中孝茂裁判長)は三月十八日、請求通りに認める決定をした。
第九章 ボクも無罪や
新たな闘い再審請求
岩槻邦男ら四人が大阪高裁で逆転無罪判決を受けて、法律と常識のズレを感じさせる事態が生まれた。四人は晴れて自由の身となった。しかし、“共犯”の植月昇は、奈良少年刑務所に服役したままだった。
五人の共同正犯による犯行とされ、四人が無罪になったのなら、もう一人も当然、無罪で釈放されるはず。どうして、すぐ釈放してやらないのか――というのは素朴な疑問だ。裁判所の判決と、刑務所の行刑とは別、といって割り切ることのできない部分であった。
懲役十年の一審判決を確定させた植月は四人の逆転無罪判決当時、すでに三年間服役していた。仮釈放されるとしても早くて一年半後の六十二年夏以降の見通しだった。植月が無罪、釈放となるには、再審開始を請求し、裁判所がそれを認め、改めて再審で無罪判決を受ける手続きが必要だった。
四人の逆転無罪判決を刑務所内で知らされた植月は、刑務所職員に聞いた。
「そしたら、ボク、なんで出られへんの」
「君は確定判決を受けとるからな」
と、職員は答えた。「確定判決」がどういう意味なのか、植月にはわからなかった。
植月が有罪判決に不服ながらも刑に服したのは、母親代わりの祖母と父(五十八歳)の説得があったからだ。父は「未決のまま長い拘置所生活を続けるより、服役して早く出所する方が得」と言い聞かせ、裁判への不信を抱き始めていた植月を説き伏せたのだ。
その父親は「息子の自由を奪った責任の半分は自分にある。悪いことした。えらい失敗をした」と、悔んでいた。
平栗弁護士は、仮釈放前に植月と面会して再審を大阪地裁堺支部に請求することを決めていた。弁護団は平栗、大川弁護士と桜井健雄(さくらいたけお)弁護士の三人で編成した。
「ボクもやっていない」
と、植月が再審請求を申し立てたのは、控訴審判決から約五ヵ月たった六十一年六月二十三日だった。
請求が認められ再審開始となるのは「明らかな証拠」を「新たに発見した時」である。確定した判決にたやすく不服を許してはならないという立場から、再審は例外的に判決に誤りがある場合にのみ認められた非常救済手段である。それだけに、刑事訴訟法は「新規・明白」という厳格な要件を定めている。
平栗弁護士らは、再審請求の申立書とともに、大阪高裁の無罪判決をはじめ、被害者・小山喜子の乳房についていた唾液の血液型はA型とする大阪府警科学捜査研究所の「検査処理票」、鈴木一とその母親、さらに大山朋之の控訴審でのアリバイ証言など二十六点を新証拠として提出した。
申立書は、大阪高裁での最終弁論の趣旨に沿って確定判決の誤りと、提出した証拠の新規・明白性を述べた。血液型、足跡、指掌紋、自白の信用性、アリバイなどについて、それぞれ詳細に検討。主張を展開したうえで、「すみやかに再審開始をされるように求める」と、結んだ。
申し立てを受理した大阪地裁堺支部の小河巖(おがわいわお)裁判長は、四ヵ月半後の十一月十日、再審を開始するかどうかの審理を十二月四日から始めることを決定、弁護側が申請した平井宗太、岩槻邦男と請求人・植月昇の三人の証人調べを採用した。裁判長らは通常の公判をこなしながら、その合間に、膨大な確定審の公判記録、申立書、弁護側が提出した控訴審判決などの新証拠に目を通していた。そのうえでの審理日程の通告だった。弁護側は小河裁判長が再審開始決定へ前向きの姿勢を示したもの、と受けとめた。
被告の能力を承知の上での誘導
再審請求審は非公開で行われる。
第一回の十二月四日の審理で、岩槻は、植月は自分と同じく、絶対に事件とは関係がないと、改めて冤罪を訴えた。
年が明けて六十二年二月二十六日、四月二日、五月二十八日の第五―七回審理には、植月を取り調べた大阪府警の捜査員と立岩元検事が次々に証言した。
植月は被暗示性が強く、学力も低く、他人の言いなりになりやすい性格だったことはすでに述べた。その性格のため、高倉に脅されると、殺人を“告白”し、警察でも簡単に捜査員の言うままに自供した、ということは岩槻ら四人に対する大阪高裁の無罪判決でも明らかにされていた。
刑事らは、小河裁判長の質問に対し、植月のそうした「能力」を知ったうえで取り調べ、自供を得たことを証言した。供述調書は誘導によって作られたことを裏付けるような証言であった。
――最後の調書を取った(五十四年)二月十五日まで、少なくとも十日余りは被疑者と接しておられたと思うんですが、あなたから見た植月の能力なり、性格についてどういうふうに思いました。
(X刑事)「はっきり言いまして知能程度がやや劣る、言うことも口べたで、いわゆる表現力が弱い、はっきり表現しないという性格、それから……、聞いたことに、いわゆるよく考えんと即答するような面があったと、考えております」
――植月を取り調べる時に、特にこの点を注意したんだというような点がありますか。
「私もかなりこういう被疑者の調べの経験はあるんですが、私が聞いたことに対して答えがすぐに返ってこないという面がありまして、ひょっとしたら、私が言うてることが被疑者によくわかってないんじゃないか、ということで注意することにして、かんでくだくように言うて、聞こうとすることをかんでくだくように言うてやって、できるだけ時間をかけて調べてやるとの方針でやっていました」
――時間をかけてゆっくり事情を聞くというふうに心がけていたわけですか。
「そうです」
――口べただとか、表現がうまくないと言われたけど、具体的にはどういうことですか。
「一つの質問をしますと、すらすら答えるタイプもあれば、断片的な答えもあるわけですが」
――植月はどちらですか。
「筋を通して一から十まで説明できるというのじゃなしに、断片的によく聞いてやると詳しいことをしゃべるんですが、筋を通してしゃべってくれる被疑者ではないと思います」
――植月の印象について、知能程度が劣るということを言われたけど、具体的にどういうことで。
「計算ですけど、例えばお客さんが千円を持って来て五百円の品物を買うたと、そしたらなんぼつりを返すんだと言うたら、二、三分考えて、五百円というわけですね。そしたら千円で七百五十円のものを買ったら、計算できんと、例えばこういう面がありますんで、一応、中学校を出れば、小学校出てもそれぐらいのことはできますからね」
――いつごろ、そういう話を聞きました。
「いつとは、ちょっと。調べの途中ではありますけどね」
――ある程度、調べが進んだ段階ですか。
「調べを命じられたら、この被疑者はどんな性格の者であって、知能程度はどの程度ある者かということを、まず、一番先に見極めるくせがあるわけです。そうでないと、本当のことが出ませんので、だから、一番当初のことだと思います」
――具体的に供述を受けてる際に、知能程度が劣るという印象を持ったことはないですか。
「いわゆる表現力がありますように、ある程度の知能であれば、系統だって説明できるもんでも、それが一貫してスッとしていませんし」
――植月の能力というのは正確なんですか。どのような印象をお持ちだったんですか。
(Y刑事)「…………」
――能力的な面はどうですか。
「知能指数が劣っているという感じもしました」
――性格とか、態度とかで、記憶されていることはありますか。
「非常におとなしい子で、緊張しすぎるぐらいの無口な性格のように受けました」
――話し方とか、表現力なんかは。
「ちょっと、どもるように感じました」
――植月君というのは、当法廷でも、なかなか供述が出てこないですね。
(立岩元検事)「ええ」
――よく聞かないと。
「はい」
――ゆっくり聞かないと。
「はい」
――しかも、一つのことを聞いても十分その内容を理解してもらっているかどうか、わからないぐらいの証言態度なんですが、(当時の)検察官の印象もそうですか。
「私の印象も、それに近いといいますか」
植月の性格が、一層はっきりした。植月にとってこうした証言は、聞いていて辛かったに違いない。しかし、事件のナゾを解明するためには必要であり、植月自身の主張を裏付けるためにも、審理記録からあえて引用した。
