[#表紙(表紙.jpg)]
藤沢周平
回 天 の 門
目 次
遊 蕩 児
旅 絵 師
色 町 の 秋
出 奔
定 め な く
北辰一刀流
江戸清河塾
めぐり逢い
遠 い 嵐
淡 路 坂
大 転 回
土 蔵 の 中
男 の 首
逃 避 行
妻 恋 い
星 ノ 湯 宿
風 雲 の 時
伏見寺田屋
東 方 の 策
浪士組西へ
勅 諚 一 件
麻布一ノ橋
あとがき
[#改ページ]
遊 蕩 児
一
羽州田川郡清川の舟着き場に、酒田から最上川を遡《さかのぼ》って来た舟が着いた。
だがそこで舟から陸に上がった人影は少なかった。三、四人である。舟着き場から土堤上の道までは、ゆるやかなのぼりになっている。日が照らしているその傾斜道をのぼって行く人影の一番尻に、大柄な少年がいた。
眼と眉のあたりに、勝気な気性が出ている顔には、まだ少年の面影が残っているが、骨格の方はのびのびとしてたくましく、若者と呼んでもいい身体つきをした少年だった。
だが少年は、どこか屈託ありげな、重い足どりで土堤をのぼっていた。少年が土堤の上の道に立ったとき、一緒に舟を降りた人たちはもう土堤を反対側に降りて、そこにのびている道を、左右に別れて立ち去るところだった。
少年は、土堤下にひろがる清川村の素封家斎藤家の長男で、名は斎藤元司。十年後に清川八郎と名乗ることになる人物である。
元司は土堤にあがると、振りむいていま降りてきた舟を眺めた。最上川をさらに遡行《そこう》して、隣藩新庄領の清水まで行くその舟には、また新しい客が乗りこむところだった。
羽州田川郡清川村。そう呼ばれる最上川べりのこの土地は、十四万石酒井家が支配する庄内領の咽喉《いんこう》部にあたっていた。江戸あるいは仙台、羽州内陸諸藩と庄内領をつなぎ、もっとも多く人と物資が通過する場所で、藩はここに関所を置いていた。
江戸に行く道は、ほかに六十里越えてから出羽街道に出る大網口、海辺を新潟に出る鼠ヶ関口、海岸通りと、ほぼ平行する形で山中を新潟に抜ける小国口があるが、いずれも途中険しい峠路を含み、最上川の舟運をそなえた清川口の便利さにかなわない。藩主の参覲《さんきん》の行列も、鶴ヶ岡城下からここまで来て舟を仕立て、清水から出羽街道に上がって江戸にむかうのである。
咽喉部という形容は、地形の上からもそう言えた。置賜、村山の平野を北上する最上川は、新庄領に至って、急に向きを西に変えて、羽州を二つに分ける山脈を横断する。左右は切りたつ断崖が続き、川は底深く、波は荒れる。
清川村は、最上川が断崖の間をくぐりぬけ、漸《ようや》くゆるやかな水勢をとりもどす場所にあった。川はそこでふたたび、ひろがる平野を見る。そこが庄内領であった。川はそのまま平野を流れ、にぎやかな港町酒田に達して、海に入る。
元司はいま、酒田から来たところだった。昨日の夕方酒田に行き、今町の遊廓で遊んで、いま戻ってきたのだ。時刻は昼近いが、つまりは朝帰りだった。
元司は、まだぼんやり舟を見ている。舟着き場には、乗ってきた舟のほかに、十|艘《そう》近い舟がとまっていた。舟の上にも岸にも人がいて、いそがしげに身動きしている。そして川の中流を、帆をおろした下りの荷舟が続いて二艘、ゆっくり流れくだって行くところだった。半裸の胸を日にさらした船頭が、長い竿を操っている。
乗ってきた舟が、客を乗せおわり、再び帆をあげて中流に漕ぎ出して行った。その姿が、新緑の山にはさまれた川の奥に消えてゆくのを見送ってから、元司は漸く村の方に歩き出した。
元司は、一見して十七、八に見えるが、まだ十四だった。十四の元司の廓《くるわ》通いに、家の者はうすうす気づいている様子だったが、まだ何も言っていない。だが、今日ははげしく叱責されそうだった。ゆうべ無断で泊ったことで、言訳の道を断たれている。元司は気が重かった。
村の入口で、元司は不意に道に出てきた男と顔をあわせた。あの男だった。男は、十二、三の痩せて顔色の悪い娘と一緒で、二人とも籠に入れた稲の苗を背負っていた。男は元司と会うときいつもそうするように、顔をそむけて通り過ぎた。
二
男は顔をそむけたまま道を横切り、広い田の方に降りて行った。村の素封家斎藤家の跡取りである元司と出会って、頭もさげないのは、村の中でその男一人だった。
むろんその理由を、元司は知っている。男が自分を敵視しているのはもっともだと思っていた。ほかにも、ひそかに自分を快く思っていない人間が、村の中には大勢いるはずだった。
ほかの者は、その感情を表に出さなかった。元司をみると声をかけ、挨拶する。だがその男は、会えばいまのように敵意をむき出しにした。男にはそうする理由がある。
だがそういうとき、元司は負けてたまるかという気になった。男の敵意をはじき返してやる気になる。
いまも元司は、立ちどまるとふんばるように足を開き、真直ぐに男をみつめた。だが男は一度も元司の方を振りむかなかった。そうすることで敵意を示していた。娘の方は、顔が合ったときちらと元司を見あげ、軽く頭をさげたが、それだけで後は父親の陰にかくれるようにして遠ざかって行った。
その娘とは、小さいころも遊んだことがなかったのを元司は思い出していた。恐らく男は、娘が小さいころから、元司に近づくことを禁じたに違いなかった。
水を張った田の上を、さわやかな四月の光が照らし、遠くに田植をしているひとかたまりの人がみえた。背負った苗籠の上から男の白髪頭と、手拭いをかぶった娘の頭がみえ、その後姿が次第に小さくなるのを見送ってから、元司はまた歩き出した。男に会ったために、気分が一そう重くなったようだった。
家に戻ると、元司は横手の木戸口を押して庭に入った。すると、ちょうどそのとき表の方から庭に回ってきた喜之助という雇人に見つかった。
「若旦那さま、いま帰《けえ》って来たか」
喜之助が話しかけるのに、元司はしっと言った。
「黙ってろ」
元司は自分の部屋の下まで来ると、窓障子を開けて、すばやく部屋に這い上がった。
元司の家は、清川村とその近村に四百石の田地を持つ豪農としても知られているが、本業は代代大きな酒屋だった。自分の家で造り、小売りする。駅路の要衝にある酒屋は、関所を通過する旅人、最上川を上下する舟の船頭など、酒をもとめる客で終日混雑する。朝は明けの七ツ(午前四時)ごろから客があり、夜も四ツ(午後十時)まで店を閉めることが出来なかった。小売りもするが、醸造の石数は、領内の酒屋の中でもっとも多いと言われている。
元司は部屋の畳の上にひっくり返っていた。店先の喧騒も、ここまでは聞こえて来ない。
「あら、お兄さん」
不意に襖《ふすま》が開いて、妹の辰代の声がした。
「いつの間に帰っていらしたんですか。お母さまが心配してましたよ」
「おじいさまはどうしている?」
寝ころがって天井を見ながら、元司は祖父の昌義のことを聞いた。
「寝たまま人にものをおっしゃるなんてお行儀が悪いこと」
「………」
元司は顔を回して辰代を見た。辰代は襖ぎわにきっちり坐って、膝に手を置き、非難するように元司を見つめている。血色のいい頬がふくらんで、まだ童顔だが、辰代は母の亀代に似て、万事きちんとしたことを好む性格だった。辰代は、元司より二つ年下である。
仕方なく元司は起き上がった。
「おじいさまは?」
「いま、お客さま」
「どなたが来てる?」
「関所の畑田さまよ」
「これはいけねえ」
と元司は呟《つぶや》いた。
畑田安右エ門は、関所の役人を勤める給人だが、漢学の素養が深く、斎藤家では畑田に元司の教育を頼んでいた。頼んだのは、畑田が赴任してきた先月のことだが、元司はまだ一度も畑田を訪ねていなかった。のみならず悪所通いをはじめている。
「お父さまもご一緒か」
「いいえ、お父さまは鶴ヶ岡にご用で行きました。お出かけのとき、お兄さまが帰ったら一歩も外へ出すな、とお母さまにきつくおっしゃってましたよ。いったい、どこへ行ってらしたんですか?」
「………」
元司はそっぽを向いた。答えようがなかった。
「ともかく、お母さまに言ってきます」
辰代は勢いよく立ち上がった。元司が、おいちょっと待て、と言ったが、振り返らずに襖を閉めて去った。元司はぼんやりと襖を見つめたが、不意に立ちあがると障子をあけ、猿のように窓から外に飛び降りた。
息を切らして、元司は村の中の道を走った。田植どきで、村の者はあらかた田に出ているとみえて、行きあう者もいなかった。ある家の垣根の中で、庭の草むしりをしていた老婆が、走りすぎる元司をみて、驚いたように腰をのばして見送っただけである。
村を走りすぎ、元司は立谷沢川の河原に走り込むと、倒れるように河原の砂礫《されき》の間に坐った。
明るい日射しが、河原のところどころにかたまっている疎らな灌木を照らし、川はそこから見える場所で、最上川に落ちこんでいた。二つの川が遭うあたりに、小さな波が立ち、波も白く日にかがやいて見えた。
──おれは、遊蕩児だ。
身体をのばして、仰むけに河原に寝ながら、元司はそう思った。顔の上に、青い空がひろがっていた。空の中に、今朝別れてきた廓の女の白い顔が明滅した。また来て、といって指を絡めた女は、元司を十七だと信じていた。
──おれは、斎藤の後継ぎにはなれぬ。
元司はそうも思った。それは元司の脳裏に、時おり浮かんでくる考えだった。
斎藤家は、鎌倉時代にいまの土地に住みついたと言われる古い家で、徳川の初期、元和のころにはすでに酒造りをはじめていた。
当主は代代治兵衛を襲名するならわしで、いまの当主は、元司の祖父治兵衛昌義だった。昌義は、家業を盛んにする一方、寿楽堂と名づける自分用の書斎を庭に建て、家業のかたわら和漢の書に親しむ教養人でもあった。一見して長者の風格をそなえ、村人に敬愛されていたが、藩のおぼえもよく、六人扶持をあたえられている。
父の豪寿は三十二ですでに家業の中心になって働いていた。昼は使用人と一緒に仕事に精出すが、父親の昌義に似て書物好きだった。夜は読書に励み、書を習って倦《あ》きることがない。荘内藩の支藩松山領にいる俳人村田柳支について俳諧を学び、柳眉と名乗る風流人でもあった。
祖父も父も、立派な人間だった。家業を守りながら、ただの商売人に堕することなく、広い教養を身につけ、趣味が広かった。二人とも文人墨客を愛し、立ち寄るものがあれば快くもてなした。斎藤家では、客のために楽水楼と名づける一屋を屋敷の後方に建てていた。
祖父や、父のようにはなれない、と元司は時どき思う。鶴ヶ岡城下の清水塾に学んで、そこを破門されたときにそう思った。そのとき元司は伊達鴨蔵塾にも学び、そこではうまくいっていたのであるが、清水塾を破門されると、そちらもいやになって家に帰っている。
今度の酒田の廓遊びでもそう思った。女と遊んでいるときの元司は、放蕩のドラ息子だった。十七と偽って女を抱いた。そうしていながら、温厚な常識人である祖父や父が、このことを知ったらどう言うだろうと思うと、心が暗くなった。
そして元司が、もっとも痛切に、おれはこの家の後継ぎにはなれないだろう、と思うのは、家業に愛着を持てない自分に思い至るときだった。父の豪寿は、唐詩選全巻を諳《そら》んじている教養人だったが、仕事となると前垂れをしめ、奉公人の先に立って店に出る。
元司は、自分が父のように出来るとは思えなかった。店を手伝ったことは一度もなかった。酒をもとめて集まる客がうとましく、店頭で酔い、罵《ののし》り喚いている船頭は醜かった。
それではどうしたいかと問われても、元司にはわからない。自由をうばわれて、閉じこめられているような漠然とした不満があり、出口をもとめて荒れ狂うものが、心の中に棲みついているのを感じるだけである。そのものが、塾の師清水郡治を激怒させ、いまは酒田今町の廓の女にむけて、節度もなく自分を押し流す。
──おれはもともと、なみの人間のようにはなれぬ。
元司は手をのばして引き抜いた草の葉を噛んだ。さっき道で会った白髪の男を思い出していた。四つのとき村に事件が起き、元司のひと言で十五人の男が処刑された。白髪の男は、ただ一人の生き残りだった。
三
川波の音がし、その音に混じって周囲の山や河原の雑木林で鳴く鳥の声が聞こえる。
──あの男の髪が、いまのように白くなったのはおれのせいだ。
元司は眼をつむってそう考えた。男は老人のようにまっ白な髪をしていたが、齢はまだ四十前だった。
天保四年十一月末のある夜。斎藤家を一団の夜盗が襲った。顔に鍋墨を塗り、その上から深く頬かぶりした男たちで、二、三人は刀を持っていた。彼らは家の者をひと間に集め、元司の父豪寿を人質に取って外に連れ去り、それから米蔵を開いた。彼らは黙黙と米を運び出し、やがて闇の中に消えて行った。米は藩が村から集めて斎藤家に預けておいた年貢米だった。
天保四年は、荘内領が未曾有《みぞう》の凶作を迎えた年だった。年号が天保と改まった最初の年も凶作で、翌二年は一応平年作で一息ついたものの、前年の天保三年は、またも米の作柄は平年作を下回った。
荘内領は平野がよく拓け、すべてを米の収穫に頼る土地柄である。打ち続く不作に、百姓たちは疲れていた。そして新しい年の春を待った。だが、百姓たちが期待をつないだ春先から、天候は異常な様相を示しはじめたのであった。
雪が消え、山野にあたたかい日が射しこむと、人びとは田を起こし、苗を育てて田植にそなえる。
例年なら、田植どきの四月から五月にかけて、野には山山から流れくだる雪解の水が溢れ、空は時どき柔らかな雨を降らせて、草や木を濡らし、植え終った苗田を湿らせる。だがその年は、田植どきに一滴の雨も降らなかった。降雪が少なかったために、雪解の水は僅かに川底を通りすぎただけだった。
日は終日、真夏のように猛だけしい光を野に投げ、青い空のどこにも、雲の影すら見えなかった。田植の水にも困るほどだった。どうにか植え終ると、今度は田がひび割れるのをふせぐために、百姓たちは顔色を変えて野を走り回らなければならなかった。
そして、普通なら梅雨明けと呼ばれる時期である六月下旬に至って、今度は連日寒ざむと雨が降った。ことに二十五日朝から翌日昼にかけて荘内領を襲った豪雨は、人びとがそれまで見たことのないものだった。天地は暗黒に包まれ、雨の音は終日終夜、ごうごうと山野を鳴らした。領内の河川は、この雨でことごとく溢れた。田畑が流され、川の近くで人家が流された。
清川村でも、最上川の水が土堤を溢れ、水量を支えきれずに土堤が決潰すると、津波のような水が村の中を走り抜け、一瞬のうちに人家五十戸を押し流したのである。死んだ者もいた。残った家も、土台を削られた。そして寒い夏がやってきた。土用に入っても暑い日はなく、人びとは夏のさなかに綿入れ袷《あわせ》を着た。
そのあとも異常は続いた。九月に入ると、早くも冬の寒さが訪れ、二十六日は大雪が降った。
平野の北から東南にかけて、鳥海山、羽黒山、月山とつらなる山脈が空を遮っている。山山に雪が来るのは早いが、それでも九月のうちに雪を見ることは稀である。
ところがその年は、九月には平野に雪が積もり、人びとは橇《そり》を引いて道を往来した。
天候の異常さは、それで終ったのではなかった。いつもなら空が灰色の雲に閉ざされ、霰《あられ》や霙《みぞれ》が降る十月の末になって、不意に真夏のような暑さが襲ってきた。地震が起こり、押しよせた海嘯《かいしよう》に、鼠ヶ関から湯ノ浜に至る海辺の村では百六十軒の家が海にさらわれた。かくして天保四年は大凶作の年となったのである。
凶作を免れないと覚った藩では、河川が溢れ大洪水があったあとの七月、米麦から大豆、小豆ほかの雑穀、さらに小糠《こぬか》に至るまで、他領に売り渡すことを禁じた。十一月になると、藩は、七月の達しを再度厳達し、街道の要所、村村の出入口に穀改め番所を設けた。通行する者の手荷物まで改めて、領外に米穀が流出するのを監視したのである。
藩は一方で、酒はもちろん、濁酒《どぶろく》、甘酒まで醸造することを禁じ、食事には粥《かゆ》、雑炊を奨励した。また、看護する親族を持たない孤老、長患いの病人などに対し、米一千俵を放出して救済につとめていた。
だが藩では、凶作のために年貢を手加減するということはしなかった。その年の年貢の取りたては、むしろ平年以上に厳しかった。年貢は藩財政の基盤であるという筋を通し、それによって百姓の暮らしが立ちゆかないときは、改めて救済策を講じるという方針だった。しかし、それで百姓たちが、たちまち困窮に追いこまれたことも事実だった。凶作にそなえて、僅かに貯えておいた古米まで彼らは年貢に取られた。
顔を鍋墨で塗った一団の男たちが、斎藤家の米蔵を襲った事件は、そういう背景のもとで起こった。
預り米の奪取は、藩の掟《おきて》を破る大罪である。斎藤家から知らせをうけた藩庁から、すぐに取調べの役人が清川村に急行した。夜盗は村の者に違いないという見込みを、役人は抱いていた。
最上川の決潰で、村内には困窮をきわめている者がいる。斎藤家の米蔵に、藩の預り米が積まれていることを知っているのは、村内の者か、せいぜい隣村の者ぐらいである。三十俵近い米を、そう遠方まで運べるはずはない。豪寿を人質に取って、御諸皇子神社に連れて行ったのは、村の地理と斎藤家の事情にくわしい者の仕業である。
村の者に違いない。顔を黒く塗り隠したのも、顔を見られないための用心だろうと追捕の役人は考えていた。犯人はたやすく見つかりそうな気がした。
だが、村人を調べてみると、彼らの口は予想以上に固かった。何も知らないと言い張り、それ以上突っ込むと貝のように口を閉じる。一方では村内をくまなく探したが、米は見つからなかった。
連日の調べにもかかわらず、藩庁から来た役人は、何ひとつ村人から聞き出すことが出来なかった。彼らは部下を励まして、再度村の家家をあらためさせたが、盗まれた米はやはり一俵も出て来なかった。
鉛色の雲から、時どき霰や雪が降った。その下で、村は沈黙したままだった。出張して来た役人は苛立っていた。上司から、調べの遅滞を叱責する便りが届いていた。
そうしているとき、役人は斎藤家から、あることを聞きこんだ。四つの元司が、その夜、押し入った者たちの中に伝兵衛と市太郎という二人の村の者がいた、と告げたというのである。役人に、そのことを洩らしたのは、斎藤家の雇人の一人だった。
男たちが裏口から押し入ってきたとき、元司はすばやく父母と一緒の部屋から逃げて、醸造用の大釜の陰に隠れた。そこから父と、妹の辰代を抱いた母が、祖父の部屋の方に引きたてられて行くのも、また廊下を連れてこられた女中が、眼の前で坐りこんで立てなくなったのも見ていた。男たちは手に龕燈《がんどう》をもち、ある者は抜身の刀を提げていた。
龕燈の光に、不意に男たちの顔が浮かんだり、刀が光ったりするのを、元司は眼をそらさずに見ていた。
男たちが去ったあと、元司は隠れていた場所から出て行くと、まだふるえている雇人たちに、無邪気な口調でこう言ったのである。
「こわくないよ。伝兵衛と市太郎がいたよ」
雇人たちは、まだ去らない恐怖に心を奪われていて、元司が言ったことを十分に聞き留めなかった。耳にした者も、四つの子供の言うことを信じなかった。彼は自分の眼で男たちの黒い姿を見たが、それが何者かなどということはついにわからなかったのである。
だが斎藤家では困惑していた。当主の昌義にも、また豪寿にもその夜盗が何者か、大よその見当がついていた。喰う物にも事欠くようになった村の者たちがやったことに違いないと話し合っていた。
思い切った悪事を働いた村の者が哀れだったが、彼らがつかまらなければ、咎めは斎藤の家にかぶさってくるのである。やすやすと預り米を奪われた責任は重かった。人もつかまらず、米も出て来なければ、管理不行き届きを咎められて、斎藤家の家財は没収され、一家は追放されよう。当主の昌義は、斬首獄門の刑に処せられるかも知れなかった。
重苦しい気分で、斎藤家では調べの進行を眺めていた。その雇人が、あの夜元司が言ったひと言を思い出し、ふと聞きこみの役人に洩らす気になったのは、そういう空気の中でだった。
役人も首をかしげて半信半疑の表情だった。だが驚いたことに、元司が言ったことは事実だったのである。試みに、新町の伝兵衛と、新屋敷の市太郎を調べ所に引っぱってきて責めると、二人はついにその夜の盗賊だったことを白状した。そして後の十四人も捕まり、米も出てきたのである。
四
捕まった十六人は、鶴ヶ岡城下に送られ、八間町の町牢に収容された。
郷方の百姓が罪を犯した場合、大庄屋の屋敷で郡奉行手代が立ちあって行なう大庄屋吟味、公事のための指定宿泊所である代家に容疑の者を連行し、郡奉行、代官が取り調べる代家吟味があったが、今度の預り米強奪は、藩法を犯した重罪だった。それでただちに城下に連行し、取調べには町奉行があたったのであった。
調べの結果、十六人の犯行は明白だったので、藩では、十五人を斬首獄門、一人を追放と決定した。
清川村の者たちは、連行されて行った十六人とその家族に、同情を惜しまなかった。十六人がしたことは、自分たちもやったかも知れないことだった。それほどみんなが困窮していた。村の歓喜寺の住職は、村の者のそういう気持を代弁して、藩に真情あふれる歎願書をさし出した。彼らが罪を犯すに至った窮乏の事情をこまかに訴え、減刑を願ったのである。だが藩は、この歎願を黙殺し、十二月十六日刑を執行した。
その前夜の飯刻に、十五人の囚人に、藩から肴《さかな》の下されものがあった。囚人の食事は、家の者が差し入れるきまりなので、清川村の囚人の喰い物は貧しかった。大かたは粟、麦をまぜた握り飯に、ひとつかみの漬け物といった程度だったので、彼らは夜食にそえられた肴を、喜んでむさぼり喰った。
明日処刑と決まった囚人に、頭をとった肴を差し入れるのは牢のしきたりだったが、彼らはそれを知らなかった。
だが翌朝になると、彼らは牢から引き出された。彼らは厳重に縛られたまま、城下の町町を裸馬に乗せられて引き回された。そして、罪人をはさんで左右を槍持ち、目明かし、同心、足軽目付、徒《かち》目付で固めた行列は、刑場の髭谷地にむかった。髭谷地は、獄門にさらす罪人を処刑する場所である。鶴ヶ岡城下の東を流れる赤川の河原にあった。
刑場につくと、彼らは申し渡しを聞き、少し酒を頂いたあとで眼かくしを受けた。そして首穴の前の荒むしろに坐った。力を失ってそこまで歩けない者もいたが、あばれるものはなく、従順に刑を受けようとしているように見えた。
小雪がちらつき、雪の原を冷たい風がわたる中で、次つぎと刑が執行された。首穴のまわりは噴きとぶ血で赤く染まった。同心が首斬りを勤め、徒目付がいちいち検死した。十五人の首が獄門にかけられるのを見とどけると、刑執行の役人たちは、刑死者の家の者に胴を下げわたし、寒そうに背をまるめて城下に去った。
竹やらいを回した晒《さら》し場の中、六尺二寸の高い台の上に、十五の首が晒されていた。晒台の後に罪状を記した捨て札が立てられている。後に残った番人たちは、小屋がけの中で酒を飲みはじめていた。
首は三日間晒される。番人は、六人交代で昼夜を通して首を見張るのである。髭谷地の刑場は、城下から清川口に行く街道わきにあるので、前を通行する者は、笠を脱いで礼をし、中にはなにほどかの喜捨を置いて行く者もいた。その金は番人たちの役得になる。喜捨の金がたまると、彼らはその中の一人を城下まで酒を買いに走らせるのである。
首のない胴を橇にのせた一群の人びとが、雪の道を東に歩いていた。橇をひいているのは、刑死した百姓の親兄弟であり、女房であった。彼らは橇をひきながら声を出して泣いた。通過する村村にも、話はつたわっていて、泣き声を聞いて外に飛び出し、遺骸に手をあわせる者もいた。橇の上の骸《むくろ》からはまだ血がしたたり落ちて、点点と雪の道を染めた。
遺骸の列が清川村についたのは、日が暮れ落ちた時刻だった。村びとは、遺骸になって戻ってきた彼らを、鶴ヶ岡に引き立てられて行った日に見送ったように、村はずれまで迎えに出た。薄闇の中から現われた橇と、橇をひく者たちを見て、村人は涙をこぼした。
そのときのことは、元司はおぼえていない。多分家の者が、元司を外に出さなかったのだろうと思われた。
だが刑死した人びとが、前後を役人にはさまれて、城下に引き立てられて行ったときのことは記憶していた。元司は、どこかに立っていて、それを見たのである。
暗い雲が空を覆っていた。昼すぎに霙が降ったあとで、野は寒ざむとしてみえた。西の方、城下からさらに西の砂丘の上あたりに、ひと筋雲が切れた場所があって、そこに日没の金色の光がにじんでいた。そのために野は一そう暗くみえた。
引き立てられて行く十六人は、数珠つなぎに縄につながれ、二列になって遠ざかるところだった。
彼らの中の十五人が死に、一人だけ村に帰ってきたことを、むろん当時の元司は知らなかった。生き残った一人は、一たん追放に決まったのだが、藩ではなぜかその男を許して村に帰した。見せしめのために帰したのだという噂が流れた。
なるほど男は見せしめにふさわしかった。村に帰ってきたとき、男の髪は真白になっていた。仲間の十五人の刑死を聞き、一人残された恐怖におののきながら送った短い日日の間に、男の髪は老人のように白く変ったのであった。髪が白くなっただけでなく、男はひどく無口になっていた。村の者にも、家の者にさえも、あまりものを言わなかった。
元司が、髪の白い男や、十五人の刑死者のことを知ったのは、八つか九つになったころである。村の子供たちと遊んでいて、つまらないことから口|喧嘩《げんか》がはじまった。
そのとき喧嘩の相手方の、元司より年上の子供が、不意にそのことを口にした。お前のために人が死んだぞ、といった意味のことだった。
喧嘩相手が何を言ったのか、元司にはそのとき意味がつかめなかった。だが、相手の居丈高な口調の中に、うむを言わせない非難が含まれているのを感じて、元司は口を噤《つぐ》んだ。
すると、それまで元司について向う側の連中とやり合っていた子供たちも、無言で元司から離れて向う側についた。子供たちは黙って元司を見つめた。その視線にさらされて、元司は仲間からはずされたのを感じ、そうされても仕方がないことを自分がしたのかと思った。彼らの視線に、背を刺されながら、元司は家に戻った。
その夜、元司が訊ねたことに、祖父が答えた。祖父の昌義は、数年前に起きた出来事を率直に話して聞かせた。十五人の男たちが刑死したあと、男たちの家族が斎藤家を恨んで、さまざまないやがらせを繰り返したことも話した。塀の外で、一晩中気味の悪い声をたてる男がいた。また丑《うし》三ツの闇の中を、頭に蝋燭《ろうそく》を頂いた丑ノ刻参りの姿で、斎藤家の回りをうろつく女がいた。
「いまはそげだことをする者もいないし、誰もあのことに触れようとはしない。だが、村の中に、この家に対していまもいい気持を持っていない者はいる」
「………」
「お前もいつかはそのことに気づくだろうし、気づいたら話して聞かせようと思っていた」
元司は、夕暮れがせまる野を、男たちが引きたてられて行った日のことを思い出していた。恐ろしく、もの悲しい風景だった。だが男たちが家に侵入してきた夜のことは、記憶がなかった。男たちがつかまるきっかけをつくったという自分のひと言も、おぼえていなかった。
「お前が言わねば、と死んだ者の家の人たちは思っているだろう。だがお前がそのひと言を言わねば、わしは打首になって獄門にかけられただろうし、家の者はここに住めなくなって、みんなが散りぢりになったかも知れない。あのときは、みんな恐ろしいばかりで、何も見ていなかった。お前だけが見ていた。お前のひと言が、この家にとっては救いの神だったのだな」
「………」
「死んだ者は気の毒だ。みじょけね(哀れ)と思う。ンだども、たとえ喰うに困ったとしても、お城の物に手を出した罪はやはり免れない。処刑されたのは仕方のないことだのう」
「………」
「わかるかな。元司は悪いことをしたわけではない。悪いのは米を盗んだ者たちだ。ンださげ、村の者にどう思われようと、ぐっと腹に力を入れて堪える気構えが要る。男はそうやって堪えることが出来ねばいかん」
昌義はじゅんじゅんと説き聞かせた。そして行儀よく手を膝において聞いている元司を眺めた。まだ物心もつかないころに、異常なことにかかわり合って、本人も知らないうちに人の憎しみを受けることになった孫を不愍《ふびん》がる気持になっていた。
──おや?
昌義は、ふと見直すような眼をあらためて元司にそそいだ。事件のことはわかりやすく噛みくだいて、しかし話すときにはそうしようとかねて考えていたとおりに、一点のごまかしもなく話して聞かせたのである。
話を聞いたら、子供なりに動揺があるべきだった。気性の勝った子供だから、泣いたりはしまいが、驚きもし、しおれもするだろう。そう思って、昌義の話しぶりはしまいにはなぐさめ、はげます口調になったのだが、元司は平然としていた。この子は話の中味が、よくわかっていないのではないか、と昌義は疑った。それで、念を押すように言った。
「話はこれで終りだ。わかったかな」
「はい」
元司ははっきりした声で答えた。そしてふっと笑った。元司の口辺にうかんだそのかすかな笑いを、昌義は無言で見つめた。
昌義は、|ど《ヽ》不敵という土地の言葉を思い出していた。自我をおし立て、貫き通すためには、何者もおそれない性格のことである。その性格は、どのような権威も、平然と黙殺して、自分の主張を曲げないことでは、一種の勇気とみなされるものである。しかし半面自己を恃《たの》む気持が強すぎて、周囲の思惑をかえりみない点で、人には傲慢《ごうまん》と受けとられがちな欠点を持つ。孤立的な性格だった。
むろん村人の中でも、勇気ある者はうやまわれ、臆病な人間は|どっこけ《ヽヽヽヽ》として侮られる。しかし|ど《ヽ》不敵の勇気は、底にいかなる権威、権力をも愚弄してかかる反抗心を含むために、ひとに憚《はばか》られるのである。
羽州荘内領。そこは一年の三分の一が風雪に閉ざされる土地である。その空の下で、百姓はつねに頭の上がらない暮らしを強いられる。風土と身分と、この二重の桎梏《しつこく》にしばられる忍従の暮らしを、くるりと裏返したところに隠されているのが、|ど《ヽ》不敵と言われる性格だった。|ど《ヽ》不敵は百姓が居直った姿だとも言える。
どこの村にも、一人か二人は|ど《ヽ》不敵な人間がいて、彼らの多くは人びとにおそれ憚られていた。耐えしのび、抗うべからずという村の禁忌を、|ど《ヽ》不敵な連中はやすやすと破り、村人の小心さをせせら笑ったりするからであった。
昌義は頭を振った。そして行ってよいと言った。|ど《ヽ》不敵という言葉は、元司のような子供にふさわしい言葉ではなかった。家の中でも、外で遊んでいるときも、尋常でない気性のはげしさを見せる孫だが、この子はまだ子供だ。
しかしさっきの感じが間違っていなかったら、と昌義は遠ざかる元司の足音を聞きながら、考えに沈んだ。そのときは、あの子は大人になってから苦労するだろう。
昌義の危惧は半分あたり、半分はあたっていなかった。元司は話を聞いて、やはりおそろしかったのである。だがおびえを感じている自分にいらだち、何だ、そんなものとはねかえす気持もあったのである。おびえはそれで去ったが、異常なことにかかわり合った重苦しい気分は、子供ごころにも残った。
だが、そうかといって、幼い元司が毎日そのことを考えて鬱々としていたわけではない。祖父に聞いた話はじきに忘れた。元司は相変らず仲間たちと元気に遊んだ。
ことに十歳のとき、村を離れて鶴ヶ岡城下の伯父の家に預けられ、手習所に通うようになると、事件のことはほとんど思い出すことがなくなった。手習所では、元司は腕白児だった。しばしばいたずらをし、手習所に集まる子供たちと喧嘩をして、師匠の清水郡治に叱責された。
元司は清水の手習所に行く一方、給人の伊達鴨蔵が開いている塾にも通ったが、こちらでは神妙な塾生だった。給人というのは、徒、足軽など扶持米取りの下級武士の総称である。不思議なことだが、元司は伊達がさずける大学、論語、詩経などの素読が心にかなうのを感じ、清水塾の教える書や、商売往来、今川庭訓などは肌に合わなかったのである。
元司は七つのときに祖父から孝経の素読をうけ、ついで論語の素読を受けている。そういうこともあったが、要するに商人の知識、教養を中心にする清水塾の学問が気にいらなかったのである。
元司は鶴ヶ岡に三年いた。そして最後には清水塾を破門されて家に戻った。それが去年の暮のことである。
久しぶりに村に戻ってみると、村の中の、以前は見えなかったものが見えるようだった。村びとは、元司に会うと一瞬恐れるような眼で眺め、ついでぎごちない微笑を浮かべて声をかけてくるのだった。その眼が意味するものを十四の元司は理解できた。村の者は、十年前に起こった出来事を、決して忘れていなかったのである。
白髪の男が、自分に会っても決して眼を合わせようとしないことにも、元司は気づいていた。男はむかしからそうだったのだが、前にはそのことに気づかなかったのである。いまはそれが心を刺してくる。白髪の男こそ、あのいまわしい出来事が、確かにあったという証しだった。
男をみると、元司は少し身構える気分になる。心を刺してくるものに負けまいとするためだった。
破門されて戻ってきた元司を、祖父の昌義はかえって面白がったが、父母はそうではなかった。ことに母の亀代は歎き、女らしい愚痴が尽きなかった。そういうことも、元司の内部に鬱屈をそだてていた。
元司は、もう快活で疑うことを知らない少年ではなかった。自分が見え、まわりが見え、その間にある隙間を見た。
子供のころ、仲間はずれにされたことを思い出すことがあった。十四の元司も、村びとの仲間には入れてもらえないようだった。その理由の半ばは自分の中にあった。家業をつぎ、村の旦那衆におさまることに気分がむかなかった。半ばは村びとの方にあった。人びとは斎藤家の後を継ぐ元司に応分の敬意を払うだろう。だが、彼らの念頭からあの出来事が忘れられることはないだろうと思われた。
五
元司は孤独だった。家をついで家業に励むことに少しも気がむかなかったし、どことなく自分を避ける村びとに、強いて仲間に入れてもらいたいとも思わなかった。それが、早くから決まった動かしがたいおれの運命だと思うことがあった。
だが考えはいつもそこで行きづまった。その先に、何も見えて来なかった。家をつぎたくないなどといえば、家の中はひっくりかえるような騒ぎになるだろう。ひと言も洩らすわけにはいかなかった。村びとが、特別な眼で自分を見ることはわかっていても、元司の足はこの土地につながれていた。
閉ざされたまま、青春がやってきたようだった。廓で知った女たちが、わずかに元司の青春を彩り、なぐさめるように思われる。
それでは、お前はどうしたいのか。言うまでもなく元司は、時どき自分にそう問いかける。だがその答えはいっこうに出て来なかった。ただ現在にあきたりない憂悶が、ときに暗く静かに、ときに荒あらしく心の奥底に動くのを感じるだけだった。
──おれは放蕩者だ。
そして醜い怠け者だ。河原に寝ころび、眼をつぶって日を浴びながら、元司はそう思った。
家業をつぎたくないというのも、要するに働きたくないからだ。おれは、村の者が田植でいそがしい最中に、廓から朝帰りするような、どうしようもない人間なのだ。元司はそういう自虐的な感想にふけった。そう考えると、自分が救いようもなく堕落した人間のように思われてくるのだった。
寝ころんだ背のあたりに、尖った石が埋まっているらしく、背を刺してくる痛みがある。その痛みが、元司にはむしろ快かった。
不意に女の笑い声がした。元司は上体を起こした。軽舟が、立谷沢川をくだって最上川と落ち合う河口の方に滑って行くところだった。中年の男が、落ちついた身ぶりで竿を使っていて、舟の艫《とも》に野良着姿の若い女が三人乗っている。
女たちは、起き上がった元司を怪訝《けげん》そうに眺めて黙りこんだが、前を通りすぎたところで、一人が元司に手を振った。娘らしいはなやかな笑い声があがった。
最上川の本流に乗って見えなくなった舟を、ぼんやり見送っていると、後に足音がした。元司が振りかえると、次弟の熊次郎が立っていた。
「おれを探しに来たか」
元司が言うと、熊次郎は黙ってうなずいた。寡黙で利口な、八つの子供だった。
「どうだい、熊次郎」
立って砂をはらい落としながら、元司はふと思いついて言った。
「お前が家をついで、酒屋をやらねが?」
「………」
「そうせば、おれは家を出てどこかへ行く」
熊次郎は、黙って兄を見たが、すぐに首を振った。元司は熊次郎の頭を撫《な》でて歩き出した。
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旅 絵 師
一
「先生、このままでは私は無頼になります。私に学問を叩きこんでください」
元司は畑田安右エ門の長屋を訪れ、部屋に通されると、すぐにそう言った。
畑田は、元司の突然の言葉にちょっとびっくりした顔をした。畑田は清川の関所を警衛する役人で、十三石二人扶持、身分は給人だった。
給人は徒以下の下級武士で藩の実務にたずさわったが、荘内藩では上級武士である家中と身分的に峻別されていた。足駄を履くことを禁じられ、道で上級藩士と遭えば、履物を脱いで挨拶しなければならなかった。家中との婚姻も禁じられていた。知行はあてがわれず切米、扶持米を支給されたことは前述のとおりである。
関所勤めにも差があった。清川の関所には上番、下番の二つの役所があり、上番は家中が勤務して士以上の出入りを改め、下番には給人が詰めて百姓町人の出入りを監視する。
畑田は下番に勤務する役人だったが、温厚な読書人でもあった。非番の日は、終日家にこもって書を読む。畑田の漢学の素養は奥深いものだった。
元司の言葉は、畑田を驚かせたが、そのとき畑田は、元司の祖父昌義から、元司の教育を委嘱されたときのことを思い出していた。
「この子は、暮に清水塾を出されて、戻って参りましてな」
と昌義は言った。
「頭はよろしいが、手に負えないわがままな行ないがあったということです。私はこれが七つのときに孝経の素読を習わせましたが、たしかに鋭い頭をしているようです。しかしお気づきでしょうが、この子には一点|ど《ヽ》不敵なところがあります。こういう子は、将来名を挙げるほどの人物になるかも知れませんが、ひょっとすると家名に汚点を残すような者にならないとも限りません」
どうか曲った方向にすすまないように、導いていただきたいと、昌義は頼んだのであった。
「無頼になるというと、なにか悪いことでもやったかの」
「酒田の廓で遊んで来ました。面白かったのですが、面白すぎて、少しこわくなりました」
この子の内部には、自浄作用のようなものが働くらしい、と畑田は思った。それで駆けこんできたとすれば、学問を深める機が熟したのだ。
「十四で廓通いとは恐れ入ったの。なるほど無頼になりかねんぞ。よろしい、治兵衛どのに頼まれていることもある。早速はじめようか」
「お願いします」
「伊達塾では、詩経まで行ったそうだな。ではその続きからはじめよう」
「先生」
不意に元司が言った。
「先生は廓で女を買ったことがありますか」
「残念ながらない。しかし男女の情を解せぬほどの固物でもないがの」
畑田は謹厳な顔で言った。が、内心大変な子供を引きうけたという気がした。しかし元司は、詩経から楽楽と孟子にすすみ、翌年になると易経、礼記を苦もなく読みこなすようになった。おぼえはよく、しばしば明敏な頭の冴えを示して畑田を驚かせた。
二
弘化三年五月、清川の斎藤家に一人の旅絵師が立ち寄った。
「竹洲と申す絵描きです。本名は藤本津之助という者です」
と絵師は名乗った。三十ぐらいの年恰好で、痩せていた。寡黙で、喋《しやべ》るときも物しずかな話しぶりだった。
斎藤家には、荘内領に入る、あるいは荘内領を通過して新庄領に出るさまざまな人間が立ち寄る。藤本津之助のような絵師、さらには俳諧師、書家、旅僧、回国の剣客など、何かの一芸に秀でた者が、斎藤家の噂を聞き、立ち寄るのである。昌義も豪寿も、そういう客を喜び、気に入った客は、楽水楼に泊めてもてなした。
藤本という絵師は、最初の日から楽水楼の客となった。彼の描く南画の出来ばえがすばらしかった。独特な筆勢が生み出す絵の世界に何とも言えない気韻がこもっていて、昌義らを魅了した。のみならず、話している間に藤本が深く和漢の学に通じていることもわかってきた。試みに詩を乞うてみると、藤本はたちどころに即興の七言絶句を示し、その書がまた見事だった。
「とどまりたいだけ、いてください。孫にもいろいろと教えてやって欲しい」
と昌義は言った。元司から噂を聞いて、畑田が藤本に会いにきた。藤本は寡黙、畑田も口の重い方である。その二人が、何が面白いのか、途中何度も笑い声をはさみながら、長い間話した。
「驚いたご仁ですな」
帰るとき、畑田は笑いながら昌義に言った。
「あのひとは兵学もおさめ、撃剣もよほどお出来になるようだ。気がつきましたかな。肘《ひじ》に竹刀《しない》だこが出来ています」
楽水楼の新しい客に、十七の元司は夢中になっていた。畑田の講義がある日は、講義が終ると家に駆けもどり、講義がない日は少しうるさいほど藤本の部屋に行った。また空が晴れていれば、立谷沢川の岸に誘って散策の案内をしたり、最上川を舟で渡り、対岸にそびえる蘭山《あららぎやま》に、一緒に登ったりした。
すでにさまざまなことを、元司は藤本から聞いていた。外国船が、しきりに日本の近海に出没し、通商をもとめてきていること。幕府はすでに四年前、異国船打ち払い令をやめ、薪水食料をもとめて立ち寄る外国船にはそれを与えてもよいとしているが、開港通商の要求は依然拒んでいること。昨年の三月、江戸伝馬町の牢獄が火事で焼け、囚人が一時釈放されたが、その中に蛮社の獄で捕っていた蘭学者の高野長英がいて、彼は火事がおさまったあとも帰獄しなかったことなど。
藤本の話は、元司にいままでまったく知らなかった世界を開いて見せるようだった。そういうとき元司は、一昨年の秋、父母と師の畑田夫妻と一緒に、仙台領の松島に行ったときのことを思い出していた。元司はそのとき父と二人でさらに石巻まで行き、東にひろがる外洋を見ている。海は広く、荒れていた。
海を見ながら、元司はそのときしきりに、諸国を旅して見たいという気持に駆られたのである。
海が珍しいわけではなかった。海は酒田にもあった。廓で遊んだ帰りに、不意に自責の思いに責められ、清川村とは反対の方角にある海辺に出て、そこの砂浜に一刻(二時間)近くもぼんやりと寝ころんでいたこともある。そういうとき、波の音はいかにもやさしく遊蕩児の心を慰めた。
だがその海は、いわば自分の国の海だった。春から夏にかけての美しく凪《な》いだ海。秋から冬にかけての、不機嫌に終日|咆《ほ》えたて、砂浜や岩を打ち叩く海。季節ごとに海は顔を変えるが、どれも知り尽くした顔だった。
だが石巻で見た海は、茫漠とただ荒れていて、不思議に未知のものを感じさせた。異郷の海だ、と思い、元司はまだ知らない諸国の海や山、そこに住む人びとに思いを馳せたのだった。だが藤本の眼はさらに、とりとめもなく広がった海の向うにある異国を見つめているようだった。
「清国がエゲレスと戦って負けたことを知っていますかな」
と藤本は言った。藤本と元司はいつものように最上川を舟で横切り、対岸のあららぎ山の山道をのぼっていた。藤本はあららぎ山の山頂から、西にひろがる荘内平野を眺めるのが好きだった。半刻も一刻もそこから平野を見おろし、美しい土地だ、と言った。
「アヘン戦争というのです。戦争は三年続き、つい四年前に終ったばかりです。エゲレスは方ぼうに土地を持っていますが、本国はさほど大きくないらしい。その国に、大国の清国が非常に脆《もろ》い負け方をしたそうです」
「………」
「佐藤信淵という学者が、清国は勇猛果敢な満州族の兵を要害に配って、エゲレスの軍を防いだが、一戦も勝つことが出来ず、一城も守ることが出来なかったと言っています」
「なぜですか」
「兵備が違うのですな。エゲレス兵は、精巧な大砲と小銃を沢山持ってきて、大砲で城壁を砕いたそうです」
「竹洲先生。アヘンというのは何ですか」
「麻薬です」
「麻薬?」
「吸えばたいそう心地のいいものらしい。だが長い間吸い続けると、頭を冒されて廃人になるという話です。エゲレスはそれを清国に売って莫大な金を儲けていたが、そういうたちの悪い麻薬だから、清国では持ちこみをことわりました。それで戦争になったのです」
「………」
「清国は戦に負けて、島をひとつ取られ、五つの港を開きました。エゲレスはいままでの何倍も品物を持ちこみ、さらに儲けようというわけです」
「けしからん話ですな」
元司は憤慨して言った。
「エゲレスのやり方は横暴です」
「それで戦争になったのですな。しかし清国はその戦に負けてしまった」
「………」
「日本のまわりをうろついて、港を開けと言ってきている連中は、エゲレスと五十歩百歩でしょうな。幕府はいましきりにそれをことわっているが、いまにことわりきれなくなるでしょう。無理に国を鎖していれば、アヘン戦争の二の舞です」
「………」
「日本はこれから変らざるを得んでしょう。どう変るのか、私にもわからないが。ところで元司君」
藤本は身軽に頂上を踏んで、元司をふり返った。藤本の顔は幾分赤くなっていたが、声は平静だった。
「君は、酒屋を継ぐことになりますかな」
「………」
元司は答えられずに、藤本の顔を見た。藤本は細い眼を、またたきもせずに元司に据えていった。
「私がはじめてここに来たとき、君は心に憂悶を抱いているように見えた。これは何だろうと思って見ていましたが、およそ見当がつきました。君は家を継ぐのが厭《いや》なんじゃありませんか」
「そうです」
「君の心は、家を離れてずっと外を向いているようだ。いつからですか」
「子供のころからです。でも竹洲先生。私は総領ですから、家を離れることは出来ません」
「でも、出たければ出たらいいのです」
藤本はあっさり言った。
「私も二十五のとき家を出ていますよ。私は叔父の家に養子に入った身分で、妻もいました。それでもやりたいことがあったから、家を出ました。男はそうするものです」
「………」
「もっとも私の家は藩の小役人で、私は用水番を勤めていましたから、君とは少少事情が違いますな」
藤本ははじめて微笑した。
「で、家を継がず、何になるつもりですか」
「わかりません。はっきりとは」
元司はうつむいた。
「ただ、このまま村には埋もれたくない気持です。出来れば江戸に遊学して、天下に名を知られる者になりたいと、そんなことを考えています」
「学者になる?」
「ええ、ま。なれるかどうかわかりませんが」
「それもいいじゃありませんか。いま何を読んでますか」
「春秋左氏伝です」
「元司君」
藤本は元司にじっと動かない視線を据えながら、相変らず丁寧な口調で言った。
「私はいささか観相をたしなみますが。君は酒屋の主人に納まる人間じゃありませんな。顔に波瀾が現われています。それも尋常でない大きな波瀾です。そこで揉まれて名をあげることになるようだ」
そこまで言って、藤本は不意に口を噤んだ。
元司は、藤本がもっと何か言うかと思ってじっと待った。人に、自分の運命のようなものについて何か言われたのは、はじめてだった。微《かす》かな恐れを抱きながら、元司は次の言葉を待ったが、藤本は口を噤んだままだった。
梅雨の季節がまだ終らず、あまり強くない雨が、連日降ったりやんだりしていた。今日も朝からどんよりと曇って、ひと雨来るかと思わせたが、天気は持ちこたえて雲は昼すぎから次第に薄くなった。
いまは西の空に、暮れようとする日が姿をあらわし、緑にいろどられた野や村落の森を照らしている。日は真直ぐにあららぎ山にも射しこみ、藤本の痩せた顔を浮かびあがらせていた。
元司はこらえきれずに聞いた。
「それから、どうなりますか」
「え?」
藤本は夢から醒めたように、元司をふり返った。
「私の行末のことです」
「ああ。いや、わかっているのはそれだけです。その先はわかりません」
藤本はそう言って、顔を野に戻した。あまりいろいろなことを喋って損したというような、そっけない横顔になっていた。
それだけかと元司は思ったが、一方で藤本が言ったことだけで十分だ、という気もした。家業を継ぐことに気がすすまず悩んだが、それは、はじめからそういう運命だったのだ。酒屋という商売が他人事のように思えたのは当然だった。おれはやはり、家を出て行くべきだ。
二年前の正月。元司は家の系図を眺めているうちに、不意に啓示を受けたように心が決まった。時節が来たら江戸に遊学して、天下に知られるものになるのだ、と自分に誓ったのである。だがその決心は、心の底に秘めたままで、さっき藤本に洩らすまで、誰にも言っていなかった。あのときの決心は、間違っていなかったのだと、元司は思い返していた。
「元司君、美しい山河ではないか」
不意に藤本が言った。物思いから醒めて、元司は眼の前にひろがる景色を眺めた。
日ははるか西の砂丘の陰に沈もうとして、赤味を帯びたやわらかな光を荘内の野に投げかけていた。左右につらなる山山は、ある場所は濃緑の樹樹が褐色に染まり、ある場所では黒い影を刻んでいた。前面にひろがる野も一面に赤らみ、その中を流れくだる最上川も日に光っていた。酒田の港に下る舟の、白い帆が浮かんで、少しずつ遠ざかって行く。
「いつかこの山河を、君が捨てる日がくるのかね。そうだ、君のために帰るまでもう一幅描いておこう」
藤本は、魅せられたように遠くに眼を遊ばせながら言った。滞在がひと月近くにもなった藤本は、四、五日あとにここを発つことになっていた。
三
山を降りて、藤本と元司が家の近くまで帰ってきたとき、店の前あたりで、さわがしい人声がした。
「何でしょう」
と元司が言うと、藤本は耳を傾けるような表情になって、喧嘩のようですな、と呟いた。近づくと、藤本が言ったとおり、元司の家の前に黒山のように人だかりがし、その中で二人の男が喧嘩をしていた。
喧嘩というよりも、もう歯むかう力をなくしている一人の男を、大柄な船頭がいたぶっているのだった。地面に投げられたり、殴られたりしているのは、二十半ばのひよわにみえる男で、旅の途中らしく、足もとに振りわけの荷や、笠などが散乱している。
男はなんとか船頭の手からのがれようと、必死になっていた。荷をひろいあげて、人垣の方に逃げこもうとするのだが、船頭は敏捷《びんしよう》に前に回って逃げ道をふさいだり、後から帯をつかんでひき戻したりした。そして殴りつけた。
「そら、おめえも男なら、腕で挨拶したらよかんべよ。おら」
船頭は喚いた。船頭はあきらかに酔っていた。日焼けした腕と胸に肉が盛りあがり、狂暴な髭面をしていた。
──はじめてみる男だ。
と元司は思った。最上川をのぼりくだりする船頭の中には、商売柄気の荒い者もいて、そういう連中は、舟着き場で舟を捨てて元司の家に駆けこみ、ひとしきり飲むと店先であばれたりするのだった。
だが、長い年月の間に、そういう酒癖の悪い連中の顔は大体わかっていた。そういう連中がくると、元司の父は店先に出て行って、飲んでもいいが、人に迷惑をかけるな、と懇懇と説諭するのである。飲む前の彼らは猫のようにおとなしく、きまり悪げに説教を聞き、わかりました旦那、この前のようなことは一切やりません、などという。それでもひととおり飲むと、やっぱりあばれるのだが、元司の父や母が出て行って叱ると、さきに説諭されたのを思い出すかして、だんだんにおとなしくなるのだった。
だがいま旅の人間をいたぶっている船頭は、新顔だった。そして仲間がいた。仲間は二人いて、店先で外に出ようとする元司の父を押し戻していた。二人とも赤い顔をして、手に舟から持って来たらしい櫂《かい》を握っている。
──たちの悪い連中だ。
元司はぞっとした。
「どうしたんだろ、いったい」
元司はそばに立っている村の者に聞いた。
「なに、足サ蹴つまずいたとか、そげだことからはじまったらしいども」
村の者は喧嘩から眼を離さずにそう答えた。元司は不意に怒りがこみ上げてくるのを感じた。これ以上連中のいいようにさせてはおけない。斎藤の店の名折れだ。父もそう思っているに違いないと思った。元司は前に出た。
すると藤本が元司の肩を押さえた。強い力だった。
「いい。私にまかせなさい」
藤本はそう囁《ささや》いたが、まだ喧嘩を見ていた。旅の男は鼻血を出していた。そして、また船頭につかまって地面に投げつけられると、もう逃げる力も失せたように地面に蹲《うずくま》った。見ていた者の中から同情の声があがった。
そのときになって、藤本はようやく前に出て行った。藤本は旅の男を足で蹴っている船頭の後に近づくと、肩を叩いて何か言った。藤本が、何を言ったのかは、声が低くて聞こえなかったが、船頭はふり返ると凄い眼で藤本を睨んだ。
「なんだず、おめぇは。この店の用心棒か」
船頭は、藤本が腰にさしている小刀をじろじろ見た。
「いや、そういう者ではない」
「なら、引っこんでいてもらうべ。こいつは店を出るとき、おれを蹴とばしやがった野郎だ。わざとだべよ。いやというほど蹴とばして、挨拶もなしに行こうとしやがった。舟人足だと思って、おれバなめてんだ」
「それにしても、もうよかろう。これ以上痛めつけると死ぬぞ」
「なぁに、死にやしねぇって。強情な野郎だぜ、けざァ(こいつは)よ。これほどやってやったのに、詫びひとつ言いやがらねぇ。こいつがちゃんと詫びるまでは、腹の虫がおさまんね」
「詫びは言いません」
鼻血で赤く染まった顔をあげて、若い男が言った。なるほど強情なところがある男だった。もっとも船頭が言っているのは、口で済む詫びでないかも知れなかった。
「足を出したのはそちらです。私が詫びることはありません」
「野郎、このッ」
船頭は足をあげて、若い男の脇腹を蹴った。男は悲鳴をあげて脇腹を押さえ、地面をころがった。
「やめろ」
藤本は強い口調で言って、船頭の前に立ちふさがった。
「おや、旦那がかわって相手になっかね」
船頭はにやりと笑ったが、すぐに凶暴な眼つきで藤本を睨んだ。
「面白《おもしよ》え。ほたら、その邪魔っけなものは取ってもらうべ」
船頭は、すばやく藤本の小刀を掴もうとした。すると、藤本の方から吸いつくように船頭に身体を寄せた。次の瞬間、藤本の肩越しに、船頭の身体が一回転して地面に落ちていた。あっという間の出来事で、見ていた者は、しばらくしてからわっと声をあげた。
「先生、危い。うしろ、うしろ」
元司が叫んだ。仲間がしたたかに投げつけられたのを見て、店先にいた二人が、櫂をかざして疾風のように藤本に駆けよるのを見たのである。迎え撃つように藤本は二人にむき直った。そして不意に身体を沈めて、小刀をふるった。
見物の人間の中から笑い声が上がった。櫂で打ってかかった船頭の一人は、両断された櫂の切れはしを握って立っていた。もう一人は帯を切られて、毛深くふくらんだ腹が丸出しになっていた。
彼らはその姿のまま、茫然と藤本の後姿を見送っていた。地面に投げつけられた船頭も、びっこをひきながら立ち上がったが、藤本を追う元気はないようだった。
人びとは笑いながら散りはじめていた。その間に、旅の若い男は人ごみにまぎれて姿を消したようだった。
「先生、すごいな」
ゆっくり裏門の方に歩いて行く藤本に追いつくと、元司は言った。興奮していた。藤本がどんな剣を使ったのかは、よく見えなかった。藤本と二人の船頭が、ぶつかり合うように交錯し、船頭が怒号して櫂をふりおろすのはわかったが、そこから抜け出したとき、藤本はもう刀を鞘におさめていたのである。
「畑田先生がおっしゃったことは、本当でしたね」
「畑田さんが、何を言ってましたかな?」
「先生は撃剣も相当の腕らしい。竹刀だこがあるって言ってました。竹刀だこって、どれですか?」
藤本は黙って腕をまくって見せた。
「流儀は何流ですか」
「一刀新流。花房義制という人から、長沼流兵学と一刀新流の免許を受けました」
「私も撃剣を習います」
と元司は言った。その言い方が唐突だったので、藤本は低い声を立てて笑った。
「剣を、何のために習うかね、元司君」
「私もいずれ諸国を旅するつもりですから、そのときの護身のためです。それと、さっきの先生のように、正義を行なうためです」
その夜斎藤家では、事件の話で持ちきりになった。藤本は、にわかに剣客としても見直された形で、苦笑しながら、もうそのぐらいでよろしいでしょうなどと言った。
その席でも元司は、私も撃剣を習います、と言い、祖父の昌義は面白がって、先生どうですか、この子は見込みがありましょうか、などと訊ね、藤本を当惑させた。
閏《うるう》五月三日。藤本津之助は飄然《ひようぜん》と清川村を去って行った。元司は藤本に送別詩二編を贈った。
藤本が去ったあと、元司はしばらくの間、熱に浮かされたように撃剣に夢中になった。まず父にねだって、自分の刀をもらった。六人扶持とはいえ、斎藤家は士分の扱いなので、刀を持って悪いことはないと思っていた。父の豪寿は刀剣にも造詣が深かったので、元司に山城守源国重の刀をあたえた。
ついで元司は、広い米蔵の中に百匁蝋燭を立て、陣笠をかぶり、使用人の一人を呼んで打たせ、撃剣の真似ごとに励んだ。元司は力が強かったので、誤って元司に打たれると、何日も痛んだ。使用人たちは稽古を敬遠した。
四
使用人たちは、店の仕事を口実に、だんだんに撃剣ごっこから遠ざかり、しまいには一人も来なくなった。
仕方なく元司はひとり稽古に励んだ。梁から薪をつるして木剣で打つ。あるいは蔵の中の柱を藁で巻いて竹刀で打つ。元司は真剣だった。汗を流し、息を切らして斬撃を繰り返した。
そういうとき、元司の眼には、二人の荒くれた船頭がふりおろす櫂の下を、燕《つばめ》のようにすり抜けた藤本津之助の姿が映っている。
──文武二道だ。
人間はああでなければいけない、と思いながら、息を切らして柱の巻藁を打った。その稽古を、ときどき辰代や熊次郎がのぞきに来た。
「見てろ、辰代」
元司は妹を壁ぎわに立たせておいて、巻藁撃ちや、薪撃ちを披露した。気合鋭く打ちこみ、飛鳥のように身を躍らせる。陣笠の下の元司の髪はみだれ、顔は汗だらけで、眼ばかり光っている。
辰代は笑い出した。元司は手を休めた。
「どうだ。前よりはうまくなったろう」
「まるで気ちがいですね」
辰代は酷評を残して蔵を出て行った。次弟の熊次郎と、今年十になる三弟の熊三郎が連れ立って見にくることもあったが、寡黙な熊次郎は何も言わず、熊三郎は、異様な風体の兄が獅子奮迅の勢いで蔵の中をとびまわるのを、おびえた眼で眺めるだけだった。
この様子を見た祖父の昌義が、酒田に撃剣の先生を見つけてきた。
伊藤弥藤治という直心影流を使う剣士だった。伊藤は五人扶持で一応は士分だが、素姓は酒田の富豪伊藤四郎右エ門の分家である。剣を荘内藩士服部十兵衛に学び、ほかに大坪流の馬、日置《へき》流の弓術の免許をうけていた。
伊藤の家の裏には、馬場、弓術場が設けてあって、撃剣の指南も、この馬場でやるのであった。元司は早速入門した。清川村から酒田までは片道七里である。元司は往復十四里の道を通いはじめた。
だが伊藤が指南する実際の剣術は、米蔵の中のひとり稽古のように楽しいものではなかった。地味で、苦しいものだった。しかもなかなか上達したとは言ってくれない。伊藤のところに通ってきている剣術の弟子は、鶴ヶ岡城の支城である酒田の亀ヶ崎城に勤める下士の子弟、町人、百姓の子などがほとんどだった。技倆は、その連中の方がはるかに上だった。
元司は倦きてきた。ちょうどそのころ、藤本から受けた撃剣熱が少し醒めかけていた。
ある日元司は、伊藤の道場の稽古を早めに切りあげると、廓がある町の方に入って行った。その一画に入ると、どこからともなく脂粉の香が匂ってきた。ひさしぶりに嗅ぐ、なつかしい匂いだった。町を歩く女がなまめかしかった。しばらく遠ざかっていた悦楽の記憶が、みるみる身体をほてらせてよみがえって来て、元司は自分が元の木阿弥にかえるのを感じた。
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色 町 の 秋
一
酒田は戦国時代末期から、港町として栄えたが、寛文十二年河村瑞軒によって、酒田から江戸までの西回り航路が開かれると、爆発的な活気を呈するようになった。
村山の幕領、山形藩、米沢藩、上ノ山藩、新庄藩など内陸各藩の米、紅花、青苧《あおそ》などの産物が最上川をくだって酒田に集まり、また上方から来る塩、藍玉、繰綿、木綿、塩引きなどが、酒田を経由して羽州内陸に舟で運ばれた。
元禄のころには、最上川を上下する酒田の川船大小三百六十艘、また村山の川港大石田が所有する川船は大船百三十六艘、中船百二十八艘、三人乗り船二十八艘といわれた。そして諸藩の蔵元、蔵宿を勤める問屋商人がさかえ、酒田の町はひとまわり大きくなった。諸国から商人が入りこみ、商談と物の集散に明け暮れる港町だった。
山王様と呼ばれる日枝神社の祭りは、港町酒田の活気を代表する盛んな祭りだった。祭りを見にきた千石船が、五、六十艘も沖に帆柱を並べ、最上川の河口から上流にかけて、舟印をはためかせて大小の船がぎっしりと岸に繋留される。
船の船頭や水夫、近郷から集まる若者たちは、祭りの山車《だし》を見物したあと、船場町、今町の廓に繰り込んで、酒を飲み、女を抱く。船場町に三十六軒、今町に三十七軒の娼家が公許されたのは文化十年のことで、以来この二つの町は男たちの歓楽の巷だった。三年前の祭りの日、元司は村の男たちの後について、今町の廓を見に来た。見るだけで帰るつもりだったが、柄が大きいために、女たちに誘われて登楼し、そのときから廓の艶な情緒のとりこになったのである。
山王祭りは四月の中の申の日で、町は人波で埋まるが、空は大方さわやかに晴れ、町をさつきの風が吹き抜ける。だが、いま元司が歩いている八ツ(午後二時)さがりの廓町には、暑い日射しが降りそそぎ、顔を吹きすぎる風は、火で煽られるように暑かった。
町はひっそりしていて、人影ひとつ見えない小路もあった。元司の五、六間先を、むしろで包んだ青物を背負った老婆が、触れ売りの声を流しながら、ゆっくり歩いて行く。
──いまごろ歩いているようじゃ、売れなかったのだな。
と元司は思った。近くの村村から、百姓家の女たちがとれたての青物を担って、酒田の町にやってくる。だが大方は朝のうちに町に入り、昼前には売り尽くして村に帰って行くのだ。
短い影をひき、顔から汗をしたたらせて、元司は老婆のあとから歩いて行った。これから遊女屋に上がろうとしている自分がやましく、老婆を追い抜くのを憚るような気持になっていた。
角をひとつ曲って、老婆の姿が見えなくなると、元司は大いそぎでいつも行く遊女屋に駆けこんだ。すぐに馴染《なじ》みの遣り手婆さんが出てきた。しげよという名で、婆さんというが、まだ五十前の肥った女だった。
「おや、いらっしゃい。若旦那」
としげよは言った。
「お暑うございます。しばらくお見えになんなかったですねえ」
「うん。少し慎んでいたのだ」
「あら、若いひとは慎んだりすっと、身体に毒でしょ」
しげよは元司の後から肩を打った。元司の素姓を知っていた。元司は来るたびにしげよに心づけを渡しているので、ここでは、昼日中から登楼する野暮さかげんを気にしたりする必要はなかった。
「少し昼寝をさせてもらうか」
「昼寝ですって?」
元司をみちびいて梯子にのぼったしげよは、のぼり切ったところでふり返った。
「なにを遠慮なさってとこ、若旦那。この家サは酒も女もそろってますよ」
「でも、女たちはまだ寝てるだろう」
「冗談おっしゃっちゃ困ります」
しげよは、二階の部屋に入ると、勢いよく障子を開けて回った。
「そんげ寝かして置いたんじゃ、商売になりませんよ。ゆうべお茶をひいた女の子なんざ、朝の暗いうちから起きて、仕事してますよ」
しげよは遣り手婆さんらしい、きつい口をきいた。
「ほんと。みんな高い金を払った身体なんだもの。で? どうなさいますか?」
しげよは元司に座布団をすすめ、その前に膝をついた。丸く肥っているが、血色の悪い顔に下卑た笑いが浮かんでいる。
「まさか、ほんとに昼寝すんなじゃ、ごさいませんでしょ?」
「そうだな。ンだばまず、酒をもらおうか」
「お酒だけ?」
「お松、いるかい? お松」
元司は、何度か寝たことのある妓《こ》の名前を言った。器量はあまりよくないが、ぽっちゃりしたやわらかい身体をもち、元司と会うと痒《かゆ》いところに手がとどくような扱いをした。それでいて元司を自由に遊ばせておくようなところがあって、元司はお松といると何も気をつかわずに済んだ。元司より二つ年上だった。
女の名を口にしたことで、元司は不意に新鮮な欲情が、身体の中に動き出すのを感じた。藤本津之助という絵師がきてから、元司は別のものに心を奪われ、女のことなど思い出すこともなかったのだが、いまはお松のやわらかく屈伸する身体と、そのあたたかみを手にとるように思い出していた。
「おや、お生憎さまだこと」
と、しげよが言った。しげよは笑いをひっこめて、気の毒そうな顔をしている。
「若旦那は、お松がお気にいりだったんですよね。でも、あの子は事情があって船場町の方に移ったの」
「いつ?」
「半月ほど前ですよ」
船場町も繁昌している廓だが、今町の廓より格が少し落ちる。お松の上に起きた事情があまりよくないもののように元司は感じた。だがそういうことは、聞いてみても仕方ないことだった。廓で働く女たちは、みんないろいろな事情をかかえ、水に流されるように漂い動くのだ。昨日までいた女が、今日はいなかったということも、珍しいことではない。
元司は、それでは一度船場町に、お松をたずねて行ってみようと思っただけだった。
「船場町の何という家だね」
「住吉ですよ」
「お松がいなきゃ、仕方ないな」
「どうしましょ? まさえでも呼びますか?」
まさえは、この廓内でも評判の、美貌をうたわれる妓だった。
「いや、まさえでなくともいい。そうだな。ゆうべお茶をひいたというのは誰だい。可哀そうだから、その子を呼んで酌してもらうか」
「お由ですか」
遣り手のしげよは、小鼻に皺を寄せて笑った。
「若旦那がまあ、いっぱし遊び人みたいなことをおっしゃって。そういうことは、遊び倦きた殿方がおっしゃることでしょ?」
「そうかな」
「そうですよ。ンだども呼んでやれば、お由が喜びますけどね」
「お由というのは、聞いたことのない名前だな」
「来たばっかりですから。お松と入れかわりぐらいに。気がきかない、まだ子供だども、えがし?」
「誰でもいい。酌をしてもらうだけだから」
「そんなこと言わねで、少し仕込んでくださいよ」
そう言ってしげよが部屋を出て行くと、元司は、座布団を二つ折りに畳んで、寝ころぶとそれを枕にした。
──まさえは、だめだ。
と元司は思っていた。評判に釣られて、一度寝たことがある。きれいな取り澄ましたような顔をしているのに、床の中で大騒ぎする女だった。こういうところが、男にもてはやされるのだな、と思ったが、元司は興ざめした。遊里でいうところの、実のない女のように思われた。
しげよが開けはなした窓から、風が吹きこんでくる。外にいるときよりは、幾分涼しい風だったが、それでも胸は汗ばんでいた。そうしてひっくり返って女のことを考えていると、いかにも遊冶郎という気がしてくる。
──いまごろ、やってるかな。
元司は伊藤の屋敷の裏にある馬場を思い描いた。暑い日射しに曝《さら》された土の上で、竹刀をふるい、跳びはねている連中のことを考え、のうのうと畳にひっくり返っている自分を、少しやましく感じたが、興味は撃剣から遠ざかっていた。道場には、家の者に怪しまれない程度に顔を出していればいいさ、と思っていた。
声がしたので、元司は起き上がった。
酒肴《しゆこう》の支度を手に捧げた若い女が、部屋に入ってきたところだった。女は元司の前に膳を据えて、お由と言います、と挨拶したが、そのまま固くなってうつむいている。
女がまだ子供子供しているのに、元司は驚いていた。貧血の気味があるのか、青白い顔をし、揃えた膝も、その上に置いた手も痩せている。廓に買われてきて、まだ幾日もたっていない固さととまどいが、細い全身にあらわれていた。元司は痛いたしい気がした。
「あんたは、いくつ?」
盃をとりあげながら、元司はたずねた。
「十六です」
女はぽっと顔を赤らめて答え、あわてて銚子をとって酒を注いだ。すると女の身体に、不意に匂いたつような女らしさがあらわれた。女は顔色が悪く痩せていたが、きれいな眼鼻だちと白桃のような皮膚を持っていた。
「十六なら、おれよりひとつ下だ。あんたも一杯どうですか」
元司は女に盃をさした。すると、女はしりごみするような身ぶりで、ことわった。元司を見た眼に、軽いおびえがあった。
──なるほど。これじゃ売れまい。
元司は苦笑して、置き物のように坐っている女を眺め、黙って飲みつづけた。家の者には隠していたが、元司は酒が強くなっていた。酒がうまく、酔った気分がまた悪くなかった。極端に無口な女を相手に、元司は時どきぽつりぽつり話しかけながら盃を口に運んだ。
酒の席でわざとらしくにぎやかにする女を、元司は好きでなかったので、女の無口はあまり気にならなかった。飲みながら、船場町に移ったお松のことを考えたり、藤本に洩らしたほかは、誰にも秘めたままにしてある家を出る望みを、胸の中でころがしたりした。藤本は簡単に、出たければ出ればいいなどと言ったが、そう簡単に運べることではなかった。そのことを考えると元司は気が滅入る。あてのない望みだという気がした。
いまも、考えているうちに苛立ちがこみあげてきて、盃を口に運ぶ手が早くなっていた。元司は女に銚子を変えさせ、自分も次第に無口になって飲みつづけた。
「気にしなくともいいよ」
元司は、女が恐れるように自分を見守っている気配に気づいて言った。
「おれはお喋りな女よりも、口数が少ないひとの方が好きなんだ。もっともあんたは、喋らなすぎるけどな」
一杯頂けますか、と女が言ったのは、日の色が鈍くなり、家の中がどことなくざわめいてきたころだった。盃を干すと、女が言った。
「あの、床をつけてもらえますか」
「………」
元司は女を見た。女の眼に必死ないろがある。女は今夜もお茶をひくのを恐れていた。
「その方がいいのか」
女がうなずくのを見て、元司はこっちへ来いと言った。そばにきた女の手を握ったとき、元司は放蕩の血がせきを切るのを感じた。
二
元司はいそがしくなった。伊藤の道場に通い、今町と船場町の両方の廓に通った。
船場町の住吉にお松をたずねると、お松は大喜びで元司を迎えた。しばらく遊びから遠ざかっていたために、一たん禁欲を解いてしまうと、元司の遊びはとめどがなくなった。お松に溺《おぼ》れた。
一方で元司は今町のお由にも通っていた。口数の少ないお由が、どことなく自分を頼っているふうなのを感じると、行ってやらずにいられなかった。通っている間に、お由の身体から固さがとれ、少しずつ女らしくなって行くのにも気持を惹きつけられていた。お由は季節が秋に入るころには、ほかの客もつき、朋輩が働いている間に、ひとりお茶をひいているようなことはなくなっていた。
その男に声をかけられたのは、秋のある日暮だった。男はうしろからきて、元司の肩を叩いた。
「胴がガラ空きだぞ、一本だ」
男はそう言って元司の顔をのぞくと、馴れなれしい笑い声をあげた。男は平野という名前で、酒田の亀ヶ崎城に勤める下士の子弟だった。二月ほど前から伊藤の道場にきていて、元司も顔を知っているが、これまで話したことはなかった。
だが平野とは別のところでも、時どき顔が合った。平野は船場町の住吉に通ってきていた。元司にお松という女がいるように、平野にも住吉に馴染みがいるらしかった。あいつは相当の遊び人だな、と元司は自分のことを棚にあげて、そう思ったことがある。
「よく会うな」
平野は一そう馴れなれしい笑いを浮かべて、そう言った。平野は二十四、五に見えた。色白の、つるりとした細面で、眼がやさしく、いかにも女にもてそうな顔をしている。だが、その分だけ、人間が軽薄にみえた。元司は多少迷惑な気持にとらわれながら、あいまいな笑いを返した。
「まだ早いだろう。あそこでちくと一杯入れて行かんか」
平野は船場町の入口にある居酒屋を指さして言った。
平野の言うとおり、まだ少し時刻が早かった。日が海にはいるらしく、空に浮かんだ雲が熟れた茱萸《ぐみ》のような色を帯びはじめていたが、町はまだ明るかった。町に灯が入るまで、まだ少し間があるようだった。
元司は平野の後に続いて、居酒屋の暖簾《のれん》をくぐった。店の親爺は、まだ夜の支度をしているところだったが、平野の顔をみるとすぐに酒を出し、焼いたするめを出した。平野はよくこの店に来ているらしく、親爺にざっくばらんな口をきいた。
「俺も遊ぶが、あんたもよく遊ぶな」
平野は、馴れた手つきで元司と自分の盃に酒を満たすと、ちょっと捧げるようにして飲み、改めてそう言った。
「いつか、あんたに聞こうと思ってたんだ」
「なんですか」
と元司は言った。
「あんたは廓遊びが面白くて遊んでいるのかね」
「そりゃ、女遊びは面白いですよ」
元司は平然と言った。
「へぇ、十七でね。立派なもんだな」
平野は手酌で酒をつぎながら言った。元司の素姓をよく知っている口ぶりだった。
「金をたっぷり持って遊んでいる人間は、そういうものかな」
「………」
平野は絡むつもりなのか、と元司は思ったが、違ったようだった。平野は不意に眼を光らせて言った。
「おれは違うな。おれは不満があるから遊んでるんだ。遊びでもしなければ、毎日がむしゃくしゃしてかなわん」
「どうしてですか」
「どうして? あんたはわれわれのような身分の者の暮らしを知らんから、そういう聞き方をする。上の者に頭を押さえられているから、行く末芽が吹くなどということは、まず生涯あり得ない。そうかと言って、身分に縛られているから、百姓町人の気楽さもない。一番損なところにいるわけよ、われわれ軽輩の城勤めの者は」
荘内藩は、藩政初期に鶴ヶ岡城の支城亀ヶ崎城に城代を置いたとき、馬上二十二騎、足軽三十人を亀ヶ崎城に配置した。しかしその後時勢の変化に応じて、家中二十五名、給人、足軽二百人ほどが常駐するようになっていた。そして本城から遠い支城勤めには、一種の怠惰な空気があった。
「本城勤めなら、同じ軽輩でも何かの才によって引きたてられるということがあるかも知れんが、ここではそういうことはまず絶対にあり得んことだからな。真面目に勤めても、不真面目にやっても、もらう扶持米に一俵の増減があるわけじゃない。そういう家を継ぐかと思うと、アホらしくもなるよ」
この男に何の才がある。ただ怠惰の風に染まっているだけではないのか、と元司は思ったが黙っていた。平野の不満がわかるような気もしたからである。事情は違うが、平野は元司が感じているような、ある閉じこめられた感じの中で、やはり出口を探しているのかも知れなかった。
だが、おれならそれを廓遊びの言いわけなんかにはしない。遊びは遊びだ。そこにおれを連れて行くものは、べつの力だ。元司は平野に酒をついでやりながら言った。
「でも、つまりは女が好きだから遊ぶんでしょ?」
「そりゃそうさ。嫌いだったら女郎屋になんぞ来やしない。おい、話の腰を折るなよ」
と平野は言った。
「どうぞ、続けてください」
「千万多という奴がいたんだ。阿部千万多だ。あいつはえらかったな」
「どういうひとですか?」
「おれの家は鶴ヶ岡から来たんだが、阿部は最上家以来の亀ヶ崎城勤めでな。先祖代代足軽の家柄さ。親の子が足軽、子の子がまた足軽というわけだ。どこへも行けるもんじゃない」
「………」
「ところが千万多は出て行っちまった。あのときは驚いたな。奴はいま、江戸で東条という学者塾に入って学問に励んでいるよ」
元司は不意に胸が騒ぐのを感じた。そうか、やはりそういう人間が、世の中にはいるのか、と思った。出たければ、出たらいいのですと言った、藤本津之助の言葉を思い出していた。
「もう少し、くわしく話してください。平野さん」
「阿部のことか。いいよ」
平野は、銚子を振って、親爺カラだぜと言った。
「千万多はおれ同様後継ぎだからな。家を出られるわけはなかった。だがよっぽど学問したかったのだな。家を出るために、奴は足が悪くなったふりをはじめたんだ」
阿部千万多は、三年の間杖をつき、足をひきずって酒田の町を歩いた。そして世間が、千万多は足が悪いと信じたころあいを見はからって、上司に御役ご免隠居の願いを提出した。藩には若隠居の制度があり、不具廃疾のゆえにお役目が勤まらないと判断したときは、役を継ぐことを免じることがある。
願いは受理され、千万多は正式に御役からのぞかれて、自由の身となった。彼はただちに、ぴんぴんした両足で江戸遊学に旅立った。
「おれは千万多とは友だちにしていたから、足が悪いふりをする、と打明けられたとき、やめろと言ったんだ。そんなことで世間をだましきれるもんじゃない。考えが甘いと言ってやったんだ」
「………」
「ところが不思議なもんだな。三年もの間、足をひきずって歩いている千万多をみていると、こいつ本当に足が悪くなったんじゃないかとおれまで思ったもんな」
「………」
「結局のところだ。あいつはえらかったよ。初一念を通したんだから。それにくらべるとおれは駄目だよな、親爺。おれは口ばっかりだな」
平野は酔ったらしかった。大声で喚くのに、親爺が、いえ、そげだことはありませんよ、と言った。
「そげだことはないって、何だいその声は。誠意がこもってないよ、誠意が。な、斎藤。そうは思わんか」
「その阿部というひとが行った、江戸の塾というのはどういうところですか」
「東条一堂と言ってな。江戸の大儒だよ。わが藩の給人、足軽。つまり軽輩で志がある奴が、一度は行くところが東条塾さ。おれも昔はあったんだな、その志が。だが千万多の真似は出来ん。おや、暗くなったぞ。行くか」
三
結局居酒屋の酒代は、元司が払わされた。だがそのことがあまり気にならなかったほど、元司は平野に聞いた阿部千万多という男の話に、心を奪われていた。
その夜、元司は船場町の入口で平野に別れた。お松の面影がうすれ、そのかわりに、平野が描いて見せた阿部千万多という俊才の姿が、元司の脳裏一ぱいに立ちはだかっていた。子供のころから学問に励んで、神童と言われ、佐藤三弥記に剣を学んで、凡手でない技倆を身につけた男。四年前の二十一のとき、故郷を捨てて江戸に出、いまは東条塾の逸材と呼ばれているというその男は、束の間に元司の偶像として立ち現われたようだった。
「何だい、お前も変な男だな。ここまで来て敵に後を見せるとはおかしいじゃないか。女がこわいか、女がこわくて、船場町の入口できんたまが縮んだか、やい」
元司が振り切って別れると、後で平野の喚く声がした。だが元司は振りむかなかった。酒田の町をはずれて、暗い野に出ると、元司は走り出した。息をはずませて走った。
──今度こそ、言ってみよう。
闇の中を走りながら、元司はそう思った。江戸遊学のことは、父親の前で何度か言いかけて、そのつど断念している。とうてい叶う願いでないという諦めが、心の底に沈んでいて、最後に元司を沈黙させたのである。
だが、阿部千万多がやったことは、もっとむつかしいことだった。彼はとうてい不可能なことを、それも藩を相手にやったのだと思うと、にわかに心を励まされるようだった。九月の闇は寒かった。元司はその中を清川村にむかって走り続けた。疲れると道端に腰をおろして休み、また走った。
翌朝、元司は店に出る前の父親をつかまえて、出府遊学の希望を切り出した。気遅れがして、元司は言うことがしどろもどろになった。言い終ったとき、脇の下にじっとりと汗をかいていた。
だが、父親の答えは、予想以上に厳しかった。父親の豪寿は、一緒に聞いていた母親の亀代が、顔色を変えてなにか言いかけるのを厳しい眼でとめると、静かな表情で言った。
「私はな、お前がいつか、こういうことを言い出すのでないかという気がしていた。だが、いつ言い出そうと、私の答えは決まっていたよ。はっきり言っておこう。出府は許しません」
「一年でも、いえ一年が無理なら、半年でもいいのです」
「何を言うか」
と豪寿は言った。静かな声音だったが、その中には怒気が籠っているのを感じて、元司は心がすくんだ。豪寿は温厚で、人に怒りを見せたことのない人だった。その父が怒っているのを元司ははじめて見たのである。
「一年が一年で済まず、半年が半年で済まなくなることは、子供でないのだからお前にもわかるだろう。一度家を出れば、お前はもうこの家には戻らん」
豪寿の口調には、うむを言わせないひびきがあった。元司は口をつぐんだ。つみ上げて来た望みが、音たてて崩れる音を聞いていた。かすかに光を投げかけていた場所が眼の前で閉ざされ、胸の中が暗黒で占められるのを感じた。
四
「そういうわけで、江戸行きの話は、おしまいになったよ」
元司は、今町の遊女屋で、馴染みのお由に言った。元司は柱によりかかり、片手でお由の肩を抱き、片手で空の盃をもてあそんでいた。酔いが、少し醒めかけている。
「若旦那、かわいそう」
とお由が言った。お由は元司が立てている膝を両腕で抱いて、膝頭に顎を乗せている。人にしなだれかかっている猫のように見えた。
お由は、元司がはじめて会ったころにくらべると、まるで別の女のように面変りしていた。こけていた頬に肉がつき、血色がよくなり、黒目がきらきら光っている。細身は細身だが、手足から骨ばった感じが消えて、身体のあちこちに丸味が出てきていた。皮膚には一種の光沢がつきまとっている。お由はいま、女の一番美しい時期を迎えようとしているように見えた。
だがその美しさが、堅気の娘のものでないことも明らかだった。口少ないひっそりと坐っているお由は、もの憂げに美しい一人の娼婦だった。
「でも、あたしはその方がいい」
長い睫《まつげ》を伏せてお由が言った。
「なにがいいんだね」
「若旦那が江戸に行かない方が」
「案外に不人情な女だな、お前も」
「だって、行ったらもう会えなくなるもの」
お由は吐息を洩らして顎をひくと、今度はそのままの姿勢で、元司の膝頭に頬を乗せた。熱い頬だった。手をのばして、元司はお由の身体を抱きあげると、膝の上に横たえた。仰向けに抱かれたまま、お由は瞬きもしない眼で、元司を見上げていた。元司が口を吸うために顔を近づけると、お由の眼は花がしぼむように、ゆっくりと閉じた。
「あの男は、まだ来てるのか」
不意に元司は言った。あの男というのは、伝馬町に木綿問屋の店を持っている、伝七という男のことである。四十半ばの肥った小柄な男だった。いつもお由を名指しでくる。
「ええ」
「………」
「仕方ないでしょ。売り物だもの」
元司は沈黙したが、いままで感じたことのない嫉妬のようなものが、胸に動くのを確かめていた。お由のような脆く美しい女が、伝七のような男とも寝なければならないということが、ひどく理不尽なことに思われた。
「いい考えがある」
「なあに?」
「清川に来ないか。ここに話をつけてやるから、四、五日泊りに来い。船宿に部屋をとってやるから」
「ほんと?」
お由ははね起きた。お由は膝をそろえて坐ると、嬉しそうに笑った。
「それが出来たらどんなにいいでしょ。ここサ来てから、あたし外に出たことがないのよ」
お由に話したことを、元司は実行に移した。清川の舟着き場に近い場所にある船宿に、ひと間を借り、お由を抱えている楼主に頼みこんで、女を借りうけることに成功した。祖父の昌義がかつて懸念した、元司の|ど《ヽ》不敵があらわれたのである。楼主は元司の家の財力と、元司の人物を信用していた。
舟で、お由を船宿まで運ぶと、元司は関所の畑田の家に行くと称して家を出て船宿に行き、深夜まで女と一緒にいた。家から持ち出した書物を、女のそばに寝ころびながら読んだりした。不思議なことに、そういう暮らしの中でも、元司の読書欲はいっこうに衰えなかった。春から独力で読みはじめた左氏伝は、そろそろ終りに近づいていた。
だが、巣に籠るようにしていた女との暮らしは、間もなくあっけない終り方をした。船宿に女を隠していることが、いつの間にか村人の噂となってひろがり、父親の耳に入ったのである。
父親は激怒した。父の豪寿は、元司が母親から金を引き出して、廓遊びをしているらしいことは知っていた。しかし江戸に行くなどと言われるよりはいいと思い、男には廓遊びも必要だという気持もあって、見て見ぬふりをしていたのである。
だが地元に女を隠して遊興しているということになると、村の風儀を乱すと考えたのであった。斎藤家の体面というものもあった。珍しく祖父の昌義も、元司を呼びつけて叱った。
昌義は元司の学才を愛し、時に示す物事に対する集中力と放胆な性格を認めていたが、その性分が、紙一重のところで放埒と繋っていることも見抜いていた。元司が今度したことを、最後の慎みを越えた放埒と判断したのである。
お由は斎藤の家の使いをつけられて、丁重に楼主に戻された。
五
「おい、元気がないじゃないか」
数日後、久しぶりに伊藤の道場に行った元司に、竹刀をさげた平野が近寄ってきた。道場と言っても伊藤の稽古場は、外の馬場である。素足に土が冷たかった。
熱心な者は、土の冷たさなど気にもかけず、空脛をむき出しにして竹刀をふるっているが、元司は竹刀も持たず、ぼんやりとそれを眺めていたのである。
元司は顔をあげた。平野の顔は薄笑いが浮かんでいる。
「近ごろ船場町でも会わんな」
「………」
「倦きたのか」
元司は黙ってうなずいた。確かに女にも撃剣の稽古にも倦きていた。むなしいことをやっているという気がした。
「それじゃ、ちょっと面白いところに案内するか。ただし、金はそっち持ちというのが条件だが、行ってみるかね」
平野はそばへ寄ってきて、素人女と遊べる家を知っているのだ、と囁いた。
元司と平野が、舟を雇って最上川に漕ぎ出たのは、翌日の日暮れどきだった。船頭は無口な五十過ぎの男で、たくみに舟をあやつって、川を漕ぎくだった。舟は船場町の裏側につけるのだという。
「この親爺にまかせておけば心配ない」
と平野は囁いた。
川岸に立ちならぶ家家の間に、その家がある。水夫宿と呼ばれ、舟乗りを泊めるのが本業だが、表からみては何をやっているかわからないような家に作っている。それはただ舟乗りを泊めるだけでなく、下積みの水夫が舟の者に隠して持ちこむ品物を買いとったり、市中の隠し売女《ばいた》を呼んで、彼らをそこで遊ばせたりするためだった。むしろそっちの方が本業だった。
そこには、貧しいが廓に身を売るまでの決心はつかない娘や、病気の亭主や子供を抱えた人の女房などが、素人の身なりのまま出入りする。むろん法度からはずれた商売なので、女たちの肉はひそかにひさがれる。こっそりと噂を聞き伝える男たちが知っているだけだった。
廓の娼婦たちにくらべると、水夫宿に通ってくる女たちの値は格段に安かった。廓に上がる金を持たない下積み水夫たちは一とき、寝て面白味もない素人女を抱き、そのあとで酒を飲み、仲間同士で博奕を打って夜を明かすのである。
だが世の中には、廓に行く金がありながら、素人女ということに眼をつけて、水夫宿の亭主にわたりをつけ、わざとそこに遊びに行く者もいた。見つかれば罪になる。その危険もあわせて楽しんでいた。
平野は、そういう男の一人と知り合い、二、三度その水夫宿で遊んでいた。見つかったら切腹ものだよ、と元司に話したとき平野は真顔で言ったのだ。
「あそこだ」
平野が囁いた。海に日が落ちて、川は白っぽい暮色に包まれていた。石垣の下に小舟が四、五艘つながれて、その上に陰気に黒い建物が建っていた。舟はゆっくり石垣に近づいて行く。
──あの家へ入ったら、おれはおしまいだな。
不意に元司は思った。一瞬身体が総毛立ったような気がした。自分の堕落の底を見た気がしたのだった。これは、もう遊びではない。廓で女を抱くのとはわけが違う。
「おれはやめる」
元司は言った。平野がふりむいた。険しい表情をしていた。
「やめる? どうした?」
「素人女と遊ぶのは、気がすすみませんよ」
「おじ気づいたな」
平野は低い声で嘲った。
「貴様、見どころがあると思ったが、案外に度胸がないな」
「いや、法をくぐるのがこわいとは言っていません。だが素人を買うのは、私の性に合いません」
元司はきっぱりと言った。
「ま、いいさ」
平野は身体を起こした。舟は石垣の下に着いていた。そこから斜めに板橋が架けられている。板橋は真直ぐに、上の黒っぽい建物の裏口らしい戸の前に通じている。
「遊ぶ度胸がない者を誘っても無駄だ。帰ったらよかろう」
平野は身軽に橋に移った。そして向き直ると、舟の上の元司に顔を突き出すようにして囁いた。
「だが、この家のことは、口外無用だぞ。はっきり言わんと約束しろよ。そうでないと、帰りにその親爺に、川に沈められるかも知れんからな」
元司は首を回して船頭をふりむいた。船頭は艫にうずくまって煙草を吸っていた。平野の言葉が聞こえているはずなのに、船頭は顔も上げずに、薄暗い水面を見ていた。煙草の火だけが、時どきぽっと赤くなる。薄闇が寄せてくるなかにうずくまっている、半白の髪とがっしりした肩が無気味だった。
「むろん、人に言ったりはしません。そのぐらいのことは承知してますよ」
よし、よしと平野は言った。平野は白い歯をみせて笑うと、軽い足音を残して板橋を上にのぼって行った。
元司は、がっくりと緊張がとけるのを感じた。自分が、ある越えてならないものの前で、あぶなく踏みとどまったのがわかった。
廓の女たちは、金のために身売りしたあわれな女たちだった。だが、半面男と寝るのは商売と割りきっていた。男を上手に遊ばせ、楽しませる腕をきそい、そこに自分なりの誇りも持っていた。いつまでもじめついたりはしていなかった。
廓の水に染まった女たちは、そこで男たちと対等にふるまうようになる。男と寝るのが好きさ、とはばからずに言う女もいた。そこでは、男たちが彼女らの情のある扱いを欲しがって、機嫌をとったりする。そして商売と割り切って身体を重ねる間にも、真実が生まれ、身請けされて廓を出て行く幸運を掴むこともないわけではなかった。
だが、水夫宿に人眼を忍んで通ってくる女たちは、男に抱かれるいっとき、ただ金のために苦痛を忍ぶだけだろう。金が乏しくて廓に行けない水夫たちが、女たちを買うのは理由がある。だが平野やおれは金を持っている、と元司は思った。二人にあるのは、人と寝る素人女を覗《のぞ》き見したいという、うす汚れた好奇心だけだ。
「どうすっかな? 兄《あん》ちゃ」
船頭が声をかけた。船頭は煙管《きせる》をしまって、櫓《ろ》をにぎりながら元司を見おろしていた。
「もとのところに帰ってくれ」
と元司は言った。
舟が石垣を離れ、暗い水が舟べりに音を立てるのを元司は聞いた。
──このままでは駄目になる。
しかしこういう暮らしをつづけていれば、今日のようなことは、またあるに違いないと元司は思った。薄闇の中に、元司は阿部千万多という、顔を知らない男の姿を描き、自己嫌悪に陥っていた。
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出 奔
一
弘化四年四月九日。元司は鶴ヶ岡城下にある畑田安右エ門の家をたずねた。畑田は今度江戸詰めが決まり、半月ほど前に関所勤めをやめて城下に戻っていた。畑田が清川村を去る日、元司は畑田を送って一度鶴ヶ岡まできている。今日は二度目の訪問だった。
玄関に迎えに出た畑田の妻女に、元司は持参した鱒《ます》のみやげをさし出した。
「家の者が、最上川で獲ったものです」
「おや、こんな大きな鱒を」
畑田の妻女は、まだ生きて動き出しそうな鱒を、喜んで受け取った。
「ご在宅ですか」
「おりますよ。そのまま座敷まで上がってください」
妻女は、鱒を持って台所に行きかけたが、ふと戻ってきて言った。
「名残り惜しそうですね、元司さん」
「はあ」
「なにか、畑田に申したいことがあるのじゃありませんか。この間、送っていらしたときもそう思いましたけど」
畑田の妻女は聡明な女性だった。この間からの元司の顔色を読んでいたようだった。
「おっしゃりたいことがあるのなら、いまのうちですよ」
妻女はそれだけ言うと、軽く微笑して台所に入って行った。
──今日こそ、言ってみよう。
黙って家の中に上がりながら、元司はそう思った。畑田の妻女のやさしい微笑に力づけられていた。畑田の出府を聞いたとき、元司は家を出る機会がきたと思った。畑田に同行して江戸へ行こう。そう思って、元司は隣村の知人に路銀を借り、身辺を整理して、ひそかに出府の準備をしていた。だがそのことは、まだ畑田に言っていなかった。この前畑田を送ってきたときも、言いそびれている。
畑田は戸を開けはなした六畳の部屋で、書物を整理していた。畑田は畳の上に散らばった書物を片寄せて、元司の坐る場所をつくってくれた。挨拶がすんで、しばらく雑談したあとで、畑田は言った。
「向うに持って行く書物がけっこう多い。そなたにやりたい書物も出てきたが、持って帰るか」
「先生」
元司は顔をあげ、唐突に言った。
「私を江戸に連れて行ってくれませんか」
「江戸へ? 一緒にか」
「はい」
畑田は手にした書物を置いて沈黙した。畑田の家は組長屋の端にある。家の中から、さわやかに日が照る野が見えた。働いている農夫の姿が小さく見え、どこかで郭公鳥が鳴いている。畑田は眼を元司に戻した。
「それは、無理だな」
と畑田は言った。畑田は今年の二月ごろ、元司に頼まれて、江戸に遊学したいという元司の希望を豪寿に伝え、自分も言葉をそえて願ってやっている。だが豪寿の返事は、丁寧な口調でいながら、にべもないものだった。
「せっかくの先生のお言葉ですが」
と元司の父は言ったのだ。
「元司は家の跡取りです。どうしても江戸へ行くというなら、それは跡取りの器量がないということでしょうから、親子の縁を切って出してやります」
豪寿の言葉には、うむを言わせないひびきがあった。畑田は元司の江戸遊学が、結局は他人が立ち入ることの出来ない、斎藤家の内輪の問題であることを覚った。
畑田は恐縮して言葉をひっこめ、逆に同席した元司の母に、元司を説得してくれるように頼まれて、あいまいな顔で承知したりしている。畑田は、そのときの苦い経験を思い出していた。
「そなたの望みは十分にわかっているが、私が立ち入ってはまずい」
「先生にご迷惑はかけません」
元司は正面から畑田を見つめて言った。元司の頬はわずかに紅潮しているが、静かな視線だった。
「ただ、連れて行って頂くだけでいいのです。私は早くから、あの家を出ようと、心に決めておりました。そのためにきっかけを探していましたが、先生のご出府こそ、待ちのぞんだきっかけです」
「つまり、無断で家を出るわけか」
「はい」
「もう一度、よく考えてみてはどうかの。親の嘆きも考えねばならんぞ」
畑田はもてあましたように言った。元司の望みの深さはよくわかっていた。また凡庸でない学才を惜しんでもいた。
畑田は、元司が十五のときに、易をさずけ、礼記をさずけた。そのとき元司は片はしから暗誦し、畑田を瞠目《どうもく》させている。昨年一人で春秋左氏伝を読み通したことも知っていた。畑田は今年になって、こころみに二、三の経書を元司に講義させてみている。そのとき元司が示した理解力はすばらしいものだった。ある個所では、畑田が思わず小さくうなったような、卓抜な解釈を述べたりした。それは畑田がこれまで気づかなかった解釈だった。
眼の前に坐っている若者が、天性ともいうべき学才を秘めていることは確かだった。
──江戸へやれば、さらにのびよう。
どこまでのびるかわからんと畑田は思う。そう思う気持の中には人の師となった者が味わう、ぞくぞくするような期待がうずいている。このまま、清川村に埋もれさせたくないという気持がある。斎藤の家は、近隣にきこえる富豪だが、この若者の中には、その富豪の主でおさまりきれない、何かべつのものがあると思う。
そう思うから、父親にもかけ合ってみたのだが、結果はああいうものだった。畑田は一度手を引いている。手を引いて、ほっとした気持があったことも事実である。畑田は人の運命にかかわることのこわさを知っていた。江戸へ出て、それが元司のしあわせになるかどうかはわからないことだった。
「このままここにいれば、私は駄目な人間になります」
「………」
「そのことは、先生もお気づきだと思います」
「女遊びのことか」
「はい」
「やめられんか」
元司はうつむいた。それも畑田にはわからないことだった。学問に対して、天賦の才を示す若者は、一方でほとんど子供の時分から、紅灯の巷をさまよってきた遊蕩児でもあったのだ。
今年の正月、畑田は斎藤家をたずねた。元司は酒田に出かけて留守だったが、そのとき畑田は、元司の母親に奇妙なものを見せられている。
半紙を四つ折りにして綴じた帳面様のもので、そこには元司の筆で、酒田今町の遊女屋二十七軒と一軒一軒の抱え遊女の名が、克明に記されていた。それを畑田に見せたときの母親の困惑した表情が忘れられない。
元司の女遊びの激しさは、畑田の理解を超える。しかし畑田は、わからないものに対しては慎重だった。
「困ったのう」
うつむいている元司をみて、畑田はいまもそう言って嘆息しただけだった。
すると元司が袴の上に涙をこぼした。元司は畑田をたずねるとき、いつも羽織、袴をつけてくる。袴の上に拳を置いたまま、元司は涙をこぼしていた。
不意に畑田は、この若者が持つある悲劇的な性格に思いあたった気がした。いいにつけ、悪いにつけ、元司は徹底しなければやめないところがある。その中で最後には、自分自身押し流されるまで集中して行くのだ。それが学問にもあらわれ、遊蕩にもあらわれる。その性向を、彼自身どうしようもなくている。
足音がして、妻女が茶と茶菓子を運んできた。元司はいそいで涙を拭いた。
「召しあがれ」
妻女は元司の前に菓子をすすめたが、様子に気づいたらしく、夫をふりむいて小声で、どうしたかとたずねた。
「江戸へ連れて行けと申しておる」
畑田は困惑したように言った。畑田は迷っていた。元司が言うとおりで、このまま我慢して斎藤家を継いでも、元司はあるいはつまらない放蕩者として一生を終る可能性もあった。斎藤家の者はそこまで見ぬいてはいないと思った。家名を汚す者にならんとも限りませんと言った祖父の昌義は、元司の性向をある程度見ぬいているが、それにしても、まだ孫に対する甘さがあるだろう。
──江戸で学問させるのが、元司にとっても、斎藤家にとってもいいかも知れない。
そうも思うのだ。だが、そこの責任を負えるか。迷っている畑田に、妻女が、女子が口をはさんではどうかと思いますが、と言った。
「元司さんは十八。もう大人ですよ。いま諦められないものなら、この先もずっと悩みつづけるのでないかと思いますが、一度ためしにお連れになってはいかがですか」
畑田は小さくうなって元司を眺めた。まだ、いいとは言わなかったが、妻の言うことももっともだと思っていた。
二
元司は床を離れると、部屋の窓を細目に開けた。外はまだ暗かった。そして微かな雨の音がした。だが暗い空に仄白い、漂うような光があった。夜が明けようとしていることは確かだった。
元司はそのまま起き上がって、手さぐりで布団をたたみ、昨夜枕もとに用意した旅支度を身につけた。国重の刀を腰にさし、振り分けにした小さな行李の荷と、押し入れに隠しておいた合羽と笠を持つと、元司は音を立てないように廊下を踏み、家を忍び出た。
家の横手に出て、木戸口の錠をはずし、外に出た。家も村も、まだ眠っていた。遠いところで、にわとりが刻《とき》をつくる声が聞こえるだけだった。
塀の外で元司は合羽と笠をつけた。そして家の裏手から河原の方に回って行った。家出の書き置きを残してきている。夜が明けはなれて、家の者が元司のいないことに気づき、書き置きを見つければ、捜索人が八方に飛ぶだろう。追跡をかわすために、元司は村の背後にひろがる山を越えて、西麓の添川村に出、そこから羽黒山の麓の手向村まで南下するつもりだった。そこまではほとんどが山に囲まれた道で、人に出合う恐れはあまりない。
元司は最上川の岸にひろがる御殿林と呼ぶ杉林の中に入りこみ、立谷沢川の岸に出、しばらく岸べの道をさかのぼってから、肝煎という村で山道に入った。空は少しずつ明るくなり、眼も馴れてきて歩きまどうようなことはなかったが、林の中で元司はちがやの切株を踏み、足の指を傷つけていた。だが、気持が張りつめているので、さほど痛さは感じなかった。
槇葉山をのぼり、山伏峠にかかるころ、夜は白っぽく明けはじめた。いつの間にか、雨がやみ、山のくぼみに白い霧が湧いた。元司は下りになった山道をいそいだ。添川村に降りそこから手向村に行き、六十里街道と平行する赤川東岸の村村の道をたどって、大網の関所に出るつもりだった。
関所を無事通過して、六十里越えと呼ぶ月山中腹の難所を越えれば、村山の幕領である。道はやがて出羽街道に出る。元司は街道が通る上ノ山の城下に宿をとり、清川から新庄領に出て南下してくる畑田と、そこで落ち合う手はずになっていた。
畑田に無理に願って、江戸に連れて行ってもらう約束をとりつけると、元司はまた少しずつ家出の準備をすすめた。
宮曾根村の親戚佐藤市郎治に、嫁探しをことわる手紙を書いたのも、そのひとつだった。斎藤家では、元司の放蕩ぶりをみ、また江戸に遊学したい気持が意外に固いのを知ると、早く身を固めさせるのがいいと考えたのだった。
元司の嫁探しは、今年になって急に具体化して、市郎治が中心になって、あちこちに嫁探しに歩いていたのである。また元司は江戸に持って行く荷物を、口実をもうけて畑田の家に届けさせた。祖父の昌義が温海《あつみ》の湯宿に湯治に出かけたあとだった。昌義の不在は、元司にとって天の助けとも感じられたのである。
三
昌義が湯治に出かけたのは、十日ほど前である。温海は鶴ヶ岡から海岸を南下して、越後との国境いに近づいたところにあった。海岸に浜温海と呼ぶ漁村があり、そこから温海川に沿って山手に深く入ったところに、湯宿が密集する湯温海がある。
昌義が、何も知らずに機嫌よく家を出て行くのを見送って、元司は感傷に心を動かされたが、それで家出がし易くなったことも確かだった。父は店の仕事に忙殺され、母は台所の指図や子供たちの世話で、元司をかえりみるひまはない。元司は荷物をくくったり、合羽や笠、草鞋《わらじ》などの旅支度をひそかに部屋の中に持ちこんで隠したりしたが、家の者は気づかなかったのである。
──いま、おれは江戸に行くところだ。
歩きながら元司は、時どきそう思った。そのことが信じられない気がした。心がおどるようだった。元司は故郷から遠ざかりつつあった。
だが、まだ油断は出来なかった。追手は、もう酒田にも鶴ヶ岡にも、そしてそこから六十里街道や鼠ヶ関口の関所の方にも走りつつあるかも知れなかった。酒田の港にも人が飛んで、越後に行く船の便を調べているかも知れなかった。
元司は雨模様の暗い空の下に、ひっそりと静まりかえっている村村を通って、道をいそいだ。昼ごろ、松根村につき、元司は村はずれの庚申《こうしん》塔のそばで昼飯を喰った。昨日の昼、女中に作ってもらった握り飯は冷たく、粘りを失っていた。田植が済んだ田圃《たんぼ》の向うに、これから越えて行く山塊が見えた。山の頂きは雲に隠れて見えなかったが、暗い雲の下に、山山の斜面に残る雪が見えた。
大網の関所まで来たとき、元司は顔色を曇らせた。荘内藩酒井家の紋所である、丸にカタバミの紋を染めた白幕をめぐらせた関所の前に、五、六人の旅姿の人間がかたまり、ひそひそ立ち話をしている。あたりの空気が物ものしかった。
「何かありましたか」
近づいて、元司がたずねると、中年の痩せた男が、荘内藩を脱藩して、どこかの関所にむかった者がいて、今日は調べが厳しくなっていると説明した。
「次ッ」
六尺棒を持った下役人が出てきて、そうどなった。たまっていた旅人は、一人一人呼び入れられて、最後に元司は一人取り残された。元司は役銭の二百文のほかに、すばやく百文を紙に包んだ。
出判は畑田に頼んで作ってもらい、持っていたが、あまりくわしいことは聞かれたくなかった。下役人が出てくると、元司は紙に包んだ金をそっと渡した。男は出判を出させて眺め、本人かと確かめてから、金包みを受けとった。
「何か事情があるのか」
「家出をしてきたもので」
元司は正直に言った。すると男は笑って、では知人ということにでもするか、と言った。元司は無事に関所を通り、その夜は田麦俣の笹小屋に泊ると、翌五月三日国境を越えた。
二日後の五日の夕方、元司は上ノ山城下の街道沿いの宿の二階から、道を見おろしていた。約束した畑田がやってくる日だった。
穏やかな日射しが町中の往還を照らしていて、人を見誤るような心配はなかった。だが畑田はなかなか現われなかった。畑田が来るのは夕方だろうと思われた。だが元司は八ツ(午後二時)過ぎには、窓ぎわに坐りこんで、道を眺めていたのである。
しかし、畑田はいっこうに姿を見せないままに、町は次第に暮色に包まれはじめていた。
──遅い。
元司はそう思った。途中二度ばかり、階下のはばかりに降りている。その間に、畑田はどこかの宿屋に入ってしまったのでないかと考えたりした。だが、そうかといって、それで宿屋を聞き回っている間に畑田がやってきて、一度問いあわせた宿屋に入ってしまったりすると大変だという気もした。
──ともかく、暗くなるまで待ってみよう。
また兆してきた尿意に耐えながら、元司は腹を決めた。焦ってもしようのないことだった。すっかり暗くなって、それでも畑田が現われなかったら、そのときは、町中の宿屋を一軒一軒あたってみるしかない。
そう思いながら、ぼんやりと街道を見おろしていると、少し心細い気分が襲ってきた。親にそむき、畑田にも見はなされて、知らない人間ばかりが行き来する旅の道に、ひとり行き暮れている気がしてくる。
「………?」
元司は身体を起こした。知っている顔が、町を歩いている。その男は、街道沿いの宿屋を、軒なみのぞいて歩いている。出てくるとき、丁寧に腰をかがめて、尻さがりに道へ出ると、実直そうな顔をうつむけ、また隣の宿屋に入って行く。
男が人を探していることは明白だった。そして探されているのはおれだ、と元司は思った。男は斎藤家の小作人差配をしている惣助という初老の男だった。
「おい」
惣助が、浮かない顔で前の宿屋から出てきたとき、元司は二階から声をかけた。
「惣助、ここだ」
惣助はきょろきょろとあたりを見回したが、元司が手を叩くと、はじめて二階の元司に気づき、嬉しそうに笑った。上がって来い、と元司は言った。
部屋に上がってくると、惣助は口早に国元の騒ぎを話した。予想したとおり、元司の置き手紙を見た家の者は、あちこちに追手を走らせた。
そのうちに鶴ヶ岡の畑田にやった使いが、元司が上ノ山城下にいることを聞き出してきた。畑田は出府も間際になって、急に江戸詰めが取りやめになり、そのときは元司が出たあとなので困惑していたところだったのである。畑田は使いがくると、やむを得ず、そういう事情を話し、元司が上ノ山で待っていることを打明けたのであった。
「そういうわけで、私がお迎えに参じました。今日は遅いので、私もここサ泊めてもらいますが、明日はお家までご一緒してもらいます」
惣助はひと息にそう言うと、腰に下げていた手拭いを掴《つか》みとって、顔の汗を拭いた。
──そうか。畑田先生は、江戸には行かれないのか。
元司は家出の計画が、重大な齟齬《そご》をきたしたことを知った。元司が畑田に同行を願ったのはただ一人旅が心細いからというのではなかった。江戸に行ってから寄宿する場所、またしかるべき師を選んで入塾するについての手配り一切。そういった十八の元司一人では手にあまることを、畑田は世話してくれる手はずになっていたのである。
さっき窓の手すりから外を眺めながらぼんやり考えていたことが、事実になったのを元司は感じた。元司は旅の途中で一人になったのである。江戸はまだ、はるかな山野のかなたにあった。そこへ行っても、誰一人顔を見知っている人間がいるわけではない。
ただ容貌も定かには知らない二人の人間の顔が、ぼんやりと見える。東条一堂、阿部千万多。
うつむいてじっと考えこんでしまった元司を見て、惣助は心配そうに言った。
「今夜は、私は隣の部屋に寝かせてもらいます。寝ている間に旅立たれたりすっど、心配している旦那さまに合わす顔がありません」
「その心配はいらないよ、惣助」
元司はむっつりといった。思案を打ち切り、あとは寝てから考えようという気持になっていた。
「まぁ、そう心配せずに、今夜は飲もう。惣助も疲れているだろうから」
酒好きな惣助は、一瞬相好を崩したが、すぐに警戒するように弛んだ顔をひきしめた。
「若旦那。まさか私を酔わせて、置いて行こうなどと、考えちゃいねえでしょうね」
「ばか言え。そんな卑怯な真似はしないよ。お前の顔をつぶすようなことはしないから、飲もう」
「一緒に帰ると、約束してくれますかの」
「ああ、約束する」
惣助は漸く安心したようだった。その夜、元司は惣助を相手に飲んだ。惣助ははじめは警戒の気持もあってか、遠慮した気味に飲んでいたが、しまいにはかなり酔った。それでも寝るときには、役目を思い出したらしく、元司の隣の部屋に床をとってもらって寝た。
惣助の大いびきを聞きながら、元司は闇の中に眼を開いていた。自分が運命の岐路に立っているのを感じていた。帰れば、二度とふたたび故郷を後にする機会はおとずれまいという気がした。しかし世間知らずの身が、江戸へ行って、そこでうまくやれるかどうかは、見当もつかなかった。不安は大きかった。
元司は一昨日越えてきた国境の難所を思いうかべた。峠の道はまだ雪に埋もれ、濃い霧が湧いて元司はしばしば道を見失った。その道を越えてきた自分を思い、元司は勇気をふるい起こそうとしていた。
四
「まぁ、坐れよ惣助」
翌日、朝飯を喰ったあとで、元司は惣助に言った。
「坐って、話そうじゃないか」
「何の話でがんしょ?」
惣助は警戒するように元司の前に坐った。
「私は話などありませんよ」
「まぁそう言わずに聞いてくれ」
元司は苦笑して言った。腹は決まっているが、実直一方で差配頭まで取りたてられた惣助を説き伏せるのは、容易なことではないようだった。
「私は家には戻らないよ。やっぱり江戸サ行く」
惣助は眼をむいた。眼をむき、口を半開きにして元司を見つめている惣助の顔に、少しもの悲しいような表情があらわれた。元司はその顔から眼をそらして言った。
「お前にはすまないが、ゆうべ一晩考えてそう決めたのだ」
「若旦那、それでは約束が違います。それでは私の立つ瀬がありません」
惣助は懸命な口調で言った。
「私は首に縄をつけても連れて帰れ、と旦那さまに言われています。まさか、若旦那さまの首サ縄もつけられめえども、私の立場も察してください。このまま帰ったのでは、私が怒られます」
「お前の迷惑にはならないようにあとで父に手紙を書く。それを持って帰ればお前が叱られるようなことはない」
「しかし旦那さまは、無断で家出なさったことを大そう怒っておいででのう、どうしても行きたいなら、一度帰ってから、改めて出立しろと言っておられます」
「しかし戻れば、二度と家を出られないことは、お前にも察しがついているはずだ」
「………」
「お前は女子に惚れたことがあるか」
と元司は言った。惣助は怪訝な顔をし、それから黒い顔に泣き笑いのような表情をうかべた。この大事な話のさ中に、何を言い出すことやらと言った顔だった。
「むろん若い時分の話さ。いまじゃない」
「若いときも何も、わたしが知っている女子はいまの嬶《かかあ》だけですよ」
「それは残念だ」
と元司は言った。
「おれはいま、女子に惚れるように、学問サ惚れている。江戸で師と仰ぐ先生も決まっている。そののぞみをはたさないうちは、死んでも死にきれないよ」
惣助は圧倒されたように、元司を見た。しばらく無言でいたが、やっと言った。
「そういうものですか。わたしにはとんとわかりませんが」
「そうさ。ンださげ逆にお前をここサ縛っておいてもおれは江戸へ行くぞ。とめても無駄だ。お前、余分の路銀があったらよこせ」
「私は若旦那をただ人ではないと常づね思っていました。しかしそれにしても恐ろしい人です」
と惣助は言った。
「何が恐ろしい」
「迎えにきた私を縛って、金も持って行くとおっしゃる。ンでがんすか。はい、それではどうぞ縛って頂きます。私も若旦那にそう言って脅されましたので、と空手で戻るわけにはいきませんよ」
「………」
「結構です。私を縛って、その間にここを発《た》たれたらいいでしょう」
「惣助、まあそう怒るな」
元司は苦笑して惣助をなだめた。
「縛るといったのは言葉のアヤだ。いや、言い過ぎた。まさか本当に縛ったりはしないよ。だが、おれをとめるな」
「どうしてもいらっしゃるつもりですか」
「行く」
「見ず知らずの土地ですよ。旦那さまはあのように怒っておいでだから、若旦那が振り切って江戸へ行かれたと知れば、あとはお構いになりますめえ。きっと苦労なさいますよ」
「それは覚悟している」
「学問というものも、恐ろしいもんですなぁ」
惣助は溜息をついて、元司を眺めた。
「お家の方方はきっと、若旦那を学問にとられたとお思いになるでしょうな」
「………」
「私などは、いっそ無学でよござんした。いま住んでいるところが一番よくて、よその土地にでかけようなどと、これっぽちも思ったことがありませんからな」
「そういう人間が、一番しあわせなのだ。なまじ学問したいために、おれは家の者と争わねばならん」
そう言いながら元司は、江戸へ行くのはただ学問したいばかりではない、と思った。先がどうなるかすっかり見えている場所で、八方出口をふさがれた感じでいると、心が言いようもなく苛立つ。そこから抜け出して見たいのだ。その先がどうなるかはわからない。そのわからないところに、不安とともに強く心を惹きつけて放さないものがあった。それは家の者にも、眼の前で、額にしわをよせて考えこんでいる惣助にもわかってもらえないことだ。
「仕方ねえことですの。お連れすることはあきらめました」
不意に惣助はきっぱりした口ぶりで言った。心を決めてさばさばしたらしく、惣助は表情をやわらげていた。
「生意気なようですが、若旦那のお気持も、少しはわかるような気がして参りました。これ以上はおとめしましね、ハイ」
「わかってくれたか」
元司はほっとして、思わず惣助の手を握った。
「無駄足をふませて悪かったな。お前の顔が立つように、父にはちゃんと手紙を書く」
「行かれるからには立派な学者になってくださいよ、若旦那」
惣助は、いったんあきらめると、にわかに説教めいた口調になった。
「江戸には、ずいぶん頭のいい人たちが集まるものでしょうが、負けないでくださいよ。私はそれを楽しみに、ここから戻りますから」
元司は苦笑して、がんばると言った。またつむじを曲げられると大変なので、お前の志は無にしない、と惣助を持ち上げた。
五
元司が江戸に着いたのは、五月十七日だった。途中の桑折宿から、商用で江戸に行くという秋田の人間と一緒になったので、道に迷うようなこともなかった。
男は何度も江戸に来ているらしく、江戸に入ると、あれはなに、これはなにと元司に説明して聞かせた。千住の中村町を通りすぎて、小塚原の仕置場前を通りすぎたとき、連れの男は不意に言った。
「あれが富士ですよ」
元司は男が指した方角を見た。田圃の向う側にひらべったい町の屋根が続いている。
「もっと上の方」
男は注意した。元司は眼を空に移した。すると、七ツ(午後四時)過ぎの、やや衰えた日の光の中に、青黒くどしりとした感じで坐っている山が見えた。頂きのあたりには、まだ白いものが残っている。それは山というよりは異様に巨大な突起物のように見えた。空の一角に単独で居据っていた。
「いまごろの季節に、あんなにはっきり見えるのは珍しいな。大体は雲にかくれて見えない山ですよ。あんたは運がよかった」
と男は言った。それから、男はまた指を移した。
「ここからだと土堤が邪魔ではっきりしないが、あそこが吉原です。夜になると、灯があかるいから一ぺんにわかりますがな。男なら一度は行ってみるものです。私も江戸にくるたびに一晩はあそこで遊んで帰りますよ」
四十前後の男は、少し得意そうな表情で言った。元司はうなずいたが、また眼を富士にもどした。富士ははるかな空に、依然として少し威圧的にみえる姿をうかべていた。
男とは、花川戸から浅草広小路に出たところで別れた。男は左側の橋をさして、その橋を渡れば本所、こっちが浅草の観音さまの入口といそがしく説明してから言った。
「あんたがたずねる神田の馬喰《ばくろ》町は、この道を真直ぐに行けばよい。途中に浅草御門というところがありますが、そこを構わずに通してもらうのです。その御門を通り抜けたところが神田です。わかりましたな」
「いろいろとお世話になりました」
と元司は言った。二人とも田舎言葉で話していた。秋田の言葉は荘内とあまり違わないので、二人はそれで話が通じたが、そばを通る人間で、その奇妙な言葉を耳にとめて怪訝そうに振りむく者もいた。道は、人で混雑していた。
「それでは私は上野の近くに宿がありますから、ここで別れます。お達者でな」
そう言って男は、さっき観音さまの入口があるといった広場の方に歩いて行った。男の背はたちまち雑踏の中に消えた。
男がいなくなると、どことなく方角を見失ったような、心もとない感覚が襲ってきたが、元司は男に教えられた方向に歩き出した。
神田馬喰町に、大松屋という荘内の者が定宿にしている旅籠《はたご》がある。上ノ山まで追っかけてきた惣助に聞いてきたのだ。とりあえずそこに落ちつくつもりだった。
浅草御門までは、男が言ったとおり難なくたどりついたが、神田に入ってから、大松屋を探すのに手間どった。元司が宿を探しあてたとき、あたりは薄暗くなっていた。
二階の狭いひと部屋に案内されると、元司はほっとした。ひどく疲れていた。疲れは旅の疲れというよりも、江戸へ入ってからの気疲れのせいらしかった。馬喰町の大松屋という宿をたずねるだけだったが、元司の重い訛《なま》りがある言葉を聞くと、十人が十人まで必ず聞き返した。それに江戸の町は人が多すぎた。人に酔うようだった。
多勢の人が、男も女もいそがしげに町を往き来していた。町は薄暗くなっても、さまざまな物音でざわめいていた。清川村なら、日が暮れれば村はひっそりしてしまう。時には物音ひとつ聞こえなくなる。これが江戸か、と元司は思ったのだ。その波のようなざわめきにも疲れたようだった。
二十半ばの小肥りの女中が、行燈《あんどん》に灯を入れ、夜の膳を運んで、てきぱきと元司の世話をした。
「お客さんは荘内ですか」
と女中は言った。
「ンだ」
「あら、やっぱり荘内だ」
女中は笑った。だが好意的な笑顔だった。
「江戸見物ですか?」
「いや見物ではなく、勉強しサ来た」
「勉強ですか。えらいわね」
女中は手を休めて、眼をまるくして見せた。反応がすばやく、女の表情は豊かだった。そしてその女中が鈍重な荘内弁を、わけもなく理解するのが、元司には快かった。
ふと、この大松屋が、七年前荘内から江戸に駕籠訴に来た百姓が泊った家だと、惣助が言っていたのを思い出していた。七年前の天保十一年、荘内藩は突然に長岡領への移封命令をうけ、暮れから翌年夏にかけて、大騒ぎをしたのである。そのときは百姓多数が江戸へ出訴したりしたことが功を奏し、幕命が改まって転封をまぬがれている。元司が鶴ヶ岡の清水塾にいたころのことだった。
元司はそのときのことを聞いてみた。すると女中はそのことをおぼえていた。
「こんなこと言うと、あたしの年がわかっちゃいますけど、そのときあたしもいたんです。見ましたよ、田舎のおじさんたちを。こんな真黒な髭面で、正直そうな人たちでしたけど」
女中はそう言って、にぎやかに笑った。やはり好意が籠る笑い顔だった。
女中が膳をさげ、床を敷いて去ると、元司は財布をひっぱり出して、中を改めた。百二十四文しかなかった。もう一度数えたが、同じだった。
──明日から、どうする?
