[#表紙(表紙2.jpg)]
藤沢周平
よろずや平四郎活人剣(下)
目 次
消 え た 娘
嫉 妬
過 去 の 男
密 通
家 出 女 房
走 る 男
逆 転
襲 う 蛇
暁 の 決 闘
浮 草 の 女
宿 敵
燃える落日
[#改ページ]
消えた娘
一
神名《かんな》平四郎は、兄の監物《けんもつ》と一緒に町並みの反対側、俗に堀留と呼ばれる場所の柳の下に立っている。ほかにもう一人、灯を消した提灯《ちようちん》を膝に抱えてうずくまっているのは、監物の配下|樫村《かしむら》喜左衛門に使われている仙吉という男である。
闇が三人の姿を消している。その上に監物は、ご丁寧に頭巾《ずきん》で顔をかくしていた。三人が眼をむけているのは、堀留町二丁目の角にある仙北屋という小間物問屋である。
刻《とき》は四ツ(午後十時)ごろ。あたり一帯は寝しずまり、そろそろ町木戸がしまろうという時刻に、仙北屋では店内に赤赤と灯をともし、その灯が道の上にこぼれ出ている。
「そろそろ出て来るぞ」
と監物が言った。監物の言葉のとおりだった。店から数人の男たちが出て来た。そのうちの四人が武家だった。腰に刀が見えた。男たちは外に出ると、開いた戸はそのままに、黙黙と闇に姿を消した。塩河岸《しおがし》の方に行ったらしい。
「さて、もどるか?」
あわただしく戸をしめている仙北屋を遠目に見ながら、監物が言った。仙吉が、手の中の火種を吹いて、提灯に灯をいれた。
「ええと……」
と平四郎は言った。
「屋敷まで送りますか?」
「あたりまえだ」
監物が叱るように言った。
「そのために呼んで夜食を喰わせたのだ。里尾から小遣いももらったろうが」
そうだが、嫂《あによめ》がくれた小遣いはたった一分だった、と平四郎は思った。
もっとも小遣いが少ないと、平四郎は嫂を非難しているのではない。嫂は肉親の兄以上に、市井《しせい》で浪人暮らしをしている義弟を案じてくれるのだが、神名家の奥の財布を押さえているのは嫂ではなく、槙野という女中である。槙野は神名家の冷飯喰い、それも婢《はしため》上がりの妾《めかけ》の子である平四郎に好意を持っていない。
その結果が、大の男に一分という小遣いになってあらわれるわけで、嫂の好意と小遣いの額の多寡《たか》はかかわりがない。
そうは思うものの、突然に夜歩きをする兄の用心棒といった仕事に呼び出され、唯唯《いい》として従った。一分ぐらいの奉仕はした、と思わぬでもない。第一住む家の近くまで来ているのに、また築地の屋敷まで兄を送りとどけてもどるのでは、とんだくたびれもうけである。帰りの道は町木戸がしまるだろうし、いちいちことわりを言って通り抜けるのもわずらわしい。
だが、平四郎はその不平を口には出さなかった。兄弟といっても、家長と妾腹《しようふく》の末弟では、主人と家来ほどの違いがある。それもあるし、また監物が帰りも屋敷まで送らせるつもりでいるのは、今夜の夜歩きを、監物自身かなり危険なことと考えている証拠とも思われたからである。
そう思ってみると、今夜の監物が少なからず緊張していたことも思い出された。監物は屋敷から堀留に来るまで、まったく無言だった。そして来たあとは、身じろぎもせず仙北屋の監視に入ったのである。夜歩きといっても、むろん目付という役目柄のことで、遊びに出たわけではないだろう。
──あいつら、何者だ?
平四郎は、あらためて仙北屋から出て行った数人の黒い人影を思い出した。その男たちについて監物は、あの中にひとがいる、出て来るまで待つのだ、と言っただけだった。
「さっきの連中は、何者ですか?」
平四郎は、とうとうその疑問を口にした。平四郎はこういう疑問を腹にしまっておけないたちである。
歩きながら、監物はじろりと平四郎を見たようである。また叱られると思ったら、監物は案外にあっさりと、あれは鳥居の配下だと言った。
「へえ、町奉行の? 夜の夜中も取締りにご精励というわけですかな?」
南町奉行に就任した鳥居|耀蔵《ようぞう》の取締りのきびしさは、江戸市民の恐怖の的だったが、ことに力を入れたのは奢侈《しやし》の取締りだった。
改革をすすめる老中水野忠邦は、風俗の乱れ、四民の身分の混乱、物価高のすべては分限を越えた奢侈に原因があると考えていて、水野の改革の熱烈な信奉者であった鳥居は、当然その取締りのもっともきびしい執行者となったのである。
禁制とされたのは、たとえばぜいたくな菓子、料理のたぐい、金銀の金物、箔《はく》をつけた破魔矢《はまや》、羽子板の類であり、八寸以上の人形も凝ったつくりの煙管《きせる》も、金銀をはめた根付けまで禁制の品となった。銀三百|匁《もんめ》以上の小袖表《こそでおもて》、銀百五十匁以上の染模様小袖は売買を禁じるという項目もあった。くしや、簪《かんざし》、こうがいまで値段を制限された。
こういう奢侈の禁止によって、物の値段を押さえる取締りを徹底させるために、鳥居の南町奉行所では、名主二十六名を諸色《しよしき》取締り係に命じ、のちには北町奉行所の市中取締り係もあわせて、四十人の諸色取締り係が、奉行所の与力《よりき》、同心と連絡をとって市民の暮らしに眼を配ることになったのである。
そのほかに従来の奉行所の三廻りと称される定町廻《じようまちまわ》り、臨時廻り、隠密廻りの役人、さらに新設の風俗取締りが市中を徘徊し、市民は息苦しいばかりの監視のもとに置かれていた。
「ところが、人間の心というものは、なかなか一律に法ではしばれないものでな」
神名監物は、幕府の目付らしくないことを口にした。
「法をくぐっても、うまいものを喰い、ぜいたくなものを身につけたいと考える者もおる。そういう人間がおれば、義理からであれ欲からであれ、法に隠れてそういう品をつごうしようという商人もある」
「はあ」
「鳥居はそういう疑いがある店にも手をいれておる。さっきの連中がそれだ。公の調べではないから、その調べは仮借《かしやく》ないものだと聞いた」
「………」
「法をくぐろうとする者が町人に限られておるなら、わしが夜分出張って来ることもないわけだが、そうとも限らん。大名にも旗本にも、いまの行きすぎた取締りに不満で、ひそかに法を破ろうとする者がいる。自分の金で気にいった品物を手に入れるのが、どこが悪いというわけだ」
