[#表紙(表紙.jpg)]
藤沢周平
隠し剣孤影抄
目 次
邪剣竜尾返し
臆病剣松風
暗殺剣虎ノ眼
必死剣鳥刺し
隠し剣鬼ノ爪
女人剣さざ波
悲運剣芦刈り
宿命剣鬼走り
[#改ページ]
邪剣竜尾返し
赤倉不動は城下から南に一里半。赤倉山の麓《ふもと》から二十丁ほど谷に分け入ったところにある。女の足で城下から日帰り出来る場所である。
檜山絃之助は、日暮れに着いてすぐ祈祷《きとう》を受け、お札をもらうとお籠《こも》り堂に入った。例年母の矢尾がきてお参りして行くのだが、去年の秋、母が足を痛めて代りに来ると、その後絃之助の役目のようになった。
不動は春秋の二度、本尊の開帳があり、そのときは城下一円からの参詣客《さんけいきやく》で谷間の道がにぎわう。祈祷を受け、お札を頂くと諸病に効き、霊験あらたかだと信仰されていた。夜籠りということがあった。お参りにきてそのまま一夜をお籠り堂で明かすわけだが、これはとくに祈願することがある者、信仰厚い者のすることのようだった。多くは日帰りである。
母は夜籠りはしたことがないし、絃之助も去年の秋と今年の春と二度きているが、籠るのははじめてだった。
檜山家では、絃之助の父弥一右エ門が三年前に中風で倒れ、床についたままである。夜籠りに加わることを言うと、母は喜んだが、絃之助は単純に一夜を山気の中で過ごしたかったにすぎない。そのことに別の色合いが混じったのは昨日のことである。
絃之助は馬廻《うままわり》組に属している。昨日城中の雑談で、絃之助は何気なく不動の夜籠りのことを洩《も》らした。すると同僚の石毛数馬が、妙な笑いを浮かべて絃之助の耳にあることを囁《ささや》いたのである。それはある種の淫靡《いんび》な噂《うわさ》だった。絃之助は思わず顔を赤くしたが、それで夜籠りをやめようとは思わなかった。ただ微《かす》かに好奇心が動いたのは否定出来ない。お籠り堂に向かったとき、絃之助は石毛が言ったことを思い出していたようである。
お籠り堂に入ると、中はむっと人いきれがするほど混んでいた。正面の御簾《みす》の奥に、燈明が二基ともっているだけで、人がいる広間は薄暗かったが、その中に五、六人武家姿の者がいるのが見えた。ここでは武家、町人、百姓の身分を問わず、勝手に籠るものと聞いたが、その通りのようで絃之助はほっとした。
その女に声をかけられたのは、夜になって広間に燭台《しよくだい》が持ちこまれ、その光の下でめいめいが持参した喰い物をひろげ、喰べはじめた頃だった。あちこちに酒を持参した者がいるらしく、中には車座になって高声に唄を唱《うた》い出す者たちもいて、食事はひどく乱雑で、活気のある空気の中で進んでいた。
絃之助も持参した握り飯を開いた。姉の|宇禰《うね》が作った握り飯は、中に梅干しが入っているだけで、ひどくそっけない。それを噛《か》みしめていたとき、不意にその女が、背後から声をかけてきたのである。
「いかがですか」
女は絃之助の斜め後にいた。そこからそっと笹の葉に載せたものを押してよこした。きれいに焼き上げた小鯛《こだい》だった。小鯛は領国の西の海辺で獲れ、浜の女たちが日ごと城下まで売りにくる。
「今朝獲れたものを焼いて来ました。よろしかったら召し上がれ」
女は柔かい口調で言った。ふくらみのあるおっとりした声で、その口調の自然さが、絃之助から余分の身構えを取り去るようだった。とは言え、絃之助が相手の美貌《びぼう》に圧倒されていたことは間違いない。女は二十四、五。絃之助と同年ぐらいに見えた。鉄漿《かね》をつけた武家方の女である。すなわち人妻だった。
「これはいかいご造作に。では、遠慮なく頂戴つかまつる」
そう言ったが、魚の上で絃之助は手を迷わせた。箸《はし》が添えられていない。その様子を見て女が笑った。澄んで、きれいな声だった。
「ごめんなさい。箸はございませんのですよ。でもここではこうして……」
女は無造作に指をのばして魚の肉をむしった。
「こんな風に召し上がるようですよ」
「いかにも」
絃之助は急いで自分も魚をむしった。いつの間にか、絃之助は女とむかい合って喰べていた。あたりは高声な話し声や笑い声でざわめいていて、そんな二人の様子に眼をとめた者もいないようだった。
絃之助とむき合っても、女は悪く気取る様子もなく、三角に握ったむすびを齧《かじ》り、魚をむしり、さらに絃之助に漬け物もすすめた。美しい眼をし、少し厚めの小さな口もとに魅力がある女だが、気さくな人柄のようだった。
「ここには、たびたびおいでか」
と絃之助は聞いた。
「いいえ、二度目でございます。この春にも参りまして、このように夜籠りをしました」
「ずいぶんと乱雑なものでござるな。それがしは初めてだが……」
「でも飾らないところが、よくはございません?」
女は口に手を押しあててくすくす笑った。
「ご城下では、こんなわけには参りませんもの」
「いかにも、そのとおりだな」
絃之助は漸《ようや》くくつろいでくるのを感じた。これは一種の無礼講なのだと思った。そう思ってみると、酒を飲んだり、唄を唱ったりしている連中がひどく楽しげに見えてきた。
「なにか、心願の筋があっておいでか?」
「はい」
「それがしは母の代理だ。父が長年病気で臥《ふせ》っておりましてな」
話しながら、絃之助は実際そのためだけで夜籠りをしているような神妙な気持になっていた。谷道を登るときに抱いていた好奇心を、どこかに置き忘れている。
食事が終ると、お籠り堂の中は次第に静かになっていった。そしてさらに夜が更けると、寺男がやってきて、一基だけ燭台を残し、ほかの灯を消して行った。そのころには、横になっている者の方が多く、身体《からだ》を起こしている者は少なかった。
「これでは、あとは横になるしかなさそうだの」
絃之助が言うと、女が低い声で笑った。
「そのようでございますね」
だが二人とも横にはならなかった。暗い羽目板に背を凭《もた》れて、絃之助は横にいる女のことを考えていた。家中の者の妻女に違いないが、一人で夜籠りとは大胆なことだと思ったり、しかしよほどの願いごとがあって、こうしてやってきているのだろうと考えたりした。
なるほど石毛が言ったのは、こういうことなのだな、と思ってもいた。横になっている者は、男もいれば女もいた。つまり雑魚寝《ざこね》である。猥《みだ》りがましいと言えば、これほど猥りがましい情景もなかった。だが不思議にそういう感じが薄かった。ここが霊場だからだろうと絃之助は思った。
横に心|惹《ひ》かれるほど美貌の女がいる。女は身動きすれば肩が触れるほど近いところにいた。そのことが気にならないと言えば嘘になるが、心がそういうふうに動くのを絃之助は戒めていた。女は人妻である。そして絃之助の好奇心はもう十分に満たされたと言ってもよかった。奇妙な夜が更けつつあった。
だが絃之助の判断は、甚《はなは》だ甘かったと言わねばならない。少しずつ人が起《た》って外に忍び出る気配に絃之助は気づいていた。また一人、女が外へ出て行った。続いて男が半身を起こし、やがてむっくり立ち上がると寝ている人をまたいで出て行った。影が動くように音をたてなかった。
「あれは……」
絃之助は身体を傾けて女に囁きかけた。
「どこへ参るものですかな。外で何かあるらしゅうござるな」
「お月見でございましょ。外は月が明るうございますから」
女は囁き返した。それから絃之助の手に、不意に指をからめてきた。
「外へ、お出でになりません?」
絃之助は微かに身顫《みぶる》いした。石毛の囁きと淫《みだ》らな笑いを思い出していた。
赤倉不動は、そこに堂を祀《まつ》ったものの眼の確かさを示すような、地形のいい場所にある。狭い谷間の道は、そこまで来ると、かなり広い台地になっている。そこにはじめは不動堂だけを祀ったのであろう。だが参籠《さんろう》する人がふえたので、別にその横にお籠り堂を建てたようだった。お籠り堂の方が、本堂の三倍ぐらいは広い。台地は、この二つの建物を容《い》れて、なお十分の空地を残して広がっていた。
空地は、松や杉の下草を刈り取るだけの手入れを施しているだけだが、昼の間は、その疎《まば》らな樹間から、はるか下の方にひろがる野と城下町が望まれる。そのまま野趣に富んだ庭に見えなくもない。赤倉山は、この台地の背後から急に険しい傾斜になり、頂上へ行く道はさらに細くなる。
絃之助は、女の後に従って堂の前の草原を横切ると、その先の樹立《こだち》の道に入った。しばらくの間、足もとに枯草の乾いた音が鳴った。樹の枝の間から、地上に月の光が射しこんでいる。
樹間を抜けると、そこは台地の外れで、青白い月の光が、台地の下にひろがる山を照らしているのが見えた。暗い谷間の東側の斜面はそのまま暗くそばだち、西側の斜面は昼のように明るい。その麓に野のひろがりが顔をのぞかせていたが、町は白い靄《もや》のようなものに包まれて、所在が明らかでなかった。
「ごらんになりまして?」
振りむいて、女が言った。月に照らされた女の顔には、奇妙な笑いが浮かんでいる。絃之助は、こくりと喉《のど》を鳴らした。
月の光が射す樹の根のあたり、樹間のひと塊《かたま》りの芒《すすき》の陰のあたりに、幾組とも数が知れない男女がむつみ合う姿を見ている。中にはあらわに声をあげている女もいた。不思議に猥らな感じがしなかったのは、あまりに明るい月のせいだろうか。清《すが》すがしい月の光と山気がみなぎるこの世ならぬ秘境にいて、男と女が野放図に、ごくあけっぴろげに性の饗宴を繰りひろげているのを見た気もした。そうは言っても、絃之助の頭がさっきから痺《しび》れたままなのは事実だった。絃之助は痴呆のように女の顔を見返している。
「ここに籠る男と女は、一夜人里の掟《おきて》をはなれて、気ままにむつみ合うのだそうです。ご存じありませんでした?」
「………」
「ほんとうに、この月の光の中で……」
女は空をふり仰いだ。それから振りむくとすばやく絃之助の手をとって指をからめた。
「あなたさまの子を身籠ったりしたら、どんなにしあわせでしょう」
「………」
「檜山絃之助さまですね、雲弘流をなさる……。存じておりましたのよ」
「そなたは?」
絃之助は漸く言ったが、女は静かに首を振った。そして急に力を失ったように、絃之助の胸に倒れこんできた。花のような匂いが絃之助を包んだ。
ここまでにしようと坂部|将監《しようげん》が言い、二人は道場の隅にある水置き場に行って身体を拭《ふ》いた。
「どうかな、幾分上達が見えたかな」
と坂部が言った。坂部は組頭《くみがしら》を勤めている。近年中に中老になるだろうと言われているが、まだ四十二の壮年だった。月に三日ほど、三ノ丸内にある励武館と名づける、この藩道場で、絃之助の稽古を受ける。
藩には服部十左エ門という剣術指南役がいて、一刀流を教えているが、以前は絃之助の父弥一右エ門が服部と並んで指南役を勤めていた。そのため弥一右エ門に雲弘流を学んだ者がいまも日を決めて絃之助の稽古を受けている。組頭の坂部もその一人だった。
絃之助は早くから檜山門の麒麟児《きりんじ》と呼ばれ、十八のときには師範代を勤めていた。その後間もなく藩に召出されて、馬廻組に属するようになってからは、道場の稽古から一たん遠ざかったが、絃之助が檜山門の正統な後継者であることを疑う者はいなかった。それで弥一右エ門が病気で倒れると、雲弘流を慕う者が絃之助の稽古を求めるようになったのである。
「は。幾分かは」
と絃之助は言った。稽古が終れば、相手は上役である。上達したというほどの進歩は見られないが、あたりさわりなくそう答えるしかなかった。それに坂部の技倆《ぎりよう》はともかく、熱心さは相当のものなのだ。
「あまり気のはいらぬ返事じゃな」
濡《ぬ》れ手拭《てぬぐ》いでつるりと顔を拭いて、坂部は絃之助をみると豪放な笑い声をたてた。肥満した身体を持ち、気さくな人柄である。そういう人柄に、藩中でも人気が集まり、坂部を藩政の場に押し出す動きをしている。
「そうそ。以前から聞こうと思っていたが……」
不意に坂部が言った。
「雲弘流には、竜尾返しという秘伝があるそうだな」
「ござります。しかし……」
絃之助は注意深く坂部を見まもりながら答えた。
「それは雲弘流に伝わる秘伝ではなく、父の弥一右エ門が編み出したものでござります」
「ほう。そうか、そうか」
坂部はひどく興味をそそられた顔になった。
「不敗の剣だと聞いたが、それは免許を受けた者に伝授されるのかな」
「そうとは限りません。その人によって伝授するものと父は申しておりました」
「なるほど、まさに秘伝だな」
坂部は低く唸《うな》った。だが、絃之助には気がかりなことがあった。確かに弥一右エ門はある秘剣を会得し、竜尾返しと名づけたが、そのことを知っている者は、絃之助をふくめて二、三名に過ぎないはずだった。なぜか弥一右エ門は、その秘剣のことを外に固く秘したのである。
「組頭は、そのことをどなたにお聞きになりました? 里村ですか」
里村庄蔵は檜山門の高弟で、普請《ふしん》組に勤めている。
「いや、そうではなくて……」
坂部はちょっと複雑な表情を顔に浮かべた。
「またあの男がやってきての。貴公と試合をさせてくれと、うるさく申した。むろん、わしはきっぱり断ったが、そのときあの男が申しておった」
「赤沢が……。そうですか」
「近ごろあの道場に中老の戸田の伜《せがれ》が出入りしているとかで、その加減か、えらく強気の申し込みでな。閉口した。試合に勝って仕官でもしたいという狙いだろうが、なにせ厄介な男じゃ」
むろんそれが狙いだろうと絃之助は思った。一度だけ会ったことがある、赤沢弥伝次という男の姿を思い浮かべていた。
赤沢は七年ほど前、飄然《ひようぜん》と城下にやってくると、持筒町にある廃寺を借り受けて、一刀流指南所の看板を掲げた。はじめの間は一人も入門者がなく、赤沢は城下近傍で人足仕事に出たりしていたが、数人の門人が出来ると、城下にある町道場を選んで、試合の申し込みをはじめた。
三つある町道場のうち、二つまでは固く試合を断ったが、鏡喜兵衛という不伝流を指南する道場主が申し込みを受けて立ち合った。試合は鏡道場で行なわれたが、赤沢はこの試合ですさまじい剣技を示して鏡を屠《ほふ》ったのである。
この試合は、赤沢の剣名を一ぺんに高めたが、同時にこのとき受けた打撃がもとで鏡が死んだために、赤沢の印象は、どこか無気味な色あいを帯びることになった。しかしそれは元来が偏倚《へんい》な人柄だったのが、鏡との試合で露《あら》わになったということかも知れなかった。そしてそういう偏倚さを好む人間もいるもので、鏡との試合のあと、赤沢の門人はふえた。
次に赤沢弥伝次がしたことは、人を介して藩の剣術指南役服部十左エ門に試合を申し込むことだった。むろん服部は受けなかった。服部は年に数度、藩主の剣技を手直しし、また門人を相手に、藩主の前で型を披露したりする。一介の町道場の主の挑戦を受ける立場にはない。
その申し込みを服部に取りついだのは、坂部と同じ組頭の職にいる岡田八内だったが、岡田は家老に叱責《しつせき》された。
すると赤沢は、今度は絃之助のところに来たのである。唐物町にある檜山家にじかに来た。今年の春のことである。むろん絃之助はきっぱり断った。絃之助は雲弘流の後継者には違いないが、道場主ではない。身分は城勤めの藩士という、きわめて窮屈な立場にある。道場は残っているが、父の弥一右エ門が倒れたあと、門を閉じた。いまは時おり里村ら昔の門人がきて、いっとき汗を流して行くだけの建物でしかない。
だが、赤沢は、それであきらめたわけでなく、その後組頭の坂部を通して、執拗《しつよう》に申し込みを繰り返しているのである。坂部は、絃之助の父弥一右エ門が、やはり藩指南役を勤めたことを理由に、その申し込みを斥《しりぞ》けていた。だが今日の坂部に、どこか弱気なところが見えるのは、あるいはこの話に、中老の戸田織部が介入してきているのかも知れなかった。坂部の話しぶりに、そういう気配が読みとれないでもない。戸田は偏狭で、ひとつことに執する性格である。そういうところで赤沢と結びついたかも知れなかった。
「ま、それはそれとして……」
衣服を改めて励武館を出ながら、坂部はさっきの好奇心を取り戻した顔になった。
「その竜尾返しという剣を、一度見たいものじゃな」
絃之助は坂部の背を見送った。赤沢の申し込みを、受けざるを得ないことになるかも知れないという予感が押し寄せてきた。
絃之助は、もう一度心の中に赤沢の姿を描いてみた。その印象をひと言で言えば、剣鬼を見たとでも言うしかなかった。会って、ものを言っていた間の、異様な圧迫感を、いまも思い出すことが出来る。試合をして、むざと負けるとは思わなかった。だが勝てるという気もしなかった。
──不敗の竜尾返し。
絃之助は微かに身顫いした。その剣を、絃之助はまだ見たこともなかった。
寺の土塀に寄りかかって、懐手をしている男が赤沢弥伝次だとわかったが、絃之助は無視して通り過ぎようとした。すると赤沢はすばやく塀から身体を引きはがして、立ち塞《ふさ》がるように前に回った。
仕方なく絃之助は立ち止まった。
「なにか、ご用か」
「むろん」
赤沢はだらりと両手を垂らしたまま言った。そこは唐物町に行く坂道の途中で、坂の上から日が斜めに道に滑りこんでいる。間もなくすると、日は坂の陰に落ちる。そういう弱い日射しだった。
その日射しを背負って、赤沢のそそけ立った髪の毛が、金色に光っている。顔は暗く影になっているが、高く張り出した頬骨、眼尻の上がった細い眼、大きく引きむすんだ口が真直ぐ絃之助に向けられていた。痩《や》せているが長身だった。前に会ったときと同様、粗末な衣服をまとっている。
「用があれば早速に訊《き》こうか。それにしても待ち伏せというのは穏やかでないな」
絃之助が言うと、赤沢はふ、ふと笑った。それから低い声で言った。
「人には聞かせたくない話だ」
「………」
「俺はいいが、貴公が迷惑だろうからな」
絃之助は黙って相手を見つめた。何のことかわからなかった。赤沢は試合を押しつけるために待っていたわけではないようだった。
「俺の女房だ。あの女は」
不意に投げやりな口調で赤沢が言った。
「そう言えば、覚えがあるだろう」
「なんのことだ?」
と言ったが、絃之助はみるみる青ざめた。赤沢の言っていることが腑《ふ》に落ちたのである。赤沢は、赤倉不動で会った、あの女のことを言っているのだった。
あの夜、夢とうつつの境をさまよう思いで、甘美な一刻《いつとき》を女と過ごしたあと、絃之助は堂に戻って寝た。すると後から戻ってきた女も、絃之助の背にぴったり吸いつくようにして横になったが、明け方絃之助が目ざめてみると、もう姿を消していた。
それから十日ほど経つ。十日経ったが、女の面影は絃之助の中で薄れるどころか、逆に濃くなるようだった。そのときはそういうものと思って、素姓も名前も強いては訊ねなかったが、それを聞かなかったのが悔まれた。絃之助は、その女にほとんど焦がれていた。
ただ女は家中の者に間違いなかった。そうだとすれば、市中を歩いていて、ある日偶然に出会うなどということがないでもない。それが絃之助に残された僅《わず》かな希望だった。相手が人妻だということはわかっている。もう一度会ってどうするということまでは考えていなかった。ただ会ってみたかった。そう思う絃之助の気持には、山の上の甘美な一夜が尾を引いている。
赤沢の言葉は、その幻想をたちまちに打ち砕いたようだった。
「俺の女房と寝たろう」
赤沢は露骨な言葉を続けた。
「返事はいい。聞かんでもわかっていることだ」
「誰が、そのようなことを申したかな」
絃之助は漸く言った。顔は逆に赤くなった。あの女とのことを覗《のぞ》き見た者がいるのだ。絃之助は夜籠りの人数の中に混じっていた、数人の武家姿の男たちのことを思い出していた。彼らは遠く離れた場所にいて、人体《にんてい》も確かめなかったが、その中にこちらの様子に注意していた者がいたのだ。
「誰がだと?」
赤沢は白い歯を見せた。嘲笑《あざわら》ったようだった。
「女房がそう白状した。これほど確かなことはあるまい」
「………」
「さあ、どう始末をつける?」
「望みは何だ?」
不意に、ある疑惑につき動かされて絃之助は言った。
「望み? そうさな」
赤沢は細い眼で射すくめるように絃之助を見つめている。
「女房と寝た男だ。普通ならうむを言わせず斬りかかるところだが、俺はそうはしない。貴公には申し込んだことがある。それを受けてもらおうか。尋常の試合で片をつける」
「………」
「どうだ。文句はあるまい」
「嵌《は》めたな?」
絃之助は鋭く言った。赤沢が何をしたかを覚《さと》ったのである。同時にこの男の執念深さに、背筋を戦慄《せんりつ》が走り抜けるのを感じた。この男は、雲弘流との手合わせを実現するために、女房の身体を使って罠《わな》を仕かけたのだ。
「嵌めた? 人聞きの悪いことは言わんでもらいたい」
赤沢は言ったが、その口ぶりには余裕があった。
「しかし、ま、そう思いたいなら、勝手にそう思って頂いていいさ。だが人の女房と寝た醜態は消えんぞ」
「………」
「試合でけりをつけようというのは、こちらの好意だ。受けないとなれば、俺はこのことを言い触らす」
「恥知らずな」
「そっちは恥ずかしいだろうが、俺はなんともない。いざとなれば、暴《あば》きたてて貴公の顔を潰《つぶ》してやる。わかったな」
赤沢はゆっくり横に回りながら言った。
「返事はいまでなくともいい。そのうち坂部から、そちらにもう一度話があるだろうが、そのときは性根を据《す》えて返事してもらいたいな。では、失礼する」
赤沢は不意に背をむけた。長身の背が、赤い日射しに染まって坂を降りて行くのを、絃之助は身動きもせず見送った。すさまじい脅迫を受けたという気がした。しかしこちらはきっちり罠にはまって、身動きも出来なかったのだ。
──立ち合うしか、あるまい。
絃之助はそう思った。出来れば避けたい相手だったが、ほかに遁《のが》れる道は見当らなかった。しかし立ち合って勝てるかどうかはわからなかった。容易ならぬ苦境に追いこまれた、重い気分が押し寄せてきた。
絃之助はゆっくり坂をのぼった。女の白い顔を思い浮かべていた。夫の望みを叶《かな》えるために、ほかの男に身をまかせた女の顔だった。恥知らずな女だ。そう思ったが、なぜか憎しみは湧《わ》いて来なかった。
里村庄蔵の家は、城下も端に近い鍛冶《かじ》町にある。絃之助を迎えて、里村は驚いたようだったが、すぐに中に招き入れた。
絃之助が茶の間に通ると、薄暗い部屋の中から、可愛らしい子供の声が挨拶して、今度は絃之助を驚かせた。里村が行燈《あんどん》に灯を入れると、そこに四つか五つと見える男の子が坐っていた。それが里村の子らしかった。絃之助は初めて見る。それで坐ると、丁寧に挨拶をかえした。
里村は二年前に妻を病気で喪《うしな》って、やもめ暮らしをしている。台所で、いまごとごとと音をさせているのは、これは絃之助も顔を知っているさくという老婢《ろうひ》のようだった。里村の家族はこれだけである。
薄暗い部屋の中に、子供と二人いて何を考えていたものかと、絃之助は思わず里村の顔を覗きこむような気持になった。家の中は、どことなく暗く、みじめな感じが漂っている。
「いつの間にか、大きくなったものだな」
絃之助は子供を見て言った。
「はあ」
「いま幾つかな?」
「四つですが……」
「男手で育てるのは、骨が折れたろう」
「はあ。いやもう馴《な》れ申した」
里村はわりあい、あっさりと言った。
「かわりを貰《もら》わんのか」
「は。しかし……」
里村は困惑したように口籠った。
「来てくれる人もなさそうで。なにせ小禄で子持ちと、条件が悪《あ》しゅうござる」
里村は言ったが、ふと眼を据えるようにして絃之助を見た。
「なにか、急なご用でも?」
「うむ、ちょっと聞きたいことがあってな」
絃之助は思い惑ってうつむいたが、すぐに率直に聞いてみるしかないと思った。
「父が竜尾返しという剣を工夫したのは、知っておったな」
「はい」
「伝授は受けておらんな」
「むろんです。それがしのような未熟者が受けられるわけはありません」
里村はきっぱりした口調で言った。
「しかし若先生は、ひそかに伝授を受けておられるのではありませんか」
「いや、わしも受けておらんのだ」
「………」
「伝授どころか、父がそれを遣《つか》うのを見たこともない。工夫したと聞いただけだ。ところがどうしてもその秘伝の中味を知りたいわけが出来てな。知りたいが父はあのとおり、言うことも舌がもつれてしかとわからん病人だ。それで困っておる」
「そうですか」
里村はうつむいている。何か思案している顔色だった。そのとき襖《ふすま》が開いて、顔を出したさくが、おや、檜山の若旦那さまおいでなさいまし。気がつきませんで、いまお茶をさしあげます、と言った。
さくは里村の使いで何度か檜山家に来ている。鶴のように首が長く痩せているが、顔も手足も真黒で丈夫な女だった。里村の家は、家作は小さいが畑がある。この畑は手入れはさくの役目で、さくは時どき病気の先生に喰べさせてくれと、取りたての青物を唐物町の檜山家まで持ってきたりする。里村の家にもう二十年以上も勤めていて、青物を持ってきたりするのは、必ずしも里村の言いつけでなくて、さくが自分の裁量でやっているようだった。
さくが出て行くと、絃之助は改まった口調で言った。
「ところで聞きたいと言うのは、ほかでもない。里村は前に一度、父が竜尾返しを遣うのを見たと申したな。それがどんなものだったか、話してくれんか」
「………」
「どうした?」
「はあ。しかし見たと言えるかどうか……」
「はっきりしないのだな」
「はあ」
「構わん。見たままを話してみてくれ」
それでは、と言って里村はぽつりぽつり話し出した。
五年前のある夏の日。檜山道場を一人の浪人者が訪れて、試合を申し込んだ。弥一右エ門は普段はこういう申し込みを受けなかったが、その日は機嫌よく浪人者を道場に上げ、竹刀《しない》を持たせて立ち合った。竹刀は紫革の中に真綿にくるんだ竹が入っている。
里村が見たのは次のようなことだった。弥一右エ門は並みの背丈のある人だが、浪人者が大兵肥満な男だったために、むかい合って構えると、ひどく小さく見えた。
しばらく睨《にら》み合ったあと、浪人者が仕かけようとしたように見えた。そのとき弥一右エ門が竹刀を引いてくるりと背を向けた。その背に向かって、浪人者が怒号を浴びせながら竹刀を叩きつけた、と思ったとき、道場の床をとどろかせて浪人の巨体が横転していた。弥一右エ門が、どういう竹刀を遣ったのかわからなかったが、昏倒《こんとう》している浪人者を介抱すると、こめかみが拳《こぶし》ほども腫《は》れていた。
「そのあとで、大先生がいまのが竜尾返しという技だと言われたのです。拝見していたのは、それがしと新井の二人だけでした」
「………」
絃之助は深く腕を組んだ。新井幹次郎はやはり高弟の一人である。なるほど、それだけでは何もわからない、と絃之助は思った。
「しかし若先生」
里村は顔をあげると気遣わしげな表情になって言った。
「じつは、そのことがあって三日後に、それがしと新井は先生に呼ばれて、口止めされております」
「口止め?」
「浪人者と立ち合って竜尾返しを遣ったこと、また当流に竜尾返しの秘伝があることを、口外してはならんと申されました」
「………」
「ほかならぬ若先生の仰せですから、お話しいたしましたが、このことは何分大先生にはご内聞に願います」
「わかった」
里村の慎重な話しぶりからみて、赤沢に竜尾返しの名が洩れたのは、新井の方からかと絃之助は思った。
そこまで打ち明けて、里村はほっとしたようだった。くつろいだ顔色になって言葉を続けた。
「これは、それがしの推測ですが……」
「………」
「大先生は、われわれに竜尾返しを遣ってみせたことを、たいそう後悔しておられるように見うけられました。それで口止めされたと思います」
結局里村の話からは、何もわからなかったことになる。里村の家を出て、持筒町の方角に歩きながら、絃之助はそう思った。心の中に焦燥が芽ばえている。
今日絃之助は城中で坂部将監に会い、赤沢弥伝次との試合を命ぜられ、受けていた。赤沢の申し込みに、中老の戸田織部の息がかかっている以上、いずれこういう経過になるだろうという気がしていたし、また三日前唐物町の路上で赤沢と会ったときから、受ける覚悟を決めてもいたのである。
ただ絃之助は、試合まで半月の猶予を乞うた。その間に竜尾返しの秘伝を確かめ、出来れば身につけて赤沢と立ち合いたい腹だった。赤沢と立ち合う以上、そこまで身構えを固めておく必要があると思われたのである。
絃之助が、父に竜尾返しについて聞いたのはただ一度だけである。ある日弥一右エ門は、外であった祝いごとに出て酔って帰った。そのとき、不意に竜尾返しという名を口にした。これを身につけて立ち合えば不敗だ、と言い、いずれお前にも伝える、と言った。また平素遣う剣ではなく、死地に立ったとき遣うべき剣だろう、と感想めいた言葉をつけ加えた。
ただそのとき、その秘剣についてなにかの説明があったわけではなかった。弥一右エ門は、自分で工夫したそういう剣があると言っただけだった。絃之助がそのとき、強いて刀法をたずねなかったのは、いずれ時期が来たとき伝授があるものと思ったからである。
そのとき押して訊かなかったことが悔まれる。弥一右エ門はそれから半年後に倒れて、口もきけない病人になったからである。そしていま、絃之助が半月後に迎えようとしているのは、弥一右エ門が言う死地に違いなかった。
女が一人急ぎ足に歩いてくる。空の低いところに、細い下弦の月があるばかりで、女の姿はおぼろに見えたが、近づくと頭巾で顔を包んだ武家の女だとわかった。
目礼して擦《す》れ違おうとしたとき、女が檜山さまと呼んで頭巾をとった。
「………」
絃之助は茫然《ぼうぜん》と女を見つめた。女は赤倉不動で一夜を共にした女だった。つまり赤沢の家内だったのである。
「ぜひとも申しあげたいことがあって、唐物町のお家の方に参りました。そうしたらこちらにおいでと伺って、急いで回ってきました」
女は眼をきらきら光らせ、胸を喘《あえ》がせて言った。起伏する胸の動きが、一瞬絃之助に、月の光に露わにさらした豊かな乳房を思い出させた。
「それで、ご用とは……」
「赤沢の申し込みをお受けになってはなりませぬ」
「………」
「あのひとは、あなたさまと真剣で立ち合う気でおります。むろんあなたさまを斬るつもりですわ。卑怯《ひきよう》な男です。私にあんな真似《まね》をさせて、いまになってあなたさまを許せないと思いはじめたのですよ」
「………」
「おわかりですか。ただの試合ではございません。真剣勝負になります、かならず……」
女は身体を寄せると、絃之助の手を取り、包むように指をからめた。やわらかく湿った指だった。
「お断りなさいまし。どこまでも」
「ご忠告は有難いが、もう手遅れのようだ」
絃之助は静かに女の指をふりほどきながら言った。
「今日、申し込みを受けてきた」
「まあ」
女は茫然と絃之助の顔を見つめた。
「そなたたち夫婦の仕かけた罠が、まことにうまく出来ていて、受けざるを得なかった」
「申しわけありません」
女はうなだれた。
「いや、謝ることはいらん。勝敗は時の運だ。それに、そなたの亭主どのと立ち合ってみたい気が、まったくないわけでもない」
絃之助はそう言い捨てたまま歩き出した。すると女が顔を上げて見送った。数歩離れたとき、女が檜山さまと呼んだ。振りかえると、女は同じ場所に立ち止まったまま、呼びかけるように言った。
「私を、さぞ怨《うら》んでおいででしょうね」
「いや」
絃之助は微笑した。女の白い顔と、細身の臈《ろう》たけた立ち姿が、胸に喰いこんでくるようだった。絃之助は軽く手をあげ、女に背をむけると急ぎ足にそこを離れた。
家に戻って茶の間に顔を出すと、姉の宇禰が縫物をしていて、母の姿は見えなかった。挨拶してから、絃之助は母上はと聞いた。
「奥ですよ」
宇禰は眼もあげずに言った。縫物に熱中している。珍しいことだった。宇禰は絃之助より二つ年上で、若いとき一度嫁入ったが、一年いただけで離縁され、以来そのまま家にいる。
絃之助が穏やかな気性なのにくらべて、宇禰は物言いもはきはきして男っぽく、顔も浅黒くひき緊《し》まった容貌をしていて、小さい頃に檜山の姉弟は男と女を取り換えたいようだと言われたことがある。宇禰は小さい頃から道場で竹刀を握り、父から目録を許されていた。
「私のですか」
と絃之助は言った。宇禰の縫っているのが、男物の胴着だったからである。
「違います。里村さまのですよ」
宇禰はやはり眼をあげないで言ったが少し赤くなったように見えた。おや? と絃之助は思った。ふだんなら何気なく見過ごすところだろうが、姉の顔色に気づいたのは、たったいま里村の家からきたせいかも知れなかった。
里村はいまも時どき道場にきているし、二人の間には、なにか繋《つな》がりがあるのかも知れなかった。そういえば里村は潮たれた男やもめだが、年は三十前後のはずだった。宇禰は二十六である。破《わ》れ鍋《なべ》に綴《と》じ蓋《ぶた》といったふうに似合っていなくもない。
「ふむ。里村に頼まれましたかな」
「違いますよ。あの方、いつもお粗末でしょ、お召し物が」
宇禰は言ったが、急に顔をあげて、きつい眼で絃之助を見た。
「そうそ、さっきあなたを女の方が訪ねてきましたよ。会いましたか」
「はあ。途中でお会いした」
「どなたです? お名前も名乗らないで、無礼な方」
「私も、名前を知らないひとだ」
あっけにとられた顔をしている宇禰を残して、絃之助は茶の間を出た。
弥一右エ門が寝ている奥座敷に行くと、絃之助は、そこにいた母に、父と二人だけにしてくれと言った。母の矢尾は不審そうな顔をしたが、黙って出て行った。
矢尾が出て行くと、絃之助は行燈を病人の枕もとに運んで、顔を寄せた。
「父上。これから大事なことを申しあげますゆえ、お聞きください」
弥一右エ門は、身動きもせず、口も開いたままだったが、眼がぎょろりと動いて絃之助の顔を見た。
「近くそれがし、赤沢弥伝次と試合をいたします。鏡喜兵衛を打ち破ったあの赤沢が相手です。試合と申しましたが、これは事情があって、真剣をとっての勝負になるものと思われます」
弥一右エ門の顔が、ゆっくり左から右へ、右から左に動いた。
「これは組頭の坂部さま、中老の戸田さまのご意向で、すでに殿のお許しも得てあるということで、止《や》むを得ず承知いたしました。今日城中で返事をして参りました。もはや断る道は残されていません」
「………」
「そこでお願いがございます。父上が編まれた秘伝の竜尾返しとは、いかなるものか、ご教示下さい。むろん……」
絃之助は近近と弥一右エ門に顔を近づけた。
「その秘伝がなくとも、立派に立ち合うつもりでおりますが、赤沢は強敵。出来得れば竜尾返しを身につけて、試合にのぞみたい存念です。試合までは、まだ半月の余裕がございます」
「………」
「おわかりになりましたか。おわかりになりましたら、なんらかのご指示を下さい」
突然弥一右エ門が、あー、あーと声を出した。白紙のようだった顔に赤味がさし、弥一右エ門は熱心に喋《しやべ》っていた。だが何を喋っているかは、絃之助にはひと言も聞きとれなかった。暗い口腔の奥で、弥一右エ門の舌が僅かに蠕動《ぜんどう》するのを認めただけである。
絃之助は絶望を感じた。同時に灼《や》くような焦燥に貫かれていた。弥一右エ門が竜尾返しについて、何か語り出していることは明らかなのだ。
「父上、いま少しごゆっくり。え? なんと申されました?」
弥一右エ門の口もとに耳を持って行ったが、同じことだった。耳に触れるのは、獣じみた喉声《のどごえ》と、病人くさい口臭だけだった。絃之助は顔を離して、父親の顔を見まもった。背筋を冷たい汗がしたたり落ちる。予想したとおりだった。父からは、竜尾返しについてひと言も聞き出すことが出来ないのだ。
あー、あーと弥一右エ門が言った。はたはたと微かな音がしている。絃之助はうなだれていた顔をあげて、音のするところを見た。すると布団の端から手が出ていて、しきりに何かを指そうとしている。弥一右エ門は右手だけが僅かに動く。
「何です? なにかお書きになりますか?」
弥一右エ門はゆっくり首を振った。そして右手の指はやはり何かを指している。絃之助はその指の示すところを眼で追った。何もなかった。畳があり、襖があるだけだった。だがそのとき稲妻のように頭の中で閃《ひらめ》いたものがあった。
「わかりました。誰かを呼んでくるのですな? 母上ですか?」
弥一右エ門は首を振った。
「姉上ですか?」
弥一右エ門は満足そうに眼を閉じて、ゆっくりうなずいた。
暗い廊下を、絃之助は小走りに茶の間に走った。絃之助は登城しているから知らないが、女二人は終日病人と一緒にいて、何らかの意思を通じ合っているのだ。そして弥一右エ門はいま竜尾返しについて話そうとしている。姉を呼んだのがその証拠だ。母では剣のことはわからない。
果して絃之助が推察したとおりだった。宇禰は呼ばれてくると、すぐに父親に触れんばかりに顔を近づけて、いそがしく話しはじめたが、すぐに鋭い眼で絃之助を振り返った。
「絃之助どの。あなた、真剣の試合をなさるのですか」
「そうだ。それで父上に竜尾返しという秘伝のことを聞いてもらいたいのだ」
宇禰はうなずくとまた弥一右エ門と話しはじめた。長い話だった。その間弥一右エ門が苛立《いらだ》って、利く方の手ではたはたと畳を打ったり、宇禰が途方にくれたように天井を仰いだりしたが、やがて宇禰が何度もうなずいて話が終った。
振りむくと、宇禰が疲れた声で言った。
「絃之助どの。すぐに道場へ参りますよ」
道場は、家の横手に並んでいて、短い渡り廊下でつながっている。燭台を手に、絃之助が先に立ち、後から宇禰が続いて道場に入った。床に燭台を置くと、二人は無言で襷《たすき》、鉢巻で身支度をし、竹刀を手に取ると向きあって構えた。暗く、広い建物の中に、燭台の光がゆらめき、二人の影が長く床を這《は》った。
「はじめますよ。いつでも打ち込んで下さい」
と宇禰が言った。絃之助は青眼《せいがん》に構えると、注意深く宇禰の構えを探った。変ったところは見えなかった。宇禰は目録を受けただけの構えを示しているが、それでも絃之助から見ると、打ち込む隙はある。
絃之助は打ち込みに動こうとした。そのとき宇禰が不意に竹刀を引いて背を向けた。
──お。
一瞬気勢を殺《そ》がれた感じがしたのと、左の耳ががんと鳴ったのが同時だった。絃之助はしたたかに左の首を打たれて、思わず床に膝《ひざ》を落としていた。宇禰の竹刀が、どこから襲ってきたのか、わからなかった。
絃之助と赤沢弥伝次の試合は、半月後の早朝、城下はずれの柳の馬場で行なわれた。馬場は城内二ノ丸にも一個所あるが、柳の馬場は主に馬馴らしに使用される。五間川の川端にあって、川岸に一列に高い柳の木が並んでいるので、柳の馬場と呼ばれる。
柳は早く葉が落ちつくし、糸のような枝を垂れていた。その柳も、馬場を取りまく粗い柵も、四方を取りまく晩秋の霧に青黒く浮かんでいる。
人人は日の出前からその場所に集まってきていたが、日は一度だけ霧の間から弱い光を地上に投げかけただけで、また厚い霧の中に隠れてしまった。集まったのは、絃之助と赤沢のほかに、今日の試合の立合人として組頭の坂部将監、絃之助の介添として里村庄蔵、姉の宇禰、また赤沢の介添として、戸田織部の嫡男道之丞がきていた。来るかと思った赤沢の家内はいなかった。
霧は空まで、暗く覆《おお》いつくしていたが、少しずつ夜は明けはなれようとしていた。
「では、始めるか」
坂部が大きな声で言った。絃之助と赤沢は木刀を握って、馬場の中央に進んだ。足もとで枯草が鳴った。
むかい合って、構えようとした絃之助を、赤沢は手をあげてとめた。そして木刀を右手に下げたまま、無造作に近づいてきた。
「そこまでだ。それ以上近づけば撃つ」
絃之助が言うと、赤沢は二間ほどの間を置いて止まった。そしてにやりと笑った。
「まあ、あわてるな。話がある」
「………」
「どうだお主。真剣でやらんか。木刀では勝負の味が悪い」
「初めからそのつもりだったのだろう」
「………」
赤沢は無言で笑った。
「いいぞ。望むところだ」
「よし、いい覚悟だ。決まったぞ」
赤沢が怒号した。一瞬|蓬髪《ほうはつ》が逆立ったように見えた。
二人はそれぞれの介添人のいる場所に戻った。絃之助が無言で刀を腰に帯びるのを、宇禰と里村はじっと見つめた。多分真剣勝負になるだろうと二人には話してある。
「気をつけて」
離れるとき、宇禰が低い声で言った。
二人が刀を帯びて、馬場の中央に戻るのをみて、坂部があわてて二、三歩近寄った。
「おい。何の真似だ。真剣勝負はならんぞ、檜山」
二人は坂部を無視した。五間ほど間を置いて、二人は立ち止まると刀を抜いた。坂部が怒鳴った。
「刀を引かんか、二人とも。それともこれは遺恨試合か」
「いかにも、遺恨がござる」
赤沢が凄味《すごみ》の利いただみ声で言い返すと、坂部は沈黙した。そして元の場所まで下がった。それでこれからの勝負を認める形になったが、坂部はもはや自分の手で二人を分けることが出来ないのを見きわめたのかも知れなかった。
そのとおりだった。赤沢の顔は、すでに悪鬼の相を帯びはじめていた。吊りあがった眼はいよいよ細められ、その奥から粘りつくような視線が絃之助に送られてくる。頬は野犬のように痩せ、髪はそそけ立ち、歪《ゆが》めた口は泡を溜《た》めている。青眼の剣先から妖気が立ちのぼるように見えた。構えには寸分の隙もない。
──鬼だ。
絃之助はぴったり青眼の構えを固めながらそう思った。この男を斃《たお》すには、竜尾返しを遣うしかないことを覚っていた。
「お主」
じりじりと間合いを詰めて、距離が二間まで縮まったとき、ふと赤沢が口を開いた。仮面が口をきいたように見えた。
「なぜ真剣に代えたかわかるか。わかるまい」
「………」
「知らんで斬られては後味が悪かろうから言っておく。女だ」
「………」
「あの女は石女《うまずめ》だったのだ。それがどうやら貴様の子を孕《はら》んだらしい」
あ、と思ったとき、鳥がはばたくように赤沢の身体が躍った。辛《かろ》うじてはね返して、絃之助は身を沈めて遁《のが》れた。浅く肩先を斬られていた。
再び三間の距離を置いて、二人はむかい合った。霧が動いているのを絃之助は感じた。一瞬の心の動揺はいまの一合で消えている。絃之助は、心気をしずめて赤沢の次の仕かけを探った。長い対峙《たいじ》の時が流れた。
──来る。
じわりと赤沢の五体に力がみなぎるのが見えた。赤沢の剣先が動いたとき、絃之助は刀を下段に引いた。背を向ける、だがそのとき、足は次の一撃のために構えられているのだ。赤沢が何か叫んだ。一挙動で、絃之助は振りむきざま、赤沢の肩を深ぶかと斬っていた。
驚愕《きようがく》した表情のまま、赤沢は刀を振った。その剣先は絃之助の左腕にとどいたが、同時に赤沢の身体は突きとばされたように、枯草の上に転んだ。
「見たぞ、竜尾返し……」
首をもたげた赤沢が呻《うめ》くように言うのを、絃之助はまだ刀を構えたまま、無表情に見おろしていた。
「卑怯な、騙《だま》し技に過ぎん。汚い……」
人人が駆け寄ってくる。絃之助は赤沢に近づいて地面に膝をつくと、すばやくとどめを刺した。誰にも、赤沢の言葉を聞かれてはならなかった。
雲弘流は、源流である夕雲流以来、相撃《あいうち》を基本ともし心構えともする。相手に撃たれるのを意とせずひたすら相手を撃つ。その相撃のうちに、一瞬相手より先に撃つ技を磨くのである。
竜尾返しは、流儀の基本にそむく異端の剣だった。不意に背を向けることで一瞬相手の剣気を殺ぎ、その虚をとらえて、瞬転して必殺の一撃を振りおろす。邪剣と言えた。それだから弥一右エ門は固く外にそれを秘したのである。
「とどめを、刺したか」
そばに来た坂部が、驚いたように言った。
「は。真剣勝負の作法ですゆえ」
「そうか。ところで……」
坂部は、眼を輝かせて絃之助を見た。
「すばらしい剣|捌《さば》きだった。あれが竜尾返しか」
「いえ、違います」
絃之助はきっぱりと言った。竜尾返しの秘剣は、赤沢の屍《しかばね》と一緒に葬ったのだと思っていた。
そのとき、みるみる霧がはれて、柳の馬場に眩《まぶ》しい光が射し込んだ。宇禰と里村にはさまれて馬場を出ながら、絃之助は低く言った。
「あの剣はもう遣わん。二人とも忘れてくれ」
半月の間、絃之助の稽古の受け太刀を勤めた里村は、一瞬不審そうな顔をしたが、すぐにはいと言った。里村にも、絃之助が言おうとしていることがわかったようだった。
翌日、絃之助は持筒町で赤沢が道場に使っていた廃寺を訪ねた。だが道場の看板はなく、中は無人だった。
絃之助は門前の菓子屋に立ち寄って、出て来た主人に女の消息を聞いた。
「その女の人なら、今朝早く旅支度で寺を出て行かれました」
「どこへ行くとは言っていなかったのか」
「はい。ただちらっと姿を見ただけでございまして。お気の毒に、旦那さまが斬り合いで死なれたという話でございますな」
絃之助は背を向けた。険しい表情になっていた。昨日のうちに訪ねるべきだったと思ったのである。だが、昨日訪ねてきて、女が会ってくれたかどうかはわからない、という気がした。
子を身籠ったというのは、ほんとうだろうかと思っていた。昨日の間は、赤沢が勝負の駆け引きのために、そう言ったと考えていたのである。だがその言葉は、次第に重く心にのしかかってくるようだった。赤沢が真剣勝負を挑んできたのは、それよりほかに理由がないとも思えたのである。
だが、それはもはや確かめようがなかった。どこから来たかもわからない女だった。そして女はどこへ行くとも告げずに去って行ったのだ。おそらくはもう領外に出て、どこかへ向かう街道を、うつむいて歩いているに違いない女の姿が見えてきた。
そこは両側に商家が立ちならぶ雀町だった。町には喧騒《けんそう》が満ちている。客を呼ぶ声、笑う声、子供を叱る声。絃之助は一瞬喧騒の中に立ちすくんで、町の背後を走る丘の上に傾く日を見た。
冬近い、淡く力ない日射しが、遠ざかる女の背を照らすのを見た気がしたのである。
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臆病剣松風
夫が玄関から外に出て行ったとき、満江は、
──おや、忘れた。
と思った。門の閂《かんぬき》を確かめに行ったことがわかったからである。閂はおろしていない。
いつもは女中のこはるがそれをやるのだが、こはるは在の実家に祝い事があって、二日の暇をもらって帰っていた。夕刻夫が帰ってきたあと、満江は一度は門を閉めなきゃ、と思ったようだったが、台所仕事などにかまけて忘れてしまったのである。
忘れた、と思ったが満江は立たなかった。そのまま縫物を続けた。閂をおろしていない門をみて、夫が闇《やみ》の中で舌打ちしている様子が見えるようだったが、夫はどうせ毎晩寝る前に門の戸締りを確かめ、家のまわりを一周し、中に入って丹念に雨戸の|さる《ヽヽ》が落ちているかどうかまで調べるのである。
──たまには、なにかあったほうが、張りあいがあってようございましょ。
などと満江は、幾分意地悪い気分で、針の手を動かしていた。そう思う気持の底には、夫に対する微《かす》かな軽侮がひそんでいた。
満江はまだ覚えているが、五年前に、夫の瓜生《うりゆう》新兵衛との間に縁談が持ちあがったとき、仲人の茂野兵左エ門は、新兵衛は剣の達人で、鑑極流の秘伝を伝えていると言ったのである。
はっきりそう言ったのを記憶している。というのは、茂野のその言葉が、満江の気持を固めさせるのに大いに働いたからであった。満江が知っている若い男といえば、兄の駿蔵と、ひとつ年上の従兄《いとこ》の千田道之助ぐらいだったが、兄は暇があれば漢籍を読みふけっている本の虫で、道之助は若いくせに茶屋遊びに深入りして、千田家の者だけでなく、親戚の者まで心配させていた。
むろん満江は、瓜生新兵衛という人物を見たこともなかったが、兄や従兄の道之助を眺めてきた満江には、剣の奥儀《おうぎ》を許されたという縁談の相手が、ひどく新鮮に思えたのは事実だった。男の中の男という気がした。
瓜生新兵衛は、普請《ふしん》組に勤めて百石。二百二十石取りの満江の家に比べると、家格は少し落ちるが、満江には、茂野が言うような剣の達人が、黙黙と普請組に勤めていることまで奥ゆかしく思われた。その当時、まだ会ったことのない縁談の相手に対する満江の夢は、ふくらむ一方だったのである。
それで瓜生家に嫁入って、満江の夢が満たされたかといえば、そこには多少の屈折がある。あからさまに言えば、縁談が決まり、新兵衛にはじめて会ったとき、満江は少し気落ちを感じたのである。新兵衛は、普請組勤めで外に出ていることが多いせいか、手足と胸もとが真黒に日焼けしていた。そのくせ顔色だけが生白かった。仕事場で笠をかぶっているために、黒かったり白かったり、全身|斑《まだら》といった皮膚に変ったらしく、むろん顔色の方が地色だと思われた。細い眼が、臆病そうに満江を眺め、総体に痩《や》せていた。男の中の男といった趣はなかった。
満江は少し失望したが、一見して見ばえのしないこの人物が、じつは知る人ぞ知る剣の達人なのだと思うことで、気を取り直した。筋骨たくましい美丈夫《びじようふ》という夢は、あえなく潰《つぶ》れたが、そのために今度の縁組みを悔いる気持はなかった。
それに、瓜生の家には係累の煩《わずら》いがなかった。満江が来たとき、新兵衛のほかに病気で臥《ふせ》っている老母と、妹が一人いたが、妹の方はすでに縁組みがまとまっていて、満江が来るのを待っていたように嫁入った。病気の老母を、満江は心をこめて看病したが、その老母も一年前に病死し、そのあとは夫と二人きりの家になった。
嫁入ってきてから、五年の歳月が経っている。夫婦の間には子供が生まれない不満があり、また藩が金づまりで、二年前から禄米借り上げということがあって、近ごろ満江は時どき内職したりするが、それも二人きりの暮らしではそれほど切実な感じはない。平凡な暮らしが続いていた。その平凡さに満江は不足はなかった。
ただこの五年の歳月の中で、満江の中で少しずつ変質したものがある。近年、満江は、自分の中に僅《わず》かだが夫を軽んじる気持があるのに気づいている。それは嫁入ってきた当座は、思いもしなかったことだった。むろんそうなったのは理由がある。
夫が剣の達人だということに、最初の疑惑を持ったのは、あの地震の夜からだと満江は思う。
三年前の秋の夜、地震があった。かなり激しい揺れで、眼をさました満江は、飛び起きると手早く着物に袖《そで》を通した。そのとき黒い影が部屋を飛び出して行くのを見た。夫だと思った。満江は帯を巻きつけながら部屋を出た。まだ家が激しく揺れ、ぎちぎちと気味悪く木組が鳴った。闇の中に、物が落ちたり倒れたりする音がひびき、台所脇の三畳からこはるの悲鳴が聞こえた。満江は壁を手探りしながら、離れに寝ている老母のところに行った。
「大丈夫でございますよ。間もなくやみますよ」
満江は、布団の上から覆《おお》いかぶさるように病人を抱いて、声を励ました。老母は無言だったが、激しく身体《からだ》を顫《ふる》わせ、声も出ない様子だった。
夫はどこに行ったのかと思ったのは、地震がおさまったあと、行燈《あんどん》をともして、汗をぬぐってやったり水を飲ませたり、病人を介抱しているときだった。
病人が落ちついたのを見とどけて外に出ると、闇の中に白い人影が立っていた。それが寝巻のままの夫だった。近づくと、夫が跣《はだし》なのがわかった。
「揺りかえしがくるかの」
新兵衛は、満江が近づくと暗い空を見上げたまま、そう言ったが、満江は返事が出来なかった。あっけにとられていた。
──武士が、なんといううろたえようだろ。
と思っていた。このとき満江の心の中に、むくりと頭をもたげたものがあった。夫が剣の達人だというのは、ほんとうだろうかという疑いだった。この夜の瓜生新兵衛の様子をみれば、満江の疑いは当然だったと言うしかない。
その疑惑を、いよいよ深めるようなことが、それから半年ほど後にあった。
その日満江は、実家に行った帰りに、代官町の通りを歩いていた。代官町は武家屋敷がならぶ町で、商人町より人通りが少ない。それでいつまでも雪が消え残り、晴れて日が照るたびに路はぬかるみになった。その日も、満江は水たまりやぬかるみを避け、歩き悩みながら道を進んでいた。春先とは思えないほど温い日射しが、肩に落ちてくる。
前後に、同じ方向に行く人が二、三人いた。前の方からやってきて、擦《す》れ違う者もいる。人びとは言いあわせたように足もとに眼を配り、水溜《みずたま》りを跳びこえたり、ぬかるみを避けて、路脇に残っている雪の中に踏みこんだりしながら、ゆっくり動いていた。行き会うと、立ち止まって道を譲りあった。
──あら。
立ち止まって、一人をやり過ごした満江は、不意に眼を瞠《みは》った。前の方に夫の新兵衛の姿が見えたからである。新兵衛はまだ遠くにいて、やはり足もとに眼を落としながら、ゆっくりこちらにやってくる。満江には気づかないようだった。
満江は微笑した。夫と外で出会うことなど、めったにあるものではないと、心を擽《くすぐ》られたのである。
そのとき突然に、後に人の悲鳴があがり、馬蹄《ばてい》の音がとどろいた。驚いて振りむいた満江の視野一ぱいに、一頭の黒い馬が飛びこんできた。馬は間近に迫っていて、白眼をむき、口に泡を噛《か》んだ馬の顔が、頭の上からのしかかってくるように思えた。満江は塀ぎわに逃げた。そのとたんに雪に足を滑らせ、下駄の鼻緒が切れて、左の足首に痛みを感じたが、痛みをかばっているゆとりはなかった。
満江は夢中で黒板塀に縋《すが》り、爪先《つまさき》立った。その後を、乗り手のいない放れ馬が、疾風のように駆けぬけて行った。馬が、ほとんど身体をこするようにして走り抜けたとき、満江は一瞬獣の匂いに包まれ、血が凍ったが無事だった。
馬が走って行く方角に、叫び声があがり、人びとが逃げ惑うのを、満江は塀に縋ったまま見つめた。後の方にも人が呼びかわし、走り回る物音がしているのは、怪我人が出た模様だったが、満江は振りむくゆとりがなかった。
──夫がうまく止めてくれればいい。
手に汗を握る気持で、そう考えていた。路の左右に、人びとが逃げ惑い、その間から、夫の姿が見え隠れした。夫は真直ぐ胸を張って歩いている。落ちついているように見えた。みるみる馬との距離が縮まった。
「………」
鮮やかに荒れ馬を鎮める夫と、蹄《ひづめ》にかかって倒れる夫の姿が、交互に頭の中にひらめいて、満江が思わず呼吸を乱したとき、夫の姿がひょいと路から消えた。
満江は茫然《ぼうぜん》としたが、すぐに、そこにこれから満江も曲ろうとしている道があって、夫はその角を曲って行ってしまったのだとわかった。馬はたちまちその場所を駆けぬけ、坂下の方に走り去った。馬体は次第に小さくなった。遠くでまた叫び声があがった。坂下には商人町があり、通りは人で混雑している。そこに馬が飛びこんで行った場合の混乱が想像された。二、三人で済まない怪我人が出るだろう。
満江は、緒が切れた下駄を手に下げ、足袋《たび》はだしのままぬかるみの路に戻った。憤然としていた。足首を刺す痛みが、怒りを倍加している。
──これで正体が知れた。
