TITLE : コクピット クライシス
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はじめに
「大航空時代」の人間と機械のあるべき関係
今、私たちは「大航空時代」の真っ只中にいる。地球規模の人とモノの壮大な交流は、18世紀、大帆船が世界の七つの海を舞台に、国家の版図拡大や物資の獲得を目指して冒険航海を繰り広げた「大帆船時代」以来のことである。
「大航空時代」では帆船の代わりを大型ジェット旅客機が担っている。短い間に革新的に向上した驚くべき能力は、私たちをいとも簡単に世界の隅々まであっという間に運んでくれる。その結果、人間の生活と意識をドラスティックに変えつつある。
しかし、一度この文明の利器がコントロールを失ったり逆用されたりすると、信じられない災禍をもたらす。前者が航空事故であり、後者が非戦闘員を巻き込んだ東京大空襲やハンブルグ大空襲、そして、イスラム原理主義者によるアメリカ同時多発テロである。
テロリストは民間航空機を乗客もろともミサイルのように高層ビル群に衝突、崩壊させ、6000人を上回る犠牲者を出し、戦争のボタンを押した。第一ステージで航空におけるセキュリティがやすやすと破られた。搭乗時のチェック、コクピットのセキュリティなどが完璧に機能していればこれらの惨劇は防げたはずだ。
今や働く場では、極限まで自動化された機械システムが生産の首座を占め、人間は補佐役である。人間は最もハードで責任が重い監視の役割を担っている。機械システムが原因の事故はほとんど姿を消し、人間のわずかな判断ミスや操作ミス、いわゆるヒューマン・エラーがとてつもないトラブル、事故を誘発してしまう時代なのである。
本書では、航空機事故から、コクピットを脅かすハイジャックとヒューマン・エラーを分析し、あるべきその姿を模索してみたい。
1980年代に入り、世界の空を飛びまわる航空機は第4世代のハイテク機が主流となった。その結果、航空事故は格段に減ってきている。航空機の世代が進むにつれて、事故が確実に減少してきているのは事実である。
事故件数を見ると、B747はB707の半分、B737―300はその半分、B767はそのまた半分と事故を減らしてきてはいる。減少を続けている事故を分析して分かってきたことは、事故原因の7割をヒューマン・エラーが占めていることだ。
ヒューマン・エラーを防ぐことを大目的に航空機開発が行われる近未来、飛行機のハイテク化は極限まで進む。その時、コクピットはどうなっているのだろうか。
コクピットで犬がパイロットを監視する?
十数年前、カリフォルニア州キャメル・バレーで、「コクピットのハイテク化に関する特別作業部会」が開かれた。NASA(アメリカ航空宇宙局)、FAA(アメリカ連邦航空局)、NTSB(アメリカ国家運輸安全委員会)、航空機メーカーなどの専門家たちが集まった。その時、こんなジョークが座を沸かした。
「将来、コクピットにいる乗員は2人。それはパイロット一人と犬一匹。パイロットは犬に餌をやるため、犬はパイロットが何かに触ったら噛みつくため」というものだった。
航空事故を検証していくと、航空機の飛ばし方、事故の起こり方、事故原因調査に、極めて事故当事国の固有の国民性(気分、感情、反応、働きぶり、組織の作り方など)のファクターが微妙かつ密接に絡んでいることに気付かされる。
航空機はエアラインの属する民族の固有文化によって飛び、固有文化ゆえに墜落し、事故原因調査も固有文化によって行われる。真相がいち早く究明され、公開される国と、何時までも究明されず、また同種の事故を経験してしまう国々もある。日本はどうだろうか?
今、私たちがなしうる航空安全への取り組みは、第一に機械・システムの安全化をさらに完全なものにしていくこと。第二にヒューマン・エラーの研究及び、緊急時の人間の行動研究である。第三に、予兆・シグナルをいかにキャッチして事故を未然に防ぐかということになる。
事故には何らかの予兆があるのではないかと思われる。ヒヤリ・ハット事例の解析、IRS(インシデント・レポーティング・システム)にその足がかりを見ることができる。そして、第四に民族固有の事故文化の分析である。
2001年9月11日、我々は衝撃的な事件を目の当たりにした。目的のためには手段を選ばず、自らの命も顧みない集団が存在することも事実なのである。まず、航空の安全のためには何をすべきか? 私たちにまた新たな命題が突きつけられた。
本書は、雑誌『航空情報』に連載中の「航空事故に見る巨大システムと安全」からテーマを選び、改めて取材をやり直し書き下ろした。快く取材に応じ、また資料を提供していただいた方々に厚くお礼を申し上げる。
空に憧れ、パラグライダーを操って空を飛んでいた長女・江都子に本書を捧げたい。パラグライダー合宿の帰り、仲間2人とともに永遠に空の彼方に召された。
2001年9月
藤石 金彌
コクピット クライシス◆目次
はじめに
「大航空時代」の人間と機械のあるべき関係
コクピットで犬がパイロットを監視する?
第一章 ニアミス(異常接近)と空中衝突の間に
―絶体絶命! ジャンボ機とDC10―
T“焼津近辺にて当社DC10とニアミス…大変危険な状況でした”
1 悪夢! 史上最大の航空事故発生か?
2 管制レーダーにCNF(接近警報装置)点滅――便名を取り違える
3 958便応答せず
4 TCAS(航空機衝突防止装置)作動
5 けが人発生は2度目の急降下時
U コクピットと管制卓の間にギャップが
1 ニアミスが多発していた「関東南C」
2 事故調、中間報告で3項目の建議、管制ミスには触れず
3 30年ぶりの管制大改革――航空管制一元化へ
V ニアミスはヒューマン・エラーのかたまり
1 ニアミス(異常接近)は日常茶飯事
2 JAS機とF4ファントムのケースはニアミスではない(国土交通省)
3 降雪で標識見えず滑走路を横断、ニアミスに
4 日航機同士のニアミス事故に似たヒースロー空港のケース、原因は教官管制官に
5 ニアミスは管制官のコミュニケーション不足が大半
6 信頼できるのは機械か人間か?
7 増大する管制取り扱い数
8 RA(危険機情報)に従わないケースも
9 進むTCASの改良
W パイロットと管制官の緊急事態
1 パイロットの緊急事態
2 緊急事態は声に出る
3 管制官と緊急事態――指示時にミス多発
4 究極の危機脱出ソフトLOFT
5 INS(慣性航法装置)にもズレ
6 GPS(全地球測位システム)を使う運輸多目的衛星(MTSAT)新管制システム
第二章 バーチャルリアリティでハイジャック
―キャプテンを刺殺し操縦、墜落寸前に―
T 予告通り空港の欠陥を突いてハイジャック
1 ハイジャック! キャプテン死亡?
2 ハイジャッカーの犯行予告?
3 横須賀、次に大島行きを要求
U ハイジャッカーは横田基地着陸を狙う!
1 ハイジャッカーは横田基地に着陸したかった!
2 操縦させないので刺して、操縦
3 “ハイジャック史上最も危険”だった
4 危機管理と乗客の逮捕協力
V 過去に学ばない空港、航空会社
1 教訓が一つも生かされないうちに事件再発
2 出発客、到着客の分離
3 東京地検、簡易精神鑑定で西沢被告を起訴
4 「ゲームのようにうまく操縦できなかった」
5 臨戦態勢に入った米軍横田基地
W 自殺願望のハイジャッカー、ジャンボ機を操縦! 高度300メートルに
1 高度300メートルに急降下、危機一髪墜落を免れる
2 自尊心を傷つけられ、一気に犯行へ?
3 バーチャルリアリティの深い陥穽
4 西沢被告の動機は自殺
5 初めて謝罪
第三章 オウム・シンドロームがひとり歩き――恐怖のハイジャック事件へ!
―何でもありのハイジャックと、懲りない日本人―
T 時代の先端をいったハイジャック
1 流行したハイジャック
2 航空大衆化を背景に、ハイジャック防止法適用第1号
3 チェックインとコクピット・ドアの管理の甘さ
U 何でもありのハイジャック
1 小野田元少尉、江崎博士、トルコ航空機事故遺族帰国、そしてハイジャック発生
2 ジャンボ機からパラシュートで逃亡?
3 倒産経営者がピストル発射――着陸後で大事に至らず
4 「ハワイに行きたかった高校生」ハイジャック――コクピット・ドアが開いて引っ込みがつかず
5 ダブル・ハイジャック発生
6 6時間後またもやハイジャック発生、ハイジャッカーは青酸自殺
7 暴力団員と栓抜き
V オウム・サリン・シンドロームがひとり歩きして―恐怖のハイジャック事件へ
1 “尊師”の一言でオウム・テロと判断
2 日本中がオウムにハイジャックされた?
3 東京発至急報“再びオウム・カルトがテロ”
W 警視庁特殊急襲部隊(SAT)に出動命令!
1 警視庁特殊急襲部隊(SAT)函館へ出動
2 タイヤをパンクさせても離陸阻止
3 あかつきの急襲部隊突入
4 最後までオウム・サリンの恐怖下に
◆国内でのハイジャック事件・航空機爆破事件
第四章 “コンコルド後ろから出火! 右だ!”
―Wrong Runway―
T“ル・ブルジュ、ル・ブルジュ! もう間に合わない”
1 神よ、あの時あなたはパリのどこにいらっしゃったのですか
2 直前離陸機の落下物――コンコルド踏んでバースト――破片がタンク直撃――出火・墜落
3 就航以来70件のタイヤ・トラブルが
U“爆弾タイヤ”が燃料タンク直撃
1 タイヤは爆発物?
2 管制塔は機体後部の火災を指摘、クルーは第2エンジンの火災と誤解?
V 甦る不死鳥《フエニツクス》
1 改修に3000万ポンド(52億円)
2 TWAジャンボ機爆発の原因もタンク爆発? NTSBは燃料タンクの改修を指示
3 ユーロジャンボA380の開発に影響は出るか?
W“そこっ、何かがある!”RUNWAY――THE KEY TO CRASH
1 Construction machinery on a runway(滑走路に建設機械)
2 Monsoon winds reach 100km/h(時速100キロの強風)
3 Typhoon Elephant God made its presence felt(荒れ狂う台風「象神」)
4 It was on the wrong runway(滑走路を間違えた)
5 It felt like we bumped into something huge(何か大きな物にぶつかった)
6 Shovel-car(ショベルカーに衝突)
7 It was a pilot error : SIA(パイロット・エラーとシンガポール航空認める)
8 滑走路不安は日本でも――成田空港で滑走路剥がれ、羽田に3機代替着陸
第五章 キャプテンが大変だ!
―Incapacitation!(操縦能力喪失)―
T タワキルト・アラ・アッラー エジプト航空機大西洋事故
1 パイロットが操縦中に自殺?
2 「タワキルト・アラ・アッラー!」(神の御心のままに!)
U サドン・インキャパシテーション1 キャプテンが倒れた!
1 着陸寸前、キャプテンが意識不明に
2 飛行中に窓ガラス吹っ飛び、パイロット失神
3 キャプテンDead On Arrivalで着陸
4 航空身体検査証偽造のキャプテン、操縦中に心不全で死亡、墜落
5 陸でも空でも多発するインキャパシテーション
6 着陸寸前、脳か心臓にトラブルが!
7 事故を起こしやすい生活上の出来事
V サドン・インキャパシテーション2“キャプテンやめてください”精神分裂症で逆噴射
1 「飛行機が落ちたらしい」午前8時48分羽田空港消防課
2 厳寒とヘドロの海で決死の救難活動
3 退去命令を拒否、最後の生存者救出
4 事故後“キャプテン”行方不明に
W 同僚、会社ともキャプテンの大変調を見逃す
1 “キャプテン”の“病歴記録”明らかになる
2 着陸寸前にエンジンを逆噴射
3 前日も意味不明の急旋回
4 精神病への偏見が対応を誤らせる
終章「コクピット クライシス」がグローバル・クライシスに!
アメリカ同時多発テロはハイジャックされた4機によって引き起こされた!
監修の言葉 井上直哉
本文イラスト・佐竹政夫
第一章
ニアミス(異常接近)と空中衝突の間に
―絶体絶命! ジャンボ機とDC10―
T“焼津近辺にて当社DC10とニアミス…大変危険な状況でした”
1 悪夢! 史上最大の航空事故発生か?
2001(平成13)年1月31日、静岡県焼津市上空3万7000フィート(1万1100メートル)で、日本航空のジャンボ機B747―400D(乗員・乗客427人)と、DC10(乗員・乗客250人)のニアミス事故が発生した。このニアミス回避に伴う急激な機体の乱高下で、100人の重軽傷者が出た。
しかし、視界がよかったなど飛行条件に恵まれ、パイロットの瞬間的飛行操作もあり、まさに677人の死者を出したかもしれない空前の航空事故は幸運にも避けられた。
事故機着陸直後からパイロット、管制官への警察による刑事事件立件のための捜査が先行。「事故原因究明が先ではないか」との声やパイロットの人権擁護問題が絡んで混乱し、一時、日本航空も警察も、パイロットの所在がつかめない事態となった。
国土交通省東京航空交通管制部(埼玉県所沢市)
2 管制レーダーにCNF(接近警報装置)点滅――便名を取り違える
事実確認に時間がかかったが、時間が経つにつれて、ヒューマン・エラーが連鎖して起きた極めて深刻な「複合ヒューマン・エラー事故」だったことが浮かび上がってきた。
当日、トラブルの発端は国土交通省・東京航空交通管制部(埼玉県所沢市)で発生した。管制官が羽田発那覇行きJAL907便(B747)と、釜山発成田行きJAL958便(DC10)を取り違えて指示を出してしまったのである。
航空路管制業務は1つのレーダー盤がカバーする空域(セクター)ごとに、パイロットと交信したり指示を出すレーダーマン(レーダー管制官)、隣接する空域との調整を行う調整管制官、コンピュータへの入力を行う補助管制官の3人の管制官がチェックしあいながら管制を行う。
この日、午後1時から「関東南C」の管制に当たっていたのは、管制官経験3年目だがこのセクターを研修中の管制官がレーダーマン役で管制卓に座っていた。経験10年の女性管制官がチェッカー兼教官役でつき、それと調整役の管制官の3人のチームだった。
訓練生は空の東海道ともいわれ、混雑する難所である、静岡県上空のセクター「関東南C」の資格を取るため2000年8月から実務訓練をしていた。当日は午後1時から9時半まで勤務の予定だった。
仕事を始めて3時間が経過、そろそろ夕方のラッシュ時間に差しかかっていた。処理を終えた管制ケースについて研修生と教官が話し込んでいたところ突然、レーダー画面にCNF(接近警報装置=Conflict Alarm)が点滅して異常事態を知らせた。
羽田発那覇行きの日本航空907便B747―400Dジャンボ機と、日本航空の釜山発成田行き958便DC10がCNF網の中に入ったのである。
CNFは絶えず3分後の航空機の予測位置を計算し、高度差が1600フィート(約480メートル)、水平距離が5カイリ(9・25キロメートル)の範囲内に複数の航空機が入ると警報を出す。このまま進めば両機は3分後に空中衝突してしまう。
午後3時54分0秒
ここで、管制官(訓練生)はニアミス回避のため「上昇」中の907便はそのまま「上昇」させ、成田に向け「下降」準備に入っていた958便を「下降」させようと回避プログラムを瞬間的に考え、即座に指示を出した。
3 958便応答せず
【時間から始まる項目は東京航空交通管制部との交信記録(概要、日本語訳)、 (傍線)は間違った指示、《 》は伝えたかった指示】
午後3時54分25秒
管制官:JAL907便《958便》、3万5000フィート(1万500メートル)に降下してください。関連航空機があります、今すぐ降下を開始してください。
これが便名を取り違えるという重大なミス指示だった。指導に当たっていた管制官(教官)も調整役の管制官も、訓練生が便名を取り違えたことに気付かなかった。
午後3時54分33秒
907便:こちらJAL907便、3万5000フィートに降下します。関連航空機はすでに視認しています。
一方、907便のキャプテンは、「上昇」中なのに「降下」を指示してきたことをいぶかりつつも確認することはせず復唱した。管制官は通常の復唱と聞いた。958便では同じ周波数を使っていたものの無線の状態が悪く(?)、907便と管制官との通信をモニターできなかった。こうしてさらに両機は接近していった。
午後3時54分39秒
管制官:JAL958便、間隔設定のため、磁針路130度の方向へ飛行してください。
―958便応答なし―(?)
午後3時54分50秒
管制官:JAL958便、間隔設定のため、磁針路140度の方向へ飛行してください。
―958便応答なし―(?)
さらに両機が接近を続けていく事態に直面した管制官は、方向を変えてニアミスを回避しようとした。東に向かって飛んでいた958便に対し右方向への方向転換を指示する。1回。2回。
ところが958便は応答しないばかりか、レーダーでも右旋回した形跡はなかった。無線状態が悪いことに加え、TCAS(航空機衝突防止装置)が作動して「降下」を指示したのでコクピットは混乱に陥っていた。
朝日新聞社
4 TCAS(航空機衝突防止装置)作動
午後3時54分55秒
管制官(教官):JAL957便《958便》、今すぐ降下を開始してください。
午後3時55分3秒
管制官(教官):JAL907便、3万9000フィート(1万1700メートル)に「上昇」してください。
ただならぬ事態に、教官役の管制官が交信に割り込んだ。ところが慌てたのか、この空域に存在しない航空機を呼んで「957便、今すぐ降下をしてください」と指示した。次に、教官は907便に「上昇」を指示した。
この直後、907便にTCAS(航空機衝突防止装置=Traffic Alert and Collision Avoidance System)が作動して「上昇」を指示した。TCASは、自機の周囲にいる航空機に質問電波を発射し、その応答電波で相手機の方位、距離、高度を表示する。相手機との接近率を常にモニターし、接近率の度合いに応じて乗員にアドバイスを出す。航空法で一部の機種を除く全旅客機に装備が義務付けられている。
午後3時55分21秒
907便:東京管制部、航空機衝突防止装置が作動しました。今降下を開始します。
958便:(あー)再び「上昇」します(航空事故調査委員会中間報告までは907便の交信とされていた)。
午後3時55分28秒
管制官(教官):JAL908便《907便》、了解しました。
907便が降下を始めた直後、両機のTCASが作動した。907便には「上昇」を、958便には「降下」するよう音声と表示で指示した。958便のキャプテンはこれに従って降下を始めた。このままのコースで飛び続ければ25秒後には空中衝突してしまう。
907便のキャプテンは「すでにエンジン推力を絞っており、降下を続けた方がいい」と判断した。両機とも降下を続けながらクロスポイントに向かっていった。
ところが、958便のTCASは「降下」から「降下率増やせ」に変わった。パイロットは指示通り降下率を増加させたところ、907便がさらに機首を下げて同じ高度に降下してくるのを見た。とっさの判断で降下を中止し、操縦桿を強く引いて機体を「上昇」させた。
数秒後、両機はさらに近付き、907便は958便の真下約10〜70メートルを通過した。
管制官のミスリードでニアミスの直前まで行ったが、ニアミスのまさに寸前、TCASに両機とも従わず結果的に難を逃れたといえる。
この緊迫した最後の一瞬にも、管制官(教官)は便名を誤って復唱している。復唱だったから直接の混乱は来さなかったものの、混乱の極みにあったことがうかがわれる。5段階のエラーポテンシャルでいえば、フェーズ4にあったものと思われる。極度の緊張でパニック状態に陥り、意識も半ば薄れたようになってしまったのだろう。
フェーズというのは、元鉄道労働科学研究所の橋本邦衛氏が分類した5段階の意識レベルの区分で、0が無意識状態、1がボケた状態、2がリラックスした状態、3が意識清明、4が興奮状態で、高度の判断を行うのは3がよいとされている。しかし、フェーズ3は持続させることができない。
5 けが人発生は2度目の急降下時
この後、907便はさらにニアミス回避時を上回る急降下を行った。着陸時などの通常降下時の倍以上もの降下率で、機体には体重の6割に当たるマイナス約0・6G(重力)がかかり、シートベルトをしていなかった乗客や、飲み物サービス中のワゴンが浮き上がった。
さらに、急降下から機体姿勢を回復させる時、プラス約1・6G(体重の6割の力)で押しつける力が働いた。シートベルトをしていなかった乗客、サービス中のスチュワーデスが浮き上がって、次に床に叩きつけられた。落ちてきたワゴンでけがをした人も多かった。
午後3時55分31秒
907便:こちらJAL907便、関連航空機は解消しました。
午後3時55分34秒
管制官(教官):JAL907便、了解しました。
午後3時55分58秒
958便:東京管制部、こちらJAL958便、今3万7000フィート(1万1000メートル)まで「上昇」中です。航空機衝突防止装置が作動しています。3万7000フィートを飛行中に当該装置により降下の指示が出ました。左方向からB747が降下したことを視認しました。そのため、こちらは3万7000フィートへ「上昇」します。現在3万5000フィート(1万500メートル)を通過しました。
午後3時56分18秒
管制官(教官):JAL908便《958便》、了解しました。
ここでも便名を取り違えている。
午後3時59分21秒
907便:JAL907便、日本語で申し上げます、先ほど焼津近辺にて、えー、当社DC10とのニアミス……ニアミス発生いたしました。大変危険な状況でした。高度差200フィート(60メートル)あったかなかったかくらいです。以上、報告いたします。
午後4時10分9秒
907便:こちらJAL907便、けが人がいるようです、羽田空港へ戻る管制承認を要求します。
管制官:確認します。羽田空港へ戻ることを要求しているのですか。
907便:その通りです。
管制官:了解しました。現在の位置から大島に直行し、WESTポイントを経由して羽田空港へ飛行することを許可します。
907便のキャプテンの申告によれば、200フィートでの高度差で両機は交差したが、危うく空中衝突は避けられた。一部の新聞では約10メートルの高度差ですれ違ったとされている。
907便はこの直後、何らかの理由で機首上げ状態となった。フライトレコーダーなどの解析によると、比較的急な降下の後、いったん「降下」を中断して若干「上昇」し、その後再度、1分当たり3000メートル前後の降下率で数秒間、「急降下」したのである。
「予期せぬ上昇」に驚いたキャプテンが、さらに「急降下操作」を行ったのだろうか。2度目のジャンボ機の機首上げ、急降下は誤操作か、機の特性だったのだろうか?
JAL907便とJAL958便の軌跡
Uコクピットと管制卓の間にギャップが
1 ニアミスが多発していた「関東南C」
全運輸省労働組合が1998年に行った管制官のアンケートがある。当時、全国の管制官1840人のうち1527人が回答している。5年間でのニアミス体験を聞いたところ、22・9パーセントの管制官がニアミスでヒヤリ経験をしていた。管制の機会がなかった人を除くと26パーセントになる。
空域(セクター)別では「関東南C」が13件で、米軍三沢基地を抱えている「三沢西」、「播磨」とともに多かった。時間帯では午後4時前後が最も多く、50件発生していた。
事故から3日目、国土交通省は管制ミスを認めた。即日、「交通管制システム検討委員会」(委員長・深谷憲一航空局長)を開催した。これは異例のことであり、同省が受けた衝撃の大きさが分かる。航空事故調査委員会の調査結果を待たずに対策に乗り出した形だ。
この日検討に入ったテーマは、管制業務の実態調査と管制空域、航空路の設定、管制官の訓練体制など抜本的な内容も含んでいた。実態調査の中身は、航空機の間隔、管制英語の適否、訓練生への教育・監督、管制要員の充足など。ニアミス事故にかかわった2人の管制官は業務から外し、航空事故調査委員会の調査に協力させ、その後再訓練を行うこととした。
また、6項目の緊急点検を実施し、新たな管制支援システムの開発を行うことにした。緊急点検項目は「適正な管制用語の使用」、「交信内容の正確な把握」、「訓練生への適正な監督」などである。さらに、国土交通省は、管制官のチームワーク強化に向け、CRM(Cockpit Resource Management)方式の導入を図るため、同省管制課の管制官2人をFAA(アメリカ連邦航空局)に緊急派遣することを決めた。
CRMは、チーム全員の能力が最大限に引き出せるよう過去の事例などを基に異常事態に対する訓練を実施するもの。1980年代からアメリカの航空会社が運航乗務員を対象に開発・導入し、日本をはじめ各国の航空会社も導入している。グリッド理論やシミュレータを使って、ありとあらゆる方策を検討し、最適な対策を立案・実行する。
CRMは運航乗員の間ではポピュラーな訓練方法だが、欧米では、管制の現場にも導入が始まっている。CRMの副産物としてチームワークが強化され、コミュニケーションギャップが解消されるという。
2 事故調、中間報告で3項目の建議、管制ミスには触れず
国土交通省・航空事故調査委員会は、ニアミス事故から5カ月経った2001年6月22日、扇国土交通大臣に中間報告書を提出すると同時に建議を行った。
中間報告は、事故の詳細な経過や事故原因についてはまだ調査中であるとして、概要を述べるにとどまっている。概要では、負傷者の数に訂正があった。同委員会が独自に再調査したところ、重傷者9人(警察発表7人)、軽傷者91人(同35人)、計100人(同42人)となった。
事実経過では、管制官が907便に指示し(958便に出したつもり)、これに従って降下中のパイロットが行ったとされていた「再び上昇します」との通報は、実はニアミス直前に上昇に転じた958便からの通報であったことが解明された。
建議は事故調査の過程で、早急に再発防止対策が必要と判断された場合に出される安全勧告。今回は、以下の3項目。
@緊急時に管制官と操縦士が確実に意思疎通ができる通信手段の検討
A両者の連携強化のための教育・訓練の実施
BTCASの運用改善
今回の事故では、2機の2人のパイロット(907便=B747と958便=DC10)と2人の管制官(訓練生と教官)の計4人に、全体の状況の把握がうまく行われていなかった。CNFが点灯して両方の機がすれ違うまでの約1分間に、管制官2人が便名を間違え、958便のキャプテンへの衝突回避指示が2度伝わらず、管制官は両機にTCASが作動していることを知ることができなかった。
こうした際の緊急通報の手段もない。これまで、TCASについてはパイロットは極めてあいまいな運用を行ってきた。管制官の指示は絶対だが、視界が悪い時にはTCASに従うというのが常識だったが、いずれにしても、最終判断はパイロットが行うことになっている。
建議では、TCASのRA(危険機情報)が出た場合の対応について、パイロット、管制官、TCASの専門家の三者が連携して分析することなどの対応を求めた。国土交通省は早速、管制官の管制卓にTCASの作動状況を表示する装置の開発に入っている。また、管制官がコクピットに同乗する訓練などの交流プランの検討も行っている。
最大のニアミスの原因とされている管制官の便名取り違えについては言及していない。すでに再発防止に着手しているからだという。建議の目的が、早急の再発防止にあるとすれば、大きな事故の原因とされている管制官のミスについて言及を避けているのは、航空局の属する管制官も航空事故調査委員会も当事者たちが国土交通省に属していることの限界かもしれない。
今日も同じような管制官によって同じ航空機が、同じようなパイロットによってたくさんの乗客を乗せて飛んでいる。
3 30年ぶりの管制大改革――航空管制一元化へ
2001年6月27日、国土交通省は30年ぶりの航空管制システムの改善を発表した。1月31日に発生した日航機同士のニアミス事故を契機に、「交通管制システム検討委員会」を設け、管制システムの見直しを進めていた。岩手県雫石町で起きた全日空機と自衛隊機の空中衝突事故(1971年)以来の抜本的大改革になる。5日前に航空事故調査委員会が発表した中間報告と建議を踏まえて、管制官の訓練・研修体制の見直しや、管制支援システムの整備などの再発防止策が含まれている。
この改革は、ソフト(管制官の教育・訓練、運用)、ハード(管制機器)、環境(空域)とあらゆる点から見直し・検討を進めたもので、数年かけて段階的に進められる。航空保安行政は雫石事故後に行われた航空路、自衛隊の訓練区域の分離以来、今度は民間機の空中衝突防止を眼目に「航空管制一元化」という大きな改変を迎えた。
改善点は@訓練・研修体制A管制官の適性検査B業務環境Cパイロットとの交流D管制支援システムE空域・航空路F航空機便名の7項目となっている。
@訓練・研修体制
ヒューマン・エラー防止を目的に、管制官資格取得後の教育を航空保安研修センター(仮称)で行う。これは、航空保安大学校岩沼分校(北海道)を改組して当てる。同時にここで教官や監督者の養成も行う。マルチスクリーンによる管制用シミュレータ、自主訓練システムの開発を行う。
A管制官の適性検査
管制官の能力を判定する1年ごとの審査制度を新設する。判定に不合格の管制官は再訓練や配置転換をする。
B業務環境
29カ所の管制機関のうち、訓練教官が配置されていない13カ所に教官を配置する。
Cパイロットとの交流
管制官が飛行中のコクピットに入って、パイロットの操縦の実際を実地に見る搭乗訓練を2002年から開始する。
D管制支援システム
管制卓にCNF(接近警報装置)が映るよう、2001年度中に改良する。ニアミス事故では958便が針路変更したため、CNFが点灯したのはニアミスの1分前だった。少なくとも3分前には点灯するよう改良する。また、2004年までにTCAS(航空機衝突防止装置)が作動したら管制卓に映るようにする。
E空域・航空路
東京、札幌、福岡、那覇の4カ所の航空交通管制部のうち、東京に6割が偏重している管制量を分散する。GPS(全地球測位システム)を応用した広域航法(RNAV)を取り入れ、航空路を複線化し、一方通行を可能にする。地上電波をキャッチしながらチェックポイントをたどって飛行する今の航法を改め、コンピュータで位置を確認しながら最短航路を飛行することになる。2005年には防衛庁、米軍など、すべての航空交通を一元的に把握するATM(航空交通)センターを設置する。
F航空機便名
ニアミス事故の原因が訓練中の管制官の便名の取り違えだったことから、便名識別のため、紛らわしい便名には末尾にアルファベットをつけて交信することとし、今後、ICAO(国際民間機関)に国際統一ルールとして採用するよう提案する。「紛らわしい便名をなくせないか?」という扇国土交通大臣の発案で考え出された対策。
Vニアミスはヒューマン・エラーのかたまり
1 ニアミス(異常接近)は日常茶飯事
日本航空機同士のニアミス事故がもたらした驚きと恐怖は大きく、「こんな事故は今までに起きていないだろう」とか、「もう起こらないだろう」と思いたい。実は、空港内、飛行中を問わずヒヤッとさせられたニアミス事故は内外で枚挙にいとまがないほど発生している。
FAA(アメリカ連邦航空局)が国内460の空港を対象に、パイロットから「空港内でヒヤリとしたりハッとした報告」をまとめた(2000年6月20日)。滑走路に他の航空機や車が進入してきたり、危うく衝突しそうになったことが60〜68回(年間)あり、1週間に1回はニアミスの危機があったという恐るべき数字となっていた。
実際に事故に結びつかないと思われるケースも含めると431回もあり、ワーストワンはロサンゼルス空港の33回だった。そのうち、衝突の危険があったと見なされたものは13回となっていた。
2 JAS機とF4ファントムのケースはニアミスではない(国土交通省)
2000年12月5日午後3時ごろ、青森県下北半島沖上空で北海道・女満別発羽田行きの日本エアシステム186便(A300)が別の飛行機と接近したと、キャプテンから運輸省(当時)に報告があった。
運輸省や防衛庁が調べたところ、別の飛行機とは航空自衛隊のF1支援戦闘機で、2機は最も接近した時、同一高度で水平距離は1・8キロメートルだった。運輸省は接触や衝突の危険があるニアミス(異常接近)に当たるかどうか調査に入ったが、2001年4月26日、ニアミスではなかったと次のように公表した。
下北半島の北東海上上空における接近事案
(1)概要
2000(平成12)年12月5日14時53分ごろ、日本エアシステム186便(JAS186、女満別発羽田行き)は高度3万1000フィート(9300メートル)を飛行中、左前方から有視界飛行方式(VFR)で飛行してきた航空自衛隊機(F4ファントム2機、三沢飛行場から千歳飛行場行き)と接近し、TCAS(航空機衝突防止装置)のRA(危険機情報)に従い上昇及び目視後、右旋回の回避操作を行った。
(2)航空局の調査結果
@JAS186が行った回避操作は急激ではなく、自衛隊機も約6マイル(9・6キロメートル)前方にJAS186を目視し、通常旋回による回避を行った。最接近時の両機の位置関係は、高度差1000フィート(約300メートル)、水平距離約3・5マイル(約6・5キロメートル)あり、衝突または接触の危険があったとは認められず、異常接近ではなかったと判断する。
AJAS186にRAが発生した主な原因は、自衛隊機が防衛庁防空用レーダー局からの交通情報を受けたものの、関連機を誤認したことである。
(3)航空局の対応
防衛庁にあっては、外部監視要領及びTCASの作動範囲等について教育がなされているところではあるが、本事案の発生に鑑み、航空局より同庁に対して、当該教育の再徹底を図るよう要請した。
軍用機と民間機のニアミスもまた増加傾向にある。スピードと機動性を追求されている戦闘機は特に旅客機との相性が悪い。突然現れて、想像外の飛び方をする戦闘機は、スピードとパワーに十分余裕があり、旅客機にとっては大きな脅威になっている。
3 降雪で標識見えず滑走路を横断、ニアミスに
1999年12月25日、午後5時30分ごろ、折からの降雪をついて新千歳空港に那覇発全日空292便(B767、乗客・乗員79人)が着陸した。そして、駐機場に向かってタキシング(航空機の自力走行)していた時、離陸態勢に入って滑走をしていた日本エアシステム(JAS)機と地上衝突寸前のニアミス状態になった。
運輸省(当時)、新千歳空港の管制を行っていた防衛庁などの話によると、全日空機は着陸後駐機場に向かうため滑走路を横切ろうとしていた。ところが、滑走路ではJAS機が離陸中だった。これに気付いた管制官は、全日空機に滑走路手前の停止標識前での一時停止を指示した。
「全日空止まれ! 全日空止まれ!」との管制官の指示も空しく全日空機は停止せず、滑走路を横切ってしまった。JAS機は危うく飛び立った。両機は約100メートルの至近距離にあったと見られ、両機が衝突する可能性は非常に高かった。
全日空機の機長は「降雪で停止標識を識別できず、ブレーキを踏んだもののすでに標識を越えていた」と言うのである。運輸省は、全日空機の管制指示無視と見なし、2000年2月21日、機長に対し警告書を出した。
このケースは、公表に時間がかかった。防衛庁が運輸省に対しニアミスの事実確認や、全日空への確認を行ったが、極めて対応が鈍いものだった。読売新聞が後日報道して、やっとこの大きなニアミス・ケースが世間に公表された。
航空事故の場合、関係者が事実の公表に躊《ちゆう》躇《ちよ》したり対応が遅いと、その間に同種の事故が起きてしまう恐れがある。一遍の警告書で済まされているが、関係者は「空の安全」をいったいどのように考えていたのだろうか。次のAAIB(イギリス航空事故調査局)の徹底した調査を見てほしい。
4 日航機同士のニアミス事故に似たヒースロー空港のケース、
原因は教官管制官に
2000年4月28日、ロンドンのヒースロー空港で、成田発のブリティッシュ・エアウェイズ(BA)のBA006便(B747―400・乗客381人)と、ブリティッシュ・ミッドランド航空のブリュッセル行きエアバスA321(乗客89人)がわずか約30メートルに接近するというニアミスを引き起こしていたことが、ニアミス発生から20日後の5月17日に明らかになった。
30メートルといえば、長さ70・7メートルのB747―400の半分。ほとんど衝突状態にあったといえる。着陸寸前にあったBA機は、急上昇し難を逃れたが、一方の離陸滑走中だったブリティッシュ・ミッドランド機の乗客は、「頭上で雷のような爆音がしたと思ったら、離陸のため滑走路を走っていた飛行機が急停止した」と話している。
事故当日、ヒースロー空港は霧が深く立ちこめ、離発着のスケジュールが大幅に乱れていたため、管制官には航空機を早急にさばかなくてはいけないというプレッシャーがかかっていた。こうした状態の中で管制官はBA機に着陸許可を与えたと同時に、ブリティッシュ・ミッドランド機にも離陸許可を与えてしまった。BA機があと30メートルで滑走路に着陸するという時に、管制官がこのままでは、BA機がミッドランド機の上に着陸・衝突してしまうことに気付き、即座に着陸回避を命じた。
ブリティッシュ・ミッドランド航空のスポークスマンは、「われわれの機が離陸を許可された。そしてBA機も着陸を許可された。両機はヒースローの航空管制官によって管制されていた」と憮然たる思いを述べている。
両機は同じ滑走路を使用していた。また、管制に当たっていたのは教官によって指導されていた実習生であった。事態を重視したイギリス政府は、重大事故の際にしか関与しないイギリス航空事故調査局(AAIB=Air Accidents Investigation Branch)に原因究明調査を命じた。
2001年4月6日、イギリス運輸環境省のAAIBは、ヒースロー空港ニアミス事故についての詳細な事故調査報告書を公表した。事故調査報告書は33ページに及び、クルー、管制官、ATC(航空管制)などを詳細に調査し、20の事実を掘り起こしている。そして原因は、
@28歳の女性実習生を訓練していた教官(男性35歳)の管制ミス
A事故発生を察知した時の教官の初期指示にある
とした。さらに
@滑走路上でのストロボライト使用の徹底
A適切な管制打ち合わせ、航空機が離着陸する時の管制訓練を控えること
B訓練中の管制機器の監視を強化すること
など3項目の勧告を行った。
5 ニアミスは管制官のコミュニケーション不足が大半
管制官のコミュニケーション不足の問題については、今までもニアミス事故やコミュニケーション不足と見られる原因で航空事故が発生するたびに問題となっていた。今回のような重大トラブルが発生すると、改めて、過去のこの種の事故を思い起こす。
1977年3月、スペイン領カナリア諸島テネリフェ空港でジャンボ機同士が衝突、582人が死亡するという史上最大の航空事故が発生した。管制官の不確実な管制と、それに伴う無許可離陸によって引き起こされたものだった。
1997年7月、インドネシア・スマトラ島では当時この地域では雨不足で、大規模な森林火災が発生していた。このため視界不良の中を着陸態勢に入って右旋回していたガルーダ機に、管制官は左旋回を指示した。混乱したガルーダ機は結局、山にぶつかってしまった。日本人を含む乗客・乗員234人全員が死亡した。
1991年、ロサンゼルス空港で、管制官が滑走路で離陸許可を待っていたビジネスジェット機に離陸許可を出した。その直後、上空で着陸態勢に入っていたUSエアー機にも着陸許可を出してしまった。両機は滑走路上で衝突し、死者34人、重軽傷者40人近くを出した。
1996年12月、那覇空港上空で、離陸したエアーニッポン機と、着陸態勢に入っていた自衛隊機がニアミス。管制官がエアーニッポン機の離陸遅れなど混雑時の調整を的確に行わずニアミスとなった。
2000年12月24日には、今回の日航機ニアミス事故同様、ホノルル発名古屋行きと上海発成田行きの日航機同士が、伊豆大島上空ですれ違った際にTCAS(RA)が作動した事例もあった。最接近時の水平距離は約10キロ、高度差は約60メートルだったという。この時も2機の管制を行っていた管制官は、訓練生と教官役の2人だった。両キャプテンは衝突の危険を感じなかったため、ニアミス報告をしていない。
6 信頼できるのは機械か人間か?
