[#表紙(表紙.jpg)]
藤沢周平
夜 消 え る
目 次
夜 消 え る
にがい再会
永 代 橋
踊 る 手
消 息
初 つ ば め
遠ざかる声
[#改ページ]
夜 消 え る
一
「あとは、あたしが片づけるから。先にお帰りよ」
おのぶが言うと、一緒に仕事場を片づけていた女二人は、現金に手をひいた。
「すみませんね、おのぶさん」
「それじゃお先に。また明日」
女たちは口口に言い、口ほどにはすまなそうでもなくさっさと部屋を出て行った。どちらも近所の女房だが、二人とも三十前後でおのぶよりはるかに若い。
二人とも所帯持ちだから、日が暮れると気がせくのはわかるが、後片づけはおのぶの仕事というような顔をされるのは納得出来ない、と思うのだが、二人のそわそわしている様子を見ると、おのぶはつい、いまのように言わずにいられない。
店の方で、二人が帰りの挨拶をしているのが聞こえた。その声を聞きながら、おのぶは十束ずつたばねてある鼻緒をすげた雪駄《せつた》の山を、もう一度きちんと積み直す。それから板の間を掃いてゴミをまとめ、行燈《あんどん》の灯を吹き消した。
部屋を出ようとしたとき、入口にぬっと人影が立ち塞がった。店の方が明るいので、逆光にうかんだ人影がいやに大きく見えて、おのぶは思わず声を出すところだった。
「終ったかね、おのぶさん」
とその男が言った。雪駄問屋藤代屋の手代で、友蔵という男である。
「あたしもこれから用で外に出るところだが、そのへんで飯でも喰いませんか」
「ええ、でも……」
おのぶは小声で言った。軽い恐怖心にとらえられている。友蔵が女に手が早い男だという、さっき帰った女たちがしていたうわさを思い出していた。
「帰って、ご飯の支度がありますから」
「おたくのご亭主は飯時を気にかけるようなひとじゃないでしょう。大丈夫ですよ、少しぐらい遅れても」
友蔵はおのぶの家の事情をよく知っていた。亭主の兼七が飲んだくれで、夜も家をあけることがめずらしくないことも。
「でも、性分ですからね。やることをやらないと、気が済まないんですよ」
「たまにはのんびりするといいのにな。そうしないと、あんた身体《からだ》がつづかないよ」
「ありがとう存じます」
そこで、不意に呪縛がとけた。友蔵と十以上も齢《とし》のひらきがあることに気づいたのである。相手はまだ三十になっていないはずだ。
おのぶは前にすすんで、軽く友蔵を押しのけた。冗談口になって言った。
「こんなおばあちゃんじゃなくて、もっと若いひとを誘いなさいな、手代さん。あたしは失礼しますよ」
「ふられた」
友蔵もおどけた声になって、道をあけた。
「今夜は、やけ酒だ」
外に出て一人になると、おのぶは歩きながらくすくす笑った。道はもう暗くて、ほかには人影も見えなかった。
友蔵の口ぶりから察して、ついて行けば飯では済まず、酒になったのではないかという気がした。それにしてもあのひとは、いったいどんなつもりで誘いをかけて来たのだろうと思った。
うまくさばいて逃げて来たいまは、男に誘われたことが不快ではなく、おのぶは何となく心をくすぐられている。
──あたしを、いくつだと思ってんだろ?
おのぶは四十である。酒のみの亭主を抱えて苦労している女である。それでもひとには若いと言われた。初対面のひとなどは間違いなく五つは若くみる。おのぶはひとにこそ言わないものの、内心ひそかにそう言われるのを喜んでいた。暗く考えこむようなことばかり多い暮らしの中で、ひとつぐらいはひとに誇れることがなくては、世の中やるせない。
藤代屋の手代も、昨日や今日のつき合いではないが、それでもあたしの齢までは知らないだろう。ひょっとしたら、三十半ばぐらいに思っているかも知れないよ、と思うと、おのぶの胸にくすぐったいような満足感がひろがる。半ばテレながら、ほほえまずにはいられない。
しかし友蔵は、それほど深い意味で誘ったわけではないのかも知れなかった。おのぶの暮らしを知っている友蔵は、言葉どおりにたまには飯でもおごってやろうと考えたのかも知れない。男に誘われたことなどないおのぶの方が、変に考え過ぎたということもあり得る。
もしそうなら、あんなふうにすげなく振りはらって逃げて来たのはまずかったのだ。あのひとは気をわるくしなかっただろうかと、おのぶは少し心配になって来た。友蔵にわるく思われたくはなかった。おのぶの家は、おのぶが藤代屋にしがみついて、それでやっと喰っているのだから。
二
おのぶの亭主兼七は、藤代屋に品物をおさめる雪駄職人だった。むかしは腕がいいと言われて、藤代屋の旦那に目をかけられたものである。
だが、兼七は三十を過ぎたころから深酒をするようになった。家で飲み、外で飲み、しまいには仕事をしながら茶碗酒をあおるようになった。
もともと酒はきらいではなく、仕事が終ったあとで近間の飲み屋で一杯やって来るほどの酒好きではあったが、はじめのころは家の中で飲むようなことはなかった。そして、一杯やって帰るとすぐに寝てしまうので、おのぶも亭主の酒がいまのようにたちのわるいものになるとは、夢にも思わなかったのである。
しかし兼七の酒は、急に変った。まず、飲む量が多くなった。外で飲んで来ても、家にもどるとまた飲んだ。家でしたたかに飲んでも、それでおさまらずにふらふらと外に飲みに出た。内と外の境目がなくなった。
だから兼七は、家に置いてある一升徳利に、酒がたっぷりつまっていないと承知しなかった。と言っても、おのぶの娘のおきみに酒を買って来いと言いつけるわけではない。
兼七はむっつりして気の弱い男である。酒がなくなったとわかると、徳利を抱いて自分で買いに行った。仕事の最中に、不意に台所に立って行って、徳利に酒があるかどうかたしかめたりした。しかし、そのうちに飲む量はますますふえて、仕事をしながら、茶碗酒をすするようになったのである。
とめても無駄だった。強くとめると、仕事をほうり出してぷいと外に出て行った。仕事と休みのけじめもなくなったのである。
そしてそのころから、と言っても酒の量がふえたから当然そうなったのかも知れないが、兼七の酒は足に来るようになった。家の中でもたわいなくひっくり返ったし、外でひっくり返って、そのまま道ばたに寝ているようなこともあった。おのぶはさがしに行ってはそういう兼七を道ばたで拾い上げ、肩にかけて家に連れてもどるのである。
兼七は三度の飯を喰うのを嫌い、風呂に行くのをいやがるようになった。身体は痩せてそばに寄ると何ともいえない異臭が匂うようになった。そして酒だけはいくらでも飲むのである。
茶碗酒をあおるとき、兼七の喉は異様な音を立てた。そういうときおのぶは、亭主の身体の中に何か得体の知れないものが棲《す》みついて、酒を欲しがっているような、無気味な気持に襲われることがあった。
兼七は酒の合間に仕事をするようになった。仕事と酒が主客顛倒したのである。兼七は藤代屋に見はなされた。
しかし見はなされるまでもなかったのである。そのころには、兼七の酒は手に来ていた。仕事場に坐って竹皮を編みにかかっても、手が顫《ふる》えて仕事にならなかった。兼七はぼんやりした顔で自分の手を眺め、それからふらりと立ち上がって外に出ていった。二年前のことである。
兼七は見はなしたが、藤代屋ではおのぶの仕事までは取り上げなかった。おのぶはそれまで鼻緒づくりの内職をしていたので、藤代屋ではつづけてその仕事をくれる一方、大量の注文が入ったときは店の仕事場に呼んで、雪駄に鼻緒をすげる仕事もさせた。その手間賃の方が、内職よりも分がよかった。
それに、みみっちいようだが、店に仕事に行くと、藤代屋では昼飯を出してくれた。それで一食分が助かるのである。店の者の機嫌を損じてはならないのだ。
──言い方が……。
少しそっけなかったかしらと、おのぶが藤代屋の手代のことを、いくらか気に病みながら歩いて来ると、まだのれんが外に出ている一軒の店の戸がひらき、男が一人外にほうり出されたのが見えた。
戸はぴしゃりとしまり、ほうり出された男はみじめに地面を這《は》っている。
「ちょっと、あんた!」
おのぶは走った。思ったとおり、地面に這っているのは兼七だった。兼七は立とうとしたが、うまく立てずに顔から地面にのめった。
「ほら、立ちなさいよ」
おのぶは腕をつかんで、ようやく兼七を立たせると、思いきり背中をどやしつけた。
「しゃんと歩きなさいよ。みっともないったらありゃしない」
背中などいくらどやしつけても無駄である。おのぶは、これまでどれぐらい兼七の背中をどやしつけて来たことだろう。怒りに眼がくらみ、時には情けなくて泣きながら兼七の背をぶつのだが、それは何のききめもなく、ただおのぶの手が痛くなるだけだったのだ。
それでもおのぶは、いまのような兼七を見ると、思わず手を上げずにいられないのだが、兼七はげっと言っただけで、蛸《たこ》のように力なくおのぶにしなだれかかって来る。
まわりに低い笑い声が起きた。夜道には人影もないように見えたのに、いつの間にか数人の弥次馬が足をとめて二人を見ていた。弥次馬は、おのぶが兼七のくさい身体を肩にかけて歩き出すと、やっと満足したように足早に闇に消えて行った。
おのぶの胸に恥辱感が溢れた。さっきまでの少しうきうきした気分は跡かたもなく消え、藤代屋の手代は、こういう亭主を持つ女だからと、侮《あなど》ってあんな声をかけて来たに違いないと、そのくやしさまでが胸にこみ上げて来るようだった。
三
「ふーん、大工さんねえ」
言いながら、おのぶはいそがしく鼻緒をすげている。ちらと娘の顔を見た。娘のおきみは、母親の仕事を手伝おうともしないで長火鉢に寄りかかったまま、夢見るような顔で障子に映る日のいろを見つめている。
「それで? 来年年季が明けると、そのひといくつになるの?」
「二十二よ」
おきみは、うっとりした顔で言う。
「でも、親方の家を出るだけで、しばらくはいまの親方に使ってもらうから、所帯を持ってもかまわないんだって」
「そう」
おきみはまだ十七だ。だが来年になれば十八である。所帯を持ってもおかしい齢ではない。あたしが亭主と一緒になったのは、いくつの時だったろう、とおのぶは思った。二十だ。少し遅かったのだ。
「親方も早く所帯を持った方がいいって言うんだって。喰えるだけの手間は払うと言ってくれているのよ。年季が明けると違うのね」
「そりゃおまえ、そうなれば一人前の大工さんだもの」
「あ、おっかさん。手伝おうか?」
おきみははじめて気づいたように言った。
「いいよ、いいよ。ひと区切りついたから、お茶でもいれよう」
おのぶは針を置いて立ち上がった。
「それに、すぐもどらなきゃならないんだろう」
「ええ、ちょっと寄っただけだから」
とおきみは言った。
おきみは、少しはなれた町で料理屋の住みこみ女中をしている。女中と言っても、ほんの台所の手伝いで、はじめの間は通いだったのだが、酒のみの父親を嫌ったおきみが、自分から住みこみに替ったのである。
娘が手もとからはなれたようで、おのぶは少しさびしかったが、兼七は料理屋が支度金にとくれたわずかの金も、たちまちさがし出して飲んでしまったのである。おきみの気持もわからないではなかった。
盆暮れに多少まとまった小遣いをもらうぐらいで、おきみはまだ給金をもらうところまでいっていないが、喰って着せてもらえて、台所仕事を仕込んでもらうだけで十分だとおのぶは思い、時折り娘がたずねて来るのをたのしみにしていた。
だが、おきみは意外に早く親の手もとをはなれて行こうとしているようだった。料理屋に出入りしている大工の棟梁《とうりよう》の若い衆と知り合ったというのである。新吉という若者だという。
「それでおまえ……」
火鉢のそばにもどると、お茶をいれながらおのぶは娘の顔をのぞいた。
「そのひとと、もう夫婦約束をしちゃったのかい?」
「約束というのじゃないけど、大体の話は……」
「おまえ……」
おのぶは言い澱《よど》んだ。
「まさか、変なつき合いはしていないだろうね」
「変なつき合い?」
おきみは怪訝《けげん》そうにおのぶを見たが、すぐに顔を赤くして、けらけら笑った。
「いやだァ、おっかさん。おっかさんこそ変に気を回さないでよ」
「でもね、気をつけなさいよ。男は油断ならないものなんだからね」
「わかってます」
おきみはわざとのように切口上で言って、行儀よくお茶を飲んだ。
「ねえ、おっかさん。あたし、お婿さんもらわなきゃならないの?」
「べつに」
おのぶはにが笑いした。
「そりゃ一人娘だから、年取ったら養ってもらいたいとは思うけど、親が働けるうちはべつに所帯を持ったってかまわないんだよ。ごらんのとおり、婿さんもらって跡をついでもらうという家じゃないんだから」
「そうね」
「何にもありゃしない」
おのぶは部屋の中を見回した。
「さびしいね」
「………」
「新吉さんてひとに、そういうことは話したの?」
「話した」
おきみは急にうつむいた。そして小声で言った。
「でも、まだ話していないこともあるの」
「何だい?」
「おとっつぁんのことよ」
おきみは顔を上げた。まだ少女のような面影をのこす顔に、急に分別くさい打ちひしがれたような表情をうかべた。
「おとっつぁん、同じなんでしょ?」
「同じだよ。急に変るわけがないじゃないか」
「話せないのよ。おとっつぁんのことを知ったら、あのひとがどういうかと思って」
「………」
「あたし、こわいの」
おのぶは答えられなかった。やっと言葉をさがしあてて言った。
「だって、しょうがないだろ。あれでも親は親なんだから」
四
「一杯だけ、どうですか?」
友蔵は酒をすすめた。二度も誘われて、いい齢のばあさんがあまりつんつんするのもどうかという気持でついて来たが、友蔵が連れこんだのは、はたして小料理屋だった。
だが、今夜のおのぶはそのことをあまり気にしていなかった。亭主の兼七は二晩家にもどらなかった。今夜だってもどるかどうかはわからない。そう思うと、いそいで帰って飯の支度をするのもばからしかった。
どこをほっつきあるいているんだか、と半ば投げやりな気持で思い、亭主が勝手にしてるんだから、あたしだって少しは勝手にしようじゃないかとも思っていた。
出された料理も遠慮なく喰べた。ひさしぶりにうまい物を喰べた気がするのはあさましかったが、ついて来たからには遠慮して小さくなっていてもつまらない。だが酒まで飲むつもりはなかった。
「お酒はいただけないんですよ」
「だから、一杯だけ」
友蔵は少ししつこい口調で言った。
「わたしだけ飲んでちゃ、つまらない」
「そうですか。それじゃほんとに一杯だけ」
兼七を見ていると、酒は見るのもいやで、実際におのぶはなめてみたこともないのだが、つき合いに受けた酒を一杯だけ飲みほした。
にがいだけだった。そして胸がかっと熱くなったので、おのぶはあわててこぶしで胸を叩いた。その様子を見ていた友蔵が笑った。
「おのぶさんは、ほんとに若いな」
友蔵はさっきから繰り返している言葉を、また持ち出した。
「四十なんて、とても思えない。わたしはてっきり三十半ばと思ってた」
「ふ、ふ。いやですね」
「肌は白いし……」
友蔵は酒が回って赤い顔をしている。好色そうな目つきでじろじろとおのぶの身体を見回した。
「小皺ひとつない。大体の顔のつくりが若いんだね」
「おばあちゃんを、あまりからかうもんじゃありませんよ」
と言ったが、おのぶはわるい気持はしなかった。はじめは眉に唾つけて聞いていたほめ言葉も、繰り返されるとじわっと利いて来る。若い友蔵が、自分を一人の女としてみているのがこころよかった。
──このひと、これからどうするつもりかしら。
二杯目の盃をうけながら、おのぶはそう思った。軽い好奇心が動いている。
友蔵は、この前に軽く身をかわされたせいか、今回は慎重に持ちかけて来た。仕事の話がある、と言った。だが、その仕事の話はほんのひと口で済んで、あとは飲んでばかりいるのである。べつに底意があるのはあきらかだった。
女癖がよくないと聞いたがさもありなんと思われるほど、友蔵は粋な男である。背が高く顔立ちもととのって、いつもさっそうとしている。友蔵が内心何を考えているにしろ、そういう若くてみばえのする男に、まだ女一人前に扱われる気持はわるいものではなかった。
ほめ言葉が、友蔵の自分をくどく声に聞こえて、おのぶはうっとりする。二杯しか飲まない酒に、顔が熱くなっていた。
「さて、そろそろ出ましょうか」
不意に友蔵が言った。おのぶはわれに返って馳走になった礼を言った。外に出ると友蔵が近近と身体を寄せて来た。
「おのぶさん、あんたは美人だよ。ほんのりと桜色になった顔がたまらないね」
「………」
「この裏に、いい家があるんだ。もう一軒つき合ってくれないか」
そら来た、とおのぶは思った。裏の家というのは多分出合茶屋か何かだろう。ここはそういう町である。友蔵を、口のうまい男だと思った。
だが、友蔵の言葉でおのぶは、身体のどこかにいきなり火がついたような気がした。おのぶにも身体の欲望がないわけではない。だが、それは長いこと身体の奥に埋もれたままで、ふだんはそのことを忘れたままで暮らしている。
友蔵の言葉は、それを覆いかくしていた部厚い歳月をひきはがし、生生しく姿を現わした欲望にいきなり火をつけたように思われた。おのぶは答えなかったが、無言のまま友蔵のあとからついて行った。胸が高鳴っているが、あたりを包む闇がおのぶをいつもより大胆にしていた。
だが町角をひとつ曲って、路地の奥にあるそれらしい家の軒行燈が見えて来たとき、おのぶは足をとめた。
──冗談じゃない。
と思った。相手は三十前の男で自分は四十だ。四十女が若い男におだてられて、うきうきしてと思ったとき、気持が水のようにさめた。友蔵が振りむいた。
「どうしたんですか?」
「手代さん、何か勘違いしてるんじゃありませんか」
とおのぶは言った。
「あたしはそんな女と違いますから。ここで失礼しますよ」
背を向けると、おのぶは小走りに走った。友蔵が何か言っているのが聞こえたが、振りむかなかった。
家にもどると、障子に灯のいろが映っていた。
──おや、もどっているんだわ。
おのぶははっとした。帰って来てよかったと思った。家に入るとはたして兼七がいたが、部屋の中の有様を見て、おのぶは棒立ちになった。
部屋の中は押入れといわず、茶箪笥《ちやだんす》といわず、残らず掻き回されて、畳の上に物が散乱している。そして兼七はといえば、ここ二年ほどさわりもしなかった雪駄の材料を持ち出して、仕事にかかっているのだった。
だがよく見ると、兼七の手ははげしく顫えて、縄に竹皮をはさむことも出来ないのだった。おのぶは、兼七のそばにそっと坐った。
「どうしたの? 仕事をする気になったの?」
「おっかあ、金おくれ」
と兼七は言った。雪駄の材料を投げ捨てると、おのぶににじり寄って来た。
「酒のみたい。金、おくれ」
「お金があるわけがないでしょ」
おのぶは静かに言った。そのときには、何が起きたのかわかっていた。兼七は飲《の》み代《しろ》が欲しくて、箪笥の底までさがし回ったのだ。だが金は見つからないので、仕方なく雪駄をこしらえて金をつくろうと、必死になっていたのである。
おのぶは、兼七の眼を見た。どことなく青光りするような眼が、おのぶを見ていた。だがそれはむかしの兼七の眼ではなかった。兼七の眼はおのぶに向けられていたが、何か遠くにあるべつのものを見ているようにも思われた。心を通じる道が閉ざされていた。
兼七が、もう常人にはもどれないのを、おのぶは感じた。そして自分の人生も、終ったとおのぶは思った。おのぶは兼七の頭を胸に掻き寄せて抱いた。
「いま、お金を上げるからね。行って、お酒を飲んでおいで」
そう言ったとき、おのぶの眼から熱い涙がしたたり落ちた。涙は兼七の首を濡らしたが、兼七はじっと動かなかった。
五
おきみが駆けこんで来たとき、おのぶは台所にいた。あわただしい足音に、おのぶは眉をひそめて娘を見た。
「どうしたの? そんなにあわてて」
「おとっつぁんいる?」
「いないよ。今日は昼過ぎに家を出たきりだね」
「じゃ、その足であたしのところに来たんだわ」
「おまえのところに行ったって?」
おのぶはおどろいて、手を拭くと茶の間に行った。
「おまえの働き先など知らせてないのに、どっから嗅ぎつけたんだろ?」
「そういうことを嗅ぎつけるのはうまいのよ。鼻が利くのよ、ああいうひとは」
と、おきみは憎憎しい口ぶりで言った。
「何しに行ったの?」
「小遣いをくれって言うの。でも、それはいいのよ」
おきみは興奮して、眼をきらきらさせている。
「あのひとに見つかったのよ。おとっつぁんと話しているところを」
「………」
「いまのは誰だって、すぐに聞かれたわ」
「それで?」
おのぶは注意深く娘の顔を見た。
「おとっつぁんだと言ってしまったの?」
「だって、嘘つくわけにもいかないじゃない?」
「そりゃそうだね」
「全部見られちゃったのよ。あのよれよれの恰好《かつこう》も、乞食みたいなひげづらも」
「ひげ剃ってやるといつも言うんだけど、いやがるからねえ」
「あたし、死にたい」
おきみは、不意にぽろぽろと涙をこぼした。
「何を言うんだね、おまえ」
「だって、あのひと一緒になる話は少し考えさせてくれって言うんだもの。そりゃ、当然よ。おとっつぁんが、あんな酒のみだと知ったら、誰だってそう言うわよ」
「全部、話してしまったんだね」
おきみはうなずいた。そして不意に叫ぶように言った。
「おとっつぁんなんか、死んでくれればいいんだわ」
「ばか」
おのぶは、思わず手をのばして、おきみの顔を打《ぶ》った。
「何てことを言うんだね、この子は」
「だって、おとっつぁんがいるうちは、お嫁になんか行けやしない」
おきみは泣きじゃくった。おのぶは、ちょっと、おやめと言って耳を澄まし顔になった。土間に、かすかな物音を聞いたように思ったのである。
おのぶが立って障子をあけた。土間には誰もいなかった。そしてひらかれたままの戸の外は闇だった。だがおのぶは、台所の上がり口に一升徳利が置いてあるのを見つけた。振ってみると、中にたっぷり酒がつまっているのがわかった。
おのぶは首をかしげた。だがすぐに顔から血の気がひくのを感じた。おのぶは顫える足で茶の間にもどった。
「おとっつぁんが帰って来たんだよ」
「………?」
「でも上がらずに行っちゃったよ」
「どこへ?」
不思議そうにおきみが言った。その肩をつかんで、おのぶは顫え声で言った。
「おまえが、死ねばいいって言ったのを聞いたんだよ。だから、どっかへ行ってしまったんだよ」
おきみも顔いろを変えた。
「まさか、嘘でしょ? おっかさん」
「おいで。さがして来る」
おのぶは家から走り出た。おきみが後につづいた。
──そうでなければ、あんなに好きな酒を置いて行くはずはない。
不吉な予感にわしづかみにされて、おのぶは表通りまで走った。だが暗い道が左右にのびているだけで、人の気配はなかった。二人は交互に兼七を呼んだが、答える者はいなかった。
「おいで、河岸《かし》に行ってみよう」
おのぶは顫える足をはげまして、また暗い道を走った。
帰ると、無人のはずの家に灯がともっていた。おきみが来ているらしい、とおのぶは思った。
兼七がぷっつりと姿を消してから三年になる。自身番にもとどけ、ひとにもさがしてもらったが、兼七は見つからなかった。水死人も首縊《くびくく》りも現われず、兼七は消息不明になった。
おのぶは、藤代屋の内職をやめ、いまは近くの商家で、通いの台所女中をしている。喰うだけなら、それで十分だった。住み込んでもいいのだが、おのぶは兼七がいつかもどって来るような気がして、夜には家に帰るのである。
障子をあけると、おきみと新吉がいた。隣町に所帯を持って二年になる。
「今日、ウチのひとと鰻屋に寄ったから、おっかさんにも折りをつくってもらって来た」
「そう、それはありがと」
「ねえ、聞いて」
おきみは少しはしゃいだ声で言った。
「今度、ウチのひとね。親方にまかされて、大店《おおだな》の隠居所をつくるんだって。出世したのよね」
「おい、おい。大げさに言うんじゃないよ」
と新吉が言った。新吉は物腰の落ちついた感じのいい若者である。おきみは案外に眼がたしかで、いい亭主を引きあてたのである。
「それは、おめでとうさん。どれ、おっかさんにも熱いお茶を一杯おくれ」
とおのぶは言った。
おきみのしあわせは疑いないものだった。おのぶはそのことを喜ばずにはいられない。何の不満もなかった。
だが、いまのようにおきみがはしゃいでいるのを見るとき、おのぶの気持の中に一点おきみを憎む気配が影を落とすこともたしかだった。おきみのしあわせは、兼七の失踪で購《あがな》われたのである。
おのぶは、近ごろめっきり白くなった髪を櫛《くし》で掻き上げると、静かに熱いお茶をすすった。
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にがい再会
一
畳屋《たたみや》の源次は店に入って来ると、ちらと帳場の新之助を見た。それから商談にいそがしい番頭や手代に、いつものように威勢のいい挨拶《あいさつ》の声をかけて奥の帳場にやって来た。
挨拶といっても、おじゃましますよとか、みなさんご精が出ますなとかいったたぐいのことだが、なにしろ声が大きいので、番頭と話している客などは、振りむいて源次の背中を見ている。
「いそがしいかい、旦那」
源次は新之助のそばに来ると、そう言いながら帳場の横に腰かけた。
「なに、大したことはないよ」
と新之助は言った。そろばんを片寄せて、こちらを見ている小僧を手招きすると茶を言いつけた。
「ひまであくびしていたところだ。何かおもしろいことはないかね、源さん」
新之助が言うと、源次は小指をおっ立てて見せた。新之助の女房のことである。
「いるのかい?」
「いや、外に買物に出ている。そろそろもどる時刻だが……」
「そいつはつごうがよかった」
と言って、源次はぐっと声を落とした。顔には秘密めかした笑いがうかんでいる。
「あくびなんざ、いっぺんにふっ飛ぶような話を持って来た。おこまのあまが帰って来たぜ」
「え? ほんとかね」
と新之助は言った。
新之助と源次は同じ町内で育った幼馴染《おさななじ》みで、それぞれ親の稼業を継いで三十を過ぎたいまも遊び仲間である。新之助が金主になって、吉原や近くの岡場所に繰りこむことも再三なので、源次は新之助の女房にも母親にも嫌われている。
「帰って来て……」
新之助も声をひそめた。
「いま、どこにいるんだい?」
「黒江町は黒江町だが、油堀そばの長蔵|店《だな》だ」
「ああ、じゃむかし、死んだおふくろと一緒に住んでたところだな」
「くわしいじゃねえか」
「うむ、おこまにそう聞いたことがあるんだ」
新之助がそう言ったとき、小僧が奥からお茶をはこんで来たので、二人は口をつぐんで茶碗に手をのばした。