その不安が襲ってきたが、それを考えるには疲れすぎていた。元司は着たままの姿で床の上に寝ころんだ。
──ともかく、江戸に来たのだ。
その満足感があった。元司は窓の下を通りすぎる切れ目ない人の足音を聞いていた。すぐには眠れず、元司は外のざわめきがひっそりとするまで、床の上に眼ざめていた。
翌日、元司は神田橋ぎわにある荘内藩の江戸藩邸をたずねた。そこに畑田安右エ門の同僚がいることを思い出したのである。三谷という名で、やはり給人だった。三谷は時どき清川の関所に畑田を訪ねてきて、元司も二、三度顔を合わせている。一年前から江戸詰めになっていた。
三谷は元司をおぼえていた。突然の訪問にびっくりした顔をしたが、ちょうどひまらしく藩邸内の自分がいる長屋に連れて行った。元司はそこで事情を話し、三谷から一両借り出すことに成功した。斎藤家の息子に一両貸すことに、三谷は何の不安も抱かない様子だった。
一両を手にして気が大きくなった元司は、翌日江戸の町を見物に出かけた。浅草の観音さまにも行き、足をのばして吉原にも行ってみた。さすがに財布の中味を考えると、そこで遊ぼうという気にはならなかったが、廓の中は丹念に見て回った。それだけで満足した。最後に神田にもどると、お玉ヶ池の東条一堂の塾を探した。
東条塾を探しあてたとき、元司はしばらく凝然とその前に立ちすくんだ。長い間心に思い描いてきたものが眼の前にあった。その建物の中に、やがて師となるべき東条一堂がいて、また阿部千万多がいるかも知れないと思うと、胸の動悸が高まるのを押さえることが出来なかった。
塾生らしい男が二人、外から帰ってきて、不審そうな眼を元司に投げて、家の中に入って行った。元司はさりげなく歩き出した。しかしすぐには去りがたくて、元司はゆっくりした足どりで、東条塾の近くを歩き回った。
裏通りに天神真楊流の柔術を教える磯又右エ門という人の道場があり、西隣りには北辰一刀流の看板を掲げる千葉道場があった。また近くに生方|鼎斎《ていさい》という人が教える書道塾もあった。それらをゆっくり見て回って、元司は夕方になって漸く大松屋にもどった。
その夜元司は、晩飯が済んで一人になるとじっと考えこんだ。長い間憧れた江戸にきて、目ざす東条一堂の塾も探しあてた。だが、入門は不可能だった。金がなかった。
路銀の残りは、今日の昼、外でそばを喰って、鼻紙、草履《ぞうり》など身の回りの物を買って使いはたしている。財布の中には借りてきた一両があるだけだった。この金が無くなったら、どうなるのかと思った。そのときはこの宿を叩き出されることになるのか。
金のことを、これほど切実に思いわずらうのははじめてだと思った。金はなく、どちらをむいても見知らぬ他人ばかりだと考えると、道もない荒野に立っているような気がしてくる。千住宿についたとき、ここからは江戸だという安心と喜びに浮かれて、一緒の男と茶屋に入って一杯やったのがくやまれた。
──とにかく、一度会ってみよう。
漸く元司は心を決めた。先のことはわからないが、一両の金が手もとにあるうちに、東条一堂に会い、修学の志だけでも述べてみようと思ったのである。
元司は翌日になると外へ出て、羽織を買ってきた。羽織は銀二十匁だった。その羽織を着て、元司は東条塾をたずねた。
一堂はすぐに会ってくれた。背が高く、痩身の老人だった。東条一堂は名は弘、字は子毅、文蔵が通称で一堂と号していた。上総の人だったが十三のとき京都の皆川|淇園《きえん》に古学を学び、ここで十年|研鑽《けんさん》したあと、江戸に帰って亀田|鵬斎《ほうさい》に折衷学を学んだ碩学だった。古学の門戸を張ってひさしく、元司が会ったときは七十歳だった。
元司は身分と名前を名乗ったあと、しばらく黙って坐っていた。胸がつまるような気分に襲われていた。一堂も黙って元司を眺めていたが、やがて用は何かとたずねた。やさしい声音に聞こえた。
「私は、いずれ先生の門下に加えて頂きたいと思っている者ですが、いまは束脩《そくしゆう》を包む金を持ちあわせません。本日はとりあえずご挨拶にあがりました」
元司は懸命に言った。田舎言葉丸出しだったが、考えてきたことを言えたと思った。一堂はうなずいた。一堂には元司の田舎弁が、通じるようだった。
一堂は、元司が田舎でした勉学について聞き、さらに経書について二、三質問した。元司が答えると一堂は微笑して、それでは入門料が出来たら、正式に入門を許そうと言った。その言葉で一種の人物考査が終ったのを知って、元司はほっとした。
一堂はくつろいだ口調になって言った。
「わが塾には、荘内の人間がよく参る。中には逸材がまじっている。近年も阿部という男がきて、あれは秀才だった」
千万多のことだ、と元司は思った。
「阿部千万多ですか」
「さよう。知り合いかな」
「いえ、ただ噂を聞いておりました。そのひとはいま、ここにおりますか」
「いや、もうおらん。学問はほぼおさむべきものをおさめたので、今度は実地を学ぶと申してな。昨年塾をやめた」
「………」
「なんでも蝦夷《えぞ》地を視に行くと申しておったな。いまはそちらの方を勉強しておるようじゃ」
すれ違いだったな。と元司は思った。その気落ちは宿に帰ってからも続いていた。すでに学業を終えて、奔放に時勢の中を歩きはじめている阿部がうらやましかった。それにひきかえ、まだ入塾のあてもなく、旅籠の一部屋に蹲っている自分がみじめに思われた。
三日ほど、元司は大松屋に籠って暮らした。どうすればいいかわからなくていた。江戸を離れたくはなかったが、金が底をついていた。従って江戸を諦めたとしても、田舎に帰ることも出来なかった。籠りきりの元司を見て、宿の者も漸く不審な顔をするようになった。そうしたある日、元司は宿に着いた鶴ヶ岡の商人らしい二、三人が、三井弥兵衛が永富町の庄内屋に泊っている、と話すのを聞いた。
元司は生き返った気がした。弥兵衛は鶴ヶ岡城下で名を知られている商人で、母方の伯父だった。
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定 め な く
一
元司が東条塾に入門したのは、その年の八月だった。江戸に来て二月半経っていた。
大松屋のひと部屋に進退きわまっていた元司は、折よく出府してきた伯父の弥兵衛に救い出された。しかしそれですぐに伯父の世話で東条塾に入るとか、とりなしてもらって父の許しを得るとかいう状況ではなかった。弥兵衛は、一度は元司に熱心に帰郷をすすめたほどである。
だが元司の決心が固いのをみると、弥兵衛は知り合いの米屋に住みこみ奉公を世話した。日本橋堀江町にある米屋だった。元司はその米屋にふた月勤めたのである。その間に伯父の弥兵衛が、元司の父を説得して、漸く金が送られてくるようになったのであった。
乾いた砂が水を吸い取るように、元司は猛烈な勉学をはじめた。元司は一堂の講義を聞くかたわら、一堂の著述した書物を借りうけると、片はしから写した。
元司の鈍重な荘内弁は、時おり塾生の笑いものになったが、元司の勉学ぶりをみて、ひと月後には誰も笑う者がいなくなった。
元司はなんでもやってみたい気持になっていた。はじめて江戸に来た当時の、手足を縛られたようだった日日にくらべると、自由は豊富にあたえられていた。元司は、かねて眼をつけていた生方鼎斎の書道塾に通い、また裏通りの磯又右エ門の道場に入門して、柔術を習った。
暮近いある日。元司は隣家の千葉道場に通っている同塾の男に誘われて、千葉道場の寒稽古納会に行ってみた。
門弟同士の一本勝負の試合を見たあと、まだ若い剣士が出てきて、高弟らしい男を相手に模範試合をはじめた。
「若先生だ。技が早いから、よく見ておらぬとわからんぞ」
と同塾の男は囁いた。その男の言うとおりだった。元司と同年ぐらいに見える若い剣士は、相手が打ちこむ竹刀を、はねあげ、かわしひとつも身体に触れさせず、やがて一閃の動きで勝負をつけた。
──酒田の伊藤先生の稽古とはだいぶ違うな。
元司は若い剣士の動きに茫然と見とれながら、そう思った。千葉栄次郎というその若い剣士の名前を、元司は脳裏にきざみつけた。
なんでもやってみたい気分だったが、剣術までは手がとどかないと思った。千葉栄次郎の竹刀の動きに、一種の畏怖を感じていた。あそこまで行くには、学問を捨てねばなるまいという気がしたのであった。
年が暮れようとしたころ、塾にいる元司を弥兵衛、金次の二人の伯父がたずねてきた。二人は元司に会うと、正月から上方見物に行くが、一緒に行かないかと誘った。
元司は断わった。せっかく学問に身を入れはじめたところを、出鼻をくじかれたようで不快だった。だが、伯父たちの誘いは執拗だった。その言葉の裏に、郷里の父の意志が動いているのを元司は感じて暗然とした。父は元司が学問に熱中するのを喜んでいないのだった。
二
翌年正月から四月まで、元司は伯父たちにつき合って上方を旅した。伯父たちは、大坂に商用をかかえていたが、それは僅《わず》かですむ用事で、旅の中味は物見遊山だった。
元司は伯父たちのおともをして、京都、大坂から中国路を岩国まで行き、さらに四国の金毘羅参りをし、また京都に帰った。そこから奈良に行き伊勢を回って、東海道を江戸に帰ったときは四月の下旬になっていた。
旅は好きだった。だが伯父たちの目的が、元司の気を外に逸らさせ、学問を忘れさせようとしていることにあると思うと、元司は旅の面白味も半減するような気がすることがあった。
「どうだね。面白かったか」
江戸に戻って、馬喰《ばくろ》町の大松屋に草鞋をぬいだあとで、伯父の弥兵衛は言った。
「じつに愉快でした。もう一度行ってみたいぐらいです」
「学問学問と根をつめるよりも、帰って家を継げば、物見遊山などいくらも出来るのにな」
「………」
「どうだね? このままわれわれと一緒に帰る気はないか」
「せっかくですが、しばらく遊びましたのでまた学問が恋しくなりました。父にはうまく言っておいてください」
伯父たちは苦笑して顔を見あわせた。そしてそれ以上は何も言わなかった。元司はそういう伯父たちが気の毒でもあり、また好意を無にした辛い気分もあったが、勉学の意志をまげるわけにはいかないと思った。東条塾にもどると、元司はまた前にもまして勉学に精出した。
しかし元司の勉学は、突然におとずれた不幸な知らせによって、継続を断たれたのである。
暑い夏のさかりに、飛脚が弟の熊次郎の死を知らせる手紙を運んできた。無口でかしこい熊次郎は、十三になっていたが、風邪をこじらせて死んだのであった。続いて父の豪寿から帰郷をうながす手紙がきた。
二通の手紙を握って、元司は茫然とした。熊次郎の死は悲しい知らせだったが、それだけにとどまらなかった。
上方見物を終って、鶴ヶ岡の伯父たちが帰ってから、父から何か言ってくるかと元司は思ったが、帰郷を催促する手紙は来なかった。そのとき元司は、父が自分の帰郷をあきらめたのを感じた。
──熊次郎がいるからな。
と、元司はそのとき思ったのである。自分が帰らなくとも、熊次郎に後をつがせることが出来る。多分父の念頭にも、その考えがあるに違いないと思い、ひそかに肩の荷がおりた気がしたのであった。
だが熊次郎の死によって、事情は一変したわけである。帰らないわけにはいかなかった。しかし帰れば、今度こそ江戸にくることは無理だろう。元司は毎日そのことを思い悩んで日を過ごした。
帰らないですむ方法はないかと、元司は考えたが、結局そんな方法があるはずはなかった。追いつめられた気持のまま、元司は郷里に戻った。弘化五年という年は、二月に嘉永元年と変り、元司が戻ったのはその年の十月はじめだった。
帰ってきた元司に、父の豪寿は家業の一切をまかせてしまった。つまりそうすることで、元司がまた江戸に行く道をふさいだのである。元司は神妙に家業の酒屋を手伝った。勉学のことは諦めていた。江戸から帰る途みち、そう自分に言い聞かせて来たのである。
年が改まった二月、父の豪寿は伊勢参りかたがた上方から四国への旅に出かけて行った。元司が黙もくと家業に精出しているのを見て、すっかり安心したようだった。
父が留守の間のある日。元司はひさしぶりに酒田に行き、今町の廓《くるわ》をたずねた。前はにぎやかだと思ったそこも、江戸の吉原を見てきた眼には、ひどく小ぢんまりした場所に見えた。馴染《なじ》みの家に入ると、出てきたのは遣り手婆さんのしげよだった。
しげよは二年前とまったく変りない顔で、元司を迎えた。勢いよく喋《しやべ》った。
「まあ、おひさしぶり。すっかりお見限りで、もうあたしらのことなんか、忘れちゃったかと思ってましたよ。また慎んでいたんですか? 若旦那」
「いや、江戸へ行ってきたのだ」
「江戸ですって?」
しげよは眼をまるくした。
「江戸サ、何しにいらしたんですか」
「遊びにさ」
「またァ、そげだこと言って婆さんをからかう。ご商売でしょう? うんと儲けていらしたんでしょ?」
「ほんとに遊びに行ったんだ。吉原というところにな。ところで、お由はどうしている?」
「お由ですか」
しげよは、元司ににじり寄って囁《ささや》き声になった。
「あの子ひかされたの。ほら、お由にご執心の旦那がいたでしょ? 木綿屋さん……」
「ああ、おぼえている。そうか」
「そうなんですよ。あの旦那、かみさんに死なれて男やもめであったもんね」
「………」
「でもさあ、三十近くも年が離れて、大丈夫なのかしら」
「なにがだい?」
「なにがって、いやですよ、若旦那。まじめな顔して」
しげよのけたたましい笑い声を聞きながら、元司はふと味気ない気分が心をかすめるのを感じた。
しげよがおりて行くと、間もなく女が酒を運んできた。お松に似たぽっちゃりと肥って色白な女だった。十七、八に見えた。口数は多くない方らしく、黙って酒をついだ。
「名前は何て言うんだね」
そう聞いたとき、元司は昔のはげしい放蕩の血が、どっと身うちに走りこんでくるのを感じた。
三
元司の廓通いがぶり返した。母の亀代も祖父の昌義もじきに勘づいた様子だったが、何も言わなかった。父の豪寿は七月になって、長い諸国見物から帰ってきたが、やはり何も言わなかった。元司の放蕩は、家業の後とりがいるかいないかという大問題にくらべれば、斎藤家にとっては些事にすぎなかったのである。
元司はひんぱんに酒田の廓に通い、そのうち悪い病気をうつされた。それをなおすために、元司は海辺にある湯ノ浜の湯宿に湯治に行ったが、湯治先でも女を呼んで遊んだ。
病気がなおるはずはなく、元司はそのあと立居にも痛苦を感じるほどになったが、それが無事になおると、また遊びに出かけた。とどまるところを知らない放蕩に落ちこんでいた。
暮近いある雪の夜、元司は夜遅く今町の廓を出て清川村にむかった。廓ではしきりにとめたが、元司はきかずに歩き出した。
夕方から降った雪はもうやんでいたが、根雪の上に積もった新雪が、足をくるぶしまで埋めた。
酒田の町を出るところで、途中の村まで行く中年の男と一緒になった。男は元司に、どこまで帰るかと聞き、清川村まで行くと聞くとあきれた顔になった。しばらく無言で歩いてから言った。
「この夜更けに。それはちょっと無理でねっが? 若い衆よ」
「いや、行けるところまで行く」
酒臭い息を吐いて元司がそう言うと、男は黙ってしまった。町が遠くなると、まわりはぼんやりと白い野原だけになった。新しい雪のために、人が踏み固めた道は見えなくなっていたが、まわりより一段低くなっているので迷うようなことはなかった。
野に時おり微かな灯がまたたき、そこに村があることが知られた。空は暗くおし黙っていた。道が別れているところにくると、男はンだば、私はここで、と言い、親切に言いそえた。
「わかってんだろども、途中で風ェ出て来たら、どこでも構わずに、手近な家に駆けこんで泊めてもらえや。そうさねど命取られっぞ、この雪は」
男は元司が酔っている様子なのを気遣っていた。男は元司が歩き出してからも、しばらく別れた場所に立って見送っていた。
風が出て来れば、野は一寸先も見えない吹雪になるだろう。男が言うように、命取りの雪になる。だが野はひっそりとして風の気配はなかった。闇の底に仄白い雪の野がひろがっているばかりだった。
「やっぱり江戸サ行くぞ」
元司は、不意に喉《のど》を押しひろげて叫んだ。声は限りなくひろい夜の雪原に吸われて行った。聞いている者は誰もいなかった。
「おれは、くだらぬ人間で終りはしない」
元司はまた叫んだ。元司を廓からあわただしく外に押し出したのは、この思いだった。おれが歩む道は、別にある。その思いが胸に溢れていた。君は酒屋の主人におさまる人間ではない、と言った藤本津之助の言葉を思い出していた。阿部は蝦夷地を見に行くと言っていたという、東条一堂の言葉を思い出していた。暗い夜の雪の道をのめるように歩きながら、不意に、元司は涙をこぼした。
四
翌年の二月三日、元司は京都遊学の旅に出発した。まだ荘内の山野には雪が残り、風が寒い日だった。
胸に溢れる遊学ののぞみに堪えられなくなった元司は、嘉永三年と年が改まった今年の正月、奉公人の定吉を使って、ひそかに鶴ヶ岡の伯父の家に旅支度を詰めた行李をとどけさせた。
そうして自分も後から、鶴ヶ岡に行くと言って家を出ると、伯父に会い、再度遊学の志を打ち明け、家の者を説得してくれるように頼んだのである。伯父は根負けして、元司の父に話した。
すると父の豪寿は、意外に早く折れて遊学を許した。豪寿は、壮烈ともいうべき元司の放蕩ぶりに恐れをなし、元司を家に縛りつけておくことに、少しずつ疑問を持ちはじめていたのである。しかし元司を斎藤家の跡取りという立場から解き放つことは、まったく考えていなかった。野放しにすることは出来ない。豪寿は、元司の遊学に三年の期限をつけた。
豪寿は許したあと、また少し迷った。親の考えに従おうとしない長男に、腹立ちがこみあげてくる。そこで自分は行かず、妻に路銀、薬籠などを持たせて、鶴ヶ岡にいる元司のところにやった。
しかし、ともあれ元司の遊学は正式に許され、元司は母や親戚、旧師の畑田安右エ門らに見送られて越後路を京都にむかったのであった。
元司は途中、新発田《しばた》や水原で、著名な学者、詩人をたずねて、揮毫《きごう》をもらったりしながら、高田から北国街道に入り、善光寺を経て中仙道に向った。京都に着いたのは三月十一日だった。京都はすでに春|闌《た》けていた。
鶴ヶ岡に、京都の帯屋という呉服屋の支店があって、斎藤家に出入りしていた。そのつながりから元司の今度の京都遊学について、帯屋の京都本店が世話してくれることになっていた。元司は京都に着くとすぐ帯屋を訪ねた。帯屋では、ふだん懇意にしている画家の横山華谿に、すでに元司の学問の師を探してくれるよう頼んであるという。
元司は華谿に会った。すると、華谿は、私は画家で学問のことはよくわからないがと前置きして、
「評判では貫名《ぬきな》海屋《かいおく》が一番だが、年取ってもはや門人をとっておりません。それで岡田六蔵がよろしいかと思う」
と言った。
元司は岡田六蔵を知らなかった。華谿の言葉に微かに不満を持った。というのは、元司は京都遊学を心に決めたときから、ひそかに心の中に師と思い決めた人物がいた。梁川星巌である。元司は多年星巌の詩を敬愛していた。華谿の口から、星巌の名が出なかったことが不満だった。岡田六蔵はともかく、一度星巌に会うべきだと元司は思った。
元司は東山華坂山の近くに住む星巌をたずねて行った。星巌は、元司を丁重に奥に通して応対したが、弟子はとっていないと言った。そして次のように言った。「京の学者は、大方下品で取るに足りません。敬服出来る人物といえば、春日潜庵でしょうか」
星巌はそう言ったが、元司は結局岡田六蔵が主宰する遵古堂に入塾した。岡田は岩垣龍渓に学び岩垣の遵古堂を継いで、岩垣月洲とも称していた。
元司がそちらを選んだのではなく、さきに岡田を推せんした横山華谿が、さっさと遵古堂入塾の手続きをとってしまったので、選択の余地もなくそこに入った形だった。
入塾したものの、元司は鬱うつとして楽しまない日を過ごした。京都遊学を志したとき、元司は江戸の旧師東条一堂が、皆川淇園に学んだ跡をしたう気持があった。ここでみっちり勉学を積んで、旧師のような学儒を目ざすつもりだった。だが遵古堂は、元司が考えるような学塾とはかなり違っていたのである。
最初の印象が悪かった。塾の不潔さに、まず元司はど胆をぬかれた。壁はよごれ、板の間は何日も拭いたことがないように埃だらけだったし、廊下の天井にはくもが巣をかけている。屋内は暗くしめっていた。
岡田は四十ぐらいの年恰好で、背がひくくまじめそうに見える人物だった。元司が束脩をさし出すと、細い眼をしばたたき、よく聞きとれない、もぞもぞした低声で、勉強にはげむようにと言った。
しかしそこに山羽という客がたずねてくると、奥に声をかけてもう一人の男を呼び出し、こそこそと昼酒の支度をはじめた。
客が、そこに坐っている元司と机におかれている束脩を見て、新しい弟子かと聞くと、岡田は、
「そうや」
と答えた。だがそれっきりで、元司の方はかえりみようとせず、三人で酒をのみはじめた。元司はそのあと、着物の着つけから歩きぶりから、みるからにだらしなさそうな岡田夫人にみちびかれて、あてがわれた自分の部屋に行ったが、ひどいところに入塾したらしいと思った。気が滅入っていた。
そのときの客は、山羽泰次郎と言い、その後も時どき遵古堂をたずねてきた。山羽は以前遵古堂の塾生で、いまは医学を修業している人物だった。また、酒と聞いて奥から出てきた男は、同居している岡田の兄で、岩垣章次郎という医師だということがあとでわかった。
そのあとも、元司は時どき三人が額をあつめるような感じで酒をのんでいるのを見た。話し声も小さく、どことなくあたりをはばかるふうにみえるのは、酒を喜ばない岡田の妻女に気兼ねしているらしいことも、だんだんにわかった。
だがそういうことは、岡田の講義が元司の向学心を満たすようなものであれば、べつにかかわりもないことだったが、岡田の講義は、元司にはさっぱり面白くなかったのである。第一声が低く、よく聞きとれなかった。もぞもぞと呟くような口調で、どんどんひとりで講義をすすめる。塾生の中には、倦《あ》きて私語をかわす者もいたが、岡田はいっこうにとんちゃくしなかった。遵古堂に通ってくる塾生は商家の子が多く、前垂れをしめたままの人間もいた。
岡田はふだん、少少の私語ぐらいは苦にする様子もなく講義をつづけたが、あるとき私語が過ぎて部屋の中が騒然となったとき、不意に書物を閉じて言った。
「私は礼儀作法といった形にとらわれたものを諸君にもとめるつもりはない。無作法も勝手だ。だが私は空疎な学理を述べているのではなく、諸君が世の中に出て喰えるような学問をさずけている。遊び半分はよろしくない。まじめに聞かんと損するぞ」
そのときの岡田の口調は、いつものぼそぼそ声でなく、はっきり聞こえた。塾生は一瞬しんとなったが、元司はこのとき、子供のころに通った鶴ヶ岡の清水塾を思い出していた。
ここは世の中に出たとき、役立つような実利を教える塾なのだと思った。人間を磨く場所ではない。遵古堂にきた最初の日から感じていた違和感は、これだったのだと思った。
そのことを、元司は夜になってから、同室の塩見という塾生に話した。
「清水という塾は、商人の子弟が多いところがここと似ていたな。教える中味も、商人としてやって行くのに必要な知識をさずけ、なお若干の、人間のたしなみとしての学問を教えるといったものだった」
「………」
「一方の伊達鴨蔵という先生は、わき目もふらず経書を説き、立居ふるまいにまできびしかった。つまり学問する者は、子供といえども聖賢の道を歩まんとする者だという考え方だな。ここは、つまり清水塾なんだ」
「まあ、そうだな」
塩見はあっさり言った。
「学問、学問といっても、世の中に出て役に立たなければ何にもならん。礼儀徳行で腹はふくれんというのが先生の考え方だな」
「しかし、学問の尊厳というものがあるだろう」
と元司はいらだたしげに言った。
「それに触れて、人間が澄みわたるような、朝に道をきけば夕に死すとも可なり、といった厳粛なものがあるべきではないのかな。先生のように世話にくだけ過ぎては、味気ない気がしてならん」
「君は将来、君子たらんとするわけか」
塩見は、軽く揶揄《やゆ》するような微笑をうかべて元司を見た。
「いや、君子といった柄ではないさ。おれはもっと生ぐさい人間だ」
元司は苦笑した。
「国元にいたときは、ずいぶん女遊びをしている。ここには島原という遊所があるし、いまもそちらに気をそそられてならん。そういう人間だから、せめて学問で一歩でも自分を高めたいと願っているだけだ」
「先生だって、あれである意味では君子人なんだがな。虱《しらみ》に埋もれているから、人にはなかなかそこのところが見えんのだ」
と塩見は言った。塩見のいうこともわからないではなかった。岡田には隠逸の高士といった趣きもないではない。だが教えるところは、やはり自分が求めるものでないと、元司は思った。
五
三月《みつき》いて、元司は遵古堂を出た。遵古堂にこりて、また改めて京都で師を探すという気にもなれなかった。国元を出るとき志した京都遊学は、結局得ることなく終ったわけである。
──東条塾に帰るしかない。
元司はそう思った。自分を厳しく律し、経世済民の道を聖賢の教えの中にもとめる、東条塾の学風が懐しかった。
だが元司は不意に思い立って、九州にむかった。二年前、伯父二人に誘われて、中国路から四国までは行っているが、九州には足をのばしていない。京都まできているのを幸いに、九州を一巡して、それから江戸に帰ろうと考えたのである。
京都から大坂に出、九州の小倉についたのが七月十五日だった。元司はそこから筥崎《はこざき》八幡宮、太宰府天満宮をたずねて、佐賀に行き、諫早《いさはや》を経て長崎についた。
長崎へつくと、元司は綿布商中野屋をたずねた。京都の帯屋から紹介状をもらってきたので、中野屋では元司を快く迎えた。元司は、噂に聞いた長崎の町を、中野屋の者に案内してもらって心ゆくまで見た。
なかでもオランダ船見物は、元司の心を強くひきつけたものだった。むろん中に入って見たわけではない。浜から小舟を雇って、港内に停泊している船のまわりを一巡しただけである。
その巨大さに、元司は眼を奪われた。
──千石船、五つ分はあるな。
と元司は目測した。異人の持つ力が、異様な圧迫感をともなって、元司の胸を搏《う》ってくるようだった。清国は、アヘン戦争で剽悍《ひようかん》な満州兵を配置したが、一戦も勝てず一城も守れなかったそうだ、と言った藤本津之助の言葉が胸をかすめた。船は三本マストで、左舷に十二門、右舷に十二門の砲門をのぞかせていた。
「もう少し近くに寄せてみてくれ」
と、元司は船頭に言った。
「あまり近づくと、お役人に怒られますぜ」
船頭はしぶい顔をしたが、駄賃をはずむというと、無言で櫓《ろ》を押して小舟をオランダ船に近づけて行った。
暑い日射しが港を照らし、上半身裸の水夫が、猿のように身軽にマストを昇降しているのが見えた。金色の胸毛が日に光り、水夫が叫ぶ異国語が波にひびくのを、元司は間近な海面から眺め、聞いた。
──これが異人か。
だがこれは、毛色は変っているがいわば気心の知れた連中なのだろうと元司は思った。古くから貿易を許されている無害な異人たちだった。元司は江戸にいたころ、イギリスやフランスの船が、琉球にきて貿易をもとめ、イギリスの船はあちこちと島の海岸を測量したと聞いたことを思い出していた。また、遵古堂で顔見知りになった医学生の山羽から、マリナーというイギリスの軍艦が、去年江戸湾を測量し、無断で伊豆の下田港に入って、代官の江川太郎左エ門に退去を命ぜられたという噂を聞いている。
──そういう連中が、無害かどうかはわからないことだ。
と元司は思った。よその国の海岸をことわりもなしに測量したり、商船でなく軍艦がやってきて琉球国王に面会を強要したという噂の中には、強引で無礼な感じがあった。ことにイギリスは、藤本の話にあったように、清国に対してアヘン戦争という、大義名分のととのわない戦をしかけた国である。
元司が乗っている舟を見つけたランダ船の水夫が、船の上から何か喋りかけて手をふっている。やはり毛むくじゃらの大男で、こっけいなほど赤い顔をしていた。
──気のよさそうな男だな。
白い歯をみせ、手をふっている巨漢を眺めながら、元司はそう思った。だかその背後にいるほかの国の無数の巨漢たちが、船上の男のように気がよいとは限らないのだ、と思った。
そういう国国が、日本に交際をもとめてやってきているのが今の時代だということはわかっている。日本はこれまで外国とまじわりを断ち、国を鎖してきたが、そういうやり方を改めざるを得なくなるだろう、と藤本は言ったのだ。
一書生に過ぎない自分に、それがかかわりあることとは思わなかったが、そういう時代に生まれあわせたことは確かだ、と元司は思った。
「いけねぇ。旦那、役人がきた」
船頭が、不意にうろたえて櫓をあやつった。港を巡回する役人の舟が見えた。まだ遠くにいたが、あまりにオランダ船の近くにいる元司の舟を不審だと見たのか、あきらかにこちらにむかって舟をすすめてくるようだった。
「逃げることはあるまい」
と元司は言った。ふだんは心の底に隠れていて本人も気づかない|ど《ヽ》不敵なものが、むくりと顔を上げたようだった。
「見物だけで、べつに悪いことをしているわけではない」
「しかし、つかまるとうるさいからね」
と船頭は言った。四十前後にみえる船頭は、たくましい身体を屈伸させて櫓を漕ぎながら笑った。いい腕で、みるみる役人の舟を引き離した。
その日から五日ほどたって、元司の部屋をおとずれた中野屋の主人貞助が言った。
「いい知らせを持ってきました」
貞助は、小肥りの顔に、機嫌のいい笑いをうかべて言った。
「オランダ商館にご案内出来そうなんですが、行ってみますか?」
「私がですか?」
「そう。この間オランダの船をみて、大そう気にいったようでしたから、商館の中をお見せしようかと思いましてな。家内の父親が商館に品物をおさめて出入りしていますので、頼んでおいたのです」
「それはご親切に。それで? 出来そうですか」
「明日、ご案内してもいいという返事でした。もっとも、その恰好じゃまずいので、商人のなりで義父のおともという形ですが、それでよろしければ」
六
江戸の東条塾では、塾生はすべて帯刀する慣わしだった。斎藤家は商人であり地主だったが、微禄ながら藩から扶持を頂く身分でもあるので、元司はむろんこの慣例に従った。今度の京都遊学にも、元司は帯刀の武家姿できていた。
元司はオランダ商館を見に行くために、ひさしぶりに商人姿になった。こういう機会はめったにあるものではないと思っていた。長崎にきて以来、元司の心はオランダ船、異人館などに強くひきつけられていたのである。
中野屋の義父の手代といった形で、元司はオランダ商館の門をくぐった。多勢の出入り商人たちと一緒だった。門のところで懐の中までさぐられ、建物の入口でまた調べられた。予想以上に厳重な警戒ぶりだった。
しかし建物の中に入ると、あとは監視されることもなく自由になり、商人たちはそれぞれ商談相手がいる場所に散って行った。元司も人に咎められることもなく、あちこちと見て回った。敷物や窓の幕の美しい模様と色どり、金属やギヤマンの什器《じゆうき》の精巧さなどに元司は眼を瞠《みは》り、異国の匂いを嗅ぎ回るように歩きまわった。
元司は台所にまで入りこんだ。するとそこに日本人の料理人がいたので話しこんでいると、異人が一人入ってきた。
咎められるかと思ったがそういうことはなく、中年の異人は棚から酒をとり出して元司にすすめ、それだけでなく壁にかけてある琴のような楽器まで弾いてみせた。楽器は美しい音色を出したが、葡萄《ぶどう》の実をつぶして作ったという酒は、元司には苦く酸味が勝ちすぎて、口にあうものではなかった。
元司の当惑した顔を見て、酒をすすめた異人は大げさな身ぶりをまじえて笑った。陽気な男だった。
その日は折よく長崎奉行所から役人がきて、一室で日本からオランダに銅をひきわたす儀式が行なわれるのも見ることが出来た。元司たちはその儀式を見、そのあと異人と役人たちが歓談している場所に立ちまじってひとときを過ごした。元司は異人たちのそばに近ぢかと寄ってみた。それまで嗅いだこともない、一種不快な匂いが異人たちの身体から寄せてくるのを感じた。
商館の異人たちの印象を、その夜元司は欠かさずつけている日記に、顔はほとんど猿に類し、これに近づけば汚臭犬のごとし、と記した。正直な感想だった。
それで必ずしも彼らを軽蔑したわけではなかったが、そう書くと、大船や、それをあやつって万里の海を越えてきた彼らの航海術、さらには商館の中で見た美麗な什器や調度などからうけた圧迫感が幾分減り、釣合いがとれる感じがしたことは事実だった。
十日滞在したあと、強烈な印象を残した長崎を、元司は出発した。雲仙を越えて島原に出、そこから船で小島川まで行き、熊本に行った。そして再び北上して佐賀に戻ると、今度は日田盆地を目ざして行った。豆田の広瀬淡窓、さらに別府の北の日出《ひじ》に帆足|万里《ばんり》を訪ねて行ったのだが、二人には会えなかった。
七
九州の旅が終ろうとするころに、ちょっとした事件があった。
豆田に広瀬淡窓をたずねた元司は、面会は出来なかったが、淡窓の揮毫をもらった。元司はそこから別府にむかい、さらに耶馬渓の奇勝を見て、中津道を帆足万里が住む日出にむかった。
帆足万里は漢学と蘭学を兼ねる学者で、元司は九州に来てから、いたるところでこの人の噂を聞いた。ぜひ会いたいと思っていた。ところが日出にむかう途中、万里の門人と名乗る人物と出会い、万里はもはや老齢で、人に会いたがらないということを聞いた。
元司は断念して宇佐八幡宮にお参りしたあと中津に引き返した。そこで船を待ったが、海が荒れて船が出ない。二日も無駄に滞在したあと、元司は中津を出発して陸路を小倉にむかった。事件はこの途中で起こったのである。
ある村を過ぎて一里ほど行くと、あたりは松林の道が続き、まったく人気がなくなった。雨上がりのねずみ色の雲が空を覆い、日中なのに道は薄暗かった。
その道の真中で焚火をしている者がいる。屈強な身体にぼろをまとい、人相のよくない男たちだった。五、六人いる。ひと眼みて元司は悪い連中に出会ったと思った。
だが、ひるんだ様子をみせたらどうなるかは、連中に聞かなくともわかる。元司は足をゆるめずに近づいて行った。はたして一人の男が声をかけてきた。
「ひと休みして行きなよ、お侍よう」
「や、これは有難い。では、一服して行くか」
元司は近づくと、輪になっている男たちの間に入り、腰から煙草入れを出して一服吸いつけた。
男たちは元司の様子をじっと見つめている。元司は餓狼の群に見つめられているような気がしたが、落ちついて煙草をふかした。弱味を見せたらおしまいだと思った。その間にどうしたらうまくここを抜け出せるかと、元司はあわただしく考えをめぐらしたが、無傷で抜け出すことはむつかしいようだった。
落ちついているように見せても、元司の気持の動揺は、どこかにあらわれたらしかった。男たちは顔を見合わせ、薄笑いを洩らした。元司は気づかないふりをした。
「いい刀持ってんじゃないか」
ついに一人が言った。
「それで人が斬れるんかね。もしかすると……」
男は元司の腰に手をのばすと、刀の柄頭をちょっちょっとはじいた。
「こりゃ飾りじゃねぇかな」
男の小ばかにしたしぐさに、ほかの男たちはどっと笑った。元司は静かに男の手を押しのけた。
「さあ、どうかな」
「どうかなって、自分のことだぜ、旦那」
「じつを言うと、まだ使ったことがないのだ。飾りではないが、無用の長物かも知れんな」
元司が言うと、男たちは毒気を抜かれたように黙った。いい度胸をしているぜ、と一人が呟いた。だが彼らは諦めたわけではなかった。
「気に入ったぞ、この旦那は」
一人が元司の前に立ちふさがって言った。男は薄笑いをしていたが、眼は狂暴な光を宿して元司を見つめている。
「あんまり気に入ったから、荷物を持たしてもらっておともするよ」
「いや、その必要はない。軽いものだ」
「遠慮することはありませんや。小倉へ行くんだろ? あっしもそっちの方へ行くんだ」
その男は、本性を現わしたように、元司の行李に手をのばした。元司はその手を強くはらった。
「連れになりたいというなら、拒みはせん。だが行李には手を出すな」
「おや、妙な言い方だな」
男は手を振った。すると男たちが一斉に元司を取り囲んだ。手に火がついた薪をにぎっている男もいる。
「まるでおれたちが追いはぎみてえな口をきいたぜ、この旦那はよ」
「親切が気にいらねぇらしいや」
「ところがおれたちは親切が病いで、やめられねぇときている」
こいつら、斬ってやるか。元司の胸に向うみずの怒気が動いた。しかし元司が刀の柄に手をかけると、男たちはどっと元司に組みついて来た。敏捷《びんしよう》で手馴れた動きだった。
そのとき人が駆けよる足音がして、鋭い声がひびいた。
「おい、何をしておる」
男たちは元司から手を離して、声の方を振りむいた。元司も声の主を見た。眼の鋭い中年の武家が立っていた。旅姿ではなく、このあたりの藩の侍のようだった。
そのときのことを、江戸に帰ってから元司は東条塾の後輩安積五郎に話した。元司はそのとき中津藩士に助けられて、無事小倉につき、九月下旬に江戸に帰ってきたのである。
「文武兼修でないといかんな。正直のところならず者五人に囲まれて、手も足も出なかったからな。平気を装ったが、心は萎縮していた」
「そうですか」
と安積は、いつものようにやさしい声で言った。安積は子供のころ右眼を失明して、一眼だったが、仁王のようないかつく大きい身体をしている。元司を尊敬していた。
「君のような身体を持っていれば、剣技も必要ないかも知れんが……」
言って、元司は改めて安積の巨躯《きよく》を眺め、失笑した。
「おれには剣が必要だ」
「………」
「なにもかもやり直しだ。家へ帰り、西に遊学して、結局得るところなく江戸に戻ったという感じだ。このあたりで腰を据えて文武に打ちこみたい気分になってきた」
「………」
「もっともオランダ船と商館を見たのはよかった。九州ではいろいろと得るところがあったということかも知れん。あのごろつき連中をふくめてな」
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北辰一刀流
一
元司は千葉道場の稽古風景を、外からのぞいていた。道場の板壁に、風通しの格子窓がついていて、中で稽古の音がしているときは、誰かしらそこから中をのぞきこんでいる。
元司の横に、もう一人男がいる。町人ふうの中年男だった。その男は最初からそこにいて、元司が寄って行ったとき、帯刀している元司に遠慮したふうに一度は身体を引いたのだが、じきに稽古見物に夢中になって、その遠慮を忘れた顔になった。元司と顔をならべ、力が入って時どき肩で元司を押したりする。
暮近く、もう薄暗い道場の中で、すさまじい稽古試合が続いていた。痩身の剣士と、相手は小柄な剣士だった。しなやかな身体の動きと、鋭い竹刀《しない》さばきが、一瞬も眼をはなせない張りつめた空気を生んでいる。視野の中に、坐って二人の試合を見つめている門弟たちの姿が見えたが、門弟たちは身動きもせず、しわぶきひとつ立てる者がいないようだった。
背が高く、痩せた剣士が打ちおろした竹刀を、小柄な剣士は一髪の差で、身体をひねって躱《かわ》したようだった。躱していただけでなく、小柄な剣士は、身体をひねりざまに相手ののびた胴に鋭い竹刀を打ちこんだ。長身の剣士が、その竹刀をぱちりとはじき返すと、二人は言い合わせたようにするすると後にさがった。
「よし、それまで」
太く重おもしい声が道場にひびいた。
──千葉先生かな。
元司は首をのばして声がした方をのぞいたが、声の主の姿はそこからは見えなかった。
「ごらんなさい」
商人が小窓の横木に額をつけたまま言った。
「あれが三男の道三郎さんです。あれでまだ十七ですからな。道三郎さんのお相手をした方が栄次郎さん」
元司は商人と額をつけ合うようにして、中に眼をこらした。千葉の次男坊栄次郎は前に見て知っていたが、三男の道三郎を見るのははじめてだった。薄暗い道場に坐ったまま、面をはずした道三郎の顔が見えた。さっきのすさまじい試合ぶりが信じられないほど、ほっそりとまだ少年の面影をやどす顔だった。
──剣は天稟のものか。
元司は、やや気分が滅入るのを感じながらそう思った。酒田の伊藤弥藤治の道場に通った自分が十七歳だったことを思い出していた。そこでは、ただ竹刀をふり回しただけで、得たものは何もなかったのだ。
「一番下に多門四郎さんというひとがおりましてな。この方がまだ十歳なのに、兄さん方に負けない剣を使うそうです」
町人は千葉道場のことをよく知っているらしく、今度は窓から顔をはなして、元司の顔を見ながらそう解説した。
千葉周作には四男一女がいて、四人の男子ともに剣の才能に恵まれていた。長男の奇蘇太郎が一時父の代稽古で門弟に教えていたが、近ごろは父の周作が扶持をもらっている水戸藩に指南に行くことが多く、門人の稽古はもっぱら次男の栄次郎が引きうけている。そういう事情は元司も聞いていた。
「あたしは三島町の者ですが、ここを通るときはいつもこうしてのぞかせてもらっています。商人のくせに、こいう稽古を見せて頂くのが好きでございましてな」
中年の男は、元司を見ながらテレたように笑った。額をくっつけ合って中を隙見したことで元司に対する遠慮がとれたらしく、馴れなれしく笑った。
「九段坂上の練兵館、蜊河岸《あさりがし》の士学館。江戸にはほかにもたくさん道場がありますが、この二つとここの千葉道場。これは見ていて身体がひきしまるような稽古をやっておられますな。で、どちらかと言われれば、あたしはここが一番のような気がいたしますよ」
「ここが一番かの?」
「はい。なんといっても技の切れがよろしい。剣術を習ったこともない見物人が、こう申しますとおかしゅうございますがな。でも見ていれば、およそのところはわかります。おや?」
道場の中から、多勢のはげしい気合いが起こった。商人はおしゃべりをやめて、あわてて小窓に額をつけると、またはじまったようですよ、と言った。
元司ものぞくと、道場に灯が入って、多勢の人間が、目まぐるしく打ち合って動いているのが見えた。つい鼻の先の床を踏みならして、ごつい肩が眼の前を通りすぎたりした。
「斎藤さん」
後から肩を叩かれた。元司が振りむくと、東条塾で一緒の布施文四郎が立っていた。
「だいぶ熱心に見ているじゃないですか」
布施は元司に笑いかけた。元司は苦笑して窓を離れた。
元司は嘉永四年と改まった今年の正月に、東条塾にもう一度入りなおした。京都の遵古堂での勉学は、ほとんど身につくものがなかったと元司は思っている。許された三年の遊学のうち、一年近い月日を空しく浪費した気がした。
九月末に江戸に帰ってくると、すぐに東条塾をたずねたが、あいにくに一堂は上総の故郷に帰って留守だったので、年が明けてから改めて入塾したのである。やはり東条塾の学習は元司の性分に合っているようだった。一堂はこのところ尚書、左伝、荘子などを講じていたが、元司は乾いた砂が水を吸いとるように、講義を吸収した。学問に餓えていた。
一方で一堂は孟子の輪講をやっていた。塾生が順番に孟子を講義する会だが、講義の番にあたった塾生には、むろん同席の塾生たちから痛烈な質問がとぶ。一句の解釈をめぐって、議論が沸騰し、収拾がつかなくなるなどということは毎度のことだったが、こういう場合に示す一堂の裁断は、古学の中から例証をひき、懇切明快をきわめた。
元司はこの輪講で、つねにすばらしい冴えを示し、また塾頭の柴田修三郎と一緒に、一堂が示す孟子の解釈をまとめる仕事もしていた。元司が東条塾にいたのは三年前である。いまの塾生の中には、むろん元司を知らない者の方が多かったが、その勉学ぶりと先輩塾生ということを知って尊敬を示す者もいた。布施文四郎もそういう一人だった。
「君のように剣を習いたいんだが、遅すぎるかな」
布施と肩をならべて、塾の門の方に歩きながら、元司は言った。布施は東条塾にいながら、隣家の千葉道場玄武館にも出入りしていた。
「遅いというのは、年のことですか」
布施は丁寧な口調で言った。東条塾では、元司は後から入ってきた者だが、先輩でもある。布施はいつもそのことを念頭においた口のきき方をする。
「そう。私はもう二十二だから」
「前にはやっていませんか」
「十七のときに、一度直心影流の先生についたことがあるが、ものにはならなかったな」
元司は苦笑して言った。苦笑しながら、悔恨がちらと胸をかすめるのを感じた。あのころは剣術を口実に、今町だ、船場町だと遊び呆けていたのだ。
「少しでもやったことがあれば、だいじょうぶでしょう」
と布施は言った。
「しかし、やったとも言えんほどだが……」
「それでも、生まれてはじめて竹刀を握るというわけじゃありませんから」
布施は東条塾の門の前で立ちどまると、改めて元司の姿を眺めるようにした。
「要はきびしい稽古に耐えられるかどうかです。この身体ならだいじょうぶですよ」
「布施さん、それじゃあんたに連れて行ってもらおうかな。私はぜひとも千葉道場に入門したいのだ」
「いいですよ」
と布施は言った。それから元司を見ながら笑った。
「道理で熱心に道場をのぞいていたはずですな。しかし、どうしたんです? 私は斎藤さんは学問ひとすじで行くひとだろうと眺めていたんですが」
だが元司は、あいまいに笑っただけで、布施の疑問には答えなかった。
元司は京都の旧師岡田六蔵を思い出していた。どこか功利的な匂いがする岡田の学問に反発して、塾をとび出したが、学問は確かに、岡田が言うように世の中に出て役立つようなものでなければならないだろう。ただ岡田の視野はせまい。だから功利的な匂いがしたのだ。
だがこれからの学問は、もっと広い視野を必要とするだろう。藤本津之助という、いま思えば放浪の絵師だったあの人物が見ていたような、広い世界の動きを見きわめ、時にはそこで行動することも求められるだろう。そういう世の中に変りつつある予感がある。そのためには、数人のあぶれ者の脅しに、手も足も出なかったような懦弱《だじやく》な人間ではものの用にたたないのだ。それでは世の中の変動について行けないし、そこで自分の学問を打ちたてることもむつかしかろう、と元司は考えているのだった。
「いつ、行きます?」
塾の玄関で布施は言った。元司は答えた。
「明日にでも。決心したからには、早い方がいい」
二
玄武館主千葉周作は陸奥国栗原郡荒谷村に生まれ、子供のころから父に剣を学んだ。外祖父千葉吉之丞が、北辰無想流を創始した剣客だった。江戸に出てからは中西派一刀流の浅利又七郎に学び、三十を半ばすぎるころには師をしのぐ腕前となったので、浅利は自分の師である中西忠兵衛に入門させた。
当時中西道場には、寺田五郎左衛門、白井亨、高柳又四郎といった錚錚《そうそう》たる剣客がいて、ここで千葉の剣は、さらに長足の伸びを示した。高柳の音無しの構えを破ったのは、この中西道場にいたころである。
千葉はついに一流を創始し、その流儀に外祖父の北辰無想流の名を冠し、中西派一刀流とあわせて北辰一刀流と名づけたのであった。はじめ日本橋品川町に道場を開いたが、後に神田お玉ヶ池の東条塾の隣に道場を移し、鏡心明智流桃井春蔵の士学館、神道無念流斎藤弥九郎の練兵館とならんで江戸の三大道場と呼ばれていた。千葉自身は、水戸藩主斉昭から禄百石を与えられていた。
隣あっているために、東条塾から千葉道場に通う者も多かった。だが元司のように晩学の者はめずらしいようだった。
元司が会ったとき、千葉は五十九歳で、老境にさしかかっていたが、骨太で大きな身体をしていた。元司が布施の口ぞえで入門の許しを得、入門料として千葉に金一分、若先生の栄次郎に一朱、塾生一同に二朱を差し出すと、千葉はそれを受け取り、修業の心得、免許の制度などを話した。
最初、千葉の鋭い眼に射すくめられたように身体を固くしていた元司は、千葉の話しぶりが意外に穏やかなのに、漸《ようや》く固さがほぐれるような気がした。ともかくこの道場で修業できるのだという安堵感が心を占めてきた。
「晩学ですが、ものになりましょうか」
元司は一番気がかりだったことをたずねた。それは何度も千葉道場の稽古ぶりをのぞきながら、心の中でくりかえし考えたことだった。
「ものになるかならないかは修業次第だの。子供のころからやっておっても、修業に身が入らねば剣は伸びない。晩学でも一心にはげめばかなりのところまでは行くだろう」
「天賦の才というものがあると思いますが」
「多少はある。だが才ある者は、またよくはげむものだ。ゆえに伸びる。要は修業次第だの」
いかつい風貌にもかかわらず、千葉の言葉は噛んで含めるように穏やかだった。元司は心がふるいたつのを感じた。
東条塾で勉学をつづけながら、元司は熱心に千葉道場に通った。普通の門人は、道場で稽古するのは月に六日程度である。布施もそうだった。だが元司は月に二十日以上も、隣家の千葉道場に通った。
布施が言い、千葉も言ったように、玄武館の修業はきびしかったが、元司はそれに堪えた。道場で一刻汗を流して塾に帰ると、今度は深夜まで学問にはげんだ。限られた遊学の期間が、日一日と少なくなることを考えると、学問も剣も、いくら励んでも足りないように思えたのである。
三
六月半ばに、元司をふるい立たせるような試合が、千葉道場で行なわれた。
その日道場で稽古に汗を流していた元司たちは、急に稽古をやめてこれからはじまる稽古を見るようにと言われた。門弟たちはいそいで面や籠手の防具をはずし、道場の板壁を背に並んだ。
すると三十前後の小肥りの男が道場に入ってきて板の間に坐ると、無造作に防具をつけはじめた。
「海保先生だ」
元司の隣にいた北村という門人が、元司に囁いた。すると続いて千葉と息子の栄次郎が入ってきて、栄次郎も道場の隅に坐ると防具をつけはじめた。
「お相手は若先生だ。これはすごい試合になるぞ」
北村に言われて、元司も思わず気持がたかぶるのを感じた。海保帆平の名は聞いていたが、見るのははじめてだった。
海保は十四のときに千葉道場に入門したが、間もなく非凡の剣才をあらわすようになった。五年後には千葉門の高弟の筆頭に数えられていた。たまたまその剣技が水戸の徳川斉昭の眼にとまり、水戸家では海保が仕えていた板倉家に懇望して、海保を譲りうけると水戸藩の剣術指南役とした。そのとき海保は、わずかに十九歳だったのである。
元司たち門弟がざわめいたのは、もうひとつ理由があった。最近海保は直心影流の島田虎之助と十本勝負を行ない、うち六本を得て勝ったという噂を聞いていたからである。島田は直心影流の男谷道場で、もっとも傑出した剣士として知られ、技は師の男谷信友とならび称されるほどの剣客だった。
門弟たちのざわめきは、防具をつけおわった海保と千葉栄次郎が、道場の真中に出てくると、潮が引くように静まった。
礼をかわすと、海保と栄次郎はするすると間合いをあけた。青眼に構えたまま、二人は動かなくなった。長い刻がたって、ようやく栄次郎が、ひと足じわりと前につめた。同時に海保がひと足さがった。そのまま、また対峙が続いた。
道場の中は身じろぎひとつする者がいなかった。門弟たちは剣気に縛られたようになっていた。正面の席にいる千葉だけが、時どき大きな掌で顎をなでるだけである。
不意にすさまじい気合が道場の空気を裂いた。海保の身体が躍って、竹刀は栄次郎の面を襲っていた。同時に栄次郎の痩身がしなやかに屈伸した。海保の竹刀には音がなかったが、栄次郎の竹刀が、海保の胴に乾いた音を立てたのが聞こえた。二人は同時に後に大きく飛びさがっていた。
「いや、参りました」
海保が、面の中から大きな声で言った。
呪縛が去ったように、道場にざわめきが戻った。海保と栄次郎が、何か話しながら、肩をならべて千葉の前に歩いて行くのを眺めながら、元司は掌を開いた。じっとりと汗ばんでいた。
海保と千葉栄次郎の試合を見てから、元司の稽古は一段とはげしさを加えた。二人の試合は、剣というものの行きつく先が、これまで考えていたよりも、はるかに深いことを元司に知らせたようだった。
学問の方にも精出した。道場から戻ると、講義を聞き、輪講に出たが、元司はそれでも足りないと思った。深夜おそくまで勉強し、八月に入ると、ついに八ツ(午前二時)にならないと寝ない習慣をつけ、十月になってやや寒くなったので、九ツ(十二時)に寝て七ツ(午前四時)に起きることにしたのであった。
そのころ元司はひそかに、諸国から英才が集まる、幕府の昌平黌書生寮に入る決心を固めていた。そのためには、昌平黌の儒官をつとめる学者の私塾に入って推せんをうけなければならない。東条塾の学問を一日も早く吸収しつくし、次の塾にすすむ必要があった。
そういう猛烈な勉学をつづけながら、千葉道場での精進が続いていた。十一月に入ると、千葉道場は寒稽古に入った。明け七ツ(午前四時)に道場に入り、五ツ(午前八時)までの二刻、息つくひまもない稽古だった。元司にははじめての経験だったが、この稽古で、元司は何かを得たように思った。
稽古が終るころには、身体は疲れて宙に浮くように感じ、竹刀は鉛のように重くなる。だが翌朝道場に入ると、身体の動きは前日より軽く、竹刀はやや心のままに動くようであった。
月の最後の日に、納会の一本勝負がある。千葉道場での許しの免状は初目録、中目録免許、大目録皆伝の三段階にわかれ、中目録免許の許しをうけると道場を開いて門弟を教えることが出来た。
納会の一本勝負は、この目録をさずける判定の目安にされる。元司はこの勝負で三人を倒し、大酒盃を頂いた。普通の人間の三倍も道場に通い、寒稽古を一日も休まなかった成果があらわれたのである。
十二月になって、元司は東条一堂に呼ばれた。一堂は、元司が部屋に入ると、楽にしろと言い、女中に茶を運ぶように言いつけた。
「じつは柴田が国に帰る」
と一堂は言った。塾頭の柴田修三郎は松本藩士だが、江戸遊学の期限が月半ばで切れるので、帰国することになったのであった。
「それで、塾頭の後継ぎを決めねばならんが、斎藤しかないように思う。引きうけるかの」
「先生」
元司は膝で少し後じさると頭を下げた。
「ありがたいお言葉ですが、じつは私、昌平黌にすすみたい気持があります。ご存じのように、昌平黌に入るには、しかるべき儒官の先生の塾を経なければなりません。ところが、私の修学の年限は、国元を出るときに三年と限られていますので、いそがねばならんのです。折角のお言葉ですが、塾頭の役目は余人にご命じ頂きたいと存じますが」
「昌平黌か」
一堂は元司をじっと見た。その顔に、みるみる微笑がうかんだ。
「なるほど。この塾から昌平黌にすすむ者がいるとすれば、それはまず斎藤か」
「恐れいります。ご期待にそえず、心苦しく存じます」
「なに、そういうことなら塾頭のことは気にかけなくともよろしい。考え直そう」
「柴田さんとご相談ください」
「その柴田が、斎藤を推したのだが、ま、よろしい。で、どこの塾へ行くつもりかの」
「古賀塾に行きたいと考えています」
元司はそのとき一堂にそう答えたのだが、翌年二月になって、実際に入塾したのは安積艮斎《あさかごんさい》塾だった。古賀茶渓塾を目ざして行ったが、古賀塾では元司が千葉道場で剣を修業していることを聞くと、それを嫌って入塾を許さなかったのである。
元司が正式に安積塾に入ったのは、嘉永五年二月一日のことだった。そこで元司は、はじめて安積塾の塾頭間崎哲馬に会った。間崎は土佐藩から来ていて、まだ十九だった。その若さに元司は圧倒される気がした。
安積塾には、そこから昌平黌にすすむつもりで入っている者が多く、どことなく活気に満ちた空気があった。塾頭の間崎をはじめ、すぐれた頭脳をもつ塾生ばかりで、元司は心がひきしまるのを感じた。
安積塾に落ちつくと、元司はまた千葉道場に通った。剣の修業が面白くなりはじめていたが、それはべつに学問の邪魔にはならなかった。
翌月の閏《うるう》二月二十四日になって、元司は千葉道場の初目録をうけた。年末の寒稽古の納会の結果が、ようやくひとつの形になってもたらされたのである。
初目録をうけたのは三人で、元司のほかは九州の岡藩士真辺学造、ほか一人だった。目録を頂いて、元司が玄関まで出ると、婢が追いかけてきて、大先生が呼んでいますと言った。
元司は千葉の居室に通された。千葉は一人で机に向って書きものをしていたが、元司をみると、立ってきて向いの座に坐った。
「凡手の者は、初目録をとるのに、およそ三年はかかる。だが斎藤は一年で受けた。まず非凡と申してよい」
「は」
元司は頬がかっと熱くなって、思わず顔を伏せた。
「熱心に稽古したたまものだ。非凡の者は、やはりよく稽古するし、その稽古に堪えるからまた非凡の技を得ることが出来る」
「………」
「しかし特に斎藤に申しておくが、ここで慢心してはならんぞ」
元司は顔をあげた。まなじりの切れ上がった鋭い眼が、元司をじっと見つめていた。
「心おごらず、さらに精進すれば、やがて必勝の技を身につけることが出来る」
必勝の技──。元司は胸の中でつぶやいた。剣の、ひとつ奥をのぞいた気がした。
同時に、自分の稽古ぶりの中に、千葉が慢心の気配を見たのだろうかとも思った。総身に冷たい汗が噴き出るのを感じながら、元司は低く頭を下げた。
四
安積塾の学問は、詩文を重視する傾きがあって、東条塾の厳格な古学になじんだ元司は、少しもの足りない感じがした。元司はむしろ、千葉道場の剣術稽古に熱中した。むろん次の中目録免許を狙っていた。初目録を授けたときの師の励ましが、意欲を掻き立てている。
さらに精進すれば、やがては必勝の技を身につけることが出来るだろう。そう言ったひとが、ほかならぬ天下に剣名高い千葉周作であることが、元司をふるい立たせるのである。
そうして剣の修業に精進しているとき、元司の胸に、江戸で文武二道を教授する塾を開けたらいい、というのぞみがうかぶことがあった。だがそれはあてのない望みのようにも思われた。元司は三年と限られた遊学の途中にいて、期限が来れば帰国しなければならない身体だった。
安積塾の学問に、元司はあまり心を惹かれなかったが、不満があるわけではなかった。安積塾は、いずれ昌平黌に入る手づるとして選んだ塾と割り切ることも出来たし、そこではなによりも得がたい良友に恵まれたのである。
十月半ばのある日。元司は同塾の間崎哲馬、園田子寧、神林恵甫の四人連れで、駿河台の塾を出て浦賀に行った。外国の船がくる浦賀を見に行こうと言い出したのは間崎だった。
「あのあたりを一度、視察しておく必要があるな」
間崎が、いつもの静かな声音で言うと、たちまち三人が同調したのである。
四人は夜おそく金沢についた。もう戸を閉めていた宿屋を叩きおこし、二階の部屋に上がると、そこから月に照らされた海が見えた。
「絶景だ」
四人の中で、一晩疲れてみえる間崎が、窓ぎわの柱によりかかったまま、そう言った。間崎は病弱で、時どき塾の講義を休むことがあった。ほかの三人も、部屋の中に立ったまま、月の光の下にひろがる冬近い海を眺めた。
「あの、このままお休みになりますか」
廊下に膝をついていた番頭が言った。宿では深夜の客をあきらかに迷惑がっていた。番頭の顔には、このまま四人を寝かしつけたい気持が、露骨に出ている。
「ばか言え」
と園田が言った。
「着いたばかりではないか。酒を運んで来い、番頭」
「しかし、もう夜もふけたことですし、それにほかに泊りのお客さまもおいででございますので」
「なに、こっそりと飲む。ほかに迷惑はかけん」
「酒はひやでいいぞ」
と間崎も言った。その声に舌なめずりするようなひびきがあったので、元司と神林は笑った。間崎は身体が弱く、また若いくせに、底なしの酒好きだった。
「なんの視察にきたか、わからんな」
番頭が酒を運んできて去ると、神林がさっそく酒をつぎ、盃をあげてそう言った。四人はどっと笑った。迷惑をかけないと言った尻から傍若無人な笑い声だったが、若い四人はその傍若無人を楽しんでいた。
「何ということもない海だがな」
元司は、手すりの向うにひろがる夜の海を眺めながら言った。
「じつに美しい」
「だが、いまに荒れるぞ」
と間崎が言った。
「ここには、六年前にアメリカの軍艦が二隻きている。また来るだろう」
「六年前に? 何しに来たのだ」
と神林が言った。神林はさっきから黙黙と飲んでいて、不意にそう言ってあげた顔は真赤だった。
「わが国に、貿易をやる気持があるかどうかと、聞きに来たのだな。幕府は驚いたが、国法によって、貿易を禁じていると答えた。すると、アメリカ軍艦は、そのままおとなしく帰ったそうだ」
「あきらめたわけだな」
「いや、あきらめてはおらん」
間崎は静かに言って、ひと息に盃をあけた。三人はいっせいに間崎を見た。面長でほっそりした間崎の顔は、酒が入ると青ざめ、舌は鋭くなる。
「一昨年に長崎にきたオランダ船は、アメリカがわが国と貿易したい強い考えを持っていると警告したらしいし、つい二月ほど前に、オランダ商館のクルチスとか申すカピタン(館長)が、幕閣の人間に会ったとき、アメリカは来年にも貿易をのぞむ使いを送ってくるだろうと申したそうじゃ」
「………」
「その使いとやらは、軍艦に乗って……」
間崎は盃をおいて、白くかがやいている海を指した。
「この海にやってくるだろうな。ただしクルチスの申したように、来年くるのか、それとももっと先になるのかはわからんが」
「幕府があくまで拒めば、どうなる?」
と元司は言った。元司は、むかし藤本津之助に聞いたアヘン戦争のことを思い出していた。また長崎港で見た巨大な戦闘艦と、金髪の巨漢たちを思いうかべていた。
「こちらがのぞまんものを、無理に押しつけるということになれば、戦争になるのかの?」
「あるいは」
と間崎は言った。
「だが、戦争になった場合、はたしてうまくふせげるかどうかはわからんな」
「あの大国の清国が負けたというではないか」
「しかしわれわれは清人ではない」
間崎は少し鋭い口調で言った。元司は口をつぐんだが、徳利をとりあげて間崎につぎ、自分の盃も満たしてから言った。
「愚問かも知れんが、ひとつ教えてくれ。エゲレスは無理に清国に港を開かせて、アヘンを売り込んだというが、アメリカもわが国にアヘンを売るつもりかの?」
「なるほど、愚問だな」
と間崎はおだやかな口調で言った。そのやりとりがおかしかったらしく、耳を傾けて聞いていた神林と園田が笑い出した。
「エゲレスは清国にアヘンを売って、莫大な利を得ていた。それで清国にアヘンの持ちこみをとめられたときも、それをやめることが出来なかったわけだな。そこで武力にものを言わせたのだ」
と間崎は言った。その間にも盃の手を休めなかった。
「無法は無法だ。だが根本は貿易という商いに根ざしている。エゲレスはいま、清国にアヘンと綿布を売りつけているらしい。アメリカはアヘンは売らん。アヘンは彼らの商品ではないからだ」
「すると、アメリカは何を売るつもりだ?」
「アメリカも清国に物を売っているが、これは毛皮とか、エゲレスのような綿布らしい。しかしアメリカの商人はむしろ物を買いたがっておる。清国から買った絹布、茶などを、本国やほかの国に売りさばいて利を得ておると聞いたぞ」
「それなら、さして害もなさそうではないか」
と園田が言った。元司はうつむいて酒をつぎながら耳を澄ませた。こういう議論は、東条塾にはなかったものだった。塾生の多くは、学識を積み人格を磨いて、国に帰ってひとかどの者になるために、黙黙と励んでいた。そして元司もそういう一人だったし、そのことに不満をもたなかった。
だが安積塾の塾生と話していると、いかにも天下を論じているという気がしてくるのだった。
十七の時に、藤本津之助に聞いたアヘン戦争の話は、元司に日本という国の外にある、漠然と広い世界のことを感じさせたが、いま間崎は藤本が言ったことを、もっと詳細に、手のひらの上のものを語るように論じていた。
あるとき元司は、間崎の時勢に対する観察が、眼がさめるばかりに鋭いのに感嘆して、いつからこういうことを考えるようになったかと聞いたことがある。間崎はそのとき無造作に、「なに、江戸にきてからさ」と言った。
安積塾には、間崎のほかにも土佐藩から数名の塾生がきていた。彼らに聞いたところによると、間崎は三歳で文字を解し、四つのときには孝経をそらんじた。また六つのときには四書五経の句読を学び、七つのときすでに詩文を草して神童と呼ばれたという。また同じく非凡な学才を示した細川熊太郎、岩崎馬之助とならべて三奇童とも呼ばれた。
そういう俊敏な才能が、時勢の認識にも鋭く働くようだった。元司は、この年少の学友の、時勢に対する洞察の深さに、日ごろから畏敬の気持を抱いている。
「一概にそうは言えんところに問題がある」
と間崎は言って、徳利をひき寄せたが、おや、空だ、と言った。
徳利を持って、間崎は立ち上がろうとしたが、よろめいて膝をついた。
「よし、おれが行って来よう」
元司が徳利を受けとって、立ち上がった。神林がうしろから「だいじょうぶかな」と声をかけたが、元司はまかせてくれと言って階下に降りた。
時刻は九ツ半(一時)を回っていた。むろん宿の者は寝ていたが、元司は起こして酒を頼んだ。
宿の者は不機嫌をかくさずに、無言で、荒あらしい手つきで酒を渡した。そして二階に上がる元司に梯子の下までついてきて言った。
「お静かに願いますよ。いくらお侍さまでも、こんな夜中に酒盛りをなさるひとはいらっしゃらないんですから」
「心得ておる。そっと飲む」
元司はそう言ったが、元司が首尾よく酒を補給してもどったのをみると、残っていた三人は奇声をあげた。みんなかなり酔いが回っていた。
「さあ、間崎にさっきのつづきを聞こう」
園田が勢いよく言った。座に活気がもどってきた。間崎は盃を干すと、背筋をのばして言った。
「たとえば清国では、アヘン戦争に負けたために、貿易のための港をこれまでの一港から五港までひろげざるを得なくなった。つまり簡単にいえば、これまでの五倍とは言わなくとも、それに近い品物が、清国に入ってきておる。さっき申したアヘン、綿布のたぐいだ」
「………」
「その結果、どういうことが起きたかと申すと、清国から出て行く銀の量が急にふえた。ために銀貨の値が高くなり、それが清国人の暮らしをしめあげてきておる」
「………」
「アメリカが、日本に何を売るつもりかはわからん。が、かりにこちらから買って行くものを、茶、生糸そのほかと考えてみよう。出て行く量が多ければ、茶は国内で高値になる。生糸もしかりだな。それだけですめばよいが、ほかの品物も釣られて値上りする。数港を貿易に開き、さらにアメリカだけでなく、ほかの国にも商売を許すということになれば、こういうことは必ず起こる。そうなれば、いまも暮らしいいとは言えぬ世の中が、いっそう暮らしにくくなるだろうな」
「そういうものか」
と神林が言った。
「そういうものだ。ところでわが国が長崎だけを開き、オランダに貿易を許してきたのは知っておるな」
「それは知っている。おれは出島のオランダ商館を一度見物したことがある」
と元司は言った。こうして間崎の話を聞いていると、その時に見た商館の板塀の上の鋭いしのび返し、広場の柱にかかげられた青、白、赤三色のオランダ国旗。商館事務所の奥の広場にならぶ倉庫と、とびらが開いた薄暗い倉庫の中に、積み重なって見えていた木箱などが、あざやかに眼によみがえってくるようだった。
「ほう」
と言って間崎は元司を見つめた。
「中に入って見たのか」
「見た。葡萄でかもしたという酒を飲まされたが、妙な味のものだったな」
と元司は言った。
「毛唐に会ったのか、そこで?」
と神林がきいた。
「会った。もっともそばに寄って見たというだけで、話したわけではない。言葉がわからんからな」
「どんなふうだった?」
「そうさな。顔はももいろで、皺のある奴は猿のように見えたな。身体は総じて大きい」
元司は考えながら言った。そして突然にそのとき彼らから匂って来た異臭を思い出した。
「そばによると妙な匂いがするぞ。犬の匂いに似ている」
「犬?」
三人は元司の顔を眺め、それからいっせいに笑った。
「しかし、港に泊っていた船は二十四門も砲をそなえた巨艦だったし、商館の中の調度のたぐいは立派なものだった。ふんだんにギヤマンを使って、時計なども精巧なものだったな」
「………」
「ま、その話はいい。それで? オランダがどうした?」
「うん」
間崎は盃をおいて腕を組んだ。
「オランダ一国が相手の貿易なら、商売はどのようにもなる。どだい量が少ないし、彼らはしきりに金銀細工の品や、銀、銅銭などを買いつけているが、それが出すぎると思えば、幕府はそれを押さえることが出来る」
「………」
「だが、港を開いて気ままな交易を許すとなると、そうはいかんのだな。さっき言ったように生糸の買いつけが多くなれば、品不足から値上りして、それを使って仕事をしていた、西陣あたりの商売は立ちゆかなくなる。また先方から入ってくる品物が安ければ、われわれにしてもそれを買うだろうから、たとえば綿布などはいままでの値段ではこしらえても、売れんということになる」
「そういうものか」
と元司は言った。間崎は商人でもないのに、そういう物と金の仕組みをよく理解しているようだった。元司は酒屋の後つぎでいながら、そういう知識にまったくうとい自分を感じないわけにいかなかった。
「すると暮らしが荒れるな」
「そうだ。交易でひと儲けする者が出るだろうが、それはひと握りの人間だろう。どこの藩を見ても、物が豊かとはいえないから、交易をはじめれば、まずいろいろな物が値上りすることは確かだ」
「………」
「幕府にはそのことがわかっている。だから港を開くことをことわっている。だが、無理にことわりつづければ、戦争になるかも知れん。そういう時勢になってきておるわけだ」
元司は、長崎でオランダ人の水夫をみながら、好人物そうに見えた彼らの背後に、たとえば清国に戦争をしかけたような、別の種類の巨漢たちがいるのを感じたことを、間崎の言葉で思い出していた。
「幕府は出来れば港を開きたくないと考えているだろう。面倒はさけたいのだ。そこで一応諸藩に命じて海防を厳重にしているわけだな。だが、そのうち彼らは膝づめで談判にくる」
「アメリカか」
「アメリカもエゲレスも、オロシアもだ。そのとき無理にことわって戦争にするか、どうかだ」
「しくじれば清国の二の舞いだな」
「いまに、国論が二つに割れるぞ」
間崎は盃に酒を満たすと、手すりの向うにひろがる夜の海にむかって、盃をかかげるようにしてのみ干した。
「開国か、戦争かだ。どちらもむつかしいから幕府は決めかねている。土壇場まで決めることが出来んだろう。だから論議は割れる。われわれは、そういう時勢に生まれあわせたわけだ」
「明日は、砲台を見に行こうではないか」
と園田が唐突に言った。よかろう、とみんなが言うと、園田は立って行って窓じきいに腰かけ、低く詩を吟じはじめた。
「冷えて来たぞ。戸を閉めて、そろそろ寝るか」
神林が、不意に身ぶるいしてそう言ったが、間崎がおだやかに言い返した。
「月は寒いが、良夜だ。もったいないことを言うなよ」
「間もなく夜明けだろう。酒は、まだ残っているぞ」
と元司も言った。酔っていた。酔った気持の底に、そういう時勢に生まれあわせた、と言った間崎の言葉が、耳鳴りのように鳴っている。園田はまだ詩を吟じていた。神林は思い直したように、徳利をかたむけて酒をついだが、酔っているらしく、畳に少し酒をこぼした。
神林にはそう言ったものの、間崎は疲れたようだった。不意に物を転がすように、無造作に畳に寝た。すると、くぼんだ眼窩《がんか》に、行燈《あんどん》の灯が影をつくって、間崎は病者のような顔になった。
「間崎」
元司が呼びかけた。
「年が明けると、帰藩せねばならんのだろう」
「うむ」
間崎は眼をつむったまま答えた。
「おれも帰らねばならん」
と元司は言った。そう言うと、今夜の酒が別宴のような気がしてきた。間崎がぎょろりと眼を開いて、寝ころんだまま聞いた。
「剣の修業の方はどうする気だ?」
「当分おあずけだな」
「精進するといいな。いまに士興(元司の号)の北辰一刀流が、役に立つ日がくるような気がするぞ」
言い終って眼をつむると、間崎はまもなく軽いいびきの音を立てた。神林も、あぐらの中に頭をおとしこむようにして眠っている。元司は不意にこらえようのない眠気に襲われるのを感じた。背後で園田が「夜が明けるぞ」といった声を、元司は微かに聞いた。
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江戸清河塾
一
嘉永六年六月三日。曇天の江戸湾入口に、四隻の真黒な船体をもつ艦船が姿を現わした。
船はペリー提督がひきいるアメリカ東インド艦隊の、サスクェハナ、ミシシッピ、プリマス、サラトガの四艦だった。四艦は、敵対行動に対していつでも応戦出来る戦闘準備をととのえたまま、黒煙を吐くサスクェハナ、ミシシッピ、つづいて帆船のプリマス、サラトガの順に、全速力で浦賀水道に突入すると、同日の七ツ半(午後五時)ごろ、浦賀沖に達し、そこに錨をおろした。
浦賀には、川越、忍、会津、彦根の四藩が海岸防備の兵を配置していたが、アメリカ艦の侵入をみると、ただちにきびしい警戒体制を布いた。これに掛川、小田原の二藩からも兵を出し、海岸線は防備の兵で埋まった。
だがアメリカ艦隊は、防衛線を布いた日本の兵が、剣、槍、火縄銃という貧弱な武器で武装していることを見抜いていた。艦隊司令長官ペリーの態度は、最初から高圧的だった。
浦賀奉行戸田氏栄は、厳戒の中を支配組与力中島三郎助にオランダ語通辞をつけて、旗艦サスクェハナにやり、司令官に来航の目的を聞かせたが、ペリーは尊大にかまえて、会おうとしなかった。
中島はやむを得ず副官コンティ大尉に会い、艦隊がアメリカ大統領フィルモアから日本皇帝陛下にあてた親書を持参したことを知ったが、国法に従って艦隊を長崎に回航するように通告した。だがコンティ大尉はその場で中島の通告を拒否した。そして逆に、大統領親書を浦賀で最高の職にいる役人が受理し、皇帝(将軍)にとりつぐように要求した。
コンティ大尉は、そのうえ艦隊をとりまいている日本側の防備船を引き揚げろ、と言い、従わなければ武力で退去させると、はなはだ好戦的な言葉を吐いたのである。その夜、五ツ半(午後九時)になると、旗艦サスクェハナの巨砲が轟然《ごうぜん》と発射音をひびかせた。時報だったが、その殷殷たるひびきに驚いて、沿岸を固めていた防備線ではいっせいにたいまつの火を消した。
翌日浦賀奉行は、与力の香山栄左衛門をサスクェハナに派遣し、漸く親書受け取りに三日間の猶予をとりつけた。アメリカ艦隊はその間にミシシッピに測量艇隊を付属させて、江戸湾深く小柴沖あたりまで遊動させ、江戸に威圧を加えた。
この間幕府では、夜を徹して協議した結果、ようやく大統領親書はとりあえず受け取る。返書はオランダ人または中国人を通じて、長崎で手渡すことを決めた。
幕府は浦賀奉行戸田氏栄、井戸弘道を全権に任命し、六月九日に九里浜に設けた応接所で親書を受理させた。この日、アメリカの艦船から、水兵、海兵隊、軍楽隊およそ三百名が、ペリーを警護して上陸し、サスクェハナは祝意と威嚇をこめて大砲十三発を発射した。
ペリーは大統領親書、ペリーの信任状、ペリーから徳川将軍にあてた書状二通を渡し、来春は今回よりさらに多数の艦隊をひきいて、返書を受け取りにくる、と演説した。日本側全権は書類を受け取り、受領書を出したが、終始無言だった。
フィルモア大統領の親書は、両国の親睦と交易、アメリカ商船、捕鯨船への石炭、薪水、食糧供給、難破船員の保護を要求していた。また日本側全権が手渡した受領書は、ここは応答の場所でないので、返事は出来ない。しかし、親書を渡すという目的は達したのであるから、早早に帰るようにといった内容を記したものだった。
ペリー提督は、一度の来航で返事を受け取ることは無理と考えていたらしく、退去を約束した。だが、帰る前になって、急に艦隊を江戸湾内深く入りこませ、その真黒な船体が、品川、川崎、神奈川の町から見えるところまですすめたので、江戸市中は恐慌をきたし、家財を車に積んで、江戸から逃げ出そうとする者でごった返した。十分に威嚇してから、十二日アメリカ艦隊は遠く海上を去って行った。
武装したアメリカの艦隊の来航は、まことに泰平のねむりをさますものだった。浦賀から江戸にかけての一帯には、一触即発の戦争気分がみなぎった。しかもそれは、異国艦と、その背後にある正体の知れない国との戦になるかも知れないという、未知の恐怖をはらんでいた。
幕府は鎖国の建前を崩さず、警備の諸藩に沿岸防衛の強化を命じて対処したが、内心の狼狽は隠せなかった。城中で連日連夜対策を協議する一方、七日には日光に、八日には増上寺に世上|静謐《せいひつ》を祈祷させたりした末に、結局親書を受け取らざるを得なかったのである。
国を支配する幕府にしてこの有様だから、庶民の混乱は甚しかった。彼らはもっと生身で恐怖を感じ取っていた。海辺の土地から、江戸から逃げ出す人間で、道は混雑がやまなかった。そして江戸では武具屋や、古着屋が繁昌した。
当時の大津絵の替唄は、その様子を、「江戸も諸国も大さわぎ、鉄砲|鍛冶《かじ》やは穴をほる、馬具やは皮はる、鎧のおどしをする、にわかに砲術軍学それから稽古する」と唄ったが、甲冑《かつちゆう》、刀剣の類はたちまち値上りし、古着屋では陣羽織、小袴、裁付《たつつ》けが飛ぶように売れた。庶民も武士も、ともに泰平の夢を破られたのであった。
黒船来航の知らせを、斎藤元司は蝦夷《えぞ》地の箱館で聞いた。
元司はその年の三月、父母との約束に従って帰郷した。だがすぐに父に願って、五月には蝦夷地に渡ったのである。異国船がしきりに出没するという蝦夷地に対する関心は、東条塾で、先輩の阿部千万多が蝦夷地に行ったらしいと聞いたころからあったものだが、安積塾で間崎哲馬らに接触して、外国に対する眼を開かされたのが強い動機になった。
黒船来航の知らせを聞いたとき、元司は間崎らと四人で、浦賀を視察に行ったときのことを思い出していた。月の光に白くかがやいていたあの海に、四隻もの戦艦が来たのかと思った。その想像はかすかに元司の血をざわめかせるようだったが、間崎たちといたときのように、気持がたかぶることはなかった。元司は江戸と一応つながりがきれ、また浦賀からあまりに遠い場所にいたのである。
二
ペリーが、アメリカ艦隊をひきいてふたたび江戸湾に来航したのは、翌安政元年一月十六日だった。軍艦は七隻。旗艦ポウハタン、前年にも来たサスクェハナ、ミシシッピ。以上三隻の蒸気艦にマセドニアン、バンダリア、サザンプトン、レキシントンの四帆船で編成した艦隊だった。
再航のペリーは、最初から威嚇的な行動をとった。アメリカ艦隊は、一月十一日伊豆沖に姿を現わすと、十六日には浦賀沖を通過して金沢の沖まで進んだ。
幕府は浦賀奉行を通じて、艦隊を浦賀沖にとどめ、交渉の場所を浦賀か鎌倉にするよう交渉したが、ペリーは受け入れなかった。ペリーは今度の交渉で、日本がアメリカの要求をこばんだときは、報復措置として琉球を占領する肚《はら》を固めていたのである。ペリーは交渉の場所は江戸の近郊であるべきだと強く主張した。
そして日本側の要求を無視して、艦隊をさらに江戸湾内深く、羽田沖まですすめた。羽田沖からは江戸の市街が見える。恐慌をきたした幕府は急遽《きゆうきよ》、交渉地を神奈川宿はずれの横浜村に指定した。
幕府が全権を林大学頭輝、町奉行井戸覚弘、浦賀奉行伊沢政義、目付鵜殿長鋭の四人にゆだね、アメリカ側と第一回の交渉に入ったのは二月十日だった。アメリカ側の使節が上陸すると、それまでに新たに加わった、サプライ号を入れて八隻になったアメリカ艦隊は、礼砲と称して五十発を越える砲を打ち放した。
砲声は海岸の空気をふるわし、付近の家では、人びとは畳に伏して耳をおさえ、外へ出る者は一人もなかった。とどろく砲声はペリーの意識した威嚇だった。
黒船の再度来航を、元司は蝦夷地から戻っていて清川の家で聞いた。江戸から帰ってきて、関所を通る者の中には、神奈川まで行って、じっさいに黒船を見てきたという者もいた。元司はそういう人間に会うと、見聞きしたことをくわしく問いただした。
──膝づめで、談判にきているわけだ。
元司は、金沢の宿で間崎が言ったことを思い出した。開国か、戦争かだ、と間崎は言ったが、その選択を迫られる時期はあまりに早くやってきたようだった。
──新しい時代が幕を開けようとしている。
と元司は思った。これまで予想もしなかったような時代の波が、自分や家族をその中に含む、日本という国を手荒く洗いはじめているのを感じる。
そう思うと、荘内領の片隅で、経書を読んだり、気がむけば家業を手伝ったりして暮らしている自分に、ふといら立ちがこみあげてくる気がした。恐らく江戸の東条塾、安積塾、そして千葉道場にいる、元司の知人たちは、そういう時勢を日ごとに呼吸する気がしているに違いない。
──一人取り残されているか。
百年一日のごとく流れを変えない最上川のほとりに、雪に閉ざされていることに、元司は次第にたえがたくなってくる気がした。
「少少、お話があります」
夜の食事が済んで、父の豪寿が立ち上がったのをみると、元司は箸をおいてすばやく立って行き、うしろからそう囁いた。
豪寿が黙ってうなずくのをみて、元司は膳にもどった。
「おとうさまに、何かご用ですか」
弟の熊三郎に飯をよそってやりながら、母の亀代が元司にそう言った。食事の世話をしながら、亀代は元司の唐突な行動をのこらずみていたようだった。
母の眼に不安のいろがあるのを、元司はなかば恐れ、なかばうっとうしく感じる。江戸からもどってきた息子は、来ると間もなく蝦夷地に旅立った。ようやく秋口にもどってきて、その後は神妙に家にいるが、いつまた不意に旅立つと言い出すかわからない。亀代の眼はそう言っているようだった。
「いや、たいしたことではありません」
元司はそっけなく言って、飯をかきこんだが、自分のそっけない態度にいや気がさして、無言で飯をしまいにした。
父親が書斎にしている部屋に行くと、豪寿は細かい文字の書物をみていた眼鏡を机において、元司を迎えた。
豪寿は家督をついで十年、年も四十五になっていた。無造作に袖無しの綿入れを着た姿にも、豪家の主らしい風格が出てきていた。若い時からの書物好きは変らず、夜には必ず書斎に入る習慣だった。
「ご勉強ですか」
元司は机の上をのぞいて言った。
「近ごろ、俳諧の方はいかがですか」
「うん。時どき松山に行っているが、あそこの俳諧連中も、柳支さんが亡くなってからむかしの元気はなくなっての」
松山は荘内藩の支藩酒井大学頭の城下で、豪寿はそこに住む醸造家で俳句宗匠を兼ねる村田柳支に、俳諧を学んでいた。柳支は加舎白雄の系統をひく宗匠で、近在では高名な俳人だったのだ。
「なにか、いい近作がございますか」
「近作か」
と言ったが、豪寿は苦笑して元司を見た。
「それよりも話というのを聞こうか」
「………」
元司はそろえた膝に眼を落とした。
「また、虫が動き出したか」
と豪寿は言った。元司は顔をあげて父親を見たが、豪寿はべつに機嫌が悪そうではなかった。
「は。じつはそのお願いで」
「言ってみなさい。出来る相談もあり、出来ない相談もある。聞いてみないことにはわからんからの」
「また江戸遊学をお許し頂けませんか」
「やはりそれか」
豪寿は、不意に額にしわを寄せて、火鉢の炭をいじった。
「そろそろ言い出すころではないかと思っていた。どうにもこの家には落ちつけないようだな」
「申しわけございません」
元司は頭をさげた。
「しかし学問も、いかにも中途はんぱで切りあげてきていますので。もしお許し頂ければ、今度は昌平黌に学びたいと考えております」
「昌平黌?」
豪寿は驚いたように元司を見た。
「そんな望みを持っていたのか。それはいままで言わなかったな」
「はい。行けるかどうかわからんことですから。ただし安積塾に移ったのは、出来れば昌平黌にという気持があったわけです。あそこの推挽《すいばん》があれば、昌平黌入校もかなうと存じます」
「なるほどな」
豪寿は考えこむようにしばらく沈黙したが、やがて低い声で言った。
「なるほどお前の学問も、そこまで来ているわけだ。それはうすうすわしにもわかっていた。お前は子供の時分から、いまのようになりそうな気がしたし、近ごろは家にひきとめるのは無理かも知れんという気がすることがある」
「………」
「しかし、わしには親という役目のほかに、斎藤の家の主としての役目がある。わしの代でこの家をつぶすことは出来ないわけでの。商売を繁昌させ、次の者に何ごともなくひきつぐ。これも斎藤の家の血を受けつぐ者の大事な勤めだ」
「それは、よくわかっております」
「いや、お前はわかっていない」
豪寿は、不意に鋭い口調でそう言ったが、ひとときの沈黙のあとおだやかな声音をとり戻した。
「先祖の血をひきつぐということの重味は、お前はわかっておらんと、わしは思う。ま、それはそれで致し方ない。熊三郎につがせるかとも考えたが、あれはあれでやはり自分でやりたいことがあると言って、うんと言わん」
「………」
「わしとしては、お前を許し熊三郎を許さんとは言えない」
「それは当然です」
と元司は言った。
「私はこの家の長男で、いずれ家をつがねばならん身分です」
「お前はいつもそう言ってきた。そう言いながら少しずつ家を離れて行くようだ」
豪寿は少し疲れたように言った。
「時には、なにが不足でそう外に心が向くか、と腹が立つこともあるが、お前ももう二十五だ。二十五の分別というものがあろう。むかしのように、力で押さえつけるわけにもいかん」
「またもどって参ります」
と元司は言った。父親が本心をさらけ出して、息子にみせているのを感じ、元司は心をゆさぶられていた。そして父親の望みとはあまりにかけはなれたいろいろな望みを隠している自分が、ひどくやましい人間に思えた。
「期限を切ってください。必ず戻ります」
と元司は言った。
「期限か」
豪寿は不意に苦笑した。やわらかい父親の表情になっていた。
「あってなきがごときものだという気もするが、それがお前の親孝行というものかも知れないの。いや、わしのことを言っているわけではない。母親の方だ。あれは、三年といえば、それが終れば帰ってくると信じて待っている」
「………」
「三年と区切るか。そう決めてやらんと、お前も家を出にくいだろうからな」
元司は父親を見た。父親はまだ微笑していた。元司も笑った。初めて父親と男同士の話をかわしたという気がした。
書斎の窓のそとに、ひそひそと微かな音がしているのは、夕方から降り出した雪が、夜になってもまだ降り続いているらしかった。
「ありがとうございます」
と元司は言った。
「母には、私の口からは言えませんので、うまく言ってください」
「納得させるまで、ひと苦労だの」
「そのかわりに、勉強させて頂くことは決してむだにはしません。必ずひとかどの者になって戻ります」
父親の書斎から自分の部屋に帰るとき、元司は足が躍るような気がした。部屋に入って行燈に灯を入れると、元司は障子を開いて外を見た。
火鉢の炭火であたたまっていた部屋の中に、冷たい空気が流れこんできたが、元司の頬のほてりはおさまらなかった。部屋のあかりが照らし出す外の闇を横切って、雪が流れるように降りしきっている。元司は膝を抱いて夜の雪を眺めた。
──家を離れることを、父は許している。
それを確かめた喜びが、元司の胸をふくらませていた。最初の江戸遊学のとき、父との間に暗黙の諒解がついた気がした時期があったが、それは弟熊次郎の死でご破算になった。だがここまできて、父はようやく再びおれを手ばなす気になったのだ、と思った。
雪が降りしきる暗黒のむこうに、ひろびろとひろがる野をみる気がした。そこに解きはなされる自分を感じた。
だが、その喜びの中に、微かに痛みを胸に伝えるものが含まれていることも事実だった。父と母を悲しませ、それでもこうして外に自分を駆りたてるものは何なのか、という思いだった。
──精いっぱい生きたいということか。
芽は単純に学問に対する好奇心のようなものだったと思う。だが、だんだんに家の中で書物を読むだけの境遇にあきたらず、家業をいとい、心はしきりに外にむかうようになったのだ。家にいると落ちつかず、気分がいら立った。そして諸国の風物に触れたり、一歩ずつ学問を深めながら、師や友人とまじわっているとき、元司は心がのびやかに働き、身体もいきいきと動くようだったのだ。
──結局はそういうことだ。一人の人間として、自由に生きたいためにあがいてきた。
旧家の血は重く、それを継ぐ者は、一人の人間であるよりは家系の守護者としての役割を強いられるのだ。父が言ったように、家業を繁昌させ、次の時代の者に血を伝え、そして朽ちる。あたえられる自由は少ない。
祖父も父も、当然の義務としてその役割を果し、自分をおさえ、わずかな自由に甘んじてきたのだ。そう思うと、熊次郎が死んで元司が帰郷したとき、待っていたように諸国見物に出て行った父の気持も、また家を継ぐことから逃げている元司に対する、父のいら立ちもよくわかるようであった。
父は俳諧に凝っているが、元司は日ごろ、さほどうまいとは思っていない。だがそのつたなさを笑ってはいけないのだ、と元司は思った。父は父で、すでに決められた枠の中で、精いっぱい自由でありたいと思ってしていることなのだ。そしてそれが、古い家系の守護者としての、あるべき姿勢なのだろう。
──おれは家系に対する反逆者か。
元司はそう思った。祖父や父は、古い血の重圧に堪えて、つつましい生き方を選んだ。だがその重さに畏敬を感じるよりも、反発を感じる者も出るのだ。それがおれだ、と元司は思った。
おそらくそれが古い血自身の宿命なのだ。そういう反逆者は前にもいたかも知れないし、かりに自分がおとなしく家業を継いだとしても、その後にもそういう人間は出るかも知れない。古い血自身が、その古さのために自分にむかって反逆をくわだてるのだ。多分それがおれだ。
そう思ってみると、自分が外に出ると心も身体もいきいきとしてくるのは、古い血が新しい生き方をもとめているようにも思えてくるのだった。
襖《ふすま》が開いたので振りむくと、弟の熊三郎がのっそりと部屋に入ってきた。熊三郎は火鉢のそばに坐ると黙って、火に手をかざした。
「どうかしたか?」
元司が言うと、熊三郎はうつむいたまま、
「おれも、兄さんのように何かやりたいよ」
と言った。思いつめたような顔をしている。
「なにをやりたいんだ?」
「おれ、頭はあまりよくないから、江戸に行って剣術を習いたいな」
「………」
「親爺に言ってくれないか」
こいつも反逆者か、と元司は大きな身体をもてあましているような弟を眺めて思った。熊三郎は十八になっていた。
二月九日に、父の豪寿は斎藤家に親族、知人を招いて、元司のために送別の宴を張ってくれた。盛大な酒宴になった。
「元司は今度天下第一等の学校、昌平黌に学びます」
豪寿は酒宴の席でそう挨拶した。その言葉を元司は、父親が自分の気持に区切りをつけ、元司を手ばなすことを決心したことを宣言しているように聞いた。
三
元司が江戸に出たのは、二月二十四日だった。元司は持ってきた荷物をお玉ヶ池の東条塾に預けると、その足ですぐに神奈川にいそいだ。むろん、まだ滞在をつづけているアメリカの艦船を自分の眼で見るためだった。
翌日は晴天で、元司は神奈川宿まで来て、宿場の高い台地からアメリカの艦隊を見ることが出来た。早春の海にうかぶ黒い巨船は、静まりかえっていたが、長崎で見たオランダ船とは違い、いかにも戦闘用に造られている感じが無気味だった。はなやかな色どりは一切なく、獰猛な海の獣が、僅かな間牙をおさめて眠っているように見えた。
台の茶屋のまわりには、見物の人が群れていた。人びとは手をかざして船を眺め、しきりに興奮した口調で言葉をかわしている。その中に耳なれない訛りがある声がまじっているのは、江戸や近在の者ばかりでなく、諸国から見物が集まっているらしかった。
──これがアメリカ艦隊か。
眺めているうちに、元司は異様な圧迫感に胸がさわいでやまないのを感じた。対岸の横浜村の海岸には防備の藩兵が配置されているのが望まれたが、黒い船腹から、こちらに向いて開かれている砲口をみると、槍の穂や火縄銃の先を小さく光らせている藩兵たちが小人の群のように頼りなく思われた。
──戦になったら、ひとたまりもあるまい。
清国は満州兵を配置して迎え撃ったが、一戦も勝てず、一城も守れなかったと言った藤本の言葉が、また実感となって元司を襲ってきた。おだやかな日射しの中で、元司は不意に寒気を感じて立ちどまった。幕府はこの情勢にどう対抗しているのだろうか。
「あの船は、鉄で造ってあるものですかな」
元司は、さっきから無言で船を眺めている、そばの浪人ふうの男に聞いた。男は四十ぐらいで、痩せて青白い顔をしていた。
「いや、木造だと聞いています。外側をチャンというもので塗ってあるそうですな」
男は甲高い声で答えた。そうか、木造かと思ったが、三本帆柱、外輪を持つ俊敏そうな船体が持つ威圧感は変らなかった。
「幕府はいま、何をやっているわけですか」
「それを知りたくて、それがしもこうして……」
男は足もとの草鞋《わらじ》を指さした。
「毎日通ってきているのですが、くわしいことはわかりませんな、さっぱり。ただアメリカの使いと幕府の使いが、談判をつづけていることは確からしい」
「談判がうまくいかなければ、戦になるということですか」
「いや、戦にはならんでしょう」
男は鳥のような声で笑った。
「それがしはこの間、神奈川宿を上陸した異人が歩いているのを見ましたが、何というか、殺気は感じませんでしたな。談判がうまく行っているのだろうと思いましたな。それによしんば、談判が決裂しても、幕府に戦を仕かける気力はないでしょう。もっともこんなことを言っていると、役人がきてまたうるさいことを言うかも知れませんな」
元司は話好きとみえる、その浪人ふうの男を誘って、茶屋にあがった。茶を出し、客が求めれば酒も飲ませる茶屋は、表から奥まで、ぎっしり客が詰まっていた。二月のはじめ、幕府は一般の黒船見物を禁じたが、人びとはいつのまにか集まってくる。
呼びこみの女中が、奥の部屋から坐ったまま黒船が見られます、と叫んでいるので、元司は奥をのぞいて見たが、そこは膝を入れる隙間もないほど人が混んでいた。中に遠眼鏡を持参した男がいて、そのまわりには人垣が出来ていた。
元司はあきらめて、入口に近い座敷の隅で、男と酒を飲んだ。そうしている間にも、表の街道を、槍を持ったどこかの藩兵らしい一隊が、殺気立った様子で駆けぬけて行ったり、旅の者らしい男が、首を土間に突っこんで、人ごみを見てあきらめたように首を振って去ったりした。
飾らない、少しくたびれたような身なりから、浪人者かと思ったその男は、川崎の在に住む郷士だと、身分を名乗った。庄司と名乗ったその男は、川崎から三里の道を、毎日のように黒船を見にきているらしかった。
「川崎などはあんた、戦になれば火の海でしょうからな。落ちつかんのです」
「そうでしょうな」
「もっとも、半分はそれを口実に船を見にきているようなものですがな」
男はまた鶏が刻をつくるときのような、甲高い声で笑った。
「見ているとじつに面白い。小船を出して浜と行き来をしていますが、むかでのように櫂《かい》を何本も使いましてな。大変に速い。黒船見物はあんたは今日がはじめてかな」
「そうです」
「それは惜しかった。それがしはこの間、連中が大砲を撃つのを聞きました。百雷が一時に落ちるごとくと言いますが、ま、そういう感じがしましたな。道を歩いていた者が、思わず地面に這ったほどでした」
「………」
「それがしは這いはせなんだが、身体が顫えました。戦になったら、ちょっと勝目のない相手のように思いましたな」
「しかしそうやって脅しにかけて、言うことを聞かせようという態度は、少少腹が立ちますな」
「時勢ですぞ、あんた」
と男は言って、ぐっと盃をあけた。
「お前はお前、おれはおれでかかわりないという時勢はどうやら過ぎたようですぞ。猫なで声ですり寄ってくる奴もいる。脅しをかけてくる奴もいる。それを国のさだめだからと、一概に突っぱねるわけにいかない時勢になったということでしょうな」
「無理に突っぱねれば、戦になるということですか」
「さよう。そしてその戦が、むこうはいつでもやる気構えできているのに、こちらはそこまで覚悟が出来てはおらん。戦にならんというのは、そういうことですな」
庄司という男は、茶屋を出るともう一度船を見て帰ると言い、元司にも一緒にどうかと言ったが、元司はことわってひと足先に宿を出た。江戸までは七里の道だったし、時刻は日暮れに近づいていた。
──結局は港を開くことになるのだろう。
幕府はそれを望んでいないだろうが、そういう時勢が来たのだ。そして間崎哲馬が指摘したように、物と金の仕組みが大きく変り、混乱した世の中になるのか、と思いながら元司は街道を急いだ。
子安を過ぎ生麦村を過ぎると、海に漸く少しずつ遠ざかった。そうすると、八隻の戦艦から受けた威圧感も少しずつ遠ざかるように思われた。
──時勢を誤りなく見てとることは必要だ。だが、そのために足もとがおろそかになるのは戒むべきだ。
元司は学徒らしくそう思った。学問と千葉道場の剣に戻るべきだと思っていた。学問もまだ十分とは言えず、剣の修業も中途の身で、黒船だ、開国だと騒ぎまわるのは、物見高い見物人と変りない。そう思うと、出府すると旧師の一堂への挨拶もそこそこに、荷物をほうり出して神奈川に走った自分が、少し軽率に思えてきた。
元司は前年の嘉永六年、アメリカ東インド艦隊がはじめて浦賀に入港したとき、当時江戸にいた長州藩の吉田寅次郎(松陰)が、同じ街道を心も宙にとぶ思いで浦賀に走ったことを知らなかった。
吉田はこのとき、四隻のアメリカ艦隊を目撃するとすぐに、船も砲も敵せず、勝算はなはだ少く候≠ニ適確に状況を掴《つか》み、そのあとのアメリカ使節と幕府との交渉経過をみて、幕吏腰ぬけ、賊徒|胆驕《たんきよう》≠フ有様を痛憤し、明春江戸総崩れは当然のことにて、言を待たず候≠ニ、身を揉《も》むような危機感を国元に書き送ったのだが、それにくらべると、元司の感想はもっと地味なものだった。
アメリカ艦隊が、武力を背景に開国を迫ってきていることは、一目瞭然だった。いつでも撃てるように、海岸に向って開いていた黒い砲口が、彼らの身構えを露骨に示していたのだ。
だが元司には、幕吏腰ぬけの状況は見えていなかった。政治のことはわからなかった。一書生に過ぎない自分がかかわることとは思わなかった。
元司の当面の目的も地味だった。父との暗黙の諒解の中で、江戸に自分の塾を開けたら、周囲にさんざん迷惑をかけて出郷した目的は、一応達せられると元司は考えていたのである。剣術の修業も身をいれ、塾はいずれ文武二道を教える場所にしたい。