「まさか、兄上が……」
「ばかもの」
と監物は言った。
「わしはあるお方に言われて、鳥居のその動きを監視しているだけだ。鳥居はいま、こわいものなしだ。あやしいとみれば、どこまでもあばき立てて来るからの。市中取締りが、どこに飛び火するかわからん。そのお方はそれを心配しておられる」
「………」
「仙北屋では、法に触れる物は見つからなかったはずだ。わしの方から通報してある」
ははあ、と思って、平四郎は監物の横顔をちらりと見た。今夜の監物の緊張ぶりが、それでわかったと思った。兄自身が一枚|噛《か》んでいるのだ。それでは用心棒が欲しくなるのも無理はない、という気がした。
平四郎は株仲間の解散など、急激な改革の推進に消極的な態度を示した北町奉行遠山|景元《かげもと》が、一時差し控えを命ぜられたと兄に聞いたことがあったのを思い出している。水野老中がすすめる改革も、立派ではあるが広範囲にすぎ、過激にすぎるために、裏にはさまざまな政治的な葛藤《かつとう》を隠しているということのようだった。
「さっきの連中を指図しているのが、ほれ……」
と言って、監物は平四郎を振りむいた。
「例の田島の一件でかかわりがあった奥田伝之丞という男だ。樫村がそう申しておった」
奥田? 平四郎はぞっとした。いま、小伝馬《こでんま》町の牢にいる高野長英の著作物を持って姿を消した田島耕作という男をめぐって、目付時代の鳥居と兄の監物が、はげしい暗闘を演じたことがある。
奥田は、そのとき鳥居の下で働いた御小人《おこびと》目付である。もっとも樫村喜左衛門の話によると、奥田は素姓は黒鍬《くろくわ》者で、剣の腕を見込まれて御小人目付に転じた男だという。まともに斬り合ったことはないが、平四郎は奥田はすさまじい居合を遣う男という感触を持っている。
──さっきの男たちの中に……。
奥田がいたのだとすれば、兄がおれを用心棒につけたのは当然だと、平四郎は思った。奥田は剣が出来るだけでなく、ごく非情な男だ。兄がしたことを察知すれば、闇討ちをかけることも辞さないだろう。
そう思ったとき、行手に突然に人が争うけたたましい声が起こった。
二
三人は小網町の末広河岸に出ていた。罵《ののし》り声が聞こえて来るのは、この河岸に多い船積問屋の一軒の内からのようである。
とみる間に、二、三軒先の家の戸ががらがらとあいて、灯影《ほかげ》と一緒に、四、五人の人影が外に出て来た。それがなんと、屈強の男たちが、白髪の老婆一人を手とり足とり外に運び出したところだった。
男たちは、ゴミでも捨てるように老婆を地面にほうり出した。口ぐちに罵る男たちにむかって、老婆は老婆で、ひっくりかえされた亀の子のように、あられもない姿で手足をばたばたさせながら、負けずに罵りかえしている。娘を返せ、悪党! ひとさらい! となかなかの元気である。
「くそばばあ、いいかげんに黙らねえと蹴ころすぞ」
男の一人が、まさか蹴ころすつもりもないだろうが、足をとばして倒れている老婆の腰のあたりを蹴とばした。老婆のわめき声が一段と高くなった。
平四郎が割って入る前に、監物の方がさきに前に出た。ずかずかと近づくと大喝した。
「これ、年寄りに何ということをする」
男たちは、一斉に監物を振りむいた。ぎょっとした顔いろである。ついで監物のうしろにいる平四郎と仙吉にも、すかし見るような眼を送って来たが、男たちはそれで格別おそれいったというふうでもなかった。
中の一人が、監物にむかって言った。
「なに、内輪の揉《も》めごとでさ。お武家さんにはかかわりのねえことで、へい。どうぞお静かにお通りになって」
「だまれ」
と監物は言った。
「この有様を見過ごして行けるか」
「………」
「そもそも、この年寄りは何者だ? その方らの身内か?」
男たちは、急にどっと笑った。
「まさか」
と一人の男が言った。
「顔も知らねえばあさんでさ」
「顔も知らぬということはあるまい」
監物はきびしく言った。
「娘を返せとか申したが、どういうわけか? 仔細《しさい》を申せ」
「お武家さん」
最初に口をきいた男が、閉口したように言った。
「申せたって、さっきも言ったように、こいつは内輪の揉めごとでね、ま、かまわずにお引き取りいただきましょうか」
言葉は丁寧だが、ナメた言い方だった。監物が激昂《げつこう》した身ぶりで、なおも何か言おうとしたときに、家の中からさらにぞろぞろと数人の男が出て来た。
男たちは腕組みをして監物を見た。仙吉が持っている提灯の明かりもとどかず、男たちの表情はよく見えなかった。黒黒と立つ男たちを見て、監物も一瞬たじろいだ様子だった。
だが老婆の方は元気だった。監物が男たちとかけ合っているうちに立ち上がっていた老婆は、新しく外に出て来た男たちをみると、手をふりかざして走り寄って行った。
「やい、この人さらいども」
と老婆は叫んだ。
「娘を隠していることはわかってんだぞ。返せ、やい、返せ」
「うるせえばばあだぜ」
男の一人が老婆をつかまえた。監物が見ている前で、いきなり老婆をなぐりつけた。老婆は泣き声をあげながら、男の手に噛みついたようである。悲鳴をあげて、男は老婆をつき倒した。
そこまで見て、平四郎は間に割って入った。倒れた老婆を蹴とばそうとした男の足を、ひょいとつかんだ。
「まあ、まあ、そう殺気立ちなさんな」
つかんだ足をそのままに、平四郎が男をひと押しすると、男は軒下にいる男たちの中に倒れこんで行った。男たちが、無言のままじわりと前に出て来る。監物の前にいた男たちも平四郎にむき直ると、無言で間をつめて来た。
平四郎は手を上げた。
「待った、待った」
平四郎は、男たちを押しもどすように、両手を前に突き出した。
「こっちは、お前さんたちと喧嘩する気はないぜ。ここは痛み分けと行こう。待て、いまばあさんに言って聞かせる」
平四郎は、男たちを制止すると、すばやく兄のそばに行った。
「このあたりは人気《じんき》が荒いところです。おまかせください」