そのとき、店では商談がまとまったらしく客の一人が立ち上がり、新之助を見て挨拶をしたので、新之助はいそいで帳場を出ると、お愛想《あいそ》を言いながら客を送り出した。客は顔馴染みの傘屋《かさや》の主人だった。新之助の家は京、大坂から来る下り傘を主として扱う傘問屋である。
「そうか、帰って来たのか」
帳場にもどって新之助が言うと、お茶をすすっていた源次がそうだよと言った。
「おまえさん、おこまに会ったのかい」
「いや、会っちゃいない。おきくに聞いたんだよ、ほら、団子屋のおきく」
「うん」
「それで、おめえが会いたいんじゃないかと思って、飛んで来たわけさ」
源次はにやにや笑ったが、ひょいとその笑いをひっこめるとまじめな顔になって言った。
「もっとも、おこまは病気だそうだ」
「ほう」
「それからな」
源次は身体《からだ》をひねって、帳場の中の新之助に顔を寄せた。新之助も首をのばす。
「おこまは岡場所にいたらしいぜ」
「やっぱり……」
と新之助は言った。そのうわさは、七年前におこまが黒江町から姿を消した直後からあったのだ。
「しかし、岡場所ならおれたちもずいぶんあちこち行ったのに、よくおこまに会わなかったもんだな」
「このへんじゃなくて、ずっと北だ。千駄木の根津にいたそうだ」
「ふーん」
「どうだい、行ってやったら。病気見舞いに来たと言えば、やっこさんよろこぶだろうぜ」
源次はまたにやにや笑ったが、笑いながらするどい眼を新之助に投げた。
「それとも、岡場所勤めをしていたと聞いて二の足を踏んだかね」
「そんなことはないさ」
と新之助は言った。
源次が帰ると手代の宗吉が店の内に灯をともしはじめた。秋は日が傾いたと思うと、店の中はたちまち暗くなる。灯がともると、身のまわりににわかに夜の気配が押し寄せて来た。
「ちょいと外に出て来る。灯はもどってからでいいよ」
帳場の行燈に火をいれに来た宗吉に言うと、新之助は土間に降りて表に出た。
外の方が家の中より明るかった。といっても日はすでに落ちて、西の空は夕映えのいろを残すだけになっていたが、空から落ちかかる反射光が町と行きかうひとを淡く照らし出している。
──そうか、おこまがもどって来たのか。
と新之助は思った。岡場所勤めで、そのために身体をこわしたかなと思うと、哀れさが胸をしめつけて来た。遠い子供のころからの、おこまとのつき合いが思い返された。
──むろん、行ってみるとも。
と新之助は思っている。おこまは、新之助が若いころ、一度はひそかに女房にと思ったことのある女だった。知らぬふりは出来ないさと思いながら、新之助は馬場通りを一ノ鳥居の方に歩いて行った。
二
おこまが八幡橋のすぐそばにある叔母の家に引き取られて来たのが、いくつのころだったのかは新之助にはわからない。だが気がついたときには、町の遊び仲間の中におこまがいたのである。手足の細い、顔の黒い女の子で、夕方になると、どんなに遊びに夢中になっていてもさっさと家にひきあげたのが印象に残っている。帰って叔母を手伝うのだということだった。
町内の幼馴染みというものは、時期が来ると一人欠け二人欠けして、いつの間にか町から姿を消すものだということを新之助は知った。大方は奉公に出て行くのである。
町に残るのは家業をつぐ跡とりばかりだった。米屋の勘吉、雪駄屋《せつたや》の文次郎、そして新之助と源次、団子屋のおきく、煮染屋《にしめや》のおみよなどである。その中におこまもまじっていたのは、叔母の後つぎというのではなく、叔母の商売を手伝っていたからである。おこまの叔母のおよしは八幡橋から見える河岸で、小さな飲み屋をやっていた。
それはともかく、そうして町に残った子供のころの遊び仲間の結束は固くて、彼らは一緒になって方方の祭を見に行ったり、水茶屋にあつまって無駄話に時を過ごしたりし、やがてもう少し齢が行くと、おこまの叔母の店で隠れ酒を飲むようにもなった。酒を飲むにはまだ早い年ごろなのに、おこまの叔母は止めるどころか酒をすすめ、男の子たちが酔っぱらうと、奥の茶の間に酔いがさめるまで寝かせておいた。仲間の中心になっていたのは新之助である。
そういうつき合いが、五、六年はつづいただろう。だが男たちが二十を過ぎ、勘吉や文次郎が嫁をもらって身を固めると、仲間があつまることは稀になった。そして、そのころからおこまが急にきれいになったのである。
おこまは色の浅黒いおとなしい娘で、遊び仲間に入っても隅の方にひっそり坐ってるような目立たない子だったのに、十八、九になると肌は浅黒いなりにやわらかく光るようになり、眼鼻立ちまで彫深く変ってしまったようだった。少し眼尻の切れ上がったまつげの長い眼や、熟れたぐみのように赤い唇は、男ごころをひきつけるに十分だった。姿もきれいだった。
新之助はいつの間にか、おこまに夢中になっていた。遊び仲間で会えなくなっても不自由はしなかった。叔母の店に通いつめた。そしておこまが、酔った客に抱きしめられたりするのを見るとこっそりと胸を痛め、また当のおこまがその客の手をすぐに振りはらわないのに腹を立てたりしながら、日暮れになるといつの間にか足はおこまの店に向くのだった。
しかし新之助は、自分のその気持をおこまに打ち明けたわけではなかった。新之助の家は三代もつづく傘問屋で、一杯飲み屋の娘を嫁にもらいたいと言っても、親がゆるすはずがないと思っていたのである。それでも新之助は一度だけ、生前の父親におこまのことをにおわせてみたことがあるが、はたしてぴしゃりと拒まれると、あとは二度と親の前でおこまの名前を口にしなかった。
それでいて、畳屋の源次がやはりおこまを思いつめているのを知ると、新之助はすごい剣幕で源次を脅《おど》し、「おこまに手を出すな」と言った。格式も財産もある傘問屋の跡つぎよりは畳屋の伜《せがれ》の方が、おこまを嫁に出来る可能性が高いのに嫉妬したのである。
新之助は二十五になっても嫁をもらわなかった。だが、おこまに対するぐずぐずした未練ごころに、とどめを刺される日が来た。おこまの叔母の店が潰れて莫大な借金を出し、家族は四散するらしいといううわさが耳に入って来たのである。
忘れられない思い出がある。そのうわさを聞いて飲み屋をたずねて行った新之助は、家の中に人相のわるい男が二人もいて、その前におこまの叔母と叔父が首うなだれて坐っているのを見た。おこまはいないかと聞いた新之助に、叔母が力のない手で外にいるという手真似をした。
外に出てあたりをさがすと、馬場通りの北の河岸に男と一緒にいるおこまの姿が見えた。そして八幡橋の袂《たもと》まで近づくと、おこまと一緒にいるのは三十前後の色白でのっぺりした顔の男で、河岸にひっぱり出したおこまに何か言い聞かせているところらしいとわかった。男は身ぶり手ぶりをまじえて、しきりにおこまに話しかけている。
だが、それに対しておこまがはげしく首を振るのが見えた。声は聞こえず、新之助に背をむけているのでおこまの顔は見えなかった。話の中身は知るよしもなかったが、新之助には二人の間にかわされている話のおよその輪郭は読めるような気がした。
無理難題を言いかけられているのだ。その無理難題は、むろんおこまの叔母の店が潰れたことと関係があるのだろう。だが、店が潰れてどのぐらいの借金が残ったのかは知らないが、叔母夫婦の実子でもないおこまが犠牲を強いられるいわれはない、と新之助は思った。
おそらく借金筋の男たちに違いない家の中の男たちや、いまおこまに何か言い聞かせている男だって、そのぐらいの道理はわかっているに違いなかった。にもかかわらず、白昼おこまに無理難題を言いかけているのは、おこまが若い女だからだ。若くてきれいなおこまが金になることを知っているからなのだと新之助は思った。
思わず知らず新之助は男をにらみつけていたらしい。不意におこまをそこにおいて、男がつかつかと新之助のそばまで歩いて来た。
「おい、そこの若いの」
と男は言った。そばに来たのを見ると、のっぺりしたやさ男と見たのは間違いだったとわかった。その男は細い眼に、かみそりのような白い光を宿していた。
「おれたちに何か用か」
「いいえ」
新之助はあわてて首を振った。胸がとび上がるほどに波打ちはじめていた。堅気とは見えない男が恐ろしかった。新之助のその様子を、じっと見つめながら男が言った。
「用がねえなら行きな。目ざわりだ」
そのときおこまが振りむいて新之助を見た。そして新之助さんと言った。
「やっぱりそうか。おめえ、おこまの知り合いだな」
男がうす笑いした。そしてすぐ前までつめ寄って来たので、新之助は後じさりした。
「だがこの女のことは忘れちまいな。おこまはもう、おめえたちと遊んじゃいられねえのだ。こーんなにでけえ……」
と言って、男は胸の前に両腕をひろげた。
「借金が出来て、そいつを返すために働かなきゃならねえ。わかったな」
男は新之助をなめて、子供あつかいにしていた。その借金は叔母夫婦がつくったもので、おこまには関係がないじゃないかと、新之助は口まで抗議が出かかったが、恐ろしくて言えなかった。みじめにうなずいた。
「と言うわけだ。わかったら……」
男は突然に、腹にひびくような大声を出した。
「とっとと消えうせろ」
新之助は不意のどなり声に思わず腰を落としそうになり、がくがくとうなずきながら後じさりした。
「新之助さん」
取りすがるようなおこまの声が聞こえたが、もうそちらに顔をむけるゆとりは失われている。新之助は男を見つめながらじりじりと後にさがり、やがて背をむけると逃げるような足どりでその場から遠ざかった。おこまを見たのは、それが最後である。
──わるい幕切れだった。
と、いまそのときのことを新之助は思い出している。屈辱的な思い出だが、相手はやくざ者だった。理屈も何もあらばこそ、ただ無性にこわかったのだ。仕方なかった、と新之助は思う。ただおこまは、おれをいくじのない男だと思ったに違いない。
──あのときの埋め合わせをしなきゃな。
と新之助は思いながら、急に暗くなって来た道を門前仲町の方に歩いて行った。
だが一ノ鳥居まで歩いて、ひき返して家にむかうころには、おこまが町にもどって来たという話がもたらした興奮は、ややさめた。
──あいつ、いくつになったんだ。
と新之助は思った。おこまが姿を消したのは二十ごろのことである。もう、小三十だ。帰って来たとさわぐほどのこともないかと、新之助はにが笑いした。
それに源次も言ったように、おこまは岡場所勤めをして来た女である。どんなふうに変ったかわかるもんじゃない、ともちらりと思った。万事は会ってからのことだ。そう思うと、おこまが帰って来てすぐにも心はずむようなことがはじまりそうに思えた気分が、また少ししぼんだ。
三
源次は病気だと言ったが、行ってみるとおこまは起きて縫物をしていた。顔いろもわるいというわけではなく、部屋の隅にたたんだ夜具を置いてあるのが、わずかに病人くさい感じをあたえるだけだった。
「病気だと聞いたから……」
手みやげのつぐみの味噌漬けをさし出しながら、新之助が言った。
「寝てるのかと思ったら、元気そうじゃないか」
「寝てるほどじゃないのよ」
おこまは新之助がたずねて来たのをあまりおどろく様子もなく、上がってくださいと言った。そして、この味噌漬けは何ですかと聞いた。
「小鳥だよ。つぐみの味噌漬けだ。病人は精をつけなきゃいけないからね」
「病気は大体なおって、まだほんの少うし目まいが残ってるぐらい、大したことはないんです」
とおこまは台所からいった。そしてお茶道具をはこんで来た。
「しばらくね、新之助さん」
長火鉢をへだててむかい合うと、おこまははにかむような笑顔で新之助を見た。
「少し太ったんじゃないですか」
「酒ばっかりくらっているからね」
言って、新之助もおこまを見た。むかしにくらべるとおこまの身体にも贅肉《ぜいにく》がついていた。その丸味を帯びた身体つきとか、眼の下のうすい隈《くま》、顔の小皺とかが、もう若くはない齢とおこまがくぐり抜けて来た世界を物語っていたが、そういう変化は、おこまにむかしにはなかった底知れない崩れた色気のようなものをつけ加えていた。
「おどろいたな。色が白くなったんだ」
と新之助が言うと、お茶をすすめながらおこまがくすくす笑った。
「若いころがひと一倍黒かっただけですよ」
「ここは子供のころに住んだ家なんだって?」
「家はもっと奥なんです。場所はここだけど」
「やっぱりむかし懐かしくて帰って来たわけだ」
「懐かしいって言うより、ほかに行くところがありませんからね。ここなら知ってるひともいるし」
言いながらおこまは、長火鉢の引出しから煙管《きせる》とたばこを出した。そしてごめんなさいねと言うとたばこを吸いはじめた。
新之助はど胆《ぎも》を抜かれたような気がしたが、たばこを吸うおこまの手つきは馴れたもので、なかなか小粋《こいき》に見えた。
「で、むこうの方は……」
用心深い言い回しで新之助が聞いた。
「もう手が切れたの?」
「そうね、切れたと言えば切れたようなものだけど。病人を置いてても仕方ないでしょうからね」
おこまは曖昧《あいまい》なことを言った。そして煙管を下におくとぱっと笑顔になった。
「あたしがここにいることを、誰から聞いたんですか」
「源次だよ」
「ああ、源ちゃん。あのひと元気?」
「元気だよ、子供が三人もいるんだ」
「あらあら」
おこまはうつむいて、くすくす笑った。
「でも、源次さんは誰から聞いたのかしら」
「おきくに聞いたと言ってたな。団子屋のおきく」
「あ、そうなの。それでわかった」
とおこまは言った。そして底光りするような眼で新之助を見た。
「あたし、ここにもどってもむかしの仲間には会わないつもりだったのよ。ここでこっそりと身体をなおして、元気になったらまたよその町に働きに行こうなんて考えて」
「………」
「でも、そんなふうに思っていると、よけいに知った顔に会うみたいね。ここに来たあくる日には、ばったりとおきくちゃんと会ってしまったんです。それも方角違いの平野町で」
「そういうもんさ」
と新之助は言った。
「しかし、おれたちにも黙っていようなんてのは、水くさいな」
「でも、友だちといってもむかしのことだし、それに、あたしはああいうところに売られた女だから」
「でもそれは、叔母さんの借金のせいで、あんたがわるいわけでも何でもないだろ」
言いながら新之助は、気持の奥底にひっかかっている古い屈辱的な思い出を、おこまの前にさらけ出すときが来たのを感じた。
「おぼえているかなあ。あんたが八幡橋の北の河岸に、変な男に連れ出されて、それをおれがさがしに行ったときのことを……」
新之助は怪訝《けげん》な顔をしているおこまに、そのときの状況をくわしく話して聞かせた。おこまはすぐに思い出したらしかった。うす笑いをうかべて、うなずきながら聞いている。
「あんたはあれからすぐに姿を消してしまって、事情はわからなかったけど、あの男はあんたを買いに来てたんだろうね」
「そうなの」
とおこまが言った。
「はじめはとてもうまい働き口があるようなことを言って、そのうちに脅したりすかしたり」
「脅されて、おれは逃げたんだ」
突然に新之助は言った。
「あんたを見捨ててね。あいつがこわかったんだ。だが、あとであんたにはさぞおれがみっともなく見えただろうと思ってね」
「だってそれは仕方ないわよ。相手は堅気じゃないんだから」
「いや、なぐさめてくれるのはありがたいけどね。みっともなかったに違いないんだ。そのことがずっと気になっていた。いつか詫びようと思ったんだが、こうして会えてうれしいよ」
「お詫びだなんて……」
おこまは新之助を見た。
「男がそんなことを言うもんじゃありませんよ。あたしはすっかり忘れていた」
四
「酒を買って行ってね、二度ばかり飲んだ」
と新之助が言った。
「おこまも飲んだよ。酔うと、あいつ色っぽいぞ」
「ちきしょう」
と源次は言った。声をひそめた。
「それでおめえ、もうあの女と寝たのか」
「まだだ。まだそこまで行っちゃいないよ」
と新之助は言った。
「不思議だなあ。あれだけ若いころからつき合って、あいつとは一度も寝たことがないんだなあ」
「おまえさんはとろいんだよ」
と言って源次が丸くて低い鼻をうごめかした。
「おれなんか、おきくが婿を取ると決まると、さっそくおきくをくどいて出合い茶屋に行ったもんな」
「この──」
新之助は帳場から身をのり出して、源次の頭を張った。
「わるいやつだな。おまえもわるいが、おきくもおきくだ」
「へ、へ」
「まさかその手で、おこままでくどいたんじゃなかろうな」
「いや、それはない」
と言ったとき、奥から新之助の女房がお茶をはこんで来た。そして皮肉な口調で源次に言った。
「ばかにうれしそうに二人で話しているけど、源次さん、またうちのひとを外に連れ出す相談ですか」
「あっち行ってろ。女子供の知ったことか」
新之助は不機嫌に言い、女房がひっこむと源次に身体を寄せて言った。
「あいつ、店の者におれとおまえがどんなことを話しているか、聞いて知らせろと言ったそうだ」
「おれも嫌われてるからね」
と源次は言った。そして今度はささやき声になった。
「さっきの剣幕だと、今夜もお出かけらしいな」
「うむ、このごろ女房とは喧嘩ばかりしてるんだ。家にいても、おもしろいことはありゃしない」
「ま、がんばるんだな」
源次はひょいと立ち上がった。そのまま行くのかと思ったら帳場に顔を突っこんで来た。
「せっかくのおたのしみに水をさすようだが、おこまに男がいるらしいよ」
「………」
「気をつける方がいいな」
「ま、ああいうところで働いて来た女だからな。しかし、その男というのはおれのことじゃなかろうね」
「ちぇ、しょってるぜ」
と源次は言った。
「ちがうんだ。団子喰いながらおきくから聞いた話だよ。おきくは二度ばかりその男を見たそうだ」
新之助がその夜、おこまの家に行く前に途中で一杯ひっかけたのは、源次にそういう話を聞いたからと言うわけではない。夜の道の寒さしのぎのつもりだったのだが、その軽い酔いのために、抱いていた疑問はおこまの前でなめらかに口を出た。
「あんたに男がいるといううわさを聞いたんだけどね」
「………」
「その男というのは、どうもおれじゃないらしい」
新之助はにやにや笑った。おや指を立てた。
「いるのかい?」
「いたらどうしますか」
おこまは笑わなかった。吟味するような眼で、新之助をじっと見ている。
「それがほんとなら、これっきりというわけね」
「いや、そんなことは言ってないよ」
「客でも間夫《まぶ》でもないの。働いてたお店のひっかかりで来るんですよ」
「………」
「新之助さん、おねがい」
不意におこまは、腕をのばして新之助の手をにぎった。おこまの手はやわらかくて、あたたかかった。
「あたしにお金を貸してくれませんか」
「いくらだい?」
「三十両」
と言ったとき、おこまの顔に媚《こび》があふれた。男を蕩《たら》す顔になった。おこまの皮膚のうすい顔は、内側から灯がともったようにかがやいている。
「三十両あれば、そのひととは手が切れるんだけど」
だが、おこまに手をにぎられたときから、新之助の気持は逆に尻ごみをはじめたようだった。警戒心が頭をもたげていた。おこまが、隠していた本性を見せたような気がしたのである。
新之助は眼をそらした。
「三十両は大きいな」
「でも、新之助さんのお家なら、そのぐらいのお金ははした金じゃないんですか」
「そうはいかないよ」
新之助はそっと手をひいた。そして小さい声で考えてみようと言った。
五
──ことわれば、それっきりになるだろうな。
金箱を前にして、新之助は考えこんでいる。家の者も奉公人も寝静まって、起きているのは新之助一人だった。
──しかし……。
三十両貸せということは、くれと言うことなのだ。病身の、岡場所の女郎上がりのおこまに、三十両の金を返す才覚があるとは思えない。
いや、それがほんとうに過去の暮らしと手を切るために必要な金なら出してやってもいい、と新之助の気持は揺れ動く。はした金というわけではないが、三十両は出せない金ではない。
だがそうではなく、金を出すのが一度では済まなくなる場合も考えなくては、と新之助は思っている。おこまの言葉のうしろに、男の影がちらつく以上、その疑いは捨て切れないのだ。
──それがはっきりしたときに……。
今度はおこまの要求をこばみ切れないような関係になっていたというのでは悲惨だと、新之助は商人らしく先を読む。危険な橋はわたりたくなかった。
新之助は、いったん包んだ金包みの中から五両だけ包み直し、残りを金箱にもどした。そして厳重に錠をおろした。
あくる日の夜、新之助はおこまの前で商いが苦しくて三十両の金を用立てるのは無理だということを、くどくどと申しわけしていた。
「そんなわけだ」
新之助は懐から出した五両の包みを、おこまのそばにそっと押してやった。
「少ないが、何かに用立ててくれ」
「これは何ですか」
「五両だけ包んである」
おこまは奇妙な微笑をうかべて、長い間新之助を見つめた。それから口をひらいた。
「多分こんなふうな結末になるんじゃないかと思ってたのよ。あんまり考えてたとおりになったんでびっくりしちゃったな」
「………」
「ごめんなさいね、新之助さん。あたし、あんたをためしてみたんですよ。むかしと変ったかしらと思って。でも、ちっとも変ってなかったのね」
「じゃ、三十両の金は?」
「まさか三十両のお金を、右から左に貸してもらえるとは思っていませんよ。たかが岡場所の女郎上がり、身分は心得てます。でも、ひょっとしたら新之助さんはそんなふうに思わないかも知れないという気がしたんだけど、やっぱり無理よね」
「………」
「あ、あたしお金には不自由してないの。叔母の借金はとっくに返して、少しは小金をためてから足を洗ったんですよ。男というのはお店の番頭で、残っていたあたしのもらい分と、道具を売ったお金を持って来てくれただけ」
「………」
「かんにんしてね。ひとをためすのは、やっぱりよくないわ。でも、これであたしもさっぱりしたし、新之助さんだってそう思ったんじゃないですか? これだけの縁だったなって」
「………」
「あ、それからあたし近いうちに引越しますから。働き口も決まってるの。料理茶屋の仲居。場所? それは言わない方がいいんじゃないかしら。またいつか会うことがあるかも知れませんから、それまでのおたのしみね、ふ、ふ」
その夜新之助は、門前仲町に回って顔見知りの小料理屋でしたたかに飲んだ。灯が消えた暗い町を、ふらふら揺れながら一ノ鳥居まで来たときに、前から来た数人の男たちとすれ違った。
その中の一人と肩が触れた新之助は、突然に名状しがたい怒りに襲われて叫んだ。
「おい、バカにするな」
「誰もバカになんかしてないぜ、おっさん」
まだ若い男とわかる声が、落ちついて答えた。その声をめがけて、新之助は殴りかかって行った。小生意気な相手も自分も、ともにこの世から消えてなくなれというような、理不尽な怒りに駆り立てられている。
たちまち男たちが走り寄って来た。無言のすさまじい打擲《ちようちやく》を加えた男たちが去ったあとに、長長と地面にのびた新之助だけが残された。
しばらくして、新之助はやっと立ち上がった。よろめきながら、暗い夜空にそびえている一ノ鳥居の外に出た。血の匂いがして、全身がずきずきと火照《ほて》り、痛んだ。
みじめだったが、そのみじめさがいまの自分に一番似合っていると新之助は思いながら、人通りもとだえた黒江町の町通りを虫のようにのろのろと歩いて行った。
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永 代 橋
一
端切《はぎ》れ屋の前を通りすぎた菊蔵は、四、五歩行ってから首をかしげて足を返した。店につるしてある端切れを見ていた女が、別れた女房のような気がしたのである。
もどって店をのぞいてみると、はたしておみつだった。おみつは菊蔵には気づかず、藍《あい》いろの端切れを手に取って眺めている。いくらか頬に肉がついたように見えた。こいつ、おれと別れて太りやがったかなと菊蔵は思った。
「おい」
菊蔵が声をかけると、おみつは振りむいたが一瞬この人誰だったかしらという眼つきをして、菊蔵をくさらせた。
「何だい、おれの顔を忘れたんじゃあるまいな」
「まさか、そんなこと」
と言ったが、おみつは顔を赤くした。どうやら本当に、すぐには菊蔵とわからなかったらしい。
「ちぇ、薄情な女だぜ」
菊蔵はぼやいた。しかしそれは本気ではなく、気持の底に五年ぶりにもとの女房に会ったはずみがあった。おみつとはもともと仲が悪くて別れたわけではない。いまになって考えれば、別れた事情というものはかなり唐突《とうとつ》で、わけがわからないようなものだったのである。
「何見てんだい」
「前掛けをこさえようかと思ってさ」
「買うんならはやく買って……」
と言って、菊蔵は通りに眼を走らせた。
「そのあたりで甘酒でも飲もうじゃねえか」
ことわるかな、と思ったおみつはことわらなかった。結局はじめから手に持っていた端切れを買っておみつが外に出て来ると、二人はずっと若いころにそうしたように連れ立って、三十三間堂の方に歩いて行った。道には人が混んでいた。家がある万年町と逆の方角に歩いたのは、無意識のうちに人眼をはばかったようである。
心おぼえの甘酒屋はすぐに見つかった。八幡宮の門前を通りすぎて三十三間堂の方に寄った右側である。通りにはほかにも二軒ほど甘酒屋があるが、四季を問わず甘酒を売っているのはそこだけだった。
日暮れが近いせいか、店の中はがらんとして、隅に髪の白いばあさんが一人甘酒をすすっているだけだった。二人は縁台のような細長い腰掛けに坐った。
「ここ、時どき来てるの?」
甘酒はすぐにはこばれて来て、ひと口すすったおみつが顔を上げて訊いた。
「冗談じゃねえ」
と菊蔵は言った。
「この界隈《かいわい》をうろつくときは、大概飲みに来てるのさ。甘酒屋なんかに寄りはしねえよ」
「声が高いじゃないか」
おみつは店の人に気を遣って、菊蔵をたしなめた。
「それじゃ、今日も飲みに来たってわけ?」
「仕事だよ。これでも職人だ。日のあるうちから飲み屋の前をうろついたりはしねえよ」
「それもそうね」
「頼まれた銭箱が仕上がったんで、とどけに来たんだ」
と菊蔵は言った。菊蔵は箱屋で、大は米櫃《こめびつ》、長持から小は文箱《ふばこ》までつくっている。
「じゃ、やっぱりこのへんに住んでるのね」
おみつが、さぐるような眼をした。
「でも、まさかあの家にいるんじゃないでしょ?」
「あそこは出たよ。とっくの昔だ」
と菊蔵は言った。おみつがあの家と言ったのは、二人が所帯を持ち、子供を一人もうけた蛤町《はまぐりちよう》の裏店《うらだな》のことである。
「でも、この近くなんでしょう」
「近くもないさ。万年町だよ」
「あら、ちょっと遠いんだ」
おみつはまたちらと菊蔵を見た。
「おかみさん、いるのね」
「ああ」
