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藤沢周平
麦屋町昼下がり
目 次
麦屋町昼下がり
三ノ丸広場下城どき
山姥橋夜五ツ
榎屋敷宵の春月
[#改ページ]
麦屋町昼下《むぎやまちひるさ》がり
草刈甚左衛門の屋敷を出ると、やわらかい月の光が片桐敬助をつつんだ。来るときには気づかなかったから、月は多分草刈家にいる間にのぼったに違いない。
振りむいてたしかめると、辰巳《たつみ》の空にやや赤味を帯びた月がうかんでいるのが見えた。満月に近い月は、まだ寒かったひと月前には人にも物にももっと荒涼とした光を投げかけていたのだが、いまはためらうような光を地上に落としているだけだった。季節が移ったのである。
そのために月が形づくる物と影の境界はぼんやりと入りみだれて、道のところどころにある家や大きな木立の影は、行手に立ちはだかる物の怪《け》のようにも見える。道にはほかに歩いている者の姿は一人も見えず、そして夜気は深夜にもかかわらずかすかに潤んでいた。
──おそくなったな。
母がさぞ心配しているだろうと、敬助は思った。もっとも甚左衛門の呼び出しもおそく、敬助の家に使いが来たのは五ツ(午後八時)をよほど回ったころだったろう。草刈甚左衛門は御蔵奉行で、敬助の上司である。
なにか、お城で粗相があったのではないかと、戸口まで送って出た母が言った。敬助の母は小心な女で、わずかなことをひどく気に病むたちである。夜も更けてからの上司の呼び出しをさっそく気にしたことはあきらかだったが、事実は母親の心配とは逆に、甚左衛門が用意していた話は敬助の縁談だった。片桐の家にとっては吉報に類することだったのである。
ただし縁談の相手には少少問題があった。甚左衛門が挙げた相手は寺崎吉兵衛の三女満江。身分がちがい過ぎた。寺崎吉兵衛は家禄百二十石で御書院目付を勤めているのに対し、片桐敬助は三十五石取りの御蔵役人にすぎない。とても身分が釣合いませんと、敬助はその場でことわった。
だが甚左衛門は、敬助がそう言うことをあらかじめ予想していたらしく、ことわりを聞いても少しも動じなかった。
「気持はわかるが、身分のことは気にせんでくれと吉兵衛が言っておる。要は人物だと申した」
甚左衛門は、敬助に微笑をむけた。
「つまり、ナニだ。吉兵衛はそなたの不伝流を高く買っているのだ。去年の秋の試合もちゃんと見ていて、娘をぜひああいう男の嫁にと思っていたと申す」
「………」
「だから、わしが片桐の嫁をさがしていると言い出したところ、むこうから身を乗り出して話に乗って来てこちらがびっくりしたほどだ」
秋の試合というのは、藩主が在国する年の菊の節句に、家中からえらばれた剣士五人が、二ノ丸の試合場に藩主をむかえて総あたりの試合をごらんにいれる、古くからのしきたりを指している。去年の試合で、敬助は無敗の成績をおさめた。
甚左衛門はそのことを言っているのだが、去年の試合には、これまで敬助が一度も勝っていない弓削《ゆげ》新次郎がいなかったのである。面はゆい気分で、敬助はそのことを口にした。
「しかし去年は、弓削どのが江戸詰に変って姿を見せず、そのためにそれがしが勝ちを拾ったにすぎません」
「そんなことは吉兵衛だってわかっておるのではないか」
甚左衛門は、敬助が指摘したことにはさほど興味を示さず、無造作な口調でそう言った。
「寺崎でも、べつに藩中随一の遣い手をもとめているわけではなかろう。一、二を争う、それで十分だろうて」
甚左衛門はつづいて、縁談の相手の満江という娘のことをしきりにほめそやし、また現職の中老河村権四郎の血縁につながる寺崎と縁を結ぶことは、片桐の家にとって行末わるかろうはずはないぞと、ごく功利的な意見もつけ加えた。
最後に甚左衛門は、そなたの母親は気の小さい女子だからこの縁談にはおどろくにちがいない、気長に説得してみろと家の中まで見透したようなことを言って、ようやく敬助を解放したのだった。
──さすがに……。
お頭はよくご存じだと、敬助は甚左衛門の言葉を思い出して苦笑を誘われている。
敬助の母ははやく夫に死別し、敬助と妹の二人の子供を抱えて、小心翼翼と片桐の家を守って来た女だった。三年前に敬助が亡父の跡を襲って、御蔵役人に召し出されてからはさすがに熄《や》んだが、その以前の母はなにかといえば上司である草刈家に駆けこんでは埒《らち》もない訴えごとをし、甚左衛門とその妻をひとかたならず悩ませていたのである。そういう母なので、寺崎家との縁談というものも、喜ぶよりさきに身分違いを思って動顛《どうてん》し、しりごみするのは間違いあるまいと敬助はみている。
そして身分違いの縁談は、なにも母親を持ち出すまでもなく、また草刈甚左衛門の説得にもかかわらず、敬助の心にもはっきりとうっとうしい影を落としていた。むろん母にも一応は話してみるつもりだが、この縁談は……。
──とても、まとまるまい。
と、敬助は半ばあきらめていた。かりに寺崎の娘を嫁にもらったとすると、何かで親族が寄りあつまるなどというときには、多分百石以上の歴歴の中にただ一人三十五石の御蔵役人が立ちまじるということになるだろう。これは考えるだけで気分が滅入《めい》る。
しかしそう思う一方で、敬助はさっきから気持がかすかに上ずるのを感じていた。落ちつきなく上ずるだけでなく、その気持の底のあたりには、気をゆるめればすぐにも外にはじけて出そうな喜びが隠れているようでもある。敬助に嫁をもらわなければ、と母が言い出してからはじめての縁談だった。敬助の気持を浮き立たせているのは、縁談が持つはなやぎというものかも知れなかった。
満江というのはどんな娘か、と思ってみる。甚左衛門は、色白で気性は活発なほうだと言ったが、その言葉は満江という娘を理解するのに、ほとんど何の役にも立っていないのを感じる。寺崎家の三女満江は、神秘的なほのぐらい光につつまれて、黙って立っている。その人は、先先の話の行方はともあれ、敬助の人生にはじめてかかわり合った女性だった。
敬助はため息を洩らした。落ちつきなく上ずる気分と、なぜともなくやるせないような気分が、かわるがわる身体をつつんで来る感覚をもてあましていた。それも、いくらかはぼんやりと潤む月の光のせいだったかも知れない。
不意に前方に人が争うような声を聞いて、敬助は顔を上げた。すると、この深夜の道を人が走って来るのが見えた。人は二人で、前を走るのは女で後から追って来るのは男である。男は手に光る物を握っていた。抜身の刀を持っている、と見て敬助は反射的に刀の鯉口を切った。そして自分も前に走った。
「お助けくださいまし」
と女が叫んだ。女の眼が吊上がっている。まだ若い女だった。
走り寄って来た女をとっさに背にかばうと、敬助は追って来る男の前に立ちふさがった。追って来たのは半白の髪をした男である。白い寝巻を着ていた。しかし髪こそ白髪がまじるものの、首は太く手足には夜目にも鍛えた筋肉が見える大柄の男だった。
「じゃまするな」
駆け寄りながら、男は怒号した。そして理不尽にもいきなり斬りかかって来た。とめる間もわけもただす間もなく、敬助は無言で刀を抜き合わせると斬りむすんだ。
刀をはね返されると、男は怒りの声をあげた。だが意外に敏捷に体勢を立て直すと、ふたたび踏みこんで来た。その太刀さばきが鋭くて、敬助はその刀を受けることもかわすことも出来ないのを感じた。腰を据えて前に踏みこむと、男を斬った。
かわせば、おそらくうしろの女が斬られただろう。そして受ければ敬助自身が手傷を負ったにちがいない。それほどに、男の太刀は鋭く勢いはげしかったのである。そのことをさとったとき、敬助の身体にひそむ剣士の本能が歯をむき出したようだった。
男は不自然に身をよじり、敬助に顔をむけたまましばらく立っていた。しかし突然にぎっていた刀を落とすと、つぎに木が倒れるように仰向けにどさりと倒れた。
その物音が、敬助を現実に引きもどした。驚愕して男のそばに駆け寄った。男を抱き起こして声をかけた。
「もし、いかがされた。しっかりなされい」
身体をゆすったが、男はひとことも口をきかなかった。不意に身体を顫《ふる》わせて大量の血を吐くと、そのまま動かなくなった。
敬助の一撃は、男の右腋の下から入って肋骨を断ち、肩の下まで斬り割っている。致命傷だった。それは斬ったときにわかっていたようでもある。敬助は抱き上げた男の上体を、そっと地面におろした。そして、立ち上がって女を見た。
女は土塀の陰からこちらを見ていた。敬助が立ち上がっても、無言で立っていた。
「この方は?」
敬助が聞くと、女が低い声で答えた。父です、と言ったように聞こえた。
「父?」
「舅《しゆうと》です」
「ははあ。で、このお方のお名前は?」
敬助の言葉はわれ知らず丁寧になった。寝巻姿の男を、この附近の住人と見たからである。敬助は草刈家がある与力町から隣り合う伊予町に入り、河岸の道に出ようとしていた。伊予町は上士屋敷がならぶ町である。
──どうやら……。
身分違いの男を斬ってしまったらしい、と敬助はさとっている。厄介なことになりそうだった。
そう思ったとき、失礼しましたと言ってようやく女が土塀の陰から出て来た。齢《とし》は二十半ばだろうか。卵型の顔をした、夜目にもうつくしい女性だった。だが女は、死人には近寄ろうとはしなかった。
「ただいまはお助けいただいて、お礼の申しようもありませぬ」
「いや、そんなことは……」
と敬助は言った。
「それよりお名前を……」
「弓削伝八郎です」
「………」
「申しおくれましたが、私は弓削新次郎の家内です」
突然に、はげしい狼狽《ろうばい》に襲われた。そして、その狼狽には恐怖が入りまじっていた。弓削家は三百石の上士である。まさに身分違いの人間を、死に至らしめてしまったのである。いま自分が、著しく不利な立場に落とされたのを、敬助は認めざるを得ない。
しかし恐怖はそれだけではなかった。より深い恐怖は、斬った男が、あろうことか弓削新次郎の父親だったことから来ている。
弓削新次郎は天才的な剣士であるだけでなく、常人とはやや異る性癖《せいへき》の持主だった。時おり強い偏執的な性向を露わにし、さまざまな奇行で知られた男でもある。そういう男が、理由は何であれ父親を殺した人間を黙って見過ごすとは思えなかった。
かすかに、片桐敬助は身顫いした。もし弓削が報復を仕かけて来たら、弓削に勝つことは千にひとつものぞめまい。重くるしく沈む心をはげまし、今夜のような事件に遭遇したことを呪いながら、敬助はいそいで弓削の妻にたずねた。
「お父上は、刀を持ってあなたさまを追いかけて来られましたな。わけは何ですか」
「………」
「それがしはこれから、大目付に今夜の次第をとどけ出なければなりません。ひととおりのわけをおうかがいしたい」
「口には出せぬおはずかしいことですが、あなたさまのお立場もありましょうから、申し上げます」
「………」
「父は今夜、私に舅にあるまじき無体を言いかけられたのです。私が拒んだのでお怒りになり、あのようなことになりました」
今度は敬助が沈黙した。舅の弓削伝八郎に醜行《しゆうこう》があったと、妻女は言っているのである。敬助は気持の片隅に、ほんのわずかに光がさしこむのを感じた。新次郎の妻女が言ったことが、弓削伝八郎を斬ったことを正当化するのに、いくらか役立つような気がしたのである。
そのこともふくめて、今夜あったことの一切を、つつみ隠さずに大目付にとどけて出ることが重要だった。その結果、もし敬助がとった行動が認められれば、藩があるいは敬助を弓削新次郎から保護してくれるかも知れないのである。敬助は名前と身分を名乗った。
「あとで、あなたさまにも大目付からおたずねがあるかも知れません」
と敬助は言った。
「そのときは、今夜あったことを飾りなく申し立てていただきたいのです」
「そういたします」
「では、お父上をお屋敷まではこびます」
すると弓削の妻女が、その必要はありませんと言った。見ると、二人の男が喘《あえ》ぎながらこちらに走って来るところだった。
「わが家の奉公人です。どうぞ、あとはお引きとりくださいませ」
と妻女は言ったが、その声は敬助の耳になぜかひややかに聞こえた。
与力町の草刈家に引き返したときには、片桐敬助はようやく落ちつきを取りもどしていた。寝ていた甚左衛門を起こして、たったいま伊予町であったことの詳細を話した。
甚左衛門は、一言もはさまずに敬助の言うことを聞いていたが、話が終るとひと声うなった。
「ちと、厄介なことになるかも知れんな」
「大目付は信じてくれるでしょうか」
「そこが問題だて」
そう言うと甚左衛門は、妻女を呼んで外出の支度を命じた。敬助はおどろいて、一人で大丈夫だとことわったが、甚左衛門はきかなかった。
「犬井はもう寝ておるだろうし、それにわしが附き添えば、多少は先方も心証をよくするかも知れん」
二人は同道して、南濠端にある大目付の屋敷に行った。そして、甚左衛門がもう寝たろうと言った大目付の犬井助之丞は、まだ起きていて、二人はすぐに奥の部屋に通された。
部屋に入ると、そこは事務部屋らしく机がならんでいて、おそい時刻にもかかわらず大目付のほかに三十前後の男が二人いて、書類をつくっていた。
「これはこれは、まだお仕事か」
草刈甚左衛門が言うと、大目付はいそがしい仕事があって夜なべをしておると言った。
「こちらは徒目付《かちめつけ》の平賀と山内だ」
大目付は二人を引き合わせ、平賀と山内が甚左衛門に目礼するのを見てから言った。
「内密の話だろうな」
「まあ、そうだ」
「何なら、この二人をはずすが……」
「いや、それはかまわん」
甚左衛門は言って、米蔵勤めの片桐だと敬助を紹介した。すると大目付は、片桐なら知っておると言った。
「去年の秋の試合を見た」
「それはつごうがいい。じつは……」
甚左衛門はずばりと言った。
「今夜、片桐が伊予町の弓削の隠居を斬ってしまったのだ」
書類をつくっていた二人の徒目付は、驚愕した顔を敬助にむけ、大目付は面長で青白い顔を曇らせた。
家中には大ザル又兵衛、小ザル助作という言い方がある。大ザル又兵衛は前任の大目付土橋又兵衛のことで、小ザル助作はいまの大目付を指している。助作は大目付が家督を継いで助之丞となる前の通称である。
土橋又兵衛は豪放な性格で、巨悪の摘発を恐れなかった。かつて城下の富商から多額の賄賂を取って、特産|青苧《あおそ》の領外一手専売を許していた家老二名、中老一名を一夜のうちに摘発して城下を震駭《しんがい》させた事件はその一例だが、又兵衛は小さな事件の処理となると奇妙に手抜かりが多く、また不熱心でもあった。大事な証拠を簡単に見のがしたり、時には平気で不公平な判断を示したりする。この器は、巨悪を掬《すく》うには適しているが、小事を扱わせると水洩れがひどすぎるというので、土橋又兵衛は大ザル又兵衛の綽名《あだな》を得た。
現職の犬井助之丞が、はたして小ザル(笊)の呼称にふさわしいのかどうかは、助之丞がまだ大物の悪を扱ったことがないので何とも言えないところだが、前任者にくらべて犬井が格段に小心な人物であることは間違いないことだろう。
うわさは、犬井助之丞は事件を持ちこまれるたびに動顛して顔色を失う、などと言う。まさかそれほどではないにしろ、助之丞の仕事ぶりが小心翼翼、石橋を叩いてわたる趣きがあることはたしかだった。ただしそのかわり、犬井の調べは細部をおろそかにせずきわめて厳正で、家中の信頼を得ているという評判も聞く。土橋にくらべると器は小さいが、目はよくつまっていて万にひとつの遺漏もないといった意味で、犬井は小ザル助作と呼ばれていた。
「今夜のいつだ?」
と小心な大目付が言った。
「たったいまだ。片桐は今夜用があってわしの家に来ておってな。その帰り道の出来事だ」
「様子だと、隠居は絶命したのだな」
「絶命したと申しておる。委細は片桐に話させる」
「ちょっと待て」
大目付は平賀という徒目付をそばに呼び、小声で何か言いつけた。そしていそぎ足に部屋を出て行く平賀を呼びとめると、傷口をよく改めろと念を押した。平賀を弓削の屋敷にやって、死体を検分させるのだろう。
平賀が出て行くと、大目付は残った山内にむかって、机をこっちに寄せて、これから片桐が言うことを書きとめろと命じた。それだけの準備をしてから、大目付は敬助にむかい、一度白い頬をぴくりと顫わせてから、さあ、わけを話せと言った。
「ありのままを話せ。作為をまじえてはならんぞ」
「はい」
敬助は伊予町の路上であったことを、大目付に言われたように、余分な解釈を一切はさまず、ありのままに話した。月あかり、走って来る舅と嫁、斬りかかって来た弓削伝八郎、深い傷と路に流れ出た血。
話し終ると、大目付は敬助を見たまま深いため息をひとつついた。それから背をのばして、二、三たしかめたいことがあると言った。
「もし、そなたが弓削の隠居を斬らなかったら、どうなっていたと思うな?」
「はい。おそらくそれがしか、弓削どのの嫁女か、どちらかが斬られたと思います」
「その嫁女だが……」
大目付はつづけた。
「なんで追われたか、わけを話したか」
「はい、そのことはそれがしが後で聞きただしました」
「どう申した」
「いささかはばかりあることですが、聞いたままに申し上げます」
敬助は山内をちらと見た。山内は筆をにぎったまま、無表情に紙に眼を落としている。
「舅に、無体なことを言いかけられ、ことわったことからあのさわぎになったと言っておられました」
大目付は沈黙した。しばらくして大目付は甚左衛門と顔を見合わせ、うなずくようなしぐさをしてから、また敬助に視線をもどしたが、眼つきがいくらか鋭くなった。
「弓削の嫁女とは、以前に会ったことがあるか」
「いえ」
「顔を合わせたのは、すると今夜がはじめてだな」
「そうです」
「隠居の方はどうだ」
「やはり、はじめてです」
「偽りは申していないな」
「決して」
ふむ、と大目付はうなずいた。大目付はいったん腕組みをして眼をつぶったが、その眼をひらくとまた二度ほど、ふむとうなってうなずいた。そしてまだ聞くことはあるが、今夜はこのくらいでよかろうと言った。
「事は重大だが……」
大目付は、今度は顔を甚左衛門にむけて言った。
「事実は簡明。片桐に落度はなさそうだ。上の方にいきり立つ者が出そうだから無傷というわけにはいかんだろうが、処分は出来るだけ形だけにとどめたいものだ。ま、あまり心配せぬがよろしかろう」
「よしなに頼み入る」
「問題は弓削の倅《せがれ》だな」
大目付はまた、片頬をぴくりと動かした。
「なにせ聞こえた奇人。片桐に対しても、何を仕かけるか知れたものではない」
「そっちの方も、何とか配慮を煩わしたいものだ」
「と言っても、まさか片桐の家に番士を立てるわけにも行くまい」
大目付は首をかしげたが、すぐに何か策を考えてみようと言った。
「弓削の家ではまず密葬、倅の帰国を待って本葬ということになるだろうな」
「当然、そうなるだろう」
「すると早飛脚に五日、帰国の日数がざっと十日……」
大目付は指を繰ったが、ふと顔を上げて敬助を見た。
「去年の秋の五人抜きは見事なものだったが、もし片桐が弓削新次郎と立合ったらどういうことになるかな」
「とても、お話になりません」
「なに?」
「それがしの歯が立つ相手ではありません。これまで二度立合い、二度とも完膚《かんぷ》なきまでやられました」
「謙遜ではないのか」
「いえ、事実を申し上げております」
大目付はほうと言った。困惑したような眼で敬助を見た。
数日後、自宅で謹慎を命ぜられていた敬助は、大目付の呼び出しを受け、遠縁の田代郡平につき添われて草刈甚左衛門の屋敷に行った。そこで甚左衛門と徒目付立合いの上で、大目付犬井助之丞から閉門五十日の処分を言い渡された。
敬助が自分の部屋で書物を読んでいると、妹の奈津が来てあにさまと言った。奈津の声はかすかな緊張がふくまれている。
「何だ」
「門のところに人が来ています」
「また、外をのぞいたな」
と敬助は言った。奈津は気性の明るい十五の娘だが、思いがけない閉門沙汰のために、友だちとの通いも禁じられて家に閉じこもっているのが堪えがたく思われるのか、時どき雨戸を細めにあけて外をのぞいている。
むやみに外をのぞいてはならんぞ、と叱ってから敬助は聞いた。
「男か女か」
「若い男の方です」
「ほっておけ」
と敬助は言った。
「閉門の家がめずらしくてのぞいているのだろう」
「でも、さっきから半刻(一時間)近くも立ったままですよ」
「なに?」
敬助は書見台から、妹の方に向き直った。
「どんな男だ」
「痩せて、背が高い方。お齢はあにさまより三つ四つ上だと思いますけど」
敬助は背筋につめたいものが走るのを感じた。やはり来たかと思った。奈津の言う男は、弓削新次郎に相違なかったからである。
どれ、と言って敬助は立ち上がった。部屋を横切って雨戸のある廊下に出た。閉門の暮らしに入ってから二十日ほど経って、新次郎の帰国が順調だったとすれば、弓削家の葬儀はもう終ったころである。あるいは新次郎は、帰国を前にして父を死に至らしめたおれに会いに来たのかも知れない、と敬助は思った。
廊下に出ると、奈津があにさま、ここと言った。雨戸にわずかな隙間があり、そこからまぶしいほどの白い光が家の中に入りこんでいる。敬助は隙間に眼をあてた。
門といっても、敬助の家にかぎらずこのあたりの家家は、冠木《かぶき》もない二本の門柱が立つだけで、その横はすべて生垣である。藩では閉門の沙汰を下したその日のうちに、その柱だけの門を斜め十文字に組んで青竹で塞いだ。雨戸の隙間から、そのあたりがよく見えた。
雨戸をしめて、わずかに障子戸のある場所からさしこむ乏しい光で暮らしていると、外はいつも曇り日のように思いなされるが、いま見る外は上天気だった。門や生垣には、眼もくらむほどに明るい日射しが照りわたっている。
門わきの木槿《むくげ》の生垣は、わずか見ぬ間にかがやく若葉に覆われ、多分それとは見えぬほどの風が渡るのだろう。その若葉が不意にさわぎ立って一斉に日をはじくのも見えた。そして門を塞いでいる青竹のむこうに、男が一人立っていた。
長身で、高い顴骨《かんこつ》が目立つ痩せた顔の男。青竹のむこうから、首をさしのべるようにして屋敷のあちこちをのぞき見ているのは、まぎれもなく弓削新次郎だった。
弓削は、城下で直心流《じきしんりゆう》を指南する益子新左衛門の道場で、いまも筆頭の剣士である。敬助も不伝流の野口道場で俊才をうたわれているといっても、道場の格がちがう。益子道場は、門弟二百人と言われる城下第一の道場である。弓削は剣士の中の剣士だった。その男がいま、嘗《な》めるような眼で、敬助の家を隅隅まで眺めていた。
じっとりと、敬助は手に汗をかいた。と、弓削は正面から敬助を見た。青白い顔がぴたりと自分にむけられ、その眼が隙間からのぞく自分の眼をまともにとらえたのを、敬助は感じた。敬助は眼をそらすことも身動きすることも出来なくなっている。
弓削がにやりと笑った。そして弓削は、あっけなく背をむけて去った。
吐息をついて敬助が雨戸からはなれると、奈津がかわりに隙間に眼を寄せた。もう、行ったと敬助は言った。
「しかし、あれが弓削新次郎だ。町で出会ったりしたときは、用心しろ」
と敬助が言ったのは、弓削の偏執的な性癖を考えたからである。父を失った弓削は、いずれ江戸詰を免ぜられて国勤めに変るだろう。そのころにもし、町で奈津に出会い、奈津が片桐家の人間だと知ったら何を仕かけて来るか知れたものではないという気がちらとしたのだった。
台所で、母が夜食の菜をきざんでいる物音がする。その音にちょっと耳をかたむけてから、敬助は言った。
「いまのことは、母上には言うな。余分な心配をかけてはいかん」
敬助は部屋にもどると、手拭いを取って首のまわりの汗をぬぐった。おどろくほどの汗が出て、襟が湿っていた。強い緊張を強いられたのだ。
──竹組みがなければ……。
弓削は屋敷の内に入って来たかも知れないな、と敬助は思った。
藩が設けた竹囲いは、その家の人間から外に出る自由を奪う意味を持つと同時に、それがある間は、外から人が入りこむことも禁止しているのである。すると自然に、今度のことではやはり、大目付の犬井助之丞に保護されたのだという考えがうかんで来た。
五十日の閉門を言い渡したあとで、大目付はただし家の者が夜分、喰い物をもとめに外に出るのは咎めないとつけ加えた。それは上司の草刈甚左衛門の解釈によると、閉門より一段軽い逼塞《ひつそく》の処分に相当する扱いなのである。
偶発事とはいえ、下士が上士を斬殺した今度の事件については、上士の間に強い反感がある。敬助に落度はないが、上士の反感をなだめるために、処分は重く扱いは軽くしたのではないかと甚左衛門は言ったが、大目付はどうやら今日のようなことがあるのを予期し、弓削が敬助に接触して新たな揉めごとを起こすのを防いだのだという気が強くした。
──ただ……。
大目付のその配慮は、弓削が亡父の葬儀を終えて、ひとまず江戸にもどるまでのことだと敬助は思った。いずれ江戸詰を解かれるだろう弓削新次郎が、国元にもどって以後のことは、大目付のあずかり知るところでないのはあきらかだった。
閉門が解けてはじめて出仕した日、敬助は城外にある御米蔵に行く前に、城にのぼって草刈甚左衛門に会い、改めて復職の挨拶をした。
「ま、これで一段落だな。しっかりと勤めにはげめ」
甚左衛門は、いかにも上司らしい月並な激励の言葉を口にしたが、不意に声を落とすと、じつはそなたが家に籠っている間に、耳に入って来たことがあると言った。
「弓削新次郎が、しきりにそなたの家がある小池町のあたりを徘徊《はいかい》していたというのだ」
「それは事実です」
と敬助は言った。門前に立っていた弓削の禍禍《まがまが》しい姿を思い出している。
「弓削どのは、わが家の門前に現われました」
「門前に?」
甚左衛門は驚愕の眼を敬助にむけた。
「すると、やはりそなたに意趣を含んでおるのかな」
「あるいは、そうとも考えられます」
「厄介な男だ」
と甚左衛門は言った。
「弓削はどうやら、この秋か来春には国元にもどされるらしい。そのあとが心配だて」
「どうぞ、ご懸念なく」
と敬助は言った。まだ何の対策もないが、そこまで上司や大目付の配慮をあてにするつもりはなかった。
「このたびはお奉行にも犬井さまにも、ひとかたならぬご配慮を頂きましたが、この後のことはそれがし、降りかかる火の粉はわが手で払います。これ以上のご迷惑はおかけ出来ません」
「そうか」
甚左衛門は沈痛な顔でうなずいたが、どこかほっとした気配が見えるのも否めなかった。
「しかし、どうしても困ったというときは相談をかけろ。出来るだけのことはするぞ」
「ありがとうこざいます」
頭をさげて、敬助は御蔵奉行の詰所を出ようとした。すると甚左衛門が、そうそう、まだ話すことがあったと言って、敬助を引きとめた。
「例の寺崎の娘のことだ」
「………」
「先方から人が来て、あの話はこの際なかったことにしてくれと言って来た」
敬助は一瞬眼の前の甚左衛門の顔が、大きくゆがんで揺れたような気がした。が、つぎには恥辱感で顔がほてって来た。わけは何でしょうかと、敬助は聞いた。
「それがしが上士である弓削どののご隠居を斬ったので、そちらに憚《はばか》りありということですか。それとも……」
「寺崎では、やはり……」
甚左衛門は言いにくそうに、言葉をえらんでいる。
「いずれ、そなたと弓削の倅の間にだ。つまりひと悶着《もんちやく》あるにちがいないとにらんでおるのだ。そのへんが不安で、縁談をすすめるわけにはいかぬということだろう」
要するに弓削新次郎との斬り合いになれば、片桐敬助に分はないと踏んだわけだ、と敬助は思った。あまりの立ち回りのはやさに、不快な気持はぬぐえなかったが、しかし寺崎の気持もわからぬわけではないという気もした。
空は朝から曇ったままで、茂り合う青葉の下はうす暗いほどだった。敬助が五十日の閉門を喰らっている間に、かがやく四月の空と光は遠くに去ってしまい、頭上にひろがるいまにも降り出しそうな陰鬱な空には、はやくも梅雨の気配が現われている。
敬助は若松町の裏通りをいそぎ足に歩いて、やがて野口道場の、少しかたむいている古びた冠木門をくぐった。道場に顔を出すと、少年たちに稽古をつけていた師匠の野口源蔵が敬助を見つけて、母屋《おもや》で待っておれ、すぐに後から行くと言った。
敬助が道場に上がると、おめき叫んで竹刀《しない》を打ち合っていた若者たちが、手をとめてつぎつぎに敬助に挨拶した。中には、稽古をつけてもらえませんかと声をかけて来た者もいた。敬助は軽く手を上げて応《こた》え、稽古をつけてくれと言った者には、後でなと言い捨てて道場を通り抜けた。
野口道場では、敬助は若者たちの畏敬の的になっている。たまの非番に道場に来ると、彼らは争って敬助の稽古をもとめようとした。いまも彼らの熱っぽい気持は十分に伝わって来たが、敬助は稽古の相手どころではなかった。わが身の心配に重く気持を塞がれていた。
母屋の師匠の居間に通って待っていると、間もなく野口源蔵が帰って来た。師匠に会うのは暮の道場の竹刀納めの会以来で、そのときにくらべて野口はさらに髪に白髪がふえ、また一段と腹がせり出ていた。
野口は大声で台所の母親を呼び、お茶をくださいと言った。野口源蔵は市中の日雀《ひがら》町に妾を置いているが、表向きは独身で、子供もいなかった。そして家のことは、六十半ばを過ぎた老母がすべて取りしきっていた。
白髪の老母がはこんで来たお茶をすすってから、野口は話は聞いていた、大変だったなと言った。弓削の隠居の一件と、閉門のことを言っているのである。
「藩の処分を受けて、それで終りかと思ったら、そうはいかんらしいな」
と野口が言った。
「何か、お耳に入りましたか」
「弓削新次郎が、そなたを親の仇とねらうのではないかといううわさがもっぱらだ」
「師匠はどう思われますか」
「藩では、そなたには落度なしとしたそうじゃないか。ただ手傷を負わせたのではなく、一命を奪ったのがやり過ぎというので、閉門になったと聞いた。そうか?」
「それに下士が上士を斬り捨てたのは憚りあり、という理由もくっついています」
「かと言って、こっちが斬られるわけにもいかんじゃないか」
そうだろ、と言って野口は酒をのむように、ぐいとお茶をのんだ。
「それに、伝え聞くところでは隠居が嫁に懸想《けそう》して、あのさわぎになったともいうし、そなたが弓削の倅に恨まれる筋合いは何もない」
「………」
「かと言って、だから弓削新次郎がそなたを恨まぬとは言えんところが厄介だて」
「そうです。やはり応分の備えをして、むこうの出方をみるしかないと思います」
「それが賢明だろう」
野口源蔵は言ったが、そのまま顔をしかめて考えこんだ、そしてぽつりと言った。
「今日の用件は、それだな」
「はい。何か良策はないでしょうか」
「そう言われると、わしもくるしい」
と野口源蔵は言った。
「剣のことでそなたに伝えるべきことはすべて伝えた。何も残っておらん。無力な師匠と思うかも知らんが、これ以上わしに手伝えることはあまりない」
「………」
「はっきり言えば弓削の剣才は天賦《てんぷ》のものだ。そなたの才は努力の末に花咲いたものだ。そこが壁だ。その壁をやぶる工夫は、残念ながらわしにはない」
「………」
「ともかく、木村を相手にしばらく荒稽古をしてみるか」
野口は、師範代を勤めている高弟の名前を挙げた。
「技を磨くといってもたかが知れているかも知れんが、さればといって何もやらんわけにもいくまい。その気があれば木村に話しておこう」
「ほかに、策はないというお考えでしょうか」
「たとえば上にねがって、弓削と入れちがいに江戸に行くという手ならあろう」
「まさか」
敬助はにが笑いした。
「一生逃げ回るわけにはいきません」
「わしは、笑いごととは思わんがな」
野口は重苦しい表情でそう言ったが、しばらく沈黙したあとでちょっと待てと言った。野口はうつむいたまま指先で額を叩き、そうか、あれがいるかとひとりごとを言った。
つぎに顔を上げたとき、野口の表情はわずかにあかるくなっていた。
「大塚七十郎の名前を聞いたことがあるか」
「いえ、どなたでしょうか」
「わが父、つまり先代の高弟で、先代のときに野口道場を破門された男だ。これも弓削同様、一種の天才でな。腕はわしより上だった」
「………」
「しかし破門されて性格も歪んだか、その後酒に溺れてな。一時は代官を勤めたものの、酒で職務をしくじって蝋漆見届役に左遷され、さらに普請組に移されて、家禄もいつの間にか百石からたしか三十石ほどに減ってしまったはずだ。そういう男だ」
「………」
「さて、当の七十郎だが、むかし秘剣を編んだと称して師匠である先代に試合を挑んだのだ。そして長い試合の末に先代を破ったのだが、その剣は不伝流とは似ても似つかぬものだったので破門されたのだ」
「………」
「あまりすすめたくはないが、この際だ。その男のところに行って見るか。何かの役に立つかも知れん」
「行きます。その方は、いまどこに?」
「普請組がかたまっている長持町にいる。行くなら添状を書いてやろう」
「おねがいします」
「ひょっとしたら、むかしの剣をおぼえておらんかも知れぬが、ま、だめでもともとだ。あまりあてにせずに、様子を見に行ったらよい」
糸のように細くかすかなのぞみを抱いて、敬助は野口道場を出た。すると門をはなれて間もなく、前方からあきらかに上士と思われる、身なりのりっぱな武士が二人歩いて来るのが見えた。
細い裏道である。敬助はこういう場合にとるべき下士の作法にならって、横にならんで来る二人を通すために道ぎわに寄った。そして通りすぎる二人に軽く黙礼を送った。
すると行きすぎた二人がくるりと振りむいて、敬助を見た。片方の男が言った。
「片桐だな」
「はい」
「弓削が帰国するまでに、稽古にはげむことにしたか」
言いながらその男は、敬助とそこから見える野口道場を見くらべるようにした。もう一人の男は無言で、嘲《あざけ》るようにうす笑いで敬助を見ている。
二人とも三十過ぎの武士だったが、いまの言葉で敬助は、二人が益子道場出の人間らしいのをさとった。男の言い方には、かすかな敵意がある。
敬助が黙って見返していると、男はさらにつづけた。
「賢明だが、少少の稽古では弓削に歯が立つまい。せいぜい励むことだ」
男はわざわざそれを言うために立ちどまったのであった。身をひるがえして去って行く二人をしばらく見送ってから、敬助も歩き出した。
時刻はまだ七ツ(午後四時)前だろうと思われるのに、頭上の雲はいよいよ厚味を増して町は日暮れのようにうす暗くなっていた。
──師匠が言った……。
弓削が報復するのではないかといううわさは、もはや家中の間に行きわたっているらしいな、と敬助は思った。
すると、大塚七十郎をたずねろと言った師匠の言葉も、大塚という酒毒に冒された男におれを押しつけて、体よく責任をのがれようとしたのではないかと思われて来て、敬助はにわかに心細くなった。誰もあてに出来ない孤独感につつまれながら、敬助はうす暗い道をいそぎ足に歩いた。
その夜、夜食を済ませてから、敬助は長持町の大塚七十郎をたずねるために家を出た。天気は、はたして夕刻から雨になって、持っている傘に、さして強くはないが切れ目のない雨の音がした。
途中で敬助は、潜り戸だけ閉め残して商いをしている酒屋に入り、酒を一升買った。道場を出るときに、師匠が七十郎に酒を買って行けと言ったからである。
長持町は城下のはずれにあって、軽輩の家や足軽長屋がならぶ町である。灯のいろもとぼしく暗い町で、敬助は提灯《ちようちん》を持っているものの、大塚の家をさがしあてるまでに何度か泥濘《ぬかるみ》にはまった。
大塚七十郎は、小柄で痩せた男だった。齢は師匠に似て、およそ四十半ばを過ぎたころかと思われた。ただし大塚は鬢《びん》の毛が真白だった。痩せているなりに、腕には固い筋肉が見え隠れし、顔も赤黒く日焼けしているのは、日ごろ普請場で日に曝《さら》されて働くからだろう。
野口源蔵の添状を読む間も、敬助が夜分訪問の理由を述べる間も、七十郎は時おり鋭い眼で敬助を見るだけで、ひとことも口を利かなかった。そしてその合間に、やはり鋭い眼でちらと床の間の酒徳利を見た。徳利は敬助が持参した酒である。
敬助の話が終っても、七十郎はまだ無言だった。うつむいて痩せた膝をながめ、時おり鎌首をもたげると、ちらと床の間をにらむだけである。何とも言えない気まずい刻《とき》が流れた。
そのとき、卒然と敬助の胸にひらめいたことがある。日焼けと見たのはひが目で、この異常に赤黒い顔は酒焼けではあるまいか。そういう眼で見れば、大塚七十郎の尖った鼻の頭は赤い血管が浮き、あきらかに酒毒に冒された者のそれで、口もとのあたりも、どことなくしまりを欠いているようにも見えた。眼の前にいるのは、ひょっとしたらもはや秘剣などとは縁もゆかりもない、ただの酒飲みなのではあるまいか。
眼の前が暗くなるような失望感に襲われながら、敬助はおそれながらと言った。やけくそになっていた。
「ご酒を召し上がりながらお話しくだされても、それがしはいっこうに構いませんが……」
七十郎はじろりと敬助を見た。そして首をのばすと、ばあさん茶碗をひとつ持って来いと、言った。声は身体に似合わない、太くしわがれた声だった。
さっき玄関に出迎えた、七十郎の妻女と思われる物静かな中年の女性が茶碗を持って来て去ると、七十郎は床の間から徳利をおろした。そして敬助に、貴公も飲むかと聞いたが、それはほんのおざなりの挨拶だったらしく、敬助が辞退すると、あとは見むきもせずに徳利をかたむけて、茶碗になみなみと酒をついだ。
こくりこくりと喉を鳴らしながら、七十郎は息もつかずに二杯の茶碗酒をのみ干した。そしていとおしむように徳利の口をしめると、改めて敬助にむき直った。
「弓削新次郎は、おれに言わせればまだ青二才だ」
突然に七十郎は言った。
「おれにまかせろ。よろしい。貴様に不敗の剣を教えてやろう。わしを頼って来たのは賢明だった」
「よしなに頼み入ります」
半信半疑で、敬助は言った。
「そうか、野口源蔵が長持町に行けと言ったか、当然だ。野口はおれに一度も勝てなかった男だ。野口だけではない。益子新左衛門も、おれが試合を申し入れると固辞して受けなかった。立ち合えば負けて面目を失するとわかっていたからよ」
大塚七十郎の口はなめらかに回って、つぎつぎと誇大な言葉がとび出て来る。敬助は呆然とその顔を見守った。
「弓削なんぞは、おそれるに足らんぞ。おれが面倒みるからには、やつに負けるような剣は教えぬ。勝ちはすでに手の内にありだ」
「………」
「何だ、その顔は信用しとらんな。よし、ではさっそく一手指南してやろうか」
