藤田宜永
野望のラビリンス
西の空がくっきりと二層に分かれていた。下の部分が葡萄《ぶどう》色に染まり、上に濃紺《のうこん》色が覆《おお》いかぶさるように拡がっている。その境界線は曖昧《あいまい》だが、勢力の違《ちが》いははっきりしていた。数分もたたないうちに、葡萄色は濃紺色に圧倒《あつとう》され、跡形《あとかた》もなく消えてしまうだろう。
八月|初旬《しよじゆん》にしては肌寒《はだざむ》い夜だった。
私はサントノーレ通りの小さなスーパーマーケットの前に車を止めた。通りは閑散《かんさん》としていて、駐車《ちゆうしや》している車も数えるほどしかなかった。
ロバータ・フラックではなく、マリーナ・ショウの『フィール・ライク・メイキン・ラブ』のカセットを途中《とちゆう》で切り、私は車を下りた。助手席のシートに掛けてあった薄《うす》いグレーのサマージャケットを着て、皺《しわ》を気にしながら、裏通りに入った。風が微《かす》かにあった。乾《かわ》いた空気の匂《にお》いが鼻孔《びこう》を撫《な》でた。
私はホテルバルセローナ≠フバーの入り口に立ち、辺りを見回した。時計を見る。午後九時一分前。
バーテンのマックスがカウンター越《ご》しにスペイン訛《なま》りのフランス語で私に声を掛《か》けた。マックスの視線は、一瞬《いつしゆん》、右奥《おく》のテーブルに向けられた。その視線の先に依頼人《いらいにん》がいた。依頼人を見つけるのはハート札《ふだ》の中に交じったスペード札を見つけるくらいに容易だった。
テーブルもカウンターも賑《にぎ》わっていたが、大半が、ラテン系特有の髭《ひげ》の濃《こ》い男達と密度の濃い黒髪《くろかみ》の女達。喜びも哀《かな》しみも、私の三倍は大きな声で、五倍は大袈裟《おおげさ》にしゃべりそうな連中ばかりだった。そして、残りが金髪《きんぱつ》のカップル。東洋人は一人だけである。
午後、マックスが電話を寄越《よこ》した。依頼人がいるから、夜、バーに来てくれというのだ。依頼の内容をマックスは知らなかった。私に告げたことは、依頼人が日本人の女流画家だということだけである。
依頼人の名前すら分からない、曖昧《あいまい》な話。気乗りはしなかった。しかし、マックスとは、私が三流週刊誌の記者をしていた頃《ころ》からの仲である。安請《やすう》け合いにかけては、蚤《のみ》の市の毛皮屋も顔負けというマックスの面子《メンツ》を潰《つぶ》さないために、私はやって来たのだ。だが、そんな親切心を出せたのも、私がすこぶる暇《ひま》で、八月だというのに、バカンスにも出掛《でか》けられない状態だったからである。
臙脂《えんじ》のビロードを張った肘掛《ひじか》け椅子《いす》に依頼人は座っていた。セシール・カットの髪に白いものがうっすらと交じっている。年恰好《かつこう》は五十|歳《さい》なかばくらい。たっぷりとした白のブラウスにビロードで作られた紺《こん》色のパンツを穿《は》いていた。
マックスがカウンターから出て来て、女に私を紹介《しようかい》した。女はやや緊張《きんちよう》した面持ちで、西村良江《にしむらよしえ》と名乗った。
地黒なのか、どこかで焼いたのか、肌《はだ》は小麦色ですべすべしていた。目の隈《くま》と小皺《こじわ》は隠《かく》しようがなかったが、決して彼女《かのじよ》の魅力《みりよく》を削《そ》ぐものではなかった。むしろ、大きな目を際立たせる小道具のように思えた。鰓《えら》が少し張り、口許がきゅっと締《し》まっていた。若い頃《ころ》は、ブラウスのボタンを全部止めていて、上のボタンを外せる頃には、すでに盛《さか》りを過ぎてしまった、という感じの女だった。
西村良江の前には、シャルトルーズ・ヴェールが置いてあった。
私はカルヴァドスを注文し、黄色いパッケージに入ったフィリップ・モリスを取り出し、火をつけた。
「時間に正確なのね。気に入りました」
「私が気に入っている女性は、強い酒を飲む人です」
私はシャルトルーズの緑色の液体に目をやり、微笑《ほほえ》んだ。
女流画家も少し笑った。控《ひか》え目な愛想笑い。心から笑ったとは思えなかった。
「で、御用件は?」
「その前に鈴切《すずきり》さんのことを知っておきたいですわ。なにせ、私立|探偵《たんてい》を雇《やと》うのは初めての経験なものですから」
「私立探偵に私の身辺調査をさせてから、出直したらどうですか」
「お気を悪くなさらないで。私、とても臆病《おくびよう》なのです。自分で安心できないと……」
「分かりました」
私は、上着のポケットからパリ・ジャポン≠ニいう日本語新聞を取り出し、赤いボールペンで囲ったところを読んで欲しい、と言った。
女流画家は大きな黒いバッグから、老眼鏡を取り出した。眼鏡を掛《か》けるといくぶん、表情が和らいだが、その代わりに、かなりの老け顔になった。
記事の内容は以下の通りである。
鈴切|信吾《しんご》
邦人私立探偵
(国籍《こくせき》、フランス)
捜索《そうさく》エージェント国民会議会員
(警視庁登録番号821)
調査・尾行
捜索・警備
訴訟《そしよう》に有効な証拠《しようこ》集め
日仏企業間のトラブル収拾
秘密厳守
相談無料
17 フォーブール・モンマルトル通り
9区 パリ
Tel (1)240-3612
パリ・ジャポン℃は日本人向けに作られた宣伝・求人広告専門の隔週《かくしゆう》紙である。昔からあったが、大枚九百フランも投入して、私が広告を打ったのは初めてのことだった。今日で六日目だが、今のところ何の効果もない。
画家は新聞から目を離《はな》し、眼鏡をバッグに仕舞《しま》った。
「これで、私のことは分かったでしょう」
「ええ、少しは」
「これにつけ加えることと言えば、三年前まで、ルミュール・ド・パリ≠ニいう週刊誌の記者をしていたことぐらいです」
西村良江は、その雑誌を知らなかった。知らなくて良かったと思った。ルミュール・ド・パリ℃盾ヘ、いい加減なゴシップと煽情《せんじよう》的なスキャンダル、それに、オッパイさえ見せていれば、ミッテランだってシラクだって陥落《かんらく》できるという顔をした女の写真が満載《まんさい》されている雑誌なのだ。私は、その雑誌社に十一年勤めた。
「どうしてお辞めになりましたの?」
何故、辞めたのか?
私にも分からない。理由を探せば、いろいろと考えられるが、どれもが本当で、どれもが嘘《うそ》のように思えるのだ。
ただ、この職業にすんなりつけたのは、やはりその雑誌社に勤めていたからだろう。おかげで、犯罪事件に詳《くわ》しくなり、私立|探偵《たんてい》学校の存在も知りえたのだから。
「給料をまともに払《はら》ってもらえなくなったからです」
私は、もっとも具体的で分かりやすい理由を言った。しかも、これは事実である。
だが、依頼人《いらいにん》は意外な顔をした。きっと、彼女はル・ポワン≠竍エクスプレス≠ニいった一流週刊誌を想像しているのだろう。
「それ以上、知りたければ、本当に探偵を雇《やと》いなさい。なんなら、私の知り合いを紹介《しようかい》してもいい」
「最後にひとつだけ訊《き》いてもよろしいでしょうか?」
「何です?」
「先程の広告に、国籍《こくせき》がフランスだが、日本人とありましたが、つまり……」
「両親が日本人で、私がここで生まれたということです」
「二重国籍ではないのですか?」
「いえ」
「日本にはお住まいになったことはないのですか?」
「五年ほど住みました。学生時代にね、十四、五年前の話ですが。もういいでしょう、私のことは」
「すみません。もう充分分かりました……」西村良江は、笑みを浮《う》かべて言った。
「で、私に頼《たの》みたいことって何ですか?」
依頼人は、目を瞬《またた》かせてから、真剣《しんけん》な口調で用件を口にした。
「猫《ねこ》を探して頂きたいのです」
「猫?」私はばかばかしくなった。「猫は消防署の管轄《かんかつ》です」
私の口調はついからかい気味になった。
「どういうことでしょう」
「木に登って下りられなくなったバカ猫《ねこ》救出の時は、消防に頼むんです」
「私の猫は木に登ったわけでもないし、バカでもありません」
女流画家の口許は一段と締《し》まった。嫌《きら》いな食べ物を口に押しつけられた、利《き》かん気の強い幼児のようだ。
「じゃ、近くのパン屋の仕事だ。張り紙を出しておけば、近所の人が見つけてくれる。それでも心配なら、礼金の額をその張り紙に明記しておけばいい。皆《みな》、一生|懸命《けんめい》探してくれますよ。私立|探偵《たんてい》を雇《やと》うより、余程安く済み、見つかる可能性も高い。それに相手がどんな人物かなんて気にしないで済む」
「確かに私立探偵に頼むようなことではありません。でも、私の猫は或る人物とともにいなくなったのですから……」
「首輪にダイヤでも埋《う》め込《こ》んであったんですか。それともその猫はオオヤマネコのような珍種《ちんしゆ》なんですか?」
「私の猫は雄のトラ猫です。それに私自身、あまり宝石には興味ありません」
私は依頼人《いらいにん》の胸や腕《うで》に目を走らせた。金の細いネックレスと銀の指輪をさりげなく身につけているだけだった。
「鈴切さん、私、真面目《まじめ》なのです。あなたも猫を飼っているって話じゃありませんか。だから、相談にのっていただけると思いまして……」
「猫のこと、マックスが話したのですか」
「いえ、直接、教えてくれたわけではありません。昨夜、家にいても落ち着かないから、ここに来ました。カウンターで飲んでいると、隣《となり》にいたフランス人がマックスに猫を引き取ってくれないか、と頼んでいたのです。マックスは断ったようですが、その時、猫好きの私立探偵からも前に頼《たの》まれたことがある、となにげなく彼が口にしたのです」
私は苦笑した。そういえば、三年ほど前、小猫を引き取ってくれとマックスに頼んだことがあった。奴《やつ》はベルギー生まれの猿《さる》とマドリッド産の女を飼《か》っているので、無理だと言ったのを覚えている。猿は今もいるが、女のほうはとっくにどこかに行ってしまった。
「西村さん、御家族は?」
「ありません。ゴン、つまりその猫だけが私の身内です」弱々しくつぶやいた。
「あなたの猫を連れ去ったのは誰《だれ》ですか?」
「連れ去ったと申しておりません。一緒《いつしよ》にいなくなったと言ったんです」
「初めからお話しになって下さい」
西村良江は、グラスを空け、少し間を置いて話し出した。
「七月の半ばから、私、半分バカンス、半分仕事で、ギリシャに出掛《でか》けました。来週まで滞在《たいざい》する予定だったのですが、急に気が変わって、五日前に帰って来ました」
「猫も一緒にギリシャ旅行したんですか」
「いえ。猫は友人に預けていきました」
「猫はその友人と一緒にいなくなった?」
「その通りです」
「その人の名前は?」
「ダイドウ・ミツグ。大きい道にミツギモノのミツグと書きます」
私はミツグという漢字が思い出せなかった。話すほうはまったく問題ないが、漢字は苦手なのだ。
「仕事は何をしている人ですか?」
漢字のことは口に出さず、私は話を先に進めた。
「ギャラリー・ムラカワ≠ノ勤めています」
「オペラ大通りに最近、オープンした画廊《がろう》ですね」
「御存じですか」
「入ったことはありませんが、目立ちますからね、あの画廊は」
そう言いながら、私は猫と共に消えた男の名前をメモ帳に記入し、グラスを空けた。
「大道さんの年は三十七|歳《さい》。ジャヴェル通りの一一〇番地が住まいです」
「急に仕事で出張した。その間、あなたの知らない人に猫を預けたとは……」
「そうは思いません」女流画家は私の言葉を遮《さえぎ》り、きっぱりと打ち消した。「ミツグさんは、そういう無責任な人ではありません。あの人も、大の猫好きで、猫を大切にすることにかけては、私と同じくらいの情熱を持っています。それに、仕事を無断で休んでいるのです」
「いつから?」
「今週の月曜日、つまり七月二十九日から」
西村良江は大きく溜息《ためいき》をつき、躰《からだ》を後ろに倒《たお》した。息子《むすこ》を失った気丈《きじよう》な母親。そんな感じがした。
ふたりのグラスは、空になっていた。
「同じものでいいですか?」
「ええ」
私はマックスを呼んだ。軽快な足取りでやって来たマックスは、女流画家の暗い表情を見て、私にどうしたんだ?≠ニ聞きたげな目をしていた。
酒が来ても画家はグラスに手をつけなかった。
「大道さんもひとり住まいなわけですね」
「独身です。結婚《けつこん》したこともないと言ってました」
「行き倒れになっている、或《ある》いは、部屋で病死している。そういう可能性もありますね」
「そんなに淡々《たんたん》とおっしゃらないで下さい」
女流画家の顔が青くなっている。
「あなたは、どちらを心配しているのですか? 猫《ねこ》、それとも大道さん?」と私は訊《き》いた。
「両方です」
「大道さんとは、どんな御関係ですか?」
「友人です」
「それだけですか?」
「それはどういう意味です」目がクレーンで吊《つ》り上げたように上がり、鋭角《えいかく》に切れた顎《あご》が私に向かって戦闘《せんとう》を挑《いど》んできた。
「別に意味はありません。母親は、めったな人に息子《むすこ》を預けないものですよ」
「彼は、四、五か月前まで、私と同じアパートに住んでいました。ゴンを連れて散歩に出た時、猫について、とりとめのない話をしました。彼の猫が死んだ直後だったそうで、ミツグさんはしきりに死んだ猫について話していました……。それがきっかけで、ちょくちょく私のところに出入りするようになったのです。こんなこと申し上げる必要はないのですが、私、男の人はなるべく、自分の部屋に通さないことにしているのです。でも、ミツグさんは、何故か信用出来ました」
「男を感じなかった?」
「そういう意味では……。きっと猫好きのせいだと思いますわ。それに年も離《はな》れていますから……。ともかく、ミツグさんは私の唯一《ゆいいつ》の友人なんです」
依頼人《いらいにん》は久し振《ぶ》りに笑ったが、とってつけたような笑いだった。何か隠《かく》している。そんな感じが私にはした。
「彼についてもう少し詳《くわ》しく教えて下さい。交友関係とか女性関係とか……」
「ミツグさんの生活については、私、ほとんど知りません。無論、友人のひとりやふたりはいるようですが、私に話す時は、ただ友達≠ニいうだけです。私にしたって詮索《せんさく》する気はありませんから、どこの誰《だれ》、とか訊いたことはありません」
「恋人《こいびと》はいないのですか?」
「分かりません」
「同じ建物に住んでいたんだったら、偶然《ぐうぜん》、彼の友人に出喰《でく》わすことだってあったんじゃないですか」
「いえ。彼の部屋を訪ねたことは、私、ほとんどありません。ミツグさんのほうが、気が向くと、ふらりと私のところにやって来て、絵や映画の話を少しして、ゴンと遊んで帰って行く。そして、私が旅行する時は、必ず彼が預かってくれる。そんな付き合いでした」
「大道さんが引《ひ》っ越《こ》したのには訳があったのですか?」
「気分|転換《てんかん》だと言ってました」
「大道さんの出身はどこです?」
「大阪だと言ってました。父親は数年前に死に、母親と妹が伊丹《いたみ》に住んでいるそうです」
「彼、パリは長いんですか?」
「私ほどではありませんが、十五年以上になると話していました」
「猫《ねこ》を預けた時の彼の様子に変わったことはなかったですか?」
「変わった様子と申しますと?」
「元気がなかったとか、困っている感じだったとか、なんでも構わないんですが……」
「別に。普段《ふだん》通りでした」
「旅行から帰ってから、彼のアパートに行ってみましたか?」
「一度訪ねました。でも、鍵《かぎ》を持っていない私には、どうしようもありませんでした。ドアに耳をつけて、中の様子を伺《うかが》い、ミツグさんとゴンの名前を呼んでみましたが、なんの返事もありませんでした」
「そのアパートには管理人はいないのですか?」
「私が行った時は、ちょうど不在だったのです……でも、管理人がいたとしても、私をミツグさんの部屋に入れてくれたかどうか……。ともかく、もう私ひとりではどうしようもないのです」
「探偵《たんてい》にとっても、失踪人《しつそうにん》探しは大変な仕事です。まして、猫まで探すとなると……」
「分かってます、無理なお願いだということは。でも、何もしないでいるのが、私、辛《つら》くて。昨夜、ここで、マックスが言った猫好きの探偵≠ニいう言葉を聞いた時、この人に頼《たの》んでみよう、そうひらめいたのです。鈴切さん、大道さんとゴンを探して下さい」
手の平に汗《あせ》をかいているのか、西村良江はしきりに両手を擦《す》り合わせていた。
この女にとって、大道という友人とゴンという猫は、同じくらい大事な存在らしい。だが、猫のほうがより気楽につきあえる相手なのだろう。まず、猫探しを、それから、人の捜索《そうさく》を依頼《いらい》するという、普通《ふつう》では考えられない態度も、彼女の心の動きからすると当然のことだったのかもしれない。
「分かりました、お引き受けしましょう。だが、大道さんが見つかっても、猫が見つかるとは限らないし、猫が見つかっても大道さんが見つからないかもしれない。それだけは覚悟《かくご》しておいて下さい」
西村良江は黙ってうなずいた。
「それで、料金のほうは?」
私は割引なしの料金を教え、「それに、経費を頂きます」と付け加えた。
「料金は前払《まえばら》いでしょうか?」
「とりあえず、経費として二千フラン頂きます」
画家は財布から五百フラン札《さつ》を四枚取り出した。私は受け取りを書いた。
「大道さんとゴンの写真はお持ちですか?」
「ええ、持って参りました」
女流画家はバッグの中から、白い小さな包みを取り出した。包みはティッシュのような、柔《やわ》らかい紙で、画家は、それを丁寧《ていねい》に拡げた。まるで臍《へそ》の緒《お》でも扱っているような手付きだった。
写真は三枚あった。上の二枚はゴンのもので、顔がアップで写っているものと、全体を横から撮《と》ったものだった。目をぱっちり開いた、どちらかというと弱々しい感じの太ったトラ猫。甘《あま》やかされて育ち、二階から落ちただけで複雑骨折しそうに見える。赤い首輪のようなものをしていた。
「足が黒毛ですね」
「ゴンを探す時の手掛《てがか》りになると思います」
「他に特徴《とくちよう》は?」
「去勢してあるのと、右耳の後ろに小さな禿《は》げがあります」
依頼人《いらいにん》は、再び眼鏡を掛け、身を乗り出し写真を覗《のぞ》き込《こ》んだ。そして、ゴンの耳のあたりを指で差し示した。
写真の大道ミツグは屈《かが》んでいた。ゴンの両前足を持ち上げ、笑っている。目の大きな童顔。ことあるごとにハンカチで顔や手を拭《ぬぐ》いそうなタイプだった。細い通った鼻。切れ長の目。ボクシングに絶対向かないひ弱そうな顎《あご》。
「いつごろ、撮った写真ですか?」
「ゴンのほうは……」
「猫のほうは結構です」私は思わず苦笑した。
「ミツグさんの写真は、半年程前に撮《と》ったものです」
「この写真と現在の彼とに、大きく違《ちが》うところはないですね」
「ええ」
私は金と写真をポケットにしまった。
「それで、いつから取り掛かっていただけますか?」
「明日の朝、大道さんのアパートに行ってみるつもりです。結果は報告します」
私は吸いかけの煙草《たばこ》を消した。
「しっかり調査なさって下さい」
女流画家は、二百フラン札を一枚、テーブルの上に置き、席を立った。
背中に鉄板でも入れているように姿勢が良かった。こんな女は、どんな絵を描《か》くのだろう。私は、彼女《かのじよ》の姿が消えた後もバーの出入り口を見つめたまま、ふとそう思った。
「商売、うまく行ったらしいな」マックスがグラスを下げに来て言った。
「あんたのおかげだよ。ところで、あの画家、ここによく来るのか」
「最近ね。このホテルのオーナーが彼女の絵を買ったのが縁《えん》らしい」
「ここに、彼女の絵はおいてないのか?」
「ない。オーナーの自宅に行かないと見られないよ。しかし、バカンスシーズンだというのに、よく精が出るな」
「依頼人《いらいにん》用の椅子《いす》に蜘蛛《くも》の巣《す》が張ってるからね」
「そういう時には気晴らしが必要なんだぜ、本当は」
「気晴らしは、人間の惨《みじ》めさの中でもっとも惨めなもの≠セそうだよ」
「誰《だれ》が言ってるんだい。ローマ法王?」
「五百フラン札」
「え?」
「つまり、五百フラン札に刷《す》ってある肖像画の人物が言ったんだよ」
「誰?」
「哲学者パスカル」
「俺《おれ》なんか、気晴らしのためにせっせと、パスカル先生の顔が刷られたお札を稼《かせ》いでるんだがね……」
「気晴らしに使ってはいけない、って意味で政府はパスカルを選んだのかもしれないな」
「なるほど。でも、俺はやっぱり、気晴らしに使うことにするよ。せいぜい、あんたも稼ぎなよ」マックスは私にウインクをして、カウンターに戻《もど》った。
目覚まし時計の音ではなかった。
モーリス・シュバリエの歌声だった。五十年前のヒット曲『ヴァランチーヌ』。
隣《となり》に住むフィリベール爺《じい》さんは、時々、古き良き時代の流行《はや》り歌を聞く。聞くのは一向に構わないのだが、あの世に去ってしまった妻、ジョゼフィーヌにまで聞こえそうなボリュームで掛《か》けるのだ。爺さんの耳はとっくにいかれていて、セロハンでも貼《は》ってあるのかもしれない。爺さんは、昔、ここからすぐのところにあるキャバレーフォリー・ベルジェール≠ナ楽士をやっていたのだそうだ。
午前九時五分。私は九時半に合わせておいた目覚ましのスイッチをオフにし、窓を開けた。
太陽は厚く覆《おお》われた雲の彼方《かなた》にあった。
世界でもめずらしい灰色の都会≠ニパリを評したアメリカの作家がいたけれど、まったくその通りのお天気だった。道行く若者の白っぽいパンツやランニング姿だけが、かろうじて今が夏であることを告げているに過ぎなかった。
私の事務所兼住まいのあるフォーブール・モンマルトル通りは、オペラ座から歩いて数分のところにある。北に一キロばかり下って行くと、ピガールに出る。
オペラ座界隈《かいわい》に近いとはいえ、この通りの雰囲気《ふんいき》は下町そのものである。ファースト・フード・ショップ、セルフサービス、ピゼリアなどの安レストランが目立ち、安物の靴屋《くつや》も何軒《なんげん》かならんでいる。昔ながらのアパルトマンに、商店の赤い看板がくっついている。理由は分からないが、ともかく、赤いテント、赤いネオン、赤い文字がやたらと目につくのだ。よれよれのベージュのスーツに新品の赤いスニーカーを穿《は》いているような通りである。
一方通行の道の両側には、いつも車が違法駐車《いほうちゆうしや》している。
私のアパートは、赤いチューブネオンでバグダッド≠ニ書かれているクスクス料理屋の隣にある。門を潜《くぐ》り抜《ぬ》けると、中庭になっていて、そこでは、切手商や印刷屋がひっそりと商売をやっている。
眠《ねむ》け覚ましに、何となく、ゴミの処理をしている黒人作業員を見ていた私のところに、クマ(これが私の猫の名前である)がやってきて、潜水艦《せんすいかん》の潜望鏡のように尻尾《しつぽ》を立てて、私の脚《あし》にまとわりついて来た。
腕立《うでた》て伏《ふ》せを五十回やり、シャワーを浴びた後、キッチンへ行った。クマ用のボールに挽《ひ》き肉を百グラムばかり入れてやった。そして、コーヒーをいれ、ベーコン・エッグを作り、ほうれん草をいためて朝食を取った。クロワッサンか昨夜のバケットの残り、というフランス風の朝食は、私の好みではない。
私は、入るとすぐの広間を事務所に使っている。その右がリビング兼|寝室《しんしつ》。キッチンは事務所の左にある。
事務所の一部を本棚《ほんだな》で仕切った。そこを一応、待合ロビーということにしてある。だが、そこに置いてあるビニール革の長椅子《ながいす》に人が座ったことは、これまで一度もない。依頼人《いらいにん》を待たせるような僥倖《ぎようこう》も、借金取りが何人もやってくる不幸にも、いまだ縁《えん》がないのである。
私は白いシャツに紺《こん》色のネクタイを締《し》めながら、事務所のデスクの前に座った。二|脚《きやく》ある客用の肘掛《ひじか》け椅子のひとつにクマがぴょんと飛び乗り、その上に丸まった。
私は、昨夜、西村良江から預かった写真を引き出しから取り出した。
「おまえを飼《か》ってたおかげで仕事が舞《ま》い込《こ》んだぞ」
そう言って、ゴンの写真をクマに見せたが何の興味も示さなかった。
私は、引き出しから角川新国語辞典≠取り出し、ミツグ≠ニいう漢字を調べた。そして、写真を上着の内ポケットに突《つ》っ込み部屋を出た。相変わらずモーリス・シュバリエが明るい声で歌っていた。
キャバレーフォリー・ベルジェール≠フ近くの駐車場《ちゆうしやじよう》まで歩いた。小便|臭《くさ》い小さな階段を下り、旧型のアルピーヌ・ルノーを出した。
セーヌ河岸《がし》をミラボー橋の方面に向かって走る。道は空いていた。バカンスがピークを迎《むか》えているのだ。
アナトール・フランス河岸のところにある屋外プールデリニー≠ノは、気分だけでも夏を味わおうというのか、曇天《どんてん》にもかかわらず、数名の人がプールサイドで寝《ね》そべっていた。
大道貢の住んでいる建物は、ミラボー橋からさほど離《はな》れていないジャヴェル通りとサン・シャルル通りの角にあった。
石造りのこぢんまりとしたマンション。
作りは一見アメリカ風なのだが、窓は白い枠《わく》のフランス風だった。築二十年以上の代物らしい。申し訳程度に突き出たベランダがすこぶるモダンに感じられた頃《ころ》もあったに違《ちが》いない。そのベランダの柵《さく》は緑色だが、何度も化粧《けしよう》直しをした跡《あと》がところどころに残っていた。
私はガラスのドアを押《お》して中に入り、管理人室のベルを鳴らした。
小柄《こがら》な中年女が、ガラス戸の内側に下がっているカーテンを少し開け、私を見た。
「保険ならお断りよ」
「ここの住人のムッシュ・ダイドウのことで、ちょっと……」
ドアが開いた。そして、このベルを押すものは、誰《だれ》も信じないという目が私を見つめた。色白だが、頬《ほお》が赤い女で、顔立ちは悪くなかった。耳に洋梨《ようなし》の形をしたイヤリングが揺《ゆ》れていた。この建物同様、かつてはモダンな女だったのかもしれない。
「で、御用件は?」
私は名刺《めいし》を渡《わた》した。そして、大道が会社を無断欠勤していること、アパート内で病死している可能性もあることを正直に打ち明け、家族に依頼《いらい》されて調査していると嘘《うそ》をついた。
「あなたが、最後に大道さんを見たのは、いつだったか覚えてますか?」
「そうね、かなり前のような気がするわ」
「前ってどのくらいです、二週間、それとも一か月?」
「そんなこと覚えちゃいないわよ。私、見張ってるわけじゃありませんからね」
管理人は眉《まゆ》をひそめた。
「ごもっとも」
私は微笑《ほほえ》んだが、相手は一向に頬を緩《ゆる》める気配はなかった。赤い頬が和らぐために、私は百フラン札《さつ》を一枚取り出し、彼女《かのじよ》の目の前で、ゆっくりと四つ折にした。管理人は、手品に見入っているような様子で私の指を見ていた。
「何か思い出して頂けませんかね……」
「でも、そう言われても……」
頬が少し緩み、態度が軟化《なんか》した。
「ちょっと部屋を拝見させていただけませんか?」
「そういうことは出来ません。もしも、なにかあったら、私の責任になるし、夫に訊《き》いてみないと……」
「じゃ訊いてみて下さい」
「今、外出してるんですよ」
私はもう一枚百フラン札を出した。
「素敵なイヤリングですね。お揃《そろ》いのブローチをつけるともっと映えますよ」
「夫に知れたら……」
そう言いながらも、ぽっちゃりとした指は悶《もだ》えていた。「困ったわ」
私は札を素早く握《にぎ》らせた。
「ほんの一、二分のことです。大道さんが病死していたらことでしょう」
「……そうね。人の命に関わることなんですから、調べて見る必要があるわね」
大義名分が見つかった。真剣《しんけん》な表情で、管理人は格子縞《こうしじま》のスカートのポケットに札を押《お》し込《こ》んだ。だが、すぐに真剣な表情は不安なまなざしに変わり、辺りを見回した。路上で大金を拾った人の目付き。
鍵《かぎ》を取りに管理人室に戻《もど》った彼女は、おそらく大義名分を、少なくとも百回はお経のように唱えたはずだ。
四〇二号と書いてある札のついた鍵を持って、管理人が戻って来た。私はそれを受け取ろうとしたが、彼女は渡《わた》さなかった。
「私も一緒《いつしよ》に参ります」
「分かりました」
彼女は管理人室に鍵を掛け、しばらく不在≠ニいう張り紙を出し、エレベーターのほうに向かった。私もあとに続いた。
三人乗ると、一杯《いつぱい》になってしまうほど小さなエレベーターがゆっくりと上昇《じようしよう》した。
「ムッシュ・ダイドウは、いつごろからここに住んでるんですか?」
「もう五か月になるかしら」
天井《てんじよう》を見つめたまま管理人は答えた。
「トラブルを起こしたことはありませんか?」
「ありません」
「最近、猫《ねこ》を飼《か》っていたでしょう?」
「ええ……ああ、それで思い出したんですが、一週間ほど前、その猫が隣《となり》の四〇三号室の壺《つぼ》を壊《こわ》しましてね。きっとベランダづたいに行ったんだと思いますが……」
「それで?」
「それで、四〇三の人が弁償《べんしよう》してくれって言いに行ったのですが、ムッシュ・ダイドウは不在だったそうです」
「正確な日付を覚えていませんか?」
「えーと、あれは先週の日曜日だから、七月二十八日ですわ。間違いありません。場外馬券《チエルセ》を買いに近くのカフェに行った帰りに、四〇三の方に道で会ったんです。そこで、その話を聞いたんです。時刻は午後一時過ぎだったわ」
金を握らせた効果は充分あった。質問しなくても、時刻まで思い出してくれたのだから。
「その方は、なんて言ってました?」
「今朝早く、閉め忘れていたキッチンの窓から、ダイドウさんの猫が入って来て、大事な中国製の花瓶《かびん》を割った。今、弁償して欲しいって言いに寄ったが、四〇二の人はいなかった。そんな話でしたよ」
エレベーターが四階に着いた。
「四〇三の方は、勤めてらっしゃる人ですか」
「お会いになりたければ、エジプトまで出掛《でか》けて行くしかありませんわよ」管理人は歯茎《はぐき》を出して笑った。「私が会った時、空港に向かうところだったんですから」
四階は三世帯が入れるようになっていた。大道の部屋はその真中だった。
彼女が何度かベルを鳴らしてみた。応答なし。
「本当に一分だけですよ」
管理人は念を押してから鍵《かぎ》を回した。
私が先に入った。小さな玄関《げんかん》ホール。左手が細い廊下になっていて、正面にガラスの扉があった。どうやら扉の奥がリビングらしい。カーテンが下りていて、中は真暗だった。微《かす》かに臭気《しゆうき》がしたようだが、気のせいかもしれない。
リビングに入る手前の壁《かべ》のスイッチを押《お》した。パラソルみたいな覆《おお》いのついた背の高いスタンドが柔《やわ》らかい光を放ち、リビングを浮《う》かび上がらせた。私はガラスの扉を引いて中に入った。
まず気づいたのは本が散乱し、小机の引き出しが開いていることだった。だが、家具や調度品が目に入る暇《ひま》はなかった。マリンブルーのソファーの上に男が仰向《あおむ》けに倒《たお》れていたのだ。私は男に近づいた。大道貢だった。
後ろからついて来た管理人が悲鳴を上げ、私の背中にしがみついた。
私は一旦《いつたん》、彼女を外に連れだし、エレベーターに乗せた。動転した女はなんてこと!≠ニ何度もつぶやいていた。
「きゅ……救急車を呼ばなければ……」
突然《とつぜん》気づいたように管理人は言った。
「警察を呼んだほうがいい」
「警察?」
「彼はもう死んでる」
再びリビングに戻《もど》った私は黄緑色のカーテンを引き光を入れた。そして、ハンカチを取り出した。妙《みよう》なところに指紋《しもん》をつけるとあとで警察が煩《うるさ》い。
部屋には屍臭《ししゆう》が漂っていた。
もう一度、死体を覗《のぞ》き込《こ》んだ。孤独《こどく》な画家の友人のこめかみには、穴が開いていた。そこから流れた血が顔を伝って、ベージュの絨毯《じゆうたん》を汚《よご》している。血は固まったチョコレートのようだった。
死後硬直は完全に終了し、躰は弛緩《しかん》し膨《ふく》れ上がっているように見える。昨日、今日死んだ躰でないことは確かだ。ここ数日、肌寒い日が続いていたこと、空気も乾《かわ》いていたことを考えれば、死亡したのはかなり前かもしれない。しかし、素人の私にはそれ以上のことは分からなかった。
当て推量を止めた私は死体から離れ、ゴンを探した。リビングにも、トイレにもキッチンにもいなかった。トイレには、砂の敷《し》いてある平ったい容器があり、糞《ふん》をした跡があった。キッチンの床《ゆか》には味噌汁《みそしる》用のお椀《わん》にキャットフードらしいものが入っていた。糞は乾き切り、餌《えさ》は異臭を発していた。
寝室《しんしつ》を覗《のぞ》いた。ここにも猫《ねこ》がいる様子はなかった。だが、ゴンの代わりに招《まね》き猫が床に転がっていた。この部屋も荒《あ》らされたのだ。白塗《しろぬ》りの洋服ダンス、籐《とう》で出来たサイドテーブルの引き出しがことごとく開けられて、下着、タオル、衣類、新聞、雑誌などが、赤いベッドカバーの上や絨毯に散乱していた。そして、青いサムソナイトが、壁《かべ》を支えにして口を開けていた。中の布が赤く、まるで河馬《かば》が口を開けているようだった。そこには、ビキニスタイルのブリーフが数枚、茶のトラウザースが一本入っていた。大道貢は旅行する予定だったのか?
私はリビングに戻《もど》り、ライティング・ビュローのところへ足を運んだ。机の上には、空になった引き出しや、ノートなどが乱雑に積み重ねられていた。その一番下から日本のパスポートが顔を覗かせていた。私は上のガラクタを取り除いた。パスポートと一緒《いつしよ》にエアー・チケットかなにかが出てくるかもしれないと期待したのだが、何も出て来なかった。机の上に積まれた引き出しの中に、銀行の預金明細書が入っていた。ギャラリー・ムラカワ≠ゥらの給料八千五百フランが振《ふ》り込《こ》まれている以外にどこからも入金はなかった。不思議なことに気付いた。給料は半分も手をつけられていないのだ。少なくとも、家賃だけでも四千はするはずだが。大道には、ギャラリー・ムラカワ≠フ給料以外に収入があったらしい。しかも、現金収入が。
私は明細書を元に戻し、もう少し机の上を漁《あさ》ってみた。小さなメモが出てきた。
『今朝早く、あなたの猫がベランダを伝って、私の部屋に侵入《しんにゆう》し、七百フランの花瓶《かびん》を割りました。損害を賠償《ばいしよう》していただきたい。なお、私は八月十六日まで、留守にします。帰り次第、御|連絡《れんらく》します。
四〇三の住人より 七月二十八日』
少なくとも七月二十八日までは、大道貢は生きていて、ゴンも花瓶をひっくりかえすほど、のびのびとここで暮《く》らしていたことになる。
メモを元に戻《もど》し、住所録とか日記とかがないか探したが見つけ出せなかった。それから、私はベランダに出てみた。擦《す》りガラス仕切りが両端にあり、その下が、猫《ねこ》なら充分《じゆうぶん》に潜《もぐ》れる大きさに開いていた。
部屋に戻った私は、猫を運ぶためのバスケットを探してみた。だが、どこにも見当たらなかった。
再び死体に近づいた。大道貢は、ジーパンに黒いトレーナーという軽装《けいそう》で倒《たお》れていた。
誰《だれ》かと揉《も》み合ったらしい。本来なら、ガラスのテーブルの上に載っているはずの灰皿《はいざら》が床《ゆか》に転がっていて、吸殻《すいがら》が散乱していた。吸殻と一緒《いつしよ》に、物凄《ものすご》い数のキャンディとボンボンがばら撒《ま》かれていた。
キャンディのカラフルな包み紙の間に、高さはそれ程ないが、底の半径が二十センチ以上はありそうな、バケツみたいな入れ物が倒れていた。それは、金色に輝《かがや》き、中にもキャンディが何粒《つぶ》か残っていた。ボンボン屋の店先に置いてある、キャンディを盛《も》っておく入れ物なのだ。禁煙《きんえん》中のコジャック警部なら、ボンボンを失敬し、それを舐《な》めながら、ゆっくり捜査《そうさ》に掛《か》かるところだろうが、私は彼の真似はしなかった。私は甘《あま》いものは好きではないし、警官でもないのである。
入れ物の底に、おおいに興味を持った。何人もの女性を楽しませるキャンディの下には、何人もの人の命を奪《うば》える武器の形にくり抜《ぬ》かれた発泡《はつぽう》スチロールが入っていた。銃身がかなり長い拳銃《けんじゆう》の形。いや、サイレンサーつきの拳銃かもしれない。
キャンディをプレゼントに持って来た人間が、大道を殺したのか。いやいや、そうではなさそうだ。このキャンディを入れたバケツは、初めからここにあったものらしい。ガラスのテーブルの上にバケツの底と同じ大きさの円形の跡《あと》が残っていた。
大道は自分が所有している拳銃で殺されたのかもしれない。私はパズルがしたくなった。この形にぴったりするものを探してみた。探し物は案外簡単に見つかった。本棚《ほんだな》の横のゴミ箱のなかに入っていた。
サイレンサーが付いた、ベレッタダブルアクションM92。
過激派に誘拐されたイタリアのモロ首相のボディガードが所持していたのがM92だった、と何かの本で読んだ記憶がある。
サイレンの音がこちらに近づいてきたので、私は慌《あわ》てて、パズルをやってみた。ぴったりだった。モロ首相の時は、ボディガードが殺《や》られたはずだ。今度は猫のボディガードだ。この前例を考えるとゴンは誘拐されたことになるのだが……。
しかし、特別|誂《あつら》えのサイレンサーが気にいらない。大道が作った、或いは作らせたとすれば、彼が殺し屋だった可能性も出てくる。いずれにしろ、素人が護身用に持っていたとは考えられない。
サイレンがこの建物の前で止まった。私は拳銃《けんじゆう》を元の場所に戻《もど》し、カーテンを閉め廊下《ろうか》に出た。中にいると、余計に痛くもない腹を探られる。フィリップ・モリスに火をつけ、ドアの横に立って、依頼人《いらいにん》のことを話さなくても済む、うまい嘘《うそ》がないか考えた。西村良江のことは、とり立てて隠《かく》すようなことではなかった。率直に教えても一向に差し支えないのだが、警察に尻尾《しつぽ》を振るのは性に合わない。
やがて、廊下の奥《おく》のエレベーターから私服らしいのが二人とライトブルーのシャツに紺《こん》のズボンを穿《は》いた制服が下りて来た。
「死体はこの中」
私はそのひとりに言った。少し斜視《しやし》で、夜行性の動物のような目をした男だ。長年、変死体と殺された女の下着ばかり検査している、鑑識《かんしき》の人間、と私は踏《ふ》んだ。背の高い若造が、その男と一緒《いつしよ》に部屋に入った。
制服が偉《えら》そうに私の名前を訊《き》いた。
「シンゴ・スズキリ。私立|探偵《たんてい》」
私は相手が命令する前に身分証明書を出した。警官は、それを丹念《たんねん》に見、顔を上げ、質問を始めた。
「死体を見つけた時間は?」
「十一時四十五分」
「管理人と一緒に発見したんだな」
「その通り。それで、彼女が警察に通報し、俺《おれ》が死体の番をしていた」
「ここに何の用があったんだ?」
「猫《ねこ》を探しに来たんだ」うまい嘘が見つからなかった私は、本当のことを言った。
「猫?」
「そうだ。ミヤオミヤオの猫だ」私は、猫の泣き真似をした。無論、フランス語でやった。
また、エレベーターから人が下りて来た。今度は四人。全員、私服。そのうちのひとりのウエストはエレベーターの幅《はば》ほどあった。よく四人も乗れたものだ。
やって来たうちの三人が、部屋に入り、白いブルゾンにベージュのパンツを穿《は》いた金髪《きんぱつ》が残った。私を取り調べていた制服が、私の身分証明書を見せながら、彼に何かぼそぼそ言っていた。時々、金髪がガムを噛《か》みながら、こちらを見た。柄《がら》はでかいが、顔は小さい。手錠《てじよう》の代わりに、エルメスの銀製ブレスレットをちゃらちゃらさせているほうが似合いそうな若造で、引き金の甘《あま》い拳銃のように、すぐに暴発しそうな感じに見えた。
やがて、金髪が私のほうに近付いて来た。
「司法警察のムトン刑事《けいじ》だ。署で、ゆっくり話を聞かせてもらおうか」
「さっき、そこの警官に話したぜ」
「俺《おれ》は、直接聞きたいんだ」高圧的な態度。
「部下を信じないと偉《えら》くなれないぜ」
「何! おまえ警察をなめてんのか!」
この勢いではガムを思わず、飲み込《こ》んでしまったかもしれない。
「証人には、もっと丁寧《ていねい》な言葉使いで話し掛《か》けてもらいたいね。そうかっかしなくても、どこへでも行きますよ」
私は、もっとからかってやりたかったが、自重した。
先程の制服警官と一緒《いつしよ》に私は一階に下りた。
玄関《げんかん》ホールは、ちょっとした警察署の出入り口みたいだった。
管理人の女の顔はなかった。私立|探偵《たんてい》に死体、そして、警察の尋問《じんもん》、あの女も、ここしばらくは、街の人気者になるだろう。
歩道は野次馬だらけで、開いている窓からは人が顔を出していた。バカンスの間を狙《ねら》って空き巣《す》に入ろうと考えている盗人共《ぬすつとども》には、ありがたい事件だろう。どの部屋の住人がいないか一目瞭然《りようぜん》なのだから。
私はペンギンと同じ配色のプジョー三〇五GLの後部座席に乗せられ、セーヌ河岸、オルフェーブルにある司法警察に連れて行かれた。車中、ムトンに猫の話をしたが、相手は端《はな》から私の言うことを信じていない様子だった。
私が死体に出喰《でく》わしてから、ちょうど三時間十分後に、私の本格的な取り調べが始まった。
中庭に面した日当たりの悪い部屋に私は通された。窓には鉄格子がはまっている。だが、ここが警察の一室だと思えば、そう居心地の悪い部屋ではなかった。署内には、きっと窓のない部屋が幾《いく》つもあるだろうし、モデルや映画スターなら慣れっこになっている強い光を放つライトがそこにはあるだろう。それを考えれば、スチールの机の上に、おそらく家族の写真が入っているらしい写真立てが置いてある部屋は天国だと思わなければなるまい。
その事務机を挟《はさ》んで、初老の男が私をじっと見据《みす》えていた。男には見覚えがあった。先程、大道のアパートでちらっと見た記憶《きおく》がある。
「私はデロール警視。この事件の責任者だ。むこうの刑事は知ってるね?」
警視は窓際に立っていたムトンを顎《あご》で示した。私は黙《だま》ってうなずいた。
デロール警視は薄《うす》いグレーのスーツに、紺《こん》色のシャツを着ていた。ノーネクタイで、シャツの間から胸毛が覗《のぞ》いている。小柄《こがら》だが、肩の筋肉が盛り上がっていて、腕《うで》も太そうだ。頬骨《ほおぼね》が突《つ》き出、目が落ち込《こ》み、歯並《はなら》びが悪い。話すと浅黒い顔に皺《しわ》が走る。年はよく分からないが、四十代の若さを保っている五十代という感じがした。もっと若かったら、ラグビーのスクラム・ハーフにうってつけの男だ。
「日本人の私立|探偵《たんてい》がパリで仕事になるのかね?」デロールは書類をパラパラと捲《めく》りながら、上目使いで私を見た。
「日本人がかなり、ここに根を下ろしはじめましたからね。根が絡《から》んでトラブルって場合も多くなった。だが、俺《おれ》はフランス人だよ。この国では、外国人が私立探偵になれないことぐらい、警視も御存じでしょう」
「国籍なんか問題ではない。あんたは日本人だ」
「そうかもしれん。俺自身、時々、フランス人なのか日本人なのか分からなくなることがあるんだ。だが、そんなことはどうでもいいだろう」
デロールは愛国主義者で、外人はお気にめさないらしい。
「死体発見の模様や時間についちゃ、あんたに訊《き》くことは、もうないんだがね……」
「じゃ、犯人でも教えろっていうんですか?」
「あんたの商売が引っ掛《か》かってね。何故、被害者《ひがいしや》に会いに行ったのか、誰《だれ》に頼《たの》まれたのか、聞かせてもらえるかね」
デロールは書類から目を放し、私を見つめた。
「どんな商売だったら良かったのかな? 例えば、美容師?」
「私立探偵が猫《ねこ》を探しに行ったら、その預かり主が射殺されていた? こんな話を信じる馬鹿《ばか》がいると思うかね」
「信じるも信じないも、それが事実なんだ」
「相当、高価な猫なんだろうね。管理人を騙《だま》し、賄賂《わいろ》を握《にぎ》らせたくらいだから」
警視の左の眉《まゆ》がきゅっと上がり、ほんの少し頬《ほお》が緩《ゆる》んだ。
「大道貢は、先週の月曜日から、会社を無断欠勤している。他人の猫を預かってもいいと思っていた人間が、会社にも何も言わずに消えてしまうってのは妙《みよう》だと思わないか? 奴《やつ》が部屋で病死していたら、猫はどうなる? 放っておいたら、遅《おそ》かれ早かれ、あの世に行っちまうじゃないか。だから、部屋を調べてみたかったんだ」
「それで、猫はいたのか?」
「いなかった。いた形跡《けいせき》はあったがね、警視も猫の食い物と糞《ふん》の塊《かたまり》を見たろう?」
「俺達《おれたち》が来る前、あの部屋を探ったのか?」
「いや、猫を探しただけだ。他のものには一切|触《さわ》ってない」
「どうだかな……」デロールはゴロワーズに火をつけ、躰《からだ》を後ろに倒《たお》した。「もう一度、訊くが、その猫は盗《ぬす》まれるような、或《ある》いは殺人の原因になるような猫なのか?」
私はゴン≠フ写真を出し、机の上に投げた。デロールは躰を起こし、写真を取ると、片肘《かたひじ》をついてゴン≠見た。
「見ての通り、どこにでもいる猫だよ。首輪|替《が》わりにしているリボンだって、どこにでも売っている安物だし、そんなに細くては、中に物も隠《かく》せないぜ」
「じゃ、何で猫がいなくなったんだ?」
「それは、俺《おれ》にも分からんよ」
「分からないのは、あんたの言ってることがデタラメだからだろう? 違《ちが》うか?」
デロールは顎《あご》をさすりながら、冷たく笑った。
「じゃ、その写真は何だ」
「おおかた、あの部屋で見つけたんだろう」
「管理人の女に聞いてみろ。俺がエレベーターの中で猫の話をしたのを覚えているはずだ」
「では、誰《だれ》が被害者《ひがいしや》に猫を預けたのか言ってみろ」
「依頼人《いらいにん》については、簡単には話せない。俺達の商売で口が軽くて稼《かせ》げるのは、密告屋と汚職《おしよく》警官だけだぜ」
「ふざけた口を利くな!!」
先程から、私の後ろを行ったり来たりしていたムトンがわめいた。
「動物園の白熊《しろくま》みたいにうろうろしないで、どこかに座ってろよ」
私は、躰を半分、後ろに回して言った。
「なに!」
素早い動作だった。白熊は、私の胸倉を右手で掴《つか》んだ。私はその腕《うで》を取り、思い切り振《ふ》り払《はら》った。ムトンの手の甲《こう》が机の角に当たった。鈍《にぶ》い音がした。刑事《けいじ》はもう一度、私に挑《いど》み掛《か》かろうとした。羊《ムトン》なんて名前は改名したほうがよさそうな顔をしていた。
「止せ、ピエール!」
デロールの声が飛んだ。低いドスの利いた声。修羅場《しゆらば》を潜《くぐ》り抜《ぬ》けてきた者だけが持ちえる冷静で、かつ威圧《いあつ》感のある態度だった。
「公務執行妨害《しつこうぼうがい》で引っぱれるんだぞ!」
若造の目は血走っていた。白いブルゾンが大きく動き、声がやや上擦《うわず》っていた。
「公務? 勝手に運動不足を解消するのが公務なのか」
「ムッシュ・スズキリ、あまり調子にのるなよな」
私を窘《たしな》める警視の右の指が机の上でゆっくりと波打っていた。私は肩《かた》をすくめて微笑《ほほえ》んだ。
「我々と問題を起こす私立|探偵《たんてい》もたまにはいるが、そういう連中は職を失い、倉庫番かディスコの用心棒で一生を終わる」
「どうせなら、ディスコがいい。可愛《かわい》い伴侶《はんりよ》が見つかるかもしれないから」
机の上の電話が鳴った。デロールは「そうか」と二度言い「なるほど」と一回言い、黙《だま》って受話器を置いた。私は煙草《たばこ》に火をつけ、ゆっくりと吸った。
「ムッシュ・スズキリ、やはり、あんたの話は信用できんね」
「あんたもしつこいな」
「日本人ほどしつこくはないと思うがね」
皮つきのナッツのような目が冷たく光った。
「どういう意味だ?」
「別に、意味はない。俺《おれ》の思っていることを言ったまでだ」
「あんた日本人が嫌《きら》いなのか?」
「あんた警察が嫌いなのか?」
「お互《たが》い、答えだけは同じのようだな」
「なあ、しゃべっちまえ。誰《だれ》に何を頼《たの》まれてあそこに行ったんだ?」
「大道はいつ死んだんだ?」私はデロールの質問を無視して訊《き》いた。
「質問は俺がする。質問されるのは嫌いなタチでね」
「学校で勉強が出来なかったのか」
デロールは回転|椅子《いす》をゆっくり左右に揺《ゆ》らせながら、ゴロワーズを消した。
「強情な奴《やつ》だな。被害者《ひがいしや》は拳銃で殺《や》られたんだがね……」
「確かに毒殺されてはいなかったな」私は馬鹿にしたような口調で言った。
「とぼけるのもいい加減にしろ!」
私はデロールが言いたいことが分からなかった。
「あんたマルセイユに行ったことはないか?」デロールの口調ががらりと変わった。
「三年前に行ったよ、それがどうした?」
「最近は行ってないのか? 調べりゃ、すぐに分かるんだぜ」
「行ってない。マルセイユは遠い。そんな金の余裕《よゆう》はない。なあ、教えろよ。質問しないから」
「今、報告が入ったんだが、被害者を撃《う》った拳銃はな、今年の三月にマルセイユの銃砲店から盗《ぬす》まれたもんなんだ。あんた、その捜査《そうさ》をやっていたんじゃないのか」
「初耳だ。俺は本当に猫《ねこ》を探しに行っただけだ」
デロールはツツツツと四回、歯を鳴らし、首を横に振《ふ》った。
「あんたが誰に頼まれてるのか知らんが、私立|探偵《たんてい》を長くやっていたかったら、拳銃|強奪《ごうだつ》や殺人なんかに手を出さないことだな」
「猫探しは続けてもいいのか?」
「ベッドの中でならな」
「俺の探してる猫は、残念ながら雄《おす》でね」
「それでも、ベッドの中だけにしとけ」
「じゃ、これで失礼してもいいかな?」
「車は中庭の駐車場《ちゆうしやじよう》だ」
「警視、拘留《こうりゆう》しないんですか」ムトンが不服そうに訊《き》いた。
「何の罪で? こいつは証拠《しようこ》を突きつけても口を割らんタイプだよ。まして、こいつが偽証《ぎしよう》している証拠は、まったくない」
デロールはまた躰《からだ》を後ろに倒《たお》した。私は立ち上がった。
「二度と俺《おれ》に顔を見せないようにしろよ。さもないと、次は理由をデッチ上げてでも泊《と》まってってもらうからな」
私は、デロールの前にあった灰皿《はいざら》に煙草《たばこ》を捩伏《ねじふ》せ、身分証明書とゴンの写真をポケットに入れ、部屋を出た。
中庭の駐車場から、車を出し、まっすぐ事務所に戻《もど》った。途中、何度もバックミラーで跡をつけられているかどうか調べたが、そんな様子はなかった。
上着を脱《ぬ》いで、キッチンへ行き、冷蔵庫から缶《かん》ビールを取り出した。冷蔵庫のドアの開く音を聞きつけたクマが、どこからともなくやってきた。まだ餌《えさ》の時間ではない。
私は、クマの頭を一撫《な》でし、ビールを持ったまま、寝室《しんしつ》に行った。ミルドレッド・ベイリーのアルバム『ロッキン・チェアー・レディ』を掛《か》け、寝室のドアを開けっ放しにし、事務所に戻った。
回転|椅子《いす》に腰《こし》を下ろし、両足を机の上に載せ、ミルドレッドの声を聞きながら、私は考えた。
大道貢は七月二十八日、日曜日の午後は、まだ生きていたと見ていいだろう。でなければ、花瓶《かびん》を壊《こわ》された隣《となり》の女が、午後一時頃に大道のドアに挟《はさ》んだメモが机の上にあるはずはない。そして、ゴンも日曜の朝まではあのアパートにいたのだ。
大道が会社に出てこなくなったのが二十九日。ということは、日曜日の午後から夜にかけて殺されたのだろう。
では、ゴンはどうなったのか? 大道を殺した犯人が連れ去ったのだろうか? 分からない。大道は、隣のメモを読んだにも拘《かか》わらず、猫の通路となっているベランダの仕切りの下に、何の処置も施《ほどこ》してないのが腑《ふ》に落ちない。普通《ふつう》は、そういう苦情がくれば、すぐにダンボールかなにかで、通路を塞《ふさ》ぐはずである。たとえ、四〇三の人間が旅行中でも、ベランダづたいに四〇一号室に行くかもしれないではないか。大道には、そんなことをやる暇《ひま》がなかったのか、それともやる必要がなかったのか。必要がなかったとしたならば、大道がメモを読んだ時点には、ゴンはあのアパートにいなかったとも考えられる。
犯人が連れ去ったにしろ、そうでないにしろ、猫用のバスケットがないのが気になった。もっとも何にも入れずに車で運んだ可能性もあるが……。
私は受話器を取りダイヤルを回した。躰《からだ》を倒《たお》したままダイヤルを回したので、二度、指が滑《すべ》って掛けなおさなければならなかった。この仕事で金が入ったら、プッシュホーンを購入《こうにゆう》しようか、と思いながら、通話音を聞いていた。
私が躰を起こした時、西村良江が電話口に出た。
大道貢の死について話すと、女流画家は一瞬《いつしゆん》、絶句し、涙声《なみだごえ》になった。しかし、すぐにゴン≠フ行方をしっかりした口調で訊《き》いた。
私は自分の考えを言い、「ゴンを預けた時、バスケットか何かに入れて運びましたか?」と訊いた。
「ええ。紺《こん》色のバスケットに入れました。それが何か?」
「多分、そうではないかと思って探してみたんですが、大道さんの部屋にはありませんでした。おそらく、ゴンはどこかに移されたとみて、まず間違《まちが》いないでしょう」
「でも、誰《だれ》が何のために私の猫《ねこ》を?」
「分かりません」
「ミツグさんの死とゴンの行方不明に関連があるのでしょうか?」
「それも今のところは何とも言えません。本当にゴンは普通《ふつう》の猫で、リボンも普通の物なんですね」私は念のためもう一度訊いてみた。
「私は嘘《うそ》は申しません」女流画家は気を悪くしたらしい。声に刺《とげ》があった。
「だとしたら、関係ないかも知れない。大道さんが、バスケットにゴンを入れて、どこかに持って行ったと考えるのが順当なような気もします」
「ミツグさんは何故、私のゴンを……」
「それも謎《なぞ》です」
私は、そう答えながら、口が開いたままになっていたブルーのサムソナイトを思い出していた。何か訳があって、急に旅行に出ることになったのだろうか。
私はその疑問を胸に秘めたまま、もう一度、大道貢の交友関係などについて訊《たず》ねたが、何も新しいことは聞き出せなかった。女流画家は、唯一《ゆいいつ》の親しい人間に関しての質問はあまりお気にめさないようで、もう死んでしまった人のことは話したくありません≠ニ露骨《ろこつ》に嫌《いや》そうな声を出した。何か隠《かく》しているのか、ゴンのことで頭が一杯《いつぱい》で答える気も起こらないのか。
「彼は、マルセイユに行ったことはありませんか、今年になってから」
「さあ、分かりません。多分、行ってないと思いますが……でも、どうしてそんなことをお訊きになるのですか?」
私は、使われた拳銃《けんじゆう》の出所について話した。女流画家は「そうなんですか」とつぶやいただけだった。これが、自然な反応のような気がした。西村良江には、拳銃|強奪《ごうだつ》など、別世界の出来事なのだ。
「ミツグさんを殺した犯人がゴンのことを何か知っているとは思いませんか?」
「その可能性は充分《じゆうぶん》にあります。ともかく、大道さんの周辺を洗ってみるつもりです」
私はそう言って電話を切った。
次の日の午前十時頃、私はカフェブレバン≠フテラスに座った。テラスには、ウエスタン・ブーツを履《は》き、脚《あし》を大きく組んで、往来を見ている男がいるだけだった。パラソルは開いていたが、北極で冷蔵庫を使っているようなものだ。曇《くも》り空で道行く人の影《かげ》すらない朝だった。
朝食をまだ取っていなかった私は、クロック・ムッシュにエスプレッソのダブルを注文した。そして、近くのキオスクで買った新聞を拡げた。犯罪記事をわりあい大きく扱《あつか》う三紙を順に読んでいった。どの記事も想像していたより、扱いが小さかった。
フランス・ソワール℃では以下のように報じていた。
アパートの一室に射殺死体
凶器《きようき》は盗難拳銃《とうなんけんじゆう》
五日(月曜日)午前十一時四十五分頃、ジャヴェル通り一一〇番地(パリ・十五区)のアパルトマンで日本人男性が死んでいるのを、訪ねて来た私立|探偵《たんてい》と管理人が発見、警察に届けた。
当局の調べたところ、殺されたのは、その部屋の住人で、或るギャラリーに勤めるミツグ・ダイドウさん三十七|歳《さい》。至近|距離《きより》から頭を撃《う》たれ即死《そくし》とのことである。なお、死んで一週間ほど経過していることが検視の結果明らかになった。
凶器に使われた拳銃は、現場に残されていた。調査の結果、今年の三月、マルセイユの銃砲店が襲《おそ》われ、大量の拳銃やライフルが盗《ぬす》まれた際、一緒《いつしよ》に持ち出されたものだと分かった。
殺されたM・ダイドウさんは、先週の月曜日から勤め先を無断欠勤していた。
どの新聞も、この程度の記事だった。ここが日本でなくてフランスでよかったと思った。日本だったら、報道陣の質問攻めに遇《あ》っていたことだろう。デロール警視ではないが、質問をされるのは私も好きではない。まして、拳銃|強奪《ごうだつ》事件など調査していたわけではないのだから。
エスプレッソをもう一杯飲み、私はカフェを出た。大道貢の勤めていたギャラリー・ムラカワ≠ワでは、ちょうど散歩に手頃《てごろ》な距離だった。
イタリアン大通りを歩き、ルイ・ルグラン通りを左に折れ、オペラ大通りに出た。
ギャラリー・ムラカワ≠ヘオペラ大通りに面した一等地にあった。
回りは日本人街である。日本のデパート、眼鏡屋の支店、日本人観光客がバスを連ねて立ち寄る免税《めんぜい》品店が立ち並《なら》んでいる。そして、ちょっと奥《おく》に入れば日本レストランが何軒《なんげん》もあり、また日本の本屋もある。
この界隈《かいわい》のみで大半の時間を過ごし、胃袋《いぶくろ》を、醤油漬《しようゆづけ》にして日本に帰って行く旅行者も少なくない。
半可通の旅行者や親仏家の在留邦人達はパリに来てオペラ街をうろうろしているようでは……≠ニ、この街を馬鹿《ばか》にしきっている。だが、そんな連中でさえ日本の味が恋《こい》しくなったり、祖国の情報を手に入れたくなるとここにやってくる。そして、腹にしろ頭にしろ、一応日本化≠キると、満足げな顔をして、今度は、サンマルタンの裏街こそパリだとか日本の新聞の社説はル・モンド℃のそれに比べるとかなり落ちるとか、レ・アール・ファッションがどうのこうのとか、利いた風な口を利くのである。
この街に、ギャラリー・ムラカワ≠ェ出来たのは、確か半年ほど前のことだった。ビルの一、二階を硝子《ガラス》張りにし、高価そうな絵がぽつりぽつりと勿体《もつたい》をつけて壁《かべ》に掛《か》けられているのが、歩道からも目にすることが出来た。
私はガラスのドアを押《お》して、中に入った。
一目で印象派の巨匠《きよしよう》の作だと分かる絵が、ベージュ色の壁に吊《つ》り下がっていた。値段は分からないが出来の悪い小学生の答案を十枚集めてもおっつかないくらい|〇《ゼロ》が並ぶに違《ちが》いない。安っぽいブティックとは違い、私が中に入っても、揉《も》み手をしながら近寄って来る従業員はいなかった。画廊《がろう》の中央に置いてある四脚《きやく》のアームチェアーにも腰掛《こしか》けている者はなかった。私は、シャガールとホアン・ミロの絵の間に、受付があることに気付いた。
そこには、事務机が二台、壁に向かって置いてあり、ひとつには、書類や灰皿《はいざら》が載っていたが、その前に座っている者はいなかった。だが、より入り口に近い机の前には、髪《かみ》の長い女が後ろ向きに座っていた。撫《な》で肩《がた》なので、てっきり日本人かと思ったが、そうではなかった。
日本語の出来る、どこにでもいる顔のフランス人だった。
「御用件は?」女はにっこりと笑った。
彼女《かのじよ》は日本語を使ったので、私もそれに合わせた。
「私は鈴切というものだが、大道貢さんのことで、少し話を聞かせてくれないかな?」
用件を聞いても、女の笑みは消えなかった。得意の日本語を話せれば、国家秘密だって話してしまいそうな女だった。
「またですか。昨日もジャーナリストの人に話しました。私、二日前から、大道さんの代わりに雇《やと》われたんです。だから、彼とは会ったことありません」
「社長さんは?」
「二階の事務所にいます。連絡《れんらく》してみましょうか?」
「そうしてくれないか」
女は、妙《みよう》な用件の客は取り次ぐな、とでも叱《しか》られたのか、済みません、と電話口で謝り、私のことを新聞記者だと伝えた。
女が誤解してくれたおかげで、すんなり会えることになった。
「社長はお会いになりますが、あまり時間がないと言ってました」
「すぐに済むよ」
「二階に上がって下さい。奥《おく》が社長室になっています」
女は、叱られたせいで、顔が赤らみ、心ここにあらずという雰囲気《ふんいき》だった。
「ありがとう。また、叱られたら困るから先に話しておくが、俺《おれ》は新聞記者じゃない。私立|探偵《たんてい》だ」
「私立探偵?」
この日本語は東洋学校日本語科では教えてもらえないらしい。私はフランス語で教えた。女は、自分の失態に気づき、困った顔をした。
「心配するなよ。俺が君を騙《だま》したと社長に言うから」
女の顔に笑みが戻《もど》った。
私は臙脂《えんじ》色の絨毯《じゆうたん》が敷《し》き詰《つ》められた階段を上がった。二階も画廊《がろう》になっていたが、そこには主に、日本人の作になる絵が飾《かざ》られていた。
オフィス≠ニ英語の看板が貼《は》ってあるドアをノックし、中に入った。
「鈴切というものですが……」
「私が、社長の村川《むらかわ》です」
マホガニーで出来た書斎《しよさい》机から立ち上がった男が名乗った。彼の後ろには、大きな老人の肖像画《しようぞうが》が飾ってあった。浅黒い顔をした精悍《せいかん》そうな老人の目は、ぎらぎらしていて、まるで社長室を監視《かんし》しているようだった。
「私の義理の親父ですよ。ここの資本を出しているのは彼なんです」
村川社長は、絵を見ていた私に言った。