「だと思った」
おみつは甘酒をすすり、うつむいたまま低い笑い声を立てた。
「男は一人じゃ暮らせないものね」
「おまえはどうなんだ」
と菊蔵が訊いた。
「あたし? あたしは一人よ」
「ふーん。でも、所帯は持たなくとも決まった男がいるんじゃねえのかい」
「どうして?」
「一人ぼっちの女には見えねえからよ」
おみつはまた、うつむいて笑った。以前にはなかった笑い癖で、その笑いにはどことなくなまめいた感じがある。
「いま、何やってんだい」
と菊蔵は訊いた。
「さあ、何でしょう」
「じらさずに言いな。何を聞いたっておどろきゃしねえから」
「そりゃそうでしょうよ。赤の他人なんだから……」
おみつは皮肉を言った。そういうつもりで言ったんじゃねえよと菊蔵は弁解した。
「何で喰ってるか、気になるから訊いたんじゃねえか」
「気になるの?」
「あたりめえだ。でなけりゃ、知らんぷりで通りすぎてら」
と菊蔵は言った。
二
菊蔵が、親方の家からさほど遠くない蛤町に、おみつと所帯を持ったのは八年前のことである。菊蔵は二十三で、おみつは十八だった。路地にいつもかすかに小便の匂いがただよっているような裏店だったが、そこでの暮らしに、毎日がまぶしく日が照りわたっていたように感じたそのころのことを、菊蔵はいまでもぼんやりと思い出すことが出来る。
菊蔵はお礼奉公が一年残っていて、所帯を持つには少しはやかったのだが、箱物の材料を売る材木屋に奉公していたおみつと恋仲になったのを、材木屋の主人夫婦に見破られて、一緒になるのをせかされたのである。
この子は子供のときに片親になり、ウチに奉公している間に残った母親にも死にわかれて、天涯孤独になりました、そのつもりで大事にしてくださいよと材木屋のおかみに言われたとき、菊蔵は気持が奮い立ったのを忘れていない。この女をしあわせにしてやろうと心に誓い、それが出来るのはおれしかいないと思ったのである。
お礼奉公の一年は新所帯から親方の家に通ったが、それが無事に終ると菊蔵は親方から仕事をわけてもらい、自分で仕事をやるようになった。一人立ちになってからの仕事は勝手のわからないことも多かったが、案外に品物をおさめた先から新しい客を紹介されたり、またそういうつき合いの中でとくい先をつかむコツもおぼえて、一年を過ぎるころには、菊蔵は親方の助力なしに商売が出来るようになった。
そして、奉公していたころには予想もしなかったような金が入って来た。材料を買って、暮らしの費《つい》えを引いても金が残った。
「二、三年経ったら表に店を借りようぜ。裏店暮らしとも、そうなりゃおさらばだ」
と、菊蔵は上機嫌でおみつに言ったものである。そのころおみつは生まれたばかりの赤ん坊を抱いていた。男の子だった。
だがおみつにそう言ったころ、菊蔵はわるい遊びに取り憑《つ》かれていたのである。手慰みである。永代橋にほど近いさる大名の下屋敷に長持をおさめたとき、誘われて中間《ちゆうげん》部屋の博奕《ばくち》をのぞいたのがきっかけだった。
菊蔵は職人にしては気が弱く、奉公をしているころに何度か奉公人仲間に賭場に誘われたことがあったが、ついに一度も行かなかった。それが自分の金をにぎって、ふっと気が変ったようでもあった。
はじめての博奕は、見よう見まねで半分教えられながら賭けたのに、その日菊蔵は中間部屋で大もうけをした。
「これだから素人さんはやりにくいや。おれ、えらいのを引っぱりこんじゃったかな」
菊蔵を賭場に誘った中間は、大げさな表情をつくってそう言ったが、むろんそれが自分を泥沼にひっぱりこむ手だとは思いもよらず、菊蔵は顔が真赤になるほどのぼせ上がって、こんなおもしろい遊びがほかにあるもんじゃないと思っていたのである。
賭場では二、三度つづけて勝たせ、それから徐徐にむしりにかかって来たが、菊蔵にはそれが勝ったり負けたりの勝負の醍醐味《だいごみ》に思えて、博奕はこうでなきゃ、勝つばっかりじゃおもしろくないと思っていた。事実は折角のたくわえを少しずつ吐き出していたのだが、菊蔵はもう病みつきになっていた。勝てば勝ったで、負ければ負けたで、その成行きは身体《からだ》がふるえるほどにおもしろかった。
博奕を打っていることは、むろんおみつにはひた隠しにした。そのために、夜遊びをした翌日にはよけい仕事に身を入れるようなことまでしたが、そういう無理は長くつづくわけがなく、菊蔵は少しずつ仕事を怠けるようになった。明け方に家にもどって、昼ごろまで寝ているようなことが時どきあった。
むろん、おみつが不思議に思わないわけはない。毎晩どこに行くのかと詰問した。
「職人仲間と飲みに行くって言ってんじゃねえか。うるせえな」
博奕に負けた翌日は、おみつのそういう咎《とが》め立ても気に喰わなくて、菊蔵は荒い言葉を吐いた。
家の中の空気が少しずつ荒れて来た。当然のことだった。いまに裏店を出て、表に店を構えるようなことを言ったのに、菊蔵は時に気がくるったように仕事をするものの、だんだんに働かなくなり、おみつにわたす金もとだえがちになっていた。おみつは時どき裏店の中で米を借りるほどになっていたのである。
そしてあの日が来たのだった。その日、菊蔵は夜も眠らずに仕上げた銭箱を佐賀町の藍玉問屋にとどけると、もらった金をにぎりしめて例の下屋敷の賭場に寄った。そして持った金をきれいにむしり取られたのが五ツ(午後八時)ごろだった。
菊蔵は家にもどった。そして部屋の隅の畳を上げると、その下に隠してあった虎の子の一分銀をつかみ上げた。それをおみつが見ていた。
「おまえさん、また出かけるの?」
「見りゃわかるだろう」
「女がいるんだね」
「女じゃねえ、博奕だ」
敷居から振りむいて、菊蔵は言った。ついに白状してしまったと思ったが、気分はおみつから遠くはなれていた。頭の中が賭場の負けで火が出るほど熱くなっていた。
「待ってろ。いま取り返して来るからな」
「行かないで……」
おみつが言って、寝かせてある子供を振りむいた。
「この子、ぐあいがよくないんだよ」
菊蔵は舌打ちした。夏なのに、子供は二日前から風邪をひいたようだった。熱を出している。
「熱がさがらねえのか」
「だんだんひどくなって、今夜は白眼を剥《む》くんだよ。頼むから今夜は行かないで」
「だめだ」
と菊蔵は言った。この一分で、さっきの負けを取り返さなくてはと焦っていた。
「心配なら、先生から薬をもらって来な」
上の空で菊蔵は言った。あそこには、これまでの支払いがたまっているから行けないとおみつが言うのに子供を背負って行けとどなった。
「なに、あのやぶは人間が甘いんだ。子供を持ちこんで行けば薬ぐらいはくれるさ」
いつも世話になっている表通りの医者のことをそう言うと、後も見ずに飛び出した。
その夜、菊蔵がもどったのは、明け方の七ツ(午前四時)過ぎだった。明るくなって来た空からさしかけるかすかな光が裏店をつつんでいた。そして裏店はまだひっそりと眠っていたが、そのなかに一軒だけ灯をともしている家があった。菊蔵の家である。
何とも言えない胸さわぎが菊蔵をわしづかみにした。走って家の中に入ると、赤ん坊のそばに坐っていたおみつが顔を上げて菊蔵を見た。青光りするような眼だった。
何もかも、昨夜菊蔵が出て行ったときのままだった。ただ、寝ている子供がもう生きていないことは、ひと眼見ただけでわかった。そして油が切れかかった行燈《あんどん》が、じいじいとかすかな音を立てている。
そういうことが、菊蔵には一点のくもりもなく理解出来た。何カ月ぶりかで、菊蔵は正気にもどっていた。そして正気にもどった頭で、おみつが自分へのつら当てに何をやったかも理解したのである。
「このあまあ……」
菊蔵はおどりかかって、おみつの髪をつかんだ。
「医者に行けと言ったのに行かなかったな」
「あんたこそ、死にかけている子を置いて女に会いに行ったじゃないか」
おみつも菊蔵につかみかかって来た。
「何を言ってんだ。この気ちがいあま!」
「気ちがいはどっちなのさ」
菊蔵はおみつの髪をつかんで、畳の上をひきずり回し、おみつはおみつで膝で立ち上がると菊蔵の手に噛みついた。畳を踏みならす物音と男のどなり声、あたりをはばからない女の叫び声に眼をさまされた裏店の者たちが駆けつけたときは、死んだ子供をはさんで、髪も着物も無残に乱れた菊蔵夫婦が、それぞれ壁によりかかって肩で喘《あえ》いでいたのである。
二人はその日からひとことも口をきかず、子供の葬式をだすとすぐに別れた。風呂敷包みひとつを持って、おみつが家を出て行ったのである。仲裁する人もいたが、おみつは聞かず、菊蔵も出て行くおみつを引きとめなかった。
そのまま、五年が過ぎたのである。
三
二人は甘酒屋を出た。
「どっちへ帰るんだい」
「あっちよ」
おみつは西の方を指さした。指さした方角に、一ノ鳥居と火の見|櫓《やぐら》が黒くうかび上がっている。日はそのむこうにひろがるうすく曇ったような靄《もや》の中に沈みかけている。寒の内だというのに、春先のようにあたたかい日だった。道を行く人を見ても、着ぶくれている人は見かけない。
「あっちってどこだい」
連れ立って一ノ鳥居の方にもどりながら、菊蔵が訊いた。
「川向うよ」
「小出しに言ってやがる」
と菊蔵が言った。
「おれは本気で聞いてんだぜ」
「どうして?」
「だから言ったろう、気になるって」
「べつに気にしてもらわなくともいいのよ」
「そうはいかねえ。このまま何にも聞かずに別れたら、気になって今夜は眠れやしねえ」
おみつはまた、うつむいて笑った。
「大げさなひと」
「いいからどこに住んでるか、言いな」
「川向うの長崎町よ。そこの料理屋で働いてるの。台所をしたり、お座敷に出て酌をしたり……」
「霊岸島《れいがんじま》か」
と菊蔵は言った。その町にはあまり行ったことはなく、ぼんやりした地形の記憶しかない。
「何てえ店だい」
「もういいでしょ」
けだるいような口調でおみつが言った。
「今日はばったり会ったけど、あたしはもうあんたに会う気はないもの。聞いたって無駄よ」
気まずく、菊蔵は沈黙した。ひさしぶりにもとの女房に会い、まだ一人暮らしだと聞いていくらか憐れむ気持が動いた。それでひととおりの事情を聞く気になったのだが、おみつは憐れみはいらないと言っているようである。
「おめえ、やっぱり男がいるんだな」
と菊蔵は言った。
「あら、そんなひとはいないわよ」
「嘘つけ」
「あんたに嘘言ったってしようがないでしょ」
「今日は深川に何しに来たんだい」
「八幡さま」
とおみつは言った。料理屋で働いていると聞いたせいか、そういう物の言い方もいくらかなまめいているように菊蔵には聞こえた。
「お客さまにたのまれて、お札をもらいに来たのよ」
もうこのへんでいいわ、とおみつはつぶやいたが、菊蔵はもう少し送って行こうと言った。二人はいつの間にか、黒江町のはずれまで来ていた。
「子供いるんでしょ」
突然に、おみつが訊いた。
「いや」
「そう、いるかと思った」
とおみつが言い、二人はまた口をつぐんだ。菊蔵はおみつにまだ何か言うことがあるような気がしたが、それが何か思い出せないうちに、二人は永代橋の袂《たもと》まで来ていた。
「じゃ、ここで」
おみつは立ちどまって、菊蔵を振りむいた。
「甘酒、ごちそうさま」
「いやに他人行儀に言うじゃないか」
菊蔵が言うと、おみつはにっと笑った。そして背をむけると橋に入って行った。
かつては自分の女房だった女のうしろ姿が遠ざかり、橋をわたる人にまぎれるのを、菊蔵はしばらく橋袂から見送った。苦しいような気分に胸をしめつけられていた。
──さびしい背中をしてやがる。
と思った。おみつのうしろ姿は、肩はまるく、腰のあたりもむかしよりいくらか肉がついたようでなまめかしいと言えるほどなのに、どことなくさびしげに見えた。おみつはやはり、言ったとおりに一人でいるのかも知れなかった。おみつは菊蔵を一度も振りむかなかった。
──おれが、あの女をあんなふうにしてしまったのだ。
と菊蔵は思いながら、橋に背をむけて佐賀町の方に歩いて行った。だが、おれが何をしたというのだ、とも思った。
たしかに博奕におぼれて仕事もおろそかになったことは認めるが、それで妻子を飢えさせたというわけではない。それなのに、つら当てに子供を死なせてしまったおみつにも、非はあったのだ。なぜおみつがあんなに思いつめたのか、菊蔵には解せなかった。おみつに何か問いつめることがあったような気がしたのは、それだろうか。
万年町の自分の家まで来たときには、もう日が暮れて、町は青白い暮色につつまれていた。菊蔵が家に入ろうとすると、ちょうど中から出て来た男と鉢合わせしそうになった。
「あ、どうも」
男はとってつけたように、お帰りなさいと言うとすばやい足どりではなれて行った。房次郎という櫛挽《くしび》き職人だった。二十三、四の若い男で、小さな小間物屋である菊蔵の家に櫛を納めている。
家に入ると、店の中がまっくらだった。そしてそのくらい中に、女房のおとりがいた。
「どうしたんだ、いったい」
菊蔵は声がとがるのを押さえられなかった。
「なぜ、灯をいれないんだ」
「いま、いれようと思ってたところよ」
とおとりが言った。
火打石を叩く音がして、やがてくらい中に火口《ほくち》が光り、ついで行燈に灯が入ると、売り物の小間物と太り気味の身体をしたおとりの姿がうかび上がった。
おとりは小間物屋の女主人で寡婦《かふ》だった。そこに品物を納めに来て親しくなった菊蔵が、入り婿の形で入りこんだのである。おとりの方が三つ齢上だった。菊蔵が来る前に、寡婦のおとりのところにさまざまな男が出入りしていたことを聞いたのは、婿に入って一年も経ってからである。
「この家は、夕方には灯をいれないで客と話すのが家風なのかね」
菊蔵は厭味《いやみ》を言った。
「あら、そんなことはないでしょ。いまいれようと思ってたとこだと言ったじゃないのさ」
おとりは動じる様子もなくそう言い、手を出して銭箱の金をもらって来たかと言った。欲も深い女だった。それでいて顔は口もとが小さくまるで童女のようで、肌は白くきれいだった。おとりの男癖のわるさに腹を立てながら、菊蔵はその豊満で白い肌に縛られてもいた。
いまも、暗い店からとび出して行った房次郎と、それまで何をしてたかわかるものじゃないと思いながら、菊蔵は無力感にとらえられて懐の金を出した。
その金を受け取りながら、おとりが言った。
「喜八さんというひとがたずねて来たよ。しばらく親方さんの家にいるから、一度会いに来てもらいたいって言ってた」
四
「むこうで嫁をもらって、上方《かみがた》の人間にならねえかと言われたんだが……」
喜八はゆっくりとうまそうに盃を干した。そしてその盃を菊蔵にさして酒をついだ。
「むこうの女は情がこまやかでいい。おれもよっぽど、叔父さんに言われたとおりにしようかと思ったんだが、やっぱり水が合わねえとでも言うのか、どっか身体が落ちつかねえんだ。帰って来てやっとわかったよ。やっぱりおれはこっちの人間だってね」
「………」
「江戸の生まれじゃねえが、そら東男《あずまおとこ》って言うじゃねえか。それだな。酒もうめえしな」
「それで、むこうにはもう帰らねえんですかい」
と菊蔵は訊いた。
喜八は菊蔵の兄弟子で、菊蔵が親方の家をはなれた後も親方を助けて働いていたが、そのうち大坂に行っている親方の叔父にたのまれて、むこうの仕事を助けに行っていたのである。叔父さんと言っているのは、その親方の叔父のことである。
「おれも、そろそろ身を固めなきゃならねえからな。こっちに落ちつくことに決めたよ」
と喜八は言った。二人はそのあとも、喜八の上方の暮らしなどを話の種に飲んだあと、ほどのいいところで酒を切り上げて店を出た。門前仲町の明石屋という小料理屋だった。金は、喜八が払うというのを制して菊蔵が払った。
二人は両側の灯が落ちてだいぶくらくなった道を、黒江町の方に歩いて行った。親方の家が奥川町にあり、喜八はそこに泊っているのである。
「おめえはやっぱり……」
酔った声で喜八が言った。
「前のかみさんと別れちまったんだな」
「ええ」
おみつと別れたのは、喜八が上方に行ってから半月ぐらい経ってからだったろう。
「いいかみさんだったのにな」
喜八はためいきをつき、いまのかみさんがわるいというわけじゃねえがと言った。
「いまのは少し、色気がありすぎるんじゃねえか」
「そんなこともねえと思いますけど」
「女遊びなんか、しなきゃよかったんだ」
喜八は突然に言った。
「女にうつつをぬかすから、前のかみさんに愛想をつかされたんだ」
「女遊びなんかしませんよ」
菊蔵はにが笑いした。
「全然ちがうんです」
「何言ってやがる。親方に問いつめられて、そう言ってたじゃないか」
と喜八は言った。それで菊蔵は、喜八が言ったようなことがあったのを思い出した。
博奕に夢中になって仕事を怠けていたころ、親方に呼びつけられてわけを問いつめられたことがある。仕事の注文主が、菊蔵に催促しても品物が出来上がらないので、知り合いの親方に苦情を申しこんだのだった。
女かと訊かれてはいと言ったのは、そうではなく博奕だとは言えなかったからである。女なら目こぼしがきいても、博奕打ちとわかっては注文もとだえるだろうし、親方の家にも出入りを禁じられる恐れがあった。
「女でなきゃ、何だと言うんだ」
「………」
「そらみろ。下手な言訳はよしな」
と喜八は言った。
「だからおれも、かみさんに辛抱しなって言ってやったんだ。やつは女がいると白状したが、女遊びなんてものは、そんなにつづくもんじゃねえってな」
「何ですかい、兄貴。それは……」
「おれが、かみさんにそう言ってやったんだよ」
と喜八が言った。
「かみさんがおめえのことを心配して、親方の家に相談に来たんだ。親方が生憎《あいにく》留守だったからよ。おれと親方のかみさんが会って、そう言い聞かせて帰したんだ」
「それはいつのことですかい」
「たしか、おれが上方にたつちょっと前のことだったな」
と喜八は言った。
「こんこんと言い聞かせたから大丈夫だと思ってたんだが、帰ってみればこの有様だ」
「おれには、女なんかいませんでしたぜ」
菊蔵は静かに言ったが、腹の中は煮えくり返るようだった。おみつに、亭主に女がいるという考えを植えつけた男がいるのだ。これでは、おみつは菊蔵が博奕だと白状しても信じなかったにちがいない。子供を殺したのも嫉妬からだと考えればうなずける。嫉妬は人を盲目にしてしまう。
「女がいなかったって?」
喜八は笑った。
「まだそんなことを言ってやがら」
菊蔵はとびかかってしめ殺したいのをじっとこらえて、喜八とならんで歩いて行った。
裏口から道に出て来たおみつは、菊蔵を見ると一瞬うれしそうな顔をした。
「よく、ここがわかったじゃないか」
「さがしたんだ」
と菊蔵は言った。
「どうしてもおめえに聞いてもらいてえことがあってな」
「あたしの方は、聞きたいことはないわ」
「黙って聞きな。あのころのことだが、おれには女なんかいなかったんだぜ」
菊蔵はかまわずにしゃべった。親方に問いつめられて女がいると嘘を言ったこと、兄弟子の喜八がおみつに辛抱しろと説教したのは、そのときの嘘を真に受けた間違いだったことなどを、残らず話した。
「兄貴が上方から帰って来て、やっと事情がわかったんだ」
「………」
「女じゃなくて、博奕さ。おれはあの晩、そう白状したのにおめえは信用しなかったんだ。ずっと女がいると思ってたから、あんなことになったんじゃねえのかい」
「………」
「いや、おめえを責めてるわけじゃねえ。わるいのはおれさ。女じゃなくて博奕だったといばれるわけじゃねえ。でも、おめえも思いちがいをしてたんだぜ」
「だからどうだっていうの?」
黙っていたおみつが、顔を上げてそう言った。虚をつかれて菊蔵は黙りこんだ。
「女でも博奕でも、いまさらどっちでもいいことじゃないかしら。あんた、いったい何を言いに来たの」
「やり直せねえかと思ってよ」
菊蔵はおみつの顔いろを見ながら言った。
「おれはもう、博奕とはきっぱり縁を切ったんだ」
「でも、おかみさんがいるじゃないか」
「女房とは別れるよ。べつにおれがいなくちゃ困るという女じゃねえんだ」
「そんなこと言うもんじゃないわ。勝手なひとね」
おみつは、一歩うしろにさがって菊蔵をじっと見た。日も射さず底冷えしたままの一日が終りに近づき、路地に立っている二人をしめった夕闇がつつみはじめていた。
「やり直すなんて無理よ」
とおみつが言った。
「二人で子供を殺しちゃったんだもの。あのときにあんたとあたしの縁は切れたんだ」
「………」
「もとにはもどらないわ」
「また来る」
「もう、来ないで」
とおみつは言った。菊蔵は無言で背をむけた。
人影もまばらな町をいそぎ足に抜け、乙女橋を霊岸島から永代橋にわたると、そこが永代橋の橋袂だった。そこまで来ると、潮の香が急に強くなった。大川の水は河口の先にひろがる海へとつながって、黒黒と揺れている。
──おみつは……。
おれをいい加減な男だと思ったかも知れないな、と菊蔵は思った。女房と別れると言ったとき、こちらを見たおみつの眼が非難するように光ったのを思い出している。
しかし言いたかったことを言ってよかったとも思った。おみつの言うとおり、もとの鞘《さや》におさまることは無理かも知れなかったが、のぞみがないわけでもなかった。さがしあてて裏口に呼び出したときに、おみつが一瞬見せたうれしそうな表情を菊蔵は思い出している。その表情におみつの孤独が見えていたと思う。
今日おれが言ったことを、あとはおみつがゆっくりと考えればいいのだと思った。そうすれば博奕は打ったが、おれがおみつと子供を裏切ったわけではないこともわかって来るだろう。博奕か女かは、いまも決してどちらでもいいことではない。そのことにおみつはいつ気づくだろうか。様子を見に、何度でも来ようと菊蔵は思った。
橋をわたりながら前方を見ると、深川の町の屋根が見えた。黒い屋根は、もう少しで暮色にまぎれるところだった。菊蔵は足もとの長い橋で、おみつと自分の縁がまだかすかにつながっているのを感じながら、いそぎ足に歩いて行った。
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踊 る 手
一
信次が遊びから帰って来ると、裏店《うらだな》の路地に人がいっぱい出ていた。ほとんどは裏店の女たちで、信次の母親もその中にいたが、ほかに信次が見たこともない男たちが二、三人混じっていた。男たちはみな羽織を着ていた。
女たちも、羽織を着た男たちも、みな同じ方向を見ていた。時どき額を寄せて何かささやき合うこともあるが、すぐに顔を前にもどす。人びとが見ているのは伊三郎の家だった。その家の戸が開いていた。
外に出ている人間は大人ばかりではなく、信次よりも小さい子供たちもいた。男の子も女の子も、母親の手に縋《すが》って伊三郎の家を眺め、かと思うとすぐに倦《あ》きて、鼠のように女たちの間を走り回っては頭を張られたりしている。
信次も母親のそばに行った。
「おきみちゃん家《ち》、何かあったの?」
信次が聞くと、母親は前をにらんだままで答えた。
「夜逃げだってさ」
「夜逃げってなに?」
「昨夜《ゆんべ》のうちに、家の者がいなくなっちまったんだよ」
母親の言葉で、信次は胸がどきんと波打ったのを感じた。おきみは伊三郎の家の一人娘で、信次より二つ齢下の八つである。小さいころからの気の合う遊び友だちだった。
おきみも一緒にいなくなったのか、と聞こうとしたとき、伊三郎の家から男が一人出て来た。信次の知っている人間だった。少なくなった髪をやっと掻きあつめて髷《まげ》を結っている、小太りで赤ら顔のその男は、大家の清六である。
清六は、羽織を着ている男たちのそばに来ると、何にも言わずに首を振った。
「相変らずだんまりですか」
羽織姿の男たちの中で、一番背が高く痩《や》せている老人が言った。清六がうなずいた。
「何を訊いても、返事をしません。床に入って目をつぶったままですよ」
「眠ってんじゃないでしょうね」
もう一人の羽織の男が言ったが、清六はそれには強く首を振った。
「いや、聞こえてはいるのですよ。伊三郎夫婦や子供がどこに行ったかと訊いたら、ばあさん、涙をこぼしましたからね」
「まあ、かわいそう」
信次の母親よりもっと太っている女房が、姿に似ないかわいい声でそう言うと、それまで耳を澄まして清六と男たちの話を聞いていた女たちが、一斉にしゃべり出した。
「何て人たちだろう、年寄りを置いて自分たちだけ姿をくらますなんて」
「おかつさんを、あたしゃ見そこなっていたね」
「そうともさ。おとなしそうな顔をしてよくもこんなひどいことが出来たものだ」
「猫をかぶってたんだよ、あのひと」
「ちょっと、ちょっと。みんなはそう言うけどさ、おばあちゃんを残して夜逃げするからには、あの家にもそれなりの事情があったんじゃない」
「そりゃ、事情はあるでしょうよ。伊三郎さんて、姿がよくて口も達者、うってつけの小間物売りに見えたけど、半分は博奕《ばくち》打ちだったもんね」
「あらあ、知らなかった。あのひと、博奕打ってたの」
「それじゃおかつさんが、いくら内職したって追いつきやしないわ」
「でもさ、それとこれとはちがうんじゃないかね」
ドスの利いた口をはさんだのは、亭主同様に、まっくろな顔をしている鋳掛屋《いかけや》の女房だった。
「どんな事情があったにしろ、年寄りだけを残して出て行くなんてことは、あたしゃ頼まれても出来ないね」
「それはそうだ」
同感する声が、二つ三つ上がった。その声に力を得たように、鋳掛屋の女房は黒い馬づらを回して、女たちをぐるりと見回した。
「年寄りたって、元気なひとならいいさ。でも、あそこの年寄りは、はばかりに行くのがやっとで、あとは寝てるだけだよ。そうだよね、おまつさん」
「そう、寝てるだけ」
のっそりと答えたのは、伊三郎の隣の助蔵の女房だった。夫婦ともに日雇いの外稼ぎをしているのだが、今日はたまたま女房のおまつが家にいたらしかった。
「その寝てる年寄りを捨てて姿を隠したんだから、こりゃ人殺し同然だわ」
鋳掛屋の女房は息まいた。女たちはうなずいて、口口にそう言われても仕方ないねとささやき合った。
すると、鍋釜や布団はどうしたんだろうねと聞いた者がいた。その甲高《かんだか》い声は、左官の女房のおくらだった。
「鍋釜ぐらいは残っているんじゃない」
と一人が言い、清六にたしかめた。
「家の中がまるっきりカラッポということはないでしょ? 大家さん」
「いや、それが何にもない」
と清六が言った。
「鍋釜も布団も、位牌《いはい》もない。残っているのは、寝てるばあさんだけだ」
清六のその言い方がおかしかったので、こんなときなのに女たちはどっと笑った。それぞれに伊三郎の家に残された年寄りを考え、中にはその姿に自分の家の姑を重ね合わせてみた女房もいたかも知れない。がらんとした家の中にばあさん一人が取り残されている光景は、いかにもあわれだったが、どこか滑稽な眺めのようにも思われたのである。