今回のケースは天候がよく、お互いに相手を視認できたのでTCASを無視して回避操作ができた。しかし、「機械を信頼するか」、「人間を信頼するか」という大命題がまた提起されることとなった。天候が悪くて視程が確保できなかったり、雲中や夜間だった場合、機械を信頼する者、しない者の判断が複合すると収拾がつかなくなる。
自動化が進む航空機のコクピット内は機械と人間との究極のインターフェースの場といえる。現在では、コクピットは操縦の自動化が行き着くところまで行っているので、パイロットはCRT(電子画面)に次々に現れるデータのモニタリングが最大の仕事になる。
一方、管制の現場で管制官はレーダーと無線を頼りに、パイロットとの連絡に追われながら、機体、機速の異なるさまざまな状況の10機以上の航空機を効率よくさばかなくてはならない。時には、空域(セクター)に入った10機を超える航空機をどうさばくか、組み立てを考え、それに沿って調整を加えながら実行していく。
管制官は管制の設計図を作り、指示し、モニターしなくてはならないから、いわば管制のすべてを組み立てて実施しなくてはならない。極めて人間側に裁量することが担わされる仕事となってきている。
冒頭の日航機同士のニアミス事故を検証していくと、958便の無線の不調を除いて機械類はうまく働いていた。機械の出すシグナルに対し、慌てたり、指示に従わなかったりしたことがいっそうヒューマン・エラーを増幅した。機械に比べると人間という不確実な存在そのものが原因となったケースである。
7 増大する管制取り扱い数
航空管制は、空港から空港へ飛ぶ航空機を、空域ごとの管制官がバトンを手渡すように引き継ぎながら誘導する。例えば、東京国際空港(羽田)―大阪国際空港(伊丹)を飛行する場合、パイロットは東京国際空港(羽田)のコントロールタワーにいる航空管制官(地上管制、管制承認)が行う飛行場管制により、地上走行し離陸の許可をもらって離陸する。次に、コントロールタワーの下にあるターミナルレーダー管制所で行われている、離陸してから航空路に達するまでの進入管制を受ける。
次に、東京湾上で東へ旋回して高度を上げ、いったん横田空域を通過する。横田空域は羽田の空域の西端から、南は伊豆半島、西は長野県松本、北は新潟県に広がる高度5400メートルから6900メートル以下の空間で、在日アメリカ軍が管轄しており、アメリカ軍の管制を受ける。
1992年6月、この管制域の一部が返還されたので、現在、実際にアメリカ軍の管制を受けているのは東京―大阪線のみとなっている。それまでは北陸、中国、九州北部へのルートもアメリカ軍の管制を受けていた。
航空機が横田空域を離れると、東京航空交通管制部はレーダーで監視しながら順次、各空域ごとに誘導していく。航空機が伊丹空港に近付くと、伊丹空港の進入管制を受け航空機は高度を下げ、着陸すると伊丹空港の飛行場管制下に入って着陸し、地上走行してフライトを終える。
管制官は現在、全国に約1730人いて、東京、札幌、福岡、那覇の4カ所の航空交通管制部と、羽田、成田など全国24の主要空港に配置されている。東京航空交通管制部の場合、山形から四国までの空域を担当し、管制官を約75人ずつ5つのチームに編成し、交代制で勤務している。4勤1休が基本パターンで、初日は午前7時から午後3時半、2日目は午後1時から9時半、3日目は午後5時から翌日の午前10時半の勤務となっている。
各空域は、さらにセクター(区分)と呼ばれる細かい担当に分けられ、レーダーを監視しながら航空機と交信する担当者、隣のセクターとの調整や承認業務の担当者など3人で担当している。
なお、最近、観光客が増えてきた結果、便数の増加などで出発・到着の遅れが目立ってきた釧路、石垣、青森、宮古の各空港にも航空管制官を配置することが決まった。今まではパイロットに気象などの情報を伝える管制通信官が配置されていた。管制通信官は管制官のように指示を出すことはできず、離着陸の判断はパイロット自身によって行われてきた。国土交通省は管制官の配置空港をさらに増やすことを決めている。
国土交通省航空局の統計によると、国内4カ所の管制部が取り扱った機数(民間機、自衛隊機、米軍機の合計)は、1998年の1年間で196万8750機で東京航空交通管制部が全体の48パーセントを占めており、1993年からの6年間で1・25倍に増えている。
8 RA(危険機情報)に従わないケースも
2001年2月1日、国土交通省航空局はTCAS(航空機衝突防止装置)が回避操作の指示であるRA(危険機情報)を出すケースが年間約520件(1999年)あったと公表した。なかでも巡航中、高度を変更する時に発生する割合が最も多く、巡航中に上昇や降下した際にRAが作動したケースが248件、離発着直前が61件、進入・上昇中が202件あった。
RAが作動した全体の30パーセントが、管制の指示で飛んでいた航空機同士だった。RAにより回避操作を行い、キャプテンが「ニアミスの危険があった」と判断した場合は、国土交通省への報告が航空法で義務付けられている。
RAが作動してもパイロットが危険性を感じなかった時でも、「RAリポート」として報告するよう、航空局は航空各社などに要請している。また、航空局は、ニアミス報告は、1999年は0件、「RAリポート」は約520件あったことを明らかにしているが、117件は実際には、安全な間隔が管制官の指示で設定されていたり、誤作動であったことが分かった。
このように、パイロットは操作マニュアルではRAに従うことになっているが、最後は自身の判断で操作するよう定められている。パイロットがRAに従ったのは85パーセントで、無視したケースも10パーセントあった。
ニアミスが増えている背景には、第一に、国内空港の管制取り扱い便数で196万5531便(1999年)と、5年間で6・7パーセント増になっている空の過密化がある。第二には、横田、岩国、嘉手納の米軍管制空域の存在がいっそう過密化に輪をかけている。第三に、空港の24時間化、新空港のオープン、空港の拡張などにより、ますます飛行機の便数は増えてきているのが実情で、管制体制が現実についていっていない実態がある。
9 進むTCASの改良
事故機と同じジャンボ機やDC10に現在搭載されている従来型のTCASUは、自機の前方最大約40マイル(64キロ)以内のTCASを搭載している最大45機に1秒ごとに質問電波を発射し、相手機からの応答情報で双方の高度、速度、方位、距離などを表示する。相手機がTCASを未搭載の場合、機影のみが表示される。
接近率を計算し、最接近予想地点に達する約40秒前に1回目の接近警報「トラフィック、トラフィック」とTA(脅威機情報)が出る。さらに約25秒前には「クライム、クライム(上昇)」か「ディセント、ディセント(降下)」とRA(危険機情報)の指示が音声で流れ、前面のパネル画面に相手機が赤で表示されると同時に最善の飛行方法などが表示される。
現在稼働中のTCASUは開発から十数年が経過していて、軍用機にうまく適応しない、空港など混雑する場所で作動する、地表近くで作動するなど欠陥も顕在化してきており、TCASVが開発された。これは、相手機の高度変化や接近率の分析をより正確にし、お互いの距離が近くても安全で効率的な回避を可能にし、乗員が必要以上の回避操作をしないで済むようにしてある。
RAを管制レーダー上にも表示できるシステムが2003年にも稼動する。ニアミスが発生した場合、管制官はCNF(接近警報装置)に表示されて初めて知る。航空機同士の情報のやり取りも知ることができなかった。こうした情報不足からニアミス発生時の管制ミスが誘発されたもので、今回のニアミス事故の反省に立った改善策の一環だ。アメリカでは回避行動に従来の上下だけでなく、左右の動きを加えたり、人工衛星経由で相手機の操縦データを受信して最適な回避指示を行う「未来型TCAS」の研究が始まっている。
Wパイロットと管制官の緊急事態
1 パイロットの緊急事態
飛行中の航空機に緊急事態が発生すると、パイロットやクルーそして旅客らが直ちに生命の危険にさらされる。精神的には、筆舌に尽くしがたいような極限のストレス状況に陥る。そして、この状況は航空機がどこかに着陸して止まるまでは治まらない。いわば航空機に乗っている全員が瀕死状態に陥るわけで、地上で発生するもろもろの緊急事態とは際立って異なる。
緊急事態とは、非日常的な、予想外なことが突発的に発生し、その結果が極めて重大なことである。そして、事態への対応時間が限られ、結果の回避いかんに自分の生命の行方が左右されると自覚している場合である。その点、同じ航空機の運航を預かるとはいえ、管制官とは雲泥の差があるといっていい。
管制官はどんなに困難なタスクが要求されようと、どんな管制トラブルに見舞われようと生命の安全は保障されている。そして、ここで特記されることは、「瀕死状態に陥った人間に対し、そうでない人間がそれを理解し、指示することはかなり困難である」ということだ。
2 緊急事態は声に出る
緊急事態に陥ったパイロットの心理を、操縦の困難度が増すと音声がどう変化するかを調べたデータがある。これを見ると、困難度がいくら上がっても処理が可能と認識できるうちは音声には緊張が見られない。ところが、いったん処置不可能、あるいは処置の効果が現れないことが分かったとたんに緊張度が高まり、声が上ずったり叫んだりするようになる。
パイロットや管制官の声をパソコンで分析し、疲れや眠気などを検出できるシステム「センテ」を、独立行政法人電子航法研究所などが開発した。30秒間の話し声をパソコンに入力すると疲れの内容が数値と色で表示される。
ソフトの開発は、実験者が新聞を読んだり、単純な計算問題を長時間解いた時の声の変化を、パソコンに現れる音声信号の波形の変化にとって調べた。すると、テスト時間が長びくと声の不安定さが増すが、興味ある記事を読んだり、短時間の休憩をとった後には、声の不安定さは減るという結果が出た。
同時に、実験者に「疲れ」や「眠さ」を自己申告してもらったが、本人が自覚する約20分前に、声に疲れなどの前兆が出始めていることも分かった。
このソフトで、リアルタイムで心身の状態を検出すれば、あらかじめ危険状態を知る有力な方法となりそうで、地上交信時などのパイロットの声を常時監視して、疲れや眠気の兆候が出た時に警告を与えることも可能となりそうだ。
国産開発ソフトだが国内の関心は低く、NTSB(アメリカ国家交通運輸安全委員会)、NATS(イギリス航空サービス)、ダイムラークライスラーなど、海外からの引き合いが殺到している。NATSはストレス管理に応用する計画だ。
計器は減ったが次々に情報が現れ、パイロットは判断と監視に追われる
3 管制官と緊急事態――指示時にミス多発
次に、管制官が緊急事態に陥った時の心理状態について考えてみたい。管制官の仕事をおおまかに、情報を目、耳から取り入れる「入力系」、記憶・照合・判断など脳内で行われる「処理・判断系」、タイミングを計りながら口頭、手指による書き出しやキーボード操作による「出力系」に分けて職務分析してみる。
この3つの分野でエラーがどのように分散していたかを調べたデータによると、レーダー管制では「入力系」1:「処理・判断系」1:「出力系」8、タワー管制では「入力系」3:「処理・判断系」2:「出力系」5の比率だった。
参考までに、パイロットでは「入力系」3:「処理・判断系」2:「出力系」5(モズレー氏のデータ〈Moseley 2400 Pilot Error Accidents 〉。いずれも1時間単位)で、改めて指示などを出す際の「出力系」にエラーが片寄っていることに驚かされる。
処理機数とエラー経験の関係を見ると、機数が増えるとともにエラー経験の数が増えていく。7機から10機になると急激にエラー経験が増え、11機から14機でピークを迎え40パーセントの管制官がエラーを経験していた。
「処理・判断系」では、3機を超えるとエラー件数のカーブは比較的緩やかに徐々に上がっていく。ところが「出力系」のうち、タイミング面に絞って見るとエラーカーブはほぼ横ばいである。操作面では徐々に上がっていく。だが通信面では少数機のうちでもエラーカーブは上がり、50パーセントを超えるほどである。3機から6機でいったんカーブは落ちるものの、11機から14機で急激に再び上がり、80パーセントを超えるというエラー最大のピークを迎える。「入力系」でも「出力系」でも11機から14機がエラーのピークであり、「出力系」では通信面で11機から14機がエラーのピークであることが証明されている。
また、新人の場合は機数の増大とともにエラーが増えていく。一方、ベテランでは比較的ヒマな時にもエラーが発生するのが特徴で、これは、いわゆるポカミスである。仕事についたばかりの時、機数が少ない時、間もなく仕事が終わる時など、忙しい時ばかりではなく発生しているのがベテランのエラーの怖さである。
これらのデータは、今回のニアミス事故における管制官のケースを見事に裏書きしている。ニアミス事故は、決して突然起こったのではなく、たくさんのエラーあるいはミスが発生していた中で事故の形をとってその姿を現したに過ぎないことが分かる。言い換えれば、たくさんのエラーやミスの集団の中で一本の連鎖となって事故の姿が垣間見えたのである。
4 究極の危機脱出ソフトLOFT
今、こういった緊急事態に備えて、せめて行えることは、パイロットには、いかなる事態に陥っても冷静さを失うことのない精神力の鍛錬と、重大トラブルのケース・スタディであろう。管制官にも緊急事態時にうろたえたりしない精神訓練と、ケース・スタディが必要だ。
最新のCRM(コクピット・リソース・マネジメント)にLOFT(Line Oriented Flight Training=路線飛行訓練オリエンテーション)がある。このフライト・シミュレータには通常のフライト・プログラムが組み込まれているが、クルーが実地では経験し得ないような稀な緊急事態をあらかじめ組み込んである。もちろん、これは訓練クルーに知らされていない。
クルーは直面する障害を解決しながら飛行を続け、さらに同乗している教官をクルーあるいは管制官とあらゆる機械的リソース(資源)、人的リソース(資源)を駆使して問題解決を図る。このありさまはすべて記録され、さらに最適な解決策を考え出すことに使われる。
5 INS(慣性航法装置)にもズレ
1983(昭和58)年9月1日、ニューヨーク発ソウル行きの大韓航空007便がソビエト・サハリン沖でソ連空軍のスホーイ15戦闘機に撃墜された。撃墜現場が米ソ冷戦の緊張の高い空域だったことから、さまざまな事故の原因説が唱えられた。例えば、諜報活動のための航路逸脱説、航法機器の故障説などなどである。事故から約20年が経って、ソビエトの崩壊、東西冷戦の解消など現代史の大きな変化があった。だが、依然として事故原因は解明されていない。
現在までのところ、007便は中継地アンカレッジで、離陸時オートパイロットのセレクターを、通過地点「ベセル」へのヘッディングモード246度のまま飛行して、サハリン沖に迷い込んだ。INS(Inertial Navigation System=慣性航法装置)モードに切り替えて自動操縦(オートパイロット)にしていなかったからという説が一つ。
もう一つは、同じく中継地アンカレッジでINSモードに自機の経緯度を入力する際、西経149度と入力すべきところを129度と入力したのではないかというもの。その結果、007便はサハリン上空へと逸脱飛行をした。シミュレーションの結果007便の航跡とぴったり一致したというものである。
いずれの説もINSがキーワードになっている。INSはコマの特性を利用している。高速で回転するコマの回転軸は、一定の方向を保つ性質がある。宇宙ゴマなどで遊んで、不思議さに頭をひねったことがある人も多いと思う。
航空機に、重力の方向に対し常に平衡状態を保つジャイロを使った水平安定板(プラットホーム)を設け、高感度の加速度計を置き、加速度を検出し、コンピュータで加速度を積分すれば速度が求められる。さらに積分すると、移動した距離が出る。この計算を自動、連続的に行い、速度、位置、進行方向などを求めて航行するのがINSだ。
自動操縦装置とリンクしており、飛行前に目的地までのフライト・プランをコンピュータに入力すると自動的に所定の飛行コースで目的地に向け飛行する。
例えば、太平洋横断のような長距離航路を飛ぶ際、航空機は搭載しているINSで自機の位置を知り、これを短波無線で管制に通知し管制を受けている。航空機に管制レーダー電波が届かないので自機位置通報を管制機関に伝えるのである。
大韓航空機撃墜事件のように航空機自体の位置通報が狂っていては、管制は成り立たない。また、INSには入力ミスや長時間飛行で誤差が生じてしまう問題があり、短波による音声交信は雑音がひどく、聞き取りにくい、聞こえないという場合もある。
007便撃墜事件の1年3カ月後、アラスカの洋上のセント・ポール島にレーダー基地が建設され運用が始まった。北太平洋の航路監視の精度が格段に向上したが、今回さらに高性能のMTSAT(次項参照)の導入が始まっている。これが完全稼働するなら007便のような悲劇はもう起きないだろう。
6 GPS(全地球測位システム)を使う
運輸多目的衛星(MTSAT)新管制システム
1999年11月にH2ロケット8号機の打ち上げが失敗し、運輸多目的衛星(MTSAT)による新しい航空管制システムの運用は足踏みしていたが、2001年8月29日、H2Aロケットの打ち上げが成功し、ようやく新管制システムの運用が視野に入ってきた。
順調にいけば、2002年中にH2A5号機でMTSAT―1Rが打ち上げられる。運用が待たれている、次世代を担う新しい管制支援システムの仕組みはこうだ。
飛行している航空機がGPS(全地球測位システム)で割り出した自機の位置情報を、MTSATに発射し地上の航空衛星センターに送信する。このデータは航空交通管制部に送られ、航空機の正確な位置がレーダーに映し出され、管制官はリアルタイムで管制ができる。
このシステムでは航空機の位置が明瞭に把握されるので、逸脱飛行やニアミスの防止など航空安全に飛躍的に効果がある。また、航空路の混雑による離発着遅延の減少や、航空機同士の飛行間隔を狭めることが可能となる。
高度や風向きなど燃費効率のよい航空路に航空機を集中させることも期待されており、燃費削減に大きなメリットもある。今後30年間で7500億円の燃料の削減が見込まれ、航空運賃の引き下げ、地球環境保護に大きな効果がもたらされると見られている。
しかし、新システムはすべての航空機にGPSと衛星通信装置を装備しなくては効果が100パーセント発揮されない。この設置には1億円かかるので各航空会社の対応はばらばらで、完全運用には5、6年かかりそうだ。
第二章
バーチャルリアリティでハイジャック
―キャプテンを刺殺し操縦、墜落寸前に―
T予告通り空港の欠陥を突いてハイジャック
1 ハイジャック! キャプテン死亡?
1999(平成11)年7月23日、東京は朝から梅雨明けを思わせる青空がスカッと広がった。しかし、その明るい気持ちをぶち壊すように、正午のテレビニュースは冒頭から「ハイジャック」の速報で始まった。「羽田発新千歳行きの乗員・乗客517人を乗せた全日空ジャンボ機(B747―400)がハイジャックされた」というのだ。時間が経過しても同じ内容の速報が繰り返されるばかりで、羽田の固定カメラが空港の映像を映し出すだけだ。
12時15分過ぎ、全日空のジャンボ機がB滑走路の格納庫の前に止まっている映像が映し出された。この映像がパン(場面転換)された後、「男は取り押さえられました」と速報が出た。再び先ほどの全日空ジャンボ機が映し出され、「これがハイジャックされた機体です」とナレーション。続いて、「キャプテンがけがをしている模様です」と、ようやく具体的な事実が流れ始めた。
12時45分、NHKは連続ドラマ「すずらん」に切り替わった。そこで民放に切り替えたとたん、「キャプテンは死亡しています」と驚くべきニュースを流しているではないか。ジャンボ機は元の位置に止まったままで、周囲には全然動きがない。
まだ救急車もパトカーなどの警察車両も到着した形跡はなく、夏の強い日差しにトリトンブルーとモヒカンブルーに鮮やかに彩られた機体が単独で滑走路に留まっているのである。ハイジャックに遭ってキャプテンが死亡しているという、極めて異常な事態に陥っているジャンボ機の周りには車も人も見当たらず、機内では何が起こっているのか手がかりは見えない。周囲には異常な事態が起きた時の一種異様な緊張が漂っている。
1時15分過ぎ、最初にジャンボ機に横付けされたのは2台のパックス・ステップカー(旅客乗降車)だった。飛行中の航空機中でキャプテンが刺殺されるという、衝撃的ハイジャック事件の真相はさらに想像を超えて展開していった。
まず、ハイジャッカーはキャプテンを刺殺後ジャンボ機を操縦して、危うく墜落させる寸前まで行っていた。また、羽田空港が凶器持ち込み可能であるという警備の弱点を、空港当局、航空会社に対して警告していた。
そして、事件翌日、ハイジャッカーは精神病の疑いがあるということで、マスコミは一斉に匿名報道に切り替えた(後日、責任能力はあり、事件が重大という理由で、再び実名報道に切り替わった)。犯人は極めて飛行機に詳しい航空マニアという側面もあり、フライトシミュレータにも習熟していた。
朝日新聞社
2 ハイジャッカーの犯行予告?
ハイジャッカーは事件の前月、空港、航空会社、マスコミ等に次のようなメールを送っていた。
「荷物受け取り場と2階の出発ロビーを結ぶ階段に警備員が配置されておらず、自由に行き来できることが分かりました。確かに階段上り口に『この先通れません/NO ENTRY』の標識がありましたが、実際4カ所ある階段すべてを、何もとがめられることなく上ることに成功いたしました。このことは、ハイジャック犯罪を容易に成立させることとなります。
1 地方空港で羽田空港を経由して別の地方空港へ向かうチケットを購入し、チェックインの際、接続とせず羽田空港までの手続きをとる。
2 鋭利な凶器の入った手荷物をコンテナ積みの手荷物(注=預け入れ手荷物)として託送する。
3 羽田空港到着の際、手荷物を受け取ることなく到着ロビーを出て、すぐさま次の出発便のチェックイン手続きを行う。
4 手ぶらであるから、手荷物検査にかかることなく出発ロビーに入れ、直ちに手荷物受け取り場に下り、先の便で託送した手荷物を受け取る。
5 階段を上って出発ロビーに戻り、近くのトイレに入って変装する。
6 次の便に搭乗し、手荷物に入れておいた凶器を用いて乗っ取りを行う」
と、詳しく指摘し、詳細な対策までついていた。そして、
「ビッグバード(羽田空港)は出発と到着の乗客が分離されていないという、世界的に見てもあまり例のない構造を持っています。その特徴を利用した、私にも思いつかない犯罪が他にもあり、巨大犯罪組織に狙われる可能性が十分考えられます」
と、羽田空港の不備を利用して凶器を持ち込む方法が詳細にわたって述べられており、これを読んだ者は少なくともオウム真理教の麻原奪還作戦の危険を感じ取るべきであった。
3 横須賀、次に大島行きを要求
事件発生から約1週間後の7月29日、コクピットと管制塔(コントロールタワー)との交信内容が明らかになった。運輸省(当時)が英語の交信記録を日本語に訳し、捜査当局に提供していたものである。
12時前、叫び声が聞こえるまで操縦していたのは長島キャプテンで、12時からの操縦と交信は、コクピット・ドアを破壊して突入した古賀副操縦士が行ったものと見られる。また、交信時間が長い部分は、長島キャプテンが無線のスイッチを入れっぱなしにして、管制官にコクピットの模様を伝えようとしていたものと思われる。
全日空61便交信記録(一部略)
11時21分52秒 管制官:ANA61、滑走路の方位で飛行してください。風向200度(南南西)、風速20ノット、滑走路16左より離陸支障ありません。
21:57 キャプテン:滑走路16左より離陸支障なし。ANA61、滑走路の方位で飛行します。
(略)
25:06 キャプテン:あー、緊急事態、ハイジャック、ハイジャック、ANA61。
25:13 管制官:ANA61、あー、了解、あー、ANA61、了解。
25:47 キャプテン:レーダー、ANA61、針路045度を要求します。横須賀への飛行を要求します。
25:55 管制官:ANA61、了解。針路045度、横須賀へ誘導します。交通情報、2時方向、10マイル(1・6キロ)、北へ進行、高度5000フィート(約1500メートル)を離脱し降下中、ボーイング747。
26:05 キャプテン:ANA61、視認できません。
26:09 管制官:了解。
27:14 キャプテン:レーダー、ANA61、高度1万3000フィート(3900メートル)で間違いありませんか。
27:20 管制官:ANA61、高度1万3000フィート、その通りです。
27:24 キャプテン:ANA61、高度3000フィート(約900メートル)への降下を要求します。
27:28 管制官:ANA61、了解。高度4000フィート(約1200メートル)へ降下してください。
27:35 キャプテン:ANA61、高度4000フィートに降下します。
28:13 管制官:ANA61、左旋回は可能ですか?
