ダブル・スチール
藤田宜永
[#表紙(表紙.jpg、横180×縦252)]
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深夜の銃声
本多陽一郎は耳をそばだてた。
乾いた破裂音がこだましたのだ。二発、ひと呼吸おいて、三発……。鋭い眼光がドアに釘《くぎ》づけになった。
オペラ大通りを少し入った路地。レースのカーテン越しに、駐車中の車の影が見えるだけだ。
「派手に撃ってやがるな」サティがリカールを一気に空け、ふん、と笑った。
やっと春を迎えたばかり。ひんやりと底冷えのする夜だった。パトカーのサイレンが、静まりかえった路地に響き渡った。
「俺達《おれたち》が、最後にヤマ踏んだのも、警察署の近くだったな、パトカーを振り切るのに、えらく苦労したぜ」
感慨のこもった口調。サティは揉《も》み上《あ》げの毛をいじくっている。
本多の店から目と鼻の先、サントノーレ市場の一角に一区の警察本部があるのだ。
本多の頬《ほお》が自然にゆるんだ。リカールに水を加える。アニス酒が黄色く濁った。
六年前。場所は十三区の病院大通りだった。信用金庫を白昼、仲間四人と襲った。ドライバーはサティだった。パリ市内で鬼ごっこになった。パトカーをまくのにひどく苦労した。だが、最後に残った一台が、自分からコケてくれた。運が良かったのだ。
本多はそれ以来、仕事≠していない。
ほぼ日本人街と化したオペラ界隈《かいわい》に店を持った。日本料理店。『スバル』と名づけた。ヘルシーな食い物を求めてやってくるフランス人や、ショーユ味が恋しくて押し寄せてくる日本人旅行者を相手に、笑《え》みを振りまく生活が続いている。地道な暮らし。
組織の中心メンバーからも身を退《ひ》いた。肝臓を患って入院したのがきっかけだった。しかし、まったくヤクザの世界から足を洗ったわけではない。足を洗うには、ボスのクラウディオ・コロンボと縁を切らなければならない。十七年の付き合い。本多は組織の秘密を知りすぎている。両腕両脚を差し出したところで、コロンボは、本多に好き勝手な真似《まね》はさせないだろう。
店を出す資金を融通してくれたのはコロンボだった。無利子無担保。利益《あがり》のピンハネは、いっさいしないし、経営にも口を出さなかった。しかし、店の名義だけは、奴の女房、サンティーナにした。つまり、もし奴に楯《たて》つけば、たちまち本多は経営者の座を引きずり下ろされるということだ。
その上、時々、店に逃亡中のヤクザをかくまう。メンバーから抜けたい、と本多が言った時、コロンボがつけた条件だった。引き受けるしかなかった。
サティは、本多が拾ってきたチュニジア人である。二十年ほど前に東京で生活したことのある流れ者。東京では、フランス人と称してインチキなフランス語を教えたり、ガラクタを路上で売ったりしていた。現在は本多の店のマネージャー。本多より三つ若い。四十三歳。百六十六センチと小柄で、顎《あご》がしゃくれている。レストランのマネージャーよりもヤクザよりも、ボードビリアンが似合いそうな男だ。
店を閉めた後、ふたりは、時々、酒を酌《く》み交わす。何を話すというわけではなかった。競馬と女。話題の中心はそんなありきたりのもので、話をリードするのは、大概、サティだった。大きな潤んだ目をぱちくりさせながら大法螺《おおぼら》をふく。「本当の話なんだぜ」と言うたびに口髭《くちひげ》が微妙に動く。その動きがいかにも胡散臭《うさんくさ》い。しかし、本多はサティの話を聞くのが好きだった。お互い、過去の蓋《ふた》は開けない。暗黙の了解。本多もサティも、懐かしめる過去など持っていない独身男なのだ。
「押し込みかな、それとも、テロリストかな……」
サティが本多の方に顔を向けた。その時だった。足音が重なり合うようにして聞こえてきた。
本多の視線が再び、ドアに釘《くぎ》づけになった。石畳を叩《たた》く足音が、次第に大きくなる。
人影がふたつ。反対側の歩道に現れた。本多は目を細めた。スツールから腰が浮いた。
人影は道路を渡り、ガラスのドアにへばりついた。ひとりが腹のあたりを押さえている。ドアが激しく叩かれた。開けてやる。
ルイジとジャン・イヴ。
ジャン・イヴのベルトから拳銃《けんじゆう》のグリップがのぞいている。そして、ルイジ……。爺《じい》さんのベルトの上は血で染まっていた。
「ドジっちまった……」ジャン・イヴの口許《くちもと》から涎《よだれ》が垂れた。左手に大きめの麻袋を握っていた。
「サティ、地下に連れて行け」
本多は、険しい声でそう言い残し、外に出た。あたりの気配をうかがう。かすかに霧が漂っていた。縦に並んだ信号が、数珠《じゆず》つなぎに赤に変わった。
制服警官が百メートルほど先の角に姿を現した。六、七人。左右を見回し、四方に散った。
ふたりの警官が店の方に駆けて来る。本多は踵《きびす》を返した。歩道に目がいった。
血の跡が二つ。靴でこすった。警官達が迫って来る。必死で、他に血の跡がないか探した。
店の前に停《と》まっていたルノー5のボンネットに、街路灯の光が鈍く反射していた。光の輪の中にも、血の跡があった。
拭き取る暇はない。警官がほんの五、六メートル程先に迫っていた。注意をそらすしかない。本多は、ボンネットを隠すようにして立った。
「どうしたんですか?」冷静な口調で訊《き》いた。
「あんたは?」鷲鼻《わしばな》の警官が訊き返す。
「この店のオーナーですよ」
消えているネオンを本多は見上げた。
「今さっき、この前を誰か通らなかったか?」
「通りました。ふたりの男が向こうに駆けて行きましたよ」
「何分ほど前だ?」
「四、五分ほど前ですかね……」
「どっちの角を曲がったか分からないか?」
「さあ……私は店の中から見てましたからね」
警官の表情に落胆の色が現れた。同僚がウォーキー・トーキーで他の捜査員に連絡をした。
本多は、去って行く警官の後ろ姿を見ながら、ほっと胸を撫《な》で下ろした。
店に戻り、カウンターの奥から新聞紙を取り出した。読売新聞。見出しが目に止まった。
『ガリクソン、試運転OK
抜群! ここぞの球威
4回を4安打無失点』
歯を食いしばって振りかぶった外人投手の写真が大きく載っていた。
一か月ほど前に行われたオープン戦を伝える記事である。客がおいていったものを、板前が読んでいたのだろう。
ほとんど何の感情も起こらなかった。野球の記事を読んで冷静でいられる。そうなるのに、かなりの年数がかかった。
再び、外に出た。新聞でボンネットの血を拭き取る。外人投手のユニフォームが血にそまった。
シャッターを下ろす。シューズマットにも床にも血痕《けつこん》が残っていた。床を拭き、シューズマットは取りのぞいた。
カウンターに袋が載っていた。ジャン・イヴが持っていた麻袋。持ち上げてみる。かなりの重さがあった。
地下に駆け下りた。倉庫の奥に小部屋がひとつある。コロンボの命令で、追われている者をかくまう部屋なのだ。
サティは、ベッドに横たわっているルイジの腹に、自分の着ていたベージュのブルゾンを当て、それを縄《なわ》で縛っているところだった。
「傷は?」
「このままじゃ、いけねえ……」サティが首を横に振った。
ジャン・イヴはビールケースに腰かけ、黙りこくっていた。
「め……迷惑かけてすまねえ。すぐに出ていくから……」ルイジがかすかに微笑《ほほえ》んだ。
いつでも笑顔を絶やさない。いかにもルイジらしい。
「口を利くな。すぐに医者を呼んでやる」
サティの視線を感じた。言いたいことは分かっている。
組織の命令で、ジャン・イブ達がことを起こしたのなら、現場の近くにいる本多に連絡が入っているはずだ。子分が勝手に踏んだヤマ。コロンボの息のかかったモグリの医者を呼べば、奴達のやったことはすぐにコロンボの耳に入ってしまう。
しかし、このまま手をこまねいているわけにはいかない。ルイジの命。本多は迷わず受話器を取った。
モグリ医者のリシャール・クーロンは、すぐに来ることになった。深夜のパリ。奴の住むポルト・マイヨからなら十五分で着くはずだ。
モグリのクーロンが、ゴネなかったのは、本多が嘘《うそ》をついたからだ。コロンボの命令でヤマを踏んだ奴がいる。その言葉だけで、たとえ、ぎっくり腰でも、クーロンはベッドから飛び起きる。
「……お、俺はここに来る気はなかったんだ、ヨヨ……」ルイジが細い目をしばたたかせて、本多を見た。
本多は、短くうなずき微笑みかけた。
ヨヨというのは、本多の渾名《あだな》である。陽一郎のヨ≠ゥら発想された渾名。コロンボが、日本から送られて来たヨーヨー≠ニ本多のことを言い出し、いつの間にかヨヨになってしまったのだ。
午前二時二十分。モグリのクーロンが愛車のムスタング・クーペで現れた。面長《おもなが》の痩《や》せた顔に大きな目玉。頭は半ば禿《は》げている。
「やあ、ヨヨ。患者の容体は?」大きな目が本多を見た。
「かなり悪い。頼むぜ、先生。何とかしてやってくれ」
クーロンは、うんともすんとも言わずに、地下に下りた。元、軍医。モルヒネを横流しして実刑を食らった。腕は確かだが、人柄の方は信用ならない。
本多はカウンターに腰を下ろし、リカールを注いだ。
オーソレミヨ≠ニ押し込みが得意な太っちょルイジ。本多は奴と何度も一緒に仕事をした。十年前、ディジョンの貴金属店に押し入った時、ルイジだけがパクられた。ふたりは違う方角に逃げたのだが、ルイジは袋小路につっこみ、あえなく御用となった。だが、相棒の名前は絶対に吐かなかった。七年の刑。三年前に出所した。と同時に足を洗った。当時、すでに七十に手のとどく歳《とし》だったルイジ。コロンボは快く、組織のメンバーから外した。もとより、ルイジは下っ端だった。万年一兵卒。コロンボにとっては、足を洗わせても、どうってことのない子分だったのだ。
クーロンを手伝っていたサティとジャン・イヴがホールに上がって来た。
「何とかなりそうだ、って言ってるぜ」サティが、カウンターの端に腰を下ろし、ゴロワーズに火をつけた。
本多の口から長い溜息《ためいき》がもれた。
客席の電灯は消され、ともっているのはカウンターの奥の壁に取りつけられたブランケット灯だけである。ほんのり赤い光の中で煙が舞った。
ジャン・イヴが本多の後ろに立った。
「お、俺も、あんたに迷惑かけるつもりはなかったんだ。だが、ルイジが撃たれたもんだから……」
本多は言い訳を背中で聞いた。背筋が熱い。いきなり、振り向いた。思い切り頬《ほお》を張った。掌《てのひら》が軽くしびれた。ジャン・イヴの躰《からだ》が三歩ばかり、ドアの方へよろけた。
「よせ!」立ち上がろうとした本多にサティが言った。低くくぐもった声。「外から見られたらことだぜ」
店のシャッターは格子《こうし》になっている。覗《のぞ》けば中の様子が見えるのだ。
思いとどまった。暗闇《くらやみ》の中でジャン・イヴの目が光った。荒い息づかいが店内に流れた。口論は苦手だった。昔から。パリに来てフランス語を使うようになってからは、なおさらそうなった。十八年のパリ暮らし。大概の会話にはついていける。たまには冗談も自然に口をついて出る。だが、口論だけは今も苦手なのだ。一瞬、言葉が出遅れる。だから、黙ることが多かった。しかし、コロンボは正念場で寡黙な本多を高く買った。迫力。そんなものをイタリア人のコロンボは感じているらしい。
「ジャン・イヴ、こっちに来て座れ」
おずおずと若造は、本多の隣に座った。サティがブランケット灯を消した。
街路灯の青白い光が、かすかに射しこんでいる。
ジャン・イヴの影が緊張した。
「何があったんだ? 話してみろ」
「ヨヨ、その前に一杯飲ませてくれねえか」
カウンター越しに手をのばし、グラスを取った。酒を注いでやる。
ジャン・イヴは一気に空け、ボトルに手をのばした。
「話が先だ」本多はボトルを引き寄せた。
「オペラ通りによ、ゴールドマン宝石店って宝石屋があるだろう。最近、できた店だけど……」
本多は黙ってうなずいた。
「あそこに押し入ったのさ。今朝《けさ》、大量の宝石が着いたんだ。それを頂く予定だった。宝石店のある建物の三階が事務所になっていてよ、ブツはそこに置いてあった。俺とルイジは中に入った。そして、ダイヤやなんかをごっそりと頂いた。万事計画通りだった。ところが、ズラかろうとした寸前に、社長のゴールドマンの野郎が若い、とびっきり上等なスケを連れてよ、事務所に現れたんだ。女に宝石でも見せびらかして、一発やらかそうとでも考えていたんじゃねえかな、あのユダヤのスケベ親父は……」ジャン・イヴは口髭《くちひげ》をさすり、短く笑った。
「それで?」
本多を見たジャン・イヴの目から笑いが消えた。
「それでって、当然じゃねえか。ふたりとも片づけたよ。まさか、人が来るとは思わなかったから、マスクを外してた。ツラ見られちゃ始末するしかねえだろう。俺達は泡食《あわく》って通りに飛び出した。そしたら、運の悪いことによ、近くにパトカーがいたんだな。オマワリが後を追って来た。車に乗ろうとした時、ルイジが撃たれ、走り出した時、ドライバーが殺《や》られた。俺はオマワリをひとり殺り、パトカーのタイヤを撃った。そして、セーヌ川の方面に走り出したんだが、そっちにもパトカーがいた。ルイジは怪我《けが》してる。どうしようもなくなってよ……。サントノーレ通りで車を乗り捨てた。ここに来るしかなかったんだ」
「コロンボは、このヤマ、知らねえんだろう?」サティが口を挟《はさ》んだ。
「ああ」力のない返事。
「馬鹿な野郎だよ、てめえは! 想像力ってもんがないのかよ、子分の勝手な行動を、どれだけコロンボは……」
「わかってるよ」サティの言葉をさえぎって、ジャン・イヴは口早に言った。「でもな、俺、コロンボに認められたかったんだよ。宝石が欲しかったんじゃねえんだ。俺だって、でっけえヤマが踏めるってよ、アッピールしたかったんだ」
「あらかじめ、コロンボとナシつけておくのが、筋ってもんだろう」本多はジャン・イヴを見据えた。
ジャン・イヴの喉元《のどもと》がぴくりと動いた。
「でもよ、あっと驚かせたい気分ってあるだろうよ。コロンボは洒落《しやれ》がわかる男だぜ。奪ってブツを奴に渡せば、問題ないんじゃねえか」
相槌《あいづち》を求める気配が感じられる。
「おまえ、いくつになった?」本多は、ジターヌの箱を開けながら訊《き》いた。
「二十八」
「ガキだな、歳《とし》のわりにゃ。まるで幼稚園児だ」サティの口許《くちもと》がゆるんだ。
「うるせえな、サティ……てめえは……」ジャン・イヴがむきになった。
本多が、コツコツと二度カウンターを叩《たた》いた。
しばし沈黙が流れた。
本多とジャン・イヴ。ひょんなことで知り合った。五年前の或る夜、ジャン・イヴはガールフレンドを見張りに立て、路上に停《と》めてあった本多のベンツを盗もうとした。トーシロの盗み。子供だましの合鍵《あいかぎ》を使ってドアを開けようとしていたのだ。店から出て来た本多とサティが、ふたりを取り押さえた。女は帰してやったが、若造の方は店に連れ込んだ。向こう気の強い、文無しの青年。使いモノになる。言い出したのはサティだった。しっかり脅しつけ、車泥棒専門のカールに身柄を預けた。組織的な車の窃盗《せつとう》はうまみのある商売なのだ。ベンツやBMWを、北アフリカやブラック・アフリカ、それに中近東まで陸送する。ヤクなんか扱うよりも、ずっと実入りがいい場合もある。車泥棒では一人前になったジャン・イヴだったが、それだけでは物足りなかったらしい。去年の初め、コロンボに紹介してくれと頼みに来たのだ。
自分の紹介で組織に入れた若造。庇《かば》ってやりたい。本多は、煙草を消しながら、ジャン・イヴのつんと突き出た鼻を見た。
「しかし、お前もいっぱしのヤクザになったな」半分は厭味《いやみ》。そして残りは本気だった。
しかし、ジャン・イヴは本多の言葉をそのまま受け取ったようだ。
「ヨヨに、褒《ほ》められると嬉《うれ》しいぜ。すべて、あんたのおかげだもんな」
「宝石屋のネタ、どこから手に入れた?」
「ネタ? ああ……女だよ。あそこに勤めている宝石デザイナーをたらし込んだ。金庫の番号も警報器のシステムも、皆、その女から聞き出した」
「どうするんだ、その女?」
「消しちまえって言うのかい?」
「さあな。そんなことは俺の決めることじゃねえ」
「女のことは任しておいてくれ。絶対にしゃべらせねえ」
自信。ジャン・イヴは女好きのする面をしている。それに躰《からだ》も。
「その自信が命取りになりかねねえな。どうせ、女はお前に首ったけだが、お前の方はただ利用しただけだろう?」
「あんたが殺《や》れっていえば、殺るぜ」
答えなかった。替わりに訊《き》いた。
「死んだドライバーから足がつくかもしれねえぜ」
「そっちも大丈夫だよ。パリに来たばかりのスペイン人を使った。俺達のことは何も知らねえ奴なんだ」ジャン・イヴはにっと笑った。
話をしていても落ち着かなかった。医者が上がって来ないのが気になる。ルイジ。歳が歳だけに、急におかしくなることだってありうる。
南仏に隠居したルイジが、何故《なぜ》、こんなヤバい仕事に手を出したのか。解《げ》せなかった。金に困った? ありうる。ダチに借金するくらいなら、押し込みをやる。奴の性格なのだ。もし、このヤマが首尾良く行っていたら、ぱりっとした背広に帽子を被《かぶ》って、店に現れ驚かせるつもりだったのだろう。
「何故、ルイジを……」
そこまで言って本多は口をつぐんだ。階段を上って来る足音。すっくと立ち上がった本多は、厨房《ちゆうぼう》まで医者を迎えに出た。
「どうだった、先生……」
「弾は摘出した。後は天命を待つしかないな」
「助かるって断言できねえのか?」
クーロンがきっとして本多を見た。
「私じゃなかったら、今頃、地獄でオーソレミヨ≠歌ってるよ。ここ一日、二日が山だ」
「まあ、一杯やってくれ、先生」本多は、クーロンの痩《や》せこけた肩をぽんと叩《たた》いた。
サティがカウンターの中に入った。医者は出されたコニャックに少し口をつけ、本多に汗で光る額《ひたい》を向けた。
「ここに来る時、オペラ大通りに、警官がわんさか出ていた。派手な事件が起こったようだね」
「ああ、三人、死んだらしい。そのうちのひとりはポリ公だ」
クーロンはブランデーグラスを空けた。
「さて、私は退散するか。明日、また来る」
「先生、ちょっと話があるんだ……」
「私に話がある?」クーロンの大きな目が、忙しげに動いた。新しいデータをインプットされたコンピューターのように、計算し始めたのだ。
「実はな、先生……。このヤマのこと、コロンボは知らねえんだ」
医者の動きが一瞬止まった。
「……ということは、あんたは私をだました。そういうことか?」
目に落ち着きが戻った。意外な答えでも、答えは答え。クーロンは、混乱から抜け出したのだ。
「すまない。しかし、ルイジの命を助けてやりたかった」
「煙草いいかな?」
本多はジターヌの箱を渡した。火をつけてやる。
「あんたが、コロンボに黙って事件を起こした。私の人を見る目も狂ってきたな」
「先生の目はまったく狂っちゃいねえ。俺とサティは、何も知らなかったんだ」
本多は簡単に、ジャン・イヴから聞いた話をクーロンにした。
「わかった。私からコロンボに報告しておく」
「先生」サティがカウンターに両肘《りようひじ》をつき、顔を医者にぐっと近づけた。「一度でいいんだ。目をつぶっちゃくれませんかね。ルイジはあんたとも長い付き合いじゃありませんか」
「確かにルイジとは長い付き合いだ。だが、コロンボとはもっと長い」クーロンが冷たく言い放った。
「俺は、ボスをあっと驚かせようとして、黙ってヤマを踏んだ。だがな、先生、話す時にゃ、俺の口から言いてえ。な、ここは、ひとつ黙ってちゃくれねえか」そう言ってジャン・イヴは麻袋を引き寄せ、中から宝石をひとつ取り出した。
エメラルドをダイヤで縁取ったネックレス。
「どうだい、先生。これを収めておいてくれねえか」
掌《てのひら》の上で意味ありげに弄《もてあそ》ばれているネックレス。クーロンは見向きもしなかった。煙草を深く吸いこんだ。そして、丁寧《ていねい》に時間をかけて消し始めた。
ジャン・イヴは、クーロンのことを知らない。本多は眉《まゆ》をひそめ、サティを見た。サティは縮れ毛を撫《な》でながら、天井に目をやった。身寄りもなく五匹の猫と暮らしているクーロン。頼りは金だけである。だが、金に転ぶ人間ではまったくないのだ。正確なメスさばき同様、計算の方もすこぶる緻密《ちみつ》。チンピラの奪った戦利品のオコボレに色めきだって、コロンボという銀行をぱあにするような男ではないのだ。
煙草を消し終えたクーロンが口を開いた。
「私を買収しようとした、とも報告しておこう」
「このヤブが、大層な口、利きやがって!」
ジャン・イヴの座っていたスツールが床に倒れた。
「よせ!」
本多が、ジャン・イヴの胸ぐらをつかんだ。
ジャン・イヴには本多とやり合う気はないようだ。奴の躰《からだ》からすっと力が抜けた。
「先生、わかった。今夜のことはすべて報告してくれ」本多は、ジャン・イヴの躰をブロックしたまま、静かに言った。
「もちろん、言われなくてもそうするよ」
むっとする答え。だが、ここで事を起こすわけには行かない。
「ついでに俺が会いてえとも、ボスに伝えてくれねえか」
医者は黙ってうなずき、出口に向かった。
「コニャック、ごちそうさん」
ドアが静かに閉まった。
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無傷《アンタクト》のコロンボ
午前七時十分過ぎ。本多は仮眠から覚めた。
ベッドに寝かされているルイジの顔を覗《のぞ》く。死んだように眠っているルイジ。だが、胸のあたりが、かすかに動いている。本多の疲れた顔から笑《え》みがこぼれた。
壁にかかっている電話が鳴った。
案の定、相手はコロンボの右腕、ガルディアンだった。ボスが朝飯を一緒に食いたい。短い伝言。受話器を置いた本多は、自分のアパートに泊まっているサティに電話を入れ、ルイジのことを頼んだ。本多のアパートは、店と同じ建物の六階にある。
ほどなくサティが現れた。しゃくれ顎《あご》が普段よりもしゃくれて見えた。充血した目が、力なく笑った。
「ガルディアン、なんか言ってたか?」
「いや。いつものように用件を伝えただけだ」
髭《ひげ》を剃《そ》る。こめかみに白いものが混じり始めた、いかつい顔がヒビ割れた鏡に映し出された。また皺《しわ》がふえることになるかもしれない。本多はタオルで顔を丹念に拭《ぬぐ》った。そして、ブルゾンを羽織った。
「ボスに会うにしちゃ、薄汚れた格好だな」サティがにっと笑った。
「ヤキをいれられるかもしれねえ。一張羅《いつちようら》を汚すのはもったいねえだろう」
「ルイジの面倒は俺がつきっきりで看《み》る。心配はいらんよ」
「ジャン・イヴはどうしてる?」
「まだ、オネンネしてるよ、あのガキは」サティの頬《ほお》がちょっと引きつった。
「まさか、とは思うが怖《お》じ気《け》づいて、フケるかもしれねえ。しっかり見張っていろよ」
「任せておいてくれ。それより、コロンボに、どう掛け合うつもりなんだ?」サティが不精髭《ぶしようひげ》をさすりながら、本多を見た。
「出たとこ勝負だ。まさか、これしきのことで、あの世行きになることはあるまい」
そう言い残して、本多は部屋を後にした。
外に出ると、冷気が顔を舐《な》めた。身震い。顔を両手でポンポンと叩《たた》き、車のドアを開けた。
車種はベンツ。だが、本多は特別、ベンツが好きというわけではない。パリの日本料理屋の店主は大概、儲《もう》かるとベンツに乗る。それを真似《まね》たまでのこと。裏のある人間は、普段、ことさら皆と同じことをしたがるものだ。
ゴールドマン宝石店の前を通る。パトカーも警官の姿も、無論なかった。
日曜日の早朝。車も人もまばらだった。
『スバル』は日曜日は休み。他の従業員に気をつけなくてもすむ。不幸中の幸いだった。
ベンツはルーブルを抜け、カルーセル橋を渡り、右に曲がる。そして、セーヌ河岸をミラボー橋の方に向かって走った。
クラウディオ・コロンボの住まいはパリ郊外ブローニュ地区にある。
コロンボが、こんなに早く子分を呼びつけるのは、さほど異例のことではなかった。午前六時に起床。天気が良ければ、広大な庭の小道を軽くジョギングする。そして、室内のトレーニングルームで汗を流すのだ。夏は、無論、プールでひと泳ぎするのが日課である。時々、運動した後、主だった子分を朝食に招き仕事≠フ話をすることがあるのだ。
八時五分前。本多は屋敷の前に着いた。コンクリートの門柱に立派な鉄柵《てつさく》。かつてこの敷地は、養老院だった。コロンボが買い取ってからは、家屋は全面的に改築され、アメリカン・スタイルのモダンな建物に変わった。猫と年寄りの居つくところは、快適に決まってんだ。新築祝いのパーティの席で、コロンボは、そんな冗談を言っていた。
用心棒がふたり出迎えた。パトリスとジョゼ。パトリスは元レスラーで、ジョゼは、かつて自転車乗りだった。
本多は南向きのテラスに案内された。
芝生の一角にプールが見える。かすかに緑の匂《にお》いがした。
「ヨヨは、いつも行動が機敏だな」コロンボがにやっと笑って、隣に座っていた赤毛の大柄な男を見た。「ガルディアンと賭《かけ》をしてな。お前が、八時前にここに着くかどうかを。俺が勝った」
純白のトレーニングウエアー姿のコロンボ。肌艶《はだつや》といい筋肉といい、とても六十六歳には見えない。フリオ・イグレシアスをふけさせたような感じの男。禿《は》げ方までそっくりだった。
本多は一言、詫《わ》びを入れた。
「まあ、座れ。朝飯を誘っておいて先に食うわけにはいかん。食べずに待っていたんだぜ」
白い歯が現れ、目尻に皺《しわ》が寄った。だが、コロンボの深いブルーの目は笑ってはいなかった。
イタリア系フランス人。第二次世界大戦中は、レジスタンス運動の闘士だった。通称無傷《アンタクト》のコロンボ=B一度も捕まったことがないところからそういう渾名《あだな》がついた。しかし、それだけではない。コロンボの頬《ほお》には大きな傷があるのだ。ナイフで切られたような傷。いつごろついたものなのか? 本多は知らなかった。
コロンボの遠い親戚にあたる女が、朝食をテーブルに並べた。フランス式の情けない朝飯ではない。生ハム、ベーコン、ポテトサラダ、スパニッシュオムレツ、フランクフルトソーセージ……。パンの種類も豊富だ。トーストからパン・コンプレまで全部そろっていた。
「ルイジも大分、耄碌《もうろく》したらしいな。昔は、機転のきく優秀な男だったのにな」生ハムに軽く塩をまぶしながらコロンボが上目づかいで本多を見た。
「そうかもしれません。しかし……」
「なかなかいけるぜ、この生ハム」コロンボは本多の言葉をさえぎった。「取れよ、遠慮するな」
黙って従う。
「クーロンがな、今朝《けさ》六時に報告してきた。まったく、あいつは忠実な奴だよ。それに医者としての腕も確かだ。ルイジはまだ生きてるのか?」
「何とかもってます。だが、医者に見放されては、これから先、もつかどうか……」
「まあ、自業自得ってとこだな」
「何とか、今回だけ俺に免じて、許してやってくれませんか」
「トースト回してくれ」コロンボはガルディアンに言った。たっぷりとトーストにバターを塗る。「フランスの食パンはぱさぱさしていけねえ。その点、日本のやつはうめえなあ。俺は、シャンゼリゼにある何とかっていう日本のパン屋が贔屓《ひいき》なんだぜ」
「俺も、あそこでよく買いますよ」本多は笑った。作り笑い。
「おめえに免じてかあ……」コロンボは、パン屑《くず》を芝生にまいた。
スズメがちょこちょこと走りよって来て、ついばんだ。
「ジャン・イヴは、クーロンを買収しようとしたんだってな。お前の推薦があったから、仲間にしてやったんだが、とんだ食わせ者だな、あいつは」
「…………」うまい言い訳。見つかるはずはなかった。
「あの若造、俺を甘く見ているようだな」コロンボの口許《くちもと》がゆがんだ。
「決して、そんなことはありません」
「このままじゃすませられねえな」
「しかし、ボス……。まさか、あのふたりを消しちまう腹じゃないでしょう。あんたに相談もなくヤマを踏んだのは、ジャン・イヴの責任だが、奴もあんたに認められたい一心でやったんです。そこをなんとか考慮してやって欲しい」
「まあ、そのことは、ヤキを入れて、性根を叩《たた》き直してやればすむこった。だが、ちと面倒なことになってんだよ」
「と言うと?」
「ガルディアン、事情を話してやってくれ。俺はむなくそが悪くて、話す気にならん」コロンボは、持っていたフォークを皿の上に投げ捨てた。苛々《いらいら》した右手が傷をさすった。
「ヨヨ、あいつらがバラしたゴールドマンってのは、ただの宝石屋じゃねえんだ」
「ただの宝石屋じゃねえ?」
「ああ。死んだのはノルベール・ゴールドマンって野郎なんだが、こいつはアルフォンジーの親戚なんだよ」
「まさか……」本多は絶句した。
アラン・アルフォンジー。コロンボ同様、パリに根を張るヤクザだ。しかし、ユダヤ人がコルシカ人の親戚だって? そんな馬鹿な!
「あんたが信じられねえのも、もっともだ」ガルディアンがうなずいた。「だけど、これはまぎれもねえ、事実なんだよ。アルフォンジーの妹ソフィが、半年前にゴールドマンのひとり息子と結婚した。何か裏のある結婚に違いねえが、ともかく、正式に結婚し、アルフォンジーとゴールドマンは親戚になったってわけよ」
「わかるな、この意味が?」コロンボの右頬《みぎほお》がピクリと動いた。
本多は花曇りの空を見上げて溜息《ためいき》をついた。
コロンボとアルフォンジーは、何度も縄張《なわばり》争いを繰り返していた。しかし、無意味な出入りは、互いのためにならない。そう判断したふたりは小競り合いを止め和解した。だが、今度のヤマを踏んだのが、コロンボの手下だと分かったら、またぞろ、血で血を洗う闘いが始まるだろう。
スズメの数が次第に増えた。コロンボがまたパン屑《くず》をまいた。
「ヨヨ、俺がどれだけ迷惑してるか、わかるな?」
「ああ……。ですが、アルフォンジーが、すぐにボスを疑うってこともないでしょう。ここ数年、ボスと奴はうまくやってきたんですから。組織に入っていねえチンピラの仕業《しわざ》と考えるかもしれない。あのふたりの身柄、俺に預からせて下さい。絶対に迷惑はかけませんから」
「あんたが預かるのは、まずいね。奴等が殺《や》ったとわかった時、あんたまで関わっていたってことになれば、余計にアルフォンジーはボスを疑うじゃねえか」ガルディアンが言った。
「隠れ家を変える。場合によっちゃ外国に飛ばしちまってもいい。奴等を殺したところで、誰がやったかわかれば、結果は同じでしょうが……」
「誰も殺すとは言っちゃいねえ。だが、何とか手を打たねえとな……。アルフォンジーの野郎、一応、和解したが、ことあらば、俺達を虎視眈々《こしたんたん》、狙ってやがるんだ」
「ボス」ガルディアンは、そう言ってからちらっと本多を見た。「あのふたりと盗んだブツをアルフォンジーに引き渡したらどうですか? おとしまえは向こうにつけさせる……」
「ちょっと待ってくれ」本多は、コーヒーカップをテーブルに置いた。「それじゃ、こっちの面子《メンツ》ってものが立たねえだろう。一歩も譲らず、争って来た相手にこっちから、尻尾《しつぽ》を振るような真似《まね》はやめた方がいい」
「六年も組織を離れているあんたには分からんことが山ほどあるんだよ。うちの組織とアルフォンジーのとこを比べたら、現在は、向こうの方が上なんだ。俺だって認めたくはねえ。だが、事実は事実なんだ。それにな、ヨヨ、ヤクの値崩しをやっている中国系の奴等とのトラブルも抱えてんだ。面倒を起こしたチンピラを庇《かば》ってやれる余裕は、今の俺達にはねえんだよ」
「アルフォンジーに渡したら、あいつ等がどうなるか、わかって言ってんだろうな!」
本多はガルディアンに食ってかかった。二度どもった。日本語で応戦したい。歯を食い縛った。
「この際、致し方ねえだろう」ガルディアンが額《ひたい》の毛をかき上げた。
「ルイジは、ずっと一緒にやって来た仲間だぜ。そんな奴を生贄《いけにえ》に捧げようってえのか。俺にはできねえ」
「ヨヨ、お前、何か忘れちゃいねえか」コロンボが本多を覗《のぞ》きこんだ。ねっとりとした目つき。「お前は、組織の第一線からリタイアしたんだぜ。昔のよしみで、俺は、クーロンをだまして呼びつけたことに目をつぶり、話をする機会もあたえてやった。だがな、お前には、俺にはできねえ≠ネんて口をきく権利はねえんだぞ」
「しかし、ボス。ボスが子分を売るのは、絶対に止めた方がいい。今回のことは、それでカタがつくかもしれねえ。だが、子分の士気に関わる大きな問題ですよ……」
「今後のことより、今が問題なんだ」ガルディアンがドスのきいた声で言った。「あのふたりが、俺達との組織と関係ないことを、身をもって証明するには、この手しかねえ。それに、子分達の戒めにもなる。ここで子分に甘い顔をすることの方が、よほど士気に関わる」
本多とガルディアンはほぼ同時に、コロンボを見た。コロンボは、プラムをしきりに食べている。皮をぺっと皿に吐いた。そして、ふたりを交互に見た。
「どうしたもんかな」
「絶対、俺のやり方が……」
「まあ、落ち着け」コロンボがガルディアンを制した。「お前のアイデアが、この場合、正解だろう。しかし、俺も子分を売りたくはねえ。たとえ、ジャン・イヴのような新参モンでもな」
ガルディアンが身を乗り出した。コロンボがそれを目で殺した。
「ここは、ヨヨの顔を立ててやるつもりだ」
本多はほっと胸を撫《な》で下ろした。
「ただし、条件がある」
「どんな条件ですか?」
「もう一度、一線にカムバックしてもらいてえ。ガルディアンとヨヨ。このふたりが俺についていてくれれば、俺は安心だ。どうだ、ヨヨ。戻って来るか?」
「特別、俺に用がある? そういうことですか」
コロンボが頬傷《ほおきず》を撫で、意味ありげに笑った。「いい勘してるぜ。お前が役に立つことがあるかもしれんのだ。近いうちに」
「ボス。ヨヨがいなくても大丈夫ですよ。俺達で充分やれます」
「黙ってろ!」拳《こぶし》がテーブルを叩《たた》いた。
スズメが一斉に飛び立った。
「何、やらかすのか知りませんが、俺に、特別な技術がないのは、ボスも知ってるじゃありませんか」
「昔みてえに俺の片腕になって働く気があるかどうかだけきかせろ」
吸いこまれるようなブルーの目。コロンボは本気で本多を呼び戻したいらしい。
迷うことは何もなかった。ルイジとジャン・イヴの命。本多のウイ≠ニいう言葉にかかっているのだから。しかし、すぐには返事ができなかった。
今度、コロンボの片腕になれば、老いぼれになるまで、組織からは抜け出せない。そんな気がしたのだ。料理屋の主人でぬくぬくと小金を溜《た》める生活。いつ止めてもいい。だが、ヤクザに戻るのは嫌《いや》だった。どんなきれいごとを並べても、ヤクザはヤクザだということを、二十年近くコロンボに仕えてみて、本多は身にしみて分かっていたのだ。
「嫌か、幹部に戻るのは?」
「組織に戻ります」一瞬、間をおいて本多は答えた。
「そうか、よく言ってくれた」満足げにうなずき、コロンボは葉巻に火をつけた。
「あのふたり、俺に任せてくれますね」本多は念を押した。
「ああ。ただしうまくやるんだぞ。そうだ、大事なことを忘れてた。ジャン・イヴにネタ流した女だがな、すぐに始末させろ」
うなずくしかなかった。
「クーロンを店にやって下さい」
「すぐに行かせる」
コロンボはパトリスを呼び、医者に電話を入れさせた。
本多はジターヌの封をゆっくりと開けた。
「で、何、やらかそうってんです」うつむいたまま訊《き》いた。
「話は、ガルディアンから聞いてくれ。俺はこれから孫の顔を見に行くんだ。まだ一歳になってねえんだが、お爺《じい》ちゃんの顔の傷に興味を持っていてな……」
突然、笑顔がふけたような気がした。無傷のコロンボ≠ヘ居間に通じる階段を上がって行った。
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赤毛のガルディアン
ガルディアンが、空になったコーラの缶《かん》を指で弾いた。缶は転がり、果物の籠《かご》にぶつかった。もう一度、手に取り今度は、プールを目がけて蹴《け》った。
水のはっていないプール。缶はプールの底で、乾いた音を立て、転がった。
「ボスの気がしれねえよ」ぼそりと呟《つぶや》いた。
「どんなヤマなのか教えてくれ」
「おめえが必要になるかどうか、わからねえ」
「愚痴《ぐち》はお前の女にでも言いな」
ガルディアンが本多を見た。波に洗われた岩のような、白くごつごつした顔。本多の一・五倍はある。赤い口髭《くちひげ》に赤い髪。髪の方だけはカツラだ。
ガルディアンは三十八歳。本名はセルジオ・スカルファロと言う。イタリアのサッカーチームでゴールキーパー(ガルディアン・ド・ビュット)をやっていた。十年以上前の話だ。ワールドカップにも出たことがある優秀なプレイヤーだった。だが、ヤクに手を出したのが、奴の運命を変えたのだ。
「あんた、ジャパン・センチュリー・エレクトロニックって会社を知ってるな」
黙ってうなずいた。なるほど。俺が必要なわけがわかった。
通称|JCE《ジエイシーイー》。電機、通信機、写真を扱う巨大な日本企業である。コンピューター、ビデオ、テレビ、カメラ、コピー機などをフランスでも製造している。
「JCEの何を狙うんだ?」
「従業員の給料に決まってるじゃねえか」
本多の口許《くちもと》から笑《え》みがもれた。企業秘密。狙いはそんなところだろう、と見当をつけたのだが、見事に外れた。
ガルディアンがJCE・FRANCE≠ノついて説明をした。
本部はシャンゼリゼ大通り近くのベリ通りにあり、工場はノルマンディ地方の観光地、オンフルールから、南に五キロばかり行ったところにある。JCEがフランスに進出したのは五年前。資金調達の八割をフランス国内で行った。経済危機と雇用問題の改善に一役買う形で、JCEはフランスに進出したのである。
「……で、どうやって給料を奪うつもりなんだ?」
「工員の給料を積んだ現金輸送車を襲う。だが、具体的な計画はまだ立てちゃいねえ」
現金輸送車襲撃。どうせヤマを踏むのなら、この方が性に合う。少なくとも企業秘密を狙うよりは。
「成功するとどのくらいの実入りになるんだ」
「少なく見積もっても一千五百万フラン。運がよけりゃ、二千万はあるって話だ」
日本円に換算すると約四億から五億。しかし、フランスの物価を考えるとそれ以上の価値がある。
「銀行振り込みじゃねえのか、給料は?」
「銀行振り込みさ。キャプシーヌ総合銀行のオンフルール支店が一手に扱ってる」
「なるほど。キャプシーヌ総合銀行の本店から、オンフルール支店に輸送される。そういうことか?」
「そうだ。輸送車は月一回、二十三日にポワソニエール大通りの本店で積んだ千六百人分の給料を運ぶって寸法よ」
「そんなに従業員がいるのか」
「ああ。すべての部門の工場がオンフルールに集まってるんだ。ビデオ部門だけで五百人は働いている」
「しかし、なんで、また突然、JCEの給料を狙うことになったんだ?」
「あの工場で働いている工員から、俺の使ってる若いのが耳よりな話を聞き出してきた。ジャン・イヴみてえに、抜けがけするような奴じゃねえから、そいつは俺に話した」
厭味《いやみ》。聞き流した。
「今年に入ってから、あの工場の給料運搬にゃ、いわゆる現金輸送車を使わなくなったんだ。エスタフェットっていうルノーのマイクロバス兼バンを知ってるだろう」
「どこにでも走ってる、普通の車じゃねえか」
「ああ」ガルディアンがにんまりと笑った。
「三年ほど前だけどな、輸送車にロケット弾をぶちこんだまでは格好よかったが、現金袋までふっとんじまって、何も取らずに逃げたドジ野郎がいたろう。だが、今度の場合は、普通のバンだから、そういう大掛かりなこともしなくてすむ」
「ガードは何人いる?」
「いねえ。運転手だけだ。それに、使われているバンは塗装もはげているボロ車なんだ」
「妙だぜ、そりゃ……」
「カモフラージュ。小汚ねえバンに、何千万も積んであるなんて誰も思わねえ。使い古された手だが、誰も使わなくなっちまった今は、かえって効果がある、と考えたんじゃねえか。世の中、レトロしてんだろう。輸送方法も昔のやつが復活した。そういうところだろうな」自分の言った冗談に満足したのか、ガルディアンは嬉《うれ》しそうな顔をしてうなずいた。
「あんたの言う通り、俺は必要ないな」
「やっと意見が合ったな」白い岩が笑った。
馬の合わない野郎だった、昔から。
コロンボに拾われたガルディアンは、めきめきと組織内で勢力をのばし、あっと言う間に幹部にのし上がった。ガルディアンは何事につけても大胆だった。慎重派の本多とは、ことごとく対立した。イタリア系の組織。本多はもともと外様《とざま》である。コロンボも次第に、ガルディアンの意見に従うようになった。或る時、コロンボが本多に言った。「……お前は、飼い主の手を噛《か》むような真似《まね》をする男じゃねえ。しかも、行動は冷静で機敏だ。文句がつけようがねえくれえ、お前は立派な奴だ。しかし、お前にはひとつだけ欠けてるもんがある。それはな、権力志向ってやつだ。ヤクザは、皆、権力志向の塊《かたまり》なんだぜ、反権力をふくめてな。お前には、どちらにしろ、それがねえ。不思議な野郎だよ、まったく……」
ヤクザ稼業に対する野心。まるでなかった。組織に入って有能でいられたのは、どこか常に冷めていたからだ。しかし、コロンボはそのことに気づいていないようだった。あえて説明することもあるまい。本多は、黙ってコロンボの話を聞いていた。そして、その半年後、本多は組織の幹部を自ら下りた。目ざわりな日本人がいなくなり、ガルディアンは喜んだはずだ……。
サッカー以外にも、野心が持てたガルディアン。はなっから、サッカーよりもヤクザに向いていたのかもしれない。本多は改めてガルディアンを見つめた。
ガルディアンは目をそらせ、再び皮肉な笑みをうかべた。
「ボスは歳《とし》のせいか用心深くなった。日本人のおめえに、何とかもっと詳しい情報を取らせてえと言い出してな」
「ちょうどそこへ、今度の事件が起こったってわけか。お互いに迷惑な話だな」
「今日は、本当に不思議と気が合うぜ」
本多は煙草に火をつけた。
「輸送のルートはわかってるのか」
「先月、跡をつけてみた。高速十三号線をポン・レベックで下り、県道五七九号線をオンフルールに向かって走るんだ。変わったことといやあ、途中、輸送車は工場に二十分ばかり立ち寄ることだな」
「変だ。何かあるぜ」
「そのことは調べがついてる。あの工場じゃ、アルバイトも雇ってんだ。そいつらは銀行振り込みにしてねえ。だから、その分の現金を、途中で下ろしているそうだ」
キナ臭《くさ》い。しかし、異論をとなえるほど、確固たる自信などなかった。本多は、冷たくなったコーヒーを一気に胃に流しこみ、ひと呼吸おいてから口を開いた。
「俺の店の客にもJCEの奴がいるはずだ。それとなく近づいて調べてみよう」
「ああ、やってみてくれ」気のない返事。
「今日んとこはそれだけか?」
「それだけだ」
本多は煙草を消し、立ち上がり、家に向かって歩き出した。
「どこに行くんだ?」命令口調。
振り返り、低い声で言った。「いちいち、俺の行き先を訊《き》くな」
居間に入った。吹き抜けの広い部屋。白いソファがコの字型に並んでいた。部屋の配置もソファの色もすべて、以前とは違っていた。だが、電話の位置は変わりなかった。
サティに電話を入れた。クーロンはすでに診察に来ていた。サティはどんな按配《あんばい》で話が進んだのか聞きたがった。話は帰ってからだ。受話器を置いた。その時、二階から着替えをすませたコロンボが女房のサンティーナと一緒に下りて来た。
ふたりともイタリア人のくせにフランス語を話している。コロンボはフランス生まれ。母国語が苦手なのだ。
「ヨヨ、久し振りね」
サンティーナが腕を大きく拡げ、本多に近づいた。両頬《りようほお》にキスをし合う。三度ずつ。肋骨《ろつこつ》にサンティーナの豊かな胸が軽くふれた。
「いつだったっけ。あんたの店で食事したの?」甘いハスキー・ボイスが訊いた。
「去年の二月頃ですよ」
「そんなになる?」サンティーナは大袈裟《おおげさ》に驚いた。びっくりしたような目がさらに開いた。
詰まらないことは、すべて忘れられる。幸せな女である。以前、コロンボの経営するピゼリアで給仕係をしていたことなど、まったく記憶に残ってはいないだろう。
金髪のセミロングの髪。後ろにかき上げられている。くっきりとした顔の輪郭。厚い唇《くちびる》からかすかに前歯が覗《のぞ》いている。
レースつきの黒いミニワンピースにウエストをしぼったオレンジ色のジャケットを着ていた。正確な歳は分からない。三十七、八というところだろうか。しかし、二十代の女のように若々しい。
サンティーナは突き出たヒップを軽く振りながら、ソファに腰を下ろし煙草に火をつけた。
「クラウディオは孫の顔を見に行くんですって。ヨヨ、暇だったら、お昼、一緒に取らない?」
「そうだ。そうしろ。お前に預けておくのが俺も一番安心だ」コロンボがアスコットタイを直しながら言った。
「ちょっと、これから人に会わなきゃならないんです……」本多は困った顔をして見せた。
「そう。先客があるんじゃ仕方がないわね」
気まぐれなサンティーナ。思いつきに固執するような女ではない。
「で、ガルディアンから話は聞いたか?」鏡を通して、コロンボが本多を見た。
「ええ。警備が手薄だってのがひっかかります。俺なりに調べてみますよ」
「頼むぞ。この歳で、無茶な行動を取りたくねえ。無傷のコロンボは無傷のまま一生を送りたいんだ」しんみりとした声だった。
慎重派の自分を幹部に復帰させたかった本当の理由が、分かったような気がした。
「ところで、ジャン・イヴ達が盗んだ宝石のことだがな。しばらく、お前が預かってろ。へたに動かすとヤバイからな」
「わかりました」
「ね、ヨヨ。カムバックしたの?」
「ああ。こいつはまともに足洗えるような奴じゃねえ」コロンボが断定口調で言った。
「それじゃ、俺はこれで……」
「分かった。時間は後で知らせるが、今度の金曜日の午後一時から、ミーティングをやる。お前にも出席してもらう。なるべく早いとこ、情報を入れてくれ。できたら、来月の輸送日には事をおこせるようにな」
「努力してみます」
ガルディアンは、まだテラスにいた。オレンジの皮を剥《む》きながら、本多を上目づかいで見た。
別れの挨拶《あいさつ》をした。短くぶっきら棒に。
「あのふたり、しっかり監督しろよ。奴等のせいで、何かあったら、ただじゃすませねえ。ドタマによくぶっちこんでおきな」
果物ナイフがきらっと光った。本多は目を細めた。つかつかとガルディアンに近づき、胸ぐらを締め上げた。
「俺にそんな口をきくな」
ガルディアンは動じなかった。黄ばんだ奥歯が笑っている。
「おめえとは、やっぱり気が合わねえ」
果物のナイフが、オレンジをぐさりと刺した。
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ブローニュの森のベースボール
コロンボの屋敷を出た本多はブローニュの森に入った。遠回り。わかっているが、すぐに店に戻る気がしなかった。
ルイジとジャン・イヴの件は一応、ケリがついた。だが、替わりにとんだとばっちりを食ってしまった。六年ぶりの現役&恚A。予想だにしなかったことである。計画に参加すると言った以上、後には引けない。じゅうじゅう承知していた。しかし、憂鬱《ゆううつ》だった。
厚い雲の間から、時折、弱い陽が射している。日曜日のブローニュの森。沿道には、車が何台も停《と》まっていた。芝生に目をやる。乳母車を押した若い夫婦、ボールと戯れている子供達。犬が走り、杖《つえ》をついた老人が、台地を踏みしめるような感じで、ゆっくりと歩いていた。
組織に復帰してなくとも、縁のない光景である。守り通さなければならないものなど、ひとつもないのだ。料理屋の主人で一生を終わろうが、組織のメンバーとしてムショに送られようが、大差はないではないか。本多は自分に言い聞かせた。
ロンシャン交差点を過ぎたところで、車を捨てた。小道をぶらつく。久し振りのオゾン。何度も深呼吸した。
知らない間にセーヌ河に向かって歩いていた。本多の横をバットとグラブを持った子供達が小走りに走り去り、前方にある競技場に入って行くのが見えた。
「野球か……」本多は短く呟《つぶや》いた。
自然に、競技場に足が向いた。
正面の方に回り、何人かの見物人に混じって試合を見た。
フランス人の団体球技といえば、一がサッカーで二がラグビー。野球になると、ほとんど誰もルールさえ知らないのだ。
ブローニュの森で日本人達がソフトボールの試合をやっているのは、本多も知っていた。しかし、フランス人が硬式野球をやっているとは……。
グラウンドを見渡す。ここはポロの競技場のはずだ。バックネットを見て、思わず微笑《ほほえ》んだ。ハンマー投げで使用するネット。
バッターが打った。金属バットの高い音が聞こえた。音のわりには飛んだ打球に力がなかった。セカンド・フライ。白いユニフォームのチームが引き揚げ、縦縞《たてじま》のチームが守備に散った。
長身のオーバースローの投手に目がいった。短いウォーミング・アップに続いて、プレイボールがかかった。
一球、投げた。「ボール!」審判が叫んだ。球はショートバウンドし、捕手が躰《からだ》で前に落とした。
二球目。球がホップした。審判が怖がって、躰をそらした。ツー・ボール。
制球力のない投手。だが、本多は、その投手から目が離せなくなってしまった。
顔をホームベースから早く離しすぎるし、球を離すポイントがわかっていない。しかし、球は抜群に速い。それに、フォームも悪くない。実に悪くない。似ている。そっくりだ。俺のフォームに……。
*
本多陽一郎は、プロ野球チームに九年在籍したことがある。右腕の速球投手。鳴物入りでパ・リーグの球団東京レックス≠ノ入団した。昭和三十六年。ガガーリン少佐が初めて、宇宙船で地球を一周した年だ。
その年、二十四勝をマークした。投手力の弱かった東京レックス≠ナは、名実ともに一年目からエース。速球に、二種類のカーブが武器だった。
三十八年三十九年と連続最多勝。三十九年には防御率もトップだった。生涯成績。百二十一勝八十二敗。防御率二・七八。奪った三振の数は一三〇二個。
登板過多がたたって、四十年に肩を壊した。肩を庇《かば》って投げる球。重い速球を投げたつもりでも、簡単に打ち返されるようになった。四十年から四十二年の三年間で、やっと十八勝。屈辱の日々が続いた。
肩を壊す直前、銀座のクラブでホステスをしていた市川美也子という女と、付き合って半年で結婚した。当時、本多は二十二歳、美也子は二十。若すぎる。野球だけを人生の目的にしろ。家族もオーナーも監督も、この結婚には猛反対した。だが、反対されればされるほど、本多の意志は堅くなった。本多は美也子にぞっこんだったのだ。野球しか知らない若造の初めての恋。一途。馬鹿みたいに。
しかし、本多と美也子の結婚は、すぐに破綻《はたん》をきたした。血気さかんな青二才と、見境のつかない若い女はしょっちゅうやり合った。売り言葉に買い言葉。ボールを扱うようには、美也子を扱えなかった。
美也子の金づかいが荒くなった。だが、暴力団と、付き合いがあると知ったのは、ずっと後のことだ。若妻は、ポーカーゲームに熱中し、借金を作っていた。初めて女に手を上げた。美也子はヒステリックに泣きわめいた。そして言ったのだ。「殴ってよ、腹を。そしたら、堕《お》ろす費用が助かるわ……」
振り上げた拳固《げんこ》が、宙で止まった。俺の子か? 自然に口をついて出た。決まってるでしょう。どうせ堕ろすつもりだから、誰の子だって同じだけど……。
疑いは残った。だが、自分から妊娠を告げた。遠征中に、黙って処理することもできたのに……。本多は信じる気になった。堕ろすと言い張った美也子だったが、時すでに遅かったのだ……。
暴力団が野球場までやって来るようになった。美也子の借金。しめて六百五十万。頭を抱えた。しかし、払えないものは払えない。しつこく脅された。そんな、或る日、藤塚と名乗る恰幅《かつぷく》のいい紳士に呼び出された。高級ステーキハウスで藤塚はこともなげに、こう言った。「本多さん。甘い球を時々投げてくれませんかね。そうしたら奥さんの借金も棒引きになるし、金も入る……」
八百長。前々から噂《うわさ》はあった。即座に断った。だが、藤塚は動じなかった。その後も、きわめて温厚な話しぶりで、八百長をそそのかした。無論、本多の意志は変わらなかった。球団に泣きつき、四百万借りた。本多が球団から金を借りたことを知った藤塚は、急に態度を変え、「俺にさからうと、野球生命が短くなるぜ」と脅しにかかった。しかし、それでも、本多は藤塚を無視し続けた。
四十二年の十二月、長男が生まれた。もう一度、エースに返り咲きたい。意欲がわいた。
オフにスライダーとフォークを覚えた。ストレートは見せ球。変化球投手に変身したのだ。四十三年は、おかげで十五勝をマークした。その年の最多勝は三十一勝上げた南海の皆川だった。
しかし、本多は不満だった。重く切れのいいストレート。もう一度、投げたかった。ずっとバッテリーを組んでいた菊地は、強気のリードをするキャッチャーで、本多は、ほとんど彼の言う通りに投げていた。だが、菊地のサインを嫌い、内角にストレートを放りこんだことも何度かあった。そんな場合、七割以上の確率で、クリーンヒットされた。野村克也には場外に軽く運ばれた。夜空に舞う白球を、膝《ひざ》を落として見上げる瞬間。本多の目の前はいつも真っ白になった。
四十四年。本多の野球人生は終わった。その年は、軟投に切り換えた本多の配球を、他チームに読まれたのか、春からノックアウトされることが続いた。パターンを読まれないようにストレートを、前年よりも多く投げた。だが、棒ダマが多く、傷口をさらに拡げる結果となった。
しかし、本多が野球を辞めたのは、成績が悪かったからではない。
八月、野球トバク絡みの八百長事件で、東京レックス≠フ主力打者二人が、球団から謹慎処分を食らった。そして、驚くべきことが本多の耳に入った。ブラックリストに本多の名前も上がっているという噂《うわさ》。主力バッターのひとりが、本多が棒ダマを投げて、わざと打たせていた、と証言したのが黒≠ニ疑われるきっかけとなった。
身に覚えのないこと。激しく球団に抗議した。だが、出て来るデータはすべて、本多の不利に働いた。
打たれた威力のないストレートは、すべて敗退行為と言われても仕方がない。オーナーはスコアー・ブックを本多に投げつけた。
そして、一年前、藤塚という男と何度か会ったことも疑いに拍車をかけた。藤塚功一郎は関東地区を牛耳る暴力団の幹部で、賭博《とばく》常習者だった。