社長の村川は肖像画の老人とは、まるっきり違《ちが》うタイプの男だった。顎《あご》が少ししゃくれた細面。どことなく頼《たよ》りない感じがする。鼻筋はすっきり通っているのだが、それがかえって腺病質《せんびようしつ》な印象をあたえていた。年齢《ねんれい》は四十前ぐらいだ。ナチス・ドイツのヘルメットを被《かぶ》ったように、黒髪《くろかみ》が両耳を覆《おお》っていた。芸術関係の仕事に携わっていることを誇示《こじ》するためなのか、単にビートルズ世代だからなのかは分からないが、その髪型のせいで、見ようによっては画廊のオーナーというより、三流芸能プロのマネージャーのようにも見えた。
村川は客用のソファーを私に勧め名刺《めいし》を出した。そして、私の渡《わた》した名刺を見ながら、腰《こし》を下ろそうとした。だが、途中《とちゆう》でその動作が止まった。そして、露骨《ろこつ》に嫌《いや》な声を出した。
「私立|探偵《たんてい》? 君は、新聞記者じゃないのか?」
「受付の女の子を叱《しか》らないで下さいよ。私が嘘《うそ》をついたのですから」
「大道クンの御家族の方が雇《やと》ったんですか?」
「彼の知人に頼《たの》まれて調査しています。彼のところにいた猫《ねこ》を見つけ出すためにね……」
「猫?」
突《と》っ拍子《ぴようし》もない話に、村川|隆《たかし》は思わず、腰を下ろしてしまった。
「そうです。ニャンニャンの猫です」
今回は日本語で泣き真似をした。
「大道さんは、或《あ》る人の猫を預かっていたのですが、その猫が大道さんが殺された頃《ころ》にいなくなった」
「じゃ、殺した奴《やつ》が猫を連れ出したと?」
「まだ、そこまでは断定できない。ただ、犯人が何か知っている可能性はおおいにある」
「なるほど。しかし、私は何も知らんよ、事件のことも猫のことも」
「無断欠勤していたそうですが、おかしいとは思わなかったんですか?」
「私立探偵ねえ」村川はまた私の名刺をしげしげと眺《なが》めた。「私は君に答える義務があるのかな?」
「ありません。協力をお願いしているだけです」
村川は私の顔をじっと見て、意味ありげに笑った。へんに突《つ》っ張ると痛くもない腹を探られる、とでも考えたようだ。
村川は、ゆっくり立ち上がり、半ば開いているフランス窓のところまで行き、ポケットからパイプと薄茶《うすちや》の煙草《たばこ》ポーチを取り出した。パイプに煙草を詰《つ》める際、ほんの少し煙草が床《ゆか》にこぼれた。村川隆は、それを丁寧《ていねい》に拾って、机の上の灰皿《はいざら》に捨てた。
甘《あま》い匂《にお》いが漂《ただよ》った。自分でブレンドしているのかもしれないが、クラン≠ニいう銘柄《めいがら》が混じっているような気がした。
「いいでしょう。知ってることはお話ししましょう。ただし手短にして下さいよ」村川は窓から外を見るような恰好《かつこう》で言った。
私は、無断欠勤を妙だと思わなかったのか、という先程の質問を繰《く》り返した。
「おかしいなんて全く思わなかった。大道クンは、昔から放浪癖《ほうろうへき》があったから、心配はしなかった。ただ、無責任さに呆《あき》れて、戻《もど》って来ようが来まいが、クビにしたんだ」
「大道さんとは、昔からのお知り合いなんですか?」
「ええ。実は、彼を雇《やと》ったのは私です。十四、五年も前の話ですが、私は二年ばかり、パリに住んでいたことがあった。その頃《ころ》、知り合いました。友人と呼べるような関係ではなかったが、鈴切さんにもお分かりになるでしょう……外国にいると、ちょっとしか付き合いのない人間でも、同胞《どうほう》だとちょくちょく会ったりする。そんな関係でした。あの頃から、大道クンには放浪癖というのかな、ぷいっといなくなることがあった。ミツグ、どうしたんだ? 最近、顔を見ないじゃないか≠ニ友人連中が噂《うわさ》していると、そのうち、ひょっこり戻って来るんです。今回、大道クンがいなくなった時、私はあの頃を思い出し、未だに、青春時代の無責任さで世の中を渡《わた》っている彼に唖然《あぜん》としたんです」
社長はソファーに深々と座り直し、スーツの襟《えり》を勿体《もつたい》ぶった手つきで撫《な》でた。偉《えら》そうに見せたくて、そういう動作をしているようだが、私には、単に胸の当たりを掻《か》いているみたいにしか見えなかった。そのスーツは麻《あさ》で出来ているらしく、立派な皺《しわ》がところどころに寄っていた。それも私には、着古したときに出来る皺にしか見えなかった。名刺《めいし》の肩書きに見合う仕種を俳優学校に行って勉強したほうがよさそうな気がした。
「そんな昔の知人をどうして雇い入れたのですか?」私は質問を続けた。
「三か月ほど前、サンミッシェルでばったり出会ったんです。懐《なつ》かしいもんだから、コーヒーを一緒《いつしよ》に飲みました。その時、彼が失業していることを知ったんですよ。ちょうど、うちの事務員が辞めたところだったので、働いてもらうことにしたんです。彼、労働許可証を持ってましたからね。昔と違《ちが》って、今は労働許可証を取るのは大変、難しくなっています。だから、私達も大助かりだったんです」
「前は何をしていたのですか?」
「よくは知らないが、小さなホテルでフロント係をやっていたとか」
「ホテルの名前を知ってますか?」
「聞かなかった。ただ、マドリッド通りにあるホテルとは言ってましたがね……」
村川はまた、スーツの襟を撫でた。
「前の職場には、彼の素行とかそういうものを聞いてみなかったんですか」
「日本人を雇《やと》う時は、そんなことはしませんよ。それに、昔の知り合いですからね、彼は」
「大道さんの友人を誰《だれ》か知りませんか?」
「さあ。彼の私生活については、まったく知りません。昔もそうでしたが、彼とは深い付き合いはないんです。それに、この画廊《がろう》をオープンしたばかりでしょう。社長だとはいえ、一介《いつかい》の従業員のように飛んで回らないといけなくてね。大道クンとは知らない仲じゃないんで、一度、ゆっくり飲みたいとは思っていたんですが、その暇《ひま》もないうちにあんなことに……」
村川は一瞬《いつしゆん》、目を伏《ふ》せ、大きな溜息《ためいき》をついた。
「ここには、彼の友人はひとりも訪ねてこなかった?」
「一度、日本人の男が来て、一緒《いつしよ》に昼食を取りに出掛《でか》けたことがあったな」
「どんな男でした?」
「小柄《こがら》な髪《かみ》の短い青年だった。大道クンより、十歳《さい》は若い感じだったね」
「その人だけですか、訪ねて来たのは?」
「私の知る限りではね」
「大道さんは、ここでどんな仕事をなさっていたのですか?」
「受付です。本当は女性が適当なのですが、先程もお話ししたように、労働許可証を持った適当な人物はなかなかいませんからね……。下でお会いになって分かってると思いますが、日本語の出来るフランス人を雇《やと》うのが一番、てっとり早い方法です。しかし、いくら言葉が出来ても、メンタルな部分では日本人と違《ちが》いすぎる。うちのお客は、ほとんど日本人、やはり、言葉に表せない気づかいも必要です。そうなると、やはり男でも日本人がいい」
パリで商売をしている大半の日本人が思っていることを村川は言った。私は黙《だま》って聞いていた。私がパリで探偵《たんてい》をやって行けるのも、こういう考えのおかげなのだ。
「この画廊《がろう》で、彼と仲の良かった人はいませんか?」
「ここで働いているのは、私と秘書の田島《たじま》クン、それに妻のナオミ。それに、今話に出たナディーヌだけです」
「秘書の方と、大道さんとの仲はどうでした?」
「ぜんぜんと言っていいほど付き合いはなかったようです。秘書の田島クンは、私と妻の片腕《かたうで》となって働いてくれている人間ですから、彼にも大道クンと親交を深めているような時間はなかったと思いますよ」
「それじゃ、奥方《おくがた》も……」
私がそう言った時、ドアが開いた。
長身の女が、一瞬驚《いつしゆんおどろ》いた顔をして戸口に立っていた。
「失礼。お客さまだとは知りませんでした」
「いいんだ。ちょうど君の話が出てたところなんだよ。こっちに来て」と村川は女に手招きをし、私に「妻のナオミです」と紹介《しようかい》した。
村川夫人は、ゆっくりと夫の隣《となり》に腰《こし》を下ろした。茶色いシルクのパンツスーツの皺《しわ》が、洗練された身のこなしをなぞった。しなやかな皺だった。髪《かみ》はボブカット。首に長い銀色のリンクチェーンをしていた。そのリンクのひとつひとつに宝石が填《う》め込《こ》まれている。宝石がダイヤかどうか私には分からなかったが、女の雰囲気《ふんいき》からはダイヤ以外の宝石は考えられなかった。濃《こ》い眉《まゆ》。黒く大きな瞳《ひとみ》。並《なみ》の男では相手にされないタイプの女だった。最高か最低の男しか、こういう女を物に出来ないのだ。
私は村川社長をちらっと見た。この男は最高なのか、最低なのか? どうみても最高の男には見えないが、彼等の暮《く》らし振《ぶ》りを知らない私には、元より判断出来る事柄《ことがら》ではなかった。
「私、先程、事件を聞きました」
私を紹介され、来訪の向きを夫に聞かされた夫人はそう言った。少し鼻に掛《か》かった柔《やわ》らかい声だった。落ち着いた物腰だが、まだ三十を少し越《こ》えたくらいの年齢《ねんれい》のようだ。
「妻も画商でして。仕事でロンドンに行っていたんです」
夫人は一目でモラビトと分かる黒の鰐皮《わにがわ》のバッグから、名刺《めいし》だけを抓《つま》むように出し、私の前に置いた。
名刺にはギャラリー・ムラカワ$齧ア、村川尚美と記されてあった。
「楽しい仕事のようですね、画商というのは」
「嫌《いや》なこともたくさんありますが、やりがいのある仕事だと思いますわ。幸い、子供もおりませんし、ふたりで好きなことをやってますの」尚美は夫をちらっと見て、笑った。
夫婦仲はいいらしい。最近では、稀少《きしよう》価値のあることだ。
「鈴切さんは殺人事件を調査しているのではなく、猫《ねこ》を探していらっしゃるわけですか?」尚美が訊《き》いた。
「その両方です、今の段階では。大道さんが、何かの事情でやむなく、誰《だれ》かに猫を預けた可能性も否定できません。ともかく、彼の交友関係を知りたいわけです。御主人は、大道さんのプライベートなことはまったく知らない、とおっしゃってるのですが、奥《おく》さまもそうですか?」
「ええ。何も知りません」
妙《みよう》な話である。西村良江も村川夫婦も彼のプライベート・ライフについてまったく知らない。髪《かみ》の短い若い青年が訪ねてきたのを除けば、友達も恋人《こいびと》の影《かげ》すらない。一体、大道は、仕事以外の時間をどう使っていたのか。
「大道さんは、どんな方だったんですか?」
私は両方の顔を交互《こうご》に見て訊いた。
まず、口を開いたのは尚美のほうだった。
「仕事はきちんとしていたし、人との応対も、まあ普通《ふつう》でした。無口な人で、自分から冗談《じようだん》を言ったりすることはありませんでしたが、愛想は悪いほうではなかったと思います。ちょっと陰気な感じはしましたが、従業員としては、及第点《きゆうだいてん》をつけられる人物でした。それに、前々から絵に興味のあった人でしたから、画廊《がろう》にはぴったりでしたの」
「さっき、お話しするのを忘れていましたが、大道クンは、画家志望だったんです、昔はね。実は、私も版画がやりたくて、パリに来たんですが、見事に挫折《ざせつ》した口ですよ」
村川は目を細めて笑った。挫折したおかげで、今の地位がある。そんな余裕《よゆう》を感じさせる笑みだった。尚美は、ピーター・スティヴサンのメントールタイプをバッグから出し、黒いパイプホルダーを使って吸い出した。
「彼はここで、どのくらいの給料を取っていたんですか」私は念のため訊《き》いてみた。
「そんなことまで教えなきゃならないのか」
村川が、少し口を尖《とが》らせて言った。
「いいじゃない、あなた。お教えしても」
尚美は明るい声で言いながら、夫の膝《ひざ》をポンポンと二度|叩《たた》いた。
「……まあ、別に、隠《かく》すようなことじゃないからかまわんが……」
聞き分けのいい子供のようにはい≠ニは言わなかったが、村川は簡単に妻に折れた。
「八千五百だ」
私が、ミツグの部屋で見つけた明細書の額と一致《いつち》していた。
「大道さんが残されていったものはどうしました?」
「昨日、警察が来て持って行ったよ。もういいでしょう。これ以上、お話しすることは何もない」
村川はそう言って、パイプをポケットに仕舞《しま》い、立ち上がった。
「いろいろ参考になりました」
私も腰《こし》を上げた。
尚美はゆっくりと吸っていた煙草《たばこ》を消し、こちらを見ずに「大道さん、盗《ぬす》まれた拳銃《けんじゆう》で殺された、しかも、彼のアパートにあったものという話だけど、彼もその窃盗《せつとう》事件に関係していたのかしら?」
「気になりますか」
「当然でしょう」尚美の目が私を見据《みす》えた。「一応、うちの従業員だった人ですからね、それが事実だったら、うちの評判に響《ひび》きますもの」
「盗品《とうひん》を買ったのかもしれない。また、誰《だれ》かから預かっていたのかもしれない。今のところは、はっきりしませんね」
私は、ふたりをそこに残して、事務所を出た。
一階では、JALのバッグを襷掛《たすきが》けに掛けた、痩《や》せた老人がひとり、絵を見て回っていた。ポロシャツに赤い薄手《うすで》のブルゾンを引っ掛けていた。バッグの紐《ひも》のせいで、肩の辺りから、ブルゾンがずり落ちていた。私が下に降りても、その老人は、絵画|鑑賞《かんしよう》に余念がなく、こちらを見ようともしなかった。
私は受付に寄ってみた。先程のフランス人は、昼食を取りに出掛けたのか不在だった。その代わりに男がいて、奥《おく》の机のところで日本の雑誌を読んでいた。
「田島《たじま》さんですか?」受付の入り口で声を掛けた。
男は顔を上げた。薄《うす》い茶の眼鏡を掛けていた。伊達《だて》なのか近視なのかは分からなかった。社長の村川とそんなに年は違《ちが》わない感じがしたが、田島のほうが、どっしりとしていた。
「そうですが、あなたは?」
「私立|探偵《たんてい》の鈴切というものです。大道さんのことを調査しています」
私は、事務所の中に入り、机の上に名刺《めいし》を置いた。
「私立探偵が、何を、嗅《か》ぎ回ってるんだ?」
田島は名刺には目もくれず、私を見上げて言った。甲高《かんだか》い声だった。病み上がりのように顔色が悪かった。鼻はつんとしていて高い。何となく、鶏《にわとり》を連想させる顔立ちだった。だが、躰《からだ》は大きく、腰《こし》にも腹にも余計な肉がついていた。
「大道さんは、どんな方でした?」
「答える義務はないね」
「社長夫妻は、答えてくれましたよ」
「社長から聞いたんだったら、それでいいじゃないか」
田島はまた雑誌を読み出した。
「なんかしゃべっちゃ不味《まず》いことでもあるんですか?」
田島は目を細めて私を見据《みす》えた。
「私立探偵なんかに話す話はないってことだよ」
「そんなに額縁《がくぶち》みたいに構えることはないじゃないですか」
「あんた、失礼な人だね」
「よくそう言われます」
「まあ、ともかく、私は彼とはまったく付き合いがなかった。だから、言うことは何もない」
これ以上、何を聞いても答えそうもなかったので、私はギャラリー・ムラカワ≠出た。
私は、オペラ座からすぐのところにあるイポポタミュス=i河馬)で、サラダとステーキの定食を食べた。ブルーに焼いてくれと頼《たの》んだのだが、セニヤンの肉が出て来た。デザートはリンゴのアリュメット。エスプレッソが出て来る間に、毎朝日報≠フ特派員、タニコウこと谷宏一《たにこういち》に電話をいれた。
私達は、タニコウの事務所からすぐのとこにあるカフェで会うことにした。私は、勘定《かんじよう》を済ませると車を取りに駐車場《ちゆうしやじよう》に向かった。
タニコウの事務所は、フランス・ソワール≠フ本社の並《なら》びにある。通りの名前はレオミュール通り。服の問屋と売春婦が同居しているサンドニ通りからすぐのところにあるゴミゴミした通りだ。
私は待ち合わせ場所に指定されたル・ビザンチン≠ニいうカフェに入った。
タニコウはすでに来ていて、ル・マタン≠読んでいた。
「よく連絡《れんらく》してくれた。死体を見つけたのが日本人私立|探偵《たんてい》だと分かって、他の社の連中も、興味を示してるぞ。こっちの新聞にとっては、大した話じゃないが、俺達《おれたち》には面白いニュースだからな。死んだのが日本人、それに拳銃《けんじゆう》強奪《ごうだつ》事件が絡《から》み、邦人私立探偵が暗躍《あんやく》、となれば俺達がほっておくはずないだろう」
タニコウは不精髭《ぶしようひげ》を撫《な》でながら、ビールをすするように飲んだ。ぎょろ目で、その回りに小皺《こじわ》が走っている。色黒。口元のあたりに剃《そ》り残しの髭《ひげ》がまばらに残っている。髪《かみ》は縮れていて短い。パリ特派員よりは、アフリカか中近東あたりで、サファリジャケットを着て駆《か》け回っているのがお似合いの記者だ。彼自身もパリには来たくなかった。たまたま仏文科出身だったため、社会部から外報部に回され三年前、パリに送りこまれてきた。根っからの事件記者であるタニコウ≠ノはモード、美術、文学といった文化的な記事を趣味的に書くことに興味がない。暇《ひま》さえあれば、犯罪事件の取材ばかりしているのだ。
「で、どうして、俺を呼び出したんだ。まさかネタを売りに来たわけじゃあるまい」
「金はいらんが、情報が欲しい」
「依頼人《いらいにん》は金払《かねばら》いがいいらしいな。しかし、殺人事件を私立探偵に依頼するってのは、金を溝《どぶ》に捨てるようなものだな」
「これには、いろいろ事情があるんだ」
「ともかく、あんたの収入が増えるのは友人の俺としても大歓迎《だいかんげい》だ」
「タニコウさんに借金してたっけ、俺」
「最近、人の幸せを率直に喜ぶようになったんだ、理由もなく。多幸症って病気に罹《かか》ったのかもしれんな」
「タニコウさん、当然、今度の事件は洗ってるんだろう?」
「昨日、現場に行って来た」
昼飯を取っていなかった記者はバケットにハムとバターを挟《はさ》んだサンドイッチをぱくついていた。パン屑《くず》が髭についてもおかまいなしだ。
「で、何が知りたい」
「タニコウ≠ウんの知ってること全部」
「欲張りだな」ぎょろ目が笑った。「まず、おまえの知ってることを話せ。時間の無駄《むだ》が省ける」
私は、依頼人から、村川夫婦との会話まで、包み隠《かく》さず話した。
「……俺の知ってることはこんなところだ。今度はタニコウさんの番だぜ」
「猫《ねこ》に関する情報はまったくないぜ」
「そっちはひとまずおあずけだ」
「まず、何が知りたい」
「大道貢について」
「奴《やつ》については、あまり面白い話はない」タニコウはそう言いながら、メモ帳を拡げた。
「奴は三十七|歳《さい》、大阪出身。十九の時に、絵の勉強をしにパリに来た。六七年のことだ。そのころは、まだ、大手の石油会社の部長をしていた父親が生きていて、学費と称して送金してもらっていたらしい。ところが、七五年に父親が脳卒中で死亡。送金は跡絶《とだ》え、大道は、一度、実家のある大阪に戻《もど》った。だが、一年ほどして、またパリに戻って来た。以後、何で暮《く》らしていたのかは、はっきりしない。こちらで調べたところによると、ホテルのフロント係をしていた記録があるが、それも二年足らずなんだ。後は何の記録もない」
「ホテルの名前は?」
「ファミリー・ホテル=B場所はマドリッド通りだ」
タニコウのおかげでマドリッド通りのホテルを一|軒《けん》一軒回らずに済んだ。
「大阪の実家には、母親と二十五になる妹がいるが、あまり連絡《れんらく》を取っていなかったということだ」
「大道は、やはり裏で何かやっていたということか」
「つまり、武器|強奪《ごうだつ》に関係していたと言いたいのか?」
「さあな。だが、何か人に言えないことをしていたのは確かだろう。奴の生活には謎《なぞ》が多すぎる」
「まったくだな」
「ギャラリー・ムラカワ≠ノついて何か知ってるか?」
「話す前に、ビールだ」
独身であるタニコウの親友は酒。そのうちでもなぜかビールなのだ。ビールをがぶ飲みし、十分おきにトイレに行くのが癖《くせ》である。銘柄《めいがら》については煩《うるさ》いことは言わない。キリンだろうがツボルグだろうがなんでも飲んでしまう。
グラスを空にしてから、タニコウは話し出した。
ギャラリー・ムラカワ≠ヘ今年の二月にオープンした画廊《がろう》で社長は村川隆だが、実権は妻の尚美が握《にぎ》っている。尚美は村川産業会長、村川|松吉《まつきち》のひとり娘《むすめ》なのだ。
村川松吉は当年、六十八歳。奴の前身は謎に包まれている。戦後すぐ、上野で闇屋《やみや》をやり、それを資金に土地を買い、それを転がして一財産作ったらしい。現在は、深夜スーパー、外食産業、結婚《けつこん》情報業、サラ金など二十社近くの会社の実質的オーナーである。
そんな彼が画廊経営に乗り出したのは四年ほど前のこと。銀座にある自分のビルの一、二階を画廊にし、某《ぼう》画廊で画商の見習いみたいなことをやっていた娘を代表にしたのだ。無論、娘のために始めた商売には違《ちが》いないが、儲《もう》からないことには手を出さない松吉の頭には絵画ブーム≠フことがあったらしい。
「出身は伊豆《いず》の下田《しもだ》だ。奴は現在、故郷の近くにサファリ・パークを作る計画を立てているらしい」
タニコウは話し終えるとゴロワーズを旨《うま》そうに吸った。そして、トイレに立った。戻《もど》って来ると、またビールを注文した。
手から水滴《すいてき》がこぼれていた。洗いっぱなしで戻ってきたらしい。
私はハンカチを取り出し、彼を目掛《めが》けて放り投げた。タニコウは礼も言わず、それを使った。
「シンゴは、村川を疑ってるのか」
「そういうわけじゃない。村川隆しか被害者《ひがいしや》と繋《つな》がってる人物が、今のところいないから、ちょっと探ってみようかと思っただけさ」
私は濡《ぬ》れたハンカチをポケットに仕舞《しま》った。
「尚美は、松吉が三十六の時に作った、ひとつぶ種。母親は、尚美が子供の頃《ころ》、病死。婿養子の隆については、よく分からん。旧姓は山岸《やまぎし》だ。尚美が前の勤め先で拾ってきた男で、松吉は彼等《かれら》の結婚《けつこん》には反対だったらしいが、やはり、ひとり娘《むすめ》には、どんな男でも弱いんだろう。でっかいホテルで盛大《せいだい》な披露宴《ひろうえん》をやったんだよ。村川夫婦はグランド・ジャット島に大きな屋敷を持っている。それも村川松吉が買ったものらしいよ」
「さすがタニコウさんだね。一日で、それだけよく調べたな」
「何も、俺《おれ》が優秀《ゆうしゆう》なんじゃない。日本の情報活動の賜物《たまもの》だよ。俺はただ本社に問い合わせ、送られてきたテレックスを読んだだけさ」
タニコウはそう言うとまたギャルソンを呼んでビールを注文した。
「俺は拳銃《けんじゆう》ライフル強奪《ごうだつ》事件と大道殺しが繋がってると睨《にら》んでる」ビールが来て、ギャルソンが遠ざかると、タニコウは身を乗りだし、声をひそめた。日本語で話しているのだから、そんなに気を使う必要はない。だが、長年の記者生活の癖《くせ》は抜《ぬ》けないものだ。私も知らぬ間に顔をタニコウに近づけていた。タニコウの口からビールが匂《にお》った。
「マルセイユで事件が起こった一か月後、パリでも同じような拳銃強奪事件が起こってる。覚えていないか? レンヌ大通りの銃砲《じゆうほう》店が襲《おそ》われたやつだ。あの時は、逃《に》げる犯人の声を、偶然《ぐうぜん》通りかかったタクシーの運ちゃんが聞いていたんだ。その運ちゃんの証言によるとだな、彼等の話していた言葉は、聞き慣れない外国語、おそらく東洋語だと言うんだ」
「新聞で読んだ覚えがある。その言葉が日本語だったと思うのか、タニコウさんは」
「大道が殺されるまでは、中国人、或《ある》いは東南アジア系の線だと思ってたんだがね」
「日本人で武器を大量に欲しがる連中というと、極左グループか?」
「その可能性はおおいにある。だが、日本のヤクザの線も捨てがたい。おまえはよく知らんだろうが、このところ、ヤクザ同士の抗争が激しくなっているんだ。抗争に関わっている連中なら、喉から手が出る程、武器を欲しいはずだ。何者かが強奪した武器を向こうに送ってるとも考えられる」
「警察も、銃砲店襲撃と大道が繋がっているとみているのか?」
「そうらしい」
「警察で思い出したんだが、デロールって警視に会ったか?」
「ああ。ハイエナみたいな目をした奴だろう」
私は黙《だま》ってうなずいた。
「それがどうかしたのか?」
「昨日、取り調べを受けたんだが、日本人を憎《にく》んでいるって感じがしたから、気になったんだ」
「何かされたのか?」
「いや、何も。だが、何となくそう感じたんだ」
「ギャング対策班の若い刑事《けいじ》に知り合いがいるから、それとなく探ってみるよ」
「タニコウさんは、そんなコネを持ってるのか」
「ブランド商品の専門家と友達になるより面白いからな」
タニコウはグラスを空け、口を手の甲《こう》で拭《ぬぐ》った。
私は礼を言い、勘定《かんじよう》書きの上に五十フラン札《さつ》を置いて、立ち上がった。
「今後も、お互《たが》い、情報|交換《こうかん》と行こうぜ」
私に異存はなかった。
タニコウと別れた私は、大道貢が、以前勤めていたホテルを探しに、マドリッド通りに向かった。
マドリッド通りは、ヨーロッパ広場から放射線状に出ている通りの一本である。この辺りの通りには、ほとんどヨーロッパの地名がついている。ローマがありロンドンがありモスクワがありレニングラッドがある。その名前からすると、大きな国際会議場でもありそうな感じだが、あにはからんや、この辺りはサンラザール駅の裏町なのだ。政府観光局から戴《いただ》いた星を掲《かか》げているホテルは多いが、そのほとんどが一つか二つ星の小さなもので、客の多くは近国のあまり裕福《ゆうふく》ではない旅行者かビジネスマンである。
大道貢が勤めていたという、ファミリー・ホテル≠ヘ一つ星だった。
小さなフロントに、痩《や》せて背の高い青年がいて、本を読んでいた。
「お部屋ですか?」チェックのシャツを着たその青年は、フランス語|訛《なま》りの英語で訊《き》いた。
「部屋はいらない。ちょっと話が聞きたい」
私はフランス語で言った。
「どんな話?」相手はまた英語を使った。
外国語を使いたがる受付係は、この男でふたり目だ。
「君の英語は素晴らしい」私も英語で言った。
「ありがとう」青年は無邪気《むじやき》に喜んだ。
「だが、日本人に褒《ほ》められる英語を使ってると上達しないぜ」今度はフランス語。「ちょっと教えてもらいたいことがあるんだ。手間は取らせない」
「何ですか?」
「素晴らしいフランス語だ」
「日本人に褒められるフランス語を使ってると上達しないかな」
青年は微笑《ほほえ》んだ。
「話ってのは、以前、ここで働いていた日本人のことなんだ」
「あんた、日本の警官?」
「いや、私立|探偵《たんてい》。事務所はパリにある」
青年は好奇の目で私を見た。
「へーえ、私立探偵ね。つばのある帽子《ぼうし》は被《かぶ》らないのかい?」
「あれを夏に被るとフケが溜《た》まるんだ。それより、その日本人について、何か知らないか? ここを辞めた理由とか、付き合っていた奴《やつ》とか、何でもいいんだが……」
「僕《ぼく》は、最近|雇《やと》われたんだ。以前に働いてた奴のことなんか知らないな」
「パトロンはいないのか?」
「夕方にならないと来ない」
階段で人の気配がした。中年のカップルが降りて来た。茶のアタッシェ・ケースを持ってた男は、カウンターに鍵《かぎ》を置くと「さよなら」と言い、女の腕《うで》をとって出て行った。男の表情は、女連れにしては、やけに硬《かた》かった。その硬さが、かえって、部屋でやっていたことを物語っているように思えた。
「ホテルの名前を汚《けが》す客もいるんだな」
「はあ?」青年は私の言ったことが飲み込《こ》めなかったらしい。眉《まゆ》をだらしなく上げて、私を見つめた。
「まさか、ここは、家族《フアミリー》を欺《あざむ》く人達専門のホテルではないんだろう?」
「ああ、そういう意味か。家族で旅行する人ばかり相手にしていたら、とっくに潰《つぶ》れてるんじゃないかな、こんなホテルは。一泊《いつぱく》の料金を払《はら》って、二、三時間しか使わない、あの手合いは、ここじゃ上客に入るんだよ」
青年は、そう言うと、何か思い出したらしく、奥《おく》のドアを押《お》し、中に声を掛《か》けた。
「二〇四号の掃除《そうじ》頼《たの》むね」
そのドアからポルトガル人らしい若い女がシーツの替《か》えを持って出て来て、黙《だま》ってカウンターの上の鍵を取った。
黒いワンピースを着た、黒髪《くろかみ》の女だった。美人に入る顔立ちだが、目の隈《くま》が目立ち、生気のない感じがした。
「そうだ、彼女《かのじよ》は、ここに四年勤めてるんだ」そう呟《つぶや》くように言うと青年は、掃除係の女に訊《たず》ねた。
「ねえ、イザベラ、ここで働いていた日本人、覚えてるかい?」
「ああ。それがどうしたんだい?」
嗄《しやが》れた、無気力な声だった。
「こちらのムッシュが、彼について少し聞きたいんだってさ。ちょっと付き合ってあげなよ」
「掃除が待ってるよ」
女は、私の顔を見ないで、さっさと階段を上がり始めた。
私は、青年にウインクで礼を言い、彼女の後について階段を上がった。
「イザベラさん、仕事をしながらでいいから、俺《おれ》の話を聞いてくれないか」
無言のまま掃除婦は、廊下《ろうか》の奥まで行き、そこのドアを開け、掃除機とモップを取り出した。
「手伝おう」
私は掃除機を持った。
「あんた何者だい?」
イザベラはまだ一度も私を見ていない。
「大道貢のことを調べている私立|探偵《たんてい》だよ」
イザベラは二〇四号室を開け、中に入った。私も続いて中に入った。
女物の香水《こうすい》が微《かす》かに匂《にお》った。
「あいつら、昼間から、まったく暇《ひま》なこった」
吐《は》き捨てるように言うと、イザベラはベッドの上にシーツを投げ、フランス窓を開けた。車が這《は》うように走って行く音が、風に乗って部屋に流れ込《こ》んできた。微かにヴァイオリンらしい音が聞こえていた。パリ国立高等音楽院がこの近くにあるのを思い出した。
掃除婦は、黙《だま》って私の前を通りすぎ、ベッドの横に行った。
「あの男、なんかやったのかい?」相変わらずイザベラは私を見ようとはしない。
「死んだよ。殺された、一週間ほど前に」
私は、窓際に立ったまま答えた。
シーツを替《か》えていたイザベラの手が一瞬《いつしゆん》、止まった。
「イザベラ、あんた、彼となんかあったのか?」
「馬鹿《ばか》いうんじゃないよ! あんな奴《やつ》と何かあったりするもんか!」
「あんな奴ってどういう意味だ」
「……あいつは、ホモなんだよ。それも卑劣《ひれつ》なホモなんだ」
「どうして、そんなことがわかる?」
「知らないんなら、教えてやるよ。あいつは、私の弟にちょっかい出したのさ」
枕《まくら》カバーを替える手つきに怒《いか》りがこもっていた。
「詳《くわ》しく話してくれないか?」
イザベラは、手を休めベッドの端《はし》に座った。ドアを閉《し》めてから、私も彼女《かのじよ》の横に腰《こし》を下ろした。イザベラは、脚《あし》を組み、スネのあたりを両|腕《うで》で抱《だ》き、顔だけを真直ぐにしていた。私は煙草《たばこ》を出しすすめたが、彼女は首を横に振った。
車の流れが、一瞬とだえた。ヴァイオリンの調べが先程より、よく聞こえた。
「弟は十二なんだけど、時々、学校が終わるとここに遊びに来てたのさ。あの日本人、私にもそうだったけど、弟にもとても優しくてね、仕事の帰りにピンボールなんか一緒《いつしよ》にやってくれたのさ。弟はすっかり懐《なつ》いてたんだけど……」
「それが……」
「……それが、今年の三月、弟を、空いている部屋に巧《たく》みに誘《さそ》い込《こ》んで……変なことしようとしたのさ。弟は十二|歳《さい》にしては柄《がら》が大きくて、なんとかあいつから逃《に》げ出せたんだけど、しばらく、おかしくなっちまったのよ。分かるでしょう。精神的ショックを受けたのさ。弟は、ずっと訳を言わなかった。けど、何かあいつとの間にあったとは思ってた。だけど、まさか、あんなこととは……」
「どうして、そう思ったんだい?」
「だって、あいつ次の日から、出て来なくなったんだもの。パトロンが、アパートに電話を入れたけど、誰《だれ》も出なかった」
大道が引《ひ》っ越《こ》したのは、この事件を起こしたからだったのだ。
「弟が真相を打ち明けたのはいつだい?」
「一か月ほど前。その日に教えられていたら、私があいつを殺していたかもしれないね」
「殺《や》らなかったのか?」
「あんた、私を疑ってんの?」
「いや、質問しているだけだ」
イザベルは、ふんと鼻で笑って、「私は先週までポルトガルにいたし、弟は今もむこうよ」
「奴の友人を誰か知らないか?」
「知らない」
「電話は?」
「掛《か》かってきてたようだけど、よく覚えてない」
イザベラは、ケルトンの安物の腕《うで》時計をちらっと見て、立ち上がった。
私は礼を言い、部屋を出た。廊下《ろうか》は無人で、二〇四号室の掃除機《そうじき》の音だけが聞こえていた。
事務所に戻《もど》ると、すぐに留守番電話を聞いた。
西村良江の固い声が聞こえてきた。
お話ししていなかったことがひとつあります。話そうか話すまいか、ずいぶん迷ったのですが……ミツグさんの死んだ今なら、やはり話すべきだと思いまして……鈴切さんの事務所の並《なら》びにある〈コメット〉というカフェで五時までお待ちしています
私は腕時計を見た。五時五分。
西村良江は、もう帰ってしまったかもしれないが、一応、コメット≠ノ行ってみることにした。
ドアを閉《し》めていた時、階段を上がってくる足音がした。
西村良江だった。
「今、コメット≠ノ行こうとしていたところです」私は閉めたばかりのドアをまた開け、依頼人《いらいにん》を中に入れた。
私が勧めるまで、西村良江は、事務所のほぼ中央に立っていた。決意してやってきたという雰囲気《ふんいき》がしていた。
「お座り下さい。コーヒーにしますか?」
「私、コーヒーは飲みません」
女流画家は客用の肘掛《ひじか》け椅子《いす》のひとつに腰《こし》を下ろした。
「ここには、紅茶はありません。日本茶なら美味《おい》しいのがありますが……」
「出来たら、お酒にしていただけませんか」
「シャルトルーズはありませんよ」
「何でも結構です」依頼人は黒いバッグを膝《ひざ》に載せ、その上で両手を組んでいた。
私は、カルヴァドスのストレートを二|杯《はい》作って、事務所に戻《もど》ると、西村良江は、床《ゆか》にしゃがんで、私の猫《ねこ》と戯《たわむ》れていた。
「なんてお名前?」
「クマ」
「何となく感じが出てますわね」
依頼人の顔が和らいだ。しかし、それは猫と遊んでいる時だけで、席に戻ると、入って来た時と同じように、強張《こわば》った表情に変わった。
「私に話があるとか……」
私は自分の椅子に座り、グラスを口に運びながら訊《き》いた。
「ええ」
「どうぞ、飲みながら話して下さい」
「そうさせてもらいます」
女流画家は、口の中を清めるように、一口だけ飲んだ。そして、グラスを握《にぎ》ったまま口を開いた。
「実は、ミツグさんは、女に興味のない人だったんです」
「知っています」
「え! 御存じだった?」依頼人《いらいにん》は顔を上げた。
「ええ」
「……ミツグさんは、絶対人に言わないでくれと言ってたものですから……」
「よくある話じゃありませんか」
「その通りです。私も、そのことについては何とも思わなかったんですが……」
「他に何かあるんですか?」
「…………」依頼人はまたグラスを口に運んだ。今度はかなりの量を胃に流し込《こ》んだ。
私は煙草《たばこ》に火をつけ、彼女《かのじよ》が何か言いだすのを待った。
「……ミツグさん、夜、特殊《とくしゆ》な商売をしていたんです」
「というと、肉体を金に換《か》えていた」
依頼人はうなずいた。
「だいぶ前からですか?」
「そのようです」
「どこで?」
「プランタン≠フ裏の或るバーに出入りし、その……客を取っていました」
「バーの名前は?」
「セゾン≠ナす。住所までは分かりません」
私は電話帳を持って来た。載《の》っていない場合もあるが、一応調べてみることにした。
「ありました。ジュベール通りだ。早速、今夜行ってみましょう」
「私、どうしてもミツグさんの名誉《めいよ》のために言えなかったんです。ごめんなさい」西村良江は、しっかりと私を見つめて言った。「でも、もしかして、ゴンを預かっているのが、その仲間かもしれないと思うと、お話しせずにはいられなくなったんです」
「それに、大道さんを殺した奴《やつ》も、その関係者の中にいるかもしれない」
「そうですね」
「彼の仲間を知ってますか?」
「ひとりだけ。セイジさんという人を、ちらっと見掛けたことがあります。もちろん、その時は、名前も、やっていることも知りませんでした。後でミツグさんが教えてくれたのです。ふたりは共同でひとつのアパートを借り、その……客の相手をしていたんです……」
「その仕事場がどこにあるか御存じですか?」
「いいえ。バーの近くだということしか知りません」
「そのセイジという人の特徴《とくちよう》は?」
「よく見なかったから、はっきりしませんが、髪《かみ》は私のように短く、小柄《こがら》で痩《や》せていて……顔はよく覚えていません」
ギャラリー・ムラカワ≠ノ大道を訪ねて来たという日本人は、おそらく、セイジだろう。
「ミツグさんの秘密を、鈴切さんはどこで知ったのですか?」
「僕は探偵《たんてい》ですよ」私は短く微笑《ほほえ》んだ。
彼女もちょっぴり白い歯を見せた。知っていることを話し、肩《かた》の荷を下ろしたのか、依頼人《いらいにん》の顔が少し明るさを取り戻《もど》した。
初めて会ったときのように、背筋をきちんと伸《の》ばして、西村良江は帰って行った。
私は、椅子《いす》に座りなおし、煙草に火をつけ、考えた。クラブセゾン≠ノ、いきなり、行っても門前|払《ばら》いを食わされる可能性があるのだ。
マックスが、もしかして問題のホモ・クラブについて、何か知っているかもしれない。私は、ホテルバルセローナ≠フバーに電話を入れた。マックスはちょうど出勤してきたところだった。
「……あまり聞かないクラブだな」とマックスは答えた。
「この手のクラブはほとんど会員制だろう?」
「そうだな。でも、一見《いちげん》の客を場合によっては入れてくれるところもあるぜ。いっそのこと女装《じよそう》していったらどうだ?」
「自慢《じまん》の胸毛を剃《そ》りたくない」
「ちょっと、待ってくれ、ここにパリの夜のガイドがあるから調べてやるよ」
パリのキオスクには、クラブ、バー、キャバレーなどを紹介《しようかい》したガイド・ブックが売っている。辞書みたいに厚い本で、女がひとり買えるくらいの値段のするものだ。
「……載《の》ってるよ。一応、会員制となっているが、女さえ連れて行かなければ入れるさ。俺《おれ》が電話を入れてやるよ。ここに泊《と》まっている日本人の客が、是非、お宅のクラブに行きたいから、席を用意してもらいたいとか何とか言えば、まず大丈夫《だいじようぶ》だよ。今のパリで、日本人客を断る店はそうないからな」
「助かる」
「開店は九時半からとなってるから、そのくらいに電話を入れ、すぐに結果を知らせるよ」
「済まない」
電話を切った私は、時計を見た。マックスから電話が掛《か》かってくるまで、三時間あまりあった。
キッチンに行き、クマのためにキャットフードロンロン≠フ缶を開けた。その缶詰《かんづめ》は魚のすり身だった。クマはどちらかというと肉が好きである。きっと、半分くらい残すだろう。
冷蔵庫を開ける。食べられそうなものは、ハムとアンディーブくらいしか入っていなかった。こんな時、私はいつもスパゲッティを作ることにしている。私の唯一《ゆいいつ》の得意料理なのだ。アンディーブをいため過ぎないように、麺《めん》をゆで過ぎないように注意した。クマは、ハムが大好きである。自分の食事を放り出して、ねだりにきた。結局、冷蔵庫にあったハムの三分の一はクマの腹に納まった。
食事を済ませ、シャワーを浴び髪《かみ》を乾《かわ》かしているところに、マックスからの電話が入った。九時三十五分。
「うまくいったぜ。ホテルの名前を言えば入れてくれるよ」
「ありがとう。ところで、どんな服装《ふくそう》がいいかな。皮ジャンにチェーン・スタイルか」
「そういうクラブもあるが、ガイドによると、あそこは極普通《ごくふつう》の恰好《かつこう》でいいようだ」
私は、茶のサマースーツを着て行くことにした。ネクタイが必要かもしれないから上着のポケットにつっこんだ。
ジュベール通りは歩いて行こうと思えば行ける距離《きより》にあったが、車を使うことにした。その後何が起こるか分からないからである。
私はコーマルタン通りに近いところで駐車出来るスペースを見つけた。運のいいことに、そこから目と鼻の先にクラブセゾン≠ヘあった。
黒いがっしりとした扉。ネオンサインの類は一切ない。
黒い扉の横にあるボタンを押《お》した。すぐに、扉の中央にある覗《のぞ》き窓が開き、片目と口髭《くちひげ》の半分が私を見た。
「あなた、会員?」
「いえ……」
「会員以外は入れないんだ」
「ホテルバルセローナ≠ゥら予約したのですが……」
私はわざとおずおずと言った。片目と口髭が消えたが、すぐに戻《もど》って来て扉を開けてくれた。
私はボーイに案内されカウンターに座った。
それほど大きな店ではなかったが、中央にフロアーがあり、その回りをソファーや背の低い椅子《いす》が取り囲んでいた。黒っぽい色の壁《かべ》。暗い照明。各テーブルで怪《あや》しく揺《ゆ》れている蝋燭《ろうそく》の炎《ほのお》。セルジュ・ゲンズブールの、地獄《じごく》から囁《ささや》きかけるような声が流れていた。カウンターの前の壁のステンドグラスの中では、男と少年が絡《から》み合っていた。
まだ時間が早いのか、客の姿は少なかった。カウンターには、私のほかにずんぐりとした中年がいるだけだし、ソファーや椅子もほとんど空いていた。フロアーでは、一組のカップルがチークを踊《おど》っていた。そのひとりは東洋人らしい。だが、セイジでないことは確かだった。その男は、筋肉をつければ、バスケット選手になれるほど背が高かった。
バーテンはふたりいた。ひとりはアフロヘアーのマルチニック系らしい男で、もうひとりは金髪《きんぱつ》だった。
注文を取りに来たのは、金髪のほうだった。私はオタールをストレートで頼《たの》んだ。
煙草《たばこ》に火をつけたとき、誰《だれ》かの視線を感じた。カウンターの中年が私を見ていたのだ。冷たく排他《はいた》的な視線だった。
「この店は初めてでしょう?」
ブランデーグラスを私の前に置きながら、金髪が訊《き》いた。
「僕《ぼく》は旅行者でね、特別に入れてもらったんだ」
「日本人?」
「そうだ」
「フランス語、上手ね」
「昔、三年ばかり、パリに住んでいたからね」
「なるほどね」金髪は微笑《ほほえ》んだ。特別太っているわけではなかったが、笑うと頬《ほお》の白い肉がもり上がった。それがえらく卑猥《ひわい》な感じがして、私は視線を外した。
カウンターの中年がアフロのバーテンと何か話していた。バーテンはうなずき、にやっと笑い、電話のあるカウンターの隅《すみ》に行った。そして、手帳らしいものを見て、どこかに電話を掛けた。
「パリにはよく来るの?」
「ああ。去年、来た時は、友人に案内されてクラブ7≠ヨ行ったよ」
私は意味ありげに笑った。クラブ7≠ヘオペラ大通りから少し入ったところにあるホモ専用の高級プライベート・クラブである。
私は一度もそのクラブに行ったことがなかった。バーテンが詳《くわ》しいことを聞いたら、すぐにボロを出してしまっただろう。だが、幸い彼は、そのことには何も触《ふ》れなかった。
十分ほど時間が流れた。私はオタールをちびちびやっていた。
「久し振《ぶ》りじゃない、アラン」
私の後ろで声がした。男のフランス語は明らかに日本人のものだった。男は、カウンターの中年男の隣《となり》に座った。一見しては、ゲイだとは分からない青年だった。ブルー・ジーンズに白のTシャツ。黒のブルゾンを腕《うで》に抱《かか》えていた。ただ、スツールに腰《こし》を下ろす仕種が、やや女っぽかった。しかし、先入観念を抱《いだ》いていなければ、そうは感じなかったかもしれない程度のものだった。視線があった。私はにやりとしてみせた。青年はすぐに、にこりともせずに目線を外した。
そのゲイはセイジではなさそうだ。ロングヘアーだったのである。
一杯《いつぱい》、軽く飲むと、アランと呼ばれた中年を連れて青年は出て行った。中年男の腹はゴム毬《まり》のようだった。あのゲイは、私みたいな、筋肉の張った男はタイプではないらしい。
バーテンが電話をしたのは、あの日本人を呼ぶためだったのかもしれない。
私は一時間あまり、黙《だま》って酒を飲んだ。
次第に店はこみ出し、フロアーで揺《ゆ》れる影《かげ》も増え、笑い声や話し声が音楽の合間を縫《ぬ》って聞こえてくるようになった。カウンターにも人が入れ替《か》わり立ち替わりやってきた。赤毛のデブ、白いスーツを着た色白の痩《や》せた男、外でロールスが待っていても可笑《おか》しくない感じの立派な紳士、胸をはだけたマッチョ気取りの青年……。
ふたりのバーテンは、カウンターの客がこそこそと何か言うと、必ずどこかに電話をした。すると十五分ほどして、お相手が現れるのだった。
相手は東洋人とは限っていなかった。赤毛のデブの隣に座ったのは、がっしりとした躰《からだ》つきをしたスポーツマン・タイプのフランス人だった。このふたりには、レスリングのリングほどのベッドが必要な気がした。
セイジはなかなか現れなかった。ひとり、それらしい感じの男が来たが、フランス語のイントネーションが日本人のものではなかった。ベトナム人かカンボジア人のイントネーションだった。
皆《みな》、お互《たが》いをよく知っているらしく、テーブルとカウンターを行き来する者もおおぜいいた。だが、私に話し掛《か》けてくる人間はひとりもいなかった。仲間意識が強い連中らしい。女物の香水《こうすい》を頭からかぶって来ても、私の余所《よそ》者の匂《にお》いは消えないだろう。
私は、友達の出来ない転校生のような存在だった。
「ここの連中は皆、いい人なんだけど、新参者には冷たいのよ」金髪《きんぱつ》がカウンターに両肘《りようひじ》をついて言った。「誰《だれ》か紹介《しようかい》する?」
「この店はそういうサービスもやってくれるのか?」
「いい店でしょう」金髪の白い頬《ほお》の肉がまたもり上がった。
セイジの名前を出そうかと思ったが、止めた。一見の旅行者が指名するのは不自然だ。それに、外部との繋《つな》がりを遮断《しやだん》した世界に棲《す》んでいる連中は勘《かん》がいい。へたな質問は避《さ》けるべきである。大道貢も毎晩ここに来ていたということだ。きっとセイジも同じだろう。私は待つことにした。彼等《かれら》の夜は長いのだ。
「ね、どんなタイプが好みなの?」
「君のようなタイプ」私は、背筋をぞくぞくさせながら、最大級の嘘《うそ》をついた。
「私! 私はダメよ。三時までここにいなくっちゃならないし、それに私の彼はやきもち焼きだから……」
カウンターの端《はし》に客が座った。「失礼」と言って金髪は、その男のほうへ行った。
私は大きく溜息《ためいき》をつき、その男を見た。
不精髭《ぶしようひげ》がよく似合う、剃刀《かみそり》のCMに出てくるような美男子だった。普通《ふつう》に座っているだけで、ミリアデール≠フダンサーだって寄ってきそうだが、ここに出入りしているところをみると、このハンサムも女には興味がないらしい。
私のようなストレート≠ノとっては競争率が下がるから、結構な話だが。
金髪《きんぱつ》のバーテンは、ハンサムにシャンペンの小瓶《こびん》を出し、どこかに電話をした。
私はどんな相手が現れるか楽しみに待っていた。金髪は、ハンサムとずっと話し込《こ》んでいる。私には願ってもないことだった。
半時もたたないうちに、相手が現れた。セシール・カットの小柄《こがら》な東洋人。逆三角形の顔の中で大きな瞳《ひとみ》が輝《かがや》いていた。黒いペダルプッシャーのジーンズにペズリー模様のダークグレーのシャツを着ていた。お似合いのカップルだと思った。男同士だろうが、男と女だろうが、美しい奴《やつ》が一緒《いつしよ》にいれば、美しいカップルが誕生《たんじよう》するのだ。
金髪がこちらに戻《もど》ってきた。
「今、来た子いいね」
「セイジ。彼はあなたと同じ国の子よ。でも、彼はダメよ。隣《となり》にいるイカしたお兄の相手をするんだもの」
「一晩中?」
「いえ、彼には奥《おく》さんがいるから、せいぜい一、二時間だと思うわよ。その後で良ければ、口を利いてあげる」
美男子は両刀使いだったのである。
「じゃ、その間、夜風にでも当たって、酔《よ》いを覚ましてくるかな」
私は馬鹿《ばか》みたいに高い勘定《かんじよう》を済ませ、外に出た。
夜気が気持ち良かった。私は車に乗り、彼等の出てくるのを待った。煙草《たばこ》を一本吸い終わらないうちに、セイジとハンサムが出て来た。
彼等はジュベール通りから道なりに繋がっているラ・ヴィクトワール通りを歩いて行く。足音が通りに響いていた。
ラ・ヴィクトワール通りは一方通行。
車で尾行したければ、規則を無視するかバックで走らなければならない。私は、少し間をおいて歩き出した。途中《とちゆう》で売春婦にボンスワール≠ニ声をかけられたが、ウインクしただけで通り過ぎた。
男娼《だんしよう》と客は、四つ目の角を左に曲がった。私は小走りにその角まで行った。犬の小便の跡《あと》がくっきりと残っている建物の影《かげ》からふたりの様子を窺《うかが》った。青白い夜の道をふたりは寄り添《そ》いシャトーダン通りを横切った。そして、しばらくして、或《あ》る建物の前で止まった。セイジが、表門を押《お》した。彼等の影が歩道から消えるとすぐに私は、建物の前まで走った。
小さな古い建物で、オートロックではなかった。表門に耳をつけた。ふたりの笑い声が聞こえ、やがて、エレベーターの止まる音がした。私は、再びモーターの音がした時、門を開けた。急いでエレベーターの行き先を調べた。数字は五階で止まった。
私は郵便受けの表示を見た。各階に二世帯しかないアパートだった。五階の住人のひとりはアリ・ベンタハールという人物だった。名前から判断すると、アラブ人だろう。もうひとつには何の表示も出ていなかった。
私は外に出て、ジュベール通りまで引っ返し、車を問題のアパートの近くに回した。通りの名前はサンジョルジュと言った。確か、ルノアールのアトリエがあった通りだ。
ラジオのスイッチを入れた。ラジオ・リュクサンブルグが、先月、ニュージーランドで起こった『グリーンピース』の船爆破事件を報じていた。私は、フィリップ・モリスに火をつけ、チャンネルを変えた。何という局か分からなかったが、ローリングストーンズの初期ナンバーの特集をやっていた。
時刻は午前零時二分。私はそれから、一時間二十八分、そこで待った。
セイジの客は、外に出ると黒いブルゾンのポケットに両手を突《つ》っ込《こ》み、私の車の横を通り、シャトーダン通りのほうに歩き去った。粋《いき》がっているのか、少し上がった右|肩《かた》を揺《ゆ》らせている。誰《だれ》も見ていないのに、誰かを意識しているような雰囲気《ふんいき》だった。
彼の姿が視界から消えると、私は、車から降りた。そして、建物に入り、エレベーターで五階まで上がった。
左がベンタハールという人物のアパートだった。私は表札の出ていないほうの呼鈴《よびりん》を鳴らした。だが、誰も出て来なかった。しつこく鳴らし続けたが、応答なし。耳をつけてみる。微《かす》かに音がしたようだが、他の部屋の音かもしれない。もう一度、今度はかなり長く呼鈴を押し、それから、ドアをノックした。調べてみたわけではないが、この手の建物の出口は普通《ふつう》、ひとつしかないはずだ。セイジは絶対部屋にいる。もしかして五階ではなかったのか。いやそれとも、セイジに何か起こったのか。私は、また、ドアを叩《たた》いた。
ドアが開いた。だが、そのドアは私がノックしていたものではなかった。ベンタハールという表札の出ている部屋のドアだった。
「静かにしてくれませんか」
そのフランス語にはアラブ人特有のイントネーションはなかった。
ドアから顔を出したのはセイジだった。
私は三歩ほど近づいてから「妙《みよう》な偽名《ぎめい》を使ってるんだね」と日本語で言った。
セイジの顔から血の気が引き、慌《あわ》ててドアを閉めようとした。
しかし、私のほうが一瞬《いつしゆん》早く、数倍、力があった。セイジはドアの向う側で倒《たお》れていた。私は中に入り、ドアを閉めた。
「誰《だれ》だ! 警察呼ぶよ!」
廊下《ろうか》の壁《かべ》づたいに起き上がりながら、セイジは言った。声が震《ふる》えていた。
「俺《おれ》は大道貢のことを調べている私立|探偵《たんてい》だ。彼の話をしようと思ってやってきた」
「人の家を訪ねる時間じゃないよ」
「不精髭《ぶしようひげ》の色男以外は家に入れないのか」
「何のこと? 頭がどうかしてるんじゃない?」
セイジはそっぽを向いた。
「ゆっくり、ソファーにでも座って話をしようじゃないか」
「ミツグの何について話そうってわけ?」
私はセイジの肩《かた》に手を置いた。
「いろいろさ」
セイジは、不承不承、居間の扉《とびら》を開けた。
床《ゆか》は板張りで、クリーム色のハイバックチェアがふたつ、丸いテーブルを挟《はさ》んで置いてあった。窓際の壁にはアラブ風のタピストリーが掛けてあり、その下には、白い毛足の長い絨毯《じゆうたん》が敷《し》き詰《つ》められていた。そして、その上には、馬鹿《ばか》でかいクッションが何個も重なり合っていた。いわゆる、家具らしいものは椅子とテーブル以外見当たらなかった。商売道具のベッドもなかった。
「いい部屋だな。だが、ベッドがないね」
「その絨毯がベッド」
「ミツグの部屋にもベッドがないのか?」
「あるけど……。それが一体どうしたっていうの。借金のかたにでも持っていこうっていうわけ」
「あんた、この商売やってどのくらいになる?」
私は椅子のひとつに腰《こし》を下ろした。その横に電話があったが、線は抜《ぬ》かれていた。客がいる時は、抜いておくのだろう。電話の右側にプレイヤーがあり、上にヴァン・モリソンの『テュペロ・ハニー』のジャケットが載っていた。
「商売って?」
「とぼけなくていい。俺は全部、知ってる」
「四年よ……でも、本当に何の用?」
「ミツグのことを話してもらいたいだけだ」
「それだけ?」
セイジは生唾《なまつば》を飲み込《こ》んでから声を出し、引きつった笑いを口元に浮《う》かべていた。
「それだけだ」
沈黙《ちんもく》。
「分かったわ。何でも話して上げる。でも、その前に一杯飲ませて。良かったらあんたも飲む?」
セイジは、観念したのか態度を軟化《なんか》させた。
「いいね。だが、逃《に》げ出したりするなよ」
「そんなことしないわよ」
セイジはキッチンのほうへ消えた。戻《もど》ってくると、ワインを抜いてくれと私に頼《たの》んだ。私は、黙《だま》ってうなずき、受け取ったリスリングの瓶《びん》にコルク抜きを差し込んだ。その時だった。
「ミツグの何が知りたいのよ!」
低く震《ふる》えた声だった。私は顔を上げた。ぎくりとした。銃口《じゆうこう》が私を狙《ねら》っていたのだ。
一メートル半ほど離《はな》れたところにセイジは立っていた。顔は青《あお》ざめて、呼吸が荒《あら》い。
「水鉄砲《みずでつぽう》かい? それとも、そこから極上のブランデーが飛び出てくるのか」
気を取り直した私は、平静を装《よそお》った。
「あんたが、殺したのね、ミツグを」
とんでもない誤解。私は笑い、躰《からだ》を少し動かした。銃口がいっそう緊張《きんちよう》した。
「どうして俺《おれ》が殺したと思うんだ?」
「ゲイを嫌悪《けんお》している奴《やつ》の犯行かもしれないって、仲間のひとりが言ってたもの。こんな時間にやって来たり、私のことを尾行したりベッドのことを聞いたり、あんたの態度はおかしい」
「俺はゲイを嫌悪してないぜ。ただ趣味《しゆみ》じゃないってだけ。大道貢を殺した奴を探しているだけさ、俺は」
「分かるもんですか!」
セイジは一度も拳銃《けんじゆう》を撃《う》ったことがない。握《にぎ》り方を見て、そんな気がした。本気でぶっ放す気もない。目付きで分かった。しかし、油断は出来ない。素人の一発が致命傷《ちめいしよう》にならないという保証はどこにもないのだ。うろたえて撃った弾で、あの世に行くことだってある。セイジと私は、そういうことが充分《じゆうぶん》に起こりうる距離《きより》しか離れていない。もう少し相手が近付いていてくれれば、なんとかなるのだが……。
「ゲイってのは、皆《みな》、あんたみたいに被害妄想《ひがいもうそう》なのかい? 俺の上着の内ポケットに、身分証と名刺が入ってる。俺はミツグの身内に雇《やと》われてるんだ。見せてやろうか?」
「…………」
「心配なら自分で探って見ろよ」
私は胸を突《つ》きだした。
「あんたが、出しなよ。ゆっくりと……」
私はうなずきながら、財布を取り出した。
「金を盗《ぬす》むなよ。俺《おれ》は、あんたみたいに毎晩、客に巡《めぐ》りあえる身分じゃないんだからな」
そう言いながら、財布を持った手を前に伸《の》ばした。
セイジがそれを取ろうとした。その瞬間《しゆんかん》、私は財布を床《ゆか》に落とした。セイジの視線も一瞬、床に落ちた。思い切り体当たりをくらわした。拳銃《けんじゆう》は握《にぎ》られたままだったが、引金は引かれなかった。白い絨毯《じゆうたん》の上に倒《たお》れたセイジはもがいた。声を出そうとした。だが、ヒーヒーという音が喰《く》い縛《しば》った歯の間から漏《も》れただけだ。拳銃をもぎ取るのは造作のないことだった。この男より腕力《わんりよく》のある女を私は何人も知っている。
「よし、立て! 一ラウンド終了《しゆうりよう》したぜ。いつも、あんな風にヒーヒーよがるのか。椅子に座って」
セイジは言われた通りにした。
私は握っていた拳銃をちらっと見た。22LR口径《こうけい》のマニューリン・ワルサーだった。私は思わず、笑った。セフティが下りていたのだ。
「コンドームをつけていては妊娠《にんしん》しないぜ。いくら女に興味がなくても、そのくらいのことは知ってるだろう」
「私をどうするの?」やっと声が出た。
「あんた次第だよ。俺の質問に答えてくれればいいんだ」
「あなた、本当に私立探偵なのね?」
「あんたも、よほど生まれが悪いらしいな。猜疑心《さいぎしん》が強すぎるぜ」
「ミツグの話を聞いた時から、怖《こわ》くて……」セイジは少し落ち着きを取り戻《もど》した。
「それで、俺が犯人ではないかと思ったのか」
セイジは俯《うつむ》いたままうなずき、「ゲイを社会悪だと妄信《もうしん》している連中がいるから……」
「そういう連中はな、こんな夜更《よふ》けには、糊《のり》の効いたパジャマを着て眠《ねむ》ってるよ」
セイジの頬《ほお》が少し緩《ゆる》んだ。
「さあ、大道の話を、ゆっくり聞かせてもらおうか? 俺は犯人を探してるんだ」
「その前に、折角だから、ワインを飲みましょう」
「今度は、ナイフなんてのは御免《ごめん》だぜ」
セイジはにやっとした。
「で、何が知りたいわけ?」
セイジはワインをグラスに注ぎながら訊《き》いた。
「あんたが、ミツグを最後に見たのはいつだ?」
「七月の終わり」
「正確に覚えていないか」
「えーと、二十七日、土曜日よ。いつものように私達、ここで商売してたのを覚えてる」
「次の週から顔を見せなくなったんだな?」
「そうよ」
「おかしいと思わなかったのか?」
「思うはずない。私、彼は大阪に戻《もど》ったと思っていたんだから」
「大阪?」
「ええ。彼の妹が交通事故にあって入院したって母親が国際電話を掛《か》けてきたそうよ」
「いつの話だ?」
「七月二十八日の日曜日。よく覚えてる。私の自宅に電話をしてきて、明日の便で日本に一時帰国するって言ったのよ」
「それは何時|頃《ごろ》だ?」
「時間ははっきりしないけど、午前中よ。私、まだ寝《ね》てたんだから」
大道の青いサムソナイトが開いていた謎《なぞ》が解けた。彼自身が旅行の準備をしていたのだ。
「彼の常連客について知ってることを話してくれ」
「最近、よく出入りしていたのは、彫刻家《ちようこくか》のジャン・ピエールよ」
「ジャン・ピエール、なんていうんだ?」
「プチ。小さいって意味のプチと同じ綴《つづ》り」
私はノートを取るために拳銃《けんじゆう》をポケットに仕舞《しま》った。拳銃が姿を消すと、セイジは大きな溜息《ためいき》をつき、ソファーの背に大きく躰《からだ》を投げ出した。
「で、そのプチという奴《やつ》は、どんな奴なんだ。名前通り、小さい男なのか」
「そうね、どちらかというと小柄《こがら》ね。ハンサムなほうだけど、唇が薄《うす》くて陰険《いんけん》そうな奴。ミツグはかなり、熱を上げてたけど、私は好きになれなかった」
「若いのか?」
「四十八|歳《さい》だってミツグが言ってた。でも、年より若く見える人ね。長い髪《かみ》に白髪が混じっていることを除けばの話だけど」
「そいつに、大道がいなくなってから会ったか?」
「いえ。きっと、彼もミツグが日本に帰ってると思ってたんじゃない」
「じゃ、そのジャン・ピエールって男は、ミツグと客以上の関係だったということか?」
「そうね。客で、彼の自宅を知っていたのは彼だけだと思う」
「ミツグとの付き合いはいつごろから始まったんだ?」
「三か月ほど前から。彼がギャラリー・ムラカワ≠ノ勤めていたのは知ってるでしょう? あそこで、あのふたりは知り合ったのよ」
「ジャン・ピエールの住所を知ってるか?」
「ソー市に住んでいるということしか知らない」
「大道に、最近変わったところはなかったか?」
「変わったところって?」
「何か裏でやってるとか……。あんた達は一緒《いつしよ》に部屋を借りて商売をしていたくらいなんだから、かなり深い付き合いをしていたんだろう」
「それはそうだけど、お互《たが》い、余計な詮索《せんさく》をしないようにしていたの。そうね……変わったことと言えば、この商売を近いうち辞めると言っていたことぐらいね」
「辞めてどうするかは聞いてないのか?」
「日本に帰って、ペンションでもやるつもりだったらしい。それで、よくそんな金があるわねって言ったら、それには答えなかった。きっとかなり溜《た》め込《こ》んでたんじゃないかしら。この商売で食べて行けるのに、昼間も働いていたんだから」
「前から、この商売から足を洗うと言ってたのか?」
「いいえ、最近になって突然《とつぜん》、言い出したのよ」
まとまった金が入る当てが出来たのだろうか?