剣の達人だの、鑑極流だのと言ったのは、茂野さまの、いわゆる仲人口といったものだったのだろう。ああ言ったからには、まったく剣が振れないというわけでもあるまいが、中味は恐らく武士の嗜《たしなみ》に毛がはえた程度のことに違いない。武士らしくもない、あの卑怯《ひきよう》な逃げっぷりをみれば、そのあたりの事情が明らかではないかと満江は思った。
第一、考えてみれば鑑極流などという流儀は聞いたこともない名前だった。城下で一番名が売れている道場は関川というが、確かあそこは一刀流のはずである。
「お武家さまがいらしたようですが、うまく逃げましたな」
「そりゃあんた。お武家にしたってこわいものはこわいでしょうから、仕方ありませんよ」
坂下の方を眺めながら、立ち話を続けている町人のそばを、満江は顔を赤らめて通りすぎた。
──要するに見たとおりの人だった、というに過ぎない。
やがて満江はそう思った。夫は、要するに百石取りの普請組勤めで、人足に立ちまじって、日に焼かれ風にさらされて律儀に勤めてきただけの人間なのだ。日頃の言動を、今日の馬騒動に重ねあわせてみれば、かなり臆病ですらある。臆病で、見ばえもしない、白黒斑の皮膚をした男が、すなわち瓜生新兵衛というもので、奥ゆかしくも何ともない。剣の達人とは、とんだ買いかぶりであった。
そう思ったが、満江はその日馬のことは話さなかった。言わなかったかわりに、そのころから夫を軽く侮《あなど》る気分が生まれたのは止《や》むを得ない。そして事実、満江の見方を覆すようなことは何も起こらず、今日までまた歳月が経ったのである。
「閂がおりてなかったぞ」
家の中に戻って、例によって隅隅まで戸締りを確かめたあと、茶の間に入ってくると新兵衛はそう言った。
「おやまあ。うっかりいたしました。あなた、相すみませぬ」
満江は、針の手を休めて夫を見ると詫《わ》びた。さも言われてはじめて気づいたという顔をつくったが、それはうまくいったようである。新兵衛は、むっつりした顔で、出がらしの茶に手をのばした。
海坂《うなさか》藩家老|柘植《つげ》益之助は、宮嶋彦四郎に会うとすぐに言った。
「そなたの父御の弟子で、瓜生という男がいるそうだな」
「おります」
と彦四郎は答えた。彦四郎は物頭《ものがしら》を勤めた父の宮嶋八郎右エ門が、六年前死去したあと跡目を継いで勘定方に勤めている。算勘の才にすぐれていて、いまは奉行下役を勤めているが、将来は勘定奉行に据《す》える人物だろうと、藩の重臣の間に嘱望されていた。
「瓜生がどうか致しましたか」
「いや、当人がどうこうということではないが、例の江戸が、このところ油断ならない動きに出てきての」
「………」
「これは藩でも四、五人しか知らぬことで、他言を禁じるが、昨日舌役の樋口が倒れた」
彦四郎は眼を瞠った。舌役の樋口康蔵は、若殿|和泉守《いずみのかみ》付きの小姓で、毒見を勤めている。
「いや、命は取りとめた。しかし医師の奥井を呼んで、ひそかに検《しら》べさせたところ、毒があらわれた」
「江戸の、指図と思われますか」
彦四郎は慎重な口ぶりで訊《き》いた。
江戸というのは、藩主|右京《うきよう》太夫《だゆう》の叔父吉富兵庫のことである。兵庫は前藩主岳仁公の末弟で、幕府旗本の吉富家に養子に行った人物だが、右京太夫と気が合い、そのつながりから長い間藩政に喙《くちばし》をはさんできた人間でもあった。
むろん国元の執政たちが、兵庫の容喙《ようかい》を喜んだわけはない。しかし内心にがにがしく思っても、主筋の人間である兵庫を明らさまに排斥しようとする者はいなかった。藩主を通じてもたらされる、あきらかに兵庫の発案と思われる指図を、あるいは畏《かしこま》り、あるいは黙殺してこれまで来た。
ところが三年ほど前、驚くべき知らせが、江戸家老三谷作左エ門から柘植にとどいたのである。
三谷の密書は、吉富兵庫が国元にいる世子和泉守を廃して、自分の次子忠次郎を次代藩主にすべく、右京太夫に働きかけている。右京太夫は従弟の忠次郎を溺愛《できあい》しており、兵庫の画策を狂気の沙汰《さた》と片づけるわけにはいかない。軽視すれば大事に至るだろう、と記し、最後に「兵庫殿はすでに藩内に、おのれの与党をたくわえられ、その首魁《しゆかい》はすなわち中老柳田|造酒之丞《みきのじよう》である」と書いていた。柘植たち執政の誰も気づかない間に、兵庫の毒は、深く藩を蝕《むしば》んでいたのである。
以来藩は二つに割れたままだった。その間に世子擁護派と兵庫派の陰湿な争いがあり、何人かの人間が職を追われたり、自裁したりしている。藩主右京太夫に直諫《ちよつかん》した江戸家老の三谷は、右京太夫の怒りに触れて国元に帰されたあと家禄を没収され、郷入り処分を受けて、いまは赤石郡の山間の村に籠居《ろうきよ》している。
宮嶋彦四郎が、江戸の指図かと聞いたのは、吉富兵庫が世子の毒殺をはかったということが、あまりに露骨に思われたからである。だが柘植ははっきりとうなずいた。
「間違いない」
「………」
「お上が病いの床につかれてから、およそ一年になるが、病状ははっきり申してよろしくない。兵庫殿は、そのことを考えている。お上の存命なうちに、世子交代をはっきりさせたいと思っている。そこで焦って、若殿に毒を参らせようとした、と考えてよかろう」
彦四郎は柘植を見た。柘植も彦四郎を見返している。柘植は肥満していて、顔も肩も丸い。筆頭家老の地位にいながら、人あたりのいいことで知られる柘植だが、行燈の光に浮き上がった表情は、いつもの磊落《らいらく》さをどこかにとり落としてきたように、沈んでいた。
「それで、瓜生新兵衛のことは」
「おお、それよ」
柘植は身じろぎして、酒を飲むかと言い、手をうちそうになった。二人がいる場所は、熊野という料亭の離れである。柘植は酒豪で、むかしの藩主の前で裸踊りを披露したという伝説がある。
「いや、ご酒は召上がらないほうが、よろしゅうございましょう。ここに参ったことは、いまごろ柳田さまの方に知られておりましょうし、万一ということがございます。むろん帰りは、私がお送りしますが」
藩内の抗争はそこまできていた。
「そうか。酒はいかんか」
柘植は残念そうに言い、手をのばして茶碗を掴《つか》むと、冷えた茶をがぶりと飲んだ。
「その瓜生の話だが……」
「………」
「そなたと同じ鑑極流を遣うそうだの」
「はい。なかなかの遣い手でごさいます」
と彦四郎は答えた。彦四郎の亡父宮嶋八郎右エ門は、鑑極流を伝える剣士で、物頭を勤めるかたわら少数の弟子を教えた。道場は持たず、気が向いたとき一人ずつ自宅に呼んで、庭先で稽古をつけるというやり方で、数人の弟子を残したのである。
鑑極流の指南は、八郎右エ門一代限りで、彦四郎は勘定方に勤めているが、彦四郎自身も、亡父に仕込まれて、鑑極流の名手として知られていた。
「秘伝が幾つかあって、瓜生という男がその中の松風という秘伝を伝えていると聞いたが、まことかの?」
「よくご存じであられますな。そのとおりでございます」
「すると、秘伝を許されたほどじゃから、瓜生はかなり出来るとみてよいか」
「むろんでございます」
「じつはさっきの話のようなことがあって、兵庫殿が何をしかけてくるか、知れたものでない。そこでこちらとしても相応の手を打たねばならんというわけでな。とりあえず若殿の身辺を警護する人間が要る」
「………」
「しかしだ。さればと言って大勢で若殿を取り囲むようなことは出来んし、好ましくもない。そうでなくとも、近ごろ血の気の多い連中がすぐ刀を抜きたがって始末におえんからの。無用の刺激は避けたい」
「ごもっともでございますな」
「そこでほかの連中とも相談して、あまり目立たず、しかも腕の立つ男を一人、若殿につけようということに相成った。瓜生とやらいう男が、鑑極流を遣い、松風という秘伝持ちらしいというのは、その席で土井が申したことだ」
土井というのは、組頭《くみがしら》の土井勘三郎のことだった。
「どうじゃな。瓜生にその役が勤まるかな」
「………」
「どうした? むつかしいか」
柘植は返事を催促した。彦四郎は顔をあげたが、表情に戸惑うようないろが現われている。
「いえ、十分に勤まると存じます。それだけの力量はございます。ただ、かの男を説得するのが、むつかしゅうございましょう」
「説得だと? 馬鹿言え」
柘植は、平手で肥えた膝頭《ひざがしら》をばんと打った。
「説得もへちまもあるか。わが藩、危急存亡の場合じゃ。引き受けんなどとは言わせん」
「………」
「それともなにか、その男よほどのへそ曲りか。まてまて、まさか瓜生という男、柳田に抱きこまれておるというわけではあるまいな」
「いえ、そういうことではございません」
「ならばどうだというのじゃ。そなたの申すことは、急に歯切れが悪くなって、何を申したいのかさっぱりわからんぞ」
「ともかく、一度説得されてはいかがですか」
「説得などせん。命令してやる」
柘植は言ったが、急に気づいたように訊いた。
「松風というのは、どういう秘伝かの?」
「守りの剣でございます」
「守りの剣と。ほう、ほう」
柘植はうなずいて眼を細めた。
「なるほど。それなら若殿を警護するのに、うってつけではないか」
「さようでごさいますな」
「もそっと、中味はわからんか」
「それから先のことはわかりかねます。松風の秘伝は、瓜生新兵衛一人が受けたものでございまして、それがしも父からおよその話を聞いたにすぎません。もっとも……」
「なんじゃ」
「こういうものだろうという推測はございます。しかし秘伝でございますゆえ、申しあげかねます」
「そういうものかの」
と柘植は言ったが、釈然としない顔色だった。
密談を終って、二人が部屋をでようとしたとき、彦四郎が後から言った。
「近ごろ、どうもわからぬことがございます。お教え頂けますか」
「何じゃな」
「忠次郎殿を可愛がっておられることと言い、また三谷殿を郷入り処分になされたことと言い、お上みずからが世子交代を望んでおられるのではないかという声がわれらの間にもございます。さればと言って、じつの御子である若殿を廃するというのも、いかにも解《げ》せぬ話で……」
「お上の真意はどうかということか」
立ち止まって柘植が言った。
「はい」
「それをわしも知りたいの。だがお上のまわりは、兵庫殿の息がかかった者が、びっしりと取り囲んでおる。何もわからんのだ」
右京太夫は、江戸屋敷で病んだままで、病状さえ確かなところがわからない有様だった。江戸家老には、兵庫派の組頭浦部藤右エ門が抜擢《ばつてき》されて行っている。
「しかしじゃ」
柘植は暗い廊下に踏み出しながら言った。
「兵庫殿が仕かけておるのは、主家|簒奪《さんだつ》の謀反《むほん》じゃな。お上のご意向がどうあれ、謀反人の子を主君に頂くわけにはいかん。われらとしては若殿を守り抜くしかないの」
三日後、柘植はもう一度宮嶋彦四郎を、熊野に呼び出した。
「あれはどういう男じゃ、いったい」
彦四郎が離れの部屋に入ると、柘植は待ちかねたように言った。
「瓜生は断りおったぞ、あの話を」
「ははあ」
「ひらにご容赦を、と申したな。話を聞かせただけで、真青になりおっての。歯の根もあわぬふうに見えた。松風か何か知らんが、秘伝を伝えられた男が、何とも情けない有様でな。あれは稀代《きたい》の臆病者じゃ。わしはそう見た」
「………」
「第一貧相じゃ。痩せておって顔色も悪かったぞ。物を喰っとるのか、あの男は。腕などわしの半分もあるまい。あれが鑑極流の遣い手などと、わしには信じられんぞ。なにを笑っておる?」
柘植は、彦四郎の顔に浮かんだ笑いを、すばやく見咎《みとが》めて、叱るように言った。
「なるほど。瓜生新兵衛は顫えておりましたか」
「顫えて、しばらくは声も出なんだ。あれではいざというとき物の役に立たん」
「いや、ご家老。それは違います」
「なにが違う。よしんば鑑極流を遣うとしても、あれでは若殿の警護など出来んと申しておるのだ」
「いや、そこが違います。藩中、人はおりますが、瓜生にまさる警護役はおりません。秘剣松風は、若殿を立派にお守りするはずでございます。青くなるのは、瓜生の性癖に過ぎません」
「性癖だと?」
「さようです。無理にも警護役を押しつけておしまいなさい」
「信じられんな。それで大事ないか」
「大事ございません」
「しかし心もとないの。若殿にもしものことがあったらどうする?」
「その心配はご無用です。ご家老のお話をうかがって、父が選んで瓜生新兵衛に松風の秘伝を残したわけが納得いきましてございます。さすがに父は眼が高く、その眼には一点の曇りもなかったと思われます」
彦四郎は胸を張って言った。
鳳光寺の門を出ると、満江は少しうつむいて、ゆっくり坂をくだった。
ゆるく長い坂が、丘の下まで続き、坂の左右には、桜の花が咲いていた。花は盛りをすぎて、僅かな風が通りすぎると、しきりに花びらが散った。花びらは満江の肩にも、髪にも降りかかる。そのたびに、満江は丹念に指先で花びらをつまんで捨てた。
その動作を煩わしいとは思わなかった。日が傾いて、春の日射しが、最後の光を桜の花に投げかけていた。もの憂く美しい景色を、満江は楽しみながら歩いていた。
今日が、何年も前に死んだ実家の祖母の忌日だったことを思い出し、急に思い立って墓参りにきたのだが、桜の花がこんなに咲き誇っているとは思わなかったのである。思いがけないもうけものをしたような気持になっていた。このまま、急いで家に戻るのが惜しい気がした。
──そう言えば、このあたりは昔から桜の名所だった。
と思った。満江がいま歩いている、鳳光寺の坂の桜並木もきれいだが、坂の下にある弁天池のまわりの桜は、ことに城下の人に知られていて、季節には、花見客をあてこんだ腰掛け茶屋が何軒も軒をならべる。
来るときは別の道から来たが、帰りは池の桜を見て戻ろうと満江は思った。鳳光寺は実家の菩提寺《ぼだいじ》であるが、満江は瓜生の家に嫁入ってから、この寺に一、二度しか来ていない。何年もの間、桜など見ることもなく過ごした、という気がした。
坂を降り切ると間もなく、青黒い池の面が見えてきた。池は半ば、まわりからさしかける桜の枝に覆われ、木の下はそぞろ歩く花見客で混んでいた。腰掛け茶屋にも、大勢の人が休んでいるのが見え、早くも軒下につるした提灯《ちようちん》に灯を入れている店もあった。日は鳳光寺裏の森の陰にかくれて、桜の花は白っぽく見えた。
だが人びとは、帰りをいそぐふうもなく、ゆっくり桜の枝の下を動いている。木の下に立って、筆と短冊を持ち、句を案じている老人。池のそばの石に腰をおろし、顔をくっつけるように語りあっている町家の若い男女。中年の夫婦連れ、赤児を抱いた若い女が通るそばを、四、五人の子供たちが駆け抜け、その後を白い犬が追う。そして絶えまなく花が散っていた。
あたりは生あたたかい空気とざわめきに包まれ、そのざわめきには人を酔わせるような、もの憂いようなものがふくまれている。日が暮れたあとも、人びとは夜桜を見るらしかった。人混みの中を、満江は幾分上気したような気分で歩いていた。こんなに大勢の人を見たのも、しばらくぶりのことだった。
「………」
不意に後から肩をつつかれた。驚いて振り返ると、従兄の道之助が立っていた。道之助はそれが癖の声を立てない笑顔で満江を見ていたが、満江が振りむくとぼそっと言った。
「花見か」
「いいえ、そうじゃありませんよ」
満江は少しうろたえていた。
「そこのお寺にきて、その帰りです」
「ふむ」
道之助は、満江の様子には無頓着に言った。
「そこに掛けてお茶でも飲まんか」
「でも」
「遅くなると、ご亭主が心配するかの」
道之助の顔に浮かんだ薄笑いをみて、満江は反射的に首を振った。知らない男と話すわけではない。相手は気の知れた従兄だった。お茶ぐらい飲んでも、どうということはないと思った。
茶屋の腰掛けは、人で一ぱいだった。二人は端の方に漸《ようや》く隙間を見つけて腰をおろした。すぐに近寄ってきた茶屋女に、道之助はお茶を二つ頼んだ。場所が狭いので、ともすると腿《もも》のあたりが道之助の身体とくっつきそうになるのを、満江は気にした。そのときになって、はじめて道之助から酒の香が匂うのに気づいていた。
「また、飲んでいるのですね」
「………」
「相変らず、遊びの方は精出しておられますか」
「皮肉を言うなよ」
と道之助は言った。
「たまに飲むぐらいで、昔のような馬鹿はやっておらん」
昔というのは、満江が瓜生の家に嫁入る前のことらしかった。そのころ道之助は荒れて、三日も四日も茶屋に流連《いつづけ》したりする暮らしが続いていた。そういう道之助をどうするかで親族の者が寄り集まり、伯父である満江の父もその相談に出かけたりした。多分その後だったのだろうが、泥酔した道之助が深夜に家をたずねてきて、満江の父に悪態をついたことを覚えている。
兄の駿蔵に聞いた話では、道之助の素行が荒れているのは、深く言いかわした女が、道之助を裏切って、突然に家中の某に嫁入ったせいだということだった。そのころ満江は、深酒をしたり、茶屋女とたわむれて日を過ごしているという道之助を、無頼漢《ぶらいかん》のように忌み嫌い、軽蔑《けいべつ》していたので、その話を聞いたときも、馬鹿らしいと思っただけだった。
だがしばらくぶりに会ってみると、昔道之助に対して抱いていた、うとましい気持が消えているのを満江は感じた。道之助は一応きちんとした身なりをしているが、どこかに荒《すさ》んだ空気を残している。そういう感じが、べつに嫌でもなく、こわくもなかった。
それは満江が嫁入って五年たち、多少は男というものを知ったせいかも知れなかった。そして道之助のような男をうとましく思い、剣の達人に憧《あこが》れて嫁入ってみれば、あの程度だったという、裏切られた気持もそこに作用しているようだった。要するに、道之助も夫の新兵衛も、また兄の駿蔵にしても、くらべてみればどっこいどっこいの男たちに過ぎないのだった。
「寺に、何か用があったのか」
不意に道之助が言った。
「実家《さと》のおばあさまの命日で、墓参りしてきたのですよ」
「ふむ」
と言ったが、道之助はその話には興味がなさそうだった。お茶をひと口|啜《すす》っただけで立ち上がった。
「帰るんなら、そのあたりまで送ろう」
満江はあわてて立ち上がった。弁天池を抜けると、あたりは急に薄暗く、人通りが淋《さび》しくなった。そこは武家町だった。そして次に店先に軒行燈や裸|蝋燭《ろうそく》を出している町家の通りに出た。道之助は先に立って、ずんずん歩いて行く。
そしていつの間にか町家が終り、路はまた薄暗くなっていた。日はすっかり落ち切って、水色の空に、あたりの家家の屋根が黒くそびえている。道之助は、細い路地のようなところを歩いていた。満江はすっかり方角を失い、心細い気持になっていた。来たこともない町を歩かされているようだった。
「道之助さん」
満江はとうとう立ち止まって言った。
「ここはどこなんですか」
「卯《う》の花《はな》町だよ」
戻ってきた道之助が言った。いつもの薄笑いを浮かべていた。
「この裏に茶屋がある。どうだ、軽く一杯つき合わんか」
「いやです」
と満江は言った。軽い恐怖にとらえられていた。
「私、もう帰らないと」
「そう他人行儀に言わなくともよかろう。久しぶりに会ったのではないか」
「いえ、困ります」
不意に道之助が刀を抜いて振った。すると足もとに犬の悲鳴があがった。犬は高い悲鳴をあげながら遠ざかった。通り過ぎようとした犬に、道之助は刀をふるったようだった。
「斬ったんですか」
ぞっとして満江は言った。
「いや、斬りはせん。峯《みね》で殴っただけだ」
「どうなさるつもりですか」
「どうもせん」
道之助は白刃を下げたまま言った。
「一杯だけつき合わんか。手間はとらせない」
満江がうなずくと、道之助は刀を鞘《さや》におさめて、先に立った。黒い背が危険なものに見えたが、満江はそれほど道之助をこわがっているわけではなかった。軽い恐怖が通りすぎた後に、茶屋に連れこんだりして、一体どうするつもりだろうという好奇心のようなものが動いていた。
子供のころ、満江は道之助ともよく遊んだが、膂力《りよりよく》の強い道之助は、自分が欲しい物があると、腕力をふるって満江や駿蔵から物を取りあげた。
──このひと、私が欲しいのかしら。
満江はそう思ったが、その気持には人妻のゆとりがあった。道之助など、何ほども世間を知っているわけでもないのだ。うしろから満江は声をかけた。
「はじめから、そのつもりだったのね」
「………」
「ひとを脅迫したりして」
「脅迫などせん」
道之助はむっつりと言った。
茶屋の奥の部屋で、酒肴《しゆこう》の膳《ぜん》をはさんでむかいあうと、道之助はぐらりと頭を下げた。
「さっきは悪かった」
「………」
「刀を抜いたりしてこわがらせた」
「そうですよ」
「ま、一杯いこう」
道之助は満江の盃に酒をみたし、自分も手酌で飲んだ。
「お酒など、頂いたことがないのに」
「飲んで、うまくなかったらやめればよい」
と道之助は言った。そう言いながら道之助は、自分では次次と盃をあけた。
「満江はきれいになったな」
しばらくして道之助は言った。青白い顔には、少しも飲んだ気配があらわれていなかった。
「そうですか」
「自分で気づかんのか」
「………」
「さっき弁天池で会ったとき、このまま別れるのはもったいないという気がした」
「もったいないというのは、どういうことですか」
「ま、いい。肴《さかな》を喰いなさい。盃をちょっとあけてみたらどうだ?」
満江は酒を含んでみた。苦いだけのものが口中に溢《あふ》れたが、飲みくだした後に、浮き立つような気分がきた。その様子を、道之助は盃をとめてじっと見つめたが、満江がこぶしで胸を叩いて盃をおくと、すぐに銚子をさしむけてきた。
「飲めるではないか。さ、もう少し注ごう」
酒を受けながら、満江はこのひとは私を誘っているつもりかしら、と思った。本能的な警戒心が動いていたが、それとは別に、誘われていると思うことは悪い気分のものではなかった。道之助の魂胆は知れないが、自分をきれいだと言ったのは確かなのだ。
──そんなことを言われたのは、しばらくぶり。
嫁入る前は、人にそう言われたこともあったが、瓜生家の嫁になってからは、忘れていた言葉だった。そう思いながら、満江はまた盃をあけた。酒は変りなく苦かったが、酒を飲んでいると思うだけで、気分が昂揚《こうよう》し、満江は大胆になった。
酒を飲んで帰ったりしたら、夫がどう思うだろうか、とちらと思ったが、不思議なほど気にならなかった。うまく辻つまを合わせればいい。夫も剣の達人だなどと言って、人を瞞着《まんちやく》したのだから、おあいこだ。そして、小心で臆病な夫が、酒を飲んで帰ったからと言って、自分を家から叩き出すとも思われない。
話の合間に、満江は自分がしきりに笑い声をたてているのに気づいた。気分は依然として悪くなかった。
──これが、酒に酔うということかしら。
「あのひとは、どうなさったんですか、ほら、あのひと」
「紀乃のことか」
「そうよ。道之助さんの思いびと」
満江は饒舌《じようぜつ》になっていた。
「あれは子を生んだ。二人の子持ちだ」
「あら、お気の毒に。もう駄目ね、いくら思ってあげても」
「思ってなどおらん。人の女房だ」
「でも私知っていますよ。道之助さんが身を持ち崩したのは、あの方のためだって」
「身を持ち崩した、か」
道之助は薄笑いを浮かべて顎《あご》を撫《な》でた。酒は少しも色に出ていなくて、むしろ青ざめた顔色だった。顔立ちが端正なだけに、そういう道之助の表情には、凄《すご》みのようなものが加わっている。
「昔の話だ」
道之助は盃をあおると、膳を押しのけ、腰をすべらせて満江のそばにきた。
「俺はしくじったよ」
と道之助は囁《ささや》いて、満江の手を取った。
「すぐそばに、こんなきれいな女がいるとは思わなかった。美しくて、女らしい」
「………」
「紀乃なんかに眼がくらんだのは不覚だった。満江を嫁にするんだった」
お上手ね、と言おうとしたが、満江は声が出なかった。男の甘美な言葉に胸を刺され、男の手が、手から肩に滑って抱きかかえようとしているのに、抗《あらが》う力を失っていた。
──堕《お》ちる。
そう思ったが、その気持はなぜか快かった。夫とは違う男の体臭が鼻腔に溢れ、その中で満江はゆっくり身体が傾くのを感じた。
──あ。
唇に、男の熱い唇を感じたとき、満江はふと目覚めたように一人の男の姿を思い出していた。もの悲しげな細い眼をし、手足は黒く日に焼け、白黒斑な皮膚をして、城と家の間を往復している男の姿だった。ひたすらに、生真面目《きまじめ》に世を渡っているだけの小心な男。貧相な、その夫の姿が、なぜか泣きたいほど懐かしく、胸をしめつけてくるのを満江は感じた。
「………」
衿《えり》もとから入って胸を探ろうとしている男の手を払いのけて、満江は身体を立て直した。
「どうしたんだ」
不満そうな道之助の声に構わずに、満江は身体を離し、衿をつくろいながら言った。
「ごちそうさま。私帰ります」
「何だ。なにを怒っている?」
道之助は狼狽《ろうばい》したように言った。道具立てが端正なだけに、うろたえた表情が醜かった。立ち上がって部屋を出ながら、満江は酔いが急速にさめるのを感じた。
「おい、もう一度会ってくれるだろうな」
後から道之助が声をかけたが、満江は答えなかった。
家に戻ると、満江は音を立てないように入口の戸を閉め、そっと上にあがった。罪を犯してきた者のように、心が竦《すく》んでいた。
茶の間に入ると、行燈のそばに夫が腕組みして坐っていた。
「あなた、遅くなって申しわけございませんでした」
満江は畳に手をついて謝った。だが新兵衛はちらと満江を見ただけで、無言だった。満江は縮みあがった。
「おばあさまの、お墓参りに行って参りました」
家を出るときこはるに言い置いたことだが、満江はもう一度そう言った。
「そのあと、お寺から実家の方に回って、こんなに遅くなりました」
「………」
「あなた、お食事は?」
「済ませた」
「申しわけございません」
満江はほかの意味もふくめてもう一度謝ったが、新兵衛は腕組みしたままだった。仕方なく満江は着換えに立とうとした。すると、新兵衛がぽつりと言った。
「話がある」
「はい」
満江は胸がとどろいた。道之助と過ごしたふしだらな一刻《いつとき》が、もう露《あら》われてしまったような不安に苛《さいな》まれていた。だが新兵衛が言い出したことは、まったく違うことだった。
「ご家老の柘植さまに、若殿の警護を命ぜられた」
新兵衛は手短かに事情を話した。藩内に、藩主家の家督相続をめぐって二派の対立があること。警護の人間を必要とするほど、世子和泉守の身辺が危険にさらされていること。いずれも満江にははじめて聞く話だった。満江は眼を瞠った。
「つまり、刺客《しかく》を防ぐ役目だ」
「あなたを見こんで、ご命令があったのですか」
「そういうことだ。だが、わしは気がすすまんのだ」
満江は新兵衛をじっと見つめた。新兵衛はうつむいたままでいる。話を聞いている間に、満江は普段の気持を取り戻していた。それでは少少帰りが遅くなったぐらいのことを気にすることはないのだ。そう思うと、ゆっくりといつもの夫を軽く侮る気分が戻ってきた。
「こわいのですか」
揶揄《やゆ》するように満江は言った。すると新兵衛が顔をあげた。その顔をみて、満江は胸を衝《つ》かれた。新兵衛の顔にはあからさまな怯《おび》えの色がある。眼は悲しそうに満江を見た。夫はほんとうにこわがっているのだった。そしてそのことを妻の眼から隠そうとしていなかった。
「あなた、あなた」
満江は思わず膝をすすめて、かばうように夫の肩を抱いた。夫いとしさで胸が一杯になっていた。夫をこんなにこわがらせている理不尽なものに対して、満江は真底から腹を立てていた。声を励まして満江は言った。
「こわかったらお断りなさいまし。そんな危い役目を引き受けることはございません」
「いや、それは出来ん」
満江に肩を抱かれながら、新兵衛はしょんぼりした声で言った。
「もう、引き受けてしまった」
瓜生新兵衛が、松風の秘剣を遣ったのは、それから半月後だった。
その日、新兵衛は和泉守の供をして、城内の書庫に入った。和泉守は学問好きで、日に二、三度も書物を取りに書庫に入る。和泉守は昼少少前に表に出てきて、執務したり、人に会ったり、書物を読んだりし、暮れ六ツ(午後六時)に奥に入る。
和泉守が表にいる間、新兵衛はぴったりと附き添っている。執務の間も、和泉守が家臣に会うときも、常に部屋の一隅に控え、はばかりに立てば、その前に立って番をした。新兵衛が役目から解き放されるのは、暮れ六ツの太鼓が鳴り、和泉守が執務部屋を出て奥に入るのを見とどけてからである。気疲れのする仕事だった。新兵衛は、普段の痩身がまた少し痩せた。
「若殿」
書庫を出たところで、不意に新兵衛が手で押さえるように和泉守を押しとどめた。書庫は庭の奥にあって、本丸の表と長い渡り廊下で繋《つな》がれている。その入口に、人が三人立ってこちらを見ている。
「いかがした?」
「しばらくお待ちを」
そう言ったとき、もう新兵衛は真青になっていた。二人が立ち止まったのを見て、入口にいた人影が、ゆっくりこちらに歩いてくるのが見えた。その中の一人は、中老の柳田だった。
「柳田だの」
和泉守は呟《つぶや》いた。
「よろしゅうござりますか。決してここをお動きなされませぬように」
言いながら、新兵衛は、懐から襷《たすき》を出してかけ、袖をしぼった。新兵衛の手が顫えて、なかなか襷を結べないのを、和泉守は心配そうに見まもった。
「大丈夫かの、瓜生」
和泉守は声をかけた。一応の事情は家老の柘植から聞いていて、これから何が起ころうとしているかはわかっている。
「おまかせを」
漸く襷をかけ終った新兵衛がそう言ったが、顔がひきつって、唇は白く乾いていた。唇をなめて、新兵衛は足を踏み出した。すると、前からくる三人が、一斉に肩衣《かたぎぬ》をはずして捨てた。柳田をのぞく二人は、肩衣の下に襷を隠していた。
斬り合いは、渡り廊下の中ほどで起こった。新兵衛は、はじめから受けに回っていた。柳田は後にいて、新兵衛に斬りかかっているのは二人の藩士だったが、柳田が選んだ刺客だけあって、俊敏な刀遣いをした。一人はやや肥り気味の中年の男で、一人は長身の若い男だった。
一人が斬りかけて退くと、間をおかずもう一人が斬りかかる。休みのない攻撃をうけて、新兵衛は頼りなげに動いていた。風に吹かれる葦《あし》のように見えた。一度は足を滑らせて、見ていた和泉守が、思わず自分もたばさんでいる小刀を抜いたほどである。
だが、和泉守はそのうち奇妙なことに気づいていた。瓜生新兵衛は、二人の刺客の攻撃にさらされて、右に左によろめくように動いていたが、よくみると、斬り合いがはじまった場所から、一歩も退いていないのだった。新兵衛は躱《かわ》し、受け流し、弾《は》ねかえし、ことごとく受けていた。
そしてその間に、新兵衛の腰は次第に粘りつくように坐り、背は強靭《きようじん》な構えを見せはじめていた。新兵衛は、一枚の柔軟な壁と化し、刺客はそこから一歩も踏み出すことが出来ないでいた。
はてしのない防禦が続くかとみえたとき、二人の撃ち込みをはずした新兵衛の身体が、するりと二人の構えの内側に入った。はじめて新兵衛が短い気合いを発した。斬りさげた二人の刃の下で、新兵衛の身体がひるがえるように動き、刀身が二度きら、きらと光った。そして後も見ずに、新兵衛は柳田に向かっていた。その背後に、二人の刺客が相次いで倒れた。
柳田に、新兵衛は斬りこませた。そして反転して躱しながら、肩先から斬りさげた一刀で、鮮やかに柳田を倒していた。
「ご覧になりましたか」
渡り廊下の入口で、宮嶋彦四郎は、家老の柘植に言った。
柘植は四半刻《しはんとき》ほど前、三ノ丸にある自宅で、藩主右京太夫病死の密書を受け取った。同じ知らせは、中老の柳田にも届いているとみなければならなかった。そうであれば右京太夫という後楯《うしろだて》を失った兵庫派が、ここで抗争に一挙にけりをつけようと策動するおそれがあった。柘植は急いで登城し、彦四郎を帯同して世子を探し回っていたのである。
二人は柳田たちと瓜生新兵衛が斬り合いをはじめたときに、渡り廊下の入口に到着した。柘植はすぐ刀を抜いたが、彦四郎がとめて始終を見まもっていたのである。
「あれが松風です。松の枝が風を受けて鳴るように、相手の剣気を受けて冴《さ》えを増す。瓜生の剣は、よく秘伝を伝えております」
彦四郎は言った。少し気持が昂《たかぶ》っていた。彦四郎も、亡父が遺したその秘剣をはじめて目撃したのである。
二人の眼に、和泉守の方に戻って行く新兵衛の後姿が見えた。非凡な剣をふるったとは見えない、痩せた背だった。
庭で、草花に水をやっていた満江は、男の声に顔をあげた。半開きの門から千田道之助の顔がのぞき、続いてのっそりと長身が入ってきた。
「はじめて来たが、なかなかいい住まいではないか」
と道之助は言った。寝不足らしい青白い顔をし、眼が充血している。満江は眼をそらし、菊に水をやる仕事を続けた。
「何しにおいでになりました?」
「何しにか。これはご挨拶だな」
道之助は笑ったようだった。振りむかなくともわかる。
「あれっきりということはなかろう」
「何のことですか」
「どうだ? 今夜あたり、ちょっと出られんか」
下司《げす》! 満江は心の中で罵《ののし》った。こんな男に、ちょっとでも心を許しかけたあの夜のことが信じられなかった。この男が、根元から腐っている遊び人にすぎないことは、こうして四月の白日の下でみればよくわかる。
振りむくと、満江は勢いよく言った。
「お断りします」
「断る?」
「ええ、お断りします。この前のことは大そう後悔しております。二度とこんなふうにおいでにならないでください」
「さあ、どうかな」
道之助はふてぶてしく言った。
「今日はご機嫌斜めのようだから帰るが、気が向いたら、また誘いにくるかも知れんな」
「おやめになった方が、身のためですよ」
満江は脅すように言った。
「そんなことをなさると、夫に言いつけます。ご存じないんですか。新兵衛は鑑極流の達人で、あなたをこらしめるぐらい、わけもない人ですよ」
満江の誇らかな口調が、道之助を傷つけたようだった。道之助はしばらく睨《にら》むように満江を見まもったが、不意に背を見せて去った。手荒く門を閉めて行った。
藩は和泉守が後を継ぎ、新兵衛は五十石の加増を受けた。新兵衛は、城中でした働きについて何も言わなかったので、満江はその話を、加増の沙汰を伝えに来た宮嶋彦四郎に聞いたのである。
しかし道之助にはああ言ったものの、満江はそのために夫を愛しているのではなかった。日に焼け、律儀に城勤めに励んでいる、臆病な夫を愛し、そのことに満足していた。
水をやりおわると、満江は花の上に身をかがめて、葉についている虫をとった。道之助がやってきたことは、もう頭から消えかけていた。
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暗殺剣虎ノ眼
気だるさに、志野は眼をつむっていた。頭がまだ痺《しび》れたようで、四肢は力を失っていた。
──わたしは、声を立てなかったろうか。
快楽がきわまったとき、不意に暗黒を見たような気がする。そして快楽は、なお強い力でその暗黒の中に志野をひきずりこもうとしたようだ。そのとき狼狽《ろうばい》して何か叫んだような気がする。その懸念のために、志野は一そう眼があけられなかった。
男の体臭が顔を包んでくる。清宮太四郎の匂いだった。その香に、志野はまだ酔っていた。
「あ」
また男の手がのびてきて、衿《えり》をわけ胸を探ろうとしたのを押しのけて、志野は眼をひらいた。そして部屋の中に漂うたそがれいろに驚いてあわてて起きあがった。それであたりの情景がはっきりし、同時に志野は自分を取り戻していた。男に抱かれて過ごした刻《とき》は、思ったより長かったようである。
夜具を降りるとき、志野は少しよろめいた。
「帰るのか」
部屋の隅に蹲《うずくま》って、あわただしく着物を身につけている志野に、太四郎が声をかけた。
「はい」
「わしは、ここで一杯やって帰る」
「どうぞ」
志野は上の空で答えた。みねが案じているだろうと思っていた。婢《はしため》のみねは、隣の酒屋町にある実家で、志野を待っている。みねの家は職人で、父親は桶《おけ》を作っている。むろんみねは、志野がここで男と会っていることを承知していた。志野は、家の者にはみねを連れて買物に行くと言って家を出ている。
太四郎に唆《そそのか》され、そう言ってはじめて家の者を欺《あざむ》いたとき、志野は胸も破れんばかりの思いをしたのだが、三度目の今日はわけもなく言えたという気がした。母の顔を平気でみて嘘をついた。
しかしそれは、前の二度とも、みねがうまく取りつくろってくれたためだ、と志野はわかっている。みねに迷惑をかけてはならない。
「では、お先に」
支度を終えて、志野は入口に坐り直すと指をついた。
「失礼いたします」
「今度は中の五日に。忘れんようにしてくれ」
と太四郎が言った。はい、と言って眼をあげると、夜具の上に起きあがって胡坐《あぐら》をかいている男と、正面から視線が合った。
太四郎は眉目《びもく》が涼しく、女のような口もとをしている。その眼が微笑している。眼をそらしたとき、優男《やさおとこ》ふうの風貌《ふうぼう》に似合わない、黒い脛毛《すねげ》が浴衣《ゆかた》の裾《すそ》からみえた。志野は顔を赤らめた。
振りむいて襖《ふすま》に手をかけた志野の背に、ずかずかと夜具を踏みつけて、太四郎が近づいた。膝《ひざ》をついたまま、志野は背後から肩を抱かれていた。
「楽しかったぞ。祝言《しゆうげん》が待ち遠しいの」
うつむいたまま、志野はええ、とうなずいた。むせるような男の体臭に包まれて、志野は、夜具の中で眼をつむっていたときの感覚が、もう一度戻ってくるような気がした。男の息が迫り、志野は不意に項《うなじ》を吸われていた。その一点から、全身が紅く染まって行くような感覚に襲われて、志野はあわてて男の指を肩からはずし、もう一度、失礼しますと言った。
料亭朝川の離れは、長い渡り廊下で表の店に繋《つな》がっている。枯れいろが目立つ広い庭を、落日の残光が染めているだけで、どこにも人影はなかった。表の方で、微《かす》かに三絃の音と人がどよめく声がしているだけである。渡り廊下に立って志野はまだ弾んでいる呼吸をととのえ、それから店の方にむかって歩き出した。
玄関では、中年の女中が一人志野を見送っただけだった。朝川では、志野を清宮太四郎の連れとして知っているだけで、素姓までわかっているわけではない。見送った女中のつつましい表情の中には、そういった軽い好奇心がのぞいていたが、志野は黙殺した。料亭の女たちの、そういう視線にも、少し馴《な》れたようだった。
朝川は大通りから少し引っこんだ場所にある。門を出ると目立たない小路があり、小路をしばらく歩くと人の往来がにぎやかな大通りに出る。志野はそこまで出て、何気なく町に紛れた。
──いまごろは、お酒を召し上がっているだろうか。
人混みの中を、つつましくうつむいて歩きながら、志野は残してきた男のことを考えた。すると男と過ごした一刻が、幸福な感情をともなって思い出されてきた。
清宮太四郎は、三月前に婚約がととのった許婚《いいなずけ》である。清宮の家は無役だが、禄高は四百石で、組頭《くみがしら》を勤める牧家とは釣合いがとれていた。志野の家は四百五十石である。
志野はむろん、清宮太四郎という人物について、それまで何も知らなかった。ところが家同士でほぼ話がまとまったころ、話を仲だちした同じ組頭の加藤|靫負《ゆげい》の邸に招かれ、そこで太四郎に引きあわされるとひと眼で夢中になってしまった。太四郎は、志野が日ごろ、嫁入るならこういう人にと思い描いているような風貌をしていたのである。
喜びを隠さない志野をみて、兄の達之助が苦にがしげに言った。
「誰も言わんようだからおれが言ってやるが、清宮は遊び人だぞ。しきりに茶屋や料亭に出入りしている男だ」
「でも、柔弱な方ではございませんでしょ」
志野は反撥した。父の与市右エ門も母の和加も、今度の縁組みに乗り気だが、達之助だけは最初からあまりいい顔をしなかった。志野には、そういう兄に対する反感がある。
「清宮さまは、浅羽道場の免許取りだと、加藤さまがおっしゃっておいででしたよ」
「そんなことはわかっておる。太四郎は浅羽では高弟ということになっておる」
言いながら、達之助は意地の悪い笑いをうかべた。
「だがあそこの免許は、わが道場ならせいぜい目録止まりという評判があるのを知らんか」
「いいえ、存じません」
志野は憤慨して言ったが、同時に兄の肚《はら》が読めたという気もした。
市中には剣術道場が五つ、柔《やわら》を教授する道場がひとつあるが、中で一刀流の服部道場と空鈍流の浅羽道場が、擢《ぬき》んでて人気がある。門人も多く、活気があった。はやっているだけに、両道場の間には古くから反目する空気があった。お互いに相手のことをよく言わない。この春の花見ごろには、酒に酔った両道場の門人同士が、大勢であわや斬り合いになろうとした騒ぎがあり、そのことは城中でも問題にされ、また市中でも噂《うわさ》になったので志野も知っていた。達之助は、服部道場で三羽烏《さんばがらす》の一人などと呼ばれている。清宮太四郎に好意的でないのは、要するにそういうことらしかった。
──大人げないひと。
肚がわかると、志野は兄を軽んじた。兄にけなされたその分だけ、むしろ太四郎に惹《ひ》きつけられるようだった。
みねを連れて買物に出た途中、太四郎に会って料亭に誘われたとき、志野は拒まなかった。そのときはみねと一緒だったし、遊び上手だという太四郎に対する好奇心が働いていた。そして何よりも、しかめ面《つら》をしてただ一人今度の縁談に異をとなえている、達之助の鼻を明かしてやりたいと思っていたのだ。
「次は一人でござれ」
その日、みねを交えて三人で朝川を出たとき、太四郎は大きな声で言った。な、よろしかろう、みねどの、と太四郎はみねにも承認をもとめた。志野とみねは、顔を見合わせてくすくす笑った。そのときには、もう二人とも清宮太四郎という男の、あけっぴろげで鷹揚《おうよう》な人柄に、狎《な》れ親しんでいた。朝川では、女二人は馳走《ちそう》を喰べ、太四郎だけ少し酒を飲んだのだが、その一刻は、女二人に男と一緒にいる刻の楽しさを味わわせたのである。どうしようかしらね、みね、と志野は言ったが、みねが故障を言うはずがないこともわかっていたのだった。志野は、そのとき自分でも驚くほど大胆な気持になっていた。
だが、みねのはからいで、はじめて二人で会ったあとで志野は取りかえしのつかないことをしたという思いにとらわれたことも事実だった。太四郎がしたことは、志野が漠然と予想していたようなものとは違っていた。生ぐさく罪の匂いさえした。その中には微かな歓びがひそんでいたが、志野はその歓びの正体に気づくゆとりを失っていた。罪びとのように打ちしおれていた。志野を支えたのは、男がすでに結納《ゆいのう》も済み、来春には夫と呼ぶ人間だという意識だけだったのである。
──今日は、違った。
町の人ごみを縫いながら、志野はふとそう思い、思わずあたりを見回した。男にみちびかれて、底深い快楽をのぞき見た一瞬を思い出し、その物思いを人にのぞかれた気がしたのだが、薄明に包まれた道には、人がいそがしげに行き交っているだけだった。
みねと落ち合い、それから家に戻ると、すっかり暗くなるだろう、と思ったが、志野はそのことをあまり心配していない自分に気づいた。思いは朝川に残してきた男の方にあって、家のことは心から遠かった。
父の与市右エ門は、城中で相談ごとがあって、このところ連日帰りが遅いし、母の和加は病身で気が弱く、口やかましく娘の行動を咎《とが》めだてしたりする人間ではない。兄が帰っていれば、遅くなったのを咎めるかも知れないが、兄の言うことなど無視すればいい、と志野は思った。
暗い道だった。前を行く若党の豊助がさし出す提灯《ちようちん》の光が、寒ざむと二人の足もとを照らしているが、明かりの及ばないところに、のしかかるように濃密な闇《やみ》がうずくまっているのが感じられた。
──今日もご出座がなかった。
と牧与市右エ門は思った。藩主|右京《うきよう》太夫《だゆう》のことである。藩ではいま、連日執政会議が開かれていて、三日前までは、藩主みずからもその席に出て、論議を聞いていたのである。それが昨日、ひき続いて今日と出席がなかった。表向きはご不快という知らせが執政会議に届いている。
だがそうでないことを牧は知っていた。右京太夫は、あきらかに牧に含むところがあって、出席をとりやめている。そのことは、ほかにも気づいている者がいるかも知れないが、誰もそのことには触れなかった。
執政会議は、新年からすすめるべき農政を論議していた。海坂《うなさか》藩では、五年前に冷害に襲われ、領内の作柄四分という凶作に見舞われた。その年は備荒籾《びこうもみ》を放出して、どうにか領民が飢えるのは切り抜けたが、そのあと、藩財政はにわかに窮屈になった。一昨年の藩主出府のときには、城下の富商数名を城中に招いてもてなし、借金して出府費用をつくったほどである。
藩では豊作を期待していた。城下の商人からだけでなく、江戸藩邸に出入りしている商人からも金を借りている。しかし豊作が二年も続けば、借財全部を返すことは出来なくとも、国元の借金を清算し、江戸商人に利息を払うぐらいは出来るという見込みがあった。だが、凶作以後の作柄は、連年思わしくなく、今年の作柄も、検見《けみ》の結果は平年作をやや下回るという報告が郡方から届いていた。
このまま漫然と放置すれば、やがて借金で首が回らなくなる。藩では何らかの財政立て直し策を打ち出す必要に迫られていた。そのための、連日の執政会議だった。
論議は二つに割れていた。中老戸田織部が提出した徹底した領内締めつけ策と、郡代粕谷甚十郎が献策した大規模な開墾開田策が対立したのである。ほかにも発言があったが、論議は結局この二策に絞られた形になって、まだ決着がついていなかった。
戸田の締めつけ策は、凶作以来小刻みに領内に示してきた倹約令を整備し、さらに強化して大倹令を布令《ふれ》る。同時にこれまで百姓に対して貸し分になっている年貢の未納分を、来春の年貢徴収の際に残らず取り立て、清算させるというものだった。
「それでは潰《つぶ》れ百姓が出申そう」
なるほど戸田が言うようにすれば、藩庫は一応息を吹き返すかと思われた。戸田が示した概算によれば、零細百姓も含めて、未納年貢と溜《た》まった利息を残らず取り立てれば、金子《きんす》になおして八千両近い金額になる。ただそれをやっては、百姓がもつまいと牧は思った。
牧がそう言うと、戸田はその反駁《はんばく》を予想していたように切り返した。
「潰れ地の引きうけ手はおる」
「高麗屋《こうらいや》かの」
「さよう」
「反対でござる」
と牧は大声で言った。高麗屋は城下の富商だが、十年ほど前から拾いあつめるようにして少しずつ潰れ地を買い占め、五年前の凶作の後にはかなりの田畑を入手して、いまでは押しも押されもしない田持ちになっている。
もともと藩では、百姓が放棄した潰れ地は、村上げ地として村が耕作するのを建て前とし、みだりに売買することを禁じている。にもかかわらず高麗屋が地主として膨れ上がってきた背後には、高麗屋と藩の有力者との結託があるという噂が囁《ささや》かれていた。戸田中老が、その有力者だという証拠はない。決裁をくだすのは藩主右京太夫である。
だが戸田が言うように、領民締めつけの尻ぬぐいを高麗屋にゆだねるということになれば、高麗屋の地主としての身代は一挙に膨れ上がり、領内にかつて例をみない大地主が出現することになろう。
牧には、その大地主に収奪される百姓の姿が見えていた。牧は、まだ三十代のころ、数年郡代を勤め、いささか百姓の暮らしに通じていた。地主の収奪ぶりは、むろん藩の年貢取り立ての比ではないのだ。
牧と戸田中老の対立をきっかけに、執政会議は二派にわかれて論争に入った。郡代の粕谷が提出した新規開田策は、領内の南、唐紙山の山麓《さんろく》に連なる荒蕪地《こうぶち》に、新田百町歩を開くという案である。ただし粕谷は、その開墾に五年の歳月を予想し、その間倹約令は従来の程度にとどめ、民力を増すために、年貢はむしろゆるやかに取り立てるべきだと献策していた。
戸田案は次席家老矢部孫千代、中老佐々市郎左エ門、組頭松井権兵衛らが支持し、粕谷案は筆頭家老氏家|内蔵助《くらのすけ》、中老津田奥太夫、組頭の加藤靫負、牧らが支持した。論議はときに妥協に傾き、ときに鋭く対立しながら、容易に結論を見出せないでいたが、白熱した論議のなかで、牧はひとつの失言をしている。
大倹令を論議しているなかで、江戸藩邸の掛り費用が話題になったとき、牧はそもそもの藩庫欠乏の理由のひとつとして、凶作以前の、江戸における藩主の遊興を批判したのである。それはいかにも大きな理由であった。その期間の江戸費用は膨大な金額に達し、国元ではその費用の捻出《ねんしゆつ》に苦慮したのである。
「そのことがござらなんだら、凶作があったとはいえ、今かくのごとくには窮迫はしておりますまい」
牧は憚《はばか》りなく言った。牧の思い切った批判に、執政たちは思わず息を呑んで上座を見た。そこには右京太夫が控えている。
だが右京太夫は、みんなに見られると、色白の肥った顔に苦笑をうかべ、古い話を持ち出しよったの、それよりはいまのことを言え、と言っただけだった。だが右京太夫は翌日、つまり昨日から、会議への出座をやめている。
──逆鱗《げきりん》に触れたのだ。
と牧は思っていた。江戸遊興のことを言ったとき、右京太夫の顔を一瞬すさまじい癇癖《かんぺき》のいろが走り抜けたのを、牧はみている。そしてその表情をみたのは、多分牧一人に違いなかった。ほかの者が上座を窺《うかが》ったとき、右京太夫は何気ないふうに苦笑していたのである。
──いずれ、お咎めがあるかも知れない。
牧はそう覚悟していた。藩主遊興のことを口にしたときから、その覚悟は決まっていたのである。一度は言わなければならないことだったのだ。倹約令は、むろん江戸藩邸にも及んでいるが、江戸の倹約取締りはきわめて杜撰《ずさん》だった。その中味がどのようなものかは、毎年の江戸費用の高をみれば一目|瞭然《りようぜん》だった。要するに江戸藩邸では、凶作以後の藩の財政|逼迫《ひつぱく》はそれほど切実には受けとめていないとみるしかなかった。
かかるだけのものはかかる、という態度で、江戸からは送金をもとめてくる。掛り費用の細目はつけられているが、藩庫の番人である元締の原田六左エ門は「このような名目など作ろうと思えばいくらも作れる」と憤慨していた。
牧は思い切って藩主の過失を批判することで、江戸屋敷の放漫な金遣いに釘《くぎ》をさしたつもりだった。藩主批判が出るほど、国元はきびしいと思わせたかった。だが、それは論議にあおられた一種の失言ともいう面も含んでいた。江戸に対する批判は、日ごろ胸の中にあったが、当日ああいう形で右京太夫を批判することになるとは、そのときまで念頭になかったからである。
いずれ、お咎めがあろうが、それは今度の執政会議が終ったあとだろう、と思いながら牧は豊助が掲げる提灯の光を踏んで歩いた。
「豊助、腹は空いておらんか」
と牧は言った。牧は城中で餅が出て、侃侃諤諤《かんかんがくがく》論争していた連中も、そこで一服して餅を頂いたのだが、供待ち部屋にいた豊助は、いままで何も口にしていない筈《はず》だった。時刻は五ツ半(午後九時)を過ぎている。
斜め前を歩いていた豊助が、振りむいて何か言おうとしたとき、がっと音がして提灯が地上に落ちた。拍子に火が消えて、二人は闇に包まれた。
「豊助、何ごとだ?」
「はい。申しわけございません。提灯に……」
そこまで言って、不意に豊助の声がとぎれた。そして次に少し離れたところで、呻《うめ》き声がし、続いて重い物が地上に倒れた音がした。
「どうした? 豊助」
牧は言いながら、すばやく刀を抜いた。だが濃い闇だった。無限の闇を踏んでいるように、足もとがおぼつかなく、闇は牧の眼にも鼻にも入ってきた。
牧は抜いた刀を、身体《からだ》の前に引きつけるように斜めに構え、闇の中に佇立《ちよりつ》していた。そして何者かが襲ってくるのを待った。自分からは一歩も動けなかった。
気配は真正面からきた。何者かが、ゆっくり近づいてくる。一度立ち止まり、またゆっくり近づいてきた。
「何者だ」
牧は叱咤《しつた》した。だが相手は無言だった。無言のまま、また立ち止まった。その気配だけのものにむかって牧は渾身《こんしん》の双手《もろて》突きを仕かけた。だが次の瞬間、刃音とともに刀が手を離れ、牧はしりぞくひまもなく左肩にはげしい痛みと、ひやりとした金属の感触をおぼえながら昏倒《こんとう》した。
──上意か。
意識がとぎれる寸前、牧は斬りかけてきた相手が、呟くように口にしたその言葉を考えた。
「ま、楽にしてくれ」
と戸田織部は言って、家士が運んできた茶を飲むように、達之助にすすめた。
だが、達之助は固い表情のままでいた。十日前に、鳳光寺で盛大な葬儀があり、三日前に初七日を済ませたばかりである。父の死という思いがけない凶事を迎え、続いて葬儀、法事と緊張を強いられて、達之助はかなり疲労していた。
だが、今朝戸田から邸に来いという手紙がきたとき、即座に会うつもりになった。死ぬ前、父の与市右エ門が、執政会議でどういう立場にいたかを、達之助は父から聞いていた。もっとも鋭く対立したのは戸田織部である。今度の父の死に、戸田が無関係ではあり得ない、と達之助は思っていた。
戸田の手紙は、達之助のそういう気持を見抜いたかのように丁重だった。至急に談じたいことがあり、ご疲労のところ恐縮だが、お運び願いたい、と丁寧な文面だったが、達之助はその丁重さを無視した。戸田が何を言うつもりか、聞くだけは聞くというつもりで来たのである。
眼の前にいるのは、ある意味ではいま、達之助がもっとも会いたくない人間だった。達之助は膝の前におかれた茶にも手をつけず、険しい眼で戸田を注視した。
「このたびは父御が、不慮の死でまことにお気の毒でござった」
「………」
「跡目相続のことは、昨日氏家どのとも談合したが、今日明日にもお許しが出よう。取りあえずは近習《きんじゆう》組に勤めてもらうことになる。精出されい」
戸田は、やはり丁寧な口調で言ったが、達之助は軽く頭を下げただけだった。
「さて、お取り込みのところを、お手前においで頂いたのは、だ」
戸田は咳払《せきばら》いし、茶をひと口|啜《すす》ってから真直ぐ達之助の顔を見た。
「昨日、氏家どの、次席の矢部どの、それにそれがしの三人で大目付の岩佐を呼び、父御の死について、これまでの調べを聞きただした。その結果……」
「………」
「今後一切の調べを中止せよ、と命じた」
「なんと!」
「お手前に談じたいことがあると申したのは、このことだ」
「わけをお聞かせ頂きたい」
達之助は鋭く言った。顔色が青ざめるのがわかった。うっすらとよこしまなからくりが見えてきたようだった。今度の政策論議で、筆頭家老の氏家は父と同意見で、締めつけ策を主張する矢部、戸田と対立していた筈である。この三人が、協議して父の横死の詮議《せんぎ》を中止させたということは、そこに何かの取引きがあったのだ。
「下手人不明のまま、中止ということでござりますな」
「さよう」
「ならば、さだめしわけあってのことと存ずる。その理由を承りたい」