そのためには、今度の出郷の目的である昌平黌入校を果たさなければならない、と元司は暗くなった街道を江戸の方角にいそぎながら考えた。
そのための煩瑣な手続きが待っていることを考えると、黒船を目で確かめた満足感とはべつに、そういうことにすぐに騒ぎがちな自分の血を恥じる気持があった。
四
幕府とアメリカ使節との交渉は続けられたが、三月三日になって、日米和親条約十二カ条が調印された。
条約の内容は、下田、箱館二港を開き、アメリカ船に薪水、食糧を供給する。前記二港における乗組員の遊歩区域を決める。アメリカ船が必要とする品物の購入を許す。下田にアメリカ外交官が駐在することを許可する、といったものだった。
この交渉で、幕府側全権がとった態度は、ぶらかし策という奇妙なものだった。ぬらりくらりと相手の要求に確答をあたえず、出来るだけ回答を引きのばす方法だった。江戸城では前年の七月に将軍家慶が病死し、その後を継いだ徳川家祥が、十一月に将軍宣下を受けて第十三代将軍家定となるという将軍御代がわりがあった。
むろん林大学頭以下の交渉使は、この御代がわりも早速に交渉の場に持ち出して、調印の引きのばしをはかったが、のばしてどうするという方策もなかったので、結局はペリーの強引な押しに屈して条約調印を呑まざるを得なかったのである。ペリー提督は目的を達し、二百数十年におよぶ幕府の鎖国は、このときを以て終ったのである。
旗艦ポウハタン号の船上で、ペリーがまだ交渉の勝利に酔っていたころ、元司は昌平黌書生寮に入った。安積艮斎の推挙によるものだった。
このとき元司は、酒井左衛門尉家来、安積門、清河八郎という名前を提出した。
昌平黌を経て、自分の塾を開くとき、従来の斎藤元司と訣別して、新しい人間として世に出たいという考えを元司は持っていた。父の暗黙の許可が、元司のその考えを促したようだった。斎藤の家を出て、一人立ちすることを許されたと思った。そのときこの名が浮かんできたのであった。
清河は、むろん故郷清川村の地名をわが名としたのである。元司は、斎藤の家の人間ではなく、その土地に生まれた一人の人間として世に出て行くつもりだった。また酒井左衛門尉家来としたのは、斎藤家は父の豪寿の代になって、さらに扶持を加えられて、藩から十人扶持をあたえられていたので、郷士の身分を明らかにしたのである。以後元司はふだんも清河八郎と名乗るようになる。
しかし氏名を改め、気分を一新して入寮した昌平黌は、清河八郎にとって意外に収穫の少ない場所だった。八郎の眼には、昌平黌は学校というよりは社交の場所のように映った。
諸藩から集まった秀才たちは、あまり勉学に身を入れず、集まると天下国家を論ずるという風で、遊びも激しかった。安積塾でも、塾生が時勢を論じ、国を憂えるという風潮はあって、八郎はそういう塾の空気に魅力を感じたのだが、そこでは学問にも熱心で、輪講などになると火花が散った。
そういう塾を経てきてみると、昌平黌の書生たちは、空疎な弁論に熱中して、遊びにだけ身を入れている感じがあった。八郎は昌平黌で学問の仕上げをするつもりだったのだが、そういう雰囲気ではなかった。
そして八郎は間もなく、昌平黌の講義そのものに、期待したほどの新味がないことにも気づいていた。東条塾、安積塾を経て、八郎の学問はかなり高い水準に到達していたのである。八郎は講義に、ときどき失望を味わった。
四月下旬に、八郎は風邪をひいた。その風邪が、なかなか治らなかった。八郎は昌平黌の寮を出て、東条塾に帰って休んだ。東条塾には自分の家のような親しみがある。ゆっくり静養出来た。
風邪が治ったが、八郎は昌平黌には帰らずに、東条塾を手伝った。助ける人間がいなくて、高齢の一堂が困っているのを見かねたためだが、風邪で寝ている間に、昌平黌に戻っても益がないと考えたせいでもあった。東条塾で、十数人の通い門人に素読をさずけながら、八郎は次第に具体的に自分が開く塾のことを考えるようになった。その間に、昌平黌は自然退寮の形になった。
東条塾出身で、成田で塾を開いていた浅野雄斎から手紙が来たのは、そういう時期だった。八郎はふた月ほど前に、成田の浅野塾をたずねている。手紙は、八郎が近況を知らせたのに対する返事で、一緒に江戸に塾を開く気はないかと言ってきていた。浅野は、以前から江戸に塾を持ちたがっていたのである。
八郎は機会が来たと思った。浅野に承諾の手紙を書く一方、郷里の父に開塾の許しをもとめる手紙をやり、承諾をとりつけると、すぐに適当な家の物色をはじめた。
しかしそうしている間に、浅野からまた手紙が来て、急に京都に行くことになったと、ことわりを言ってきた。八郎は失望したが、気持に弾みがついていた。そのまま開塾準備をすすめた。
三河町二丁目裏に武家屋敷の貸地があり、八郎はここを三十坪借りた。地代は年九両と高かった。
塾は建坪二十一坪のものを新築した。五十二両かかった。浅野と二人で古家を改築して住めば、一人十両と計算した最初のもくろみからみると高い費用だったが、八郎は満足していた。小さな塾だった。だがそれは少年のころからの夢が結晶した建物だった。
──ここで経書を講じ、やがては剣も教授する。
新築の木の香が匂う建物を眺めながら、八郎は、おれは確かにこうなりたかったのだ、と思った。江戸で学儒として名をあげる。その本拠がこの小さな建物だと思い、飽きずに建物を眺めた。それは古い血の重圧を持たない、生まれたばかりの家だった。
十一月五日に八郎は塾をはじめた。内弟子わずかに二人、学僕一人という塾だった。しかし間もなく評判を聞きつたえて、通い門人が出来、荘内藩江戸屋敷からも入塾する者が来た。
安政元年十二月中旬になって、八郎は小さなその塾に、「経学・文章指南 清河八郎」の看板をかかげた。八郎の開塾を聞いて、安積塾、昌平黌からも清河塾に転じてくる者がいた。清河塾は次第ににぎやかになった。
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めぐり逢い
一
だが三河町の清河塾は、看板をかかげて半月にも満たない暮の二十九日に、あっけなく火事で焼けたのである。
その日、夜五ツ(八時)過ぎ、三河町から北の方角、筋違御門に近い連雀町から火が出た。風はやや北寄りの西風で、火は佐柄木《さえき》町、通りをはさむ新石町、小柳町と東南の方角に燃えひろがって行った。
連雀町から三河町二丁目は、さほど遠くないが、火からは方角違いである。安積塾の塾生が八郎の塾に駆けつけたが、八郎は火は来ないと見きわめをつけたので、手伝いの塾生を帰した。そして自分は火の手がすすむ方角にある、お玉ヶ池の東条塾と千葉道場に見舞いに走ったのである。
ところが風向きが急に変って、火はたちまち三河町一帯を襲い、清河塾はあっという間に焼けてしまったのであった。走り帰った八郎は、ようやく書物とわずかな衣類を持ち出しただけで、他はすべて焼いてしまったのである。
八郎は安積塾に落ちつくと、すぐに郷里の父に手紙を書いた。
格別丁寧の家にもこれなく、残らず焼け候ても四十両余の高にこれあるべく、かたがた驚くべきほどのことに御座なく候間、泰然とまかりあり候≠ニ、八郎は書いた。
開塾早早に火災に遭ったことを、不運だと思わないわけではなかった。塾は繁昌する気配をみせ、そのころ八郎には、昌平黌で知りあった松本|奎堂《けいどう》の仲だちで、幕臣羽倉簡堂の身辺に用を足していた少女との縁談まですすんでいたのである。一夜の火災は、それを一度にだめにしたわけであった。
不運に違いなかった。そしてそれは、その後八郎を見舞う一連の非運が、最初の不吉な顔を見せた出来事だったのだが、八郎はその不運な感じを強いて無視したのである。
手紙がやせ我慢の文章になったのは、ひとつは父に落胆をさとられたくないためでもあった。一たんは郷里に帰らなければならないだろうが、いずれまた父から再開塾の費用を引き出す必要がある。しかし気落ちして帰ったとみれば、父はまたぞろ家に落ちつけと言い出しかねないのだ。それでは金の話も切り出しにくくなる。
初志はゆるぎなく、火事ぐらいには少しも驚かず、泰然とまかりあるように振舞わないといけない、と八郎は思っていた。焼けあとの整理が済んだ翌年の正月下旬、八郎は郷里に帰った。むろんその前に、お坤という少女との縁談はことわった。
一月の清川は、まだ雪が残っていた。八郎は時どき家を出ると、北風が吹く最上川の土堤にのぼって歩き回った。風は雪の野を渡ってきて、枯れ葦をなびかせ、八郎の額を凍らせる。
そういうとき、いさぎよく別れてきた、お坤という十五の少女の面影が胸をかすめた。だが、それはいっとき八郎の胸をやさしくゆさぶるだけだった。淡い縁だった。
雪が消えるころ、少女の面影は遠くなった。八郎は、家の者に火事のことはくわしく話したが、少女のことは話さないでしまった。
二
三月二十日から九月十日までの約半年。その年八郎は、母の亀代をともなって周防岩国まで行く旅をした。北陸から名古屋に出、伊勢参りをはたし、関西から四国、周防を回り、江戸を経由して帰る大旅行だった。
八郎には、長い間母を欺き、心配をかけてきたという気持があった。そして今度江戸に塾を持てば、今度こそは家を離れることになる。そのことを、父は内心で承知しているが、母は依然として知らなかった。その心の痛みが、西国の旅を思いつかせたようだった。
旅は親孝行をはたすとともに、八郎にとって母親との訣別の気持を含んでいた。八郎は旅の間、心やさしい息子として振舞った。
途中江戸に寄ったとき、たずねてきた安積五郎など知人が、みな塾の再開をすすめた。その熱心なすすめは母の亀代を驚かせた。亀代はそのとき自分の息子が何者であるかを、少しさとったようだった。
「江戸では、えらい信用だの」
「家にいると、さっぱり信用がありませんが、ここでは少少」
八郎は笑った。その笑いを探るように見つめながら、亀代が言った。
「やっぱり、また塾を開きたいか」
「はあ。だがもっと後でいいですよ」
「遠慮しなくともいいよ。どうせ帰ればまた、そういう話になるだろうから」
亀代は自分に納得させるように、小さくうなずいた。
「家を探すんなら、手つけを打つぐらいの金は残っているけど」
八郎は黙ってうなずいた。母がどの程度かはわからないが、何ほどか息子と別れる決心をしたことを感じていた。
八郎は母のすすめを幸便に、翌日さっそく神田から両国近辺を歩き回って、薬研堀に売家を見つけた。間口八間のかなり大きな家だった。八郎は三十八両でその家を買うことに決め、五両の手金を打った。聞いてみると大田錦城、沢田東江が住んだ家だとわかり、塾むきに作られた建物であることもわかった。
八月二十二日に、八郎は安積五郎を誘い、母と下男の貞吉の四人連れで江戸をたち、日光見物をして清川に帰った。清川は秋で、あららぎ山の紅葉が、最上川に影を落としていた。斎藤家では一行が帰ると、長い旅が無事に終ったのを祝って、村中の者を招いて酒宴を開いたのであった。
母亀代の供をして半年の旅をする間、八郎は一日も休まずに旅の日記を記した。西遊草と名づけたこの旅行記に、八郎は旅中に出来た詩三百三十篇とは別に、長詩一篇をそえている。
当時の八郎の心情が出ているので、次に掲げてみよう。
嗚呼《ああ》われいずくに適帰せんか
七年の星霜 典籍の奴
骨を割《さ》き膚を刺し その苦を知らず
由来看他す 世俗の儒
憶《おも》う 昔関を出でしとき胆気雄なりしを
自を誓う 旧染なればまた通じ難しと
唱うるを愧ず 相如の昇仙橋
男子志を立つる 誰か同じからざらん
人事蹉※[#「足+它」、unicode8dce]たり つねに相依る
一朝故有り 命を奉じて帰る
爾来三顧 空しく志を傷つけ
胸中の燈火 殆ど微かならんと欲す
余の性不羈 雲遊を好む
東方西走して 四方に周《あまね》し
郷党謗る有り 父兄戒む
曾て屑《いさぎよ》しとせず 万里悠々たるを
鬱陶乎たり 慈母の怨み
児や 何の心ありて久しく遠きに在る
問安|視瞻《しせん》 人無きに非ずと
吾これを聞き 豈悶々たらざらん
慈母の児を思い 児これ慕う
相奉じて西遊し 京洛に向う
春風吹き上ぐ 三月の天
軽衣飄々 征歩を進む
人生の行楽 失うべからず
慈母の健なる 児の佚き
天の時を降す 今を然りと為す
行かんかな進まんかな 志を失うこと勿れ
嗚呼 余少小より不朽の責を懐えり
任重くして道遠し 豈易からんや
今より思う 母を奉じて後
一寸の光陰 惜しまざるべけんや
八郎は安積五郎を連れて、荘内のあちこちを見物に誘って歩いたが、それにも倦きたころ、鶴ヶ岡八間町の妓楼うなぎ屋に行った。一晩泊った翌日、八郎は今度は安積に、湯田川に行こうと言った。
「女たちを連れて行って、ひとつ豪遊しようか」
湯田川は鶴ヶ岡の西南二里の場所にある湯治場で、小高い丘にはさまれた静かな土地だった。荘内藩の武家も清遊を楽しみに来るところだったが、清川の斎藤家ではここに二軒の定宿を持っていた。
八郎と安積は、連れてきたうなぎ屋の女たちに唱わせ、酒を飲ませ、自分たちも浴びるほど飲んだ。ついに安積は節分の豆まきを真似して、金をまいた。
安積は、元禄の昔、吉原で金銀をまいて女たちに拾わせたという、紀ノ国屋のことを思い出していたかも知れない。
安積の家は、父親が名声を得た売卜《ばいぼく》者だったが、家はそれほど裕福だったわけではない。それが八郎に金を預けられ、酔って興奮していた。大きな身体を踊るように宙に泳がせて、座敷に金をまいた。
女たちは嬌声をあげて座敷を這い、落ちた金を奪いあった。笑い声と叫び声が部屋にあふれ、宿はひっくり返るような騒ぎになった。八郎は酒を飲みながら、その馬鹿騒ぎを見ていた。久しぶりに解き放たれた放蕩の血が、その騒ぎを楽しんでいた。
安積は時どき、ふらつく足を踏みしめて八郎のそばに来ると、一生に一度ぐらいはこういうことをしてみたかったのだ、ありがとうと言った。そしてまた奇声をあげて離れて行った。
「安積、もっとまけ」
と、八郎はけしかけた。
そして、ふと一人の女に眼を奪われた。その女は、一人だけ部屋の隅に坐っていた。女は騒ぎには加わらずに、ひっそりと座敷の中の混乱を見ていた。
八郎の視線にも気づかないように、女は黙って微笑していた。騒ぎをいやがったり、いやしんだりしているのでないことは、時どきはっと眼をみはって手を打ったりする様子でわかった。そういうしぐさに、ほとんど無邪気な、清らかな感じがあった。まだ十六、七にみえる若い女だった。
その夜、八郎はうなぎ屋にもどると、高代というその女を床に呼んだ。
「何もしなくともよい。一緒に寝てくれるだけでよい」
八郎は、ひっそりと布団の中に入ってきた女に言った。そして脆《もろ》い花のつぼみをあつかうように、そっと抱いた。
「さっきは、ばかな遊びをするやつだと思ったろう」
「いいえ」
高代は、まっすぐ八郎の眼を見つめながら、小さく首を振った。有明けにしてある行燈の光に、黒い眸《ひとみ》が澄んでみえた。まだ稚《おさ》なさが残る美貌だった。
「いや、ばかな遊びさ。おれは時どきさっきやったような、ばかなことをやる」
「………」
「年はいくつだ?」
「十七」
「いつから勤めに出ている?」
「今年の春から」
「今年の春か」
八郎は呟いた。
「自分を不しあわせだと思っているかね」
「ええ」
高代は眼を伏せた。だが、すぐに小さい声で言った。
「でも、仕方のないことですから」
「そうだな。悪いことを聞いた」
八郎は、高代の身体から手をひいて呟いた。
「泥中の蓮《はちす》だ」
「え?」
「いや。このまま眠ろう」
と八郎は言った。高代を見ていると、その清らかな感じに、なぜか涙が出てくるようだった。高代は、八郎が遠いむかしに失ってしまった、清らかでうつくしい思い出につながっているような女に思えた。そう言われて、高代は八郎の胸の中で静かに眼をつぶった。
三
そのころ八郎と一部の荘内藩士との間に、感情の行き違いをきたすような、小さな事件が起きた。
八郎と、友人の安積五郎が、湯田川の湯宿で金をまいて豪遊したという噂が、荘内藩家中の間で話題になった。たまたま同じ宿に、家中の者が行きあわせていて八郎たちの騒ぎを見聞きし、鶴ヶ岡に帰ってから、人にその話をしたものらしかった。
八郎の遊びは、人もなげな奢《おご》りと受け取られた。その話題に、何の関心も示さない者もいたが、中には露骨に反感を口に出す者もいた。
清河八郎が何者であるかは、藩から東条塾、安積塾に学ぶ人間が多く、また八郎が三河町に開いた塾に、荘内藩江戸屋敷からも通った者がいたので、藩の人間にも知れ渡っていた。八郎は東条塾の秀才で、安積塾を経て昌平黌まですすんだ人間であり、江戸の学儒の間にまじって学塾を開き、もっとも年少気鋭の学者として刮目《かつもく》されている人物だった。
しかし身分を言えば、藩から十人扶持を頂いている富豪とはいえ、所詮は大きな百姓兼酒屋にすぎない家の伜である。その酒屋の伜が、江戸で名をあげるのに成功して有頂天の振舞いをしている。八郎の遊興を聞いて、反感をそそられた者が抱いた感情は、およそそうしたものだった。
八郎を呼んで、その学問がどのぐらいのものかを試し、場合によっては高慢の鼻をへし折ってやろう、という相談がすぐにまとまった。
荘内藩は、九代忠徳の寛政年間に、藩校致道館を興し、徂徠《そらい》学を導入して藩学とした。それ以来の好学の気風があり、八郎の学問に対する関心も当然と言えば言えた。
だが学問を測ろうとした、この試みは、八郎に恥をかかせるという、かくされた目的からいえば失敗に終ったのである。
招きをうけて、鶴ヶ岡の料亭望月楼にきた八郎は、酒宴なかばで、招待側の一人が打ちあわせどおりに、楼記を競作して遊ぼうではないかと一座にはかると、すぐにうけた。八郎は大盃に酒をもらい、ひと息に飲みほすと筆をとった。
[#2字下げ]群山を環《めぐ》らし、万頃の野を抱き、水に臨んで起ち、
[#1字下げ]気象万怪、変化極らざるは鶴岡の東、望月楼なり。
この書き起こしではじまる望月楼記を、八郎は途中一度も筆を休めず、一字の訂正もなく一気に書きあげた。見事な文章だった。八郎が筆を置いたとき、ほかの者は、まだ文章に手をつけていなかった。座敷の中の空気は急に気まずく変った。
「いい文章でしたな」
その日八郎と一緒に招かれた安積が、帰りの道で酔った声で言った。月夜だった。月に照らされた清川街道の左右には、稲刈が終って、杭に架けられた干し稲が、沈黙している人の群のように畦《あぜ》を埋め立て並んでいる。
「いや、あれでおれは荘内藩に敵を作ってしまったらしい」
八郎が言うと、安積は驚いたように八郎の顔を見た。
「なぜです?」
安積は、大きな身体を裏切るような、いつものやさしい声で聞いた。
「いい文章を書いたのが、まずいような言い方ですな」
「まあ、そういうことだな」
「しかし、書けと言ったのはあの人たちですよ。招かれた客としては、芸の深奥を示すのが礼儀じゃありませんか」
安積の大きな身体の中には、幼児のように汚れを知らない魂がある、と八郎はいつものようにそう思った。八郎が、肉親の愛情に恵まれない安積を、ついかばいだてしたくなる気持は、そういうところからきているが、時にはそういう安積にいら立ちを感じることもある。いまも、八郎は少し乱暴な口調で言った。
「なに、今夜の集まりはおれに恥をかかせようとしたのだ。好意で呼んだわけじゃない」
「まさか」
「君もうといな。楼記の競作などと言い出したときに、おれはぴんときたぞ。出来ませんとは言えない。出来上がったものがまずかったり、字句に誤りがあれば、すぐに笑いものにしようという肚だ」
「そういうものですかな」
安積は失望したように言った。そして月を見あげたが、そのそぶりがにわかに酔いがさめて、正気を取りもどしたというふうに見えた。ついでに安積は大きなくしゃみをひとつした。
「しかし、なぜそんな手のこんだことをやるんですか」
「江戸帰りが目ざわりなのかも知れんな」
八郎は苦笑した。二人はゆっくり歩いていた。清川まで、普通は駕籠《かご》を雇うところだが、二人は言いあわせたように歩いて鶴ヶ岡の城下を出たのである。美しい月の光の下で、荘内平野は眠りに入ろうとしていた。空気は寒くもなくあたたかくもなかった。二人は夜を徹して歩いてもいいつもりでいた。
「江戸帰りが近ごろ少しやり過ぎた感じだ。今夜のこともやり過ぎだ。もっともこういうことは、君にはわからんかも知れんな」
「………」
「江戸帰りが、それをひけらかしたりしてはいかんのだ。ところが、おれは今夜、派手にやってしまったと思う」
最初は適当につき合うつもりだったのだ。だが、招待した藩士の側に、致道館の教師がまじっていることを知ると、八郎はその考えを捨てた。相手が本気で試しにかかっているのを感じ、負けてはいられないという気になったのである。
──だが、それだけでない。
と八郎は思った。負けたくないという気持とはべつに、相手の意表に出る気分もひとつあったのだ。東条塾、安積塾にいたときも、その気分は時おり顔を出して、あっというような学才を誇示して周囲が驚くのを楽しんだ。その気持の動きが、あまり上質のものでないことに八郎は気づいていたが、今夜もそれが出たのだ、と思った。
──底に、田舎者のひけ目があるのだ。
と、八郎はそういう自分の気持を分析することがあった。意表に出て相手の鼻をあかす、という気持の動きには、田舎者の劣等感を裏返した気持と、生得の人に負けたくない性格がまじり合っている、と薄うす気づいている。
それが、今夜は身分のひけ目になって出たのだ、と思った。酒席に招かれ、相手の意図を察知したとたんに、酒屋の伜のひけ目が、くるりと裏返って、家中何者ぞ、致道館何するものぞ、と傲然と居直る気持に支配されたのである。ついに相手に一指も染めさせないで押し切ったが、それで相手が気持よかったはずはない。それは、あの顔色をみればわかる。
八郎は後味が悪かった。思いやりなく勝った気の重さが残っている。そして完璧に立派であろうとしたために、気取りが出たことも否めなかった。君子人は決してこういうことをしないのだ。人びとはおれを、才はあるが傲慢で気取った人間だと見ただろう。八郎は自分のそういう性癖と、その性癖を引き出した今夜の集まりを嫌悪する気持が、酔いと一緒に身体の底に重く沈んでいるのを感じた。八郎は、元気のない声で言った。
「そろそろ江戸にもどるか、安積」
「はあ、だいぶ遊びましたからな。わたしは一生の遊びをやってしまったような気がしますよ」
「大げさなことを言うな」
八郎は、大きな身体をした後輩の殊勝な言葉に、思わず笑った。笑いながら、あの遊びで安積が喜んだというなら結構だと思った。安積は早く生母に死にわかれ、三年前には父親とも死別していた。父が死ぬと、安積は家を売って、彼を愛さなかった継母にその金をやって別れ、その後は半ば放浪に近い暮らしをしていた。
時どき安積の巨躯は、その中にこの世の悲劇をいっぱいにつめこんだように、もの悲しく見えることがある。八郎はそういう安積を、一度身も心も疲れるほど遊ばせてやりたかったのだ。八郎の頭の中を、大きな身体を泳がせて、金をばらまいていた安積の姿がちらと横切った。
「おれも心おきなく遊んだ。そろそろ帰るべきだ」
「はあ」
「わが故郷は、おれを容れようとしない」
と、八郎は言った。それは今夜のことを思い出してそう言ったのだが、不意にそれが真実だという気持が胸をしめつけてきた。
子供の時からそうだった。いまはそうでもないが、子供のころ、村は容易におれを受け入れようとしなかった、と思った。むろんおれにも悪いところはある。しかし……。
──おれはいつも一人だったし、いまも一人だ。
そう思ったとき、八郎は月の光の下に、煙るように遠くうずくまっている村の木立や、藁屋根、巨大なみみずくのように立ちならぶ干し稲の列、白く光る村の道に、胸が迫るような懐しさをおぼえていた。おれはいつも外に出たいと思ったが、ここはいずれ去らねばならない土地だったのだ。
──あのひととも、会えぬ。
八郎は、高代という、一人の清らかな娼婦のことを考えていた。
四
八郎は、遅くとも九月末には江戸に出るつもりでいたのだが、その支度にかかっている間に月が変って十月になった。
二日の夜四ツ(午後十時)過ぎに、軽い地震があった。八郎は、自分の部屋で安積と話をしていて、その地震に気づいた。
「お、地震《ない》だの」
「はあ」
二人は話をやめて、いっとき部屋の鴨居のあたりを見上げる眼になったが、地震はわずかに家の柱をきしませただけで、やがて揺れは夜の闇の中に消えた。
しかしそのとき江戸とその付近一帯は後に安政の江戸大地震と呼ばれる、大きな地震に襲われていたのである。
地震は、はじめ南方から揺れがきたように思われたが、やがて東西にはげしい揺れがきて、江戸市内ではすさまじい音を立てて家屋敷が倒れ、石垣が崩れた。そして市内五十カ所ほどから火が出た。その夜江戸の空は晴れていて、わずかに北風が吹いているだけだったが、火はそれでも各所で燃えひろがり、翌日九ツ(正午)になって漸く鎮火した。
一夜の地震とひきつづく火事で、江戸市民四千二百九十三人が死に、二千七百五十九人の怪我人が出た。潰れ家屋(焼けた家をふくめて)千三百四十六軒、千七百二十四棟、潰れ土蔵千四百四棟、そして万石以上の大名屋敷でも、死者二千六十六人、怪我人千九百余人を出すという大災害だった。江戸周辺でも東は松戸、船橋、北は熊谷、南は神奈川宿あたりまで、人家が倒壊した。
町方でもっとも死者を多く出したのは新吉原だったが、武家屋敷でも、馬場先門内の忍藩主松平下総守屋敷、和田倉門前の会津藩主松平肥後守屋敷、八代洲河岸の松平相模守屋敷など、西丸下、八代洲、日比谷一帯の武家屋敷で死者を多く出した。
この地震で南部大膳太夫、有馬備後守、伊東修理太夫、本多中務太輔など、大名数名が命を失い、小石川後楽園の水戸藩屋敷では御側用人藤田虎之助(東湖)と家老戸田忠太夫(蓬軒)が圧死した。
地震の知らせが清川にとどいたのは、十日ごろになってからだった。二、三日の間に、話は深刻になって、江戸は潰滅したという噂が流れた。
八郎は旅支度をいそいだ。薬研堀に買っておいた家のことも心配だったが、老師がいる東条塾、さらに安積塾、玄武館の安否が気づかわれたのである。八郎は安積と同道して、十七日に清川を出発、二十五日早朝に江戸に着いた。
奥州街道を江戸に近づくに従って、街道の周辺に潰れた家、傾いた家が目立ったが、千住宿を経て江戸に入ると、予想以上の惨状が眼の前にひろがっていた。八郎と安積は時どき立ちどまってあたりを見回し、顔を見合わせた。
「これは、ひどいな」
と安積が呟いた。八郎は無言で安積をうながし、道をいそいだ。
山谷堀を越えるまで道の左右には家が潰れ、寺が傾き、巨大な力をふるって去った地震のあとが見られたが、堀を越えて聖天町に入ると、今度は焼けあとがひろがった。町は東側だけが焼けのこり、西側は猿若三町あたりまで一望の焼けあとだった。その先に、朝の光を浴びた浅草寺の甍《いらか》が見えた。
山之宿、花川戸の町町も、残っているのは大川に沿った東側だけで、西側はすっぽりと焼け落ちていた。黒い柱がむき出しに焼け残っている間を、二、三人の人影が、無言で歩きまわっているのが見えた。
大川橋のきわまで出て、二人は立ちどまった。目の前にも、潰れ、傾いた町がひろがり、その奥の駒形あたりの空が妙にがらんとして、町が黒ずんで見えるのは、そのあたりも焼けているに違いなかった。
「お救い小屋だな」
「はあ、そうらしいですな」
二人は立ちどまったまま、小声で話した。雷門の前に、まあたらしい仮小屋が建っていて、そのあたりに人影が動いている。道の片側に列を作って人が並んでいるのは、朝の粥《かゆ》のほどこしが行なわれているのだった。
静かな光が、生気なくならんでいる人の列を照らしていた。行列は、町役人らしい男が何か指図したのにこたえて、わずかに動いた。
「これでは、神田あたりはどうなっているかわからんな」
「急ぎますか」
二人はまた歩き出した。材木町を抜けると、予想したように駒形町から先は、諏訪町、黒船町、三好町と、御蔵の手前まで四丁ほどの間が焼け野原になっていた。
神田は小川町一帯が焼けただけで、お玉ヶ池のあたりは無事だったが、東条塾も玄武館も地震でやられていた。安積塾も破損していて、どこもまだ修理に手をつけていない状態だった。八十近い東条一堂は壁が落ちた一部屋に茫然と坐っていた。八郎は老師をなぐさめ、取りあえず後かたづけを手伝ったりしたあと、気がかりになっていた薬研堀の家を見に行った。
建物は、焼けも倒れもせず、無事に立っていた。だが中に入ってみると、壁がはがれ、柱が傾き、床板は波打つように高低が出来て、古びた物置き同然に変っていた。人が住めるような家に修理出来るのかどうか疑わしかった。
八郎は眉をひそめた。この前は火事で、今度は地震かと思ったのである。なにか得体の知れない天地の悪意が働いて、自分が塾を開くのをさまたげているか、という気がちらと心をかすめたが、八郎はいそいでその考えを振り捨てた。
八郎は馬喰町の大松屋に行った。この前、西国旅行の帰りに母と一緒に大松屋に泊り、薬研堀の家に手付けを打ったとき、あとの管理を大松屋に頼んである。残金を払って買い取り、修理して使うか、それとも買い取りを中止にするか、大松屋に相談してみようと思っていた。
ところが行ってみると、大松屋では意外なことを話した。八郎を迎えたのは主人の老母だったが、老母はあの家は残金を払ってあると言った。
五
薬研堀の家の管理をまかされた大松屋では、その後家の持主にきびしく残金を催促された。しかし四十両近い大金なので、大松屋ではやむを得ず荘内藩江戸屋敷に駆けこみ、元締役所にわけを話して、斎藤家の名前で金を借り出し、残金を支払ったというのである。
郷里の鶴ヶ岡で、荘内藩家中と気まずいことがあったりしたものの、八郎は神田橋内にある藩江戸屋敷にはこれまで足繁く出入りしていた。中老石原平右エ門以下の江戸詰め藩士とも交際があり、元締役所には昵懇《じつこん》の石井助三郎がいる。石井は八郎の実家とも懇意だったので、大松屋の頼みをあっさり引き受けたのであろう。
「それはいつのことですかな」
八郎が聞くと、大松屋の老母は顔をしかめて言った。
「それがあなた、地震があったあくる日のことですよ」
「ほほう」
八郎の眼に、なかがすっかり崩れ落ちたボロ家が浮かんだ。あの物置きのような家が自分の持ち物で、かわりに藩の元締役所に大枚の借金が出来たわけだと思った。
「九月のうちに、金を清算する約束じゃなかったかと、それはもうえらいけんまくでしたから仕方なかったですよ」
「なるほど」
地震のあくる日ということは、持主も薬研堀のあの家を見に行ったのだ。そしてあわてて大松屋にかけ合いに来たのだろう。しかもああいう状態だから金額をひくとは、一言も言わなかったに違いない。さすがに江戸は、油断ならない土地だと八郎は苦笑した。
「さすがに江戸は抜け目ないな」
「あんまり急な催促でしたから、こちらも五両値切って、三十三両にしてやりましたけどね」
「もっと値切ってよかったかも知れんぞ」
「おや」
大松屋の老母は、急に不安な顔をした。
「家はちゃんとして残っていると言いましたけど、そんなにひどくなっていましたか」
結局大松屋では、その家が地震でどうなったかは確かめないで金を払ってしまったのだとわかった。人まかせでは、およそこんなものだろうと八郎は思った。
八郎が、江戸に見切りをつけて、一たん郷里に帰ることにしたのは、十一月に入ってからだった。
東条塾でも安積塾でも、まだ講義を再開していなかった。後始末に追われていて、通ってくる門人もなかった。昌平黌書生寮でも、寮を閉鎖して書生を国元に帰したという噂が聞こえた。大工を入れて改築するにしろ、取りこわして新築するにしろ、薬研堀の家を手入れして塾を開くという情勢ではないと、八郎は判断したのである。
八郎は薬研堀の家を十五両で売り、また藩江戸屋敷の元締役所をたずねて、さらに三十五両を借り出すと、四十両分ほど書籍を買いこんだ。そして酒田に帰る人を見つけて馬二頭に積みこんだ本を預け、郷里に送り出した。
──郷里は間もなく雪が降るだろう。
荷を送り出し、まだ立ち直る兆しが見えない江戸の町を眺めながら、八郎はそう思った。当分は雪の中に閉じこもって、これまでにした学問の成果をまとめる著述に専念するつもりだった。十八日に、安積塾で八郎を送る送別の宴が開かれた。その席で八郎は思いがけない人物に会った。
席上、送別に集まった八郎の知人たちは、八郎に送別の詩文を贈り、それぞれ立って読みあげるので、酒宴はにぎやかになった。
最後に、小肥りの温和な風貌の男が立って自作の送別文を読みはじめた。
士興状貌雄偉、廓然として大志あり。かたわら撃剣を善くす。而して孝義はけだし天性より出ず。
男の声は渋く、落ちついていた。八郎は盃をひかえて、男の姿をじっと見つめた。男は池田雄助または駒城とも名乗り、荘内藩足軽池田長三郎の次男で、脱藩して江戸に出、八郎と同じ安積塾を出た人間である。
池田は地味な風貌をしているが、豊かな学才に恵まれていて、八郎と親交の深かった人物である。絵の才能があって、安積塾の学業を終ったあと、長崎の方に絵の修業に行っていると聞いていた。八郎より十歳ほど年上だったが、八郎はその静かな喋りかたをする池田に好意を持っていた。
池田の送別文朗読が終ると、八郎が立って一座に対する留別の文を読んだ。
「しばらくでしたな」
座が落ちついたとき、八郎の前にきた池田が言った。八郎も形をただして、しばらくでしたと言った。
「長崎の方に行っていたんじゃありませんか」
「うん。またむこうに帰るんだが、ちょっと江戸に用があって」
池田は顎をなで、ま、一杯と言って八郎の盃に酒をついだ。そして不意に池田が言った。
「むこうで、大山さんに会いましたか」
「いや」
八郎は首を振った。
大山というのは、もと荘内藩江戸留守居役で、藩外交に鋭い手腕を発揮した大山庄太夫のことである。大山は数年前に留守居役を免ぜられ、用人になったが、今年になって江戸詰めを解かれて国元に帰され、籠居の暮らしを強いられていた。
大山がそういう境遇の変化をたどった裏には、藩内の複雑な主導権争いが隠されていた。ひと口に言えば、一年前に歿した前藩主酒井|忠器《ただかた》と藩内で両敬家と尊称される家老酒井奥之助、酒井吉之允、同じく中老松平舎人らの重臣が結びつく一つの勢力と、現藩主|忠発《ただあき》との対立が醸し出している争いだった。
忠器は天保十三年に隠居し、嫡子忠発に家督を譲ったが、そのあとも両敬家、松平舎人らと結んで藩政に大きな発言力を留保していた。
しかし、忠発が新藩主としての実力を身につけ、新しい側近が実力をふるうようになると、従来の主流派は次第に勢力を失い、そういう流れの中で、嘉永元年には家老酒井吉之允が辞職し、嘉永四年には酒井奥之助が家老職を免ぜられていた。大山庄太夫は、両敬家の勢力につながる有力人物だったが、こういう流れの中で嘉永三年には、それまで十三年勤めた江戸留守居役を解かれ、忠器が死去すると、国元に呼びもどされて、籠居を余儀なくされていたのである。
池田は大山庄太夫につながっていて、池田に誘われて、八郎も一度藩内外で高名な、敏腕の留守居役に会ったことがある。
もっとも八郎が会ったとき、大山庄太夫は留守居役を解かれて用人に転じていたのだが、それでもやはりいそがしそうに見えた。八郎は藩江戸屋敷の奥の部屋で、ほんの四半刻ほど話しただけである。その間にも、大山の指示を仰ぐために、何人かの藩士がその部屋に出入りし、話は時どき中断した。
大柄で四十半ばに見える大山は、そのたびに二人に丁寧な態度で失礼とことわり、短い言葉で藩士たちに指示をあたえたが、二人の訪問を迷惑がっているようには見えなかった。終始おだやかに微笑しながら、池田が八郎の秀才ぶりを披露したりするのに耳を傾けた。
他藩にも聞こえた遣り手の留守居役といった印象はなく、むしろ寡黙《かもく》そうに見えた。時どき八郎に安積塾の勉学ぶりをたずねたり、池田に、荘内藩から江戸に学んでいる者の消息をたずねたりした。帰る間ぎわに、大山がこう言ったのが八郎の印象に残った。
「荘内も、昔のように徳川ばかりではやっていけません。それでは時勢にとり残されます。これからはあなた方のような、若くて頭も働く人たちの出番ですな」
池田の話によれば、藩内には古くから現藩主酒井忠発に批判的な勢力があり、その中心にいるのが、酒井奥之助、酒井吉之允の両敬家と中老の松平舎人、そして大山、番頭の上野直記という人たちだということだった。
そのために忠発が家督をつぐのが遅れたほどだが、大山たちは、忠発が天保十三年に家督を相続した直後に、忠発を廃して分家で徳川家の旗本となっている酒井忠明を立てようとし、また弘化元年には忠発の弟忠中を藩主に据えようとしたがいずれも実現しなかった。忠明かつぎ出しは、忠発の探索で発覚し、忠明は捕えられて国元に送られ、支藩松山藩に預けられたし、忠中は大山らが画策している間に病死したのである。
さきに吉之允、奥之助の両酒井が家老職を免ぜられ、大山が留守居役を解かれたのは藩主忠発の報復だと池田は言った。
「しかし我我はこれであきらめたわけじゃない。両敬家や大山さまは、いま世子の忠恕さまが、一日も早く家督をつがれるよう、幕府に働きかけるつもりでいますよ」
江戸屋敷からの帰り道、池田はそういう話をし、急にあたりをはばかるように声をひそめた。
「この動きのうしろには、ご隠居さまのお指図が動いているのです」
「………」
八郎は唖然《あぜん》とした。ご隠居というのは、言うまでもなく忠発の父、前藩主の忠器のことだろうと思われた。八郎には疑問があった。
「なぜ、いまのお上をそう嫌うんですか」
「その説明はむつかしい」
池田は眉をひそめたが、やがてひと口に言えば藩の行く末をどう考えるかということで、忠発と隠居の忠器以下との間に対立があるのだ、と言った。
六
荘内藩は、徳川四天王の一人酒井忠次にはじまる譜代大名で、徳川びいきは当然とも言えたが、徳川絶対の気風は、元和八年に三代忠勝が信州松代から荘内に移封されたときに生まれた。
松代十万石から荘内への移封は四万石の加増だった。しかし荘内は当時東北の僻地であり、また山形城に入部する鳥居忠政の傘下に入る形になるので、忠勝は移封命令に不満をとなえたのである。
そのとき幕閣は、とくに忠勝に対し、格別の家柄を見込んで奥羽の外様に対する押さえとして配置するのであるから、永く天下の藩屏≠スるべく勤めるよう慰撫した。忠勝はこれを諒承し、以後徳川の藩屏、東国の押さえが荘内藩の国是となったのであった。
しかし失敗に終った天保改革前後から、幕府の威信は次第に衰え、相対的に各藩の発言力が増してきたことは否めない事実だった。二百年来、徳川の藩屏たるべきことを祖法としてきた荘内藩の中にも、そういう状勢を把握して、盲目的な徳川一辺倒の姿勢を改め、新しい時勢に対処すべきだとする考えが出てきていた。
前藩主忠器はその考えを理解したが、若い現藩主はその考えを認めなかった。藩主忠発の考えの中には、かたくななまでに二百年来の祖法が息づいている。
池田はそう説明し、さっき大山が言ったのはそういう意味だと言った。
それで八郎は、荘内藩にいま何が起こっているかを知り、大山や池田が置かれている立場を理解したが、それは結局藩内の内紛ではないかという気もしたのだった。それで、池田の言葉にちらつく誘いには乗らず、その後大山をたずねるようなこともしなかった。八郎には、やはり自分は藩内部の人間ではなく、外側にいる人間だという気持が強かったのである。
ただそのあと、八郎は藩内二派の動きに無関心ではいられず、時どき藩の人間に会うとその後の様子を聞いた。
藩の情勢は、改革派には不利に動いていた。八郎が大山に会った二年後の嘉永七年、改革派が頼みにしていた隠居忠器が病死し、それを待っていたように、大山庄太夫は用人を免ぜられ、知行を削られて国元勤務を命じられていた。
八郎はそのことを知っていたが、国元にいる間、大山を訪ねることはしなかったのである。藩内の紛争に巻きこまれるのを警戒する気持があった。八郎の望みはもっと単純なところにあった。文武二道を教授する塾を江戸に開くことである。
それさえも難しく、みすみす千葉道場の免許をとることも遅れるのを承知しながら、当分故郷に籠らざるを得ないのが、いまの状態だった。郷里で大山に会ったか、という池田の質問にもそっけない返事しか出来なかった。
「そうか、会っていませんか」
池田は失望したように言った。
「あれは、どうなりましたか。忠恕さまの家督のことは」
八郎は、前に池田が言っていたことを思い出してそう言った。すると池田は警戒するようにあたりを見回し、送別の席が、放歌し高吟する者が出て乱れてきたのを確かめてから、声をひそめて言った。
「世子公が頼みの綱ですな。一度ご老中の阿部さまにお願いして実現しなかったが、我我は望みを捨てていません」
世子摂津守忠恕はいま十七歳だった。亡くなった忠器や両敬家たちは、この忠恕にもっとも望みを託し、摂津守に任ぜられる前年の嘉永五年、忠恕の室に前の土佐侯山内|豊煕《とよひろ》の娘瑛姫を迎えるときにも、改革派がこの縁組みに力を尽くしたのである。
「今度国へ戻ったら、一度大山さまを見舞ってください」
池田は少し押しつけるように言ったが、八郎が返事をためらっていると、不意にひらりと体をかわすように話題を変えた。
「近ごろ、真島に会いましたか」
「いや、今年のはじめ国へ帰るときに会っただけです」
「与之助には?」
「彼には今年の夏、上方から帰ってきたときに宿で会いました。例の西洋家のお師匠さん勝麟太郎について長崎に行くというので、大村藩の富永と朝長熊平に手紙を書いて頼みました」
「与之助が、抜群の出来らしいな」
池田は、何か思い出した様子でくすくす笑った。
真島というのは、荘内領飽海郡遊佐郷内で大組頭を勤める真島佐太夫の子雄之助で、勝麟太郎の塾で砲術を学び、去年の暮から荘内藩に抱えられて品川五番砲台に勤務していた。池田が与之助と言っているのは、真島の父佑太夫の世話で去年江戸に出、やはり勝塾で砲術を学んでいる佐藤与之助のことである。与之助は故郷枡川村でずっと百姓をしていて、勝塾に入ったときは三十四の晩学だった。
「そんなに出来ますか」
「長崎で、勝先生に会ったんです。そうしたら、与之助は蘭語の天才だと言ってましたな」
池田がそう言ったとき、阪井という男がやってきて、八郎の前に坐った。
「池田さん、主賓をひとり占めしちゃいかんですな」
阪井は少し酔っていてそう言った。すると池田は、じゃ、またと言ってあっさり立って行った。
真島雄之助と言い、佐藤与之助と言い、いずれも草深い田舎から出てきた男たちだ、と八郎は思った。そういう連中が、国がいま一番必要としている場所で働きはじめている。そう思うと、いまの騒然としてきた時勢の中で、旧法を固執しようとする藩に対する、池田や大山のいら立ちがわかる気もした。
「さあ飲め。今日は酔いつぶれるまで飲め」
「君も飲め。しばらくは会えん」
阪井がつぐ酒をうけて、八郎も言った。しばらくは、江戸にももどれないだろう。酔いがもの静かに別離の感傷を運んで来るのを、八郎は感じていた。
七
八郎は、ふと顔をあげて筆を置いた。いつの間にか雨の音がやんでいた。
立って行って窓を開けると、いきなり日に照らされたあららぎ山が、眼にとびこんできた。三日も降り続いた雨が、夕方になってようやく上がったらしかった。日は間もなく西空に落ちるらしく、光はあららぎ山の中腹から上を染めていた。その麓に、最上川が暗く濁って流れるのが見える。
八郎は机にもどって、執筆予定の目録を眺めた。大学|贅言《ぜいげん》、それはいま書きすすめている稿だった。次の中庸贅言、論語贅言、芻蕘論《すうじようろん》文道篇、同武道篇、古文集義、兵鑑、また目録には挙げていないが、ほかに書についても一巻を編みたいと思っていた。
大学、中庸の著述は、それぞれ一巻ずつですむと思っていた。だが論語は脱稿まで二、三年はかかるという気がした。
──おそらく二十巻ぐらいの著述になるだろう。
目録を眺めながら、そういう考えをめぐらせることは楽しかった。漸く落ちついて著述の暮らしに入れたという気がしている。
去年の暮に、江戸から帰ると、八郎は屋敷の裏の楽水楼に籠って、著述に専念した。窓の外に雪が降りつもり、吹雪が通りすぎた。そして長い冬が終って春が来た。
四月になって、八郎は一度だけ短い旅をした。三弟の熊三郎を連れて仙台に行き、桜田良佐の済美館に入塾させるためだった。桜田は千葉周作に北辰一刀流を学び、また西洋の火砲術もきわめ、大成流という兵学を創設して、藩の大番組、入司の職を勤めるかたわら、子弟に兵学、剣法を教授していた。桜田の長子敬助が、千葉道場で八郎と親しかったので、その縁を頼ったのである。
帰ると八郎はまた著述に没頭し、ひと月ほど経っていた。季節は梅雨に入っていたが、雨はさほど気にならなかった。著述にも漸く油がのってきていた。
八郎が筆をとろうとしたとき、部屋の外に軽い足音がして、襖が開いた。入ってきたのは母の亀代だった。うしろに見たことのない若い女が従っていた。
「おや、お部屋が暗くはありませんか」
訝《いぶか》しそうに二人を見ている八郎に、亀代は言った。すると、若い女がすばやく行燈のそばに行って火を入れた。身のこなしに、優雅な感じがあった。
「こんど、たえが……」
亀代は坐ると、女中のおたえのことを言った。
「表の仕事がいそがしくなって、あなたのお世話が出来ません。それでこのひとに来て頂きました」
「政と申します」
女は丁寧に辞儀をして、そう言った。きちんと作法をしつけられている感じが、快く伝わってくる。
八郎は礼を返して、無言で女を見つめた。まだ十六、七かと思われる女だった。細面で色はやや浅黒いが、眼鼻立ちはきりっと引きしまっている。美貌だった。女はつつましくうつむいていたが、初対面の八郎を恐れているようには見えなかった。
「今日から、このひとにあなたの世話をしてもらいます」
亀代はかすかに上ずったような口調でそう言った。
「よろしく頼む」
どこかに不審な気持が残るのを感じながら、八郎も丁寧にそう言った。
その夜からお政は、八郎の身の回りの世話をやいた。離れになっている楽水楼で食事する八郎に、食事をはこび、そのあとも執筆している八郎のために、茶を淹《い》れ、ころあいをみて湯で蒸した手拭いを運ぶ。甲斐甲斐しい働きぶりだったが、立居は風のように身軽く、少しも執筆の邪魔にならなかった。
八郎が食事を喰べ残したりすると、「喰べなきゃあ、身体に毒だよ若旦那。あーあ、こんなに喰い残してまあ、もってえねえ」などと、がさつな声をはりあげるおたえとは、だいぶ違っていた。
──どこから来た女子か。
その夜、お政が敷いてくれた夜具に横になってからも、八郎はぼんやりそう思っていた。すると廊下を踏む小さな足音がして、隣の部屋に人が入った気配がした。続いて行燈に火を移す音がした。そのあとも、小さな物音が続いている。
八郎は起き上がってその気配を聞いたが、やがて立ち上がって間の襖を開いた。するとそこにお政がいた。お政は夜具を敷いていた。
「ここで、何をしている?」
八郎が言うと、夜具のそばにきちんと坐ったお政が怪訝《けげん》そうな顔で答えた。
「ここで休むようにと、言われました」
「ふーむ」
八郎はうなった。夕方、お政を連れてきたとき、どことなく落ちつかないふうに見えた母を思い出していた。
「あの……」
お政の顔を、不安そうな影が通りすぎた。
「私のことを、お聞きになっていらっしゃらないんでございましょうか」
八郎が黙っていると、お政は不意に両掌で顔を覆った。賢く、しとやかな女ではなく、ただの小娘が坐っているように見えた。
「よろしい。気にせずこの部屋に休みなさい」
八郎はそう言って襖を閉めた。そして暗い自分の部屋で、手早く身支度をすると、廊下に出た。胸の中に怒気が動いていた。父母が相談して運んだことに違いないが、いくら父母でも卑劣なやり方だと思った。
父の書斎に行くと、豪寿はまだ起きて書物を読んでいたが、八郎を見ると黙って眼鏡をはずした。
「どういうことか、ご説明ください」
八郎が言うと、豪寿は眼鏡と書物を机にもどして、眼をこすった。しばらく沈黙してから言った。
「亀代が考えたことだ。無理やりに嫁を持たせてしまえば、お前がこの家を出るのをあきらめるかも知れんと。まだ、そう思っている」
「………」
「お前が腰を据えて勉強しているので、これが最後の機会だと考えているわけだの」
「どこの娘御ですか」
「松山で右筆を勤めている鈴木という家の娘での。小田が連れてきたのだ」
小田というのは、斎藤家の遠縁にあたる男で、やはり松山藩に仕えている。
──なるほど、武家の娘か。
八郎はよくしつけられたお政の立居と、どこかに硬い感じがある身体の線を思い出していた。
「どうかね、あの娘は」
「さあ、はじめて会ったわけですから、まだ何とも申しあげかねます」
「亀代がそうはからったと言ったが、わしにしても、お前がもしお政を嫁にして、この家にいてくれたらと思わんわけではない。考えてみてくれ」
「………」
「ただ、小田の話によると、先方ではこの家の嫁としてならぜひもらってもらいたいが、江戸にはやれぬと厳しく言っているそうだ」
そうか。するとあの可憐な娘は、おれをこの家に縛りつける鎖というわけだ、と八郎は思った。八郎の胸に強く警戒する気持が湧いた。
「いずれ江戸に塾を開きたいという、私の決心は変りませんよ」
「ま、それはそれでいいじゃないか。だからと言っていますぐ江戸に帰るというわけではなし」
豪寿は、後とりに恵まれない父親の本音をのぞかせたように、老獪《ろうかい》な言い方をした。
「その間にお政のこともゆっくり考えてみたらいい。気にいるかどうかは、少し眺めてみないことにはわからんことだからの」
八郎は話を切りあげて、離れに戻った。夜具の中に入ってから、お政自身はどういうつもりで来ているのだろうと思った。隣の部屋はことりとも物音がしなかったが、八郎はお政が眠っていないのを感じた。眼ざめて、お政はお政で自分の行末を考えている、という気がした。
しかしお政は、結局ひと月近く八郎の身の回りにいただけで、松山に帰ったのである。八郎が、ついにこの縁談にふみ切れなかったためだ。
お政が帰った日。八郎は迎えに来た小田とお政を村はずれまで見送ると、真直ぐ家に戻って離れに入った。重苦しい気分に支配されていた。一指もふれないで、きれいな身体のままで帰したが、女を悲しませたことに変りはないと思っていた。
──もっと早く帰すべきだった。
その後悔があった。だが八郎の心の中にも、迷いがなかったわけではなかったのだ。お政はそれだけの魅力をそなえた女だった。だが、最後に八郎は女ではなく、出府開塾の方を選んだのである。むごいことをしたと思った。その気の重さには、親の期待をにべもなく踏みにじった後悔もふくまれている。
土堤下の道を、うつむいたまま振りむかずに去った女の姿を思いうかべ、八郎はしばらく重い悔恨が胸を噛むのにまかせた。
──しかしお政は、きっといいところに嫁に行くだろう。
若いから、多少の心の傷は、間もなく癒えるに違いない。ようやくそう思ったのは、その日も日暮れ近くなってからだった。
不意に八郎は、筆を捨てて立ち上がった。そう思うと同時に、思いがけない寂寥の思いが胸に溢れてきたのであった。お政を帰したことが、取り返しのつかないことだったように思われてきた。
身辺にお政がいるひと月の間、八郎はお政に惹かれる自分の気持をたえず警戒しつづけた。だがその間にやはり情が移っていたのかも知れなかった。その気持が、戒しめを解かれたいまになって、急に胸に溢れてきたようだった。
八郎は身支度をととのえ、金を用意すると家を出た。一人でいることに耐えがたい気がしながら、家の者には会いたくなかった。八郎は村を出ると、清川街道を鶴ヶ岡に向った。
鶴ヶ岡に着いたときは、すっかり夜になっていた。八郎は暗い町を幾つか通りすぎて、八間町のうなぎ屋に行った。
しばらく待たされて、やがて高代が部屋に入ってきたとき、八郎は思わず胸がせまった。いまは、ここしか来るところがないと思ったことが、高代を見た瞬間に間違っていなかったと覚ったのである。
高代は一年前と少しも変りなく、どことなく清らかな感じのまま、むかい合って坐ると、八郎を見て微かに笑った。
「わたしをおぼえているかね」
と八郎は言った。
「おぼえているかなんて」
高代はさっと顔を赤らめて、呟くように言った。眼は八郎をひたと見つめたままだった。
「一日だって、忘れはしませんでした」
「そうか。済まなかったな」
思わず八郎は言っていた。高代の言うことが、そのまま信じられた。娼婦がうまい口説を言っているなどとは思いもしなかった。
「江戸へ行ってきた。暮には帰っていたのだが、ここへ来るのが遅くなった」
「もう、忘れられたと思っていました」
高代は小さい声で、なじるようにそう言った。そして不意にうつむくと手で顔を押さえた。
「高代、高代」
八郎は膝でいざり寄って、高代の肩を抱いた。
──そうか。やはり間違っていなかったのだ。
と八郎は思っていた。妻にすべき女は、お政ではなく、この女だったのだ。
「なぜ、もっと早く気づかなかったかな」
「え?」
高代が顔をあげた。涙に汚れた顔が幼くみえた。
「ずっと前にめぐり逢っていたのだ。そうは思わんか。これから二人は一緒に暮らすのだ」
「一緒に?」
高代はじっと八郎を見つめたが、静かに首を振った。だが、八郎が身体をひきよせると、吸いつくように八郎の胸に頬を寄せてきた。
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遠 い 嵐
一
清河八郎が、名前を蓮と改めさせた妻の高代と、弟の熊三郎を連れて江戸に出たのは、安政四年四月だった。
熊三郎は、仙台藩の桜田良佑の塾で、剣で頭角をあらわし、大成流の伝書を授けられたが、さらに剣の修業をのぞむので、千葉道場に入門させるために、同道したのである。三人は和泉橋通りに面した下谷|御徒町《おかちまち》に、適当な空家があったので、そこを借りて住んだ。
娼妓《しようぎ》の高代を妻にすることについては、ひとかたならぬ悶着があった。
高代は、同じ郡内の櫛引通本郷組の熊出村に生まれた。家は代代医者で、父親も正庵という医者だったが、家が貧しかったので、高代は十歳のときに鶴ヶ岡城下の西にある大山村に子守にもらわれた。
しかし養父母も貧しかったので、十七のときに、遊女屋に売られたのである。八郎に会ったのはその年だった。
だが高代を嫁にしたいという八郎の話は、たちまち家の者の激しい反対に会った。藩から大庄屋格の待遇を許されている土地の素封家斎藤の家の長男に、遊女を嫁にとるわけにはいかないという家の者こぞっての反発は強烈で、八郎を困惑させた。
家の者ばかりではなかった。事情を知った村の者まで、八郎を白い眼で見た。しかし高代こそ生涯の伴侶とすべき女だという、八郎の気持は変らなかった。八郎は、母の実家の鶴ヶ岡荒町の伯母を頼った。伯母は侠気《おとこぎ》のある人だったので、事情を打ち明けて祖父や父母を説得してくれるように頼んだのである。
八郎にとって、その頃は不安の日日が続いていた。高代を身請けしたがっている金持ちの男などもいて、油断ならなかったのである。だが、高代も決心を変えなかった。
荒町の伯母は一度高代に会った。そして高代をすっかり気に入ったのである。伯母は清川まで出むいて、父母を説得してくれた。そして、その結果清川を出て、ほかの土地で一緒に暮らすならやむを得まいということになったのである。去年の九月のことだった。
皮肉なことに、八郎の父母は、八郎に嫁をとらせて家に落ちつかせようと、あれほど腐心したにもかかわらず、ほかならぬその嫁の問題から、家の格式を取って、八郎を手放すことになったのであった。
八郎は、後から高代を呼ぶ手はずをつけると、さきに仙台城下に行き、武家屋敷が並ぶ糖倉町に家を構えた。そして高代を迎えて半年仙台城下に住んだのである。高代の名を蓮と改めたのはその時だった。
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水陸草木の花、愛すべきもの甚だ蕃《おお》し。晋の陶淵明は独り菊を愛す。李唐より来《このかた》、世人甚だ牡丹を愛す。予独り蓮の淤泥より出て染まらず、清漣濯われて妖ならず、中は通じ外は直く、蔓あらず枝あらず、香遠くして益益清く、亭亭として浄く植《た》ち、遠観すべくして褻翫すべからざるを愛す。
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蓮は花の君子なる者なり、とつづく宗の周廉渓の「愛蓮の説」から藉《か》りて名づけた名前だった。
泥中から出て、清く香る蓮こそ、高代の名にふさわしいと考えたのである。
江戸に出て、御徒町に新居を構えると、八郎は郷里の楽水楼、仙台の糖倉町の家と書きついだ著述に没頭した。すでに大学贅言、中庸贅言を脱稿していて、八郎は論語贅言二十巻の筆をすすめていた。
筆に倦《あ》きて眼をあげると、蓮の姿がある。
「そなた、幾つだったかな」
と八郎は言った。
お蓮は縫物の手をやすめて、くすくすと笑った。
「この間もお聞きになりましたが、十九になりました」
「そうか」
「はじめてお会いしたのは、十七のときです」
「そうだったな」
八郎は机を離れると、長ながと畳に寝ころんだ。
──不思議な女だ。
八郎はお蓮を時どきそう思うことがある。いまもそう思っていた。お蓮といると、二年にも満たない短い年月のつき合いとは思えなかった。ずっと昔から知り合い、心を許して来た女のように思うことがあった。
そして不思議さは、そればかりではなかった。確かにそばにいながら、お蓮にはひとり澄んでいるような、孤独な美しさがあった。八郎や義弟の熊三郎と打ちとけないというのではない。時にはよく喋《しやべ》り、にぎやかに笑いもする。
だがあるときふと気がつくと、お蓮はひどく遠いところにいるような顔をしていることがあった。八郎に見られていると気づくと、お蓮はすぐにそばに帰ってくるのだったが。
お蓮は窓の下で、八郎の着物を縫っていた。縫物が好きで、また上手だった。八郎からはお蓮の伏せた横顔が見える。嫁にきてから、頬に少し肉がついて、お蓮の顔にはおっとりとした品のようなものが加わっている。それは遠くにいる感じではなく、何年も前からそばにいた女の顔だった。
「生まれた家を思い出すことがあるか」
「いえ」
お蓮は、八郎を見てほほえむと、首を振った。
「思い出さんのか」
「ええ、あまり」
お蓮は首をかしげた。
「不思議ですね。大山村にいて、それから八間町にいて辛い思いをしたころは、毎日のように思い出しましたのに」
「………」
「いまはしあわせですから、毎日が楽しくて、家のことも思い出さないのですよ、きっと」
「………」
「夢のようです。あなたさまとこうして江戸にいるのが……」
お蓮は縫物の手をとめて、膝に手を置くと、八郎をじっと見つめた。窓からさしこむ夕べの光に、お蓮の顔が微かに赤らむのが見えた。
「こんなことが、いつまで続くのかしらと、思うことがあります」
「バカを申せ」
八郎はむっくり起き上がって、あぐらを組むと言った。自分でも思いがけない、強い口調になっていた。
「しあわせになるのは、これからのことだ。いまは四月。先日父上に手紙を出したが、よい返事がくれば、また塾を開く支度にかかるぞ」
お蓮は黙ってうなずいた。
「おれは、やがて江戸で名のある学者になるだろうし、そなたはその妻だ。子供も欲しい」
「………」
「そなたは、もっともっとしあわせにならないといかん。いままでの暮らしが辛すぎた。はじめて会ったときのことを、おぼえているか」
「はい」
「おれもおぼえているが、おれはそのとき、思わず泣き出しそうになったのだ。二十六の男がだ。そのことが不思議だったが、そのときに、そなたとこうなる運命を見たのかも知れんな、おそらく」
「私も不思議なひとに会ったと思いました」
お蓮はほほえんで、眼を窓の方に投げた。
「でも、まさかあなたさまの嫁になるとは思いませんでした。女は身にすぎた夢は見ないものですから」
「こっちへ来い、蓮」
八郎は、お蓮を呼んだ。お蓮は縫物を畳におろして立ってくると、八郎の前に坐った。
「しあわせにしてやるぞ」
「はい」
お蓮は、八郎に白い指をゆだねたまま、おだやかに微笑したが、不意に真顔になって言った。
「ほんとうに、いまだってしあわせすぎて、こわいぐらいなんです」
八郎は苦笑した。そのとき玄関の戸が開いて、ただいま戻りました、という熊三郎の声がした。お蓮はあわてて縫物にもどり、八郎も机にもどった。
「ただいま」
のっそりと熊三郎が入ってきて、もう一度そう言った。お蓮がお帰り、と言った。
「どうしました? お二人とも」
どかりとあぐらをかいた熊三郎が、怪訝な顔をした。熊三郎は二十一で、学問は不得手だが、剣の修業の方は性分に合っているらしく、せっせと千葉道場に通っていた。身体は八郎に似て大きいが、女遊びも知らない淳朴《じゆんぼく》な青年だった。
「何がですか」
お蓮が眼をみはって言った。
「いや、何かこう、そっぽを向いているようだから、珍しく夫婦|喧嘩《げんか》でもやったかと思いまして」
お蓮が笑い出し、八郎も失笑して、筆を置くと弟に向き直った。
「どうだ、千葉道場の稽古は、馴れたか」
「いや、きついきつい」
熊三郎は言ったが、表情には、以前から憧れていた千葉道場で稽古している満足そうないろが現われている。
「あ、先生が兄さんのことを言っていました」
「ほう」
「清河はここしばらく姿を見せないが、佳人を得て荒稽古がいやになったのかと。佳人というのは姉さんのことらしいですが」
八郎は苦笑した。先生というのは千葉栄次郎のことである。
千葉周作は二年前に亡くなり、今年になって東条一堂が歿していた。いずれも八郎が江戸を留守にして、故郷にいたり、仙台にいたりしている間のことだった。
そしていまは、千葉栄次郎が玄武館をつぎ、東条塾の跡地も買い入れて道場をひろげていた。
「いや、書きものが一段落したら、道場に行こうと思っていたところだ」
八郎がそう言ったとき、玄関に人がきた気配がした。立って行ったお蓮が、すぐにもどってきて、真島さまとおっしゃる方がお見えです、と言った。
八郎はすぐに玄関に出た。真島雄之助が立っていた。真島は嘉永末に江戸にきて、故郷の酒田から出た著名な儒学者伊藤鳳山に学び、後に勝麟太郎の塾で砲術を修め、いまは荘内藩に抱えられて品川砲台に勤務し、砲術方を勤めていた。
真島は八郎をみると、顔をほころばせて、しばらくと言った。真島は八郎より五つ年上である。八郎は前に会ったときにくらべ、真島がひどく痩せて、顔色が悪いのに気づいたが、上がってくれと言った。
八郎はお蓮に酒を出させた。
「おいそがしい勤めのところをお呼び立てして、申しわけなかった」
八郎は、お蓮がありあわせのもので、手早く酒肴《しゆこう》の支度をすると、真島に酒をすすめた。八郎は江戸につくと間もなく、真島に手紙をやり、下谷御徒町に家を構えたことを知らせて、一度訪ねてくれるように言っておいたのである。
一年以上も江戸を留守にすると、中央の情勢はたちまちわからなくなる。八郎は真島に最近の幕府の動きなどを聞きたいと思っていた。
「いや、一度はお邪魔したいと思っていたから」
真島は部屋の中を見回し、暮れなずんでいる障子のあたりに眼を投げた。
「すっかり落ちついたようだな。嫁さんは美人だし、弟さんは、どこか塾にでも通ってるのか」
真島はさっき八郎が引きあわせた二人のことを言った。真島は遊佐郷の大組頭を勤める家の長男だが、江戸へ出ていた。似たような境遇のためか、八郎とはよくつき合い、時には遠慮のない口をきいた。
「ご新造とは、相思相愛らしいじゃないか。聞いているぞ」
真島は揶揄《やゆ》するように言った。八郎は薄笑いでごまかした。
「ところで、お勤めの方はどうです?」
「うむ。黒船さわぎも一段落したから、まあ、のんびりしているわけだが、いざというとき、いまの砲台で間にあうのかどうか、いささか疑問だな」
「そんなものですかな」
「箱館の弁天崎に据えつけた大砲は、あれはちょっとしたものらしい。オロシアの軍艦砲だから」
「オロシア?」
「二年前、例の大地震のとき、オロシアのディアナという軍艦が伊豆で沈没したのを知らなかったか」
「さあ、聞いていなかった」
「ディアナは下田にいたんだが、津波に襲われて座礁し、こわれてしまったんだな。そこで同じ伊豆の戸田村という港で修理しようと、曳航している中に、今度は沈没してしまったのだ」
「………」
「結局乗組員は、戸田村で新しくスクーネル型という帆船をつくり、ほかにアメリカの商船を雇ったりして帰ったらしいが、この帆船を作るとき日本の船大工も加わって、あちらさんの船造りの実地を習うことが出来たので、幕府は大いに得をしたという話だ」
真島は、やはり新しい技術に関心を持つ人間らしく、熱っぽい口調でそういう話をした。
「そのときオロシアでは、下田に陸揚げしてあったディアナの大砲を寄贈して帰った。それがいまは箱館の砲台に据えられているわけだな」
「面白いな」
と八郎は言った。
「面白いだろ。おれも一度その大砲を見たくてしかたないんだが、まさか箱館まで行くわけにもいかん」
真島はそう言ったが、不意に酒にむせたらしく、激しく咳こんだ。飲んでも青白かった顔が、朱に染まり、ひどく苦しげだった。
「大丈夫か」
八郎が手を出そうとすると、真島は手を振ってことわり、しばらく背をまるめて咳きつづけた。そして漸く顔をあげた。
「少し身体をこわしているのだ」
真島はそう言って微笑した。
「じつは医者に酒をとめられている」
「あ、それは気づかんことをしたな」
八郎が言うと、真島は手を振った。
「構わん、構わん。酒も飲めないようでは、生きている甲斐もない。それにこの家の酒はすこぶるうまいよ」
八郎は苦笑して、銚子をとりあげると真島の盃に酒を満たした。八郎は、そのとき土佐の間崎哲馬を思い出していた。間崎は身体が弱いのに、いくらでも酒を飲んだ。
そして間崎がよこした手紙を思い出していた。間崎のその手紙は、一昨年の四月に出したと思われるものだったが、そのとき八郎は江戸にいなかったので、手紙はあちこちと回され、八郎の郷里に回されてきたときには一年近くもたっていた。
間崎は、郷里江ノ口に私塾を開き、学名を慕って集まる塾生数百名に教えていたが、その手紙では、しきりに江戸に出たいと記し、またアメリカの使節に対する幕府の軟弱な応対を神州未曾有の御恥辱と罵《ののし》っていた。間崎は、互市《ごし》の願いは拒絶した方がよく、暴横のふるまいこれ有り候ときは、砲撃致候方しかるべく、勝敗は論ずべからずと存じ奉り候≠ニ、激越な文章を連ねていた。
二
その手紙を読んだとき、八郎は間崎の文章が激し過ぎるような気がした。
二度目に来たアメリカ艦隊を、八郎は神奈川宿まで行って自分の眼でみたが、ひと眼みて、戦って勝てる相手ではない、という感じが強かったのだ。戦端をひらけば、江戸はたちまち火の海になるだろうと思われた。陸地にむかって開かれた砲門には、それだけの威圧感があった。
おそらく当事者の幕府は、さらにそれ以上の圧迫感をうけたから、間崎が非難するように国書をうけとり、二度目の来航では条約を結ばざるを得なかったのだろう。鎖国を祖法としてきた幕府にとって、それが本意であったはずはないが、戦を仕かける自信がない以上、そうせざるを得なかった事情はわかる。
そう思うと、婦女子の暴客を恐るるごとく畏縮逡巡、ついに彼に制せられ候は千古の遺憾≠ニいう間崎の怒りは、現実を見ていない者の極論のようにも思われた。
江戸にいたときの間崎は、開国か戦争か、これから議論がわかれる、と開国に傾いた今日の情勢を見通したような、比較的冷静な言い方をしていたのだ。開国絶対にあるべからず、とは言わなかった。だが手紙は、かれに横暴のふるまいがあれば、砲撃して当然、勝敗は問うところではないと記していたのだ。
郷里にいて中央から離れているために、間崎の眼は、あの冷静な分析の働きを失ったのかと八郎は訝しんだ。
だが、八郎は、自分の時勢を見る目にそれほど自信があるわけではなかった。ことに江戸に文武を指南する塾を開くというある意味では俗な望みを持ち、そのために事なかれ主義に傾きやすい自分の欠点も熟知している。間崎の激越な文章は、あるいは彼一流の時勢観から、幕府の対応の仕方が、わが国にとって致命的な失点をもたらすものであるのを指摘しているのかも知れないという気もした。
間崎は八郎にあてた手紙のしまいの方に、こう記していた。このたびのことにつき、諸侯にも英気これあり候て、武備を修し、莫大の費耗に相なり候国は、御和議に相なり候を憤り候ようのことにも相なり候わば、内変の基にこれあるべく
間崎の文章は、やがてくる国内動乱を予言しているようでもあった。その文句は、八郎の記憶にこびりついている。
江戸にくると間もなく、真島に手紙を出したのも、江戸にずっといて、中央の動きに触れている真島に、とりあえずその後の情勢を聞いてみたかったからである。
「その後、天下の形勢はどうですか」
と八郎は言った。
「また君の天下の形勢かね。おれはそんなにくわしくないぞ。一介の大砲撃ちに過ぎんからな」
真島はそう言って笑った。八郎と会うと、話がいつもそこに落ちつくのである。そして真島はそう言いながら、結構鋭い時勢観を語って聞かせるのだ。
「アメリカと条約を結んだあと、幕府がエゲレスと日英約定、オロシアと日露和親条約をつぎつぎと結んだのは、あんたがまだ江戸にいたときだったな」
「そうだ。おれが帰ったのはその翌年だ」
「あんたが帰ったあとでも、幕府はオランダと新しく和親条約を結んだ。あれに許し、かれに許さんというわけにはいかないから、幕府としては止むを得なかったと思う。が、形としては、諸外国になめられたわけだ」
「なるほど」
「だが、なめられ放しで、茫然とつっ立っているというわけじゃなくて、幕府は相手と対等の国力を身につけるために、いろいろとやっている。われわれが防備している台場なども、その産物だな。もっとも、役立つかどうかはわからんが」
「ほかには?」
「はじめに九段坂下にあった洋学所が、今年の正月小川町に移って、ひとまわり大きくなって蕃所調所になったとか、長崎の海軍伝習所にオランダ教官がきて、あちらふうの操船の勉強を盛んにやっているとか。勝先生はそこで大活躍しておられる」
「………」
「オランダから将軍家に贈られたスンビン号という船で、実地操練をやっているのだが、あんたが江戸に来るちょっと前に、スンビン号は、日本人だけで長崎から江戸まで来た。幕府の喜びは大変なものだったらしいな」
「門地にこだわらず、人材を登用しているということを聞いたが」
「それはいまも続いているようだぞ」
勘定奉行に登用された川路|聖謨《としあきら》、下田奉行になった下田清直は、豊後日田の代官の属吏の家出身だし、目付の永井|尚志《なおむね》、岩瀬|忠震《ただなり》は部屋住みからの抜擢《ばつてき》、大久保忠寛は小納戸役だった、と真島はいま活躍している人名をあげた。
「砲台を築いた江川太郎左衛門も登用組のひとりだった。人材をどしどし登用して、海岸防備をかため、海軍伝習所、講武所で陸海の兵力を養う。それで次に備えようというのが幕府のというより、こうしたことに手をつけた阿部老中の腹だろうな」
「次というのは、どういうことだ?」
「幕府は次次と和親条約を結んだが、あれはただ仲よくやろうじゃないかと言ったものらしいぞ」
真島は微笑して、盃を口に運んだ。そしてうまそうに飲み干した。
「幕府は、下田、箱館の二港をアメリカに開いたが、それで貿易をやるわけじゃない。貿易をゆるすかどうかは、次の交渉になるのだ。そのときにそなえて、相手の言いなりにはならん力をつけて置くというのが幕閣の腹だと思う」
「………」
「だが間にあうかどうかが問題だな。アメリカからハリスという役人が下田に来ているのを知っているか」
「それはいつのことだ?」
「去年の七月だ。玉泉寺という寺を役所にしてそこに滞在している。彼の目的は、アメリカと日本の間に貿易の条約を結ぶことだと聞いたぞ」
去年の七月といえば、お蓮と再会して八間町に通いつめ、家の者から非難されていたころだと八郎は思った。真島の話を聞いていると、自分が、いかにも遠いところにいたという気がしてくる。
「阿部老中は、なんとか間にあわせようと、必死に手を尽くしているわけだ。だがその阿部は、じつは二年前に堀田備中守を老中に入れ、首座の地位を譲っているわけで、おれなどにはわからんが、話に聞くと、こうした動きのうしろには、いろいろな勢力が働いているらしいな」
老中阿部正弘は、ペリーの来航以来積極的に周囲の意見を求めてきた。諸大名、旗本にはアメリカの国書を示して対策を聞き、また諸藩の士、一般の町人にまで対策があれば申し出るようにと触れを出した。それまで、幕府の政策に対する外部からの容喙《ようかい》を一切許さず、ご三家の徳川斉昭の発言さえ煙たがって謹慎処分にしたほどの幕府としては、未曾有の変化ともいうべき措置だった。
むろん阿部は、ペリー来航をそういう措置を打出さざるを得ない、天下の大事とみていたのである。
阿部の諮問に対して諸大名から庶民の意見まで、およそ七百通にのぼる意見書が提出されたが、大多数は条件つきでアメリカの要求を入れるしかない、あるいは確答をあたえずに引きのばせといった消極論だった。
しかしこの中で、親藩の尾張藩主徳川慶勝、越前藩主松平慶永、それに外様の長州藩主毛利敬親、肥前藩主鍋島真正、土佐藩主山内豊信、宇和島藩主伊達|宗城《むねなり》、薩摩藩主島津斉彬らの意見は、多少の違いはあったが、要求を拒否せよという強硬論で一致していた。軍艦、大砲を用意し、防備体制を固めるべきだという彼らの意見は、それまで藤田幽谷以来の攘夷《じようい》論をとなえてきた徳川斉昭の意見とも合致するものだった。
攘夷論を建前として、徳川斉昭に結びつくひとつの勢力がこのあたりではっきり形をととのえ、幕政に発言権を持とうとする動きがはじまったのであるが、阿部はその動きを押さえなかった。
阿部はむしろ責任を分散しようとしていた。責任を各所に分散し、それをもう一度まとめる形で政策を打ち出すことで、老中部屋の密室で裁断するにはあまりに重大な今度の問題の答を得ようとしていたのである。
そのために阿部は、朝廷に対しても、天皇の意見があれば、思し召しにてお取計らいもつかまつるべし、と申し入れていた。
朝廷では、はやくから外国船の渡来を憂慮し、国を守る対策をすすめるようにと幕府に沙汰をくだし、これに対し幕府もいちいち情況を報告していたが、それはあくまでも儀礼的なやりとりにとどまっていた。
朝廷の意志は政治的な強制力を持つものではなく、実権は幕府にあった。そのことは、朝廷と幕府双方の間で諒解済みだったのである。
阿部は長い間のその習慣を破って、政治の上に朝廷の意志を具体的に取り入れてもよいと表明したのであった。それは阿部の側から言えば、国政の責任の一端を、朝廷にまで分散したことになる。
そういう考え方に立つ阿部は、徳川斉昭を中心とする勢力を、幕閣に対する援護勢力として幕政の中に取りこもうとしていた。代表格の徳川斉昭を幕府の海防事務参与にし、さらに安政二年八月に幕政改正参与としたのはその含みだった。
阿部には、幕閣の判断だけで、いまの情勢を乗り切るのは無理だというはっきりした認識がある。そのために、諸藩にも朝廷にまでも呼びかけたのである。
だが阿部のそういう考えに不満な勢力もあった。徳川家譜代にまとまる大名たちがそれで、幕政に外様の意見までとり入れようという阿部のやり方は、彼らには奇怪で、憤慨にたえないものだったのである。外様が幕政に容喙する状況は、彼らの眼からみれば、幕府がみずから権威をおとしめているとしかみえなかった。
彼らは外様雄藩の発言を敵視し、彼らにかつがれて幕政をかき回しているかにみえる斉昭をにくんだ。こういう情勢を見た阿部は、譜代の中から前にも老中を勤めたことがある堀田を不意に老中に再任し、ほとんど独断で老中首座の地位を譲ってしまったのである。
それは阿部の譜代対策だったが、同時に堀田の起用は、攘夷派の独走を押さえる一石でもあった。堀田は譜代の勢力のなかで、もっとも開明的な人物として知られてもいたのである。
阿部は押しよせてきている外圧の前に、何よりも国内の構えを固める必要を痛感していたが、一方で、やがて開国通商は避け難いかも知れないという見通しも持っていた。堀田の老中首座はその日の布石のつもりであったのだ。
「くわしいことはわからんが、ざっとこうした情勢だと聞いている」
真島は、ぽつりぽつりとこういうことを話し、話し疲れた表情で軽く咳をした。するとまたつづけざまに咳が出た。
「なるほどよくわかった」
八郎は、真島の盃に酒をついでやりながら言った。
「田舎にいては、こういうことは皆目わからん。で、譜代の中心が堀田ということになるのかな」
「いや、そうではないと思う。水戸公や外様に対して、一番強腰なのは彦根藩の井伊侯だという話だな」
「………」
「井伊|直弼《なおすけ》だ。このひとが譜代の意見をまとめているらしい。幕府の威信低下ということを、しきりに問題にしているようだ」
「荘内藩なども、その中に加わっているわけだろうな、おそらく」
八郎は、保守的な幕府信奉主義者だという、藩主酒井忠発のことを思い出していた。忠発に対する両敬家、松平中老、あるいは大山庄太夫らの執拗なと思われるほどの画策にも、やはりこういう時代の動きが影を落としていることが感じられた。
「ま、そうだろう。そう言えば荘内は、彦根藩と同じ徂徠学だったな」
「気も合うというわけかの」
八郎と真島は低く笑った。真島が思い出したように言った。
「そういえば、藩改革派のことを、近ごろ何か聞いているか」
「いや、この前田舎に帰るときに池田さんに会っただけだ」
「人材が集まっているらしいな。池田さんも秀才だが、服部毅之助、赤沢隼之助、深瀬清三郎とか、みな優秀な人物だ。赤沢というひとは同じ品川台場勤めで、時どき顔が合うが、まだずいぶん若い。頭がよく考えが新しいから、旧態のままでいる藩に対しては不満もあるらしいな」
「深入りしているのか?」
「おれが? いや、ただそういう情勢を耳にしているだけだ。首を突っこむつもりはない」
「一度首を突っこんだら、身動き出来なくなるだろうからな」
「そうだろうと思う。ところで」
真島は顔を上げた。
「また塾を開くつもりか」
「うん。いま親爺にかけ合っているところだ」
「うらやましいな」
と真島は言った。
「自由でいい。おれのように藩に抱えられてしまうと、窮屈でいかんな」
真島は、医者に酒を禁じられていると言いながらよく飲んだ。そして八郎が駕籠を呼ぶというのをことわって、酔いをさましながら歩くと言って帰って行った。
八郎は路上まで出て真島を見送った。痩せて肩が尖っている真島の後姿が、闇に消えるのを見送りながら、八郎はしばらく夜の道に立ちつくした。
──世の中がざわめいている。
と思った。真島は幕政のあり方について、雄藩と譜代諸藩との間に対立があると言ったが、それが土佐の間崎哲馬の手紙が書いていたことと酷似した情勢であることに思いあたっていた。
間崎は、諸侯の中でも英気があって武備に金をかけている藩は、幕府の弱腰に憤慨し、それが内変のもとになるかも知れないと書いていた。そして男児努力の時節此度に候≠ニも記していたのだ。
空は夜になって曇ったようだった。頭上を覆っている暗い雲の気配がした。町はひっそりしていたが、八郎はどこか遠くに重苦しく嵐が動きつつあるような気がした。
──塾を開くような時勢か。
ふっとそう思った。江戸に塾を開き、名を知られる学儒になるということは、少年のころからの望みだった。そのことを疑ったのははじめてだった。だがその疑いは、一瞬魔のように心をかすめて奔《はし》り去っただけだった。
小さな声が八郎を呼んだ。門に灯影がさしお蓮が立っていた。あまりにもどらないので、外に様子を見に出たらしかった。八郎は何気ない顔で、家の方に足をもどした。
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淡 路 坂
一
秋めいてきたその年の八月。清河八郎は駿河台淡路坂のほとりに塾を開いた。
三河町の塾が火事で焼けたあと、両国薬研堀の家は地震に逢って開塾できず、漸《ようや》く三年目に念願を果したわけである。場所は昌平橋の南で、神田川をへだてて聖堂の森が見えた。
しかし塾を開いてみると、思ったほどには門人が集まらなかった。最初の三河塾が、小さい建物だったにもかかわらず繁昌したのにくらべると、意外な感じがしたが、そのことにも八郎は時勢の推移をみた。
──世の中が険しくなってきている。
と八郎は思った。じっくりと学問に取りくむゆとりを、世間が失っている気がした。
門人が少ないので暮らしむきはあまり楽ではなかったが、八郎はべつにそのことを気にしなかった。余暇を著述にあて、一方熱心に千葉道場に通った。免許をとれば、やがて文武二道を教授する塾が開ける。それが八郎が目ざす理想の塾だった。
ある日、稽古を終って道場を出ると、丁度門を入ってきた若い武士と眼が合った。二十過ぎに見え、長身で骨太な感じがする若者だった。八郎より背が高かった。
若者は、八郎を見るとふと立ちどまった。八郎も立ちどまった。若者の凝視には、八郎をそうさせる異様な緊張があった。三間ほどへだてて二人は睨みあうように立っていた。その脇を、何も気づかないほかの者が、通りすぎて行った。
「清河さんですか」
人が通りすぎると若者が声をかけてきた。
「そうですが、君は?」
「山岡鉄太郎と言います。お名前は、千葉先生からうかがっておりました」
「ああ。鬼鉄というのは君ですか」
八郎が言うと、山岡は一瞬顔を赤らめた。そして、急に親しげな口調になった。
「もうお帰りですか。それでしたら、そのへんまでおともしましょう」
「道場の方は、構わんのですか」
八郎は年少の山岡に丁寧な言葉を使った。山岡が幕臣だからというわけでなく、一瞥《いちべつ》で平凡でない人柄に気づいたためだった。
山岡は六百石の旗本小野朝右衛門高福の五男で、はじめ久須美閑適斎に真影流を学んだが、十一の時飛田高山の代官として赴任した父にしたがって高山に行った。そこで山岡はそのころ高山にいた千葉門の高弟井上八郎に北辰一刀流を学んだ。
山岡が十七のとき、父朝右衛門が歿したので、江戸に帰り、そのあと槍術を習っていた山岡紀一郎(静山)が歿すると、妹英子をめとって山岡家を継いだ。
山岡は剣術修業に熱心で、千葉道場にも出入りしていた。鬼鉄という山岡のあだ名を八郎が耳にしたのは、今度出府して千葉道場に顔を出したころだが、会うのははじめてだった。
「構わんです。それより少しご意見を聞かせてください」
と山岡は言った。
「意見というと?」
言いながら八郎は、山岡と肩をならべて歩き出していた。
「天下の形勢についてです」
山岡は若者らしい気負った口調で言った。
「それがしは幕臣ですが、いまの幕府のやりかたを見ていると、歯がゆくてなりません。幕府は、外国に対してもっと毅然とした態度をとるべきではないでしょうか」
「君は直参なのに攘夷論ですかな」
八郎は少し驚いて言った。ペリー来航以来、対外折衝と国内改革に心をくだいて来た老中阿部正弘は、六月に病歿していた。三十九歳の若さだった。
そのあとを引きついだ形の堀田は、五月にはアメリカ総領事ハリスとの間に、総領事と彼の使用人の商品購入権や遊歩許可区域の撤廃ほかをふくむ下田条約を締結し、いまは水野忠徳と岩瀬忠震を長崎に派遣していた。それはオランダ、オロシアとの追加条約を決めるためだと八郎は聞いている。
八郎が耳にしたところでは、下田条約は下田、箱館にアメリカ人が居留することを許したものだったし、オランダ、オロシアは量を制限しない貿易と、居留異人の信教の自由を認めよと言っているのであった。八郎はそういう情報を注意深く聞きとっていたが、堀田を首班にする幕閣は、なし崩しに自由貿易にむかって政治をすすめているとしかみえなかった。
山岡は、幕閣のそういう姿勢に不満を持っているようだった。
「はあ。こういう考えが攘夷論なら、攘夷論者です。しかし隣の清国で、また戦がはじまっているのはご存じでしょう?」
「知っています。アロー号という船を、清国の奉行が調べたのをたてに、エゲレスが清国を攻撃しているという噂ですな。いや、噂じゃなくて事実らしい」
「わが国も弱味を見せてばかりいると、そういう事態になりませんか」
「あるいは。しかし山岡君、いまのわが国の軍備で、戦争をやって勝てると思いますかな」
「………」
「アメリカの艦隊が来たとき、それがしは神奈川まで見に行きましたが、なかなか勝てるというものではなかった。しかしそうかといって弱味をさらけ出してばかりいると、相手につけ入られる心配は君がいうとおり、大いにある。要は幕府が攘夷を言う各藩の意見をどれほど入れて、どれほど早く国内を固めることが出来るかでしょう」
「幕府はハリスに、江戸に来てよいと許可をあたえたそうですよ」
「え? それはいつですか」
八郎の眼が鋭く光って山岡を見た。すると通商条約の交渉がいよいよはじまるのだ。意外に早かったと思った。それではさきに死んだ阿部が意図したように、開国通商までに国内を固めることはむつかしいだろう。
「山岡君、家まで来ないか」
と八郎は言った。
二
塾に帰ると、玄関に迎えたお蓮が、いつものお二人がお見えになっています、と囁《ささや》いた。
「ちょうどよかった。君に人を引きあわせよう」
と八郎は山岡に言った。
座敷に行くと、声高な薩摩弁が廊下に洩れてきた。中に男が二人いて、喧嘩しているような荒っぽい声音だったが、八郎が襖《ふすま》を開くと、二人の壮漢がにこにこ顔で迎えた。
「や、お留守に上がりこんでい申した」
一人がそう言い、一人は無言で頭をさげて、ついでにうさんくさそうな眼で山岡を見た。
「友人の樋渡八兵衛、伊牟田尚平の両君だ。お二人とも薩摩藩のひとです。こちらは直参の山岡鉄太郎君」
八郎は三人を引きあわせ、ついて来たお蓮に、酒の支度を命じた。
「いま、山岡君に聞いたばかりだが、ハリスがいよいよ江戸にやってくるらしい」
と八郎は言った。
「ほう」
伊牟田が面長で浅黒い、精悍な顔をあげた。
「すると、開国か戦争か、いよいよ土壇場に来たというわけか」
「戦争は出来んさ」
樋渡が肥った身体に似つかわしい、動じない口調で言った。
「ま、これまでどおりずるずる押されることになるな。しかしこうなると将軍の後つぎ問題もいよいよせわしなくなるな」
「ちょっと待て。その話はこのひとの前で言っちゃまずいのではないか」
伊牟田が山岡の顔をうかがいながら言った。幕府は、対外交渉のほかに、もうひとつ重大な問題を抱えていた。将軍家定の後継者を誰にするかという問題だった。
家定は子供のころから病弱の質だった。癇癖《かんぺき》が強く、それが起こると痙攣が起きる異常な体質で、正座が出来なかった。それでも対外関係が緊迫すると、品川の砲台や深川を巡視したり、また砲術の演習や行軍、馬揃えに臨席したりしたが、誰の眼にも長く政務に堪えられる身体とは見えなかったのである。
平時のときであれば、家定の病弱はそれほどの問題ではなかったかも知れない。過去にはもっと身体が弱かった将軍もいる。だが未曾有の大変革を迎えて、将軍の病弱は幕府だけでなく諸大名の重大な関心事となっていた。そのために、家定の後嗣を誰に決めるかという後継者の問題は、はやくから論議され、嘉永末には紀州和歌山藩主徳川慶福、徳川斉昭の第七子で一橋家を継いでいる一橋慶喜の二人が候補にのぼっていた。
本来将軍家の私事である継嗣問題に、外様雄藩まで口を出すことになったのは、言うまでもなく時勢のせいである。徳川斉昭につながる幕府改革派は、将軍継嗣を突破口に、一挙に幕政を改革し、攘夷にしろ開国にしろ国内を一本にまとめるのが急務だと考えていた。彼らは一橋慶喜を推していた。これに対して、斉昭と彼につながる雄藩を敵視していた譜代勢力は、紀州の徳川慶福を擁護していた。
薩摩藩主島津斉彬は、もっとも熱心な一橋慶喜推選人だった。斉彬は昨年末に養女敬子を将軍家定の室に入れたが、それは一橋擁立を大奥から固めようという斉彬の深謀だということだった。
八郎はそういう事情を、樋渡と伊牟田の口から聞いたのである。二人とも八郎がこんど出府して間もなく知り合った人間だったが、それを聞いて八郎は、将軍継嗣問題が、開国か攘夷かという当面の情勢に深くかかわりあっていることをはじめて知ったのであった。
幕府体制支持と、幕府改革という二つの流れは、対外政策より、さらに具体的で鮮明な将軍継嗣という問題で、一挙に緊張を高め、その陰で井伊を頂点とする譜代勢力、斉昭を表面に立てる一部親藩と外様雄藩の勢力が暗闘を開始していることは間違いなかった。
「いや、その心配はいらん」
八郎は伊牟田の言葉に答えた。
「山岡君は、いまの幕政のすすめ方に不満を持っている。考え方はむしろ攘夷だよ」
「へえ」
伊牟田は山岡をじっと見たが、不意に顔色をやわらげた。さっきから山岡に対して抱いていた警戒を解いた様子だった。
「それならわれわれの同志というわけだ」
山岡が苦笑して何か言おうとしたとき、お蓮が酒を運んできた。酒をみると、二人の薩摩男は陽気になった。
「これはご新造。お手ずからのもてなしで、恐れいる」
「お手ずからも何も、ほかに人はおらん」
八郎が言うと、男たちはうれしそうに笑った。男たちは盃を献酬し、異人を罵り、幕閣の弱腰を罵り、国の将来を憂えて慷慨《こうがい》した。ふだんどっしりしている樋渡は、酒が入ると狂暴になって不意に刀を引き寄せ、いっそハリスを斬って捨てるか≠ニほえ立てたりした。
夜になって酔った男たちが出て行くと、家の中は急に静かになった。伊牟田と樋渡は、山岡をまだどこかに飲みに連れて行く様子で、山岡も平気でそれにつき合う気らしかった。
八郎は書斎に入った。そして机の上にひろげてある論語の著述草稿に眼を落とした。淡い油の光で草稿を読みなおしていると、にぎやかに身体の中で騒いでいた酒気が、だんだんにさめて行くようだった。
入口に人の気配がしたので振りむくと、お蓮が入ってきて、坐ったところだった。
「どうしたな?」
八郎が聞くと、お蓮は顔をあげてふと心細いような微笑を浮かべた。
「今日のようなお友だちが、だんだんにふえて行きますのね」
「心配かね」
八郎はお蓮の微笑をやわらかく受けとめてやった。お蓮は八郎や八郎の友人が、幕府の人間を、名をあげて罵ったり、いまにも異人と斬り合いをはじめそうな話に血道をあげている様子を恐れているようだった。
「お客さまを迷惑だと思ったりするのではありません。あなたさまのお友だちですから、大事にいたします。でも時どきふっと……」
「ふっと何を考えるかね」
「あの方たちが、あなたさまを、どこかに連れて行ってしまうような気がいたします」
「鶴ヶ岡の巫子のようなことを言うの」
八郎は微笑したが、お蓮は笑わなかった。真実そういうおそれを胸の中に抱いているらしく、じっと八郎を見守っている。
「心配いらん。おれはどこにも行かぬ」
と八郎は言った。
「いまかかっている仕事は、おれの学問がどういうものだったかを後世に残すほどのものになるはずだ。これを仕上げるのに、まだ一、二年はかかる」
「………」
「来年か、おそくとも明後年には千葉道場の免許がとれるだろう。そうなったら塾をひと回り大きくして、学問と剣の両方を教える塾にする。それが目的だ。ふらふらとどこかに行ってしまうわけがない」
八郎は実際そう思っていた。伊牟田や樋渡の攘夷論議ははげしくて、八郎はつい引きこまれて血が沸き立つようなことがある。その興奮は快かった。
だが一方に、八郎にはきわめて地道な考えがあった。少年のころからの志をなしとげることである。学儒として江戸に塾を持ち、天下に名の通る人物になるのが望みだった。その望みをとげるために、苦心してきたという気持があった。そこにしか自分の生きる道はないと思いつめて歩いてきた。ここまで来るのに、親を偽り、親戚と諍《いさか》い、どれほど苦労したことか。
望みはなかば達せられ、あと一歩というところまできている、と八郎は思う。学問だけでなく剣も教え、文と武が別のものでないという持論も実践に移すことが出来そうである。その日が遠くないと思っていた。そういう学者として成熟したいという考えは動かなかった。そのほかの何者かになろうと考えたことは、ない。
だが八郎の望みが、あと一歩というところまで来ているとき、周囲の状況が、静かに学理をきわめるというにはふさわしくない方向に変ってきていることも事実だった。その皮肉な状況の転回に八郎は気づいている。
世の中全体が浮き足だっていた。いつどのようにひっくり返るかわからない波乱含みの情勢が続いていた。それが何なのかと、八郎は世の動きの底にあるものに注意深い眼をそそがずにいられない。そのものは、八郎がいままでしてきた努力を、あるいはみじんに砕く破壊力を秘めているかも知れないのだ。
「ただ、女子のそなたにはわからんだろうが、世の中が大きな変り目にきている。男はそういうありさまをしっかり見据えていなければならん。そのときがきてあわてるようでは醜態というものだ」
「わかりました」
お蓮は明るい表情で言った。八郎の気持を確かめたことで、気持が晴れた様子だった。
「伊牟田たち、それに今日来た山岡君。いずれもいまの世の中をしっかり見ている有為の人間だ。粗末に扱ってはならんぞ」
三
塾がある淡路坂に冬の日が照り、神田川の水の上を冷たい風が渡った。そして安政五年という年が明けた。
八郎の塾には、相かわらず伊牟田や山岡が訪れ、山岡に誘われて、八郎は山岡の義兄高橋泥舟に会ったりした。だがそういう日をのぞいて、八郎はお蓮に言ったように、おおむね著述に没頭していた。
芻蕘論文道篇は、ようやく半ばを越え、最終的には二十巻の大部の著作になることがはっきりして来た。八郎は草稿と書物に埋もれて、しきりに筆をいそがせた。著述に油も乗っていたが、なぜか気持がいそがれた。
そのころ、老中首座の堀田正睦は、アメリカとの通商条約草案を携行して入洛した。天皇の勅許を得るためである。
前年の十月、上府したハリスは将軍家定に謁見し、また堀田に会って直ちに通商条約の締結を持ち出した。家定との謁見の模様を、彼はあとで次のように日記に書いた。
ここで私は言葉をとめて、頭をさげた。短い沈黙ののち、大君は自分の頭をその左肩をこえて後方へ、ぐいっとそらしはじめた。同時に右足を踏みならした。これが三、四回くりかえされた。それから彼は、よく聞こえる、気持のよいしっかりした声で、次のような意味のことを言った。遠方の国から、使節をもって送られた書翰《しよかん》に満足する。同じく使節の口上に満足する。両国の交際は、永久につづくであろう=B
この日、ハリスは将軍に、シャンペン十二クォート、シャンペン二十四パイント、シェリー酒十二壜、各種のリキュール酒十二壜、華飾無影燈一、華飾切子硝子の円傘三、特製火筒、華飾切子硝子酒壜三、望遠鏡一、無液晴雨計一、博物図鑑二冊、図版千点、プラマの特許錠五を贈った。
将軍からはハリスに対して白羽二重などの時服十五、通辞ヒュースケンには紗綾《さや》紅白五反が贈られた。
将軍との謁見は、ごく友好的に終ったが、ハリスはそのあと堀田に逢うと、一刻(二時間)にわたって演説し、精力的に通商条約の必要を説いた。
堀田はこのハリスとの会談の詳細を文書にして幕府内部、諸大名に配り、意見をもとめた。前にペリーが来航したとき、阿部老中がした例にならったのである。
集まった意見書の大半は消極的な承認論だったが、前には強烈な反対論をぶった松平慶永が、積極的な承認論に変っているのが目立った。松平は人材を登用し、兵制を改め、交易によって富国強兵をはかるのがよいという意見を提出したのである。一方徳川斉昭は依然として激しい条約拒否、攘夷の意見を示して変らなかった。
堀田はそういう意見をもとめながら、出来るだけ条約締結をひきのばすつもりだったが、ハリスは幕府のその態度にいら立ち、最後には脅迫的な言い方までして、ついに年末には条約草案をまとめるまでに漕ぎつけたのであった。
堀田はそれでもまだ迷っていた。承認にもって行くには斉昭以下の、強硬に反対をとなえる意見を押さえなければならない。堀田はそのためにも手をつくしていた。
だが迷いはそれだけではなかった。開国のときが来たことは見えていた。消極的あるいは条件つきと色あいはさまざまだが、諸侯の間にも開国はやむを得ないという空気がひろがりつつある。草案がまとまったとき、将軍の名で在府の諸侯を二日にわたって登城させ、その席で堀田は開国がやむを得ない事情を説明してもいる。
だがほかならぬ自分の手でそれをやる不安が、時どき堀田の心をかすめるようだった。堀田は条約の調印を一日でも先にのばしたいと思った。
こうした経緯のあとで、堀田は条約の勅許を天皇にもとめる気持を決めたのである。それはさきに死去した阿部が遺した道だったし、堀田の気持は事実、本来は幕閣ひとりの所管である政治決済の責任を、各所に分散した阿部の心理に似ていた。
阿部がはじめて導入した朝廷の政治的権威は、その後諸侯の間にも少しずつ浸透し、ハリスの通商要求で意見をもとめたとき、寄せられた諸侯の意見には朝廷に奏上して勅許をもらうべきだという意見が少なからずあった。
堀田はこの意見に乗ったのである。堀田は勅許をたてに、ハリスからの調印の二カ月延期をとりつけた。また勅許は最終的に、強硬派を押さえる決め手にもなり、また開国という未曾有の事態の当事者となる不安感からものがれられる。
堀田はそう考えて上洛した。だが、その京都では、さまざまの人間がそれぞれの思惑を秘めて堀田の上洛を手ぐすねひいて待ちうけていたのである。
朝廷は、いまや幕府最高の決定に対して、是非の判定をくだし得る、強力な政治権力に変質していた。それは阿部老中が、ペリー来航に際して、その思し召しにてお取計らいもつかまつるべし≠ニ朝廷に申し入れたときからはじまった変化だった。
それ以前は、政治と朝廷の権威とは分離されていた。朝廷は心情的な尊敬の対象ではあっても、具体的な政治力とは無縁の存在だった。皇室の尊厳をいう水戸学でも、藤田東湖が言ったように、皇室を尊び、邪教を禁じ、夷狄を攘《はら》った徳川家康は、尊皇攘夷の人であり、尊皇と、幕府が政治を独占してきたことの間には、何の矛盾もなかったのである。
独裁の政治権能の一部を、朝廷にゆずり渡したのは老中阿部正弘であった。そして堀田の上洛は、朝廷を幕府の上にある至高の政治権力に高めようとしていたのである。
梁川星巌、梅田雲浜ら、切迫した危機感から攘夷をとなえていた志士たちは、堀田上洛の情報を手にすると、ただちに朝廷に働きかけていた。条約勅許を阻止するためである。そして堀田の上洛を機会に、もうひとつの働きかけが朝廷に対して行なわれていた。一橋派、南紀派とわかれた将軍継嗣問題の対立する両派が、この問題についての、自派に有利な対幕府発言を朝廷から得ようと、必死に画策していたのである。