信次は母親の袖《そで》を引いて言った。
「ねえ、どうして笑ったの?」
「ばあちゃんが残っているんだってさ」
母親は、笑いの残っている顔で信次を見た。
「ほら、おまえも知ってるだろ。年取って干柿みたいにしなびたばあちゃん……」
「知ってるよ。おれ、話したことあるよ」
信次が言ったとき、大家の清六がところでおまえさんたちに相談があると言った。
「伊三郎のばあさんのことだが、このままほっとくわけにはいかない……」
信次はまた母親の袖を引っぱった。
「何だよ」
「腹がすいた」
「ほら、みろ。いつまでも遊んでるからだよ。もう喰う物は残っていないよ」
母親は言って信次の頭をこづいたが、信次がべそをかくと顔色をやわらげた。そして台所の鍋におじやが入っているから、自分でよそって喰べなと言った。
家に帰ると、信次は母親に言われたように鍋からおじやをよそい、棚の上から漬け物のどんぶりをおろして茶の間に入った。台所の障子窓が半分ほど開いていて、そこから午後の日射しが茶の間まで入りこんで来ている。信次はその光の中に坐って、おじやを喰った。
季節はまだ二月だが、風がないので台所の窓が開いていても、少しも寒くはなかった。腹がすいていたので、信次はむさぼるようにおじやを喰った。
そして喰い終ったときに、気持がまた伊三郎の家の夜逃げ話にもどり、はっきりとおきみの顔がうかんで来るのを感じた。
同じ裏店の子でも、気の合う者と合わない者がいて、信次はおきみとは仲よくした方だった。小さいときは、どっちかが必ず片方の家に上がりこんで遊ぶほどに仲がよかったのである。しかし近ごろはそうでもなかったなと、信次は振り返ってみる。いつごろからか、小さい時分のように、朝から晩までくっついて遊ぶなどということはほとんどなかった。
しかし、それはおきみが嫌いになったからというのでないことは、よくわかっていた。信次が十になり、おきみが八つになれば、お互いに信次は男で、たとえまだ八つでも、おきみが女であることを、子供ごころにも自然に知ってしまうのである。そして知ってしまえば、小さいときのように無邪気にくっついて遊ぶことは不可能だった。
それに近ごろの信次の遊びの範囲は表店の方までひろがり、そこにも友だちが出来ていて、いつの間にかおきみと遊ぶひまはほとんどなくなったのである。だが伊三郎の一家がどこかに行ってしまうと、信次はおきみと遊ばなかったことが、なにか取り返しのつかない間違いだったような気がしてならなかった。
──おきみちゃんは……。
もう二度と家に帰らないのだろうかと、信次は思った。すると、自分を照らしている早春の日射しが、突然に翳《かげ》ったように力を失うのを感じた。おきみの乾いた髪の匂いがし、いつも大人びているように感じた黒い目が、どこからか自分を見ているようにも思った。
二
その夜遅く、信次は人が鋭く呼びかわすような声を聞いて目ざめた。見回すと、行燈《あんどん》に灯が入っていたが、父親も母親もいなかった。そして今度ははっきりと人が叫ぶ声がした。
信次は起き上がった。障子をあけると、戸が開いていて、その先のいつもは暗い路地に赤赤と灯の色が流れているのに気づいた。信次は手早く着物を着た。草履《ぞうり》を突っかけると、外に出た。
思ったとおり、路地にはいっぱい人がいて、提灯《ちようちん》の灯があつまっている人びとの顔を照らしていた。信次は小走りに明かりのある方に走った。人があつまっているのが、伊三郎の家の前だということはもうわかっていた。
また人の叫び声がした。それは家の中から聞こえて来た。その声を聞いて、人の塊《かたまり》の中から、たまりかねたような怒り声が挙がった。
「なんて奴らだ。あんなばあさんをいじめるなんて」
「人でなしだよ。何とかならないのかい、これだけ男があつまっていてさ」
金切り声で言った女の声に押し出されたように、一人の大柄な男が伊三郎の家の土間に入って行った。うしろ姿で、信次はいまの男が父親だとわかった。気をつけて、と叫んだのは母親の声である。
「おい、そこの二人」
と父親が言っている。太くて押しのきく声だと信次は思った。
「年寄りをいじめるのもいい加減にしろ。ばあさんをいじめても、ビタ一文金が出るわけがねえぐらいのことがわからねえのか。粗末な頭をした連中だ」
何だ、このやろうと家の奥で言った者がある。それは人の心をつめたくするような、低くてドスの利いた声だった。
その声の持主は、上がり框《かまち》に出て来たようである。声が大きくなった。
「いま、ごちゃごちゃ言ったのはおめえかい」
「だったらどうだと言うんだ」
信次の父親が言い返している。信次は胸がわくわくして、息が苦しくなって来た。
「ふざけた野郎だぜ」
男がどなったと思うと、みしりと戸がたわむ音がし、つづいて組み合った男二人が路地に転げ出て来た。あつまっていた人びとが叫び声をあげた。その声を聞きつけたらしく、家の中からもう一人、若い男が外に飛び出して来た。
若い男は、組み合って地面を転げ回っている二人を見ると、いきなり懐から匕首《あいくち》を出した。抜こうとしたその腕に、横から日雇いの助蔵が飛びついた。つづいて祈祷師の長岳坊が飛びつき、男まさりの鋳掛屋の女房が飛びかかって、若い男をぽかぽか殴りつけた。助蔵は痩せて見える男だが、さすが力自慢の日雇いで、羽交《はが》いじめに男を組みとめた腕には、びっくりするような筋肉が盛り上がっている。男はなすすべもなく殴られていた。
その間に信次の父親が、もう一人の男を組み伏せた。人を恐れないならず者も、力くらべでは材木をかついで鍛えている手間取り大工の腕力には勝てなかったようである。ようやく振りほどいて立ち上がったもののもう足がふらついている。
その男にも人びとが駆け寄って、口ぐちに罵《ののし》りながら拳を打ちおろした。殴られて、男はまた地面に膝をついた。そこをうしろから蹴とばす者もいる。
「もう、そのへんでいいだろうよ」
泥だらけになった着物に、肩をいれながら信次の父親が言うと、人びとはやっと男を殴る手をとめた。そして女房たちが三人ほど、伊三郎の家の中に駆けこんで行った。
「おい、年寄りに何であんなむごいことをするんだ」
信次の父親が言うと、地面に膝をついた男は蛇のような目で人びとを見回した。それから信次の父親に目をもどして言った。
「伊三郎には貸しがある。貸しは取り立てなくちゃならねえ」
「いくら貸したんだい」
「十両だ」
「それを、寝てるばあさんから取り立てようとしたのか」
「伊三郎がいなきゃ、ほかに手はねえ」
「寝言を言ってないで、帰って親方に言いな」
信次の父親は、腹に据えかねたような大きな声でどなった。
「伊三郎はずらかって、残っているのは耄碌《もうろく》したばあさんだけでしたと。人なみの頭を持つ親方なら、それじゃばあさんをしめ上げろとは、まさか言うはずがあるめえ」
「手ぶらで帰ったらおれたちが怒られる」
「バカなことを言ってないで、言われたとおりにしな。そうしたら、今夜のところはお役人にとどけるのは勘弁してやろう。いや、それは出来ないと言うんなら、こっちも見過ごしには出来ねえから、お役人を呼ぶぞ」
「………」
「さあ、どっちだ」
三
遊びに出ようとした信次は、母親に呼びとめられた。
「ちょっと、待ちなよ」
「どうして」
「ここに坐りな」
母親は言って、前に坐った信次をじっと見た。母親は何か大きな心配ごとを抱えたような、暗い顔をしている。
「どうしたの?」
「おきみちゃんとこのばあちゃんもおまえをよく知ってるんだよね」
「うん」
「小さいときは、ずいぶんかわいがってもらったもんね」
「………」
「ほら、おかきをもらったとか、昔話を聞いたとか。あたしも家を留守にするときなんかは、よくあのばあちゃんにおまえを預かってもらったもんだった。おまえ、もう忘れたかい」
信次は首を振った。母親がいま言ったようなことはよくおぼえていた。おきみの家に預けられた日は、昼になるとおばあさんが滅法味のいい雑炊をつくって、おきみと信次に喰わせたものである。
信次がうなずくのを見て、母親が言った。
「じゃ、その世話になったばあちゃんが、ちっともおまんまを喰べないとしたら、おまえだって心配だろ」
「………」
「昨日から全然おまんまを喰べないんだよ。いくら持ってってやっても。水一杯飲もうとしないんだから」
「どうして喰べないの?」
「どうしてかわからないよ。それで困っているんだよ」
と母親は言った。
大家の清六は、伊三郎はともかく、女房のおかつは決して年寄りを粗末にするような女子《おなご》ではないから、いっとき夜逃げしたとしてもいまにきっと迎えに来るだろう。それまで様子を見たいから、取りあえず近所の者がつごうをつけ合って、ばあさんの面倒をみてくれるようにと言った。
そこで相談の結果、昼の間は家にいる信次の母親と、鋳掛屋の女房がばあさんの面倒をみることになったのである。しかし面倒をみると言っても、相手は病人ではないから、取りあえずは三度の喰い物の支度をすればいいのだった。
ところがおどろくことが起きた。ばあさんは布団にもぐってそっぽを向いたまま、飯には見向きもしなかったのである。人がいなければ喰べるのではないかと、はこんで行った膳の物を置いて来たが、時経て行ってみると喰い物はそのままになっていた。
気の強い鋳掛屋の女房は怒り出した。
「何だい、かわいそうだから面倒みてやろうというのに、見向きもしないということがあるもんかね。おはるさん、あたしゃおりるからね。あんたが面倒みるなり、大家さんに談じこむなり、勝手にしておくれ」
しかし、信次の母親は、鋳掛屋の女房のように怒る気にはなれなかった。家の者に見捨てられた年寄りが、ひょっとしたら自分で死を選ぼうとしているのではないかという危惧が胸を刺して来たのである。
その上信次の母親の胸は、もっとさし迫った心配ごとで占められていた。伊三郎の家のばあさんが、一粒の米も一滴の水も口にしなくなってから、もう一日半になろうとしているのである。ばあさんが何を考えているにしろ、捨ておけば死ぬことはたしかだと思った。鋳掛屋の女房のように怒るどころでなく、何とかなだめすかして、年寄りに飯を喰わせようと試みた。
自分だけではだめだとわかると、近所の女房たちにもあつまってもらって説得させた。しかしすべてが無駄に終った。年寄りは貝のように口を閉じたまま、眼をつぶって女房たちを見ようともしなかったのである。
「ほっとけば死んじゃうからね、あの年寄り」
「………」
信次は目をみはって母親を見た。
「それで、いまふっと思いついたんだけど、おまえが喰い物を持って行ったらどうだろうね」
「おいらが? どうして?」
「かわいがっていたおまえが、ばあちゃん喰べてと言ったら、少しは気持が動くんじゃないかね。それでもだめかも知れないけれどもね、やってみようじゃないか」
信次は上から布巾をかぶせたお膳を持って家を出た。あたため直してほかほか湯気が出ている米だけの白粥、梅干し、味噌漬け、それにやはりあたため直した味噌汁だけの食事だが、信次の目にはうまそうに見えた。
途中の家から外に出て来た齢下の男の子が、お膳をささげ持ってそろそろと路地を行く信次を、不思議そうに見た。
「信ちゃん、それなに?」
「おきみちゃん家《ち》のばあちゃんのおまんまだよ。昼飯をとどけるんだ」
そう言ったとき信次は、自分にあたえられた使命の晴れがましさに興奮していた。母親は、ばあちゃんは誰が何と言ってもおまんまを喰べないと言って、その役目を信次に託したのである。
つまり信次は、大人がサジを投げた役目を、かわりに果しに行くのだった。その役目をもらったことを、信次は喜んでいた。信次は子供ごころにもやはりおきみの家のばあちゃんのことが気にかかって、昨日から今日にかけて、その家の前を通るときは思わず見えている土間のあたりに目をやらずにいられなかったのである。
──おいらが言えば……。
ばあちゃんはきっと喰べるよ、と信次は思った。母親が言うとおり、信次はばあちゃんと知らない仲ではなかった。それどころか、一家が夜逃げしたあとでは、ひょっとしたら信次とばあちゃんは、この裏店で一番親しい人間なのかも知れなかった。
おいらが行って、ばあちゃんがおまんまを喰べたら、みんなびっくりするぞと思った。そして信次は、ばあちゃんにぜひおまんまを喰べてもらいたかった。でないと、おっかあが言ったように死んでしまうぞと思った。
信次はそろそろとおきみの家に入った。二月の日が荒荒しく照っている路地から家に入ると、一瞬目をふさがれたように感じたほど、家の中は暗かったが、すぐに少し開いているすすけた障子と、その奥に敷いてある夜具の端が見えて来た。
信次はつまずかないように慎重に家の中に上がり、年寄りが寝ている夜具の裾の方に坐った。あらためて見回すと、以前は足の踏み場もないほど物が散らかっていた部屋の中ががらんとしていた。夜逃げといってもひと晩のことじゃねえな、前から物ははこんでたんだ、と言った父親の声が耳にもどって来た。
ケバ立った畳と、その隅に敷かれた夜具に年寄りが一人寝ているばかりの部屋の中は、外の光もとどかずに信次の眼にも寒寒として見えた。
「おばあちゃん、おまんま持って来た」
と信次は言った。そして夜具の端から出ているばあちゃんの顔を見たが、ばあちゃんは上を向いて目をつむっているだけだった。声も出さず、信次を見もしなかった。
ばあちゃんの髪は真白で、顔は小さかった。頬がくぼんでそこに皺がたまっているのが見える。そのくぼみがかすかに、規則正しく動いているのを見て、信次はばあちゃんは死んだわけじゃないんだと思った。
「起きて喰べなよ、おばあちゃん」
と、信次はまた言った。持って来たお膳を押して、少しばあちゃんの横の方に回った。
「お粥と梅干しだよ。お粥はまだあったかいよ」
だがばあちゃんは目をあけようともしなかった。へこんだ頬がゆっくりと動いているだけである。
信次は途方に暮れた。どうしたらいいかわからなくなってしまった。お膳を持って帰り、喰べなかったよと言えばそれまでの話である。だが、それだけではすまないような気持が、信次をひしとつかまえているのだった。それで途方に暮れていた。
信次をそういう気持にしたのは、ばあちゃんの乱れた髪だった。青白い小さな顔だった。ぽこぺん、ぽこぺんと動いているしなびた頬だった。
ばあちゃんは伊三郎おじさんの親ではなく、親の親、祖母だと聞いたことがある。それならおきみのひいばあさんになるわけだった。齢はいくつなのか、信次にはわからなかった。しかし極めつきの年寄りだった。裏店にはほかにもばあちゃんがいないわけではないけれども、目の前のばあちゃんほど年取り、子供のように小さくしなびて歩くのもやっとという年寄りはいない。
そのばあちゃんが、物も言わず、おまんまも喰わずに寝ている姿はかわいそうだった。ぼんやりとだが、信次にはばあちゃんのいまの気持がわかるような気がした。やはり家の者がいなくなったのがわるいのだ。信次はばあちゃんをなぐさめてやりたかったが、どう言ったらいいかわからなかった。
喰べないと死んじゃうよ、と言おうかと思った。だがそれも言えなくて、言葉のかわりに涙が出て来た。信次はしゃくり上げた。
「どうしたい、信公」
不意に、弱弱しいが歯切れのいい声がした。信次が見ると、ばあちゃんが目をあけてこっちを見ていた。信次はいそいで涙をふいたが、今度はばあちゃんが口をきいたのがうれしくて、すすり泣きが号泣になるのをとめられなかった。
ばあちゃんの声だけは聞こえた。
「せっかく持って来たおまんまを喰べないから、悲しくなったのかい。よしよし、じゃうしろに回ってな、ばあちゃんを起こしてくれ」
四
表通りに走り出たところで、信次はぎょっとして足をとめた。道ばたにいつか伊三郎の家に乗りこんで来た、二人のならず者がいるのを見つけたのである。
二人の男は表店の味噌醤油商い、津川屋の塀に寄りかかっていた。そしてそこから時どき裏店に通じる路地の入口に目を配っている様子だった。当然信次の姿も目に入ったに違いないが二人は何も言わなかった。
うつむいて、信次は二人の前を通りすぎたが、男たちは声をかけて来なかった。
「兄貴、野暮用もほどほどにして、早えとこ新石場に繰りこみやしょうぜ」
「バカ野郎、能天気なことをぬかさず、しっかり見張れ」
うしろで、男たちがそう言ったのが聞こえた。二人が言っていることは、信次には半分もわからなかったが、男たちがそこで、もしやおきみの一家がもどるのではないかと見張っているのだ、ということは見当がついた。
信次は走り出した。今日裏店に遊びに来た隣町の子供が、忘れ物をして帰ったのに気づいて家を出て来たのだが、隣町に行くには少し時刻が遅かった。帰りには暗くなるだろう。
その心配と、二人の男がいる場所から一刻もはやくはなれたい気持にせかされて、信次の足は自然に駆け足になった。途中で大人にぶつかりそうになり、おっと気をつけなとどなられた。
松太郎という種物屋の息子が忘れて行ったのは、おとぎ話などが書いてある赤本と呼ばれる絵本だった。松太郎が持って来る絵本はどれもおもしろく、その上松太郎は親には見せられないような絵が載っている大人の本も時どきこっそりと持って来るので、大事にしなければならない友だちだった。忘れ物も、そのままにせずにとどければ、松太郎はまた新しい絵本を持って来るだろう。
「信ちゃん」
突然に名前を呼ばれて、信次はぎょっとして立ちどまった。そこは隣町に入ったところで、表通りの真正面に、赤赤と沈みかけている日が見える。
信次の名前を呼んだのは女だったが、夕日を背にしているので、顔がお面をかぶったように真白に見えた。だが声音と身体つきで、すぐにおきみの母親だとわかった。
「あ、おばさん」
「いまごろどこへ行くの」
「三丁目の種物屋さんとこ。おばさんは?」
すると、おきみの母親はため息をついた。
「ちょっと、ばあちゃんの様子を見に行って来ようと思ったんだけど」
「やめなよ」
信次はあわてておばさんの袖を引っぱると、道の端に寄った。声をひそめた。
「見張りがいるよ」
「見張り?」
おばさんは目をみはったが、すぐにうなずいた。
「やっぱりね」
「今日はやめた方がいいよ」
「そうね、その方がよさそうだね」
おばさんは、丸い顔をうつむけて思案にくれる表情になったが、やがて顔を上げた。
「うちのばあちゃん、どうしているかしら」
「元気だよ。ちゃんとおまんまを喰べてるよ」
「ごめんね、みんなに迷惑をかけて」
おきみの母親は十歳の信次にそう言うと、また深深とため息をついた。
「ばあちゃんも連れて出るつもりだったんだけど、間に合わなくなって。大家さん、怒っていただろうね」
「………」
「信ちゃん、今日ここであたしに会ったことは、ほかの人に内緒にしてくれる?」
「うん」
「ありがと。それからばあちゃんにね、いまにきっと迎えに行くからと言ってたと、こっそりと伝えてくれるね」
「いいよ」
おきみの母親は、信次に小さな包みを預けた。ばあちゃんの好物の団子だと言った。そして手を合わせて信次をおがむと背をむけた。小太りのうしろ姿は、たそがれの町にあっという間に溶けこみ、信次がおきみの様子を聞くひまもなかった。
信次がおきみの母親に会ったことを伝えると、ばあちゃんにぐんと食欲が出て来た。しかし伊三郎も、おきみの母親も現われず、日が過ぎて行った。
おきみの母親に会ってからひと月近くたち、花も散ったころ、信次は外から裏店に帰って来た。路地はうす闇につつまれていて、木戸をくぐるとき信次は首をすくめた。いまごろまで、どこをほっつき歩いていたかと、母親に怒られるのが目に見えていたからである。
いそぎ足に、信次は路地を歩いた。裏店の家家は、灯をともした家もあり、まだ灯のいろが見えずまっくらな家もあったが、一様に闇の中に沈みかけていた。その家家の上に、日没の名残りをとどめる空がひろがって、かすかな反射光を地上に投げている。夜気にうるんだように生あたたかかった。人の姿は見えなかった。
伊三郎の家の前まで来て、信次は足をとめた。自分が見たものが信じられず、恐怖で髪が逆立つような気がした。音もなく、少しずつ少しずつ内側から戸が開いて行く。ばあちゃんがあけるはずがなかった。ばあちゃんは日が暮れると早早に眠ってしまうのだ。
戸は開き切った。そして信次の前に男が躍り出て来た。その男はにやにや笑った。
「よう、信公」
と言った。伊三郎だった。長身で男ぶりがよく、うす闇の中でもいなせな姿が目立ったが、伊三郎は背に人を背負っている。ばあちゃんだった。
「話は聞いたぜ。世話になったな、信公。おとっつぁん、おっかさんに、よろしく言ってくれよ」
伊三郎はそう言うと、背中のばあちゃんをゆすり上げて、ばあちゃん行くかと言った。
ほい、ほい、ほいと伊三郎はおどけた足どりで、路地を遠ざかって行く。その背に紐でくくりつけられたばあちゃんが、伊三郎の足に合わせて、さし上げた両手をほい、ほいと踊るように振るのが見えた。
──ばあちゃん、うれしそうだな。
と信次は思った。すると腹から笑いがこみ上げて来てとまらなくなった。母親の説教など少しもこわくなくなっていた。信次は自分も両手をさし上げて、おどけた足どりでほい、ほいと言いながら路地を家の方に歩いた。
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消 息
一
「ちょっと、いい」
おしなが軒下に洗い物を干していると、うしろから声をかけて来た者がいる。振りむくまでもなく、向かいの家の女房おすえのどら声だった。
おしなが手に持っていた洗い物を小盥《こだらい》にもどして振りむくと、おすえは、あんたも帰りが遅いから大変だねと言った。裏店《うらだな》の路地には、もう薄暮のいろがただよっている。しかし声をかけて来たのはそういう世間話のためではなかったらしく、おすえはずいと身体《からだ》を寄せて来た。
「ちょっと聞き捨てならないことを耳にしたもんだからね」
「何でしょ?」
「今日、両国の人ごみの中で、ほら、前ここに住んでいたおきちさんに会ったんだけどさ」
おすえはあごを引いて、金つぼまなこをおしなに据えた。そして声をひそめた。
「あのひと、あんたのご亭主を見かけたというんだよ」
「まあ」
と言ったきり、おしなは声が出なくなった。鳩尾《みぞおち》の上で濡れた手を握りしめた。
その様子を見ながら、おすえが言った。
「場所は六間堀町の川岸だって」
「………」
「ほら、あのひと林町に引越したから。たまには六間堀の方に行くことがあるんじゃない?」
「おきちさんがうちのひとを見たというのは……」
おしなはやっと落ちつきを取りもどして聞き返した。
「いつごろのことでしょうか」
「去年の暮近くだそうだよ」
「去年の暮……」
ずいぶん前のことだ、とおしなは思った。いまは七月の半ば過ぎ、夏も終ろうとしているところである。
「ほかに、おきちさん何か言ってませんでした?」
「酒に酔ってたそうだよ、作次郎さんは……」
とおすえが言った。
「まだ日があるうちだったって言うんだけど、飲み屋から赤い顔をして出て来たのを見たんだって」
「………」
「声をかけようかと思ったけど、連れがいたんでかけそびれたとも言ってた」
「連れは?」
「男だよ。二人とも、あまりいい身なりはしていなかったそうだけど、気になるんなら一度おきちさんをたずねたらいいじゃないか。もっとくわしい話をしてくれるかも知れないよ」
「ええ」
「もっとも、いまのあんたにはもうどうでもいい話かも知れないけど……」
おすえは不意に皮肉な口調になって言った。
「あたしも、聞いたことを話さないでおくのは気持がわるいもんだからね」
おすえが離れて行ったあと、おしなはしばらくぼんやりと裏店の屋根の上にひろがる空を見上げた。
ひと筋の、勢いのいい筆で描いたような雲が空を斜めに横切っていて、そこにさっきまで空半分を染めていた夕映えの名残りが残っていた。その雲だけを残して、空は一面の青黒い鋼《はがね》いろに変ろうとしている。
おしなは顔を足もとの盥にもどした。路地はいよいよ暗くなって、さっきまでうろちょろと家を出たり入ったりしていた裏店の子供たちも、もう姿を消していた。
おしなはいそいで、軒下に張ってある縄に残る洗い物をつるしはじめた。だが頭の中にはまだおすえの声がわんわんと渦巻いていて、ともすればその声に気を取られて手先が留守勝ちになった。
夫の作次郎が突然に姿を消してから、ざっと五年ほどになる。作次郎は神田の本銀町二丁目にある太物《ふともの》問屋伊豆屋の手代で、おしなとは、姿を消すほんの一年前に、同じ北神田の田所町にあるこの裏店に所帯を持ったばかりだった。
失踪の原因は皆目《かいもく》わからなかった。夫が姿を消して二日ほど経ち、おしなが伊豆屋に様子を聞きに行こうとした矢先に、その伊豆屋の番頭だという男が来て、作次郎はもどっていないかと聞いた。おしなが、何の便りもないと言うと、番頭はしつこくは訊ねず、そのうちもどるだろうから、お役人にはとどけない方がいいだろうと言った。
それっきりだった。伊豆屋からは二度と人はたずねて来なかったし、思いあまったおしなが伊豆屋に相談に行ったときも、店の扱いはつめたかった。
番頭の言葉や、店の者の態度から、おしなは夫の作次郎が店の金を使いこんで姿をくらましたのではないかという疑いを持った。おしなも、所帯を持つ前は伊豆屋からほど遠からぬ駿河町の太物屋に奉公していたので、そういう例をまるっきり知らないわけではなかった。
しかしまさか夫の失踪を隠しておくわけにもいかず、おしなはとどのつまり大家に夫が家にもどらないととどけて出たのだが、それ以上さわぎ立てなかったのは使いこみの疑いが穿鑿《せんさく》の気持を鈍らせたせいだったろう。
さわぎ立てなければ、夫は番頭が言うとおり、そのうちにもどって来るかも知れなかった。そう思って、おしなは待つ決心を固めた。腹に子供がいたし、またおしなは下谷《したや》に伯父夫婦がいるだけで、ほかに頼って行くような肉親もいなかったから、所帯を持った裏店で夫を待つしかなかったのである。
──しかし……。
何のためにお金を使いこんだのだろう、と思うゆとりがもどって来たのは、夫が姿を消してから半月余も経ったころだった。思いあたることは何もなかった。世話する人があって所帯を持ったものの、おしなは夫の作次郎を、そんなによく知っているわけではなかった。
わかっているのは一緒に住んだ一年の間のことと、夫の口から断片的に聞いた子供のころの話ぐらいである。夫は伊豆屋の子飼いの奉公人で、孤児になったところを伊豆屋に養われたということだった。ほかには所帯を持つ前のことは何も知らないにひとしかった。
──女かしら?