戸田は眼を障子に逸《そ》らした。広い庭に射しこむ午後の日射しが、障子の下半分を染めている。その明るみの中に、さっきから黒い点のようなものがちらついて見えるのは、軒下を蜂か何かが飛んでいるらしかった。
固肥りで血色のいい戸田の横顔には、幾分|憂鬱《ゆううつ》げな表情が浮かんでいる。だが、達之助に眼をもどすと、戸田はやはり穏やかな口調で言った。
「いかにも、わけを申そう。その前に……」
「………」
「お手前、今度のことでわれら、というよりわしを疑っておるだろうの」
戸田はずばりと言った。達之助は黙って戸田を見つめた。
「当然だ。このたびの執政会議は前例がないほど紛糾しておる。そのなかで、父御の言い分とわしの申すことはとりわけ対立して、一歩も譲らなんだ」
「そのようにうかがっており申す」
「だから、わしが父御を襲わせ、わが政策を通すために除いたと思うか」
「………」
「だが、それはあり得ないことなのだ、牧達之助」
「……?」
達之助の視線を受けとめて、戸田はうなずいた。低い声で戸田は続けた。
「なぜあり得んか、ということだ。論議は紛糾しておるが、最後にはわしも、次席の矢部どのも折れて、父御たちが言う開田策を認める手はずになっておった」
「手はず?」
「さよう。その段取りを知っておるのは、氏家、矢部、わしの三人だけだ。そういう段取りをつけた上で、わしは粕谷の案に反対し、強硬に自説を主張した。わざとしたことだ。父御を除く理由など、あり得ない」
「なぜでござる?」
達之助は茫然《ぼうぜん》と呟《つぶや》いた。父の与市右エ門はそれを知らずに論争し、家に戻っても戸田を非難してやめなかった。なぜ、そんな手のこんだことをする必要があったのか。
戸田は達之助の質問には答えずに、不意に立ちあがると障子を開いて、縁と庭をのぞいた。すると日影が座敷の中まで入りこんで、部屋の中にまぶしい光をまき散らした。それだけで、戸田家の奥座敷は、物音も聞こえず静かだった。戻ってきて坐り直すと、戸田はきびしい表情で達之助を見た。
「これから申すことは、いっさい他言無用だ。よろしいか」
「は」
「お手前も、いずれは組頭として藩政にかかわる日が参ろう。そのときの心得にもなることだから、聞いておくとよい。大倹を布令て百姓をいま少し絞る。財政逼迫はそれで立ち直るというのは、じつは日ごろのお上の持論だ」
「………」
「執政としては、容認しがたい考えじゃな。悪政といったものだ。だがわれらも、正面からそれはまずかろうとは言えなんだ。お上もこうせよとはっきり申されたわけではない。そこでわれらは、今度粕谷がいい案を出してきたのを幸便に、お上の考えならかくもあろうといった案を、執政会議に持ち出したのだ」
戸田たちは、はじめからその案を会議の席上で潰すために持ち出したのである。ただし会議では、その案を立てて揉《も》みに揉む。それで右京太夫の顔も立て、しかし最後には執政会議の決を取るという形で、戸田案を葬り去るつもりだった。右京太夫の考えを、執政会議の権威で押さえるのが目的だった。
「お上は決して暗愚な方ではない。だが、もともと藩が裕福な時代に人となり、苦労を知らぬ。浪費好きで、下情をご存じない」
「………」
「藩の上の方と、高麗屋が結びついて、うまいことをしておるという噂を知っておるかの」
「はい。父から聞いております」
「事実を誤った噂じゃが、誰もそのことには触れたがらぬ。と申すのは、高麗屋は確かに上の方に献金しておるが、それを受け取っているのが、ほかならぬお上だからじゃ」
「………」
「取り次ぎは用人の田村が致しておる。むろん田村は、仏の田村と言われる好人物ゆえ、一両といえども私したりはしておらん。ただお上に命じられるままに、誰にも洩《も》らさず黙って取り次いでいる」
達之助はうつむいた。一種の無力感に捉《とら》えられていた。父の与市右エ門は、錯綜した藩情勢の裏側に踏みこみ、そこで抹殺されたようだった。父を抹殺した者の顔が見えた。
「われらが取調べ中止を命じたわけが、おおよそ掴《つか》めたかの」
「は。相わかり申した」
「父御は、わしが出した案、つまりお上が好まれる立て直し案に反対したばかりでなく、会議の席でお上の機嫌を損じた。それは聞いておるかの」
「いえ」
「数年前、お上は江戸で遊興に溺《おぼ》れられ、藩庫をからにしたことがある。父御はそれを真向から非難したのだ。それが藩疲弊の遠因だとな」
それははじめて聞いた話だった。すると父は、直接にも右京太夫に憎まれる理由があったのだ、と達之助は思った。
「父御の非業《ひごう》の死を耳にしたとき、わしは真先にそのことを考えた。父御は、あのお方の怖さを知らなかったのだの」
「………」
「岩佐に調べさせたのは、ほんの形式じゃった。一応は盗賊の仕業ということも疑わねばならんからの。だが岩佐の調べは、ことごとくある一点を指していた。父御は何も盗《と》られておらぬ。何とか申した召使いは、当て身を喰っただけで斬られてはおらん。しかも、斬り手は、あの闇の中で、正確に一太刀で父御の命を奪って去った。疑う余地はなかったので、それ以上の調べは無用と申したのだ」
「………」
「達之助」
戸田は、達之助を膝が触れ合うほど近くまで招き寄せた。戸田の顔には、強い緊張が現われ、声はほとんど囁きに近くなった。
「あのお方のなされたこと、つまり上意討ちだという確かな証拠がある」
「………」
「お闇討ちということがあるのを知っておるかの」
「………」
達之助は首を振った。はじめて耳にした言葉だった。
「藩の秘事だ。知っておる者は幾人もおらん。お闇討ちは……」
「………」
「先代さまのとき二度、先先代さまのときに一度あったと伝えられている。藩主に私の憤りがつのり、耐え兼ねたときに遣うと申す。表には出せぬ上意討ちじゃな」
「………」
「裏のことゆえ、討手は必ず闇夜に放つ。闇から闇に葬るのが特徴じゃ。あの夜は、わしも牧どのと前後して城をさがったから知っておるが、提灯の明かりも呑まれそうな暗い夜だった。あの夜、お上がお闇討ちの刺客《しかく》を放ったことは、まず間違いがない」
「………」
「お闇討ちの刺客は虎ノ眼という秘剣を遣うそうじゃ」
「虎ノ眼?」
「闇夜ニ剣ヲ振ルウコト白昼ノ如シという秘伝だと、まだ子供のころに父から聞いた。岩佐の調べでは、父御の傷はただ一刀の袈裟《けさ》斬りだったというが、そうかの?」
「さようでござりました」
「岩佐は、一刀で仕とめたところからみて、斬り手はよほどの手練の者に違いないが、それにしても正確な袈裟斬り、存分に斬った傷の深さは、斬り手は闇の中で眼が見えたとしか思えぬ、と申した。岩佐がそう言ったのは、お手前のところの召使いが、提灯の火を消されたと申したからだが、それを聞いたとき、わしは即座にお闇討ちだとわかった」
「何者ですか、その討手は」
達之助は思わず呻くように言った。豊助の知らせで駈けつけたときの、父親の無残な死体を思い出していた。そのときの悲憤が、また強く胸の中に動くのを感じ、戸田のこれまでの話で出口を封じられていた憤りが、いま僅《わず》かな隙間から、その闇の討手にむかって迸《ほとばし》り出たようだった。
戸田は首を振った。戸田は暗い表情を隠していなかった。
「誰がお闇討ちの刺客かは、お上のほかは誰も知らぬことじゃ。藩中にただ一家、そのことを使命として、父から子に虎ノ眼の秘剣を伝える家があると聞くだけじゃ」
「………」
「お上の代になって三十五年、お闇討ちのことはなかった。恐らくその家系が絶えたものとわしは考えていたが、この見方は少少甘かったようだの」
「ご中老はわからんと申されたが、わしはわしで、あくまで調べる。心当たりがまったくないわけではない」
と達之助は言った。それまでも病気がちだった母親の和加は、葬儀のあとずっと床についたきりで、夜の食事は、達之助と志野の二人だけだった。
食事が終り、婢のみねが食器を下げると、達之助はまた食事前の話をむし返した。
「またそのお話ですか」
志野はいやな顔をした。父の死を思い出すのがいやだった。それはすぐにあの日、父の災難を目前にして、男と一刻を過ごしていた自分を責める気持を喚《よ》びおこす。
「もう仕方ないことではありませんか。戸田さまは、はっきりとご上意によって死を賜ったのだ、とおっしゃられたのでしょ? 私の怨《うら》みで斬り合いがあったのとは違いますから」
「そんなことはわかっておる。わしも牧の家の当主だ。お上には怨みがあっても口には出さん。だが父上を斬った奴が、藩中にいて、知らぬふりしているということが許せん。探し出してやる」
「探し出して、どうするおつもりですか」
「口実を設けて、勝負を仕かける」
志野は溜息《ためいき》をついた。達之助の気性の激しさは子供の時分からのものだが、今度も自分の納得がいくまでは、追及をやめないだろうと思ったのである。
「でも、探すといっても、何の手がかりもないのでございましょ?」
達之助は、その夜父と一緒だった豊助を、いろいろに問いつめたのだが、結局何の収穫もなかったのである。豊助は提灯を打ち落とされたあとすぐに、背後から組みつかれ口を塞《ふさ》がれて、あっという間に闇の中を四、五間運ばれた。そしてはじめて抵抗しようと動いた瞬間、強烈な当て身を喰って意識を失った。豊助がおぼえているのはそれだけだった。
「手がかりはあるさ」
達之助は言って腕組みを解くと、ふと意地悪い表情になって志野をみた。
「たとえば、清宮太四郎なども怪しい一人だな」
「あら、なぜですか」
志野はぼんやりと兄を見た。悪い冗談を言うと思った。
「父上を斬った一刀は、左肩からの袈裟斬り。まず、八双の構えから斬ったとみてよい。八双の構えを得意とするのは、城下では空鈍流の浅羽道場しかない」
「………」
「しかも討手は、凡手ではない。傷口をみてひと眼でわかった。太四郎も、浅羽では高弟の一人に数えられている」
「清宮さまは、刺客などといううしろ暗いことをなさる方ではございません」
「それは調べねばわからんな」
達之助は突き放すように言った。それで志野は、兄が本気でそう言っているのだとわかった。
「わしはあの時刻、つまり父上が斬られた五ツ半前後に、父上が倒れていた鷹匠《たかじよう》町の近くに、浅羽道場の者がいなかったかどうか、納得がいくまで調べる」
「………」
志野は、不意に胸が高く動悸《どうき》を搏《う》ってくるのを感じた。料亭朝川を出て、小路を左に行けば酒屋町に行く通りだが、右に行けば鷹匠町の裏通りに出る。
「調べる人間は絞られてくる。そんなに難しいことではない」
「………」
「清宮の家は、四百石も頂いているくせに代代無役だ。上士だから城の勤めもない。何をやってきたかわからんぞ」
「お兄さま、やめて」
志野は思わず立ち上がった。胸の高鳴りに耐えられなくなったのである。さすがに言い過ぎたと思ったらしく口を噤《つぐ》んだ達之助に、志野は坐り直して失礼しますというと、顔をそむけて茶の間を出た。
自分の部屋に入って、志野は行燈《あんどん》をともすと鏡の前に坐った。薄青い鏡面の底に、血の気を失った女の顔が沈んでいる。
──あの方が、まさか。
だがそう思う隙間から、ふくれ上がってくる疑惑があった。清宮太四郎はあの日、確かに父の与市右エ門の下城の時刻を聞き、志野はそれに対して、近頃は毎夜、五ツ(午後八時)から五ツ半(午後九時)ごろと答えている。そのときは、家のことを気にしながら密会している男女の、何気ない会話として気にもとめなかったのだ。だが兄が清宮太四郎について言ったことに重ねてみると、そのときの会話は重要な意味を持ってくるようだった。
──みねを、朝川にやろう。
志野が、太四郎を残して朝川を出たのは七ツ半(午後五時)ごろである。太四郎は酒を飲むと言ったが、そのあと何刻までいて、朝川を出たのは何刻かを、みねをやって確かめねばならない、と志野は思った。
そして太四郎が、もしも五ツから五ツ半までの間に朝川を出ているようであれば、それを兄に言わなければならない。それは同時に清宮太四郎との秘事を告白することになる。それで、あの方との間は、きっとおしまいになるだろう。
──それが、当然のむくいだ。
清宮太四郎が、その夜の刺客であろうとなかろうと、父の死の二刻前に、男の腕の中で狂った娘が受けなければならない、それが罰だと志野は思った。鏡に覆《おお》いをおろすと、志野はみねがいる小部屋に行くために立ち上がった。
半月後、牧達之助は鍛冶《かじ》町にある浅羽道場で、道場主の浅羽喜左エ門と会っていた。達之助は、服部道場の使者として、年に一度服部道場と浅羽道場の間に対抗試合を行ないたいがどうかと、打診に来たのであった。
浅羽は温厚な人物で、服部道場にその意志があるなら、門人と相談して受けるようにしたい、と言った。対抗試合は、うまく運べば両道場の評判を高め、入門者をふやすことになる。
年一回、春の八幡神社の祭礼に奉納試合としてはどうか。選抜五人組の対抗とする。技を磨き親交を深めることを目的とし、試合の結果については遺恨を含まない、などの細部の話も出て、一段落したとき達之助が言った。
「空鈍流には、虎ノ眼と申す秘剣があると聞きましたが、いかようのものですか」
「虎ノ眼?」
浅羽喜左エ門は訝《いぶか》しそうに達之助を見た。喜左エ門は、髪も髭もかがやくばかりに白い老人である。やがて艶《つや》のいい赫《あか》ら顔に微かな笑いをうかべた。
「その秘剣のことを聞かれたのは、お手前が二人目でござる。それがしがこの道場を継いだころ、さよういまから四十年ほど前に、同じことを聞かれたご仁《じん》がおられた。当時のご家老の戸田さま、いまのご中老の父御だが……」
「そのとき何と答えられました?」
「当流にはいま、その言い伝えはござらんとお答えした。ただし昔のことを申し上げた」
「すると、昔はあったものでございますな?」
「さよう。この道場を開いた祖父の甚之助が、その剣を工夫したと申す。しかし何かわけがあったかして、祖父は父にはそれを伝えなんだの」
「戸田どのにお洩らしになった昔のことというのは?」
「ごく切れ切れのことじゃ。父はその剣を受けなんだが、子供のころに祖父に、たとえば闇夜ニ剣ヲ振ルウコト白昼ノ如シとか、その秘剣を習うには、幼児のころから闇の物を見、見えた物にむかって木剣を振るとかいうことを聞いたそうじゃ」
「………」
「暗夜ノ物ヲ見、星ヲ見、マタ物ヲ見ルとも申したそうじゃ。察するに闇夜の斬り合いに勝ちを得る剣じゃの。虎ノ眼と申すもその意味でござろう」
「………」
「昔は夜戦ということがあり、その折り心得としたものを、祖父が工夫を加えて秘剣に仕上げたものと思われる。泰平の世には無用の剣と思い、捨てたかも知れんの」
「すると、その秘剣を伝える者は、いまはおらんのですか」
「おらぬ。祖父一代で滅びた剣でござる」
捨てたのではない。浅羽甚之助は、ひそかに恐らくは彼の門人の一人に、その剣を伝えたのだと達之助は思った。一撃で父を死にいざなったすさまじい剣技の痕《あと》が、その証拠だった。
広い境内の三方が、びっしりと見物の客で埋まっている。大方は家中の武士だったが、その背後の木陰のあたりに立つ町人の姿も、かなりの数にのぼっているようだった。
浅羽、服部両道場の対抗試合は、予想以上の人気を呼んで、すでに三組の試合が終ったところだった。白昼の春の日射しの中に、時おり桜の花が散った。
浅羽道場の席から立ってきた清宮太四郎と礼をかわすと、達之助は構えようとする太四郎を手をあげて制し、木剣を下げたまま近寄った。見物の席がざわめき、判じ役の藩指南役宮坂藤兵衛も何か声をかけてきたが、達之助は無視した。
「今日の試合に、俺と合うとは妙だと思わなかったか」
と達之助は言った。太四郎は無表情に達之助を見返した。
「べつに」
「貴様と合うように、俺が仕組んだのだ」
「ほう」
太四郎は眼を細めた。
「なぜだ」
「貴様は人間の屑《くず》だ」
達之助は激しく言った。
「志野はすべて白状したぞ。嫁入り前の娘を玩《もてあそ》んで、恥ずかしいとは思わんか」
「なるほど。それが縁談をことわってきた本当の理由か。だが納得いかんな。志野どのはそれを承知したのか」
「承知も何もない。父親の仇かも知れぬ男に妹を嫁にはやれん」
「これは驚いた」
清宮太四郎は苦笑した顔になった。
「何か、ほかにも含むところがあるらしいと思っていたが、ひどい思い違いをしているようだな。父御のご不幸に、俺はかかわりはないぞ」
「あの夜の刺客は浅羽道場の者だという証拠がある。そしてあの時刻に、鷹匠町の近くにいたのは貴様しかおらんのだ。貴様が五ツ半前に朝川を出たことは、もう確かめてある」
「それが証拠か。ひどい言いがかりだ。俺はこの試合、辞退する」
太四郎は達之助に顔をむけたまま、後にさがろうとした。このとき見物席が騒然とし、その中から続けざまに鋭い叱咤の声が飛んできた。試合前の奇妙なやりとりを、最初は訝しんで見ていた見物客が、やがて業を煮やして二人を罵倒《ばとう》しはじめたようだった。
達之助の視野に、こちらに歩み寄ってくる宮坂の姿が見えた。達之助は叫んだ。
「立ち合え、清宮。立ち合えば、すべてがわかる」
猛然と達之助は打ち込んだ。逃げる余裕はなく、太四郎も迎え撃った。乾いた木太刀の音が弾け、一合した二人が飛び離れて構えると、境内はひっそりと静まった。
太四郎は八双に構えていた。鉢巻の下の顔は蒼白《そうはく》になっている。
──この構えに間違いはない。
青眼《せいがん》に構えながら、達之助は思った。父を斬ったのは、間違いなく浅羽道場のこの構えだった。だが眼の前の男が、あの夜虎ノ眼の秘剣を使った刺客かどうか、確かな証拠はなかった。
志野は、太四郎がその夜五ツ半前に朝川を出た事実を告げ、ついでに太四郎との密会を告白して、達之助の折檻《せつかん》をうけた。だが達之助が掴んだ事実はそこまでである。その先は模糊《もこ》としてわからなかった。わからなかったが、眼の前にいる男が、もっとも疑わしい人間であることは確かだった。ほかに疑わしい者はいなかった。
──来い、清宮。
達之助は太四郎の打ち込みを待っていた。その打ち込みに、殺意が籠《こも》っていれば、清宮こそ虎ノ眼の刺客なのだと思っていた。虎ノ眼の刺客は藩主の秘事につながっている。正体を知られることはむろん、そうではないかと疑われることすら許されていないはずだった。疑われたら、疑う者を彼は抹殺するしかない。闇の者は、片鱗《へんりん》といえども人に見られてはならないのだ。もし太四郎が刺客であれば、彼は邪魔な追跡者を、公然と始末する場所をあたえられたことになる。木刀試合で、人が死に至る事故は、ままあることなのだ。
同じことは達之助にも言えた。清宮太四郎の木剣に殺意を見たら、そのときは即座に打ち殺す気だった。それが、藩主手飼いの暗殺者を斃《たお》す、唯一の機会なのである。だが、太四郎が、ただ逃げ回るようであれば、彼は刺客ではないかも知れないのだ。
──五分と五分だ。
まだ何とも言えない、と太四郎の構えを見ながら達之助は思った。左足をやや前に踏み出し、右肩に木剣を引きつけた太四郎の構えは隙がなく、太四郎は達之助が考えていたより以上の遣い手のようだった。冷静な眼が達之助を窺っているばかりで、仕かけてくる気配はなかった。
──このままでは引き分けになる。
達之助は小刻みに右に回った。そして不利を承知で、軽く飛びこむと太四郎の左小手を打った。その瞬間、左上方からすさまじい一撃が落ちてきた。
「よし、もっと来い」
この八双からの一撃が、父を斬ったのだと思いながら、達之助は危うく躱《かわ》し、憎悪がこもる短い言葉を投げると、太四郎に襲いかかった。打ち合う木剣が鳴り、はげしく飛び違ってはまた打ち合う凄絶《せいぜつ》な試合となった。
見物席が総立ちになり、判じ役の宮坂が二人を目がけて走った。眼の前の試合がはらんでいる殺気が、いまは誰の眼にもあきらかに見えていた。
──そろそろ二人を呼ばなきゃ。
志野はそう思い、入口を出た。暗い夜だったが空に星があった。庭の隅で、夫と子供の話し声がしている。
兼光周助に嫁して、七年になる。五年前に志野は子を生んだ。いま声がしている息子の誠助である。
兼光の家は、牧家の遠縁にあたる。父の与市右エ門の葬儀があったときにも、寺の門前に野送りに出た程度の遠い血筋だったが、志野は周助の顔は知っていた。家は代代高七十石で、周助は納戸役《なんどやく》を勤めている。温厚な男だった。
この縁談を、兼光の家ではしきりに固辞したが、達之助が強引に押しつけてしまった。達之助は、清宮との縁組みがこわれたあと、どこにも嫁入ろうとしない志野をもてあましていたのである。
兼光の家にきて、しあわせだと思うほどのこともなかったが、べつに不しあわせでもなかった、と志野は自分のことを思うことがあった。周助は寡黙《かもく》で、地味な容貌をもち、勤勉に城勤めに励んでいるだけの男だった。だが子供が生まれ、七年の歳月が流れてみると、そこにはそれなりにひとつの暮らしのまとまりが出来た。その平凡な暮らしに、志野は安らぎを感じることもあった。
清宮太四郎のことは、ほとんど思い出すこともなくなっていた。兄の達之助と、八幡神社の境内の試合で殺し合いのような木剣試合をしたあと、太四郎は間もなく妻を迎えた。それが志野が聞いた太四郎の最後の消息だった。太四郎の記憶には、父の死が絡んでいる。清宮太四郎の遠さは、その呵責《かしやく》のせいだったが、志野はそこまで気づいてはいなかった。時どき、清宮が父を殺した下手人だと、達之助が騒ぎ立てたことを、訝しい気持で思い出すことがある程度だった。その達之助は、太四郎との試合が終ると、急に憑《つ》きものが落ちたようにそのことを口にしなくなった。いまは城勤めに熱中している。志野が嫁入ってからあとに迎えた妻との間に、子供が二人いた。
あれは何だったのだろう、と志野はごく稀《まれ》にぼんやりと当時のことを考えることがあった。だがそれは束《つか》の間《ま》のことで、志野はすぐに日日の暮らしに流される。そのことに不満はなかった。いまも、ほっておけばいつまでも外にいる親子を、家に呼び入れるだけのささいな煩《わずら》わしさが、志野の心を占めているだけだった。
近づいて子供の名を呼ぼうとしたとき、夫の周助の声が聞こえた。
「星を見たか。よし、今度はそこにある石を見ろ。石も、星のようにはっきり見えてくるものだ。そう見えるまで、眼を凝らせ」
はい、父上と言う誠助の声がした。日ごろの無口が、ずいぶん熱心に喋《しやべ》っていること、と志野はおかしくなった。だがそのとき、志野の内部で何かが動いた。
夫が話していることを、前にどこかで聞いたことがある、という気がした。志野は考えこみ、やがて思いあたったとき、思わず声をあげそうになった。それは兄の達之助が浅羽喜左エ門に聞いた話なのだ。浅羽の道場主は、秘剣虎ノ眼の習練の話を、兄に聞かせた。暗夜ノ物ヲ見、星ヲ見、マタ物ヲ見ル……。
夫の声が聞こえた。
「今度はこの草をみる。葉は何枚あるな?」
「八まい」
「よし、だいぶ見えてきた。ではまた眼を星に戻すぞ」
夫のことで、何か見落としていることはなかったかと、志野はあわただしく記憶を手探りした。だが、何もなかった。記憶の中には、平凡な七十石取りの納戸役の姿があるだけだった。
──あれが、何かだったのか。
志野が最後に思い出したのは、兼光の家との間に縁談が持ちあがったころのことだった。その日志野は、家の者には内緒で、狐町のはずれにある兼光の家を訪ねたのである。話があるというと、周助は志野を五間川の土堤に連れ出した。
明るい午後の光の中で、志野は清宮太四郎のことを打明け、この縁談を承知するにしろ、断るにしろ、このことを考えに入れてほしいと頼んだのだった。
周助は黙って聞いていたが、やがて素朴な口調で、それは気にしなくていいことだと言った。そして立ち止まると、そっと志野の手をとった。志野が周助の嫁になることを決めたのはそのときである。
その帰り道で、志野は不意にひゅっという鋭い音を耳にし、同時に眼の前に光るものを見た。はっとのけぞったとき、周助がその光るものを掴んでいたのである。それは竹の矢だった。周助はそのとき、少しこわい顔をして立っていたが、土堤の下から小さな弓を持った少年が現われると、人を射ぬよう、気をつけよ、と言って矢を返した。もう穏やかな笑顔になっていた。
そのとき志野は、子供は危ないことをいたします、と何気なく言っただけだったが、飛んできた矢を掴むということは、何かの習練を積んだ人間でないと、出来ないことではないのか。
「さあ、もう一度こっちの石を見るのだ。これは丸いか、それとも角ばっておるかの」
志野は静かに後じさりして、その声を聞いた。それは親子がただの遊びに耽《ふけ》っている声のようでもあったが、また暗殺者の家系の血を伝える秘儀の声のようでもあった。膨らんでくる疑惑の中に志野は茫然と立ちつくしていた。
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必死剣鳥刺し
執務部屋の中の声が、不意に高くなって、つづいて津田民部の笑い声がした。張りがあり、その張りのために少し気どったふうにもひびく声だった。それに答える右京《うきよう》太夫《だゆう》の低い笑い声も聞こえた。
藩主執務部屋の中の空気はなごやかなようだった。近習頭取《きんじゆとうどり》兼見三左エ門は、その気配を耳を済まして聞いていた。中老の津田が藩主の部屋に入ってから半刻《はんとき》あまり経っている。長い用談だったが、どうやらそれが終ったらしかった。
襖《ふすま》が開いて、津田が出てきた。藩主との用談がうまく運んだ名残りが、津田の表情に出ている。津田は微笑して兼見をみると、近づいてきて無造作に前に坐った。
「今夜、ひまがあるか」
「は」
「少し話がある。こみいった話だ」
津田は小声で言った。微笑が消えて、津田の白皙《はくせき》の顔にわずかに緊張のいろが浮かんでいる。
「それでは、お屋敷に?」
「うむ」
津田は顔をうつむけたが、すぐに決断するように言った。
「早いほうがよい。下城の折りに寄ってくれるか」
「心得ました」
と三左エ門は言った。
津田を部屋の外まで見送って、三左エ門はもとの場所にもどった。隣の部屋から、右京太夫のしわぶきの音がした。
中老の話というのは何だろう、と三左エ門は考えた。それを言ったとき、津田の顔をかすめた微《かす》かな緊張のいろが眼に残っている。あるいは話とは、自分の身分にかかわるものかも知れない、と三左エ門は思った。そう考える理由があった。
兼見三左エ門が近習頭取に挙げられたのは、わずかふた月前である。その前は三左エ門は無役だった。さらにその前は物頭《ものがしら》をつとめた。物頭をつとめていた三年前に、三左エ門は城中で女性を一人刺殺した。その女性が、藩主の愛妾《あいしよう》だったために、三左エ門は役を解かれ、禄を削られて、ふた月前まで逼塞《ひつそく》同様の暮らしを送っていたのである。
三左エ門に刺殺された右京太夫の側妾《そばめ》は、連子《れんこ》という名で、領内で高名な修験者《しゆげんじや》の娘だった。比類ない美貌《びぼう》と才気をあわせて持っていたので、献じる者がいて藩主の側妾になった。連子はたしかに美しく、才はじけた女性だったが、半面側妾にはふさわしくない性癖を持っていたと言わざるを得ない。政治に興味を持ちすぎるたちだったのである。
利口で美しい妾を相手にする酒席で、右京太夫が藩政のうえで思いあぐねていることを口に出す、といったことはあったに違いない。そしてそれについてのべる連子の意見が、案外に適切で、当を得ていたことも事実だったようである。そういうことを、右京太夫は当時なかば自慢顔で、執政たちに洩《も》らしたからである。才色兼備の妾に、右京太夫は溺《おぼ》れていた。
藩主の愛妾の政治好きを、執政たちは咎《とが》めなかった。鷹揚《おうよう》にながめていた。だが連子が自分にあたえられている才気と権力をたのんで、執政たちの意見に苦情をつけ、時にはつぶすようになると、のんきな顔もしていられなくなった。
だが気づいたときには手遅れになっていた。右京太夫がのべる意見や裁断に、あきらかに連子の考えが匂うことがあっても、それが藩主の口を通して言われるとき、さからうことがむつかしかったのである。
明白な失政が表面に出てきた。家中藩士の処分で、二度ばかりあやまった裁断がくだされたと執政たちは感じたし、あるとき領内赤石郡内の村村に暴動が起きかけたのは、執政たちの反対を無視して、その土地のこれまでの検見《けみ》のやり方を改めたためだった。
また藩主家にゆかりがある廃寺が復興されることになり、藩では苦しい財政のなかから、かなりの出費を余儀なくされた。しかし大伽藍《だいがらん》が出来あがってみると、その寺院を宰領する者は連子の血縁の人間だった。そして執政会議が慎重にまとめた城内の倹約令は、いたるところ項目を削られて骨ぬきにされた。
失政のいくつかは、いかにも背後に女の知恵が働いたことを感じさせるものだった。側妾連子が、藩政に口をさしはさんでいることは、ひろく家中に知れわたり、中には美貌の妾が、藩主の執務部屋にまで入りこんでいるように噂《うわさ》する者もいた。
むろんそれは噂にすぎなかったが、そういう噂が出るほど、家中藩士のなかには連子に対する反発と憤りがみなぎっていた。しかし誰も、そのことで藩主に苦言を言おうとする者はいなかった。
ただ一度例外があった。興牧院という例の廃寺を建てなおすために、藩が多大の出費を強《し》いられるとわかったとき、家老の帯屋|隼人正《はやとのしよう》が普請《ふしん》の無用を言い立てて、藩主と争ったことである。帯屋は別家と尊称される家柄で、藩主家とは血縁でつながっている。隼人正は右京太夫の従弟《いとこ》にあたっていた。
隼人正はこのとき、藩財政の窮乏を説き、寺院普請は控えるべきだと言って、はげしく右京太夫と争ったのだが、しかし隼人正にしても、背後の側妾にまで言葉を触れたわけではなかった。
執政たちも沈黙していた。連子は利発で愛くるしい女だった。その藩主の思い者の政治道楽が、いまは笑いごとで済まなくなったのを感じていたが、かりに藩主のおもてを冒《おか》して苦言を言っても、それで連子がのぞかれ、言った当人が無傷で済むとは考えられなかった。時期を待つしかあるまい、と彼らは囁《ささや》き合った。だがその時期がいつくるかは、誰にもわからなかった。
藩政に少しずつ歪《ゆが》みがあらわれ、それは誰の眼にも見えた。城中の空気は重苦しくなった。物頭の職にいた兼見三左エ門が、連子を刺殺したのはそういう時期だった。
本丸の庭に春楽殿と呼ばれる能舞台がある。右京太夫は能を好んだ。自分も舞い、年に二度江戸から能役者を招く凝《こ》りようだった。
その年の春も江戸の能役者が来て、奥御殿の女性たちも能を観た。終ったのは七ツ(午後四時)すぎだった。本丸の建物と能舞台は橋廊下でつながれている。兼見三左エ門は、本丸側の橋廊下の入口に坐っていた。
能を観おわった人びとが、帰ってくるのを、三左エ門は膝《ひざ》に眼を落として迎えた。藩主、執政の重臣たちが通りすぎ、続いて奥御殿の女性たちがやってきた。女たちは色あざやかに着かざっていた。橋廊下のそばまで、満開の桜が枝をさしのべていて、女たちは絵巻物の中の人物のように動いていた。
不意に三左エ門は立ち上がると、女たちの中から抜き上げるように、連子を掴《つか》みあげていた。三左エ門は六尺近い大男である。鷹《たか》が雀を襲ったように見えた。じっさいに小柄な連子の身体《からだ》は、肩を掴まれたまま五寸あまりも橋板から浮きあがった。そのときには、三左エ門の小刀はすばやく連子の胸を貫いていたのである。
悲鳴をあげて女たちが散ったあとに、三左エ門は静かに連子の死体を横たえると、走り寄る藩士たちには眼もくれず、ゆっくり本丸の建物の中に姿を消した。
それが三年前のことである。三左エ門は極刑を覚悟していた。藩主の愛妾を刺殺したのである。切腹は当然だが、悪くすると斬首、藩主の憎しみが深ければ縛り首の刑もあるかも知れないと思っていた。考えぬいた末にやったことであり、どのような処分でも甘んじて受けるつもりだった。
だがもたらされた処分は、意外に寛大だったのである。一年の閉門と、二百八十石の禄を百三十石に減らし、役を召しあげる。それだけだった。
三左エ門は意外だった。意外ではすまない、どこか腑《ふ》に落ちない気分が残った。
三左エ門の脳裏には、自分が刺し殺した一人の女の顔がある。出すぎた女だったが、女本人がそれほどの悪人だったかどうかはわからなかった。ただあきらかに藩の禍《わざわい》の根だったから一挙に刈り取ったのだ。そうすべきだとみんなが思いながらしなかったことをやっただけで、刺し殺したことに悔いはなかった。
だが、女に対する憐《あわれ》みの気持が残った。肩をつかまれたとき、女は驚愕《きようがく》の眼で三左エ門をふり仰いだ。若い女だった。そしてそういう表情さえ醜くない女だった。可憐《かれん》なものを刺してしまったという気がした。その憐みのために、三左エ門は女と刺し違えるならそれで十分だと思っていたのである。
まして女を刺したということは、藩主に対する痛烈な批判を含んでいる。閉門ではなく、切腹が妥当だという気持は動かなかった。一年の閉門が解けたあとも、三左エ門が屋敷に逼塞していたのは、どこかに、自分がしたことに似つかわしい正式な処分が、まだ終っていないという感じがあったからである。
だがふた月前になって三左エ門に、禄高を旧にもどし、近習頭取に命じるという沙汰《さた》がもたらされた。その知らせを持ってきたのは中老の津田民部だった。
「いまだに親族とまじわりを断ち、客をことわっているそうではないか」
とそのとき民部は言った。
「われわれも日ごろ感心していたことだが、おぬしのそういう殊勝な心がけが、お上《かみ》はたいそうお気に召された模様だ。兼見をこのまま埋もれさせてはならんと申されたぞ」
「せっかくながら、それがしはお上に非礼を働いて処分を受けた者。おそば近くにつかえるということは、ちと憚《はばか》りがあります」
三左エ門は辞退した。人にほめられるために逼塞しているのではなかった。そして藩主の愛妾を刺したのは、自分だけの孤独な信念にしたがっただけで、そのことを手柄に藩中にときめくなどという気持はまったくなかったのだ。
「そのことなら心配はいらん」
民部は三左エ門の言葉を、遠慮していると受け取ったようだった。
「お上は、以前のことを悔いておられる。女子の申すことを藩政に持ちこんだのは間違っておったと、ひそかにわしに洩らされたほどでな。おぬしがしたことをお怒りになってはおらん」
「………」
「お上ははやくそのことに気づかれた。おぬしの処分を閉門にとどめ得たのも、じつを申すとお上の寛大にというお指図があったためじゃ」
ことわっては、お上の心遣いをふみにじることになるぞ、と民部は言った。仕方なく三左エ門は沙汰をうけた。そして近習頭取として右京太夫のそば近くに勤めることになって、ふた月経っている。
だがその職場は、三左エ門にとって居心地よいものではなかった。津田民部がああ言い、初めて出仕した日、右京太夫も既往にこだわりなく勤めよと言ったにもかかわらず、右京太夫の態度に、どこか底冷たいものが感じられたからである。
そしてそれがただの感じだけでないことが、十日ほど前にはっきりした。用があって境の襖をあけてかしこまった三左エ門に、いきなり右京太夫の怒声が落ちてきた。
「いちいちわしの前に、そのしゃっ面《つら》をさし出すな」
三左エ門が顔をあげると、机にむかったまま、斜めにこちらを振りむいている右京太夫の顔が眼に入った。癇走《かんばし》った顔をしている。三左エ門はなにを言われたのかわからなかった。すると右京太夫が苛《いら》だったように言った。
「今後、多少のことは襖ごしに申せと言っておる。いちいち顔を出すにはおよばん」
「は」
「わからんか。その方の顔は、眺めて気味のよい顔とは言えん。見ているとだんだんに腹が立つ」
「お上、それがしの職をお解きください」
三左エ門はとっさにそう言った。三左エ門は醜貌の持主である。顔色は黒く、額がややつき出て、鬢《びん》の毛ははげ上がっていた。その黒い顔に細い眼が吊り上がり、唇は厚く大きい。その顔が、六尺近い巨躯の上に載っていると、それなりに釣合いがとれて見えるのだが、近くでまともに顔をあわせると、三左エ門の顔は性質の荒い大魚のような感じをあたえる。
三左エ門は自分の醜貌を承知していた。顔のことを言われては、この職務は勤まらないと思った。
「兼見、思い違いするな」
しばらく睨《にら》みあうように眼をあわせたあとで、右京太夫はぷいと顔をそむけて言った。癇癖が通りすぎたらしく、普通の声音《こわね》にもどっていた。
「頭取としてのその方の仕事ぶりに、不満はないぞ。よくやっておる。職変えはならん。ただし、申したようにいたせ」
以来三左エ門は、襖ごしに人を取りついだり、用件をのべたりしている。藩主の細かい用は、むろん近習にやらせ、自分は執務部屋に入らないように気を遣った。
──だが、そんなことがいつまでも続くはずはない。
三左エ門はそう思っていた。言ったように顔が気にいらないためか、それとも死んだ側妾のことを心に含んでいるのかはわからないが、とにかくお上はおれが頭取職にいることがお気に召さないのだ。
──中老の用件は、多分そういうことだろう。
その日の夕刻、城をさがって濠《ほり》ばたを津田の屋敷に向かいながら、三左エ門はまたそう思った。
濠ばたを、西に曲ったとき赤らんだ晩春の日ざしが、真正面から三左エ門を照らした。三左エ門は眼を細めてゆっくり巨躯を運んだ。職を解かれることに、なんの不満も持っていなかった。
津田民部は簡単な酒肴《しゆこう》の支度をととのえて待っていた。そして三左エ門を座敷に入れると、すぐに家士に人払いを命じた。
「やりにくいだろう」
ま、飲みながら話そうと、気さくに三左エ門に銚子をむけながら、津田は笑った。津田はまだ三十四で、三左エ門より七つも年下だが、父の奥太夫の後を襲って三十のとき中老職にのぼった切れ者だった。筆頭家老の矢部孫千代と組んで、執政会議を切りまわしていると言われるが、その奥にもうひとつ、おとなしい矢部は、津田にあやつられているに過ぎないという噂もあった。どちらにしても、津田が藩政を左右している実力者であることに変りはなかった。
津田は袴《はかま》も取って、着流しでくつろいでいた。津田は端正な風貌と中背《ちゆうぜい》ながらひきしまった身体をしている。奥御殿の女中の中には、津田にひそかに岡惚れしている者もいると噂があるほどで、着流し姿さえどことなく垢抜《あかぬ》けして見える。
「相変らず、襖の外からものを言っておるわけだの」
津田はくすくす笑った。三左エ門は苦笑して、盃を戴《いただ》くと飲み干した。
「気にすることはないぞ、兼見。お上はわがままな方で、思いついたことをふっと口にする悪いくせがある。あとで後悔なさるのだがの」
「しかし顔を見たくないと仰せられては、頭取のお役はちと無理かと存じます」
三左エ門は盃をおいて、津田が話を切り出しやすいように水をむけた。
「しかるべき人物がおりますれば、それがしはいつでもお役をしりぞきたいと考えています」
「ははあ、そういう話で呼んだと思ったな」
津田は自分も酒を飲み、三左エ門に、手酌でやれとすすめた。
「そういう話なら、この屋敷に呼ぶまでもない。城中で談合してすむことだ」
「………」
「今日の話は、そのことにはかかわりがない。いやまて、大いにかかわりがあるというべきかな」
「………」
「顔を見たかろうが見たくなかろうが、近習頭取は兼見でないと勤まらん。そういう事情がある。それがいよいよはっきりしたので、こうして来てもらっておる」
「どういうことか、さっぱり腑に落ちかねますが」
三左エ門の怪訝《けげん》な顔にかまわずに、津田はにこやかに微笑のまま言った。
「兼見は天心独名流と申す剣の達人だそうだの」
「いや、達人というのはいささか」
「隠さんでもよい。そのことはほかの者からよく聞いている」
と津田は言った。
城下に天心独名流を教える道場があったのは十五年ほど前までである。道場主の蜂谷玄斎が死んで道場は絶えたが、一時は城下でもっとも人気をあつめた。そして晩年の玄斎に技倆《ぎりよう》神に入ると折紙をつけられたのが、当時二十半ばだった兼見三左エ門だったのである。
「古いことを申される」
三左エ門は赤面して言った。
「はて。古いことでも剣技が衰えたということではあるまい」
津田は微笑を消していた。測るように三左エ門を見まもりながら、答を待っている。
「ひさしく木剣も振っていませんので、あるいは腕が落ちたかも知れません」
「鳥刺しという秘伝があるそうではないか。必勝の技だと聞いたぞ」
「鳥刺し……」
三左エ門は、口に運びかけた盃をおいた。津田を見返した細い眼に、わずかに光が加わったようだった。
「いかにもござります。ただし流儀の秘伝ではなく、それがしが工夫し、かりにそう名づけた剣でござります」
「なるほど納得がいった。その剣を遣う者は兼見三左エ門ひとりで、しかも今日まで誰も見たことがない、と言われておると聞いたのはそういうわけか」
「よくお調べでございますな」
と三左エ門は言った。
「むろん必要があって調べた。だがひとつわからんことがある」
「………」
「鳥刺しという技は、別の名を必死剣と呼ぶそうだが、これはどういう意味かの?」
「絶体絶命のときにのみ使いますので、そのように名づけてあります。もっとも、それがしも工夫いたしましたままで、そういう剣でござりますゆえ、実地に遣ったことはござりません」
「ほほう」
「思うにその剣を遣う者は、つまりはそれがしですが、剣を遣うときは半ば死んでおりましょう」
「半ば死んでおる? 剣客という者は、不思議なことを申すものだ」
津田は微笑した。
「それでも必勝の技に違いないのだな」
「むろんです」
三左エ門はきっぱりと言った。三左エ門は盃に手をのばした。その手を不意におさえて、津田が囁いた。
「それを聞いて安心したぞ。おぬしを近習頭取にすすめたのはこのわしだが、わしの眼に狂いはなかったようだ」
「………」
「ある人物がお上を襲うかも知れんという心配が出てきたのだ。おぬしなら防げるだろうとわしは考えた。必勝の剣を、お上のために役立てろ、兼見」
「その剣を遣う必要がある相手ということですかな」
「多分そうだ。なまじの腕では防げん。そういえば、おぬしにも見当がつくかも知れんが、相手は直心《じきしん》流を遣って名手と言われている人物だ」
「まさか」
と兼見三左エ門は言った。痩躯《そうく》、そして美しい鬚《ひげ》をたくわえた人物の姿がうかんできたが、それはあまりに思いがけない人だった。だが藩中で直心流の剣で知られるのは、その人しかいない。
津田は高く腕を組むと、ゆっくりとうなずいてみせた。
「さよう。帯屋隼人正さまだ」
「まさか」
三左エ門はもう一度言って、茫然《ぼうぜん》と津田を見つめた。
「おじさま」
縁側で里尾《りお》の声がしたので、三左エ門は木剣の素振りをやめて振りむいた。秋のように澄んだ光が、庭も家も照らしていて、里尾の姿もその光の中に浮かんでいた。
「お風呂です」
「おお」
三左エ門は石の上に置いた皮袋に木剣をおさめて、縁側にむかった。
「里尾が湯をわかしたか」
「はい」
「それはすまなんだ」
と三左エ門は言った。いつもは婆さん女中のはなが湯を沸かすのだが、市内の実家に用があって泊りがけで出かけていた。ほかに多平という四十半ばの若党がいるが、多平は通いで日暮には家に帰る。
門戸は開いたが、三左エ門の屋敷は、逼塞していたころとあまり変りなく質素だった。物頭をしていたときは、ほかに中間《ちゆうげん》一人、若い女中一人を置いていたのだ。そのころからの雇人は、はな一人で、多平は近習頭取で出仕が決まってから雇った男である。
──里尾に、あの返事をまだ聞いておらんな。
裸を湯船に浸け、ゆったりと手足をのばしながら、三左エ門はそう思った。近習頭取という役が、ただの役でないことを津田中老に聞いてから、緊張した日日が続いている。その緊張の中で、三左エ門は姪《めい》の里尾に申しこまれている縁談のことを、すっかり忘れていたようだった。
里尾は亡妻の姪で、一度家中の者に嫁《とつ》いだが、不縁になって戻されてきた娘だった。そのときには、里尾の実家は両親が死んで弟の代になっていたので、里尾はかなり肩身狭い思いをしたらしかった。
亡妻の睦江《むつえ》が死病に取りつかれて寝こんだのは、里尾が嫁ぎ先から戻されて半年ほど経ったころであった。里尾は自分の一存で看病にきた。子供のころに母親に死に別れたせいもあってか、里尾は叔母《おば》の睦江を慕って、よく兼見の家に出入りしていたのである。
里尾は自分も痩《や》せほそるほど、献身的に睦江を看病したが、やがて睦江が死ぬと、そのまま三左エ門の屋敷の家事をみてきた。弟夫婦がいる実家に帰る気は、まったくないように見えた。そして実家でもそのことについて、何も言わなかった。
里尾と実家とのそういう行き違いは、多分に里尾の性格に原因がある、と三左エ門は観察していた。里尾は無口で、性格にかたくななところがある。三左エ門はそういう姪があわれだった。嫁ぎ先にも、実家にも坐る場所を持たなかった姪が、どうやらこの家の中に坐る場所を見つけたらしいと思ったのである。それで三左エ門も黙っていた。
だが、ああいう事件があって、三左エ門が逼塞した暮らしに入ったころから、三左エ門は里尾が、兼見の家にとってなくてはならない人間になっていることに気づいたのであった。
兼見三左エ門の境遇が変ると、雇人たちは三左エ門が言い出すのを待っていたように暇をとって去った。残ったのは婆さん女中のはなと里尾だけだった。はなは三十年以上も兼見の家に勤めている女だったが、もう六十を過ぎていて、仕事といえば台所仕事ぐらいしか出来なくなっていた。その水仕事さえ、時どき怠ける。はなが居残っているのは、三左エ門に対する忠義立てというよりも、ほかに行きどころもなくて、兼見家の台所にうずくまっているようなものだった。
だが、里尾がいるために、三左エ門は暮らしに何の不自由も不安も感じなかったのである。里尾は、叔父とろくに言葉をかわすこともない日があるほど無口だったが、家の中の見るべきところを見、やるべきことを手落ちなくやっていた。三左エ門は、ほとんど里尾によりかかって生きて来たと言ってよい。閉門につづく逼塞の暮らしは、異常でないと言えば嘘になるが、その中に静謐《せいひつ》で好もしい日が含まれていたことも確かだったのである。そして五年経っている。
──里尾は二十六になる。
三左エ門は、近ごろ時どきそう考えて狼狽《ろうばい》することがあった。うろたえる気持の底に、里尾も、里尾の実家も黙っているのをいいことに、平気で里尾の娘ざかりを喰いつぶしてきた慚愧《ざんき》の気持がふくまれている。
近習頭取になるとすぐに、三左エ門はもと同じ物頭で、いまは隠居している保科《ほしな》十内をたずねて、里尾の縁談を頼みこんだ。実家とは他人同様になっている里尾を、しかるべき家に嫁入らせるのはおれの責任だ、と三左エ門は思っていた。むろん全部自分が支度して出すつもりだった。
保科に頼みこんだとき、三左エ門は後妻の口でもよい、と言っている。そう言ったのは、出戻りで二十六にもなった女に、若い男は食指が動くまいと思ったのだが、その自分の言葉に、ちくりと胸が痛んだのも事実だった。
十人なみ以上の容貌を持ち、家事の切り回しも上手な里尾を縁遠くしたのは、ほかでもないこのおれだという気持があったからである。その慚愧の気持分だけ、三左エ門の依頼は熱を帯びた。
そのせいかどうか、間もなく保科からいい知らせがあった。百石で、普請組に勤める牧藤兵衛が、一度会ってみたいと言っているという知らせだった。牧は組頭の牧与市右エ門の一族で、年は三十になっているが初婚だという。
五日前に、保科は牧を同道して三左エ門の屋敷を訪れている。三左エ門は牧を見るのははじめてだったが、普請組勤めらしく、日焼けした素朴な風貌に好感を持った。里尾はそのとき、三左エ門に言いふくめられて、客の前に出ているが、牧をどう思ったかはわからない。
──今夜にも、里尾の考えを聞かないといかんな。
三左エ門は湯船を出て、流し場に降りながらそう思った。牧の話は、最初の見こみから言えば、望外の良縁といえた。それを城勤めの緊張にまぎれて、無策のまま数日過ごしたことが悔まれた。
三左エ門が身体を洗っていると、人の気配がして、戸が開くと襷《たすき》をかけ、裾をからげた里尾が入ってきた。
「お背中を」
「すまんな」
と言って三左エ門は、大きな背をむけたが、ふと気づいて言った。
「そなたが背中を洗ってくれるのが、あまりに心地よくてつい甘えておったが、今夜かぎりじゃな。今後は無用にいたせ」
「なぜでございますか」
三左エ門の背に、静かに湯をかけながら、里尾が言った。
「いまの縁談がまとまれば、そなたは嫁に行く身じゃ。家の者とは言え、男の背など洗ってはならん」
あれは、いつだったかな、と三左エ門は思った。そしてすぐに、閉門が解けた日だったと思い出していた。
その日、三左エ門は一年ぶりに湯を沸かさせ、風呂に浸った。閉門の間も、時どき水で身体をふいていたのに、風呂に入って洗いにかかると、皮膚が一枚むけるかと思うほど、垢が出た。途中で里尾が入ってきて、背中の垢を取ってくれたが、三左エ門はこばまなかった。それからだ、里尾が時どき背中を流してくれるようになったのは。
「そなた、牧藤兵衛をどう思ったな」
「………」
「実直そうな男ではないか。わしはああいう人間は信用おけると思うぞ。口軽く、才はじけて見える男は好かぬ」
「………」
「どうだ? 牧をどう見た?」
三左エ門は、里尾が背中をこすりやすいように背をまるめながら、返事を催促したが、里尾はせっせと手拭《てぬぐ》いを握った手を動かしているだけで、答えなかった。
「そなたには相談もせなんだが、わしは保科に、後添いの口でもかまわぬと頼みこんだのだ。ところが牧という男がいた。もう三十で、嫁取りが少少遅れているが、格別の仔細《しさい》はないらしい。二、三話はあったが、うまくまとまらずにのびのびになっていたということじゃ。めっけものの相手、とわしは思っているがの」
「おじさま。今夜はよくお喋《しやべ》りになりますこと」
「茶化さずに聞け」
三左エ門は首をねじって肩ごしに里尾をにらんだ。
「そなたも、もはや二十六だ。この家に長く居すぎた。そなたが世話してくれるのを重宝にしていたわしが悪かったが、このままでは婚期を失ってしまうと、やっと気づいた。さいわいに、牧はそなたが気に入った模様だと、保科から返事がきている。どうかな? 里尾の考えを言え」
「私は」
里尾は背中をこする手を休めずに言った。
「嫁になど、行きたくはございません」
「ばかを申せ」
三左エ門は大きな声を出した。
「女子は嫁に行き、さだまる夫を持たねば、しあわせにはなれん」
「でも」
里尾は小声で言った。
「私は嫁に行きましたが、しあわせではありませんでした」
三左エ門は言葉につまって黙った。それから大きなため息をついた。理由を聞いたことはないが、里尾は婚家で虐待されたのだ、と三左エ門は思っている。
里尾は嫁入る前にも、兼見の家に時どき遊びにきていたが、そのころは、はしたないほど笑い声をたて、性格の明るい娘だったのだ。だが、不縁になって家に戻り、間もなく睦江の看病にあらわれたとき、里尾は明るさを失い、どこかにかたくなな感じを秘めた女に変っていたのである。
「さればと申して、この家にこのまま置くわけにはいかん。睦江は子を生まなんだから、はやく本家の末子を養子にする約束をしておる。そちらを取り消してそなたを養子になおし、婿をもらうというわけにもいかんのだ」
「………」
「それに、わしに万一のことがあった場合、そなたは実家にもどらねばならんが、弟の厄介になるのは気が染まんのだろう。嫁に行くしかないぞ、里尾」
そう言ったのは、いつか藩主を襲ってくるかも知れないという、帯屋隼人正のことを考えながら言ったことだったが、里尾にどこまで気持が通じたかはわからなかった。
はたして里尾は言った。
「つまり、私がいては迷惑なのですか」
「わからんやつだな」
と三左エ門は言った。
「もう少し利口な女子かと思っていたが、これは眼鏡違いだったか。迷惑などとは言っておらん。そなたが居なくなれば、明日からでも早速困る。だが、そなたの今後を考えれば、このままには捨ておけんと言っている」
「それならば、このまま置いてください」
背を洗う手をとめて、里尾が囁くように言っていた。不意に三左エ門は、濡《ぬ》れた背に、熱い頬《ほお》が押しつけられるのを感じた。手拭いを取りおとし、里尾はわななく指で三左エ門の肩を掴んでいた。
「おじさまの、おそばにいたいのです。いつまでも」
湯殿の戸を開いたまま、里尾が奔《はし》り去ったあとに、三左エ門は茫然と裸の膝をかかえてうずくまっていた。
部屋にもどって床に入ったが、三左エ門は闇《やみ》の中に眼を開いていた。
──そうか。やはり無理だったか。
ぼんやりとそう思っていた。里尾との暮らしの中で、叔父と姪という一線が失われたかも知れないと思うことは、これまでもたびたびあったのだ。だが三左エ門はそのことに気づかないふりをしてきただけである。
だが今夜、里尾はその虚偽をみじんに砕いてしまったようだった。里尾は叔父と姪といっているつながりが、ただの義理のきずなに過ぎず、そのきずなを切ってしまえば、男と女がいるだけだと、口に出して言ってしまったのだ。
──誰にもわからぬ。
里尾の思いがけない行為で、荒荒しく眼ざめさせられたものが、三左エ門をそそのかしていた。視野を埋めて、女でしかない里尾が立っていて、ほかのものは見えなくなっていた。一人の女が、湯殿から帰ってくる気配を三左エ門は聞いた。しのびやかな足音が、部屋の外の廊下を踏んで通りすぎ、やがて奥の部屋で、かちりと襖がしまる音がした。三左エ門は静かに夜具を押しのけて立ちあがった。
翌朝、飯を喰い終ると、三左エ門は片づけに立とうとする里尾をとめて、座敷に来いと言った。坐るとすぐに三左エ門は言った。
「鶴羽村に知り合いの家がある。手紙を書くゆえ、それを持ってそこへ行け」
「………」
里尾は顔をあげた。血のいろを刷《は》いていた頬が、さっと青ざめたようだった。それでも里尾は美しかった。ただ一夜で、里尾は魅惑に満ちた女に変っていた。眼はいきいきと光り、小さくひきしまった唇が濡れている。
「それとも秋野の家にもどるか」
「いえ」
里尾は首を振った。秋野は里尾の実家である。
「おっしゃるとおりにいたします」
「よし」
三左エ門は表情をやわらげた。噛《か》んでふくめるように言った。
「なぜ、こうするかはわかるな。このまま一緒に住めば、二人ともに地獄に落ちるぞ。しばらくは鶴羽村に隠れているのだ」
「いつまででございますか」
「わからん。時期がくれば迎えに行く」
里尾は三左エ門から眼をそらした。うつろな表情をかくさずに呟《つぶや》くように言った。
「私がいなくなったら、おじさまの面倒を、誰がみますか」
「里尾どのは、まだおもどりになりませんか」
坐るとすぐに牧藤兵衛は言った。
「それが、まだでござっての。帰るまでもう半月もかかろうと、先日手紙が参った」