七十郎は身軽に立ち上がった。牛のようにおし黙っていたさっきまでとは、別人のように行動的だった。隣の部屋から黒光りする木刀を二本つかんで来ると、さあ、外へ出ようと言った。
その日御米蔵の鍵を閉めたのは、敬助と同僚の桑原昇作の二人だった。二人は宿直《とのい》部屋の番士に鍵を返し、広い敷地を横切って蔵屋敷の門を出た。蜩《ひぐらし》の声が聞こえて来た。寄せてはまた打ち返す波のようなその声は、城の木立の方から聞こえて来る。
蔵屋敷は長い塀に囲まれて、城の北側にひろがる武家町の中にある。そのために、このあたりは武家町にそぐわない御米蔵町という名前になっていた。中級の家臣が住む御米蔵町には、かたむいた日射しが斜めにさしこんでいるだけで、人の姿は見えなかった。
いつものように、道には白昼の日射しが残して行った暑熱が澱《よど》んでいたが、今日はその空気の中に、わずかに頬をなでるほどの冷気がひそんでいるようにも思われた。季節が秋にむかうしるしかも知れなかった。
二人は城の方にむかって歩いて行った。こちらから見ると、城の建物は三ノ丸の木立に隠れて見えず、その木立も赤らんだ日射しに染まっている。蜩の声は、そのあたりから湧き立つようだった。
「ちょっと、妙なことを耳にしたんだが……」
肩を並べていた桑原が、ちらと敬助を見た。
「何だ」
「弓削家の妻女のことだ」
「………」
敬助は眉をひそめて桑原を見た。桑原は敬助より二つ齢上だが、少し軽率なところのある男である。
また根も葉もないうわさ話を仕入れて来たのではないかと、敬助は幾分たしなめる気分で相手を見たのだが、桑原は敬助の表情には気づかなかったらしく、言葉をつづけた。
「男がいるのではないか、といううわさがある」
「桑原」
敬助はおどろいて忠告した。
「あまり無責任なことは触れ回らん方がいいぞ」
「いや、それがかなり確かな筋から聞いた話なのだ」
けろりとした口調で、桑原は言った。
「名前は言えんが、その男は以前にも一度、やはり麦屋町で弓削の妻女を見かけたことがあると言っておる」
「と、言うと……」
敬助は反問した。
「その人は、今度も麦屋町で妻女に会ったと言ってるのか」
「そのとおりだ。見かけたのは夜分だ。おかしいとは思わんか」
と桑原は言った。麦屋町は料理茶屋や小料理屋、待合茶屋があつまっている上に、奥に入れば遊廓もある、いわゆる狭斜《きようしや》の町だった。むろん、武家の妻女が夜分気軽に出入りする場所ではない。
「人違いじゃないのか」
「いや」
桑原は首を振った。
「人違いじゃない。その男は弓削の妻女をよく知っている人間で、確かな筋というのはそういう意味だ。頭巾で顔を隠していたが、間違いなくその人だったと言っておる」
「それが事実なら妙な話だ」
敬助は、ただ一度だけ会ったことがある弓削の妻を思い出していた。月明かりにうかんだ顔が、勝気そうな顔立ちながらうつくしかったのをおぼえている。その美貌の持主が、敬助にいまの災厄をもたらしたのである。
あの人が、夫の弓削新次郎の江戸詰をさいわいに、何者かと忍び会っているというのだろうか。
「相手の男の見当もついているのか」
「いや、そこまではつかめておらんらしい」
と桑原は言った。
「そのへんは、かなり用心している様子だったそうだ」
「じゃ、確証はないわけだ」
敬助は何となく反感を感じながら言った。
「確証のないことは言わん方がいいな。弓削の妻女は、よんどころない用があって麦屋町に行ったのかも知れんじゃないか」
「………」
「もし仮に話が事実だとしても、そんなことが弓削の耳に入ったらどっちみちただでは済まんぞ。触れ回っている貴公たちもな」
「おいおい、脅かしっこなしだ」
と言ったが、桑原はやっと少ししゃべり過ぎたと気づいた顔いろになった。
「貴公は妻女とかかわりがあったから、ちょっと話したまでだ。まさか方方に触れ回ったりはせん」
「それならいいんだ」
二人は三ノ丸の広場を横切り、大手門にさしかかっていた。広場にはすっかりかたむいてしまった日射しが這い、その中に、三三五五連れ立って下城して行く男たちの姿が動いていた。
「弓削といえば……」
河岸の道に出る平川木戸にむかいながら、桑原が敬助を振りむいた。
「秋に帰るとかいううわさがあったが、帰国は来春にのびたそうじゃないか」
「ああ、そうらしいな」
そのことは、今朝米蔵に見回りに来た草刈甚左衛門に耳打ちされたばかりである。敬助はうわさのひろがるのがはやいのにおどろいた。
「ひとまずほっとしたというところだな」
「まあ、そうだな」
敬助はあたりさわりなくそう言ったが、事あれかしと待ちかまえているような桑原の口ぶりが不愉快だった。しかし、弓削が帰国すれば敬助との間にひと悶着あるだろうというのは既定のことのように言われていて、いまさら桑原を咎め立てしても仕方がないとわかっていた。
平川木戸の前の橋を渡ったところで、敬助は桑原と別れ、若松町につづく目抜きの商人町である橘町に入った。日暮れの橘町は買物の客で混雑していたが、通りの途中から角をひとつ曲がってつづきの武家町に入ると、町の喧騒は嘘のように消えた。
そこまで来る間に日は落ちてしまったらしく、人影もない道にはたそがれのいろが立ち籠め、生垣越しにうすい蚊遣りのけむりが道に流れ出ているところもあった。弓削の妻女には男がいたらしいという桑原の言葉が、敬助の胸にもどって来た。それは少なからず胸に閊《つか》えて来る言葉だった。
──もし、それが事実なら……。
あの夜の事件は、がらりと形が変ってしまう心配がある、と敬助は思っている。
舅が無体なことを仕かけたという妻女の言葉を鵜呑みに信じたが、もしもあれが、桑原の言う不義に気づいた舅が、嫁を詰問している間に逆上して刀を抜いた姿だったとしたら、これまで敬助をささえていた正義はたちまち掻き消えて、無用のおせっかいからひと一人殺してしまった軽率な行為だけが残ることになろう。
──というような事実が判明したときは……。
少なくとも逃げかくれすることなく、弓削新次郎の挑戦を受けて立つ覚悟が要るだろう、と敬助は思った。重苦しい気持を抱いて、敬助は家にもどった。
台所にいる母に、玄関から帰宅の挨拶をしただけで、敬助はまっすぐ自分の部屋に入った。すると、いつものように行燈《あんどん》に灯が入っていた。敬助が着換えていると、妹の奈津が来て失礼しますと言うと部屋の入口に坐りこんだ。奈津は着換えを手伝うでもなく、そのまま小さく笑いをふくんだような顔で敬助を見上げている。どうやら台所の手伝いを途中にして来た様子だった。
ちら、ちらと敬助は妹を見た。そして、とうとう言った。
「何か用か」
「ええ、用がございます」
奈津は澄ました顔で言った。
「今日はお寺で、思いがけない方に会いました」
奈津は近所の同じ齢ごろの娘たちと誘い合わせて、隣町の照崗寺に茶の湯を習いに行っていた。点前《てまえ》を教えるのは住職の妻で、そこに通いはじめてから一年近くなるだろう。
奈津がお寺と言ったのは、むろん照崗寺のことである。
「誰だか、わかりますか。きっとびっくりしますよ」
「おれにわかるわけがない」
と敬助は言った。実際にそう言われてもさっぱり見当がつかなかったし、それに飯を喰ったらすぐに長持町に行かなければならない。気持がせいていた。
「おまえと遊んでいるひまはない。誰に会ったかはやく言え」
「変な言い方」
奈津はぷっとふくれ顔になったが、すぐに笑顔になった。
「そんな言い方をすると、教えて上げませんから」
「だから言いなさいと言っておる」
「聞かないと、あにさまが損しますよ」
奈津はもったいをつけてから、やっとその名前を口にした。
「寺崎の満江さま」
「………」
「ほら、びっくりしたでしょう」
と奈津は言った。ちょうど着換えを終ったところだったので、敬助は奈津の前に坐って腕を組んだ。平静を装ったが、一瞬胸がさわいだのは否めなかった。
「偶然に会ったのか」
「さあ、どうなのかしら」
奈津は首をかしげ、思いがけなく思慮ありげな表情をみせた。
「ともかく、帰ろうと思ってみんなと一緒に庫裡《くり》を出ると、境内にお供を連れた満江さまがおられて」
「………」
「そして、なぜわかったのかしら。片桐さまの妹御ですねとむこうから声をかけて来て、それから私たち、友だちを待たせたままほんの少しお話ししたんです」
「………」
「どんなお話か、聞きたいですか」
「いちいち念を押さんでもよい。つづけろ」
「まっさきに、縁談をことわったのは満江さまの本意ではなかったと言っていました。お気持とは違うということね。きっと親御さんの一存でことわって来たんですよ」
満江は、そのことを敬助にお詫びしてくれと言った。それから突然に、敬助のことは城に奉公に上がっている親戚の娘から試合の模様などを聞いて、ひそかに尊敬していた。そのことも敬助に伝えてくれと言った。
「それだけか」
「もっとお話ししたい様子でしたけど、ほら、お浜や小好が行儀わるくこっちを見ながら待っていたし……」
奈津は友だちの名前を言った。
「あ、そうそう、最後にご武運をお祈りしていますって。きっと弓削さまのことを聞いて、心配なさっているのですよ」
奈津がそう言ったとき、台所から母が奈津を呼ぶ声がした。返事をして奈津は立ち上がったが、部屋の出口で敬助を振りむいた。
「満江さまって、どんな人だと思いますか」
「………」
「おきれいな方よ。私、あんなおねえさまが欲しいな」
最後に子供っぽい願望を口にして奈津が去ったあとも、敬助はしばらく腕組みをして坐っていた。胸にあたたかいものが残っていた。奈津の話は少少とりとめのないものだったが、それでも満江という人の気持は素直に伝わって来た。思いがけないこともあるものだ、と敬助は思っている。
武運を祈ると言ったのなら、その人は必ず祈ってくれるにちがいない。そう思うと、自分を取りまく四面楚歌といった険しい空気の中から、はじめて熱いはげましの声を聞いたようで、敬助はこのところずっと鬱屈していた気分が、いくらか持ち直すのを感じた。
──よし……。
あきらめずに長持町に通うぞ、と思った。行燈の灯を消したとき、その闇に一瞬、見たこともない満江という人の面影がうかんだのを感じた。見たことがないために、その顔はいくらか弓削の妻女に似ていたようである。
「どれ、その後の調子を見てやろう。支度して来い」
ひさしぶりに道場をのぞいた敬助を見ると、野口源蔵はすぐにそう言った。大塚七十郎のもとに通っている成果を見ようというのである。敬助にも異存がなかった。
敬助は師範代の木村康之進から稽古着と竹刀を借り、道場の隅で着換えた。そして道場の真中で待っている師匠の前に行った。
「こっちはいつものとおりにやるが、それでいいか」
と野口が言った。敬助がけっこうですと言い、二人は礼をかわして竹刀を構えた。すると、それまでまわりで稽古をしていた門弟たちが、言い合わせたように竹刀を引いて壁ぎわにしりぞいた。二人の稽古を見学しようというのである。
敬助は竹刀の先に構えている野口を見た。隙のない構えだった。大塚七十郎は、源蔵は小器用なだけの剣術使いだ、と悪口を言うが、野口の構えにはやはり一派の道場を束ねる男の威厳がある。簡単には打ちこめなかった。
──ただ……。
動きはじめたら隙が出るのを免れまい、と敬助は思っている。野口の身体は、敬助が熱心に稽古に通っていた三、四年前にくらべると、見違えるほどに肥満して、見るからに動きが鈍そうだった。
敬助は自分から動いた。静かに右に足を移した。野口は鋭く敬助を見据えたまま、ゆっくりと身体を回した。はたして、自分から動く気はないようである。
一巡したところで、敬助は軽く竹刀を合わせ、今度はすばやくうしろにさがった。野口の動きを誘ったのだが、野口はさからわずについて来た。だが、はやい動きを追い切れず、わずかに息を乱したようだった。
敬助は竹刀を上げて踏みこもうとした。しかしその寸前に、殺到して来た野口の竹刀が襲いかかり、避ける間もなく敬助は肩を打たれていた。身をひるがえしてのがれながら敬助は今度は野口の胴を打ったが、その竹刀は強くはじかれ、むき直ると同時にはやい打込みに籠手《こて》を打たれた。
「これまで」
と野口が言った。野口は手を上げて壁ぎわにいる門弟たちに稽古をはじめろと合図し、それから呆然と立っている敬助を、こっちに来いと眼でうながした。
「どうしたんだ、いったい」
武者窓の下まで敬助をひっぱって来ると、野口は声をひそめて言った。顔にはうろたえたような表情がうかんでいる。
「ぐあいでも悪いのか」
「いえ」
「じゃ、どうしたんだ」
「自分でもわかりません」
と敬助は言った。屈辱のためにまだぼんやりしていた。
近ごろの敬助は、師匠の野口と立ち合っても三本勝負なら軽く二本まで制することが出来るようになっていた。野口は去年の秋ごろには、もう片桐にはかなわんな、歳だと嘆いていたのである。さっきの試合のような負け方をしたのは四、五年も前のことなのだ。
「動きが見えんのか」
「いえ、そうでもありませんが」
「じゃ、身体が動かないのだ」
野口は眉をひそめた。
「七十郎のところには通っているんだろうな」
「そうです」
「おかしいな」
野口は首をかしげた。
「うかうかしていると、弓削がもどって来るぞ」
「………」
「つぎの非番のときに、もう一度ためしてみるか。その日は朝から来い」
「はい」
「今日と同じだったら、七十郎に行くのはきっぱりとやめなきゃならん。そのときには木村をいれて、三人で改めて相談しよう」
「ご心配をおかけします」
道場を出ると、師走の寒気が敬助をつつんで来た。八ツ(午後二時)過ぎの低い日が南の空に懸かっていたが、空には風があって、時おり強い風が吹き過ぎると、日の光は裸の木木の枝と一緒にちりちりと顫えるだけで、地上にぬくもりを伝える力はないらしかった。
軒が低い家がつづく裏通りを歩きながら、敬助は腹のあたりから小さな顫えが這い上がって来るのを感じた。寒いだけではなかった。半年余も大塚七十郎に通いつづけたのがまったくの無駄だったばかりでなく、ひょっとしたら不伝流の腕を駄目にするのに役立ったのではないかという、気が滅入るような疑いにとりつかれていた。
そして、その疑いは恐怖をともなっていた。年が変れば、野口が言ったように弓削新次郎の帰国まで日はあっという間に過ぎるに違いなかった。たとえば大塚七十郎に教えを乞うたのが間違いだったとわかったところで、もう手遅れである。野口源蔵がうろたえたのも、そのことをさとったからにほかなるまいと敬助は思った。
敬助を七十郎に引き合わせたのは、野口である。その成果をたしかめるつもりで、野口は今日とんでもないものを見てしまったことになるだろう。うろたえて当然である。
淡い日射しが這う裏通りには子供一人見えず、歩いているのは敬助一人だった。それだけが救いだと思いながら、敬助はこみ上げて来る顫えに堪えながらうつむいて歩きつづけた。行方を見失った心細さを感じていた。
ひとしきり稽古をつけると、大塚七十郎はちょっと待てと言った。敬助を手で制すると、七十郎は大股に縁側に行った。
雨戸を一枚だけ開けてある縁側には、古びた行燈と一升徳利がそろえて置いてある。徳利には、昨日敬助が買って来た酒が残っているはずだった。
「寒くてかなわん」
木刀を置くと、七十郎は庭にいる敬助を振りむいて一応は言いわけした。そして徳利をつかみ上げると仰むけに口をあてがって酒をのんだ。喉の鳴る音が、敬助の立っているところまで聞こえた。
「寒いときは……」
七十郎は敬助を見た。満足そうにげっぷをした。
「これにかぎる」
そう言うと、七十郎はまた徳利を高く持ち上げ、顔を仰むけて口をつけた。んぐ、んぐという喉声が聞こえて来る。
行燈の光にうかび上がる影絵のように黒く痩せた姿を見ているうちに、敬助はひょっとしたら七十郎は、酒ほしさに役にも立たない稽古をつけて来たのではあるまいかという気がして来た。すると腹の中に笑いが動いた。むろんいまの考えがあたっていれば、大層なお笑いぐさだが、無条件におかしいわけではない。笑いには凶暴な怒りがこもっている。
敬助は、七十郎の裃《かみしも》のような肩幅だけはある痩せた背中に声をかけた。
「今日、道場に行って来ました」
「ふむ」
「師匠に稽古をつけてもらいましたが……」
敬助は吐き出すように言った。
「いいようにあしらわれました」
「なに」
七十郎が振りむいた。
「ぽかぽか打たれました。なぜですか」
「………」
七十郎は黙って敬助を見ていたが、徳利を下に置くと、ちょっとこっちへ来いと言った。
敬助が近づいて行くと、一言のことわりもなく七十郎の木刀が襲って来た。木刀は横なぐりに腹に来たが、敬助はふわりとかわした。だが、かわした足が土をつかむ間もなく、七十郎は十分に腰をいれたつぎの一撃を叩きつけて来た。
すさまじい打ち込みだったが、敬助はその木刀を自分の木刀で上げてかちりと払った。体はつぎの動きにそなえて変化していて、受けたときには余裕があった。
七十郎が木刀を引いて、また徳利に手をのばすのを敬助は呆然と見ていた。
「わかったか」
ひと口のんでから、七十郎が言った。
「これがいま、おれが教えている技だ。一にも二にも受ける。それが眼目だ」
「………」
「野口には、こっちから仕かけようとしたろう」
「はい」
「だから打たれたのだ。仕かけるのはまだはやい。いいか」
七十郎は近寄ると、酒くさい息を吐いた。
「弓削に勝ちたかったら、おれを信じろ」
敬助は混乱していた。迷路をさまよっているような気がした。しかし七十郎の打ちこみをかわし、受けた感触ははっきりと身体に残っていた。
「それがしにも、ひと口酒をください」
と敬助は言った。
魚は一匹も釣れなかった。
水量は多く、あたたかい日が野に照りわたり、そして敬助だけでなく、川の上流にはやはり非番の武士らしい男たちが二、三人、釣糸を垂れている姿が見えるから、もう何か釣れるのではないかと思ったのだが、実際には季節はまだ釣にははやいのかも知れなかった。
──それとも……。
辛抱していれば釣れるのかどうか、とも思ったが、結局敬助はあきらめて釣糸を巻いた。敬助にはその辛抱の度合いというものが、まだわからない。その前に倦《あ》きが来るようであった。
しかし、ぜひ魚を釣りたかったわけでもない。家にいてはもったいないようないい天気に誘われて、とりあえず外に出たかっただけで、川べりまで行って魚を釣ってみるかと思ったのは、そのついでに過ぎない。だから釣れなくとも気持は満足していた。
水辺のねこやなぎはすっかり花がほうけてしまい、去年の枯草は残っているものの、川岸の道はあらかた青草に覆われていた。そしてねこやなぎの影に、川波がきらきらと日にかがやきながら動いている。対岸にひろがる田圃のあちこちには、田起こしにかかっている人影が見えて、緩慢に動くその人影のむこう、村がある小丘の麓あたりは白く霞んでいた。
のどかな景色を眺めながら、敬助は川岸の道をもどり、やがて川とわかれて町はずれの職人町に入った。そのあたりは、瓦焼きの職人や舟大工が住む町で、そこを通りすぎるとつぎは寺町だった。
瓦を焼く窯《かま》は焚木に松材と松の葉を使うので、馴れない者は町にただよう煙の黒さにびっくりする。松の脂《やに》がにおう煙と大工小屋からひびいて来る槌音。群れをつくって路地から路地に走り抜ける子供たち。そういう活気に満ちた職人町から寺町に入ると、そこは別天地のように静かだった。
左右に土塀と寺門がいくつか見えるだけの長い道には、午後の明るい光が立ちこめていたが、その光は寺の境内にある丈高い木木の若葉越しに地上に落ちて来るので、全体にやわらかく眼を刺す鋭さはなかった。
はるか前方に、背をむけて歩いて行く男が一人見えたが、そのほかには人影はなく、明るい光の中に時どき小鳥の声がひびくだけだった。ここまで来ると大工の物音も聞こえないなと、敬助は思った。
ゆっくりと歩いて行くと、前方に見える寺門のひとつから人が二人道に出て来た。男と女で、女は若く男は年老いているようである。身なりから女主人とお供かと思われた。
二人は敬助の方をちらりと見た。そのまま数歩、敬助が行く方角に歩きかけたが、二人は不意にまた立ちどまった。敬助を振りむいて何事か話し合ったと思うと、男は先に行き女はそのまま敬助を待ちうける様子である。こちらを見て、じっと立っている。
敬助は胸がさわいだ。
──満江どのではあるまいか。
と思ったのである。満江という人を見たことはないが、ほかに心あたりはなかった。しかし近づくにしたがって、敬助にもそれが思い違いだとわかった。立っている女の着ている物も髪形も、満江という人よりはもっと歳上の人のものらしく思われたからである。そして顔が見えて来た。
「片桐さま、あの節は……」
会釈してそう言ったのは、弓削の妻女である。敬助も立ちどまったが、どう挨拶したらいいのかわからなかった。無言で会釈を返した。
「本来なら命を助けられたのですから、すぐにも改めて御礼にうかがうところでしたが……」
弓削の妻女はうつむいて、声をくもらせた。
「なにせ、事件があのようなものでしたから、おうかがいするのもどうかと」
「わかります」
敬助はいそいで言った。
「そのようなご配慮は不要のことです。おたがいに不幸な出来事でした」
「しかし、そのために片桐さまは閉門のご沙汰を受けられ、とても心苦しゅうございました」
「いや、もう過ぎたことです」
と敬助は言った。
「どうぞ、お気遣いなく」
「でも、一度はお詫びをと思っていましたので、こうして思いがけなくお会い出来てしあわせでした」
「ご丁寧に恐れいります。しかしもうお忘れください」
敬助が言うと、弓削の妻女はもう一度深深と頭をさげ、踵《きびす》を返そうとした。
会釈を返しながら敬助は、この人は家中に、弓削新次郎は帰国次第に片桐敬助に果し合いを挑むだろうといううわさがあるのを知らないのだろうかと思った。そして突然に、いま目の前にかねての疑問を聞きだす絶好の機会がおとずれているのに気づいた。
桑原が言ったように弓削の妻女が不義をはたらいていて、それが原因であの事件が起きたのだとしたら、むろん詫びてもらって当然、事情によっては詫びを聞いたぐらいでは気持がおさまらぬという気もした。お待ちください、と敬助は背をむけかけた弓削の妻女を引きとめた。
「ひとつだけ、お聞きしたいことがあります」
何でしょうかと妻女は言った。弓削の妻女はほんのわずか首を傾けるようにして、微笑をうかべながら敬助を見ている。齢は敬助より上ということはなく、同じほどかあるいはひとつ二つ下かと思われるのに、そういう表情をした妻女の顔には、齢上の女のような余裕が現われていた。
「ちと、申しては憚りある話ですが……」
敬助はちらとお供に眼をやって、声を落とした。お供の老人は、数間先の道ばたにこちらに背をむけて立ち、主人を待っている。
「率直におたずねしますので、お怒りになりませんように」
「どうぞ、なんでもおっしゃってくださいな」
妻女は敬助の固さをほぐすつもりか、いくらか蓮っぱな言い方をした。眼はまだ笑っている。
あなたさまが、麦屋町で一度ならず男と一緒だったのを見たと言う者がいる、と敬助はいきなり言った。
「事実かどうか、おうかがいしたい」
怒るかと思ったら、妻女は怒らなかった。からかうような眼を敬助にむけた。
「もし事実でしたら、どうなさいますか」
「男というのは密会の相手ということですぞ」
敬助は鋭く斬りこんだ。
「そのうわさをお認めになられるなら、それがし、あの夜お舅御を手にかけたことを終生悔いなければなりません」
「まあ、まあ、そのように大げさな……」
と弓削の妻女は言った。妻女の笑いが大きくなった。
「ご安心なさいまし、片桐さま。わたくしは弓削家の嫁ですよ。麦屋町などというところに行くはずがないじゃありませんか。まして男などとは、とんでもない話です」
「すると、うわさは事実無根だとおっしゃるのですか」
「ええ、ええ、もちろん」
妻女は言った。だがそう言ったあとで、妻女の顔が急に赤くなった。すると、妻女の印象が一変した。
頬にやや肉のついた卵型の顔。眼尻が少し吊って勝気そうに見えるものの、色白で品よく見えたその顔に、いきなり生ぐさい精気のようなものが現われて来たのである。赤くなった顔のままで妻女は言った。
「そんな根も葉もないうわさを、片桐さまには信じていただきたくありません」
「失礼しました」
敬助は詫びた。
「お引きとめして、申しわけありませんでした」
「ご納得いただけまして」
「もちろんです」
敬助が言うと、妻女はではこれで、と言って背をむけた。子がないと聞いたことが嘘のような、よく張ったたくましい臀だった。
四、五歩行ったところで、妻女は敬助を振りむいた。顔の笑いは消えている。
「二、三日中に、弓削がもどって来ますよ」
と妻女は言った。
「お気をつけあそばせ」
血のいろももう醒めて、妻女はもとの白い顔にもどっていたが、そう言ったとき妻女の顔に忌まわしいものを見るような表情がうかんだのを、敬助は見のがさなかった。
──真相を衝かれたからだ。
と敬助は確信した。
麦屋町の密会は、思いがけないことに事実だったようである。顔が赤くなったのも、内心の動揺をついに押さえ切れなかったということではなかったのか。そして、そういう秘事に触れて来た男は……。
──弓削に斬られて死ねばいいとでも念じたかな。
と敬助は思いながら、上士の家の若妻にしてはたくましすぎる臀が遠ざかるのを見送った。
五日後の夕刻。敬助は御米蔵の鍵を宿直の番士に返すと、蔵屋敷の門を出た。一人だった。門を出て城の方に歩きかけた敬助は、不意に全速力で前に走った。五間ほど走って振りむくと門のそばの塀に寄りかかっていた男が、ゆっくりと塀から身体をはなした。弓削新次郎だった。
弓削は軽く片手を上げると、敬助の方に歩いて来た。相変らず血色のわるい痩せた顔をして、唇だけが赤かった。長身をゆらゆらとゆするような、物憂げな様子で歩いて来る。
敬助はすばやく刀の鯉口を斬ると、足をひらき手を垂らして弓削が近づくのを待った。心ノ臓ははげしく鳴っていたが、自分が思ったよりも落ちついているのを感じた。大塚七十郎に稽古をうけなかったら、こうは行かなかったろうとちらと思った。
三間ほどまで近づいて、弓削はもう一度片手を上げると立ちどまった。
「誤解してもらっては困るぞ」
と弓削は言った。
「貴公と斬り合う気はない」
「………」
「話を聞きに来ただけだ。その刀は……」
弓削は鯉口を切った敬助の刀を指さした。
「ちょっと、おさめてもらわんとな」
「話というのは何でしょうか」
と敬助は聞いた。まだ警戒を解いてはいなかった。
「おやじが死んだときの様子だよ」
弓削は無造作な口を利いた。
「他人に聞いたってわからん。当人に聞かんとな」
ちょっと、そこで話そう。そう言うと弓削はあっさり背をむけて、蔵屋敷の黒板塀に寄って行った。そうまでされては、敬助も身構えているわけにはいかず、刀を鞘《さや》にもどしてついて行った。
「さあ、話してくれ」
「奥さまに聞かれたのではありませんか」
「よけいなことを言わずに、話せ」
弓削はぴしゃりと言うと、塀に背をもたせかけ、腕組みして眼をつぶった。その弓削から、少し離れて立って、敬助は一年前の事件のことを話し出した。
弓削は黙って聞き、敬助が話しおわるまでひとことも口をはさまなかった。
「これで全部です。それからそれがしは御蔵奉行の家にもどり、同道してもらって大目付の屋敷に出頭したのです」
と敬助は言った。
「言いわけをするようですが、斬らなければ斬られていました。信じていただきたい」
「そりゃあ、信じるさ」
弓削は眼をあいて言った。
「おやじも若いころは直心流をかなり遣った男だ。貴公を疑ったりはせん」
「ありがとうございます」
「すると女房は……」
と弓削新次郎は、それが江戸仕込みというものなのか、敬助が顔を赤くしたほど下世話な言い方をした。
「おやじに犯されそうになったので、外に逃げ出したとそう言ったんだな」
「そうです」
その言いわけは多分嘘だろうと思っているが、敬助は聞かれるままにそう言った。
「もうひとつ聞きたい」
「はい」
「ほかに人はいなかったのか」
「………」
「おやじと女房のほかにだ」
「いえ、いませんでした」
弓削はしばらく黙って地面を見つめていたが、急に勢いよく塀から背をはなすと、や、引きとめてわるかったと言った。そしてそのまま、すたすたとはなれて行った。
安堵感で、敬助はその場に坐りこみたいほどだった。思いがけない成行きである。弓削の骨ばった背に声をかけた。
「弓削さま」
「何だ」
「申しわけありませんでした」
弓削が歯をむき出して笑ったのが見えた。そのまま弓削の姿は、たそがれて来た塀脇の道を遠ざかって行った。
弓削が帰国してから三月ほど経った、七月のある暑い日。御米蔵で昼飯を喰い終った敬助に、城から使いが来た。使いが持って来たのは、すぐに城まで来いという大目付の命令だった。
敬助は使いの足軽と一緒に、地面が焼けている敷地内の広場を横切り、門を出ると城にいそいだ。
案内された城の一室に入ると、そこにいた三人の男が一斉に敬助を見た。大目付と御蔵奉行と、敬助が顔だけは知っている中老の河村権四郎だった。
「もうちょっとこっちへ来い」
大目付の犬井助之丞が、敬助を手で招き、よく聞けと言った。
「弓削新次郎が、昼少し前に妻女と密会の相手を斬り殺した。場所は麦屋町だ」
大目付はそこまで言うと、例によって顔色を曇らせて口をつぐんだ。そしてしばらくして、弓削の妻女の密会の相手は御使番の山谷孫兵衛の倅だと言った。
「弓削はほかに料理茶屋の使用人を一人殺し、逮捕にむかった徒目付二名を斬殺して、そのまま茶屋に立て籠っておる」
「………」
「そこで、こうして急遽月番の執政である河村さまと協議したのだが、河村さまは強行しても弓削をつかまえることは至難だというお考えだ」
「死人をふやすだけだ」
と河村権四郎が言った。その言葉を引き取って大目付は、そこでいそいで城から討手を出すことにした、と言った。
「見込まれたのはそなただ。御中老は弓削に対抗出来るのは、そなた一人だろうと申される。わしも草刈も、いまひとつ納得がいかんのだが、片桐はどう思うな」
「弓削が帰国したら、片桐に果し合いを挑むだろうといううわさがあった」
中老がまた口をはさんだ。
「片桐も家中に知られた剣士。そのうわさを聞けば、必ず相当の用意をしたろうと思っただけだ。違ったか」
「ほかには人がおらん。やってくれるか」
大目付が言うと、ほかの二人は口をつぐんで敬助を見守った。ご命令をください、と敬助は言った。
「勝負の行方はわかりませんが、ご命令にしたがって死力をつくします」
三人はあわただしく額をあつめて協議し、結局河村が月番中老の資格で討手を命ずると言った。
大目付と一緒に麦屋町に着くと、おどろいたことに町の入口は黒山の人だかりだった。弓削新次郎が人を斬って麦屋町の料理茶屋に立て籠っているといううわさは、附近の町に行きわたってしまい、物見高い弥次馬が押し寄せて来ているらしかった。
「町には一切人を入れないでください」
襷《たすき》を借りて袖をしぼりながら、敬助は警固の徒目付に言った。
「この町の人間はどうなっていますか」
「半分ほどは逃げ出して……」
徒目付は足軽の棒に押し返されている弥次馬を指さした。
「あの中にいるようですが、半分は戸をしめて家に籠っているはずです。年寄りも病人もいて、全部逃げ出すわけにもいかんのです」
「けっこうです」
と敬助は言った。
「斬り合いがはじまったら、人が道にとび出さないように、厳重に見張っていただきたい」
「加勢はいりませんか」
「いや、一人の方がやりいい」
と敬助は言った。汗どめの鉢巻をし、水をもらって刀の柄に霧を吹きかけてから、家の陰を出た。
無人の町に、昼下がりの白熱した日射しが照りつけていた。敬助は大通りをすたすたと歩いて角をひとつ曲がり、弓削が立て籠っているという料理茶屋「あけぼの」に近づいた。
すると、門に達する前に足音を聞きつけたのか、道に躍り出た者がいる。手に抜身の刀をにぎった弓削新次郎だった。弓削は袴《はかま》はつけていたが羽織はなく、刀をにぎっている方の袖口を片肌ぬぎにぬいで、半分は白い襦袢《じゆばん》を出していた。
「やっぱり、討手は貴公か」
歯をむき出して、弓削が笑った。
「相場はそんなところかも知れんが、貴公じゃおれに勝てんぞ」
「さあ、どうでしょうか」
と敬助は言った。心ノ臓は喉もとまでせり上がるかと思うほどにはげしく躍りつづけ、手も足も金縛りに遭ったように固く感じられるのに、落ちついた声が出た。
「ためしてみますか」
「もちろん、ためしてやるさ」
と弓削は言った。その姿に眼をそそぎながら、敬助は言ってみた。
「斬り合いをやめて、大目付に出頭して出てはいかがですか。情状は汲んでくれると思いますが……」
「いやなこった」
弓削はにべもなく言った。
「女房たちはともかく、徒目付を斬っている。とても無罪放免とはいかんさ」
「茶屋の使用人も斬ったそうじゃないですか」
「やかましい。おれは癇にさわるやつは誰でも斬る。貴様のおしゃべりも、そろそろ癇にさわって来たぞ、片桐」
弓削は一瞬、白目をむいたような顔をした。
「もう黙れ、片桐」
そう言うと、弓削はすたすたと近づいて来た。総身に寒気が走るのを感じながら、敬助は刀を抜いた。
弓削はそれを見て立ちどまったが、突然に走り出した。春に見たときとは違って、弓削の動きはおどろくほど敏捷だった。あっという間に敬助の眼の前に来た。
左斜め上方から襲って来た弓削の剣を、敬助は寸前にかわした。体を入れ換えて、また斬りかかって来た下段からの剣も、上から押しつけるようにしてはねた。
斬り返されると思ったに違いない。弓削は体をまるめて敬助の横を駆け抜けた。風のように速かった。敬助がむき直ったときには、弓削はもう青眼に構えていた。その構えのむこうから、訝《いぶか》しむような眼が敬助を見ている。敬助が斬りつけなかったのを不審に思っているのだ。
「おれをつかまえようとしても、そうはいかんぞ」
と弓削は言った。
「おれは、斬って斬って斬り死にするんだ」
言い終ると、弓削はまたすべるように走り寄って来た。青眼の剣が走りながら上段に移る。しかも弓削の腰はどっしりと据わり、刀は微動もせず、まるでみがかれた角のように光って弓削と一緒に走って来る。懸河《けんが》の勢いで上段の剣が落ちかかって来たが、敬助はまたかわした。ひと呼吸もおかずに、踏みこんで胴を狙って来た連続技もやすやすとかわした。
──大丈夫だ。
と敬助は思っていた。弓削の太刀筋がよく見え、手足もふだんの動きを取りもどしていた。寸前にかわすことが出来たし、これだけはげしく動きながら、弓削がまだ毛筋ほどの隙もみせていないことも見抜いていた。うかつに斬りかかれば、逆に傷手《いたで》を負うことになろう。
受けろ、勝ちはそのあとに見えて来ると言った七十郎の声が、敬助の頭の中に鳴りひびいた。二人はいつの間にか、麦屋町の大通りに出ていた。
焼けるような日射しが頭の上から照りつけ、敬助も弓削も汗みどろになっていた。頭上の暑さだけでなく、地面も焼けていた。敬助は城を出るときに足袋をもらってはいて来たが、それでも焼けた砂の熱さは足裏を焦がすほどだった。はだしの弓削は堪えがたい思いをしているに違いなかった。
斬りこんで来た弓削の八双の剣が鋭くて、かわし切れずに敬助も剣を上げて打ち合った。その音が人っ子一人見えない町にひびきわたった。
「どうした」
弓削がわめいた。弓削は首を振って、顔の汗を振りはらった。
「なぜ斬って来ないか」
言い終ると弓削は、青眼の構えからすばやく肩を打って来た。敬助はかわした。そのとき、わずかに弓削の身体が横に流れるのが見えた。踏みとどまるべきところでとまれなかったのである。弓削に疲れが出て来たのだ。
もう少しだ、と思った。しかし、敬助も疲れていた。二人はもつれ合うように、大通りからふたたび別の路地に入った。弓削は、そこでまたはげしく攻勢に出て来た。かわすだけで斬り合おうとしない敬助に苛立ったようでもある。はげしく休みのない攻撃をかわし切れず、敬助はついに二の腕を浅く斬られた。
血を見て、弓削の闘争心はさらに燃え上がったのか、敬助を追いつめ追いつめ、すさまじい攻撃をかけて来たが、敬助は不思議に落ちつきを失わず、ついに弓削の攻撃をしのぎ切った。
弓削は敬助の死命を制することに失敗したのをさとったのか、それともはげしい攻勢で疲労しつくしたのか、そのあと急に動きが鈍くなった。
「さあ、来い」
と弓削は言った。弓削の眼は汗で半ばふさがっていた。はだしの足からは血が流れ、着ている物はしぼるほどに汗で濡れていた。
「さあ、来い」
弓削は八双に構えると、よたよたと走ってきた。そして降りおろした剣は、それでも十分に鋭かったが、かわされると急に体勢を崩した。
弓削がはじめて見せた隙だった。敬助も疲れていたが、その隙は見のがさなかった。すばやく踏みこむと弓削の肩を存分に斬った。
弓削の身体が投げ出されるように転ぶのを見てから、敬助もたまらず地面に跪《ひざまず》いて、はげしく喘《あえ》いだ。刀を杖にして喘いでいると、乾き切った喉が笛のような音を立てた。喘ぎが少し静まってから、にじり寄って倒れている弓削の生死をたしかめ、刀の血を拭いた懐紙を弓削の袂に入れて隠しとどめとした。
大通りまで出て、そこで刀を鞘におさめると、敬助は重い足をひきずりながら町の入口にむかった。町はまだ人影ひとつなく、がらんとして明るいままだった。その空虚な光景を、真夏の日が静かに焼きつづけていた。
町の入口が見えて来たとき、敬助はそこに大目付の犬井助之丞がいるのを見た。大目付のそばに若い女が二人いた。一人は妹の奈津だった。うわさを聞いて駆けつけて来たのだろう。もう一人は見たことがない娘だった。細おもての黒眼のうつくしい娘を、しかし敬助はずっとむかしから知っていたような気がした。
──あれが……。
寺崎の満江どのだな、と思った。その娘は、身じろぎもせず敬助を見つめていた。
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三《さん》ノ丸広場下城《まるひろばげじよう》どき
次席家老臼井|内蔵助《くらのすけ》の屋敷は奥深くて、障子をあけはなしても、客間の声が表に洩れることはまずない。
もっとも臼井とその夜の客は、行燈《あんどん》の灯の下に額をあつめるようにして、声もひそめがちに言葉を交していた。客は勘定組に勤める守屋市之進という男である。三十過ぎの、色白でやや軽薄な感じをあたえる男だが、実際にはいわゆる切れ者と呼ばれる種類の人間で、組内では役持ちを勤めている。
「新宮が、たしかにそう言ったのか」
と臼井が言った。声は低いが臼井は市之進の話から衝撃をうけていて、そのことが市之進を見る目の鋭さに現われている。