植月はものごとの理非、善悪を考える前に相手に迎合してしまう、と大阪家裁の調査記録にもあった。自分より力の強い者から暴力によって誘導された時、抵抗する能力がない。「うん」とか「はい」としか言いようがない。自分を守ることもできず、相手の誘導に応じ、相手が怒らない限度では正直にものを言うが、相手がこれを受け入れないとすぐ、相手に迎合してしまった。
こんな植月から捜査本部が都合のよい供述を引き出すことはいとも簡単だったと容易に想像できた。
被告席より一段と高い席に座る裁判官は文字通り、被告を見下ろしている。一審の裁判官は、まさに、被告を見下ろしたまま、供述調書の背後にあるものを見過ごしてしまったのではないか。裁判官は世間の常識に欠けるという批判がある。植月のような被告もいるということが理解できなかったのだろうか。それは有罪判決を書いた一審裁判官への私たちの疑問だった。
控訴をあきらめたのは、「真犯人であったからではないかとの推測も成り立つし」と、逆転無罪判決の中にもあったが、母とも思う祖母や父から説得されて「いや」と言えなかったのが植月なのである。現実には植月のような人もいる。「控訴しなかったのはおかしい」という疑問は、私たちも取材当初は持ったが、そう言えたのは、三審制という裁判の仕組みを知っているからにすぎない。
検察側は、再審請求審で、控訴審の最終弁論で反論を避けた血液型などの物証について弁護側意見に反発する意見を出した。
まず、被害者の小山の体内から植月ら五人の誰のとも一致しない、小山と同じA型の血液型しか検出されなかったことについて、時間が経過していたので「不自然、不合理でない」とした。
オーバーについていた体液もA型だったことには「大部分は被害者の血液型などで、A型しか示されなくても不自然でない」と反論。
大阪府警の「検査処理票」に示された小山の乳房の唾液がA型だったことには、唾液のほかに小山の体液なども混じっているので「A型以外の者が乳房をなめた事実を否定するものではない」と述べた。
現場の畑から五人のと一致する足跡が見つからなかったのも「地表が乾燥していて、足跡が残りにくい状況だったことなどから矛盾はない」とした。
いずれも積極的に反論するのでなく「そうであってもおかしくはないのではないかなあ。そういうことも起こり得るかもしれないのではないかなあ」といった程度の反論にすぎない、と私たちは感じた。
これに対して、弁護側は再反撃した。
かつて、いくつかの著名な冤罪事件の有罪判断を支えた科学捜査を再鑑定し、冤罪を晴らすのに重要な役割を果たした北里大学医学部の船尾忠孝教授に、血液型に関する検察側意見の“鑑定”を依頼した。
鑑定書は詳細に説明しているが、ここでは鑑定主文だけを引用する。
それによると、被害者の体内から被害者の血液型であるA型の反応のみが検出されたとしても不自然、不合理ではないとする見解に対しては「必ずしも妥当なものとは言い難い」。
オーバーの体液がA型しか示さなかったとしても不自然ではないとの見解に対しては「妥当とは言い難い」。
乳房の唾液がA型なのに植月(AB型)を犯人とすることには「不自然、不合理」。
この場合、唾液から血液型が出るのはまれで、被害者・小山の血液型が優先するという見解には「妥当なものとは考え難い」。
慎重な表現ながらすべて弁護側の主張を補強し、検察側の消極的な意見を否定したのだった。
船尾教授は六十二年十月十九日の第八回審理に出廷し、鑑定書に沿った意見を披露した。
植月は船尾教授の証人調べのあと、父親あてに手紙を出した。
仮出所目前の祖母の死
お父さん 秋も深まって来ましたが元気でやっていますか
私の方は相変らず元気でいます
10月19日の公判に東京から鑑定を調べた大学病院の先生が来て私の有利の事、言うていました
10月19日の公判で証拠調べが終りました あとは弁護士の方は11月に再審請求に対する意見書を裁判所に出しますのであとはこの再審請求を決定するのは来年の2月と言うていました
おばあちゃんの方は体はよくなりましたか たまに家の方に帰って来ますか お父さんは今 堺の方に仕事に行っているですか 今は仕事は忙しいですか
私もここから出所したら又一緒に仕事が出きる事祈っています 今度ここから出所したらゆっくりと旅行に行きたいと思っています 一日も早く社会復帰して昔みたいに又一緒に住みたいと思います
来年こそここから出所できるように頑張って行きたいと思います 今日はこの辺で終ります くれぐれも体に気を付けてください
では又
(原文のまま)
植月はかつて平仮名でしか手紙を書けなかった。国語力は小学一年生程度と評価されていた。表現力も乏しいとも判定されていた。
それが五年近い刑務所教育のためなのか、漢字をひとつひとつ覚え、「出たい」「旅したい」「仕事したい」と自己主張するようになった。何より、祖母に対するやさしい気持ちを素直に表わせるようになった。隠れていた「やさしい性格」が表面に出てきた。植月は刑務所で左官の技術も身につけた。
請求審は植月が手紙で言うように船尾教授の証人調べで事実審理を終え、十一月に検察側、弁護側双方が意見書を提出した。誰の目から見ても小河巖裁判長が再審開始の決定を出すのは明らかだった。
昭和六十二年は静かに暮れ、六十三年の正月が過ぎた。
植月の仮釈放が近づいた。仮釈放は少年の場合、無期刑については七年、十年以上十五年以下の有期刑については三年が経過したのち地方更生保護委員会の処分で決まる。「まじめに務めた」植月は、その条件を満たしていた。父に「その日」に備えた手紙を出した。
私の方は相変らず元気で務めています 奈良に来て今年で5年と4か月になります この5年私にとって本当に長かったです 保護司さんから何か連絡はありましたか 家の方にこの前本を送りました 私が出所する時に服と靴を持って来てください 出所する時にとうろうを持って帰るので車で来てください おばあちゃんは体の方は大分よくなりましたか あんまり無理をしないように言うてください お父さんは今富山の方に居るのですね 今は仕事は忙しい方ですか 富山で何を作っているのですか お父さんあんまり酒を飲みすぎないようにしてください 私は今一生懸命に左官の仕事に頑張っています 今日はこの辺で では又 体に気をつけてください
(原文のまま)
文中で「とうろう」というのは、家に飾るため刑務所で作った灯籠を意味している。植月は相変わらず祖母を気づかっていた。
祖母は拘置所へ面会に、裁判所へ傍聴に、わが孫の無実を信じて通い続けた。奈良少年刑務所にも何度も面会に訪れた。「体はどこも悪うないか」「欲しいものはないか」。体調が悪くても足を引きずって面会を求める姿は刑務所内でも評判になるほどだった。ところが、六十二年秋ごろから体調を崩し、入院していた。それで、人一倍、植月は祖母を心配していたのだった。
祖母は「いつ帰ってくるんや」と、植月の仮釈放のことを常につぶやいていた。
その祖母が六十三年五月三十一日、八十歳で死んだ。孫が元気に出所する姿を見ることもなく、「孫は無罪」の声を聞くこともなく、苦労ばかりのままひっそりと一生を終えた。家族は植月が動揺するのを心配して祖母の死は知らせていなかった。
植月はそれから一ヵ月もたたない六十三年六月二十三日、仮出所した。昭和五十八年はじめの服役から五年半がたっていた。
自宅に帰って、植月はまだ戒名がついていない祖母の霊前で泣き崩れた。
「心配ばかりかけてごめん。再審では絶対、無罪やからね」
その晩、父らと自宅近くの焼き肉店で夕食をとった。父は言った。
「これは祝いの膳ではない。祝いは無罪が決まってからや」
再審は決定したが……
「本件再審を開始する」
大阪地裁堺支部の小河巖裁判長は昭和六十三年七月十九日午前十時、誰もが予想した植月の再審開始の決定を出した。十八歳で逮捕された植月はすでに二十七歳の青年になっていた。
決定は小河裁判長が法廷で言い渡すのでなく、植月が同支部二階の刑事書記官室で決定書を受け取り、受領書にサイン、押印を済ませる手続きだけで終わった。
主文を読んで、ようやく植月の口元がほころんだ。植月はスポーツシャツの胸ポケットに祖母の遺影をそっとしまっていた。
決定理由で小河裁判長は最高裁の白鳥決定(昭和五十年五月)を引用し、再審開始要件の証拠の新規性について「確定判決以前に捜査機関が収集した証拠でも、裁判所が判決言い渡し後、初めて認識可能になったものや請求人が初めて発見したものは、新証拠となる」と一般的判断を示したうえ、この事件で植月を含めた五人に対する有罪と、植月を除いた四人に対する無罪の二つの相反する確定判決が存在する異常さに言及した。