四
そのころ宮廷政治を牛耳っていた実力者は、関白九条|尚忠《ひさただ》と、前関白鷹司政通の二人だった。
九条関白に働きかけたのは、譜代勢力の意志を代表する彦根藩主井伊直弼である。井伊は堀田の上洛と前後して、腹心の長野主膳を京都にやり、九条関白を説かせた。幕府の立場を説明し、政事は関東に一任という、これまでのやり方を確認させたのである。
井伊のこの働きかけは、条約勅許を得るために上洛した堀田に対する援護でもあったが、拡散する政治権力を、幕府に回収しようとする譜代の幕権擁護意識が土台となっている。
長野は国学者として、前に九条家や二条家で国学を講じたこともあり、また九条家の諸大夫島田左近と親しかったので、この工作はうまく運んだ。九条関白は、補佐する孝明天皇が熱烈な攘夷論者だった関係から、立場はむろん攘夷だったが、長野の説得をうけて軟化し、条約問題を黙認する気持に傾いたのである。
もともと、そのころ朝廷に支配的だった攘夷論は、単純な異国嫌いが根拠になっていて、外夷はけがれ多いものと思われていた。そしてそれとまじわりを持つことは、清潔なるべき神国日本にけがれを招くと考えられていたのであった。
九条は長野の説得をうけて、やや複雑な国際情勢を知り、交渉の幕府一任に傾いた形であった。井伊の工作は成功して、上洛した堀田は、朝廷の内部にもっとも有力な協力者を得たわけである。
この折衝を行なっている間に、長野はある重大な情報を耳にした。それは薩摩の島津斉彬が、左大臣近衛|忠煕《ただひろ》を通じて、前関白鷹司政通に一橋慶喜擁立を働きかけているという情報だった。
長野が掴《つか》んだ情報は事実だった。そのころ斉彬の命令で入洛した薩摩藩の徒《かち》目付、庭方兼役の西郷吉兵衛は、左大臣近衛忠煕、内大臣三条|実万《さねつむ》らに慶喜擁立を働きかけていた。近衛の妻は斉彬の姉であり、内大臣三条は斉彬と親しい土佐侯山内豊信の妻の父という縁故を頼ったのである。
一方で越前侯松平慶永は、藩士であると同時にもっとも信頼する政治顧問でもある橋本左内を入洛させていた。左内は山内豊信の紹介をうけて三条実万を説得し、さらにそのツテを頼って前関白鷹司政通にもやはり慶喜擁立を働きかけていたのである。
鷹司に対する工作を行なったのは、島津斉彬、松平慶永、山内豊信ら雄藩だけでなかった。水戸藩でも、京都留守居物頭格石河徳五郎を通じて、鷹司、三条、青蓮院宮に攘夷論を説いていた。ここでも鷹司の妻が斉昭の姉であるという閨閥関係が利用されている。
そして鷹司家の侍講である三国大学、漢詩人梁川星巌、もと小浜藩士梅田雲浜、頼山陽の子三樹三郎ら攘夷派の志士が、鷹司以下の堂上方にはげしく働きかけていたのである。
九条関白と宮廷勢力を二分する前関白鷹司政通は、もともとは開明的な考えを打ち出していた人物だったが、このような経過の中で、急に頑固な攘夷論者に変貌して行った。朝臣の大半は攘夷論者で、なかでも中山忠能、大原|重徳《しげとみ》、三条|実愛《さねなる》、岩倉具視といった公卿は、ペリー来航以来の幕府の対外政策にはっきり反感を持っていたが、鷹司は一転して彼らの中心に坐ることになったのである。
慶喜擁立を説くと同時に、冷静な開国論者でもあった橋本左内などは、こうした情勢に当惑したが、左内は以後慶喜擁立だけに手入れの的をしぼって行く。
左内には慶喜が将軍の椅子に坐れば、事態は自然に開国に動いて行くという見通しがあった。彼は西郷、また堀田の随員として京にきている川路|聖謨《としあきら》らとともに、将軍継嗣問題について、慶喜に有利な朝廷の意志表明、具体的にいえば年長、英明、人望の三条件をそなえた人物が将軍職を継ぐのがのぞましいという天皇の内勅を獲得すべく、はげしく画策した。
井伊の意向を汲む長野は、一橋派のこうした暗躍を察知すると、ただちに九条関白に働きかけた。朝廷が将軍継嗣問題に口をはさむのはもってのほかのことで、そうすれば朝廷が国乱のもとをつくることになる、ときびしく釘をさしたのである。
こういう画策の中で、長野らが尊攘志士、一橋派に抱いた嫌悪感と恐れは非常なもので、その情勢を、長野は江戸にいる井伊にくわしく書き送っていた。
老中堀田正睦は安政五年二月五日に入洛し、九日に参内すると、日米修好通商条約の草案を提出して勅許をもとめた。これに対する答は二月二十三日にもたらされたが、中味はもう一度ご三家以下諸大名に諮問して、再度奏聞するようにというものだった。事実上不許可の勅諚だった。井伊の工作は成功して、九条関白は確かに条約勅許に動いたのだが、朝廷の大勢は攘夷にかたまっていて、九条は孤立していたのである。
堀田は茫然とした。朝廷の拒否は、堀田が予期していなかったものだった。
堀田は条約調印をのばしのばしして、最後には勅許まで引き合いに出したが、肚《はら》は最初から開国に決まっていた。堀田の教養の中には、しっかりした洋学の知識がたくわえられていて、ペリー来航以来の外国との接触も、海外の情勢の一環として読み取っていた。堀田は最初から攘夷論は問題にならないと考え、開国し、貿易互市によって富国強兵をすすめるのが、今後の政策の基本だと考えていたのである。
アメリカとの条約調印をのばしてきたのは、その間に周囲の反対論を説得するためでもあったが、また未曾有の国策変革に立ちあう当事者としての恐れのためでもあった。
勅許は、堀田のこの逡巡にケリをつけるのに恰好の手続きだった。調印反対の声を押さえ、また当事者としての重すぎる責任の一端を肩代りしてもらえる、と堀田は考えていたのである。
ハリスに、勅許を得るために調印まで二カ月の猶予をもらいたいと申し入れたときのことを、堀田ははっきり記憶していた。
堀田がそう言ったとき、ハリスは鋭く突っこんできた。
「もし、ミカドが調印を承諾しないときは、どうするつもりですか」
それに対して堀田はすぐに、もし反対があっても、幕府が受けつけることはない、と答えたのである。そう答えたが、堀田はそのとき、実際には、朝廷が条約調印に異議をとなえるようなことはないだろうと思っていたのである。堀田に言わせれば、それはあくまでもひとつの形式に過ぎなかったのである。そしてこれまで朝廷の価値は、その形式の中にあったことも事実だった。
だが堀田が朝廷から受け取ったものは、重い手ごたえがする政治的な反応だった。思いがけない壁が、前に立ちふさがった気がして、堀田は少し狼狽していた。壁の背後に、無視出来ない力が隠されていることを感じとったのである。
堀田はいそいで善後策を協議した。随員や、井伊から派遣されてきている長野主膳らをまじえた協議で、堀田は将軍が責任をもって、天下人心の帰一をはかる、という老中の連署を取り寄せることにした。
それは天皇に対し、恐懼《きようく》して政治の責めを負うことを表明する形をとっていたが、裏返せば実政の権力は幕府にあることを、あらためて朝廷に思い出させようとする文書でもあった。
堀田は、捩子《ねじ》を少しゆるめすぎたのに気づいたのである。捩子を巻きもどし、政治の実権を本来あるべき場所にもどさなければならないと思っていた。それは先任の阿部老中ひいてはその路線を踏襲した自分の責任でもあった。
堀田は九条関白に働きかけ、取りよせた老中連署をそえて再び勅許を奏請した。その策は成功した。天皇も将軍が執政する幕府政治そのものを信用出来ないとは言えない。三月十一日に、孝明天皇はやむを得ず、内治外交の全権を委任する旨の勅答案を裁可した。
堀田はひと息ついた。危機をのがれたのを感じたのである。全権委任の中には、当然条約の調印もふくまれている。もともと自分の手の中にあったものを、わざと他人に貸しあたえて、漸くの思いで取りもどしたようなものだと堀田は思った。
だが堀田の安堵は一日だけのものだった。翌三月十二日になると、権中納言大原重徳、侍従岩倉具視ら攘夷派を中心にする公卿八十八人が、相ついで宮中に参内し、勅答案反対を強訴した。翌十三日には有栖川宮ほか五十人あまりが条約拒否の意見書を出し、十七日には地下官人百名ほどが、同様の意見書を上申した。
条約勅許の拒否にあったとき、堀田が感じとった背後の力が、あからさまな姿を現わしたようだった。宮廷の中でも攘夷はひとつの政治勢力として動きはじめていたのである。三月二十日に至って、孝明天皇は前回同様、勅許を拒む勅諚を下賜した。しかも条約案については、御国威立ちがたい¥約だと、憚《はばか》りなく論難していた。
五
同じころ橋本左内、西郷吉之助ら、一橋派の密使たちは、慶喜擁立のために、朝廷から有利な言質をとりつけようと必死に画策していた。彼らののぞみは、堀田に下賜されることになっている天皇のご沙汰書に、年長、英明、人望の三句を入れさせることだった。
その文句が入れば、ご沙汰書はおのずから徳川慶喜そのひとを指すことになり、継嗣問題は慶喜側に有利に展開するのである。
彼らは長野主膳ら南紀派の妨害工作に悩みながらぎりぎりまで奔走し、前述の三句を入れさせることにほぼ成功した。
しかしそう思った翌日、三月二十二日に下げ渡されたご沙汰書は、その三句がすべて削られ、ほとんど無意味な文章になっていたのである。
条約勅許問題で、攘夷派に苦汁をなめさせられた九条関白が、継嗣問題では、対立する鷹司以下に一矢をむくいたのだったが、それで、橋本、西郷らの奔走はすべて敗れ去ったのであった。
堀田は、そのほとんど無意味な継嗣問題にふれたご沙汰書だけを持って、四月二十日江戸に帰った。堀田の失望は大きかったが、しかし堀田は漫然と勅許獲得の失敗を背負って帰ったわけではなかった。
堀田が京都でみたものは、朝廷の強力な意志であり、それがすでにひとつの政治勢力化し、島津、山内、松平慶永といった雄藩勢力と結びついている事実だった。それは阿部老中が種子をまき、自分が育てた怪物かも知れなかった。あるいはその力をあたえたものは、阿部でも自分でもなく、時勢というものかも知れなかった。いずれにしろ、京都に隠然として幕政に拮抗する政治権力が存在することは、疑い得ない事実だった。
──一橋擁立しかない。
堀田は将軍継嗣問題について、これまで中立の態度をとってきたが、いまははっきりとそう考えるようになっていた。雄藩勢力を幕府の内部に抱きこみ、京都も押さえて行く。そのためには十三歳の徳川慶福ではなく、二十二歳の慶喜であるべきだと考えたのである。
堀田は江戸に帰って将軍家定に会うと、松平慶永を大老にすることを進言した。慶永を大老に迎え、徳川慶喜を将軍世子に据えれば、京都との融和がはかれるだろうというのは、堀田が京都滞在中に得た感触であった。
しかしそういう考えをまとめつつあった堀田の知らないところで、ひそかな政治的策謀がすすめられていたのであった。
二十三日に登城した堀田は、将軍家定から突然に井伊直弼の大老就任の上意を受けた。堀田にとっては意外でもあり、唐突でもあった井伊の大老就任は、堀田が将軍に松平慶永を推せんしたころには、すでに大奥を通じて将軍に働きかけがすんでいたのであった。譜代派ひいては慶福派の一方的な勝利だった。
井伊の大老就任は、自動的に将軍世子に紀州の徳川慶福をさだめるということでもあった。井伊は大老に就任し、五月一日になると、将軍家定から大老、老中一同に慶福の世子決定を告げさせ、当面は極秘とした。そして、五月六日には、大目付土岐|頼旨《よりむね》、勘定奉行川路聖謨を、二十日には目付鵜殿長鋭を、それぞれ左遷した。
六
その男が、見えがくれに後をつけてきていることは、清河八郎にはわかっていた。お玉ヶ池の千葉道場を出て間もなく、八郎は背後に人の気配を感じて振りむいた。すると四十恰好の町人ふうの身なりの男が、眼をそらせて人ごみにまぎれるのが見えたのである。
振りむいて確かめたのはその時だけだが、背後からみられている感じは、そのあともずっと続いていた。
籾蔵《もみぐら》をはずれて、筋違御門が見えてきたところで、八郎はまた振りむいた。するとさっきの男が平永町と小柳町の間に入って行く後姿が見えた。小肥りで、背はあまり高くない男だった。
二、三歩戻って声をかけようとして、八郎はやめた。男は足早に町の人ごみに入って、やがて姿は見えなくなった。
──風儀が悪くなったな。
と八郎は思った。男は多分奉行所の筋の者で、八郎を浪人者と見て後をつけてみる気になったらしかった。そういうことは、前にもあったのだ。
後をつけられて困るようなことは何もしていないが、それだけに不快だった。
筋違御門の前を過ぎ、昌平橋の前を通りすぎて淡路坂にかかると、ちょうど神田川の川上の方から、日暮れの日射しがさしかけてきた。橋のあたりも、坂道も人通りがなく、ひっそりしている。それであたりが荒涼として見えた。
冬に入った季節のせいばかりでない。江戸の町を歩いていると、時どきそういう感じをうける場所があった。江戸をコロリが駆けぬけたせいである。
コロリは七月の終りごろからはやりはじめ、鉄炮洲、佃島、霊岸島など、海に近い町を襲って猛威をふるったが、八月になると江戸市中いたるところに蔓延した。七月六日に将軍家定が病死したが、それもコロリにやられたと噂が立ったほどである。
八郎はお蓮、熊三郎とほとんど家に閉じこもって過ごしたが、通いの門人も休み、時どき門前にお厄はらいましょう、と乞食が訪れるぐらいで、町はひっそりと死に絶えたような時期があったのである。
一度よんどころない用事で、馬喰《ばくろ》町の大松屋まで出かけたとき、八郎は途中の町で、コロリに冒された苦しさのあまり、道に這い出してきた人間を見た。悲惨な姿だった。いそがしいのは医者と祈祷師ぐらいで、通りすぎる町町は人気がなくまったく無人のように見える場所さえあった。
コロリが漸くやんだのは、ひと月ほど前である。だが江戸には、いたるところにまだその痕跡が残っていて、町はさびれて見えた。
塾の近くまで来たとき、八郎は坂の途中に男が一人立っているのを見た。逆光で、男の顔は黒く見えたが、八郎を見て白い歯を見せたのがわかった。近づくと伊牟田尚平だった。
「待っていたがなかなか帰らんから、諦めて出てきたところだ」
と伊牟田は言った。
「ひさしぶりだな。家へ戻らんか」
と八郎は言った。伊牟田は、まだコロリ騒ぎがおさまらなかった九月に、突然やってきて、コロリをはらうのだと言って、酔いつぶれるほど酒を飲んで帰った。以来、ふた月近く姿を見せなかったのである。
「酒があるぞ」
「いや、今日はこれから行くところがある。この前は失敬した」
と伊牟田は言った。それから細い眼を、さらに細めて顔を寄せると囁いた。
「頼三樹三郎が捕ったらしいな。三国大学も一緒らしいぞ」
「………」
八郎は黙って伊牟田の顔を見返した。痩せて、時どき剽《ひよう》げた表情を見せる伊牟田の顔に強い緊張があらわれていた。
井伊直弼が大老に就任してから、八郎たちがいう天下の形勢は、はげしく変化していた。老中の堀田正睦が、勅許をもとめに行って空しく江戸に戻ってから、ほぼふた月後の六月十九日、幕府は日米修好通商条約に調印した。むろん朝廷には無断の調印である。
三日後の二十二日に、井伊は在府の諸侯に総登城を命じて、調印の始末を報告すると、翌日には老中堀田正睦、松平|忠優《ただます》を罷免した。朝廷の諒解なしに条約調印を運んだ責任を、巧みに二人に負わせた形であった。
そして井伊は、六月二十五日には、徳川慶福の西丸入りを公表し、七月五日には、最後まで慶福の世子決定に反対した水戸の徳川斉昭、尾張の徳川慶勝、越前の松平慶永を謹慎処分に、水戸家の当主徳川慶篤と一橋慶喜を登城停止処分にし、将軍継嗣問題にケリをつけた。そしてオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも、次次に通商条約を結んだ。
一方孝明天皇は、幕府が朝廷の意向を無視して、条約に調印したのに憤激して、たびたび譲位を表明したが、八月八日に至って、一転して幕府と水戸藩に攘夷の勅諚をくだした。ことに水戸藩にくだした密勅には、列藩一同に勅諚の趣意を伝達するように添書がつけられていたので、これを知った幕府は驚愕したのである。
密勅の降下は、いわゆる尊皇攘夷の志士をふるい立たせ、九条関白、長野主膳への人身攻撃がはげしくなった。この情勢を察知した井伊は、勢いにのった朝廷が、左大臣近衛忠煕を関白にすべく幕府に伝達してきたのを機会に、攘夷派の大弾圧に踏み切ったのである。
九月に入って、攘夷派の公卿と志士の連絡役をつとめていた信州の豪商近藤茂左衛門、もと小浜藩士梅田雲浜が捕えられたのが、大獄のはじまりだった。京都所司代の捕手は志士の巨頭とみられていた梁川星巌の家も襲ったが、星巌はその直前の九月二日にコロリで死んでいたので、星巌夫人の紅蘭が捕えられ、尋問をうけた。
以来京都、江戸で、尊皇攘夷の志士、関係者と見られている者が続続逮捕され、獄につながれていた。その中には密勅降下に関係した水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門、幸吉親子、公卿家臣中でもっとも活動した鷹司家の小林良典、将軍継嗣問題で働いた橋本左内らが含まれていた。
大獄は、どこまでひろがるかわからないという無気味な噂が流れていた。夏から秋にかけてはやったコロリのように、眼に見えない禍まがしい力が猛威をふるっていた。
「京の六角の牢屋敷は、捕まった連中でいっぱいだというぞ」
「………」
「西郷も、追われて国へむかったらしいが、薩摩も前のようではないからな」
と伊牟田は言った。島津斉彬が死んで、新藩主忠義の後見役として、斉彬の異母弟久光が実権を握っている藩のことを言っていた。
「どこまでつづくかな、こういうことが」
と八郎は言った。
「まだまだ。これから厳しくなるだろうさ」
伊牟田は声を立てずに、また白い歯をみせた。
「うっかりしたことは言えん世の中になった。少しでも怪しいそぶりの奴はひっくくるつもりで、人相の悪い連中が町をうろついているようだからな」
「さっき、おれをつけてきた奴がいた」
と八郎は言った。
「どういうつもりか、さっぱりわからん」
「浪人者と見たわけだろう。浪人者は、捕まえて叩けば尊皇攘夷の音がするとでも思っているらしい」
「根こそぎやるつもりだな、井伊という男は」
「そのようだ。尊皇も攘夷もない。幕府がやることに楯つく奴は容赦せんということらしいな。京都では井伊から派遣された老中の間部と所司代の酒井が組んで、徹底的に攘夷派を叩くつもりだと知らせが入っている」
八郎は沈黙した。大老の井伊が考えていることは、ぼんやりとわかるような気がしていた。井伊は低落する一方だった幕府の威信を、もう一度たて直そうとしているに違いなかった。政治権力のありどころを天下に示して、幕府のすることには、たとえ朝廷であろうと口出しはさせないというつもりなのだ。
──だが幕府に威信低下をもたらしたのは、時勢だ。
大きく展開する時勢の中で、幕府はみずからの力だけでは処理出来ない問題に直面したのだ。阿部老中やさきに老中を辞めた堀田が、あるいは外様雄藩に、あるいは朝廷に働きかけたのは、幕府自身の非力を悟ったからにほかならない。井伊は時局の乗り切りにそれほど自信があるのか、と八郎は井伊の強硬さを訝しむ気持だった。
「つけられても、君は心配いらんよ」
不意に伊牟田が言った。細い眼が笑わずにじっと八郎を見ていた。
「べつに攘夷で動いているわけじゃない。おれや樋渡などが、ひんぱんに出入りするとにらまれるかも知れんから、当分は遠慮することにした。今日はそれを言いにきたのだ」
じゃ、と手をあげると、伊牟田は背を向けた。伊牟田の言葉は、彼らがひそかに攘夷に動いていることを告白したようにもとれたが、時勢から一歩身をひいたところにいる八郎を嘲ったようでもあった。ゆるやかな淡路坂を降りて行く伊牟田の背が、赤い日に照らされたまま、やがて小さくなって町の角を曲った。
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大 転 回
一
安政六年二月の半ばに、清河八郎は江戸を出発して郷里にむかっていた。門人の小栗篤三郎が一緒だった。
二月の奥州路は、早春の日射しが麦畑や、村落の塊りに降りそそぎ、八郎の胸をのびやかに解きはなつようだった。
急ぐ旅ではなかった。八郎は前年の暮に、千葉栄次郎からここ一、二年の間に中目録免許をさずけるという内旨を受けたので、塾を増築する相談をしに帰国するところだった。
これまでも塾の庭で、剣の指南をうけたいとのぞむ者には稽古をつけてきたが、免許を受ければ、道場を持ち、剣術指南の看板を掲げることが出来る。
文武両道を教授する塾を持ち、学儒であって一流の剣士を兼ねることは、八郎の多年の理想だったが、そののぞみを実現する時期は目前に迫っているという気がした。論語贅言の著述は八割がたすすみ、八郎は近ごろ千葉道場の剣の修業と、書に力を注いでいた。
文武の塾を開き、とくに剣と書では、当世無双でありたいと八郎は考えていた。学問と剣、そして書という、これまで辛酸を重ねてつとめてきたものが、それぞれにある完成の域を迎えつつあるのを八郎は感じている。
門人の小栗を連れてきたのは、郷里に帰る途中、あちこちと道場に立ち寄って、剣術の他流試合を試みるつもりだったからである。八郎は、いまでは千葉道場でもっともすぐれた剣士の一人に数えられていた。師範の栄次郎や道三郎にはおよばなかったが、道場の中では負ける相手がいないほど腕を上げていた。
その技倆を道場の外で試してみるつもりだった。小栗ははじめ千葉道場にいたが、八郎が塾でひそかに剣を教えはじめると、淡路坂に移ってきて門人となった。多弁で、そのために軽薄にみえる男だが、剣には天性のひらめきのようなものがあった。
「春だな、小栗」
八郎は、思わず両手をさしあげて伸びをしながら言った。街道の前後に人影がみえ、また畑にも、身体をかがめて動いている農夫の姿がみえたが、人影はどれも遠かった。弱い風が吹きすぎるたびに、ひるがえる麦の葉に、午後の光がきらめいて静まる。
「今夜はどこ泊りですか、先生」
「古河に泊る。古河には片山という道場があるそうだ」
「そいつは助かりました」
小栗は江戸者を真似たべらんめえ口調で言った。
「それなら明るいうちに着きますな。助かった。いえ、旅はきらいじゃありませんが、疲れます」
「いまからそんなことを言っては、どうにもならんぞ。旅はこれからだ」
八郎はじろりと小栗を見て言った。だが怒っているわけではなかった。小栗の軽がるしさには顔をしかめることがあるが、若さのためだと八郎は許していた。軽はずみな行動、衒気《げんき》。そうしたものは、二十前後の自分にも多分にあったものだと思っていた。
笠井伊蔵という住みこみの内弟子がいる。川越の西北、勝呂村の生まれで、ご家人株を買って幕臣になった男だが、武家を志しただけあって、実直で寡黙、小栗とはいい対照だった。八郎に学問を習う一方、伊庭道場や講武所にも熱心に通っている。
笠井がいるので、八郎は塾を留守にするのに、少しも心配がなかった。笠井を見習え、と八郎は小栗に言いたくなることがあるが、そう言ったことはなかった。人それぞれの性格というものがあり、笠井の質朴で辛抱づよいところを小栗にもとめても無理だと思っていた。
小栗は小栗で、天稟の剣で何かをつかめばいい、と思っていた。二人はここまでくる前に久世家の城下町関宿の大久保道場で試合をしている。その試合で、小栗は巧妙な竹刀《しない》を使ったのだ。
「大久保道場では、なかなかいい試合ぶりだったぞ」
と八郎は、そのときのことを思い出しながら言った。
「そうですか。ありがとうございます」
「この旅は、腕をのばすいい機会だ。そのつもりで、せっせと歩け」
と八郎は言った。
八郎が軽口のようにそう言ったのは、江戸を後にした気分の軽さも手伝っていた。安政の大獄、外国との貿易準備が進行する中で、江戸の空気はどことなく重苦しかったのである。コロリがはやったときとはまた別の、どこか落ちつかない表情が町の人間にも見えた。
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……おどしてすかしてだましにのせられ、馬鹿の役人元よりこわがる、エギリス・フランス軍になってはいかぬと、佐倉と上田が諸人を出しぬき、二人に言いつけ、調印したのを渡した上にて、廿二日外様にご譜代、残らずお城にそろった上にて、渡した書付ザマヲみやれ、天下の政事がこれで立つかえ、ご養子さまさえ天下こぞって、望んだお方をよそになしおき、お血筋|生《お》いのなんとかのとて、おちいさいのを直した心は、にくいじゃねえかい、つねの時ならどうでもいいわな、こんなときには子供じゃいけねい……お国のおためや君のおために、死ぬる命はなんでもないのに、それを措いて異人にへつらい、機嫌とりとり調印するのは、不忠であろうか、不届きだろうか……。
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ひそかに人の口を伝わるこういうチョボクレが示すように、条約調印につづく将軍継嗣問題、大獄と、動揺する政局を映して、世相は不安な影を宿していた。そして暮には大火が相ついで、一層人びとの気分を滅入らせたのである。
伊牟田と樋渡はばったり姿を見せなくなっていた。山岡だけは時どきたずねてきたが、明るい話は出なかった。江戸をのがれて、八郎にほっとした気分があるのは否めない。時勢に無関心ではいられないが、そこに踏みこむ気持はなかった。
関宿はさほど大きな城下町ではない。だが舟運の中心地として活気があった。そこにも流動する時勢は影を投げていて、去年の十月、藩主久世|広周《ひろちか》は井伊の政事独裁に抗議して、老中を罷免されていた。八郎はそのことを知ることもなく、通り過ぎてきている。
八郎と小栗は、他流試合を重ねて宇都宮から福島、さらに仙台と旅を重ね、仙台から名取川をさかのぼって二口峠を越え、山形領に出た。江戸を出てひと月が過ぎていた。
二口街道は、仙台城下と山形城下を結ぶ、もっとも短い街道だが、奥羽山脈を横切る峠は急峻をきわめる。よほど旅に馴れてきた小栗も音をあげた。
峠をはさむ瀬ノ原山と小東岳の山襞《やまひだ》は、まだ厚く雪を残していたが、雪は黒く汚れて、奥羽の土地に、豊潤な春がおとずれていることを示していた。
峠をくだるにつれて、山ざくらや木蓮の白い花が眼についた。二人は時どき立ちどまって、浅い林にひびく小鳥の声を聞いた。山形領の春は、仙台にくらべいくらか遅れているようだった。山気にひややかな感じが加わったのも、日射しが昼を過ぎたせいばかりではないようだった。
「先生がお生まれになった国は、ここですか」
と小栗が言った。
「ここはもう出羽だが、生まれた場所は、もうひとつ山を越えたところだ」
と八郎は答えた。お蓮を迎えるために、国を出て仙台へ行ってから二年半になると思っていた。その間に大きく変動した時勢のことが、ふと胸をかすめたが、二人が行く山里のあたりは、条約問題とか大獄などということはどこの国のことかと思うほど、のんびりとした春景色に彩られていた。
山形藩城下でも、道場をもとめて試合し、山形城下の西、柏倉陣屋へ、さらに上ノ山藩城下へと試合をつづけ、羽州街道を今度は北上して天童城下についたのが、三月二十六日だった。そこでも二人は一刀流の原登道場をたずねた。それまでの試合で八郎はほとんど勝ち、道場訪問が面白くなっていたので、宿をとると早速出かけたのである。北辰一刀流の千葉道場で修業していると告げると、たいていの道場で二人を歓迎した。
試合を終って宿に帰ると、安積五郎から手紙が届いていた。手紙は一たん清川の斎藤家に送られ、そこから天童の宿に回されてきていた。
「………」
手紙を読み終ると、八郎はしばらく黙然と窓から外を眺め、それから黙って手紙を巻きもどした。小栗が声をかけた。
「いかがなさいました、先生」
「塾が焼けた」
小栗は、え? と言ったまま声をのんだが、あわてて言った。
「それで? ご新造さまや笠井は?」
「人に怪我はない」
安積の手紙は、塾は隣家からのもらい火で焼け、門と台所を僅か残して焼失したと告げ、著述のものと、書物は持ち出し、お蓮は八郎の知人水野行蔵に預けた、と安積は書いていた。
水野はもと荘内藩足軽で、嘉永六年脱藩して江戸に出ると林鶯渓の塾に学んだ。安井息軒、山田方谷らと交りが深く、安政三年箱館奉行堀織部正に招かれて蝦夷《えぞ》地を視察すると、蝦夷地開発意見書を提出するなど、国事にも深い関心を持つ人物だった。
水野はのち文久二年には目付役沢左近将監の家臣となるが、その後閣老の板倉|勝静《かつきよ》、小笠原長行に攘夷と大政奉還を説いたことから、幕府ににらまれ、元治元年七月に捕えられる。そして翌年荘内藩に引き渡され、国元の獄につながれたのち、八郎とのつながりを憎まれて、毒殺される人間である。
沈着な性格と広い見識を持つ水野を、八郎は畏敬していた。八郎は江戸を発つとき、安積を上総から呼び出して、時どき塾を見回ってくれるように頼んだが、安積は適切に火災の後始末をしたようだった。
──あそこに頼めば、お蓮のことは心配ない。
と八郎は思った。
「どうされますか。すぐお戻りになりますか」
と小栗が言った。
「いや、このまま国へ行く」
八郎はそう言ったが、手紙を読んだときの衝撃が、まだ心の中に残っているのを感じていた。
お蓮や熊三郎の安否もさることながら、塾焼失の文字を見て、とっさに胸を衝いてきたのは、またかという驚きだった。
八郎は迷信などは信じなかったが、一度ならず二度までも塾が火事で焼け、また一度は開塾するために買ってあった家が、大地震で壊れたことを考えると、いい気持はしなかった。塾を開いて文武を指南することは、八郎の悲願だったが、何者かがしきりにそののぞみをさまたげているという気もしてくるのである。
だが間もなく、八郎はその不吉な考えを振りはらった。江戸はひんぱんに火事がある町だし、そこに家を構える以上、一、二度火事に見舞われたからといって、ひるんではいられないと思い返したのであった。
「今夜は飲むぞ」
と八郎は小栗に言った。
「火事のことは心配いらん。どうせ建て増しするつもりだったし、建て増しが引っ越しに変るだけのことだ」
「それはそうですが……」
小栗は言ったが、まだ塾が焼け失せたことが信じられないという顔つきだった。
「しかし大変なことになりましたなあ」
「場所を物色しなくちゃならんな。お玉ヶ池のあたりに適当な家がないかな」
八郎は言ったが、さっき心をかすめた不吉な想像はだんだんに消えて、そういうふうに心が動いてきていた。
八郎は清川に帰ると、さっそく父の豪寿に火災のことを話し、次に開く塾のことを相談した。豪寿も度重なる被災に、すぐには返事もしかねるという表情を見せたが、八郎は今度は文武指南の道場です、などと言って父親の気分を煽りたてた。
何事によらず始めたことは徹底して貫くのが、八郎の一面の性癖である。今度の旅は、剣の修業が大きな目的だったので、清川に滞在している間にも、八郎は酒田の旧師伊藤弥藤治や、鶴ヶ岡城下の酒井七五三助の道場をたずねて試合した。旧師の伊藤は、八郎が到達した剣の技倆に、眼をみはって喜んだ。
二
八郎が江戸にもどったのは、六月十一日だった。父から開塾の費用が出たので、五月半ばに故郷を立ち、越後路に回って、村上、新発田《しばた》の城下で試合をつづけた。そのあと新潟で佐渡にわたる小栗と別れたので、江戸に帰ったときは一人だった。
八郎はすぐに水野の家に行き、お蓮に会った。お蓮は変りなく、むしろ前よりも血色のよい顔色をしていた。この家で、よほど大事にしてもらったな、と八郎は思った。
「国元はどげだったな? 大山さんサ会ってきたか?」
と水野は言った。水野は四十一で、学究らしい鋭い相貌をしているが、喋ると国なまりが丸出しになる。
「いや、鶴ヶ岡に行きましたとき、近くまで行ってみましたが、お邸には寄りませんでした」
「そうか」
水野は八郎をじっと見たが、すぐにうなずいて言った。
「その方がいい。いまはめったな動きが出来ん世の中ださげな」
荘内藩では、去年の暮に世子酒井忠恕が死んだ。藩内の改革派は、忠恕に藩改革ののぞみを託していたので、失望は大きかった。病気は麻疹だったが、死後その死因について奇怪な噂が飛び、主流派に属する近習の不忠な行動を憤って、近習伊黒定十郎が自刃するという事件が起きていた。
藩内の抗争はなお続いていて、忠恕の継嗣を誰にするかで揉めている、という事情を八郎はさきに水野から聞いている。藩主忠発は三男繁之丞を後嗣にのぞみ、両敬家を筆頭とする改革派は、忠発の弟富之進を押していた。その抗争は時勢の変化を背景に、いよいよ抜きさしならないところまで、対立を深めて行くようだった。
「私などが口をはさめるような状況ではございますまい」
「両派しのぎをけずっておるさげの」
と水野は言ったが、ふと額にしわをきざんで言った。
「願わくば、われわれなどかかわることがなく済ませたいものだ。だが全部つながっておるさげの。荘内の争いも、がっちりと時勢につながっておる」
「………」
「好むと好まざるとにかかわらず、われわれもどこかで、こういう大きな動きに巻きこまれるということは、あるかも知れんの」
「そういえば、その後幕府と京都の動きはいかがですか。また大きな変りがございますか」
「貴公が国へ帰った後で、井伊が公卿衆に大|鉈《なた》をふるってな。近衛と右大臣鷹司輔煕は官をやめさせられ、前関白の鷹司、前内大臣の三条と一緒に落飾謹慎だそうだ。ほかに青蓮院宮以下多数が謹慎を喰ったという噂だ。噂ださげくわしいことはわからんが、大体はそういったものらしいな」
八郎は水野の顔を黙って見まもった。井伊がすすめている大獄ということには、正直言って八郎がまだ理解出来ない部分がひそんでいた。だがそれだけに無気味な感じは、いっそう強まるようだった。
三
その屋敷には土蔵があった。
「これはいいな」
と八郎は言った。そこはお玉ヶ池の表通りに面した二六横町の角屋敷、すなわち八郎がはじめて東条一堂塾に入門したころ、一時書を習いに通った生方鼎斎の屋敷あとだった。
そのころは、土蔵があることなど気にもとめなかったが、二度も火事にあってみると、その土蔵がいやに目についた。土蔵は二間に一間半の建物で、二階がついていた。ちょっと外を塗り直せば、早速にも住めそうなところも気に入った。
土地は借り、土蔵は譲りうけた。三十両だった。塗り直した土蔵に、八郎は七月六日にお蓮と一緒に宿から移った。ほかに四間二尺に一間半のおろしかけの家屋を作り、門、石垣、塀をととのえると、全部で八十両ほどの費用がかかる勘定だった。
移ったその日から、八郎はまた残していた論語贅言の著述にかかった。外は暑かったが、土蔵の中は意外に涼しく、大工の物音もさほど気にならなかったので、著述ははかどった。
──井伊大老は、その強気でどこまでやるつもりかな。
八郎は筆をとめてぼんやりそう思った。昨日新しい住居をたずねてきた水野が、長州から吉田寅次郎が、唐丸籠で江戸に送られてきたそうだ、と話したことを思い出していた。
吉田は、先年アメリカ艦隊が来航したとき、米艦に乗りこんで密航しようとした人物で、そのとき重罪犯人として伝馬町の牢に入れられると、牢内で同囚の者に孟子を講義して、同囚七人をことごとく感化したという。
その後郷里で塾を開き、子弟を養ったが、その弟子たちにしきりに過激な考えを吹きこんだので、井伊につかまったらしいと水野は言った。貴公と同年らしいがなかなかの出来物らしいとも言った。
過激なことというのが何かは、水野も知らなかったが、井伊につかまったということで、おおよその察しはつく、と八郎は思った。その男はたぶん、幕府の威厳をそこねるようなことを言ったか、したかしたのだ。
しかしいろいろな人間が、井伊を気にいらない、幕府の威厳をそこねるようなことを言い出していること自体が幕府の衰弱を示すものだし、きびしい大獄の進行も、そうしなければならないほど切端つまった状況にあるという意味で、やはり幕府の衰弱を示すものではないか、と八郎は考えた。
大獄が起きたころ、八郎は国の父あてに次のように書いた。
──さりながら先便申し上げ候儒者二十ばかり召し捕られ、揚り屋に置かれ候者これ有り、何の仔細は存じ申さず候えども、さてさて気味の悪きことにつき、皆みな慎み相成り、なるたけ大切に心得おり申し候。中なか以て、油断のならぬ世界に相成り候──。
そのときには見えなかったものが、少しずつ見え、いまはぼんやりとだがおおよその輪郭はつかめたという気がする。
井伊は幕府が失ったものを取り返そうとしているようだったが、それは幕府が好んで失ったのではなく、時勢が失わせたのだ、と八郎は思っている。井伊の強気には無理がある、という気がした。
──幕府は内側から崩れつつあるのではないか。
井伊は政事独裁の権力を、幕府にとりもどそうと躍起になっているようだが、アメリカ艦隊がはじめて姿を現わし、国交要求をつきつけてきたとき、幕府は攘夷とも開国とも、自分で決定する力を持たなかったのだ。
これまで発言を封じられていた外様雄藩が物を言いはじめ、京都朝廷や攘夷派の志士たちが物を言いはじめたのも、そこからはじまっている。いわば幕府は、自分が握っていた権力をなし崩しに失ってきたのだ。幕府の前に立ち現われた時勢がそうさせたと言える。
井伊はその崩壊現象に歯どめをかけるつもりで、幕府の威信に抵触する動きをことごとく弾圧するつもりのようだが、その構えには、どこか見果てぬ夢を追っている無理がある。
──井伊の強気は、一歩間違えば大崩壊を招く引き金になりかねない。
走り出した時勢の動きは、容易なことではとまらないだろう。井伊という人物は危い橋を渡っている、と八郎は思った。
お蓮が、物が高いとこぼしたことを八郎は思い出した。八郎がよく使う酒も紙も高くなっていた。土佐の間崎哲馬がいつか言ったように、貿易がはじまって、それが暮らしにひびきはじめたのかも知れなかった。
幕府に政事権力を取り戻すというものの、井伊大老の精力はもっぱら反対勢力の弾圧にそそがれていて、開国にともなう国内の変化に責任ある政策が行きとどいているとは思われなかった。反対派を粛清したあとで、適切な政策をほどこすつもりかも知れなかったが、いまのところ目立つのは、政事権力というものが持つ恐さを、強もてで前面に押し出してきているということだった。
──このやり方ではおさまるまい。
考えに倦んで、八郎はゆっくり後に身体を倒して寝ころんだ。すると柱に打ちつけた棚からどさりと紙包みが落ちてきた。紙が破れて中味がのぞいている。古い手紙だった。
八郎は懶惰《らんだ》に寝ころんだ姿勢のまま、手をのばして中味を確かめたが、その中の一通に眼をとめると中味をひろげて読んだ。
──このたびはありがたきおんふみおつかわしくだされ、みにあまるおんなさけ、おんこころづくし、かえすがえすもうれしくぞんじあげまいらせ候……。
お蓮の手紙だった。八郎に返事を書くために、はじめて筆をとったという、四年前のたどたどしい文字だった。
「………」
入口に人の気配がしたので眼をむけると、お蓮が立っている。青い顔をしている。八郎は起き直ってきいた。
「どうした?」
「蛇が……」
お蓮は庭を指さした。
「蛇なんぞはうっちゃっておけ。それよりこれをみろ」
八郎は手紙を示した。お蓮は怪訝《けげん》な顔をしたが、不意に気づいた様子で真赤になると、身体をぶつけるように坐り、手紙を奪った。日ごろの慎みを忘れた娘のようにすばやい動作だった。
八郎は笑った。そうしていると、激動する時勢から隠れて、妻と二人で穴にこもって、束の間の安逸をむさぼっている気もした。
四
大工が塀を造作しているのを眺めていた八郎に、後から声をかけた者がいた。
「その塀は、もう少し高くした方がいいのじゃないか」
ふりむくと、樋渡八兵衛が立っていた。
「よう」
八郎は近づいて、樋渡の腕を掴んだ。大獄がはじまったころから、樋渡は急に消息をたち、そのあと八郎が帰郷したりしたので、二人は一年以上も会っていなかった。
八郎が思わず樋渡の腕を掴んだのは、豪放な風貌を持つ樋渡が、一見して憔悴《しようすい》して見えたからである。
「しばらくだったな。よくきた」
八郎は手まねで、樋渡を門の方に誘いながら、気になっていたことを聞いた。
「伊牟田はどうしている?」
「元気だ」
樋渡はそう言ったが、それだけで口を噤《つぐ》んだ。八郎は、去年の暮にたずねてきた、伊牟田から感じたのと同じ匂いを、樋渡から嗅いだ気がした。彼らは、八郎が知らないところで、ひそかに行動しているように思われた。
「いい塾が出来たな」
樋渡は玄関を入ろうとして、一歩さがると、木目の新しい板壁に眼を走らせたり、ふりむいて広い庭を見回したりした。
「ま、いまのところはこんなもので間にあうだろう。剣術の道場までは手が回らん」
「庭でやればいいさ」
「よくここがわかったな」
「山岡に聞いてきた」
そう言ってから樋渡はあたりを見回し、急に顔を近づけて声をひそめた。
「知っとるか。昨日頼三樹が首斬られた。越前の橋本左内、それに飯泉《いいずみ》喜内もだ」
──やったか、またやったか。
と、八郎は思った。井伊大老がまたやったのだ。八郎は無言で、樋渡のやや憔悴してみえる顔を見つめた。
井伊は、八月二十七日に徳川斉昭を国元蟄居、一橋慶喜を致仕謹慎、水戸藩当主の徳川慶篤に指控えを命じ、水戸家老|安島《あじま》帯刀に死罪、奥右筆頭取茅根伊予之介、京都留守居鵜飼吉左衛門に死罪、吉左衛門の子鵜飼幸吉に梟首《きようしゆ》の処分と密勅関係者を一気に断罪していた。ほかに鷹司家の家臣小林民部、水戸家勘定奉行鮎沢伊太夫が流罪、同じく、青蓮院宮家の家臣池内大学は追放、近衛家の老女村岡を押込めという処分だった。
そのころ八郎は、国元の父にあてた手紙に、──まことに息をのんでまかり在るほかはこれなき世界。時もこれあり候わば、変化も相なるべく、さりながらいま五、六年のうちは潜伏するほかこれ無く候。この節うっかり出世する者、まことに気の知れぬ、薄氷を踏むも同然にご座候──と書き送っている。
五、六年も過ぎれば、静謐な世の中にもどるだろうと考えているのではなかった。幕府の動きに、八郎は内部から崩壊する兆しを予感する。六月末に、父に手紙を書いたときも、──いかが相なるべきや計りがたく、まず以て内潰の風にご座候──と書いた。井伊の苛酷な断罪は、それを早めているように見える。
樋渡を家の中に招き入れると、八郎はお蓮に命じて酒を出させた。
「酒も高|直《じき》になっての」
樋渡は酒をみると、沈鬱にみえた表情を急にやわらげて、唾をのみこむような顔になった。
「近ごろは三度に一度は我慢しておる」
「情けない言い方だの」
八郎は樋渡に盃を持たせて、酒をついだ。
「お酒ならいつでも用意してございますから、お立ち寄りくださいませ」
とお蓮が言った。樋渡は盃をお蓮の方にかかげるようにすると、一気に飲みほした。
「ありがたい仰せだ。以前伊牟田とさんざん飲んだくれたことをお叱りもなく。いや、出来たご新造だと、日ごろ伊牟田とも噂申しあげておる」
「見えすいたお世辞は、言わんでもよい」
八郎が言うと、樋渡もお蓮も笑った。お蓮が部屋を出て行くと、樋渡は不意に盃をおいて立ち、障子を細めに開けて外をじっと見つめた。真剣な横顔だった。
「誰か、あとからくるのか」
八郎が言うと、樋渡はいや、と首を振って席にもどった。
「日下部伊三次は獄死した。梅田源次郎も死んだと聞いた」
「………」
「水戸に対する密勅降下には、わが藩の西郷、日下部がからんでいる。西郷の方が先に、近衛家から水戸にあてた密書を運んだのだが、幕府の眼がうるさすぎて果たせず、一たん近衛家に返している」
「ほう」
「そのあとで日下部が、働いたわけだ。しかし西郷は、日下部の計画を心配して、いそいで京に行ったのだ。中止させるためだ。だが昨日死んだ鵜飼と途中ですれ違いになったらしい」
「………」
「亡くなられた斉彬公が、兵をひきいて京都にのぼるおつもりがあったのを知っているか」
「いや」
「公は、井伊を恐れてはおられなかった」
樋渡はささやくような小声で言った。
「大兵を率いて京に出、朝廷を戴いて幕政を一新するおつもりだった」
八郎は深くうなずいた。アメリカとの通商条約と貿易章程の調印、徳川慶福の将軍後嗣決定、異を唱えた斉昭以下の謹慎処分と、強権をふるう井伊の前に、政局が暗く閉ざされようとしていたとき、島津斉彬は屈せずに、思い切った局面打開の手を打とうとしたようだった。
──それが政治だ。
眼がさめるようなものを見たという気がした。八郎は呟いた。
「それは、すごいな」
「だが斉彬公は、西郷を使ってその画策をすすめているうちに亡くなられた。西郷や日下部が、水戸に狙いをつけたのは、いわば斉彬公の身代りというわけだった。のぞみを水戸藩につないだのだ」
「そうか」
「密勅降下はうまく行ったが、そこでばれてしまったということだ」
樋渡は投げやりな口調で言うと、手酌でつづけざまに酒をあおった。
「日下部は死んだし、西郷は行方知れずだ。そして水戸は起たん。起つわけはない。西郷も日下部も思い違いをしておった」
「下賜された密勅は、するとどうなったのかな」
「まだ水戸で持っている」
樋渡はそこではじめて、いつもの彼らしい豪快な笑いをひびかせた。酒も回ってきたのかも知れなかった。
「上の方ではむろん返上したい気持だろうが、下の連中はそうすぐには言うことを聞かんだろう。尊皇攘夷のお国柄だから、へたな扱いをすれば藩は大荒れになるだろうしな」
「幕府はまだ何も言っていないのかな」
「まだらしいな。大獄の後始末がまだ終っておらんからな。まだ斬られる者が出るという噂だぞ。うっとうしいことだ」
樋渡はそう言って、急に部屋の中をきょろきょろと見回した。そして部屋の隅の壁に立てかけてある看板に目をつけた。
「経学、文章、書、剣指南か」
樋渡は読みくだし、見事な字だ、と言った。そして不意に、変に光る眼で八郎を見た。
「敬愛する清河にして、この稚気あり、か」
「稚気?」
八郎は樋渡を見返した。
「看板を用意したことか。だがこの看板をかかげるのは、おれの多年ののぞみだった」
「いや、これは失礼。稚気などということを、みだりに言ってはいかんな。君の精進は、誰にでも出来るというものではなかった。立派な看板だ」
「それもいやみかね」
「いやいや。失言だったと詫びている。だが君の頭脳、君の剣を塾屋の中に閉じこめておくのは、少少もったいないという気もしたものでな」
「………」
「しかし人それぞれの道があるからな。君は君の道を歩め。おれはおれの道を行くさ」
酔って、少し足もとがあぶなくなった樋渡を送って門の外まで出ると、八郎はしばらくその後姿を見送った。
月が出ていた。冬近い寒寒とした色をした月だった。樋渡の大きな身体はしばらくよろめいて門を離れたが、一度あたりを見回すと、急にしゃっきりと背をのばして遠ざかって行った。
──八兵衛は、おれを挑発したつもりかも知れんな。
と八郎は思った。樋渡や伊牟田が、尊皇攘夷で何かの動きをしていることはもう明らかだった。樋渡はあるいは自分を、その活動に誘いこみたくて来たのかも知れないという気がした。
──だが、一介の学問の徒だ。
さらにもとをただせば、出羽清川の酒屋の伜だ。島津斉彬の壮大な政治構想に、一瞬胸がときめく気がしたのは事実だが、そうかといって酒屋の伜がはね上がった行動に走れば、あっという間に権力に消されてしまうだろう。分相応ということがあると、八郎は思った。
五
万延元年三月三日の朝。
八郎は少し朝寝した。昨夜書きものをして遅くなったせいである。起き上がってみると、障子の色がいやに白かった。
茶の間に出て障子を開くと、外は雪だった。ぼたん雪が音もなく降りつもっていて、庭は真白になっている。
──そういえば、ゆうべは雨の音がしていたな。
と思った。台所に行くと、お蓮が洗いものをしていた。
「雪だな」
「はい。明け方から雪に変ったようでございますよ」
とお蓮は言った。お蓮はようやく江戸の暮らしになじみ、物言いにも落ちつきが出てきた。
「すぐご飯になさいますか」
お蓮は顔を洗っている八郎に声をかけた。
「熊三郎はどうした?」
「まだ、おやすみのようですよ」
「けしからんやつだ」
八郎は、自分のことは棚にあげて言った。
「起こしてこい。すぐ飯にしよう」
そう言ったが、ふとさっき見た雪が頭の中を横切った。三月には珍しい雪が、詩的な感興をそそっていた。
「いや待て。ちょっと書くものがある。お前たちで先に食べていなさい」
八郎は顔を洗い終ると、いそいで書斎に入った。障子を開くと、雪をかぶった庭の梅の木が、うす紅色の蕾《つぼみ》を点点とつらねているのが見える。雪はさっき見たときより、幾分小降りになったようだった。障子を開いていても、さほど寒くはなかった。
八郎は墨をすり、紙をのべて、それから障子を閉めると、湧いてくる詩想に心をゆだねた。
都城三月 修禊《しゆうふつ》の時
東台の桜花 すでに眉を揚ぐ
陌上《はくじよう》許さず 醒者の過ぐるを
縷縷として提携し 玉巵《ぎよくし》を連らぬ
今年何ごとぞ 春色に少《か》く
門前なんぞ聞かん 遊人の笑い
庭梅僅かに点じ 未だ全くは開かず
長雨日日 余寒催す
感ず 君が精神俗了せざるを
暁天|還《また》これ 雪を帯びて来たる
熊三郎が起きてきたらしく、台所の方で大きな声が聞こえた。
「田舎じゃ、いまごろは雪が消える一方で、雪が降るなどということはないのにな。江戸というところは妙だな」
それに答えるお蓮の声が聞こえたが、小さくて何を言ったかは聞こえなかった。
「しかしこの雪はすぐ止むよ。雨雪になってきた」
熊三郎の声に、八郎は庭の方に耳を傾けた。そのころ、桜田門外の路上、松平大隅守屋敷の門とご門外辻番所の間で、水戸浪士と井伊掃部頭の家中が死闘を繰りひろげていたのである。
六
その朝、桜田門外にある上杉弾正|大弼《だいひつ》屋敷に所属している辻番所では、番士が三宅坂の方から井伊家の行列がくるのを眺めていた。時刻は五ツ(午前八時)ごろだった。
──井伊さまがご登城だな。
と番士は思った。松平大隅守屋敷と、桜田門外の辻番所のちょうど中間あたりに、行列を迎えるように、二、三人ずつかたまって人が立っているのも見えたが、番士はべつに気にしなかった。
江戸見物の者や、江戸詰めになって間もない勤番の武士が、武鑑を手に大名行列を見物するという光景は、このあたりでは珍しくない。濠ばたの道にいる蓑笠をつけた者や、赤い合羽を着た者も、そういう人間だろうと思い、雪が降るのに熱心なことだと、ちらと考えただけである。
異変は眼の前で起きた。といっても、上杉家の番士は、その出来事をはじめからくわしく眼にとめていたわけではなかった。そして上杉家の辻番所から、井伊家の行列はまだ遠い場所にいたのである。
異様な人の声がしたように思って、番士がはっと眼をこらしたとき、登城の行列が大きく乱れて、斬りあいがはじまっていたのであった。乱れた行列の中に、刀をふりかざした黒い人影が、つぎつぎに駆けこんで行くのが見えた。
──喧嘩か。
と番士は思った。そうとしか考えられなかった。雪は雨まじりの小雪に変っていて、視界は、その降るものに幾分さまたげられていたが、おおよその動きは見えた。番士は、大へんなことが起きていると思う一方、喧嘩なら間もなくやむだろうとも思っていた。行列に斬りこんだ人間は、そう多くはなく、十人あまりかと思われた。ばたばたと人が倒れるのが見えた。
番士が、なかば茫然と遠い斬りあいを眺めていると、こちらの方を目がけて、まっしぐらに走ってきた者がいた。近づいたのをみると、黒羽織を着、袴の股だちを高く取った武士で、井伊家の供人らしいと見当がついた。武士の眼はつり上がり、顔を土気色にしている。どこかに手傷を負っているらしく、袴の下から血が垂れていた。
「何ごとですか」
眼の前を走り去ろうとする武士に、上杉家の番士は思わず声をかけた。するとその武士は、はっとしたように立ちどまり、そこで力をこめて黒羅紗の柄袋を抜き捨てると、刀を抜いていま駆けてきた道をまた一散に駆けもどって行った。
走りもどる武士を追った番士の眼に、そのとき地上に置かれた駕籠《かご》わきで、うずまくように人が混み合うのが見えた。そこを目がけてまた人が集まり、斬りあいが続いた。
次に番士が見たのは、白い襷《たすき》をかけた武士が一人、刀の先に貫いた首を高くさしあげ、辻番所の前を日比谷御門の方に走り去る姿だった。そのあとを追って、また一人襷、鉢巻の男が駆けぬけ、さらにだいぶ遅れて、井伊家の供侍とみえる武士が五、六人、眼の前を駆けすぎて行った。
男たちを見送った上杉家辻番所の番士が、もう一度斬りあいの場所に眼をもどしたとき、そのあたりは奇妙なほどひっそりしていた。倒れている人影が雪の中に点点とみえ、さっきの場所にぽつんと駕籠が置かれているだけで、人びとは一斉にどこかに走り去ってしまったようだった。
番士はそのときになって、ようやく雪の中に足を踏み出して、井伊家の供人が捨てて行った羅紗の柄袋を拾い上げた。袋は濡れていた。そしてそこにこぼれている数滴の血の色が、番士の胸に異常なことを目撃した思いを呼び起こした。柄袋を握りしめたまま、番士は小走りに上杉家の藩屋敷の門に走った。
井伊家の登城行列を襲い、井伊を刺殺して首をあげたのは、関鉄之介以下の水戸浪士に薩摩藩士有村治左衛門を加えた十八人の壮士たちだった。
前年の十月二十七日、長州の吉田寅次郎を死罪に、日下部伊三次の子裕之進、日下部と一緒に密勅奏請に働いた勝野豊作の子森之助の二人を遠島に、そのほかの断罪を終って、大獄に一応の結着をつけた井伊は、次に水戸家に勅書返納を迫った。
水戸家では勅書を、水戸から三里の地にある歴代藩主の墓地、瑞竜の廟に納めていたが、十二月十六日に若年寄安藤対馬守が、小石川の水戸邸を訪れて勅書返納を迫ると、藩主慶篤は同意した。斉昭もむろん返納の意見だった。
しかし藩士はおさまらなかった。密勅がくだった当時、斉昭と勅書を守ると称して、水戸藩士、百姓町人は続ぞくと水戸街道を南下し、下総小金宿で説得の藩士に押さえられると、興奮して自殺する者を出したほどである。斉昭、慶篤に従って、勅書返納を認めようとする者もいたが、あくまで返納に反対する者もいた。
水戸藩は、文政の昔に敬三郎と呼ばれた斉昭擁立をめぐって、藩が二つに割れている。斉昭擁立派の正論党と、そのとき清水家から後嗣を迎えようとした重臣層一派である。彼らは奸党と呼ばれた。ところが今度は、勅書返納をめぐって、正論党が鎮撫派と激派に分裂抗争するに至ったのであった。
高橋多一郎、金子孫二郎を指導者にする激派は勅書が水戸を出るのをあくまで阻止するつもりで、水戸から二里の長岡宿に集まっていたが、藩の手がのびるのを察すると姿を消し、一部は江戸に現われて井伊を襲ったのである。彼らは襲撃の前夜、小石川水戸藩邸の目安箱に暇願いを投げこんでいた。
生き残った浪士たちの大半は、細川家と脇坂家に別れて自首したので、水戸家では細川家からの知らせで事情を知った。
水戸家では幸いに藩主慶篤が登城しなかったので、すぐに厳重に門を閉め、井伊家の報復襲撃にそなえて、厳しい警戒体制をとった。噂はすぐに城中にも伝えられ、すでに登城していた大名たちは恐慌をきたし、帰りには藩邸から供の人数を呼び寄せて、警固を厚くして下城する者もいた。
七
水戸浪士による井伊襲殺を、八郎はちょうど昼ごろ笠井伊蔵から聞いた。伊蔵は前夜家に帰っていて、塾にくる途中で今朝の騒動を聞いたのである。
「井伊が殺されたと?」
「はい。襲ったのは水戸浪士だと、もっぱらの噂でした」
日ごろは沈着な笠井も、さすがに興奮しているらしく、声が上ずっていた。
「伊蔵、一緒に来い」
八郎は言うと、刀をつかみあげて腰に帯びた。笠井の言うことが本当なら、天下がひっくり返ったのだ、という思いに胸を掴まれていた。
雪はやんで、空から薄日が洩れていた。結局積もるほどの雪ではなくて、道はわずかに雪を残してぬかるんでいた。八郎は足駄を履いた足が、たちまち濡れるのを感じたが、笠井をともなって大急ぎで桜田門の方にいそいだ。
井伊は政策で行きづまって、やがて幕政から身をひくことになるだろうと思っていたが、こういう終り方は予想しなかった、と八郎は思った。まだしばらくは井伊の天下で、高い声で物を言うのもはばかるような世の中が続くだろうと思っていたのだ。朝廷を中心にする、尊皇の勢力とでも言うべき政治力が擡頭《たいとう》してきていることは見えたが、尊皇も攘夷も当分は日の目を見ることにはなるまいという気がしていたのだが、文字どおり一朝にしてくつがえったことになる。
──大乱のはじまりか。
それにしても、水戸浪士とは何者だ、と八郎は思った。有力な諸侯──樋渡の話を信じれば、薩摩の島津斉彬をのぞいて──誰ひとりとして、一指も染め得なかった井伊という独裁の権力を倒した水戸浪士とは誰なのか。登城の行列を襲って、首をうばったというからには、一人や二人の仕事ではないだろうが、彼らは何人ほどの徒党だったのか。
桜田門に近くなると、大勢の人間が群れているのが見えてきた。町人もおり、武士もいた。年寄も子供もいて、赤ん坊を背負った女までいた。
彼らはぬかるみの道を、とびはねるようにあちこちと移動し、しさいらしくあたりを見回したり、隣の人間と立ち話をしたりしていた。「あ、ここに血がある」と、けたたましく親を呼びたてる子供もいた。道を埋めているのは、陽気で残酷な群集だった。
「ご見物ですか」
八郎が近づくと、早速声をかけてきた者がいた。でっぷり肥って色白な、商人ふうの中年男だった。
「しかし驚きましたな」
男は八郎がうなずくのを見ると、微笑して言った。
「昨日まで泣く子も黙る勢いだったご大老が、今朝はこのありさまですからな。いや、こわい世の中になりました」
「水戸浪人の仕わざだと聞いたが、ほんとうかの」
と八郎は聞いた。
「そのようにうかがいました。辰ノ口の遠藤さまとおっしゃいましてな、若年寄をお勤めなさるお屋敷から、さきほどこのあたりを検分にきておられましたが、その方におうかがいしたところでは、水戸さまのご浪人に、薩摩のお侍が加わっている、というお話でございましたな」
「薩摩人?」
八郎は鋭い眼で、背後の笠井をふりむいた。笠井も無言で八郎を見つめた。薩摩の人間と聞いて、八郎はとっさに伊牟田と樋渡を思い出し、二人がこの事件に加わったのではないかと思ったのだが、笠井の胸にも、その懸念が湧いたようだった。
──そうか、やはり密勅の筋だ。
と八郎は思った。笠井伊蔵から、水戸浪人の井伊襲殺という知らせを聞いたとき、八郎の脳裏にひらめいた第一感は、勅諚返納を強要する井伊に対する、水戸の反発に違いないという考えだった。
大獄の始末が一段落すると、幕府は、ほとんど幕府の言いなりになっている九条関白を通じて、朝廷から勅諚返納の言葉をとりつけた。そうして形式をととのえると、水戸藩に対して厳しく返納を迫ったのである。
水戸藩主徳川慶篤は、返納を承諾したが、返納は直接京都朝廷に対して行ないたいと筋を通そうとした。慶篤としては、藩にとってむしろ荷厄介な勅諚を返納するのに異存はなかったが、京都から頂いたものを京都に還すという筋を通すことは、勅諚をめぐって紛糾をつづけている藩内の議論を鎮めるために、最低必要な措置でもあったのである。
だが幕府は水戸の要請を無視し、勅諚を一たん幕府に返納せよと迫っていた。朝廷と諸侯の直接の接触はあるべきでないというのは、幕権回復を目的に登場した井伊の立場である。その立場を、井伊は斉昭以下の処分、日下部、鵜飼らから橋本左内にいたる、密勅、徳川継嗣問題の関係者の断罪で明らかにしたばかりである。水戸もまた幕府の統率下にある一諸侯にすぎない。勅諚を一たん幕府におさめ、返納は幕府の手で行なうべきだというのは、井伊の筋論だった。
井伊はこの筋論に立って、水戸藩に対しはげしく勅書返納を迫っていたのである。だが水戸藩にしてみれば、勅諚の取り扱いは一藩の面目にかかわるばかりでなく、へたな扱いをすれば藩内の収拾がつかなくなる大問題だった。少なくともその始末は、連綿と伝えられてきた尊皇の伝統という立場から言って、藩内外の納得を得られるような形をとらなければならないのだ。
井伊の命令は、そういう水戸藩の立場を無視し、一方的な弾圧の形で、水戸藩にむけられてきていた。そのために藩内は動揺し、過激派の憤激は高まるばかりだったのである。八郎は、おおよそのそういう情勢を、断片的にではあるが山岡の口から耳にしている。
水戸藩に対する密勅降下は、薩摩の西郷、日下部らが斡旋したことである。勅書返納に反発したこの事件に薩摩藩士が加わっていても、不思議はない、と八郎は思った。
──それにしても、水戸浪士とは何者だ。
八郎は、さっき家を出てからこちら、ずっと心につきまとっている疑問を、また反芻した。
詔勅返納に強く反発している水戸藩内の、一部過激な人間が、憤激にうながされるままに、ついに井伊を襲ったということなのか。それとも背後に水戸藩首脳の意志が動いていて、その使嗾《しそう》があってやったことなのか。あるいは水戸藩ではなく、べつに反井伊の政治勢力がどこかに存在していて、彼らを使って井伊を政権の座から除いたということなのか。
考えにふけっている八郎に、さっきの商人ふうの男がまた声をかけた。
「ご大老の首が、どこにあるかご存じですか?」
「首?」
八郎は夢からさめたように、男を見た。
「大老の首なら、井伊家にあるだろう」
「ところが、そうではございませんので……」
男は一歩八郎に近よると、ささやき声になった。男の顔には奇妙な薄笑いがうかんでいる。
「ご大老の首を持ったご浪人さんが、さきほどの遠藤さまのお屋敷に駆けこみましたそうで。浪人さんは大変な怪我をしていて、そこで亡くなられたそうですが、そういうわけで、ご大老の首は、まだ遠藤さまがお預りしているそうです」
「井伊家では、引き取りに参らんのか」
「むろん行かれたらしゅうございますが、遠藤さまでお渡しにならないのだそうで……。遠藤さまは彦根の隣、近江野州の三上藩のお殿さまですが、井伊さまとは仲|悪《あし》うございますそうですな」
そこまで言うと、男の薄笑いははっきりした嘲笑になった。
「天下のご大老も、首だけになりましてはなんとも哀れでございますな」
男の顔には、いまは一個の首になってしまった、昨日までの権力者に対するはっきりした嘲りが現われている。なかなか事情に通じた男だった。男はとって置きのその話を八郎に聞かせたかったらしく、笑いを顔に貼りつけたまま、ではごめんこうむります、と言った。
「お。さっき申した薩摩の侍という話だが……」
八郎は男を呼びとめた。
「名前はわからんかの」
「さぁて、そこまでは存じません」
男はその話には興味がないらしく、あっさり答えて離れて行った。しかしそれで帰るつもりはないらしく、少し行くとやはり商家の人間らしい老人の袖をひいて、立ち話をはじめた。また井伊の首の話を持ち出しているのかも知れなかった。
あたりには一そう人がふえて、桜田門そとの空気は一種の喧騒に包まれていた。このぶんだと、また落首やチョボクレがはやるだろうな、と八郎は思った。人びとは、大老が白昼の路上で首を奪われるという事件に驚いていた。だが同時に、昨日まで仰ぎみることもはばかられた強大な権力者が、一個の首になって眼の前にころげ落ちてきたことに、手妻のタネを見たあっけなさを感じたに違いなかった。彼らは、世の中が大きく変る予感におびえながら、一方でどう変るかに強い好奇心をいだいているようにも見えた。
「伊蔵、帰るぞ」
八郎は笠井を促して歩き出した。途中で、いまから襲撃あとを見に行くらしい、武士や町人とすれ違った。
彼らはあらぬ方に眼を据え、声高に連れと話しながら、雪どけの道をいそがしくすれ違って行った。彼らを走らせているのは、やはり好奇心に違いなかった。そしてその場所に立って、お祭りのようにざわめいている群集をみれば、そこから多かれ少なかれ、一個の強大な権力が地に堕ちたあとの、しらじらしい空気を嗅ぐにちがいなかった。
──井伊は自分の死で、幕府の威信を著しく傷つけてしまったようだ。
幕権主義者井伊にとって、それは恐ろしく不本意な結果と言わなければなるまいが、事実はそういうことになる。そう思ったとき、八郎は幕府という大きな機構が、ずしりと音をたてて滑落したのを感じた。
「伊蔵、いまに大へんなことになるぞ」
「は」
「世の中が変る。間違いない」
と八郎は言った。心の中に、ひどく落ちつかないものがあった。
──間違いない。幕府は自壊の道を歩んでいる。
それは堀田老中が、条約の勅許をもとめて、朝廷に拒まれたころからはじまったのだ。いやもっと先だ、と八郎は思った。
八郎の脳裏に、神奈川宿から見おろしたアメリカ艦隊の船列が、あざやかに浮かんできた。八郎がみたそれは、二度目に来航したアメリカ艦隊だったが、最初の黒船来航のとき、幕府はこの国の政治の当事者として、適切な対策を打ち出すことが出来ずに、みずからの無能を暴露してしまったのだ。
幕府の自壊はそのあたりからはじまっている。井伊の登場はその崩壊の作用に歯止めをかけるようなものではなかった。井伊は回りすぎた捩子をわずかに巻きもどそうと試みたにすぎない。針はその間にも進んでいたのだ。井伊の死は、そのことを証明している。
──このままでは、この国が保つまい。
すでに海外に対する門戸は開かれて、横浜、長崎、箱館では、異国人が商売をはじめ、その影響は、物の値上りとなって暮らしの上にはね返っていた。新しい時代がきていた。だが幕府はその新しい時代に対処するどころか、国内の世論を統一する力もないのだ。世の乱れは必至だ。大老の死で、それは幕を上げたのか。
「伊蔵、頼みがある」
お玉ヶ池の塾の近くまで帰ってきたとき、八郎は立ちどまって言った。笠井は黙って八郎を注視している。
「今日の出来事の委細を、出来るだけくわしく調べてくれ」
「………」
「出来れば大老を襲撃した連中が何者か。その名簿も欲しいな」
「かしこまりました」
「さきに帰っていろ。おれは道場でひと汗流して行く」
八
八郎は三日間、書斎を出なかった。飯もお蓮に言いつけて書斎に運ばせた。
机の上には、美濃紙二十枚をとじ、表に霞ヶ関一条と記した書類が乗っている。郷里の祖父に水戸浪士による井伊襲殺のあらましを知らせるためにつづった書類だった。
八郎は、事件のあとを見に行った翌日から、精力的に知人をたずねまわって、事件の風聞を聞きあつめた。そして、そのあと書斎にこもると、門人の笠井が調べてきたこととあわせて、祖父に事件を告げ知らせる文章をつづったのである。
だが、八郎がいま眺めているのは、一枚の紙に記された名簿だった。笠井がどこからか聞き出し、自分で書きつけた水戸浪士たちの氏名だった。水戸浪士とならんで有村治左衛門とあり、笠井はそこに松平修理大夫家来ナリと註記していた。事件あとの場所で聞いた薩摩藩士というのは、八郎が心配したように、伊牟田でも樋渡でもなく、有村という男だったのである。
八郎は、腕を組んで坐ったまま、じっと名簿を見つめていた。すでに何回か見た名簿だったが、そこに八郎を掴まえて離さないものがあった。
笠井は、水戸浪士十七名の氏名の下に、几帳面な文字で禄高と身分を記していた。それによれば小姓組佐野竹之介の二百石が最高の禄高で、大関和七郎の百五十石、黒沢忠三郎、広岡子之次郎の百石がこれについでいるが、身分的にはこのほか元与力、郡方勤メと註記されている関鉄之介がまともな士分に加わるかと思われるだけで、ほかはほとんど軽輩もしくは部屋住み、士分外の者だった。
岡部三十郎という氏名の下に記された、百石小普請組藤助ノ厄介叔父ナリという笠井の註記に、八郎の眼はまた惹きつけられている。厄介叔父というからには、士分の家に生まれたものの、次、三男であるために仕官の望みもなく、一生生家に寄食して、日陰の暮らしを余儀なくされている人間であろう。ほかにもそういう者がいた。そして鯉淵要人は古内村の祠官であり、森山繁之介と蓮田市五郎は矢倉方手代、杉山弥十郎は鉄砲師だった。
──大老井伊直弼を斃《たお》したのは、こういう連中なのだ。
その感慨は、胸の奥深いところで八郎をゆさぶってやまないようだった。幕府の最高権力を握り、大獄を断行して天下をふるえ上がらせた男を、その座から引きずりおろしたのは、有力な諸侯でもなく、歴歴の士分の者ですらない、厄介叔父や鉄砲師たちだったのである。
自首した者を調べた評定所では、むろん彼らの背後関係、とくに水戸の隠居斉昭の使嗾がないかを調べたが、その事実はうかび上がって来ないらしかった。彼らは井伊を天下の大罪人と呼び、その罪を数えあげて、天誅《てんちゆう》を加えたのだと申し立てていた。
──名もない者が、天下を動かしつつある。
名も身分もない者が、国を憂えて命を捨てつつある。八郎は顎にのびた髭をさぐりながらそう思った。そういう時代がきていることが明らかだった。八郎は決断を迫られている気がしていた。
金があり、また父の豪寿が、いまは藩から十一人扶持を給され、一代お流れ頂戴格の身分を許されていると言っても、所詮家は酒屋が家業で、おれは酒屋の伜だと八郎は思っている。
その酒屋の伜が江戸で学問し、剣術に励み、文武を教授する塾を開くことが出来れば、いわゆる身分相応というものだろうと、八郎は考え、かたくななまでにその考えを固執してきたのである。攘夷だ、尊皇だと、世の中が騒がしくなればなるほど、その動きに流されることを警戒した。
攘夷も流行、尊皇も近ごろははやりだった。猫も杓子も尊皇攘夷を言う風潮に、八郎は派手を嫌う雪国の人間らしく、時には反発さえ感じながら、つとめてその流れの外に立ってこれまで来ている。攘夷の旗が振られればそちらに走り、尊皇が叫ばれると、たちまち声高に尊皇を言うことは軽薄だろうと思っていた。
去年の暮の大晦日に、八郎は次のような文章を書いている。
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顧るに余、何をかなせる。文武の道に従事すること、今にほとんど十有三年、足一たびも公卿の閾《しきい》を踏まず、手ひとたびも当世の書画文士の流を挽かず。つねに白屋の中に兀兀《こつこつ》たり。倦み来たればすなわち園に灌《そそ》ぎ、鋤を弄するのみ。
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時流に流されず、白屋の中で書を読み、著述につとめることは、八郎の孤独な誇りでもあった。
だが時勢の動きに無関心だったわけではない。見るべきほどのことは、あまさず見てきたという自信があった。その時勢が、いま胸に匕首《あいくち》をつきつけてきているのを八郎は感じる。ことに井伊を襲った十八人の壮士の名簿は、八郎の胸に鋭く突きささったままだった。
──もはや塾で人を教える時代ではないかもしれない。
看板を掲げても、思うように人が集まらないのが、その証拠だった。穏やかに書を読んでいればいい時代は終り、動乱の世に入ったことを認めないわけにいかなかった。
幕府という古い政治の仕組みは、次第に自壊の道をたどり、新しい仕組みが生まれる時期にさしかかっているようだった。模糊としたその新しい政治の仕組みが見えてくる気がした。
──それは、天皇親政か。
幕府という武家がひらいた機構はいくつか変ったが、連綿変らずにつづいて来たものがある。往古はこの国を統べた王家の家系がそれだ。武家の世になってから衰微したとは言いながら、なお四民の上に超越して、たえずひそかな尊崇をささげられて来たその不思議な家系が、甦ってふたたび政治を統べる世になるのか。その徴候は、すでにあちこちにみえている。
もしそうだとすれば、それを実現する者は、名もない草莽《そうもう》の者なのか、と八郎は思った。それはたぶん、既成の身分の仕組みに飼い馴らされた人間に出来る仕事ではない。だが、それまでに沢山の人間が死ぬだろう。
──すでに死んでいる。
八郎は机の上の名簿を、はっしと平手で打った。そして立ちあがると障子を開いた。外は静かな雨だった。ひややかな雨気が、ほてった頬をなでるのを感じながら、八郎は微かに身顫いした。自分が、これまで越えることをためらっていた線を越え、新しい世界に踏み出そうとしているのを感じたのである。
「入ってもよろしゅうございますか」
襖の外で、お蓮の声がした。
「よろしい」
と八郎は言った。お蓮は襖を開けたが、中に入ろうとはしないで、そこに坐ったまま言った。
「伊牟田さま、樋渡さまがお見えになりました。ほかにもうお一《ひと》方がご一緒です」
「土蔵の部屋が使えるかの」
「はい。掃除してございます」
「よし、そこに案内してくれ。それから酒の支度をたのむ」
お蓮が去って行くと、八郎は霞ヶ関一条と記した風聞書を、油紙に包み、厳重に密封した。それから立ち上がって土蔵に行った。
「やあ、ご無沙汰した」
八郎が入って行くと、伊牟田が坐り直して頭を下げた。樋渡は黙って眼で挨拶した。
「これは……」
伊牟田は、眼つきが鋭くがっしりした身体つきの新顔の武士を指した。
「神田橋直助。同藩の人間で、かつ志を同じくする者だ」
「おはじめてお目にかかり申す。神田橋でござる」
神田橋は精悍な眼をぴたりと八郎に据えて、そう名乗った。
「清河です」
八郎も丁寧に会釈した。会釈を返しながら八郎はじっと神田橋を見つめた。剣に対する没頭が深まってから、八郎の眼はときに人を圧倒する光を帯びることがあったが、神田橋はおくせず八郎を見かえしている。
「肝の太そうな人ですな」
八郎が言うと、樋渡と伊牟田が低い声で笑った。伊牟田が言った。
「そのうち益満《ますみつ》という男を連れて来よう。益満休之助というのだが、これがまた肝が太い」
「ご藩は多士済済だな。この間は有村というひとが、いい働きをしたし」
八郎が言ったとき、お蓮が酒を運んできた。酒を見ると、それまで黙っていた樋渡が、「ご新造、毎度恐れいる」と言った。その声が婦女子のようにやさしかったので、みなは微笑した。
「有村さんは、いい死に場所を得た」
お蓮が部屋を出て行くと、伊牟田が言った。有村治左衛門は、井伊の首を挙げると、重傷を負いながら辰ノ口まで走って、遠藤但馬守の屋敷に駆けこみ、そこで絶命していた。
「しかし井伊という奸物がいなくなったので、攘夷がやりやすくなったかな。幕政一新も夢ではなくなった」
「伊牟田の考えは甘いな」
八郎は神田橋に盃をさしながら、伊牟田をふりむいた。
「幕府は変りはせんよ。攘夷を言う者はやはり狙われるぞ。軽率には動かん方がいいな」
「井伊が倒れても、幕府は変らんというのか」
「変らん。ただ少しずつ自滅の道をたどっていることは確かだがな」
「わからんぞ、清河の言うことは」
「諸君には見えんのか」
八郎は少し傲然とした口調で言った。行動に踏みきるからには、誰にも遠慮した口はきかないぞと少し昂った気分になっていた。
「おれには新しい仕組みが見えてきた。われわれは、幕府にかわる政治の仕組みを考えるときがきているのだ。それでないと、本当の攘夷は出来ん」
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土 蔵 の 中
一
万延元年の暮近い寒い夜。一人の武士が、ゆっくりした足どりで、神田村松町の路上を歩いていた。
少し酒が入っているらしく、武士は時どき路にたちどまって、身体をふらつかせたりしてはまた歩き出した。低い声で詩を吟じていた。
だが、ある路地まで来たとき、武士は急にすばやい身ごなしで店の角を曲り、店の横に積んである俵の陰に身をかくした。すると、しばらくして月に照らされた路上に、職人風の男が姿を現わした。男は武士が隠れている路地をのぞきこむようにじっと立っていたが、やがて軽く舌打ちして引き返して行った。
俵の陰から、隠れていた武士が出てきたのは、それから四半刻(三十分)も経ったころだった。月明りにうかんだ顔は、伊牟田尚平だった。伊牟田は、さっき職人風の男が現われた路地の入口までもどると、しばらくあたりを見回したが、今度は早い足どりで、男が立ち去ったのとは逆の方向に歩き出した。
伊牟田が、お玉ヶ池の八郎の屋敷の土蔵に現われたのは、それから間もなくだった。伊牟田がほとほとと戸を叩くと、中から笠井伊蔵が戸を開け、すばやく伊牟田を土蔵にひき入れた。
「首尾は?」
伊牟田を迎えて立ち上がった八郎が、低い声でたずねた。燭台のそばから、美玉三平、村上俊五郎、池田徳太郎が伊牟田をじっと見つめた。
「やったぞ」
伊牟田が、ぐいと八郎の手をつかんで言った。それを見て、村上が美玉と池田の肩を叩いた。
「そうか、よくやった」
八郎が伊牟田の背を軽く叩くと、伊牟田は刀を腰からはずし、不意に疲れきったように畳に横になった。胸がはげしく波打ち、伊牟田の黒い、あばたが浮いている顔は、疲労のためか、寒さのためか、ひどく青ざめて見えた。
「斬ったのは確かにヒュースケンか?」
と八郎が言った。
「間違いない。赤羽根のプロシヤの使節の宿から、おれと樋渡が後をつけ、連中が神田橋らが待っている中ノ橋にさしかかったとき、一斉に斬ってかかった」
「ヒュースケンを斬ったのは貴公か?」
「神田橋が初太刀をつけたが、おれがやった腹の傷がきいたようだな。やつは腹わたをぶらさげたまま馬を走らせたが、いくらも行かんうちに馬から落ちるのが見えた」
「こちらの怪我人は?」
「益満が指を痛めたようだったが、大したことはあるまい」
「よくやったな」
八郎はもう一度言い、こっちへきて一杯やれと言った。
「まず祝杯と行くか」
村上が、起き上がってきて伊牟田に盃を持たせ、酒を注いだ。伊牟田は顔を仰むけて、ひと息に盃をあけた。
「途中から変な奴につけられてな」
伊牟田は盃をおいて言った。
「まくのに苦労した」
「顔を見られたか」
「どうも見られたらしい。出会い頭だったので避けようがなかった」
「当分外を出歩かんほうがいいな。明日からは相当にきびしい探索が行なわれるはずだ。ま、十日ほどはここに籠っているといい」
と八郎が言った。
「飯は喰わしてくれるだろうな」
不意に伊牟田が心細そうな声を出したので、ほかの者は薄笑いをうかべて伊牟田を見た。伊牟田は痩せぎすの身体をしているくせに、大食漢だった。
「喰わせるさ。たまには酒も差し入れしてやろう」
「それなら、おれも一緒に籠ろうか」
と村上が言った。すかさず伊牟田が応酬した。
「それはいかんよ。おれの喰い分がなくなる」
みんながどっと笑った。謹直な池田まで手を拍《う》って笑った。村上は二十貫を越える巨躯《きよく》の持主である。しかし村上の肥満した身体は、竹刀を握ると不思議なほど軽捷な動きを示すのだ。
この春、神田橋直助がはじめて塾を訪れてきたそのあとで、八郎は郷里に帰った。祖父の昌義が病死したので、葬儀のために帰郷したのである。
ひと月ほど故郷に滞在している間に、八郎は鶴ヶ岡城下に出て、ひそかに荘内藩のもと江戸留守居大山庄太夫に会った。そこで知り得たことは、藩改革派の衰退ぶりだった。前年の九月、藩の継嗣問題は改革派が推していた藩主忠発の弟富之進(酒井忠寛)に幕府の許可がおり、忠発がもっとも望んだ三男の繁之丞は、幼年のために不適当とされた。改革派が忠発からおさめたささやかな勝利だった。
しかしそのあと藩政を批判した諫言《かんげん》書を提出した酒井奥之助は、今年の一月になって忠発から隠居逼塞を命ぜられ、また改革派首脳の一人、松平舎人は八郎が郷里にいるその時期に、遠く蝦夷地警備総奉行に任命され、出発して行ったのである。
荘内藩の情勢は、井伊在世のころの幕府の仕置きにぴったり同調していた。時代の動きが見えていない、と八郎は思った。以前と違って、国元のその情勢が適確に把握出来た。そして時勢が見えている大山は、長い籠居の間に老い、生彩を失っているように思われた。
江戸に帰ったとき、国事に奔走しようという八郎の決意はゆるぎないものになっていた。八郎は、伊牟田、山岡らに決心を打ち明け、同志をあつめた。村上、池田、美玉、益満らが新たに同志として加わった。武蔵入間郡の奥富村に住む西川練造、北有馬太郎も同志だった。
土蔵の中で行なわれる同志の密会は、虎尾の会と名づけられたが、すでに伊牟田、神田橋らの薩摩人が、アメリカ公使ハリスの通辞ヒュースケンを襲う計画を練っていたので、その決行を見守っていたのである。
異人斬りということが、その前から起きていた。
前年の安政六年の七月、横浜に上陸したロシア艦隊の見習士官と水夫が、数名の武士に襲われ、二人が死亡、一人は負傷した。つづいて今年の正月に、イギリス公使館に雇われている伝吉という通辞が刺し殺され、翌月二月にも横浜にきたオランダ商館長デ・ボスら二名が斬殺されていた。
異人斬りは、尊皇攘夷を志す志士による、異国人と幕府双方に対する示威行動だった。京都朝廷の攘夷の意志は、水戸藩に下された密勅でも明らかであり、前年に行なわれた通商条約の調印は、朝廷の意志を無視した違勅調印だと彼らは思っていた。無断調印を知った孝明天皇が、憤りのあまり再三にわたって譲位の意向を明らかにしたことも、いまでは彼らの間に知れわたっていた。
ところが、現実には横浜は貿易港として繁昌し、集まった外国商人たちは大手を振って商売し、国内の物価を攪乱《かくらん》していた。江戸には各国の公使館が出来て、そこに勤める人間が、江戸の町を往来していた。
違勅調印が違勅のままに、開国が既成事実となろうとしていることに志士たちは憤激していた。その憤激が異人斬りとなって現われたのである。
異人斬りは、各国の厳しい抗議を惹きおこして幕府を困惑させたが、暗殺者は容易につかまらなかった。一般市民の間にも、横行する異人に対する根強い反感があって、たとえ暗殺の現場を目撃しても、役人の調べには口をつぐんだからである。
イギリス公使館の通辞伝吉は、イギリスに帰化して、名前もボーイ・ディアスと名乗っていた。彼は自分が日本人と呼ばれることをいやがり、日本人を野蛮な人種だと見くだすような、西洋かぶれした人間だった。伝吉は漂流してアメリカに拾われ、二十年近くもアメリカにいたので、英語を話せたが、イギリス公使館ではむしろ別のことで役に立っていた。江戸の娘たちを物色して、公使館員のラシャメン(洋妾)に世話する仕事である。彼は娘の伝公とあだ名され、本職の女衒《ぜげん》からも忌み嫌われる女衒だったのだ。
伝吉は白昼、イギリス公使館近くの路上で刺殺された。そのときあたりには大勢の通行人がいて、子供たちが遊んでいたが、奉行所の役人に対して、暗殺者を見たと話したのはその中のたった一人の女だけだった。
異人斬りが起きるたびに、幕府はその後始末に頭を痛めた。攘夷の志士たちにとっては、そこが狙いどころでもあったのである。
──ヒュースケン斬殺で、幕府はこれまでにない非難と抗議を浴びることになろう。
今夜は泊るという村上たちを、伊牟田と一緒に土蔵に残して、八郎は土蔵を出ながらそう思った。ヒュースケンはアメリカ公使ハリスが来日して以来の通辞で、幕府にも顔が通り、今度のプロシヤ使節オルレンブルグの対幕交渉にも通辞として活躍していたのである。各国公使の抗議が集まることは明らかだった。
土蔵から母屋に回った八郎は、戸を開けようとして、ふとうしろを振りむいた。門のあたりに、何かが動いた気配を感じたのである。
八郎は、足音をしのばせて庭を横切ると、門扉を押して道に出た。扉はあまり高くなく、背のびすれば中がのぞけるぐらいである。そのあたりに物の気配が動いたように思ったのだが、見渡した路上に人の姿はなかった。時刻は八ツ(午前二時)近いと思われ、深夜の月の光が、猛だけしいほど明るく路上を照らしているだけだった。
──気のせいか。
だが事件があった麻布一帯には、いまごろ奉行所の手の者が散らばって、下手人の手がかりを掴もうと必死の探索をつづけているに違いなかった。それぞれ別の場所に散ったという、神田橋や樋渡、益満のことが案じられた。八郎は門を閉じ、固く戸じまりすると、母屋に帰った。
茶の間に入ると、行燈《あんどん》の灯の下で縫物をしていたお蓮が、顔をあげてお帰りなさいましと言った。
「やすんでおれと申したのに」
八郎は、火桶のそばにどっかりと腰をおろしながら言った。お蓮は病気で寝こむようなことはなかったが、丈夫なたちとは言えなかった。虎尾の会の同志が出入りするようになってから、お蓮は雑用がふえ、時どき疲れが見えるのを八郎は気にしていた。
八郎がそう言うと、お蓮は八郎を見て微笑したが、顔色は青白かった。
「茶をもらおうか。一服したらやすもう」
と八郎は言った。伊牟田らと飲んだ酒が、血をざわめかせていた。そして伊牟田に聞いたヒュースケン襲撃の生なましい話が、まだ心の中に昂りを残していた。
お蓮は手早く茶の支度をし、八郎にすすめると自分もつつましく茶を啜《すす》った。
「みなさまは?」
「今夜は泊ると申している」
伊牟田はやはり疲労しているらしく、早く酔いつぶれてしまった。そして村上、池田らはごろ寝して朝を待つと言ったのである。
「あら、それでしたら夜具を……」
「なに、心配いらん。勝手にあのへんのものを引っぱり出して寝ると申した」
「伊牟田さまは……」
お蓮は茶碗を膝の上で回しながら、ちらと八郎を見た。
「お怪我をなさいましたのですか?」
「いや。なぜだ?」
「血の匂いがいたしました」
お蓮は静かに茶碗を畳におろすと、今度はまっすぐ八郎の顔を見つめた。
「怪我はしておらん」
八郎はそっけなく言った。八郎は、同志をつのって、ひそかに国事にかかわりあおうとしていることを、まだお蓮には打ち明けていなかった。
だがお蓮の眼をみると、これ以上隠しておくことは無理だなと思った。お蓮は怜悧《れいり》な女だった。また秘事を打ち明けたからといって、外に洩らすような女ではなかった。
「伊牟田は今夜、異人を斬って来たのだ」
と八郎は言った。お蓮の身体が急に石のようにこわばったのが見えたが、表情は変らなかった。お蓮は八郎が次に言うことを、静かに待ちうけていた。
八郎は、いまの国内の模様を、噛みくだいてじゅんじゅんと話した。
「わが国はいま、これまでになかったような、大きな変り目にきている。どう変るか、わしにも全部は見透せんが、幕府の政治では、この国がもたないという気がして来た。ともかくこの変り目に、心ある者は身分を問わずひと働きしなければならんようだ」
「………」
「わしも、学者だからといって、黙って坐って書物を読んでいるわけにはいかん。学問というものは、元来天下を経理することを教えるものだからな。まして伊牟田、樋渡といった連中が、自分の血を流しても思うことを貫こうとしているのだ。わしは知らん、勝手にやれというのでは友達でもない。学者でもない。腐儒というものだ。口舌の徒だ」
「おっしゃることはわかります」
「そうよ。そなたはわかるはずだ。だからこうして話している。わしは国のために働く」
「そのようになるのではないかと、以前から思っていました」
お蓮はうつむいて言ったが、すぐに顔をあげた。
「それで、わたくしはどうすればいいのですか」
「そなたは、これまでと同じにしておればよい。ただ覚悟を決めておけ」
八郎は声を落として言った。
「幕府に隠れてやることだ。いつ、どのようなことがあるかわからん」
「はい」
「あとは、伊牟田らをいたわってやれ。連中は同志だ。兄弟にひとしい」
同志をもっと集めなきゃならんな、と八郎は床についてからも考え続けた。そして、ここを尊皇攘夷の一巣窟にする。
──門人も減らさねばなるまい。
今年の八月に、八郎は千葉道場で北辰一刀流の免許を受けていた。それで門人がふえたということはなく、古くからの通い門人がいるだけだったが、用心のためには少しずつ門人を減らした方がいいのだ。学問も剣も、一流の域にさしかかったかと思う時期に、皮肉にも塾を捨てることになったようだった。
「どうした? 眠れんのか」
八郎は隣の床に声をかけた。
「抱いてやろう。こちらにこい」
八郎が夜具をあげると、その隙間にお蓮の身体がすべりこんできた。八郎の懐に入ると、悪寒がするように、お蓮の身体は急にはげしく顫えはじめた。
「寒いのか」
「いえ、こわいのです」
歯を噛み鳴らしながら、お蓮は言った。八郎は黙ってお蓮を抱き、背をさすった。
「でも……」
やがて顫えがとまり、あたたまった身体を八郎に開かれながら、お蓮はうわ言のように言った。
「あなたさまについて行きます、どこまでも」
二
伊牟田は十日ほど、土蔵の二階に潜伏していたが、何ごとも起こらなかった。そして、ある夜、樋渡と益満が訪ねてきた。八郎はすぐに二人を土蔵に案内した。
「この家は喰い物がいいらしくて、肥ったじゃないか」
益満は顔をあわせると、伊牟田をからかった。益満は着ている物から髪の結いようまで、どことなく粋で、歯切れのいい江戸弁を使っていた。のっそりしている樋渡とは、いい対照だった。
「心配したが、大丈夫だったらしいな」
と八郎は言った。
「巷のうわさでは、あれは水戸浪人の仕業ということになっているらしいぜ」
益満はけろりとした顔で答えた。
「大老の首を取ってからこちら、水戸っぽの株が上がっているからな。連中には悪いが、いい隠れ蓑さ」
「山岡に聞いた話だが……」
と八郎は言った。
「今度の一件では、アメリカよりもエゲレスとフランスの公使がいきり立って、宿を横浜に移すと幕府を脅しているらしいな」
「横浜までは行っても、それではこの国から退去するとは、連中言わんからな。異人斬りのきき目はせいぜいその程度かね」
「横浜を焼きはらえばいい」
と樋渡が言った。樋渡は、大方は人が言うことをじっと聞いているだけで、あまり口を出さないが、何か言うと唐突に凶暴なことを言い出す癖があった。
「樋渡はこれだからな」
益満は面白そうな口調で言った。
「この男の腹の中には、つねに満腔の不満がある。そいつの正体が何かは、おれにもよくわからんがな。毛唐の一人や二人斬ったぐらいではおさまらんらしい。な、八兵衛」
「腹の中?」
樋渡はうなるように言った。
「おれの腹の中は、尊皇攘夷でいっぱいよ」
「それで腹がそんなに前にせり出しているというわけだ」
益満がからかったが、樋渡はべつに怒った様子もなく、また呟くように言った。
「横浜を灰にしたら、こらぁきき目があると思うがの」
「それで思い出したが、水戸の天狗党というのを知っているか」
と八郎が言った。益満がうなずいた。
「話には聞いている。例の勅諚せき止めの激派の流れらしいじゃないか」
「連中が、樋渡の言い分ではないが、横浜を襲撃するつもりで軍資金を集めているといううわさがある」
「ほほう。それは聞いていないな」
「うわさだから、真偽はわからん。だが本当なら、一度連絡をつけてみたいという気がしてな。近いうち一度水戸へ行こうかと思っている」
「それはいい。おれも行こう」
と伊牟田が言った。
「いや、おれ一人でよい。なるべく目立たないようにして行くつもりだ。それに……」
八郎は用心深く言った。
「伊牟田はあの夜、奉行所筋の者に顔を見られた形跡がある。当分はおとなしくしている方がいい」
「よし、その件は清河にまかせよう」
と益満が言った。そして、ところで京の帝《みかど》の妹姫が、将軍家の嫁になるらしいな、と言った。
「ほう、それは初耳だぞ」
と八郎は言った。八郎の眼は鋭く光って、益満を注視した。京都朝廷は攘夷一本やりだ。そして、その京都の意向に呵責ない弾圧を加えたのが井伊大老だった。井伊はやりすぎて殺されたが、それだからといって、幕府が方針を一変して攘夷に転換したということはあり得ない。その婚儀で、京都朝廷の攘夷はどうなるのか。
「それはどういうからくりかな」
「いま幕閣を動かしているのは、安藤と久世だ」
と益満は言った。
井伊大老が斃れたあと、幕閣の実権は磐城平藩主安藤信正の手に移った。しかし安藤は、井伊の考えをもっともよく理解していたものの、井伊のような強もての幕権主義はもう通用しないことを承知していた。そこで、先に井伊にしりぞけられていた関宿藩主久世広周を老中に迎えて、久世と組んだのである。
久世を登用して、井伊色を幕閣から消す姿勢を示し、その形をととのえたところで、徳川慶勝、一橋慶喜らの謹慎を解いた。そして一方で、攘夷派をおさえながら幕権強化にも役立つ一石二鳥の案として、皇妹和宮の関東降嫁という手を打ったのである。この案は井伊大老の時にもあったのを、政権をひきついだ幕閣が蒸し返した形だった。
「表面は公武一体というわけだ。だが中味は、和宮を人質にとる恰好だな」
「そんなことは許せんぞ」
伊牟田が叫んだので、みんながしっと言った。待てよ、伊牟田と、八郎は手まねで伊牟田をおさえた。
「それで、京都の攘夷はどうなったのだ? まさか関東の言いなりというわけじゃあるまいな」
「それがさ」
益満は不意にあいまいな顔になった。
「和宮を嫁にくれるかわりに、帝は幕府から攘夷をやるという一札をとったといううわさがある」
「幕府のぺてんに決まっておる」
樋渡がうなるように言った。
「うわさが事実なら、樋渡が言うとおりかも知れん」
と益満は言った。
「しかしぺてんだとすれば、こりゃただごとでは済むまいよ。天皇の妹御を騙《かた》りとるわけだからな。伊牟田のように血の気が多い連中が黙っているはずがないぜ。幕府もいよいよ深みにはまったか」
三
八郎が益満たちに話した水戸行きを決行したのは、翌文久元年の一月末だった。
従僕を一人連れただけだったが、下総の佐原まで行けば、同志の村上俊五郎がそこで剣術道場を開いている。村上に事情を話し、同行してもらおうと八郎は思っていた。
ところが、その村上に、八郎は佐原のはるか手前にある神崎という村で出会ったのである。神崎には、村上が懇意にしてつき合っている、石坂宗順という医者がいて、村上は折よくそこを訪れていたのであった。
八郎は、真壁屋という村の宿屋に、村上と石坂の二人を呼び、酒を飲んだ。二人が懇意にしているというのは、酒のためかと疑うほど、村上と石坂はぐいぐいと盃をあけた。石坂は背が高く、色白の壮漢だった。
「天狗ですか。ああ、あれはごろつきの集まりですよ」
酒の途中で、八郎が旅の目的を話すと、石坂が即座にそう言った。
「攘夷のために金を集めるなどと言っていますがな。つまりは攘夷を名義にして、あちこちと金を強奪しているのですよ」
「ほほう」
八郎は唖然として石坂の顔を見た。石坂はそれほど酔っているようにも見えなかった。村上を見ると、村上も石坂の言葉を裏づけるようにうなずいた。
「それも天狗でなければ人でないといった調子で、いばりくさっておるのです。往来ですれ違った百姓が、かぶりものをとらなかったと言って、立ち上がれないほど殴りつけたり、どっかでは、茶店に休んでいた侍に言いがかりをつけて、いきなり斬り殺して首を川に投げて行ったそうですよ」
八郎は、妙なことになったと思った。天狗党という集団が、そういう無法を働いている連中だとすると、むろん一緒に組んで行動する相手ではない。意気ごんで江戸からはるばるやってきたのだが、無駄になったわけだった。滑稽でもある。
「江戸で聞いていた話とは、だいぶ違っているようですな」
「そうですか。なにしろお話にならん連中ですよ。このあたりでは、天狗というのは蛇蝎《だかつ》のように嫌われています。ここまでくる間に、なにか感じませんでしたか」
「………」
そう言えば往来で行きあう村人が、妙におどおどして、逃げるようにすれ違ったりしたな、と八郎は思い返していた。
「や、無駄骨だったか」
八郎は盃をあけると、大きな声で言った。
「そんなふうだとは知らず、頼りになりそうな連中に思えたから会ってみるつもりだったが、少少見込み違いをしたようだ。止むを得ん。ここから戻ろう」
「まあ、そう言わずに、おれの道場で少し遊んで行けばよい」
と、村上が言った。村上は苦笑していた。
「天狗党などということを、一体誰に聞いたのだ?」
「いや、笠井がそう言っていたし、山岡からも聞いた話だ」
「虚名が伝わるのは早いな。いや、もっとも実情はわからんのだよ」
と村上は言った。
「このへんで見聞きするところは、いま石坂が言ったとおりだが連中はあるいは偽物かも知れんのだ」
「偽物?」
「つまりだ。天狗党というちゃんとした集まりはべつにあって、このあたりまで荒らしにくるのは、天狗の名を騙る無頼の徒かも知れんということも考えられる」
「………」
「しかし、まんざらそうとも思えんふしもあってな。連中も本物で、つまりは上の命令が行きとどかないために、勝手にあばれ回っているのかも知れん。そのへんのところが、すこぶるあいまいでな」
「はっきりせんわけだな」
「そうだ。ただわかっていることは、このへんを徘徊している天狗と称する連中が、ごく危険な連中だということだ。うかつには近づかん方がいい。連中は理由もなしに人を殺すぞ」
竹刀を持って撃ちあうと、五分の立ちあいをする村上の言葉だけに、八郎はその言葉から無気味な感じをうけた。
「わかった。どうもとんだ見込み違いをしたようだ」
「しかし、せっかく来たんですから、一度会ってみてはいかがですか」
不意に石坂が言った。石坂の顔は酔いで赤くそまっていたが、酔ってそう言っているのではなく、本気のようだった。
八郎は首を振った。天狗党というものが、そういうあいまいで凶暴な集団だとすれば、深入りしても益はない。それに危険でもある。
「いや、やめよう」
「潮来まで行けば、多分会えますよ。連中に」
「ほう」
「行かれるんでしたら、私もご一緒しますよ。むろん村上も行くでしょうし」
八郎は、石坂をじっと見た。改めて見なおすと、石坂はただの医者とは思えない不敵な顔つきをしている。
八郎は村上を見た。すると村上は八郎の気持を見ぬいたように言った。
「石坂は大胆不敵というか、バカというか、とにかく胆の太い男でね。このへんで天狗をこわがっていないのは、この男ぐらいかも知れんな。もっとも、その話には乗らん方がいいな」
「どうですか。連中の巣まで行ってみませんか」
石坂は村上の言葉を無視して言った。石坂は八郎に盃を献じた。
「連中が、攘夷などと立派なことを言いながら、なんでかかわりもない百姓町人に乱暴するのか。あたしはおりがあったら、そのへんのわけを一度連中に問いただしてみたいと思っていたんです。清河さんが連中に会うのは、理由もあることだし、いい機会だと思いますがね」
「ま、一杯いこう」
八郎は少しもてあまし気味に、石坂に盃を返した。
「しかしさっきからの話によると、先方は無頼の集まりとしか考えられんしな。そういう場所に三人で出かけたりすれば、面倒が起きたら助からんだろう」
「こわいですか?」
八郎は、石坂をじっと見つめた。八郎の険しい眼を、石坂は揶揄《やゆ》するような微笑で迎えて言った。
「なに、いざとなれば潮来見物にきたとごまかせばいいのですよ」
石坂の言い方に、不意に世をなめたふてぶてしい感じが現われたようだった。
──この男、前身は何者だ?