ささやくと、今度はいそがしくばあさんに駆け寄って助け起こした。立ち上がった老婆を、川岸の土手下までひっぱって行って説教した。
「むこうは、あのとおり大勢だ。ばあさん一人じゃかなうもんじゃない。わかったな?」
「………」
「ここは一たん家に帰ることだ。後のことは、また相談に乗ろう」
老婆はきっと口をひきしめて、平四郎を見つめている。齢《とし》はざっと六十過ぎ。ころっと太って気の強そうな顔をした年寄りである。
着ている物は、うすあかりの中でみても、粗末なものだとわかる。肩のあたりにつぎがあたっている。仲裁に入っても金にはならんな、と思いながら、平四郎は一応商売の披露目《ひろめ》を言い、住居を教えた。
「そういうわけだ。困っているなら、わしをたずねて来い。力になるぞ。待て、ばあさんの家はどこだ?」
老婆は住吉町の裏店《うらだな》だと言った。いまいる場所と、平四郎の家のちょうど真中あたりの町である。
「よし、ここを動くなよ。いま、ひとに送らせる」
平四郎は、兄に屋敷までは自分が送って行くから、仙吉に年寄りを送らせてくれと言った。その段取りが済むと、平四郎は軒下にかたまってこちらを見ている男たちに笑顔をむけた。
「やあやあ、待たせた。話はついて、ばあさんは家にもどるそうだ。お前さんたちも中に入ってくれ」
それを聞くと、男たちは無言のまま家に入って行った。ぴしゃりと戸を閉めた。
老婆と仙吉が河岸の道の闇に消えるのを見送ってから、平四郎は仙吉から受け取った提灯を持って先に立った。
「お待たせしました、兄上」
「む」
と言って監物は歩き出したが、不機嫌な声で言った。
「さっきのは何者だ?」
「なに、このあたりは船積問屋が多いですから、揚げ場人足か船頭か、そんな連中でしょう。なにせ不景気で船の数も減っていますからな。仕事にあぶれた連中も気が立っているというわけです」
「無礼なやつらだ」
監物は、男たちが自分につめ寄って来たときのことを思い出したらしくいまいましげに言ったが、急にその鉾先《ほこさき》を平四郎にむけて来た。
「平四郎」
「は?」
「いつもあんな口をきいておるのか?」
「は?」
「口のききように気をつけろと言っておる。市井に宿っていると申しても、そなたはまだ神名家の者だ。素町人のような口をきくことはゆるさん」
やれやれ、と平四郎は思った。築地の屋敷につくまで、この調子でずっと小言を聞かされるのはかなわんと憂鬱になった。
三
末広河岸であばれていた老婆がたずねて来たのは、中一日おいた三日目の昼さがりである。
さしあたって抱えている仕事もなし、監物からの使いもないので、平四郎は昼寝でもしようかと思って枕を持ち出したところだった。季節は八月に入ったが、朝夕ちょっと涼しくなったかと思われるぐらいで、まだ暑い。
入口にひとの気配がする、と思って何気なくのぞいてみると、先夜の老婆が立っていた。
「やあ、ばあさん来たか」
と平四郎は言った。上がれ、と言ったが、老婆は遠慮して上がり框《かまち》に腰をかけた。
「何を遠慮しておる。誰もおらん家だ、上がれ。お客さんをそんなところにかけさせて話すわけにはいかん」
「頼みごとがあって来ましたけど……。客と言われても……」
「ああ、手間のことか。ま、それはあとの話にしよう。とにかく頼みというやつを聞こうではないか」
ひっぱり上げるようにして、平四郎は老婆を茶の間にいれ、昨日隣からもらった麦湯を出した。
日が照る道を歩いて来て、老婆はのどがかわいたらしく、ひと息に麦湯をのんだが、のみ終ると膝に手を置いて、またうつむいてしまった。背丈がないのに太っていて、そのうえ顔が黒いので、そうして坐っていると、老婆は狸の置き物かなんかのように見える。
「こないだは、怪我はしなかったか?」
「はい、おかげさまで」
「それはよかった。さて、話を聞こうか。娘を返せとか言ってたが、それはあんたの娘のことかね?」
「孫娘です。きえという名です」
と老婆は言った。
老婆の名はおとら。おとらには娘が一人いたが、男と駆け落ちして親を捨てた。何年かしてもどって来たときには、病気で腹にきえを身籠《みごも》っていた。その親不孝の娘が死んだあと、おとらはずっと孫娘と二人で住吉町の甚七|店《だな》に住んでいる。
孫娘のきえは十八。十四のときから両国の水茶屋で働いていたが、今年の三月にお上の達しで水茶屋がつぶれると、ひとに紹介されて橋向うにある料理茶屋の女中に住み替えた。働くのを苦にしない、気性のほがらかな娘だった。
勤めの場所が遠くなり、朝晩の通いがきつくなったものの、給金は水茶屋に勤めていたころよりよくなって喜んでいた矢先に、突然にきえが姿を消したのである。おとらは半狂乱になってさがし回った。
むろん東両国の勤め先には真先に行ったし、いまは商売替えして、細ぼそと小間物を商っているもとの水茶屋の女主人にも会いに行った。だが、きえの行方は杳《よう》としてわからなかった。そうなってから、十日ほど経つ。
「番屋にはとどけたかね」
と平四郎は言った。手当てをもらうのは望み薄だろう、という気持もあったが、人さがしとなるとおれの手にあまるという気もしたのだ。
「とどけました。茂作という十手《じつて》持ちの親分が、親切にさがしてくれましたが、見つかりませんでした」
「しかしだな」
平四郎は、先夜のことを思い出していた。
「ばあさんはあそこで、娘を返せとえらい勢いでかけ合っていたじゃないか。あの家に孫娘がいるという話でも聞いたのかね?」
「さあ」
おとらにはおとといの晩の元気はなかった。
「きえが家にもどらなかった晩に、あそこの雇い人ときえが、一緒に歩いているのを見たというひとがいたものですから」
おとらは、東両国の料理茶屋には、何度も足をはこんだ。もしやきえのことで聞き洩《も》らしていることがありはしないかと思ってのことである。
船積問屋山佐の雇い人ときえが一緒のところを見たというのは、そうして料理茶屋に通っているうちに、そこの女中の一人に聞いたことである。その女中は住みこみの奉公人で、日暮れに店の買物で両国橋を渡って米沢町まで行った。その帰りに、橋の上で山佐の男と話しながら来るきえとすれ違ったのである。その男は山佐の主人を送り迎えするために、ちょいちょい料理茶屋に顔をみせる雇い人で藤助という名だった。