「あんたは、この商売、一筋なのか?」
「ええ。昼も夜も働く気しないわ。昼は大概《たいがい》、映画に行ってるのよ。シネマテークに一日中、いることもあるわ」
「映画愛好家《シネ・フイル》なんだな」
「映画の仕事がやりたかったんだけどね、本当は。パリ八(パリ大学第八分校)の映画学科にいたこともあるのよ……でも、こうなっては無理ね」セイジは自嘲《じちよう》しているように笑った。
「あんたの他に友人はいたか?」
「前のアパートにいた女の絵描きさんぐらいでしょうね」
「その人との付き合いについてはなんて言ってた?」
「彼女《かのじよ》といると妙に気分が和らぐらしいのよ。それに、ミツグは猫《ねこ》好きで、彼女もそうなのよ。だから、気が合ってたみたい」
「その人の猫を大道が預かっていたのを知ってるか?」
「ええ。彼の猫が数年前に死んだんだけど、その猫に似てるって言ってた」
「彼が急に大阪に戻《もど》ることになったとき、その猫はどうしたんだろう」
「そう言われてみれば、そうね……」
「ミツグの死体が発見された時、その猫は現場にいなかったんだ」
「……誰《だれ》かに預けたんじゃない……」
「何故、あんたに預けなかったんだ?」
「理由は簡単よ、私、猫アレルギーだもの……ジャン・ピエールのところじゃないかしら」
次第に糸が手繰《たぐ》り寄せられて行く。そんな気がした。
「そうだ。ひとつ思い出したことがある」セイジはテーブルを叩《たた》いた。「一度、モンパルナスのピゼリアで、ガイドをやってる柴田《しばた》っていう日本人と一緒《いつしよ》にいるところを見たわ」
「いつごろの話だ」
「えーと……七月の中旬」
「その柴田というのは何者なんだ?」
「私、この商売をやる前、或《あ》る旅行代理店でトランスファーの仕事をやってたの。金にならないから、すぐにやめちゃったけど、その時、彼と何度か仕事をしたから、知ってるのよ。フルネームは確か柴田|喜代志《きよし》。私は、彼がどこに住んでいるか知らないけど、ガイドとしては古株だから、日本の旅行代理店で聞けば、すぐに分かると思う」
「ミツグと柴田の、その時の様子は?」
「金の話をしているみたいだった。五千がどうのこうのと言ってたわ。私、気軽に声|掛《か》けちゃったんだけど、私を見たふたりの顔ってなかった。化け物でも見たように驚《おどろ》いていたもの。後で、柴田と親しいのかって聞いたら、昔、付き合いがあった人だと言っただけで、何となく触《ふ》れたくない話題のようだったから、私もそれ以上聞かなかった。ひょっとしたら、彼が猫《ねこ》を預かっているのかもしれないわね」
セイジはあまり酒に強くないらしい。大した量を飲んだわけではなかったのに、耳のあたりまで真赤だった。
「ね、ゲイを嫌《きら》ってる奴《やつ》の犯行だとは本当に思わない?」
「具体的に、そういう人物がミツグの回りにいたのか?」
「いいえ。でも、エイズが話題に上り始めてから、ミツグは神経質になっていたわ。二か月程前に、彼のアパートに泥棒が入ったのよ。それは、誰がみても単なる窃盗事件だったんだけど、ミツグはそれすらも、ゲイを嫌っている奴等の仕業じゃないかと考えた程なのよ」
「おそらく、そういう連中の犯行じゃないだろう」
「どうしてそう思うの?」
「犯人がミツグの部屋に押し入った形跡はないんだ。あんたの話からすると、ミツグは、見知らぬ人間を簡単に部屋に通すような奴じゃなかったらしいな。となると、顔見知りの人間にやられたとみるべきだろう。それに、犯人はミツグの部屋で何かを探しているんだ」
「何を?」
「それが分かれば、いいんだがね」
「じゃ、私が狙《ねら》われるようなことはないわね」
「ゲイを憎《にく》んでいて、ミツグが第一のターゲットになったとしたら、今頃《いまごろ》は、あんたもあの世に行っているだろうよ」
「じゃ、私は安全と考えていいのね」
「このアパートに賊《ぞく》が入ったことは?」
「ないわ」
「ミツグの部屋を荒らした奴は探し物を見つけたか、それとも、この部屋の存在を今のところは知らないと見ていいな」
「じゃ、探し物が見つかってなかったら、ここに来る可能性もあるわね」
「あり得るな」
セイジの顔がまた真剣《しんけん》になった。
「まあ、しっかり鍵《かぎ》を締《し》め、妙《みよう》な奴を入れないようにするんだな。そして、何かあったら俺《おれ》に知らせてくれ」
私は名刺《めいし》をテーブルの上に置いた。
「私、怖《こわ》いわ」
「だったら、しばらく休業するんだな。撃《う》ったことのないハジキなんか持っていても、何の役にも立たないぜ」
「でも、気休めになる」
私は拳銃《けんじゆう》を取り出し、弾《たま》を抜《ぬ》いた。
「これは、どこで手に入れたんだ?」
「クラブセゾン≠フバーテンの物よ」
「金髪《きんぱつ》のか、それともアフロのか?」
「アフロのほうのよ」
「許可証はあるのか?」
「あるわ」セイジはソファーの横にある小さなテーブルの引き出しを開け、許可証を出した。
名義はセイジではなかったが、正式な証明書だった。
「何故《なぜ》、この部屋はアラブ人の名前になっているんだ?」私は煙草《たばこ》に火をつけながら訊いた。
「あれは、クラブセゾン≠フパトロンの名前なの。この部屋は彼の持ち物。でも、ただじゃないのよ。しっかり家賃を取ってるの」
「あんた達はあのクラブに雇《やと》われているわけではないのか」
「自前よ。ただ、あそこを通すほうが客を拾いやすいし、むこうも客を紹介《しようかい》してもらえるから、お互《たが》い様というわけ」
「なるほど」
「ねえ、本当に休業したほうがいいかしら?」
「このアパートを使わなければいいんだ。もしもの場合に備えてね」
「いっそのこと引き払《はら》ってしまおうかしら。ミツグが死んだから、家賃の全額を私が負担することになったんだものね。でも、ミツグの部屋で何を探す気かしら、犯人は? あの部屋には何もないのに……」
「調べてみても構わないか?」
「いいわよ」
セイジは隣《となり》の部屋に私を案内した。
ミツグが使っていた部屋は、セイジのところより心持ち狭《せま》かった。本来は、こちらが寝室《しんしつ》なのだ。
ダブル・ベッドに黒と灰色の格子縞のカバーが掛《か》かっていた。テレビと日本製のステレオがあり、安物のサイドテーブルがあるだけだった。私はサイドテーブルの引き出しを開けてみた。中身はガラクタばかりだった。私が部屋を掻《か》き回している間、セイジは戸口に立って私のすることを見ていた。
手掛りになりそうなものは何もなかった。私はセイジにお休み≠言い、アパートを出た。後ろで鍵《かぎ》を掛ける音がした。
ベッドの拡がりから抜《ぬ》け出すのに、私は苦労した。あと十分、あと五分と思っているうちに、午前十時を過ぎてしまった。昨日は、少し飲み過ぎたようだ。
私は、プレーン・ヨーグルトに角切りにした缶詰《かんづめ》のパイナップルを混ぜたものを朝食にした。砂糖は入れなかった。ねむけ覚ましには、酸っぱいほうがいい。
食事を済ませると、広沢トラベル≠ノ電話を入れ、社長を呼び出した。話があるというと、社長の広沢健一郎《ひろさわけんいちろう》はバークレー≠ナ会おうと言った。
オリーブ色のスィング・トップを白のポロシャツの上に引っ掛《か》け、私は事務所を出た。
珍《めずら》しく青空が見えるすがすがしい日だった。空気に温かみが感じられ、このまま温度が上がれば、夏らしくなるかもしれない。
エスパース・カルダンを左に見て、ガブリエル大通りを走り、日曜日になると歩道に切手市が立ち並《なら》ぶあたりで車を下りた。旅行代理店広沢トラベル≠ヘ、そこから目と鼻の先のマチニオン大通りにある。
私はバークレー≠フテラスに座り、ビールを注文した。ほどなく、広沢が現れた。
「八月だというのに、暇《ひま》そうだな」と私が言った。
「今年は、低調でね」
「その後、マダムは?」
「何とか落ち着いてるよ」
鰓《えら》の張った四角い顔に、弱々しい笑いが浮《う》かび、目尻《めじり》に皺《しわ》が寄った。
広沢の女房《にようぼう》はマルチーヌというフランス女である。彼女は病的なやきもち焼きで、夫が遅《おそ》く帰ると、浮気《うわき》をしていると思い込《こ》むのだ。一年ほど前、マルチーヌは私に夫の素行調査を頼《たの》んできた。私は一週間、広沢を尾行した。広沢トラベル≠ヘ従業員がふたりしかいない零細《れいさい》企業だから、社長とて定刻に帰宅することは出来ない。妻に内緒《ないしよ》でやることといえば、マージャンぐらいのものだった。
私は妻にそのことを報告した。しかし、妻の猜疑心《さいぎしん》は消えなかった。それどころか、私が夫に買収されているのではないか、とまで言い出したのだ。この時、初めて依頼人《いらいにん》がノイローゼであることに気づいた。私は、本来、調査員がやっていけないことをやった。依頼人を裏切って、その間の事情を広沢に話した。広沢は無理をしてでも従業員を増やす≠ニ言っていた。その後、ふたりの間がどうなっているのか知らない。
「マージャンが打てないのが、寂《さび》しいけど……妻に発作をおこされることを考えれば、そのくらいのことは……」広沢はまた弱々しく笑った。「ところで、話ってのは?」
「ガイドに柴田喜代志ってのがいるだろう。彼について知りたいんだ」
「また、浮気調査か?」
「彼は結婚《けつこん》しているのか?」
「……いや、独身のはずだ。だが、奴《やつ》が浮気の相手ってこともあるからね」
「女出入りが激《はげ》しいわけか」
「噂《うわさ》によるとね」
「今の相手は?」
「日本人バー雛祭《ひなまつり》≠フホステスだったが、別れたらしいよ」
女好きの男がゲイに何の用があったのか。それとも、彼は両刀使いだったのか。
「ガイドって商売は儲《もう》かるのか?」
「まあ、人に依《よ》りけりだね」
「柴田の場合は?」
「奴は免税品店からコミッションを取っているという話だから、結構稼いでいるんじゃないかな」
「コミッションってのは?」
「簡単に言えば、裏金さ。五十人乗りのバスに日本人観光客を乗っけて、免税品店に連れて行くとする。五十人全員が一万円のものを買ったとして、店の売り上げは五十万、その三パーセントをガイドがキック・バックしてもらったとして一万五千円が税金なしの日銭として入るわけだ。柴田は、リヴォリー通りの或る免税品店と組んでるって話だよ。しかし、人間ってのは面白い動物で金が入るとそれだけでは満足できない。彼は、日本料理屋をやりたいらしい」
「そんな資金まで作れるのか?」
「いや、いくら儲《もう》かるっても、そこまでは……」広沢はレモン・ジュースをすすりながら答えた。「今は、一介のガイドだが、奴《やつ》は六八年に公費留学生でパリに来た。言わばエリートだったんだが、それが、こっちの女に入れ上げて人生が狂《くる》ったんだ。マジにやっていたら、今ごろは、仏文科の助教授くらいにはなっていたろうな。まあ、他人のことをとやかく言える立場じゃないけどな」
広沢は、或《あ》る商社に勤めていた。パリには、いわゆるホームスタッフ≠ニして送りこまれてきたのだが、今の女房に惚《ほ》れたのがきっかけで、会社を辞め、パリに残ったのだ。
「あんたは、転職したことを後悔《こうかい》してるのかい?」
「いや、ぜんぜん後悔していない。だが、あのまま、会社に残っていて、日本にいたらどうなってたかな、とは考えるよ」広沢はまた弱々しく笑った。
私は柴田喜代志の住所と電話番号を教えてもらい、バークレー≠出た。
歩道の公衆電話から、ギャラリー・ムラカワ≠ノ電話を入れた。私は社長でも秘書でも妻の尚美でもいいから掴《つか》まえて、ジャン・ピエール・プチについての話を聞きたかったのだ。だが、あいにく、三人とも画廊《がろう》にはいなかった。社長と秘書は仕事で出ていて、尚美は自宅だということだった。
私は、村川の自宅に行ってみることにした。
パークメーターの回りを水色の制服を着、同じ色のチロリアン・ハットみたいな帽子《ぼうし》を被《かぶ》った女がふたりうろついていた。駐車違反《ちゆうしやいはん》係の通称、オベルジーヌと呼ばれている女達なのだ。オベルジーヌとはナスビのことで、何故そういう名前が付いたかと言うと、数年前まで、彼女達の制服がナスビ色をしていたからなのだ。制服は新調されたが、渾名《あだな》はそのまま残った。新しい制服はどこかスチュワーデスのそれに似ている。だが、オベルジーヌ達は美味《おい》しいワインをサービスしてくれる代わりに、緑色の違反キップをくれるのだ。
私は車のところまで急いだ。ワイパーに違反キップは挟《はさ》まれていなかった。
マチニオン大通りから、オスマン大通りに出、そこを左折して凱旋門《がいせんもん》を通過し、西に向かってつっ走った。ポルト・マイヨを抜《ぬ》けヌイイ橋の手前を右に曲がった。左にセーヌが流れ、河岸《かし》を鬱蒼《うつそう》とした木立が覆《おお》っていた。この地区はヌイイという高級住宅街で、右側にはいかにも高級そうなマンションが立ち並んでいて、歩道もこころなしか小奇麗《こぎれい》だ。信号に引っ掛《か》かった時、ちょうど、大きなベランダのついたマンションから、色白の太った老女が、マルチーズを連れて出て来た。犬も飼《か》い主に似たのかまるまると太っていた。両方の胃袋《いぶくろ》から、フォアグラが出てきそうな感じだ。毛がよく手入れされ、青いリボンをつけている。下町に住む女の二倍は小奇麗で、三倍は意地悪そうな顔をしている犬だった。犬は歩道の隅《すみ》で鼻をクンクンやった。そして、そこに尻《しり》を向けると座り込《こ》んで、二歩ばかり前にずった。その時の顔は、まったく、下町の犬と同じ表情をしていた。
この高級住宅街の左手がセーヌで、その向うは都市再開発の盛《さか》んなデファンスである。アメリカの都市を真似たのか高層マンションが重なり合うように立っている。こちらは庶民《しよみん》の街だ。
次の四つ角で左に曲がり、クルブヴォワ橋に出た。そして、その途中をまた左に折れ、私はセーヌに浮《う》かぶグランド・ジャット島に入った。村川隆の屋敷《やしき》は、この島の中にあるのだ。
河岸で日光浴をしている人がいた。久し振《ぶ》りの太陽を満喫《まんきつ》しようというつもりらしい。他の建物は大概《たいがい》、マンションかビルだったので、村川の屋敷を見つけるのは簡単だった。
いかつい鉄門があり、ローマ字と日本語で村川と書かれてあった。古い屋敷をそのまま買い取ったらしいが、それにしても荘厳《そうごん》な佇《たたず》まいである。車を下りた私は先が槍《やり》のように尖《とが》った鉄柵《てつさく》の間から中を覗《のぞ》いた。芝生《しばふ》がびっしりと敷き詰《つ》められていて、その中央が砂利道になっていた。屋敷までは三十メートルは有りそうだ。右|奥《おく》にはテニス・コートがあったが、誰《だれ》もプレイしていなかった。
私は柵から離《はな》れ、右側の小さな入り口の前に立ち、チャイムを押《お》した。
「何でしょう」スペイン語訛《なま》りの女の声がした。
私は来訪の目的を告げた。しばらく待たされた。
中年女がやって来た。頭をかなづちかなにかで叩《たた》かれたように首が胴体《どうたい》にめりこんでいる。錠《じよう》が開けられ、鉄門が開いた。私は車を中に入れた。女は股《また》の間に何か挟《はさ》んでいるような、無様な歩き方で車を誘導《ゆうどう》した。ガレージの前にベンツが止まっていた。メタルグレーの車体が陽光を受けて光っていた。アルピーヌ・ルノーをその隣《となり》に止めた。私は久しく自分の車を洗車に出していないことを、嫌《いや》というほど思い知らされた。泥靴《どろぐつ》で宮殿《きゆうでん》に入ったような気分がした。だが、幸い本物の靴のほうは汚《よご》れてはいなかった。
屋敷は三階建てで、大きなフランス窓が各階に四つあった。どの窓も、ほんの少しだけ開いているようだ。急な屋根に天窓がついていた。
石段を上がり、バスケットの選手と相撲《すもう》取りが二人ずつ、同時に通っても何の支障もきたさない大きな扉《とびら》を通り中に入った。
玄関《げんかん》ホールの壁《かべ》はマホガニーで仕上げたものだった。ミロやダリらしい絵が飾《かざ》られている。年代物の大時計。二メートルはある彫刻《ちようこく》が階段の上がり口に置いてある。女性の裸像《らぞう》なのだが、かなりデフォルメされていて、目も鼻も口もない顔は、恐竜《きようりゆう》の頭のような恰好《かつこう》をしていた。その横に三人掛けの金属製のベンチがあった。私が、美術品なのか、客用のものなのか考えていると、スペイン女が戻《もど》って来て「こちらへどうぞ」と無愛想に言った。
私は、彼女《かのじよ》の臼《うす》のような尻《しり》を見ながら、後について行った。左の奥に観音開きのドアがあり、女はそれを開いた。
「奥様はすぐにいらっしゃいます」
天井《てんじよう》の高い広い部屋だった。壁はクリーム色で、中央に見事なシャンデリアが吊《つ》るされていた。重々しいダークグレーのL字型ソファーと皮張りの肘掛《ひじか》けが二脚《きやく》、オーク材で出来た低いテーブルが暖炉《だんろ》の前に置いてあった。奥に暖炉があり、その上に一枚の絵が飾ってあった。
緑が鮮《あざ》やかな木立の中で、人々が川面を見ながら、草の上で日光浴をしている。何人かはパラソルを開いている。たっぷりとお尻の辺りが膨《ふく》らんだ長いスカートを穿《は》いた淑女《しゆくじよ》、山高|帽《ぼう》を被《かぶ》った紳士《しんし》が立っている……。
スーラの描《えが》いたグランド・ジャット島の日曜日の午後≠ナある。
ひっそりとセーヌ川に浮《う》かんでいる、グランド・ジャット島がもっとも活気のあった頃《ころ》の絵。村川一族は、この絵に魅《み》せられて、この島に屋敷《やしき》を構えたのかもしれない。
私は、古き良き時代と別れて、窓際に進んだ。大きな出窓があり、その両側を背の高い観葉植物が占めていた。窓から、ちょうど屋敷の裏が見えた。
風がゆるやかに立ち、木立に囲まれた一角にあるプールの水が微《かす》かに揺《ゆ》れた。透明《とうめい》感を伴った青い水。プールサイドには白い椅子《いす》とテーブル。茶色のバスタオルが椅子に無造作に掛《か》けてあった。だが、人のいる気配はしない。時おり車の走る音がする。およそ一万キロも離《はな》れたところからやって来て、男娼《だんしよう》になり殺される者もいれば、こんな屋敷に住める者もいるとは……。そんな漠然《ばくぜん》とした考えが頭をよぎった。
「まだ猫《ねこ》チャンは見つからないんですか?」
振《ふ》り返ると尚美の白い歯が微笑《ほほえ》んだ。
黒いキュロットにシルクのブラウス。豊満な胸の谷間にグレー地に黄色い模様のあるタイが下がっていた。
「画廊《がろう》に電話を入れたら、こちらだということだったので……」
「八月は暇《ひま》なんです。主人と田島さんだけで、充分《じゆうぶん》。特別な用がない限り、なるべく出掛けないようにしてますの。こちらにお座りになりません?」
勧められるままに、私はソファーの端《はし》に腰《こし》を下ろした。
ノックの音がした。尚美が「どうぞ」と日本語で答えた。お茶を運んで来たのは、日本人の使用人だった。
二十代後半の丸顔の女。女の目付きは、スペイン女のとは明らかに違《ちが》っていた。使用人の目ではないのだ。目に表情がありすぎる。スペイン女みたいに、木彫《きぼり》の人形のような目付きではなかった。まだ新米なのか、我々が同胞《どうほう》だから、つい気を許しているか、そのどちらかだろう。
尚美は暖炉《だんろ》を正面にして座った。
使用人は紅茶を入れると、軽く頭を下げて出て行った。
「私、ちょうど紅茶を飲みたいところでしたの。でも鈴切さんは、ビールか何かのほうがよろしいかしら」
「いえ、紅茶をいただきます。ところで、あのスーラの絵は本物ですか?」
「とんでもない。複製ですわ。本物はシカゴにあります」
「しかし、いい絵ですね」
私は、砂糖もミルクも入っていない紅茶に口をつけたまま、もう一度、絵に目をやった。
「調査のほうはすすんでます?」尚美が訊《き》いた。
「あまりぱっとしませんね」
尚美は、どことなく東洋風のシックなクリーマーに入っていたミルクを紅茶の中に少し垂らした。
「で、御用件のほうは? 当然、事件に関係したことでしょう?」
「画廊《がろう》に出入りしているジャン・ピエール・プチという彫刻家《ちようこくか》について、お話を伺いたいのです」
「プチさんがどうかしましたの」
「大道さんと仲が良かったらしいんです。お気づきになりませんでしたか?」
「全く知りません。大道さんは主人が雇《やと》った人ですし、プチさんは、田島さんが見つけて来た彫刻家なんです。才能のある人とは思えないのですが……何故《なぜ》かお客のひとりが、彼の作品を気にいっていまして」
「田島さんも、やはり目利きなんですか?」
「いえ、あの人は素人《しろうと》です。彼が拾ってきた芸術家は、プチさんひとりです」
拾ってきた≠ニいう言葉を使った時、尚美の眉間《みけん》に皺《しわ》が寄った。「私、いくら商売になっても、気に入らないものを扱《あつか》うのは嫌《いや》なんです。そのことを父に言ったら、画商というのは、まず商人なんだ、とお説教されましたけれど」
「お父上は、ひとり娘《むすめ》のことなら、なんでも聞いてくれる甘《あま》チャンかと思ってましたがね」
「確かに、私には甘いですわ。でも、こと商売となると頑固《がんこ》なんです」
「御主人はなんておっしゃってるんですか?」
「特別なことは何も」
「田島さんはどこで彼を拾ってきたのですか」
「或《あ》る小さな画廊《がろう》で、彼の作品を見つけ、コンタクトしたということです。プチさんが今度の事件に関係してるのですか?」
「分かりません。ただ、大道さんとは大変親しかったようですから」
「でも、へんですわね。どうして、誰《だれ》も気づかなかったのかしら?」
「それほど不思議ではありません。彼等《かれら》は愛人関係を結んでいたのです」
「愛人関係と申しますと、つまりゲイ?」
私はうなずいた。
「まあ!」尚美は声を上げたが、一呼吸おいてから、
「別に驚《おどろ》くことじゃありませんが、やはり驚きですわ」
「プチさんには、何度かお会いになってるんでしょう?」
「ええ」
「どんな感じの人ですか?」
「一言で言えば、汚《きたな》らしい感じの人。容姿のことを申し上げてるわけじゃありませんよ。どことなく品のない人なんです」
「相当、お嫌《きら》いのようですね」
「大嫌いです。父にそう言ったら、笑われましたけど」
尚美は力なく笑った。
「何故、笑われたのですか?」
「父は、戦後のどさくさを生き抜《ぬ》いて、成功した人間です。ですから、プチさんのような品のない人を見ても、大して驚かないんです。正直な話、小学校もろくに出ていない私の父も、下品ではありませんが洗練されてはいません。私は、何も父の悪口を言いたいのではないんですのよ。むしろ、逆に、親の跡をついで、骨董《こつとう》や食事に凝《こ》っているジェントルマンよりは、父のような人間を尊敬し愛してもいます。私は、どっか型破りな人間が好きなんです。でも、プチさんはどうも……」
「御主人もやはり型破りな人ですか?」
「父とは違《ちが》った意味で破格な人です。とても細かいところがあるのですが、それがかえって、私には助かってるんです。ときどき、メイドにも私にも任せられない、と言って、鍋磨《なべみが》きをやることがあるのですが、そりゃ、完璧《かんぺき》に磨き上げますのよ。そういう性格が仕事の時にも現れます。画商という商売は、或る意味で賭事《かけごと》のようなところがあるでしょう。だから、父とか私のような、どちらかというと雑駁《ざつぱく》な性格が合っているんですが、それだけでは、やはり会社をやって行くことができません。まして、今は、父がのし上がれたような状況《じようきよう》がない、白線がきちんと敷《し》かれた時代ですからね」
「なんとなく、御主人の性格が分かります」
私は、床《ゆか》にこぼれた煙草《たばこ》を、ていねいに拾い取った隆の仕種を思い出しながら言った。
「本当に、鈴切さんにお分かりになるかしら? あなたは、どちらかというと、私のタイプの人間じゃないのかしら。独断と即決《そつけつ》が信条の行動派だとお見受けしましたけど」
「そうでもありませんよ」私は曖昧《あいまい》に笑って答えた。
「私、以前はあなたのようなタイプの人に引かれましたわ。でも、自分と性格が似ている人は、結局合わないことが分かりましたの。鈴切さんの奥様《おくさま》ってどんなタイプの方?」
「私は独身です」
「一度も御結婚《けつこん》なさったことないのですか?」
「ええ」
「パリは、もう長いのですか?」
「私は、ここで生まれたんです。両親は日本人ですが、私の国籍《こくせき》は日本ではありません」
「道理で。何となく日本人らしくない感じがするのは、そのせいなのね」
「私のことはさておき、プチさんのことですが……」
「済みません。つい、無駄《むだ》話をしてしまって」
「プチさんの住所と電話番号を知りたいのですが、御存じですか?」
「ギャラリーに聞かないと分かりません。電話してみましょうか?」
「いえ。結構です。後で寄ってみます」
私が煙草を消したとき、車が一台入って来る音が聞こえた。
「きっと、父ですわ」尚美が言った。
「お父さん、こちらにいらっしゃってるのですか?」
「父は二か月に一回ぐらいのわりでここに来ますのよ」
「娘《むすめ》さんに会いに来るわけですね」
「それだけじゃないわ。画廊《がろう》のことが気になってしかたがないのよ。資金は出したけど、娘夫婦に任せておいたら、どうなるかって心配なのよ、父を御|紹介《しようかい》しておきますわね」
尚美はホーム・テレホンで使用人を呼び出し、父に応接室に来るように言って欲しい、と告げた。
「使用人は何人いらっしゃるのですか。僕《ぼく》が見たのは二人ですが……」
「ユーゴ出身の運転手と、後ひとり、料理人がいます、日本人のね。この人は和食、洋食どちらもいけますのよ」
「私のように貧乏な人間は、とても使用人と一緒《いつしよ》には生活できませんね。私事を覗《のぞ》かれているような気がして」
「慣れですわ、それも。でも、実は私も終始、使用人に家の中をうろつき回られているのは好きじゃないんです。だから、食後は各自のアパートに帰ってもらって、後は私がやるんです」
「彼等はこの屋敷《やしき》に住んでいないんですか?」
「この屋敷を出たすぐのところにあるマンションで寝起《ねお》きしています。うちの料理人は本当に料理がうまいんですよ。今度、食事にいらっしゃって下さい。ガールフレンドと御一緒に」
「そういう人ができたら、そうしますよ」
応接室のドアが開いた。
村川松吉の頭は肖像画《しようぞうが》よりも禿《は》げ上がっていた。ブルーのスーツに、襟《えり》の小さなワイシャツ。ネクタイはブルーの横縞《よこじま》が入った細身のものだった。六十八|歳《さい》だと、タニコウが言っていたが、磨《みが》き込《こ》んだ銅鍋《どうなべ》のように光った肌《はだ》は、五十代の感じだった。
「お帰りなさい、パパ。ゴルフ、どうだった?」尚美はドアの前まで行き、村川松吉を迎《むか》えた。私は、その場で立ち上がった。
「松井クンが優勝した。パパは調子が悪くてね」
しゃがれた声が少し鼻に掛《か》かっていた。講談向きの声である。
尚美は、父が泊《と》まりがけでドーヴィルにゴルフに行っていたのだと私に説明した。
村川親子は、自然にソファーのほうへやって来た。村川松吉は、色艶《いろつや》のいい顔と、挑《いど》むような視線を私に向けた。
「こちらは?」
「鈴切さん。大道さんの事件を追っている私立|探偵《たんてい》さんよ」
私は、改めて名を名乗り、名刺《めいし》を出した。
「君のことは、隆から聞いてる。まあ、どうぞお楽に」
村川松吉は、渡された名刺《めいし》を一瞥《いちべつ》してからそう言い、自分もソファーに腰《こし》を下ろした。尚美は、父親の後ろに立っていた。
「パパ、大道さん、ホモだったんですって」
「ホモ?」松吉は後ろを振り向いて訊《き》き返した。
「驚《おどろ》いたでしょう?」
「何で、そんな奴《やつ》を隆は雇《やと》ったんだ」
「ホモは何も犯罪じゃないんだから、いいじゃない。それに隆さんも知らなかったみたいよ」
「それが、今度の事件と関係があるのかね?」
松吉が、私のほうを向いた。私は、ジャン・ピエール・プチと大道の関係を話した。
「それだけのことを伝えにわざわざ、ここまで来たのかね?」
松吉は、両切りのピースをテーブルの上で軽く叩《たた》きながら、鋭《するど》い視線を私に走らせた。確かに洗練された感じのする人間ではなかったが、人を圧倒《あつとう》する威厳《いげん》のようなものを持っている男だった。
「その彫刻家について、社長もしくは、尚美さんにいろいろ聞いてみようと思いましてね」
「君は誰《だれ》に頼《たの》まれて、うちの社員だった人間のことを調べ回っているんだ?」
「それは言えません。ただ、依頼人《いらいにん》は、殺しには興味を持っていません。大道さんのところに預けた猫《ねこ》の行方を知りたいだけです」
「それも、ちらっと隆からきいたよ。でも、それは本当かね」
「こんな下手な嘘《うそ》はつきません」
「それもそうだな」松吉は一瞬《いつしゆん》、笑ったが、すぐに冷たい目に戻《もど》った。
「画廊《がろう》にはよく顔をお出しになるんですか、こちらにいらっしゃると?」
「滅多《めつた》に行かんよ。だが、それがどうした?」
「大道さんの印象を伺《うかが》っておこうかと思ったんですが……」
「おとなしい青年だった。それだけだ。顔もよく覚えておらん。ともかく、私にお答えできることは何もない。シャワーを浴びるから、これで失礼させてもらうよ」
松吉は煙草《たばこ》を消し、腰《こし》を上げた。
私は、遣手《やりて》の経営者と言われている男の自信に満ちた背中を見送った。何があっても神経症で悩《なや》むことのない男だという印象を持った。
私は村川の屋敷《やしき》を出た。愛車の横にロールスが止まっていた。ベンツとロールスに挟《はさ》まれた、茶色のアルピーヌ・ルノーは、ピカピカのキッチンに現れたゴキブリのように見えた。
ロールスを洗っている男がいた。おそらく村川家の運転手だろう。
私がやあ≠ニ声を掛《か》けると「車、気をつけて出して下さいよ」と冷たく言い放った。私が大した客ではないことを、この男はすぐに見抜《みぬ》いたらしい。
私は黙《だま》ってうなずき、愛するゴキブリに乗った。私が出て行くまで、運転手は水の出ているホースを持ったままこちらを見ていた。
村川の屋敷《やしき》を出た私は、シャンゼリゼのドラッグストアーでフィレ・ド・ブゥフを食べ、広沢が教えてくれた柴田喜代志の住所に車を走らせた。
柴田喜代志のマンションは地下鉄、ルールメル駅のまん前にあった。通りの名前は、フェリックス・フォール。女とナニをしている最中に、卒中で倒れた大統領の名前である。
中に入った。百以上の金属製のメイルボックスがホールの右と左についていた。まるで、マンション墓地のように整然と並《なら》んでいる。私は柴田のアパートの番号を探した。右側のボックスを見ている時、背後で人の気配がした。見るともなしに見ると、ブルー・ジーンズに白っぽいポロシャツを着た東洋人が郵便を取りに来たところだった。もしかすると、柴田かもしれない。私は、ゆっくり男のいる側に近付き、番号を探す振《ふ》りをした。男は、私の存在など眼中にない様子だった。
彼はボックスから引き出した郵便物をその場で調べていた。小脇《こわき》に抱《かか》えたタナー・クロールのセカンド・バッグが何度かすべり落ちそうになった。
鍵《かぎ》がついたまま開け放しになっていた扉《とびら》を私は盗《ぬす》み見た。
K/SHIBATA 1203
私は声を掛《か》けようと思ったが、思い止まった。外出するのなら、跡をつけてみるのも面白い。
私はもう一度、右側のボックスの前に移動し、様子を窺《うかが》った。柴田は私の予想を裏切って、エレベーターの方に戻《もど》った。念のためエレベーターの数字の動きを見た。柴田は地下に下りて行く。彼は駐車場《ちゆうしやじよう》に向かったのだ。
私は車に戻り、建物の右手にあるパーキングの出入り口を見張った。パーキングの自動ドアがゆっくり上がった。
ブルーのMGが出て来て、歩道の通行人をふたりやり過ごす。運転手は七三《しちさん》に分けた髪《かみ》を二度|触《さわ》り、車内のミラーで自分の顔を見た。
MG、Bタイプはフェリックス・フォール大通りをセーブル門のほうに走り出した。柴田の車のあとに二台のセダンが挟《はさ》まった。私は車をむりやり、その後ろに入れた。後ろのライトバンが怒《おこ》ってクラクションを鳴らした。
MGは外環状線《ペリフエリツク》に入り、ブローニュの方に走った。柴田はかなりのスピードを出している。私も負けずにアクセルを踏《ふ》んだ。オートォイユ競馬場の横のトンネルを過ぎた。柴田は運転を楽しんでいるのか、急いでいるのか、無理な追い越《こ》しを平気でやった。ガイドを辞めてもタクシー・ドライバーで飯が喰《く》えそうだ。距離《きより》が開いた。これ以上|離《はな》されると、見失う可能性がある。私も必死でとばした。百五十キロは出ていた。新品のころなら私の愛車もこのくらいのスピードはへっちゃらだっただろうが、もうそんな力はない。エンジンの音が車内に響《ひび》き渡っている。さながら動く工場という感じだった。
MGはポルト・マイヨで外環状線《ペリフエリツク》を下りた。工場は操業を停止し、静けさが戻った。柴田は尾行されていることには気づいていないらしい。ペルシング大通りに車を止めた柴田は、後ろも振《ふ》り向かずに歩き出した。私も車を下り、跡をつけた。パリで最も有名なホールパレ・デ・コングレ≠フ前を通過した。柴田は、グラン・アルメ大通りに面したセレスト≠ニいうカフェに入った。
私はそのカフェの前を通過した。テラスのパラソルが風に揺《ゆ》れていた。日本人の若いカップルが、その下でパリの市内地図を拡げて、観光プランを練っていた。ぽっちゃりとした、戦前だったら美人の部類に入る女が、居眠《いねむ》りだけが唯一《ゆいいつ》の特技といった、ふぬけた顔の男にあなた、何にも知らないんだから!≠ニ刺《とげ》のある口調で言った。
女と視線があった。何となく恥《は》ずかしそうに目を背《そむ》けた。パリに来る日本人は大概《たいがい》、同胞《どうほう》に会うと目を背けることに、前々から気付いていた。だが、何故《なぜ》、そうするのか私には、まるで見当がつかない。
一呼吸おいて私はカフェに入った。
店内は閑散《かんさん》としていて、テラス付近のテーブルに二、三人いるだけだった。
柴田は薄暗《うすぐら》い奥《おく》のボックスに、通りを背にして座った。久し振りの太陽を避《さ》ける者は、日焼けがそのままあの世行きに繋《つな》がりそうな老人か、葬式《そうしき》帰りの奴《やつ》か、有名人か、何かの理由で人目を憚《はばか》りたい奴ぐらいだろう。柴田は老人でも、葬式帰りでも、有名人でもない。
私は、カウンターに行き、煙草《たばこ》に火をつけた。バーテンが注文を取る。カイザール髭《ひげ》の太った男だ。
頼《たの》んだビールが来ると、先に勘定《かんじよう》を済ませた。柴田はエスプレッソをすすりながら、バッグから本を取り出し読んでいた。日本の文庫本らしい。
二|杯《はい》目のビールに口をつけた時、背の高い黒人女が店に入ってきた。服装《ふくそう》は白ずくめ。パンツもブラウスも抜《ぬ》けるように白い。人助けをする仕事をしている女らしいが、そんな服装にも拘《かか》わらず看護婦でないことは一目|瞭然《りようぜん》だった。この女のような尻《しり》の振《ふ》り方で病室をうろついたら、心臓病の患者《かんじや》は一溜《ひとた》まりもないだろう。背にした光がブラウスを通して、乳房《ちぶさ》の形を浮《う》き上がらせていた。
「やあ、ジェニー」カイザール髭のバーテンがやに下がった声で挨拶《あいさつ》した。
「ジャック、いつものね」
「励《はげ》んでるじゃないか、昼間から」
「そんなんじゃないのよ」黒人女は大きなあくびをカウンターに残して、奥のテーブルに向かった。
女は柴田のテーブルに腰《こし》を下ろした。柴田は文庫本をしまい、椅子《いす》に深々と座り直した。カウンターからは、彼等《かれら》の会話は聞こえない。黒人女の注文したペルノーを運んだギャルソンが離《はな》れると、柴田は躰《からだ》を起こし、前屈《まえかが》みになった。黒人女は深刻な表情をしていた。
密談は、きっかり二十分で終わった。
ふたりは私の背中を擦《す》り抜け、外に出ようとしている。
「今夜またな、ジェニー」バーテンが女の背中に声を掛《か》けた。女は振《ふ》り向きもせず、右手を振った。少し間を置いて私も外へ出た。太陽の光を顔に浴びるような恰好《かつこう》をして、彼等の行方を目で追い、散歩以外することのない年金|暮《ぐ》らしの爺《じい》さんのような足取りで跡をつけた。
ペレール大通りとグビヨン大通りの角でふたりは別れた。私はどちらを尾行しようか一瞬《いつしゆん》迷ったが、結局、柴田を尾行することにした。バーテンが女に今夜またな、ジェニー≠ニ言っていたのを思い出したからだ。柴田がそのまま帰宅したら、彼と話せるし、違《ちが》う場所に行けば、また何か新しいことが分かるかもしれない。女のほうは、あのカフェが港らしい。港は逃《に》げないし、船は必ず給油に立ち寄るはずだ。
柴田のMGは、また外環状線《ペリフエリツク》に乗った。相変わらず、ゲームセンターのレースマシーンみたいに飛ばしている。
柴田は、黒人|娼婦《しようふ》に何の用があったのか。深刻ぶった話振りから察すると、何かトラブルがあったに違いない。大道貢殺しに関係があるのか? 関係なかったとすると、無駄骨《むだぼね》を折ったことになる。だが、他に手掛《てがか》りらしいものはあまりないのだから、致《いた》しかたあるまい。
MGはオルレアン門の出口で外環状線《ペリフエリツク》を下り、十数分後にモンパルナス・タワーの横手に止まった。柴田はタワーに入り、観光客に混じって、最上階にある展望台の切符《きつぷ》を買った。私も、次のエレベーターを利用してパリで一番天国に近い建物に上ることにした。いまさら、ガイド研修でもあるまい。一体、柴田は何の用があってタワーに上ったのか。
展望台は観光客で混んでいた。私は、柴田の姿を探した。
彼はカフェにいた。ひとりではなかった。相手は白い上着を着たアラブ人だった。
私は望遠鏡を覗《のぞ》く真似をしながら、ふたりの様子を窺《うかが》った。回りから、ドイツ語や英語が聞こえてくる。
彼等の表情はよく分からなかったが、景色を楽しみに来たのではないことは確かだった。アラブ人は笑いながら、首を盛《さか》んに左右に振《ふ》っていた。何かを否定しているようにも、申し出を断っているようにも見えた。
ちょうど、柴田の後ろの席が空いた。私はゆっくりとそのテーブルに行き、柴田と背中合わせに座った。ビールを注文し、彼等のほうへ耳の神経を集中させた。二人ともひそひそ話しているが、何とか聞こえた。
「……もう少しだ」柴田が言った。
「さっきも言ったが、もうとっくに期限が切れてるんだ」
「だから……」
「日本人は、正直者だって聞いてたが、ありゃ、どうやら嘘《うそ》らしいな」アラブ人はにやにやした口調で言った。
「今日は、これで勘弁《かんべん》してくれ」ポケットから何かを出す音がした。
「これだけか? ボスになんて言ったらいいんだよ」
私はちらっと後ろを振り返った。白い包みに入っているのは、思った通り金だった。
「もう一週間だけ待ってくれ」
「おまえ、当てがあるのか」
「ある」
「この前もそう言ったじゃねえか」
「そのつもりだったんだが……」
「つもりがどうしたんだ」
「計画が狂《くる》ったんだ。実は……」
「いいよ。それ以上しゃべるな。あんたがどうやって金の都合をつけようが、俺《おれ》の知ったこっちゃない。関わり合いになるのは御免《ごめん》だからな。来週は、おまえんとこに行くからな。残りをきちんと揃《そろ》えておくんだぞ」
「わかったよ」
「今でも、バクチに手を出してるのか?」
「いや、止めたよ」
「いい心掛《こころが》けだ。それで長生きできる。じゃ来週な、ムッシュ・シバタ」
アラブ人は軽快な足取りで出て行った。私も席を立った。アラブ人と一緒《いつしよ》のエレベーターで下に降りた。
跡をつける必要はなかった。モグリ・カジノの集金人の帰る先などに興味はない。
車の中で十五分待った。柴田が戻《もど》って来た。
柴田は、外環状線《ペリフエリツク》を通らずに自宅に帰った。
私は、そのまま車を走らせた。なかなか、駐車《ちゆうしや》できる場所が見つからなかった。路地に入り、ブシコ病院の裏に車を停めた。ブシコ病院は、死んだ大道貢のアパートと柴田喜代志のアパートのちょうど中間にある。急いでいた大道が、柴田に猫《ねこ》を預けた可能性はおおいに考えられる。
ともかく、私は柴田に会ってみることにした。
大きな建物で、エレベーターを降りると、左右に長い廊下《ろうか》が続いていた。
一二〇三号室のドアの横のボタンを押《お》すと、チャイムがかろやかになった。
「どなた?」ドアの向うから声がした。
「大道さんのことで、ちょっとお話が」
柴田が顔を出した。相変わらず憂鬱《ゆううつ》そうな表情をしていた。
「大道なんて人、知らないぜ」
「そうですか? じゃ、借金の話でもしようか?」
顔が一瞬《いつしゆん》、上気したように赤くなり、すぐに土色に変色した。
「あんた、誰《だれ》?」
「鈴切信吾。私立|探偵《たんてい》です。入ってもいいかな?」
柴田は黙《だま》って力なくドアを開けた。
かなり大きなリビングにベージュの絨毯《じゆうたん》が敷《し》き詰《つ》められ、壁《かべ》もL字型のソファーも黒色。鉄パイプの棒で支えられた棚《たな》があり、日本製のテレビやステレオが載っていた。絵はない代わりに、天井《てんじよう》まで届きそうなアール・デコ調のポスターが観葉植物の横に飾《かざ》ってあった。その観葉植物の後ろは本棚で、ラルースやロベールの辞書がぎっしりと詰まっていた。公費留学生時代の名残りらしい。だが、私の前に立っている男には公費留学生の名残りはなかった。大柄《おおがら》な、どちらかというと美男に入る男だ。肩《かた》から胸《むね》の筋肉は、日本人ばなれしていた。何かスポーツをやっているようだ。顔の彫《ほ》りも深く、ポルノ映画で主演男優を演じられそうな雰囲気《ふんいき》だ。どことなくセンスが悪い。アメリカ製のスポーツカーみたいに、えらく突《つ》っ張ってるところがある。
私は断りもなく、ソファーに腰《こし》を下ろした。私の座った場所からキッチンの一部が見えた。タイル張りの床《ゆか》にお椀《わん》がふたつ置いてあった。
「猫《ねこ》を飼《か》ってるんですね」
「何だよ、いきなりやって来て、勝手にソファーに座りやがって、猫を飼ってるんだね、だと! 頭がおかしいのか、あんた!」
私は煙草《たばこ》を取り出し、火をつけた。
「ひょっとしたらミツグの猫じゃないんですか?」
「ミツグの猫? 冗談《じようだん》じゃない、俺《おれ》の猫だよ」
その時、リビングのドアのところに立っていた柴田の後ろから猫が悠然《ゆうぜん》と現れた。
シャム猫だった。
「失礼、ミツグの猫ではないようだ」
「あんた、一体何の用なんだ!」
「大道さんのところにいた猫を探してる」
「何で、俺のところに来たんだよ」
「さっきは、大道さんなんて知らないと言ってたが、ちゃんと知ってるじゃないか」
私は煙草をゆっくり吸い、微笑《ほほえ》んだ。
「ぴーんと来なかったんだ。初めからミツグって言ってくれりゃすぐに分かったさ。あんたが来るまで、うたたねしてたもんでね」柴田は空虚《くうきよ》な笑いを口元に浮かべて嘘《うそ》を言った。「あいつの猫じゃないことが分かったんだから出てってくれ」
「いや、まだだ。このソファーは座り心地がいい」
「警察を呼ぶぞ」
「そうしたら、俺よりおっかない警視が相手してくれるぜ」
「あんたの言ってることは、理解に苦しむよ。警察が来て、困るのはあんただけだよ」
そう言って、柴田はアイボリー色の受話器を取った。
私は、にやりとして、柴田を見つめていた。
「分かったよ」柴田は、受話器を叩《たた》きつけた。「あんたは、新聞に出ていた探偵だろう」
「記憶力《きおくりよく》がいいね。その調子ならいろんなことを思い出せそうだ」
「ふざけた口を叩くな!」
柴田の肩《かた》が隆起《りゆうき》した。
「ミツグとはどんな関係なんだ?」
「……関係もへちまもありゃしない。ただの知り合いだよ」
柴田は私の正面に座り、テーブルの上のケースから煙草を取り、カルチエのライターで火をつけた。「でも、会うって言っても、半年に一度くらいだったぜ」
「そのわりには親密な関係だったらしいな」
「どういう意味だ」
「六月頃、ミツグとモンパルナスのピゼリアで、密談してたって話じゃないか? 五千がどうのこうのって話してたそうだな?」
「……あのオカマ野郎《やろう》が言ったんだな。あいつ、目がどうかしてるんじゃないのか」
「そいつがどうしてオカマだって分かったんだ?」
「ミツグの友達だからさ」
「あんたもミツグの友達だったんだろう。ということは……」
「よしてくれよ。ミツグとは単なる知人だし、それに俺《おれ》は女じゃなきゃダメだよ」
柴田は、眉《まゆ》をひそめながら笑っていた。
「ミツグは、自分がゲイだってことを隠《かく》していた。それなのに、単なる知人のあんたが知ってるのは変じゃないか」
「俺は、観光ガイドを十四年やってるんだぜ。サンドニの売春婦にも、ピガールのやり手婆《ばば》あにも、ゲイにも知り合いがいるんだ。ミツグは一言も、裏でやっている商売のことは言わなかったが、俺は知ってたよ」
「で、五千がどうしたんだ?」
「あんた、俺が大道を殺したと思ってるのか?」
「そうだ、疑ってる」
「俺はミツグを殺したりはしない。五千というのはな……俺があいつに申し込《こ》んだ借金の額さ」
「ミツグはあんたの申し出を受けたのか?」
「いや、あっさり断りやがった」
「バクチに狂《くる》うとロクなことがないようだな。リベートまで取って商売に励《はげ》んでも何にもなりゃしないじゃないか」
「余計なお世話だよ」
「その通りだな。金の当てはついてるのか?」
「それも余計なお世話だよ」
「その通りだな」私は窓のところまで歩いた。
木立に囲まれたヴォジラール墓地がすぐ近くにあった。遠くにモンパルナス・タワーが見えた。
「だが、あんたがモンパルナス・タワーで言っていた計画≠チてのには、余計なお世話でも興味がある。何をやらかそうってんだ」
「おまえ、俺をつけ回していたのか?」
「柴田さん、あんた拳銃《けんじゆう》に興味あるか?」
「握《にぎ》ったこともない」
「握るのはオッパイだけか」
「ミツグが殺された拳銃が盗品《とうひん》だったから、そんな質問をするんだな」
「計画ってなんだ?」
「ありゃ、出任せさ。他にどういうんだ? 払《はら》えませんって言うのか?」柴田は笑った。不貞腐《ふてくさ》れた笑いだった。
「墓地が近いぜ」
「え?」
「ヴォジラール墓地が、この窓からよく見えるって話だよ」
「やつらが、俺を殺すと思ってるのか?」
「えらく、落ち着いてるな。本当は当てがあるんだろう」
「そんなものないと言ったらない!」
「借金の額はいくらだ」
「後、六万。フランでな」
「今日は幾《いく》ら渡《わた》したんだ」
「そんなこと、どうだっていいだろう!」
「封筒《ふうとう》の感じからすると、五百フラン札が百枚はあったな。一体、どこからそんな金が出てくるんだ」
「それも借金さ。五千とか三千とか小口に借りてやっと用意したんだ。あんたはミツグが殺《や》られた拳銃と俺が繋《つな》がってると思ってるんだろう?」
私は答えなかった。
「俺は、ミツグを殺してはいないし、拳銃とも関係ない」
「ミツグが拳銃を持っていたのは知ってたか」
「知らなかった」柴田は私を見つめて答えた。本当のような気がした。
私は、何かあったら知らせてくれ、と言って名刺《めいし》を置き、部屋を出た。
シャム猫《ねこ》が玄関《げんかん》ホールで眠《ねむ》っていて、私が通ると薄目《うすめ》を開けてこちらを見た。
私はギャラリー・ムラカワ≠ノ立ち寄ってから事務所に戻《もど》ることにした。
受付を通さず、直接、社長室に行った。
ドアを開けたのは、田島だった。村川隆の姿はなかった。
「また、何の用だ?」
「あんたが見つけてきたアーティストの住所が知りたい」
「……ジャン・ピエールのか?」
「そうだ」
「聞いてどうする?」
「社長はいないのか?」
「下にいるはずだ。すぐに戻ってくるさ。それより、あんた何故、プチの住所が知りたいんだ?」
「質問したいことがあってね」
ドアが開き、社長が戻って来た。
「どうも、今度は何ですか、鈴……鈴切さんでしたね」
「彫刻家《ちようこくか》のジャン・ピエール・プチさんの住所を教えていただきたくてね。午前中に自宅のほうに行き、奥《おく》さんに訊《き》いたのですが、分からなかったものですから」
「彼が今度の事件に関係しているんですか?」
「大道さんと付き合いがあった。しかも、かなり親密な関係だった」
村川隆は、パイプをくわえたまま、こちらに歩み寄って来て、秘書の机の上に腰《こし》を下ろした。田島はドアの横の壁《かべ》に寄り掛《か》かった。
「それは知らなかった。田島クン、君は知ってたかね」
「いえ」