28:15 キャプテン:ANA61、高度3000フィートで横須賀への誘導を要求します。
28:22 管制官:ANA61、了解。左旋回、針路340度で飛行してください。横須賀へ誘導します。
28:27 キャプテン:針路340度、ANA61。
28:31 キャプテン:あー、左旋回340度ですか、確認してください。
28:35 管制官:その通り、340度です。到着機があるため、これ以上の左旋回は少しお待ちください。
28:38 キャプテン:ANA61、針路340度。
29:33 管制官:ANA61、訂正します。高度5000フィート(約1500メートル)を維持し、左旋回針路190度を飛行してください。
29:38 キャプテン:ANA61、高度5000フィート、針路190度。
29:42 管制官:その通りです。
31:42 管制官:ANA61、右旋回針路220度、高度5000フィートで飛行してください。
31:45 キャプテン:ANA61、針路220度、高度5000フィート。
31:50 管制官:その通りです。
32:00 管制官:ANA61、確認します。要求高度は3000フィートですか? 降下お待ちください。
32:05 キャプテン:ANA61、高度3000フィートを要求します。
32:07 管制官:了解、降下お待ちください。到着機、左側、10時方向、5マイル(8キロ)、北西に高度3000フィートで飛行中、ボーイング767です。
32:17 キャプテン:ANA61、高度5000フィートを維持します。
32:22 管制官:了解。
32:36 管制官:ANA61、横須賀通過後の意向を聞かせてください。
32:40 キャプテン:ANA61、少しお待ちください。
32:42 管制官:了解。
33:01 管制官:ANA61、高度4000フィート(1200メートル)まで降下し、横須賀へ直行してください。
33:09 キャプテン:ANA61、再送願います。
33:13 管制官:ANA61、高度4000フィートまで降下し、横須賀へ直行してください。高度4000、横須賀へ直行。
33:21 キャプテン:ANA61、高度4000フィートへ降下し、その後横須賀へ直行します。
33:30 キャプテン:横須賀通過後、大島への直行を要求します。
管制官:横領賀通過後、大島へ直行してください。高度3000フィート(900メートル)への降下はお待ちください。
33:34 キャプテン:ANA61。
34:52 キャプテン:ANA61、横須賀通過後、大島への直行を要求します。
35:01 管制官:ANA61、了解。横須賀通過後、大島への直行を承認します。降下お待ちください。高度4000フィートを維持してください。高度3000フィートへ降下予定です。
35:12 キャプテン:ANA61、了解。横須賀通過後、大島へ直行します。
35:19 管制官:その通りです。
35:36 管制官:ANA61、高度3000フィートまで降下してください。
35:39 キャプテン:高度3000フィートに降下します。ANA61。
36:43 管制官:ANA61、この後のそちらの意向を教えてください。
36:47 キャプテン:ANA61、少しお待ちください。
36:49 管制官:了解。
Uハイジャッカーは横田基地着陸を狙う!
1 ハイジャッカーは横田基地に着陸したかった!
横田基地(略図)
36:58 キャプテン:今、下の方からね、大島の後、どうするんだというあなたの意思を……。
男:えー、113・8(横田基地のTACAN=距離方位測定装置の周波数)、……。
37:08 キャプテン:横田の、はい。困るじゃん。
37:13 男:言ってくれなきゃ、古賀(副操縦士)、邪魔だよ。
37:16 キャプテン:2人。
37:17 男:どいてくれ。
37:18 キャプテン:はい。
37:34 キャプテン:じゃー古賀、座席もうしようがない。替わっていいから、はい。
37:56 キャプテン:コクピットから今出るように言っています。えーと包丁を1つ持ってます。
えーと単独犯のようです。この周波数キープしてください。今、無線はモニターされてません。今、コパイ(副操縦士)が外に押し出されました。これから、コクピットをロックするようです。今、ロックしました。
38:19 キャプテン:ロックはこっちにあります。コクピットのこちらにありますから、あのそこじゃなくて電磁ロックになってます。
38:27 キャプテン:ロックはこの状態でロックになってます。
男:ロックだな。
キャプテン:はいそうです。
38:34 キャプテン:こちらから一方的に教えますんで。
38:43 キャプテン:外側からは開きません。内側からは、えー開くようになってます。
38:50 キャプテン:はい。
38:58 キャプテン:えーと包丁を持って、今うろうろコクピットの中をしています。ガムテープも持ってます。
39:20 キャプテン:もうすぐ旋回しますよ。あの、ここ下、見ていただければ三浦ですね。えー横須賀であれが江ノ島、見えますか。右手、あそこに江ノ島見えますね。それでこれからもうオートパイロットになってますから、ずーっと行きますからね。
39:47 キャプテン:今、回りましたね。このままにしてますから、大島の方に向かってますから、はい。
40:17 キャプテン:南風の20ノットですね。陸上の風は結構強い風ですよ、はい難しいですよ。
40:30 キャプテン:管制の方が大島の後どうするかというふうに聞いているんですけど。
40:39 キャプテン:113・8のTACANは、この飛行機はあのー民間機だから入らないんです。
40:48 男:だめだ、行け。
キャプテン:あ、行けますよ。だから、113・8じゃなくてもいいのね。横田に向かえばいいってこと。はい、じゃー。
男:しばらく……(?)
45:27 キャプテン:今度大島から横田に行きたいって言って、横田に行っていいよって言ったら、その右の上に、ちゃんと横田のあとどのぐらいで横田だって出てくるからそれ見れば分かります。だからこのままでもいいと思います。じゃーあの管制の方に、えー横田に行きたいって言いますね。あとちょっとこれ、非常に高度低くて、ちょっと、もうちょっと上げた方がいいと思うんですよね。大島とこうまあ雲も出てるし、ねーちょっと高度上げちゃだめですかねー。もう1000フィート(約300メートル)上げましょうか。
46:13 男:上げないで。
46:16 キャプテン:上げないで、はい、ちょっと言いますね。右旋回もしくは左旋回で横田VOR(超短波全方向式無線標識)への飛行を要求します。
46:24 管制官:ANA61、了解しました。右旋回、磁針路360度で横田に誘導します。より高い高度を要求しますか。
46:39 キャプテン:右旋回、磁針路360度、現在高度の維持を要求します。
46:46 管制官:ANA61、了解しました。高度3000フィート、磁針路360度です。
46:50 キャプテン:了解。
47:45 キャプテン:そこ、スイッチと座席は動かない。
48:02 キャプテン:えーとねー、そのスイッチを前にやればできます。1つは上下に動くし、あー分かった、それでいい。
48:36 管制官:ANA61、東京デパーチャーコントロール席です。
48:47 キャプテン:それで、じゃー横田の方の距離が分かるようにしますからね。ちょっと揺れてきたから高度どうでしょうね。上げた方が揺れがおさまると思うんですけど、このまんまじゃないとだめですか。
49:19 キャプテン:はい。
49:55 キャプテン:ADF(自動方向探知機)はねー、このブルーがあるでしょ。ADF、Aって書いてDFって書いてあるでしょ、右下に。
50:04 男:はい。
50:05 キャプテン:それが座間のADFが入ってて、ここに針が出てるでしょ、上に。その方向っていうことですね。
50:20 管制官:東京デパーチャーコントロール席通報、関連交通があります。横田周波数は129・4。周波数129・4、129・4。
51:19 キャプテン:こんなこと聞いて怒んないでね。あのーどこか下りますよねー。当たり前ですけどねー、はい。まあそのうち指示くれるんでしょうけども。あのー今、11時50分ですね。で、お昼ぐらいになってくると、どんどんさっきよりも雲がすごく出てきたでしょう。うん。きのうもおとといもあの東京ほら、すごく練馬で大雨が降ったでしょ。あれと同じようにあの、これから、あの、もこもこもこもこ白い雲が出てくるから、あのー、今日の予報もそうなんですけども、今こうやっていいお天気でよく見えるから、3000フィート(900メートル)で……。
52:10 キャプテン:問題ないんだけども、これからもっともっと雲が出てくると、ちょっとだんだん飛べなくなってきて、雲に入ってきたりすると、ほかの飛行機と衝突したりする危険が出てくるから、高度変えるとか、あと下りるとか、あの、しないといけないので、それ考えておいてください。で、燃料があともう2時間、もうないだろうから、もうすでにねー、40分、50分も経っているから、はい。
53:21 キャプテン:あれ江の島ですからね、右手に見えるの。
2 操縦させないので刺して、操縦
53:28 キャプテン:右と左、じゃあちょっと待ってて。あのーうんと、それじゃあいいですよ、替わりますけども、えーとじゃあ先に、うんと、席替わるの、オーバー(?)いい(?)うんちょっとねー、オートパイロットがねー、うん、当たるちゅうーと(?)危ないから、はい、何かほしいものあるんだったら、こっちから渡しますから、はい。
53:55 キャプテン:ここ外見といてね。見といてねというのは厚木とかあるから、ほかの飛行機もいっぱい飛んでるから、うんちょっと危ないから、あと丹沢の山も、あそこ、見えてきたでしょ。
54:08 キャプテン:もうちょっと、本当はもう1000フィート(300メートル)ぐらい、高度上げたいんですよねー。あそこに山見えます? 薄く雲の中。衝突しちゃったら大変だから。
男:はい。
54:30―32 キャプテン:アー(悲鳴)。
57:02 管制官:東京デパーチャーコントロール席通報、関連交通があります。横田周波数は129・4。周波数129・4、129・4。
(後略)
この後、約6分間、西沢被告は操縦席に座って操縦桿を握った。自動操縦装置(オートパイロット)を解除しようとしたができなかった。コースセレクター(方向指示装置)を操作して、都心方面に旋回させたところ、機体が下降して、高度は約900メートルから約300メートルまで一気に降下した。
対地接近警報装置が作動して、「テレイン、テレイン」という警報音が鳴りわたった。11時58分からの2分間で570メートル下げるという異常降下だった。異常な高度降下と警報音を聞いて、危機的状況を察知した古賀副操縦士や同乗していた非番のパイロット(デッドヘッド)ら7人がコクピットのドアに体当たりしてドアを開けようとした。
1分、2分体当たりが続き、その模様は乗客にも分かるほどだった。ようやくドアが開くと、西沢被告は包丁を床に置いたまま突入した副操縦士らに気付くこともなく操縦に熱中していた。副操縦士らは西沢被告を拘束すると同時に、直ちにジャンボ機の操縦立て直しを行った。
ジャンボ機は昭島市上空にあり、高度300メートルまで降下していた。危機一髪で機は上昇し、墜落を免れた。立て直しがあと数十秒遅れていたら、住宅過密地域にジェット燃料をまだたっぷり積んだジャンボ機が乗客もろとも突っ込み、爆発・大火災を引き起こし、少なく見ても数千人の人々を犠牲に巻き込んだ悲劇的な事態になっていただろう。
12時14分、ジャンボ機は羽田空港のB滑走路に着陸、同時にB滑走路は閉鎖された。
アメリカ軍横田基地上空で副操縦士とデットヘッド(非番の乗員)がドアを破壊して犯人を拘束
3“ハイジャック史上最も危険”だった
「ハイジャッカーが飛行機を自ら操縦しようとした事件は聞いたことがない。パイロットが襲われるのも異例で、今回の事件はハイジャック史上でも最も危険なものといえる。驚かされるのは、国内線でも厳重な手荷物チェックをするのが国際的な標準になっている時に、容疑者が刃物を機内まで持ち込んだという事実だ」
これは、ハイジャック犯罪を専門に研究しているジェームズ・トンプソン・英ロンドン・カレッジ大教授が事件当日の新聞(毎日新聞夕刊)に寄せたコメント。トンプソン教授の指摘通り、あと数十秒間副操縦士らのコクピットへの突入、犯人の拘束が遅れていたら、ジャンボ機は横田基地周辺に墜落していたに違いない。
日本ではハイジャックは、1979(昭和54)年11月23日、日本航空112便(DC10、大阪―東京)が浜松上空で乗っ取られて以来、1995(平成7)年6月21日の全日空機ハイジャック事件(函館事件)まで16年間発生していなかった。日本航空112便の事件は、成田に緊急着陸し、給油中にキャプテンらがハイジャッカーを取り押さえ解決している。凶器は栓抜き1本だった。
16年間ハイジャックがなかったというのは、国際的には日本は運良く、混乱が続く中東情勢や南アジア情勢などに絡んだ政治的テロの余波を受けなかったことが挙げられる。国内では、ハイジャックは成功しないという“常識”が周知されてきたことの証だ。
しかし、世界的には空の犯罪は政治的テロから、パンナム機テロ墜落事件(1998年12月23日)のように爆弾テロなどの無差別テロに取って代わられてきている。加えて、西沢被告のような“常識”の通用しない輩が増加してきている現実がある。
むしろ、ハイジャックで人質を取って要求を貫徹するより、航空機爆破を予告して要求が通らなければ航空機もろとも爆破するというような戦術から、乗客もろともの自爆テロと変わってきている。相変わらず空は人間による危険にさらされており、むしろ危険度は増してきている。したがって、各国の空港の安全対策は自爆テロ対策に重点が移ってきているのが現状だ。
4 危機管理と乗客の逮捕協力
1995年6月21日に発生した全日空857便(B747、羽田発函館行き)のハイジャック事件は、16時間後に対ハイジャック特殊部隊を中心とする警察部隊が突入し、乗員・乗客365人を救出することに成功した。中年男性のハイジャッカーによる単独犯行だったが、オウム真理教の関連をにおわせたりしたので大騒ぎになった。
まさかハイジャック事件が発生しようとは、空港、航空会社、保安当局ともに想定していなかったので、当時の村山首相ら政府は対応に苦慮した。その教訓から再発防止対策が真剣に検討された。いわゆる危機管理である。
函館事件では、犯人はコクピットの入り口付近に陣取り、コクピットを監視したので、パイロットがキャビンの状況を掴めず解決に時間がかかった。また、犯人の命令でスチュワーデスらは乗客の手を縛ったり、目を粘着テープでふさいだりさせられた。ここまで単独犯の言いなりになる前に、対応がとれなかったのかという憤りに近い声が澎湃として起きた。
しかし、航空各社のハイジャック対策要綱(マニュアル)では、乗員・乗客の安全が最優先とされ、クルーは犯人に対してはなるべく刺激しないようにとされている。現場では、「犯人を逆上させないようにするだけで精一杯」というのが現実だった。
航空法上、保安要員でもあるスチュワーデスの教育には見直すべき点があるとし、亀井静香運輸相(当時)は、警察のハイジャック専門家から講義を受けて「乗客に危険が及ばないようにしながら、いかに捜査に協力するか」訓練しておく必要があると言っていたのだが。
スチュワーデスのハイジャック対策訓練の内容は、ビデオテープを見て、フライトクルーと討議を行うなど「座学」中心で、時間も約1時間。キャプテンなどの運航乗務員に対しては各社とも、毎年のように訓練を実施しているが、内容はスチュワーデスの訓練と同じような座学中心。
また、乗客の対応について、当時の野田毅国家公安委員長(自治大臣)は8月1日朝、テレビに出演し、
「2階の乗客はみんな(男が)単独犯で、凶器も包丁程度のものだと分かっている。だったら、どうしてもう少し協力態勢がとれなかったのか。自分はかかわりたくないという最近の風潮があるが、治安にみんなで協力する気持ちが出てこないといけない。警察やほかの人の仕事として遮断していると、結局自分の身に降りかかってくる」
とコメントしている。
これに対して、「自らの職務(警察)をわきまえない発言である」とか、「危害を加えられたら誰が責任を取るのか?」という声が起こった。問題の本質はひとえに航空会社の危機管理のまずさであって、乗客にスーパーマンの役割を期待するとは、日本の警察官僚のトップも子供に等しい考え方しかできていない。
ハイジャックが多発した1970年代、イスラエルのエルアル航空はスカイ・マーシャルが全便に、アメリカはエア・マーシャルを危険が予想される便に添乗させた。これにならって、「空の警官」を全ての便に乗せるべきだという意見が出た。何事も荒事を好まない航空会社は、真剣にこれを検討することはなかった。2001年の9月11日に発生したアメリカ同時多発テロを経験すると、空の警官を添乗させることの必要性を強く感じる。
V過去に学ばない空港、航空会社
1 教訓が一つも生かされないうちに事件再発
この章の冒頭で述べた事件では、スチュワーデスがハイジャッカーの要求に対し、あまりにも早くコクピットに案内しすぎたのではないか、あるいは、キャプテンはあまりにも早くコクピットの扉を開けすぎたのではないかという声が出た。コクピットは内側から施錠されており、キャプテンの許可がないと開かない。外側にいるスチュワーデスがインタホンやノックで合図をすると、内側から開く。
例えば、単独犯か、複数犯であるかの確認のため、通路を数往復させるような機転を利かせた対応はとれなかったのか。非番の乗務員がいつも乗っている現実があるのだから、事態打開の突破口が開けた可能性がある。また、コクピットのドアを開けさせられても、キャプテンがいったん外に出てきて対応するなどできなかったのだろうか。
一部には、「マニュアルで飛行中のコクピットにはフライトクルー以外の入室を禁止してしまえ」という意見も出ている。ハイジャッカーをコクピットに入れることは最大の危険要因であるのだから、これが可能なら一番効果的な対策に違いない。しかし、ハイジャッカーが人質を取り凶器を振りかざしてコクピットに入室を要求した場合も考えられ、こうなったらドアを開けざるを得ない。
泥縄の感は否めないが、運輸省は事件後の8月4日、危機管理の専門家や犯罪心理学者らを新たにメンバーに加え、統一マニュアル策定のための「保安対策懇談会」を発足させた。事件が起きなくても、常に実態に即したマニュアルを点検しておかなくてはならなかったのである。
また、機内にいったん刃物を持ち込まれたら犯人の要求をはねつけるのは極めて難しい。検査段階でのチェックの徹底が最大の防止策といえそうだ。函館事件では、犯人が持っていた凶器は差し替え式のドライバー1本だった。「保安検査に関する指針」でも、これはチェックの対象だったが、なぜ羽田空港の手荷物検査を通ったのか。
事件直後、運輸省は航空3社と全国の空港事務所に、差し替え式ドライバーの機内持ち込みの禁止を指示した。また、金属探知機の感度を上げて、検査を厳しくするよう求めた。これは事件ごとに行われる儀式のようなものだ。
空港における安全分担は、滑走路、エプロン(駐機場)、ターミナルビルの安全は空港当局が責任を負い、乗客と手荷物の安全は航空会社が責任を持つというのが世界の流れとなっている。日本では、運輸省の官僚が空港ビル会社、航空会社の社長などの幹部に天下っているのが通例だ。空港ビルも航空会社も国土交通省(旧運輸省)のリモート・コントロールが利いている。
ひとえに国土交通省の傘の下で空港ビルの安全、航空機の安全が阻害されたのである。時代の最先端のハード、ソフトが複合し、一時の怠慢の許されない航空安全の世界で、グローバル・スタンダードが貫かれず、安全分担の交通整理がうまくいっていないのだ。
「ハイジャック事件に対する対策についてはダッカ事件以来、世界各国が力を入れたのに対し、日本は国際水準並みの措置を取らなかった。今のチェック体制では防ぎようがないといえる。羽田空港は最新の建物だが、ハイジャッカーから見れば、かなり甘い。到着ロビーと出発ロビーの乗客が接触でき、荷物の受け渡しも可能だ」
これは、国際政治・軍事アナリストの小川和久氏が函館事件の際、朝日新聞(95年6月22日付)に述べたコメントだ。鋭く今回の事件を予見している。それにしても、この4年間、何らの対応もなされていないことに驚かされる。
2 出発客、到着客の分離
筆者は事件からちょうど2年後の2001年7月中旬、羽田空港を利用した。夕方の便で高知から帰ってきたのだが、ボーディング・ブリッジで2階の搭乗出発ロビーに直接下ろされた。搭乗出発ロビーをいくつも通り抜けて、出発客たちと入り混じって逆向きに歩き、預かり荷物受取場経由で外に出た。
例えばの話ではあるが、地方空港の甘いチェックを通り抜けた“凶器入り機内持ち込み荷物”を一時的に出発ロビーのどこかに隠しておく。いったん出てあらかじめ購入しておいた搭乗券でチェックインして出発ロビーに再度来て、“凶器入り機内持ち込み荷物”を手にすれば機内に凶器の持ち込みはできる。
搭乗者に到着客が“物”を渡すことだって可能だ。繁忙期のせいだろうか? 羽田空港では相変わらず、出発客と到着客の分離ができていないことを確認した。
事件直後、「救急車を至急お願いします。キャプテンが刺された」とコクピットから連絡を受けた管制塔は東京消防庁に救急車の出動を要請した。ところが救急車2台が機体脇に到着したのは要請から約40分後のことだった。
飛行中の航空機内で病人やけが人などが出た場合、空港は救急車を滑走路に入るゲートに待機させる。今回は連絡が行き違ったのが原因というが、これでは助かる病人でも助からない。
4年前の函館事件の際にも、政府は五十嵐広三官房長官(当時)を本部長とする対策本部会合を今回と同じように開いた。外務、法務、運輸、防衛、国家公安委員長(自治)の6閣僚が出席し、機内への凶器・危険物持ち込みチェックの強化、航空乗務員に対する非常時の教育訓練の充実、関係省庁間の情報連絡や支援体制の改善など――の3点を、取り組むべき課題とした。
あの大騒ぎからたった4年、しかも犯行予告ともいえるハイジャッカーの「予告書」を送られていながら、担当部署の人々は具体的に何の対策もとらなかった。
驚くべきことである。人間の安全意識が時代の最先端部分で狂ってきていることを感じる。何故だろうか?
3 東京地検、簡易精神鑑定で西沢被告を起訴
北海道・新千歳空港行きの全日空機がハイジャックされてキャプテンが刺殺された事件は、西沢被告の起訴で一段落した。が、空港警備、機上の保安、事件発生時の対応、そして西沢被告の精神成長過程など、事件で提起された問題はあまりにも多い。裁判の過程でその一つひとつが解明されつつある。
東京地検は20日後の8月13日、東京都江戸川区の無職西沢裕司被告(28歳)をハイジャック防止法違反(ハイジャック致死)及び殺人、銃刀法違反の罪で東京地裁に起訴した。地検は、犯行当時の刑事責任能力を確認するため、前年通院していた医師に意見を聞き、嘱託医による簡易精神鑑定を実施。そして、周到な犯行計画を立てていることから責任が問えると判断、起訴に踏み切ったと見られる。同罪が適用されたのは、1970年の同法施行以来初めて。
ハイジャック致死罪は「死刑または無期懲役」で、「死刑または無期、もしくは3年以上の懲役」とされる殺人罪よりも重い。刑法では、精神障害などで物事の是非や善悪を判断できない「心神喪失」時の犯罪は刑罰を科せない。「心神喪失」に至らない「心神耗弱」については「刑を減軽する」としている。
起訴状などによれば、西沢被告は7月23日午前11時20分過ぎ、全日空061便(長島直之キャプテン〈51歳〉ら乗員14人、乗客503人)が羽田空港を離陸、東京湾上空を上昇中、スチュワーデス(28歳)に刃渡り19センチの洋包丁を突きつけ、「コクピットを開けろ」と脅した。スチュワーデスが脅されているのを察知した長島キャプテンがドアを開けると、コクピットに侵入して長島キャプテンと副操縦士(34歳)に「横須賀に行け」などと要求した。
その後、副操縦士を追い出して長島キャプテンと閉じこもり、長島キャプテンに「横田に行け」などと次々と要求した。応じないキャプテンを同54分ごろ包丁で首や肩を刺して死亡させ、自動操縦装置を外して約6分間、副操縦士席に座って同機を操縦したとされる。
4「ゲームのようにうまく操縦できなかった」
最近のフライト・シミュレーションゲームは、操縦桿のようなコントロール・スティックで操作すると眼前に展開する大型映像は実際のそれに寸分たがわず、音響は迫力に満ちていて、振動まで伝わってくるから自分があたかも操縦しているような感覚に襲われる。クラシック・プレーンからB777、F16まで、操縦できる機体も自由。離着陸できる空港は世界の主要空港に留まらず、横田基地も調布飛行場も離着陸できる。さらに、フライトもハワイのキラウェア火山上空を飛んだり、レインボーブリッジをくぐることも可能だ。
西沢被告はフライト・シミュレーションゲームに習熟し、横田着陸を実際にできると思い込んだのではないか。ただし、逮捕後「横田で自殺するつもりだった」と供述した。
離陸・着陸時をクリティカル・イレブン(魔の11分間)といい、乗員は最も注意力を集中している。スチュワーデスはジャンプシートに座りハーネス型のシートベルトをして、搭乗書類を見るのに忙しい。乗客は軽い緊張感の中で窓の外を見ているか、大型テレビ画像で離陸のさまを見ているかなどで周囲に注意が行かない。まさにハイジャックをするにはタイミングがよかった。
西沢被告はコクピット・オペレーション(操縦手順)、コクピット・ディスプレイの最終確認を行って犯行に万全を期した。また、犯行に都合のよい座席の確認も行ったに違いない。
西沢被告はハイジャックした便とは別に、午前10時45分発の羽田発那覇行き全日空083便の航空券も購入して、搭乗手続きもしていた。当日朝、搭乗した伊丹―羽田便が遅れたため、手荷物受取場で凶器の包丁が入ったバッグを受け取るなどしていて乗り遅れ、その直後の全日空061便新千歳行き(午前10時55分発)に変更したのである。
また、犯行は前日の7月22日に決行するつもりで、準備を進めていたが、天気がよくなく西沢被告自身も興奮のためか体調が優れなくなり、空港周辺のホテルに一泊している。
午前11時37分、「古賀(副操縦士)、邪魔だよ。どいてくれ」と西沢被告は副操縦士を操縦室から追い出しておいて副操縦士席に座って操縦桿を握り、長島キャプテンに大島から横田基地へ向かうように要求した。操縦装置はキャプテン席、副操縦士席ともほぼ同じになっている。操縦桿も片方を動かせばもう片方も同じように動く。キャプテンは西沢被告に操縦させるふりをして主導権は渡さなかったようだ。
長島キャプテンは「ハイジャック発生」の緊急通信の後、西沢被告に悟られないようにひそかにスイッチを操作して、管制官との交信の合間に、気付かれないように、独り言を呟くようにコクピットの状況を伝えていた。
午前11時53分、相模湾上空にさしかかったころ、「ゲームのようにうまく操縦できなかった」西沢容疑者は苛立ち始める。そして、キャプテン席を譲るよう要求する。
「席替わるの、うんちょっとねー」長島キャプテンは渋った。「ほかの飛行機もいっぱい飛んでるから、ちょっと危ないから」と続けた。同54分、「もうちょっと高度上げたいんですよねー。衝突しちゃったら大変だから」キャプテンの言葉に「はい」と答えておきながら、22秒後に首を刺した。
「(低高度で)有視界飛行をしたかった。キャプテンがオートパイロットの解除の仕方を教えてくれず、思うように操縦ができなかったので刺した」と西沢被告は供述している。
5 臨戦態勢に入った米軍横田基地
This is real world, All Nippon 61 a heavy Boeing 747 he s been hijacked and he s about 45 miles down to the south of Yokota. (これは訓練ではない。全日空61便がハイジャックされた。同機は横田の南方45マイルにいる)
They just heard it on the news, and just to pass along the information, we can not confirm this, but the hijacker is requesting that the aircraft land here. (情報によると……まだ確認ができないが……ハイジャック犯は横田着陸を要求しているらしい)
〔横田管制塔と横田RAPCON=Radar Approach Controlとの交信〕
午前11時23分、羽田・東京管制から横田RAPCONへハイジャックの発生と、ハイジャック機が横田の管制空域(横田周辺50マイル、高度2万3000フィート〈6900メートル〉以下の軍用・民間機を管制)に進入すると連絡があった。
11時50分、東京管制は同機が横田着陸を要求していると伝えてきた。横田RAPCONの管制官は、緊急事態に備えるためハイジャック機周辺を飛行中の航空機を遠ざけ、空路を空けた。そして、緊急電話で管制塔、消防、憲兵隊、病院などに連絡を取った。ハイジャック機が着陸後、駐機する駐機場以外を封鎖するため、緊急車両が出動した。数分の後、M16ライフルで武装した部隊も配置についた。
11時56分、横田管制塔はハイジャック機に対し、着陸許可を示すグリーン・ライトを送った。11時58分、同機は横田から半マイル(800メートル)、高度1100フィート(330メートル)まで接近すると、突然右へ急旋回・急上昇し、横田から遠ざかっていった。
12時14分、横田RAPCONの管制官たちはハイジャック機が羽田空港に着陸する模様を見ていた。チーフ管制官のカリン・ジャービス最上級曹長は、「キャプテンが亡くなったことは本当に残念です。ただ、他の乗員・乗客が無事だったことにほっとしました」と語った。
W自殺願望のハイジャッカー、
ジャンボ機を操縦!
高度300メートルに
1 高度300メートルに急降下、危機一髪墜落を免れる
キャプテンを刺殺した後、コクピットには、西沢容疑者一人となった。オートパイロット(自動操縦装置)を解除しようと、機器をいじるが分からない。11時58分、神奈川県相模原市上空で機首が下に向く。操縦桿を強引に押すなど、むちゃな計器操作で自動操縦装置が解除されたのだ。
DFDR(Digital Flight Data recorder=デジタル飛行データ記録装置)の解析ではキャプテンが刺された後、数分間自動操縦装置が外れていた。12時00分、東京都昭島市上空でハイジャック機の高度は約900メートルから約300メートルまで一気に降下し、対地接近警報装置が作動して、「テレイン、テレイン」という警報音が鳴りわたった。
西沢被告は、「キャプテンを刺した後、頭の中が真っ白になり、操縦の仕方も分からなくなった。手当たり次第に計器をいじっているうちに(乗務員らに)取り押さえられた」、「キャプテンがオートパイロット(自動操縦装置)の解除の仕方を教えてくれず、思うように操縦ができなかったので刺した」、「フライト・シミュレーションゲームで十分訓練したので操縦には自信があった」、「キャプテンに代わって自分が操縦したかった」、「宙返りやダッチロールをしたかった」などと供述している。
キャプテンが刺された後ジャンボ機は、「自分ならうまく着陸できると思った。ゲームではうまくいった」と自負する西沢被告によって、実際は操縦者不在状態に陥っていた。1年経って、ようやく我に帰ったのか、「長島キャプテンに申し訳なかった。あのまま地上に衝突していれば、乗客や住民を無残な姿に変えてしまっていた」と供述を始めた。
2 自尊心を傷つけられ、一気に犯行へ?