里尾は、隣国にいる兼見の親戚《しんせき》が病気になったのを見舞いかたがた看病に行っている、と三左エ門は牧にも口ききの保科にも言いわけしていた。
むろん里尾が乗り気でないので、と牧との縁談はやわらかくことわりを言ってある。義理の間柄とはいえ、叔父と姪の間に道ならぬことがあった以上、すすめられる縁談ではなかった。
だが牧は、一度里尾に会って、直接談合してみたいと言い、容易にあきらめる気配がないのだ。そして時どき三左エ門の家をのぞきにくる。三左エ門には、保科をおがむようにして頼みこんだ縁談だという弱味があった。牧が来るのを強くこばむことも出来ず困惑していた。引きのばしている間に牧があきらめてくれればいい、と祈るばかりである。
「遅うござりますな」
と、牧はあきらめきれないように言った。里尾を、よほど気にいっている様子だった。
「帰ってまいっても、まず脈はござらんぞ。案外にわがままな娘での」
「いや、構いません」
牧はあくまで生まじめな口調で言った。
「一度本人の真意をたずね、またそれがしの言い分も聞いて頂き、その上でことわりを頂くようであれば、それがしも武士。そのときはきっぱりとあきらめ申す」
三左エ門はひそかにため息をついた。本来なら好もしいはずの、この男の愚直さを、三左エ門はもてあましていた。
いっそ里尾を呼びもどして、一度牧に会わせ、ことわりを言わせるかとも思うが、三左エ門はその決心がつきかねていた。里尾を呼びもどせば、またあのようなことがあるに違いない。そのことを三左エ門は恐れていた。翌日すぐに里尾を鶴羽村に発《た》たせたのも、この恐れのためにほかならない。三左エ門には、あの夜、おぼろな闇の中に匂い、愛撫にこたえてとめどなくしなった女体の感覚が生なましく残っていた。
その記憶と、眼の前の男をあざむいている罪の意識に責められて、三左エ門は弱気な言葉を口に出した。
「また、様子を見にござれ。そのうちにはもどってまいろう」
その言葉に安心したらしく、牧はようやく話を変えた。
「お上とご別家との間が険悪という噂を聞きましたが、まことですか」
「はて」
三左エ門は、牧を眺めながら慎重に言葉をえらんで言った。
「不仲という噂はあったが、さほど険悪とは聞いておらんがの。誰がそう申したかの?」
「本家の与市右エ門にちらと聞いたことでござりますが、お上はご別家の帯屋さまを取りつぶして、五千石をお手もとにお納めになるお考えがあり、それを察知された帯屋さまが、右京太夫にその考えがあるなら、わしにはわしの所存があるとお怒りになっているとか」
「ほほう」
「本家は、帯屋さまはお上を、右京と呼び捨てになされたそうだ、と驚いておりましたゆえ、なにかそのようなことがあったのかと思いまして」
「いや、わしは聞いておらんな」
と三左エ門は言った。牧が本家と言っているのは組頭の牧与市右エ門のことである。人脈から言うと、牧は家老の氏家|内蔵助《くらのすけ》につながっており、いまは筆頭家老を勤める矢部、中老の津田とは対立する立場にある。
──いろいろな噂が出ているらしい。
と思った。三左エ門が津田から聞いた話は違っている。津田の話によると、気性のはげしい帯屋隼人正は多年右京太夫の失政を非難し、藩の財政困難は右京太夫に原因があると言い続けてきたが、江戸にいる世子の和泉守《いずみのかみ》が、ことごとに父の右京太夫と意見が合わないのに眼をつけ、早くも手を結んでいるのである。そして機を見て右京太夫に隠居をすすめ、聞かれねば刺しても右京太夫をしりぞけて、和泉守を藩主に直す腹を決めているというのであった。
そして帯屋のその陰謀には、じつは裏があり、病弱で、三十を過ぎてまだ子がいない和泉守が、藩主の激務にたえられずに倒れたような場合、帯屋は自分の弟を藩主にたてる深謀をめぐらせているのだ。津田はそう言った。
だが牧の話もありそうなことだった。むしろ津田の話よりわかりやすかった。財政困難に苦しんでいる七万石の海坂《うなさか》藩にとって、領内でもっとも地味豊かな赤石郡内に、五千石の知行を持つ無勤の家老は無用の長物といえた。そして帯屋家をつぶそうとしたことは、先代の藩主の時にもあったことだった。
帯屋家は、もともと赤石郡内に領地を持つ土豪だった。海坂藩主が、封《ほう》じられてこの土地に来たとき、召し出されて五千石という破格の知行をゆるされ、家老を勤めたが、それは新藩主の施策のひとつひとつに手ごわくあらがう赤石の百姓を手なずける懐柔策のひとつだった。初代海坂藩主は、そのために帯屋家と縁組みまで結んだので、赤石郡内は眼に見えて鎮《しず》まったのであった。
だが一方で藩主家は、たとえば帯屋家の勢いをそぎ、政治的に無力化することも忘れなかった。途中から家格は家老職にとどめたまま無勤にしたのもそれであり、また帯屋家の血筋が薄くなったとき、すかさず時の藩主の血縁の者を送りこんで、帯屋家を継がせたのも、名目は名家の保存だが、中味は藩主家による帯屋家の乗取りと言ってよかった。
そうしながらも帯屋を絶やさなかったのは、帯屋の家名は、赤石郡内では依然として重く、そこを押さえておくことが、赤石郡内だけでなく領内を平穏に保つのに都合がよかったからである。
だが不思議なことに、藩主家を出て帯屋の家系を継ぐものは、たいていは時の藩主のもっとも痛烈な批判者となり、時には反逆をくわだてたりした。帯屋という古い家名が、彼らをそのように変えるようであった。藩ではそのたびに帯屋家の古い血を淘汰《とうた》し、藩主家の新しい血を送りこむことを繰り返してきた。
藩主右京太夫の叔父である人物も、そのようにして五十年ほど帯屋家を継いだが、その子の隼人正は、やはりいまもっとも激しい藩政の批判者だった。
隼人正は若いころ、飄然《ひようぜん》と江戸に出て、十年ほど直心流を修行して帰った剣士だった。館《やかた》と呼ばれる赤石郡石滑村の屋敷をめったに出ることがなく、神秘的な噂に包まれている人物だった。妻を持たなかったが、屋敷には少女のように若い妾が十人もいると言われたり、逆に四十六になるいまも独り身で女を近づけないという噂が流れたりする。長い間ひと間に閉じこもったと思うと、屋敷の者にも告げずに山に入り、十日も二十日も降りて来ないとも言われた。
中背、痩身で胸もとまで垂れる漆黒の鬚をたくわえた隼人正を、三左エ門も二度ばかり城中で見かけたことがある。
──また帯屋の家系を淘汰する時期がおとずれたのかも知れぬ。
そして右京太夫が、今度は帯屋家に人を送るまいと考えても不思議はない。牧藤兵衛の話を聞きながら、三左エ門はそう思った。だが、その感想を、牧には言う気はなかった。三左エ門はおだやかに言った。
「そういうことがあるかも知れんが、人には言いふらさぬほうがよろしい」
牧を帰したあと、三左エ門は腕組みをして、少し考えにふけった。だが、すぐに小さくうなずいた。どの話が真実かはわからないが、おれは藩主を襲ってきた者を防げばいいのだ、と思ったのである。
三左エ門は、立って縁側に出た。梅雨《つゆ》に入ろうとする時期の、うるんだような光が、庭の木や草を包んでいた。日は雲にかくれたままだった。庭は草がのびて荒れてみえた。里尾がいたら、こうはしておかなかっただろう、と思った。
──帯屋隼人正を斬ったら、また閉門になるのか。
ふとそう思った。主命であるから、腹は切らずにすむだろう。だが、別家の当主を斬ったということで、たとえ名目上にしろ謹慎処分ぐらいはあるに違いない。そうなれば、里尾を呼び返して、前のように世間とまじわりを断って、ひっそりと暮らすことが出来るのか、と三左エ門は思った。
だが、噂のように帯屋隼人正がくるかどうかはわからなかった。そして帯屋がきた場合、斬りあって勝てるかどうかも、わからないことだった。
「村井、光岡」
呼んだが返事がなかった。三左エ門は立って、隣の近習詰所の襖の前まで行ったが、不意にそこで立ち止まった。そのときには、襖の外に異変を感じとっていた。
三左エ門は襖にむいたまま、静かに部屋の中を後にさがり、さがりながら刀の鯉口《こいぐち》を切り、肩衣《かたぎぬ》をはねた。
「いかがした、兼見。誰かをよこさんか」
執務部屋の中で、右京太夫のいら立った声がした。その襖ぎわまで後退すると、三左エ門は、小声でお上と呼んだ。
「石滑が来たかも知れません」
「なに?」
「斬りあいがはじまるかも知れません。物音を聞かれたら、打ちあわせたように、奥の出口から、外へ出て頂きます。そこに警護の者がおりますゆえ」
「よし、わかった」
右京太夫が立ちあがる気配がしたのと、近習部屋の襖がさらりと開いたのが、ほとんど同時だった。
そこに帯屋隼人正が立っていた。そして考えたとおりに、近習部屋は空っぽだった。多分隼人正がどこかに立ちのかせたのだ。
「そなたが、天心独名流の遣い手か。兼見と申すそうだな」
隼人正は、しばらく三左エ門を見つめたあとでそう言った。三左エ門は黙っていた。
「大きな男だの」
「………」
「そこを通してくれぬか。右京太夫に話がある」
「通すことはなりませぬ」
と三左エ門は言った。言うと同時に、皮膚から髪の中まで寒気が走りぬけて、三左エ門は微かに身ぶるいした。
「ぜひとも談合したいことがある。通せ」
「いや、なりませぬ」
「わしと斬りあってもか」
「いかにも」
隼人正はじっと三左エ門を見つめ、見つめながら、羽織をぬいだ。
「では、通る」
隼人正は刀を左手にさげたまま、部屋の中に入ってきた。
「お手むかいしますぞ」
三左エ門は言うと刀を抜いた。同時に隼人正も抜き、鞘《さや》を捨てていた。すばやい動きだった。その瞬間、胸に垂れる鬚が揺れて、宙に躍ったように見えた。
隼人正は無造作に間合いを詰め、青眼《せいがん》から肩に打ちこんできた。すさまじい迫力を乗せた一撃だったが、三左エ門はその剣をかわさずにはね上げた。
その一合のあと、隼人正はすばやくしりぞいて、遠い間合いを取った。三左エ門は追わなかった。青眼に構えをかためながら、相手の様子をうかがった。左腕のつけ根のあたりに痛みを感じたのは、その時になってからだった。うまくはねたつもりだったが、隼人正の俊敏な剣は、その前に浅く三左エ門の肩口にとどいたらしかった。
「お考え直しください、ご別家」
三左エ門は刀を構えたまま呼びかけた。
「狂気の沙汰ですぞ、この斬り合いは」
「いや」
隼人正は薄く笑った。
「邪魔する者は斬る」
隼人正は、少しずつ間合いを詰めてきていた。
──来る。
三左エ門は、隼人正が詰め寄るのにあわせるように、無意識にむかし、もっとも好んだ下段に構えを移していた。その構えをみて、隼人正は一たん足を引きかけたが、思い直したように猛然と斬りこんできた。一閃《いつせん》の影が動いたように迅《はや》い動きだった。斬られた、と三左エ門は思った。そう思いながら、三左エ門も身体を沈めて、掬《すく》い上げる剣をふるっていた。
はじかれたように、隼人正の身体が襖まで飛び、大きな音を立てた。三左エ門の一撃は、隼人正の脇腹を深ぶかと斬っていた。隼人正は訝《いぶか》しむように三左エ門を見つめたが、不意に刀をとり落とすと、膝をつき、だんだんに首を垂れて、ついに前に転んだ。そのまわりに、すぐにおびただしい血がひろがった。
その姿をたしかめてから、三左エ門は刀をおろし、右肩に手をやった。かわしも受けも出来なかった隼人正の一撃に、斬られたと感じたのは間違っていなかった。肩をさぐった三左エ門の指は、いきなり肉に埋まった。焼けるような痛みが、そこから全身にひろがって行く。眼が暗くなった。
傷口を押さえたまま、三左エ門はあたりを見回した。そして呻《うめ》き声を途中でのみこんだ。三方の襖が開かれていて、いつの間にか、そこに大勢の人間が立っていた。人びとは黒く立ちならび、なぜか無言で三左エ門を見つめている。
「手傷を負い申した」
三左エ門は、ぎごちない微笑をうかべた。
「どなたか、手を貸してくだされ」
すると、聞き馴《な》れた津田民部の声が、見たぞと言った。三左エ門はそちらに顔をむけたが、黒い人影が眼に映るだけで、どれが津田かはわからなかった。
「見事だな、必死剣鳥刺し」
三左エ門は微笑した。よろめきながら立っていた。いや、いまのは鳥刺しの秘剣ではござらぬ、と言おうとしたとき、津田が叫んだ。
「兼見が、乱心して隼人正さまを斬ったぞ。逃がさずに斬れ」
三左エ門は、反射的に刀を構えた。刀はひどく重かったが、眼の前に殺到してきたものを斬った。
──乱心だと?
横から斬りかかってきた者を、体を開いて斬って捨てながら、三左エ門は必死に津田の言葉の意味を探ろうとした。
背に痛みを感じ、振りむくと同時に斬り払ったが、刀は空を切った。そうか、おれに隼人正さまを斬らせるために罠《わな》を仕組んだのだ。そう思ったとき、三左エ門は声をのんだ。
──お上だ。
お上は連子を刺された恨みを、決して忘れたりはしなかったのだ。腹を切らせなかったのは、不仲の隼人正を始末する道具に使うためだったのだろう。生かして使うほうが、得でござります、と津田民部がすすめたのだ。
──無残だ。
三左エ門は自嘲《じちよう》の笑いをうかべた。いまごろ気づいた自分を嘲《あざけ》っていた。
ぼろぼろに斬りさいなまれているのがわかった。それでも三左エ門は眼の前に立ちふさがる黒いものにむかって反射的に刀をふるっていた。刀は時おり肉の手ごたえを伝えた。眼はほとんど見えなくなっていたが、三左エ門は、部屋のどこかにいて、自分の最期《さいご》をひややかに見まもっている右京太夫の視線を感じた。その視線にあらがうように、三左エ門は刀を構え、眼の前をよぎる影のようなものに刀を叩きつけた。
だが鋼鉄のような男にも、ついに最期のときがきた。横から組みつくように突っこんできた刀に、腹を深くえぐられて三左エ門はどっと膝をついた。そして立てなくなった。刀にすがるようにして斜めに身体をかたむけたまま、三左エ門は動かなくなった。
「しぶとい男だったが、やっと参ったかの」
津田民部が、三左エ門の前に立ってそう言った。津田はたしかめるように三左エ門の顔をのぞき、腰をのばすと三左エ門が握っている刀を蹴《け》ろうとした。絶命したと思われた三左エ門の身体が、躍るように動いたのはその瞬間だった。三左エ門は片手に柄《つか》を握り、片手を刀身の中ほどにそえて、槍のように構えた刀で津田を斜めに突き上げていた。刃先は津田の鳩尾《みぞおち》から肺まで深ぶかと入りこんだ。
「………」
鳥刺し、と三左エ門は呟いたのだが、誰もその声を聞かなかった。
津田の絶叫を聞いて、数本の刀身が、三左エ門の身体にあつまった。三左エ門の巨躯は坐った恰好《かつこう》から、横転して畳にころがった。そして今度こそ動かなくなった。
寒い冬が過ぎようとしていた。野にはまだ雪が残っていたが、野を真直ぐに走る道は、黒く濡れて日に光っていた。
里尾は鶴羽村のはずれに立って、野をわたり丘の右手に消えている道を眺めていた。風が寒いので、さっきから何度も、厄介になっている百姓家に引き返そうとしながら、そのたびに丘のむこうから叔父の三左エ門があらわれそうな気がして、里尾はふんぎり悪くその場所に立ちつづけていた。
里尾は懐に赤子を抱いていた。生まれて間もない男の子だった。三左エ門の子である。細い眼や大きな口が、あまりに叔父にそっくりなので、里尾は眺めているうちにおかしくなって忍び笑いを洩らしたりする。
身ごもっていることを知ったのは、鶴羽村にきて三月ほど経ったころだった。それから子供を生むまでの月日ほど、里尾にとってしあわせな日日はなかった。里尾がいる百姓家の人びとは親切で、子供を生むのに何の心配もいらなかった。
生まれてしまうと、三左エ門にその子を見てもらいたい気持が募った。それで時どき村はずれまで見にくる。
「今日もいらっしゃらなかったのね」
子供が泣き出したので、漸《ようや》くふんぎりがつき、里尾は子供に囁きながら、野に背をむけた。迎えに行くと言った三左エ門を、里尾は信じていた。その日が来たら、どんなにしあわせだろう、と思いながら、里尾は村の中の道をゆっくり歩いた。赤子は力強く泣きつづけていた。
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隠し剣鬼ノ爪
屏風嶽《びようぶだけ》山中のとちヶ沢から、海坂《うなさか》城下まで十一里なにがし。
その小者《こもの》は、十一里の道を駆けとおし、城下に入っても足をやすめずに、喘《あえ》ぎながら大目付尾形久万喜の屋敷に駆けこんだ。五月十二日の夕刻のことである。
家にもどると、誰もいなかった。誰もといっても、留守番をしているのは女中のきえだけだが、きえは買物にでも出たらしかった。
片桐宗蔵はなんとなく気抜けした感じで、袴《はかま》をとって着換えると、下駄をつっかけて庭に降りた。狭い庭だが、一角に草花が植えてある。芍薬《しやくやく》、山ゆり、花菖蒲《はなしようぶ》、なでしこ、それに山あじさいのかなり大きいひと株。
花はみんな、いつの間にかきえが植えたものだった。きえは、城下の東にある江口という村から奉公にきていた。十六の時にきて、三年になる。
家は自前百姓で、きえは休みをもらうたびに、家から草花の株や、米、野菜などをもらって帰ってきた。その草花がいつの間にか庭のいろどりになったが、米や野菜も、わずか三十五石取りの片桐家にとっては、結構その時どきの潤いになったのだ。
芍薬は花期が過ぎ、なでしこはまだ時期でないが、菖蒲は八分どおり花が開き、あじさいは盛りだった。山ゆりも、葉かげにつつましく緑色のつぼみを垂れている。
──きえは、こんなものまで持ってきたのだ。
宗蔵はそう思いながら、山あじさいの花を眺め、ふっと笑いを誘われた顔になった。田んぼからそのまま連れてきたように、真黒に日焼けし、手足もか細い少女だった三年前のきえを思い出したのであった。
きえは、行儀見習のために奉公にきたので、宗蔵の母にきびしくしつけられた。もともと病身だった宗蔵の母は、去年の暮に、ふと風邪で寝ついたのがもとであっけなく死んだが、それまでのしつけがきえを変え、近ごろはめっきり女らしくなっていた。行儀も言葉づかいも、身だしなみも、ひととおりは身についたようだった。
だが野育ちは野育ちで、きえは山あじさいの株を背負って町を歩くことも平気だったし、出入りの青物屋を値切るときなど、声は近所をはばからず大きく、言葉に村娘の地が露《あら》われる。奥で聞いている宗蔵がはらはらするほどだった。
だがきえは気性が朗らかで、病気ひとつせず陰ひなたなく働く。得がたい奉公人だった。
母に死なれた当時、宗蔵は、主従とはいえ家の中が若い男女二人きりになったのはどういうものかと考えたことがある。世間体というものがあった。
だがきえの家からも何も言って来なかったし、きえ本人もそういうことを気にしている様子は見えなかった。宗蔵はそのままにした。きえを出しても、結局は誰か女手を雇わなければならなかった。それがひどく億劫《おつくう》なことに思われたのである。
──それにしても、遅いな。
宗蔵が、そう思いながら、菖蒲の花の間から腰をあげたとき、不意に男の声が呼んだ。
「お隣、お隣」
宗蔵がふりむくと、生垣の間から隣家の守谷甚兵衛が無遠慮にこちらをのぞいていた。のみならず甚兵衛は妙な薄笑いをうかべている。
守谷は同じ御旗組に勤める人間で、脂《あぶら》ぎった四十男である。今日は非番だった。
「なにか?」
宗蔵が近づくと、守谷はなお手まねきして声をひそめた。
「お女中がおらんだろう?」
「………」
「すぐには帰って来んぞ」
宗蔵は黙って守谷の顔を見つめた。守谷の顔には、依然として意味不明の笑いが漂っている。宗蔵は、その笑いの意味をつかもうとしたが、思いあたることは何もなかった。
「どういうことですかな」
「昼すぎに男がたずねてきてな。しばらくして一緒に出かけたぞ。若い男だ」
「はあ、さようで」
宗蔵は茫然《ぼうぜん》と守谷を見つめた。この男がなぜそんなことを知っているのだろうと思った。だが、すぐに不快な気持がこみあげてきた。覗《のぞ》き見していたのだ。守谷には、非番の日にあちこちとよその家を覗き見る趣味があるらしい。これまでにも、どんなことを見られ、立ち聞きされているか、知れたものではないという気がした。
守谷は御旗組の古参で、家も隣り合っているが、さほど親しいつき合いはない。
守谷は人に知られた遊び人だった。御旗奉行の堀直弥にくっついて、つい近年までしたたかな茶屋遊びを繰り返していたことは、組内だけでなく藩中にも知られている。
四十を過ぎたころ一度大病をして、長らく勤めを休んでからは、女遊びをする元気もなくなったようだったが、昔の放蕩《ほうとう》がたたって、近ごろは妻女に尻に敷かれているという噂《うわさ》があった。宗蔵とは肌合いが違う人間だった。宗蔵は日ごろ、この隣人を敬遠気味にあつかっている。
「近ごろめっきり色っぽくなってきたからな」
守谷はにたにた笑った。今度ははっきり好色な笑いになっていた。むろんきえのことを言っているのである。
「妙な虫がつかんように、用心された方がよろしいぞ」
そのとき守谷の家の中から、癇走《かんばし》った女の声が守谷を呼んだ。守谷はうんざりした表情になって、山の神だ、と素町人のようなことを言った。
「わしがこのあたりにいると、貴公の家の女中に気があって覗いていると思うかして、ああしてうるさく呼び立てる」
あたりまえだ、と宗蔵は思った。守谷の言葉は、ちょいちょい宗蔵の家を覗いていることを裏書きしている。不快な気分をそのままに、宗蔵はそっけなく言った。
「ご忠告はうけたまわっておきましょう。だが、多分ご心配のようなことはござらんと存じる」
「よほど信用しているらしいの」
妻女がまた、守谷を呼んだ。守谷はうなるような声で答えて生垣を離れたが、すぐに戻ってきて声をひそめた。
「それとも、貴公がもう手をつけたか、ん?」
あくまで下卑たことを考え、言う男だった。守谷はそれを言いたかったらしく、不意に笑い声をひびかせて背をむけた。その笑い声の中で、淫《みだ》らな想像が揺れているのがわかった。
──下司《げす》め!
宗蔵は、酒やけして赤らんでいる守谷の猪首《いくび》を睨《にら》みながら見送った。きえが男と一緒に家を出たのは本当かも知れないが、それはきえの家の者かも知れないし、親戚《しんせき》の者が、城下まできたついでに立ち寄ったということかも知れないのだ。それは、きえが戻ればわかることだ、と宗蔵は思った。
しばらくして、きえは帰ってきた。きえは門から駆けこんできた。胸高に青物やら袋に詰めた物やらを抱えている。
「申しわけございませんでした、旦那さま」
きえはすぐに宗蔵を見つけ、朗らかな声をはりあげた。
「買物に手間どりました。すぐにお食事の支度をいたします」
「たのむ。腹がすいたぞ」
と宗蔵は言った。ほっとしていた。守谷に妙な告げ口をされたせいで、宗蔵はなんとなく、きえが男とどこかに行ってしまって、このまま帰って来ないのではないかと、おかしなことまで考えはじめていたのだった。
梅雨《つゆ》の晴れ間というのだろう。ここ三日ほど雨が降っていなかった。今日も一日中、青葉に包まれた城下の上を日が渡り、その日が落ちて、空にあざやかな夕映えがひろがりはじめていた。
茶の間の障子に灯のいろがともったのをみて、宗蔵は花畑を離れると家にむかって歩き出した。いつもと変りない夜が訪れてくるようだった。守谷によってもたらされた不快な気分は、ほとんど消えかけていた。
飯を給仕させながら、宗蔵は時どききえの顔を見た。今日きた男のことを、きえは飯どきにでも話すのではないかと思っていたが、きえは何も言わなかった。
今日、誰か人が来たか、と聞くのもおかしなものだった。それでは守谷の覗き見に加担した恰好《かつこう》になる。女中がすることを、ひそかに監視していたようで、ぐあい悪い。やましいことでなければ、きえが言えばいいのだと思っていた。そしてきえにやましいことがあるはずはないと宗蔵は思っていた。三年同じ家に住んでいれば、そのぐらいのことはわかる。
だがきえは、宗蔵に顔を見られると、にっこり笑い返すだけで、男客のことには触れようともしないのだった。
きちんと坐ったきえの膝《ひざ》が盛りあがっている。そこにはまぶしいほどの肉が盈《み》ちているに違いなかった。いつになく、そんなことにふと気持がとらわれたりするのは、さっきの守谷の言葉や、正体の知れない男客のことが頭の中にあるせいに違いなかった。
「きえも十九か」
飯が済んで、茶をもらいながら、宗蔵は言った。
「そろそろ嫁にやらなきゃならんな。家の方では何か言っていないのか」
「いえ」
きえは首を振った。そして不意に赤くなって顔を伏せた。男のことを言い出すのではないかと宗蔵は耳を澄ませたが、違った。
「旦那さまが、ご新造さまをお迎えなさるまでは、ここに置いていただきます」
「わしがずっと嫁をもらわなんだら、どうする?」
「そのときは……」
きえは顔をあげた。顔色はもどって、きえは笑顔になっていた。きえは片手で口を隠して、笑い声を立てた。
「そのときは、考えさせていただきます」
わざと切口上で言って、きえがもう一度軽い笑い声を立てたとき、玄関に人がきた気配がした。
立って行ったきえは、すぐに戻ってきた。やや下膨《しもぶく》れの、どこか少女の面影を残しているきえの顔に、驚いたような表情がうかんでいる。
「大目付の尾形さまから、お使いでございます」
宗蔵はすぐに立った。部屋を出るとき、背後できえがひとりごとのように、いまごろ何のご用でございましょ、と言ったのが聞こえた。
きえが洩《も》らしたのと同じ不審は、使いと一緒に、鷹匠《たかじよう》町の大目付の屋敷につくまで、ずっと宗蔵の頭にあったが、屋敷について奥座敷にみちびかれると、不審な気持は一挙に膨れあがった。その部屋には、大目付のほかに月番家老の森戸奥之助と宗蔵の上司である堀直弥がいた。
「夜分で相済まんが、火急の用が出来て、きてもらった」
と、尾形は言った。尾形は岩のように頑丈な巨躯《きよく》を持っている。顔も眼も大きかった。その眼をぴったり宗蔵に据えてそう言ったが、物言いは意外に柔かかった。
宗蔵は目礼したが、不審は強まるばかりだった。大目付に呼び出されるようなことは何ひとつ思いあたらなかった。そして家老はともかく上司の堀がここにいるのはなぜかと思った。
「狭間《はざま》弥市郎が牢を破った」
尾形がいきなり言った。あっと宗蔵は伏せていた眼をあげた。昔懇意にして、その後長く消息が知れなかった男に、不意に道で笑いかけられたような驚きがあった。
「いつでございますか」
「今朝だ」
「………」
「いや、牢を破ったが逃げてはおらん。知らせた者が、そう申しておる」
「乱心したものでございましょうか」
「かも知れんな。しかし正気かも知れん」
と尾形は言った。
狭間弥市郎は、もともと奇矯《ききよう》な振る舞いが多い人間だったが、三年前江戸詰で出府している時、藩屋敷うちで小姓頭の市村彦右衛門に斬りつけた。市村は重傷を負ったが、幸いに命をとりとめたので、藩では狭間を国元に帰し、郷入り処分にしたのである。
場所は城下の南方に険しい峯を連ねる、屏風嶽の奥、とちヶ沢と呼ばれる僻村《へきそん》だった。そこにわずか数戸の、人が住む家がある。その奥は切りたつような絶壁が、人が踏みこむのをこばみ、背後は奥羽を縦断する山岳に連なっている。
とちヶ沢に、藩ではいまは使っていない山番小屋を持っていた。その小屋を改造し、中に厳重な座敷牢を組立てると、狭間をそこに送って閉じこめた。そして小者一人を番人につけた。狭間を監視すると同時に、食事や着る物の世話をする番人である。
嘉吉というその小者を、狭間はいつの間にか手懐《てなず》けたらしいと、尾形は言った。狭間は嘉吉を油断させておいて、今朝不意に牢を破ったのである。
「嘉吉が、狭間の口上を持って山を降りてきた。三年の牢暮らしには倦《あ》きあきした。いさぎよく闘って死にたいから、藩では討手《うつて》を送れ、と狭間は申したそうだ」
尾形は不意に肩をゆすって笑った。
「人を喰った男だ。ところで、その討手だが、狭間は片桐宗蔵を送れと言っている」
「………」
「狭間とおぬしの間に、何かわけがあるのか」
宗蔵はすっと頬《ほお》が冷たくなるのを感じた。そうか、狭間はあのことを忘れないでいて、ついに斬り合いを挑んできたのか、と思った。だが、そのことは人に言うべきことではなかった。
宗蔵は、こちらの心の中まで射抜くような尾形の眼を、静かに見返してきっぱりと言った。
「べつにございません。もと同門のよしみで、そう申したものと存じます」
「ふむ」
尾形はなおもじっと宗蔵を見つめたが、やがて軽くうなずいた。
「むろん、藩としては狭間が申すことなど、そうかと聞く耳は持たん。奴は郷入りの牢を破った前代未聞の大罪人だ。わしは討手に捕方あわせて二十人ほどを、即刻とちヶ沢にむけるつもりで、月番家老に相談したのだ。ところが、ご家老の意見はちと違っておる」
「………」
「片桐にまかせろ、と申される。それでここで決めてもらおうと思って、堀どのにもきていただいたわけだ」
「その方がよい。下手に討手をむけると、無用の怪我人を出すことになる。狭間は尋常の遣い手ではない」
家老の森戸は、宗蔵に微笑をむけた。
「尾形は捕物にはくわしいが、剣法のことはいたってくらくてな。尾形の眼には、その男が藩にとって咎《とが》ある者か、そうでないかという区別しか見えん」
「まさか。それがしにしても、狭間が剣の達者だぐらいは存じておりますぞ」
「しかし狭間が、ひところは藩中随一と言われた無外流の遣い手で、その狭間をただ一人片桐宗蔵が破っていることなどは知るまい」
「ほう」
尾形は、そう言われて改めてしげしげと宗蔵を見た。宗蔵は中肉中背で、容貌《ようぼう》にも目立つところはない、ごく普通の若者である。尾形の眼には、意外そうな感じが出ていた。
「わしは片桐が狭間に勝ったその試合を見ておる。あれは三年ほども前か?」
「いえ、四年前でござります」
と宗蔵は答えた。
その年。帰国した藩主|右京《うきよう》太夫《だゆう》が、暑中稽古の成果をみるという名目で、三ノ丸の励武館で家中の剣術試合を見た。そういうことは数年に一度あるかなしのことなので、市中道場で日ごろ腕をみがいている連中が、二十数人も集まって技を競った。
だが勝ち抜いて最後の決勝試合に残ったのは無外流の小野道場で同門の、狭間と宗蔵の二人だったのだ。そして森戸家老が言うとおり、その試合は宗蔵が勝った。
──狭間は師匠とおれに対して強い不満を持っていたが、その不満が私怨《しえん》に変ったのは、多分その試合からだ。
と宗蔵は思い返していた。狭間は藩公の前で行なわれたその試合のあと、師の小野治兵衛や宗蔵がとめるのを振りきって、ほかの道場に移っている。そして翌年の春江戸詰になり、江戸につくと間もなく事件を起こしたのである。
「見事な試合だった。狭間もよく遣ったが、紙一重で片桐がまさっていたな。しかしその紙一重が動かしがたいと見た。片桐にやらせればよい」
「ではそのようにいたしますか」
尾形は家老の話を聞いて、納得がいった様子だった。家老と堀の二人を等分に見ながら言った。
「それでは狭間の処分は、一切片桐にまかせることにいたしましょう。堀どのもご異存ございませんな」
「わしの方は、いっこうに構わん」
と堀が言った。堀の口調には、いくぶん横柄な感じがある。
堀は御旗奉行の閑職にいるが、それは本人の無能のせいで、家は代代|組頭《くみがしら》の家柄だった。禄高は大目付の尾形より上である。堀はいまも盛んに遊び回っている。堀自身は、それを藩政から遠ざけられている不満のためだと思っているようだったが、実際にはそうやって茶屋遊びをしている日日こそ、堀には似つかわしいのだった。
おれは不遇だというのが、堀の口癖だった。城中でもそう言い、茶屋でもそう言った。そして何かあると、家格をかさに着て藩政にケチをつけてきた。堀は少数の取まきをのぞいて、藩政の要路にいる人間にも嫌われ、御旗組の中でも嫌われていた。
大目付の尾形が、この席に堀を呼び出したのは、堀の配下である宗蔵を討手として派遣することで、あとで堀に揚げ足をとられないよう、用心したらしかったが、堀は大目付のその配慮に自尊心を満たされたようだった。
「片桐、しっかりやれ」
と、堀は宗蔵にも声をかけた。堀の顔は、まだ四十前なのに、長年の遊蕩になめされたように鉛いろにひかり、眼の下には青黒い隈《くま》をうかべている。遊冶郎《ゆうやろう》のようなその顔をちらと見あげて、宗蔵は黙って頭をさげた。
「発《た》つのは明日朝でよかろう。狭間は逃げるわけではないから、今夜はゆっくり休め」
と尾形は言った。
「念のため、今夜のうちに、徒目付《かちめつけ》に十人ほどつけて、とちヶ沢のひとつ下の熊井村まで送っておこう。邪魔はさせんが、必要のときは、この人数を使ってよろしい。万事はまかせる」
大目付の屋敷を去ると、宗蔵は空を見あげた。星がひとつも見えず、暗い空だった。夕方には晴れていたのに、空はいつの間にか曇ったらしかった。とちヶ沢の牢舎で、狭間もこの空を眺めているかも知れない、とちらと思った。
──狭間は誤解している。
宗蔵は、歩きながら闇《やみ》の中にそっと溜息《ためいき》を吐き捨てた。
宗蔵は無外流の免許をうけたとき、それとはべつに道場主の小野治兵衛から、ある秘剣を授けられている。鬼ノ爪と呼ぶその秘剣は、一人相伝で、小野も彼の師から受け継いだ。小野道場には、宗蔵のほかに狭間ら数人の、すでに免許を得た高弟がいたが、小野はその秘剣を宗蔵に伝えたのである。
それが狭間の誤解のもとになった。そのころ小野道場では、狭間がぬきん出た剣士で師範代を勤めていた。だが免許をうけたころから宗蔵の剣技は急速にのび、しばしば狭間を打ちこむようになった。
狭間は宗蔵の著しい進境を、小野に伝えられた秘剣鬼ノ爪のせいだと思うようになった。それは狭間の自尊心を深く傷つけたようだった。狭間は、小姓組に属し、百二十石をうける中士で、道場では宗蔵より五年先輩だった。彼が遣う無外流は、一時藩中に敵がなかったのである。
秘剣をうけるのは、自分であるべきだったと狭間が思い、宗蔵に次第に勝てなくなる焦燥をそこに結びつけたのは無理がないことだったかも知れない。事実狭間は、露骨な言葉で、小野と宗蔵に、その不満を述べたことがある。その不満から、狭間はついに道場を去った。
だが、事実は狭間の想像とは違っていたのである。秘剣は無外流の本筋とはかかわりのない、屋内争闘のための短刀術だった。いつ役立つとも知れないその秘剣が、なぜひっそりと伝えられているのかは小野も知らなかった。
「狭間さまに、そのことを打明けられたらいかがですか」
狭間が、その秘剣が自分にでなく、宗蔵に伝えられたことに不満を持っていることがはっきりしたころ、宗蔵は師匠の小野にそう言ったことがある。だが小野は苦笑して、「秘剣ヲ外ニ言ワズ」という鬼ノ爪秘伝書の一条をあげただけだった。
──当時の誤解を、狭間はまだ持ちつづけている。
討手に、おれを指名してきたのが、その証拠だ、と宗蔵は思った。剣鬼という言葉がふと浮かんできた。なんという執念深さだと思った。宗蔵は微《かす》かに身顫《みぶる》いして足を早めた。
家につくと、きえが出て、慌しい顔色で囁《ささや》いた。
「お客さまでございます」
「どなただ?」
「女の方です。お名前をおっしゃいません」
「名前を言わん?」
宗蔵はきえの顔を見た。
「それで? 中にいるのか」
「はい。待たせてもらうと言われました」
宗蔵は首をかしげて家に入った。外から帰ったときの習慣で、台所に降りてうがいをしながら、誰だろうと考えたが、心あたりはなかった。
宗蔵が座敷に入って行くと、一人の女が静かに顔をあげて宗蔵を見た。宗蔵は思わず息を呑んだほど、美貌の女性だった。
「お留守に、無理に上がらせていただきました」
女は宗蔵が坐るのを待って、しとやかに一礼するとそう言った。きれいな声音だった。
「狭間の家内でございます」
宗蔵はうなずいて、どうぞお楽にと言った。女が狭間の家内だと名乗ったことにはそれほど驚かなかった。女は人妻らしいと思ったとき、すばやくその勘が働いたようである。だが女の美しさが、胸を騒がせていた。
そのとき、きえが茶を運んできた。女の茶を換え、宗蔵の前にも茶を置いて、きえが出て行くまで、狭間の妻女は口を噤《つぐ》んでいた。
「狭間が牢を破ったことを聞きました」
狭間の妻は、静かな表情でそう言った。黒ぐろと濡《ぬ》れているような眼、形のよい鼻、小さく、少し厚めの唇。頬はなめらかに張って薄く血の色をうかべている。狭間の妻は、不幸のさ中にいるはずだったが、その不幸を、少なくとも表には毛筋ほども現わしていなかった。優雅に、美しいだけだった。
不意に狭間の妻は、小さく肩をすくめて微笑した。
「ほんとに仕方のないひと。私はこういうことになるのを、ずっと心配していました」
「お気の毒です」
「討手には、片桐さまが選ばれたそうですね」
「いや。ご主人が、そう望まれたのです」
「でも、おことわりにならなかったのですから同じことでございましょ?」
狭間の妻女はそう言って、ふと宗蔵の顔をのぞくようにした。
「それは本ぎまりでございますか?」
「はあ」
「いつ、お発ちになります?」
「明朝」
「朝?」
狭間の妻はうつむいて、そんなに早くと呟《つぶや》いた。だが顔をあげたときは、また微笑していた。その微笑のまま、女は言った。
「狭間を逃がしていただけません?」
「逃がす?」
「ええ」
「………」
「とちヶ沢に行ったが、狭間はもういなかったと」
「それは出来ません」
宗蔵は眼をそらして言った。
「藩命を偽ることは出来ません。それに、ご主人はそれがしとの決闘をのぞんでおられる。それがしが行くまでは、何日経とうと逃げたりはせんのですよ、多分」
「片桐さまが説得してくだされば別ですよ。あのひと、いまごろは牢を破ったことをきっと後悔していますよ。そういう人なのです」
「………」
「助けてやってくださいません? 片桐さまは、狭間と同門でございましょ? あのひとを死なせたくありません」
「ご新造」
宗蔵は、額にうかんだ汗をぬぐった。
「お気持は十分にわかるが、無理を申されてはなりません。藩命は曲げられんのです」
「私の身体《からだ》を、さしあげてもいいのですよ」
狭間の妻女の声は、急に囁くように低くなった。なまめいた声に聞こえた。
「おのぞみなら、いまここで」
二人は睨みあうように、顔を見つめあった。狭間の妻の顔は、微笑が消えて青白くなっていたが、彼女はそれでも十分に美しかった。誇らかに突き出した胸、くびれた胴、ゆったりと張った腰が、宗蔵を圧迫していた。その衣服の下には、藩命にそむくどころか、死を賭《か》けても悔いを感じさせない、悦楽に満ちた肉が隠されている気がした。その生なましい気配が、宗蔵を胸苦しくさせた。
女の手が静かに|帯〆《おびじめ》にかかったのを見たとき、宗蔵はようやく自分を取りもどした。全部ではなかった。宗蔵の心は、まだ深く眼の前の美しい人妻に縛られ、取り乱していた。
「おやめなさい」
と宗蔵は喉《のど》につまった声で言った。女はまだ、上の空な感じで宗蔵を見つめながら、手を動かしていた。帯〆が、生きもののように、するりと胴を離れた。
「ご新造は、考え違いをしておられる。それがしは、狭間さまに試合を挑まれているのです」
そう言ったとき、宗蔵は不意にさめた。
「さよう。斃《たお》れるのはご主人かも知れないが、それがしの方かも知れんのです。いずれにせよ、二人ともに逃げたりは出来んのです」
女の手がとまった。狭間の妻は、一瞬刺すように宗蔵を見つめると、解きかけていた帯を慌しくしめなおし、帯〆をつけた。その様子を、宗蔵は苦しい気分に苛《さいな》まれながら、黙って眺めていた。女がそれを諦《あきら》めたとわかったときから、むしろ欲情は耐えがたいほど強く、若い身体を襲っていた。
立ち上がって座敷を出ようとしながら、狭間の妻は、不意に宗蔵を振りむいた。
「まだ、あきらめてはおりませんよ」
「………」
「これから、堀さまにお会いします」
「おやめなさい」
宗蔵は、思わず険しい声を出した。一番耳にしたくない名前を、一番言ってもらいたくない人の口から聞いたような気がした。このひとは、なんで堀の名前などを持ち出すのだ。
「あのご仁《じん》に何が出来ますか。何も出来ませんぞ」
「あなたさまの上役でございましょ。お願いして、あなたさまを説得していただきます」
「愚かなことを……」
宗蔵が立ち上がろうとしたとき、女は身をひるがえして座敷を出て行った。
──馬鹿なことを考えるものだ。
腕を組んで、宗蔵は夜の町に走り出て行った女のことを考えた。堀奉行に会ったところで、堀が女の頼みを聞いて、宗蔵に狭間を逃がせとか、討手として行くのをやめろとか命令できるわけはないのだ。筋が違う。
そのへんの判断が、狭間の妻女には出来なくなっているようだった。もっともそんな判断が出来るぐらいなら、おれの前で帯を解きかけたりはしないだろう、と宗蔵は思った。狭間の妻は、夫を殺したくない一心で狂乱しているのだ。
きえが入ってきて、茶碗を片づけはじめた。
「お客さまは、どなたさまでございました?」
ときえが言った。きえは、夜の女客に対して、なみなみならぬ関心を抱いているらしかった。
「狭間という男の妻女だ。その男が牢を破ったので、わしは明朝、とちヶ沢に行かねばならない。握り飯を支度してくれ」
「はい」
「妻女はわしに、その男の命乞いにきたのだ。逃がしてくれれば、わしと寝てもよいと申した」
「まあ」
きえは一瞬ぽかんとした顔で宗蔵を見たが、もう一度、まあと言って盆を下に置くと手で顔を隠した。
顔を覆《おお》った白い指や、坐っている膝のあたりのまるい肉づきが、宗蔵の内側に暗くくすぶっていた欲情をかきたてた。異常なことがあったあとで、心がふだんの平衡を失っているのを宗蔵は感じた。
「きえ、こっちへ来い」
宗蔵はかすれた声で呼びかけた。咲きほこっている山あじさいの花のようだった狭間の妻にくらべれば、きえはまだ薄みどりのゆりの蕾《つぼみ》にすぎない。だが、やはり花だ。
きえは手を離して宗蔵を見たが、宗蔵の表情を読むとまた顔を隠して、いやいやをするように首を振った。宗蔵は立って行くときえの胸をひらいた。
八ツ半(午後三時)に、宗蔵は熊井村に着いた。先着していた首藤という徒目付が、宗蔵を迎えた。途中で雨が降ったので、宗蔵は道端の百姓家で蓑《みの》と笠を借りて着たが、熊井村に着いたときは雨はほとんど上がっていた。
熊井村は、谷川にそった戸数二十ぐらいの村で、とちヶ沢ほどではないが、やはり左右から山が押しかぶさるように迫っている場所だった。山の尾根に、朝からの雨の名残りの雲が動いていた。
「一服してすぐ登りますか」
宗蔵のために用意した、一軒の百姓家に案内しながら、首藤が訊《き》いた。
「いや、ひと眠りして七ツ(午後四時)ごろに発ちます」
「われわれはどうしますかな。みんなでなくとも、四、五人は一緒に行きますか」
「いや、それがしだけで結構です」
と宗蔵は言った。宗蔵が討ち洩らせば、どうせ四、五人の助勢がいたところで、討ちとめられる相手ではない。
案内された家に入ると、宗蔵は白湯《さゆ》を一杯もらって飲み、包みを解いて、きえが用意してくれた着換えを出すと、ぐっしょり汗ばんだ肌着を換えた。それから薪を燃やしているいろりのそばに横になって眼をつぶった。
眼の裏にきえの顔がうかんだ。昨夜、二人が結ばれたあとで、宗蔵はきえに、もし運がつたなくて死んだときは、あとの始末をたのむと言った。きえは宗蔵にすがったまま、身じろぎもせず聞いていたが、宗蔵が言いおわると、黙って涙を流した。裸の胸を濡らしたその感触を宗蔵は思い出したが、それは束《つか》の間《ま》のことだった。燃えつづける火が、ゆっくりと腹の中まであたためてきて、宗蔵はすぐに眠りに落ちた。
眼ざめると、宗蔵はすすけた障子に映る明るみを確かめながら、握り飯をひとつ喰った。身体はあたたまり、軽くなっていた。山に入って熊井村まで三里ほどの山道を、霧のような雨に包まれて歩いている間に、汗を流したあとの身体がすっかり冷えきっていたのである。
蓑と笠をつけて百姓家を出ると、首藤が迎えにきたのとぶつかった。村はずれまで、首藤たち徒目付二人と配下十人が、宗蔵を見送った。
「ご武運を祈る」
と首藤が言い、言葉をつづけた。
「われわれは、いつまで待てばよろしいかな」
「暗くなる前に決着がつき申そう。それがしが降りてくるのは恐らく六ツ半(午後七時)前後。もし五ツ半(午後九時)になっても帰らんときは……」
宗蔵は微笑した。
「そのときは、城下に人をやって、もっと人数を呼ばれるとよろしい」
「承知した。申されるとおりにいたそう」
首藤はきちょうめんに答えた。
道は少しずつのぼりになったが、沢のそばを離れずに続いていた。首藤たちの姿は、間もなく杉林の陰にかくれた。宗蔵はゆっくりと、しかし足をやすめずに歩いた。とちヶ沢まで一里弱。いそがなくとも、七ツ半(午後五時)過ぎには着くはずだった。
道はだんだんに険しくなった。切りたつ断崖《だんがい》と沢の間を、ようやくひと一人通り抜け出来るような場所があった。崖《がけ》が沢までせり出し、まったく道が絶えたかと思うと、沢の中に人が渡るほどの石が並んでいて、その先の道に続いていたりした。
前方に、屏風嶽の絶壁が落ちかかるように迫ってきて、そのために道は暗かった。糸のような峡谷の道を、宗蔵はたどっていた。そして右手の山壁が少しずつ遠のき、ついに手のひらほどの緩やかな傾斜が視野に入ってきた。傾斜はその上にそびえる絶壁の下まで耕されているのが、遠目に見えた。傾いた山畠は、沢のほとりを覆っている杉と落葉松《からまつ》の林の陰になだれ落ちている。とちヶ沢の村は、その林の陰にあるに違いなかった。
宗蔵は笠を取って、岸に腹這《はらば》うと少し水を飲んだ。そして立ち上がると空を眺めた。遥かな尾根と絶壁に囲まれた狭い空に、ゆるやかに梅雨雲が動き、ところどころに青空がのぞいていた。
──このような場所にも、人が住むか。
ゆっくり林にむかって歩きながら、宗蔵はそう思った。狭間弥市郎の上を通りすぎた苛酷《かこく》な月日を思い、狭間が牢を破って討手をもとめた気持が、少しわかりかけたような気がした。郷入りの咎人は、特赦を得て城下にもどる例がまったくないとは言えないが、大方は幽閉された土地で生涯を閉じるのである。罰したあと、藩は大方その囚人を忘れた。
はたして林を抜けると、数戸の家があった。家は沢に滑り落ちまいと傾斜にしがみついている形で建っていた。山番小屋を、宗蔵は眼で探した。水辺の家家から離れて、傾斜を少しのぼったところに、数本の杉と、丈の低い雑木を背にした建物が見えた。
一軒の家を訪ねると、宗蔵は蓑と笠をあずけてから聞いた。
「山番小屋というのは、あれか」
「そうです」
真黒な顔をした、四十がらみの女は、訛《なまり》の強い言葉で答え、好奇心に溢《あふ》れた眼で宗蔵をじろじろと見た。村の外からきた人間が珍しいらしかった。
「肝煎《きもいり》とか、長人《おとな》とかはいるか」
「そんな者は、ここにはいませんけど」
「それではお前から、しばらく誰も家の外に出るなと伝えてくれ」
「何かはじまってんですか旦那さま」
女はいっそう好奇の眼をひからせた。郷入りの咎人の飯米、衣服の類は藩からとどけられて、つきそいの小者が一切の世話をする。村は牢舎の人間とは、直接のかかわりは何もなかった。女は、昨日から山番小屋に起きている異変には気づいていないようだった。
「これから斬り合いがある」
宗蔵が言うと、女は顔をこわばらせて、みんなにそう伝えると言った。
女の家を出て、山番小屋の方に一歩踏み出したとき、宗蔵ははげしい緊張に心を掴《つか》まれるのを感じた。足がふるえ、動悸《どうき》がたかぶった。だが構わずに歩くと、緊張はゆるやかに消え、ふるえがおさまった。
村から山番小屋まで、真直ぐにのぼる道がある。だが宗蔵はその道に向かわずに、手前から右手の藪《やぶ》に入ると、斜めに傾斜をのぼりはじめた。藪が溜めていた水滴で、足もとと袴が濡れたが、そこを登って行けば、小屋の横に出られそうだった。小屋に着くまでに、狭間に見つかっては不利だと思っていた。宗蔵は足音をぬすみ、背をまるめて藪をぬけ、その上の畠に踏みこんだ。
宗蔵が小屋の前に出たとき、狭間は縁側にあぐらをかいて、青い桃の実を齧《かじ》っていた。宗蔵をみると、狭間は桃の実を地面に叩きつけた。そしてそばに置いてあった刀を掴みとると、すっと立ち上がった。
「待っていたぞ」
狭間は野太い声で言った。
「片桐ひとりか」
「そうだ。おれひとりだ」
答えながら、宗蔵は油断なく狭間を注視した。狭間は、以前にくらべて長身の肩のあたりの肉が落ち、頬も痩《や》せていたが、身体が弱っているようではなかった。着流しの肩に、蓬髪《ほうはつ》が垂れさがり、まばらな無精髭が顎《あご》を覆って、風貌はむしろ四年前よりも精悍《せいかん》さを加えたようにみえた。
宗蔵は無表情に声をかけた。
「元気か」
「元気さ。このとおりだ」
狭間は答えたが、少ししつこい感じで、また言った。
「ひとりか。ほかに人はきておらんだろうな」
「むろん、ひとりだ」
宗蔵が答えると、狭間は突然笑い出した。
「罠《わな》にはまったな、片桐」
狭間は勝ちほこったように叫んだ。狭間は眼をひからせ、不意に饒舌《じようぜつ》になっていた。
「三年、ただ牢の中に寝ていたと思うか。ん? そんなことはないさ。おれはずっと、貴様の鬼ノ爪を破る工夫を考えつづけていたのだ。一日も欠かさずだ」
「………」
傷《いた》ましいことを聞く、と宗蔵は思った。鬼ノ爪は微微たる短刀術に過ぎないのだ。狭間はどのような幻を描きみて、牢内の精進を積んだと言うのだろうか。
──いっそ打明けるか。
その衝動が宗蔵をとらえたが、宗蔵は耐えた。秘剣鬼ノ爪は、一人相伝の隠し剣だった。どのような場合にも、人に洩らしてはならないのだ。
「勝算が出来たから呼んだのだ。昔のおれだと考えてやってきた貴様の負けだ。試してみるか。来い」
不意に狭間は縁側から飛び降りると、刀を抜いて小屋の横手にひろがる草地に走った。
──剣鬼だ。
狭間はおれと立ち合うために牢を破ったのか、と思った。胴ぶるいがこみあげてきたのを腹に力を入れて圧《お》し殺してから、宗蔵も刀を抜き草地に踏みこんだ。そこは相手を斃さなければ出ることが出来ない死地だった。
狭間は、高く上段に構えていた。宗蔵は青眼《せいがん》に構えた。宗蔵が構えると、狭間はにじり寄るように、足をすすめた。宗蔵はわずかに後にさがった。そのまま二人は動かなくなった。また狭間が動いた。横に足を移していた。宗蔵も足を送ろうとしたとき、鳥がはばたくように狭間の身体が飛躍し、刃うなりを乗せて刀が落ちかかってきた。宗蔵は躱《かわ》した。だが浅く左手首をかすられていた。
──まずい。
宗蔵は構えを固めた。傷をうけたわけは、狭間のいまの一撃でわかっていた。狭間の剣は、上段の構えから、八双の剣のように斜めにのびたようだった。そのために躱した足の送りが足らなかったのだ。
宗蔵は攻勢に出た。宗蔵は受けが得意だが、狭間の剣が、上段から出て八双の構えと似た動きをするとなると、受けに回るのは不利だった。狭間の剣先が左右どちらにのびるかは察知できなかった。それが狭間の工夫なのだ。
狭間は宗蔵の剣を受け、一度は受け損じて肩を斬られたが、顔色も変えなかった。鷹《たか》のような眼が宗蔵をうかがっている。そして隙《すき》をみて疾風のような一撃を、上段からふりおろしてきた。宗蔵は、また右の二の腕を斬られた。血が滴《したた》り落ちるのがわかった。
斬り合いは長びいていた。そして雨が落ちてきた。雨は四囲を急に暗くした。
するすると狭間が間をあけた。宗蔵は追わなかった。相手が決着をつける気になったのを感じた。
──足だ。
閃《ひらめ》くように宗蔵はそう思った。依然として上段の構えのまま、狭間はまた少しずつ間合いを詰めてきていた。宗蔵は動かなかった。雨が音を立てた。雨に打たれながら、宗蔵は狭間の爪先を見ていた。
すさまじい一撃がきた。その一瞬前、宗蔵は狭間がわずかに横に踏み出した、爪先の方向に身体を反転させると、ほとんど同時の一撃を狭間の胴に叩きこんだ。狭間は躱せなかった。
狭間の剣は、地面を斬り割り、その上をとびこえて、狭間の身体はもんどり打って前に落ちた。
堀のそばに、女が立ち止まった。そのときには、宗蔵の方でも気づいていた。女は狭間の妻だった。
だが避けようがなかった。そこは寺町の人気のない道で、左右に長い土塀が続いていた。仕方なく宗蔵は歩いて行った。宗蔵が近づくのを、女はじっと見つめていた。
「お気の毒でござった」
宗蔵は前に立ち止まると、低く詫《わ》びるように言った。女は眼を伏せた。頬に血の色がなかった。紅が唇になじまず浮いていた。女は依然として美しかったが、しおれた花のように、生気を失っていた。
宗蔵の胸に、ほとんど恋情といってよい感情が溢《あふ》れた。こんな場所でなかったら、肩を抱きよせて慰めてやりたいと思っていた。だがこのひとを、こんなふうにしたのはおれだ。おれが悲しみをあたえた。
「それがしを怨《うら》んでおいでですか」
「いえ」
女は眼をあげた。眼だけは黒黒と澄んで、生きていた。女は微笑した。痛いたしく見える微笑だった。
「仕方ないことですから。あれはご無理なお願いでした」
「………」
宗蔵は胸が切り裂かれるような気がした。
「いまはわかっております。あの晩は私、どうかしておりました」
「それがしは、何もしてやれなかった」
「お気になさらないで。片桐さまは当然のお勤めをはたしただけですから」
女は慰めるように言った。そして口を噤んだ。それで話すことはなくなったようだった。宗蔵は、ではと言った。もっと女のそばにいたかったが、そういう気持の動きが、許されないものであることもわかっていた。
「あの……」
背をむけた宗蔵に、狭間の妻がためらうように声をかけた。宗蔵が振りむくと、狭間の妻は身体を寄せてきて囁いた。
「堀さまは、あなたさまに何もおっしゃらなかったのですね」
「お奉行が?」
宗蔵は女を見つめた。だが、すぐに女がなぜそう言っているのかがわかった。
「あの晩、やはりお奉行のところに行かれたのですか」
「………」
「それで、お奉行は何と言われたのです」
女は黙って宗蔵を見つめていた。だがその眼はひかりを失って、どこか別のところを見ているようだった。
──そうか。やはりそうか。
狭間の妻女は、あの晩堀をたずね、狭間の命乞いをしたのだ。多分おれに言いつけて、狭間を逃がしてくれとでもいうような、愚かな頼みごとをしたのだ。そして堀はその頼みごとを引きうけたのだろう。代償は狭間の妻の身体だ。
まさかと思うようなことを、あの男はやったに違いない。いや、あの男なら平然とそうしたろう。餓狼《がろう》の前に、生き餌《え》が自分から身を投げ出したようなものだ。
「なんという愚かなことを……」
宗蔵は吐き捨てた。こみ上げてきているのは怒りだったが、それは嫉妬《しつと》と見わけがつかなかった。宗蔵は思わず、女の肩を掴んだ。
「だから行くなと申したのです。そうなることはわかっていた。彼は、頼んで益のある男ではござらんのです。それがしは何も聞いてはおりませんぞ」
女はゆっくり宗蔵から眼をはずした。そしてようやく押し出すように、失礼いたします、と言った。うつむいて肩をまるめ、急に十も年を加えたような背をみせて、狭間の妻が遠ざかって行くのを、宗蔵は茫然と見送った。