さらに、意外な事実が、週刊誌によって暴かれた。美也子がまたポーカーゲームにうつつをぬかし、本多に内緒で借金を作っていた。そして、その借金を埋める為に、野球トバクに手を出していたというのだ。おまけに借金七百九十万は、五月、六月に分けてきれいに精算されていた。
本多は妻を問いただした。美也子は、ポーカーゲームで負け、借金を何とかしようとして野球トバクに手を出したことは認めた。だが、誰が借金を返済したかは知らない、と何度|訊《き》いても言い張った。
妻の不祥事。本多を黒≠セと決めつけている世間を相手に闘う意欲が、一挙に崩れた。
謹慎、退団処分、そして最悪の結論がコミッショナー委員会で出された。
永久追放。
坂を転げるように、三か月あまりで本多はプロ野球界から抹殺≠ウれたのだ。
しかし、全団プロフェッショナル野球協約、二十一章、第三百五十五条敗退行為≠ヘ適用されなかった。
立証するのが難しかったのである。
替わりに第三百五十八条賭博常習者と同行≠ェ適用されたのだ。
敗退行為が立証されていれば、トバク幇助《ほうじよ》、或いは球団に対する詐欺《さぎ》行為と刑事事件に発展する可能性があったが、それはまぬがれたわけである。
昭和四十五年。本多は美也子と離婚し、放浪の旅に出た。故郷の鳥取には帰る気にはならなかった。本多がスターだった頃は、やれ後援会だの、やれ地元の英雄だのと、神様のように本多を持ち上げていた連中の白い目。耐えられなかった。
やっていれば、あきらめもついたのだが……。
日本中を転々としていた間も、ボールだけはいつも握っていた。感触。忘れたくなかった。或る日、突然、疑いが晴れ、オーナーや監督が、安宿の襖《ふすま》を開け、自分に手を差しのべる。復帰してくれ。何度もそんな夢を見た。しかし、突然、宿の襖を開けたのは、週刊誌の記者だった。ボロボロになって煎餅布団《せんべいぶとん》に寝ている元スター。スクープなのだ。
五月、東京に戻った。某ホテルのロビーで、高校時代の友人にばったり会った。田山英俊。田山はパリで、お土産物屋《みやげものや》の経営者になっていた。日本の事情にうとくなっている友人。本多が真実を語るのにかっこうの相手だった。
本多の告白を信じたらしい。パリの店で働かないか、給料は安いがな。田山は優しくそう言った。同情されている。田山の目でわかった。プライドを捨てたくなかった。だが、断り言葉は口をついて出てこなかった。
四十五年、六月、本多はパリの地を踏んだのである……。
*
「|人殺し《ア・ラササン》!」声が飛んだ。
本多は我に返った。あたりに鋭い視線を走らせる。ヤクザの習性。
だが、周りの人間の表情は穏やかだ。日曜日をのんびりと愉《たの》しんでいる顔、顔、顔……。
「人殺し!」再び、声が聞こえた。
ヤジ。白いユニフォーム姿の選手が、投手に向かって叫んだのだ。
頬《ほお》がゆるんだ。
本多のフォームに似たピッチャーは、フォアボールを連発し、そのたびに、額の汗をぬぐった。満塁。アウトカウントはわからなかった。
セットポジションからの投球。よけいにコントロールが乱れた。バッターは打てそうにない。構えで分かった。ど真中にストレートを投げこめ。三球とも。知らず知らずのうちに熱くなった。
カウント、ツー・スリー。投手が振りかぶった。投げた。白球。バットが回った。ミットに収まる気持ちの良い音が、響き渡った。
守備に散っていた選手が引き揚げて来た。投手の顔が見えた。
戦闘的な目をした細面《ほそおもて》の少年。はっとした。東洋系のハーフ。おそらく、日本人の血が入っているのだろう。年の頃、十七、八。ふてぶてしい態度で引き揚げて来る少年の姿を本多はじっと見つめた。
縞《しま》のユニフォームのチームの攻撃はあっさりと終わり、再び少年が守備についた。
本多は、白いユニフォームの選手に近づいた。
「いつもここで試合やってるのかい?」本多は、レガースをつけた小太りの選手に訊《き》いた。
「ああ、大概はね」
「フランス人が野球をやるとは知らなかったよ」
「ムッシュは日本人だろう?」
本多は黙ってうなずいた。
「最近は結構、盛んなんだよ。パリだけでも三十チームくらいはあって、春から秋にかけてリーグ戦をやっているんだな」グラウンドに目をやったまま、気のない声で答えた。
「人殺し!」異口同音。三人のユニゾン。
少年がとんでもない球を投げたのだ。危ない球。ヘルメットを飛ばして打者は球をよけた。
「ああいう球を投げるからなのかい? さっきから人殺し!≠チてヤジってるのは?」
「そうなんだ。去年、うちのバッターが、奴のデッドボールを胸に受け、肋骨《ろつこつ》を折った。他のチームでも、奴の球を受けて怪我《けが》した奴がいるんだ」
「重くて速い球だからな……」本多はつぶやいた。
「あいつの親父も確か、日本人だったな」
「なんて名なんだ?」
「俺かい?」
「いや、あの人殺し≠セよ」
「ミッシェル。ミッシェル・テライ」
「来週もここで、やる予定か?」
「俺達のチームはやらないが、ヴォルテール・タイガース=Aつまりテライのチームはやるよ」
「何時から?」
「一時プレイボール。ムッシュも、野球やってた?」
小太りの少年は、興味深げに訊《き》いた。
「少しな」
「ポジションはどこ?」
「ピッチャーだった」
「俺達、皆シロウトだろう。野球の心得のある日本人は大歓迎だよ。いつでもコーチに来てくれよ」
本多は短く笑った。以前は、日本人を見ると柔道を教えろ、と迫って来る若者が大半で、数年前からはゴルフに誘われることが多くなった。そして、現在は野球。時の流れを感じた。
少年は、またひとりフォアボールで歩かせたが、残りの三人を三振にしとめた。チェンジ。本多は競技場を後にした。
右腕を振る。何度も。そして、肩をぎゅっと握った。十九年、ボールを投げることを忘れていた腕に、かすかに昔がよみがえった。
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回復したルイジ
翌日、本多は店を臨時休業にした。
笑《え》みの戻ったルイジ。運の強い奴だ、まったく。
「すっかり世話になっちまって」ルイジが咳《せき》こんだ。
「あんたが、オーソレミヨ≠歌えるまで、俺が面倒みる」本多は枕《まくら》の位置を直してやった。
新聞によると、今のところ、犯人の手掛かりはつかめてないらしい。しかし、油断は禁物だ。新聞記事はうのみにできないし、アルフォンジーが独自に何かつかんでいるかもしれない。
「しかし、ルイジ、あんたも老いぼれたな」
「まったくだよ、ヨヨ。弾に当たるなんて、ヤキが回った証拠だぜ」
「そういう意味じゃねえんだ。ジャン・イヴみてえな若造とヤマ踏むなんて、どうかしてるってことだよ」
「だが、奴はあんたが可愛《かわい》がっている若モンじゃねえか」表情が暗くなった。
「確かにな。だが、あんたは奴と組む年じゃねえし、タイプでもねえ。何事にも相性ってもんがある……」一瞬、言葉がきれた。
自分と菊地捕手のことが頭をかすめたのだ。菊地のミットに向かって投げる時が、一番安心だった。
速球を投げる少年を見てから、選手時代のことを、やけに思い出す。
「わしは、隠居してるのが嫌《いや》になっちまってよ」青白い顔が天井を見つめた。「二か月ほど前、ジャン・イヴに偶然会ったんだ。ニースでな。わしは、ちょっと無鉄砲なくらいの若モンが好きなんだ」
「だいたいの話、聞いたよ、ジャン・イヴから。あんた、ヤマを踏むことがあったら、声かけてくれって自分から言ったそうじゃねえか。身のほど知らずもいいとこだよ」
「わしの家族は母親までヤクザだった。だから、これも運命だよ」腫《は》れぼったい目が弱々しく笑った。
生き甲斐《がい》。それが何であれ、むげに取り上げるのは酷なことなのかもしれない。
「ルイジ、今夜、もっと安全な場所に移してやる。移動の際、クーロンも付き添うから、安心しろ」
「ジャン・イヴはどうする?」
「奴にはあんたの世話をさせる。俺が付き添っていてやりてえが、そうもいかねえんだ」
「サティの話じゃ、あんた、また、組織の幹部に戻ったんだってな。ひょっとすると、わし等の件が、きっかけになって……」
「関係ねえよ。気の回しすぎだぜ」即座に打ち消した。
昨日、ブローニュの森から帰った本多は、サティにだけ本当のことを話した。そして、段取りをつけた。ルイジの泊まっていたサンラザール駅裏の安宿から、サティが荷物を引き上げて来た。盗んだ石は、コロンボの命令通り、本多が預かることになった。故買屋《こばいや》には、ほとぼりが覚めてからでないと渡せない。地獄耳は、どの世界にもいるものだ。本多の預かりとなったジャン・イヴ。文句はたれなかった。
「で、わし等をかくまってくれるってのは、わしの知ってる奴か?」ルイジが不安げな声で訊いた。
「いや。だが、信用できる奴だ」
本多は、モーリス・ボルナールという元ジャズ・ギタリストにルイジを預かってもらうことに決めていた。堅気。万が一のことを考えたのである。余計な質問はしてこない。万事、心得た堅気なのだ。
モーリスと本多はペイ中と売人の仲だった。モーリスはすっかりヤクを抜いた。六十三歳。女房とふたり、パリ郊外のサン・ローランの森の近くで静かに暮らしている。
「……大丈夫かい、その女房の方は?」
「心配いらねえ。カミさんも、昔、ペイ中だった。両方とも俺との付き合いは長いんだ。ゆっくり養生できるぜ」
「わしは……」ルイジがしんみりとした声を出した。
「何だい?」
「いや、その……あんたに……」
「言いたいことはわかってる。もういいんだ。すんじまったことだよ」
ルイジがじっと本多を見つめた。そして、突然、がらりと調子を変えて「そうだ。ヨヨにちょっとした土産《みやげ》があるんだ。そのバッグを開けて、黒い包みを取ってくれ」
「これかい?」
「ああ。仕事をすませてから、あんたに会いに来るつもりだった。そして、驚かせてやろうと思っていたんだがな……。まあ、開けてみてくれ」
包みを開けた。小さなガラスケースの中に、カミキリ虫が一匹入っていた。触角が胴体の倍はある。
目を細めた。昆虫採集が、本多の唯一《ゆいいつ》の趣味。しかし、蝶《ちよう》やトンボにまるで興味がない。集めるのはカブト虫の仲間、つまり甲虫類だけなのだ。
図鑑で見たことがあるだけのカミキリ虫。何という名なのかはわからない。
「どこで手に入れたんだ? こんな珍しいやつを」
「近所にセネガルに旅行した奴がいてな。そいつが持って帰って来た。名前も種類もわしにはわからんが、ともかく、ダイヤをもらった女みてえに、あんたが喜ぶと思ってよ、もらって来た」
本多は礼を言った。再び、ルイジが咳《せき》こんだ。
やばいヤマなんか踏まずに、手土産さげて遊びにくればよかったんだ。愚痴《ぐち》を危ういところで飲みこんだ。
「夜まで、ゆっくり眠っておいてくれ」本多はそう言い残して、部屋を出た……。
午後十時半。救急車が店の前に停《と》まった。救急車のボディに小さくサント・アンヌ救急車≠ニ書かれてある。コロンボが作らせたニセ救急車なのだ。
白衣姿のクーロンは、ルイジを担架に乗せる前に、診察を行った。
「あんたは、百歳まで生きられる」抑揚のない声で、医者は冗談を言った。
人気のない通り。あたりに気を配りながら、慎重にルイジを救急車に乗せた。
サティがハンドルを握った。本多は助手席に座り、医者が患者と一緒に後部に乗りこんだ。
ジャン・イヴは、借物のプジョー104で救急車の後からくっついて来た。
隠れ家は、パリから三十キロ以上、北東に行ったところにある。救急車は、シャペル門から高速一号線に乗り、パリを離れた。
サティは一週間ほど前に、バスティーユのバーで知り合った女が、いかによかったか事細かに話した。法螺《ほら》に違いない。一か月ほど前に聞いた話とよく似ていた。違うことといえば、知り合った場所と女の名前と、それに女のホクロの位置だけだった。
話題が途切れた。サティが顎《あご》を軽くなでた。そして、真剣な調子でこう言った。
「俺、ずっと考えていたんだけどな」
「何を?」
「俺にも一口乗せてくれねえか」
「現金輸送車襲撃のことを言ってんのか」
「決まってるじゃねえか」サティがちらっと本多を見た。
「誰もがヤクザから足を洗いたくねえらしいな」本多が短く笑った。皮肉な笑い。
窓を少し開け、煙草に火をつけた。
「誰もがって、ルイジのことを言ってるのかい?」
「ああ。ルイジは、やっと立って歩ける頃からヤクザだった。少なくとも本人はそう思いこんでる。だが、あんたと俺は、根っからのヤクザじゃねえ」
「今度のヤマ、気のりがしねえらしいな」
「正直言って、その通りだ。現役を引退して六年。もう二度と、ヤマを踏むことはねえだろうと思っていたから、少し面食らってんだよ」
「でも、あんたがどう思おうが、やんなきゃならねえ。な、俺も手伝うぜ」
「今んとこ、俺が実際に襲撃に加わるかどうかは、はっきりしていねえ」
「あんたがやる場合だけでいいんだ。そうなったら、コロンボに俺を使うって言ってくれ」
「日本料理屋のマネージャーにあきたのか?」
「いや、そうじゃねえ。だが、あんたと俺はずっと一緒にやってきた。だから、今度も一緒にやりてえだけだ」
「気持ちはうれしいが、あんたもそろそろ落ち着いて、クスクス屋でもやる年だぜ」
「今度のヤマで金が入ったらそうするよ」
「金なら、俺が何とか都合をつける」
「わかってるだろう、俺の気持ち。金は二の次だってことを……」
サティがしゃくれ顎《あご》を突き出して笑った。本多も微笑《ほほえ》み返した。街路灯の光が、等間隔にサティの顔を薙《な》いで行く。
下層移民の家に生まれたサティ。フランスの警官とやり合うのを、心のどこかで喜んでいるのだ。ヤクザの家に生まれたルイジと同じくらい、ひょっとすると、サティもヤバイ橋を渡ることに、生き甲斐《がい》を感じているのかもしれない。
沈黙が流れた。救急車は、空いた道路を快調に走っている。時速百六十キロ。予定の時刻より早く着きそうだ。
本多の頭に、コロンボと出会った頃のことがよみがえった。
旧友の田山に誘われて、パリに渡った本多は、田山の店の勧誘員になった。空港や繁華街をうろついて、チュイルリー公園の目の前にある田山の店に客を引っ張って来るのが仕事だった。口べたの本多。なかなか客を勧誘できなかった。素性を知られたくない本多は、名刺に酒井≠ニ刷った。そして、ダテ眼鏡《めがね》をかけ、髪をのばした。それでも、目ざとい人間はいるものだ。何人かの旅行者が「おたく、あの本多さんじゃないんですか」と訊《き》いた。シラをきり通す。顔がひきつり、やりきれない気分にとらわれた。
パリについて一年がすぎた時、経営者の田山が店をたたみ、帰国することになった。田山の父親が急死し、家業の呉服屋を継ぐことになったのだ。
店は人手に渡った。新しい経営者は、日本人ではなかった。若い、二十そこそこぐらいのイタリア女。名前はサンティーナ・ジャンニッニ。
日本人のスタッフは半分に減り、替わりにイタリア人が雇われた。店が二倍騒がしくなり、店の利益が三分の一に減った。
若い経営者が、商売に熱を入れていたのははじめの三、四か月だけ。かき入れ時の夏が来る頃には、ほとんど店にも顔を出さなくなってしまった。
勧誘の仕事。一年たっても、いっこうにうまくならなかった。
真夏の或る宵。店を閉めた後、本多はオーナーに呼ばれた。サンティーナは、優しい口調でクビを宣言した。職探しは困難だろう。労働許可証を持たない不法労働者。おまけに、パリに在留している日本人とは、まったく付き合いがない。本多は途方にくれた。
経営者に別れを告げ、戸口に向かった。
店の前に白いリムジーンが停《と》まるのが見えた。
八時少し前。パリの夏は日が長い。リムジーンのボディに夕日が映っていた。
顔に大きな傷のある男が車から下りた。スカイブルーのジャケットに黒いズボン。
男は入口で、本多が外に出るのを半身になって譲った。
短く礼を言った。と、その時、チュイルリーの鉄柵《てつさく》の向こうにいる男が目に入った。サングラスをかけた男は、なにげない仕種《しぐさ》で、懐《ふところ》から拳銃《けんじゆう》を抜いたのだ。
銃口が本多の方に向けられた。とっさの判断。本多は、抱きつくようにして、頬傷《ほおきず》の男におおいかぶさった。身長一メートル八十二。体重八十キロの本多の躰《からだ》。頬傷の男は簡単に歩道に倒れた。
銃声が三発。公園の樹木から、いっせいに鳥が飛びたった。悲鳴が起こった。抱き合ったまま倒れている本多と男を、ヤジ馬が取り囲んだ。リムジーンの運転手が、そのヤジ馬を乱暴に押しやり、ふたりの前に立った。運転手は懐に手を入れた。
「てめえ、何やってんだ」運転手の長く縦にきれた鼻が大きく開いた。
本多は黙って立ち上がった。サンティーナが飛んできた。
「ク、クラウディオ、ど、どうしたの?」
「いや、何でもねえ」不機嫌な声。
頬傷の男は、運転手に抱きおこされた。服についた埃《ほこり》を払っている。邪険な手つき。
「あんた、何があったの?」サンティーナが本多に鋭い視線を向けた。
大声で言える話ではない。耳打ちした。
「このムッシュは、店の人間なのか?」頬傷の男がサンティーナに訊《き》いた。
「ええ、まあ……」曖昧《あいまい》な返事。
「店に入ろう。ムッシュも一緒に来てくれねえか。礼がしてえ」ぼそりと言って頬傷は店に入った。
事務所に入ると、男は机《つくえ》の端に腰を下ろした。
「恩にきるぜ。あんたがいなかったら、今頃は、あの世行きだったかもしれねえからな」スカイブルーの上着からぶ厚い財布が出てきた。
百フラン札が数枚。無造作に本多のスーツの胸ポケットにつっこまれた。
「ありがとうございます、ムッシュ」
声が弾んだ。何枚あるだろう。日本にいた頃には考えられない、さもしい根性。本多は情けなかった。
「名前は?」
「ホンダです」
「バイクと同じか」頬傷《ほおきず》が葉巻を取り出し、短く笑った。「ホンダさん、今夜、起こったこと誰にもしゃべっちゃならないぜ。わかるな、この意味が」
「しゃべりませんよ。俺には関係ないことですからね」
「いい心がけだ」頬傷は満足げにうなずいた。そして、サンティーナを見た。「おい、この男の給料、上げてやれ」
「それが、クラウディオ……」サンティーナがうつむいた。
「なんか、まずいことでもあるのか?」
サンティーナが説明した。
「そうか」頬傷は、顎《あご》を撫《な》で本多を上目使いで見た。まじまじと。「あんた、勧誘員にはむいてねえみたいだな。日本じゃ、何やって食べてたんだ?」
「ベースボール。知ってますか?」
「知ってるよ。アメ公が好きなスポーツだ。気にいった。俺はスポーツマンが好きなんだ。どうだ、俺んところでしばらく働いてみるか。その躰《からだ》を遊ばせておくのはもったいねえ」
どんな仕事をやるのか。本多は訊かなかった。替わりに言った。
「何でもやりますよ、ムッシュ」
*
シャルル・ドゴール空港を十キロばかりすぎたところで高速を下り、県道に入った。道を知っているのは本多だけである。目印の少ない田舎道《いなかみち》。闇《やみ》の中を凝視しながら、サティに指示を出した。
森に入る。デコボコ道。ルイジに何かあってはことだ。サティに徐行運転させる。下草を踏むタイヤの音に茂みが反応した。小動物が驚いて逃げ去ったのだろう。
闇の彼方《かなた》に明かりが見えた。
「あれだ、モーリスの家は」
門の前に車が停《と》まると、モーリスが家から出てきた。
「ヨヨ、久し振りだな」極端に髪を刈り上げた四角い顔が微笑《ほほえ》んだ。
「世話んなるぜ」
「話は中で。四月といってもまだ寒い。怪我人《けがにん》を早く運び入れた方がいい」
レンガ作りの粗末な二階家。ドアの白いペンキは、いたるところがはげていた。
女房のジェルメーヌがドアを、大きく開けた。キャバレーで歌を歌っていた頃は、痩《や》せぎすの金髪だった。だが今は、染めた髪は茶に戻り、頬《ほお》にたっぷりと肉がついている。
暖かい部屋。温度のことではない。モーリスとジェルメーヌの人柄の温かさ。
「奥の部屋を用意してある。日中はよく陽が射すんだ」
ルイジをベッドに寝かせると、クーロンが簡単に診察した。そして、薬について、ジャン・イヴに説明した。
説明を聞き終わったジャン・イヴは、あたりを見回した。
「俺は、どこに泊めてもらえるんだい?」
「あんたは、そのドアの向こうだ」
ジャン・イヴがドアを開け、中を覗《のぞ》きこんだ。
「ちょっと狭いだろうが、我慢してくれ」
「かまいはしねえよ」
居間に戻る。モーリスが自家製の酒をふるまった。洋梨《ようなし》から作った強い酒。うまかった。
「寺院の建設は順調にいってるか?」
「もちろんだとも」モーリスが勢いこんだ。
庭に寺院や宮殿のミニチュアを造る。モーリスの趣味なのだ。サクレクール寺院、ヴェルサイユ宮殿、シャルトルの大聖堂……。
「昼間だったら、見せてやれるんだがね」モーリスが残念そうに言った。
「この人ったら、ほとんど病気よ。朝から晩まで庭で作業。あんまり、うつむいてばかりいるもんだから、ほら、背中が曲がってしまってさ……」女房はモーリスの背中を軽く触った。
「今度来る時、是非見せてもらいたいね」クーロンが口をはさんだ。
「そうしてやって下さい。見てくれる人が少ないのが、この人の唯一《ゆいいつ》の悩みなんですから」ジェルメーヌは笑い出した。
「ちょっと、すまねえ」ジャン・イヴがモーリスを見た。「ヨヨとふたりだけで話がしてえんだけどな」
「じゃ、わし等は、そろそろ寝るとするか。ゆっくりして行ってくれ。何なら、皆泊まって行ってもかまわんよ。そうしたら、明日の朝、わしの傑作をとくと見せて上げられる……」
ボルナール夫婦は顔を見合わせ微笑《ほほえ》んだ。
「話は外でするよ、モーリス。どうせ、もうそろそろ引き揚げなきゃならねえんだ」
ジャン・イヴに目で合図を送った。ふたりは、外に出た。
「何でえ、話って」
「ヨヨ……コロンボのところに戻ったんだってな」
ルイジがしゃべったらしい。
「それがどうした?」
「ヤマ踏む時にゃ、俺にも声かけてくれ。あんたのおかげで、俺もルイジも枕《まくら》を高くして寝られるが、ここにくすぶっていちゃ躰《からだ》がなまる」
「しばらくは、おとなしくしてるんだ。アルフォンジーに、今度の一件を知られてみろ。へたをしたら、あの世行きだぜ。死んじまえば、躰もなまらねえがな……」
ジャン・イヴの目が闇《やみ》の中で笑った。
「あんまり、ふらふら出歩くんじゃねえぜ。モーリスの造った寺院でも見て、ノンビリしていろ」
「分かったよ。ルイジのこともある。あんたの言う通りにするよ」
「例のゴールドマン宝石店の女、どうした?」
「心配いらねえ。段取りは整えてある。コロンボの命令は実行するよ」
「その気持ちを忘れるな」本多は、ジャン・イヴの頬《ほお》を優しく叩《たた》いた。
木曜日に来る。そう言い残してボルナールの家を後にした。
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工場見学
店を開けた。二日ぶりのこと。
板前の片岡に、ジャパン・センチュリー・エレクトロニック=iJCE)の社員が客にいるかどうか、それとなく訊《き》いた。
パリの本部に、最近、東京から派遣されて来た若い社員がふたり、ちょくちょく顔を出していた。
本多はJCEにコネをつけたかった。
無防備な現金輸送。嫌《いや》な予感がする。秘密を探り出すためには、社員に近づき、なんとか工場に出入りできるようにもって行かなければならない。
本多にはひとつの計画があった。日本人従業員を当てにして、工場まで、仕出し弁当の配達をやる。それを口実に、JCEとコンタクトを持つつもりなのだ。
オンフルールまで車で三時間。いや、飛ばせば、二時間ちょっとで着く。弁当を運べない距離ではない。意表をついた商売。相手が、申し出を断るにしても、不信には思わないだろう。
翌日、本部に勤務している社員のひとりが鮨《すし》を食いに現れた。三十前のひょろっとした青年。板前との会話を盗み訊《き》く。名前は加島。パリに派遣されてまだ間もないひとり者だった。あまり警戒心のない坊ちゃんタイプである。
会話に入るきっかけを見つけるのは簡単だった。なれない異郷の地。人から話しかけられるのは、望むところなのだ。
工場の食堂関係は、総務部長が仕切っていた。本多は弁当の件を話した。
千六百人の従業員中、日本人スタッフはたった三十八名。加島は我が事のように、採算のことを気にした。日本人スタッフの数が意外に少ない。少し当てが外れた。だが、本多はめげなかった。一度やってみたい。何を言われても、それで押し通し、おもむろに、部長に会えるように段取りをつけてくれないか、と頼んだ。相手は気軽に、申し出を引き受けた。安請け合い。そのきらいはあった。しかし、面倒がる様子はまるでない。本多は、その日の勘定を受け取らなかった。明日、早速、部長に連絡してみます。若い社員の声が、いっそう積極的になった。
翌日の昼間、加島から店に電話が入った。立元という部長は、本多と会うのを拒まなかった。ウイークエンド以外は、大概、工場にいるから、いつ訪ねて来てくれてもかまわない。ただし、役に立てるかどうかは保証の限りではない。加島は、てきぱきと部長の伝言を伝えた。
受話器を置いた本多は、サティを呼んだ。昼食時。店は客で混みあっている。サティも給仕を手伝っていた。
「ルイジのとこに顔を出せなくなっちまった。店を閉めたら、顔を出してやってくれねえか。俺は明日の夜、行くことにする」
「そりゃ、かまわねえが、ヨヨは……」
「JCEの工場見学だ。明日、コロンボに会うまでに、できるだけのことを調べておきてえんだ」
本多は簡単に食事をすませ、店を出た。
イギリス海峡に向かってのびる高速十三号線に乗る。パリを離れるに従って、車の数は次第に減り、場所によっては、本多のベンツ以外に、車の影すら見えないところもあった。
相変わらず肌寒《はだざむ》い。空が平坦《へいたん》な台地に溶けこんでいる。フランスの田園風景。死にたくなるほど退屈な眺《なが》めだ。
ルーアンを越えた辺《あた》りから、陽が照り出した。ポン・レベック街の手前で、高速を下り、県道五七九号線を海岸線に向かって走る。
オンフルールは、人口一万足らずの古い港町である。ひなびた雰囲気《ふんいき》は、かつては画家を魅了し、今は観光客に親しまれている。
本多も、これまで何度か訪れたことがある。高級リゾート地、ドーヴィルでカジノをやり、昼飯は大概、この町のレストランで食べた。海の幸。たまらなくうまい。
しかし、その日、本多は市街地には入らず、途中、県道一一九号線を右に折れた。加島に教わった通り、三本目の道を左に曲がった。
やがて、白い建物が見えてきた。広大な敷地。二階建ての工場が六棟、台地にへばりつくような格好で拡がっている。敷地をおおう樹木。環境をそこなわないように配慮されているらしい。
メインゲートの前を通る。店を出てから二時間二十五分たっていた。
門から工場まで、長いコンクリートのアプローチが続いている。トラック専用のゲートは他にあった。大型トラックが、ゲートから出て来た。そして、果樹園に囲まれた、滑走路のようにまっすぐに延びた舗装道路を、ゆっくりと南に向けて走り出した。
本多はメインゲートの横にある守衛室の前に立った。立元部長に面会を求める。
何の問題もなかった。警備員に教えられ、来客用の駐車場にベンツを入れ、ゲートの右奥にある事務所棟に入った。
タイルを敷いたエントランスホールの奥にソファが置いてあった。
立元部長は、すでにそこに座っていた。髪を長めにのばした中年男。
手《て》土産《みやげ》に持ってきた特級酒を立元に渡した。酒好きの男らしい。度の強い眼鏡《めがね》の奥で目が笑った。
「仕事熱心ですな。すぐに飛んでいらっしゃるなんて」
「ここまでなら、軽いドライブ気分で来れますからね」
「話は加島君から聞きました。アイデアとしては、面白いですな。しかし、日本人スタッフは四十人もいない。全員が毎日、注文すれば別だろうが、そうじゃないとすると、商売としてなりたちますかね」
「最近は日本食ブームでしょう。フランス人スタッフの中にも、注文する人も出て来るかもしれません。まあ、一度、試しにやってみたいんですよ」
「食堂に関しては、私が責任者なんですが、これくらい大きな会社になりますと、即答はできかねる。一応は東京本社の意見も聞かなくちゃならないし、おたくの衛生管理の面についても調べなくちゃならないしね……」
「わかります。検討していただくだけで結構なんですよ。今日はお目にかかれただけでも、来た甲斐《かい》がありました。私の方も、輸送面なんかで、具体的に煮つめてることがありますから……」
自然に、弁当の件を切り上げる。そして、話題を工場に移した。あくまで雑談である。本多は慎重に言葉を選んだ。
「……工場見学は許されていないんですか?」
「そんなことはありません。あらかじめ予約を入れていただくことになっていますがね」
「今度、私も見せてもらおうかな。加島さんにお願いすれば手続きできますね」
「そんな面倒なことをなさらなくても、作業棟の内部はお見せできませんが、周りなら、今から私が案内してさし上げますよ」
「そんな御迷惑をおかけするわけには……」本多は遠慮するふりをした。
「いいんですよ。今日は暇なんですよ」
立元に連れられて外に出た。六つの作業棟の二階に、ガラス張りの通路があり、すべてがつながっている。作業棟の他に、体育館、テニスコート、食堂、倉庫がぽつりぽつりと点在していた。
「あの建物は?」本多は、テニスコートの向こうの建物を指差した。入口にガードマンがふたり立っていたのだ。
「うちの心臓部。つまり、研究室です」
「なるほど、それで警戒が厳重なんですね」そう言いながら、もう一度、じっくりと建物に目をやった。
はっとした。入口の横に、現金輸送に使われているのと同じバンが二台|停《と》まっていた。どこにでもあるバン。この工場で使っていても何の不思議もない。だが、本多は気になってしかたがなかった。洗車もろくにしていないような薄汚れた車だったのだ。
事務所に戻りかけた時、フランス人の女が駆け寄って来た。
「部長……。リジューの手前で脱線事故があったそうです。ソニアが帰れなくなってしまったんですが、どうしますか?」
「復旧の見込みは?」
「駅の話によると、大した事故ではないようですが、いつ復旧するかははっきりとわからないそうです」
「フランスは、何事もスローモーだから、困ったもんだ」立元は本多を見て日本語で愚痴《ぐち》った。
「その人、パリに戻るんですか?」
「そうなんです」
「よかったら、私がお送りしましょうか」
「御厚意を無にしてなんだが、そういうわけにはいかないんですよ。労災の関係があってね。あなたが事故を起こしたら、いろいろ面倒なことになるんですよ」
細心な男を見て、本多はくすっと笑った。
「部長、ソニアは夜、パリで用があるんですって。車、手配しますか?」
「安全運転で帰りますよ。どうぞ、私の車を利用して下さい」
社員と親しくなれるチャンス。本多は積極的に親切な人≠装った。
「うん……」部長は迷った。しかし、少し間を置いて本多の顔を見て笑った。「御迷惑でしょうが、そうしていただこうか……」
立元は従業員にそのむねを伝えた。部長に別れをつげ、駐車場の入口で同乗者を待った。
急に空が曇り、雨がぽつりぽつりと降り始めた。この辺の天候は変わりやすいのだ。
ほどなく、すらっとしたロング・ヘアーの女が、大きなバッグを抱えて、小走りに走ってきた。黒っぽいスーツ。首に長いたっぷりとしたスカーフをまいている。
本多は助手席のドアを開けた。
「本多さん?」女は覗《のぞ》きこみ、日本語で訊《き》いた。
「ええ。どうぞ乗って……」
車を出した。
「助かったわ、あなたがいてくれて」短く笑った。
「脱線事故があったんだってね」
「そうらしいわ」
寡黙な女。訊かれたことには答えるが余計なおしゃべりはしない。
茶色の目。太い眉《まゆ》。ちょっと突き出た唇《くちびる》。美人というよりも、可愛《かわい》い感じの女である。顔つきからすると、年は二十二、三といったところだが、話し方や物腰はもっと大人《おとな》びた感じがした。
顔だちと日本語。日本人の血が入っているのは確かだ。
「君は、パリの本部にいるんだってね。秘書か何か?」
「いえ。ただのタイピスト」
「工場まで、わざわざタイプを打ちに来たの?」
「ええ。日本語のできるタイピストが病欠してたんです。だから、一週間だけ、ここに回されたのよ。ね、煙草吸っていいかしら?」
「どうぞ」
女はスティブサン・ブルーに火をつけ、弱い溜息《ためいき》と共に煙を吐いた。
「名前、まだ聞いてなかったね」
「そうね。ごめんなさい。ソニアよ。ソニア・テライ」
本多はまじまじとソニアの顔を見た。
「どうかしました?」
「ひょっとしたら、君には弟がいるんじゃないかと思って……」
「本多さんも野球をやるのね」淡々とした口調。
「やはり、君の弟か……」
急に親近感がわいてきた。
「あなたもあの子に、球をぶつけられたの?」
「いや、私は野球はやらない。ただ、この間の日曜日に、偶然、君の弟が投げているのを見たんだ。君もたまには……」
「見に行くわよ。でも、あまり面白《おもしろ》いとは思わない、野球って」
本多の口許《くちもと》から笑いがもれた。
「弟は、何やってるんだ。学生?」
「いえ。失業中よ」
「年はいくつ?」
「十八だけど……。どうして、そんなに弟に興味があるの?」
「君の弟には、素質がある。野球のね」
「本多さん、野球はやらないんじゃないの」
「今はね。だが、昔はやった」
「でも、プロだったわけじゃないんでしょ?」
一瞬、言葉につまった。
「……いや、素人《しろうと》だよ。でも、弟には素質がある」本多も煙草を取り出した。
高速の乗り口が、少し渋滞《じゆうたい》していた。雨は次第に激しくなった。
本多は、少年のことも野球のことも頭の中から追いはらった。
情報収集。ソニアを同乗させた、当初の目的を実行に移さなければならない。
「……さっき部長に敷地内を案内してもらったんだが、研究室の警備は、やはり、厳重なんだね」
「あそこには企業秘密がいっぱいだもの」
「最先端技術の宝庫。そういうことだね。しかし、それにしちゃ、あの前に停《と》まっていたバンがボロだったな」作り笑い。
「そう? どんなバンが停まってたかしら?」
「エスタフェットってルノーのやつだよ。ほら、二台前に走ってるだろう。あのバンだよ」
「ああ、あれね。そういえば、よく見かけたわ、工場内で。でも、あれがどうかしたの?」
「いや、超モダンな工場には似合わない。そんな感じがしたものでね」
一介のタイピスト。やはり、何も知らないらしい。いや、ちょっとした運搬に使っているだけのこと。自分の思いすごしなのかもしれない。
弟の話がきっかけとなった。ソニアは、モンパルナスの裏にアパートを借り、ひとりで暮らしていた。隣の猫が時々遊びに来る話を、楽しそうに本多に語った……。弁当の件、加島の話。会話はスムーズに流れた。
七時半すぎ、パリの入口にさしかかった。渋滞。ソニアが時計を見た。
「どこに送ればいい?」
「パリに入ったところでいいわ」
「急いでいるんだろう。本当にそれでいいのかい?」
「でも……」
「遠慮はいらんよ。俺がいなくても店はつぶれない。デートなんだろう?」
少し白い歯を覗《のぞ》かせ、ソニアはうなずいた。
「待たせるのが戦術なら、好きにしなさい」
「じゃ、悪いけど十一区のパルマンティエ大通り五十番地まで送って下さらない」
高速十三号線を下り、そのまま環状線に入った。
八時十分。パルマンティエ大通りに着いた。ソニアは荷物を抱えて、本多に礼を言った。
「日曜日の試合、見に行かないのか?」
ソニアが一瞬、困った顔をした。
「本多さん、行くつもりなの?」
「ああ」
「私は、多分、行けないと思うわ」
そう言い残して、ソニアは、五十番地と書かれた建物の中に入って行った。
帰り道、本多はソニアに言った自分の言葉を反復した。
弟には素質がある、野球のね
あの少年はモノになるかもしれない。もし、自分がコーチしてやることができたら……。
夢のまた夢。分かっている。本多は、雨に流れるネオンを見ながら、短く笑った。
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凶 報
店は、暇だった。フランス人のカップルが一組と、カウンターに日本人旅行者が二人いるだけ。雨が客足を遠のかせたらしい。
サティはルイジの様子をこと細かに教えた。怪我《けが》の方は順調に回復に向かい、近いうちに必ず、オーソレミヨ≠ェ歌える。クーロンはそう保証して帰ったそうだ。しかし、何となくルイジは元気がなく、くどい程、迷惑をかけてすまない、と謝っていた、とサティはつけ加えた。借りを作るのが嫌いなルイジ。人の世話になりっぱなしでいるのが重荷なのだろう。
閉店後、自室でひとりになった。リカールを飲みながら、ルイジにもらったカミキリ虫について調べた。
セネガルからアンゴラにかけて生息している。それだけの説明しか書いてなかった。そして、名前はラテン語で記載されているだけだ。
ラテン語などまるで読めない。図鑑を放り出し、他の標本の横に、カミキリ虫を置いた。
もとより、趣味の少ない本多。その上、独身である。汚れたシャツが椅子《いす》の背にかけてあり、食器も流しに山積みになっている、ゴミタメのような住まいで、燦然《さんぜん》と輝いているのは、甲虫類の標本だけである。
二百種類ほど、これまで集めた。店を持ってから、一度、マダガスカルに出かけたことがあった。日本やフランスではお目にかかれない、鮮やかな色彩のコガネ虫を何種類か採集できた。しかし、コレクションのほとんどは購入したものである。
十年ほど前、スペインを旅行した。モロッコからジブラルタル経由でヤクを陸送する手筈《てはず》を整える。旅行の目的はそれだった。ホテルの庭でクワガタ虫を見つけた。みがき上げた銅板のような光沢《こうたく》。甲虫類の美しさに魅了されたのはこの時からである。いつまで見ていてもあきない。心が洗われるのだ。
静まり返った部屋で、本多は酒を飲み続けた。現金輸送車襲撃……速球を投げる少年……そして、その姉……。頭の中をめぐるものは、この三つのことだった。
電話が鳴った。とっさに躰《からだ》を起こした。六年間、ほとんど忘れていた緊張。
受話器を取った。ジャン・イヴ。泡《あわ》を食っていた。
「たいへんなことになった。ルイジが……」
「どうした? 具合、悪くなったのか?」
受話器の中に沈黙が流れた。目をつぶり歯を食いしばった。
「クーロンの野郎、大丈夫だって保証したくせに……」やっと声になった。
「ヨヨ、そうじゃねえんだ。殺《や》られた。ルイジだけじゃねえ。ボルナール夫婦も」
「殺られた……」放心状態。
「俺、あのスケをバラしに行ったんだ。そっちの方はうまく行ったが、帰ってみると、全員、撃たれてた。お、俺を責めねえでくれ。俺はコロンボの指示通りに……」
「すぐに、そっち行く」
受話器を置いても、すぐには着替えに移れなかった。籐《とう》の椅子《いす》に腰を下ろしたまま、しばらくじっとしていた。
「なんてことだよ、なんてことなんだ……」
ひとり言が、本多の意識を元に戻した。
ひょっとすると、コロンボの野郎が? もしそうだったら……。奴の息の根、俺が止めてやる。
黒いブルゾンを引っかけ、本多は外に出た。雨はあがっていた。
コロンボ、ガルディアン、クーロン、そしてサティ。あの隠れ家を知ってる連中の名前を順に呟《つぶや》いてみる。サティが殺った? 考えられない。クーロンも除外していいだろう。
もっとも臭いのは、ガルディアンだ。奴が、コロンボに内緒で始末した。おおいにありうる。
ギアをトップに突っこんだ。荒っぽい手つき。スピードを上げる。百五十、百六十、百七十……。
森の中の一軒家。銃声など周りには聞こえなかったに違いない。
ジャン・イヴ。奴がルイジを殺る? これも考えられない。奴は「女を片づけに行った」と言った。嘘《うそ》はあるまい。
アルフォンジーの一味が、ゴールドマンを殺った奴等の正体をつかみ、隠れ家を襲った? ちょっと手際がよすぎる。
ボルナール家に着いた。午前三時少し前。あたりは漆黒《しつこく》の闇《やみ》に包まれていた。
家の中に飛びこんだ。
「ヨヨ、俺がここにいれば……」本多の肩口で、ジャン・イヴが言った。
田舎造《いなかづく》りの丸テーブルの横に、モーリスが倒れていた。赤白のチェックのテーブルクロスを、倒れる際に引っ張ったらしい。洋梨《ようなし》の酒瓶《さかびん》とグラスが割れ、寺院の写真集が床に転がっていた。
顔をそむけたくなる光景。モーリスの顔と腹。蜂《はち》の巣だった。女房の方は階段の前に、うずくまっていた。
巻きぞえ。隠れ家として使わせてくれ、と彼等に頼まなかったら……。生唾《なまつば》を飲んだ。黙りこくったまま、ルイジの部屋に入る。
ルイジはベッドの上に仰向けに倒れていた。モーリス同様、銃弾を何発も撃ちこまれている。かすかに開いた口。微笑《ほほえ》んでいるように見えた。
「襲ってきた奴等は、ひとりじゃねえな」戸口に立ったジャン・イヴの声が聞こえた。
「お前、何時にここに戻った?」ひと呼吸おいてから訊《き》いた。ルイジの死に顔を見つめたまま。
「あんたに電話した直前だよ。二時半頃だ。な、やっぱし、コロンボが俺達の存在が煙ったくなって、人をよこしたってことかな」
「シャベルと手袋、探して来い。裏に物置があったはずだ」
「何やらかそうってんだ、ヨヨ」
「埋める。こんなとこで、蛆虫《うじむし》に食わせようってのか」語気が荒かった。
ジャン・イヴが部屋を出て行った。
あたりを見回した。刑事の心境。何か証拠でも転がっているかもしれない。だが、何も出てこなかった。
居間に戻る。しゃがみこんで、モーリスの死体の様子を見た。モーリスの腕時計に弾がかすったらしい。
一時三十六分で時計の針は止まっていた。襲われた時刻。おそらくそうだろう。
シャベルを持ってジャン・イヴが戻って来た。まず、部屋中の指紋を消す。それから、庭に出て、穴を掘り始めた。
懐中電灯の光の輪の中に、サクレクール寺院が浮かび上がった。
再び、胸に迫るものがあった。
風が梢《こずえ》をならした。本多は、叢《くさむら》に光の輪を移動させた。
作業が終わったのは、空が白み始めた頃だった……。
本多とジャン・イヴは、それぞれの車でパリに戻った。午前七時。高速一号線の出入り口になっているシャペル門のカフェに寄った。
作業員風の酒焼けした男がふたり、カウンターでペルノーを引っ掛けていた。
本多は奥のテーブルにつき、エスプレッソのダブルとクロワッサンを注文した。
ジャン・イヴは不精髭《ぶしようひげ》をなでながら、充血した目を本多に向けた。
「どうしたらいい、俺は? ヨヨ、何とか助けてくれ。今度は俺が……」
「午後、コロンボに会う。奴が、ルイジを殺《や》らせたとしたら、俺は黙っちゃいねえ。お前をかくまってくれそうな信用できる奴はいるか」
「まあ、心当たりはある」
「よし、お前はしばらくそこに潜んでいろ」
「俺はコロンボの命令通り、ゴールドマン宝石店の女を殺ったんだ。気が進まなかったけどな」
「その話、まだ詳しく聞いてなかったな」
「ことはあっと言う間にすんだよ」ジャン・イヴはクロワッサンを半分に割り、コーヒーにつけた。「女は、オルリー空港の近くに住んでたんだ。マンションの地下駐車場で……」そこまで言って、右手を握りぎゅっとひねった。
「証拠、残さなかったろうな」
「ぬかりはねえ。俺と女の関係を示すものは何もねえよ。俺が女を絞めてる頃、ルイジ達が……」
「もう忘れよう」本多は吸っていた煙草を床に捨て、強く踏み消した。
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幹部会議
「どうした、ヨヨ。遅刻じゃねえか。お前らしくもねえ」キューをかまえた格好で、コロンボが本多を横目で見た。
「すみません」
球が撞《つ》かれた。ポケットのコーナーを球がくるりと回った。
「イージーミスだな」コロンボはキューを台の上に放り投げ、テーブルについた。
天井に梁《はり》がめぐらされた落ち着いた部屋。壁には、ポップアート調の絵が飾られている。
ビリヤード台の横に長方形のテーブルが置いてあり、三人の男が座っていた。
ひとりはガルディアン。あとのふたりは、フランキーとロジェ。
本多はガルディアンの隣の席についた。
「歓迎するぜ、あんたが戻って来たのを」フランキーが皺《しわ》だらけの手を差し出した。
握手を交わす。ロジェがフランキーに続いた。ふたりとも孫のいるヤクザ。とっくに野心など捨てている。
四人とも、コロンボが何か言うのを待っていた。しかし、妙な雰囲気《ふんいき》がする。全員、ピリピリしているのだ。
「ボス」たまらず口を開いた。「例の件の話をする前に……」
コロンボが右手をかざして、本多を見た。
「俺も話がある。例の件に関係ねえ話がな」
「何です?」
「アルフォンジーが昨日、電話をよこした」
本多は他の三人の顔を見回した。皆、すでに事情を知っているらしい。ピリピリしているわけが呑《の》み込めた。
「ゴールドマン宝石店を襲ったのが、俺の配下の者だろう、と言ってきたんだよ」コロンボは葉巻に火をつけた。
「それで、慌《あわ》ててルイジ達を始末したんですか?」コロンボを睨《にら》みつけた。
煙の向こう側でコロンボの動きが止まった。傷のある方の頬《ほお》がピクリと動いた。
「もう一度、言ってみろ。ルイジがどうしたって?」
「ボスは本当に知らないんですか?」
「ヨヨ、口のきき方に気をつけろ」ガルディアンが低い声で言った。
「ルイジは、昨晩、俺が用意した隠れ家で殺された。弾を何発もぶちこまれてね。それに、家を提供してくれた俺の友人夫婦も巻き添えをくらって死んじまった」呼吸が荒くなった。
「お前、それをやらせたのが、俺だってえのか」
「隠れ家に移したのが、四日前。アルフォンジーの一味がやったにしては手際がよすぎる」
「ジャン・イヴはどうした? 奴は助かったのか」
「運よく、あいつは、ゴールドマン宝石店の女を殺りに出掛けていた。ボスの命令は、きちんと実行に移されましたよ」
コロンボが頬傷《ほおきず》をさすった。沈黙。
「俺はそんな命令を出しちゃいねえぜ」
「そうかもしれません」
「そうかもしれません≠セと! なんだ、その言い草は!」コロンボがどなった。「お前は……」
コロンボの隣にいたフランキーが、コロンボをたしなめた。
本多は動じなかった。挑《いど》むような目。コロンボの顔から離さなかった。
「ボスが命令を出さなくても、そのくらいのことをやってのける部下がいるかもしれない」
ガルディアンに視線を移した。
「おめえ、俺がやったといいたいらしいな」
「お前しかいねえ」
いきなり、パンチが飛んできた。右頬に。不意をつかれた。本多は椅子《いす》ごと、ビリヤード台の近くまで飛んだ。
「ふざけた口、ききやがって」
ガルディアンが立ち上がった。
「やめねえか!」ロジェが叫んだ。
赤毛はロジェを無視した。表にいた用心棒のジョゼが部屋に飛びこんで来た。
「手だしするんじゃねえ」ガルディアンが吠《ほ》えた。
ジョゼの足がぴたりと止まった。
ビリヤード台の縁《ふち》に手をかけ、本多は起き上がった。
身構えた瞬間。またパンチが飛んできた。躱《かわ》した。赤毛の躰《からだ》が前につんのめった。首にパンチをくらわす。ガルディアンの顔面が、危うく台にぶつかりそうになった。相手の肘《ひじ》が腹に入った。倒れなかった。二、三歩よろよろと後退した。
睨《にら》み合った。本多は低く構え、一歩前に出た。ガルディアンは台に沿って、横に移動した。キューを後ろ手で握った。
「その辺で止めておけ。俺の大事なキューを折られちゃかなわねえ」コロンボが声を飛ばした。
元サッカー選手と元野球選手は、しばらく動かなかった。
「座れ! チンピラみてえに殴り合ってる時じゃねえ」
本多が先に動いた。
「ボス、この野郎の言い草、聞いたでしょう。俺は、ボスの命令なしにルイジを片づけたりはしねえ」ガルディアンがカツラを気にしながら訴えた。
「ヨヨ。むやみと仲間を疑うのはよくねえぜ。俺はガルディアンを信用する。こいつは、俺に隠れてそんな真似《まね》をする奴じゃねえ」
「しかし……」
「落ち着け、ヨヨ」フランキーが言った。「アルフォンジーの奴等が絶対やらなかったという証拠はねえだろう」
本多は黙った。
「ダチをバラされた、ヨヨの気持ちはわかるぜ」コロンボが椅子《いす》の背にもたれかかりながら言った。「だがな、頭冷やして考えてみろ。いったん、お前に預けた野郎どもを、お前に断りなしに始末したりはしねえよ。俺もガルディアンも」
「……アルフォンジーからの電話の内容、詳しく教えてくれませんか」
「あの野郎はこう言った。あんたの配下の連中が、俺の親戚を殺《や》って宝石をかっぱらった。筋目を通してもらわなくっちゃ、せっかくの平和協定がフイになる=Bやけに自信たっぷりの口調だったぜ」
「カマかけてんじゃないですかね」ロジェが言った。
「俺も今の今まで、そう思ってた。だが、ルイジをバラしたのが、アルフォンジー一味だとすると、話は違ってくる」
「どうするつもりなんです、ボス?」本多はジターヌに火をつけた。
コロンボの口振り。信用できた。だが、ガルディアンに対する疑いは以前のままだ。
「アルフォンジーの野郎は、明後日、話し合いてえと言っている」
「承知したんですか?」
「仕方あるめえ」不機嫌な口調。コロンボは躰《からだ》を起こし、テーブルに肘《ひじ》をついた。「そうだ、ヨヨ……。お前、俺と一緒に来るか? ガルディアンは、明日、ストラスブールに飛んで月曜日まで帰ってこないんだ」
「わかりました。場所と時間は?」
「場所は、ピガールにある奴のクラブアネモンヌ=B時間は午後八時。いったん、ここに寄ってくれ」
「ヨヨ、カッカするんじゃねえぜ。ダチを殺られたからってな」ガルディアンが厭味《いやみ》を言った。
本多は薄笑いを浮かべて受け流した。
短い沈黙の後、コロンボが口を開いた。
「で、ヨヨ、現金輸送車の件だが、何かわかったか?」
「いや、今のところは工場にコネつけた程度で、何もわかってちゃいません。ただ、ちょっと気になることは、輸送に使っているのと同じ小汚ないエスタフェットが二台、工場内にあったことです」
「お前、工場に侵入したのか?」
「表門から堂々と入って、部長のひとりと会ってきましたよ」
「さすがお前、やることが早いな」
「で、何でバンが気になるんだ?」ロジェが訊《き》いた。
「はっきりとした確証はないんですが、あの会社じゃ、ビデオやコンピューターを作っている。ですから、妙な仕掛けを開発してないとは限らねえ。二台のバンは、研究室の前に停まっていた。ですから、余計に引っ掛かりましてね」
「それは、機材輸送用に使っているバンじゃねえのか」フランキーが言った。
ロジェは黙ってうなずいた。
「一体、おめえはどんな仕掛けがあると思ってんだ?」ガルディアンが訊いた。はなっから本多の言葉を信用していない口振り。
「それは俺にもわからねえ。おそらく、新手の警報装置の類《たぐい》じゃねえか」
「ふん。どんな警報装置だって、襲う場所を選べば、大して役に立ちゃしねえよ。俺は、ヨヨの考えすぎだと思うぜ。今度の給料日にやりましょう、ボス」
「フランキー、お前はどう思う?」コロンボが訊いた。
「そうですね。俺もガルディアンに賛成だ。やるなら早い方がいい。どんな仕掛けをこうじてあったとしても、運転手を人質にとりゃことは解決する」フランキーはにんまりと笑った。
荒手のヤマが昔から得意だったフランキーらしい発言だった。
ロジェも一応、フランキーに同意した。だが、ぎりぎりまで本多に内情を探らせ、それまでに何か決定的な不都合が見つかった場合は、すぐに計画を中止することを提案した。
コロンボは満足げにうなずいた。本多が異議を唱える余地はまるでなかった。
「四月二十三日、計画を実行する」コロンボがきっぱりした口調で言った。
「ボス、何人くらいでやるつもりです?」ロジェが訊《き》いた。
「運転手がひとりだから、そっちの方を押さえるには、人手はいらねえ。だが、一千五百万フランが五百フラン札で積まれているとして、三万枚の札を運ばなきゃならねえ。そうだな……念のために四、五人は事に当たらせよう。人選はガルディアンとヨヨに任せる」
「俺も襲撃に参加するんですか?」本多が上目づかいで訊いた。
「当たり前だ」
「ボス、俺の息のかかった奴を集めてやった方が……」ガルディアンが口をはさんだ。
「ちょっと待て。お前等が、お互いを好きになれねえのはしかたあるまい。だが、これだけは言っておく。今度の件が終わるまでは、いざこざを起こすな。わかったな」
本多とガルディアンが睨《にら》み合った。そして同時にコロンボを見てうなずいた。
会議は終わった。酒とツマミが運ばれて来た。
「前祝いだ」コロンボがグラスを上げた。
本多はそんな気分にはなれなかった。しかし、黙ってグラスを上げた。
パトリスが夕刊を持って現れた。
「ジャン・イヴの殺《や》った女の記事が載ってるでしょう」本多が言った。
コロンボがページをめくった。
「これだな……。宝石デザイナー、マンションの地下駐車場で絞め殺される=c…。俺の命令通りにやってりゃいいんだ」満足げに呟《つぶや》き、読み終わった新聞を本多に渡した。
女は、ブリジット・ピシュリーという三十二歳の女だった。車の中で殺されているのをマンションの警備員が発見。死亡推定時刻は今朝の午前一時から三時の間とあった。警備員の巡回が行われない時間を見はからっての犯行と警察はみているらしい。
彼女の勤め先の宝石店が先頃、強盗に襲われたことも末尾に記載されていた。
本多は新聞をロジェに回し、シャンペンを口にした。
ドアが開いた。サンティーナが颯爽《さつそう》と入ってきた。
赤いシャツスタイルのブラウスに黒いパンツ。ハイヒールも赤。
官能的なぶ厚い唇《くちびる》が、全員に挨拶《あいさつ》した。
「お前も、一緒に食うか?」コロンボが、横に立ったサンティーナの腰に手を回した。
「おいしそうだけど、やめとくわ。最近、二キロも体重が増えたのよ」
「俺は太った女が好きなんだ。かまわん食え」
「好きな男に太れ、と言われても、はいそうですか、とは太れないのが女というものよ。でも、シャンペンなら一緒にいただくわ」
サンティーナはコロンボの横に座った。フランキーがグラスに酒を注いだ。
サンティーナは買物に出掛けていたらしい。どこで何を買ったか、コロンボに話した。娘みたいな歳《とし》の女のファッションや宝石の話に、コロンボはいちいち笑《え》みを浮かべて応対していた。だが、さすがに疲れたのか、サンティーナがひと呼吸おいた時、話題を変えた。
「ヨヨ、今、ジャン・イヴはどうしてるんだ?」コロンボが蟹《かに》の脚を折りながら訊《き》いた。
「奴の友人のところにかくまわれています」
「アルフォンジーに狙われるかもしれねえ。もっと安全な場所に移してやんな」
「わかりました」
モーリスの家よりもっと安全な場所? 見当がつかない。宝石店が襲われてから一週間もたたない間に、どうやってアルフォンジー一味が、隠れ家をかぎつけたのだろうか?