思案の末に、おしながたどりついた推測はそれしかなかった。そう思ったとたんに、おしなの胸をどっと嫉妬の炎が焦がした。こんなにも夫を愛していたのかと、おしな自身がおどろくほど、嫉妬はぎりぎりと胸をしめつけて来た。
「女に決まってんじゃないか。なにをいまごろ、寝ぼけたことを言ってんのさ」
うかんで来た疑いを、一人の胸にはしまっておけなくて、一緒に洗い物をしていたおすえに打ち明けると、おしなはたちまち嘲笑を浴びた。
「裏店の者は、あんたに言わないだけ。はじめからそう思ってたよ。しっかりおしよ、あんた作次郎さんに捨てられたんだよ」
やっぱり女なのか、とおしなは思った。女が出来て店の金を持ち逃げしたのなら、夫はもうこの裏店にはもどって来ないかも知れない、とおしなははじめて思った。
そして、その予感はあたって、作次郎の消息はふっつりと絶えたまま、五年が過ぎたのである。
「おっかさん、まあだ?」
暗い家の中からひょっこりと出て来たおきみが言った。
「おきみ、腹へっちゃった」
「はい、はい。いますぐにね」
おしなはあわてて、最後の洗い物を干すために身体をのばした。すると母親の前垂れをつかんだおきみが言った。
「今晩も、あのおじさん来る?」
「さあ、どうかしら」
どきりとしておしなは子供の顔を見た。子供の頭に手を置いて言った。
「おきみは龍吉さん嫌いなの?」
「そうでもないけど……」
とおきみは言った。だが、おきみの表情はうす闇に覆われてはっきりとは見えなかった。
二
おしなの話を聞き終ると、龍吉はしばらく首うなだれていたが、ようやく顔を上げておしなを見た。
「それで? あんた、どうするつもりなんだい」
「どうするって?」
「ご亭主を探しに行くのか」
「さあ」
とおしなは言ったままうつむいた。おすえから聞いた話はそのままに放っておけるようなものではなかった。胸のずっと奥の方で、気持が波立っていた。だからたずねて来た龍吉にも打ち明けたのである。
しかし、そうかといってすぐにも作次郎を探しに行こうと思うまで、気持が固まっているわけではなかった。
「どうしたらいいのかしら」
「一応その、おきちさんとやらに会って、話を聞いてみたらどうだろう」
と龍吉が言った。
「それで、手がかりがつかめたらご亭主を探してみる、と。それでいいんじゃねえのか」
「………」
「ほんとは探してなんかもらいたくねえけどよ」
龍吉は顔ににが笑いをうかべた。
「でも、あんたの顔を見るとそれじゃ済みそうもねえもんでね。無理してすすめてるんだ」
「心配かけてごめんなさい」
「いいんだよ」
龍吉は笑いを消すと、額に若い者らしくもない縦皺《たてじわ》をきざんでうつむいた。
「おれも、ご亭主のことはずっと気にしてたんだ。ちょうどいい機会だから、探しあててきっぱり話をつけたらいいじゃないか。そしたら、こっちも天下晴れて所帯を持てるというもんだ」
「ええ」
「もっとも、探しあてたらやっぱりご亭主の方がよかったというんじゃ、おれとしては立つ瀬がないわけだけれど」
「そんな、龍吉さんに恥を掻かせるようなことをするもんですか。心配しないで、あたしは捨てられた女なのよ。あのひとには、恨みこそあれ甘い気分なんかこれっぽちも持ってないんだから」
「それなら安心だけどよ」
と龍吉が言った。愁眉《しゆうび》をひらいたというふうに、現金に明るい顔になっている。
おしなは村松町にある料理茶屋「小松」に、日のあるうちだけの下働きに雇われている。酒の席には出ない約束だった。龍吉は、「小松」に出入りしている大工の徒弟で、時おり仕事で台所口に顔を出している間におしなと知り合った。年季は明けているが、まだ親方の家で働いている若者である。齢はおしなより三つ下だった。
「よし、話はそれで済んだ」
龍吉は若者らしい早い気持の切り換えで、もう作次郎のことは頭から追いはらったらしく、尻をすべらせておしなのそばに来た。そして、いいだろうと言うと行燈《あんどん》に手をのばした。灯を消そうというのである。
「ちょっと待って」
とおしなは言った。龍吉の手を押さえて、部屋の隅に寝ているおきみを見た。
「大丈夫だよ。よく眠っているって」
おしなの手を振りほどきながら、龍吉がそう言った。せっかちな若者の顔になっていた。
龍吉が言ったその言葉で、おしなは二年前の夏の夜を思い出していた。季節はいまよりずっと前で、川開きの夜だったに違いない。遠くで花火の音がしていた。その夜、おしなの家に遊びに来ていた龍吉が、そう言って行燈の灯を吹き消したのだ。そのあとの闇の中で見た夢を、おしなは思い出している。
だが、手は強く男をこばむ形で動いた。
「ちょっと待ってね」
「どうしたんだい、いったい」
龍吉が不満そうに口をとがらせた。
龍吉は職人らしく浅黒い顔をしているが、美男子だった。裏店の女たちは、おしながはじめて龍吉を家に連れて来たとき、ひと目でおしなのいいひとだと見破ったに違いない。龍吉は目立つほどの男ぶりをしている。
だが、いま口をとがらせておしなに不平を言っている龍吉の顔には、まだ大人になり切っていない、未熟な感じが出ていた。その感じは、時どきおしなを不安にさせるものでもあった。
「あのね」
おしなはもたれかかって来る龍吉の身体を押しもどした。
「このごろ裏店の人たちに言われてんですよ。ゆうべは早くから灯が消えたじゃないかって」
「言わせておけばいいじゃないか」
龍吉の顔にじれったそうな表情がうかんだ。
「いちいち気にすることはねえよ。おれたち、いずれは所帯を持つんだから」
「裏店の口だけじゃないのよ」
とおしなは言った。
「おきみももう赤ん坊じゃないから。けっこう大人のすることを見ているし」
「おれが嫌いなのかな、この子」
「そんなこともないでしょうけど、龍吉さんの方は大丈夫なの」
「あたりまえだよ。みんな承知で所帯を持とうと言ってるんだ」
龍吉は憤然と言ったが、それ以上強いておしなに手を触れようとはしなかった。気勢をそがれたのかも知れなかった。
龍吉を木戸の外まで見送ってもどると、おしなは行燈のそばに坐って、深深とあごを襟《えり》にうずめた。
龍吉をこばんだのは、裏店の女房たちの口がうるさいからでも、おきみのせいでもなかった。五年ぶりに耳にした夫の消息が胸に蟠《わだかま》っていて、若い男に抱かれるような気分ではなかったのである。
──やっぱり……。
探しに行くしかないと、おしなは決心がついた。
まず、林町に住むおきちに会って、そのときの有様をくわしく聞き、それから作次郎が酔って出て来たという飲み屋をたずねて行けば、ひょっとしたら居所を探す糸口が見つかるかも知れない、とおしなは思った。
会ってどうするという考えは、まだ思いうかばなかった。ただ夫が生きているなら、一度は会わなければという気持にせかされていた。「小松」にうまく言いわけして、休みをもらわないととおしなは思った。
三
「作次郎さんは、ここに来たときはたしかに日雇いをしてたと言ったんだ」
と、顔もむき出しの腕も丸い、大柄な女房が言った。
「でも、引越して来たときは、ちゃんと隣近所に物を配って挨拶に回ってね。物たってあんた、安ものの鼻紙だけどね、でも、いまどきずいぶんきちんとしたひとじゃないかって、みんな言ったわけ……」
「………」
「だってあんた、近ごろは越して来ても挨拶ひとつしないなんて若い者もいるんだからね。そこへ来ると作次郎さんは、あんたの前だけど、やつれちゃいたけれども人品いやしくないところがあってさ。あのひとは以前はしかるべく暮らしてたひとに違いないなんて、みんなでうわさしたものさ。あんたの話で腑《ふ》に落ちた」
「そうだったんですか」
「そうとも。もっとも日雇いに要るのは人品よりも腕力だけどね。あたしの話を聞いた亭主が、よし、そういうひとなら一肌脱ごうじゃないかって世話を焼いたわけ。あたしの亭主ははばかりながら根っからの日雇いでさ、いい親方についてんだよ。だから作次郎さんも、亭主の口利きだから仕事場でもそんなに辛い思いはしなかったはずだよ」
「ありがとうございます」
「それがさ、ひょっこりといなくなったんだよね」
ほっぺたの赤い大柄な女房は、やっと本題に入った。
「いえさ、夜逃げというのでもないの。あるとき、と言ってもほんの半月ほど前のことだけどね、いやにいつまでも寝てるなと思ったら、昼過ぎになって戸が開いて、風呂敷包みを持った作次郎さんが出て来たんだ」
「………」
「と言っても、あたしが見たわけじゃない。その日はあたしも朝から亭主の仕事場に出て、畚《もつこ》をかついでたもんでね。出て行く作次郎さんを見たのはおつねと言ってね、ここの一番奥の鋳掛屋《いかけや》のおっかあなんだよ。作次郎さんはおつねと顔を合わせると、大変お世話になったけど急に引越すことになった、みなさんによろしく伝えてくれってね、尋常な挨拶だったって」
「すると行先は?」
「それがさ、あたしがいればもちろん聞いたよ。だけどおつねは、引越すと言われるとぽかんとしちゃって、それじゃ、ま、お大事にねと言ったというから笑っちゃうよ。でも、後で聞いたところによると、作次郎さんは大家さんにも行先をことわっていないんだ」
「………」
「それっきり、行方知れずになっちゃった」
女房は口をつぐんでおしなを見た。そして木戸のそばで裏店の子供と遊んでいるおきみにちらと目を走らせてから、手を腰にあてたまま裏店の方にぐいとあごをしゃくってみせた。
「そこ、三軒目が作次郎さんが住んでいた家だよ。いまはほかのひとが入ってるけど、留守だからのぞいてみるかい」
「いいえ」
おしなは首を振った。重い疲労感に襲われていた。
女房に礼を言い、まだ遊んでいたそうなおきみを連れて、おしなは裏店を後にした。木戸を抜けて路地を少し歩くと河岸道に出た。
そこは深川の西平野町という町だった。目の前を流れる掘割を、荷を積んだ小舟が通りすぎて行くのを、おしなはぼんやりと見送った。傾いた秋の日が、蜜柑《みかん》いろの力ない光を深川の町町に投げかけていて、小舟の船頭が竿をあやつるたびに、竿からこぼれる水と掻き乱された掘割の水が、きらきらと日をはじくのが見えた。
おしなは目を上げた。岸に枯れ色が目立ちはじめた掘割のむこうに、これまで来たこともない深川の町が、淡い日射しを浴びてひろがっていた。その町町のむこう、どことも知れない場所に、今度こそふっつりと作次郎が姿を消してしまったのをおしなは感じている。
しかし、ここまで跡をたどって来られたことが、あるいは幸運だったのかも知れなかった。林町に住むおきちに聞いてたずねて行った六間堀町の飲み屋では、作次郎のことはおぼえていなかったが、もう一人の男のことはよく知っていた。男は地元の人間で、その飲み屋の常連だったのである。
だがたずねて行った半蔵長屋というところには、飲み屋の常連の男はいたが、作次郎はいなかった。ただ、弥吉という作次郎とつき合っていたその男が、作次郎の行先を聞いていた。作次郎は、北本所の先にある瓦屋に仕事が見つかって、そっちに引越して行ったのだという。
ところがようやく探しあてた奉公先の瓦屋にも、作次郎はいなかった。三月《みつき》ほど働いて、その手間を手にすると今度は深川の木場に行くと言って瓦屋をやめたのである。「力仕事にゃ向かねえ身体で、瓦職人は無理だった。木場に行ったっておめえを使ってくれるところなんかあるもんかと言ってやったんだが、作次郎と言ったかい、あの男はきかなかったな。あてがあるとか言って出て行ったんだ」と、作次郎を雇っていた瓦屋の親方が言った。
瓦屋の親方の危惧は、そのままおしなの危惧になった。木場をたずねても、作次郎の消息が知れるとは限らないと思いながら、おしなはつぎには深川の東はずれまで行ったのだが、案に相違してそこにも作次郎がいた痕跡は残っていた。相馬屋という材木屋で、作次郎は働いていた。
ただし作次郎は、瓦屋の親方が忠告したとおりに長くは木場人足は勤まらなかったらしく、ほんのひと月ほどいただけで相馬屋をやめ、今度は西平野町に移っていた。落ちつき先を世話したのが、木場の人足仲間だった。その落ちつき先が、いまおしなが出て来た裏店である。
この裏店は居心地がよかったのか、作次郎は半年近くもここに住んで、日雇い仕事に精出している。
──もうひと息だったのに……。
とおしなは思った。おきちの話を聞いて、おしなが夫の行方を探しはじめたころも、そのあと北本所の先の瓦町、木場と跡をたどっている間も、作次郎はずっとこの裏店にいたのだった。もっと手早く跡を追えば間に合ったのに、と思うと、おしなの胸は後悔で押しつぶされそうになる。
しかしおしなは料理茶屋で働いていて、まとめて休みをもらうなどということは思いもよらなかったのである。おかみの機嫌がよさそうな時を見はからって一日の休みをもらうのが精一杯だった。
そしてその一日は、瓦町の一帯に点在している瓦焼き場を聞きまわるだけで、たやすく潰れたのである。作次郎の行方を追いはじめたころに、まだ夏の暑熱を残していた季節は、おしなが西平野町の裏店にたどりついたときには秋に変っていた。仕方がないことだった。
おしなは深いため息をついた。そして、ここまで跡を追って来て、わかったことがもうひとつあると思った。作次郎のまわりに女っ気がなかったことである。その事実は、では何のために使いこみをしたのだろうという疑問とはべつに、おしなの気分を重くした。
龍吉とのことをうしろめたく思うのではなかった。ただ、女の気配もなく、何かに追われるように転転と居所を変えている夫が哀れでならなかったのである。夫は実際に、いまもお上の手に追われているのではなかろうか。
気を取り直して、おしなはおきみを見た。母親の気持を感じ取っているかのように、手をひかれたままじっと押し黙っていたおきみも、そのとき母親を見上げた。
その顔に、おしなはつとめて明るく笑いかけた。
「さあ、日が暮れないうちに帰らなきゃね」
と言った。
だが、おしなが田所町の裏店にもどったときは、日はあらかた暮れて、家家の窓から仄明《ほのあ》かりが洩れる路地には、行燈の火を燃やす安物の魚油の匂いがただよっていた。
その仄明かりの中に、人が立っているのが見えた。両国橋まで来たところで歩けなくなったおきみは、背負うとすぐに眠りこんでしまい、背の上で石のように重くなっている。
そのおきみをゆすり上げながら、おしなが人影に近づくと、「あ、来た来た」という声がして、人影が二人にわかれた。裏店のおすえと林町に住むおきちだった。
「あんたを待ってたんだよ」
とおすえが言った。
「こんなに暗くなるまで、いったいどこに行ってたのさ」
「深川まで」
とおしなは答えた。立ちどまると、積もる疲れのために足が顫《ふる》え出しそうだった。
「あのひとが住んでたところがわかったもので、今日は休みをもらって探しに行ったんです」
「それで、会えたのかい」
いいえと言って、おしなはうなだれた。
「たずねて行ったら、もうどこかに行ってしまったあとだったんです」
「そうだろうさ」
とおすえは言ったが、つぎに意外な言葉をつづけた。
「でも、安心おしよ。ご亭主は見つかったってさ。それも昨日見つけたばかりだから、今度は大丈夫さ」
「え? ほんとですか」
「ほんとだとも」
とおきちが話を引き取った。
「びっくりしなさんな。あたしの隣町が徳右衛門町。三ツ目の橋があるとこだよ。その町に大黒屋という紙問屋があってね。どうやらあんたのご亭主は、そこで働いているようだよ。荷はこびが仕事らしくて、車力みたいななりをしていたけど」
「おきちさんは、その近所まで用で行って気づいたんだってさ。でも、間違えちゃいけないから夕方にもう一ぺん行って確かめたそうだよ」
「おばさん、ありがとう。なんて礼を言ったらいいか」
言うと同時に、おしなは不意に目まいに襲われて、身体がぐいと傾くのを感じた。おっとっとと言いながらおきちがおしなをささえ、おすえがすばやく背中のおきみを抱き取ってくれた。
「あわてることはないよ。もう少しすると出て来るから」
と附きそっているおきちが言った。おすえの家で白湯《さゆ》を一杯もらって飲み、それからとんぼ返りでさっき通りすぎた南本所にもどって来たのだが、徳右衛門町二丁目の家家はほとんどが戸を閉めていた。
しかし目ざす大黒屋は、半分ほど開いている潜《くぐ》り戸《ど》の奥に弱い灯の色がちらつき、また町の奥の方には夜商いの店が一軒、そのむかい側の旗本屋敷の角のあたりには辻番所と思われる提灯《ちようちん》の灯も見えて、町はまっくら闇というわけではなかった。
「ほら、出て来たよ」
と言って、おきちがおしなの背を押した。言われるまでもなく、おしなの目にも大黒屋から出て来た男たちが見えた。男たちは三人。そして一番最後に表に出て来たのが夫の作次郎だと、暗がりの中なのにおしなはひと目で見わけた。
おしなが足を踏み出したとき、いったん外に出た作次郎が、もう一度潜り戸に首を突っこむのが見えた。作次郎は中にいる人間に何か言いながらぺこぺこと頭を下げている。そこにいま作次郎が落ちこんでいる境遇が出ていた。卑屈な姿に見えた。その間に、先に出た二人はさっさと暗い通りを遠ざかって行った。
潜り戸がしまり、作次郎が道に向き直ると、二人は身体がぶつかりそうになった。二人ともに棒立ちになった。そしてしばらく無言で相手を確かめ合ったあとで、先に泣き出したのは作次郎の方だった。
作次郎はずるずると地面に膝をつくと、おしなの腰にしがみついて堰《せき》が切れたような泣き声を立てた。おしなは手をのばして夫の頭を抱えた。道の端におきちがまだいるかどうかを確かめようとしたが、目に涙が溢《あふ》れて見えなかった。
四
おしなの話を聞き終った伊豆屋の主人善兵衛は、しばらく黙っていた。お茶を一服してから、やっと声を出した。
「いや、おどろいた話だ」
と善兵衛は言った。
「あんたの話がほんとなら、あたしは菊之助と番頭にすっかりだまされていたことになる。うん、あり得ないことじゃない。五年前というと、あたしはそのころ長患いで寝こんでいてね。店のことは伜と番頭にまかせ切りだったのです」
そう言うと、突然に善兵衛は手を叩いた。善兵衛は長身で痩せているが、手のひらは大きかった。打ち合わせた音は遠くまでひびいたろう。どこからか、はい、ただいまという女の声がした。
いまにわかります、と善兵衛は言った。
「番頭を呼んで問いただしてみましょう」
濡れた手を拭き拭き現われた女に番頭を呼ぶように言いつけると、間もなく中背で肥え太った五十がらみの男が茶の間に来た。まぎれもなく、作次郎が失踪した五年前に、裏店の家にやって来た男だった。
番頭は二重瞼《ふたえまぶた》の細い目をちらとおしなに向けたが、すぐに主人に向かって何かいそぎのご用でも、と言った。
「このひとをおぼえているだろうね、利平さん」
と伊豆屋の主人が言うと、番頭は小さな声でへいと言った。
「むかしお店にいた作次郎の女房でしょう」
「店にいたという言い方はないでしょうよ、番頭さん」
主人の善兵衛はきびしい声を出した。
「作次郎のかみさんはおしなさんというそうだが、おしなさんの話によれば、おまえさんと菊之助は、五年前に菊之助の使いこみの罪を背負わせて、作次郎を店の外にほうり出したんだそうじゃないか」
「………」
「菊之助が使いこんだ金は、同業の森田屋と美濃屋に支払うつもりの金だった。あわせて五百五十両の大金だ。使いこんで支払えませんでは済まない。だから使いこみの罪を着せて、おまえが姿を消してくれろ、そうすりゃ言いわけの筋道も立つと、作次郎に因果をふくめたというのはほんとの話かね」
番頭の利平は黙ってうつむいていたが、やがて顔を上げると細い目を主人に向けた。
「そのとおりです」
「なんでそんなことをしたのです」
善兵衛は声を荒げた。
「いくら使いこんだといっても五百両の金。ほかにつきあいのある同業がいないわけじゃなし、おまえさんの才覚で金策して、森田屋と美濃屋の支払いを済ませる道はなかったのかね」
「はばかりながら旦那さま。どうぞあのころのことを思い出してくださいまし」
と番頭が言った。
「旦那さまは長患いの床におられ、商いの方は同業に喰われて不振のどん底。伊豆屋はいつ潰れるかと、同業の方方の恰好《かつこう》のうわさ話になっていたのです。とても金を貸してくれるところがあるとは思えませんでした」
「………」
「それに肝心の若旦那の使いこみのことですが、じつは若旦那が遊びに使ったのはほんの百両ばかり。ほかは商いの思惑違いから来た、はっきり申し上げますと仲買いの枡蔵にはめられて出した損なのです」
「なんで枡蔵なんかに……」
「若旦那は焦っておいでだったのでしょう。それで枡蔵の口車に乗りました。支払いの用意金に手をつけたのです。わたくしがそれを知ったのは、四百両の金を手にした枡蔵が姿をくらましたあとのことです。そのあとで若旦那は、残りの金を握って吉原に走りました。自棄《やけ》を起こしたのです」
事情を知った利平がまず頭を痛めたのは、支払いの日が来たときに森田屋と美濃屋にどう言いわけするかだった。
金の用意が出来ていないとは、口が裂けても言えなかった。森田屋と美濃屋には、これまで再三にわたって日延べを頼んで来たのである。これ以上待ってくれとは言えなかった。
もちろん若旦那の菊之助が用意金に手をつけたことは、言いわけの種どころか、ちらりとも人に洩らしてはならないことだった。真相が同業に洩れれば、伊豆屋の二代目はその程度の器量かと侮られ、商い不振どころか、やがて相手にする者もいなくなるだろう。
「旦那さまはご重病で、とても商いにおもどりになれるとは思えぬ有様……」
と番頭は言った。
「お店の蓄えといえば五百両どころか、そのころは五十両にも足りませんでした。若旦那はすっかり自棄になっていましたし……。にっちもさっちも行かなくなって、作次郎に因果をふくめたのです」
「それで? 作次郎はうんと言ったのかい」
「はい」
「かわいそうに。あれは子連れでこの家に奉公に来た母親が、一年も経たぬ間に病死してしまって、それで、わしの死んだ連れ合いが哀れがって子供から育てた奉公人だからな。菊之助の身代りと言われてはことわれなかったろうよ」
「………」
「それで森田屋さんたちへの言いわけは、うまく行ったんだね」
「はい。分け払いにしてもらいまして、旦那さまが元気になられて、お店に出られるほんの少し前に支払いは済みました」
「と言うと、去年の暮あたりかね」
「そうです」
「事情はわかったが、森田屋さんの口から使いこみが洩れて、お上が行方《ゆくえ》をさがしていると作次郎を脅したのは行きすぎじゃないかね」
「………」
「外に洩れたというのは嘘だろう」
おしなは顔を上げて番頭を見た。作次郎が五年もの間転転と居所を変えたのは、番頭にそう言われてお上に追われていると信じこんだからである。
それが嘘だとしたら、このひとは本物の悪党だと思っていると、番頭もちらりとおしなを見た。おしなの視線がきつかったのだろう。番頭は頭を垂れた。
「申しわけありませんでした。でも、支払いが済むまでは作次郎にこのあたりをうろつかれてはならないと思いましたのです」
「自分勝手のことを言うもんじゃないよ。五年もの間、妻子から離されてびくびくと逃げ回っていた作次郎の気持も思いやるがいい。よくもそんなむごいことが出来たもんだ」