「ゲームでは満足できなくなった」、「航空機を操縦したかった」。西沢被告は動機についてまずこう供述し、また、羽田空港の警備の不備を警告する文書を送ったが対応がよくなかったことに憤慨させられたという。そうして、「航空機の操縦は簡単なのに、パイロットの給料が高すぎる。誰でも操縦できることを証明したかった」とパイロットの高給に対する不満も供述した。
日本のパイロットの高給ぶりや、ハイヤーに送り迎えされたスチュワーデスの厚遇ぶりなどについては伝説的事実だった。その分、日本の航空会社は収益を悪化させてきている。だが、「誰でも操縦できる」と思い込んだ西沢被告の頭脳構造は万人が付いていけない点だ。500人からの旅客を乗せて、最新のハイテクの固まりの航空機を複雑な管制を受けながらスケジュール通りに飛ばすことをそのように簡単に考えていた西沢被告の教育、育ち方に世間は一斉に関心を持った。
西沢被告は航空機マニアで、一橋大商学部に在学していた学生時代、羽田空港で手荷物運搬のアルバイトをした。趣味と実益が一致したわけだが、ここで強く航空会社への入社を考えるようになった。就職試験は日航や全日空などを受けたが採用されず、深い挫折感を味わった。
同じ運輸関係のJR貨物に入社したが、自室には飛行機のプラモデル、ポスター、シールが飾られていた。しかし、数年で「今の仕事は自分のやりたいものではない」と退社してしまい、江戸川区の自宅に戻った。1999年秋には、約2カ月間精神科の病院に入院した。
このころフライト・シミュレーションゲームに熱中し始めた。ゲームセンターに通い、実際の飛行機にも70回以上乗っている。フライト・シミュレータにのめり込み、バーチャルリアリティ(仮想現実)と現実の境目が分からなくなると、実機の操縦は簡単だと独断、自らもエリート校を出ておりパイロットの頭脳とテクニックも大したことはないと思ったに違いない。
羽田空港の警備上の問題を指摘したことを軽くあしらわれたのも、挫折を経験した元エリートの自尊心を深く傷つけた。航空会社やパイロット、空港当局に対して反感とリベンジの感情が一気に高まったに違いない。大学1年の時の大学祭実行委員名簿の自己紹介欄に、「酒=1人で飲んでつぶれるタイプ。チャームポイント=無謀な突撃の末、玉砕する」と書き、この事件を引き起こす伏線を自ら敷いている。
3 バーチャルリアリティの深い陥穽
コンピュータの持つ革新に溢れた新しい世界へ旅立つことができる者は幸せだ。しかし、その力と可能性が大きければ大きいほど、その影の世界に広がる陥《かん》穽《せい》に落ち込む者の数は多い。
アメリカ・ミズーリ州の12歳の少年は、インターネットで電話代を1200ドルも使ってしまった。深夜、市外のアダルト・チャットルームにアクセスしていたのである。支払い通知を見てこのことを知った母親は、すぐにインターネットへの接続を禁じ、補導員のところへ少年を連れていった。だが、その夜こともあろうに少年は母親を射殺してしまった(Caught Net 邦訳『インターネット中毒』キンバリー・ヤング著、毎日新聞社刊、1998年)。
この悲劇は他人事ではないはずだ。どうしたらいいのだろうか? それは、IT(情報通信)やインターネットの世界を親も知ることだ。親や家族は、子供や家人がパソコンを抱えて部屋に閉じこもると、少なくとも街でたむろされるよりマシと思い、むしろ、自分が不得手なパソコンやITに詳しくなるから好ましいと思う。これがとんでもない誤解で、教師、図書館司書、コンピュータ・コーディネーターの86パーセントが子供にインターネットを使わせても成績は上がらないと考えている(US Today)。
キンバリー・ヤングは近著「Caught Net」でさまざまなパソコン・シンドロームに警鐘を鳴らしている。例えば、家族が疲れたような様子を見せ、仕事上でミスが続く、子供だったら成績が下がるなどの症状が出てきたら注意しなければならない。
このほか、趣味への関心が失せたり友達と遊ばなくなったりする。しまいには、部屋に引きこもり、親が注意しようものなら猛烈に反抗する。こうなったらもう専門家の手に委ねなくては、子供をパソコン・シンドロームから取り戻すすべはないと言っている。
すでに経験して、ほぞをかんだ親も多い「テレビとの付き合い方」も、同じ世の親が犯した失敗例だ。子守り代わりに子供にテレビを与えてしまったら、もう、子供はテレビなしでは生きていけなくなってしまう。ながら視聴や、時計代わりにテレビを見るのも大きな取り返しのつかない時間の浪費と人格破壊だ。
4 西沢被告の動機は自殺
ハイジャック致死罪が初めて適用された全日空機ハイジャック事件の初公判が、事件から5カ月経った1999年12月20日、東京地裁(大淵敏和裁判長)で開かれた。罪状認否で西沢裕司被告は、「内容は間違いございません」と起訴事実を認めた。
この日、検察は次のような冒頭陳述を行った。
西沢被告は、大学生のころから航空に興味を持っていたが、羽田空港の構造に欠陥があり、凶器を持ち込めることに気が付いた。被告は、6月13日、空港で実際にハイジャックが可能なことを確認した。6月21日に至り実名で国内航空3社、運輸省東京空港事務所に、この警備の欠陥、対策、警備員の増員を提案する手紙を送った。自分を警備員に採用してもらうことが目的だった。
しかし、7月19日に対策確認の電話をかけたところ、増員計画はないとの回答を受けた被告は、ハイジャックを行い、指摘が正しいことを証明して、空港側の責任を追及することを決意した。その日のうちに犯行に使った航空券を購入している。
7月23日、全日空061便に刃渡り19センチの包丁を持ち込み、コクピットに侵入し長島キャプテンに「横須賀に行け」などと要求した。さらに、操縦しようと席を替わるよう要求したが、断られたため、長島キャプテンの首や肩を包丁で刺して死亡させた。そして、自ら操縦席に座り、自動操縦装置を外して約6分間操縦した。
弁護側は意見陳述で、西沢被告は精神科への入院・通院歴があることから殺意については留保したが、事件時心神喪失か心神耗弱との立場から刑事責任能力について、事実関係を認めた上で責任能力については争うとし、東京地検の簡易精神鑑定に関する証拠の採用については不同意とした。
5 初めて謝罪
1年経った2000年12月12日の東京地裁(木口信之裁判長)の公判で、弁護側が初めて被告人質問をした。西沢被告は公判に先立ち、「大変多くの人々の人生を狂わせ、崩壊させた。あまりのことに申し上げる言葉もない」と述べ、さらに長島キャプテンの遺族に対し「申し訳なく思っている」と法廷で初めて謝罪した。
西沢被告は前年12月の初公判では、起訴事実は認めたものの謝罪はしなかったのである。
弁護人から逮捕直後の考えを聞かれると、「(ハイジャックした時に)自分がパイロットの本分としてきちんと着陸をやらなければと思っていたのにできなかったことと、着陸後に自殺できなかったことを悔やむ。落ち着いてから謝罪する気持ちになった」と述べた。
小学生のころから運動が苦手で、持ち物を隠されたりプロレスの技をかけられたりして「いじめ」にあっていたと述べた西沢被告は、「人とうまくやれず仲間ができない」「孤独で寂しいことが多かった」と振り返った。大学に入ればサークルやアルバイトで性格も変わると期待したが、学園祭の運営委員会での仕事を仲間から評価されず、自殺を強く考えるようになった。
年が明けた2001年2月26日の公判(東京地裁・木口信之裁判長)では、被告人質問で西沢被告は初めて事件を起こした動機について触れた。「ハイジャックの最大の動機は自殺したかったからだ」などと述べ、西沢被告は何度も自殺を図ろうとしていたが、事件の約1カ月半前に羽田空港の警備上の問題に気付き「大変なことを見つけてしまった」と思うと同時に、ハイジャックをして自殺することを思い付いたという。
「当初は低空からドアを開けて飛び降りようと考えたが、6月終わりか7月初めごろには自分で操縦したいと思うようになり、乗客を楽しませるためレインボーブリッジをくぐったりすることを考えるようになった」と供述した。
続いて3月21日の公判では、被告人質問で弁護側が犯行の状況を初めてただした。これに対して西沢被告は、まず、キャプテンの姿を見て「(自分と同じような)自殺願望を持っていると思った」と述べ、「自分も楽な死に方をしたいので、『同じように楽にしてさしあげますよ』と思って刺した」と述べた。
加えて、「飛行機の離陸直後に動物的、反射的に立ち上がった」、そして、乗務員に包丁を押しつけてコクピットに入り「左のキャプテン席が自分の死に場所」と決めたが、キャプテンが座らせてくれなかった。当初はキャプテンを粘着テープでしばって自分で操縦するつもりだったが、キャプテンを見ていたら、「昔の職場の上司がしんどそうに働いている姿を思い出し、『私も同じだ』と言っているように感じられた」と述べ、「最後の悲鳴は、耳にこびりついて取れない」と供述した。
キャプテンの死亡後、操縦席に座って機体を降下させたり、右に旋回させたりした。警告音が鳴り始めたが、「いろんな電子音が鳴り、ゲームセンターにいるようで気持ちよくなった」とも述べ、乗客のことは「全く頭になかった」、現在の心境については、「今から考えると、ハイジャックを決行してコクピットに侵入してからのことは自分でも理解できないことが多い。本当に申し訳ないことをした」と供述した。
6月21日に開かれた公判で、東京地裁の木口信之裁判長は西沢被告の精神鑑定を行うことを決定した。前回の公判で弁護側が請求していたものである。弁護側は1999年12月の初公判で、西沢被告について「犯行時、心神喪失または心神耗弱の状態にあった」と主張。また冒頭陳述でも「精神分裂病やうつ病で治療を続け、自殺未遂を繰り返していた」と指摘、責任能力について争う姿勢を示していた。
これに対し検察側は、責任能力はあるとして西沢被告を起訴。この日の公判で、犯行は計画的で責任能力が認められると主張し、鑑定を行う必要性に異議を唱えたが棄却された。供述をたどっていくと、西沢被告の感情の動きについては明らかに異常が見て取れる。心神耗弱状態がまだらに西沢被告を襲っているように見える。
【精神鑑定=裁判所の選任する鑑定人が、犯行時と現在について被告人の精神状態を診断。鑑定結果が出るまで3カ月ぐらい必要で、その間、公判は中断される。鑑定により心神喪失または心神耗弱と認められると刑の減免の対象となる】
第三章
オウム・シンドロームがひとり歩き
―恐怖のハイジャック事件へ!
―何でもありのハイジャックと、
懲りない日本人―
T時代の先端をいったハイジャック
1 流行したハイジャック
ハイジャック第1号は、1930(昭和5)年南米のペルー航空機中で発生したものだといわれている。ペルー革命中に武装した革命集団がパンナム機を乗っ取った。ハイジャックの語源は、1920年代のアメリカの禁酒法時代、密造酒を積んだ車を追いはぎが、ヒッチハイクを装って Hi! Jack! と声をかけて呼び止め、積み荷と金品を強奪したことにさかのぼる。
第二次世界大戦後ヨーロッパで、自由を求めて東欧側から西欧側に航空機を乗っ取ってやってくる、亡命ハイジャックがはやった。こうした金品を目的としないハイジャックが頻発するにつれ、空賊がハイジャッカーと呼ばれるようになった。
その次は、キューバのカストロ政権がアメリカと断交した際、キューバからアメリカへ、またその逆コースのハイジャックが頻繁に起こった。カリブ海付近では2、3週間に1回の割合で発生し、ハイジャック機はキューバ・ハバナ到着後、機体、乗客ともすぐに釈放されていた。
これから述べる、日本でのハイジャック防止法適用第1号事件が起きたこの日も、ニューヨークのニューアーク空港から飛び立ったトランス・カリビアン航空の旅客機(乗客154人)がハイジャックされ、ハバナに到着していた。
この後、パレスチナ情勢と連動して政治的要求や、プロパガンダ(政治的宣伝)を目的としたハイジャックが多発した。イスラエルとパレスチナ諸国のハイジャックをめぐる戦いは、国家の存亡を賭けた国際紛争の一手段として位置付けられ、国際線の旅客機を舞台に血みどろの戦いが繰り広げられた。日本赤軍による一連のハイジャック事件もこの系譜に入る。
ハイジャックは、全世界で1961年から8年間で約40件、1969年に84件(うち76件が成功)、1970年には8月までに44件発生した。しかし、各国で搭乗前のチェックが厳しくなったり、ハイジャッカーの受入れ国がなくなってきたことなどから減少していった(1974年は21件発生し、そのうち成功は4件)。
アメリカの心理学者ハバードは、アメリカではマーキュリー計画、ジェミニ計画、アポロ計画が行われた時ハイジャックの件数が増えたと指摘。人が宇宙を飛ぶという行為が空への犯罪をかき立てたと分析している。
日本国内では、1970(昭和45)年3月31日に発生した、よど号ハイジャック事件を皮切りにひとしきり続発した。社会学者が指摘するように、「犯罪は流行する」かのようである。国際的に発生していたハイジャックが、国内でも過激派によって引き起こされたのがよど号ハイジャック事件で、以後、さまざまなパターンの事件が続いた。
いつの時代でも新しい現象・風俗に飛びつくのは若者であり、暴力団などのアウトロー集団である。例えば、最近の携帯電話やパソコンによる「出会い系サイト」や「インターネット」を使った犯罪がそうである。そして精神的に不安定な人たちが続く。
しかし、一貫して事件・事故の教訓を学ばないのが行政と当事者たちである。空港の搭乗者チェックはいついかなる事件でもハイジャッカーによって簡単に突破されているし、コクピットのドアは簡単に開けさせられている。痛い目にあっても懲りないのは日本人の特性かもしれない。
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロは、4機のハイジャック機を乗客もろともアメリカの中枢部に衝突させ、破壊した。犠牲者の数は、われわれの想像を超える。われわれはまた、新手のハイジャック戦術に遭遇してしまった。自爆テロがここまで自己増殖したことに驚くと同時に、神風特攻を経験しているわれわれは、欧米人よりテロリストの背景を理解できるかもしれない。彼らを狂信者と片付けることでハイジャックは根絶できない。
2 航空大衆化を背景に、ハイジャック防止法適用第1号
よど号ハイジャック事件から4カ月余り経った1970年8月19日午後4時50分ごろ、名古屋発北海道・千歳行きの全日空175便B727(三上光雄キャプテンら乗員6人、乗客75人、うち1人はハイジャッカー)が岐阜県恵那市上空を飛行中にハイジャックされた。
飛行機が巡航態勢に入ったので、スチュワーデスがギャレー(調理室)で軽食サービスの準備を始めたところ、若い男が突然入ってきて、「操縦室へ入れろ」と言うやピストルを突きつけた。「だめです」とスチュワーデスが抵抗すると「殺すぞ」と言い、スチュワーデスは「どうぞ」と答えた。他のスチュワーデスも「だめです」と必死の対応をした。インタホンで操縦室に事件発生を伝えようとしたが、インタホンは通じなかった。
スチュワーデスのこの必死の応対はどうだろう。身を挺してもハイジャッカーの意図を通させまいとする職業意識も、コクピット・ドア管理のまずさからハイジャッカーをみすみすコクピットに入れてしまう。ハイジャッカーが操縦室のドアに触れるとドアは簡単に開いてしまった。よど号ハイジャック事件以後、コクピットのドアは離陸時からロックすることになっていた。しかし、事件発生時これが守られていなかった。
当時、その名もアンチ・カストロ・ロックという最新のロック・システムを装備していたのはB747とB737だけだった。キューバで多発していたハイジャックを防ぐためのロック・システムゆえにこの名が付いたのだったが、カリブ海から遠く離れた極東の国では他人事だったのである。
ハイジャッカーは難なくコクピットに侵入し、「ピストルと弾300発を持っている。浜松へ行け」と要求した。ハイジャッカーはさらに、「ライフル銃と実弾100発、ガソリン18リットル入り缶を2缶よこせば、浜松で乗客を解放する」との条件を出した。ハイジャック機は5時19分、航空自衛隊浜松北基地に着陸した。
スチュワーデスは「困難な状況が起きました。後で説明します」と言ったきりだったので、乗客は何が起きたのかさっぱり分からなかった。そのうち、ハイジャッカーがコクピットから出てきて通路を行ったり来たりし始めた。よく見るとピストルを持っているのでハイジャックと直感した乗客もいた。
航空自衛隊は、ハイジャック機が着陸すると同時に空港を閉鎖した。ハイジャッカーは5時45分、乗客57人とスチュワーデス1人を下ろした。ハイジャッカーはこの後、女性の乗客にピストルを突きつけ、人質に取って操縦室に入り、「ライフル銃を持ってこい。名古屋へ行け」と再び要求した。しかし、乗客のうち何人かはハイジャッカーの持っているピストルはニセモノと見破った。そして、ハイジャッカーに気付かれないように機外の警官にピストルはニセモノとシグナルを送った。
このころ機内では、女性の乗客が頭痛を訴えていた。機転を利かせた乗客がスチュワーデスを呼んで「この人はつわりだ。ハイジャッカーに下ろすよう言ってください」と頼んだ。スチュワーデスがハイジャッカーにこのことを告げると、ハイジャッカーはあっさりと「つわりの女性」と介護の女性計2人を下ろすことに同意した。
女性2人がスチュワーデスに連れられて機外に出たところを、入れ替わるように浜松中央警察署の太田菊治署長が機内に入った。ハイジャッカーに素早く近付き、「やめなさい」と肩を叩きながらピストルを奪い取ると、突入の機会をうかがっていた7人の捜査員がハイジャッカーを逮捕した。
ハイジャッカーは24歳の元調理師で、「死にたいので、飛行機を乗っ取り、自衛隊の基地に強行着陸すれば射殺してくれると思った」と供述した。こうしてハイジャック防止法(航空機の強取等の処罰に関する法律)第一条(航《*》空機の強取等)第1号違反の適用者が出た。これは、よど号ハイジャック事件から数カ月後に急いで作られ、第63国会で成立し、1970年6月7日から施行されたものだった。
【*航空機の強取等の処罰に関する法律第一条(航空機の強取等)=暴行もしくは脅迫を用い、またはその他の方法により人を抵抗不能の状態に陥れて、航行中の航空機を強取し、またはほしいままにその運航を支配したものは、無期または7年以上の懲役に処する。】
朝日新聞社
3 チェックインとコクピット・ドアの管理の甘さ
1970年3月のよど号ハイジャック事件以来、空港ロビーでのチェックイン時、凶器探知装置の導入が進められていた。しかし導入は羽田中心で、名古屋空港では、皮肉なことに事件発生の翌日に導入されることになっていた。
また、この年開催されていた大阪万国博は大賑わいで、加えて夏の需要が重なって国内線の航空需要は大きくふくらんでいた。各地の空港は大混雑し、チェックが甘くなっていた。そこにハイジャッカーは駆け込みチェックインをし、やすやすとモデルガン2挺の持ち込みに成功したのだった。
運輸省(当時)は「管制能力を超えた空のラッシュで安全飛行に危険信号が出た」とし、航空各社に大幅な減便を21日から指示していた。全日空は東京―八丈島便をアメリカ軍厚木基地から飛ばすなどの運航を余儀なくされていた。当時の橋本登美三郎運輸大臣は「……乗っ取り防止の完全なチェックのためにも余裕のあるダイヤを組む必要がある。……」というコメントを出したが、この背景には以上のような事情があった。
事件後の取調べの結果、コクピットのドア管理については、第一に、出発前に行うハイジャック防止のミーティングを行っていなかったこと、第二に、ハイジャッカーが2度ドアを「コンコン」と叩いた時、反射的に航空機関士がロックを外してしまい、ハイジャッカーの侵入を許してしまったことが判明した。
航空大衆化の大波が押し寄せてきて、システムもすべてが新しくなり、意識も変化していく過程で、ハイジャックは遅れている部分、古い部分を狙い撃ちするように発生した。このハイジャック事件では、チェックイン時の手荷物検査が混雑にうまく対応できず、コクピットではドアの管理が甘かったのである。今回のアメリカ同時多発テロの巻き添えとなった4機の民間機も、ここを衝かれた。また、カギ=ロックに対する感覚は欧米と日本では格段の差があった。日本では安全は空気と水のようにタダで確保されていた時代が長かった。ミネラルウォーターを買い、ピッキング強盗に怯える今日では信じられないことではあるが、カギをかける習慣はなかなか育たなかった。
U何でもありのハイジャック
1 小野田元少尉、江崎博士、トルコ航空機事故遺族帰国、そしてハイジャック発生
1974(昭和49)年3月12日午後1時15分ごろ、羽田発沖縄・那覇行きの日本航空903便B747SR(桶谷敏一キャプテンら乗員17人、乗客409人)が那覇上空でハイジャックされた。若い男が、黒いかばんを持って操縦室に入り込んで、キャプテンに「われわれの要求に従え」とローマ字で書かれたメモ紙を示したのである。
ハイジャック信号を受けて、到着地の那覇空港では沖縄県警が緊急配備をかけ、パトカーや警察車両が次々に空港ターミナルに集結し、航空自衛隊も緊急発進態勢をとった。午後1時47分、ハイジャック機が那覇空港に着陸した。
着陸後、ハイジャッカーは操縦室に入り込んだまま、5500万ドル(160億円)、日本円2億円、ロープ50本、パラシュート、手錠各15個などを要求した。
この日は、実は羽田空港は全国民の注目の的になっていた。フィリピン・ルパング島から30年ぶりに小野田寛郎元少尉が羽田に帰還し、また、ノーベル賞を受賞した江崎玲於奈博士とパリで起きたトルコ航空機墜落事故の日本人遺族第2陣が帰国するなどの予定があり、日本全体が喜びと悲しみの入り混じった気分で羽田空港の模様を注目していた。
そこにハイジャック事件が発生した。政府、日本航空などの関係者は大混乱に襲われた。午後4時過ぎ、江崎博士がホノルルから帰国し、ついで小野田元少尉が日本航空特別機でマニラから帰国した。そして、小野田元少尉は両親の種次郎さん、タマエさんと感激の再会を遂げた。
ハイジャック事件発生から4時間後の5時過ぎ、ハイジャックの救援用に仕立てられた日航特別機が那覇へ向けて飛び立った。増岡運輸政務次官、朝田日本航空社長ら(いずれも当時)が乗り込んでいた。この間、那覇では3時15分、ハイジャッカーが163人を解放していた。7時56分にはハイジャッカーが食事の差し入れに応じたので、日航職員、整備士に変装した警官が機内に潜入した。スチュワーデスが食事を差し入れるため操縦室を開けたところを、警官が飛び込んでハイジャッカーを逮捕した。こうして日本では4番目だが、乗客数では最大だったハイジャック事件の幕は下りた。
朝日新聞社
2 ジャンボ機からパラシュートで逃亡?
ハイジャッカーは18歳の少年で、高校を卒業してホテルに勤めたが、1カ月前にやめて、「大学に行きたい。アメリカに行きたい」ともらしていた。自供によれば、犯行計画は1カ月かけて練り上げたもので、離陸して1時間半後に要求書を突きつけ、羽田にUターンさせて着陸。パラシュート降下のためドアを1枚外させて再度飛行させ、東北の山中にパラシュート降下し、奪った現金を山中に埋め、ほとぼりのさめたころ掘り出して、外国銀行に預けるといった荒唐無稽のものだった。
ハイジャッカーは羽田―那覇間を2時間半と計算していたが、離陸後1時間半で飛行機はすでに那覇上空に達していた。また、パラシュート降下時には、スコップ、ツルハシを別のパラシュートにくくりつけ、さらに自分のパラシュートとロープで結ぶという、雑にして緻密な計画(?)で決行された。
このハイジャック事件後、日本航空は警察に対して「ハイジャックの防止にさらに積極的に乗り出してほしい」との異例の要望を行った。所持品検査は航空各社が雇った警備会社が行っていて、警察官は立ち会っている程度だった。
ハードが進歩して、いくら新しい機器を導入しても、不審者のチェックには限界があることが分かってきた。チェックする人間側の眼力が問われる時代になってきていた。新婚旅行中の花嫁から、身だしなみ用のハサミを取り上げるようなチェックでは、ハイジャッカーはやすやすとそれを通り抜けて、新手のハイジャック事件を引き起こす。ハイジャックの歴史がそのことを物語っている。
3 倒産経営者がピストル発射――着陸後で大事に至らず
1975(昭和50)年4月9日午後4時50分ごろ、北海道・千歳発羽田行きの日本航空514便B747(東郷信行キャプテンら乗員15人、乗客200人)が羽田空港に着陸寸前、男がスチュワーデスにピストルを見せたので、アシスタントパーサーを呼んで対応しているうち514便は着陸してしまった。
男は「飛行機を滑走路南側につけろ」、「乗客を下ろすな」などと要求したが、チーフパーサーや東郷キャプテンらが交代でハイジャッカーに対応しているうちに、乗客全員は後ろのタラップから無事下りてしまった。空港警察署の警官(私服)が駆けつけ、後部タラップから機内に入り、ピストルを懐に入れて東郷キャプテンと交渉中のハイジャッカーに飛びかかった。男は抵抗してピストルを1発発射したが、5時15分逮捕された。
ハイジャッカーは38歳の男で、カメラ部品の工場を経営していたが倒産、その後職を転々としていた。半年前に自動車修理の仕事で行ったアルゼンチンでハイジャックを思いついて、22口径の8連発銃「ラルゴ」を購入して帰国。この日は職探しに訪れていた北海道からの帰りで、事業資金に使う3000万円を奪い、パラシュートで降下・逃亡するつもりだったと自供した。
自供通りハイジャッカーはピストルのほかに、手製のパラシュートを持っていたが、木綿の布にタコ糸を巻き付けただけの物で、実用には程遠く、交渉に使うつもりだったようだ。
けが人はなかったが、実際に発射可能なピストルが機内に持ち込まれ、しかも発射されたことに関係者は事態の深刻さを思い知らされた。飛行中、弾の当たり所によっては大事になっていた可能性があったからである。
ハイジャッカーは千歳空港での所持品検査の際、前の乗客が車椅子に乗っていたので、靴下に包んだピストルを車椅子の背もたれに入れ、X線と金属探知機を使った所持品検査装置を通り抜けていた。
4「ハワイに行きたかった高校生」ハイジャック
――コクピット・ドアが開いて引っ込みがつかず
1975(昭和50)年7月28日午後3時44分ごろ、羽田発北海道・千歳行きの全日空63便L1011トライスター(木村高明キャプテンら乗員・乗客286人)が宮城県松島上空に差しかかった時、操縦室のドアがノックされた。操縦室に便乗していた同社の整備士がドアを開けると、「ハイジャックだ。ハワイへ行け」と、サングラスをかけた、凶器をポケットに隠し持っているようなそぶりの男がコクピットに侵入した。
同機は直ちにハイジャック信号を出す一方、機内にハイジャック発生をアナウンスした。キャプテンはハイジャッカーに、「羽田で給油しなければハワイに行けない」と羽田着陸を納得させた。ハイジャック機は松島上空でUターンし千葉県佐倉上空で旋回態勢に入った。
ハイジャッカーがネクタイで副操縦士と航空機関士の手を縛るよう要求すると、キャプテンは「大型機なのでキャプテン1人では操縦できない」と機転の利いた対応をして自分たちのペースに持ち込んだ。会話の中でハイジャッカーが高校2年生であることが分かると、「高校2年生ならまだ取り返しがつく」と説得しながら、羽田に着陸した。
着陸後、ハイジャッカーが乗客を下ろすことに同意したので、乗客を下ろし始めた時、乗客に変装した警察官7人がハイジャック防止法現行犯でハイジャッカーを逮捕した。逮捕されたのは17歳の少年で、「遠くに行きたかった。ふとやる気になった」と供述し、「操縦室のドアがやすやすと開いたので、かえって引っ込みがつかなくなってしまった」と言い、凶器も持っていなかった。
当時、操縦室のドアは特定のパターンでノックし、内側の窓からクルーが顔を確認してから開けることになっていた。その他、操縦室内ではすべての行動はキャプテンの指示に従わなければいけなかった。ノックと同時にドアを開けたのは便乗整備士のお粗末極まりない行動だった。
この事件の1週間後、日本赤軍によるクアラルンプール事件が発生、日本赤軍はクアラルンプールのアメリカ、スウェーデン両大使館を襲撃・占拠して、5人の容疑者を奪還、逃亡した。世間は騒然としていた。
5 ダブル・ハイジャック発生
1977(昭和52)年3月17日午後零時40分ごろ、北海道・千歳発仙台行きの全日空724便B727(犬塚敏昭キャプテンら乗員7人、乗客36人)が高度5200メートルで下北半島に差しかかった時、突然、男がナイフのようなものをかざし、スチュワーデスに「パイロット室を開けろ」と要求した。
スチュワーデスは犯行前から、ハイジャッカーに落ち着きがなく警戒していたので、落ち着いて「トイレはこちらです」と対応した。すると、「そうじゃない。操縦室の扉を開けろ」とナイフを突きつけてきた。とっさに、乗客の1人が「止めろ」と叫んで体当たりし、さらに2人の乗客が飛びかかってハイジャッカーを取り押さえた。
同機は、午後1時24分函館に緊急着陸した。函館中央署に逮捕された男は27歳の元国立大学生だった。動機は「大学で哲学の勉強をしたが、これなら独学でできると思い、退学した。しかし、思うようにいかず、経済的負担を親にかけたくなかったので、外国に行こうと思った。操縦室に入り、どこか一番近い外国に行くつもりだった。仙台行きを選んだのは、飛行機があまり大きいとハイジャックが難しいと思ったからだ」と供述した。
「ジャックナイフは昨年買ったもので、右足の土踏まずに隠してチェックを通り抜け、機内で背広のポケットに入れた」と言い、ここでも機械式凶器発見装置の裏をかかれている。ハイジャッカーは、北海道・岩見沢の実家でぶらぶらしていて、近所では秀才とも変わり者とも言われており、ノイローゼで通院歴もあった。
6 6時間後またもやハイジャック発生、ハイジャッカーは青酸自殺
全日空724便のハイジャック事件が函館で解決した6時間後、再び「全日空B727仙台行き」のハイジャック発生の報に警察、航空関係者は騒然となった。午後6時30分、羽田発仙台行きの全日空817便B727(高野房男キャプテンら乗員7人、乗客173人)が離陸2分後、東京湾上空高度600メートルを上昇中、ハイジャックされたのである。
離陸直後のまだ機が安定しない前に、サングラスをかけた若い男が立ち上がり、スチュワーデスにピストルを突きつけ、「俺はハイジャックだ、機内アナウンスしろ」、「乗客全員に毛布をかぶらせ頭を下げるようアナウンスしろ」、「燃料が続く限り東京と仙台間を飛べ」などと要求した。
そして、新聞を読んでいた乗客3人を、「頭を下げろ」などと怒鳴ってピストルで殴った。この時、ピストルが暴発し「パーン」という音とともに火薬のにおいが立ちこめた。キャプテンは、ハイジャッカーとうまくコンタクトがとれないまま羽田に引き返し、6時44分着陸した。
ハイジャッカーは、スチュワーデス相手に支離滅裂な要求をしているうちに、飛行機が着陸したのも分からないくらいにもうろうとした状態で、トイレに駆け込んで動かなくなった。7時15分、空港署の捜査員4人が機内に突入すると、ハイジャッカーはドアの開いたトイレ内でぐったりしていた。乗客の医師が診察したところ、すでに死亡していた。
現場検証の結果、機体前部のギャレーからハイジャッカーのものと見られる小さな瓶が発見された。残っていた液体を分析したところ、青酸反応が検出され、本人の吐瀉物からも青酸反応が出た。
ハイジャッカーは、飛行機が着陸したため計画が失敗したと思い、この青酸を飲んで自殺したものと断定された。間もなく、指紋からハイジャッカーは殺人未遂、窃盗、傷害、暴力行為などで11回の逮捕歴のある26歳の暴力団員だったことが判明した。残されたアタッシェケースからは、「5時間以内に身代金、1日以内に逃亡に関する一切の警備の放棄、客と全日空社長の交換……」などと計画が記されたメモが出てきた。
凶器のピストルは、改造モデルガン「カール92・オートマチック」で全長13センチの代物だった。銃口を細工して、弾が発射できるようになっていて、暴発した時の跡が機内にあり、3センチほどへこんでいた。
このハイジャック事件は、事件解決後も多くの謎が残った。第一の謎は、ハイジャッカーの搭乗者名簿に記載された氏名が、事件当日、札幌で別件逮捕された男の名前だったこと。犯人特定には情報が入り乱れて混乱したが、指紋照会でハイジャッカーが特定された。
第二の謎は青酸化合物の入手。当時、毒入りコーラ事件や毒入りチョコレート事件が続発していた。ハイジャッカーが持っていた青酸化合物は横浜市鶴見区のメッキ工場から詐取されたものと判明した。
ハイジャッカーが泊まっていた簡易宿泊所で残量が発見され、同時に、数冊の青酸による大量殺人事件を扱った推理小説が見つかった。毒入りコーラ事件(1977年1月4日、品川、2人死亡)の被害者と隣り合わせの簡易宿泊所に泊まっていたことも奇妙なことだった。また、毒入りチョコレート事件(1977年2月14日、東京駅、被害者なし)の現場でハイジャッカーによく似た男が目撃されていた。ハイジャッカーが自殺してしまったので謎は謎のまま残ってしまった。
朝日新聞社
7 暴力団員と栓抜き
1979(昭和54)年11月23日午後零時27分、大阪発羽田行きの日本航空112便DC10(西広寿行キャプテンら乗員11人、乗客345人)が愛知県知多半島上空を飛行中、ハイジャック信号を出しているのを東京航空交通管制部が感知した。
スチュワーデスが乗客におしぼりのサービスを始めた時、若い男がコクピット・ドアに設けられている通風用窓を足で蹴破って、コクピットに侵入した。男は「ピストルを持っている。成田で給油して、ソ連へ行け」とキャプテンらに要求した。
午後1時13分、ハイジャック機は成田空港に着陸して滑走路北側のスポットに駐機した。成田空港は開港後1年6カ月にして初めて経験するハイジャック事件の発生だった。直ちに、当時の運輸省成田空港事務所、成田空港公団、千葉県警は「ハイジャック合同対策本部」を設置し、午後1時20分、成田空港は全面閉鎖され、機動隊1000人が配備された。
2時37分、西広キャプテンらがハイジャッカーはピストルなどを持っていないと判断して、乗客の柔道有段者らの協力で男を取り押さえた。千葉県警成田空港署員がこの男をハイジャック防止法の現行犯で逮捕した。
ハイジャッカーは逮捕歴8回の暴力団組員で、機内備え付けの9センチの栓抜きをピストルに見せかけて、犯行に及んだ。犯行の動機は、「東京で働こうと思ったが、急に外国に行ってみたくなった」と自供した。犯行は衝動的で、この朝、コーヒー店で犯行を思い付き、飛行機の中で外国行きを計画……と、遂には355人の命を手玉に取った。
長さ9センチの栓抜きと一人の調子の狂った人間が、ハイテクを装備した航空機と数百人の自由を奪う時代になってしまった。この逮捕劇で西広キャプテンが手の指を骨折し全身を強く打って入院した。全治4カ月の重傷を負っていた。
Vオウム・サリン・シンドロームが
ひとり歩きして
―恐怖のハイジャック事件へ
1“尊師”の一言でオウム・テロと判断
1995(平成7)年6月21日午前11時57分、羽田発函館行きの全日空857便B747SR機が山形上空でハイジャックされた。同機には清原宏伸キャプテン(55歳)、宮下至副操縦士(46歳)、永井亮二航空機関士(54歳)、スチュワーデス12人と乗客350人の合計365人が乗っていた。
ハイジャッカーは2階の席に座っていたが、2階担当の渡辺スチュワーデス(26歳)がカーテンを引いたギャレー内でお茶の用意をしている時に、「静かにしろ。これを見ろ。すべて尊師のためだ。言うことを聞けば、乗客の命は助けてやる」と言いながら、透明な袋に入れた液体にアイスピックのようなものをかざした。脅されたスチュワーデスは、尊師という言葉で透明の袋は毒物と確信した。
このため事件解決まで、日本中はオウムの悪夢に怯え続けなければならなかった。いわゆるオウム・サリン・シンドロームのさなかに事件が発生したことが、解決まで必要以上の時間がかかってしまう原因となった。
このため、当時の運輸省・東京航空交通管制部に入った連絡も、「機内でオウム真理教関係者のコバヤシ・サブロウと名乗る男が、スチュワーデスにアイスピックを突きつけ、東京・地下鉄サリン事件で起訴された教団代表の麻原彰晃被告(40歳)の釈放を要求している」となった。また、キャプテンから全日空へのカンパニーラジオでは、ハイジャッカーはプラスチック爆弾のようなものを持っていると公表された。
運輸省は午後零時20分、ハイジャック対策本部を設置し、警視庁は捜査一課の特殊犯罪班を羽田空港に出動させた。
途切れ途切れの情報から運輸省などが把握したところでは、「永井航空機関士が自分の席に縛りつけられ、ハイジャッカーは複数の模様」というものだった。機内では、2階の乗客は全員1階に集められ、ハイジャッカーの伝言をスチュワーデスがコクピットに伝えに来ている状況だった。
ハイジャッカーは、麻原教祖の釈放と東京に戻ることを要求しているとされ、再三にわたり「給油に何分かかるか? 東京にいつ出発できるか」と管制塔に聞いてきた。午後1時18分には、「燃料を補給しないとプラスチック爆弾のタイマーをセットする」と言ってきた。
乗客の中には3歳未満の幼児7人も含まれており、函館医師会は医師、看護婦12人を函館空港に待機させた。市内8カ所の病院も待機態勢に入った。
北海道新聞社
2 日本中がオウムにハイジャックされた?