「そのことを、茂作親分に言ったかね」
と平四郎は聞いた。
「はい、言いましたけれども、藤助はきえとは橋を渡ったところで別れたといったそうです」
「ふーむ」
平四郎は頭をかかえた。厄介な話である。
「しかし、あんたはその話が信用出来ずに、山佐に乗りこんで行ったわけだな?」
「あのときは、あそこの人たちが嘘をついているような気がして、あんな乱暴なことを言いもしましたが、ほんとうはどうかわかりません。あたしの思い違いかも知れませんのですよ」
おとらはうつむいていた顔を上げた。おとらの眼には、平四郎がびっくりしたほど、いっぱいに涙がたまっていた。顔を上げたので、おとらの黒い頬を涙がつたい落ちた。
「旦那」
おとらは頬の涙を拭き拭き言った。
「きえは誰かに殺されたんじゃないでしょうかね。それとも、どっかにまだ生きてるでしょうか?」
「待て待て、ばあさん」
平四郎はおとらばあさんをなだめた。
「そう悪く心配をするもんじゃない。孫娘も十八だろ? もう、一人前だ。そう簡単に殺されたりするわけはない」
「そうですか」
「おれの見立てじゃ、こりゃ誰かにかどわかされた疑いが濃いな。きえという子は美人かね?」
このばあさんの孫じゃ、そう器量はよくないだろうと思って言ったのだが、おとらは勢いよくうなずいた。
「あんなかわいい子は、世間にもざらにはいませんよ、旦那」
「そうか」
平四郎は、疑わしい気持でおとらを見ながら言った。
「よし、おれにまかせろ。調べてやる」
四
とんだ厄介な荷を背負いこんだ、と思わないでもなかったが、平四郎はおとらばあさんを帰すと、身支度をして外に出た。
──なかなか、うまくいかんものだ。
と思っていた。平四郎の願望からいえば、たっぷり金を持っている商家の旦那が、浮気の後始末をしてくださいと泣きついて来る、などというのが仕事としてはやり甲斐もあり、実入りもいいのだが、そういう仕事はめったにとびこんで来ないのである。
ばあさんに泣きつかれて働いたところで、手間賃も出ないだろうとは思うものの、眼の前で泣かれては見捨てることが出来ないのも性分である。残暑というにふさわしい、頭の上からかりかりと焼きつけて来るような日の下を、いそぎ足に岡っ引の茂作が住む町にむかった。
高砂町に入り、おどり稽古所と立派な看板がさがっているしもた屋を見つけ、その家の前で水をまいている男に、ここが親分の家かと聞いたら、その男が茂作本人だった。
茂作は、そろそろ五十に手がとどくかと思われる赤ら顔の太った男で、踊りには縁遠いようなぼんやりした顔をしているが、おとらばあさんの話によれば、踊りを教えているのは茂作の女房である。亭主が相撲取りのように太っていても、べつに差しつかえはないわけだった。
平四郎は手短かにおとといの晩のことを話し、茂作をたずねて来たわけを話した。茂作はしまりのない笑いをうかべて聞いている。
「そこで二、三聞きたいのだが、かまわんか?」
「どうぞ」
茂作は相変らずにやにや笑いながら、そう言った。
「山佐に行って、藤助に会ったそうだな?」
「ええ、会いましたよ。藤助にも主人の佐兵衛にも会って話を聞きましたが、あやしいふしはありませんでしたな。ばあさん、そうは言ってませんでしたかね?」
「言ってた。藤助は橋のところできえと別れたと言ったそうだな」
「そのとおりでさ。あっしも、そうかとすぐにひきさがったわけじゃない。なにしろ藤助は、一番最後にきえと一緒だったところを見られた男ですからな。いろいろとつっつきました。家さがしをしたいがいいかと脅しもかけましたし、次の日は、若い者に一日中藤助の様子を見張らせもしましたが、何も出て来ませんでしたよ」
「そうか」
平四郎は首をひねった。そう言われると、あとはさがしようもない気もした。
「親分はどうみているかね?」
と平四郎は聞いた。
「おとらばあさんは、孫娘がさらわれたか、あやまって殺されたか、などと言っているわけだが……」
「ほかに駆け落ちっていうテもありますぜ」
茂作の顔に、またしまりのない笑いがうかんで来た。
「そういうことを言っちゃばあさんがかわいそうだが、ばあさんの娘というのが、親を捨てて駆け落ちした女ですからな」
「その話は聞いた」
平四郎は、茂作の少しだらしない感じがする赤ら顔をじっと見つめた。
「しかし、親がそうだから娘も同じ駆け落ちをするとはかぎるまい」
「そりゃ、そうですがね」
と言って、茂作はやっと笑いをひっこめた。ところが、茂作の顔は笑いやめるととたんに険しい岡っ引づらになるのだった。その顔で茂作は言った。
「しかし旦那、ほかには考えられませんぜ。あたしも岡っ引だ。一応あたるところは全部あたってみたんだ。それでいて影も形もつかめなかったんですからな」
仲裁屋などという、その道では素人にすぎない人間が、手当てほしさに乗り出して来ても、娘がみつかるはずはない、とあざけったようにも聞こえた。
「駆け落ちか……」
平四郎はあごをなでた。
「それがほんとなら仕方ないな。ま、ともかく山佐を一ぺんのぞいてみよう」
手間をとらせた、といって平四郎は背をむけた。その背のうしろで、茂作の声が聞こえた。
「働いたところで、おとらばあさんじゃ手当ては出ませんぜ」
平四郎は振りむいた。すると茂作はもう背をむけて箒《ほうき》を動かしていた。
──ここまで来れば手当てじゃないよ。
そう思いながら、平四郎は小網町にいそいだ。日は西に回ったが、照りつける日射しは依然として暑かった。風がないので熱気は油のようにねっとりと身体《からだ》にからみついて来る。新しい汗が流れた。
小網町の河岸の道も、白い日に灼《や》かれていた。岸べの土手越しに、船が行き来しているのが見えた。だがその船の数も以前よりは少なく、河岸の人通りも閑散としているのは、景気が落ちこんでいるからだろう。