疑惑。コロンボの周りに敵と通じてる奴がいるのかもしれない。
シュリンプ・カクテルを口に運びながら、全員の顔を盗み見た。
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眠っていた情熱
日曜日がきた。
目覚ましが鳴る前に目がさめた。カーテンに陽射しが映っている。試合は予定通り行われるだろう。
遠足の朝の子供のように、落ち着きを失っている。本多は微笑《ほほえ》んだ。照れ笑い。草野球を観戦しに行くだけではないか。
ラフな格好をしたかった。だが、夜、アルフォンジーのクラブへ行かなければならない。着替えに戻るのは面倒だ。本多は久しく着ていなかった深いグリーンのスリーピースをタンスの中から引っ張り出した。
十二時半頃、本多はブローニュの森についた。
四月に入って、いちばんすがすがしい日。太陽が顔を出し、空は高みにあった。気温もかなり上がっている。
投手、特に本格派の投手は、寒いと調子がでないものだ。
寺井少年は、一塁側の横で軽くウォーミング・アップをしていた。
本多は少年から五、六メートル離れた場所に立ち、煙草に火をつけた。
キャッチャーミットをならす音。本多の胸はとどろいた。
背番号のないユニフォームを着た男が、キャッチャーの後ろにやって来た。監督、或いはコーチらしい。三十を少し越えたくらいの若者で、身長はそれほどないが、がっしりとした躰《からだ》をしていた。目許《めもと》が涼しい、いかにもスポーツマンタイプの美男子。
「スライダーを投げてみろ」その男が言った。
投げた。悪くないスライダー。カーブよりも制球力があるようだ。
しかし、本多は気にいらなかった。
スライダーなんか投げさせなくていいんだ。本多は、男を睨《にら》みつけた。
あのスライダーを多投すれば、きっと試合には勝てるだろう。打者を牛耳れれば気分がいい。だから、また、次の試合でも、スライダーを投げるようになる。
スライダーは少年の速球をダメにする。なんてことを教えてるんだあの男は……。
「ボン・ジュール」背中で声がした。
振り向いた。ソニアが微笑んでいた。
「真剣な目つき。まるでコーチみたい」
「君は来ない予定だったんじゃなかったのか」
「気が変わったのよ」
ソニアは、ヤンキースのスタジャンにジーンズ姿だった。
「野球に興味ないのに、ヤンキースのスタジャンを着るのか?」
「大リーグのスタジャン、流行《はや》りなのよ。似合うかしら?」
「似合うよ」本多は優しく微笑《ほほえ》んだ。
「今日の対戦チームはパリで一番、強いチームなのよ」
「ヴォルテール・タイガース≠ヘ、去年のシーズンは何位だったんだ?」
「四位よ。どの試合も、弟の調子次第できまるのよ」
「キャッチャーの後ろに立っているのが、監督なのか?」
「ええ」ソニアの表情が少し緊張した。
「あいつに任せておくと、君の弟はきっとダメになる」
「でも、ルネは……」そこまで言って口をつぐんだ。ソニアの視線が本多から離れた。
本多はソニアの視線を追った。背番号のないユニフォームの男がこちらに近づいて来た。
「やあ、ソニア」唇《くちびる》に軽くキスをした。「やっぱり来てくれたんだね」
「私、弟の試合を観に来たのよ」
気づまりな雰囲気《ふんいき》。深い関係にあるふたりらしい。本多は黙って、そばを離れようとした。
「本多さん、改めて、紹介するわ。ルネ・ランベール。ヴォルテール・タイガース≠フ監督よ」
短い挨拶《あいさつ》をかわした。
「本多さんの話だと、ミッシェルには素質があるんですって」
「僕もそう思います。本多さんも野球通なんですか」
「日本人の男なら、誰でも少しは野球を知っているよ」ひかえ目に笑った。
「あなたがコーチすると、ミッシェルはダメになるそうよ、本多さんによると」
困った。本多はソニアをじっと見つめた。
「それは、どういう意味でしょう?」監督は無理に抑えたような声で訊《き》いた。
「スライダーを投げさせるのは、まだ早い、と思っただけですよ」
「何故《なぜ》ですか?」挑《いど》むような目。「やっと僕が教えたスライダーを投げられるようになったんですがね」
「しかし……」本多は口ごもった。
内部に変化が起こりつつある。長い時間眠り続けていた野球への情熱が、むっくりと頭をもたげ始めた。
「はっきりとおっしゃってくれていいんですよ」ルネがたたみかけた。
「スライダーは、知ってると思うが、曲がりが大きい。だから、球ひとつベースの中に入れてもかまわないんだ。だから、あれでストライクを取るくせをつけると、速球のコントロールが知らず知らずのうちにあまくなる。コーナー一杯を狙う球が投げにくくなるんですよ」
「ですが、ミッシェルはひどくコントロールが悪いんです。ところが、何故かスライダーだけはいい。試合に勝つためには……」
「彼をつぶしたくなかったら、ストレートのコントロールをつけさせるべきだ」
「言うのは簡単ですよ。それに、ミッシェルはプロになるわけじゃない。野球を愉《たの》しんでいるんですよ。スライダーがよければスライダーを投げる。それでいいです」負けず嫌いの若者は、本多をじっと見つめたままきっぱりと言ってのけた。
「……私は余計なことを言ったようだ。君の言う通りだよ。失礼した」
本多は笑みを残して、その場を離れた。
ルネとソニアが、何か話し合っている。何度かちらっとソニアの視線が本多に向けられた。
やがて、試合が始まった。
先攻はヴォルテール・タイガース=B小柄な青年が、右バッターボックスに立った。極端なクラウチング・スタイル。
相手チームのピッチャーは左腕だった。カーブの切れはいいが、球にスピードはない。しかし、かなり野球歴はあるようだ。帽子からはみ出た金髪。ひょっとしたら、アメリカ人かもしれない。
ソニアがゆっくりとした足取りで、本多の横にやって来た。
「君の恋人を怒らせてしまったようだ。すまなかった」
「いいのよ、気にしないで。私達、もうお終《しま》いなんだから……」
ソニアがちらっと本多を見て微笑《ほほえ》んだ。
本多はグラウンドに目を向けたまま黙っていた。一番バッターは、緩い変化球に泳いだ。セカンド・ゴロ。
「本多さん、熱弁ふるったわね。まるでプロのコーチのようだったわ」
「相手のピッチャー、フランス人じゃないようだね」
「アメリカ人よ。向こうの大学で野球をやっていたそうよ」
「やはりね」
二番バッターは、高めのボール球に手を出して、スイングアウトの三振。ミッシェル・寺井は、三番バッターだった。
「ミッシェル、行け!」声援が飛んだ。
一球目を打った。ファール。軸はぶれないし、振りも悪くなかった。
九年のプロ生活で、本多は三本のホームランを打ったことがある。バッティングにも自信はあった。
ワン・ストライク、ツー・ボール。
四球目はストレート。打った。リストがかなり強いらしい。球は左中間に飛んだ。センターが懸命に追う。寺井が走る。センターが危ういところでランニング・キャッチした。
相手チーム。トップを走るだけのことはある。なかなか鍛えられているチームのようだ。
寺井はヘルメットをグラウンドにたたきつけ悔しがった。
一回の裏に入った。本多の目つきが変わった。
人殺し≠ニいうヤジが飛んだ。
はじめから変化球が多かった。監督の指示。本多は、苦い顔をして、背番号のないルネの背中を見つめた。
ルネが自分に挑戦している? 馬鹿が!
一番バッターの頭には四球がちらついている。二球目のカーブは肩口から入った甘い球。だが、打たなかった。結局、スライダーを振って三振した。
予期しなかったスライダー。二番打者はボテボテのピッチャー・ゴロに終わった。
スライダーは芯でとらえれば、よく飛ぶ。本多はどこかで、寺井が痛い目に合うことを期待していた。三番バッターは左利きだった。五球目。外角いっぱいに速球が決まった。見逃しの三振。
今の球だ。今の球を何球も放ることができれば……。
守備に散っていた選手が引き揚げてきた。ミッシェル・寺井は得意満面の表情で、姉を見て笑った。
ルネもこちらを振り返った。勝ち誇ったような表情。
「今日のミッシェル、調子いいわ。私が観に来てはじめてのことよ、フォア・ボールを一回に出さなかったのは」
「ストレートのコントロールをつけなきゃプロにはなれん」思わずつぶやいた。
「プロ?」はなっから本多の言ったことを馬鹿にした笑い。「これは草野球よ、本多さん。本気でミッシェルがプロになれると思ってるの?」
「なれる」真剣な表情でソニアを見た。
日本の球場のマウンドに立たせてみたい。この時、はじめて本多はそう意識した。
「本多さん、この間、素人《しろうと》だって言ってたけど、本当はプロだったのね」
答えたくなかった。話せば、とめどなく過去の栄光を語りたくなると同時に、忘れようとしても忘れられないもうひとつの過去を、思い出さざるをえないからだ。
「ミッシェルはプロになる気があると思うかい?」
「さあ……多分、ミッシェル自身、考えてみたこともないんじゃないかしら」
「彼に話してもいいかな?」
「私に断ることはないわ。ミッシェル自身が決めることだから。でも、ルネがどういうかしら?」
「彼には何の権利もないじゃないか」
「権利はないけど、ミッシェルに野球を教えたのは、ルネよ。ルネがミッシェルをあれだけにした。だから……」
「彼とも話してみよう」
歓声がわき起こった。ヴォルテール・タイガース≠フ打者が二塁打を打ったのだ。
「ルネの商売は?」本多は煙草に火をつけながら訊《き》いた。
「ナション広場で、運動具店とスポーツクラブをやっているわ。昼間店に出て、夜はクラブにチームのメンバーを集めて練習させてるの」
「ボランティアってわけか?」
「そう。商売抜きよ。フランスじゃ野球用具はすごく高いの。ルネが店の品物を貸したり、ユネスコなんかの人のを借りてきたりして何とかやってるのよ。彼の父親がユネスコの関係でアメリカにいたことがあったのよ。彼は高校も大学も向こうなの」
アメリカで野球の面白《おもしろ》さにとりつかれたフランス人。納得がいった。
「どこを守ってたんだ。彼は向こうで野球をやっていたんだろう」
「キャッチャーよ」
キャッチャーのリードの良し悪しは、すべて相対的である。試合の状況、バッターの技量、ピッチャーの出来……。そういったものを読むのが仕事なのだ。
しかし、ピッチャーは違う。内角と外角にきちんとコントロールされる速球があれば、まず間違いなく順当に勝ち星をあげることができる、いわば絶対的な存在なのだ。
ルネがミッシェルに幅広いピッチングをさせようとしているのは、やはり、出身がキャッチャーだからかもしれない。
「メンバーはどんな連中なんだい?」
「ほとんどが十一区に住む、労働者の子供達よ。仕事にあぶれているのやら、不良少年やらが多いわ。いちじき、スケボーが流行《はや》ったことあったでしょう? あんな感じで、下町の若者に人気があるのよ、今は」
「ミッシェルも確か、無職だったね」
「ええ。たまにバイトで金稼いでるみたいだけど……」
ひときわ大きな歓声。センター前ヒットで、二塁走者が生還したのだ……。
二回の裏。四番からの攻撃。バッターはセンターを守っていた青年だった。
「あのバッターもアメリカ人で、彼も高校で野球をやっていたそうよ。ミッシェルの一番の宿敵は彼よ。去年のシーズン、彼に三本もホームラン打たれているんだから」ソニアが教えてくれた。
「外人は何人まで許されているんだい」
「ふたりよ」
「日本と同じだね」
「決まってるわ。日本を真似《まね》たんですもの」
ストレートで勝負してみせろ。フォアボールでもかまいはしない。
しかし、本多の期待は見事に裏切られた。
二球目ボールの後のスライダーを右中間に運ばれた。三塁打。コースが甘かったのだ。
不満。本多は思わずクソ≠ニ低くうめいた。
しかし、ミッシェルは後続をたった。ショートフライにショートゴロ。そして最後は、ライトライナー……。
ミッシェル・寺井は、フォアボールこそ五つ出したが、ヒット二本に抑える好投を見せていた。相変わらず変化球を主体とした投球内容だった。
一対〇のまま七回に入った。
相手チームの三番バッターの、なんでもないゴロをファーストがエラーした。
四番バッターが登場。二本のヒットはいずれも彼が打ったものだった。
一球目はストレート。大きく外れた。しばらく聞かれなかったヤジがまた飛びはじめた。
二球目もストレート。だが、一球目よりもさらにひどい球だった。暴投。一塁ランナーは難なく二塁に進んだ。
「あれで本当にプロになれるの?」
ソニアの問い。答える気などなかった。
セットポジションからの投球。まるでダメだった。だが、気にするな。俺の前で欠点をさらけ出せ。
しかし、ミッシェルは安全策を取った。スライダー。外角に大きく流れた。打者は思いきりスイングした。スライダーを狙っていたらしい。しかし、バットはあえなく宙を切った。
「その調子だ!」ルネが声を飛ばした。
バッターは、次の狙い球もスライダーに的をしぼっているはずだ。ストレートを投げろ。
投げた。またもやスライダー。白球が舞った。球はレフトの頭上をライナーで越えた。ランニングホームラン。あっと言う間に二対一と逆転されてしまった。
本多の口許《くちもと》に笑《え》みがこぼれた。
「何故、笑うの? ミッシェルが打たれたというのに」非難している雰囲気《ふんいき》はなかった。いぶかっている。そんな感じの口調だった。
「彼のためにはこれでいいんだ」本多はひとりでうなずいた。
その裏にヴォルテール・タイガース≠ェ長短打三本で、二点を取り逆転に成功。結局三対二で勝った。
ルネが戻ってきたミッシェルと握手。労をねぎらうように、肩をポンポンと二度ばかりたたいた。
「さあ、ミッシェルのところに行きましょう」
「ああ」そう答えたが、一瞬、本多はためらった。
気後れ。何故《なぜ》か、ひどく緊張していた。
「どうしたの? 行かないの?」ソニアが振り向いた。
「いや、行くよ」
ミッシェルは他の選手達と少し離れたところで、タオルで顔の汗を拭《ぬぐ》っていた。
「調子良かったわね、今日は」ソニアがフランス語で言った。
「新しい球を投げてみた。なかなかいけるんだ、その球が」
「こちらね、本多さんっていってね、オペラで日本レストランを経営している人なのよ」
ミッシェルはフランス語で挨拶《あいさつ》した。
彫りの深い顔立ちだが、目は切れ長だった。鋭く精悍《せいかん》な目つき。
「やったろう、ミッシェルが」ルネがソニアの肩を軽く抱きながら自慢げに言い、ちらっと本多を見た。
「今年のシーズンは幸先《さいさき》がいいわね」
「食事、一緒にしないか?」
「この間の話、もう忘れたの、ルネ」冷ややかな調子。
「忘れちゃいないが、我がチームの勝利を祝って……」
「その話は後でしましょう。それより、本多さんがミッシェルとあなたに話があるんですって」
「どんな話ですか?」ルネが本多を見た。
「ミッシェルのことなんだがね……どこかでお茶でも飲みながら話しませんか?」
「今からミッシェルのマッサージをやるんですよ。残念ですがそんな暇はありません」
「どこで、やるんですか、マッサージ?」
「ここでですよ。芝生の上でね」
「マッサージがすむまで、どこかで待ちましょう」
ミッシェルは、自分が話題になっているにもかかわらず、一言も口をはさまなかった。
「一体、何の話なんです?」ルネは眉《まゆ》をひそめた。
「君が嫌《いや》ならしかたがない。私はミッシェルと話ができればいいんだよ」
「ミッシェルの野球の素質の話よ、ルネ」ソニアが口をはさんだ。「私も同席するつもり。そうね……カスカッドのテラスでどうかしら?」
「ミッシェル、お前、どうしたい? このムッシュの話を聞く気あるか?」
「俺、どっちだっていいぜ。あんたが決めてくれ」投げやりな調子。
ルネは判断に迷っているようだったが、あきらめたのか大きな溜息《ためいき》をひとつついた。
「分かった。三十分ほど待っていてくれ」ルネは本多を見ずに答え、ミッシェルを連れて他の選手達のところに戻って行った。
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ソニアとミッシェル
森の一角にあるレストラン・カフェ、ラ・グランド・カスカッド≠フテラスは、混み合っていた。
気持ちのよい春風に誘われて、パリの小暗いアパートから出て来た人々。彼等の服装は一様に明るく、声もはずんでいた。
「……ファンタジーですよ、そんな話は。とても、信じられない」
本多の話を黙って聞いていたルネは、シトロン・プレッセの入ったグラスを持ったまま、首を横に何度も振った。
「いや、ファンタジーなんかじゃない。ミッシェルは……」本多はルネの隣に座っている少年をちらっと見た。「みがけば、日本のプロ野球界で充分に通用するピッチャーになる」
「えらく自信がおありのようですが、あなたは、かつて、野球に関係した仕事をなさっていたんですか?」
「ああ。昔、高校野球の監督をしていたことがあった。選手時代は、ピッチャーだった」
あらかじめ用意してあった嘘《うそ》。すらすらと口をついて出た。
ルネ達を待っている間にソニアが教えてくれた。ルネはアメリカの野球だけではなく、日本の野球についてもよく情報を集めていると。
もし、プロ野球選手だったことを言えば、暗い過去もあばき出されてしまうに違いない。埃《ほこり》をかぶったまま、球団事務所の書類棚の奥深くにしまわれている、(済)マークのついた冤罪《えんざい》=B二十年ちかくもたった今、弁明するのは、当時よりもっと困難だろう。
永久追放になった選手。八百長に加担した投手。
パリの地下をおおう闇《やみ》の中に生き続けている限りは、こんな、おぞましいレッテルも忘れていられる。だが、ミッシェルという若者を、何とか一人前にしようとして動き出せば、いつかは……。覚悟はできていた。しかし、ミッシェルが日本のプロ野球チームに入れる実力がつくまでは、過去を隠し通したいのだ。
「本多さん、あなたはパリに何年、お暮らしですか?」しばらく口をつぐんでいたルネが訊いた。落ち着きはらった声。
「もう少しで二十年になる」
「日本の野球も、二十年の間には、ずいぶん進歩した。速球を投げられるだけでは、もう通用しない時代に入ってるんじゃありませんか」
「君は向こうの野球に詳しいそうだね」
「まあ、フランス人にしちゃ、詳しい方でしょうね。ビデオが発達したおかげで、かなりの試合を見ることができるようになった。特に高校野球は全試合を見ていますよ」自慢たらしい口調ではなかった。真面目《まじめ》に野球と取り組んでいる。そんな雰囲気《ふんいき》がした。
「しかし、こんなにフランス人が野球に熱を入れているとは知らなかった」
「以前から、リヨンやマルセイユでは、わりあい盛んに行われていたんですが、まだまだマイナーなスポーツですよ、フランスでは。今のところは、アメリカナイズされたファッションのひとつぐらいにしか、皆、思ってはいませんからね」
「ヨーロッパではどこが強いんですか?」
「そうですね、今は、オランダが一番強いかな」そこまで言って、ルネは本多をじっと見つめた。「ムッシュ・ホンダ、フランスで行われている野球のレベルは、どのくらいだと思いますか?」
「二試合しか見てないから、断言はできんが……そうだな、今日、君達が対戦したチームでも、甲子園に出て来る高校生に勝てないだろうな」
「僕もそう思っています。そんなレベルの低い試合の中で、ムッシュ・ホンダは、ミッシェルを見ている。だから、買いかぶっているんですよ」
「チームそのものの力が何であれ、ピッチャーの球の威力は別物だよ」
「それで、さしあたり、あなたは、ミッシェルをどうしたいんですか?」
本多の真剣なまなざしに押されたのか、ルネは視線をはずし、溜息《ためいき》をついた。
「コーチをしたい。彼だけのコーチをね」
ミッシェルを見た。少年は目をそらせた。相変わらず無表情だった。
「ムッシュ・ランベール。君は、私がミッシェルに関わるのが嫌《いや》なようだね」
「好きも嫌いもない。結局、最後はミッシェル自身が決めることですからね。僕が気にしているのは、ミッシェルをプロにしたい、というあなたの情熱です」
「どういう意味かな?」
「日本人は、どうして、少し素質があると、何事においてもプロを目指すのかな。頂点を極めようとして人と競争し、頑張る。それは悪いことじゃありません。ですが、山の頂きに登れるのは、ごく限られた数の人間だけです。後の連中は、へたをすると裾野《すその》に戻れず、中途半端な人生を送ることになる。それで納得できれば、いいんですがね……なかなかそうはいかない。僕のアメリカ人の友人はマイナーリーグに入ったが、さっぱり芽が出ず、最後は麻薬におぼれ、廃人みたいになってしまった……」
「若いのに、随分、悲観的な物の見方をするんですね」
「ヴォルテール・タイガース≠ノは、他のチームにはない事情があるのよ」それまで黙っていたソニアが口を開いた。
「その話はいいよ」ルネが眉《まゆ》をひそめた。
「いいじゃない、話したって。ね、ミッシェル……」
ミッシェルは、顔の当たりに飛んできた虫を手で追い払った。そして、やや投げやりな調子で言った。
「うちの選手の大半は、この間までグレてたゴミみたいな奴なんだよ、僕も含めてね」
不良少年を野球で更生させる。よくある話だ。本多の頬《ほお》が少しゆるんだ。
ルネはその笑《え》みに反発するかのように、口早に言った。「僕は別に、野球で彼等を更生させようなんてもくろんでるわけじゃないんですよ。ただ、金もなく暇にしているよりは、野球でもやった方がいい、と思っただけでね」
ルネは照れている。人助けをしているという、自己満足は鼻持ちならないが、ルネには、そういう感じはまったくなかった。
「ルネが、ミッシェルをプロの道に行かせたくない理由はね、もしも、途中で挫折《ざせつ》したら、残ってる道はひとつしかないと危惧《きぐ》してるからよ。ね、そうでしょう?」
「まあ、そういうところかな……」
「考えすぎじゃないのかな。プロで挫折しても、悪い道に行くとは限らない」
そう言った自分がこそばゆかった。
「僕はうちのチームの選手には普通の道を歩んでもらいたい。そう思っているだけですよ」
「ミッシェル、あなたはどう思ってるの」姉が弟をのぞきこんだ。「なれたら、プロになりたい?」
「よくわかんねえな。ただ、俺、日本には行きたくないよ」
ソニアとルネが顔を見合わせた。
「日本が嫌いなのか?」本多が訊《き》いた。
「ああ」
「何故《なぜ》?」
「それもよくわかんねえな。ただ、俺の知ってる日本人とのハーフは、皆、向こうの暮らしはウンザリだって、手紙をよこしてる。日本の学校も社会も収容所だって言ってる奴さえいるんだぜ。収容所で野球やっても、ちっとも面白《おもしろ》くねえだろう」
「あなたがコーチをすれば、おそらく、日本的な野球モラルをミッシェルにたたきこもうとすると思うんです」ルネが口をはさんだ。「それは、絶対にミッシェルには通じませんよ」
「モラルなど教えんよ」本多はジターヌに火をつけ、含み笑いをうかべた。「日本の精神主義ってやつは、私も嫌いでね。私が彼に教えたいのは、速球をいかにコントロールできるかということだ。精神力などというものは、そう簡単に、他人が教えられるものじゃない。ただ、ピッチングには、躰《からだ》と技術の他に何かあることは事実だ。何と言ったらいいのかわからんが、一種のアートのようなものを感じているんだ……」
「ミッシェル、日本で野球をやるやらないは別にして、ムッシュ・ホンダにコーチをしてもらうのは嫌《いや》じゃないでしょ?」ソニアが訊いた。
「ルネがいいと言えば、俺に異存はないよ。ただ言っておくけど、俺の私生活に口を出されるのはごめんだぜ」
「どうです、私にしばらく、ミッシェルのコーチをやらせてもらえませんか?」
皆の視線がルネに集まった。
「はっきり申し上げて、あなたがコーチとしてどれだけ優秀かはわかりません。ですが、しばらく、ミッシェルをおまかせしましょう」
気乗りのしていない言い方だった。しかし、監督は、とにもかくにも承知したのだ。本多は、心から礼を言った。
ルネは、練習場所と時間について詳しく本多に教えた。
定職のないミッシェル。昼間は大概、ぶらぶらしているらしい。本多は明日の三時に、ルネの店で待ち合わせることにした。
ミッシェルのコーチをするための第一歩は、コーチを信頼させることである。しかし、どうすればいいのか本多にはかいもく見当がつかなかった。
過去の実績は話せない。速い球を投げてみせることは、もう絶対にできはしない。
少しヒネクレている、向こう気の強い少年。とっかかりを失敗すると、球を投げさせる前にトレーニングを中止しなければならなくなるだろう。
「さて、僕は帰ります」ルネが言った。
時計を見る。午後六時少し前だった。
「ソニア、さっきの話だけど……」ルネの表情がくもった。
「今日はひとりで帰るわ、ルネ」
「ソニア、つきあってやれよ」弟が、姉にウインクした。
「ミッシェル、あなたはどうするの、これから?」
「友達と一緒に食事することになってんだ」
「私、今日はパパに会って来るわ」ソニアはそう言ってから、視線をルネに移した。「まだ、この間の話、結論だしてないのよ。電話する。だから……」
ルネは黙ってうなずき、立ち上がった。
「本多さんも、パリに戻るの?」
「いや、この近くに住んでいる知人を訪ねることになっているんだ。まだ時間が少しあるから、私はここに残るよ」本多は勘定を払いながら言った。
「私もここにいていい?」
「それはかまわないが……」ルネをちらっと見た。
ルネは力なく笑ったが、それ以上ソニアを誘いはしなかった。
本多は、ルネとミッシェルの後ろ姿を見ながら、煙草に火をつけた。
「変でしょう、私達?」ソニアがぽつりと言った。
「何か、飲むかい?」
「いえ、いらないわ」
「変って、君とルネのことか?」
「そうよ」
「私には男と女のことはよくわからん。だが、いい青年には違いないよ、ルネは」
「そう、とてもいい人よ」含みのある言い方だった。
「ミッシェルはルネを頼りにしているみたいだね」
「信頼してるのよ、ルネのことを。でも、頼りにしているかどうかは疑問ね。ルネの温かさが、ミッシェルには通じたのよ。だから、あの子、彼には逆らわないわ」
「ミッシェルはグレてたって話だが、何かやらかしたことがあるのか?」
「万引とか、カーラジオの窃盗《せつとう》とか……チンピラのやることはひと通りやったわ」
「で、今は?」
「おとなしくしてる、一応はね」
「一応か……」本多はソニアを見つめて短く笑った。
風がたった。
なびいた髪を軽く押さえて、ソニアも微笑《ほほえ》み返した。
「ミッシェルは何で暮らしをたててるんだ?」
「親のスネかじってるわ。私もたまには金をやることあるのよ」
誇らしげな口調。本多の前で、ソニアは初めて年相応の反応をした。
「君は……」
「ソニアと呼んで」
「じゃ、ソニア。君は、終始、私の味方をしてくれた。感謝するよ」
「礼なんか言うことない。私、弟をルネから引き離したいって気が、どこかにあったからあなたの肩を持ったのよ」
「理由は何であれ、私は助かった」
二組のカップルが正装して現れ、テラスの奥の建物に入って行った。その建物はシックなレストランになっているのだ。
「私、ここで一度も食事をしたことない。本多さんは?」
「あるよ、かなり前だがね」
「今度、私を連れてって下さらない?」ソニアは、テーブルに両肘《りようひじ》をつき、そこに顎《あご》を載せ微笑んでいた。
「喜んで、と言いたいところだが、ルネに誤解されるかもしれない。私が、君の父親くらいの年だとしてもね、やはり、彼はよくは思わんだろう」
「頭の中はミッシェルのことで一杯ってことか」そう言って、ソニアは空になったグラスにさされたストローを二、三度動かした。
「まあね……」本多は軽く溜息《ためいき》をついた。
ミッシェルのことだけをかまっていられたら……。心に陰がさした。時計を見る。六時十五分。
本多は、椅子《いす》にかけておいた上着を着た。
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犬猿の仲
午後八時十分。ピガール広場に着いた。アルフォンジーの経営するクラブアネモンヌ≠ヘ、ヴィクトール・マッセ通りにある。
まだ時間が早いせいか、売春婦をおいた小さなバーは、どこも暇そうだった。表からよく見える場所に、太股《ふともも》をあらわにした女が座っていて、カモが現れるのをじっと待っている。
クラブアネモンヌ≠ヘ、こぢんまりとした三流キャバレーである。ショーは九時、十一時、十二時の三回。エロを強調した出し物だから、結構はやっている。ダンサーと寝たければ、店に交渉すればいい。必ず相手してくれる。
ホールには何組かの客が食事をしていた。日本人らしき客の姿も見受けられた。
ギリシャの彫像がタキシードを着ている。そんな感じの若いマネージャーに案内され、本多とコロンボは、カウンターの前を通りすぎ、奥の狭い階段を上がった。
ぶ厚い金属製の扉。防犯カメラが本多達をじっと見つめていた。
「失礼」マネージャーはそう言ってにやっと笑った。
身体検査。
「ハジキなんか持っちゃいねえよ、坊や」コロンボが頬傷《ほおきず》をなでながら言った。
「規則ですから」
コロンボは肩をすくめ、両腕を軽くあげた。マネージャーの手が、コロンボの白いスーツの表面をはった。
「脂汗なんかつけるんじゃねえぜ、坊や」
「どうぞ、お入り下さい」事務的な口調が返ってきた。
アルフォンジーは、右隅にある丸テーブルについていた。
「コロンボ、よく来てくれた」アルフォンジーは立ち上がった。首から胸にかけてナプキンがたれている。食事中だったのだ。
ボスの両サイドに子分がふたり、座っていた。キャラスコとアンドレアニ。
最後に会ったのは七、八年前。ふたりともずいぶんふけた。キャラスコの額《ひたい》は薄くなり、アンドレアニの顎《あご》は二重になっていた。無論、アルフォンジーもそれなりに年をくった。しかし、奴の陰湿な目つきと、鼻にかかったねっとりとしたしゃべり方は、まったく変わってはいなかった。
アルフォンジーがパリで勢力をのばし始めたのは、十二、三年前のことである。マルセイユ最大の組織、トロワジエの援助を受け、三十七歳という若さで、ボスの座についたのだ。非情で計算高い新興ヤクザは、小柄でネズミのような顔をしている。アメ玉のように大きな緑の目。よく動く太い眉《まゆ》。軽口が、いつだって飛び出してきそうな薄い唇《くちびる》。
「そっちのソファで、少し待っていてくれ。いや、それより、あんた等も食うか?」
「いや、俺達は食事をすませて来た。結構だ」コロンボが答えた。
「コックが変わってな、味見をしていたんだ。最近は、いい料理人が少なくなった、と思わねえか、コロンボ」
コロンボは黙って、ソファに座った。本多も後に続いた。
アルフォンジーは、カマンベールを切り、皿に載せた。
「ガルディアンを連れて来ると思ったが、ヨヨだとはね。あんたは、一線から身を引いたんじゃなかったのか」
「料理屋の主人ってのは退屈な商売でね」
「わかる気がするぜ。まっとうな商売ってのは、案外、ストレスをまねきやすいもんなんだよ」薄い唇の間に、チーズの塊《かたまり》が消えた。
食事を終えたアルフォンジーは、ボワイヤールに火をつけ、ソファにやって来た。キャラスコが、エスプレッソとカルヴァルドスの瓶、それにグラスを三つ、テーブルの上に置いた。
アルフォンジー自身が酒をグラスに注いだ。
「わざわざ、来てもらった理由は、話さなくてもわかってるだろう、コロンボ?」緑の目が冷たくコロンボを見た。
「ああ。あんたの親戚が死んだ。心からお悔やみを申し上げよう。しかし、アルフォンジー、その一件は、俺の組織とは、まったく関係ねえ」
「ジャン・イヴとかいう若いのは、一匹 狼《おおかみ》じゃねえよな。あんたとこの若いのだ。それに、ルイジ。足を洗ったが、以前はあんたがかわいがっていた爺《じい》さんじゃねえか」アルフォンジーの濃い眉《まゆ》が八の字を描いた。下卑《げび》た笑い。
「それで?」コロンボが訊《き》いた。しらっとした口調。
「サツが二度も、俺を訪ねて来たぜ。周りで事件が起こると、何でもかんでも、俺とかかわりがあるとサツは思うらしい。しかし、もちろん、俺達は、あんた等のことはひとことも口にしちゃいねえよ。安心していいぜ、今のところサツは、何もつかんじゃいねえようだから」
「あんたの望みはなんだ?」
「わかりきってることだぜ、コロンボ。おとしまえをつけ、盗んだ宝石を俺に返す。簡単な話だ」そう言って、アルフォンジーはコーヒーに手をつけた。
「ルイジは殺《や》られた。あんた知らねえのか」本多が口をはさんだ。
「ルイジが死んだって! そりゃ本当かい?」
大袈裟《おおげさ》に驚いた。真実味のない表情。しかし、この男の表情に、真実味があったことなど一度だってないのだ。隠れ家を襲わせたのは、アルフォンジーなのだろうか? 本多は判断に苦しんだ。
「あんた等、俺をだまして、ルイジをどっかに逃がしたんじゃねえのか」
「俺もボスも、今度の一件についちゃ、何も知らん。ルイジはダチの家にかくまわれていたんだが、そのダチが、俺に、ルイジの死を知らせてきたんだ」
「そんな話、コロンボ、あんただったら信じるか?」
「信じられんかもしれねえが、事実だからしかたねえだろう」
「盗んだ宝石はどうしたのかな」アルフォンジーが、ねっとりしたまなざしでコロンボを見た。
「俺達は、昨日、あんたが電話をかけてくれるまで、奴等が宝石を盗んだなんて知らなかった」コロンボの声に、説得したい感じがありありと現れていた。
「ムッシュ・アルフォンジー」本多は低い声で言った。「どうして、あのふたりがやったって決めつけられるんだ? なんか証拠でもあるのか?」
「ある。現場を目撃した奴がいてな、そいつが、俺んとこの若いのだった。悪いことはできねえよな、ちゃんと誰かが見てるんだから……」口を半開きにしてアルフォンジーが笑った。
「宝石は、コロンボ、あんたんとこにあるんだろう? 俺だって、また、あんたと争いをおこしたくはねえ。おとなしく宝石を俺に返し、ジャン・イヴとルイジを引き渡してくれりゃ、今までみてえに仲良くやれるんだがな」
「俺は宝石なんかもっちゃいねえ。それに、ルイジは死んだし、ジャン・イヴの行方《ゆくえ》もわからん。俺だって、あんたといざこざを起こす気はねえ。だが、知らんもんはどうしようもねえだろうが……」
「こんな話、いくらやっていてもラチはあかねえ。そうだろう?」アルフォンジーはカルヴァドスを飲み干し、後ろに立っていた子分を交互に見た。「キャラスコ、何かいい考えはねえか。おめえの頭は象みてえにでっけえ。使ってねえ脳味噌《のうみそ》を俺のために使ってみてくれ」
キャラスコの薄くなった額《ひたい》がピクリと動いた。
「……ムッシュ・コロンボが、知らないというのだから、本当に知らないんでしょうよ」
「そうだな。むやみと人を疑っちゃいかんな」アルフォンジーの口調。コロンボをおちょくっているのだ。
「……ですが、彼の手下が、ボスの親戚を殺《や》ったことには変わりねえ。ですから、期日を決めて、コロンボに宝石を探させたらどうです」
「なるほど」おどけた調子。「だが、コロンボが、期日までにブツを俺に持ってこれなかったら?」
「そうしたら……」キャラスコがちらっとコロンボを見た。「その場合は、正面きって争う。昔のように」
「そりゃ、よくねえよ、キャラスコ」アルフォンジーは人差指を立て左右にふった。相変わらず、冗談口調。「平和協定を結んでいる相手だぜ。そう簡単に、いざこざを起こすなんてできねえよ。それに、キャラスコ、俺達が戦いに敗れたらどうする。それこそ一大事だぜ」
からかわれっぱなしのコロンボ。顔がゆがみ、呼吸が荒くなった。
アルフォンジーの絶対負けないという自信には、おそらく根拠があるのだろう。現在の勢力の差。本多が想像していた以上に開いているらしい。
「で、おとしまえをつける方はどうする。坊やとジジイを引き取ってヤキをいれるか?」
「それは、コロンボにやらせればいいでしょう」
「しかし、コロンボは孫が生まれて、人間が丸くなったって噂《うわさ》だぜ。ホウキで尻たたくぐらいじゃねえのか……」
「ふざけるのもいい加減にしろ!」コロンボがグラスの酒をアルフォンジーにかけた。「ネズミ野郎が、猿芝居《さるしばい》なんかやりやがって。俺をなめるんじゃねえ!」
キャラスコとアンドレアニが殺気だった。コロンボに近づいた。本多も立ち上がる。
「よさねえか」アルフォンジーがポケットチーフで酒をふきながら言った。「コロンボ、はやいとこ、宝石を探し出してきな」
「何で、俺がお前の命令に従わなくちゃならねえんだ? 昔みてえにやりあいてえんだったら、相手になるぜ」コロンボの息はまだ乱れていた。だが、口調は落ち着いていた。
「あんたの組織、つぶれるぜ。それでもいいのか?」
「心配はいらねえよ。下水道に巣くっているドブネズミを退治できるいい機会かもしれねえぜ」
「平和協定は今夜限りで……」
「ちょっと待ってくれ」本多が口をはさんだ。「宝石は俺が探す。期日を指定してくれ」
「口出しするんじゃねえ」コロンボの顔が引きつった。「こいつは俺をおちょくってんだぞ。もう我慢ならねえ」
「ボス。落ち着いて下さい。うちの組織の連中が、こいつの親戚を殺し宝石を奪ったとしたら、こっちにも責任がある。ここんとこは俺に任せてください」
「ヨヨ」アルフォンジーが躰《からだ》を前につき出した。「おめえ、ジャン・イヴの居所を知ってるんじゃねえのか」
「知らねえよ。だが、奴がやったのなら、宝石は奴が持ってるはずだ。探し出して、宝石は、あんたに返してやる」
「ジャン・イヴはどうする?」
「奴を組織に入れたのは、俺だ。だから、その件についても、俺の方で何とかする」
「奴は俺の親戚をバラしたんだぜ。俺達に引き渡しな。な、わかるだろう?」アルフォンジーは、ヨダレでも垂らしそうに口を半開きして、にたにたと笑っていた。
本多はその変質者めいた笑いから目をそらした。
「ヤツのことは俺が何とかする」
「チチチ……」アルフォンジーが舌をならし、首を横にふった。「俺にプレゼントしろ、ヨヨ。そしたら、俺は、すべて忘れてやる」
「そこまで、あんたに命令される覚えはねえ。宝石の件は引き受ける。だが、それ以上のことは、願い下げだ」
「ここは、ヨヨに全部まかせようぜ」コロンボが葉巻に火をつけた。冷静になったコロンボは、宝石がどこにあるかを思い出したらしい。
「どうしたもんかな。それじゃ、俺の身内が殺《や》られたおとしまえがつかねえな」
「ちょっと、ボス……」アンドレアニが腰を屈《かが》めて言った。
「何だ、いいアイデアがうかんだか?」
アンドレアニがアルフォンジーに何か耳うちした。
アルフォンジーの緑の目がちらちらと、コロンボと本多を見ている。にたにた笑いが次第に、本格的な笑いに変わった。
話し終えた子分は、再び、姿勢を正し、ボスの後ろに立った。
顎《あご》を撫《な》でながら、アルフォンジーはふっと息を吐いた。
「コロンボ、あんた、近いうちにヤマを踏むって噂《うわさ》だが本当か?」
コロンボは絶句し、本多を見た。
「まあ、隠すことはないやな。アンドレアニが噂を聞いて来た。日本のカンパニーの給料を狙うんだってな。だから、ヨヨが復帰したってわけか」
「それがどうしたんだ。俺達が何のヤマを踏もうが、あんたには関係ねえだろう」コロンボが低くうめいた。
「そのヤマで得た金を全部、俺んとこに持ってこい」
「なめるんじゃねえ。なんで、この無傷のコロンボ≠ェ、ネズミ野郎の手先にならなきゃならねえんだ」コロンボは再び、頭に血が上った。頬《ほお》がピクピク痙攣《けいれん》を起こした。
「コロンボ、心臓は大丈夫か。倒れるんなら、外で倒れてくれよ」
コロンボの躰《からだ》が動いた。キャラスコが素早く、懐《ふところ》から拳銃《けんじゆう》を抜いた。コロンボはひと呼吸おいてから、背もたれに躰を投げた。
「ノルベール・ゴールドマンの供養だと思ってよ、快く差し出す。理にかなってるじゃねえか」
「何があっても、おめえには、金はビタ一文はらわねえ」
「じゃ、ジャン・イヴとルイジを引っ捕えて、俺んとこに連れて来い。生きたままでも死体でも、どっちでもかまわんからな。俺は、あんた等と仲よくやりてえんだ。平和協定を俺の方から破るなんてことはしたくねえ。マルセイユの大ボスからも、それは固く禁じられてるからな。だが、筋目を通しちゃいけねえとは言われてねえぜ。盗んだ物を返す。そして、馬鹿をやらかした奴を始末する。俺は、それで納得できるんだ」
「分かった。ジャン・イヴが犯人だったら、あんたに引き渡す」コロンボが折れた。
「ちょっと待ってください、ボス……」
「うるせえ、お前は口を出すな」
「冷静に考えてから結論を出した方がいい」
ジャン・イヴを引き渡す。そんなことやらせてたまるか。本多は生ツバをごくりと飲んだ。
「ヨヨ、みっともないぜ、子分が他人の前でボスに逆らうのは」
「ボス、俺に時間を下さい。こんな野郎の話に、すぐに返事をしてやることはねえ」
「…………」コロンボは傷に手をやった。迷っている。
「な、アルフォンジー。ちょっと時間をくれねえか」本多は頼みこんだ。
「どうなんでえ、コロンボ?」アルフォンジーがコロンボを覗《のぞ》きこんだ。
「二、三日待ってくれ」
「世の中、動きが早いんだ。そんなに待てねえな。返事は明日してくれ」
コロンボは黙ってうなずいた。
電話が鳴った。アンドレアニが受話器を取った。短い受け答え。電話を切った子分は壁についているボタンを操作した。
ライティング・ビューローの後ろに、スクリーンが現れ、やがて、そこに舞台がアップで映し出された。
黒と金のメタルを躰《からだ》につけた女が四人、レーザー光線の中で踊っていた。バタフライ以外には何もつけていない。
「俺に内緒で、客を取ったってのは、どの女だ」アルフォンジーは、しばらく会わないうちに、近眼になったらしい。懐《ふところ》から素通しの眼鏡《めがね》を取り出し、躰を横に向けてスクリーンに目をやった。
「今、中央で股《また》開いてる女です」
「名前は?」
「ミミです」
「小生意気そうな女だな。俺の好みだぜ。後でここに呼びな。俺自身が、ここの掟《おきて》を教えてやるから」
「はい」アンドレアニが答えた。
「どうだ、おふたりさん、ショーを観て帰るか。いや、そんな時間はねえか。帰って宿題をやらなきゃならないもんな。明日のこの時刻までしか待たねえ。よく考えて返事してくれ」アルフォンジーは、そう言うと、キャラスコに目で合図を送った。
キャラスコがドアを開けた。本多とコロンボは、無言のまま部屋を出た。
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ミッシェルの秘密
リムジーンはピガール広場に出、クリシー大通りを北に向かって走り出した。
本多は沿道を賑《にぎ》わしているネオンを見ていた。セックス・ショップ、ストリップ小屋、ピザ屋、カフェ……。
昼のマスクを脱ぎ捨てた男達の頬《ほお》に、原色のネオンが踊っている。ライブ・ショーの呼び込みが、カモになりそうな団体客を見つけた。張りのある声が本多の耳元までとどいた。
「お前が、ジャン・イヴをかばうのはわかるが、少し、出すぎたんじゃねえのか」コロンボが本多を睨《にら》んだ。
ムーラン・ルージュの前。大型バスが、リムジーンの行く手を邪魔していた。
それまで、コロンボと本多はひとことも口をきいてはいなかったのだ。
「ボス」低く沈んだ声。「俺に、今夜ひと晩考えさせてくれませんか。名案がうかばなければ、ボスの好きなようにして下さい」
「最近の組織の事情を、もっと詳しくお前に話しておくべきだったな」つぶやくように言った。
「というと?」
「資金源が、昔みてえに確保されてねえんだ。中国系のマフィアにヤクの縄張《なわば》りを荒らされ、収入は大幅にダウンしたし、売春の稼ぎはたかがしれてる。現金輸送車を襲撃して入ってくる千五百万フラン。俺は当てにしてんだよ」
親が、学資を援助してやれない、と息子に告白しているような口ぶり。本多は黙っているしかなかった。
「これはお前も忘れていねえと思うが、俺とアルフォンジーの平和協定はマルセイユの大ボスが調停役をかって出た話だ。だから、簡単にはアルフォンジーも、俺にちょっかいは出せねえ。だが、今度は大義名分がある。宝石とジャン・イヴを渡さないと、面倒なことになりかねねえ」
本多はうなずいた。そして、煙草に火をつけた。
「アルフォンジーの目的は、ボスをつぶすことにある。マルセイユの大ボスから、文句が出ないような形で、徐々に組織を解体にむかわせるつもりらしいですね」
「おそらく、そうだろう」
「ボス、明日、俺の店に昼を食べにきませんか?」
「億劫《おつくう》だな、出て行くのは。お前が、屋敷に来い」
「いや、俺は、ボスとふたりきりで話がしたいんです」
「何かあるのか?」
「おいしい、魚を用意しておきますから、ともかく、来てくれませんか?」
「……わかった」
「ジョゼ」本多は車を運転していた子分に声をかけた。「クリシー広場で下ろしてくれ」
「どっかに女でもいるのか?」
「いや、あんたに拾われた頃、俺はクリシーの安宿に住んでいた。覚えてるでしょう」
「そう言えば、そうだったな。小汚いホテルだった……」コロンボがふと、遠くを見るような目つきをした。
「懐かしくてね。少し散歩して帰りたいんですよ」
リムジーンは、この界隈《かいわい》で一番有名なカフェウエップレ≠フ前で停《と》まった。
*
リムジーンはするすると音もなく、闇《やみ》の中に消えていった。
本多は、サントウアン大通りをぶらぶらと歩き出した。
観光客らしき人の姿はなくなり、替わりに移民労働者風の男達が目立つようになった。スリーピースを着た東洋人に、生気のない視線を投げかけてくる者もいた。
ネクタイを取り、シャツの一番上のボタンを外した。
ギ・モッケ通りを左に曲がる。かつて、住んでいた安宿は取り壊され、替わりにガラス張りのビルに変わっていた。
パリは何年たっても、その姿を変えない街である。しかし、少しずつ、雨が石を侵すようには、変化しているのだ。よく食事をした安レストランは中華料理屋になっていた。
中国系のマフィアにヤクの縄張《なわば》りを荒らされている。コロンボの言葉がよみがえった。
中華料理屋の角を右に折れた。よく通ったカフェは、今も残っていた。
壁紙は新しくなっていたが、テーブルとカウンターの位置は昔のままだった。
主人の顔は覚えていない。毎日、一度は来たカフェ。だが、馴《な》じみ客ではなかった。顔見知りの客達が、飲んで騒いでいるかたわらで、本多はいつも孤独だった。誰とも話をしたいと思わなかった。そして、部外者≠ノ声をかける者もいなかったのだ。
店内はアラブとチンピラ風の若者で混んでいた。
黒いボロボロの皮ジャンを着た若者が、ピンボールに腹を立て、脚《あし》を思い切り蹴《け》った。その横を本多はすり抜け、奥のテーブルについた。
部外者≠見る目つき。十数年たっても、移民とマージナルな人間の態度は変わらない。
テーブルは、後片づけがなされていなかった。ビールの泡《あわ》のついたグラス、口紅の跡が残るコーヒーカップ……。
スプーンを見て、本多はにやりと笑った。穴の開いたスプーン。コカインを載せられないように、わざとそうしてあるのだ。
私の店ではコカインは吸わせません≠ニいうパトロンの警察に対する意志表示。裏ではおそらく、取引を黙認しているに違いない。
髪を金髪に染めたアラブ女が、テーブルを片づけにきた。本多はリカールを頼んだ。酒が来ると一気に空け、すぐに二杯目を注文した。今度はゆっくりと飲む。
アルフォンジーの情報ネットワーク。ジャン・イヴとルイジのやったことをすぐにつかみ、その上、現金強奪についてまでもキャッチしている。
怪しい。コロンボの身内に裏切り者がいる。そう考えれば、辻褄《つじつま》が合うのだが……。
酒をなめ、煙草に火をつけた。
ジャン・イヴを引き渡すか、奪った金を献上するか。迷うことはなにもなかった。一千五百万フランとて、ジャン・イヴの命には替えられない。
コロンボをどう説得するか。やっかいな問題である。
煙草をふかす。何かいいアイデアを思いつかなければならない。
ひとつだけ考えがうかんだ……。
計画の実行を何とかアルフォンジー達にやらせる。どのみち、コロンボには、奪った金は手に入らないのだが、少し事情が変わってくる。まず、部下を危険にさらすことがなくなるし、その上、ひょっとしたら、無防備な輸送の裏が、それで判明するかもしれない。アルフォンジー達を、いわば、オトリにして調べてみるのだ。
もし、本当に無防備な、常識の裏をかいた輸送だったら、アルフォンジーは金を手に入れることができ、それで一件落着。もし、何か仕掛けがあった場合は、被害を受けるのはアルフォンジー達だけである。
当然、アルフォンジーは、仕掛けを知っていて黙っていた、とコロンボにくってかかるだろう。だが、何の証拠もない。シラを切り通せば何とかなるに違いない。こじれたら、マルセイユの大ボスに調停を頼むことだって、このケースなら可能である。
あとは、コロンボが失った資金源をどうするかだ。本多は、今度の襲撃がどんな結果に終わろうと、もう一度、JCEの給料を狙おうと、コロンボにもちかけるつもりでいた。内情をじっくり、本多が調べ、万全を期してことにのぞめば、きっと成功するはずだ。
名案とはとてもいえないアイデア。しかし、本多が考えついたのは、これだけだった。
ただ、どんな結果になろうとも、この話は、コロンボだけにしなければならない。もし、裏切り者が組織にいたら、すべて、計画は水の泡《あわ》なのだから……。
ジュークボックスからシルヴィ・バルタンの歌声が聞こえてきた。
酔客のけたたましい声とピンボールの音。そして、バルタンの歌声。
昔も、こんな喧噪《けんそう》の中で、酒を飲んだことがあったな。本多は、顔を上げ、新しい煙草に火をつけた。
と、その時。若者がひとりカフェに入ってきた。
ミッシェル・寺井。
声をかけようとした。だが、ミッシェルはパトロンらしい男とひと言ふた言、会話を交わし、さっさと地下に下りて行った。
地下にはトイレと電話がある。
野球をやっている時のミッシェルより、はるかに大人《おとな》びた雰囲気《ふんいき》がし、はるかに不良に見えた。
ふと、穴の開いたスプーンを思い出した。
嫌《いや》な予感。ミッシェルはトイレに行ったのでもなく、電話をかけに行ったのでもないのかもしれない。
本多は立ち上がり、地下に通じる螺旋《らせん》階段に向かった。パトロンらしい男の視線を頬《ほお》に感じた。
タイル張りの狭い地下。トイレの中からひそひそ声が聞こえた。
「……俺、得意客だろう、もうちょっと安くしてくれねえかな」
「冗談じゃねえよ。俺は単なるディーラーだぜ。そんなことできねえことぐらい、お前にだってわかってるだろう……」
心臓が激しく打たれた。ヤクに手を出しているにしても、ミッシェルは単なる買い手だと勝手に決め込んでいた。ところが、そうではない。ディーラーの方が、ミッシェルだったのだ。
まず、カーキー色のフードつきの上着を着た若造がトイレから出て来た。本多から目をそむけるようにして、男は階段を上がって行った。
本多はトイレに入った。札をジーンズに押し込んでいたミッシェル。顔を上げた。一瞬、目に恐怖が走った。
「あ、あんたか……よく、俺の居場所がわかったな」笑《え》みがひきつった。
本多はつかつかと歩みよった。ミッシェルの胸ぐらをつかみ、白いタイルに押しつけた。「お前、誰に頼まれてこんなことやってんだ?」本多のフランス語が、どもった。
「何の話だよ。俺はトイレを……」
「嘘《うそ》をつくな。俺は話を全部きいていた」
「あんたに、とやかく言われる筋合はねえよ。俺の私生活に口出しするなって言っておいたはずだぜ」
「いいか、ミッシェル、ヤクのディーラーには私生活なんて悠長なものはねえんだよ」
「いてえな。離せよお!」
「すぐに足を洗うんだ。そうじゃないと……」
ミッシェルは本多をじっと見つめた。冷たい視線。口許《くちもと》が少し歪んでいる。
「堅気のあんたによ、何ができるってんだい? 足洗えだって! 言ってくれるよな。スタンドから、勝手なことをほざく奴に、コーチなんかやってもらいたくねえよ。今日の話、あれはなしにしようぜ」
「元締の名前、言ってみな」
「聞いてどうするんだい? あんたが、乗り込んで、映画の主人公みたいに|正義の味方《ジユステイシエ》≠気どって、ヤクザを相手に闘うってのかい?」
「いいから、元締の名前を言え!」
ミッシェルは横に逃げようとした。本多は、ミッシェルの躰《からだ》をふっとばした。ふいをつかれたミッシェル。トイレのドアのところまで飛んだ。ドアは半開きになっていた。便器のところまで、飛ばされたミッシェルは、水洗の紐《ひも》にすがりついた。勢いよく水が流れた。
「言うんだ。お前を使っている野郎の名前を!」
「そんなに知りたきゃ教えてやるよ。フェルナンデスって野郎だよ」
「フェルナンデス……? ひょっとして、ディディエ・フェルナンデスか」
ミッシェルは一瞬、息を飲んだ。「あんた、奴を知ってるのか」
「そんなことはどうでもいい。お前、ディーラーを止めたいか、止めたくないのか。それだけ答えろ」本多は、真剣な声で言った。
「……そりゃ、止めてえよ。こんな商売、いつまでもやってられねえだろう」
「わかった。その件は……」
そこまで言った時、階段をかけ下りて来る足音が聞こえた。振り向いた。皮ジャン姿の若造が四、五人。戸口に現れた。
「ミッシェル、何かあったのか」髪を短くした、不精髭《ぶしようひげ》が訊《き》いた。
「いや、フランシス、何でもねえんだ」
「このムッシュは何者だい?」フランシスと呼ばれた若造の視線が、本多をなめまわした。
「親父のダチだよ。だから、いいんだ、フランシス」ミッシェルは弱々しく笑った。
半信半疑のフランシス。ミッシェルと本多を交互に見てから、仲間を連れて引き下がった。
しばらく、間をおいて本多はミッシェルを連れて上に上がった。
フランシス達のグループの姿は消えていた。
外に出ても、ふたりは口をきかなかった。クリシー広場まで、ぶらぶらと歩く。
「あんた、何でフェルナンデスを知ってるんだ」
「いろいろあってな。ところで、お前もヤクをやってるのか」
「まあな。だが、中毒じゃねえぜ。コカインをたまにやる程度だから」
「もうディーラーからも、ヤクをやることからも、縁をきれ。俺が話をつけるから、何も心配しないで、これまでに預っているヤクと金を用意しておくんだ」
「フェルナンデスは、てごわいぜ」人を食ったような口振り。
本多は立ち止まり、少年を見つめた。
『ル・フロリッド』というカフェの前。ネオンがミッシェルの目にうつっていた。
「縁をきるんだぞ、絶対に」
「あんたがフェルナンデスに勝てれば、止めるよ」
生意気な少年。本多は彼を見て微笑《ほほえ》んだ。
「家に戻るのなら、タクシーで送ってやるよ」
「いいよ、歩いて帰る」
ミッシェルの住まいは、モンマルトルの丘の東側にある。充分に歩いて帰れる距離。
「ブツはきちんと用意しておけよ」
「ああ」
ミッシェルは、短く答えて本多に背を向けた。そして、モンマルトル墓地の横を通る道を、小走りに走り去った。
本多はピガール広場に向かった。
ディディエ・フェルナンデス。アルフォンジーの配下のヤクザなのだ。
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秘密の交渉
アネモンヌ≠フ看板はまだ煌々《こうこう》と輝いていた。
さいわい、アルフォンジーは事務所にいた。先程同様、マネージャーが案内し、同じように身体検査がなされた。
「ヨヨ、もう結論を出してくれたのかい?」大きなライティング・ビューローに脚《あし》を投げ出したアルフォンジー。例のにたにた笑いで本多を迎えた。
ぎょっとした。ダイニングテーブルの脚下に女が、ぐったりとなって横たわっていたのだ。全裸。後ろ手錠をはめられている。女の顔。本多は目をそむけた。殴られてカボチャのようにはれていた。
「もう少し、早く来りゃ、俺にそむくとどうなるか、とくと見物できたのにな」
アルフォンジーに隠れて男を取ったダンサー。先程、ここを出る時に聞いたアルフォンジー達の会話を思い出した。
「ミミ、立ちな。ひとりで」
「嫌《いや》! もう嫌!」やっと声になった。
「誰に口をきいてるんだ、ミミ」ねっとりとした声。
女は、尻をくねらせ、やっと立ち上がった。アルフォンジーは、その姿を陰湿な目でじっと見つめていた。
女が、机《つくえ》の前に進み出た。
「ひでえ顔になっちまったな」アルフォンジーが女の頬《ほお》に手をのばした。
女は悲鳴をあげた。
「お客様の前で、そんな声を出していいのかい?」
嗚咽《おえつ》。
「その顔じゃ、とてもじゃねえがステージには上がれねえ。まあ、ゆっくりと養生しなよ。だが、最後に、誰のせいで、そんな顔になっちまったのか、俺に教えてくれねえか、ミミ」
「……わ、私のせいです」か細い声。
「聞こえねえな」
「私がすべて悪いんです」
「よしよし」満足げにそう言って、アルフォンジーはキャラスコに目で合図を送った。
キャラスコは女にガウンをはおってやった。そして、外に連れ出した。