「そうです」
表情をひきしめて言う市之進を見据えながら、臼井は今度は背をのばして高く腕を組んだ。家老は今年四十二。白地の帷子《かたびら》を涼しげに着こなして、風貌も恰幅《かつぷく》も目立つほどにりっぱな男である。
「気にいらん」
臼井は、目を灯火にうかぶ庭の植込みに逸《そ》らしてつぶやいた。
「三谷から事前に通知があったというのが、気にいらぬところだ」
「さようにござります」
相槌を打った市之進を、臼井はちらと見た。
臼井内蔵助は藩の実力者である。上に首席家老の杉森庄兵衛がいるが、杉森は定期の登城もままならない老人で、執政たちからはお飾り視されていた。臼井はほとんど一手に藩政を牛耳《ぎゆうじ》っていた。ことに藩主重興が病弱で、病床についたまま帰国していないここ数年は、気鋭の家老として藩政を壟断《ろうだん》して来たといってもよい。
もっとも壟断したというのは臼井の意識の内のことで、城下の富商新海屋の資力を導入して領内に養蚕、植樹の産業を興し、新たに河川、道路をひらいて耕地の開発をすすめ、窮乏する家中のために低利融資の道までひらいた臼井の手腕は、他者の目には単純に稀有な政治力と映っているかも知れなかった。
新海屋と結託したことで、いまや藩は返済不可能の借財を背負い、藩から吸い上げる利息で肥えふとった上に、商い上のさまざまな特権を手にいれた新海屋が、その見返りとして年年多額の賄賂を臼井にさし出し、臼井は臼井でその賄賂の一部で市中にひそかに妾を囲っている、などということははなばなしい政治的手腕の陰にかくれて見えないからである。
しかし二年ほど前から、臼井は江戸にいる側用人の三谷甚十郎が、新海屋と藩のつながりの真相に気づいたのではないかと疑うようになった。一昨年、昨年とつづけざまに帰国した三谷が、そのつど新海屋の商売敵で同じく城下の富商である戸倉屋と、人目を避けて密談したと聞いて以来である。
今夜守屋市之進が持って来た報告は、臼井の胸の中にあるひそかなその疑念を大きくふくらますものだった。側用人三谷甚十郎が発する使者が、中老の新宮小左衛門をたずねて来る。使者が携行して来るのは、藩主重興の親書だというのである。知らせを持って来た守屋市之進は、臼井が新宮の身辺に貼りつけておいた諜者だった。
新宮小左衛門は臼井より二つ下の四十歳。二年前に中老にのぼったばかりで、臼井に対抗して藩内に派閥をつくっているというわけではない。しかし新宮家は藩の名門で、黙っていても小左衛門のまわりには人があつまった。
臼井は新宮を、いずれは派閥をつくって強力な政敵に転じかねない人物とにらんでいて、いちはやく腹心の市之進を新宮に近づけておいたのである。その用心深さが、今日の臼井内蔵助を支えていた。守屋市之進が家老の諜者だとは誰も知らない。
「さて、どうするかだ」
臼井は腕組みを解いてあごを撫でた。ちらちらと市之進を見た。
「その親書なるものを、すんなりと新宮にとどけられてはまことにぐあいがわるい。かと申して、途中で奪い取っては殿に対して恐縮至極……」
「奪われてはいかがでしょうか」
と市之進が言った。
「三谷さまを仲介として殿が病床から、ご家老ではなく新宮さまにお手紙を下される。これは密書です。見のがされては、あとが面倒になりましょう」
「奪っても、あとは面倒になる」
と臼井が言った。
「お手紙の中身にもよろうが、まず三谷はわれらの仕業とすぐにも悟るだろうて」
「証拠を残さねば、疑われても切り抜けることは出来ます」
言ってから、市之進はつけ加えた。
「このたびは、奪う危険よりも奪わずに見過される危険の方が大きいかと存じます」
臼井はおどろいて市之進を見た。市之進の言うとおりだった。こちらは脛《すね》に傷持つ身である。密書がその点に触れているのか、そうでないのかをたしかめることが、何ものにもまして優先されるべきだった。
よしんばこちらに不利なことが書いてあっても、読めば何らかの手は打てる。しかし読まねば盲目同然だ。市之進はそのことを指摘しているのである。顔の印象のせいで、この男が切れ者なのをつい忘れてしまうと臼井は思った。
「使いが来るのはいつと申したかの」
「五日後の八月二日。藤掛の関所に着くのは夕刻になるとのことです」
「すると城下に着くのは、およそ四ツ(午後十時)か、四ツ半(午後十一時)か。よし、手配をしよう」
「ひとつ問題があります」
と市之進が言った。
「三谷さまは、藤掛から城下までの道中、使いの者、これは近習組の田口庄蔵という者ですが、この男に護衛をつけるように進言して来たそうです」
「護衛だと……」
臼井は三谷に対する疑念が、一挙にふくれ上がるのを感じた。護衛をつけるというのは、妨害する敵を想定していることにならないか。そして考えられる敵とは、臼井内蔵助のほかに誰がいよう。
よし、そういうつもりなら血を見るのは避けられまい、と臼井は思った。
「厳重な護衛か」
「いえ、それが……」
市之進は、頬にうす笑いをうかべた。
「目立たぬように、腕の立つ男を一人という注文で、じつはそれがし、夕刻に新宮さまに呼ばれてその人選を仰せつかったような次第です」
「ほほう、信用されているのだ」
臼井も笑った。愉快だった。新宮は何も気づかず、主導権はいまのところこちらの手の内にあるようである。
「それなら何とかなろう。あまり強いのはいかんぞ。疑われぬ程度にほどほどのを選んでやれ」
そう言ったとき、家老の頭の中に突然に一人の男が姿がうかんで来た。若いころに、剣で争い女子《おなご》で争い、そのころは与七郎と言っていた臼井に苦汁を嘗めさせたその男は、いまは落ちぶれて御馬役か何かを勤めているはずだった。
十年ほど前に妻を失ったまま後添いももらわず、酒におぼれているその男のうらぶれた背のあたりに、臼井は残忍な嘲《あざけ》りの目をそそぎながら言った。
「その護衛役だが、心あたりはあるのか」
「いえ、何もかもこれからです」
「では、わしが一人推薦しよう」
と家老は言った。
「誂《あつら》えたように、その役目にぴったりの男がいるわ」
「はい」
「粒来重兵衛を知っておるか」
「はて」
「知らんだろうな。若いころは近習組に勤めた男だが、失態があって左遷され、いまは御馬役にいるはずだ。齢はわしと同じだ」
「ははあ」
「しかし重兵衛は知る人ぞ知る無外流の名手でな。名前をいえば、新宮も膝を打つはずだ」
しかし重兵衛の剣名を聞かなくなってからおよそ十年。その上本人は、初音町のこおろぎ小路あたりに出没してずっと酒びたりなのを、臼井は知っていた。たしかめたことはないが、まずむかしの重兵衛ではあるまい。
古い剣名を引きずってはいるものの、実態は深酒で身体がなまった中年男。役に立たない護衛役を選ぶとしたら、これほどぴったりの男はいなかろうて、と思いながら、臼井は自分の胸の内に隠れていた重兵衛に対する憎悪が、かくも生なましいいろを帯びているのにおどろいていた。
「しかし、あまり有能でも困ります」
「それが、そうではない。よく聞け」
臼井は、粒来重兵衛がいかに今度の役目に嵌《はま》り役であるかを、熱心に説いて聞かせた。
憎悪は長い歳月の間に奇妙にねじれて、弱い相手を苛《さいな》みたい願望のようなものに変形している。臼井は不運な重兵衛を、もっと痛い目にあわせたかった。そうなったらさぞ気持がよかろう。
「念のため、少しまわりにあたってみろ。おそらくわしの見込みに間違いはないはずだ。しかし新宮はそこまでは知らんだろうから、この人選はきっとうまく行く」
守屋市之進が帰ったあとも、臼井は腕組みをしたままみじろぎもせず坐りつづけた。一人になると、それまで気づかなかった庭の虫の声が、波のように寄せて来て臼井の胸の中にある不安を掻き立てた。守屋にはお手紙を奪い取ると言ったが、はたしてそれでいいのかどうか。それにしても、にわかに窮地に立たされた感じになったのはなぜだろう。三谷甚十郎は、いったい何をにぎっているのか。
考えているうちに、臼井は不意に、腹のあたりから強い怒りが衝き上げて来るのを感じた。
──このわしが……。
新海屋の金でテコ入れしなかったら、河川は氾濫《はんらん》し、藩は参覲《さんきん》の費用にも事欠き、領民は粟粥《あわがゆ》をすすり塩をなめた凶作のあとの暮らしから立ち直れなかったはずだ。それが怪《け》しからんと弾劾するのなら、堂堂とわが前に来て物を言え。
臼井は息をはずませたが、怒りがおさまると、しかしやり過ぎたのは事実だとも思った。胸の中の不安は、そこに根を持っていた。そしてもはや後もどり出来ないこともたしかだった。臼井は部屋の外に出て人を呼ぶと、茶を言いつけた。どうせすぐには寝る気になれそうもなかった。
臼井が家人に茶を言いつけたころ、門の外の庇《ひさし》の下にたたずんで長い間あたりの気配を窺っていた守屋市之進は、ようやく懐からつかみ出した布で慎重に顔を覆った。道には昼の暑熱が残した暖気がただよっていたが、天と地の見わけもつかないほどに暗い夜で、歩き出した市之進の姿はすぐに闇に紛れた。
こおろぎ小路の白炭屋の店の中は、武家の席と町人、百姓の席をわけている。つまり武家は壁ぎわの細長い上げ床の席で、ほかは料理場前の土間にならべた飯台《はんだい》で飲み喰いすると決まっているのだが、どのような場所にも決まりに従うのをいさぎよしとしない臍《へそ》まがりはいるもので、おれが土間で飲んでどこがわるいかといった顔つきで、あたりをにらみながら飯台で飲む武家もけっこういた。
しかし今夜の粒来重兵衛が土間にいるのは、臍がまがっているわけではなく、単に上げ床の席がふさがっているせいに過ぎない。白炭屋は混んでいた。
それでも重兵衛はほかの店に行く気はしなかった。こおろぎ小路に飲み屋、小料理屋は数あるが、酒は白炭屋にかぎると日ごろから重兵衛は思っていた。店は汚れていて灯はうす暗く、肴もさほどのことはないがなにしろ酒がうまい。店の一角に腰を落ちつけて、夏は冷、冬は熱く燗のついたのをぐっと一杯やると、世の憂さを忘れる。
それで今夜も、何はともあれ坐る場所があってよかったと思いながら、重兵衛ははこばれて来た酒をちびりちびりとあけていた。時どき里芋とこんにゃくの煮つけ、ほっけの塩引きを焼いたのに箸をのばす。いつもの至上の時が流れはじめているのだが、その至上の時に、今夜はちらちらと影がさし、重兵衛はいつものように酔いがはかどらないのを感じている。盃の手をとめて、茂登《もと》のせいだと思った。
毎夜初音町に通うとなると、さすがに気がひけて、重兵衛はわが家ながら足音をしのばせるようにして家を出るのだが、茂登の耳は鋭くて、家の中のどこにいても必ず足音を聞きつけて見送りに出て来る。そして機嫌よく、お気をつけておいでなさいませと言うのだが、今夜はいつもと違った。
「また、初音町ですか」
と、茂登はどことなく物がなしそうな顔つきで言い、さらに今夜は相談ごとがあるから少し酒をひかえて早目に帰ってもらえないかと言った。
──相談とは何だ。
と重兵衛は思っている。
茂登は遠縁の相庭から、重兵衛の家に手伝いに来ている女である。台所ばあさんはいるものの、娘一人をかかえて男やもめになった重兵衛を憐れんで、本家と相庭の家が相談して決めたことだった。茂登は三十七、重兵衛の家に来てからはや五年経つ。
茂登は色白で挙措のおとなしい女子である。重兵衛の家に来る二年ほど前に、夫に死なれて子もないまま実家にもどされた、いわゆる出戻りで、茂登を重兵衛の家に手伝いに入れようとしたとき、本家の粒来にも遠縁の相庭にも、割れ鍋に閉じ蓋、当人同士がその気になったときは一緒になればよいという考えがあったに違いない。しかし男女の間には縁というものが必要らしく、そういう機会が訪れないままに五年の歳月が経ってしまったのである。
──まったく縁がなかったわけでもない。
と思いながら、重兵衛は手酌で盃になみなみと酒をついだ。それについてはにがい思い出がある。
茂登が来てから一年も経ったころだろうか。酔って家にもどった重兵衛は、迎えに出た茂登をごく自然に胸に抱きこんだのである。ところが、一度すっぽりと胸におさまった茂登が、手を突っぱって言った。
「お馬の匂いが……」
馬の匂いがどうだというのか、重兵衛は最後まで聞かなかった。ただそのひとことと拒否の身ぶりで、気持は急にさめた。馬の匂いを嫌われては仕方ないと思ったのである。
相庭の家は三百石で、御使番を勤める上士である。対する重兵衛は、失策のために百石の禄を減らして、いまは六十五石で御馬役を勤める身分である。御厩《おうまや》足軽と下男を指図する役といっても、毎日厩を見回り、藩主や一族の乗馬は自身毛を掻き、爪を削ってやらねばならず、親戚とはいえ相庭の家とはかなりの隔たりがあった。重兵衛には相庭に対してうだつの上がらぬ親戚のひけ目がある。
それかあらぬか茂登を手伝いによこした相庭の家には、あわれな遠縁の面倒をみてやるといった気分が強いらしいのに、重兵衛は気づいていた。三ノ丸の厩をたずねて来た茂登の兄、つまり相庭の当主が露骨にそれらしい言葉を口にしたこともある。事実はそのとおりでも一段上から見おろされているようで重兵衛はおもしろくない。
そっちだって出戻りの厄介者を押しつけて来たのじゃないかと思っても、茂登が家事をするようになって大いに助かっているのは事実なので、重兵衛はそういうことはひとことも口に出来なかった。
馬の匂いがすると言われてむっと来たのは、相庭に対する日ごろのそういう複雑な気分が、茂登のひとことで急にはっきりと反感に変ったというようなものだった。茂登、おまえもかと思った。それっきり、茂登には手を触れたことがない。
しかし手を触れないのは、それだけが理由ではなかった。ある時台所ばあさんのくめが、茂登の留守を見はからって重兵衛にこう言ったのである。
「旦那さま。おさびしゅうはございましょうが、お茂登さまにお手出しなどは無用でございますよ」
くめばあさんの、このあけすけな忠告には重兵衛もにが笑いをしたが、わけを聞いてみると話はやや異様で、笑ってばかりいられないようなものだった。
ある日ばあさんは、庭の物置きから石臼を出そうとしていた。その日はいわゆる小春日和であたたかかったが、季節は秋も末で、くめはそろそろ冬仕事の支度をしておこうと思ったのである。ところがこの石臼が重い。外に出してから縄をほどき、上下ひとつずつに離して家の中に持ちこもうという考えだが、物置きの中の臼は押してもひいてもいっかな動かなかった。
茂登はそのとき、縁側に出て髪に櫛をいれていたが、困っているくめを見ると、どれどれと言って下駄をつっかけて庭に降りて来た。そして結いかけの髪の髻《もとどり》をつかんだまま、片手でひょいと石臼を持ち上げると縁側まではこんだ。茂登は何事もなさそうに縁側にもどったが、あっけにとられて自分を眺めているくめに気づくと、顔を赤らめて、重兵衛どのには内緒におし、と言ったというのである。
この話には重兵衛をびっくりさせるところがあった。その石臼は重兵衛もよく知っているが、男でもとても片手で持ち上がるようなしろものではない。くめの話に誇張がなければ、茂登は女だてらに怪力の持主だということになる。そう思ったとき重兵衛は、物静かな茂登の隠している、ある種の悲劇性といったものに触れた気がちらとした。
ひょっとしたら茂登は、女には無用のそんな馬鹿力のことも知れて、婚家から暇を出されたのではなかろうか。いずれにしてもくめばあさんの意外な話は、茂登に一種不可解な、あやしげな印象をつけ加えたことはたしかだった。
そして、そのせいで茂登に近づかなかったというのではないが、それもまたわずかながら重兵衛が気軽に近づくのを妨げる理由のひとつにはなった。そして状態がそういうふうになると、女子《おなご》がそばにいてもあまり気にならなくなるものだと重兵衛は知った。茂登との五年の歳月がそうして過ぎたのである。
──しかし……。
醤油とおかかの味がよくしみたこんにゃくを口の中にほうりこみながら、重兵衛はいささか深刻な気分になっている。五年もの間、一度も茂登に触らなかったのは、いかにもまずかった。
こんな薄情な家にはいられぬと、茂登はいよいよ去《い》ぬる決心をつけたに違いない。相談はそのことに決まっていると、重兵衛は思った。するとせっかくの酒がまずくなったような気がした。もし茂登に去なれたら、家の中はどのようになるのだろう。娘の房江の世話は誰がするのか。
「おたのしみのところを邪魔するが……」
重兵衛の深刻な考えごとを、いきなり横から妨げた者がある。顔を上げると、そこにりっぱな身なりの男が立っていた。重兵衛の知らない男である。
「粒来どのですか」
どうみても白炭屋の客には見えぬ、その若い男が言った。口調にこもる慇懃《いんぎん》なひびきを感じ取って、重兵衛もしぶしぶ盃を置いた。
「さようだが、そこもとは?」
「守屋でござる。守屋市之進」
なぜか守屋は、あたりをはばかるように小声で話をしている。守屋といえば住吉町の守屋だろうが、顔に記憶がないところをみると、これは跡取りだろう。あの家はたしか百五十石だったかと重兵衛が考えていると相手は笑顔になってつけ加えた。
「ご承知ないかも知れぬが、勘定組に勤めており申す」
「で、わしに何か」
「ちと、余人をまじえずに話したいことがあります。暫時《ざんじ》おつき合い願えませんか」
「話ならここでも出来よう」
重兵衛はそっけなく言った。男の、若い者に似合わず如才ない感じの笑顔が、少しわずらわしい。あまり重苦しい人間もつき合い辛いが、この手の軽軽しいのとも一緒に飲む気はせぬ、と重兵衛は思った。
そして実際に、この時刻になるとはじめは神妙に飲んでいた武家も町人もすっかり酔いが回って声高に話し、笑い、他人のことに気をくばっている人間など、まず一人もいない。重兵衛は酒のうまい白炭屋をはなれるつもりはなかった。
「でもありましょうが、申し上げたとおり、話は少少藩の機密にわたることで……」
「藩?」
「粒来どのは、無外流の名人であられるそうですな」
突然に、市之進が重兵衛の耳もとでささやいた。何を大げさなことを言うか、と思ったが、重兵衛は阿《おもね》るような市之進のささやきが、ひさしく埃をかぶっていたむかしの矜持《きようじ》を気持よく刺戟したのを感じた。
重兵衛はむかしの光栄を思い出させた男をじっと見た。そしてわざと磊落《らいらく》を装って言った。
「なあに、むかしのことでござる」
「御中老はそうは言っておりませんでした」
「御中老だと?」
「話というのは、じつは新宮さまからのお頼みごとでござる」
相談に乗ってもらわぬと、それがしも役目をはたせないと、市之進は熱心な口調で言った。
「御中老のお頼みごととあれば」
重兵衛は重重しく言った。
「拝聴せぬわけにもいくまいて」
「これはありがたい」
「で、どこへ行ったらいいのかな」
「この先のあけぼのに席をとってあります」
出がけの約束をふと思い出して、重兵衛はこれじゃ早く帰るわけにはいかんなと思ったが、一方で茂登の相談ごととやらから、とりあえず今夜は逃げる口実が出来たとも思っていた。
藤掛の関所から城下まで、四里十五町。いったん関所で休んだとはいうものの、一日のうちに九里近い距離を往復したことになるので、重兵衛は城下の灯が見えるあたりまでもどったときには、足のはこびもままならないほどに疲れていた。
第一に足の肉刺《まめ》が痛い。行きの道中ではやくも出来上がった肉刺は、帰りにはすっかり破れて、ひと足ごとに脳天にひびくほどに痛む。そしてその痛みをかばうせいだろう、腿の筋肉はすっかりこわばり、その上長年の不摂生がくっつけた下腹、腰のあたりの贅肉が重い。
──飲み過ぎだ。
喘《あえ》ぎながら、重兵衛は思っている。田口庄蔵の護衛役を引き受けたのをひそかに後悔していた。護衛は念のため、無外流の腕が必要になることはまずなかろうと守屋が請けあい、昨夜会った中老の新宮もそう言った。
しかし重兵衛は、護衛につくからには、たとえ誰が出て来ようとひと打ちに斥《しりぞ》けてやろうと思っていたのである。べつに中老にむかしの剣技をほめられてのぼせ上がったというわけではなかった。それだけの自信はあって、ひさしく木刀も握っていないが、なに、むかし取った杵柄、まだまだ若い者には負けるものかと軽く考えた節がある。
だが行き来九里近い道を歩いて城下はずれまでもどって来たいまは、昨夜の自信など微塵も残っていなかった。田口庄蔵に遅れずに歩くのに精一杯だった。これではどちらが護衛されているのかわからんと、重兵衛の胸ににがい自嘲がこみ上げて来る。
実際、いま仮りに、棒を持ったそのへんの若い衆が襲って来ても、はたして撃退出来るかどうか疑問だと思いながら、重兵衛は肉刺の痛みをこらえてよたよたと歩いた。
しかし心ぼそいほど小さくてまばらだった城下の灯も、ようやくはっきり見えて来て、道は間もなく、城下の入口である鋳物町の手前にある橋にかかるはずだった。そこに幅三間ほどの苗間川という川が流れている。長い道中も終りに近づき、ここまで来ればまず大丈夫と重兵衛は思った。
「田口どの」
重兵衛は先を行く若者に声をかけた。
「この先に橋がある。そこでちょこっとひと休みせぬか」
「………」
「護衛役が足をひっぱるようで申しわけないが、肉刺が痛くてかなわんようになった」
「肉刺ですか」
当惑したような田口の声がした。つづいて足どりをゆるめる気配がした。
「町に入るまで、辛抱出来ませんか」
田口庄蔵がそう言ったまさにその直後に、重兵衛はまわりが生ぐさい風につつまれるのを感じた。生ぐさいのは、待ち伏せていた男たちの体臭だったろうか。重兵衛の眼に、左右の稲田から飛び上がって前をふさいだ、夜のいろよりも黒い男たちの姿が見えた。
「待ち伏せだ、逃げろ」
田口にむかってどなると同時に、重兵衛は刀を抜いた。
殺到する白刃を剣を上げて払ったとき、重兵衛の身体の中に剣士の本能が目ざめたようであった。肉刺の痛みも、下腹のたるみも忘れて斬りむすんだ。
白刃は三方から斬りかかって来たが、重兵衛は冷静に捌いた。絵にかいたような後《ご》の先《せん》の太刀で、一人の肩を斬った。だが思うように身体が動いたのはそこまでだった。突然に重兵衛は受け太刀になり、二の腕を斬られた。
そのとき、この世のものとも思えぬ絶叫がひびいた。田口が斬り合っている前方で、誰かが致命傷を負ったようである。
「田口、田口」
連呼して重兵衛は前に出ようとした。だが、出鼻に斬りこまれて、今度は左膝の上のあたりを斬られた。直感で深傷《ふかで》だとわかった。
突然に重兵衛は、身体がおそろしい疲労につつまれるのを感じた。自分の身体が石のように重く、手も足もいまはばらばらに動いていた。敵の刀をかわして斬り返すと、刀の重味で身体が泳いだ。
──これはいかん。
重兵衛はぞっとした。ここで死ぬわけにはいかぬと思った。
わめき声を上げて前の敵に斬りかかると、重兵衛はそのままころがるように道わきの稲田に駆け降りた。心ノ臓は躍り上がり、喉は乾いて異様な呼吸音を立て、倒れて死ぬかと思うほどだったが、重兵衛は稲をわけて闇の濃い方へ濃い方へと走りつづけた。畦《あぜ》に上がると畦を走って、最後に深い水路を見つけるとその中にころがりこんだ。
身構える間もなく、追って来た男たちがすぐそばの畦を駆け抜けて行った。水路の底は乾いて、上には草が茂り合っていた。その底に刀を抜いて仰むけに横たわりながら、重兵衛は敵の気配にじっと耳を澄ませた。喉はくっついたままだったが、破れるようだった心ノ臓の動きは少しずつおさまって行った。
──田口はどうしたか。
と重兵衛は思った。さっき聞いた断末魔の叫びが田口のものでないことを祈った。しかし敵は少なくとも五人はいたようである。殺されないまでも、斬られて密書を奪われたことは間違いないように思われた。
ふたたび田口庄蔵の警護を引き受けたことに対する後悔が、胸をしめつけて来た。このとおり物の役に立たない警護役だったのだ。もっと若くてしっかりした人間に譲るべきだったのにそうしなかったのは、無用の自信もさることながら、ここで中老の役に立っておけば、後のち損にはならないだろうという計算も働いたのだ。その欲を重兵衛は悔んだ。
不意に人声がして、重兵衛ははっと身を縮めると手の中の白刃をにぎり直した。さっきそばを駆け抜けて行った男たちがもどって来る様子である。男たちは、いまは憚《はばか》りのない大声で話していた。
「意外に逃げ足が早かったな」
「近ごろは、剣をやめてそっちの修行を積んでいるのかも知れんぞ」
若い声が言いたい放題のことを言い、三人ほどが声を合わせてどっと笑った。おれをあざ笑っている、と重兵衛は思った。
男たちは重兵衛が隠れている水路を横切って、苗間川の岸に出るようである。そこまで畦道がつづいているのだろう。
「しかし、麒麟《きりん》も老いては駑馬《どば》だな、粒来重兵衛を手配してある、と言われたときにはおどろいたが、お見込みどおりで大したことはなかった」
「うむ、うまく行った」
「しかしご命令は、口を封じろということだったぞ。逃がしてはご機嫌がどうかな」
「ま、すべてうまく行くとは限らんさ。それに、逃がしてもどうということは……」
男たちの声は次第に小さくなり、やがて道にまだ残っている者がいるのか、遠くで双方が呼びかわす声がしたあと、ばったりと物音が絶えてしまった。
──手配?
手配とは何だ、と思いながら、重兵衛はゆっくりと身体を起こした。たちまち全身に痛みが走ったが、重兵衛の意識はたったいま耳に入って来た男たちの会話の後を追っている。
重兵衛を田口庄蔵の警護役に手配したのは、中老の新宮小左衛門である。その新宮が、そのことをほかに洩らして二人を襲撃させたというのだろうか、と重兵衛は思った。だがそれは理屈に合わなかった。不可解な謎に突きあたったような気がして、重兵衛は頭が混乱して来た。
途中何度も休んで、這うようにして道にもどると、闇に馴れた目が道の真中にころがっている男を見つけた。手さぐりで身体をさぐると、打飼《うちが》いの紐と脚絆、草鞋《わらじ》が手に触れた。倒れているのはやはり田口庄蔵だった。肩の傷が大きく、それが致命傷になったようである。念のため鼻の息をさぐり、心ノ臓の音を聞いてみたが、やはり手遅れだった。田口庄蔵は絶命していた。
なおも身体をさぐってみると、打飼いの中の荷は持ち去られ、懐も引きはだけられて田口は肌までさぐられた形跡があった。
──失敗した。
重兵衛は、田口の横に呆然と腰を落とした。夕方会ったばかりの快活な若者が、役立たずの警護役がついたために命を失ったのである。その自責のために、重兵衛は声もなく頭を垂れたが、やがてもう一度手さぐりで田口の瞼《まぶた》をおろしてやり、つぎに長い刻をかけて膝の上の傷を縛ると立ち上がった。
たちまち手傷と疲れから来る痛みが全身をつつみ、重兵衛はさっきよりまた少なくなった城下の灯を見つめた。はたして家までたどりつけるかどうか、心細くなってきた。
家について外から戸を叩くと、重兵衛は無様に地面に尻餅をついてしまった。戸の内側に灯が動いたと思うと、すぐに茂登が出て来た。
「どうなされた、重兵衛どの」
手燭の光には、重兵衛の血と泥と汗にまみれた姿がうかんだに違いない。茂登が息を飲むように言って、手をさしのべた。
「やられた。罠《わな》をかけられた」
「罠ですと」
「待ち伏せを食らった」
と重兵衛は言った。歩いては休み歩いては休み、半ば這うようにして家に帰りつくまでに、重兵衛が出した結論がそれだった。
今夜の一件は、はじめから仕組まれた罠である。そう解釈しなければ、さっき聞いた手配の一語は理解出来なかった。
「とにかく、家の中に」
「いや」
重兵衛は茂登がさし出した手を振りはらった。新宮小左衛門がその罠に絡んでいないと断言は出来ないが、もしそうでなければ、新宮はこの時刻に、まだ田口と重兵衛が到着するのを待っているはずだった。
「これから、新宮さまのお屋敷に行かねばならん」
「その前に、お手当てを」
そう言うと茂登は、片手に手燭を持ったまま、身をかがめてもう一方の腕を重兵衛の胴に巻いた。そしてぐいと重兵衛を抱え上げた。重兵衛の身体は軽軽と持ち上がって、一瞬地面から足が浮いた。
茂登は女にしては大柄な方だが、大女というわけではなく、背丈も重兵衛よりはよほど低いのに、おどろくべき力だった。
──ふむ、これか。
と重兵衛は思った。茂登が片手に髻をつかんだまま、石臼を引きずり出したという話を思い出し、おれを石臼扱いにしたなと思ったが、この際なので茂登の馬鹿力が頼もしかった。
中老の屋敷には、とりあえず茂登を使いにやってもいいのだ、とも思った。すると張りつめた気が急にゆるんで、重兵衛は茂登の肩にすがってそろそろと家の中に入った。
「しかしもう少し働きのある男と思ったが、大きに見当が違ったな」
新宮小左衛門は言いながら、よく見ればそれとわかる重兵衛の下腹のふくれのあたりを、非難がましい眼で見た。
すると同席していた守屋市之進が、いや、罪は推挙したそれがしにありますと詫びた。守屋の詫びが重兵衛をかばったのか、それとも自分の失態をかばったのかはよくわからなかったが、いまの言葉で重兵衛は、自分を最初に護衛役に推したのが守屋だったらしいのを知った。
「どうも、お眼がねちがいも甚だしい」
もう一人同席していた大目付の志波弥八郎が、口をはさんだ。
「粒来が剣名を云云されたのは、それよ、ざっと十年以上も前のこと。いまや粒来もすっかりトウが立って、むかしのようには身体が動かぬというだけのことでござろう」
「しかしそんなものかの」
新宮は若いころのはなばなしい剣名と今度の重兵衛の失態の落差の大きさが、いまひとつ納得がいかないといった表情で、面長で上品な顔をかしげた。
「腕におぼえのある者で、まだまだ若い者には負けぬと高言している人間もいるぞ。それ若松喜平、柘植参左衛門、尾形彦六……」
「しかるべく節制をして、稽古も怠らねばということでしょうな」
お盆のような丸顔で、鼻下にあまり家中の評判がよくない髭をたくわえている志波は、つぎに身もふたもないような言葉をつづけた。
「粒来のように、夜な夜なこおろぎ小路の方の稽古に精出しては、いざというときの役には立ちません」
言っておいて志波は、自分の戯《ざ》れ口が気にいったらしく、大口あけて笑った。誘われて新宮も苦笑したが、守屋市之進はにこりともしなかった。やや緊張した感じで、目をじっと重兵衛にむけている。
「いずれにしろ、その腹の出っぱりぐあいでは、ひさしく木刀は振っておるまい」
志波はダメ押しするように、さらに重兵衛の痛いところをひと突きしてから、さてと形を改めた。
「では、ご中老立ち会いの上でもう一度訊くが……」
怪我をした足が痛ければ、のばしてもよいと志波が言った。
志波がもう一度と言ったのは、事件のあと重兵衛は金瘡《きんそう》の熱が出て数日起き上がれず、その間に自宅に志波を迎えて簡単な訊問を受けているからである。
志波がそう言うと同時に、守屋は立って部屋の隅から小机をはこんで来た。机の上には書く物がそろっていて、重兵衛はそれで市之進が書留め役を勤めるのだと知った。足の気遣いは不用である、と重兵衛は言った。実際にはやっと傷口がふさがりかけている膝が、長い間坐っているために重苦しく痛みはじめていたが、中老の前でさんざんに笑いものにされて、その上みっともない恰好までは見せたくなかった。
「では訊くぞ。待ち伏せた者たちは……」
と言って、志波は両手を水平に動かし、輪を描くようなしぐさをした。
「稲の間から飛びだして来たと言ったな」
「そのように見えました。もっとも暗い中ですから、はっきりしたことは言えません」
「その、死んだ田口だが……」
志波はうつむき、それから急に顔をあげて重兵衛の方に身体を傾けた。
「何か、待ち伏せを予想したようなことは言っておらなかったか」
「予想というのではないでしょうが、江戸をたつときに、途中危険があるかも知れぬから、十分に用心しろと言われたと申しておりました」
そう言ったとき重兵衛は、腹のあたりに名状しがたい怒りが動くのを感じた。重兵衛は、自分が新宮中老からさしむけられた護衛だと知ると、いかにも安堵したように笑顔を見せた田口を思い出したのである。怒りは不甲斐ない護衛役だった自分自身にむけられている。
「待ち伏せの男たちの人数は?」
「数人としかわかりません。五人か六人だったと思います」
「一人に手傷を負わせたと言ったな」
「はい」
「斬った場所は見当がつくか」
「左肩か、二の腕だと思います」
志波はいまの答弁を市之進が記帳するのを見とどけてから、さらに重兵衛が襲撃を受けた場所から離脱するまでのことを、こまかく訊いた。その質問は、前に重兵衛の家に来てした質問と一部重複していた。
「男たちの顔を見たか」
「いえ、暗くてまったく見えませんでした」
「すると、斬り合った相手が誰かはわからんということだ」
「そうです」
「ふむ」
志波は吐息をついた。それからうつむいたまま手を上げて自慢の髭をひねったが、気を取り直したように顔を上げた。
「ほかに、何か気づいたことはないか」
「ひょっとしたら……」
「何だ、気のついたことは何でも言え」
「男たちが話している声を聞きました」
「ふむ、それで?」
「一人だけ、声に聞きおぼえのある男がいたように思います」
中老の新宮も、それまで一度も顔を上げなかった守屋市之進も、今度はじっと自分を見つめているのを重兵衛は感じた。
大目付が言った。
「そのことは、この間は言わなかったな」
「あの後で思い出したことです」
「聞きおぼえのある声というのは誰だ」
「それが……」
と言って重兵衛は、頭を指さした。
「ここに浮かびかけては消えて、どうもはっきりしません」
「思い出せそうか」
「そのうちにふっと思い出すのではないかと思いますが……」
「そのときは余人には告げず、わしに知らせろ」
と大目付は言った。
今度の明白な失態については、いずれ何らかの処分があるものと思われたが、大目付も新宮も今日はそのことには触れなかった。足がなおれば勤めにもどってよいと言われて、重兵衛は新宮の屋敷を出た。外にはまだ日が残っていたが、下城どきは過ぎたとみえて、歩いていくうちに、遠くの方に供をつれた上士らしい男がゆっくりした足どりで家にもどる姿を、二度ばかり見かけた。
新宮の屋敷があるあたりは上士屋敷がならぶ場所で、塀は長く道はひろかった。その道に今日の最後の日射しが入りこんでいたが、重兵衛が病気の届けを出して勤めを休んでいる間にも、季節は足早に移ったらしく、日射しはもう夏の脂っこさを失っていた。道や塀を照らしている光はとげとげしいほどに明るかったが、真夏の日にくらべて白っぽく頼りなげにも見えた。
新宮の屋敷から遠ざかるにつれて、重兵衛は身体から少しずつ緊張感が抜け落ちるのを感じた。
──うまく行ったかな。
重兵衛は自問した。そしてうまく行ったはずだと自答した。
重兵衛は大目付の訊問に答えながら、その中に罠をひとつ仕掛けて来たのである。聞きおぼえのある声を聞いたと言ったのが罠で、実際には声におぼえがあったわけではない。
待ち伏せの罠を掛けた人間、もしくはその人間に通じている者が、新宮小左衛門の身辺にいることは、まず間違いないと重兵衛には思われた。それは、密書を奪われたにしては意外に平然としている新宮本人かも知れず、あるいは重兵衛を護衛役に推した守屋市之進かも知れず、ひょっとしたら、正規の手続きに拠らずに、新宮の屋敷で秘密めかした訊問を行なった志波弥八郎かも知れなかった。誰も信用出来なかった。
しかしその誰かが、さっきの重兵衛の答弁を聞き過ごしにするとは思えなかった。重兵衛が声の主を思い出せば、芋づる式に黒幕の名前がうかぶのを防げなくなるだろう。その危険を防ぐために、彼らは改めて重兵衛を抹殺しにかかるかも知れなかった。
いずれにしても、罠の仕掛けがうまく行けば、新しい動きを通して誰が敵なのかをたしかめることが出来るかも知れぬ、と重兵衛は考えているのだった。
たしかめてどうするかはまだ考慮の外だったが、いずれ一矢報いなければならないだろうとは思っていた。無残に殺された田口庄蔵の仇も討ちたかったし、護衛に失敗して虚仮《こけ》扱いされた自身の名誉を救い上げなければならない。そして何よりも、これ以上家禄を減らすことは許されなかった。
いったん濠端の道に出てから、重兵衛は遠まわりしてまた新宮の屋敷がある万代町にもどった。そして新宮の屋敷の門が見える向い側の路地に、さりげなく身を隠した。ひと回りする間に日が落ちて、人影もない道にはたそがれのいろが這いはじめている。
六ツ(午後六時)過ぎに、供を連れた志波弥八郎が出て来た。まだ足もとが見えないほどではなかったが、供の男ははやくも灯をともした提灯《ちようちん》を持っていた。重兵衛は大目付を追わなかった。路地の陰から見送った。
つぎに、あまり出て来ないので大目付より先に帰ったのではないかと心配した守屋市之進が、新宮の屋敷から出て来た。時刻はそろそろ五ツ半(午後九時)に近いだろうと重兵衛は思った。市之進は提灯を持っていなかったが、およその背恰好で彼だと見当がついた。西南の空に、月あかりというほどの明るみもない虧《か》けた月がうかんでいるのが幸いしたようである。重兵衛はすぐに跡を追った。
市之進は濠ばたの道に出ると、もうひとつの屋敷町を横断して市中を流れる子持川の河岸に出た。そのままわき目をふらず北に歩いて行く。空き腹をかかえて跡をつけて来た重兵衛は、次第に失望感につつまれるのを感じた。
今日逢った三人ともにあやしいといっても、重兵衛が本命視しているのは、やはり守屋市之進である。その疑惑は、新宮の命令で白炭屋まで会いに来たとばかり思っていた市之進が、今日になって逆に新宮に重兵衛を推挙したのだとわかったときに生まれた。
推挙したのがあやしいと、単純に決めつけるわけではなかったが、市之進をそういう目で疑惑の中にあてはめてみると、いろいろと話のつじつまが合って来るのもたしかだったのである。市之進の背後には、新宮とはまたべつの人間がひかえているのではないかと重兵衛は疑った。もしその考えがあたっていれば、重兵衛と大目付のさっきの問答を聞いた守屋は、まず間違いなくその人物に会おうとするだろう。それも多分、今夜のうちに。
そう思って跡をつけて来たのだが、どうやら守屋の足は、まっすぐ住吉町にある自分の家に向いているようである。
──無駄足だったかな。
と重兵衛は思った。するとさっきからつづいている空腹感は堪えがたいものになって来た。市之進は新宮の屋敷で、多分夕食を馳走になって来たはずである。そののどかな光景を思いうかべたりしていると、胸の中の疑惑なるものが、いかにも根拠のとぼしい妄想のたぐいのようにも思われて来る。しかし──。
──や?