「相いれない判決があるからといって、その一事で再審を開始することはできないが、無罪事件の証拠の中に、有罪事件判決の証拠でなく、かつ明白性が認められるものを発見した場合は、再審を開始すべきだ」と判断した。
弁護側が強調した物証の疑問点について、被害者の胸、体内、衣服に残っていた体液や唾液から検出された血液型が犯人のものである可能性が大きいことを示唆した船尾忠孝・北里大学教授の鑑定と血液型の不一致を示した大阪府警の「検査処理票」などを新証拠として採用し、「被害者に遺留された体液から請求人(植月)の血液型が検出されないことは、請求人と共犯者とされた四人が乱暴していないことを積極的に示しており、捜査段階の自白の真実性に疑問を生ぜしめる」とした。
続いて、周辺の畑から採取された遺留指掌紋三十七個、足跡五十三個がいずれも犯人とされた植月ら五人と一致せず、植月らが着用していた衣服、サンダルから現場の土が検出されなかったことなどを指摘。「請求人らがビニールハウスに触れたり、周囲を歩き回ったとの供述に合わず不自然で、むしろ犯人でないことを推測させる」とした。
また、自白については「被害者の着衣の状況、殺害の契機、殺害の状況、実行犯が誰か、など犯行の重要部分で看過できない供述の変遷や疑問がある」と述べ、「捜査段階の自白は捜査官による長時間の追及を受け、想像や推測を交えて迎合したものであり、請求人の経験に基づくものではないのではないかという疑いをぬぐえない」とした。
さらに、共犯者とされた四人の自白についても、犯行で果たした役割、殺害のきっかけなどの点で植月の場合と同様、見逃しがたい供述の変化や疑問があるとし「捜査段階の自白全体の信用性について重大な疑問がある」と、信用性を否定した。
最後にこれらを総合判断して、決定は「これらの新証拠が確定審(大阪地裁堺支部での一審)の審理中に取り調べられていたとすれば、確定判決の有罪認定に合理的な疑いを生ぜしめた」と判断、再審を開始するのが相当、とした。
アリバイについては、小河裁判長は判断を示さなかったものの、大阪高裁の無罪判決より、一層、明快に植月の無実を示していた。
ついに検察も即時抗告を断念
しかし、私たちは「良かった、良かった」と手放しで喜べなかった。植月の無実を完全に晴らすにはまだ再審の判決で「無罪」をかちとることが必要だった。他の四人の無罪確定からすでに二年半。植月の無罪は明々白々、これが常識なのに、植月にはなお「再審被告」の立場が待っている。私たちは法律上の異常事態の早期解消を求めた。
この事件の一審判決は、四人に対する大阪高裁の無罪判決が「あまりにも疑問が多すぎる」と指摘したように、実に弱い証拠構造の上に成り立っていた。そのことに、私たちはあきれていた。物証の乏しさ、自白の任意性への疑問、著しい自白内容の変転や食い違い、客観的補強証拠の欠如……。こうした矛盾は、過去の冤罪事件にも共通する要素だ。
植月をクロとした一審判決はその後、二審でくつがえっているのだが、それにもかかわらず、再審請求では「確定判決」という重みを持っている。それが「法」なのだ。そして、確定判決を崩すのは、通常の公判で無罪を得るより、はるかに難しい。「証拠の新規性」が最大の関門となった。
無罪判決の根拠は、すでに一審で弁護側が主張していたし、控訴審で一審と百八十度変わった友人のアリバイ証言も、内容はともかく一審で証言ずみだけに、新規性の面から退けられる可能性は皆無ではなかった。
しかし、この日の決定は、再審の門を広げた最高裁・白鳥決定の「新旧証拠を総合的に評価して“疑わしきは被告の利益に”との観点から確定判決に合理的疑いがあるかどうかを判断すべきだ」との立場を踏襲していた。船尾鑑定などを新証拠としたうえ、自白に頼る強引な捜査を「捜査段階における自白全体の信用性について重大な疑問がある」とし、有罪判決の問題点を指摘した。これは私たちが繰り返し訴えてきたことでもあった。白鳥決定以後の再審条件緩和の潮流を一層定着させる決定といえる。その点では評価できた。
とはいえ、“無罪という名の列車”に乗り遅れたにすぎない植月を救済するために、これほどの手続きと時間が必要なのか。検察側は無罪判決に対し上告を断念しながら、なぜ再審請求で一審の有罪を守ろうとしたのか。検察のメンツなのか。これも私たちに理解できない「法」と常識のズレだった。また、一審の裁判所は、事件の土台が極めてもろいことを、どうして見抜けなかったのか。素朴な疑問は依然としてぬぐえないままだ。
「なんでボクらがこんな目にあわなあかんねん」と叫び続けた植月らの悲劇を繰り返さないためにも、関係者の真剣な反省と、名誉回復のための速やかな再審公判への移行が必要だった。
決定書を手にした植月父子は、貝塚市内の祖母の墓前に向かった。線香をあげ、花を供えてじっと手を合わせた。
“ばあちゃん子”の植月は、
「おばあちゃんが『よかったね』と言ってくれたような気がして……」
と、涙を浮かべた。父親は、
「うれしいです。でも九年間は長かった。ずっと世間体をはばかって生きてきた。並大抵の心の痛手ではなかった……。これから再審の裁判がいつまで続くかわからない。今日が無罪の判決の日だったら、もっとうれしかったのに……」
と、唇をかんだ。同行した私たちの思いも同じだった。
平栗弁護士は記者会見で話した。
「決定は予想通り。検察側は厳粛に受け止め、即時抗告は絶対しないでほしい」
一方、川口清高(かわぐちきよたか)・大阪地検堺支部長は、「再審開始決定の内容については現在、検討中で、詳細をまだ把握していない。本庁、上級庁とも協議し早急に対応を決定したい」と語った。
安田佳秀(やすだよしひで)・大阪府警捜査一課長は「これから最終判決に向けて審理が行われることなので捜査当局として意見を言うのは好ましくない。コメントする立場にない」と、素っ気なかった。
事件の捜査班長だった平野・元捜査一課長は、大阪府警を退職、民間企業に再就職していた。私たちの電話取材に対して、「再審請求審があるとは聞いていましたが、今は退職しており、何も申し上げられません。感想についてもノーコメントです」だった。
私たちは、この事件について、捜査関係者が説得力のあるコメントを出すことは期待していなかった。この事件に限らず、警察が批判の対象になった時、個人的意見として反省の言葉をもらす捜査員もいるが、それはあくまで非公式であり、オフレコの場合、つまり「記事にはしない」というお互いの暗黙の了解ができている場合にまず限られる。
組織として社会に対応する姿勢はいつもかたくなだ。判決などで捜査批判が展開された場合でも「それは裁判所の一つの意見にすぎない。参考にはさせてもらいますが、当方の捜査はあくまで適切です。あれこれ言われる筋合いのものではありません」というのが通常の姿勢だ。この事件でもそうだったように、捜査員が証人として出廷し「暴行の事実は一切、ない」と断言して傍聴席の失笑を買った姿勢にも、それは通じている。私たちは、警察の批判に対する謙虚さの欠如も冤罪を生むひとつの要因になっているのではないか、と考えているのだが……。やはり、捜査関係者の談話には失望した。
この日の決定を静かに待っていた女性がいた。民生委員だった清水好子(五十一歳)である。
清水は事件当時、植月の自宅近くに住んでいた。世話好きの性格、民生委員という立場もあって、母親がおらず、父親は仕事で留守がちの植月一家の何かにつけての相談相手だった。
「あの子が被害者の内縁の夫に連れて行かれた時、連れ戻しに行ったら、『殺したと言わんと、オッチャンに殺される』とブルブル震えて泣き出したのを覚えています。じれったいほどおとなしくて、悪いこと、むごいことは何ひとつできない子なのに」
と、逮捕から一審有罪判決、服役後も植月の無実を信じ、支え続けてきた。
「あの子に身も心もささげて、拘置所、刑務所に通い続けたおばあちゃんが亡くなった時も、あの子は何も知らずに塀の中。仮出所して仏壇の前で泣き続けてましたが、あまりにも不憫(ふびん)でした。他の四人が無罪になっているのに、まだ裁判をやること自体がおかしいし、もう苦しめるのはやめてあげてほしい」