「余計なことだが、どうするんだ、あの女」ドアが閉まった時、本多は訊《き》いた。
「余計な質問だな、確かに。だが、答えてやろう。あれは商品だよ。きちんと養生させて、また使う。まだまだ、使える躰《からだ》してるだろう」残忍な笑《え》みをうかべた顔が、本多をじっと見つめていた。
本多は、その笑みに背を向け、ソファに腰を下ろした。
「話、聞こうじゃねえか」
「結論はまだ出ちゃいねえんだ」
「何だと! じゃ、何しにここに来やがったんだ」
「あんたに頼みがあってな」
「コロンボ親分にゃ頼めねえ話ってわけか」アルフォンジーは酒の入ったグラスを持ったまま、本多の前に腰を下ろした。
「そうだ」
「話してみな」
「フェルナンデスは、今でもあんたのヤクを仕切ってるんだろう?」
アルフォンジーは、顎《あご》を撫《な》でた。質問の意味をはかりかねているらしい。
「直接、ヤクにも組織にも関係ねえ話なんだ。フェルナンデスがあんたと関係なくなっているのなら、話してもしかたねえことなんだ」
「あんな忠実な、度胸のある野郎を俺が離すわけがねえだろう」
「そうだろうと思ったよ。実は、奴の回すヤクを末端でさばいている坊やがいるんだ。その坊やを、ディーラーから外してほしい」
「フェルナンデスが使ってる小僧なんか、俺が知ってるわけがねえだろう」
「そりゃそうだろうが、あんたが指示を出せば、奴は文句を言うまい。だから、ひとつお願いしたいんだ……」本多は頭を下げた。
「どうしたんだ? そんな小僧ひとりのために、何故《なぜ》、あんたが俺に頭を下げるんだ? そうか、あんたがずっと独身でいるわけがわかったぜ。ヨヨは、同性《ペ》愛者《デ》だったってわけか」アルフォンジーは、アンドレアニの顔を見てにたにたと笑った。
「俺はあんた同様、女が好きだ。SM趣味はねえがな」本多も短く笑った。「実は、その坊やの父親は日本人で、俺の知り合いなんだ。親父は、息子を日本に連れて帰るつもりなんだが……その……パリでのことをきれいにしておきたいって考えた。あと腐れのないようにな」
「本当にそれだけか?」アルフォンジーの頬《ほお》がゆがんだ。
「決まってるじゃねえか。よく考えてみろよ。俺に魂胆《こんたん》があったら、わざわざここに頼みに来たりはしねえだろう? 坊やひとりくらい足洗わせても、あんたらの秘密がバレる心配はねえし、替わりもすぐに見つかる。だから、承知してくれねえか」
アルフォンジーは空になったグラスを持ち上げた。アンドレアニが黙って酒を注いだ。
「で、見返りは?」
「セコイこと言うなよ」本多は苦笑してみせた。「組織にも入っていないガキひとりの進退だぜ」
「ガキひとりでも、俺の商品だぜ」
テーブルの下で拳《こぶし》を作った。たたきのめしてやりたい。胸が熱くなった。しかし、手だしはできない。
しばし息を止めた。ピンチになり冷静さを失いそうになると、いつもマウンドの上でやった癖。
「……金を払う。それでどうだ?」本多は静かに言った。
「金かあ……それも悪くねえがな……」のったりとした口調。「だが……コロンボをうまくあんたが、あやつってくれる。そっちの方が俺はうれしいぜ」
「冗談はよせ。俺がボスを裏切ると思ってるのか?」
「裏切れなんて俺はひと言も言っちゃいねえぜ。俺とコロンボが、これからも仲良くやれるため尽力してほしいと言ってるだけだ。コロンボも、年を取った。年寄りってのは、頑固になって、分別ってもんがなくなる。だから、勝てねえ相手でも戦いたくなったりするもんだ。俺は平和が好きなんだ。どんな戦いも好まねえ」
「戦いになれば、あんたのとこからも犠牲者が出、大ボスに事情を話さなきゃならねえ。それに、サツともすったもんだを起こす可能性がある。あんたは、平穏無事にコロンボをつぶしたいってわけか」
「無傷のコロンボ≠ノ傷をつけたくねえ。同業者の情ってもんよ」
「あんたは、ジャン・イヴの命と千五百万の現金とどっちが、本当は望みなんだ」
「俺は平和が好きだって言ったろう」
コロンボの収入源を断って骨抜きにし、自分の縄張《なわば》りを拡張する。陰険なアルフォンジー。やはり、想像していた通りのことを考えていた。本多は何か名案はないか頭を働かせた。
「俺にも一杯くれねえか」本多は言った。時間かせぎ。
注がれたウイスキーをゆっくりと飲んだ。
「つまり、コロンボが千五百万フランを献上するように、コロンボの気持ちを俺にあやつれって言いたいわけだな」
「日本人は頭がいいから好きだぜ」
「今、コロンボがどんな気持ちでいるか知りたいか?」
「もちろんだ」
「じゃ、フェルナンデスにすぐに電話を入れ、俺の望みをかなえてくれ」
アルフォンジーは静かにうなずいた。「そのガキの名前は?」
「ミッシェルだ」
「ディディエは、ロジーの店にいるはずだ。電話してみろ、キャラスコ」
電話がつながると、アルフォンジーはキャラスコを見ずに右手を差し出した。受話器を握る。
「……いや、何にもねえよ。平和そのもんだ。……お前、ミッシェルってガキを使ってるんだろう……そうだ、ハーフのガキだ。そいつとはいっさい縁を切り、フリーにしてやれ……いや、トラブルじゃねえんだ……いいから、俺の言う通りにしろ……わかった、十五グラムと代金だな。それは俺のほうで取る……わけは今度あった時に教えてやる。しっかり稼いでくれ」
受話器をキャラスコに渡したアルフォンジーは、両手を拡げてポーズを取った。
「これで、満足したかな、ヨヨ」
「結構だ」
「じゃ、コロンボの頭の中を教えてもらおうか。CTスキャンみてえによ、すっきり見せてくれよ」
「ボスは、金を渡す気はねえ」
「じゃ、ジャン・イヴを渡すつもりか?」
「いや。ボスは、今回のいざこざを大ボスに調停してもらう腹づもりらしい」目一杯、ハッタリをかましておくことにした。危険な賭けだが、ゆさぶりをかけるにはこの手しかない。
「信じられねえよ。そんな話。お前、まさか、俺をはめようっていうんじゃねえだろうな」
「大ボスまで引き合いに出して、あんたをはめようとするほど、俺は馬鹿じゃねえ」
「しかし、大ボスが出てきて困るのは、俺じゃなくて、コロンボの方じゃねえのか。奴の身内が俺に迷惑をかけた。だから、責任を取るのは、どう転んでもコロンボだろう」アルフォンジーの甲高《かんだか》い声が、次第に興奮してきた。
「まあ、落ち着け。例え、ジャン・イヴ達があんたに迷惑をかけたにせよだ。他の組織が計画し実行したヤマの戦利品をすべて献上させようというのは虫がよすぎる、とコロンボは思い、その点を、大ボスに相談しようという腹づもりらしい」
にがりきった顔。やはり、大ボスに出てこられては困るらしい。アルフォンジーは、肉厚の小鼻を指でさわり始めた。
「あんたは、俺にひとつ借りがある。そうだな、ヨヨ?」
「今、その借りは返したじゃねえか。コロンボの考えを教えたんだから」
「フェルナンデスに、もう一度、電話をして、さっきの話はなかったとも言えるんだぜ」
「…………」本多は煙草に火をつけた。「何が何でも、俺にコロンボを説得しろってのか?」
「そうだ。襲撃で奪った金を俺に出させるようにし向けろ」
「至難の業《わざ》だぜ、そりゃ。ヤマを踏むのが、自分の子分達で、奪った金をそのままあんたに渡す。そんなこと、ボスが承知するわけがねえだろう。俺だって世話になっているコロンボにそんなことはさせたくねえ。いくらあんたが俺を脅《おど》かしても、できねえことはできねえだろう」
本多は、考えこんでいるアルフォンジーをじっと見つめた。そして、さりげなくこうつぶやいた。
「計画をあんたに教え、ヤマを踏むのは、あんたの子分達、というのならなんとか説得できるかもしれん」
アルフォンジーは鼻で笑った。「俺達が襲撃してる最中に、サツが来る。コロンボは頬傷《ほおきず》をなでて喜ぶだろうな」
「そんな汚ねえ真似《まね》はしねえよ。俺は説得できる糸口を探しているだけだ。あんたが乗り気じゃなきゃ、それでかまわんよ」
アルフォンジーはグラスを持ち上げ、軽くゆらせた。しかし、口はつけなかった。
「……襲撃の際にあんたんとこから、ふたりほど子分を出せ。そうしたら、今の条件をのんでやってもいい」
「そいつ等は、あんたの為にただ働きしろってのか」
「日当を払ってやるよ。それでいいだろう?」
「うまく行くかどうかわからんが、その線でボスを説得してみよう」
「必ず、ウイ≠ニ言わせろ」
「努力してみる」
アルフォンジーは酒を飲みほした。
「しかし、ヨヨ……あんたが、ガキひとりのために、コロンボの腹のうちを俺に教えるとはね……」
「俺は、コロンボを裏切ったりは絶対にしねえ。ガキの件がなくても、俺はボスに大体、同じようなことを提案するつもりだった。俺はジャン・イヴを始末させたくないし、大ボスに泣きつくのにも反対なんだ。金で筋目を通す。この際、それが一番だと考えているんだよ」
きっぱりとした口調でそう言った本多は、煙草を消し、立ち上がった。
「いい返事を期待してるぜ、ヨヨ」
本多は、アルフォンジーに背を向けたまま大きくうなずいた。
「そうだ、忘れるところだった。ガキには十五グラムのヤクを渡してあるそうだ。そっちの方は、きちんと返してもらうぜ」
「わかった」
外に出るとどっと汗が出た。妙な具合になってしまった。まず、コロンボを説得して、それからアルフォンジーと対決する予定だったのだが、順番が逆になった。しかし、こうする他には、コロンボを裏切らずに、ミッシェルをディーラーから外させる方法はなかったのだ。
「ね、あたしとつき合わない?」痩《や》せた娼婦《しようふ》が声をかけてきた。
本多は優しい笑顔を見せて、首を横にふった。疲れきって、口をきく元気もなかったのだ。
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初めてのトレーニング
午前十一時五十分。コロンボが本多の店に現れた。
コロンボの頬傷《ほおきず》。JALのバッグを持った観光旅行者の中には、ちらちらと見ている者もあった。
あらかじめ用意してあった奥の席に案内する。コロンボは、鮨《すし》が好物である。あまりフランス人には人気のないタコもよく食べる。
「スシは、やはり、カウンターで食いてえな」通ぶったセリフをはき、給仕をしているサティの顔を見て笑った。
サティにだけは、簡単に事情を話してある。挨拶《あいさつ》をすませると、さっさとカウンターのところに戻った。
本多は、白ワインをコロンボのグラスに注いだが、自分のグラスには注がなかった。飲んでミッシェルのコーチはしたくない。ミネラル・ウォーターを一口飲む。そして、おもむろに自分の考えを話し始めた。無論、昨夜、アルフォンジーに会った話はしなかった。
器用な箸《はし》さばきで鮨を食べているコロンボ。終始、無言で本多の話を聞いていた。
「……輸送車が無防備すぎます。リハーサルのつもりで、今回は奴等にやらせてみるべきです」
「お前、どうしても、子分を生贄《いけにえ》にするのが嫌《いや》なんだな」コロンボが短く笑った。
「アルフォンジーの狙いは、俺達の力を衰えさせることです。ジャン・イヴなんか、本当はどうでもいいんですよ。それに、今度の襲撃計画は、すでに奴の耳に入ってる。ケチがついてるヤマですよ。奴にくれてやって様子を見るほうがいいと思います」
「しかし、そんな提案、アルフォンジーが乗るとは思えねえな。奴は、俺がサツにタレこむんじゃねえかと心配するに決まってる」
「最悪の場合は、こっちから子分を何人か回すと言えばいい。そうすりゃ、被害も少ないでしょう」
「しかし、今度の計画が成功するにしろ、失敗するにしろ、二度同じところをやるってのは、警戒も厳しくなって、とても無理なんじゃねえか」
「確かに、警戒は厳重になるでしょう。だが、俺が、JCEの動きを、より細かく正確に探り出せれば、かえってことは運びやすくなるかもしれない」本多は自信ありげな顔をして言った。「ともかく、俺に任せて下さい」
「ガルディアンの意見も聞きてえな」
「そのことなんですが……」本多は身をのり出した。「今日、わざわざ、ここに来ていただいたのは、ボスにだけこの話をしたかったからです。ひょっとすると、ボスの周りにアルフォンジーに寝返った奴がいるかもしれねえ」
「何!」コロンボは鮨《すし》をつかみそこなった。「お前、そんなこと本気で思ってるのか?」
「証拠は何もない。ですが、ボス、妙だと思いませんか? ジャン・イヴとルイジのことだって、今度の計画のことだって、アルフォンジーに筒抜《つつぬ》けって気はしませんか。それに、もしルイジが殺されたのも、アルフォンジーのさしがねだとすると、なおさら臭い」
コロンボは本多から視線を外し、唇《くちびる》を少しとがらせ、小刻みにうなずいた。
「ヨヨ、お前が疑ってる野郎の名前を言ってみろ」
「俺とボス以外の全員を疑ってる。だから、今日の話は誰にも話さないでもらいたい」
「ガルディアンにもか?」
「ええ。アルフォンジーの子分をオトリに使って様子をみる、なんてことが相手に知れたら、事はもっと面倒になる。今、奴等とやりあって勝ち目はないし、そんな小細工が大ボスにバレたら、それこそ、一大事。ここは、ひとつ全員が敵だと思ってかかって下さい」
「ということは、お前も信用できねえってことだぜ」
「俺に野心がねえのは、よく知っているでしょう。それに、今度のことで、俺はルイジという昔からのダチを失っている。少なくとも、他の連中よりは信用してもいいはずです」
コロンボの青い目が本多を見た。本多も視線をはずさなかった。
「わかった。お前の言う通りにしよう。アルフォンジーとの交渉もお前にまかせよう」
心がちくりとした。アルフォンジーとの密約。コロンボの損になる話ではなかったが、やはり、気がひけた。
*
本多が、ナション広場にあるルネのスポーツ用具店に着いたのは、午後三時を少しまわった時刻だった。
スポーツ用具の他に、スポーツウエアーやキャンピング用品も置いてある、店内を通り抜け事務所に入った。
ミッシェルとルネ。仲良くビデオを見ていた。
画面には、引退した江川が映っていた。去年、行われた巨人・広島戦のビデオらしい。なるべく、野球の話題をさけて暮らしてきた本多でも、江川のことは知っていた。
本多の姿をみとめると、ルネはビデオのボリュームを下げた。
「江川が辞めたのは、本当に残念だ。まだ投げられた気がしますが、どうですか?」ルネは短い挨拶《あいさつ》をした後に、そう言った。
「多分ね。だが、ストレートが命のピッチャーが、ストレートが走らなくなる。それで野球生命は終わらなくても、彼の描いた投手美学はそれで終わった、と本人は考えたのかもしれんな」
「そうかもしれませんが、やはり惜しいなあ」ルネはつぶやくように言った。
トレーニングウエアーを持っていない本多は、店で取りそろえた。
「さて、ミッシェル、そろそろトレーニングに出かけるか」
「いいよ」机《つくえ》の端に腰かけていたミッシェルは、グラブとボールを取った。
「どういうメニューなんですか?」ルネが興味ぶかげに訊いた。
「ここからヴァンセーヌの森は近い。あそこまで、軽くランニングし、それからキャッチボールをやります。一緒に来ますか?」
「そうしたいのは、やまやまだけど、今日は店をあけられないんです。客が来るもので」
本多は内心、ルネが来ないことを喜んだ。コーチの数。多いほうがいいというわけではない。
ルネからキャッチャーミットとホームベースを借り、事務所を出ようとした。
「ムッシュ・ホンダ。筋力トレーニングはやらないのですか?」
「無論、様子を見て、やらせるつもりです」そっけなく答えた。
なんとか自分も関わりたいルネ。余計な説明をすればするほど、口出しが多くなるはずだ。
「トレーニング・マシーンはうちのスポーツクラブにそろっている。利用してくださってけっこうですよ」
「クラブはこの近くですか?」
「二軒隣のスモークガラス張りの建物がそうです」
「必要になったら、遠慮なく使わせてもらいましょう」
本多はミッシェルをうながし、外に出た。
「少し歩こう」
「昨日の件だけど、話ついたのかい?」ミッシェルが訊《き》いた。フランス語。
「何の心配もいらん。フェルナンデスとお前は、完全に縁が切れた」
「ムッシュ・ホンダ、あんた一体、何者だい?」
「ミッシェル、日本語はできないのか?」
「できるよ」日本語。「ただ、あんまりしゃべる気がしないんだ」
「コーチをやる時は、日本語にしたい。フランス語じゃ感じがでないんだ。いいな?」
「いいよ。どうせ、用語は、こっちでも英語を使ってるんだから」ミッシェルはにっと笑った。
「ところで、フェルナンデスから預かり物はどうした?」
「家に置いてある。帰りに取りに来てほしい。あんなものを持って、昼間からうろうろしたくないからね」
「帳尻は合ってるだろうな。十五グラム預かってるそうだが……」
「ぴったりだよ。でも、本多さん、何でフェルナンデスを……」
「軽くランニングだ。俺も何とか後について行くから」
ミッシェルはちょっと不満げな顔をした。
「さあ、走れ。ポルト・ドレから湖のところに入るんだ」
ミッシェルはうなずき走り出した。
日頃の不摂生。露骨にたたった。三キロほど走っただけで、胸がぜいぜいいい出した。
森に入った。湖を少し越えたところの芝生で柔軟体操をやった。軽く汗をかく。
体操の後、キャッチボールに移った。
球を投げ、球を受ける。二十年近くもやらなかったこと。本多は背筋が熱くなった。球を握る右手がじっとりと汗ばんでいる。本多はトレーニングパンツで何度も汗を拭き取った。
ミッシェルのキャッチボールはスローイングにしろキャッチングにしろ、基本に忠実で、別段、本多が取り立てていうことは何もなかった。
キャッチボールを止めた本多は、ピッチング練習のできる場所を探した。
「この辺だったら、どこでもいいじゃないか」
「そうはいかん。お前のコントロールじゃ、球を取りに駆けずり回ってるうちに日が暮れる」
「じゃ、競輪場の中でやろう。あそこの芝生も野球に使ってるんだ。誰もやっていなければ使えるぜ」
「そんなところがあるのか。よし行ってみよう」
競輪場は湖からすぐのところにあった。無人。勝手に使用していいのかどうかわからないが、本多はかまわず、芝生に下りた。
かすかにラインが残っている。本多はホームベースを置いた。
再びしばらく遠投をやってから、本格的なピッチング練習に入った。遠投はフォームが大きくなるから、大事な練習なのだ。
ミッシェルの球。想像していたよりも重かった。時折、本多はミットを嵌《は》めている手がしびれた。
ストレートを投げろ。本多の注文はそれだけだった。
とんでもない高い球。ショート・バウンド。コントロールはまったく安定していない。
「よし」本多はどんな球がきても、そう掛け声をかけた。
そのうちに、球に勢いがなくなってきた。何とかコントロールをよくしようとして、手先で細工を始めたのだ。
「馬鹿やろう。思いきり投げろ!」本多は怒った。
「しかし、どこに飛んでいくかわからない球じゃ……」
「誰がコーチだと思ってる。俺の言う通り投げてればいいんだ」
挑むようなミッシェルの目が本多を見つめた。振りかぶる。右バッターのインサイドに速球が決まった。偶然。だが、素晴らしい球だった。まったくシュート回転していない速球を、今のように投げられたら、ほとんどのバッターは手も足も出ないはずだ。本多は、一瞬、往年の野村や長嶋がバッターボックスに立っているような錯覚におちいった。
ミットは常にど真中にかまえていた。いろいろな欠点がわかってきた。
まず、大きなフォームだが軸足がしっかりしていない。顔がミットから早く離れすぎる。球を手から離すタイミングが一定していない等々。
「本多さん、カーブを投げていいかい?」
「いいだろう」
大きくタテにわれるカーブ。だが、肩口から入ってきた。ホームランボール。フォロースルーに問題あり。
次はスローカーブを投げた。手が先に行ってしまって曲がりが早すぎる。
ミッシェルは、スライダーとシュートも披露したがったが、本多は投げさせなかった。
ストレートと二種類のカーブ。それで充分だ。
「よし、今日のピッチング練習はこのくらいにしておこう」
「どこが悪いのか教えてくれないのかい?」ミッシェルは、ホームベースに歩みよりながら訊いた。
「明日から、少しずつやろう。それより、今からここを走れ」
ミッシェルは露骨に嫌《いや》な顔をした。「本多さん、野球はアートだってこの間言ってたよね。アートにランニングは必要ないんじゃないかな」
本多はにやりと笑った。「過度のランニングは無駄だが、或る程度は走る必要がある。野球はピアノを弾くようなものだ。どんなに音楽的素質があっても、指が動かなきゃ、どんな名曲も弾けんだろう。それと同じだ。つべこべ言わずに走ってこい」
ミッシェルは黙って走り始めた。約一時間、本多はミッシェルを走らせた。
「止め」の合図を聞くと、ミッシェルは芝生に仰向けに寝転んだ。「ふーう、きついな。俺、昔から長距離は嫌いだった」
本多も、ミッシェルの横にねそべった。
「今日からランニングを好きになるんだな」
「…………」ミッシェルは返事をよこさなかった。
本多の目の前にどんよりとした曇り空が拡がっていた。
さえない空模様。だが、本多には嬉《うれ》しい空だった。何年振りのことだろう。芝生に寝転び空を見上げるなんて。
「な、本多さん。俺のピッチングどうだった」いいことを言ってもらいたい口振り。
本多は、一瞬、欠点をあげつらいそうになった。だが、思いとどまり、長所だけを言った。
「……肩もリストも強い。お前はピッチャーになるために生まれてきたような奴だ」
「本当にプロになれると思うか?」
「ああ。だが、一番の問題はコントロールだな」
「どうすりゃ、コントロールよくなるかな」
「ひとことで言うのはむずかしいが……投球の際の躰《からだ》の動きを止めることだな。その後はセンスだな。躰がどれだけ頭でわかっていることをおぼえられるかだ。しかし、俺の勘じゃ、お前にはそのセンスはある。ともかく、今の大きなフォームをなにがあってもくずすな」
「わかったよ」素直な返事。
欠点をたらたらと上げていたら、こんな素直な返事は戻ってこなかったろう。
本多は、ミッシェルを起こし、軽く運動をした後、競輪場を出た。
「本多さん、しつこいようだけど、何であんたにフェルナンデスをだまらせることができたんだい?」
「奴のボスを知っていたからだ」
「じゃ、あんたも……」
「ミッシェル」本多は立ち止まり、少年を真剣なまなざしで見つめた。「俺を信用できるか」
「ああ。昨日のことで、俺、あんたを信用したよ」
「俺についてお前が想像していることは当たってる。日本料理屋の主人というのは表向きの商売だ」
「なんで、そんな重要なことを簡単にしゃべっちまうんだい?」
「お前、俺のコーチを受けたいか?」
「ああ」
「じゃ、それでいい。他のことはどうでもいい」
「俺が、あんたの秘密を誰かにしゃべったらどうする?」
「どうもしないさ」
「俺に、ヤクのディーラーをやっていたという弱みがあるから、しゃべらないと思ってるんだろう?」
本多の頬《ほお》がゆるんだ。「馬鹿を言うな。俺はお前を信用した。だから、しゃべったんだ」
「俺、誰にもしゃべらないよ、姉さんにだって黙ってる」
「秘密を打ち明けたかいがあったな」
「でも、俺、前から、あんたの素性を知っていたら、昨日、あんたの言うことを聞かなかったかもしれないな」
「どうしてだ?」
「だって、あんただって、ヤクを扱ってるんだろう。そういう人間が、ヤクを止めろってのは矛盾してるじゃないか」
「お前も、フランス人らしく理屈っぽいな」思わず皮肉な笑いが口許《くちもと》にうかんだ。「だが、お前の言っていることは正しいよ。今はもう、俺はヤクは扱っていないが、昔は扱っていた。弁解する気はない」
「今は、何やってるんだ?」
「そこまでは教えるわけにはいかない。俺が秘密のある人間だとわかっただけで満足してもらうしかない。だが、ともかく、お前はディーラーから足が洗えた。よかったと思ってるんだろう?」
「ああ」
「お前は十八だ。野球にだけ人生を賭《か》けろなんて俺は言う気はない。俺が、お前をプロにしたくても、お前にその気がなければどうにもならんからな。だが、ヤクザとヤクとだけは付き合うな」
「また矛盾してること言ってらあ。あんたはそのヤクザじゃないか」
「俺だけは例外だ。矛盾していてもかまわん。ヤクザの付き合いは俺だけにしておけ」
ミッシェルが微笑《ほほえ》んだ。屈託のない笑み。本多も微笑み返した。
突然、ミッシェルは歩道に立ち止まり、投球動作に入った。買物籠《かいものかご》を抱えた白髪の老婆が、身長一八三センチの少年の動作を怪訝《けげん》な顔をして見上げていた。
「バックスイングはもっと大きい方がいい」
「こういう感じかい?」
ミッシェルは何度も投球動作を繰り返した。
一日目のトレーニング。おおいに成功だった。本多は久しぶりに充実した午後を送った気がした。
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本多の過去
一旦、ルネのスポーツクラブに寄り、本多はシャワーを浴びた。ルネは本多とミッシェルを食事に誘った。本多は丁重に断った。ミッシェルも、今夜はダメなんだ、と申し訳なさそうな顔をした。そして、ちらっと本多を見た。
「随分、トレーニングうまくいったようですね」
ルネの厭味《いやみ》。曖昧《あいまい》に笑って受け流し、本多はクラブを出た。
昨夜の一件がなかったら、こんなにミッシェルは心を開かなかっただろう。不幸中の幸い。本多はエンジンをかけながら、助手席に座っているミッシェルをちらっと見て微笑《ほほえ》んだ。
車をレ・ピュブリック広場に向かって走らせる。環状線を通らず、市内を抜けて、ミッシェルの住まいのあるモンマルトルに行くつもりなのだ。
「ミッシェル、ひとつ聞きたいんだが、何故《なぜ》、お前は、日本語を使いたくないんだ?」
「俺、前にも言ったけど、日本が嫌いなんだ」
「向こうに住んだことあるのか」
「子供の頃、しばらく、おばあちゃんのところにいたことあるよ。でも、その時は別に嫌《いや》じゃなかった」
「いつごろから嫌になったんだ」
「さあ、いつ頃からだったかな」ミッシェルは、溜息《ためいき》混じりにつぶやいた。「ともかくさ、俺、親父が嫌いなんだよ。画家じゃ食えないから、親父、昔は観光ガイドやっていたんだけど、仕事中、フランス人とうまく行かないことがあると、必ず、飲んだくれて、母親に愚痴《ぐち》ってさ。日本だったら、日本人だったら……ふたこと目には、そう言いやがるんだよ。そのくせ、日本から知り合いが来ると、フランス人みたいな顔をして、日本をけなすんだからね、まったく、どうしようもねえよ」
「まあ、そういう日本人はいることにはいるが、それくらいで日本を嫌うこともあるまい」
「俺の友達で、日本で車の免許を取った奴がいてさ、そいつから聞いたんだけど、日本の教習所じゃ、教官が刑務所の看守みてえに威張りくさり、ハンドルの持ち方まで教えるんだってな。それを聞いただけでも、行く気のしない国だと思ったよ。行く気もしない国の言葉をしゃべってもしようがないだろう」
「それでも、父親とは日本語でしゃべるのか」
「ああ。あいつのフランス語、モタモタしていて、苛々《いらいら》するからな」
本多は、ふと自分の息子のことを思い出した。久しぶりに。ミッシェルより三つ年上の息子。どうしているだろう。学生なのだろうか、それとも働いているのだろうか。野球は、やはり好きだろうか。とめどなく想像がふくらんだ。そして、妻だった女のことも頭にちらついた……。
「お前の母親はフランス人だろう。日本語はできるのか?」
「ママはとっくに死んじまったよ」投げやり調子で答えたミッシェルは、一瞬、目をふせた。そして、急に調子を変えてこう言った。
「俺、あんたのコーチを受けるのは嬉《うれ》しいが、どうせプロになるんなら、アメリカでプロになりたいな」
「無理に日本で野球をやれとは言わんよ」
「あ、そこを左に入ったほうが近い」
やがて、モンマルトルの丘の側面にある細い通りに出た。奥の階段を上がって行くと、サクレクール寺院の前に出るはずだ。
車をアパートの前に停《と》めた。
エレベーターなどない、朽ちたようなアパート。壁はひび割れ、階段の手すりは、ぐらぐらだった。
寺井の部屋は七階にあった。
「毎日、サクレクールまで駆け上り、この階段も一気に上れば、自然に脚腰《あしこし》がきたえられるな」本多はミッシェルを見て笑った。
「コーチも一緒に付き合ってくれるのかい」
ミッシェルはにっと笑い、ドアベルを押した。
ドアが開いて、現れたのはソニアの笑顔だった。
「ソニア、来てたのか」
「ええ」
姉弟はキスをした。
「ちょっと待っててくれよ、本多さん」ミッシェルがウインクした。
「どうぞ、入って。パパにも紹介するから」
気は進まなかったが、強く断るのもおかしい。本多は黙ってソニアの後について居間に入った。
顎《あご》ヒゲを生やし、素通しの眼鏡《めがね》をかけた男が窓際の椅子《いす》に座っていた。
テーブルの上には、安ワインの大瓶《おおびん》とグラスがおいてあった。
赤くそまった頬《ほお》。袖がほころびたラクダ色のカーディガン。どんな生活状態なのかは、聞かずともよくわかった。
本多はすすめられるままに、椅子に腰を下ろした。
「うちの息子には、そんなに素質があるのですか」かすれた生気のない声が訊《き》いた。ほんの少し東北|訛《なま》りのある日本語だった。
「ええ。私の目に狂いはありません」
「私も野球は好きでしてね。オリオンズにいた榎本喜八の大ファンだった」
本多は笑みをつくった。
五十歳を越えたか越えないくらいの父親。ひょっとしたら、自分の過去を知っているかもしれない。早いところ退散したかった。
「寺井さんは、もうどれくらいパリに、お住まいなんですか?」
「何年目になりますかね……」
「二十七年目よ」父親の後ろに立っていたソニアが答えた。
「もうそんなになるか……」力なく笑った。「絵描きはつぶしがきかない。日本に帰るに帰れなくなってしまいましたよ」
「お嬢さんから伺いましたが、今は、美術エージェントをなさっているんですってね」
「まあそうですが、大して仕事はないんですよ。円高のおかげで、何とか安い給料でもやっていけるんですが、絵の売買なんてろくな商売じゃありませんよ」元絵描きは、ちょっと刺《とげ》のある言い方で、自分のやっていることを卑下した。「ところで、本多さんは、昔、高校野球の監督をなさっていたそうですね」
探りを入れているような目つき。気のせいだろうか?
「地方予選で、きまって決勝まではいくんですが、一度も甲子園にはでられなかった……」
本多は控え目に微笑《ほほえ》んだ。
ミッシェルが、小さな黒い手提げバッグを持って戻ってきた。本多はほっと溜息《ためいき》をついた。
「それじゃ、そろそろ私は……」
「今から食事なんだけど、よかったら一緒に」ソニアが誘った。
「いや、せっかくだが、ひとつすませなければならない用があるんだ」
「ソニアが、実家に戻って食事を作ることなんか、年に何度もないんだから。食って行きな……」
「ミッシェル!」父親が突然、大声で叫んだ。ヒステリックな声。「帰ってもらえ、この男には。それから、こいつにコーチをしてもらうのは、今日でおしまいだ」
「何だって!」ミッシェルが驚きの声をあげた。
思わず、本多も父親の顔を見た。
怒りがこみ上げている顔。本多をにらんでいる。
「さっきから、ずっと、あんたの顔に見覚えがある、と思っていたんだが、なかなか、思い出せなかった。だが、今は、はっきりとあんたの正体を思い出したよ」勝ちほこったような笑いが口許《くちもと》にうかんだ。
「パパ、何、言ってるの?」ソニアが訊《き》いた。
本多は茫然《ぼうぜん》と立ち尽くしているしかなかった。
「こいつになんか、息子のコーチをさせてたまるか! こいつは、八百長試合をやって、プロ野球界から追い出された、汚い男なんだ」父親は、グラスに酒をついだ。そして、あおるように一気に飲み干した。
「本当なの、本多さん」ソニアの目が冷たかった。
「…………」弁明。やっても無駄だ。どうやって十九年前のことを語ったらいいのだ!
「答えないところを見ると、どうやら本当らしいわね」
「確かに私は、そういう烙印《らくいん》を押された。だが、事実は違うんだ……」
「何が違うんだ。よくもぬけぬけとそんなデタラメが言えるな。一時期はエースだったが、肩をこわし二戦級に落ち、挙げ句の果てが八百長試合に加担した。どこが違うんだ。昔だってパリで、日本の新聞は読めたんだぞ。卑怯《ひきよう》な薄汚い野郎に、息子をあずけられると思うのか。あんた、何か金儲《かねもう》けにうちの息子を使うつもりだったんじゃないのかね」
「私は……」低くうめいた。一歩前にすすみ出た。かっと頭に血がのぼった。
「帰んなよ、本多さん」ミッシェルが冷めた口調で言った。「俺は、どんな人間とでもウマが合えば付き合うが、卑怯者と付き合うのだけはゴメンだよ」
しばし、本多とミッシェルはにらみ合った。本多が先に目をはずした。
「わかった。今日のところは帰る。だが、そのバッグは俺のだから預かっておく」
「せっかくだけどな、本多さん、例の話はなかったことにしようぜ」
「いいから、よこせ」本多はバッグをひったくろうとした。
パンチが飛んできた。顎《あご》に一発。倒れなかった。だが、心はすでにノックダウンをくらっていた。
「帰れ、帰らないと、警察を呼ぶぞ!」父親が叫んだ。
本多はふらふらと戸口まで歩いた。
「俺は八百長はやってない」
ぽつりと言い残し、暗い階段を下りて行った。
*
躰《からだ》からいっぺんに力が抜けた。何をするのも面倒な気がした。しかし、アルフォンジーにだけは電話を入れておかなければならない。表通りに出て、公衆電話を探した。三台の電話機。ことごとく壊されていた。本多は三台目の受話器を電話機に叩《たた》きつけた。
やっと五台目で、まともな電話にぶちあたった。
アルフォンジーに、ことの次第を教え、後はコロンボと直接電話で話せ、と言った。そして、宝石の方はできるだけ早く探し出すと約束した。
「……ヨヨ、今日はなんだか機嫌が悪そうだな」思い通りにことが運んだアルフォンジー。満足げな声でそう言った。
「そうかい? 俺はいたって機嫌がいいがね」
「おめえが、そう言うんなら、そうだろう。ところで、ガキの持っていたブツはどうした?」
「忙しくて、まだガキには会ってねえんだ。そのうち、ちゃんととどける」
「疑っちゃいねえが、フェルナンデスが心配するから、はやいとこ頼むぜ」
「わかったよ」
受話器を置く。何があっても、ミッシェルからブツだけは取り上げなければ……。
陰気な汚いバーに入ると、よけい惨めになる。かといって、女とどんちゃん騒ぎをする気分でもない。本多はシャンゼリゼの裏にあるピアノ・バーに入った。
しこたま飲んだ。だが、大きな図体とぽっかりと穴の開いた心を満たすにはいたらなかった。
十二時少し前。本多は店に戻った。ちょうどサティが、帰りじたくをしているところだった。
「だいぶ入ってるな。久しぶりの野球に興奮したか? それとも、体力が落ちているのにショックを感じたか? こないだ、十七歳の女と寝たんだけれど、その時、俺は……」
「トレーニングはやらなかった」本多はサティの言葉を無視してつぶやいた。そして、カウンターの端に腰を落ち着けた。
一瞬、唖然《あぜん》とした顔をして本多を見たサティ。精一杯の笑顔を作った。
「酒、まだ飲みてえか」
「ああ」
サティはリカールの瓶《びん》をカウンターに置いた。
「一体、どうした?」
「俺の過去がバレちまった」
「過去って、野球の方かい、それともヤクザの方か?」
「野球の方だよ。ミッシェルの親父が俺を覚えていて、汚い野郎にはコーチをまかせられないと言い出したんだ」
「親父なんか関係ねえ。ミッシェルってガキはもう十八なんだろう。自分で決めるべきだぜ」
「奴も、俺に失望したようだった」
「馬鹿なガキだぜ。ディーラーから足を洗わせてやったのに……。人を見る目がねえ奴だ……」
「いつかは、バレると覚悟していたがな……」
本多は、グラスをゆらせながらつぶやいた。
「だが、ミッシェルが、何とかプロのテストを受けられるくらいの実力がつくまでは、知られたくなかったよ」薄笑いをうかべ、リカールをなめた。
「過去に何があろうが、元プロのコーチを簡単にけっちまうってことは、そのガキは、プロになりたいという欲がねえんじゃねえか」
「まだ、本人は自分の実力について、はっきりとわかってねえんだ。まったく、惜しい話だが、どうしようもねえ」本多は、長い溜息《ためいき》をついた。
「ガルディアンから二度電話がきたぜ」しばし沈黙した後、サティがぽつりと言った。
ジャン・イヴを引き渡さないで、JCEの給料をアルフォンジーに差し出す。ガルディアンは怒り狂っているに違いない。
「ジャン・イヴとは連絡が取れたか?」
「ああ。やっこさん、明日の昼ごろ、ここに顔を出すと言っていた。あの鼻柱の強いガキも、今回は、えらく神妙にしていたらしい」
「二十八にしちゃ、奴はガキっぽすぎたから、ちょうどよくなったんじゃねえか」
「まったく……だ……な……」
語尾が乱れ、サティの視線はドアに向けられた。
女がひとり、店内をのぞいていたのだ。
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ソニアの決断
シルエットを見ただけで、相手が誰だかわかった。
ソニア・寺井。
本多は、ドアの鍵《かぎ》をはずした。
「こんな遅い時間に、どうした? さあ、中に……」
ソニアは肩をいからせ、一歩も動かなかった。唇《くちびる》をかんだまま、本多を睨《にら》んでいた。
「まだ、私に文句を言いたいのか? ミッシェルのことはあきらめたよ」
「これを返しに来たのよ」手に持っていた紙袋の中から、黒い小さなバッグを取り出し、本多に投げつけた。とっさにつかむ。
ミッシェルのバッグ。ヤクと代金が入っていたはずのバッグである。
「今度、こんなものを弟に渡したら、警察に行くわよ。忘れないでね!」
歯をむいてそう叫んだソニアは、一目散に走り出した。
誤解だ。一瞬、面食らった本多は出遅れた。だが、そのまま放っておくわけにはいかない。
追った。女の足。ほどなく、本多は追いついた。
「放してよ。大声出してもいいの」
「もう、君は大声出してるよ。いいから、私の話を聞きなさい」
「いやよ!」ソニアは脅えていた。
ソニアの自分を見つめる目。本多は寂《さび》しかった。知り合って間のないソニアだったが、本多に信頼感のようなものをいだいていたのは確かだった。しかし、今は、それが一挙に崩れ、得体のしれない、不気味な動物でも見るように、ソニアは本多を見つめていたのである。
本多は、いきなり、ソニアをかかえた。
「キャー!! ソニアの叫び声が路上に響きわたった。
しかし、どの建物の窓も開かなかった。
本多の行動を見ていたのはサティだけだった。
ソニアをかかえたまま、店まで走った。中に入ると、サティがシャッターを下ろした。
「私を、ど、どうするつもり」ソニアは、黙って戸口に立っているサティをちらっと見た。「何かあったら、真先に疑われるのは、あなたよ」
「ソニア、私は何もしやしない」そう言ってから、本多はサティにソニアを紹介した。
「お嬢さん、ヨヨ、いやムッシュ・ホンダは八百長なんかやる男じゃないよ」教えさとすように言った。
だが、ソニアはサティの顔すら見ようとせず、ホールの中央につっ立っていた。
見知らぬ男。ソニアの恐怖心をあおるばかりだ。本多はサティを帰らせることにした。
臙脂色《えんじいろ》のブルゾンを羽おったサティが出て行くと、ソニアも帰ると言い、ドアに向かった。
本多は彼女の前に立ちはだかった。
「話を聞いたら、どうだ。いつだって帰してあげる」
「話すことなんか何もない。あなたは、ミッシェルにヤクの売買をやらせようとして……」
「ミッシェルが、そう言ったのか?」鋭い視線をとばした。
「いいえ。でも、あなた、パパのところを出て行く時、このバッグのこと気にしてたでしょう。あなたが帰った後、ミッシェルにバッグのことを訊《き》いたわ、私。あなたとミッシェルは、昨日の午後会っただけなのに、ふたりの間に秘密があるように見えたんですもの。不思議に思って当たり前でしょう? でも、ミッシェルは何も答えず、バッグを持って自分の部屋に入ってしまったわ。そして、しばらくして、行き先をつげずに出て行った。私、ミッシェルの部屋に入りバッグを探したの。下着入れの奥に放りこんであったわ……」
「ソニア、君の、はやトチリだよ。私は、ミッシェルにヤクなど渡したことはない」
「やはり、八百長やるだけのことはある汚い男ね」ソニアは吐き捨てるように言った。
「……ともかく、事情は弟に訊くんだな。さあ、帰りなさい。タクシーを呼んで上げるから」
「電話借りるわよ」ソニアがレジのところにつかつかと歩みよった。
「どこに電話を入れるんだ?」
「心配しなくても、警察にかけるんじゃないわよ。ミッシェルに電話を入れるのよ」
午前一時四十分。相手はなかなか出なかった。
「……ミッシェル? ソニアよ……。それなら、私が持ってるわ……。大声ださないで、パパが起きてきたら面倒でしょう……持ち主の本多さんに返したわ。え?……でも……じゃ、あんた、前から……。ちょっと、ミッシェル!」
ソニアは受話器を叩《たた》ききった。胸と肩が激しく動いている。
「私の話を聞く気になったか?」
ソニアは、うんともすんとも言わなかった。混乱しているらしい。本多はバッグを持ち立ち上がった。
「どうするの?」
「帰るんだよ」本多は照明をすべて消した。
肩を落としたソニアのシルエットがドアに向かった。
「タクシー乗場まで送ろう」
「いえ……それより、やっぱり話聞かせてほしい」
ソニアが上目づかいで、本多を見た。頬《ほお》がかすかにゆるんだ。
こんな時に笑うなんて、どういう神経してるんだい? そう言いたかったが、言わなかった。本多も微笑《ほほえ》み返した。
「私の住まいは、この建物の六階だ。来るか?」
「ええ」
中庭を通り抜け、定員三人のエレベーターに乗った。
ソニアは本多に横顔を見せるかっこうで、あらぬ方向を見ていた。
美しい横顔。鼻も唇《くちびる》も顎《あご》も、性格の強さを現しているかのように、すっきりとしていた。
顎から下に視線を移す。長身の本多。Vネックのセーターの中で息づいている胸の一部が見て取れた。
「ひとり者の部屋だ。汚いが我慢してくれ」ソニアをソファに座らせ、キッチンに行き酒の用意をした。
女がこのアパートに訪ねて来る。何年ぶりのことだろう。十八年のパリ生活。愛人らしき女がいたことは何度かあった。しかし、短いつき合いばかりだった。
つき合った女達を、それなりに好きではあったが、心底、信用したことは一度もなかった。
あなたは、女が好きだけど、|女嫌い《ミゾジンヌ》ね
十年ほど前、恋人のような存在だった旅行代理店に勤める女に言われた言葉だ。
その言葉には花柳界《かりゆうかい》で言う、いわゆる色好みの女嫌い≠ニいうニュアンスも含まれていたには違いない。だが、それだけではなかったようである。その女は、本多が異常に女を警戒しているのを見抜いていたらしい……。
グラスと氷を用意して居間に戻った。
ソニアは、触角の長いカミキリ虫を珍しそうに眺《なが》めていた。
「本多さん、昆虫マニアだったのね。この虫、どこでとらえたの?」
「友達からもらったんだ。大切に扱ってくれ。その男の形見なんだ」
ソニアはカミキリ虫を、慎重な手つきで元に戻し、本多の正面に腰を下ろした。
意味のない乾杯をする。本多は一気にグラスを空けた。
「ミッシェルは、さっきの電話でなんて言ったんだ?」
「私がバッグを持ち出したことに、めちゃめちゃおこっていて、会話にならなかった。でも、あなたとは関係ないって言ってたわ。前々から、麻薬に手を出していたみたい。あなたを疑ったりして、ごめんなさい。でも、あなたが、バッグのことを知っていたから……」ソニアはウイスキーに手をつけた。「ね、教えて、何故《なぜ》、バッグのことを知っていたの?」
「ミッシェルは何も言わなかったのか?」
「何にも」
昨夜のこと話すべきかどうか? 迷った。煙草に火をつけ、ソニアを見た。本多に向けられた真剣なまなざし。嘘《うそ》をつくのはよそう。本多は簡単に事情を話して聞かせた。
「……もう、組織とは話がついている。このバッグの中味は俺から、組織の連中に返しておく。君もミッシェルも何も心配いらない」
「でも、どうして、本多さんが……」
「察しがつくだろう、君にだって。私も、そっち側の人間なんだ」おだやかな口調で本多は告白した。
ソニアは黙っていた。無表情。おそらく、何を言ったらいいのかわからないのだろう。
「……音楽かけてくれない?」
「新しいレコードなんて一枚もないぜ」
「何でもいいから、かけて」
本多はシルヴィ・バルタンのレコードをかけた。スーパーマーケットで買ったヒットソング・アルバム。
「もう一度聞くけど、パパが言っていたこと本当?」
「ああ、八百長事件に巻き込まれて、プロ野球界から追い出されたのは本当だよ。だが、私は潔白だ。八百長などやってはいない。絶対に」
「詳しい話、聞かせて」
本多は黙って首を横にふった。「語れば、嫌《いや》な思い出がよみがえってくる。もうすんだことだ」
「私のような小娘に話してもしかたがないと思ってるのね」
「そうかもしれんな。君のような若い女の前で、四十六の男が、悲痛な顔をして過去を語る。できたらさけたいと思うのが普通だろう。ふっきれていない過去を語って様《さま》になるのは、せいぜい三十までだよ。それをすぎると、単に醜いだけだ」本多は酒を注いだ。ストレートのまま一気にグラスを空けた。
「本多さんの考えでいくと、二十二歳の女の告白は醜くないってことね。だったら、私の話は聞けるわね」
「ああ。だが、君にはどんな過去があるんだ?」
「私も十代の頃はグレてたのよ。ヤクもやったし売春もやったわ。そりゃ、ひどい生活だった……」
「君たち姉弟は、共にグレてたってわけか。となると、どうやらその原因は家庭にあるようだな」本多はつぶやくように言った。
「本多さん、たいして驚いてないようね、どうして?」
「君は二十二にしてはおとなびている。そういう過去があったと聞いて、驚くよりも、なるほどって納得したんだよ。しかし、よく足が洗えたね、立派なもんだ」
「ちっとも立派じゃないわよ。すべて偶然。リセで同級生だった男が、ヒモみたいに私につきまとった。私、そいつから逃げ出すために、売春もヤクも止めたのよ。そして、商業学校に入りなおし、タイプと速記を覚えたの。学校を出た時、ちょうどJCEでタイピストを募集してたわ。日本人の血が混じっている私は、すぐに採用されたわ。でも、正直に言って、タイピストの仕事も大嫌いだし、日本人と働くのもうんざりしてるのよ」
「売春の方がいいってのか?」
「いいえ。売春やるのも、もうごめん。あれは十代だったからできたのよ。今は、どんなに金を積まれても、やる気しないわ」
「どうして、私に過去を話す気になった? やはり、私がヤクザだと知って、気安くなったからか」本多は口許《くちもと》に皮肉な笑いをうかべた。
「そうね、それもあるわね。でも、それだけじゃない。本多さんには話しても理解されそうな気が、はじめからしてたわ」
「ルネには話してない? そういうことかな?」
「ええ。彼には何も言ってないわ。ルネは素敵な人よ。でも、どっかシックリこないの。あの人は、私にとって……、何て言ったらいいのかな……透明すぎるのよ」
「私の感じじゃ、君がすべてをさらけ出しても、充分に許容してくれる男に見えたがね」
「ええ。ルネは私の過去など気にしないと思う。でも……よく説明できないけど、彼の発する匂《にお》いが、私と違うのよ。これから先、付き合っていっても、お互いが無理するばかりのような気がして……」ソニアは、そこまで言って煙草に火をつけた。そして、本多をしっかりと見つめた。「私、あなたを信じたい。なぜだかわからないけど、本多さんがそんな卑怯《ひきよう》な真似《まね》をするとは思えないのよ。ね、教えて、どうしてそんなレッテルを貼られるようになったの?」
どうしてそうなったのだろう。改めて思い返してみた。
おそらく、仕掛け人だった藤塚の陰謀だったに違いない。誘いに乗らなかったので、恨みを買い、腹いせされたのだろう。
本多は黙って立ち上がり、窓際に歩み寄った。窓を大きく開け、冷気に顔をさらした。
ソニアも窓際にやって来た。右腕が本多の腰にまきついた。本多の左腕がソニアの肩を抱いた。ソニアの顔が本多の胸にうずまる。
ソニアが目を上げた。
「キスして」
一瞬、本多はたじろいだ。
「ね、キスして」
待ち受けている唇《くちびる》。本多は激しく吸った。
シルヴィ・バルタンが『アイドルを探せ』のリフレインを繰り返し歌っていた。
躰《からだ》を離し窓を閉めた。
「今夜、泊めてくれるわね」
「いいのか?」野暮なセリフ。だが、思わず口をついて出てしまった。
ソニアがくすっと笑った……。
ソニアとのセックス。心の襞《ひだ》が洗われる。そんな感じのセックスだった。たんに肉体だけ求めているのではない。三度めのセックスの時自覚した。本多は躰を離し、煙草に火をつけた。そして、おもむろに過去を話し始めた。
「……ミッシェルのコーチ、どうしてもあなたにやらせるわ」
話を聞き終わった時、ソニアがきっぱりとした口調で言った。
「いいんだよ、もう。だが、あのまま草野球をやらせるだけにしておくのはもったいない。何とかしてやってくれ」
「でも……」
「ミッシェルが心から俺のコーチを受ける気にならない限り、どうにもならんよ。それに、さっき告白した通り、俺はどっぷりと、パリの暗黒街につかっている男だよ、気にならないのか、そのことは?」
「気にならないわ。真面目《まじめ》な顔をしたワルも世の中にはたくさんいるわ。潔ければ、それでいいのよ」
本多の心に陰がさした。JCEの内情を、この女から探り出さなければならなくなるかもしれない。まさか、ソニアをまきこむわけにはいかない。となると、彼女を利用することになるだろう。情がらみで情報を得る。何が潔いのだ。買い被《かぶ》らないでくれ。
カーテンの隙間《すきま》から白みはじめた空がのぞいていた。本多は起き上がり、カーテンの隙間を洗濯《せんたく》バサミで、丁寧《ていねい》に止《と》めた。
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怒りのガルディアン
目が覚めると、ソニアの姿はなかった。寝不足がこたえて、瞼《まぶた》がはれていた。
コーヒーを三杯飲んでも、いっこうに不快感は去らなかった。オペラ大通りのキオスクまで新聞を買いに行く。
新聞には、相変わらず、ルイジ達の死体のことは出ていなかったし、宝石商殺しの記事は、他の殺人事件に取って変わられていた。
十二時少し前。ドアがノックされた。
ジャン・イヴだろう。だが、念のために「どなた?」と訊《き》いた。
「ガルディアンだ」
ドアを開ける。赤毛は、いきなり、本多をつき飛ばした。
「てめえ、俺がいないのをいいことに、勝手なことをボスに吹きこみやがって」
「血迷うな、ガルディアン。文句があるなら、ボスに言え」
本多はスチームに片手をかけ立ち上がった。
「何か企んでるな、おめえは?」赤毛は、廊下で仁王立ちになっている。「アルフォンジーの子分と一緒にヤマを踏むだと! どういうつもりなんだ。ジャン・イヴを引き渡せばすむことをよ」
「俺が、ジャン・イヴを、はい、そうですか、と殺させると思ってるのか」
「組織のために、ジャン・イヴが犠牲になる。奴のやったことを考えれば当たり前だろうが。俺達は資金繰りに困ってんだ。アルフォンジーの狙いは、徐々に俺達の資金源を潰《つぶ》すことにあるんだ。おめえにだって、そのくらいのことは読めたはずだぜ。それを、むざむざと相手のいいなりになるなんて……やっぱ、おかしいぜ」
「何も変なことはない。この件が終わったら、俺は新しいプランを出すつもりだ。それで何とか資金の方は確保できるはずだ」
「おめえ、昨日、ボスを店に呼んだんだってな。何でボスの家で話をしなかった?」
「別に意味はねえ。たまには、俺の店に顔を出してもらいたい、と思っただけだ」
白い顔が青みがかった。舌を短くならした。「何とでもほざいてろ。近いうちに必ず、魂胆《こんたん》を見抜いてやるからな」
「おめえは、なんでそう俺につっかかるんだ? ひょっとしたら、コロンボが引退した後、組織を仕切りたいと考えているんじゃねえのか。だから、俺の存在が邪魔なんだろう」
「何だと!」ガルディアンが肩をそびやかした。
「図星か。しかし、俺には、何の野心もねえ。人を見る目がないようじゃ、組織は仕切れねえぜ」
白い拳《こぶし》が飛んできた。躱《かわ》した。腹に一発パンチを食らわす。相手は腹を押さえたが、一歩も動かなかった。間髪を入れずに、躰《からだ》ごとぶつかって来た。居間と廊下の間のガラス戸まで躰が、ふっとんだ。むささびのように元ゴールキーパーの躰が宙を舞った。シュートされたボールにくらいつくように本多の躰を押さえこんだ。喉《のど》。ガルディアンはぐいぐいと絞めた。もがいた。だが、奴の大きな手から逃れられなかった。
突然、ドアが開く気配がした。
「手を離せ」ジャン・イヴの声。
声に続いて、撃鉄が上がる乾いた音が耳にとどいた。
ガルディアンの両手から力が抜けた。
「立て、立つんだよ、ガルディアン」
「何だ、おめえか」小馬鹿にしたような口調。ガルディアンはのっそりと立ち上がった。
本多は上半身を起こし、絞められた首に手を当てた。咳《せき》こんだ。二度、三度。四度目の咳と一緒にやっと声が出た。
「撃つんじゃねえぞ」
「恩にきるぜ、ジャン・イヴ。おめえが来なかったら、本当にヨヨを殺《や》っちまっていたかもしれねえ。そうなっていたら、一大事だったからな」ガルディアンはネクタイをなおしながら言った。
ジャン・イヴの銃がぴくりと動いた。
「しまえ! こんなところでぶっ放せるわけねえだろう」本多は低い声で叫んだ。そして、立ち上がった。「帰んな、ガルディアン。すべては、コロンボが決めたことだ。不服があっても従うんだな」
ガルディアンは黙ってドアに向かった。そして、ドアノブに手をかけたまま、横にいたジャン・イヴを睨《にら》んだ。
「ヨヨに平伏して礼を言うんだな。奴のおかげで、おめえは、またもや命拾いをしたんだぜ」
ドアがバタンと閉まった。
「まったく気にくわねえ野郎だぜ」居間に入るなり、ジャン・イヴが吐き捨てるように言った。
「どんなに気にくわねえ野郎でも、奴はコロンボの片腕だ。むやみやたらと、ハジキなんか向けるんじゃねえ」
「しかし……」文句をたれたい顔。だが、言葉を飲んで溜息《ためいき》をついた。「すみません。つい、かっとなっちまって」
「お前はすぐにハジキを抜きたがる。それが命取りになりかねねえ。気をつけろ」
ジャン・イヴはこくりとうなずいた。本多はジャン・イヴにコーヒーを入れてやった。
「ところで、さっきガルディアンが言っていたことですが……」
「何の話だ?」
「俺があんたのおかげで、また命拾いしたとかいう件ですよ。あれは、どういうことですか?」
「大したことじゃねえ。アルフォンジーがお前を狙うことはもうなくなったってことだ」
「あんたが、アルフォンジーとかけ合ってくれたんですか」
「お前のおかげでな、俺もコロンボも苦労してるぜ、まったく。お前の命と引き換えに、宝石を返し、俺達が踏む予定だったヤマをひとつ奴にくれてやることになった」
「ヤマってどんなヤマですか?」
「そんなことは、どうでもいい。どうせ俺もお前も加わることはねえんだから」煙草を取り出す。
ジャン・イヴが火をつけた。そして、ライターをポケットにしまいながら、薄笑いを口許《くちもと》にうかべた。
「何か、魂胆《こんたん》があるんでしょう?」
「馬鹿なことを言うな。俺達は奴に一点借りてるんだぞ。こんなところで妙な小細工をしたら、それこそコロンボの命取りだよ」
「じゃ、みすみす儲《もう》け話を奴に譲っちまうってことですか?」
「この際、仕方あるまい」
ジャン・イヴは眉《まゆ》をひそめて溜息《ためいき》をついた。
「お前、妙な考えおこすんじゃねえぞ。今度、組織に迷惑をかけたら、俺でもかばいきれねえ。アルフォンジーがお前を狙う可能性はなくなったが、奴がルイジを殺《や》ったという確証はまるでねえんだ。気をぬくな、わかったな」
「命は惜しいですからね、注意は怠りませんよ」ジャン・イヴはオールバックの髪を手で軽くなでつけながら、短く笑った。
白いパンツに濃いベージュのたっぷりとしたブルゾンを着、シャツは黄色地のストライプ。口のきき方さえ、もう少しヤワだったら、マヌカンだと偽ってもじゅうぶんに通るだろう。
しかし、この若造の性格。容貌《ようぼう》ほど優しくはない。のし上がりたい野心が心の中に渦《うず》まいているのだ。
「ジャン・イヴ、今度のマイナスをどうやって取り戻すつもりだ?」
「どういうことですか?」
「コロンボの心証を悪くした。それをどうやって回復するかってことだよ」