末広河岸一帯は、関八州から奥州へかけての諸国から来る船荷をおろして、逆に江戸と周辺の産物を積みこむ船積問屋が軒をならべる場所である。景気がさかんなころは、河岸の道を人が走り車が走り、さらに大川に入って来る船に荷を積みおろしする荷船が、波を蹴立てて掘割を往復した。
その荷に集まる商人も多ければ、商人目あての商売も繁昌して、河岸はひとでごった返していたのである。
いまは人通りも混んでいなければ、日中だというのに店の戸を閉めたままの船積問屋さえあった。改革で禁制の品がふえるにしたがって、河岸には季節よりひと足先に秋風が吹くという状態がおとずれているのである。
平四郎は山佐の店に入った。広い土間に数人の男がいて、菰《こも》で荷づくりをしていた。景気が悪いといっても、仕事を休んでいるわけではなさそうだった。
平四郎が入って行くと、男たちは一斉に平四郎を見たが、用件を言うと、案じることもなく帳場にいた男が、平四郎を内に招きいれた。
五
山鹿屋佐兵衛は四十|半《なか》ばの背の高い男だった。痩せていて平四郎を見た眼が鋭かったが、話しぶりはおだやかだった。
平四郎が、この間の夜のことを話し、それからおとらに聞いた話を言う間、山鹿屋はうんうんとうなずくだけで、口をはさまず聞いていたが、平四郎が話し終ると、急にひとなつっこい笑顔になって言った。
「それで、あなたさまもこの家があやしいと思って来なすったわけですな?」
「いや、あやしいとは言っておらん」
と平四郎は言った。
「ただ、おとらばあさんが言うには、だ。こちらの奉公人がその娘と一緒だったのだから、その藤助というひとが何かを知っているはずだ、橋の袂《たもと》で別れたというのは納得出来んというわけだ。わしはそのあたりをただたしかめに来ただけでな。あやしいかあやしくないかは、こちらのお話次第ということだな」
「なるほど」
山鹿屋は、手を叩いてひとを呼んだ。
「それなら藤助にじかに聞いてもらう方がはやい」
茶の間に顔を出した若い奉公人に、山鹿屋は藤助を呼んで来なと言った。そして平四郎にお茶をすすめながら聞いた。
「仲裁がお仕事とは、また変ったご商売ですな」
「ま、喰って行くほどの金は入る。しかしこの商売で女房をもらえるかどうかは、いささか心もとないな」
山鹿屋は笑った。
「まだ、おひとり身で?」
「さよう。ひとりゆえ身は軽い。こちらも何か揉めごとが出来て窮したときは呼んでもらおうか。いつでもとんで来る」
平四郎が、ぬからず商売の披露目を言ったとき、二十七、八の男が来て、廊下に膝をつくと、旦那こちらですかと言った。
それが藤助という男らしかった。船積問屋の奉公人らしく、がっしりした身体つきの男だが、男ぶりはいいとは言えず、鼻があぐらをかいている。
「このおひとは、ほら、この間家にどなりこんで来たおとらとかいうばあさんのお使いだそうだ。ま、こっちに入って聞かれることに答えなさい」
山鹿屋はそう言った。平四郎は、おやと思った。山鹿屋と藤助が目くばせを交したような気がしたのだが、それは気のせいかも知れなかった。藤助は茶の間に入って来ると、膝をそろえてかしこまった。
「さっそくで恐れいるが、そちらもいそがしい身だろうから、聞きたいことを聞くよ」
「へい」
「こないだ、つまりおとらの孫娘が姿を消した日だと、ばあさんは言うわけだが、その夕方に、娘と両国橋のあたりで一緒だったのは、ほんとうですかな?」
「ええ、一緒にはなりましたが、そのあとのことはあっしは知りませんぜ」
「ということは、橋を渡ってすぐに別れたということだ」
「そのとおりでさ」
「しかし、それはおかしいんじゃないかね。娘もお前さんも、帰りは同じ方角だ。橋で一緒だったら、いっそ家まで送ってもよかりそうなものだ」
「あっしはほかに用があったもので」
「ふむ、用というと?」
「横山町の方に買物がありやしてね。麻縄を買いに行ったんで」
「はてな? おれの家は村松町だが、あのへんに麻縄を売る店があったかな?」
「あっしを、お疑いですかい?」
藤助は気色ばんだ顔になった。平四郎は手をあげて制した。
「いや、そういうわけじゃない。ちょっとたしかめただけだ。ところで、おとらの孫娘とは顔見知りだったんだな?」
「知ってますよ。笹川というあの料理茶屋には、うちの旦那もちょくちょく行きますからね。あっしも送り迎えで行くから、顔ぐらいは知ってまさ」
「それだけの知り合いかね?」
「え?」
藤助は、一瞬狼狽したように見えた。ちらと山鹿屋の方を見たが、すぐに言った。
「それだけでさ」
「すると、その日もこちらの旦那のお供で行って、帰りに娘と一緒になったというわけかな?」
「そう、そう」
と山鹿屋が横から口を出した。
「あのばあさんが言う日にちに、あたしはたしかに藤助をお供にして笹川に行ってますよ。ええと、客は仙台の船主から来た使いのひとでしたな」
「笹川に着いたのは何刻《なんどき》ごろです?」
「さあ、あまりはっきりとはおぼえてないが、七ツ半(午後五時)ごろじゃなかったかね」
「いや、どうも」
平四郎は頭をさげた。そして、不意に言った。
「茂作という十手持ちとは知り合いですかね?」
「茂作?」
今度は山鹿屋の眼に、軽い狼狽がうかんだようである。だが、問屋の主人はすぐに立ち直った。
「ああ、あの酒好きの親分のことですか。知り合いというほどのつき合いはしていませんが、顔は存じてますよ」
「ここに、いろいろと聞きに来たろう?」
「ええ、来ました。おとらばあさんの孫娘がいないかと聞きに来ましたから、お疑いなら家さがしでも何でもどうぞって言ってやりましたよ。神名さまですか、お武家さんもあやしいとお思いなら家の中をさがしてくれてもようござんすよ」
「いや、それにはおよばん、ただ事情を聞きに来ただけでな」
じゃました、と言って、平四郎は腰をあげた。店の土間を通るとき、男たちがまた仕事の手を休めて平四郎をじっと見送った。荷づくりの男たちは、さっきより四、五人ふえていた。
──ふむ、ひっかかるな。
外へ出て、河岸の道を六軒町の方にもどりながら、平四郎は思った。平四郎はその筋の者でも何でもない。身分も、仲裁仕事で口銭を稼いでいると正直に名乗った。ただの素浪人である。その素浪人に、山佐の応対はいやにやわらかかったような気がするのだ。