清水もまた、ここへ来てなお裁判を続けなければ植月が無罪とならない「法」システムに強い疑問を抱いていた。
大阪地検堺支部は、再審開始決定について、即時抗告を断念した。
再審の門を広げた「白鳥決定」以降、検察側は相次ぐ再審開始決定に対して、いずれも即時抗告してきたが、殺人という重大事件では初めて即時抗告を見送ったのだ。検察側の大阪高裁判決に対しての上告断念といい、今回の即時抗告の断念といい、極めて異例の対応だった。それはそのまま、捜査の異常さ、一審判決の不可解さを示すものだった。私たちは、それなら検察は、せめて再審請求審で争うのをやめるわけにいかなかったのか、と言いたかった。
再審での無罪判決は確定的となった。
第十章 失われた青春
なぜ公訴取り消しをしない
“無罪という名の列車”に一人乗り遅れた植月昇の無実を証明する再審初公判は、昭和六十三年十月三十一日、大阪地裁堺支部一号法廷で開かれた。
再審公判の手続きは通常の公判と全く同じである。
小河巖裁判長が植月に対して人定質問。
次に、検察側が完全に有罪の構図が崩れ去っている暴行殺人罪に植月を問う五十四年三月八日付、立岩弘検事名の起訴状を朗読した。すでに、常識では無罪がはっきりしているのに、改めて起訴状を突きつけるのは、残酷な儀式だった。
「やってません。全部ウソです。一日も早く冤罪を晴らしてほしい」
植月は罪状認否で、一審第二回公判の九年前と同じ言葉を同じ法廷で叫んだ。一審ではこの叫びは聞き入れられなかったが、今回は違う。自白を強要した捜査当局と、叫びを聞き流した裁判所への怒りを混じえての言葉だった。
傍聴席の光景は控訴審の時とガラリと変わった。私たちと報道各社の取材記者のほかに、事件に関心を持った一般傍聴者で埋まった。ざわついた空気があった。植月の宣言を聞いた傍聴席の父親は「何度、同じことを言えば、認めてもらえるんじゃ」と、心のうちで叫んでいた。
続いて、平栗弁護士が意見陳述に立った。
「五人の捜査段階の自白は捜査官が暴力を用いて強要した虚偽の作文であり、見込み捜査の典型であります。相互に矛盾が著しく任意性、信用性とも、ありません。植月の無実は血液型鑑定などの客観的証拠に照らしても疑う余地はないのです」
さらに、
「改めて再審公判を行うこと自体、無意味であり、本来、検察が公訴の取り消しを求められるべき事件です」
すでに、検察側が描いていた犯罪の構図ははっきり誤りと明らかになっているのに、再び冒頭陳述をするというのはいかにも奇妙な手続きだ。それは法の世界の常識かもしれないが、私たちの常識では決してない。小河裁判長は表情ひとつ変えず、冒陳を聞いていたが、「法律とはおかしなものだ」という傍聴者の感想は、ざわめきの中に広がっていた。
検事の声は小さく、聞き取れないほどだった。それだけで検察側の主張の破綻(はたん)ぶりをうかがわせた。九年前と同じように植月ら五人の犯行説を維持する部分が朗読されると、父親は検事をにらみつけた。
父親の胸に抱かれた祖母の遺影は、柔和な顔で植月を見守っているようだった。
傍聴席にはすでに社会にもどっている中谷、佐藤もいた。
「こうなったら、検事はすっきりとあきらめてほしい。無罪ははっきりしているのだから。一日も早く判決を出してほしい」(中谷)
「もう少しの辛抱だ。頑張ってほしい。なんでこんなに時間がかかるんやろう」(佐藤)
二人は胸中の想いをこもごも語った。
平栗弁護士らは、空々しい検事の朗読を、冷やかに聞いていた。
証拠提出で検察側は異例の対応を見せた。再審開始決定でも「看過できない供述の変遷や疑問がある」と信用性を否定された捜査段階の自白調書を含め、一審確定判決の証拠となった計二百五十点は提出した。しかし、有罪立証のための新たな証拠や証人は一切、申請しないことを表明した。弁護側の提出する証拠にもすべて同意した。
「検察側は形だけ五人共犯説を維持し、実のところ、これ以上争うのは社会正義に反する、と判断している」と、私たちは感じた。当然といえばそれまでのことだが、真犯人もわかっていない重大事件の再審で検察側が事実上、立証を放棄するのは初めてのことだった。私たちは、検察はとことん“メンツ”にこだわって争うことは避け、「再審無罪」にちょっぴり“協力”したものと一応、評価した。
このことについて初公判を傍聴した大出良知・静岡大学助教授(刑事訴訟法)は、
「検察側は積極的な立証をしないというが、それだけでは全く不十分だ。誤判が起きた責任のかなりの部分は検察にあるのだから、もっと積極的に冤罪を生んだ原因の解明に努めるべきだ」
と、厳しい表情で話した。
また、板倉宏・日本大学教授は電話でのインタビューに答えて、
「真犯人が名乗り出た弘前大教授夫人殺害事件の再審公判でも検察は新たな証人を立てて争っており、今度の再審事件のように有罪立証のための新証拠を全く申請しないというのは極めて珍しい。証拠は控訴審で逆転無罪が確定している四人と共通しているので、被告人も無罪になるのは確実な事件だ。検察にとっては争いようがなく、再審公判は一つの儀式のようなもの、早く無罪判決を出してやってくれということだろう」
と、語った。
私たちは、検察側が立証を放棄するならもう一歩進んで、起訴そのものを取り消す「公訴取り消し」をすべきだと考えた。さらに「誤捜査」「誤判」の軌道修正を裁判所にゆだねたことは、検察のいう「正義の実現」とはどうつながるのか、とも思った。
たとえ、再審が板倉教授の言うようにセレモニーとしても、司法が犯した誤りを正すのに、どれほどの時間と労力をかければいいのか。この日の法廷にいて、そんなやり切れなさを感じた。
私たちは、まだ植月を新聞記事では「A被告」と書かなければならなかった。
再審初公判は、小河裁判長の、植月の立場に理解を示した強い訴訟指揮で、二十分の公判で実質審理を終え、十一月二十一日に補充的に第二回公判を開くものの、十二月十二日には論告・求刑、弁論を行い結審することになった。
そして、再審無罪判決は昭和六十四年の春、というレールも敷かれた。
五人そろっての「春」までまだ四ヵ月もあった。
常識はずれの論告・求刑
「これが検察の論理か」
「ばかげた話」
「法律家としてゆゆしきこと」
六十三年十二月十二日の第三回公判で検察側が行なった常識はずれの論告・求刑に対して法廷の内外から怒りと驚きの声があふれた。
検察側は再審公判で事実上、有罪立証を放棄したかに見えた。私たちはそれなりに評価した。しかし、この日の論告を聞いて、その評価はたちまちに霧散した。それほど常識では理解できない異常な対応だった。
検察側は、
「五人は逮捕直後から全面的に犯行を自白、共犯者など中心部分の内容も一貫している。相互に食い違いがあるのは捜査官の暴行や誘導がなかった証拠であり、事実を素直に述べたものだ」
「犯行の証明は十分」
と、言い切った。
四人の控訴審での逆転無罪判決を上告断念で自ら確定させた検察が、救済から取り残されて再審の扉をやっと開いた植月に対して、なお、有罪を求めるのは、一体、どういうことなのだろうか。上告理由は憲法違反など特別な場合に限られているから上告しなかっただけ、とでも言うつもりなのか。さっぱり、わからなかった。
そして、求刑で、
「確定判決の量刑が相当」
と、言ったのである。
あくまで、植月は暴行殺人を犯しており、懲役十年の一審判決は正しかったとする姿勢を貫いたのだった。
真摯な論告を望んでいた平栗弁護士らは、鼻白む思いで時折、苦笑して四十五分間の論告を聞いていた。
ばかげた話を長々聞かされて、と感じたのか、植月の父親はうんざりした顔をしていた。いや、傍聴席の誰もが同じ思いだっただろう。
この日も傍聴席にいた静岡大学の大出助教授は、
「唖然とした。今回の被告人に有罪を論告するとは一体どういうことなのか。ましてや、その論告は何ら合理的な立証ができておらず、検察側の公訴提起を弁解、弁明するために時間を費やしたとしか思えない。法律家としても矛盾するゆゆしきことだ。自らの過ちを積極的に認める無罪論告をすべきだった」
と、感想を述べた。
しらけきった法廷の空気を一変させたのは、弁護側の最終弁論だった。平栗、大川、桜井の三弁護士が交代で朗読した。争点の一つ一つに具体的に反論、検察側の主張を一蹴していった。