「機会を見計らって、でっけえヤマを計画し、ボスに認めてもらいますよ。だが、俺が何か意見を出すとガルディアンとその仲間が、ことごとく、ぶっ潰《つぶ》しやがるんだ。だから、俺、焦っちまって、あんなことをやっちまったんですよ」
「お前を組織に入れたのが俺だから、お前、わりをくってるんだよ」
「ヨヨ、俺はいつか、ガルディアンを組織から追い出してやりてえと思ってるんですよ」ジャン・イヴのつぶらな瞳《ひとみ》が暗く光った。
「ハジキを振り回すだけじゃ、奴には勝てねえよ」
「わかってますよ」
「そうだな……俺以外の中心メンバーとも仲良くしておくこった。まあ、お前の性格だと、穏健なロジェとくっつく方がいいかもしれねえな。ともかく、奴等の後押しがねえと、そう簡単にはガルディアンは潰せねえ」
「ゆくゆくは、ヨヨにも協力してもらいたいと思ってるぜ」
「お前にひとつ忠告しておきてえ。お前は、コロンボの組織に入ってまだ一年ちょっとしかたってねえんだ。あんまり、上を見すぎるな。少しずつ基盤を築いて行けばいいじゃねえか」本多は顎《あご》を軽くつき出し、相槌《あいづち》を求めた。
長い睫《まつげ》をぱちくりさせて、ジャン・イヴはうなずいた。
「ところで、何か俺に用があったんじゃ……?」
「ああ、或る人間を、しばらく見張ってもらおうと思っていたんだが、もうその必要がなくなっちまった」
本多は、ミッシェルをジャン・イヴに見張らせるつもりだったのだ。しかし、ミッシェルの私生活を監視する気はさらさらなかった。ただフェルナンデスが、ミッシェルに近づかないように、監視をつけたかったのだ。
「その見張りの仕事って、組織の命令だったんですか?」
「いや、俺の個人的な用だった」
ジャン・イヴは意味ありげににやっとした。「女ですね?」
「お前らしい想像だが、違うよ」
「本当ですかね、ヨヨ」ジャン・イヴは灰皿の中から、口紅のついたスティブサン・ブルーをつまみ上げた。「口紅の感じからすると若い女だな」
「そんなことまでわかるはずはねえだろう」思わず声が弾みそうになった。慌《あわ》てて取りつくろう。
「ええ、当てずっぽで言ったんですよ。でも、若い女でしょう?」
「ああ。だが、見張ってもらいたかった人間じゃねえ」
ジャン・イヴはシケモクを灰皿に戻すと、立ち上がった。
「用がなければ、俺はこれで」
「例のアンギャンのヴィラにいるんだな」
「ええ」
「一応、毎晩、店に電話を入れてくれ。もしかすると、また用ができるかもしれねえから」
ジャン・イヴは、そうする、と答え、部屋を出て行った。
また用ができるかもしれない。自分の言った言葉を心の中で反復した。ソニアがミッシェルを連れて来る。期待していたのだ。
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深夜のチルチル・ミチル
初めてのトレーニングの日から三日たった。ソニアからは、あれ以来、何の連絡もない。ミッシェルのコーチを続けさせたい、と断言したソニア。言葉に嘘《うそ》はなかったはずだ。
ミッシェルが、本多にコーチされるのを拒否している。どうやら、そういうことらしい。
本多は、この三日間、コロンボの屋敷に二度呼び出された。ロジェもフランキーも、ガルディアンの味方をした。ガルディアンが立てた計画を、そのままアルフォンジー一味が実行する。中心メンバーが反対するのは、至極《しごく》当然のことである。しかし、コロンボは意見を変えなかった。
襲撃は十日後に迫っている。コロンボ側から、ガルディアンの部下、二名が参加することで、アルフォンジーと話がついた。
ミッシェルをコーチすることもなくなり、襲撃にも加わらなくなった本多は、以前のように店に出るようになった。
土曜の夜。本多はカウンターの隅で、ビールを飲んでいた。日本のスポーツ新聞が、レジの脇《わき》に置いてあった。開いてみる。
東京レックス℃梠繧ノバッテリーを組んでいた菊地の顔がアップで載っていた。
現在、新興チーム、東日本エクスポーズ≠フ監督をしている菊地。笑みを満面にうかべていた。チームが開幕以来四連勝中なのだ。エクスポーズ≠フ本拠地は、今年から、新宿にできた東日本スタジアム=Bスーパー・バルーン≠ニいう愛称をもつビッグ・エッグ≠ノ対抗するように作られた屋根つき球場である。
もともと太り気味だった菊地は、しばらく見ないうちに、顎《あご》の輪郭がわからなくなるほど肉がつき、首筋には何本も皺《しわ》が現れていた。
菊さんも五十を過ぎたはずだ……。ふと懐しい気分になった。個人的な付き合いは、さほどない間柄だったが、菊地は最後まで本多の無実を信じ、球団側とやりあってくれた唯一のチームメートだった。
日本嫌いのミッシェルを、むりやり、日本でプレーさせるわけにはいかないが、菊地にだけは、一人前になったミッシェルを見せたかった。
第二、第三の金田や長嶋を探して、情報収集に余念のないスカウト連中だって、まさか、野球とはまったく縁のないパリに、逸材が転がっているとは考えもしないだろう。
パリから彗星《すいせい》のごとく現れた剛速球投手、ミッシェル・寺井。
スポーツ紙の見出しが、頭にちらついた。すると、本多は、居ても立ってもいられなくなった。
時計を見る。七時四十分。
サティに、出かけてくると言い残し、外に出た……。
ミッシェルは、ルネのスポーツクラブで、夜間練習をやっているかもしれない。もう一度、ミッシェルに会って、直接、説得してみなければ気がすまない。心が急《せ》いた。赤信号にひっかかる度《たび》に、貧乏ゆすりがおこった。
「会員証を……」クラブの受付嬢がにこやかに微笑《ほほえ》んだ。
「いや、そうじゃないんだ。ルネはいるかね?」
「ええ」
「ありがとう」本多は、さっさとトレーニング・ジムに通じているドアの方に歩き出した。
「ムッシュ、困ります。勝手に入られては……」
自動ドアが開いた。十数名の男達が、トレーニングに励んでいた。トランポリン、特設トラック、各種の筋肉トレーニングマシーン……。
ルネは、奥の壁際に立っていた。周りではヴォルテール・タイガース≠フユニフォームを着た少年達が、ベンチ・プレスをやっている。本多に気づいたルネは、少年達を休ませ、ゆっくりと本多の方にやって来た。
「このムッシュは勝手に……」受付嬢がオーナーに訴えた。
「いいんだ、わかってる。持ち場に戻りなさい」
ルネは去って行く女の後ろ姿をじっと見ていた。そして、そのままの格好で、ぽつりと言った。
「帰って下さい」
「ミッシェルは来ていないのか?」
「答える必要はない。出て行かない気なら、こっちにも考えがありますよ」ルネは目を細めて本多をにらんだ。
「俺《おれ》は、ミッシェルに直接会って、話がしたい。一日目のトレーニング、本当にうまくいったんだ。ミッシェルにとって俺のコーチは決して……」
「八百長って行為が、どんなものかわかってないんですか? まあ、わかってないから、そんな真似《まね》をしたんでしょうがね。僕もミッシェルもね、八百長という卑怯な行為をやった人間を信用できなくなってしまった。コーチと選手に信頼関係がなくなったら、おしまいでしょう?」
「…………」
「僕は、何もスポーツが、真面目《まじめ》で純粋なものだなんて美化して考えているわけじゃない。スポーツは、悪知恵と悪知恵の闘いでもある。どんな汚い手を使ってもいいんですよ。だが、汚い手を使うことを、観客と敵が暗黙のうちに了解していなければならない。ラグビー選手が、審判の目をかすめて、相手の選手を小突いてもいいし、また、プロレスにおける見せ場作りも、卑怯な行為ではない。誰でも納得《なつとく》できるものなんです。ところが、あなたのやった八百長は違う。闘いの上での詐術《さじゆつ》でも、違反でもない。だから、僕は……」
「あんたの言ってることは、いちいちもっともだ、だが、ルネ、俺は八百長などやっちゃいないんだ。信じてくれ」本多の声。珍しく上ずっていた。
「ソニアは、そう言ったあなたの言葉を信じたようですね。あの子は情にもろいところがありますからね……それに……」ルネは鼻で笑ってそっぽを向いた。
「それに何だね?」
「いや、何でもありません。だが、ソニアは信じても、僕はだまされません。僕は日本にいる友人に当時の新聞を調べてもらった。確かに、あなたは当時も無実を主張していた。だが、奥さんの借金、あなたの投げた球。どれを取り上げてみても、敗退行為をやったとしか思えない」
「あんたが信じようが信じまいが、どうでもいい」本多の息づかいが荒くなった。「問題はミッシェルの気持ちなんだ。俺は、ミッシェルと話がしたい。俺はあんたが、奴《やつ》を育てた監督だから、敬意をはらって、あんたの顔をたてようとした。だが、これからは、もうあんたには相談しない。ミッシェルと会うのを邪魔したら、俺の方だって黙っちゃいない。覚えておくんだな」
本多とルネ。しばしにらみ合っていた。ルネの方が先に視線を外した。口許《くちもと》に皮肉な笑いがうかんだ。
「しかし、ムッシュ・ホンダ。どうして、あなたは、ミッシェルに固執するんですか。僕には、それも理解できない。あなたは、ミッシェルを一流のピッチャーにしたいと言った。それは本当でしょうが、あなたは、無意識に、ミッシェルを利用しようとしているんじゃないんですか?」
「どういう意味だ」語気が鋭くなった。
「あなたは、日本のプロ野球界を追い出された。だから、球界全体に……いや、そこまではどうかわからないが、少なくとも東京レックス≠フ連中に対しては、恨みをいだいているはずだ。そんなあなたは、ミッシェルという逸材《いつざい》を日本に持って行き、あなたを抹殺《まつさつ》した連中にひと泡ふかせてやりたい、と思ってるんじゃありませんか」
確かに本多に、そういう気持ちがなかったわけではない。ミッシェルを菊地の率いる『東日本エクスポーズ』に入れ、『東京レックス』の打者をミッシェルがきりきりまいさせてくれたら、と淡い夢物語のように考えたことはあった。
しかし、そんな私怨《しえん》を越えて、ミッシェルの素質をのばしてやりたい。その情熱の方がはるかにまさっていた。
ミッシェルという素質を持った投手は誰のものでもない。自分以外のプロ経験者がコーチをしても、きっと、ミッシェルは立派な投手になるだろう。
しかし、自分が見つけ出した選手を、自分の手で育てたいと願うのは、身勝手なエゴではないはずだ。
世界中を探せば、俺より立派なコーチは、いくらでもいるだろうし、ミッシェルよりも素質のある選手もいるだろう。だが、ミッシェルは俺というコーチにしか出会わなかったし、俺はミッシェルという素質のある少年にしか出会わなかったのだ。その運命が、貴重なのだ……。そんなやりとりが、本多の頭の中でなされた。しかし、声にはならなかった。
何も答えない本多を見て、ルネは薄笑いをうかべていた。
演説をぶってやってもいい。自分の心情を長々と吐露《とろ》してやってもいい。だが、本多はフランス語で語るのに、少々疲れたのだ。
「……俺は、何よりも野球を愛しているんだ」ぽつりと言った。フランス語だから、言葉に出来た一言。
本多は、振り向きもせずクラブを出て行った……。
深夜になって雨が降り出した。
いつものように、ひとりで酒を飲んでいた本多だったが、突然、戸口に向かい、物置を開け、ダンボール箱を取り出した。
放りこんだままにしてあったグラブとボールを引っ張り出したのだ。
まったく手入れをしていないグラブ。死人の手のように固くなり、ところどころにヒビが入っていた。
17 本多陽一郎
グラブには背番号と名前が書いてあった。
乾いた布で拭《ふ》き、それから、靴用のクリームを塗った。
洋服ダンスの扉を開ける。大きな姿見が現れた。
グラブに手を通す。球を握り、投球モーションに入った。昔のフォーム。躰《からだ》が覚えていた。しかし、現役だった頃のようには、タメはできない。
酔っぱらいにしては、なかなかいいフォームだぜ。本多は鏡に映っている自分に話しかけた。
一球投げては酒を飲む。酒を飲んでは、また投げた。酔いが回ってきた。
セットポジション。俺は牽制《けんせい》はあまりうまくなかったな……。自然に笑みがこぼれた。
グラブを床に放り出し、ソファに寝転んだ。と、その時、ドアが静かにノックされた。
午前二時五分前。
「どなた?」フランス語で訊《き》いた。
「ソニアよ」
ドアを開けた。
「ボン・スワー……」本多は一瞬、絶句した。
ソニアの後ろにミッシェルが立っていたのだ。
「やあ、やあ、入って、入って」日本語に切りかえ、陽気な口調で言った。
「だいぶ入ってるわね」ソニアが控え目に笑った。
「飲むかい?」
ソファに座った姉弟に向かって、ウイスキーの瓶を持ち上げて見せた。
ふたりとも、黙って首を横に振った。
「どうした、こんな遅くに。チルチル、ミチルの夜の冒険ってわけか」
姉弟を見ていたら、子供の頃に誰かに読んでもらった『青い鳥』を思い出したのだ。もっとも、小説は、兄妹がコンビだったが……。
「残念ながら、ここには青い鳥≠ヘいませんよ」本多はおどけた口調で言った。
「ルネが電話してくれたわ」ソニアが言った。しんみりとした声。
「青い鳥≠ェここにいると言ったのか」
「ふざけるのはよして、本多さん」
本多は髪をかきあげた。
「で、ルネがなんだって?」
「あなたが、ミッシェルと話をしたがってるって知らせてくれたのよ」
「どうしたのかね、ルネ君。俺をまるっきり信じてなかったのに」
「クラブでの話、大体聞いたわ。彼、あなたに対する見解が間違っていたかもしれないって言ってた」
「間違えてるよ。きまってるじゃないか」
「ミッシェルを連れてきたのよ。本多さん、話があるんでしょう?」
「その前に伝えておこう」ミッシェルに視線を移した。「例のバッグの中味だが、持ち主に返しておいたよ」
「それは、どうも」ミッシェルがつぶやくように言った。
「話は簡単だ。まず、八百長の件だが、俺はやっちゃいない。お前が何と思おうが、俺は潔白だ。それから、俺は、もう一度、お前をコーチしたい。それだけだ」
「私、この間、あなたから聞いたことミッシェルに話したわ。でも……」
「でも、信じなかったのか」本多はミッシェルを見て微笑《ほほえ》んだ。
「いえ、ミッシェルったら、何にも言わないのよ。信じたとも信じないとも」
「じゃ、何故《なぜ》、ここに来た。ルネと姉さんに言われたから、しかたなしに来たのか?」
「いや、そうじゃないよ」ミッシェルは目をふせたまま答えた。「この間は、俺、カッときちまってさ、あんたのこと卑怯者《ひきようもの》よばわりしたけど、冷静になって考えてみると、どうしても、あんたがそんなことをする人には、思えなくてね。でも、俺、他のことで頭にきたんだよ、あんたに」
「他のこと? 俺、お前に何かしたか?」
「トレーニングの後に、あんた俺を信用していると言ったくせに、大事なことを隠してた。俺にだけでも、八百長事件の話、してくれてもよかったじゃないか」
「ミッシェル」ソニアが口をはさんだ。「そんなこと簡単に言える話じゃないでしょう。本多さんの立場になって考えてみればわかることじゃない」
「でも、俺は話してもらいたかったんだ」弟は、すねたような素振《そぶ》りを見せて言った。
「そうか、酒でも一緒に飲んで、話してやるべきだったかな」
「そうだよ。あんたは、プロで百勝もした剛速球投手だったそうじゃないか。それを高校野球の監督だなんて、セコイ嘘ついてさ。俺を見損なうなよな。俺、高校野球の監督にコーチされるより、プロで百勝した人間にコーチされるほうがいい」
「じゃ、どうだ……明日から、あらためて百勝投手のコーチを受けてみるか」冗談めかして言ったが、本多の表情は真剣だった。
ミッシェルが、照れくさそうに笑った。そして、こくりとうなずいた。
「明日の午後二時、ポルト・ドレの入口で会おう」
「ミットとベース、どうする? ルネには頼めないだろう」
「あんなもの、本当はなくてもいいんだ」
「でも、コントロールの良し悪しを見るには……」
「ベース内に球を投げようとするのが、コントロールじゃないんだぞ。コントロールは射撃と同じだ。ターゲットのどこに、威力のあるタマをぶちこむかが問題なんだ。俺がかまえたところが、敵の足や心臓や頭だと思って、投げこめばいいんだ。ミットはないが、俺の使っていたグラブが、ほら、そこにある。明日から、俺はそれを使う」
ミッシェルは立ち上がり、本多のグラブとボールを手に取った。
「このグラブじゃ、受け損なうと怪我するかもしれないぜ」グラブをはめたミッシェルが自信たっぷりに言った。
「俺の手の骨を折るくらいの球を投げてみろ。そのグラブが敵の心臓だと思ってな。お前、敵チームの奴等になんて呼ばれていたか覚えているだろう。人殺し≠セぞ。あれは、なかなかいいニックネームだ。これからも、あのニックネームを忘れるな」
ミッシェルはにんまりと笑って、ボールをグラブの中に力強く投げ入れた。
「ひょっとしたら、ルネはあなたに協力するかもしれないわよ」ソニアが言った。「あなたが最後に言った言葉で、あなたの野球に対する情熱を理解したみたいだから」
「理解されて嬉《うれ》しいが、彼の協力は必要ない。これまでは、監督としての彼に遠慮していたが、もうそんな気配りは止めにした」
強がり。本多自身、よくわかっていた。草野球とはいえ、実際の試合で投げるのは大事である。ルネに頼まないとなると、他のチームを探さなければならない。
「そう……」ソニアがひと呼吸をおいて言った。「あなたがその気なら、私、何も言うことないわ。私ね……彼とはきちんと別れたのよ。むろん、この間、ここに泊まったことも教えたわ」
本多は、言葉につまった。煙草を取り出し火をつけた。
「ルネはいい奴《やつ》だよ」ミッシェルが本多を見つめて言った。「だが、遠慮は禁物だぜ。俺を監督から奪ったように、ソニアも奪っていいんだよ」
「ミッシェル!」ソニアが怒った。
「俺は誰にも遠慮はせんよ」低くつぶやいた。
ソニアのこと。この間から心に引っ掛かっていたのは確かだ。ルネに遠慮などしない。しかし、JCEのことはどうする。ソニアから情報を得なければならなくなったら、どうするんだ。
本多は、作り笑いを浮かべて、乾杯しようと言った。
ふたりは快く応じた。
グラスを合わせる。本多にとって、その酒はちょっぴり苦く、複雑な味がした。
ソニアはその夜も泊まっていった。そして、いつの間にか、本多のことをヨヨ≠ニ呼ぶようになっていた。
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襲撃の日
翌日から、ミッシェルのトレーニングが始まった。
本多は、練習を始める前に、それとなくフェルナンデスから誘いがないかどうか訊《き》いた。ミッシェルは、ない、ときっぱりとした口調で答えた。
ジャン・イヴに監視させるのはやめておこう。せっかく、信頼を回復したのに、そんなことで、またぞろ、ミッシェルとやり合うことになったら面倒だ。
ランニングも投球数も、それほど長時間はやらない。
相変わらず、球は、かまえたところには、なかなか来なかった。
投球する時、躰《からだ》が動き、球道が定まらないのだ。
下半身の強化。それは当然、必要かもしれないが、馬鹿みたいに鍛練《たんれん》したところでコントロールがよくなるはずもない。
本多は、コントロールについては、ひとまずおくことにして、躰のひねりについて教えた。
「背中が、俺《おれ》の方に向くように意識しろ。右足は内側に向いてなきゃだめだ」
ミッシェルはのみこみが早かった。本多は、あらためて彼の潜在能力に驚かされた。
腕や肘《ひじ》のひねりについても注意した。
投球練習を終えると、今度は、基礎トレーニング。躰《からだ》を思いきりひねる運動をさせ、膝《ひざ》に無理のかからない下半身強化運動を集中的にやらせた。
「……日本じゃ、選手を馬鹿みたいに走らせて鍛《きた》えるって聞いたことあるけど、あんたはそういうことをやらせないんだね」練習の後でミッシェルが言った。
「必要なところだけ鍛えればいいんだ。お前はマラソン選手になるわけじゃないんだから。走って体力をつける効果はある。だが、神話だという要素も強い。念仏を唱えてると、安心するように、スポーツ選手は走ってると安心するんだ」
「コントロールをつけるには、精神の集中が必要だって、ルネは言っていたけど、あれは本当かい?」
「本当だ。だが、禅寺へ行って修行しても、コントロールはよくならん。それに、お前は集中力が足りないからコントロールが悪いわけじゃない」
「じゃ、何が欠けてるんだい、やはり、技術なのか?」
「無論、技術に問題はある。だが、それだけじゃない。何と言ったら、いいのかな。想像力が希薄っていうのかな……。自分が投げた球は、例えるなら、お前が創造した作品だ。球が、キャッチャーミットに収まるまで、お前は作品を完成してはいない。今のところ、お前は球を投げた時、お前の作品は完成したと思っているようだが、違うんだな……」
「あんたの言ってること、よくわからないな」
「俺もはっきりとわかって言っているわけじゃないんだ」
「頼りねえコーチだな」言葉とは逆に信頼感のこもった口調だった。
「ベース盤を置かずにやってみて、気づいたんだが、コントロールしようとする時、投手はミットとベースを意識するよな。つまり、投手はベースとミットにとらわれてしまうんだ。そもそも、それがコントロールを狂わす原因のようにも思える。何か本人だけが、意識するポイントを躰《からだ》のどこかに見つけ出すと、自然にコントロールがよくなるような気がするんだが……」
「例えば?」
「そうだな、外角に投げる時、背中の一点が外角を意識するとか、いったようなことだ」
「何となくわかるような気がするよ」
ミッシェルは、はたと立ち止まった。投球動作に入る。
通行人の視線など、本多もミッシェルも気にしてはいなかった。
練習は毎日やった。競輪場を使えない時は、森の中の人気《ひとけ》のないところを選んで続けた。
或《あ》る日、いつものように競輪場を使って練習をしていた時のことだ。
振りかぶったミッシェルの動作が途中で止まった。ミッシェルの視線が、本多の後ろに移っていた。振り返る。
ルネが腕組みをして、こちらを見ていたのだ。
「馬鹿。誰が止めろと言った」本多はルネを無視してミッシェルをしかりつけた。
十球投げさせた。すべてストレート。スピードも球のキレも申し分なかった。
練習を止めさせ、本多はゆっくりとルネに近づいた。短い控え目な挨拶《あいさつ》をかわす。
「見違えるように、よくなりましたね」ルネは、真剣な表情で言った。
「少しはましになった。どうだい、受けてみるかね。俺は歳だから、キャッチャーをやるのは、正直言ってきついんだ」
「ムッシュ・ホンダ。あれから僕も、いろいろ考えた。ソニアのことも含めてね。今日、ここに来たのは、格好をつけに来たんですよ、僕は」
「格好をつける?」
「ええ。例えば、テニスですがね。負けた方が必ず、勝者に駆けよって、握手を求める。誰だって、本気で相手を祝福するわけがない。だから、麗《うるわ》しい光景でもなんでもない。あれは、たんに敗者の格好つけでしかない。でも、ああするしかないんですよね。僕も、ああいう格好つけがやりたくてね」ルネが短く笑い、右手を出した。
本多は素直に応じた。
「今すぐじゃないが、またミッシェルを試合で使ってくれるかね」
「もちろん、そのつもりでいますよ」
それ以来、時々、ルネはトレーニングに参加するようになった。
雨の日は、本多のアパートで、基礎トレーニングとシャドー・ピッチング。コントロールはさほどよくならなかったが、替わりに、速球は、以前よりキレがよくなりスピードも増した。
二度、寺井姉弟と夕食を共にした。話題はやはり野球だった。ミッシェルと本多の会話に熱が入りすぎると、ソニアが必ず、冗談口調で、茶々を入れた。
その二晩とも、ソニアは本多のアパートに泊まった。会えば泊まっていく。知らず知らずのうちに習慣になってしまった。
*
アルフォンジーの子分共が現金輸送車を狙《ねら》う日が来た。無論、練習は休み。
本多は、午前十時少し前に、ポワソニエール大通りに、レンタ・カーのBMWで乗りつけた。ポワソニエール大通りは一方通行。本多は、キャプシーヌ総合銀行の正門がよく見える、銀行とは反対側の歩道に車を寄せた。そして、周りに視線を走らせた。
車道の縁の溝《みぞ》に、清掃用の水が流れている。通行人はまばらで、開いたばかりの商店も、まだ半ばまどろんでいるようだ。
霧雨が降っている肌寒い日。ワイパーの等間隔の動きがうっとうしい。
久しく忘れていたヤマを踏む気分。やはり、落ち着かなかった。
本多は、襲撃の模様を見とどけるつもりなのだ。再度、JCEの給料を強奪する時の役に立つかもしれないし、ひょっとすると、無防備な現金輸送車の正体がつかめるかもしれない。そう考えた本多は、コロンボにだけ、そのことを伝え、密《ひそ》かにやって来たのである。
犯行の手順。熟知している。襲う場所はあらかじめ決めてあるのだが、輸送ルートの変更も考えられないではない。念のために、本店から跡をつけることになっているのだ。
アルフォンジー側の四人は、焦げ茶のトヨタ・ハイエース、コロンボの子分ふたりは、黒のシトロエンCXで現れることになっている。
予定では十時半に、バンが銀行を出発する。ハイエースとシトロエンがそろそろ現れてもおかしくないのだが……。
十時五分。シトロエンが本多のベンツの横を通った。ガルディアンの子分がハンドルを握っていた。本多は慌ててシートに躰《からだ》をうずめた。
十時二十分。バンが本店の前に停まった。ハイエースの姿。どこにも見当たらない。
運転手が、雨をさけるように肩をすくめてバンを下りた。
やがて、三人の男があまり大きくないケースを持って現れ、バンに積み込んだ。ひとりがウォーキートーキーで、どこかに連絡を取っている。
運転手が乗り込む。ひとり。ガルディアンの話していた通り、助手すらも乗り込んでいない。
ハイエースはどうしたんだ。アルフォンジーは、急に計画を中止したのだろうか。もし、そうだとすると、自分の計画が外部にもれていたことになる。本多の顔がけわしくなった。
バンが霧雨の中をゆっくりと走り出した。
本多はサングラスをかけ、BMWのエンジンをかけた。しかし、すぐには出さない。シトロエンと、まだ姿を現していないハイエースの動きを知ってからでないと、迂闊《うかつ》には動けない。
焦《じ》れた。シトロエンがバンの後方、三十メートルのところについた。
ハイエースは、いまだ現れない。
しかたがない。本多は思い切り、車を出した。
オペラ座の前で、バンが赤信号にひっかかった。本多は車のスピードをゆるめた。
はっとした。生ガキを食べさせるレストラングラン・キャフェ≠フ前から、ゆっくりと焦げ茶のハイエースが通りに出て行くのが目に止まったのだ。
本多は、長い溜息《ためいき》をついた。
バンは予定通り、環状線に乗り、高速十三号線に入った。
充分に距離を置いて尾行を続ける。
雨にけむる高速。行き交う車は少なかった。
ソニアのことが脳裏をかすめた。初めて会った日も雨だった。ソニアとの関係。深まるばかりだった。お互い、これまで何の意思表示もしていない。しかし、どうやら気持ちは同じらしい。ハーフと言ってもフランス育ち。明確なひとことが欲しいにきまっている。
愛している<tランス語なら言いやすい。だが、本多は、日本で育った四十六の男である。ルネに野球を愛している≠ニ言ったようには、とてもすんなりと言葉にならないだろう。それに、JCEの一件がある。ソニアにそんな言葉をはいた瞬間に、すべてを投げ出してしまいたくなるかもしれない……。
ルーアンを過ぎた。ルーアンを過ぎれば、まず輸送ルートの変更はないだろう。
本多はミッシュランの地図を拡げ、助手席に置いた。
ガルディアンが決めた襲撃地点まで、まだ四、五十キロはある。相変わらず、雨は降り続いていた。霧状の雨。視界が悪い。本多は少しスピードを上げ、黙々と走り続けた。
ルーアンを通過して四十分ほどたった。そろそろ用心してかからなければならない。
襲撃地点は、ブーズヴィルという街近くにあるインターチェンジから数キロ手前の陸橋を越えたところなのだ。
車の数が少なく、何かあってもすぐに高速を下り、国道一七五号線に逃げ出せる場所をガルディアンは選んだのである。
その地点で、二台の車が、バンを挟み打ちにし、路肩《ろかた》に止めさせる手筈《てはず》になっている。相手は運転手ひとり。仕掛けがなければ、簡単な仕事≠ナある。それに、覆面をして襲っているところを他の車に見られたとしても、警察が来る頃には、国道一七五号線に待機している二台の車で、安全な場所に逃げのびていられる。
バンが陸橋を越えるのがかすかに見えた。緊張が全身に走った。BMWのスピードを極端にゆるめ、路肩に寄った。
一台のミニ・クーパーがBMWを追い越して行った。
ドアを半分ほど開け、用意してきた双眼鏡を目に当てた。
シトロエンが先に仕掛けた。ハイエースが、すぐに後に続いた。
バンが路肩に追い詰められた。霧状の雨の中に、人影が動いた。
ポルシェが猛スピードで通りすぎた。襲撃現場を通過する時も、スピードは落とさなかった。
覆面姿の男達がバンの荷台から、せっせとケースをハイエースに移し替えた。
あっと言う間の出来事だった。シトロエンとハイエースがスタートした。
本多も慌てて車を出した。バンは路肩に停まったままだった。
運転手が無線でどこかに通報している姿がちらっと見てとれた。
本多の心配。杞憂《きゆう》だった。無防備な現金輸送には、何の小細工もしてなかったのだ。本多は複雑な思いがした。これで一件落着《いつけんらくちやく》したのだが、自分の勘がまったく外れていたのが、何となく寂しかった。
レンタ・カーを返し、三時すぎにアパートに戻った。ドアを開けようとした時、電話が鳴っているのに気づいた。部屋に入り、慌てて受話器を取る。
相手はコロンボ。声が沈んでいた。
「ヨヨ、今すぐ、アルフォンジーの事務所に来てくれ」
「何かあったんですか?」
「いいから、すぐに来るんだ」
電話がきれた。
本多は、大きな溜息をひとつつき、再び外に出た。
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意外な呼び出し
アルフォンジーの事務所には、キャラスコとアンドレアニ、それにコロンボとガルディアンがいた。
全員、うかない顔をしている。
「何があったんですか? 襲撃、うまくいかなかったんですか?」本多は、大袈裟《おおげさ》に眉《まゆ》をひそめ、ソファに腰を下ろしているコロンボを見た。
「いや、それが……」
コロンボが言った。
「キャラスコ、隣の部屋に行ってさっきのやつを持って来い」アルフォンジーの声。極度に苛立《いらだ》っていた。
本多は煙草に火をつけ、壁によりかかった。空気が張りつめている。ほどなく、キャラスコが戻って来た。手に持っていたのは、現金輸送に使われていたケースだった。
「中を見せてやれ」
部屋の中央でキャラスコが蓋《ふた》を開けた。
「これは……」本多は絶句した。
「仕掛けがあったんだよ、ヨヨ」アルフォンジーが憎々しげに言った。
本多はしゃがみこんで中を見た。確かに本物の札束が入っていた。しかし、そのほとんどが、粉々になっているか、燃えているかだった。そして、使えそうな札には、赤いインクがべったりとついていた。
「ケースの中に、爆発物と消えないインクが飛び散る装置が仕掛けてあったんだ」アルフォンジーの緑の目が、本多を睨《にら》んだ。
「しかし、ケースは何ともねえ」本多はケースを調べながら言った。
「よくわからねえが、へたに動かすと、ケースの中で異変が起こるようになっていたらしい」
コロンボが言った。
なるほど。だから、装甲車みたいに武装した輸送車も、拳銃《けんじゆう》をぶらさげた警備員も必要なかったわけか。思わず、笑みがこぼれそうになったが、何とかこらえた。
「エレクトロニック・システムのようですね、どうやら」アンドレアニが、アルフォンジーの煙草に火をつけながら言った。
「何の装置だって、関係ねえ。ドジっちまったんだよ、俺達《おれたち》は。灰になっちまった札と共産党の旗みてえになっちまった札なんか、俺はみたくもねえ」
「それで、何でボスや俺をここに呼んだんだ」本多が訊《き》いた。
「あんた等もこれを見たいと思ってよ、それでわざわざ呼んでやったんだ。ただな、俺はちょっとばかりキナ臭いとも思ってるんだよ」アルフォンジーが、コロンボとガルディアン、それに本多を何度もちらちらと見た。「あんた等、薄々知ってたんじゃねえのか、仕掛けがあることを」
「馬鹿言うな、アルフォンジー。こんな厄介な装置があるって知っていたら、わざわざ計画を練ったりしねえよ、な、ガルディアン」本多は薄笑いをうかべてそう言い、ガルディアンに視線を向けた。
「ヨヨの言う通りだ。計画を立てたのは俺だが、まさか、こんな厄介な装置が仕掛けられているなんて想像もしなかった」責任を感じているガルディアン。まるで元気がなかった。
「ともかくだな、アルフォンジー。俺はあんたとの約束をきちんと果たした。金が手に入らなくてかわいそうだが、こればっかりはどうしようもねえ」コロンボが言った。
「そりゃそうだ。俺はきわめて論理的な男でな」にたにたと笑いながら、アルフォンジーは煙草を消した。「いまさら、どうのこうの言う気はねえ。ただ、あんた等がこれを見て、どういう顔をするかだけは見とどけておきたかったんだ」
「じゃ、後は例の宝石を探し出して、あんたに渡せば、それで今度の一件はお終いだな」コロンボが念をおした。
「もちろんだよ。で、その宝石の件だが、まだ見つからないのか?」アルフォンジーが本多に訊《き》いた。
「まだだ。だが、必ず見つける」
今も宝石は、本多が持っている。もしかのために貸し金庫に入れてあるのだ。いつでも返せる。だが、あまり早く返すと嘘《うそ》くさい。本多は、三、四日したら、適当な物語をデッチ上げて返してやるつもりだった。
コロンボが立ち上がった。
「これまで同様、仲良くやろうぜ」手を差し出したのはアルフォンジーだった。
コロンボは黙ってうなずき、握手をした。
事務所を出たコロンボは、本多とガルディアンを、トロカデロ広場にあるカレット≠ニいうサロン・ド・テに誘った。
本多はリムジーンの後についてトロカデロ広場に出た。
「……急にここのケーキが食いたくなってな」コロンボはマカロンというケーキを食べながら、ふたりを見て微笑《ほほえ》んだ。「ガルディアンのおかげだぜ。現金輸送もレトロ調だって! まったく、笑わせるぜ」
「もう言わないで下さいよ、ボス」ガルディアンは苦笑した。「あんな装置があるなんて、誰が想像できますか」
「そのことなんだが」コロンボが改まった口調で言い、大理石のテーブルに肘《ひじ》をついた。
「警備会社が開発したのかな、あの装置?」
「いや、俺の勘じゃ、JCEが開発したんじゃないかと思います」本多が言った。「覚えてますか、ボス、俺が前に言ったこと。工場の研究室の前に、あれと同じバンが停まっていたって教えたのを」
「覚えてる」
「JCEはコンピューターも扱ってる。仕掛けを作ったのは、あの会社だと思いますよ」
「ヨヨ、仕掛けがどうなってるか、至急探りだせ」
「夜のテレビニュースで、案外、仕掛けが公表されるかもしれませんよ」
「それでも、仕掛けを外す方法まで発表されまい。頼りにしてるぜ、ヨヨ」
うなずくしかなかった。コロンボの命令。従わないわけにはいかない。
「ボス、もう一度やる気ですか?」ガルディアンが小声で訊《き》いた。
「仕掛けを外せる方法さえわかれば、今度こそ簡単にやれるじゃねえか」コロンボの視線。本多を見ていた。「もう、アルフォンジーに遠慮することはねえからな。奴《やつ》が邪魔しやがったら、大ボスに頼んで、きちんとカタつけてもらう。奴も馬鹿じゃねえ。インネンをつける余地のねえ時は手出しはしねえさ」
「しかし、あれだけの札束をパーにして、JCEに損失はねえのかな。やはり、保険をかけてあるんですかね」ガルディアンが首を傾げた。
「いや、保険会社が、そんなわりを食う契約を結ぶはずはねえ。なんか裏があるにきまってるさ」レモン・ティを飲みながら、コロンボが言った。
確かにコロンボの言う通りだ。だが、どんな裏があるのか本多にも皆目《かいもく》見当がつかなかった。
ソニアを利用しないで秘密を探り出す方法はないものだろうか……。異郷の地で友人を欲しがっている加島という若い社員。酒がめっぽう好きそうな立元部長。両方につけ入る隙《すき》はある。しかし、奴等《やつら》を犯罪の道に誘いこむのはまず無理だろうし、利用して探り出すには、おそらく、えらく時間がかかるに違いない……。
「どうした、ヨヨ。何を考えてるんだ」コロンボの声。
気づくとコロンボもガルディアンも立ち上がっていた。
「札の損失をどうやって補うのか考えていたんですよ」本多は作り笑いをうかべながら腰を上げた。
*
いったん店に顔を出したが、八時少し前、アパートに戻った。
テレビのスイッチをひねる。軍事問題の話の後に、高速十三号線で起こった現金輸送車襲撃事件のニュースが流れた。
死傷者も出ず、未遂《みすい》に終わった事件。凶悪犯罪が、日常化しているフランスでは、この程度の強盗事件が、テレビで報道されるのは異例のことである。
現場の映像が映し出され、キャスターが事件の経緯を説明していた。
やはり、新しい防御システムはJCEが独自に開発したもので、今年の初めから、実験的に、自社の給料運搬に採り入れていたものだった。
ケースを勝手に開けようとすると、内部で爆発が起こり、衝撃波が中に収められている札束やクレジットカードの類を破壊し、さらに、消えないインクが噴射するようになっているというのだ。その際、ケース自体は、絶対破壊されないのだ。
画面は現場からJCEオンフルール工場に移り、工場長のT・WAKITAという度の強い眼鏡をかけた男のインタビューが流れた。
「……普通の現金輸送車を用いますと、少なくとも三人の人間を雇わなければなりませんが、我々の開発したシステムを採り入れますと、運転手ひとりで輸送可能となり、人件費の大幅な削減になります」得意げな口調。
「破損した札は、使えなくなるわけですが、損失は招かないのですか」
「我々は、去年、フランス銀行と交渉し、破損したお札を買いとってもらえるようにしました。その際、利用者が支払うのは、札の製造費だけです。例えば、二百フラン札、一枚の製造費は、たった一フラン四十七サンチームなんですよ。
しかし、これはあくまで、最悪のことが起こった時の処理方法でして、まずこのシステムの最大の良さは、悪人どもの無謀な計画を未然に防げるところです。
すべて、コンピューターセンターでコントロールしておりますので、犯人達が、どんな手段に訴えても、輸送中の現金を手に入れることは不可能です」
「今日の事件が、偶然、そのことを世の中に知らしめることになったわけですね」
「そのとおりです」それまで、一度も笑わなかった工場長の頬《ほお》がはじめてゆるんだ。
「ケース以外にも仕掛けはありますか」
「現在、いろいろと開発中です」
再び、画面にキャスターが映し出された。
「いやはや、ギャングをやるのも、つらい御時世になったものですな」
冗談口調でそう結んだキャスターは、医療問題についてのニュースをしゃべりはじめた。
テレビを消した本多。ふーと溜息《ためいき》をついた。コロンボに、再度JCEの給料を狙《ねら》おうと提案したが、これでは、とてもではないが襲えない。他の計画を考えたほうが賢明だろう。しかし、替わりになる手頃《てごろ》な犯罪など、すぐには思いつかなかった。
本多は、再び店に戻った。
奥のテーブルで手を振っている男がいた。JCEの加島。加島の正面に座っている男が振り向いた。立元部長だった。
「その節は、御迷惑をおかけしまして」立元が中腰で言った。
ソニアをパリまで運んだことを言っているらしい。
本多は適当に受け答えし、彼等の隣の空いているテーブルについた。
「今、ニュースで見ましたが、大変なことがあったようですね」
「いや、うちの会社にとっては、おおいに宣伝になって、支店長も工場長も、内心ほくほく顔ですよ」立元は日本酒をやりながら答えた。
「しかし、JCEはすごいものを開発しましたね」本多は無邪気に驚いてみせた。
「我々だって驚いてるんですよ」と加島。
「じゃ、おふたりはそんな画期的なものが開発されているなんて知らなかったんですか?」
「全然、知りませんよ」加島が当然のような口振りで言った。「知っていたのは、支店長と工場長。それに研究室の連中だけです」
「テレビの話じゃ、コンピューターセンターで、すべてコントロールしているということですが、センターは工場内にあるんですかね」
「そうです。研究室の一角にあるんです」立元がすんなり答えた。「もっとも、私ですら、中には入ったことはありませんがね」
もし、計画を続行するなら研究員と親しくなり、情報を取るのが一番てっとりばやい方法だろう。しかし、てっとりばやいと言っても、かなりの時間がかかるに違いない。借金、女、なんでもいいが、弱点を持つ研究員を探し出さなければならないのだから……。
「ところで、本多さん、仕出し弁当のプラン、その後、どうなっていますか」立元が訊いた。
「そのことで、部長にお話ししようと思っていたことがあったんですよ。工場でアンケートを取らせていただけたらと考えましてね。一度くらいのアンケートで、利用客の数字を把握《はあく》できるとは思っていませんが、ひとつの目安にはなるでしょう……」本多は立元を見て微笑《ほほえ》んだ。前々から考えていたなどというのは、真っ赤な嘘《うそ》。とっさに思いついたプランだったのだ。
「そのくらいのことなら、やっていただいてもかまわないかもしれませんが……」立元の口調が急に慎重になった。
「いいじゃないですか、部長。やらせてあげたらどうです」加島が援護射撃をした。
「近いうちに、御返事申し上げます」
アンケートを配ることで、研究室の連中に近づけたら。本多の狙いはそこにあった。
「部長」突然、加島が鳥のように首をのばして入口に目をやった。
本多も加島の視線を追った。
入ってきたのはソニアだった。ジーンズの上下に白いシャツ姿。
「ソニア」加島が彼女を呼んだ。
一瞬、怪訝《けげん》な顔をしたソニアだったが、加島を見ると、にこやかに微笑《ほほえ》んだ。
「なーんだ、ここに来るんだったら、僕に一言声かけてくれればよかったのに」
「来る予定なかったんだけど、急にお腹が空いちゃって……」
「君も運がいいね。部長と一緒だから、ここの勘定、心配いらないよ。さあ、座った、座った」
「あれ以来、彼女にもここの客になってもらいましてね」そう言って本多は立ち上がった。「ごゆっくりどうぞ。私は、ちょっとアパートに戻らなきゃなりませんので」
ソニアの視線を頬《ほお》に感じた。他人行儀な態度。ソニアは気にいらないのだ。
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ソニアの不満
「私との関係、ヨヨ、皆に隠しておきたいのね」
「一応、彼等は君の会社の人間だし、それに俺《おれ》の店の客だからな」
ソニアは、ふん、と鼻で笑って黙りこくった。
本多がアパートに戻って、一時間ほどたってから、ソニアが訪ねてきたのだ。入って来た時から、機嫌の悪い顔をしていた。
「私、あなたとのこと、誰に知られてもいいわよ」
困った。独身で決まった女もいない本多である。普通なら、公《おおやけ》になってもいっこうにかまわない。しかし、JCEの一件がある。ソニアとの関係。とくに加島達には秘密にしておきたい。
「俺は、歳《とし》だろう。だから、オープンな恋愛っていうのに、照れを感じてしまうんだ」
「歳だからじゃなくて、日本人の中年男だからでしょう」
「フランス男みたいには、いまさら振る舞えないよ」
機嫌が少しずつなおりつつある。ソニアは黙って立ち上がり、キッチンから冷えたビールを持って戻ってきた。
「ね、ニュース見たでしょう」
「ああ」気のなさそうな返事をする。
「あれじゃ、ギャングも形なしね」そう言ってソニアは舌をぺろっと出した。
本多は苦笑した。ソニアは、ヤクザ組織にいる本多が、具体的に何をしているのか、一度も訊いたことはなかった。
十代にグレたことがあったとはいえ、今はすっかり足を洗って、素《す》っ堅気《かたぎ》になっている女だ。気にならないのだろうか。つきあっている男がヤクザだということが……。
「そんなシステムを開発してることを、社員達もぜんぜん知らなかったんだってな」
「そりゃ、そうよ。研究室は会社に属していても、別なのよ。そう言えばね、今年になってから、工場長と研究室長がよく支店長のところに来て、書類を渡し、こそこそやっていたわ」
書類? その書類を盗み出すほうが、私生活に問題のある研究員を見つけ出すよりも、手間がかからない。
そこまで考えて本多は、クソッと心の中で叫んだ。考えまいとしても、襲撃のことが頭から離れないのだ。
本多は、ソニアをベッドに誘った……。
「ソニア、裏で俺が何やってるか気にならないのか」天井を見つめたまま訊《き》いた。
「気にし出したら、きりがないでしょう。私、あなたが世界一、極悪《ごくあく》なことをやっていると思うことにしてるのよ。そう思っていれば、何か耳にした時、気が楽でしょう」
ソニアの言った言葉。額面《がくめん》通りには受け取れない。そんな覚悟など、現実には何の役にもたたないものだ。
仰向《あおむ》けに寝ていたソニアが躰《からだ》をくるりと回転させ、本多をのぞきこんだ。
「ヨヨ、ひょっとしたら、あなた、今日の事件に関係していたんじゃないの」
本多はまじまじとソニアを見た。ソニアの顔。不思議にも笑っていた。
「私ね、ニュースを聞いた時、もしかしたらって思ったのよ」
「名探偵の直観か?」
「まあね」ソニアの目つきが鋭くなった。「ギャングのあなたが、突然、仕出し弁当をわざわざ、ノルマンディまで運ぼうと考えるなんて不自然じゃない。違う?」
「それは……」
ソニアが本多の唇に指を当てた。「それに、今日、あなたはミッシェルとのトレーニングを休んだわ」
「一週間たったから休みを取った。それだけだ」
「そうかもしれない。不自然なところは何もないわ。でも、私ね、今朝の十時にあなたに電話したのよ。宵《よい》っぱりのはずのあなたが、あんな時間からどこに出かけたのかしら」
「どうしても、俺を襲撃犯にしたいような口振りだな」本多は短く笑った。
「あなたが、言いたくないのなら、無理に言うことないわ」ソニアが真剣な顔で本多を見つめた。「でも、忘れないで。私、あなたが襲撃に参加した犯人のひとりでも気にしなくてよ」
「忘れないよ」本多はソニアの躰をだきよせた。
ソニアが何か言おうとした時、電話が鳴った。ガウンをはおり、居間に行った。
相手はコロンボだった。本多は、ボスを待たせて寝室のドアを閉めに戻った。
「テレビのニュース見ただろうな?」
「ええ。他のプランを立てたほうがよさそうですね」
「馬鹿言うんじゃねえ。そう簡単においしい話は転がっていねえ。それに、完璧《かんぺき》だと言ったってどっかに盲点はあるもんだ。あの工場長、えらく自信を持っていた。俺達が、弱点さえつかめば、かえって、あの自信が、こっちにとって都合がよくなる。そうだろう、ヨヨ」
「しかし、資金調達は早いほうがいいんでしょう。あそこの内情……」
ぎくりとした。寝室のドアが開き、裸のソニアが居間に現れたのだ。
「ちょっとそのまま待っていて下さい」そう言って、受話器に手を当てた。ソニアを鋭くにらむ。「寝室に戻ってろ!」低い声で言った。
しかし、ソニアは動じなかった。裸のままソファに腰を下ろし、新聞を読み始めた。
再び、受話器を耳に当てる。
「お待たせしました」
「どうしたんだ。誰かいるのか」
「ええ、まあ……」
「なんだ、女か。話を続けろ」
「その……」視線はソニアに釘づけになっていた。「いろいろと調べるには、かなりの時間がかかりますよ」
「もう一度やろうと言ったのは、誰だったんだ、え? ガルディアンもな、もう一度、やることに賛成なんだ。コケにされっぱなしじゃ、寝つきが悪いそうだ。ともかく、全力をあげて、システムの秘密を探り出せ、いいな」
「わかりました」
本多が電話を切っても、ソニアは新聞を読む振りを続けていた。
「風邪ひくぞ、そんなかっこうでいたら」
ソニアは新聞を閉じた。「ヨヨ、なんかやらかすの?」
「いいか、ソニア。俺のやることを穿鑿《せんさく》するな」語気が荒くなった。
「私をもっと信用してほしい」
「これは、信用するとかしないとかいう問題じゃないんだ。知れば、もしか何かあった時に、面倒なことになるだろう。俺は、組織の人間だ。それを知っているだけで、充分だろう」
「でも……」
「よくお聞き、ソニア。医者の恋人は、医者が何の手術をし、どういう手順でやったか、いちいち知らなくても気にしないだろう。それと同じ気持ちになれば、気にならないはずだがな」
「でも、あなたのやっていることは、職業とは言えないわ。単にお金がほしいからだけで、人はわざわざ犯罪者にはならないものよ。何と言ったらいいかわからないんだけど、暗い運命みたいなものが、人をギャングにするのよ。その運命を共にしたいと思って、どうして悪いの」
「ベッドに戻ろう」
本多が先に寝室に向かった。ソニアも後についてきた。
寝室のドアが閉まった時、本多はくるりと振り向き、ソニアをじっと見つめた。
「JCEの連中に、俺とのつきあいを教えるな」
「え! どういうこと……」
「それが、俺の答えだ」
本多はベッドにもぐりこみ、スタンドの電気を消した。
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新たな襲撃計画
五月に入った。
ジャン・イヴの盗んだ宝石は、先月の二十七日に、アルフォンジーに戻した。もめごとの種がなくなり、平穏な日々が続いていた。
ミッシェルのトレーニングは順調に進んでいる。
毎日、百球から百五十球の投げ込みをやった。はじめた頃よりも数段、躰《からだ》のタメができるようになり、投球腕も後ろにタマるようになった。フォームが安定し、軸足がしっかりしてくると、徐々にだが、コントロールもよくなってきた。
ソニアとは、以前よりも頻繁に会うようになった。本多の告白≠聞いてから、ソニアは本多が何をやっているかという質問はしなくなった。本多も、そのことについては話さなかった。
立元部長から、正式にアンケートを取る許可が下りた。
アンケート用紙を印刷させた本多は、できたら、食堂に集まる従業員だけには、自分で用紙を配りたいと申し出るつもりだった。そんな悠長《ゆうちよう》な接触で、いますぐ、情報源を見つけだせるわけもなかったが、ともかく、やってみたかったのだ。
「……こりゃ、長期戦になるな、ヨヨ」
印刷物が出来上がった日の深夜、サティと本多は久しぶりに、本多のアパートで酒を酌《く》み交わしていた。
「俺《おれ》は、JCEの給料強奪はあきらめたいんだがな……」本多はアンケート用紙を眺めながら、弱々しく笑った。
「ヨヨは、もうどんなヤマも踏みたくねえんだろう。あんたの頭の中にゃ、野球しかねえもんな」
「一生、足は洗えねえ。野球のことばかり考えてるわけにはいかんよ」
サティは壁際の棚まで行き、触角《しよつかく》が長いカミキリ虫を手に取った。
「ルイジとジャン・イヴは、あんたをとんだことに巻き込んだもんだな」
「愚痴《ぐち》ってもはじまらんよ。コロンボがJCEの給料を狙《ねら》っている。俺も一緒にやるしかねえ。だが、早いとこケリつけてえよ」
「早いとこケリつけてえなら、どうして……」
サティがそこまで言って、黙った。
ノックの音が聞こえたのだ。
やって来たのは、案の定ソニアだった。
アンケート用紙。隠したかった。しかし、いまさら、こそこそするのも気がひけた。
「ボンスワール、サティ」
「やあ、ソニア。今夜は一段と色っぽいな」
「ありがとう。でも、今日、目の隈《くま》がすごくって……」
「それが、神秘的なんだよ」
「人の気にしてることを、ほめるなんて、変な人」笑いながら、ソニアはテーブルの上のアンケート用紙を手に取った。
「うちの工場に配るやつね」
アンケート用紙には、JCEの文字は刷りこんでない。ソニアは会社の誰かから、アンケートの件を聞いたらしい。
「ずいぶん、手間のかかることをするのね」
本多とサティは思わず顔を見合わせた。
「何故《なぜ》、私に頼まないのよ」
「ソニア、あんた……」誤魔化《ごまか》し笑いをうかべて、サティが言った。
「嘘《うそ》は聞きたくない。あなた達は、もう一度、JCEの給料を狙おうとしている。違うかしら?」
「そうだ」本多はひと呼吸入れてから、答えた。「サティは関係ねえが、俺はそのつもりだ」
「本部の支店長室には、大きな金庫があるわ。そこには、おそらく、現金輸送防御システムの書類が入っている。こんなアンケートを配って、工場に近づこうとするよりも、よほど確実にデータを手に入れられると思わない?」
「ソニア、君には……」
「紳士気取りはやめてほしいわ、ヨヨ。あなた……あなた、初めは、私から情報が取れたらと思って近づいたんじゃなかったの」
サティが大声で笑い出した。「ヨヨ、ソニアに一本取られたな。彼女の言う通り、紳士づらはやめなよ」
「ソニアを巻き込めっていうのか?」本多はサティを見た。
「私、もう巻き込まれてるわ。自分から望んでそうしたんだけど……」
「こんな歳で、こういう話をするのは気恥ずかしいが……」サティが口をはさんだ。「俺、『ボニー&クライド』って映画に、えらく感動してな。六回も見ちまったよ」
「気が合うわね、サティ。私もあの映画が大好き」
「気楽なことを言ってやがる」本多はソニアをにらみつけた。
「事務所の警報装置の種類なら、すぐに調べられるわよ。後は、ヨヨ、あなた次第。金庫破り専門の仲間ぐらいいるでしょう」
「ヨヨ、あんたの気持ちもわからんではないが、ここまできてしまった以上、ソニアに協力してもらったほうがいい」
「私ね……まさか、もう一度、JCEの給料を狙《ねら》ってるなんて、加島さんからアンケートのことを聞くまで想像もしなかった。でも、あなたがどんな計画を立てているにしろ、私、やるなら早くやってもらいたい。前からそう思っていたのよ」
「どうしてだ?」
「野球のことと私のこと。それだけを考えている方がいいでしょう? 組織から抜けて、と言いたいところだけど、そんなこと、あなた自身が望んでも、不可能よね。だったら、早いとこ仕事≠片づけてくれた方がいい」
「えらく冷静な物の言い方だな」本多は苦笑した。
「ずいぶん、私も考えたのよ。アンケートの件、私、一週間も前から知っていたのよ」
本多とソニアが見つめあった。本多の口許《くちもと》が先にゆるんだ。ソニアも微笑《ほほえ》む。
アイス・ペールの中で氷が溶けた。
「警報装置だけじゃない。金庫の種類も調べろ」目つきが変わった。ソニアの前で初めてヤクザの顔を見せた……。
それから、ちょうど一週間後、警報装置と金庫についての情報が本多に入った。すぐに、コロンボに報告を入れた。事務所に忍びこむのは、金庫破り専門のジルベール。しかし、金庫の中味を盗み出すのは、相手に警戒心を持たせることになる。すべてを写真に収めて来させよう。本多はそうコロンボに提案した。
アンケート調査。突然、止めるわけにはいかなかった。サティと日本人のウェーターを工場にやった。日本食の要望。思ったよりも多かった。
五月二十三日の夜。コロンボの屋敷に中心メンバー四人が集まった。
大きく引きのばされた、ジルベールの盗み撮りしてきた写真がテーブルに積み上げられていた。莫大な量である。
「写真の解読をやる前に、皆に伝えておくことがある。今日、行われた五月の現金輸送を念のために調べさせたんだが、先月とまったく同じだった。まあ、JCEはあれだけ自信を持っていたんだから、変えるはずもねえがな」ロッキング・チェアーに座り、コニャックを飲んでいたコロンボが言った。
「それじゃ、面倒だが、作業を始めるか」ロジェが写真の一部を手元に引きよせた。「ヨヨ、お前は、日本語の部分だけを読め。後は、俺達でやる」
本多は、今度の件に関係のない写真をまず選り分けた。
現金輸送の手順を書いた書類はすぐに見つかった。
ニュースでは語られなかったことがいろいろとわかった。
ケース自体に輸送コースと時間がプログラムされていて、出発と同時に、カウンターが動き出す。バンごと、どこかに奪い去るのは不可能だ、ということだ。それに、正規のルート上でも、プログラムされた時間を越えると、その場合も、ケースの中味は自動的に破壊されることになっている。しかし、事故、パンク、交通|渋滞《じゆうたい》、その他のアクシデントを想定して、運転手が二時間までは、時間を遅くすることが可能だと記されていた。
目的地に無事についたケースは、受取人にしか開けることができない。しかも、鍵《かぎ》の番号は、輸送車が到着した時点で、コンピューターが自動的に決め、バンの助手席に取りつけてある装置に指示するシステムなので、輸送が終わるまでは、コンピューター以外、誰も番号を知らないのである。
受取人は、常に工場長の脇田保にプログラムされていて、他の人間は絶対に受け取れないようになっていると記されていた。
声紋、或《ある》いは顔紋チェックでもするようにできているのだろうか?