防衛庁は札幌市の第11師団、千歳市の第7師団の化学防護小隊、函館市の28普通科連隊に待機態勢をとらせた。このほか、防衛庁は内閣法による官庁間協力と防衛庁設置法による情報収集を根拠として、事件発生と同時に警察官の輸送や警戒のため、ヘリコプターを出動させた。航空自衛隊は千歳基地からF15戦闘機2機、三沢基地からF1支援戦闘機を哨戒のため発進させた。
この事件発生より先、5月16日にはようやくオウム真理教の麻原を逮捕したばかりで、地下鉄サリン事件の実行犯もまだ逃亡中だったから、日本中が報復や麻原奪還に脅えていた。また、麻原は4月15日にハルマゲドン(地球破滅)を予言、社会不安が高まっていた。
交通機関、空港などには大警戒網が展開されていたにもかかわらず、事件は発生した。やすやすとハイジャックを許してしまったことに国民は大きな失望と衝撃を受けた。日本全体がハイジャックされたような気がしたのである。
ハイジャック事件が発生したのが21日午前11時58分、第一報が官邸に届いたのが零時17分。村山首相(当時)が出席して政府与党首脳会議が開かれていた。五十嵐官房長官(当時)は会議を中座し、内閣安全保障室に対策室を設置して情報収集を指示した。午後1時10分には関係省庁局長会議の招集、45分には「全日空機ハイジャック事件対策本部」を設置、本部長として事件解決の陣頭指揮を取った。
政府が設置した「全日空機ハイジャック事件対策本部」は五十嵐官房長官、法務、外務、運輸、防衛、国家公安委員会、警察庁長官(次長が代理出席)の閣僚で構成され、夕方までに2回の会合を開いた。内閣安全保障室のハイジャック・マニュアルには、防衛庁は局長会議や対策会議の正式メンバーに入っていなかったが、この時は防衛庁の希望を官邸が認め参加した。対策会議では、人命尊重を第一に、乗客の早期解放を目指し、現地でのハイジャッカーとの交渉には北海道警察本部長を当たらせることを決定し、警察庁と運輸省の幹部を直ちに函館に派遣した。
3 東京発至急報“再びオウム・カルトがテロ”
外国通信社は、東京発の至急報で事件発生を速報した。オウム・カルトのタイトルが世界を再び駆け巡った。オウム真理教の上祐史浩幹部は東京・杉並の教団道場で記者会見し、「コバヤシ・サブロウという人物は在家、出家を含めていない。当局の要請があれば私がハイジャッカーの説得に出向く」と語った。
村山首相は、事件発生と同時に五十嵐官房長官、野中広務国家公安委員長、補佐官ら関係閣僚を官邸に集め、善後策を深夜まで練った。村山内閣が大事件に直面したのは、阪神大震災と地下鉄サリン事件などの一連のオウム真理教関連事件についで、これで3度目だった。よろめきながらも、危機管理体制が官邸主導で滑り出した。
ハイジャック機は午後零時42分、函館空港に着陸した。北海道警察本部は本部に対策本部を、函館方面本部に総合警備本部を設置した。函館空港事務所はハイジャック機の着陸と同時に空港を閉鎖した。
午後3時半ごろ伊達北海道警察本部長がヘリコプターで函館に到着し、数百人に上る捜査員や重装備の機動隊員も次々に到着した。機体に近い第3ゲートのエアーニッポンの格納庫側に救急車、警察の特殊車両、機動隊員を乗せたバスなどが展開した。そこはハイジャック機から死角になっていた。
W警視庁特殊急襲部隊(SAT)に出動命令!
1 警視庁特殊急襲部隊(SAT)函館へ出動
函館空港は、1976(昭和51)年9月6日に発生したミグ25函館空港着陸事件以来のあわただしさに包まれた。夕方までには、北海道警察は主な幹部をヘリコプターや航空機などで函館に集結させた。7時過ぎには警視庁特殊急襲部隊(SAT=Special Assault Team)も自衛隊機C1で入間基地から飛来した。
午後5時10分、キャプテンから全日空に「ハイジャッカーが『早く給油しろ、給油しなければ液体の入ったビニール袋をキリで突くぞ』と言っている」と無線交信があった。北海道庁は防災消防課と渡島支庁に情報連絡室を設置していたが、函館市と共同で365人分のサリン解毒剤のパムや硫酸アトロピンなどサリン対応薬剤の収集に着手し、北海道全域の医療機関などから函館空港事務所や待機中の救急医療班に配置し始めた。
時々行われるコクピットと全日空とのカンパニーラジオによる無線交信では、「乗客は粘着テープで縛られ、目隠しされている」、「ハイジャッカーからの通告は『函館で話をするつもりはない。みんな限界にきている。早く離陸しろ』というものだ」、「コクピットの覗き窓から見ると女の人が横たわっていてかなり疲れている」、「時々、コクピットに近づいてくる男が持っているのは、長さ20センチぐらいのアイスピックだ」などと続いた。そして、「報道のフラッシュをやめろ。車のライトもやめろ」とだんだんと緊迫していった。
2 タイヤをパンクさせても離陸阻止
日が変わって、午前零時を過ぎるとハイジャッカーからの要求が頻繁になり、緊張が高まってきた。「給油を早くしろ。時間がない」。これに対し、「病人とけが人を解放したら給油をする」と答えると、「離陸の時間を教えろ。タイマーは止められない」とハイジャッカーは応答した。
零時20分、キャプテンは「すでに決行した」と、乗客に危害が加えられたことをにおわせる情報を交信を通じて伝えてきた。関係者に衝撃が走った。「1人殺されたかもしれない」、「機内で悲鳴が聞こえる」、「何人殺されるか分からない」などと続けて報告してきて、ハイジャッカーの要求をのみ「キャプテン権限で離陸したい」と言ってきた。
北海道警察現地警備本部は、「離陸するなら、タイヤをパンクさせる」と離陸阻止の強い意志を表明し離陸を思い留まらせた。なぜか発表されたカンパニーラジオの記録からはこの項が削除されている。
この事件は、警察の動きをテレビ、ラジオでモニターするハイジャッカーと、操作の手の内を悟られまいとする捜査当局との戦いでもあった。着陸後、午後2時ごろから客室内の電源は切られ、テレビは見られない状態になっていたが、携帯テレビなどでテレビを見ているのではないかと、関係者は事件解決の瞬間まで気が気ではなかった。事実、ハイジャッカーは常時、携帯ラジオでイヤホンを使って報道を聞いていた。
実は北海道警察側は、ハイジャック機が着陸した1時間後には整備士と給油作業員合計4人を給油車3台で機体下部に向かわせていた。作業員のうち2人は警察官で機体下部に駐車した給油車の中で不測の事態に備えていた。
このチームがサービス・インタホンを使い、機内の様子をモニターすることに成功した。これは、給油口にあるジャックに差し込んで機内との連絡に使う小型の送受信機で、スチュワーデスとコクピット内の会話もモニターできた。モニタリングを続けた結果、ハイジャッカーは1人との確証を得た。
事件発生から12時間余り経った22日午前零時22分、細谷治通運輸政務次官(当時)が函館に着いた。細谷政務次官は人質交換を覚悟していた。現場の統括については、政務次官か北海道警かとの“ブレ”が当然のごとく発生した。現場が混乱したと直感した五十嵐官房長官は、伊達北海道警察本部長に電話で直接、「統括責任者は北海道警察本部長にある」ことを再び指示した。
ここでも危機管理はうまく機能した。日本の常識では、政務次官の到着で、指揮系統は当然、運輸政務次官たる細谷氏に移ると考えるのが普通だ。このへんを察知して、すかさず、北海道警察本部長に総括責任があることをダメ押しした五十嵐長官の勘は冴えていた。いわば、政務次官は人質要員であったのである。
事件発生から15時間半後、あかつきの急襲舞台(警視庁特殊急襲部隊=SATと北海道警察の対銃器部隊、同捜査一課特殊犯罪捜査グループ)が機内に突入した。
3 あかつきの急襲部隊突入
22日午前2時20分、北海道警察は報道各社に、「報道を差し控えていただきたい」旨の要請を行った。テレビ中継は一斉に機体右側からの機首のアップのまま動かなくなった。
捜査の動きが分からないよう、仮に機中でハイジャッカーがテレビを見ていてもこのシーンなら問題はなかった。一斉に中継を止めればハイジャッカー側に作戦間近かとの印象を持たれるなどの理由から、テレビ中継は機首のアップに落ち着いたのだ。
夜が白むのを待って、「あかつきの急襲作戦」が開始された。午前3時20分ごろ5人の隊員が機内からは死角になっている機体後部から接近し、引き続き約50人の隊員が機体下部に集結。午前3時29分、空港の灯火が一斉に消された。
同35分、足場を持った隊員がメイン・ギア(主脚)付近にハシゴを架け、点検用の出入り口から客室下に潜入した。床を開けて客室に突入するのとタイミングを合わせるように、別働隊が主翼左側の3カ所のドアから突入した。ドアにも足場を作って、ハシゴを架けていたのだ。
突入隊員は防毒面をつけて、「警察です。警察です。ハイジャッカーは何人ですか」と叫びながらなだれ込んだ。スチュワーデスらと客室前部にいた犯人は後方に凶器を振り回しながら逃げたが、午前3時46分、4人の隊員がハイジャック防止法違反容疑で現行犯逮捕した。そして、乗員・乗客全員を16時間ぶりに救出した。
女性1人が軽症を負ったほか、逮捕の時、ハイジャッカーが額に2週間のけがを負った。ハイジャッカーは53歳の休職中の銀行員・九津見文雄でオウム真理教とは関係がなかった。
この間の模様を、コクピットからのカンパニーラジオは次のように伝えていた。
北海道新聞社
事件解決時のコクピット
コクピット:下で悲鳴が聞こえる。機体が振動している。かなりの悲鳴です。
全日空:対策をとったようです。
コクピット:了解。
全日空:ハイジャッカー逮捕の模様。
コクピット:まだ走り回っているようだ。
全日空:警察からの連絡で全員無事、けが人なしです。
コクピット:了解。
コクピット:喉が渇いてしょうがない。何か飲み物をもらえますか。
コクピット:ただ今お茶の差し入れが届きました。ありがとう。
4 最後までオウム・サリンの恐怖下に
官邸への事件発生の第一報は「ハイジャッカーはくぎか針を持っている」だったが、ハイジャッカー・九津見が持っていたのは全長20センチの差し替え式ドライバーセット(VESSEL社製の1300H)で高圧電流の検電用のものだった。
逮捕時、客室後部に集められていた乗客のほとんどが粘着テープで目隠しをされており、荷造り用の紐で手を縛られていた。スチュワーデスも11人が手を縛られ床に座らされていた。
あかつきの急襲作戦は、警視庁の特殊急襲部隊SATと北海道警察との共同作戦だった。SATが担当したのは機体にハシゴを架け、ドアを開けるなど、進入路の確保で、突入したのは北海道警察の対銃器部隊と捜査一課特殊犯罪捜査グループで、一部は全日空のユニホームを着用していた。
ハイジャッカーは犯行時第一声で、「すべて尊師のためだ。言うことを聞けば乗客の命は守ってやる」と言いながら透明な液体の入ったビニール袋を取り出した。時々、袋を凶器のキリ付きドライバーで突き破るそぶりをした。あかつきの急襲部隊が機内に突入した時も渡辺スチュワーデスは袋を突かせてはならないと、一瞬の隙をついて袋を奪い取った。そして、ハイジャッカーのいる場所と反対側に走った。突かせてはならないと、死に物狂いであった。
ハイジャッカー・九津見の犯行の動機は、麻原との面会にあったという。九津見は自分が信仰するカトリックの教義と相容れないオウム真理教に、強い反感を抱いていた。麻原を釈放させてから、一連の犯罪事実の自白を求めることをもくろんでいたというのだが。また、総額1億円の生命保険に加入していたことから、麻原と刺し違え、家族に高額の保険金を残すことが目的といえば目的だったという。
1997年の函館地裁の一審判決は「ハイジャック事件の中で特に悪質とはいえず真剣に反省している」とし、求刑15年に対し懲役8年を言い渡した。なんとも能天気な判決だ。これではハイジャックは毎日起こってもおかしくはない。もちろん函館地検は即座に控訴している。
1999年9月30日、札幌高裁での控訴審判決で、近江清勝裁判長は「原判決の軽量は軽すぎて不当」として一審判決を破棄し、改めて、「実刑10年」の懲役を言い渡した。この判決に被告、検察とも控訴をせず刑は確定した。364人を人質にとって、生命の危険に追い込んだ卑劣なハイジャッカーに、この程度の刑で十分というのだろうか。ハイジャックが続発していないことは幸運に尽きる。
国内での
ハイジャック事件
航空機爆破事件
国内でのハイジャック事件
1
年月日 1970年(S45)3.31
機種 B−727
搭乗者 乗客131名 乗員 7名 合計138名
事件の概要
よど号事件。JAL351便(東京→福岡)が、7時30分頃名古屋上空を飛行中、日本刀、鉄パイプ爆弾等を持った赤軍派9人にハイジャックされた。「北朝鮮へ行け」と要求されたが、燃料がなく福岡空港に着陸し、乗客の一部を降ろした後、ソウル金浦空港に着陸した。残りの乗客、スチュワーデスと引き換えに山村運輸政務次官が搭乗し、犯人の要求どおり北朝鮮に向かい、平壌美林飛行場に着陸した。
2
1970年(S45)8.19
B−727
乗客 75名 乗員 6名 合計81名
あかしや号事件。ANA175便(名古屋→札幌)が、16時50分頃名古屋上空でモデルガンを持った男にハイジャックされた。操縦室に侵入し、「浜松に降りろ。ライフル銃とガソリンを用意しろ」と要求され、航空自衛隊浜松基地に着陸した。犯人逮捕。
3
1971年(S46)5.13
YS−11
乗客 49名 乗員 3名 合計52名
ANA801便(東京→仙台)が、7時40分頃東京湾上空で、ビニール電線を爆弾に見せた男にハイジャックされた。「平壌に行け」と要求されたが、東京国際空港に緊急着陸した。犯人逮捕。
4
1971年(S46)12.19
F−27
乗客 14名 乗員 3名 合計17名
ANA758便(福井→東京)が、14時05分頃東京国際空港に着陸するため高度を下げていたところ、男が後部トイレに放火した。消火活動のすきに操縦室に入り込み、機長にナイフで切りつけた。犯人は機長ともみ合ううちに自殺を図るなどしたが、取り押さえられた。犯人は、逮捕後死亡。自殺が目的とみられている。
5
1972年(S47)11. 6
B−727
乗客121名 乗員 6名 合計127名
JAL351便(東京→福岡)が、8時05分頃名古屋上空でピストル、手製爆弾を持った男にハイジャックされた。「キューバへ政治亡命する。政治資金として200万ドル要求する」と脅迫され、東京国際空港に着陸した。犯人は、代替機DC−8に乗り換えた直後に逮捕された。
6
1973年(S48)7.10
東京ヘリポートに発煙筒、ビラ、果物ナイフなどを携行して男が現れ、ヘリコプターに搭乗しようとしたところを航空機の運航を支配する罪の予備で逮捕された。犯人は、東京エアーランズ株式会社のヘリコプターをチャーターしたうえ、操縦士に暴行脅迫を加えて運航を支配し、同日前橋市で開催される日教組大会会場周辺に多数の発煙筒やビラを投下する目的だった。
7
1973年(S48)7.20
B−747
乗客123名 乗員 22名 合計145名
ドバイ事件。JAL北回り404便(パリ→アムステルダム→アンカレッジ→東京)が、アムステルダムを離陸後の23時55分頃、ピストル、鉄パイプ爆弾で武装し、操縦室に乱入した日本赤軍(1人)とパレスチナ・ゲリラ(1人)にハイジャックされた。イタリア、ギリシア、レバノン、シリアの上空を経て、アラブ首長国連邦のドバイ空港に着陸した。21日から24日までの間、佐藤運輸政務次官らの説得に応ぜず、同空港を離陸。ダマスカス空港で燃料を補給した後、リビアのベンガジ空港に着陸。乗客・乗員全員が機外へ脱出した後、犯人の手で同機は爆破。犯人(1名は機中で爆死)はリビア政府に逮捕された。
8
1974年(S49)3.12
B−747−SR
乗客409名 乗員 17名 合計426名
JAL903便(東京→那覇)が、13時20分頃沖永良部上空で、鞄の中身を爆弾にみせかけた少年にハイジャックされた。「那覇空港で給油のうえ東京に引き返せ」と要求され、那覇空港に着陸した。さらに金銭、ロープ、パラシュート等を要求。婦人子供・病人等を釈放した後、犯人逮捕。
9
1974年(S49)7.15
DC−8
乗客 76名 乗員 8名 合計 84名
JAL124便(大阪→東京)が、20時30分頃知多半島河和上空で登山ナイフを持った男にハイジャックされた。「元赤軍派議長を釈放し、北朝鮮へ行け」と要求したが、東京国際空港に着陸した。その後、同空港を離陸し、燃料補給のため名古屋空港に着陸した。スチュワーデスの機転により乗客が後部脱出口より脱出した後、犯人逮捕。思想的背景はなかった。
10
1974年(S49)11.23
B−727
乗客 21名 乗員 7名 合計 28名
ANA72便(札幌→東京)が、21時45分頃大子上空で、操縦室のドアを開け、模擬ダイナマイトを持った少年にハイジャックされかかった。乗員が取り押さえた。
11
1975年(S50) 4.9
B−747−SR
乗客200名 乗員 15名 合計215名
JAL514便(札幌→東京)が、16時57分頃東京国際空港滑走路を着陸のため走行中、乗員がピストルを持った男に脅された。滑走路南端で乗客全員が無事降機した後、犯人逮捕。逮捕の際、ピストルが誤射された。
12
1975年(S50) 7.28
L−1011
乗客275名 乗員 11名 合計286名
ANA63便(東京→札幌)が、15時45分頃松島上空で凶器を持っているように見せかけた少年にハイジャックされ、東京国際空港に緊急着陸し、犯人逮捕。
13
1976年(S51)1.5
DC−8
乗客211名 乗員 12名 合計223名
JAL768便(バンコク→マニラ→大阪→東京)が、マニラ空港寄航中、ピストルを持って同機に侵入した男(2人)にハイジャックされた。乗客は半分程搭乗しており、「東京行き」を要求。説得の結果、降機、逮捕された。航空機を利用した特殊人質事件。
14
1977年(S52) 3.17
B−727
乗客 36名 乗員 7名 合計 43名
ANA724便(札幌→仙台)が、13時05分頃函館上空付近で、ナイフを持った男にハイジャックされかかった。乗客に取り押さえられ、函館空港に緊急着陸。
15
1977年(S52) 3.17
B−727
乗客173名 乗員 7名 合計180名
ANA817便(東京→仙台)が、18時34分頃東京国際空港上空で、模造ピストルを持った男にハイジャックされ、東京国際空港に緊急着陸した。犯人は、「東京−仙台間を燃料がある限り飛べ」と要求。その後機内で服毒自殺を図り、逮捕後死亡。
16
1977年(S52) 9.28
DC−8
乗客142名 乗員 14名 合計156名
ダッカ事件。ANA南回り472便(パリ→カラチ→ボンベイ→バンコク→東京)が、ボンベイを離陸後の10時45分頃、ピストル及び手りゅう弾で武装した日本赤軍(5人)にハイジャックされ、バングラディッシュ、ダッカ空港に着陸した。犯人は、「日本に拘禁中の奥平純三ら9人の釈放と現金600万ドル」を要求。政府は、石井運輸政務次官らを急派するとともに、奥平ら6人と現金600万ドルをダッカに移送し、人質の乗客大半と交換。犯人は、ダッカを離陸し、クウェート、シリアを経て、アルジェリアのダル・エル・ペイダ空港に着陸。アルジェリア政府に投降。
17
1979年(S54)11.23
DC−10
乗客345名 乗員 11名 合計356名
JAL112便(大阪→東京)が、12時25分頃浜松市上空で栓抜き(航空機ギャレーにあったもの)を持った男にハイジャックされ、「ロシアへ行け」などと要求され、新東京国際空港に緊急着陸した。給油中、機長らに取り押さえられた。
18
1995年(H7) 6.21
B−747SR
乗客350名 乗員 15名 合計356名
ANA857便(東京→函館)が、山形市付近上空を飛行中、アイスピック状のドライバー、サリンに見せかけた液体入りの袋及びプラスチック爆弾に見せかけた粘土を持った男にハイジャックされた。犯人は、函館空港に着陸後に燃料を補給して東京へ戻るよう要求したが、着陸から15時間後、警官隊が機内に突入して犯人を逮捕した。
19
1997年(H9) 1.20
B−777
乗客182名 乗員 10名 合計192名
ANA217便(大阪→福岡)が、宇部市上空付近を飛行中、包丁を持った男にハイジャックされた。犯人は外国に行くことを要求したが、福岡空港に着陸後、乗客を降機させ、自分も降機したところを警察官に逮捕された。
20
1999年(H11) 7.23
B−747−400
乗客503名 乗員 14名 合計517名
ANA61便(東京→新千歳)が離陸直後にナイフを持った男にハイジャックされた。犯人は、機長に対し操縦を代わるよう要求したが、受け入れられなかったため刺殺。米軍横田基地に着陸しようとしたが、副操縦士等に取り押さえられ、東京国際空港に着陸後、警察に逮捕された。
21
1989年(H1)12.16
B−747
乗客200名 乗員 23名 合計223名
中国民航981便(北京→上海→サンフランシスコ→ニューヨーク)が、北京から上海に向かう途中ハイジャックされた。ソウルへ行くよう要求されたが、韓国側に拒否され、福岡空港に着陸した。犯人は中国人で、着陸後まもなく後部ドアから乗員に突き落とされ病院に収容された。
(注)4、6、13は、航空機の奪取等の処罰に関する法律の「航空機の奪取等(予備罪は除く)」には該当しない。
国内での航空機爆破事件
1
年月日 1978年(S53)10. 1
事件の概要
東亜国内航空325便(熊本→東京)が離陸後、機内で焼身自殺未遂事件が発生。犯人は元薬品会社社員で、妻・子供2名とともに搭乗、床下にベンジンを撒き火をつけ、機内火災を発生させ自殺を図った。客室乗務員が消化器を使用し消火、大分空港に緊急着陸した。
2
1982年(S53) 7.13
日本航空006便(成田→アンカレッジ)が離陸直後、米国籍男性がマッチを用いて洗面所に放火。乗務員がこの男を取り押さえ、火を消し止め成田空港に引き返した。
3
1982年(S57) 8.12
パン・アメリカン航空830便(成田→ホノルル)がホノルル空港に進入中、高度約2万8000フィート付近で後部座席右側付近で爆発。死亡者1名、負傷者15名が発生。運航に支障なく、ホノルル空港に着陸した。爆発物は、ニトロべタンを使用した衝撃爆弾とされる。
4
1983年(S58) 1. 8
大韓航空007便(アンカレッジ→ソウル)が、アンカレッジの管制当局から「乗客の一人が爆発物を所持している」との通報を受け、成田空港に緊急着陸した。容疑者は、乗客のカナダ国籍男性で、自分で脅迫状を出したもので、機内から爆発物は発見されなかった。
5
1985年(S60) 6.23
カナダ太平洋航空003便(バンクーバー→成田)が成田空港に到着し受託手荷物を取り降ろしていたところ爆発した。作業をしていた2名が死亡。4名が負傷した。
6
1986年(S61)10.26
タイ国際航空620便(マニラ→大阪)が室戸岬上空付近を飛行中、機内で爆発が発生。機体隔壁を損傷したため大阪国際空港に緊急着陸した。日本国籍男性の一人が不法に機内に持ち込んだ手りゅう弾が爆発したものとみられる。
7
1994年(H6)12.11
フィリピン航空424便(マニラ→セブ→成田)が成田に向けて南大東島付近上空を飛行中、機体中央部右側の座席下付近で爆発物が爆発し、那覇空港に緊急着陸した。爆発箇所付近の座席の乗客1名が死亡、10名が負傷した。
第四章
“コンコルド後ろから出火! 右だ!”