「君が言っていることが本当だとしたら、我々の誰《だれ》かが気づいてもよさそうだがね……尚美はなんて言ってました?」
「奥さんも私が話すまで、知らなかったようです」
「じゃ、何かの間違《まちが》いじゃないのかね」
「いえ、彼等の関係は誰も知らなくても不思議ではないものだったのです」
「というと?」
「ふたりは愛人関係にあったようです」
「つまり、ホモだった」
「そのようです」
「信じられん。大道には、昔からなよなよしたところがあったが、まさかホモだとは思わなかった」
「本当に御存じなかった?」
「どういう意味だ?」
「村川さんもそういう関係を持った経験がおありかもしれないという意味です」
「馬鹿《ばか》馬鹿しい。私は結婚《けつこん》してるんだよ」
「ロックもクラシックも好きという人は案外多いですからね」
「この世界には、そういう連中がたくさんいることは確かだが、私は男には興味がない」
「じゃ、田島さんはどうです?」私は後ろを振《ふ》り向いて訊いた。
田島の青白い顔が薄笑《うすわら》いを浮《う》かべていた。
「あんたの冗談《じようだん》に付き合ってる暇《ひま》はないな。私は、ホモは大嫌《だいきら》いなんだ」
「ジャン・ピエールさんがホモだと知らなかったわけですか?」
「当たり前だ。私は彼の作品に興味を持っただけで、彼という人物はどうでもよかった。社長、私、江崎さんのところに行って参ります」
「ああ、そうだったね。よろしく言っておいてくれ」
田島は挨拶《あいさつ》もなしにドアを開けると出て行った。
「大分、調査は進展しているようですな」
村川はパイプの灰を捨てながら言った。
「そうでもないです」
「そうだ。猫《ねこ》はどうなりました? 見つかりましたか?」
「まだです。その彫刻家《ちようこくか》のところにいるかも知れません」
「そんな関係なら可能性はありますな」
電話が鳴った。村川隆は「失礼」と言って机の上の電話を取った。
「ああ、君か……今、戻《もど》ってきたところなんだ。……ここに鈴切さんがお見えになっていてね……そう……聞いたよ、その話……分かったよ……例の君が怒《おこ》らせたポーランドの画家のところにも寄って来た……ああ……丸く治めたよ……まあ、勝気なのもいいけど……ほどほどにしてくれよ……分かった……伝えるよ」
電話を切った村川は、相手が妻の尚美だと改めて言い、私によろしく、と言っていたと伝えた。
「画家と付き合うのも、なかなか大変なようですね」
「気難しいのが多いですからね」村川は苦笑した。「尚美は、はっきりしているから、ときどき、いろんな人と衝突《しようとつ》しましてね」
「そこで、あなたが事故処理係をやる」
「まあ、そういうことです。あの親子は気が強いですからね」隆は、やや得意げな顔をして答えた。
「ところで、社長は柴田喜代志というガイドを御存じありませんか?」
「柴田?」
「パリに十五年以上住んでいる古株で、大道さんとも、昔からの知り合いだということですから、ひょっとしたら、村川さんも知っているかと思ったんですが……」
「……聞いたことのある名前だな。大道君の仲間だったのかもしれん。だが、はっきりしないな」
「じゃ、現在は付き合いはないわけですね?」
「ない。顔を見れば思いだすかもしれんが……その柴田という男も大道と関係していたのかね」村川隆はスーツの襟《えり》を撫《な》でながら訊《き》いた。
「いえ。単なる知人だったようです」
私は、ジャン・ピエール・プチの住所と電話番号を聞き、ギャラリー・ムラカワ≠出た。
10
私は近くのカフェに入り、依頼人《いらいにん》に電話を入れた。大道の隠《かく》れた交友関係について説明し、ゴンがまだ見つかっていないことも付け加えた。そして、猫《ねこ》を預かっている可能性のある彫刻家《ちようこくか》をこれから訪ねると告げた。西村良江は、料金のほうは足りているかと訊いた。私は、二千フランの小切手を送ってくれと答えた。
車に戻《もど》った私は、ダッシュボードから、パリ郊外地図を出し、ソー市の載《の》っている箇所《かしよ》を開いた。ジャン・ピエール・プチの住まいのある通りはすぐに見つかった。
午後四時二十五分。道が混んでいなければ、五時ちょっと過ぎにはソー市内に入れるはずだ。
郊外といっても、ソー市は、パリから電車で十五分ほどしか掛《か》からないのだ。市の南側に拡がる運河のある大きな公園には、かつて一度だけ足を向けたことがあった。緑おい茂《しげ》った木々の姿が水面に映っていたのを、美しく感じたのを覚えている。しかし、今の私はどうだろう。同じ風景を見ても、同じように感動するだろうか。分からない。だが、どうであれ、それを試してみる時間はなかった。ジャン・ピエール・プチの住まいは市の北外れにあり、私は事件を追って、そこに行くのだから。
私はパリの中を通り、オルレアン門に出ると、そのまま国道二十号線を走った。
彫刻家の家の前に着いたのは五時六分だった。
ジャン・ピエール・プチは瀟洒《しようしや》な二階建の一軒家《いつけんや》に住んでいた。表に小さな庭があり、その横にランチャー・ベータ・スパイダーが置いてあった。
車の出入り口以外を背の低い白い柵《さく》が囲んでいた。両側は空地だった。
通行人の姿はなく、道路に駐車《ちゆうしや》している車もほとんどなかった。手前の空地の横に、茶のトラックが止まっていた。私はその前に車を止めた。
ランチャーの横を抜け、石段を上がり、呼鈴《よびりん》を押《お》した。沈黙《ちんもく》。私はもう一度鳴らしてみて、庭から中を覗《のぞ》こうとした。だが、カーテンが降りていて何も見えない。再び玄関《げんかん》に戻《もど》り、ドアの把手《とつて》を動かしてみた。開いた。
私は中に入った。闇《やみ》が私を包んだ。玄関ホールの明かりを付けた。弱い電球を使っているのか、私のアパートのトイレより暗かった。左手に小さな階段があり、正面に大きなドアがあった。右手はキッチンらしい。
私は、誰《だれ》かいませんか≠ニ言いながら、正面のドアを開け、明かりをつけた。
ぎくりとした。人が立っていると思ったのだ。だが、それは、粘土《ねんど》で作られた立像だった。
両|腕《うで》をやや拡げた恰好《かつこう》で立っている女の像。まだ完成してはおらず、髪《かみ》も目も口もはっきりしていなかった。パンストを被《かぶ》った強盗《ごうとう》のような顔だった。
その後ろの壁際《かべぎわ》にも立像や頭像があるのが目に入った。
広いアトリエだと思った。私は一歩前に進みでた。
彫刻《ちようこく》が靴《くつ》を履《は》いてるわけがない。しかも、白黒のコンビの靴を……。
最後に思ったのはそれだけだった……。
荒《あら》い息の音が聞こえた。誰《だれ》かいる。私の頭は、カメラの絞《しぼ》りを合わせるような動きをしていた。少しずつ焦点《しようてん》があってきた。すると、次第に頭の痛みが激《はげ》しくなってきた。
私はうめいた。自分がうつぶせに倒《たお》れていることに気づいた。板張りの床《ゆか》が目に入った。私は誰かに頭を撲《なぐ》られたのだ。
静かだった。荒い息の正体は私自身だった。どこからともなく、時計の音が聞こえてきた。
私は腕《うで》時計を見た。五時四十四分。
およそ、三十分ばかり私は気を失っていたらしい。頭だけではなく、右|肩《かた》も痛かった。倒れた時、床に打ちつけたようだ。
私は、彫塑《ちようそ》用らしい製作台の足に掴《つか》まり、膝《ひざ》を立てた。吐《は》き気はしなかった。頭の芯《しん》は相変わらず痛かった。
ふいに後ろでドアが開いた。
闘《たたか》う気力はある。私はそのままの姿勢で相手が来るのを待った。
「気がついた?」
意外にも相手は女だった。
「君は……」私は顔を上げた。
「おしゃべりは後、冷たいタオルを用意したわ」
女は私を抱《だ》きかかえるようにして、背もたれのない低い椅子《いす》まで連れて行った。私はそれに腰《こし》を下ろしタオルを顔に当てた。撲られた箇所を触《さわ》ってみた。出血していた。
「君は誰《だれ》?」
「私はミュリエール。プチさんのモデルよ」
「どうして、ここに?」
「約束《やくそく》があったの、プチさんと。五時半からデッサンすることになっていたのよ。私、車で来てるの。お医者まで連れて行ってあげるわ」
「医者はいい。ありがとう」
「でも……」
私はもう一度|丁寧《ていねい》に断った。
女はブルーネットの髪《かみ》を長く伸《の》ばし、緑色の目をしていた。黒いトレーナーに茶のズートパンツ。パンツはサスペンダーで吊《つ》るされていた。目はペパーミントのような緑色だった。
「何か飲む?」
「水を一杯|頼《たの》む」
「OK」
ミュリエールが出て行くと、私は顔を何度も振《ふ》り、もう一度深呼吸をした。吸いたいと思ったわけではなかったが、無意識に煙草《たばこ》を取り出していた。
私は、フィリップ・モリスを吸いながら辺りを見回した。
ドアの両|隅《すみ》が一メートルばかり引っ込《こ》んでいる凹型《おうがた》のアトリエだった。私を撲《なぐ》った奴《やつ》は、その引っ込んだところに隠《かく》れていたのだ。アトリエは雑然としていた。ダンボール箱、シャベル、モデルが乗るらしい縦、横一メートルほどの台、引き出しがふたつついたがっしりとした木製の机。その上にはごちゃごちゃに物が載っていて、その横の壁《かべ》にはボードが吊ってあり、ノコギリ、鉄線、かなづちが掛《か》かっていた。
「あなた、ここで何してたの?」
水の入ったコップを渡《わた》しながら、ミュリエールが訊《き》いた。
「プチに会いに来たんだ。そうしたら、いきなり頭をガツン」
「ジャン・ピエールにやられたの!」
「分からない。チャイムを鳴らしても誰《だれ》もでなかった。それで把手《とつて》を回してみたら開いた。アトリエに入ろうとした時、やられたんだ」
「私が来た時もドアに鍵《かぎ》が掛かってなかったの。それで中に入ったら、あなたが倒《たお》れてたわけ」
「君は何時にここに来た?」
「五時半ぴったり。それが約束《やくそく》の時間だったんですもの」
「時間に正確なんだね」
「偶然《ぐうぜん》よ。いつも遅刻《ちこく》ばかり。たまに時間ぴったりに来たら、妙《みよう》なことになっちゃった」
「かなり前から彼のモデルをやってるのかい」
「半年くらい前からだけど……でも、どうしてそんなこと訊くの? あなた、誰よ。画廊《がろう》の人なの?」
「画廊ってギャラリー・ムラカワ≠フこと?」
「そうよ」
「僕《ぼく》はシンゴ・スズキリ。私立|探偵《たんてい》だよ」
「私立探偵?」
ミュリエールは大きな目をさらに大きくした。
「ジャン・ピエールは、相変わらずいないのか?」
「そうなの。おかしいわ。約束をすっぽかしたことなんて、これまで一度もなかったのよ」
私は少し元気になった。傷《きず》はたいしたことはなく出血も止まった。
私は、灰皿《はいざら》を探しに、その木机のところまで行った。何げなく、机の前の床《ゆか》を見た。血のような液体がべっとりついていた。私はしゃがんで調べてみた。果たして、血だった。
血痕は部屋の中央にもあった。私はくわえ煙草《たばこ》のまま、その跡を追った。するとアトリエの右隅《すみ》に行き着いた。そこで血の跡は消えていた。
「何やってるの?」
「血の跡がある。それも、まだ乾《かわ》き切ってない血だ」
「あなたのじゃないの?」
「僕は、ドアを入ったところで撲《なぐ》られたんだ」
ミュリエールは机の前の血を見ていた。
私は、床の板が三枚、捲《めく》れるように作られているのに気づいた。地下室があるのか。私は、消した煙草をポケットに仕舞《しま》い、遅蒔《おそま》きながら、ハンカチを出し、指紋《しもん》が付かないように気をつけながら、その一枚を捲った。幅《はば》三十センチ、長さ二メートルほどの床板を捲り壁《かべ》に立て掛《か》け、中を覗《のぞ》いた。粘土《ねんど》の匂いがした。
地下室に通ずる秘密の入り口ではなかった。暗くてよく分からないが、人が倒《たお》れていることは確かだった。私は残りの二枚の床板を捲った。
ミュリエールが私のほうへ近付いて来た。
「見ないほうがいい」
「何故?」
「人が死んでる」
ミュリエールは、「え!」と短く言って、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せたが、おそるおそる「ひょっとしたら、ジャン・ピエール?」
「人相から判断するとそうらしい」
「……あなた、彼に会ったことないの?」
「声も聞いたことないよ」
「私に見せて。死体確認をしてあげる」決意のこもった声。
「卒倒《そつとう》されると面倒だからいいよ」
「大丈夫《だいじようぶ》。そんなヤワじゃないわ」そう言ったわりには顔が青い。
ミュリエールは私を押し退《の》け、コブラの入った籠《かご》でも覗くような恰好《かつこう》で穴の中を見た。
生唾《なまつば》をごくりと呑《の》み、モデルはうなずき、
「ジャン・ピエールよ」と低い声で言った。
私はミュリエールに代わって、もう一度中を見た。
ジャン・ピエール・プチは目を見開き、口を微《かす》かに開けて仰向《あおむ》けに倒《たお》れていた。腹と心臓に弾《たま》をぶちこまれている。死体の様子からすると、死んでまだ間もないようだ。
ジーパンに黄緑色のTシャツを着ていた。撃《う》たれた箇所《かしよ》の回りは血だらけで、胸と腹に大きな薔薇《ばら》の花をつけているように見えた。底まで五十センチほどあった。腕《うで》をつっこんでみた。死体の下は、粘土《ねんど》だった。
ジーパンのポケットを探ってみた。墓|荒《あら》しのような気分だった。ポケットからは、鍵《かぎ》が一本出てきただけだった。
「ミュリエール、君は案外気が強いんだな」
「私、警察学校に通っていたことがあるのよ」
私は口笛《くちぶえ》を吹いた。
「じゃ、この場合、君のはいいとしても、僕《ぼく》の指紋《しもん》は拭《ふ》いておいたほうがよいと思うだろう? 御意見は?」
「他の指紋も消えてしまうわよ」声が上擦《うわず》っていた。いくら警察学校出身でも、やはり、死体には慣れていないらしい。
「構わんよ。今時の殺人犯は指紋なんか残して行かないよ」
私は床板《ゆかいた》を元に戻し、手に触《ふ》れたものを一生懸命思い出し、指紋を消して回った。
その間、ミュリエールは放心したように、作業台の横にあった丸|椅子《いす》に座っていた。
「やっぱり、ショックだったらしいな」
「死体を見たからショックを受けたんじゃないのよ。昨日まで元気にしていた人が、あんなになってしまうなんて……」
「警察に電話したいんじゃないのか? 元おまわりさん?」
「別に。私はもう警察とは縁がないのよ」ミュリエールは、少し微笑《ほほえ》んでから、大きな溜息《ためいき》をついた。
「僕は二階を調べて来るが、君はどうする。一緒《いつしよ》に来るかい?」
ミュリエールは黙《だま》ってうなずいた。
私達は二階へ上がった。二部屋あり、ひとつは居間だった。奇妙《きみよう》な居間。部屋の中央が四角く掘《ほ》ってあり、その回りが一段高くなっていた。そこには厚手のクッションや薄《うす》い毛布のようなものが置いてあった。それがソファーの代わりらしい。壁《かべ》は明るいブルーで、ところどころに、石膏《せつこう》で出来たライフマスクが飾《かざ》ってあった。そのうちのひとつは、大道貢にそっくりだった。血の気のないのは、死んだ大道と同じだったが、マスクのほうが穏《おだ》やかな顔をしていた。
荒された形跡《けいせき》はなかった。もっとも、家具らしいものは一切なく、電化製品といえば、大きく弧《こ》を描いた照明灯と部屋の隅《すみ》にあるステレオだけなのだから、荒しようがない。
ミュリエールは二階に一度だけ上がったことがあると言い、何の調査をしているのかと訊《き》いた。私は答えずに、居間を出た。
隣《となり》は寝室《しんしつ》だった。こちらも整然としていた。私は窓の横にあるライティング・ビュローの引き出しを探った。はっきりとした探し物があるわけではなかった。探偵《たんてい》のルーティン・ワーク。
下の引き出しに、小切手帳が入っていた。結構、金使いが荒かった。身分証明書、運転|免許《めんきよ》証、金、といった貴重品が入った黒い財布と車の鍵《かぎ》はナイトテーブルの引き出しの中にあった。
ジャン・ピエール・プチ、四十八|歳《さい》。ラ・ロッシェル生まれ。
金は、二千フランほど入っていた。他には小さなアドレス・ブックが出てきた。私はそれだけをポケットに収め、後は元に戻《もど》した。
私が証拠《しようこ》の品を隠匿《いんとく》したのを見ても、ミュリエールは何も言わなかった。
下に降りた私はキッチンを覗《のぞ》いた。猫《ねこ》の餌《えさ》とかボールとかはなかった。ゴンはここには来ていないようだ。
私は、ミュリエールに、出したものを元あった場所に仕舞《しま》ってくれ、と言った。モデルは言われた通りにした。
もう一度、アトリエを覗いた。
妙《みよう》な気分にとらわれた。撲《なぐ》られる前と同じ位置から中を眺《なが》めていたのだが、印象が違《ちが》っていた。何かがおかしい。
すぐに気づいた。まだ完成していない女の立像の向う側の壁際《かべぎわ》にあった裸像《らぞう》が数体、消えていた。
私は、ひょっとして思い違いかもしれないと思い、その壁際まで行ってみた。
「どうかしたの?」訳の分からないまま、私の後について来たミュリエールが訊いた。
「僕《ぼく》が来た時、ここに彫刻《ちようこく》があったんだ。君が最近、ここに来たのはいつだ?」
「昨日の同じ時刻よ」
「その時、ここに何があったか覚えてるか」
「私をモデルにした立像が四体あったわ」
床《ゆか》に四角い台座の跡《あと》が残っていた。
「ジャン・ピエールを殺した連中が持ち出したのかしら」
「おそらくね。さあ、出よう。もうここに用はない」
ミュリエールは、アトリエの隅《すみ》に置いてあった黒い大きなバッグを掴《つか》むと、私の後に従った。
私は死人のポケットに入っていた鍵で表のドアを閉めた。
六時四十分。フランスの夏は日暮《ひぐれ》が遅《おそ》い。黄昏《たそがれ》とも呼べないくらい明るかった。
ミュリエールの車は反対側の歩道の縁《ふち》に止めてあった。
「食事でもどう?」
「……食べる気になるかしら、私」ミュリエールが言った。
「君なら大丈夫《だいじようぶ》だよ」
「どうせ、いろいろ聞かれるんだろうから、安くは済まないわよ」
「じゃ、八時に、セレクト≠ナアペリティフってのはどう?」
「いいわ」
ミュリエールのブルーメタルのタルボ・オリゾンGLSは勢いよくエンジンをふかし出て行った。
私も自分のアルピーヌに乗った。
また或《あ》ることに気づいた。私が来た時、小型のトラックが止まっていた。あれで、犯人は彫刻《ちようこく》を持ち出したのではなかろうか。残念ながら、ナンバーは見ていなかった。
私は、パリに向かう途中《とちゆう》、公衆電話から管轄《かんかつ》の警察に電話を入れた。匿名《とくめい》で、ジャン・ピエール・プチの死体が粘土《ねんど》倉にあると教えた。
11
モンパルナス大通りに面したセレクト≠ヘ人で混み合っていた。ミュリエールと私は、テラスでアペリティフを楽しむことにした。
「鈴切さんは、アペリティフにもカルヴァドスなの?」キール・ロワイヤルを飲みながら、ミュリエールが驚《おどろ》きの声を上げた。
「ああ。俺《おれ》はこの酒が好きだから、食前も食後もこれにしているんだ」
「いつでも、そうなの?」
「捜査《そうさ》中は、ビールだとかコニャックを飲むこともある、臨機応変にね」
「女の人といるときは、臨機応変にならないの?」
「ディジェスティフをアペリティフとして飲むのが嫌《いや》なのか?」
「いいえ。ちっとも構わないけど、女の人の前で流儀《りゆうぎ》を無視する人って珍《めずら》しいと思っただけよ」
「女の前で流儀を無視する男なんて、一杯《いつぱい》いるじゃないか。突然《とつぜん》、抱《だ》きつく奴《やつ》とか……」
私は笑って言った。
「私、酒の話をしていたのよ、まったく……」
彼女《かのじよ》はギンガム・チェックのスキーパンツに黒のブラウスに着替《きか》えていた。
私は彼女の着ている物を褒《ほ》めた。お世辞ではなかった。本当に素敵だと思ったのだ。
私もミュリエールも、ジャン・ピエールについては一言も触《ふ》れずにいた。お互《たが》い、自分のことをほんの少し話し、ファースト・ネームで呼び合うようになってすぐに店を出た。そして、ル・デュック≠ワで歩いた。
ル・デュック≠ヘモンパルナス墓地からすぐのところにある。魚料理が専門で、フランス風の刺身《さしみ》を食べさせる店なのだ。
「よく席が取れたわね。コネでもあるの?」
木の壁《かべ》を背にし、黒い長|椅子《いす》に座ったミュリエールが、満席のテーブルを見回しながら訊《き》いた。
「コネなんかない。実は、僕《ぼく》も来るのは初めてなんだ。スズキの刺身を味わってみたくてね。運が良かったんだ」
「私、刺身、大好きよ」
「日本料理屋によく行くのか」
「たまにね」
「じゃ、ふたりで、フランス風の刺身を試してみよう」
私達は、スズキとサケの刺身をオードブルにし、シャブリを飲んだ。
「とてもおいしいけど、刺身はやはり、醤油《しようゆ》とワサビね」
「いやに通ぶるじゃないか」
「ぶってなんかいないわよ。本当にそう思うんですもの」ミュリエールは少し機嫌《きげん》を悪くしたようだった。
「日本の刺身と比べちゃ、いけないよ。これはこれで味わうべきだよ」
「それも、そうね」
「胡椒《こしよう》やオリーブを使うというアイデア、悪くない」
「白ワインには、このほうが合うわね」
「賛成だね」
刺身談議が何となく下火になり、シャブリがほとんど空になった時、ミュリエールが唐突《とうとつ》に訊《き》いた。
「何でジャン・ピエールは殺されたりしたのかしら?」
「やはり気になるかい?」
「知ってる人が殺されたんですもの。動機は何かしら?」
「分からない」
「シンゴが調査してることについて聞かせて」
私は、簡単に大道貢のこと、猫《ねこ》のこと、ジャン・ピエールがゲイだったことを話した。
「ジャン・ピエールがゲイだったことは知ってたわ」
「彼から聞いたのか?」
「ええ。私のタイプの男じゃなかったから、ゲイだと聞いて安心したの。仕事の後にしつこく言い寄られるのは御免《ごめん》だからね」
「前にそういうトラブルがあったのか」
「あったわ。自称も含《ふく》めて、アーティストには、多かれ少なかれ、ひとりよがりなところがあるでしょう? 自分が好きだと思うと、相手も自分のことを好きだと決め込《こ》んでしまうのよ。相手をカンバスか粘土《ねんど》だと思ってしまうのね。その点、ゲイのアーティストは気楽よ。対象が女じゃないから」
ミュリエールは酒豪《しゆごう》らしい。私はもう一本シャブリを頼《たの》んだ。
「アーティストのモデルをやって長いの?」
「二年くらい」
「プチとはどこで知り合ったんだ?」
「友達の画家のところで紹介《しようかい》され、是非、モデルになってくれって言われたのよ」
「紹介した画家は、プチと親しかったのか?」
「それほど、良く知らなかったようよ。その日は、ちょっとしたパーティだったから、よく知らない人も大勢来ていたのよ」
「彼は以前から、彫刻《ちようこく》で飯を食っていたのかな」
「そんなはずはないと思う。その画家の話だと、彼は全く無名だし、画廊《がろう》もついていない。それに、賞を取って国に買い上げられたこともない。だから、個人的に買ってくれる人はいたでしょうが、それで生活しているとは考えられない、とのことよ。ギャラリー・ムラカワ≠ェ初めての大きな買い手みたい」
「埋《う》もれた才能をギャラリー・ムラカワ≠ェ発見したわけか」
「どうだかね。私は素人《しろうと》だから分からないけど、大した彫刻だと思えないわ。私は、無名の人を贔屓《ひいき》目に見ようとする傾向《けいこう》があるんだけど、彼のはちょっと……」
シャブリとほぼ同時に注文しておいたメインディシュが来た。
ほうぼうのバター風味。
「なかなかいける」私は一口食べてから言った。
「やはり、ゲイに関係した殺しかしら」
隣《となり》の席にいた老人夫婦の視線を感じた。ゲイ≠ニか殺し≠ニかいう言葉を耳にする度に、彼等《かれら》は眉《まゆ》をひそめ、胃袋《いぶくろ》に神経を走らせていたに違《ちが》いない。せっかく、健康のために、少しは躰《からだ》に良い、あっさりめの魚料理を食べに来たのに、これでは何にもならないという顔をしていた。
ミュリエールも彼等の無言の圧力を感じたらしい。私が何も言わないのに、幾分《いくぶん》、声をひそめて、そのことについてどう思うかと、改めて訊《き》いた。
「その可能性はおおいにあるが、拳銃《けんじゆう》……」私はそこで、もう一度、隣の席をちらっと見た。「拳銃が盗《ぬす》まれた事件も引っ掛《か》かってるんだ?」
「依頼人《いらいにん》の猫《ねこ》はどうなったのかしら?」
「それも謎《なぞ》なんだ。プチは猫のことを話したことなかったか?」
「私、七月は、ずっと、ストラスブールに居たの」
「君の故郷なのか?」
「そうよ」
「プチのアトリエで誰《だれ》かにあったことはなかったか?」
「昨日、東洋人に会ったわ」
「タジマという男か?」
「名前は知らない」
「じゃ、色付きの眼鏡をした、色の白い男だった?」
「ええ、そうよ」
「彼等が何を話してたか聞かなかったか?」
「ジャン・ピエールの言った一言だけ聞いたわ。私をアトリエに入れ、ドアを閉め、彼はその来客を玄関《げんかん》ホールまで送り出したの。その時、絶対、俺《おれ》じゃない≠チて彼が言ったのよ」
「それだけか?」
「こんなことなら、シンゴの為《ため》に立ち聞きしておくんだったわね」
ミュリエールは微笑《ほほえ》んだ。
メインディシュもおおかた平らげ、二本目のワインも残り一杯《いつぱい》分ほどになった。私は最後の一杯をミュリエールのグラスに注いだ。
「美術のモデルって儲《もう》かるのかい?」
「大したことないわ。私のはアルバイトよ」
「じゃ、本職は?」
「本職ってほどじゃないけど、SFの翻訳《ほんやく》やってるの」
「探偵《たんてい》小説じゃなくて良かったよ」
「どうして?」
「妙《みよう》に現実の事件に興味もたれると面倒《めんどう》だからね」
「私が、警察学校に行ったことあるのを忘れたの?」ミュリエールはエスプレッソのカップを宙に浮《う》かせたまま、意味ありげに笑った。
「忘れちゃいないよ。でも、何で辞めたんだ?」
「さあ、何故《なぜ》かしら……きっと犯人を捕《と》らえるという仕事が向いてないって分かったからよ」
「学校に入ったころは疑問を感じなかった?」
「感じなかったわ。親友の女の子が強姦《ごうかん》されたことがあったの。そのとき、警官になろうと思ったのよ」
「いつごろの話?」
「十年前よ。でも、学校に入ったら、警察のヒエラルキーみたいなものが我慢《がまん》出来なくて、結局|挫折《ざせつ》してしまったの」
「それだけの理由?」
「探偵は何でも疑ってかかるのね」
「何でも疑ってかかったりはしないよ。ただ、勘《かん》が働いたときだけは……」
「じゃ、今、勘が働いたってわけね」
「そうだ」
「さっき、友達が強姦されたって話したでしょう。その犯人が捕《つか》まったの、私が学校に通ってるころにね。その頃《ころ》、或《あ》る刑事《けいじ》と、親しくしていたから、分かったのよ。ところが、その犯人は、釈放されてしまったの。その理由分かる?」
ミュリエールはワイングラスを揺《ゆ》らしながら訊《き》いた。
「国家にとって重要な人間だった?」
「御明察。|DST《デエステ》(国土保安局)の幹部でね、その時、彼なしでは出来ない重要な任務を遂行中だったの」
「で、身柄《みがら》は|DST《デエステ》あずかりとなった」
「そういうこと。私、それで、警官になるのが馬鹿馬鹿しくなってしまったの」
「警察は国家|企業《きぎよう》だから、国事を優先する」
「そう。私に情報を洩《も》らしてくれた刑事も、同じようなことを言ってたわ。警察には失望したけど、でも、犯罪調査っていうのは魅力《みりよく》的な行為《こうい》だと、今でも思ってるわ」
「警察と違《ちが》って、私立探偵の調査っての面倒《めんどう》なことが多いぜ。科学捜査をやるわけじゃないし、合法的強制捜査が出来るわけじゃないし……」
「じゃ、何で私立探偵なんかになったの?」
「小さい頃、タクシードライバーになりたかった。そのせいだよ」
「私立探偵とタクシードライバーとどんな関係があるの」
「乗せる客がその都度違うし、行き先も違うところが似てると思わないか」
「そう言われればそうね。一定のところに留まるのが嫌《きら》いなのね」
「好きも嫌いもない。それが、俺《おれ》の運命のような気がするんだ」
「何故?」
「よく分からない」
「あなたが、フランスに生まれてフランスに育った日本人だということと関係あると思う?」
「多分ね」
「シンゴは、自分のことを、西洋人だと思う? それとも東洋人だと思う?」
「それも謎《なぞ》だね。おそらく、その両方。場合によって変わるんだ。子供の頃《ころ》、両親とは全部日本語だったし、学校に行けば全部フランス語だった。どちらがいいかなんて考えたこともなく、自然にそれを使い分けていた」
「もっと確固たる基盤《きばん》が欲しいと思わない。俺《おれ》は日本人だ、といったような。或《ある》いはその逆でもいいんだけど……」
「欲しくないな。第二次世界大戦の時の話だけど、アメリカの日系二世の中には、アメリカ人だと、皆《みな》に分かって貰《もら》いたくて、アメリカのために勇敢《ゆうかん》に闘《たたか》った人間がたくさんいたんだ。君のいう基盤が欲しくて、彼等《かれら》は星条旗に命を捧《ささ》げたわけさ。彼等の勇敢さには、敬服するけど、俺は、それほどまでして基盤が欲しいとは思わない。俺に基盤があるとしたら、西洋人か東洋人か分からない状態がそれなんだよ。私立|探偵《たんてい》という商売にも、どっち付かずのところがあるじゃないか? 或る時は警官みたいに、或る時は悪党みたいに、また或る時は市民みたいに振《ふ》る舞《ま》うんだからね」
「警察と仲良くしないのも、そのせいなのね」
「犯人を知りたいと思うが、警察の手先になるのはまっぴらだ」
「警察に協力することもあるの?」
「ある。臨機応変につき合うことにしてるんだ」
「我が道を行くってわけね」
「そういうと聞こえはいいけど、ただ青臭《あおくさ》いだけなんだよ」
「でも、青臭さってひとつの力だと思うわ」
「だが、実際は、警察と関係するような事件を私立探偵が引き受けることは滅多《めつた》にないんだよ」
「普段《ふだん》はどんな仕事をやってるの?」
「何でもやるよ」
「例えば、離婚《りこん》の調査なども?」
「もちろん」
「離婚の調査なんて下らないと思わない?」
「下らないよ」
「でも、やるわけでしょう?」
「金のためにね」
「でも、どちらかが、別れたいと思えば、それでもう男と女なんて終わりじゃない。相手の不利になることを探して、少しでも金を巻き上げようとか、慰謝料《いしやりよう》を減らそうとかいうのは、私には理解出来ない」
「君は素敵だよ」
「茶化さないで。関係が最悪になった夫婦だって、以前には最高だった時があったはずよ。その思い出まで汚《けが》すことになるのよ」
「ダメになった男と女の思い出は、一度、薄汚《うすよご》れないと、美しくならない。残念なことだけどね」
「…………」ミュリエールは髪《かみ》を少し撫《な》で上げ、エスプレッソをすすった。「シンゴは、そういう経験があるの?」
「そういうって、離婚のこと?」
「そう」
「結婚したこともないよ。でも、美しい思い出は二、三ある」
「薄汚れてから、美しくなった思い出?」
ミュリエールは微笑《ほほえ》みながら訊《き》いた。
私はうなずいた。
私の横をギャルソンが通った。私は勘定《かんじよう》を頼《たの》んだ。
「でも、今度の事件は男と女の事件じゃなさそうね」ミュリエールが言った。
「そんな感じだな」
「調査の経過を私に教えてくれる?」
「アームチェアー探偵《たんてい》ならやらせてやるよ」
私は、彼女の車のあるところまでミュリエールを送った。
どこへ行くのかと彼女が訊《たず》ねた。私は仕事だと答えた。
「私も一緒《いつしよ》に行きたい」
「ダメ。今から行くところ女人禁制なんだ」
12
私は、シャンゼリゼとポルト・マイヨを一直線に結んでいるグランダルメ大通りを、アルピーヌ・ルノーでつっ走っていた。シャンゼリゼ大通りから、凱旋門《がいせんもん》を渡《わた》り、この大通りに入ったのだが、いつ通っても暗く寂《さび》れた感じがする。シャンゼリゼ大通りに決して引けを取らない大きさを持ちながら、何故か活気がない。気が滅入っている時は絶対|避《さ》けて通るべきアヴェニューである。車の中では、ダイナ・ワシントンが『ゼア・イズ・ノー・グレイター・ラブ』を歌っていた。
午後十時を少し過ぎている。私は陰気な大通りとポルト・マイヨ広場が交わる地点で車のスピードを緩《ゆる》めた。カフェセレスト≠フ前に車を止めるのは不可能だった。仕方なく私は広場に出た。照明灯が煌々《こうこう》と輝《かがや》いていて、まるで、客席から舞台《ぶたい》に上ったような感じがした。私は、ペルシング大通りを右に折れ、ホテルコンコルド・ラファイエット≠一回りしてグヴィヨン大通りに入り、そこでやっとスペースを見つけた。無理矢理、車の尻《しり》を入れた。前進とバックを三度|繰《く》り返し、後ろにいたメルセデスに二度|触《さわ》って、何とか収めた。
カフェセレスト≠ヘ午後とは違《ちが》い、食後の一杯《いつぱい》を愉《たの》しむ連中で混んでいた。アメリカ人の団体客らしい中年の男女がテラスで陽気に騒《さわ》いでいた。パジャマみたいなジャケットを着た太鼓《たいこ》腹の男が、イタリアの国旗と同じ配色のワンピースを着たプラチナ・ブロンドの女の頬《ほお》にキスをした。回りが何か言い、女が嬌声《きようせい》を上げた。
私はまっすぐカウンターに行き、カルヴァドスを注文した。そしてホールの方に目をやった。私が探している女の姿はなかった。
二杯目のカルヴァに手をつけた時、私はカイザール髭《ひげ》を伸ばしたバーテンに声を掛けた。
「今夜、ジェニーは来てないのか?」
「さっき来てましたが、客を拾って出て行きましたよ」カイザール髭はグラスを磨《みが》きながら答えた。
「戻《もど》ってくるかな」
「多分ね」気のない返事だ。
私は煙草《たばこ》に火をつけ、大きく吐き出した。
「あんた、黒人が好みかい?」バーテンが訊《き》いた。
「いや、別にそういうわけじゃないが……あの子は気にいってるんだ」
バーテンはグラス磨きを止め、私の前に来た。
「俺《おれ》の知ってる子でいいのがいるんだけどな……そいつは日本人が好きなんだよ。あんた日本人だろう?」カイザール髭が私の顔の前にあった。シャボンでもつければ、シェービングブラシの代《か》わりになりそうだ。
「そうだけど、俺はジェニーに会いたいんだ」私はシェービングブラシから顔を逸《そ》らしながら言った。
「残念だな。本当にいい子で、日本人|贔屓《びいき》なのに」
「大概《たいがい》の商売女は日本人贔屓だよ。おとなしくて金払《かねばら》いが良くて、おまけに淡泊《たんぱく》だからな」
「だが、あんたは淡泊そうじゃないぜ。ジェニーが好みってんだから」
「ああ、俺は淡泊じゃないさ。でもおとなしくもなければ、金払いもいいほうじゃないぜ」
「変な日本人だな。もうパリは長いのか?」
「ああ、あんたの髭くらいにね」
バーテンは思わず自分の髭に手をやり、苦笑した。
「ところで、ジェニーってそんなにいいのかい?」
「本当のことをいうと、まだ俺は試してないんだ。俺の友達がいいって勧めるもんだから来てみたわけさ」
バーテンはちょっとがっかりした顔をした。
「必ず、戻《もど》って来るかな、彼女。来なければ待っていても仕方がないからな」
「毎晩ひと稼《かせ》ぎしたら、一杯《いつぱい》引っ掛《か》けに来てるから、今夜も来るよ。辛抱《しんぼう》強く待ってな。どうしても、我慢《がまん》できなくなったら、俺の紹介《しようかい》する女のところに行けばいいじゃないか」と言ってバーテンはウインクをした。
私はピンボールをして暇《ひま》を潰《つぶ》した。五ゲームやって一度も取れなかった。三杯目のカルヴァをエスプレッソと一緒《いつしよ》に飲み、もう一度|挑戦《ちようせん》した。今度は調子がよく、後一万点でワン・ゲーム稼《かせ》げるところまできた。その時だった。
「わたしに用ってあんた?」
「え?」私は振《ふ》り返った。玉はフリッパーで止めたままにしておいた。
「待ちくたびれたよ」
「でもピンボールのほうがいいなら、わたし行くわよ」黒人女は静止している玉を見てそっけなく言った。
「ちょい待ち。好きなもん飲んでてくれ。これから、あんたと素敵な夜を過ごせるかどうか、占《うらな》ってるんだよ」
「可愛《かわい》いのね、あんたって。でも、そんな占いなんかやる必要ないわ。結局、玉は落ちるところにしか落ちないんだから」女の目が笑っていた。愛嬌《あいきよう》のある目だ。
「俺《おれ》は過程を大事にするんだよ」
「そういう人ってしつこいのよね」ぶ厚い焦茶《こげちや》色の唇《くちびる》がだらしなく開き、またも意味ありげに笑った。
私も笑い返し「すぐだから、一杯飲んで英気《えいき》を養っててくれよ」
脚線美《きやくせんび》をやたらと強調した黒いストッキングと黒いホット・パンツが離《はな》れていった。
私は、難なく一万点を突破し二ゲーム稼いだ。おまけに下一|桁《けた》の数字も当たった。今夜はついているのかもしれない。
稼いだゲームをそのままにして、私はカウンターに戻《もど》った。ジェニーはペルノーを引っ掛けていた。
「今夜は吉とでた。行こうぜ」
私は勘定《かんじよう》を済ませ、カフェを出た。カイザール髭《ひげ》が濡《ぬ》れた目でジェニーの尻《しり》を見ていた。
ジェニーのアパートは、十分ばかり歩いた静かな住宅街にあった。エレベーターは鉄骨が剥《む》き出しの旧式で、大道貢のアパートのものより狭《せま》い感じがした。私は五階に着くまで、黒人特有の匂《にお》いを嗅《か》がされていた。私はその匂いは嫌《きら》いではなかった。だが、その匂いを消そうとしてつけている香水の匂いには往生した。
ジェニーの部屋はこぢんまりとしたワンルームだった。黒と銀の縦縞《たてじま》の壁紙《かべがみ》とカーテン。部屋の中央に黒いカバーの掛《か》かったクィーンサイズのベッドが置いてあった。クローム・パイプで縁取《ふちど》られたナイトテーブルの上にはコカ・コーラのマークの入った灰皿《はいざら》が載っていた。ベージュの絨毯《じゆうたん》の上には、テレビと電話が無造作に置いてある。入ってすぐ右に、小さなキッチンがあったが、グラス以外、食器らしいものはなかった。この調子だと備えつけの冷蔵庫は空だろう。まるで生活の匂いのないディスコのような部屋だった。ここはジェニーの仕事部屋なのだ。
「マイケルにアイマスクをさせちゃどうだい」私は窓際にあったステンレス鋼で作られた椅子《いす》に腰《こし》を下ろし、壁の一面を見ながら言った。そこには、マイケル・ジャクソンの大きなポスターとジェニー自身の等身大の写真が飾《かざ》ってあったのだ。マイケルは服を着て、にこやかに笑っていたが、ジェニーのほうは素《す》っ裸《ぱだか》で官能に悶《もだ》えているような表情をしていた。
「あーら、あんた恥《は》ずかしいの」
「大いにね」
「でも、私のマイケルは私のセックス・シーンを見たがるのよね」ジェニーは靴《くつ》を脱《ぬ》ぎながら言った。
「へーえ、そうなのかい。週刊誌に売ればいい値になるな、その情報」
「なに馬鹿《ばか》なこと言ってるの。四百五十、前払《まえばら》いよ」
ジェニーはベッドに腰掛け、運動着でも脱ぐような手つきで、ラメの入った臙脂《えんじ》のタンクトップを脱いだ。小さいが引き締《し》まった乳房《ちぶさ》が微《かす》かに揺《ゆ》れていた。
私は黙《だま》って百フラン札を五枚、ベッドの上に置いた。
「さあ、早く脱いでよ。過程を愉《たの》しむって言ったって、おしゃべりするわけじゃないでしょう」
「ところが、今夜は、そのおしゃべりをしに来たんだ」
「え! なんですって!」ジェニーは呆《あき》れたという顔をして、大声で笑った。色気も何もない嘲笑《ちようしよう》の笑いだった。「そういう客は初めてじゃないけど、まさか、あんたがね……で、本当におしゃべりするだけでいいの。おしっこするところを見たいなんていう趣味《しゆみ》はないの」ジェニーはハンドバッグからジターヌの箱を取り出し、前に垂れた髪《かみ》を掻《か》き上げながら、火をつけた。
「あんたは、シバタの友達だろう?」
ジェニーのくわえていた煙草《たばこ》が床《ゆか》に落ちそうになった。アイラインとアイシャドーで縁取《ふちど》られた大きな目がじっと私を見つめていた。
私も上着から煙草を取り出し、火をつけた。
「あんた、一体|誰《だれ》?」
「私立|探偵《たんてい》だよ。シバタが午後、何しに来たのか知りたいんだ」私は名刺《めいし》を渡《わた》した。
「どうして?」
「理由は言えない」
「あんたも日本人?」
「まあ、そうだ。迷惑《めいわく》は掛けない。奴《やつ》が何しに来たのか話してくれ」
「まず、あんたが何故、シバタを追っ掛《か》けているのか教えてくれなければ、話さない」
「分かった、ジェニー……」私は椅子《いす》ごと、黒人女の前に進み出て、軽く彼女の膝《ひざ》に手を触《ふ》れながら言った。私は、大道の殺人事件と猫《ねこ》の話をした。
「シバタという男と殺された大道とは繋《つな》がりがあったんだ。今のところどういう関係なのか分からない。事件とは無関係なのかもしれん。ただ、俺《おれ》はそのへんをクリアーにしたいんだ」
「猫の話、本当?」
「誰も信じないけど、嘘《うそ》じゃない」
ジェニーは私をじっと見つめた。
「信じるわ、その話。……OK、話してあげる」ジェニーはタンクトップをまた着た。「でも、何を話せばいいのか分からない。あの男、私に用ってわけじゃなかったんだもの」
「じゃ、誰に用があったんだ」
「リリアンヌを探しに来たのよ」
「リリアンヌとは?」
「私の商売仲間で、この上の階に部屋を借りてる女よ。二日前から、彼女《かのじよ》、行方不明なの」
「シバタは彼女に何の用があったんだ」
「そこまでは知らないわ。個人的なことだと言ってた。ただすごく焦《あせ》ってたわ。彼は、リリアンヌの居所を探しに、私のところに来たのよ。私なら、絶対知ってると思ったのね」
「でも、あんたは知らない」
「その通り。私も心配してるのよ」
「リリアンヌとシバタは昔から、付き合いがあったのか?」
「昔の知り合いだけど、再会したのはごく最近みたい。時々、彼が客を紹介《しようかい》していたのよ」
「それだけの関係?」
「多分ね」
「二日いないくらいで、行方不明ってのも大袈裟《おおげさ》じゃないのかね」
「人と場合によりけりよ。リリィは、月曜日の夜から居なくなったんだけど、変なのよ」
「どう変だったんだ?」
「わりと地味な恰好《かつこう》で出て行ったというのよ。しかも、馴染《なじ》みの客の誘《さそ》いをけんもほろろに蹴《け》ってね。その客と偶然《ぐうぜん》、出会ったとき、教えてくれたんだけど」
「逃《に》げ出したんじゃないのか」
「何から?」
「この商売からとか、ヒモからとか……」
「ありえないね。私達、自前で商売やってるしさ……確かにリリィにはぐうたらなヒモがいるけど、こんな形で逃げ出すとは思えない」
「こんな形ってどんな形?」
「……つまり、着のみ着のままってこと。それに、逃げるんだったら、私に一言、言って行くはずよ」
「仲がいいらしいな」
「そうよ」
ジェニーはハンドバッグから手鏡を出し、化粧《けしよう》を直し始めた。そして、溜息《ためいき》をひとつついた。
「本当に、そのヒモから逃げ出したとは考えられないか?」
「まあ、絶対ないとは言えないけど……やはりおかしい。その男を紹介《しようかい》したのは、私なの。だから、彼と切れるつもりなら、私に何か言うはずよ。こんな風に出て行くことないもの」
「あんたが紹介者だから、逆に何も言えなかったのかもしれないぜ」
「そうは思わないわ。紹介したと言っても、あの男が勝手にリリィに付きまとったのよ。初めはリリィ、全然、乗り気じゃなかったんだけど、根負けしたのね」
「ヒモの名前は?」
「ジャンよ」
「あんたの友達なのか」
「ええ、四、五年前からの付き合いよ。よく飲みに行く店が、サンマルタン運河の近くにあるんだけど、そこで知り合ったの。リリアンヌとも、私、そこで会ったのよ」
「リリアンヌはどんな女なんだ。写真はないのか?」
「ないわ。でも、とても奇麗《きれい》な女《こ》よ。ハーフには美人が多いから」
「ハーフって?」
「パパがカンボジア人で、ママがフランス人。本名は、リリアンヌ・サリューンよ」
「源氏名は?」
「同じよ。変わった女でね。本名で商売やってるの」
「何故、本名だと分かった」
「身分証明書を見たもの」
「あんたとの付き合いは長いのか?」
「一年ほど前からよ」
「その前、彼女《かのじよ》はどこで何をしていたんだ?」
「長く一緒《いつしよ》にいた男がいたようよ。マルセイユやリヨンだけではなく、ベルギーなんかでもずっと一緒だったらしいわ。でも、その男は交通事故で死んだんですって。その後、パリに来たのよ」
「じゃパリの人間じゃないのか?」
「よく分からない。出生証明書を持って、こんな商売を始める女なんているはずないからね」
「年は?」
「三十七よ。もっとも、客には三十二だと言っていたけどね」
「リリィがいなくなってからのヒモはどうしてる?」
「半狂乱《はんきようらん》よ。乱暴者だけど、リリィにぞっこん参ってるのよ、あの人。立ち回りそうなバーやカフェを全部調べて回ってるの。もちろん、ここには真先に来たわ。私が隠《かく》してるんじゃないかって疑ってね……」
「疑われる原因があるのか?」
「そんなものありゃしないわよ。ジャンは物凄《ものすご》くやきもち焼きなの。私とリリィが仲良くしているだけでも、気にいらないの」
「子供っぽいんだな」
「そうね。大きな赤ちゃんなの。でも、あれぐらい愛されてみたいわ」
ジェニーは大きな瞳《ひとみ》を壁《かべ》のほうに向けて言った。
「あんたなら、難しいことじゃないだろう」
「お世辞、言わなくてもいいわよ」
「お世辞じゃないぜ」
「でも、そう言ってくれて嬉《うれ》しいわ」
「いなくなる前のリリィに変わったところはなかったか?」
「そうね、変わったところね……別にないけど、そう言えば、最近よく、そのシバタと飲んでるのを見掛《みか》けたわ。客を紹介《しようかい》してくれる男と一緒《いつしよ》にいてもおかしくないから、気にもならなかったけど、改めて考えてみると妙《みよう》だと言えないこともないわね」
「いつごろから、ふたりはよく会うようになったんだ?」
「一か月ほど前からかしら」
「何を話していたかは分からないだろうな」
「知らない。気にもしなかったもの」
「リリアンヌの自宅はどこなんだ?」
「マルカデ通り一三二番地。でも、あんた、あそこには行かないほうがいいわよ」
「ジャンというヒモがいるからか」
「ええ。男が訪ねて来ただけで、頭に血が上る男なのよ」
「なるべく行かないようにするが、調査の上で必要なら、瘤《こぶ》のひとつやふたつ作っても仕方がないよ」
「随分、仕事熱心なのね」
「ジェニー、あんたひょっとして、リリアンヌの部屋の鍵《かぎ》を預かってないかな?」
ジェニーは私のほうに顔を向けた。
「預かってるわよ」
「十分ばかり貸してくれないか」
「あそこを調べても何もないわよ」
「でも、念のために自分で調べてみたい」
ジェニーはナイトテーブルの引き出しから白い封筒《ふうとう》を取り出し、ベッドの上に放り投げた。
「鍵よ」
「ありがとう」私は封筒の中から鍵を取り出し立ち上がった。
「ちょっと待って。リリィの部屋の電灯はつけないほうがいいわ」ジェニーはそう言って、引き出しから懐中《かいちゆう》電灯を取り出し、私に投げてよこした。「ジャンが時々、見にきてるからね……」
私は腕時計を見た。午前一時五分。
「これから、またポルト・マイヨに行くのか」
「ええ。でも、今度はブローニュの森のほうで、車の客を引っ掛けるの。鍵はメイルボックスに入れておいてね」
私は黙《だま》ってうなずき、必ずそうすると言ってジェニーの部屋を出た。
13
リリアンヌの部屋は三〇五号室。ジェニーの部屋のちょうど真上だった。
部屋の作りはジェニーのところと同じで、入ってすぐ右がキッチン、左がバス・トイレになっていた。その双方《そうほう》とも、大したものは置いてなかった。
カーテンが下り真暗な部屋を懐中電灯の光が押《お》し分けてゆく。やはりベッドが中央にでえんと腰《こし》を据《す》えていた。これ以上、平凡《へいぼん》なものを見つけるのは不可能と思える、花柄《はながら》の壁紙《かべがみ》。籐《とう》の椅子《いす》が二|脚《きやく》、窓際においてある。ベッドの横のサイドボードはどこにでもある引き出しが三段ついた木製のもので、ステレオやテレビを載せられるほど大きなものだった。しかし、その上に載っていたものは電話と本と額に入った一枚の絵だった。私はその絵に光を当てた。黄色い光の輪の中に海辺の光景が浮《う》かんだ。沈《しず》んだ感じの絵で、ここには不向きな気がした。描《か》いた人間のサインはなかった。美術|鑑賞《かんしよう》をやめた私は、ライオンの食べ残しを漁《あさ》るハイエナのような心境で、引き出しの中を探った。毛抜き、タンポン、ブラシ、爪《つめ》ヤスリ、マッチ、空になったカゼ薬の瓶《びん》、コンドームといったがらくたが上段の引き出しの中身だった。マッチは市販《しはん》されているもので、手掛《てがか》りになるようなものではなかった。中段には封筒《ふうとう》と便箋《びんせん》が入っていた。私は便箋を開いて光を当て、文字の跡《あと》が残っていないか調べてみたが無駄《むだ》な努力だった。下段から最初に出てきたのは、紙袋《かみぶくろ》に入ったピルだった。一錠《じよう》だけ飲んだあとがあった。袋の中には領収書が入っていた。その日付は八月五日、つまりリリアンヌが失踪《しつそう》した日になっていた。