読み終えた本多は煙草に火をつけた。輸送ルートを変更させることも、時間を延長することもできず、脇田工場長が、コンピューターの指示を受けてケースを開けられるのは、キャプシーヌ銀行オンフルール支店にケースが着いた時だけである。
一分のスキもない。こんな難しい襲撃をやるくらいなら、危険は倍加するかもしれないが、田舎の銀行をやった方が、数倍、楽ではないか。本多は軽く溜息《ためいき》をつき、他の写真に映っている文字を読み始めた。
輸送途中に、バンが工場によるのは、銀行口座を持たないアルバイトの給料を下ろすためではなかった。まだ実験段階の新しい輸送システム。バンに備えつけられているコンピューターを工場の技術者が、そのつど点検しているのだ。
防御システムはこれではっきりした。だが、どうすれば、そのシステムを、解除できるかはどこにも書いてなかった。
社員の勤務評定が出てきた。研究者リストに目を通す。技術者の大半は、フランス人、ドイツ人、アメリカ人等々で、日本人の数はきわめて少なかった。
どの研究員の欄にも欠点が指摘されてあったが、本多達がつけいるスキがあるかどうかまでは、無論、はっきりとわからなかった。
ソニアの勤務評定も出てきた。おおむね良好。ただ、仕事に積極性がなく、やや協調性に欠ける、とあった。
単なるタイピストが、給料分以上の仕事をする必要がどこにある。本多は写真を放り出した。
「どうだ、ヨヨ。何かわかったか?」フランキーが訊《き》いた。
「ああ。俺達にとっちゃ、喜ばしくねえことばかりだけどな」
「輸送の手順のことを言ってんのか」ガルディアンが訊いた。
「そうだ」
「フランス語の方にも同じ文面の書類があったぜ」
「そっちに防御システムを解除する方法は載ってなかったか?」
「いや、ないよ」
四人は、申し合わせたように作業をやめた。
「ガルディアン、輸送の手順を言ってみろ」コロンボがロッキング・チェアーから立ち上がり、テーブルについた。
ガルディアンが要点を手際よく説明した。
「ボス、あきらめた方がいい。とても襲撃するのは無理ですよ」穏健なロジェが言った。
「音をあげるのがはやすぎるぜ」とフランキー。
「じゃ、あんたに名案でもあるってのか」
「いや、そう言われると困るんだが、どんな防御策にも、穴があるはずだぜ」
「フランキーの言う通りだぜ。頭をしぼれば、何か手はあるはずだ」ガルディアンが、写真に映っている書類から目を離さず言った。
「ヨヨ、お前に何かいい考えはねえか」コロンボが訊いた。
「俺も、狙《ねら》うのは不可能なような気がします」
「運転手を人質にとって、脅《おど》かすというのはどうでしょう」ガルディアンがコロンボの顔をみた。
「しかし、受取人の工場長じゃなきゃ、鍵《かぎ》の番号をコンピューターは教えてくれねえんだろう。工場長を、犯行現場に呼び出さなきゃならねえじゃないか」
「こういうのはどうかな?」フランキーが言った。「途中でバンを襲い、あらかじめ用意しておいた大型トレーラーに、バンを乗せるんだ。バンそのものには、走行距離をチェックするシステムはついてねえってことだから、停止していても問題はないわけだ」
コロンボが黙ってうなずいた。
「……バンを積んだトレーラーが、オンフルールの銀行近くまで行く。どんな仕掛けがあるかしらねえが、銀行の中に入らないとコンピューターが作動しねえということはねえだろう。銀行の近くに止めたバンに工場長を密《ひそ》かに乗せ、トラックの中で工場長にケースを開けさせるんだ」
「ということは、工場長を拉致《らち》するってのか」ロジェが訊いた。
「工場長にはかけげえのねえ家族がいるだろうよ」
フランキーがにやっと笑った。ガルディアンも。
「JCEという会社も、なんだな、犯罪の生理ってものを知らねえな」コロンボが勝ち誇ったように言った。「頑丈《がんじよう》な警備をすればするほど、犯罪が緻密《ちみつ》になり、かつ凶悪化するってことが、わかってねえようだ。フランキーの案、使えそうじゃねえか」
「しかし、人質を取るってのは危険が多すぎます。工場長がサツに知らせることだってありえる。銀行の周りが私服だらけで、建物の屋根には、狙撃班《そげきはん》が待機している。そんな事態になったらどうするんだ」本多が反対した。
「昔から、おめえは慎重だったが、しばらくヤマ踏んでねえうちに、ずいぶん臆病《おくびよう》になったな」ガルディアンが鼻で笑った。
本多はちらっとガルディアンをにらんだが、何も言わなかった。
「工場長が変な気を起こさないように、脅《おど》しつける手立てを考えればいいんだよ」フランキーが言った。
コロンボが頬傷《ほおきず》を撫《な》でた。「ヨヨ、工場長の自宅の住所と家族構成を早急《さつきゆう》に調べだせ」
「しかし、ボス、来月やるとしてもたっぷり三十日はあります。そう簡単に結論をださなくても……」
「もっといいアイデアが出たら、変更すればいい。ともかく、俺の言う通りにやれ」
本多は黙ってうなずくしかなかった。
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ミッシェルの決断
「俺《おれ》、何となくだけど、自分の投球ってものが想像できるようになったぜ」本多の車の助手席に座っていたミッシェルの目が輝いていた。
「そのようだな」
トレーニングを始めて一か月半ほどたった或《あ》る日のこと。微妙なコントロールはまだないが、練習をはじめたころに比べたら、見違えるようにかまえたグラブに球が来るようになった。しかも、急によくなったのだ。
「それにさ」ミッシェルが続けた。「あんた、背中のどこかにミットのある場所を意識させろって言っていたけど、俺には、とってもいいものがついてるのを思い出したんだよ」
「何だ?」
ミッシェルはにっと笑った。そして、くるりと本多に背中を見せ、トレーニングパンツを下げたのだ。尻《しり》が見える寸前で、ミッシェルの動きが止まった。
「ほら、このホクロだよ」
ちょうど赤信号に引っ掛かった。
背骨の三センチほど下に、大きなホクロがあった。
「このホクロにミットの位置を意識させて投げるようにしているんだ」
「お前はセンスがあると思っていたが、俺の目に狂いはなかったな」
本多は、ミッシェルを住まいまで送りとどける途中だった。いや、正確に言うと、アパートの近くまで送っていくところなのだ。
ミッシェルの父親。息子《むすこ》が本多にコーチを受けていることを知らないのだ。
バルベス・ロッシュシュアールの交差点に近づいた時、本多はミッシェルを食事に誘った。
「もちろん、いいけど……」
「いいけど何だ?」
「俺の知ってるブラッスリーがサン・ジョルジュ駅の近くにあるんだ……。そこに行かないかい? ウエートレスの女がちょっとイカすんだよ」
「じゃ、断れないな」本多は、ハンドルを左にきった。
そのブラッスリーは、オープンしたばかりらしい。テーブルも椅子《いす》も安っぽい感じがしたが、ピカピカだった。
奥のボックス席に座った。金髪に髪をそめた小柄な女が注文を取りに来た。小柄で胸の大きな、どこにでもいる可愛《かわい》い子=B
「やあ、ポーリンヌ」ミッシェルが声をかけた。テーブルの上で両手の指がピアノを弾いていた。
「|こんにちは《サリユ》、ミッシェル」ウエートレスはにこっと笑った。
「俺の野球のコーチなんだ。元は一流のプロだったんだぜ」
ポーリンヌと本多は軽く挨拶《あいさつ》を交わした。
注文を取り、遠ざかっていくポーリンヌの後ろ姿を、ミッシェルはずっと目で追っていた。
「ね、なかなか可愛い子だろう?」
「ああ。で、もうデートしたのか?」
「ここに来た時、ちょっとおしゃべりするだけなんだ」情けない顔をした。そして、にやっと笑った。「なにせ練習が忙しいもんでね」
「馬鹿言え。口説《くど》こうと思えば、いつだって暇は作れるもんだよ」
「それは、そうだけどさ……。どうも勇気がわいてこないんだよなあ。ここで話す時だって、俺、野球の話ばかりしちゃってさ」
「彼女、野球を知らないんだろう?」
「球をバットで打つ。知ってるのはそれだけ。三振すらも何だかわかってない」
「じゃ、野球の話はやめるんだな」
「でも、何話せばいい?」
「映画とか音楽とか、普通の若者が話すことを話せばいい」
「それじゃ、目立たないじゃないか。何か、もっと印象づけられる話題じゃないと……」
「日本人のオジさんに、フランス娘の口説《くど》き方のコーチはできないよ」
ビールがきた。ミッシェルはポーリンヌを見て微笑《ほほえ》んだ。自分に対するミッシェルの気持ち。ポーリンヌにはわかっているらしい。照れくさそうに目を伏せ、微笑み返した。
乾杯をする。
「でもさ、ヨヨ、あんたはソニアを見事、口説いたじゃないか」
「口説きはしない」
「じゃ、ソニアが口説いたのか?」ミッシェルが本多を覗《のぞ》きこんだ。
「そうじゃないが……」
「ソニアが、あんたを口説いた。おおいに考えられるな。あいつは、自分でこうだと決めると猪突猛進《ちよとつもうしん》するタイプだからね」
「ポーリンヌが来る。唇の泡、間抜けに見えるぞ」小声で囁《ささや》いた。
シュークルットがテーブルに置かれた。昼を食べてなかった本多は、すぐに食べはじめた。
「ミッシェル、お前、本当に日本に行く気はないのか」
「日本でプロのテストを受けろってことかい」
「そうだ。俺がバッテリーを組んでいたキャッチャーが或《あ》るチームの監督をやっている。お前にその気があれば、話をしたいと思ってる」
「あんたみたいなコーチいないだろうな、向こうには。あんたも一緒に入団できりゃいいんだがな」
「お前、永久追放っていう意味がわかってないな」
「なんてチームのテストを受けさせたいんだい?」
「東日本エクスポーズ=v
「知ってるよ。ドーム球場を本拠地にしているチームだろう。でも、あまり強いチームじゃないな。去年、やっとAクラス入りしたチームじゃないか」
「強いチームだったら、日本に行ってもいいのか」
「どうして、そんなに日本にこだわるんだ、ヨヨ。やはり、俺を東京レックス∴ネ外のパ・リーグの球団に入団させ、東京レックス≠俺がやっつけてくれたら、と思ってるのかい?」
本多は微笑《ほほえ》んだ。「はじめ、そんなことも考えた。だが、今はまったく、そういう気持ちはない。お前が東京レックス≠ノ入りたいと言ったら、誰かに手を回して、お前がテストを受けられるようにしてやるよ」
「じゃ、アメリカに行ってもいいじゃないか」
本多は残りのビールを飲みほし、お替わりを頼んだ。
「俺は、日本でずっと野球をやってきた。日本のスポーツ界にはびこる精神主義はへどが出るほど嫌《きら》いだし、記録と研究で躍起《やつき》になっているプロ野球の現場もけっしていいとは思ってはいない。だが、俺のアイデンティティは、どうしても日本にある。野球がからむと特にそうなんだ。お前がアメリカで野球をやっている姿を見るよりも、やはり、日本でやっている姿を見る方がうれしい。それが、率直な俺の気持ちだ」
「ヨヨ、あんたは……」
「ちょっと待て、ミッシェル。もう少し俺の話を聞け。そういう気持ちがあるからと言って、お前が日本に行きたくないものを、むりやり行かせる気はない。これだけは忘れるな。俺に遠慮するな、絶対に。これから、野球をやっていくのは、俺じゃなくてお前だからな」
「ヨヨ、俺は、あんたと一か月半近く毎日のようにトレーニングしてきた。だから、あんたがついて来てくれるなら、日本に行ってもいいかなって思ってるよ。むこうには、少ないが友達もいるし……」
「本当に、日本に行く気になったのか。向こうじゃ寮に入れられ、日本的な団体生活をやらなきゃいかん。門限があり、今、俺にしゃべっているような口のきき方をすると、生意気だと嫌《きら》われるぞ」
「せっかく、行く気になっているのに、気の滅入《めい》ることを言わないでくれよ」ミッシェルが苦笑した。
「すまない。だが、こんなはずじゃなかったと思われたくないから、教えておきたかったんだ。だが、何か言われても、簡単に迎合《げいごう》することはないぞ。お前はお前のやり方でやればいい。野球は集団でやるスポーツかもしれんが、投手は個人競技だと思っていろ。どんなに生意気だと思われても、実力さえ発揮できれば、監督はお前を使う。まあ、あまり憎まれると、後でトレードに出される可能性もあるが、野球を止めなきゃならなくなることはない」
「どこで野球をやろうと、マウンドに立てれば、俺は文句ないよ。だが、問題がひとつある」
「何だ?」
「俺、まだ兵役を終わっちゃいないんだよ」
本多は、フランス人に、兵役義務があるのをすっかり忘れていた。
「しばらく延期するってわけにはいかないのか」
「詳しい規則は知らないが、申請すればできるはずだよ。でも、いつかはやらなきゃならないだろう。精神病の真似《まね》をして逃れた奴《やつ》を、俺は何人も知ってるけど、俺の場合はそんなことはできないしね……」
「そのことはエクスポーズ≠ノ入れたら考えればいい。お前を必要としていれば、球団は、お前が義務を果たさなきゃならない間、待っていてくれるだろうよ。それよりも、できたら早いとこ、お前のピッチングをエクスポーズ≠フスカウトに見せたいな」
「パリでかい?」
「ああ」
菊地の住所も電話番号も知らない。だが、東日本エクスポーズ球団事務所≠フ住所と電話番号なら、日本の新聞社のパリ支局に問い合わせればわかるだろう。
ミッシェルがトイレに立った。
本多は、ミッシェルが日本行きを決めたことがうれしくて仕方がなかった。
しかし、有頂天にばかりなってはいられない。現金輸送車襲撃という大きな仕事≠ェ残っている。ソニアからの情報で、脇田工場長の住所と家族構成はわかった。
決行は今度の二十三日と決定しているのだ。
ミッシェルを連れて日本に戻るのはその後になる。彼の国籍はフランス。菊地のチームが、三人の外人をすでに雇っていたら、他のチームを当たらなければならない。そして、彼が未成年者なので、契約の際には法定代理人の同意がいるのだ。父親がさて、同意するかどうか……。
トイレに行ったミッシェルの帰りがやけに遅い。はじめのうちは、ポーリンヌに話しかけているものとばかり思っていたが、ポーリンヌは後ろの席の客の注文を取っているではないか。
本多はポーリンヌを呼び止め、ビールを注文し、それとなく、ミッシェルのことを訊《き》いてみた。
「彼、妙な連中とトイレに下りて行ったわ」
妙な連中だって。嫌な予感がした。クリシーでのことが頭によみがえったのだ。
ここからピガールとの距離。三、四百メートルしかない。
本多はトイレに行ってみることにした。
地下は思ったよりも広かった。
トイレの前。チンピラがひとり立っていた。張り番。
眼《がん》をつけてきたが、無視してトイレに入ろうとした。
「しばらく、遠慮してくれねえかな」チンピラが言った。
本多は、そいつの顔を右手で思いきり押し、中に飛び込んだ。
壁際で棒立ちになっているミッシェル。頬《ほお》にナイフを突きつけられていた。
チンピラが三人。ナイフをつきつけている奴の顔に見覚えがあった。クリシーのトイレに入ってきたチンピラのひとり。名前は確か、フランシスと言った。
「おめえ等、よほど臭いところが好きらしいな。ミッシェルから手を離すんだ」
「とっとと失せな」
「お前等、フェルナンデスに使われているんだったら、俺の言うことをききな」
フランシスのナイフを持った腕が下がった。隙《すき》。ミッシェルが素早く、チンピラの腕を振り切り、本多に駆け寄った。
背中に人の気配を感じた。先程、表で張っていたチンピラが、後ろから襲いかかってきた。体を躱《かわ》し、鳩尾《みぞおち》にパンチを入れた。男はうずくまるようにして、床に倒れた。
全員、二十前後の若造。しかし、手加減は禁物。みさかいのつかない歳ごろである。用心してかからないと殺されるかもしれないのだ。
「いいか、フェルナンデスのボスと話をつけてある。ミッシェルに手を出していいか、フェルナンデスに訊《き》いてみな」
フランシスの凍りついたような目が、しばらく本多をにらんでいた。
本多はミッシェルを連れて、後ずさりを始めた。チンピラのひとりが、一歩、前に出ようとした。フランシスが腕をのばしてそいつを止めた。
本多の迫力。フランシスは彼の言ったことを信じたようだ。
一階に上がり、本多は自分のビールを半分、ミッシェルのジョッキに入れてやった。
フランシス達が、肩で風を切りながら出て行くのが見えた。
「奴等、お前が目当てで……」
「そうじゃないみたいだ。偶然、表を通りかかったらしいんだ」そう言って、ミッシェルはジョッキを一気に空けた。
「フランシスとかいうチンピラ、フェルナンデスんとこの奴なのか」
「いや、そうじゃないが、俺みたいな若者をディーラーに誘いこむのが奴の役目らしい」
「奴等、お前をどうしたかったんだ」
「この三日の間に、奴の配下の者がふたりも挙げられたそうだ。だから、俺にまた手伝えって言ってきたのさ。だが、俺は断った。そしたら、いきなり襲いかかってきたんだよ」そう言って、ミッシェルは大きな溜息《ためいき》をひとつついた。やはり、相当怖かったらしい。
「しかし、ヨヨ、身軽だね、歳のわりには」
「お前と一緒に、トレーニングしているうちに身が軽くなったらしい」
本多は短く笑って、レシートを手に取った。
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本多の申し出
忙しい日々が続いた。
暇を見つけると、ルネはキャッチャーミットを持って、トレーニングに参加した。その時は必ず、本多は、バッターボックスに立った。
躰《からだ》と腕のタメのおかげで、かなりバッターとしてはタイミングが取りにくいはずだ。コントロール。もう一歩で本物だ。
カーブもよくなった。球の離れが早かったのが直り、腕が遅れてでてくるようになった。問題はセットポジションでの投球。後ろ脚のヒザの落とし方を、ミッシェルはなかなかマスターできなかった。
「よし! 今の球は最高だ」
日本語でやりとりしているので、ルネには何を言っているのかわからない。だが、ミッシェルの投げる球は、通訳など必要ない。
「すごくよくなりましたね、ムッシュ・ホンダ」感動を抑えているような声。
「奴は、本物だと言ったろう」
「そろそろ、試合で投げさせてみては」
本多もそのつもりだった。ルネに次の試合で先発させてほしいと頼んだ。
東日本エクスポーズ≠フ菊地から電話が入ったのは、ミッシェルが試合をする前日だった。本多が出した手紙に対する返事。心がさわいだ。
菊地は、手紙を読んだ限りでは素晴《すば》らしい選手のようだが、スカウトをパリまで派遣するのは無理だろう、と言った。他のチームに声をかけてもいいのか。本多は自信たっぷりに言った。だが、菊地は乗ってこなかった。東京に連れて来てくれれば、いつでも会う。そう言って、菊地は必要な住所と電話番号をすべて本多に教えた。
パリで草野球しかやったことのない選手の実力などタカが知れている。菊地は、端《はな》っからそう思っているらしい。
できるだけ早く、東京に戻りたい。急《せ》く心をしずめたい本多は、外に出た。六月の気持ちのよい夜風。気がつくと、ポンヌフ橋に立っていた。セーヌの川面に、河岸通りの街路灯の光がたわむれていた。
東京。二度と戻るまいと心に決めていたのに……。本多の口許《くちもと》から皮肉めいた笑いがもれた……。
翌日の試合で、ミッシェルはフォア・ボールを四つ出したが、ヒットはポテン・ヒット二本しか打たれなかった。
しかし、本多には不満がたくさん残った。相手打者の実力のなさに助けられた球が何球もあった。外角いっぱいを狙《ねら》ったはずのストレートが真中高めに入り、打ってくださいと言わんばかりのカーブも多かった。
ランナーが出ると力んでしまうらしい。冷静にトレーニングの成果を試し、調整するのだと考えればいいのだが、ついつい目先の勝負にこだわってしまうのだ。
野球も勝負ごとである。ミッシェルの勝敗を気にする態度。いちがいに否定はできない。ピンチをなんでもいいから逃れられる運の強さは、投手にとっては絶対に必要なのである。
次の日から、また練習を再開した。カーブとセットポジションからの投球がおもなテーマだった。大きくタテに割れるカーブの他に抜いたカーブも練習させた。次の試合で当たったチームは、例のアメリカ人のいるチームだった。見逃しの三振。センターフライ。ボール球の速球を振ってスイング・アウトの三振。ミッシェルは、そのアメリカ人を完璧《かんぺき》に押さえこんだ。
試合が終わった後、本多はコロンボの屋敷に寄った。
襲撃決行の日まであと八日。中心メンバーの他に決行に加わる子分共も来ていた。本多は、今度の犯行にジャン・イヴを使ってくれとコロンボに頼んでいた。コロンボの信用を取り戻す絶好の機会。案の定、ガルディアンは猛反対したが受け入れられなかった。ヨヨの配下の人間も使ってやるべきだ。コロンボの一言。ガルディアンはおとなしく引き下がった。
脇田工場長の住まいは、オンフルールの中心街から少し離れた丘の上にある。鬱蒼《うつそう》とした樹木に囲まれた一軒家。人質を取るのには都合がよかった。
脇田の子供達は東京に残っていた。屋敷には脇田夫婦と住み込みの家政婦しかいない。
フランキーの部下四人が、前日の夜、脇田の屋敷に忍びこみ、三人を軟禁する。その際に、脇田が警察に知らせたら、どうなるかを妻と家政婦を脅《おど》しつけて、いやというほどわからせる。そして、当日は、気分が悪いと言わせて、工場には出勤させず、直接、銀行に向かわせる予定。
バンを襲い、トレーラーに乗せるのは、工場を出て一キロほど行ったところの隘路《あいろ》と決まった。交通量がきわめて少ない上に、大型トレーラーが道をふさぐと、バンはどうしてもいったん停止しなければならないのだ。
襲撃チームは、ガルディアン、本多、ジャン・イヴ、それにガルディアンの部下二人の総勢五名である。他に逃走用の車を運転する者が四人。
「運転手はどうします。殺《や》りますか?」ガルディアンの部下のひとりがボスに訊《き》いた。
「いや、眠らせるだけでかまわんだろう。非常事態になれば、バラすしかねえだろうがな」
この中に、アルフォンジーと通じてる奴《やつ》がいたら……。本多は皆の顔を盗み見た。当然、コロンボもそのことは忘れてはいないはずだ。しかし、裏切り者が見つかるまで、何もことを起こさないというわけにはいかない。資金稼ぎは、組織の急務なのだ。
詳細な打ち合わせと確認をやり、集会は八時すぎにお開きとなった。
「ちょっと、おりいってお話が……」本多はコロンボに言った。
「急ぐ話か?」
「ええ」
本多の真剣な目を見て、コロンボは書斎に行こうと言った。
「ヨヨ、裏切り者がわかったのか?」書斎のドアを閉めるなりコロンボは小声で訊いた。
「いえ、組織には関係のねえ個人的なことなんです。実は、このヤマが終わったら、俺《おれ》をしばらく自由にしてもらいたいんです」
「お前は、いつだって自由だぜ。で、何やらかそうってんだ」
「東京にしばらく戻りたいんです」
「里心がついたのか?」
「いえ、そんなんじゃねえんです。俺の知り合ったガキが、めっぽう野球がうまくてね。ここ二か月、ずっと俺がコーチしてきたんですが、そいつに日本でプロ・テストを受けさせてやりたいんですよ」
「なんだ、そんなことか。テストを受けさせたら、戻ってこれるんだろう」
「いや、しばらく、東京に残っていてやりたいんです。日本人の血が入っているガキなんですが、向こうには、あまり縁がねえ。俺がついていてやらねえと……」
「で、どれくらい向こうに行っていたいんだ」
「少なくとも一年」
「長すぎるぜ、ヨヨ。俺はお前を当てにしているんだ。今度のアルフォンジーとのもめごとだって、お前がいなかったら、どうなっていたことやら。それに、裏切り者がいるらしい、という件もかたづいちゃいねえ。もし、お前の勘が正しかったら、今日の集会の内容だってアルフォンジーに筒抜《つつぬ》けって可能性もある。ともかく、お前に休暇をやるのはかまわんが、一年なんて長すぎる」
「それじゃ、来年の四月まで向こうにいさせて下さい」
「せいぜい、十月までだな。冬にはもっとでっけえことをやろうと思っている。その時、お前にもいて欲しい」
「……わかりました。じゃ、襲撃が終わったらすぐに、東京にたっていいですね」
「もうちっと待てねえのかい。急に動くと足がつくかもしれねえ」
「店はサティにやらせます、普段通りにね。日本人が国に帰る。ちっとも妙じゃないでしょう」
「今度の報酬はどうするんだ」
「サティに渡して下さい。奴に管理させますから」
コロンボは頬傷《ほおきず》をなで、苦笑した。「しかたねえな。十月までは好きにさせてやるよ」
本多は礼を言った。
「……ところで、ボス、今度の襲撃の件、もしアルフォンジーに情報が流れているとしたら、現金を手に入れてからが危ない。奴はサツにたれこむよりも、俺達に仕事をさせておいて、成功したら、その金を略奪しようと考えるに違いありませんからね」
「心配いらん。金はすべて、この屋敷の地下金庫に入れておく。ちょっとやそっとじゃ、あの金庫は開けられねえ」自信たっぷりの口調でそう言い、コロンボは書斎のドアを開けた。
居間ではガルディアンとサンティーナが酒を飲んでいた。
コロンボと本多の密談。
ガルディアンが、気にいるはずはない。
「ヨヨは、こそこそするのが好きだな」
「ガルディアン、からむんじゃねえ」コロンボが静かに言った。「今度の件が終わったら、四か月ほどヨヨは東京に行く」
「何か、向こうでやらかすの?」サンティーナが訊いた。
「バカンスだよ。元野球選手はたまらなく野球をみたくなったそうだ」
「ガルディアン」本多が言った。「現金を手に入れるまでは、仲よくやろうぜ。あんたが、目障《めざわ》りだと思ってる俺の面《つら》、少なくとも十月まではみなくてすむんだから」
口を半開きにしたガルディアン。首を傾けたままうなずいた。
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決行の日
早速、日本行きの準備に取り掛かった。ミッシェルは去年、ギリシャ旅行に出かけたのでパスポートは持っていた。面倒なのは、ビザ取得である。日本大使館にミッシェルを連れて行ったのはソニアだった。日本企業に勤める人間の弟。しかも、父親はパリ在住の日本人。ビザは意外に簡単におりた。
「私に来てほしいと言ってくれないの」或《あ》る夜、ソニアが笑いながら言った。
「来てほしい」本気で言った。「だが、今、君がJCEを辞めるのはまずい」
「わかってるわよ。それに、辞める二か月前に知らせないと、お金の損ですもの」
「九月には来れるかな」
うなずいたソニア。本多の腰に手をまわした。口には出さないが、ソニアは本多のことを案じている。素振《そぶ》りでよくわかった……。
発《た》つなら、早いほうがいい。本多は襲撃の翌日、つまり二十四日のJALの便を予約した。
襲撃決行の前日。本多は荷作りをした。アパートはそのままにしておくのだから、荷物といっても大した量はない。
ルイジのくれたカミキリ虫。ケースが壊れないように手荷物に収めた。
ルイジとモーリス夫婦の死体。いまだに発見されてはいない。東京に行く前に、彼等を殺した犯人を見つけ出したかった。それだけが心残りだった。
店を閉めたサティがアパートによった。
「ソニアは来ていないのか?」部屋を覗《のぞ》きながら訊《き》いた。
「今夜は弟の相手をしている。そっちの方が気がまぎれるそうだ」
「しかし、どうして俺を誘ってくれなかったのかね。ジャン・イヴじゃ、いつぶっ放すか、わからんぜ」サティはソファに躰《からだ》を投げ出し、本多を見た。
「ジャン・イヴに場数《ばかず》をふましてやりたいんだ。それに、あんたには、いろいろやってもらうことがある。そうだろう?」
「まあ、しっかり店番してますよ」
「そう厭味《いやみ》を言うなよ。四か月で戻って来る。しっかり頼むぜ」
本多はコニャックを注いだ。
「成功を祈って」
サティがグラスをかかげた。
電話がなった。相手は、ガルディアン。
「報告が入った。すべて順調にいっている……」くぐもった声がぶっきら棒に言った。
フランキーの子分達。計画通り、脇田の屋敷に押し入ったのだ。
いよいよ、始まった。本多はゆっくりとコニャックを飲みほした。
*
からっと晴れ上がった、すがすがしい朝。午前十時、本多は集合場所になっていたドーフィーヌ門で地下鉄を下りた。
念のためにアリバイだけはこしらえておいた。表向きスクラップ屋を営んでいるカールのところで、カードをやっていることにしてあるのだ。
「朝、連絡が入った。工場長、震え上がってるそうだ」ガルディアンが囁《ささや》くように言った。
「奴等《やつら》、脇田に何したんだ」
「さあな」ガルディアンは肩をすくめた。
環状線の入口近くに、贋《にせ》のナンバーをつけた大型トレーラーが停まっていた。銀色の車体が光を受けてきらっと光った。その後ろに、ルノー30、プジョー505、そして、ルイジを輸送した贋の救急車が停まっていた。
バンが、環状線に近づくと、銀行の本店から尾行しているフォルクス・ワーゲン・サンタナから救急車に無線が入ることになっているのだ。大型トレーラーをオペラ座|界隈《かいわい》に駐車しておく。目立ちすぎて、勘づかれる恐れがある。先回りして、襲撃現場に停めておくのも危険だ。高速を走る大型トレーラー。一番、不自然ではない姿である。
十一時少し前、無線に連絡が入った。
ガルディアンの子分、フィリップがトレーラーの運転。助手席にガルディアンが乗り込んだ。本多とジャン・イヴはプジョー505に乗った。
トレーラー、救急車、そして乗用車二台が、ゆっくりと環状線に入った。
バンは前方、約四十メートルほどのところにいた。計五台の車で尾行しているのである。ジャン・イヴの運転するプジョーは、あっという間に、バンを抜き去った。
順調に進んでいた。
「感謝してるぜ、ヨヨ。俺を誘ってくれて」
「あんまり有頂天になって、出すぎた真似《まね》するんじゃねえぞ」
「心配いらねえよ。ところで、ヨヨ、しばらく東京へ行くんだってな」
「ああ」
「寂しくなるな」
「すぐに戻って来るさ」本多は溜息《ためいき》まじりに言った。
ルーアンを過ぎた。緊張感はまったくなかった。バックミラーに、バンがかすかに映っている。トレーラーはそのすぐ後ろを走っていた。
陸橋が見えてきた。男の子が陸橋から高速を見ていた。男の子の横に自転車が停めてある。陸橋に向かって、一台のトレーラーが猛スピードで走ってきた。自転車が何かの拍子で倒れた。トレーラーがそれを避けようとしてハンドルを切った。反対側の車線に小型トラックがいた。
ものすごい激突音。トレーラーは欄干をぶち破って、頭から高速に落ちた。巨大な竜がのたうちまわって、落下した。そんな感じがした。小型トラックも巻き込まれ、高速に転がった。
ジャン・イヴが急ブレーキを踏んだ。前方が埃《ほこり》で見にくい。
「やばいことになったぜ」ジャン・イヴがあえぎながら言った。
車を下りたドライバーの中には、事故現場に駆け寄っていく者が何人もいた。
本多も車を下り、現場に駆け寄った。さいわい火は出ていない。だが、トレーラーがすっかり道を被《おお》っていた。おまけに小型トラックの後部も道をふさぐ役目をしていた。
「駄目だ、こっちの運転手も死んでる」そう言った声が本多の耳にとどいた。
「まったく車の通る余地はねえのか」ガルディアンが後ろに立っていた。
「普通の車なら、ほら、その路肩《ろかた》んところから通れる。だが、トレーラーはとてもじゃねえが無理だぜ」
そう言っている間にルノー5が一台、路肩を通って向こう側に出た。どんどん後に続く車が出てきた。
本多はバンの動きを見た。運転手が無線でどこかに事故のことを報告していた。
「このままじゃ、計画がおじゃんだぜ」ガルディアンが本多を見た。悲痛な表情。
「二キロばかり前にインターチェンジがあったな。あそこから、下に下りて、次のインターまで行け」
「しかし、あのバンだってここを通れるぜ。下を通ってちゃとても追いつかねえ」
「あんたの拳銃《けんじゆう》、サイレンサーがついてたな」
「ああ」
「よし、トレーラーまで戻ろう」
トレーラーはバンのちょうど真後ろに停まっていた。ガルディアンの拳銃を受け取った本多は、他のドライバーに気づかれないようにして、路肩の方からトレーラーの下にもぐりこんだ。
三分後、バンがゆっくりと動き出した。その瞬間、本多はバンのタイヤを狙って拳銃を発射した。右後方のタイヤの空気が抜けた。
慌てて、トレーラーの下から路肩の方にはい出した。拳銃をそっとガルディアンに返す。そこには、救急車とルノー30、それにサンタナの運転手も集まっていた。
「これでしばらくは時間をかせげる。トレーラー以外は、バンが動き出すまでここで待とう。ガルディアン、襲撃地点で俺達はあんたを待つ」
「俺達は、すぐにたったほうがいいぜ」救急車の運転手が言った。「救急車がこんなとこで、ぼけっとしているのはおかしい。現にさっきも医者はいねえかと言ってきた奴がいてな」
本多はにやっと笑い、うなずいた。
ガルディアンは後続車に道をあけるようにドライバー達に頼んで歩いた。トレーラーがバックしはじめた。
バンの運転手は、ぶつぶつひとり言を言いながら、ジャッキで車体を上げている。
贋《にせ》の救急車が路肩を通って向こうに渡った。本多はヤジ馬のような顔をして事故現場を見ながら、バンのタイヤ交換を待った。
パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
バンの運転手が運転席に戻った。
ルノー30とサンタナがバンの前に出た。
「ゆっくりと通過しろよ。少しでも時間をかせぐんだ」
まず、本多の乗るプジョーが先に渡った。
次のインターまでは二十キロ。バンのスピードでも、あっと言う間に着いてしまった。
何度も後ろを振り向いたが、トレーラーの姿はなかった……。
工場に立ち寄ったバンをそのままにして、本多の一行は、襲撃地点に直行した。
「トレーラー、いやに遅《おせ》えな」ジャン・イヴがいらいらしながら、上り坂になった一本道を見た。
二時五分前。
脇田は、二時に近くの薬屋に薬を買いに行くと言って、銀行を出ることになっている。
そして、シャルル大通りのテニスコートの前でトレーラーを待つ予定なのだ。
誰も彼もが落ち着きを失っていた。
かすかにエンジン音が聞こえた。緊張感がただよった。
バンが坂のてっぺんに顔を出したのだ。
「しかたがねえ。俺達で食い止めよう」本多が叫んだ。
「ちょっと、あれ見ろよ」ジャン・イヴの声。
本多は上り坂に再び、目をやった。
バンのすぐ後ろからトレーラーが顔を出したのだ。そして、バンを追い抜きにかかった。焦《じ》れったい追い抜き。
「よし、運転する者は車を約束の場所に移動させておけ」本多がどなった。四人の子分が車に散った。
トレーラーがバンを抜いた。本多達は、道端の木陰に隠れた。覆面をかぶり、手袋をはめた。
本多達の隠れた地点にさしかかったトレーラーは、急ブレーキをかけた。
バンも急停止した。
手筈《てはず》通り、ジャン・イヴがバンに駆け寄り、運転席のドアを素早く開けた。そして、運転手を気絶させた。
トレーラーの後部のドアを開け、連絡板を取り出す。ジャン・イヴがバンのハンドルを握った。あっと言う間に、バンはトレーラーの荷台に吸い込まれた。
覆面を取り、本多達もトレーラーに乗り込んだ。発電機を動かし電気をつける。気絶している運転手を縛り上げ、目隠しをした。
十分ほどで、トレーラーが停まった。
全員、覆面をつける。ほどなく後部のドアを叩《たた》く音がした。緊張の一瞬。素早くドアを開ける。引きつった日本人の顔が現れた。三人がかりで脇田をトレーラーの中に引き上げ、再び扉を閉める。
本多は口をきかない。フランス語のアクセントから足がつくかもしれないからだ。
「妙な小細工をしたら、女房は一瞬にしてあの世行きだぜ」ジャン・イヴが脅しつけた。
脇田は額の汗を拭《ぬぐ》いながら、うなずいた。バンの助手席に腰を下ろし、備えつけてあるコンピューターの番号を押した。小さな画面に文字が現れた。脇田の眼鏡。何度も汗でずり落ちた。
コンピューターが、脇田の生年月日を訊《き》いている。テレビで見せていた自信たっぷりの表情が嘘のようだ。キーを打つ指が震えていた。
「押し間違えるんじゃねえよ」ジャン・イヴが低い声で言った。
次が子供の名前と生年月日。まだ長々と質問が続き最後に、先月、辞めた経理の女性の名前と辞めた理由を答えよ、と出た。
脇田はちょっと考えた。工場長自身も予期しない質問が組みこまれているらしい。脇田はキーを押した。
すると、ケース十二個のキー番号が表示された。
ジャン・イヴがメモを取った。
バンの荷台のドアを開けた。作業は脇田自身にやらせた。工場長は、震える手をスーツのポケットにつっこみ、鍵《かぎ》を一本取り出した。それを一番と書かれたケースに差し込み、メモを見ながら、ケースの横についているダイヤルを回した。
開いた。無事に。
本多はジャン・イヴを見つめ、満足げに微笑んだ。
ジャン・イヴが運転席に、作業が完了したことを知らせた。トレーラーが動き出した。
「ど、どこに行くんだ」脇田が声を震わせて本多を見つめた。
「心配いらねえよ」ジャン・イヴが答えた。そして、間髪を入れずに、脇田の額を拳銃のグリップで殴った。
気絶した脇田を、運転手同様縛り上げ、目隠しをした。金を用意しておいた袋に詰め替える。プジョーとルノー、それにサンタナと救急車は、ドーヴィルの海岸の駐車場で待っているはずだ。
「すげえ。こりゃ二千万はかたいぜ」子分のひとりが、感嘆の声を上げた。
バカンス前のウイークデイ。海岸の駐車場は閑散としていた。
金は救急車に積みかえ、気絶している脇田と運転手を乗せたバンをトレーラーから下ろした。
「高速を通って帰るな。あんな事故があった後だし、そろそろ銀行でも騒ぎだしているはずだ。カンからリジューを抜けて帰れ」本多が言った。
「ずいぶん遠回りになるぜ」ガルディアンが本多を見た。
「だが、その方が絶対、安全だ」
ガルディアンはそれ以上、反対はしなかった。
プジョーに乗り換えた本多。大きく深呼吸した。潮の香りが、すこぶる気持ちがよかった……。
店に戻ったのは、五時すぎだった。
本多の顔を見るなりサティがにっと笑った。「心おきなく、旅行に出られるようだな」
「何もかもうまくいったよ。四か月、よろしく頼むぜ」
「落ち着くホテルが決まったらすぐに連絡入れてくれ」
本多はサティに手を差し出した。固い握手。
午後七時、シャルル・ドゴール空港のホテルソフィテル≠ノ着いた。
出発の前に、面倒な連絡を受けたくない本多は、サティにだけ居場所を教え、ホテルに移ったのだ。ミッシェルとソニアも、無論、ホテルに来る予定になっている。
ふたりは、本多がシャワーを浴びている時にやってきた。シャワーから上がった本多をソニアはきつくだきしめた。
「どうしたんだい、ソニア」あっけにとられたのは、ミッシェルだった。
「お前、ちょっと自分の部屋に行っていてくれ」
「わかったよ。でも、別れのなんとかは後にしてくれよ。俺、腹へっちゃってさ」そう言い残して、ミッシェルが出て行った。
ソニアが顔を上げた。ゆっくりと笑顔が戻ってきた。
「午後は、パリ本部の方でも、まったく仕事にならなかったわよ」
「テレビじゃ、たいしたこと言っていなかったが、警察は何かつかんだようだったか?」
「本部じゃ、警察の動きは何もわからなかった。支店長は新しく開発したシステムが効力を発揮しなかった上に、二千万フランもの金を盗まれたもんだから、うろたえちゃってね。でも、よかった。ヨヨが無事で……」
ソニアは背のびをするようにして、唇を合わせてきた。深くて長いキス……。
「腹を空かせている未来の大投手に会いに行くか」唇を離した本多は、そう言って微笑《ほほえ》んだ。
ソニアは再び、本多の胸に顔をうずめた。
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十八年ぶりの東京
本多が東京を去った頃は、まだ成田はなかった。
成田空港に着いた本多は、他の客達の後について、動く歩道に乗った。ミッシェルと同じように、珍しそうにあたりを眺めまわしている。
税関チェックをすませて、バス乗場に出たのは、お昼少し前だった。
「むっとする暑さだな」外に出た途端、ミッシェルが眉《まゆ》をひそめた。
「そうだ、お前に教えるのを忘れたよ。このむし暑い天気になれないと、日本じゃ勝ち星をかせげない」
「わざと教えなかったんじゃないのかい、俺に日本に来てもらいたいから」からかい口調。
「馬鹿言え」本多は、ミッシェルの頭を軽く押した。
宿は、新宿三丁目近くのビジネス・ホテルにした。
東日本エクスポーズ≠フ本拠地になるべく近いホテルを選んだのだ。
新宿区戸山にあったS大学が、四年前に千葉に移転した。空いた広大な敷地を、東日本コンツェルンが買い取り、球場、合宿所、練習グラウンド等々、いたれりつくせりの施設を作ったのである。
中でも、目玉は、ビッグ・エッグ≠ニ競うようなかっこうで三年前に着工した東日本ドーム=A通称スーパー・バルーン≠セった。
シングルを二部屋、取り敢えず一週間、予約した。ホテルに入った本多は、新聞を見て、エクスポーズの試合があるかどうか調べた。スーパー・バルーン≠ナ六時プレイボール。相手は東京レックス≠セった。
二時少し前。監督はすでに球場に行っているはずだ。本多はひと眠りして、夜、自宅に電話をすることにした……。
「本多だがね……今、新宿のホテルにいるんだ」
菊地は驚いていた。本多は、世間話をした後、ミッシェルのことを話した。菊地は、本多の情熱に押されて、明後日の午後一時に、練習グラウンドに来てくれと言ったが、まるで本多の言っていることは信用していない口振りだった。
受話器を置いた本多は時計を見た。午後十一時。まず、JCEパリ本部に電話を入れ、ソニアと話した。ソニアの周りには同僚がいる。会話は他人行儀なものだった。ソニアとの電話をきると、今度はサティの自宅にかけた。
「無事についたぜ」
「あんたの電話を待ってたよ」
声の調子。何か重大なことが起こったらしい。
「どうかしたのか」
「聞いて驚くなよ。コロンボが刺し殺された」
「…………」サティの言ったこと。耳を疑った。
コ、コロンボが殺された! そんなことがあってたまるか!
サティはぼそぼそと説明を始めた。奴の話によると、昨日の早朝、つまり、本多が飛行機に乗る数時間前にコロンボの屋敷が襲われたそうだ。JCEから盗んだ二千万フランは略奪され、コロンボが刺し殺された。
「他に殺《や》られた奴は?」
「バトリスもジョゼも、家政婦もナイフで一突きだったそうだ」
コロンボの死体を見つけたのはガルディアンだった。午前八時半。すぐに、本多に電話を入れたらしい。無論、本多は不在。ガルディアンは、本多を疑っているらしい。
「……東京にいるからといって安心するな。殺し屋が送りこまれる可能性は充分にあるからな」
「コロンボの女房はどうした?」
「あの女は、いつも睡眠薬を使ってるそうだ。物音にはまったく気づかなかったらしい」
襲ったのはアルフォンジーの奴等にきまっている。だが、一体誰が手引きしたのか。地下金庫に入れたはずの、現金もやられたのだ。女房のサンティーナ。あの派手好きな女が、裏切者だったとしか考えられない。
受話器を置いてからも、本多はしばらく茫然《ぼうぜん》としていた。無傷のコロンボ=B十七年のつきあいが、こんなあっけない形で終わってしまうとは。本多は、冷蔵庫からウイスキーのミニ・ボトルを取り出し、グラスに注いだ。
翌朝、本多はソニアに電話を入れた。コロンボが殺されたニュース。ソニアも知っていた。本多はつとめて明るく話した。ソニアも明るく答える。しかし、時々、会話が途切れた。国際電話特有の、微かな雑音。ふたりの距離を、如実に現していた。
十時すぎ、本多はミッシェルを連れて、新宿の街に出た。見知らぬビルが立ちならぶ繁華街。迷ったのは道だけではなかった。物の値段。ハイライトが二百円。理屈で物価が上がるのは当然だと納得できても、やはり違和感が残った。本多はミットとボールを買い、タクシーで神宮外苑まで行った。ミッシェルのトレーニング。何があっても欠かしたくなかった。ミッシェルは集中力を欠いているようだった。蒸し暑さ。これだけはなれるしかない。
夜、プロ野球ニュースを見ていると、電話がなった。サティだった。
ガルディアンが、本多の東京の住所を訊《き》きに来た。珍しく暗い声がそう言った。まだ、連絡が入らない。無論、サティはそう言ってごまかした。ガルディアンは、本多が裏切った、と確信を持っているということである。それには理由があった。ミッシェルのことで、本多が密《ひそ》かにアルフォンジーと取引きしたこと。ガルディアンはどこからか聞き出して来たらしい。
「……俺の住所、今度、奴が訊きに来たら、教えてやれ」
「しかし……」
「お前が、シラを切り通すのは、一番不自然だろう?」
「……俺が東京でインチキな絵を売っていた時のダチが、新宿の大きな公園、なんて言ったっけな……」
「新宿|御苑《ぎよえん》か……」
「そうそう。その公園の脇で、小さなバーをやってるはずだ。屋号はミエル=Bフランス語の蜜《ミエル》だ。そいつは、昔、なんとかって組織にいた男でな。俺の名前をだしゃ、何かと助けになってくれると思う。そいつの名前は、ウサミっていうんだ。電話番号は……」
新宿御苑なら、目と鼻の先だ。本多は深夜の散歩をするつもりで、そのバーを探しに出かけた。
バーMIEL≠ヘ甲州街道沿いの木造家屋の二階にあった。細い階段を上がり、ドアを開けた。狭くて暗い店。客は誰もいなかった。カウンターの奥で競馬新聞を読んでいた男が、上目づかいで本多を見、挨拶《あいさつ》をした。
「ビールもらおうかな」
カウンターの男は黙ってうなずき、キリンビールの栓《せん》を抜いた。歳は三十五、六。サティの友達にしては、少し若すぎるような気がした。派手なアロハ。えらく似合っている。浅黒い顔に口髭《くちひげ》をはやし、髪はオールバックになでつけていた。
「あんたが、宇佐見さんかい」
「ええ。今さっき、サティがここに電話よこしましたよ、本多さん。あいつすっかり日本語忘れちまって、理解するのに苦労しましたよ」細い目をさらに細めて微笑んだ。
「何か飲むかい?」
「いえ、けっこうです。血圧が高くてドクター・ストップがかかっていましてね」
本多はビールを一気に飲みほした。
「宇佐見さん、ひとつ頼まれてくれないか」
「俺にできることなら、何だってやりますよ」
「……ハジキ、手に入れられるかい?」
「種類は?」
「何でもいい」
「じゃ、俺でも何とかなります」
もう一本ビールを頼み、ピーナツをつまんだ。
「よけいなことかもしれませんが、誰を殺《や》るんです。昔のアダでも討つつもりで……」
「護身用に持っているつもりだ。だが、その昔のアダを討つ≠チてのはどういう意味だ?」
「サティがきちんと説明しないから、とんだこと言っちまったな」
「ひょっとして、あんた俺の正体を……?」
「知ってますよ。本多陽一郎。元東京レックス≠フエース」
「あんた、あの時の事件のことを知ってるのか」
「ほんの少しだけね。私は当時、十六歳で高校を中退してグレていた。藤塚って覚えてるでしょう? 俺は奴のところに出入りしてたんですよ。あんたはハメられた。下っ端の連中は皆、そう言っていた……」
「そのことは、俺が一番よく知っている」むっとした口調。「俺は藤塚の誘いを断り続け、逆に訴えてやるとまで脅《おど》したことがあった。その恨みをかったんだ」
「そうだったのかもしれませんね。あの男は執念深い奴でしたから……」
「今、どうしてるんだ、あの男?」
「二年ほど前に死にましたよ。肝臓がこわれちまってね」
藤塚の顔をはっきりと思い出した。その顔が、女房の顔に変わった。美也子と息子《むすこ》は、どうしているのだろうか?