重兵衛は眼をみはった。河岸の道から、市之進が突然に左側の町に入りこんだのである。そこは鉄砲足軽の組屋敷が一部の町屋と混在している持筒町だが、その先はまた武家町になり、武家町のその先は城の北側にひろがる相生町で、南の万代町とならんで上士屋敷があつまる屋敷町である。
虧けていて小さい月は、暗い空に穴を穿《うが》ったように見えてさほどの光もなかったが、それでも地上が闇に塗りつぶされるのを妨げていた。重兵衛は、市之進が足早に町町を通り抜け、やがて相生町に入ったのをたしかめることが出来た。濠端の道を南から北に歩けばもっとはやく着いたろうに、市之進はわざわざ河岸に出て遠回りしたのである。
その用心ぶりが、重兵衛を興奮させた。行先はどこだ、と思った。相生町のさらに先には、藩主一族の屋敷がある。
重兵衛は足をとめ、すばやくそばの塀に身を寄せた。一軒の屋敷の門前に、市之進が立ちどまっている。来た方角を振りむき、さらに左右をたしかめてから、つと潜り戸を押して門内に姿を消した。
──ほう。
重兵衛は吐息をついた。黒幕はあそこかと思った。たしかめるまでもない。守屋市之進が入って行ったのは次席家老臼井内蔵助の屋敷である。意外にあっけなく、正体が割れたという気がした。
臼井内蔵助は旧名酒巻与七郎と言い、組頭だが家格が低いためにかつて一度も執政を出したことがない、万年組頭の酒巻家の嫡男だった人間である。
しかし器量を見込まれて、その家から執政も出ている臼井家の養子にのぞまれると、家の相続はさっさと弟に譲って、臼井家の人間となった。やがてのぞみどおり若くして執政となり、いまは次席家老を勤めている。
重兵衛とはおそるべき身分のへだたりが出来てしまったが、内蔵助は与七郎と言ったころ、重兵衛とともに物頭の椎名又左衛門について、無外流を修行した。相弟子である。そして少しのちには椎名の娘多津を争って、その争いは重兵衛の勝ちで終った。病死した重兵衛の妻が、その多津である。
──あのときのことを……。
臼井はいまも怨《うら》んでいるのだろうかと、道をもどりながら重兵衛は首をかしげた。怨まれることがあるとすれば、それぐらいのことしか思いあたらなかった。
剣の出来も、臼井は重兵衛につねに一歩およばなかった。免許は得たが、重兵衛が受けた奥許しはもらえなかったはずである。他派との試合で一応の好成績をおさめても、名手粒来の陰にかくれて、臼井自身が剣名を知られるまでには至らなかったことも、重兵衛は知っている。
──しかし……。
多津のことや剣のことが、いまごろ重兵衛を危険な罠にかける理由になるとは思えなかった。茫茫、もはや十数年も前のことである。
それに、たとえ臼井がそのころの屈辱感を胸に残しているとしても、身分が違うと重兵衛は思った。組頭の酒巻は三百五十石で、そのころの重兵衛からみて手のとどかないという感じではなかったが、次席家老の臼井は一千石。六十五石の御馬役からみれば、もはや雲の上の人間である。獅子が弱い兎を怨む道理があるだろうか。
重兵衛は河岸の道に出た。立ちどまって足もとの石を蹴り、暗い川が立てる水音を聞いた。
──ただ……。
やがて殺すべき虫を指先にいじるように、落ちぶれたおれをなぶって面白がるということはあるだろう。しかしそういうつもりなら、臼井も相応の覚悟を決めるべきだと重兵衛は思った。
そのとき、思いもかけなかったことが、重兵衛の頭にうかんだ。あれは、もしや臼井の指し金ではなかったかと思ったのである。
重兵衛が近習勤めから御馬役に左遷され、家禄を三十五石も減らされたのは、ある日藩主から命ぜられて藩主家の一族にとどけるはずだった手紙を紛失したからである。外出の支度をととのえているわずかの間に、状箱ごと手紙が消えたその事件は、はじめは重兵衛の過失というよりは、何者かの悪質ないたずらだろうと思われた。しかし手紙はどこからも出ず、結局は重兵衛が責を負わされた。
御役目油断などの名目がついて近習役を免ぜられてから、重兵衛の運命は大きく傾いたのか、翌年には妻を失った。
──あれは……。
たしか臼井が、若手の執政として登場した、ちょうどそのころに起きた事件だったのである。あれも、ひょっとしたら彼が手を回したことではなかったろうか。
──まさか。
吐息をひとつついて重兵衛は歩き出した。今度のことも、まだ臼井のたくらみと決まったわけではない。見込みが当っているかどうかは、明日以後のむこうの出方を見ぬことにはわからないと思っていた。
翌日から粒来重兵衛は登城し、御馬役、御厩方支配の松村四郎治に病気全快の届けを出して勤めにもどった。膝の傷はほとんどふさがって、まだ引き攣《つ》る感じは残るものの、立ち仕事をするぶんには支障はなかった。
三日間は何事もなく過ぎたが、四日目に重兵衛は遅番を振りあてられて、下城が夜になった。
藩主用の飼馬が一頭、足を腫らして馬医者にかかっていた。医者は腫物《しゆもつ》を切開して薬を塗りこめた上に、昼夜患部を冷やすようにと言った。悪質な腫物ではなかった。
そこで手当ては寝ずの番の御厩足軽にまかせるとして、三ノ丸の木戸が閉まる四ツ(午後十時)までは、御馬役が交代で病馬を見張ることにしたのである。その夜重兵衛は、八坂町の高岳寺が撞く四ツの鐘を聞いてから厩を出た。そして三ノ丸の暗い広場を横切ると、会所わきから郡代屋敷、藩主家一族の広大な屋敷がならぶ一郭を通り抜けて三ノ丸を出た。
途中宿直の者がまだ仕事をしているのか、会所の窓から灯が洩れていたほかは、三ノ丸はまっくらだったが、あやしい者は出なかった。濠をわたって三間町口の木戸を出ると、その先は商人町である。
重兵衛は寝静まった暗い町を通り抜けて、その先の子持川にかかる橋をひとつわたった。そしてわたり切ったときに、自分が跡をつけられているのに気づいた。跡をつけて来た者は必ずしも足音を忍ばせる気はないらしく、河岸の道に降りた重兵衛が足をはやめると、露骨に走る音を立てた。
それが傍若無人な印象をあたえ、重兵衛は思いがけない無気味な感じを受けた。敵は三人だった。
──やはり、来たか。
と思った。跡を追って来る男たちが、重兵衛の口をふさぐつもりでいることは明らかだった。これで罠を仕掛けて田口庄蔵と重兵衛を襲い、藩主の書状を奪ったのが臼井内蔵助だということがはっきりしたと重兵衛は思った。
臼井がなぜ書状を奪うなどという危険なことをしたのかは、重兵衛にはわからなかった。しかし自分に対する臼井の悪意はひしひしと伝わって来た。
──あの男は……。
自分が指を動かせば、たかが御馬役一人を抹殺するぐらいはわけもないと思っているらしい。重兵衛は歯を剥き出した。そうはさせないぞと思った。
細い路地を見つけて重兵衛は走りこんだ。すると、それまでつかずはなれず跡をつけて来た男たちが、一斉に走り出した。重兵衛はすばやくつぎの角を曲がった。そのあたりはしもた屋と職人の家がまじり合う道で、地理は熟知している。つぎの角を、今度は逆方向に曲がった。
例の月が南西の空にうかんでいるに違いないが、今夜は空が曇っていて、それが重兵衛に幸いした。一度だけ、飛び出そうとした路地の先の四ツ角を白刃を下げた黒い人影が走り抜け、うしろからは足音が迫って、これは取り囲まれたかと冷や汗をかいたが、そこを切り抜けたあとは首尾よく相手を撒《ま》くことが出来た。走って疲れはてたものの、重兵衛はどうにか無事に家に帰り着いた。
しかし臼井はあきらめなかったようである。つぎの日の夜は、刺客を直接に重兵衛の家に送りこんで来た。
物音に最初に気づいたのは茂登である。かすかな音だったが、何者かが外から雨戸をこじ開けようとしているように思われた。茂登は身を起こして手早く身支度をすると、一緒に寝ている房江を起こさないように静かに部屋の中を歩いて、押入れの奥から小脇差を持ち出した。泥棒なら、ひと打ちに成敗してやろうと思っていた。
廊下に出ると、はたして雨戸の一枚がぎ、ぎと鳴っている。音がやむと、戸の外で人が息を吐くのも聞こえた。また戸がぎ、ぎと鳴り、ついに一枚の雨戸がみしりと浮き上がったと思うと、その戸は音もなく外にはずされた。
ぽっかりと戸がはずれたそこから、家の中の闇よりはいくらか白っぽい外の光が見えている。茂登はぴったりと戸のそばに立ち、小脇差を振りかぶった。
長い刻が立って、黒い頭がひとつひょいと廊下をのぞいたが、その頭は打ち据える間もなく引っこみ、つぎにそろりと片足が縁に踏みこんできた。
「えい」
小さな掛け声をかけて、茂登は小脇差を振りおろしたが、振り下ろす寸前に気が変って峰を返した。しかし茂登の剛力に打ち据えられた足は骨が折れたに違いない。
異様な音がして、足は熱い物に触れたように外に引っこんだ。どさりと人が倒れる音がした。しかし打たれた男は声を立てなかった。それっきり外はしんとなった。
茂登が戸をはずされた場所からのぞいてみると、黒ずくめの身なりをした人間が二人、もつれ合うように門の方に遠ざかるところだった。どうやら足が折れた一人を、もう一人が担いで逃げるところらしかった。ようやく物音に気づいた重兵衛が起き上がって来た。
「何事だ」
と言って外をのぞいた重兵衛は、もつれ合う二つの人影が、門扉もない粗末な門を出て行くところを見た。
「夜盗のようでした」
と茂登が言った。手の小脇差は、もう鞘にもどっている。追わなくともいいのかと茂登は言った。
いや、と重兵衛は首を振った。
「あれは泥棒ではない」
「え? では、誰が?」
「斬ったか」
「いいえ、峰で打っただけです」
「とにかく、戸をはめよう」
戸口に回りながら、重兵衛は、少し話すことがあるから茶の間に灯をいれておけと言った。外に出てはずされた雨戸をはめ、家の中にもどると茂登が行燈に灯をいれて待っていた。
「さっきの二人は多分……」
重兵衛は少しためらってから言った。
「家老の臼井さまが差しむけて来た刺客だ」
「まあ」
茂登は目をみはった。侵入者を相手にひと働きした興奮が残っているらしく、茂登は色白な顔にいきいきと血のいろをうかべ、重兵衛を見た目がうるんだように光っている。いそいだせいか、やや着付けが崩れた胸もとにのぞいている肌も白かった。
おや、こんなきれいな女子だったかなと、重兵衛がとまどっていると、まるでその劣情の動きを見抜いたように茂登が鋭い声を出した。
「臼井さまが、なぜこのような」
「うむ」
バツわるく茂登の胸もとから目をそらして、重兵衛が言った。
「そもそもは、この間の護衛役に原因がある」
重兵衛は洗いざらい、茂登にこれまでの事情を打ち明けた。臼井がとくに重兵衛をえらんで罠をかけたのではないかという疑惑、そう考えられる臼井との過去のいきさつも、隠さずに話した。
「それで、昨夜にひきつづき、今度は刺客が家に乗り込んで来たわけだろう」
「………」
「わしの口をふさがぬと、自分の首があぶないと思っているのだ」
「すると、あの人たちはまた来るかも知れませんね」
「まあ、その覚悟がいる」
茂登は膝に置いた手をじっと見つめたが、すぐに顔を上げた。
「お一人では防ぎ切れますまい。新宮さまに打ち明けられてはいかがですか」
「いや」
重兵衛はきっぱりと首を振った。茂登が言ったことは、もう考え抜いたことである。
「今度の一件は、むろん藩の秘事にかかわる話だが、わしのことに関して言えば、これは私事だ。ことは家老の古い私怨に発している。もはやむかしのようには剣も使えず、御馬役に左遷されたままうらぶれておるわしを、おもちゃにして楽しもうという趣向だ」
言ったときに重兵衛は、臼井が仕掛けた罠の全貌が見えた気がした。やはりそれが真相だと思った。
「まあ、何という下劣な」
茂登にも、家老の心情の醜悪さが見えたらしい。憤慨して、小さく非難の声を挙げた。
「わしもかつては、無外流の剣で少しは人に知られた男だ」
重兵衛はかねて考えていたことを告げた。
「御中老には話さぬ。わが始末はわが手でつける」
「でも、お齢も考えませんと」
「まず、酒をやめる。初音町とはしばらくおさらばだ」
「それはけっこうですこと。これまでは飲み過ぎでございました」
「身体を鍛え、剣も少少手入れしなければ、一人では臼井に対抗出来まい。しかし、まず身体だな」
重兵衛は前にせり出している自分の腹を、じっと見た。それから、今度は顔を上げて家の中の気配に耳を澄ました。深夜の家は静まり返って、房江も台所部屋のくめも、さっきの物音には気づかずに幸福な眠りにつつまれているらしかった。
ひとつだけ心配がある、と重兵衛は言った。
「わしの身は自分で守るとして、城にいる間は家までは目がとどかぬ」
「家の者にも危険があるとおっしゃるのですね」
「そうだ。わしの口をふさぐためには、相手は手段を選ばぬかも知れん。そこまで覚悟しておく方がよさそうだ」
「どうぞ、ご懸念なく」
茂登が静かに言った。
「およばずながら、房江どのとくめはわたくしが守ります」
「たのんだぞ。そなたが頼りだ」
と重兵衛は言った。そして茂登と、かつてなかったほどに気持がぴったりと通い合っているのを感じた。今夜のことにしても、もしこの家に茂登がいなかったら、いまごろはひどいことになっていたかも知れぬ。もはや茂登は、この家になくてはならぬ人間だと重兵衛は思った。
それならば、せっかく話も気持も通い合っているこの夜に、ほんの少し、いつかは話し合わねばならぬ再婚のことに触れてみるべきだろうか。重兵衛は咳ばらいをした。
「ええーと、ところで以前に何か相談ごとがあるようなことを言っておったな。ついでだから、いま聞こうか」
「いいえ」
茂登は、急に鼻白んだような顔をした。
「その話なら、もうけっこうでございます」
「けっこうということはあるまい」
「でも、いまごろそうおっしゃられても、どうしようもありません」
茂登はつぶやくように言うと、固い表情でうつむいてしまった。
──何だ、これは。
茂登の豹変ぶりに重兵衛はうろたえた。
女子はこれだから困る、と思ったが、しかしあのあとでつぎつぎといそがしいことが出来たとはいうものの、茂登の相談ごとというものを早速に聞いてやらなかったのは、いかにもまずかったらしいと悟っていた。
せっかくのいい雰囲気に、自分から水をさしてしまったと重兵衛は悔んだ。
「何年ぶりだ? 五年ぶりにもなるか」
椎名又左衛門はいや味を言った。剣の師匠でもあり舅《しゆうと》でもあった人のいや味は胸にこたえる。
重兵衛は小さくなって答えた。
「いえいえ、昨年の暮に房江をともなって、一度たずねております」
「そうか、忘れた」
と椎名は言った。
「そなたはもう婿というわけではないから、来ようと来まいとそなたの勝手だが、房江は椎名の孫だ。もっと足しげくこっちに遊びに寄越してもよさそうなものだと、わしではなく、ばあさまが不平を言っておるぞ」
「おそれいります。そのようにいたします」
と重兵衛は言った。ばあさまというのは、椎名の老妻のことである。
椎名又左衛門は隠居して、いまは重兵衛とほぼ同じ年配の長男、いまの当主が物頭の役職をついでいる。そういう家なので、椎名の家の庭はひろかった。
植込みの枝が奥深い翳をつくり、池のそばの芒《すすき》の株は長い穂を日に光らせている。時おりぱしゃりと水音がするのは、池の鯉がはねるのだろう。
池の北側に欅《けやき》の大木があり、木と塀の間に細長く均《な》らされた黒土が見える。そこが無外流の稽古に使われる場所である。椎名又左衛門は江戸で奥儀を得て来た無外流の剣士で、藩の許しを得て勤めのひまに門弟を教えた。ただし道場もないただの家でする指南なので、弟子の数は少なく、多いときで五人、普通は三人ほどだった。
重兵衛も臼井内蔵助も、いま木の陰に三分の一ほどのぞいている稽古場の土の上で、無外流の修行に汗を流したのである。いまはその場所には人の姿は見えず、欅の高い梢《こずえ》からしきりに降る落葉が見えるだけだった。
「後添いは、まだもらわんのか」
突然に椎名が言ったので、重兵衛は庭から眼をもどした。
「こっちに気がねなぞはいらんぞ。男やもめなどというものはむさくていかん。房江のためにもよくない。きちんと後添いをもらうべきだ」
「はあ、そう思ってはおりますが……」
「ええーと、それ……」
椎名は皺が目立って来た細いあごを指でつまんで思案したが、やっと思い出したらしく言った。
「相庭の娘は家にまだおるのか」
「はい、おります」
「来てから、かれこれ十年にもなろう」
「いえ、そんなにはなりません。五、六年です」
「五、六年もいれば十分だ。聞いたところでは、房江も母親同様になついておるというではないか」
「そのようです」
「なぜ、その娘を後添いにもらわぬ」
「はあ、いろいろと事情もありまして」
「たわけたことを申す。それが四十を過ぎた男の言うことか」
椎名は罵《ののし》った。
「数年も家の中を手伝わせて、いまさら事情もへちまもあるまい。後添いにもらえぬなら、即刻実家にもどすべきだ。それが男のけじめというものだ」
「仰せのとおりです」
「家の始末をおろそかにしたまま、夜毎こおろぎ小路のあたりを徘徊《はいかい》していると、長年家中の評判を落としているのを知らぬわけではあるまい。房江の父親として、いま少ししゃんとせぬか」
「お言葉ですが、師匠」
重兵衛はおそるおそる言った。
「近ごろ、初音町には行っておりませんが」
「なに」
「それがし、酒をやめました」
「どういう風の吹き回しだ」
と椎名は言った。顔には不信のいろが浮かんでいる。
「いささか考えるところがありまして、酒を断ち、ごぶさたしておりました剣の方も、少少お手直しを頂こうかと、今日はそのお願いに参上したようなわけです」
「ははあ」
椎名はにやりと笑った。
「さきごろ、上の方に何かの役目を言いつけられて、見事失敗したらしいという話はまことだな。それで一念発起したか」
重兵衛はぎょっとして椎名の顔を見た。その一件は新宮が厳重に秘匿《ひとく》して、田口庄蔵の死も病気扱いにし、外部には一切洩らしていないはずである。
重兵衛は言った。
「いまの話はどこから?」
「わしにも耳はある」
「………」
「と言っても、じつはくわしい話は知らんのだて」
言ってから隠居は、重兵衛の腹のあたりを睨《ね》めつけるような目で見た。
「しかしわしに言わせれば、そなたの腕を見込んだ人物は、いったいどこに目をつけているのかと言いたい。むろん引き受けたそなたもそなただ。いまの粒来重兵衛はむかしの重兵衛と似て非なるものだ」
そこまで言われては、重兵衛もうす笑いばかりもしていられない。むっつりと黙りこむと、椎名は突然に、そこへいくと与七郎はえらいと、臼井のむかしの名前を持ち出した。
「それよ、一年ほども前になるか。ひょっこりとこの家をたずねて来てひと汗流して行ったが、力はさほど衰えてはいなかったな」
「………」
「聞いてみるとあの男は、いまも毎朝、木剣の素振りを欠かさぬそうだ。毎朝だぞ。体力を養わなくては執政も勤まりませんと笑っておったが、なかなか出来ることではない」
「たしかに」
仕方なく重兵衛は言った。しかし臼井に対する反感がこみ上げて来て、相槌を打っただけで顔が引き攣《つ》るような気がした。
そんなことには気づく由もなく、椎名はとどめを刺すように言う。
「いまでは重兵衛、与七郎と立ち合ってもそなたは勝てんぞ。何の不思議もない。よく勤めるものが勝つのだ。そなたは酒を喰らうばかりで、木刀になどひさしく触れたこともあるまい」
「………」
「なさけない話だ。ひところは無外流の名手、わしの跡つぎと言われた男が、このざまだ」
重兵衛の胸に屈辱感が溢れた。重兵衛は椎名の詠嘆を聞いていなかった。与七郎には勝てないぞ、という言葉だけが頭に残った。すると屈辱感を押しわけるようにして、強い焦りが顔を出した。
「師匠、いかがでしょうか」
重兵衛は頭を低くして頼んだ。
「申し上げたお手直しのことですが、お聞きとどけねがえませんか」
「いまさら無駄だと思うがの」
椎名又左衛門は、もう一度重兵衛を上から下まで一瞥《いちべつ》してからつめたく言ったが、そこでやっと顔いろをやわらげた。
「しかし、せっかく発心して来た者を、追い返す手もないか。よかろう、安之助にみてもらえ」
安之助は又左衛門の末子である。はいと言ったものの、重兵衛がやや気落ちした表情をみせたのに気づいたらしく、椎名は、近ごろは腰を痛めて稽古はあらかた安之助にまかせているのだと言った。
「安之助を侮ってはいかんぞ。いまではわしも、三本に二本は取られるほどの腕になっておる。兄弟の中では、あれが一番出来がよい」
重兵衛は先に庭に降りて、安之助を待った。跣《はだし》になって、砂をまぜて平らにしてある稽古場の土に立つと、自分が長い間、何か途方もなく大事なものをなおざりにしたままで日を過ごして来たような気がした。土のつめたさが気持よかった。
重兵衛は振りむいて欅の木を見た。傾いた日射しが欅を照らして、まるい幹の半分だけをうす赤く染めていた。重兵衛は、まだ少女の気の抜けない齢ごろの妻が、時どき欅のそばに来て稽古を見ていたことを思い出した。そんなことがはたしてあったのだろうかと、信じられない気がするほど遠いおぼつかない記憶だった。
──あれから……。
何十年にもなる、そしてここに醜く腹のふくれたおれがいる、と重兵衛は思った。重兵衛の胸に、静かなかなしみが入りこんで来た。
妻に死なれたあと、物に憑《つ》かれたようにこおろぎ小路に通ったのは、やはり当座のかなしみ、さびしさからのがれるためだったろう。重兵衛も若かったのである。しかしそのうちに酒そのものがうまくなって、小路通いの、それが主たる目的になると、妻の顔は少しずつ遠ざかった。日日かすかになって行った。
それでも、一度深い傷を負った心は、どこかにかさぶたに覆われたような弱い部分を残すのか、重兵衛はいまのように、予期せぬかなしみに襲われることが時おりあった。呆然と立っている重兵衛のまわりに、欅がひっきりなしに枯れた葉を落とした。
「やあ、お待たせした」
快活な声がして、重兵衛が振りむくと二本の木剣を抱えた安之助が立っていた。安之助は二十四か五で、どこからか婿の口がかかるのを待っている身分である。
背が高くて男ぶりもよく、いつも颯爽《さつそう》としている青年だった。
「ではこれで、さっそく……」
挨拶が済むと、安之助は重兵衛に木剣を一本わたした。
「五十本ぐらい振ってみてください」
「心得た」
と重兵衛は言った。
やや重い木剣を高く構えて、前進し後退し、懸命に振るとしまいには息が切れて、汗びっしょりになった。
「どうです、息が切れませんか」
じっと見守っていた安之助が、重兵衛が振り終るとすぐに近づいて来て言った。少少、と重兵衛は答えた。実際には口は渇き、しゃべるのも困難なほどに息切れしていたが、むかしの義弟の手前、あまり正直なことも言いたくなかった。
そういう重兵衛を、安之助はじっと見つめていたが、呼吸が静まったのを見はからったらしく軽い口調で言った。
「では、もう五十本行ってみますか」
「もう五十本?」
「辛いですか」
「いや」
重兵衛は懸命に木剣をふるった。たちまち息が切れ、それはさっきよりひどくて、重兵衛は途中から口をあけて喘《あえ》いだ。五十本の素振りを終るころには、頭が朦朧《もうろう》として足が縺《もつ》れた。
最後の一本を振りおろすと、重兵衛は見栄も外聞もなく木剣を下に落とし、両手で膝頭をつかんだまま蝦《えび》のように身を曲げた。そのままはげしく喘いだ。喉がぜいぜいと音を立て、心ノ臓は口から飛び出しそうに躍りくるっている。
安之助は、今度は息が切れたかとは聞かなかった。そばに来ると無造作に言った。
「手直しよりも、これは身体の手入れの方が先ですな」
「………」
「しかし、ま、何とかなるかな」
みじめに喘いでいた重兵衛は、安之助の快活な声を聞いて思わず顔を上げた。
「まことか、安之助どの」
「むろん。これだけ木剣が振れれば、まありっぱなものです」
安之助はにこにこ笑って請合い、さすがにちょっとの素振りにもむかしの片鱗がのぞきますなと、重兵衛を力づけるようなことを言った。
藩主の密書を強奪するという大事件も、結局は人の口にものぼらず、また重兵衛に犯人を思い出す気配はないと見きわめたか、重兵衛に対する臼井の攻撃もやんだままで年が暮れた。
年が暮れる少し前ごろ。十一月の寒くて月の明るい夜に、子持川の上流の岸を、太めの天狗|様《よう》のものが上流から下流へ、下流から上流へと疾駆し、時には川の中洲から中洲へ跳躍して遊ぶのを見たという者が相ついだことがあったが、それは椎名安之助の助言で、身体作りに余念のない粒来重兵衛を見誤ったものだった。
多少とも人の耳をそばだてさせたことと言えばその程度で、何事もなく年が明けた。そして、やがて城下は降り出した雪に埋まり、人びとは陰鬱な冬雲の下で、面を伏せがちに春を待った。
長い冬が終ったのは三月である。日一日と日射しは強くなり、その日の下で雪が解け、寒さも姿を消してやがて花の話題が人の口にのぼるようになった。城下の人びとの顔に活気がもどったそのころに、家中の間を二つのうわさ話が駆け抜けた。
うわさのひとつは、江戸の藩邸から帰国した側用人の三谷甚十郎と次席家老の臼井内蔵助が、筆頭家老杉森庄兵衛の屋敷で大論争を行なったというものだった。論争には中老の新宮が立ち合ったとも言われた。しかし論争の詳細は不明だった。
同じころ、町奉行の助川治太夫が配下の同心をひき連れて水油問屋新海屋に乗りこみ、帳簿を押さえる一方、主人の新海屋宗兵衛を二日にわたって訊問したのも、家老屋敷の論争にかかわり合いがあるともささやかれたが、こちらの取調べの中身も不明で、むろん外部には何も公表されなかった。
ただその直後から、臼井家老と新宮中老が露骨な人あつめ、派閥づくりに乗り出し、家中はやがて二分される形勢になった。その動きはそのあともつづいていて、粒来重兵衛も新宮から誘いが来はしないかと心待ちにしているのだが、中老は前の失敗に懲りたのか、まだ声をかけて来ていない。むろん、臼井派らの誘いはなかった。
もうひとつのうわさは、粒来重兵衛自身に関することで、重兵衛が城内であばれ馬を取りおさえたことが、人びとの話題に上《のぼ》ったのである。
そして藩上層部の論争が、ある懸念とともにひっそりとうわさされたのとは違い、重兵衛が馬をつかまえた話は、一種の笑い話として陽気に語られた。人びとは三ノ丸の馬場から二ノ丸まで、逃げる馬を追って走った御馬役粒来重兵衛を、何となく滑稽な人物のように思ったようである。
しかしむろん、当の重兵衛にとっては、事件は笑い話どころではなかった。御厩足軽を一人蹴倒して馬場から外に逃げ出したのは、谷嵐という名前がついている気の荒い黒鹿毛だった。三人ほどの足軽が、日向で谷嵐の毛を梳《す》いてやっている最中の、突然の出来事である。
その日馬場に出ていたのは谷嵐一頭だけで、そのために油断があったのか、馬柵《うませ》の隅の出入口が開いていた。谷嵐はそこをすり抜けて外にとび出した。
さわぎが大きくなったのは、馬が馬場前の広場を横切って北ノ橋にむかったからである。三ノ丸と二ノ丸を結ぶ橋の中で、北ノ橋はもっとも警固が手薄な橋だった。二ノ丸の入口に門番が一人いるだけで、その門は日中は常時開いている。
足軽の叫びと馬蹄の音を聞いて、御馬役三人が詰所からとび出し、数名の足軽下男と一緒に馬を追いかけた。しかし馬が橋板を踏み鳴らして北ノ橋を駆け抜けたとき、追いすがって遅れずに橋を渡ったのは重兵衛一人だった。ほかはみるみる遅れた。
二ノ丸には三ノ丸のような建物はないが、大手門の附近は人が混んでいる。それにもうひとつ内濠の橋をわたれば本丸だった。谷嵐に本丸御殿の庭や建物にとびこまれたら、御馬役がそろって腹を切っても追いつかない。そう思いながら、重兵衛は必死に走った。二ノ丸の濠ぎわの桜が咲きはじめているのが、そんな緊張の際にもちらと眼に入った。
馬は桜の木の下を疾駆し、本丸の裏側の濠に沿って二ノ丸の広場をほぼ半周した。そしてやがて前方に本丸御殿に出入りする人びとの姿が見えて来た。狂奔する馬に気づいて、はやくも逃げ惑う者がいる。
重兵衛は、渾身《こんしん》の力をふりしぼって馬との差をつめた。そのときの有様を仔細に見ていた人がいたら、笑い話どころか驚嘆したに違いない。重兵衛は顔を赤くして歯を喰いしばると、ついに馬に追いついた。そして走りながらじりじりと馬の横に並びかけ、手をのばして波のようにうねる尾をつかんだ。
馬は嘶《いなな》いて棹《さお》立ちになった。そしてそのままくるりと向き直ると、前足で重兵衛を抱きこもうとした。人と馬は一対一で向き合った。
しかし重兵衛の動きの方がすばやかった。のび上がって轡《くつわ》をつかむと、重兵衛はいきなり馬の顔をなぐりつけた。馬は首を振り、泡を吹いて噛みつこうと猛りくるったが、重兵衛は右に左にやわらかく体をかわしながら、つかんだ轡を放さなかった。馬はだんだんに頭を下げ、最後に一度派手に後足をはね上げると、急におとなしくなった。そのときようやく駆けつけた足軽が、持って来た手綱を馬につないだ。
始末がついたときは、馬も重兵衛も大手門のそばまで来ていた。いつの間にか人垣が出来ていて、馬がつかまると賞賛のどよめきが起きた。盛大に拍手をした者がいたが、これは話を聞いて会所から駆けつけた出入り商人たちかも知れなかった。
しかしそのとき重兵衛をほめそやした者も、後で話を聞いて笑った者も、重兵衛の常人ばなれした脚力にどこまで気づいたかは疑問である。馬を追いつめてつかまえるには、馬並みの脚力が要るだろう。
そのことに、重兵衛自身は気づいていた。馬並みに走れて、しかも息は切れたもののすぐに回復した。疲れて地面にへたりこむような不様なことはせずに済んだ。
──安之助どののおかげだ。
と重兵衛は思った。その日の出来事は、重兵衛にひさしく忘れていた自信をもたらした。重兵衛の胸に、男らしく荒荒しい気分が生まれた。その気分を抱えたまま、下城した。
寝部屋を茂登と房江に取られたので、重兵衛は奥の一間を寝部屋兼居間に使い、男やもめ然と一人はなれてそこで暮らしている。しかしその日、着換えを手伝うために茂登が部屋に入って来ると、重兵衛は挨拶もなくむずと茂登の肩をつかんだ。
茂登はおびえた表情で重兵衛を見た。かつてないことなので、とっさにこの家の主人の精神状態を疑ったらしい。
「ずっと気になっていたことがある」
胸にまだ荒荒しい気分が動いているのを感じながら、重兵衛は言った。
「あのときの相談ごとは、何だったのだ」
「もう、よろしゅうございます」
「よくはない。申せ」
「縁談があったのですよ」
「縁談?」
重兵衛は呆然と茂登を見た。
「それは済まなかった」
「もういいのです」
重兵衛の胸に、茂登に対する哀憐の情がしのびこんで来た。その感情はみるみるふくれ上がって、重兵衛は背に手を回して茂登の身体を引きよせた。
あたたかくて、やわらかな身体だった。重兵衛は茂登の耳に、どこにも行くなとささやいた。茂登がうなずくのを見て、さらにささやいた。
「今夜、人が寝たあとでこの部屋に来い」
茂登の顔が赤くなった。吐息をついて眼をつぶると、茂登ははじめて手をのばして重兵衛の胸に縋《すが》った。長年嗅ぎ馴れて食傷したのか、もう馬くさいとは言わなかった。
下城の太鼓が鳴っているのを、重兵衛は足軽の沼崎信助と一緒に馬を洗いながら聞いた。
「おい、粒来」
厩につづいている詰所から出て来た男が、重兵衛を呼んだ。上役の萩原作蔵である。
「まだ手間どりそうか」
「もう少しですが、どうぞお先に」
と重兵衛は言った。
厩の端にある水槽の水で洗っているのは雄の三歳馬で、ついさっき御馬乗の間瀬源五が、馬場に引き出して乗って行ったばかりである。間瀬は、これはいい馬だ、これからどれだけよくなるかわからないとほめて帰ったが、重兵衛も係りの沼崎も、つね日ごろからそう思っていた。
その三歳馬は、黒い体毛が青黒い光沢を放つ青駒で、男ぶりがよいというと語弊があるが、馬相がよく、走る姿がすぐれていた。走りはじめると、馬体に何とも言えない気品と鋭さがにじみ出る。足が速かった。
馬はひと汗かいたあとなので、水で洗ってやると気持よさそうに眼をほそめ、時どきぶるぶると身体をふるわせた。
──下城をいそぐことはない。
と重兵衛は思っていた。明日は非番である。重兵衛は濡れたたわしをつかんだまま、腰をのばしてあたりの景色に眼をやった。
厩のある一帯は三ノ丸の濠ぎわの杉の陰に入り、わずかに馬場の馬柵のあたりに日があたっていた。三ノ丸の裏門に近いそのあたりは、通る者も稀な場所で、いまも歩いている人の姿は一人も見えなかった。
そして夕日はまともに二ノ丸の松の梢を照らしていた。そのために梢の葉は光りかがやいて見える。少しはなれた空に、秋の雲が一片、軽やかに浮いている。そのあたりから目をもどすと、厩と馬場がある一帯はひどく暗く見えた。
「そろそろ、終りにするか」
沼崎に声をかけて、重兵衛は襷《たすき》を解こうと手を上げた。
その手がとまったのは、そのときどこかで重くるしくどよめくような物音がするのを聞いたからである。大風がうなるようでもあり、大勢が叫ぶようでもある異様などよめきだった。その物音は二ノ丸の方角から聞こえてくるようで、そのまま消えずにつづいている。
「何だ」
重兵衛が耳を傾けていると、沼崎も手をやすめて、火事ではないでしょうかと言った。沼崎はそう言いながら、不安そうに二ノ丸の松の巨木がならぶあたりを見ている。
どよめきが聞こえて来るのは、ちょうどその松の陰、こちらからは見えないが大手門や広場をへだてて会所、郡代屋敷と三ノ丸の役所がならぶ方角である。沼崎の意見は故のないことではなかった。
異様な物音はみんなの耳にとどいたらしい。詰所に残って将棋をさしていた同僚の御馬役、厩で仕事をしていた足軽、下男も残らず外にとび出している。ともに不安そうに二ノ丸の空の方を見上げていた。
そのとき重兵衛は、三ノ丸の隅に遠く見えている普請組の建物から、刀をつかんだ男たちがつぎつぎに走り出て、大手門の方にむかうのを見た。厩から見える三ノ丸の建物は、普請組の詰所と道具置場があるそこだけである。
異変が起きた、と重兵衛は悟った。
「後をたのんだぞ」
ひと声残すと、詰所に走りこんで刀をつかんだ。そのまま跣《はだし》で外に走り出た。残っていた同僚もあわてて重兵衛に倣った。
濠に沿って大手門の方に走って行くと、やがて重兵衛の耳に騒然とした人声がとびこんで来た。罵る声、叱咤《しつた》する声、人の名を連呼する声、意味不明の叫び声、それらの声をつつむ声にならないどよめき。そして突然に、その中にはげしく刀を打ち合う音がまじる。
人の姿も見えて来た。大手門前の三ノ丸広場に、黒山のように人が群れて右往左往していた。重兵衛は人を掻きわけて前に出た。すると真先に臼井内蔵助の姿が見えた。
臼井は肩衣をはね、手に血がしたたる刀をにぎっていた。髪は乱れ、逆光のせいか臼井の顔は正視に堪えないほどに青ざめて見える。家老の背後を、やはり刀をにぎった二人の若い武士が固めていた。二人は臼井家の家士《かし》か、あるいは臼井派の人間か、どちらかだろう。
三人はゆっくりと動いていた。広場を横切って、三ノ丸の木戸にむかうつもりのように見えた。
十人あまりの若い男たちが、その三人に刀をむけながら一緒に広場を移動していた。若者たちは、番頭《ばんがしら》の命令で臼井を追って来た城からの討手でもあるのか、時どき小走りに足場を変えては臼井の隙を窺い、すぐにまた小走りに前に走る動きをくり返している。
「御家老を城の外に出してはならんぞ」
膠着《こうちやく》状態に苛立ったのか、指揮者らしい男が叫び、その叫びがきっかけをつくったように、はげしい斬り合いが起きた。
臼井は前方から斬りかかった若者に、わざと斬りこませたように見えた。余裕をみせて体をかわした。追撃の二の太刀も軽くかわすと、逆に存分に踏みこんで剣を振りおろした。腰が入った見事な袈裟《けさ》斬りである。臼井の身のこなしは軽捷で、遣う太刀には力があった。斬りこんだ若者は肩を深く斬り下げられて、横転した。多分即死したろう。しかし臼井の方も、いまの斬り合いで背後を固める一人が倒れ、一人が手傷を負ったようである。
臼井はゆっくりと移動しながら、少しずつ重兵衛が立っている方に近づいて来る。
「いったい、何事が起きたのですか」
臼井の動きに鋭く目をそそいだまま、重兵衛はそばに立つ白髪の老武士に聞いた。
「臼井家老は、きょう城中で査問を受けていたのだ」
と老武士が言った。
「途中で言いのがれに窮し、突然に相手側に斬りつけたと聞いておる」
「………」
「家老の富田万次郎さまが即死、中老の新宮さまが手傷を負われたそうだ」
重兵衛は眉をひそめた。
「査問の席に、なぜ刀が」
「また聞きだが、守屋という臼井派の男が、部屋に刀を投げ入れたらしい。うわさでは、その男はその場で斬り伏せられたともいう。血なまぐさい話じゃ」
そこまで聞いて、重兵衛はつかんでいた刀を腰にもどすと、人垣をはなれて前に出て行った。臼井の進路をふさぐ位置に立つと、むき直って近づく臼井を待った。
やがて臼井は、自分の行手をふさいでいる重兵衛を見つけた。立ちどまると、ひとことずつ押し出すように、声をかけてきた。
「粒来! 重兵衛!」
その声を聞いて、ただ一人残った護衛が前に出ようとしたのを、臼井は制した。
臼井はさらに、身ぶりでまわりの討手にも、うしろにさがれと合図した。その身ぶりには、さすがに家老の威厳のようなものがあって、討手の男たちは、刀を構えたまま少しずつ後にさがった。
ぽっかりとあいた地面に、およそ五間の距離をはさんで重兵衛と臼井が向き合った。重兵衛は仕事用の古びた袴の股立《ももだ》ちをとり、よごれた襷をかけ、跣で立っている。怠りない精進にもかかわらず、腹はまだかなり前に出ている。
対する臼井は、衣服にはあちこちに返り血を浴び、いろ青ざめて髪をふり乱し、幽鬼《ゆうき》のように見えた。はいている白足袋は真黒になっている。二人が対峙の形をとると、広場は突然に静まり返った。人人は息を殺して二人を見守った。
「重兵衛」
呼びかけると、臼井は不意に笑顔になった。しかしそれは何とも言えない邪悪な笑いに見えた。
「じゃまするか、重兵衛」
笑顔のまま臼井はそう言ったが、不意に笑いをひっこめると刀をにぎり直した。一歩、二歩と臼井は前に出た。そして剣を八双に上げると突然に走って来た。臼井は悪鬼の形相になっている。
重兵衛も前に走った。二人は刀を打ち合って擦れ違った。足をとめて向き直ると、また走り寄って刀を打ち合った。
三度目に斬り合ったとき、重兵衛は臼井の肩に袈裟斬りを放った。しかし臼井はかわして、重兵衛の刀を押さえこもうとした。はね返したとき重兵衛の刀は刃を上に返し、かつて得意技とした下段からの攻撃剣に変っている。
重兵衛は足を踏み変えた。しかし重兵衛のその動きを、臼井は押さえこまれてあがいたと見たかも知れない。すばやく足をひくと剣を上段に引き上げた。そして再度踏みこみながら鋭く斬りこんできた。迅速で力のある攻撃だった。臼井はその一撃で勝ちを信じたかも知れなかった。ちらと笑ったようである。しかしつぎの瞬間、重兵衛は臼井の剛剣を掻いくぐって前に走っていた。下段の剣が、存分に臼井の脾腹を斬り裂いたのを感じていた。
振りむいて、重兵衛が倒れている臼井を見たとき、日はまだ、わずかに広場の隅の欅の梢にとどまっていた。広場の人びとは静まり返ったままだった。
その夜は、重兵衛が家に帰ったのは四ツ半(午後十一時)過ぎになった。戸をあけると、いつもはその時刻にはとっくに眠っている房江もくめも、玄関まで出迎えた。
「どうなさいましたか」
と茂登が言った。夕方の事件のことは知らせる人がいて聞いたと言った。
「みんな、とても心配していたのです」
「大目付の屋敷に連れて行かれてな。長長と調べられた。そのあとで新宮さまから使いが来て、そちらにも寄って来たのだ」
「お咎《とが》めがあるのですか」
「臼井との間の私怨がどうこうと聞かれたが、人に打ち明けるべきことではない。向うも形だけの取調べのようだったから、ま、大丈夫だろう。新宮さまは加増を約束された。もとの百石にもどされるとよいが」
さ、そういうことだ、何も心配はないからみんな寝ろと言って、重兵衛はようやく土間から上がった。疲れはてて、臼井との斬り合いで受けた腕の傷が痛かった。
「あとで傷を手当てしてくれぬか。それから腹がすいた、何か喰わしてもらおう」
着換えを手伝うために、部屋について来た茂登に重兵衛は言った。
わかりましたと茂登は言い、どこを怪我したかとたずねた。重兵衛が腕の傷を見せると、かすり傷とわかって安心したらしい、茂登はほっとした顔になると、不意に両手をひろげて重兵衛を抱いた。
「ご無事でよかった」
胸に顔を埋めてそう言うと、茂登は不意に熱狂的に重兵衛を抱きしめた。万力のような抱擁だった。メキメキと骨が鳴った。
「骨を傷めぬように気をつけてくれよ」
重兵衛は小声で頼んだ。そして今年は雪が降るまでに茂登との再婚の披露をしなければなるまいと、ぼんやりと思った。
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山姥橋夜五《やまんばばしよるいつ》ツ
息子の俊吾が、床につく挨拶をしに来た。書見をしていた柘植《つげ》孫四郎は、息子が出て行ったあとしばらく、部屋の入口に顔を向けたままぼんやりと考えに耽《ふけ》った。息子の顔を見て、今日の下城間ぎわに大玄関で出会った野々村新蔵が言ったことを、また思い出したのである。
野々村新蔵は右筆《ゆうひつ》を勤める藩士だが、非番の日には、俊吾が通っている浅井という丹石流の道場の次席を兼ねる。新蔵の丹石流は技の切れが無類で、師範代の岡安満之助をしのぐのではないかといううわさがあったが、孫四郎はその技を見たことはない。
その新蔵は孫四郎を見ると、唐突なことを申し上げるようだがと前置きして、近ごろ道場で俊吾が無用の争いをする、少し家で叱っていただけまいかと言った。
「無用の争いと言われると?」
そのとき孫四郎は、思わず新蔵にそう問い返している。
俊吾は十二歳だが、父親の目にはあまりに骨細な、透き通るような白い皮膚を持つ気弱な子供と映る。そういう息子を孫四郎は日ごろ、武士の子がこう柔弱では仕方がないと歯がゆいような気分で見ているので、新蔵の言葉は意外だった。いくらか怪訝《けげん》な気分で問い返した。
「何か、倅《せがれ》が喧嘩するとでも?」
「そうです」
「まさかこちらから仕かけるのではあるまい」
「いえ、そのまさかです」
新蔵はほんの少し笑った。しかし右筆という勤めには似合わないほど陰気で、色が黒くごつごつした醜い容貌を持つ新蔵に、微笑は似合わなかった。新蔵はすぐに無愛想な顔にもどって、喧嘩を仕かけるのは俊吾の方だと言った。
「ただの喧嘩なら大目に見ますが、相手に怪我をさせることがありますので」
「倅が……」
孫四郎はほとんどあっけにとられていた。
しかし新蔵の話を聞くと、孫四郎も息子の俊吾が家の外ではきわめて粗暴な子供であることを認めないわけにはいかなかった。俊吾は稽古の最中に、突然に竹刀を得物に相手に殴りかかるし、稽古が終ったあとも素手で友だちと殴り合うことがある、と新蔵は言った。
「もちろん道場では、そういう場合はきびしく折檻《せつかん》しますが、いっこうに改まらないのでかようにお願いするわけです」
「喧嘩の理由は?」
「それが、どうも……」
と言って、新蔵は浮かない顔をした。喧嘩の相手が言ったかしたかすることが気にさわるには違いないけれども、たとえばみんなが俊吾がいじめているといったたぐいの、はっきりした理由は認めがたいと言った。
「とにかくそういう次第で、あの子は道場の行きも帰りもいまは一人きりのようです」
「ほほう」
それもはじめて知ることだった。孫四郎は新蔵との立ち話の間に続続と下城して行く男たちを見ながら腕を組んだが、ふと思いあたることがあって聞いた。
「倅がそういうふうになったのは、いつごろからであろうか。ご記憶はないか」
「されば……」
新蔵はうつむいた。正確な記憶を呼び起こそうとしているようだったが、やがて顔を上げた。
「目立つようになったのはここひと月ほどのことですが、それらしい徴候はもっと前、ざっと半年前からあったように思います」
「いや、申しわけない」
孫四郎は新蔵に謝り、家でもきびしく言い聞かせるゆえ、このあとも目をかけてもらいたいと頼んだ。
しかし家にもどっても、孫四郎はそのことを息子に言わなかった。俊吾の気持が荒れているという話には心あたりがあった。しかしその心あたりなるものは不用意に息子の前に持ち出していいようなものではなかったし、そうかといって、肝心のそのことに触れずに、ただ道場での粗暴な振舞いを叱ってもさして役には立つまいと思われたのである。
──瑞江《みずえ》を離縁したことを……。
俊吾は子供心にまだ納得していないのだ、といまも孫四郎は思っていた。外で荒れるのは、多分そのせいである。