八郎は興味をそそられてそう思った。そして、いつの間にか、石坂の口調に乗せられたように、天狗に会ってみるのも悪くないと考えはじめていた。多少酔いが回ったせいもあるようだった。村上が言ったように、彼らの正体は不明なのだ。手のつけられない無頼の連中かも知れないが、きちんとした考えを持っている連中に行きあたる可能性も、まったく失われたわけではない。
──ここまで来たのだから、正体を確かめるのも悪くないな。
と八郎は思った。八郎は言った。
「行ってみますか」
「行って、連中を論破してやりましょう、清河先生」
と石坂が煽るように言った。村上はあまり気がすすまない様子をみせたが、しいて反対もしなかった。
翌朝、八郎の従僕を加えた四人は真壁屋を発って佐原にむかった。佐原から潮来まで舟で五里である。一たん佐原に行って村上の道場に寄り、それから舟を使うことにした。
「これは、おかしい」
佐原の町に入って、しばらく歩くと村上が呟いた。二月の日射しが、白っぽく乾いた町を照らしているばかりで、町は無人のように静まりかえっていた。ひっそりした町並がつづき、道には人っ子一人見えなかった。
四人は無言で、左右の家を眺めながら、町の中をすすんだ。どの家にも人の気配はせず、異様な静けさが町を支配していた。
「おい」
八郎が声を出して、小走りに走った。家のかげに、ちらりと黒いものが動いたのを見かけたのである。走り寄ると、四つぐらいの女の子だった。
女の子は両手を垂れ、眼をみはって近づく八郎を見つめたが、何を思ったのか、不意に道に坐りこんで、地面に額をこすりつけた。
「何をしてるんだね」
八郎は、後から追いついた村上に、苦い表情で聞いた。子供の様子が腑に落ちなかった。
「土下座している」
村上もにがにがしそうに言った。
「親に教えられているのだろう。われわれを天狗だと間違えている」
八郎は、まだ地面に這いつくばっている子供を、腕をつかんで立たせると、尻を叩いて家の方に追いやった。そのとき、うしろで石坂の大きな声がした。
「ちょっと。待った、待った」
と、石坂は大声で八郎と村上を呼びとめた。袴をひるがえして走ってくる。石坂は五尺六寸はある。刀を差しているが、それがよく似合い、医者には見えなかった。石坂の後から、八郎の従僕も走ってきた。
「二、三日前、天狗党の者がきて、町を荒らして行ったらしいぞ」
追いつくと、石坂は細い眼を光らせてそう言った。
「いま、そこの家で確かめてきた。ひどくおびえていたな。手あたり次第に、金と喰い物をさらって行ったそうだ。娘が二、三人さらわれて、親たちが半狂乱になったらしいが、幸いに宿まで連れて行っただけで、そこで酒の酌をさせて帰したということだ」
八郎と村上は顔を見合わせた。八郎は、不意に身近かに狂暴な者の匂いを嗅ぎつけた気がしたのだが、村上もそう思ったらしかった。茫洋とした表情が、竹刀を握って八郎とむき合ったときのように、険しい色に変っている。
「まだこのあたりにいる様子か」
と村上が聞いた。
「いや、引き揚げたらしい。だが、またくると言い残したそうで、町の連中はわれわれをどうやら天狗の一味と間違えているのだ」
「道理で気配が妙だと思った」
八郎はあらためて静まりかえっている町を眺めた。ひっそりした家家のたたずまいの陰から、内にひそんでいる人びとのおびえが伝わってくるようだった。
「江戸屋に行ってみませんか」
と石坂が八郎に言った。
「連中が泊ったという宿です。そこへ行ったらくわしい様子が知れるかも知れませんな」
「それはいい考えだな」
そこで連中の様子がわかり、天狗党と称している連中が無頼の集まりにすぎないことがはっきりすれば、ここから引き揚げてもいいと八郎は思っていた。
天狗党と連絡して、攘夷の勢力をまとめたいという望みは、昨夜の石坂の話で、八分どおり見込み薄になったと思っていた。だが、石坂にそそのかされた形で佐原までやってきたのは、八郎にまだその未練が残っていたからである。
攘夷を口で言うだけでは駄目だと思っていた。行動も、異人斬りの程度では姑息なのだ。幕府は、結局のところ傷口をふさぐように、そうした小口の事件を揉み消してしまうだろう。
同志にもまだ言っていないが、八郎は虎尾の会が攘夷行動に踏みきるときは、幕府の屋台骨をゆさぶるような大きな仕事をしなければ、と思っていた。そうやって彼らの手に負えない国の実情を幕府に思い知らせるべきだった。そうしないと新しい情勢はひらけて来ない。
横浜襲撃をくわだてているという水戸天狗党の噂は、八郎にとっては耳よりな情報だったのだ。虎尾の会は、意気ごみはすこぶる盛んだが、徒党としての勢力はまだ微弱だった。
だが、その望みも佐原の町まできて、ほとんど消えたようだった。おぞましい劫奪のあとが残されているだけで、尊皇攘夷の徒党の感じは、匂いもしなかった。
「ここでひと休みして行きましょう」
石坂は、江戸屋の二階に上がると、八郎に言った。
「村上の家に行っても、酒はありませんからな」
あきらかに酒の催促だった。村上は苦笑したまま黙っていた。村上はここで剣術を教えているが、さほどはやっているわけではないようだった。それで石坂の家に遊びに行ったりしていたのだろう、と八郎は思いあたった。
八郎は手を叩いて、宿の者を呼んだ。番頭と思われる五十前後の年輩の男が上がってきたので、八郎は酒を頼んでから聞いた。
「ここに天狗連中が泊ったそうだな」
「はい」
男は膝をそろえてかしこまっていたが、八郎にそう言われると、ぴくりと肩をふるわせた。顔は伏せたままだった。
「どんな連中だったか、聞かせてくれんか」
「はい」
と言ったが、男は顔をあげなかった。かえってだんだんに頭を垂れて、低い声で言った。
「ごかんべんを……」
「なに?」
「そのお話なら、どうぞごかんべん願います」
「おかしいな。そんなにこわいのか」
と村上が言った。
「ここで聞いたなどと、誰にも喋《しやべ》りはせんぞ」
番頭はようやく顔をあげた。が、その顔はあわれなほど血の色を失っていた。番頭は哀願するような眼で、三人を見つめた。
「わかった。その話はよい。酒を運んでくれ」
八郎がそう言うと、番頭は救われたように立ちあがって階下に降りて行った。
女たちは姿を見せず、酒も番頭が運んできた。それで飲みはじめたが、ほかに客もいない様子で、階下もひっそりしているので、異様な雰囲気だった。
「おおよそ連中の正体は読めたな」
ひととおり酒がまわったころ、八郎は言った。
「野放図もなく荒らしまわっている様子だ。かかわりもないただの者たちを、こうまでおびえさせているようじゃ、とても尊皇攘夷の徒党とは思えん。世直しを志すなら、まずおのれの姿勢を正すべきだが、そういう連中じゃないらしい。よほど立派なことを考えているつもりで、庶民を侮りひとりよがりに傲《おご》っているやつらだろう。虫ずがはしる。会っても益ないと思うから、やはりおれはここから戻るぞ」
「ここまで来てですか」
と石坂が言った。石坂はぐびぐびと茶碗酒を飲み干しながら、眼は八郎に据えている。
「すぐそこにいますよ、連中は」
「しかし会ったところで仕方あるまい」
「論破してやるんです。そも、貴公らは何者かと。それでも尊皇攘夷の士かと」
「そういう論議を受けつけるような殊勝な連中なら、こういう無茶なことはやらんよ」
「いや、そうとも言えないぞ」
と村上が口をはさんだ。
「咎める者もなく野放しにしておるから、連中がつけ上がっているとも言えるのでな。近ごろは宿場役人などは、かえって連中の機嫌をとっている始末だ。いい機会だから、本拠に乗りこんで見ないかね。おれもここの様子を見て、少少しゃくにさわってきた。一度ド胆を抜いてやらんか」
「大江山の鬼退治というふうになってきたな」
と八郎は言って苦笑した。
四
神崎村を出てくるときは、あまり気乗りしない様子だった村上がそう言うのを、八郎はからかったが、村上の気持はよくわかった。傍若無人に村や宿場町を荒らし回っている連中が、泥棒、盗賊の看板をあげているなら話はそれなりにわかる。それが尊皇だ、攘夷だとえらそうなことを口にしているのは許せない、という気分は八郎にもあった。
「しかし三人で大丈夫かな」
八郎は、部屋の隅でつつましくあたえられた酒を飲んでいる従僕を指さした。
「あれは役に立たんぞ」
「大丈夫だろう。石坂は妙な男でな」
村上は、石坂に自分の茶碗を持たせ、酒をつぎながら言った。
「ヤブ医者のくせに、滅法剣が強い」
「ヤブ医者はなかろう」
石坂はにやにや笑いながら言った。
村上に言われるまでもなく、八郎は石坂を妙な男だと思っていた。昨夜、酔って話している間に、この男の学問の素養がかなりなものだということもわかって、八郎は改めて石坂の前身に興味を持った。
八郎がさぐりを入れると、石坂は案外すらすらと、もと彦根藩士だったが、十五のとき同僚を斬って追放されたという自分の経歴を語った。そしてそのとき自分も腹を切ったが、死に切れずに助かったなどと言い、着物の前をくつろげて腹を出し、そこにある傷を見せたりした。
「そうかね。おれは貴様は信州の百姓の出だと聞いていたがな」
なにか事情を知っているらしい村上がそう言ったが、石坂はその話はいいからいいから、とひどく曖昧《あいまい》なことをいった。そして急に、幕府お抱えの鍼医《しんい》だった、法眼石坂宗哲がおれの養父だと言い出した。だが、その宗哲の養子である自分が、神崎のような辺鄙な場所で医者をしているわけになると、言を左右にする感じで話そうとしなかったのである。
その話から八郎は、むかし塾にするつもりで買い、大地震で手放した薬研堀の家の持主が、石坂宗桂といい、宗哲の伜だったことを思い出し、眼の前の男にいっそううさんくさい気持をそそられるのを感じたが、そのことは口に出さなかった。
妙な男だが、こういう男が乱世の役に立つのかも知れんな、といまも八郎はそう思っていた。
「では、出かけるか」
ひとしきり飲んだ後で、八郎はそう言って立ち上がった。階下に降りると、さっきの番頭ふうの男が、心もとないような足どりで奥から出てきた。そしてその後から、主人夫婦、女中などが五、六人、ぞろぞろと現われて、四人を見送った。酒代はおそろしく安かった。
「やはり天狗と間違えられておる」
しばらく行って八郎がそう言うと、村上が、そのようだ、あれを見ろと言った。八郎は振りかえった。宿の入口に、見送りの男女がかたまって、じっとこちらを見ていたが、八郎が振りむくと、あわてて家の中に姿をかくすところだった。
「潮来にあたしが知っている茶屋があります。暗くならんうちに、そこまで参りましょう」
と石坂が言った。
「暗くなるとやばいですからな」
石坂は酒が入り、また八郎ともなじんでだんだん地金が出たのか、江戸の無頼のような言葉を使った。
三人が佐原から舟を出し、利根川をくだって津ノ宮の手前から左に掘割を入り潮来に着いたとき、まだ外は明るかった。
「まあ、せんせい。どうなさいました、いまごろ?」
石坂が馴染《なじ》みだという料理茶屋に行くと、おかみが驚いた顔で迎えた。浅黒い勝気な顔をした五十過ぎの女だった。まるっきり武家の身なりになっている石坂を訝《いぶか》しんでいる様子が見えた。
「天狗退治にきたぞ、おかみ」
「めっそうもないことを」
おかみはあわてて石坂の袖をひいて、上に上がらせた。八郎たちもその後から上がった。
「そんな冗談をおっしゃって、あのひとたちの耳に入ったらただじゃすみませんよ、せんせい」
廊下を奥の座敷に案内しながら、おかみは声をひそめて説教した。
「連中は、このあたりにいるんだな」
「いますとも。どうしてまた、こんな目立つ恰好をなさって……」
おかみはそう言い、八郎と村上にも眼を走らせた。
「皆さん、どっちから来なすったんです?」
「津ノ宮のところから掘割に入って、ずっと舟できた」
「それじゃもう、とっくにあのひとたちに知れていますよ。いまにおただしがありますよ。よそから来たひとは見のがしませんからね」
「それは都合がいい。われわれは待っておればいいわけだ」
石坂は八郎に眼くばせして言った。二月のはじめというのに、座敷は障子を開いたままで、火桶もいらないあたたかさだった。枯れいろの庭に、池の水がかすかな音を立てている。
「これは静かでいい」
八郎は一たん坐った座敷から、立って行って縁側に出た。軒から空をのぞくと、網目のように入り組んだ欅の枝先に、早春の澄んだ青空がひろがっていた。枝頭はかすかに赤らんで、春が近いことを感じさせた。うしろで石坂の声がした。
「おかみ。酒と女を頼む」
「酒はお持ちしますけど、女子衆はだめですよ、せんせい」
とおかみが言っている。
「どうしてだ?」
「みんなあちらに呼ばれているんです」
「へえ? それじゃ商売にならんじゃないか」
「仕方ありませんよ、ご時世ですから」
「ひどいことになってるな」
「ではお酒をお持ちしますけど、あまりお騒ぎにならないように願いますよ。せんせいは酔うと声が大きいですから」
座敷を出て行くおかみに、八郎はうしろから声をかけた。
「連中は何人ぐらいおるのかの?」
しっと口に手をあてて、おかみが戻ってきた。その顔にあきらかなおびえが出ている。
「大きな声をなさらないで。もう、誰が聞いているか知れませんから」
「わかった」
八郎も声をひそめた。
「で、何人ぐらいいる?」
「七十人ぐらいだという話ですよ。いえ、あたしは見たわけじゃありませんが、うちから行っている子がそう言ってました」
七十人か、と八郎は思った。一瞬感じたのは羨望の思いだった。七十人もの人数がいれば、かなりのことが出来るはずだった。
連中は七十人も集まって、このあたりの土地の者が顫《ふる》えあがるほど金品をかすめとって、何をやるつもりだろう、と八郎は思った。だが攘夷のためにそうしているとは、もう思えなかった。
──世の乱れを映している。
世の中が乱れるときは、その落とし子ともいえる異形の者が横行したりするのだ。彼らは、平時には現われない、その異様な行動でやはり時代につながっている。ここまで来てそういう集団が実在することを確かめたことは、必ずしも無駄とは言えない、と八郎は思った。
天狗が接触してきたのは、日が暮れ、三人ともかなり酔いが回ったころだった。従僕はさきに別部屋に引きとらせていた。
「どこからきて、どこへ行くか、それにお三方の名前をたずねておられます」
取りついだ番頭だという男が、緊張に顔をこわばらせてそう言った。
「そいつを、ここに呼んで来い」
酔いの回った石坂が大きな声でどなった。四十恰好の番頭は、飛びあがるように膝を浮かせ、石坂にすり寄った。
「お静かに願います。そんな大声を出さずに」
「聞きたいことがあるなら、ここへきたらいいのだ。顔も見せずに無礼だと言え」
「まあ、待て」
八郎が、困惑している番頭に助け舟を出した。
「われわれ二人は、江戸から来た者だ。石坂のことは近在の医者だと言っておけ。話があるなら面会の上で話す。名前もそのとき名乗ると伝えればよい」
番頭はひき下がって行った。しばらくして今度はおかみがやってきた。
「松本屋で会うから、あとで迎えをよこすと言っていますよ」
おかみは、いまはおびえを露わに顔に出していた。
「こんなことになるのでないかと、心配していました。どうなさるんです、せんせい」
「お招きをうけたら、行かんわけに行くまいよ、おかみ」
石坂は陽気に言った。
「さてと、それではふんどしを締めなおして出かけるか」
天狗の迎えというのを、三人は心待ちにしたが、それきりその夜の連絡は絶えた。
どうやら、連中は臆したらしいぞ。どうせその程度の奴らさ、と石坂はおだをあげ、村上も調子をあわせて、不意にどら声を張りあげて詩を吟じたりした。
八郎も飲み、鄙びた国の唄を披露した。だがその間に八郎は、漆黒の闇の中からこちらの乱痴気さわぎを、じっと窺っている者の気配を感じていたのだった。
五
「ひと騒動あるに違いないと思って、こちらも油断しなかったが、案外に何事もなく夜があけた。そして朝になって天狗党の者から連絡があったが、鹿島参りの人びとと見うける、邪魔はせぬゆえ、お通りあれという口上だった」
江戸に帰って、虎尾の会の集まりがあった席上で、八郎は水戸行きの結果を報告した。
「先方が接触を避けた意図はわからん。結局正体は知れずじまいだったわけで、それがしの計画は不首尾に終ったというしかない。しかし前後の事情から考えて、彼らが組むべき相手でないことは明らかなようだ。名分がどのようであれ、手向うすべを持たぬ町人百姓を脅して、物をかすめ盗っている連中と組むことは出来ん」
八郎は、うつむいて黙黙と聞いている同志を見回しながら言葉を強めた。
「やはりわれわれは、われわれ同志の力をたくわえて、自身の手で攘夷の旗上げをやらねばならんということだろうな。変な連中と組んだりするのは考えものだ」
「賛成だ」
と、伊牟田が言った。
「その意味では、水戸行きも無駄骨というわけではなかった。石坂という屈強の男を同志にも出来たしな。彼は来月には出府してくる。また、かねて話しておいた川越の西川、北有馬の両君を、正式に同志に迎えたいと思うので、月半ばごろ、改めて川越へ行ってくるつもりだ」
八郎は話が一段落すると、笠井伊蔵に命じて土蔵に酒を運ばせた。お蓮も手伝って、肴《さかな》を運んだので、土蔵の中の部屋は、急に打ち解けた空気に変った。
「盟約書を作らにゃいけませんな、清河さん」
と山岡が言った。
「われわれが拠って立つ大義名分を明らかにして、その旗印のもとに、血よりも濃い盟約を結ぶべきです」
「それなら清河にまかせたらいい。彼は学儒としても一流だ」
と益満が言った。すると伊牟田がぐいと盃を飲み干して、鎌首をもたげるような恰好で言った。
「盟約書もいいが、攘夷実行はどうなる。そちらの方も相談しようじゃないか」
「伊牟田は例の異人を斬ってから血に餓えたようなところがあってな」
益満がからかった。みんながくすくす笑うと、益満は調子に乗って言った。
「そばへ寄ると、血なまぐさくてかなわん」
「それがしの考えを言おう」
と八郎が言った。
「井伊を斬っても幕閣が倒れたわけではない。ただいささか方針が変ったかと思うほどのもので、井伊の代りはいくらも出てくる。異人斬りもしかりだ。幕府が謝り、先方にあまりに事を荒立てて、せっかく開いた国交を切ってはまずいという欲がある限り、つまるところはなあなあで事がおさまる」
「………」
「ここはなあなあでは済まされない一大打撃を、幕府、異人双方に与える策が必要だ。それがわれわれ虎尾の会の攘夷でなければならんと思う。すなわち横浜の焼き打ちこそ上策だ」
「………」
「これは以前に樋渡も言ったし、また水戸天狗党が考えているとも聞いたことだ。誰もが考えることかも知れんが、実行となると至難だ。それがしは、われわれ虎尾の会の手でそれをやるべきだと考える」
「ちぇすと!」
と伊牟田が叫んだ。
「横浜を焼くのは、幕府にごまかしのきかぬ傷手をあたえるのが目的だ。その上で天下の尊攘の諸君に檄《げき》をとばし、一大勢力をまとめて天子にその旨を奏上するなら、いささか天下にゆさぶりをかけることになるかも知れぬ」
八郎の口調はしだいに演説ふうになり、八郎自身自分の弁舌に少し酔っていた。以前から頭の中にあったその構想が、いまは光を帯びて前途に輝いているのを見た気がした。新しい時代は、ひょっとしたらこの蔵の中の集まりから始まるかも知れないではないか。
「聖上の攘夷の御志は固い。おそらくわれわれがしたことを嘉《よみ》し給い、お言葉を賜わり、旗をさずけられるだろう。そうなれば、われわれは天下に号令する立場になる。時代はわれわれによって、新しい夜明けを迎えようとしておるのかも知れぬ。そうは思わんか、諸君」
そのとおりだ。いいぞ、という声が起こった。八郎の声は太く明晰で、聞く者の腹にひびく。ほかにはそんなふうに話せる者はいなかった。八郎の演説は、それまであいまいだった虎尾の会の盟主の座に、八郎が坐ったことを示したようだった。みんながそう感じ、八郎自身もそのことを感じていた。
「それで、焼き打ちはいつ決行する?」
性急に伊牟田が言った。樋渡も神田橋も、眼を光らせて八郎を見つめている。
「来月になると、さっき申した石坂がくる。また安積も下総から引きあげてくるし、西川、北有馬の両君も諸君に紹介できよう。顔がそろったところで決行の時期をじっくりと相談しようじゃないか」
八郎はそう言い、暫時失礼すると言って部屋を出た。
八郎が、母屋の書斎に入ると、同時に部屋の外に足音がして、山岡が顔をのぞかせた。
「ちょっと、邪魔していいですか」
「いいよ」
「友人に松岡という者がおります。松岡|万《よろず》」
山岡はきちんと坐って、八郎の眼を真直ぐみるとそう言った。
「それがしと同じく幕臣ですが、近ごろの幕府のやり方には大いに不満を持っていて、尊皇攘夷の志厚い人間です。剣をよく遣う。いつも白柄朱鞘の刀を帯びています」
「白柄朱鞘か」
八郎は眼に笑いを含ませて山岡を見た。
「そういう人は、内心に鬱屈を抱えているものです。面白そうな人だ」
「同志に誘ってもよろしいですか」
「そうしてください。一度会ってみましょう」
山岡は一礼したが、不意に改まった口調で言った。
「さっきのお話には、気持が奮い立ちました。しかし本当に焼き打ちをやる気ですか」
「やるよ」
と八郎は言った。だが微笑していた。土蔵から母屋にもどる間に、八郎の心は平静さをとりもどしていた。
「もっともそれは先のこと。石坂らを加えても、まだまだ、旗上げ出来る人数じゃありませんよ」
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男 の 首
一
母屋で、西川と北有馬がお蓮に茶をふるまわれていた。二人は、八郎の手紙で、川越在の奥富村から呼び出され、四半刻ほど前に清河塾に着いたばかりだった。
奥富村で、西川は医師を開業し、北有馬は私塾を開いていた。二人は早くから伊牟田尚平と知り合い、また二人が住んでいる奥富村の広福寺の住職章意が、もとは水戸藩家中の子弟で、千葉道場に通っていた八郎の剣友だった縁から、八郎とも交際していた。塾の内弟子の笠井は、西川の世話で八郎の塾にきている。
二人は今年の三月、下総から出てきた石坂、安積と前後して八郎の塾を訪れ、同志に紹介されて正式に虎尾の会に入会していた。西川も北有馬も、早くから尊皇攘夷に心を寄せ、北有馬は来たるべき行動の日にそなえて三年前に妻と離別しているほどである。北有馬は肥前久留米の人間で、安井息軒門の秀才だった。そして妻須磨子は息軒の娘だったので、北有馬は自分が国事にかかわることで、義父であり師である息軒に迷惑をおよぼすことを恐れ、妻子を離別したのであった。
同志に加わると、二人はその後たびたび連れ立って、お玉ヶ池の清河塾を訪れてきた。そして二カ月経っていた。八郎は今日、重要な協議があると言って、同志を呼びあつめたのである。
母屋の軒ばに、時どき日が光った。だが五月もすでに半ば近く、季節は梅雨に入っている。日射しは急に薄れてしばらく霧のような雨を降らせ、また不意におどろくほど明るい光を地上に投げかけたりした。さだめない空模様だった。
「家内がこわがりましてな。江戸へ出かけると言うと、行かんでくれと頼みよるです。往生しますな」
と西川が言った。
西川は家代代の医師だが、三十を過ぎてから江戸に出て、佐藤一斎、尾藤二竹に学び、また剣を井関五郎に、鈴木彦之進に長沼流兵学を学んでいた。四十半ばながら、精悍な風貌をしている。
その顔を苦笑にほころばせて、西川は言葉をつづけた。
「泣きますからなあ、意気地のない女です」
「おかわいそうに」
とお蓮は呟《つぶや》いた。お蓮は胸がしめつけられるのを感じている。西川の妻女の懼《おそ》れは、自分の懼れでもあった。泣いて頼むという、その妻女の気持が、じかに伝わってくる。
──男たちは……。
とお蓮は思う。なぜ天下国家だの、時勢だのと言うことに、まるでのぼせ上がったように夢中になれるのだろうか。いまにも刀を抜きかねない顔色で激論したり、詩を吟じて泣いたり出来るのだろうか。
あるとき、酒を運んで行ったお蓮は奇妙な光景を見ている。
山岡を先頭に一列につながって輪を作った男たちが、奴凧《やつこだこ》のように肩をいからし、唄にあわせて、一歩踏みしめるたびに突っぱった肩を前につき出して、土蔵の中を歩きまわっていたのである。八郎もその中にいて、物に憑かれた顔で口を一杯に開き、肩をいからして床を踏みしめていた。お蓮を見ようともしなかった。
あとで八郎に聞くと、それは山岡が考え出した豪傑踊りというもので、伊牟田や樋渡らがあまりに血気にはやることを言うので、気を逸らすために踊らせたということだった。
そう聞いて、お蓮は思わず口を覆って笑ったが、それで安心したわけではなかった。酔って、鬼のように顔を赤くした男たちが、唄声だけは外をはばかって低声に、床を踏み鳴らし、酒くさい息を吐いて部屋の中を踊り回っていた光景は、物に憑かれたとしか見えなかったのである。
そしてその中に、分別盛りの西川も、いま眼の前で静かに茶を飲んでいる北有馬も加わっていたのだ。男というものは、なんと奇妙なことに熱中出来るものだろう。
妻女の愚痴をこぼしてから、西川が言った。
「北有馬は若いが、さすがに人物が出来ておる。今日を見越して、妻と離別しておる。わしもそうしたいが、この年になっては手遅れでな」
「そんなふうにおっしゃっては、ご新造さまがおかわいそうですよ」
お蓮はたしなめた。
「男のひとが何をなさろうと、女子はそのあとについて行くしかないのですから。いたわってあげてくださいませ。北有馬さまは……」
お蓮は傷《いた》ましそうに北有馬を見た。
「そのあと、ご新造さまにお会いになってはいらっしゃらないのですか」
「はあ」
「一度も?」
「はあ。もはや他人ですから」
北有馬は静かな声で言った。色白な顔に、微笑を含んでいる。その表情から、お蓮は近ごろの八郎から受けるものと同質のものを感じ取っていた。
八郎は時どき狂ったかと思うほど、熱っぽくお蓮を求めた。夜の床で、これまで試みたこともない姿勢を強いたあとで、どのようなことがあろうとも耐え抜け、死ぬな、と囁《ささや》いたりする。
だが次の日は、険しい表情で母屋と土蔵を往復し、お蓮と顔をあわせても、ふと他人のような眼で見据えたりする。
北有馬が妻と別れたとき、二つの子供があり、妻女の須磨子はもう一人の子を腹に抱いていたと聞いている。だが、男たちはいま、妻や子と別れてどこかに行こうとしていた。何度聞いても心に馴染まない、尊皇とか攘夷とかいう世界に。
「しかしご新造はえらい」
と西川が言った。
「びくともしておらんですからなあ。清河さんもえらいが、ご新造もえらいと、家内にも言うて聞かせておるんですが……」
「いいえ、私も同じことでございますよ」
お蓮は笑った。
「毎日、何事も起こらなければいいと、はらはらしております。いつでも死ねる覚悟をしておけ、などと言われますと、正直こわくて……、血が凍ります」
武家育ちの女は、こういうことを決して言わないだろうと思いながら、お蓮は正直にそう言った。私は武家の女ではない。草深い田舎医者の娘で、女郎に売られた女だ。
そのとき、襖《ふすま》の外に足音がした。
二
顔を出したのは内弟子の笠井だった。笠井はみんな集まりましたので、向うへと告げた。
西川と北有馬が笠井の後から土蔵に去ったあとも、お蓮はじっと坐りつづけていた。
──あのひとは、前と少し変ったかも知れない。
お蓮はまた、八郎のことを考えていた。
あるときお蓮は、土蔵で八郎が演説しているのを聞いたことがある。淀みのない弁舌だった。声音も気魄に満ちていた。そのとき伊牟田が首をあげて何か言った。すると八郎は伊牟田の方にさっと膝をむけて、ぴしりと言い返したのである。応酬の中味はわからなかったが、伊牟田がそのままうなだれてしまったので、八郎の態度はひどく高飛車に見えた。
そういう態度は、以前の八郎にはなかったものだった。塾生を教えている八郎は、懇切な物言いをし、出来がいい者も、そうでない者も平らに扱った。声を荒げるようなことはめったになかった。
この間まで剣術を習いにきていた小栗篤三郎を、お蓮はあまり信頼していなかったが、八郎は、小栗には小栗の見どころがあるよ、と言って平然としていた。そういう八郎を、お蓮はこのひとはいずれ海のように心のひろい大学者になるに違いない、とわが夫ながら畏敬の眼で眺めていたのである。
ところが近ごろ八郎は、時どき露骨ないら立ちを示すことがあった。ある夜、みんなを送り出してから土蔵にもどると、八郎がまだ行燈の下で腕を組んで坐っていた。そしてお蓮をみると、激しい口調で言った。
「伊牟田はせっかちに過ぎ、山岡の考えは姑息にすぎる。どうにもならん」
それはお蓮に同意をもとめたわけではなく、心の中にあるものを押さえ切れないで口にしたというふうだった。その証拠に、八郎はすぐそこにお蓮がいるのを忘れたように、黙然と自分だけの物思いに帰って行ったのである。
夫には、なにかほかのひとには見えない大きなものが見えているらしい。漠然とお蓮はそう感じることがあった。それが何かは、むろんお蓮にはわからない。尊皇だの、攘夷だの、あるいは時勢だのということは、八郎に聞かされたときはそうかと思っても、すぐに日常の暮らしに薄められて、お蓮から遠のいて行くのだ。
だが八郎が時どき見せる不機嫌ないら立ちが、そのあたりから来ていることは勘でわかった。八郎は、自分が考えているところまでみんなを引っぱって行こうとしていて、それが必ずしもうまく運んでいない様子だった。
──だが、どういうことになろうと、あのひとについて行くしかない。
お蓮はまた、いつものように、最後に落ちつく考えにたどりついた。あのひとに拾われなければ、私はまだ女郎でいただろう。
八郎の変り方は、八郎や同志がいま住んでいる世界の険しさからきていよう。そこであのひとと一緒に生きて行くしかないのだ。もう淡路坂に住んだころの、平穏な日日に戻ることは出来ない。
そう思ったときお蓮は、胸の中に過ぎ去った懐しい日日が、波のようにどっと溢れるのを感じた。お蓮はそっと立ち上がった。そろそろ酒の支度をしなければならなかった。
三
土蔵の中では重要な会議が行なわれていた。はずせない用があって欠席した松岡万をのぞいて、虎尾の会の同志すべてが集まっていた。
「しかし、これだけの人数がいてだ……」
伊牟田はぐるりとみんなを見回すと、険しい口調で言った。
「それで何も出来んとはおかしいじゃないか。出来ないのではなく、やらんのだ。おれにはそうとしか思えん」
「いや、清河だって、出来ないとは言っておらんよ。時期尚早といっている」
「しかし漫然と腕をこまねいていても、時期はやって来ないぞ」
「また、堂堂めぐりだ」
伊牟田の相手になって論争している池田徳太郎が、舌打ちした。だが池田は伊牟田のように殺気立ってはいなかった。池田は麹町に自分の塾を開いていて、鋭い頭脳を持つ学者肌の男だったが、腹の大きいところがあった。
池田は苦笑して、噛んでふくめる口調になった。
「そりゃやろうと思えば、横浜の焼き打ちはこの人数でも出来る。だが問題はそのあとだ。焼き打ちが目的ではなくて、われわれが目ざすところはむしろその後の旗上げにある。そこのところをコミで考えなければならん。それには、人数も足りんし、まだ時期ではないということだ。な、清河。そうだろ?」
八郎がうなずいた。
虎尾の会では、三月の末に盟約書をつくり上げた。二十六日から二十九日までの四日間、毎日のように同志が土蔵につめかけて案を練り、次のような文が出来上がっていた。
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およそ醜夷の内地に在る者、一時にことごとくこれを攘わんには、その策、火攻めにあらずんば能わざるなり。しかして檄を遠近に馳せ、大いに尊皇攘夷の士を募り、相敵するものは醜虜とその罪を同じうし、王公将相もことごとくこれを斬る。
一挙してしかるのち天子に奏上し、錦旗を奉じて天下に号令すれば、すなわち回天の業を樹てん。もしそれ能わずば、すなわち八州を横行し、広く義民と結び、もって大いにそのことを壮んにせん。いやしくも性命あらば、死に至るもこの議をやすんずるなし。
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八郎の日ごろの主張を、大幅に盛りこんだこの盟約書は、同時に尊皇攘夷の実行案でもあった。会の決起は、異人居留地の焼き打ちからはじまることを明記していた。だがそれは池田が言うとおり、事のはじまりで終りではない。
「じゃ、清河に聞くぞ」
と伊牟田は言った。
「決起するには、どのぐらいの人数がいると考えているのだ?」
「その前に、諸君に大事なことを申しあげたい」
八郎は重い口調で切り出した。
「それがしがずっと考えつづけ、まだ諸君に言わないでいた一事がある。それは……」
八郎は言葉を切って、みんなの顔を見回した。それを口にして同志を一挙に掌握したい気持と、口にした瞬間から、虎尾の会が置かれる立場の危険さを測る気持が一瞬交錯したが、八郎は言った。
「われわれの行動が行きつくところは、倒幕だということだ」
部屋の中が、一瞬ざわめいた。しかしすぐに静まりかえって八郎の言葉を待った。
「いずれ幕府を倒さねばならん。そういう日が必ずくるぞ、諸君」
と八郎は言った。八郎の目は光を帯びた。
「今日わが国が外夷の侮りを受けているのは、誰のせいか。諸君はすでにそのことをよくご存じだ。国内の論議が二分して大乱の相を呈しているのは誰のためか、これも諸君がよく承知していることだ」
黒船来航以来、幕府はことごとく施策を誤ってきた、と八郎は言い切った。八郎は幕府の外交の拙劣さを責め、その中に朝廷を巻きこみ、のちには朝廷の意志を裏切って今日の乱れを作った内治の混乱ぶりを指摘した。
「幕政の仕組みは、もはや今日のわが国を仕置きし、外夷に対処する力を持っておらん。幕府はすみやかに舞台からひっこむべき時期にさしかかっておる。だがもっともよく匂う者は、己れの臭みを知らんのだ。幕府は自らの衰弱に気づかず、責めを他に転じ、さらに愚かな弥縫《びほう》策に狂奔して日を過ごすだろうと思われる。今までどおりにな。その結果、だ……」
八郎は拳を膝に振りおろした。
「国内の混乱はやがて収拾しがたいところまで行くぞ。そしてその間隙に、外夷が乗じてくることも、掌を指すごとく明らかなことだ、諸君」
八郎は舌を休めた。だが、誰も何も言わなかった。八郎の熱弁に圧倒されたように黙りこくっている。
八郎は軽く咳ばらいしてつづけた。だが今度は声が低かった。
「ここまで言えば、諸君にもおわかりだろう。すべての元凶は幕府だ。倒すにしかず、とおれは考える。そして新しい仕組みに政治をゆだねるべきだ。水戸有志による井伊襲殺は何だったのか。あれは、だ。今日の幕府政治のありように、真向から異をとなえた快挙だったのだ。惜しいかな、水戸の諸君は思い違いをしていた。彼らは井伊という一奸賊を斃《たお》したと考えた。事実は違うのだ。もっとも、おれもその意味に気づいたのは近ごろだが」
「………」
「われわれは、彼らのあとに続くべきだ。だがわれわれは井伊を斃すわけではない。もう一度言うぞ。幕府を倒すにしかず、だ」
「面白い」
沈黙を破って、樋渡がうなるように言った。
「話がでかくなってきた」
「でかくもなったが、清河の話で、状況がわかりやすくなったな。しかし情勢はいま和宮のご降嫁をめぐって、公武一体の方向にすすんでいる。倒幕まで行かずに、そのあたりで国内が一致し、幕府も政策を根本的に改めるということは考えられんかな」
そう言ったのは益満だった。益満はいつも面白いことを言ってみんなを笑わせるが、いざというときには緻密な考えを述べる男だった。
八郎は鋭く益満をみ返し、そういう考え方が出来ないわけではない、しかし、と言った。
「しかし皇妹降嫁のことも、おれに言わせれば、さっき言った幕府の弥縫策のひとつに過ぎんな」
「おれは、幕府が皇妹をいただくかわりに、攘夷を密約したという情報に興味を持っている。その後探ってみたところ、どうやらその話は本物らしいのだ」
「あるいは事実かも知れんな。しかし益満」
八郎はおだやかに説得する口調になった。
「幕府に攘夷は出来んよ。その力はないぞ。攘夷をやるよりは、朝廷をたぶらかす方が、彼らには似合っている」
「そうか。やはりぶっ倒すしかないか」
「みんな、聞いてくれ」
八郎は同志に顔をもどした。
「今日は思わず倒幕ということを喋ったが、これはあくまでおれの腹の中にあることだ。益満が言ったように、情勢はまだしきりに動いている。幕府が攘夷を約束したというなら、われわれは、彼らがそれをどう始末をつけるか、じっくりと見きわめることも必要だと思う。時期を待つということは、そういうことだ」
「………」
「いずれ倒幕まで行くだろうというおれの考えは、まず動かないが、これをう呑みにして、先走った行動に出るのは慎んでもらいたい。ひと言でも洩れれば、首がとぶぞ」
みんなは黙黙とうなずいた。八郎は伊牟田に声をかけた。
「さっきの話だが、おれはそこまで考えてしまったから、焼き打ちもうかつには踏みきれんと思うわけだ。焼き打ちをやって、そこで腹を切って死んでもいいというなら別だ。しかしそのあとに攘夷の旗上げがあるし、それはやがてきたるべき倒幕につながっている」
「わかった」
「大事な人数だ。もう少し力がつくまで温存せんといかん。少なくとも五十人。欲を言えば二百人ぐらいの同志が欲しいわけだ。そのぐらいの人数が揃わんと、旗上げして呼びかけても、誰もついて来ないぞ」
「よし。さっき言ったことは撤回しよう」
伊牟田はいさぎよく言った。だがすぐにきり返すような眼で八郎を見た。
「しかし、同志をふやし、時期を待つといっても、いつごろ決起するという、およその目安というものがないと、張り合いがないぞ」
「それはそうだ。いま伊牟田が言ったことだが……」
八郎はみんなを見回した。
「さしあたって、決行の時期は今秋。そのあたりでどうだろうか」
「………」
「われわれはそれまで、一人でも多くの同志を獲得する。秋というのは、そのころになれば、さっき益満が言ったことも、動きがはっきりしてくると思うからだが、これはあくまで提案だ。ひとつ論議してもらいたい」
部屋の中はしばらくざわめいたが、焼き打ち決行は今秋ということは、さして反対もなく決まった。
八郎はその相談が一段落したところで、もう一度声をはりあげた。
「もうひとつ提案がある。それまで、虎尾の会を一時解散したい」
「酒を飲み過ぎるからか」
と益満が言った。むろん冗談だったが、益満の冗談はみんなに黙殺された。部屋の中は急に騒然とした。
「大事なときに解散というのは解せんじゃないか」
「何かわけがあるのか」
といった声があがった。八郎は手をあげて騒ぎを静めた。
「いま、山岡が話す」
「こういうことだ」
みんなが見つめる中で、山岡が口を開いた。
「つい二、三日前のことだが、ある人間と話している間に、突然に清河さんの名前が出てきた。清河さんが、水戸の天狗党と連絡をつけたという噂が、一部に出ているらしい。この前の水戸行きが、そんなぐあいに言われているわけですな。その人間は、この塾のことも知っていて、得体の知れない連中が、ひんぱんに出入りしているらしい、とも申した。得体が知れない連中というのは、つまりわれわれのことだ」
山岡はみじろぎもせず坐って、眼だけぎょろりと動かしてそう言った。
「むろん、その人物はおれがここに来ていることは知らずに、そう言ったわけだが、話の様子で、よほど前からこの屋敷が、奉行所の筋から目をつけられていることがわかった。それでおれから清河さんに、しばらく集まりを中止してほとぼりをさましたらどうかと、進言したわけだ」
「用心はしているつもりだが、始終見張られているとなると、どこから事が洩れないものでもない。一時解散が適当ではないかと考えた」
と八郎も言った。
「ことに薩摩の諸君には、ヒュースケンを斬った前歴がある。自重した方がよさそうだ」
「樋渡、伊牟田、石坂といったところは、人相が悪いからな。眼をつけられたのは、このへんからではないか」
と益満が言ったので低い笑声があがった。益満は笑い声に気をよくしてつづけた。
「おれのようにいい男ばかりだったら、幕吏が眼をつけるわけはない」
「そういうことだから、ここは山岡のすすめにしたがって、いい男も人相険しいのも、一たん解散することにしたい。どうかね」
不満そうな者もいたが、結局秋までは会合を見あわせるということに意見が落ちついた。
「解散といっても約を解いたわけではない。秋には新しい同志を加えて、ふたたびこの部屋で相まみえよう。そのときは、われわれ虎尾の会の決起も近きにあるとご承知ありたい。諸君、その日までくれぐれもご自愛を祈る」
八郎はやや感傷的に言葉を結び、酒を運ばせるから、今夜は十分に飲んでくれと言った。長い会議の途中で、日が暮れていた。行燈の光の下にみんなはそれぞれ手足をのばし、疲れをほぐすために首を曲げたりした。
「山岡君」
八郎は立ち上がって山岡を呼ぶと、先に立って土蔵を出た。そして母屋に入ると、お蓮に土蔵の人びとに酒を出すように言いつけた。
四
「君と話をつけておきたいことがある」
書斎に入ると、八郎は山岡に言った。山岡は軽く頭をさげてから、じっと八郎を見た。
「倒幕の一件ですよ」
八郎はずばりと言った。知り合ったころから、山岡は八郎に丁寧な言葉を使ったが、八郎も山岡にむき合ったときは、劣らず丁寧な口調で話した。同じ古いつき合いでいながら、伊牟田や樋渡のように、ざっくばらんな物言いは出来なかった。
山岡が幕臣で、八郎が処士だからということではなかった。また二人の間に隔意があるわけでもない。ある意味では、八郎と山岡は、同志の中でもっとも親密に結びついていた。二人の物言いが自然にそういう形をとるのは、山岡が八郎になみなみならぬ尊敬の念を抱いているせいであり、そして八郎もまた、この年少の友人に、ひそかに敬愛する部分を見出していたからである。
山岡は依然として、黙って八郎を見まもっている。
「さっき言ったとおり、私の考えが行きついたところは、尊皇倒幕です。しかし君は幕臣だ。私が言うことは聞きぐるしかったと思う」
「………」
「虎尾の会は、尊皇攘夷で結びついた徒党だ。君はそれに賛同して同志となった。しかしいま、私の考えは変って、虎尾の会は倒幕の尖兵であるべきだと考えている。私は幕府は内側から自然に潰れるだろうと見ていたが、実際にはそういうものではない。いずれは倒幕挙兵が必要になるという見通しは、そこからきています」
「………」
「幕臣の君に、これに加われということは出来ない。どうなさる?」
八郎はじっと山岡を見つめた。
「虎尾の会を脱けたいというなら、私にはそれをとめることは出来ない」
「しかし、幕府が政策を改めて、攘夷に踏みきるようであれば、討幕はいらんことでしょう」
「それはそうだ」
「尊皇は、幕府の政策と矛盾しません。幕府の内部にも、尊皇の人はいます。それがしが会を抜けるかどうかは、そのあたりを見きわめてからでも、遅くはないと思いますが」
八郎はうなずいた。そして立ちあがって障子を開き、しばらく黙って外の様子を窺ってから、また山岡の前にもどった。そして不意に低くはげしい声で言った。
「山岡君。君はやはり幕府内部のひとだな。ようがんすか(よろしいか)」
八郎の言葉に国の訛《なま》りが出た。
「尊皇攘夷は幕府の命取りだ。権力というものは、絶対に自分を危うくするようなことはやらんのです。益満はああ言っているが、見ているがいい。彼らはあらゆる手段をつくして、攘夷の約束などごまかしてしまうはずだ」
「………」
「私は、次にくるのは多分王政の世だという気がしている。山岡君、君は幕府と手を切れ。いや、幕臣をやめよと言っているわけじゃない。気持のことを言っている」
「………」
「きたるべき王政の日のために、手を貸して欲しいのだ。いざというときは、倒幕もいとわんと、そこまで腹を決めてくれ。尊皇は、君の信念だろう?」
八郎は膝をすすめて、山岡の眼をのぞきこんだ。突き刺すようなその視線を、山岡は静かな眼で受けとめていた。真剣をとってむきあったような緊迫した空気が生まれたが、山岡はついに表情を変えなかった。
長い睨みあいのあとで、山岡は軽くまばたきをすると、きっぱりと言った。
「しかし、それがしは徳川に弓ひくことは出来ません」
二人はそのあとも、しばらく無言で睨みあったが、八郎の方がゆっくり身体をひいて微笑した。
「わかった。さもあらんですな。いま言ったことは、全部忘れていただきたい」
では、土蔵へ行って、少し飲みますかと言って、八郎は立ちあがった。山岡が後につづいた。行燈だけが残って、人のいない部屋を照らした。
二人が土蔵に去ったちょうどそのころ、黒い人影がひとつ、塀をのりこえて屋敷の中に走りこんだ。軽捷な身ごなしの男だった。男は母屋の八郎の書斎の外に、しばらくじっとうずくまったあと、今度は土蔵の高い窓の下に行った。足音ひとつたてなかった。
くぐもった笑い声や唄声が、微かに外に洩れてくる。男は壁に貼りついて、じっとその物音を聞いたが、もう一度地を這うように庭を駆けぬけて、母屋の床下に入ると、その闇の中で動かなくなった。
塾の近くに信濃屋というそば屋がある。八郎たちは気づかずに、そこからそばを取りよせて喰ったりしたが、そのそば屋の亭主宇兵衛という者が、奉行所と連絡がついている岡っ引だった。湊川というしこ名で、草相撲の大関を張ったという肥った男だった。亭主は、愛嬌がある笑顔で商いをしながら、眼は油断なく清河塾に出入りする男たちを見張り、夜になると、屋敷うちにひそかに使っている下っ引を忍びこませていたのである。
虎尾の会の盟約書が出来上がったころ。伊牟田は、王公将相もこれを斬るとあるが、攘夷に反対すれば、将軍家でも斬るのかと八郎にただした。
八郎がそうだと答えると、伊牟田は興奮して暗い庭に走り出た。そして躍りあがって土蔵のそばの椿の大樹に斬りつけ、見ろ、大樹(将軍家)を斬ったぞ、と叫んだ。
八郎たちはまったく気づかなかったが、そういうことも、宇兵衛の口を通じて、逐一奉行所の者に報告が届いていたのである。奉行所では、虎尾の会の全容をほぼ把握し、動かぬ証拠を固めつつあった。逮捕は目前に迫っていたのである。
ひそんでいる床上の部屋に男がきて、女と話す声がした。その女が清河の妻女で蓮という名前だということを、下っ引は知っている。彼は床下の闇の中で、身じろぎもせずその話し声を聞いた。
「お水ですか、池田さま。お水なら、そちらでございますよ」
とお蓮が言っている。それに答えた男の声は遠くて聞こえなかったが、しばらくしてさっきのその男の声が、今度はすぐ頭の上で聞こえた。
「当分の別れというので、少少頂きすぎた。伊牟田などは酔いつぶれてしまったようだ」
みしりと床板が鳴ったのは、池田という男が腰をおろしたらしかった。
床下の男は、黒布の泥棒かぶりの中で、上眼づかいに眼を光らせた。池田という、いましゃべっている男は記憶にないが、伊牟田という武士は知っている。
南国人らしい黒い顔に、子供のころの名残りらしく、薄くあばたの痕をうかべ、切れ長の鋭い目つきをしている男だ。あの男には、赤羽根橋で異人を斬った嫌疑がかかっている。よっく見張れと言われている。
──しかし、当分の別れというのは何だね?
床下の男は耳を澄ませた。いましゃべっている池田という男が、どこかへ行くとでも言うのか。
「ご新造も、一緒にお帰りになるそうですな」
「はい」
「清河は、安積と伊牟田を同道するつもりらしい。一緒に行かんかと言っておられた」
「まあ、さようでございますか」
「ま、ご新造も命の洗濯をして来られるとよろしい。日ごろわれわれのようにがさつなのが出入りして、さぞお気疲れでござろう」
女の短い、きれいな笑い声がした。
「はじめてお帰りになるわけですな」
「はい。五年ぶりでございますよ」
「お帰りになられたら、清河の親御たちにもよろしく申しあげて欲しいな。親御がせっせと金を送ってくださるおかげで、われわれもこうして飲めるわけでな」
また女の笑い声がして、そのように申しつたえます、という声がした。
「さて、あちらの様子はどうかな」
池田という男がそう言い、またみしりと床板が鳴った。男の足音が遠ざかり、しばらくしてお蓮も部屋を出て行ったらしく、軽い足音がつづいた。そのあとは、床の上はしんと静まった。
──清河が、国へ帰るのか?
当分の別れとは、そのことだと床下の男は思った。お蓮という女房も同行し、またあの険しい顔をした伊牟田、ほか一名を同伴するということは、ここ当分清河塾の集まりは閉鎖されることになる。眼をつけている連中が、一時ばらばらになるのだ。
──すぐ知らせねぇといけねえ。
床下にうずくまった男は、手に入れた情報の重さに気づいた。だが清河が国に帰るのがいつなのかは不明だった。池田という男の口ぶりからその日が近いことは推察がついたが、もっと確実な日取りを手に入れたいと思った。
下っ引は痛んできた腰をかばって、身じろぎして身体のむきを変えると、辛抱強く床の上の会話を待ちうける姿勢になった。
五
書画会というものがある。蘭亭会、西園会といった集まりまであって、こうした集まりでは毎月のように書画会を開いていた。
場所は柳橋の万八楼、河半、東両国の中村屋など、貸座敷を兼ねる料理屋である。書画会を開く本人と、賛助して出席し、書なり画なり書く有名人の顔触れが決まると、会場の料理屋では門前に披露目の看板を出して客を呼ぶ。
客は書画会の当日になると、祝儀の金を包んで会場にあてられている大広間に通り、そこで芸妓の酌で酒を飲み、その場で揮毫《きごう》される書、あるいは画を頂いて帰るという催しであった。書画会を開く側から言えば、それで自分の名を世間にひろめることが出来、集まる客の方では、酒色のもてなしづきで、著名な文人墨客の即席の揮毫を手に入れることが出来るので、催しは繁昌した。
五月二十日に、八郎はそうした書画会のひとつに出席した。虎尾の会の一時解散を決議した四、五日後である。
書画会を開いたのは、水戸の吉良弥三郎という人物だった。八郎とは一応の面識がある。だが、その席に招かれて、揮毫するほどの深いつき合いではなかった。
それなのに、二十八日には帰国するという、あわただしい日程を割いて出席したのは理由があった。吉良が、当日は水戸藩有志も出席する予定で、彼らは八郎と面談したいと言っていると伝えてきたからである。
八郎は、安積、伊牟田、池田、村上、山岡それに笠井伊蔵を誘って、万八楼に出かけた。虎尾の会の同志を誘ったのは、水戸藩士との会談にそなえたのである。
だが、八郎の期待はあっけなくはずれた。確かに吉良の知人だという水戸藩士が数名出席していたが、とおり一ぺんの挨拶があっただけで、そのあとべつに密談の場所を用意している様子もなかった。
混雑している満座の中で、尊皇だの、攘夷だのという話を持ち出すわけにはいかない。八郎はしばらく様子を見ていたが、相手にそれらしい気配がないことを確かめると、同志に眼くばせして盛大に飲みはじめた。
そのうち八郎は、吉良に引っぱり出されて、緋毛氈《ひもうせん》を敷いた揮毫の席に坐り、数点の書を書いた。八郎の書は見事である。眼が肥えている書画会の客は、その書を奪い合った。座は一段とにぎやかになった。吉良が八郎を呼んだ目的は、そこにあって、水戸藩士との面談というのは餌だったようだと、八郎は気づいていた。
揮毫を終って酒席にもどると、八郎はぐいぐいと盃をあけ、少し悪酔いした。その悪い気分は、夕方になって万八楼を出たあとも続いていた。
「諸君、ご足労をかけて済まんことをした」
外へ出ると、八郎は大声で言った。
「どうも無駄足をふませたようだ。どこかで飲み直そう」
八郎を先頭にした七人は、両国広小路を横切って、薬研堀から村松町の方に入りこみ、浜町堀を富沢町に渡った。
その男がまつわりついてきたのは、八郎たちが入船町通りを横切り、甚左衛門町まできたときだった。
甚左衛門町の北裏が堀江六間町で、ひところはかげ間茶屋が繁昌した、いわゆる葭町《よしちよう》の遊所である。
まつわりついて来たのは職人風の若い男で、手に棒を持っていた。その男は八郎たちが甚左衛門町に入ったころ、どこからともなく現われ、先頭にいる八郎にしきりにからみはじめた。
「ここは天下の大道だ。侍だからといって、大きな顔をして大勢で練り歩くんじゃねぇや」
男は悪態をつきながら、棒を構えて八郎の行手をふさいだりした。八郎は男を酔っぱらいだと思った。
日は落ちたが、外はまだ幾分明るみが残っている。酔っぱらいがくだを巻くには少し早すぎる時刻だったが、げんに八郎たちも酒気を帯びている。酔っぱらいは酔っぱらいに対して寛大だった。八郎はやわらかく男を避けた。
「天下の大道だからといって、棒を持ち出して人を脅していいという法はあるまい。ん?」
八郎は男をからかった。後で様子を見ていた山岡らは、どっと笑った。
だが男は執拗だった。ついにはっきりと前に立ちふさがり八郎が右に避けると自分もすばやく右に寄り、左を通り抜けようとすると、そちらに動いて棒を構える。しまいには八郎を指さして、泥棒呼ばわりをする始末である。
八郎は少し腹が立ってきていた。万八楼で思わしくない首尾に会って、悪く酔った気分が呼びもどされたようである。八郎は荒あらしい動作で男の棒を押しのけ、足を踏み出した。すると、男がいきなり棒で八郎の肩を打ってきた。一瞬、八郎の胸を驚愕《きようがく》が走りぬけたようだった。
「………」
無声の気合とともに、八郎は腰をひねっていた。八郎の腰はわずかに沈み、刀が光って、すっと鞘の中に消えた。
男の首が宙を飛んだ。そしてそばの瀬戸物屋の店先に落ちて、並べてあるどんぶり鉢の上で大きな音を立てた。首を失った男の胴体は、棒をしっかりと握りしめたまま、二、三歩よろけ、それから弾かれたように仰むけに倒れた。
そばにいた山岡にも見えなかったほどの、八郎の一瞬の居合業だった。八郎が腰に帯びている刀は備州住三原正家の作である。八郎の腕も尋常でないが、正家もすさまじい斬れ味を示したのであった。
男の首が、投げたように宙を飛んだのを見て、町を歩いていた人びとがわっと声をあげて逃げた。店先に出て、男のからみを面白そうに見ていた者たちも、あわてて店の奥に姿を隠した。急いで戸を閉める店もあって、薄暗い路上に、八郎たちだけが取り残された。
「気をつけろ。酔っぱらいかと思ったら違うぞ」
八郎が険しい声で言った。そのとき物陰から、急に湧くように人が出てきた。棒を持った者もいたし、鈍く光る十手を構えている男もいた。二、三十人ほどの人数が、あっという間に八郎たちの前後をふさいでいた。
「捕吏だぜ、こいつはどうも」
山岡があきれたように呟いた。伊牟田や、安積、村上らは、捕吏をみると、一斉に刀の柄に手をかけた。その様子を見て、捕吏たちはさっと後にさがった。そのまま、八郎たちがゆっくりすすむ方向に、時おりまわりを走りぬけながら、遠巻きに移動してくる。
薄暗い町に、こわいもの見たさの人が出、さっき逃げた者たちももどってきて、群集になろうとしていた。その人の群と、捕吏の動きを眺めながら、八郎はほかの者にささやいた。
「いいか。機を見て走るぞ。ばらばらに逃げるしかない」
その機会がきた。群集の中にいた見物の武士が、八郎の仲間と間違えられてつかまった模様だった。武士の怒声が聞こえた。この者を目がけて、何人かの捕吏が走って行った。
「いまだ」
八郎は強くささやくと走り出した。前をふさいでいた捕吏がぱっと道をあけた。その間を、八郎たちは一団になって駆けぬけると、次の町角でばらばらにわかれた。
後から執拗に追跡してくる足音が続いたが、濃くなる闇が、八郎たちに味方した。足音は次第に遠くなり、やがて消えた。
ただ一人だけうるさくくっついてくるのがいた。斬って捨てるかと思って振りむくと、十歩ほど遅れて、安積が巨躯をゆさぶり、喘《あえ》ぎながらついてきているのだった。見るからに鈍足で、よくつかまらなかったものだと、八郎はひやりとした。
八郎は立ちどまって、安積を待った。
「もう、大丈夫だろう」
安積が追いつくと、肩をならべて歩きながら、八郎は言った。
「ほかの連中はうまく逃げたかな」
「伊牟田はすばしこいし、村上、笠井も心配ないと思いますが……」
安積は、まだ大きく喘ぎながら言った。
「池田さんが、どうでしょうか」
「池田は頭が働くから、つかまるようなへまはせんだろう」
「それにしても、大変なことになりましたなあ」
と安積は言った。うむ、と八郎はうなずいた。安積が言う大変なことというのは、八郎が男を斬ったことを指していたが、八郎はほかにも気がかりなことがあった。
──何が狙いだったのか。
と、さっきの捕物さわぎを振りかえっていた。
八郎にからんできたあの男が、職人ふうのなりはしていたが実際には捕吏の一人だったろう、という推測は動かなかった。棒術の心得がある男だったのだ。男の最後の一撃には殺気がこもっていた。あの一撃をまともに喰えば、肩の骨を砕かれていたに違いないと八郎は思う。
男は思いきり打ちこんできたのだ。その棒をかわしながら、八郎がほとんど反射的に居合を遣ったのは、やむを得なかったのである。
六
男が斬られると同時に、多勢の捕吏が姿を現わしたとき、八郎は罠《わな》にかかったという気がした。だがおれを罠にかける理由は何なのか。それとも連中が狙ったのは、異人斬りの前科がある伊牟田なのか。
「ここは永富町ですなあ」
と安積が言った。八郎はわれに返った。
「そうか、永富町か」
「だいぶ遠くに来ましたなあ」
と安積は心細げに言った。
八郎と安積が、注意深く遠まわりして塾に帰ると、山岡をのぞく四人はもう塾にもどっていた。
「無事だったか」
土蔵の入口まで出迎えた伊牟田が言った。伊牟田は殺気立った顔をしていた。
「いま、ご新造にも話していたのだが……」
伊牟田は、熱い茶を運んできたお蓮を見て言った。
「清河と安積の帰りがおそい。これはつかまったに違いないから、奪い返しに行こうという話をしていたのだ」
「私はだいじょうぶでしょ、と申しあげたのですよ」
とお蓮が言った。お蓮は青い顔をしていた。
「それにしても、どうも腑に落ちんな」
と、茶をすすりながら八郎は言った。またさっきの疑問にとらわれていた。
「連中は待ち伏せして、罠をしかけた感じがしたが、そうは思わなかったか」
「おれもそう思った」
と池田が言った。
「何のためだ? おれをつかまえるためか。そうだとしたら、名目は何だろうな。まさか虎尾の会の計画が洩れたわけではあるまい」
「いや、そいつはわからんぞ」
と伊牟田が言った。
「幕吏という奴は油断できんからな。あるいは何か嗅ぎつけたかも知れん。ちょっとでも匂えば、つかまえて吐かせるという手だってある。大獄であれだけ人を殺した連中だ。汚い手を平気で使うぞ」
「だが、それもしっくり来ないな」
「しかし、とも角人ひとり斬ってしまったのだ。追われるぞ。どうする、清河」
伊牟田は、眼を光らせて声をひそめた。
「いっそ先手を打って、同志を集め焼き打ちを決行しないか」
「それは無理だ」
と池田が言った。
「石坂を呼びもどしたり、川越に使いを走らせたりしている間に、捕吏が飛んでくるぞ。清河が言うとおり、連中はどうもこっちの素姓を知っている気がしてならん。清河はとりあえず身を隠した方がいいな」
「そうするか」
と八郎は言った。まだ部屋の隅に坐って、じっと話を聞いていたお蓮が、顔をあげて八郎を見た。
「伊牟田はそう言うが、おれも清河と同じで、虎尾の会のことが洩れたとは思えん。まだ何もやっておらんしな」
と池田は言って腕を組んだ。
「だがそうだとすると、さっきの捕物が解せん。ひょっとしたら連中は、伊牟田を捕えるつもりだったかな」
「おれを?」
伊牟田は黒い顔に、引きつったような笑いをうかべた。
「おれが何でつかまらなきゃならん?」
「赤羽根橋の一件があるだろう。幕吏は探索をあきらめてはおらんぞ」
「じゃ、おれも身を隠すか」
と伊牟田がふてくされたように言った。だがその夜の相談で、実際に伊牟田が言ったように、一時川越の奥富村に姿を隠す八郎に、伊牟田、安積、村上が同行することが決まったのである。
その夜八郎は、床に入ってから、行燈の下で八郎たちの旅支度をととのえているお蓮を見ていた。いつもの、縫物をしているときと同じ顔で、無心に脚絆《きやはん》を縫ったりしているお蓮の姿が、八郎には哀れにみえた。
「そなたは、水野さんのところに行け」
と八郎が言った。お蓮は、八郎がもう眠ったと思っていたらしく、びっくりした顔で八郎をふりむいた。そして眼が合うと、微笑してうなずいた。
「あそこに身を寄せておれば心配はない」
「はい」
「すぐにもどってくる」
八郎はそう言うと、夜具を引きあげて眼をつぶった。
翌朝、八郎は著述したもの、書物などを荷物三個にくくり、郷里に送らせる手続きをとるために、弟の熊三郎を荘内藩邸にやった。そして甚左衛門町で男を斬った三原正家の一刀を、油紙に包んで土蔵の床下に隠した。それから持っていた百両ほどの金を同志に分けた。道場には熊三郎のほかに、笠井と池田が残ることになった。
「どうも昨日のことが気になるんで、捕吏が踏みこんで来たら、問いつめていきさつを確かめるよ」
と池田は言った。
すっかり用意がととのったところで、八郎は、ひとり水野行蔵の家に行くお蓮を門前まで見送った。風呂敷包みひとつを持ったお蓮は、八郎に見送られて門を離れたが、しばらく行くと振りむいて八郎を見、深ぶかと頭をさげた。八郎は、お蓮の後姿が、小さく町の人ごみに消えるまで、門前に立ちつくした。
四ツ(午前十時)過ぎ、八郎たち四人は、ひそかにお玉ヶ池の塾を出発した。捕吏はまだ姿を見せなかった。
そのときのことを、八郎は後に回顧して、次のように詩に作っている。
わが家を棄てて奚《いず》くにか去る
白日 方《まさ》に暖かなるの時
中心機あり 語るを用いず
ただ沈黙し 西にむかって馳す
一歩しては一顧し、意後に在り
知らず 終《つい》にこれ永く別離となるを
その朝見送ったお蓮と、塾に残った実直で寡黙な門弟笠井伊蔵の二人に、八郎はその後ついに会うことがなかったのである。二人はその後間もなく捕われ、やがて獄中に死ぬ。
八郎はそういう運命を知るよしもなかった。池田と山岡の家に立ちよって顔を出したあと、一路西にむかっていそいだ。
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逃 避 行
一
八郎たち四人は、入間郡に入るとはじめに小谷田村に住む同志北有馬をたずねた。北有馬は、そこで寺小屋を開いている。
だが北有馬は折悪しく不在だった。仕方なく足をのばして奥富村に行き、西川をたずねたが、西川も往診中で家にいなかった。
「どうする?」
と伊牟田が言った。梅雨の晴れ間の日射しは強烈で、伊牟田は顔から首にかけて、汗をしたたらせていた。だだっぴろい武蔵野の奥の野道を、草いきれに包まれて歩いている間にすっかり疲れはてた顔色だった。疲労は八郎たちも同じことだった。
「ここで西川を待たせてもらうか」
伊牟田は、未練そうに、いま出てきたばかりの西川の家を振りむいた。
「いや、よそう」
と八郎は言った。四人を迎えたときの、西川の妻女のおびえた顔が眼に残っていた。
「しかし、このクソ暑い野っ原に、いつまでも立っているわけにもいかないぜ」
伊牟田は疲れて、言葉まで乱暴になっている。
「広福寺へ行こう」
「前に聞いた、章意という坊さんのところかね」
「そうだ」
「しかしその坊さんは同志じゃないぜ」
「いや、信用できるひとだ」
八郎はそう言うと、先に立って歩き出した。村をはずれると、龍宮城のような白い袴腰の山門が見えてきた。桑畑の中に建つその寺が広福寺だった。
住職の章意は、八郎たちを迎えいれ、たずねてきたわけを聞くと、もと武家らしく明快な口調で、わかりましたと言った。
「そういう事情なら、西川さんのお家にいるよりは、ここに隠れている方が目立たんでしょう。幸いいい部屋がある。一服したらご案内しましょう」
章意が案内した部屋は、庫裡《くり》の納戸の上にある屋根裏部屋だった。上がり下りには梯子《はしご》をかけなければならない。ちょっとみたぐらいでは、そこに部屋があるとは知れないような造りになっていた。
「これはいい。ここなら見つからん」
伊牟田はよほど疲れたらしく、部屋に這い上がると、隅に行ってすぐ横になった。間もなくひどいいびきの声が起こった。
「これじゃすぐ見つかるわ」
村上が憮然《ぶぜん》として呟いたので、八郎と安積は苦笑した。
明りとりの小さな押し上げ窓があるだけで、暗い部屋だった。逃亡という言葉が、八郎の胸に明滅した。
──江戸はどうなっているのか。
と八郎は思った。男を斬った罪で、自分一人が追われているようであれば、伊牟田や村上、安積はここにいることはないのだ。ただ偶発的な事件とは思えないあの捕物が、虎尾の会の集まりにつながっているとすれば、慎重に行動しなければならない。それはいずれ池田から知らせがくるはずだった。
二
翌日になって西川が訪ねてきた。そして二十三日には、北有馬にも連絡がつき、西川も再びやってきて、その日は酒になった。
西川も北有馬も、四人が草深い奥富村まで逃げてきたことに驚いていたが、八郎が男を斬ったときの現場を見ていないために、楽観的なことを言った。
「そのうちにほとぼりがさめますよ。幕府の捕方も、まさかここまでは追って来ないでしょう。ま、ゆっくりしてください」
西川はそう言い、北有馬もひかえ目な口調で、喰い物、着換えなどは西川と二人で心配する、と言った。二人の言葉で、八郎たちも当分腰を落ちつける気になった。話は自然に時勢談議に移り、酒宴は夜遅くまで続いた。こそこそした酒ではなく、伊牟田は閉じこめられている鬱屈をはらすように、調子はずれの大声で唱ったりした。
だが、西川の観測は甘かったのである。翌日の午後、西川と北有馬は、約束を忘れないで米と青物を運んできた。そして、そのまま話しこんでいると、男が一人西川をたずねてきた。
西川は章意に呼ばれて下に行ったが、間もなくあわただしく八郎たちを呼んだ。八郎たちが降りて行くと、土間に立っている男が無言で頭をさげた。まだ二十すぎにみえる、身なりのきちんとした武士だった。
「わけがあって姓名を名乗れませんが、同志同様のつき合いをしている者です」
西川は男をそう紹介し、彼がここへくる途中で妙なものを見たらしい、と言った。
男は西川の家を訪ねるつもりで、奥富村にきたのだが、途中入間川宿を通ると、綿貫という豪商の店の前に、人だかりがしているのを見た。集まっているのは、ただの人間ではなかった。襷《たすき》、鉢巻に棒、刺股まで持った捕方《とりかた》だった。
同じ支度の男たちは、店の横の庭にも溢れていて、街道を通る人間に険しい眼をむけた。西川の友人だというその武士は、べつに咎められることもなく、その前を通りすぎたが、通りぬけざまに店をのぞくと、店の中に役人風の男が三、四人いるのが見えた。
「ざっと百人近い人数でした。宿の者に聞くと、彼らは三日前からそうしているそうです。役人の一人は鬼の儀平次という男だということです」
鬼の儀平次というのは、八州取締出役の吉田儀平次のことだ、と西川が補足した。
「西川さんから、こちらのことはうかがっていましたので、もしやかかわりあいがあるのではないかと、いそいで参りました」
若い武士はそう言って額の汗をぬぐった。よほどいそいできた模様だった。
八郎たちは顔を見あわせた。誰もが険しい表情になっていたが、まだ、その捕方が自分たちにかかわりがあるのかどうか、十分につかみかねている戸惑いが、みんなの顔に出ている。
「百人というのは、少し多すぎないか」
と村上が言った。言外に、こっちは四人だよという意味を含めている。
八郎にもその疑問があった。江戸から連絡があって、自分たちをつかまえるために集まっているとしたら、ばかばかしいほど大袈裟な人数だった。しかも三日前からそこにいるというのが解せなかった。その大がかりな捕物支度は、偶然にほかに捕物さわぎが起きたとも考えられるのだ。
「それがしが、ひとっぱしり様子をみてきましょう」
と西川が気軽な口調で言った。八郎は待て、と言った。八郎はまだ迷っていた。
「ひょっとして、われわれ目あての連中だとしたら、恐らく貴公も北有馬も、一味だと知られているぞ。近寄ってはあぶないな」
「なに、咎められたら扇町屋(入間川宿の南)へ、病人の手あてに行くと言いましょう」
と西川は言った。西川は落ちついていた。
西川と、知らせにきた男が寺を出て行くと、八郎はみんなを見回した。
「念のため、立ちのく支度をしておこう。もし連中が踏みこんできて、ここで斬りあいになっては、お住持に迷惑をかける」
「わしはかまわんよ」
と章意が言ったが、八郎は首を振った。
「それはいけません。こうして厄介になっているだけで、十分に迷惑をかけていますからな」
八郎たちは屋根裏部屋にもどって、旅支度をはじめた。支度はすぐに済んだ。
「あとは西川を待つだけか。それでは、おれはひと眠りするぞ」
伊牟田はそう言って横になった。よく寝る男だ、と村上が言ったが、伊牟田は間もなくいびきをかき出した。
北有馬も帰らずに西川を待ったが、日が落ちても西川は戻って来なかった。
「おかしい」
不意に膝を起こして、八郎がそう言ったのは、押し上げ窓の外が暗くなったのを認めたときだった。のみならず、外には微かな雨の音がした。いつの間にか降り出したようだった。
「様子をみてくる」
八郎は言い残して下に降りた。庫裡を出ると、暗い夜だった。雨の中を、八郎は背をまるめて山門まで走った。
──手間どりすぎている。
まだ戻らない西川のことを考えた。すると想像は悪い方に働いて、いきなり縛られた西川の姿が眼にうかんだ。八郎はあわてて頭をふって、その考えをふり捨てると、闇の中に眼をこらした。ぼんやりと物の形がみえたが、人の気配はなかった。
今度は西川の妻女の、心配そうな顔が思い浮かんできて、それは次に江戸を発つ朝、別れたお蓮の顔に変った。町の雑踏の中に消えて行った、心細げな後姿が思い出された。
──そう言えば、池田はどうした?