ドアが勢いよく開いた。オカマがふたり、口論しながら入って来た。
「例のもの、いつごろまでに用意できる?」
「明日、ここに来て下さい。五時からいますから」
「で、値段は?」
宇佐見は首を横にふった。「フラン、紙クズみたいな値打しかないんですってね。俺んとこに、船員をやっているダチが置いていったのがあります。それを使って下さい」
「すまない」
宇佐見はサティに借りがある、どうやら、そういうことらしい。
飲み屋の勘定。まるでどれくらいなのか想像できない。本多は一万円札を取り敢えず出した。受け取ったツリ銭。予想していたよりも、はるかに多かった。
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ミッシェルの試し投げ
梅雨晴《つゆば》れだった。午前中、神宮外苑で軽くトレーニングをやり、一時少し前に、東日本スタジアムに着いた。練習グラウンドの入口にまで受付があった。菊地に言われた通り、そこでサインして中に入った。
練習用のグラウンドだが客席もある立派なものだった。
本多とミッシェルは、バックネット裏の客席に座り、ファームの選手達がコーチの指導を受けながら練習しているのを見ていた。
やがて、縞《しま》のユニフォームを着た太った男が、ホームベースのところに現れた。二軍の監督かコーチらしい連中が菊地を取り囲んでいる。
本多はミッシェルを連れて、グラウンドに下りた。
素通しの眼鏡をかけた菊地が、サングラスをかけた本多をじっと見つめていた。
本多の口許《くちもと》がゆるんだ。菊地は帽子の庇《ひさし》を上げた。
見つめあったまま、しばしふたりは口をきかなかったが、やがて、菊地が「お前、歳くったほうが男前が上がったな」と言った。
「監督なんかやってるから、もっと目つきが悪くなっているかと思ったぜ、菊さん」
「よく戻ってきたな」
「あんたに土産《みやげ》を持ってきた」本多がミッシェルをちらっと見て言った。
ミッシェルは、日本語で「今日は」と言った。
「ちょっと待っていてくれ。スカウトの高村が来るから」そう言ってから、菊地は二軍の監督沖田、ピッチング・コーチの三上を紹介した。チームは違ったが、現役時代の沖田も三上も本多は知っていた。
「沖田さん、この子に肩ならしさせてやってくれませんか」
沖田はうなずき、「今里!」と叫んだ。
今里というのは、今年ドラフト二位でN高校から取った、バッティングが売り物のキャッチャーだと菊地が教えた。
日本的な挨拶《あいさつ》になれないミッシェル。挨拶はしたものの「よろしくお願いします」とは言わなかった。
やがて、スカウトの高村が現れた。そのまま、今里という新人が、ミッシェルの球を受けることになった。
一塁側のブルペンに、本多達は移動した。
「じゃ、パリジャン・ピッチャーの速球を見せてもらおうか」菊地が冗談口調で言った。
第一球目。球は高めにういた。だが、スピードはかなりあった。
「緊張するな。こいつらが度胆《どぎも》をぬくような球を投げてやれ。ホクロを忘れるな」本多は、フランス語で言った。
ミッシェルは本多を見てにこりと笑った。二か月あまりのトレーニングのシーンが断片的に本多の頭をよぎった。自分が投げていた時よりも、興奮していた。
二球目。ど真中に入った。ミットにおさまった球の音が耳に気持ちよかった。
「すごい」スカウトの口から感嘆の声がもれた。「ひょっとすると百五十キロ、出てるかもしれませんよ。西武の郭泰源のスピードボールを思い出しますよ」
菊地の目つき。もう笑ってはいなかった。
時々、コントロールが乱れたが、おおむねストレートは低めに決まった。
「本多……変化球は何を投げるんだ」
「早いカーブとぬいたカーブだ」
「見せてくれ」
本多は、にんまりと笑って、ミッシェルにカーブを投げるように指示した。
「昔の、お前のフォームにそっくりだ。粗《あら》けずりだが、理にかなったフォームだな」菊地はつぶやくように言った。
「あんたが、うまく育ててくれれば、一流の投手になる奴だよ」
「お前、他の球団には話してないだろうな」
「菊さんしか、俺が話をもっていける人間がいないでしょう」
「正直言って、こんないい選手が、野球のレベルの高くないフランスにいたなんて、今でも信じられんよ」
「俺の投げていたシュートを投げさせたいね」ピッチング・コーチの三上が言った。
「ヒジが下がって、ストレートのキレが悪くなる。シュートなんか教えないで下さいよ」
「エクスポーズ≠ノ入れば、私が彼をコーチするんですよ」三上が挑戦的な目で本多を見つめた。
「じゃ、他の球団に話を持っていこう」
「まあ、まあ、ふたりともつまらんことで言い争うな。心配いらんよ、本多。うちで、もっと速球をみがかせてやるよ」
「そう願いたいですね」
本多はミッシェルに投球を止めさせた。
「彼は、未成年だから、契約を結ぶとなると、法定代理人の同意が必要だな」スカウトが言った。
「パリに父親が住んでいる。俺の名前を出さなければ、同意するはずですよ。後ひとつ、ミッシェルに関しての問題は、まだ兵役をすませてないってことです。延期を申請することは可能ですがね……」
「そういうことは、うちのフロントにまかせてくれ。ともかく、ミッシェル・寺井は、うちでもらったよ」菊地がきっぱりとした口調で言った。
ここまでくれば、ミッシェルは採用されたも同然である。本多の躰《からだ》からいっぺんに力が抜けた。
試合のない日。菊地は一軍の練習をコーチにまかせ、本多とミッシェルをスーパー・バルーン≠ノ誘った。
はじめて見るドーム球場。本多もミッシェルも菊地の説明を聞きながら、天井を見上げていた。
「高いフライが天井にさわることはないのかな」ミッシェルがつぶやいた。
「絶対ないね」
「ピッチャーズ・マウンドが以前より低くなったって聞いたが、影響はないのか」と本多。
「下手投げが有利だなんて話もあったが、関係ないようだな」
「俺も早くここで投げたいな」ミッシェルの目が輝いていた。
「すぐに投げられるようになるだろう。ひょっとすると、君はエクスポーズ≠フエースになれる選手かもしれんぞ」
ミッシェルは照れくさそうに笑って、目をふせた。
菊地は契約が完了するまでも、練習用グラウンドを使用していい、と言った。
「ただし……こんなことを言ってはなんだが、本多……お前は、グラウンドに下りて来ないほうがいい。他のコーチが気を悪くするし、お前が育てた選手となれば、いろいろとミッシェルにも……」
「監督」ミッシェルが口をはさんだ。「僕はどんな噂《うわさ》も気にしませんよ。第一、ヨヨ、いや、ムッシュ・ホンダは八百長なんかやってちゃいないんだから」
「私もそう信じて、当時、球団とも掛け合ったんだよ」
「だったら、世間が何を言おうがいいじゃありませんか」
「君は、日本のマスコミってものを知らないんだ。一流プレーヤーになったら、君にもわかるだろう」
小生意気なガキだ。ミッシェルを見る菊地の目はそう語っているように見えた。
しかし、本多は菊地の言う通りにするつもりだった。ミッシェルが投手として有名になれば、必然的に自分の過去も再び、マスコミのネタになるだろう。しかし、なるべく、投手としての実力が認められるまでは、妙なことで世間の注目を集めない方がいい。
本多は、日本料理屋を開いた直後、自分の現在を探り出し、取材に来た記者のことを思い出したのだ。
「ところで、菊さん、俺の元の女房と息子《むすこ》の消息を知ってるか?」
「実家に戻ったって噂《うわさ》だが、詳しいことは知らんな」
「そうか、実家に戻ったのか……」
「会いに行くつもりか」
「いや、そんな気はないよ」本多は弱々しく笑って首を振った。
ドーム球場の中をくまなく見学した本多とミッシェルは、夕方、ホテルに戻った。
ミッシェルの実力が認められたことを祝って、ビールで乾杯した。
ミッシェルの態度。心から喜んでいるようには見えなかった。
「どうした? 何か気になることでもあるのか」
「何《なん》か、俺、監督もピッチング・コーチも好きになれそうにもないな」ミッシェルはベッドに躰《からだ》を投げ出しながら言った。
「好きになる必要はない。お前の実力を認めさせればいいんだ」
ミッシェルが本多の顔を見、にっこりと笑ってうなずいた。
「すぐに、お前のことは球界の噂《うわさ》になるだろう。そんな時、できるだけ俺の話はさけろ」
「でも、あんたは……」
「俺のパリでの本当の職業は何だ? 忘れるな。お前のためにも俺のためにも、なるべく俺は裏にいた方がいい」
「それは、そうだな……」
そこまで言った時、チャイムを押した者がいた。
本多は音をたてないようにして、ドアに近づき、ドア・スコープから外をのぞいた。
日本人がふたり立っていた。見たことのない顔。
「なんでしょう?」
「本多陽一郎さんですね、警察の者ですが、ちょっと……」
ドアを開けた。
ひとりは五十がらみの男。頬骨《ほおぼね》が極端につき出、顎《あご》が細く、般若《はんにや》の面を連想させる顔をしていた。もうひとりは明らかに二十代。本多と同じくらい長身だが、女のような撫《な》で肩だった。
ふたりとも国際刑事課の刑事で、歳上の方が小坂井幸男と名乗り、若い方は和泉《いずみ》隆雄という名前だった。
「そちらの方は?」小坂井が訊《き》いた。
「知人の息子で、一緒にパリから来たんですよ」そう答えてから、本多は、ミッシェルに自分の部屋に戻ってなさい、と静かに言った。
ミッシェルが出て行っても、しばらく、刑事達は口をきかなかった。
「一体、どうしたんです?」本多は煙草に火をつけながら、淡々とした口調で訊《き》いた。
「東京、ずいぶん変わったでしょう」しゃべるのは相変わらず小坂井だった。鼻にかかった声。人を小馬鹿にしているような響きがあった。
「わざわざ世間話をしに来たわけじゃないでしょう。用件は何です?」
「パリ、いや、フランスで起こったJCEの現金輸送車襲撃事件について、少しお話をお伺いしたくって」
鼓動が高鳴った。
「私がパリを発つ前日に起こった事件ですね。でも、どうして私のところに来たんですか。私が疑われている。そういうことですか」本多はあっけらかんとした調子で言った。
「ジターヌという煙草ですね、これは」小坂井はテーブルの上にあったパッケージを見て言った。「ジターヌとは、確か、ジプシー女という意味でしたよね」
「さすがに国際刑事課の方は語学が達者だ」
「いや、娘がフランス語を勉強しておりまして。私も、娘につきあって、時々、テレビの講座を観《み》るんですよ」
「で、どうして私が疑われるようになったのか、教えていただけませんかね」
「本多さん、あの工場に興味をお持ちだったとか……」若い方が、はきはきとした口調で言った。
「馬鹿馬鹿しい。私は仕出し弁当をあの工場で売ろうとしただけですよ」
「おそらく、そうでしょう。ですが、向こうから要請がきましたものですから……」小坂井がジターヌの箱をもてあそびながら言った。
「で、私に何を訊きたいんですか?」
「二十三日の午前中から午後にかけて、本多さんはどちらにいらっしゃいました?」
「スクラップ屋のカールって男の家でカードをやってました」
「店を放ってですか?」若いのが訊いた。
「店は、私が出なくても、マネージャーがやってくれてますからね」
「で、東京には何をしに?」
「さっき、ここに少年がいたでしょう。彼をプロ野球の球団に入れようと思いましてね」
「フランスに野球なんかありましたかね」小坂井が言った。
「レベルはまだまだですが、けっこう盛んですよ。私は、どうしてもあの少年を日本のプロ野球界に入れたくて、それでわざわざやってきたんですよ。そんな私が、出発の前日に、あんな大それたことをする。考えられんでしょう?」本多はにこやかに笑った。
「それで、どの球団に入れるおつもりですか」
「そんなことまでお話しする必要はないと思いますがね」
「ごもっともですな」小坂井がにたっと笑った。「でも、私の勘を披露《ひろう》するのはかまわんでしょうな?」
「ええ」
「あなたは、あの少年を東京レックス≠ノは紹介しない」
本多の目つき。一瞬変わった。しかし、しばらくすると口許《くちもと》から笑みがこぼれた。
「なるほど。刑事さんは、私の過去を御存知なわけだ、だから、いっそう私を疑っているんですね。八百長選手だから、ああいうこともやらかす、と思っているようですな」
「一本、吸ってみてもいいですか?」小坂井がジターヌの箱を本多にかざした。
「差し上げますよ、買収にならなきゃね」
小坂井はマッチで火をつけた。
「私ね、あなたの大ファンだったんですよ……」そこまで言って、小坂井は煙草にむせた。二度、三度と咳《せき》をしてから煙草を消した。「えらくイガラっぽいですな。ジプシー女≠ヘ」
「なれれば、なかなかうまいですよ」
小坂井は黙ってうなずき「……正直に申し上げて、私、あなたは八百長をやっていなかったのではないか、と思っておるんですよ。単なる勘ですがね」
「あなたは名刑事だ」
「いやあ……実に素晴《すば》らしかった」小坂井は天井を見上げた。「あなたの剛速球。デビューした年に、南海の野村を三球三振に取った時のこと。今でもはっきり覚えていますよ。私、球場で観ていたんですからね」
「懐かしい思い出を語りにいらっしゃるんなら、いつでも来て下さい。ですが、JCEの事件のことなら、何も話すことはありませんよ」
「そうでしょう。あんなストレートを投げる人が、悪いことをするとは思えない」
本多は苦笑した。
「野球と実人生は別物ですよ。別に私が、現金輸送車を襲ったという意味じゃありませんがね」
小坂井は目を細めて微笑《ほほえ》んだ。つかみどころのない刑事。あなどると手ひどい目に遭《あ》わされそうな気がした。
「今度は、昔話をしにきますよ」小坂井は立ち上がり、握手を求めた。
皺《しわ》だらけの痩《や》せた手を本多は握った。
現役時代にファンに握手を求められた時のことを思い出した。相手の手の感触など考えることもなかったあの頃。スターだったのだ。
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ミッシェルの正式入団
ミッシェル・寺井の選手契約が結ばれたのは、七月中旬の或《あ》る雨の日だった。
スカウトの高村はパリに出向き、ミッシェルの父親を口説《くど》き落としたらしい。
ミッシェルが寮に移る前日の夜、本多は、青山にある小さなイタリアン・レストランにミッシェルを誘った。
シックで洒落《しやれ》た店。本屋で立ち読みした情報誌から選んだのである。
「……俺《おれ》、背番号気に入ってるんだ」
「46という数字が好きなのか」
「別に好きじゃないけどさ。ヨヨの歳と同じだから……」ミッシェルがにっと笑った。
「じきにエース番号をつけるようになるさ」
「46をつけていたって、エースになれるじゃないか」
「まあな」
ミッシェルがプロの道に入った。本多が望んだことが実現したのだ。
しかし、複雑な気持ちがした。今日限り、ミッシェルは自分の手を離れる。やはり、一抹《いちまつ》の寂しさを感じた。
寮での人とのつきあい方。投球フォーム。練習の仕方。ひとこと口を出せば、とめどなくなる。ステージ・パパほど、うとましい存在はないではないか。
「マスコミが、すぐに取材に行くだろう。絶対、俺《おれ》の名前を出すなよ。俺は、マスコミにかぎまわられたくない。わかるな」
ミッシェルは、オーソブッコを食べながら、うなずいた。「でも、練習、時々見にきてくれるだろう。俺、ヨヨがいないと不安なんだ」
「練習は、多分、見にいかんだろうな」
「どうして来てくれないんだよ」ミッシェルが少しむくれた。
「俺がいないと野球ができないようになったら、どうする。試合に出る時は教えてくれ。必ず見に行くから」
ミッシェルは口をとがらせたまま、うなずいた。
本多が練習を見に行かないと言ったのには理由があった。
数日前、菊地が電話をしてきたのだ。
お前が、あの坊主の心の支えになっているのはわかるから、スタンドに見にくるな、とは言わない。だが、そろそろ、マスコミがうるさくなってきたんだ。ミッシェルの育ての親は、あの本多陽一郎じゃないかってな。お前には悪いが、フロントは、お前との関係を隠しておきたいらしく、事情を知っている人間には箝口令《かんこうれい》を敷いている。将来のある大事な選手だ……。わかってくれるだろう、本多……
覚悟していたとはいえ、一瞬、本多は受話器を握ったまま、だまりこくってしまった……。
「しかし、俺《おれ》、不安だよ。明日からの寮生活」ミッシェルが弱々しく笑った。
「そうだろうとも。お前に、日本の寮生活が合うとは、とても思えんからな。抜け出す方法は、ひとつしかない。早く一軍選手になることだ」
「でも、寮には三年いなきゃならないんだぜ。精神修養とかいって、電話番だとか、球団の旗の揚げ下げをやるんだってさ。俺、そういうことをやるのが嫌《いや》なんじゃないんだ。精神修養ってのが、どうにも我慢できないんだ」
「誰かが訓示をたれだしたら、聞いてなきゃいい」
「聞き流す。日本に生まれた人間には、それができるかもしれないが、俺にそれができるかな?」
「できなきゃ、それでもかまわんじゃないか」
「……そうだよな。マウンドが、俺の勝負する場所なんだから」
「その通りだ」本多は、そう言ってワイングラスを口に運んだ。
選手時代の本多も、肩を壊した後ですら、自分の勝負する場所はマウンドの上だ、と固く信じていた。しかし、あの事件が、それまで、黙々とやり続けてきたことを、一瞬にして、ねこそぎ崩してしまった。あんな事件がミッシェルを巻き込むことはまず考えられない。だが、思いもよらぬことが、人を襲い、あっという間に、これまでやってきたことをチャラにしてしまうことはありえるだろう。そして、人生は、どちらかというと、そういう無慈悲なものに違いないのだ。
しかし、ほんの少し運がよければ、そんなことに気づかずに、一生を終えることができるというのも本当のような気がする。
そのどちらもが真実ならば、ミッシェルには、後者の籤《くじ》をひいてもらいたい。もう俺が前者の籤をひいたのだから。
本多は、もう一度乾杯しようと、ミッシェルに言った。
ミッシェルは屈託《くつたく》のない笑みをうかべて、グラスを掲《かか》げた。本多はそのグラスに、黙って自分のグラスを合わせた……。
寮に移ったミッシェルは、暇《ひま》を見つけては本多を訪ねてきた。新参者は、何かと雑用をやらされ、一日中、外出できないこともあるのだ。寮での精神教育と先輩後輩の上下関係は、すさまじい。皮肉な笑いをうかべて、ミッシェルはそう言ったが、愚痴《ぐち》はこぼさなかった。
パリから、突然やって来たハーフの投手。マスコミが取りあげるようになった。『パリ生まれの剛速球投手』『異色、パリジャン・ピッチャー、日本のプロ野球に』『マロニエの香りを運ぶ快速球』等々の見出しがスポーツ紙を飾った。箝口令《かんこうれい》の効き目のせいか、本多のことはまだマスコミには知られていないようだ。
ソニアからは毎日のように電話が入った。ソニアは辞職願いをすでに出していた。九月の中旬《ちゆうじゆん》までには日本に来る予定。本多は無性《むしよう》にソニアに会いたかった。
サティには、三日に一度、本多から電話を入れた。本多の住所をサティが教えてやって以来、ガルディアンは何も言ってこないとのことだった。
ジャン・イヴは時々、ふらりとサティのアパートにやって来るらしい。ガルディアンはジャン・イヴをも疑っている可能性がある。充分《じゆうぶん》、注意するよう伝えてくれ、とサティに頼んだ。
ガルディアン。何か企《たくら》んでいるのかもしれない。東京にいるからといって安心は禁物だ。本多は、外出する時は、宇佐見から借りたS&WM49というスナブノーズをポケットに忍ばせていた。
しかし、何事も起こらず、八月を迎えた。その間、例の本多のファンだったという小坂井刑事が、一度訪ねてきた。JCEの話はまったくでなかった。本多が対南海戦で、九回ワン・アウトまで、ノーヒットノーランを続けていたが、次の打者に二塁打を打たれた話を、刑事はわがことのように、詳しく覚えていた。
「ハドリって外人選手でしたね、あんたの記録をつぶしたのは」
「その年、南海は阪神との日本シリーズで優勝し、ハドリは優秀選手に選ばれた」本多の記憶もよみがえってきた。
「そうでしたな。すべてスタンカが勝ち投手だった」
ミッシェルが二軍戦で投げるまで、何もやることのない本多。話し相手が、JCEの事件を調べている刑事だということも忘れて、話に夢中になってしまった……。
小坂井が訪ねて来た二日後、クーラーになれていない本多は寝冷えしたのか、風邪をひいた。夜になって熱が出た。微熱だが気になった。歌舞伎町《かぶきちよう》まで行けば薬局が開いているはずだ。本多は外に出た。
暗い人気《ひとけ》のない通りを明治通りに向かって歩き出した。ホテルの二軒隣にある月極《つきぎめ》駐車場の前を通りすぎようとした時だ。駐車場のフェンスに沿って停まっていた、黒いセダンの後部ドアが、いきなり、本多の前で開いた。一瞬、立ちすくんだ。
「動くんじゃねえ」フランス語。
車の中から銃口が本多の脇腹《わきばら》を狙《ねら》っていた。
「乗りな、ヨヨ」ガルディアンの白い岩のような顔が本多を見ていた。
従うしかなかった。ガルディアンは本多の腰のあたりに銃口をつきつけ、片手で身体検査をした。
薬局まで行くだけのつもりだった本多。拳銃は所持していなかった。
車が静かに動き出した。運転手は、小柄な色の黒い東洋人。日本人ではないようだ。助手席にも男が座っていた。西洋人。頭が車の天井につかえそうなくらいノッポだった。おそらく、フランス人かイタリア人だろう。
「ちょうど、おめえの部屋を訪ねようと思っていたところだった。夜の散歩にでも出るところだったのか?」
「よく迷子にならずに来れたな」
「香港《ホンコン》に寄ってな、日本に詳しいガイドをふたり調達してきたのよ」ガルディアンは、フロントシートのふたりに目をやった。「で、何で俺《おれ》が、そんな面倒なことまでして、東京くんだりまでやってきたか、わかってるだろうな」
「あんた、時間と金を無駄にしてるぜ。コロンボを裏切った奴は他にいる。ひょっとすると、コロンボが死ねば、後釜《あとがま》に座れる奴《やつ》が殺《や》ったのかもしれんな」本多は、ガルディアンの大きな顔をじっと見つめた。
「コロンボは死んだ。組織はおしめえだよ。フランキーもロジェも、組織を仕切っていくだけの力はねえし、コロンボが長年かかって作った人脈だって、ボスが死んだ今はないも同然だ」
「お前がいるじゃねえか」
「俺か……」含み笑いをうかべた。「ともかく、今の俺が、やりてえことは、おめえの口をわらせることだ」
「何をしゃべらせてえんだ?」
「アルフォンジーとおめえがつるんでいて、コロンボを殺った、という汚《きたな》らしい話をだよ」ガルディアンの表情。いっそう険しくなった。
「俺は、アルフォンジーと通じてはいねえし、コロンボを裏切った覚えもねえ」
「じゃ、何故《なぜ》、アルフォンジーにひとりで会ったんだ」
「話せば長くなる」
「時間はたっぷりとあらあな」
車は、新宿通りを四谷《よつや》の方に向かって走っていた。
本多は、アルフォンジーにひとりで会うことになった経緯を簡単に話した。
「とっさに考えた嘘にしちゃ、いやによくできた話だな」ガルディアンが小馬鹿にしたように笑った。
「お前、俺がこっちに来てから、そのネタをつかんだらしいが、ちょいとタイミングがよすぎはしねえか」
「俺に、匿名《とくめい》で電話をよこした奴がいるんだよ」
「つまり、タレ込みがあったってことか?」思わず、ガルディアンの顔をのぞきこんだ。
「そういうことだ」
「お前、その話を鵜呑《うの》みにして……」本多が、ガルディアンの方に身を乗り出した。銃口が、軽く脇腹にふれた。
「一回目の襲撃の時、誰がアルフォンジーに計画を譲ろうって言い出したか覚えてるな」
「俺は、あの無防備な輸送車には仕掛けがあるんじゃないかと疑っていた。おめえ、まさか忘れちゃいまい。もし俺が、アルフォンジーと手を組んでいたら、あんなヤバイ仕事を奴にやらせるはずはねえだろう」
「おめえは、確かに慎重にかまえていた。だが、半信半疑で、結局はやる気になっていたじゃねえか。ボスをやって金を奪ったのはおめえしかいねえ」
「地下の金庫はすんなり開けられていたって話じゃねえか。コロンボ以外に、金庫を開けられるとなると、女房のサンティーナしかいねえだろう。あの女が、アルフォンジーの子分達を屋敷に忍びこませた、とすれば筋が通る」
「サンティーナは確かに、尻の軽い感じのする女さ。だが、長いつきあいがあるから、わかるんだが、あの女はコロンボを殺《や》ったりする女じゃねえ。ともかく、状況からみて、おめえしか、コロンボを殺った奴はいねえんだ。おそらく、ジャン・イヴも手を貸したに違いねえがな。アルフォンジーが、ジャン・イヴの命を欲しがらなくなったのも、あんたが裏取引きしたからだと、俺はふんでる。これから、ゆっくり本当の話を聞かせてもらうぜ」
車は銀座四丁目を越え、東銀座に向かっていた。このまままっすぐ行けば晴海埠頭《はるみふとう》。
何とか逃げ出さなければ。拷問《ごうもん》を受けた後、殺されるに決まっている。
「サツが俺に目をつけてる」本多は、拳銃《けんじゆう》をちらっと見ながら言った。「JCE現金輸送車事件の件でな」
「日本の警察が動いてるってことか?」
「俺のホテルに二度、日本人の刑事が来た。|IC《インター》|PO《ポール》から連絡が入ったらしいぜ。あんたも、とっくに目をつけられてるのかもしれねえぜ」
ガルディアンは押し黙った。目が本多から離れた。
車が赤信号で停まった。
今だ! 素早く、片手で銃口をシートに押しつけた。ガルディアンの左のパンチが耳をかすめた。のけぞる。そのままの格好で殴りかかった。ガルディアンの右耳のあたりにパンチが入った。ドアロックを外し、レバーをまさぐる。開いた。助手席の男が銃口を向けていた。撃ってきた。間一髪、本多は路上に身を投げ出した。隣に駐車していたタクシーのドアに左腕がぶつかった。
もう一発、銃声が轟《とどろ》いた。タクシーのウインドーに命中した。這《は》うようにして、タクシーの後部に逃げる。
信号が青に変わった。クラクション。身を屈め、車の間を小走りに逃げた。ドアを開け、何があったのだろうと見ているドライバーも何人かいた。
よどんだ空気の中を、ただひたすら走り続けた。
気がつくと京橋の交差点に立っていた。タクシーに乗る。行き先。渋谷。とっさに口をついて出た。
ホテルには戻れない。ネオンを頼りに財布の中味を確かめた。他のビジネスホテルには泊まれるだろう。
大きな溜息《ためいき》をついた。すると、急に忘れていた微熱が出てきた。
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さえる速球
渋谷のビジネスホテルに泊まった本多は、翌朝、新宿のホテルをチェックアウトした。用心のために、乗りつけたタクシーを待たせておいた。不審な車も尾行してくる車もなかった。
以来、本多は偽名《ぎめい》を使って、都内のホテルを転々とした。居場所を知っているのは、ソニアとサティ、それにミッシェルの三人だけである。
「……ヨヨ、会いに来れないのかい、どうしても」或《あ》る日、ミッシェルから電話がかかってきた。いつもよりも暗い声。
「どうした、何かあったのか?」
「寮長とやりあっちゃったよ」囁《ささや》くような声。
「原因は何だ?」
「言葉使いを注意された後に、お前は日本人になりきってない≠チて言われたもんだからさ、頭にきて、俺《おれ》はフランスで生まれてフランスで育ったから、日本人になる気なんかない。げんに、俺は三人目の外人選手として契約してるじゃないか、って言ってやったんだよ……」
「それでいいんだ。お前は、日本人になりきることなんかない」
会ったこともない寮長に、本多は怒りを覚えた。
「キャッチャーの今里が通っていた中学にもさ、俺みたいなハーフが転校してきたことがあったんだって。でも、そいつ、しばらくしたらアメリカンスクールに転校しちゃったんだってさ。今里の話によると、そこの先生は、そのハーフを、やはり、洗脳しようとしたそうだよ。ここの寮長と同じようにね」
「お前も、やはり、アメリカに行った方がよかったって後悔してるのか。本当のことを言ってくれ」
「いや、そんなことまったくないよ。アメリカに行ったら行ったで、嫌《いや》なことはあるだろうからね。俺は、本当はフランスで野球がやりたいよ。草野球じゃない野球をね」
本多を救って言っている言葉ではなさそうだ。電話口で笑みがもれた。
「お前、いつごろ、二軍の試合に出られるんだ?」
「二十五日に先発することにきまったよ。イニングは三回って決められているんだけどね。相手はロッテ。川崎球場で午後一時プレイボール」うれしさを噛《か》み殺しているような声。
「二十五日って来週じゃないか。何故《なぜ》、それを早く言わないんだ」
「来てくれるのかい?」
「当たり前じゃないか。練習は見に行かないが、試合には行くと言ったろう……」
受話器を置いた本多は、そわそわと狭い部屋を動きまわっていたが、やがて、はたと立ち止まり時計を見た。午後一時五分前。フランスは午前六時五分前である。
ソニアにミッシェルの初登板のことを伝えた。ソニアの声。たいして興奮していなかった。それよりも、本多のことばかりを気にしていた……。
試合の前日、本多は川崎のホテルに宿を取った。流転《るてん》の身。どこに泊まっても同じなのだ。
試合の行われる朝を迎えた。夜半からの雨が午前六時ごろまで残ったが、九時にはすっかり上がった。簡単に昼をすませた本多は歩いて球場に向かった。
川崎。思い出のある街だ。別れた妻の美也子の実家が、多摩川近くの殿町にあるのだ。
本多は急《せ》く心をいさめ、試合開始ぎりぎりに球場に入った。サングラスをかけた目で、あたりを見回しながら、三塁側のダッグアウトから少し外野によったところの席についた。客はまばらにしか入っていなかった。
背番号46 TERAI。縞のユニフォームが、ウォーミング・アップをしていた。
ミッシェルのユニフォーム姿。本多は初めて見たのだ。ミッシェルがプロになった。実感がわいてきた。
ミッシェルが本多をみとめた。無邪気に手を振る。本多は右手を軽く上げて応じた。
一時二分。プレイボールがかかった。
エクスポーズの一回の攻撃は簡単に三人で終わった。守備に散るエクスポーズ。本多は、すでに手に汗をかいていた。
ミッシェルが振りかぶった。一球目。外角にストレートが外れた。ボール。
二球目。投げた瞬間に、本多は目をつぶってしまった。左打者の右肩に球が当たったのだ。
一塁側からヤジが飛んだ。
落ち着け、ミッシェル、落ち着くんだ。
二番バッターにはツー・スリーまでいったが、外角低めのストレートを空振りさせた。バツグンにキレのいい速球だった。外角のストレート。ピッチャーの基本の球である。
躰《からだ》のひねり、腕のおくれ、球ばなれ。申し分なかった。
三番バッターは、本来なら一軍のレギュラー。ここまで公式戦で十本のホームランを打っている選手なのだが、故障してファームで調整中なのである。
川崎球場は狭い。本多はここでよくホームランを打たれた覚えがある。
一球目。内角高めに投げた。ボール。バッターはのけぞって、その球をよけ、ミッシェルをにらみつけた。一軍選手のプライド。
ビビるんじゃない。今の球を有効に使え。
二球目。コースは甘かったが、球に力があった。振り遅れた。ファーストのファールフライ。
四番打者はもっかイースタン・リーグの首位打者。ミッシェルは落ち着きを取り戻したようだ。ツー・スリーまでいったが、最後は、また外角低めを振らせて三振に取った。
「彼は大物になりますよ」後ろの席から声が発せられた。聞き覚えのある声。
小坂井が、般若《はんにや》の面のような顔をしわくちゃにして笑っていた。
むっとした。しつこい刑事だ。
本多とミッシェルのつながりを調べ上げたらしい。
「……本多さん、探すのに苦労しましたよ。だまって、雲隠れなさるんだから」
「警察に届けなきゃならない義務はないだろう」
小坂井は隣の席に移ってきた。
「野球の話したくてね、私」
「話すより、黙って観《み》たらどうですか」本多は苦笑し、球場に目を向けた。
一塁、二塁にランナーがいた。
「クラウディオ・コロンボって人、御存知ですね」
歓声が上がった。センターオーバーの二塁打。一塁ランナーも一挙にホームインし、エクスポーズが二点先取した。
「ああ。知ってるよ。彼の女房が俺の店の本当の持ち主だからね」
「コロンボは死んだ。御存知でしょう?」
「いや、知らなかった。いつ、死んだんだ」あまり大袈裟《おおげさ》に見えない程度に驚いてみせた。
「六月の終わりですがね、御存知ないのなら、それでいいんです」
「小坂井さん、まだ俺がJCEの現金輸送車を襲った一味だと思っているんですか。いい加減にして下さいよ」
「コロンボの右腕のスカルファロ、通称、ガルディアンが日本に来ているそうですよ」
「俺とどう関係がある」
「さあね」
本多は目を細めて、小坂井の横顔を見た。
少ししゃくれた顎《あご》が球場の方に突き出た。
「チェンジですよ。寺井選手を見ようじゃありませんか」
ミッシェルの投げる球。ほとんどストレートだった。一回を抑えた自信なのだろう。ピッチングに余裕が感じられた。
ふたりを三振に取った。バッターは球速についていけないようだ。七番バッターにはフォアボールを出した。次のバッターには、クイックで投げた。球の威力が少し落ちた。ツー・スリー。最後の球を流され、ライト前ヒットを打たれた。
ツー・アウト一、三塁。
「大丈夫ですよ。また三振が取れますよ」小坂井がつぶやくように言った。「しかし、昔のあんたにフォームが似てますね」
小坂井の予想は的中した。ツー・エンド・ツーから抜いたカーブを投げた。バッターは泳いだ。空振りの三振。
「しかし、向こうのヤクザ者というのは、大胆ですな。地の利のない日本でも、かまわずに犯罪を犯すんですからね。この間、東銀座で発砲事件があったの御存知でしょう。どうやら撃ったのは外人さんらしい」
「国際化したということでしょう、日本が」
「そうらしいですね。うちの娘に言わせると、立派な人や物を国内に入れているだけでは、本当の国際化はのぞめないそうです。流れ者、犯罪者などの国を乱す連中もしかたなしに許容して、はじめて、真の国際化がなされるそうです」
「娘さんのいう通りですよ」
「しかし、国際刑事課に勤める私としては、そういう過激な意見には同調できません。娘の専門は、ジャン・ジュネとかいう、元犯罪者の作家なんですよ。まったく、親としては困ったもので……」小坂井はそう言いながら、煙草を取り出し火をつけた。「ところで、別れた奥さんの実家、ここからさほど遠くなかったですね」
「あんた、どういうつもりで俺の昔のことまでかぎまわってるんだ」声がたかぶった。
「チェンジになりましたよ」
「いいから答えろ」
「元ファンだった男から、ささやかなプレゼントがあるんですよ」
「何!?」
ストライク! 審判の声が聞こえた。
「手元で球がのびますね」小坂井の目が輝いた。
「話は後で聞く」
本多は、ミッシェルの投球に注目した。だが、意識が拡散していた。
この男は何が言いたいんだ!
ミッシェルはこの三回で、マウンドを下りる予定だ。
得意球を全部投げろ。
一番、二番を簡単に三振に取った。三番バッターがボックスに入った。闘志をみなぎらせている。
一軍のレギュラー選手だ。こいつを三振に取れれば、上に上がるのが早くなる。
一球目は、カーブで入った。空振り。二球、三球がボール。コントロールが乱れていた。
力むな! 四球目はファール。ストレートに振り遅れてた。
五球目。振りかぶった。内角いっぱいにストレート。審判の右手がたかだかと上がった。見逃しの三振。ミッシェルは試合に勝ったかのようにガッツを見せた。
帽子の庇《ひさし》で、顔は見えないが、本多を見ているような気がした。
「やりましたね、あの坊や」小坂井がうれしそうに微笑《ほほえ》んだ。「打者十二人、打たれたヒットが一本、四死球が二個、奪った三振が八個。こりゃ、たいしたもんだ」
本多の頬《ほお》も自然にゆるんだ。しかし、すぐに険しい表情になった。「プレゼントって一体何ですか?」
ミッシェルは試合が終わるまでフリーにはなれない。本多は席を立ち、ゲートに向かった。
「十九年前、あんたが黒だと疑われるようになった大きな原因は、あんたの口座に振り込まれた七百九十万の現金だった。あの金、あれからどうなったか御存知ですか」
考えたこともなかった。預金通帳も判も、離婚の際、いっさい美也子に渡した。
あっけにとられている本多を無視して、小坂井は話し続けた。
「振り込まれた七百九十万はですね、あなたの離婚後、すぐに引き出されているんですよ」
「どうして、あんた、そんなことを知ってるんだ?」
「あなたと別れた後も奥さん、賭博《とばく》で挙げられましてね。そんな時、担当だった刑事のひとりが、藤塚の野球賭博を捜査していた男でね……。家宅捜索やったら、通帳が出てきた。引き出されている七百九十万って金額が、その刑事はひっかかったそうです。あんたが八百長の報酬として受け取った金額と同じですからね」
本多は黙ったまま球場を出た。小坂井が後ろからついてきた。
「その刑事はだいぶ、金の行方を追求したそうなんですがね。結局、わからずじまいだった」
「プレゼントってのは、その話か?」
「ええ」
「じゃ、俺はここで失礼するよ」
「奥さん、けっこういい暮らしをなさっているようだ。どこから金が入っているのか知りませんがね」般若《はんにや》の面が微笑《ほほえ》み、大きくうなずいた。
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息子との再会
美也子の実家は、かつて板金塗装《ばんきんとそう》工場だったのだが、その面影《おもかげ》はまるでなかった。瀟洒《しようしや》な四階建てのマンション。一、二階を人に貸しているらしい。エレベーターはなかった。階段で三階まで上がった。
市川美也子。
表札には父親の名前はなかった。
ためらいが生じた。美也子に七百九十万の件を直接会って訊《き》き出す。勇んでやってきたのだが……。
生唾《なまつば》を飲み込んだ。思い切って、左手をチャイムにのばした。
「はい、どなた?」ぶっきら棒な声が答えた。
美也子の男か、それとも息子《むすこ》か。
「美也子さんにお会いしたいのですが……」
ドアが開いた。
「母親なら、いませんよ。すぐに戻って来ると思いますが」
背の高い、痩《や》せた若者。目鼻立ちはしっかりしていて、目許《めもと》が美也子にそっくりだった。
本多は口がきけなかった。息子に再会したという実感はまるでなかった。ただ、あんなに小さかった子供が、こんなに大きくなるものか。本多は驚いたのである。
「どうかしましたか?」息子が怪訝《けげん》な顔で訊《き》いた。
「陽司さんだね」ひとり言のようにつぶやき、本多は微笑《ほほえ》んだ。
「ええ」笑いがもれた。「どちら様ですか」
「お母さんは、遅くなるのかね」
「いえ、すぐに戻ってくるはずですが……」そこまで言って陽司は、絶句した。「ひょっとして、あなた……」眉《まゆ》をひそめた。「僕の……」
本多は黙ってうなずいた。陽司の表情が険しくなった。
「待たしてもらってもいいかな?」
「……どうぞ」
本多は居間に通された。調度品にも家具にも金がかけてあった。部屋の隅に螺旋《らせん》階段があり、二階の部屋と通じているらしい。
手際よく麦茶を出した陽司は、額に入った大きなポスターの横に立った。
「素敵な部屋だね」
「彼女になんの用ですか?」そっけない口調。
彼女≠ニいう言い方が引っかかった。父親に冷たいのは理解できるが、母親の美也子とも関係が悪いのか?
「ちょっと話したいことがあってね」
「金ですか?」
「いや、金なら不自由していない」
「じゃ、なんです?」
「お母さんに会ったら話すよ」
「はっきり申しあげておきますが、今頃《いまごろ》、のこのこ戻ってきて、父さん、と呼んで欲しいなんて、背筋の寒くなるようなことを言うつもりなら、すぐに帰って下さい、本多さん」
「そんな心配はいらん」本多は微笑《ほほえ》みながら、首を横に振った。「だから、座らないか」
陽司は、黙って本多の正面に腰を下ろした。
「彼女′ウ気かな?」
「ええ。ピンピンしてますよ」不貞腐《ふてくさ》れたような笑いを口許《くちもと》にうかべた。
「聞いていいかな?」
「何を?」
「君は今、学生か?」
「ええ。東西学院の工学部に通ってます」
「工学部かあ……。将来は……」
「つまらないこと訊かないでくれませんか。本多さんに、僕の将来は関係ないでしょう」
「そんなに、私が……」笑おうとした顔が引きつって笑えなかった。
「あなただけじゃありません。彼女に対しても同じ気持ちです」
「じゃ、なんでこの家にいるんだ?」
「金ですよ。僕は、自分で言うのもおかしいが、無類のエゴイストでね。馬鹿な真似《まね》は絶対にしないんですよ。あんな母親とあなたのような父親を持つと、往々にして、子供はグレる。ですが、グレて損するのは、誰です? 自分じゃありませんか。だから、僕は勉強し、音楽をやり、コンピューターをいじり、そして、スポーツもやり、一度もグレなかった。ただし……」陽司は目を細めて、冷たく笑った。「野球はやりませんよ。あんな、ダラダラ時間のかかる、馬鹿げたものはスポーツだとは思ってはいませんから」
さすがに本多はむっとした。しかし、八百長選手の息子が、もっと子供の頃に、卑怯者《ひきようもの》よばわりされた可能性はおおありだ。本多は自分の気を鎮《しず》めた。
「君が、どう考えているか、美也子、いや、お母さんは知っているのか」
「知っていますよ」淡々と言ってのけた。「でも、親というのは馬鹿というか、思い上がっているというか、僕の言うことを、まったく信じてはいないんです。僕はね、早く天涯孤独《てんがいこどく》になりたいんですよ。つまり、彼女、早く死んじまえばいいと思ってるんですよ。無論、僕が手を出したりする気はない。尊属殺人《そんぞくさつじん》なんて馬鹿げたことをやる気はありませんからね。負け犬とグウタラ女。お似合いの夫婦でしたよ、あなた達は」
本多は言う言葉がなかった。黙って麦茶をすすった。
「……ひとつだけ、言っておこう。私は八百長なんかしなかった」
陽司は小馬鹿にしたように短く笑った。「そんなこと、僕はずっと前から知ってますよ。あんたはハメられたんですよ」
「なんで、そんなに確信を持って言えるんだ!」麦茶のグラスが倒れた。
「そう興奮しないで下さいよ。僕が、あんたを嫌《きら》ってるのは、ハメられておたおたパリくんだりまで逃げて行った負け犬だからですよ」
思わず身を乗り出した。「教えてくれ、な、何を君は知ってる……」
そこまで言った時、ドアの鍵《かぎ》が開く音がした。
「後で、私と会ってくれないか」小声で言う。
「詳しいことは何も知りません。それに、真相を知ったところで、失われた時は戻ってはきませんよ。あんたの十九年間も僕の十九年間も……」
居間のドアが開いた。
「陽ちゃん、お客……」戸口に立った美也子が息をのんだ。
「元気そうだな……」
「陽ちゃん、向こうに行ってらっしゃい」
「言われなくてもそうするよ」
陽司が居間を出て行った。
「ずいぶん、ふけたでしょう、私」美也子はソファに座り、本多を見つめた。
「いい女になったよ」
言ったことは嘘《うそ》ではなかった。ベージュの麻のスーツを着た美也子。今年で四十四の彼女は、昔の姿からは想像できない、熟《う》れきった女の魅力を発散していた。
「あなた、貫禄が出てきたわね」懐かしそうに本多を見つめた。
「腹が出てきただけだよ」
「パリ、引き上げたの?」
「いや、一時帰国だ」
「陽司、大きくなったでしょう。あの子、どっちに似たのかしらないけど、とっても頭が良くてね」
「そうらしいな」
「何、しゃべってたの、あの子と」美也子の目が光った。
「何って、別に。世間話さ。この家もずいぶん変わったな」
「父さんが死んでから建て替えたのよ」
「今、暮らしの方はどうしてる?」
「一階と二階を貸しマンションにして、なんとかやっているわ」
美也子は、そう答えながら、なにげない素振りで、右手をテーブルの下に隠した。見逃さなかった。指にはめられたダイヤの指輪。相当の値打ちがあるように見えた。
「弟はどうしてる?」
「九州の女と一緒になって、花畑の経営をしてるわ。脱都会志向っていうのかしら。そういう若者が増えてるのよ、日本じゃ。ところで、私に何か用?」
「ああ。昔の話をちょっとしたくてね」
「昔の話って?」美也子が眉をひそめた。
「例の事件の話だよ。誰から振り込まれたのかわからなかった七百九十万の金、覚えているだろう」
「ええ、まあ……」
「あの金どうした?」
「どうしたって……」考えこんだ。そして、突然、勢いこんでこう言った。「そうだったわ。警察に没収されたんだったわ」
「まさか」低くうめいた。「あの金は、八百長の報酬だとは立証されなかったんだぞ。忘れたのか?」本多は美也子をじっと見つめた。
「その目つき、止めて。昔からあなたのその目つきだけは好きになれなかった」
「答えるんだ、美也子。あの金、どうした?」
「そんなの忘れたわよ。私ね、今でこそ直ったけど、あなたと別れた後も、博打《ばくち》に狂っていたのよ。全部、すっちゃったんだと思うわ」
「嘘《うそ》つけ!」本多はどなった。「俺と別れた後に、七百九十万、いっぺんに引き出したろう。お前、藤塚とぐるで、俺をだましたんだな!」
「頭どうかしたんじゃないの。そんなことするはずないじゃない。あなた、インネンつけて、金をせびる気ね!」
危うく手を上げるところだった。振り上げた拳《こぶし》。妊娠を知らせた直前の光景がありありとよみがえった。
「帰ってよ! 帰らないと警察、呼ぶわよ」
本多は黙って立ち上がった。
「二度とここに来ないでよね」美也子は、本多の背中に向かって、吐き捨てるように言った。
美也子の家を出た本多は川崎駅の飲み屋に入った。
美也子が自分を裏切っていた。信じられない。博打好きの蓮《はす》っぱなところのある女だったが、まさかそこまで汚い真似をするとは。
飲んだ。あおるようにして飲んだ。
息子は、母親が父親を裏切っていたことを知っていた。なんてことだ。あいつが、ネジくれるのも道理だ。藤塚とのつきあいを、陽司は知っていたらしい。
四軒ハシゴした。四軒目のバーの階段を上り切った横に、赤電話があった。揺れる手でコインを落とした。
電話に出たミッシェル。不機嫌だった。黙って帰ってしまったことを詫《わ》びた。
「……しかし、すげえ投球だったぜ。俺の十八の頃なんか比べられない」
「ホクロ気にして投げたよ」
「そうだろうとも。ところで、三番打者の一球目になげたデッドボールになりそうだった球だがな、あれは狙《ねら》って投げたのか」
「狙って投げたと言いたいけど、手元が狂っただけだよ」
「強打者にはああいう球も投げる必要がある」
「ああ、偶然だったけど、あの球を投げてみてわかったよ」
「そうか、お前はセンスがあるもんな」
「次は、九月一日に投げる。今度は神宮球場でヤクルトとやるよ。見にきてくれるだろう?」
「ああ、必ず行く」
「俺、グラウンドから、あんたを探すからね……」
「手なんか振るんじゃないぞ……」
何時間振りかで、本多の顔から笑みがこぼれた。
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ソニアの来日
ホテルを転々としているのが、効を奏しているらしい。新宿のホテルに現れて以来、ガルディアン達は影をひそめている。なれない東京。ガイドを雇っているにしても、そう簡単には、本多を探し出せないでいるようだ。
八月の終わりに、ジャン・イヴが電話をよこした。番号はサティから聞いたらしい。特別な用はなかった。ガルディアンが東京に来ていることを、気にかけていた。
「……ガルディアンが、そっちにいねえからといって、気を抜くなよ。何か困ったことがあったらサティに相談にのってもらうんだぞ」
無鉄砲なジャン・イヴ。本多は気がかりだった……。
ミッシェルは、九月一日のヤクルト戦では、四本のヒットを打たれ、三つのフォアボールを出したが、見事に二対〇で完封した。三振の数は十一個。一躍話題の人となった。テレビのニュース番組まで、パリからやってきた無名選手のことを報道した。
パリ・エクスプレス=Bマスコミは、いつかしらミッシェルのことをこう呼ぶようになっていた。
小坂井刑事は、この日も球場に来ていた。
「……奥さんに会いましたか?」グラウンドを見つめたまま訊《き》いた。
「もうあの話はしたくない」
「私、つまらないものをプレゼントしてしまったようですな」
「いや、感謝してるよ、あんたには。だが、もうつきまとうのは止してくれ」
本多は席を立った。
九月十日。三度目の先発である。初めて投げる東日本ドーム≠フマウンド。対戦相手は本多が元在籍していた東京レックス=B報道人の数がこれまでの四倍にふくれ上がっていた。
本多はダッグアウトからかなり離れた場所で、ひとりぽつりと座って試合を見ていた。
この日、ミッシェルの調子は今ひとつだった。コントロールが悪く、フォアボールが多かった。球を置きにいったところを、五番バッターにツーランを打たれ二点を失った。しかし、ランナーを出しても、すこぶる落ち着いていた。結局、七本のヒットを打たれながらも、三振十個を奪い、完投で勝利投手になった。
対戦相手が東京レックス≠ナも、まったく特別な感情はおこらなかった。ミッシェルがどんな投球をするか。本多の頭にはそれしかなかった。
小坂井は当然、球場に来ていた。
「JCEの事件ですがね。むこうの警察は、死んだコロンボが主犯じゃないかと疑っているようですよ」
「なんで、そうやって俺に圧力かけるんだ。俺は無関係だよ」本多はいきりたった。
しかし、般若《はんにや》の面はいつものようににたにたと笑っているだけだった。
その夜のプロ野球ニュースでもミッシェルは取り上げられ、好々爺《こうこうや》のような顔になった別所が「早く、一軍の試合で投げさせてみたいね」と相好《そうごう》を崩して言っていた。
ソニアは、十二日の午前中に東京に着いた。成田まで迎えに行った本多に、いきなり抱きついてきた。照れくさい。本多は周りを気にしながら、軽く頬《ほお》にキスをした。
本多が借りたレンタ・カーで東京に向かった。宿はソニアの友人の持ち家をただで借りることになっていた。その友人は、中学高校をパリですごしたことのある金持ちの娘で、先月からパリに住んでいた。帰国は来年。一軒家が空いているから自由に使っていい、とソニアに言ったのである。
車中、一睡もしないでソニアはしゃべり続けた。久し振りの東京。久し振りの本多。ソニアは興奮しているらしい。
警察がソニアに本多のことを訊《き》きに来たが、深いつきあいはないから、よく知らないと誤魔化《ごまか》したこと。ミッシェルの活躍を知った父親が帰国を考えていること。加島がソニアに言い寄ったこと。
ひんぱんに連絡を取っていた本多には、耳新しい話は何ひとつなかった。だが、ソニアの声。じかに聞くのがうれしかった。
ソニアの友人の家は二子玉川園《ふたこたまがわえん》の駅から多摩堤《たまづつみ》通りを西に少し行ったところにあった。
アーリーアメリカン調の素敵な建物。建物を囲む庭はちょっとしたものだった。すぐ横に川が流れていた。
「この川は、やはり東京湾に流れつくのかしら」寝室の窓から外を見ながらソニアが訊《き》いた。
「多分な。でも、その前に多摩川に合流するんじゃないかな」
多摩川と自分で言って、本多は美也子と陽司のことを思い出した。
「前の女房と子供に会って来た」ぽつりと言った。
「川の話していたのに、突然、何よ」ソニアが笑った。
「多摩川のもっと下流に住んでいるから思い出したんだ」
「そう。で、元気にしてた?」
本多はふたりとのやりとりを詳しくソニアに聞かせた。
「真相がわかっても、すっきりしないでしょうね」
「そうでもない。あの事件がなければ、俺はパリへなんか行ってやしない。そしたら、君にもミッシェルにも会っていないだろう。もうとっくに吹っきれてるよ」そう言って、本多はソニアの肩を抱きよせた。
夜になってミッシェルが訪ねて来た。
ソニアがミッシェルに会うのも久し振りだが、本多が彼とゆっくり会うのも久し振りのことだった。
話題が途切れた時、本多がミッシェルに訊いた。
「で、いつごろ、上に上がれそうなんだ?」
「わからないけど、そんなに時間はかからないと思うよ。マッケンジー投手が右ヒジ痛で一軍登録を抹消《まつしよう》されたし、エクスポーズ≠ヘ新興チームってこともあって、有力な新人は、二軍じゃなくて一軍で鍛《きた》えたいらしいんだ。ともかく、俺が一軍で投げる時には、チケット用意しておくよ」
いっぱしのことを言うようになったじゃないか。本多は短く笑ってうなずいた……。
ソニアが来て二日後。ミッシェルから電話が入った。予想に反していい話ではなかった。
ついに週刊誌が、ミッシェルのコーチが本多陽一郎だということをつかみ、取材に来たというのだ。
「……俺、あんたが八百長選手呼ばわりされるのを聞いていたら、頭に来てさ。あんたがいかに立派なコーチか演説ぶってやったよ。そして、無実の罪を晴らすために独自に調査中ともつけ加えておいたよ」
「これからも違うところの記者が同じような質問をしに来るかもしれんが、あんまりかっかするんじゃないぞ。これからは全部ノーコメントで通せ」
それから一週間後、本多のことが週刊誌に出た。
『パリ・エクスプレス≠フ育ての親は永久追放選手』
本多の昔の写真が掲載され、事件のあらましも紹介されていた。最後に……本多氏は今も無実を主張し続け、十九年前の真相追及も今回の帰国の目的とか……?≠ニあった。
その翌日、ミッシェルが再びドームで先発することになっていた。相手は大洋。だが、本多はソニアだけ行かせて、自分は行かなかった。あんな記事が載った次の日である。記者連中が、本多を探しているに違いない。
ソニアが帰って来て、ミッシェルが一点に押さえて勝ったと報告した。
ちょうどソニアの話が終わった時、サティから電話が入った。
「……昨日、サンティーナが来たぜ」
「何しに?」
「この店も終わりだな。サンティーナは、あんたを追い出して、自分でここをやろうって考えているらしいぜ。コロンボが死んで、行く末を考えなきゃならなくなったんだってよ」サティは短く笑った。「名義、彼女になっているから、どうしようもねえだろう……。まあ、あんたがこっちに戻って来るまでは、このままだけどな」
今度の東京旅行で、かなり金を使い、当てにしていた分け前にはありつけず、今度は店まで失うことになるのか……。本多は大きな溜息《ためいき》をついた。
「……ところで、そのサンティーナだけどな、妙なことに気づいたんだ」
「妙なこと?」
「サンティーナがな、ネックレスをしていたんだ。エメラルドをダイヤで縁取ったネックレスなんだが、そう聞いて何か思い出さないか?」
記憶にある。どこかで見たネックレスだが……。
「そうか、ジャン・イヴがクーロンを買収しようとした時に、袋から出したネックレスだ」
「絶対とは言えねえんだが、ヨヨ、サンティーナのしていたネックレスは、あれにそっくりだったぜ。もし、俺の勘が正しいとすると、アルフォンジーの野郎とサンティーナが裏でつながっていたってことだぜ」
本多は電話口で考えこんだ。嫌《いや》な気持ちになった。
「……サンティーナとつながっていたのが、アルフォンジーだとはかぎらねえよ」
「じゃ、ジャン・イヴが……?」
「ありえる」暗い声。「あの袋にどんな宝石がどれくらい入っていたか、俺も知らねえし、おそらく、アルフォンジーも知らねえはずだ。それに、戻ってきた宝石をアルフォンジーが宝石屋に返したとは思えねえ。となると、一個ぐらいくすねたってわからないってことだ。確かな記憶じゃねえが、あの時、ジャン・イヴはネックレスを袋に戻さなかったような気がする」
「そう言われてみりゃ、ジャン・イヴがクーロンとやり合おうとした時、あんたが奴《やつ》の胸ぐらをつかんだよな……。確かだぜ。奴は袋にネックレスを戻さなかった」
「後で戻したかもしれねえが……ともかく、ジャン・イヴは女好きのする男だからな……。奴は今どうしてる?」
「ソニアが東京に発《た》った翌日に会ったきりだ」
「今度来たら、それとなく探りを入れてみてくれ。奴がサンティーナとくっついているということは、二千万フランをかっさらったのは奴ってことになるからな」
ジャン・イヴがコロンボを殺《や》ったなんて考えたくない。しかし、ネックレスの件。どうしても腑《ふ》に落ちなかった……。
のんびりとした日々が続いていた。
ソニアとの生活。ぎくしゃくするところがまったくなかった。
ふたりはよく出かけた。渋谷、六本木、原宿、赤坂……。二十二の女が相手。本多は無理をしてディスコやカフェバーにも行った。しかし、全然、苦にならなかった。
あと一週間ほどで、十月を迎える或《あ》る夜。
二子玉川で、食事をすませたふたりは、散歩しがてら、家に向かって歩いていた。
橋を渡り、建設現場の角を曲がる。家の前に通る細い舗装道路に出た。
「……十月になったら、パリに戻るの? コロンボが死んだのに」
「迷っているところだ。だが、ジャン・イヴの件もあるし、店のことだってあるし……」
そこまで言って、本多の動きが止まった。
前から走ってきた車が、いきなり、スピードを上げた。
「キャ!」ソニアが悲鳴を上げた。
本多は彼女をつき飛ばすようにして、道端の叢《くさむら》に飛んだ。急ブレーキ。車は、角まで行ってターンした。本多達を轢《ひ》き殺そうという気らしい。ソニアをかかえて、立ち上がる。
「向こうの路地まで走るんだ!」ソニアの手を引いた。
数十メートル先に、川原まで抜けられる細い道があるのだ。
車のエンジン音が迫って来る。走った。ヘッドライトの光がマンションの外壁をなめた。
間一髪。本多はソニアを押すようにして路地に飛びこんだ。背中から撃たれてはかなわない。
「伏せろ!」ソニアの首のあたりを強く押しつけた。
しかし、車の音はしなくなり、足音も聞こえなかった。かすかに川の流れる音がしているだけだった。
スモークグラスをはめた黒っぽい車。乗っていた人間の顔もナンバーもわからなかった。
ガルディアン。そうとしか考えられないが、どうやって、俺達の居場所を探り出したのだろうか? それに何故《なぜ》、撃たなかったのか?