孫四郎が妻を実家にもどしたのは去年の秋、ざっと半年前のことである。江戸詰が終って国にもどると間もなく、孫四郎は妻に不義のうわさが立っているのを知った。およそ思いもかけなかったことである。きびしく問いつめたが、瑞江は頑強に否定した。何かのお間違いではありませんかと言った。ふてぶてしい言いぐさにも聞こえた。孫四郎は人を頼んで、瑞江が男と密会したといううわさの伊賀町の小料理屋をさぐってみたが、確証はつかめなかった。
しかし、瑞江が頭巾で顔をつつんだ男とともに、「葛の家」というその小料理屋を出て、男に送られて家にもどった、それは孫四郎が帰国するほんの半月ほど前のある夜更けのことだといったうわさには、生なましい感じが出ていた。誰か、目撃した者がいたとしか思われない。確証をつかめないまま、孫四郎はある夜、すでに寝所をべつにしていた妻を呼んで離別を言いわたした。
瑞江はその夜、寝もやらずじっと考えこむ様子だったが、やがて姑の部屋に入ってしばらく話したあとでそこばくの荷物をまとめ、未明を待ってひっそりと家を出て行った。瑞江の実家からはそのまま何の挨拶もなく、半月ほどしてから瑞江の衣類を引き取る使いの者が来ただけだった。
孫四郎の胸には、釈然としない思いが残った。妻を離別したことに後悔はなかったが、瑞江の態度には疑問が残った。そして不義の相手が何者かは、結局はわからなかったのである。もっとも孫四郎は、いまはそれを知りたいとは思っていない。
──乱暴の理由が……。
母親の離別にあるとすれば、野々村にはわるいが、俊吾はこのままにほっておくのがいいかも知れない、と孫四郎は考える。
俊吾が男子なら、いずれは自分のいまの気持に、みずから決まりをつける道を見出すはずだと孫四郎が思ったとき、部屋の外にあわただしい足音がした。俊吾がもどって来たのかと思ったら違った。声をかけて襖《ふすま》をあけたのは婢《はしため》のおとくだった。
「旦那さま、塚本さまからのお使いですけれども」
おとくはびっくりしたような顔で言った。
「それが、何だか変でございますよ」
孫四郎は書物を閉じると、無言で立ち上がった。玄関に出ると、そこに提灯《ちようちん》を持った塚本家の老僕が立っていた。弥平という、顔馴染みの年寄りである。
その顔色を見て、孫四郎は塚本半之丞の家に何事か異変が起きたのを悟った。弥平の顔色は土気色で、孫四郎を見ても口もしめられないほどに、はげしく喘《あえ》いでいる。年寄りが、夜道を走って来たのだ。
「何事だ、弥平」
と孫四郎は、親友の家の老僕に言った。
「夜道を走って来るほどの急用か」
「はい」
弥平はようやく唾をのみこんだ。
「奥さまが、柘植さまをお呼びして来いと……」
「何があったのだ?」
「はい、旦那さまが……」
と言って、弥平はたまりかねたようにすすり泣いた。くずおれて、式台に手をついた。
「お腹を召されました」
孫四郎はおとくに、弥平に水を一杯やれと言いつけると、着換えるために奥に引き返した。
孫四郎が死者の顔に白布をもどすと、向い側にいた半之丞の妻芙佐が、部厚い封書を渡した。
「これが……」
芙佐は落ちついた声で言った。
「柘植さまにあてた遺書でございます」
声はしっかりしているが、芙佐の頬にははやくも憔悴《しようすい》の色がうかんでいる。芙佐は、つづけてどうぞお改めくださいませと言った。
孫四郎は無言で封書をあけると、死者の枕もとに置いた燭台の光で、すばやく遺書を読みくだした。そしてしばらく読みすすんだところで、孫四郎は思わず顔を上げて部屋の中を見回した。そこにはおどろくべき藩の秘事が記されていたのである。
しかし、部屋の中には孫四郎と芙佐、そして二人の間に清潔な夜具に包まれて横たわっている死者だけだった。孫四郎は読み終った遺書を丁寧に巻きもどすと、襟をくつろげて懐の奥深くしまった。
「ほかに遺書は?」
孫四郎は、自分の動作のひとつひとつに、注意深く目をそそいでいる芙佐に言った。
「ほかは、わたくしあての一通だけでございます」
「それにはどのようなことを?」
「後の始末は柘植さまにご相談しろということ、子供を頼むということだけでございました」
孫四郎はほっとして、さようかと言った。すると、芙佐が鋭く問いかけて来た。
「そちらの遺書の中身は、どうやらお聞かせねがえないようですね」
「残念ながら……」
「半之丞はなぜ腹を切ったのでしょうか」
芙佐はうつむくと、ひとりごとを言うように言った。それは腹を切った連れ合いを発見してからずっと、腹の中から去らない疑問であるはずだった。
芙佐は顔を上げて孫四郎を見た。一瞬だが、狂おしいような目つきをした。
「遺書には、そのわけも書いてございますか」
「あらましは……。しかし、いまここで言うわけには参りません」
塚本家のためです、と言い添えたが、孫四郎はそれでもまだ自分の言い方がつめたいような気がして、さらに言い足した。
「いずれお話し申しましょう。約束いたす」
「ありがとうございます」
にわかに寡婦になった女は、小声でそう言った。いくらか顔に血の色がもどって来たようにも見えた。柘植さまと芙佐が言った。
「このあと、どのようにいたしたらいいのでしょうか。変死ですから、大目付さまにお届けするのでしょうか」
「いや、それは待っていただきたい」
と孫四郎は言った。
「御親戚への知らせは、まだですな」
「はい、遺書にまず柘植さまに相談しろとありましたので」
それでは塚本の本家と、芙佐の実家成瀬家に使いを出して、すぐに人に来てもらうようにと孫四郎は指示した。
「人がそろいましたら、そちらにある遺書をみせ、それがしがこう申したとお伝えください。大目付の小出徳兵衛どのは蚤取り徳兵衛と呼ばれ、瑣事《さじ》の調べにこだわりすぎて煙たがられている人物。変死と届け出ることは固く無用でござる」
藩には、明朝半之丞の急病を届け、夕刻には病死と届け出る。同時に塚本本家を後見人にして、半之丞の子息の跡目相続を願い出る。多少あわただしい工作になるが、月番家老の石岡|勘解由《かげゆ》は、元|番頭《ばんがしら》の成瀬家の当主とはごく親しい間柄だから、さほど詮索されることもなく、相続は成就するのではないか。多少の不審があっても、手続きがきちんとしていれば、藩は煩雑を避けてそのままにすることがあると孫四郎は言った。
そしてつぎにきびしい顔を芙佐にむけた。
「半之丞がそれがしに残した遺書のことでござるが……」
「………」
「これも固く、他言無用にねがいたい」
「わかりました」
「何びとにもですぞ。たとえ相手が御実家のお父上であっても、洩らされては困ります」
と孫四郎は念を押した。きびしい目に気圧されたように芙佐がうなずくのを見てから、孫四郎は膝を起こした。
「では、これで帰らせて頂くが、帰る前に半之丞が腹を切った部屋をのぞいて参りたい」
「まだ、片づいておりません」
「けっこう。そのまま見せていただきます」
孫四郎が言うと、芙佐はうなずいた。そして案内すると言って立ち上がったが、入口でふとよろめいて柱につかまった。軽い貧血かと思われるそれが、はじめて外に現われた芙佐の取り乱した姿だった。
すぐに身体を立て直した芙佐につづいて、孫四郎は廊下に出た。すると、屋敷のどこかからほそぼそと人がしのび泣く声が聞こえて来た。
屋敷の近くまで来たときに、鳳川寺の鐘が四ツ(午後十時)を撞《つ》いた。案外にはやく引き揚げることが出来たと孫四郎は思った。もっとも、後の始末は塚本の身内がすることである。孫四郎が残っていても仕方がなかった。
そして孫四郎にはほかにやることがあった。半之丞の遺言をくわしく読み返すことである。
家に入ると俊吾とおとくが孫四郎を迎えた。母は眠っているかと、孫四郎は聞いた。母の寿万《すま》は病弱で、二年前からほとんど寝たきりになっていた。
「よくおやすみでございます」
とおとくが言った。おとくは三十をすぎてから奉公に来た出戻り女で、いまは五十だった。鈍重な性格で、気が利かず動作も鈍いが、誠実で陰日向のない奉公人である。
「よし、二人ともやすめ」
孫四郎は言ってから、そのあとで俊吾にごくろうだったなと声をかけた。家を出るときに、床についた俊吾を起こして、もどるまで家を守るように言いつけて行ったのである。
柘植の家では、以前はおとくのほかに下男を一人置いていたのだが、孫四郎の過失のために家禄が減らされるという事件があって以来、男手は親子だけになっていた。俊吾に犒《ねぎら》いの声をかけたのは、夕刻に会った野々村新蔵の言葉が頭にあったからだが、それを俊吾がどう受けとめたかはわからなかった。無言で頭を下げると寝所に引き揚げて行った。
おとくにあとの戸締りを言いつけて自分の部屋にもどると、孫四郎はおとくからもらった種火で、行燈《あんどん》の灯をともした。そして着換えもせずに、懐の遺言を取り出した。
読みすすんでしばらくしたとき、孫四郎はまた顔を上げた。そこには、十年前に急死したとされる先代藩主常興は、病死にあらず謀殺されたのだと書いてあった。
十年前のその日、塚本半之丞は藩主のそばにいて細かな用を足していた。もう一人、同じ近習組の鳥飼宇之助も一緒で、その日の午後は二人が廻り番で用足しをしていたのである。
藩主の背後にある土圭《とけい》が、そろそろ八ツ半(午後三時)近くを示しているのを確かめて半之丞が言った。
「根津さまをお呼びいたしましょうか」
根津又次郎は藩校松柏館の教授で、藩主は月に二度、根津から中庸の講義を受けていた。今日がその日である。
「おお、そうか、これはうっかりした」
藩主は言い、今日はこれから書庫で人に会うことになっているから、根津にその旨を伝えて来いと言った。
「なに、話は半刻もあれば済む。講義はそのあとにしようと、根津に申せ」
「かしこまりました。書庫にはわれわれもお供いたしますか」
半之丞はさらに確かめた。
城の奥庭にある書庫には、茶室を模した一室がついていて、そこで茶を点《た》てながら藩主が密談出来るようになっていた。たとえば藩主はそこに、時どき重職を呼びつけて非公式な政治の話をする。常興は英明な藩主と言われていた。
政治の話をするときは、藩主は人払いして、書庫には半之丞たち近習組の者も近づけなかった。しかしそこでする話がいつも政治向きのこととは限らず、藩主はたまには呼んだ相手と肩の凝らない雑談をかわすこともある。そういうときは小姓たちも、書庫まで供をした。
それで半之丞はわざわざ確かめたのだが、藩主は少し険しい顔で半之丞を見返すと、今日は供はいらないと言った。
「七ツ(午後四時)までにはもどる。それまでに根津をここに呼んでおけ」
藩主にそう言われて、半之丞は表御殿に行った。詰め部屋に登城して来ている根津に藩主の言葉を伝えるためである。
用が済んで、藩主の執務部屋にもどると、常興はもういなかった。そして不思議なことに留守をしていたはずの同僚の鳥飼も姿を消していた。しばらく待ったが、鳥飼はいっこうに姿を現わさないので、半之丞は近習組の詰め部屋に行ってみた。しかし鳥飼宇之助はそこにもいなくて、また鳥飼を見たという者もいなかった。
落ちつかない気分のまま、半之丞は執務部屋で留守番をした。しかし刻《とき》はあっという間に過ぎて、土圭が七ツを示すと根津がやって来た。そしてなおも刻が過ぎたが、藩主も鳥飼ももどって来なかった。半之丞は根津に、殿を迎えに行って来るとことわって部屋を出た。そのときには、はっきりと不吉な思いに囚《とら》われていた。
書庫の茶室に行くと、畳の上には茶を喫し終った茶碗が二つころげ、そばに口の隅から一筋の血を垂らした藩主が倒れていた。藩主がこと切れているのは明らかだった。そして部屋の隅には鳥飼宇之助が坐っていたと、遺書は記していた。
このとき鳥飼は、半之丞を威嚇してここで見たことを一切他言してはならないと言ったという。
「殿は病死だ。にわかな御病いで倒れられた」
「ばか言え、これがただの御病気であるものか。鳥飼、貴様がやったのか」
鳥飼はふんと言った。しかし緊張で青白い顔をしていた。
「おれはかかわりないが、忠告しておく。そういう穿鑿《せんさく》はやめた方がいい。身のためだぞ」
「そうか」
半之丞は、庭に降りて書庫に来る途中、逆方向に庭を横切って遠い表御殿の廊下に上がろうとしている人物の背中を見ている。あれが、藩主の今日の相手だったのだろう。
「鳥飼、殿はここでどなたと話されたのだ」
「やめろと言ったろう、その穿鑿は、貴様、殺されるぞ」
鳥飼の口調にはひややかな実感がこもっていたので、半之丞は沈黙した。しかしすぐに言った。
「しかし、このままにはしておけん」
「さわぐな。知らせるべきところには知らせて、間もなく人が来る」
と鳥飼は言った。そして鳥飼の言うとおり、間もなく医者一人をふくむ半之丞には一面識もない数人の男たちが現われて、藩主の死を確認すると迅速に遺骸をはこび出しにかかった。折柄書庫の一帯は淡い夕闇につつまれて、男たちの動きは夢の中の出来事のように思われた。
藩主の死が、急病死と伝えられたのは知ってのとおりだと半之丞は書いていた。しかし半之丞の見たところでは、藩主の死はその日ともに茶を喫した人物による毒殺にまぎれもなかった。
藩主家の相続をめぐる一連の煩雑な動きがおさまったころから、半之丞は、いずれは自分が見た真相を誰かに話さなければならないと思うようになった。ところが、そう思いはじめた矢先に、鳥飼宇之助が何者かに暗殺された。あや目もわからぬ五月の闇の夜の出来事で、口を封じられたことは明らかだった。
半之丞は、恐怖に顫《ふる》え上がった。知っていることを外に洩らせば、つぎは自分だと容易に見当がついたからである。鳥飼を無慈悲に暗殺した人間が、藩主毒殺の現場を半之丞も見ていることを知らないはずはないと思った。その恐怖は、半之丞の手足を金縛りに縛りつけた。
しかしそれからさらに一年ほど経ったころ、半之丞はついにそのときの月番家老永井市左衛門を私宅にたずねる決心をした。
藩主の跡目相続は何事もなく行なわれ、先の藩主常興の死は、藩の中に一時的なさざ波をたてただけで、どのような大きな変化ももたらさなかった。すべてが平穏にもとの状態にもどった。
そういう時期に、前藩主の死の真相などということを持ち出すことは、殺された鳥飼の言葉を借りれば身のためにならないことは、半之丞にもわかっていた。黙っていれば済むことである。
だが半之丞は、沈黙したり忘れたりするにはあまりにも重大な事実を見てしまったのである。その事実は半之丞の胸の中で、誰かに話さなければ苦しくてじっとしていられないほどに膨れ上がっていた。誰を信用していいかは、皆目わからなかった。ただ永井家老とは、母方の遠い血のつながりがある。半之丞はそのつながりを頼ろうとした。
ある夜、半之丞は黒い布に顔を隠し、提灯を持たずに家を出た。だが自分が住む町を出るころから、半之丞は誰かが自分の跡をつけて来るのに気づいた。気のせいではなかった。うしろにひたひたと足音がした。何者かに見張られていたらしいと悟ると同時に、全身に冷や汗が吹き出して来た。
その夜は結局、永井家老の屋敷にはむかわず、半之丞は小料理屋がならぶ伊賀町まで行って、女の酌で酒を飲んで帰った。酒はさほどにうまいとは思わなかったが、酔いが恐怖心をやわらげていた。
半之丞は二度と、誰かに藩主の死の真相を話したいとは思わなくなったが、その夜のことがきっかけで、その後も時どき伊賀町に出かけるようになった。馴染みの女も出来て、時には深酒をした。そして酒には、たとえ一時にせよ重苦しい秘事を忘れさせる効能があることも知った。
しかしそれは表向きで、結局のところ十年前に目撃した事実を忘れることは出来なかった、と塚本半之丞は書いていた。これ以上、秘密を抱えて生きることに堪えられないので腹を切る、胆の小さい男と思うかも知れないが、十分に疲れた、後を頼むと結ばれている遺書を、孫四郎は丹念に巻きもどすと文箱にしまった。
──そんなに思い悩んでいたのなら……。
なぜ、生前におれに打ち明けなかったのかと孫四郎は、むしろ訝《いぶか》しんでいた。
孫四郎と半之丞は、子供のころから気が合って、もっとも親しくつき合って来た仲間だった。ともに藩校に通い、ともに誘い合って鑑極流《かんきよくりゆう》の中丸忠兵衛が指南する市中の道場に通った。学問では半之丞がまさり、剣では孫四郎の方がまさったが、そういう資質の違いがかえって二人を親密に結びつけて、二人はひところ、お互いの家をたずね合って来る日も来る日も一緒だったことがある。
そのまじわりは、それぞれが家督をついで孫四郎が馬廻組に、半之丞が近習組に出仕するようになっても変らなかった。
──嫁をもらったのも……。
大体同じころだったと、孫四郎は思い返す。世の中はまぶしいほどの光に満ちて見え、そのころはむろん、孫四郎が妻を離縁し、半之丞が自裁するなどということは、夢にも思わなかったのである。
──その半之丞がなぜ……。
腹を切るまで、その秘密をひとことも洩らさなかったのかと、孫四郎は次第に無念の思いがこみ上げて来るのを感じた。
話を聞いていれば、孫四郎は決して半之丞に切腹などさせなかったろう。また半之丞にしても、孫四郎に打ち明けていれば、腹を切るほどに気持が追いこまれることもなかっただろうにと思うのである。
しかし何も言わずに腹を切った半之丞の気持に、心あたりがないといえばそうも言い切れなかった。かすかに思いあたることはあった。
ひと口に言えば、半之丞は臆病者だった。道場の成績がいまひとつのびなかったのも、それが原因だったろう。師の中丸忠兵衛は、そういう半之丞の稽古を、一歩の踏みこみが足らぬというふうに評した。半之丞は頭は切れたが、闘争には不向きな人間だったのである。
しかし半之丞は、自分の臆病さをひた隠しに隠した。親友の孫四郎にさえ、そのことを悟られるのを嫌った。
たとえば、長いつき合いの間には、道場仲間との喧嘩に巻きこまれて困っている半之丞を、孫四郎がかばって助け出すといったたぐいの事件が、時おりあった。そういうとき半之丞は、礼儀正しくおかげで助かったと言うのだが、言葉とはうらはらにひどく傷ついた顔をするのに、孫四郎は気づいていた。
問題はそのへんにあったかも知れない、と孫四郎は思っている。半之丞がもっとざっくばらんな性格で、ふだんからおれは胆っ玉が小さいのでと言えるような人間だったら、屈辱的な体験が絡んでいるとはいえ、遭遇した事件を隠さずに孫四郎に打ち明けたに違いない。
だが半之丞には、それが出来なかった。はじめは鳥飼宇之助の威嚇に屈し、つぎには見張りの人間の無言の脅迫に怖じて、言うべきことを言わず、なすべきことをしなかった自分をひたすらに責めることになったのだ。おそらく、と孫四郎は思った。おれに打ち明けることなどは念頭になかったに違いない。
──いま、こうして……。
遺書に自分の臆病ぶりをつつみ隠さずに記しているのは、死ぬと覚悟が決まって気が楽になったからだということも見当がついている。
心あたりはもうひとつあった。八年ほど前に、孫四郎は咎めを受けて家禄を削られた。護衛に失敗して、一人の重職の命を奪われたのが原因である。
前藩主の死にまつわる秘事を打ち明けなかった半之丞の念頭には、そのこともひっかかっていたかも知れないと孫四郎は思った。打ち明ければ孫四郎が捨てておくわけはなく、そうなれば否応なしに、家禄を削られるどころではない危難に、親友を巻きこむことになる。その決心がつかなかったのだと、考えることも出来た。
──それに……。
おれに打ち明けてしまえば、半之丞も当然後もどりは出来なくなる。それも臆病な半之丞が決心をつけかねた、理由のひとつだったろうと孫四郎は思った。
しかし考えがそこまでたどりついたとき、孫四郎は思いがけないものが目に入って来るのを感じた。ほかならぬ家禄を削られるもとになった八年前の忌わしい出来事、不可解としか言いようのないその事件に、半之丞の死がぼんやりした光を投げかけているように思われたのである。
正確に言えば半之丞の死ではなく、その死によって明らかになった前藩主の死が、孫四郎の事件を照らし出したのを感じたのだった。孫四郎は顔を上げた。腕組みを解いて天井の一角を見た。
──あれは……。
やはり前藩主の死につながる事件だったのではないか、と孫四郎は思った。愕然としていた。速断はいましめるべきだったが、そう考えると疑問だらけの事件の中に、いくつか符合するものがあったような気がして来るのである。
八年前の晩夏のある夜、孫四郎は使いをうけて藁火町の吉崎家に行った。するとそこには、江戸屋敷にいるとばかり思っていた当主の吉崎伊織がいて、にこやかに孫四郎を迎えた。吉崎は御用人で、家禄こそ三百五十石だが若い藩主を補佐して藩政の中央に坐る重職の一人だった。前藩主に見出されて、三十二で御用人に挙げられた敏腕の能吏で、吉崎がいれば江戸屋敷は大丈夫だと言われる人物である。
いま吉崎は四十を少し出て、身体も以前より太って見えた。幕府や他藩とのつき合い一切を取りしきって、小ゆるぎもさせず藩の表向きの顔を保っている貫禄が、孫四郎を迎えたにこやかな表情に出ていた。
「髪結町では、いま柘植が一番だそうだな」
顔を見るとすぐに、吉崎はそう言った。髪結町というのは、中丸道場のことである。
「いえ、もっと上がおります」
孫四郎が恐縮して言うと、吉崎はそれは次席のことだろうと言った。
「忠兵衛にたずねたところ、そなたが一番だと申したぞ」
「恐れ入ります」
「さて、そこで今夜はひとつ頼みがある」
これから恩田作摩をたずねるので、行き帰りを警護してもらいたいと吉崎は言った。恩田は現職の中老である。
吉崎の口調は淡淡としていたが、言っていることは尋常ではなかった。孫四郎は慎重に聞いた。
「警護と申しますと、ただの用心のためということでしょうか。それとも何者かが御用人を襲って来るとでも……」
「さて、襲って来るかどうかはわからんのだが……」
吉崎は言ったが、そこで微笑をひっこめて孫四郎を正面から見た。
「いや、はっきり言おうか。警護を頼むからにははっきり言わんとな」
「………」
「じつは、わしが帰国して恩田どのに会うことを、喜ばぬ者がいるようだ。城下にもどると早速に、こちらを見張る者が出る始末でな。夜中に外に出るということになると、とても無事には済むまい」
と吉崎は言った。
それでは恩田をたずねるのは、かなり重要な密談のためなのだと孫四郎は思った。その吉崎を警護するのは軽くない役目である。
そう思うと、気持に小さなひっかかりがうかんで来た。話の様子だと吉崎は中丸忠兵衛と面識があって、その推薦を得て孫四郎を呼び寄せたらしい。しかしかりにそういう手順だとしても、吉崎の警護につくのは私の用である。
馬廻組に籍を置く人間が、たとえ吉崎が藩の重職だとしても、上司である組頭にことわりもなく、こういう役目を引き受けていいものだろうかと孫四郎は思った。何事もなければいい、しかし何かあったときは……。
「御用人」
と孫四郎は言った。
「警護はもちろんお引き受けいたしますが、それがしは馬廻組、組頭に一言届け出る必要があろうかと思います」
「もちろん、もちろん」
と吉崎は言った。またやわらかい笑顔を見せた。
「わしとそなたは赤の他人、というほどでもあるまいが、そうだ、忠兵衛に聞いておらんか。わしは中丸道場の先代、忠兵衛の父親の弟子だ。ま、それだけの縁で、身の警護を頼むほどに昵懇《じつこん》というわけではない」
「………」
「かと言って、用人がそなたを呼びつけて警護を命ずるというのも筋違い。そこは承知しておるゆえ、牧村どのにはこちらから届けた。心配にはおよばんぞ」
牧村勘兵衛が、孫四郎の所属する組頭である。その牧村に話が通っているのなら、何も言うことはなかった。孫四郎はお供しますと言った。
堀ノ内の恩田の屋敷に着いたのは、およそ五ツ半(午後九時)過ぎだったろう。話が終って、吉崎が玄関にもどって来たときは、時刻はそろそろ四ツ半(午後十一時)にかかるだろうと思われるころだった。長い密談だった。
その間孫四郎は、玄関わきの供侍らの部屋でお茶のもてなしを受けながら待ち、吉崎さまがお帰りになりますという家士の声で、玄関に出てともに恩田の屋敷を出た。行きも帰りも、屋敷の主人恩田作摩は玄関に姿を見せなかった。
「お話は、無事に済まされましたか」
恩田の屋敷をはなれて、しばらくしてから孫四郎が聞いた。提灯を持った孫四郎が、吉崎の左斜め前を、半歩先にすすむ形で歩いているので、話しかけるときはわずかに後をふりむくようになる。
吉崎に話しかけたのは、孫四郎の心中にほっとした気分があったからである。吉崎の話を聞いた限りでは、往路がもっとも危険に思われた。恩田との密談を喜ばぬ人間が実在するなら、その人間は、まず吉崎の口を封じる手段をとるのではないかと思っていたので、何事もなく会見が終ったいまは、役目は八割方終ったというのが実感だった。
吉崎も多分、そう思っていたのではなかろうか。おかげでな、と孫四郎を犒《ねぎら》った声が明るかった。
「思いどおりの話が出来た」
「このあとも、どなたかと……」
「いや、帰国した役目はこれで済んだ。明日は江戸にむかって立つ」
吉崎はいかにも有能な、君側の能吏らしくてきぱきと言った。
吉崎が恩田に会うことを嫌っている人物というのは、いったい誰のことだろうという疑問が孫四郎の胸に浮かんで来た。そして吉崎と恩田の密談の中身は何だったのだろう。
それは、無事役目をはたしたらしいと感じたころから、次第にうかび上がって来た疑問だったが、まさか吉崎に面とむかって聞けることでもなかった。黙黙と先導しながら、孫四郎が考えをめぐらしていると、まるでその気配を察知したかのように、吉崎が笑いをふくんだ声で言った。
「柘植に、ひとつ忠告しておこう」
「はあ?」
「今夜あったことは、わしがそなたに申したこともふくめて、他言無用にいたせ。その方がそなたの……」
不意に吉崎の声が途切れた。振りむいた孫四郎は、胸をつかんで倒れる吉崎伊織と、その背からいましも刀を引き抜いたばかりの黒ずくめの男の姿を見た。
覆面の中の鋭い目とぱったり視線があったと感じた瞬間、孫四郎は提灯を投げ捨てて刀を抜いた。だが切りかかる一瞬前に、男は背をむけて闇の中に走り去った。
孫四郎の届けを受けて、時の大目付が大大的に事件の調べに乗り出したが、吉崎を刺殺した犯人も、背後から犯人を使嗾《しそう》したかも知れない人物も不明のままで調べが終った。そして孫四郎一人が、この事件で処罰を受けた。
処罰の名目は、護衛を引き受けながら吉崎を守ることが出来なかった不手際と、もうひとつはそういう重大な役目を、組頭に一言のことわりもなく承諾したことを咎めるものになっていた。意外にも吉崎は、組頭の牧村勘兵衛に何の連絡も取っていなかったのである。事を急いだのだとも考えられるが、あるいは孫四郎を警護役にして恩田をたずねることが、周囲には洩らせない重大な秘事だったからではないかと孫四郎は思った。
百二十石の家禄を四分一も減石されて、孫四郎は九十石となったが、馬廻組への出仕はもとのままに据え置かれた。そしてそれっきり、吉崎の死の背後に何があったのかはなにひとつ明らかにされないまま、八年が過ぎたのである。
だが、いま半之丞の遺書を読んだ目で振りかえってみると、側近の重職である吉崎が、単身帰国して、護衛を頼み人目をしのんで中老と会談するなどということは、前藩主の死に関連する事柄以外に何があろうかと思うのだ。ほかに、その当時の藩に特に目立つような変化は何ひとつなかったのである。
──それに……。
吉崎の死にまつわる事情の徹底したわからなさ、まるで深く濃い霧につつまれたような事態のつかみどころなさは、半之丞の遺書にある藩主の不審死が徹底して秘匿《ひとく》されたことと酷似してはいないか、と孫四郎は思った。
符合することはほかにもあった。闇の中から音もなくしのび寄って吉崎を刺した人間は、藩主の死の直後に鳥飼宇之助を暗殺した人間と、ひょっとしたら同一人物ではなかったろうか。あれは胆の据わった、手馴れた暗殺ぶりだったと孫四郎は、八年前の夜のことを思い出している。
──さて……。
孫四郎は、行燈を手もとに引き寄せると、長くなり過ぎた燈芯《とうしん》を鋏で切った。焔《ほのお》が急に明るくなり、それまで耳についていた燈芯の焼ける音がやんだ。深夜の静寂が押寄せて来た。
遺書に、半之丞は後を頼むと書いているが、事件の真相を突きとめてくれと頼んでいるわけではなかった。しかし後を頼むということは、家のことと事件のことの双方を指しているはずだ、と孫四郎は思った。部厚い嵩《かさ》の遺書にそれがあらわれていた。
前藩主の死とそれにともなって自分がとった行動について、半之丞は事こまかに書き記していたが、その筆は概ね率直で、自己弁護の気配は匂って来なかった。ここまで書き残したのは、言葉に出して訴えなくとも、事件解明ののぞみをおれに託したのだろうと、孫四郎は思わざるを得ない。
孫四郎は身顫《みぶる》いした。もし解明に乗り出すとすれば、どこであの正体不明の暗殺者とぶつかるか、知れたものではなかった。もはや三十二、鑑極流の稽古は折をみて怠りなく積んでいるものの、吉崎を警護したころの若さは失われている、と思ったのである。
しかし、もし推測したように、吉崎の暗殺が前藩主の死につながる出来事だとすれば、事件解明は、半之丞に頼まれるまでもなく孫四郎自身の、なすべき仕事だった。
剣名のわりには物の役に立たぬ男と、吉崎の死のあとで家中に指さされた屈辱を、孫四郎は忘れてはいなかった。それは八年後のいまも気持の中に尾を引いていて、時には家禄を減らされたことよりもさらに孫四郎の気分をやり切れないものにする。
──とりかかるとすれば……。
どこから手をつけるべきか、と孫四郎は思案した。まだ、その気になったわけではなかった。しかし、もはや捨ててはおけないものを抱えこんだことも、確かだと思われた。なに、危険なときは引き返せばいいのだと、三十男の分別が胸の中でささやいた。
すぐに胸にうかんで来る手がかりがひとつあった。もし前藩主の死と吉崎伊織の死が重なり合う事件だとすれば、中老の恩田作摩が手がかりになるはずだった。ほぼ一刻にわたって、恩田と吉崎はあの夜何を語り合ったのだろうか。その中身を知ることが出来れば、前藩主と吉崎、二人の死の真相に一歩近づくことが出来るのではないかという気がした。
──ただし……。
正面から訊いても、恩田が一介の馬廻組に密談の中身を打ち明けるかどうかはわからぬと孫四郎は思った。
大目付に吉崎の死を届け出たとき、孫四郎は取調べられるままに、吉崎とともに恩田の屋敷をたずねたことを陳述した。それは吉崎に口止めされたことだったが、当人が死んだからには口止めも効力を失ったろうと判断したのである。
恩田中老が迷惑するかも知れない、と思わないわけでもなかったが、孫四郎もそこまで配慮してはいられなかった。その当時の大目付栗林嘉平太の取調べは、多分に孫四郎自身を疑ってかかっている気配があり、孫四郎は自分の身の証《あかし》しを立てる必要があったのである。
したがって大目付は、孫四郎の陳述の真偽を恩田に確かめ、さらに当然ながら吉崎との密談についても恩田から事情を聞いたはずだが、孫四郎が危惧したような、恩田中老がそのために迷惑をこうむったというような事態は起きなかった。さざ波ひとつ立たなかったといってよい。恩田の地位に変りはなく、八年たったいまもなお、恩田は中老の地位に坐りつづけている。
──あれは……。
おかしかったな、といまにして孫四郎は思う。御用人の死という異常なことがあったにもかかわらず、当夜吉崎と密談した恩田中老の周辺にさざ波も立たなかったのは、むしろ奇怪なことではなかろうか。
恩田は何か、したたかな対応をしたのではないかと、孫四郎は想像をめぐらしてみる。大目付が事情を聴取したのは、まず間違いあるまい。だがそのときの恩田の返答は、大目付にそれ以上の取調べを断念させるようなものだった可能性がある。
そう考えると、かりに首尾よく中老に会うことが出来たとしても、密談の中身を聞き出すなどということはとうてい不可能なことに思われて来た。聞き出すためには、相応の手段を考えねばなるまいと孫四郎は思った。
手がかりはもうひとつあった。といっても、それが手がかりなのかどうかは明白でなかったが、しかし事柄は前藩主の不審死ということと無関係とも言い切れまい、と孫四郎は思った。だから半之丞も、遺書の中にその男の名前を記す気になったのだろう。
孫四郎はいったん文箱《ふばこ》にしまった半之丞の遺書を、蓋をあけてもう一度とり出した。いそいで巻紙を繰った。するとおしまいに近いところに、その男の名前が出て来た。普請組黒川六之助。
前藩主を毒殺した人間については、十年たったいまも何の心あたりもない。ただ事件の半年ほど前に、藩主を暗殺しようとしたという冗談半分の異様な陰口をきかれ、近習組から普請組に出された人間がいたと半之丞は書き、そのあとに黒川の名前を記しているのである。
──とりあえず……。
この男に会ってみようか、と孫四郎は思った。時刻は九ツ(午前零時)を回ったかと思われたが、眠気はまったくなかった。黒川に会う手だてを考えながら、孫四郎はゆっくり手紙を巻きもどした。
黒川六之助は普請組の現場に出ることが多いのか、日に焼けた真黒な皮膚を持ち、身体は針金のように痩せていた。齢《とし》は孫四郎より、四つ、五つ上だろう。
酒が強かった。ぐいぐいと飲んだ。
黒川が酒好きだということがわかって、孫四郎は半之丞の葬儀が無事に終った翌日、この男を伊賀町にひっぱり出すことにした。伊賀町には小ぎれいな小料理屋から、酌取り女が酔客に肌をさわらせるいかがわしい飲み屋まであって、飲む場所はよりどり見どりだった。
朝のうちに、まだ詰所にいる黒川をつかまえて、急死した塚本半之丞のことで聞きたいことがあると言うと、黒川は怪訝な顔をしたが、今夜伊賀町までおはこび願えないかと誘うと、一も二もなく承知した。
しかし、黒川との会見はぎごちないものになった。孫四郎が、近習組で一緒だったころの半之丞のことで、おぼえていることを話してくれぬかというと、黒川はじろりと孫四郎を見て言った。
「それが、塚本のことはしかとおぼえておらんのだ」
そう言いながらも、手酌でどんどん酒を飲んでいる。痩せた腕に、黒い血管が縄のようによじれて膨れ上がっているのを見ながら、孫四郎は厚かましい男だと思ったが、こっちの目的も酔わせてべつのことを訊くことにあるので、黙って酒をついでやった。
黒川は江戸詰の間に、小野派一刀流の道場に通って、かなり腕を上げた。帰国したころは、丹石流の浅井道場や孫四郎が通った中丸道場をたずねて、さかんに試合を挑んだらしい。
孫四郎自身には記憶がないが、馬廻組の同僚の話からそういうこともわかったので、孫四郎はその話を持ち出したり、普請組の勤めのことを聞いたりしたのだが、話はどうしても途切れがちになる。
そういう孫四郎を、黒川は時どき掬《すく》い上げるような目で眺めながら、いそがしく盃をあけていた。そしていっこうに酔ったようには見えなかった。
「貴公」
およそ半刻(一時間)以上もたって、いよいよ話の種も尽きた孫四郎が、さてどうしようかと思案しながらむっつりと飲んでいると、不意に黒川が声をかけて来た。
「呼び出したのは、ほかに話すことがあるんじゃないか」
「さよう。しかし、ここではどうもまずいようだ。外に出ようか」
と孫四郎は言った。あたりは酔客で騒然としていて、密談という雰囲気ではなく、それに黒川がさほどに酔っていないとなると、迂闊《うかつ》なことは言えなかった。
小料理屋のひと部屋で向き合うのもうっとうしい気がしたのだが、やはりもっと静かな所がよかったかと思いながら孫四郎がそう言うと、黒川は案外すなおに後について外に出た。
道の左右にならぶ店こそ、わいわいと人声がさわがしいが、伊賀町の表通りはむしろ人の姿も稀で、ひっそりしていた。軒行燈で明るい前方に、町人姿の酔客二人がもつれ合って奇声をあげているのが見えるだけである。外の方が密談に適しているようだった。
「いかにも聞きたいことがござった」
孫四郎は歩きながら、改めてさっきの黒川の質問を引き取った。
「ほかでもないが、貴公は近習組にいたころ、当時の殿を暗殺しかけたとうわさがあったそうですな」
「けっ、何を言うか、貴様」
いきなり黒川がわめいた。
そしてつぎに黒川が取った行動は、孫四郎が思いもかけなかったものだった。振りむくやいなや、黒川はすばやく殴りかかって来たのである。不意打ちだったので、とっさに避けはしたものの孫四郎は顎を殴られた。
しかし、ほとんど反射的に孫四郎が相手の腹に当身《あてみ》を叩きこむと、黒川は打たれた腹を押さえながら道に横転した。そして倒れながら黒川が吐いたために、あたりには濃い酒の香がひろがった。
「いや、済まぬことをした」
孫四郎は腕をつかんで、黒川を助け起こした。身体についた埃をはらってやると、黒川が腹立たしげに孫四郎の手を振りはらった。
「仲直りに、どこかで飲み直しませんか」
何となく後味がわるく、孫四郎はそう言ってみた。すると、憤然として立ち去るかと思った黒川が、それもよかろうと言った。よほどの酒好きなのだろう。
二人は、さっきの飲み屋よりはひと回り狭い、腰掛けの飲み屋に入った。町はずれにある古びたその飲み屋には、客は二人のほかに職人体の年寄が一人いるだけで、酌取りも一人だった。首まで真白に白粉を塗った酌取り女は、二人に酒と肴をはこぶと料理場の前にもどって大きなあくびをした。
「貴公の言ったうわさだが……」
黒川は銚子を引き寄せて、手酌で酒をつぎながら言い出した。じろりと孫四郎をにらんだ。
「わしはそのために普請組に回されたが、まったくの濡れ衣だ。話すもいまいましいが、聞きたいのならほんとのことを話してやろう」
さきの藩主が急死するざっと半年前、晩秋の雨催いの午後に、城の台所で火を出したことがある、と黒川は話し出した。
火を出したといっても火事には至らず、火は間もなく消しとめられたのだが、おびただしい煙が藩主の執務部屋、近習組の詰所のあたりまで流れこんで来て、一時はそのあたりが騒然となった。
その騒ぎの中で、黒川はふと気になる人影が執務部屋の方に行くのを見た。煙の中ではっきりしたことはわからなかったが、その男は近習組の人間ではなかった。表から来たようでまだ若い男だった。
顔をそむけるようにして、煙の中をいそぎ足に通りすぎる男に、黒川ははっきりと不審を持った。
「おい、ちょっと待て」
声をかけてから、黒川は身をひるがえして詰所に走りこんだ。刀架《とうか》から自分の刀をつかみ上げると男の跡を追った。
藩主は近習組の者に守られて庭に難を避けたはずだったが、どさくさ紛れに表から入りこんで来た人間を見過すわけにはいかなかった。何者か、確かめる必要があった。刀を取りにもどったのは、男の挙動にはっきりと不審な感じを持ったからである。
だが、それだけの遅れのために、黒川は男の姿を見失った。廊下の角角に目を走らせ、藩主の執務部屋の前まで来たが、そこにも煙が流れているだけで、人の姿は見えなかった。
執務部屋の襖の前で、黒川はちょっとの間思案した。そして思い切って襖をあけた。部屋の中にも煙が立ちこめていた。そして黒川が中に踏みこむと同時に、煙を掻いくぐるようにして部屋から南側の廊下に遁《のが》れ出た者がいた。そこはあけ放しの障子になっていて、男の姿は黒い大きな鳥でも羽ばたいたように、一瞬にして廊下に消えた。
黒川六之助は、すばやく刀の鯉口を切ると執務部屋の中を走った。そして走り抜けて南の廊下に出たところで、庭からもどってきた藩主や同僚とばったり顔を合わせたのである。
すばやく廊下に目を走らせたが、執務部屋から逃げた男は見当らなかった。かわりに同僚の堀井彦之進の険悪な声が「黒川、その恰好は何だ」と咎めた。黒川が目をもどすと、藩主も護衛の同僚も一斉に黒川の顔とつかんでいる刀を見くらべていた。
「真相というものは得てしてそんなものだ」
黒川はぐいと盃をあけて、孫四郎に盃をさした。話しているうちに悲憤やるかたないという気分になったのか、それとも酒毒のせいか、酒をつぐ手がぶるぶる顫えている。
「わしは、どういうつもりか殿の部屋に刀をつかんで走りこんだ男ということになった。小火《ぼや》騒ぎのどさくさまぎれにな。大目付にも呼ばれて、ぎゅうぎゅう絞られた。あげくのはてが普請組行きだ」
「大目付に、ほんとのことを言わなかったのですか」
「言ったよ。だが信じてはくれなかった。そういうつくり話ではなく、ほんとのことを言えというわけだ。近習組の連中も、まさかわしを、冗談半分にうわさしたように殿を暗殺しかけたとまでは思わなくとも、胡乱《うろん》な目で見た」
「………」
「わしはいたたまれなかった。普請組に出されたときは正直ほっとしたものだ」
「そのあやしげな人物については、何も知れなかったのですか」
「何にも」
と言ってから、黒川は小首をかしげた。
「いや、大目付の調べから推察するに、その男は殿の机の上から何かの書類を盗んで行ったらしい。大目付は、わしがそれを盗んだのではないかと疑っておった」
「はて、何の書類であろう」
「何でも、越前屋だったか金森屋だったか、城下の金持ち商人を調べた機密書類だったということだ。調べたのは、ほれ、六年ほど前に病死した町奉行谷内喜左衛門どのだ」
黒川六之助の話はなかなか興味あるものだった。その話が真実なら、むろん真実だろうと孫四郎は思うわけだが、さきの藩主には不審死の半年前からあやしい影がまつわりついていたことになる。
表御殿から来た男が、黒川の言う機密書類を盗み去ったのだとすると、その日の台所の小火は仕組まれたものだった可能性があると孫四郎は思った。そしてそんなことが出来るのは、かなりの大物だろう。
そこまで考えたとき、孫四郎の目に半之丞が書庫のある庭で見たという男のうしろ姿がうかんで来た。半之丞が推察したように、その男が前藩主と茶室で会っていたことはまず間違いないだろう。そしてもし、小火のどさくさ紛れに藩主の執務部屋から機密書類を盗ませたのもその男だとしたら、前藩主常興とその男との間には、かなり以前から第三者に知られていない葛藤があったと考えるべきではなかろうか。
──いったい……。
それは誰なのか、と孫四郎は思う。考えられるのは、その男は藩主と四つにわたり合うことが出来るほどの藩内の実力者であろうということ、さらにその人物は、前藩主常興の死で必ずや大いなる利を得たはずだということぐらいだった。
いまの筆頭家老兼松権四郎は、事件があった十年前には中老で、以後家老、次席家老と順調にすすみ、いまは押しも押されもせぬ筆頭家老として権勢をふるっている。兼松は利を得た方だろうか。
利を得たといえば、次席家老服部外記は当時は並みの組頭で、実力十分と言われながら偏屈な気性が災いして執政入りもしていなかった。しかし前藩主の死にともなう執政の入れ替えに乗じて中老の席に滑りこみ、十年の間に次席家老に経《へ》のぼった。その異常に速い昇進は家中の注目を浴びたものである。
この人なども、大いに利を得たと言ってもいいのではなかろうか。それに服部外記には人を人とも思わぬところがあり、藩主や執政に平気で論争を挑んで煙たがられていた人物である。
考えに沈んでいたので、孫四郎は会釈してすれ違った女を危うく見過ごすところだった。頭巾で顔を包んでいるが、ひと目で離縁した妻とわかった。気がつくと家のそばだった。
おい、と呼びとめた。立ちどまって振りむいたが、瑞江は提灯の光の中で黙って目を伏せている。とっさに勘がはたらいて、孫四郎は不機嫌になった。
「時どき来ているのか」
瑞江はちらと目を上げただけだった。かたくなに沈黙している。
「何の用か知らぬが、留守を狙って来るのは感心せんな。そのぐらいのことは心得ておるはずだろう」
「………」
「これ以上、恥をかかさんでくれよ」
言ってから、孫四郎は言い過ぎたなと思った。死屍を鞭打ったような気がしたのである。瑞江はもはや離別した女子《おなご》だった。そこまで言うことはない。
はたして、瑞江は顔を上げると頭巾の中からきっと孫四郎を見た。しかし、すぐに顔を伏せると、失礼いたしますと言って背をむけた。
その背に孫四郎は、もう一度おいと声をかけた。
「橋まで送ろう。女子の夜歩きはよくない」
いまの一種の失言に対するやましい気分と、どこからか花の香がするやわらかい夜気のせいか、孫四郎はふと自分でも思いがけないやわらかい気分に誘われてそう言った。瑞江は嫌いで離別した妻ではなかった。
だが、瑞江は孫四郎の自分勝手な気分などというものには、一瞥《いちべつ》もくれなかった。にべもない口調で、見送りは不要だと言った。そっけなく背をむけて去る瑞江を、ちょっとの間立ちどまって見送ってから、孫四郎はいそぎ足に家にもどった。
腹が立っていた。人の親切を無にした瑞江の態度も癪にさわったが、それよりも離別した妻に家の近くまで送ろうなどと言った、自分の人間の甘さに腹が立っていた。人に見られたら、それこそ世の笑いものになることは必定ではないか。
「おとく、おとく」
家にもどって、すぐにおとくが迎えに出ないのにも苛立って、孫四郎は大声で呼んだ。そして大あわてで出て来たおとくを見ると、早速に叱りつけた。