―Wrong Runway―
T“ル・ブルジュ、ル・ブルジュ!
もう間に合わない”
1 神よ、あの時あなたはパリのどこにいらっしゃったのですか
2000(平成12)年7月25日午後4時45分(日本時間24日11時45分)ごろ、パリ・シャルル・ドゴール空港付近に、エールフランス(AF)4590便ニューヨーク行きの超音速旅客機コンコルドが墜落した。空港から8キロの地点にあるホテルに突っ込むように墜落し、乗員・乗客、地上の人など118人が亡くなった。
AF4590便は、定刻を80分遅れて離陸態勢に入った。離陸許可が出て、コンコルドが滑走を始めて56秒後、管制官はコンコルドの左翼付近から火が出ているのを発見した。すでにV1(離陸中止決定速度)を超えていたので、コンコルドは離陸するしかなかった。
離陸したコンコルドの操縦は著しく困難な状態に陥った模様で、高度を上げることもままならず、キャプテンのクリスチャン・マルティは8キロ先のル・ブルジュ飛行場への緊急着陸を要請してきた。しかし、左にそれて急角度でゴネスに墜落してしまった。
コンコルドが墜落・炎上したゴネスの町は、パリから北東15キロにあり、ドゴール空港へ発着する航空機のルート下にあって、旅客の乗り継ぎ用のホテル、レストランが集まっている。コンコルドは、ここにあった木造のホテル「ホレ・ブル」のレストラン部に大音響とともに翼から墜落し、大火災を起こした。
ホテル従業員のポーランド人、モーリシャス人、アルジェリア人4人を含む5人が巻き添えで死亡した。地上の巻き添え犠牲者を含めると118人が亡くなるという大惨事となった。ゴネスの事故現場は大音響と燃えさかる炎に包まれ、火災が収まると、廃墟となったホテル周辺には犠牲者が散乱する修羅場となった。
このコンコルドはドイツの旅行会社ディルマンのチャーター便で、パリ―ニューヨーク間を3時間半で飛んだ後、旅客は豪華船に乗船してカリブ海をクルーズしてエクアドルに向かう予定だった。乗客のうち96人がドイツ人でうち3人は子供だった。
事故発生から約7時間後の25日早朝の日本でも、衛星放送が一斉に世界各国の事故の報道ぶりを伝えた。フランスのF2は、生々しい現場からの中継を中心に詳細に事故の模様を伝え、問い合わせ用のAFの電話・ファクシミリ番号もテロップで流した。
犠牲者が集中したドイツではZDFが、沈痛な中で現場の模様を伝え、コンコルドの一方の開発・運航国であるイギリスのBBCは、安全が確認されるまでコンコルドの運航は中止されると伝えた。このほか、アメリカのCNN、ロシアのRTИ、韓国のKBSなどがトップで報道した。
各国の新聞も一斉にトップニュースで「怪鳥墜ちる!」と報道した。「超音速機の破綻」、「全員死亡」、「ヨーロッパ共同の象徴の失墜」、「欧州とアメリカの航空覇権の行方」などのタイトルとともに複雑で強い衝撃が広がっていた。「コンコルド、死へのテイクオフ 決定的瞬間 墜ちた超音速機の威信」(『週刊朝日』2001/8/11)などとタイトルされて、火を吐きながら低空を飛ぶコンコルドのカラー写真が各紙(誌)に掲載された。事故のあった同じ時刻、ドゴール空港では東京行きの便が離陸を待っていた。その便に乗っていた日本人旅客が撮影したものだった。
フランスのシラク首相は、事故発生時刻にちょうど沖縄サミットから帰国し、乗っていたエアバス機中から事故の模様を目撃した。その衝撃はいかばかりだったことだろう。国家の威信を担って長期間飛び続けてきたコンコルドが、眼前で墜落・炎上したのである。AFのスピネッタ会長も、空港付近の本社ビルの自室から事故の一部始終を目撃した。
ドイツの主な閣僚は直ちに事故現場に向かうなど、ヨーロッパの威信を象徴するコンコルドの墜落は、特に、フランス、イギリス、ドイツで衝撃が大きかった。
ハノーバーで開かれたドイツ人犠牲者の追悼式典で、ローマ・カトリック教会のホーメイヤー司教は「神よ、あの時あなたはパリのどこにいらっしゃったのですか。われわれを見捨てたのですか」と、ドイツ国民を代弁して悲痛の嘆きをもらすとともに、犠牲者の冥福を祈った。
墜落したコンコルドの残骸(WWP)
2 直前離陸機の落下物
――コンコルド踏んでバースト――
破片がタンク直撃――出火・墜落
コンコルド事故暫定事故報告書
事故当初、有力な原因として、逆噴射システムが破壊されエンジンが爆発したのではないかと疑われた。事故機は事故前日の8月24日、ニューヨーク―パリ間を飛んだ際、左翼の内側第2エンジンの逆噴射システムに不具合が見つかった。マルティキャプテンは交換を強く要求し、予備機から部品を取って交換した。このため4590便は80分出発が遅れた。マルティキャプテンは、不安の残る逆噴射システムを嫌い部品を交換した上でフライトを完璧に行おうとしたのだといわれている。
この経緯から、離陸直前に取り替えられた第2エンジンの逆噴射システムが、何らかの不具合を起こし飛び散ってエンジン爆発を起こしたのではないかというのが逆噴射システム不具合説の根拠だった。
なお、マルティキャプテンは20年前、ウインドサーフィンで大西洋を横断し、フランスの英雄になったことがある沈着なタフガイだった。副操縦士のジャン・マルコーは、ほかの機種のキャプテンになることを断って、コンコルドに乗務を続けていた。コンコルドに魅入られていたのである。
事故から1カ月余り経った8月30日、フランス運輸省事故調査局(BEA)は、コンコルド墜落事故について、76ページに及ぶ(暫定)報告書及び事故機と管制塔との交信記録を発表した。
この中で、BEAは「AF4590便の事故は、左後輪のタイヤの破損がその後短時間に連鎖的に悲劇的な状況を引き起こしたため、クルーが問題を解決することを妨げた。タイヤの破損が今後起こらないとは言い切れない」と暫定見解を述べた。
さらに暫定報告書は、事故の発端はギア(離着陸装置)のタイヤのバーストで、それを手始めに連鎖的にトラブルが続き、エンジン発火、燃料タンク破損、左翼火災へと発展し墜落に至ったとした。
バーストの原因は、直前に離陸したDC10が滑走路に落としていった長さ43センチの金属片で、事故機がこれを踏んで左後輪がバーストしたと断定した。BEAは9月4日、事故原因となった金属片がアメリカ・コンチネンタル航空のDC10のものである可能性が高いことを明らかにした。
コンチネンタル航空によると、9月2日にBEAとFAA(アメリカ連邦航空局)によって問題のDC10が調べられた。すると、同一サイズの金属片が紛失していることが判明した。翌3日にはBEAは、問題の金属片が事故直前に同空港を離陸した、同航空のDC10のものであるかとの確認を求めてきた。コンチネンタル航空は、金属片が同社機のものである可能性を認めた。
しかし、報告書はこれらについてさらに補足分析が必要として最終確認を避け、あくまでも慎重な姿勢を崩していない。最終報告が発表されるまでには少なくとも1年はかかると見られたが、フランスとイギリスの航空当局は、最終報告を待たずにコンコルドの飛行を停止させた。墜落事故の原因と見られるタイヤ破裂の懸念がなくなるまで、コンコルドの滞空証明を停止したのである。
ブリティッシュ・エアウェイズ(BA)は、事故前日、保有するすべてのコンコルドの翼にクラック(亀裂)が発見され、1機の運航を休止させたばかりだった。なお、BAは翌26日からコンコルドによるニューヨーク路線を再開した。BAは「技術的にも、安全面でも運航を中止する理由はない」とした。後日イギリス、フランス当局がコンコルドの滞空証明を取り消したため、運航は結局取り止めざるを得なかったのだが。
墜落事故の原因究明に合同で当たっていたフランスとイギリスの航空当局は9月7日、事故原因とコンコルドの構造的問題についての特別会合を開いた。しかし、運航再開へ向けての具体的対策については結論が出なかった。どちらにしてもこの程度の(暫定)事故報告書では、運航再開に踏み切るのには無理があるというのが関係者の一致した見方だった。
3 就航以来70件のタイヤ・トラブルが
コンコルドにはタイヤ・トラブルがつきまとっていた。コンコルドは三角翼を前後に2つつけた二重三角翼機で、これを空力的に整理したもので、オージー翼機ともいわれる。三角翼機のメリットである、音速付近での空力移動が少ないこと、音速飛行時の空気抵抗が少ないことなどが革新的だった。さらに、翼面面積が大きく取れ、翼面荷重が少なくて済み、翼内に燃料を大量に搭載するなど在来機にはない数々のアイディアが盛り込まれていた。
しかし、離着陸などの低速時に大きな向かえ角を取り、必要な揚力を得るためには滑走スピードを上げなければならないなどアキレス腱もあった。このため、離着陸スピードはV1(離陸中止決定速度)で370キロ、V2(安全離陸速度)で400キロと速い。はるかに重量の多いB747―400でもV1が153キロ、V2が181キロに過ぎない。
また、大きな向かえ角から視界を確保するため、コンコルドは離着陸時に機首を下げている。これらの点からコンコルドは、滑走中にスピードを上げに上げてから、ようやく離陸するタイプの航空機であることが分かる。したがってコンコルドのタイヤには、予想できないような圧力と熱が加わる。離陸時に騒音が多いのはこのためで、排気ガス公害も懸念され、このこともコンコルドの売れ行きにブレーキがかかった大きな理由の一つである。
1979年、AFのコンコルドはワシントンの空港でタイヤがバーストし、燃料タンクが破壊されるというトラブルに見舞われた。1981年、NTSB(アメリカ国家運輸安全委員会)はAFに対し、コンコルドのタイヤは離陸時に問題を起こしがちだと警告している。1987年8月にはBAのコンコルドがニューヨークに着陸する際に、10本のタイヤのうち6本がバーストした。イギリス民間機航空安全局(CAA)によると、1976年にコンコルドの使用が開始されて以来、70件のタイヤ破裂が報告され、このうち7件が燃料タンクの破損につながっていた。
U“爆弾タイヤ”が燃料タンク直撃
1 タイヤは爆発物?
航空機のタイヤには自動車よりも高圧の圧搾空気が充填されており、高速で滑走したり、高速時にブレーキをかけると発熱して爆発することがあった。始末が悪いのは、離陸が終わり、航空機が飛行状態に入ってギア(車輪)を機体内部に格納した後に爆発したり、着陸して滑走が終わった後に爆発することだった。
1977(昭和52)年8月7日、大阪発の全日空機が25分遅れで午後3時40分に鹿児島空港に到着した。折り返しのための所定点検を終了した時、サーマルヒューズ(温度が上がった時、溶けて空気を抜く仕組み)3つのうち2つから空気漏れを発見した。このためジャッキを使ってタイヤの交換作業に入った4時ごろ、突然発火して爆発し、整備士5人がゴムの破片や爆風でけがをした。
原因はタイヤのゴムが300℃で分解してガスが発生し、温度が発火点を超える高温だったために発火・爆発した。全日空ではこの事故を教訓に、1カ月間でタイヤ充填用の圧搾空気を窒素(N)に改変した。日本航空では従来より窒素を使っていた。
タイヤメーカーのグッドイヤー社の実験では、400(204・4℃)でタイヤのゴムからガスが発生し、タイヤ内の空気と混合し一定の混合比に達すると熱によって点火・爆発することが分かった。
タイヤに、圧搾空気に変えて窒素を使うことは、燃焼を防ぐばかりでなく、金属部品の腐食防止とタイヤ内の酸化防止にもなることが分かった。
全日空鹿児島空港事故やグッドイヤー社の調査報告があったにもかかわらず、10年後再び同種の事故を経験しなければならなかった。1986年3月31日、メキシコのメヒカナ航空のB727がメキシコ国際空港(メキシコシティ)を離陸して14分後墜落し、乗員・乗客16人が死亡した。
5月22日、この事故について、メキシコ文化情報省は最終調査結果を公表した。それによると、B727は離陸14分後、機体に格納された主輪のうち左側のタイヤが破裂、その衝撃で格納庫のフタが破壊されて飛ばされ、左主翼にぶつかった。このために、左主翼がもぎ取られるとともに主翼内の燃料タンクのジェット燃料に引火・爆発、胴体も破壊された。したがって、これらの破壊は順次発生したため、左主翼は墜落現場から30キロ離れたところで発見された。
離陸後、タイヤが機体内部に格納された後も高温のタイヤからガスが発生し続け、タイヤ内の空気と混合ガスを形成し着火・爆発したものである。空気を充填したタイヤは一つ間違えると爆発物になる可能性のあることを周知徹底されていなかった悲劇だった。
2 管制塔は機体後部の火災を指摘、クルーは第2エンジンの火災と誤解?
BEAは、8月30日の暫定事故報告書の公表と同時に、事故機と管制塔との2分間に及ぶ交信記録を発表した。
管制塔との交信内容
7月25日午後4時42分17秒
管制官:AF4590便、滑走路26右、(略)離陸を許可する。
副操縦士:4590便、26右滑走路から離陸する。
キャプテン:全員、準備は完了か?
副操縦士:イエス。
航空機関士:イエス。
キャプテン:100、150、全開。
(略)
副操縦士:注意しろ。
43分13秒
管制官:コンコルド(聞き取り不明)4590便、機体から出火(不明)後ろから出火。(不明)右だ。
航空機関士:(不明)を停止。
副操縦士:了解。
航空機関士:エンジン故障、第2エンジンが故障。
(管制塔、発言者不明):かなりひどく燃えている。
航空機関士:第2エンジン停止。
キャプテン:エンジン炎上手順。
副操縦士:警告。速度計、速度計、速度計。
(管制塔、発言者不明):ひどく燃えている。エンジンからの出火かどうか分からない。
キャプテン:ギア(車輪)を上げろ。
43分31秒
管制官:4590便、後部がひどく炎上しているぞ。
航空機関士:ギア。
管制官:ミドル・マーカー(ILS=計器着陸装置)のレセプション開始。
副操縦士:イエス。了解。
航空機関士:ギア。だめだ。
管制官:そちらの都合で、着陸を優先する。
航空機関士:ギア。
副操縦士:ノー。
キャプテン:ギアを上げろ。
副操縦士:了解。今やっているところだ。
航空機関士:(不明)
キャプテン:第2エンジンは切ったか?
航空機開士:切った。
管制官:ミドル・マーカーのレセプション終了。
副操縦士:速度計。
副操縦士:ギアが上がらない。
(中略)
消防司令:ドゴール管制塔へ、こちら消防司令。
44分05秒
管制官:消防司令。あっ……コンコルド、そちらの意図が分からない。南側滑走路近くで体勢を整えよ。
キャプテン:(不明)
消防司令:ドゴール管制塔へ、こちら消防司令。26右滑走路への進入許可を要請する。
副操縦士:ル・ブルジュ(空港)、ル・ブルジュ、ル・ブルジュ。
キャプテン:もう間に合わない(不明)。
管制官:消防司令。訂正。コンコルドは反対側の滑走路09に戻っている。
キャプテン:(不明)時間がない。
副操縦士:いや。ル・ブルジュをトライする。
44分30秒
消防司令:ドゴール管制塔へ、こちら消防司令。コンコルドの状態を説明せよ。
V甦る不死鳥《フエニツクス》
1 改修に3000万ポンド(52億円)
1937(昭和12)年、ドイツ・フリードリックスハーフェンを飛び立った巨人飛行船Lz29=ヒンデンブルグ号は、アメリカ・レークハースト上空に到着、着陸寸前に浮揚ガスの水素が爆発、炎上した。この事故で飛行船の時代は終わりを告げた。
事故直後、飛行船の時代の終焉になぞらえてコンコルドの時代は終わったとする論調が溢れた。しかし、今回の事故原因はコンコルド機特有のメカニズムなどの問題ではなかったようだ。
エールフランス(AF)は、コンコルドのパリ―ニューヨーク路線に事故後の11月から、B777などの代替機を就航させていたが、フランスとイギリスのコンコルド復活への意気込みはものすごく、運航再開への手を着々と打っていた。
フランスのタイヤメーカー、ミシュラン社は、今回の事故の教訓を踏まえてタイヤ回りの強化を図り、外部衝撃性を高めた専用タイヤを開発し、AFに納入した。これまで使われていたタイヤは、アメリカのグッドイヤー・タイヤ・アンド・ラバー社が製造していた。
また、たとえタイヤがバーストしても、エンジンに影響を与えないように、燃料タンク内にケブラー強化材を内張りするなどの強化改修工事を行った。試験滑走、試験飛行も南フランスのイストル空軍基地やドゴール空港で消化された。イストル空軍基地で行われた高速タクシーテストでは、左主翼下面から4色の色水を流し、燃料がどのように流れ出てエンジン火災を引き起こしたのかを追試した。ブリティッシュ・エアウェイズ(BA)はこれらの改修費用は3000万ポンド(約52億円)と発表した。
2001年、6月、パリ郊外の飛行場での改良機のテスト飛行のスケジュールを消化、安全確認のための最終点検もすべて終了していた。6月初旬、フランスとイギリスの航空当局は運航再開に向けて最終スケジュールの調整に入り、運航許可証の再発行に漕ぎつけた。コンコルドはあの忌まわしい事故から1年を経て再び不死鳥のように甦った。
2 TWAジャンボ機爆発の原因もタンク爆発? NTSBは燃料タンクの改修を指示
2001年5月、NTSBは主翼燃料タンクの安全強化対策を世界12のメーカーに通達した。内容は、30席以上の座席を持つ合計7000機の航空機と、これから作られる新造機を対象としている。
燃料タンク内での引火防止と燃料の気化防止を目的とし、既存機には燃料タンクシステムの点検と、配線などから火花が飛ぶことがないように改造することを求めている。新型機にはさらに厳しく気化防止策、引火防止策を設計時から取り入れるように求めている。航空会社に対しても燃料タンクの安全管理と検査を義務付けた。
航空機の燃料タンクについての今回の通達は、コンコルドの事故によって見直しの機運が高まったことと、1996年にアメリカで起こったトランスワールド航空(TWA)のB747事故の原因が、最近、燃料タンク爆発説が有力となってきていることがその背景となっている。
1996年7月17日午後8時40分ごろ、ニューヨーク州ロングアイランド島南16キロのモリチェズ湾上、高度2740メートルでニューヨーク発パリ行きのTWAのB747ジャンボ機、880便が空中爆発し墜落した。同機には乗員・乗客230人が乗っていた。
880便は最初の爆発で機体前部を失い、そのまま10〜11秒間飛行を続け、火に包まれた。ファーストクラスの乗客は空中に放り出された可能性が高かった。NTSBは燃料タンクの燃料系の電気配線がショートし、その火が引火・爆発したと見ている。
事故原因は当初、空中で爆発しているところから、テロによる爆破ではないかと疑われた。が、回収されたブラックボックスと徹底的に回収・復元された機体から、次第に主翼中央にある燃料タンクが爆発した可能性が強まった。
調査は徹底的に行われ、考えられるすべての手段が尽くされたため異例の時間がかかった。海底から880便の残骸は引き上げられるものはすべて引き上げられ、復元された。
3 ユーロジャンボA380の開発に影響は出るか?
超音速旅客機コンコルドの墜落事故は、第四世代の主力旅客機をめぐって活発化してきたアメリカとヨーロッパの開発競争に影響を与えるのだろうか。30年間世界の旅客機製造を独占してきたアメリカ・ボーイング社に対抗し、エアバス・インダストリー社は切り札として超大型機A380計画を発表した。公開されたモックアップ(模型)は総2階建てで555人から800人乗りの各種のプランが提示されている。
「空飛ぶホテル」を目指すなど客室革命を図っており、寝室やシャワールームはもちろん、バーやカジノ、スポーツジム、レストランなどの装備もある。開発費は800億フラン(約1兆2000億円)、販売価格は17億フラン(約255億円)とされ、販売価格はB747よりも高いが、乗客増から十分採算はとれると試算している。しかし、フランス、イギリスが共同開発したコンコルドが墜落したことで、製造・販売計画が遅れる可能性が懸念された。
A380の開発、製造が国家資本を投じたコンコルドと決定的に異なるのは、イギリス、フランス、スペインの3カ国が作った「エアバス総合社(AIC)」が、市場から開発資金を集める点だ。出資比率はAICが80パーセント、BAe(ブリティッシュ・エアロスペース)が20パーセントとなっている。コンコルドの事故が機体自体に欠陥があったのか、そうでなかったのかで、今後の開発計画に大きな影響が出そうだ。
復元されたTWA(WWP)
1995年の世界の航空機受注数は、ボーイング社468機、エアバス・インダストリー社105機だったのが、2000年には初めて、ボーイング391機、エアバス476機と逆転し、1970年代以来続いたボーイング社の優位が覆った。
エアバスの猛攻に、ボーイング社は持てる実績、経験をバックに総力を挙げて巻き返し策を再構築するなど、次期大型旅客機開発をめぐる2大航空機メーカーの動きは激しくなってきている。世界有数の大型旅客機ユーザー国日本には2大メーカーのトップが自ら来日し、売り込みに拍車がかかってきている。
ボーイングは対抗上、乗客550人クラスのB747改を提案したのもつかの間、スピードが限りなくマッハ1に近い、革新的な航空機「ソニッククルーザー」の開発を発表した。ジャンボ機開発以来30年ぶりの大きな賭けといわれ、現用機のどれよりも速く、東京―ニューヨーク間は今より2時間短縮され、10〜11時間で結ばれる。
ボーイング社の経営戦略は大航空時代の進展とともに世界の航空機市場で、B747ジャンボ機を先頭に大型化路線、安全神話を旗印に経営を伸ばしてきた。ジャンボ機就航30年を機に、世界の今後の航空ネットワークは、ポイント・トゥー・ポイントに転換すると判断したのである。
ボーイング社のフィリップ・コンディットCEO(最高経営責任者)が来日、発表したところでは、「ポイント・トゥー・ポイント」とは、乗り換えなしに直接目的の空港まで行ける路線を世界中にめぐらすというもの。このために、航続距離の長い、高速の旅客機が必要となる。それがソニッククルーザーである。したがってボーイングは巨人機開発を終了させ、スピードの速い小・中型機の開発に専念するとしたのである。
自転車の車輪のスポークとハブにたとえられる「ハブ・アンド・スポーク」航空路網とは、旅客は広い地域からたくさんのスポークでハブに集められ、大量・高速で他のハブに移動し、そこからスポーク路線で目的の空港に行くのである。現在の航空網はほぼこのようになっている。
エアバス社は今後もこの航空網はさらに広がると判断し、ハブとハブを大量・高速で結ぶA380の開発を急いでいる。日本市場では2019年までの20年間に、座席数400以上の大型機の需要が180機あると試算し、これは世界需要の15パーセントに当たるとして日本法人エアバス・ジャパンを設立、ノエル・フォジャールCEOを送り込んでセールス活動を本格化させている。
「ソニッククルーザー」
W“そこっ、何かがある!”
RUNWAY――THE KEY TO CRASH
1 Construction machinery on a runway(滑走路に建設機械)
2000(平成12)年10月31日午後11時18分(日本時間11月1日午前零時18分)、台北の中正(蒋介石)国際空港で台北発ロサンゼルス行きのシンガポール航空(SIA)SQ006便(B747―400、乗員・乗客179人)が離陸に失敗、爆発・炎上した。この事故で、82人が死亡(日本人1人を含む)、49人が重軽傷を負った。48人は無事だった。
SIA機は離陸滑走中に機体前部が爆発し、炎に包まれた。火災は40分後に消し止められたが、機体は05R滑走路を中心に機首部、主翼部、尾部の3つに分断されて残骸をさらした。機首部、主翼部では燃料タンク及びエンジンを中心に火災が起きたため死傷者が集中した。ただし、2階部分は焼失を免れ、コクピット・クルーは全員が生存していて救出された。切り離された形の尾部では火がすぐ消し止められ、助かった人が多かった。
台北から送られてきたテレビの映像を見ると、機体尾部には、すっぱりと輪切りにされたような開口部ができて、台風の強風にちぎれたケーブルや内装材がさらされ、事故のものすごさを物語った。SIA機の後で離陸待ちしていた中華航空機2機は、SIA機が05Rに進入していくのを目撃し、「SIA機は滑走途中で突然跳ね上がり、続いて落下してエンジンから発火した」と伝えた(台湾・自由新報)。
SIA機は1997年1月にロールアウト(完成)し、9月の機体点検では異常がなかった。新品同様の機体だったのである。キャプテンであるマレーシア人のフン・チー・コンは21年のキャリアを持つ、滞空時間1万1000時間のベテラン・パイロットだった。
事故直後の現場からの中継映像に、意外なことに大型の建設機械が映った。消火・救助活動に使われたのか、現場の整理に当たっているのかと思われたが、現場保存もしないで空港再開を急ぐことは考えられなかった。後日、事故直後の映像に事故原因の大きなヒントが映っていたことが明らかになる。
なお、中正国際空港では1998年2月16日、デンパサール(バリ島)発台北行きの中華航空機(A300)が着陸時に墜落・炎上し、乗員・乗客196人全員が死亡している。
2 Monsoon winds reach 100km/h(時速100キロの強風)
事故当時、台湾には台風20号が接近しつつあり、各地に大被害が発生していた。中正国際空港でも強い雨と風が吹き荒れており、視界は極めて悪かった。事故後、台湾・行政院(内閣)航空安全委員会は、「視界は600メートルで、管制官がSQ006便を視認できなかった。事故原因に天候条件が関連している。SIA機は離陸直後、強い風でバランスを失った可能性が高い」と指摘した。
SIA・台北支店は「同時刻に他の航空機が離発着していて、天候に問題はなかった。救出されたキャプテンが離陸直後、『何か異物にぶつかった(It felt like we bumped into something huge)』と話している」と発表した。
すぐに台北のテレビは次のような重大な事実を報道し始めた。「SIA機は予定の滑走路(05L)には入らず、別の滑走路から飛び立とうとしていた」というのだ。空港には3本の滑走路があり、SIA機は最も西側の「05L」滑走路を使う予定だった。しかし、SIA機の機体は中央の「05R」滑走路にあった。パイロットの操縦や空港当局の誘導に間違いがあった可能性が出てきたのである。
3 Typhoon Elephant God made its presence felt(荒れ狂う台風「象神」)
季節外れに襲ったTyphoon Elephant God(台風20号)は、台湾各地に大被害をもたらしつつあった。台湾の内政部防災センターの集計では、河川の氾濫や土石流の発生で、37人が亡くなり行方不明者も多数出ていた。空港の閉鎖も相次ぎ、鉄道・高速道路も分断され、台湾全土はマヒ状態に陥っていた。
事故が発生した時間、台風20号の中心はバシー海峡に達し、中心気圧960ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は40メートルに達し、毎時30キロメートルの速さで北北東に進んでいた。
11月1日午前、台湾・交通部(運輸省)民航局の張副局長は「キャプテンは、天候が安全に離陸できる範囲だと判断したようだ」と語った。事実、民航局は台風直撃下の中正国際空港を閉鎖していなかった。空港閉鎖の段階には至っていないとの判断だった。中正国際空港をホームベースとする中華航空はスケジュール通り就航を続けた。しかし日本アジア航空は、当夜の最終便・大阪(関西空港)発高雄行きを欠航させた。
台風直下では風が回り、突風・横風が発生しやすい。横風に対しての運航判断は、機体製造メーカー等の推薦数値を基に航空各社が社内規定によって定めている。FAA(アメリカ連邦航空局)の横風の風速基準は、B747機の場合、晴天時30ノット(約15メートル)、雨天時は20〜25ノット(10〜12・5メートル)の範囲内。通常、この基準に準じて16メートルの横風があると欠航になるケースが多い。
SIAでは晴天、雨天時とも30ノット(15メートル)だった。日本の航空会社はB747―400の場合、雨天時で20ノット(10メートル)、晴天時で30ノット以下での運航としている。 しかし、世界的には機種や航空会社によって基準が異なり、飛ぶところ、飛ばないところがまちまちなので、風雨で空港自体が閉鎖されることはあまりない。管制官が周囲の航空交通の状況などをチェックし、安全を確認した上で離陸許可を出すと、離陸するかどうかはキャプテンの判断になる。
世界の主要国際空港には横風が吹くことを想定して、東京国際空港(羽田)のように横風用滑走路を持つものが多いが、中正国際空港にはなかった。台湾・民航局の張副局長は1日午前の会見で、事故は横風によって起きたのではないかという点に対して否定的だった。
4 It was on the wrong runway(滑走路を間違えた)
台湾中央通信社は、早い段階から「SIA機は工事のため閉鎖中の滑走路に進入し、離陸しようとした」と報道していた。1日の午前に行われた記者会見で航空安全委員会は、「SIA機が本来の滑走路『05L』ではなく、修理作業中の補助滑走路『05R』に誤って進入した可能性も排除できない」と述べ、事故直後から、原因についてのさまざまな可能性が駆け巡った。
1日午後、ブラックボックス(DFDR=Digital Flight Data Recorder)とCVR(操縦室音声記録装置=Cockpit Voice Recorder)が回収された。DFDRには25時間分、CVRにも約2時間分が記録され、記録状態も良好だった。
航空安全委員会は、軽傷を負って救出されたキャプテンのフン・チー・コン(48歳)と、ラティフ・シラノ(38歳)とニグ・ヘン・レン(38歳)の2人の副操縦士を台湾に足止めして事故原因の究明に当たった。キャプテンは事故直後、SIAに「滑走路上にあった障害物に衝突した」と報告しているが、空港管理当局は「滑走路に障害物のあった痕跡はない」と、キャプテンの証言を真っ向から否定していた。
5 It felt like we bumped into something huge(何か大きな物にぶつかった)
3日夕、航空安全委員会は、回収されたDFDRやCVRなどの解析結果を公式発表した。事故原因は、「SIA機が誤って閉鎖中の滑走路に進入し、滑走して離陸した直後、滑走路上にあった物体(コンクリート製ブロック、削岩機など)に衝突したため墜落した」という内容だった。
回収されたDFDRとCVRの解析の結果、SIA機は2本平行している滑走路のうち、本来の左側の滑走路(05L)ではなく、修理工事のため閉鎖していた右側の滑走路(05R)に誤って進入し滑走、離陸したと断定した。
交信記録
11月31日午後
11時15分18秒=現地時間
管制官:シンガポール006便、滑走路5レフト(L)の離陸可能。
15分26秒
キャプテン(SIA機):シンガポール006便、滑走路5レフトからの離陸態勢に入る。
16分19秒
キャプテン:(機体の向きを変えつつ)滑走路は見える。視界はそう悪くない。OK。(エンジンを)ハイに入れる。さあ、飛び立とうか。
(離陸開始)
副操縦士:速度80ノット。
キャプテン:OK、順調。
副操縦士:速度142マイル。
17分20秒
キャプテン:(コンクリートブロックを発見して)(ののしる言葉)そこっ、何かがある!