善兵衛は荒荒しく言った。
「菊之助が帰って来たらここに連れて来なさい。二人でまず作次郎のかみさんに詫びる。話はそれからです」
半刻ほどして、おしなは伊豆屋を出た。善兵衛に強いられて、番頭と外からもどった伊豆屋の息子の詫びを受けたが、気持はさほどに晴れなかった。恨みが残った。
善兵衛は、作次郎に店にもどるように言いなさいと言ったが、おしなはそれにもあまり気乗りしなかった。夫の決めることだから即答を避けて帰って来たが、それではと、夫が伊豆屋の奉公人にもどるとは思えなかった。いくら人のよい夫でも、今度は主家のつめたさが身にしみたのではないか。
──あら。
おしなは立ちどまった。ほんの四、五間先の路地から、おしながさしかかっている大伝馬町の通りに出て来た若い男女がいる。肩をくっつけ合って歩いて行く男の方が龍吉だった。
そしておしなは、女の方にも見おぼえがあるような気がしたのだが、女が龍吉に笑顔で何か言いかけた横顔を見てはっきりした。女は同じ「小松」で働いているおうめだった。色白で、わずかな受け口がかわいい若い娘である。
──おや、まあ。
おしなはにが笑いしたが、その笑顔がすぐにこわばるのを感じた。
時刻はまだ七ツ(午後四時)前で、町には人が溢れていた。その中で龍吉がひと目も憚《はばか》らずおうめの肩を抱き寄せたのが見えたのである。二人はそのままの恰好で歩いて行く。見送ってから、おしなはつと横町にそれた。
五
風呂敷包みをつくり終ったあと、おしなはもう一度家の中を隅から隅まで掃きにかかった。
まだ明るいうちに茶箪笥と長火鉢を古道具屋に持って行ってもらい、台所の鍋、釜の類は昨夜のうちに夫が住む徳右衛門町の裏店にはこんでしまったので、家の中はがらんとしている。
それがめずらしいらしく、おきみが家の中をはね回るのを、おしなは時どき手をやすめて叱る。
「あぶないよ。行燈につまずいたら火事になるんだからね」
叱られるとおきみはいっとき静かになるが、すぐにまた遊びのときのわらべ唄をうたいながら、台所の方まではねて行く。
そのおきみが不意に静かになったので顔を上げると、土間に龍吉が立っていた。龍吉はあっけにとられた顔で家の中を見回している。
「どうしたんだい、この家は」
「ええ、引越しですよ」
頭にかぶっていた手拭いを取りながら、おしなは言った。
「引越し?」
龍吉の顔に怒気が動いた。
「おれには何の挨拶もなしにかい」
「………」
「おしなさんは、そういうひとだったのか」
「ご挨拶しなきゃ悪かったかしらね」
「へーえ、そういうことを言うの」
龍吉は拳《こぶし》を握りしめた。
「わかった。亭主が見つかったんだな。だからこっちは御用ずみというわけだ。たいした女だぜ。一人でさびしかった時は男をひっぱりこんでよ、用がなくなりゃ、はい、さよならだ。恐れ入ったよ、女狐だよ、こりゃ」
「ちょっと、龍吉さん」
おしなは畳に坐った。
「あんまり大きな声を出さない方がいいんじゃないかしら」
「なんだい」
「たしかに亭主は見つかったけどね。それとあんたのことはべつだと思ってましたよ。これからの相談だと。よしんばあんたと手を切るにしても、きちんと話をつけなければと思ってましたよ、あたしは」
「あたりめえじゃねえか。何言ってやがんだい」
「でも、そんな気をつかうことはないんじゃないかと思ったわけ。あたし、見ちゃったんですよ、昨日の夕方……」
「何だい、何の話だい」
と言ったが、龍吉の顔にはあきらかに狼狽《ろうばい》のいろがうかんだ。
「ごまかさないではっきりさせましょうよ。あんた、おうめさんと約束が出来てるんじゃないですか。それだったら、こんなばあさんと二股かけるのはやめなさいよ」
「………」
「ゆうべ、じっくりと考えてみたんだ。あんたと知り合って、何かいいことがあったろうかと」
「けっこう喜んでいたじゃねえか」
「ええ、そうよ。あんたは親切だったし、顔だって亭主よりよっぽどいい男だし、あたしはあんたと知り合えたのがうれしかった。でも、来れば必ずご飯もお酒も出したし、小遣いがないと言われれば暮らしを詰めてもお金を上げました。新しい浴衣《ゆかた》だって縫ってあげたのを忘れやしないでしょ」
「………」
「あんたの方は、何かしてくれました? 血がさわいで眠れないときに、あたしを押し倒しに走って来ただけでしょ。何が男をひっぱりこむですか。ばかにしないでくださいよ」
「………」
「あたしはね、昨日あんた方二人を見たとき、なんだと思いましたよ。こんなのはごめんだって。何か言うことがあるかしら」
龍吉は青ざめて立っていた。姿がよく、やはり作次郎とはくらべものにならない見てくれのいい男だった。その男との思い出が甦《よみがえ》って来て、おしなは血がどっとさわぐのを感じたが、こらえた。龍吉が背を向けて出て行くのが見えたが、声はかけなかった。
──女狐ねえ。
龍吉とのことは一切口をぬぐって、夫のところに行こうとしているのだから、その言い方もまんざらあたっていないわけではないとおしなは思った。だが夫の作次郎が、自分がいなくてはこの先やっていけないだろうこともわかっていた。作次郎はおしなを頼り切っていた。
──出直すしかないものね。
とおしなは考える。しかしそう思いながら、自分がむかしにくらべてひどくふてぶてしい女に変ったような気もした。
作次郎は、もう伊豆屋にはもどりたくないと言っていた。大黒屋のいまの仕事に満足していた。それならそれでいいとおしなは思っている。暮らしの金が足りないところは自分も働いて、親子三人が暮らせるなら言うことはないと思う。
徳右衛門町に引越せば「小松」はやめなければならないが、それにも未練はなかった。おしなは二度と龍吉やおうめに会いたいとは思わない。内職でも何でも、新しい仕事を見つけよう。
「おっかさん、どうしたの?」
おきみの声に気がつくと、おしなはまだぺったりと畳の上に坐りこんでいた。
「たいへん、たいへん」
おしなは陽気に声を出して立ち上がると、箒《ほうき》を握り直した。
「さあ、掃除をして、おとっつぁんのところに行かなきゃ」
「うん」
「あのおとっつぁんは、目をはなすとすぐにいなくなるひとだから、そばにいてやんないと」
「そう、すぐにいなくなるからね」
とおきみが言った。
掃除を済ませ、行燈を消して戸を閉めると、おしなはおすえの家に行った。
「あんた、まだいたの」
風呂敷包みを背負い、子供の手をひいたおしなを見て、おすえが言った。
「はやく行かないと、作次郎さん、またいなくなっちまうよ」
「預かってもらったものは、亭主が明日取りに来ますから」
「明日でなくとも、いつでもいいよ」
とおすえは言った。預けたのは夜具だけである。灯を消したばかりだから、あとで一度家をのぞいてくれと、くれぐれも頼んでからおすえの家を出た。ほかの家は昼の間に挨拶が済んでいた。
子供の手をひいて、おしなは住みなれた裏店を出た。新しい暮らしがはじまる、と思った。だが不安はなく気分は満ち足りていた。表通りに出ると、のぼったばかりの明るい月が親子を照らして来た。
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初 つ ば め
「わるいね、無理を言ってさ」
なみが言うと、しまは手を振った。
「いいんだよ、気にしなくたって……」
しまは丸顔に人のよさそうな笑いをうかべた。
「あたしの留守に男を引っぱりこむって言うんだと、焼き餅もやけるけど、相手が友ちゃんじゃね」
「そのかわり、明日の朝はおにぎりか何か持ってくるから」
「ありがと。友ちゃんと相手の人によろしく言っとくれな」
「おにぎりなんか持ってくることはないよ。おしまにはちゃんと朝飯を出す。遠慮もほどほどにおし」
いつの間にかうしろに来ていたおかみのたかがそう言った。おかみもなみの弟友吉を知っていた。そしてその弟が身を固めることになって、今夜はその相手を連れて姉のところに挨拶に来るというのを喜んでいた。
「これ、つまらないものだけど」
おかみはなみに小さな袱紗《ふくさ》に包んだ物を渡した。軽い物だった。
「紙入れさ。ほんのお祝いの気持だよ」
「すみません、おかみさん」
となみは言った。友吉がきっと喜ぶだろうと、繰り返して礼を言った。
「それじゃ、いそがしいところを相すみませんけれども、今夜はお休みをいただきます」
と言って、なみは小料理屋「卯の花」を出た。なみは、いまあとに残して来たしまもそうだが、「卯の花」の通い女中である。店の掃除をし、料理人を手伝って台所にも入れば、そのあとは着換えて客の酒の相手もする。
むかしは酒のあとで客と寝るような店を転転としたことがあるが、「卯の花」はそういう店ではなかった。「卯の花」に勤めを変えてから十年ほどになる。
馬場通りを西に歩いて一ノ鳥居を抜けた。そして黒江町の角を曲って、その先の堀にかかる橋にむかった。しまと二人で借りている長屋の家は松村町にある。
店から近所の青物屋に買物に出たりすることはあるけれども、日盛りの午後の町を歩くことはめったにない。なみは降りそそぐ春の日射しをまぶしく感じながら黒江町の道を歩いていた。
馬場通りには、混み合うほどに通行人が行き来していたのに、一歩黒江町に入るとそこは閑散としていて、なみが歩いて行く道のはるか前方に、二人ばかり小さな人影が動いているだけだった。「卯の花」よりずっと間口の狭い小料理屋やしもた屋がならぶ町のどこかに、油売りがいるらしく、油よろしゅう、えー油でございという触れ声がするが、姿は見えなかった。
町を横切って堀ばたに出たところで、目の前をすいと掠《かす》めすぎたものがあった。そのものはあっという間に白く濁ったいろをしている春の空に駆け上がり、日射しをうけてきらりと腹を返すと、今度は矢のように水面に降りて来た。
──おや、つばめだよ。
となみは思った。立ちどまって、水面すれすれに下流の八幡橋の方に姿を消すつばめを見送った。今年はじめて見るつばめだった。今年どころか、何年もつばめを見たことなどはなかったようにも思う。
父ははやく死んだが、やがて残った母も病気で倒れた。二人とも|癆※[#「病だれに亥」、unicode75ce]《ろうがい》という病気だと、なみと弟の友吉のめんどうをみてくれた長屋の女房が言った。古着の行商をしている、銀助という男のかみさんである。
なみたちの母親が床から起き上がれなくなると、銀助は大家や長屋の者と相談して、やがてなみを入船町の小料理屋に世話した。なみが十五のときである。
「おめえも、もう一人前だ。辛抱して働きな」
と銀助は言った。
銀助の言う意味はよくわかった。なみはそれまでも、身体《からだ》が弱い母親のかわりに家のことをしながら、大家の世話で、ごく近くにある団扇《うちわ》問屋の台所を手伝っていた。しかし余ったおかずをもらったりする余禄はあっても、そこで手に入る賃銀は知れたもので、母親が病気で寝こむとそんなことでは暮らして行けなくなったのである。
病気の母親の薬代を稼がなければならなかった。そして弟の友吉はまだ五つだった。病人と弟のめんどうをみてくれる銀助夫婦にも、何ほどかは暮らしの金を渡さなければならなかった。外に働きに出るのは当然だと思ったのである。
働きはじめた料理屋で、やがて男の客を取らされたときも、おどろきかなしんだことは確かだが、逃げ帰ろうとは思わなかった。いつまでも泣いてはいられなかった。そのころには、銀助が言った辛抱しろという言葉には、こういうこともふくまれていたのだと気づいたが、岡場所に売られなかっただけでも、まだましだったのだと考えるようになっていた。波に流されるように、浮世の仕組みの中をはこばれて行った。
三年後に母親が死んだ。一人きりになった友吉は銀助夫婦が引き取ってくれた。しかしなみはいかがわしい商売をしている小料理屋から、すぐには足を抜けなかった。
母親が死んだあとに少なくはない借金が残っていた。その借金の中には、父親が病気で寝ていたころの古い借金も入っていた。それに弟の友吉の着る物と喰い物のかかりがあった。ささやかなものだったが、長屋の人たちが母親の葬式を出してくれていて、そのかかり費用は銀助夫婦が立て替えていた。
そういうものをあらましきれいにし、また十二になって、銀助の世話で古手《ふるて》問屋に奉公に出ることになった友吉の身支度をととのえ終ったときには、なみは二十二になっていた。
それまでの間に、なみを妾《めかけ》にしたいという男が二人現われ、一緒に暮らしたいという男が一人現われた。妾にしたいという男二人はそれぞれに熱心で、借金をきれいに清算して、弟の友吉を引き取り、手当てもはずむという条件はわるくないものだったが、なみはその男たちと寝るときは、金のためとはいえ鳥肌が立った。きっぱりとことわった。そして所帯を持ちたいという男には、誠意はあっても定職がなく、金もなかった。
なみの方から入れ揚げた男も、二人ほどいた。弟など捨ててしまおうかと思うほど、惚れこんだその男たちは、二人ともなみを裏切って、二度と目の前に現われなかった。淫売という言葉を思い知らされたような気がした。なみはそのころから深酒をするようになった。正体もなく飲みつづけて、病気になり長く寝こんだこともある。
友吉が奉公に出てから二年ほど経って、なみはいまの店に勤めを替えた。ほんとうは水商売の足を洗って堅気にもどりたかったのだが、どう足を洗っていいかもわからないほど、なみは水商売の世界に身も心も染まり切っていた。しかし堅気の道を踏み出した弟のためにも、せめて男に身体を売るような勤めだけはやめようとなみは思ったのである。
首尾よく年季を勤め上げれば、友吉にも身を固める日が来て、やがては一人前の商人になる道もひらけるだろう。そういうことを考えると、なみは胸の中がほのぼのと明るくなるのを感じた。自分にはついに射さなかった日が、弟の上に射しかけるのを見たかった。
しかしそういうふうに事をはこぶためには、弟も金がいるかも知れなかった。たった一人の身内として、肩身狭い思いはさせられない。友吉が身を固めるにしろ、のれんをわけてもらうにしろ、その時のためにささやかでも、足しになるような蓄えをこしらえておいてやりたい、となみは思っていた。
「それが終ったら……」
なみがそういう話を聞かせると、同じ店で働き、二人で長屋の一軒を借りているしまは言う。
「今度は、あんたが自分のしあわせを考える番だ。いい男を見つけな」
この齢になって、いい男なんか見つかるもんか、おしまはバカだよとなみは思った。だが、さっきのつばめがたちまちもどって来て、白い腹を見せて頭上を飛びすぎるのを見ていると、何かいいことがありそうな予感が、なみの胸をふくらませた。
──初つばめ……。
今日、初つばめを見たと、弟にも弟の嫁になる娘にも話してやろうと思いながら、なみは松村町に渡る橋にむかって歩き出した。
表通りの青物屋、豆腐屋に寄り、酒屋の前で少し思案してから酒を一升買うと、なみは松村町の長屋にもどった。
「おや、おなみさん、大そうな買物だね」
二軒ほど先の家の前で、夢中で立ち話をしていた左官屋の女房が、目ざとく見つけておしゃべりをやめると、なみに声をかけて来た。左官屋はなみの家の前である。
「今夜は弟が来るものだから……」
なみは言って、ついその先をぽろりとしゃべってしまう。
「弟が今度身を固めることになってさ。今夜は嫁になる娘を連れて、挨拶に来るというものだから」
「おやまあ、それはめでたいじゃないか」
左官屋の女房と、おしゃべりの相手をしている祈祷師の女房は、大げさな喜びの表情をつくってみせた。
友吉は半年に一度ぐらいしかたずねて来ないし、来てもすぐに帰るのだが、そこは商い店の奉公人で、長屋の人たちと顔が合えば如才ない口をきいた。いかにもお店者《たなもの》らしく身ぎれいにして、男ぶりもわるくない友吉は、大げさに言うと掃きだめに鶴という趣きがあって、長屋の女房たちには評判がよかった。なみはそのことをひそかな自慢にして、それで嫁のことをしゃべる気になったのである。
「へーえ、それでこれからごちそうをつくるんだ」
「どんな人が友ちゃんのお嫁になるのか、見たいものだね」
女房たちは口ぐちに言った。なみは笑顔を返して家に入った。胸に幸福感があふれた。買って来た物を台所に置くと、姉さんかぶりになって掃除をはじめた。
友吉と娘は、日が落ちるちょっと前にやって来た。友吉はまた背がのびたようで、上がるときに鴨居に頭がつかえそうになるのが頼もしかった。身につけている物も、青梅縞《おうめじま》の着物に袷《あわせ》羽織である。紺の縞木綿《しまもめん》でたずねて来ていた小僧のころにくらべると、見違えるほど大人っぽくなっている。
そして友吉の後から身をすくめるようにして部屋に上がって来た娘を見て、なみは目をみはった。着ている物は鹿《か》の子《こ》で、見たところは地味だが、それは近年の流行だからで、帯も髪を飾っているかんざしも、いかにも高価そうな物である。
その上娘の頬はなめらかに白く、指もほっそりとしている。友吉の嫁というからには、絣《かすり》か縞の木綿着の娘だろうと思っていたなみは、虚を衝《つ》かれた思いだった。うつむいて入って来た娘は、長屋の娘でも商売の奉公人でもなかった。
──この人は……。
どっかのお嬢さまだわ、と思ったが、気を取り直してなみは声をかけた。
「さあさ、狭いところですけど、坐ってくださいな」
いま、お茶をいれましょうと言い残して、なみは台所に立った。柱に隠れて、手で髪を直した。しかし髪を直したぐらいでは追いつかないだろう、となみは思った。店を出て来る前に、ひととおり化粧はしたものの、寝不足と酒でむくんでいる顔は、行燈《あんどん》の灯をともせば隠しようもなくなるのだ。
なみは急に弟に腹が立った。相手があんなお嬢さまなら、もっとはやく事情を話してくれたらよかったのだ、いきなりじゃ、面喰らうじゃないかと思ったのである。べつにお嬢さまが嫌いというわけではなかった。ただ、友吉の姉でございと名乗るには、少少気がひけるような気分が芽生えている。そこのところが腹立たしかった。
「まあ、わざわざ来てもらってねえ、こんな狭いところにさ」
「何度も言わなくともいいよ。狭いのは見ればわかるんだから」
友吉が不機嫌な口調で言った。そしてなみがお茶を出すと、娘に姉だよ、親代りなんだと言った。
「姉さん、この人がおゆうさんだよ」
友吉が言うと、それまでうつむいていた娘が、はじめて顔を上げてなみを見た。
「はじめまして、ゆうと申します」
と娘は言った。やはりなめらかで白い頬だった。少し濃い目に口に紅をつけている。あどけないと言ってもいいようなかわいい顔なのに、細い目だけがまたたきもしないで自分を見つめたのを、なみは感じた。
検分されたような感触が残った。
──この子は、気が強いね。
となみは思った。友吉は大丈夫なのだろうかと思ったが、なみも、友吉の姉です、よろしくねと言った。
「さあ、はじめて見えたんだから、お酒を出そうか」
行燈に灯をいれてから、なみはそう言って立とうとした。すると友吉は手を振った。
「いや、酒はいいよ。おゆうさんは酒が嫌いなんだ」
「でも、形だけでも」
「いいって言ったらいいんだよ」
友吉が思いがけない尖《とが》った声を出した。
「じゃ、おまえだけでも少し飲んだらいいじゃないか。お祝いってことだってあるだろ」
「今日はいいんだよ」
友吉はそっけなく言った。
「なんだか恰好《かつこう》がつかないね」
なみが言うと、ゆうがまた顔を上げてなみを見た。細い目に笑いが見えたような気がした。しかしゆうは笑ったわけではないようである。おや、これは何だろうとなみが思ったとき、ゆうはもう顔を伏せていた。
それじゃ仕方がないね、となみは言った。せっかく買って来た酒だが、寝酒に飲むことにしよう。
「じゃ、酒はやめにしてすぐご飯にしようか。おまんまはもう炊けているから」
なみが言うと、友吉とゆうは顔を見合わせている。ゆうが友吉の膝をつついたのが目に入ったが、なみは見なかったふりをした。
「今日はね、お店を休ませてもらって、家でごちそうを作ったのさ。ごちそうと言ったって、大したことは出来やしない。煮物と焼き魚だけどね」
「………」
「ほんとは軽くお酒をいただきながら、いろいろと話を聞こうと思ってたんだけどね。ま、喰べながらでも話は出来るわ」
「姉さん」
「何だね、変な顔をして。ほんとに友吉ときたらおどろいてしまうね。そのあたりの飯炊き娘でもつかまえたんだろうと思っていたら、こんなお嬢さまを連れて来るんだから……」
「姉さん、ご飯はいらないよ」
なみは立てていた膝を落とした。ゆっくりと坐り直して二人を見た。
「ふーん、ご飯を喰べないでどうするのさ」
「支度したところをわるいけど」
友吉は名前を言えば誰でも知っている料理茶屋の名を言った。川むこうの霊巌島にある店である。
「今夜は二人でそこに行くことにしているんだ」
「舟で帰るの」
「ああ。佐賀町に舟を待たせてあるんだ」
「へーえ、豪勢だね」
となみは言った。だがほっぺたのあたりがすっと寒くなり、顔いろが変るのが自分でもわかった。
「それだったら、こんなうす汚い家で煮物をおかずに飯なんか喰っちゃいられないやね」
「嫌味はよしとくれよ、姉さん」
と友吉が言った。友吉は笑おうとしたが、顔が少し引き攣《つ》った。
「お手やわらかに頼むよ」
「嫌味じゃないよ。思ったことを言ったまでさ」
「いや、わるいとは思ったんだけど、この人のおとっつぁんに、飯喰って来いとお金をもらったもんだから」
「引きとめやしないから、大丈夫だよ」
なみは二人の前から、ちっとも減っていないお茶を盆に移して、腰を上げた。
「そんなら少し話を聞かないとね。先方の、おとっつぁんとかいう人の名前も知らないんじゃ、姉としても面目ないから」
あたりまえさ、それを話しに来たんじゃないかという友吉の声を聞き流して、なみは台所に引き返した。土瓶に新しく茶の葉をいれ直してから、なみは台所の隅で、茶碗にさっき買って来た貸徳利の酒をついだ。つめたい板の間に両膝をついたまま、ひと息で飲み干すと口をぬぐった。
ちょっと思案してから、なみはもう一杯酒をついだ。それも顔を仰向けてひと息に呷《あお》ると、口をぬぐって茶の間に引き返した。仕切りもない台所だが、そこは暗くていまの酒は茶の間からは見えなかったはずである。
「おゆうさんの家は、太物屋《ふとものや》なんだ」
塩河岸にある八幡屋という太物屋がおゆうの家で、大店《おおだな》ではないが繁昌している店だと、友吉は茶の間にもどったなみに言った。
八幡屋は、友吉が奉公している富沢町の古手問屋越後屋と遠い縁つづきで、商いの上のつながりもある。その関係で、友吉は小僧のころから時どき八幡屋に使いに行ったりしていて、いつとはなくおゆうとも知り合った。
「そんなわけで……」
と友吉は話をしめくくった。
「今度の話も、むこうから切り出されたんだ」
「ふうん、友吉は男ぶりがいいからね」
となみは言った。おゆうがうつむいたまま、くすくすと笑った。なみはそれを無視して聞いた。
「おとっつぁんの名前をまだ聞いてないね」
「あ、利兵衛さんと言うんだ。八幡屋利兵衛」