「さっきまで、瑞江が来ておったろう」
「はい」
おとくはおびえた顔で主人を見た。
「瑞江は離縁した女子だ。家に入れることはまかりならん。今度来たら、わしがそう申したと言って戸をしめてしまえ。けしからん女子だ」
「でも、旦那さま」
おとくが何か言いかけたとき、孫四郎を呼ぶ母の声がした。茶の間の行燈をつかんで、孫四郎が寝間に入って行くと、母の寿万は半纏を肩に羽織って床に起き上がっていた。部屋にただよっている濃い薬餌の匂いが、孫四郎の鼻を刺して来た。
「お加減はいかがですか」
帰宅の挨拶をしてから孫四郎が言うと、寿万は今日はぐあいがよくてこうして起き上がっても目がまわったりはしないと言った。
だが寿万は、呼んだのはその話のためではないというふうに、すぐに言葉を改めた。
「瑞江どのを家に呼んだのはわたくしです」
と寿万は言った。きっぱりとした口調だった。
思いがけない言葉に、孫四郎が無言で母を見守っていると、寿万は一家の主《あるじ》の承諾もなく離縁した嫁を呼び出したのは申しわけないが、と前置きして言葉をつづけた。
「病人のわたくしがいるので、この家にはおとく一人では手に負えないことが沢山あるのです」
たとえば医者にもらった薬を煎じるには、草の根、木の皮などを幾通りも組合わせなければならないが、急におとくに配合をおぼえろといっても無理な話である。また瑞江は、寿万を寝たきりにさせたまま巧みに身体の汗を拭き取ったが、おとくにはそれが出来なかった。
「嫁は実家にもどったあとで、すぐに薬のことに気づいて、そなたの留守にたずねて来ました。それから用があるとわたくしの方から呼び出して来てもらっているのです。あの人を責めてはなりませんよ」
「………」
「それから、柘植の家の当主のしたことに異議をはさむつもりはありませんけれども、瑞江どのはそなたが言ったことは事実無根、いずれは身の潔白があきらかにされるはずだと言っておりましたよ」
「で、母上はその言葉を信用なされたわけですかな」
「そなたはどうなのですか」
低いが、意外に鋭い母の声が返って来た。
「十年余も連れ添った嫁を信用出来なかったそなたの方が、わたくしには不思議に思えますよ」
自分の居間に落ちついたとき、孫四郎は一人でにが笑いした。母親に、というよりも女たちに一本取られたような気がしていた。
しかし女たちがした隠しごとは不快なものではなかった。ことに、母親が嫁に示した信頼は快いものだった。瑞江の言うことが真実であればいいと思ったが、しかし母のように無条件に信じることが出来ないのも事実だった。
──明日は……。
もとの大目付どのに会ってみようかと孫四郎は思った。黒川六之助と飲んだ酒はとうにさめていたが、黒川がしゃべったことは耳に残っていた。
孫四郎がたずねて行くと、以前の大目付でいまは隠居していた栗林嘉平太は、裏の菜園にいた。
裏に回ってくれと申しておりますと、嫁かと思われる齢恰好の細おもての女性が恐縮したように言い、孫四郎を畑に案内した。すると、そこに軽袗《かるさん》に素|草鞋《わらじ》という出立ちの栗林がいて、孫四郎を見ると鍬を置いて塀ぎわの梨の木の方を指さした。
「暑いからあそこへ行こうか」
と栗林は言った。
時おりさわやかな風が吹き過ぎるけれども、空が一片の雲もなく晴れているせいか、日は四月に入ったばかりとは思えないほどに暑かった。栗林はうすくなった白髪の頭から首筋まで、びっしょりと汗をかいていた。しかし日焼けした大きな身体は、いかにも丈夫そうに見える。
「隠居してから、こうして百姓の真似ごとをやっているが、自分でやるとなかなかおもしろい。身体にもよいしな」
栗林は、白い花が盛りの梨の木の下に入ると、動作まで百姓ふうに、腰の手拭いをつかみ取ってごしごしと顔の汗を拭いた。
「雨の日は仕方なく書物を読んでおるが、畑をやる方がおもしろい」
「晴耕雨読ですか」
孫四郎が言うと、栗林はやっと気がついたように孫四郎を見た。
「今日は非番か」
「そうです」
「それで、何の用だ」
「少少おうかがいしたいことがありまして」
「そんなことだろうと思った。むかしの吉崎の一件か」
「それもありますが、今日の用はそれだけではありません」
「役向きのことは話せんぞ。ま、言ってみろ」
「それがしがかかわりあった事件より、ずっと前のことです」
「ほう」
「御城の台所で小火を出し、そのどさくさまぎれに前の殿のお部屋から書類が紛失したということがあったそうですが……」
「そんなことを誰に聞いた」
「それはちょっと申し上げられません」
「ま、いいか。いかにも、そういうことはあった。それで?」
「書類は城下の商人を調べたものだったと聞きました。おうかがいしたいのは、その店の名前です」
「それは柘植、わしの口からは言えんな」
ともとの大目付は言った。栗林の顔には警戒のいろがうかんでいる。そういう用なら帰れと言わんばかりに、口を引きむすんで孫四郎を見た。
孫四郎は喰いさがった。
「その商人は、油問屋の越前屋か金森屋のいずれか、ということまではわかっておりますが……」
「わしにカマをかけようとしても無駄だ」
と栗林は言った。
予想された返事だったので、孫四郎はさほどに落胆はしなかった。質問を切り換えた。
「それではべつのことをおうかがいいたします。吉崎さまの一件ですが……」
「あの事件では、そなたは割りを喰ったな」
栗林の表情がやわらかくなった。
「気の毒なことをしたが、家老たちの決定もやむを得ないものだった」
「そのことをいまさらとやかく言うつもりはありません。おうかがいしたいのは……」
孫四郎はひと息ついてから言った。
「御中老の恩田さまのことです」
「ほう」
「ずっと気にかかっていたことですが、大目付のお取調べに対して、それがしは吉崎さまと一緒に恩田さまをたずねたと申し上げました」
「そうであった」
「で、栗林さまは当然、吉崎さまとどのようなお話をされたかを、恩田さまに質《ただ》されたものと思いますが……」
「当然だ、そこが眼目だ」
「で、恩田さまのご返事はいかがでしたか。これもお話しいただけないことでしょうか」
「それがだ」
栗林は自分が掘り起こした黒土に日が躍っているのを、じっと眺める気配だったが、不意に孫四郎を振りむいた。顔に苦笑いがうかんでくる。
「中老は吉崎に会ったことを否定した」
「なんと!」
孫四郎はおどろいて栗林を見た。
「それを、お信じになったのですか」
「まさか」
ともとの大目付は言った。
「信じるわけはない。しかしそのときの恩田どのの態度というものが、じつに奇妙なものでな。いつものやわらかい笑顔のままで、じつににべもなく、吉崎は当屋敷に来ておらぬと申される」
「………」
「これは密談を闇に葬られるおつもりだな、とこちらもぴんと来た。察するにそこには、吉崎の横死を解明するよりさらに重い藩の秘事が絡んでいるということだ。中老はご自分の判断でその秘事に蓋をされたと、そこまでは見当がついたが、その先は皆目わからなかった」
「………」
「吉崎の死に中老がかかわり合っていることは、誰の目にも明らかだ。だがそのかかわり合いが善か悪か、そこの色合いがちらりとも見えぬ。下手には動けぬ、ということだよ、柘植」
もとの大目付は雄弁だった。またわしづかみにした手拭いで顔と首の汗を拭いた。郭公鳥《かつこうどり》が鳴いている。どうやらそこから見える屋敷の林に来ているらしく、声は間近に聞こえる。
「ただ、こういうことは考えた。大目付が家中《かちゆう》の罪をあつかうのが役目であるように、執政は藩の利益を按配するのが役目だ。恩田どのは藩の執政だ。口を閉じて吉崎の死に目をつぶる方が、藩のためになるという解釈を示されたのではないかとな。もちろん、善意に解釈しての話だが……」
それでは善意の解釈が過ぎるのではないかと孫四郎は思ったが、引退した大目付にそう言っても手遅れのようだった。
「それで、一件から手を引かれたのですか」
「まあ、そうだ」
と栗林は言った。
「中老に口を閉じられては、事実上手の打ちようがなかった。そこで当時の筆頭家老滝川さまにいきさつを報告して、しばらく様子を見ましょうと言ったのだ」
これで恩田中老の周囲にさざ波も立たなかったわけがわかった、と孫四郎は思った。
さほどの収穫はなかったな、とやや失望感にとらえられながら、孫四郎は突然にじゃました詫びを言い、辞去の挨拶をした。すると栗林が、ちょっと待てと言った。
「いまごろこういう話を持ち出したのは、何かわけがあるだろう」
「いかにもわけはございますが、簡単には申し上げられません」
「藩の秘事か」
「まあ、そうです」
「人には洩らさぬ。言え」
しばらく考え、言葉を選んでから孫四郎は言った。
「先の殿の急死には、不審があるという者がおります」
一言のもとに否定するかと思ったが、栗林は口をつぐんでいた。そしてしばらくしてから、郭公鳥が鳴いている林の方に目を向けたままで言った。
「それと吉崎の暗殺はつながっていると考えるわけか」
「そうです」
そのまま栗林がまた口を閉じてしまったので、孫四郎は一礼して背を向けた。すると十歩ほどはなれたときに、栗林に呼びとめられた。振りむいた孫四郎に、ひとつうなずいてからもとの大目付が言った。
「さっき話に出た商人は、金森屋長七だ」
金森屋のことを聞くために商売敵の越前屋をたずねた孫四郎の策は、的を射たようであった。主人の越前屋彦兵衛は、はじめのうちの品のいい応対はどこへやら、話がすすむにつれて語気鋭く金森屋の悪口をならべ立て、その商売敵についての知識はなみなみならずくわしかったのである。
越前屋と金森屋は、領内を二分する油商と言われているが、越前屋が、延宝のころに越前から移封された藩主家に従って来た老舗《しにせ》の商人であるのに対して、金森屋は主人の長七が、一代で築いた新興の油問屋だった。
ともに城中に品物を納める御用商人であり、城下の店は繁昌し、藩が陣屋をおく港町戸ノ津にもともに支店を構えて、お互いに相手にだけはおくれを取るまいと競い合っている、いわゆる商売敵である。
「金森屋というのは、あなた、大きな声じゃ言えませんが、いまだに素姓もはっきりしない男ですよ」
越前屋は、わずかに上体を傾けて孫四郎をのぞきこむようにしながらそう言った。
越前屋彦兵衛は四十半ばぐらいだろう。ひろい額にくらべて顎が細い、面長な顔をしているが、その顎も細いなりにしっかりと張って、口が大きかった。二重瞼ながら鋭い目が、孫四郎を凝視している。
越前屋は年年莫大な金を藩に献じ、そのために彦兵衛が城に行くと、家老、中老からも下へもおかない扱いを受けるといううわさがあった。何代か前に名字帯刀を許されて真柄という姓を持っている彦兵衛には、そういううわさが真実らしいと思わせる貫禄がある。
孫四郎をのぞきこんだ姿勢のままで、越前屋は辛辣《しんらつ》なことを言った。
「正直、どこの馬の骨かわかったものじゃありません」
「よそ者ということですか」
「もちろん、領内の人間じゃありません」
越前屋は茶碗をつかむと上体をもとにもどした。ゆっくり茶をすすった。
「江戸者だという説もありますし、訛《なまり》からいって上方の人間ではないかと言う者もおります。いずれにせよ、抜け目のない商いをやる男でしてな。金森屋の商いには、ウチの店もたびたび泣かされました」
「ほう」
「体面を考えることがいらない商いですからな。これは強い」
「金森屋が城下に店を持ったのは、いつごろのことでしょうな」
「三十年ほど前と言いますな。あたしもそのころのことはよくおぼえておりませんが、人の話によると、はじめは油屋といっても担い売りのようなことをやっていたらしいですな」
「三十年……」
孫四郎は考えこんだ。三十年でいまの身代を築いたとすると、金森屋長七はただ者ではないという気がした。それとも……。
「いまのように商いが大きくなったのはいつごろからか、わかりますか」
「近近十四、五年前からでしょうな」
越前屋はにがにがしげに言った。
「金森屋は商い上手です。しかし、それだけでいまの店のようには、なかなかなれるものじゃない。金森屋が急に大きくなったのには、わけがあるのです」
「ははあ」
「油粕の沖出しで儲けたのです」
領内の菜種油、胡麻油の生産がふえて来ると、油を絞ったあとの油粕も多くなり、それは領内の百姓に売り渡されて田畑の肥料になった。金森屋は、その油粕の急増に目をつけて、藩に沖出し(輸出)の許可をもとめる願いを上げた。そのころ上方で、肥料の需要がふえていることを読んだ上での歎願だった。
藩はその願いに許可を出した。もともと藩は油粕の沖出しを禁止していたのだが、金森屋が願書の中に記した油粕の生産急増を認めて、許可したのである。
それまでに油粕の買い付けから、戸ノ津の回船問屋との船の契約など、準備万端ととのえていた金森屋は、すぐさま沖出しに取りかかって巨利を得た。
それを見ておどろいた越前屋とほかの有力油問屋も、大いそぎで沖出しの準備にとりかかり、藩には金森屋と同様の願いを上げたが却下された。同じころ金森屋の沖出しも、領内の油粕が品不足から値段の急騰をみたという理由で禁止されたが、それまでに金森屋は十分儲けてしまっていた。その間、およそ三年ほどのことである。
金森屋は沖出しからすばやく手を引いた。しかし二年後にはふたたび藩に願書を提出した。今度は、領内の村村に油粕の需要がない六月から八月までの、三カ月に限っての沖出し許可をもとめたのである。領内需要の隙間を突いた抜け目ない歎願だったが、今度も藩では許可を出した。
この三カ月の沖出し許可は、その後藩が手形を発行して人数を限り、金森屋以外にも許可をあたえることになったが、沖出しの準備から売り込み先の手当まで出来上がっている金森屋には太刀打ち出来ず、せっかく許可を取りながら手形を返還する油屋もいた。
「ウチなども、細細と沖出しをやっていますが、さほどのうま味はありませんな。うまいところは金森屋にさらわれた形です」
と、越前屋は言った。
「なるほど、なかなか抜け目ない商売人ですな」
「ところがこれには、裏話があるのです」
と言ってから越前屋は、孫四郎に菓子を喰えとすすめた。そして大きな口を引きむすんだまま、顔にうす笑いをうかべた。
「金森屋の大儲けには、藩のお偉方が一人噛んでいるというのです。耳にしたことはございませんか」
「いやいや、初耳です」
「油粕の出来がふえたといっても、じつは藩が沖出しを許すほどにふえたわけではなかったというのですな。しかしそういう名目をつけて、願いを出すことは出来る。あとは許可を出す側に、人がいるかどうかです」
「金森屋の便宜をはかる人間、ということですかな」
「そうです、そうです」
「で、それがお偉方の一人だと?」
「そう言われています。願いを出せ、うまくはかってやると、その方のほうから言い出されたという話があるほどです」
「………」
「そのお方の懐は、ひとかたならずうるおったと言われています。とても千両、二千両というお金じゃない。持ちつ持たれつの仲は、いまもつづいているはずですよ」
なるほど、そういう関係かと孫四郎は思った。金森屋と、そういうつながりのある人物が、藩主の部屋から書類を盗ませたのだろう。それが黒川六之助の事件である。
「それがどなたかは、わかっているのですな」
「見当はついています。しかし、むろん確かめたわけじゃありません」
「内密に、名前を教えてもらえませんか」
「さあて、それはちょっと……」
越前屋は、孫四郎を見てにやにや笑った。
「あたくしの口からは申し上げられません」
「兼松さまですか」
服部外記はそのころ、ただの組頭だから論外だと思いながらそう言うと、越前屋は首を振った。
「まったく見当違いですな」
「まったく?」
そのとき孫四郎の頭に、それまで考えもしなかった人物の顔がうかんで来た。藩主の死で、利を得た人物とばかり考えたが、すでに得ていた利を失わないで済んだ人物も考慮すべきだったことに気づいたのである。
恩田作摩は、金森屋が油粕の沖出しを願い出たころ、もう中老にすすんでいたのではなかったろうか。しかし孫四郎は、うかんで来た考えを口には出さず、越前屋にべつのことを聞いた。
「前の殿が急死される半年から一年前ほどの間に、金森屋が町奉行に調べられたということがあったらしい。そのことで、何か心あたりはありませんかな」
「殿さまがお亡くなりになる一年前というと、いまからざっと……」
越前屋は首を垂れて考えに沈んだが、やがて顔を上げた。それは柘植さま、あのことではありませんかなと言った。
「金森屋のことで、かなりたちのわるいうわさが出たことがあるのですよ。なんでも、江戸で奉公先の金を奪って逃げて来た男だとか、商いでしくじりを出し、大店を一軒潰した男だとか、なにせ芳しくないうわさでした。大方金森屋がにわかに大きくなったのを妬んだ者が言い出したことでしょうけれども。いや、待てよ」
越前屋はさらに首をひねった。
「いや、そうではなくて、さっき申し上げた沖出しの一件かも知れませんな。あれは外に洩れれば、れっきとした賄賂でしょうから」
越前屋から外に出ると、またまぶしい四月の光が孫四郎をつつんで来た。そこは住吉町の表通りで、越前屋のように城下で名のある店がならび、買物の客、往来の人が混雑していた。
光はその人人の上にもふりそそぎ、心なしか道行く人の顔も明るく見えるようだった。孫四郎はしばらく混雑する人人の間を左右の店を眺めながら歩いたが、住吉団子というこれも城下では老舗の団子屋の前まで来ると、急に腹がすいているのに気づいた。栗林の屋敷から越前屋に回り、昼過ぎにはもどれるだろうと思っていたのに、時刻は大幅に遅れて、どうやら八ツ(午後二時)を回った様子である。
孫四郎は四辻で、自分の家がある方に曲がった。すると人通りは急に疎らになったが、しばらく歩いているうちに、町はまた少しにぎやかになり、そこが初音町であることに気づいた。俊吾が通う道場のある町である。
──道場に寄って行こうか。
と、ふと思った。
野々村新蔵がいるかどうかはわからないが、師範代の岡安とも面識はある。この間新蔵に言われたことについて、釈明とまではいかなくとも、何かの挨拶はしておくべきかも知れないと思ったのである。
俊吾にはその後も何も言っていないから、道場ではまだ手を焼いているに違いなかった。しばらくの間のことと思うから、大目にみてもらいたいと頼むしかないなと思いながら、孫四郎は細い路地をひとつ曲がった。丹石流の浅井道場は、町の裏通りにある。
やがて道場が見えて来て、孫四郎は道場の出入口の方にむかって足をはやめた。そのとき、思いがけないものが見えた。
目に入ったのは、道場の母屋の門の内側で人目を避けるようにして話している二人の人間である。冠木門《かぶきもん》の左右は低い生垣になっているので、話している人間は門の内側に隠れているつもりかも知れなかったが、横から見ると上半身が丸見えである。
孫四郎は足をとめ、ついで後じさりして路地の角までもどった。二人の姿はよく見えたが、二人から孫四郎の方角は逆光になる。そのせいか、むこうでは孫四郎に気づいていなかった。
話している一人は、野々村新蔵だった。そしてもう一人は、孫四郎の記憶に間違いがなければ、恩田中老の屋敷の家士だった。もう一度二人の姿を確かめてから、孫四郎は来た道を表通りの方にもどった。
胸が高鳴っていた。野々村新蔵と恩田中老の家の家士との組合わせは、思いがけないだけのものではなかった。それ以上に、不吉に思われた。
むろん、それには理由があった。鳥飼宇之助の暗殺、吉崎伊織の暗殺、そして黒川六之助の話をそれに重ねれば、事件の背後に黒幕と黒幕に使われる剣の遣い手を想定しないわけにはいかない。
偶然に見かけた、密談といった様子の二人には、理屈を越えていきなり、孫四郎に黒幕と一流の剣の遣い手のつながりを連想させるものだったのである。
──もちろん……。
速断は出来ない、と表通りを歩きながら孫四郎は思った。動悸はもうおさまっていた。ただの思い過ごしかも知れなかった。越前屋で、ああいう話をして来た直後なので、過敏に想像が働いたとも考えられる。
だがそう思ってみてもまだ、ひそひそと額を寄せて話していた二人の姿が目に焼きついていた。一歩譲っても、二人がただの行きずりの仲でないことは確かだったのである。
──確かめる方法はある。
と思った。いよいよ恩田中老に会うときが来たようだった。孫四郎は空腹を忘れていた。
三日後の夜、孫四郎は恩田家の門番に見送られて、潜り戸から外に出た。
堀ノ内は、濠端から城北の一帯にひろがる屋敷町である。高い塀に囲まれた高禄の重職たちの屋敷がつづく場所なので、外に出て歩き出してもあたりは物音ひとつせず、闇もことさら濃いように思われた。
──なかなかのお方だ。
と孫四郎は思っていた。恩田作摩のことである。その認識が、胸の中にちょっぴり興奮を残していた。なかなかの悪人だと、言い換えてもよかった。恩田中老から受けた印象は、まさにそういうものだったのである。
恩田ははじめてたずねた孫四郎を、快く居間に通した。居間とは言いながら、用いている調度に贅を尽している、そういう部屋だった。べつに策を弄する必要もないので、孫四郎はいきなり、さしつかえなければ八年前の吉崎との話の中身をうけたまわりたいと言った。
「異なことをたずねると思われるかも知れませんが、それがしはあの夜の事件で、いまだに家禄を減らされたままです。納得いかぬところがありまして、おたずねに上がった次第です」
それで恩田が話の中身をしゃべるだろうと思っているわけではなかった。目的はべつにある。
ひょっとしたら怒り出すかな、とも思ったが、恩田は怒らなかった。肉のうすい上品な顔に、うす笑いのような微笑をうかべたまま、孫四郎を見つめている。孫四郎の用件をおもしろがっているようだった。恩田の笑顔には、上にものぼらず失脚もせず、十数年も中老という位置に坐りつづけて来た男の奇妙な人柄が出ているようにも見えた。
そして恩田は突然に言った。
「むかし、誰かもそんなことを申したが、わしは吉崎には会っておらんのだ」
やはりそう来たか、と孫四郎は思った。ある程度予想したことである。吉崎の用件なるものが、もし孫四郎の予想とは逆に恩田を詰問することで、吉崎の言う恩田に会うのを喜ばぬ者とは、ほかならぬ恩田自身を指しているのだとすれば、恩田のこういう否定は当然のものだった。だが孫四郎は喰いさがってみた。
「あの夜、それがしは吉崎さまのお供でたしかに当お屋敷をたずね、玄関のわきの部屋でおよそ一|刻《とき》ほどお待ちいたしましたが……」
「それは、何かの思い違いではないかな」
恩田は平然と言った。微笑はいっそうやわらかくなった。
「このあたりには似たような構えの家が沢山ある。昼はともかく、夜分は間違って門を入って来る者もおるそうだぞ」
善意の解釈などと、栗林嘉平太の目はいったいどこについていたのだ、と孫四郎は思っていた。目の前の人物から押しよせて来るのは、したたかな悪人ぶりだった。
藩のためを思ってのおとぼけ、などという見方はとんだお笑いぐさだと思いながら、孫四郎はお会いしていないと言われればいたし方ありませんと言った。そして用意して来たつぎの質問を放った。
「御中老と油問屋の金森屋は、ごくお親しい間柄とうかがいましたが、まことでしょうか」
「金森屋?」
恩田の笑顔が大きくなった。
「あの金持ち商人の金森屋か」
言いながら恩田は立ち上がり、ゆっくりして参れ、いま茶を呼ぼうと言った。孫四郎は恩田中老が襖をあけて廊下に出て行く気配を、全身を耳にして聞いた。
中老はすぐにもどって来た。
「ふむ、誰がそんなことを申したかの」
そう言ったとき、恩田中老の目にはじめて、さぐるようないろが現われた。
越前屋が言ったことは本当だったな、と孫四郎はいま思い返している。あのとき恩田が示した態度には、わずかであったが明らかな狼狽が見えたのである。
しかし孫四郎があの質問をしたのは、越前屋に聞いたことを確かめようとしたのではなかった。吉崎との話の中身を聞いた上に、金森屋との関係にまで口をはさんで来た人間を、恩田が無事に家に帰すかどうかを賭けてみたのである。
──うまく行けば……。
家に帰りつくまでに、刺客が現われるかも知れないと孫四郎は思っていた。その刺客が野々村新蔵であれ誰であれ、孫四郎を襲う者が出て来たときは、恩田中老の犯罪はゆるぎないものになると断じてよかろう。刺客を殺してはならない。
孫四郎はもう刀の鯉口を切っていた。その恰好で歩きながら恩田屋敷にいる間の中老の様子を、仔細にふり返ってみた。中老は金森屋との関係を否定した。しかし帰れとは言わず、自分の方から孫四郎の江戸詰の話とか、鑑極流の稽古のこととかを話題にして茶を振舞った。それは孫四郎ものぞんだことだった。
二人が雑談に費した時は、およそ半刻(一時間)ほどだろう。刺客を呼びよせるには十分な時と言える。その間に、中老は二度中座した。むろん、その中座には意味があると考えるべきだった。
孫四郎は、四方に気を配りながら歩いた。しかし刺客は現われなかった。堀ノ内へつづく武家町のひとつが終り、さらにもうひとつの武家町を抜けて新堀川の河岸に出た。持っている提灯の明かりにうかび上がって来た山姥橋を渡れば、向う岸はもう孫四郎が住む町である。
──思い違いか。
いや、そんなことはあるまいかと、自問自答しながら、孫四郎は橋にさしかかった。そのとき鳳川寺の鐘が五ツ(午後八時)を知らせた。闇は深くて橋の下を流れる水も見えなかった。そして橋の半ばまで来たころである。風が走るような物音が背後に迫った。
一瞬のためらいもなく、提灯を投げ捨てると孫四郎は刀を抜いた。孫四郎が振りむくのと闇の中からのしかかるように敵が斬りこんで来たのが、ほとんど同時だった。はげしく刀を打ち合わせて二人は擦れ違った。提灯の火が燃えつきるまでに、二人はさらに二度踏みこんで斬り合った。
肩に打ちこんで来た刀をはね上げ、はね上げた剣で、踏み出した敵の脚を斬った。肉を裂いた手応えがあった。斬った、と思ったとき、橋に落ちた提灯が燃えつきた。
すばやく足を引いて、孫四郎は前方の闇の気配をさぐった。構えた刀を崩さずに、耳だけで気配を聞いた。身体を何かに打ちあてたような、鈍い音が一度した。つぎに衣服をこするような物音がした。それっきりで闇は静まった。
──逃げられたか。
と思ったとき、今度は呼吸の音がした。敵はまだすぐそこにいた。ただし、息遣いは荒く乱れている。
「野々村か」
孫四郎は声をかけてみた。返事はなかった。するとそのとき、どこからか火縄が匂って来た。ぎょっとして孫四郎は闇の中に目を走らせた。
その目に、いま渡って来た方の橋袂に小さな火種が動くのが見え、その火は突然に龕灯《がんどう》の光になった。明るい光の中を、二、三人の人が走って来る。龕灯もゆっくり近づいて来た。
孫四郎が刀を構えると、龕灯を持っている人間が声をかけて来た。
「大目付の小出じゃ。手向い無用」
小出徳兵衛がそう言っている間に、大目付の配下と思われる男三人が、孫四郎のわきを走り抜けて倒れている男のそばに行った。黒ずくめのその男は、立ち上がろうとして力尽きた恰好で、欄干の下に倒れている。橋の上に黒く血が流れていた。
小出がそばに来たので、孫四郎は刀を鞘におさめて小出と一緒に倒れている男のそばに行った。大目付の配下は、すばやく斬られた腿の傷の血止めをし、男の刀を取り上げ、顔を覆う黒い布を剥いだ。野々村新蔵の血の気を失った顔が現われた。
「やはり、野々村か」
と大目付が言った。そして、あれだけ手際よい仕事が出来るのは、柘植か野々村のどちらかに違いあるまいと言う者がいたが、当ったなとつけ加えた。
その言葉は、孫四郎をおどろかせた。
「仕事と申しますと?」
「鳥飼宇之助、吉崎伊織の暗殺、それにもと近習組の黒川が絡んだ一件」
小出の言葉は、塚本半之丞の死後、孫四郎が調べて来た事件を、大目付もまた調べ直していたことを物語っていた。
「すると……」
と孫四郎は言った。
「それがしも疑われていたのですか」
「むろんだ」
調べ好きの蚤取り徳兵衛は、こともなげに言った。
「ことに御用人の吉崎どのを護衛したあたりのそなたの行動は、当夜のことも含めて詳細に調べ直した。刺客が出たと申して、じつは護衛した本人が刺したことは大いにあり得ることだからな」
大目付、この者をどうしますかと配下が言った。徒目付《かちめつけ》といった格の男だった。
「六庵先生に行って、傷を手当てしてもらえ。そのあとで屋敷に連れて来い」
三人とも行け、と小出は言った。二人が左右から野々村を担ぐように支え、そのあとに刀を持った一人が付き添って遠ざかるのを見てから、小出は孫四郎に、ちょっと屋敷まで来てもらうぞと言った。
「栗林どのは……」
歩き出しながら、小出は少し皮肉な口調になった。
「そなたの申し立てを正直に信じたらしいが、わしはそうはいかん」
「………」
「野々村の黒幕が誰かは、わかっておるな」
「恩田さまだと思います」
小出は沈黙した。しばらく龕灯を振って歩いてからぽつりと言った。
「公金費消だ」
鶴羽郡の村村に返還すべき公金八百両ほどを、恩田は使いこんだと言った。
「それを埋めるために、金森屋の油粕沖出し願いを不正に許可し、大儲けさせた。執政にあるまじき行為だが、これは賄賂を取るためだったと判明している。いま金森屋の方を調べているが、いやはや……」
小出は歎息した。
「これまで中老が袖の下にたくしこんだ金は、一万両をくだるまいという話だ。家老にもならず、さればといって執政からおろされもせず、じっと中老の席にいて金儲けにいそしんでいたわけだ」
「………」
「先の殿の急死にも不審がある」
と、小出が言った。
「殿が急死したその日、書庫のある庭から表御殿にもどって来た恩田を見た者がいる。吉崎どのが中老に会いに来たのは、江戸屋敷でそのうわさがあったすぐ後のことらしい。ただし吉崎どのも死なれ、証拠は何もない」
──証拠はございます。
思わず言おうとして、孫四郎ははっとした。半之丞の遺書を渡せば、たとえば小出なら藩主の遺骸をはこび出しに来た男たち、とりわけそのときの医者をつきとめることが出来るかも知れないと思ったのだが、へたなことを言うと、半之丞の家でした工作が台なしになる恐れがあった。
つかぬことをお聞きするが、と孫四郎は言った。
「塚本半之丞の跡目相続がその後いかが相成っているか、大目付はご存じありませんか」
「塚本の相続は許しが出た。たしか今日、家の者が城に呼ばれてお達しを受けたはずだ」
「もし半之丞の死に不審があったとわかれば、相続は取り消されますか」
「何か秘密をにぎっているな、柘植」
と小出は言った。鋭い目で孫四郎を見た。
「四の五の言わずに、知っていることを申さぬか」
「しかし……」
「塚本の相続は心配がない。いったん許しが出たものが簡単に取り消されることはない。それでも心配なら、これからそなたが言うことは外に洩らさぬと約束しよう。金打《きんちよう》がいるか」
「いえ」
孫四郎は首を振った。
「塚本半之丞の死は憤死です。先の殿の死は毒殺だとそれがしに遺書を残しました。それを誰にも言えずに、憤死したのです」
「それをはやく言わんか、孫四郎。よし、その遺書はあとでこちらにもらうぞ」
そう言ったあと、小出はしばらく黙って足をはこんだ。そしてぼそぼそと言った。
「公金費消、金森屋に対する沖出しの不正許可と賄賂。これだけそろえば、恩田中老は切腹、家族は領外追放だろうな。ところが先の殿は、町奉行の谷内の筋から、恩田のその不正を嗅ぎつけたらしい。動顛《どうてん》した恩田は町奉行の調べ書を奪い、そのことが露われて殿に詰問されると、今度はわが命惜しさに殿に毒を盛ったのだろう」
「………」
「ま、明日にはすべて判明することだ。今夜これから兼松家老に会い、明日の朝は一番で恩田の屋敷に乗りこむ段取りになっている。おう、そなたには礼を言わねばならんな」
小出は皺の多い細長い顔を、孫四郎に向けた。
「野々村にはこのところ毎晩、ぴったりと見張りをつけていたのだが、なかなか正体がつかめなかった。しかしこれで、証拠が上がった」
小出は突然立ちどまった。そしてそうだ、忘れるところだったとつぶやいた。
「そなたの女房どのを伊賀町に呼び出したのはわしだ。家まで送って行ったのは徒目付の金井達之助。さっき申したように、そなたが江戸にいる間にそなたのことをみっちりと聞き調べたのだ」
孫四郎は呆然と小出の顔を見つめた。
「ところがそのあとで不義などといううわさが立った。人目につかぬようにと伊賀町に呼び出したのが、かえって仇になったわけだ。しかし事はきわめて隠密のものだったので、女房どのの濡れ衣を晴らしてやることは出来ぬ。そこで女房どのに、うわさには目をつぶって秘密を守るように、重ねて厳命したのだ。これは藩命だ、たとえ夫のそなたにも洩らしてはならんとな」
「………」
「もっとも藩に離別届けまで出たのには、こっちも胸が痛まぬわけではなかったが、ほっておいたのだ。どうせ、しばらくの辛抱だからな。しかし、もうよいぞ。女房どのをもどしていたわってやれ。届けは取り下げてもらうように、わしも骨折る」
大目付屋敷での簡単な調べが終って、孫四郎が家にもどったとき、鳳川寺の鐘が四ツ(午後十時)を知らせた。戸をあけると、そこで瑞江と鉢合わせをした。
どちらもバツ悪い顔になったが、瑞江はさきほど塚本の奥さまと安次郎どのが、無事に跡目相続がかなった挨拶に見えられましたと言った。安次郎というのが、半之丞の嫡男である。
「奥にお礼の品が置いてございます」
瑞江はそれだけ言うと、顔をそむけて外に出ようとした。孫四郎はおいと言った。
「大目付の小出どのに会って来た」
「え?」
「もう、いいそうだ。済まなかった」
瑞江はしばらくうつむいて立っていたが、やっとうなずいた。だが、まだ固い表情をしていた。では、と言ってまた外に出そうにした。孫四郎はその腕をつかんだ。
「帰らなくちゃならんのか」
「さあ」
瑞江は変にちぐはぐな表情をした。
「泊っても、むこうはべつに心配はしないと思いますけれども」
「だったら泊ればよい」
「でも……」
「話は明日、ちゃんとつける」
「おまえさま、それは?」
不意に瑞江が目をみはって、孫四郎の肩に手をのばした。気がつくと、衣服がざっくりと斬られている。かすかな痛みもあった。どうやら浅い手傷を負ったらしかった。
「これは、どうなさいましたか」
「まあ、いい。ちょっと外に出よう」
孫四郎は瑞江から提灯をうばうと、灯を吹き消した。そして瑞江の腕をつかんだまま外に出た。闇の中で、軽く妻を抱き寄せた。
「事情は大目付に聞いた。苦労をかけた」
瑞江は無言だった。しかし孫四郎が背に回した腕に少し力をこめると、不意に身体の力を抜いて孫四郎の肩にすがった。若いころにもしたことのないことである。二人は闇の中にじっと立っていた。
やがて孫四郎が、妻の背をぎごちなく撫でた。するとそのとき、家の中からおとくのドラ声が聞こえて来た。
「旦那さま、帰ってこられたのですか」
おや、奥さまの提灯がこんなところに。まあ、戸もあけっぱなしで、いったいお二人ともどちらにとおとくはぶつぶつと文句を言っている。
いま、夫婦再会のいいところなのに、少し静かに出来ぬかと孫四郎はにがり切っている。
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榎屋敷宵《えのきやしきよい》の春月《しゆんげつ》
夕刻七ツ(午後四時)過ぎに、夫の織之助が帰って来た。田鶴《たづる》は目を伏せて夫に従い、奥に入って着替えを手伝った。
織之助の方から何か言うかと思ったが、むっつりとおし黙っているので、田鶴は着物を着せかけながら夫に聞いた。
「いかがでしたか、平岐《へき》さまのご機嫌は?」
「………」
「望みがありそうな気配はございましたか」
「そううまくはいかぬ」
やっと織之助が言った。力のない声に聞こえた。
首尾がよくなかったのだ、と田鶴は思った。しかしそのことには触れずに、田鶴は夫が脱ぎ捨てた衣類を、衣桁《いこう》にかけるものはかけ、畳むものは畳んで丁寧に片づけた。そして襖をしめて隣の部屋に行くと、ちょうど奥働きの婢《はしため》おはるがお茶をはこんで来たところだった。
田鶴は夫とむかい合って、しばらく無言でお茶を飲んだ。戸をあけはなしてある縁側から、時おり庭の風が入りこんで来る。風は生あたたかかったが無風よりはましで、そして暑い日なのにお茶はうまかった。
築山の奥の雑木林で、競い合うように油蝉が鳴き、池の隅には河骨《こうほね》の黄色い花が、ひとところにかたまって咲いている。夏はまだ盛りだった。
──だが、じきに……。
雑木林の蝉の声は蜩《ひぐらし》に変り、秋風が吹きはじめるだろう、と田鶴は思った。茶碗を盆にもどすと、田鶴は団扇《うちわ》を取りあげてゆっくりと夫に風を送った。
「どのようなぐあいだったのでしょう」
「ほかの家では、もっと露骨にやっているようだ。それらしい口ぶりだった」
「平岐さまが?」
家老の平岐権左衛門がそう言ったのか、と聞きかけて田鶴は口をつぐんだ。問い質すまでもない、むろん平岐自身がそうにおわせたのだろう。筆頭家老はそのぐらいのことは平気で口に出す男である。
夫を見ると、そう言われたときの屈辱を思い出したのか、顔を赤くしている。夫が持参した進物は紬《つむぎ》三反だった。
「だから、こんなことでよいのかと申したのだ」
織之助は妻を非難するように見た。
「わしはどうも、金が動いているのではないかという気がしておった」
「でも、はじめから金子を包んでもいかれますまい」
田鶴は落ちついて言った。
「執政のお仲間入りをのぞむからには、人品ということも考えに入れませんと。寺井の家風はそんなものかと侮られては、進物が少ないことを言われるよりもっと困ることになりませんか」
今年の正月明けに、家老の宮坂|縫殿助《ぬいのすけ》が急死した。その穴を埋めて執政に加わるのは元の中老佐野甚六郎、組頭寺井織之助、差立御番頭《さしたてごばんがしら》宗方惣兵衛の三人のうちの誰かだろうと、すぐにうわさが立ったが、当時在国中の藩主は何も言わずに出府した。
後任の人選は筆頭家老の平岐権左衛門にゆだね、つぎに帰国するまでにあらまし決めておけと言いおかれたのだということが、そのあとで田鶴の耳にまで聞こえて来た。その話を聞かせたのはほかでもない。宗方惣兵衛の妻|三弥《みや》だった。
三弥は田鶴の古い友だちで、子供のころから早耳の女だった。そこではからずも旧友二人が夫の執政入りをめぐって争う羽目になった事の成行きも、耳にするとさっそくに田鶴に伝えて来たのである。
「どう決まっても恨みっこなしにしましょうね、田鶴さま」
三弥は快活にそう言った。どちらが執政入りしても、それで二人が口も利かなくなるなどというのはいやでございますよ、それに佐野さまの返り咲きも十分あることだし喧嘩はよしましょうね、とじきに三十に手がとどく女が娘のように浮き浮きした口を利いた。もっとも三弥は小柄で、化粧がうまいせいか顔には小皺ひとつなく、まだほんの二十過ぎほどにも見える女である。
田鶴はそのとき、三弥の言うとおりだと思ったのだが、言葉とは裏腹に、三弥はそのあとさっそくに、夫を執政入りさせるために上の方に働きかけている様子でもある。平岐家老がそのことをにおわせるからには、宗方はほかの執政や長老たちにも進物を配ったと考えるべきかも知れない。
「今日はほんのご挨拶に上がっただけですから、あれはあれでよろしいのです」
田鶴は少し強い口調で言った。
「いずれ金子を動かす時が参ります。そのときには惜しまずに使いましょう」
「金はあるのか」
「それはご心配なく……」
と田鶴は言った。
夫が書斎に去ったあと、田鶴は一人残ってぬるくなった茶を飲んだ。夏の一日は長く、射しこむ日射しで雑木林がまだ明るんでいるのが見える。ただし雑木林の前面は、家の影に入って黒っぽくなってしまい、そのために内部が明るい雑木林は、大きな蛍籠に見えなくもない。
──金などはない。
と、田鶴は明るい中にかすかに秋の気配が混じる雑木林に目をやりながら思った。
寺井の家は組頭だが、下に附属する家中を持たない組頭だった。いざ戦というときにどういう編成になるかはわからないが、八人いる組頭の内、附属する組子である家中を預るのは五人だけである。寺井と沢口、松村の三家は平時には組子を持たない家格だけの組頭である。
そういう意味では、寺井家は閑職にいると言えた。組子を預る家の門前がなにくれとなくにぎわい、人の出入りが多いのにくらべると、寺井家の日常は閑散としている。
面倒がないといえばそのとおりだが、そのかわり役料はつかず、当然ながら下からのつけとどけというものも一切なかった。つまり家の費えはすべて家禄で賄わなければならないのだが、その家禄も近年のように財政がくるしい藩に五分の一を貸し出すと、あとは組頭の家の体面を保つのがようやくというのが偽りのない内情だった。
とても、菓子箱の下に小判を忍ばせるゆとりなどはない、と田鶴は思う。しかし……。
──三弥には負けたくない。
と思った。決して負けられぬ、と思った。
急にうす暗くなったような気がして顔を上げると、雑木林に射しこんでいた日が消えていた。空が曇ったのではなく、もう日が落ちたのだろうと思われた。うす暗くなった池の水面で、鯉が争うような水音を立てた。あやまって水に落ちた虫でも追いかけているのだろうか。
田鶴は、台所の様子をのぞきに行くために立ち上がった。いまの顔を、誰にも見られなくてよかったと思った。三弥には負けられないと思ったとき、多分われながら険しい顔になったはずだからである。
田鶴は番頭《ばんがしら》牧野仁八郎の娘で、三弥は御奏者《おそうしや》杉山|主馬《しゆめ》の娘だった。そして二人がお喜世さま御身回り手伝いとして、城中に上がったのは十歳の時だった。名目は奉公だが、実質は行儀見習いで、それぞれの親が願って、娘をお喜世さまのそばに上げたのである。
お喜世さまは数年前に他界したが、現藩主光敏の生母で、さきの藩主の側室だった。病身で一度も江戸には出なかったが、国元の城奥をぴしりと押さえて権力のあった人である。
その年、新たに田鶴と一緒に行儀見習いに上がったのは三弥と小谷理江、現在国元の側室としてお喜世さまに代って城奥をたばねるお理江さまの三人だった。三人は以後、十五の歳の終りに城から下がるまでの五年間、気むずかしいお喜世さまに行儀作法を仕込まれて成人した。
田鶴たち三人が、城を下がってそれぞれの家にもどった後も、時おり顔を合わせて旧交をあたためたのはいきさつから言って当然と言えるだろう。三弥が田鶴の家に来たり、田鶴が三弥の家に行ったり、二人そろって榎屋敷と呼ばれる小谷理江の屋敷に招かれたり、三人はそれぞれ他家に嫁ぐ前の時期を、しきりに行き来して友情を深めたのであった。
しかし田鶴が三弥との間に、修復しがたい友情の亀裂を感じたのも、ほかならぬその時期だったのである。
──三弥は……。
はたして兄の気持に気づかなかったのだろうかと、田鶴はいまもふとそう思うことがある。だがそんなことはあり得なかった。知っていて、兄を裏切ったのだと田鶴は思う。
実家の牧野の家は、いまは兄の重次郎が継いでいるが、重次郎は次男である。その上に長兄の新十郎がいたのだが、新十郎は二十一のときに不可解な死を遂げた。城下はずれの道に立てば見える丘に建つ、小さな祠堂の前で自裁したのである。父の仁八郎は、藩に錯乱と届け出て、跡取りを重次郎に訂正した。
たしかに錯乱だったろう、と田鶴も思う。だが田鶴は、長兄を錯乱に追いこんだものの正体に心あたりがあった。その心あたりは、偶然に見たある光景につながっている。
三弥が田鶴の家に来ていたある日のことである。城を下がってから二年ほど経った時期で、そのころの二人はさかんにお互いの家をたずね合い、たずねて来た三弥が半日もいても、牧野の家では誰も不思議に思わなかった。二人はまるで姉妹のようだと言われていた。
だからその日、親戚の者が来て田鶴がよんどころなく席を立つことになったときも、三弥はそれでは家に帰るとは言わなかった。もっとも三弥は、いったん家にもどった供の老爺が迎えに来るまでは帰れないのである。齢ごろの身分ある武家の家の娘が、白昼供も連れずに市中を歩くなどということは許されぬことだった。
だが親戚の者が持って来た用は、近ごろ時どき舞いこむようになった田鶴の縁談で、話が一段落するまでに思わぬ手間がかかった。そして、ようやく解放された田鶴が自分の部屋にもどると、待っているはずの三弥がいなかった。
縁談の相手は元小姓頭の佐田家の嫡子だったが、田鶴たち齢ごろの娘たちは、小一郎というその男が歓迎されない遊蕩児であることを知っていた。年齢も三十に近いはずである。誰がそんなところに、と田鶴は思い、打診に来た親戚の者は小一郎の遊蕩のうわさを知らないのだろうかと怪しんだ。
ようやく話を振り切って、部屋にもどったら二人で佐田小一郎を笑いものにしようと思っていたので、三弥の姿が見えないのに田鶴はがっかりしたが、それほどあわてもしなかった。三弥が無断で帰るはずがないとわかっていたのである。