17分13秒(最初の衝突音)
17分14秒
キャプテン:(ののししる言葉、叫び声。衝突音4秒間)
17分18秒(交信記録終了)
6 Shovel-car(ショベルカーに衝突)
SIA機は05Lの手前で05R滑走路(閉鎖中)に右折して進入し、離陸を開始した。6フィート(183センチ)浮揚した時、閉鎖を示すブロックに前輪を接触させ、バランスを崩し、滑走路入り口から1500メートル地点に駐車していた2台の約2メートルの高さの建設機械(ショベルカー)に衝突し、機体下部を剥ぎ取られて墜落した。
民航局は、記者会見で誘導看板や05Lの誘導灯などは正しく点灯していたと言明し、空港当局の管理ミス、管制ミスの可能性も否定した。また、8月31日付の文書で、すべての航空会社に滑走路05Rで工事を行うと通達していた。日本の運輸省(当時)でもこの文書は確認されていた。
このため、SIA機のフンキャプテンが飛行前に滑走路工事中の注意喚起のメモや、滑走路05Rを示す標識灯を見逃したものと見られ、CVRでもキャプテンは“滑走路05Lにいる”と次のように報告している。
11時15分26秒
キャプテン:シンガポール006便、滑走路5レフトからの離陸態勢に入る。
7 It was a pilot error : SIA(パイロット・エラーとシンガポール航空認める)
3日夜、台湾当局が直接の原因としてパイロットの滑走路誤認を指摘したことを受け、SIAのチョン・チュンコンCEO(最高経営責任者)が記者会見を行った。
席上、「われわれに責任があることを受け入れる」、「パイロットはずっと正しい滑走路にいたと信じていたが、間違っていたことが証明された」と述べ、「(離陸前のパイロットに)事故につながる疲労などの異常な兆候は見られなかった」とも語った。
一方、シンガポール政府は同夜、緊急声明を発表。「極めて重大で深刻な調査結果だ」として、滑走路誤認に至った背景を徹底的に明らかにしていく方針を強調した。SIAはシンガポールを代表する優良企業。シンガポールの株式市場ではこの日、「滑走路誤認」の報道を受けてSIA機株が売られ、約5・7パーセント下げた。
8 滑走路不安は日本でも――成田空港で滑走路剥がれ、羽田に3機代替着陸
パリ・シャルル・ドゴール国際空港、台北・中正国際空港の事故で指摘されているように、滑走路の安全確認問題も航空安全のための重要なファクターである。
日本でも2000年8月30日午後4時20分ごろ、成田空港の滑走路(長さ4000メートル、幅60メートル)の最北端の路面アスファルトの一部が剥がれ、破損しているのを離陸機のパイロットが見つけた。
新東京国際空港公団の調べによると、破損していたのは滑走路中心線の東側15メートルで、誘導路からの進入口付近。路面が長さ約2・4メートル、幅約1・5メートル、深さ約5センチにわたって剥がれ、破片が散乱していた。原因はアスファルトの劣化らしい。
このトラブルで、ミネアポリス発のノースウエスト19便、サンフランシスコ発同27便、ホノルル発日本航空73便が羽田空港に代替着陸した。
いつ、どのようにしてアスファルトが剥がれ、散乱したのかは不明だ。トラブル箇所が滑走路の端の誘導路につながっている部分であることから、タキシング中の機体が劣化したアスファルトを剥がした可能性が高い。
高速で離着陸する部分であったなら、コンコルド事故の二の舞いは避けられなかったはずである。滑走路の点検・保守も安全運航のキーとなる重要な一つであることは間違いない。
第五章
キャプテンが大変だ!
―Incapacitation!(操縦能力喪失)―
Tタワキルト・アラ・アッラー
エジプト航空機大西洋事故
1 パイロットが操縦中に自殺?
ロサンゼルスからニューヨーク経由で、カイロに向かっていたエジプト航空990便B767―36ER(乗員・乗客217人)が、1999(平成11)年10月31日午前2時(アメリカ東部時間)ごろ、アメリカ東部海岸に近いナンタケット島南60マイル(約96キロ)の大西洋上に墜落した。アメリカ沿岸警備隊は同日朝、マサチューセッツ州沖の海域で同機の一部と見られる破片と1遺体を発見した。
同機は濃霧のため約2時間遅れでニューヨークのケネディ国際空港を午前1時19分に離陸し約40分後、マサチューセッツ州沖の高度1万メートル付近で突然交信を絶つと同時に、管制レーダーから機影が消えた。当時、現場海域の天候は良好で、風もほとんどなかった。突然の交信途絶と機影消失から爆弾テロが疑われたが、FAA(アメリカ連邦航空局)は「爆発物によるものかどうかなどは不明」とした。この時期、確度の高いテロ情報がなかったものと思われる。
しかし、事故当初、爆弾テロ説が疑われたのには根拠があった。事故からさかのぼる2カ月前、「JFK(ニューヨーク・ケネディ空港)かロサンゼルス空港発の航空機に間もなく爆弾が使用される」との脅迫状が届いたことからFAAは警告を発していたからだ。差出人は22年前、イベリア航空機(スペイン)をハイジャックして以来行方不明となっていた犯人の名前だった。ところが、事故から2週間後の17日、アメリカの新聞は一斉に「エジプト航空機墜落事故で、操縦する予定ではなかった副操縦士のガミル・アル・バトゥティ(59歳)が『神の御心のままに』と祈りながら急降下、墜落させたと、アメリカ捜査・調査当局がほぼ断定した」と報じた。
2「タワキルト・アラ・アッラー!」(神の御心のままに!)
NTSB(アメリカ国家運輸安全委員会)などがブラックボックスの分析を行った結果、信じがたいようなコクピット内部の模様が明らかとなった。バトゥティ副操縦士が「タワキルト・アラ・アッラー」(アッラー=神の御心のままに)とアラビア語の宗教的言葉を発した後、飛行機は異常な航跡をたどり墜落に至ったのである。離陸して30分後、バトゥティ副操縦士はアハメド・アル・ハバシ・キャプテンに操縦を代わってやらせてくれるように頼み、キャプテンがこれを受け入れコクピットを出ていった。操縦を代わったバトゥティ副操縦士は、やがて「タワキルト・アラ・アッラー」を14回も繰り返した後、990便は異常な状態となる。
午前1時49分46秒、自動操縦装置が解除され、8秒後機体は急降下し始めた。その直後、ハバシキャプテンの声で「どうした? いったい何が起きたんだ?」という声の次に、「手伝ってくれ」との声が記録されている。それからエンジンが突然止まり、機体が降下し始め、43秒後の1時50分37秒、電力が切れ始め、ブラックボックスの記録も途絶えた。
一時、マッハ0・94ものスピードでの急降下から、機内は無重力状態となった。40度もの角度の急降下から今度は急上昇に転じた。30秒で2400メートルというピッチで高度を上げ、この後、最後の急降下に入った。空中分解が始まり、そのまま大西洋上に叩きつけられてしまった。乗客は極めて異常な事態にさらされた後、犠牲になったことがうかがわれる。
アメリカの航空当局は「決断した」、「心に決めた」などバトゥティ副操縦士の声と、宗教的な言葉を14回にもわたって強く唱えていることなどから、バトゥティ副操縦士は自殺を図ったとの判断をした。NTSBのホール委員長の「悪天候や機器の不具合による事故ではない」との公式コメントがさらに自殺説を裏付ける形となった。
アメリカのマスメディアは一斉にバトゥティ副操縦士が残した「タワキルト・アラ・アッラー=神の御心のままに」という言葉を根拠に、「自殺するため飛行機を墜落させた」とバトゥティ副操縦士の写真と実名を出して「容疑者」扱いでセンセーショナルに報道した。
一方、エジプト側はイスラムの教えでは自殺を禁止しており、自殺は考えられないとして、祈りの言葉は、「イスラム教徒がいつも口にする言葉だ」と反発。同僚もバトゥティ副操縦士は、「非常に経験豊富なパイロットだった」と評した。
エジプト側は事故原因を、機体後部の爆発だと反論した。事実、イスラム教徒は自殺を不名誉なことと厳しく教えられており、自殺の疑いをかけられただけでも大きな屈辱とされる。
後日、NTSBのホール委員長は「宗教・文化的に解釈がいろいろあるので、宗教的言葉の解釈は一方的にはできない」とし、「急降下する直前に控副操縦士が口走ったアラビア語は不正確に伝わった」とコメントを撤回した。
ただし、アメリカの週刊誌『ニューズ・ウイーク』は事故から1年半後、「エジプト側もアメリカの事故調査当局の見解を非公式に認めた」と報じた(2001/7/2号)。
アメリカの情報機関が、当時ワシントンにいたエジプト側調査チームがカイロの関係者とやり取りするのを傍受したところ、エジプト側も自殺説に同意していた、というのが報道の根拠だ。また、バトゥティ副操縦士が自殺しなければならない可能性についてさまざまな証言が集まったことも報じている。不可解な彼の行動の一部が明らかにされた。
最近の続発する航空事故は、ほとんどが人為的な原因で起きていることが解明されてきている。今回の事故では事故解明のしょっぱなに宗教・文化の差という極めて民族的な事柄がクローズアップされた。
Uサドン・インキャパシテーション1
キャプテンが倒れた!
1 着陸寸前、キャプテンが意識不明に
2000(平成12)年9月11日午後5時ごろ、佐賀空港に着陸しようとしていた名古屋発佐賀行きの全日空559便(エアバスA320―200、乗員・乗客16人)で、堀江房雄キャプテン(53歳)がキャプテンズシートで突然、意識を失った。この時、全日空機は高度約300メートルまで降下しており、着陸2、3分前だった。
着陸操作は副操縦士が行っていたため、同機は午後5時2分、通常通り無事着陸した。堀江キャプテンは着陸後、救急車で病院に運ばれたが、乗客らは異常に気付かなかった。当時の運輸省航空局は、事故につながる恐れがあった「重大インシデント」に当たるとして、調査を行った。
堀江キャプテンは飛行時間1万時間を超えるベテランパイロットだったが、高血圧症の持病があり、1993年には航空身体検査証明が取れず、約1年間ライセンスが停止していた。航空身体検査証明は、航空法で半年ごとに義務付けられている身体検査をパスしないと取得できない。
以後、キャプテンは血圧を下げる薬を服用しながら、2000年6月に身体検査証明を取得し、乗務に復帰していた。キャプテンは当日、仙台―名古屋便、名古屋―青森便、青森―名古屋便に乗務し、発作が起きたのは4便目の乗務中だった。名古屋―佐賀便では、名古屋から副操縦士が操縦し、キャプテンは管制との無線連絡などを行う副操縦士役を務めていた。
9月19日、堀江キャプテンは小脳出血のため、入院先の佐賀市内の病院で死去した。
同年11月14日、運輸省はこの事故を「航空法施行規則第166条の4第13号に規定された、航空機乗組員が負傷または疾病により運航中に正常に業務を行うことができなかった事態であり、重大インシデントに該当する」として重大インシデント報告を出した。
航空局の調査結果
@航空身体検査証明発行後、社内健康管理での血圧値が基準値を超えていた。これは、乗務前の限られた時間での測定でかつ安静時の血圧が測定されていなかった。また、キャプテンは医師等の前で血圧が一時的に上昇する傾向を有していたことから、一過性の血圧上昇と見なされて乗務を継続していた(ただし、一過性の血圧上昇であることの確認は行われていなかった)。
Aキャプテンが意識不明となったのは、診療報告書、CT画像から、小脳内に出血した血液が脳室内へ穿破し、中枢機能喪失を来したことによるものと考えられる。しかし、小脳出血が始まった時点、小脳出血の原因等について明らかにすることはできなかった。
と述べ、以下の対応を行った。
@全日空では、この事故後、航空機乗組員で降圧薬を内服している者全員に対し、高血圧による臓器障害の有無を確認するための追加検査を実施した。
Aキャプテンの社内健康管理における高い血圧値が一過性のものであった可能性はあるが、その確認が十分に行われておらず、また、安静時の血圧を測定する環境で血圧測定が行われていないことから、航空局は全日空に対し、航空機乗組員の健康管理体制の改善について指示を発出した(11月14日)。
B航空局は基準値を上回る血圧値が測定された場合、一過性の超過であるかどうかの判断及び基準値内におさまっていることの確認の方法について指針を定め、全日空を含む特定本邦航空運送事業者及び国内定期航空運送事業者に通知した(11月14日)。
キャプテンの死から10カ月後の2000年7月13日、遺族はキャプテンの死は過労死で労働災害にあたるとして、労働災害保険の支払申請を行った。遺族側は、会社がキャプテンの高血圧症について十分な配慮をせず発病させたとしている。
2 飛行中に窓ガラス吹っ飛び、パイロット失神
国内では、パイロットが操縦不能になったケースが、過去に1件あった。1967(昭和42)年2月9日、東京から高知に向かっていた日本国内航空の851便(コンベア240)が、浜松上空で操縦室の左側の窓ガラスが突然割れ、キャプテンは窓枠に頭をぶつけ失神した。すぐに副操縦士が操縦し大事には至らなかった。
この日午後3時47分、羽田を離陸した日本国内航空の[日高号](乗員・乗客33人)が、約2時間後の5時5分、浜松上空3300メートルに差しかかった時、突然大音響とともに操縦室の左側のサイドガラスが割れた。このため、大塚光キャプテン(45歳)が気圧の勢いで椅子に叩きつけられて負傷し失神した。すぐに副操縦士が操縦に当たり、30分後に名古屋空港に緊急着陸した。
キャプテンは負傷後間もなく意識を回復し、副操縦士とともに操縦に当たり緊急着陸を成功させた。しかし、着陸後、再び気を失った。胸を骨折して1カ月の重傷だった。ガラスはプラスチック強化の2枚重ねガラスで、強度は十分とされていた。
当時、日本航空整備協会会長の駒林栄太郎氏は、「気象からも考えられないし、飛行高度から鳥がぶつかった可能性もなく、隕石でもぶつかったのか。ガラス枠に老化現象で亀裂でも入っていたのか、それにしても不思議な事故だ」とコメントしている。
3 キャプテンDead On Arrivalで着陸
1966(昭和41)年8月7日午前5時58分、アムステルダム発南回り東京行きのKLMオランダ航空のDC8(乗員10人、乗客55人)が着陸のため羽田空港C滑走路の1・8キロメートル、高度450メートルに差しかかった時、フロートキャプテン(48歳)が突然右側にのめるように倒れた。
右の操縦席に座っていたヤーヘル副操縦士が驚いて声をかけたが反応がなく、機はどんどん高度を失った。副操縦士は、管制塔に緊急事態を告げると同時に、機首を上げ、高度を900メートルまで上げて、自動操縦に切り替えた。航空機関士らがキャプテンをラウンジに横たえ、6時17分着陸した。フロートキャプテンはラウンジで応急処置を受けたが着陸後すでに瞳孔が開いていた。東京都医務監察院が調べたところ死因は心臓マヒだった。
日本航空の小田切運航部長(当時)は、「私は25年間飛行機に乗っているが、こんなケースは外国の例を一度聞いたことがあるだけだ。それほどまれな事故だが、そのために副操縦士を乗務させているわけで、日ごろから万一の場合に備えて副操縦士の訓練をしていたオランダ航空に敬意を表したい」と語った(毎日新聞1966/8/7)。
このケースはそんなに珍しいことではない。2000年8月20日夜、アメリカ・ミネソタ州ミネアポリスの空港でも類似ケースが発生している。
ロサンゼルスを出発したノースウエスト航空のDC10(乗客290人)が、ミネアポリス空港上空に到着、着陸態勢に入っていた。ところが、キャプテンが発作を起こしたのか、キャプテンズシートに沈み込んでしまった。心臓発作で死亡してしまったのだった。このため、副操縦士らが操縦を替わり無事に着陸し事無きを得た。死亡したキャプテンは、同航空で28年間の経験があったベテランパイロットだった。
4 航空身体検査証偽造のキャプテン、操縦中に心不全で死亡、墜落
CAB(アメリカ民間航空委員会)やFAA(アメリカ連邦航空局)が、パイロットの航空身体検査の質を向上させる契機となった事故を見てみよう。
1966年4月22日、アメリカ・オクラホマ州アードモアでロッキード・エレクトラが給油のためアードモア空港に降下・進入中、墜落・炎上した。墜落したのは、アメリカン・フライヤーズ航空の4発ターボプロップのロッキード188C型機(エレクトラ=N183H)だった。
アメリカ軍空輸集団(US Military Airlift Command)の依頼で、カリフォルニア州モントレーからジョージア州コロンバスまでの大陸横断便として運航されていた。事故発生当時、空港付近には霧と雨で視程5キロメートル、地上200メートルから300メートルには厚く雲が垂れ込めていた。
このため、キャプテン(56歳)はADF(Automatic Direction Finder=自動方向探知機)による着陸方式(ADF Approach)で滑走路へ進入した。しかし、進入コース上に雲があったためこれを避け、規定コースを逸れてしまった。このため、キャプテンは着陸滑走路を変更、しかも進入方式を計器進入から有視界進入に切り替え、飛行場周回パターンに入った。
そうこうしているうちに、空港の北東約2・5キロメートルにあるアーバックル山地の丘に、着陸装置(ランディング・ギア)、フラップを出したまま、まさに着陸寸前の体勢で墜落した。乗員・乗客88人が死亡し、15人が重傷を負った。犠牲者の多くは入隊したばかりの新兵で、この日、エレクトラは新兵たちをフォート・ペニンに輸送していた。
CABは、直ちに墜落原因の調査に着手した。その結果、エレクトラの機体・構造上に墜落の原因は見当たらなかった。墜落原因を特定したのは、キャプテンの遺体を調べた病理学者だった。キャプテンは操縦中に心不全で死亡してしまったことが確認された。検死結果に重大な原因が隠されていたのである。
また、当日のキャプテンの勤務時間が16時間にも達しており、これが病状の悪化と発作を引き起こした原因と推定された。さらに、キャプテンの病歴を調べると、18歳から糖尿病を患い、しかも狭心症も併発していた。
このような病状で、どうして飛行機を操縦することができたのだろうか。この疑問に対し、さらに驚くべき事実が分かった。キャプテンは、飛行機の操縦に必要な資格である、航空身体検査の一級ライセンスを偽造していたのだった。キャプテンはこの航空会社の社長も兼務していたので、こうした犯罪的な操作が可能だったのだろうか。
5 陸でも空でも多発するインキャパシテーション
NTSBはこれらのようなケースを、インペアメント(impairment)とインキャパシテーション(incapacitation)とに分類している。
インペアメントとは、乗務員が何らかの機能損失により操縦能力に障害が出ているが、操縦能力を失うほどには至っていない状態。一方、インキャパシテーションは佐賀空港やミネアポリス空港でのキャプテンのようなケースで、人事不省や、死亡などで操縦能力を完全に喪失した状態を指す。
交通事故の中にもドライバーの運転機能喪失によるものが、かなり含まれているという指摘がある。バスやトラックの運転時で、同乗者がいる場合はこれまでも同乗者や乗客が止めたりして大事に至らず、報告もなされてきた。
しかし、単独で運転中、発作が起きて事故になった場合は事故原因が分かりにくい。走行中に前車の異変に気付いたドライバーが、先回りして異変車を後部に接触させて止めたケースもある。やはり異変車のドライバーは急性の脳疾患に襲われていた。幸い大きな事故にもならず、手当ても早かったので快方に向かったという。不幸中の幸いだった。
インキャパシテーションの事例について、まとまった調査報告がICAO(国際民間航空機関)にある。これによると、1961年から1968年の間に、パイロットのインキャパシテーションで次に述べる5件の事故が発生し、147人が死亡していた(1件は前述のアードモア事故)。
●オーストラリア・ブリスベーン近くで、有視界で最終進入を行っていたDC4型貨物機が墜落した。
事故原因は、操縦していた44歳のキャプテンが心臓発作を起こし、スロットルに倒れ込み、全スロットルレバーをアイドル位置に押し倒してしまったことであった。この結果、機体は推力を失い墜落し、副操縦士も死亡した(1961年5月24日、夜)。
●アメリカ・カリフォルニア州ノースハリウッドで、ILS(計器着陸装置)で最終進入中のロッキード1049型貨物機が墜落した。
操縦していた38歳のキャプテンは心臓発作を起こしたので操縦不能となり、副操縦士は経験不足のため機体の立て直しをすることができなかった。このため搭乗者全員が死亡した(1962年12月14日、夜)。
●コロンビア・カータジェナで、DC4が離陸して数分後、海上に墜落した。
キャプテンの検死の結果、彼は冠動脈不全を起こしていた。56人が死亡、8人が生存した(1966年1月15日)。
●ノルウェー・オスロ空港に、折からの悪天候をついて進入していたCV440が墜落した。
高度50フィート(15メートル)に降下した時、キャプテンズシート(左席)に座っていた副操縦士(45歳)が操縦桿に倒れかかった。副操縦士はショルダーハーネスを着用していなかったので、機体の姿勢に影響が出た。
キャプテンが直ちに操縦操作を替わったが、機は墜落し、大破した。死亡した副操縦士は13カ月前に胃腸疾患と、心電図異常が出て休んでいたが、その後回復し、心電図も良化したので、2カ月前に副操縦士だけの制限で乗務に復帰していた(1966年12月8日)。
つけ加えると、1966年は“空の魔の年”だった。前述のコロンビア事故で始まり、エア・インディア・アルプス事故(1月24日)、全日空・東京湾墜落事故(2月4日)、カナダ太平洋航空・羽田事故(3月4日)、BOAC英国海外航空・富士山事故(3月5日)、アメリカン・フライヤーズ航空・アードモア事故(前述)、ブルガリア航空・リュビリャーナ(ユーゴスラビア)事故、オスロ事故(前述)、全日空・松山沖事故(11月13日)、TABSO(ブルガリア)・ブラティスラバ事故(11月24日)と恐ろしいばかりに続いたのである。
6 着陸寸前、脳か心臓にトラブルが!