身におぼえのない疑いをかけられたりしたら、ひとはもっと物言いがそっけなかったり、怒ったりするものではなかろうか。それに、旦那と奉公人が目くばせを交したりするのも気色悪い。茂作親分などは、金でも握らせられて、まるめこまれたのではないか、という気がした。
しかし、だからといって山佐とおとらの孫娘が結びつくような証拠をあの家で見つけるのは無理だろう。家さがしをしろ、と言ったが、あの家に孫娘が隠されているなどということはまずあるまい。
そこまで考えて、平四郎はぎょっとして背後の山佐の店を振りむいた。まさか奥州通いの船に、娘を積みこんだわけじゃないだろうな、と一瞬思ったのである。
六
「きえちゃんに言い寄って来る男のひとはたくさんいましたよ。あの子はなにせ、店の人気者でしたから」
平四郎の聞くことに答えて、もとの水茶屋のおかみはそう言った。
「すると、きえという子は美人だったんだな?」
「ええ、かわいい顔をしていましてね。それに気性がいいんですよ、あの子は。勝気で、変なことをする男のひとにはぽんぽん言い返してましたけど、気性があかるいから言うことに毒がないんですよね」
いまは小さな小間物店をひらいているおかみは、そこで小さくため息をついた。
「きえのような女の子もいて、ウチは水茶屋で繁昌してたんですよね。まさか、こんなになるとは思わなかった」
だが平四郎は、おかみの愚痴にはつき合っていられなかった。いそがしく聞いた。
「ふむ、寄って来る男は大勢いたと。で、その中でとりわけきえに惚れていた男というと、誰かね?」
「さあ、由蔵《よしぞう》かしら、由蔵は錺職《かざりしよく》ですけどね。それに三ちゃん、これは大工の見習い。それに信夫《しのぶ》屋の若旦那なども、ずいぶんと熱を上げてたねえ。あのひとは、ウチの店がだめになったあと、きえちゃんを料理茶屋に世話したぐらいだから」
「信夫屋?」
平四郎は聞きとがめた。
「その家の商売は?」
「大きな呉服問屋ですよ。いまは問屋さんて言わないんだそうだけど」
「若旦那の名前は?」
「文次郎というんですよ」
「その若旦那が、きえと駆け落ちしたってことは考えられないかね」
「まさか」
と言って、四十過ぎのおかみは笑い出した。
「きえちゃんは、その若旦那をきらってましたよ。何か、こう、なよなよして女みたいなんですよね、その若旦那というひとが。それに、きえちゃんはしっかりした子でね、おばあちゃんを残して駆け落ちするような子じゃありませんですよ」
「しかし、何だろ?」
と平四郎は言った。
「きえは、その若旦那の世話で、笹川に女中に入ったんじゃないのかね?」
「そりゃ、あのときはウチの子たちもみんな身の振り方に困りましたからね。あたしも二人ほど、古い子はよそに商売替えさせたんだけど、きえちゃんまでは手が回らなかった」
「ところで、茂作という岡っ引が来たかね?」
「いいえ」
米沢町の裏通りにある小間物屋を出ると、平四郎は汗を拭き拭き広小路を横切って、両国橋にむかった。残暑は昨日よりも一段ときびしく、町にはこれでも八月かと思われるような日射しが張りつめている。そよとも風がなく、汗は容赦なく首筋にしたたった。
──まるで岡っ引だな。
これで手当てもあてに出来ないのだから、割に合わない仕事だ、と思ったが、ここまで来れば手をひくことが出来ないことはあきらかだった。きえという娘を案じる気持が、平四郎の胸にしっかりと根を張っている。そして、茂作という岡っ引は、もう何のあてにもならないのだ。
おちよという女中は折りよく店にいて、平四郎はその女を笹川の裏口に引っぱり出すことが出来た。おちよは三十過ぎの女で、面長《おもなが》でちょっとした色気もあり、顔には白粉《おしろい》やけのあとがある。ただの女中ではなく、座敷に出て客の酌取りもするのかも知れなかった。
だがおちよは、平四郎がきえの名前を口にすると、急に顔をこわばらせた。
「あたしは何にも知りませんですよ」
平四郎は懐《ふところ》の紙入れをさぐって、ありあわせの二朱銀をはな紙に包むと、おちよに握らせた。手当てどころか持ち出しだ、と思ったが、袖の下の効果は大きく、おちよの顔いろはいくらかやわらかくなった。
平四郎は、おちよが両国橋できえと藤助の二人連れにすれ違ったときのことを聞いた。
「そのとき、何か声をかけたかね?」
「いえ。あたしもぼんやりして歩いてましたからね。おや、あの二人だと思ったのはすれ違ったあとだったんですよ」
「で、どんな様子だった?」
「どんな様子って言いますと?」
「仲よく話していたとか、喧嘩しながら歩いていたとか……」
「べつに目立つような感じじゃなかったですよ。並んで歩いちゃいましたけど、ただ帰り道で一緒になったというふうで」
「ふむ、じゃ、べつのことを聞こう。山佐の旦那は、ちょくちょくここの店に来るそうだな」
「ええ、いいおとくいさまです」
おちよの顔いろが、また少し硬くなった。
「さて、その日のことだが……」
平四郎は、おちよの顔いろを窺《うかが》いながら言った。
「山佐の旦那は、ここに来て仙台から来たお客をもてなしたそうだが、間違いないかね。来たのは七ツ半(午後五時)ごろだと言っている」
「ええ、たしかに」
とおちよは言った。
「すると、藤助という男は旦那を送って来た帰りに、きえと一緒になったというわけかな?」
「………」
「どうした?」
口をつぐんだおちよを、平四郎はきびしい眼で見た。
「お客さんのことをあれこれ聞かれても、口に出すなと言われたんですけどね、ウチの旦那に」
「まあ、いいじゃないか。知ってることがあったら教えてくれ」
平四郎が言うと、おちよはため息をひとつついてから言った。
「たしかにあの日は山佐の旦那が見えましたけど、お供はいつもの藤助さんじゃなくて、べつのひとでしたよ」
「へえ?」
平四郎はあいた口がふさがらなかった。山佐の主人と奉公人は、口をあわせて平四郎に嘘をついたのだ。何のためだ? 旦那のお供でもない藤助が日暮れの両国橋のあたりをうろついていたことを知られたくなかったのか?