三日後に、宗蔵は狭間の妻が、自害したことを聞いた。狭間が死んで、生きて行く張りを失ったのだろうと、人びとは噂した。
部屋に人気が少ないのを確かめてから、宗蔵は隣の堀の勤め部屋に入った。
堀は所在なげに机の上に草双紙をひろげていたが、宗蔵をみると、あわててそれを机の下に隠した。
「何か用か」
と堀は言った。
「は。私の用ですが、少少おうかがいしたいことがございます」
「まあ何でもよい、話せ。退屈していたところだ」
宗蔵は膝をすすめて堀の前に坐った。
「じつは先日、狭間どののご新造が、それがしの家をたずねて見えられまして、不思議なことを申されました」
「狭間の女房? ああ、あの女……」
堀は、だらしなく後手をついてそっくり返っていた身体を、急に立てなおして前に乗り出した。
「あれは大そう美人だぞ。狭間の女房が何を申したと?」
「それがしがとちヶ沢へ行く前の晩、お奉行に頼みごとをしたが、それはどうなったかと、きつい談判でした」
「頼みごと?」
堀はすくいあげるような鋭い眼で、宗蔵を見た。
「その頼みごとが、何かを女は話したのか?」
「は。狭間を逃がしてやれと、お奉行からそれがしにお命じになるように頼んだということでござりました。お奉行はそれを請合ったと……」
「は、は。いやいや」
堀は笑い出した。
「仕方のない女子だの。あれを本気にしとったのか」
「………」
「いや、夜中にきて内密の頼みがあると申す。美人の頼みは嫌いではないからの。わしは内密の頼みならと茶屋に連れて行ったのだ。すぐそばの菊水じゃ。で、頼みというのを聞いてみると、さっき申したようなことだ。問題にならん。わしは断った」
「お断りになったのでございますな」
「そうよ。ぴしりと断った。ところが相手は色じかけできよっての。とうとううんと言わされたのだ。男は色じかけで来られると弱いからの。まったく弱い」
「………」
「しかし狭間の女房はあの晩、頭に血がのぼっておったな。なに、一夜明ければ、頼みに無理があることは子供でもわかることだ。そう思ったが、いまだにそんなことを申しているわけか」
堀の顔に、不意に好色な笑いがひろがった。
「うっちゃっておけ。あの晩、妙なことにはなったが、女は結構喜んでおったぞ。面倒なことを申したらそう言ってやれ」
そこまで聞けば十分だった。恐らく自分の愚かさから、堀に操をもてあそばれたと知ったことが、狭間の妻から最後の気力を奪ったのだ。宗蔵の胸に狭間の妻を憐《あわ》れむ気持があふれた。宗蔵は静かに膝で後じさると、真直ぐ、堀を見て言った。
「その心配はございません。狭間のご新造は、昨日自害いたしました」
「死んだ?」
堀はぎくりとした表情を見せた。だが、すぐに大きな声で言った。
「それはもったいないことをした。いい身体をしておったぞ。上玉だったのにな」
宗蔵が、堀直弥にはっきり殺意を持ったのは、その時だった。
翌日、宗蔵は風神の間横の廊下で、下城する堀が来るのを待っていた。城中でもっとも人気の少ない場所だった。
廊下の端に、堀が姿を現わしたとき、宗蔵もこちらから歩き出した。宗蔵が腰をかがめて、二人は擦《す》れ違った。堀は立ち止まって、擦れ違った宗蔵を見ようとしたようだった。少し首をねじむけた姿勢のまま、堀は不意に膝を折り、前にのめった。
堀が倒れたころ、宗蔵は空き部屋をひとつ通りぬけて、別の廊下をゆっくり御旗組の詰め部屋の方に歩いていた。匕首《あいくち》は堀の胸を刺し、擦れちがったときには、懐の中の鞘《さや》にすべりこんでいる。刃の上に一滴の血痕《けつこん》も残さないのが、秘剣の作法だった。
堀の死体は、その日もう少し遅れて、一般家中が下城する時刻になって、ようやく発見された。だが調べにあたった大目付配下の者は、堀の傷をみて首をかしげるばかりだった。傷口は、ただ一カ所で、測ったように真直ぐ心ノ臓を貫いていたが、それが何による傷かもはっきりしなかったのである。それは人間にではなく、なにか別のものによって与えられた傷のようにも見えたのであった。
その夜、宗蔵は食事が済むと、きえに、茶碗を持ってきて、お前も茶を飲め、と言った。
「いろいろ考えたが、きえを嫁にもらうのが一番いいようだ」
と宗蔵は言った。そう言ったとき宗蔵は、狭間の妻女の呪縛《じゆばく》から解き放たれている自分を感じた。あの美しかった人妻にまつわる出来事が、すべて終り、きえと二人だけの日常がもどってきたという気がした。
「知っているとおりの軽輩の家だから、やかましいことはいらんと思うが、誰かに頼んで養女という体裁をつくれば、祝言《しゆうげん》がしやすいかも知れんな。それでよいか」
「旦那さま」
うつむいていたきえが、急に顔をあげた。きえはいまにも泣き出しそうな顔をしていた。
「私には、親の決めた人がおります」
「なんと」
宗蔵は絶句してきえの顔を見た。慌しくあのことがあった夜のことを思い出していた。あのとききえは、一度だけはげしく抗《あらが》う様子を見せただけで、あとは終始柔順に宗蔵に身をまかせたのだ。
「なぜ、あのときにそのことを言わんのだ。わしのことなど、はねつければよかった」
「はい」
きえは膝に手を置いてうつむいたまま、ぽろぽろと涙をこぼした。
「でも、旦那さまが好きでしたから」
宗蔵は黙ってきえを見つめた。そしてふと母親のしつけぶりを思い出して言った。
「きえ。そういうとき女子は好きとは言わんものだ。慕うという」
「はい」
「しかし、困った」
宗蔵は腕を組んだ。だが驚きが去ってみると、心は自然に決まってくるようだった。きえを、顔も知らない男にやることなど出来ないと思った。
「ま、わしにまかせろ」
宗蔵は手をのばして、きえの手を握った。すると、きえもおずおずと握り返してきた。宗蔵は微笑して、少し乱暴な口調で言った。
「いざとなれば、すでに夫婦のちぎりを結んでしまった、と白状するさ」
きえも笑おうとした。だが笑えずにおびえた表情になった。きえは蚊がなくような声で、でも、それでは親に叱られます、と言った。その顔を、宗蔵は可憐《かれん》だと思った。
[#改ページ]
女人剣さざ波
「とにかく、はじめにしくじったのよ」
と浅見俊之助は言った。
「姉の千鶴というひとが、評判の美人でな。馬廻《うままわり》組にいる馬淵才蔵に嫁入ったが、馬淵は当時若い連中にそねまれたものだ。その妹だというから、一も二もなく承知したのが間違いのもとだ」
妻の邦江のことだった。もっともそういう話が出るように仕むけたのはおもんである。おもんは俊之助と身体《からだ》のつながりが出来てから、しきりに邦江のことを聞きたがった。
「よくお確かめになればよかったのに」
とおもんは言った。
「確かめる? 武家はそういうことはせん」
「お武家さまって不自由なものね。だから嫌いさ」
おもんはそう言って、少し邪険な手つきで三味線をうしろに押しやると、白いおとがいを仰むけて、持っていた盃を飲み干した。そして空の盃を持ったまま、膝《ひざ》をにじらせて俊之助に身体を擦《す》り寄せてきた。脂粉の香とは別の、肌の香が俊之助の鼻腔をくすぐってきた。
「でも、俊之助さまは好き。どうしてかしら」
「お前、酔ったな」
俊之助はおもんの肩を抱くと、声を殺して言った。
「しっかりしろ。仕事はまだ終っていないぞ」
「わかっていますよ。すぐ話をそらすんだから、若旦那は」
「若旦那はよせ。くすぐったくてかなわん」
と俊之助は言った。
俊之助が子供のころ、浅見家に彦惣という年寄の下男がいた。それがおもんの祖父だった。
彦惣は、二十《はたち》前から浅見家に奉公していて、俊之助が物心ついたころには、もう腰の曲がった白髪の老人だった。浅見の家の屋敷のうちにあるわずかな畑をたがやしたり、庭の草をむしったりするぐらいしか仕事が出来なくなっていたが、俊之助が手習所に通うようになると、つき添っていって、手習所の玄関脇に半日もじっと蹲《うずくま》っていたりしていた。
彦惣の息子、つまりおもんの父親は曲師町で檜物《ひもの》師をしていたので、俊之助は手習所の帰りに彦惣に連れられて、時どきその家に寄った。おもんとは、そうして知り合ったのである。おもんは五つ年下で、俊之助のいい遊び相手になった。
しかし俊之助が元服する二年前に、彦惣が病死すると、浅見家と彦惣の家のつながりは切れた。そのまま十年近い歳月が経って、今年の春ごろから、ある事情で俊之助がいま二人がいる茶屋に足繁く出入りするようになったとき、思いがけなく芸妓姿のおもんに出会ったのである。
おもんは父親が借金を残して死んだあと、同じ染川町の中にある芸妓置屋から、駒代という名で勤めに出ていた。
俊之助はむろんそういう事情を知るよしもなかったので、白粉《おしろい》をぬりたくった芸妓がおもんだとは気づかなかったのだが、おもんの方が俊之助をおぼえていた。
おもんが芸妓で、松葉屋というこの茶屋にしじゅう出入りしていることは、俊之助が上の者に命じられてやっている今の仕事から言って、この上ない好都合なことだった。俊之助はたびたび松葉屋に通い、おもんと馴染《なじ》みを重ねるようになった。そして半年ほど経っている。
「でも、殿方はわかりませんからね」
俊之助の肩に重い髪をもたせかけていたおもんが、ふと上体をひいてそう言った。
「外では奥さまの悪口を言ったりしても、家にもどると、結構大事になさったりするんでしょ」
「くだらんことを申すな」
俊之助は少し不機嫌な口調になった。
「家内の話は、もうやめろ」
「ごめんなさい」
とおもんは言った。そしてそっと俊之助の手を握ると、自分の手のひらの中に包むようにした。
「怒らないで。若旦那が好きだから、奥様のことが気になるの。あたし、子供のころから若旦那が好きだったもの」
おもんがそう言ったとき、不意に部屋の前の廊下に乱れた足音がひびいて、隣の部屋に人が大勢入りこんだ気配がした。隣は十二畳ほどの広い部屋である。
俊之助は、おもんに眼くばせした。するとおもんが俊之助の胸に身体を投げかけてきた。俊之助はおもんを抱えると、顔をかぶせて白い頸《くび》を吸った。おもんはぴくりと身体を顫《ふる》わせると、白足袋《しろたび》の足先を蹴《け》るようなしぐさをし、吐息を洩《も》らした。
隣の部屋との境の襖《ふすま》が開いたが、俊之助は気づかないふりをした。腕に力を加えて、深ぶかとおもんを抱きこんだ。痴態と見えるその姿を、ぶしつけな視線がじっと見つめている気配がつづいたが、やがてぱちりと音を立てて襖がしまった。
俊之助が顔を上げると、おもんも眼をひらいて俊之助を見た。おもんは上気した顔をして、まだしっかり俊之助にしがみついていた。
「もういいぞ」
俊之助はそう言って、おもんを放すと、盃を出して酒をつがせた。おもんが三味線をとりあげて、爪弾《つまび》きで小唄を唱った。低いがきれいな声で、置屋に住みこんでから六年になるという、おもんの修業が現われていた。
しばらくして、俊之助は盃を置くと膝でいざって、隣の部屋との境い目まで行き、そこに蹲った。
太く落ちついた声が、何か話している。その話を、ほかの者がじっと聞いているという気配だった。その声の主は、俊之助にわかっている。郡代を勤める藩の有力者で、石沢という男である。
俊之助は、全身を一個の耳にして、石沢の言葉を聞き取ろうとした。背後で、おもんが低くきれいな声で唱っている。
およそ半年前。春らしく生あたたかな夜気が漂う城下はずれで、男が一人殺された。蟇目《ひきめ》七左衛門という勘定組に勤める中年の藩士で、蟇目はどういうわけか旅支度に装っていた。その姿のまま、ただ一刀の袈裟斬《けさぎ》りで斬られていたのである。
浅見俊之助が、ひそかに呼ばれて、家老筒井兵左衛門の屋敷に行ったのは、その翌日であった。筒井は筆頭家老を勤め、長年藩政を牛耳《ぎゆうじ》ってきた権力者である。長身|痩躯《そうく》の身体に、じろりと眺められただけで、身体が竦《すく》むような威厳をそなえた老人だった。俊之助は、城内で時おりその恐ろしげな姿を遠くから見かけるだけで、これまで直接言葉をかわしたことなどない。呼び出しをうけるような心当りはまったくなかったが、俊之助は緊張し切っていた。
筒井は、屋敷のひと間で、たった一人で俊之助を待っていた。そして俊之助がかしこまると、威圧的な咳《せき》ばらいをひとつひびかせてから、唐突に言った。
「そなた、時どき染川町のあたりを徘徊《はいかい》しておるそうだの」
「は」
俊之助は青くなった。意に満たない嫁をもらってから、ごくたまに染川町の茶屋に行って飲んだりすることはあるが、家老の耳にとどくほど遊んでいるつもりはない。だが家老の口ぶりは、そのことを咎《とが》めていると思われた。
「恐れいります」
「そなたの死んだ親爺を、わしはよく知っておるが……」
筒井は珍しいものを見るように俊之助を眺めた。
「あれは生まじめな男での。茶屋酒の味など知らんかっただろうと思うが、親に似ぬ鬼っ子というわけか」
「恐れいりまする」
俊之助は懐紙を出して、額の汗を拭《ふ》いた。その様子を見て、筒井はふと気づいたように言った。
「いや、茶屋遊びを咎めているわけではない。話は別のことじゃ。茶を飲め。楽にいたせ」
「は」
俊之助は救われたように、茶碗を口にはこんだが、少し膝にこぼした。
「蟇目が、何者かに斬られたことは聞いておるな」
「は。奇怪なことでございます」
俊之助は、死んだ蟇目七左衛門と同じ勘定組に勤めている。同僚の不審な死は、いち早く組うちに伝えられて、今日はその話で持ちきりだったのである。
「じつはかの男は、わしが命じて大目付から内偵をすすめていた人物でな、殺されては調べも一頓挫《いちとんざ》をきたしたという形になった」
筒井は自分もお茶を飲み、それから他言を禁じるぞと前置きして、次のような話をした。
三月ほど前、藩庫の出納をつかさどる元締小宮山作内から、筒井に驚くべき不祥事が報告された。藩庫から二千両の金が消えているという報告だった。
小宮山は肥った福相の老人だが、筒井にそのことを報告したときには、真青になって脂汗を流していた。元締としての責任もさることながら、自分が疑われはしないかと恐れている様子も見えた。小宮山は、家老の手で調べてくれと言い、その上で金の行方がつかめないときは、それがしが腹を切ります、と言った。
「帳簿に照らしあわせて相違ないことか」
と筒井はまず確かめた。
「相違ござりませぬ」
「外から来た盗賊かの?」
「いや、そうとは思えませぬ」
ご金蔵の外壁、錠はいずれも異状がないと小宮山は言った。
「わしのほかに、誰かにこのことを洩らしたか」
「いえ」
「よし、他言するな」
筒井がそう言ったのは、金を持ち出した者が城内にいるなら、簡単にわかるだろうという気がしたからである。藩庫に出入りする者の数は限られている。元締の小宮山と下役のほかに、勘定組の者二、三名で、それも単独で出入りすることはない。鍵は小宮山が預かっている。
最終的には小宮山を含めて、それだけの人数を徹底して調べれば、犯人はあらわれるだろうと筒井は思った。
小宮山が、まだ青い顔で言った。
「それがしの進退は、いかがいたしましょうか」
「よい。気づかぬふりをしておれ」
と筒井は言った。二千両の金の紛失に気づかなかったのは小宮山の失態だが、しかし強く責めることは出来まいと筒井は思っていた。小宮山は日日の金の出し入れを管理し、その日の帳尻と現金を確かめて、入庫すべき金があれば藩庫の中に納める。だがそのつど、庫《くら》の中の金額を確かめるわけではないのだ。それをやるのは、月の晦日《みそか》の帳簿〆めのときだけである。
筒井はひそかに大目付の服部権兵衛を呼んで、内密の探索を命じた。筒井が事件を内密に扱う気になったのは、犯行がいかにも大胆な点に不審を持ったためである。事は勘定組の者が帳簿を改竄《かいざん》して小金をくすねたというようなものではなかった。どかりと二千両が消えている。
──黒幕がいるな。
と筒井は思った。仲間がいて、黒幕がいる仕事だという感じがした。そしてこの藩内で黒幕などと呼ばれるにふさわしい男といえば、筒井の心あたりでは一人しかいない。
本堂|修理《しゆり》。筒井の若い時からの政敵で、先年まで筆頭家老として権勢をふるったが、いまは藩政から身をひいて逼塞《ひつそく》している人物だった。本堂が失脚したのは、直接には数年前の農政の失敗だが、筒井や次席家老の井戸、中老の藤野などが、陰に陽に本堂追い落としに動いたことも事実である。
本堂はそれで藩政の表面から姿を消した。しかし本堂はそのまま政権から望みを断って、風流に日を送るような人物ではなかった。むしろ事あるたびに藩政にケチをつけ、筒井らに対する敵意を隠さないでこれまで来ている。本堂の強気を支えているのは、藩政を掌握していたころ、藩内に培《つちか》った人脈だった。それは筒井らにもわかっていて、いまでも藩庁の要路にいる者の中から、数人は即座に指を折って本堂派に数えあげることが出来る。本堂は隙《すき》あらば筒井らを排斥して政権の座に返り咲こうとしていた。筒井より五つも年下で、まだ十分に生ぐさい人物だった。
──本堂ならやらせたかも知れん。
筒井はそう疑い、大目付の探索で何が出てくるかを楽しみにした。出てくるものによっては、今度こそ本堂の息の根をとめることが出来る、とも思った。
だが、翌月の晦日が近づいたころ、城中にいた筒井の部屋に、元締の小宮山老人が慌《あわただ》しく走りこんできた。
「金がもどっております」
小宮山は息をはずませ、顔に喜色をうかべていた。筒井はじろりと小宮山を見た。
「間違いないか」
「相違ござりませぬ」
「この前の報告も間違いなかったかと言っておるのだ」
「むろん。もしお疑いならご金蔵までお運びください。つぶさにご説明申しあげます」
小宮山は心外そうに言った。小宮山は六十を過ぎているが、衰えない頭脳には定評がある。信用するしかなかった。
「二千両そっくり戻っているわけだの?」
「さようでござります」
小宮山を去らせたあと、筒井は深く考えこんだ。謎はいっそう深まったが、それで背後に黒幕がいたことはいよいよ確かになったと思った。勘定組の者や、一、二の出納役人に出来ることではなかった。背後に大きな人数が動いている。そして城内から二千両の金を持ち出したり、戻したり出来る者は、いよいよ城内の要所に派閥の人間を温存している本堂のほかに考えられなかった。
「ところで一方の大目付の服部の探索だが……」
と筒井は俊之助に言った。
「ついに、藩庫に出入り出来、しかもひそかに本堂に会っていた人物をつきとめた。それが蟇目七左衛門だ」
「………」
「持ち出した金が、またそっくり戻ってきたところが解《げ》せんところでな。蟇目を使って、本堂がやった仕事だとすると、そんな大金がなぜ必要だったかが謎だの。それも、そう長いことではない。いっとき必要な金だったらしい。そのあたりを、蟇目をつかまえてただそうと思った矢先に、殺された」
「………」
「言うまでもなく、彼に探索の手がのびていると知った本堂派がやったことだろう。ま、こういう事情でな。調べの道は一たん塞《ふさ》がれたが、謎は依然として残っている。そこでおぬしを呼んだのは、だ」
筒井はじっと俊之助を見つめた。
「染川町のあたりで、近ごろ本堂の息がかかっている連中がしきりに集まっている、という噂《うわさ》がある。気づいておるかの?」
「いえ、いっこうに」
「時どきは本堂修理も姿を見せるらしい。大方はわれらを藩政から追い出せといった相談だと思うが」
筒井は面長《おもなが》の黒い顔に、ちらと苦笑をうかべた。
「連中が、急に元気づいたわけがわからん。どうもこの前の二千両の一件にかかわりがあるように思えてならんが、証拠のないことでな。少し探ってみんか」
「それがしが?」
「そうだ。あのあたりに、あまり馴染みのない人間が、急に茶屋通いをしては連中に怪しまれよう。その点でおぬしはうってつけだ。やってみんか。費用は藩費で賄ってかまわんぞ」
筒井は懐柔するような言い方をした。俊之助は、正直に言ってあまり気がすすまなかった。噂にしか聞いたことがない藩内の政争に、直接まきこまれる形になるのもいやだったし、また無造作に蟇目七左衛門の命を奪ったと思われる相手を探ることに、単純な恐怖心を呼び起こされてもいた。度胸もなく、いざという時の剣術も不得手である。そういう自分が、人の秘密を探るような役目に向いているとは思えなかった。
それに、筒井は誤解しているようだったが、俊之助はそれほど遊び人というわけではなかった。家の中が面白くないために、時おりうさ晴らしに茶屋をのぞいているに過ぎないのだ。
だがそう思いながら、俊之助はこの役目は引きうけるほかはないだろうと観念していた。誰であれ、筒井兵左衛門とむかい合って、命令を拒むことが出来る人間がいるはずがない、という気がしていた。
──しかし、何だな。近ごろはそうも言えなくなった。
染川町から筒井の屋敷に回って、今夜の探索の結果を報告し、屋代町の家にもどりながら、俊之助はそう思った。遊びが面白くなっていた。三日に一度、五日に一度と藩費で通っている間に遊所の水に染まった感じがあったが、ひとつはやはりおもんという女が出来たからだった。近ごろは、どちらが目的で通うのかわからない気がすることがある。家を出るときに、間違いなく胸がはずむ。
むろん筒井にそんな様子を気取られるようなことはしていない。染川町かいわい、ことに近ごろはもっぱら松葉屋で、ひんぱんに本堂派の寄り合いが開かれていた。一度は廊下で、本堂修理本人と擦れ違ったこともある。
俊之助は会合の大よその人数、主だった人間、話の中味など、探り知っただけは全部くわしく報告する。それがどのくらい筒井の役に立っているかはわからなかった。筒井は大方黙って聞いている。
今夜も、筒井が反応を示したのは、これは女中に聞いた話ですがと言って、俊之助が昨夜本堂修理が松葉屋に来て、離れで商人と会っていたらしい、と言ったときだけだった。
「商人?」
筒井は細い眼を、少し見ひらくようにして俊之助を見た。
「その者の名前はわからんか」
「そこまでは」
女中と言ったが、それはおもんに聞いた話なのだ。松葉屋は、筒井の言葉で言えばいわゆる本堂一派にひいきにされている茶屋である。俊之助は直接松葉屋に探りを入れたりすることは控えていた。何かの拍子に、松葉屋の者の口から、会合を探ったりしていることが本堂側に洩れれば、蟇目の二の舞いだという分別はある。
「その商人が誰か、いそいで調べろ」
と筒井は言った。
──これで、また明晩も出かけないといかんことになったな。
と俊之助は筒井の言葉を思い出しながら思った。調べるにはおもんを使うしかなかった。またおもんと会う口実が出来たと思うと、軽く心が浮き立ってくるようだった。
屋代町は、俊之助のように百石から二百石といった禄高の藩士の屋敷が集まっているところである。両側に塀と門が交互にならぶ道を、深夜の月が照らしていた。後に人の気配を感じたのは、その真直ぐな長い道に入って、しばらく歩いてからだった。俊之助の家は、そこから二、三軒先に見えている。
俊之助は振りむいた。武士が二人、五、六間うしろを歩いていた。何となく俊之助は立ち止まった。するとうしろの二人も立ち止まった。立ち止まってから、大柄の方の武士が胸高に腕を組んだのが見えた。顔はよく見えなかった。
──跟《つ》けられたかな。
そう思ったとき、俊之助は総身が冷えるような恐怖を感じた。筒井に探索を言いつけられたとき、いつかこういうことがあるかも知れない、と覚悟はしていたのである。だが現実にそういう場面にぶつかってみると恐怖は格別だった。
俊之助は、足がもつれるような感じで歩き出し、漸《ようや》く門を潜《くぐ》ると、そのまま家に駆けこんだ。すると明かりがさして、茶の間から邦江が出てきた。
「どうなさいました?」
邦江は、上がり框《かまち》に腰をおろして息をはずませている夫を見て、あわただしく膝を折った。
「門の閂《かんぬき》をおろしていない。閉めて来い」
俊之助が言うと、邦江ははいと言って下駄を突っかけて外へ出て行こうとした。その背に、俊之助は声をかけた。
「外に、誰かいるかも知れん。確かめろ」
それにも邦江はつつましく返事をして出て行った。俊之助が玄関の内から見ていると、邦江は一たん外に出て左右を確かめ、それから門を閉めて戻ってきた。
「どなたもいらっしゃいませんが」
「それならよい」
と俊之助は言った。ほっとすると同時に少し不機嫌になっていた。あの二人は、何ということもない通行人だったかも知れないと思いはじめていた。こちらが立ち止まったので、不審に思ってむこうも立ち止まったというふうにも見えたのだ。そう思うと、うろたえた自分に腹が立ち、それを妻に見られたことにも腹が立った。
「さっきは、表でなにかございましたのですか」
茶の間に入ってからも、邦江は心配そうにそっと聞いた。
「なにもない。いいから先にやすめ」
「お夜食は?」
「いらん。おい、それは皮肉のつもりか。勤めで遅くなったわけじゃない。遊んできたのだ。腹を空かして遊んでいる馬鹿がおるか」
「………」
「お茶を持ってきたらあとは構わんでよい。先にやすめ」
邦江は、ちらと夫の顔を見たが、はいと言って台所に立って行った。いつもの表情を殺した顔になっていた。だがそういう顔になると、邦江はどこか魯鈍《ろどん》な女に見えた。はえない容貌《ようぼう》のせいだった。
それでは先にやすませて頂きます、と言って邦江が茶の間を出て行ったあと、俊之助は少し憂鬱《ゆううつ》な気分で、一人でお茶を飲んだ。
──また、やってしまったな。
と思っていた。だが、こういう夫婦の喰い違いの原因が自分にあることもわかっていた。邦江は時どき寄りそって来ようとする。夫婦であれば当然である。だが、その気配を感じると、俊之助の心の中に、邦江の前にぴしゃりと戸を閉めるような気持が働くのである。すると邦江もすっと一歩しりぞいて、さっきのような魯鈍な顔つきになり、挙措は変に馬鹿丁寧になるのだ。そういうことを繰り返しながら、二年経っていた。
──はじめに無理があったのだ。
俊之助は、今夜おもんに話したことを、心の中で苦く思い返していた。いつもこだわらずにいられない思いだった。
おもんに話したように、俊之助は千鶴という女の妹というだけの理由で、畑中家の次女との縁談に乗気になった。俊之助は会わなかったが、母の満尾が会って、帰るといい娘だったと満足気に言った。それで縁談が決まったのである。
だが、祝言《しゆうげん》を前に、仲人の曾根幸右衛門の家に二人で茶を招《よ》ばれ、はじめて邦江を見たとき、俊之助は突然に自分が間違いを犯したことを悟ったのである。つつましいが、醜貌と呼んでいいほど、見ばえのしない顔を持つ女が眼の前に坐っていた。
馬廻組の馬淵才蔵に嫁入った姉を、俊之助は見ている。抜けるように色の白い美人だった。だがその妹は、浅黒い肌を持ち、狸《たぬき》に似た顔をしていた。頬《ほお》がふくれ、口がとがり気味で、びっくりしたような丸い眼で俊之助を見た。その眼が、汚れを知らずに澄んでいることに、俊之助は僅《わず》かに救われた思いをしたが、これは醜婦だという感想は変らなかった。誰かに手ひどく裏切られたような気がした。
「猪谷流を教える西野鉄心をご存じか。邦江どのは、そこの高足《こうそく》での。近ごろは、彼の道場で邦江どのを打ちこめる者がおらんという話だ」
仲人の曾根がそう言ったが、俊之助にはそれもうとましいだけだった。俊之助自身は、一刀流の芳賀道場に五年も通ったが、まったく物にならなかった経歴を持っている。曾根の仲人口は、かえって俊之助の反感をそそり、女だてらにと思っただけである。
しかし、会ってみたら相手が不器量だったという理由で、すでに決まった縁談を取りやめにすることは出来ない。俊之助にも、それぐらいの分別はあった。失望を、俊之助は隠した。誰にも洩らさなかった。
だが隠したために、捌口《はけぐち》を失った不満が内に籠《こも》って、俊之助は邦江に対して心を閉じた。妻との間にひややかな距離を置く習慣が出来た。邦江にしてみれば、夫の底冷たさは理解に苦しむものだったろう。理解できないままに、夫の内側に入りこもうとして傷つき、その繰り返しの中で、やがて自分も傷つくことのない距離を夫との間に置くことを学んだようだった。
近ごろの邦江は、嫁入って来た当時のように、素手で身構えもなく夫に近寄ってくるようなことはない。そして歳月が経っている。
──あれもあわれだが、しかしこの方が気楽だから仕方がない。
冷えた茶をすすりながら、俊之助はそう思った。帰り道まではわずかに残っていた酒気が、すっかりさめていた。惚れていない女に、惚れているふりは出来ない。不運な夫婦だ、と思った。
不意に、茶の間と母の寝部屋の間の襖が開き、寝巻の上に羽織を着た母の満尾が入ってきた。
「これは、母上」
俊之助は居ずまいをただした。
「まだ、お眼ざめでしたか」
「そなたの声が大きいから、眼がさめましたよ」
と満尾は言った。五十前なのに、満尾の髪には白髪が目立つ。俊之助の元服がすんだ翌年に夫を失い、そのあと俊之助が嫁を迎えるまでに、満尾には人に知れない心労の歳月がつづいたようである。そのことが、めっきりふえた白髪と、細面の顔にうかぶきびしい表情にあらわれていた。
「酒が匂いますよ。また茶屋遊びですか」
「は。しかしこれはつき合いですから」
「言いわけは聞きたくありません」
満尾はぴしゃりと言った。ぴんと背をのばし、怒気を含んだ口ぶりだった。
「ひと言、言いたいことがあります」
「はい」
「夫婦の間のことは、親が口をはさむことではありませんが、近ごろのそなたの、嫁に対する仕打ちは目にあまりますよ」
「………」
「夜遅くに、酒の香をさせて帰ってきて、それで一度でもやさしい言葉をかけたことがありますか。それで済むとお思いですか」
「………」
「そなたが、邦江を気に入っていないことはわかっております。でもな、俊之助どの。女子は心ばえですよ。邦江は私が見込んだとおり、申し分ない嫁です。少し眼をひらいてごらんになるとよい」
しかし母上の嫁でなく、それがしの嫁ですからな、と言いたかったが俊之助は我慢した。
「は。おっしゃるとおり、少少気をつけましょう。それよりもうおやすみください。冷えますから」
「あの子は、器量がよくなくてそなたに嫌われていると、知っていますよ。あわれな」
満尾は終りを呟《つぶや》くようにそう言うと、息子に対する腹立ちを隠さない身ごなしで、すっと立って寝部屋に帰って行った。俊之助は、しばらくぼんやりと坐っていたが、やがて行燈《あんどん》を吹き消して茶の間を出た。
廊下を踏んで寝間に行くと、俊之助はゆっくり着物を脱ぎ捨てて、夜具に入った。その間、邦江の身体のふくらみを隠している夜具を眺め、床に入ってからも、しばらく見つめた。
長いこと邦江に触れていなかった。夫婦のそういう在りようを示すように、二つの夜具は離れて敷かれている。邦江が眼ざめているか眠っているかはわからなかった。背をむけた身体のかさと、つややかな髪だけが見えた。
俊之助は首を振って行燈を消すと、枕に頭を落とした。
手洗いに行って、松葉屋のほの暗い廊下をもどってくる途中で、人に擦れ違った。男と女だった。女は男の陰にかくれるようにして通りすぎたが、一瞬俊之助と眼が合った。
──お。
俊之助は思わず立ち止まって、二人の後姿を見送った。すると女の方が戻ってきて、俊之助の前に立った。邦江の姉の千鶴だった。
「内緒ですよ」
と千鶴がささやいた。
「あなたも、邦江には内緒のお遊びでしょ? おあいこね」
千鶴はあでやかに笑うと、軽く俊之助の手を握り、背をむけて去って行った。落ちついた足どりだった。
俊之助は、自分の部屋にもどって、盃に酒をついだが、飲むことを忘れたように茫然《ぼうぜん》と盃を見つめた。
はて、誰かなと思っていた。千鶴の夫馬淵才蔵は、今年の春江戸詰になっている。連れの男は、むろん馬淵ではなかった。長身で風采《ふうさい》のいいその男は、家中の者には違いないが見覚えのない人間だった。
──女は油断ならんものだ。
男の素姓を思い出すことをあきらめて、盃を口に運びながら、俊之助はあらためてそう思った。おあいこね、と言った千鶴のはなやかな声が、まだ耳に残っていた。不倫をみずから告白したともとれる言葉だった。
千鶴は、若いときから家中の若者たちに美貌を噂された女である。それは俊之助が早とちりで見もせずに妹の邦江をもらってしまったほど、文句のない称賛だったのである。
その称賛が千鶴を驕《おご》らせ、いつも誰かに称賛されていないと気がすまない女にしてしまったのかも知れない、という気がした。
──そこへ行くと、邦江は……。
その心配はない、と俊之助は思った。第一あのご面相では、誘う相手もおるまい。俊之助は、邦江に対するとき、なぜか率直になれないいつもの癖で、ひねくれた感想をつけ加えたが、むろんそういうことでないことはわかっていた。
邦江は千鶴とは違い、つつましく生きることを好み、いくらでも物事に耐えることが出来る女なのだ。隙間だらけの夫婦でも、二年もひとつ家の下に暮らせば、そのぐらいのことはわかる。そう思ったとき俊之助は、暗い屋内で突然に光の中に浮かび上がった邦江の姿を見たように思った。だがその邦江は蹲った背を、俊之助に向けて、じっと頭を垂れている。
襖が開いて、おもんが入ってきた。俊之助は盃を置いた。
「どうだ、様子は?」
「いま本堂さまが、どこかの大旦那みたいなひとと二人で、離れに入りましたよ」
「そうか。よく確かめた。ま、一杯やれ」
俊之助はおもんに盃をさした。
「その大旦那だが、見たことがない人間か」
「ええ。でも金持ちですよ。それも並みの金持ちじゃないな。そういうことは、あたしらにはよくわかるんですよ」
「それが誰かわかれば、しめたものだ」
と俊之助は言った。俊之助は筒井家老がなぜか、本堂が城下の商人と接触していることに異常なほど神経をとがらせていることに気づいていた。
「どれ、確かめて来よう。一人じゃまずい。おもんも一緒に来い」
立ち上がりながら、俊之助はそう言った。廊下は懸け行燈のない場所もあったが、客が入っている部屋から洩れる光で、歩くのに不自由はなかった。三つほど角を曲り、やがて二人は離れに入る橋廊下の手前まで来た。
橋廊下を踏んで離れに行くには、決心がいるようだった。本堂が、どこかに見張りでも隠しておけば、すぐに見咎められて騒ぎになるだろう。
離れから女中が出てきたのを、柱の陰に隠れてやり過ごしたあと、俊之助は、なおも暗い庭のあたりに眼を配った。緊張で、足がふるえた。
「よし、行くぞ」
俊之助はおもんの手を握ってささやいた。おもんがそばにいるのが心強かった。いざという時はおもんをだしにして言訳が出来る。二人は足音をぬすんで橋廊下を渡った。離れは二部屋だけで、奥の部屋に明かりがともり、そこから人声が洩れてくる。
手前の暗い部屋にひそめば、中の話をうまく聞きとれそうだったが、俊之助にはそれだけの度胸がなかった。二つの部屋の境目近くまですすみ、廊下に蹲った。さいわい夜空は曇りで、部屋から洩れる明かりが、ぼんやり廊下を照らしているものの、蹲った二人の姿は闇にまぎれている。
胸苦しいほど動悸《どうき》が昂《たかぶ》るのを我慢しながら、俊之助は耳を澄ませた。
「構わんからことわれ。金がないと言えば、それまでではないか」
「しかし本堂さま」
もの柔らかだが、ずしりとひびく声で相手が答えている。
「急にそう手のひらを返すようなことを申しあげては、私どもが怪しまれます」
「まあ、飲め。堺屋」
という本堂の声がして、部屋の中は静かになった。部屋の中は二人だけで、女も呼ばない密談のようだった。
俊之助は、おもんに合図してそっと膝を起こした。俊之助が歩き出したとき、中で本堂がこう言ったのが聞こえた。
「要するにだ。これはどちらにつくかということでな。そうではないかの」
堺屋久左衛門か、と俊之助は思った。堺屋は城下で古い呉服問屋だが、それ以上に海岸の港町に回船問屋の店を持つ富商として知られている。藩では、年年窮屈になる藩財政をまかなうために、城下の富商たちから金を借りているが、堺屋とはことに密接なかかわりあいがあることは、勘定組の者なら誰でも知っていることだった。
離れに堺屋がいたことで、俊之助にも本堂の意図がおぼろげに掴《つか》めた気がした。本堂は、城下の政商と呼ばれる男たちを味方につけ、筒井に対して巻き返しをはかっているのかも知れなかった。
「これは浅見さま」
不意に前に立ち塞《ふさ》がった男が言った。松葉屋の番頭だった。
「こんなところで、何をしておいでです?」
「ああ、番頭か。なに、酔いざましに庭でも見ようかと、ぶらぶら来たところだ」
「暗くて、庭など見えはしません」
番頭はそう言って、疑わしそうに俊之助を見た。
「まさか、あちらにはおいでにならなかったでしょうな」
番頭は明かりが洩れている離れを指さした。
「そんなところに行くもんか」
「それならようござんすが、お人払いを申しつけられておりますから、離れには足を向けないようにお願いいたしますよ」
「心配するな。もう部屋に帰る」
「駒代さんも、気をつけてもらわなくちゃ困るな」
髪の薄い、小男の番頭は、おもんにも文句を言い、二人がそこを離れても、まだじっと二人を見送って立っていた。
本堂修理に閉門、本堂派の組頭《くみがしら》矢島吉三郎、郡代石沢宅蔵、作事奉行大滝吉右エ門に逼塞の処分がくだったのは、俊之助が松葉屋の離れで、本堂と堺屋の密談を聞いてから半月を出ないうちだった。
大目付の服部が本堂の屋敷に乗りこみ、町奉行所の手の者が同時に堺屋を急襲して、本堂と堺屋の間にあった不正の動かぬ証拠を押さえたということだったが、その不正がどういうものであるかは公表されなかった。そして不思議なことに、事件の渦中にいたはずの堺屋に何の咎めもなかったことが、処分を聞いた人びとの噂になった。
「堺屋の船が一|艘《そう》、あと半日で港に着くというところまで来て、嵐で沈んだのが発端だ。堺屋は思い切った大きな商売をするために、船荷の仕入れに無理な借金をしておったのだ。むろん船が到着すれば、金はすぐにも返せる。返済の期限にゆっくり間にあうはずだった。それが船が沈んだために、堺屋は突然に破産の危機に見舞われたのだな。あわてて金をかき集めたが、返済の額には足りない。次の船が入るまでにはひと月近くかかる。そういう時に、本堂が二千両の金を工面して、堺屋に恩を売ったというのが実情だ。のみ込めたかの」
筒井は、呼びつけた俊之助に、自分から長長と説明した。
「藩庫から金を抜きとるなどという不敵なことが出来るのは、本堂以外にない。わしははじめからそう見当をつけておったな」
「………」
「藩政などといえば聞こえはいいが、町人どもから金を借りぬと何も出来ん。そういう世の中になった。従って金を持っている町人を何人握っているかで、執政たる者の器量が計られるということになっておる。わしなどもこれで人知れず苦労をしておるが、本堂の狙《ねら》いも同じことよ」
手ごわい政敵を、再度|屠《ほふ》った興奮がまださめないのか、筒井の舌は滑らかだった。
「それにしても今度は、そなたが本堂と堺屋の密会を探り出したのが第一の手柄だった。そこから奉行所が船の一件を聞きこんできたあとは、一瀉《いつしや》千里での。何の造作もなかった」
筒井はうしろに手を回して、袱紗《ふくさ》包みを手にとると、俊之助の前に押してよこした。
「本来なら加増ものだが、この手柄は公《おおや》けには出来んことでの。ここに五十金ある。受け取れ」
「忝《かたじけな》いことでござります」
「なお、これでそなたとのつながりは切る。本堂を陥《おとしい》れるために、ひそかに密偵を使ったなどと言われたくないからの。人の噂は恐れねばならんものだ。そなたの役目は終った」
筒井の屋敷を出ると、俊之助は家には寄らずに、暗くなった町を真直ぐ染川町に向かっていそいだ。終った事件の中で、いつの間にか武士にあるまじき卑劣な役割を演じてしまったような、割り切れない気分が残っていた。その気分は筒井の最後の言葉で呼びさまされたようだった。
手柄だと言い、金をくれながら、筒井の態度には、俊之助を使って本堂の動きを探らせたりしたことを、誰にも知られたくない様子が見えたのである。つながりを切ると言ったときの、筒井の表情も口調も、ひややかだったのを俊之助は思い出していた。
それは今度の一件が、藩の正義という名目に隠れながら、実際には事件を好機として、筒井が多年の政敵の死命を制したというのが真相だからではないかと俊之助には思えた。筒井が何をやったのか、その全貌はわからないという気がした。そう思うと、その中で嗅《か》ぎ犬の役目を果たし、金までもらった自分の卑しさが浮かび上がってくるのだった。
──汚い金だ。
と俊之助は思った。かりにも藩のためだと思ってしたことが、終ってみると、筒井の権勢欲の手先に踊っていた不快さが残った。
松葉屋について、おもんを呼ぶと、俊之助は荒っぽく酒を飲んだ。酔わなければおさまらないような気分があった。だが酔いは遅く、頭の中に自嘲《じちよう》と筒井に対する憤懣《ふんまん》が、しつこく浮かび上がっては消えた。
「あれも汚いじじいだ」
「え?」
おもんが怪訝《けげん》そうに俊之助を見た。
「誰のことですか?」
「おもんに、この金をやろう」
俊之助は、懐から筒井にもらった金包みを出すと、無造作におもんの手に握らせた。包みをあけてみて、おもんはあっけにとられた顔をした。
「どうなさったんですか、こんな大金」
「安心しろ。盗んできたわけじゃない。お前と二人で、人を嗅ぎまわったご褒美《ほうび》だそうだ」
「ご褒美なら、頂いておけばいいのに。急にこんな大金をくれるなんて、いやですよ」
「いいから取っておけ。おれには用のない金だ」
「もう、ここに来ないつもりなんですか、若旦那」
不意におもんがそう言った。
俊之助は虚をつかれたように、おもんを見た。おもんは表情を失った顔で、ぼんやり俊之助を見つめていた。そうか、そういうことになるか、と俊之助は思った。遊びに来るには金がいるのだ。俊之助はおもんの手を握った。
「そんな顔をするな。また来るさ、自前の金でな。前のように、たまにしか顔を出せなくなるが」
「ほんとですか」
おもんはふっと微笑して、銚子を取りあげた。
「たまにでいいんですよ、来てくれれば。あたしはこれっきりかと思った」
俊之助が腰を上げたのは、五ツ半(午後九時)近い時刻だった。さほど酔っていないつもりだったが、立ち上がると酔いは足腰に来ていて、俊之助は玄関で履物をはくのに手間どった。
「送って行くぞ。待っておれ」
ひと足先に玄関を出たおもんに、そう声をかけたとき、外で心を凍らせるような悲鳴がひびいた。
とび出した俊之助の眼に、白刃を手にした武士と、地面に倒れているおもんの姿が映った。恐怖が、俊之助の足を竦ませた。
松葉屋の玄関は、通りから三間ほどの路地を入ったところにある。男は、その路地を塞ぐようにして立っていた。軒行燈の光が、三十半ばの、長身で険しい顔を持つその男を照らし出している。
「貴公が浅見か」
俊之助を見ると、刀身を懐紙でぬぐい、ゆっくり鞘《さや》におさめながら声をかけてきた。
「おれは近習《きんじゆう》組の遠山左門だ。この女が斬られたわけはわかっているはずだ。だが貴公とは、ここではやらん。果し合いを申しこむ。明日暮れの七ツ半(午後五時)、五間川のそばの一本松で会おう」
「………」
「それとも、いまやるか」
俊之助は首を振った。すると遠山は、うなずくようにして背を向け、足早に路地を出て行った。路地の入口に集まって、こちらをのぞいていた人びとが、ぱっと逃げたのが見えた。
蹌踉《そうろう》とした足どりで、俊之助は屋代町の家にもどった。
「どうなさいました? お顔の色が真青ですよ」
出迎えた邦江が驚いたように言った。邦江は茶の間に入って、手早く俊之助に熱い茶をすすめながら、また気遣わしげに、身体のぐあいでも悪いかと聞いた。
いつもならうるさいだけのその気遣いが、いまは奇妙にあたたかく自分を包んでくるのを俊之助は感じた。果し合いを明日にひかえて、頼れる人間はどこにもいなかった。恐怖にとりのぼせて、俊之助は一度は筒井の屋敷に駆けこもうかとも考えたが、筒井が助けてくれるとは思えなかった。ほかの知り合いの顔を、つぎつぎと思いうかべてみたが、それも筒井と同じことだった。彼らは第一その話を信じないだろうし、信じたとしても、俊之助の狼狽《ろうばい》ぶりを嘲《あざけ》り笑うぐらいが関の山だろうと思われた。
この女だけが、本気でいまのおれを気遣ってくれている、と俊之助は思った。
「明日、果し合いをする」
と俊之助は言った。そう口に出すと、新たな恐怖がこみ上げてくるようだった。
「果し合い? どなたさまと?」
邦江は眼をみはった。
「近習組の遠山左門という男だ」
「明日のいつごろ?」
「暮れ七ツ半。場所は一本松だ」
俊之助は事情を話した。めずらしく邦江に対して素直な気持になっていた。筒井のこと、おもんのことも残らず話した。おもんが斬られたことも話した。邦江はひと言も口をはさまず、少しうつむいたままじっと聞いていた。
「探索というが、半分は女と遊びたさにうかうかと引きうけたことだ。そのツケが回ってきたということだ」
「………」
「逃げても、本堂派の者が討手《うつて》をかけてくることは眼に見えている。立ち合うしかない」
「………」
「遠山という男のことはよく知らんが、おれは刀を振り回すのは得手ではないから、恐らく助からんだろう。こうなれば武士の意地だ。ひと太刀でも斬りつけて死ぬしかなかろう。覚悟をしておけ」
と俊之助は言った。帰ってくる途中、無残に斬られたおもんを考えながら、その覚悟が決まったのである。
寝ると言い、青い顔のままで夫が茶の間を出て行ったあと、邦江は両膝に手を置いたままじっと考えつづけた。
邦江は遠山左門を知らない夫の無智に驚いていた。遠山は江戸で梶派一刀流を修行した剣客で、邦江は一度芳賀道場で遠山の試合を見たことがある。相手は芳賀道場の土屋という高弟だったが、その土屋を竹刀《しない》も触れさせずに軽く一蹴《いつしゆう》した、鮮やかな剣技が眼に残っていた。
──ひと太刀も、とどく相手ではない。
邦江は、なおもじっと考えつづけたが、やがて茶の間の灯を消すと、足音をしのばせて家を出た。
遠山の屋敷は川向うの土師《はじ》町にある。訪《おとな》いを入れると、邦江は暗い玄関に立って、遠山が出てくるのを待った。
「浅見の家内でございます」
邦江がそう名乗ると、遠山は手燭《てしよく》をかかげるようにして、邦江の顔を確かめた。そしてそっけない口調で言った。
「それで?」
「明日の果し合い、浅見にかわって私がお相手申しあげとうございます。ただし、時刻は明日の明け七ツ半(午前五時)」
「それは、また」
と、遠山は言った。
「何か、わけがござるかな」
「浅見は剣術はいたって不馴れな者でございます。果し合いは形だけ。あなたさまのなぶり殺しに合うだけでござりましょう」
「するとなにか」
遠山は無表情に言った。
「そなたの方が剣は出来ると申すつもりかの」
「はばかりながら」
「ことわる」
遠山はぴしゃりと言った。
「女子を相手に果し合いは出来ん。それに浅見に果し合いを申し込んだのは、ほかに理由がある。代役はおことわりだ。浅見にそう伝えてもらおう」
「夫は、私がここに参ったことを存じません」
邦江はそう言い、一歩遠山に近づいた。
「遠山さまは、西野鉄心をご存じでございますか」
「むろん知っておる。一度試合してもらって負けた。稀《まれ》にみる達人だな」
「では西野が編んださざ波の秘剣のことは、お耳にしておられますか」
「聞いておる。だが誰も見た者はない」
「私が、その秘剣を伝えられました」
遠山はなに? と言った。はじめて表情を動かしていた。
「ご新造の名は?」
「邦江。もとは畑中の家の者でございます」
「ほう、それは」
遠山の顔に、しばらくして精悍《せいかん》な笑いが浮かんだ。
「噂に聞いた西野道場の女剣士に会えて、光栄だ。よろしい、さざ波の秘剣を、とくと拝見させて頂こう」
朝霧の中で死闘がつづいていた。双方が傷ついた。邦江は横鬢《よこびん》をそがれ、肩と左腕から血を流していた。そして遠山の傷は右手首の一カ所だった。
だがその一カ所の傷は骨に達して、傷口から白い骨があらわれていた。
──これが、さざ波か。
遠山は、青眼《せいがん》の剣先の向うから、鋭くこちらを窺《うかが》っている女の眼をにらみながら、そう思った。
骨細な女と白刃を構えてむかい合ったとき、遠山はふとあわれな、と思ったのだ。だが斬り合いがはじまるとすぐに、その考えを捨てた。邦江の構えは、容易に遠山の打ちこみを許さない堅固なものだった。そして動きは俊敏だった。
邦江が右|籠手《こて》を狙ってきていることは、斬り合っているうちに遠山にもわかった。だが、避け得ずに斬られた。打ちこめばその瞬間に斬られ、ひくと女はすばやく踏みこんできて、やはり籠手を打った。その攻撃は執拗《しつよう》をきわめた。小さな波が岩を洗い、長い年月の間に、そこに穴を穿《うが》つのに似ていた。
浅く軽い打ちこみが、骨にとどいていた。遠山は右腕がほとんど感覚を失ってきているのを感じながら、一気に勝負をつけるしかないと思った。焦燥で頭が灼《や》けるようだった。
遠山は剣を一気に上段に上げた。が同時に、遠山は低く叫んでいた。右手が柄《つか》を離れ、だらりと下に垂れたのを感じたのだった。影のように女の姿が眼の前に迫り、瞬時に横をすり抜けて行く。遠山は深ぶかと胸を突き刺された感覚に耐えながら、左手一本でその影に向かって剣をふりおろした。
遠山が、数歩よろめいた末に、草の中に横転するのを確かめると、邦江は剣をひき、地面に膝をついた。それから膝でいざって、ほとんど這《は》うように松の根元までたどりつくと、幹に身体をもたせかけた。背後で川の音がした。水を飲みたい、と思ったが、一たん坐りこむと、手傷と疲れで身体は石のように重くなった。邦江はあきらめて眼を閉じた。
邦江の書き置きを見て、俊之助が一本松に駆けつけたとき、邦江は松の幹に上体をもたせかけ、足を前にのばしたまま、深く首を垂れていた。死者のように見えた。ようやくのぼった朝日が、岸の露をきらめかせ、静かに邦江にさしかけていた。
「邦江」
俊之助が、ひたひたと頬を叩くと、邦江はようやく眼をあけた。そして微《かす》かに笑った。俊之助が見たこともない、美しい笑顔だった。
「ひどい傷だ」
俊之助は、邦江の身体から鉢巻と襷《たすき》を取り、草鞋《わらじ》のように紐《ひも》でくくりつけた草履《ぞうり》をとった。そして慎重に邦江の身体を動かしながら、背にのせた。
「死ぬな」
ちらと遠山の死体を一瞥《いちべつ》して歩き出しながら、俊之助はそう言った。遠山が死に、邦江が生き残っているのが、奇蹟としか思われなかった。
背中で邦江が呟くように何か言った。
「え? 何と言った」
「家へ、帰りましたら……」
「うむ」
「去り状を頂きます」
「馬鹿を申せ」
と俊之助は言った。だが、邦江は長い間このひと言を言いたいと思ってきたのだな、と思った。それが、いまやっと言えたのだ。
「これまでのことは許せ。おれの間違いだった」
邦江は答えなかったが、俊之助は首に回した邦江の手に少し力がこもり、首筋がおびただしい涙で濡《ぬ》れるのを感じた。
「仲よくせんとな」
俊之助は自分にも邦江にも言い聞かせるようにそう言い、傷にひびかないように、そっと妻の身体をゆすりあげた。背中の邦江の身体が重かった。快い重みだった。
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悲運剣芦刈り
「嫂上《あねうえ》」
手燭《てしよく》を片手に、部屋を出て行こうとしている卯女《うめ》の背に、曾根|R次郎《げんじろう》は低く声をかけた。卯女が足をとめた。
「このようなことは、今宵《こよい》で終りにしていただきますぞ」
低い声に、力をこめて言った。卯女は襖《ふすま》に手をかけて聞いていた。手燭の光が、薄ものの寝巻の上からもあらわな腰のふくらみを照らし、跣《はだし》の足を照らしている。解けた髪が背に流れて、しどけない姿だった。卯女のその姿に、道ならぬ情事の罪深さをみる気がして、R次郎は微《かす》かに身顫《みぶる》いした。気持はさめていた。
「でないと、破滅が来ますぞ。嫂上にも、それがしにも。むろん曾根の家にもです」
卯女がちらりと振りむいてR次郎を見た。童女めいた白い顔に、微かな笑いが浮かんだように見えたが、卯女は無言で襖をしめて去った。襖の隙間《すきま》に、淡い光がしばらくただよったが、やがてそれがふっと消えて、R次郎は闇《やみ》の中にとり残された。
R次郎は、床の上に荒荒しく身体《からだ》を倒すと、深い吐息をついた。卯女に言ったことが、ほとんど何の意味も持たなかったことを感じていた。
──どうなるのだ。
R次郎は、闇の中でみじめに暗い顔になった。
曾根家の当主である兄の新之丞《しんのじよう》が病死したのは、一年と三月《みつき》ばかり前である。妻の卯女と子供が残された。だが子供は二歳の女児だったので、親戚《しんせき》がより集まり、部屋住みで家にいたR次郎を後つぎに定めたのは、当然の措置と言えた。
親族の寄り合いは、ついでに、卯女は亡夫の一周忌が済んだら曾根家を去って、実家にもどること、女児は曾根家に残し、R次郎の養子とすることを決めた。卯女はR次郎よりひとつ年上の二十二で、実家に戻っても十分再嫁出来る年だった。
それにしても、寄り合いの席で、寡婦《かふ》になった卯女に義弟のR次郎を配して家をつがせるという、世間によくある話が、まったく出なかったのには理由がある。R次郎に、すでにさだまる許嫁《いいなずけ》がいたからである。
R次郎は曾根家の部屋住みだったが、城下で四天流を教える市子《いちこ》典左エ門の高弟で、藩中で五指に数えられる剣客だった。R次郎の剣名が知れわたったのは、十九の時に藩主|右京《うきよう》太夫《だゆう》の前で行なわれた練武試合で、鮮やかな五人抜きを演じてからだが、この試合は、R次郎に思いがけない幸運をもたらした。この試合のあと、藩から五石二人|扶持《ぶち》で、別に家を立てるように内示が出たのである。
兄が病死したとき、R次郎は家を出て別家を立てる直前だったのである。住む家もほぼ決まり、配偶者となるべき女も決まっていた。作事組に勤めて七十石を頂く石栗麻之助の妹|奈津《なつ》である。
兄の死で、R次郎の運命は急変し、百十石の曾根の家を継ぐことになったが、石栗奈津との縁組みはむろん生きている。親族がくだした決定に、R次郎も卯女も何の異議もさしはさまなかった。
R次郎に、嫂《あによめ》を気の毒だと思う気持がなかったわけではない。兄の新之丞はもともと病弱のたちだった。病弱の夫につかえて苦労し、その甲斐《かい》もなく、今度は突然の死に遭って、実家にもどされる卯女の不しあわせを考えると、心が暗くなった。美貌《びぼう》でもの静かな嫂に、R次郎は好意を持っていた。
だが親族の寄り合いは、どのような形が、当主を失った曾根家を継承させて行くのにいい形かを決めることである。彼らはその論議に二晩をついやした。その中には、むろん卯女を実家にもどすことの可否についての論議も含まれている。論議の末に、彼らは前のような措置を決め、当主を失った曾根家を存続させるもっともいい方法を決めたことに安心して、それぞれの家に帰って行ったのである。決めに従うほかはなかった。