買ったばかりのピルを持たずに出掛けるのは極めて不自然なことに思えた。もし、自らが遠出をする気があったのなら、その一部を持って出掛けるはずだ。ピルを途中《とちゆう》で止めて、セックスをしたらどうなるか? エクゾセ並《なみ》の確率で、目標に命中してしまう。まさか、リリアンヌという女は、煩悩《ぼんのう》を捨て、尼寺《あまでら》へ駆《か》け込《こ》んだわけではあるまい。
ピルの入った袋の下には、眼鏡ケースがふたつ、動いていない時計、革が擦《す》り切れた空の財布が入っていた。どれもこれも男物。女との戯《たわむ》れに夢中《むちゆう》になった客達が忘れていった物らしい。めぼしいものは他にはなかった。
私は、念のため、ベッドの下を覗《のぞ》いた。そこには、小さな熊《くま》の縫《ぬ》いぐるみが、死んで硬直《こうちよく》した生物のような恰好《かつこう》で転がっていた。私は腕《うで》を伸《の》ばして、それを引き寄せベッドの脚《あし》のところに座らせてやった。
その瞬間《しゆんかん》、鍵《かぎ》の開く音がした。私は辺りを見回した。トイレ以外に姿を隠《かく》す場所がない。だが、避難《ひなん》所は地獄《じごく》の隣《となり》、つまりドアのすぐ横。一か八かだ。懐中《かいちゆう》電灯を消し、ドアのほうに向かった。遅《おそ》かった。ドアが開き、廊下《ろうか》の光を背に受けた怪物《かいぶつ》が私の前に立ちはだかった。
それは本当に怪物だった。背が二メートルはあろうかという大男なのだ。銃《じゆう》の標的のような黒い影《かげ》が動いた。足が悪いらしい。右足の動きがぎこちなかった。今まで単なる縫いぐるみのゴジラだと思っていたものが、急に動いたという感じだった。驚《おどろ》いた。しかし、驚いている暇《ひま》はなかった。大男は、素早い動作で私の胸倉を掴《つか》むと、思いきり私を横に投げとばした。私はキッチンのタイルの上に倒《たお》れた。
「ここで何をしてる」
法螺貝《ほらがい》の音のような声。声帯を震《ふる》わせて出た声とは思えなかった。そして、充分《じゆうぶん》に怒《いか》り、興奮しているはずなのに、ゆっくりとした口調で、相撲《すもう》取りがインタビューに答えているような印象さえあった。
私は這《は》いつくばったまま、ドアのほうを見た。ドアは半分ほど開いていて、光が射し込《こ》んでいた。廊下まで三メートル。私は起き上がる振《ふ》りをして、怪物の腰《こし》に体当たりを喰《くら》わせた。少し動いた。私はドアに向かおうとした。大男の腕《うで》がゆっくりと私の首に巻き付いた。大蛇《だいじや》の胴体《どうたい》みたいな腕。ドアが激《はげ》しい音を立てて閉まった。男が足で閉めたらしい。私は喉《のど》を絞《し》めつけられたまま、部屋に連れ戻《もど》された。そして、ベッドの上に叩《たた》きつけられた。照明がともされた。
まず目に入ったのは男の髪《かみ》だった。赤毛で縮れていた。顔の面積は私の二倍はありそうだ。目は茶色で引っ込んでいた。その回りはアイシャドーでもつけているように黒い。紫色《むらさきいろ》の大きな唇《くちびる》。私はどこかでこの男を見たような気がするのだが思い出せない。
男は黙《だま》って私を見つめていた。一度も笑ったことがないように、顔がひきつっている。
「おまえ、誰《だれ》だ?」法螺貝が口を利いた。
「鈴切というものだ」
「どうやって入った?」
「どうやってって……。ドアは開いてたんだよ」
ジェニーから鍵《かぎ》を借りたことは言わなかった。
「嘘《うそ》だ。鍵は、昨日|俺《おれ》がしっかり閉めた」
「勘違《かんちが》いってこともあるぜ」
男の呼吸が荒《あら》くなった。赤と黄色のチェックのシャツがその動きを正確に伝えていた。白い麻《あさ》のパンツと白い靴《くつ》が少し、ベッドに近付いた。私の上半身が影《かげ》に覆《おお》われた。
「俺のリリアンヌを隠《かく》したのはおまえか?」
「違《ちが》う。その逆だよ」
「逆?」
「探してるんだ、あんたのリリアンヌを」
「探す権利があるのは、俺だけだ。俺はあの女を愛してる」
男は悲しい顔をし、目を伏《ふ》せた。可愛《かわい》がっていた子犬がいなくなって、泣きべそをかきそうになっている子供のようだった。だが、男は泣きはしなかった。
「おまえは居場所を知っているはずだ。リリアンヌがおまえに鍵を渡《わた》したんだ」
思った通り、大男はジェニーがここの鍵を持っていることを知らないらしい。
「俺からは逃げ出せないんだ。おまえみたいなヤサ男に渡してたまるものか。さあ居場所を言え! 言わないと……」
いきなり、肉の塊《かたまり》が飛び掛《か》かってきた。首が締《し》まった。私は精一杯抵抗《せいいつぱいていこう》した。素手で機関車に立ち向かっているようなものだった。息が出来ない。目の前が真っ暗になった。
急に男が手を放した。遠くで声がしたみたいだ。それに続いてドアをノックするような音。聴覚《ちようかく》は戻《もど》ってきたが起き上がれなかった。
「ジャン!! 私よ、開けて!」
男はドアの方を見、もう一度私を眺《なが》めた。私が、ひっくりかえったてんとう虫ほどの元気もないのを見て取ると、怪物《かいぶつ》はベッドを下りた。ノックの音が一段と激《はげ》しくなった。
大男は右足を軽く引きずり、戸口に向かった。ドアが開けられた。女は軽々と大男を押《お》しのけ、ベッドに駆《か》け寄って来た。力学では説明出来ないことを女はやってのけるものだ。私はぼおっとした頭でそう考えた。
「大丈夫? 探偵《たんてい》さん」
私の顔を覗《のぞ》き込んでいるのはジェニーだった。横になったまま、私はうなずいた。微笑《ほほえ》んだつもりだったが、相手がそう受け取ったかどうか自信はない。
「この男はデカか?」
「デカだったら見て見ぬ振《ふ》りしてたわよ。この男は私立探偵」
「私立探偵? リリアンヌはなんでこんな男と……」
「ちょっと待って。ジャン、あんた、なに早合点してるのよ。この男はリリアンヌに一度も会ったことないのよ」
「じゃ、ここで何をしてたんだ?」
「その話は後。そんなとこにつっ立ってないで、座ってよ。あんたに立ってられると鬱陶《うつとう》しいの」
ジェニーは大男の腹のあたりを押し、籐椅子《とういす》のほうに誘導《ゆうどう》した。男が座ると椅子が軋《きし》った。
猛獣《もうじゆう》を見事、制したアフリカの女王は、私が起き上がるのを助けた。私はなんとか壁《かべ》に寄り掛かった。首をさすり、頭を振った。
「話せる?」
「声が一オクターブ高くなってないかい? そうしたら聖歌隊に入るよ」
「大丈夫《だいじようぶ》、いい声よ。首を絞《し》められたのね」
「ああ」私は男を見た。台の上でおとなしくしているサーカス小屋のライオンみたいだった。
ジェニーは後ろを振り返り、ライオンを見た。そろそろ構ってやらないと暴れ出すかもしれない。そう思ったが口には出さなかった。
「この人も、リリアンヌを探してるのよ。事情はよく知らないけど、本当よ。私、信用したの、この人の言ったこと。だから、鍵《かぎ》を貸したのよ」
「ジェニーもこの部屋の鍵持ってたのか?」
不服そうな声だったが、穏《おだ》やかな口調だった。
「無くした時、便利でしょう。だから、前にスペアーを交換《こうかん》したのよ」
私は煙草《たばこ》を出して火をつけ、ジェニーとライオンにも勧めた。ジェニーは吸ったがライオンは、いらないと言った。
「紹介《しようかい》しとくわね。この大男は、ジャンと言って、リリアンヌの、そのなんというかヒモなの」
「俺《おれ》はリリアンヌの夫なんだ。ちゃんと他に仕事を持ってるんだから、ヒモじゃねえ」
「そうね、あんたはギャンブラーなのよね」
そう言ってジェニーは私を見てウインクした。
ジェニーは私のこと、リリアンヌを探している事情、部屋に無断で入ったわけをジャンに説明した。説明は要領を得たものだったが、ジャンには今ひとつ飲み込めなかったようだ。猫《ねこ》探しからリリアンヌ探しまでの経緯《いきさつ》がはっきりと分からなかったようだ。もっとも、当人の私でも要領を得ないところがあるのだが。
私がリリアンヌの新しい愛人ではないこと。リリアンヌに悪意を抱《いだ》いていない人間であること。以上の二点をジェニーはさいさんに渡《わた》って強調した。ジャンは、税務署に質問にやってきて、何度言っても不服な顔をしている年寄りのような感じで彼女《かのじよ》の話を聞いていた。結局、強い方がいつでも勝つのだ。
「私が信用できないの!」
ジェニーが釘《くぎ》を刺《さ》すような口調で言うと、ジャンは「分かったよ」と小声で答えた。
「さあ、仲直りよ、握手《あくしゆ》して」
ジャンは立ち上がり、私の方に右|腕《うで》を伸《の》ばし、浅黒い無骨な手を差し出した。
「悪くおもわんでくれ」
私も手を出した。
「ジャン、さっき話に出た柴田って男に心当たりはないか?」
「全然ねえよ。そいつがリリアンヌにちょっかい出したのかもしれないな」
「単なる昔の知り合いなんだってさ。リリィ、私にそう言ってたもの。それに、さっきも言ったけど、その人もリリィを探しに来たのよ」
「何かあるんだ。俺達《おれたち》の知らないことが……」私が言った。
「そんなはずはねえ。あいつは、大事なことは皆《みな》俺に話してた」
「恋《こい》をしていると誰《だれ》でもそう思うものさ」
「そんなことはねえ。あいつは、俺がいなければ生きていけねえんだ」
私は肩《かた》をすくめた。
「ともかく、あんたのリリアンヌが見つかれば分かることさ」
「あんた、探偵《たんてい》だって言ってたな。料金はいくらだ?」
「場合に依るよ。あんた、俺を雇《やと》いたいのか?」
「ああ。リリアンヌを見つけて欲しいんだ。俺がなんとかしたいんだが、手だてがねえ。あんたはプロだ、何とかしてくれ」
ジャンの躰《からだ》が一回り縮んだように思えた。
「料金はいい。どうせ調べてるんだから。なにか分かったら、あんたに知らせてやる。だが、あんたの知りたくない結果が出ても、首を絞《し》められるのはゴメンだぜ」
「悪かったよ。あんたは、ジェニーが言った通りいい奴《やつ》らしい」
私はジャンに名刺《めいし》を渡《わた》し、彼の電話番号を訊《き》いた。
「ところで、リリアンヌの持ち物を調べさせてくれないか? 何か手掛《てがか》りになるものがあるかもしれないから」
「何でそんなことをする必要があるんだ」
「必要かどうかはやってみなきゃ分からん。リリアンヌを見つける手掛りが見つかるかもしれないじゃないか」
「分かった。だが、今夜はダメだ。これから、ポーカーをやりに行く」
「明日の夜はどうだ? 電話する」
「待ってるよ」
私とジェニーはジャンを残して部屋を出た。
「ジェニー、助かったよ。あんたが来てくれなかったら、殺されていたところだよ」
「あんたも運がいいわね。ブローニュに辿《たど》りつく前に、馴染《なじ》みの客に会ったの。それで戻《もど》ってきたら、ジャンの車が目に止まったのよ。これは、ヤバイと思ってさ。客をセレスト≠ノ待たせて、来てみたのよ。なにしろあの男は、気はいいんだけど、嫉妬《しつと》深くて、すぐかっと来るんだよ。交通事故で足をダメにしてなかったら、あの男も、もう一花|咲《さ》かせることが出来たかもしれないんだけどね……」
「昔は何やってたんだ?」
「プロレス。外国で稼《かせ》ぎまくってたんだってさ。本当かどうか知らないけどね」
「本当だよ」
「あんた知ってるの?」
「あんたにそう言われて思い出したんだが、魔界《まかい》のジェアン・ジャンって言って、日本でも有名だったことがあるんだ。俺《おれ》は特別なプロレス・ファンではなかったけど、顔に見覚えがあるよ。俺が日本にいた頃《ころ》、しょっちゅうテレビに出ていたんだ」
「そう。あいつにもいい時があったんだね」
「しかし、大魔王も、あんたにかかっちゃ、ヒヨコ同然だね。どういう風にすれば、ああなるのか秘訣《ひけつ》を知りたいもんだね」
「秘訣なんてないわ。私、ジャンのことが好きなのよ。あの男、動物みたいなところがあってね。自分を好いてくれる人間を見抜《みぬ》く才能を持ってるのよ。そういう人間の言うことはよく聞くの」
「俺もなんだか気にいったぜ」
「あいつには、ちゃんと通じてるわよ」
「いや、あいつじゃなくて、あんたのことさ」
「そういうことは、ベッドの上で五百フラン札《さつ》を前にして言ってもらいたいわね。じゃ、私行くわよ」
ジェニーはそう言い残すと足早に去って行った。私は近くのカフェに入ってカルヴァドスを引っ掛けた。首と喉《のど》がまだ痛かった。酒はまずかった。
14
午前八時二十五分。
ゆっくり朝寝坊《あさねぼう》するつもりだったのだが、何故《なぜ》か目が醒《さ》めてしまった。
シャワーを浴び、スパニッシュオムレツを作り、トーストを焼き、コーヒーを入れた。
食事をしながら、ジャン・ピエール・プチの家から持ってきたアドレス・ブックを開いてみた。知っている名前が二、三出ていた。
大道貢、田島信人、村川隆。そして、Nの欄《らん》の最後に西村良江の名前があった。最近書き加えられたもののようだ。その前にある名前と使ったペンが違《ちが》っていた。
依頼人《いらいにん》とプチが繋《つな》がっているのか。私は信じられなかった。大道貢が紹介《しようかい》したのなら、依頼人の口からその話が出ても不思議ではない。それとも、隠《かく》しておかなければならない事情があるのだろうか。
私は、十時になったら電話を掛《か》けてみることにして、他の欄を見ていった。女の名前と男の名前がほぼ同数|載《の》っていた。無論、ミュリエールも載っていた。
ひとつ妙《みよう》なことに気づいた。レストランやバーはすべて別項《べつこう》にひとまとめにされているのに一軒《けん》だけ別になっていた。
|PAGODE《パゴド》 |DE《ド》 |DRAGON《ドラゴン》
明らかに中国料理屋の名前である。
住所はなく電話番号だけが記載《きさい》されていて、その番号の後にL・S≠ニ書かれてあった。
人の名前の頭文字かもしれない。そうだとすると、リリアンヌ・サリューンという可能性も出て来る。
電話が鳴った。
日本の週刊誌の記者だった。
「やっと捕《つか》まりましたわ」
若い女で、週刊スター≠フ特派員だと言った。邦人|探偵《たんてい》の活躍《かつやく》を取材したいというのだ。
「お宅の企画は大変素晴らしい。でも、私立探偵が雑誌に顔を晒《さら》したんじゃ商売にならないんだ」
「かえって客が増えると思いますが……」
「部下がたくさんいるところなら、そうかもしれない。だが、僕《ぼく》はひとりでやってるんだ。それに、ここはパリだ。パリの日本人村の住人なんて、ロッテVS南海戦を見に行く客より少ないんだぜ。顔が分かってしまうのは、営業に差し支えるんだよ」
「日本の事情をよく御存じですね」
「五年住んでいて、俺《おれ》は野球ファンになったからさ」
「なんとか、写真だけでも撮らせてくれませんか」
「会う暇《ひま》はないね。回想録を出すから、それ読んでくれたまえ」
「え! それはいつです?」
「君に孫が出来た頃《ころ》」
私は受話器を置いた。また電話が鳴った。
「君もしつこいな……」
「もしもし、寝惚《ねぼ》けてるのか!」
今度はタニコウだった。
「いや、朝っぱらから、俺を口説く女がいてね。まだ、歯を磨《みが》く前らしく口臭《こうしゆう》が凄《すご》くて閉口していたんだ」
「何を馬鹿《ばか》なことを言ってるんだ。それより、調査は進んでるのか? そろそろ情報|交換《こうかん》と行こうじゃないか」とタニコウが言った。
「そっちにはネタがあるのか?」
「なきゃ、電話なんかしないさ。やらずぶったくりが通じるような相手じゃないだろう、あんたは」
「分かった。早めの昼を一緒《いつしよ》にどうだ」
「いいよ」
「シャルティエ≠ナ十一時半」
「OK」
タニコウが電話を切ろうとした時、慌《あわ》てて私は声を出した。
「レストランに来る前に、ひとつ頼《たの》まれてくれないか。今から言う中国料理屋の場所と持ち主の名前を調べてくれ」
私は名前と電話番号を教えた。
「面白くなってきたな?」タニコウが意味ありげに笑った。
「なんかあるのか?」
「会って話すよ」
タニコウはそう言って電話を切った。
私は受話器を置かずにダイヤルを回した。
西村良江はすぐに出た。
私はゴンの行方がまだつかめないことをまず話してから、本題に入った。
西村良江はジャン・ピエール・プチなどという彫刻家《ちようこくか》はまったく知らないと答えた。嘘《うそ》をついているとは思えなかった。逆にその男は何者だと訊《き》かれた。私は男は死んだとだけ伝えた。
「昨日の夕方、警察が来ました」
「デロールという警視ですか?」
「確か、そんな名前だったと思います」
「それで、何を話しました?」
「その……」
「私のことを話したんですね」
「まずかったかしら?」
「いいえ。ゴンのことも話しましたか?」
「ええ。それにミツグさんのことも全部話しました」
受話器を置いた。私が、この一連の事件に首を突《つ》っ込《こ》み、しかも警察より先を走ってることを、デロールは喜ばないに決まっている。面倒《めんどう》なことにならなければいいがと私は思った。
レストランシャルティエ≠ヘ、私の住んでいる通りにある。だが、道には面しておらず、ポーチをくぐったところにある。そのポーチの両側は、黄色に白地で屋号を書き、店を黄緑色に塗《ぬ》った趣味《しゆみ》の悪いファースト・フード・ショップと歩道まで張り出した縦縞《たてじま》模様の庇《ひさし》にクイック・サービス・バー≠ニあるパン屋兼ケーキ屋兼カフェ・バーである。両方とも、空腹時に胃痛が走る、潰瘍《かいよう》気味の人には、持ってこいの店というわけだ。
シャルティエ≠ヘ高級というのにはほど遠い店だが、雰囲気《ふんいき》は最高なのだ。その上、値段が安く、料理もうまい。このレストランが流行らなくなったら、フランスの銀行が潰《つぶ》れるのもまぢかだと思って、金をスイスあたりに移しておいたほうがいい。
門を入ると、陽射しがいっそう遠のいたような気がした。空気がひんやりとしているのだ。左手に古色|蒼然《そうぜん》とした水道があり、中には、駅の大食堂のような雰囲気が漂《ただよ》っていた。
午前十一時四十五分。客はちらほらとしかいない。だが、やがて、表に行列が出来るほど混み合うようになる。ここでは相席は日常茶飯事。客も心得ていて嫌《いや》な顔をする者は皆無《かいむ》である。
タニコウは先に来てビールを飲んでいた。
「食事のほうは後回しか?」
「いや、すぐに頼《たの》もう。この後、人に会うんだ。良かったら、シンゴも来いよ。大道貢の母親が来てるんだ」タニコウは、そう言って、読んでいたフランス・ソワール≠テーブルの端《はし》に置いた。
「そうか、分かった。同行するよ」
私達はステーキと赤ワインを注文した。
「今日は俺《おれ》に話すことがたくさんありそうだな」タニコウのぎょろ目が私を見た。
「そうでもない。まだ、猫《ねこ》は見つかってないんだ」
「俺は殺人のほうにしか興味がない」
私は新聞を勝手に取って開いた。
ジャン・ピエール・プチ殺害の件は小さく載《の》っていただけだった。
使われた拳銃《けんじゆう》は四十五口径。死体は粘土《ねんど》倉で見つかった。犯人の手掛《てがか》りは、現在のところなし。警察に男の声で匿名《とくめい》電話があった。被害者《ひがいしや》の年齢《ねんれい》、職業のほかに記されていたことはそれだけだった。
ジャン・ピエール・プチがギャラリー・ムラカワ≠ニ取り引きしていたことは、まだ警察はつかんでいないのだろうか? それとも、伏《ふ》せているのだろうか?
「警察は何をつかんでる?」
「殺人のほうはまだ目鼻がついていないようだ。ただ、拳銃が盗《ぬす》まれたほうは、少しは分かってきたらしい。俺の勘《かん》は外れたよ。強盗《ごうとう》団は東南アジア系の奴等らしい」
「詳《くわ》しく話してくれ」
「三日ほど前、或《あ》るベトナム人が轢《ひ》き逃《に》げにあったんだ。表向きは事故だが、警察じゃ殺人とにらんでる。その男には不法|賭博《とばく》の前科《マエ》があるんだ。奴《やつ》の住居《ヤサ》を捜査《そうさ》したら、面白いものが出て来たんだ。マルセイユの市内地図で、襲《おそ》われた銃砲店の場所に印がついていた」
「じゃ、俺が朝、頼んだ中国料理屋と関係があるかもしれないな。で、そっちのほうは調べがついたのか?」
アントル・コート・グリエが運ばれて来た。グラスに入っていたハウス・ワインを空け、肉を切った。
だんだん客が増えてきて、高い天井《てんじよう》にざわめきが響《ひび》いていた。
「まあ、そう焦《あせ》るなよ。今度は俺が訊《き》く番だ。あのレストランの名前はどこで手に入れたんだ?」
私は、この二日ばかりのことを簡単に話した。そして、新聞を見せた。
「じゃ、この彫刻家《ちようこくか》と銃砲店強盗の関係は濃厚《のうこう》だな」
「でパゴド・ド・ドラゴン≠ヘどこにあって経営者は誰《だれ》なんだ?」
「場所はイヴリー大通り」
「興味深いね」
「そうだろう。パリのチャイナタウンだからな。難民がパリに流れ込《こ》んでから、東南アジア系移民の地図が塗《ぬ》り変わったんだ。カンボジア人が組織を牛耳っているらしい。経営者はヘン・ソバンってまだ四十前のカンボジア人だが、あの辺じゃ、かなりの顔なんだ。そして、轢《ひ》き逃《に》げにあったベトナム人は、ヘン・ソバンの経営するもうひとつの料理屋で働いていたんだよ。ヘン・ソバンは司法警察がマークしている人物なんだ」
「ますます、面白い」
「でも、何故、武器を集めているのかが解せない。ヘン・ソバンはもっぱら、麻薬《まやく》と不法|賭博《とばく》が専門なんだぜ」
「他のマフィアと一戦交えるつもりかな」
「そうかもしれない。東南アジアの連中が進出してきてから、フレンチ・コネクションは大きな打撃《だげき》を受けている」
「チャイナ・コネクションがヤクのダンピングをやっているって噂《うわさ》は本当らしいな」
「本当だよ。やつらの料理屋は密売の巣《す》なんだ。それは何もチャイナタウンの中だけではないらしい。カルチエ・ラタンなどでも、やつらはヤクを捌《さば》き、売人だって東洋人だけじゃないんだ。アラブ人も使ってるとのことだぜ」
「ヘン・ソバンが、そのヤクを取り仕切ってるわけか」
「警察じゃそうにらんでる」
「警察が殺人事件のことで何か隠《かく》しているようなところはないのか?」
「俺《おれ》の記者としての腕《うで》を信頼《しんらい》してないような口を利くな。昵懇《じつこん》にしている若い刑事《けいじ》がいるって話しただろう。奴《やつ》は正直そのもの。嘘《うそ》をつく時は、嘘をつきますって顔をして嘘をつく。言いたくない時はノーコメントって言うだけで、妙《みよう》な小細工はしないんだ」
「日本の大学入試を経験してないから、まっすぐなんだな」
「シンゴは、L・Sという文字が気になるのか?」
「リリアンヌ・サリューンの頭文字とも考えられるからな。もしそうだとすると、彫刻家《ちようこくか》、柴田喜代志、大道貢に繋《つな》がりが出てくるじゃないか。ともかく、俺は、その線を洗ってみるよ。ヘン・ソバンと繋がりのあるL・Sという頭文字の人間がいるか調べてみる」
私はエスプレッソを飲んだが、タニコウはまたビールを注文した。これから、被害者《ひがいしや》の家族に会うというのに、おかまいなしなのだ。
「あ、そうだ。おまえに頼《たの》まれたことを調べておいたよ」
「何だ?」
「忘れたのか、デロールって警視のことだよ」
「何か分かったのか?」
「奴は大戦末期、インドシナにいたんだ。奴が忘れようとしても忘れられない日本語は、何だか分かるか?」
「憲兵?」
「その通り。サイゴンで通信関係の仕事をしていた父親を、ある日、憲兵が引っ張っていったんだ。当時十歳だった奴はそれを見ていた。父親の罪状はスパイ行為。拷問を受けた父親は、そのまま帰らぬ人となったらしい。デロールは今でもその頃のことを鮮明に覚えていて、時々、酔うと仲間にその話をするということだ」
「なるほど」
「奴には同情するが、正直な話、面倒な奴が担当になったものだな」
私は、デロールの暗い表情を思い浮かべながら、黙ってうなずいた。
私とタニコウは私の車で、大道貢の母親、昌枝《まさえ》の滞在《たいざい》しているホテルノルマンディー≠ノ行った。
私達は昌枝とホテルの一階のバーで会った。
昌枝は地味な紺《こん》のワンピースを着たがっしりとした女だった。
タニコウは遺族にする型通りの挨拶《あいさつ》をし、私を紹介《しようかい》した。私が、息子《むすこ》の犯人を追っている私立|探偵《たんてい》だと聞くと、昌枝は一瞬《いつしゆん》、私を見つめ、すっと引きこまれるような笑みを浮《う》かべた。
「あの子を殺したのは私です。他に犯人なんかいません」
柔《やわ》らかい声で歌うように言った。大阪|訛《なま》りはなかった。きっと関東出身なのだろう。
私もタニコウも返す言葉がなかった。
「あの子は私を嫌《きら》っていました。厳しく育て強い人間にしようとしたのが、かえってあの子を気の弱いダメな人間にしてしまったんです。私はミツグに寛容《かんよう》ではありませんでした。絵描《えか》きになりたいというのも、パリに行きたいというのも、私はすべて猛反対《もうはんたい》しました。もう少し、あの子の性格を分かってやっていれば……」
昌枝は目を伏《ふ》せたが、泣きはしなかった。本人も気づいているようだが、かなり気の強い女のようだ。愛情はあるのだが、それを出すのに、常にきちんと箱に入れてからではないと、人に表せない。愛情表現がいつも尖《とが》った形をしているそんな母親だったらしい。
「お母さんが、そんなにパリ行きに反対だったのに、ミツグさんが来れたのは御主人が許可なさったからですか?」タニコウが訊《き》いた。
「ええ。主人はミツグに甘《あま》かった。私は何度、そのことで主人と喧嘩《けんか》したことか……。一回目のパリでの生活費は、私達が出してやりました。ろくに絵の勉強をしている様子もなかったのですが、主人は何も言わず送金してました」
言葉に刺《とげ》があった。今でも、夫が息子を甘やかしたことが許せないらしい。ひょっとしたら、夫は、ミツグを甘やかすことによって、妻に復讐《ふくしゆう》していたのかもしれない。何の恨《うら》みがあったのかは分からないが、そういうことはよくあることだ。
「ところで、ミツグさんの妹さんの具合はどうですか?」私が訊いた。
「おかげ様で、命だけは何とかとりとめました。でも、どうしてそのことを御存じなんですか。生前のミツグからお聞きになったのですか?」
「いえ、ミツグさんには一度もお会いしたことはありません。ミツグさんの事件を調べて行くうちに、分かったのです」
「ミツグは翌日の便で帰国すると言ってたのですが……」
「あなたが国際電話を入れたのですね?」
「ええ」
「何時|頃《ごろ》か覚えていますか?」
「ええ。午後三時頃です、日本時間で」
「ということは、こちらは朝の八時ですね」
「それが何か?」
「いえ別に大したことではないんです。その日も便があったのに、何故翌日の便にしたのかなと思ったんです」
「私も、今日の便には乗れないのか≠チて訊《き》きました」
「で、ミツグさんの答えは?」
「今からじゃ間に合わない、と言いました」
それは妙《みよう》だ。七月二十八日は日曜日。確かJALもAFも、東京便を飛ばしていて、しかも、どちらも、午後の便のはずである。
「ミツグさんと妹さんの関係は良かったですか?」訊いたのはタニコウだった。
「ええ。ミツグは真理《まり》のことを、とても大事に思っていたようです。十一、年が離《はな》れていることもあってか、それは可愛《かわい》がっていました。私には、パリから物を送ってきたことは、一度もありませんでしたが、真理には誕生日《たんじようび》やクリスマスに必ずプレゼントを送ってよこしていたくらいですから……」
可愛がっていた妹が瀕死《ひんし》の重傷《じゆうしよう》を負って入院した知らせを聞いても、すぐに帰国しなかったのは解せない。その日にどうしても済まさなければならない重要な用があったとしか思えない。そして、その用に絡《から》んでいる人物がミツグをあの世に送ったのだろう。
「ミツグさんは、予定の日になって帰国しなかった。さぞ、気を揉《も》まれたことでしょう」タニコウが呟《つぶや》くように言った。
「ええ。真理のことで気が動転しているところへもってきて、ミツグが、帰ると言ったきり、何の連絡《れんらく》も寄越《よこ》さないものですから、私、一時は気が変になるかと思いました。それに、妙《みよう》な電話が入ったので、なおさら、心配しました」
「妙な電話?」タニコウが訊き返した。
「ミツグが帰国する予定の日の夜、ミツグは確かに帰国したか、という国際電話が入ったのです」
「相手は名乗りましたか?」私が訊いた。
「ええ。パリの友人の柴田とかいう人です」
「柴田という男は、他に何か言いましたか?」
「いえ。ちょっと仕事のことで聞きたいことがあった、とだけ言って、すぐに電話を切ってしまいました」
柴田は、大道が緊急《きんきゆう》に帰国することを知っていた。彼等は私が想像していた以上に繋《つな》がりを持っていたらしい。だが、どういう繋がりかまったく見当がつかない。
「あの子は、やはり、その……ホモ……だったのでしょうか?」
おそらく、昌枝はホモという言葉を初めて口にしたに違《ちが》いない。口紅を薄《うす》く塗《ぬ》った唇《くちびる》がぎこちなく、おずおずとその言葉を吐《は》いた。
「ええ。どうもそうらしいです。でも、そんなことは今は普通《ふつう》のことですよ」タニコウが火のついてないゴロワーズを指で弄《もてあそ》びながら言った。
「やはり、パリなんかに来させるんじゃなかった。日本にいれば……」昌枝の顔が険しくなった。
私はタニコウに目で合図した。もう引き上げる潮時だと思った。
過去の思いをいつまでも引き摺《ず》ってしまう人間がいる。大道昌枝はそういうタイプの女なのだ。そして、その感情を処理する方法を知らず、事あるごとに人に刺々《とげとげ》しく当たるのだろう。私は何となく、ミツグがこの母親を嫌《きら》っていたのが良く判った。
15
新聞社までタニコウを送った私は、車を駐車場《ちゆうしやじよう》に戻《もど》して、事務所まで歩いた。
表門を入ろうとした時、呼び止められた。
「スズキリさんですね」
青と赤の線が斜めに入ったIDカードが私の鼻先に突《つ》きつけられた。
「私は、司法警察のゴールドマン刑事《けいじ》です。デロール警視がお聞きしたいことがあるそうです。御同行をお願いします」
ゴールドマンは太った縮れ毛の男で南仏のアクセントが強かった。私の後ろにも男がいた。その男を見ると、負けてたまるかという感じで見返してきた。まだ、学校出たての新米のようだ。
「で、用ってなんだい?」私はゴールドマンに訊《き》いた。
「私は何も聞いていません。抵抗《ていこう》したら逮捕《たいほ》しろと言われているだけです」
私はもう一度、後ろの若造を見、またゴールドマンを見て、私は微笑《ほほえ》んだ。
「やけに大袈裟《おおげさ》だな。用があるなら自分で出向いてくればいいのに」
「さあ、行きましょうか?」
私は歩道に止まっていたプジョーに乗せられた。
ゴールドマンと私が後部座席に座り、若造が運転した。司法警察に着くまで誰《だれ》も口を利かなかった。私は煙草を取り出し、火を付けた。ゴールドマンにも勧めたが、彼は口元を引き締《し》め、首を横に振《ふ》って断った。煙草一本、ティシュ一枚ですら、賄賂《わいろ》になるとでも言うような断り方だった。真面目《まじめ》にやっていると出世しないという見本のような刑事。
司法警察につくと、私は真直ぐ取り調べ室に連れて行かれた。デロール警視のオフィスとは違《ちが》って、暗くて狭苦《せまくる》しい部屋だった。
デロールとムトンのコンビが背の低い丸い眼鏡を掛《か》けた男と一緒《いつしよ》に入って来た。
「おとなしく同行したかね」デロールがゴールドマンに訊いた。
「問題ありませんでした」
「よし、君はもういい」
ゴールドマンは出て行った。
中央に机があり、私とデロールは、この間の時のように向かい合った。ムトン刑事はドアの横の椅子《いす》に腰掛《こしか》け、丸い眼鏡の男は部屋の隅《すみ》の小机の前に座った。どうやらこの眼鏡が記録係らしい。
「何の理由で俺《おれ》を引っ張ったのかな」
「重要参考人だ」
「俺が何をしたってんだ」
「何も。今のところはな」
「嫌疑《けんぎ》が掛かってないのなら、引っ張れないはずだぜ」
「ところがな、そうじゃない。おまえのように、重要な手掛りをつかんでいそうな奴《やつ》も引っ張れるんだ」
「俺を拘引《こういん》するための手続きは済んでるのか。検事か予審《よしん》判事の許可は取ったのか」
「当たり前だ。おい、書類をこいつに見せてサインさせろ」
眼鏡が私に書類を見せた。確かにデロールの言っているようなことが書いてあった。だが、私はサインをしなかった。
「参考人はサインをするのを拒否したと記録しておけ」
眼鏡は黙《だま》ってうなずいた。
半球形のシェイドを被《かぶ》った電球の光が微《かす》かにデロールの顔に当たっていた。額が汗《あせ》ばみ、目は陰湿《いんしつ》に潤《うる》んでいた。オフィスよりもこの暗い部屋にいるほうが生き生きとして見えた。今は尋問《じんもん》者としているわけだが、立場が逆になっても、やはり、デロールの居場所は光や新鮮《しんせん》な空気が届かないところのような気がした。
「あんたは、我々の先を行ってるようだね……」
私は返事をしなかった。
「知ってることをしゃべってみろ」
「猫《ねこ》の行方は依然《いぜん》として分からんよ。警視、あんたは俺《おれ》の依頼人《いらいにん》に会ったんだろう?」
「会った」
「だったら、この間、俺の言ったことが嘘《うそ》じゃなかったって分かったはずだ」
「猫の件はな。だが、捜査《そうさ》を進めていくと、会う人間、会う人間がおまえの話をする。どうなってんだ? 殺人の調査は私立|探偵《たんてい》の仕事じゃないぜ」
「猫探しと、偶然《ぐうぜん》殺人事件が重なっているだけだ。俺の責任じゃない」
私は煙草《たばこ》に火をつけた。デロールは、煙草を握《にぎ》っていた私の手をはたいた。素早い動作だった。煙草は床《ゆか》に転がり、弱々しい煙《けむり》を上げていた。
「俺の許可なく勝手な真似をするな。拾え!」
私は言われた通りにした。
「話しちまえ。何をつかんでる」
「ダイドウの友人は、猫の行方を知らないようだ」
デロールは頬《ほお》を歪《ゆが》めて笑った。「スズキリさん、あんたの態度は理解に苦しむよ。我々に隠《かく》して何の得があるんだ。誰《だれ》か、あんたの親しい奴《やつ》を庇《かば》ってるというのなら話は分かるが、あんたは、単に雇《やと》われているだけじゃないか。しかも、殺人の調査ではなく、猫探しのためにだ」
「こいつ我々を出し抜《ぬ》いて、いいとこ見せようって腹なんですよ。殺人事件を解決すれば、マスコミも騒《さわ》ぐ。脚光《きやつこう》を浴びたいんですよ」
ムトンが前屈《まえかが》みになり、顎《あご》だけこちらに向けて言った。両手を、まるで石鹸《せつけん》をつけて丁寧《ていねい》に洗っているような感じで擦《こす》っていた。
「スズキリさん、私立|探偵《たんてい》というのは、法的には何の力も持ってないんだ。一般市民と何の変わりもない。身分証明書の提出を求めたり、他人のポケットを探ったりすることは違法行為《いほうこうい》なんだ。分かってるな?」
「それが、俺とどう関係がある」
「あんたは、セイジ・イガキのアパートに押《お》しいった。あれは完全に法律|違反《いはん》だぜ」
「俺は押しいったりしていない。極めて友好的に入ったんだ」
「俺の調べでは、そうなっていない」
「調べ方が悪いんだよ。彼は俺を訴《うつた》えてるのか?」
「いいや、今のところはな。だが、いつでも訴える気でいる」
「あんたらが脅《おど》したんだろう?」
「脅したりはしない。我々は警官だ」
「我々は警官だ≠チてのは最高の威《おど》しだぜ」
デロールは立ち上がり、記録係の前に立ち、記録を見る振《ふ》りをして、何か小声で言った。眼鏡がうなずき、記録を受け取ると、壁《かべ》のほうを向いた。
デロールは私の横に来た。そして、私の右|頬《ほお》を思い切り撲《なぐ》った。私は椅子《いす》ごと倒《たお》れ、床《ゆか》の上で半回転した。頭は打たなかったが、ぼおっとした。
静寂《せいじやく》。私は自力で立ち上がり、デロールを見つめた。私は絶対、手を出さないことにした。密室での警官との暴力|沙汰《ざた》は、すべて公務執行妨害《しつこうぼうがい》、或《ある》いは、へたをすると暴行|傷害《しようがい》にされる恐《おそ》れがあるからだ。
「あんた、大戦中の恨《うら》みを晴らしたいらしいな」
また、パンチが飛んだ。今度は鳩尾《みぞおち》だ。胃液が酸っぱかった。息が出来ない。私は倒《たお》れまいとして、机の端《はし》に手を掛けようとした。無理だった。
目をつぶって私は床にうずくまった。倒れた椅子を元通りにする音が聞こえた。
「座らせろ」デロールが言った。
ムトンが返事をし、私を椅子に座らせた。
「知ってることを吐《は》け!」ムトンが叫《さけ》んだ。
数分間、私は何を聴《き》かれても、何を言われても答えなかった。
「古傷は生傷より痛いんだよ」デロールが言った。
「あんたには同情するが、俺《おれ》に当たることはあるまい」
「俺は俺なりのやりかたで、尋問《じんもん》しているだけさ」
「……ここじゃ、何やってもあんたの勝ちだ」
私は少し元気になった。
「俺の父親も同じことを思ったことだろうよ」
デロールは並びの悪い歯を見せて笑った。
「…………」
「だがまあ、そんな話はどうでもいい。ここで、俺に逆らえないことが分かれば、話しやすくなる。おまえは、セイジのアパートでダイドウの交友関係を知った。それから、どうしたんだ?」
「翌日、そのひとりに会った」
「キヨシ・シバタだな」
「そこまで知ってるのなら、何も俺に聞くことはないだろう。直接柴田を尋問すればいいだろう?」
「奴《やつ》は今朝、死体で発見されたよ」
「何? どこでだ?」
「ノートルダム寺院近くのセーヌ河岸《がし》でだ」
「死因はなんだ?」
「前も言ったが俺は質問されるのが嫌《きら》いなんだ。あんたはシバタに会ってるな」
「ああ」
「何を話した?」
「猫《ねこ》のことを訊《き》いただけさ」
「まだ、こいつしらばくれてやがる!」ムトンはわめき、立ち上がった。
「まあ、落ち着け」デロールはムトンを諫《いさ》めてから、誰《だれ》に向かってしゃべっているのか分からない口調で言った。「どうせ、こいつは死人に口なしだと思って、しゃべらんだろうよ」
「殺されたのはいつなんだ?」
私は、わざと質問をしてやった。デロールは答えなかった。
「ジャン・ピエール・プチとは会ったのか?」
「会ってない」
「会いに行かなかったのか?」
「行ったよ」
「それで……」
「不在だった」
「中に入ったのか?」
「いいや」
「馬鹿《ばか》いうんじゃないよ!」灰皿《はいざら》が飛んできた。デロールが投げたのだ。私は危うい所でかわした。
アルミの灰皿は壁《かべ》にぶつかり、床《ゆか》に落ちた。金属製の鈍《にぶ》い音が私の後ろでした。
「おまえがプチの家から出て来たのを見ていた者がいるんだ」
「それが、どうして俺《おれ》だと分かる。俺はベルモンドじゃないんだぜ」
「有名なのはおまえじゃない。おまえの車だよ。目撃者《もくげきしや》は車好きの少年でね。おまえの車をよく覚えていた。あれは、もう製造されていない車だろう。アルピーヌ・ルノーの旧型。あのタイプの車で、しかも茶色のものに乗っている東洋人はフランス中であんただけなんだよ」
「プチの家には行ったが、中には入らなかった」
「あんたが女と一緒《いつしよ》に出て来たのをその子は見てるんだ。とぼけるのもいいかげんにしろ!」
「玄関《げんかん》口に立って中を偵察《ていさつ》しようとしたのは確かだが、中には入ってない。子供の見間違《みまちが》えだ」
「素直に言えよ。あそこで何をやってた。証拠《しようこ》を隠《かく》してるのなら、早めに提出したほうが得だぜ」
私は返事をしなかった。
「返事をしろ! 中に入ったんだな!」
「入ってない」
「匿名《とくめい》電話もおまえだろう」
「知らん」
「強情なやつだな。だが、時間はたっぷりある。そのうち吐《は》かせてやるさ」
「逮捕《たいほ》するのか?」
「冗談《じようだん》じゃない、逮捕なんかしない。逮捕すれば、おまえに弁護士を呼ぶ権利が生まれる。そんなまっとうな権利をおまえに与《あた》えたりはしないよ」
「逮捕じゃないとしたら、普通で二十四時間、延ばして四十八時間しか拘束《こうそく》できないんだぜ。それに、もう少し鄭重《ていちよう》に扱《あつか》わないと検事のコントロールに引っ掛《か》かって年金が貰《もら》えなくなるぜ」
「おまえが何を言っても、検事は取り合わんよ。私立|探偵《たんてい》の話なんか信じるのは、フィルム・ノワール好きのいかれた奴等だけだよ」
「コーヒーを一杯《いつぱい》もらえないか?」
「いい考えだ。俺も飲みたいと思っていた。それに、食事も用意してやる。鄭重に扱わなきゃいけないそうだからな」デロールはムトンのほうを見て皮肉な笑いを浮かべ、「コーヒーと食い物を持って来てくれ。四人分な。休憩《きゆうけい》を取るのも規則にあるからな」
デロールは立ち上がり、部屋の中をゆっくりと歩き、灰皿《はいざら》を拾い机の上に放り投げた。
「で、一緒《いつしよ》にいた女ってのは誰《だれ》なんだ?」
「あの女は画材屋の従業員だって言ってた。ちょうど俺《おれ》が、玄関《げんかん》口で呼鈴《よびりん》を鳴らしていたところに来たんだ」
「名前は?」
「訊《き》いたが、教えてくれなかった。ちょっと可愛《かわい》い女だったから、誘《さそ》ったんだが、まるで相手にされなかった」
ムトンがコーヒーとサンドイッチの載った盆《ぼん》を持って戻って来た。
「ムッシュ・スズキリには給仕しなくてもいい。胸が一杯《いつぱい》で食えないそうだ」
「分かりました」ムトンは嬉《うれ》しそうに笑った。
「胸につかえてるものを吐《は》き出せよ、ムッシュ・スズキリ」デロールは、椅子《いす》の背に躰《からだ》を預け、うまそうにコーヒーを飲んだ。
「自由、平等、博愛の精神が泣くぜ。われわれの国の精神が」
「おまえはフランス人じゃない。薄汚《うすぎた》ないジャップだ」
「国の記録によるとそうなってないよ」
「いや、おまえは……」
デロールが何か言おうとした時、ドアが開いた。
紺《こん》のスリーピースを着た、ひょろっとした男は、両手を後ろに組み、ムトンの横に立った。
「どうだね、異常はないかね」
「ぼちぼちやってます、検事」ムトンが笑った。
検事と呼ばれた男は眼鏡のところまで行き、記録をチェックした。記録には事実が書かれているだろう。だが、真実は書かれていない。検事にとって大事なのは事実なのだ。
検事はひとりでうなずき、デロールを見て訊《き》いた。
「休憩は?」
「今からです」
検事は湯気の上がっているコーヒーを見てまたうなずいた。ムトンが私の前にコーヒーとサンドイッチを置いた。
「ムッシュ・スズキリ。躰《からだ》の具合はどうだね?」
「良くないですね。ここは空気が悪い」
「もし、尋問《じんもん》が二十四時間を越《こ》えたら、君に医者の診断を受ける権利が生まれる」
「それは結構な話だ。でも、それより、早く家に帰りたいですね」
「調べが終われば帰れる。君は逮捕《たいほ》されているわけじゃないんだから」
「もう何も話すことはないんですがね……」
私はコーヒーをすすりながら言った。
「さあ、それは警視が判断する。少なくとも二十四時間の間は。その後のことは私が決める。捜査官《そうさかん》に行き過ぎのところがあると思ったら遠慮《えんりよ》なく、私に話してくれたまえ」
「とても紳士《しんし》的な扱《あつか》いを受けてますよ」
私は撲《なぐ》られたことを話すつもりはなかった。言っても無駄《むだ》だし、もし仮に取り上げられても、調査には時間が掛かる。まして、今は八月なのだ。フランスの八月。何事も電池のなくなりかけたカセット・デッキのようにのろいのだ。
検事は、デロールを表に連れ出した。会見はすぐに終わったらしく、私がコーヒーを飲み終えないうちにデロールだけが戻《もど》って来た。
「休憩《きゆうけい》は終わりだ」
デロールは手を付けていないサンドイッチの載った皿を手前に引いた。
「しかし、おまえも変わった奴だな。検事に訴《うつた》えたいことがあったんじゃなかったのか」
「なんの話だ? あんたが俺《おれ》の頬《ほお》にキスをし腹を撫《な》でたことか?」
「まあいい。尋問《じんもん》を続けよう……」
こうして私は、午前四時まで同じことを何度も聴《き》かれ、同じ答えを何度も繰《く》り返した。言葉で脅《おど》されたが、撲られはしなかった。結局、私は引っ張られて十四時間後に解放された。
外に出た私はセーヌ川を前にし、薄《うす》く雲の掛かった明け方の空を見て、大きく深呼吸をした。撲られた箇所《かしよ》だけではなく、躰《からだ》中が痛かった。不精髭《ぶしようひげ》を撫でた。髭の伸《の》びた分だけ、神経がささくれだっているような気がした。裁判所の前でタクシーを拾った。
運転手はおしゃべりな男だった。
「夜通し、愉《たの》しんでいたんですね」と陽気な声で言った。
「ああ。またとない経験をした」
「どんな?」
「警察に引っ張られてたのさ」
運転手は、それ以上口を利こうとしなかった。
16
翌日、鏡で自分の頬《ほお》を見た。頬骨のあたりが紫《むらさき》色になっていた。
私は、寝室《しんしつ》のソファーに座り、クマを膝《ひざ》に載せ考えた。
何故、デロールは期限切れを待たずに私を釈放したのか。答えはひとつしか考えられない。泳がせて尾行をつけるつもりなのだ。尾行がばれなければ、思わぬ収穫《しゆうかく》が得られるし、ばれても撒《ま》かれなければ、私を牽制《けんせい》できる。
私は、キオスクまで新聞を買いに出掛《でか》けることにした。
どんよりとした昼下がり。通りを歩いている人は少なかった。
後ろを注意しながら、私は表通りまで歩いた。一方通行を逆に歩いてるので、車での尾行は無理だ。私は地下鉄、モンマルトル駅の横のキオスクで新聞を買い、同じ道を戻《もど》った。尾行をしているのは女だった。黒いブルゾンにジーパンを穿《は》き、茶の大きめのショルダーバッグを提げていた。あのバッグの中には、口紅や手鏡に混じって拳銃《けんじゆう》が入っているのだろう。
部屋に戻った私は、窓のレースのカーテン越《ご》しに通りを窺《うかが》ったが、女の姿は目に入らなかった。
私は新聞を次々と拡げ、柴田喜代志殺害の記事を読んでいった。
柴田の死体は、サンルイ島のオルレアン河岸《がし》で昨日の朝、発見された。発見者は近くに住む女性で、犬の散歩の途中《とちゆう》に見つけ、警察に通報した。所持品から、すぐに名前が割れた。死因は絞殺《こうさつ》。死亡推定時刻は午前零時から午前三時|頃《ごろ》。なお、被害者《ひがいしや》の部屋は何者かによって荒《あら》されていた。
オルレアン河岸は、パリのほぼ中心にあるにしては、常に静けさを保っている河岸である。雨が降り続き、セーヌ川の水嵩《みずかさ》がますと、車を止めることも散歩をすることも不可能になってしまう。そんな時は、コンクリートの防波堤《ぼうはてい》さながらに、じっと身動きせず、釣糸《つりいと》を垂れている老人達しか目につかない寂《さび》しい場所と化す。
しかし、ここしばらくは、雨は降っていない。犯行現場がこの河岸なのかどうかは分からないが、どちらにしろ、犯人は、柴田を車に乗せ、急|勾配《こうばい》の坂を車で下り、そこに柴田だけを残して立ち去ったのだろう。
私は新聞から目を離《はな》した。
しかし、妙《みよう》なことばかりである。私はこれまでの殺人を整理してみた。
大道貢は拳銃《けんじゆう》で撃《う》たれ、彼の部屋は荒されていた。凶器《きようき》はその場に残されていた。
ジャン・ピエール・プチも拳銃で撃たれたが、凶器は発見されていない。部屋は荒されていないが、その代わりに彫刻《ちようこく》が消えていた。
柴田は絞殺である。部屋が荒されていた。
すべてがバラバラなのだ。大道もジャン・ピエール・プチも、拳銃で撃たれ殺されているが、前者の場合は凶器が現場に残され、後者の場合はそうではない。共通点といえば、大道と柴田の部屋が荒されていたことだけである。
日本人を殺した犯人はそれぞれ別なのかもしれないが、何かを探していたことだけは確かだ。しかも、机の引き出しや戸棚《とだな》に仕舞《しま》える比較《ひかく》的小さな物を。