「もうひとつ聞くが……」
と平四郎は言った。
「田所町に信夫屋という呉服屋があるそうだが、そこの旦那もここのお客かね?」
「ええ、いいおとくいさんです」
「その信夫屋の旦那、いや若旦那でもいいんだが、信夫屋のひとと山佐が一緒にのむようなことはないのかね」
「さあ、それはなかったと思いますけど」
平四郎の期待に反して、おちよの返事はさっぱりと曇りのない否定の返事だった。平四郎は、おちよが信夫屋の若旦那を知っているのかどうか、疑った。
「信夫屋の若旦那は知ってるんだろうな?」
「ええ、あのなよなよっとしたひとでしょ?」
おちよはくすりと笑った。
「そうか、一緒にのむ仲でもないのか。ところで、お客さんのことをしゃべるな、とあんたの旦那が口どめしたのは、いつのことだね?」
「今朝ですよ」
ふん、山佐が手を回したかな、そうだとすればすばやいことだと思いながら、平四郎は西に回った日が正面から照りつけて来る両国橋を渡った。
──山佐と信夫屋か。
この二軒の家が、どっかでつながっているとすれば、話がわかりやすくなるのだが、と平四郎は思った。日が傾いたころ、平四郎は小網町にある一軒の船積問屋をたずねていた。
平四郎がたずねたことに、その店の番頭はあっさり言った。
「山佐と信夫屋さんねえ。むかしはどうか知りませんが、近ごろは取引きはないですなあ。大体景気がわるくて、遠国に船で送る荷なんてものも知れてますからね。ウチなんかも、それで弱ってますよ」
だめだ、これはおれの手におえない、と思いながら、平四郎はその店を出た。
七
「信夫屋は、山佐を通してご禁制の絹物を奥州筋に送り出しているのですよ。昨夜、船にしのびこんで、山佐の荷を調べて見ましたがね、そりゃあうまくやってました。上は木綿物で、下に絹物が詰めてあるというやつで」
「あぶないことをするもんだな」
と平四郎は言った。御小人目付樫村喜左衛門の手下仙吉は、感情の動きがとぼしい顔で、こっくりとうなずいた。
「あぶない橋を渡ってますが、それだけに儲けは大きいでしょうな。信夫屋の儲けも大きいが、山佐もただの船積みの手間じゃない金をもらってるはずです。表は取引きもつき合いもないようなそぶりをしていますが、裏では一蓮托生《いちれんたくしよう》、切っても切れない仲というわけですな」
ふだんはむっつりしている仙吉も、さすがに自分がさぐり出したことの大きさに興奮を押さえ切れなかったか、ひと息にしゃべったが、前方に木立に囲まれた家が見えて来ると、あれが信夫屋の隠居所です、と言ってあとは口をつぐんだ。
二人が歩いているのは仙台堀の北、東平野町の中である。河岸のあたりは町屋が出来ているが、裏側にまわるとまだ畑があり、雑木の木立が点在している。
その中に、樫や小楢《こなら》の雑木に囲まれ、低い生垣をめぐらしたしゃれた造りの家が一軒あって、そこが信夫屋の隠居所だという。平四郎の頼みを聞いた仙吉は、山佐と信夫屋のつながりを突きとめると、その日のうちに信夫屋の隠居所をさがしあて、そこにおとらばあさんの孫娘が閉じこめられていることを突きとめたのである。
なるほど、ここなら山佐の船で大川を横切って、仙台堀に入れば近いわけだ、と平四郎は思った。その仕事を請負ったのは藤助たちだろうが、むろん山佐も承知の上だったのだ。
「で、若旦那が来ているのだな?」
「います。それから見張りが二人いますから、お気をつけなすって」
と仙吉は言った。
あんたはここにいてくれ、と言って、仙吉を垣根の外に残すと、平四郎は生垣にはさまった柴折戸《しおりど》を押して中に入った。するとたちまち樫の棒を持った屈強の男二人がとんで来て、前に立ちふさがった。山佐で使っている人足かと思われた。なかなか凶悪な人相をしている。
「若旦那、いるかね」
と平四郎は言った。
「おめえさんは誰だ?」
とはやくも樫の棒を斜めにかまえた男が言った。二人が隠居所に近づくのを見ていたらしく、殺気だった顔をしている。
「若旦那の知り合いだよ。通してくれないか」
「だめだ。誰も家に入れちゃならねえと言われてる」
「とっとと帰んな」
ともう一人の男も言った。
「遠くから来たのに、つれないことを言うもんじゃない」
平四郎は前に出た。とたんに樫の棒がうなって打ちおろされたが、平四郎は体をかわして、棒をつかんだ。すかさずもう一人が打ちかかって来たが、平四郎が、さきの男のうしろに回ったので、棒は仲間の腕をしたたかに叩いた。
いてて、と言って男がはなした棒を手にすると、平四郎は棒を持った男の肩をぴしりと打ち据え、返す棒で、腕を抱えて立ちすくんでいる男の腰のあたりにも、念入りに棒の一撃を見舞った。二人はたわいなく地面に横転した。
そのさわぎを、若旦那の文次郎は家の中から見ていたようである。棒を手にした平四郎が縁側に近づくと、あわてて部屋の中に隠れた。
平四郎は、縁側からのっそりと上がりこんだ。部屋の中にかわいい娘がいた。おとらが世間にざらにはいまいなどと自慢したほどではないが、眼がきれいで桃のような肌をした娘だった。
きえは事態がのみこめないらしく、おびえた眼で平四郎を見た。
「あんたがおとらばあさんの孫娘だな?」
「はい」
「ばあさんに頼まれてな。助けに来た者だ」
平四郎が言うと、きえの顔にみるみる喜色がうかんだ。
「おばあちゃんが? そうですか、ありがとうございました」
ときえは言った。その声を聞いて、部屋の隅にうなだれていた文次郎が顔を上げた。
「だから言わないことじゃない。あんたが言うことを聞いてくれればすぐに帰したのに、そうしないから大ごとになったじゃないか」
文次郎は平四郎にむかって、手を合わせた。
「どなたか存じませんが、見のがしてもらえませんか。はい、きえちゃんは帰します。連れ帰ってもらってけっこうです」