「そう、表店《おもてだな》の娘さんか。こちとらとはちっと身分が違うね」
台所で飲んだ酒が、じわりと表に出て来る気配をなみは感じた。
「でも、表店の旦那だからといって、何も恐れ入ることはないよ。十七のあたしを妾にしたくて、山のように金を積んだヒヒおやじがいたけどね。その助平なおやじは、大店の油問屋の主人だったもんね」
「姉さん、変なこと言わないでくれよ」
友吉が姉とおゆうにいそがしく目をくばりながら言った。
「そんな言い方をしちゃ、おゆうさんにわるいじゃないか」
「べつにわるくないだろ、この人には関係のないことだもの。ただ、金持ちの旦那なんか、ちっともこわかないよって言ったわけ」
「参ったな。姉はほら、勤めが勤めだろ。口がわるいんだ。気にしないでくれよな」
「何をあやまってんだよ、おまえは」
なみは、抑えていた酔いが、一度に噴き出したのを感じた。
「あやまることなんかひとつもないって。第一おゆうさんの方から、おまえに惚れたんだろ。わかってる、わかってる」
「何だ、酒飲んでんじゃないだろうな」
やっと気づいた友吉が声を荒らげた。
「いつの間に飲んだんだよ」
「酒ぐらい飲んだっていいじゃないか」
なみは、細い目を据えてうす笑うような表情でこちらを見ているおゆうを見返した。
「酒が何だってんだよ。へいこらすることなんか、ひとつもないからね、友吉。姉さん、おまえが嫁をもらう日のためにと思って、お金だってちゃんとためてんだから。表店かなんか知らないけど、むこうになめられることなんかひとつもないんだよ」
「お金はいらないよ」
「何言ってんだね、おまえ。金がなくてこの世の中、渡って行けるもんか。大丈夫、おまえが恥をかかないだけの蓄えはあるからね。姉さんが、いったいいくらためたと思うね」
「ほんとにお金はいらないんだ」
もてあましたように友吉が言った。
「しばらくは家を借りてもらって、ほかに所帯を持つけど、いずれおれとおゆうが八幡屋をつぐことになるんだ」
へーえとなみは言った。しばらく二人を見くらべてから言った。
「それじゃ丸抱えなんだ」
「丸抱えっていう言い方はひどいな」
「だってそうじゃないか。何だ、太物屋の婿になるのか。がっかりだあ」
なみはふらりと立ち上がった。台所から徳利と茶碗を持って長火鉢のそばにもどると、猫板に茶碗をのせて酒をついだ。
ゆうの顔に怯《おび》えのいろがうかんだ。酒が入るとなみの心は鋭く冴えわたって、何ひとつ見のがさない。怯えたゆうが、手をのばして友吉の袖の端をつかんだのも、目ざとく見つけた。茶碗の酒をあけてから言った。
「こわがることはないよ、お嬢さん。酒を飲むからといって、あんたまで取って喰おうってわけじゃない」
「じゃ、おれ、そろそろ……」
ゆうに袖を引っぱられて、友吉がそう言うのに、なみは鋭く待ちなと言った。
「まだ、肝心の話が済んじゃいないよ」
「肝心の話?」
「祝言はいつになるんだね」
「ああ、それ……」
友吉はゆうと顔を見合わせた。
「まだ決まってないけど、決まったら知らせるよ」
「決まったらじゃないよ」
なみは猫板をこぶしでなぐった。空の茶碗が踊って、若い二人はぴくりと身体を顫《ふる》わせた。
「あたしゃ痩せても枯れても、たった一人のおまえの身内だよ。その身内に、先方のおとっつぁんがいつ祝言の日取りを相談しに来るのか、それを聞いてんだよ」
若い二人はまた顔を見合わせた。そして同時になみを見た。ゆうは少し青ざめて、友吉は口のあたりにうす笑いをうかべていたが、二人の目には同じものが現われていた。
それはさっきまで、ゆうという娘の目の中にあったものでもあった。それは堅気の者が水商売の者を、自分でもそれとは気づかずに隔てている目のいろに思われた。
うす笑いの顔のままで、友吉が言った。
「そりゃ、ま、帰っておゆうのおやじさんに話してみるけど……」
「もういいよ」
「なにせ、いそがしい人だから」
「いいって言っただろ」
じれて、なみは酒が入っている茶碗を畳に投げつけた。部屋に酒の香が立ちのぼり、若い二人がおどろいて立ち上がった。立ち上がっただけでなく、友吉はかばうようにゆうの肩を抱いてやっている。
「帰んな、二人とも。もう、二度とあたしの前に顔を出さないでおくれ。ああ、わかったよ、わかっているとも。堅気の、客商売のお店に、水商売の女なんぞお呼びじゃないんだ」
「………」
「ぐずぐずしていないで帰りなよ。いかにも、あたしゃ、男に身を売って生きて来た女さ。友吉だって、いまとなっちゃこういう身内が迷惑なんだ。口答えするんじゃないよ、バカ。本心言いあてられて恰好わるいか」
「無茶苦茶だ、こりゃ」
「何が無茶苦茶だよ。はい、はい、わかってますよだ。おまえらの前に顔を出さなきゃいいんだろ。安心しな。むこうの利兵衛とっつぁんにも言ってもらいたいね。ご心配にはおよびません、こっちは淫売女でございますから、友吉の姉でございと、御前にしゃしゃり出る気なんざ、これっぽちもありませんて、言っときな。ヘンだ」
「こりゃ手がつけられなくなった。じゃ、おれたち帰るからね。いいね」
「帰れって言ってんだろ、さっきから。舟に乗ってごちそう喰べに行きゃいいんだ。あーあ、おまえなんか育てて損しちゃった。とっとと帰んな、二度と顔見せたら承知しないよ」
二人がほうほうの体《てい》で出て行くと、なみは台所から塩を持ち出して、威勢よく戸口にまいた。それから改めて茶碗を持って来ると、残り少なくなった炭火を掻き立て、女だてらにあぐらをかいて飲みはじめた。
肌寒さに身顫いして、なみは目覚めた。あわてて起き上がったが、部屋には誰もいなかった。長火鉢の炭火は白い灰になり、油が切れるのか、行燈の灯がじいじいと音を立てている。
なみは立って台所に行った。少しふらついたが大丈夫だった。頭が少し痛むだけで、気分はそんなにわるくはなかった。ただ、身体が重くて節節が痛んだ。なみは暗い台所で、水瓶から水を汲んで飲んだ。喉《のど》を滑り落ちる水が、この上なくうまかった。
なみは茶の間にもどった。長屋の者はもう寝てしまったのか、ことりとも音がしない。何刻ごろなのか、さっぱり見当がつかなかった。なみはうつむいて両手で顔を押し揉《も》んだ。少し顔にむくみが来ているようだった。
──つまらないことを言っちゃったよ。
ぼんやりとそう思った。つまりは弟が一人前になったということなのである。けっこうなことじゃないの、となみは思った。それを祝言の日取りがどうの、身内がどうのとくだらないことを言ったような気がする。
突然なみは自己嫌悪に襲われた。二人そろって姉ちゃんありがとうと言ってくれるとでも思ってたんじゃないのか、おまえはと思った。大した芝居っ気じゃないか。
小さいときに育てたと言っても、弟は男である。一人前になればいずれ離れて行くのだ。今日がその日だったのだろう。それならあんな言い方をしないで、黙って見送ればよかったんだ。ひょっとしたらおまえは、あのおゆうという娘に焼き餅をやいたんじゃないのかね。
なみは火箸で灰を掻きならした。部屋の中には、濃い酒の香がただよっていた。投げつけた酒が、畳にしみこんでしまったのだろう。
「だけど……」
なみは、ふとひとりごとを言った。だけど、つまらないね、生きるってことは。あんないやな思いまでして身を売って、お金を稼いで、それがみんなパーだ、とどのつまりは何の役にも立ちはしなかった、と思った。
──三十四か。
三十四の女が、たった一人残されちゃったねと思った。人っ子一人見えないさびしげな道に、ぽつんと立っている自分の姿が見えた。その姿はこっちに背をむけて、方途に迷っているようでもある。
さびしさがひしと身体をしめつけて来て、なみはわが手で強く胸を抱いた。そうしないと胸の中のすすり泣きが外に洩れてしまいそうだった。
誰かが戸を叩いている。なみははっと目覚めたようになって立ち上がった。上がり框《かまち》で声をかけた。
「だれ?」
「………」
「友吉かい」
「いや、おれだよ」
ずっとむかしに聞いたことがあるような声が、そう言った。土間に降りて戸をあけると、滝蔵が立っていた。
「おや、滝蔵さん。いまごろどうしたのさ」
となみは言った。
滝蔵は、むかしなみの家があった清住町の長屋で一緒に遊んだ幼馴染《おさななじ》みで、齢もなみと同年だった。むかしとちっとも変りないいろの黒い馬づらのままで、ただその顔は齢よりも少し老けて見えた。そしてどういうわけか、滝蔵は頭から湯気を立てていた。
「いや、なに……」
なみがそう言うと、滝蔵は口ごもった。
「友ちゃんが来てね、ちょっとここをのぞいてくれねえかと言うもんだから」
「友吉が?」
あのバカ、こっちが首でもくくるかと心配になったか、と思ったが、気持は現金にいくらかなごんだ。
「それであんな遠くから、走って見に来てくれたんだ。わるかったねえ、滝蔵さん」
となみは言った。
滝蔵は子供のころから生まじめなところがある男だった。なみが男に身体を売る境涯に身を沈めたころ、たったひと晩女を買えるだけの金をにぎって、滝蔵がたずねて来たことがある。
なみちゃんをこんなところから連れ出したい、そして所帯を持ちたいと滝蔵は言ったが、そういう滝蔵は近所の叩き大工の手伝い仕事にありついたばかりで、手にこれといった職もなければ金もなかった。なみに会いに来るのに、一年かかって金をためたそうである。
気持はうれしいが、もうここには来ない方がいいと、そのとき滝蔵に意見したことをなみはおぼえている。齢は同じでも、なみの方がずっと世間を知っていて、考え方も大人になっていた。二人で所帯を持つなどということは、夢をみるのと同じことだった。あんたが来ても、あたしはもう会わないからと、少し芝居がかって突きはなしたことも記憶にある。それが滝蔵のためだと思ったのだ。
あれから、もう十何年も経《た》ったのかしらと、なみは昨日も会った人のような顔をして目の前に立っている滝蔵を、訝《いぶか》しく見た。
「わるかったねえ、こんなに遅くにさ」
「まだ五ツ(午後八時)過ぎだぜ。そんなに遅いわけじゃねえ」
「走って汗かいたんじゃない。待って、いま手拭い出すから」
「いらねえ、いらねえ」
滝蔵は手を振った。
「もう、大丈夫だ」
「ちょっと上がって、一杯やっていかない。あたしも一人で酒飲んでたところだから」
茶の間に上がって、なみがそう言うと、滝蔵も土間まで入って来たが、上がるそぶりは見せなかった。
「いや、おれも仕事を終って家にもどったばかりだったからよ、上がってもいられねえ。心配なことがねえのなら、このまま帰ろう」
「心配なことなんて何もないけど、でもひさしぶりじゃないのさ。すぐ帰るんじゃ、あっけないねえ」
「なに、今度は家がわかったから、改めて来らあ」
「滝蔵さんは、大工をしてるんだね」
と、なみは言った。滝蔵は紺の腹掛けにはっぴを着て、きりっとした職人姿で立っている。
「まあな」
と言って、滝蔵は長いあごを撫《な》でた。
「叩き大工だけど、一応は棟梁《とうりよう》と呼ばれてるよ。鑑札ももらったし、場所は同じだが表に一軒借りている」
「そう、男の人ってえらいんだね。子供は?」
「二人だ。男と女」
「そう、しあわせなんだね」
「いや、いや」
滝蔵は首を振った。たちまち暗い顔をした。
「五年前に女房に死なれてね」
「あらッ」
「おれも苦労したぜ、なみさん」
「まあ、何てことだろ」
「子供が大きくなって、近ごろいくらか楽になったけどな」
「でも、後の人をもらったんでしょ」
「そんな物好きな女なんかいるもんか。子供はいる、口やかましいばばあが一人いるっていう家だから、後釜の来手なんざありやしねえ」
「あら、おっかさん、まだ元気なんだ」
となみは言った。息子と同じ、いろが黒くて口が達者だった滝蔵の母親を思い出して、こんな話の最中なのにふっと笑いを誘われていた。
「それじゃ、お酒はよすとしてお茶漬けでも喰べていかない? ご飯がたくさんあるんだ。滝蔵さん、夕飯まだなんじゃないかしら」
「お茶漬けか」
酒はことわった男が、思案している。
「そう言えば腹ペコだな」
「そうよ、あんなところから走って来たんだもの」
まったく、友吉のやつ、横着ったらありやしないとなみは思った。あとは生まじめな滝蔵に頼んで、自分はさっさと料理茶屋に行ってしまったのだ。
「上がってくださいな。すぐ支度しますから」
声をかけておいて、なみは行燈から手燭に火を移し、台所に入った。手早く竃《かまど》に火をおこした。飯はお茶漬けで仕方ないけど、煮物をあたため、焼き魚にも火をあてて出そうか。
そんな思案をめぐらしていると、気持がだいぶ明るくなって来た。滝蔵さん、となみは言った。
「あれから十何年も経ったなんて思えないねえ」
「十年? そんなに経ちやしないだろ」
滝蔵ののんきな声がした。上がりこんだらしく、声は茶の間から聞こえる。
「友吉とは時どき会ってたの?」
「いや、それがさ」
と滝蔵が言った。
「二年前に富沢町で普請仕事を頼まれたんだ。そこがほれ、友ちゃんが奉公している越後屋っていう問屋さんだったんだ。そうとは知らずに行ったんだけどな」
「へーえ、そういうこともあるんだ」
「で、友ちゃんも年季が明けた時分だったから、二人でひと晩飲んだのさ。友ちゃんは、あれでずいぶんおまえさんのことを心配してるぜ」
「へえ、どうだか」
となみは言った。人にそう言われると、さっきの腹立ちがもどって来そうだった。
「友ちゃんもりっぱになったよ。手代さんだもんな」
「あのね、今日の昼すぎにさ」
なみは話をそらした。頭上を飛びすぎたつばめの姿が頭にうかんでいた。あのとき、何かいいことがありそうだという気がしたのは、いろの真黒な滝蔵のことだったのだろうか、と思ったとき、腹に笑いが動いた。たくさん炊いた飯が無駄にならなかったのだから、いいことには違いないけれども……。
「家に帰る途中で、つばめを見たんだよ。あれ、今年の初つばめじゃないのかしら」
「つばめ?」
滝蔵のそっけない返事がした。
「つばめは、だいぶ前から見てるぜ」
「あら、そうなの」
なみは拍子抜けした。そして急にこみ上げて来た笑いがとまらなくなった。けらけらと声を立てて笑った。
「何を笑ってんだい」
お茶漬けに気をそそられて上がりこんだ男が、不思議そうに言った。
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遠ざかる声
一
新海屋の家財の中では、おそらく仏壇がいちばんりっぱではなかろうか。喜左衛門が灯明《とうみよう》をともし線香を焚《た》くと、仏壇は一段と金ピカにかがやいた。
喜左衛門はこのあとのことがあるので、いつもより念入りに般若心経《はんにやしんぎよう》と観音経をとなえてから、さてと改めて仏壇に向き直った。
「こないだ、例の菊本に昼の弁当をつかいに寄ったら、縁談をすすめられたよ」
喜左衛門はそこで言葉を切って耳を澄ましたが、何の物音もしなかった。だが、何かがすぐそばに来ている気配だけはわかった。何かなどと曖昧《あいまい》なことを言っては、あとでがみがみと文句を言われよう。さよう、じきそばにいるのは亡妻のはつである。
咳ばらいをひとつしてから、喜左衛門はあとをつづけた。
「相手は菊本に手伝いに来ている女なんだ。名前はおもんさんというそうだ。なに、素姓ははっきりしている。菊本と同じ町内に弥八|店《だな》というところがある。そこに住んでいる後家さんだよ。齢は二十五で、子供はいない」
喜左衛門は少し言い淀んだが、結局言った。隠したって、先方はお見通しだろうというあきらめた気持がある。
「じつは今日、そのおもんさんに会って来た」
菊本は両国の盛り場に店を出している茶漬屋で、蕎麦《そば》が嫌いな喜左衛門は、まだ古着の行商をしていたころから菊本に立ち寄っていた。古い馴染《なじ》みの店である。
そんなわけで菊本の旦那とおかみは、喜左衛門が女房に死なれて見窄《みすぼ》らしく窶《やつ》れていたころのことも、近年運が向いて来て小体《こてい》ながら太物屋《ふとものや》の店を構えるに至った成行きも万事承知していた。もんを後添いに世話しようとしているのももちろんこの夫婦だが、じつを言うと二人が縁談を持ち出したのは今度がはじめてではない。もんの前に二度も話があったがいずれもまとまらなかった。今度は三度目である。
それで、今日また菊本に呼ばれて引き合わせてもらったわけだが、もんという女は、年増ではあるが美人だった。もっとはっきり言ってもはつが怒らなければ、もんは喜左衛門が予想もしなかった飛切りの美人だったのである。
そのへんのことを、はつが何か聞くかなと思ったが、亡妻は黙っている。それで大胆になった喜左衛門は、もんの浅黒いがなめらかで光るようだった肌や、ととのった目鼻立ち、とりわけ上目遣《うわめづか》いにちょっと笑ってこっちを見たときに目にうかんだ、喜左衛門がぞくりとしたほどの色気などを思い出している。
ああいう色気はあのぐらいの齢にならないと、まず出ては来ないものだろうて、と怪《け》しからぬことを考えながら喜左衛門は、声だけはいたって神妙に亡妻に語りかけた。
「わしもな、おまえに死なれてから十年近くなる。齢も三十七になった。このあたりで身を固めぬことには、四十、五十はあっという間にやって来る。若くて死んだおまえがかわいそうと思わぬではないが、いやなに、何年たってもあわれでならぬが、ほれ、店のこともある。奉公人が五人にふえては、独り身の旦那を通すことはむつかしくなった」
何か、理屈におかしなところがあるか。よしよし、大丈夫だ。少し大げさな言い方もしたが大体はその通りだからな、と喜左衛門は思った。今夜こそは、何としても焼き餅やきのはつを説き伏せなければならない。そうしないと、本当に生涯独り身で過ごさなければならなくなる。
「といったようなわけで、わしは今度の縁談を受けようかと思っている。おまえはどう思う、納得してくれるか」
「ふん、よく言うよ」
それまで黙っていた亡妻のはつが、ひとを小バカにした声を出した。やはり、ちゃんと聞いていたのである。
しかし、つづけて「誰が納得なんかするもんか、ひとをバカにすんじゃないよ」と言った声は、もう怒っていた。生前、はつは気が強くて怒りっぽい女だったが、その気性はあの世に行ってもちっとも変らなかったようである。
ところではつの声だが、さいわいなことにその声は喜左衛門以外の人には聞こえないらしい。たしかめたことはないけれども、これまでの年月の間に一度もまわりに不審を持たれたことはないから、多分そうなんだろうと喜左衛門は思っている。
それはともかく、はつは不機嫌丸出しの声音でしゃべっている。
「おまえがかわいそうだとか、あわれだとかおためごかしを言ってもらいたくないね。なにさ、本音はすっかり鼻の下をのばして、そのもんとかいう女と一緒になりたい一心のくせに。そんなところにあたいを引き合いに出さないでおくれ」
「バカなことを言うもんじゃないよ」
と、喜左衛門は言った。
「おまえは大層な焼き餅やきだからすぐにそういう受け取り方をするけどな、あたしゃ少しも鼻の下なんかのばしていないよ。店もひとがふえて、一人で商いと家の中の両方をみるのは限度が来たと条理をつくして話してるじゃないか。そのあたりをちゃんと聞きわけてもらいたいものだ」
「台所や身の回りのことなら、まささんで間に合ってるじゃないか」
とはつは言った。
まさというのは子連れで新海屋に住みこんでいる寡婦で、齢は三十ぐらい。縫物も出来、料理もうまい有能な婢《はしため》だが、また鼻は上を向き目は軽いやぶにらみ、その上口まで大きいという三拍子そろった醜婦でもあった。
「家の中をみるというのは、そういうことだけじゃないんだ」
喜左衛門は辛抱づよく言った。
「奉公人のめんどうを見、時には亭主にかわって客もあしらい、よそさまとのつき合いに気を配る。そうやって亭主に後顧の憂いをなからしめるのが、家の中をみるということなのだ。まさに出来ることじゃない。はつ、聞いているかね」
「聞いてるよ」
相変らず不機嫌な声で、はつは言った。
喜左衛門の方はいつの間にか金も地位も出来て、それにふさわしい身ごなしやら言葉遣いやらが身にそなわって来たが、はつのしゃべり方は、むかし二人で浅草の場末の裏店《うらだな》に住んだころのままである。
いまとなってはかなり落差を感じないでもないが、はつは貧しい行商の女房として死んだのだから言葉が乱暴でも仕方がない。そういうことは喜左衛門は少しも気にならなかった。というよりも、むしろ気づいて不憫《ふびん》に思うことが多い。さっき、何年たってもあわれでならぬと言ったのも、魂胆あってのやや演技過剰気味の言い方ではあるにしても、まんざら心にもないせりふというわけではなかった。演技の中に真実がふくまれている。
喜左衛門は、なおも噛んでふくめるようにして言った。
「おまえにはわからぬかも知れぬが、男には世間体というものがある。女房もいて子供もいる、そういう男でないと、世間はなかなか信用はせんのだ」
「子供だって。いやらしいね」
はつが合の手をいれたが、喜左衛門は相手にせずにつづけた。
「そういうことだよ。な、わかってくれ。世間に侮《あなど》られては商いはやって行けぬ」
はつは沈黙した。さては、おれの掲げる大義名分の前に、さすがのはつも降参したかなと思ったとき、はつはずばりと喜左衛門の一番の弱みを衝《つ》いて来た。
「自分だけしあわせになろうたって、そうは問屋がおろすもんか」
「そうかい。それでまた、じゃまをする気かね」
と喜左衛門は言った。穏やかに言ったつもりだったが、さすがに声がこころもち固くなった。それを言われては話にならない。
「じゃま? 何のことさ。あたいは一度もじゃまなんかしていないよ。変な言いがかりをつけないでよ」
「ごまかすのはよしなさい。何度かいい縁談もあったが、ひとつもまとまらなかったのはおまえのせいさ。そのぐらいのことはあたしにだってわかってるんだ」
棒手振《ぼてふ》りに毛の生えたような行商で、しかも女房に死なれた貧しい男やもめ。そんな男にも、ありがたいことに再婚話を持ちこんで来るひとはいて、いまはつに言ったように、何度か縁談があった。心配してくれたのは茶漬屋の夫婦だけではない。
そして中には、双方ともに申し分なく釣り合った縁談もあったのに、結局はひとつもまとまらなかった。おかしいなという気持はだいぶ前からあったのだが、喜左衛門がはっきりとそのわけを知ったのはごく近年、二、三年前になってからである。
「あんたとの話が持ち上がってから、若いきれいな女房が夢枕に立つと言うんだよ、先方の娘さんがね。毎晩というわけじゃなくて、時どきらしいけれども。しかしいままでそんなことは一度もなかったし、時どきにしてもとても気味がわるいと。そう言われると、あたしとしてもちょっとすすめ辛くてね」
縁組みの世話を焼いた男はそう言い、喜左衛門をじっと見た。喜左衛門はまさかと言ってにが笑いしたが、二人とも腹の中では、夢枕に立ったのは亡妻のはつに違いないと思っていたのである。
「あたしはね」
と、喜左衛門ははつに言った。