私は、柴田と付き合いのあったというリリアンヌ・サリューンの行方が気になった。彼女《かのじよ》は依然として行方不明なのだろうか。私はジェアン・ジャンに会いに行くことに決めた。
問題は尾行の刑事《けいじ》だ。私はマックスに電話を入れ、刑事を撒くのを手伝ってもらおうと考えた。だが、彼は不在だった。
私は、ミュリエールに頼《たの》んでみることにした。彼女は、翻訳《ほんやく》の仕事中だったが、二つ返事で引き受けてくれた。
電話をしてきっかり三十分後、私は事務机の一番下の引き出しの鍵《かぎ》を開け、ショルダーホルスターに納まっている拳銃を取り出した。
S&W MODEL 36。
日本の宝石屋の護衛を頼まれた時以来、持ち歩いたことはない。ただ、ジャンヌ・ダルク通りの銃砲店|TIR1000《テイール・ミル》≠フ地下にある練習場では、週に一度は撃《う》っている。
ホルスターをつけると心が引き締《し》まった。
私は上着を着て、外に出た。
しばらく歩くと女が、紺《こん》色のシムカから降り、後について来た。車も動き出した。私は駐車場《ちゆうしやじよう》に入り、地下三階まで下りた。女刑事は中まで入っては来なかった。車の出口でシムカの中で仲間と一緒《いつしよ》に私のアルピーヌ・ルノーが出てくるのを待っているのだろう。
私が車の前に立つと、二ブロック向こうのパーキングエリアで、ヘッドライトが短く三回光った。
ミュリエールは予定通り来ていた。私はもう一度回りの気配を窺《うかが》ってから、ミュリエールの車、タルボ・オリゾンGLSに近づいた。
「表に紺色のシムカがいる。それが問題の車だ」
私はミュリエールの車の後部座席に乗り言った。
「念のために毛布を用意しておいたわよ」
「気が利くね」
私は座席に寝転《ねころ》び、毛布を被《かぶ》った。ミュリエールは、眠《ねむ》った子供にしてやるように、毛布の裾《すそ》を丹念に掛《か》け直し「これで、よし」と言った。
車が螺旋《らせん》状になった道をゆっくりと上がって行った。しばらくして、外に出たのが気配で分かった。車は右に折れた。
「シムカがパン屋の前にいたわよ」
「つけてくる様子はないか?」
「大丈夫《だいじようぶ》。でも、もう少しそこにそうしてて、念のために」
「分かった」
信号が赤になったらしい。車を止めるとミュリエールは言った。
「もういいわ。で、どこへ運べばいいの、お客さん」
私は毛布を取り、躰《からだ》を起こした。
「マルカデ通り一三二番地」私は後続車を見ながら答えた。
「というとサクレクール寺院の裏ね」
「そうだ」
「どうしたの、その痣《あざ》?」
バックミラーの中のミュリエールが訊《き》いた。
「ちょっと撫《な》でられただけさ」
「誰《だれ》に?」
「君が初心を貫《つらぬ》いていれば、上司になったかもしれない奴《やつ》」
「でも、何故?」
「証拠《しようこ》を隠匿《いんとく》していると思ってるからだよ。事実だけどね」
「それで、あのシムカがあなたを見張ってたわけね」
「助かったよ、尻《しり》にオデキがくっついてちゃ、仕事がやりにくい」
「こういうことやるの、大好き。ぞくぞくしちゃう」
「机に向かっているよりは面白いだろうね」
「で、今からどうするの?」
私は話した。
「シンゴ、車がないんでしょう? 私が運転手をやって上げましょうか?」
「いや、君は余計な心配をしないで、英語をフランス語にしていればいい」
無事、マルカデ通りに着いた私は、ミュリエールにもう一度礼を言い、車を下りた。ドアを閉めようとした時、彼女《かのじよ》が言った。
「気をつけてね」彼女の目は私のジャケットの奥《おく》に注がれていた。
私は一三二番地と書かれた石造りの建物に入った。五階に上がり、サリューン≠ニだけ書かれた表札の下のボタンを押した。
「誰だ」法螺貝《ほらがい》を吹《ふ》いたような声が訊《き》いた。
「俺《おれ》だ。鈴切だ」
ドアが開き、ジェアン・ジャンが現れた。
「あんたの電話を昨日ずっと待ってたんだぞ」挨拶《あいさつ》なしで、酒臭《くさ》い息が返って来た。
「済まない。昨日は警察に引っ張られていたんでね、掛けたくても掛けられなかった」
「なんかヤバいことでもあったのか?」
「担当の警視は日本人をいじめるのが趣味《しゆみ》なんだ」私は頬《ほお》の痣《あざ》を指差して言った。
「リリアンヌのこと、何か分かったか?」
ドアは開いたものの、ジャンがぴったり入り口を塞《ふさ》いでいた。
「そのことでやって来たんだ。中に入っていいかい?」
ジャンは黙《だま》って通り道を開けた。
リリアンヌとジャンの住まいは、ワンルームだった。ベッドはソファーにもなるものらしい。だが、リリアンヌがいなくなってから、一度もソファーとしては使っていないようだ。リリアンヌが居てジャン、ベッドをたたんで≠ニ言えば、この大男なら、たちまち片手で言われたことをやってのけるのだろうが、ひとりの彼は、灰皿《はいざら》ひとつ持ち上げられない様子だった。躰《からだ》の大きさに見合う心臓をジャンは持っていないらしい。ネイビー・ブルーの絨毯《じゆうたん》の上には酒瓶《さかびん》が転がっていて、部屋には饐《す》えた臭《にお》いが漂《ただよ》っていた。
「飲むか?」ベッドに腰掛《こしか》けたジャンが訊いた。
「今はやめておこう」
ジャンは不精髭《ぶしようひげ》を撫《な》で、テーブルの上のパスティスの瓶を取ろうとした。私はその瓶を取り上げ、テーブルの前の籐椅子《とういす》に座った。
「リリアンヌを見つけたいのなら、飲むのはよせ。あんたの話を聞きたいんだ」
「何も話すことなんかねぇ。リリアンヌはどっかの男とふけやがったんだ」
「まあ、そう結論を急ぐな。黙《だま》って俺の質問に答えろ」
「……あんたはいい奴《やつ》だ。一緒《いつしよ》に飲もう」
ジャンは薄汚《うすよご》れたタオルケットの上にあお向けに倒《たお》れた。
「リリアンヌにはカンボジア人の血が入っているそうだが、同胞《どうほう》との付き合いはあったか?」
「カンボジア人がどうしたんだ?」
「どうなんだ? カンボジア人、或《ある》いはベトナム人達との付き合いはないのか?」
「そんなものいねぇ。あいつのダチはジェニーだけだ。他にはいねぇ」
ジャンが起き上がった。風で立ち淀《よど》んだ空気が動いた。
「やはり、あんたが一昨日話していた、シバタって野郎が臭《くさ》い。そいつの住所を教えてくれ」
「聞いてどうする」
「締《し》め上げてやるのさ」
「あんた新聞を読んでないのか。奴は今、死体置き場にいる。昨夜、絞《し》め殺されたんだ」
「殺された?」
ジャンの躰《からだ》が少し小さくなった。
「あんたが殺《や》ったんじゃあるまいな?」
「居所を知っていたら殺ったかもしれんな」
「ジャン、約束《やくそく》通り、リリアンヌの持ち物を調べさせてもらうぜ」
「勝手にやってくれ。大したものはないがな」
私は、引き出しをかき回し、ベッドの下を調べ、洋服のポケット、ハンドバッグの中を探った。妙《みよう》な感じだった。普通《ふつう》、こういう作業は、住人のいないところでやるものだ。住人のいる前では、何となく気を使うところがあった。
アドレス帳も、屋号の入ったマッチも出てこなかった。
チャイムが鳴った。誰《だれ》が来たのか見てくれ、とジャンが私に頼《たの》んだ。ドアスコープから覗《のぞ》くと、そこにはジェニーが立っていた。
「あら、探偵《たんてい》さんも、ジャンの慰問《いもん》に来たの」
ジェニーはアニマル・プリントのサマードレスを着ていた。腕《うで》が動くと、濃《こ》い腋毛《わきげ》が露骨《ろこつ》に見えた。
「いいところに来た。後であんたのところにも寄ろうと思ってたんだ」
「リリィの行方は依然《いぜん》、不明なの?」ジェニーは短い廊下《ろうか》を歩きながら訊《き》いた。
「何か、手掛《てがか》りがないかと思ってここに来たんだ」
「何という部屋なの。豚《ぶた》小屋じゃない!」
ジェニーは、絨毯《じゆうたん》の上に転がってる瓶《びん》を拾い上げながら言った。
「しっかりなさいよ、ジャン」
「やあ、ジェニー」大男は小さく笑った。
「ジェニー、ジャンの面倒《めんどう》を見てやってくれ。俺《おれ》はもう少し、この部屋を探ってみる」
ジェニーはウインクを返してきた。
私は、廊下の右側にある物置きを調べることにした。掃除《そうじ》機、トイレット・ペーパー、観葉植物の栄養|剤《ざい》、錆《さび》ついた電気ストーブ、厚手の毛布などが乱雑に入っていた。一番|奥《おく》にダンボール箱が二個積んであった。下のにはジャンと書いてあり、上のにはリリィ≠ニ記されている。
私はリリィ≠フダンボール箱を廊下に出し、中を調べた。普通《ふつう》の人なら、古い給与《きゆうよ》証明や手紙、或《ある》いはスナップ写真などといったものが入っているのだろうが、その箱の中には、具体的に所有者の過去を物語っているものは、一冊の手帳を除いては何もなかった。大半は衣類と、空き巣《す》も持って行かないようなアクセサリーだった。私は、廊下に片膝《かたひざ》を付き、手帳を開けて見た。それは一九六九年のものだった。
一月五日から一月十五日まではオンフルールに行っていたらしい。
一月十六日の欄《らん》には三時にミツグ≠ニあり、一月十八日はキヨシに会う≠ニ記されていた。
ミツグは大道のこと、そしてキヨシとは柴田のことではないか。おそらく、そうだろう。リリアンヌ―柴田―大道の線が繋《つな》がった。いや、十六、七年前から繋がっていたのだ。
多くの日記や手帳同様に、リリアンヌの手帳も一月のページだけに書き込《こ》みがあり、後のページは空白だった。手帳の終わりにアドレスを書く欄があった。ミツグ、キヨシと名前だけ記された横に電話番号が書いてある。他にも何人かの名前があったが、私の知っているものはなかった。ひょっとしたら、ジャン・ピエール・プチの名があるかもしれないと思ったが、それらしいものはなかった。
村川隆が、大道とは昔からの知り合いだ、と言ったのを思い出した。私は、念のためもう一度調べたが、タカシという名も、旧姓のヤマギシという苗字《みようじ》も発見されなかった。手帳を閉じる時、最後のページの、持ち主のイニシャルが目についた。
『F・Y』
これはリリアンヌの手帳ではないのか。それとも、リリアンヌ・サリューンというのは偽名《ぎめい》なのか。
部屋では、ジェニーがジャンを叱咤激励《しつたげきれい》する声がしていた。ジャンも何か言っているようだったが、何を言っているのかは分からなかった。
私はひとまず、そのことを考えるのを止め、箱の底に、新聞紙でくるんであるものを取り出した。
中国人らしい男が柔和《にゆうわ》な顔をして、鶏《にわとり》を抱《だ》いている陶器《とうき》の人形だった。思い出の品。おそらくそうだろう。中国服は黒、髪《かみ》は水色、鶏の嘴《くちばし》は黄色で、頭は赤。
私は人形と手帳以外を元に戻《もど》し、ダンボールを物置に仕舞《しま》った。
「収穫《しゆうかく》あった?」部屋に戻るとジェニーが聴《き》いた。ジェニーは開け放たれた窓の前に立ち、ジャンは椅子《いす》に腰《こし》を下ろしていた。
「あまりないがね、ひとつだけ、ジェニーに聴きたいことがある」
「何?」
私は、財布の間に挟《はさ》んでおいた大道貢の写真をジェニーに見せた。
「その男がリリアンヌと一緒《いつしよ》にいたところを見たことはないか?」
ジェニーは小首を傾《かし》げ、見たことない、と答えた。
「その男は誰《だれ》だ?」ジャンが訊いた。
「リリアンヌの昔の知り合いらしい」
私はベッドの端《はし》に座り、手帳をジャンに見せた。ジェニーは私の肩越《かたご》しに覗《のぞ》きこんだ。
「おそらく、このミツグというのは写真の男だし、キヨシというのはガイドの柴田だろう。そして、妙《みよう》なことに、ふたりとも殺されているんだ」
「それじゃ……」ジェニーが私の腕《うで》を強く握《にぎ》った。
「リリアンヌの筆跡《ひつせき》かどうか分かるか?」私は手帳をジェニーに見せた。
「間違《まちが》いないと思うわ」
ジェニーはジャンに手帳を渡《わた》したが、ジャンは、手帳をパラパラと捲《めく》っただけだった。
「この手帳に出ている奴等《やつら》と、リリアンヌがどういう関係だというんだ?」ジャンが苛々《いらいら》した声を出した。
「分からない」
「ところで、ジェニー、リリアンヌが偽名だとは考えられないか?」
「さあ……前にも言ったけど、身分証明書はそうなってたわよ。でも、あんなの簡単に偽造できるけどね……」
「絶対、偽名なんかじゃねぇ。そうだったら、俺《おれ》には話すはずだ」ジャンが鋭《するど》い目付きで私を見た。
「あんたがそう言うんならそうだろう」私は笑って答えた。
「あら、可愛《かわい》い人形!」ジェニーが新聞紙を開いて、鶏《にわとり》を抱《だ》いた男を取り出した。
「リリアンヌの親父《おやじ》の形見なんだ」ジャンがつぶやくように言った。カンボジアにも華僑《かきよう》がたくさん住んでいる。それをモデルに作られた人形らしい。
「ね、探偵《たんてい》さん、リリアンヌの行方を知る手掛《てがか》りはまったくないの?」
「いや、ひとつだけある」
「何だ? 教えてくれ!」ジャンが吠《ほ》えた。
私はチャイナタウンの中国料理屋の話をし、ジャン・ピエール・プチのアドレス・ブックにあったL・S≠フイニシャルのことも教えた。
「それで、そこに乗り込《こ》むつもり?」
「客を装《よそお》って行ってみるつもりだ」
「俺も行く」ジャンが風を切って立ち上がった。
「ダメだ。酔《よ》っぱらいは足手まといだ」
「何? リリアンヌは俺の女だ」
「シンゴ、連れてってあげなよ」
「…………」私は樹齢《じゆれい》三百年の大木を眺《なが》めるようにジャンを見上げながら、溜息《ためいき》をついた。
「俺《おれ》は顔を洗ってくる。あんたが俺と一緒《いつしよ》に行きたくなくても、俺はあんたと行く」
ジャンが部屋を出て行くとすぐに、水の流れる音がした。蛇口を一杯《いつぱい》に開いているのか、凄《すご》い音だった。
「ジャンは、リリィのためなら死んでもいいと思ってるのよ」ジェニーは、火のついてないジターヌをくわえたまま、言った。ほんの少し寂《さび》しげだった。
「俺は死にたくない。奴《やつ》は短気すぎる。それが心配なんだ」
「あんたの用心棒だと思えばいいじゃない。その点じゃ、今でも結構役に立つわよ」
「……拒否《きよひ》しても襟首《えりくび》を捕《つか》まえられて、連れていかれてしまうだろう。分かったよ、奴と一緒に行くよ。それに、今日は車がないから、好都合なんだが……」
「そうして上げて」ジェニーが私に触《ふ》れた。
「ひとつ、あんたにお願いがある。ジャンに言ってくれ。俺の命令に絶対服従だって」
「分かった」
ジャンが戻《もど》って来ると、ジェニーは大男に、指揮官が誰《だれ》なのかを忘れるな、と何度も言い聞かせた。
「ジャン、リリアンヌの写真はないか?」
「持ってる」
「俺に貸しておいてくれ。今後の捜査《そうさ》に役にたつかもしれんからな」
ジャンは無言でじっと私を見つめ、おもむろにズボンの後ろポケットから財布を出した。
「写真は二枚しかないんだ。なくさないようにしてくれ」
「気をつけるよ」
渡《わた》された写真の女は緊張《きんちよう》していた。大きな瞳《ひとみ》は笑っておらず、カメラに敵意を抱《いだ》いているような感じさえした。髪《かみ》は黒、鼻は東洋人の血が入っているらしく、それほど高くなかった。少し下唇《したくちびる》が出ていて、顎《あご》がしゃくれ気味だが、美人の部類に入る女だった。かなり濃《こ》い化粧《けしよう》。ここ何十年と、素顔を見せたことがないような感じの化粧だった。
私は、リリアンヌの写真を財布に収めた。ジャンは、じっと財布の行方を目で追っていた。上着の内ポケットの中に消えるまで。
私とジャンはジェニーをポルト・マイヨで落とし、イヴリー大通りに向かった。ジャンの車は三菱《みつびし》ミラージュだった。ジャンの頭は、車がワンバウンドしたら、屋根を突き抜《ぬ》けそうなくらいに天井《てんじよう》にくっついていた。
外環状線《ペリフエリツク》を走っている時、私はジャンに話し掛けた。
「日本で活躍《かつやく》していた、あんたを俺は覚えてるよ」
「そうか! あんたはプロレス・ファンなのか!」ジャンは相好《そうごう》を崩《くず》した。
「いや、特にプロレス・ファンではないが、あんたは、悪役としちゃ、一番名が売れてたからな」
「あの頃《ころ》は、良かった。足さえまともだったら、今でもリングに上っていたんだがな……」
「…………」
「だが、レスラーを辞めてパリでゴロゴロしていたから、リリアンヌに会えたことを考えれば、どっちが良かったか分からないがね」
「あんたにとっちゃ、そんなに大事な女なのか」
「俺のすべてだよ」
17
ジャンはかなりのスピードを出していたが、警察に捕《つか》まることもなく、天井に穴が開くこともなく、無事、チャイナタウンに着いた。
チャイナタウンはパリの南寄り十三区にある。イヴリー大通りがメインストリート。香港やサンフランシスコのチャイナタウンに比べると、かなり小さいが、ここ数年のうちにみるみる大きくなった。以前はフランス人が経営していたらしいガソリンスタンドや美容院も、いつの間にか黄色人種の経営になり、屋号も『長城男女美髪』とか『東京汽車学校』といった具合に漢字に変わっていた。『東京汽車学校』とは何だろうと思ったが、それは自動車教習所のことであった。
車を路地に止め、私達はパゴド・ド・ドラゴン≠ノ入った。
午後六時十五分過ぎ。客は私達の他に一組しかいなかった。
私は、調理場やレジがよく見える席に座った。朱塗《しゆぬ》りの柱、竜《りゆう》が威勢《いせい》良く跳《は》ねている壁《かべ》、パリのどこにでもある中国料理屋だった。ギャルソンが三人いて、調理場に近いカウンターの辺りで油を売っていた。
「ここに、リリアンヌがいると思うのか?」
「L・Sというイニシャルの人間がいるらしい、ということだけの話だ。リリアンヌとは限らないし、人名の頭文字とも決まってはいないんだ。早まるなよ」
ジャンはこくりとうなずいた。
痩《や》せた色の浅黒いギャルソンがやって来て、鼻に掛かった甲高《かんだか》い声で挨拶《あいさつ》し、メニューを置いて下がった。
それほど食欲はなかった。だが、ゆっくり食事を取りに来た振《ふ》りをするためにも、人並《ひとな》みの料理を注文しなければならない。いや、三人前は取らなければならないか。私はジャンを見て、そう思った。
料理は私が勝手に決めた。カナール・ラッケを注文したが、これは予め予約をしていないと出せない、と断られた。代わりにポーク・ラッケにし、ビールを頼《たの》んだ。
「長期戦になるかもしれん。酒はほどほどだぞ、ジャン」
「こうやって飯を食っていてどうするんだ」
「分からんが、ともかくここしか手掛《てがか》りがないんだ」
ジャンは、そわそわと回りを見ている。
「あんたはただでさえ目立つんだから、少し小さくなっててくれ」
「分かったよ」
運ばれて来る料理に、私達はゆっくり手をつけた。
一時間程過ぎた。客が増えて来た。若いフランス人四人が隣《となり》のテーブルにつき、冗談《じようだん》を言い合って騒《さわ》いでいた。また、日本人らしいカップルが奥《おく》のテーブルについていた。
黒い背広を来た男が店の奥から現れた。髪《かみ》と口髭《くちひげ》に白いものが混じっている、ずんぐりとした東洋人だ。カウンターの中の男と、二言三言、言葉を交わすと、レジのところに行き、台帳のようなものに目を通した。この男がヘン・ソバンか、それとも単なるマネージャーか、私には分からなかった。
ジャンは焦《じ》れていた。「誰《だれ》かを脅《おど》かして、吐《は》かせたほうが手っ取り早いぜ」
「冗談言うな。相手はギャングだぞ。あんたはスーパーマンみたいにでっかいが弾《たま》をはじく能力はないんだ」
白髪《しらが》混じりの髪の東洋人がカウンターを出て、ホールの入り口に立った。彼は誰かを見て微笑《ほほえ》み、そちらに歩き出した。相手は、私達より先に来て、窓際の席でル・モンド≠読んでいた学者風の老人だった。
「ボンスワール、ムッシュ・カッセル」東洋人が言った。
「ボンスワール、ムッシュ・サリューン」
リリアンヌと同じ姓《せい》。ジャン・ピエール・プチのアドレス・ブックに残されたL・S≠ニは彼のことかもしれない。
私はそのことを、ジャンに伝えたが、彼はそうだな≠ニは言わなかった。
「リリアンヌの親戚《しんせき》かもしれない。直接聴《き》いてみよう」
「いや、待て。もう少し様子を見たほうがいい」私はポーク・ラッケを食べながら小声で言った。
客がひとり入って来て、カウンターに立った。カウンターの中の男に何か言うと、そいつは、ホールにいたサリューンという男を指差した。客はホールを見た。極端に突き出た額、皮膚をナイフで軽く切ったような目。すこぶる人相の悪い小柄な東洋人だった。私ははっとした。白黒のコンビの靴《くつ》。私を殴《なぐ》った奴《やつ》も同じような靴を履《は》いていたのを思い出したのだ。
客の存在に気付くと、サリューンは、すぐにカウンターに取って返した。客がサリューンに何か言っている。遠くて聞こえないが、彼等はどうせ向こうの言葉で話しているのだから、隣にいたとしても同じことだろう。客はしゃべり終わるとすぐに出て行った。
怪《あや》しげなことは何も起こらなかった。ギョウザの代わりにヘロインを欲しがっているような奴も来ないし、満腹感を味わうよりも、非合法な賭博《とばく》場でスリルを楽しみたいと思っているような輩《やから》もいないようだった。
私はジャスミンティを飲みながら、ジャンに言った。
「あのサリューンという男を揺《ゆ》さぶり、閉店を待って、奴をつけよう」
「そうしよう」ジャンが急に元気になった。散歩に連れて行ってもらえることが分かった運動不足の大型犬みたいに。
私はギャルソンを呼んだ。
「勘定《かんじよう》を頼《たの》む」
ギャルソンはテーブルの横に立って計算を始めた。
「あそこにいる黒い上着を着た人が経営者かい?」
「いえ、マネージャーです」
「ちょっと話があるんだが、呼んでもらえないか」
「何かお気に触《さわ》ったことでも、ムッシュ?」ギャルソンは鉛筆《えんぴつ》を動かすのを止め、私を見て訊いた。
「ここのサービスはおおいに気にいったよ。ちょっと個人的なことなんだ」
「分かりました」
代金とチップを受け取ったギャルソンは、レジに行く前にサリューンに話をした。
サリューンがこちらを見た。私は頭を軽く振《ふ》って合図を送った。
「お話とは、どんなことでしょう?」
サリューンはすぐにやって来て、にこやかに笑った。
「大したことじゃないんだ。ここに、リリアンヌ・サリューンというフランス人とカンボジア人のハーフの女性がいると聞いて来たんだが……」
「は! 私どものところには、そんな女性はいませんが」
「嘘《うそ》をつくと為《ため》にならんぞ」ジャンが言った。本人は押《お》さえ気味に言ったつもりだったらしいが、一瞬《いつしゆん》、ホールが静まり返った。
「ジャン!」私は目で口を利くな≠ニ命令した。
「本当でございます。女性はひとりも働いておりません。何かのお間違《まちが》えでしょう」
「君の親戚《しんせき》にもいないかね?」
「は! おっしゃってることがよく分かりませんが」
「君はサリューンという苗字《みようじ》だろう?」
「なるほど、それで……。でも、親戚でフランス人と結婚《けつこん》した者は居りません」
「君の名刺《めいし》を貰《もら》えないか」
「よろしいですが、一体、誰《だれ》がそんなデタラメを言ったのですか?」サリューンは名刺を出しながら訊《き》いた。
私はすぐには返事をしなかった。
名刺によると、この男の名前はリムだった。名前の頭文字はL≠ナある。どうやら、ジャン・ピエール・プチのアドレス・ブックに書かれていたL・S≠ヘこの男らしい。「その話をしたのは、君の知っている人だよ」
「どなたでしょうか?」
「ジャン・ピエール・プチ」
「存じ上げませんね。どこか店をお間違えになったのでは……」
リム・サリューンは顔色ひとつ変えずに答えた。大した役者らしい。
私は非礼を謝り立ち上がった。敵を見るような顔をして、サリューンを睨《にら》みつけていたジャンも、しぶしぶ椅子《いす》を引いた。
「またの、お越《こ》しを」
サリューンの穏《おだ》やかな声が、私の背中でしていた。
私達は車の置いてある路地に向かってイヴリー大通りを歩いていた。
「あいつは、何か隠《かく》してるんだ!!」ジャンが低く呻《うめ》いた。
「俺《おれ》もそう思う」
「リリアンヌの居場所を知ってやがるんだ」
「それはどうかな。俺の勘《かん》が外れたのかもしれん」
「どういうことだ?」
私がそう思う理由を話そうとした時、建物の影《かげ》から人が現れ、私の横にぴったりとくっついた。脇腹《わきばら》に固い感触《かんしよく》。
ジャンが一瞬《いつしゆん》、身構えた。
「おとなしくしないとあんたのダチは死ぬ」
中国語|訛《なま》りのフランス語がジャンを威嚇《いかく》した。
「分かった」ジャンが答えた。
「よし、そこのプジョー五〇四に乗れ」
私に拳銃《けんじゆう》を突《つ》きつけているのは、先程パゴド・ド・ドラゴン≠ノ姿を現した人相の良くない白黒のコンビの靴《くつ》を履《は》いた男だった。
プジョーには運転手の他にもうひとり東洋人が乗っていた。私は助手席に座らされ、ジャンはふたりの男に挟《はさ》まれる恰好《かつこう》で後部に乗せられた。
コンビの靴が何か言うと、車が出た。
店を出て三分とたってはいない。あのマネージャーが連絡《れんらく》したにしては早過ぎる。もっと前から待機していたような気がした。もし、そうだとしたら、あそこにいた誰《だれ》かが、私のこと、また私が何をしているかを知っていることになる。その謎《なぞ》の人物の最有力候補は私の真後ろでジャンに拳銃を向けているコンビの靴《くつ》を履いた男だ。
「あんたには前にも会ってるな」
私は後ろを向きながら言った。
「前を向いてろ」コンビの靴が言った。
私は言われた通りにしたが、口だけは動かした。
「あんたはちょうど、いいとこに座ってるよ。俺の頭の傷を見てくれよ。あんたに作っていただいたんだぜ」
「…………」
「ジャン、マージャン出来るか?」私が続けて言った。
「いや」
「うるさい黙《だま》ってろ!」
「徹夜《てつや》でマージャンする時は五人のほうがいいと思ったんだ。今からマージャンするんじゃないのか?」
「…………」
プジョーはものの五分も走らないで停止した。パゴド・ド・ドラゴン≠ゥら目と鼻の先の路地で私達は車を下りた。
私達が案内されたのは、元は自動車修理工場だったらしい二階建ての建物だった。インターホーンに向かって運転手が何か言うと、シャッターが上がった。まず、ボロボロのボルボが目に入った。いいところがひとつもなく打たれっぱなしだったボクサーのような車体だった。ボルボの横にトラックが一台、止まっていた。奥《おく》が事務所。その手前に、なだらかなコンクリートのスロープが上に続いている。二階はかつて中古車や修理待ちの車を置いておく車庫だったようだ。そこから、時折、人の声が微《かす》かに聞こえた。
運転手だけが上に残り、コンビの靴とその相棒が私達を事務所の横にあるエレベーターに乗せ、地下に降りた。通路の両|脇《わき》は、部品が仕舞《しま》ってある棚《たな》が占《し》めていた。微かに油の匂《にお》いがした。その突き当りはがらんとした部屋だった。
ここも車庫に使われていたらしい。車輪のない赤いクラシック・カーが中央に置いてあり、その回り、それから壁際《かべぎわ》に、椅子《いす》やテーブルが無造作に置いてあった。テーブルには緑色のラシャが張ってあった。そして、瓶《びん》の入ったケースも何段にもなって積み上げられていた。蛍光灯《けいこうとう》が青白い光を放っていた。
コンビの靴が何か言うと、右|眉《まゆ》の上に大きな黒子《ほくろ》のある相棒が私の身体検査をやった。私の拳銃《けんじゆう》をホルスターから抜《ぬ》くと、それを男はコンビの靴に渡《わた》した。
「俺達《おれたち》をどうするんだ?」私が訊いた。
「ボスが会いたがってるんだ。その辺の椅子に座ってろ」
「リリアンヌはどこだ?」ジャンが言った。
「あんた、何言ってるんだ」コンビの靴がジャンに近づき、小馬鹿《こばか》にしたように言った。小馬鹿にしていても、見下すことは出来なかった。
「俺《おれ》のリリィだ!」
ジャンの右|腕《うで》が動いた。殺し屋の拳銃が叩《たた》き落とされ、コンクリートの床《ゆか》に転がった。ジャンは、左足で殺し屋の胸をキックした。殺し屋は、床に沈んだ。その上に、ジャンがのしかかった。右足が悪くても、まだリングに上れそうな動きをしていた。殺し屋の躰《からだ》は、土砂に飲み込まれるようにして、ジャンの下敷《したじ》きになった。
「リリアンヌはどこだ!」ジャンが吠《ほ》えた。
殺し屋は首を絞《し》められているようで、声が出ない。もうひとりが拳銃でジャンの頭を殴《なぐ》ろうとした。私はその男に体当たりを食らわせた。夢中《むちゆう》だった。男は倒《たお》れたが、拳銃は握《にぎ》られっぱなしだ。しかし、銃口《じゆうこう》はこちらを向いていなかった。蹴《け》った。拳銃が落ち、相手は股間《こかん》を押《お》さえてうめいた。
私は床に落ちていた拳銃を拾おうとした。その時だった。
「ハジキに触《さわ》るな!」
私の背中に日本語が飛んできた。振《ふ》り向くと、そこには、運転手とパゴド・ド・ドラゴン≠フマネージャー、リム・サリューン、それにもうひとり男が立っていた。
「ふたりとも立て!!」サリューンが銃口をこちらに向けて言った。その横に立っていた運転手も銃を持っていた。
ジャンが、殺し屋を押さえつけたまま、私を見た。
「言われた通りにしろ」私は言った。
「あまり無茶をしないほうがいい。こいつらを片づけても、どうせここから出られはしないのだから」東南アジア人特有のイントネーションのある日本語だが、かなりうまかった。
目のぱっちりした、まだ四十前の男だった。タキシードを着て、片手をズボンのポケットに突っ込んでいた。柄《がら》はジャンほどではないが、東洋人にしてはかなり長身だった。髪《かみ》は今風に刈《か》り上げていた。本を持たせれば若い助教授にも見え、撮影所《さつえいじよ》をうろついていれば俳優に見え、ピアノの前に座らせれば、クレーダーマンを凌《しの》ぐ演奏家にも見えるに違《ちが》いない。しかし、こういう地下室にいれば、やはり、ギャングに見えた。
「ようこそ、鈴切さん。私はヘン・ソバンです」
「俺も有名になったもんだね。チャイナタウンのボスに覚えられるとは。光栄の至りだね」私は呼吸を整えながら言った。
殺し屋は何とか立ち上がったが、もうひとりは伸《の》びていた。殺し屋が中国語で何か言うと、ヘン・ソバンは真剣《しんけん》な表情で答え、私のほうを見て笑った。
「ゆっくり話をするためには、縛《しば》っておかなくてはならないようだ。特に、君の友人にはそうする必要があるらしい」
殺し屋と運転手が拳銃《けんじゆう》を私達に突《つ》きつけた。殺し屋はしきりに首を撫《な》でていた。
「車の後ろに座りな」サリューンが銃口で場所を示しながら言った。
ジャンも観念したらしく、車輪のない赤いクラシック・カーの尻《しり》のところに座った。
運転手が私達の両腕をバンパーに手錠《てじよう》で繋《つな》ぎ、両足を麻縄《あさなわ》で縛った。
殺し屋が近寄って来て、いきなり、ジャンのこめかみを拳銃の握りで殴《なぐ》った。
さすがのジャンも、うっと短く呻《うめ》いて、首を前にうなだれた。絶命したとは思えなかったが、よく分からない。私はジャン≠ニ呼んで顔を覗《のぞ》き込《こ》んだ。微《かす》かに呼吸の音が聞こえた。
殺し屋はにやりと笑い、借りを返した悦《よろこ》びの現れなのか、ゆっくりと顎《あご》を撫《な》でていた。
私は未だ借りを返していないが、今はどうしようもない。私は殺し屋のコンビの靴《くつ》に唾《つば》を吐きかけてやった。
「この野郎!」殺し屋がまた拳銃を振《ふ》り上げた。
ヘン・ソバンが大声を出した。おそらくやめろ≠ニ言ったのだろう。殺し屋は、主人に怒《おこ》られたシェパードのような目付きをして、腕《うで》を下ろした。
「君に気絶されちゃ困るんだ」ヘン・ソバンが言った。
「で、何の用があるんだ、我々に」と日本語で訊《き》いた。
「君の友達は何者だ」ヘン・ソバンは私に訊き、殺し屋に何か言った。
殺し屋は、気絶しているジャンのズボンのポケットから財布を抜き取り、ボスに渡《わた》した。
「ジャン・コーラン。マルカデ通りに住んでるのか」
「元プロレスラーだよ。魔界《まかい》のジェアン・ジャンっていって、日本でならしたこともあるんだ」
「レスリングには興味がない。それに、この男にもだ。私は君と話がしたい。こちらから出向こうと思っていたのだが、うまい具合に君のほうから来てくれた」
「じゃ、俺《おれ》の友達は帰してやればよかったじゃないか、こんな……」私はジャンに目を落とした。
「残念だが、それは出来ない。もっとも、君と話し合った後、場合によっては、ふたりともお帰しできるがね」
「話を聞こう」
「君は、一体、何を探ってるんだね。本音を聞きたい」
「猫《ねこ》と殺人犯人を探している」
「猫がいなくなると実に悲しいものだ。私も猫が好きでね。シャムを三匹|飼《か》っている。私も猫がいなくなったら、君に捜索《そうさく》を依頼《いらい》したいね」
「猫の名前はゴン、トラ猫なんだ。ひょっとしてあんたのところにいないかね」私は笑って言った。
「どこにでもいる猫だね。だが、私のところにはいない。いたら、即刻《そつこく》君に渡すところだがね。ところで、殺人事件のほうの捜査はどうだね」
「犯人は分かったよ」
「誰《だれ》だね」
「あんただよ」
「なるほど。君の捜査している事件のすべては、同一犯人の仕業だと思っているわけか?」ヘン・ソバンはゲーム用のテーブルの上に座りながら訊《き》いた。
「実行者は違《ちが》えども、皆《みな》、あんたがやらせたんだろう。ジャン・ピエール・プチを殺《や》ったのは、そこに立っているコンビの靴《くつ》のお兄さんだ」
「どうして、ファンだと思う?」
「俺を彫刻家《ちようこくか》の家で殴《なぐ》った相手は、ああいうコンビの靴を履《は》いた奴《やつ》だった。そして、今日あんたの店に行き、外に出ると奴が待っていた。奴は、俺をちらっと見ただけで、誰だか分かったが、俺のほうは初対面だった。奴は俺を殴って気絶させた時、俺の面を見たから知っていたとしか考えられない。白黒のコンビの靴を履いた男など、ノーブラで歩く女と同じようにどこにでもいる。だが、俺を一目見ただけで、俺が誰であるか分かる、白黒のコンビの靴を履いた男は、奴以外にない。
奴が俺を殴った犯人だと、本当に疑ったのは、奴が俺に拳銃《けんじゆう》をつきつけた時からだよ」
「君は私の店に来た。中華《ちゆうか》料理を食べに来ただけだ、なんていう詰《つ》まらない嘘《うそ》は言わないで欲しい。君は何を探りに来たんだ?」
「リリアンヌ・サリューンという女がいるかどうかを調べに来たんだ。この大男は、その女の愛人なんだ。彼女は四日前に失踪《しつそう》した。俺の睨《にら》んだところ、三件の殺人事件に関係があるようなんだ」
ヘン・ソバンは大きく溜息《ためいき》をつき、「私は、その女のことはまったく知らない」
私はヘン・ソバンの言葉を信じた。だが、信じていない振りをすることにした。
「……どうだかね。その女はカンボジア系だしな……」
「…………」
「女も始末しちまったのか?」
「私達はその女のことは知らない」
「じゃ、他の殺人のほうは認めるんだな」
「ジャン・ピエールの件は確かにファンが殺った。だが、他の二件は知らない」
「俺の扱《あつか》っている事件のことをよく知ってるようだな。不思議だぜ。ここ四、五日のうちに起こった殺人は、何もその三件だけじゃないはずだがね」
「君の行動については、少し調べさせてもらった。その結果、日本人が射殺された事件を追っていることが分かったんだ」
「ジャン・ピエール・プチを殺ったことを告白するために、俺《おれ》をここに連れて来たのか」
「いや、そうじゃない。他の事件には関係がないと言いたかったんだ」
「聞いたよ、それで?」
「私達の回りをうろつくのはよせ」
「何故、プチを殺ったんだ?」
「取り引き上の揉《も》め事があったんだ」
「取り引きって何だ。ヤクかそれともハジキか」
「それは言えない。ただ、君が追っている事件とは関係ないことだけは確かだ。君が猫《ねこ》を探そうが、他の殺人を追おうが、君の自由だが、私の回りを嗅《か》ぎ回るな。私は日本に、或《あ》る種の愛情を感じている。大学時代、私は東京にいた。君の国に亡命したかったくらいなんだ。ただ、君の国の政府は料簡《りようけん》が狭《せま》い。亡命は認めないんだから」
「しかし、君のような人間は日本には必要ないだろう」
「鈴切さんも正義の味方なわけだ」
「いや。正義はたくさんの人を殺すから、近づかないようにしている」
「身にしみて知ってる。私の両親も、それで殺された」
「何故、プチを殺害したことを認めたんだ? 俺が警察にタレ込んだら、どうする? それとも、ここから生きて出さないつもりなのか?」
「君はタレ込むタイプではない。君は事実を知りたいだけなんだ。安手のモラルを信条としているとは思えないからね」
「人殺しを容認しないのは、安手のモラルなのか」
「仲間を裏切らない。これだけが、私達のモラルなんだ。生死は二の次だ」
「プチはあんた達を裏切ったのか?」
「その通りだ」
「俺が、あんたの言う安手のモラルを持っていたらどうする。面倒《めんどう》なことになるぜ」
「もしタレ込んだとしても、証拠《しようこ》はない。それに、この界隈《かいわい》にはなかなかサツは手を出せない」
「裏取り引きがあるようだな」
「どうとでも想像してくれ。こういう私が、他の二件の殺しを認めないのは、それが本当だからだ。信じるかね」
「じゃ、何故、俺を怖《こわ》がるんだ?」
「怖がってはいない。いざとなったら、片づければ済むのだから。だが、お互《たが》いにとって一番いいのは、君が私達のことを嗅ぎ回らないこと。そして、知っていることはすべて忘れることだ」
「…………」
「どうだ、そう出来るかね?」
「よく考えてみよう」
「そうしてくれ。ここを出られるか、ここで死ぬかを選択《せんたく》するのだから、あまり頭を使う必要はないと思うがね」
「嗅ぎ回らないと約束《やくそく》して、裏切ったらプチのようになるわけか」
「君が縛《しば》られている車のように、両手足を無くしてから、あの世に送ってやる。君を殺すのは簡単なことなのだ。だが、私はそうしたくない。猫好きの人間を殺すのは気が重いのだ」
ヘン・ソバンは時計を見、リム・サリューンに何か言った。そして、「あとでまた来る。それまでに、気持ちを決めておいてくれ」
彼等はファンを先頭に部屋を出て行った。
18
エレベーターが上がって行く音を聞きながら、何とかジャンの意識を回復させようと、自由の利かない足で、彼のふくらはぎの辺りを蹴《け》り、肩《かた》で小突《こづ》いた。立て掛《か》けようとすると、えらく手間のかかるベッドマットのような鈍《にぶ》い動きで、ジャンの躰《からだ》は右に傾《かたむ》いたが意識は戻《もど》らなかった。
私はバンパーがどうにかして外れないかと思い切り引っ張ってみたが、びくともしなかった。
手首が擦《す》り切れ、無駄《むだ》な汗《あせ》を流しただけだった。
自分の吐《は》く息の音だけが聞こえている。
私は、一旦《いつたん》逃げるのは諦《あきら》め、考えてみた。
ヘン・ソバンは、私が何かをつかんで居ると思っている。その誤解で私は今まで、命を繋《つな》ぎ止めているのだ。
奴《やつ》が気にしているのは、おそらく銃砲《じゆうほう》店荒《あら》しに関したことか麻薬《まやく》のことだろうが、その先に何かがあるのだ。
ジャンの躰が少し動いたような気がした。
「ジャン!」私はまた彼の脚《あし》を蹴った。
「ウムムム……」
気がついたらしい。馬鹿《ばか》でかい胡桃《くるみ》のような頭が揺《ゆ》れていた。
「……リリアンヌ……」
「ジャン、大丈夫《だいじようぶ》か」
「ああ。どうなっち……まったんだ。ここはどこだ?」
「あの殺し屋に殴《なぐ》られたんだ。思い出せないのか」
「殺し屋……ああ……そうだ……」
ジャンは顔を上げ、もう一度頭を振《ふ》った。
「傷《きず》を見せてみろ」
ジャンは頭を右に思い切り回した。皮膚《ひふ》が切れ、血がブルゾンの襟《えり》まで達していた。
「大したことはない。リングでこの位の傷はしょっちゅうだった」
「何とか、ここから逃《に》げ出さないと、ふたりともあの世行きだぞ」
「リリアンヌはどうした? ここにいるのか?」
「奴等《やつら》は、リリアンヌを知らないようだ」
「そんなはずはない。奴等が誘拐《ゆうかい》したんだ!」
「どうもそうではないらしい。関係無いところへ、あんたを連れて来てしまったらしい。許してくれ」
「……本当に、あいつら、リリアンヌのことを知らないのか?」
「ほぼ間違《まちが》いないだろう」
「じゃ、リリアンヌは一体……」
「探し出すためにも、ここから抜《ぬ》け出さなくては。あんたの力でこのバンパーを外せないか」
「やってみる」
ジャンは出来るだけボルトの嵌《は》まっている部分に近づいて前に躰《からだ》を反《そ》らせた。みしみしという音がしたが外れない。もう一度、今度は私も加わってやってみた。車体が少し前に出ただけだった。私は手錠《てじよう》をバンパーに沿ってずらしながら、場所を移動し、ボルトの具合を見た。スパナがあれば外せることが分かった。私は回りの床《ゆか》を調べたが、そんなものは落ちていなかった。目の前に工具が載っているらしい机があったが、距離《きより》は五メートルほどあった。ジャンが足を伸ばしても届く距離ではない。
「ジャン、あの台まで車を引っ張れるか。あの台の上の工具を使えば、何とかボルトを外せるだろう」
「やってみよう」
私は、出来るだけジャンから離《はな》れた。本当は両端に分かれてやりたかったのだが、車体とバンパーを繋《つな》いでいる金属が中央にもついていて、それ以上は移動できなかったのだ。
「よし、引っ張れ」
コンクリートを車体が這《は》う音がした。十センチ程度しか動いていなかったが、私達は根気よく同じことを繰《く》り返した。手錠の輪が手首に食い込んだ。だが、痛みはそれほど感じなかった。それよりも気になったのは音だ。上に、車体がずる音は聞こえてしまうだろう。私は一階に人がいないことを祈りながら引っ張った。
モンキースパナが私の目の前、ジャンの首のあたりの高さにあった。ジャンが顎《あご》でスパナを私の膝《ひざ》の上に落とし、屈《かが》み込《こ》んでそれをくわえた。そして、私の手錠の嵌《は》められた手のあたりに、再び落とした。私は何とか拾い上げることが出来た。あとは前を向いたまま、手探りでボルトに合わせ、回した。簡単ではなかった。死にものぐるいで、渾身《こんしん》の力を込め回した。
成功した。私とジャンは顔を見合わせて微笑《ほほえ》んだ。バンパーから自由になると、すぐに互いに足首の麻縄《あさなわ》を解きあった。
だが、まだ手錠からは解放されていない。
「どうするんだ」ジャンが訊《き》いた。
「手錠の鍵《かぎ》を持ってるのは、お前を殴《なぐ》ったファンという殺し屋だ。どうなるか分からないが、ともかく上に行こう」
以前、車を下ろすのに使われていたスロープはブロックで塞《ふさ》がれていた。エレベーターのところまで行った。来た時は気が付かなかったが、エレベーターの横に小さな階段があった。私はジャンに顎でこっちだと教えた。
音を立てないようにして上まで上がった。一階は真っ暗で、誰《だれ》もいないようだった。皆、二階にいるらしい。
私は、ジャンを下で待たせて、コンクリートのスロープを上がって行こうとした。
その時だった。上の方のざわめきが、一瞬《いつしゆん》はっきり聞こえた。
「さあ、張って下さい。さあ……」
どうやら二階がヘン・ソバンの経営する私設カジノらしい。
ざわめきから、抜《ぬ》け出るようにふたりの男の話し声がこちらに近づいて来た。ドアが開き、何者かが下に降りてくるのだ。
慌《あわ》てて元の場所に戻《もど》った私は、ジャンに無言で合図し、トラックの陰《かげ》に身を潜《ひそ》めた。
三人の男が事務所に入った。事務所を囲んでいる壁《かべ》の上半分は擦《す》りガラスになっていた。明かりがつけられ、三つの影《かげ》のうちふたつが何か話し合っていた。
私はトラックの後ろを回り、事務所に近づいた。どうしても話の内容を聞きたかった。
「……ブツは明朝、九時に届けてくれ。ギャラリーで待ってる。で、あいつらはどうする?」
「殺《や》るしかないだろう。だが、その前にあの探偵《たんてい》がどのくらい知っていて、誰に話したかを、出来るだけ知っておきたい」ヘン・ソバンの声。
「その始末はあんたに任せる」
ふたりの会話は日本語だった。男の声に聞き覚えがあった。ギャラリー・ムラカワ≠フ田島の声だった。
「プチの後釜《あとがま》を至急探してくれ」ヘン・ソバンが言った。
「もう少し待ってくれ。金は例の方法で支払《しはら》う」
「分かった」
会話が終わりそうなので私は、またトラックの後ろまで戻った。ジャンが何か言いかけたのを目と唇《くちびる》で制した。
ほどなく、三人が事務所から出て来た。ガレージ全体に明かりがつけられた。殺し屋が事務所の横のスイッチを押《お》すとシャッターが開いた。
「時間厳守だぜ」田島はそう短く言うとガレージを出て行った。
ヘン・ソバンと殺し屋は再び、事務所に入った。私達の始末の付け方を検討しているのだろう。
襲《おそ》うなら今しかない。私とジャンは小声で打ち合わせをした。奴等《やつら》が出てきた所を両側から襲うことにした。
私達は事務所の壁《かべ》の下半分に、ドアを挟《はさ》んで身を潜《ひそ》めた。最初に出てきた方をジャンが担当することにした。
やがて、事務所の明かりが消えた。ドアが開く。ボスが先に現れた。ジャンがにゅうと立ち上がった。原爆雲のようだった。ヘン・ソバンの足が見事に払《はら》われ、床《ゆか》に転がった。
一瞬《いつしゆん》のことだった。片足が不自由だとはとても思えない動きで、ジャンはヘン・ソバンにニードロップを喰《くら》わせた。
殺し屋がボスを助けようとして、事務所から出て来た。拳銃《けんじゆう》を抜《ぬ》いた。私は躰《からだ》ごとぶつかった。殺し屋はあお向けに倒《たお》れた。そこをすかさず、喉《のど》を目掛《めが》けて蹴《け》りを入れた。
「ウウウウ……」唸《うな》っている殺し屋の腹に膝《ひざ》の一発を食らわせた。ファンは、正体なく大の字に伸《の》びた。
私は、何とか殺し屋の上着のポケットから手錠《てじよう》の鍵《かぎ》を取り出し、まずジャンの手を自由にした。上にいる手下に気付かれないうちに、脱出しなければならない。手が自由になった私は、もう一度、殺し屋のポケットを探り、自分の拳銃とジャンの身分証明書を奪《うば》い返した。
逃《に》げ出す前にトラックの荷台を覗《のぞ》いて見ようとした。だが、上から人が下りて来る気配がした。
仕方なくシャッターの開閉スイッチを押《お》し、私達は外に出た。右足を引きずるジャンを庇《かば》いながら、車のある場所まで走った。
ハンドルは私が握《にぎ》ることにした。イヴリー大通りをイタリア広場に向かって走った。
「これからどうする?」ジャンが訊《き》いた。
「どうしようか? ともかく、分かってることは、あんたのところにも俺《おれ》のところにも戻らないほうがいいってことだ」
「ジェニーのところへ行くか」
「彼女は仕事中じゃないのか? 簡単に見つかるか?」
「いや、何とも言えない」
「よし、俺の友達のところへ行こう。あんたの頭の治療《ちりよう》もあるからな」
私は、ミュリエールのことを思い出したのだ。彼女のアパートはエスキロル通り。イタリア広場から目と鼻の先にあるのだ。
私は広場を右に折れ、ロピタル大通りに入った。運転しながら手帳を出し、ミュリエールの正確な番地を調べた。
午前一時少し前。まだキスのひとつもしていない男が、いきなり訪ねて行く時刻ではない。ミュリエールは嫌《いや》な顔をするかもしれない。だが、失礼ね!≠ニ言って、私の鼻先でドアを閉める女には思えなかった。
表玄関《げんかん》のところで、七〇七号室のブザーを押した。
「どなた?」インターホーンが答えた。
「鈴切だ、ミュリエール。ちょっと困ったことがあって……」
ブザーと共に表のガラス張りのドアが開いた。私とジャンは、エレベーターで七階に上がった。
ミュリエールはドアから顔を出して私達を待ち受けていた。
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居間に通された私は、ミュリエールにジャンを紹介《しようかい》した。余計な説明は抜《ぬ》きにして、ただ友人だとだけ伝えた。ふたりは握手《あくしゆ》は交わさなかった。ミュリエールは短く微笑《ほほえ》み、ジャンは、軽く会釈をした。
「あなた、怪我なさってるのね」
ミュリエールはジャンのブルゾンについていた血を見て言った。
「頭をちょっとね……でも大したことはないです」ジャンは傷口《きずぐち》を触《さわ》りながら答えた。
「でも、手当てをしておいたほうがいいわ」