パイロットがインキャパシテーションに陥ったケースに共通しているのは、事故の発生が着陸寸前であることと、起こした発作が脳及び心臓の循環器系統に集中していることだ。航空事故は離陸・着陸時のクリティカル・イレブン(魔の11分間)に集中して発生するが、着陸時パイロットの緊張と疲労は巡航時とは比較できないぐらい高まることが以上の事例で裏付けられる。
旅客機の操縦は、数百人の乗客を乗せて、最新のハイテクで装備された機体を十数人の乗員を率いて、高速で空中を移動させていく。混雑した空港から複雑な管制を受けて飛び立ち、また、着陸する。
最近の重層的に複雑に入り組んだ操縦・運航手順は、かつての牧歌的ともいえた単発プロペラ機時代とは質的に異なった緊張とストレスをパイロットにもたらす。安全運航のためには、乗員の健康管理はもとより生活管理に至るまでさらに踏み込んだ対策が必要となってきている。
例えば、厚生労働省は過労死の労災認定基準を見直している。そのきっかけは、1999年、運転中にくも膜下出血で倒れ休業した元ハイヤー運転手を、労働基準監督署が労災休業補償不支給処分にしたが、運転手が労災休業補償の支給を求め訴訟を起こしたところ、最高裁は「過重な業務が原因」と運転手の主張を認めた訴訟だ。
そのころの認定基準では、過重な業務かどうかの評価は、労働時間や作業形態、責任の重さ、作業環境などで総合的に判断されていた。
しかし、最高裁判決では、
1 精神的緊張を伴う
2 拘束時間が極めて長い
などの要因を考慮して業務の過重性を評価するとしたのである。
新認定基準では、
1 精神的緊張を伴う業務であったかどうか
2 不規則な業務であったかどうか
3 早朝から深夜に及ぶ拘束時間が極めて長い業務であったかどうか
などについて示している。
新しいシステム・仕事は、新しいタイプのストレスと疲労を引き起こす。それゆえ、新しいシステムを採用する際には、働く人への対策を最新のものにしておかなくてはならない。システム・機械が先にあり、人がシステム・機械を補佐する、言い換えれば人を機械に合わせるという、働く人の側に負担がのしかかるケースが日本では多い。そのことが大きな事故の原因になっていることも事実である。
航空機が大型化して操縦が簡素化したかに見えるが、実は、複雑な仕組みと手順を絶えずモニターしなければならなくなってきており、ストレスが過大にのしかかってきている。パイロットを襲う突然死のケースは、他の最先端の仕事場で最先端の労働を行う人々の間にもこのような突然死が忍び寄ってきていることを教えている。
7 事故を起こしやすい生活上の出来事
アメリカでは、責任の重い仕事についている人々の生活管理については、さまざまな研究が行われている。例えば、南カリフォルニア大学(USC)には、「生活上の変化と事故」というカリキュラムがある。精神科医のトーマス・H・ホームズ博士(ワシントン大学)と海軍神経精神病医学研究隊のリチャード・レー中佐との共同研究によるものだ。
USCには、航空安全や航空事故解析のオープン・カリキュラムがあることで有名だが、ここの安全衛生マネジメント研究所では、いったん卒業した学生が実社会で経験を積んだ後、再び大学に戻って短期間、安全衛生管理カリキュラムを学ぶ。
「生活上の変化と事故」というカリキュラムは、日常生活で発生するさまざまな出来事の中に、事故の原因になりやすい一群があることに着目してこれを解析したもの。研究は、発病前に発生した43の生活上の出来事について394人の患者に質問し、それらの出来事が社会生活に及ぼした影響の度合いを調べた。
その結果、これらの群の人々は日常生活に大きな変化を引き起こし、そのために何らかの反応行為を取らざるを得ない。そして、その後病気になりやすいことが分かった。
極度の緊張とストレスにさらされるコクピット・クルーにとっても、これらの日常生活上の出来事が発生した場合、家族・会社など周囲には、慎重な対応が求められることは言うまでもない。
事故の原因になりやすい日常生活上の出来事
1位 配偶者の死亡
2位 離婚
3位 配偶者との別居
4位 刑務所での服役
5位 近親者の死亡
6位 自分のけが、病気
7位 結婚
8位 解雇
9位 夫婦間の紛争の調停
10位 定年退職
11位 家族の健康の変化
12位 妊娠
13位 性的な問題
14位 新しい家族が増えたこと
15位 仕事上の調整
16位 財政状態の変化、親友の死亡
17位 他職種への変更
18位 配偶者との口論の度合いの変化
19位 1万ドル以上の借金
20位 抵当流し
Vサドン・インキャパシテーション2
“キャプテンやめてください”
精神分裂症で逆噴射
1「飛行機が落ちたらしい」午前8時48分羽田空港消防課
事故の第一報は午前8時48分、羽田空港消防課より東京消防庁に入った。
「飛行機が落ちたらしい。Cライン33エンド滑走路の一番端、うちの車はみんな出場しています」
続いて第二報は、すぐに、警視庁110番経由で東京消防庁にもたらされた。
「110番にも入っています。羽田の管制官からですが、羽田空港到着便で日航の350便が滑走路から海上300メートルくらいの所に墜落したらしいということです」
第三報は、午前8時50分、空港消防課からの救急要請だった。
「救急隊の派遣願います。DC8の模様です」
第四報でようやく決定的な事実が把握できた。さらに同刻、空港消防課から消防庁に、「日航350到着便、滑走路南側300メートル手前海上に落ちた」という確定情報がもたらされた。
1982(昭和57)年2月9日午前8時45分、福岡から羽田に向かっていた日本航空350便(DC8、乗員・乗客174人)が羽田空港際の海上に墜落、24人が死亡し、147人が重軽傷を負った。事故機は、羽田空港の33R滑走路の先端から510メートル手前の海面に、前脚(Nose Landing Gear)から突っ込み、150メートル突き進んで、右主翼で第18進入灯を破壊して停止した。
2 厳寒とヘドロの海で決死の救難活動
9時10分、蒲田医師会は東京消防庁より「羽田沖にて日航機墜落。自宅待機されたし」との連絡を受けた。ついで、「蒲田医師会は救護班を編成してC滑走路先端まで出動されたし」との出動要請を受けた。
蒲田医師会は直ちに特別災害医療救護班の23人を3班に分けて出動した。
事故現場では、事故機がC滑走路の南約300メートルの海上に機首を滑走路の方に向け、右主翼を進入灯にぶつけた格好で墜落していた。機体は、機首部分がもげて胴体が大きな口をあけ、さらに機首部は胴体の下にもぐり込み、コクピットは胴体の下にあった。そこは海面下だった。右主翼は付け根から取れてしまい、機体下部が海中に没し、前脚も破壊されてしまったので、乗客の一部は水深1メートルの海中に閉じ込められていた。
事故発生の通報を受けて、救出活動は直ちに行われたが、水深が浅く大型の救助用船艇は使えず困難を極めていた。海上からは東京消防庁空港特別救助隊及び日航職員が救命ボートで救助活動を開始していた。ついでゴムボート、小型舟艇、漁船に乗り組んだ空港関係者、漁民、特別救助隊、水難救助隊、救急隊等による重傷者の救出活動が行われた。
当日の天気は良好で、晴れ、北の風7・5メートル、視程5キロだった。しかし、被災者の救出活動は過酷な状況の下に行われた。事故現場は多摩川の河口の浅瀬で、事故当時の水位は1メートル前後、水温は8・5〜11℃と低く、事故機への大型船艇の接近は不可能かつ、海中を移動するのも難儀した。
自力で脱出した乗客及び軽傷者約78人は、漁船や漁船が引っ張るゴムボートで救出され、リムジンバスで羽田東急ホテルに収容された。ついで、東京消防庁、警視庁、第三管区海上保安本部、陸上自衛隊などが出動し、ヘリコプター、救助船艇などで本格的、組織的救出作業が開始された。
C滑走路先端には事故機に向かって中央に、青いビニールシートが敷きつめられた現場救護所が設けられた。その右側に消防車、消防隊の集結場所、左側にヘリコプター用の救出者搬送臨時ヘリポートが設置され、救護所の後方に、後方医療機関へ患者を搬送する救急車、リムジンバスが待機する態勢が敷かれた。
午前9時40分ごろ、蒲田医師会災害医療救護班は医療救護を開始した。第一の仕事はトリアージ、いわゆる生死の判別だった。同時に、重傷者、中傷者、軽傷者の判定が行われた。
覆われたシートを上げると、苦痛にゆがみ、汚泥によごれた死者の顔があり、頭蓋骨が真っ二つに割れてしまった人などもいた。間もなく、20〜30人くらいの重傷者並びに死傷者が運ばれてきた。海上事故のため溺死状態の死傷者が多かった。
比較的元気に質問に返答する被災者の顔は泥まみれで、毛布にくるまれているが、寒さと苦痛でひきつっている。グループを作って、被災者の選別を開始する。強い腰痛を訴える人、大腿部と腰部の激しい疼痛を訴える人、胸痛及び上腹部痛を訴える負傷者を診て、性別、年齢を確認していく。筆記用具や識別表もないので、脈拍、脈圧を診て意識状態を確認し、救急隊に搬送を引き継ぐといった活動が続いた。活動する医師を見て安堵する被災者にも数多く出会った。
一方、後から運ばれてくるのは重傷者が多く、ほとんどが海水を飲んでいて、携帯用の小型吸引器が重宝した。そんな処置者の中に、わずかに脈拍あるいは呼吸のある人がいた。Ambuパック(救急キット)による人工呼吸が行われ、喉頭鏡を使って口腔内吸引を行った。Ambuパックへの接続がうまくいかない。
呼気をチューブに直接吹き込むと胸郭はわずかに動く。吹き込むにつれ、水泡性の雑音が大きく聞こえるが、心音ははっきりしない。左側の心尖部の聴診を懸命に行った医師が呟く。「心音は聞こえないね」。小さな声だ。「だめだね」。小さな声が後を追うように聞こえる。「プルスもふれないよ」。遠慮がちに「人工呼吸をやめてみてください」、「心音を聴取してみます」。何人かの聴診器が心尖部にのびる。
一瞬、全くの静寂が支配し、固唾を飲んで見守る。「やっぱり聴取できませんね」と、医師たちが互いに確かめあう。人工呼吸をしていた某病院の麻酔医が頸動脈の拍動を触診しようと試みる。「そうですね。だめですね、これは」。周囲の医師たちに落胆の色が見られた。
しかし、そうこうしている間もなく死傷者がどんどん運ばれてきた。顔面にボールペンの刺さった人、溺死状態の若い女性、全く無傷に見える若い男性など。「性別を教えてください」「何歳くらいでしょうか」。搬送の救急隊員が叫んでいる。数人の医師が駆けより、バイタルサインを確認する。しかし、もう運ばれてくる人はほとんど死亡している。
やがて死亡者の遺体も、別のところへ搬送されていく。こんな時、消防救助隊員が叫んだ。「お医者さん、何人か現場に行っていただきたいのですが」、「お願いします」。何のためらいもなく、医師数名が声のする方向に駆けよっていった。「機内に体をはさまれた重傷の女性が残っているそうです」
朝日新聞社
3 退去命令を拒否、最後の生存者救出
午前10時5分ごろ、現場の消防庁特別救助隊から「飛行機の中に、椅子にはさまれた女性がいる。動けないから救助してほしい」との依頼を受けた。大森医師会の高橋医師(49歳)は、消防ヘリコプターの黄色いゴンドラに乗せられて墜落現場に運ばれ、主翼の上に乗り移った。
機内に入ると、裂けた機体と座席の間にはさまれて動けない女性客がいた。腹部には機体の外壁の一部が食い込んでおり、特別救助隊と日航の整備員によって機体を切断する救出作業が行われていた。漏れ出したジェット燃料に引火する危険が強く、エンジンカッターの使用はできなかった。
滑走路端の救護所にこのころ再び、「機内に乗客がいるから来てほしい」と大声で叫ぶ救急隊の声があった。蒲田医師会医療救護班の呉医師、ついで稲葉、関両医師が現場に向かった。滑走路端にある防潮堤の先の海は水深が浅く、ゴムボートの接岸が不可能だった。
膝まで水につかり歩こうとするが、海底のへドロにズブズブと足を取られ、容易に進まない。3人の医師は、厳しい寒さで刺すように冷たい海水の中を、特別救助隊の人々にすがりつくように背負われてやっと100メートル先のゴムボートにたどり着いた。
ゴムボートで櫂を操って事故機に着くと、左主翼に上がって機内に入った。機内は流出した燃料の揮発性のにおいが鼻をつき、へドロと血のにおいが漂っていた。狭く真っ暗で、救助に当たっている特別救助隊等の人々でごったがえしていた。「助けて、痛いよう」という女性の悲痛な叫び声が暗闇の座席の下から聞こえてきた。一人の女性が椅子とコクピット側の機体の間にはさまれて座席に座ったまま全く身動きができず悲鳴をあげているのを、3人の医師も聞いた。
呉医師は高橋医師のサポートに入った。日赤医療班も協力した。機内でのこれ以上の協力は困難と判断した他の二人の医師は機外の船で待機した。機内の医師から点滴セットの要求があり、現地救護所へ連絡すると間もなくボートで運ばれてきた。女性客の全身症状は状態悪化が激しく、脈拍や血圧も計れないほど弱くなってきた。蘇生器の準備が行われるなど状況は緊迫していた。
報道へリコプターが巻きたてる波風の中、救助隊員が集められ、約100人がヘドロの海に並んで機首にワイヤーをかけ、切り離しのため引っ張った。しかし、ワイヤーが切れてしまい機首の切り離しは失敗してしまった。
午前11時過ぎ、海上に流出した航空燃料の引火の危険が一段と高まってきたので、「燃料爆発の危険あり、各隊は退避せよ」との現場大隊長命令が出された。二次災害はなんとしても避けなければならなかった。現場の大隊長の苦悩した末の決断だった。しかし、高橋医師は消防隊員とともに機内に残って女性に付き添った。
午後零時20分ごろ、機体にめり込んだ機首からこの瀕死の女性が救出された。2時間が経過していた。出血とショックを防ぐため圧力スーツを装着して、医師の付き添いで点滴注射を続けながら、ボートで現場救護所に向かい、ついでヘリコプターで都立広尾病院へ搬送された。
この女性は、福岡の実家から東京に帰る途中の、当時26歳の主婦だった。高橋医師や救助隊の決死の救出作業で一命を取り留めることができたこの女性は、今も健康に生活しており、高橋医師と年賀状をやり取りするなど近況の交換が続いている。
事故発生直後から空域が閉鎖されるまで、現場上空に殺到した報道ヘリコプターの行った報道(?)によって救難活動は大きく阻害された。爆音と巻き上げる強風によって、声がかき消され、ボートは翻弄され救出活動そのものがダメージを受けた。
燃料が流出して引火の危険が高い現場の橋脚上で、タバコの火をつけようとした報道陣もいた。周囲の救出部隊から怒声が飛んだのは言うまでもない。知る権利を振りかざして行われるこうした蛮行は、どこの取材現場でも多かれ少なかれ見られる。
報道ヘリコプター同士の空中衝突事故も多くなってきた。安全感覚が問われているのは報道に当たる者も例外ではない。
4 事故後“キャプテン”行方不明に
事故直後、操縦していた“キャプテン”が5時間近く行方不明となったり、救出された副操縦士が“キャプテン”を誹謗するなど、不可解な事実が積み重なった。
“キャプテン”は乗客とともに救出ボートに乗り上陸し、羽田東急ホテルに収容され、ついで慈恵医大病院に転送されていた。キャプテン夫人は当初「キャプテンは死亡」との報道が流れたことから、同僚夫人らの配慮で、同僚宅に身を寄せていた。
いくら探しても見つからない“キャプテン”やその家族に、マスコミは、「日本航空は『キャプテン隠し』、『キャプテン夫人隠し』をしたのでは」と大騒ぎになった。
前日は、東京・永田町のホテル・ニュージャパンが燃え、31人が犠牲となり、それに日航機の墜落事故が加わり、日本中が連続事故のショックに襲われていた。
航空事故調査委員会はDC8の機体に欠陥があるのではないかと、日本航空に事故機のフライト・ログ(飛行記録)の提出を求めた。10年前、日本航空はニューデリー事故(1972年6月14日、86人死亡)、モスクワ事故(1972年11月29日、62人死亡、14人負傷)と連続してDC8機による墜落事故を起こしていた。
事故機(機体番号JA8061)は1967年、アメリカ・イースタン航空で就航し、1973年、日本航空が購入し、アメリカ・ワシントン州モーゼスレイクの日本航空乗員訓練所で訓練機として使われた。
訓練機時代、JA8061は、タッチ・アンド・ゴー(機を滑走路に着陸させ、減速させた後、速やかにフラップを離陸形態にさせ、エンジン推力を増して再び離陸する)を2万9000回も行っていた。
通常、訓練機は短期間で交代していく。それは慣れない訓練生が操縦し、タッチ・アンド・ゴーを繰り返すといった酷使状態に置かれるので、機体の傷みが激しいからだ。
そんなJA8061が、国内路線用に転用された。国内路線に就航したが、整備のたびに故障箇所が多数発見された。長期間訓練機として酷使された機体を再び就航させたのは、日本航空の経費節減策の行き過ぎだったのではないかという指摘もあった。
しかし、当日は天候も問題はなく、事故直前まで順調に飛行していたことから、ハード面の事故原因説は退けられていった。
航空事故が集中する離着陸時、いわゆる「魔の11分(クリティカル・イレブン)」に起きたことから、乗員の極度の緊張と疲労がかかわったのではないか? キャプテン急病か? 操縦ミスではないか?などと、次第に事故原因はキャプテンと操縦関係に絞られていった。
W同僚、会社ともキャプテンの大変調を見逃す
1“キャプテン”の“病歴記録”明らかになる
事故から3日後の2月12日夜、日本航空の高木社長と野田専務(いずれも当時)は記者会見を行って、“キャプテン”には心身症の“病歴”があることと、墜落前の異常な降下は、エンジン推力を絞っただけでは事故機のような状態にならないことを公表した。
日本航空・乗員健康管理室が保管していた「病歴記録」によれば、“キャプテン”は1980(昭和55)年11月に心身症と診断され、1981年8月には自律神経失調症と記録されていたというのだ。同年3月には精神科の受診が必要と指摘され、さらに同年11月、キャプテンに復帰する10日前に、治療の経過観察が必要とされていた(“キャプテン”は、「治療の経過観察がなお必要」とされた10日後の11月20日にはキャプテンとして乗務していた)。
病状記録によると、“キャプテン”の症状が激しく動いていることが見て取れると同時に、再三にわたり、「専門医の診察の必要あり」とされ、精神科受診のアドバイスも受けていることが分かる。「会話、行動面の円滑さと積極さに欠ける」とか「抑うつ状態」などの、心身症には見られない症状があることも記されていた。
また、事故の起きた2月9日は事故便の後、“キャプテン”は東京発札幌行きに査察キャプテンと同乗乗務し、病状の回復を「経過観察」されることになっていた。
“キャプテン”の飛行時間と病歴・勤務経過
年月 飛行時間 病歴(勤務)
〈1980年〉
11月 37時間 吐き気(26日)
乗務停止(27日)
12 10 心身症の診断書(2日)
〈1981年〉
1月 0時間 症状消える(27日)
2 0 自宅静養3週間
3 3 専門医による同乗観察(15、16日)
6 0 復帰まで1カ月の見込み(12日)
定期技能審査(27日)
8 22 制限勤務
自律神経失調症(13日)
10 20 自律神経失調症消える(24、25日)
同乗観察(4、5日)
11 27 キャプテン復帰(20日)
定期技能審査(24、25日)
経過観察中の“キャプテン”を乗務させていたことが明らかになった時点で、日本航空DC8運航乗員部長は次のようなコメントを新聞に語っている。
「11月10日に産業医の診断が出たが、その趣旨は『キャプテンとしての乗務に支障はないが、今後の観察が必要』というものだった。その後12、13日の両日、国内・南回り欧州路線室のキャプテンが同乗飛行してチェックし、さらに私も彼の訓練時代の記録なども洗い直して大丈夫と判断した。11日には運航本部の運航関係部長で構成する査定委員会の承認も得ており、当時としてはできるだけのことはやったと考えている」(朝日新聞1982/2/14)
「できるだけのことはやった」が、キャプテンは飛行機を墜落させてしまい、乗客24人は帰らぬ人となった。言い訳は会社を正当化するための反論のにおいがある奇妙な論理になっており、これが企業論理なら、何が起こっても会社は責任を免れることになってしまう。
2 着陸寸前にエンジンを逆噴射
日本航空は、副操縦士の証言を基にシミュレータで航跡解析を行い、逆噴射以外には事故機のような降下をしないことを知った。2月15日、運輸省事故調査委員会と警視庁東京空港署の捜査本部は、“キャプテン”が着陸寸前に操縦桿を押し下げ、エンジンを逆噴射させていたことなど、ほぼ墜落原因を解明した。19日には、ボイスレコーダーやフライトレコーダーの分析結果も公表され、“キャプテン”の奇行ぶりが次第に明らかになっていった。
事故当日のコクピットの異変は木更津上空から始まった。木更津上空を通過した直後、“キャプテン”が突然、自動操縦を手動に切り替えた。副操縦士が驚いて指摘すると、“キャプテン”は「すまん、すまん」と自動に戻した。
それから墜落に至るまでの交信状況は次のようであった。
08:42:49 COP(副操縦士):Clear to land.
CAP(キャプテン):はい
08:43:25 COP:500
08:43:50 COP:Approaching Minimum(着陸決定最終限界)
CAP:Check
(Middle Marker音=中間電波誘導塔通過音)
( Altitude Alert の音)
FE(航空機関士):200。
COP:Minimum
CAP:Check.
Glide Slope, Glide Slope.(対地接近警報装置≠fPWS)
08:44:06 COP:キャプテン、やめてください。
08:44:07 衝撃音
8時43分25秒、滑走路先端から1キロ先にあるミドル・マーカー上で、副操縦士が「ファイブハンドレッド(高度500フィート通過)」とコールすると、“キャプテン”は応答しなかった。
高度90メートルでは、「アプローチ・ミニマム(着陸決定最終限界、接近)」に「チェック」と応答している。次の「ミニマム(着陸の最終決定)」に対し、通常は「ランディング(着陸)」と答えるところを、「チェック」と答え、続いて意味不明の言葉を発している。
その直後、(“キャプテン”が操縦桿を押し下げ、逆噴射レバーを操作したので)、機体は急速に機首を下げ始めた。そして、「グライド・スロープ(計器着陸へ戻せ)」の機械音声が2回響いた。
その後、「キャプテン、やめてください」という絶叫が聞こえ、1秒後に、「ドーン」と機体が激突した音が録音されていた。
3 前日も意味不明の急旋回
前日の東京―大阪便に同じクルーで乗務した時も、この“キャプテン”はとんでもない操縦をしていた。
羽田空港を離陸して4分後、浦安上空を通過後の高度1500メートル、速度50キロで、フラップを格納して上昇中、“キャプテン”は機体に2G(重力)もかかる急激な右旋回を行った。その結果、揚力を失った機体は高度を数百メートルも降下させた。副操縦士の懸命の修復操作で機体は持ち直した。
キャプテンは航空法に基づき、定期技能検査が義務付けられている。局地技能検査(シックスマンスチェック)は、6カ月ごとに100項目以上の操縦技能をチェックする上、1年ごとに路線を飛んでルートチェックする。
パイロットの身体検査は70項目あり(航空法施行規則)、このうち、「心筋障害」「内耳、中耳の重大な病気」「平衡機能障害」「眼球運動の異常」「精神病や神経症」などは、操縦能力に影響を及ぼす項目として、欠陥条件の重要項目とされている。
2月23日に開かれた衆議院運輸委員会で、日本航空は事故以後行っていたすべての運航に従事する“キャプテン”、副操縦士、航空機関士、セカンドオフィサー、訓練生2243人の過去11年分の健康診断記録を再チェックした結果を明らかにした。
委員会での四ッ谷光子氏(共産)の質問に野田親則日本航空専務(当時)が答えたもので、「“キャプテン”と同じような病歴のある乗員は、全部で12人いた。6人は過去の既往歴で一過性のものであり完全に治っている。1人は最近病状が出たので、休養を命じ、治療を受けさせている。残り5人は念のため業務を休ませ、一人ひとりカウンセリングを受けさせるなど精密検査を受けてもらっている」と述べた。
4 精神病への偏見が対応を誤らせる
3カ月後の5月12日、捜査本部は“キャプテン”を鑑定留置した。4カ月の鑑定留置で出された鑑定は妄想型精神分裂症だった。
1年後の3月5日、捜査本部は日本航空の当時のDC8運航乗員部長、同副部長、国内・南回り欧州路線室長、ラインモニターを行ったキャプテンなど幹部4人と、診察に当たった医師の6人の取り調べを行った。7月16日、捜査本部はこの6人を業務上過失致死傷罪で東京地検に書類送検した。東京地検は11月9日、6人を不起訴処分にした。
“キャプテン”の場合、インペアメント(操縦能力に障害があるが操縦の力を失っていない)と、インキャパシテーション(操縦能力を完全に失っている)のどちらだったのだろう。“キャプテン”の奇行は社内では有名だった。心身症と当初日本航空は発表したが、間もなく精神分裂症と病名を変えた。
病気という概念で見れば精神も肉体も一緒なのに、精神を病んだというと日本では特別視する。この風土が日本のトップ企業の対応を誤らせたといえよう。
心身症とは、悩み事などで胃が痛んだり、頭が痛くなったりする症状をいう。人間関係や職場への不満などが高じて食欲をなくしてしまうような状態で、心を悩ませている原因がなくなれば、身体上の症状もなくなるか軽減する。
精神分裂症については、発病・病像が医学的に十分に解明されていない。ただ、この病気特有の経過をたどるところから、的確に医師に病人の情報が伝わっていれば、診断は比較的簡単で、治療の結果社会復帰もできる。
妄想、幻覚、無表情、無感動、しかめっ面、空笑いなどが出るので、周囲にいる者は容易に異変に気付く。しかし、本人は妄想や幻覚などを病気と認識することはないので、本人に医師が問診しても診断はつかない。
この事故が日本の社会にもたらした衝撃は大きかった。この事故を境にメンタルへルスの重要性が叫ばれ、定期検診時の問診、カウンセラーの配置などの対策をとる事業場が増えた。
しかし、喉元過ぎれば何とやら、あるいは不況を理由にか、事業場のメンタルへの対応が最近減ってきている。事故のあった1982年は34・5パーセントあったものが1997年には26・5パーセントにまで落ちてきている(労働者の健康状況調査報告〈1997=労働省〉)。これも国民性か?
終章
「コクピット クライシス」が
グローバル・クライシスに!
アメリカ同時多発テロはハイジャックされた4機によって引き起こされた!
2001年9月11日、私たちは戦争の始まりを、衝撃的映像とともに同時進行で目の当たりにした。アメリカの軍事、経済の中枢部が4機のハイジャックされた航空機によって体当たりされ、破壊された。
イスラム原理主義を標《ひよう》榜《ぼう》するテロリストたちは、民間航空機を乗客もろともミサイルのように2棟の世界貿易センタービル(WTC)、ペンタゴン(アメリカ国防総省)に特攻攻撃をかけ、破壊・炎上させ崩壊させたのである。犠牲者は6000人を超えた。
アメリカの怒りはものすごく、日本など同盟国をはじめ世界の国々の大半がテロリストおよびその支援国家に報復を誓った。世界経済への影響も未曾有の規模におよび、世界同時恐慌の発生を必死に防いでいる状況だ。
ハイジャックされたジェット旅客機は計4機で、WTCの南北両タワーに突っ込んだのはアメリカン航空11便とユナイテッド航空175便だ。ペンタゴンに突っ込んだのはアメリカン航空77便で、ユナイテッド航空93便はペンシルベニア州ピッツバーグ郊外に墜落した。
現在までに判明した情報によると、4人から5人のテロリスト集団がそれぞれの便に乗りコクピットを支配したものと思われる。
9月11日午前8時45分、アメリカン航空11便、WTC北タワーに突入
「乗客が刺されました」。この事件の第一報は最初にWTC北タワーに突っ込んだパイロットからもたらされた。アメリカン航空11便B767はボストン発ロサンゼルス行きで乗員・乗客92人が乗っていた。定刻の7時59分ボストン・ローガン空港を飛び立った。
離陸してから16分後、管制官は11便の異変に気がついた。予定されていた航路を外れたのである。すぐに便名、速度、高度など管制データを送るトランスポンダー(自動送信装置)が切れた。
テロリストたちは離陸後間もなく、ナイフ状の凶器で機体の後部付近にいた女性客室乗務員を殺害し、乗客の喉を掻き切った。騒ぎに気づきパイロットがコクピットから出てきた時にテロリストはコクピットに侵入した模様。
間もなくクルーは機転を利かせて交信機器のスイッチを入れっぱなしにしたのか、断片的に機内の様子がモニターできた。コクピット内でのテロリストの「ばかなことさえしなければ、痛い目には遭わせない」「われわれには、他の飛行機もあるのだ」という声が地上に達した。
9月11日午前9時5分、ユナイテッド航空175便、WTC南タワーに突入
ボストン発ロサンゼルス行きユナイテッド航空175便B767(乗員・乗客65人)は、アメリカン航空11便の後を追いかけるように15分後の午前8時14分、ボストン・ローガン空港を離陸した。乗客からの携帯電話によると同機もナイフを持ったテロリストが乗務員を刺し、コクピットのドアを開けるよう脅迫した。
離陸してから50分後にWTC南タワーに突入した。
9月11日午前9時39分、アメリカン航空77便、ペンタゴンに突入
ワシントン・ダレス発ロサンゼルス行きアメリカン航空77便B757には乗員・乗客64人が乗っていた。離陸してから1時間後、77便の中に変事が勃発した。
同機には、2000年11月のアメリカ大統領選挙の時、選挙後の民主党陣営との法廷闘争で、ブッシュ大統領当選を勝ち取ったオルソン総務長官(当時首席検事)の妻でCNNのコメンテーター、バーバラ・オルソンさんが乗っていた。
彼女は夫に二度電話をかけて、ハイジャッカーたちがナイフとカッターでパイロットや乗客たちを脅し、全員を航空機の後部に移動させたと伝えた。
アメリカ国防総省は全体が五角形をしているのでペンタゴンと呼ばれている。米陸海空軍と海兵隊などのオフィスがあり、約2万3000人が働いている。核攻撃を想定して建物は強固に作られ、避難用の地下シェルターも完備している。
出入りするには、持ち物の検査や身分照会などが必要で、迎撃ミサイルや機関砲などの防御システムを備え、世界一安全といわれていた。
ペンタゴンに突入した77便はワシントン郊外のダレス国際空港を離陸後、識別信号を送るトランスボンダーが切られた。異変を察知した同空港やペンタゴンに近いレーガンナショナル空港の管制機関が、レーダーなどで機影を追跡した。
機影はまっすぐホワイトハウスヘ向かう航路をとっていたが、突然、ペンタゴンの方向へ機首を変え、低空飛行でレーダーから消えた直後、ペンタゴンに突入した。
FAA(アメリカ連邦航空局)は77便が離陸直後ハイジャックされたことを察知し、国防総省と緊急対応システムを立ち上げている最中に77便はペンタゴンに突入してしまった。バージニア州の空軍基地から緊急発進した戦闘機が、ペンタゴンの上空に達した時はすでに77便が突入した後だった。
チェイニー・アメリカ副大統領はNBCの「ミート・ザ・プレイス」(9月16日)に出演し、「ワシントンに向かって飛んでくる2機に対し大統領の撃墜命令が出た」「ホワイトハウスに向かって飛んでくるハイジャック機をスクランブルした戦闘機が妨害すると、Uターンしペンタゴンに向かった。もう1機もホワイトハウスに向かっていたようだが、乗客が立ち上がって阻止したようだ。撃墜命令が遂行されることはなかった」と明らかにした。
9月11日午前10時10分、ユナイテッド航空93便、ピッツバーグ郊外に墜落
ニューヨークのニューアーク発サンフランシスコ行きユナイテッド航空93便B757には乗員・乗客45人が乗っていた。午前8時、ニューアーク空港を離陸して1時間半後、同機がオハイオ州クリーブランド上空に達した時、急に進路を東に転換し後戻りし始めた。
機内ではテロリストが3人の客室乗務員を刺した後、コクピットに侵入したようだ。「ここから出ていけ」と叫ぶクルーらしき者の声が地上に達したからだ。
その後、コクピット内で格闘しているような音がした後アラビア語なまりの英語で、「機内に爆弾があります。こちらは機長です。座席から離れないでください。落ち着いてください。今、彼らの要求を聞いています。われわれは空港に戻ります」とのアナウンスが流れた。管制レーダーによると93便はその後、進路を変えワシントンの方角に向かったという。
墜落前に携帯電話で乗客が連絡してきた話によれば、機内でテロリストと乗客の闘いが行われた模様。また、トイレから電話をかけてきた男性は「乗っ取られた。ウソではない」と何度も言い、「だんだん下降していく。爆発音が聞こえ、白い煙が見える」、と電話は切れた。
「ハイジャック機が世界貿易センターに突入したのは本当か?」と家族に聞いてきた乗客もいた。別の乗客は妻に電話で、「飛行機の乗員が刺された」と言い、「私たちは全員駄目かもしれないが、他の乗客と犯人のすきをうかがってみる」「愛している」と告げて切れた。
墜落寸前、93便は大統領によって撃墜許可を受けたF16戦闘機に追尾されていた。乗客がコクピットを制圧しようとして混乱し墜落したのか、F16が撃墜したのか、今の時点ではハッキリしない。
CVR、DFDRなどのブラックボックスが回収されたので、真相は間もなく明らかとなるだろう。
手荷物とコクピットのセキュリティ
事件の第1ステージで発生した旅客機の危機管理はどうだったのだろうか? 航空におけるセキュリティはやすやすと破られた。搭乗時のチェック、コクピットのセキュリティなどが完璧に機能していれば、アメリカ同時多発テロは防げたはずだ。
手軽で安全をキャッチフレーズに、アメリカではシャトル便が普及している。われわれは予約なしに空港に駆けつけ、次々に出る便にバスに乗るような手軽さで乗る。航空の安全のためには、搭乗時には原則何も持ち込ませない、コクピットは完全ロックする、特殊武器を持ったスカイマーシャルを添乗させるなどの対策が必要だ。
日本の危機管理面から見れば、欧米とは宗教・文化も異なり、50数年前に神風特攻という自爆攻撃を行ったわれわれは、欧米人よりは事件の背景を理解できるかもしれない。彼らを狂信者と片づけ報復に同調することでは、日本の安全上大いに問題がある。そのことで今回のような悲劇は根絶できないだろう。
監修の言葉
2001年9月11日アメリカで発生した同時多発テロは、ハイジャックした航空機をミサイル代わりにしてアメリカの中枢部を麻痺状態に陥れた。多数の旅客を乗せた旅客機と市民を巻き添えにしたテロを激しく憎むものである。空が、旅客機が二度とこのようなことに使われてはならない。
飛んでも飛んでも、空には果てがない。そして空は飛ぶたびに、異なったたたずまいを見せてくれる。空は汲めども尽きない泉のようだ。雲、雨、雪、霧、風……もまた空の表情の一部にすぎない。空は偉大であり、人間の存在は芥子粒のように小さい。
私たちは空のほんの一部を飛ばさせてもらっているにすぎない。この空を、人間は安全に快適に飛ぶためにレーダーやさまざまの航空計器を作りだし、システムを営々として培ってきた。
1960年代B707、DC8などの第一世代のジェット旅客機が出現し、続いて開発されたB727、B747などの革新的な旅客機たちは航空を飛躍的に発展させた。それまでの騒音と振動に満ちたレシプロ機と比べてスピード、性能、快適性は驚くべきものだった。
しかし、幸福な時代はわずかだった。大事故が続発した。初期の頃、航空事故の多くは「パイロット・エラー」が原因とされた。革新的な航空機を安全に飛ばすためには新しい空港、航法装置、そして管制が必要となり、航空に関わる人々が飛躍的に増えたことが背景にあった。さらにいくつもの大事故が発生し、事故に人間のヒューマン・エラーが関わっていることが分かってきた。
事故をパイロット・エラーと断定することは、事故を調査する側と経営者側に『原因はパイロット・ミス』と安易に締めくくる風潮をもたらし、パイロットは反発した。パイロットやエラーを犯した人々を糾弾しても何の事故防止策にもならないことに気づくのにそんなに時間はかからなかった。「ヒューマン・ファクターズ」というカテゴリーで、システムの中の人間を総合的に研究しなくてはヒューマン・エラーは根絶できないという考えにたどり着いたのである。
大型旅客機の場合、キャプテンは十数名の乗員を率いて数百人からの旅客を乗せ、目的地まで飛ぶのが仕事だ。すべての飛行状態をコントロールしながらあらゆる事態に即応して十数名の乗員を指揮して飛ぶ。時として、形こそ変われ「バウンティ号」のプライ船長や、「ケイン号」のクイーグ艦長のような困難なタスクが要求される。
キャプテンに要求されてきているものは、健康に裏打ちされた強靱な精神と、乗員(クルー)との間にチームワークを組む能力である。かつてハイジャックにあったキャプテンが『とにかく犯人をなだめながら……問題の最良の解決を図った』と記者会見でひょうきんに語っていた。人心収攬もまたキャプテンの大きな才覚である。
半世紀の間日本の空を飛び続け、私は私なりに抱いていた問題意識を、本書は見事に衝き、解明してくれた。今や航空事故の原因の大半を占めるに至ったヒューマン・エラーの問題にしても、筆者は産業界における労働災害事故の解析の豊富なデータから明快な因果関係と解決策を導き出している。
ハイジャックに関しては、日本文化の特質を導き出し欧米と異なった発生の仕方と、犯人を生み出した社会、再発防止体制構築力の弱い社会を指摘し、日本社会そのものの問題発生メカニズムを描き出し解決策を探っている。
本文を通読し、詳細を極めたデータの集積と分析力の鋭さを随所に感じた。21世紀には筆者の言う『大航空時代』はますます発展し続けていく。航空界にあって飛行機を飛ばす仕事に当たっている人々、そして利用する側の人々は、本書を読んで、『大航空時代』のありようと今後を一緒に考えてほしい。輝ける『大航空時代』のために。
2001年9月
元全日空キャプテン 井上直哉
●参考資料
航空事故調査委員会報告書
ボーイング式747−400D型JA8904にかかる航空事故調査について
日本航空株式会社ダグラス式DC8−61型JA8061東京国際空港沖合
AAIB(Air Accidents Investigation Branch)報告書
NTSB No.AAR‐00103
NTSB Advisory April.,19, 2001
飛行とこころ(鳳文書林)
異常接近(毎日新聞社)
インターネット中毒(毎日新聞社)
数字で見る航空(航空振興財団)
航空事故(イカロス出版)
航空事故と医療活動(蒲田医師会)
精神医学と犯罪学(世論時報社)
航空実用事典(朝日ソノラマ)
Boeing
Airbus
朝日新聞縮刷版
北海道新聞縮刷版
The Australian
The Daily Telegraph
【著者】藤石 金彌
1942年東京生まれ。明治大学卒業。航空ジャーナリスト協会会員。音の出る雑誌「朝日ソノラマ」編集部を経て、『航空実用事典』(日本航空編)など航空図書編集。「安全」「労働衛生」「安全衛生のひろば」(中央労働災害防止協会)元編集長。『環境・災害・事故の事典』(共著、丸善)などの著書あり。
【監修】井上 直哉
1926年生まれ。1959年全日本空輸鞄社。コンベア440機長、B737機長、B747機長など。第2乗員部長、総合安全推進委員会次長など歴任。総飛行時間1万7279時間45分。
コクピット クライシス
藤《ふじ》石《いし》 金《きん》彌《や》
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平成13年11月9日 発行
発行者 松村邦彦
発行所 株式会社 主婦の友社
〒101-8911 東京都千代田区神田駿河台2-9
Kinya Fujiishi 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
主婦の友社『コクピット クライシス』平成13年12月1日初版刊行