「被告人の逮捕後、各種の鑑定結果で物証上の矛盾が次々と明らかになったことにより、捜査機関は被告人の無実を最もよく知り得たはずなのに、逆に暴力で自白を迫り、虚偽のアリバイ否定調書を作成した」
「捜査機関はどの段階でも引き返すことができたはず。しかし、被告人は無罪ではないかという視点から改めて事件を見直すようなことは全くしなかった」
と、捜査機関を厳しく批判した。これは私たちの思いでもあった。
年が改まって昭和六十四年一月七日に昭和天皇崩御、翌日から時代は平成へと移った。
裁判長から異例の“謝罪の言葉”が
平成元年三月二日午前十時三分。大阪地裁堺支部。
前庭の桜のつぼみは固かったが、沈丁花は強い芳香を放っていた。
一階の刑事一号法廷では、異例ずくめの経過をたどった植月の再審の判決が言い渡された。
宣告するのは、小河裁判長。
「主文、被告人は無罪――」
この日のためにと新調した茶色のスーツを着た植月は、思わず何度もうなずいた。眼鏡の奥の目をしばたたかせ、体が小刻みにふるえ、ぎゅっと唇をかみしめた。ほおの紅潮が見てとれた。
傍聴席の父親は、ふーっとため息をつき、天井を仰いだ。目頭をぬぐい続けた。傍聴席には、植月の後ろ姿に目をやってはそっと目頭を押える元民生委員の清水好子の姿もあった。
小河裁判長は、続いて、約二時間にわたって無罪理由を独得の抑揚をつけた口調で述べた。言い渡しを終えると、一息つき、こう付け加えた。
「長い間、大変御苦労さまでした。最初の段階で関係者がもう少し合理的に考えていたら、こんな不幸なことは避けられただろう。この苦しみはすぐには消え去らないでしょうが、一日も早く、つらい記憶をぬぐい去って幸せな日々を歩んでください」
裁判長が被告に対して謝罪ともねぎらいとも受け取れる言葉をかけるのは「理」が支配する法廷では極めて異例だった。
小河裁判長の判決は明解だった。大阪高裁の環判決より一層、踏み込んで植月ら五人の無実を明らかにした。
次の五点が判決理由の骨子である。
一、被告人らの自白によるならば、当然、存在するはずの物的証拠が存在せず、そのこと自体から、それらの自白の信用性に疑問がある。
二、被害者の夫及び捜査官に対する被告人の自白は暴行、脅迫によってなされた疑いがあり、自白の任意性には疑問がある。
三、被告人の自白には客観的状況と符合しない点が多々あり、また内容に著しい変遷があって、真実性に疑問がある。
四、共犯者とされた者の捜査官に対する自白についても被告人と同様の理由でその真実性に疑問がある。
五、以上の次第で、被告人が犯人であると認めるべき証拠は皆無であるから、無罪の言い渡しをする。
アリバイについては触れなかった。もはや必要でなかった。十二分に植月ら五人の無実は明らかになっていた。
三人の裁判官が姿を消すと、法廷内はたちまち喧騒に包まれた。
平栗勲、大川一夫、桜井健雄の三人の弁護士は互いに握手を交わし、植月とも手を握り合った。
玄関を出ると、植月父子は報道陣に囲まれ、無罪判決の感想を求められた。植月は、思っていることの十分の一も口にすることはできなかったろう。
カメラマンの求めに応じて何度もバンザイを繰り返した。
「当たり前のことがわかるのに、五年もかかるなんて。それにしてもあの子たちが失ったものはあまりに大きい。冤罪は絶対に起こしてはならない」
平栗弁護士は法律家らしい思いを胸にしまっていた。
植月昇への再審無罪判決に対して、大阪地検堺支部は大阪高検などと協議した結果、「上級審で無罪判決を覆すのは困難」と判断、控訴期限の三月十六日を待たずに、控訴を断念。十四日、堺支部の川口清高支部長が発表した。これで、植月昇の無罪も確定した。
逮捕以来十年余の長い道のりだった。
ところで、再審無罪判決の当日、私たちは別のことで朝から気が気でなかった。この日に備えて必要とする取材はすべてすませた。紙面での大扱いを予定していた。
ところが、奈良県で女店員の誘拐事件が発生し、自宅に一千万円を要求する電話がかかっていた。
ニュースの新鮮さからいうと再審判決より生の誘拐事件の方が大きい。誘拐事件で紙面がなくなってしまうのでは、と心配していたのだ。
整理部は再審判決を中心とした紙面と誘拐事件を主にした紙面の二本立てで、同時に用意していた。
正午前、女店員は十四時間ぶりに無事、保護された。紙面は誘拐事件が一面、社会面、第二社会面のほとんどを占めた。
用意していた裁判中心の紙面は“幻の紙面”となった。
いま、ささやかな幸福を
「事件の具体的な内容に関する発言は差し控えさせてもらいたい。話すことは何もない」
「(再審請求審で証人として出廷した際)何を聞かれたか忘れた」
「もう十年前の事件。私も当時の上司もなぜ犯人と考えたか、詳細を思い出せと言われても無理です」
再審無罪判決の後、植月ら五人の捜査を担当し、起訴し、一審公判にも立ち会った立岩元検事が私たちに語った言葉である。
私たちは本心からの言葉だろうか、と顔を見合わせた。“殺人犯”とされた五人にとって、この十年は、一生、忘れようとしても忘れることのできないことばかりだった。いきなり、逮捕されて「言え」「吐け」と、自白を迫られたこと、幾度となく味わった恐怖感、いくら「やっていない」と訴えても通じない裁判への不信……。何より無念、悔しい思いをしたのは、岩槻ら四人は七年間、拘置所で、植月は九年余、拘置所と刑務所で青春を過ごさなければならなかったことだ。
一度押された“殺人犯”の烙印(らくいん)は、消えない。誤捜査、誤判の責任は重い。一度、被告席に立たされた者が再出発する難しさは、いかに無罪判決を受けようとも変わらない。
「忘れた」「思い出せない」という言葉はその通りとしても、五人にとってむごすぎる。
小河裁判長が再審無罪判決を言い渡したころ、ひと足早く社会に戻っていた中谷哲二はトラックのハンドルを握って大阪府の南部を走っていた。私たちは久しぶりに中谷と会って世間話をした。話は自然と、拘置所での生活の思い出と、最近の生活に集中した。
二年前の逆転無罪判決以来、四人はちゃんと生活できるだろうか、仕事につけるだろうか、失われた青春を少しでも埋める幸福をつかめるだろうか、といつも気がかりだった。うわさでは、四人は元気に暮らしている、と聞いていたが……。
中谷の顔を見て安心した。私たちの心配を見越してか、
「大丈夫ですよ」
と、言ってくれた。しかし、青春を取り戻すのにはほど遠く、むしろ私たちは改めて冤罪の恐怖を思い知らされた。
中谷は、控訴審で検察側の描いた構図が次々に崩れ、無罪へ確実な手ごたえを感じ始めた昭和六十年夏ごろから、社会で働く姿を拘置所で想像していた、という。どんな仕事をしたい、ではなく、どんな仕事をしているか。逮捕された時の少年から青年まで七年間の“空白”が不安だった。
そのうえ、拘置所で腰を痛めていた。五十七年十二月の一審判決が近づいた朝、ふとんをたたんでいたら、ギクッときた。運動不足が原因らしかった。
六十一年一月の逆転無罪で拘置所を出たあと、のんびり、心の傷をいやしている余裕はなかった。繊維会社に勤めたが、立ちっ放しの仕事は三ヵ月ともたなかった。仕事の好みを言っておれず、逮捕されるまでトラックの運転助手をしていたこともあって、自動車の運転免許をとった。
免許証を手に、廃棄物運搬の会社に入った。求人広告では「手取り二十万―二十五万円」となっていたのに十二、三万円しかなく、ここも三ヵ月で退職した。
次は材木店の運転手になった。材木をかついだりもする仕事で腰には響いたが、仕事仲間も楽しく、給料もまあ納得できたので、ずっと続けられそうだった。ところが、激痛が再三、腰を襲うようになった。仕事を休まなければならなくなり、治療に専念。「座骨神経痛」と診断され、一日おきに通院、痛み止めの注射を打ち、リハビリを繰り返した。別の接骨医は「一生、治らんかも」と言った。
六十三年末からは運送会社の運転手。最初は見習いで月給は十五、六万円ほどだったが、翌月からは歩合いもついて二倍以上になった。四度目の仕事でようやく落ち着いた。
新しい職場に移る時、中谷はいつも心にひっかかりを感じた。履歴書で拘置所生活の七年間が空欄になっているからだ。幸い、これまでどの職場でも中谷が事件に巻き込まれたことは知られることがなかった。