「そうだ。この看護婦さんは、頭の傷の治療の専門家なんだ」
「座ってて。救急箱を取ってくるから」
背もたれのところに牛の頭が彫《ほ》ってあり、シートが皮になっている低い椅子《いす》が四|脚《きやく》、バルコニーを前にして弧を描いて並《なら》んでいた。私達はそれに腰《こし》を下ろした。書棚《しよだな》はレンガを組んだもので、その横にコンパクトなステレオが、これまたレンガの上に載っていた。そして、その隣《となり》には、三百枚はゆうに越えるレコードが立て掛けてあった。
「私も、つい今しがた帰って来たの。友達の家に呼ばれて行っていたんだけど、向こうから何度もあなたの事務所に電話をしたのよ」
ミュリエールは、ジャンの傷口のあたりの髪《かみ》の毛を切りながら言った。
「心配してくれたのかい?」
「私、事件の成り行きを知りたかったのよ。で、何があったの?」
「その話をする前に、一杯《いつぱい》やりたいんだがね」
「酒はキッチンの戸棚の中、ビールだったら冷蔵庫。勝手に開けていいわよ。私はコニャックにするわ」
私はまずビールが飲みたかった。ジャンも同じだった。緊張《きんちよう》が続いたので、喉《のど》が乾《かわ》いているらしい。
キッチンは整然としていた。いや、し過ぎていたといっていい。皿《さら》やコーヒーメーカーがなければ、モデルハウスのキッチンのような感じだった。冷蔵庫の中には、牛乳、ハム、バター、マヨネーズ、ミネラルウオーターの一・五リットル瓶《びん》、そして、オレンジが二個と缶《かん》ビールが一ダースほど入っていた。野菜は、屑《くず》すら見当たらなかった。料理は趣味《しゆみ》ではないらしい。ほとんど簡単な食事しか家では取らない女なのだ。
私は、コニャックの瓶、缶ビール二個それにグラスを三つ、四角い盆《ぼん》に載《の》せ、居間に戻《もど》った。
ミュリエールは、ジャンの頭に絆創膏《ばんそうこう》を貼《は》り終えたところだった。
私はミュリエールのためにコニャックを注いだ。
「シンゴ、その手どうしたの?」
「SMショーをジャンと一緒《いつしよ》にやってきたんだよ」
私は皮が擦《す》り向け、ところどころ淡《あわ》いルージュのような色に染まっている手首を撫《な》でながら言った。
「ふたり共、薬を塗《ぬ》っておいたほうがいいわ」と、ミュリエールは言い、また薬箱を開いた。
私はミュリエールの治療《ちりよう》を受けながら、ビールを一気に空けた。
「すまない。こんな時間に押し掛けて。奴《やつ》も俺《おれ》も自宅に戻れなくなっちまったんだ。今夜だけ、この居間にでも寝《ね》かせてもらいたいんだ」
「それは構わないけど、一体、何があったの?」
ミュリエールはジャンの手首に薬を塗りながら訊いた。
急に疲《つか》れが襲《おそ》って来た。私は、声を出す気にもなれなかった。それを察したのか、ミュリエールも黙《だま》り込《こ》んだ。私はジャンを見た。奴は私以上に参っていて、浅黒い大きな顔が、ひしゃげたドラム缶のように曲がって見えた。肉体の疲れだけではないようだ。
「ジャン、もう休め」
「ああ。だが、これからどうするんだ? 俺はリリアンヌを見つけなきゃならん」
「分かってる。だが、今夜は寝ろ」
「隣《となり》に空いている小さな部屋があるの。ベッドはないけど、マットがある。そこで休ませたら?」
ミュリエールに礼を言い、私は立ち上がりジャンの横へ行った。
「さあ、ゆっくりと休め。俺もすぐに寝る。ちょっとミュリエールに話があるんだ」
「分かった」
ミュリエールがジャンを部屋に案内した。私は、その間にコニャックを二杯、飲んだ。上等なコニャックだったが、私の飲み方は、アル中がリカールを引っ掛ける時の仕種《しぐさ》と全く同じだった。
居間に戻って来たミュリエールはドアを閉め、レコードを掛けた。
リー・ワイリーの『ナイト・イン・マンハッタン』。
「名曲だね、いつ聞いても」私が言った。
「そうね。でも、ちょっとムードがあり過ぎるかな。あなたの殺伐《さつばつ》とした話を聞くには」
「この曲を選んだのは君だぜ」
「そうだけど、掛けてから、そう思ったのよ」
「曲は掛かってしまっている。そんな時は、話をやめればいいんだ」
「駄目《だめ》よ。私、何があったか知りたいもの」
「リー・ワイリーは、そんな話、聞きたくないだろうよ」
「シンゴはジャズ・ボーカルのファン?」
「ああ」
「どんなのを主に聞くの」
「ジャンルにはあまりこだわらない。スゥイングでもバップでもフュージョンでも何でもお構いなし。鮫《さめ》みたいに何でも飲みこんじゃうんだ」
「何事においても鮫みたいなの」
「いや、多分、音楽だけだろう。よく分からないけど」
私はミュリエールのグラスにコニャックを注ぎ、リー・ワイリーに乾杯《かんぱい》と言った。
ミュリエールが、事件の成り行きについて話してくれとまたせがんだ。
私は、ゆっくりと時間を掛けて話した。
「……じゃ、そのヘン・ソバンが一連の殺しの主犯なわけね」
「さあ、そこが分からないんだ。プチを殺《や》ったのは、奴《やつ》の子分のファンだろうが、後の二件のほうは、はっきりしない」
「でも、最初の殺人は、やはりヘン・ソバン達の犯行の線が濃厚《のうこう》ね」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、ヘン・ソバンは銃砲《じゆうほう》店襲撃《しゆうげき》の主犯の可能性が強いんでしょう」
「確かに大道は、襲撃で盗《ぬす》まれた拳銃《けんじゆう》で殺された。だが、たとえ、大道がその事件に関与《かんよ》し、その拳銃を彼が所持していたとしても、何故、犯人があれを現場に残していったのかが疑問なんだ。奴等はプロだぜ。そんな馬鹿《ばか》な真似はしないと思うがね」
「じゃ、他に犯人がいるってわけ?」
「その可能性が強い」
私は煙草《たばこ》に火をつけ、もう一杯コニャックを注いだ。
「ところで、さっきの説明でよく分からなかったのは、隣《となり》で寝《ね》ている大男のこと。彼は、失踪《しつそう》した愛人、リリアンヌを探しているということだけど、彼女《かのじよ》とジャン・ピエールとの繋《つなが》りはないんでしょう?」
「多分ね。俺がL・Sという文字を、リリアンヌ・サリューンでないかと思ったのが、そもそもの間違《まちが》いだったんだ。ジャンは無駄《むだ》に頭を殴《なぐ》られたような気がする」
「リリアンヌという娼婦《しようふ》は、この一連の事件とも関係ないのかもしれないわね」
「俺もだんだんそう思えてきた。だが、まだ、絶対関係ないとは言えないんだ」
「何故《なぜ》?」
「さっき言い忘れたんだが、リリアンヌの持ち物の中から、十数年前のアドレス帳が出てきた。そこには、大道の名前も柴田の名前もあったんだ」
「ということは、大道、柴田、リリアンヌが顔見知りだったわけね。そのうちのふたりが殺され、ひとりが行方不明か……」
「警察学校出身者としては、どうだい? やはり、その線を捨てる気にはならないだろう?」
「そうね。で、ジャン・ピエールの名前はなかったの?」
「なかった。それに、どうやら、リリアンヌは偽名《ぎめい》らしい」
「そんなの当たり前じゃない。娼婦が偽名を使うのは」ミュリエールは私の探偵《たんてい》としての才能にがっかりしたような顔をした。
「いや、そうじゃなくて、身分証明書ごと偽造しているらしいんだ。本名の頭文字は、おそらく、F・Yだろう」
リー・ワイリーが歌い終わり、急にあたりが静まり返った。時折、車が走り去る音が聞こえるだけだった。星は出ていなかったが星が出ていてもおかしくない夜である。
殺伐《さつばつ》とした話など止めて、グラスを持ったまま寝室《しんしつ》へ消え、素肌《すはだ》にシーツの感触《かんしよく》が気持ちいいベッドに入り、それぞれが、それぞれの心の内や過去を、淡《あわ》い色のリボンのついた小さなパッケージに包んで話しても可笑《おか》しくない。そんな夜だった。
しかし、私はそうしなかった。ミュリエールに訊《き》いておきたいことがあったのだ。
「ジャン・ピエールは、一体、どんな彫刻《ちようこく》を作っていたんだい?」
「裸像《らぞう》とか頭像よ」
「素材は?」
「いろいろね。石膏《せつこう》もあれば、金属もある。それにコンクリートもあったわ。でも、どうしてそんなことを訊くの、事件に関係があるわけ?」
私は、盗《ぬす》み聞きしたヘン・ソバンと田島の会話をミュリエールに話した。
「ジャン・ピエールはヘン・ソバンの手先だったんだ。奴《やつ》の私設カジノの一階にあったトラックは、ほぼ間違《まちが》いなく、俺《おれ》がジャン・ピエール・プチの家の前で見たものだろう」
「彼、何に関わっていたのかしら」
「おそらく、麻薬《まやく》か拳銃《けんじゆう》だろう。奴がヤクをやっていたことはなかったかい?」
「私の前では、やらなかったけど、多分やっていたと思うわ。彼の目はそういう目だったもの」
「彫刻の中に物を隠《かく》すとしたら、素材として何を選ぶ?」
「そうね、物によるけど、石膏かセメントでしょうね」
「君と俺が出会った時、彫刻がなくなっていたね、あれは何で作られたものだったか覚えてるか?」
「コンクリートよ。コンクリートで作った私の立像」
「コンクリート彫刻って、どうやって作るのか、君は知ってるか?」
「よくは知らないけど、彼は型を取ってそこへコンクリートを流し込んでたわ。そこに何かを……」
「おそらく、そうだろう」
「きっと、拳銃よ。麻薬だったら石膏で充分《じゆうぶん》だもの」
「俺もそう思う。拳銃のコンクリート詰《づ》め。コンクリートなら、重さをカモフラージュできるし、立像の場合はライフルも隠せるからな」
「あなたの話が正しいとすると、ギャラリー・ムラカワ≠ェ武器密輸をやっていたことになるわね」
「田島がギャラリー・ムラカワ≠利用していたのか、村川家も一枚噛《か》んでいるのかは分からないが、あそこが窓口になり、日本に送っていることだけは確かだ」
「でも、何故、麻薬の密輸でなくて、拳銃やライフルなのかしら。金が欲しいんだったら、元のゼネラル・モータース副社長みたいに麻薬に手を出すのが普通《ふつう》じゃない?」
「俺もそのことを考えてたんだ。麻薬より武器が欲しいとなると、受け取り人は極左集団かヤクザだね」
ヤクザという言葉だけ、うっかり日本語を使ってしまったが、ミュリエールは理解した。
「君はヤクザ≠チて言葉を知ってるのか?」
「ええ、ロバート・ミッチャムの映画を見たもの。指を切ったりするんでしょう?」
私は苦笑してうなずいた。
「明日、十時に、ヘン・ソバンのトラックが君の可愛《かわい》い顔と躰がモデルになっている立像を、ギャラリー・ムラカワ≠ノ運ぶことになっているらしい。俺《おれ》も現場に行ってみるつもりだ」
「何故《なぜ》?」
「社長の顔を拝みに行くのさ。あいつも関係しているとすれば、必ず来るだろうからな」
「警察には知らせないつもり?」
「場合によっては知らせる」
「私も行ってみたい」
「駄目《だめ》だ。何が起こるか分からないからね」
「足手まといというわけ?」
「その通り。俺はスーパー・ヒーローじゃないから、自分の命を守るだけで精一杯《せいいつぱい》なんだ」
私は本棚《ほんだな》に載っている八角形の銀の置き時計を見た。午前四時四十分。
「この居間で仮眠《かみん》させてくれないか?」
「いいけど、マットも布団もないわよ。私のベッドで寝《ね》ればいいじゃない」
「明日のための英気《えいき》を、全部君に吸い取られたら、どうするんだ」
「誤解しないで。ただ添《そ》い寝するだけよ」
「あ、なるほど。でも、俺は鼾《いびき》と歯ぎしりがすごいぜ」
「大丈夫《だいじようぶ》よ。恋人《こいびと》もそうだったもの」
「だった、とは?」
「つい最近別れたの。相手に魅力《みりよく》を感じなくなったら、鼾も歯ぎしりも耐《た》えられなくなった」
「じゃ、俺はそれほど嫌《きら》われてないわけだ」
「これから、実験してみるのよ。結果は明日教えてあげる」
私はミュリエールの後について、寝室《しんしつ》に入った。壁《かべ》一面に、スターウォーズ∞2001年、宇宙の旅∞スター・トレック≠ネどのSF映画のポスターが張ってあった。その中にロバート・アームストロング主演のキングコング≠フポスターもあった。私が一番好きなSF映画である。
ミュリエールは私に構わず着替えをした。立派な乳房《ちぶさ》が粘《ねば》り気のある動きをしたのが目に入った。私は、一瞬《いつしゆん》、事件も隣《となり》で寝ているジャンのことも、猫《ねこ》のことも忘れたが、ベッドに入るとすぐに眠ってしまった。
キングコング≠ノ出ていたヒロイン、フェイ・レイの夢を見た。夢の中で私は、キングコングだった。
20
「七時半よ」
ミュリエールの声がそう言っている。私は二度ばかり唸《うな》って、上半身だけを起こした。
私は比較《ひかく》的寝起《ねお》きの良いほうである。ミュリエールに微笑《ほほえ》み、おはよう、と言った。力のない微笑《びしよう》。
「コーヒー入ってるわよ」
「ああ。ジャンは起きてるか?」
「ええ」
私は、彼女《かのじよ》が以前につき合っていた男のものと思われる電気カミソリで髭《ひげ》を剃《そ》り、洗面を済ませた。
居間に入ると、クロワッサンをコーヒーに浸《ひた》していたジャンが右手を上げた。
「傷《きず》は大丈夫か」
「まだ痛むが、これくらいは平気だよ」
私はコーヒーをゆっくり飲んだ。躰《からだ》の中のねむけに充分《じゆうぶん》、カフェインが染《し》み込《こ》むようにゆっくりと飲んだ。
「俺《おれ》もあんたと一緒《いつしよ》に行くぜ」
「さっき、あなたが今朝、何をするのかジャンに話したのよ」
「あんたはこなくてもいい。この件は、リリアンヌとは無関係なんだ」
「分かってる。だが、ひとりよりふたりのほうがいいだろう。あんたに、引き続きリリィ探しの手伝いをしてもらうためにも、五体満足でいてもらいたいんだ、俺は」
「分かった。一緒に行こう」
「本当に警察に知らせなくていいの?」
「うまく現場を押《お》さえたら、知らせる」
「コーヒーのお代わりは?」
「いただくよ」
私はコーヒーを飲み、バナナを一本食べた。
バナナを口にほおばったまま私は立ち上がり、ショルダーホルスターをつけた。
「無茶しないでね。やはり警察に来てもらったほうが……」
「それより、テストの結果はどうだった?」
「テスト?」
「鼾《いびき》と歯ぎしりのだよ」
「合格よ。全然、気にならなかった」
「じゃ、次の機会には、それが好きになるかどうか実験してみよう」
ミュリエールがくすっと笑い、私も微笑《ほほえ》んだ。何の話をしているのか分からないジャンはポカンとしていた。
私はミュリエールに、私のアパートへ行き、猫《ねこ》に餌《えさ》をやってくれと頼《たの》み、缶詰《かんづめ》のある場所を教えた。そして、ジャンを連れて、ミュリエールのアパートを出た。
外は小雨だった。灰色のシャツの襟首《えりくび》からブルーのTシャツの襟が覗《のぞ》いているような空だ。
陰鬱《いんうつ》な夏の朝。私は両|腕《うで》を大きく回して筋肉をほぐし、車に乗った。
ロピタル大通りをセーヌに向かって走り、サンベルナール河岸《がし》をサンミッシェル方面に曲がった。日本人観光客を乗せた大型バスがラルジュベッシェ橋の上で信号待ちをしていた。ガイドのしきりに説明している姿が目に入った。柴田の死体が発見された場所が、この近くだということを私は思い出した。雨が激《はげ》しくなった。もう空の青い部分は見えなくなっていた。
ルーブル美術館の前を過ぎたあたりでジャンが訊《き》いた。
「どういう手筈《てはず》で中に入るんだ?」
「トラックは、表につけるか、横の路地に停めるしかない。まず、裏口があるかを調べる。それから、彫刻《ちようこく》が運ばれて来るのを待つんだ」
「待つってどこで待つんだ。俺達の顔は覚えられてるんだぜ」
私はオペラ大通りをまっすぐ進み、オペラ座の前でUターンし、ラ・ペ通りから、ドヌー通りに入った。この通りが丁度、ギャラリー・ムラカワ≠フある建物の横の道なのだ。
「ギャラリー・ムラカワ≠ノ通じる裏口はなさそうだな」私が言った。
「じゃ、表を見張れる場所を見つければいいんだな」
後ろの車がクラクションをならして、早く走れと言っている。
「うるせぇ!!」ジャンがウインドーを開けて怒鳴《どな》ったが効果はなかった。バックミラーで運転手の顔を見た。金髪《きんぱつ》の可愛《かわい》い女の子だった。
私は再びオペラ大通りに出た。ちょうどギャラリー・ムラカワ≠フ正面に小さなカフェが目についた。
「お誂《あつら》え向きのカフェがある。あそこで待機しよう」
車を路地に止めた。
「俺達《おれたち》には拳銃《けんじゆう》が一丁しかない。どちらかが、それらしいものをポケットに入れておく必要がある」
「レンチで誤魔化《ごまか》すってのはどうだ」
「それで行こう」
ジャンは車のトランクから、ポケットに忍《しの》ばせていれば、銃口のように見えるレンチを持って戻《もど》ってきた。
「ジャン、あんたが本物を持っていろよ」
「俺はぶっ放したことが一度もないんだ。本物はあんたが持っているほうがいい」
私は黙《だま》ってうなずいた。
車を下りようとした時、後部座席に傘《かさ》が二本転がっているのが目に入った。花柄《はながら》とチェックの女物。
「そんなもの必要ない。邪魔《じやま》なだけだ」ジャンが傘を手にした私に向かって言った。
「いや、かえって、顔を隠《かく》すのに都合がいい。ギャラリー・ムラカワ≠フ回りには隠れるところがない。傘で顔を隠して近づくんだ」
「どうやってレンチを拳銃に見せ掛けよう? 俺のブルゾンのポケットには収まらねぇ。それにあんたも、路上でハジキを出すわけにはいかんだろう?」
私は、また車の後部座席を覗き込んだ。スーパーマーケットの厚手のビニール袋が二枚転がっていた。私はそれを使うことにした。
「あらかじめ、レンチをこの袋に入れておけ。必要な時、手を袋に入れ、そのまま相手に突きつけるんだ。傘である程度、通行人の目に触れないように出来るだろうが、俺も念のため同じ方法を取る」
ジャンはレンチを、私は拳銃をビニール袋に入れカフェに向かった。
九時二十分前。
私とジャンは出口に一番近いカウンターのところで、エスプレッソとタルティーヌを頼《たの》んだ。
水《みず》飛沫《しぶき》を上げて走っている車の向こう側をふたりは黙《だま》って見ていた。
ジャンの躰《からだ》つきと人相が興味を引いたのか、それとも、何にも言わずふたりで外を見ている中年男を変に思ったのか分からないが、バーテンはちらちらとこちらの様子を窺《うかが》っていた。
オペラ大通りには何軒《なんげん》も銀行がある。そこを襲《おそ》うギャングとでも考えている感じだった。実際、私立|探偵《たんてい》もどこかギャングに似た雰囲気《ふんいき》を持っているのかもしれない。警官がヤクザに似ているように。
九時八分過ぎ。二杯目のコーヒーに砂糖を入れていた時、ジャンが私を肘《ひじ》でこづいた。
ドヌー通りの車寄せに一台のトラックが止まった。私は薄《うす》くもやったような感じに見える通りを凝視《ぎようし》した。運搬人《うんぱんにん》の恰好《かつこう》をしている男がひとり、ギャラリー・ムラカワ≠フ正面|玄関《げんかん》の横にあるブザーを押《お》した。やがて、防御用の鉄柵《てつさく》が上がり、ガラスのドアが開いた。顔を出したのは田島だった。
「どうするんだ、これから?」ジャンが小声で聞いた。
「彫刻《ちようこく》は四個。最後のものが店内に運びこまれようとした時、俺達《おれたち》も中に入れてもらう。三個目がトラックから下ろされたら、行動開始だ」
ヘン・ソバンの子分が三人、俄《にわか》運送屋になっていた。木枠《きわく》に納まった立像のひとつを、三人がかりで、ギャラリーの中に運び入れている。田島は表門のところに突《つ》っ立って作業の様子を見ていた。村川の姿はなかった。中で待機しているのかもしれない。
目抜《めぬ》き通りとはいえ、歩道を行き交う人は少ない。傘《かさ》をさした子供が、一瞬《いつしゆん》、立ち止まり作業風景を見ていたが、それも三十秒ぐらいなもので、すぐに立ち去ってしまった。午前中、衆人の前で堂々と運び込むのが、一番自然で、疑われる可能性が少ないわけだ。まして、今日はお誂《あつら》え向きに雨が降っている。ずぶぬれになって働く作業員に注目するような暇人《ひまじん》は、失業してぶらぶらしている者が多いパリとはいえ、さすがにいなかった。
三個目の彫刻が運びこまれた。
「さあ、行くぞ」
私達はカフェを出た。ジャンはギャラリーの左側から、作業員の後ろに回り、私はオペラ座のほうから近づくことにした。
ジャンはオランダ銀行のところに回《まわ》った。私はパリ三越≠過ぎたところで、傘の陰《かげ》から様子を窺《うかが》った。
四個目の彫刻を持った三人の男がギャラリーに近づいて来る。花柄《はながら》の傘で顔を隠《かく》したジャンがその後ろを歩いている。
田島は雨に濡《ぬ》れたくないらしい。表門から顔を出し、彫刻のほうを見ていたが、決して外には出ようとしなかった。心配しなくてももう直《す》ぐ、雨に濡れない場所に放りこまれるのだ。私はそう思いながら、ギャラリーに近づいた。
彫刻がちょうど玄関《げんかん》についた瞬間《しゆんかん》、私は田島の背中に、ビニール袋を被せたまま拳銃《けんじゆう》を突《つ》きつけた。ちょうど同じタイミングで、ジャンが作業員のひとりに同じことをやった。ただし、奴の突きつけたものは拳銃ではなく、車の中に積んであった筒型《つつがた》のレンチである。
「おとなしく中に入ってもらおうか」
私はフランス語で言った。というのは、作業員のひとりがファンだったからだ。
「おまえらが先だ」
私はファンの子分に言った。
作業員、田島、私、ジャンの順で中に入った。
階段の手前で私は行列を止めた。
「ジャン、こいつらのポケットを探ってみろ」
ジャンは言われた通りにした。拳銃が計三丁出て来た。ジャンはレンチを本物の拳銃に持ち替《か》えた。
「どういうつもりなんだ?」田島が凄味《すごみ》を利かせて言った。
「彫刻はどこに運ぶんだ?」私が訊《き》いた。
「地下だ」
「じゃ、そっちに案内してもらおう」
行列は言われた通りに階段を下った。
両開きのドアを田島に開けさせた。地下は想像していたよりも狭《せま》かった。額縁《がくぶち》や鉄線が無造作に置いてあった。絵も何枚かあり、ジャン・ピエール作ではない抽象的な彫刻《ちようこく》も何点か並《なら》んでいた。温度調節が為《な》されているらしく、鼠《ねずみ》が這《は》うような湿《しめ》った地下室ではなかった。
「壁《かべ》に向かって立ち、手をあげてろ」私は三人の東洋人に言い、ジャンに奴《やつ》等を鉄線で縛《しば》れと言った。
ジャンは大男のわりには器用だった。見る見るうちに、彼等の手足を縛っていった。
「田島、さあ座れ」私は近くにあった事務用の机を銃口《じゆうこう》の先で差し示した。
「狙《ねら》いは何だ。金か」
「いや、彫刻だよ」
「何の話か分からんな」田島が引き攣《つ》ったように笑った。「何のつもりなんだ?」
「俺《おれ》はただジャン・ピエールの彫刻を拝みに来たんだ。この間、奴のところで見損なったからな。そこで転がってるお兄さんに、頭を擦《こす》られたせいでな」
「おまえ、頭がおかしくなったんじゃないのか」
「ここはギャラリーだろう。ゆっくり彫刻を拝見させてもらうぜ」
私はそう言ってから、ジャンに荷解きに必要な工具がないか探させた。
壁の隅《すみ》にあったダンボール箱の中に大きめの金槌《かなづち》、ペンチ、ドライバーなどが入っていた。
私は田島を縛り上げ、ジャンの荷解きをてつだった。
ほどなく、木枠《きわく》が外された。
「素晴らしい彫刻じゃないが、モデルがいいね」私は田島に向かって笑った。「ボスはいつ来る?」
「ボス?」
「おまえひとりの仕事じゃないだろう?」
「何の話をしているのか分からん」
「じゃ、分からせてやるよ。ジャン、その彫刻を床《ゆか》に叩《たた》きつけろ。マットにジャイアント馬場を沈《しず》めるつもりで思い切りやっていいぞ」
ジャンが満足げに笑い、大きくうなずいた。その時だった。
地下に通じるドアをノックする音がした。
「声を出したらぶっぱなすぞ」
私は声を低めて言った。ジャンがドアの横に行った。
「田島!」
「今、開けると言え」私が田島に言った。奴は言われた通りにした。
ジャンに動作で合図する。ジャンはうなずいてドアのロックを外した。
ドアが開く。ジャンが素早く相手を羽交いじめにした。
驚《おどろ》いた。相手は村川隆ではなかった。
尚美の父、村川松吉だった。
「一体、どういうことなんだ?」
私の前に突き出された、三つ揃《ぞろ》えの渋《しぶ》いスーツを着た老人は、まだ威厳《いげん》を崩さなかった。
「君は……」
「まあ、お座り下さい。村川会長」
私はもうひとつの椅子《いす》を勧めた。
「いや、わしは立っているほうがいい。どうしたのか説明してもらおうか、鈴切さん」
「よく俺《おれ》の名前を覚えていましたね。毎晩、俺の夢《ゆめ》でも見ていたらしいですね」
「わしが、何故、君の夢を毎晩見なければならんのだ」
「それは、この彫刻の中にあるんじゃないんですか?」
松吉はミュリエールの顔をちらっと見て、倒《たお》れるように椅子に座り込《こ》んだ。
「…………」老人は目を落とした。
「あんたまで関係しているとは思わなかった」
「あんたまで、とはどういう意味だ。他に関係している人物がいるというのか?」
「例えば、婿《むこ》の隆……」
松吉は背筋をぴんと伸《の》ばした。
「君は何の話をしてるんだ」
「彫刻の中身は拳銃《けんじゆう》ですか?」
「…………」松吉の目に動揺の色が浮かんだ。
「会長、こいつは警官でも何でもない。余計なことは言わないほうがいい」田島が言った。
「どうせ、割って中を調べれば分かるよ」
「俺達が運ばせた証拠《しようこ》はないぜ」
「じゃ、会長の娘か婿ということになる」私は松吉を見た。
「……いかにも、中身は拳銃だ。田島とこのわしが計画し、ヘン・ソバンと組んでやったことだ」
「会長! あんた組織を裏切ったらどうなるか知ってるだろうな」
「黙れ! 口の利き方に気をつけろ! わしは……」
「村川産業の会長だと言いたいんだろう? 分かってるよ。だが、こうなっちまったら、もうそんな威光は誰にも通じないんだよ」
田島がせせら笑っている。
したたかに打ちのめされた松吉には、もう言い返すだけの元気すらなかった。
「ともかく、尚美も隆もまったく無関係だ」
老人は肩《かた》を落とし、静かにそう言った。
「分かりました、信じましょう。しかし、何故《なぜ》、あんた達は、ジャン・ピエールを始末したんです?」
「あれは、わしも知らなかった。ヘン・ソバンと田島が勝手にやったんだ……」
長い沈黙《ちんもく》が地下室を被《おお》った。哀《あわ》れな老人の陳述《ちんじゆつ》が理解できるのは、私と田島だけだ。後の者は、出来の悪い裁判官のように何も言わずに静止していた。
「すべては大道とかいううちの従業員が殺されたことに始まるんだ。いや、もしその男が……」
「ヘン・ソバンが銃砲《じゆうほう》店を襲《おそ》って盗《ぬす》んだ拳銃で殺されなかったら、問題はなかった……」
「その通りだ。あの事件を聞いて、私もヘン・ソバンも慌《あわ》てた。あんな場所で、しかも、殺人の凶器《きようき》として、盗ませた拳銃が発見されるとは、誰《だれ》も予想だにしなかった」
「つまり、あの拳銃は、ジャン・ピエールのコンクリート彫刻《ちようこく》の中に入って日本に渡《わた》る予定だったんですね」
「ああ……」
「それがどうして大道の手に渡ったんですか?」
「その辺の話は、ジャン・ピエールを締《し》め上げた当人に聞いてくれ」
そう言って松吉は顎《あご》で田島を差し示した。私は田島を見た。田島も半ば観念しているようで、目を背《そむ》けていた。
「俺達も事件を聞いた時は、何が何だかさっぱり分からなかった。そこで、ヘン・ソバンが子分達を、俺がジャン・ピエールを調べることになったんだ。奴を殺す前日、俺はジャン・ピエールのところに行った。すると、奴の態度が妙に落ち着かない。で、俺は大道を殺《や》ったのはおまえだろう?≠ニカマを掛けた。すると、拳銃をくすねて大道に渡したこと、そうなった訳を簡単にゲロしたよ。ただ、殺しのほうは何度も必死で否定してたがな」
ミュリエールが聞いた絶対に俺じゃない≠ニいうジャン・ピエールの言葉は、大道殺しを否定するものだったらしい。
「で、くすねた理由は何だったんだ?」
「お笑い草さ。大道のアパートに賊《ぞく》が入ったことがあったんだ。単なる物取りなのに、ゲイを撲滅《ぼくめつ》したがっている連中の仕業だと言って、大道は震《ふる》え上がっていたそうだ。ジャン・ピエールは愛する恋人《こいびと》のために、護身用にと渡したんだよ。……俺だって、ジャン・ピエールを殺る気はなかった。ああいうことを引き受けてくれる、彫刻家なんてそうそういるもんじゃないからな。だが、あの三流彫刻家は脅えきっていた。密輸の件がバレ、おまけに自分に大道殺害の嫌疑が掛かるんじゃないかとな。そこへあんたがジャン・ピエールの住所を訊《き》きに来た。俺《おれ》はヤバイと思い、すぐにヘン・ソバンに電話を入れ、ジャン・ピエールを片づけないと大変なことになると教えたんだ」
「そこで、ヘン・ソバンは子分のファンを、一足先に裏切り者の家にやり、口を封じた」
「ああ。あんたが嗅ぎ回らなかったら、奴ももう少し生きのびられていたはずだぜ」田島は皮肉な笑いを口許に浮かべていた。
「村川さん、何であんたは武器密輸になんか手を出したんだ?」私は静かな口調で訊いた。
村川松吉は禿《は》げた頭に溜《た》まった汗《あせ》を拭《ふ》きながら笑った。
「わしは疲《つか》れたよ。その話は警察で、これから何十回と訊かれることになるだろう。一回でも回数を減らしておきたいから、ここでは話したくないね。どの道、新聞で発表されるから、それまで待っているんだな」
「敬老の日も近いからそうするよ。ところで、大道を殺《や》った犯人について、心当たりはないか。ジャン・ピエールは何かそのことについて言っていなかったか?」私は田島に訊いた。
「何も知らなかったようだ。だが、俺は、隆が殺ったと思ってる」
「馬鹿《ばか》な!」松吉がわめいた。
「会長は、隆のことは好いていなかったんだろう? あいつが犯人だって構いはしないじゃないか」
「あいつなど、どうでもいい。だが、尚美があの男を愛してる。尚美を悲しませるわけにはいかない」
「あんたが、こんな無様《ぶざま》な捕《つか》まり方をしただけで、娘は悲嘆《ひたん》にくれるだろうよ」
「うるさい!!」松吉が立ち上がろうとした。一番言われたくないことを露骨《ろこつ》に言われた松吉は、蒼白《そうはく》になって震《ふる》えていた。
「田島、なんであんたは隆が殺ったと思うんだ?」
「勘《かん》だよ。隆は柴田と付き合いがあった」
「それが、どうして分かったんだ?」
「柴田が殺される前の日、俺は、退社した後、小切手帳を忘れたのを思い出し、ここに戻《もど》ったんだ。そうしたら、上で話し声がした。ひとりは社長だった。もうひとりは、誰《だれ》だか分からなかったが、今度は確かだろうな≠ニその男は言っていた。彼等《かれら》が下に下りて来たので、俺は、下の事務所に隠《かく》れ様子を窺《うかが》った。戸口で振《ふ》り向いた時、その男の顔を見た。そして、翌日の夕刊で、その男が柴田というガイドだと分かったんだ。あのガイドは隆を強請《ゆす》っていたらしいぜ」
「隆が何で強請られるんだ?」松吉が訊いた。
「そんなことを俺が知ってるわけないだろう? 柴田を殺ったのは社長に決まってる」
私は腕《うで》時計を見た。そして、ジャンに司法警察のギャング対策班に電話を入れ、ここに来るように言ってくれと頼《たの》んだ。
ジャンが上に行った。
21
ギャング対策班の連中が四人やってきたのは、十時十五分前だった。
担当の警視はランベールという中肉中背の男だった。四角い顔に、垣根《かきね》の樹木を揃《そろ》えたような四角い髪型《かみがた》をしていた。
「ムッシュ・スズキリは君かね? じゃ、君が電話を掛《か》けたんだね?」
「まあ、そうです」
「まあ、とはどういう意味だ?」
「友人のジャンに電話をさせたということですよ」
「なるほど」
「それで、ここにいる連中が拳銃《けんじゆう》の密輸をやろうとしていたというんだな。証拠《しようこ》はあるのかね?」
「その彫刻《ちようこく》の中に拳銃が入っているはずです。しかも、銃砲《じゆうほう》店から盗《ぬす》まれた拳銃がね」
ランベールは私の話を聞かず、縛《しば》り上げられている東洋人のところにつかつかと歩み寄った。
「妙《みよう》なところで会ったな、ファン」ランベール警視は四角い髪を掻《か》きながら言った。
「弁護士を呼んでくれ」
「署に戻《もど》ったらな」
ランベールが私のところに戻って来た。先程とはうって変わって、表情が和らいでいた。
「友人に会えて嬉《うれ》しそうですね」
「ああ。もし、君の言うようにこの中から拳銃が出てくれば、これは面白いことになる。奴《やつ》が誰《だれ》だか知ってるね、君は?」ランベールがファンを見て訊《き》いた。
私はうなずいた。
ランベールは地下室に集まっている人間達が何者なのか、私に訊いたので、簡単に説明した。松吉がフランス語を話さないこともつけ加えておいた。
ファン達も田島も鉄線を解かれた。
「ともかく、事情聴取のために全員署まで来てもらおう」
私達は制服警官に囲まれて、一階に上がった。
出勤してきたばかりのギャラリー・ムラカワ≠フ受付係が茫然《ぼうぜん》と立っていた。手錠《てじよう》こそ嵌《は》められていないが、警官達に囲まれて、外に出て行く村川松吉や田島を見た彼女《かのじよ》はインベーダーでも見たような目付きをしていた。
私は事情を詳《くわ》しく説明しながら、ランベール警視と共にしんがりを歩いていた。
「やあ」私はその女従業員に声を掛《か》けた。
「…………」
「日本語の勉強は進んでるかい?」
「一体、これは……」
「新しい勤め口を探しておいたほうが賢明《けんめい》だよ」
私達は、警察のバンに乗せられ、司法警察に連れて行かれた。
ジャンと私は別々に事情聴取を受けた。
散々、同じことをランベールは訊《き》き、途中《とちゆう》で何度も中座した。
「君の言った通り、あの彫刻《ちようこく》の中から、拳銃《けんじゆう》が出て来た」
「村川松吉はすらすら吐《は》きましたか?」
「ああ。これでヘン・ソバンもしばらく春巻きは喰《く》えんだろうな」
「田島はどうしてます?」
「奴《やつ》もおとなしくしてるよ。俺《おれ》は奴のことも知ってるんだ。なかなか思い出せなかったがね……」
「他に事件でも起こしてるんですか?」
「いや。十年ほど前、俺は奴と柔道をやったことがあったんだ。ちょっとした大会でだがね」
「で、結果はどうだったんですか?」
「一本背負いで俺が見事に負けたんだ」ランベールは鼻を啜《すす》り、笑った。「奴は大きな大会にも出たことのある柔道家だったが、なぜか、裏街道を歩く人間になってしまったんだ」
「柔道家の成れの果てというわけですか」
「ところで、君は大層、デロール警視とは仲がいいそうだね」
「彼の片思いですよ」
「そうらしいな。こっちの捜査《そうさ》が終わったら、おまえを欲しいって言ってるぞ」
「人気があるんだな、俺は。で、どうするんです?」
「どうしたもんかな……」ランベールは顎《あご》を撫《な》で、頬《ほお》を思い切りよく掻《か》いた。「君は、他の殺人事件の捜査に首を突《つ》っ込《こ》んでる。デロールに言わせると、あんたは警察に提出すべき、或《ある》いは語るべき証拠《しようこ》を隠《かく》してると言うんだ」
「そんな……」
「いや、何も言うな。君の嘘《うそ》は聞きたくない。ともかく、無理をするな。パリにもいろいろな警官がいるんだ」
「俺とうまがあいそうな警官は少ないがね」
「俺とうまのあう私立|探偵《たんてい》も少ない。もう帰っていいぞ」
「デロールにはなんて言うんです?」
「伝言を受け取った刑事《けいじ》に、脳|軟化症《なんかしよう》になってもらうさ。その刑事には、ちょっとした貸しがあるから問題ない」
「助かります」
「しかし、出過ぎた真似だけはするなよ。何か重大なことを発見したら、必ずデロールに知らせろよ。奴も警官としては誠実な男だ。ただ、ちょっとだけ杓子《しやくし》定規で、インドシナの悪夢《あくむ》が忘れられないだけなんだ」
「犯人を見つけたら、奴に電話を入れてやることにしましょう」
「いや、その前に通報しろ」
私は曖昧《あいまい》に笑っておいた。
「ところで、村川隆は召喚《しようかん》されてるんですか?」
「妻も呼んである。今までの調べでは、彼等は本当に父親のやっていたことを知らなかったようだが……」
「それから、もうひとつ、俺の友人はどうなりました?」
「もう、帰したよ」
私はもう一度礼を言って司法警察を出た。
雨は上がっていたが、歩道も車道も街路樹もすべて湿《しめ》っていた。私の躰《からだ》も同様だった。
セーヌ川のほとりをサンミッシェル橋のほうに曲がろうとした時、後ろで激《はげ》しくクラクションが鳴った。
振り返ると、ハンドルを握ってるジャンが笑っていた。
「待っててくれたのか、済まない」
「これからどうする?」車に乗り込《こ》んだ私に向かってジャンが訊《き》いた。
これから、どうする≠チていうのが、ジャンの口癖《くちぐせ》らしい。
「分からんが……」
「リリアンヌ探しは続けてくれるんだろう?」
「そのつもりだ。だが、まず殺人事件を追い続けるつもりだ」
「何故《なぜ》?」
「リリアンヌの知り合いだった柴田は、隆を強請《ゆす》っていたらしいんだ」
「そのムラカワという男を締《し》め上げよう」
「そうしたいところだが、今は手を出せない。今日の拳銃《けんじゆう》密輸事件の参考人として警察に引っ張られてる。早くて明日、へたをすると明後日にならないと会えんだろうな」
「じゃ、どうするんだ?」
「殺された柴田と付き合いのあった女に会ってみるつもりだ。村川が殺《や》ったとしても、村川にどんな弱みがあったのかが分からん。それがはっきりしないと、村川を直接アタックしても、どうにもならない」
「俺《おれ》も一緒《いつしよ》に行こう」
「いや。ジャンは自宅で待機していてくれ。リリアンヌの失踪《しつそう》に関係のあることが分かったら、必ずすぐに連絡《れんらく》する」
「俺は、ひとりであそこで待ってると気が滅入っちまうんだよ。あんたと一緒に暴れてるほうが気が紛《まぎ》れていいんだ」
「今日の相手は女だ。ジャンの御面相は、ギャングの前じゃ有効的に働くが、か弱き女性の前では……」
「女がか弱いというのは間違《まちが》いだ」
私は思わず吹《ふ》き出しそうになった。ジャンのような大男が、そういうととても真実味を帯びて聞こえたが、何故か滑稽《こつけい》な感じがした。
「ジャンの言う通りかもしれない。だが、その女に腕《うで》をへし折られることはあるまい。ひとりで行ったほうがいい。あんたはアパートにいてくれ。必ず連絡するから」
大男は黙《だま》ってうなずいた。
車はサンミッシェル大通りをリュクサンブルグ公園のほうに向かって走っていた。私はパンテオンに曲がる角でジャンと別れ、リュクサンブルグ公園が見えるメディシス通りのカフェに入った。
午後六時半。私はビールをグラスに半分ばかり飲んでから、地下の電話ボックスに潜《もぐ》り込《こ》んだ。
電話をすべきところがたくさんあった。
まず、柴田の住所を教えてくれた広沢のダイヤルを回した。
「ああ、鈴切さん!」開口一番に広沢はそう言い、柴田殺害事件について、どうなっているのか訊《き》いた。人の死を悲しんでいるような口調で話しているが、完全に興味本位の質問だった。私は適当に話を合わせ、柴田の女について教えてくれと頼んだ。
「女の名前は、確か、マサミだ」
「どれくらいの仲なんだ」
「四、五年は付き合っていたはずだ」
私はバーの住所を聞き、電話を切った。バー雛祭《ひなまつり》≠ヘ、運の良いことに、このカフェから歩いてすぐのところにあった。
再びダイヤルを回す。
「ああ、シンゴ! どうしてるのか心配したのよ」電話に出たミュリエールも広沢と同じようにああ≠ニ言った。今のところ、私を思い出してくれる人がおおぜいいるようだ。
「猫《ねこ》どうしてる?」
「寂《さび》しくて、大分暴れ回ったみたい。事務所の棚《たな》に載っていた陶器《とうき》の人形が割れてたわ」
「ちぇ!」私は舌打ちした。あれは、私の持っている唯一《ゆいいつ》の骨董品《こつとうひん》だったのだ。
「留守番電話は、人の声でぎっしりだったわよ。まるで、しばらく捨てていないゴミ箱《ばこ》みたいだった」
どんな内容のものだった?≠ニ聞こうとして止めた。相手が日本人だったら、ミュリエールに分かるはずがないからだ。
「フランス語のメッセージはあったかい?」
「いいえ。全部、私がチンプンカンプンの物ばかりだったわ。あなたの助手には、とてもなれないわね」
私は、礼を言って切ろうとしたが、ミュリエールは、今日の出来事を話してくれときかなかった。仕方なく、私は話をした。
「……それで、今から、そのバーへ行くわけ?」
「そうだ」
「私、日本人バーって行ったことないの。連れてって」
「特別なものはないよ。日本人が日本語で口説き、日本語でお愛想を言い、日本のビールを飲んでいるだけで、君が行ったって、一向に面白くないところだよ」
「それでも、構わないから行きたい。危険な場所ではないんだから、迷惑《めいわく》になることもないでしょう……」
私は渋々《しぶしぶ》、承知し、カフェの場所を教えた。承知せねばならなかったのは、電話を使いたがっている白髪《しらが》の老女がボックスのドアをしきりに叩《たた》いたからだ。
私は、ボックスを出、老女に謝った。老婆は長電話をするヤカラは、シャンゼリゼのショッピングセンターに爆弾を仕掛《しか》ける奴《やつ》と同じくらい許せない、といった顔で私を睨《にら》みつけた。
ボックスを出た私は、横にあるトイレで用を済ませ、煙草《たばこ》を吸いながら、電話ボックスの前に突《つ》っ立っていた。私は依頼人《いらいにん》にも電話を入れておきたかったのだ。
老女はよくしゃべった。甲高《かんだか》い声で笑い、彼女《かのじよ》のセキセイインコの鳴き声がいかに素晴らしいかを相手に説明していた。私は十分以上待たされた。老女がボックスから出てきた。長電話する女は、妊娠《にんしん》したと嘘《うそ》をついて男を騙《だま》す女と同じくらい許せない、という目付きで睨んでやろうと思った。だが、私はそうはしなかった。この老女は、セキセイインコの話だけが、生き甲斐《がい》なのかもしれない、とふと思ったのだ。
私は、生き甲斐だった猫《ねこ》を失った女に電話を入れた。
「ああ、鈴切さん、何度も電話をしたんですよ、一体……」西村良江は私に腹を立てているようだった。
「済みません。連絡《れんらく》が出来ない状態が続いてしまったものですから」
「捜査《そうさ》のほうはどうなってるんですか?」
また私は、起こったことを話さなければならなかった。
「じゃ、ゴンの足取りのほうはさっぱりですか」
「残念ですが、今のところは……」
受話器から大きな溜息がもれた。
「……諦《あきら》めなければならないかもしれませんわね」
「大道さんを殺した犯人を挙げるまでは、希望を捨てないで下さい。もし、犯人が見つかっても、ゴンの行方が分からない場合は、私にもどうしようもないが……」
「犯人とゴンが繋《つな》がっている証拠《しようこ》みたいなものは出てこないんでしょうか?」
「まったくありません。大道さんと関係のあった人は、誰《だれ》もゴンのことを知らないんです。もっとも、そのうちの誰かが嘘《うそ》をついているとしたならば、話は別ですがね。だが、嘘をついているとなると、今度の殺人事件に関係しているという可能性も出てくるし……」
「ともかく、調査は続けて下さい」
私は、また報告すると言って受話器を置いた。
私は席に戻《もど》り、ミュリエールが現れるのを待った。ビールはとっくに生暖かくなっていた。
ミュリエールは、それからしばらくしてやって来た。車を降りるのを見た私は、勘定《かんじよう》を済ませて歩道に出た。
「折角、うまく駐車《ちゆうしや》出来るスペースを見つけたのに……」
「そこに停めておけばいい。バーまでは歩いてもすぐだ」
22
バー雛祭≠ヘオデオン座からもサンシュルピスにも近い、トゥールノン通りにあった。クリスチャン・オジャール∞MICMAC∞サン・ローラン・リーヴ・ゴーシュ≠ネどの洒落《しやれ》たブティックの並《なら》びに、内裏雛《だいりびな》を型取った看板が出ていて、その回りを囲んでいるチューブ管が青い光を放っていた。木製のドアの中央にも内裏雛が彫《ほ》ってあり、その上に漢字とローマ字で屋号が書かれてあった。
入ってすぐ右が長いカウンター。奥《おく》がボックスになっている。
七時半になったばかりの時刻。まだ、それほど混んではいなかった。
私達はボックス席に腰《こし》を下ろした。
「ねえ、ここではショーをやってるの?」
ミュリエールが左奥の小さなステージを見て訊《き》いた。
「ショーはショーでも、客がやるんだよ」
「どういうこと?」
「カラオケって言ってね。順番に客がテープに合わせて、得意のヒット曲を歌うんだ」
「歌のへたな人も歌うわけ」
「日本は平等主義の国だからね、誰《だれ》でも歌える」
「でも、迷惑《めいわく》ね。オンチの人の歌を聞かされるのは」
「結構、皆《みな》うまいんだ」
ミュリエールは、まだ何となくカラオケ≠ニいうものが分からず、怪訝《けげん》な顔をしていた。
そこへホステスがひとりやってきた。ラメの入った黒いドレスを着た痩《や》せた女だった。私もミュリエールも水割りを頼《たの》んだ。女の名前はカズエと言った。
「この店に、マサミさんって女の子がいるだろう」
「いるわよ。カウンターに座ってる女《こ》がそうよ」
「ちょっと話があるんだけど、呼んでくれないかな」
カズエというホステスは、席を立ち、やがて彼女を連れて戻《もど》って来た。
マサミは、三十に手が届くか届かないくらいの年頃《としごろ》で、愛嬌《あいきよう》のある顔をしていた。だが、窶《やつ》れていてまるで生気のない感じだった。ぼろぼろになって、内蔵されているスプリングが表に出ている縫《ぬ》いぐるみみたいだ。
私はカズエに席を外してもらった。
「私に用ですか」しゃべりかたはきちんとしていたが、吐《は》く息が酒臭《くさ》かった。飲むのがホステスの仕事のひとつとは言え、時刻を考えてみると、少し異常に思えた。昼過ぎから飲んでいたという気がした。
「何か飲む?」
マサミはボーイを呼んで、スコッチのストレートをダブルで注文した。
酒が運ばれ、ミュリエールも入れて乾杯《かんぱい》した。何の乾杯か分からなかったが、ともかくグラスを合わせた。
「君は柴田さんの友達だね」
「だった、と言って」
「それは、彼が死んだから、だった≠ノなったのか、その前にそうなったのかね」
「あなたは?」
「失礼。僕は鈴切信吾という、私立|探偵《たんてい》だ。彼の事件を調べてる」
「いまさら、調べても仕方がないでしょう。彼は死んだのよ」
「その通りだが、調べるのが僕の仕事でね」
「で、私も調べに来たわけ。私には、彼を殺す動機があるわよ。私、警察でも、そう言ったのよ」
「尋問《じんもん》を受けたのか」
「簡単にね。動機もあるけど、アリバイもあったから、すぐに帰されたわ」
「動機って、どんな動機?」
「焼き餅《もち》」マサミは甲高《かんだか》い声で笑った。「あいつが他の女とばかりいたから、私、うるさく言ってやったの。そうしたら、あいつ、別れるって言い出したのよ」
「その相手の女を君は知ってるのか?」
「マヌカンをやっている十九|歳《さい》のフランス人よ。その前は、東洋人とのハーフの女だと思ったんだけど、違《ちが》ってたみたい」
「そのハーフに会ったことあるのか?」
「ちらっとだけ見たことがある。キヨシが私に冷たくなったから、一度、彼の跡をつけたことがあったの。その時、その女を見たのよ」
「この女か」
私はジャンから預かったリリアンヌの写真を見せた。
「この女、どこにいるの。彼女が柴田を殺したの?」
マサミの目が輝《かがや》いた。リリアンヌが犯人であってほしいという暗い情熱を私は感じた。
「いや、女には柴田の首を絞《し》めるのは無理だろう。この女は、行方不明なんだ」
「きっと、仲間がいて、柴田を殺したのよ。姿を消したのはそのせいよ」
「君が柴田の跡をつけたのは、いつごろの話?」
「先月の中旬。あいつがキヨシを殺したのよ」
「何故《なぜ》、そんなに確信があるんだ?」
「私、この女のことを問い詰《つ》めたの。跡をつけた夜にね」
「なるほど」
「そうしたら、キヨシはこう言ったの。この女は、俺《おれ》の金ヅルなんだってね」
「金ヅル? その理由は?」
「しつこく訊《き》いたけど、それは話してくれなかった。ただ、その二、三日後に、キヨシの電話を少し立ち聞きしてしまったの。これだけのネタがあれば、かなりの金になる≠チて誰《だれ》かに言ってたの」投げ遣《や》りな口調でマサミは言った。
「彼は日本語でそう言ってたのか?」
「そうよ。きっと、あの女を、キヨシは強請《ゆす》っていたんだと思う。金ヅルってのはそういう意味だったのよ、きっと」
柴田は、リリアンヌをも強請っていたのだろうか? 金ヅルというのはマサミの言う通り、そういう意味だったのだろうか?