八郎は胸さわぎをおぼえた。もう一人戻ってきていない男がいた。今朝早く、八郎は章意から寺男を借りて、塾にいる池田に使いに出している。その男が、夜になったのにまだ帰っていなかった。
八郎は腕組みをといて、山門の壁から身体をひき離すと、背をまるめて道の方を凝視した。暗い夜だったが、さっきよりは眼が馴れて、入口の寺門のあたり、生垣、天台宗広福寺と刻んである石柱などがぼんやりと見えた。
その石柱の陰に、不意に人影が動いた。黒い人影は足音も立てず参道を横切って、右側のつつじの植込みの陰にかくれた。またひとり、人影が参道を横切った。そのあとは地面を打つ微かな雨の音だけになった。
八郎は静かに後じさって、山門を出ると、足音をしのばせて庫裡にもどった。土間に入ると、安積が立っていて、様子はどうですかと言った。
八郎は無言で安積の身体を押しかえして上にあがると、低い声で言った。
「どうやら、捕吏がきているようだ。西川はつかまったかも知れない」
安積は無言で八郎を見た。その顔に、強い緊張があらわれている。八郎はうなずくと、先に立って奥に入り、屋根裏部屋にのぼった。伊牟田は、まだいびきをかいていた。
「伊牟田を起こせ」
八郎は安積に言って、村上と北有馬にいま見たことを話した。村上はさっと膝を起こして刀をつかんだ。
「あわてるな。これからすぐに出よう」
「間にあうかな」
と村上が言った。村上は立ちあがって、用意していた鉢巻をきりりとしめた。八郎も鉢巻をしめた。その様子を目覚めた伊牟田が見て、いきなりどなった。
「来たか」
しっと八郎は言った。四人は手早く身支度をすませた。
「君も一緒に行かんか」
八郎は、四人が支度するのを坐ったまま眺めている北有馬に言った。北有馬は首を振った。
「いや、家に子供がいる」
北有馬は妻の須磨子を離縁したあと、二人の子供を引きとって育てていた。
「しかし連中が踏みこんで来れば、君もつかまるぞ」
「覚悟は出来ている。一人ぐらいは残っておらんと、連中も張り合いがあるまい」
北有馬は色白な顔に微笑をうかべた。
「それに、おれがなんだかんだとごねれば、多少は時を稼げるだろう」
「済まん」
「酒が残っていたな」
伊牟田が、きょろきょろと徳利をさがしながら言った。
「飲めない和尚に残して行くのももったいない。別杯としゃれるか」
男たちはあわただしく酒を酌みかわすと、階下に降りた。章意に事情を話し、丁重に礼を述べると、八郎たちは借りた蓑や合羽で身体を包み、外の闇に出た。
一たん右手の墓地に入り、そこから塀を乗り越えて、裏の桑畑に降りると、八郎たちは遠まわりして寺の東に出た。
雨は不意にはげしく降ってきて、四方の桑畑に騒然とした音を立てた。道にあがったとき、四人は無言で立ちどまって寺の方角を見た。無数の提灯《ちようちん》の光が、ちらちらと寺のあたりと思われる闇に動くのが見えた。脱出が成功したのは、間一髪の差だったのである。
「西川はつかまったに違いない」
と八郎は言った。すると村上が応じた。
「いまごろは、北有馬もな」
闇の道で、男たちがかわした会話は、それだけだった。あとは黙黙と所沢を目ざしていそいだ。暗い空から落ちてくる雨がその背を叩き、男たちは腹まで濡れた。暗い道に、雨がしぶいて光った。
──やはり虎尾の会が洩れたのか。
八郎は、足もとから腹まで這い上がってくる冷えに耐えながら、そのことを考えつづけていた。捕方の人数が多すぎた。ヒュースケン斬りの伊牟田をつかまえるにしろ、手先を斬った八郎をつかまえるにしろ、多すぎる人数なのだ。
しかも彼らは、様子をさぐりに行った西川を、うむを言わせず捕縛した形跡がある。一網打尽という感じがあった。彼らは、土蔵に集まっていた者すべてをつかまえようとしてかかって来ているのか。八郎は甚左衛門町で手先を斬ったあと、突然に湧くように捕方が現われたときの、無気味な感じを思い出していた。江戸の様子が気遣われた。
四人が江戸へ入ったのは、五月二十五日の明け方だった。四人は四谷の妓楼に上がりこんで、しばらく横になって休んだ。そこから、また連れだって鷹匠町の山岡をたずねたが、山岡は講武所に出かけて留守だった。
そこで四人は用心して二組にわかれ、別々に麹町の池田塾と、お玉ヶ池の清河塾の様子を探ることにし、落ちあう場所は昌平橋わきの大坂屋と決めた。
八郎と安積は池田塾に行ったが、ぴったりと門が閉じられて、中には人気もない様子だった。そこでさっき村上と伊牟田が回ったはずの八郎の塾に行ってみると、ここも門を閉じてひっそりしている。村上と伊牟田の姿も見えなかった。八郎は安積をうながして、いそいでその場所を離れた。
「どうもやられたらしいな」
「そうですか」
「一網打尽だ。みんなつかまったようだ」
やはり捕吏の狙いは、虎尾の会だったのだと、八郎は改めて思った。事件の輪廓がはっきりと浮かび上がってきたようだった。彼らは下っ引をからませ、わざと八郎に斬らせたのだ。そしてそこから虎尾の会の摘発に手をつけようと考えたらしい。その確信はもう動かなかった。八郎は胸が冷たくなるのを感じた。
──こうして市中を歩いているのも、危いのかも知れない。
と八郎はようやくそう思いあたっていた。八郎のこの考えはあたっていて、前日の二十四日、老中久世広周から、荘内藩に対して、八郎捕縛のために市中見回りの命令が出されていたのである。幕府は虎尾の会の全貌をほぼ把握しており、容易でない企てを持つ徒党として、追及をはじめていたのであった。
大坂屋に行って、八郎の推察ははっきりした。大坂屋には思いがけなく笠井伊蔵の叔母がいて、笠井、池田、弟の熊三郎、妻のお蓮、それに池田の妻のみちまで捕えられたことを聞いたのである。笠井の叔母は、おびえた顔でそう話し、最後にこう言った。
「伊牟田さま、村上さまもさっき見えましたが、このことをお話しましたので、すぐにどこかに行ってしまわれました」
三
幕府が、八郎の捕縛に本格的にのり出したのは、八郎が奥富村に着いた五月二十二日からだった。八郎は虎尾の会の首魁だった。しかしその八郎を、虎尾の会の統率者なるがゆえに捕縛することには、まだ無理があった。幕府からみれば、会は危険きわまりない芽だったが、虎尾の会そのものは、まだ何かをやったわけではない。しかし仕かけた罠にはまって、八郎が下っ引を斬ったことで、捕縛の名目がととのったのである。
その日荘内藩留守居黒川一郎は、北町奉行石谷因幡守に呼び出され、八郎の捕縛命令をうけた。黒川はやはり東条一堂塾に学んだ、八郎の先輩にあたる人物で、この日はじめて事件の詳細を聞いた。
荘内藩ではその夜、目付石塚要蔵を清河塾にやり、すでに八郎が塾にいないことを確認した。
荘内藩にその命令を伝える一方、翌日の二十三日、南北奉行所では同心二人に手付の者十人、計十二人ずつ、あわせて二十四人の捕方を編成して清河塾を襲わせた。
「逮捕する名目は何か、理由をうけたまわりたい」
留守番でいた池田は、捕吏を前に抗弁したが、捕吏たちは池田の抗弁を黙殺して、池田、笠井、八郎の弟熊三郎を捕縛した。
三人は塾から出るときは腰縄で、お玉ヶ池をはずれてから本縄をかけられたという。はじめ奉行所の仮牢に入れられて、吟味があったあと、三人は小伝馬町の牢に移された。
水野行蔵の家にいたお蓮には、荘内藩邸から捕吏がむかった。水野からそれを知らされると、お蓮は玄関に出て捕吏にむかい、身だしなみをととのえる間、しばらく待って頂きたいと言った。
自分の部屋にもどると、お蓮は鏡をのぞき、髪に櫛を入れた。お蓮は、鏡の中の自分の顔が、青白くはあっても取り乱していないのをみて、ほっとした。
お蓮は玄関にもどると、両手をついてお待たせしましたと挨拶し、それではおともいたしますと言った。水野は家の前に出て見送ったが、お蓮はしっかりした足どりで引きたてられて行った。
捕吏は池田塾も襲い、池田の妻みちを捕えたが、みちは身籠っていたので、奉行所で訊問されたあと、知人預けとなった。安積五郎は、当時亡父と懇意だった吉原の引手茶屋大和屋久兵衛宅に住んでいたが、捕吏はここも襲い、留守中の安積の書籍をことごとく没収した。
二十三日には、石坂宗順も捕縛されていた。石坂は、虎尾の会が一時解散ときまるとすぐ、書画会には加わらないで神崎に帰った。その日は佐原に行って病人の治療をしていた。
佐原には石坂の治療をうけている病人がかなりいて、石坂は時どき佐原をおとずれる。木屋という宿屋を常宿にしていた。ところがその日は木屋の風呂がこわれていて入れないというので、宿の者に案内されて裏の銭湯に行った。脇ざし一本だけ、提げて行った。中はかなりの人で混んでいる。石坂は裸になって身体を洗い、湯舟に入ろうとしたとき、前後から十人あまりの人間に組みつかれ、流しの上に押さえつけられた。同時に表からも捕吏が踏みこんできた。
石坂は首枷《くびかせ》と手錠をかけられ、唐丸駕籠で江戸へ送られた。
八郎が奥富村にいる間に、これだけの人間の逮捕が済んでいたのである。
清河塾には、二十三日の夜から荘内藩の者五人が、宅番として泊りこむことになった。むろん八郎が立ち寄るのを張り込んだのである。
翌日には、北町奉行所から同心十人、手付の者十人がきて、徹底的に清河塾の内外を調べた。すると土蔵の床下から、刀二振が出てきた。一本は八郎の三原正家で、もう一本は伊牟田がヒュースケンを斬ったときに使った三善長光の作と伝えられる無銘の刀だった。
老中から荘内藩に対して、八郎の捕縛のために、市中見回り命令が出たのはこの日で、荘内藩では、探索方の御徒一人と足軽二人という組合わせを二組、市中に出して見回らせることにした。
八郎が奥富村から帰った二十五日には、清河塾の見張りは奉行所の手に移り、同心二人と手付の者三人が張り込みを続けていたのである。
八郎は大坂屋で、笠井の叔母から事情を聞くと、ぜひとも山岡に会おうと思った。八郎には、まだ残る疑問があった。八郎は、手先を斬った一件にまったくかかわりのない石坂が、すでに逮捕されていることを知らなかったので、周辺の人間が逮捕されたのは、九分どおり虎尾の会が追及されているのだろうと思う一方で、もしやひょっとして、人を斬った自分が逃げ隠れしているために、お蓮や熊三郎までつかまったのではないかという疑いも捨て切れなかったのである。
山岡に会えばそのあたりの事情がはっきりすると思っていた。ほかに奥富村で西川、北有馬がつかまっていることは、まず間違いなかった。周辺の人間をこれだけ逮捕され、ひとり逃亡をつづけることに耐えられない気もした。
事情によっては自首して出るか、あるいはほかの者はかかわりがない旨の訴状を提出して、自裁するかを考えなければならない。その進退を決めるためにも、山岡に会わなければと思っていた。
八郎は、大坂屋で髪かたちから着ているものまで変えると、安積を宿に残して出て山岡の家にむかった。
すると、途中市ヶ谷御門近くの路上で、偶然に水野行蔵に会った。水野は驚愕した顔になって、無言で八郎を御門前にある市ヶ谷八幡宮の境内に誘った。
人気のない広い境内に入ってむき合うと、水野はすぐに言った。
「お蓮が連れて行かれたぞ」
「取り乱しはしませんでしたか」
「落ちついていたのう。きちんと身じまいをなおして引かれて行った。あっぱれな女子だ」
「縄は?」
「腰縄だけだった」
腰縄を打たれ、捕吏に囲まれて町を行くお蓮の姿が、八郎の眼にうかんだ。
「ところで、君はいままでどこサいたのだ?」
八郎が無言でうつむいていると、水野が非難するように言った。
「川越在の奥富村にいました。今朝江戸に帰ってきて、みんながつかまったことを聞いたばかりです」
「人を斬って、逃げ隠れするのはよくない」
水野はにがにがしげに言った。水野は八郎の尊攘行動をうすうす知っているはずだったが、今度の事件は、八郎が神田で人を斬ったことから起こったと考えているようだった。むろん怜悧《れいり》なお蓮は、事件と虎尾の会とのつながりに気づいたとしても、そのことを、水野に話したりはしなかったのだろう。八郎は黙っていた。
「で、これからどうするつもりだな?」
「山岡に会って、事情を確かめます」
「事情を確かめたところで仕方あんめい。聞けば、君はそやつを斬ったとき酔っていたと言うではないか」
「………」
「君の短慮のために、多くの人間が牢サつながれておる。お蓮などは、あのひよわな身体つきで、まことにあわれだ。少しでも早く、連中を牢から出すことを考えるべきではないかな」
「むろんです。それを必死に考えております」
「君は自裁すべきだ、清河」
と水野は強い口調で言った。
「それよりほかに、連中を救う手だてはあんめい。それとも自首して縄目の恥をうけるか」
「どちらにしようかと、いま考えているところです」
八郎は、静かに水野を見返して言った。
「しかしあなたのお指図はうけません。自分で決断します」
水野は八郎を見て、なおも不満そうに何か言いかけたが、不意に口を噤《つぐ》んで一瞥《いちべつ》を残すと、さっさと背を向けた。
──腹を切ってもいい。
八郎はそう思った。ひどく疲れていた。水野に言われるまでもなく、自裁してみんなが助かるものならば、そうしてもいいという気がした。
だが、その保証があるのか、どうか。八郎は重い足を運んで、山岡の家にむかった。山岡は、今度は家に帰っていて、八郎をみると無言で家の中にひき入れた。
「ご無事でしたか」
と山岡は言った。山岡の落ちついた眼をみると、八郎は昨夜からの緊張が、ゆるやかにとけて、気分が少し落ちつくのを感じた。山岡の妻女のお英が、茶を運んできたが、おひさしぶりですと、いつもと変りない挨拶をした。
「幕府に追われている人間に、茶など振舞って、かまわんのか」
と八郎は言った。山岡は、なに、役人が来たらそのときはそのときですよ、と言った。
「さっき、伊牟田と村上が来ました」
「ここへ来たか。それで、どうしました?」
「水戸に行くようにとすすめました。清河さんも、そうされてはどうです?」
「おれにはそんな元気はない。途みち自裁しようかと考えながら来たところですよ」
と八郎は言った。
「自裁?」
山岡がじっと八郎の顔を見つめたとき、玄関に低い人の声がした。八郎は反射的に刀をつかみあげたが、やがてお英が顔を出した。
「安積さまがおいでになりましたから、上がってもらいました」
「おう、こっちへ入ってくれ」
お英のうしろから、のっそり顔をのぞかせた安積五郎に、山岡は声をかけた。安積は、ひとりで大坂屋で待つ心細さに耐えられなくなったか、あるいは八郎を案じてか、後を追って来たらしかった。
「安積、君はどう思う?」
と山岡は安積に言った。
「清河さんは自裁したいと言っている」
安積は無言で山岡をみ、八郎をみた。そしてゆっくり首を振った。安積の顔は憔悴《しようすい》して無精ひげがのび、表情は悲しそうに見えた。
「私は賛成しかねます」
安積はぽつりと言った。
「それがしもだ」
山岡は言って、八郎にむき直った。
「自裁して、どうなるとお思いですか」
「幕府の狙いは、このおれだろうから、自裁して、ほかの人間はかかわりがないことを明らかにする。おれが逃げ回っているために、大勢の人間に迷惑をかけておるのだったら、耐えられん」
「自裁は無駄ですよ」
山岡は、きっぱりした口調で言った。
「狙いは清河さん一人じゃありません。それがしと松岡も呼び出しをうけています」
八郎と安積は、山岡を凝視した。山岡は平静な顔色をしている。
「それもおれとのつながりからではないのかな?」
「いや、違いますな。幕府は虎尾の会の同志を残らずひっくくるつもりのようです。清河さんが自裁しても、この情勢に恐らく変りはないと思います」
「そうか。虎尾の会は潰滅を迎えたか」
「一たんはのがれて、再起をはかるべきです。われわれにも咎めがあるでしょうが、攘夷の志は捨てないつもりです。水戸へ行ってください。村上と伊牟田も水戸へむかっているはずです」
山岡は熱心に説いた。八郎と安積は、外が薄暗くなってから山岡の家を出た。山岡の妻のお英は、二人に旅に持って行く乾飯をくれた。
鷹匠町の山岡の家を出ると、二人はしばらく小石川のあたりをうろついた。どこに行っても捕吏の眼が光っているようで、落ちつかなかった。
団子坂まできたとき、八郎は眼だたない小料理屋のような構えの店を見つけた。
「あそこへ上がるか」
八郎は、安積をうながして、その店に上がった。あまりはやっていそうもない、ひっそりした店がまえが、二人の緊張した心をやわらげた。
「どう思うかね、安積君」
と八郎は、安積に酒をつぎながら言った。
「どうやら虎尾の会は潰れてしまったらしい。山岡はああ言ったが、おれはこうやって人眼を忍んで逃げまわったところで、仕方ないという気もするぞ」
「しかし、死んでしまってはおしまいです」
「だがな。もとはといえば、おれがあの男を斬ったのが間違いだ。大望を抱く者なら、辛抱すべきだった。辛抱してあの場を切りぬけていたら、たとえわれわれを怪しんだところで、幕府もそう簡単に手をつけられるもんじゃない」
「………」
「おれの軽率さが大事を招いた。そう思うとやりきれんな。この暑いときに、みんなは牢内で苦しんでいるだろう」
「………」
「死んでも無駄だと山岡は言うが、そうとは限らんさ。おれが自裁してしまえば、ほかの連中をいつまでも牢に入れておくこともないわけだ。虎尾の会は、まだ何もやっておらん。連中を叩いても、何も出て来はせん。尊皇攘夷を喋ったぐらいで、つかまえておくことは出来んからな」
「………」
「しかしおれが逃げている間は、幕府は連中を決して放さんのだ。これは耐えられんぞ」
「尊皇攘夷を捨てるのですか」
「大事去る、だ。こうなっては仕方なかろう」
「われわれには倒幕の悲願があったはずです」
「夢みたいなことを言うなよ、安積」
八郎は苦笑した。そして一気に盃をあけた。江戸を脱け出して奥富村に行き、また江戸に潜行してくるまでの疲れが、身体の隅ずみまでたまっていて、八郎は投げやりな気分になっていた。これ以上あてもなく逃げまわるよりは、いさぎよく自決して、面倒にケリをつける方が楽だという気がした。兆してきた酔いが、その気分を強め、もうその場から動きたくなかった。
「紙と墨を借りてきてくれんか」
と八郎は安積に頼み、店の者には詩作すると言えと言いそえた。
安積が書く物を借りてくると、八郎は坐り直して、郷里にあてた遺言状と辞世の詩文を書いた。
「これは、君が持っていてくれ。あとのことは頼む」
八郎が言ったが、安積は返事をしなかった。八郎が顔をあげると、安積は黙って涙を流しているのだった。
「おれには清河さんが自裁するのをとめられない。だが、頼みがある。これから嵩さんのところへ行ってくれませんか」
八郎は安積の顔をじっと見た。安積は片眼を失って一眼しかない。そのひとつだけの眼を、ぴったりと八郎に据えて、安積は頬を濡らしていた。
「お願いだ。嵩さんの意見を一度聞いてください」
と安積は繰り返して言った。
四
安積が言った嵩というのは、医者を兼ねる篆刻《てんこく》師の嵩春斎のことだった。
八郎は郷里の先輩池田駒城に紹介されて、春斎に印章を彫ってもらったが、その印体の古雅な味わいに驚倒した。それ以来たびたび印刻を頼み、用のないときもその家に出入りして、春斎の家族とも親しんでいた。
いまお蓮と熊三郎を獄につながれ、家の族《やから》を失った八郎にとって、もっとも身よりに近い者といえば嵩の家の者だろうと、安積は判断したのであった。安積の言葉は、とめどもなく死に傾いて行く八郎の気持を、いっとき引きとめたようだった。二人は店を出ると夜の町を縫って嵩の家にむかった。
春斎は、憔悴した様子の二人を見て驚き、また事情を知るとさらに驚いた顔になった。しかし、安積が八郎の決心を話すと、春斎は即座に言った。
「先生らしくもございませんな。どうしなすった? そんな気の弱いことをおっしゃって」
「しかしその方が、早くケリがつく」
「乱暴なことをおっしゃっちゃいけません。ここは落ちついてじっくり考えるところじゃありませんか。自首して出るとか、自裁なさるとかはそれからでもおそくはないでしょう」
春斎は、すぐに家の者に命じて、部屋に酒を運ばせた。今度は春斎の妻だけでなく、二人の娘も出てきて、八郎と安積に挨拶し、酒席をつくるのを手伝った。手伝いながら、何も知らない娘たちは陽気な声を立てて笑った。嵩の家の者たちは、客を迎えるのが好きな家族だった。
春斎の娘たちは、八郎がくるたびに髪飾りや帯留のようなものを買ってもらったり、八郎と父親が町を散策するのについて出たりして、八郎に親しんでいた。江戸の娘らしく、さっぱりした口をきき、機嫌のいい娘たちだった。
安積も、八郎と何度か連れ立って、ここにきているので、娘たちは安積にも酌をしながらにぎやかに言っていた。
「ひどくつかれていらっしゃるみたい。まるでくたびれた仁王さまね、安積さま」
「ほんとに元気がなさそう。どうなさったんですか。召し上がって唄でも唱ったら」
「だめよ。安積さまは酔っても黙っていらっしゃるひとだから。村上さまというひとは面白い方だったのよね。ほら、ご自分で三味線を弾いて浄瑠璃を語って」
春斎と盃をかわしながら、娘たちのお喋りを聞いていると、八郎は遠いところから帰ってきたような気がした。そしてお蓮や熊三郎、また池田たち同志がいま牢にいるということが、奇怪な悪夢のようにも思えた。
「お酌はもういいから、さがって寝なさい」
春斎に言われると、娘たちはもう一度八郎に酌をすると言ってさわぎ、それからしつけよく夜の挨拶を残して部屋を出て行った。
「ここならお上もめったに眼をつけたりはしません」
春斎は言った。
「十日でも二十日でもいてください。どなたか会いたい方がいたら、呼んで参りますよ」
翌日、八郎は春斎に頼んで薩摩屋敷に行ってもらった。そして夜になってから、樋渡と神田橋がひそかに嵩の家をたずねてきた。
「心配したぞ」
神田橋は、八郎と安積がいる部屋に入ってくると、大きな声で言った。樋渡は無言でどっかりと坐った。
「声が大きいな」
八郎が言うと、神田橋は精悍な眼を笑わせて言った。
「なに、捕方の十人や二十人は、いつでも斬って捨ててやるさ」
「伊牟田はそちらに帰っておらんか」
「いや。清河さんと川越へむかったと聞いて、それっきりだ。一緒じゃなかったのか」
「それが江戸に戻って別れたきりだ。山岡は、伊牟田は村上と一緒に水戸にむかったと言っていたが、やはりほんとらしいな」
「その方がいいかも知れん。じつを言うと、われわれも身辺がキナ臭くなってきておる」
神田橋は声をひそめた。そのとき春斎の妻女が酒を運んできた。すると樋渡がもそりと身動きして、夜分に相済まんですな、とお愛想を言った。樋渡は酒の顔をみると、まめにお愛想を言う男である。春斎の妻は、いいえあなた、どうぞお気遣いなく召しあがってくださいと言った。
春斎の妻が出て行くと、八郎が聞いた。
「キナ臭いというのは、今度の一件か」
「いや違う。異人斬りの方だ」
「例の赤羽根橋の件だな」
「さよう。幕府もどうやらわれわれに見当をつけてきたらしい。奉行所の連中というのは陰険なものだな。とっくにあきらめたかと思ったが、さにあらず、だ。いつの間にか手をのばしてきて、藩にかけ合いがあったらしい。だから、伊牟田はおらん方がいい。われわれだって、どうなるかわからんからな」
「虎尾の会のつながりで探られているようなことはないのか」
「それは、いまのところない。だが、池田がつかまり、貴公たちが追われているところをみると、油断はならんな」
「川越の西川、北有馬もつかまったようだ。昨日山岡に会ったが、山岡と松岡万にも呼び出しがかかっているらしい」
「………」
「だが虎尾の会は、まだ何もやったわけじゃない。幕府ではおれに目をつけているらしいから、おれが自首するか、自裁するかすれば、ほかの連中は解き放すんじゃないかと、安積とも話したんだが……」
「自裁する?」
神田橋は八郎の顔をじっと見た。
「本気か」
「本気だ。同志が次次とつかまるのを見ながら、こうして逃げ隠れているのは辛い」
「やめた方がいいな、そいつは」
手酌で酒を飲んでいた樋渡が、ぼそっとした口調で言った。
「そう思うか」
八郎が言うと、樋渡は盃をおいて八郎にむき直った。
「そうさ。連中は貴公が名乗って出たからと言って、それでつかまっている者を牢から出すようなタマじゃないぞ」
「………」
「井伊がやった大獄を忘れたかね。やつらは手をつけたら最後、根こそぎやるぞ。ここで自裁するなどというのは無駄に死ぬようなものだ」
「おれもそう思うな」
と神田橋も言った。
「生きて、つかまっている連中を救い出す方法を考える方がいい。いますぐでなくとも、何か手段が出てくるかも知れんじゃないか。時勢は休みなく動いているからな。何がどう変るかわからんときだ。早まったことはせん方がいいぞ」
「捲土重来《けんどちようらい》よ。志士はそうあるべきだ」
樋渡は、春斎に酒をついでもらいながら、うなるように言った。
「虎尾の会の盟約はどうした? しょぼくれている清河など、見たくもないわ。似合わん」
八郎は席を立つと、雨戸をそっと押して庭に降りた。
すさまじいほど冴えた星空が、頭上にひろがっていた。そして北斗星のあたりを、彗星が横切っているのが見えた。壮大な天空の光景だった。
──生くべきか。
八郎は腕を組んで、夜空を凝視した。壮大な宙空の仕組みにくらべれば、微微たる人間のいとなみだった。しかし微小なるがゆえに、むしろその生を精いっぱい生きるべきなのか。
「二人が帰るそうです」
庭をのぞいた安積が、そう声をかけた。その安積を振りむいて、八郎は言った。
「おれたちも、明日はこの家を発とう。江戸を抜け出すぞ」
そう言いながら、八郎はひさしぶりに身体にいきいきとした力が戻ってくるのを感じた。八郎は大股に庭を横切って、家に入った。
翌日、八郎は髪まで町人風に結い直し、すっかり商人姿になった。安積は三尺帯をしめ、木綿の腹掛けをして職人に化け、夜になるのを待った。
嵩の家を出るとき、春斎の妻も、ふだんは陽気な娘たちも忍び泣いた。そのときには、八郎と安積が、これからあてのない逃避行に旅立つことを聞かされていたのである。春斎は和泉橋まで送ってきて、三人は橋のたもとで別れた。
「それでは、お元気でな」
と言ったとき、春斎の声もふるえていた。
八郎と安積はいったん永代橋まで密行すると、橋のそばの番所わきに、遺書と羽織、大小を置いた。春斎や樋渡たちのすすめで、そうしてそこで水死した様子をつくったのである。
そして小網町の行徳川岸まで戻ると、昼の間に春斎が用意しておいた舟を捜しあて、東にむかった。行徳まで舟で行き、そこから陸路水戸を目ざすつもりだった。幸いその夜は曇りで、二人の姿は容易に闇にまぎれた。文久元年五月二十八日の夜だった。
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妻 恋 い
一
冬の間は、灰色にたけり狂う北の海も、夏はおだやかで、眼も染まるほど青い。
六月十四日。その青い沖にあらわれた一艘の船が、やがてゆっくりと岸に近づき、荘内領浜温海の港に入った。越後瀬波から、十七里の海上を航行してきた船だった。
船はそこで十人ほどの人を降ろした。降りた人びとは、岸にあがると間もなく散り散りになったが、何人かは温海川に沿って上流の湯宿をめざして歩き出した。
その中に、黒いまんじゅう笠の商人風の男と、竹皮の笠をかぶった職人風の男の二人連れがいた。江戸をのがれてきて荘内領に潜入した、八郎と安積だった。
八郎は脇差を一本腰にしただけの軽装で、安積は風呂敷包みと桐油包みを振り分けにして肩にかけ、腰にひょうたんを提げている。旦那のおともという恰好に見えたが、二人とも人眼をひく体格で、おとも格の安積の方が八郎より幾分背が高い。
温海村は荘内領の山浜通に属し、漁村の浜温海と湯宿がある湯温海に村が分かれている。関所がある念珠ヶ関口の国境から、さほど遠くない場所で、湯温海には鶴ヶ岡城下や近在からの湯治客が多かった。
商用で江戸から鶴ヶ岡に行く商人と偽って、孫兵衛という宿に入ったが、宿の者はべつに二人を疑いもしない様子だった。
その夜、二人は湯を浴びたあと、窓に近いところに席をとって酒を飲んだ。暗い窓の外に川音がし、川音にまじって河鹿の声がひびきわたった。
湯温海は、海岸からかなり山の中に入り、左右を山に囲まれた山峡にあるので、夜気は冷えて肌寒いほどだった。
「やはり生まれた土地はいいな。生き返るようだ」
と八郎が言ったが、安積は黙って盃をふくんでいた。
「子供のころ、祖父と一緒に二、三度来たことがあるが、それ以来だ。河鹿の声が、ちっとも変っていない」
「明日はどうしますか」
安積は、八郎の声が感傷に流されるのを警戒するように、少し固い声で言った。
「一緒に行きますか。それともおれ一人が行きますか」
八郎は盃を持ったまま、じっと外の闇に眼をこらした。闇の中に、同じように川のほとりにある清川の生家を思い描いていた。そこで心配しているはずの両親のことを考えると、胸が熱くなるようだった。
八郎と安積は、五月二十八日の夜江戸をぬけ出すと、下総に入った。はじめは神崎村の石坂をたずねるつもりだったが、途中の空気がきわめて不穏だった。役人が動いていると、知りあった馬子が言った。
二人は石坂に会うのをあきらめて、土浦から水戸にむかおうとしたが、そこも簡単には通りぬけ出来ないことがわかった。
二人はいそいで道を変え、筑波山麓まで行ってそこで宿をとった。
その宿で、二人は少し議論をした。八郎は江戸に戻った方がいいと言い、安積は思い切って京都まで行くべきだと主張したのである。
だが冷静に検討してみると、どちらの主張にも無理なところがあり、そのうち安積が新潟に友人がいると言い出して、新潟を目ざすことにしたのであった。二人は宇都宮に出、さらに会津若松城下を経て、炎天の山道を新潟に抜けた。
だが折角たずねた新潟で、二人は安積の友人だという男に冷たいあしらいを受けた。その男は安積が職人の恰好をしているのを怪しんで、いろいろとわけをたずねたが、安積はうまく答えられなかったので、宿を貸すのもことわられたのである。二人は仕方なく町の中に宿をとった。
八郎が郷里に潜入する気になったのは、その宿にいるときだった。八郎が幕吏に追われていることは、藩を通じておそらく生家にも知らせがとどき、肉親ことに両親は、夜も眠れずに心配しているかと思われたのである。
──ひと眼、無事な姿を見せたら、どんなに喜ぶか知れない。
いまも八郎はそう思った。だが、それがどんなに危険なことかもわかっていた。こうして温海の湯宿にいることさえ、十分に危険だった。恐らく清川の生家のあたり、鶴ヶ岡の城下一帯では、藩の役人が、手ぐすねひいて待ちうけているに違いなかった。
「やはり君一人で行ってくれ」
八郎は太い吐息を吐き出してそう言った。それでやっと気持に決着がついたようだった。
「無事だと知らせるだけでいい」
「わかりました」
と安積は言った。安積は少し暗い顔になって、八郎に盃をさした。
次の日。八郎は安積を送り出すと、所在なく部屋に籠った。昨夜は郷里にたどりついたことで、ほっとした気分になったが、一夜明けて明るくなってみると、郷里はいまの八郎にとってきわめて危険な場所だという実感がこみあげてくるようだった。
外を出歩いたりしてはならなかった。外には、八郎を見知っている者が歩いているかも知れないのだ。
「おや、お連れさまは、まだお戻りにならないのですか」
昼の膳を運んできた宿の女中が訝しそうに言った。
「ああ、まだです。少し遠いところに使いにやりましたから」
「遠くというと、どこまで行ったなでしょ?」
何気ない女の言葉が、八郎の胸を刺してくる。鶴ヶ岡に行く途中と言ってあるから、安積がそっちの方角に行ったとは答えられないのだ。八郎は湯宿からはるかな山中に入ったところにある、村の名を言った。
「木野俣に知り合いがいましてな。そこへ行きましたから、今夜は泊りかも知れません」
「そうですか」
案じることはなく、女はそれで納得したようだった。二十を過ぎたぐらいの年増で、色が白くやや肥り気味の女だった。八郎に飯を給仕する手つきも馴れていて、愛想がよかった。
「客は混んでいるかね」
と八郎は聞いた。八郎は注意して江戸弁を使っている。不思議なことに、郷里にいるという気持だけで、言葉に国の訛りが出て来そうで、用心しなければならなかった。
「いまはわりあいひまですよ。酒を飲みにくる人はいますが、湯治客は少ないから」
「なるほど。すると鶴ヶ岡あたりの客が多いのかね」
「そうなんです。お店の旦那方とか、それから運座をなさるひとたちね」
女は宿屋勤めが長いらしく、そんなことも馴れた口ぶりで言った。
「それから釣りにいらしたお侍さんが、立ち寄ったり」
八郎は黙って飯を噛んだ。やはり明るいうちは部屋の外に出ない方が無難だと思った。急に清川に行った安積のことが案じられてきた。
昼すぎ、八郎は押入れから枕をひき出して横になった。すると引きこまれるように眠くなって、そのままこんこんと眠った。
気がつくと部屋の中が薄暗くなっていた。障子に、さめかけた夕映えのいろが、微かににじんでいるだけで、部屋の中はむし暑かった。そして河鹿の声が聞こえた。
八郎はびっしょり汗をかいていた。だがそのまま動かずに、河鹿の声を聞いた。意外に長く眠ったと思った。江戸から野州へ、さらにそこから会津を経て新潟へという、人眼を忍ぶ長い旅が、やはり身体の中に疲労を積らせていたようである。
八郎は起き上がって湯殿に行った。湯殿の隅に掛け行燈がさがっていたが、湯壺までは十分に光がとどかず、中は薄暗かった。広い湯壺に、四、五人の男たちが身体を沈めていたが、八郎を気にとめた様子はなかった。土地の者らしい、高調子の声で自分たちの話をつづけている。
八郎は、隅に身体を沈めると、手足をのばした。湯壺の中に引き入れてある湯が、たえず音を立てている。土地の湯に入るのはしばらくぶりだ、と八郎は思った。江戸の湯屋は、何年たっても馴れることが出来ない。肩まで身体を沈めながら、八郎は黙然と土地の言葉でかわされる話に耳を傾けた。
湯殿を出たとき、八郎はさっぱりした気持になっていた。思わず町人の身ぶりを忘れていた。闊達《かつたつ》な足どりで歩いた。
そのことに気づいたのは、突きあたりの廊下を通りすぎた四、五人の男たちが、立ちどまってこちらを見ているのを眼にしたときだった。湯殿までは、腰板と屋根だけのつなぎ廊下になっている。やや坂になっているその廊下を、下からのぼってくる八郎を、男たちは見おろす形になっていた。
男たちは武士だった。八郎の胸を鋭い緊張が走りぬけた。
八郎は一瞬立ちどまって男たちを見た。すると男たちは急に背をむけて左手の方に廊下を遠ざかって行った。薄暗くて、顔は見えなかったが、きちんと羽織を着ている様子から、荘内藩家中の者たちに間違いないと思われた。
八郎も歩き出した。すると離れて行った男たちの中の一人が、また振りむいて八郎を見た。男たちは、そこで部屋の中に入ったが、その一人だけ、廊下に残って、八郎がつなぎ廊下から母屋に入るまで、じっと見送っている様子だった。
部屋にもどると、留守の間に女中が来たらしく、川にむかった窓が開け放されていて、部屋の隅に蚊遣りがいぶっていた。行燈の灯が、誰もいない部屋を照らしていた。
部屋に入って襖をしめると、八郎はすばやく部屋の隅に隠れて、廊下に耳を澄ませた。眼の奥に、つなぎ廊下の上の方から、じっとこちらを見おろしていた武家の客たちの、黒い影のような姿が残っている。侍だと見やぶられたかも知れないと、八郎は思っていた。
だが誰かが後をつけてきた様子はなかった。襖の外はひっそりとしている。遠くで人を呼んでいる甲高い女の声がし、別の棟で宴会がはじまっているらしく、時どきどっと人が笑う声が聞こえてくるだけだった。
八郎は行燈の下にもどって坐ると、茶道具に手をのばした。
──こう、びくついては話にならんな。
お茶をすすりながら、八郎は頬をゆがめた。しかし追われて隠れているということは、八郎ほどの男にとっても、こわかったのである。そのこわさは、伊牟田や村上を加えて、四人で奥富村に逃げたときにはなかったものだった。八郎にはそのとき一党の首領という自負があったし、いざというときには村上の重厚な剣、伊牟田の剽悍《ひようかん》、どれも頼りになるという気持もあった。
江戸にもどって、自裁を考えながらさまよっている時にも、捕吏をこわいとは感じなかった。いさぎよく死んで、捕えられているみんなを救おうという昂揚した気分に支配されていた。
臆病な気分は、生きのびると決めて、江戸を脱け出したときから、八郎につきまとってきたようである。
すでに党は四散していた。八郎は自負をもぎとられ、一人の裸の人間にもどっていた。しかも武家姿さえ許されずに、江戸商人に身をやつして諸国をくぐり抜けてきている。時おり身体のまわりを風が吹きすぎる思いがした。そばに安積がいなかったら、孤立感はさらに強まったに違いなかった。
──いつまで逃げ回ればいいのか。
そのあてのなさが、気持を卑小にしているようだった。山岡は再起をはかれと言い、神田橋は、生きのびてみんなを救う手段を考えるべきだと言ったが、現実には逃げるのに精いっぱいだと八郎は感じていた。
──安積は手間どっているらしいな。
八郎は立って行って、窓から暗い川をのぞきこんだ。うまく行けば、そろそろもどってくるはずだったが、安積が帰る気配はなかった。
二
安積は翌朝、明け方にもどってきた。ゆり起こされて、八郎がはね起きると、安積がいた。
「すぐにここを出ましょう。どうもひどいことになっているようです」
と安積は言った。夜道を歩き通してきたらしく、安積の顔は腫れぼったく、疲労のいろをうかべていた。
「ごくろうだったな」
八郎はとりあえずねぎらった。
「どうだった? 会えたかね」
「いや、だめでした。家が見張られているということで、近づくのは無理でした」
「そうか。そんなぐあいだろうと覚悟はしていたよ」
「鶴ヶ岡の城下一帯、それに近在の村まで、残らず手が回ったようです。鶴ヶ岡に行く途中の村では、手配の建て札を見ました。ここも危ないですぞ」
安積は声をひそめた。
安積の観察は間違いがなく、荘内藩では領内一円に八郎の逮捕を命じる布告を出していたのである。
幕府では、八郎の永代橋の工作を見破り、江戸を脱出したと判断すると、関八州に八郎ら四人の人相書きを回し、また荘内藩にも、八郎が郷里に立ち寄ったらつかまえるように、命令を出していた。八郎の人相書は次のようなものだった。
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酒井左衛門尉家来出羽荘内清河八郎歳三十位。中丈、江戸お玉ヶ池に住居。太り候方。顔角張。総髪。色白く鼻高く眼するどし。
[#ここで字下げ終わり]
荘内藩では、江戸留守居黒川一郎から、八郎の一件と幕命をつたえる知らせがとどくと、すぐに手配した。まず御徒目付鈴木角太夫、山口伴兵衛の二人が、捕手十数人を連れて清川の八郎の家に行き、家族はもちろん、使用人、親戚一同まで呼びあつめて口書をとった。その間に、捕吏たちは村中をくまなく捜索した。それが六月三日だった。
翌日、藩では領内一円に次のような布告を出した。
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清川村 斎藤治兵衛伜 清河八郎
右の者、かねて江戸表へ罷り登り、外宅いたし居り候者にこれ有り候ところ、先月二十二日公儀より吟味の筋これ有り候ところ、出奔いたし候につき、見あたり次第召しとり候よう、厳重ご沙汰これ有り候趣、申し来たり候。
これによって同人儀、ここもとへ相越し候も計り難き儀につき、見当り候わば捕り押さえ、厳重に手当ていたし置き、その段早早申し出候よう御預り地郡中へ申し達せらるべく候こと。
[#ここで字下げ終わり]
藩ではこの布告を出すと、六月七日には八郎の父豪寿に謹慎を命じた。九日にはさらに斎藤家の酒販売を禁止した。そして十日になると、藩の盗賊方二人、手先一名が斎藤家を見張るために清川村に常駐をはじめ、網を張っていたのである。
安積は鶴ヶ岡まで行って、ほぼそういう状況をさぐり知ったが、あきらめ切れずに赤川を渡って清川にむかった。しかし途中まで行ったところで、この先の村で村役人が街道に人を出して通行人をただしているという噂を聞くと、すぐに脇道にそれ、鶴ヶ岡にもどると夜道を帰ってきたのである。
「仕方ない。いや、ごくろうをかけた」
八郎は話を聞き終ると、あらためて言った。
「風呂を浴びて、ひと眠りしてくれ」
「ひと眠り?」
安積はとんでもないという顔をした。
「それよりすぐ飯を喰って、ここを出ませんか」
「いや、事情がわかれば、あわてることはないさ」
八郎は立ち上がって窓を開くと、両手をのばしてあくびをしながら言った。
「飯を喰って、支度をととのえて何気なく出るほうがいい。うろたえると、かえって疑いをまねく」
「それもそうですな」
八郎に言われて、安積もようやく落ちついたようだった。どっかりとあぐらをかいた。
ところどころに白い河床が露出している川に、静かな朝の光がさしていた。川は軽快な水音をたてていた。山側の向う岸で、水面は岸にかぶさった木を映して、あざやかな緑に染まっている。
──故郷に容れられず、か。
何となく八郎はそう思った。そしてそんなに昔のことではない何年か前にも、いまと同じようなことを考えたことがあったのを思い出していた。
──あれも安積と一緒のときのことだ。
荘内藩の家中に招かれて、望月楼の詩文の会に出たあと、気まずい空気になった。その帰り道で、ふといまと同じ感慨がこみあげてきたのだ。
それが、半ばは自分の性癖に根ざしていることを八郎は承知している。
この土地では、控え目に己れを包み隠すことが美徳とされる。暗い雲と深い雪の下に、忍従を強いられる風土が、そういう静的な徳目を育てたかも知れなかった。だがそういう中で、不意に放胆なことを言ったり、したりして周囲を驚かす人がいる。あまりに控え目であることにも、また周囲がそうであることにも、時に人は堪えられないのかも知れなかった。
それは忍従を強いる風土と身分の枠そのものが育てたもうひとつの土地の性格だった。そういう人間は、|ど《ヽ》不敵な人間として、異端視され、おそれはばかられる。
八郎にも、その性癖がある。八郎はある時期から、自分のその性癖に気づき、つとめて押さえようとしていた。しかしもともとそなわっているその性格は、自分で押さえてもあるところまで行くと、くるりとひっくり返って、今度は目いっぱいに、傲岸なまでに自分を押し出さずに済まなくなるのだ。望月楼のときは、まさにそれだった。人は八郎を傲岸な男だと見たに違いなかった。
つつましい風土に似つかわしくない異端者が、ついに幕府にまで刃向ったのを好機に、郷里が一挙に制裁を加えにむかってきているようだった。
──それが、おれの運命だ。
不意に八郎はそう思った。故郷に容れられないと思う気持に、以前のような感傷はなかった。不屈なものが胸に芽生えていた。
八郎は安積を振り返った。安積は横になっていつの間にか眠っていた。
三
二人は新潟にもどった。八郎が安積に、遊びに出ようかと誘ったのは、新潟で三日目をむかえた夜だった。
「遊びに?」
安積は一眼をきらりと光らせて、八郎を見た。咎めている視線だった。
「行ってもいいですが、飲むだけでしょうな」
「むろん、飲むだけさ」
八郎は苦笑した。安積の大きな躯《からだ》の中には、少年のように生真面目な性格が隠されている。同志を捕えられて逃げ回っている身が、女遊びかと安積が咎める気持はわかった。
「厄介になってこう言っては何だが、畏《かしこま》っているのも少し窮屈でな。君はどうかね」
二人は新潟のある商家に厄介になっていた。新潟にもどる途中、道づれになった女がその家の女房だった。
女は酒田に嫁入っている娘をたずねた帰りで、長い一人旅に倦《あ》きたらしく、二人と道連れになったことを大層喜んだ。そして、二人が江戸へ帰る途中だというと、しきりに泊って行けとすすめたのである。
あてがあって急ぐ旅ではない。二人は渡りに舟と女の好意に甘えることにした。八郎と安積は女の家で歓待された。だが素姓を隠して、江戸商人と連れの職人で通すことは、かなり気疲れすることでもあったのだ。
安積にしても、気持は同じらしく、すぐに同意した。二人は夜食が済んだあと、盛り場を見物してくると、あけすけにことわって、外に出た。
一軒の茶屋に上がると、二人はぐいぐいと酒を飲んだ。
「お酌取りはいらないんですか」
二人の様子を眺めていた年配の仲居が言った。仲居の様子から、酌取りというのが、酒の酌もし、一緒に寝もする女たちだということがわかった。
「いらん、いらん」
安積はぶっきらぼうに言ったが、八郎は待てよ、と言った。
「君と二人で飲んでいても、もひとつ味がないな。やはり女に酌してもらう方がいい」
「飲むだけだと言ったはずですよ」
安積は出るときの約束にこだわったが、酌だけなら、と妥協した。女を頼むと、仲居はすぐに出て行った。
「これからどうするつもりですか」
と、安積が言った。その質問はいつも二人が胸の中に抱えていることだったが、酔いが回ってきて、ひょっと外に出たという感じだった。
「それだ。おれは一たん江戸に帰って、様子をさぐる方がいいと思うがな」
「江戸は危ないですよ。京都へ行きませんか。これからの動きは、京都からはじまるんじゃないですか」
「そうだろうが、江戸にはつかまっている連中がいる。気になってならん」
そう言ったとき、八郎は不意に何もかも忘れてめちゃめちゃに酔ってみたい気がした。江戸がどんなにあぶない場所かは、十分にわかっている。それなのに灯を慕う蛾《が》のように、八郎の気持は、ともすれば江戸に向くのだ。
なぜかと問うまでもない。おれはそこに人を残して来ている。ひと息に盃をあける八郎を安積は黙って見まもった。
「女はまだか」
八郎が言ったとき、急に襖が開いて、にぎやかな声と一緒に女が二人入ってきた。濃い白粉《おしろい》の香が、八郎の鼻を衝いた。
四
その白粉の香を、八郎は薄青い明け方の光の中で、もう一度嗅いだ。
顔をむけると、そばに女が寝ていた。二十前後の若い女だった。おとなしそうな顔を塗りつぶした白粉の下から、黒い地肌がのぞいている。胸がはだけて、やはり浅黒い肌が見えたが、そこは肉の薄い顔に釣りあわないほど豊かだった。女は八郎の方に顔をむけ、少し口をひらいて眠っていた。
八郎は、女が投げかけてきている腕を、胸の上からそっとはずすと、凝然と天井を見つめた。悔恨が、八郎から身動きを奪っていた。酔っておぼえがないとは言えなかった。女を抱いて、ひととき狂った記憶が、はっきりと戻ってくる。のみならず、その前に、女のやわらかい肩を抱いて立ち上がりながら、八郎は安積にも言ったのだ。構わんじゃないか。貴様もその女を抱いて寝ろ。
──安積はどうしたろうか。
八郎はそっと半身を起こした。すると女が眼をひらいた。そして気だるそうに声をかけてきた。
「もう、お帰りですか」
「ああ、帰る。だがあんたはそのまま寝てていい」
だが女は黙って起き上がり、身づくろいした。
「連れはどうしたかね」
「お連れさんは、泊らずに帰りましたの。お固いひとね」
女一人に見送られて、八郎は茶屋を出た。茶屋町の路地を、青白い朝の光が照らし、あたりには饐《す》えたような匂いが漂っている。路地のはるかな奥には白い靄《もや》が這って見え、日はまだのぼっていなかった。
頭が割れるように痛んだ。昨夜の深酒のせいに違いなかったが、八郎は女と寝た罰をうけているように感じた。
──お蓮。
広い通りに出たところで、八郎は立ちどまった。魂がふるえるような悔恨が来た。酷暑の牢獄の中は、屈強の男も堪えがたいという。お蓮がそこにつながれて苦しんでいるとき、おれはのうのうと酒を喰らい、女を抱いてきた。人でなしの所業だ。
八郎は、自身を憤る険しい眼で、町をにらみながら立ちつくした。町はまだ眠っていた。人の姿は見えず、遠い場所に、わずかに地面から浮き上がったまま、じっと動かない靄が、今日の暑熱を告げているだけだった。
一条の日の光が町に射しこんできたとき、八郎は不意に追われるように歩き出した。顔をそむけて町の中をいそいだ。
家にもどると、安積はもう起きていた。八郎を見ても何も言わなかった。
「朝飯を喰ったら、ここを立つぞ」
安積に背をむけて、荷造りにかかりながら、八郎はそう言ったが、安積は、はあと言っただけだった。黙って自分も荷を造りはじめた。
「昨夜はすまなかった」
八郎が低い声で言ったが、安積はそれには返事をしなかった。安積が返事をしないのは当然だと、八郎は思った。
新潟を発って長岡まで行ったとき、八郎は安積に言った。
「どうも、このまままっすぐ三国峠へ向うのは気がすすまんな」
その感触は安積にもわかった。湯沢を越えてしばらく行くと八木沢の番所がある。そして三国峠を越えて上州に入ると、横堀の先に関所がある。長岡から江戸まで七十六里のその道は表街道なのだ。どうせ途中で横に逸れるとしても、山が深すぎる。
「どうしますか」
「ここから西南に入りこむと松之山という湯宿がある。そちらへ回れば、信州へはひとまたぎだ。そっちから上州へ入る方が無難だな」
「………」
「ともかく松之山まで行ってみよう。山の中の湯宿だから、あまり客がおらんようだったら、しばらく滞在してもいい」
「そうしますか。江戸へ行くといっても、べつに急ぐことはないわけですから」
「それにしても、このへんで少しなりを変える方がいいな。荘内領に入ったときの恰好でいつまでもいるのは、まずいかも知れん」
翌朝、長岡の宿をたつときに、安積は百姓姿になった。八郎は道具屋だと名乗ることにした。
人眼を忍ぶ旅にもようやく馴れて、二人はそれだけの用心をするようになっていた。そして結果的にその用心深さが、二人を救ったのである。二人が街道を西にそれて松之山の湯宿につき、そこに滞在している間に、江戸で嵩春斎が捕まっていた。そしてそれをきっかけに、江戸町奉行は、急遽《きゆうきよ》二十名の捕吏を編成して、越後道を荘内まで走らせたのであった。
会津を回って、新潟に着いた直後、八郎はひとつの重大な失策を犯していた。嵩に手紙を書き、樋渡八兵衛あての手紙もそこに同封して、江戸に飛脚を立てたのである。
だが奉行所では、そのころには八郎と春斎のつながりをつきとめて、ひそかに春斎の家を見張っていたのである。手紙は奉行所の手に落ちた。奉行所では、この収穫に狂喜した。はじめて八郎と安積五郎、二人の行方が掴《つか》めたのである。
北町奉行所同心三井健治郎、山本啓助、付属の手先八名。南町奉行所同心大関庄三郎、奥村友右衛門、同じく手先八名。これだけの人数が、七月四日に江戸をたつと、疾風のように越後にむかった。八郎の手紙には、安積を清川にやることにした、と書いてあったので、二人の荘内領潜入は間違いないとみたのである。
嵩春斎はただちに捕えられ、その自白で、新しい人相書が作られた。奉行所では、八郎が江戸を脱け出すとき、総髪の髪を町人風に改めたこと、持っている脇差の長さ、鞘の色までつかんでいた。安積が腹がけ三尺帯の職人に変装していること、三合入りのひょうたんを持っていることも知られていたのである。
八郎と安積は、まだそのことに気づいていなかった。松之山は湯宿が五、六軒あるばかり、見込んだとおり静かな目立たない土地だったので、二人はそこに腰を落ちつけていた。
五
蕭々《しようしよう》たり 泉の濺《そそ》ぐ声は
寥々たり 客舎の士
酒あり 斯《ここ》に飲むべし
憂い来たりて 終《つい》に已《や》まず
豈《あに》これ 尋常の憂ならんや
彼を憂い またこれを憂う
………
ひぐらし蝉が鳴いている。八郎は手にしていた詩稿を机の端に寄せると、また新しく紙をのべた。
我に巾櫛《きんしつ》の妾有り
毎《つね》に我が不平を慰さむ
と書いた。そして筆をとめて外に眼をやると凝然と動かなくなった。部屋の外には、裏山の傾斜がひらけ、雑木林にさしこむ日が赤味を帯びて見えていた。間もなく日が暮れるらしかった。
その赤らんだ日射しの中で、ひぐらしの群が、声をあわせて鳴いていた。あちらの山、こちらの山と鳴きかわす声は、打ち寄せてはひく波の音に似ていたが、八郎はその声の中に遠く離れたお蓮の、歔欷《きよき》の声がまじっているように思われた。
別れた最後の日、路傍で会った人にするように、深ぶかと頭をさげて、町の中に消えて行ったお蓮の姿が思い出された。その記憶は、また新潟の一夜の悔恨を、荒あらしく呼びおこしてくるようだった。八郎は、胸の中に疼《うず》くその痛みをやり過ごすように、じっと身じろぎをこらえたが、また筆をとると一気に書きすすめた。
十八 我に獲られ
七年 使令に供す
姿態 心と艶に
廉直 至誠を見る
未だ他の謗議を聞かず
只婦人の貞を期す
我が性 急かつ暴
ややもすれば奮怒の声を作《な》す
彼必ず我が意を忖《はか》り
顔を和らげて我が情を解く
我かつて酒気を使えば
彼必ず酔程を節す
施与《しよ》 吝《やぶさ》かなる所無く
賓客 日に来たり盈《み》つ
吁《ああ》 今|已《すで》に坐せられ
再会 衡《はか》るべからず
必ず糟糠《そうこう》の節を記し
我が成る所有るを俟《ま》て
廊下に足音がした。八郎はすばやく詩稿を机の下に隠した。
この山の宿に着いてから、八郎は湧くように詩興が動いた。それで宿の者に筆墨を借りて詩作していると、ある日同宿の客に、何を書いているかと訝しげに聞かれたのである。八郎は新潟の道具屋、安積は知りあいの百姓という触れこみで投宿していた。道具屋が詩作にふけるわけはない。八郎は狼狽して写経していると答えた。
山中の湯宿といえども油断は出来ない、とその時に思ったのだ。どういう人間が泊り合わせるかもわからないことだった。それからは細心の用心をした。だがその必要はなく、入ってきたのは安積だった。
「ああ、いい湯だった」
安積はそう言うと、部屋を横切って縁側に出、首にかけていた手拭いを干した。そして戻ってくると、八郎のそばにどっかりと坐り、茶道具を引き寄せながら、また新しいのが出来ましたかと言った。
新潟近在の百姓という触れこみは、まことに適切だったと思うほど、安積の動作は粗野に見えた。
八郎は黙って、作ったばかりの詩稿を渡した。
「どれどれ」
安積はひと口茶を啜《すす》ってから、詩稿に眼をはしらせたが、不意に黙りこんだ。そして茶碗を盆にもどした。
長い間、安積は詩稿を見つめていたが、やがて詰まったような声で言った。
「このとおりです。お蓮さんは、まったくこのとおりです」
姿態 心と艶に、廉直 至誠を見る。未だ他の謗議を聞かず、只婦人の貞を期す、と安積は呟くように口の中で吟じ、また、このとおりですなと繰り返した。
八郎に詩稿を返しながら、安積は片手で頬をぬぐった。安積は涙を流していた。
二人はしばらく黙ってむかい合っていたが、不意に安積がぽつりと言った。
「牢屋は暑いでしょうなあ」
「うむ」
「こうしてのんびりしていると、みんなに済まんという気になりますなあ」
松之山の湯宿にきてから、半月ほど経っていた。その間に、江戸から派遣された奉行所の捕吏たちは、二人がたどってきた道を逆に、荘内領に下って行ったのだが、そのことを二人は知るよしもなかった。
山の湯宿は、まだ七月の半ばにも達していないのに、朝夕は秋のように冷えた。日中でさえ、しのぎにくいほどの暑さではない。安積はそのことを思い、江戸の牢獄で、酷暑に苦しんでいる人びとを思いやって自分を責める顔になっていた。
「そろそろ出かけますか」
「うむ」
「やはり、江戸に行きますか」
「そうしようじゃないか。江戸はなんといっても人間が多いし、われわれがまぎれる余地もある。それに、行けば連中を助ける手だてがつかめるかも知れん」
「………」
「ただ遠くを逃げまわっているだけでは、事情がわからんし、心細くなるばかりだ」
安積は反対しなかった。黙ってうなずいた。
──人のつながりがないところを逃げまわっても駄目だ。危険でもある。
その夜八郎は床についてからそう思った。江戸を脱出してから、松之山にくるまで、八郎は相手の動きを読めない不安が、一日ごとに濃くなるのを感じていた。江戸に行ってみることだ、そうすればまだ知人がいるし様子が知れる。そう思いながら、八郎は眼をつぶった。つぶった眼の裏に、お蓮の姿が浮かんできて、しばらく八郎の眠りを妨げた。
六
八郎と安積が江戸に潜入したのは、七月二十日である。だが八郎は、潜入したその日のうちに、自分の見通しの甘さに気づくことになった。
八郎と安積は、十二日松之山の湯宿を発つと、山中の道を信濃領へ越え、飯山を経て翌日には上州の草津にたどりついた。ここにしばらく潜伏した。湯宿には諸国の人が集まる。市中に宿を求めるよりは紛れやすいと、八郎は考えていた。
そこから江戸を目指したのだが、八郎はその途中上州でひそかに人に会った。笠井伊蔵の紹介で、清河塾に出入りしていた尾高長七郎という人物だった。その尾高から、八郎は江戸の様子を聞き、また川越の西川、北有馬がつかまって入牢したことも聞いた。予想していたことだったが、その知らせは八郎の心を暗くした。
しかし尾高に会って、江戸の様子が幾分かはわかったのである。山岡、水野行蔵。どの家も、近づくのはきわめて危険だと八郎は思った。それで嵩春斎の家に行ったのである。
月が出ていた。春斎の家に近づくとき、八郎は町角に安積を残しておくだけの用心をした。八郎は戸を叩いた。すると男が出てきた。春斎ではなく若い男だった。
「何か用かね」
男は無愛想に言った。先生はいらっしゃいますか、と八郎は言った。
「先生はいないよ。お前さん、誰だい」
「材料屋ですが」
と八郎は言った。しかしそのときには、八郎は男からある匂いを嗅ぎつけていた。男は春斎の家に似つかわしくない雰囲気を身につけていた。口調に横柄なひびきがあり、探るように八郎を見返してくる。その筋の者だ、と八郎は思った。ここにも手がまわったのだ。
「材料屋? こんな夜分にかい」
「いえ、いらっしゃらなければ、またあとで」
八郎は後じさりした。
「おい、待ちな」
男ははっとしたように呼びとめた。そして家の中を振りむいて高い声で人を呼んだ。その間に八郎は走り出していた。
「逃げろ」
八郎は町角まで走り戻ると、安積の背を殴りつけてどなった。二人は夢中で逃げた。後で一、二度人の騒ぐ声が聞こえたが、どうにか逃げ切った。
明け方近く、二人は奥州街道の草加宿近くで、一軒の家の軒下に腰をおろしていた。傾いた月が二人を照らしている。
「これから、どうしますか」
と安積がささやいた。
「水戸へ行く。少しここで眠ろう」
「はあ。疲れましたな」
と安積は言って、太い溜息をついた。八郎は答えずに、深く腕組みして羽目板にもたれた。投げ出した足が、一日中歩いた疲れで熱っぽくうずいている。眠れそうもなかったが、八郎は強いて眼をつぶった。これから先は、あてのない長い旅になりそうだと思った。
[#改ページ]
星 ノ 湯 宿
一
八郎と安積は、途中あぶないこともあったが、首尾よく水戸に逃れることが出来た。しかし水戸は藩内事情が険しく、二人が落ちつく場所ではなかった。二人は安積塾同門の蘭学者菊池寛三郎の家に三泊しただけで、相馬中村を経て仙台領に行った。
仙台には旧知の桜田良佐父子、戸津宗之進がいる。果して彼らは二人を手厚くかくまってくれた。八郎は仙台にきて、ようやく手足をのばして休むことが出来たように感じた。しかしそれでもひとところに長くとどまることは、やはり危険だった。二人は桜田と戸津の世話で、転転と居所を変え、時おり二人の家に顔を出すという暮らしを繰り返していた。そして秋の気配が濃くなった八月末のある日、八郎は桜田の家をたずねて、意外な人物の消息を聞いた。
「伊牟田というひとがたずねて来ている」
八郎にそう言ったのは、息子の桜田敬助だった。敬助は千葉道場で八郎と同門だったが、八郎のその後の交友関係を知らない。伊牟田に会うのははじめてだった。
「伊牟田が? ここにいるのか?」
八郎は驚いて言った。
「いや、いずれわけのありそうな人物だから」
敬助は苦笑してつづけた。
「塩釜に知っている茶屋があるので、そちらに行ってもらっている。案内しよう」
八郎は、敬助と一緒に、途中隠れ家に寄り、安積を連れ出して塩釜に行った。茶屋の奥の部屋で、伊牟田は所在なげに寝ころんでいたが、八郎と安積をみると飛び起きた。
「久しぶりだ」
伊牟田はがっしりと八郎の手を握って、しばらく離さなかった。伊牟田ほどの男が、頬をゆがめていた。八郎も胸が熱くなるのを感じた。伊牟田は日に焼けて、真黒な顔をしていた。八郎が言った。
「貴公のことは、水戸で聞いた。七日もわれわれを待ったそうだな」
そのことを、八郎は水戸の菊池寛三郎に聞いていた。伊牟田と村上は、菊池の家に七日の間潜んで、八郎たちが来るのを待っていたが、やがて来ないと見きわめをつけて、飄然《ひようぜん》と出て行った。行先は言わなかった、と菊池は言ったのである。
「それで、菊池の家を出て、どこへ行ったのだ?」
酒が出てから、八郎は改めて聞いた。
「下総神崎」
「石坂のところか?」
「そうだ。ところが石坂はつかまった後だった」
「やはりそうか」
「おれと村上はそこで別れたわけよ。二人でいては目立つと思ってな。それからおれは江戸へ舞いもどった。ところが藩屋敷の様子をさぐってみると、驚いたよ」
みんなは伊牟田の顔を注視した。伊牟田はうまそうに酒を飲み干してから言った。
「神田橋と樋渡がおらんのだ」
「どうした? つかまったか」
八郎は、顔色が変るのを感じた。
「いや、そうじゃない」
伊牟田は手を振った。
「国元送還だ。異人斬りがばれたらしく、幕府がうるさいことを言うので、二人を蒸気船で帰してしまったらしい。船じゃ、逃げることも出来ん。樋渡はバカだから、蒸気船に乗せると言われて、おお、そうかと乗ってしまったに違いない」
「まさか」
みんなははじめて笑った。八郎は、嵩春斎の家で最後に二人に会ったとき、神田橋が身の回りがキナ臭くなったと言ったのを思い出していた。そうか、これで虎尾の会はいよいよ潰滅というわけだ。
「おれも一緒に帰すという話だったらしいな。逃げまわっていたおかげで助かったよ」
「だが江戸にはおれんな」
「むろんだ。虎尾の会、異人斬り、脱藩の罪。みんな一度にかぶさってきた。天下に身を容れるところがない」
と伊牟田は言った。だがしょげている様子はなく、伊牟田は昂然としていた。
「これからどうする? われわれと一緒にいるか」
と八郎は言った。いや、と伊牟田は身体を起こした。
「おれは西へ行く」
「京都か」
「そうじゃない。じつはその話もあって来たのだが、このひとは構わんのだな」
伊牟田は桜田をちらと見た。
「構わん。桜田はもとからの尊皇のひとだ」
「清河から、話はうかがっている。以後|昵懇《じつこん》に願いたい」
伊牟田はそう言い、改めて桜田と挨拶をかわした。そして不意に声をひそめた。
「水戸有志が、大挙して京に入ろうという計画がある。時期は十一月だ。おれは水戸にいる間に、一たん菊池の家を出ると今度は別の有志の家にも隠れたのだが、そこで打ち明けられた話だ」
「………」
「そのときそれならおれは国元に行って同志を募ると約束してある。だからおれはこれから国元に潜入するつもりだ」
「すぐにつかまるぞ」
と八郎は言った。伊牟田の話には、どこかとりとめないところがあって、八郎を不安にしたが、伊牟田は酒が入ったせいもあるか、元気いっぱいだった。昂然とうそぶいた。
「むろん、覚悟の上さ」
「水戸のその話は信用出来るのか」
八郎はなお危ぶんで念を押したが、伊牟田は大丈夫だと言った。
「おれも一緒に行きたいが、いまは身動き出来ん」
「わかっている。おれはいまのことを君に話しておきたかっただけだ。それにしても会えてよかった」
伊牟田は、ほとんど無邪気な笑いをうかべて、八郎に盃をさした。
「このへんにいるのじゃないかという気がした。勘があたったな」
二
伊牟田が去ったあとも、八郎と安積には、転転と居所を変えて潜行する暮らしが続いた。九月になると、仙台藩にも八郎の人相書がとどき、二人はそこにも潜むことが出来ずに南部領にのがれた。
南部領の遠野に、やはり江戸の安積塾で同門だった江田重威がいるので、彼を頼ったのである。江田は快く二人を迎えた。しかし手配が仙台藩まで及んでいることを考えると、江田の家に長逗留することもはばかられた。
八郎と安積は、大槌浜、吉里吉里、大浦などの土地を転転とした。江田が、大浦の知人を紹介してくれたからである。
そうしてあちこち移り住む間に、八郎は去って行った伊牟田のことを案じることが多かった。水戸の有志が京都にのぼると言ったが、そこで彼らが何をやろうとしているのかは、伊牟田にもはっきりしていないようだった。
「なに、天子を擁して、幕府に攘夷を迫るということだろうさ」
伊牟田は事もなげにそう言ったが、八郎はそれは不可能だという気がした。建前としては、水戸藩の尊皇攘夷は依然として健在かも知れなかったが、藩論は二分して、いまは昔日の水戸藩ではないのだ。有志が大挙して京都にのぼるなどということが実現するはずがなかった。
すると、それをあてにして、国元に同志を募りに行った伊牟田が、ひどくとりとめない動きをしているように思われてくるのだった。
──引きとめておくべきだった。
と八郎は後悔した。
もし一藩が結束して、天子を擁し、幕府に何ごとかを迫るとすれば、それは水戸藩ではなくて、薩摩藩だと思われた。先に死んだ英明の藩主島津斉彬がそれをやろうとしたのだ。もし斉彬の遺志が、藩に引き継がれていて、いまがその時期であれば、伊牟田の動きは、藩の何かの動きを引き出す、きっかけになるかも知れなかった。だが、時期でなければ、伊牟田は自分からむざとつかまりに行ったに過ぎないと八郎は思った。
九月下旬、八郎は安積を連れて鬼首《おにこうべ》の湯宿に行った。そして国境を越えて出羽新庄領の向町に行くと、そこから安積を故郷の近くまでやった。八郎は旅費に窮してきていた。金を借り、また故郷の様子も探らせるために、とりあえず安積を知り合いの家に密行させたのである。
二日の間、八郎は江戸町人を装って向町に潜伏した。それはきわめて危険な行動だった。仙台に来て間もないころ、八郎は一度国境の二口峠を越えて、出羽の天童城下に出ている。だがそこにも手配が行きわたっているのを知り、すぐに引き返している。
安積はようやく帰ってきた。だが、目的を果せないで戻ってきたのであった。八郎はいそいでまた仙台領に引き返した。今度は尿前《しとまえ》の関所の手前にある、星ノ湯という小さな湯宿にひそんだ。
八郎は再び安積を使いに出した。新庄領に清水という最上川の河港がある。そこで醤油醸造と旅籠《はたご》屋を営む海藤嘉右衛門、通称山嘉が八郎の家の親戚だった。八郎は安積をそこにやり、山嘉に清川に行ってもらい路銀を調えようと考えたのである。
山嘉の家を、安積は前に八郎と一緒に清川を訪れた旅で知っていた。それで今度の計画はうまく行った。
安積は山嘉が、八郎の家から預かってきた二十両の旅費を受け取って、星ノ湯に帰ってきた。
「だいぶ、きびしくやられた模様です」
星ノ湯には、宿屋は二軒しかない。安積は八郎が潜伏している宿に戻ってくると金を出し、憮然とした口調で言った。
「清川の方か」
「はぁ。そっちもですが、江戸の牢の方もです」
「牢のことがわかったのか」
「はぁ。お蓮さん、熊三郎さんは苦労された様子です。それで、お家では親類の者を江戸にやって、牢にいる者を世話させているそうです。ああいうところは金が物を言いますからな。いまはお二人や池田なども、いくらか楽になったのじゃないかと、山嘉が言っておりました」
八郎の父豪寿は、従兄弟《いとこ》の蔵吉という者を江戸にやり、お蓮、熊三郎に金を差し入れるとともに、奉行所、小伝馬町牢内にも金を使った。次のような控えがある。
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六月二十八日 一、金一両 桜井平太夫様お菓子料、一、金五両 村塚 清様おみやげ料、一、金五拾両 北御番所石谷因幡守様、一、金二拾五両 右公用人久保田増也様
七月十四日 一、金一両 歎願書認めにつき藤助殿に礼金、一、金三両 本妙寺様へ品物買入みやげ料、村境にて口出し下され候分
八月十四日 一、金五拾両 ほか時計一つ 石谷因幡守様、一、金二拾両 久保田増也様
八月二十四日 一、金三両二分二朱 村塚上様芝居進物雑用分
九月二日 一、金二両 直吉様へ 牢内取次御礼
九月三日 一、金五両 村塚様御礼
九月四日 一、金五両 東治郎殿御礼 一、金拾五両 同人に時計代
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石谷因幡守は北町奉行である。その石谷と公用人の久保田には再三にわたって大金を贈っている。村塚様、直吉様というのは、牢屋同心、下男といった人間であったかも知れない。こうした費用が、蔵吉の滞在中に二百二十五両に達したのであった。
しかし八郎の家で、この手当てにかかったのは、六月下旬からで、それまではお蓮、熊三郎ともに牢内では辛酸をなめたのであった。入牢したときに、牢内で言うところのツル(金)を持っていなかったからである。
取調べに対しては、お蓮は毅然としてつっぱねた。
「わたくしは女子のつとめとして、家の中のことに従っていただけでございます。主人が誰とつきあっていたか、何を企てていたかなどということは、女子のあずかり知らぬことでございます」
静かにその言葉をくり返すだけで、身体を責める牢問《ろうもん》にも屈しなかった。
三
しかし牢内では、命のツルと言われた金を持たない女囚はみじめだった。
お蓮は荘内藩邸から北町奉行所の仮牢に移され、さらに小伝馬町の女牢に収容された。小伝馬町の東牢、西牢には、それぞれ揚屋《あがりや》が二つずつある。揚屋は、御目見得以下の御家人、大名旗本の家臣、僧侶などを入れる牢だが、小伝馬町の牢では西口の揚屋を女牢として使った。人数が多いときは、俗に遠島部屋ともいう東口の揚屋も使う決まりだったが、実際には女囚は数が少なく、大概は西口揚屋だけで事足りた。
小伝馬町の牢には、このほかに御目見得以上ただし五百石以下の直参、これに準じる僧正、院家、神主などを収容する揚座敷、一般の囚人を入れる大牢、無宿者を入れる二間牢、ほかに百姓牢があった。牢はもと雑居房であったが、宝暦五年には一般囚と無宿の囚人を分け、さらに安永四年になってから、新たに百姓牢が設けられた。収監された百姓が、牢馴れした一般囚や無宿者にいじめられたり、悪にかぶれるのをかばったのだと言われる。
牢は外格子と、その内部に内格子で囲まれた牢房から出来ている。外格子と内格子の間の土間を外鞘、牢房の中を内鞘と呼んだが、揚座敷と揚屋は、この外鞘に牢の入口から縁側が張り出していた。
鍵役の同心が、外鞘から牢の中にむかってお蓮の入牢を告げると、中から女牢|附人《つけびと》と呼ばれる女が出てきて、お蓮を縁側に上げ、裸にした。この附人は囚人ではなく、牢獄の雇人である。
女はお蓮を裸にし、二布《ふたぬ》だけを返すと、着物を改め、それから髪を崩して中まで調べた。そして牢の中に入れた。
入牢は夕刻を待って行なわれる。薄暗い牢房の中では、先住の女囚たちが好奇心に光る眼でお蓮を迎えた。その中の一人が、金を持ってきたかと聞いた。お蓮が持っていないと答えると、それまで黙りこくってお蓮を見ていた女囚たちが、突然に立ちあがってあわただしく動き出した。
お蓮は数人の手で畳の上に押さえつけられると、もう一度くまなく身体を調べられた。そして間違いなく金を持っていないとわかると、一人がお蓮をキメ板で打った。キメ板は幅二、三寸、長さ二尺五、六寸の桐板で、牢内の者が、外の張番に用があるとき、その上に折れた錐の先で字を書いて差出すものである。キメ板は大概四、五枚牢内に入れてあったが、これを重ねて紐で縛ると角材のようになるので、しばしば同囚の者を折檻《せつかん》するのに使われた。附人は、お蓮に加えられる折檻を見て見ぬ振りをしていた。
男牢には、名主、添役、角役など、十二人の牢内役人を置くことが、公けに認められていたが、女牢にはその定めがなかった。だが実際には、女牢の中にも名主がいて、権力をふるっていたのである。お蓮はその夜から、名主|労《いたわ》りというしきたりに従って、女名主の足腰を揉ませられた。
牢内は火気を許されないので、夜は真の闇に包まれる。見回しても、一点の光も見えなかった。その闇の中で、牢名主は快げにいびきをかいているが、お蓮は気味悪く肥ったその足を撫でさする手を、休めることが出来ない。さっき手を離して、そっと指を押し揉んだとき、いびきがはたりとやんで、闇の中から無言の足蹴りが襲ってきたばかりである。
すでに深夜だった。牢の中は、女囚たちの寝息で満たされ、時どき鋭い歯ぎしりの音がまじる。眼ざめているのはお蓮一人だった。女たちの肌の香、髪の匂いが、牢内で詰《つめ》と呼ぶ半間四方の厠《かわや》から流れ出す悪臭とまじり、異様な香となってお蓮を襲ってくる。悪臭は重く牢内に澱んだまま、動かなかった。
お蓮はまだ茫然としていた。夕刻から起こったことは、すべて眼がくらむような新しい経験だった。経験は屈辱と恐怖にいろどられている。
だがいまは堪えがたい疲労が、その記憶にかわろうとしていた。疲れが押し出す脂汗が、べっとりと肌を覆い、お蓮は自分も女たちと同じ悪臭を放っているのを感じる。
──ツル(金)をどうしたらいいか。
と、お蓮は疲れた頭で考えていた。ツルを持ってきたかと聞かれ、ようやくそれが金のことだとわかったお蓮が、持っていないと答えると、血相を変えてとびかかってきた女たちのことが思い出された。
女たちは、お蓮を打擲《ちようちやく》し、裸にして着物をはぎとると、かわりに垢じみた獄衣をくれた。お蓮が着せられたのは、牢内で病死した者が残した病死ヶ輪と呼ばれる古着だったが、お蓮はそのことを知らない。ただ金を持っていないことがわかったとき、女囚たちの態度が一変したことを記憶にきざみつけていた。
だが金を手に入れるあては、まったくなかった。お蓮は、知っている者すべてから切り離され、悪臭に満ちた闇の中に孤立している自分を感じた。
──こんな暮らしが、ずっと続くのだろうか。
そう思ったとき、お蓮の胸は恐怖でいっぱいになった。命が続くまい、と思った。
だがその恐怖に、疲れがうち勝った。牢内に、水のような明け方の光が忍びこんできたころ、お蓮は牢名主の足につかまったまま、首を垂れて眠っていた。
予想したように、お蓮は牢内でひまなくこき使われた。女たちは、みやげを持たないで仲間入りしたお蓮を、ひややかな眼で追いまわし、ひとつの用事が片づくと、すかさず次の用事を言いつけた。吟味場に呼び出され、牢問をうけて帰っても誰もいたわらなかった。
日がたつにつれて、お蓮はツルの意味をさとるようになった。女囚の一人は、呑湯が配られる時刻に、湯気にまぎれて莨《たばこ》を吸っていたし、牢名主は下男に頼んでひそかに酒をさし入れてもらっていた。金があるから出来ることだった。お蓮がもっともうらやんだのは、牢内で着物を縫っている女がいたことである。お蓮だけに、疲れる日日が続いた。
だが、ある日外鞘に男がきて、お蓮を格子まで呼び出した。男は牢の賄い場にいる浅吉という者だと名乗り、包みをさし入れながら言った。
「ツルがとどきました」
四
小伝馬町の牢は、俗に牢屋奉行と呼ばれる囚獄石出帯刀の下に、牢屋同心、下男《しもおとこ》がいて、囚人を監視し管理する仕事に従っている。
同心の数は五十八人。役目に従って鍵役、小頭、世話役、打役、物書所詰め、数役、平番、物書役、賄役、勘定役、牢番などにわかれていた。鍵役は囚人の出入り一切の手続きを執行する役目で、お蓮を牢に入れたのはこの鍵役の同心である。打役は牢問、敲《たたき》の打ち役を勤め、また遠島、入墨の刑を執行し、牢内の死罪場、お様場《ためしば》で行なう斬首も取扱う。だが身分は鍵役が四十俵四人扶持、他は大方二十俵二人扶持と低かった。
下男は同心の下に属し、獄内の張番、牢の門番、賄い仕事、物運びといった雑用を足し、牢内に三十八人が勤めていた。給与は一両二分、一人扶持で、ほかに一日四文の味噌代というものが支給される。勤めている間、身分は一応抱え入れの御家人とされるが、薄給であることは変りない。
囚人が持ちこむツル(金)は、牢房の中の風通しをよくするためでもあったが、さまざまな形で薄給の同心、下男にも流れ、囚人が牢内でささやかな自由を買う資金になった。
牢内に金、銀、刃物などを持ちこむことは元来法度である。そこで囚人は着物や帯の縫目に一分銀を縫いこんだり、または小粒銀を入牢の前に呑みこんで、牢内に持ちこんだりした。しかし後には、ツルの持参は半ば公然の習慣となって、衣服改めのとき、襟に金を縫いこんであるとわかっても、立会いの役人が見て見ぬふりをするようになった。張番の下男の中には、新しく入牢した者がいると、その囚人の家へ無心に行って金をためる者さえいた。
だが、お蓮に金をさし入れてきた男は、そういうたちの悪い下男ではなさそうだった。丁寧な言葉でささやいた。
「私は、あなたさまの身分を存じております。このツルは、池田徳太郎さまの言いつけで、私が水野さまのところに参り、預かってきました」
「………」
「水野さまをご存じですか」
「ああ、池田さま、水野さま」
お蓮は小さな包みをしっかりと握り、男を見つめたまま静かに涙を流した。暗黒の中に一条の光がさしこみ、あたたかく身体を照らすのを感じていた。どこに連絡するつてもなく、この牢でひとり命を終るかと思っていたその間にも、自分を気遣ってくれる人たちがいたのだと思うと、涙はかぎりなく溢れてくるようだった。
浅吉という男は、そういうお蓮をじっと見つめたが、牢内には池田、熊三郎、ほか池田の知人数人がいると告げ、「では、またあとで」とささやくと、足音もなく去って行った。
改めると、包みの中には一分銀で五両の金が入っていた。お蓮は、男とお蓮のやりとりをじっと見まもっていた女たちの間をわけて、牢名主の前に行くと、包みをそのままさし出した。
「この節、五両は高くないよ」
包みを改めた牢名主はそう言ったが、これはお前が使いな、と言って一分銀をふたつだけ、お蓮に投げ返した。
お玉ヶ池の清河塾から引き立てられた池田徳太郎は、牢内に入ると早速牢内役人のいじめにかけられたが、腕力と人品で切りぬけ、隅の隠居という楽な身分をあたえられた。
牢には公認の牢内役人のほかに、穴の隠居、大隠居、隅の隠居、若隠居などととなえる内内の役人がいた。隅の隠居は、もと入牢して名主を勤めた者などがなる役で、公認の役人なみに押しがきいた。
そこで池田は、下男の浅吉を手なずけて水野行蔵に連絡をとらせ、お蓮、熊三郎のために金を工面してもらったのである。水野も、自分は金を持っていないので、奔走して知人から金を借り、さし入れてきたのだった。八郎の弟熊三郎も、はじめ入った揚屋から大牢に移されて苦しんだが、この金で救われた。
名主にツル(金)を差し出したあと、女囚たちのお蓮に対する態度は見る間にやわらかくなった。ツルは名主がひとり占めするわけでなく、少したまると、ツル割と称して主だった者に分配するのである。
雑用を言いつけられることも前より減り、足腰を揉ませられても、夜遅くまでということはなくなった。
だが金はいくらあっても足りなかった。金が手に入ってお蓮がまずしたことは、一日二度の、粗末な盛相《もつそう》飯の補いをつけることだった。ほかの者は、賄いに金を出し、香の物、菜物を入れてもらったり、また決めの時刻に配られる湯茶のほかに、不時にお茶や飲み湯を入れてもらっていた。また外から煮染《にし》めや焼魚を買い入れることもあった。
金がないお蓮は、それが出来ないためと、入牢したはじめのころに牢問にかけられたことで、かなり衰弱していた。牢内で病気になったら、まず助からないと聞かされていた。食事の補いをつけられるようになってはじめて、自分がそれまで地獄にいたことがわかった気がした。
だが牢内でする買物は高かった。竹皮に包んだ煮染めの一包みが一分という値段だった。お蓮は水野に手紙を書くために、筆と墨を買ったが、筆一本一分、墨の折れひとつが一分だった。百文もしない品物に一分の金を払うのである。買物を引き受ける同心や下男が、残りを懐に入れるからである。形を変えた賄賂だった。
金はすぐになくなる。するとその心細さはたとえようがなかった。金はまさに命のツルだったのである。
お蓮は水野行蔵に手紙を書いた。
……ご存じのとおり、外々にたより無き身の上にて、さだめてご迷惑様とは心得ながら申し上げ候間、おさげすみのほどは御ゆるし下さるべく候……牢内は金子なければどうも出来申さず候間、金子ご無心申し上げたく、もっとも先日の御前様からお申越のお手紙には、そのうち国元から人参り候間、おたのみには及び申さずとの御事に御座候えども、実に実に○印なければなんじう(難渋)に存じ候間、金子御遣わし下され候よう、願い上げ参らせ候。そのうち国元からも人参り候えば、御前様へご損毛は相かけ申さじと存じおり候間、何とも何とも再三お頼み申し上げたく……。
五
六月下旬に、清川の斎藤家から人が来たことが、お蓮に知らされ、お蓮は安堵の息をついた。これで命が助かったと思った。
牢内への金のさし入れは滞りなくつづき、牢役人にも手をまわしていることが、同心や下男の態度からも窺い知られた。だがひと息つく間もなく暑熱がきた。
揚屋の牢房は、前面が三寸角の格子、両脇は羽目板、背後は下部が格子、間に羽目板をはさんでさらに上に格子があるという造りで、冬はこの北向きの格子から風が入るので紙を貼る。中は縁なしの琉球畳十五畳という広さだった。ここに籠る夏の暑熱は耐えがたかった。
格子の間の隙間はわずかに三寸ほどである。その外に土間をはさんで外格子がある。そこからわずかに風と日の光が牢内にとどくだけだった。だがわずかでも風がある日はよい。ばったり風がとだえると、牢内は蒸し風呂のようになった。そして悪臭は吐き気をもよおすまでに高まるのである。
お蓮は食欲を失い、何も食べずに吐いて、痩せた。お蓮だけではなかった。同房の女囚たちも、昼も夜もぐったりと畳に横になり、うつらうつらと日を過ごすようだった。
いよいよ暑気が堪えがたくなると、牢では一日置きに、朝四ツ(午前十時)から七ツ(午後四時)まで、外鞘の土間に蓆《むしろ》を敷いてそこで囚人を涼ませる。そのときと、夏の間は五日に一度と決められている行水をつかうときだけ、女囚たちはもの憂く起き上がる。行水は、牢房の水遣所で、桶に汲んである湯に入るのである。
女牢にはないことだが、男牢には時の声ということがある。朝七ツ半(午前五時)と暮六ツ(午後六時)の、牢役人の巡回のときに牢内の男たちが挙げる声である。
朝、役人がまわってくると、牢内役人の一人が節をつけて長く二声、「寺社御勘定お役人中」と呼ばわる。すると男たちは一斉に「エエイー」と叫ぶ。暮六ツの巡回の時になると、牢内役人は、今度は「かしき留りましたァ」と呼ばわる。大音声に、節をつけて四、五度呼ばわる。すると男たちは声をかぎりに「エエイー」と叫ぶのである。
朝の白白明けと夕刻の二度、男牢の方から耳を聾するばかりに聞こえてくるその声は、暑熱の日日は凄愴なひびきをともなって耳に突き刺さる。熊三郎や池田、笠井もああして叫んでいるのだろうかと、お蓮は打ち倒されたように畳に横たわりながら、ぼんやり考えることがあった。
暑さが遠ざかり、秋がきたのを感じたとき、お蓮は自分が生きているのを不思議だとしか思えなかった。牢格子の間から吹きこむ風が、ひややかな秋風だった。夜になると、牢獄の庭で虫が鳴いた。
お蓮は少しずつ食欲を取りもどし、やがて布と鋏《はさみ》を買ってもらい、針を借りて縫物をはじめた。鋏を買うのに一両も取られた。針は牢役人が毎朝四本ずつ牢に入れ、七ツ(午後四時)にとりあげて行く。お蓮は八郎の肌着を縫った。いつ着せるというあてもない針仕事だった。
そうしながら、お蓮は時どき軽い目まいに悩まされた。秋は深くなって行ったが、お蓮はその後にくる、牢内の酷寒の恐ろしさを知らなかった。
六
八郎は、お蓮、熊三郎、虎尾の会の同志の身の上を案じ、心を責められていたが、牢内の辛酸は、漠然と思いやるだけで、それがどのようなものであるかは、知るすべもなかった。
ただ安積から、父が牢内の者を手当てさせるために人を送ったと聞いて、ゆるやかな安堵に心が包まれるのを感じた。
「そうか。それでひと安心だな。牢内に金を使えば、役人もあまり無体な扱いはせんだろう」
八郎は、身体がひ弱いお蓮が、吟味場に引き出されて牢問にかけられるのを、もっとも恐れていた。
「吟味で打ち叩かれたりしたら、あれの身体がもたん」
「そういうことは、もう無いと思います。蔵吉というひとは、江戸に大金を持って行ったそうですから」
と安積は言った。
「清川の方は、どう言っていた?」
「ご両親が、藩に呼び出されて、かなりきびしく調べられたそうです」
「きびしく?」
八郎は眼を光らせて安積を見た。
「何を調べたのだ」
「あなたの使いが、つまりそれがしのことですな。使いが金をもらいに来ただろう、としつこく問い訊したそうです。新潟から出した手紙でわかっていると……」
「しまった」
八郎は悲痛な声をあげた。
「甘かったな。それはおれが嵩春斎に出した手紙だ。そうか、春斎はそれでつかまったな」
「………」
「それで家の者も調べられたのか。まさか拷問をうけたわけじゃあるまいな」
「いや、そうは言っていませんでした」
と安積は言った。
だが、実際は八郎の母亀代が、石抱きの牢問にかけられたのである。八郎捕縛のための捕方が、江戸から鶴ヶ岡に着いたのは七月二十二日だった。八郎と安積が、江戸をのがれて、水戸城下にいそいでいたころである。
藩では翌日豪寿夫妻を奉行所に呼び出し、八郎から使いがきたことを白状させようと執拗に責めた。江戸から来た役人が立ち合っていたので、藩の役人は意地になったようだった。だが安積は途中から温海の湯宿に引き返している。来なかったものを来たとは言えない。
すると取調べの役人は、ついに亀代に石を抱かせた。石抱きの牢問は、男でも気を失う激しい責めである。角材の上に坐らせて、膝の上に玄蕃石を積む。長さ三尺、幅一尺、厚さ三寸の石は一枚で十三貫の目方がある。一枚また一枚と重ねて、白状しなければ、六、七枚まで積む。女の、しかも病弱の亀代が耐えられるわけはなかった。亀代は役人のいうがままに嘘の白状をして、ようやく釈放された。
だが豪寿は、そのことを山嘉には話さなかった。八郎に伝わり、八郎が悲憤して過激な行動に走るのを恐れたのである。
「藩は、よほどおれをつかまえたいらしいな」
八郎はそう言って、声をたてずに笑った。安積には無気味な笑いに見えた。
「おれは藩に憎まれているかも知れん」
おれを、清川在生まれのはね上がりと見ている者は沢山いるだろう。だがその憎しみには、もうひとつ意味があるかも知れないな、と八郎は思った。
荘内藩の中には、主流派と改革派の根深い争いがある。改革派といっても、尊皇あるいは開明といった思想を背景に持ってはいるものの、具体的には、穏健な公武合体の考えをかかげているに過ぎず、かたくなに幕府一辺倒の立場を守ろうとする主流派に批判的だというだけの集まりだが、この派の首脳部には、過去執拗に、現藩主忠発の家督相続を妨げた実績がある。
忠発の家督が実現したあとにも、家老酒井奥之助、中老酒井吉之丞の両敬家、および中老の松平舎人らはなおも別に藩主を立て忠発を廃そうとしたのだ。このことが、忠発の幕府一辺倒の姿勢を一そうかたくなにしているかも知れなかった。
ともあれ忠発家督後、改革派の領袖は次次と圧迫をうけて職をしりぞき、いまは保守的な主流派が藩政を独占していた。
だが、藩府みずからが、和宮の降嫁という公武合体の方向を打ち出し、また藩世子に、改革派が望んだ忠寛が定められるという事情の中で、改革派が息を吹きかえす動きもあるはずだった。
こういう時期に、幕府に楯ついた形のおれを捕縛することは、主流派にとって改革派に対するある種の示威になるかも知れない、と八郎は思った。八郎は、ついひと月ほど前に、忠発が隠居して、家督を世子忠寛に譲ったことを知らなかったが、そのことを知っていれば、自分の考えに一そう自信を持ったはずだった。
「四面楚歌だな」
八郎はもう一度声をたてずに笑うと、脇差を持って部屋を出た。安積は黙ってそれを見送った。
宿の入口を出ると、八郎は右手の草原の中に降りて行った。天空に星がきらめいているのに、暗い夜だった。歩いて行くと、足もとがすぐに、おびただしい夜露に濡れた。近くを流れる大谷川の川音が聞こえ、その川音に押しつぶされるように、細ぼそと虫が鳴いている。
──くそ! いつまで続くか。
八郎は夜の中に憂悶を吐き捨てた。長い潜行の旅に疲れ倦いていた。捕吏に追われ、手も足も出ずに、転転と奥羽の山中を逃げ隠れしているだけの自分がみじめだった。
八郎は脇差を腰に差すと、静かに足を配った。
「えやーッ」
すさまじい気合とともに、八郎の刀は光もなく闇を斬っていった。一瞬と絶えた川音と虫の音が、ゆっくりと戻ってきた。八郎はまた静かに足を配り、再びはげしい気合をのせると、今度も同じ闇を斬った。
宿の方で戸を開く音がし、微かに明りが洩れてきた。すさまじい気合に驚いて、誰かがこちらをのぞき見ているようだった。人に見られていることは危険だった。だが八郎はやめることが出来なかった。ゆっくりと、もう一度足の構えを固めた。
[#改ページ]
風 雲 の 時
一
山中の星ノ湯から、八郎と安積は十月七日、仙台城下にもどった。
手配書が回っている仙台に帰ることを、安積はしきりに危ぶんだが、八郎はこれ以上山中の湯宿にひそんでいることに堪えられなくなっていた。
四方の山山は、仙台領川口から鬼首、新庄領向町、星ノ湯と山中を潜行する間に、燃えるような紅葉に染まったが、あざやかなその紅葉も、山の頂きあたりから、次第に色あせてきていた。落葉がはじまっているのだった。
八郎は近づく冬の気配を感じた。身のまわりの事情も、諸国の動きもわからずに、世の中から孤絶したまま山中で冬を迎えるのはたまらないと思った。安積にそう言うと、安積もしぶしぶながら仙台に出ることを承知したのである。
足音を忍ぶようにして、二人は仙台城下に潜入した。桜田の家は来客が多い家である。そこで二人は戸津宗之進の家をたずねたが、戸津は留守だった。
夜になって、二人はまた戸津の家に行った。今度は戸津は在宅していた。それだけでなく、思いがけなくその家に伊牟田尚平がいた。
「いったい、どういうことだ」
伊牟田とはひと月余り前に別れたばかりである。八郎は再会を喜びながらも、怪しんでそう聞いた。
「薩摩へ行ったのではなかったか」
「それがな」
伊牟田は間が悪そうに頭をかいた。
「ここを発つときはそのつもりだったのだが、水戸へ行くと風向きが変っておった」
「………」
「あの件は中止だ」
「理由は何だ?」
「軍資金がつづかんと言っていたな」
バカな、と八郎は思った。大挙して京へのぼるとなれば、資金がいることは自明のことだ。その用意もなくて騒ぎ立てたのかと思うと、薩摩に潜入して同志を募ると意気ごんでいた伊牟田の姿が、どこか滑稽なものに思えてきた。
八郎は失笑した。すると伊牟田がじろりと八郎を見た。
「何を笑う?」
「だから、その話は信用できるのかと念を押したのだ」
「そうだったな」
伊牟田は意気沮喪したようにうつむいたが、すぐに顔をあげた。
「そこでだ。水戸の連中が今度は別の計画を練っている」
「………」
「ものはいささか小さいが、今度の計画はそうむつかしいことじゃない。しかもうまく行けば幕府にひと泡吹かせることが出来る」
「何をやるつもりだ?」
「老中の安藤を襲う。じつはおれがここへ来たのは、貴公と安積をこの企てに引っぱりこもうと思ってだ。どうだ、ひと口乗らんか」
「安藤を襲う大義名分は何かね」
「幕府は和宮の降嫁を実現して、公武合体で朝廷の攘夷の意志を他に逸《そ》らそうとしている。やつはその動きの元凶だ。それにもうひとつ。安藤は、学者に廃帝の古例を調べさせている」
「ほう」
と言って、八郎は安積と顔を見あわせた。はじめて聞く情報だった。
「それは本当か」
「本当かどうかは知らん。しかし安藤が、和宮を人質にとってから天皇に条約勅許を迫り、天皇があくまでこばめば廃帝を断行する、そのつもりで和学者の塙次郎に古例を調べさせているというのは、もっぱらの噂だ」
「そんな噂があるのか」
と八郎は言った。
八郎は腕を組んだ。幕府がそこまで思い切ったことを考えているとは思えなかった。もし廃帝などということになれば、天下の尊皇の士は大挙して幕府打倒に立ち上がるだろうし、これまで終始幕政を批判してきた有力諸侯も、黙ってはいまい。大乱になる。
だがまったくあり得ないことでもないな、という気もした。八郎は、幕府が和宮降嫁とひきかえに、ひそかに攘夷の約束を奉ったと言った益満の言葉をおぼえていた。
幕府はいずれ、その密約の帳尻を合わせなければなるまい。だがそれは実行不可能なのだ。幕府は何らかの手段で、その密約をうやむやに葬るしかないが、追いつめられてどうにもならなくなった場合、廃帝までいかなくとも、廃帝の古例をかつぎ出して朝廷を脅迫するという手段がある。その用意に、塙という和学者に調べさせているということは、あり得ないことではない。そう思ったとき、八郎の内部に戦慄が走った。公武一体の方向で固着していた情勢に動きが出てきたのだ。伊牟田がもたらした情報は使えると思った。
「それで?」
八郎は、伊牟田に先をうながした。
「この話は、じつは大橋|訥庵《とつあん》が水戸の住谷寅之介に、人を介して持ちこんできた話だ。京都行きがだめになったので、住谷はこの話を受けたのだが、なにせ人数がまとまらん」
大橋は一時宇都宮藩に招かれたことがある人物で、日本橋に私塾を開いている。佐藤一斎に学んだ、熱狂的な国粋主義者として知られていた。同じ西洋ぎらいの故徳川斉昭に近づいたころ、激越な口調で攘夷の即時断行を迫り、さすがの斉昭をへきえきさせたという人物である。
大橋は安藤襲撃を、自分の門下生と水戸藩有志の共同でやろうと持ちかけてきていた。
「一時は双方あわせて十人までまとまったが、また減ってしまってな。いまは五人しかおらん。そういう話でおれも人数の中に加わったのだが、まだ足りない。そこで住谷に話して貴公らを迎えに来たのだが、どうかね。加わらんか」
八郎は黙って伊牟田を見つめた。伊牟田は熱心な口調で言った。
「気がすすまんか」
「やめた方がいい、伊牟田」
と八郎は言った。
「やめる?」
「そうだ」
八郎は断固とした口調で言った。水戸の有志は、まだそんなことを言っているのか、という気がした。
おれは違うと思った。おれには、もっと別のものが見えている。そう思ったとき八郎は、もう一度火のようなものが身体の中を走り抜けたような気がした。
長い逃亡の暮らしの中で、背をまるめ首を垂れ、ときには女女しくさえあった精神が、不屈に顔をもたげたのを感じた。
「安藤を斬ることに意味がないとは言わん。だがそれは井伊を倒したことの繰り返しだ。井伊を倒して、幕府が変ったか? 変りはせん」
戸津の家の者の耳をはばかって、八郎は声を殺してそう言ったが、口調ははげしかった。
「首のすげかえが行なわれただけだ。幕府は攘夷も実行できず、国内の意見もまとめられないままに、国そのものがにっちもさっちもいかなくなるところまで流されて行くのだ。安藤を斬っても、この事情は変りはせん」
「………」
「伊牟田、安積、京へ行くか」
と八郎は言った。
「廃帝の古事を調べさせているというのは、あるいは噂かも知れん。だが、どっちみち幕府は朝廷とかわした密約の実行ということで、ボロを出すぞ。その噂は、幕府が出したボロのひとつかも知れん」
「………」
「おれの勘だが、上方にのぼって倒幕を説く時期が来たという気がするぞ。伊牟田が言うその噂の真偽を調べるひまのないのが残念だが、そういう噂があるというだけで十分だとも言える。これは向うの連中を説くのに使える」
「噂を上方にひろめるのか」
と伊牟田が言った。伊牟田はとまどった顔をしている。
「だがその噂なら、もうある程度上方にも流れていると思うぞ」
「それで結構だ。おれは一番きき目のありそうな場所で、その噂を持ち出すつもりだ。燃えたくてうずうずしている連中がいるのだ。火をつけるには恰好の材料だと思わんか」
伊牟田と安積は顔を見合わせた。比類ない煽動家としての八郎が顔を出したようだった。
「攘夷をテコにして倒幕に持って行く。虎尾の会で、おれはそれを考えていたが、会は潰滅した。伊牟田は別だが、おれや安積は一処士にすぎん。何のうしろ楯があるわけでもない」
「………」
「いわば徒手空拳だが、天下に対する志はやみがたい。とすれば、おのれの弁口と……」
八郎は刀をつかみ上げた。
「この一剣。頼るものはこれしかない。おれはひろく倒幕を説いてみる気になった。君らは行くか?」
「いつ発ちます?」
こういうときの八郎の弁舌ほど人を惹きつけるものはない。八郎の言葉に魅せられたように、伊牟田が興奮した顔で言った。八郎はむしろひややかな口調で、明日にも発つと言った。
二
三人の出発は十月九日になった。奥州路の山河は見わたすかぎり枯れさびて、初冬の気配がただよっていた。
戸津と、桜田父子のひそかな見送りをうけて、仙台を後にしたとき、三人は伊勢参りの商人に仮装していた。伊勢の外宮に、伊牟田の旧知で山田大路親彦という御師がおり、京都の田中河内介と親しいというので、三人はそこをたずねるつもりになっていた。
だが途中の関所の改めが、予想以上に厳しかった。桜田に通り手形をつくってもらったので、見破られはしなかったが、三人は胆をひやした。
「安積が問題だな」
関所を通りぬけた、ほっとした気分の中で、伊牟田が安積をからかった。
「どうやつしても商人には見えん。関所役人の眼が、安積を見るときはことさらにうさんくさげだったぞ」
「そんなことはあるまい。商人といってもいろんな男がおる」
一眼、巨躯《きよく》の安積は怒ったように抗弁した。八郎は思わず笑ったが、伊牟田の感想にも一理あると思っていた。
栃木の宿で、八郎は数人の男が、首に大きな数珠をかけて道を通るのを見た。宿の者に確かめると、身延山参詣の者たちだと教えられた。
「あれがいいじゃないか」
八郎は伊牟田と安積にそう言い、数珠を買いもとめると、今度は身延山参りの商人連れという形を装った。数珠は、今度は眼つきの険しい伊牟田にそぐわないという難はあったが、木訥《ぼくとつ》そうな安積にはよく似合った。
この変装は成功した。街道では、身延山参りの人間が珍しくなかったので、三人を怪しんで見る者もいなかった。手配書には、八郎と安積の二人が連れ立っていることになっているので、そこに伊牟田が加わったことも、幾分八郎の気持を楽にした。
伊牟田は時どきひょうきんなことを言って、二人を笑わせる。秩父路から三峰山を越えるつもりで、寄居村に宿を取ったとき、宿の主婦は三人をすっかり身延参りの人間と信じこみ、奉納金と宿房にとどける書帖などを頼んだ。その時の伊牟田の応対は見事で、三人はあとあとまで、その時のことを思い出して笑った。
安積と二人で、あちこちと潜行しているとき、二人は一日中言葉をかわさず、黙っていることがあった。前途に何の光も見出せないせいでもあったが、安積の無口が八郎にうつったようでもあった。だが伊牟田が一人加わった旅は、どことなくにぎやかだった。