「知ってても無実なんだから、どうってことない」という思いの一方で、社会がそれほど寛容でないことも知った。
逮捕された時の自宅は一畳の板の間の台所と四畳半、六畳の和室。家族七人の住まいとしては狭かった。電気代が払えずロウソク一本で暮らしたこともあった。
公判中、父はいくつか仕事を変えた。「犯人の父」ということがわかって解雇されたことまであった、と無罪判決後、聞かされた。多額の借金もできていた。七年間の代償として受け取った千八百四十三万円の刑事補償もあらかた消えた。
小学生だった弟らは、事件を大人のうわさで知った友達からいじめられた。けんかもした。家庭はバラバラになりかかった。
「息子は何もしとらん」「兄貴は殺してへん」。家族、親類、みんなの同じ気持ちが家庭崩壊の危機を乗り越えさせた。中谷はそう確信している。中谷のために、言いようのない苦労がそれぞれの身に及んだことについて、誰も愚痴をこぼさない。
豊かでないが、文化住宅で家族が肩を寄せ合って、毎日が暮らせるようになった。家庭では、事件のことは話題にしない。岩槻ら他の四人とたまに会ってもしない。どう話をしたって不愉快になる。過去に戻ったところで、どうなるものでもない。
「思い出せば、はっきり思い出せるけど、なるべく思い出さんようにしている」
と、話す中谷だった。
「事件がなかったら、なんて考えたことはない。ぼんやり、お金ためて家建てたいなあ、とは考えている」
小池と佐藤は、家庭を持った。ともに二児の父親になった。
しばらくの間、拘置所生活のくせで朝早く目がさめたが、それもなくなった。明るい青年の笑顔を見せるようになった。市井でつつましい喜びをやっと見つけていた。
岩槻は逮捕された時、成人だったため、氏名や顔写真が公表された。無罪判決後、外出する際、サングラスを離せなかった。素顔で歩くと「あの事件のやつや」と、指さされる気持ちがしてならなかった。
「オレは何もしていないんや」と思っても世間はまだそう見ていないことを肌で感じた。就職を断わられたこともあった。
テレビドラマで刑事が犯人をどなったりしているシーンを見ると、背中に冷たいものを感じる、という。「五人殺して埋めた」と、とんでもないことまで“自供”させられた。想像で地図まで描かされた。
「あれは一体、なんだったのだろうか」
密室の恐怖は忘れられない。
「警察は今でも怖い」
四人より二年五ヵ月遅れて社会に帰った植月は、配管工が板についてきた。午前六時に起床、親方でもある父親と各地のビル工事現場などへ行き、夕方五時まで働く毎日を送っている。スパナ一本を手に足場へ上がり、管を取り付ける。危険な作業もある。ぼやぼやしていると、先輩からカミナリが落ちる。
父親との二人暮らしにもすっかり慣れた。現場から現場へと飛びまわり、帰宅の途中で買い物を済ませ、夕食は父親が作る。一人暮らしが長かった父親は料理がお手のものだ。
二人で食卓を囲み、ビールを一本ずつ。あと片づけは植月の仕事。家事も分担して、息はぴったりだ。
植月は働く喜びを感じ始めている。
長い空白のあと、五人はようやく、平凡だが着実な市民生活を取り戻しつつある。このささやかな「幸福」がずっと続くことを願っている。
終章 法曹の反省
市民が被告になる時
私たちが一通の手紙をきっかけに五年間にわたって追跡、取材した結論は、冤罪は刑事訴訟法が定着したといわれる現在でも起きているし、将来もまた、起こりうるだろうという言い知れぬ恐ろしさだった。
少年ら五人の犯行とされた凶悪な暴行殺人事件は、警察の初動段階での安易な見込み捜査、物証の矛盾点を無視し、ひたすら自白を迫った捜査、ないがしろにされた裏付け捜査、その捜査に追従しただけのような検察、被告の訴えに耳を傾ける姿勢を持たなかった一審裁判所、起訴された者はすべて有罪と思い込んでいたフシがうかがえる裁判官――。現在の捜査、司法当局が内包する矛盾、問題点を一気に顕在化したような事件だった。それだけに、恐ろしいという思いは、時間の経過とともに薄れるどころか、強まっていくばかりだ。
著名な冤罪、再審事件には大弁護団が編成され、世間からも注目される。しかし、冤罪の苦しみは、事件が著名であろうと無名であろうと変わりない。
むしろ、無名な人こそ、絶望の淵に立たされ、すがるものもなく、苦しみ、悲しみ、痛みは大きいかもしれない。
非力な一市民が巨大な捜査・司法権力の罠にはまったらいかに無力か、罠から抜け出るにはどれだけのエネルギーが費され、その結果、人生がどれほど目茶苦茶にされるか――。そんな例をもう一件見てみよう。平成元年の正月、三十四年五ヵ月ぶりに潔白が証明された「松尾事件」である。
松尾事件の教訓は?
昭和二十九年八月十三日夜、熊本県小川町の砂川堤防で女性が乱暴された。
瓦職人、松尾政夫(六十三年五月、七十一歳で死亡)は、内妻の清水ヒサエと世帯をもって三年余り。盆休みでのんびりと体を休め、一人で近くの映画館『平和館』へ『花と龍』を見に行って堤防沿いの道を帰る途中、河原の中から「キャー、助けて」と悲鳴が聞こえた。背後で二十歳前後の男が河原のヤブの中から自転車をひきずり出し、松尾から顔をそらすように追い越し、走り去った。
「村の青年と娘の悪ふざけか」
そんなことを考えながら、ブラリブラリと五百メートルほど歩いて村のかかりの駄菓子屋の前まで来た時、店の人に「おっさん、ちょっと寄ってくだはれますか」「どこへ行きよりますか」と呼び止められた。
店内には若い男に暴行されたという女性とその友達の女性がいた。
「乱暴した男によう似てる、と言っている」
「映画見て、帰りよります。通りかかっただけじゃもん。そんなことはしとりません」
通報で駆けつけた警察官に松橋署へ連行され、そのまま逮捕された。「おなごは人間違いしとるか、ウソ言うてるけん」と訴えたが通じなかった。ほとんど一睡もさせてもらえないまま、翌朝、両手錠、腰縄姿で現場検証に引き回された松尾は、群衆の隅で見つめるヒサエに「おいじゃ、なかっ」と、目で訴えるしかなかった。
松尾は検察庁、裁判所で犯行を否認し続けたが、一審は被害者の女性と二人の証人調べをしただけで翌三十年十二月、懲役三年の実刑判決を下し、控訴審は公判を一回開いただけで控訴を棄却した。松尾は長い拘置生活で衰弱し、体は骨と皮ばかりに変わっていた。上告は断念する以外になかった。
昭和三十三年一月、福井刑務所で服役を終えた。刑務官に無罪を訴え続ける松尾は「反省の色がない」と仮釈放を認められず、満期出所だった。
瓦工場の経営者の理解で再び職人として勤め始めたが、世間の目は冷たかった。親類でさえ、無実の訴えを本当に信じてくれていたか、どうか……。
「本当にきつかったよ」と、ヒサエは言う。やがて二人は郷里を捨てた。
「おいは無罪ばい。おなご(被害者)がウソば言うとる。もういっぺん、裁判してもろたらわかる」
「ワシはやっていない」
「巡査がしっかり聞いてくれんかった」
ヒサエは、毎日、何度も聞かされるのが辛くさえあったが、松尾は出所直後から、たった一人の闘いを始めた。熊本地裁、熊本地検、松橋署、熊本地方法務局、熊本弁護士会へ足を運び、何百通もの手紙を送り続けた。
松尾には刑事裁判の仕組みなど、ややこしい法律知識はなく、ただ「やっていない」と訴えることしかできなかった。結果は「被害者に犯人でないという証明書をもらってこい」「新証拠をもってこい」「正規の裁判手続きを踏まないと、受け付けられない」と、どこでもハンで押したように門前払いされた。
取り調べの刑事には追い払われ、被害者の女性とその友達からは「私は犯人の顔を覚えていない」「私もはっきり言ったわけではない」と家人を通じて面会を拒まれた。
大阪へ転居したあとも、雑役などをしながら三畳二間のアパートで毎晩、裁判所へ無実を訴える手紙を書き、大阪、熊本の弁護士会を訪ねたが、誰も取りあってくれなかった。
私たちは、深い自戒をこめて言わねばならない。
松尾の訴えを無視した点では、捜査、法曹関係機関だけではなく、私たちマスコミも同じだった。松尾は昭和三十八年に大阪司法記者クラブを訪ねている。だが、自分が有罪にされた判決文さえ読んだことがなく、弁護士を頼む資力もない松尾の訴えに耳を貸す者はなかった。手紙もほとんど意味不明で見当外れだった。
出所以来、松尾が独力で書いた再審請求は十二回に及んだ。法律に無知な松尾をあざ笑うように、決定は「棄却」の連続だった。