はたして沓《くつ》脱ぎの下駄がなくなっている。三弥が庭に降りたことがわかった。田鶴は縁側に出て、そこから首をのばして広い庭をのぞいた。予想したとおり、三弥は庭に降りていた。田鶴の部屋からはやや遠い、池のはずれの欅の下に三弥が立っている。
声をかけようとしたとき、その欅の陰に誰か人がいるのが見えた。男物の袴と袖の端だけが見えている。と思ったとき、木の陰の男がちらとこちらを向いた。兄の新十郎だった。
田鶴の顔に微笑がうかんで来た。
──あんなに隠れて……。
お話することはないのに、と田鶴は思った。兄の新十郎は、かつて藩校で注目をあつめた秀才で、番頭の跡つぎにはふさわしくないほどに寡黙で、学究的な人間だった。その上、町を歩いていると人が振りむくほどの美男子でもあった。藩校の課程を終えたいまも、新十郎は一日の大半は自分の部屋に籠って書見に余念がなく、市中の道場に通って身体を鍛えることしか念頭になく日に日に粗暴になって行く次兄とは、これが兄弟かと思うほどに性格が異っていた。
その謹厳な長兄が、妹の昵懇《じつこん》の友だちとはいえ、齢ごろの娘と二人きりで言葉をかわしている光景は、蓋《けだ》し見物だった。しかも家の者からも身を隠している様子なのが、いかにも内気で新十郎らしかった。
──何をお話しているのかしら。
と思ったが、田鶴には見当もつかなかった。そして、そのときになってはじめて、二人が似合いの美男美女なのに気づいていた。兄も美貌なら三弥も美貌だった。田鶴はまるで、絵双紙の中の男女でも見ているような気分でうっとりと見守ったが、つぎに見た光景は思わず息を呑んだ。
兄が、また三弥に何か声をかけたようである。こちらを向いた新十郎の顔が見えた。すると池のふちに立っていた三弥がすばやくあたりに眼を配った、と思う間もなく、二、三歩欅の木に近づくとするりと木の陰に入って行った。木に隠れて、二人の姿は見えなくなった。
田鶴は身体がかっと熱くなるのを感じた。だが、熱くなったのは一瞬で、顔からも手足の先からも今度は一斉に血の気が引くのがわかった。日暮れ近い日が降りそそいでいるものの、庭はまだ十分に明るかった。にもかかわらず、田鶴の目には目の前の光景がにわかに灰色に変ったように見えた。
足音をしのんで田鶴は部屋の中までもどり、三弥も新十郎もまだ木の陰から出て来ないのを見とどけると、尻下がりに部屋を出た。台所に行くと、婢のおまさが、おや、田鶴さま、お顔の色が真青と言った。
しかし、おまさにつめたい水を一杯もらうと、苦しいほど波立っていた胸はようやく落ちついて来た。
──兄たちはいつから……。
あんなに人目をしのぶほどに親しくなったのだろうと田鶴は思った。田鶴はまだ男女のことにはうとかったが、たったいま見た光景が男女相愛の図柄であることを理解するほどの分別はそなえていた。
落ちついた胸にだんだん溢れて来たのは、強い嫉妬だった。田鶴は長兄を愛していた。それもずっと昔から。
兄の新十郎に、恋心に似た気持を抱くようになった最初の出来事を、田鶴はいまもよくおぼえている。
市内の大海町に長昌寺という禅寺があり、そこが牧野一族の菩提寺だった。葬儀とか法事とかの仏事があると、おどろくほど大勢の人が寺にあつまった。その出来事が起きた日も、多分一族にとって重要な法事が営まれたのではなかったろうか。長昌寺には、礼服に威儀を正した牧野一族の者が大勢あつまり、田鶴や親戚の子らは、それだけで興奮していた。田鶴はそのとき、多分七つぐらいだったろう。
長くていかめしい儀式が終ったあと、窮屈な行儀を強いられた子供たちは、いっとき解放されて境内に出た。そしてじきに境内から寺の背後にのぼる道を見つけた。
丘にのぼったのは十人ほどだったろうが、その中に田鶴もまじっていた。丘の上には若葉の匂いと、木木の葉を通してきらめく初夏の光が溢れていた。子供たちは、胸に隠していた興奮を表に出して、木の陰から木の陰へと走り回った。
そして気がついたときは、田鶴は一人になっていたのである。さっきまでそこらにいた子供たちは、いまは姿も見えず声も聞こえなかった。田鶴はにわかに心細い気持になりながら、帰り道をさがした。細い道が見つかったが、その道をたどって行くと道は下りになり、やがて日も射さない杉林に入って行った。田鶴はおどろいて引き返した。もう一度高い場所まで引き返して道をもどると、今度はさっきはなかった二股道に突きあたった。
思案した末に、田鶴は左側の道を選んだ。しかしいくら歩いても、左右の景色は少しも変らず、新しい道も見つからなかった。右も左も雑木林と下生えの灌木だった。頭上には若葉が覆いかぶさり、そこからは相変らずまぶしい目を刺すような光が洩れて来る。そして林の奥では、絶えず小鳥が鳴いた。小鳥は、どこまで歩いても同じことさと鳴いているように聞こえた。
田鶴は立ちどまった。歩いて来た道が、そこで消えていた。その先は雑木林の斜面だった。斜面はゆるい登りになって、上の雑木林につながっているようだった。田鶴は四方を見回した。小楢《こなら》や栗、えごの木などの幹と、分厚い木木の若葉、それにひょろ長い灌木の藪《やぶ》、椿の小藪などが見えるだけだった。外界はちらりとも見えなかった。田鶴は自分が道に迷っただけでなく、山の中に閉じこめられたのを感じた。
恐怖がこみ上げて来たが、田鶴は泣きたい気持をこらえた。声も立てなかった。気持のどこかに、声を出して助けを呼べばその声は泣き声になって、たとえ助け出されても後のちまで今日寺にあつまっている一族の者から笑いものにされるだろう、という恐れがあった。
しかし、同じ場所にじっとしているのはこわかった。田鶴は道もない斜面をのぼって行った。すると意外なことにのぼりつめた先に、雑木林の出口らしい明るく光る場所が見えた。
予想にたがわずそこは雑木林の出口だった。林はそこで切れて、その先はわずかに登りになる灌木の原っぱだった。そこには、初夏の日の光が溢れていた。斜面をのぼりつめると、やがて尾根にたどりつき、田鶴はようやく尾根を走る道に出た。
しかし青く晴れた空がひろがっているものの、その下の景色はそれまで一度も見たことのないものだった。尾根の反対側はやはりつつじや山吹などの灌木の藪がつづき、その先には波打つ雑木林が見えるばかりで、寺の屋根はおろか、人家らしい物はひとつも目に入らなかった。疲れ切って、田鶴は灌木の根元に腰かけて、くぼんでいる尾根の道に足を垂らした。もう、一歩も歩けそうになかった。
どのぐらいの時が経っただろう。突然に三間ほど先の灌木がざわざわと音立てて揺れたかと思うと、そこから道に人が飛んで出て来た。田鶴の目には大男のように映ったが、立ち上がってみると兄の新十郎だった。
新十郎は無言のまま、しかしいそぎ足に近づいて来ると、田鶴の肩を軽く抱いた。しかしすぐに妹から手をはなして、歩けるかと聞いた。田鶴はうなずいたものの、半ば放心していた。すぐには、兄に会えた喜びも湧いて来なかった。
新十郎は先に立って、長い間尾根の道を歩いた。そして別れて右に折れる小道に入った。その道はすぐに雑木林の中の坂道に変り、二人は長い下り坂を黙って歩きつづけた。新十郎は時どき振りむいて田鶴の姿を確かめた。
道はいったん平らなところに降りたが、すぐにもっと急な下り道になった。緑の雑木林がずっと下までつづいていた。すると下の方に小さな人影が現われて、二人を見上げて何か叫んだ。
「は、見つかりました。ご心配をおかけしました」
新十郎が少年らしく高く澄んだ声で、しかし大人びた挨拶を返した。そのときになって、新十郎はようやく田鶴にいつくしむような笑顔を向けて来た。田鶴はとうとうそれまでこらえていた涙が、目に溢れ出るのを感じた。兄が、林の中で自分が味わった誰も知らない心細さを、よくわかっていてくれているのを感じたのである。このときから長兄の新十郎は、田鶴の恋人になったのだった。
新十郎と一緒に歩くと、すれ違う人は田鶴ではなく新十郎を見た。だが田鶴はそのことを少しも不満には思わず、美貌で秀才の兄を誇りに思っていた。それだけに、垣間見た兄と三弥との相愛の光景は、田鶴を苦しめた。田鶴は今日まで、兄は自分だけのものだと思っていたのである。
部屋にもどると、三弥も庭からもどっていた。そして、おかあさまのお話、長かったことね、と三弥は言った。田鶴に見られたのには気づかず、涼しい顔をしていた。
「辰平が、そろそろ迎えに来ているのじゃないかしら」
と田鶴は言った。辰平は三弥の供をする杉山家の老爺である。三弥に対して、どうしても気持が意地悪く働き、縁談のことを聞かせて佐田の息子を笑いものにする気持など、とっくに失せていた。
──兄と三弥が……。
あんなに親しくなったのはいつからだろうと、田鶴は三弥が帰ったあとも考えつづけた。思いあたることがひとつだけあった。
三弥の父杉山主馬は藩の御奏者で、幕府や京都朝廷への公式の使者を勤めるという役目柄、ふだんは留守がちだった。そして、その代りというつもりでもないだろうが、帰国するときはめずらしい遠国のみやげ物を持ち帰ることがあるらしかった。
あるときたずねて来た三弥が持って来たのもそういうみやげ物のひとつで、京都で使者の役目を終えた主馬が、ついでに大坂の蔵屋敷にまわって藩の用を足した折に、その地の古道具屋で買いもとめた歌留多だという。それはたしかに図柄のうつくしい歌留多とおぼしいものだったが、描かれている南蛮人や飛龍の図柄の意味がわからず、当然遊び方も不明だった。
そこで田鶴は、その歌留多を別室で書見している新十郎に持ちこんだのである。新十郎はひと目見るとすぐに、これはウンスン歌留多というものだと言い、村瀬金吾の家で見たことがあると、数少ない友人の名前を挙げた。そしていちいち図柄の意味を説明する博識ぶりを示した。
田鶴は鼻が高かった。三弥の家では、父親が買いもとめて来たものの、誰もそれがどういうものかわからなかったというのである。
「しかし、いまごろよくこういうものがあったな」
と、説明を終えた新十郎が言った。
「これは昔は大いにはやったが、寛政の御改革の折に禁制《きんせい》になった品だと言うぞ」
「遊び方はご存じですか」
「むろん、知っているとも」
と新十郎は言ったが、そのあとにめずらしく冗談をつけ加えた。
「教えてもよいが、そのために二人とも手がうしろに回っても、おれは知らんぞ」
そういうわけで田鶴はそのあと、兄を自分の部屋に招いて三弥と一緒にウンスン歌留多の遊び方を教わったのである。それが、その後時どき田鶴と三弥の遊びに、新十郎が加わるようになったきっかけだったはずである。
──二人が親しくなったのは……。
多分あのころからだ、と田鶴は思った。それまでは挨拶をかわすぐらいのことはあっても、二人きりで話すことなどはなかったのではないか。
一緒に遊戯にふけっていれば、途中で田鶴が中座したこともあったはずである。そのあとで残った二人がどんな話をしているかといったことに思いいたらなかった自分の迂闊さを、田鶴は悔やんだ。大切な兄を、三弥に奪われた失望感が残った。
しかしそのころの田鶴と三弥は、何といっても心を許し合った友だちだった。三弥は家人にも言えない悩みごとを話し合える、ただ一人の人間だった。小谷理江も親友だが、理江は身分が田鶴たちより一段高く、三弥のようなぐあいにはいかない。
新十郎を奪われた失望感と三弥に対する嫉妬はしばらく田鶴を苦しめたが、やがて次第に曖昧になった。田鶴はいつの間にか、知らないひとに兄を奪われるよりはいいと考えるようになっていた。田鶴は、三弥が兄と親しくなるのを許してやろうと思った。
ところがそのことがあってからものの半年も経たない翌年の春に、三弥は突然に番頭宗方惣兵衛の嫡子万之丞に嫁ぎ、そのひと月後に、田鶴の兄新十郎は意味不明の自裁を遂げたのである。周囲には不可解な死だと思われた。そのころまだ健在だった田鶴の父は、新十郎の死を気鬱から来た錯乱だとみたようである。
だが田鶴は、兄は三弥に裏切られて死んだのだと思った。そして、そのことは三弥も承知しているはずだと思ったのである。
むろん、裏切りというのは気持の上の問題だった。田鶴の家で、三弥を新十郎の嫁に欲しいと申しこんでいたわけでもなく、形から言えば三弥がどこに嫁入ろうとまったくの自由である。また仮に三弥と新十郎の間に、田鶴が見抜いたような男女相愛の関係があったとしても、三弥がそれを盾に、家の者が進める縁組みに抗《あがら》うことが出来るわけでもない。そのぐらいの理屈は田鶴にもわかっていた。
だが、田鶴は三弥がいつかは自分に、兄との間にあった気持の通いを打ち明けるのではないかと思っていたのである。しかし三弥は、宗方家に嫁ぐころも、新十郎の突然の死のあとも、期待したような打ち明け話はひとことも口にしなかった。
三弥は終始、新十郎との間に気がかりなことなど何ひとつなかったかのように振舞ったと言ってよい。その曇りのない笑顔は見事なほどだった。裏切られた思いが強くなった。田鶴はひそかに、三弥の笑顔を憎んだ。
もっとも、三弥の図々しいその頬かむりがあったからこそ、二人の友だちづき合いが今日までつづいて来たのだとも言えよう。その意味では、田鶴もまた、三弥に対して長い間猫をかぶって来たのである。
──あのとき、なぜ裏切ったかは……。
いまになってみれば、よく腑に落ちる、と夫と平岐家への進物で話し合った日の夜、容易に眠れぬ床の中で田鶴は思った。
当時は田鶴の実家牧野家も、三弥が嫁いだ宗方家もともに並御番頭《なみごばんがしら》と呼ばれる身分で、城内における席次は御奏者の下、御留守居の上である。家禄はともに三百石だった。
しかし宗方家は四代前の惣兵衛が中老を勤め、当時の禄高は四百五十石だった家である。いま現在は並御番頭という家格に甘んじているが、いずれはもっと上ものぞめる家柄と、三弥の家でも、また三弥自身も思ったかも知れなかった。加えて宗方の嫡子万之丞は、文武のたしなみにすぐれた好男子と評判される人物だった。
そしてその評判を裏切らず、宗方万之丞は家を継いで惣兵衛となるとめきめき頭角をあらわし、数年を経ずして重用されて差立御番頭となった。すなわち筆頭御番頭で、席次は小姓頭の下、側用人《そばようにん》の上に席を占める権力者である。宗方惣兵衛がその役についたときは三十歳、惣兵衛のような若年で差立御番頭にのぼったのは例があるまいと言われた。
そしていま、その器量人宗方惣兵衛が、むかしの家格と人物を買われて執政入りをうわさされているのをみれば、三弥は新十郎を、歌留多遊びの相手としてならともかく、縁組みの相手としては一顧もしなかったのだとよく納得出来る。
田鶴は、兄の新十郎があわれでならなかった。胸にあてていた手を夜具から抜いて、顔を覆った。すると、田鶴を振りむいていつくしむように笑った十二歳の兄の顔が見えた。
──明日にも……。
古手屋を呼んで金をつくらねば、と手の中で目をみひらきながら、田鶴は思った。
九月に入ると、秋はにわかに季節の素顔をむき出しにして、物は枯れ、日暮れはおどろくほどはやくなった。
その日、田鶴は七ツ(午後四時)過ぎに家を出て、祝部《いんべ》町の小谷家にむかった。お理江さまから招かれていた。祝部町は城の西北にひろがる屋敷町だが、お理江さまが城の建物からのぞめるほどに近いその町の実家にもどるのは、年に一、二度である。藩主が在国のときは、一度ももどらないことさえあった。
もっとも実家の小谷家は、お理江さまの両親がはやく亡くなった上に、五年前には兄嫁だったひとも病死し、残るは兄の三樹之丞と姪一人なので、お理江さまにとって、ゆっくりくつろぐ場所ではなくなっているのかも知れなかった。
それでもお理江さまの招き文には、食事でもしながら、いつものように、つもる話をしようではないかと書いてあった。そして、宗方三弥も呼んであることをつけ加えていた。それがお理江さまが実家にもどったときの慣例だったから当然のことだが、田鶴は今度だけは三弥と顔を合わせるのが気が重かった。
田鶴はうつむいて歩いていたが、ふと目の隅に気になるものが動いたような気がして顔を上げた。そこは祝部町のひとつ手前、鷹匠町の中ほどで、田鶴と供の与六がさしかかっているのは大目付村瀬又左衛門の屋敷の門前だった。
しかし気になる物の気配は、村瀬屋敷ではなく反対側の方角からやって来た。田鶴がそれとなく目を配ると、ちょうど、大目付の屋敷を斜め向いに見る多田という家の塀の角に、屈強な身体つきをした中年の武士がいて、田鶴を見ていた。男は田鶴の視線を浴びると、何気ない動作で背をむけて細い路地の奥に姿を隠した。
しかし田鶴と与六が、大目付屋敷を通りすぎようとした時、今度はその屋敷の角から若い武士が二人出て来た。二人の男は、さっきの男のように身を隠そうとはせず、鋭い目で通りすぎる田鶴主従を見送っている。
「与六」
通りすぎてしばらくしてから、田鶴が言った。
「いまの男たちを見ましたか」
「はい」
与六は六十年寄りに似ず目がよくて、見るべきものはちゃんと見ていたようである。即座に答えた。
「妙な人たちでございました」
「何者だろ」
「さあて」
振りむくと、与六は髪の白い頭を自信なさそうに傾けている。
「大目付さまのお屋敷の方方ではないでしょうか。屋敷回りを見回っていたのかも知れません」
違う、と田鶴は思った。
田鶴は小太刀を遣う。城に上がったときに薙刀と小太刀の手ほどきを受けたが、ことに小太刀に天稟《てんぴん》の才を示したので、命ぜられて城中から城下の小城孫三郎の道場に通った。小城道場は戸田流の小太刀と居合、棒を教え、道場主の小城孫三郎は小太刀をもっとも得意とした。田鶴はこの道場で修行を積んで免許をうけ、寺井家に嫁入るころには若年ながら小太刀の名手として人に知られていたのである。
その田鶴が、さっきの男たちから嗅ぎつけたのは殺気だった。
──何のための殺気か?
と田鶴は思っている。与六が言うように、大目付の配下が必要あって屋敷を見回っているのではなかった。男たちは、家の角に隠れて何者かを待っているように見えたのである。
だが田鶴のその思案は、小谷家の門を入り、玄関まで来たところで中断された。ちょうど出会い頭に玄関から出て来た人間がいる。屋敷の当主小谷三樹之丞だった。
「よう」
と立ちどまった三樹之丞が言った。
「しばらく顔を見せなかったではないか」
「はい、お久しゅうございます」
「そなたは、ちっとも変らんな」
三樹之丞は射抜くような鋭い目で、じろじろと田鶴を見ながら言った。
「いや、人の妻になってむかしよりかえってきれいになったかな」
「………」
田鶴は黙って目を伏せていた。むかしから、三樹之丞の鋭い目と長身の身体が苦手だった。見おろすようにして見つめられると、ゆえ知らぬ圧迫感をおぼえる。
「どうだ、田鶴」
三樹之丞は、自分の供と与六がつつましく目を伏せて聞いているのには、いっこう無頓着な様子で言った。
「そのうちに一度、ご亭主には内緒で有明茶屋で飯でも食おうではないか」
「またお戯れでございますか」
田鶴がきっと顔を上げて言うと、三樹之丞は声を出さずに笑った。そして供の者をうながすと門の方に遠ざかって行った。
──まだ、あんなことをおっしゃる。
と、玄関にすすみながら田鶴は思った。
本気だったのかそれともからかったのか、はっきりとはわからないが、三樹之丞は若いころに、しきりに田鶴に言い寄ったことがある。
お理江さまの兄小谷三樹之丞は、新十郎とはまた趣きの違う美男子で、文武にすぐれた若者だったから、誘われたのが田鶴でなかったら心を動かした者もきっといたに違いない。しかしそのころ長兄に夢中だった田鶴には、三樹之丞の露骨な誘いはおぞましいたわごとに過ぎなかった。ひたすら逃げ回った。
結局逃げ切って田鶴は寺井家の人となり、三樹之丞は三樹之丞で、べつに妻を迎えたのだが、その後も田鶴が小谷家を訪れると、三樹之丞はさっきのようなことを平気で口に出した。それも人前をはばからない。
──あの方は……。
やはりどこか風変りでいらっしゃる、と訪《おとな》いを入れてお理江さまの部屋に案内する者が出て来るのを待ちながら、田鶴は思った。
小谷家は、古い時代に藩主家から分かれ、以来本家と薄くない血のつながりを保って来た家で、もし万一、藩主家の血が絶えるような危機が到来したときは、小谷家から後継者を出すことが出来ると、藩法に定められていた。そのために小谷家は、無役ながら家禄二千石を受け、家中はもとより領内一般から尊敬されているのである。
しかるに、その重重しい家の当主小谷三樹之丞の近年の行状は、いささか破格と呼ぶほかはないものだった。
さきにも述べたとおり、三樹之丞は五年前に妻を病いで失ったが、後添いをもらわなかった。そのかわりに千日町の芸者置屋「源氏屋」の芸妓菊弥を妾にして、十日に一度は園井町の有明茶屋に呼び出して一夜を共にしていることは、家中で知らない者がいなかった。しかし三樹之丞の変ったところは、多額の金を渡して妾にしながら、その菊弥が夜ごと客席にはべるのを禁じていないことだろう。
小谷三樹之丞の子は、女子一人である。十歳になる。跡つぎが女子では、藩法に定められた藩主家危急の場合の役に立たない。そのあたりも藩の重役たちの釈然としないところだが、三樹之丞本人はいっこうに無頓着らしかった。
しかしそういう破格の人柄でいながら、一方で小谷三樹之丞がひそかに執政たちの相談に乗り、あるいは藩政について歯に衣着せない直言もして、陰の実力者として尊敬されていることも田鶴は耳にしている。
三樹之丞は十二のときに出府し、二十一で帰国して家督を継ぐまでのほぼ十年間、江戸で気ままに剣と学問を修行した。剣は小野派一刀流だという。三樹之丞は帰国後も藩校に通って学問をおさめ、また古一刀流を伝えると称する古藤田派の市中道場溝口に籍を置いて剣をみがき直したので、小谷の学問と剣は奥深いと言われた。
一般には、その三樹之丞の行状が風変りな色合いを帯びるのは、妻女と死に別れて以来だと思われているようだが、田鶴にはべつの見方があった。三樹之丞が田鶴に言い寄ったのは、江戸から帰国して間もないころだったろうが、田鶴はそのころからもう、小谷三樹之丞という人物の一風変った性格に気づいていたのである。
田鶴の夫寺井織之助は、ごく平凡な人物である。田鶴との縁組みがまとまった二十過ぎのころも、ただ若干家柄に恵まれているというだけで、平凡な青年だったが、田鶴にはその平凡さが好ましかった。
平凡な夫にくらべれば、お理江さまの兄小谷三樹之丞は非凡な人間だった。だがその非凡さには、うかつに近づけば身も心も焼きほろぼされそうな、一種無気味な感じがないわけでもなかった。
──めったに近づいていい人ではない。
と田鶴が自分を戒めていると、思いがけなくお理江さまが迎えに出て来た。恐縮して挨拶する田鶴に、お理江さまはくつろいだ笑顔をむけて言った。
「おそかったではないか。三弥どのはもう、だいぶ前にみえましたよ」
両親も兄嫁もいなくとも、小谷家には屋敷内を差配する心利いた奉公人が残っているらしく、出て来る馳走はいずれも心のこもったうまいものばかりだった。焼き上げた脂ののっている鱒の切身、やわらかく煮た大根とつけ合わせた舞茸《まいたけ》、胡麻豆腐のあんかけ、菊|膾《なます》、紫蘇の葉で赤く色づけしたみょうがの漬け物、磯の香がする貝の吸い物などが膳の上にはこばれ、女たちはほんの一杯ずつ盃を干して、しばらくぶりの顔合わせを祝った。
「さ、あとは無礼講にして……」
喰べながら話しましょうとお理江さまが言い、城内の近況から江戸屋敷のうわさ話、それぞれの子供の話と話題は移って、とどのつまりはお喜世さまにきびしく躾けられた子供のころの思い出に話題は落ちついた。
「あのころはお喜世さまがこわくて、憎たらしくて……」
あの人の目を盗んで、よく悪口を言ったものだった、とお理江さまは言った。
「それがどうでしょう、このごろわたくしが若い子供たちに言っていることは、お喜世さまそっくり」
三人はつつましく、しかし一斉に笑い出した。あまり笑って目尻ににじんだ涙を指でおさえながら、三弥が言った。
「ほんとに、あの意地わるばあさまなどと陰口を利いて……」
三弥は田鶴に顔をむけた。
「でも、あのころのお喜世さまはおいくつぐらいだったのでしょうね」
「いまのわたくしたちの齢と、そんなに違ってはいませんよ」
と田鶴が言うと、すばやく指を繰っていたお理江さまがそのとおりですと言った。
「わたくしたちが御城に上がったとき、お喜世さまは三十四。城からお下がりになったときも、まだ四十にはおなりになっていなかった」
まあ、と田鶴が言い、三人は顔を見合わせた。
「もう、わたくしたちも町方でよく言う小三十……」
と三弥が少し軽軽しい口調で言った。
「子供たちからみれば、そろそろばあさまと呼ばれる齢なのね」
「三弥どの、そんなわびしいことを申すものではありません」
お理江さまがたしなめた。しかしその声が変に真剣だったので、言ったお理江さま自身が笑い出し、田鶴も三弥もにぎやかに笑った。
「やっぱり……」
と笑いやんだ田鶴が言った。
「お城のころが一番たのしゅうございましたね。そのあとは、ただ何となくせわしなく過ぎてしまったようで……」
「そう、そう、楽しいことよりは悲しいことが多くなって……」
とお理江さまが相槌を打った。お理江さまは姫を一人生んだが、わずか三つで病死させている。かわいい盛りのときのことだった。田鶴と三弥が目を伏せると、それと察したらしいお理江さまがすぐに言った。
「さほど美食もしないのに、身体は太る一方だし……」
「わたくしも困っております」
田鶴が苦笑して言うと、三弥はあなたはそんなに太っているようには見えないと言った。
「田鶴さまはもともとが柄の大きいほうだから、ほんの少し太ってもご自分ではとても大きくなられたように思うのではないかしら」
「なぐさめてくれて、どうもありがとう」
田鶴が言うと、お理江さまが三人の中で一番変らないのは三弥どのねと言った。
「ちっとも太らないし、それでいて顔色はよく小皺ひとつないようだし、あなたいったい、何を喰べておいでなの」
その強い詰問口調がおかしくて、女三人はまた笑った。
日はとっくに暮れて、障子の外にかぼそい虫の声がつづいているのが聞こえるけれども、三基の燭台がかがやく十五畳ほどの部屋は、女だけの宴席のはなやかな雰囲気につつまれていた。
三弥が傾けた頬に手をあてて言った。
「けっこう小皺もございますよ。夜だから目立たないだけでしょう」
「それはご謙遜ね。この方はむかしから、小柄で得をしていらっしゃるのですよ」
と田鶴は三弥に目をむけながら言ったが、そのつるりとした色白の顔を見ているうちに、もっと毒のある言葉を投げつけてやりたくなった。
「その上三弥さまは、ご主人さまが名だたる器量人でいらっしゃいましょ。何の心配ごともないご身分なのですよ。小皺なんか出来るわけがございません」
「そう言えば……」
田鶴の言葉にふくまれている剣呑《けんのん》な感じをいち早く察したのか、お理江さまが話題を転じた。
「今度、あなた方のお連れ合いから、執政入りする方がお出になるかも知れないのね」
「………」
「でも、そんなことであなた方は争ったりしないでちょうだい。お二人が争ったり、口も利かなくなるなどということになったら、どんなにかなしいことでしょう」
「どうぞご心配なく、お理江さま」
田鶴は三弥に対するさっきの物言いを、はやくも後悔しながら言い、三弥を見た。
「ね、三弥さま。わたくしたち、喧嘩なんかしませんものね」
「ええ、ええ」
三弥はあきらかに作った、こぼれるような笑顔を見せた。
「主人は主人、わたくしたちはわたくしたちですものね。お理江さまをかなしませるようなことをするものですか」
三弥がそう言ったとき、中年の女房が部屋に入って来て、お理江さまのそばに寄ると、何事か小声でささやいた。
お理江さまはうなずいて、田鶴を見た。
「田鶴さま、途中で申しわけないけれども……」
とお理江さまは言った。
「久久のお出だから、奈緒の小太刀の手直しを頼んでもらえまいかと、この浅尾が申しております。いかがでしょうか」
「わたくしでよかったら」
と田鶴は答えた。小谷の屋敷内には剣術の道場がある。奈緒というのが三樹之丞の娘で、外から師を招いて小太刀を習っていた。田鶴は以前にも一、二度、奈緒に短い稽古をつけてやったことがある。
「ぜひお稽古してさし上げなさいな」
三弥がまた、田鶴に作った笑顔をむけて言った。浅尾にみちびかれて部屋を出ながら、田鶴はふと、三弥の笑顔が気になった。
小谷屋敷は五千坪。高い塀の内に小丘があり、雑木林があり、その下を小流れが走り、手前に茶室があり道場があった。そしていまは夜で見えないが、丘を覆う雑木林の中からそびえ立つ二本の榎がある。昼なら祝部町の大ていの場所からのぞめるその巨木のために、小谷の屋敷は榎屋敷と呼ばれていた。たずねるたびに、田鶴はこの屋敷のひろさにおどろく。
ざっと小半刻ほど、奈緒に小太刀の稽古をつけてもとの部屋にもどると、三弥がいなかった。ごくろうさまね、とお理江さまが犒《ねぎら》った。
「三弥さまは?」
自分の席に坐って田鶴が聞くと、お理江さまは静かに首を振った。
「まだ用があるとかで先にお帰りになりましたよ」
「まあ」
「あなたによろしくと言い置いていかれましたけどね」
田鶴は落ちつかない気分を味わった。
「急用とおっしゃっていましたか」
「そうではなくて、あなたと一緒に帰るのは気が咎めたのでしょうよ。だからわたくしもおとめしませんでした」
「気が咎めるとおっしゃいますと」
「三弥どのは今日、あなたより半刻(一時間)早く来て、兄に会ったのです」
「………」
「意味はおわかりでしょ。風変りな人ですけど、兄は藩の重役方に顔が利きますから」
「ええ、よくわかります」
「あなたも一度、兄にねがってみたらどうですか。どちらに味方するわけでもありませんけど、不公平なのはいやですからね」
お理江さまの言葉は暗に三弥を非難していた。
──迂闊だった。
と田鶴は思った。出し抜いた三弥も三弥だが、気づかなかったこちらも悪いのだ。そう思ったが、お理江さまを真中にしてもどって来たように見えた二人の間の親密な空気が、みるみる消え失せるのを感じた。
田鶴が家のある与力町にもどって来たとき、時刻は四ツ(午後十時)に近かっただろう。田鶴の胸には、三弥に対する不快感がまだ澱《おり》のように沈んでいた。
──あんなに厚化粧して……。
と思った。お理江さまはだまされて小皺ひとつない、などと言ったが、作り笑いした三弥の顔にはびっくりするほどの小皺がうかんでいたのを、田鶴は見ている。
「奥さま、あれは……」
突然に与六が言った。そのただならない声音に顔を上げた田鶴も、与六が見ているものを見た。薄暗い光の中に見えるのは、斬り合いだった。しかも、あろうことか場所はどうやら田鶴の家の門前のあたりである。
与六の持つ提灯の光の先に、また刃が光った。はげしい太刀音も聞こえた。
「与六、木刀を」
田鶴は言うと、すばやく前褄《まえづま》をたぐって帯にはさんだ。与六が腰の木刀を抜いて差し出すのをつかむと、小走りに走った。提灯を持った与六もあとについて走る。
予想したとおり、斬り合いが行なわれているのは寺井屋敷の門前だった。旅姿の武士一人に両側からはさむようにして二人の武士が斬りかかっている。旅姿の男は応戦しているが、もう手傷を負ったのか、足運びに乱れが見えた。
「何事ですか」
木刀を構えて近づきながら、田鶴が叱咤した。
「わが門前での争いは許しませんぞ」
「じゃまするな」
一人がどなった。与六が機転をきかせて、道よりやや高くなっている門扉の前の石畳に走り上がり、そこから提灯をかざしているので、田鶴にどなり返した男の顔がはっきりと見えた。
──あの男だ。
と田鶴は思った。小谷屋敷へ行く途中、大目付の家の角から出て来た目が鋭く、口の大きい若者である。
「じゃまする者は斬る」
男は怒号すると、いきなり刃を田鶴にむけて斬りかかって来た。それを見て、もう一人の男もはげしく旅姿の男に斬りかけて行く。
──これは……。
喧嘩口論ではない、と田鶴は思った。斬り込んで来た男の刀の勢いは脅しではなかった。禍禍《まがまが》しい殺気が籠っていた。目撃者も消してしまおうというのか。
田鶴はやわらかく足をはこんで後にさがり、木刀でかちりと刀の峰を払った。体を転じてすばやく身体を寄せると、男の籠手を打った。若い男は辛うじてかわし、足を送ってするするとさがったが、退く前に軽く空打ちの剣を遣った。だが田鶴はその空打ちを意に介さなかった。木刀ではね上げるとひたひたと相手の引き足について行った。そして一瞬の隙を見て、肩を打った。打撃は多分骨にとどいたはずである。
おッと男が声を上げた。男は踏みとどまると、青眼の構えを固めた。と見る間に、猛然と斬り返して来た。踏みこみ踏みこみ遣う男の太刀は鋭かったが、田鶴は余裕を持って木刀で払った。そして機を見て男の籠手を打った。
男は今度は刀を取り落とした。すばやく拾い上げてうしろに逃げながら、男は不用意に仲間の名前を呼んだ。
「戸倉、ここは引き揚げるぞ」
その声で、旅姿の武士を追いつめていたもう一人の小柄の方の男が刀を引いた。その男は一瞬田鶴に鋭く目を配ったかと思うと、あっという間に闇の中に姿を消した。田鶴に打たれた長身の男は、片手で刀を構えながらじりじりと後退し、やがてこれも前の男を追って暗がりの奥へ走り去った。
「与六、提灯をこれへ」
と田鶴は言った。
門の端に、旅姿の若者が倒れていた。そばに寄ると血の匂いがした。与六がそばに来て提灯の灯をさしかけたが、その提灯がしきりに顫える。目《ま》のあたりに斬り合いを見て、与六も動顛したらしかった。
旅姿の若者は足と肩に手傷を負っていた。しかし倒れたのは一瞬の安堵のせいだったらしく、田鶴が傷を改めていると、若者はすぐに半身を起こした。
「お助けいただいて、お礼の申し上げようもござりません」
と若者は言い、藩の江戸屋敷から来た関根友三郎という者だと名乗った。
「何事ですか、いまの斬り合いは?」
と田鶴は言った。
「ただの喧嘩とは見えませんでしたけれども」
「いや、喧嘩ではありません」
と若者は言った。
「江戸屋敷でさるお方に使いを仰せつかり、大目付の村瀬さままで参ったのですが、屋敷のそばまで行くとさっきの男たちに出会いまして、この始末です」
「屋敷のそば?」
「はい。それがしを待ち伏せていたように感じました」
それでは日暮れに大目付屋敷のそばで見かけた男たちは、江戸から来る使いを待ち伏せていたのだろうか、と田鶴は思った。
「では、これから村瀬さまのお屋敷にいらっしゃるのですね」
と言ったが、田鶴は今夜は無理だと思った。時刻は遅いし、関根という若者は手傷を負っていた。肩の傷は浅手だが、膝上の傷はぱくりと傷口をひらき、かなりの重傷のようである。
それに、さっきの男たちが襲撃をあきらめたかどうかはまだわからなかった。大目付屋敷にむかう途中で、あの男たちと再度ぶつかる可能性が、なきにしもあらずである。
そう思う田鶴の脳裏には、さっきの斬り合いには加わっていなかったもう一人の男がうかんでいた。大目付屋敷の向かい側にいて、田鶴をみるとさりげなく背をむけた中年の男である。
──あの男は……。
剣客だった、という感触が田鶴の中に残っている。たとえ田鶴がつき添って、関根を大目付の家までとどけるにしても、途中であの男が出て来たらとても無事には済むまい。
「でも……」
と田鶴は言った。
「取りあえず傷を手当てしましょう。あなたは運がおよろしかった。ここはわたくしの屋敷です。さあ、入ってください」
「しかし、いそぐ使いなもので、出来ればこのまま……」
と関根は言ったが、二、三歩潜り戸の方に歩きかけたところで、躓《つまず》くように前にころんだ。手傷を負った足が、力を失ってもつれたのだと思われた。
与六が走り寄って、関根を助け起こした。田鶴は与六から提灯を受け取ると、先に立って潜り戸をあけた。そのあとに、関根を肩にかけた与六がつづいて門を入った。
玄関で家士の平井重助を呼び、関根の傷の手当てを言いつけてから、田鶴は奥に行った。もう寝所に入ったかと思った織之助が、まだ書見をしていた。
織之助は書見の姿が似合う男だった。それは逆に言えば組頭という家の職が不似合いだということになるかも知れないが、夫の書物にむかって端然と背をのばしているうしろ姿は、田鶴にふと若くして死んだ長兄を思い出させる。
「ただいまもどりました」
われに返って田鶴が帰宅の挨拶をすると、振りむいた織之助が不機嫌な声で言った。
「遅いではないか。いかにお理江さまのお呼び出しとはいえ、屋敷の女房が四ツを回って帰宅するとは、奉公人にしめしがつくまい」
「申しわけございませぬ。なにせ女三人、存外な長話になりましてこんな時刻になりました」
田鶴は詫びたが、調子を合わせて詫びていると、図に乗ってねちねちと小言がつづく夫の性分を知っているので、すぐに話を切り換えた。
「その上、屋敷の門前まで来ると思わぬ斬り合いにぶつかりまして」
「なに、斬り合い?」
夫は膝を回して田鶴を見た。
「誰が斬り合ったのだ、喧嘩口論か」
「いえ、喧嘩ではございません」
田鶴は、斬り合いで怪我をした関根友三郎が、江戸屋敷から国元に派遣されて来た使者であること、関根を襲った男たちの正体は不明だが、日暮れに小谷屋敷に行く途中、大目付の屋敷のそばで見かけた男たちであることを洗いざらい話した。
「察するに、その関根という若者を村瀬どのに会わせたくない人間が藩内にいるのではないでしょうか」
田鶴が言うと、織之助はとまどったように田鶴を見た。低い声で言った。
「どういう意味だ」
「大目付どのに直接のお使い、ということは、江戸屋敷のどなたかから、大目付どのにひそかに訴えたいことがあるやに思われます。ところがそのことはなぜか事前に国元に洩れて、訴えられては困る人物が、使者に待ち伏せをかけたとは考えられませんでしょうか」
「ふむ」
織之助は目を伏せた。しばらく考えこんでいたが、急に顔を上げて言った。
「その怪我人はどうした?」
「屋敷に入れて、ただいま手当てをいたしております」
「なに、屋敷に入れた?」
織之助の顔に、みるみる不快そうな表情がうかんだ。織之助の片膝がかすかに動いている。貧乏ゆすりだった。気持が苛立って押さえ切れないときに出る織之助の悪癖だが、いずれにしても地位も名誉もある上士の家の主にあるまじき貧相な癖というしかない。
動く膝頭に、織之助の小心さが現われていた。
「深入りして、あとで厄介なことになっても知らんぞ」
「さればといって、怪我人を外にほうり出してもおかれますまい」
田鶴は落ちついた声で言った。いつものことだが、夫が苛立ったりあわてたりすると、なぜか田鶴は逆に胆《きも》が据わって来るのを感じる。
「その怪我人を、どうするつもりだ」
「手当てが済みましたら村瀬どのに使いをやり、迎えの者を呼んで今夜のうちに引き取らせましょう」
「もはや夜も更けたと申すに、面倒を背負いこんだものだ」
愚痴を言っている夫にはかまわず、田鶴は着換えもせずに表に引き返して、関根友三郎の手当ての様子を確かめた。そのあとで関根の固い口をひらかせ、彼を派遣したのが江戸屋敷の小姓頭久保|修理《しゆり》だということを聞き出すと、家士の平井重助を大目付屋敷まで使いに出した。小姓頭の使者である関根を引き取りに来るようにと言わせたのである。関根も、大目付屋敷から迎えをもらうことをのぞんだ。
だが、平井はもどって来たが大目付屋敷からの迎えは姿を見せず、一方の関根友三郎はその夜遅くなって高熱を発し、起き上がれなくなった。
翌日になっても、大目付村瀬又左衛門からの迎えはなかった。家士の平井の話によれば、玄関で平井に応対した辻と名乗る徒目付は、奥に入って大目付の意向を確かめ、屋敷から迎えに行くと確かに返事したそうである。田鶴は首をかしげた。
関根友三郎は高い熱を出して田鶴をおどろかせたが、夜が明けるとすぐに出入りの医者戸田宗庵を呼んで手当てさせた結果、傷の手当てと投薬が効を奏したらしく夕刻にはやや熱もひいて、白粥《しらかゆ》を喰べた。
その機会に田鶴がたずねた。
「村瀬どのにおとどけするのは手紙ですか、それともそなたの口上ですか」
「手紙です」
関根は高い熱を出したために汗臭さが匂う胸のあたりをさすった。肌身につけているという意味だろう。
「それでは、屋敷の者に手紙をとどけさせましょうか」
「いや、それは困ります」
と関根は言った。昨夜はうす暗くて気づかなかったが、関根は白皙《はくせき》の品のいい顔をした若者だった。発熱でやや上気して見えるその顔に、断固とした拒否の表情が現われていた。
「手紙をお渡しした上に、補足して村瀬さまに申し上げることがあるのです」
「それでは迎えを待つしかありませんね」
と言ったが、そこで田鶴はふとあることに気づいてたずねた。
「そなたは江戸詰ですか。うっかりしていましたが、この町に家があるのですね」
「いや、それがしの家は定府《じようふ》です。それがしも今年の春に召出されたばかりでして」
そうか、それでこの若者は国訛のない江戸弁を話すのだと田鶴は納得したが、久保修理の使いの秘密性がいっぺんに深まったのを感じた。久保が定府の家の子弟を使者に選んだのは、国元で顔を知られていないのが理由ではなかったろうか。
「わかりました。ではもうしばらく大目付どのの迎えを待ちましょう。夜になっても来ないときは、またこちらから使いを出します」
「いろいろと、思わぬご厄介に相成ります」
関根は半身を床に起こして礼を言った。
──それにしても……。
村瀬どのはどうしたことだろうと、田鶴が眉をひそめる気持でいると、日暮れ近くなってようやく大目付の使者が来た。徒目付の辻作之進と名乗った三十歳見当の男は、しかし迎えの人間ではなかった。
「いろいろと事情がござりまして……」
辻は面長で表情のとぼしい顔を、玄関まで出た田鶴にむけて言った。
「江戸屋敷からのお使いを大目付屋敷にお連れするのは少少差し障りもあり、今夜、大目付自身が当屋敷までうかがわせて頂くということです」
「差し障りとは、何のことですか」
田鶴が鋭く咎めると、辻は無表情な顔でお使者の身に危険が予想されるということですと言った。
「すると……」
田鶴は追及した。
「昨夜の男たちに、村瀬どのは心あたりがおありなのですね」
「さあ、そのあたりは何とも申し上げられません」
と辻作之進は言った。
この男から、これ以上何かを聞き出すことは無理のようだと田鶴は思って、うなずいた。
「わかりました。では、大目付どののおいでをお待ちいたします」
しかし辻の口上にもかかわらず、大目付村瀬又左衛門はその夜とうとう姿を見せなかったのである。時刻が四ツ(午後十時)を回ったとき、田鶴は居間を出てもう一度関根がいる表の下男部屋に行った。
足音を聞きつけたらしく、関根友三郎は床の上に半身を起こしていた。
「あ、無理せずに寝ておいでなさい」
田鶴がそう言うと、関根は熱はもう大体さがったと言った。しかし関根の頬はまだ上気したように赤く、傷を手当てした布が痛痛しいほど白く見えた。もっとも大目付の訪問が気になって、関根は寝てもいられない気持なのだろう。
はたして関根は、大目付どのはまだでしょうかと言った。田鶴はその目にうなずいてみせた。
「もはや四ツを回りました。いまお見えにならないところをみると、村瀬どのは今夜はおいでになりますまい」
「………」
関根は首をかしげ、ついでがっくりとうなだれた。だがすぐに顔を上げた。
「なぜだと思われますか」
「何かつごうがわるかったのかも知れませんけれども……」
「じゃまが入ったとか、そういうことでしょうか」
「ええ、多分……」
田鶴はそう言ったが、居間にいて村瀬の訪問を待ちくたびれていた時に、田鶴の心を占めた想念は、もっと険しいものだったのである。
どこかがおかしいという感じを田鶴は受けていた。辻作之進はああ言ったが、大目付には附属する徒目付、足軽目付がいる。日中にその配下と必要ならば小者数人を使って警護させれば、関根友三郎を寺井の屋敷から大目付の屋敷まで移すことはいと易いことだったはずである。昨夜の男たちが、たとえ何者の指図を受けているにしても、昼日中の城下でまさか白刃を抜いて移送の一行を襲うとは思えないではないか。
なぜ村瀬本人が、夜分にこの屋敷に来るなどと言うのだろうと、田鶴は使いの口上を聞いたあと、しばらくは腑に落ちない気持を噛みしめたのだが、その村瀬が、どうやら約束を破って今夜は来る気がないらしいとわかったとき、先刻芽ばえていた村瀬又左衛門に対する疑惑は頂点に達したのだった。
うかび上がって来たのは、ひょっとしたら大目付自身も昨夜の男たちと一味同体なのではないかという疑いだったのである。そうでなければこの躊躇は理解しがたい、と田鶴は思っていた。田鶴のその判断の根底には、小姓頭の久保が単に江戸家老につぐ権力者というだけでなく、事実上江戸屋敷の内政外交を切り回しているきわめつきの能吏だという評判にもとづいている。ただの能吏ではなく、久保は果断な政治家でもあり、数年を経ずして執政入りするだろうといううわさまであるのも聞いている。