「君たちはいつ別れたんだ?」
「先月の終わりよ」
「別れようと彼が言い出したのか」
「そうよ。私も逆上したり、泣いたりしたけど、どうしようもないものね。別れたいものを引き止めておく手段なんかないものね」
「彼は、バクチ場にかなり借金があったようだが、強請りをやらなければいけないほど金に困ってたのか?」
「火の車だったわ。日本レストランを或《あ》るフランス人と共同経営で始めることにしていたの。それで、彼はあちこちに借金して金を作ったんだけど、まんまとそのフランス人に騙《だま》され、金を持ち逃《に》げされたのよ。犯人は捕《つか》まったけど、金は戻《もど》らなかった。残ったのは借金だけ。それからよ、あいつが変わったのは。バクチに手を出し、また借金という生活が始まったわ。免税《めんぜい》店からコミッションを取るくらいで我慢《がまん》しておけば良かったのに、柄《がら》にもなく経営者になろうとしたり、人を強請ったりしようとしたのが良くなかったの」
「男は安全策ばかり取ってるのが嫌《いや》になる動物なんだよ」
男らしく振《ふ》る舞《ま》って、結果がえられない時ほど、救われないことはない。だが、悪い結果をあらかじめ考えていては、すでに、男らしくないのだ。
「男らしくないくせに恰好《かつこう》ばかりつける奴《やつ》だった……救いようのない馬鹿《ばか》よ、あいつ」
長い睫《まつげ》のまぶたが閉じた。
商社の駐在員《ちゆうざいいん》風の男が演歌を歌っている。ミュリエールは、金閣寺を初めて見る外人のような顔をして、その男を見ていた。歌はかなりうまかった。ミュリエールという、飛入りの客の目を意識しているようだった。
フリーの商売をしているらしい若い男がひとり入ってきて、カウンターに座った。何気なく、そちらを見ていた私は、はっとした。男が知り合いだというのではなかった。男の前にある置物が気になったのだ。
私は、黙《だま》ってカウンターまで行った。
黒装束《くろしようぞく》に身を固め、赤い顔のニワトリを抱《だ》いた中国人。
リリアンヌが父親の形見だと言って持っていたという人形と同じものだった。
「ねぇ、君」私は、髪をオールバックにしたバーテンに声を掛けた。「あの人形、どうしたんだい?」
「これですか?」グラスを磨《みが》く手を休めず、バーテンは壁《かべ》の酒棚《さかだな》に視線を移した。
「ママの郷里の人形ですよ」
「ママって中国人?」
「私はれっきとした日本人ですよ」
カウンターの隅《すみ》で初老の男の相手をしていた和服の女が笑みを浮《う》かべながら、口を挟《はさ》んだ。
「ママですか?」
「ええ、レイコと申します」
私はママを独占《どくせん》していた男に、一言断り、彼女に人形について質問した。
「あれは、阿茶《あちや》さん≠ニいう長崎の人形です。私の田舎《いなか》が長崎なものですから、パリに出てくる時に持って来たんです」
「紛《まぎ》れもなく日本製ですね」
「そうですわ。何でも、江戸時代から作られていたという話ですよ。あの頃《ころ》、長崎に出入りしていた中国人がモデルなんですって。日本三大人形のひとつなんですよ。でも、どうして、そんなに興味をお持ちになりますの?」
「同じものを或《あ》るフランス人が持っていて、どこのものだか分からないと言っていたものですから」
私はママと客に丁重に頭を下げ、ボックスに戻《もど》った。
マサミはミュリエールと仲良く話していた。
「マサミが、カラオケや日本のホステスバーについていろいろ、教えてくれてたのよ」
「私のフランス語じゃ、あまり理解出来なかったと思うけど」マサミがグラスを口元に運びながら日本語で言った。「で、ママと何話してたの? 私のこと?」
「いや、酒棚の人形について話を聞いたんだ」
マサミは、そうなのと気のない返事を返した。私は、勘定《かんじよう》を頼《たの》むと言って、腰《こし》を上げた。
外に出た私は黙《だま》っていた。人形のことが気になっていた。
何故《なぜ》、カンボジア人の父を持つリリアンヌが、父親の形見だと言って、日本の人形を持っていたのか? あの人形の顔が父親に似ているからだろうか? いや、それだけでは、形見とは言わないだろう。
ひょっとすると……。
「ねえ、何故、黙ってるの。気になることがあるの?」
私は、人形のことを話した。
「じゃ、そのリリアンヌの父親は日本人かもしれないって言うの?」
「可能性はある」
「長崎にいたことがあるだけかもしれないわ」
「そうかもしれない」
「それに、日本人とのハーフだろうが、カンボジア人とのハーフだろうが、今回の事件に関係ないと思うけどなぁ」
「だが、リリアンヌ、いや、F・Yとサインがしてあった十六年前の手帳には、カンボジア人や中国人の名前らしきものは皆無《かいむ》だが、大道も柴田も載《の》っていた。彼女《かのじよ》がカンボジア系或いは中国系だとしたら妙《みよう》だが、日本人とのハーフだとしたら、おかしくない」
「もしシンゴの言う通りだとして、じゃ何故、そのF・Y嬢は、日本人だということを隠《かく》していたのかしら?」
「日本人だということを隠していたとは限らないさ。何かの理由で偽名《ぎめい》を使わなければならなかっただけかもしれない。その場合は、東南アジア人の名を使うほうが、より自然なような気がする、フランスではね」
「向こうの言葉が出来なければ、すぐにバレてしまうんじゃない?」
「彼女は、フランスに生まれ、母親はフランス人。そうだとしたら、言葉が出来なくても、それらしいアクセントがなくても、ちっとも不思議じゃない」
話しているうちに、私達は、ミュリエールの車のところまで辿《たど》りついた。
「ねぇ、おなか空《す》いてない?」
「空き過ぎて忘れてたよ。何が食べたい?」
「日本料理」
私は腕《うで》時計を見た。九時五分前。
「日本料理とは言えないが、日本人の大好きな料理を食べに行こう」
「任せるわ」
私はミュリエールにパレ・ロワイヤルまで行くように言った。彼女は運転が好きらしい。ギアを入れたり、シフトダウンする時に、或る種の快感を覚えているのが、態度に現れていた。
私はミュリエールにラーメンを食べさせようと思ったのだ。いや、それより私自身が、チャーシューメンを食べたかったのだ。
あらかじめチケットを買い、私達は、コの字型になったカウンターの端《はし》に座った。
一度もラーメンというものを食べたことのないミュリエールは、メニューを選びようがなかった。
私は、チャーシューメンをふたつとギョーザをひとつ取った。
ミュリエールは美味《おい》しいと言って、満足げな顔をしていた。
ミュリエールは、ちゃんとしたレストランにでもいるかのように、ゆっくりと食べた。日本人観光客らしい団体が入口付近で待っていることもあって、カウンターの中にいた男は、時々|嫌《いや》そうな顔をして、ちらっとミュリエールを見た。食べ終えてしまった私は、ビールを飲みながら、辺りを見回した。壁《かべ》に、この店に来た有名人のサインが飾《かざ》ってあり、夏の高校野球の結果も貼《は》り出されていた。
ちょうどカウンターの出入り口になっているところの壁に通信欄のようなものがあった。フランス語教授の案内、車、売りたしという広告、空き部屋の通知などが折り重なって貼ってある。
その上に写真が貼ってあった。私はその写真に興味を持った。絶大なる興味を。
その被写体《ひしやたい》は猫《ねこ》だった。ゴンにそっくりの足の毛が黒いトラ猫。首輪の紐《ひも》も赤い。
私は写真に近づきじっくりと眺《なが》めた。猫にも一匹一匹、表情というものがある。私には、その猫がどうしても、ゴンに思えてならなかった。私の持っている写真とひとつだけ違《ちが》うところは、この写真の猫は、黄色っぽいカバーを胴体《どうたい》に付けていることだった。
その写真はノートの一ページに貼ってあり、そこには日本語とフランス語で、『誰《だれ》か引き取ってくださる方を探しています。名前はネコ=xと書いてあり、飼《か》い主の名前と電話番号が明記されていた。
「どうしたの? また何か発見したの?」レンゲで汁《スープ》を飲んでいたミュリエールが訊《き》いた。
「ああ。今日はいろいろなものを発見する日だ。ちょっと待っていてくれ……」私はそう言い残し、地下に降り、飼い主に電話を入れた。「もしもし、夜分、済みません。ラーメン屋に貼ってあった猫のことでお電話したのですが……」
相手は甲高《かんだか》い声の男だった。
「ああ、猫のことですか。引き取って頂けますか?」
「その前に、ちょっとお伺《うかが》いしたいのですが……」
「何でしょう?」
「あの猫は、以前から、あなたの物だったのですか?」
「いいえ。他人の猫でしたが……でも、よく分かりましたね」
「大道さんという方から預かった猫ではありませんか……」
「いいえ、ジャン・ピエール・プチという人から預かったんですが……その人は……。いや、何も曰《いわ》くなんかないんですよ。その人が死んでしまったから、私達のものなんです。ただ……」
「分かってます。その猫は、私が貰《もら》いましょう」
「そうですか。助かります」
私が今からすぐに、取りに行くと言ったら、山崎《やまざき》という男は、明日にしてほしいと言った。だが、私は後には引かなかった。相手は、仕方がない、と言って折れた。
ラーメン屋を出た私達は車のシートに腰《こし》を下ろしていた。
「また、俺《おれ》の猫に餌《えさ》をやりに行ってくれないか?」
「あなたは、どうするの?」
「ゴンを見つけたんだ。今から引き取りに行ってくる」
「じゃ、あそこに貼ってあった写真は、あなたの探していた猫だったの?」
「どうやらそうらしい」
「でも、何故《なぜ》あんなところに……」
「飼い主に会ってみれば謎《なぞ》は解けるだろう」
「猫を引き取ったら、また私のところに来る?」
「デロールの部下やヘン・ソバンの手下に会いたくないから、そうさせて貰《もら》えると助かる」
「ゴンも一緒《いつしよ》につれて来る?」
「そういうことになりそうだ。キャットフードの買い置きも、一応持って来てくれないか」
「OK」
ミュリエールは車を使ってもいいと言ったが、私は、その申し出を断り、タクシーを拾って、飼い主のアパートに向かった。
23
「いやぁ、まったく引き取っていただけて助かります」
シャンゼリゼにある日本のパン屋で、職人として働いているという山崎は、よく話す男だった。年はまだ三十前と見た。
簡単なソファーセットの回りに黒いカラーボックスがいくつか積んであり、そこにテレビ、ステレオ、それにSONYのビデオが並《なら》べられていた。テープは皆《みな》、日本から送られてくるものらしい。
私が居間に通された時は、野球がついていた。
妻も日本人だった。無愛想ではなかったが、旦那《だんな》ほどサービス精神に富んでいるようには見えなかった。
出された日本茶を啜《すす》っていると、ゴンが、のそりと現れ、私を一瞥《いちべつ》し、部屋の隅《すみ》の籐《とう》を編んだ籠《かご》のなかに入り、丸まった。
「僕《ぼく》も家内も猫《ねこ》好きなんですがね」山崎はゴンを見ていった。
「では、どうして手放す気になったのですか?」
「或《あ》る人が言ったんですよ。猫が運んでくる病原|菌《きん》が、妊婦《にんぷ》や胎児《たいじ》に悪い影響《えいきよう》を与《あた》えるって。家内は妊娠《にんしん》してるんです。この猫を預かった時には、家内が妊娠しているとは知らなかったんです」
「この猫が、山崎さんのところに来た経緯《いきさつ》を話してくれませんか?」
「電話でも話したジャン・ピエール・プチという彫刻家《ちようこくか》に頼《たの》まれたんですよ。十日くらいでいいから預かってくれないかってね。ところが、彼、この間、殺されたんですよ」山崎は声を潜《ひそ》めて言った。
「その人とは親しかったんですか?」
「いいえ、よくうちの店でパンを買って帰る客ですよ。一度だけ、昼休みに遊びに来て、食事を御馳走《ごちそう》してやると言われて、付き合ったことがあったんです、三か月ほど前の話ですがね」
山崎はジャン・ピエールの好みのタイプだったのかもしれない、と私は思ったが、無論、そのことは黙《だま》っていた。
「僕《ぼく》は、誘《さそ》われると断れない性分だから、大してフランス語も出来ないのに、ほいほいついて行ったんです」山崎は横目で女房《にようぼう》の顔を見た。「そこで、僕は、女房のために猫でも飼《か》いたいと言ったんですよ。僕は、三年ほど前から、パリに住んでますが、女房のほうは、今月でやっと六か月なんです。あまりパリの水が合わないようだし、昼間、ひとりで寂《さび》しいだろうと思い、猫を飼《か》おうかと思ったわけで……。家内も、昔から猫好きだったものですから」山崎はまた妻の顔を見た。
妻は何も言わず、にやりとしただけだった。
「その話を覚えていたらしく、あの彫刻家は、是非、しばらく預かって欲しいと電話してきたんです」
「いつごろの話ですか?」
「えーと、いつだったっけ?」山崎は妻に訊《き》いた。
「あなたが徹夜《てつや》マージャンでうちを空けた次の日よ」妻は、口元をへの字に曲げて言った。
「……ということは、二週間前の日曜日だ。そうだ思い出した。彼がここに来たのが午後で、その時、僕《ぼく》がいたのだから、間違《まちが》いなく二十八日ですよ」
「ジャン・ピエール・プチという人は、自分の猫だと言ってましたか?」
「ああ、そう言えば、本当は友達の猫だと言ってました……。でも、どうしてそんなこと訊くのですか?」山崎は遅蒔《おそま》きながら怪訝《けげん》に思ったようだ。
私は名刺《めいし》を出し、この猫を実は探していたのだ、と教えた。
「へーえ、私立|探偵《たんてい》さんなんですか」山崎は無意味に感嘆《かんたん》の声を上げ、妻は夫の手の中にある私の名刺を覗《のぞ》き込《こ》んでいた。
「病気のことを聞かなければ、ずっと飼っていても良かったんですがね……いやぁ、子供が出来るとなると、いろいろ気を使って面倒《めんどう》ですな。独身のころが懐《なつ》かしいですねぇ。そうでしょう?」
山崎は独身でなくて良かったという顔をして独身生活を懐かしみ、私を妻帯者だと決めつけ相槌《あいづち》を求めた。
私はそれには答えず、「何故、ジャン・ピエール・プチは自分で預からなかったのか御存じですか?」と訊いた。
「仕事の邪魔《じやま》になるからと言ってましたよ」
聞きたいことを全部聞いた私は、山崎家を退散することにした。
山崎が猫用の紺《こん》色の四角いケースを持ってきた。私は、猫の右耳の後ろを念のために調べた。小さな禿《は》げがひとつあった。
「この猫の、胴体《どうたい》を被《おお》っているカバーはあなたのですか?」
「いいえ、初めからついてました。洗濯《せんたく》してやろうと思っていたんですが、つい忘れてしまって……」山崎は、頭を掻《か》き、妻は夫を睨《にら》みつけていた。そして、もう一度、引き取ってくれることに礼を言った。
タクシーの中で、ゴンは小さな舌を出してヒイヒイ、いっていた。私はバッグの中に手を入れ、ずっと頭を撫《な》でていてやった。
ゴンは事件とは関係なかったのだ。
七月二十八日、妹の事故を国際電話で知った大道貢は、次の日の便で東京に戻《もど》ることにした。西村良江から預かったゴンを、愛人であるジャン・ピエールに預けようとして、ソー市にある彫刻家《ちようこくか》のアパートまで運んだ。ジャン・ピエールは仕事の邪魔《じやま》になるので、自分のアトリエには置けないがなんとかすると大道に言ったのだろう。大道が帰った後、ジャン・ピエールは猫《ねこ》を欲しがっていた人物、山崎に預かってくれるように頼んだ。ジャン・ピエールのアドレス帳に西村良江の電話番号があったのは、おそらく、大道がゴンを置いて行った際、念のために本当の飼《か》い主を彫刻家に教えておいたからだろう。
ところが、自分がヘン・ソバンに内緒《ないしよ》でくすねた盗難拳銃《とうなんけんじゆう》で大道が殺されたのを知り、猫のことはすっかり忘れてしまった。そのうち、自分も愛人の後を追うようにして、他界した。大体、こんな具合だったような気がする。ゴンはとばっちりを受けたのである。
ミュリエールはすでに帰っていた。
ゴンは、新しい家に馴染《なじ》まないらしく、緊張《きんちよう》したまなざしをして、居間を行ったり来たりしていた。しかし、神経|症《しよう》の猫ではないらしい。脅《おび》えているような様子はなかった。
「俺《おれ》の猫は元気にしてたかい?」
「ええ。今度は、寝室《しんしつ》の置き時計を壊《こわ》してたわよ」
ブランデーを用意しながら、ミュリエールは淡々とした口調で言った。
「またか!」
クマは、私の持ち物の中で、比較《ひかく》的高価なものばかりを壊した。家を空けた代償《だいしよう》にしては高すぎると思った。だが、今は、それ以上に気になることがあった。私は、アドレス帳を開いて、西村良江に電話をした。
西村良江は不在だった。午後十一時二十分。寂《さび》しさを紛《まぎ》らわせに飲みに出掛《でか》けているのだろう。
寂しくて物を壊す猫、寂しくて出掛けてばかりいる女流画家、私の回りには人恋《ひとこい》しい動物や人間が何と多いことか。
私は、もうひとりの人恋しい人物に電話をした。
ジャンは一度目のコールで受話器を取った。蜘蛛《くも》が蟻《あり》を捕《と》らえるように、奴《やつ》の大きな手が受話器を一瞬《いつしゆん》にして握《にぎ》るのを、私は想像した。
「まだ、確定的じゃないが、あんたのリリアンヌはカンボジア系じゃなくて、日本系である可能性が出てきたぜ」
「馬鹿な。あいつは俺にそんなこと話してなかったぜ」
「中国人の人形があったな。リリアンヌがあれを、父親の形見だと言っていたのは確かだろうな」
「ああ。絶対、確かだ。俺はその話を、何度も聞いたことがある」
「あの人形は、日本に昔からあるものなんだ。長崎で作られている人形なんだ。あんたも長崎は知ってるだろう?」
「巡業《じゆんぎよう》で行ったことがある」
「普通《ふつう》に考えれば、リリアンヌの親父は長崎の出身ということになる」
「…………」
「どうした? 聞いてるのか」
「リリアンヌは、俺にそんな話はしなかった」
「頭を柔《やわ》らかくして聞いてくれ。リリアンヌが日本人とのハーフだと仮定して、何か思い当たることはないか、例えば、長崎の話をしていたとか……」
「長崎の話をしていたことはない。ただ……」
「ただ、何だ?」
「一度、東京のことを聞いたことがあった」
「東京のどこの話だ?」
「公園のことを聞かれたが、名前は覚えていない。ともかく、俺の聞いたことのない公園だった」
「その時、彼女《かのじよ》は正確にどう言った?」
「……忘れたよ。なんだか知らんが、池があるとか、ボートに乗れるとかは言っていたが……」
「彼女は、その公園に行ったことがあると言っていたか?」
「いや、行ったことがないと言っていた。今にして思えば妙《みよう》なことだな。何で、彼女が東京の公園を知っていたのか……」
リリアンヌが日本人とのハーフなら、それほど不思議なことではない。そう思ったが口には出さず、明日また連絡《れんらく》すると言って電話を切った。
「池があって、ボートを漕《こ》げるという公園だけじゃ、見当のつけようもないわね」
私の話を聞いたミュリエールがグラスを揺《ゆ》らしながら言った。
「その公園がどこかというよりも、理由は分からないが、リリアンヌが日本に興味を持っていたことが分かっただけでも収穫《しゆうかく》だった。殺された大道、柴田と付き合いのあったリリアンヌが失踪《しつそう》し、未だに行方《ゆくえ》知れず。初めは、彼女がカンボジア系フランス人だと思っていたから、ヘン・ソバン達との繋《つな》がりばかりを追っていたが、こうなると話は違《ちが》ってきた。何の証拠《しようこ》もないが、大道、柴田が殺されたこととリリアンヌの失踪は、一本に繋がっているような気がするんだ。それに、さっき言い忘れたが、マサミの話によると、柴田はリリアンヌのことを金ヅル≠セと言っていた。ひょっとすると、柴田は偽造《ぎぞう》した身分証明書のことで、リリアンヌをも強請《ゆす》っていたのかもしれないな……」
「きっとそうよ」
「そうなると、リリアンヌも柴田殺しの容疑者になる……しかし、街の女を強請っても大した金にならないと思うんだが……」
「ギャラリー・ムラカワ≠フ社長、村川隆を強請ってたのは確かなのね」
「ああ、だが、こちらは、強請りのネタがはっきりしない」私はグラスを一気に空けた。
「村川に直接会って、揺さぶりをかけるつもりだが、警察に引っ張られてちゃ手も足も出ない。すべては明日だ」
「そうね、ゴンが見つかっただけでも、今日は大収穫よ」
ゴンは、椅子《いす》の上に蹲《うずくま》って眠《ねむ》っていた。
私とミュリエールは、ごく自然にベッドインした。疲《つか》れていて神経が高ぶっているせいか、なかなか眠れなかった。ゴンがぬっと現れ、我々のベッドに乗り、喉《のど》を鳴らした。
私達は明け方眠り、翌日の午後まで目を覚まさなかった。
24
朝食を兼ねた昼食を取り終わってから、西村良江に電話を入れた。
ゴンが見つかったことを伝えると、女流画家は電話口で涙《なみだ》を流し、今すぐ引き取りに行くと言った。
私はミュリエールの住所と電話番号を教えた。
「私、疲《つか》れた顔をしてる?」
私は黙《だま》ってうなずいた。
「本当に?」ミュリエールは手鏡で自分の顔を見た。
「でも、疲れた顔も素敵だよ。疲れた顔の似合う女ってそうざらにいるものじゃない」
「お褒《ほ》めいただいて、嬉《うれ》しいけど、そう思うのはシンゴぐらい。他人は単に疲れた顔としか思わないものよ」
「他人なんてどうでもいいじゃないか」
「そうはいかないものよ、女は」
「そうらしいね……」
「でも、いまさらどうしようもないわね、隈《くま》は一日にしてひっこまず」
西村良江が現れるまで、ミュリエールは翻訳《ほんやく》の仕事をし、私は皿《さら》を洗った。ゴンはキャットフードロンロン≠ェお気にめさないらしく、あまり手をつけていなかった。
午後一時半に西村良江が現れた。薄《うす》いベージュのワンピースを着ていた。彼女にはパンツのほうが似合うと思った。オーソドックスなワンピースを着ていると、普通《ふつう》のオバサンにしか見えなかった。
ゴンを見た女流画家は、親が子供と再会したように喜び、声が震《ふる》えていた。着ているワンピースと同じくらい型に嵌《は》まった愛情表現をしたのだ。
「本当にありがとうございました」西村良江は、一頻《ひとしき》り、ゴンを撫《な》で回してからそう言った。そして、紫色《むらさきいろ》のハンカチで目許を拭《ふ》いた。
「ロンロン≠餌《えさ》にあたえたんですがね、ゴンは好きじゃないようでしたわ」ミュリエールがコーヒーを出しながら言った。
「ゴンはフリスキー≠ェ好みなんですの。でも、この二週間あまり、何を食べていたのかしら……」西村良江のフランス語はかなり、流暢《りゆうちよう》だった。日本人画家の中には、語学オンチが多いのだが。
「世話をしていた人は猫《ねこ》好きの夫婦でしたから、まともな食事を取っていたと思いますよ」ミュリエールのために私は日本語を使わなかった。
「ミツグさんも、可愛《かわい》がってくれたみたいですわ。ゴンが身につけているチョッキは、ミツグさんが以前に自分で作ったものなんです」西村良江もフランス語で通した。
「ゴンのために?」ミュリエールが訊《き》いた。
「いえ、彼の死んだ猫が着ていたものなんです。でも、正直言うと、猫にこういう物を着せるのは、私、好きじゃありません」
自分のことが話題になっているのが分かったのか、ゴンは尾を立て、飼《か》い主のところにやって来て、足下に寝《ね》そべった。
西村良江は、ゴンの頭を撫でながら訊いた。
「それで、殺人事件のほうはどうなっていますか? 犯人は見つかりそうですか?」
「容疑者らしい人物はいるのですが、決定的な証拠《しようこ》は何も出ていません。まだ、ミツグさんの事件の捜査《そうさ》をお続けになる気はありますか?」
「ええ。後一週間は続けて下さい。それで、どうしようもなかったら、手を引いて下さい」
「分かりました」
ゴンが背中が掻《か》きたいらしく、チョッキの間に足を入れた。
「掻きにくいでしょう、取って上げましょうね」
西村良江はチョッキを外した。ゴンは、ブルブルと躰《からだ》を震わせた。躰に何もつけていない方が、やはり気持ちがいいらしい。
ミュリエールが黄色いチョッキを取り上げ、「男の人にしては上手ね。やはり……」と言い、思わず口に手を置き、まずいことを言ったという顔をした。ゴンを見ていた西村良江には、ミュリエールの顔つきは目に入らなかった。
ミュリエールはチョッキを畳《たた》もうとした。
その時だった。
「ねえ、このチョッキのなかに何か縫《ぬ》い込んであるみたい」
私はミュリエールに渡《わた》されたチョッキを指で押《お》すようにして触《さわ》った。
「確かに何か入っている。開けて見ていいですか?」
私は西村良江に訊《き》いた。
「事件に関係があるのですか?」彼女は無闇《むやみ》やたらと、唯一《ゆいいつ》の友人の遺品をいじくるのには賛成できないという顔をした。
「事件に関係があるかどうかは開けてみなければ分かりませんが、大道さんが何かここに入れ、犯人は彼のアパートで何かを探したんですよ」
「分かりました。開けてください」
ミュリエールが縫目《ぬいめ》をカミソリで切った。
中から、四つ折にした紙切れが二枚出てきた。そのうちの一枚は航空便用の便箋《びんせん》だった。
私はまず、普通《ふつう》の紙のほうを開いた。
一瞬《いつしゆん》、それが何か分からなかったが、読んでいくうちに、それが、フランスで結婚《けつこん》すると発行される、家族手帳の一部だということが分かった。
必要な部分だけ切り取り、猫の胴巻《どうま》きに隠《かく》しておいたのだ。おそらく、手帳丸ごとでは胴巻きに入り切らなかったから、こうしたのだろう。
犯人が大道と柴田のアパートで捜《さが》したものはこれだったのだ。
夫の欄《らん》には、タカシ・ヤマギシと記されてあった。村川隆の旧姓《きゆうせい》である。
そして、妻の欄には、フランソワーズ・テヅカとあった。
子供の欄《らん》は空白。
発行年月日は、一九六八年十二月十日で、発行場所は、十五区の区役所だった。
「村川隆は、フランソワーズ・テヅカという女と結婚していたことがあったんだ」私は西村良江を無視してミュリエールに言った。
「このフランソワーズという日本人とのハーフの女性はリリアンヌだろう。リリアンヌのところで見つけた手帳にあったF・Yというのは、フランソワーズ・ヤマギシのことだと思うよ」
「それが強請りのネタだったのね」
「ウーン? 過去に結婚歴があるくらいで、強請りのネタになるかな」
「隆が尚美や義父に、その事実を隠《かく》していたとしたら? 彼、養子でしょう?」
「考えられないこともないが……」
私は曖昧《あいまい》な返事を返しながら、ケント紙に、日本語で書かれていることを読んだ。
この家族手帳は、リリアンヌ・サリューンことフランソワーズ・テヅカがギャラリー・ムラカワ≠フ社長、山岸隆と結婚していたことを証明するものである。山岸は、フランソワーズと離婚《りこん》しないまま、村川尚美と東京にて結婚した。つまり、現ギャラリー・ムラカワ℃ミ長、村川隆は重婚しているのである。十五区の区役所で調べれば、そのことは容易に判明する。
強請りのネタは重婚だったのだ。
私は、説明抜きで手紙を西村良江に見せ、
「この字はミツグさんのものですか?」と訊《き》いた。
「ええ」西村良江はしばらく考えた後に答え、「この手紙は一体、何なんですか?」と怪訝《けげん》な顔で訊いた。
「今度、詳《くわ》しくお話しします」
私はミツグが強請りをしていた話を西村良江に話したくなかった。
手紙をポケットに仕舞《しま》い、もう一度、家族手帳を見た。証人は大道と柴田だった。
リリアンヌことフランソワーズ・テヅカはノルマンディー・オンフルール出身と記されていた。村川いや山岸の本籍地は、東京都|練馬《ねりま》区|石神井《しやくじい》町五丁目になっていた。
私は練馬区にはあまり詳しくない。再び、西村良江に訊いた。
「石神井町というとどのあたりなのですか?」
「西武池袋《せいぶいけぶくろ》線って御存じかしら」
「ええ」
「その沿線で石神井公園があるところよ」
「公園? そこには池があってボートに乗れる?」
「その通りです。私、子供の頃《ころ》、その隣《となり》の大泉学園《おおいずみがくえん》というところに住んでいたことがありますの」
おそらく、隆はフランソワーズとうまく行っていた頃、自分の生まれ育った場所について彼女《かのじよ》に話したのだろう。
別れた理由を知る由もなかったが、リリアンヌという名前に変えてからも、フランソワーズは隆のことを時々思い出していたようだ。
「何も知らずに、ゴンが事件を解く大きな鍵《かぎ》を握《にぎ》っていましたよ」
「その書類や手紙、そんなに重要なのですか?」
「ええ」
「じゃ、犯人も分かったんでしょうか?」
「いや、そこまでは。ただ、事件の真相が何となくですが分かってきました」
私は、そのためにいろいろ用事が出来たと言い、西村良江とゴンに引き取って貰《もら》った。帰り際に、西村良江は、三千フランの小切手を切ってくれた。
依頼人《いらいにん》が引き上げるとすぐに、私はランベール警視に電話を入れ、村川夫婦が釈放されたかどうか訊《き》いた。
村川夫婦は釈放された、とランベールは教えてくれた。そして、何かあったら必ず警察に知らせるようにと念を押《お》した。
「リリアンヌとギャラリー・ムラカワ≠フ社長が結婚《けつこん》していたとはね」
「いや、今も結婚しているらしいんだ」
日本語の分からない彼女は手紙の内容を知らなかったのだ。
「じゃ二重結婚。隆は、現在の妻や義父、それに世間にそれが知れるのが怖《こわ》くて、強請りの相手を殺したのね」
「そうらしいが、何故、重婚が出来たんだろう?」
「そうね、記録として残ってるんだから、普通《ふつう》は無理よね」
私はタニコウに、日本の婚姻《こんいん》制度について聞いてみることにした。
日曜日だから、まず自宅に電話を入れたが不在だった。タニコウは事務所にいた。
「おい、おまえ、どこに雲隠《くもがく》れしてるんだ。何度、掛《か》けても、おまえの寝惚《ねぼ》けたような声がはい、こちら、鈴切探偵事務所です……≠ニ言うばかりで、苛々《いらいら》したぞ」
「済まない。いろんな奴等《やつら》が俺《おれ》を見張ってるから、ちょっと姿を隠してるんだ」
「おまえを匿《かくま》ってくれる奴がいるのか、俺以外に」
「新しい友人が出来た」
「なるほど、女だな」
「そんなことはさておき、村川松吉の武器密輸事件は取材したのか?」
「もちろんだ。おまえがとっ捕《つか》まえたそうじゃないか。何で、俺に一本電話を入れてくれなかったんだ」
「まさか、松吉が一枚噛《か》んでるとは俺も知らなかったんだ。今でも、何故あいつが密輸なんかに手を出したのか、俺にはさっぱり分からん」
「俺も初めは解せなかった。会社のほうは順調だし、これまで黒い噂《うわさ》もなかったからな」
「じゃ、奴の趣味《しゆみ》だったわけか?」私は笑いながら言った。
「前にも教えたと思うが、松吉は、伊豆の下田の近くに、サファリ・パークを作る計画を立てていたんだ。ところが、これは、前にも例があるんだが、まず危険であること、それに動物の汚物《おぶつ》処理の問題などで、住民の反対にあい、土地買収がうまくいっていないんだ。そこで、暴力団関東|仁八《じんぱち》組が、機動部隊となって乗り出したわけさ。松吉と親分の片桐仁八《かたぎりじんぱち》は、一緒《いつしよ》に戦場で闘《たたか》った戦友。
仁八は、機動部隊をやる報酬《ほうしゆう》として、金ではなく、拳銃を要求したらしい。ちょうど、松吉が娘夫婦にパリで画廊《がろう》をやらせる話を知った、仁八は欧州から持ち込《こ》むことを考えたわけさ。東南アジア、ハワイから持ち込むのは、警察の目が光っていて難しい。パリは、盲点《もうてん》だと睨《にら》んだんだろう。それに、仁八とヘン・ソバンは奴《やつ》が日本にいた頃《ころ》から付き合いがあったんだ」
「田島はどう絡《から》んでくるんだ?」
「奴は六年ほど前、仁八が、愛人を連れて旅行した時、ガイドをやったことがあった。それ以来の付き合いらしい。その後も田島は、仁八一家の息の掛かった人間がパリに来る時は必ずガイドを勤めていたそうだ。田島は、以前、カサブランカのカジノの用心棒までやったことのある男だから、仲間に引っ張りこむのは簡単だったようだ」
「やはり、松吉の手引きでギャラリー・ムラカワ≠ノ入ったのか?」
「そうだ。他の候補者と一緒に面接を受けた形にはなっていたらしいが、親父の意向は絶対だから、若夫婦は田島を雇《やと》ったんだ。松吉は、本人の自供によれば、初めこの計画に乗り気ではなかったようだ。だが、奴の夢《ゆめ》は故郷の下田で、サファリ・パークのようなレジャーランドを作ることだったんだ。だから、仁八の話に結局乗った。当然、隆も尚美もそんなことは知らなかった。
田島は、売れない彫刻《ちようこく》を作っているくせに、派手好きのジャン・ピエール・プチを仲間に引き込み、自分は現場での進行係を務めていたんだ。彫刻家は、あらかじめ心棒に密封した拳銃《けんじゆう》やライフル、それに弾薬《だんやく》を結びつけておき、そこにコンクリートを流し込《こ》んで誤魔化《ごまか》したんだ」
「だが、中身を取り出すのが大変だろうな」
「よく分からんが、心棒の回り、直径何センチまでに、ブツが入っているか計算されていたということだ。そこ以外を壊《こわ》し中身を取り出したらしい。ともかく、これまでに、その手で、百挺を超《こ》える拳銃とライフルが日本に密輸されていたんだ」
「やはり、あんたが最初に睨んだように、暴力団の抗争に使われていたってわけか」
「そうなんだ。今、関西では暴力団同士が激しく勢力争いをやっている。銀鈴会という大きなグループと新興勢力の城南組との間でな。仁八一家は銀鈴会の関東支部なんだ。密輸された武器は全て、銀鈴会に流れてたってわけだよ。これは日本でも、大問題になるだろうな。面白くなるぜ。おまえ、一気に名を上げたな。ところで、おまえは、こんなことだけを聞くために電話を寄越《よこ》したんじゃないだろう? 大道、柴田殺しはまだ解決してないものな。そっちのほうはどこまで調べがついてるんだ?」
「それを話す前に、ちょっと知識を拝借したいんだ」
「何だ、言ってみろ」
「フランスでフランス人と結婚《けつこん》していた日本人男性が、籍《せき》を抜《ぬ》かずに、日本で正式に他の女と結婚できる可能性はあるか?」
「また藪《やぶ》から棒にどうしたんだ?」
「いいから、どうなんだ、可能なのか?」
「ひとつだけ、可能性がある」
「それは?」
「その前に、それを教えたら、俺《おれ》の質問にも答えるか?」
「答える」
「じゃ、教えてやろう。日本人がフランスで結婚した場合、その人間は大使館に、知らせる義務がある。だが、それを怠《おこた》っている者は案外多いんだ。特に相手がフランス人の場合はな。こちらでの手続きが整っていれば、生活に支障をきたすことは何もないから、わざわざ届け出なくても済むわけだ」
「大使館は、そういう連中をチェックしないのか?」
「一々、そういうチェックはしない」
「ということは……」
「ということは、こちらで結婚していても、その日本人の戸籍には、結婚したという事実は現れないんだ」
「なるほど、分かってきた。回りに知っている人間さえいなければ、こちらの籍が抜けていなくても、堂々と結婚出来るってわけか」
「その通り」
「いや、助かったよ、タニコウさんが物知りで……」
「そのことが、事件に関係があるんだな」
私は、村川隆とリリアンヌのこと、強請りが絡《から》んでいるらしいことを話した。
「じゃ、村川隆が犯人だというのか?」
「おそらくね」
「そのことを警察に話したのか?」
「いや、まだだ。多分≠フうちは知らせる気はない」
「これからどうするんだ?」
「村川隆が警察から出て来るのを待ってるんだ」
「直接、当たってみるつもりなんだな」
「そうだ」
「ヤバイぜ、本当に奴が犯人だったら……」
「俺も殺《や》られるというのか?」
「俺も同行するぜ」
「いや、ひとりで会う。ブンヤを連れて行く気はない」
「冷たいぜ。助手とかなんとかいう名目で連れて行ってくれよ」
「結果を一番先に知りたければ、俺の邪魔《じやま》をしないでくれ」
タニコウは舌を鳴らした。
「分かった。その代わり、俺に第一報を送るんだぞ」
私は約束《やくそく》すると言って、電話を切った。
早めの晩飯を私が作った。日曜日はマーケットは休み。あり合わせで、スパゲッティを作った。ベーコン、赤とうがらしがあったからなんとかなった。青い野菜とにんにくを入れたかったのだが、ミュリエールの冷蔵庫では、それは高望みというものだ。
ミュリエールは、おいしい、おいしいと何度も言い、ボルドーの赤を飲み過ぎたせいか、ほんのり顔を赤らめていた。
私は食事もワインも控《ひか》え目にした。
「リリアンヌも、やはり仲間だったのかしら?」
「分からない。家族手帳の持ち主は彼女《かのじよ》だし、隆の秘密を柴田達に話したのも、彼女だから、その可能性はあるが……」
ジャンからは連絡《れんらく》が入らなかった。私は内心ほっとしていた。ジャンにリリアンヌの過去を話すことを考えると気が重い。ジャンは、事実を納得しないだろう。保母さんが、子供に言い聞かせるような真似を、あの大男に向かってするのは気が進まない。いつかは事実を教える時が来るだろうが、なるべく先に延《の》ばしたいと思っていた。
ミュリエールは出陣《しゆつじん》する私の唇《くちびる》に愛情のこもったキスをしてから、「|MERDE《メルド》!!(クソ!!)」と言った。何か物事をやりにいく人間に「|MERDE《メルド》」と言うと縁起《えんぎ》がいい、という言い伝えがあるのだ。
25
ミュリエールの車は整備が行き届いて快調に走った。
村川家のあるグランド・ジャット島まで三十分も掛からなかった。
門は固く閉ざされていたが、一階と二階から明かりが漏《も》れていた。
私は、インターホーンのボタンを押《お》した。何度押しても応答はなかった。大門の横にある小《こ》ぶりのドアのノブを回してみたが、閉まっていた。こうなったら、鉄門を登って中に入るしかない。
辺りの様子を窺《うかが》ってから、私は鉄柵《てつさく》によじ登った。
邸内に侵入した私は、ゆっくりと歩き、階段を登り、ドアの横にあるベルを鳴らした。
今度も、なかなか出て来なかったが、しつこく鳴らし続けた。中で人の気配がした。
ドアを開けたのは、村川隆自身だった。
「今晩は」と私は言った。
「君、一体どうやって入ったんだ。不法侵入だぞ」
「話がありまして」
「話すことなんか何もない。帰ってくれたまえ」
隆はドアを閉めようとした。私はドアを右手で押《お》さえ「フランソワーズ・テヅカ嬢の話なんですがね」といきなり切り札《ふだ》を突《つ》きつけた。
隆の躰《からだ》が一瞬《いつしゆん》、硬直《こうちよく》し、ドアを閉める動作が止まった。
「中に入っても構いませんか?」
隆は私をじっと見つめていた。
私は、彼の承諾《しようだく》を待たずに中に入った。
家の中は前に来た時と同じように、整然としていた。
「鈴切さん、あんたはどこでそれを」
「どこかで座って話しませんか」
隆はうなずき、私が尚美と松吉に会った部屋に通した。
私と隆はソファーの端《はし》と端に座った。
「尚美さんは?」
「二階で休んでる。今度のことがショックでね」
「村川さん、あなたは大道貢と柴田喜代志に強請られていたんじゃありませんか?」
「…………」
村川はライトブルーのスーツに白いシャツを着ていたが、ネクタイはしていなかった。ズボンの織り目は、膝《ひざ》から下だけに残っていて、太股《ふともも》のあたりは、トレーニングウエアーのように丸くなっていた。隆の背中も丸かった。髭《ひげ》がまばらに伸《の》び、顔には脂が浮《う》いていた。
「どうなんです? フランソワーズの件で彼等に強請られていたんでしょう?」私はフィリップ・モリスに火をつけながら繰《く》り返し訊《き》いた。
「フランソワーズのことをどこから知ったんだ?」
「猫《ねこ》が教えてくれたんだよ」
「猫? あんた、私をからかいに来たのか」濁った目が私を睨《にら》んだ。
「いや、本当のことを言っただけだ。猫が、あんたとフランソワーズの家族手帳の一部と大道の手紙をプレゼントしてくれたんだ」
「で、それをどうするつもりなんだ」
「警察に提出するつもりだよ」
「なぁ、お願いだ、私に買い取らせてくれ」隆はソファーに両手を突《つ》き、私を見上げるような恰好《かつこう》で頼《たの》んだ。「それに、口止め料も払《はら》おう。私立|探偵《たんてい》なんて、そんなに金にならない商売なんだろう? お願いだ! 何とか私を助けてくれ」
「大道達は、いくら欲しいと言ったんだ」
「五千万だ、円でな」セイジが耳にした五千≠ヘ五千万円のことだったのか。
「同じだけ払っていい。この件を忘れてくれ」隆が悲痛な声を上げた。
「そうは行かんよ。あんたは、人を殺してる」
「大道が拳銃なんか持っていなかったらあんなことをせずに済んだんだ」
「柴田は絞殺《こうさつ》だぜ」
「それは……」
隆は躰《からだ》を縮めた。
「リリアンヌいや、フランソワーズをどうした? あんたがどこかに隠《かく》したのか、それとも……」
「頼む。私を見逃《みのが》してくれ!」
隆は泣いていた。私は、大きな溜息《ためいき》をつき、煙草《たばこ》を消した。
「初めから、話してみろ。何であんたは離婚《りこん》せずに、何年も放っておいたんだ?」
「私はフランソワーズと結婚して一年目に、黙《だま》って、彼女《かのじよ》の前から姿を消したんだ。二十三で結婚したんだが、若かったということもあって、結婚生活はまったくうまくいかなかった。今の若い奴等は違《ちが》うかもしれないが、私の時代の男、無論、日本人の男という意味だが、家庭でちんまりしているのが堪《たま》らなかった。やれ、マージャンだとか飲み屋通いだとかいって、友人連中と遊び回っていたかったんだ。日本人の女なら、それも理解したかもしれないが、ハーフだとはいえ、フランスに生まれてフランスに育ったフランソワーズには、許しがたいことだった。彼女は毎晩泣きヒステリーを起こした。私はついに我慢《がまん》出来なくなり、何度も離婚を持ち出したのだが、絶対承知してくれなかった」
「それで、逃げ出したのか?」
「ああ。黙って手荷物だけ持って、日本に戻《もど》ってしまったんだ。私はフランソワーズに住所を知られたくないから、パリの仲間にも内緒《ないしよ》でパリを去ったんだ」
「あんたの本籍地《ほんせきち》を訊《たず》ねれば、分かったんじゃないのか」
「そうかもしれん。だが、フランソワーズはそうはしなかった。私だって、後で随分《ずいぶん》ひどいことをしたと後悔《こうかい》したが、時がたつにつれて、忘れていった」
「それで、尚美さんと結婚《けつこん》したのか?」
「その通りだ」
「尚美さんとの結婚の際、離婚をしようとは思わなかったのか?」
「思ったさ。だが、フランソワーズの居所が分からなかったし……」
「確か六年以上、別居状態なら、一方が勝手に離婚の申し立てが出来るんじゃないのか?」
「しかし、それには時間が掛かるし、フランスで結婚したものは、フランスでその手続きをしなければならない。そんな暇《ひま》がなかったんだ」
「で、どうして強請られるようになったんだ?」
「二月にギャラリー・ムラカワ≠ェオープンし、私と尚美はパリにやって来た。五月の或る日、前にも話したかもしれないが、私はばったりと大道にサンミッシェルで出くわした。昔のことを知っている人間には会いたくないと思っていたんだが、パリという街は狭《せま》い。私は、どうせ隠《かく》してもバレると思い、今の仕事の話をした。無論、尚美と結婚したことも話した。ミツグはフランソワーズと離婚《りこん》したのかと訊《き》いたから、そうだと嘘《うそ》をついた。かなり前の話だし、まさか、誰《だれ》も籍が抜《ぬ》けていないとは思わないだろうと考えたんだ。果たして、その通りだった。奴は私の言葉を信じた。私は、フランソワーズのその後を知らなかったので、訊いてみた。ミツグも詳《くわ》しく知らなかったが、噂《うわさ》だと、私が逃《に》げ出してから、パリを出たというんだ。私はほっと胸を撫《な》で下ろした。
私が結婚していたことは尚美には話してあったし、私に結婚歴のあることを知っている人間に会っても、ミツグについたのと同じ嘘で誤魔化《ごまか》せると思ったからだ」
「フランソワーズの両親はどうなんだ。彼等《かれら》を誤魔化すのは容易じゃないんじゃないのか?」
隆は力なく笑った。「彼女の両親は、死んでるんだ。日本人画家だった父親は、彼女が生まれてまもなく死に、母親は私がフランソワーズと一緒《いつしよ》に居た時に他界したんだ」
「そうすると、安心していたあんたを地獄《じごく》に突き落としたのは、リリアンヌ、いやフランソワーズだったのか?」
「…………」
「しかし、重婚くらいで、五千万とは、えらく吹《ふ》っ掛《か》けられたものだな」
「私があまりにも、動揺《どうよう》したから足下を見られたんだ。私はスキャンダルが怖《こわ》かった。あんたの言う通り、殺人なんかに比べれば、重婚など大した罪じゃないかもしれないが、日本のマスコミにとっては面白いネタになるはずだ。それに、村川親子がこの話を知ったらどうなるか分かるだろう? 尚美は私のことを許してくれるかもしれないが、義父は絶対に許さない。そうなれば、私はこの家から叩き出され、せっかく軌道に乗ってきた事業からも手を引かなければならない。つまり、私は破滅だ。マスコミに叩かれた上に破滅するなんて私にはとても耐えられなかったんだ。すべて、柴田のせいなんだ。柴田がフランソワーズに出会わなければ……何もかもバレずに済んだんだ」
「フランソワーズはパリに戻《もど》って来て、柴田と会ったわけか」
「ああ、柴田はそう言っていた。奴《やつ》は、ポンびきも兼ねているガイド。フランソワーズは街の女になっていた。ふたりが会った時、大道から話を聞いていた柴田が、私のことを話題にしたのだろう。その時、柴田は私が離婚していないことを知ったらしい。
先月の中旬、大道と柴田が私を呼び出し、金を払《はら》わないと、重婚のことを警察にタレ込むと脅《おど》かされたんだ。柴田は、家族手帳を持っていて、ここに書いてあることは、まだ生きているそうだな、と圧力を掛けてきた。そして、日本の刑法を調べてきて、私も尚美も二年以下の懲役《ちようえき》になるとまでつけ加えて悦《えつ》に入っていたよ。
家族手帳を見て、初めてフランソワーズがこの強請りに関係していることが分かったんだ。私は、フランソワーズに会わせてくれ、とふたりに頼《たの》んだのだが、聞き入れてもらえなかった。会ってどうなるというものではなかったが、彼等の結束《けつそく》を揺るがすことくらい出来ると考えたんだ……」
「フランソワーズが何故、娼婦になったのか、あんたは知らないのか?」
「柴田が教えてくれたよ。私が蒸発してから、彼女《かのじよ》の生活は荒れに荒れていたそうだ。そんな時、ピガールのヤクザと知り合ったらしい。それから、ズルズルと裏の世界に入って行ったとのことだ」
フランソワーズは、何故仲間に入ったのだろう。隆への怨《うら》みからか、それとも、フランソワーズが偽造《ぎぞう》した身分証明書を使ってることを知った柴田に脅《おど》され、仲間に引きずり込まれたのだろうか?
柴田が、リリアンヌいやフランソワーズのことを金ヅル≠ニ言ったことを考えてみると、おそらく、フランソワーズは柴田に脅かされていたに違《ちが》いない。
「村川、おまえ、フランソワーズをどうしたんだ!」
「知らん。彼女のことは知らん!」
「嘘《うそ》をつけ! おまえが殺《や》ったんだろう!」
私は、無意識のうちに村川に飛び掛かり、首を締《し》めつけていた。私の脳裏はジャンのことで一杯《いつぱい》だった。
「いや、私は……」
「言え! リリアンヌをどうしたんだ、言え!」
その時だった。居間の開き戸が開き、尚美が現れた。
黒いドレスを着た彼女の右手には三十八口径の拳銃《けんじゆう》が握《にぎ》られていた。
「主人に手を出さないで、鈴切さん」尚美は静かに言った。
私は、隆の胸から手を離《はな》し、ソファーに座った。
「美しい夫婦愛も結構だが、あんたの旦那は卑劣漢《ひれつかん》だぜ。本当のことを話してやれよ、全部」私は隆を見て言った。
「尚美!」隆が悲鳴のような声を上げた。
「あなた、気を強く持つのよ。鈴切さんの身体検査をやって」
「でも、尚美……」
「いいから、私の言った通りになさって」
隆は茫然《ぼうぜん》としたまま、何度もうなずき、言われた通りにした。私の拳銃を抜《ぬ》き取った隆は、それをどうしたらよいのか分からないらしく、尚美を見た。
「あなたも、銃口を彼に向けていたほうがいいわ」
「わ、わかった……」隆は何度もうなずいていた。
尚美はソファーにゆっくりと近づき、私の正面に立った。
「俺《おれ》をどうする気だ、尚美さん」
「死んでもらうしかないわね」
「その前に、この男が何をしたか聞いてみたらどうだ?」
「何の話を聞くのかしら?」
尚美はそう言って、高らかに笑った。
「隆のことは私、全部|結婚《けつこん》する前から知ってたの。フランス人の女性と籍《せき》が抜けていないこともね。それに、大道や柴田に強請られていたこともね……この人は、私に何でも話すのよ」
意外だった。隆は尚美を庇《かば》うために私に嘘をついたのだ。
「じゃ、あんたは、この男の共犯だったのか?」
「違うわ。殺したのは私よ」
「尚美!」隆が叫んだ。
「だが、旦那は自分が殺ったようなことを言っていたぜ」
「そう?」尚美は、照れ笑いのような表情を浮《う》かべた。
「私、とても嬉《うれ》しいわ。この人が、そう言ってくれただけで」
私はふたりの顔を見比べた。人を殺す肝《きも》っ玉を持っていそうなのは、尚美のほうだった。
「君が殺ったのなら、状況《じようきよう》を説明できるだろう。やってみたまえ」
相変わらず、ふたつの銃口が私を見つめていたが、私はそんなもの、この世に存在しないという顔で、ソファーの背に凭《もた》れ掛《か》かった。
「七月二十八日の夜が一回目の金を渡《わた》すことになっていたの。円で五百万。本当は、隆が金を届けるはずだったんだけど、隆に任せておくのが心配だったのよ、私。彼、初めから、弱腰《よわごし》で、彼等の言いなりになることばかり考えていたから。隆が行ったら、足下を見られて、それこそ一生付きまとわれるような気がしたのよ」
「それで、君が代わりに行って、口を封《ふう》じたわけか?」
「結果は、そうなったけど、事情は大分|違《ちが》うわ。本当は、あの日の深夜に大道のアパートで金を渡す予定になっていた。でも、主犯の柴田がいないところで、私、大道を揺《ゆ》さぶってみようと、予定より三時間も前に大道のところへ行ったの。予定より早く来たことよりも、隆の代わりに私が来たことに彼はびっくりしていたわ。隆が重婚していることを私に隠《かく》していると勝手に思い込んでいたのだから、無理ないわね。けれど、どうせ金を出すのは村川家だから、話が早くて済む≠ニかなんとかうそぶいていたわ。
私、大道に、隆の前の妻に会わせ、家族手帳を、こちらに渡さないと、金は払《はら》わないと言ってやったのよ。そして、目茶苦茶な金を要求され、一生付きまとわれるくらいなら、大っぴらになったほうが、せいせいする。どうせ警察|沙汰《ざた》になるんだったら、大道もただでは済ませないと脅《おど》したのよ。大道の性格は、うちの従業員だったこともあって、私、何となく分かってた。それに、向こうも私の性格を知っていたしね……、彼は、かなり動揺《どうよう》していたわ。
そこで、私は金の話をしたの。ひとりあたり五百万、計一千五百万しか払わないと。それ以上、要求する、或《ある》いは、今後もこのことで金をせびりに来たら、私のほうが警察に行くとかなり強い口調で言い、柴田と相談して、答えを出してちょうだいと言い捨てて帰ろうとしたわ。その時、大道が、妹が交通事故で重傷《じゆうしよう》を負ったから、明日、日本に一時帰国する。ちょうど金がいるから、持ってきた金だけでもおいて行け、と言って、私のバッグに手を掛けたの。私は、バッグをひったくって思い切り、大道の頭を殴《なぐ》った。逆上した大道が、私に飛び掛かって来て、揉み合いになったわ。その時、テーブルの上にあったキャンディの入れ物がひっくり返り、拳銃が絨毯に転がったの。大道が取ろうとしたので、私も必死になって拳銃に飛びついた。気がついたら、私、引金を引いてたわ。私、腰《こし》が砕《くだ》けたようになって、床《ゆか》に座り込んでしまった。冷静になってから、私、家族手帳を探したの。でも、何も見つからなかった」
「君は拳銃をどこに置いたか覚えてるか?」
「ゴミ箱に入れたと思う」
どうやら、尚美の言っていることは本当らしい。
「その日は、柴田には会わなかったのか?」私はふたりの顔を交互《こうご》に見た。
「会ったわ、隆がね。私は、帰るとすぐに、何があったのかを話し、どうするかふたりで話し合ったわ。それで、その日は何|喰《く》わぬ顔をして、決められた時間より、少し遅《おく》れて隆が大道のアパートに行くことにしたの。柴田はアパートの前に立って待っていたそうよ」尚美は窶《やつ》れた顔をして立っている夫をちらっと見た。
「柴田は、大道はいない。妹が大怪我《おおけが》をしたから、急に一時帰国することになった、と私に言った」隆が放心したような声で口を挟《はさ》んだ。「多分、その日の昼に大道から話を聞かされていたのだろう。柴田は私を近くのカフェに誘《さそ》った。そこで、金を要求されたが、私は断った。尚美が大道に言ったのと同じことを言って突《つ》っ撥《ぱ》ねたんだ。重婚罪の時は、金で済ませようと弱気だったが、事故とはいえ尚美が人を殺してしまった後だったから、私は、どんな脅しにものらなかった。訴《うつた》える気なら、やってみろとまで言ったんだ」
「で、その日、柴田はおとなしく退散したのか?」
「ああ。私が金の用意をしてこなかったと言うと、怒りはしたが黙《だま》って帰ったよ」
おそらく、柴田は大道のことが気にかかっていたのだろう。隆には、帰国した、と咄嗟《とつさ》の判断で言ったものの、はなはだ妙《みよう》だと思っていたに違《ちが》いない。だから、翌々日、大阪まで電話を入れて確かめたのだろう。
柴田は大道が日本に帰国していないことを知っていた。にも拘わらず、騒《さわ》ぎ立てなかったのは不自然な気がした。
「その後、柴田はどうしたんだ? 何も連絡《れんらく》を寄越《よこ》さなかったのか?」
「いや」隆が答えた。「奴《やつ》は翌日の二十九日から六日まで、個人の客を案内して、スイス、ベルギーに行っていたんだ。私と別れる時、話はその旅から帰ってからしよう、と奴は言っていたよ」
「なるほど」私は呟《つぶや》いた。柴田は騒《さわ》ぎ立てようにも騒ぎ立てられない状態だったわけだ。
「帰国と重なったおかげで、大道の死体は俺が見つけるまで、発見されなかったが、いつまでも見つからないと思っていたわけではないだろう?」
「柴田が旅行に出ている間は、私達も身動きが取れなかったわ。すべては、あなたが大道の死体を見つけてから始まったのよ、しかも猛烈《もうれつ》なスピードでね」
「柴田は旅行から帰って来て、大道が殺されたことを知った。当然、あんたを疑ったろうな」私は隆に向かって言った。
隆は黙《だま》ってうなずき、「七日、つまり、あんたがここに来た日の夕方、早速、ギャラリーに姿を現し、有無を言わさず金を要求した。今度は殺人で強請ってきたよ。かねての計画通り、金は夜、自宅に取りに来てくれ、と私は奴に言った。ところが、柴田は用心深くなっていて、私の家に来るのを嫌《いや》がった。そこで、尚美に車で持たせると持ち掛けた」
「夜、私自身が、柴田に連絡を入れ、待ち合わせ場所を決めたの。思った通り、隆の代わりに私が金を届けると言ったら、安心したらしく、そのほうがいい。隆にずどんとやられるのは嫌だからな≠ニ笑ってたわ」
「しかし、柴田の首は女には絞《し》められんよ」
「あれは、隆と協力してやったのよ。セーヌ河岸《がし》まで、私は自分の車に柴田を乗せて行ったの。そこで、打ち合わせ通り、隆は木の陰《かげ》に隠《かく》れていた。タイミングを合わせて、助手席で、金を数えていた柴田の頭を、隠し持っていたこの拳銃《けんじゆう》で殴《なぐ》り、すかさず隆が彼の首を絞めたのよ」
「その拳銃はどうしたんだ。親父から貰《もら》ったのか?」
「これは護身用に、パリに来た時に手に入れたもの。正規のルートを通して買ったものよ。だから、この拳銃は使わなかった。もしものことを考えてね」
「射撃《しやげき》の経験は君にあるのか?」
「拳銃は撃《う》ったことなかったけど、ライフルは撃ったことあったの。私、大学時代、射撃部にいたのよ」
「リリィいや、フランソワーズは、どうした? やはり殺してしまったんだな」
尚美はゆっくりとうなずいた。
「いつ殺したんだ?」
「大道殺害事件がテレビで報道された晩、彼女《かのじよ》のほうから、ここに電話してきたのよ」
「ということは、死体が発見された五日の夜か。じゃ、柴田よりも先に彼女は……」
「そうよ。彼女も、隆が殺したと思ったのね。彼女は、隆と話したい、と言っただけで、名前は名乗らなかったけど、私、すぐにぴーんと来たのよ。隆は出掛けて留守だった。私は、この間の事情を知っているし、真相を知りたければ、教えて上げると言って、ここに来るように、彼女を誘《さそ》ったの。彼女、興味があったんでしょうね。私にも、そして、現在の隆にも……」尚美はじっと見つめた。「思っていたよりも地味な感じの女性だったわ、彼女。怨《うら》みから、柴田に隆の秘密をしゃべったのか、と私が聞いたら、あんな昔のこと、もう何とも思ってない。事情があって柴田の仲間にされてしまった、と言ったわ。そして、隆は私も殺す気でいるのかしら、と笑ってから、あなた達の生活の邪魔《じやま》をする気はない、一生、重婚のことは話さない、と淡々《たんたん》とした口調で言ったわ」
「フランソワーズの言葉を信じなかったのか、君は?」
「信じるも信じないもないわ。その時点では、誰《だれ》が強請っているかなんて問題じゃなかった。ともかく、隆とフランソワーズが離婚《りこん》していないこと、大道を隆が殺したと思っている人間は、すべて殺すつもりだったのだから。大道を撃ってから、私は妙《みよう》に度胸がついたのよ。私は、隆との生活を守ることしか考えなくなったわ」
「どうやって、フランソワーズを殺したんだ?」
「首を絞めたのよ。後ろから、あなたが使ってる灰皿《はいざら》で殴《なぐ》り倒《たお》してからね」
「死体はどこかに埋《う》めたんだな」
「そうよ。彼女の死体だけは、どうしても隠《かく》さなければならなかったの、何故かお分かりでしょう?」
「彼女の死体、しかも殺された死体が発見されれば、被害者《ひがいしや》の身元が徹底的に調べられる。そうすると、フランソワーズの過去も暴かれる」
「その通り。だから庭に埋めたのよ」
「ひとりで?」
「いいえ。隆と一緒《いつしよ》によ」
夫はうなだれていた。
「隆は、ここに転がってる前の妻の死体を見て、気絶しかけたわ。でも、私がはっぱを掛けてやったら、何とか冷静になり、穴を掘《ほ》ったのよ」
「メイド達には気付かれなかったのか?」
「全員、引き取った後だったから、彼女が来たことも、隆が穴を掘ったことも、知られずに済んだわ」
「何故、フランソワーズ、いや、身分証明書の名前で言えば、リリアンヌの住まいだけは放っておいたんだ。大道と柴田のアパートでは、家族手帳を捜《さが》したのに」
「殺した時は、そうしようと思ってた。でも、彼女の現住所が分からなかったのよ。彼女の身分証明書の住所は、デタラメだった。私、その住所に行って調べてみたのよ。それに、大道と柴田のところでは、一応、捜してみたけれど、あんなもの決定的な証拠《しようこ》にはならないでしょう。家族手帳は結婚の証明にはなるけど、そのカップルが離婚したかどうかについては分からないのだから。持っている人間によっては、有効な小道具になるというだけのことよ。無論、それも手に入れてしまえば、より安心だけど、それよりも何よりも、危険な人物を始末するほうが先決だったの」
「俺《おれ》には分からんよ」
「何が……」
「あんたの主人の態度がだよ。自分の蒔《ま》いたタネを、女房《にようぼう》につませる神経がさ……」
私は隆を見た。彼は目を伏《ふ》せたままで立っていた。
「隆は、気弱な男なの。もっとも男らしくない男かも知れないわ。でも、私には、そんなことは問題じゃない。へんに男性主義をひけらかす男より、彼のようなタイプが私に合ってるのよ」
「君が女王さまでいられるからか?」
「違《ちが》うわ」
「母性本能を満足できるからか?」
「そういうところがまったくないとは言えないけど、正確にはそれとも違うの」
「…………」
「心を許すって、無様な姿を見せることでもあるのよ」
「世の男は、それを見せたくないがために突っ張ってるんだ」
「その通り。鈴切さんも、そういうタイプね」
「そうかもしれない」
「でも、女って、そういう男が見抜《みぬ》けてしまうものなのよ」
「そうだろう。だが、普通《ふつう》は、見抜いたことを黙《だま》ってる」
「私は、見抜いたことを全部言い、私の言っていることが当たっている場合、相手にも正直に認めてもらいたいの」
「あんたの夫はそういう男らしいな」
「そうよ。私達が結婚《けつこん》しようと言った時、隆は、今ひとつはっきりしなかった。私は彼の愛情を疑ったりはしなかったけど、はっきりしない理由が分からなかった。それで、こう言ったのあなたが、殺人犯でも、結婚するつもりよ≠チて。そうしたら、彼は、過去のことをすべて話してくれたの。だから、今回、大道が隆を強請ろうとした時も、隆は私に打ち明けられたのよ」
「しかし、金の受け渡《わた》しまで、女房にさせるのか、俺には分からん」
「私だって、そんなことまでさせる気はなかった。ただ、私の秘密を知ってからの大道は、私を嘗《な》め切っていた。私は、何事においても駆《か》け引きが出来ない、ダメな奴《やつ》なんだ……」
「だから、あの場合、私が行ったのは当然なの、私達の生活を守るためにね」尚美が口を挟《はさ》んだ。「隆は、普通《ふつう》には、決して立派な男じゃない。けれど、私にとっては立派で必要な男なの。私を支えてくれているのは彼なのよ。私の仕事の悩《なや》み、人間関係の悩み、そういったものを、しっかり受け止め、フォローしてくれてるのは彼なのよ。隆は、気弱でデリケートな分だけ、陰《かげ》に回《まわ》って、私を支えることが出来るんだと思うわ。私達は、恋愛《れんあい》ハウツーブックには書かれていない恋愛をしているのよ」
「人のフォローは出来るが自分の尻《しり》の始末はできない男だな」私は隆を睨《にら》んで言った。私はリリアンヌを失ったジャンのことしか頭になかった。
「隆と私は、地獄《じごく》の底まで一緒《いつしよ》に行くつもり。こういうことは、きっと鈴切さんには分かってもらえないでしょうね」
「あんたらのせいで、地獄の底まで一緒に行きたくても行けなくなってしまったカップルもいるんだ」
「え? 何のこと?」
「いや、何でもない。俺《おれ》の独り言さ。だが、やはり、隆が大道に会うべきだったな。結果の話をしているんだがね。あんたは人を殺すようになり、撃《う》った拳銃《けんじゆう》がもとで、あんたのオヤジの悪事も暴かれることになったんだから」
「今、私が一番気にしていることは、父のこと。私が、あの拳銃さえ使わなかったら……」
「皮肉なことだな」
「私、父が捕《つか》まるまで、あの拳銃が盗品《とうひん》だったことをついていたと思ってたわ。警察もあなたも、拳銃|絡《がら》みの事件と見ていたから……」
「そうだな。あれには惑《まど》わされそうになった」
「ところで、家族手帳は、どうやってあなたの手に入ったの?」
私はゴンの話をしてやった。
「あなたの猫《ねこ》探しの話を聞いた時、当然だけれど、この事件と猫が関係ないことを知っていたわ。でも、結局、間接的にだけど関係していたのね。あなたの猫探しがなければ、私達のやったことも明るみに出なかったのかもしれないわね」
尚美はかろやかに笑った。とても愉快《ゆかい》そうに長く尾を引くように笑った。そして、急に黙《だま》りこくると、一歩後ろに下がり、尚美は銃《じゆう》を握《にぎ》り直し、撃鉄《げきてつ》を引いた。
「俺を撃っても、もうどうにもならないよ、尚美さん。この事情を知っている人間は、俺のほかに二人もいるんだ」私は笑いながら言った。どうして笑えたのか分からなかったが、私は微笑《ほほえ》んでいたのだ。
「強い男ね、鈴切さんは。命ごいをしないのね」
「命ごいをする人間のほうが強いということもある」
尚美はさらに狙《ねら》いを定めた。私は顔色を変えまいと努力したが、冷汗《ひやあせ》が流れるのだけはどうしようもなかった。
「私、あなたの冷汗が大好きよ、とても人間的で」
「…………」
「さよなら、鈴切さん、私達、地獄《じごく》まで一緒《いつしよ》に行くわ」
そう言った尚美は、いきなり銃の方向を変えて、一発発射した。
隆のこめかみから血が流れ出た。水道管が破裂《はれつ》したような感じだった。
間髪《かんはつ》を置かずに、尚美は拳銃《けんじゆう》を口に銜《くわ》えた。
「やめろ!!」
尚美は穏《おだ》やかに笑って、引き金を引いた。
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私には、どうしようもなかったが、たとえ、どうにかなったとしても、尚美の自殺を止めたかどうか……。
私は、しばらく目をつぶりソファーに座っていた。セーヌの流れが聞こえるような気がするほど静まり返っていた。だが、セーヌ川の流れる音は聞こえなかった。きっと私は、尚美と隆の躰《からだ》から流れ出る血の音を聞いていたのかもしれない。
私は、居間の入り口にある電話まで歩いて、受話器を取った。
司法警察とタニコウに電話を入れた。
やがて、警官がおおぜい来て、私は三度《みたび》、デロールの執拗《しつよう》な尋問《じんもん》を受けた。私は証拠隠匿《しようこいんとく》の尻尾《しつぽ》を掴《つか》まれないようにしながら、事実を語った。その間に、リリアンヌことフランソワーズの死体が、村川|邸《てい》のプールから、十五メートルばかり離《はな》れたところで見つかったこと。フランソワーズの前の男は、麻薬《まやく》密売人で、彼女《かのじよ》もディーラーとしてベルギー警察から目をつけられていたこと。日本で、関東仁八組の会長、片桐仁八が逮捕《たいほ》されたことを知らされた。
私は、四十時間以上、司法警察に足止めされ、事務所に戻《もど》ったのは、十三日の午後七時すぎだった。
久し振《ぶ》りに主人にあっても、クマはまったく大袈裟《おおげさ》な喜びかたはしなかった。ただ、いつものようにゴロゴロと唸《うな》って、私の足元にまとわりつくだけだった。
私は、留守番電話のテープを聞いた。
ミュリエール、西村良江の声が入っていた。
両方とも連絡《れんらく》を待っているという内容のものだった。
私は、まず依頼人《いらいにん》のダイヤルを回した。
西村良江は、意外と明るい声で、調査の結果に満足していると言った。新聞で大道貢が恐喝《きようかつ》をやっていたことを知ったはずだが、そのことに西村良江は触《ふ》れなかった。ただ、彼女は来月、大阪に行ってミツグさんの墓に参ってくるとだけ言った。
外国でひとり暮《ぐ》らしをしている孤独《こどく》な絵描《えか》きにとっては、やはり、どんな人間であろうと、大道貢はかけがえのない友人だったのだ。私は、料金の精算書は、二、三日中に送るとだけ言って受話器を置いた。
ミュリエールはすぐにも会いたいと言った。ミュリエールにジャンのことを聞いたが、何の連絡《れんらく》もないとのことだった。私は彼女と九時半にマックスのバーで会うことにした。
リリアンヌの死を知ったジャンはどうしているだろうか? 私は気になって仕方がなかった。ジャンのアパートに電話を入れたが応答なし。
私は、ジェニーに会いに行ってみようと思いながら、カルヴァドスを二|杯《はい》飲んだ。
隣《となり》のフィリベール爺《じい》さんが、またレコードを聞き始めた。いつものように、あの世に行ってしまった女房《にようぼう》に聞こえるようなボリュームで。今夜もモーリス・シュバリエだ。曲は『喜びあり』。馬鹿《ばか》みたいに明るい歌である。
電話が鳴った。
「え! 電話が遠いよ」
「俺《おれ》だ、ジャンだよ」法螺貝《ほらがい》が静かに言った。
「ジャン、どうしてるんだ。今どこにいる?」
「気分が滅入《めい》るから、ドーヴィルのカジノにいるんだ。ブラックジャックでかなり稼《かせ》いだぜ」
「いつ戻《もど》ってくるんだ?」
「分からない」
「ジェニーには知らせたのか?」
「ああ、出る前に、メモをメイルボックスに入れておいた……あんたには、いろいろ世話になった……」
「しっかり稼げよ」
「ありがとう。ひとりになったら、ツキが戻ってきたみたいだぜ」ジャンは大声で笑った。受話器が割れんばかりの虚《むな》しい笑い声。
「俺へのみやげはカルヴァドスを頼むぜ。なにしろ、その地方の名産だからな」
「そうするよ……じゃ、また一稼ぎしてくるよ」
「戻ったら、すぐに連絡しろよ」
「……ああ」
私もジャンも、リリアンヌのことは一言も話さずに電話を切った。ジャンがいるドーヴィルは、リリアンヌが生まれたオンフルールから十五キロほどしか離《はな》れていない街だ。
私は、ジャンがこのままパリには戻ってこないような気がした。
ミュリエールとの待ち合わせの時間には、まだたっぷりと時間はあったが、私は夜風に吹《ふ》かれたくなって事務所を出た。マックスのバーまで歩いて行くことにしたのだ。
ドアに鍵《かぎ》を掛ける時も、フィリベール爺さんのレコードは相変わらず陽気に歌っていた。
愛人をなくしたジャン、友を失った女流画家、そして、パリの日本人ゲットーの中で、蠢《うごめ》いていた事件関係者のことが、頭から離れなかった。
イタリアン大通りをまっすぐオペラ座の方向に歩いた。ハンバーガー・ショップの原色のネオンが、光り輝《かがや》いていた。
私は突然《とつぜん》、呼び止められた。
「済みません。日本の方ですか?」
「ああ」
「ディスコのパラス≠チて御存じですか?」
若い女だった。白いたっぷりとしたスカートにブルーのブルゾン。手には、ハンバーガーを持っていた。笑顔がとても爽《さわ》やかな子だった。
「知ってるよ」私は道順を教えた。
礼を言って、立ち去ろうとした女の子に私は声を掛《か》けた。
「君は旅行者かい?」
「いいえ。デザインの勉強に来たんです。まだ、一週間しかたってなくて……それが何か?」
「いや、何でもない。楽しんでいらっしゃい」
「ありがとう」少女はまた微笑《ほほえ》んだ。
私は、軽快な足取りで遠のいて行く少女の後ろ姿を見ていた。
パリの中に張り巡《めぐ》らされた黄色いロープ。その中の黄色いジャングルに、またひとり新しい仲間がやってきたのだ。
私は、フィリップ・モリスに火をつけ、空になった黄色いパッケージを歩道の溝に投げ捨てた。
青白い空に星が出ていた。
角川文庫『野望のラビリンス』平成7年12月25日初版発行
平成13年8月25日再版発行