八郎は決して油断はしていなかったが、今度は潜行するというよりも、前途に大望を抱いて旅しているという意識が、やはり心を幾分昂らせるようだった。
幽閉の土地から解き放たれたようだった。三峰山に登り、甲州へ山越えする道は途中積雪があって、苦しい旅だったが、日の光は奥羽の地よりも明るく、まぶしかった。
甲府から三里の場所にある今福村に、八郎と千葉道場で同門だった土橋鉞四郎がいる。甲州に入ると三人はそこをたずねた。
土橋は甲府の尊皇攘夷党を牛耳る人物でもあったので、三人を歓待した。そこで三人は意外なことを聞いた。八郎が、中山道の方が幾分手薄だろうから、これからそちらに回るつもりだというと、土橋は少しあわてた口調で、それは逆だと言った。
「中山道は、例の和宮の行列が通るので、例年にない厳しい厳戒ぶりだ。なんでも行列の人数が千数百人、この警固に十二藩の武士がつきそうとかで、中山道一帯に二十九藩の人数がくばられたと聞いたぞ」
「………」
「和宮さま降嫁に反対する、尊攘派の連中が、行列を妨害するかも知れんというので、この警戒ぶりになったそうだ」
「助かった」
思わず八郎は言って、伊牟田と安積の顔を見た。
「土橋の家へ寄ったのは天の助けだったな。あぶなく網の中にとび込むところだった」
「そのかわり東海道の方は幾分手薄だろう。油断は出来ないが」
と土橋は言った。
三人は土橋と別れると舟で東海道に出た。土橋の言ったとおりで、三人は途中見とがめられることもなく、十一月四日無事に伊勢の山田についた。
山田大路親彦は、歌道と国学に明るい剛直な気性の人物だった。三人を酒でもてなし、八郎を気に入ったらしく、家宝だという二枚の鏡を持ち出してきて、一枚くれたりした。
山田大路は、快く田中河内介にあてて紹介状を書いてくれた。
「貴殿とは話が合うかも知れませんな」
山田大路は、紹介状を書いてから、そう言って、どういうわけか突然にからからと笑った。八郎と田中河内介をくらべてみたというふうでもあった。
田中河内介は、但馬|出石《いずし》の医師小森教信の第二子として生まれた。若いとき井上静軒、摩島松南、山本亡羊に儒学を学び、京都に遊学している間に、大納言中山|忠能《ただやす》に召しかかえられた。そうして、人物を見こまれて中山家の家臣田中近江介綏長の家を継ぎ、諸大夫となった。
豪毅な性格と頑固な尊皇論で、京都では高名な人物だということを、八郎は虎尾の会の同志北有馬から聞いていた。また田中は薩摩の人間とも交際があったので、伊牟田も田中の名前を知っていた。
三人は十一月九日、京都について三条河原の近くに宿を取った。
「若いころ、勉学のために京都にきたことがある。あちこちの天井に蜘蛛《くも》が巣をかけ、布団の中には虱《しらみ》がいるという、変な塾だった」
その夜、軽く酒を飲みながら、八郎は言った。だがすぐに顔色をひきしめて言った。
「さて、明日からはじめるぞ」
三
翌日、八郎は単身二条の川岸にある田中の家をたずねたが、あいにく留守だった。田中は摂津の方に出かけているというので、八郎はそのまま帰り、十二日まで待って、今度は伊牟田と二人で出かけた。
田中は山田大路の紹介状を持つ二人を快く迎えた。挨拶が済んでから、八郎は言った。
「中村貞太郎をご存じですか」
中村貞太郎というのが、北有馬の本名である。八郎は何気なくそう言ったのだが、田中は異常なほどの反応を示した。
「ああ、懐しい名前を聞きますな。中村孟達は、私と義兄弟の約を結んだ男です」
「………」
八郎は驚いて伊牟田の顔を見た。伊牟田もびっくりした顔をしている。北有馬から田中とは親しい仲だとは聞いていたが、そこまで親しくしていたとははじめて聞いた話だった。
「中村ほどの秀才はおりませんな」
と田中はきちんと手を膝においたまま言った。
「十四、五年前。中村は久留米から真木和泉守と一緒に京に参りましてな。ここでしばらく塾を開きました。何とそのときに、彼は二十一でした。真木が確か三十五、私は三十四のときでしたが、二人とも学問では中村に及びませんでしたな」
「………」
「中村はもともと江戸の安井息軒の弟子で、ここから江戸に行くと、望まれて息軒の婿になりました。その後わけあって息軒と義絶したとも聞いておりますが、いまはどうしておりますか?」
「彼は、われわれの同志でした」
と八郎は言った。だがそう言っただけで、しばらく沈黙した。北有馬と田中の間柄がわかると、いま北有馬が小伝馬町の牢獄につながれていると打ち明けることは辛いことだった。
だが話さないわけにはいかなかった。北有馬のことを話すことは、虎尾の会について話すことであり、八郎自身の潜行まで打ち明けることだった。
八郎は洗いざらい話した。田中は黙って聞いていたが、八郎が話し終ると、大きくうなずいた。
「そうですか。中村は牢につながれていますか」
「残念でなりません」
「いや、中村ははやくからこういうことを予想していたはずでな。息軒と義絶したのも、志士として動くのにさしさわりがあるからと、事情を手紙で知らせてきたことがありました」
田中は不意に、鋭い眼で八郎と伊牟田を見据えるようにした。
「そうですか。中村の同志なら、大事に扱わないと、かの男に叱られますな」
田中は二人に泊れ、と言った。しかし初対面で二人も泊るのは気がひけたので、伊牟田は宿に帰り、八郎だけが泊った。
──いつ切り出すか。
その夜、田中の家に泊った床の中で、八郎は田中に倒幕を説く機会を思いめぐらせた。
八郎が田中に、京都にきた本当の目的を切り出したのは、十四日になってからだった。
「お願いがござります」
と八郎は言った。
「中山家のご子息|忠愛《ただなる》卿は、英邁《えいまい》の人とうかがっております。貴殿のお力添えで、一度お会わせ願えまいか。いまひとつ……」
八郎は無言で自分を見つめている田中の視線を、強引に押し返してつづけた。
「貴殿は、九州の尊攘志士とおちかしいとうかがいました。それがしを、かの地の人びとに周旋する書状を頂戴できませんか」
「周旋状を、どうなさる?」
「九州に行って倒幕を説いて参ります」
八郎はずばりと言った。すると田中は口辺に皮肉な笑いをうかべた。
「虎尾の会を死守出来ず、中村ほかの同志を、むざと幕吏の手にゆだねたあなたが、今度はこちらへ来て倒幕ですかな。幕府はそう簡単には倒れませんよ」
と田中は言った。虎尾の会統率者としての、八郎の手腕を皮肉ったようだった。だが八郎が顔色も変えずじっと見返すと、田中は笑いをひっこめた。
「失礼した。倒幕をというあなたの意見を聞こう」
「虎尾の会は、もと尊攘の集まりでしたが、のちには倒幕を旗印としました。しかし時期尚早のうちに、幕吏の手入れをうけたのは、残念でなりません」
「………」
「しかし時期といえば、それから半歳。いまはようやく熟してきたかと思われます。幕府は違勅のまま、つまり朝廷をないがしろにしたまま諸国と交易を開き、今日に至るもそのままです。これに不服をとなえる者に大弾圧を加えた井伊は首切られましたが、いまの幕閣は、井伊を上まわる狡智をもって、恐れ多くも主上を瞞着《まんちやく》しにかかっております。すなわち皇妹降嫁によって、事態をうやむやにおさめようという動きがそれで、幕府のこうした欺瞞ぶりに、天下の眼あるほどの者は憤慨しないはずはありません。彼らは幕府のやり方に十分に倦きております」
「………」
「皇妹を頂くにあたって、幕府は主上に攘夷を密約したと聞きました。だがこれこそ主上を欺くも甚だしいものです。幕府に攘夷実行の腹がないことは誰の目にも明らかです。倒幕の時期は熟しつつあるというべきでないでしょうか」
「そこまでは誰も言う。書生論じゃな」
と田中はすげなく言った。
「では、幕府が廃帝の先例を調べさせているという噂を、ご存じでしょうか」
「なに?」
と田中は言った。険しい表情になった。
「密約の実行を迫られたとき、幕府には最後にその手段があります。倒幕は、もはや急務ですぞ」
「噂だろう。噂に過ぎん」
と田中は言った。だが、不意に田中の顔はみるみる真赤になった。
「しかしまったくあり得ないとは言えんな」
「いや、十分にあり得ることです」
使える情報だと思った狙いに違わず、持ってきた情報は、天皇の膝下で最初の反響を呼んだようだった。田中はまだその噂を聞いていなかったようである。予想以上に生なましい田中の反応に、八郎は内心驚いたが、その驚きを隠し、無表情にもうひとつ煽った。
「幕命によって、そのことを調べているのは、和学者の塙次郎と、人名まで噂にのぼっております」
「怪しからんことだ。事実なら、言うも憚《はばか》る不祥事だ」
田中は小さなうなり声をまじえながら、憤慨を吐き捨てた。彫が深い白皙《はくせき》の顔を染めた赤味は消えたが、田中の顔は今度は幾分青白くなっていた。
「その話を、そこもとはどこから聞かれたな?」
「水戸の有志から聞きこみました」
「水戸? なるほど水戸か」
「他言を憚りますが……」
八郎は声をひそめた。
「水戸藩内には、この噂に憤激して、安藤老中を刺そうとする動きがござります」
「さもあらん。この話を聞いて、水戸が黙視しておるはずがない」
田中は、納得がいったように、二度、三度とうなずいた。田中の内部では、噂と事実の境い目が次第にあいまいに変って行くように見えた。水戸の信用は、京では絶大だなと思いながら、八郎は静かに言葉をつづけた。
「打ち明けますと、そのことでそれがしにも誘いがかかり申した。しかしその企ては、それがしには与《くみ》しがたいものです」
「なぜだ?」
田中は不満そうに八郎を見た。
「水戸有志の誘いをことわったそれがしの真意を申しあげましょう」
「………」
「外夷が武力をちらつかせて、ついに幕府に国交を開かせるに至った経緯を、それがしは江戸にいてつぶさに見て参りました。その経過の中で、もっとも明らかだったのは、幕府はもはや国政担当の任に堪え得ないという一事でござりました」
外国使節との交渉の拙劣さ、あるいは朝廷を頼り、有力諸侯の力を借りる姿勢を示しながら、その力をまとめる能力に欠け、単に自己の無力を隠蔽することに汲汲としてきた幕政の在り方を、八郎は攻撃した。胸を張って、とうとうと述べ立てた。
「その任に堪えず、幕府は内部からつぶれるだろうと、しかる後おそらくは聖上を上にいただく新しい王政が出現して、国民一致して外夷との折衝にあたり、かつ内治をととのえることになるだろうと、それがしは予見致しました」
「ふむ、面白いな」
「しかしその考えは、いささか甘かったと言わざるを得ません。二百数十年、天下を仕置きしてきた幕府の骨組みは意外にしたたかで、たとえば自ら倒れんと欲しても容易には倒れないような仕組みになっている、と考えるべきでした」
「………」
「すなわち外交、内治ともに窮まって、この国が亡国の相を呈しようとも、政治の仕組みとしての幕府は、たとえ骨組みだけのものになろうと、なおも立ち続けるだろう、というのがそれがしの考えです。すなわち倒れるのを待つのは誤りで、断固倒すほかはありません。安藤老中の刺殺などは、この大目的から申せば、もはや一些事に過ぎません。それが何ら幕府の痛痒とならないことは、申しあげたとおり明らかなことです」
「ふーむ」
田中は八郎の顔をじっと見た。長い間そうしていた。口をむすんで、八郎も正面から田中を見返した。すると田中の顔にふたたび赤味がさし、田中はせきこむように言った。
「それで、具体策はあるのか」
「ござります」
八郎はすぐに切り返した。
「ご承知のように、九州は由来勤皇の土地柄です。最初に中山卿にお会わせ願いたいと申し上げましたが、中山卿の親書と、貴殿の周旋状を頂いて九州に下り、青蓮院宮の密旨と偽って西国の有志に義挙を説きます」
「青蓮院宮?」
田中は虚をつかれたような顔をした。
「しかし密旨などと称するのはどうかな」
「順序が前後するだけでござりましょう。同志を糾合し得たら、ひそかに京に集まり、京都所司代を討ち、青蓮院宮を奪い奉って尊皇倒幕の義軍の総帥に頂くというのが、それがしの企てです。しかるのち諸国の尊皇攘夷の士に呼びかけるなら、天下の義士、草莽《そうもう》は一斉に宮の傘下に集まり、倒幕の一大義軍が出現することは疑い得ません」
青蓮院宮尊融法親王は、伏見宮邦家親王の第四子で、のち孝明天皇の養子となり、勅命で京都郊外粟田口の青蓮院に住んだ。外国との通商問題から、朝廷が政治の表面に出るようになると、天台座主の地位のまま天皇の諮問にこたえ、条約勅許問題では、もっとも強硬な対幕姿勢を打ち出して、尊攘派公卿の中心的存在となった。このため井伊ににらまれて、大獄の進行の中で慎みを言い渡され、天台座主その他の職を剥奪されて、いまは相国寺内の桂芳院に幽閉されている。
幽閉の身分ではあったが、宮の存在は、諸国の尊攘派志士の間に、ひとつの精神的な拠りどころとされていた。八郎はそのことを言ったのである。
「よろしい。周旋状を書きましょう」
しばらく黙考したあとで、田中はきっぱりと言った。
「忠愛卿にもお会い出来るよう、はからおう」
「ありがとうございます。九州遊説は、必ずやりとげます。おまかせください」
と八郎は言った。
田中が書いてくれた周旋状は六通。宛先は肥後の松村大成、大野鉄兵衛、河上|彦斎《げんさい》、豊後の小河《おごう》一敏、薩摩の美玉三平、是枝柳右衛門だった。
中山忠愛卿との会見の約束を取りつけ、田中にもらった周旋状を懐にして、三条河原の宿にもどりながら、八郎は心が躍るのを感じた。最初の難関を突破したと思っていた。
四
十一月十五日、八郎は安積と伊牟田を同道して京都を出発し、九州にむかった。その日は朝から雨で、京の町並みは冷たい冬の雨に濡れていたが、翌日大坂に着き、常安橋から出る小倉行きの船に乗るころには、空はまぶしいほど晴れ上がった。
暗い雨雲が垂れこめ、底冷えしていた京都にくらべると、瀬戸内の海はさほど寒くもなく、海の青さも、行きすぎる島島の緑も、眼にしみるように美しかった。船はほとんど揺れもなく、すべるように海上をすすんで行く。
「何を書いている? 詩か?」
艫《とも》の方で、安積と並んで景色を眺めていた伊牟田が、それも倦きたらしく、胴の間にいる八郎のそばにきて、手もとをのぞきこんだ。八郎は矢立ての筆を休めて、伊牟田の顔を見上げた。三人は依然として町人姿のままで、八郎は詩文を学んでいる江戸人大谷雄蔵、伊牟田は仙台人で善積慶助という変名で九州へ行こうとしていた。
「これはな」
八郎は声をひそめた。
「天皇に奉る文章の下書きだ」
「天皇?」
伊牟田はあっけにとられたような顔をした。次いで顔をしかめたが、八郎はかまわずに言った。
「そうだ。九州から戻ったらさし上げる」
「どれどれ……」
伊牟田は八郎のそばにしゃがんで、はじめの数行を黙読したが、不意に腰をのばすと、鼻白んだような声で言った。
「えらいことを考えるものだな」
去って行く伊牟田の背を見送りながら、八郎は伊牟田が何を考えているかわかった。もとをただせば酒屋の伜が、大それたことをすると思ったに違いないのだ。
だが、伊牟田の考えは間違っている、と八郎は思った。いま天下を動かそうとしているのは、草莽の中の名もない男たちなのだ。古内村祠官鯉淵要人、矢倉方手代森山繁之介、鉄砲師杉山弥十郎──。井伊を襲撃した男たちの名前と身分は、まだ八郎の頭の中に刻まれている。
そして八郎の周囲にいる男たちもそうだった。勝海舟塾に学んだ真島雄之助、佐藤与之助は郷里の百姓の出だが、与之助はその後勝塾の塾頭を勤めていると聞いた。水野行蔵、池田駒城、そしてついに会う機会がなかった阿部千万多は脱藩の足軽だった。そういう男たちが、従来の規矩にとらわれない、自由な眼で時勢を理解しその中で行動しようとしていることを、八郎は知っている。
田中河内介に会ってから、八郎は、胸中に火のように燃えさかるものを感じつづけていた。田中の手引きで、石薬師通り北側の中山家を訪ね、忠愛卿に会ったときも気遅れはしなかった。中山家の当主忠能は、孝明天皇の子|祐宮《さちのみや》(後の明治天皇)の外祖父として威勢をふるい、条約勅許にも強硬に反対した人物だが、和宮降嫁で斡旋役に回ったことで、尊攘派ににらまれ逼塞《ひつそく》していた。八郎はそれで子息の忠愛に会ったのだが、八郎が説くと忠愛はすぐに親書を書いてくれた。動けば、ただちに応えて来るものが、いまの世の底にあることを、八郎は感じている。
天下を動かすのは、まさにわれわれのような名もない男たちの仕事なのだ、という確信を八郎は深めていた。虎尾の会の瓦解で失った自信を取り戻しつつあった。尊皇攘夷は論じても、倒幕王政は、まだ、誰も説いてはいまい。それは俺の九州遊説からはじまるだろう、と八郎はほとんど傲慢なほどに自信を深めていた。
──天皇に書を奉って悪いわけはない。
草莽の者が、かくのごとく身を挺して、新しい時代を切りひらくべく働いていることを、天皇に知っていただくのだ、と八郎は思ったのである。遠く呼びかけるだけでいい。名もない草莽の者の、遠い呼びかけは、幕府との抗争にお疲れのはずの天皇に対する、いささかのはげましになりはしないか。そう考えたとき八郎は、禁廷の奥深い場所に住む天皇をにわかに身近かに感じることが出来た。
名もない一処士が天皇に書をさし上げるなどということは例があるまい。懼《おそ》れ多いこととされる。だが誰もやらないから、このおれがやるのだ、と八郎は昂揚した気分でそう思いつづけていたのである。
回天封事──天皇に奉る書を、そう名づけようと八郎は考えついた。
三度死を決して而して死せず
二十五回 刀水を渡る
この句にはじまる藤田東湖の回天詩史を、八郎も国事に奔走する男の一人として愛唱せずにはいられない。そしていま八郎は、その回天の語に、明確に己れの思想を託していた。倒幕を実現して、王政の盛んを回復しようとするのである。それが外圧と内治の混乱の中で、騒然と行方を見失っているこの国がとるべき、唯一の新しい道となるだろう。
「回天の時期がきている。みんな気づかないだけだ」
八郎は呟いた。そして筆と紙をしまうと、戻って来ない伊牟田と安積をさがすために立ち上がった。
船は二十六日ごろ、下関についた。この地の竹崎で回船問屋をいとなむ富商白石正一郎は、鈴木重胤に国学を学んだ尊攘派の人間だった。伊牟田が面識があるというので、三人は白石家をたずねて一泊したが、このときの白石の印象はあまりよくなかった。そこで八郎は、素姓を隠したまま、翌日早早に白石家を離れ、九州にわたった。
八郎たちは小倉から長崎街道を南下し、鳥栖の北方田代から薩摩街道に入ると、久留米城下を経て肥後熊本城下に近い安楽寺村に、松村大成をたずねた。十二月二日になっていた。
松村は医師だったが、高い学識を持つ尊攘派の志士として、息子の深蔵ともども九州の志士の間に知られている。松村は、田中河内介の周旋状を持参した三人を歓待した。
八郎は松村と腹蔵のない意見をかわした。六十歳の松村は、若い八郎に丁寧な口を利き、八郎の倒幕勧誘には、時期が来ればいつでも起《た》ちましょうと、きっぱりと言った。
「あなたの倒幕論は、眼もさめるばかりに明快だ。明晩このあたりの勤皇家の諸君を集めましょう。おそらく連中も、あなたの論を聞いて奮起するに違いありませんぞ」
「それが九州に参ったそれがしの目的です。一人でも多くお集まり頂けると有難い」
「惜しいことをしましたな」
と、松村はふとひとりごとのように呟いた。
「何ですか」
「いや、筑前の平野次郎がここに来ておるのですが、いま久留米の真木和泉のところに行っております。間もなく戻ると思いますが、ぜひあなたにひき合わせたい」
五
松村がひき合わせたいと言った平野次郎国臣が、飄然と長身痩躯の姿を現わしたのは、翌日の夜、折よく松村が宮部鼎蔵以下数人の主だった志士を呼びあつめて、八郎たちを紹介し終ったときだった。
「ああ、平野さん。ちょうどよかった」
松村が手招きして耳打ちすると、平野はずかずかと座敷の中を歩いてきて、八郎の前にぴたりと坐った。頬がこけたひげ面の中から、細い眼が瞬きもしないで八郎を見た。年ごろは八郎と同じぐらいに見えた。
平野は福岡藩を脱藩して京にのぼり、尊攘志士とまじわったが、安政の大獄で、西郷、僧月照が京をのがれるのに同行して薩摩に行き、後には下関の白石を頼って、しばらく白石の世話で春風楼という妓楼にひそんだ。しかし地元の清末《きよすえ》藩や福岡藩の平野探索がきびしいので、白石はついに平野を苫船《とまぶね》で九州に脱出させた。それでいまは松村の家に潜んでいるのであった。
八郎が、清河八郎ですと名乗ると、平野は痩せた身体に似あわない野太い声で名乗った。
「平野でござる」
ひと言そう名乗っただけで、平野は垢じみた衣服の背を見せて末席にもどった。
松村が簡単に、八郎の九州遊説の目的を話したあと、今度は八郎が関東の情勢を語り、論旨を巧みに倒幕挙兵に持って行った。
「幕府が塙次郎に命じて、廃帝の古例を調べさせているというのは、関東では隠れもない噂でござる。思うに幕府は、主上に攘夷の約束を実行せよと迫られたとき、それを持ち出して脅迫の種にするか、あるいは血迷って帝位を廃するところまでやるのか。いずれにせよ、容易ならざる企てを秘めて、当面の窮地をしのぐ腹になっておることは疑い得ないところです」
集まった者は、黙黙と耳を傾けているだけで、一語も発しなかった。
「かくのごとく幕府がやろうとしていることは、末期の相を呈しておる。しかも放置しておけば、このような支離滅裂な施策のまま、この日本を滅亡にみちびいて行くことになるのは明らかです。幕府を倒さざるべからずです。しかも、それは一刻でも早い方がいい」
「ちょっとうかがうが……」
一人が口をはさんだ。
「は? 何か」
「貴公が申される、廃帝の故事を調べておるとかいう噂だが……」
「………」
「それは、確かなことかの?」
その質問には、ひやりとするような冷たさがあった。
「むろん噂でござって、それを幕府に確かめることも、また塙という学者に問いただすことも出来ぬことでござるが、まったく根拠のないことは、噂にもならんと思います」
「つまり不確かということですな」
と、その男は言った。薄笑いをうかべていた。すると私語が起こり、くすくすと忍び笑う声がまじった。
「もうひとつうかがいたい」
ずしりとひびく声でそう言ったのは、宮部鼎蔵だった。四十過ぎと思える、固肥りの体躯を持つ精悍な人物だった。八郎は松村から、宮部が熊本城下で山鹿流の兵法師範の塾を開き、大獄で斬首された吉田松陰と交わり深かったことで知られる勤皇家だと聞いていた。
宮部が、今夜の集まりの、ある意味で中心人物だということは、宮部が発言するとぴたりと私語がやんだことでもわかった。八郎はいくらか緊張にとらわれながら、宮部に膝をむけた。
「なんなりと」
「さっきのお話の中の、倒幕挙兵のことだが、青蓮院宮を頂くというのは、宮もそのことを承知と考えてよろしいかの」
「ご承知のとおり宮はただいま幽閉の身で、会うことはかなわぬ。よってそれがしがお会いして、談合しましたのは、中山忠愛卿でござる。卿は青蓮院宮とお親しい。直接に宮にお会いしたわけではござらんが、話は通じていると解釈して頂いて結構かと存ずる」
「ふーむ。するとその点も不確かということですな」
と宮部が言った。すると部屋の中が急に騒然として、私語が高くなった。「そんな話には乗れんぞ」、「肝心のところがあいまいではないか」などと、男たちは露骨な声をあげた。ついに一人が松村にむかって言った。
「松村老人。このひとの論ずるところはなかなか立派だが、少し信用のし過ぎではないのか。われわれは出どころもはっきりしない噂に乗って動くわけにはいかんのだ」
「お待ちください」
八郎は鋭く言った。その男を制したのではなく、一座の喧騒をさえぎったのだった。
「先ほどそれがしは、挙兵にあたっては、宮を幽所から奪うと申しあげたはずだ。まず起って、しかる後に説くというのが、この場合のそれがしの考えでござる。また、噂の出所はどこかと仰せある。だがそのような瑣末な詮索よりは、そういう噂が存在すること、つまりはそのような噂が立つほどに、幕府の信用が失墜していることにご注目ありたいのだ」
「………」
「要は倒幕の必要ありや否やと言うことでござる。それがしは必要ありと認めた。幕府を倒し、聖上を上に頂く新しい政治の仕組みを実現することこそ、今日の国力の衰えを救うものだと信じておる。ゆえに、かくのごとく同志をもとめにきたわけだが聞かれねばぜひもない。ただし根も葉もないことを言い触らす、浮浪の言のように言われるのは、はなはだ迷惑だ」
八郎の舌が火を吹いていた。眼は鋭く一座の男たちを見回し、剣で鍛えぬいた身体から一歩もひかない気迫が、ほとばしり出るように見えた。その気迫に圧倒されたように、部屋の中はしんと静まった。
「待たれよ、清河」
沈黙を破って、宮部が言った。宮部の表情も声も、いくらかやわらかくなっていた。
「いや、率直に申して貴公の倒幕論には眼を開かれた。なにやら心がいさみ立つのをおぼえる。しかしわれわれも、この地から京へのぼるについては、いま少し確かな情報が欲しい。そうなったあかつきには、われわれも応じて立つと約束しよう」
六
宮部の言葉が、その夜の会合の締めくくりになったようだった。男たちは松村に挨拶して席を立った。
松村父子が見送って出たので、ほのかな灯火に照らされた広い座敷には、八郎たち三人と平野が残った。いや、もう一人いた。
柱に寄りかかって、会合の間じっと腕組みしたままだった若い男である。男はみんなの足音が玄関の方に消えたころに、やっと腕組みを解いて立ち上がった。
男は離れた席で立ちあがった八郎に近づくと、不意に手をさしのべた。八郎も思わずその手を握った。
「河上|彦斎《げんさい》です」
と、小柄で色白なその男は言った。
「おう。あんたがそうですか。君には田中さんから周旋状を頂戴してきている」
「いや、いりません」
河上は軽く手を振った。そして無表情だがはっきりした声で言った。
「ほかの者はどうか知らんが、それがしは貴公の弁論に感心しましたな。倒幕大いに賛成です。呼びかけがあれば、それがしはいつでも行きますよ」
河上はそれだけ言うと、安積と伊牟田にも軽い会釈を残して座敷を出て行った。
「肥後の議論倒れと申しましてな、いったん起てば強いが、そこまで行くのが、容易ではない」
平野が、火桶のそばにきちんと坐ったまま言った。
「肥前、肥後を通じての通弊です。よく議論するが、はかばかしく実行には踏みこまんのです」
八郎たちは平野のそばに行って腰をおろした。平野は三人の顔を見回して、酒が欲しいですなと言い、高い喉ぼとけを動かした。
「しかしそうだからと言って、失望するにはあたりません」
と言ったのは、酒のことではなく、肥後の議論倒れのつづきだった。
「貴公の倒幕論は立派なものです。あれだけ言っておけば、時節が来たときに芽を吹きますよ」
「それがしもそのつもりで説いています」
と八郎は言った。
「真木先生にお会いになるといいな。このへんで、話がよく通じるのは、ここの松村老人と真木先生ぐらいでしょう」
「何の話かな」
と言いながら、松村大成が座敷にもどってきた。
「いや、肥後の議論倒れという話をしていたところです」
「私や伜はのぞいて頂きたいものだ」
と松村が苦笑して言った。
「われわれは、いつでも起ちますぞ」
平野は笑いもせず、なおも八郎に言った。
「真木先生に一度お会いしたらいい。先生も倒幕論でしてな。幕府は倒さなきゃいかんと言っています。先生は天皇みずから兵を率いて江戸城に乗りこみ、大老以下を死罪にするという雄大にして殺伐な構想を抱いていますよ。昨日も薩摩にのりこんで、島津侯を動かそうかという相談をしたばかりです」
「島津侯を?」
八郎は平野の顔をじっと見た。平野はうなずいた。
「それがしも、真木先生の倒幕論に触発されましてな。七月に天草に隠れておったときに、雄藩が勅を奉じて先ず大坂城をうばい、参加する諸藩の草莽を率いて倒幕に持って行くという策を立てた。それがしの意中にある雄藩というのは薩摩でござる。そこで、薩摩に潜行して島津侯を説こうかと話し合ったわけでござる」
「それで?」
八郎は息をつめた。八郎の脳裏に、井伊大老が強権をふるって立ち上がった直後、井伊に対抗して、洋式銃、洋式兵制で鍛えた大兵をひきいて上京しようとした島津斉彬のことが浮かんできた。だが伊牟田らの話では、斉彬死後の薩摩は、隠居斉興以下の旧勢力が復活し、海軍は解散、斉彬が手塩にかけた洋式兵制の陸軍も、一部古式にもどすなど、藩政は保守後退の道をたどっているはずだった。
だからこそ、伊牟田らは過激な尊皇攘夷の行動に走り、有村治左衛門は桜田門外に闘死したのだ。江戸にも国元にも、斉彬の意志をつぐと称する尊皇攘夷の決意固い者はいる。八郎は今度の遊説の中で、薩摩に潜入して藩内にいる尊攘派に連絡をとるつもりだったのだが、薩摩藩そのものにも、何かの動きがあるのだろうか。
「かの藩に、なにか遊説を受けつけるような動きでもありますか」
「ちょうど二年前のことだが、後見職久光公が、誠忠組の過激をおさえるために藩主に諭書を出させた。その中に、万一時変が起きた場合は、故斉彬公のご深意をつらぬいて、一藩を挙げて忠勤をつくす所存だという文句がござる。斉興公が死なれ、藩政の実権を握るのは久光公だから、これは藩の意志の正式な表明だと考えてよかりそうに思える」
「あれは、まやかしだ」
と伊牟田が言った。だが平野は平静な顔でつづけた。
「そういう説もございますな。だが斉興公が死なれて、藩の行き方が、またひと変り変ったということは考えられる」
「これは伊牟田と申して、薩摩人でござる」
と八郎が、改めて伊牟田を引きあわせた。ああ、そうですかと言って平野は口をつぐむと、じっと伊牟田を見た。伊牟田が何かを言い出すのを待っている顔色だった。
だが伊牟田はいそいで言った。
「いや、それがしはずっと国元を離れていましてな。ことに脱藩して半年にもなるので、国の事情には暗うござる」
「そうですか。それならそれがしの方がくわしい。それがしは、久光公が来春には兵をひきいて京にのぼるらしいという噂を耳にしており申す」
「それはすごい話だ」
と八郎は言った。
八郎は島津久光については、ほとんど知るところがない。伊牟田から久光がかつて斉彬と家督を争った、いわば斉彬の政敵だということを聞いているだけだった。
だが平野の言葉から感じ取れるのは、その斉彬の異母弟は、死んだ斉彬の遺志をつごうとしているのでないかということだった。やはり時勢は動いているのだと、八郎は胸がさわぐのを感じた。
「ところで……」
八郎は平野のさっきの話に、話題をもどした。
「真木さんと話し合ったという、貴公の薩摩遊説は、どうなりました?」
「まだ考えておるところです。久光公が兵を動かすということは、それこそ噂を聞き齧《かじ》ったに過ぎませんし、それに貴公の前でナニだが……」
平野は伊牟田を見て、はじめて白い歯をあらわして笑った。
「お国は潜入するにはこわいところですからな。真木先生がご一緒なら、その心配もなかろうと思うが、先生はただいま藩に幽閉されておる。潜入には決死の覚悟が要るので、思案しているところです」
その夜、八郎は寝部屋にあてられた座敷にひきとってから、伊牟田に言った。
「伊牟田、貴公平野さんと一緒に、国に潜入してみる気はないか」
「おれか。平野と二人か」
と言ったが伊牟田は無造作に、いいよと言った。そして床にもぐるとすぐにいびきをかき出した。
寝る前に飲んだ酒が、ほどよい酔い心地で身体を駆けめぐっていたが、八郎は眠れなかった。
平野に薩摩潜入を説いてみようと思っていた。地理にくわしい伊牟田をつけてやれば、平野は承知するのではないか。遊説までいかなくとも、久光出兵の噂の真偽を探るだけでもいいのだ。その噂は、ぜひとも確かめねばならぬ。
──真木和泉守にも会わねばならんな。
北有馬にも、また田中河内介にもおよその人物は聞いていたが、平野の話によれば、真木はすでに四年前に大夢記という書物をあらわし、その中に倒幕、天皇親政の構想をつづっているという。久留米郊外水田の幽居にいるというその人物が、そそり立つ巨人のように思えてくる。
世間は広い。倒幕を口にする者はめったにいまいと思っていたが、真木といい、平野といい、ひそかにその構想を練り、しかも大藩に働きかけようとしていたのだ、と八郎は思った。八郎は気持が昂り寝苦しかった。
──倒幕の風雲が動きつつある。
八郎が寝返りを打ったとき、どこからか笛の音が聞こえてきた。平野だと思った。さっき、酒の座で松村から平野は笛の名手です、と聞いたばかりである。その話を八郎は聞き流した。同志の村上も三味線を弾くが、八郎はつねづね国事にたずさわる者に管弦の芸は無用だと思っていたのである。
だが平野の笛はなぜか肺腑に突きささってくるようだった。八郎は床の中に身体を固くして、その調べを聞いた。
七
平野は、薩摩に潜入することを承知した。出発は十二月七日と決まった。
出発の朝、旅支度をととのえた二人を囲んで、軽く一盞《いつさん》した席で、八郎は平野に次の詩を贈った。
既に回天の勢を作《な》し
風雲共に相苦しむ
忽ち会し還《また》忽ち散じ
遂に万里の雨を施す
村端れまで、八郎と安積は、二人を送って歩いた。
「お子が三人もおられるそうですな」
八郎は並んで歩いている平野に言った。平野は福岡藩の足軽平野吉左衛門の次子に生まれたが、小金丸家に婿に入った。そして一男二女の親となったが、憂国の志を捨て切れず、それを喜ばない養家に離縁されたと聞いた。
八郎は深夜に聞いた笛を思い出していたのである。笛は、気迫がこもる調べの中に、哀切に胸をえぐってくる響きがあって、何者かに自分の心をとどけようとしているようにも思われたのであった。
「さようです。時どき思い出されますな」
平野は驚くほど率直に言ったが、すぐに軽い笑い声を立てた。
「しかし国のために働く身には、妻子のことはぜひもないことでござる」
別れ道にきたとき、八郎は伊牟田の手を握った。前途に、どのような運命が待ちうけているかわからない潜入行だった。
「頼むぞ。往復に十日、先方との謀議を八日とみて、帰るのは二十五日としておく。それまでに帰らないときは、二人ともに捕えられたとみて、次の策を考える」
「心配いらん。自分の国に帰るのだ。眼をつぶっても帰れるさ」
と伊牟田は言った。二人は冬枯れた道を、みるみる遠ざかり、やがて遠くに生い繁る灰色の芒《すすき》の陰に姿を消した。
松村の家にもどると、涼しい眉目を持つ青年がきていて、角照三郎という者ですと名乗った。松村が真木和泉守に八郎のことを連絡しておいたので、真木が青年を迎えによこしたのだった。八郎は角と同道して、すぐに出発した。
久留米藩は水戸学が盛んで、十代藩主有馬頼永を中心によくまとまって革新的な藩政をすすめたが、弘化三年頼永が死歿し、弟の頼咸《よりしげ》が家督をつぐと藩は佐幕化し、天保学連と呼ばれた水戸学派は内同志、外同志が分裂して対抗するようになった。
久留米水天宮の神官で、水戸の会沢正志斎に学んだ真木は外同志の重鎮だったが、このような変革の中で藩政から遠ざけられ、久留米城下の南水田村にある実弟大鳥居信臣の屋敷に禁固されて、すでに十年におよぶ幽閉の暮らしを送っていた。
しかし真木はこの間に、山梔舎《くちなしのや》塾を開いてひそかに門人を教え、松村や平野らとまじわって依然としてこの土地の勤皇派の中心的存在だった。
水田村の真木の幽所についたとき、あたりは暗くなっていた。角は庭にまわり、ほとほとと雨戸を叩いた。
雨戸の隙間に灯の色が射し、やがて戸が開いた。身体も顔も大きい五十近いと思われる男が外をのぞいた。それが真木だった。
「ご案内しました」
と角が言うと、真木はごくろうだったと言い、八郎にむかって飾らない口調で声をかけてきた。
「かような場所から失礼だが、ここからお上がり頂きたいのじゃ。なにせ慎みの身の上でな。遠慮した体裁を作らんと、はたに迷惑をおよぼすことになるのでやむを得ません」
角はそのまま帰り、八郎は家の中に入った。真木は酒の支度をしていた。挨拶が済むと、八郎に酒をすすめた。
「それがしは長年肺を患うておりましてな。お神酒《みき》は少ししかやらんが、ま、飲みながら話しましょうか」
「恐れいります」
「中村の友人だそうですな」
と真木は言った。外同志として真木と親しい木村三郎が中村貞太郎すなわち北有馬の師で、北有馬の尊皇は、この二人によって植えつけられたものだった。
八郎は虎尾の会のことを語り、北有馬が牢獄につながれていることも話した。真木はじっと耳をかたむけて聞いていたが、八郎が話し終るとそっと吐息をついただけで、田中河内介のように感情的なことは言わなかった。
「ぜひもないことでござる。中村も尊皇で牢につながれるのは、むしろ本望でござろう。さようですか。虎尾の会という集まりは、倒幕を目指しておりましたかの。将軍の膝もとでな」
「………」
「心地よいことじゃ。それがしは、貴殿のように、倒幕論をひっさげる人物がたずねてくるのを心待ちにしておりましたのじゃ。世もむだには動いていないとみえる。貴殿のようなひとが多くなり、だんだんに世の中の気運が変るものと見えますな」
「平野と伊牟田は、今朝発ちました」
と八郎は言った。平野が薩摩入りすることは、さきに真木に連絡してある。二人はちょっとの間黙った。八郎は薩摩潜入のむつかしさを思ったのだが、真木はもう少し別のことを考えたようだった。
「じつを申しますとな。平野が薩摩に行くと申すのを、それがしは一度はとめましたのじゃ」
「………」
「島津斉彬公は、なるほど精兵を率いて京にのぼろうとされた。と、もっぱらの風聞でござった。だが、それが倒幕のためかどうかはわからんことじゃ。いままた島津三郎が大兵を率いて京に出るという。果して倒幕のためかどうか、これまたわからんことじゃな。それでいま少し、様子を眺めよと平野に申しましたのじゃ」
「倒幕のためでございましょう」
微笑して八郎は真木に酒を注いだ。
「そうでなければ、われらの義軍に薩摩兵を引きこむまででござる」
真木は手を打って、肺疾のことを忘れたように盃をあおった。
「若いおてまえ方の考えることは、さすがに大胆じゃな。それぐらいの気力がないと、倒幕はむつかしいかも知れんの」
その夜、話は尽きなかった。八郎は肺を患っているという真木を案じたが、真木は時勢を語り、天下の帰趨を占って倦《う》む様子もなかった。
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伏見寺田屋
一
八郎が九州遊説を終って、京都に帰ったのは文久二年一月十一日である。
八郎は真木の家から安楽寺村の松村の家に帰り、その間宮部鼎蔵、河上彦斎ら肥後の志士とまじわりながら、薩摩から帰る平野と伊牟田を待った。二人は八郎と約束した、ぎりぎりの帰着の日が明日という、十二月二十四日に帰ってきた。
八郎はいま少し肥後に滞在したいという安積を残し、伊牟田を連れて肥後を離れた。帰途豊後岡藩の家老小河一敏をたずねたが、ここでは思ったより以上の収穫があったのである。
岡藩は七万石。豊臣秀吉の武将中川瀬兵衛清秀を祖とするこの藩は、清秀の子秀成が、播州三木から移封されてきて初代岡城主となって以来、連綿一藩支配のまま幕末に至っていた。いわば純血の外様である岡藩には、豊後でもっとも早く尊皇攘夷の思想が定着し、一藩勤皇の観があった。
田中河内介の周旋状を持参した八郎と伊牟田を、家老の小河は鷹揚にもてなし、尊皇攘夷の人数がまとまって、京都に挙兵するときはぜひとも参加されたいという八郎の説得にも、ごく鷹揚に、相当の人数を連れて馳せ参じようと約束した。岡藩での首尾のよさは、肥後のむつかしさを補ってあまりあるものだった。
「大よそはわかった」
と、八郎の報告を聞いた田中は言った。
「それで、薩摩に潜入した二名の首尾はいかがでしたかな」
「これもまず成功したと申せましょう」
と八郎は言った。田中は八郎の労苦をねぎらって酒を出していた。
平野と伊牟田は国境近くで別れ、伊牟田は苦労して間道から入ったにもかかわらず、巡察使谷元作之助の手に捕えられた。また平野は、筑前黒田藩の使者と称して小河内の関所を越えたが、鹿児島城下に入ったところで、町方横目役横山休兵衛の取調べをうけ、身分が露顕してしまった。
二人が所持していた書類は、中山忠愛の親書、田中河内介の周旋状、真木和泉守の上書と神連説、平野自身が書いた尊攘英断録、八郎の述懐詩などだったが、これらはすべて取り上げられた。尊攘英断録は、平野が八郎に語った雄藩奉勅の構想をしたためた文書である。
捕えられた二人は厳罰を覚悟したが、薩摩に入国した目的について、言うべきことは全部述べた。そして処分を待っているところに、御小納戸役の大久保市蔵がきて、二人に会った。大久保は謹厳な顔に、時どき微笑をうかべて、貴公らが遠路入説に来られたことを、藩主は喜んでいると言い、次のようなことを言った。
「建白の趣旨はよく検討する。しかし藩の事情もあるので、ひとまずお帰り願いたい。なお今後、薩摩のためになるようなことを聞きこんだら知らせて頂きたい」
これは旅費でござる、と言って、大久保は二人に十両ずつ渡した。そして大久保は、伊牟田が驚くほど寛大な言葉をつけ加えた。
「伊牟田は大ぴらにでなく、家の者たちに会って帰ったらよかろう。ほかにも会いたい者がおれば会わせてもよい」
ざっとこういうことです、と八郎は言った。田中は腕組みして首をかしげた。そして八郎を見据えると、そっけない口調で言った。
「しかしそれだけでは、薩摩の入説はうまく行ったのかどうかわからんな」
「いや、成功です」
と八郎は言った。
「これぞと言った確約も取りつけず、十両の旅費をもらって帰ったのは、体よく追っぱらわれたという感じもありますが、二人が尊皇攘夷ということではなく倒幕をすすめに行ったことをお考えください」
「………」
「その二人を処分せずに、話によればかなり丁重に扱って送り返したということは、倒幕ということを、薩摩の上層部が必ずしも不快に思わなかったということでありましょう。噂にたがわず、薩摩が幕府に好意を持っていない証拠とみるべきです。また、あるいは二人のような人間を、簡単には処分しにくい事情、たとえば過激尊攘派が、かの藩内に依然として健在であることを示すものかも知れません。こうしたことがわかっただけでも、収穫はあったと申すべきでしょう」
「そういう考え方か。それならわかる」
「それに、大久保という男は二人に、わが藩主も、明春は上京して、国のことに尽くすこともあろうと挨拶した由です。これこそは、それがしが知りたかった一事です」
「島津三郎殿は、何のために来るのかな」
田中河内介は、公卿家に仕える人間らしい、用心深く臆病な顔をちらりと見せたようだった。八郎の顔を窺うように見てそう言った。
「倒幕の勅諚を乞いにくるのかも知れません。あるいはそこまで行かないかも知れません。しかし大事なのは、薩摩が大兵を率いて入京するという事実です。もしそれが実現すれば、それこそわれわれが倒幕挙兵に踏みきる絶好の機会となりましょう。そのときは、ためらいなく諸国に檄《げき》をとばすべきです」
「うまく行くかな」
田中は少しうさんくさそうな顔色で、八郎を見た。人に優れた先見の明と、状況の鋭い読み。その上に立ってすばやく行動を組み立てる能力、そこに人を引っぱって行く雄弁と胆力。これらは本来一党をまとめる頭領の条件なのだが、何の背景も持たない孤士の八郎がそういう熱弁を展開すると、弁舌に覇気《はき》があって巧みであるほど、どことなくある種の煽動家に似てくる。そのあたりが八郎の悲劇だった。
「うまく行きます。ただし薩摩が兵を率いて京に来ることが条件です。来れば、われわれは、薩摩来たると諸国に触れるのです。人は必ず集まります。集まれば、薩摩の意志如何にかかわらず、かの藩をわれわれの動きに巻きこむことも出来るでしょう」
「人には言えんな」
と田中は言った。八郎の大風呂敷に恐れをなしたふうでもあった。
「倒幕、王政のためです。多少の策略はやむを得ないところです」
「漫然と薩摩を待つわけかの?」
「その前に、九州をいま少し固めておく必要がござりましょう。いっそご一緒して頂けませんか。もう一度かの地に遊説に参りましょう」
「わしがか?」
田中は目をむいた。八郎と話していると、思いもかけない深みに引きこまれるようで薄気味が悪かったが、一方この男の言うことは間違っておらんな、とも思い、ふだんは胸の奥底にこっそりとしまってある、かくあるべしと思う気持が、八郎の言動に共鳴して快く鼓舞されるのを感じるのであった。
二
状況が思いがけなく好転した。一月十五日に、田中の家にいる八郎を、肥後の宮部鼎蔵と松村深蔵がたずねてきたのである。
八郎が京に帰ったあと、肥後人の間に、八郎の言動をめぐって議論があった。遠くから遊説に来た者を、ペテン師が何か言い触らしに来たとでも言うように、冷たく扱ったのは間違っていないかと言う者がかなりいた。八郎の気魄のこもった倒幕論は、肥後人にやはり感銘を残したのである。
宮部と松村の息子は、八郎の言ったことを確かめるために、同志から派遣されてきたのであった。八郎は二人を歓待した。
翌翌日の十七日、宮部、松村が招待する形で、中山忠愛、田中河内介、八郎、伊牟田の六人が酒を飲んだ。話が時勢のことに移ると、田中の弁舌は他を圧した。中山忠愛も、公卿にしては過激なほどの尊皇攘夷論をしゃべる。倒幕まで持って行かないと、ラチがあきませんと、日ごろ田中と喋《しやべ》っているような意見を述べたてた。八郎の遊説の背後に、漠然とだが京都朝廷の意志が働いている雰囲気が出てきた。
酒宴の途中で、田中の家から使いの者がきて、坂下門外で安藤老中が水戸浪士に襲われ、傷を負ったという事件を告げた。
「廃帝の古例を調べさせたのが憎まれたな」
と田中が興奮して叫んだ。知らせは、偶然にも八郎が肥後で述べた噂が、真実だったことを立証する形となったのである。酒の座はにわかに活気を帯びた。
「もはや一刻の猶予もなりませんな。われわれは明朝帰国して、同志にこの状況を伝えたいと存ずる」
と宮部がわめくと、忠愛は酔いも手伝ってはなむけの和歌一首に、次の檄文を添えて渡した。
[#ここから1字下げ]
宮部鼎蔵
蒲生太郎(松村深蔵の変名)
今度右の者ども上京の趣意、赤心のほど感じ入り候。報国の企てこの時にこれ有るべく候間、すみやかに帰国、同志相結び、いよいよ義挙決断これ有るべく候。
[#ここで字下げ終わり]
宮部はすっかり感激し、ミイラ取りがミイラになったぐあいで、帰途各地の同志を焚きつけながら帰っていったのである。
すなわち長州では家老福原越後をたずねて、義挙の約束をとりつけ、九州に帰ると真木をたずねた。真木はひそかに幽所を抜け出して薩摩に行き留守だったが、宮部は京都で見聞したことを話して山梔舎塾の門弟たちを奮起させた。
宮部はさらに豊後に入り、小河一敏を訪ねた。小河も折悪しく留守だったが、宮部はそこでも小河の嫡子や同志をあつめて見聞を話し、倒幕の義挙は近いと演説して、ようやく肥後に帰った。八郎の九州遊説は、宮部の精力的なダメ押しで、完璧に近い成果をあげることになったのである。
宮部がよこした手紙は、そうした状況を知らせてきたので、八郎と田中は再度の九州遊説を見合わせて様子を見ていた。そして二月十五日に、薩摩なまりの男二人が、田中の家に八郎と伊牟田をたずねてきた。
三
伊牟田は外出中だったので、八郎が会うと、二人は薩摩藩士柴山愛次郎、橋口壮介と名乗った。
八郎は胸が躍るのを感じながら、寝起きしている田中の家の一室に、二人を招き入れた。初対面だったが、この二人が有馬新七らとともに、薩摩の誠忠組激派の中心人物であることを、八郎は耳にしていた。はじめて、薩摩藩の中の生粋の尊皇攘夷党ともいうべき彼らと、じかにつながりがついたのであった。
「伊牟田君から、ご尊名はうかがっております」
八郎はにこやかに言った。
「で、なにか?」
「われわれも貴公のお名前は存じ上げておる。益満からも聞いているし、年末に伊牟田を使いによこしたのが貴公だということもうかがっておる。そこで、この知らせも多分お気に召すのではないかと思いましてな」
柴山も微笑してそう言い、橋口をふりむいてうなずき合うと、言葉をつづけた。
「久光公が、近く兵一千をひきいて上洛してきますぞ。江戸に行って参覲《さんきん》を怠ったことを詫びるという名目です」
八郎は無言で、二人に鋭い視線をとばした。二人も微笑を消して八郎を見つめている。
──そうか。ついにそのときが来たか。
平野が言ったことも、潜入した二人に、大久保という男が言ったことも事実だったのだと八郎は思った。だが同時に、真木和泉守が薩摩が兵をひきいて京にのぼるといっても、それが倒幕のためかどうかはわからんと言ったことも思い出していた。波立つ胸をおさえて、八郎は低い声でたずねた。
「それは、いつです?」
「ざっとひと月後。じつはこの正月に大久保市蔵がこちらに来て近衛卿に会い、すでに下工作も済んでおる」
「下工作? それは何です? 攘夷の勅諚を頂いて幕府に実行を迫るということですかな」
「公式にはそうは言っておらん。むろん公式と言っても藩内の内輪の話だが……」
「どう言ってますか」
「われわれが聞いたところでは、故順聖公(斉彬)のご遺志を奉じ、勅命を頂いて幕府に改革を迫る、ということですな」
「改革? そんなことで幕府は立ち直れませんぞ。もし本気でそう考えているなら、失礼だがお国は時勢の読みがちと甘いな」
「それは、われわれもそう考えておる」
「別の含みはござらんのですかな」
八郎は息をつめるような気持で聞いた。
「たとえば幕政改革は名目で、じつは出兵上洛を機会に、貴藩が倒幕まで踏みこむと、そう言った気配はござらんのですか」
「そこまでは行きますまい」
と橋口が言った。橋口は面上にうっすらと血の色をのぼらせていた。柴山も若いが橋口はさらに若く、まだようやく二十過ぎに見える。
「西郷が島流しにあっているせいもあるかも知れんが、大久保の言動には、かつてわれわれ誠忠組をひきずって来た勢いがない。こそこそと久光公と画策するばかりで、近ごろのやり方はまことに手ぬるいのです」
橋口の言葉には、誠忠組を統率している岩下正平、大久保市蔵らに対する不満があらわれていた。
橋口、柴山ら誠忠組激派の胸裏には、斉彬死後、荒れくるう大獄、保守化する藩政という暗い情勢の中で、誠忠組が一斉に脱藩して、井伊ら幕府首脳を襲撃しようとした、彼らのいう突出計画が生きている。それが故斉彬の遺志をつぐことだと信じていた。
それが、藩主茂久の名で出された諭書を受け入れたあと、大久保ら首脳部が藩権力と結びつき、藩の行動と歩調をあわせ、激派を押さえることに腐心しているようなのが、彼らは気にいらないのであった。
八郎は首をかしげて、順聖公のご遺志、順聖公のご遺志とつぶやいた。そして顔をあげるとやはり低い声で言った。
「故斉彬公の出兵上洛は、場合によっては幕府と一戦を辞さない、強いご意志のあらわれだとみていましたがな」
「当然、しかあるはずだった。もし順聖公が生きておわせば、いまの情勢ならおはんが言う倒幕まで踏みこまれるかも知れんですな。しかし久光公や大久保が画策していることは、少し違うようです」
と柴山が言った。
「と言うと? やはり幕府改革ということですか?」
「いや、そればかりではないかも知れない。しかし肝心のところは、われわれにもわかっておらんのですよ。大久保が話さんのです。言うことが過激だというので、われわれは警戒されていますからな」
「なるほど、わかりました」
八郎はあっさり言ったが、すぐに言葉をつづけた。
「しかし、この機会をのがす手はないな。ねがってもない好機だ」
「………」
「それがしは薩摩藩が出兵上洛するのでないかという噂を聞き、じつは心待ちにしており申した。薩摩が動く、このひと言で、かなりの同志を集められますからな」
「われわれもそう思う。それゆえ、こうしておはんと伊牟田をたずねて参ったわけでござる」
三人は無言でじっと顔を見あわせた。無言の中に、ある諒解が三人の間に成立したようだった。薩摩上京を火種に、八郎は四方に檄をとばして同志を集め、その尊攘集団をテコにして、柴山、橋口らは藩を一挙に幕府に対立する勢力に持って行く。それは反幕の、はじめての大きな勢力になるはずだった。
「そのことは、尊公ら激派の総意でござりましょうな」
「むろん、そうです」
よし、これで檄文が書きやすくなったと八郎は思った。八郎はふと気づいて言った。
「貴公らは、その連絡に参られたのか」
「いや、藩命で江戸に行く途中でござる。しかしこのまま、ここにとどまってもよろしいのだ」
「いや、それはかえってまずかろう。まだ日にちがござる」
と八郎は言った。
四
八郎は、二人にそのまま江戸に行くことをすすめ、伊牟田を同行させるから、水戸の尊攘派に蜂起を呼びかけてくれと頼んだ。
そしてすぐに田中と相談して、四方の尊攘志士に決起をうながす檄文をつくりにかかった。この檄文に、八郎は志士としてのこれまでの洞察と経験を、残らず投げ入れたと言ってよい。
読む者の心をふるい立たせるような文章が出来上がった。文の真中に、どっしりした重味で居すわっているのは、薩摩動くの一句だった。その一句のまわりに、八郎は、徳川の滅亡は近い、新しい世が桜花の季節とともに到来せんとしている。諸兄これを疑うことなかれと、はなやかに激越な文字をちりばめた。
檄文は田中河内介と八郎の連名にした。その檄文を、二人は遊説先の九州はむろん、尊皇攘夷に心を寄せる、諸国のあらゆる知人に送った。ただ一度国事を談じただけの人間にも、残らず配った。
早飛脚を送り出したあとで、田中が八郎に言った。
「これで集まるかな」
「集まります、間違いなく。ただどれぐらいの人数がまとまるかですな」
「あとは待つだけかの」
田中は、早くも待つ間の緊張に耐え得ないように、やや青白い顔をしてそう言った。
──確かに、待つだけだ。
と八郎も思った。画策したように事が運べば、天下の動乱に火をつけることになる。それは八郎の想像を超える大きな波乱を呼び起こすかも知れなかった。そのことに、微かな懼れを感じないわけではなかった。
だがその懼れに、天下を動かす画策者の喜びが打ち克った。虎尾の会が目的としたものが、同志の多くはまだ獄中にいるにもかかわらず、いま芽を吹こうとしていた。大獄、井伊襲撃、異人斬り、あるいは藩内抗争など、一連の権力との抗争の中で死んで行った者の志が生かされようとしていた。
──時期はあやまっていない。
と、八郎は確信していた。いま諸国の尊攘志士たちは、公武合体という奇妙な政治の停滞の中で、出口をふさがれたとまどいと、憂憤をもてあましているはずだった。送られた檄は、彼らにその出口を示すことになるだろう、と思っていた。
最初の反応が豊後岡藩から来た。二月二十五日に岡藩士加藤条右衛門、渡部彦左衛門が田中の邸をたずねて来た。
それが皮切りだった。京都には諸藩の志士、浪人がぞくぞくと集まりはじめた。薩摩藩からは是枝柳右衛門につづいて、誠忠組激派の有馬新七以下が大坂の藩屋敷に入り、一族十七名を率いる真木和泉守、藩士二十名を率いる小河一敏、それに平野次郎、秋月藩の海賀宮門、肥後の内田源三郎、北有馬の弟中村主計、佐土原藩の富田孟次郎、土佐の吉村寅太郎らが京にきた。そして長州藩屋敷には、久坂玄瑞、寺島忠三郎以下、吉田松陰門下の志士たちが集まった。いずれ肥後一国の志士が来るだろうという噂が流れた。京都に、尊攘派の志士、浪人が溢れた。八郎の画策は予期以上の実を結びつつあった。
そして、集まった志士たちは、首を長くして島津久光の帯兵上洛を待ったのである。あたかも救世主を迎えるかのごとくであった。それが過剰な期待であったとすれば、それはあきらかに田中、清河連名の檄文に罪があったのである。
そして薩摩藩が考えていたことは、彼らの期待とはまったく別のものだったのである。その点では八郎にも最初から読み違いがあったと言わなければならない。
大獄の初動の段階で、島津斉彬が勅命を奉じて兵を率い、幕府と対決しようとしたことは、樋渡からその話を聞いた八郎を瞠目《どうもく》させたが、斉彬の帯兵上洛には井伊との対決のほかに、もうひとつの狙いがあったのである。
斉彬は、朝廷が時勢に眼を開こうとせず、ほとんど狂信的に攘夷論を固守していることに怒りを抱いていた。条約勅許、強力清新な人事を中心に幕政を一新し、諸外国と交易を開いてわが国を富国強兵に持って行くという、彼の展望からみれば、攘夷はいたずらに国内を混乱させる暴挙にすぎなかったのである。
彼は率いる大兵によって、まず京都朝廷を威圧し、頑固な攘夷論を放棄させようとしたのである。そして、その上で朝廷に幕政改革の勅諚を強要し、江戸に乗りこんで幕府と対決しようと考えたのであった。
久光と大久保の画策は、まさにこの斉彬の遺志を継ごうとしたものだった。斉彬の死からすでに四年近い時が経っている。さすがに攘夷の放棄を迫るという一項はのぞかれたが、権威を守護するという名目で朝廷を威圧し、その上で幕府に対し、一橋慶喜を将軍の後見に、松平慶永を大老に任ずるようにという勅命を出させて幕政を改革しようという計画は、斉彬の構想をなぞるものだった。そしてそれは朝廷の意志に沿った幕政の実現という形で、公武合体の中味を持つものでもあったのである。
長州の久坂玄瑞は、その年の正月に土佐の武市瑞山にあてた手紙の中で「ついに諸侯頼むに足らず、草莽の志士糾合、義挙の外にとても策これ無き事と、私共同志中申合せ居り候。失敬ながら尊藩も弊藩も滅亡しても、大義なれば苦しからず」と書いた。八郎、真木和泉守にしても、かつての斉彬のような、政治的展望を欠くにしても、倒幕ということを見つめていた。
これら志士たちと、薩摩藩首脳部との間にはかなりの懸隔があったと言わざるを得ない。薩摩に入国した平野次郎、真木和泉守の倒幕論は、彼らにとってある意味では迷惑でもあったのである。
時勢は、むしろ倒幕をとなえる志士たちが先導していた。四年前の斉彬の構想を持ち出した薩摩藩首脳は、時勢に遅れていたとも言えるが、幕府の力の強大さを正当に秤量《しようりよう》し、倒幕は無理とみる現実的な眼では、薩摩藩首脳の考えがまさっていたとも言えよう。
島津久光は、三月十六日鹿児島を出発した。久光の目的は倒幕ではない。公武合体の実効を挙げて、時局の中で薩摩藩の地位を高めるのが狙いだったが、京に集まった志士たちは、ひたすらその到着を待ちわびていた。
五
八郎が、最初に久光の強硬な意図に気づいたのは、三月二十三日になって、半ば強要されて、大坂の薩摩屋敷に入れられたときだった。
名目はあった。和宮降嫁お礼の将軍家使者として、彦根藩主井伊直憲が入京することになって、浪士に対して京都所司代の眼がきびしくなったのである。とくに上京志士の巣窟化していた田中河内介の家は、昼夜人の出入りを監視する眼が光るようになった。
薩摩屋敷に入るように、と田中、八郎らにすすめたのは薩摩藩の堀次郎だった。堀は誠忠組の人間ではなかったが、昌平黌書寮で八郎と顔見知りだった。
八郎は気乗りしなかった。堀の執拗な感じのすすめにも疑惑を持った。だが、江戸を脱け出して大坂に帰っていた柴山、橋口らもすすめたので、田中河内介と十数人の同志とともに、大坂薩摩屋敷の二十八番長屋に潜んだのである。
間もなく小河一敏と岡藩の二十名余、平野次郎なども薩摩屋敷にきた。八郎は落ちつかなかった。それは八郎の、一種の勘のようなものだったろう。その気持を、八郎は柴山に言った。
「どうも軟禁という感じがするな。久光公はわれわれの動きを警戒しているのではないかな。そうだとすると、ここに集まっていては、いざというときに一網打尽といったことになるぞ」
久光がどこまでやるつもりかは、まだつかんでいないが、八郎は久光の倒幕を、期待はしていても頭から信じているわけではない。柴山、橋口にしてもそうだった。
生ぬるいことで終る気配が見えたら、ただちに決起して九条関白、酒井所司代を襲撃し、久光あての勅命を乞いうけて、いやおうなしに薩摩藩を倒幕挙兵に巻きこむ手筈が打ちあわせてあったのである。
「まあ、そう心配することはあるまい」
と柴山は言った。
「貴公は野に棲む鷹のようなもので、人に飼われたことがないから窮屈に感じるのだろう。倒幕行動はなしということになったら打ち合わせどおり決起すればいいことだ。少し様子を見たらどうだ」
「そうするか。しかし久光公に疑わしいそぶりがみえたときは、おれはただちにここを出る」
「むろんだ。われわれも出る」
「それから、出入りも屋敷のきまりに縛られたくない。係りの人間に言っておいてくれんか」
柴山は笑って承知した。
久光は四月十日に大坂に着いた。藩屋敷に入るとすぐに、久光は藩士に対して、諸藩士、浪人どもと、ひそかに面会してはならない、命を受けないで諸方に奔走してはならない、万一異状の変が起こっても、動揺しないように、以上にそむいた者は厳罰に処す、という示達を出した。
八郎は、そのことをひそかに柴山に聞くと、田中河内介に、すぐに屋敷を出ようと言った。だが田中は、この示達だけで、久光に倒幕の意志がないとは言えないと八郎を押さえた。
しかし八郎は、ある予期しない出来事から、薩摩屋敷を出ることになった。出されたと言ってもよい。
事の起こりは、江戸時代の旧知である越後の浪士本間誠一郎が、薩摩屋敷に八郎をたずねてきたことである。八郎は本間に会ったあと、本間の招きで宇治川に舟遊びに出た。安積と藤本鉄石、土佐の吉村寅太郎が一緒だった。
少年の日、深い感銘をあたえて去った旅絵師藤本津之助(鉄石)を、八郎は忘れることができなかった。母の供をして岩国まで行った下旅行のときも、伏見御堂前にいると聞いた藤本をたずねて行ったが会えなかった。
それが、今度は藤本が、京都三条三幸町にいたのを、ようやく探しあて、企てに引っぱり出したのである。また吉村は土佐の親友間崎哲馬の塾生で、同藩の宮地宜蔵とともに脱藩して上京志士に加わっていたので、八郎は親しくつき合っていたのである。
舟遊びは、舟の中で盃をかわし、芸妓に三味線をひかせる派手な遊びで、五人は愉快に飲んだ。ところが舟番所にさしかかって、五人の名前をただされたとき、みんなは勝手な変名を名乗ったあげく、酔いにまかせて本間と安積が番所にあばれこむという失態を演じてしまった。捕吏の眼を、自分から呼びこんだようなものだった。
はたして本間がそのことから役人に後をつけられ、宿にいられなくなって薩摩屋敷にいる八郎に泣きついて来たのである。仕方なく八郎は本間をかくまった。本間は雄弁家で、大獄のときには、幕府を批判したことを咎められて伏見の獄につながれたりもしたが、好んで長刀を帯びるなど派手な面もあって、人物は軽薄だとみる向きもあった。その本間の人物がこのあたりにも現われたのである。
幕府役人は、本間が薩摩屋敷にかくれたことをつきとめてその夜のうちに追及してきたので、柴山、橋口らも困って、八郎らの軽率な行動を責めた。
「申しわけなかった。よろしい。われわれはここを出よう」
と八郎は言った。藩と八郎たちの板ばさみに会っている柴山らの立場を察したからでもあったが、また渡りに舟でもあったのだ。八郎はすでに久光に望みを断ち、あとは決起に拠るしかないと思い決めていたのである。
「飯居の家に隠れる。そのときは連絡をたのむ」
「わかっておる」
柴山はしっかりとうなずいた。それだけで話が通じた。柴山も決起が近いことを感じていたのである。いずれは柴山たちも出なければならない屋敷だった。
二十八番長屋の中には、八郎と一緒に出ると言い出す者もいたが、八郎と柴山、田中が説得して押さえた。八郎と藤本、安積、本間の四人と四人を自分の家にかくまう飯居簡平が、深夜になってから薩摩屋敷を抜け出し、翌四月十四日、京都三条河原町にある飯居の家に潜んだ。
飯居は議奏を勤める正親町三条実愛の侍医で、家は長州藩邸の近くにあった。薩摩藩屋敷の同志が決起するときには、長州藩邸にも連絡し、久坂らの長州藩士も一緒に起つことになっていた。八郎はそのときを待った。
飯居は医者でもあり、京に自分の家を持っているので、行動は比較的目立たない。それで薩摩屋敷を出たあとも、屋敷と八郎たちの間に立って連絡をとっていた。
その飯居によって、突然の悲報がもたらされたのは四月二十三日の夜だった。その夜飯居は、よろめくような足どりで八郎たちがいる部屋に入ってきた。そして立ったまま、やられましたぞ、と言った。悲痛な声だった。飯居の顔色はまっ青で、眼はうつろに見ひらかれている。何事か異変が起こったのだ。八郎たちは、部屋の中を走って、一斉に刀をつかみ上げた。その様子を見て、飯居は正気をとりもどしたように言った。
「お鎮まりください。あわてても無駄です」
「何ごとだ?」
八郎が聞くと、飯居はようやく畳に坐った。そのまわりを八郎たちが取り巻いた。
「柴山さま、橋口さまがやられました」
「誰に?」
「相手は久光公が出した討手です」
八郎たちは茫然と顔を見あわせた。ようやく気をとり直した八郎がたずねた。
「ほかには?」
「有馬さま、橋口伝蔵さま……」
さらに弟子丸竜助、西田直五郎の六人が即死、田中謙助、森山新五左衛門は重傷で腹を切ったと飯居は言った。
「場所は?」
「伏見の寺田屋という船宿だそうです」
その日、久光の行動に見切りをつけた有馬新七以下の激派は、田中河内介、真木和泉守の一党を加えた三十数名で、ひそかに大坂の薩摩屋敷を抜け出し、四隻の船にわかれて淀川をさかのぼった。そして伏見の寺田屋で落ち合うと、そこで決起の手はずを打ちあわせた。
だがその動きは、ただちに京都錦小路東洞院の薩摩屋敷にいた久光に通報された。久光は激怒した。そして奈良原喜八郎、大山格之助、森岡清左衛門ら九人を伏見に急行させた。主謀者を京都に連れてくるように命じたのである。ただし聞き入れない時は討ち果たせとつけ加えた。
奈良原らは本街道と竹田街道を二手にわかれて馬で疾駆し、伏見まできてついに寺田屋にいる有馬らをつきとめた。
話し合いがはじまった。だが激論しているうちに、道島五郎兵衛が、上意だと叫んで田中謙助に斬りつけたことから、一瞬にして同藩相打つはげしい斬り合いとなったのである。
斬り合いは肩から血を流した奈良原が、刀を捨て、もろ肌ぬいで、とまれ、たのむ、たのむと手を合わせて止めたのでようやくやんだ。しかしその斬り合いで有馬以下六名が即死、田中、森山は切腹して果てたのであった。
「田中さんや真木さんはどうした?」
「残った人は、いずれも錦小路の薩摩藩邸に引き立てられた模様です」
八郎は無言でみんなに背をむけると縁側に出た。開けはなした縁側の先に、うるんだような夜気がただよう、あたたかい夜だった。死んだという柴山や橋口を、悲痛な気持で思いやりながら、八郎は精魂こめて練りあげてここまで運んできた策が一挙に崩壊したのを感じた。
六
島津久光の、寺田屋事件残党に対する処分は、過酷なものだった。
久光は、西郷信吾、大山弥助ら自藩の激派の残り、二十一人の帰国謹慎を決める一方、平野、真木ら他藩の人間は、囚人同様の扱いでそれぞれの国元に送り返した。そして引き取り手のいない田中河内介、瑳磨介父子、さらに海賀宮門、中村主計、千葉郁太郎の三浪士は、薩摩へ護送すると称して船に乗せると、播磨灘を航行中の五月一日、田中父子を斬殺して海中に捨て、また日向の細島港につく直前に、海賀ら三浪士をも刺殺してしまったのである。
尊攘過激派に対する久光の断固とした処置は、朝廷、幕府双方に強い衝撃をあたえた。彼らは改めて久光がひきいる武力に注目し、そのなみなみでない強い意志を悟って狼狽《ろうばい》した。
幕府は、寺田屋事件二日後には、久光が朝廷に上書していた幕府改革人事のうち、一橋慶喜、徳川慶勝、松平慶永、山内容堂ら、将軍継嗣問題関係者の謹慎を解く処置を発表した。
そして朝廷もまた、久光に浪士取締りの勅命をくだして機嫌をとる一方、青蓮院宮の永蟄居、鷹司輔煕の謹慎を解き、鷹司政通、近衛忠煕の参朝を許す人事を公けにした。これも、久光が提出していた朝廷人事改革の一端で、こうした措置は、すべて寺田屋事件後数日の間に行なわれたのである。
五月二十一日、久光が待ちのぞんだ勅命が出た。
一、将軍は大小名を率いて上洛し、国家を治め、戎夷《じゆうい》を攘《はら》うことを議する。一、豊太閤の故典により、沿海の五大藩(島津、毛利、山内、前田、伊達の各藩を指す)を、五大老として国政を諮決する。一、一橋慶喜を将軍補佐とし、松平慶永を大老職とする、という三事策と呼ばれる勅命だった。
久光が望んだのは、慶喜を将軍補佐に、松平慶永を大老にという第三点で、前の一、二項は必ずしも気に入ったものではなかった。久光から見れば余分な、一、二項がつけ加えられたのには事情があった。
朝廷では、眼の前で尊攘過激派に大なたをふるってみせた久光を畏怖したが、それで茫然と手をこまねいていたわけではなかった。宮廷政治の粘液質な特色は、こういう際に発揮される。朝廷では、薩摩独走の気配を感じ取ると同時に、それに対抗する手を打った。大獄関係者の謹慎を解く人事を発表した翌日の五月一日、朝廷は長州藩にも京都警衛、浪士鎮撫の朝命をくだしたのである。
戎夷を攘うことを議する、つまり攘夷継続の一項は長州藩とその背後にある尊攘勢力の主張を盛ったものだった。幕政改革そして開国を目指す薩摩の主張とは相容れない項目だった。第二項の五大藩による国政諮決は、薩摩との交渉にあたった岩倉具視の案で、薩摩の独走に、さらに歯止めをかけたものである。
三事策全体は、久光にとって不満なものだった。しかし薩摩の要求の骨子である幕政改革が、勅命として盛られていることも事実だった。久光は結局そのことに満足して、五月二十二日三事策を奉じる勅使大原重徳を護衛し、江戸へむかった。
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東 方 の 策
一
勅使を奉じ、大兵を率いて意気軒昂と東に去った久光を、京都に残る尊攘派浪士たちは茫然と見送った。
久光が率いる兵が、倒幕の兵でないことは明瞭だった。勅命を押したてて、幕府に人事改革を迫る、見方によっては薩摩藩の政治力、武力を誇示するだけともうけとれる示威兵力に過ぎない。彼らは久光にだまされたと思った。
集まってきた浪士の中には、八郎と田中の檄もとどかず、単に薩摩が動く、浪士が京に集まりつつあるという噂だけで、国を捨てて上洛してきている者も多数いた。そういう者ほど、久光の動きに失望していた。
しかし檄に応じて上洛してきた者の中には、久光本人よりも、むしろ田中、清河にだまされたと感じている者も当然いた。その気持を岡藩の小河一敏は八郎にぶちまけた。
「今度の次第をみると、久光公には当初から倒幕の意志があられたとは思えない。貴公らはわれわれをだまして、ここまで呼び出したのかの?」
「だましたとは、ちと聞き苦しい言葉でござる。いかにも久光公の真意が、分明でなかったことは認める。だが、われわれとかの藩の激派、闘死した有馬、柴山、橋口らは、久光公を一挙に義軍に引きこめると確信しており申した」
「その考えが甘いと申すのだ。われわれは貴公らの確信などという、あいまいなものに動かされたのではない。久光公が倒幕の先頭に立つと、さように聞いたがゆえにこうして集まってきた。そしてかくのごとき始末だ」
「………」
「青蓮院宮のご令旨などというものもちらつかせたが、あれもどうやら真赤な嘘らしいの。若い者が考えそうな、青くさい謀計だ。ま、過ぎたことを責めても仕方がない。このぐらいでやめるが、同じようなことをまたやったら、今度は許さん」
「待たれよ、岡藩のご家老」
と八郎は言った。
伏見の薩摩屋敷の一室で、その部屋には小河のほかに、二十数名の岡藩士がいた。彼らはたずねてきた八郎を、最初から険しい表情で見まもっていたが、八郎が小河にそう呼びかけると、一斉に八郎に膝をむけた。
八郎は、彼らを端の方からゆっくりと眺め、それから小河に顔をもどした。
「それではご家老におたずねするが、倒幕というほどの大事が、準備万端ととのって実現するとでもお考えか」
「………」
「それがしは、さようには考えない。倒幕の機運は、われわれみずからがつくり出すものだと信じている。機会をとらえて、一歩でもそこにむかって足場を築く。われわれはその足場づくりで倒れるかも知れん。だがそれで十分だと考えるものだ。後につづく者が、その足場をたよりに、さらに一歩倒幕にむかってすすめばそれでよろしい。その意味で、今度の久光公の上洛は、倒幕への最初の足がかりを築く、願ってもない機会でござった。断言してもいいが、こうした機会はもはや当分訪れまい」
「………」
「久光公の真意が、倒幕にないとはっきりすればそれでもよし。われわれは九条関白を襲い、所司代を倒し、朝廷に乞うて倒幕の勅命を久光公にくだしてもらうつもりでござった。これも青くさい謀計と申されるか。否でござる」
「………」
「襲撃の人数はととのっており、またわれわれは田中河内介という、朝廷側の得難い人物を味方にしていた。勅命を頂く手順に遺漏はないつもりでござった。朝廷は、われわれの蜂起を迷惑に思《おぼ》されていたかといえば、これも否でござる。それがしは過日聖上陛下に尊皇攘夷の建白書を奉り、聖上みずから六師《りくし》を動かして、回天の御世を実現すべきだと密奏して、嘉納されておる」
「ほう、それはまことかの」
小河は、八郎の熱弁に圧倒されたように言った。
八郎が漢文七千三百字におよぶ建白書、回天封事を孝明天皇に奉ったのは、寺田屋事件の直後であり、その意味では小河に対して多少はったりをきかせた気味があったが、朝廷がこの封事を受け入れたことは事実だった。
八郎は飯居簡平を通じて、正親町三条実愛に封事をさしあげ、また実愛から飯居を通じて、封事が確かに上奏されたことを伝えられていた。
「まことでござる。さればそれがしは、事は久光公の意外な決断で失敗に終ったものの、間違ったことをしたとは思わぬ。したがって尊公ら、尊皇攘夷の方がたをだましたとは毛頭考えておらん」
「わかった。少しそれがしが言い過ぎたようだ。気にかけるな」
「われらに一片の私心でもあるとお考えなら、存分にお責めあれ。しかし天下のためにしたはかり事でござる」
「そういうことだな。いや、貴公が申すとおりかも知れん。挙兵には失敗したが、このたびの犠牲があったおかげで、情勢が一歩動いたことも確かだ」
小河は率直な性格だった。八郎の言い分に理があることを認めると、すぐに言葉をやわらげて仲直りの酒を支度させた。
八郎と小河、赤坐弥太郎など、主だった者を中心に、ささやかな酒宴になった。少し酔いが回ったころ、小河は八郎に言った。
「これからどうされる? 再挙をはかるか」
「いや、こちらは当分無理でござろう」
八郎は事件で計画がつぶれたあと、ひそかに浪士たちの間を回って歩き、再起の見通しを探ったが、事件の衝撃は、予想以上に深く行きわたり、彼らを混乱させていた。そこで八郎は、一たん京都を離れ、安積を連れて、河内錦部郡甲田村に住む同志、水郡《にごおり》善之祐をたずねたりして、再び京都にもどったが、情勢は変らなかった。というより、再起ということから言えば、情勢はむしろ悪化していたのである。
浪士たちは依然として京都の町を歩きまわっていたが、その動きは当然ながらばらばらになっていた。
二
浪士たちのある者は、長州藩に接近しようとしていた。またある者は尊攘派の公卿に結びつき、何ごとか画策しようとしていたし、そして久光が江戸に去ったあとも、まだ何か起こりはしないかと、京都に未練を持ちながら、なすすべもなく日を送っている一団もいた。その間を縫うように、一匹狼のように険しい表情の男たちが、それぞれの思惑を胸に抱いて京の町を潜行していた。
彼らは統一もなく、勝手に動き回っていた。浪士たちをもう一度同じ旗のもとに集めるには、強力に彼らを惹きつけ、しかも寺田屋事件の失敗を繰り返さないだけの策が必要だったが、いまはそれが見当らないのを八郎は感じた。ひとつの機会が去り、次の機会はまだ来ていなかった。
八郎は京都に一たん見切りをつけ、江戸に帰る気持を固めていた。
「一たん策は破れて、次の策をほどこす時期はきておりません」
と八郎は小河に言った。
「そこで、このまま京にいるよりは、江戸にもどろうと考えているところです。本日はそのご挨拶に上がったわけで、ご家老と争論するつもりは、さらさらありませなんだ」
「気にされるな、さっきのことは」
と言って、小河は苦笑した。
「そうか、江戸にもどられるか。しかし、京に一たんはあれだけの人数を集めた貴公の手腕は、並みのものとは申せんな。江戸に行くとは惜しいことだが、むこうでひとあばれするつもりかの」
「それもあります」
八郎は短く答えたが、小河に胸のうちを覗《のぞ》かれたような気がした。八郎は関東にくだり、情勢によっては、再挙の旗をそこに立てようと考えていたのである。策が破れたとはいえ、大きな人数を動かし、義挙の兵をあげる寸前まで持って行った自信と気負いが、まだ胸中に生きていた。
小河と別れて薩摩屋敷を出ると、八郎は伏見のうちにある大黒寺に行った。そこには有馬ら寺田屋で闘死した八名と、山本四郎と名を変えていた神田橋直助が葬られていた。虎尾の会の同志である神田橋は、伊牟田と同じく陪臣という低い身分ながら、帰国後は当然のように尊攘激派に属した。寺田屋にも同行するつもりだったのが、風邪で参加出来ず、後で藩から呼び出しを受けると、それをこばんで自刃したのである。
──貴公らの死を無駄にはせん。
八郎は一人墓前に蹲《うずくま》って香を焚くと、そう誓った。熱いものが胸の中からほとばしり出るようだった。長い間同志だった神田橋、短い期間ながら心を許してともに必死の策をすすめた、柴山や橋口の顔が瞼の裏に浮かんでは消えた。
春秋に富む彼らの命を奪ったのは、久光の命令だったが、八郎にはその背後にある、より大きな手が、彼らを奪い去ったようにも思えるのだった。
尊皇といい、佐幕といい、あるいは攘夷といい、開国という巨人が、つぎつぎに立ち現われて相|搏《う》っている時勢だった。混とんとした情勢の中で、心ある者はその格闘を終らせ、この国に統一をもたらすために奔走している。そういう時代だった。
八郎も、その時勢の格闘の中にいた。そしてその中にいるかぎり、柴山や神田橋を死にいたらしめた大きな手は、いつ八郎を襲ってくるかわからないことだった。
げんに八郎は、寺田屋事件の後で、江戸から大坂にきていた益満に会ったとき、貴公は運がよかったと言われている。
「あのまま藩屋敷にいれば、貴公は必ず有馬らと同行して寺田屋に行ったろうし、また斬り合いがはじまれば、貴公の性分として格闘に加わらずにはいなかったろう」
益満はそう言って笑った。益満が言うとおりだと思った。よしんば斬り合いに加わらなくとも、国元に護送されれば、運命は知れている。八郎は一髪の差で死をまぬがれたことを知ったのだった。
眼の前に、神田橋が眠る地面があった。三月にきた江戸の山岡の手紙は、笠井伊蔵の牢死を告げていた。そしてつい最近は、薩摩に護送された筈の田中河内介が、無残な死体となって小豆島に流れついたという噂も聞いていた。
彼らの運命が、いつ自分の運命になるか知れないことだったが、生きているかぎりは、死んだ者の志を生かすために働かねばなるまい、と八郎は思った。
八郎は、まだ香煙のいぶる中で、地下に眠る同志に詩をささげて弔った。
嗟乎《ああ》義友 果して瞑せるや否や
回天の好機 事すでに毀《やぶ》る
遺恨空しく感ず 人に後れて死するを
しきりに乾坤《けんこん》に泣いて、微旨を訴う
天や言わず 地や黙せり
中に雲霧ありて 彼此をさえぎる
すべからく清風を巻いて余燼を奪うべし
請う 君悶ゆることなかれ暫時の裡
文久二年六月六日。八郎は京を発って江戸にむかった。安積はまだ河内の水郡家にとどまっていたので、一人だった。
──京都に義兵を挙げて、そこで死ぬかと思ったが、こうして江戸にむかっている。人間の運命というものは不思議だ。
と八郎は思った。だが気分は充実していた。懐中には、京都を発つ直前に、薩摩藩の同志から渡された二百両がしまわれている。その人は八郎が江戸に帰ると聞き、君なら江戸で必ず何事かなすところあるだろうと、その金をくれたのである。期待を重荷とは思わなかった。むしろ快かった。
──陛下乃ち天よりこれに応じ給い、奮然|赫怒《かくど》せられ、まず幕府征夷の号を去り、さらに親王を任ずるに征夷の号を以てし、錦旗を樹て、天下に号令し給えば、天下たれか沛然《はいぜん》として雲集せざらんや。……臣ら誓って天下の義人を糾合し、数ヶ月を出でずして必ず大挙するあり。陛下、変に相し宜を察し、沛然として六師を震わせられなば、必ず回天の偉勲を成さん。陛下、それ疑うこと勿れ……。
京都を去る八郎の脳裏に、孝明天皇に奉った回天封事の字句が明滅した。
三
八郎は途中で思いがけなく、村上俊五郎に会った。村上は仙台の桜田良佐の家にいて、八郎の京都挙兵の噂を聞き、京にのぼってきたのであった。
八郎が事情を話すと、村上は残念そうに、遅かったかと言ったが、ふと気づいたように八郎の顔を見た。
「一人か。安積はどうした?」
「河内にいる。考えるところあるらしく、しばらくとどまると言っていた」
八郎はうすうす、安積は今度の京都挙兵の策謀に批判の気持を抱いているのでないかと思っていた。ことに九州遊説で、青蓮院宮の密旨云云とほのめかしたのが、生真面目なところがある安積を悪く刺戟したかも知れなかった。
だが八郎は、何の背景も持たない孤士だった。正論だけ吐いていても人がついて来ないのだ。人を動かすためには、可能なかぎり論旨を派手に飾り、重味もつけ加える必要があった。そこを安積が理解せず、いたずらに策を弄するとみるなら、それも仕方ないことだと八郎は思っていた。
だが村上は、八郎と安積の間に生じた微妙な行き違いには気づかないらしかった。無造作な口調で言った。
「ふん、あいつもやっと乳離れしたか」
「どうだ、村上。貴公が一緒なら、これから京にもどってひと仕事してもいいのだが、つき合うかね」
八郎が、ふと思いついてそう言ったのは、村上に会った喜びと、京から持ちつづけてきた昂揚した気分のせいだったろう。
「何をやるつもりだ」
「奸物退治さ。京に、我慢ならない男を残して来たのを思い出した。島田左近という男を知っているか」
「ああ、井伊の手先で働いた奴だろう」
村上はすぐに、大獄の当時、井伊の謀臣長野主膳と組んで、志士の間に悪名高かった男を思い出したようだった。島田は関白九条尚忠の諸大夫で、和宮の降嫁にも暗躍し、志士に憎まれていた。
「そいつを斬るのか。面白いな」
と村上は言った。
二人は京都に引き返し、六月十九日の夕方、島田を襲った。しかし用心深い島田にうまく逃げられて、目的を果さなかったのだが、八郎と村上が島田を襲ったということは、すぐに京師の志士の間で噂になった。この事件は、あるいはこのあと京都で頻発した天誅《てんちゆう》騒ぎの濫觴《らんしよう》をなしたかも知れない。
だがこの噂が行きわたるころには、二人は飄然と京都を後にして伊勢にむかっていた。伊勢で山田大路親彦に再会し、東海道をくだった二人が平塚まで来たとき、江戸から国に帰る島津久光の行列に会った。八月二十二日だった。
道の端で二人が行列を眺めていると、後尾から武士が一人離れてきて、二人に声をかけた。益満休之助だった。益満は二人を宿駅の茶屋にさそい、障子を閉めてしまって、酒を運ばせた。
「こんなところで油を売って構わんのか」
八郎が言うと、益満は、なに、一人ぐらい途中でこぼれてもわかりはせん、と相変らず人を喰ったことを言った。
「あれはどうなった? 一橋の後見職と越前の大老という一件は?」
八郎は早速、江戸での久光の首尾をたずねた。いいところで益満に会ったと思っていた。
「うまく通った。というよりも大原という爺さん公卿を使って、老中を脅迫させ、無理やりに通したということらしいな。無位無官の三郎殿が幕政に口をはさんだということで、幕府はだいぶおかんむりだったらしいが、大久保あたりが入れ智恵した脅し一発で恐れ入ったというのは、幕府も先が見えたということだな」
「先はとっくに見えているさ」
と八郎は言った。益満はうなずいてつづけた。
「ところで、その後に大原が十一カ条の要請というのを出した。京都所司代、大坂城代の更迭《こうてつ》とか、和宮の待遇をどうこうしろといった中味のものだが、その中に大赦を行なえという一項目がある」
「大赦?」
「そうだ。これはおぼえておくほうがいい。うまく行けば、虎尾の会でつかまっている連中もご赦免になるぞ。お蓮さんもだ」
益満はじっと八郎を見た。八郎は思わず頬に血がのぼるのを感じた。
牢につながれているお蓮や熊三郎、そして池田以下の同志のことは、暗い泉のように心の奥底で鳴りつづけ、たえず八郎を苦しめた。その苦しさのあまり、いかなる策略を弄しても、幕府を倒さずにはおかないと思うこともあった。だが、はげしく張りつめた倒幕の企ての渦中にいて、時に彼らのことを忘れるともなく忘れていることもあったのだ。
いま不意に益満の口からお蓮の名前が洩れたのを聞いて、八郎はふとそのことを責められた気がしたのだった。八郎は低い声で言った。
「わかった。よくおぼえておこう」
「しかし、何だな」
益満は不意に話題を変えた。
「今度のいきさつを眺めていると、幕府というのは依然として形式ばかり重んじて、そのじつ力のないことおびただしいな。大久保市蔵などは順聖公以来の幕政改革の素志を通したというので、鬼の首でも取ったように喜んでいたらしいが、馬鹿らしいことさ。一橋が後見職になって、松平が政事総裁になって、それで何か変るかといえば、おれのみるところじゃ、恐らく何も変らんな」
「そう思うか」
「うん、変らんさ。いまになって思うことだが、虎尾の会の狙いは正しかったぞ。あれでないと天下一新は出来んな」
「………」
「虎尾の会の再起をはかるべきだ、清河。京都挙兵に火をつけたというので、こちらでは清河の株が上がっているからな。その気になれば、人は集まるぞ」
「………」
「天下の情勢は、ますます複雑だ。じつは昨日われわれの行列が生麦村で異人とぶつかってな。三人を斬って、一人を殺してしまった」
益満の言葉に、八郎と村上は驚いて顔をあげた。
「それで、どうなった?」
「どうもせん。わが藩の者が異人を斬ったが、斬った者は逃げて行方がわからん、と届けたのだ。幕府は先方との交渉が埒明くまで保土ヶ谷にとどまれと言って来たが、久光公が聞くわけはない。久光公は幕府に一応言うことは聞かせたが、待遇が悪かったのでつむじを曲げておられる。聞く耳持たぬというわけよ」
薩摩の行列と鉢あわせして、斬られたのは、上海から日本を見物にきていたイギリス商人リチャードソンだった。リチャードソンは、狭い道を制止の意味もわからずに久光の駕籠《かご》わきまですすんできたところを、供頭の奈良原喜左衛門に馬から斬り落とされた。そこを有村武次がとどめを刺したのである。
リチャードソンは、香港から来ていたボロデール夫人、二人の案内役マーシャル、クラークの四人連れだったが、奈良原と有村の一瞬の処置を見た藩士たちは、残りの三人にもいっせいに斬りつけたので、ほかの者は傷を負いながら逃げ去った。
益満はそういう話をした。八郎は低くうなった。幕府の狼狽ぶりが見えるようだった。今度の異人斬りは、素姓も知れない浪人者の仕業ではなく、一国の藩主同様の人物が率いる人数がしたことである。
殺傷の理由がどのようなものであれ、開国を標榜《ひようぼう》している幕府は、交易諸国から信義を問われることになるだろうと八郎は思った。
「幕府は苦しいことになりそうだな」
「当然だ。公然と交易を許しながら、裏では攘夷もかしこまるなどと言っている二枚舌の政策では、世の中通らなくなってきたということさ」
益満は昂然と言ったが、ふと声を落とすときょろきょろと眼を動かして二人を見た。
「まだ面白い話がある。島田左近が斬られたのを知っておるか」
「えッ」
八郎と村上は思わず顔を見あわせた。ふた月ほど前、二人で島田の家に土足で踏みこんだ時のことを生なましく思い出していた。
「いつの話だ?」
「先月の二十日。無残な死にざまだったらしい。斬ったのはわが藩の田中新兵衛と長州の連中だとわかった。田中は誠忠組の間でうろうろしていた男だが、それで一度に名を挙げたらしいな。それからな、貴公の子分で本間というのがいるだろう。本間誠一郎」
「別に子分というわけじゃない」
八郎はにがい顔をして言った。本間とは安積塾の同門で、古いつきあいだが、八郎は本間の心情に一点浮薄なものがあるのをみて、虎尾の会には誘わなかったのだ。
「そうか。ま、それはそれでいいが、その本間が音頭取りで、若手の公卿と組んで、古我とか、岩倉とか和宮降嫁に働いた公卿の排斥に乗り出しているらしいな。四奸二|嬪《ひん》をしりぞけるとか申して、なかなか元気らしい。京都は貴公が残してきた尊攘派浪士の天下になりつつあるらしいぞ」
四
益満と別れて二日後に、八郎と村上は江戸に入り、ひそかに小石川鷹匠町の山岡の家をたずねた。
「無事でしたか」
二人を見ると、山岡は懐しそうにそう言い、上にあがれと言った。
「上がっても構わんのか」
「大丈夫です。一時は松岡と二人、かなり白い眼で見られたが、近ごろは何ということもない。そうだ、松岡を呼びましょう」
山岡は、挨拶に出た妻のお英に、松岡万を呼んで来いと言った。お英が、手早く酒の支度をして家を出て行くと、山岡は二人に盃をさし、酒をついでから言った。
「何から話すべきですかな。うん、まず獄中の同志の消息を話さんといけませんな」
村上はぐびぐびと酒で喉を鳴らしたが、八郎は盃を置いて、山岡を見つめた。
「笠井が死んだことは、手紙で知らせましたな」
山岡は手酌で、自分の盃にも酒を満たしながら、うつむいて言った。
「その後、北有馬と西川が牢死したことがわかりました。北有馬は九月に死んでいた。笠井よりひと月も前です。西川練造は、暮れの十二月半ばに死んだそうです。全身に瘡が出来て、寒さに耐えられなかったらしい。それから嵩春斎も死んだ。このひとは、入牢後間もなくだったらしいですな。牢問をうけた形跡があります」
八郎は凝然と聞いた。拳を膝に置いたまま、山岡を見つめた眼を動かさなかった。その眼に、山岡はうなずいた。
「お蓮さんは無事です。あの蒲柳《ほりゆう》にみえるひとが、意外に強かった。えらいものです。熊三郎君、池田、石坂も無事です」
「石坂か。あいつはちょっとやそっとで死ぬようなタマじゃない」
村上は、せっせと手酌で酒を飲みながら言った。人が死んだなどということを、歯牙にもかけていない非情さが村上の態度にあらわれていた。八郎は、そういう村上をちらと眺めながら沈痛に言った。
「惜しい連中を死なせた」
「北有馬のことですが」
山岡が声を落とした。声とは逆にある激しい感情が山岡の顔に現われていた。
「彼は無宿牢に入っていた」
「なんと!」
八郎は声を挙げた。村上も盃の手をとめて山岡を見た。八郎はせきこむように言った。
「なぜだ?」
「身分を明かさなかったからですな。そのために、ずいぶん責められたらしいが、隠し通した。それで身体が弱ったらしい」
「そうか」
八郎は熱い息を吐いて、盃の酒を一気にあけた。
──北有馬は、義父の安井息軒の名が出ることを恐れ、身分を隠したのだ。
名状しがたい怒りに、八郎は胸を掴まれていた。幕府とはそも何者ぞ。内治、外交に醜態をさらけ出しながら、人の命をうばうすべは、よく心得ているらしい。しばらく沈黙したあとで、八郎は静かに、山岡と呼びかけた。
「貴公や松岡には悪いが、おれは幕府と、ともに天を戴きたくない気持だ」
山岡は黙っていた。静かに八郎を見ていた。
三日後、八郎と村上は江戸を出て東にむかった。
水戸にむかうのだが、八郎はいそいではいなかった。野州の山地から水戸領に流れこむ那珂《なか》川と、領内北部から南下して、同じく東の海にそそぐ久慈川にはさまれて那珂郡がある。そこに、村上が去年長くひそんだ上小瀬村の井樋家がある。二人はさきにそこを目ざしていた。
「この川に沿って、ずっと南にさがると水戸だな」
八郎は野州との国境の野田から水戸領に入ったとき、そう言って川の行手を眺めた。二人は小高い台地の端に立っていた。秋の日射しに照らされた丘陵まじりの平野が、眼の前にひらけていた。
ゆるく傾いている稲田のあちこちに、晩稲を刈る百姓たちの姿が、小さく動いている。刈り取られたあとの田は、黒い地肌をのぞかせ、その手前に芒の原が日にかがやいて見えた。田も、丘の傾斜も、遠い村落も秋の色に染められていた。その間を蛇行して流れくだる川が見える。川はひとところまぶしく日にかがやいているばかりで、二人が立っている場所から、川音は聞こえなかった。
「おれは、水戸にいる間に、幕閣に大赦を掛けあってみるつもりだ」
と八郎が言った。
平塚の宿で会った益満から得た情報も重要だったが、江戸にいる間に、山岡、松岡から聞いた話も、八郎にとっては重要だった。
幕閣は、八郎が江戸にいる間に安藤老中が失脚し、安藤と組んでいた久世老中も、勅使大原重徳が江戸に到着する直前に辞職していた。大獄以来辣腕をふるった京都所司代酒井忠義も、八郎と村上が伊勢にいた六月末には、罷免されて一万石の減封、謹慎の処分をうけて職をしりぞいていた。
かわって幕閣を動かしているのは、備中松山藩主板倉|勝静《かつきよ》、山形藩主水野|忠精《ただきよ》、竜野藩主脇坂安宅の三閣老と将軍後見職徳川慶喜、政治総裁松平慶永(春嶽)だった。
目をみはるような変化だった。この新しい徳川の政権が何をやろうとしているのかは、八郎にもわからない。だが、八郎は山岡から、松平慶永の政治顧問である横井小楠が、将軍が上洛して朝廷にこれまでの無礼を詫びる、諸侯の参覲をやめ、諸侯の妻子を国元に帰す、外様、譜代をえらばず賢をあげて幕政に参加させる、広く言路をひらいて天下とともに公共の政治を行う、などを献策し、松平がそれによって動いているらしいと聞いたのである。
「大赦を掛け合うには、いまが好機だと思う。幕府は、これまでのように、尊皇攘夷の人間を、やたらに圧迫できなくなってきている。京都で荒れている連中も、いままでのようなやり方では押さえきれんと思っているはずだ」
「こちらの旗上げはどうなる?」
と村上が言った。山岡らとは、江戸でそういうことも話し合ってきたのだ。
「それも大赦令を出させてからの話だ。おれも君も身軽にならんと動きがとれない。それに、牢にいる連中も、もうひと冬はもたんぞ」
二人は黙って秋めいた風景に眼を投げた。しばらくして八郎が、行くかと言った。
五
この年、全国にはしかが流行した。八郎も東海道をくだる途中、伊豆修善寺の湯宿に寄ったとき、家家にはしかの病人が満ち、宿は湯治客もなくがらがらだったのを見ている。
はしかは小伝馬町の牢獄の中にも、しのびこんできた。二度目の夏を送って、ひどく身体が弱っていたお蓮が、牢内にはやり出したはしかにかかったのは、見る者がみれば当然と思えたかも知れない。
高い熱が出た。牢屋敷手附の医者が薬をくれたが、熱はさがらなかった。病人には、頼めば粥《かゆ》、雑炊、麦めしなど、望みの食があたえられる。お蓮は粥をもらったが、それを口に運ぶ気力もなかった。
うつらうつらと、眠るともなくさめるともない時を過ごしながら、お蓮は、いよいよここで死ぬのだろうか、と思っていた。この間まで過ごした酷暑の中の苦しみを思うと、死ぬのはさほど苦痛ではないという気もした。
「あんた、たべないと死ぬよ」
同房の女囚が、お蓮を気遣って、たびたびそう言って力づけたが、お蓮は黙って首を振った。ほかにも三人ほど、はしかで寝ている者がいたが、お蓮よりは元気だった。お蓮が一番弱っていた。いままで、精いっぱい張りつめていた気力が崩れようとしていた。
荘内藩江戸屋敷から、お蓮を迎える駕籠がきたのは、閏《うるう》八月六日だった。夢うつつのうちに、肩にかつがれるようにして、お蓮は牢を出され、駕籠に乗って牢屋敷を出た。お蓮を運んでいるのは普通の町駕籠で、中にはやわらかい布団が敷かれていた。
垂れの窓から射しこむ日射しがまぶしく、空気がうまかった。
「ああ」
お蓮は小さく吐息を洩らした。駕籠の肩にもたれていた身体を起こし、天井につかまって、窓から外をのぞこうとした。江戸の町が、影絵のように透けてみえ、人が歩いていた。雑然とした物音が駕籠を包み、時どき耳に近く人の笑い声や、話し声がひびいたりした。
わずかなその身動きに疲れて、お蓮は身体をもどすと、またうつらうつらとまどろんだ。
──私をどこに連れて行くのだろうか。
ぼんやりとそう思った。荘内藩から迎えにきたと聞いたが、それも夢の中の出来事のように信じがたかった。
──でも、ここは小伝馬町の牢ではない。
あかるい秋の光が、駕籠の中に溢れていて、町のざわめきが聞こえていた。時刻は夕方近いはずだが、町にはまだ活気が満ちていた。日が暮れる前の一刻、お蓮も以前はいそがしく買物にとび回ったりしたのだ。駕籠は、町の中を、病人をいたわるようにゆっくりすすんでいた。
お蓮の胸に、微かな安堵の思いが生まれた。どこへ運ばれようと、小伝馬町の牢にいるよりはいい、と思った。そこから抜け出せた安堵が次第に胸の中でふくらみ、お蓮はやつれた顔に微かな笑いをうかべたまま、眠りに落ちて行った。
駕籠は、神田川に架かる橋をひとつ渡り、向う柳原に入った。そして駕籠のまわりが急に静かになった。その静けさで、お蓮は眼をさました。
やがて駕籠が大きな門を潜ったのがわかった。駕籠はそのまますすんで行く。広い屋敷らしく、遠くで人の話し声がしている。
──国の言葉だ。
お蓮は身動きもせず、聞こえてくる国なまりの声を聞いた。すると、ここはやはり藩屋敷で、私は赦《ゆる》されるのだろうかと思った。ご赦免になるかどうかはわからないが、ともかく小伝馬町の牢獄にもどることはないらしい、とも思った。
お蓮は小さく胸を喘《あえ》がせた。長い苦しみのあとに、前触れもなくおとずれてきたしあわせの予感に、思わず心が昂ったのであった。そのとき、駕籠が地面におろされ、垂れが引きあげられた。
誰かが、自分をのぞきこんでいる、とお蓮は思った。お蓮が顔をあげたとき、その気配がすっと遠のき、太い男の声がした。
「だいぶ弱っているようだな」
「早く手当てをした方がよろしいかと思います」
駕籠につき添ってきた男と思われる声がそう答えた。二人の声は、膜をひとつへだてているように、お蓮の耳に遠く聞こえた。
お蓮を引きとったのは、荘内藩だった。お蓮の病状は、牢屋敷から上の方に報告されてその日奏者番小笠原図書頭から、荘内藩に対して、このままでは牢死するかも知れぬから、養生する間藩で預かるように、という達しがきて、藩では、下谷の中屋敷に引き取ったのであった。
お蓮が入れられたのは、屋敷内の揚り屋だった。しかし中にはほかに囚人もおらず、布団が敷いてあって、お蓮はその上に横たえられた。すぐに医者がきて、お蓮の病状を診た。
間もなく夜になったが、揚り屋の前には釣り行燈《あんどん》が懸けられていて、牢内はほのかにあかるかった。
粥を運んできた年寄の牢番が、格子の外からいろいろと話しかけた。国元から奉公にきている老人らしく、国言葉まる出しで喋った。老人は八郎の噂を聞きかじっていて、自分が知っていることをぽつりぽつり話して聞かせた。八郎が、上方で志士として働き、高名になっているらしいというようなことだった。お蓮はむさぼるように、その話に耳を傾けた。ほかに監視する人間もおらず、老人の話を妨げる者はいなかった。
僅かな粥をすすったあと、お蓮はこんこんと眠った。