卯女も、その決めに不満を抱いたようには見えなかった。若くして寡婦になった武家の女がたどる、ごくありふれた道を、卯女もたどろうとしているようにみえた。葬儀があり、親族の寄り合いがあった前後から、卯女は痩《や》せ、白い肌は艶《つや》を失った。しかし百カ日を過ぎるころ、卯女は顔色を取りもどし、少しずつ身の廻りの整理をはじめたようだった。
とはいえ、卯女はまだ主婦の座を誰かに譲りわたしたわけではなかった。R次郎は跡目をついで城勤めをはじめたが、許嫁の奈津を迎えるのは亡兄の一周忌が済んでからと決まっていた。
曾根家には、住みこみの女中と通いの老僕がいる。この二人にあれこれと指図し、城勤めのR次郎を送り迎えして家事を取りしきっているのは、依然として卯女だった。いままでの家族の中から、新之丞という男が欠けただけの日常が、曾根家につづいているようだった。正式に跡目をつぐと、卯女は義弟に対する言葉遣いを改めたが、R次郎はそれになじめなかった。長い間の習性で、R次郎は、わずかひとつ上でしかない嫂を、数歳年上の女性のように敬愛する心が改まらなかったのだ。曾根家の日常は、平穏に保たれていたのである。
その日常が、一度に破綻《はたん》した夜のことを、R次郎はいまも忘れることが出来ない。卯女が、自分からR次郎の寝間に忍んできたのである。そしてR次郎がなお驚いたのは、翌朝の卯女が、昨夜の痕跡《こんせき》を毛筋ほどもとどめない、完璧《かんぺき》な曾根家の主婦だったことである。
武家を縛る規矩《きく》も、踏みこえてしまえばあっけないものだった。そして一度踏みこえてしまえば、そこには男と女がいるだけなのをR次郎は知った。むろん罪が匂い立つような行為だった。だがその罪は、眼もくらむほどあざやかな色に染まってもいたのである。かつて嫂で、まもなく他人になる魅惑に満ちた女に、R次郎は溺《おぼ》れた。
しかし人に秘めた情事は、亡兄の一周忌が過ぎれば、そのときに終るとR次郎は思っていた。そして、多分卯女もそのつもりでいるはずだと考えていたのである。ところが一周忌が済んでも、卯女は出て行く気配を見せなかった。そして早くも三月たっている。
卯女が何を考えているかは、R次郎にはわからなかった。男と女が睦《むつ》みあう一刻の闇の中で、卯女はいつも、はじめから終りまで無言だった。その気持は、R次郎にも痛いほどわかった。行為は、ひとことも言葉をかわさないことで、辛《かろ》うじて罪悪感から切り離されていたのだ。
とはいえ、言葉で確かめなくとも、卯女はこの道ならぬ情事を終らせる時期を十分に心得ているはずだった。卯女は、この情事を二人のほかの何びとにも覚《さと》らせることなく、終らせるだろう。そう思うR次郎の心の中には、不思議なことに、依然として聡明な嫂に対する信頼が生きていたのである。
だがその時期が去って、三月たったいまも、平然と寝間に忍んでくる卯女を、R次郎は、いまはある恐れなしには迎えることが出来ない。情事が、賢く、落ちついているはずの卯女に、分別を失わせたかも知れないという恐れだった。
夜具の中に、女が残して行った肌の香がただよっている。それは、まぎれもない一人の女の匂いだった。迎えれば、あとは狂うしかない、魅惑に満ちた身体が残して行ったものだった。
ひとり闇の中で眼をあいていると、女の残り香から、破滅が匂ってくるようだった。一周忌が済んでも、いっこうに実家にもどる様子がない卯女に、まわりではまだはっきり口に出しては言わないものの、次第に奇異の眼を向けはじめている。
──当然だ。
とR次郎は思う。さっき寝間を出て行くとき、卯女が微かに見せた笑いを思い出したが、それがどういう意味なのかはわからなかった。
R次郎は、荒荒しく寝返りを打った。四肢には、情事のあとの気だるさが残っていたが、眼は冴《さ》えるばかりで、眠れそうもなかった。
仲人役の堀田嘉兵衛が指名した小料理屋に行くと、出迎えた女中が、心得顔に奥のひと間に案内した。
「おう」
部屋に入ると、R次郎は思わず声をあげた。部屋の中に、許嫁の奈津が、つつましく膝《ひざ》に手を置いて坐っていた。
「しばらくでございました」
女中が、ただいまお茶をお持ちします、と言い残して部屋を出て行くと、奈津は顔をあげて懐かしそうに挨拶《あいさつ》した。十八の奈津の顔には、ひさしぶりに顔を合わせた喜びが、素直に出ている。その微笑がR次郎にはまぶしかった。
「しばらく。いろいろと雑用がござって、ひさしくおとずれもせなんだ」
R次郎は詫《わ》びを言った。だが、まだ不意を打たれた気分が残っていた。城をさがろうとしたとき、堀田が詰所まできて、話があるから先に行っててくれと言って、この店を指定した。
いずれ奈津との祝言《しゆうげん》の話だろうと思い、どう答えたものかと、R次郎は憂鬱《ゆううつ》な気分で来たのだが、そこに奈津本人が来ているとは、夢にも思わなかったのである。話が一そう面倒になる予感がした。
奈津との祝言は、亡兄の一周忌が過ぎたところで日取りを決め、なるべく早く式をあげるという段取りになっていた。そのことで、堀田は一度曾根家をおとずれているが、R次郎はそのときはっきりした返事をしていない。堀田は、今日奈津を同道して、有無を言わせずその催促をするつもりだと思われた。
「お嫂《ねえ》さまも、多恵さまも、お変りございませんか」
奈津は、少し首をかしげるようにして、そう言った。多恵というのが三歳の姪《めい》である。奈津と夫婦になれば、この姪は二人の養子になる。
「変りない」
R次郎は、一瞬固いものを飲みこむときのように、胸がつかえるのを感じながら、いそいで言った。
「そちらは、母御はお丈夫か」
石栗の家は、奈津の父は早く病死して、母親だけだった。
「それが、先日庭で転んで、足を挫《くじ》きましたの。いま祝町の久庵先生に手当てして頂いております」
「ほう、それはお気の毒だ」
「いえ、それほどの怪我でもございません。半月もすれば治ると先生は申しております。その足を挫いたわけが、おかしゅうございますのよ、R次郎さま。母はご存じのとおり、よく肥っておりますでしょ……」
朗らかな声音《こわね》で話しつづける奈津を、R次郎は微笑をふくみながら眺めていた。明るく物怯《ものお》じしない性格は、石栗の家の者に共通していて、婚約がまとまって、二、三度行き来している間に、R次郎はそういう奈津や家族を好ましいと思うようになっていた。
だが、その奈津が、今日は幾分遠く思われるのは、R次郎が人に洩《も》れてはならない情事を知ったせいに違いなかった。喋《しやべ》っている奈津の上に、時おり無口で臈《ろう》たけたひとの姿が重なる。その女にくらべると、奈津は清潔で可憐《かれん》ではあったが、ひどく底浅い女のように思われてくるようだった。
「母はご自分では力があると思っていらっしゃるのね。あの身体ですから、無理もありませんけど」
奈津がそう言ったとき、部屋の外で女中の声がし、襖が開いた。そして女中の後から、堀田と奈津の兄麻之助が入ってきた。
「だいぶ、話がはずんでおるようではないか。けっこう」
堀田は無造作に床の間を背にして坐りながら言った。堀田は病死した兄の上役で、勘定組に勤めている。五十近い老練な藩吏で、こういう場所の酒も飲みつけているらしく、くつろいだ姿に見えた。
麻之助も、他意はなさそうな顔で、R次郎と短い挨拶をかわした。R次郎より二つ三つ年上のはずで、豊かな頬《ほお》や、細い眉《まゆ》のあたりに、奈津に似た面影がある。
女中が膳《ぜん》を運び、行燈《あんどん》に灯を入れて行くと、まだ庭をむいた障子に夕あかりが残っていた部屋が、一ぺんににぎやかな夜の空気に変った。
「しばらくぶりの顔合わせじゃな。まず一献《いつこん》参ろう」
堀田はそう言って、物馴《ものな》れた調子で酒をすすめた。R次郎も軽く盃を重ねたが、この部屋に入ったときからある、胸がつかえたような気分は、重くなるばかりだった。
「さて、今日の話というのは、だ」
軽い酔いが行きわたったところで、堀田は城の話をやめて、少し改まった顔になった。R次郎はさっと胸が冷えるような気がした。向かい合う席にいる奈津が、うつむいたのが見えた。
「はっきり申して、だ。祝言がいつごろになるのか、さっぱりわからんと、石栗では心配しておる。そうだな?」
堀田は麻之助を見た。
「さようです」
麻之助は短く答えて、じっとR次郎を見つめた。
「その件については、だ。わしが新之丞どのの一周忌のあと、つまり春先に曾根の家に参ったとき、その日にちを決めるのは、卯女どのが実家にもどる日にちが決まってからにしてくれ、出て行くひとを追い出すようでは心苦しいと、確かにそう申されたな、R次郎どの」
「いかにも」
「わしはもっともだ、と思った。そのぐらいの心配りのない者に、奈津はやれん」
堀田は石栗家の縁者だった。
「それにR次郎どのも奈津も、まだ若い。あわてることもあるまいとも思った。しかしそれについては、いずれ曾根の家から何らかのおとずれがあるだろうと、心待ちにしておったが、その後何ともない。あれから三月たっておる」
「………」
「さだめし事情があることとは思うが、待たされる方は気がもめる話での」
堀田が何気なく言った事情という言葉が、不快なとげのようにR次郎の胸に突きささった。
「石栗では、わしにちょいちょいと催促に来よる。先日は奈津まで参っての。心配げな様子が、見てはおられん」
「小父《おじ》さま」
と奈津が言って、さっと顔を赤らめた。
「少し事情を聞かせてくれんか。なぜに、そう遅れておるのか。それとも、そろそろ話をすすめてよいのかどうか。それならそれで、ここで早速に相談をしてもよろしいわけだ。何しろ、石栗の家では用意万端ととのえているだけに、放っておかれると気がもめてならんと申す」
「ごもっともでござる」
R次郎は頭をさげた。
「いまだに祝言の段取りが決まっておらないことは、むろん当方の不始末。重重おわび申しあげる」
「わびはよい。どういうことになっとるのか聞かせてもらいたい」
「堀田さまに申しあげたとおり、嫂をおだやかに実家にもどすのが、曾根の当主としてのわれらのつとめ、また亡き兄の供養でもござる」
よく、もつれずに舌が回るものだとR次郎は思った。その嫌悪感に堪えながら、言葉をつづけた。
「ところが生憎《あいにく》に、嫂の実家では、妹御の縁組みがととのって祝言が間近になっていてござる。嫂はその祝いごとが終ってから、ひっそりと戻りたいと望んでおられます。つまりあわただしく人の出入りする場所に、不しあわせの身をさらしたくない、という気持のようにござる」
卯女の妹が、秋早早に嫁ぐことは事実だった。だが、それについて卯女が、R次郎がいまいったようなことを洩らしたわけではない。
「気ままになされ、とそれがしは申した。われらの婚礼はそのあとでもよろしかろうと考えており申した。堀田さまに、こうした事情を申し上げなかったのは、重重こちらの手落ちにござるが、ありようは申し上げたとおり、いましばらくお待ち頂きたいと存ずる」
「聞いたか。大方事情というものはこうしたものだ。その家その家に、他人には窺《うかが》い知れん事情があるものでな」
堀田は手酌で酒を注ぎながら、石栗兄妹にそう言った。そしてR次郎にも麻之助にも酒をすすめた。
「相わかった。すると大よそは、秋の祝言という見当でいてよろしいかの」
「は。何卒《なにとぞ》そのように」
「じつはな、石栗で心配したのにはわけがある」
堀田が言うと、奈津がはっと顔をあげて、咎《とが》めるように小父さまと言った。だが堀田は手を振って奈津を制した。幾分酔った手つきだった。
「世間というものは、とかくよからぬ噂《うわさ》を立てるものでな」
「噂?」
R次郎は、堀田をじっと見た。
「なにか、それがしの身に噂がござりますか」
「いや、卯女どのがいまだに婚家にいるのは、だ。何か去りがたいわけがあるのではないかという、いわば下司《げす》の勘繰《かんぐ》りめいた噂が、一部にあっての」
「小父さま。そのことはよろしゅうございましょ」
「いや、R次郎どのも知っておかれる方がいい。世間というものは恐れねばならんものだ。嫂君をいたわる気持は見上げたものだが、世間の眼というものも考えねばいかん。ほどほどにということだ」
「相わかりました。しかし、心外な噂でござりますな」
R次郎は言ったが、少し顔が青ざめるのを感じた。
「お気になさらないでくださいませ。私はそのような噂を、少しも信じませんでした」
R次郎の顔色を読んだらしく、奈津がぎごちない笑いをうかべて、そう声をかけてきたが、兄の麻之助は無言でR次郎を見つめているだけだった。
──手を上げたな。
石丸|兵馬《ひようま》の構えを見て、R次郎は眼がさめたような気がした。兵馬ほど努力する剣士はいない。市子道場に入門したのが、二人が十二歳の時だった。
R次郎は早く天分があらわれ、十九の時には藩内でゆるぎない剣名を得たが、そのときには兵馬はまだ免許を得ていなかったのだ。だがそれから三年、ことにR次郎が部屋住みから城勤めに変った一年半ほどの間に、兵馬は免許を得たのはもちろん、それ以上の境地にまで自分の剣を高めたようだった。ゆるみない精進が実を結んで、兵馬の剣は、いま一種の風格をそなえつつあるようだった。立ち合ってみれば、それがわかる。
兵馬は足をひいて、R次郎を誘った。R次郎はその誘いに乗った。相手の力量を、とことん確かめたい気持になっている。誘いに乗って、足を送った。そのとき、退《ひ》いた波が打ち返すように、兵馬の身体が視野いっぱいにふくれ上がった。そして突き刺すような剣が、そこから繰り出されてきた。すばらしい迫力だった。
二人は撃ち合い、どちらも回りこめずに、言いあわせたように横に走り、もう一度撃ち合った。そのとき兵馬の竹刀《しない》が、からりと道場の床に落ちた。
一瞬真剣の試合のように、兵馬はとびはねて間合いをあけると叫んだ。
「あれを遣ったな」
「いや、遣わん」
「嘘つけ。腕がしびれたぞ」
「ふん、わかったならぜひもない。だが先生には内緒だ」
二人はそこで声をあわせて笑い、襷《たすき》、鉢巻をはずし、衣服をあらためた。
兵馬が言ったのは、芦刈りと名づけられる秘剣のことだった。師の市子典左エ門が工夫したこの秘剣を伝えられたのは、過去二人しかいない。神尾|隼之介《はやのすけ》と曾根R次郎。
神尾は、市子が道場をひらいた初期の門弟で、市子を驚喜させた早熟の天才だったが、病弱で、二十年ほど前に病死した人物だった。市子はその秘剣を、R次郎が剣で一家を立てるよう藩の内命をうけたときに伝えた。愛弟子《まなでし》への贈り物の意味があったかも知れないが、市子はR次郎の剣に、死んだ神尾を見ていたかも知れなかった。
芦刈りは不敗の剣と囁《ささや》かれるだけで、誰も見たことはない。火も置かない厳冬の道場で、七夜にわたって伝授した市子と、伝えられたR次郎が知るだけである。
無意識のうちに遣ったその剣を、芦刈りと言いあてた兵馬の上達ぶりに、R次郎は心の中で驚いていた。
「一杯つき合わんか」
市子に挨拶し、誰もいない道場を出たところで、R次郎は兵馬を誘った。しばらくぶりに竹刀をまじえた友人と、じっくり剣の話でもしたかった。町には、たそがれいろがひろがりはじめていたが、このまま家にもどるのが億劫《おつくう》な気分になっていた。
「おごりか」
「むろん、勘定はおれが持つ」
「それではおともするか。このところ、手もと不如意《ふによい》でな。酒も飲んでおらん」
兵馬は大きな声で言った。道を行くひとが二人を振りむいて過ぎた。
「そうか。貴様にはたかってもいいわけだ。おれは依然として部屋住みだが、貴様は一家の主だからな」
「そう、そう」
「それに、むかしおれはずいぶん貴様におごった。その貸しもある」
「それはどうかな」
とR次郎は言った。
兵馬は酒も女も好きで、そのうえ不思議にそういう遊びの金を工面する才覚に長《た》けていた。兵馬の家は八十石もらっているかどうかという家で、さほど裕福な家ではない。まして部屋住みの身が、遊ぶ金があるはずがないとR次郎には思われたが、兵馬は今日は伯父から金をくすねて来たとか、叔母御はおれに甘いから行けば小遣いぐらいは頂ける、とか言ってよく金を持っていた。
兵馬はそうやって、万遍なく親戚を回って何か手伝っては、小金をもらっている様子だった。そして時どきR次郎を飲み屋に誘った。
だが、誘われたR次郎が、そのたびに喜んでついて行ったわけではない。部屋住みの身は、月月兄に僅《わず》かの小遣いをもらうだけである。時には実家に行って来た卯女が、兄にかくれてわずかな金をくれたりしたが、それでも酒色に使う金などはなかった。そういう身分の人間が、深夜酒の香をさせて家にもどることは家の者に憚《はばか》られることでもあったのだ。
R次郎は、時には兵馬の調子のいい口に乗せられ、またさからい難い誘惑に負けて、兵馬の後からついて行くこともあったが、そのたびに、謹厳な兄にする言いわけの言葉に苦労したのである。
「貴様はおごった、おごったと言うが、半分は無理に連れて行かれたという気もするぞ」
「何を言うか。扇屋の花荻《はなおぎ》に惚れられて弱ったとか、結構喜んでいたくせに」
「花荻か。なつかしいな」
R次郎は、部屋住みのころに数度通ったことのある娼妓の顔を、ひさしぶりに思い出した。兵馬のおごりだけでは足りず、兄に内緒で卯女から金をもらって自分でも通った女だ。そのとき、何につかう金かとも聞かず、黙って金を渡した卯女のことも思い出していた。
──兵馬に、打明けてみるか。
不意にそう思ったのは、卯女の白い顔を思いうかべたせいのようだった。堀田と石栗兄妹に会った夜、R次郎は残っている酒の酔いを借りて、彼らが言ったことを卯女にそのまま話した。だが卯女はそれに対しても、それではいつ実家に戻るといったたぐいのことは、ひと言も言わなかったのだ。うつむいて、やはり謎めいた微笑をうかべただけである。
「ひさしぶりにいもり屋に行くか。聞いてもらいたいこともある」
とR次郎は言った。そのときには、この年少からの剣友に、いま抱えている厄介な問題を、残らず話してみたい衝動に駆られていた。
いもり屋は、小さな飲み屋が軒をならべている三島町の、俗にうわばみ小路《こうじ》と呼ぶ小路の中の一軒で、安くてうまい酒を出すので、武家も結構出入りしている店である。
うなぎの寝床のように、どこまでも奥に長い店で、真中の通りみちをはさんで、左側が細かく仕切った上げ床の小座敷、右が飯台、樽腰掛《たるこしかけ》を置いた土間になっている。客は、店を入ると左側の小座敷に武家、右の土間に百姓町人とそれぞれわかれて酒を飲むのが、むかしからのしきたりである。
二人は一番隅の小座敷に落ちついて酒を飲んだ。ひととおり酒を腹におさめてから、R次郎は思いきって言った。
「じつは困ったことになっておる。聞いてくれるか」
R次郎は残らず話した。卯女と道ならぬ交わりを結んでしまったこと、石栗家に催促されていること、すでに六月だが、八月には石栗家に祝言の期日について、返事をしなければならないこと。
兵馬は盃をひかえて、じっと耳を傾けた。酒飲みが集まる時刻になったとみえて、土間の方に人声がざわめき、粗末な壁をへだてた隣の小座敷にも人が入ったらしく、そこからも物を含んだような低い人声が洩れてくる。だが、ざわめきは二人の話をさまたげるほど大きくはなかった。
「そういうわけだ。どうしたらよいか、おれにはわからん。いい知恵はないか」
とR次郎は言った。そう言い終ったとき、自分がひどく卑しい人間になった感じと一緒に、肩の荷を一時兵馬に預けたような、ほっとした気分がおとずれたことも否めなかった。
「うらやましい話だ。そう欲ばらずに、石栗の方の話をおれに譲ってくれんか」
兵馬は盃を取りあげて、ひと口にすすると冗談を言った。筋肉質で眉目《びもく》の涼しいR次郎にくらべ、兵馬は肥り気味で、丸い顔には薄いあばたの痕《あと》が残っている。冗談には、幾分かは婿《むこ》の口をさがしているものの、容姿に自信がない部屋住みの本音が出ていた。
だが兵馬は、すぐにまじめな顔になって言った。
「話はわかった。だがそれははっきりしていることだな。卯女どのを、さっさと実家にもどせばよい。それで片づく」
「それはおれには出来ん。本人が言い出すまではな」
「何をぬかす」
兵馬は汚い言葉を使った。が、顔は笑っていた。
「なぜ出来んか、言ってやろうか。貴様は、真実は卯女どのを去らせたくないと思っているのだ。卯女どのも去りたくないと思っている、多分な。お互いに気を合わせて、相手が何も言わんことをいいことに、一日のばしに日を送っているに過ぎん」
「ばかな」
と言ったが、R次郎は兵馬の言葉で、眼の前に底知れない沼を見たような気がした。その耳に兵馬の声が遠くひびいた。
「おれならもっと手ぎわよくやるところだが、貴様は女を知らんからな。しかしそれで済むことでもなかろうから、厄介なことになったぞ」
「………」
「いずれにしろ、腹を決めることだ、腹を。そうしないと、やがて地獄の沙汰《さた》になるのは眼に見えておる」
石栗麻之助は、R次郎をみると冷たい一瞥《いちべつ》をくれただけで、すぐに背を向け先に立って城門を出た。
その後からR次郎は重い足を運んだ。麻之助が、耳打ちして城門で待っていると囁いたときから、心は水を吸ったように重くなっていた。
多分また、あの噂を耳にしたのだ、という気がした。噂が立つのは当然だった。七月も終りに近づいていたが、卯女はまだ曾根の家にいた。噂には尾ひれがつき、いまは城中くまなく行きわたっているに違いなかった。城の廊下を歩いているとき、向うから来た顔を知らない男が、奇妙な微笑をうかべてしげしげと顔を見て擦《す》れ違ったこともあるし、それまで談笑していた詰め所の人間が、R次郎が部屋に入って行ったとたんに、不自然におし黙ってしまったこともある。そうしたことは、堀田が言った噂が、どれぐらい城中に行きわたっているかを示すものだった。
だがR次郎に何が出来たろう。石丸兵馬と会ったひと月ほど前の夜、R次郎は泥酔して家にもどった。そして茶の間で一人起きて待っていた卯女の前に坐ると、眼を据えて言った。
「夏いっぱいですぞ、嫂上。秋には、この家を去って頂きますぞ」
卯女は縫っていた小袋を膝のそばにおろし、品よく指を唇の前に立てると、しっと言った。その顔には、謎のような微笑が浮かんでいるだけで、R次郎の言葉に動揺したいろは少しも見えなかった。
「ずいぶんお酔いになりましたこと。さ、おやすみなされ」
卯女は、R次郎が言ったことには何ひとつ答えず、それだけ言うと、R次郎を助け起こして巧みに介添えして寝間に運んだが、その夜も、忍んできた卯女を、R次郎は拒むことが出来なかったのだ。むしろいつもにも増して心をこめて卯女を抱いたのはなぜだろう。
麻之助の後から歩きながら、R次郎は手足に気だるい無力感を感じていた。城門を出て濠端《ほりばた》にかかると、連れ立って帰る家中《かちゆう》の者が時どき二人を振りむいた。どこかで五、六人の声がどっと笑い声をあげたのを、R次郎は嘲《あざけ》りの声のように聞いた。
麻之助の足は、小料理屋や茶屋がならぶ染川町の方にむいていたので、どこか飲むところを探しているのかと思ったが違った。麻之助はやや急ぎ足で染川町の途中から、隣町の吉川町に入り、やがて町を抜けて五間川の岸に出た。
町の中はむし暑かったが、川岸に出ると、弱い風が吹いていた。日が落ちた直後で、水面に薄い靄《もや》がただよい揺れているばかりで、人影は見えなかった。川むこうの畑地越しに、遠い街道を行く人の姿が見えたが、その姿は影のように黒く、小さい。
「歩きながら話そう」
麻之助は自分からそう言いながら、不意に立ち止まってR次郎を振りむくと、はげしい口調で言った。
「見下げはてたご仁《じん》だな、貴公は」
「………」
「かねての噂は、まことだそうだな」
「何を証拠にそう言われる」
R次郎はひややかに言い返した。
「証拠? むろん証拠があるから、呼び出してこう言っておる。おすえと申す貴公の家の女中に残らず聞いたと申せば、言うもけがらわしいことを、これ以上口にすることもあるまい」
「そちらがおやりになったことも、べつに見上げたことでもござらんようですな」
R次郎は冷笑した。なぜかふてぶてしい気持がこみあげてくるようだった。
「当然だろう。藩中かくれもない噂を、見過ごすわけにはいかん立場にある」
「それで?」
「婚約は解いていただく。妹を、さように淫《みだ》らなことのあった家に、たとえ始末がついたとしても嫁にやることは出来ん。本日以後、両家は無縁と心得ていただこう」
「承知した」
R次郎はうなずいた。
「ほかにご用がなければ、これで失礼する」
「待て」
背をむけようとしたR次郎を、麻之助は鋭く呼びとめた。
「このままでは、破談の憂き目を見た妹がうかばれん。貴公の醜行は、それがししかるべき筋にとどけ出るつもりだ。そのつもりで」
「それはならん」
R次郎は静かに麻之助にむき直ると、足を踏みなおし、刀の柄《つか》を押しあげた。
奈津との破談はいい。人びとに陰で指さされるのもやむを得ない。だが卯女と二人の間にあったことを、白日の下にさらすことは防がねばならない。あれは闇の中で光りかがやくものであったのだ。日にさらしてはならない。
この男が、それをやると言うなら斬るしかない。そう思ったとき、R次郎はいままであったことの全貌を見た気がした。それはこのように破滅して終るはずのものだったのだ。そしてこの破滅なしには、卯女との間にあったことは終らなかったのだ。
R次郎は、冷静な声音で呼びかけた。
「それをやってはならんぞ、石栗麻之助」
「刀にかけてもとめる、ということかの」
麻之助は言うと、履物をぬいで、すばやく数歩後に退いた。麻之助にも、刀に物言わせたいほどの憤懣《ふんまん》がたまっていたようだった。斬りあう身構えにはいった動きに、ためらいがなかった。二人の男が刀を抜いてむかい合ったとき、五間川の岸は夜の色に包まれようとしていた。
一刻後、R次郎は家にもどると、荒荒しく上にあがって奥の居間に急いだ。そのただならない気配に、卯女が後を追った。
「どうなさいましたか」
「それがし、これから旅に出ます」
あわただしく荷袋に物をつめながら、R次郎は、卯女を振りむかずに答えた。
「なぜ、急に?」
「人を手にかけた」
卯女は息を呑んだ。
「どなたを?」
「相手は石栗麻之助」
それを聞くと、卯女は身をひるがえして部屋を出た。そしてR次郎が上がり口に出て、はばき、草鞋《わらじ》をつけていると、卯女は竹皮に包んだ握り飯を袋につめ、身をかがめているR次郎の懐に、金包みを押しこんだ。
草鞋の紐《ひも》を結んでいるR次郎の背のうしろに坐ると、卯女は膝の上に手を握りしめながら、低く言った。
「いつか、こういう日があるのでないかと、思っておりました」
「………」
「それなのに、あなたのそばを去りがたく、あと一日、あと一日と思いながら過ごして参りました」
「………」
「性悪《しようわる》な女子《おなご》に見こまれたとお思いでしょうね。わたくしを憎んでいますか」
「さよう。すべては嫂上のせいですぞ」
R次郎は草鞋を結び終って立ち上がると、そう言った。だが卯女に向き直った顔は微笑していた。R次郎は、卯女の肩に両手を置いて囁いた。
「石栗の奈津どのを、いとしいと思ったことは一度もござらなんだ。それがしがいとしんだのはこのひとだけです。悔いてはおりません」
卯女を抜き上げるように抱いたとき、卯女の眼から涙が溢《あふ》れ出た。R次郎はその涙を吸った。
「生きていてください。どこかに」
卯女は、うわごとを言うように囁いた。
「あなたが死ねば、わたしも生きてはおりません」
身体をささえていた男の腕が、すっと離れて、卯女の身体は床に崩れ落ちた。卯女は眼をひらき、ひざまずいたままのび上がって外をのぞいたが、眼は戸外の暗黒を映しただけだった。
「曾根が城下を出たのは、昨夜五ツ半(午後九時)ごろと判明した」
と、月番家老の千田|頼母《たのも》は言った。
「おそらく夜の間に関所の近くまでいそぎ、朝を待ってそこを抜けたとみてよかろう。さて、三つある関所のどこを抜けたかじゃが、これは使いを出したゆえ、昼までには知れよう」
ほかの討手《うつて》四人は即刻そろえる。別命あるまで自宅で待て、という千田の言葉を聞いて、石丸兵馬は家老屋敷を出た。兵馬は部屋住みなので、父の弥五左衛門がつきそっていた。
「石丸の家の名誉じゃな、兵馬。しっかり勤めろ」
外に出ると父の弥五左衛門は、さっきから言いたくてむずむずしていたというふうにわめいたが、兵馬は複雑な気持だった。
脱藩者に討手を放つときは、家中から討手を選ぶのが普通である。部屋住みの兵馬が呼び出され、四人の討手を指図して働けと命令されるのは異例なことだった。脱藩した曾根R次郎が、藩中で五指に入る剣客だということを考慮した人選だとすれば、兵馬の剣名がそれだけ知られていることになる。奮起せざるを得ない。
だが相手が曾根R次郎だということは、兵馬の気持を暗くする。あのバカが、ついにやったかという腹立ちもあり、こういう結末を迎えるしかなかったのだろうという同情もあった。家老からいきさつを聞いたとき、兵馬が最初に感じたのは、曾根の運命の傷《いた》ましさだったのだ。
兵馬の心の中を知るよしもなく、弥五左衛門は、まだ騒騒しくわめいていた。
「うまく仕とげれば、お上が扶持をくださるかも知れんぞ。そうなれば婿にやる手間がはぶけるわ」
「父上、おさきに」
「なに、こら貴様どこへ行く」
「道場へ回って行きます」
──しかし藩命は絶対だ。背くことはゆるされん。
父親と別れて、市子道場へ行く道をいそぎながら、兵馬はそう思った。
そう腹を決めたとき、兵馬の脳裏に、こちらの竹刀を一瞬のうちに打ち落とした、曾根の剣技が改めてよみがえってきた。不敗の秘剣芦刈り。それは千田家老に討手を命ぜられ、脱藩者が、ほかならぬ曾根R次郎だと知ったときに、すぐに頭に浮かんで来たものだった。その未知の剣が、次第に重く胸を圧迫してくるのを兵馬は感じた。
のぼりはじめた日が、町の中の木立の梢や、行手にそびえる千証寺の棟の金具を染めはじめていたが、歩いて行く道はひっそりと人気がなく、秋めいた冷えた空気が澱《よど》んでいるだけだった。
潜戸《くぐりど》を押して中に入ると、道場の方から腹にひびくような気合いが聞こえて来た。師の市子典左エ門が、朝稽古《あさげいこ》をやっているらしかった。兵馬は、一度母屋の玄関に歩きかけたが、思いかえして道場の入口にむかった。
思ったとおり、広い道場の中ほどに、木剣を構えて市子が立っていた。兵馬は上にあがると、道場の入口の板敷に坐った。
気配はわかったはずだが、市子は振りむかなかった。兵馬に横顔を見せる姿勢で、凝然と構えている。だが市子が、見えない敵にむかって四肢の隅ずみまで気力をみなぎらせているのがわかった。|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》から顎《あご》にかけて、ひとすじ汗がしたたり、鉢巻の下の白髪はそそけ立つかに見える。
すさまじい気合いが市子の口からほとばしり出て、道場の空気が、ぐゎんと鳴った。見えない敵との間にある数間の間合いを、市子は一挙に詰め、眼にもとまらず木剣を振りおろしていた。腰から上の構えは微動もせず、六十半ばの老人とは思えない滑るような足運びだった。
残心の構えから、ゆっくり足をひいて、やがて見えない相手に丁寧に礼をすると、市子は振りむいて、兵馬に声をかけた。
「早いの。何か用かの」
「は。至急に教えを乞いたいことが出来ました」
「あちらに行くか」
鉢巻と襷をはずしながら、市子は母屋の方を指さした。満面に汗をしたたらせていた。
市子の居間は、若干の石とつつじ、つげ、つばきなどの灌木《かんぼく》だけの簡素な庭に面している。兵馬が討手の下命があったいきさつを話し終ったとき、その庭に忍びこむように朝の光が入りこんできていた。
「………」
市子は黙って聞いていたが、聞き終ったとき眼を暗い光が通りすぎたようだった。師弟はしばらく無言で対座した。台所の方から、さっき茶を運んできた市子の末娘百合が、母親と話している声が聞こえる。その澄んだ明るい声音が、兵馬がいました話にそぐわなかった。
「同門相討つか。しかしそれもやむを得んか」
市子はそう呟《つぶや》いたが、すぐにさっぱりと首を振り、鋭い眼で兵馬を見た。小柄、艶のいい顔、顎にたくわえた白く短いひげは、一見|好好爺《こうこうや》のように見えるが、市子の眼の光はまぎれもない剣客のものだった。
「それで?」
「おたずねしてはならないことを、敢えておたずねします。芦刈りとはどのような剣でござりますか」
「うむ。それを聞くのは当然だの」
市子は言ったが、その顔を一瞬苦しげないろがかすめたようだった。市子はそう言ったまま、放心したように庭を眺めている。兵馬は必死に言った。
「いかがな剣か、それを知らずに立ち合っては、それがしに勝ち目はござるまい。秘剣であれば、伝授して頂きたいとは申しあげません。ただいかような剣であるかをお明かしくだされば、曾根を破る工夫は、自身でいたします」
「芦刈りと申す剣は……」
市子は眼を兵馬にもどした。その顔にはっきり苦渋があらわれていた。いずれにせよ、斬るも斬られるも門弟だという思いが深まったように見えた。
ひたと兵馬を見つめたまま、市子は重苦しい声で言った。
「芦刈りは、立ち合う剣を、ことごとく折る」
「折る?」
「鍔《つば》もとから折る。不敗と申したのは、そういうことだ」
兵馬は、瞬時に竹刀を床に打ち落とした曾根R次郎の剣技を、また頭に思いうかべていた。それが芦刈りだと思った勘は、大きくはずれなかったようだったが、実地の剣には、さらに深い奥行きがあるのが感じられた。
兵馬はふと寒気を感じた。だが真剣がそんなにたやすく折れるものだろうか。
「石丸、道場に来い」
市子が身軽に立ち上がって、そう言った。市子は道場に行くと、竹刀ではなく木剣をあたえた。そして自分も木剣をとって構えた。
「よし、打ちこんで来い」
市子の声に、兵馬は思いきって踏みこんで面を撃った。市子はさがらずにかちりと兵馬の木剣をはねあげた。飛びさがって構えを固めようとしたとき、市子の身体が殺到してきた。かちっともう一度木剣が触れ合ったとき、鈍い音がして兵馬の手はすっと軽くなった。握っていた拳先一寸のところから、木剣が折れ飛んでいた。
「こういうものだ」
剣気をおさめて、だらりと木刀を垂れながら、市子は少し疲れたように言った。
「ありがとうござりました」
兵馬は深ぶかと一礼して、折れた木剣を片づけると、そのまま道場の入口に向かった。すでに曾根R次郎に敗れてしまったような、重い敗北感に打ちのめされていた。
討手は五人。だが五人の討手がかかっても、曾根が伝えられた秘剣がこういうものであるなら、討ち止めることはむつかしいと思われた。兵馬が道場を出ようとした時、市子が遠くから声をかけて来た。
「芦刈りは、不敗ではない。それを破る剣も四天流の中にある」
兵馬が振りむくと、市子典左エ門が足早に道場を出て行くところだった。背を曲げた、老人めいた姿だった。
脱藩した曾根R次郎の居場所が知れたのは、翌年の十月末だった。消息を探しあてるまで、一年以上かかったわけだった。
曾根が江戸にむかったことは、関所、途中の宿駅と足どりをたどって行くうちにはっきりしたが、江戸に入ってからの消息は杳《よう》として掴《つか》めなかったのである。
曾根の後を追った石丸兵馬ら、五人の討手は、一たん藩江戸屋敷に落ちつくと、すぐに探し回ったが、江戸屋敷でも捜索の人数を出した。曾根の居場所を突きとめたのは、江戸屋敷から探しに出ている小者《こもの》だった。
江戸に出た曾根は、すぐにも金に困るはずだと思われた。それで、江戸市中の町道場を虱《しらみ》つぶしに探し回った。道場の手伝いに入りこんでいないかという見込みだった。次には諸藩の江戸屋敷、旗本屋敷などをひそかに回り、最近に雇い入れた者がいないかを探った。だが、一年と三月後に探しあてた曾根は、江戸のはずれの小梅村に、一軒の百姓家を借りていたのである。そこにいる曾根が、何をして喰っているかは、突きとめて来た小者も知らなかった。
曾根の住居には、すぐに監視の人間がつけられた。その間に、急使が国元に走り、事情があって帰国していた討手二人を呼びもどした。
人数がそろって、兵馬ら五人の討手が、小梅村に急行したのは、十一月五日である。監視人の一人が、村はずれまで出迎えた。
「曾根は昼すぎに出かけて、家を空けております。しかし、おっつけもどって参りましょう」
と、その男は言った。江戸屋敷が出した監視人は、中間《ちゆうげん》、小者三名で、彼らは曾根の家がよく見える場所にある、小さな寺院の本堂を借りて、そこから曾根の出入りを見張っていた。
兵馬たちも、その本堂に入り、そこで襷、鉢巻に身を固め、曾根が帰るのを待った。木の葉は、ことごとく散りつくして、疎《まば》らな百姓家の間を縫ってくる道が、あきらかに見えていた。日暮れ前の、澄明《ちようめい》な光が照らしているその道を眺めながら、兵馬はともすれば昂《たかぶ》ろうとする気持を押さえた。
昵懇《じつこん》の剣友と斬り合う気の重さは、依然として胸の中に残っていたが、待っている間に、その気持は次第に薄れて、首尾よく藩命を果すことが出来るかどうかを案じる思いで、胸が固くなった。
だが、曾根R次郎が、その道の上に姿を現わしたのは、翌日の朝だった。兵馬が揺り起こされたとき、狭い本堂の中に、朝の光が射しこんでいた。
「来ますぞ」
兵馬のそばに膝をついた若い小者が囁いた。声がふるえている。兵馬ははね起きた。夜になっても曾根が帰って来ないので、夜の四ツ(午後十時)過ぎから、交替で仮眠した。起こされたのは、最後に眠った兵馬だけで、ほかの者は起きて、本堂脇の廊下から外をのぞいていた。そこに明かり取りの格子窓が一列に並んでいる。兵馬は身ぶるいして立つと、廊下に行って、やはり外をのぞいた。
男が一人、ゆっくりと正面の道を歩いてくる。曾根R次郎だった。さかやきがのび、着流し姿だったが、痩せて色白な顔は遠くからも曾根とわかる特徴だった。寒いらしく、首に襟巻のようなものを巻きつけ、顎をうずめているのも見えて来た。
誰かが、かちかちと歯を鳴らしている。本堂の中も冷えていたが、その音は寒さよりも、近づいてくる決闘の緊張に堪えかねたせいのようだった。
兵馬は横に並んでいる男たちを振りむいた。藩中で遣い手と言われている男たちが、張りさけるほど眼を開き、唇を白くして外を見つめていた。
「行くぞ」
兵馬は男たちに短く言うと、本堂の正面から外に出た。監視役の男たちは内に残り、四人が、兵馬の後につづいた。
曾根R次郎は、家に曲る直前に、兵馬たちに気づいたらしかった。だが生垣を曲らずに立ち止まって、近づく男たちを眺めている。
「よう、石丸か」
近づくと、R次郎は声をかけ、白い歯をあらわした。
「討手は貴様か。上の方にも、人を見る眼はあるとみえる」
「ここで、やるか」
と兵馬は言った。R次郎の変貌に胸を衝《つ》かれていた。R次郎は頬は痩せ、眼の下に病人のような隈《くま》が出来ていた。皮膚は乾き、眼は陰惨な光をたたえて、ひややかに兵馬を見ている。
さっき遠くに眺めたときは、まぎれもなく曾根R次郎だと思ったのに、近くむき合うとまるで別人のように見える。
「いや」
兵馬の気持に気づいているのかどうか、R次郎は、ものうげに首を振った。
「ここは狭い。境内にもどろう」
その声を聞くと、兵馬の後にいた四人は、背をむけて、いっせいに寺の境内に走った。兵馬だけが、R次郎とむかい合ったまま、ひと足ずつ後にさがった。
「ばかに用心深いではないか」
嘲るように、R次郎が言ったが、兵馬は軽くうなずいただけで、用心深く少しずつ後にさがった。R次郎が、こちらが背を見せれば斬る気でいることはわかっていた。兵馬に足を合わせるように、ゆっくりと前に出ながら、R次郎は襟巻をむしって捨てた。襟巻と見たのが、女の桃色の二布《ふたの》なのを、兵馬は眼にとめた。
──味なことをやる。
ふとそう思った。だが、その一瞬の心のゆるみを見破ったように、R次郎が抜き打ちに斬りつけてきた。後に飛んで抜き合わせ、境内に走りこみながら、兵馬は微かな酒の香を嗅《か》いだ。R次郎のいまの暮らしがわかったと思った。
目まぐるしい斬り合いがはじまったが、R次郎を斬り崩すことは出来なかった。そして一人二人と斬られた。市子道場の駿才の腕は、いささかも衰えていなかったのである。
斬られた二人が、地面を這《は》い回っている中で、斬り合いは凄惨《せいさん》さを加えた。兵馬が誘った。R次郎が惹《ひ》かれるように踏みこんだとき、山崎という討手が横から斬り込んだ。
──うまく行った。
そう思ったとき、兵馬は異様な音を聞いた。陶器を打ち割ったような、鋭く耳ざわりな音だった。次の瞬間、山崎の刀が根元から折れ、肩を斬り下げられた山崎の身体が、はじけとぶように後に倒れるのを見た。
──芦刈り、か。
兵馬はするするとさがって、大きく間合いをとった。それから、ゆっくり前に出た。もう一人の臼杵《うすき》という若い藩士は、兵馬が後にさがると自分もさがったが、そこから前に出て来なかった。怖気《おじけ》づいたらしく、遠くで刀を構えているだけだった。
兵馬は少しずつ、足を送って前に出た。R次郎はじっと立っていたが、兵馬が間合いを詰めると、少しさがって足を踏みしめた。はじめから、一分の隙もない、青眼《せいがん》の構えのままだった。
呼吸が合致し、二人は同時に踏みこんでいた。また耳ざわりな音がひびいて、兵馬の刀は二つに折れた。兵馬の丸い身体が、おどり上がるように動いたのは、その瞬間だった。剣を折らせると同時に、兵馬はさきに鯉口《こいぐち》を切っていた小刀を抜いて、必殺の一撃をR次郎の頸《くび》に叩きつけていたのである。
擦れ違う兵馬の胴を、R次郎の摺《す》り上げる剣が薙《な》いだ。だが、その剣先はわずかに遠く、兵馬の袖《そで》と襷を斬ったにとどまった。擦れ違った勢いをのせて、R次郎は数歩前に走った。そして、そこで立ち止まると、首をねじむけて兵馬を見、膝を折り、横転した。
──先生の、最後のひと言に救われた。
もどってR次郎の死体を見おろし、兵馬は額の汗をぬぐいながらそう思った。四天流の中には二刀を使う刀法がある。そのことに思いあたったとき、兵馬ははじめてR次郎の秘剣を破る工夫を掴んだのであった。
R次郎の死顔はおだやかで、少し開いた唇の端に、白い歯がのぞいていた。芦刈りの秘剣を破った兵馬に笑いかけようとしたようにも見えた。
国元にもどった石丸兵馬は、実家にもどっていた卯女が、曾根R次郎を討ち止めたという急便が城にとどいた夜、自害したことを知った。その知らせは、R次郎を倒したときよりも、さらに兵馬の気持を暗くした。
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宿命剣鬼走り
戸が倒れるような物音がし、間もなくただならない人の叫び声がした。若党の宗助の声である。方角は客を迎える玄関ではなく、土間がある表口の方だった。そこに若党部屋がある。
宗助の声は、隠居部屋にいる小関十太夫の耳にとどいた。
二百石の小関家は、もともと八十坪からある広い構えの家だが、十太夫が数年大目付を勤めた時期に、さらに乾《いぬい》の隅に二間を足し、そこに人を入れて政務を見た。
二年前に大目付の職をひき、家督を総領の鶴之丞《つるのじよう》に譲って致仕《ちし》すると、十太夫はその二間を自分の隠居部屋にあてた。表口からはもっとも遠い場所だが、宗助の声も、つづいて家の者が起き出す気配も聞こえた。
十太夫は、寝もやらず読みふけっていた漢籍を閉じて眼をあげ、しばらく耳を澄ませてその気配を聞こうとした。
何が起きたかはわかっている。伊部|帯刀《たてわき》の伜《せがれ》伝七郎との果し合いにのぞんだ鶴之丞がもどって来たのだ。八ツ半(午前三時)ごろ、十太夫は鶴之丞がしのびやかに屋敷を出て行く気配を聞いている。もどって来たというのは、果し合いに勝ったということだろう。たとえ手傷を負っていようとも。
表口の騒ぎが大きくなった。誰かを叱咤《しつた》するような、次男の千満太の声がひびいて来る。そして廊下に、小走りな足音が近づいて来た。足音は襖《ふすま》の陰にうずくまると、お目ざめでございますかと聞いた。妻の浅尾の声だった。
十太夫が入ってよいと言うと、浅尾はあわただしく襖をひらいた。浅尾は血の気がひいた顔をしていた。
「お前さま、鶴之丞が……」
「わかっておる」
「………」
「あれは、果し合いに行ったのだ」
「あの、お前さま……」
絶句した浅尾にかまわずに、十太夫は行燈《あんどん》の灯を吹き消すと廊下に出た。時刻は七ツ半(午前五時)を過ぎたろう。その時刻の青白い光が、廊下に漂っていた。
歩き出した十太夫の背に、廊下に坐りこんだままの浅尾が、溜《た》めた沈黙を一気に吐き出すような声で呼びかけてきた。
「なぜ教えてくださらなかったのです。鶴之丞は、お前さまだけの子ではありませんよ」
「傷は深いか」
「あの子は、死にました」
斬りつけるような、鋭い声だった。十太夫は足をとめて振りむいた。浅尾は、板の間にぺたりと坐ったまま、みじろぎもせず十太夫を見つめていた。髪は乱れ、目ばかり鋭く、狂ったともみえる姿だった。取り乱すなと言おうとしたが、十太夫は思い返して黙って背をむけた。
鶴之丞の遺体は、茶の間に運びこまれていた。若党の宗助と女中のおりくが、廊下に坐って泣いていた。そして遺体のそばには、鶴之丞の妻|卯女《うめ》と、次男の千満太、千満太の妹の美根がよりそっていて、卯女と千満太は、遺体から血に濡《ぬ》れた鉢巻と襷《たすき》をはずそうとしていた。鉢巻も襷も濡れて結び目が固くなり、二人は解くのに苦労していた。
十太夫は、立ったまま遺体を一瞥《いちべつ》すると、仏壇の前に行って、そこに置いてある鶴之丞の刀を取りあげ、鞘《さや》をはらった。はげしく斬りむすんだ痕《あと》が、刀身に刻まれていた。刃はこぼれ落ち、刀身には血がこびりつき、柄《つか》もぐっしょりと血を吸っている。
「相手は誰ですか?」
千満太が振りむいて言った。千満太は、声にも顔にも、敵意をむき出しにしていた。
「伊部の伜だ」
「尋常の果し合いですか?」
「そう申しておった」
十太夫はそう言うと、はじめて遺体のそばに坐った。そして、眼で傷を数えた。おびただしい傷だった。鶴之丞の着ている物は、襤褸《ぼろ》のようだった。斬り裂かれた場所からにじみ出た血が、まわりを染め、乾きはじめていた。おそらく家に帰りつくまでの間に、鶴之丞の血は、半ばその身体《からだ》から失われただろう。
十太夫は、死者の青ざめた額を軽く撫《な》でながらつぶやいた。
「死力を尽したとみえる。伝七郎も、生きてはおるまい」
十太夫は、いまごろは果し合いの場所である柳の馬場に駆けつけて、やはり死んだ息子の額を撫でているかも知れない男のことを思った。十太夫のつぶやきの意味を、千満太も理解したらしかった。はっと顔色を動かすと、うつむいた。
鶴之丞が、果し合いのことを打明けたのは、昨日の夕刻、城からさがって来るとすぐだった。
十太夫は理由をたずねたが、鶴之丞は微笑して、武士の意気地でございます、と言っただけだった。長身|白皙《はくせき》の美男子だが、鶴之丞は極端に寡黙な男だった。しかし軽率な人間ではない。相手が伊部帯刀の伜と聞いて、十太夫は衝撃をうけたが、それ以上は問わなかった。
鶴之丞は小関家の当主である。そのことを十分承知でした当人の決断に、口をはさむつもりはなかった。
そして、伊部伝七郎は藩中に剣名の聞こえた男だが、鶴之丞も、かつて十太夫が研鑽《けんさん》を積んだ、面影町の岸本道場で、一、二と言われる剣士である。めったにおくれはとるまい、とも思ったのである。
だが、結果は相討ちの形になったらしい。若者のころ、わしと帯刀が、甲乙つけがたい剣技を競ったように、だ。十太夫は顔をあげて妻と娘に言った。
「鶴之丞を奥に移す。夜具を支度いたせ」
「あ、それは私が……」
と卯女が言った。だが卯女は立ち上がると急によろめいた。
卯女は容貌《ようぼう》も人眼を奪うほど美しい嫁だが身体が弱く、そのためにいっそうはかなげな美しさを身のまわりに漂わせているような女だった。血の色が透けて見えるような、薄い皮膚をしている。小関家に嫁入って来て、四年近くなるのに子が生まれなかったのも、繊弱にすぎる身体のせいだと、みんなに思われていた。
夫の突然の死は、そういう卯女にしたたかな一撃をあたえたようだった。卯女が畳に崩れ落ちる一瞬前に、太い腕を出して千満太がささえた。
卯女は千満太の腕を押しもどして、自分で立とうとしたが、立ち上がれずに青ざめた額に汗をにじませた。
「よい。卯女は部屋にもどって、ひと休みいたせ」
十太夫は言い、美根にむかって、卯女を介抱するように言いつけた。そして宗助には、円徳寺に行って理由は言わずに住職にご足労願って来い、と命じた。小関家の空気はにわかにあわただしくなった。
そのころ、屋敷の樹樹の間を縫って、晩夏の朝の日射しが小関家の上にどっと射しこんで来たが、家はその光の中で、いつまでも不吉に暗く見えた。
一刻半《いつときはん》ののち、ひそかに供養をすませた菩提寺《ぼだいじ》の鉄明和尚を玄関に見送ってから、十太夫は隠居部屋に引き揚げた。
隠居部屋は、以前執務部屋として使ったので、水屋もあり隅には厠《かわや》もついている。十太夫は水屋に降りてひげを剃《そ》った。それから部屋に上がって着換えをはじめた。
そのとき浅尾が入って来た。浅尾は部屋の入口に坐って、着換えている夫を眺めたが、立って来て手伝おうとはしなかった。
数年前、まだ大目付の職にあったころ十太夫は市中に妾《めかけ》を囲った。るいという名の若い町家の女だった。そのころから夫婦の間に静かな亀裂が生まれた。もの静かで柔和な女だった浅尾は、そのことを知ってから時おり刺すような物言いをするようになり、少しずつ夫の身の回りから遠ざかって行った。
るいは二年前に病死して、十太夫の妾宅《しようたく》通いもやんだが、夫婦の間は、もとにはもどらなかった。浅尾の妬心《としん》は、相手を失ってかえってやり場なく内に痼《しこ》ったかも知れなかった。二人の仲は、むしろ以前にも増して冷えた。
同じ家の中に住んで、夫婦はほとんどべつべつに暮らしていた。顔が合っても、用がなければ言葉をかわさない日が珍しくなかった。着換えている夫を、眺めている、ひややかな妻の眼に、日ごろの夫婦の荒廃があらわれている。子を失った朝も、寄りそうことの出来ない夫婦になっていた。
十太夫が袴《はかま》をつけ終るのを待って、はじめて浅尾が声をかけた。
「どちらまで、お出かけになりますか」
「城へまいる」
「………」
「鶴之丞の死は伏せて、病気の届けを出さねばならん。そして千満太にこの家を継がせる。その手続きをして参る。万一のことがあった場合はそのように、と鶴之丞が申し残したことじゃ」
「鶴之丞とお前さまは……」
浅尾はきっと顔をあげた。
「そこまで申し合わせておいでだったのですか。私にはひと言のお話もなく」
「届け出る前に……」
十太夫は、爪《つめ》を立てて来るような妻の語気にはかまわず言い足した。
「能勢さまにお会いして行くつもりだ。あの方がうまくはからってくれるだろう」
十太夫は次席家老の名を口にしたが、浅尾はその声が耳に入らなかったように、もう虚《うつ》ろな表情にもどっていた。
「あの子をどうなされます?」
「……?」
「卯女どののことです」
「卯女は子もおらず、あのとおりの病身じゃ。家の中が落ちついたら、実家に引き取ってもらうしかあるまい」
「あわれな」
浅尾はつぶやいた。そしてつぶやくような声のままつづけた。
「鶴之丞は、なぜ果し合いなどに出向いたのであろ。お前さまは、わけをご存じなのですか」
「いや、わけは言わなんだぞ」
「それでよく出しておやりになりましたな」
浅尾はねっとりとした声音《こわね》で絡んだ。
「私に打明ければ、果し合いなどにやりはせなんだものを」
ばかな! と十太夫は心の中で舌打ちした。鶴之丞は分別のそなわった二十五の男子で、しかも小関家の当主である。たとえ母親が泣いてとめたところで、一たん約束した果し合いを思いとどまるわけがない。
浅尾にはそういうことがわからず、いつまで経っても子供は子供と思い、その気持の中には、ときに幼児に対するような感情がまじるらしかった。
鶴之丞には、卯女が嫁入って来てから、さすがに露骨な口出しを控えるようになったが、千満太や美根には、相変らずこまかく世話をやく。表向きは畏《かしこま》って聞いているが、子供たちが母親の干渉を内心うるさがっているのに十太夫は気づいていた。粗暴なところがある千満太などは、返事もせずにぷいと外に出て行ったりする。愚かな女でもないのに、子供の成人するさまが見えぬのかと、十太夫は無気味な気持すら感じることがあった。
だが、今朝の浅尾は、急に四つも五つも老けたようにみえた。四十二という齢《とし》より、いつも若く見られるつややかな肌が、いまは粉を吹いたように不透明に濁り、細面《ほそおもて》の顔に小皺《こじわ》が目立ち、浅尾はまるで老婆のように背をまるめて坐っている。
「そなたの気持は、わからんでもないが、もはや事は終った。あきらめろ」
「………」
「男には、女子《おなご》にわからぬ家の外の暮らしがある。そこでは、おのれが一分を立てるために、男は死を賭《と》さねばならんこともある」
「昔から、ずっとそう言いつづけて来られましたな。男のことは女子にはわからぬと」
「………」
この女が嫁入って来たのは、幾つのときだったかと、十太夫はふと思った。十七のときだ。
「だから、鶴之丞も死んだ。あきらめろとおっしゃるのですか」
「………」
「お前さまのことは、もうあきらめました。今度は、子供をあきらめなければなりませんか」
「しかし、死んだ者は還《かえ》らん。鶴之丞は武士の意地をつらぬいたのだ。しかも勝った」
「でもあの子は、死にましたよ」
十太夫は無言で立ち上がった。まだ何か言うかと思ったが、浅尾は口をつぐんだようだった。
廊下に出ると、香の匂いが強く鼻を打った。喪の家の匂いだった。十太夫は玄関を素通りして表口から外に出た。たちまち灼けるような日射しが、十太夫の頭上に降りそそいで来た。
葬儀が終って、鶴之丞の遺骸《いがい》を墓地に納めると、帰る者はそこから帰った。そこで小関家の男たちと、ごく近い親族の者が四、五人、寺の庫裡《くり》にもどって、寺の者から茶の振る舞いを受けた。
「父上、ちょっと」
遅れて来た千満太が、部屋の入口にうずくまって、十太夫に呼びかけた。そこで済む話かと思ったら、千満太はずんずん先に立って廊下を渡り、本堂に入った。
振りむくと、千満太は噛《か》みつくような顔になって言った。
「伝七郎は生きておりますぞ」
十太夫は無言で千満太を見返した。
「しかも不審なことがあります。昨日鳳伝寺で、今日は万岳院でと二つ葬儀がありました。急死したのは御小姓組の津川春蔵と、作事組の平田の次男孫三郎です。二人とも伊部伝七郎の取巻きですぞ」
「待て。軽がるしいことを申すな」
とっさに十太夫は言った。だが胸が大きく波立った。千満太が何を言いたがっているかはもうわかっている。伊部伝七郎には加勢がいた、と千満太は疑っているのだ。加勢の二人が斬られ、伝七郎が生き残ったと。
──加勢?