「どうも再婚話がまとまらなかったのはそういうわけかと、そのときはずいぶん腹が立ったが、それでもおまえに、そのことに気づいたとは言わなかった。かわいそうにこの世にまだそんなに未練があるのかと、あわれに思ったからだよ。その年の祥月命日《しようつきめいにち》には、法源寺の和尚さんにお布施をはずんで、とりわけ丁寧《ていねい》に供養してもらったのをおまえも忘れたわけじゃあるまい。それともおまえのことだ、けろりと忘れたかね」
「………」
「そういうことはまったく知らんぷりでだ、あくまで話のじゃまをするというなら、あたしにだって覚悟があるよ、はつ」
「全部が全部じゃましたわけじゃないよ」
旗色がわるくなったはつは、ややしおれた声を出した。
「ひとの好いあんたが変な女に引っかかりそうになったから、気をつけなって言ってやったことだってあるじゃないか」
「たしかにそういうこともあったが、それはたったの二度……」
と喜左衛門は言った。
「あとはのこらず、おまえがじゃまをいれてだめにしたんだ。おまえの言うとおりだ。あたしはほんとにおひと好しだよ。年月経ればやがてはおまえの焼き餅もおさまって、ちょっかいを出すのもやめるだろうとのんびり構えていたのだからね」
「………」
「ところが、おまえのさっきの言いぐさを聞けばどうだ。一人だけしあわせになろうたって、そうは問屋がおろさないだって? よくも恥ずかしくもなくそんなことが言えたもんだ。それじゃ脅迫だよ、はつ。そういうことを言われちゃ、あたしだって甘い顔ばかりもしていられないね」
「………」
「大体おまえは、これまで何を見て来たんだね。ここまで来るには、あたしは死にもの狂いで働いたのだ。娑婆は苦の種、決して鼻歌まじりでたのしくやって来たわけじゃない。しかしながら生きてる者には生きてる者の勤めがある。おまえが死んだときにな、あたしゃこう思ったよ。このまま行商で終っちゃ、おれもかわいそうだが、おまえもかわいそうだとな。そう思ってがんばったじゃないか」
「………」
「さいわいに運にめぐまれて商人のはしくれに加わり、おまえの墓も建てられたし、供養もちゃんと出来るようになった。ここらで少しは気をゆるめて、ひとなみに安気に暮らしたいと思うのが、そんなに悪いことかね」
「でも……」
とはつが言った。
「もんというひとは悪い女だからね。よく調べるといいよ」
「その差し出口がうるさいと言うんだよ、おまえは」
喜左衛門は、とうとう辛抱が切れてどなりつけた。いま乗り気になっている話にケチをつけられたのもおもしろくなかったが、一所懸命に説いて聞かせているのに、まるでひとつも聞いていなかったようにけろりとしてそんな口出しをするはつに、心底腹を立てていた。
「おめえの世話にはならねえと言っているのに、まだわからねえのか、このおたんこなす」
一度|箍《たが》がはずれてしまうと怒りはとめどがなくなって、喜左衛門はむかし、裏店で派手にやった夫婦喧嘩の気合まで取りもどしてはつを罵《ののし》った。
「おれにむかって二度と指図がましいことを言うな。てめえ、自分を何さまだと思ってるんだ」
「………」
「大体が、だ。亡者《もうじや》の身分でいつまでおれの周りをうろちょろするつもりだ。甘ったれるのもいい加減にしたらよかろうぜ。わかったか、わかったらとっとと失せろ、すべため」
わめいているうちに、喜左衛門はうしろにひとの気配がするのに気づいた。振りむくと部屋の外の板の間に婢のまさが坐っていた。主人を見るまさの目に恐怖のいろがうかんでいる。喜左衛門の異様なひとり言を聞いてしまったのはあきらかだった。
喜左衛門は不機嫌に言った。
「障子をあけるときは、声をかけるものだ」
「はい、でもご返事がなかったものですから」
「何か用かね、まさ」
「あの、ご用がなければ休ませていただきますが……」
「熱いお茶を一杯もらおうか。そうしたらあとは寝ていいよ」
かしこまりました、と言ってまさは障子をしめると逃げるように立って行った。
──ふん、びっくりしたらしいな。
と喜左衛門は思った。はつはどうした、と耳を澄ましたがそっちの気配も消えていた。喜左衛門の思いがけない剣幕に、はつもびっくりして退散したようである。
二
茶漬屋の手伝い女もんとの再婚話は順調にすすんで、季節が夏に踏みこんだころには祝言、といってもごく内輪の盃ごとだが、それも今年の秋にはという段取りがまとまった。
話がすすむ間に、もんは二度新海屋をたずねて来た。来るとすぐに挨拶より先に先妻がおさまっている仏壇に線香を上げ、二度目に来たときは店の奉公人におやつの煎餅まで買って来るという如才のなさだった。見てくれはよし愛想はよしで、もんははやくも新海屋の奉公人たちの気持を引付けてしまったようにも見えた。
再婚相手のこうした気さくな振る舞いは、喜左衛門にとっても喜ぶべきものだったが、しかしそれで大満足かというとそうでもなくて、喜左衛門はそのころになって、どういうわけかはつが言い残したもんは悪い女だからねというせりふが、妙に胸にひっかかるようになったのである。なに、ただの焼き餅の捨てぜりふさと思ったが、それだけでは気持が落ちつかなかった。
それで喜左衛門は、暑い一日の夕方に店をのぞきに来た参次という下っ引をつかまえて、もんのことを相談してみた。
「ようがすよ、いまひまですから。なに、そのぐらいの調べならわけありませんや」
まかせてくれと参次は胸をたたいたが、そこでのび上がって帳場の中にいる喜左衛門に顔を寄せると、少し金がかかりますぜとささやいた。
参次の本業は羅宇屋《ラオや》で、煙管《きせる》と煙草を詰めた箱を背負って町を売り歩くのが商売だが、それだけでは喰うことは出来ても遊ぶ金までは出ない。それで、小遣い稼ぎに本所で二ツ目の親分と呼ばれている岡っ引の仕事を手伝っていた。二ツ目の親分こと岡っ引の辰蔵がくれる手当ては微微たるものだが、親分の目をかすめて馴染みの店をつくり、何か用はありませんかいとひと回りして袖に入れてもらう金がバカにならなかった。けっこう遊びの資金ぐらいにはなる。
そして小遣いをやる店の方でも、岡っ引を頼むほどの事件ではなくとも、ちょっとした調べごとなどで参次のような男を重宝にすることがあった。それで釣り合いがとれていた。
参次は若くて遊びたい盛りである。そこで時どき小遣いをもらいに現われるけれども、たちの悪い男ではなかった。そのあたりは喜左衛門も万事承知で、話を持ち出しているのである。
「いくらかかりますかな」
「そうさなあ」
参次は首をひねった。
「縄張りが違いますんでね。あっしが探りをいれるとなると、向うの連中に仁義を通さねえといけません。それに……」
一人で無理なところは、向う側で顔見知りの下っ引を頼まなきゃならないが、それにもまた金がかかる、と参次は言った。
「それにあっしの駄賃をいれますと、ちょっと二分ではおさまりそうもありません」
「すると、しめていくらぐらいになりますかな」
「三分頂けば御の字ですが、それじゃ高えとおっしゃるなら二分と五百でも……」
こういうところが参次が旦那方に信用されている理由だった。小遣いも仕事の報酬も遠慮なくもらうが、決してむさぼらない。その方が長続きすると、参次なりに考えているのかも知れないが、もしそうだとすれば参次はなかなかの利口者というべきだった。
いいですよ、参次さんと喜左衛門は言った。
「それではこのたびはね、奮発して一両さし上げましょう。そのかわりに丁寧なお調べを頼みます」
駄賃の方はそれで手を打って、参次に調べをまかせてしまうと喜左衛門はほっとした。その安心感からか、参次に相談をかける前の気がかりそのものまでが急にうすれてしまって、喜左衛門は、なに、調べたところで何かが出て来る気遣いもあるまい、などと、さほど根拠もない楽観的な気分に浸ったりしたのだった。
しかしじきにまた顔を見せるかと思った参次は、前金で駄賃をもらった翌日からぷっつりと消息を絶ってしまった。つぎに喜左衛門の前に現われたのは半月どころか二十日近くにもなろうという、ある暑い日の夕暮れだった。
「いやはや、外は暑くて死にそうですよ」
「家の中だって似たようなものです。夜になっても暑さがさほどひかないのがこたえますな」
喜左衛門は言いながら参次をじっと見た。
「ずいぶん長くおみえにならなかったですな、参次さん」
「ええ、存外に手間取りましたもので……」
「なにか、ほかにいそがしいことでもありましたか」
「いーえ、ずっと旦那に頼まれたことを調べてましたんでさ」
「あ、そうですか。なるほど」
喜左衛門は少し間が抜けたような返事をしたが、そのとき一瞬いやな感じのものが胸を横切るのを感じた。
はたして、参次は土間から畳に膝でにじり上がって来てささやいた。
「やっと突きとめました。失礼ですが、あのひとはおやめになった方がいいですよ。大層悪い虫がついています」
「なるほど、ほう」
喜左衛門は顔を上げて店の中を見た。店の中はほの暗くなって、その中で手代の芳蔵と三人の小僧がいそがしく立ち働いていた。番頭は今日は休みだった。
「芳蔵、明日の支度はほどほどにして奥に引き揚げていいよ。幸助、表の戸をしめなさい。それが終ったら、あたしはこのひとと話があるから、まさに言ってお茶と火種を持って来させなさい」
さあ、それではうかがいましょうかと喜左衛門が言うと、参次はこれまでの探索のあらましを話し出した。参次はやはり一人では手がとどかず、両国の下っ引を頼んだそうである。裏店の聞きこみをはじめると間もなく、一人の男がうかんで来たが、それはもんの身内だった。ほかに、もんのまわりに男っ気はないように見えた。
この話の間に奥からまさが出て来て、手早く行燈《あんどん》に灯をいれ主人と客にお茶を出して引き下がった。
「ところがその男が、やっぱり情夫でした。死んだ亭主の弟という触れこみで時どきたずねて来てはいたけれども、来てもすぐに帰るし、むろん一度も泊ったことなどないもんで、裏店の者は情夫とは思ってもみなかったようですけどね」
数日前に、参次はついにもんがその若い男と昼日中から小網町の船宿にシケこむところを突きとめた。二人は船宿に入ると半日も出て来なかったそうである。その話を聞いて、喜左衛門の胸はだまされたくやしさよりも、年甲斐もない嫉妬でいっぱいになった。
「ところで、聞きにくいことをお聞きしますけどね」
もう店の者は奥に引き揚げて、その必要もないのに参次は声をひそめた。
「旦那はその女子《おなご》と、もう何度か寝てますか」
「いや、いや、いや……」
ずばりと斬りこまれて喜左衛門は狼狽し、顔を赤くしながら手を振った。
「あたしはそっちの方はわりと不器用でね。そのひとと寝たことはありません。いまとなっては、どうも残念なことをしましたがね」
だが参次は、喜左衛門のおもしろくもない冗談口などまったく相手にしなかった。まじめくさった顔で念を押した。
「一度も?」
「ええ、一度も」
「でも、手ぐらいはにぎったことがあるんじゃないですか」
「………」
少し考えてから、喜左衛門はそれはあると言った。菊本で飲んで、酔いにまかせて酌取りのもんの手をにぎったことがあるのを思い出していた。白くて、なめらかな指だった。
そしてそのときは、手を下にのばしてついでにもんの丸い膝小僧もなでてしまったのだが、参次にはとてもそこまでは言えなかった。
「たった一度ですがね。いけませんでしたかな」
「それは、今度の話が持ち上がってからですね」
「もちろんです。あたしゃやたらにひとの手をにぎったりはしませんよ。そうですなあ、つい最近、ひと月ほど前じゃなかったでしょうか」
「一度だけ、手をにぎったと……」
参次は四十男のような分別くさい顔になってじっと考えこんだ。その様子は喜左衛門を不安にした。やっぱり膝小僧のことも言った方がいいだろうかと思ったとき、参次が顔を上げた。
「そのおもんさんの男ですがね。その後調べたところによると信夫《しのぶ》の忠吉というやくざ者でした。女をネタにした脅しで喰っている男なんです」
喜左衛門はふるえ上がった。ついさっきまでの少しうわついた気分は一瞬の間に掻き消えて、恐怖に胸が固くなるのを感じた。当面、考えられる心配がひとつある。
「それじゃ、縁談をことわったときにはその、信夫の何とかという男が因縁をつけて来るのでしょうか」
「それですが、まず五分五分かなあ」
と参次は言った。
「寝てしまったんじゃ、当然乗りこんで来て大金をしぼりにかかるでしょうが、酔っぱらって手をにぎったぐらいじゃどうですかね」
「参次さん、じつは……」
喜左衛門は言い淀んだが、ついに言った。
「手をにぎったときに、ついあれの膝小僧もさわってしまったんですがね。なにせ、あたしゃ酔ってましたから。これ、やっぱりいけなかったでしょうか」
「同じことですよ、旦那。境目は女と寝たか寝ないかです」
参次はあわれむように喜左衛門を見た。
「ほかに、何か隠していることはないですか」
「いいえ、これで全部です」
「それだけなら大したことはないでしょう。でもむこうはね、脅しで飯を喰っている男です。用心するに越したことはないと思いますよ」
「どうしたらいいですか」
「縁談をことわったあと、忠吉にそなえて誰か、頼りになるひとにしばらくここにいてもらうといいのですがね。やつが来たら金でケリをつけるのが一番ですが、それにしても旦那やお店のひとじゃ、とてもあいつとは太刀打ち出来ませんよ、しっかりした立ち合い人がいないと。誰かこの、押しがきくような知り合いはいませんかね」
「参次さんはだめですか」
「あたしの役目はここまででしょうなあ。事件が起きたわけでもないのに、夜昼かまわず下っ引がお店に詰めるのも妙なもんでしょうからね」
「ごもっともです」
礼金をもう一分包んで参次を送り出すと、喜左衛門は潜《くぐ》り戸《ど》をしめて帳場にもどった。
行燈の灯が、自分だけしかいないがらんとした店の内を照らしているのを心細く眺めながら、喜左衛門は参次が言い残したことを考えつづけた。そしてとうとうむかし裏店で懇意にした浪人者、井筒勘兵衛を思い出したのは、いつまでも奥に入らない主人を心配したまさが、店に様子を見に来たときだった。
喜左衛門はうれしくなって、まさが何も知らないのを承知で言った。
「もう、心配はいらないよ、まさ。たったいま、上等の用心棒が見つかったよ」
三
明け方に夜具の外に出しておいた両腕が氷のようにつめたくなり、五体がまったく動かなくなった。思わず恐怖の声を立てたが、喉がひゅうひゅういうだけで声にならない。
そこで喜左衛門は目ざめた。しばらく喘《あえ》いで呼吸を静めてから言った。
「おい、いたずらをするんじゃないぞ、はつ」
すると手足にいつもの感触がもどって来て、はつの声が聞こえた。
「もんとかいうひとのこと、あたしが言ったとおりだったじゃないか」
「うむ、面目《めんぼく》ない。さぞ、おまえは大笑いしただろうな」
「人間だから間違いはあるよ。あまり気にしない方がいいね」
はつは機嫌のいい声で言った。またしても縁談がつぶれて大満足なのだろう。
「でもうまく片づいてよかったじゃないのさ。勘兵衛さんなんか頼んじゃって」
「あれは助かったよ」
井筒勘兵衛は、妻女と二人で年中|提灯張《ちようちんは》り、団扇張《うちわは》りに精出し、それで糊口《ここう》をしのいでいる浪人者だが、身体が大きい上に黒黒とした髭をたくわえて、とても裏店の住人には見えない押し出しのりっぱな男だった。齢は喜左衛門より少し上で、四十前後だろう。
あごと宿つきで、立ち合い料は五両という話に、勘兵衛は大喜びで新海屋にやって来たが、結果的には喜左衛門はそれで救われたのである。
参次が言ったとおり、やはり忠吉は新海屋に乗りこんで来たが、色白の美男顔なのに目にただならない険がある男だった。そして巧みに喜左衛門を脅した。女を使って喜左衛門を罠《わな》にかけようとしたことはおくびにも出さず、喜左衛門の方が自分の女に手を出したような言い方をした。
しかも忠吉は、奥に上がってくれという喜左衛門の懇願を無視して、十両出さなきゃここは一歩も動かねえと大声で店の中でわめくので、喜左衛門は身の縮む思いをした。時刻はまだ七ツ(午後四時)前で、何ごとかと店の前にひとがあつまりはじめていた。そのとき、奥から勘兵衛が出て来たのである。
勘兵衛は店を横切って忠吉に近づくと、無言のまま腕をつかんで忠吉を店の中に引きずり上げた。怪力だった。忠吉は勘兵衛の手を振りほどいた。そして機敏に懐に手を突っこんだ。匕首《あいくち》を抜く気だったろう。だが、こころもち腰を落として身構えた勘兵衛が声をかけた。
「抜いてみろ、貴様、死ぬぞ」
そう言った勘兵衛の顔と声音には、長年交際した喜左衛門もたじろいだほどの険しい殺気のようなものが現われ、忠吉なんかは金縛りにあったようになってしまった。おとなしく奥に入り、言い値の半分にも足りない三両の金をもらってこそこそと帰って行った。
「ま、ともかく……」
と喜左衛門は言った。
「女子はもう懲《こ》り懲《ご》りだ」
「そうも言っていられないだろ。あんただってもうじき四十だもの」
「何だい、それは。前とはずいぶん風向きが変ったじゃないか」
「べつに。あたいはあんたが所帯を持つのに反対してるんじゃないよ。ただあんたのうわついた高望みが嫌いさ。若い女とか、顔のきれいなのとかはもういい加減にしなよ」
「だから女はもういいって言ってるじゃないか」
「そうやけにならないで、もっとまわりを見回してみたら」
「何のことだね」
「おまささんなんかはどうかと言ってるの。鈍いね」
「ばからしい」
「どうしてさ。そりゃたしかにあのひとは不器量ではあるけれども、女にしては背丈があって見ばえがするよ。それに気持はやさしいし、よく働くし、それからほら、前に奉公したところが大きな店だったから物腰ってえの? それとか口のきき方なんかも品があるじゃないか」
「………」
「おまささんなら仏さんだって、つまりあたいのことだけどね、きっと大事にしてくれるとにらんだね」
へえ、そうかねと喜左衛門はにが笑いした。いろいろ並べ立てているが、要するに焼き餅やきのはつが、後釜が不器量なまさなら、まあ、腹も立たないと思っていることが見え見えだったからである。
しかし言われてみれば、いろいろ思いあたるところはあった。と言っても、それだからまさに気持が動いたというわけではない。うれしいことはちっともなかった。
半ば他人ごとのように、喜左衛門は言った。
「でも、子供がいるしなあ」
「いいじゃないの、まだ小さいんだから。この家に来て育ったようなものじゃないか。おまささんなら、あたいは不服はないよ。安心しておまえさんをまかせられるよ」
「それがよけいなお世話だと言うんだよ」
喜左衛門は声を荒らげて、身体を起こした。
夜はすっかり明けて、秋めいた日射しが障子を照らしていた。その明るみに顔をむけながら、喜左衛門は死んだ女房がうるさくてゆっくり寝てもいられないね、とどなった。
奉公人をあつめて、じつはまさを家の女房に直そうと思うのだがと切り出したとき、喜左衛門はかなり気はずかしい思いをした。
それというのも店の者は口にこそ出さね、主人の再婚話がつぎつぎに壊れてひとつもまとまらないことをよく承知しているはずで、ここでまさとの縁組みを披露したら、まず間違いなく、主人もとうとう降参してまさのような醜婦で我慢することにしたかと憐れまれるに違いないと思ったからである。
ところが案に相違して、話が終るやいなや喜左衛門のまったく予期しない反応が起きた。奉公人たちは口ぐちにおめでとうございますと縁組みを祝福し、その顔には口先だけでない喜びと安堵のいろがうかんでいたのである。
その上番頭の藤助はこんなことまで言った。
「あたくしどもはずっと以前から、旦那さまも外の女子になど目をくれずに、おまささんをおかみさんになさればいいのにと話しておりました。僭越《せんえつ》な言い方でございますけれども、いいおかみさんが決まってお店はこれで安泰、あたくしども奉公人もしあわせでございますよ」
新しく夫婦になる二人と店の者、それに藤助の女房だけの簡素な盃ごとが終った夜も、まさは台所の片づけに立ち、はじめて一緒の夜を過ごす夫婦の寝間に入って来たのは五ツ半(午後九時)ごろだった。
まさは行燈の灯を消してから、暗い中で着換えた。部屋の外に、沢山の虫の声がした。
「疲れたかね」
まさが夜具に入った気配をたしかめてから、喜左衛門は声をかけた。はい、とまさが言った。まさの声はやわらかくてきれいで、暗やみで聞くとそばにどんな美人が寝ているかと思うほどである。
「やっぱり、気疲れがしました」
「そうだろうとも」
喜左衛門は言いながら起き上がった。喜左衛門も疲れていて、早早に亭主の勤めをはたして眠りたい気分だった。にじり寄ると、夜具をめくってまさの身体《からだ》に手をのばした。帯を抜き取るとき、まさは少し身をよじり、ため息のような声を洩らした。
喜左衛門はまさの胸をあけて、乳房に手をのばした。指はすぐに乳房に触れ、触れられたものは気持よく弾んだ。
──おや。
と喜左衛門は思った。乳房はまるで絹のようななめらかな手触りを伝えて来る。その上大きからず小さからず、じつに形のいい乳房だった。喜左衛門はもうひとつの乳房にも手をのばした。
まさが小さな声を立てた。そして突然に、喜左衛門はえもいわれぬ芳香に包まれていた。
──おや、まあ、これは。
喜左衛門は呆然とし、つぎにあわただしくまさの身体を手でさぐった。形よくくびれた腹、それにつづく太い腰。間違いがなかった。喜左衛門がいまから抱こうとしているのは、稀有《けう》な魅力をたたえる女体である。こんないい身体をした女は、そう沢山はいるもんじゃない。
まさは小さな喘ぎ声を洩らし、芳香はいっそう強くなった。喜左衛門の胸に、予想もしなかった幸福感が入りこんで来た。そしてそれはみるみるふくれ上がって来る。
そのとき喜左衛門は、誰かがくすくす笑っている声を聞いた。顔を上げるまでもなかった。笑っているのははつである。醜女《しこめ》のまさをちゃんと女房にしたかどうか、見とどけに来たに違いない。
いま二人を包んでいる幸福感を、はつに気づかれてはならなかった。気づいたら最後、はつは必ずまた焼き餅をやきはじめるだろう。はつの目から隠すように、喜左衛門はまさのりっぱな身体に覆いかぶさった。まさがしがみついて来た。
「旦那さま」
「シーッ、黙りなさい」
喜左衛門の耳に、爆発する笑い声が聞こえた。男のように闊達《かつたつ》なその笑い声は、はつの機嫌のいいときの笑い癖である。上機嫌の笑い声はだんだん遠くなり、やがてぷっつりと消えた。そのあとに来た空虚感に一瞬物がなしさを誘われたが、喜左衛門の心はすぐに現実にもどった。
闇の中の幸福感は、どうやらさとられずに済んだようである。
──だが、はたして……。
これでほんとにおしまいかと疑いながら、喜左衛門はまさを掻き抱き、額に汗をうかべたままじっと闇を見つめている。
初出誌
夜消える 「週刊小説」昭和五八年一月一四日号
にがい再会 「週刊小説」昭和六一年一月一〇日号
永代橋 「週刊小説」昭和六二年二月二〇日号
踊る手 「週刊小説」昭和六三年二月一九日号
消息 「週刊小説」平成元年二月一七日号
初つばめ 「週刊小説」平成二年三月三〇日号
遠ざかる声 「小説宝石」平成二年一〇月号
〈底 本〉文春文庫 平成六年三月十日刊