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裏切り者の正体
この家も、もう安全ではない。
翌朝、本多はソニアだけを、どこか他の場所に移すことに決めた。
「ヨヨは……」
「ここに残る。一生、逃げ隠れするわけにはいかんだろう。敵は必ず、ここに来る」
「敵って、やはりガルディアンかしら」
「多分な」
「敵が来たらどうする気?」
「わからん。話がつくか、殺《や》り合うかのどちらかだろう……」
一緒に残る。ソニアは強硬に言い張った。しかし、本多は頑《がん》として、自分の意見を譲らなかった。
ソニアはアドレス帳をめくって、泊めてくれそうな友人を探した。結局、飯田橋《いいだばし》に住む革工芸のデザイナーをやっているフランス人のマンションに身をよせることになった。
夕方、ソニアを駅まで送って行った。秋分の日。駅には家族連れの姿が目だった。
派手なキス。ソニアは他人の目などいっこうに気にしなかった。
日が暮れた。本多は、S&Wと弾をテーブルの上に置き、居間で、缶ビールを飲みながら、テレビを見ていた。
クイズ番組と動物番組をたて続けに見た。その間にソニアから電話があった。寂しさと不安をおくびにも出さず、ソニアは本多の様子を訊いた……。
虫の泣き声がかすかに聞こえる。本多は、カミキリ虫の入ったケースを取り出し、拳銃《けんじゆう》の横に置いた。
プロ野球の開幕と歩調を合わせるように、急変した本多の生活。あっと言う間に秋を迎えた。
野球は十月になれば終わる。優勝で終わろうが最下位で終わろうが、必ず終わるのだ。しかし、これからの自分は……。
野球は何がおこるかわからない。怖いですね……
言い古された嘘《うそ》が、突然、脳裏をよぎった。たった一万数千平方メートルのグラウンドの中でしか起こらない闘い。限られた空間とルールという囲いで統一された闘い。人の生き様に比べれば、何がおこるか容易に想像できるではないか。
しかし、野球は、この囲いの中での闘いだからこそ、気持ちがいいのだ。永遠にフライを追いかけなければならない苦痛は、野球にはないのである。ホームランという、一瞬にして、すべてをチャラにしてしまう装置が、選手と観客を救っているとも言えるのだ。そして、一方で、ホームランは野球から人生論的楽しみをも奪ってしまう。ファインプレーやエラー、盗塁やサインといったものを用なしにしてしまうのだから。
ピッチャーで言えば、三球三振がホームランに当たるのだろう。
幼い頃から、ホームランと三球三振がこよなく好きだった。本多は、空の缶を右手で、軽く握りつぶしながら、苦笑した。
電話がなった。八時二十分。
「もしもし……」
相手は答えなかった。本多も黙った。一秒、二秒、三秒……。電話はプツリと切れた。
無言の三秒間は無言のコミュニケートだったに違いない。今夜のうちに敵が現れるかもしれない……。
八時四十五分。玄関のチャイムがなった。
妙だ。敵がチャイムをならすはずもない。
拳銃を握ったまま、玄関まで行く。いきなり乱射される可能性もある。本多は壁際に寄った格好で「どなた」と訊いた。
「俺《おれ》だよ、ヨヨ、開けてくれ」
耳を疑った。だが、確かにジャン・イヴの声だった。
突然、東京へ来た? サティは何も言っていなかった。それに、連絡もしないで突然、やって来たのも変だ。
ネックレスの件がある。用心してかからなければならない。
ドアを開ける。
大きな目が懐かしそうに笑っていた。
「突然だな、まったく」
「あんたを驚かしてやろうと思ってさ」
「さっきここに電話したか?」
「いや……。どうしたんだい、そんなもんしまってくれよ」ジャン・イヴが拳銃をちらっと見て言った。
ひと呼吸おいて、拳銃を腰のベルトにさした。ジャン・イヴが一歩前に進み出た。ジャン・イヴのブルゾンの奥が目に止まった。拳銃のグリップ。
再び、拳銃に手をのばした。だが、一瞬遅れをとった。拳銃を握ろうとした本多の手がねじ上げられた。腹にパンチをくらった。本多の手から拳銃が落ちた。前屈みの姿勢でジャン・イヴをにらんだ。
白くて奇麗な歯が、薄笑いを浮かべていた。
「どうやら、あんた、俺を疑っていたようだな」ブローニングが本多を狙《ねら》っていた。
「…………」ジャン・イヴの裏切り。疑っていたとはいえ、現実になってみると、やはりショックだった。
「客を玄関に立たせておくってことはねえだろうが……」
「何が望みなんだ?」
「あんたを消すことに決まってるじゃねえか。俺はそのために、来たんだぜ」
「じゃ、早く殺《や》れ」低くうめいた。
「死に急がなくてもいいじゃねえか。あんたに面白い話を聞かせてから、あの世に送ってやりてえんだ」
拳銃をつきつけられた本多は、居間に戻った。
「面白い話って何だ?」ソファに座らされた本多が訊いた。
ジャン・イヴ。本多と向き合う形で、肘《ひじ》かけ椅子の後ろに立った。本多から目を離さず、クッションを手に取った。玄関で殺《や》らなかったのは、銃声を弱めるものがなかったかららしい。
「その話をする前によ、何故《なぜ》、俺が裏切ってるってわかったか聞かせてくれねえか」
「はっきりとはわかっちゃいなかった。サンティーナに、ゴールドマンのところから盗んだネックレスをくれてやったろう。あれをつけて、サンティーナはサティに会いに行ったんだ。アルフォンジーとお前しか、あれを彼女にやれる奴《やつ》はいねえだろう?」
「あの間抜け女。コロンボが死んだから気を抜きやがって」
「コロンボ、お前の手で殺したのか」
「ああ。俺がぶっ殺したんだよ。でも、そんな話はつまらねえ。あんたに聞かせたい話ってのはよ、ルイジのことなんだ」
「ルイジがどうした?」
「おめえの親友の爺《じい》さんもよ、はじめから、あんたを裏切ってたんだぜ」ジャン・イヴが顔をゆがめて笑った。
「……ルイジが……そんな話、信じられねえ」
「あんたは、結局、時代の流れってものをつかめねえ、ドアホなんだってことを、死ぬ前に教えてやりたかったんだ。俺をガキ扱いしやがったお礼にな」
ジャン・イヴがクッションを銃口の前に当てた。
「ルイジの話、もっと詳しく聞かせろ」
「話せば長くならあ、そんな暇は……」
ジャン・イヴが言葉をのんだ。
居間のドアがさっと開いたのだ。本多も唖然《あぜん》とした。
「銃を捨てろ!」
ガルディアン。両手で拳銃をかまえ、ジャン・イヴの背中に狙いをつけていた。
ジャン・イヴに振り返る暇はなかった。
銃とクッションを肘かけ椅子の上に投げ、おずおずと手を上げた。
本多は動かなかった。隙《すき》をうかがっていたのだ。
「ヨヨ、何ボケっとしてんだ。こいつの拳銃、早く取りなよ」
本多は立ち上がり、手をのばしてブローニングを取った。
「ガルディアン。俺はあんたの手助けをしてやっていたんだぜ。コロンボを裏切ったのは、ヨヨなんだ。俺も共犯だと思われていたらしいが……」
ガルディアンが片手で、ジャン・イヴの襟首《えりくび》をつかみ、右目に拳銃をつきつけた。
「俺はな、ジャン・イヴ。途中からだが、話聞いていたんだよ」
ジャン・イヴの躰《からだ》。震えはじめた。
「そっちの広いところに行きな」
ジャン・イヴは言われた通りにした。ガルディアンが身体検査をした。飛び出しナイフが一丁出てきた。ソファに放り投げる。
「座りな、そこに」
「ガルディアン。殺すなよ」本多が言った。
「わかってるさ。こいつの話、おもしれえから、初めから順を追って話してもらおうぜ」
ガルディアンが微笑《ほほえ》んだ。笑う気にはなれない本多は、力なくうなずいた。
「こいつの告白をテープに取りたいんだがな……」
「わかった」
本多は寝室からラジカセとテープを取ってきた。
「は、話したら見逃してくれるか。二度とパリにゃ、戻らねえから」
「まず、話せ」そう言って、ガルディアンはテープを回した。「ヨヨ、おめえが聞きたいことから始めようぜ」
本多は重い口を開いた。
「俺のところに逃げこんできた時から、おめえは、アルフォンジー側についていたのか」
「は、はじめからよ、アルフォンジーの書いた筋書きだったんだ」ジヤン・イヴが声を震わせて言った。
「聞こえねえ。もっと大きな声でしゃべんな」
ジャン・イヴは小刻みに首をたてに振った。「ノルベール・ゴールドマンの宝石店を襲い、奴を殺すことを計画したのはアルフォンジーなんだ。ゴールドマンは、最近、ベルギーで貴金属商を襲わせたり、アルフォンジーの息のかかった故買屋《こばいや》を勝手に使ったり……アルフォンジーの親戚《しんせき》だということをいいことに、勝手な真似《まね》をしまくっていた。頭に来たアルフォンジーは、強盗に見せかけて殺すことを計画し、俺に殺《や》れと命じた」
「いつからお前、アルフォンジーと通じてたんだ?」
「コロンボの組織に入った直後から、その……スパイ役をやらされていたんだ」
「何が気にくわなかったんだ、俺達の組織の……」
「別に気にくわないところなんかなかったさ。ただ、組織に入ってみてわかった。あんた等の組織に力がねえことが……俺は、貧乏籤《びんぼうくじ》、引かされたくなかった。だから、勢力のあるアルフォンジーについたんだ。俺、少しも悪いと思ってねえぜ。俺には野心がある。あんたと違ってな」大きな瞳《ひとみ》が本多を見上げた。
本多は、力のない溜息《ためいき》をついた。「続けな」
「これは前にも話したと思うが、宝石店をやる二か月ほど前、俺はニースでルイジに会った。奴は隠居暮らしにあき、ヤマを踏む時にゃ、誘ってくれと言っていた。俺は奴のことを思い出し、電話を入れた。奴はすぐに乗ったぜ」
「おめえが、アルフォンジーについていることや、踏むヤマが単なる押し込みじゃねえことを、ルイジは知ってたのか?」
「ああ、知ってたよ。奴は言ってたぜ。のし上がろうと、必死になっている若いのが好きだってな」
根っからのヤクザだったルイジ。一兵卒で隠居した我が身に不満を抱いていたのかもしれない。
肘《ひじ》かけに腰を下ろした。
ケースに入ったカミキリ虫を持ち上げた。
こんなもん持って来るよりか、ひとこと、相談してくれた方が……。
ケースを壁に投げつけようとした。しかし、途中で思いとどまった。本多は、がっくりと肩を落とした。
「それで、俺んところに逃げこんで来たのも計画のうちだったのか?」再び本多が口を開いた。押し殺したような声。
「いや、あれは違う。サツに追われ、どうしようもなかったんだ。ルイジは、嫌《いや》がったんだ、あんたのところに行くのは。あんたには、アルフォンジーのために仕事をしているのを勘づかれたくなかったんだ……」
「だんだん読めてきたぜ」ガルディアンが口をはさんだ。「ヨヨんところへ逃げ込んだ後で、不幸中の幸いとばかりに、宝石強奪を、コロンボにインネンをつける材料にしたってことか」
「…………」
「答えろ!」ガルディアンの右足が、ジャン・イヴの頬《ほお》を蹴《け》った。
ジャン・イヴの後頭部が床にぶつかり鈍い音を立てた。
頬を押さえながら、鈍い動きで起き上がったジャン・イヴは、小さな声で「そうだ」と答えた。
「声がちいせえ!」
ガルディアンが再び蹴ろうとしたが、本多が止めた。元サッカー選手のキック。相手を気絶させないともかぎらない。
「……ヨヨんところに逃げ込んだことを、俺が教えると、アルフォンジーは、俺がコロンボの組織にいることを利用しようって言い出した。親戚《しんせき》を殺《や》ったおとしまえをつけさせるって形で、コロンボの資金源を潰《つぶ》そうっていうのが、アルフォンジーの考えだったんだ。はじめは、ヤクを押さえるつもりだったが、途中で、現金輸送車襲撃計画を知った奴は、そっちの方の獲物をいただこうと言い出したんだ」
ヤマを踏んだ奴の命が欲しい。はじめ、アルフォンジーはそう言っていたが、あれは、筋書き通りのお芝居だったのだ。ひょっとすると、俺が、ジャン・イヴの命を守ろうと必死になるのを見越していたのかもしれない。それに、宝石を探し出せ、と言ったが、アルフォンジーは初めから、宝石のありかを知っていたことになる。どうりで、宝石の件については、あまりせっついてこなかったわけだ。ピエロだぜ、俺は、まったく。本多は髪をゆっくりとかき上げ、弱々しく笑った。
「おめえ、コロンボの命令で、宝石店の女をバラしたな。アルフォンジーが計画をたてたんだったら、女の手引きなんか必要なかったんじゃねえか?」ガルディアンが訊《き》いた。
「ヨヨに、話の都合上、女の手引きがあったと言っちまった。だからよ、無関係なデザイナーをアルフォンジーが殺させたんだ」
「ちょっと待て。お前が手を下したんじゃなかったのか」本多が鋭い目でジャン・イヴをにらんだ。
「それは……」歯の根が合わない。
本多は立ち上がり、ジャン・イヴの横にしゃがみこんだ。
「お前、ルイジとモーリス夫妻を殺《や》ったな」
「お、俺じゃねえ。キャラスコとその子分が殺ったんだ。ただ、俺は……」目をふせた。
「ただ何だ?」
「…………」
「お前は、女を殺《や》りには行かず、アルフォンジーの子分の手引きをした。アリバイ作りのために、ルイジ達と女を同じ時間に殺すように仕組んだ。そういうことか」
「俺だって、ル、ルイジは好きだった。だが、爺《じい》さん、あ、あんたには本当の話をしたいって言い出したんだ。だ、だから、どうしてもやるしかなかった……」
殴った。床に倒れたジャン・イヴ。ぐったりとして起き上がれなかった。鼻からたらりと血がたれた。
ガルディアンがジャン・イヴを起こした。まだ意識はあった。
「サンティーナとはいつからできてたんだ?」ガルディアンが訊いた。
本多にはもう質問する気力はなかった。疲れた。天井を見上げたまま、ガルディアンとジャン・イヴのやりとりを聞いていた。
ジャン・イヴとサンティーナ。半年ほど前からの仲だった。誘ったのはサンティーナの方だったらしい。サンティーナは、今でも、ジャン・イヴがアルフォンジーと内通していることには気づいていないということだ。アルフォンジーは、今回のことを、うまく処理したら、ジャン・イヴにコロンボのシマをあたえると約束した。のし上がれるチャンス。ジャン・イヴはサンティーナを、あの手この手でそそのかし、コロンボを殺《や》って二千万を奪う計画に加担させたのだ。地下金庫の開け方は、思った通り、サンティーナが知っていた。六月二十四日の未明。サンティーナに手引きされたジャン・イヴと、奴の仲間と偽ったアルフォンジーのところの若いのが、ブローニュの屋敷を襲ったのである。
奪われた二千万フラン。今は、アルフォンジーのキャバレーのどこかに隠してあるとのことだ。
屋敷を襲うのに成功したジャン・イヴは、本多をガルディアンに売った。本多が密《ひそ》かにミッシェルのことでアルフォンジーを訪ねた件も当然、ジャン・イヴに筒抜けだったわけだ。
ガルディアンが香港《ホンコン》に飛んだことを知ったアルフォンジーは、自分の計略に引っ掛かったガルディアンが本多を殺すために、香港から東京に入ると予想した。これで何かと目ざわりなふたりのうちのどちらかが、自分の手を汚さずに、あの世に行ってくれるとタカをくくっていたらしい。アルフォンジーは東京にはまったくツテがない。だから、こんな手を考え出したのだ。
ところが、いっこうに、殺し合いのニュースが入って来ない。そこで、ジャン・イヴを東京に送りこみ、ふたりを殺させようとしたのだ。アルフォンジーはマニラの組織に頼んで、東京の拳銃密売人を紹介させた。東京に着いたジャン・イヴは、武器を手に入れ、ここにやって来たのである。
一方、本多に車の中から逃げ出された後のガルディアンには、本多を探す術《すべ》がなかった。サティは、ガルディアンの子分に、本多は消息不明になった、とシラをきり通したのだ。
そこで、しかたなく、サティに見張りをつけた。ジャン・イヴがサティに会いに来たのを知ると、ジャン・イヴにも見張りをつけた。いつか動く。ガルディアンはそう読んだのだ。果たして、ジャン・イヴが動いた。
ジャン・イヴの東京行きの情報を得たガルディアンは、例の香港から連れてきたふたりに、東京に到着したジャン・イヴを尾行させ、ホテルを突き止めた。それから、毎日、奴の動きを追っていたのである。
「昨夜、お前、俺を車で轢《ひ》き殺そうとしたか?」話を聞き終わった本多は、ジャン・イヴに訊いた。
「いや。一体、何の話だ、そりゃ」
本多は納得した。ジャン・イヴの仕業だったら、尾行していたガルディアン達にも動きがあったはずだ。
「じゃ、ガルディアン、お前か?」
「俺でもねえ」
妙だ。では、昨晩の車を運転していたのは誰だろう。
「……俺、全部しゃべったぜ。見逃してくれ。ヨヨ、今度のことで、俺、本当に目が覚めた。あんた等のためなら、これから何でもする。だから、命だけは……」
「醜いぞ。色男がすたるぜ」本多が笑わずに言った。
「俺が殺《や》るか、それともあんた殺《や》りたいか」ガルディアンが本多を見た。
ジャン・イヴが四つんばいになって窓の方に這《は》った。
本多が後ろから、股間《こかん》を蹴《け》り上げた。「情けねえ野郎だな」
胸ぐらをつかんで立たせ、思いきり顔を殴った。壁際に置いてあった観葉植物が、ジャン・イヴと共に倒れた。
鉢を抱くようにして、ジャン・イヴは泣き出した。
「あんたに任せていいかな」本多がガルディアンに訊いた。
虫ケラのような若造。顔も見たくなかった。怒りや憎しみも、相手に対する一種のコミュニケーションなのだろうが、もうそれすらも、本多はジャン・イヴに感じてはいなかった。
「ヨヨ、こいつを押さえていてくれ」
本多が近づくと、声も出せずジャン・イヴは、鉢を抱いたままうずくまった。
引きずり出し、羽交いじめにする。ガルディアンが腹を思いきり殴った。あっけなく気絶したジャン・イヴを床に放り出す。
「ここじゃ殺《や》らねえ。明日あたり、ヤクのオーバードーズで死んだフランス人の死亡記事が新聞に載るかもしれねえな」
そう言って赤毛は大きな溜息《ためいき》をついた。
「礼を言うぜ。あんたが来なかったら、俺は死んでた」
「礼を言う時は、もっと丁重に言ってもらいてえな」
「ひざまずけってえのか。ごめんだぜ。お前も、一度は俺をやろうとした。忘れたのか」
ガルディアンがカツラに手をやり、薄笑いをうかべた。「おめえが、コロンボを呼び出したと聞いた時から、俺は、おめえのことをずっと疑ってきた。だから、すぐにアルフォンジーの餌《えさ》に飛びついちまったのさ」
「いまさら、そんなことはどうでもいい」
「ヨヨ、いつパリに戻る?」
「さあな。もう組織はないも同然だから、俺は必要ねえだろう」
「おめえは、野球の球を投げられるが、サッカーのボールは蹴れねえ。俺はその逆だ。どうでえ、一緒にコロンボのシマをしきらねえか。このテープがありゃ、大ボスとも話ができるしよ」
「お前も俺も元≠ェつく選手だぜ。まあ、お前がやるのは勝手だが、もう俺はヤクザ稼業《かぎよう》は下りさせてもらうぜ」
「……やっぱ、気が合わねえな、おめえとは」ガルディアンが、にっと笑った。
「そうらしい」笑い返した。
「でも、まあ、野球がオフになりゃ戻って来るんだろう。連絡待ってるぜ」
白い岩のような手が差し出された。
「元気でやりな」握手をかわした。
秋の虫。やけに騒がしかった。
手を離した瞬間、玄関に人の気配がした。
ふたりとも廊下に飛び出した。
ガルディアンの雇ったノッポが立っていた。
「こいつが、その辺をさっきからうろうろしてまして」
フランス語でそう言ったノッポの右腕。真っ青な顔をした若者の首に巻きついていた。
「俺の知り合いだ、放してやってくれ」
ガルディアンにそう言った本多。唖然《あぜん》としてその場に立ちつくしていた。
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十九年前の真相
本多を訪ねて来たのは、息子《むすこ》の陽司だった。
気絶しているジャン・イヴを担いだノッポを従えて、ガルディアンが出て行った。
本多は倒れた観葉植物を元の位置に戻し、床にこぼれた土を拾った。混乱していた。陽司にしゃべりかける言葉を探す余裕すらなかった。
「一体、何があったんですか?」
ずっと居間の戸口に立っていた陽司が訊《き》いた。
「ちょっとしたいざこざだ」笑いかけた。「まあ、座りなさい。何か飲むか」
「いえ」陽司は肘《ひじ》かけに腰を下ろした。
本多は少し落ち着きを取り戻した。
「ひょっとしたら、さっきここに電話を入れたのは、君か?」
「……ええ」
「どうしたんだ、家で何かあったのか?」
「この間、本多さんが僕に訊きたがっていたことを教えにきました」本多に目を合わせないようにして、控え目な口調で言った。
「あの話か……」溜息がもれる。「もういいんだ。美也子が私を裏切っていたことはわかったよ。彼女はシラをきり通したがね」
「ふたりのやりとり、廊下で盗み聞きしてました。でも、本多さんは、何もわかってはいないんですよ」
「どういうことかな?」本多はソファに座り、煙草に火をつけた。
「彼女は、あなたと結婚した直後に愛人を作った。その男が、あなたを八百長選手に仕立てあげたんですよ。御心配いりませんよ。確かに僕はあなたの子供ですから。血液型から、それははっきりしています」
「藤塚と美也子が、愛人関係だった? 信じられんね。それに、たとえそうだったとしても、もう私には興味のないことだ」
「本多さん、あなたは人がいい。その人のいい血が、僕の中にも流れていると思うと、うんざりしますがね。相手は藤塚じゃありませんよ」
「じゃ、誰なんだ?」
「まだ、わからないんですか」陽司が眉《まゆ》をひそめた。「菊地ですよ。エクスポーズ≠フ監督の」
「…………」煙草を持った手が止まった。陽司を見つめた。
「あの男の援助は今も続いています。賃貸マンションを貸してるだけで、あんないい暮らしができるわけないでしょう。パリボケしたあなたにはわからないでしょうけれどね」
「菊地だって、証拠があるのか」つとめて冷静な口調で訊いた。
「証拠も何も、月に何度かは今でも、あの家から球場に通ってますよ。マスコミにバレないように細心の注意を払ってね」
本多はソファにゆっくりと躰《からだ》を投げ出した。鼓動が激しくなった。
「僕は、聞いたんです。美也子と菊地が話しているのをね。あれは、僕が高二の時でした。深夜、トイレに行こうとして階段を下りかけた時、居間で、あのふたりが喧嘩《けんか》している声が聞こえたんです。僕はそっと戸口まで近づいて、ふたりの会話を盗み聞きしたんです。喧嘩の原因は他にあったようですが、美也子が、あなたのことを話し、本当に卑怯《ひきよう》なのは、菊地だと怒り出したんです。八百長事件の真相を菊地におさらいさせるように、彼女はべらべらとよくしゃべっていましたよ。あなたは、先輩キャッチャーである菊地を信じて、ほとんど首を横に振らずに投げていましたよね。彼の出すサイン、八百長にかかわっていた相手のバッターにあらかじめ教えられていたんですよ。外角のカーブを投げてくるとわかっていれば、ヒットの出る確率は相当高くなるし、フォアボールだって選びやすくなる。あなたが打ち取れたのは、きっと、あなたがコントロールミスをした時だけじゃありませんか」
「……いつでも菊地のサイン通りに投げていたわけじゃなかった……」ひとり言のように呟《つぶや》いた。
「そりゃ、そうでしょう。でも、そんなこと数えるほどしかなかったでしょう……。八百長が発覚しそうになった寸前、奴は防御策を考えた。そして、あなたを身代わりに選んだんですよ。不明金を振りこみ、いかにも、あなたが八百長をやっていたかのように見せかけ、八百長であげられた打者には、永久追放後の面倒をみるという約束で、自分の名前の替わりにあなたの名前を言わせたんですよ。これはもっと後でわかったことですが、あなたの名前を出した打者は、今、裕福な暮らしをしてますよ」
「もういい、わかった」押し殺したような声。本多はうなだれた。
「最後に一言だけ言わせてください。美也子は、僕が盗み聞きしている時、菊地にこう言いましたよ。あなたは、本多から野球と女を盗み取った。これが本当のダブル・スチールだ≠チてね」
ダブル・スチール
本多は低い声で笑った。しかし、すぐに顔が険しくなった。躰《からだ》を起こし、立ち上がった。
「菊地に会うんですか?」
「君は、ここに来なかったし、何も知らない。わかったね」
「玄関のところに落ちていた拳銃《けんじゆう》、本物ですか」
本多は陽司をじっと見つめた。「君は何故《なぜ》、突然、私に真相を教えに来る気になったんだ? 君のようなエゴイストがすることじゃないだろう?」
「週刊誌で読みましたよ。あなたが育てたピッチャーのこと、あなたと僕とは生き方も考えた方も違うが、この間言った負け犬≠ニいう言葉は撤回しますよ。誤解しないで下さいよ。僕は、サクセス・ストーリーとそれを支えたコーチの話に感動したわけじゃないんです。ただ、どうしても野球を止められないあなたの馬鹿さ加減をうらやましいと思ったんです」
「それで、その馬鹿さ加減に少しはつきあってやろうと思ったのか」本多は力なく笑った。
「菊地は、あなたを殺すつもりです。あの週刊誌に、あなたが事件を独自に調査するとありましたね。あれを読んで、ふたりは慌てたようです。この家の住所も、ふたりの会話からわかったんですよ」
そうか。昨晩、俺とソニアを轢《ひ》き殺そうとしたのは、菊地だったのか……。本多は静かにうなずいた。
「ひとつ聞きたいんだが、君が僕の立場なら、菊地をどうする?」
「さあ……よくわかりません。でも、ひとつだけ確かなのは、殺したりはしませんね。失われた十九年も取り戻せず、将来を溝《どぶ》に捨てるようなことは僕にはできない」
「だが、現在≠ヘ確かに手に入る。一瞬だけかもしれんがね」
陽司が本多を見つめた。寂しい目。「菊地と美也子のことを暴露するおつもりなら、僕はいつでも協力します。だから……」言葉につまった。
「だから、何だね?」優しい声で訊いた。
「いえ、何でもありません。あいつは死んでもいい人間です」陽司はゆっくりと立ち上がり、戸口に向かった。
玄関口で、短い別れの挨拶《あいさつ》をした陽司は、振り向きもせずに出て行った。
だから、馬鹿な真似はやめて下さい@z司はそう言いたかったのだろう。もし、彼がその言葉を言っていたら、菊地を殺すことを止めただろうか……? わからない。しかし、陽司は、言葉をのみ込んだのだ。本多は玄関に落ちていたS&Wを拾い、居間に戻った。
*
その夜試合のなかった菊地は、自宅にいた。
ミッシェルのことで話がある。すぐにこっちに来てほしい。本多は、菊地をそう言って説得した。風呂上《ふろあ》がりだから、明日にしてくれ。億劫《おつくう》そうな声。ミッシェルの肩のことで隠していたことがあるんだ。本多は暗い声で言った。商品に傷があった? 菊地の声に感情が動いた。
田園都市線の梶《かじ》ケ谷《や》にある菊地の自宅からここまではたいした距離はない。結局、十一時に来ることになった。菊地は、ここの住所を訊《き》くことを忘れなかった。
十一時五分。チャイムがなった。
白いポロシャツに鮮やかな黄色いカーディガンを着た菊地が、玄関をくぐるようにして入って来た。
「ミッシェルの肩がどうしたんだ?」
「いや、ちょっとね」
「あいつ、明日から一軍に上げ、先発に使ってみようかと思ってるんだが……」
「本当か?」本多の顔がぱっと明るくなった。一瞬、菊地をここに呼んだ目的を忘れてしまった。
「ああ、本当だとも。本人には明日の朝知らせるのだが、今夜のうちにスポーツ紙に裏からこっそり、ネタ流しておいたよ。今年も優勝は西武に持っていかれたし、昨日の試合でエースの森家《もりや》がアキレス腱《けん》を切っちまうし……こうなったら、話題のパリ・エクスプレス≠明日の西武戦で、思いきって使ってみようということに、コーチと決めたんだ。その期待の新人の肩になにか問題があるのか」素通しの眼鏡の奥で目がきらっと光った。
「菊さんは、どっちかというと投手の持ち味を中心にリードするキャッチャーだったよな」ぽつりと言った。
「そうだが……一体、それがどうしたんだ。ミッシェルとどう関係がある?」
「俺は、菊さんが、打者中心にリードするキャッチャーだったということを、十九年ぶりに知ったよ。しかも、打者に有利なリードをするね」
白いぶよぶよした巨体がいきなり立ち上がった。「ミッシェルのことだと言うから、わざわざ来たのに……わけのわからんこと言い出して、お前……」
本多はゆっくり懐から拳銃を出した。
「な、なんだ。気でも狂ったか?」
「菊さん、座ってくれよ」
菊地の怒った肩から、にわかに力が抜けた。
「俺はあんたを疑ったことは、一度もなかった。俺は、あんたの強気のリードが好きだった。だから、俺はほとんどあんたの言う通り投げた。それが……」
菊地はそっぽを向いたまま黙っていた。右手が、つき出た腹のあたりを神経質そうになで回していた。
本多は、陽司から聞いたことを話した。菊地は一言も口をはさまなかった。
「……弁解はせんよ」話を聞き終わった菊地がつぶやくように言った。「俺は、入団当時から、暴力団とつきあいがあった。行く先々で、酒と女を振る舞われ、いい気になっているうちに、抜き差しならない関係になっていた。野球|賭博《とばく》が、関西を中心に本格的に行われるようになってからは、意識的に暴力団とのつきあいは避け、藤塚のために、八百長話に乗りそうな選手の私生活なんかを、奴に教えてやっていたんだ。そして、ピッチャーの配球もな。抜いたカーブなど面白いように外野スタンドまで運ばれたよ。藤塚は、相手方の打者にこちらの配球を教える時、絶対、俺の名前は出さなかった。ピッチャーを買収してある。俺を長く八百長に使うためには、奴はそう言っていたんだ。俺が八百長をしていると知っていたのは、お前と一緒に永久追放になったうちのバッターふたりだけだった。お前の言っていた通り、俺は奴等の面倒を見るという約束で、お前の名前を出させたんだ……」
「今どうしてるんだ、あいつ等?」
「ひとりは二年前に死んだ。もうひとりは、九州で、大きな旅行代理店を経営しているよ。俺の出してやった資金でな」
「野球|賭博《とばく》は、成功率が低いって、もっぱらの噂《うわさ》だったのに、何でそんなもんに……」本多は吐き捨てるように言った。
「勝敗だけを賭《か》けているんだったら、成功率は低い。だが、現実にはもっと細かく賭けていたんだ。例えば、或《あ》るバッターの最終打席にヒットが出るかどうか、とかいった具合にな。でも、まあ、お前の言う通り、わりに合う商売じゃなかったよ。馬鹿なことだと承知していたが、どうしようもなかった。ヤクザに骨の髄まで犯されていてはな……」
「何故《なぜ》、美也子を巻き込んだ?」
「……お前には悪いが、美也子は、お前との生活に半年もたたないうちにあきてしまったんだ。あの時、俺も結婚には反対したろ?」菊地がちらっと本多を見た。「美也子はいい女だが、魔物だよ……。お前がひとりで、自主トレやっている間に、俺は美也子と会うようになった。そして、あの事件が起こった。自分を助けるために、お前を犠牲にしようとしていた俺は、美也子に俺の計画を教えた。彼女、まったく反対しなかったぜ」
「週刊誌にすっぱ抜かれたポーカーゲームの借金の話までデッチ上げだったのか?」
「いや、あれは本当だ。だが、あの借金は、実は、その前に俺が精算してやっていたんだ。ただ、まだ精算していないってことにしておいてくれ、と俺は美也子に頼んだ。そうすれば、お前を……。いまさら言っても、どうしようもないが、すまないと思ってる」
「何故《なぜ》、俺を選んだ……?」思わず愚痴《ぐち》が出そうになった。
「さあ、何故だったんだろうな……」菊地は眼鏡の蔓《つる》をさわって、天井を見上げた。
「お前は、素質にめぐまれたピッチャーだった。そして、俺はホームランを量産できるバッターで、しかもリードのうまいキャッチャーだった。しかし、俺は、持ち上げられていい気になり、私生活はずたずた。ところが、お前は、野球|一途《いちず》の堅物。俺はお前を眩《まぶ》しく感じ、どこかで嫉妬《しつと》していたのかもしれんな……」
「昨晩、俺を轢《ひ》き殺そうとしたのは、嫉妬したからではあるまい」語気が荒くなった。
「い、いや……そ、それは」
「あんただってことはわかってる」本多は、銃を持った手をのばした。
「待ってくれ! 本多、お、俺は……」菊地は長く大きな腕を拡げてのけぞった。
「みっともないセリフは吐くな!」
「ミッシェルのことを、か、考えろ。お前が……」頭が小刻みに震えていた。ふやけた頬肉《ほおにく》が、ブルブル動いた。
「あんたに投げる、最後のストレートだよ」
引き金を弾いた。三発。ゆっくりと菊地の躰《からだ》に撃ちこんだ。菊地は、痙攣《けいれん》を起こしたように、弾を打ちこまれる度《たび》に躰を動かした。そして、テーブルの上に頭を投げ出した。
本多は拳銃をかまえたまま、しばし動けなかった……。
隣の家の窓が開く音が聞こえた。必要なものだけをバッグに詰める。
電話がなった。ソニア。
ソニアはただならぬ気配を感じたらしい。何かあったの? 不安げな声が訊《き》いた。
「菊地を殺《や》った」
そう言って、電話を切った。
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雨のドーム球場
新宿、西武線近くのカプセル・ホテルに一泊した。
ソニア。昨晩、電話で、ことの次第を伝えると、すぐに会いたいと言った。強く断った。本多の犯行は、じきに発覚するだろう。『ボニー&クライド』。冗談じゃない。あいつらふたりとも、最後はあの世に行っちまったじゃないか!
午前十時にチェックアウトした本多は、朝刊を買い、駅でぱらぱらとめくった。菊地のことはひとことも出ていなかった。まだ、死体は発見されてないのだろうか?
ミッシェルに電話を入れた。
「……さっき電話したんだよ。俺《おれ》、今日、一軍で先発するんだ。もちろん、来てくれるだろう」声が上ずっていた。
「必ず行く」
「チケット用意しておくよ」
「……いや、自分で買う」
「どうしてだい?」
「ともかく、必ずお前のピッチングは見に行く」
「バッターの癖ぜんぜん、わからないけど、気にしなくていいよね。キャッチャーの言う通り投げてればいいって言われたんだけど、やっぱ不安でさ」
「…………」
キャッチャーの言う通り投げる。本多は一瞬絶句した。
「ヨヨ、聞いてるのかい」
「……ああ、聞いてるさ。投手は個人競技だと思ってろって言ったろ。気に食わないサインには首をふっていいんだ」
バッターの弱点がわからない新人投手に対するアドバイスではない。だが、どうしても、本多はそう言いたかった。
デパートで服と帽子を買い、トイレで着替えた。サングラスも替えた。
一時少し前、東日本ドームの切符売場で、内野S席のチケットを二枚買い、ソニアに電話を入れた。
「……今どこ?」
「東日本ドーム球場の近くの喫茶店だ」
「ニュース聞いた?」
「いや……」
「菊地の死体、発見されたわ。気をつけて、ヨヨ、あなた指名手配されてるのよ」
「ソニア、君のことは何か言ってたか?」
「私の行方も追っているらしいわ」
「大きなホテルに移れ。今から適当なところを俺が予約するから。かえって大きなホテルの方が君の場合は目立たなくてすむだろう。ホテルに入ったら、俺が行くまで一歩も外に出るな。ミッシェルの試合を見に行きたいだろうが、あきらめてくれ」
「それはいいけど、ヨヨ、あなたはどうする気?」
「…………」
「止《や》めて。危険すぎる。あなたとミッシェルの関係は公《おおやけ》になってるのよ。球場のゲートを警察が見張ってるにきまってるでしょう。お願い、私と逃げましょう。どうなるかわからないけど……と、ともかく、球場に近づかないで。今だって、すでに刑事がいるかもしれないのよ」涙声。
本多はあたりに視線を移した。昼休みが終わったばかり、店内は閑散としていた。
「なんとか、入りこむ手立てを考える。心配するなって言っても無理だろうが……すまん、ソニア。ミッシェルのデビュー戦……俺はどうしても、この目で見たいんだ」
だまりこくっていたソニアが、急に笑い出した。「止めても無駄ね」
「ああ」
「じゃ、行くといいわ。私、球場には行かないけど、近くで待つ。そのまま、一緒に消えましょう」
「止せ。ここに来るのは。危険だと自分で言っていたろ」
「女は、どうにでも化けられるし、警察は球場の出入り口を固めているのよ。その周辺はかえって、ホテルになんかいるより安全よ。ホテルは取らなくていい。私、美容院に行ったりして暇をつぶすから。球場の入口に、ガラス張りの喫茶店があったわね。私、あそこであなたを、ずっと待ってる。祈りながらね。だから、絶対来て。絶対に……」かすれた声が、静かに言った。
「わかった。何があっても行くよ」明るく自信たっぷりの声で答え、受話器を置いた。
菊地に、中を案内してもらった時のことを、懸命に思い出そうとした。
地下にある営業車の出入り口の場所も、一階から地下に下りるドアの場所も記憶にある。
問題は、いかにして入るかだ。
開門までは私服がゲートを見張っていることはないだろう。本多は、意を決してスーパー・バルーン≠ノ近づいた。
関係者の入口と選手の送迎バス入口には、警備員がいるから侵入するのは不可能だ。
ゴミ運搬車が止まっている営業車用のゲートは二十六番ゲートの下にあった。手すりによりかかり、ゲートに目を凝《こ》らした。
と、その時、後ろを通った男達の会話が聞こえた。
「早く来てよかったよ」
「そうだな、今日の見学は二時の入場のやつで終わりなんだってさ」
「しかし、何故《なぜ》、今日だけ早く終わるんだ?」
「夜、ゲームがある日は早めに終わりなんだってさ」
時計を見た。
あと十五分で、最終の見学ツアーが始まる。見学者にまじって中に入る。一番、安全な方法だ。
本多はインフォメーション・オフィスに急いだ。
係員に指示されたゲートの前には、すでに二十名ほどの人間がたむろしていた。
二時三分。ドアが開き、見学者は中に通された。スカイブルーのユニフォームを着、同じ色のベレーを被った女が案内役。
まず二階スタンドに上がり、説明を聞く。
「……照明ですが、内野は三千二百ルックス。バッテリー間はそれより三百ルックス明るく三千五百ルックス……」
グラウンドでは、東日本エクスポーズの選手達が練習を行っていた。本多は背番号46を探したが、見つけることができなかった。おそらく、地下に設けられたブルペンにいるに違いない。
一階スタンドに下りるとすぐに本多は、トイレに入り、見学者達から離れた。
地下に通じているドアは六番ゲートのところだった。ドアには鍵《かぎ》はかかっていなかった。
地下に下りた本多は、トイレに入った。三時十分。開門は四時半。用心して五時までトイレの中でじっとしていた……。
一階に出ると、緊張が走った。刑事を見分ける勘。十八年のヤクザ生活で自然と身についた。だが、用心するにこしたことはない。うろうろしているのは危険だ。
本多は、上段の通路で、係員にチケットを見せ、すぐにスタンドに入った。
席は、その通路から数えて二十席ほど下がったところだった。
ミッシェルを探した。46番の背番号が確かに目に入った。ミッシェルが、しきりにスタンドを気にしているのが、よくわかった。
気がかりなことがひとつあった。
報道陣に予告してあるとはいえ、監督が、ミッシェルの育ての親に殺されたのだ。監督代理は急遽《きゆうきよ》、先発を変えてしまうかもしれない。
場内アナウンスが、バッテリーを発表する段になった。本多は目をつぶり、寺井の名前が球場に響きわたることを祈った。
「ピッチャーは寺井。背番号46……」
スタンドからどよめきが起こった。
西武の先発は、東尾。本多が球界を追われた年に入団してきた選手である。
隣の客がスポーツ紙を読んでいた。発売されたばかりのものらしい。本多は、顔をそむけながらも、横目で活字を追った。
『菊地(東日本)撃ち殺される』
馬鹿デカイ見出し。
犯人は、パリ・エクスプレス≠フ育ての親、本多(元東京レックス)。
寺井、複雑な心境を胸にいだき、今夜、デビュー予定
本多はグラウンドに目をやった。軽く肩ならしをやっているミッシェル。時々、スタンドに顔を向けた。
エクスポーズが守備に散った。いよいよプレイ・ボール。
石毛が右バッター・ボックスに入った。
ミッシェルが振りかぶった。投げた。外角に大きく外れた。ボール。スピードがスコアーボードに出た。百四十二キロ。二球目もボール。
投げ急いでいる。そんな感じがした。
三球目は内角にきまった。百五十一キロ。スタンドからどよめきが起こった。
その調子だ。四球目、ファール。石毛の振りもよかった。だが、それ以上にミッシェルの球に威力があった。
ツー・エンド・ツー。
これまでの四球。すべてストレート。
五球目を投げた。真中高めのストレート。バットが回った。おそらく、振らなければボール。だが、速い球だ。打者はつい手が出てしまったのだろう。
二番の平野が左バッターボックスに入った。
いきなり、一球目をセーフティ・バント。三塁前に転がった。三塁手は球の行方を見た。キレるか? キレなかった。
三塁手が、ミッシェルに何かひとこと言った。
セットポジション。ミッシェルの背中が本多の方に向いた。顎《あご》を引いた。平野のリードはかなり大きい。牽制《けんせい》。平野は手から帰った。
一球目を投げた。内角、ボール。バークレオは、腕だけ前にのばして、腰を引いた。
二球目も内角。高めに大きく外れた。三球目を投げる前。二度牽制した。三球目も内角。見逃しのストライク。百五十キロの快速球。次の球は、外角に抜いたカーブ。ボール。きわどかった。キャッチャーが審判にクレームをつけた。
五球目。ランナーが走った。外角低めのストレート。ファースト・ゴロ。ダブル・プレーはできなかった。
本多はふーっと息を抜いた。
スコアリング・ポジションにランナーを置いて四番、清原を迎えた。
西武ファンの応援の声が一段と高まった。
一球目を思い切り、振った。空振り。エクスポーズ・ファンから拍手とヤジが飛んだ。
二球目のカーブに清原は泳いだ。セカンド・ゴロ。
チェンジになった。ミッシェルは堂々とベンチに引き上げてきた。
本多は深呼吸をした。そして、上段の通路と、報道陣の席の横に設けられた警察官席に鋭い目を走らせた。
変わった動きはなさそうだ。だが、表には警官がうようよしているに違いない。
ソニアのことが気になった。無事に待ち合わせ場所に行き着き、俺を待っているのだろうか……。
あっと言う間に、エクスポーズはツーアウトになった。
東尾のピッチング。入団当時のような速球は見られないが、実にうまかった。
エクスポーズは三者凡退。二回表になった。
先頭バッターの秋山を、フォアボールで一塁に出したが、安部、伊東を連続三振に打ち取り、田辺を当たりそこねのピッチャー・ゴロにしとめた。
三回。初めての三者凡退。三振はひとつ、辻から奪った。
マウンドを下りる際、帽子を取って軽く額の汗をぬぐった。
四月のはじめ、ブローニュの森で人殺し≠ニ呼ばれながら、投げていたミッシェルをふと思い出した。あの時は、フォアボールを連発した後で、額の汗をぬぐっていたのに。
たんたんと試合は八回まで進んだ。ミッシェルは、七回までヒット二本、フォアボール二個、三振八個という素晴《すば》らしいピッチングで西武を零《ゼロ》に押さえていた。キレのいいストレートが低めにきまり、そのせいで、要所要所で投げてくるカーブも生きていた。
しかし、東尾の方も素晴らしかった。ヒット二本、フォアボール一個、エクスポーズはここまで、二塁を踏めずにいた。
八回表の先頭打者は八番の田辺。一球目のストレートを打った。ショート・ゴロ。ショートがグラブの土手に当て、はじいた。エラー。六回、七回、走者を出せなかった西武が、にわかに活気づいた。
九番、辻を迎えた。二球目のカーブをライト前へ。
ノーアウト一、二塁。
石毛はおそらく送ってくる。ミッシェル、焦《あせ》るな。
三球目をバント。一塁の方向に飛んだ。球足は早かった。猛烈にダッシュしてきた一塁手。取って三塁に投げた。間一髪、セーフ。フィルダース・チョイスでノーアウト満塁になった。
エクスポーズのピッチングコーチが出てきて、内野手がマウンドに集まった。
西武の応援が熱を帯びてきた。
本多は気が気ではなかった。三振を取れ。ここは三振しかないんだ。掌がびっしょりと濡《ぬ》れていた。
コーチがベンチに戻り、試合が再開された。
バッターは平野。スクイズ。考えられないこともない。一球目。内角にストレートがきまった。平野はカーブを予想していたような見逃し方だった。二球目はボール。三球目のカーブを打った。ライナーで一塁の方に飛んで行った。わずかにファール……。
本多は帽子を取り、髪をかき上げた。喉《のど》が渇ききっていた。
セットポジション。二塁ランナーに目をやった。四球目。ふりかぶった。投げた。バットが回った。外角低めのストレート。百五十三キロあった。
ワン・アウトを取った。続くバッターは三番、バークレオ。
内角低め。きわどいところ。判定はボール。二球目は内角高め。バットが回った。三球目、カーブがきまった。ツー・エンド・ワン。次は大きく外角にカーブが外れた。
ツー・スリーにはできない。勝負球。一球目と同じ内角低めのストレート。見逃した。審判が大きなジェスチャーでストライクを宣した。
エクスポーズのファンから歓声が上がった。下の通路の前にいた女ふたりが「ミッシェル!!」と叫んだ。
観客が爆笑。ミッシェル。女のファンができてもおかしくない。本多の頬《ほお》もゆるんだ。
しかし、そのゆるんだ頬がにわかに緊張した。私服らしい男と制服警官が下の通路の脇《わき》に立って話し合っていたのだ。あたりを見回した。上段の通路には警官の姿はなかった。
下の通路の警官達がじっくりと客の顔を見ながら、階段を上がり始めた。
八回に入っても本多がゲートに現れない。警察は念のために、球場の中を調べる気になったらしい。
四番、清原がバッターボックスに入った。
本多は立ち上がり、階段を上り始めた。
ミッシェルのピッチング。少なくともこのピンチの場面だけでも応援してやりたい。
得意なストレートで押せ。ビビるな!
グラウンドに背を向けたまま、本多はゆっくりと上段の通路にむかった。
通路に出ると、スコアーボードに目をやった。ワンボール。
マウンドの上のミッシェル。庇《ひさし》に手をやり投球の構えに入った。投げた。高めに球がういた。ツーボール。
ホクロだ。ホクロを思い出すんだ。
あたりを見回す。制服警官がふたり、こちらにむかって歩いてくる。
視線があった。
「本多!!」ひとりがそう言って走り出した。
逃げる。
私服らしい男が二十三番の出入り口に立っていた。本多に気づき、追ってきた。
「止まれ! 本多」背中で声がした。
サングラスを捨てて走った。
スタンドから歓声が聞こえた。ミッシェルのことが頭をよぎった。
二十四番の出入口。懐から拳銃《けんじゆう》を抜いた。係員達が逃げまどった。私服らしい男が回転ドアの前に立ちふさがった。
撃った。男は腹を押さえてその場に倒れた。
回転ドアを開ける。気圧の違いのせいか耳がなった。
階段に向かって走る。小雨がぱらついていた。
「とまれ、本多! 逃げられん」またもや背中に警官の声。
振り返る。警官に向かって撃った。一発。乾いた音が濃紺の空に響いた。女の悲鳴が聞こえ、通行人達が四散した。
階段の手前で一瞬、立ち止まった。
階段の下の広場。パトカーが三台と装甲車が一台止まっていたのだ。
サーチライトが本多を照らした。
円形のドームの左右から警官が走りよって来る。
「本多! もう逃げられん。おとなしく銃を捨てなさい!」
躊躇《とまど》っている暇はない。迫ってきた私服を狙ってまた撃った。と同時に、他の銃声が轟《とどろ》いた。本多の背中に激しい衝撃が走った。
目が回った。階段を数段転げ落ちた。中央の手すりを支えにして立ち上がった。
足音が迫ってくる。
EAST JAPAN DOME
オレンジ色のネオンが雨に煙っていた。
三振に取れ! ストレートで勝負だ!
つぶやいた。そして、そのまま広場まで転げ落ちた。
「ヨヨ!!」
声の方向に目を向けた。髪を短く切った女が男ふたりに抱きかかえられていた。
「ソニア……」
目の前に男物の靴が現れた。顔が合った。
小坂井刑事。
小坂井は黙ってしゃがみ、本多を見て微笑《ほほえ》んだ。そして、ポケットからトランジスタラジオを取り出した。
本多は右手をぎこちなくのばして、トランジスターを受け取った。
耳に当て、静かに目をつぶった。
「……清原のカウントはツー・スリー。しかし、よくネバリますね」
「新人投手になめられてたまるか、という気持ちがあるんでしょうね」
「ツーアウト満塁……。寺井、セットポジション。三塁ランナーを見ました。ふりかぶって、投げた。またファール! ボールは一塁側のスタンドに飛びこみました」
「清原、完全に振り遅れてますね。今のなどバットに当てるのがやっとという感じですね」
「いやあ……これだけ速くてキレのあるピッチャーは、ここしばらく出ていないんじゃありませんか」
「全盛の時の小松を思い出しますが、彼の球より寺井の球の方が重い感じがしますね」
「寺井、キャッチャーのサインを見ました。なかなかサインがきまらない。寺井、首を横にふり、プレイトを外しました。驚きました! デビュー戦で先輩キャッチャーのサインに首をふる。ちょっと見たことないんじゃありませんか?」
「私らの新人の頃には考えられなかったことですよ」
「さて、しきり直し。寺井、ランナーを見て、投げた。空振り! 三振! 外角の低めのストレート。スピードは百五十四キロ!! パリ・エクスプレス℃O者連続三振でノーアウト満塁のピンチを押さえきりました……」
本多の頬を冷たい雨が濡らしている。小坂井は本多の手からラジオを抜き取った。
腕がぐったりと、ネオンを映す水たまりに投げだされた。
本多がどこまで放送を聞いていたのか。誰にもわからなかった……。
[#改ページ]
あとがき
この小説は、日本のプロ野球界を追放され、パリの暗黒街で生きる男と、パリのアマチュア・クラブでプレイしているピッチャーの物語である。
フランスでも、少しずつ野球が注目されつつある。そんな記事を、日本の新聞で読んだ時、パリの草野球界に、類《たぐ》いまれな素質を持つ選手がいたら、と思ったのが、この小説を書くきっかけとなった。
パリ在住の元新聞記者の友人に、向こうの状況を取材してもらった。その話を元に、架空の設定をおりまぜ書き上げた。
友人は、パリ十区にある或《あ》るアマチュア・クラブのオーナーに会って、いろいろ話を聞いてくれた。オーナーは、日本の野球にとても詳しく、取材中、ちょうど日本で行われていた西武・巨人の日本シリーズについて、逆に彼に質問を浴びせたそうである。
むこうには、三つのリーグがあり、日曜日ごとに試合をやっているらしいが、実力のほうはまだまだとのこと。しかし、いつかは本書の剛速球投手のようなピッチャーがフランスに出現するかもしれない……。
物語の主人公は元ピッチャーで、少年のコーチをすることになっているが、シロウトの僕には、主人公にコーチをさせる能力など皆無《かいむ》。そこで、野球理論書だけではなく、テレビやラジオの解説者の解説を聞き、参考にさせていただいた。
なお、この物語では、パ・リーグに八球団あるという設定になっており、西武ライオンズの主力バッターには、わが剛速球投手のために、三振と凡打を繰り返していただいた。この借りは、作者がスタンドに応援に行くことでお返ししたい。
参考文献としては、村上豊『科学する野球』(ベースボール・マガジン社)を主体とし、新しい現金輸送システムについては、『LE POINT』(1988.2.1)"Transports de fonds: lavalise pi " を参考にした。
昭和六十三年七月
[#地付き]藤 田 宜 永
角川文庫『ダブル・スチール』昭和63年8月25日初版発行