たとえ大目付であろうとも、その人が発した緊急の連絡を、理由なく無視したり黙殺したりは出来ないはずだと思ったのだが、田鶴は村瀬に対するその疑惑は、関根友三郎には言えなかった。
しかし田鶴が感じたそのことは、漠然とだが関根も感じ取っているのかも知れなかった。
「お疑いするようで申しわけありませんが……」
と関根が言った。
「それがしが小姓頭の久保さまの手紙を持参した使いだということは、先方に通じておりましょうか」
「ええ、もちろんそう申しましたよ」
田鶴は言い、相手が病人とは言え少少この若者の部屋に長居しすぎたのを感じて膝を後にずらした。
「明日朝、またむこうに使いを入れてみましょう。今夜はもう、そのことは考えずにおやすみなさいませ」
田鶴はしりぞいて襖をあけた。そのとき関根が切迫したような声で、お待ちくださいお内方と言った。
「それがしの勘にすぎませんが……」
田鶴が向き直るのを待って、関根が言った。
「明日になっても、どうもこのことはうまくはこばないような気がして参りました」
「………」
田鶴ははっとした。まさに田鶴自身もそう思っていたのである。理由は不明だが、大目付への手紙の受け渡しは決して滑らかには行なわれまい。だが田鶴はそのことは口に出さず、黙って関根を注視した。
「そのときは、それがしはこのまま江戸屋敷に帰るしかありません」
「そうですね。それが一番よろしゅうございましょうね」
「ただし、無事に出国出来ればです」
関根友三郎はそこでにが笑いをみせた。意外に胆の据わった若者のようだった。もっとも、だからこそ小姓頭の久保はこの若者を使者に仕立てたのだろう。関根が言葉を続けた。
「しかし、手紙のことを知られたとなると、どうも無事には済みそうもありません。そこでお願いですが……」
「何者であれ、そなたに手出しはさせませんよ」
と田鶴は言った。きっぱりとした口調になった。
「そなたはこの寺井家の客。屋敷の者に国境《くにざかい》まで送らせます。いえ、必要とあれば江戸まで供をつけてもかまいません」
「いや」
関根は手をあげて田鶴の言葉をさえぎった。落ちついたしぐさに見えた。
「これ以上当屋敷にご迷惑はかけられません。そこでさっき申し上げたお願いですが、じつは相手には江戸に持ち帰るとみせかけて、こちらさまにその手紙をお預けして参ろうかと思うのです」
「預けて、どうするつもりですか」
「もし、それがしに万一のことがあった時は、手紙を畑中さまにおとどけ頂きたいのです」
「畑中喜兵衛さまですか」
「そうです」
田鶴は口をつぐんで関根を見た。畑中喜兵衛は家老の一人だが、執政の中ではもっとも目立たない人物だった。なぜ突然に畑中の名前が出て来たのだろうか、と田鶴は思った。
田鶴のその表情を読んだらしく、関根が声をひそめて言った。
「村瀬さまに手紙をお渡しするときに、手に余れば畑中さまに相談して事を処理することと必ず申し添えるよう、小姓頭に申しつかっております」
「事とは何ですか」
すかさず田鶴が切りこんだ。
「国元に不正がある、と洩れうかがいました」
しばらくためらってから、関根はやはり声をひそめて言ったが、それ以上はひとことも洩らすまいと心を決めたように口をむすんだ。
奥にもどると、夫の織之助はもう寝間に入っていた。しかしまだ目覚めていて、どうなったのかと聞いた。
「村瀬どのはやはりおみえになりませんでした」
田鶴は言い、夫に関根友三郎と話して来たことを残らず打ち明けた。
「考えたとおりだ」
聞き終ると、織之助は吐き捨てるように言った。
「やはり、厄介なことになったではないか」
「申しわけございません」
「わが家が、いま重大な時を迎えているのは承知しておるだろうに。慎重の上にも慎重を要する時に、妙な厄介ごとを背負いこむとは、わが手で佐野、宗方に塩を送るようなものだ」
「………」
「それだけで済めばよい。下手に藩の秘事にかかわり合ったりすると、家名に傷がつかぬでもないぞ」
「まさか、そこまでは……」
「まさかだと? 怪我人の言うことを聞いて手紙を預かったりすれば、いずれそういう羽目になるではないか」
織之助はきめつけるように言うと、夜具の中で背をむけ、そのままの姿勢で言った。
「関根というその男、ほどほどにこの家からほうり出すのが無難だぞ」
しばらくその背を見つめてから、田鶴は隣の夫婦の居間にもどった。
自分の立場しか考えない夫の言葉は不愉快なものだったが、関根友三郎を預かったことで、寺井の家が思いもかけない困難に追いこまれたことはたしかだった。
──でも……。
困難をもたらした成行きは、避けようもないものだったと思いながら、田鶴は行燈の中でまたたく燈芯の動きを見つめた。
その翌日、田鶴は与六を供にして大海町の長昌寺に行った。そこで嫂《あによめ》の淑乃と落ち合うと、寺側と法事の打ち合わせをした。仏は亡父の姉、一度嫁したものの不縁になって実家にもどると、そのまま生涯独り身で終ったつね伯母さまと呼ばれたひとだった。伯母の本名は常井で、年忌は十三回忌である。
田鶴より齢下の淑乃は、法事の規模、どの範囲まで人をよぶかなど、一人では決めがたいので打ち合わせに出てくれと前から田鶴に頼んで来ていた。
寺との打ち合わせは、まだ日のあるうちに終ったが、淑乃にすすめられるままに実家に寄って一服したので、田鶴が家にもどったのは暗くなってからだった。九月は半ばを過ぎればもう晩秋である。夜気がつめたかった。
玄関を入ると、田鶴は家の中の様子がいつもと違うような気がした。理由はすぐにわかった。右手の廊下につづく、鉤《かぎ》の手に曲がった奥にある関根の部屋の明かりが消えている。平井重助も留守とみえて、そのあたり一帯は真暗だった。
灯を消そうとしている与六を制して提灯を受け取ると、田鶴は廊下をすすんで関根の部屋に行った。襖はあけはなしてあって、部屋の中はがらんどうだった。夜具は片づけられ、関根の物は脚絆ひとつ残っていなかった。
田鶴は隣の平井の部屋ものぞいたが、そこも無人《ぶにん》だった。何とも言えない胸さわぎを感じて、田鶴は奥に入った。すると、織之助が一人で食事をしていた。
「おそかったではないか」
田鶴が帰宅の挨拶をすると、夫は箸を置いて不機嫌な顔で咎めた。
「申しわけございません。実家に寄れと言われまして、ひと休みしてまいりました」
詫びてから、田鶴はお食事のところを申しわけありませんけれどと言った。
「江戸からのお使者どのの姿が見えませんようですけど」
「村瀬の屋敷に参った」
「え? 迎えがみえたのですか」
「そうだ」
夫はまた箸に手をのばした。
「迎えの方は何人だったでしょう」
「何人? なにを大げさなことを言う」
夫は飯を噛んだ。そしてしばらく口を動かしてから言った。
「迎えは一人だ」
「お一人ですか」
「………」
「間違いございませんね」
「わしが玄関まで出て応対した。関根なにがしは迷惑千万な男だが久保どののお使い、粗末には出来んからの。迎えは一人だった。もっとも門の外に誰かいたかどうかはわからん」
「迎えに来たのは、辻というひとですか」
「いや、べつに名乗らなかった。大目付の配下だと申しただけだ」
「どのような男でした?」
「なに?」
織之助は叩きつけるように箸を膳に置いた。
「何をごちゃごちゃ言っておる。いったい、何が心配なのだ」
「おっしゃってくださいませ。迎えはどのような男でしたか」
「はっきりとはおぼえておらん」
と言ったが、織之助は妻の断固とした詰問口調に気圧されたようだった。中年男だったなと言った。
「背はさほど高くはなく、小太りの男だった。それよ、髭の剃りあとが大そう青かった」
何とも言えない不安が、田鶴をつつんだ。夫が描いてみせた男の姿は、田鶴が大目付屋敷のそばで見かけた男、田鶴と目が合うとさりげなく背をむけて立ち去った男に酷似していた。
「どうした?」
田鶴の沈黙が織之助にも不安をもたらしたようだった。
「大目付の使いではないのか」
「ひょっとしたら刺客かも知れませぬ」
「刺客?」
織之助は腕を組んだ。田鶴の言葉の意味をさぐる表情になった。
「手紙を奪おうというわけか」
「そのように思われます」
「大目付にその手紙が渡っては困る人物がいる、ということだな」
必ずしもその通りではない、と田鶴は思った。もし疑ったように同じ側の人間なら、大目付の村瀬はその手紙を公けには受け取りたくないと考えているはずである。べつのやり方で受け取るはずだった。
心配するな、と織之助が言った。
「そういうこともあろうかと思って、重助をつけてやった。重助がいれば大丈夫だろう」
「それは、よくお気づきでございました」
田鶴はそう言ったが、それで胸さわぎがやんだわけではなかった。家士の平井重助は城下の道場に通って一刀流の免許を取った遣い手だが、もし大目付の使いと称して乗りこんで来たのがあのとき見かけた中年男なら、相手は剣客である。
立っているときの足の配り、さりげない手の構え。そして立ち去るうしろ姿の、背中に目があるような油断のない足はこびを田鶴が思い返していると、不意に織之助が言った。
「しかし、誰が刺客などを使うのだ」
それは田鶴も同感だった。それが誰なのかを田鶴はぜひとも知りたかった。
その夜、田鶴の不安は現実のものとなった。般若寺の鐘が五ツ(午後八時)を知らせても平井重助がもどらないので、田鶴は夫にことわって与六を様子見に外に出した。
そして与六は、大目付屋敷の数丁手前の路上に、荒薦《あらこも》をかぶせられて横たわっている関根友三郎と平井重助の死骸を発見したのである。道には夜目にもあかるく高張提灯がかかげられ、町奉行の手の者、大目付配下の小者が右往左往しながらそのあたりを調べ回っていた。
田鶴が娘の紀乃に縫物を教えていると、外から帰ってきた与六が襖の外に来て田鶴を呼び出した。与六の話を聞き終ると、田鶴は娘に縫物をつづけるように言い残して、夫が書見している奥の部屋に行った。
家士の平井重助と関根友三郎が何者かに斬殺されてから、およそひと月近い日にちがたち、季節は十月に入っていた。
まだみぞれや霰が降るほどではないにしろ、朝夕の冷えはきびしくなり、紅葉していた木木の葉もあらかた散った。この節目立つのは、高い梢に残る柿の実とか、ふと目が行った門内にはっとするほど色あざやかに咲いている菊ぐらいで、風景は日日灰色に、初冬の気配を帯びはじめていた。その風景の上を、群をなして鶸《ひわ》が飛ぶ日もあった。
季節は家の中にも入りこんで、雨戸の上の明かり取りの障子窓は西日に染まっているものの、そこから廊下に落ちる光は冷えびえとしている。
ご書見のところをおじゃまいたしますと言うと、夫の織之助は黙って身体を回して田鶴を見た。
「与六があの男を見つけました」
「誰のことだ」
「前に申し上げましたでしょう、重助と江戸のお使者を斬ったに違いないと思われる、あの男です」
「何という男だな」
「岡田十内。おどろきなさるな、平岐さまのお屋敷の奉公人だそうです」
織之助の顔に驚愕のいろが動いた。しばらく黙っていたが、やがてそれはたしかかと聞いた。
「与六は今日は昼すぎから大目付屋敷を見張っておりましたが、突然現われて大目付屋敷に入った岡田を見てびっくりしたそうです。与六はそのまま用の済んだ男のあとをつけて、岡田が平岐さまのお屋敷に入るところを見とどけ、つぎは裏に回って、夕刻になって外に出て来た婢をつかまえて岡田の名前を聞き出したそうで」
「………」
「事件のあと、目ざすあの男はふっつりと姿を現わしませんでしたが、そろそろほとぼりもさめたとみて外に出て来たのでしょうか。もう一人の、戸倉という男はまだ見つからないそうです」
「ふむ」
「いかがなさいますか」
田鶴の言葉に、織之助は組んでいた腕を解いて田鶴を見た。
「いかがするとは、どういう意味だ」
「このままには捨ておかれますまい」
と田鶴は言った。
使者の関根と平井重助が殺害されたときは、さすがに織之助も頭に血がのぼったらしかった。田鶴が尻を叩くまでもなく、大目付に委細を説明してもらって来る、と言うやいなや刀をにぎって家を飛び出して行った。
しかし行くことは行ったもの、織之助はその夜、じきに不機嫌な顔でもどって来た。村瀬は、当方では迎えを出したおぼえはござらぬ、何かの間違いであろうと言ったというのである。それなら約束を破って大目付が来なかったのはなぜかと、田鶴なら問いつめるところだが、織之助は村瀬にそう言われると何の反論も出来なかったらしい。つまり軽くあしらわれたのである。
こんなことでは、たとえ推挙されたとしても藩の重役が勤まるのだろうかと田鶴は疑い、しかし愚人と呼ばれた宇治弥五右衛門どのでさえ、数年中老を勤めるうちに何となくさまになったのだからと思い直したりしたのだが、今度はその時とは事情が違うと思った。
「今度は抗議を入れる相手がはっきりしたのです」
「平岐どののことか」
「もちろん、そうですよ」
と田鶴は言ったが、織之助はいっこうにうかない表情でうつむいている。ちらと田鶴を見た。
「与六が申したことはたしかなことだろうな」
「それは、たしかですとも」
「しかし平岐どのに申し入れれば、執政入りはまず潰れるな」
「だからほっておくと申されるのですか」
思わずかっとして、田鶴の声は鋭くなった。
「平岐さまは、あなたさまをたぶらかして江戸のお使者をおびき出し、重助ともども殺害したのですよ。寺井の家が侮られたのです」
「まあ、そういう考え方はあるだろう」
「それはそれ、執政のお話はお話として、一応けじめをつけるのが先でございましょう。それで執政入りが潰れるなら、それはそれで致し方ないではありませんか」
「しかし、田鶴」
と織之助がさえぎった。
「知っての通り、わが家は万年組頭で、かつて執政を出したことのない家柄だ。このたびはいわば千載一遇の好機とも言える」
「………」
「そのためにはこれまでずいぶん金も使った。すべて無駄にするつもりか」
田鶴は口をつぐんだ。夫は聞くに堪えないほど俗物ふうの意見を口にしているが、その言い分には簡単には無視出来ぬ重苦しい説得力がふくまれているのを認めないわけにはいかなかった。
さらに言えば、夫の言葉には執政職に対する強い執着心がにじみ出てもいた。日ごろ書物ばかり読んでいる万年組頭の夫に、その野心があったことに田鶴はいささか気圧されないでもない。
「平岐の屋敷に乗りこめば、必定、江戸の手紙の行方にも触れねばならぬ。そうなると何やらわけのわからぬ藩の争いに巻きこまれて、寺井の家名を危うくすることも考えられないではない」
「………」
「そこまでやる必要があるか、どうかだ。黙っていれば、嵐は頭の上を吹き過ぎて行く」
「では、重助のことは見殺しになさるのですか。それでよろしいのですか」
と田鶴は言った。
平井重助は、十四のとき寺井家に奉公に来た。田鶴が嫁入って来た翌年である。色が黒く寡黙な少年は、この屋敷から城下の一刀流の道場に通い、才能があって二十一の暮に免許取りにすすんだ。骨細だった少年は、質朴で落ちついた好青年に成長した。
その仔細を眺めて来た田鶴には、突然に二十四の若さで前途を断たれた若者の死を、夫のような言い方で無視することは出来なかった。葬式に出て、老母の歎きも見ている。重助は蝋漆方に勤める小禄の郷方役人の四男だった。
「この際は仕方なかろうと言っているのだ」
と織之助が言った。その夫を、田鶴はじっと見た。一瞬、憤激が熱く胸を焦がしたのを感じた。要するに、この人は俗物なのだ。家名などともっともらしいことを言っているが、内実はただの臆病者にすぎないと思った。
「平岐さまに侮られますよ」
田鶴は低いが鋭い声で言った。
「家の奉公人と保護した客を殺害されて、仕返しのやり方も知らぬ人物と」
「相手がわからなかったのだから仕方あるまい。それに訴えは大目付まで出してある」
「いまは相手がわかっているのですよ」
と言ったが、田鶴には夫の気持が読めていた。何もやる気はないのだ。平岐の屋敷に乗りこむことも、大目付の尻をつつくこともせず、じっと時が過ぎるのを待とうというのである。
「よろしゅうございます」
田鶴はさらに低い声で言った。
「岡田十内はわたくしが討ち果します。どうぞ、お許しをいただきます」
「ばかを申せ」
織之助は険しい顔をむけて来た。
「そんなことをしてみろ。寺井の家の命取りになるぞ」
「どうぞご心配なく。人には知れぬように始末をつけます」
と田鶴は言った。
平岐権左衛門の屋敷の潜り戸がひらいて人が出て来た。提灯に照らされたその顔を見て、田鶴は思わず胸を押さえた。
道に出て来たのは三弥だった。供を連れた三弥を見送るために、平岐家の人間が一人道まで降りて来た。その顔に見おぼえがあった。平岐家の家臣で、屋敷内の一切を束ねている服部彦太夫という老人である。
挨拶をかわしたあと、服部は遠ざかる三弥を慇懃に見送っていたが、やがて潜り戸を入って姿を消した。形は内側の気持の現われであるとすれば、垣間見た老人の一連の物腰には、三弥を粗略に扱っていない気配があからさまに見えた。
──三弥は……。
どうやらうまく筆頭家老の懐に喰いこんだらしい、と田鶴は思った。おそらく多額の賄賂を動かしたはずである。
その感想は、田鶴に暗然とした気分をはこんで来た。その三弥にひきくらべ、こちらはこうして暗がりにひそんで、平岐家の家士を暗殺しようと待ち構えているところだ、と思ったのである。執政入りの争いで、もはや三弥に決定的に水をあけられたことが明らかだった。
「与六」
田鶴は背後につき添っている与六に声をかけた。
「いまのを見ましたか」
「はい、宗方さまの奥さまでございましたな」
と与六が言った。
与六は六十を過ぎているが、夜目も遠目も利く。相手を間違えたでは済まないので、岡田十内を確認するために、与六は今夜も田鶴につき添って来ていた。
「今夜も無駄足だったかいの」
「さあて、いま少しお待ちになってはいかがでしょうか」
と与六は言った。
岡田を襲う決心を固めると、田鶴は与六を使って岡田の動きをさぐらせた。すると数日に一度ほどの割合で、その男が夜分に弓師町の織物会所に行くことがわかった。外出している時刻は五ツ(午後八時)から四ツ(午後十時)前後までの、ざっと一|刻《とき》。
岡田はそれだけの時刻を織物会所でつぶして、平岐の屋敷にもどって来る。織物会所は、藩が家中の内職の織物を買い上げるために設けた役所だが、夜はそこでひそかに賭け事が行なわれているという。城下には尾花町とか白粉小路とか盛り場があるが、岡田は酒を飲まない男らしかった。そちらには一度も足を向けていないと与六は報告した。
その報告を聞いてから、田鶴は頭巾に顔をつつんで夜分平岐家の門前を見張ることにしたのである。今夜が十日目だった。岡田の外出は遅れていた。
「しッ」
と田鶴が言った。平岐屋敷の潜り戸が開いた。そして黒い人影が外に出て来た。男は提灯を持っていなかったが、空に下弦の月がかかっていて、男の輪郭は難なく判別出来た。
田鶴は身を竦《すく》めた。背を向けて行きかけた男が、ふと振りむいて田鶴と与六がひそんでいる向かい側の屋敷の門扉を見たのである。深い庇《ひさし》が月の光をさえぎり、二人の姿は闇にまぎれて見えないはずだったが、田鶴は門柱に身を貼りつけて息を殺した。
だが、男はすぐに歩き出した。その姿はみるみる遠ざかって行く。
「いまのが岡田ですね」
聞くまでもないと思ったが、田鶴は念をいれて与六に確かめた。
「確かに、あの男でございます」
田鶴が手を出すと、与六は顫える手で風呂敷を巻きつけた脇差を渡した。そして声を殺しながら、叫ぶような口調で言った。
「どうぞ、お気をつけなさいまし、奥さま」
田鶴は役目を果した与六をそこに置き去りにし、足早に男の跡を追った。距離をあけられたが、男の姿を見失ったわけではなく、遠くの路上に動く黒い人影が見えた。行先はわかっているのであわてることはなかったが、もう少し距離をつめておく方がよさそうだった。田鶴は小走りに走った。
鷹匠町に入ったとき、田鶴は男の十間ほどうしろにいた。鷹匠町は鷹匠の組屋敷があるのでそう呼ばれているが、空地が多い町だった。ところどころに雑木林が残っている。その町を通り抜けると、道は河岸に出て隣の弓師町に変る。
片側が長い塀になっている道にさしかかった。鷹匠組に附属する御餌差《おえさし》足軽が住む長屋の板塀である。町には一点の灯もなく、人人は眠りについているように見えた。
田鶴は距離を一気に数間まで詰めた。
「お待ちなさい」
田鶴が声をかけるのと、男が田鶴を振りむいたのがほとんど同時だった。振りむく間も、男は尻さがりに距離をあけ、ようやく立ちどまると、何かと言った。
紛れもなく、榎屋敷をたずねた日に大目付屋敷のそばで見かけた男だった。小太りの身体つきで、あのときは気づかなかったが夜目にも鼻下に髭をたくわえているのが見えた。身体つきに似合わず、声は陰気に低かった。
「岡田十内というのは、そなたですね」
一拍おいてから、男は答えた。
「さようですが……」
「わたくしが誰か、わかりますか」
「いや」
「嘘をおっしゃい」
田鶴は叱りつけた。
「寺井の家内です。そのぐらいのことは、見当がついたはずですよ」
「………」
「そなたが、江戸から来た関根友三郎と、わが屋敷の平井重助を殺害したのですね」
「………」
岡田十内は否定するかわりに、ぐいと刀の鍔を引き上げ、両手を緩く両脇に垂らした。戦う姿勢を示したのである。
「やっぱり、否定はしないのですね」
「………」
「関根が江戸から持参した手紙はどうしましたか」
言いながら田鶴は、袂から襷を出してすばやく袖をしぼった。岡田を注視しながら、ゆっくりと刀を巻いてある風呂敷を解いて刀を出した。
「それは言いたくないのですね」
「………」
「そなたがひとに言われて二人を斬ったことはわかっています。しかし、だからと言ってそなたを見過しにすることは出来ません。さあ、勝負をしましょう」
「………」
「多分耳に入っているでしょうけれども、わたくしは小太刀を遣います。遠慮することはありませんよ」
「寺井の奥さま」
不意に岡田が言った。濁った低い声だった。
「奪った手紙は、大目付さまに渡しました。ご家老の命令です。これでよろしいか」
「けっこうです」
「では、お手むかいつかまつる」
と岡田が言った。
岡田の動きは、身体にも声にも似ない、目がさめるほどに機敏なものだった。一挙動で刀を抜いたが、抜きながらすばやく後に下がり、構えたときには田鶴との間に十分な間合いをあけていた。その動きを凝視しながら、田鶴も風呂敷と脇差の鞘を捨てた。最後にゆっくりと頭巾をむしり取ると、これも道わきに捨てた。
微動もしない長い対峙から、まず岡田が動いた。青眼に構えた剣の先が、試し打ちをするように軽く上下に動き、その動きに合わせて、岡田は右に左にわずかに足を踏み変えた。そしてほとんど無造作なほどの足どりで二、三歩前に出て来ると見えた直後に、岡田は音もなく走り寄って来た。腰は沈み、剣は高く八双に上がっている。
田鶴も剣を上げて迎え撃ち、二人ははげしく剣を打ち合わせた。打ち合ったつぎの瞬間、岡田はすいと後に下がった。そして下がりながら放った二の太刀が、思いがけない鋭さで田鶴の肩を打って来た。邪悪な、噛みつく蛇に似て瞬時によくのびる一撃だった。
岡田が遣う剣は、田鶴がこれまで出会ったことのないものだったが、太刀筋はよく見えた。田鶴はしなやかに足を踏み変えると、岡田の剣を鍔元でかちりと撥ねた。間をおかずに田鶴は、岡田の引き足にひたひたとついて行った。そして鋭く踏みこんだ。田鶴の小太刀を岡田が剣を上げて防いだ。二人は気合いを交してすれ違い、ふたたび数間の間合いをへだててにらみ合った。
二度、三度と二人は斬り合い、その間に戦う場所はいったん御餌差長屋の塀をはずれて片側が空地、片側が小さな木立を持つ祠《ほこら》にはさまれた道に移り、さらに斬り合っているうちに元の塀脇までもどった。
二人とも手傷を負っていた。田鶴は左肩を斬られ、そこから絶えず鈍く重苦しい痛みが全身にひろがるのを感じていたが、いまは痛みはさほどに気にならなかった。鋭い目を岡田にそそぎながら田鶴は乱れる息をととのえた。
息の乱れは、しかし岡田の方がはげしかった。岡田は口をあけて喘いでいた。肩も、構えた剣も上下に揺れ、岡田は唾を飲みこむ音まで立てた。疲労を隠すゆとりを失っているのだ。その岡田は右腕に深手、左の腿に浅いが長い手傷をうけ、そこから血が流れつづけているはずだった。
田鶴も疲労に襲われていた。疲れが薄い膜のように身体を覆いつつんでいるのを感じる。だが、まだ戦えると田鶴は思った。勝負を捨てない粘り強い攻撃は、師匠の小城孫三郎にしばしばほめられたものだ。
──しかし……。
四十を過ぎている岡田は、そう長くはもつまい。田鶴が冷静にそう思ったとき、まるで田鶴のその考えを読んだように、岡田が動いた。
岡田は一度動き、ためらうように足をとめて剣を構え直した。と思う間もなく、五間の距離を一気に走って来た。岡田の足はまだ速かったが、その走りはやや上ずっていた。腰が据わらず、上体がのびているのが田鶴の目に見えた。
しかも、おそらくその一撃に勝負をかけるつもりだったに違いない。岡田は走りながら剣を上段に上げた。
田鶴は寸前まで待った。岡田の剣が、暗い空から唸りを生じて落ちて来たとき、体をまるめてその下をすり抜けながら、田鶴は岡田の手首を斬った。脇差が骨を断ったのがわかった。振りむくと、岡田が刀を片手でつかみ直しながら、向き直ったところだった。田鶴はすばやく踏みこむと、いとまをあたえず、肩を斬り下げた。それが死命を制する一撃になった。
とどめを刺し終ると、田鶴は襷をはずして袂に押しこみ、道に落としてある風呂敷と頭巾を拾った。
刀を風呂敷につつみ、頭巾で顔を隠した。道の前後を窺ったが人の気配はなく、塀の内側にも何の物音もしなかった。目を上げると、危うく直立しているように見える半月が空にかかっていた。弱い光が、道のかたわらに横たわる岡田十内を照らしていた。
その亡骸《なきがら》に軽く手を合わせてから、田鶴は死闘の場所をはなれた。疲れで身体が重かった。腕の傷がはげしく痛んで来た。
──どうして……。
あんなことを言ったのだろうと、田鶴は斬り合う前に岡田が江戸から来た密書の行方について白状したことを思い出していた。生死いずれにしろ、本音を吐いておきたかったのではないかという気がしたが、その岡田の白状がもう何の役にも立たないことはわかっていた。
十一
畑中喜兵衛の屋敷を出ると、早春にしては少し暑すぎるほどの日射しが田鶴にさしかけて来た。事実しばらく歩いているうちに、田鶴は額にうすく汗が浮いて来るのを感じた。しかしその汗は、田鶴の内心にある底知れない失望感にかかわりがあるかも知れなかった。
家士の岡田十内の死を知らされたとき、平岐権左衛門は必ずそれが寺井家の報復だと悟ったはずだと田鶴は思っていた。いまに何か申し入れて来るだろうと待ち構えたが、平岐家老からは何のおとずれもなかった。大目付の調べもなかった。
しかし年が改まって間もなく新執政の内定が洩れて来たとき、平岐の意図がはっきりした。暮を前にして、中老の塚原内膳が多病を理由に執政職から身をひいていたので、代るべき新執政は二人。新春の執政会議はその二人に宗方惣兵衛と佐野甚六郎をあてることを内定したというのである。
田鶴の夫寺井織之助は、この人選で無視された形になった。悪いことに、新執政が二人になったために取り残された三人目の男は、家中に無能の印象を残すことになった。むしろこっちの方が平岐の狙いではなかったかと田鶴はひそかに思ったほどである。もしそうだとすれば、家老は寺井家にもっとも効果的なしっぺ返しをしたというべきだった。
しかしそういうことを一番敏感に感じ取ったのは、やはり織之助本人だったろう。織之助は怒り狂った。
「そなたがいらざることをしたために、人前に顔も出せぬ恥辱をうけたではないか」
と織之助は田鶴をどなりつけた。そしてその怒りがやむと、織之助は書見部屋に籠って一段と陰気な人間にもどってしまった。そして執政入りのうわさ話があった間は、台所の下働きまでどことなく浮き立つふうが見えた寺井家は、ふたたび万年組頭の平凡な日常の色に覆われて行った。
夫の機嫌が悪く、寝間まで別にすると言い出したのには閉口したが、しかし田鶴は執政会議の結果に、それほど落胆したわけではなかった。半ばは予想出来たことでもあったからだが、そればかりではなく、田鶴の心中にはべつの考えがあった。
──まだわからぬ。
と、田鶴はひそかに思っていたのである。久保修理の密書は闇に葬られたが、久保自身が抹殺されたわけではない。つまり久保がにぎったとみられる、国元に不正ありという事実はまだ生きているとみるべきだった。
とすれば、久保は大目付に連絡することには失敗したものの、ふたたび誰かに接触して来るのではあるまいか。その誰かは、いまは田鶴にもよく見えているが、平岐権左衛門でも大目付でもなく、平岐に対抗出来るほどの有力者であるはずである。
そしてその試みがどうしても危険だと考えたときは、久保は藩主にしたがって帰国したときに独自に動くことも考えられる。
──いずれにしても……。
と、田鶴は楽観していた。正義が行なわれないはずはない。そのときは密書を闇に葬った平岐と村瀬は窮地に陥るはずである。そして執政職は鳴動して総入れ替えが行なわれるだろう。平岐が主導したこの春の執政会議の結果などは、跡形もなく四散してしまうはずだ。
そう思いながら、田鶴は夫の不機嫌には取り合わず、ただ言うことに唯唯《いい》諾諾としたがいながら、目も耳も外に向けていた。
だが、何の動きもなかった。藩主が留守の城下は死んだような平穏に明け暮れて、やがて雪が消えると、厚い雲の間から甦った春の光がちらつくようになった。田鶴の胸に焦燥が芽ばえたのはそのころからである。
──あれは……。
幻だったのだろうかと、去年の秋に起きた一連の事件を田鶴は振りかえることがあった。むろん、事は現実に起きたのである。岡田十内との死闘でうけた肩の傷は、癒えはしたもののまだいまも疼《うず》くことがある。
だが、江戸から新しい使者が来た気配もなく、誰かが、おそらくは平岐権左衛門が不正を理由に弾劾されたとも聞かなかった。久保修理は計画の齟齬《そご》を悟って、不正弾劾をあきらめたのではないかという疑いが、田鶴の胸に生まれた。もしそうであれば、田鶴の、ひいては寺井家の敗北は決定的なものになる。
考えた末に、田鶴は今日自分の疑いの是非を確かめる方法がひとつだけあることに思いあたった。それで、もはや七ツ(午後四時)を回ったというのに、与六を供にしていそいで畑中家をたずねたのである。
だが結果を言えば、この畑中家訪問はみじめな失敗に終ったというほかはなかった。畑中家老との、ほとんど珍妙と言ってもいい問答を思い返すと、田鶴の額には新しい汗がじわりと浮く。
つかぬことをうかがうが、と田鶴は切り出し、江戸の小姓頭久保修理どのから、その後手紙はとどいていないだろうかと聞いた。関根友三郎の言葉が暗示していたように、久保と畑中の間にもし意志の疎通があるとすれば、そのひとことに相手は何らかの反応を示すはずだと思ったのである。だが田鶴の予想ははずれた。
「江戸の久保どの、はて……」
白髪で猿のように顔が赤く、田鶴よりも小柄な家老は怪訝そうな目で田鶴を見た。
「そういうものは来ておらんが、何か」
「いえ、来ておりませんでしたらけっこうです」
「さようか」
家老は手持無沙汰な様子を見せたが、ふと思いついたようにそうそうと言った。
「その久保修理だが、今度小姓頭を免ぜられて留守居に変ったらしい。殿のお言いつけだというから詳細はわからぬが、何かお勤めの上で失態があったようだ」
「まあ」
と田鶴は言った。血が逆流するようだった。言うまでもなく、その役替えは平岐家老の差し金に違いあるまい。対応は早かったのだ。
「それはいつのお話でしょうか」
「ついこの間じゃよ」
「畑中さま」
と田鶴は言った。追いつめられて、溺れる者が藁をもつかむ心境になっていた。
「恐れながら重役衆の間に、不正があるということを耳にいたしております。畑中さまは、その旨をお聞きおよびではございませんでしょうか」
「………」
畑中家老はあっけにとられた顔つきで、しばらく田鶴を眺めてから言った。
「何か証拠でも……」
「いえ、何の証拠もございません」
「寺井の内方」
畑中は背筋をのばすと、低いがこわい声を出した。
「証拠もなく、そういうよしなしごとを触れまわるのは感心しませんぞ」
身も縮む思いで、田鶴は畑中家を辞去して来たのである。同時に見込み違いをした自分に、腹も立てていた。
畑中喜兵衛は、日和見《ひよりみ》の事なかれ主義で知られた家老である。家柄の良さで執政の座の一角を占めているが、会議に出ても他人の言うことに追随するばかりで、およそ自分の意見を主張したということはない。そう言われていた。
たしかに関根が残した言葉は、久保と畑中家老の間に何らかのつながりがあることをほのめかすものだったのだが、ひるがえって考えてみれば、その畑中が権力者の平岐権左衛門に対抗出来る人物であるとは思えなかったのである。
──それとも……。
畑中家老は、久保の失脚を知ってはやくも得意の日和見をきめこみ、久保とのつながりを切ってしまったのだろうか。
田鶴が、暗澹とした気持をもてあましながら、うつむいて歩いていると、突然聞きおぼえのある声に名前を呼ばれた。顔を上げると入り日を背にした黒い人影が二つ道に立っていたが、それは供の婢を連れた三弥だった。
「しばらく」
三弥は歌うように声をのばして言うと、嫣然《えんぜん》と笑って田鶴を見た。
「今日は、どちらまで……」
「ええ、ちょっと……」
田鶴は口をにごした。
「三弥さまはどちらへ?」
「ちょっと、そこの畑中さままで」
三弥は言って、婢が胸高に持っている風呂敷の包みをちらと振りむいた。何かの贈り物を持参するところだと、ひと目でわかるしぐさだった。
あ、そう言えばと田鶴は言って三弥に身体を寄せた。
「このたびはおめでとうございました。まだお祝いにもうかがっていませんでしたけれども、重役昇進が内定したそうですね」
「どうもありがとう。やはりお聞きになりまして」
三弥ははやくも重役夫人を気取って、あごをひくと重重しい声を出したが、その演技は長くはつづかなかった。
「それが田鶴さま、もう大変」
三弥は田鶴を道の端に誘うと、目をまるくしてみせた。
「見ると聞くとは大違いでした。まだ執政入りが内定したばかりだというのに、いったいどこから洩れるものでしょうね。あれ以来お祝いの品を持った人がつぎつぎとみえられて、それはそれはいそがしゅうございましたのよ」
「まあ、そうでしたか」
田鶴はうなずいたが、胸の中は煮えくり返るようだった。三弥の自慢話など、一切耳にしたくはなかった。
「いまからこれでは、先が思いやられると宗方が申しております」
「ほんとに。正式に重役におなりになられたら、きっと門前市をなすことでしょうよ」
一人の客の出入りもない自分の家の門を思いうかべながら、田鶴は歯ぎしりする思いでそう言ったが、三弥は平然とした顔で、そうかも知れませんねと言った。
そして不意に顔をかがやかしてつづけた。
「それにもうひとつ思いがけないことは、上の方方とのおつき合いがふえたこと。これから畑中さまにうかがうのも、あのお家のお孫さま、勝之丞とおっしゃる方が、今度第一等の成績で藩校の課業を終えられたということで、そのお祝いにうかがうのですよ」
重役たちとの親密な交際を誇示してから、三弥はつと田鶴に顔を寄せて来た。三弥は声をひそめた。
「それにしても、田鶴さまのご主人さまが今度の選に洩れたというのはどういうことでしょうね。残念というか、意外というか、とにかくびっくりいたしました。田鶴さまもさぞご無念だったでしょうね」
三弥の顔には、押さえ切れない勝ち誇った微笑がうかびかけたが、さすがに三弥はその笑いだけは隠した。深刻な表情をつくりながら、とどめの一撃を放って来た。
「ほんとに、ご一緒に重役の座に上がれると思っていましたのに、残念でした」
「みなさまのお眼がねにかなわなかったのですから、仕方ありません」
田鶴は、辛うじて笑顔をつくることが出来た。
「それに、わたくし寺井をそれほどあてにはしておりませんでしたから、おっしゃるほどにがっかりもしておりませんの」
三弥と別れると、田鶴は後も振りむかず夢中で足をいそがせた。みじめな気分になっていた。三弥の話は、頭に血がのぼるほど腹の立つものだったが、いまの宗方家と寺井家の差を正確に描き出してもいたのである。これまでは身分的に寺井家の下だった宗方惣兵衛が、今度は上に立つのである。田鶴の家の敗北は明らかだった。
織之助が言った好機が、そうたびたび訪れるとは思えなかった。とすれば、やはりわたくしが間違っていたのだろうか、と田鶴は自分を苛《さいな》む。関根友三郎と重助の死に、目をつぶるべきだったのだろうか。そもそも、門前で襲われていた関根を助けなければよかったのだろうか。
──いいえ。
田鶴ははげしく首を振った。そんなことは出来ないと思った。
しかし田鶴はこれからどうしたらいいのかわからなかった。織之助を執政からはずして、それで平岐家老の報復が終ったのかどうかもはっきりしなかった。ちょうど、小さい時に長昌寺の裏山で道に迷ったときのように、行方を見失っていた。田鶴は強い焦燥感が胸を焦がすのを感じた。
お理江さまに会いたかった。しかしお理江さまにこれまでのいきさつを打ち明けたり出来ないこともわかっていた。
──お理江さまに……。
迷惑はかけられぬ、と思った。そのとき田鶴は、八方塞がりの闇に思いがけない方向からひと筋の光明が射しかけて来たのを感じた。お理江さまが言ったことをすっかり忘れていたが、あの方なら話だけは聞いてくれるのではなかろうか。田鶴は立ちどまって、与六に言った。
「道をもどって、祝部町にまいりますよ」
十二
顔馴染みの浅尾が、田鶴を茶室に案内した。すると、そこに主の小谷三樹之丞がいた。
田鶴を見ると、三樹之丞はまず一服しろ、話はそれから聞こうと言った。田鶴の殺気立った気配を見抜いたのかも知れなかった。三樹之丞は見事な亭主ぶりで袱紗《ふくさ》をさばき、茶を点てると田鶴にすすめ、自分も一服した。
「さて、話を聞こうか」
茶を喫し終ると、三樹之丞はわずかに見据えるようにして田鶴を見た。しかしふだんよりは目の光も声音もおだやかで、三樹之丞はくつろいでいるように見えた。
窓の下に小机があり、三樹之丞は書きものをしていたようだった。釜の湯の音のほかに、かすかな水音がするのは、茶室のそばを流れる小流れの音だろう。聞こえる物音はそれだけだった。
一服の茶と三樹之丞のおおらかな構えが、小谷屋敷に来るまでの切端つまった気持をなだめ、田鶴は静かに話すことが出来た。江戸から来た使者の危難を救う羽目になったそもそものいきさつから、平岐家の家士岡田十内を斬り伏せたこと、さらには夫の織之助が執政からはずされたのは、それに対する平岐家老の報復ではないかと疑っていることまで、残らず話した。
三樹之丞は、田鶴が話す間一言も口をはさまずに聞いていたが、聞きおわるとすぐに言った。
「平岐の報復というのはそなたの憶測だな。それとも何かの証拠があるのか」
「いえ、憶測でございます」
田鶴は顔を赤らめた。最後のそこのところで得意絶頂の三弥を思い出し、くやしさに思わず声が顫えたのを恥じたのである。
もっとも、胸にたまっていたそういう憶測まで話してしまったことを悔やんではいなかった。一度は誰かに存分に聞いてもらいたかったことである。顔を赤くした田鶴をじっと見てから、三樹之丞が言った。
「関根という男は、国元に不正があると申したのだな」
「はい」
「中身については、何か言ったか」
「いえ、そこまではご存じないようでした」
「なるほど」
と言ったきり、三樹之丞は深深と考えに沈んでいる。
内に一基の燭台がまたたいているだけで、どうやら茶室は闇につつまれてしまったらしかった。つつんでいるのはやわらかな春の闇である。
三樹之丞の沈黙が、田鶴を圧迫した。その重苦しいものに抗《あらが》うように、田鶴は口早に言った。
「不正は事実です。岡田十内は、密書を大目付にとどけたと申しました。平岐さまと大目付の結託は明らかです」
「そういうことは大体わかっておる」
意外にも三樹之丞はそう言った。
「いま、ある人物が調べているところだ。やがて残らず明るみに出よう」
「国元の不正ということも?」
「むろん、全部ひっくるめてだ。そのことは、わしにまかせろ」
三樹之丞の自信ありげな表情を見て、田鶴は深い安堵の息をついた。その様子を眺めていた三樹之丞が言った。
「決着がつくまでは、ここで話したようなことは他言罷りならぬ。よいな」
「心得ました」
と言ったが、とたんに田鶴は顔から血の気がひくのを感じた。
「大変なことをいたしました」
「何だ」
「あるお方に、藩に不正ありということを申し上げました」
「誰に?」
「畑中さまです」
田鶴は、畑中家老にその話を持ちこむに至ったいきさつをくわしく話した。
「関根友三郎が言い残した言葉で、畑中さまは久保さまのお味方に違いないと思いこんでしまったのです」
「ふむ、それで?」
三樹之丞はおもしろいことを聞いたという表情になっている。
「畑中はどう言っておった」
「とんだ見込み違いでございました」
田鶴は屈辱的な光景というほかはない、畑中喜兵衛との一問一答を残らず打ち明けた。三樹之丞は、ふむふむと鼻を鳴らしたが、なぜかその顔にははっきりと笑いがうかんで来た。
「このままにしておいて、大事ございませんでしょうか」
「………」
田鶴には答えず、三樹之丞は小さく罵るような言葉を吐き捨てた。狸じじいめ、と言ったように聞こえた。
田鶴が怪訝な顔をむけると、三樹之丞の笑いが大きくなった。
「ほっておいても大丈夫だろうて。というのも、他言をつつしめよ、藩内の不正取調べを指図しているのがほかならぬ畑中喜兵衛だからだ。そなた、あのじいさまに一杯喰わされたらしいな」
田鶴が唖然としていると、不意に立ち上がった三樹之丞が、田鶴の前に来て茶碗を片よせるとむずとあぐらを組んだ。あっという間もなく、田鶴は手をつかまれていた。
恐怖で、田鶴は身体が固くなるのを感じた。むかしから恐れていたのは、この瞬間だったのだという考えがちらと頭をかすめた。
「わしの目を見ろ」
と三樹之丞が言った。顔を上げると、射抜くような鋭い目が田鶴を見ていた。
「ひとつ聞くが、正直に答えるのだ。よいな」
「はい」
「今夜、この屋敷に来たのは正義のためか、それともご亭主のためか」
「もちろん」
かっとして田鶴は、つかまれた手を振りほどいた。屋敷にひき取った平井重助の無残な死に顔が目にうかんでいる。
「あなたさまに正義を行なっていただくために参りました。寺井のことを歎願するためでしたら、事が終ったいまごろになっておたずねはしません」
「ふむ」
三樹之丞は鼻白んだような顔をした。しばらくして聞くまでもなかった、そなたはそういう女子だったなと言った。そしてつけ加えた。
「ご亭主のことを言い出したら、この場でそなたを犯してやろうと思っていたのだ。たのしみがひとつ消えてしまったか」
三樹之丞は炉のそばにもどると、棚から赤い房のついた鈴をつかみ取った。背をのばして振ると、鈴はおどろくほど澄んだ高い音を出した。
その姿を見ているうちに、田鶴は思いもかけない嫉妬に襲われて言った。
「三弥さまにも、さっきのようなことをおっしゃったのですね」
「ばか言え」
三樹之丞は少しうろたえたような顔をした。
「そなた、わしをよほどの色好みのように思っているらしいが、とんだ誤解だぞ」
「そうでしょうか」
「あたり前だ。いくら独り者とはいえ、やたらに人の妻に手を出したりはせぬ」
三樹之丞がそう言ったとき、茶室の外から浅尾がお呼びでございますかと言った。
「寺井の内方がお帰りになる」
三樹之丞は大声で言い、礼をのべて立ち上がった田鶴に、揉めごとが片づいたら一度有明茶屋で飯をつき合え、それぐらいの義理はあろうと笑いもせずに言った。
外に出ると浅尾が立っていた。提灯も持っていなかったが、明かりは必要がなかった。遅い月が出ていて、月はまるくおぼろだった。小谷屋敷に来る前の焦燥感が、跡形もなく消えているのを田鶴は感じた。
あのおとぼけの畑中家老たちの調べがすすむ結果、どういうことが起きるのかはわからなかった。しかし、さぞ見物でしょうよと田鶴は思った。
「いい月ですこと」
田鶴は晴れ晴れとした声で言った。
初 出
オール讀物
麦屋町昼下がり 昭和六十二年六月号
三ノ丸広場下城どき 昭和六十二年十一月号
山姥橋夜五ツ 昭和六十三年七月号
榎屋敷宵の春月 昭和六十四年一月号
単行本 平成元年三月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成四年三月十日刊