鶴之丞は、それを承知で果し合いにのぞんだのか。
「いや、そのようなことは、聞いておらぬ」
カッと眼をむいて、十太夫は言ったが、畏怖《いふ》するような眼で自分を見ている千満太に気づくと、声をひそめて質《ただ》した。
「そのようなことを、誰に聞いたか?」
「たったいま、戸来《へらい》次之進に。戸来は野辺《のべ》送りに来ておりました」
戸来次之進は、馬廻《うままわり》組に勤める男で、鶴之丞とは岸本道場の同門だった。根も葉もないようなことを人に告げて回るような男ではない。
「よし、今夜戸来を家に呼べ。ひそかにな」
と十太夫は言った。そして、このことは人に洩《も》らしてはならんぞと、堅く釘《くぎ》を刺すと、何ごともない様子をつくろって、二人で庫裡にもどった。
十太夫はその夜のうちに戸来に会った。そして千満太に聞いたことを、改めて戸来の口から確かめると、今度は大目付配下の杉戸作之助の家に宗助を使いに出した。杉戸は十太夫が大目付を勤めたときに目をかけた男で、心利いた探索が出来る人物だった。宗助と一緒にやって来た杉戸を隠居部屋に入れると、十太夫は二人きりで深夜まで密談した。
その杉戸が、こっそりと小関家を訪れたのは、それから三日後の夜だった。杉戸は頭巾《ずきん》で顔を隠して来た。
「調べましたところ、お疑いのごときことがあったと思われます」
杉戸はごく冷静な男である。淡淡とそう言った。十太夫は、同席させた千満太と顔を見合わせた。
杉戸は、自分の家の小者《こもの》を使って、津川と平田の家の使用人から事情を探らせる一方、自分は両家の菩提寺である鳳伝寺と万岳院に出かけて話を聞いた。その結果、二人の死者が、刃傷《にんじよう》によって絶命したものであること、また小者の探索によって津川、平田両家で、鶴之丞が死んだ同じ日の明け方、五間川そばの馬場まで死骸を引き取りに行ったことも判明した。
「なお、その朝早く、|禰宜《ねぎ》町の本多という外科医者が、伊部の屋敷に呼ばれ、伊部伝七郎の傷の手当てをしております。伊部の屋敷では、本多にそのことを外に洩らすなと固く口止めしたそうでございます」
十太夫と千満太は、ふたたび顔を見合わせた。杉戸の調べは完璧《かんぺき》だった。鶴之丞は一対一の果し合いのつもりで行ったはずである。だが待っていた敵は、三人だったのだ。伊部伝七郎は、いよいよの時になって臆《おく》して助勢をもとめたのか、それともはじめから騙《だま》し討ちをかけるつもりだったのか、いずれにしろ武士にあるまじき卑怯《ひきよう》を働いたと考えるしかなかった。
「三人だけだろうな」
襤褸のような身体を引きずって、家までたどりついた鶴之丞の姿を思いうかべながら、十太夫は千満太に言った。
「ほかに、加わった者のことは聞かぬか?」
「ほかにはおらんようです」
千満太は青白く、眼が据わった顔で言った。怒ると顔色が青ざめるたちである。千満太の胸には憤怒が渦巻いているに違いなかった。
「この処置を、どうつけるつもりですか、父上」
「うむ」
十太夫は重苦しい顔になって言った。
「いずれにしても、伊部に挨拶《あいさつ》しなければなるまいが、それはわしがやる。そなたは手を出すな」
次席家老の能勢の口ききで、果し合いのことは伏せられ、鶴之丞の葬儀があったその日に、千満太の家督相続が藩から許されていた。
「老婆心ながら、申し添えます」
杉戸が落ちついた声で口をはさんだ。
「津川春蔵、平田孫三郎は、ともに病死の届けを出して認められております。平田は部屋住みで、さしたる障《さわ》りもありませんが、津川は病死ということで五歳の子供に相続が叶いましたので、果し合いの件が公《おおや》けになりますと、津川の家では困惑いたしましょう。いずれにいたしましても……」
杉戸は大目付に附属する人間らしく、形を改めた。
「お気持はさることながら、城下に騒ぎを醸すがごとき行ないはお慎み願いまする」
「わかっておる。心配するな。まさか伊部の屋敷に斬りこみもかけぬ。わしも家を潰《つぶ》したくはないからの」
十太夫は苦笑した。杉戸はようやく三十を越えたばかりだが、もっと若年のころからいまのようにきっぱりしたところがあって、十太夫は、それはそれで杉戸の性格の好もしいところだと思っていた。
伊部帯刀の屋敷の門をくぐったとき、十太夫はある感慨にうたれてあたりを見回した。
岸本道場で帯刀と同門だった十太夫は、子供のころから二十《はたち》過ぎまで、よくこの屋敷を訪れている。大きな建物も、門を入るとすぐ右手に目につく庭も、そのころとさほど変っていないように見えるのが、ふと感慨を誘ったのである。
──ひさしぶりじゃ。
思わず庭の方に足をむけながら、そう思った。伊部の屋敷を訪れることがなくなってから、二十数年経っていた。のみならず致仕するまでの数年、十太夫は大目付として、政敵の立場にある伊部帯刀と死力をつくしてという形容が似つかわしい抗争を演じている。十太夫の致仕が早まった原因のひとつだが、抗争に関してだけ言えば、十太夫は伊部に勝ったという感想を持っている。藩内の陰謀家として聞こえた伊部は、いまは手も足も出ない。手足を|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》いだのは、十太夫である。
伊部との抗争は近年のことで、大目付という職務からいって避け得ないものだったと、十太夫はこれまで思って来たが、いま伊部の屋敷をたずね、見馴《みな》れた庭の隅に立ってみると、また別の考えも浮かんでくるようだった。二人の対立は、近年のことではない。その前に長い疎遠の歳月がある。
──行き来を絶ったのは、いつごろからだったか。
十太夫は、はるかな歳月の向うにある、対立の芽ばえを手さぐりするような眼になった。
伊部の屋敷の庭は、広さも人眼を驚かすが、石が見事だった。城の正面に家中屋敷がならぶ唐物町は、地形が全体になだらかな傾斜になっている。伊部の屋敷はその傾斜の麓《ふもと》にあった。庭の奥にひろがる絶壁のような石の連なりは、伐《き》り開いた傾斜の土の中から現われた自然石のようにも見えるが、実際はやはり、庭師が外から運びこんだものだろう。石は苔《こけ》むし、隙間《すきま》に羊歯《しだ》が生いしげって、山間の岩石に異ならなかった。
水は崖《がけ》の上から引かれていて、植木と巨石に隠された場所に、滝の音をさせている。余った水が絶えず石の肌を濡らし、背後は松や小楢《こなら》が密生するほの暗い林だった。石は広い池のまわりにも巧みに配置されて、池を全体に深山の沼のように仕上げている。十太夫の眼の前で黒い背をあらわした巨大な鯉《こい》が鰭《ひれ》で水面をひと搏《う》ちし、濁った水底に沈んで行った。
一瞬日にきらめいた魚鱗《ぎよりん》を見送りながら、十太夫は、遠い昔に二人が争った乙女のことや、秘剣鬼走りの伝授を争って行なわれた、伊部との壮絶な試合を思い出していた。二人が疎遠になったのは、そういうことがあった後だったかも知れない。それとも、もっと前に、二人がお互いの身分の差に気づいたころからそれは始まっていたのか。
「小関か。めずらしいではないか」
背後に太い声がひびいた。十太夫が振りむくと、縁側に伊部帯刀が立っていた。十太夫よりひとつ年上の五十のはずなのに、髪は黒黒とした惣髪《そうはつ》だった。惣髪、顎《あご》にたくわえたひげ、固肥りの体躯《たいく》、鋭い眼の、どれもが藩政の黒幕と言いならわされてきた人物にふさわしく見える。
だが、帯刀は微笑していた。十太夫の姿を見かけて主人に告げたらしい家士がそばに跪《ひざまず》いている。帯刀は身体を傾けて家士に何か言い、家の奥に去らせるとまた十太夫に笑顔をむけた。
「この庭を見るのは、ひさしぶりだろう」
「さよう。ひさしく見なんだ」
「子供のころは、よく二人で走り回った。貴様があの石から池に落ちたのをおぼえておるか」
帯刀は奥にある、細長く池に突き出している平石を指さした。
「おぼえており申す」
「茫茫三十年じゃな、三十年」
「それがしもいま、それを考えていたところでござる」
十太夫は向き直って、真直ぐ伊部を見た。
「しかし、今日は昔を懐かしむために来たわけではござらん」
「わかっておる」
と帯刀は言った。だが、まだ眼に微笑を残していた。
「さあ、上がれ」
十太夫が玄関の方に引き返そうとするのを、帯刀は制して、ここからでよい、と言った。十太夫は敷石から縁側に上がった。
帯刀は、客間ではなく、自分の居間に十太夫を通した。机のそばに、うずたかく書物が積んであり、丸窓から庭の一部が見える。池に落ちる滝の音が聞こえている。
「いま、古譚拾遺を読んでおる」
古譚拾遺は、二十年ほど前に死歿した藩士、小野甚兵衛光顕がまとめたこのあたりの風土記だった。
小野は長く郡《こおり》奉行を勤めた人物で領内を回る間に、丹念に古記録をたずね、古老の話を採集し、実地の踏査を加えてまとめた記述に、さらに職を退いたあと加筆し、二十巻という膨大な風土記を編んでいた。
「わしも、貴様のおかげでだいぶひまが出来たのでな。こういうものも読めるようになった」
「それは重畳《ちようじよう》」
十太夫は、伊部の皮肉にはとりあわず、さっきとは違う、若い家士が運んで来た茶をすすった。そして形を改めると、ひと息に言った。
「来た用件はわかっておられるだろう」
「ふむ」
伊部は鼻を鳴らした。
「伜どもがした果し合いのことだろう。埒《らち》もないことをやりおった。貴様の伜は、気の毒をした」
「待て」
十太夫は鋭く遮った。
「わしは伜のことを嘆きに来たわけではない。土台、尋常の果し合いなら、貴様に会いに来たりはせん」
「ほう」
伊部は、身分の牆《しよう》を破った十太夫の激しい語気にも動じなかった。平静な眼で、じっと十太夫を見た。
「なにか、果し合いに不審でもあるのか」
「不審とは白じらしい。貴様のおとぼけには、これまでもずいぶんと手こずったが、今度のことははっきりさせるぞ」
「ふん、何を言うやら」
伊部は顔をそむけた。だが向き直ったときには薄笑いしていた。
「文句があるなら申せ。貴様とわしの仲だ。遠慮はいらんぞ」
「伜の葬儀と前後して、御小姓組の津川と、作事の平田の家から葬式が出た。死んだのは津川春蔵と平田孫三郎だ」
「ふむ。それで」
「津川と平田は、貴様の伜の取巻きだそうだから、顔ぐらいは知っておるだろう」
「さあて、知らんな」
「知らぬなら知らぬでよいわ。ともかく二人が伝七郎の取巻きだったことは、家中で隠れもない事実だ。この二人が急死した。それがわしの伜と伝七郎の果し合った夜だったことは証拠が上がっている」
「貴様、大目付の役を退いたと思ったが、わしの聞き違いだったかの」
伊部は皮肉を言い、顔色も動かさずにつづけた。
「それがどうかしたかの」
「申した二人は、貴様の伜伝七郎に助勢したのだ」
「ほう、どうしてわかる」
伊部は平然と言った。
「その二人は、伜どもとはべつに、わけあって果し合いをやったかも知れんではないか」
「その言いのがれは無理だなあ、小三郎」
十太夫は、伊部帯刀の若いころの名を言った。
「証拠を上げたと、わしは申したろうが。わしは、津川、平田の家の者が、その朝五間川そばの柳の馬場まで死骸を引き取りに行ったことまで掴《つか》んでおる。柳の馬場は、伜どもが果し合いを約定した場所だ。貴様の言いのがれは通用せんぞ」
「………」
「伜は、伊部伝七郎と果し合うと申して家を出た。助勢を伏せてあるとは夢にも思わなんだろう。貴様の伜は、卑怯なことをやったものだ」
「しかし」
伊部は丸窓から見えている庭の景色に、じっと眼をとどめたまま言った。
「津川といま一人、誰とかいうその二人は伜にはことわりなしに、忠義立てして鶴之丞に斬ってかかったとも考えられる」
「では、なぜとめん」
十太夫は激しく言った。
「それならば、貴様の伜は、身を挺《てい》して二人をとめるべきだ。伝七郎はそうはしなかったではないか。いや、やるはずがないわ」
十太夫は膝頭《ひざがしら》をつかみ、激して赤くなった顔を前に突き出すと、猿のように歯を剥《む》いた。
「はじめから、津川と平田を助勢に頼んだことはわかっておる。その証拠に、この二人は伜と存分に斬り合って死んでおる」
「………」
「待て、待て」
十太夫は、不意に顎を引いて、伊部帯刀をじっと見つめた。
「そうか。助勢は貴様がつけたのか、伊部」
「何を言うか」
「ふむ。一人息子の命惜しさに、そうしたか。なるほど、貴様ならそれぐらいのことはやりかねんな」
「バカを申せ」
伊部は一喝したが、その顔には狼狽《ろうばい》も怒気も動いていなかった。伊部はふてぶてしく薄笑いしていた。
「それで? つまりはどうせよと申すのだ、十太夫」
「伝七郎に腹切らせろ」
十太夫は咆《ほ》えた。声はおそらく屋敷の中にひびきわたったはずである。だが、伊部の広い屋敷はひっそりしていた。
「そうすれば、今度のことは不問に付してやってもよい」
「ふむ。いやだと言ったら?」
伊部の声はひややかだった。
「いやなら今度のことを洗いざらい公けにするまでよ。大目付に告げ、裁きを頂く」
「貴様、そんなことをやれば、どういう始末になるか承知しているのか」
「むろん、承知しておる」
「家が潰れるぞ。貴様の家だけじゃない。津川の家も平田の家もだ」
「いや、津川、平田は、事情が明らかになれば咎《とが》めはあっても潰れはせぬ。私闘の禁に触れて潰れるのは、この家とわしの家だけだ。一千石と抱き合わせなら、潰れてもわしに悔いはない」
伊部帯刀は、まじまじと十太夫を見た。だがその顔の奥から、ゆっくり笑いが滲《にじ》み出て来た。伊部は身体をかたむけて茶碗を取ったが、お茶は飲んでしまって空だった。空の茶碗を掌の中で回しながら、伊部は十太夫から眼をそらせ、低い声で笑った。
十太夫は笑っている伊部の横顔を、鋭い眼で見まもっている。やがて伊部は、茶碗を下に置いて、小関よと言った。
「この家は潰れはせぬ。かりに貴様が言うようなことが、調べで明らかになったとするか。だが、それで潰れるのは貴様の家だけよ」
「………」
「この家に処分があっても、ま、せいぜいが慎み。それも長いことではない」
伊部は傲然《ごうぜん》と胸を張った。
「一千石が一石も欠けるものか。そのぐらいのことが読めぬ貴様でもなかろうに、よほど頭に血がのぼったとみえる」
香信尼は、本堂の前で落葉を焚《た》いていた。小さな尼寺で、墨染めの衣をつけ、頭を白布で隠した尼僧の姿も、小さかった。もともと小柄な人だったのだと十太夫は思った。
香信尼は僧衣の上から、かいがいしく襷《たすき》をかけて箒《ほうき》を使っていた。袖《そで》をしぼってあるので、二の腕が見えている。西に傾いた日射しの中で、白くつややかな腕に見えた。
十太夫が足をとめたのは、裸の腕を見たからである。眼にすべからざるものを見たという気がして、門の外に立ち止まったが、いつまでも突っ立っているわけにもいかない。十太夫は咳払《せきばら》いして門をくぐった。
すると香信尼が十太夫を振りむいた。箒を捨ててすばやく襷をはずしたのは、十太夫に見られていたのにまったく気づかなかったかららしかった。二、三歩歩み寄って来て、香信尼は十太夫を迎えた。
「おひさしゅうござります」
「うん」
十太夫はうなずいて近づくと、焚火に手をかざした。
「半年ぶりかの」
「そのぐらいにはなりましょうな」
香信尼は言ってから、眼を伏せて声を落とした。
「ご不幸のことは、円徳寺さまからうかがいました」
円徳寺は鉄明和尚の寺で、小関家の菩提寺である。香信尼が尼僧の修行を積んだ寺でもある。香信尼は、眼をあげて十太夫を見つめると、在家の女のような口ぶりで言った。
「お気の毒でございましたこと」
「思いがけぬことが起きる。だが済んだことだ」
十太夫は言った。
「伊部さまのご子息と、果し合われたそうでございますなあ」
「それよ。それで今日は伊部の屋敷に参って、その帰りだ」
「伊部さまのお屋敷に?」
香信尼は眉《まゆ》をひそめた。四十を三つ四つ越えたはずだが、若若しい顔だった。皮膚はなめらかに、瞳は娘のように澄んでいる。その眼に、気づかわしげないろが宿った。
香信尼は、庫裡とも言えない簡素な住居の方を振りむいた。
「お上がりになりませぬか」
「いや、ここでよい」
十太夫は言って、太い吐息を洩らした。火に手をかざしながら、あたりを眺めた。唐物町から城の大手前にかけて、ゆるやかに盛りあがる土地は、城の背後に回ってはっきりした小高い丘になり、遠目に見ると蛾眉《がび》のようなやさしい稜線を南北に描く。寺町の端にあるこの尼寺は、丘がなだれて城下はずれの雑木林に埋没する、南の端近い場所にあった。
背後は灌木《かんぼく》に覆《おお》われた低い丘で、横手は松、杉をまじえた広大な雑木林につづいている。雑木林は境内の中まで入りこんで来ていて、太い欅《けやき》や杉、えごの木などが小造りな庵《いおり》と住居を取り囲んでいる。町の音はここにはとどいて来ない。
「静かだの」
十太夫は、林の中で鳴いている小鳥の声に耳を傾けた。
「鳥が鳴いておる」
「鶸《ひわ》でございましょう」
香信尼も林の方に眼をむけた。
「今年は落葉が早うございます。もう秋でございますよ」
「こういうところに住まいする満寿《ます》どのが、うらやましいの」
十太夫は、尼僧の俗名を言った。そういう十太夫を、香信尼はじっと見つめて言った。
「伊部さまとは、何をお話しになりました?」
「果し合いに不審があった。尋常の果し合いではなく、伊部の伜に助勢がついた」
「ま」
香信尼は眼をみひらき、胸に手をあてた。
「それで?」
「それで、やつに掛け合いに行って来た」
「どのようなことを?」
「伜、伊部の伜は伝七郎と申す男だが、その伜に腹切らせろと掛け合ったわけよ」
「………」
香信尼は、強く咎める眼で十太夫を見た。
「血なまぐさいことを言うと思うか知らんが、われらの家は、そういう駆け引きで成り立っている。満寿どののように、浮世の外に行ないすましておるわけにもいかぬ」
「それは、そうでござりましょうが……」
香信尼はつぶやくように言った。
「小関さまは、むかしのままのご気性でございますなあ。で、伊部さまは何と言われました?」
「あの狸が、そうかと伜を腹切らせるものか」
と十太夫は言った。
「それでわしは、藩にとどけ出るぞ、と脅しをかけたが、やつはびくともせぬ。いつごろからあのようにふてぶてしく、面の皮が厚うなったか、驚くばかりじゃ」
「若いころには、気弱なほどのひとでござりましたのにな」
「なに、気弱なものか。その気《け》は十分にあった。そなたのことにしてもそうよ」
香信尼は、十太夫から眼をそらし、僧門の人間らしくもなく頬《ほお》を染めた。
香信尼は、物頭《ものがしら》を勤めた間崎弥右衛門の娘だが、十八のときに世を捨てて仏門に入った。その年、母を病気で失ったのが発心の動機と、本人も言い、間崎家の者もあたりにはそう言いわけしたが、世間にはべつの噂《うわさ》が立った。
満寿の兄、間崎兵之進が、十太夫、当時は小三郎といった伊部帯刀と、岸本道場の同門だった。満寿は美しい娘だった。満寿が十六になったとき、十太夫と伊部は前後して満寿に求婚した。むろんはじめは人を介してだが、後には何かと兵之進に用をつくって、間崎の家をたずねる二人の熱心さが、家中《かちゆう》藩士の間で評判になった。
家中にも口さがない者はいる。男ぶりは五分五分、剣では小関がやや勝るが、家柄となるとこれは小関にまったく分がない、などと噂して面白がったのである。
十太夫は、のちに大目付まで勤めて禄高を二百石にふやしたが、当時は百五十石の平藩士の伜だった。しかし伊部の家は、藩主家の血筋につながっていた。曾祖父が藩主家から出て、千石をあたえられ、新たに興した家の、伊部は裔《えい》である。家は無役の一千石だが、代代藩内に隠然とした勢力を振るい、ことに伊部の祖父は無役のまま、事実上当時の藩政を牛耳《ぎゆうじ》った政治好きだった。その血は、のちに伊部の藩政への介入となってあらわれる。
家柄で十太夫に分がないというのはそういうことだが、剣に勝るという評判は、それより少し前に、小関十太夫が師の岸本六郎右衛門から、岸本が編み出したといわれる鬼走りという秘剣を授けられているためだった。
十太夫と伊部は、去水流を指南する岸本道場で、それまで竜虎と呼ばれ、ともに家中の若者たちの畏敬を集めて華華しい存在だったが、のちにひそかに語りぐさとなったほどの壮絶な試合があったあとで、十太夫が秘剣を承《う》けると、竜虎の併称にやや差がついたことも事実だった。満寿は家柄を取るだろうか、剣を取るだろうか、とそのどちらも持ち合わせない若者たちは噂しあったのである。
だが、満寿はどちらも選ばずに突然に仏門に入った。亡母の死後を弔うためという名目だったが、その言いわけを信じた者は少なかった。満寿は、二人の若者のどちらを選ぶかに窮したあげく、世を捨てる道を選んだのだと、さながら遠い昔の物語めいた噂が、ひとしきり家中の間でささやかれたのである。
十太夫と伊部が、諦《あきら》めきれずに、尼寺にいる満寿を時おり訪ねているという噂も、先の物語めいた話に真実味をつけ加えた。二人が交互に尼寺をたずねたのは事実だった。しかしそのころ、満寿は二人に会うことを固く拒んだ。寺門の内に入るのを許し、時には庵室に入れて茶を振る舞ったりするようになったのは、ようやくここ四、五年前からのことである。
十太夫が、伊部は気弱だったという香信尼の言葉を打ち消したのは、若いころの剣の争いや香信尼をめぐる、そういういきさつを指したのである。伊部の剣は、豪剣ともいうべき膂力《りよりよく》をともなう強い剣だったし、満寿との争いでも一歩も譲らなかった。ただ寡黙なために、おとなしいとみられただけである。
伊部は、いまも時おり、尼寺をたずねて来るらしかった。だが、それがもはや色恋とはかかわりがないことは、自分も思い出したように、ごく稀《まれ》にここへ来る十太夫にはわかっている。香信尼の身のまわりには、不思議なやすらぎがあった。家のことに疲れ、藩内の煩《わずら》わしい駆け引きに疲れた気持を、やわらかく慰めるものが、ここにはある、といまも十太夫は思った。
「伊部は、近ごろここへ来たか」
ふと思いついて十太夫はそう言った。伊部は、十太夫によって藩政への口出しを封じられてから、内心|鬱《うつ》うつとしているはずだった。
いえ、と香信尼は首を振った。
「去年の暮に、お見えになったばかり。ほどなく一年になります」
「さようか」
「それで、さきほどのお話は、どう始末をおつけになりましたか」
「伊部に脅しをかけたということか」
十太夫は苦笑した。
「逆に脅されて来た。藩にとどければ、伊部の家は潰れぬが、わしの家が潰れるぞ、とまるで無頼漢《ぶらいかん》の申しようじゃ。にたにた笑いよって気色悪い男だが、伊部の言うことは間違ってはおらん」
「………」
「わしの家も潰れ、伊部の伜に助勢した二人の家も潰れかねない。すでに病死ととどけて相続を済ませておるからの。そして言うとおりに、伊部の家は無傷で残ろう。これではとどけ出るわけにいかぬ」
「………」
「腹が煮えたで、家にもどる気もせず、ここへ来た」
「我慢なされませ、我慢を」
と香信尼は言った。
日は丘の灌木の茂みの陰にかくれて、尼寺の庭に薄闇《うすやみ》がただよいはじめていた。背後の雑木林に鳴いていた鶸の声が、いつの間にかやんでいる。
香信尼は十太夫を見つめたまま、さとすような口ぶりで言った。
「そのように、はげしくひとを憎むものではありませぬ」
かつてかかわりがあった男二人が、すでに老年にさしかかりながら、まだ争っているのを悲しむように、香信尼は深い眼のいろをしていた。
十太夫は、香信尼の手から箒を取ると、落葉を掃きよせて、火の中に掃きこんだ。衰えた火が、また勢いよく燃え上がった。
「尼はそう言うが……」
十太夫は香信尼に箒をもどしながら、強い口調で言った。
「伝七郎に助勢をつけたのは、小三郎の差し金という気がしてならんのだ。やつは、わしが大目付を勤めたときに、やつを藩政から遠ざけたことを、深く恨んだはずだからの」
川戸という港がある。いまは戸数六百を越え、藩で陣屋を置くにぎやかな港町になっているが、もとは閑散とした漁港だった。
この漁港に目をつけ、波よけを築き立てて港を拓《ひら》き、さらに険阻な丘陵を伐り開いて城下に達する道をつけて、上方《かみがた》の商《あきな》い船が入る良港に仕立てたのは、城下の富商山城屋吉兵衛だった。
たしかに山城屋は、川戸港を拓くのに莫大《ばくだい》な私財を投じたのである。だがその出費は、港から積み出される領内の産物がふえ、その品を扱う荷倉を、山城屋が一手に握るようになると、巨利を生んで山城屋の懐にもどった。いまでは、山城屋は自分の船を持ち、上方から遠く江戸まで船を回して、富をふやしている。
山城屋と結びついて、川戸港を拓くのに力を入れたのが伊部帯刀と、先年首席家老の職を退いた早田権左衛門だった。はじめ山城屋が伊部に献策し、伊部が家老を動かしたという順序だった。
港の拡張は、当初は藩の仕事としてはじめられた。地形が変るほどの大工事に、領内から何百人という農民が駆り出されて、酷使された。山城屋が私財を献金したというのは、工事の見通しがついたあとのことである。
工事は首尾よく出来上がって、かつての漁村は町に変った。上方との商いがふえると、藩庫もうるおった。しかしより以上にうるおったのは山城屋で、その山城屋がひそかに献じる金で、伊部も首席家老以下の一部執政の懐もうるおったのである。
船に荷を奪われて、これまで陸路を使っていた城下の問屋たちの商いは、引き合わないものになった。問屋たちは、これまで山城屋の一手に押さえられていた船荷扱いの権利分割と、荷倉建築の許しをもとめる願いを藩に上げたが、藩は川戸開港における山城屋の功績を楯《たて》に数年この願いを握りつぶした。川戸の港町に、山城屋のほかの問屋が店と荷倉を持つようになったのは、近年のことにすぎない。
ここ十数年にわたって藩政を動かして来たのは、伊部を中心にして山城屋、首席家老の早田とつながる結びつきだった。彼らは川戸の港拡張による実績を背景に、近年は農政にまで山城屋の献策を取り入れ、山城屋の商人的勘算を土台にした無理な政策を強行した。土山堰の開鑿《かいさく》と新竿打直《しんさおうちなお》しに反抗して、赤石郡の三十カ村に暴動が起きたのは、そのためだった。
次席家老能勢忠次郎の後押しを受けて、小関十太夫が明らかにしたのは以上のようなことだった。城中|桔梗《ききよう》の間で早田派、能勢派と藩を二分する勢力が、藩主の面前で息づまるような対決を演じたとき、物を言ったのは十太夫の調べだった。
伊部を黒幕にする早田派は失脚し、いまは次席家老の能勢を中心に、藩政が動いていた。
「しかしそれは、公けの争いでございましょう」
と香信尼は言った。
「伊部さまがそのためにあなたさまを恨むのは、筋違いと存じますよ」
「伊部には、その分別が明らかでないところがある。そうは思わんか」
香信尼は小さく肩をすくめた。わからないといったしぐさにも見えたが、男たちの争いにおびえたようでもあった。
「や、冷えて来た」
と、十太夫はわれに返ったように言った。
「中にもどりなされ。わしも家に帰る」
十太夫はやさしい声音で言った。闇があたりを包みはじめていた。十太夫が、衰えた焚火を踏みつけると、一瞬|焔《ほのお》がゆらめき立ち、香信尼の白い顔を浮かび上がらせた。
青沼とだけ伝える沼だった。おそらくはじめてこの沼を見た者が、即座にそう名づけたに違いないと思われるほど、深ぶかと青味を帯びた沼である。広さはさほどでない。遠い対岸の岸辺に、時おり小さなしぶきを立てる水鳥の姿が見えるほどである。
鳥は鷭《ばん》か、あるいは夏も残る鴨《かも》かも知れなかった。四月半ばの日射しは、まぶしいほど明るいが、このあたりは、山に踏みこめばまだ谷に残る雪をみることが出来る。明るい日射しの中に、ひとすじひやりとしたものが混じっていた。その光の中で、時おり対岸の芦の間で、黒い鳥が飛沫《しぶき》を上げる。
十太夫は、沼の岸で釣糸を垂れていた。背に熊の皮の背当てを着込み、頬かぶりをし、足もとを草鞋《わらじ》で固めた姿は、腰の短か刀がなければ樵夫に異ならない。時どき、浮子《うき》から眼を離して、そばの水に漬けてある魚籃《ぎよらん》に眼をやり、はるかな向う岸で遊んでいる水鳥を眺める。
糸は、水面から三、四尺のところまでは透きとおって見えている。糸のまわりを小魚の群がゆっくり游《およ》ぎ回り、ときどき驚いたように日の光に腹を光らせて転倒するのも見える。だが、その下は、水色が急に無気味なほど青黒く変り、釣糸もその青に紛れて見えなくなっていた。
「旦那さん」
不意に上の方で、女の声がした。振りむくと、岸から一段高くなっている崖の上の木立から、若い娘が顔を突き出して笑いかけていた。十太夫と眼が合うと、提げていた風呂敷包みを掲げて見せた。
──るいに似ておる。
十太夫は、ふっと若くして死んだ妾のことを思った。そのことは五間川をさかのぼって、城下から七里の山中にある、ただ一軒の湯宿に来たときに、すぐに気づいたことだった。娘の名はまきと言う。まきの父親は、若いころ城下に降りて、五年ほど十太夫の親戚の家で下男をしていたことがある。いまは戻って湯宿の亭主におさまっていた。
るいは香信尼、若いころの満寿に似た女だった。そのことは誰も知らない、と十太夫は思っていた。だが後に、妻の浅尾が気づいていたかも知れない、と思い無気味な思いをしたことがある。
まきは、るいに似ているが、しかし若いころの香信尼には似ていなかった。
「飯か、昼になったか」
と十太夫は言った。するとまきは白い歯をみせて笑い、巧みに木の幹をつかみながら、崖を滑り降りて来た。猿のように軽い身ごなしだった。
一軒の湯宿と十数戸の家。青沼のそばにある村は、それだけの小さな集落だった。雪に閉ざされる冬の間は訪れる人もなく、雪が消えて雪が降るまでの間、人びとは山菜をとり、わずかな山畑を耕し、秋は木の実を拾い、木を伐り炭を焼く。
湯宿も、にぎわうのは田植前と秋のとり入れが終ったころのいっときだけである。雪が消えはじめるころになると、山道に残る雪を踏みわけるようにして、里から米を背負った湯治客が来る。だが里の人間は、田植えがはじまればすぐに降りて行くし、秋も雪がちらつきはじめると、山に閉じこめられるのを恐れるように、あわただしく去る。
まきの一家も、そのわずかの間、湯宿の人間らしく振る舞うだけで、あとは村の者と一緒に、大方は山仕事で暮らしていた。今日も、一家は山菜をとりに山に入ったはずだが、昼になって、まきだけが十太夫を世話するために家にもどった様子だった。客は十太夫一人だった。
「釣れたかのし、お城の旦那さん」
まきは十太夫に風呂敷包みを渡すと、活発に言って水ぎわにうずくまり、魚籃をのぞいた。中にはやまめ、鮒《ふな》などが数尾入っている。朝からかかって、それだけ釣り上げたのである。
十太夫の眼が、何気なくまきを眺めていて、ふと腰のあたりにとまった。中腰になって魚籃をのぞいているので、臀《しり》から太ももにかけて、豊かな肉づきが露《あら》わになっているのに眼を惹《ひ》かれたのである。
まきは十六で、気性の活発な娘だった。男の子のように胸が薄く、顔は黒く、粗野な物言いをする娘だと面白がっていたのだが、その娘が隠していた十六歳の稔《みの》りに、思わず眼を奪われたようだった。
「えっぺ釣れだでねえが」
振りむいたまきが、貧しい収穫をなぐさめるように言った。十太夫は、まきから眼をそらして風呂敷包みをほどき、塗りのはげた重箱の蓋《ふた》を取った。この齢になっても、まだ若い女子の身体に気持を惹かれるのか、と自分を奇怪に思っていた。だがそれは、まきを死んだるいに似ていると思っているせいかも知れなかった。
重箱の中には、握り飯と山菜の漬け物、焼いた岩魚《いわな》が入っていた。隅にひとつかみの味噌が入れてある。十太夫が眼をあげて首をひねると、まきが重箱のかぶせ蓋に箸《はし》で味噌を取り分け、少し離れたところで沼に落ちこんでいる小さな流れから水を入れて来た。箸でかき回してさし出したところをみると、それが味噌汁のかわりということらしかった。
「ふむ。うまそうだの」
十太夫は言って握り飯にかぶりついた。ごま塩をつけた握り飯がうまかった。十太夫はすすめた。
「まきも、ひとつ喰わぬか」
「おら、昼は済ませで来たども」
「遠慮はいらんぞ。飯は一人で喰うよりも、二人で喰うほうがうまいものだ」
十太夫がそう言うと、まきは手をのばして握り飯をとった。
「まあず、魚《ざつこ》釣り好きだひとだの、旦那さんは。よぐ倦《あ》ぎねもんだ」
握り飯を頬ばりながら、まきがそう言った。まきは、湯治の時期でもないころに城下から来て、来る日も来る日も青沼に釣糸を垂れている白髪の男を、奇異な眼で眺めている口ぶりだった。
だがまきは、十太夫が帰りには釣った魚を大方沼に返し、持ち帰るのはそのうちの大きめの二、三尾だけにしていることを知れば、もっと怪訝《けげん》に思うに違いなかった。
海釣りもやるか、とまきは聞いた。領内の海辺は、半分は岩礁がつらなる荒磯で、時期の磯釣りには武家も出かける。
「若いころはな」
と、十太夫は言った。
「若いころは仲間と磯に出かけて、釣りあげた魚の大きさを競ったものだ」
いまは、ここの方がいいと十太夫は思った。湯宿も、沼もこころよく気持を落ちつかせる。茫然《ぼうぜん》と釣糸を垂れていると、長い生涯の終りのあたりに、そういうひとときがあってもいいと、ひさしく思いつづけて来たという気がするのである。
青沼へ行ってみようか、と思いはじめたのは、鶴之丞の一周忌が過ぎたころからだった。その気持の中に、老いが混じっているのを、十太夫は感じていた。一周忌が過ぎても、まだ鶴之丞の死を思いあきらめられない妻といることが、時折り気持を耐えがたくした。
妻の浅尾は、時どき思い出したように鶴之丞のことを口にし、それも長い間考え、磨きぬいたというふうな刺すような非難の言葉を十太夫に投げつけて来る。そういう妻をほどよくあしらう根気が、少しずつ失われて来ているのを、十太夫は感じる。老いた証拠だった。
家督をついだものの、千満太は近習《きんじゆう》組の勤めよりも、半年ほど前に免許をとった剣の修行に夢中で、帰りは夜遅くなる。そろそろ嫁をという浅尾の言葉にも、いっこうに耳傾ける様子がない。十八になる美根も、小太刀を教える中沢道場に一日おきに通っていて留守がちだった。年ごろの娘らしいお点前《てまえ》とか、琴とかいう修業には興味を示さない娘だった。中沢道場の光村|榛次郎《しんじろう》という高弟と親しいという噂があるらしいのを浅尾は気にし、そのことでも十太夫を非難した。
「来年は十九ですよ」
と、浅尾は美根のことを言った。
「まだ道場通いを許しておくなどと、お前さまは、あの娘を女剣士にでも仕立てるおつもりですか」
三人の兄妹に、小さいころからきびしく剣を仕込んだのは十太夫である。それが間違いだった、鶴之丞がああいうことになったのも、もとはといえばお前さまが、子供たちの育て方を間違えたせいだ、と浅尾は言った。
卯女が去って、兄妹が留守がちの家は時に荒涼として見えた。その家で浅尾に責められながら、憎しみだけでつながっているような夫婦二人で過ごしているうちに、十太夫はふと山にでも行ってみたいと思ったのである。青沼のそばにある小さな湯宿のことは、親戚の者から聞いていた。
「だが年取ると、人と競うということも煩わしくなる。こうして一人で釣っているのがいい」
「ンだども、よぐ倦ぎねえの」
「倦きるものか」
十太夫は笑った。沼のまわりの樅《もみ》や山毛欅《ぶな》の林は、いまようやく新葉をつけはじめたばかりだった。その影が水面に映っている。郭公鳥《かつこうどり》の声が、昼さがりの澄んだ空気をふるわせて、沼の向う岸から渡って来る。
「もう十日ほどは、まきの家に置いてもらうぞ」
十太夫が言ったとき、まきがしっと言って、釣竿を指さした。
「引いでっぞ」
十太夫は、あわてて竿尻を土に突き刺しておいた釣竿を握った。浮子が軽く上下している。十太夫が中腰になって構える間に、まきはあらかた喰べ終えた重箱を片づけた。
「うまかったぞ」
振りむいて十太夫が言ったとき、浮子がぐーっと沈んだ。十太夫は竿を合わせて引いた。そのとたんに、十太夫は危く前にのめりそうになった。引いた糸は、十太夫の手もとには返らずなおも水中に引きこまれて行く。竿の頭が水をかぶった。
「大きいぞ、これは」
十太夫は叫んだ。汀《みぎわ》から延びている松の根に足をかけて腰を決め、しっかりと踏んばったが、竿は手もとからもぎ取られんばかりにしなり、半ばは水に没している。そして竿は右に左にはげしく揺れ走った。
十太夫が家から担いで来た釣竿は、城下で釣竿づくりの名人と呼ばれている竿政がつくった、鯛《たい》釣り用の竿だった。よく撓《しな》い、強靭《きようじん》な弾力を隠している。かなりの大物でも折れる気遣いはない。糸も竿政の店で秘伝にしている強いものを使っている。
しかし強い引きだった。十太夫は身体を後に倒すようにして糸をたぐったが、鉤《はり》をくわえたものはびくとも動かなかった。そして、不意に沼の水がゆらりとひとところ盛り上がり、つづいて無数の泡が浮き上がって来た。それだけで水面の下にいる物の姿は見えなかった。十太夫は突然全身に汗が噴き出すのを感じた。青黒い水の底に、巨大なものがいた。
そして、また強い引きが来た。両手で握っている竿がもぎとられそうになった。渾身《こんしん》の力を握りにあつめると、今度は十太夫の身体が浮き上がった。沼に引きこまれそうだった。
「竿放さねば、だめだ、旦那さん」
ただならない様子に気づいたまきが、悲鳴をあげるように叫んだ。だが十太夫は竿を放さなかった。地面に腰を落としたまま、じりッじりッと引かれた。足を踏んばっている松の根の、地面から浮き上がっているところがたわんだ。
十太夫は竿を放せなかった。水中に潜んでいる物は、おのれの運命にかかわる敵に違いない。竿を放せば運命に打ち倒されよう。呪縛《じゆばく》されたように、その思いに取り憑《つ》かれていた。
「まき」
すさまじい形相で、十太夫はまきを振りむくとどなった。
「わしの背だ、背中にぶらさがれ」
走り寄ってきたまきが、十太夫の腰にうしろからしがみついた。
そのとき、ぷっつりと糸が切れた。十太夫とまきの身体は、仰のけにうしろにはね飛んで倒れた。その衝撃のために、十太夫は、次に起きたことを確かに見さだめたとは言えない。だが、異様なものが眼に映った。
ごうとまわりの空気が鳴り、不意に空が暗くなったようである。だがそれは、雨のように、二人の上に降りかかって来た飛沫のせいかも知れなかった。
その飛沫の中に、躍り上がったものがあった。それがどういうものだったかを、跳ね起きて身構えながら、十太夫の眼は十分に見ていない。眼に残ったのは、黒くぬらりとした、小山のような背、そして確かにこちらを見た、透きとおるほど赤い、まるく大きな眼だった。それは、一瞬泡立つ飛沫の中に立ち上がっただけで、音もなく水中に沈んだ。
そして沼に静寂と日の光がもどった。まだ郭公鳥が鳴いている。だがいま起こったことが、まぼろしでも何でもないことは、沼の水が異様にざわめき、岸に寄せる波がひたひたと音をたてていることでわかる。
──巨魚か?