「名もない男でも、暴行の汚名は一生の痛恨事。汚点だけは残したくない」
という一心での闘いだった。
何度目かの「棄却」決定に悔し涙を流したある日、見かねたヒサエが、
「もう、いいかげんにして、忘れよ」
と、なだめた。声を荒(あらら)げたことさえなかった松尾がこの時ばかりは、
「たまらん。悔しか」
と、こぶしを上げた。理解したつもりで、本当のことはわからなかった松尾の深い心の傷をのぞき見た思いだった、とヒサエは言う。
昭和五十二年から三日にあげず、大阪地裁と目と鼻の先の事務所へ通い続けた松尾に根負けした相馬達雄(そうまたつお)弁護士が、孤立無援の闘いに手を差しのべた。
被害者の目撃証言の信用性などに関する新証拠をそろえて本格的な再審請求を熊本地裁に申し立てたのは、五十八年三月のことだった。
「わしは無罪や。(再審を)やってくれたらええやないか。いつも言うのはそれだけ。天衣無縫の人だった」
事件から二十年以上もたつのに、無罪を主張し続けるその執念に「ひょっとしたら」と、相馬弁護士は判決文を読んだ。
「とても有罪の証拠はない。これは大変なことだ、と思いました」
五年後の六十三年三月二十八日、ついに再審開始決定を勝ち取った。
ところが、松尾はその一ヵ月余り後の五月五日、食道静脈瘤破裂で息を引き取った。
「裁判所に早く無罪判決をくれるよう頼んでくれ……」と、つぶやきながらだった。遺骨は大阪市天王寺区の一心寺に納められている。
「かわいそうや。してないことをした、言われて苦しんできて……。裁判のことばっかしで、なあんも楽しいことなかった。辛かったよ、夜も昼も。墓を建てても仏壇買うても、守りをしてくれる身寄りもおらん。二人とも無縁さんや。恨んだってしようがないね」
狂わされた人生の重い軌跡だけが残った。
悔やみきれない“一度の自白”
松尾の人生は捜査段階のたった一度の「自白」が狂わせた。
逮捕された当日、刑事三人に徹夜で取り調べられた時だ。刑事たちは責めたてた。
「言わにゃあ、懲役刑で何年でもブチ込んでやる」
「主任がおがく(怒鳴る)やろ。言うて、楽になった方がええぞ」
「おなごはおまえに間違いないと言うとるぞ」
「早く言え、自白したら帰してやる」
怒号と脅迫の繰り返しでヘトヘトになった。
「真相はあとで分かってもらえる」
と、誘いに乗ってしまった。
昭和二十九年と五十四年。熊本と大阪。時間空間の差はあっても、貝塚の女性殺人事件で岩槻らが自白を迫られた状況と同じではないか。
しかし、この時の「自白」が裁判所の有罪認定の有力証拠となり、終生、松尾を苦しめた。一、二審判決は、私たちが読んでもどうして有罪を宣告できたのか、と疑問に思えるほど脆弱(ぜいじやく)な証拠によりかかっている。被害者に残された犯人の体液の血液型が、松尾の血液型とは異なるという物証上の決定的な矛盾まであった。
再審判決は平成元年一月三十一日、熊本地裁で言い渡された。ヒサエが車椅子で出廷し、どんな祝福も慰めも拒否しているかのように、顔に深いシワを刻んで聞いた。松尾は黒い縁の額に入ってヒサエに抱きしめられていた。
「無罪までわしは絶対、死に切れん言うて、黙って先に死んで……。運の悪い人はどこまで行っても運が悪いんやねえ」
ヒサエの言葉に再審無罪に大きな力となった相馬弁護士は、返す言葉がなかった。
松尾は、たった一回の“自供”で死ぬまで苦しんだ。「言え」「吐け」「早く楽になれ」……。
「いずれ真実はわかる」という気持ちになった時、捜査員の責め言葉は甘いささやきに聞こえたのだろう。
無学で、貧乏で、頼りにする人もいない市民が強引な見込み捜査で犯人にされ、被告の訴えを真摯に聞こうとする耳を持たない裁判所によって、悲惨な境遇に突き落とされた点は、松尾にも岩槻ら五人にも共通している。法曹のなれ合いと怠慢さ、無責任さが生んだ悲劇である。
岩槻らはこれからの人生で、七年間に失ったものを取り返せる可能性を持っている。いや、社会のいろいろな障害とぶつかりながら取り戻そうと必死に努力している。しかし、松尾は「無罪」の声を聞くこともなく人生を終えた。死の間際に、自分の一生をどう見たのだろうか。軽々に想像することさえ、はばかられる。
「おれはやっていない」
松尾にも岩槻らにも、また、再審無罪の植月にも、たったひとつ、この真実しかなかった。体液の不一致、アリバイの存在、常識と法の落差を感じさせた再審手続き……。それらは裁判の中の論理であり、彼らには何の関係もないことだった。「やっていない」のは明々白々の真実だったのだ。
真実が隠された出発点には「自白」があった。
私たちは捜査当局に身柄を拘束された者が「やってもいないことを“自白”する」疑問に近づかなければならない。
貝塚の暴行殺人事件を追跡する過程で、先輩記者から「警察の自白を取るテクニックはすごいよ」という話を聞いた。岩槻らの取材を通じて、単に逮捕されている苦境から解放されたいために、易々と捜査官の言いなりになって虚偽の自白をすることを知った。また、少年は自己表現力、自己防衛力に乏しいから、捜査官の調べを受けるだけでも威圧を受け、誘導や理詰めの説得、脅迫などにひっかかってしまうことも知った。
私たちは「なぜ」を刑事裁判史上、極めて特異な経過をたどった岩槻らの裁判で、五人の無実の訴えに初めて光を当てた大阪高裁の環直彌元裁判長にぶつけた。
法曹からの提言
裁判官生活最後の判決言い渡しに岩槻らの事件を選んだ環元判事は、検事、弁護士を務めたあと昭和三十六年から裁判官という経歴を持っている。レフェリーで現役を経験していないのは、裁判官と相撲の行司だけ、という言葉があるが、環元判事には当てはまらない。「裁判官は弁明せず」という言葉もあるが、再び、弁護士に戻って“弁明”した。
「大阪で最も印象深い事件だが、ありのままに判断するというのが私の信条で、無罪を出すことに気負いはなかった」
「最初にこの事件の記録を見た時から、無罪ではと感じた。被告らは完全にシロです」
事件の構造について、
「裏付けとなる物証の一つでもあればまだしも、立証全体が弱かった。自白内容はくるくると変わり、捜査官の無理な取り調べが感じられた。過去の再審事件と多くの共通点があった。無罪では、という印象は、被告人質問などの証拠調べでますます深まった」
「植月の再審無罪は当然の結果でしょう」
と、言い切った。
逆転無罪判決では、自白だけでなく、物証の問題点にも詳しく言及したが、
「物証上の矛盾がなくても無罪だったと思う。それだけ自白は不自然だった」
率直な感想だった。無罪判決へ向けて裁判官室の“密室の合議”がどのように形成されていったのかという問いには明言を避けたが、笑顔の応対から、一審記録を読み控訴趣意書に目を通した段階から、一審記録に疑問を持っていたのではないか、と推測できた。
なぜ、冤罪が――の質問には、
「根源はやはり代用監獄(警察署の留置場)にあると思う。中で何が行われているかさっぱりわからない」
と、話した。
では、何が問題にされるべきなのか――には、
「有罪に向けての捜査の甘さや公判維持の問題点が取りざたされているようだが、本当に捜査段階でシロを見抜けなかったことこそが問題にされるべきではないでしょうか」
環元判事のこうした考えは法曹界で突出したものではない。検察OBにもある。
神戸地検検事正、最高検刑事部長、広島高検検事長などを歴任した小嶌信勝(こじまのぶかつ)弁護士である。
「検察はシロの捜査も尽くせ」
と、強調する。犯罪捜査機関のOBの言葉としては一見、矛盾するように聞こえるが、検察官として警察の捜査を検討してきたからこそ言えるのだろう。
小嶌弁護士は「冤罪ほど残酷な人災はない」という。
「無実の者が、刑事司法のプロである検察官により起訴され、同じプロの裁判官により、一審・控訴審・最高裁の裁判を受けながら、死刑の判決が確定してしまい、それから何十年も獄窓につながれて、毎日、生死の境をさ迷う姿は、まさに、生き地獄であり、その苦痛は想像に絶するものがある。また、無実の者が、懲役刑に服役しているときの心情・苦痛も、到底、計り得ないものがある。しかも、これらの人災が、刑事司法のプロである検察官、裁判官の判断の誤りから生じているのであるから、まさに断腸の思いである」