お蓮がゆり起こされたのは深夜だった。眼をひらくと医者がいて、薬包みを渡した。はしかの薬だと言った。
屋敷の中は、物音ひとつ聞こえず静かだった。牢の外からさしこむほのかな明りの中で、お蓮は起き直って薬を飲んだ。水をのむとき、仰むけた白い喉が微かに動いた。
翌朝、見回りにきた牢番は、お蓮がひと晩で死んでいるのを発見した。お蓮の死体は、なぜか布団から這い出て、牢格子のそばの板敷に力つきたように倒れていた。お蓮、年は二十四だった。
六
八郎がお蓮の死を知ったのは、翌月九月の二十日だった。
八郎は村上と二人で、那珂郡上小瀬村の庄屋井樋家を訪れ、しばらく滞在したあと閠八月九日に水戸に行った。そこで二人は住谷寅之介、下野隼次郎、山口徳之進、宮本辰之助に会い、歓迎された。宮本は住谷の弟で、下野は弘道館教授である。
清河八郎が来ているという噂はすぐにひろまり、いろいろの人が八郎をたずねて来たり、招いて書を所望したりした。寺田屋の一件で策は直前に破れたものの、八郎の周旋によって諸国の尊攘派志士が三百人余も京都に集まり、挙兵の一歩手前まで行ったことは、水戸にもくわしく報じられていたのである。
八郎は、一流の志士の扱いを受けた。一年ほど前、八郎は捕吏に追われて水戸にきている。そして安積塾同門の蘭学者菊池寛三郎の家に、三日ほどかくまってもらったのだが、そのときとは雲泥の相違だった。「水府に罷《まか》りこし候ところ、かねがね待ち居られ、処々に招待いたされ、まことに厚く鬼神のごとく敬待せられ……」と、八郎は故郷の父に書き送った。
八郎の郷里の家に送る書信には、時おり誇張がまじる。尊皇攘夷とか倒幕などという事情にうとく、また騒然とした情勢から遠い片田舎に住んで、ただただ息子の無事を祈る父母を安堵させたい気持がそこにまじるのだが、水戸における扱いは、およそ八郎が書いたようなものだった。
八郎は水戸に十日あまりいて、水戸の北方、河原子村に行き、潮湯という海辺の湯宿に泊ると、そこで「幕府の執事に上《たてまつ》る書」を書きあげ、水戸の住谷から江戸の山岡、また土佐藩邸の気付で、江戸にいる友人の間崎哲馬に転送してもらった。
土佐勤王党に加盟して、領袖の地位にいた間崎は、武市瑞山と相談の上で江ノ口の私塾を閉じ、今年の三月江戸に出てきていた。情報収集のためである。
間崎は出府すると、同志の大石弥太郎、門田為之助とともに、武市を支持している在府の藩重役、渡辺弥久馬に接触しながら、諸藩の志士と会い、幕府の内情、諸藩の動きを探って国元に書き送った。そして五月に大石、門田が帰国すると、間崎がその仕事の中心人物になっていたのである。
間崎が出府していることを、八郎は上方で吉村寅太郎から知らされていた。その吉村は、寺田屋事件のあと宮地宜蔵とともに京都の土佐藩邸に引き渡され、ついで国元に檻送《かんそう》されて囚獄の身となっている。間崎にとっても、門下の逸材吉村の禁獄は心を去らない気がかりだろうと思われた。
八郎は、山岡と間崎にねんごろな手紙を書き、大赦請願の上書を、松平総裁の手もとにとどけるように頼んだ。
その仕事を終って、八郎はまた居場所を移した。相馬中村を経て、仙台に足をのばし、桜田父子と会った八郎は、村上と桜田のところで知り合った大友という男の三人連れで、尿前の関所の手前|川渡《かわたび》の湯宿まで来ると、郷里に連絡をとった。お蓮の死を知らせる便りは、その時にもたらされたのである。
東海道を経て江戸に入り、さらに水戸から仙台にくるまで、八郎はずっと帯刀の武家姿で通したが、その姿を見咎めてつけ回してくるような人間はいなかった。どことなく幕府の追及がゆるくなっている感じがしたが、それでも奥羽国境を越えて出羽領内に入ることははばかられた。
そこで八郎は川渡の湯宿から大友を、新庄領清水の親戚山嘉にやった。大友はなかなか帰らず、その間に村上は退屈して仙台に帰ってしまったが、八郎はじっと大友を待ちつづけた。
九月十九日に、大友が帰り、翌日山嘉が、父の豪寿の手紙を持って、直接にたずねてきた。父の手紙は、荘内藩の斎藤の家に対する監視が以前にくらべてゆるくなったことなどを記していたが、次に唐突にお蓮の死を報じていた。
「おう」
思わず八郎は声をあげた。お蓮の死を知らせる文章はごく簡略で、牢内ではしかを患い、荘内藩邸に引きとられたが、そこで死亡したと、感情をまじえない文句でつづられていた。
じつは斎藤家には、藩からの通知とはべつに、かつて八郎と親しく交際した、調役の伊藤小介という江戸詰の藩士から、お蓮の死をくわしく知らせた手紙がとどいていたのである。
伊藤の手紙は、お蓮の死を傷み、浅草山谷町の東禅寺に仮埋葬して置いた旨を記したあと、末尾に「素よりの寿命とも申し難く候うわさを申すことも御座候由、何とか追善御いとなみ下されたきものに御座候」と記していた。
伊藤の手紙は、お蓮の死に毒殺の噂があることを書いているのであった。豪寿は上府する木部謙蔵という藩士に、お蓮の始末を頼んでやったが、伊藤が知らせてきたその噂を、人に洩らしてはならないと思った。ことに八郎に知られてはならないことだった。その気遣いが、必要以上にそっけない文面になったようだった。
八郎はしばらく茫然と手紙を見つめたが、やがて顔をあげて山嘉を見た。
「お蓮が死んだと書いてあります」
「そうらしいな。私も今度清川に行って、はじめて聞いた話だ」
山嘉は、大きく商売をしている家の旦那らしく、肥った顎をちょっと引いてうなずいた。
「気の毒だ。まだ若い身空なのにな」
「死んだのは、七日ですな。七日というと……」
上小瀬の井樋家から、水戸にむかおうとしていたころだと、八郎は思った。
憤怒がこみあげてきた。怒りはまっすぐ自分にむけられていた。その死を悟りもせず水戸に行って、天下第一の志士などとおだて上げられ、得々として酒席で書を書きなぐったりしていた自分の姿を、八郎は唾棄すべきおぞましさで思い出していた。「鬼神のごとく敬待せられ……」などといった自負が、みじんに砕け散るのを、八郎は感じた。
──女ひとりの命も救えなかった男だ。
八郎は自責に青ざめながら、声音だけは静かに言った。
「しかし藩屋敷で死んだと書いてありますな。牢屋ではなかったのですな」
七
仙台の桜田の家に、八郎はひと部屋をあたえられている。
日暮れ近くなってから町に出て、人ごみの中をそぞろ歩きしてから家にもどると、部屋の中に灯がともり、人の気配がした。
「村上か」
松島に行っている村上がもどって来たかと思いながら、八郎が声をかけて障子をあけると、小机の上から男が顔をあげた。江戸の山岡鉄太郎だった。
「よう」
八郎は微笑した。
「いつこちらに来た?」
「たったいま、ついたばかりです」
山岡はそう言いながら、立って火鉢のそばに来た。
「何を見ていたな?」
「すまん。のぞくつもりじゃありませんでしたが、珍しい文句が眼に入ったもので」
「あれか」
八郎は苦笑した。備忘録の隅に、新内の蘭蝶のひと節が書きつけてある。それが山岡の眼に触れたらしかった。
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縁でこそあれ末かけて 約束固め身をかため 世帯かためて落付いて アノ嬉しやと思うたは ほんに一日あらばこそ……
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川渡から仙台に帰ったあと、お蓮の死を悼んだ桜田敬助が、一夜酒席を設けて八郎を慰めた。その席で、芸者が語った蘭蝶のひと節が、八郎の胸をえぐったのである。
「女女しいことを書きつける、と思ったろう」
「いや、そうは思いません」
山岡は正座して頭をさげた。
「ご新造のことは、気の毒でした。連日押しかけて酒を喰らい、迷惑をかけたころのことを思い出すと、何とも言えん気持です」
「しかし、考えても仕方ないことだ」
と八郎は言った。
八郎は古川まで行くという山嘉と一緒に川渡の湯宿をたち、古川に一泊した夜、郷里に三通の長い手紙を書いた。父母と妹の辰代にあてた手紙で、いずれもお蓮の供養を頼む手紙だった。
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……専ら人の為に世話ばかりいたし、その身の衣服などは申すにおよばず、頭の飾りものまでも更に求め申さず、私同然に苦しみ候て、内実感じ入りたる事多くこれあり、同志中にも悉く称美せられ、只今までも不便《ふびん》不便と申しおり候ところ、はかなく相成り、誠に憐れむべき事に御座候。
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暗い宿の行燈の下で手紙を書きすすめながら、八郎は幾度か胸をつまらせて筆を措いた。お蓮は親の許しを得た妻ではなかったので、父母にも妹にも本妻同様に弔ってくれと特に頼んだ。そしてお蓮の死をいたむ和歌二首を添え、お蓮の老母に十両を渡してくれるように、とも書き添えたのである。
三通の手紙と、金を山嘉に託して、八郎はお蓮の始末がひとまずついたと思った。だがその後に言いあらわしがたい空虚な気分が残った。その空虚な気分はそのまま心の片隅に居すわって、時どき前触れもなく八郎を襲ってくる。さっき不意に思い立って町の人ごみにまぎれてきたのも、その気分からのがれるためだったのだ。
「ところで、何か早急な用か」
八郎は、話題が感傷に流れるのを避けるように、山岡に話を促した。
「お、それです」
山岡も気を取り直したように、きびしい表情になった。
「池田、石坂の仮出獄が許されるかも知れません。熊三郎君もです」
「ほう」
「清河さんの上書はおれからと、間崎君が容堂公を通じて出した分と二通、無事に春嶽公にとどきましたが、おれは池田にも大赦願いを出させた。池田は公卿筋につてを持っていますからな。高家の中務大輔中条信礼というのが、池田と多少の近づきがあって、この中条という人物は公卿の樋口観照入道の弟です。このつてを頼って、池田の大赦願いは、うまく近衛関白までとどいたらしい。朝廷では、さきに大原勅使を通じて大赦の一項を要請しています」
「それは、益満が話していたことだ」
「それで池田の上書のことも、幕府に諮問といった形で連絡があったようです。春嶽公の手もとには、ほかに長州藩からも大赦について意見書が出ているので、幕府も捨て置きがたくなって動いてきた、という形ですな」
「そうか。情勢がそういう方向に向いてきたということだな」
「そうです。そこで相談ですが、今後どうするつもりか、考えがあればお聞きしたい」
「………」
「池田、石坂が出てくる。伊牟田も江戸にいる。清河さんも村上もいずれ赦されて世に出るだろう。虎尾の会の再挙をはかる時期が来た、とおれは思いますが」
「………」
「京は尊攘派の天下になっているらしいですな。朝廷が、幕府に対して新たに攘夷督促の特使を出すという噂もあるし、幕閣もこうした情勢に対しては姿勢が低く、攘夷遵奉はやむを得まいという有力な意見も出ているそうです。情勢が変って、われわれが動きやすくなっていることは間違いありませんな」
京にくらべて、江戸の動きは遅れている。われわれが起って、幕府の尻を叩くべきです、と山岡は熱心に説いた。
八郎は黙然と聞いていた。そして立ちあがると、障子を開いて暗い庭に身体をむけた。九月の末で、流れこんでくる夜気はやはり冷たかったが、議論に昂った山岡の頬を快くひやした。いつまでも黙っている八郎の背に、山岡は呼びかけた。
「どうですか。一応はおれの意見を述べたわけだが、清河さんの指示がないと、われわれは動けん」
八郎は立ったまま振りむいて、山岡を見た。八郎の顔には、何か別のことを考えていたような、放心した表情があらわれていたが、やがて後手に障子を閉めて、火鉢のそばにもどってきた。
「貴公は時期だというが、それはどうかな。幕府はなかなか本心から攘夷にころぶことはなかろうと、おれは思うぞ」
と八郎は言った。
「しかし、時勢が大きく尊皇攘夷に動いていることは、否定しがたい事実です。われわれが虎尾の会の同盟を結んだころとは、比較にならない情勢になってきておる。幕府にしても、この動きにはさからえんと思いますが。げんにそう思っている徴候は、あちこちに現われていますぞ」
「確かに徴候らしきものは見えている。大赦の動きもそのひとつだな。だが山岡、それで幕府が攘夷に踏みきるかといえば、それはあり得んことだ」
「………」
「だから、もしわれわれが、だ。ここで軽率に攘夷の旗上げなどしてみろ。たちまちまたひっくくられるぞ。幕府は攘夷の腹も決められず、さればといって時勢にもさからえず、ただ時の勢いに押されて迎合の身ぶりを示しているに過ぎん」
「では、どうすればよいのです?」
「………」
「再挙をあきらめるつもりですか」
「手がないわけじゃないよ」
と八郎が言った。山岡には、八郎の眼が一瞬すさまじい光を宿したように見えた。
「虎穴に入らずんば、ということかな。幕府の懐にとびこんで、そこで手を作ろうということなら、出来ないことじゃない」
「どういうことです?」
山岡は訝しげに八郎を見た。
「おれにはわかりませんな」
「幕府に献策して、浪士を集めさせるのだ。こそこそと人を集めたのでは、すぐに怪しまれるが、これならどこからも文句は来まい。集まるのは玉石混淆だろうが、その中に尊皇攘夷の人間は必ずいる。われわれはそれを味方につければよい」
「………」
「集めさせる名目ならいくらでもある。浪士を野放しにしておくのは、時勢不安のもとだと言ってもいいし、草莽の英才を集めて、国家非常の役に立てると言ってもいいわけだ」
山岡は、はじめのうち茫然とした表情で八郎を見つめていたが、やがてみるみる顔を紅潮させて、膝を打った。
「名案です。これならいまの幕府の動きにもぴったり合う。清河さんはじつに不思議な人だな。この草深い奥州に隠れていながら、まるで時勢を見通しているかのようだ」
「やってみるかね」
「むろんです」
「じゃ、君が手をつけてくれ」
「それはいいですが、どこから手をつけますか」
「誰か、幕府側のしかるべき人物を説いて、幕閣に献策させればよかろう。われわれ、ことにおれの名は表に出さんほうがいい」
「わかりました。心躍るな。それはそうと……」
山岡は謹直な顔にふと、屈託ありげな表情を浮かべた。
「この家では、飯は出さんのですかな。先の見通しが出て来たら、急に腹がすいて来た」
[#改ページ]
浪士組西へ
一
清河八郎に対し、北町奉行浅野備前守から、正式に赦免の沙汰がおりたのは、文久三年一月十八日だった。この日八郎は、荘内藩江戸留守居黒川一郎につき添われて、麻裃に身なりを改めて奉行所に出頭し、荘内藩に対する次のような示達を聞いた。
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御家来にて、出奔致し候清河八郎召捕方の儀、先達相達し置き候ところ、右者此の上召捕に及ばず候間、なおまた此段申し達し候事
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同じ日に、浪士取扱いの松平上総介(もとの主税介)から、次のような伺書が奉行所に出された。
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出羽荘内 清河八郎
右者有名の英士にて、文武兼備尽忠報国の志厚く候間、御触れ出しの御趣意もこれあり、私方へ引取り置き、他日の御用に相立て申したく此段伺い奉り候
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この二通の公式の文書で、八郎は晴れて赦免の身になると同時に、松平上総介に身柄を引き取られることになったのである。松平の身柄引き取り要求は、一種の軟禁の含みを持つものだったが、八郎は気にしなかった。山岡と一緒に練りあげた密謀は、順調に運ばれていた。
浪士募集の献策で、八郎と山岡が白羽の矢を立てたのは、山岡が勤める講武所の剣術師範役並出役松平上総介(当時主税介)だった。
松平は団野源之進に直心影流を学んだ剣客で、男谷下総守と同門だった。ほかに伊庭軍兵衛に心形刀流を学び、柳剛流にも通じていた。八郎も千葉道場で学びながら、他流修業の意味で、一時伊庭道場にも通ったので、松平には面識があった。
そういうつながりのほかに、二人が目をつけたのは松平の家柄だった。松平は家康の子上総介忠輝の後胤で、わずかに二十人扶持の捨て扶持をもらっているだけだが、白無垢を着て登城すると、譜代大名の上席に着く格式をそなえていた。
山岡は、松平に浪士募集の話を持ちかけ、閣老にこの話を持ちこめるのは松平しかいないと、巧みに彼の名門意識をくすぐったのである。むろん八郎の名は出していない。
名門を誇示できる機会は、松平にとってそう沢山あるわけではない。松平は剣術にすぐれ、学識もある人間だが、山岡の話に乗って、十月十七日登城して閣老に会うと、自分の意見として浪士募集を献策した。正式な行列を仕立てて登城してきた松平の意見を閣老もすげない扱いは出来なかった。浪士を集めて取締り、非常の用に役立てるという趣旨も悪くはない。政治総裁松平春嶽、老中板倉勝静は、考慮を約束した。
一方八郎は、十一月十二日に松平政治総裁に二度目の上書をした。攘夷の勅令を奉じること、天下に大赦をほどこすこと、天下の英材を教育すること、以上が今日の急務三策であるという趣旨の建白書だった。
幕府は十一月二十八日に至って、大獄関係処刑者の建碑を許し、次いで在獄者の釈放に手をつけた。そして十二月八日には、松平上総介に対して、正式に浪士募集を下命したのである。
幕閣から浪士募集の下命を受けた松平上総介は、すぐにその頃水戸にいた八郎に使いを出した。そのころには、山岡から発案者が八郎であることを聞いていたので、協力を求めたのである。
八郎は、十二月十三日には江戸に着いて、山岡の家に身を寄せた。八郎は間崎哲馬に会いたくて、すぐに連絡をとったが、間崎はその六日前に、容堂から藩政改革の内意をうけて江戸をたち、郷里にむかった後だった。すれ違いだった。
浪士募集について、松平上総介の牛込二合半坂の屋敷で、正式の会合が持たれたのは、十二月三十日の夜である。池田、石坂が来た。二人は十二月十六日に、八郎の弟熊三郎とともに正式に赦免の身分となっていた。ほかに村上、もと相馬中村藩士西恭助、府内浪人河野音次郎など十三名が集まり、この夜浪士組の骨格がほぼ出来上がったのであった。
そして正月七日には、荘内藩留守居役黒川一郎あてに、「出奔致し候清河八郎、召捕りに候にも及ばず候」という幕府の内旨が示されていたのである。八郎の正式赦免まで、ことはほぼ八郎と山岡の画策どおりに運んだのであった。
八郎が赦免されて四、五日経ったころ、山岡が、二合半坂の松平の屋敷に八郎を訪ねてきた。
「まずはめでたいことです」
と山岡は赦免を祝福したあとで、声をひそめて言った。
「身柄引受人が、この屋敷の主では窮屈ではありませんか」
「なに、それほどでもない」
と八郎は言った。
「監視つきというわけじゃないから、やりたいことがあれば勝手にやる」
「お召し出しを清河さんがことわったというので、やはり清河は油断がならぬという声もあったそうですな」
と山岡は言った。
八郎を浪士募集の補助役として推薦したいと、上総介が閣老に申し込んだのは、赦免の内旨以前のことだった。閣老は驚いたが、松平政治総裁に対する再三の上書で、八郎に対する認識はすでに改まっている。
いっそ幕臣に取り立ててはどうかという声が出て、幕議は暮の三十日に召し出しを決めた。しかし八郎はその下命を丁重に、しかしきっぱりとことわっている。
「そうかも知れんな。大きなことを言う素浪人が、いったい何を考えているのか、これで腹をさぐってみようという気持はあったかもわからん」
「いっそ受けてしまえばよかったのです。それで尊皇攘夷が出来んというわけじゃあるまいし」
「山岡、山岡」
八郎はじっと山岡を見つめながら、山岡の言葉を遮った。その静かな眼に、ほとんど悲哀と呼んでもいいほどの、深い色があるのを見て、山岡はたじろいだ。
「だから君は、骨がらみの幕臣だと申すのだ。おれに幕府の禄をはむことが出来ると思うかね。たとえ渇しても、その水は飲まん」
「わかった。謝ります」
と山岡はいそいで言った。このひとの、幕府に対する恨みは深いな、と改めて思っていた。
「募集の方は、どうなってますかな?」
山岡は話題を変えた。十日ほど前から、池田と石坂が手わけして関東一帯に遊説に出ていた。
「二人から手紙が来た。池田はいま甲州にいて、石坂は常陸にいるらしいが、もう五十人ばかり申込みがあったらしい。これからどうするかと聞いて来たから、構わずに集められるだけ集めろと言ってやった」
「ほう、すると幕府の目算よりだいぶふえそうですな」
「気の毒だが、まずこの屋敷の主人があわてる。次に幕府があわてるだろうな。ひょっとすると養い切れんほど人が集まるぞ」
八郎は、その集まって来る浪士を、宙に思い描くように、山岡の背後に視線を遊ばせた。
八郎の考えていることが、山岡にもぼんやりとわかった。幕府は、募集浪士の人数をせいぜい五十人どまりと見、一人につき二人扶持、金十両の手当てしか用意していない。そのことは、これまでの話合いで、八郎にもわかっているはずだった。
しかし八郎は、幕府の腹づもりを無視して、いわば官費で、集められるだけの浪士を集めようとしているらしかった。浪士募集の趣旨から言って、幕府はそれを咎めることは出来ない。皮肉な手だった。
山岡は低く笑った。だが不意に声は哄笑になった。八郎も笑った。
「いや、愉快です。池田、石坂はいまもせっせと人を集めているわけですか」
「さよう」
「それで、二人はいつ戻って来ますか」
「晦日《みそか》前には戻ろう」
その池田と石坂が遊説から戻って、八郎をたずねて来たのは、八郎が予想したよりも早く、二十五日だった。二人ともわずかの間に黒く日焼けし、頬の肉が落ちていた。懸命に募集にかけまわった名残りだった。
八郎は二人から事情を聞くと、上総介が外出から帰るのを待って会った。
「ごくろうだったな」
上総介は、にこやかに二人をねぎらった。
「わしの方にも試衛館の道場主で近藤という者が来ての。門人ぐるみで参加したいという申込みがあったりして、募集はなかなか人気がある。そちらはうまく行ったか」
「予想以上にうまく行きました」
と池田が言った。
「それがしが回ったのは、武州、上州、甲州の三国ですが、いや、尽忠報国の士はいたるところにおるものだと感銘いたしました」
「で、双方の人数を集めると、どのくらいになるかの。なに、少少はふえても構わん」
「ざっと三百人」
と池田が言うと、石坂が、いや三百五十人にはなるぞ、と補足した。
「三百五十人?」
上総介の表情が、みるみる険しくなった。上総介は八郎にきっと顔をむけると、怒気を隠さない口調で言った。
「これはどういうことだ、清河」
「どういうこと、と申されますと?」
八郎はゆっくり腕組みを解いて聞き返した。
「おかしいと思わんか。募集の人数は、せいぜい五、六十人という見積りだったのを、忘れたわけではあるまい」
「それはあくまで見積りでございましょう。実際にとりかかってみると、意外に人数がふえたという事情ではござらんのですかな」
「貴公ら、何かたくらんでおるのか」
上総介の声が不意に沈んだ。一度怒気に赤らんだ顔が、むしろ青ざめて表情に鋭さが出てきていた。そういう顔になると、上総介の印象は一変して、剣客らしい凄みを帯びてくる。
「それは、松平さま。思い違いですぞ」
八郎は、一歩もしりぞかない面構えで上総介の詰問を受けた。
「尽忠報国の志があって、身体強健、気力ある者は来たれというのが、今度の呼びかけの骨子でござった。呼びかけに応じた者が、大勢いたということで、池田や石坂が策略を弄して無理に集めたなどと勘ぐられるのは、短時日に募集の実をあげた両君の働きを無にするものでござろう」
「しかし多過ぎる。幕府はそんな金は用意しておらん」
「考えようでござりますな。浪士募集の趣旨は、野放しの浪士を集めて取締り、かたがた国の御用にも立てようというものでござる。その意味から申せば、巷からこれだけの浪士を集め得たのは、まさに趣旨にかなうものではありませんか。それがしは幕府にとって、むしろ喜ぶべき事態だと考える」
「理屈を申せばそうかも知れん。だが上の者は、三百五十人などという人数はとうてい受け入れんぞ」
「そこを説得するのが、松平さまのお役目ではありませんか。募集の浪士は、来月の四日には定められた場所に集まります。多すぎるから帰れとは、まさか申せますまい。幕府の沽券《こけん》にかかわりますぞ」
「厄介なことになった」
上総介は太い吐息を洩らした。さっき一瞬見せた無気味な印象は消えて、もとの貴公子らしい風貌にもどっていた。八郎が言うことに理があることを認めた様子だった。
「やむを得ん。掛け合ってみるか。よし、すぐに上の者に会ってくる」
上総介が膝を起こしたとき、石坂が組頭と呼びかけた。組頭とは勝手な命名で、上総介は憮然《ぶぜん》とした顔で、何だと言った。
「じつはわれわれ、募集のためにかなりの金を使いまして、行った先先で金のある家から借金をしております。これをひとつ幕府から支払って頂きたいわけで」
「………」
上総介の顔は、もう一度赤く染まったが、八郎を見て気をまぎらすように苦笑しながら言った。
「この男は何だ、清河。ひどい男を遊説に出してくれたものだな」
二
その夜、松平上総介は浪士お掛りの老中板倉勝静を役宅に訪ねると、事情を話した。聞き終ると板倉は、うなずきながら苦笑した。
「自然《じねん》とそれだけ集まったか。理屈はそれで通るの」
「いかがはからいますか」
板倉はちょっと眼をつぶったが、すぐに上総介を見た。
「あの男を、そこもとはどう思われる。清河という、貴公にあずけたあの男だ」
「それがしは剣のつき合いしかござらんが、学問もあり、ひとかどの人物と考えますが」
「ひとかどの人物には違いないさ」
板倉はくだけた口調で言って、脇息によりかかるとお茶をすすった。
「政治総裁にあてた上書を、わしも見たが堂堂たるものだった。総裁はそれですっかり惚れこまれた様子だが、わしにはちと合点ゆかぬ気持がある」
板倉はうつむいて、おしまいを呟くように声を落としたが、またすぐに背をのばして上総介に言った。
「そこもとに、浪士取扱い職をやめたいという願いを出して頂こうか」
「は?」
「同時に清河を、浪士頭取役にという話は一切なかったことにする。理由は浪士募集で見込み違いを来たしたとでもつけるか。そこもとには気の毒だが、そのようにはからってもらうと有難い」
「………」
「清河は、先年お膝元で尊皇攘夷の党を結ぼうとして追及され、一年前には京で諸国から浪人を募って何ごとか謀ろうとした男だ。油断は出来ん。この際、あの男を浪士募集から切り離そう。それなら、多少人数がふえたところで仔細あるまい」
上総介はじっと聞いていたが、やがて板倉の言い分を理解した顔色になって、承知つかまつりましたと言った。
「浪士が集まるのは、いつだったかの?」
「月を越えて四日でござりますな」
「四日か」
板倉は腕を組んで、ゆるく上体を前後にゆすった。そのまましばらく考えに沈んだが、やがて顔をあげたときには、微笑していた。
「よい考えがある。来月の十三日には、いよいよお上が上洛の途につかれる。われわれも随行するわけだが、浪士組はその前に、上洛のお上を警衛するという役目を着せて、京に先発させよう。そうだ、これがいい」
板倉は自分の考えに満足したようだった。
「これなら、われわれの留守中に、清河らが浪士組をつついて何かしでかす心配もないし、将軍家の警衛ということで、彼らの気持もいい方向にまとまろう。松平、これはそこもと、清河には内緒にしておけ」
京都朝廷では、前年の六月勅使大原重徳を派遣して、幕政改革とともに「将軍が大小名を率いて上洛し、国内一和、夷狄《いてき》掃攘について議す」べきことを幕府に伝えたが、さらに十月にも三条実美、姉小路公知を勅使として、攘夷実行を督促して来たのであった。
朝廷の矢つぎ早の攘夷督促の背後には、京都の尊攘勢力を牛耳っている長州の久坂玄瑞、桂小五郎、土佐の武市瑞山の後押しがあった。
彼らは、それぞれの藩論を尊皇攘夷にまとめながら、同時に小壮の熱狂的な攘夷派公卿と結んで、しきりに朝廷に建白し、攘夷貫徹と幕府に対する督促をけしかけていたのである。こうした情勢の急迫ぶりは、そのころ京都守護職に任命された会津藩主松平容保が、攘夷の方針が決まらないかぎり、京畿《けいき》の治安を保つ自信を持てないと幕府に攘夷決定を促して来たほどのものだった。
攘夷の督促と、朝廷に親兵を設置せよという中味の勅書を奉じる、新しい勅使を迎えて幕府内部には激論がかわされた。対立したのは松平春嶽と徳川慶喜だった。親兵設置はともかく、攘夷の日限、方法を諸侯と協議して朝廷に報国することを求めた勅書は、幕府の政策の根本方針にかかわるものだった。
公論を新しい幕政の骨子と考えている春嶽は、いまや攘夷は天下の公論という立場をとり、開国は、この公論のもとに諸侯会同した席で、改めて論じらるべきだと主張した。
これに対し、慶喜はすでに既成事実である開国を一変して、鎖国攘夷に転じるのは、海外に対して信義を失い、戦争をまねく愚挙にすぎないと、真向から反論した。この論議の決着がつくまで、勅使の三条、姉小路は、ひと月も正式登城が出来ずに、待ちぼうけを喰ったのである。
幕府新政権のかなめにいる二人の対立は、しかし山内容堂のねばり強い斡旋で、ともかく攘夷論一本にまとまり、幕府はさきに公示した将軍上洛を、既定方針どおり明春に実現して、勅諚の攘夷の日程、方策については、上洛の節に委細奏聞申しあげる、と奉答書を出したのであった。
その将軍上洛が眼の前に迫っていた。板倉老中は、面倒を予感させる浪士組を、将軍警衛の先兵として京都に送りこんでしまえば、問題はなかろうと考えたのである。
それは松平上総介に言ったように、一石二鳥の名案だと思われた。上総介のあとは、もう一人浪士取扱いに任命している鵜殿鳩翁(長鋭)にまかせればよい。鵜殿は、一橋派として井伊に反抗し、一時幕政からしりぞけられていたが、かつては海防掛として活躍した老練な幕吏である。浪士の取締りなどは、役不足のようなものだと板倉はつねづね思っていた。
鵜殿を呼んで、後始末をさせればよい。上総介が帰ったあと、板倉はそう思い、浪士組のことはそれで忘れた。将軍上洛を控えて、板倉はひどくいそがしかったのである。
明日は、小石川伝通院の子院処静院に、募集の浪士が集まってくるという前日。夕方に帰宅した山岡が、あわただしい足どりで、八郎がいる部屋に入ってきた。八郎は上総介に言われて浪士組頭取の辞表を出すと、松平上総介の屋敷を引きはらい、山岡の家にころがりこんでごろごろしていたのである。
「大変なことになりましたぞ」
部屋に入るとすぐ、山岡はそう言った。
八郎は、手枕で寝ころんでいた姿勢から、むくりと起き上がると、無言で山岡を見た。
「浪士組は、集まるとすぐに京都に送られることになった。京都で、将軍家の上洛を待ちうけて警衛するという名目だ」
「………」
「さっき鵜殿から、突然にそういう申し渡しをうけた。おれと松岡はすぐに抗議したが、上からの命令の一言で斥《しりぞ》けられた」
山岡、松岡は、田安家奥詰窪田治部右衛門とともに、浪士組取締役を命ぜられている。
「どうしますか? これでは浪士組は将軍家の走狗《そうく》になりさがって、われわれの陣営に引きこむ余地がなくなりますぞ」
「まあ、落ちつけ。あわてなさんな」
と、八郎は言った。
山岡があわてているのには理由があった。八郎を中心にする虎尾の会旧同志は、八郎が松平上総介の屋敷に、軟禁状態でいる間にも上総介の眼をぬすんで、しばしば密会し、浪士組を尊攘派に引きこむ対策を相談している。
まず同志が浪士組の幹部どころを占める。そして人物を選別しながら、浪士の中のこれぞと思う人物を同志に引き入れる。そして最後には、浪士組を形骸だけの、中味は尊攘の集団にしてしまう、というのがまとまった相談だった。相談というよりも、八郎と山岡が仙台で練った策を、さらに具体的に同志の間に徹底したという形だった。
しかしその策は、幕府に怪しまれないよう、じっくりと時をかけてすすめるつもりだったのである。突然の京都派遣は、この計画をぶちこわしにする危険を孕んでいた。
「どうも今度の決定には、裏がある気がしますな」
山岡は腕組みして眉をひそめた。
「清河さんを頭取の地位からはずしたことも、疑えば疑える処置だ。まさかわれわれの計画に感づいたとも思えんが、まだ出来もしない浪士組をひどく警戒している空気がある」
「………」
「春嶽公は問題ない。清河さんを信用しておる。と、すると板倉かな」
「………」
「ともかく厄介なことになりました。京都に持って行かれてからでは、浪士も幕臣気どりになって、策をほどこすのも容易ではありますまい」
「策はあるさ」
八郎がぽつりと言った。山岡が八郎を見つめると、八郎は眼をそらして茶道具を引きよせ、うつむいてさめた茶を飲んだ。
「どんな策ですか」
「それは……」
八郎は言って、山岡をみると、不意にみるみる顔を紅潮させた。まるで、その策というのが八郎を酔わせたように見えた。だが八郎は口を開かなかった。
顔をそむけると背をまるめ、急須をしぼって茶碗に茶を滴らしながら、もうさめた顔色に戻って、またぽつりと言った。
「それは、貴公にもまだ言えんな」
三
二月四日、処静院北隣にある大信寮に、募集に応じた浪士がぞくぞくと集まってきた。人数はおよそ三百五十名におよんだが、この日、本部では審査して、このうち百名をふるい落とし、残りを十人一隊、三隊で一組とする編成を終った。
夕刻までに一応の編成が終ったので、浪士組は山岡、松岡の両取締役と出役速見又四郎、佐々木只三郎に連れられて、同じ小石川の小川町にある鵜殿鳩翁の屋敷に挨拶に行った。
翌日は、大信寮に鵜殿が出てきて、取締役と出役立合いの上で、改めて京都出向を告げ、旅行中の定めを申し渡した。六日には、隊の編成を多少いれかえ、最終的な組編成を終った。
石坂は三番隊、甲州の森土(土橋)鉞四郎は五番隊、村上は六番隊でそれぞれ伍長を勤め、池田と八郎の弟熊三郎は取締付の一隊に所属していた。近藤勇以下の試衛館からの参加者は六番隊に所属したが、平隊士の扱いだった。水戸天狗党くずれの芹沢鴨は、取締付の一隊の中にいた。
二月八日朝五ツ半(午前九時)。浪士組は処静院を出発して京都にむかった。途中鵜殿の屋敷に寄ると、鵜殿が出てきて用意の駕籠に乗った。
八郎は、そのはるか後から、高下駄を履き無反《むそ》りの長刀を腰に、ぶらぶらついて行った。──京都に着いたら、一挙にひっくり返してやる。
と、八郎は思っていた。京都に着いたら、尊皇攘夷を説いて浪士組を一挙に掌握し、その志を上書して天聴に達する。それが朝廷に受け入れられれば、浪士組は一変して尊皇攘夷の党に変るのだ。
山岡に指摘されるまでもなく、八郎は幕府内部に自分と浪士組募集との結びつきを警戒する眼があることを承知していた。監視しているのが、板倉老中だとすれば、板倉の意向は鵜殿にも伝えられているはずだった。いわば手も足も出ない状況である。
この状況を打ち破って、虎尾の会の初志をつらぬき、浪士組を尊皇攘夷の党として掌握するためには、この一手しかないと八郎は思っていた。
幕府の浪士組締めつけの裏をかく、起死回生の秘策である。山岡に言えば無謀だと止められそうで隠したが、八郎は、機会はその一度だけしかないと思っていた。持てる気力と弁舌のすべてを投入して、それをやろうと考えていた。成功すれば、将軍の膝もとに、はじめての尊攘勢力とも言うべき、かなりの人数がまとまることになる。そう思うと、この計画がはらんでいる危険と痛快さが、八郎を魂の底からふるいたたせるようだった。
──成就すれば、それがやがて倒幕挙兵の先兵になるだろう。
八郎の前を、荷駄をまじえた二百人を越える一隊が進んでいた。二月の道は乾いて、隊がすすむ街道に、うすい土埃を巻き上げる。八郎の眼にはそれが倒幕の旗を立ててすすむ義軍の一隊のように映った。
浪士組は、板橋から蕨《わらび》、本庄、倉賀野と中仙道を進んで行った。隊からつかず離れず、別行動ですすむ八郎を、隊列の中から時どき振りかえる者もいた。
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勅 諚 一 件
一
途中、組取扱いの鵜殿からの達しで、鵜殿鳩翁組と呼ぶことになった浪士組の一隊は、二月二十三日京都に入った。
一行は四条通り大宮西入ルにある壬生《みぶ》につき、一たん新徳寺に集まって鵜殿の訓示を聞いたのち、それぞれの宿割りに従って分宿した。八郎以下二十一名は寺宿田辺家に泊り、他は実祥寺、中村家、井手家、郷士八木源之丞家などに入り、鵜殿、山岡、松岡以下の幕府役人は郷士前川荘司宅に泊った。近藤と芹沢は、八木源之丞方で同宿となった。
八郎はその夜、石坂と熊三郎をそれぞれの宿に走らせて、浪士組一同を、本部と定めてある新徳寺に召集した。
本堂に集められた一同の正面に、大|蝋燭《ろうそく》の光に照らされて、円座がひとつぽつんと置かれている。みんなは、そこに誰が坐るのかと、好奇の眼で見つめたが、やがて八郎が入ってきて正面に回り、その上にぴたりと坐ると、浪士たちの間にざわめきがひろがった。
隊列に、つくでもなく離れるでもなく一緒に来る八郎を、隊士の中には不審がる者が多かったが、京都に着くまでには、八郎が浪士組の元頭取で、ほかならぬ浪士募集を幕府に献策した人間だということが知れわたっていた。
ざわめきは、八郎が何を言い出すのかという好奇心からきていたが、口をひき結び、無表情に一座を見渡している八郎を見ると、ざわめきはほどなくおさまり、その後に気を呑まれたような沈黙がきた。本堂の中は、水を打ったように静かになった。
そのときを待っていたように、八郎がはじめて口を開いた。
「お疲れのところを諸君にお集まり頂いたのはほかでもござらん。ぜひともお聞きいただいて、賛同を得たい一事があってのことでござる」
八郎は穏やかに話を切り出した。だが次にずばりと意外なことを言った。
「そも、われわれの上洛は何のためであるか。将軍を警衛するためであるか。否でござる。われわれは幕府の徴募に応じたが、いまだ幕府の禄を喰む者ではない」
八郎は、野太いが明晰で落ちついた声で、じゅんじゅんと時勢を論じた。将軍が上洛して来たのも、尊皇の誠意を示し、朝廷と攘夷を協議するためにほかならない。われわれの上洛も、将軍家に懸念なく尊皇攘夷の実効を上げさせるための行動に外ならないと言い、一転して、天朝が今日ほど草莽《そうもう》の人材を求めている時はないのだ、と言った。
「諸君は、尽忠報国の志ある者は来たれという、募集に呼応して集まった、草莽の英才である。今日において尽忠報国とは何か。言うまでもなく、尊皇攘夷である。すなわち尊攘の先兵たらんとすることこそ、われわれの責務だと思うが、いかがか諸君」
強引な理屈だったが、八郎の弁舌には一種鬼気迫るほどの迫力があった。声は本堂の隅隅まで透る。隊士たちは身動きを奪われたように粛然と聞いていたが、八郎が言葉を切ると「いかにも」「その通りだ」という声が飛んだ。だが、声はすぐにしずまって、八郎の次の言葉を聞く姿勢になった。
「惜しむらくは」
と八郎はやや言葉を柔らげて言った。
「足下にかくのごとく多数の尊攘の士が来たり集まっていることを、主上はご存じあられない。お耳に入れるなら、叡感《えいかん》ことさらなものがあるに違いないと考える。われわれはこの尽忠報国の志を、出来得べくば上聞に達し、いささかなりとも御悩み深い叡慮を安んじ奉るべきだと思う」
ここにこういうものがある、と言って八郎は懐から書状を取り出すと、じろりと一同を眺め渡した。
「いま申したわれわれの志をしたためた上書でござる。お読みいたそう」
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謹んで上言奉り候。今般私ども儀上京仕り候儀は、大樹公においてご上洛の上、皇命を尊戴し、夷賊を攘払するの大義、ご雄断遊ばされ候御事につき……そのお召に応じ罷り出で候。
……右につき、幕府の御世話にて上京仕り候えども、禄位等はさらに相受け申さず候。ただただ尊攘の大義のみ相期し奉り候間、万一皇命をさまたげ、私意を企て候輩、これ有るにおいては、たとい有司の人たりとも、いささか容赦なく譴責《けんせき》仕りたく、一統の決心に御座候間、この段威厳を顧みず言上仕り候。
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長文の上書を、八郎は朗朗と読み上げた。読み終っても、本堂の中は静まり返ったままだった。顔を紅潮させて感激している者もいたが、あれよあれよという間に、八郎に尊皇攘夷の志士にまつり上げられて茫然としている者もいた。
その上書の中に、八郎は尊皇攘夷を建前に押し立てながら、いつでも倒幕に転じられる字句を慎重にはさみこんでいるのだが、一度読み上げられただけの文章から、そこまで聞きとった者はいないようだった。
「いかがでござる。この上書をさし上げるについて、異存、ご不満があればうかがおう」
八郎が上書を巻いてそう言うと、はじめて本堂にざわめきがもどってきた。だが別に反論する者もいなかった。八郎の話に心をゆさぶられた者もおり、また何もわからないなりに、朝廷に上書するということを晴れがましく思う者もいるようだったが、大部分の者は、事の成行きの意外さに、まだ茫然としている様子が見えた。
ただひとり、無遠慮などら声を張り上げた者がいた。
「結構なことだが、しかし何だな。そうなるとわれわれの身分は、こら、どういうことになるのかな」
芹沢鴨だった。すると芹沢に同調するらしい声が、その周囲に上がった。
その声の方に、八郎はきっと身体をむけると、膝もとに刀を引きつけた。そしてひややかな声で言った。
「ただいまの意見は、上書に対して反対と申すのでもなさそうだ。ほかにご異存は?」
八郎がそういうと、石坂と村上が、するすると列を抜けて横に出、刀をさげたまま一同をにらみ回した。異様な空気がみなぎり、本堂の中は、また静まり返った。その沈黙の中に八郎の、異存がなければ上書に諸君の署名血判を頂きたい、という声がひびきわたった。
黙黙と隊士たちが署名血判を回しはじめたとき、一人の男が立ち上がって署名をこばんだ。池田徳太郎だった。
「どうした、池田君」
八郎は坐ったまま、鋭く池田を注視して言った。池田は集まった隊士たちの後方の列の中に突っ立っていた。
「おれは血判は捺《お》さん」
「それは聞いた。こっちに来てわけを話さんか」
「いや」
池田は首を振った。池田が立っているところは、灯から遠くて、表情はよくわからなかった。しかし池田が示した拒否の身振りは、はっきりと見えた。
「おれはこのままで失礼する」
「これっきりか」
「そうだ」
池田はそう言うと、列外に出た。そして本堂を出ながら、ふりむきざまに、大きな声で言った。
「清河、こういうことをやるようでは君の首筋も細くなったなあ」
池田のそのひと言で、本堂の中は無人のように静まりかえったが、八郎は眉ひとつ動かさなかった。石坂が後を追おうとするのを、八郎はとめた。
「追うな」
石坂を止めると、八郎は無表情に、一同署名をつづけられたいと言った。そしてこれから呼びあげる者は、前に出て頂くとつづけた。
「河野君、和田君、草野君……」
河野音次郎、和田理三郎、草野剛三、西恭助、森土鉞四郎、宇都宮左衛門の六名を呼び出すと、八郎は、君たちには明日早朝に、建春門前の学習院に行ってもらうと言った。
「幕府を経ない上書は、学習院でも簡単には受け取らんだろう。そのときには、門前で腹を切るぐらいの覚悟がいるぞ。やってくれるか」
草野が、必ず受け取らせる、と言った。六人をもとの場所に返し、署名血判がひととおり終ったところで、八郎はみんなを宿所に帰した。
本堂には、八郎を囲んで石坂、村上、それに熊三郎と森土鉞四郎が残った。
「森土君。君は明朝早いから、帰って寝てくれ」
と八郎が言うと、森土は大丈夫ですかな、と言った。八郎の身を気遣っているのだった。
「今夜は心配なかろう。明日になって、上書の一件が鵜殿に知れると、うるさくなるかも知れんが」
「池田は、急にどうしたんだね」
と石坂が言った。すると、村上が首をかしげてぼそっと言った。
「母親が病気だとか、どうとかとも言っておったな。京につく前の話だが」
「それで里心がついて抜けるとでも言うのか、ばかな」
と石坂は言った。
「そんなことじゃあるまい。奴は怒っていたぜ」
池田は多分、今度のことではおれの策略が過ぎると思ったのだ、と八郎は思っていた。そしてこれだけの重大事を相談もしなかったのを、不快にも思ったのだ。
だが打ち明けて、それで山岡や池田が賛成したかどうかわからないことだ、と八郎は思った。それは綱渡りのように危い策謀で、その綱は八郎一人の決断で渡るしかなかったのである。そして綱はまだ半分しか渡っていなかった。
二
八郎はその夜、石坂、村上、熊三郎と一緒に、上書を護って新徳寺に泊った。当分はそこから動かないつもりで、寺にはわたりをつけてあった。
翌日の早朝、八郎は宿所から集まってきた六人に上書を渡し、あらためて激励すると寺から送り出した。日の出前の、まだ街路に朝靄がただよう町に、六人の姿が消えて行くのを、八郎はしばらく門前に立ったまま見送った。
空気はやわらかく、京の町に春が訪れていることを示していたが、八郎には季節を顧みるゆとりはなかった。心は一本の剣のように張りつめていた。険しい顔をうつむけて寺にもどると、今度は熊三郎に、鵜殿たちがいる宿所に行って、こっそりと山岡を呼び出して来い、と命じた。それも昨日から考えていた段取りだった。
山岡は、熊三郎と同道してやってきた。八郎はすぐに別室に山岡を連れこむと、昨夜の顛末を話した。ただし、上書の中に、尊攘の皇命にしたがわない者は、幕府、将軍家といえども容赦しないという、暗に倒幕を意味する一句をひそませたことははぶいた。山岡はひとことも口をはさまずに聞いていたが、時どき、驚いた表情を見せた。
「いま、河野たちが上書を持って学習院に行っている。お取り上げになれば、浪士組は尊皇攘夷の党であると認められることになる」
「根こそぎですか」
「そうだ。根こそぎだ」
「これは痛快ですな」
と山岡は言った。沈着な山岡の顔にも、やがて押さえ切れない興奮の色が浮かんだ。
「しかしそれにしても強引ですな。反対はなかったのですか」
「おれは正論で押した。多少勝手が違うと思った奴もいたかも知れんが、正論だから表立って不服は言えん。もっとも反対があって、事がこわれるようだったら、不服を言う奴は斬るつもりで持ち出した話だ」
「………」
「ところが、池田が反対してな」
「ほう」
山岡は、鋭く八郎を注視した。
「なぜです?」
「おれが策を弄し過ぎると思って、厭気《いやけ》がさしたのだろう。昨夜のやり方にしても、おれの独走だと」
「そのきらいはありますな、確かに」
「待て、山岡」
八郎は手を挙げて、山岡の言葉を遮った。
「おれは今度のことは貴公をはじめ、誰にも打ち明けなかった。池田はそういうおれを、一人でいい恰好を見せたがったと思ったかも知れん。あるいは貴公もそう思うかも知れん」
「………」
「いや、思って当然だ。貴公も知っておるとおり、おれには意表に出て人をあっと言わせたいという悪い癖がひとつある。田舎からもらった、どうしようもない気質だ。今度もそれがおれの態度に出て、池田の心証を害したかも知れん。人間、自分の欠点というものはなかなかわからぬ。思わぬときにひょいとそれが出る」
八郎はそう言って苦笑した。
「だから、そう思われても仕方ない。しかし昨夜のことは違うぞ。十分考えた末にやったことだ。もし打ち明ければ貴公は幕臣だ。立場は複雑だ。また石坂はともかく、池田は虎尾の会でつかまって、危いことには懲りている。はたして賛同を得られるかどうかはわからんことだった。おれははじめから一人で二百人の鼻づらをとって引き回すつもりでいたのだ」
「………」
「それに、旅の途中で浪士組の様子を眺めているうちに、それが一番いい方法だと確信を持った。なまじ打ち明けて、貴公らと気脈を通じている様子を見せれば、この話を出したとき、必ず反発がくることが読めたのだ。試衛館の連中、それと芹沢と彼が連れてきた仲間を見たか。彼らは党中の党だ」
「それはおれにもわかっている」
と山岡は言った。旅の途中で芹沢は傍若無人に振舞って、統率する側の山岡らを手こずらせたし、一方で、近藤勇を中心にする試衛館の一団のまとまりのよさは、人目をひくほどのものがあったのである。
「あれやこれやがあって、結局おれは一人でやったが、これでよかったという考えはいまも変っておらん」
「………」
「尊皇攘夷の浪士組を指図する者は、誰か。それがはっきりしたわけだからな。後の仕事がやりやすくなった」
八郎の最後の言葉は、一途に尊皇攘夷をすすめようとする情熱の吐露とも受けとれたが、八郎の傲りを示すようにも聞こえた。しかし八郎の姿勢そのものは、虎尾の会からここまで、一貫して変っていない、と山岡は思った。
「で、池田はどうしました? まさか斬り合いというわけじゃないでしょうな」
「まさか」
八郎は山岡を見て、苦い笑いをうかべた。
「池田と斬り合いは出来ないさ。彼は一人で出て行った。やむを得なかった」
「わかりました」
山岡はうなずいたが、不意に幕臣の現実に立ち戻ったように顔を曇らせた。
「ところで、おれの立場も妙なことになりましたな。当面何をやったらいいか、わからんですなあ」
「黙って見ていてくれればいい。貴公に願うのは、そのことだ。それを言うために、呼び出したのだ」
「鵜殿が驚くでしょうな」
「おれは鵜殿には遠慮せずにやるつもりだ。上書がお取り上げになれば、それが出来る。いまごろ、河野たちは必死になっているはずだ」
「うまく行けばいいが」
「連中が首尾よく上書を献じて帰ったら、おれは浪士組を連れて御所を拝礼に行くつもりだ。鵜殿が怪しむかも知れんが、京見物にでも連れ出したらしい、となだめてくれんか」
山岡は苦笑して、そのようにごまかしておきましょうと言った。
三
八郎が山岡に言ったとおり、河野ら六人の使いは、そのころ学習院の受付にいて、上書を受け取らせるのに必死になっていた。
その日の国事参政取次役は、非蔵人の鴨脚《いちよう》、松尾の二人だったが、予想したとおり、壁は厚かった。二人は幕府の手を経ない上書という点に難色を示し、河野らがどう陳弁しても、がんとして上書を受け取ろうとしなかったのである。
「やむを得ません。お取り上げがなければ、われわれは、この場所を借りて腹を切らせて頂きます」
河野らは最後の手段に出た。
そう言ったとき、六人は真実形相が変り、声音まで変ったので、隣室にいた橋本中将|実麗《さねあきら》、豊岡大蔵卿|随資《あやすけ》の二卿が、見かねて六人を部屋に招き入れた。河野らは、そこで改めて、こもごも尊皇攘夷の決意をのべ、上書の受理を歎願した。
その熱意が二卿を動かした。橋本卿などはついに彼らの言葉に感激して泣き出し、上書を受け取ると上奏を約束したのであった。
このときの六人の進退と、八郎がしたためた上書の内容は、朝廷によほど好印象をあたえたらしく、追いかけて浪士組に、御所拝観を許すという沙汰があった。浪士組は、二十八日から三十日にかけての三日間、三組にわかれて御所拝観に出ることになった。朝廷の沙汰には鵜殿も口出しが出来ない。八郎が意図したように、浪士組は尊皇攘夷の党であるという既成事実が、少しずつ出来上がって行くようだった。幕府の泣きどころを衝いた八郎の駆け引きはあざやかで、鵜殿や彼の腹心は、その有様を黙ってみているしかなかったのである。
その最初の拝観が済んだ二十八日の夜。八郎は、新徳寺の本堂に机を持ち出して、灯の下で安積五郎に手紙を書いた。安積は八郎と別れたあと、ずっと河内錦部郡甲田村の勤皇家、水郡善之祐の世話になっていた。
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いよいよご壮安珍重に存じ奉り候(略)。このたび山岡および池田そのほか旧同志とも上京、壬生寺にまかりあり候。右につき急速お談じ申したきこと御座候間、この人同道ご光来待ち奉り候(略)。昨夜柴秀二に出合い、貴兄のうわさにおよび申候。いずれ早々お越し賜わるべき、水郡氏にこれまたよろしくご移声くださるべく……
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八郎は顔をあげて、灯火を見つめた。本堂はところどころ戸が開いていたが、流れこむ夜気はあたたかく、灯は艶に見えた。
──安積と別れて、一年近くなるか。
八郎がそう思ったとき、不意に灯火が揺れた。同時に、八郎の眼に、正面の入口から覆面に顔を包んだ数人の男たちが走りこんできたのが映った。八郎は筆を捨てると、すばやく刀を掴んだ。
「清河か。貴公が清河だな」
八郎の正面に立ちはだかった男が、切迫した声音でそう言った。
「いかにも」
八郎が答えると、男はいきなり八郎の顔に指を突きつけて、幕府の犬め、と罵《ののし》った。
「去年京都に義軍を募ったと思ったら、今度は関東の浮浪を集めて将軍の護衛か。禄はなんぼだ?」
「それはなにか、考え違いだろう」
八郎は油断なく眼をくばりながら言った。
「幕府の禄など頂いておらん。まあ、坐れ。坐って話さんか」
「話す必要はない」
後にいる一人が殺気立った声をあげた。
「気をつけろ。奴は弁口で人を惑わすのが得手だ。話を聞く必要はない。斬れ」
その声にあおられたように、右に回りこんでいた男が、いきなり刀を抜いて斬りこんできた。八郎はすばやく立ち上がると、鞘のままその刀をはねあげた。同時に軽く足を運んで、柱を背負うと、やはり鞘のままの刀を青眼に構えた。
「こんなことじゃ、おれを斬れんぞ」
「だまれ」
「貴公ら、尊皇の士だろう」
八郎はまだ落ちついていたが、表情はやや険しくなった。
「尊皇の士なら、おれの言うことを聞け。はやまったことをすると、後で悔むぞ」
「幕府の犬の言うことは聞けん」
怒声が答えた。
「構わん、やれ」
男たちは、八郎をひたひたと取り囲むと、やがて猛然と斬りこんできた。八郎は冷静に受け流し、払いあげて防いだが、いつの間にか本堂の真中に引っぱり出されていた。中に一人、俊敏な刀を使う男がいて、八郎は腕に軽く傷を負った。まだ刀を抜いていなかったが、受けているうちに鞘は割れて、ささらのようになった。
餓狼のように、男たちは歯を鳴らし、唸り声をあげながら斬りこんでくる。一瞬の油断も出来なかった。正面から撃ちこみをかけてきた鋭い剣を、刀を合わせて鍔元で受けとめると、八郎は息もつかず男をぐいぐい押した。そして相手がよろめくところを蹴倒した。すばやく振りむいて構えを直しながら、八郎はついに怒声を張りあげた。
「やめんか、貴様ら」
その時奥の方から足音がひびいて、石坂、村上が姿を現わした。
「どうした、清河」
石坂は叫ぶと、刀を引き抜きながら奔馬のように走り寄ってきた。
「斬ってはいかん」
と、八郎は言った。男たちは、そのときには本堂の入口までしりぞいていた。そしてしばらくこちらを窺っていたが、不意に下に駆けおりると闇に溶けるように外に姿を消した。
「何者だ、きゃつら」
石坂が刀を鞘におさめながら聞いた。
「鵜殿が刺客でも向けてきたかと思ったが、天誅好きの浪人者らしい。幕府の犬だと悪態をついて行った」
はずむ息をととのえながら、八郎は言った。そういう誤解は、江戸で浪士募集をはじめた頃からあって、八郎は一度土佐藩の千屋菊次郎、田所壮輔、上田楠次の三人に、料亭に呼び出されて罵倒を浴びせられている。
「鵜殿にそんな度胸はないさ。しかしひどい話だ」
石坂は笑ったが、八郎の腕に眼をとめて、や、傷を負ったか、と言った。
四
翌日、八郎は新徳寺の一室で、河野らが御所からもどるのを待っていた。
昨日にひきつづいて、今日も浪士組の一隊が、御所拝観に出かけて行った。それは半刻ほど前である。彼らはそれぞれの宿所から新徳寺に集まり、そこで隊伍をととのえて、出役に率いられて出て行ったが、河野らは、その一隊とは別に、今朝ふたたび、八郎の朝廷に対する建白書を持って学習院に行ったのである。
御所拝観などが許されているいまこそ、朝廷と浪士組を結びつける絶好の機会だと八郎は思っていた。
建白書は、そうした考えから、今度は攘夷に対する意見を述べたものを持たせたのである。
──何か、沙汰でも出るのか。
八郎は腕を組んで坐りながら、そう思った。この前の首尾から考えて、建白書の受理をこばまれることはあり得ない、と思っていたが、それにしては、六人の帰りが遅かった。
開いた戸の外に、池がある。池の回りの草は、まだ乱雑なまま枯れていたが、その上まで伸びて来ている桜の枝に、蕾《つぼみ》がふくらんでいるのが見えた。空は曇っていたが、蕾の紅味がはっきり眼についた。それを眺めていると、河野らの帰りが遅いのは、悪いことのためではないという気がした。
あわただしい足音が本堂の方から近づき、やがて、河野以下使いの六人が部屋に入ってきた。河野は坐ると、脇に抱えていた紫の袱紗《ふくさ》包みを、そっと八郎の前に押してよこした。細長い箱の形をした包みだった。
「建白書を持って行ったところ、鷹司関白のご前に呼ばれて、勅諚を賜わりました」
河野が緊張した顔で言った。河野は額にうっすらと汗をかき、ほかの五人もこわばった表情をしていた。
「浪士組に賜わると、お言葉がありました。またさきの上書は叡聞に達し、主上は大そうお喜びである。なお言上したいことがあれば、学習院まで申せ、ということでありました」
「………」
八郎は黙って袱紗をといたが、急に手をひいて膝を立てた。
「恐れ多いことだ。貴公らも来て、口をすすげ」
八郎たちは口をすすぎ、手を洗って部屋にもどると、改めて勅諚を拝見した。上書を嘉納する旨と、攘夷にはげむべきことという言葉を記した、簡単な文言のものだったが、八郎にはそれで十分だった。望外の首尾だと思った。
──これで浪士組は、幕府も手出し出来ない、真の尊皇攘夷の党となった。
と、八郎は思った。勅命によって攘夷を実行出来る二百名余の浪士組を、手中に握ったことになる。あとは関東に帰って、蜂起の時期を待つだけだ。それは攘夷にからめて、倒幕の旗をあげる最初の義軍になるだろう。
「今夜、ここの本堂に、浪士組全員を召集する。回状を書くから、宿舎を回ってくれ」
と八郎は静かに言った。八郎の顔は、むしろ青ざめて見えた。遠くで雷が鳴った。天気が変るらしかった。
五
「勅諚下賜ほどの動きを察知出来なかったというのは、あまりに迂闊《うかつ》な話だ」
と板倉老中は言った。板倉は機嫌が悪かった。
三月四日の夜だった。板倉はその日、将軍家茂の上洛の行列に随って京入りしたばかりで、疲れていた。機嫌が悪いのは、幾分かはそのせいもあったが、鵜殿が持ってきた報告は、板倉の機嫌を浮きたたせるようなものではなかった。
板倉は、無言で眼を伏せている鵜殿をちらと眺めて言った。
「それで、どのような処分を取ったかを聞こう」
「とりあえず、守護職と相談し、学習院に対して、以後浪士組にご沙汰がある場合は、幕府任命の取扱いであるそれがしに下されたい、と申し入れましてござります。それゆえ……」
鵜殿は懐をさぐって、奉書包みを取り出した。
「これは昨日、鷹司関白より浪士組に下された達文《たつしぶみ》でござりますが、これは手もとにとどめてござります」
どれどれと言って、板倉は鵜殿からそれを受け取ると、すばやくひろげて眼を通した。それは横浜に英艦が渡来して、生麦事件の賠償をもとめていることを記し、つぎのように続いていた。
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──三カ条の儀申し立て、いずれも聞き届け難き筋につき、そのむね応接におよび候間、すみやかに戦争に相成るべきことに候。よって、その方引き連れ候浪士ども、早々帰府いたし、江戸表において差図を受け、尽忠粉骨相勤め候よう致さるべく候。
[#ここで字下げ終わり]
風雨が荒れ狂った二月二十九日の夜、八郎は新徳寺に浪士組を集めると、浪士組に攘夷の勅諚を賜わったことを告げた。そして興奮する浪士組の隊員にむかって、ひきつづき関東の情勢を話した。
将軍が上洛した直後、横浜にはイギリスの軍艦十二隻が、ぞくぞくと入港し、生麦事件、東禅寺事件の賠償金、計十一万ポンドを要求して居すわっていた。八郎は入手したこの情報を持ち出し、賠償を拒めば即座に戦争になるだろうと煽ってから、これについて浪士組はどう進退すべきか、意見を聞きたいと結んだ。
意見を述べろと言ったが、これは浪士組を攘夷勢力に変える一連の工作をすすめてきた上での、八郎の煽動だった。こういう演説になると、八郎の舌はことさら冴える。ことに勅諚下賜の直後のきき目は大きく、隊士たちは江戸に帰って、イギリス艦隊にそなえるべきだと口口に述べたてた。
しかし、その意見には根強い反対の声もあった。尊皇攘夷は結構だが、将軍警衛という当初の使命はどうなったのかという意見だった。その声が近藤ら試衛館道場の一党から出ていることを、八郎は予想どおりだと受け取った。そういう意見が出され、それが大勢に抗し切れないでつぶれることを八郎は望んだのである。そのために評定を行なわせたと言ってもよかった。
その夜の大評定は、外の嵐に似て大荒れに荒れたが、大勢はやがて八郎が望んだように江戸へ帰ると決まった。
八郎は翌日の三十日。昨夜の浪士組の決議にもとづいて、学習院に対して第三回目の上書を提出した。
[#ここから1字下げ]
──私ども儀、微賤ながら尽忠報国のため罷り出で候えば、かく外国御拒絶の期なり候上は、関東において何時戦争相はじまり候もはかりがたく候間、すみやかに東下、攘夷の御固めにお差しむけ下さるべく──
[#ここで字下げ終わり]
浪士組を、攘夷の固めとして江戸に帰すよう、命令を頂きたいと願ったのである。鷹司関白の達文は、これに答える形で出されたものだった。
「清河は、これを見ていまいな」
「いや、それが……」
鵜殿は苦汁に満ちた顔になった。
「まことに強引な男で、単身でそれがしのもとに参ると、達文は本来われわれに賜わったものである、見せてもらうと強談判でござって」
「見せたか」
「は」
「それで勅諚の方は、まだ清河が握っておると」
「さようでござります」
板倉は胸の内で強く舌打ちした。まるでなめられておるではないかと思ったが、鵜殿を責めても仕方ないようでもあった。覇気と言い、策略と言いむこうの方がはるかにうわてで、役人畑の鵜殿が歯が立つ相手ではないらしい。
「勅諚をこちらに取りあげる手だてはないかの。清河に持たせたままではまずいぞ」
「さて」
「山岡を使ってみたらどうだ。かれは清河と親しい男だ。何とかならんか」
「しかし、あれがうんと言いますかどうか」
「鵜殿。非常の場合だ。山岡をたばかっても構わんから、かれを使って勅諚をこっちに取りあげることだ。わしが拝見したいと言ってもいいではないか。あとの始末は引きうけるから、やれ」
鵜殿はしばらく考えこんだが、では何とか手だてを尽くしてみましょう、と言った。それから顔をあげると改まった口調になった。
「数かずの失態、まことに面目もない次第でござります。さて、それがしの進退は、いかがいたしましょうか」
「まあ、それはいいではないか」
と板倉は言った。清河に、根こそぎ浪士組を乗取られるまで気づかなかったこの老人が、あわれにも見え、また少し滑稽にも思えた。かつて目付を勤めた時期に、幕府の全権の一人として、来航したペリー提督とわたり合った気魄は、いまの鵜殿には見出せない。
「それはいいとして、清河をこのままには捨ておけんな」
鵜殿は顔をあげて板倉を見たが、板倉はその視線を無視して呟いた。
「いずれは始末せねばならん男だろうな」
「しかし、かの男は勅諚を頂いた人間ですぞ。むざと処分しては、朝廷に対してもはばかりあることと存じますが」
板倉は眼を鵜殿にもどしてしばらく黙ったが、やがてぽつりと言った。
「それはそれ。手段は別にあろう」
鵜殿が黙っていると、板倉は手を叩いて家臣を呼び、茶を換えよと命じた。
「清河がうまくやったことは認めるが、二百人の浪士組が、すべて同意したわけではあるまい」
と、板倉は言った。
「さっきのお話のつづきでござりますか」
「うむ、それもある。が、二百人そっくり清河にくれてやることもあるまいと思ってな。党というものは、必ずその中に不平の者を含むものだ」
「………」
「江戸へ帰すことは止むを得まい。ある意味では尊皇攘夷の党などというものを、京都に置くことは、むしろ危険きわまりないとも言えるのでな。江戸へ追いやった方がよい。それとは別にだ。京に残ってあくまで将軍警固に励みたいとのぞむ者はいないか。一度募ってみたらどうだ」
「は」
「もしおれば、その者たちこそは、幕府に対して誠忠無二の連中とみてよかろう。やってみよ。うまくいけば、清河の日の出の勢いを多少|殺《そ》ぐことにもなる」
「承知いたしました」
鵜殿は頭をさげたが、ふと思いついたように額に皺を寄せて言った。
「弱音を吐くようではござりますが、組がこうむつかしく相成っては、それがし一人では荷が重すぎます。頭株にいま一人、しかるべき人物をお加え頂くと助かりますが」
板倉は失笑して、もっともだ、早速手配しようと約束した。そこに家臣が新しく茶菓を運んできたので、板倉は鵜殿に茶をのむようにすすめた。
板倉の機嫌は直っていた。鵜殿と話している間に浪士組を江戸に帰し、機を見て清河を殺す肚が決まったせいでもあった。清河さえのぞけば、勅諚などと言ってもそれを使いこなせる人物は浪士組にはいない。あとは烏合《うごう》の衆だと思った。
板倉は、松平上総介と同道して公邸をたずねてきた清河に、一度だけ会っている。雪国の人間らしく白い膚をし、秀麗ともいえる面貌に、一種の威圧感を漂わせていた清河の顔を思い出しながら、板倉は鵜殿を相手に、将軍供奉の旅の苦労話などをし、時どき機嫌のいい笑い声を立てた。
板倉は、七日になって鵜殿のほかに、槍隊五十人をひきいて上京していた奥詰槍術師範役高橋謙三郎(泥舟)を、新たに浪士組取扱いに任命した。鵜殿との約束を果したのである。高橋は、一度はその役目を固辞したが、将軍の前にまで引っぱり出されて、板倉に無理やり押しつけられたのである。その埋め合わせのように高橋は十一日になって、諸大夫に任ぜられ、伊勢守と名乗ることになった。高橋は山岡の義兄である。
鵜殿も板倉の命令に従って工作を施した。京都残留者を募る一方で、山岡を使って、清河から勅諚を借り出させたのである。そして一たん自分の懐にしまうと、山岡がそれとなく返還を要求しても、言を左右にして応じなかった。
十日になって近藤、芹沢ら十三名が、鵜殿に京都残留を申し出てきた。
「今朝、松岡が妙なことを言っておりましたぞ」
山岡が八郎にそう言った。二人は前川家の一室で、鵜殿を待っていた。鵜殿が勅諚を取り上げたまま返そうとしないので、二人は返還を掛け合いに来たのである。
明日は江戸に出発するという十二日の、昼近い時刻だった。八郎は無言で山岡を見た。
「昨夜、近藤らが泊っている八木家が、空っぽだったと言うのです。近藤たちは夜遅く帰って来たが、非常に殺気立っていたそうです」
「………」
「松岡にその話をしたのは四番隊の者だが、なんでも、近藤たちが羽織を脱いだら、下に襷《たすき》をしていたと言うのですな。松岡は清河さんとおれが狙われたのではないかと言っておった」
昨夜八郎と山岡は、前日上京してきた間崎哲馬を、河原町四条上ルの土佐藩邸にたずねて町に出ている。八郎が口を開きかけたとき、襖が開いて鵜殿が部屋に入ってきた。
「やあやあ、待たせた」
「じつは」
八郎が言いかけると、鵜殿は手をあげて遮り、満面に笑いを浮かべた。
「用件はわかっておる。あれを返せと申すのだろう。むろん返す。だがいまはちと具合が悪いな」
「しかし、明日はいよいよ出発。ここで頂いておかないと当方も困る」
「それがな」
鵜殿は二人を見て、渋面を作った。
「いまは手もとにない」
「なんと!」
「浪士組といえば、ま、いわば処士の集まりだ。これに勅諚を賜わったというのは前代未聞の名誉でな。あちこちから拝見したいと言って来おって、ことわれなんだ」
「おことわりしておきますが、勅諚はわれらの上書に対して下げ渡されたものですぞ」
「わかっておる。だから返さんとは言っておらん」
鵜殿は役人の老獪《ろうかい》さを、むき出しに顔に出していた。
「ただしそういう事情だからして、返すのは江戸に戻ってからでよかろう。な?」
不得要領のまま、二人は鵜殿の前を下がった。外に出ると、八郎が「あれも相当の狸だな」と吐き捨てるように言った。
その夜新徳寺で、明朝は江戸にむかう浪士一同をねぎらって軽く酒が出た。宴半ばで八郎が立って、「われわれは関東に帰り、攘夷の先兵となる」という趣旨の演説をした。
すると八郎が坐るのを待っていたように、突如として芹沢が立ち「関白の命令といえども、将軍の言いつけがない以上京を離れることは出来ん。われわれは組を抜ける」と言った。つづいて近藤、土方も同じ意味の発言をした。すると八郎が、刀を掴みあげて猛然と立ち上がった。
「好んで将軍家の犬となるか、馬鹿めらが」
珍しく感情的な言い方をした。八郎は、近藤らがすでに、ひそかに守護職の支配下に入りたいと鵜殿に申し出ていることを知っていたのである。近藤らも刀を掴み、本堂は一時騒然となったが、河野らの必死の仲裁で漸《ようや》くおさまった。
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麻布一ノ橋
一
三月十三日、浪士組は鵜殿、高橋の両取扱いにひきいられて京を発ち、江戸にむかった。
──安積は、とうとう来なかったな。
今度の旅は、ぴったり浪士組につき添って歩きながら、八郎はそう思った。
上京した将軍家茂と幕府要職者は、京につくと早速、さきに朝廷が勅使を派遣して沙汰してきた親兵設置、攘夷の期限明示という問題で、朝廷にぎゅうぎゅうの目にあわされた。幕府側はしきりに言いのがれようとし、島津、山内、宇和島藩の伊達など、公武合体を標榜する雄藩大名も両者の間を斡旋したが、結局幕府は、親兵については、十万石以上の大名から一万石につき一名の親兵を出す、また攘夷鎖港は四月中旬と答えざるを得なかった。
しかもその直前に将軍に下された勅書は、征夷大将軍職はこれまでどおり委任する、攘夷にはげめと記しながら、一方で「国事の儀については、事柄によりただちに諸藩へ御沙汰あらせられ候間、かねて御沙汰なしおかれ候こと」、つまり事によっては朝廷が直接に諸藩に命令を出すから、その旨を諸藩大名に徹底しておけという文言を併記したものだったのである。
過激攘夷派の公卿が牛耳る朝廷の、強硬な態度の前に、勅意を推戴しながら実際政治は幕府が行なうという、雄藩がとなえる公武合体構想は、一挙に崩れ去ってしまったようだった。
この状況に憤慨した松平慶永は、政治総裁の職を投げ出すと、将軍を京に置き去りにして帰国してしまった。後を追うように、山内、伊達、島津らも暇を届け出ると帰国して行った。朝廷と、背後から過激派公卿をあやつっていた長州藩の勝利だった。
孤立した将軍と、一橋慶喜以下の幕府要職は、三月十一日には、天皇が賀茂神社に攘夷を祈願する、供奉の行列に加わるという立場にまで追いこまれてしまったのであった。浪士組の京都出発は、この攘夷祈願のために、十三日まで延期されたのである。
こういう動きの全部を、八郎は知悉《ちしつ》しているわけではない。だがあらましは耳に入っていた。京にいる間に、長州の伊藤俊輔、土佐の吉村寅太郎が親兵設置について、八郎の周旋を依頼に来たりして、八郎は情報に不自由しなかった。将軍が帰府を要請したが、朝廷がそれを許さなかったらしいという噂も聞いていた。
幕府の威信が、地を払いつつあるのが感じられた。攘夷実行にも、倒幕挙兵にも、絶好の時期がおとずれつつあるようだった。二百名の兵力は手中にある。虎尾の会の素志を実現すべき機会が訪れたのを、八郎は確信していた。
──安積を参加させたかったな。
八郎はまたそう思った。手紙をやったが、安積はついに姿を見せなかったのである。八郎のやり方に、まだこだわりを持っているに違いなかった。安積の不参加と池田の離脱が、江戸へむかう八郎の胸をわずかに曇らせていた。
浪士組は三月二十八日に江戸に着くと、本所三笠町にある旗本小笠原加賀守の空屋敷に収容されたが、そこには先客がいた。浪士組が上京した後に、遅れて集まって来た浪士が百五十人もいて、彼らは中条金之助、窪田治部右衛門の両取扱いに統率されて、やはり小笠原屋敷に入っていたのである。
三百五十人は入り切らない。それで浪士組は隣家の西尾主水の屋敷も使うことになったが、八郎はその中から石坂ら二十五人ほどを分離して、神田馬喰町の旅籠羽生屋、井筒屋、山形屋においた。そして自分は小笠原屋敷に一室を持ちながら、大方は鷹匠町の山岡の家に寝起きした。
八郎がそこに寝起きしているのは、暗殺を警戒したのだが、幕府方の人間に隠れて、神田に分宿している連中と密会するのに都合がよかったからでもある。彼らは上京の間に、八郎たちが養った幹部であった。
浪士組が落ちつくとすぐに、八郎は馬喰町の旅籠大松屋に幹部を集めて、攘夷実行、横浜襲撃を相談した。大松屋は、若い時から親戚のようにして来た旅籠屋で、隠れた相談事をやるにはもってこいの場所だった。
一隊は横浜の居留地を襲って火をかけ、混乱に乗じて異人を斬り捨てる。一隊は海に臭水油《くそうず》を流して異国船を焼き、幕府の先手をとって神奈川本営を襲い、金穀、軍資を奪う。その後二隊は合流して厚木街道から甲州街道をすすみ、甲府城を落としてここを本拠とし、天下に攘夷挙兵を呼びかける。
そういう相談がまとまると、八郎は前に置いた布をひろげた。回天と大書した軍旗だった。
「もう一度確認しよう。まずこの旗を先頭に横浜の町に入る。つぎに……」
八郎がそう言ったとき、幹部の藤本昇が入ってきて、おそくなりましたと挨拶した。
「どうだった?」
八郎は藤本を見た。藤本は神田今川小路の鵜殿の屋敷に、勅諚の返還を掛け合いに行ったのである。
「ごまかしの言辞ばかりで、話になりません」
八郎は、石坂、山岡らの顔を見た。みんなの顔にはあきらめの表情が出ている。八郎は小さくうなずいて、藤本にごくろうだったと言い、話をまた横浜襲撃にもどした。綿密な打ち合わせが行なわれた。
最後に決起のための軍用金の調達と、武器弾薬の入手方を相談して、会を閉じたのは四ツ(午後十時)近い時刻だった。
「神奈川本営の襲撃は、やりすぎではありませんか」
外に出てしばらく行くと、山岡が八郎を振りむいて言った。山岡の声音には、重苦しいものが含まれている。
──気づいたな。
と、八郎は思った。八郎は、横浜襲撃にからめて、三百五十の兵力を一挙に倒幕の蜂起軍に仕立てるつもりだった。神奈川本営を襲い、甲府城を陥せば幕府は必ず討手を向けてくるだろう。そのときは天皇の義軍の名分をかざして、幕府と戦うことが出来る。
だが幕臣である山岡には、その考えは承認しがたいものであるに違いなかった。どう説得すべきかと、八郎は答えを探した。
「聞いてくれ、山岡」
と八郎は言った。
「君がいま、何を考えているかはわかるが、それについて言いわけはせぬ」
「………」
「ただ君にお願いがある。京都で最初の上書を奉ったとき、おれは黙って眺めていてくれと頼んだ。君とつきあって、もう何年になるかな? これまで、他人とは思えぬ交際をして来たと思う。何も言わずとも、おれが考えていることはわかっているはずだ」
「………」
「長いつき合いに免じて、もう一度おれがやることに眼をつぶっていてくれんか」
「やはり、横浜焼打ちは攘夷ではなく倒幕挙兵なのですな?」
「そう、倒幕だ」
八郎は言い切った。並んで歩いている山岡の顔を見たが、暗くて山岡の表情は見えなかった。ただ重重しい溜息を洩らすのが聞こえた。
しばらく無言で歩いてから、山岡が言った。
「だとすると、おれは今度のくわだてには加われません」
「むろんだ」
八郎はいつかのように、幕府と手を切れとは言わなかった。いたわるような口調で、しかし明快に言った。
「君と松岡は脱けてくれ。いずれ、そう言うつもりだったのだ。このあと君は、われわれのやることを見とどけてくれるだけでよい」
もう一度太い溜息をついてから、山岡が言った。
「しかし、甲府城を奪っても、幕府はすぐに大軍をむけますぞ」
「………」
八郎は答えなかった。だが、幕府が大軍をむけてくることこそ、のぞむところなのだと思っていた。
横浜を焼打ちし、ついで甲府城を襲撃すれば、幕府はかならず軍勢を動かして攻撃して来るだろう。かりに、首尾よく甲府城を乗っ取ったとしても、押し寄せる幕軍の前に、わずか三百五十名の蜂起軍はひとたまりもなく潰滅してしまうかも知れない。
──それでよい。
まず誰かがやらなければならないのだ。徳川が幕府を開いてから二百六十年。その間幕府に反抗して兵を挙げた者はいない。だがいまは、誰かが倒幕の旗を掲げ、その旗のもとに、幕軍と一戦することが必要とされる時期にさしかかっている。
蜂起軍の潰滅は意に介するところではない。一度道をひらけば、必ず後につづくものがあらわれ、やがてそれは巨大な波となって、幕府を打倒し、新しい世を開くに至るだろう。倒幕のさきがけの栄光をになって、われわれは死ぬ。それでわれわれの役目はおわるのだ。
山岡は沈痛な声で、まだ言っていた。
「長くは持ちこたえられますまい。浪士組は全滅しますぞ」
「………」
八郎は低い声で笑った。
「そうですか。それも覚悟の上ですか」
と山岡が呟いたが、八郎はその呟きには答えなかった。
闇の中に、新芽の香が漂い、どこからともなく強い花の香が匂って来たりする道だった。夜気はかすかに湿っていたが、寒くはなく、快く肌をしめつけて来る。花の香が、近づいたり遠ざかったりする道を歩きながら、八郎は山岡と別れる時が近づいているのを感じていた。
二
上州伊勢崎の火術家竹田元記に、爆裂弾の製造を委嘱するなど、武器弾薬の入手をすすめる一方、八郎は石坂、村上らに命じて、市中の富商たちから軍資金を集めさせた。
石坂らは、札差などの豪商の家を訪れると、あっけにとられている店の者を前に尊皇攘夷、尽忠報国を説き、次に、寄付する者がすすんで金品を献納する旨を記した書きつけを出して判を捺させ、金を受け取った。この方法で、一晩で一万両も集めたことがあった。
形は献納だが、中味は押し借りである。店では腹にすえかねて奉行所にとどけたが、奉行所では何の手出しも出来なかった。
浪士組には、天朝お抱えの徴士という自負がある。この自負は、組の規律を保つのには役立ったが、時には彼らの傲りとなってあらわれた。ある日下谷池ノ端を、隊伍を組んで行進していた浪士組が、武州岩槻藩主大岡兵庫頭の行列に会った。しかし浪士組は隊列を変えずに進んだので、兵庫頭の行列はそばの狭い波よけ石の上に爪先立って、彼らの通行を避けたのである。大名も幕府も、彼らを腫れ物扱いにしていた。
しかし幕府内部にも硬骨の人間はいる。彼らは浪士組の傲りに歯ぎしりし、首領格である八郎に対する憎しみを深めていた。
そういう時に偽浪士問題が起きた。石坂らを真似て浪士組を名乗り、富商から金品をまきあげて遊興したり、無銭で飲食したりする者があらわれたのである。
組では五日間外出禁止の措置をとって様子を見、やがてあぶり出されたように正体をあらわした常州浪人神戸六郎、上州浪人岡田周蔵以下二十数名を捕えた。ところが、取調べてみると、彼らが老中格小笠原長行、勘定奉行小栗忠順につながっていることがわかったのである。彼らの行動は、小栗が浪士組の評価を落とすために仕組んだものだった。
浪士組では、神戸、岡田の二人から口書血判を取ると、浪士取扱いの高橋泥舟を前面に立てて真向から幕府を詰問した。そして幕府が二人の身柄を引き取りたい意向を示すと、八郎は石坂、村上に命じてさっさと二人を処分し、首を両国橋西詰にさらして捨て札を立て、二人の罪を明らかにしてしまった。その上で八郎は、さらにきびしく、神戸らから取った口書を証拠に、高橋を通じて幕府に答弁を要求したのである。幕府は窮地に追いこまれ、面目を失う形になった。
八郎は、自分より立場の弱い人間や、慕ってあつまって来る者に対しては、とことんまで尽くすたちである。婦女子のごとく気を使って面倒をみる。しかしおのれを押しつぶしにかかって来る者に対しては、それが何者であれ、才と胆力にものを言わせて完膚なきまでやりこめてしまう性向があった。
かつて八郎は、そのために一部の荘内藩士に憎まれたが、今度は幕府に対してその性向が爆発したのである。だがこの事件で、幕府は八郎に対する憎しみを一挙に深め、八郎暗殺に対する最後の躊躇《ちゆうちよ》を捨てたと言ってもよい。
八郎たちが偽浪士を捕えた七日には、すでに京都の板倉老中から、浪士組の出役、速見又四郎らに八郎暗殺の命令が届いていたし、また京都から帰府した老中格小笠原長行は、八郎の親友上ノ山藩の重臣金子与三郎と会い、八郎謀殺の相談を持ちかけていた。小笠原は、すでに浪士組の横浜襲撃まで探り知っていたのである。
八郎はそのことを知らなかった。十日には浪士取扱いの窪田の息子が横浜奉行所の組頭をしているのをつてに、山岡、西恭助、弟の熊三郎の四人で横浜に行き、詳細に地形を見て、翌日帰った。そして風邪をひいた。
三
火炎が燃えさかる中を女が走っている。そこは四方、暗い野で見渡すかぎり火の海だった。燃えひろがる火の速さにくらべて、女の足が遅い。遠ざかるその後姿がお蓮だった。
──もっと走れ。でないと、死ぬぞ。
八郎は叫んだが、声は異様に嗄《しわが》れて、笛のような奇妙な音が喉を洩れるだけだった。八郎は、手にじっとりと汗を握った。
そこで眼ざめた。実際に手は汗を握りしめ、全身に汗をかいて身体が気だるかった。そのままの姿勢で、八郎は身じろぎもせず天井を見つめた。八郎に薬湯をのませたあと、山岡の義妹お桂が灯を細めて行った有明行燈が、天井に淡い光を投げている。
なぜそんな夢を見たか、その理由はわかっていた。昨日横浜から帰ると、八郎は幹部を大松屋に集め、焼打ち決行は四月十五日と決めている。三日後に迫ったそのことが、夢にあらわれたようだった。
だが八郎の身動きを奪っているのは、夢のことではなかった。京都を出発したころから、少しずつ八郎の心の中にひろがりはじめたある考えが、八郎の眼ざめを待っていたように、不意にはっきりした形をとったのを感じたせいだった。
──横浜焼打ちを、やってはならん。
それは自明のことだったのだ、と八郎は思った。
攘夷行動に踏み切る名分も兵力も握っている。そして決行すれば、おそらくそれは幕府打倒の最初の烽火《ほうか》となるはずだった。だが居留地を焼打ちされたとわかればその直後、港に居据っているイギリス艦隊の砲は火を噴き、日本は、外国との全面的な戦争に巻きこまれかねない。これまでしいて直視することを避けて来たその状況が、ありありと目に映るのは、二日前に、襲撃の下見のため横浜をくまなく視て帰ったためかも知れなかった。
──横浜を焼く火は、この国を焼く業火となる。それに……。
もはや攘夷は時勢に合わない、と八郎は思った。
ジャーデイン・マジソン商会、ウオルシュ・ホール商会、ギルマン商会、バターフィールド・スワイヤー商会などの商館や一般の民住西洋館が、うつくしく建ちならぶ横浜居留地。そして運上所の西北にひろがる日本人町には、三百軒に達す貿易商人の店舗を中心に、にぎやかな町が出来ていて、そこには日本人にまじって家族連れの異人が群れていた。
その光景が、ゆっくり頭の中を横切るのを感じながら、八郎は、ただ幕府がもたついているだけのことで、貿易互市は時の流れなのだ、と思わないわけにいかなかった。
八郎は起き上がると、床の上にあぐらをかいた。そのとき横浜の光景にかぶさって、一人の若い男の姿が浮かんで来た。
浪士組と一緒に中仙道を京にのぼるとき、八郎は中津川の宿で、気骨ありげな一人旅の若者と同宿した。若者は、信州上伊那郡赤穂村の生まれで田中正八と名乗り、商人を志していると打ち明けた。八郎はその若者と深夜まで国の情勢を語り合い、商人を目ざすなら、これからは貿易だ。横浜に出て貿易をやれとはげましたのである。むろん八郎は、そのときの若者が、のちに天下の糸平と呼ばれる豪商になるとは、知るよしもない。
思いうかべたその顔を、ぼんやりと見つめながら、あの若者は、いま横浜で貿易商を目ざして働いているだろうかと思っただけである。
「焼打ちは出来ぬ」
八郎はもう一度、今度は確かめるようにひとりごとを言った。横浜焼打ちは、虎尾の会のはじめから念頭において来た攘夷行動である。だが情勢は変ったのだ。いま横浜を焼くことは、この国にとって百害があっても、一利もない暴挙に過ぎない。そしておれ自身にとっても、攘夷はすでに目的ではなく、ただの手段に変っている。
──しかし、攘夷をやらずに、浪士組を倒幕に持って行く方法はない。
底知れない懈怠《けたい》感が、八郎を包みはじめていた。勅諚が重く八郎を縛っていた。そして焼打ち決行は三日後に迫り、同志は走りはじめていた。八郎は低いうめき声をたてた。
──ほかに、手段はない。
倒幕回天の門は、遠くにしかしあきらかに見えていた。だがそこまで行きつくために、渾身の知恵と気力をしぼって運んできた策には、命取りの過失が含まれていたようだった。その時は、まだ来ていなかった。深夜の床の上にあぐらを組んだまま、八郎はやがて軽く舌打ちし、自嘲の笑いを洩らした。遠くから歩いて来たが、道はそこで絶え新しい道は見えないのを感じていた。
八郎は立ち上がった。熱のためにふらつく足を踏みしめ、部屋の隅にある机の前に坐って行燈を引き寄せたとき、行燈の光が八郎の顔にうかんだ凄愴ないろを照らし出した。
──明日の、金子の招待を受けよう。
八郎のその肚が決まったのである。八郎は硯箱をあけて、静かに墨をすりはじめた。
金子与三郎は、上ノ山藩の重臣で、側用人を勤めながら参政を兼ねている人物である。若年のころ仙台藩校養賢堂に留学して、学頭の大槻平泉に師事し、二十一歳のとき江戸に出て安積|艮斎《ごんさい》塾から昌平黌にすすんだ。この間に、八郎や頼《らい》三樹三郎と親交を結び、その後諸国を遊歴して、各地の国事に奔走する有志と交ったので、広い見識をそなえている人物として知られていた。
一時は脱藩をはかったり、徳川斉昭に海防策を献じようとして藩に禁固されたりもしたが、金子の考え方は穏健な公武合体論であった。そのために、尊攘派、佐幕開国派の両方につき合いがあり、八郎も浪士組と一緒に上京するとき、書籍や著述したものを、残らず金子にあずけたりしたことがある。
その金子が、会いたいと言って来たのは二日前の十日である。金子はその手紙の中に、時勢のことで重要な相談があるが、誰も連れずに一人で来られるかと言っていた。
八郎がそのことを石坂らに話すと、みんなは金子訪問に猛烈に反対した。八郎や浪士組幹部の身の回りには、近ごろ暗殺者と疑われる者の影がちらつき、一瞬の油断も出来ない情勢になっていたのである。石坂らは、金子が長州の桂小五郎などと親しくしている一方で、老中の板倉勝静や小笠原長行とひんぱんに交際し、ことに板倉老中に対して、幕政に関する献策を行なったりしていることを重視していた。呼び出しは罠《わな》だとはっきり口に出す者もいた。
しかし八郎はいま、金子の招きに応じる決心を固めたのであった。走り出した同志を引きとめ、横浜焼打ちを停止させる手段は、いまはただひとつしかない。そのことが明瞭に見えていた。多分、金子がその決着をつけてくれるだろう。
──焼打ちをやめ、しかも虎尾の会の志を残すには、その手しかない。
八郎は紙をのべ、筆をとり上げると、郷里の父にあてて手紙を書きはじめた。少し手が顫《ふる》えたが、筆がすすむと手の顫えはおさまって、墨の色が流れるように紙の面を走った。
[#ここから1字下げ]
……時あらば拝顔を得べく、ただただ大寿長久遊され候よう、ひとえに祈り奉り候。……在世の中はとかく論の定まらぬもの、蓋棺の上は積年の赤心も天下に明亮に相成り申すべく候間、たとい如何様のうわさこれ有るとも、決してご心配成さるまじく候。
[#ここで字下げ終わり]
翌朝、八郎は山岡の家の裏口から、手拭いを肩にかけて町に出ると湯屋に行った。そして帰りに隣の高橋泥舟の家に寄った。
「朝風呂かね」
高橋は、部屋に上がって来た八郎が、濡れ手拭いをさげているのに眼をとめて言ったが、急に眉をひそめた。
「顔色が悪いな」
「まだ風邪が治っておらんのですよ」
「風邪が治らんのに、風呂かい。バカな」
高橋は叱った。
「上ノ山藩の金子と会う約束がありましてな。汗くさいままでは、先方に失礼ですから」
八郎は薄笑いしてそう言い、白扇があったらくれ、と言った。
高橋が妻女の澪に命じて白扇を出させると、八郎はさらに筆墨を所望して、扇面にすらすらと和歌をしたためた。
[#ここから1字下げ]
魁《さき》がけてまたさきがけん死出の山 迷ひはせまじすめろぎの道
くだけてもまたくだけても寄る波は 岩かどをしも打ちくだくらん
[#ここで字下げ終わり]
まあ、こんなものですかな、と言って八郎が渡した扇面を見た高橋は、みるみる顔色を曇らせた。そして改めて八郎を見ると、はげしい口調で言った。
「これは辞世じゃないか、不吉な」
「………」
「清河、君は今日は外に出ん方がいいな。金子との約束は、風邪が治るまでのばしたらどうだ」
「………」
「ん? ぜひともそうしろ」
八郎はうつむいて聞いていたが、顔をあげると静かに言った。
「ご登城の時刻でしょう。出かけてください」
高橋はうなずいて立ったが、別間に妻女を呼ぶと、今日は清河を外に出してはならん、ときびしく言い残して登城して行った。
八郎はそのあと、隣から来た山岡の妻女お英、義妹のお桂をまじえて、しばらく雑談したが、不意に立ち上がると、約束だからやはり行くと言った。高橋の妻女が強くとめたがきかなかった。
山岡の家に戻ると、ちょうど石坂がきていて、八郎が着換えるのを眺め、やがて金子からの迎えの駕籠が来ると一緒に出た。石坂はなんとなく駕籠につき添ってしばらく歩き、やがて富坂まで来ると、金子には十分気をつけろよと言って別れて行った。
そのあと八郎は神田に出ると、同志がいる大松屋、井筒屋に寄った。そこに来あわせた和田理一郎は、八郎が上ノ山藩邸に行くと聞くと顔色を変えて、行くなら四、五人連れて行くべきだと言いつのった。八郎がその必要はないと言うと、和田はしまいには私一人だけでもついて行くと言ったが、八郎は振り切るようにして、一人で宿屋を出た。
八郎がその日上ノ山藩邸を出たのは日暮れだった。金子は送りの駕籠をくれなかった。八郎はかなり酔っていたが、しっかりした足どりで、藩邸前の金杉川に沿う道を歩き、一ノ橋を渡った。橋を渡ると右側は大和郡山藩中屋敷、秋月藩江戸屋敷とつづく場所で、左側は河岸の草地になっている。草地に葭簀張りの茶店があった。
八郎が橋を渡り切ったとき、丁度茶店を出た数人の武士が、八郎の方にゆっくり近づいてきた。その人影を見て、八郎はちょっと足をとめたが、また変りない足どりにもどって歩いた。双方の距離が二間ほどになったとき、その中の一人が声をかけてきた。
「清河さん、しばらく」
そう言ったのは浪士組の取締役並出役、佐々木只三郎だった。佐々木が立ちどまったとき、一人が八郎の横を通り抜けた。佐々木は笠を脱いで丁寧に辞儀をしたので八郎も笠の紐に手をかけた。そのとき後から肩を斬られた。八郎は持っていた鉄扇を地面に叩きつけて、刀の柄に手をかけた。だがその直後に八郎は、つば元をかちりと鳴らし、目にも止まらぬ動きでぬきかけた刀をおさめた。
八郎は、斬るに任せている。佐々木の一刀が顎を斬り、速見又四郎の背後からの二の太刀が、今度は肩から首を深く斬り裂き、八郎の意識は、そこでとぎれた。八郎を斬ったのは佐々木以下逸見又四郎、高久安次郎、広瀬六兵衛、永井寅之助、依田哲二郎、徳永昇作の六人。いずれも出役を勤める、もと講武所剣術方師範役または修業人出身の剣客だった。
佐々木たちが高笑いの声を残して、竜原寺門前の方角に走りこんで去ったあとに、八郎の死体の上を、夕暮れの風がもの憂く吹き過ぎて行った。
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あ と が き
清河八郎は、かなり誤解されているひとだと思う。山師、策士あるいは出世主義者といった呼び方まであるが、この呼称には誇張と曲解があると考える。
おそらく幕臣の山岡鉄舟や高橋泥舟などと親しく交際しながら、一方で幕府に徴募させた浪士組を、一転して攘夷の党に染め変えて手中に握ったりしたことが、こうした誤解のもとになっていると思われる。
しかし、それが誤解だということは、八郎の足跡を丹念にたどれば、まもなく明らかになることである。幕臣とまじわり、といっても、当時の幕府内には、山岡鉄舟や松岡万、関口良輔といったれっきとした尊攘家がいたのであり、また浪士組の一件では、八郎ははじめからそのつもりで幕府に接触し、人のふんどしで相撲を取ったのである。八郎の思想的な立場は一貫していて、変節のかけらも見出すことは出来ない。
また、出世主義者ということも、当を得ない批判のように思われる。八郎の家は、身分的には十一人扶持、一代御流頂戴格の、いわゆる金納郷士にすぎなかったが、五百石を超える田地を持つ一方で、荘内最大の醸造石数を誇る酒造家でもあり、その富ははかり知れないといわれた素封家であった。
八郎がその家の跡とりの身分を捨てて、出奔をくわだてたとき、祖父や父は、学問の何たるかを解しないひとたちではなかったが、何を好きこのんで一介の儒者を目指す、と思ったかも知れない。八郎を家郷出奔に駆りたてたものは、出世とは別の、一種の閉塞感だったと思われる。
また八郎は、士身分を欲しがったわけでもなかった。八郎が仕官をのぞんだことは一度もない。献策して幕閣に近づいたころ、幕府は八郎の罪を赦《ゆる》すと同時に、しかるべき役に召し出そうとしたが、八郎は受けずに浪士組の外にとどまった。もし八郎が変節漢であり、出世主義者であったなら、この時の召し出しは、めでたく幕臣にでもおさまる好機であったはずだが、八郎は一顧もしていない。
そうは言っても、八郎が浪士募集で、いわば幕府を罠《わな》に嵌めたやり方を、快く思わないひとはいただろうし、現在もいるだろう。たしかにこの策を思いついたとき、八郎は自分の奇策に酔ったかも知れない。権力を相手どって、放胆な奇策を打ち出すことを快とするのは、八郎の一性格であった。快としたその分だけ、八郎に徳がないとも言える。
だが、八郎はいたずらに策を弄んだわけではなかったろう。幕府から大赦をかち取ったものの、八郎はなお幕府の監視下にある眇《びよう》たる孤士であった。浪士募集はこうした幕府の緊縛を脱し、同志を握って再起するための、いわば起死回生の策だったといえる。大方の八郎評は、この時期の八郎の苦境を、十分に理解していないように思える。
八郎は、さきに幕府の罠にはまって同志をうばわれ、妻をうばわれ、長く潜行の苦しみを嘗《な》めた人間である。今度幕府を罠にはめて、これでおあいこだと思ったかも知れない。こういう考え方は、当時の幕藩体制の仕組みの内側にいる人間には、理解しがたく不快なものにみえたに違いないが、八郎は、坂本龍馬が姉にあてた手紙の中で「一人の力で天下を動かす」と記したような、徒手空拳、恃《たの》むはおのれ一人といった型の志士だった。権力を利用はしたが、その内側に組みこまれることを嫌った。幕府という権力機構に憎まれたのは、当然である。
筆者は長い間、清河八郎ははやく来すぎた志士で、そこに彼の悲劇があったのではないかと考えていた。八郎が最終的に到達した倒幕挙兵という考え方が真に熟するのは、慶応二年の薩長同盟以降だろうと思われるからである。
しかしその後考えは変って、八郎の悲劇は、八郎が草莽《そうもう》の志士であった事実そのものの中に、すでに胚胎していたのではないかと考えるようになった。維新期の草莽の末路がどういうものであったかは、高木俊輔氏の「幕末の志士」に明瞭に記述されている。明治維新は、草莽からあますところなく奪ったが、報いるところはまことに少なかったのである。
八郎は策を弄したと非難される。だが維新期の志士たちは、争って奇策をもとめ、それによって現状の打開突破をはかったのである。策をもって人を動かすのが山師的だとするなら、当時の志士の半分は、その譏《そし》りを免れないのではなかろうか。
一、二例をあげよう。謹直な真木和泉でさえ、大和への攘夷親征を画策する中で、守護職松平容保を京都から遠ざけるために、偽勅の工作をした。慶応三年十月、薩摩藩の西郷、大久保は、幕府を挑発するために江戸から関東一帯に騒乱を起こし、また岩倉具視とはかって討幕の密勅なるものを偽造し、薩摩、長州二藩の藩主父子にくだした。
これを山師的策謀と言わないのは、時代が煮つまって来て、手段を顧みるいとまがなかったという一面があるにせよ、西郷や大久保が結局は当時の幕藩体制の内側にいた人間だったからだとは言えないだろうか。
ひとり清河八郎は、いまなお山師と呼ばれ、策士と蔑称される。その呼び方の中に、昭和も半世紀をすぎた今日もなお、草莽を使い捨てにした、当時の体制側の人間の口吻が匂うかのようだといえば言い過ぎだろうか。
八郎は草莽の志士だった。草莽なるがゆえに、その行跡は屈折し、多くの誤解を残しながら、維新前期を流星のように走り抜けて去ったように思われる。
この小説は、筆者の恩師で、清河八郎記念館の館長でもあられた成沢米三先生と、やはり筆者の先輩にあたる小山松勝一郎先生の御教示によって出来上がった小説である。両先生は、ともに八郎の真面目を世に問いたいと、多年努力して来られた方方で、筆者の小説は、まったくその驥尾《きび》に付したものにすぎないが、本書が出来上がる前に、成沢先生が急逝されたことが残念でならない。
また、次頁にかかげるご本を参考にさせていただき、それぞれご教示を得たことを記し、著者各位に厚く感謝申しあげる次第である。
昭和五十四年九月
[#地付き]藤沢周平
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〈主な参考書〉
小山松勝一郎著「清河八郎」「新徴組」、小山松勝一郎編訳「西遊草」、成沢米三著「清河八郎」「清河八郎と明治維新」、成沢米三編「清河八郎遺芳」、前川周治著「石坂周造研究」、平尾道雄著「間崎滄浪」、内藤耻叟著「安政紀事」、山川菊栄著「覚書幕末の水戸藩」、小西四郎著「開国と攘夷」、芝原拓自著「開国」、高木俊輔著「幕末の志士」「明治維新」(有精堂、論集日本歴史)、石井孝著「明治維新論」、坂田精一著「ハリス」、子母沢寛著「新選組始末記」、永倉新八「新撰組顛末記」、東京日日新聞社会部編「戊辰物語」、後藤嘉一著「やまがた史上の人物」、芳賀登著「幕末志士の生活」、小鈴秀雄著「かわら版物語」
単行本 昭和54年11月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和六十一年十月十日刊