短か刀の柄から、ようやくこわばった手を離し、身構えを解きながら、十太夫はそう思った。肌に、まだ粟立《あわだ》つような感触が残っていた。それにしても、あんな大きな魚がいるものだろうか。伊部の屋敷の池で見た鯉も、まがまがしいほどに大きかったが、さっき見たものは、その比ではない。数倍はあったろう。
泣き声に気づいて、十太夫はうしろを振りむいた。地に倒れたまま、まきが泣きじゃくっている。
「怪我したか」
十太夫が声をかけると、まきは首を振った。子供のようなしぐさに見えた。十太夫は、腰を折ってまきを抱き起こしながら言った。
「こわかったのだの。無理もない」
「怖《おつか》なかったよう、おら」
抱き起こされて立つと、まきはひしと十太夫の肩にすがってそう言った。その背をしばらく撫でてやってから、十太夫は聞いた。
「さっきのものを見たか、まき」
まきは黙ってうなずいた。うしろに飛んで倒れながら、まきも、あの異様なものを眼にしたらしい。
「あれは何だ?」
「鯉だって言うども、何だかよぐわがんね」
まきはやっと十太夫から身体を放し、青ざめた顔のまま、ちらと沼の面に眼をやった。
「この沼の主だって聞いだども、おら」
「沼の主?」
「姿見だ者は、死ぬて言われでる」
まきの眼に新しい涙が盛り上がって、頬を伝い落ちた。
「おら、死ぬがも知ね」
「バカを申せ。そのようなことは迷信と申してな。信ずべきことではない」
十太夫は叱ったが、まきのおびえた表情は変らなかった。早く家に帰ろうと十太夫の袖をひいた。十太夫にも異存はない。まきの言うことを信じたわけではないが、糸をつけ換えて釣をつづける気分はとうに失われていた。
竿を巻き、水ぎわに漬けておいた魚籃を引き上げると、中にいた魚が一尾残らず逃げていた。さっき波が押し寄せたとき逃げたな、と思ったが、沼の主だというあの巨大なものが中の獲物を取り返して行ったようにも思えて、また少し薄気味悪くなった。
糸が切れた竿と、空の魚籃を持った十太夫の前に立って、沼から宿に通じる小径《こみち》をのぼりながら、まきは沼の主を見たために死んだ村の者のことを、話して聞かせた。
与作という男がいた。ある日の日暮れ近く、沼の面を見おろす位置にある斜面で、木を伐っていて偶然に沼の主を見た。気づいたとき、巨魚は水面近くまで浮かび上がって、ゆうゆうと沼の中ほどをおよぎ回っていた。時おりは黒く盛り上がる背を水の上に現わして、あそび戯れているようにも見えた。背鰭《せびれ》が見えるその背の部分だけで、ゆうに八尺はあったと、与作はあとでひとに話した。
半ばは恐怖から、与作はそれまでふるっていた鉞《まさかり》の手を休めて、およぎ回る巨魚を眺めおろした。すると、あたかも与作のその眼を感じとったかのように、巨魚は身をひるがえして水底にかくれた。そのあとに巨大な渦が残り、沼の水がごうと鳴った。
与作が青沼の主を見たのは、秋の末である。間もなく冬が来た。山間の数戸の家は雪に閉ざされた。そしてある夜、音もなく山の傾斜を滑り落ちて来た雪崩《なだれ》が、ただ一戸与作の家の上にだけのしかかり、家も中のひとも潰した。いま村の入口にある豆畑は、与作の家の跡である。
豊助という男がいた。樵夫だったが村でただ一人の猟師でもあった。お城から鉄砲を持つ許しを得ていて、季節季節に熊や羚羊《かもしか》や猪《いのしし》を狩り、獣皮や胆《きも》、燻《いぶ》し焼いた獣肉などを、年に二、三度城下町まで運んで売った。
城下には、豊助がそういう品物を運びおろすのを待っている商人がいて、残らず買い取るばかりでなく、ことに熊の胆などは高く買うという話だった。
豊助が、村の人びとに好かれていたとは言えない。城下に卸して来る品物のために、家の中はぜいたくに暮らしているという噂があり、また長年城下の商人とつき合って来たせいか、物言いやちょっとしたしぐさに、人ずれしたところがあらわれるからである。
だが村の者は、一方で豊助を頼りにもしていた。山奥の村には、突然に穴ごもり前の熊が入りこんで来たり、穫り入れが近い山畑に、猪があらわれたりするからである。豊助は、そういう知らせをうけると、鉄砲をつかんで、恐れげもなく獣に立ちむかって行く男でもあった。
ある年の春先、豊助は一匹の羚羊を追って青沼の岸まで来たが、そこで獲物を見失った。羚羊がどこに逃げたかはわかっている。岸辺にほとんど垂直に落ちこんでいる断崖《だんがい》がある。崖の斜面は、まだ半ば雪に覆われていて、そこに追ってきた獲物の足跡があった。
羚羊は、そこを一気に駆け上がって行ったのである。足跡がまだ生なましい。だがその崖はさすが老練の猟師である豊助にも、のぼることは無理な場所だった。
「ふむ」
豊助はあきらめた。そして鉄砲を抱いたまま沼にむかうと、それまでこらえていた小便をした。
そのとき水面がむくりと盛り上がると、岸から五、六間先に、何かが浮かんだ。尿を放ちながら、豊助はそのものを見た。その日は曇りで、日暮れは足早に近づいていた。豊助が半日追い回した羚羊をあきらめたのは、そのせいもある。
水面に浮かんだものは、はっきりしなかった。漂いはじめたほの暗い光が、そのものを確かめることを妨げていた。はじめは流木かと思った。沼の水にも流れがあるらしく、岸から枯れ落ちた、太い木の枝が漂っていることがある。
だが、その黒いものは、じっと動かなかった。まるでこちらを見ているようだな、と思ったとき、豊助は、その黒く盛り上がっているものの中に、まるい眼がはめこまれているのを見た。
「お、お」
豊助は声をあげた。黒いものは魚の頭だった。そんな大きな魚がいればの話である。そう思ったとき、豊助はぞっとした。こりゃ、話に聞いた沼の主というものではあるまいか。
そういえば瑪瑙《めのう》のように、赤味を帯びた眼が、棲家《すみか》である沼に小便を放っているおれを咎めているようでもある。そう思ったが、豊助は胆の太い男である。さすがに鉄砲を構えるほどの度胸はなかったが、小便は最後までしおわった。豊助が小便をおわり、身じまいを直すのと同時に、巨大な魚の頭は、音もなく水底に沈んだ。後にほの暗い水面だけが残った。豊助を、ほんとうの恐怖が襲って来たのはそのときだった。彼は後も見ず村に通じる小径を這《は》い上がり、一目散に家に逃げ帰った。
その話を村の者にした豊助は、それから半月ほどして、自分が伐り倒した栗の大木に潰されて死んだ。
豊助は未熟な樵《きこり》ではない。猟もするが、本業は樵夫である。自分でのこぎりを入れた木の倒れる方角を間違えるわけはなかった。だが、そのときの様子を山畑の隅から見ていた者の話によれば、のこぎりを入れ、そこに楔《くさび》を打ちこみ、豊助が鉞《まさかり》をふるって最後の一撃を加えたとき、栗の木は身をよじるようにして、豊助が立っている方に倒れかかったのである。
むろん、豊助は逃げた。逃げて幹に圧《お》し潰されることはまぬがれたが、太い枝が彼を地面にはね飛ばし、仰向けに倒れた豊助の股間《こかん》を、次に落ちて来た枝がまっすぐ一撃して潰した。それは駆けつけた村の者が、その眼で見たことである。
「なるほど、そういうことがあったとすれば、そなたがこわがるのも無理はないの」
まきの話を聞いた、十太夫はそう言った。話の間に、二人はまきの家の庭まで帰りついていた。
「だからと申して、それが青沼の主の祟《たた》りとも言えぬと思うが……」
十太夫は、まだ血の色が十分にもどっていないまきの顔を見ながら、微笑してみせた。
「よしんばそうだとしてもだ。祟りはこのわしにあろう。釣り上げようとしたのはわしだからの。そなたは心配いらん」
まきの話から無気味な感じを受けたものの、十太夫はその話をそのまま信じたわけではない。だが、それが青沼の主の祟りだとすれば、祟りは翌日の朝、早速にあらわれたのである。
次の日の朝六ツ半(午前七時)過ぎに、城下から十太夫に凶報がとどいた。知らせを持って来たのは、若党の宗助である。
七里の山坂道を夜駆けでのぼって来た宗助は、みじめな姿をしていた。疲れに色青ざめ、途中でしたたかに転んだらしく、膝のあたりから血を流している。
入口まで出た十太夫を見ると、宗助は土間にうずくまって泣き出した。泣きながら言った。
「すぐに、山をお降りくださるように、と奥さまが申されておいでです。美根さまに、大変なことが起きました」
城下に着くと、十太夫は宗助を連れて、真直ぐに美根と光村榛次郎が立て籠《こも》っているという場所にいそいだ。十太夫は宗助に、一度屋敷にもどって休めと言ったのだが、宗助はきかずについて来ている。
事の起こりは、光村榛次郎にある。光村は昨日の夕方、数人の仲間と中沢道場を出た直後、その中にいた野村という男と口論になり、抜き打ちに野村を斬った。あっという間の出来事で、仲間がとめる間もなかった。野村は即死した。
茫然と見まもる仲間にむかって、光村は、
「逃げも隠れもせん。貴公たちから大目付にとどけろ」
と言って姿を消した。仲間たちはあわてて道場主の中沢喜兵衛にそのことを告げ、また二、三人は大目付の屋敷まで走った。しかしそのとき一緒にいた小関美根が、光村と前後してその場から姿を消したことには、誰も気づかなかった。
二人が一緒だとわかったのは、大目付長沼甚九郎のすばやい手配りで、光村と美根がその夜五ツ(午後八時)過ぎ、通称狐の木戸と呼ばれる、狐町の木戸口を通って、城下を抜け出したことが確かめられてからである。
光村榛次郎は、百石の平藩士の伜だが、その夕方家にはもどらず、禰宜町の伯母の家に立ち寄って旅支度をととのえると、狐町の木戸を抜けたのであった。その道は国境いの関所に通じ、江戸にむかう街道である。
大目付支配の人数は、その事実をつかむとすぐに後を追った。そして城下から東へ半里の場所にある石畑村で二人に追いついた。光村は同行をこばんだので斬り合いになったが、光村と美根はその斬り合いのあと、村はずれの水番小屋に逃げこんだ。大目付支配の役人は、その後城下から増援の人数をもとめて、小屋を厚く取り巻いている。
こういう事情を、小関家で知ったのは、昨夜の四ツ(午後十時)近くなってからだった。それまで小関の家では、美根が道場からもどらないのを不審に思い、宗助が道場まで美根を迎えに行って事件を知った。まさか美根が光村榛次郎と一緒だとは思わなかったが、事件を起こした光村と美根の間に、とかく噂があったことは承知している。浅尾と千満太は気をもみ、千満太が大目付の屋敷まで様子を窺いに行った。そこで一切の事情が判明したので、宗助を十太夫がいる湯宿まで走らせたのであった。
「二人が、まだ生きておると思うか」
十太夫は、宗助を振りむいて言った。通り抜けて行く城下の町町は、何ごともなげに人が往来し、商家が客を呼び、その上に四月の日が明るく照りわたっている。
その日の下のどこかで、自分の娘が、いま生死の瀬戸ぎわに立っているとは信じられないほど町のたたずまいは穏やかで、いつもと変りない顔を見せているのが奇怪だった。
もはや、すべては終ったのではないかという疑念から、十太夫はふとそう言ったのだが、宗助は強く打ち消した。
「めっそうもないことを仰せられますな」
さ、こちらが近道でございますよ、と言って宗助は、十太夫を足軽屋敷がならぶ人影の少ない道にみちびいて行った。二人は半ば走るようにもの静かなその町を通り抜けた。
十太夫と宗助が、目ざす石畑村のはずれに着いたのは、七ツ(午後四時)ごろだったろう。ようやく、日が西に傾きはじめていた。
「間に合いましたぞ、旦那さま」
と宗助が言った。そしてがっくりと地面に膝を折ると、はげしく肩で息をついた。宗助は三十を過ぎたばかりの、屈強な身体を持つ若党だが、往復の山道を半ば駆け通して、さすがに精根つきたようだった。
十太夫は、黙ってあたりを見回した。手前の畑の中に数人の男がいる。大目付が派遣した主だった役人が集まっているらしかった。その中に千満太がまじっていて、何ごとかはげしく言い募っているのを十太夫は認めた。
畑の先から、村の南を流れる小川にかけて、芒野《すすきの》をまじえた荒れ地がある。散らばる石ころが白く日を弾き、芒の株は、まだ去年の枯れいろを残しながら、半ば芽吹いている。その芒の陰に、白襷、白の鉢巻で装った者たちが、白刃を抱いてひそんでいる。ざっと十四、五人はいる、と十太夫は見た。その者たちが身じろぎするたびに、刃がきらと光る。
──大げさな。
と十太夫は思った。たった二人に十人以上もの討手《うつて》を向けるのか。
最後に十太夫は、二人がひそんでいる小屋を見た。水番小屋は荒れ地の先、小川のすぐそばにあった。小屋にくっついて、屋根より高い水車が黒くそびえているが、むろん水車は回っていない。小屋も水車も、傾きかけた西日を浴びて、ひっそりと立っている。
──美根。
十太夫は、はじめて胸の奥深いところを、ゆっくりと悲哀が通り過ぎるのを感じた。子供のころから気の強い娘で、時には手を焼いたが、ついにこういうことをやりおった。
十太夫は畑に踏みこんで行った。すると、その気配を感じとったらしく、数人の男たちが十太夫を振りむいた。千満太が、父上と言い、何人かは目礼を送って来た。その中に杉戸作之助の顔もみえた。
「指図役は、どなたかの?」
と十太夫は言った。顔触れを眺めただけで、誰がこの場を指図しているかは知れたが、わざと聞いたのである。
「それがしでござる」
そう答えたのは、徒目付《かちめつけ》の金井奥右衛門だった。四十半ばの頑固そうな顔をした男である。上席の家老二人が争ったときは早田派につき、また伊部帯刀にも近づいていると噂があった人物でもある。
十太夫が大目付を勤めたとき、金井はすでに徒目付の職にいて、しきりに十太夫の動きをさぐろうとする気配だったが、十太夫はそのままにしておいた。古参の徒目付というだけで、融通のきかない性格の金井は、人物さえのみこんでおけばさほど危険な存在でもなかったからである。時に十太夫は、金井にはこう動くとみせて、逆に動いたこともある。利用したともいえる。
後任の大目付長沼甚九郎に職をひきつぐときも、十太夫は金井のことは黙っていた。長沼は一応能勢派に属する人物だが、だからといって長沼のために金井を徒目付の職からのぞく必要も、また金井が早田派で働いたことをとくに言うこともないと考えたのである。そして内心で金井がどう考えていようと、そのころ早田家老派は藩内で退潮を迎えていたのだ。だが早田派が失脚したとき、金井は金井なりに、十太夫に軽くあしらわれた自分に気づいたかも知れなかった。
「それは適任」
十太夫は金井をほめた。しかし内心では、まだ大目付の職にいたとき、なぜ金井をいまの職務からのぞいておかなかったかと悔んだ。あのころなら、それが出来たのだ。
「ところで……」
十太夫はちらと小屋を振りむいた。
「どう始末をつけるおつもりかの」
「日が暮れる前には、処分せねばなるまいと考えておるところでござる」
「処分?」
十太夫は険しい眼で金井を見た。
「斬りこませるつもりかの?」
「出て来ねば、やむを得ぬことでござりましょう」
金井は一応は以前の上司に対する、敬った言葉を使ったが、声音にはかたくななひびきが含まれていた。
「あれを、ごらんあれ」
金井は振りむいて、ゆっくり村の方を指さした。村はずれに、黒山のように人が集まって、こちらを見ている。
「村の者も、昨夜は心配で眠れなんだと申しております。今夜もまたということになれば、城の威信から申してもいかがかと」
「あの中に……」
十太夫はいそいで金井の言葉を遮った。
「わしの娘がいることはご承知と思うが」
「いかにも、承知しており申す」
金井は胸をそらせた。
「わしに、娘と話をさせてくれんかの」
「………」
「光村なにがしは、人を斬って脱藩をはかった以上は、討手を向けるのもやむを得んと思うが、娘はかの男に同行しただけじゃ。罪は軽かろう。小屋から出してやってくれんか」
「それがしも、そう申したのですが……」
千満太が憤懣《ふんまん》やるかたないという声で言った。
「このご仁《じん》は、うんと言わん」
「罪が軽いとは申せませんぞ」
金井が鋭く言った。十太夫にむけた顔に、傲岸な表情が浮かんでいる。十太夫は、金井が自分にむかって歯を剥《む》いたのを感じた。
「娘御は昨夜、われわれが出した追手に刃向かって、手傷を負わせておる。同罪だとみるべきだと、意見は一致しており申す」
「いや、それは違う」
杉戸作之助が口をはさんだ。
「それがしは異論を出した。光村榛次郎と小関どのの娘御の間には、罪を論じるうえで一線をひいてしかるべきだと申し上げておる」
「当然だ」
と十太夫は言った。火のような眼を金井奥右衛門にそそいでいた。
「たかが小娘の太刀に手傷を負ったと? 笑わせるではないか。大目付はよほどの未熟者をそろえて追手を組んだとみえる」
「………」
「わしに娘と話させろ。それも出来んというのはなにか? 伊部に、小関の娘なら遠慮はいらんとでも言い含められて来たか。貴様がいまも伊部の屋敷に通っておることは知っておるぞ」
「何を申されることやら」
金井は横を向いてうそぶいた。その肩をつかんで、十太夫はぐいと金井の顔を自分に向けた。
「貴様の石頭では、この場は処置出来ん。長沼甚九郎を呼んで来い」
十太夫がどなったとき、背後にわっと声が上がった。
はっと振りむいた十太夫の眼に、水番小屋をとび出して、矢のように討手の中に斬りこむ男女の姿が眼に入った。同時に、芒の陰から湧《わ》くように走り出た討手の人数が、二人を包みこむように迎え撃ったのも見えた。白刃が夕日を照り返し、一瞬荒れ地に無数の光芒を生んだのを見ながら、十太夫は眼をつむった。
──やんぬるかな。
見殺しにするほかはなかった。ここで十太夫か千満太が割って入って、討手に手向かったりすれば、家が潰れる。
美根、美根と連呼して、千満太が走り出す気配をさとると、十太夫は、はっと眼をひらいて叱った。
「やめよ、もはや遅い」
事実、十太夫の言葉どおりになった。千満太が駆けつけても間にあわなかったろう。争闘は見ている間に、終りを告げた。大目付は討手に家中の遣い手を選《よ》りすぐったろうし、狭い小屋に、一昼夜近くも閉じこもった二人は、疲労の極に達していたはずである。そして何よりも人数が違った。
──ひとの死の、あっけなさよ。
走って行く千満太のうしろから、ゆっくり足を運びながら、十太夫はそう思った。刀を振りかざして、つるを放れた矢のように走り出て来た美根の姿が、眼の底に焼きついている。胸の中で、しきりに何かが崩れ落ちる感覚に耐えながら、十太夫は歩きつづけた。
まだ白刃を手にしながら、ざわめいて立っていた討手の者たちが、十太夫が近づくと私語をやめて道をあけた。鉢巻をはずして目礼を送って来た者もいたが、十太夫は無視した。
倒れている美根のそばに立つと、美根の額から鉢巻をはずしていた千満太が顔を上げた。千満太も横たわっている美根に劣らないほど、蒼白《そうはく》な顔をしている。父と子は無言で眼をあわせたが、千満太は小さく首を振った。
十太夫も美根のそばに膝を折った。美根は矢絣《やがすり》の小袖《こそで》を着て、足は白のはばき、足袋《たび》草鞋の旅姿に装っていた。あくまで光村について、他郷に出奔するつもりだったらしい。
美根は、すでに一個の骸《むくろ》に変っていた。腋《わき》の下と頸《くび》にうけた一撃が命を奪ったとわかった。頸の傷口から、まだ血がしたたっているが、死に顔は穏やかだった。千満太がふさいでやったとみえて、眼は眠っているように閉じられ、わずかにひらいている唇が、致命的な一撃をうけたときの一瞬の驚きを残しているようだった。
むしろ可憐《かれん》にみえるその顔を見ながら、十太夫は娘の頬に手をそえてみた。頬はまだあたたかかった。
小さいときは抱きもし、叱りもしたが、年ごろになってからは、向き合ってしみじみと物言うということもなかったな、と十太夫は思い返していた。
──美根が、何を考えておるか、知ろうともせなんだ。
父親と娘というものの縁の薄さを、奇怪に思うばかりだった。美根のことで心にかけていたとすれば、いずれしかるべきところに嫁がせて、といったことぐらいだった。それも城勤めの合間に、ふっと心にうかぶだけで、すぐに忘れた。
だが美根は、浅尾とはこのようではなかったろう。妻は光村榛次郎との噂を心配していたが、美根は光村のことを、妻にはどう話していたのか。
「家へもどるぞ」
十太夫は千満太に言った。美根がまだ握りしめている刀をもぎとって千満太に渡し、帯にはさんでいる着物の前褄《まえづま》をおろしてやると、十太夫は亡骸《なきがら》を抱き上げた。
討手の藩士たちは、刀をおさめ、襷、鉢巻をはずして荒れ地から引き揚げはじめていた。残った数人の男たちが、少し離れた場所で、小屋からはずして来た戸板に光村の死骸を乗せようとしている。大目付の屋敷まで運ぶのだろう。
荒れ地のはずれで、十太夫は、城にもどる藩士たちに何か指図の言葉をかけている金井奥右衛門と顔を合わせた。金井は十太夫から眼をそらし、腕の中の美根を見たが、肉が厚く、灰色をしたその顔には、何の感情も浮かんで来なかった。
「娘はもらって行く。異存あるまいな」
「よろしかろうと存じまする」
金井は軽く一礼してそう言っただけだった。すぐに眼をそらして、そばを通る藩士たちの方に身体をむけると、また短い言葉をかけた。討手の藩士たちは、いったん大目付の屋敷にもどり、そこで光村榛次郎を討ち留めたその場の詳細を記録役に述べ、そのあとそれぞれの家にもどることになる。金井の短い指図の言葉は、そのことを念押ししているのだった。
美根のことも、当然調べられて記録されることになるな、と十太夫は思った。すると、亡骸を家に持ち帰ってよいと言った金井は、最後のところで少し譲ったことになるか、とも思った。
西空に日が落ちかかっていた。背後にひろがるその光がまぶしすぎて、木立に囲まれた村は墨のように黒い。その村に向かって、十太夫と千満太は、畑から田の畦《あぜ》につながる細い道を歩いて行った。そこを行くと、さっき宗助と来た、迂回《うかい》するように村の端を通り抜ける道に出る。物見高い村の者の眼は、なるべく避けたかった。
すると、道に上がったところに人が二人立っていた。逆光に黒く浮き上がった人影は、十太夫と千満太が近づくのをじっと待っている、浅尾と若党の宗助だった。
宗助は、十太夫の腕の中に横たわっている美根を見ると、たまりかねたように手で顔を覆って泣き声を洩らしたが、浅尾は泣かなかった。
一瞬喰い入るような眼で美根を見つめたが、十太夫が無言で足を運ぶと、そのままうしろからついて来た。そして間もなく、背後から刺すような言葉を投げて来た。
「いずれこうなることは、私にはわかっておりました。お前さまには見えませんでしたか、迂闊《うかつ》な」
「………」
「光村というおひととのことは、捨て置いてはなりませぬと、何度も申しました。でも、お前さまは、お取り上げになりませんでしたな」
確かにそう言っておったな。あれはわしが山の宿に行く前のころだ、と十太夫はぼんやり思った。だが心が通わない夫婦のやりとりは、ときに他人同士がかわす言葉よりもむなしいのだ。浅尾が言うことに、わしは心を留めなんだな、と思った。
十太夫の返事がないので、浅尾の低い声はいっそう小さくなり、今度は自虐のつぶやきに変った。
「十八のみそらで、あわれな子よの。ここまで思いこんだものなら、あのようにきつく叱りはせなんだものを」
腕の中の美根の身体は、冷えはじめている。ひとゆすりして抱え直すと、美根の冷たい頬が十太夫の顔に触れた。
──鶴之丞につづいて、美根も、か。
青沼で見た巨魚の黒い背が、ちらと十太夫の頭をかすめた。重なる不幸は、人のはからいを超えた、まがまがしい運命の手で運ばれて来たようにもみえる。そしていまもその手にみちびかれて、こうして歩いているのではないか。
──愚かな。
十太夫は頭を振って、その考えを捨てた。振りむいた眼に、美根と光村が籠っていた小屋が映った。小屋はおとろえた日射しの中に小さく立っている。野も畑も若わかしい緑に覆われているなかで、その小屋のあたり一帯だけが荒涼として見えた。
うちつづく不祥事で人が欠け、縄手町の小関家はいっそう淋《さび》しくなった。
だが一年半ほど過ぎた翌年の秋。その家にかすかな灯がともったように見えた。千満太の縁談がととのったのである。千満太は二十二、妻になる娘は郡奉行久米七郎次の末娘以久で十七だった。婚儀は明くる年の春と決まった。
ひさしぶりに小関家の門が人の出入りでにぎわった。そして歳月には、やはり人の傷手《いたで》を癒《いや》す力があるのだろうか。訪ねて来る人に応対する浅尾の顔に、微笑がみられるようになった。
しかしそのつつましいざわめきが、小関家にまだ余韻を残しているまさにその時期に、千満太が伊部伝七郎を左内町の路上で斬るという凶事が起きたのであった。
その日、小関千満太は城を下がる途中、白銀町の末次道場に立ち寄った。道場主の末次弥助は、もと百十石を頂いて馬廻組に勤めた藩士だが、はやく家督を伜に譲って、白銀町に道場を開いた。城勤めのころから、新田宮流の達人と呼ばれて畏敬されていた人物だったので、道場はにぎわった。
千満太は子供のころ、父の十太夫に剣の手ほどきを受けたあと、この道場に入った。いまは高弟の末席につらなっている。
道場には、数日前の稽古《けいこ》のときに、物を忘れたのを取りに寄ったのである。忘れ物は、稽古日に町で買いもとめた、足袋一足だった。朝夕の涼しさが、千満太にその忘れ物を思い出させたようだった。道場で、しばらく同門の仲間の稽古を眺めたあと、千満太は足袋を懐にねじ入れて道場を出た。
そして白銀町と対岸の左内町をむすぶ笄橋《こうがいばし》まで来たとき、橋の上で意外なひとに遭った。三年前に家を去った、嫂《あによめ》の卯女である。卯女もすぐに千満太を認めたらしく、微笑しながら、足どりをゆるめて寄って来た。
「しばらくでございます。みなさまお変りはございませんか」
卯女はそう言ったが、すぐに微笑を消して、つつましく頭をさげた。
「美根さまのことで、みなさまどんなにか胸をお痛めだろうと、案じておりました」
「いや、あの節は」
と千満太も言って頭をさげた。美根の葬儀の日に、千満太はこの嫂が、野辺送りの人の陰に立っていたのを知っている。むろん言葉をかわしはしなかった。
「こちらに、寄りましょうか」
卯女が、千満太を欄干に誘った。橋の上にはかなりの人通りがある。日が傾いて、人の足はいそがしげだった。
千満太も卯女について、欄干に寄った。そこで卯女はもう一度頭をさげた。
「このたびはおめでとうございます。久米さまの末の娘御にお決まりだそうでございますね」
「やあ」
千満太は赤くなって、首筋を掻《か》いた。
「まだ早いと申したのですが……」
「早くはございませんよ」
卯女はたしなめるように言った。
「私が小関の家に嫁入ったのは、あのお方が二十一のときでした」
卯女はそう言うと、不意に黙りこんで下を流れる五間川に眼を投げた。あのお方と卯女が言ったのは、死んだ兄の鶴之丞のことである。
このひとは、まだ兄のことを忘れかねているのだろうか。そう思いながら、千満太は卯女を見た。
卯女が小関家に嫁入って来たのは、千満太が十五のときである。世の中にはこんな美しいひとがいるのかと思い、その美しいひとを嫂と呼べることを誇らしく思ったことをおぼえている。そして兄が死に、卯女が実家にもどされることになったとき、十九の千満太の胸の底には、兄の死を悲しむ気持とはまた別に、美しい嫂を失う淋しさも含まれていたのである。
卯女は二十五になっているはずだったが、以前と変りなく美しかった。美根の葬儀のときにも、一瞥して気づいたことだが、頬にいくぶん肉がつき、むしろ前よりも豊満に臈《ろう》たけて見える。
「嫂上《あねうえ》、いや、卯女どのはいま、何をしてお暮らしですか」
「私?」
卯女は微笑した。
「いまご家中の若い娘御たちをあつめて、お茶の作法を教えております」
卯女の実家は、禄百石に満たない平藩士である。裕福とはいえないその家にもどるとき、小関十太夫は卯女にかなりの額の金子《きんす》をあたえた。
ほかに再嫁するときの費用にあててもよし、また好きな茶の湯や歌道を教える資としてもよかろうと十太夫は言った。卯女は実家にもどると、その金で茶室にこしらえた離れを建ててもらい、そこで家中の子女に茶の湯を教えることにしたのである。
「だからいまは、実家の者にも何の迷惑もかけず、気楽に過ごしております。あなたのお父上のおかげでございますよ」
「さようか。それは重畳」
と千満太は言った。
はじめて聞いた話だったが、卯女にした父の心遣いに、千満太は快いものを感じた。おそらく十太夫は、去って行く嫁の病身を気遣ったのだろう。そう思い同時に、時おり家の者を集めて行なわれるお茶の席で、卯女が見事なお点前ぶりを示したことも思い出していた。もっともそれは、千満太には窮屈なだけの一刻にすぎなかったが。
兄の鶴之丞がいて、妹の美根がいた。そして卯女の病身もまだ目立たなかったころの、家の中の一刻の団欒《だんらん》が、影絵のように千満太の頭の中を横切った。
もっとも父と母の間には、そのころすでに罅《ひび》が入っていたのだが、それでも鶴之丞が卯女を娶《めと》ったあとしばらくは、夫婦はわずかに歩み寄ろうとしていたようである。だが、いまは変った。あのころにあった、いきいき弾むようにみえたものが、家にもどることは二度とあるまい。兄と妹は死に、卯女は去り、父母はかたくなな心を抱いたままに老いた。
「おひきとめしました、千満太どの」
卯女の声に、千満太ははっと眼をあげた。
「それで?」
千満太はいそいで言った。
「もはや、ほかに嫁がれる気はござらんのですか」
「ありませぬ」
卯女は首を振った。きっぱりとした声音だった。千満太は胸の中に安堵《あんど》の気持が動くのを感じたが、すぐにその気持を恥じた。眼の前の卯女の美しさは、孤独なままでおくには傷ましい。
「しかし、その」
と千満太は口ごもりながら言った。
「女子は行末ということも考えねばなりませんぞ。しかるべき良縁があるときは、お考えあってしかるべきと存じる」
卯女は微笑したが、黙ってまた首を振った。
卯女と別れて、橋の上を歩き出しながら、千満太は卯女の微笑がまだ眼の奥に残っているのを感じた。やわらかいが断固とした拒否をみたという気がした。
──あのひとは、やはり……。
まだ兄のことを忘れていないのだ、と思った。死んだ兄が、かすかに妬《ねた》ましく思えて来るようだった。
うつむいて歩いていた千満太は、前に人が立ちはだかる気配に顔を上げた。そして一ぺんに険しい顔になった。
笄橋を渡り切ったすぐの場所で、千満太の行手をふさいだのは、伊部伝七郎だった。ほかに家中の部屋住みと思われる男たちが数人、伝七郎を取り巻くように立っている。
「何か、用か」
と千満太は言った。だが伝七郎は答えず、しばらく人を小バカにしたような笑いをうかべて、千満太を眺めた。
千満太は幅ひろく厚い胸を持ち、いかにも屈強な身体つきをしているが、背丈は並みの人間よりややまさるかと思われるほどで、さほど目立たない。伝七郎は、その千満太より三寸ちかく丈高いうえに、全体に肥っているので大男にみえる。
その大男が、少し胸をそらせ気味に薄笑いで人を眺めると、おのずから傲岸で人をなぶる気配が生まれる。伝七郎はようやく言った。
「だいぶ、話が長かったではないか。見ておったぞ」
「何のことだ」
「おや、小関はとぼけるつもりらしい」
伝七郎は左右にいる仲間に眼をくばり、軽くうなずくようなしぐさをした。一緒にいるのは、どれも若い連中だった。迎合するような薄笑いをうかべた。
「橋の上で、女子と話していたではないか」
伝七郎は眼を千満太にもどした。
「喋喋喃喃《ちようちようなんなん》と、たのしげだったぞ」
「無礼なことを申すな」
千満太は伝七郎をにらんだ。
「あれは嫂だ」
「そんなことはわかっておるさ」
嘲《あざけ》るように伝七郎が言った。
「だがあの女子は、もう貴公の嫂じゃあるまい。赤の他人じゃろうが」
「………」
「竹井の若後家と申してな」
伝七郎はまた、ちらと仲間に眼をやった。
「あのとおりの美人だから、われらの仲間うちにもただならない関心を寄せておるやつがおるのだ。もっとも、後家が誰ぞになびいたという話はまだ聞かぬが」
低い笑い声を立てる伝七郎を、千満太は腕組みして眺めた。竹井というのは、卯女の実家の姓である。伝七郎の口からそういう名前が洩れただけで、卯女の美しさが穢《けが》されるような気がした。
「ま、それはよいわ。だが、もとの嫂と大そう話がはずんでいたではないか」
「………」
「見えたぞ、顔を赤くしておるのが」
まわりの若者たちが、どっと笑った。彼らは衆をたのんで、伝七郎の絡みをおもしろがっていた。そして伝七郎も、自分が醸し出したその場の空気に悪乗りしていた。
「貴公、久米の娘と縁組みが決まったそうだな。その矢先に、往来なかでほかの女子とあのように親しげにしたところを人に見られて、大事ないのか」
「………」
「むろん、もとの嫂とわかっておるさ。だが貴公、もしかすると美しい嫂と、むかし何かあったのではあるまいな。なにしろ、ただごとならずむつまじく見えたぞ」
千満太の顔は蒼白になっていた。千満太をよく知る人間がそこにいたら、その形相が憤怒のきわまった顔だとわかったはずである。だが若者たちは、千満太の無言を、伝七郎に言い負けたと見たらしかった。また、どっと笑った。
千満太が静かに腕組みを解いた。そしてひややかな声で言った。
「言うことはそれだけか」
「なに?」
「喰らえ!」
千満太は怒号した。声と同時にわずかに体を沈めたと思った次の瞬間、千満太の腰を放れた刀が、伊部伝七郎の胴を抜き打ちに斬っていた。
伝七郎も、城下でもっとも人気がある一刀流の影山道場で、剣名の高い男である。斬られながら、とっさに抜きあわせると、走りよる千満太にむかって鋭く剣を振りおろした。だが、擦《す》れちがいながら跳ね上げた千満太の第二撃の方が、わずかに速かった。そのひと太刀が深ぶかと伝七郎の腋の下を斬り放った。電撃のような居合い技だった。
伊部伝七郎は、刀をささげ持つように、高く両腕を上げた姿勢のまま、二、三度くるくると身体を回したあと、崩れるように地面に倒れ落ちた。
「どうするか、貴公ら」
千満太は、伊部の一撃で斬り放された肩衣《かたぎぬ》をむしり取って捨てると、彼の仲間にむかって刀を構えた。
「伊部に心中立てして斬り合おうとする者がおれば、拒みはせぬ。相手になるぞ」
だが、伝七郎の仲間は、一瞬の斬り合いからどっと逃げた場所に、釘づけされたように塊《かたま》ったまま、茫然としていた。前に踏み出して来る者はいなかった。
その背後に、遠巻きに町の者が集まりはじめていた。橋の中ほどにも黒く人がたまって、こちらに渡りかねて様子を窺っているのが見える。やがて役人が出向いて来れば、面倒なことになろう。
千満太は懐紙で刀を拭《ぬぐ》うと腰におさめ、肩衣を拾い上げた。そのまま背を向けたが、待てととめる者も、うしろから斬りかかる者もいなかった。
──一度、あのひとの裸をみたことがあったな。
河岸の道から、ほの暗い左内町の屋敷町の路地に踏みこみながら、千満太はふと何年か前にあった、小さな出来事を思い出していた。
それは卯女が嫁入って来た年か、その翌年かにあったことだから、いずれにしろ、おれは十五、六だったわけだと千満太は思った。
その夜千満太は、誰もいないと思って踏みこんだ湯殿の洗い場に卯女を見たのである。卯女は裸身を折るように前に曲げて、髪を洗っていた。
湯殿の戸をあけた千満太に、卯女が気づいたかどうかはわからない。千満太はそのとき、着物をつかんで自分の部屋に走りもどると、しばらく暗い闇の中で顫《ふる》えていたのだ。
顫えながら、眼の奥に焼きついている、いま見たものをじっと見つめていたのである。思いがけないほどたくましくみえた腰、その上につらなる繊細にくびれた腹、そして形よく下を向いて垂れていた乳房。
立ちこめる湯気と、懸け行燈の暗い光の中で一瞥しただけなのに、白い裸身も、うねるように投げ出されていた黒髪も、おどろくほどはっきりと千満太の眼に残っていた。
見るべからざるものを見たために、いずれ誰かに罰されるに違いないと、そのとき千満太は考えたのだが、その罰が、今日くだったのかも知れないという気がした。
人前で侮《あなど》られたからには、斬りかけて当然とさっきは思ったのだが、千満太の殺意は、伊部伝七郎が、千満太自身もしかとは気づいていなかった、卯女に対する暗い思慕を言いあてたとき、一気に暴発したようでもあったのだ。
──ともあれ、腹切りものだな。
縄手町のわが家の門前に立ったとき、千満太は、ようやくいつもの自分を取りもどしていた。伊部伝七郎──いつかは目に物みせてやるぞと心がけて来た男だ。その男を斬ったことに悔いはなかった。
薄闇が立ちこめている門の前で、千満太は手にさげていた肩衣を身につけ、威儀をただそうとした。そのときになってはじめて、着物の胸前が妙にしまりを欠いているのに気づいた。
千満太は胸に手をやった。袴の紐の上から左胸にかけて、衣服がざくりと切られていた。伊部に斬られたのは、肩衣だけでなかったのである。
千満太は斬り口に手を突っこんだ。すると懐の中から、両断された足袋が出て来た。伊部の剣は、足袋を斬り放ち、わずかにその下の皮膚までとどいていた。肌に指をあてると、ひりひりと痛んだ。懐に足袋がなかったら、相討ちという形になったかも知れないな、と千満太は思った。
──生と言い、死と言うも紙一重のことだな。
千満太は苦笑して、潜り戸を押した。
その夜、十太夫はあちこちに若党の宗助を走らせ、伊部伝七郎の生死を探らせた。そして、その死が間違いないことを確かめてから、ひと間に籠らせていた千満太のところに行ったが、行ってみると千満太はすでに自裁していた。
千満太には、伝七郎を討ち留めた自信があったのだろうか、それにしても手早く始末をつけよった、と十太夫は思った。その死からも、千満太らしい若干の粗暴さが匂って来るのが、十太夫にはあわれだった。
だが伊部伝七郎の生死を確かめたのは、踏むべき一応の手順というよりも、子の命を一寸でも先にのばしたいと思う親心のようなものだったという気がした。千満太から斬り合いの始終を聞きとったとき、十太夫はすぐに、伊部の伜はもう生きてはいまいと思ったのである。千満太はそういう父親の心を汲《く》んで、さっさと自分で始末をつけたようでもあった。
灯を吹き消し、血の匂いが籠る部屋の襖をしめてから、十太夫は浅尾のもの静かな罵詈《ばり》を浴びるために、母屋にむかった。
二日後の八ツ半(午後三時)ごろ、小関十太夫はそれまで横になっていた畳の上から、むっくり起き上がると、枕もとに置いてあった小さな風呂敷包みを持って外に出た。
すると、足音を聞きつけたらしく、若党部屋の裏から宗助が出て来た。
「夜にはもどる」
と十太夫は言った。そう言われても、宗助は心配そうな顔で、黙って主人の顔を見返して来たが、十太夫はかまわず背をむけた。
門を出ると、晩秋の光が十太夫を包んだ。明るすぎるほど明るいが、どこかにひやりとするものを含んでいる白い光だった。十太夫は少し顔をしかめながら歩き出した。屋敷の角まで来たとき、塀の中から薪《まき》を割る音がかすかにひびいて来た。宗助が仕事にもどったのである。
千満太が自裁すると、十太夫はその夜のうちに、人を使って千満太の亡骸をおさめた柩《ひつぎ》を菩提寺まで運ばせた。そのあと今日まで、十太夫がしたことは、次のようなことである。
十太夫はまず、夜が明けるとすぐに、伊部帯刀の屋敷に宗助をやって、夜の間に書き上げておいた書状をとどけさせた。それから妻の浅尾の実家に出かけ、義弟にあたる実家の当主と、長い間密談して家にもどった。それが昨日の昼過ぎである。
次に十太夫は、浅尾を自分の部屋に呼び、二人で何か話し合ったが、その話は短かった。浅尾は間もなく身支度を済ませると、女中のおりくにつきそわれて屋敷を出て行った。そのままおりくももどらず、その日の夕方には、小関家は十太夫と若党の宗助の二人だけになった。飯は宗助がつくって、十太夫に喰わせた。
夜になると十太夫はぷいと外に出かけ、そのままひと晩家にもどらなかったが、朝になると疲れた顔で帰って来て、宗助がつくった朝食を喰った。そして今日は一日中、ごろごろと家の中で寝て過ごしたのである。その間に家老の能勢忠次郎から二度、大目付の長沼甚九郎から一度使いが来たが、十太夫は玄関先で応対して、簡単に使いを返した。
家を出て行く様子はなく、宗助が昼飯をつくると、十太夫はそれも無言で喰った。宗助は時どき仕事の手を休めて、外から寝ている主人をのぞいた。十太夫が寝ころがっているだけで、あとは人気《ひとけ》もなくがらんとしている家の中を、荒涼とした風が吹き抜けているように宗助には見えた。
その荒廃は、歩いている十太夫にも見えていた。父祖の代から伝わるその家を、十太夫はいま捨てて来たのである。そのことを知らずに、日日の決まった仕事にかかっていた宗助をあわれだと思った。宗助のために、居間に金を残して来た。あとでうまく見つけてくれればいいがとも思った。
十太夫は能勢の屋敷がある唐物町にも、大目付の家がある代官町にも向かわず、左内町から河岸に出ると、笄橋のひとつ上手に架かる兎橋を渡った。対岸は檜物《ひもの》師が住む職人町である。その町を抜け、さらにつづく寺町を南に抜けると、町はそこで終りであたりは畑になった。道の正面に、丘のはずれの雑木林と小さな尼寺が見えて来た。
あらかた葉が落ちつくした雑木林に囲まれて、香信尼が住む尼寺はいっそう小さく見えた。十太夫は足を休めずに寺の門をくぐり、傾きかけている日射しに包まれた境内を横切ると、庫裡の入口に立った。
訪《おとな》いをいれるまでもなく、人が立って来て十太夫を迎えた。香信尼だった。
「まず、上がられませ」
と尼は言った。その顔にあわただしいいろが出ている。履物を脱ぎながら、十太夫は言った。
「伊部が来たか」
「はい。ついさきほど帰られたばかりでございますよ。途中で擦れちがわれたほど。お会いになりませんでしたか」
「いや、会わぬ」
こちらへ、と言って香信尼は十太夫を居間にみちびいた。そこは黒光りする厨子《ずし》のそばに、小箪笥《こだんす》と姿見が置いてあるというふうで、十太夫はその部屋に入ると、いつもかすかに、女である香信尼の暮らしの香を嗅ぐ思いをする。
部屋の中ほどに、さほど広くない炉が切ってあって、炭火が燃え、その上に架けてある釜が静かな音を立てている。十太夫は炉のそばに、どっかりとあぐらをかいた。十太夫の後から入って来た香信尼が障子を閉めると、部屋の中はいくぶん薄暗くなった。
香信尼も炉のそばに来て坐った。そしてすぐに釜から湯を汲んで茶を淹《い》れはじめたが、その手をふととめると、十太夫の顔をじっと見た。
「伊部さまに、果し状を出されましたそうな」
「やつが、そう申したか」
「はい」
「で、どう言っておったな……」
十太夫は香信尼の白い顔を凝視した。耳を澄ませるような気持になっていた。
「逃げることも出来ぬだろうと、そう申されておいででした」
「ふむ」
ついに引っかかって来よったか、と十太夫は思った。青沼の岸で、釣竿の先に巨魚の引きをとらえた時の感触を思い出していた。ぬらりと黒い背がみえる。
まことに伊部帯刀こそ、人のはからいを超えて、宿命で結ばれた生涯の敵だったのだ。剣を争い、女を争い、のちには政争の相手として対峙《たいじ》した。それで終りかと思ったがそうではなかった。男二人は伊部の伜とかかわり合って死んだ。美根の死にさえ、伊部の姿が影を落としていないとは言えない。小関家は瓦解《がかい》した。
十太夫は、宗助に持たせてやった果し状にそう書き、すべては貴台との、長く悪しき因縁より生ぜしことと覚悟|仕《つかまつ》り候、ついては貴台にも恨みは候わん、果し合いでこの争いに最後の決着をつけようではないかと、書き送ったのである。
伊部が、いつもの調子で、何を言うかと相手にしなければそれまでである。だが十太夫には、伊部はこの申し込みを受けるかも知れないという勘が働いていた。ただ一人の後つぎの伜を失って伊部は動揺し、気力も弱っているはずだった。
その勘は、どうやら当ったらしい。十太夫は香信尼がさし出す茶碗を受けとると、ゆっくりと茶をすすった。心の奥深いところに、邪悪に近い喜びが動いていた。どうせ滅ぶ家なら、一千石を道連れにしてやろう。
「果し合いを、おやめになることは出来ませんか」
「………」
十太夫は顔を上げた。香信尼が、寄りそうように膝を寄せて来ていた。頭巾の中の眼に涙が盛り上がっている。その眼を長い間見返したあと、十太夫は静かに首を振った。
「それは出来ぬ」
「お気持は、わからぬでもありませぬ。さぞご無念と思われることもございましょう。でも、そこまで争われるのは、悲しゅうございます」
「尼を嘆かせるのは、本意ではなかった。詫《わ》びる」
十太夫は頭を下げたが、微笑して香信尼を見た。
「しかし、そなたの言葉で申せば、いわば輪廻《りんね》にはこばれてここまで来た。引き返すことは出来ん」
「………」
「ところで、小三郎はここに何しに来たと申した? わしのように名残りを惜しみに来たかの?」
香信尼は顔をそむけた。そして膝でにじるようにして、十太夫から少し身体を離した。
「どうした?」
「あの方は……」
香信尼は顔をそむけたまま言った。
「私を抱きに参られたのです」
「………」
「今生の思い出に、一度私を抱きたいと、そう申されました」
やつめ、死を覚悟したか、と十太夫は思った。
「驚かれましたか。生ぐさいことを打明けると、お蔑《さげす》みでございましょうな」
「いや、驚きはせぬ」
十太夫は微笑した。香信尼も、いまが残されたぎりぎりの刻だと思っているのを感じた。
「蔑みもせぬ。小三郎の気持は、よくわかる」
「………」
「で、抱かれたか」
香信尼は、うつむいたままはげしく首を振った。だが、その身体が、不意に呪縛を解かれたようにやわらか味を帯びるのを、十太夫は見た。在家の女よりさらに生なましい色香が、香信尼を覆いはじめたようだった。満寿にもどったな、と十太夫は思った。
十太夫がそう思ったのを察知したように、香信尼がきっと顔を上げた。十太夫を見つめた眼がうるみ、胸は大きく起伏を繰り返している。
「小関さまは、いかがなさいますか」
香信尼はささやいた。辛《かろ》うじて聞きとれるほどの声だったが、香信尼はひと息につづけた。
「おのぞみなら、満寿は拒みはしませぬ。むかしから、そのように心を決めていましたゆえ」
遅い、と十太夫は心の中でうめいた。香信尼は、自分を抱けと言っているのだった。仏門にいる女が、どれほど必死な気持でそう言っているかは痛いほどわかったが、ざっと三十年遅れた、と十太夫は思った。
そして抱けば、おそらく香信尼は生きてはいまい。十太夫はそう思いながら、手をのばして香信尼の膝の上の手を握った。
「わしはよい。こうして満寿どのにゆっくり会えただけで十分じゃ」
絹のようになめらかで、若い肌をしておる。十太夫は静かに香信尼の手を撫でながら、衣の下の胸の起伏が次第におさまってゆくのを眺めた。
「そろそろ、時刻じゃな」
十太夫は香信尼の手を、そっと膝にもどすと、そう言って立ち上がった。香信尼も、黙って立った。
「では」
庫裡を出たところで、十太夫は振りむいて軽く辞儀をした。香信尼は黙然と立ったままだった。だが十太夫が背をむけると、うしろから鋭い声をかけた。
「そのように、もはや髪も白うなって、それでも行かねばなりませんか」
十太夫は振りむかなかった。植えこみを回って、小さな寺門に向かう道に出たとき、もう一度透きとおるような香信尼の声がした。
「思い残したことはございませんな」
十太夫は振りむいて微笑した。香信尼が、手で顔を覆うのが見えた。
──満寿は、わしを引きとめようとして、ああ言ったのかの。
寺門を出て、ほの暗い暮色に覆われている野に出ながら、十太夫は抱いてもよいと言った、香信尼のさっきの言葉を思い出していた。だがすぐに、いずれにしろそれは過ぎてしまったことだと思った。
香信尼を抱きたいと、日夜狂おしく思いつめた時期がある。そのはげしい肉欲は、不思議にも、生涯の終りがかすかに見えはじめた、四十を過ぎたころに来た。気性が合わぬと思いながらも、その妻にも馴れ、三人の子供も大きくなったそのころにである。
人生の大きな忘れ物に気づいたようでもあった。だがそれは、もっと理屈抜きの、暗く奥深いところから来る衝動のようでもあった。十太夫が、初雁《はつかり》町の路地の奥にるいという妾を囲ったのは、そのころである。そして生き物の暗い衝動は通り過ぎて行ったのだ。
十太夫は畑中の、細いがよく踏み固められている道を、足早に五間川の方に歩いて行った。左手に町の灯がきらめきはじめていた。
町から遠く離れたところに、万斎橋と呼ぶ粗末な橋がある。十太夫はそこで五間川を東にわたり、わたったところで持っていた風呂敷包みを解いた。中から一足の草鞋と、襷、鉢巻が現われた。
十太夫は身をかがめて、手早く身支度をととのえた。それから岸に腹這って、手で川の水を掬《すく》い、口にふくむと、立ち上がって刀の柄に霧をひと吹きした。岸の道は暮れかけていて、十太夫のすることを見咎める者はいなかった。
十太夫は一度歩いて来た野に眼をもどした。西の方になだらかに黒い丘が見えた。日はその陰に沈んで、丘の上にかすかな赤みを残すだけだった。丘のはずれに小さな灯が見えたが、それは香信尼の寺の灯か、それとも近くにある百姓家の灯か見わけ難かった。そのあたりは一面の暮色に包まれている。
十太夫がそのあたりを眺めたのは、わずかな間だった。すぐに流れに沿って、五間川の下流の方に歩きはじめた。
そこを柳の馬場と呼ぶのは、広い馬場の三方が、丈高い柳の木で囲まれているからである。城下のはずれから五丁ほど川岸をさかのぼったところにあって、昼の間は、ここで若い藩士たちが馬を責めているのがみられる。いまは人の気配もなく、ひっそりとしていた。
十太夫は粗い馬柵を乗り越えて、馬場の中に入った。そして息をととのえると、声を張りあげた。
「小三郎、来ておるか」
「おう」
と答える声がして、ほの暗い馬場の中ほどに人影が立ち上がった。人影は小さく、まだ遠い。伊部帯刀だった。
「ここにおるぞ」
「よく来た」
と十太夫は言った。手に唾《つば》を吐き、刀の鯉口《こいぐち》を切ってから、ゆっくり伊部の方に歩きはじめた。
「臆病風に誘われて、あるいは来はせなんだかと心配したぞ」
「バカ言え」
と、遠い声が応酬した。
「貴様の剣を、おそれてなどおらん」
「それは結構だ」
一歩一歩足もとを確かめてすすみながら、十太夫は言った。
「しかしよく心を決めた」
「伜を殺された。もはや、この世に楽しみはないわ」
帯刀の哭《な》くような、わめくような声が返って来た。
「貴様と斬り合って死ぬも一興と、心を決めたぞ」
「よかろう、小三郎。存分に斬り合うぞ」
十太夫は足をとめた。彼我《ひが》の間には、まだ十数間の距離があった。帯刀が叫んだ。
「鬼走りを遣うか、十太夫」
「むろんだ」
「うまく走れるかな」
帯刀が嘲るように叫んだ。
「むかしのようには走れまい、十太夫。それに、鬼走りにはわしにもいささか工夫があるぞ」
「おもしろい。では、拝見するか」
二人は言い合わせたように口をつぐんだ。十太夫は刀を抜くと、刀身を右肩にかつぐように構えた。伊部も刀を抜いたのが見えた。
鬼走りは、二人の師岸本六郎右衛門が、曾祖父から伝わる戦場剣に工夫を加えて編み出した秘剣だった。荒あらしい一撃必殺の剣である。
十太夫は、佇立《ちよりつ》している伊部に鋭く眼をそそぎながら、はじめはゆるやかに右に走った。次いで左斜めに走った。次にまた右斜めに走る。近づくようでもあり、遠ざかるようでもあるその走りの間に、十太夫の足は速さを加えている。そして少しずつ伊部に近づいていた。
伊部の姿は、黒く一点にとどまったままだった。十太夫の走りを追って、慎重に構えを変える伊部の姿が見える。その姿をにらみながら、十太夫は稲妻のような線を地面に描きながら、右に左に走った。足は、いまは飛ぶように速くなっている。
その変幻の走りから、突如として十太夫は疾走に移った。伊部の構えの、一瞬の遅れを見た疾走だった。拳をはなれた鷹《たか》のように、十太夫は、真直ぐ伊部に襲いかかっていた。一瞬にして二人の距離が縮まった。
伊部帯刀の腰が沈み、白刃が暗い宙を薙《な》いだ。その頭上を、鳥が翔《か》け過ぎるように十太夫の身体が跳び過ぎた。ただ一瞬の刃合わせだったが、伊部はそのまま声もなく前にのめった。そして十太夫も、伊部のうしろ二間のところに、どっと転び落ちていた。
十太夫は深ぶかと膝を斬られていた。手をあててみるまでもなく、伊部の一撃が骨を断ったと知れている。
──年寄って、前のようにはうまく跳べなんだな。
喘《あえ》ぎながら、十太夫はそう思った。しかし跳びながら放った、鬼走りの詰めの一撃が、伊部の顔面を斬り割ったことはわかっている。
「小三郎」
喘ぎがおさまると、十太夫は斬られた左足をひきずって、伊部に這い寄った。暗くて、伊部の姿はおぼろにしか見えなかった。十太夫は、手さぐりで伊部の鼻孔をさがしあて、しばらく息を窺ったが、やがてさらに身を寄せかけるようにして伊部の首をさぐり、静かにとどめを刺した。
「さて」
十太夫はつぶやいた。半ばちぎれた左足をかき集めるように寄せてあぐらを組むと、鉢巻と襷をはずし、丁寧に折りたたんでそばに置いた。それからゆっくり襟をくつろげはじめた。
やがて、馬場の闇を裂いて、やあッ! という鋭い気合がひびいた。そのあとしばらく、闇の中に低いうめき声と、かすかに人がみじろぐ物音がつづいたが、やがてそれもやむと、あたりは五間川の岸を叩《たた》く水音だけになった。馬場を霧が包みはじめた。
初出誌
オール讀物 *印は別册文藝春秋
邪剣竜尾返し 昭和51年10月
臆病剣松風  昭和51年12月
暗殺剣虎ノ眼 昭和52年3月
必死剣鳥刺し 昭和52年6月
隠し剣鬼ノ爪 昭和52年9月
女人剣さざ波 昭和52年12月
悲運剣芦刈り 昭和53年3月
宿命剣鬼走り *147号
単行本 「隠し剣孤影抄」昭和56年1月文藝春秋刊
本書は昭和58年に刊行された文庫の新装版を底本としています。
〈底 本〉文春文庫 平成十六年六月十日刊