岩槻ら五人は人が人を裁くがゆえに起きた人災に巻き込まれたのだった。私たちは、その人災の第一次的な責任を大阪府警の捜査に向けた。そして、大阪高裁の逆転無罪判決までに、どこからでも引き返せたはずの司法の姿勢をただしてきた。
この点では、小嶌弁護士は警察捜査に一定の理解を示す。
凶悪事件が発生した場合、警察では、犯人を検挙することが緊急事であり、また、犯人を検挙することが最大の使命であり、寝食を忘れて日夜捜査に努力している。私たち事件記者も、被害者の無念を思い、警察の動きを追い、犯人に近づこうと取材し、時には独自に犯人を追う。ところが、捜査機関のいう犯人は、すべてが「真犯人」ではない。
そこで小嶌弁護士は、
「検察官による司法的チェックが重要で、証拠のない凶悪事件を担当した検察官は、警察が検挙した犯人について、全く白紙の状態で臨み、その被疑者は『真犯人』であるかどうかを徹底的に捜査、吟味することである。その際、特に、その犯人が検挙されるまでの警察捜査の経過を徹底して検察官自らが調べること、いわゆる『白』の捜査をすることである」
と、主張する。
この考え方を岩槻らの事件に当てはめてみると、捜査本部の基礎捜査も終わっていない段階で、植月の高倉に対する“犯行告白”に基づく五人のいっせい逮捕が、いかに暴挙であったかがわかる。
私たちも追跡取材の過程で、「他に共犯者がいるのではないか」、逆に「五人の中には無関係な者が含まれているのではないか」といった疑問を捜査本部は抱かなかったのか、と首をかしげた。
第一関門で、捜査本部の暴走を食い止められなかった検察官の責任は重い、と言わざるを得ない。
のちの捜査で、五人の供述がくるくると変わったり、肝心な部分で食い違ったりしたことをどう評価したのか、検察官がその機能を発揮したとは言えそうにない。
また、小嶌弁護士は、
「少しでも証拠に疑問のある事件については『白』の捜査も尽くし、絶対に無実の者を起訴してはならないのである。少なくとも、検察官さえ、この司法的チェックを的確に行えば、凶悪重大事件の冤罪という不幸は全くなくなると確信する」
と、断言する。
日々の事件処理に追われている検察官からは「そんなことを言ったって」と、反論が出るかもしれないが、チラとでも「おかしい」と感じた部分は、検察官は、自らの頭と足を使うべきだろう。小嶌弁護士がOBの立場から、あえて「苦言」を呈するのは、現在の検察官の捜査が「黒の捜査」に走り過ぎており、警察が逮捕した容疑者は犯人であるとの前提で捜査する傾向があることを知っているからであろう。
植月の再審無罪判決を言い渡した小河巖裁判長は「捜査関係者が早い段階で気がついていれば……」と、嘆いた。まさに、このことを指したのではないか。
「疑わしきは被告人の利益に」が刑事裁判の鉄則である。しかし、現実は「疑わしきは検察の利益に」がまかり通っている。冤罪の苦しみはそれを味わった者にしかわからない。法曹も、そして、私たちもこのことを肝に銘じておかなければならない。
あとがき
大阪・貝塚事件で少年ら五人の無罪が確定したあとも、各地で無罪判決が相次いだ。
とくに、昭和六十三年十一月、東京・綾瀬のマンションで起きた母子殺人事件では、東京家裁が昨年九月、警視庁の逮捕した少年三人に対して、成人の刑事裁判の無罪判決にあたる「不処分」の決定を下した。
決定は「少年らにはアリバイ成立の可能性が強い」とし、唯一の証拠といえる自白の信用性について、基本的な矛盾がある、「秘密の暴露」がない、重要な点について変化している――などを指摘した。
自白に至った経緯は「警察官のやや無理な取り調べ状況がなかったとはいえず、強い者に迎合、一時逃れにその場限りの供述をしてしまったことが想像できる」と、ずさんな捜査を厳しく批判した。
貝塚事件と共通する「無罪」だった。同じ捜査当局の誤りが東と西で繰り返されていた。
綾瀬事件では、少年は弁護団の活動によって「被告」と呼ばれることなく、社会に戻っていった。それでも、少年たちが心に受けた傷の大きさは想像するのに難くない。貝塚事件の少年らは、捜査当局の誤りを司法がチェックすることなく追認したため、社会に復帰するまで青春の貴重な時間を失い、たったひとつの真実を明らかにするのに、法と常識の落差も味わわなければならなかった。
二つの事件で、裁判所の決定が下ったあと、いずれも捜査当局は「捜査は適正に行われた」と、同じ趣旨の談話を発表した。
無実の者を陥れ、真犯人を逃がし、さらに被害者の遺族にも言いようのない無念の思いを与えるという誤りをした捜査当局が、誤りを教訓とせずに奇しくも同じ談話というのは納得できない。見込み捜査による自白偏重が数々の冤罪(えんざい)を生み出していることは、今や明白な事実なのに残念なことである。
捜査追認の傾向が見られる刑事裁判の現状に、法曹界から反省の声が出るようになった。しかし、まだ、それは特異な発言とみられている。多くの裁判官の発言は控え目である。反省の声が大きなうねりとなることを期待したい。冤罪は“人災”であること、いわれなき罪に問われる者の痛みを常に忘れないでほしい、と思う。
この記録は、十年間に及ぶ読売新聞(大阪)の記事、取材メモ、捜査資料、公判記録などを基に構成した。被告とされた少年ら五人や被害者関係者は、いずれも仮名だが、他は実名である。肩書き、年齢は、当時である。
本文中「私たち」とあるのは、貝塚事件にこだわりを持ち続けて取材したすべての読売新聞大阪社会部の記者たちである。取材ケースによっては一人であったり、複数だったりする。全章を通じて、元司法担当キャップの柳本精三社会部次長が点検した。
講談社学芸図書第二出版部の吉崎正則氏には大変、お世話になった。吉崎氏の的確な助言がなければ、この本は生まれなかった。菊池美知子さんからも貴重な意見を頂いた。改めて、感謝したい。
平成二年六月六日
読売新聞大阪社会部次長
織田峰彦
文庫版へのあとがき
この本は平成二年七月、単行本として刊行された。講談社文庫へ収められるにあたって、その前後のことを少し書き加えておきたい。
元年の年末から新聞各社は犯罪報道で、逮捕された被疑者の呼び捨てをやめ、「容疑者」の呼称に改めた。小社の場合、その理由の一つに、捜査にも判決にも誤りがあり、新聞も誤報に陥ることがあるのに、名前の呼び捨てはおかしい、人権への配慮に欠けているという反省があった。四年後の今日、容疑者呼称は紙面に定着した。事件、事故の報道に限らず、記者に問われる「書かれる立場」への気配り、目配りは、ますます重さを増している。
二年九月、大分県弁護士会が初めて、逮捕直後の容疑者と接見する「当番弁護士制度」を取り入れ、二年後の四年十月までに全国五十二弁護士会の全てで実施されるようになった。日弁連刑事弁護センターの冊子には「あなたやご家族が万一、逮捕されたとき、すぐ弁護士会にご連絡下さい。弁護士の一回目の費用は無料です」とある。国費で弁護士がつく国選弁護人制度は、起訴後、被告になった段階で適用される。当番弁護士は、それ以前の相談で取り調べの様子などを聞き出し、マスコミの取材にも対応している。
容疑者呼称も当番弁護士制度も、もちろん本書と直接のかかわりはない。ただ十年間に及ぶ冤罪事件の記録・資料をまどめ、出版した時期が、そうした動きと重なっていることに、新聞記者は充足感を覚える。世の中が少しでもよい方向へ変革していく手応えの確かさを感じ取るのである。
『逆転無罪』の青年五人は働き盛りの壮年になった。三人はつましいながら家庭を持ち、子供にも恵まれた。日々、みんな一生懸命に生きている。しかし、冤罪で踏みしだかれた人権が回復されることはない。
平成五年十二月
読売新聞大阪本社編集局総務 塚田信勝
逆転無罪(ぎやくてんむざい) 少年(しようねん)はなぜ罪(つみ)に陥(おとしい)れられたか
電子文庫パブリ版
読売新聞大阪社会部(よみうりしんぶんおおさかしやかいぶ) 著
(C) 読売新聞大阪本社 2001
二〇〇一年四月一三日発行(デコ)
発行者 中沢義彦
発行所 株式会社 講談社
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〒112-8001
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