「それで済むというものでもなかろうぜ、若旦那」
と平四郎が言うと、文次郎は畳に頭をすりつけて、泣き声を出した。
「はい、あたくしが悪うございました。重重おわびします。このつぐないには何でもします。だが、あたしは牢屋はごめんだ。お上にとどけるのだけはゆるしてください。あたしは悪気はなかった」
「若旦那、みっともないからおよしなさいな」
見かねたように、きえが横から言った。きえの顔には男を軽蔑し切った表情が出ている。なるほど気の強い娘らしいな、と平四郎は思った。
これじゃ、さらっては来たものの、若旦那ももてあましたに違いない。そう思って苦笑しかけたが、平四郎は商売のことを思い出した。ぱんと畳を叩いた。その音でとび上がった若旦那をにらみながら平四郎は言った。
「よし、お上にとどけ出るのは許してやろう。だが相当のつぐないはすることだな。まず十両、いや二十両はばあさんに詫び料として出すことだ」
それがうまくいけば、手当ては二分。ひょっとしたら一両ぐらいになるかも知れない、と胸算用しながら、平四郎はなおもきびしい声で言った。
「その始末がちゃんと出来たら、親にもその筋にも黙っていてやろう」
誓いの言葉をくり返す若旦那の文次郎を置き去りにして、平四郎はきえを隠居所から連れ出した。家の陰から、さっき平四郎に殴られた二人が見送っていたが、追っては来なかった。平四郎は言った。
「ばあさんが待ってるぞ」
「おばあちゃん……」
きえはつぶやくように言うと、不意に涙をこぼした。気丈な娘のようだがやはり監禁されている日日は心細かったに違いない。
平四郎ときえが門を出ると、生垣の陰から仙吉が立ち上がって二人を迎えた。西空から射しかける日が三人を包んだ。まだ暑かったが、日の色の白さに秋が見えた。
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嫉 妬
一
神名平四郎は、友人の北見十蔵と話していた。幕府は物の値段をおさえると称して、しきりにぜいたく品を取締っているが、厭気《いやけ》がさした商人が、不意に店を閉めたりするので、物によってはかえって前よりも値が上がっている。
不自由な世の中になった、と不景気な話になった。いつも悠然とかまえている北見も、めずらしく愚痴を言った。
「わしのところの手習いの子も、だいぶ減った。商家が寺子屋の礼金を惜しむようになったということだろうな」
「近ごろ明石に会ったか?」
と、平四郎は言った。不景気な話になると明石半太夫の名前が持ち出されるのは、二人とも明石に金を貸しているからである。
道場を開こうと持ちかけて、出資した金を懐に夜逃げをしたのだから、横領というよりは一種の騙《かた》りだが、ともかく平四郎は五両、北見は倍の十両の金を明石に持ち逃げされている。そういうわけで、手もと不如意《ふによい》になると、明石の名前が出るのだが、それだから二人が明石から金を取り返せると思っているわけではない。
持ち逃げの明石本人は、いたってしゃあしゃあとした男で、かつて平四郎に面とむかってなじられたことがあるが、巧みな遁辞《とんじ》を構えて逃げ切った。その後返そうと努力している気配もない。会っても、金のことは忘れたという顔をしている。良心にひびが入っているとしか思えない。
平四郎と北見は、そういうたちの悪い友人を持ったのが身の不運と、金を取り返すことはほとんどあきらめている。もっとも身の不運と嘆くのは平四郎で、北見十蔵は、明石には妻子持ちの苦労がある、ひとをだますのも、時にはやむを得ない世渡りの一法、などと持ち逃げ男に同情するようなことを言う。北見のひとのよさは、あきれるほかはない。
持ち逃げの明石が、ちゃんと一戸を構え、被害をこうむった平四郎は裏店住まい、北見は商家の隠居所を借りてくすぶっているのはどういうわけだ、と言いたいところだが、北見にそれを言ってもはじまらない、と平四郎は思っている。北見は、時と場合によっては泥棒に追銭《おいせん》もやりかねない人物である。
「いや、会っておらんのう」
と北見は言った。
「道場の用人をやっていると聞いたが、うまくいっとるかの?」
持ち逃げ男の明石を、まだ心配している。平四郎はバカらしくなった。
「うまく行ってるどころじゃない。金のことはさっぱりわからない七十年寄りをたらしこんで、笑いがとまらないらしいぞ」
「それはよかった」
と北見は言った。
「そのうち明石を呼び出して、三人でちくと一杯やりたいものだ」
「酒代を半太夫が持つならね」
と平四郎は言った。北見は意味がわからないという顔をして平四郎を見た。まったく北見のひとのよさは見上げたものだ、と平四郎は思う。
平四郎は糸屋の裏木戸まで、灯を持った北見に送ってもらって外に出た。気持が少し落ちこんでいる。わけはごく単純で、財布の中身が心細くなっているからである。
ついひと月ほど前に、平四郎は信夫《しのぶ》屋という呉服屋の道楽息子にかどわかされた娘を助けた。平四郎はその息子をとっちめて、十両か二十両の詫び料を出すべきだと脅してやったのだが、文次郎というその息子は吝嗇《りんしよく》なのか横着なのか、それとも親に頭が上がらないのか、詫び料を持っては来たものの、たった五両だけだったという。
おとらというばあさんと、危うく道楽息子の毒牙にかかるところだったきえという孫娘が、連れ立って平四郎の家をたずねて来ると、そういう事情を話して、一両の礼金を出した。だが、平四郎はその礼金を受けとらなかった。信夫屋の息子の詫び料が、十両、二十両とまとまった金額だったら、一両ぐらいはもらっていいかと胸算用したことは事実だが、五両である。
孫娘が水茶屋で働き、水茶屋がお触れで廃止されると料理茶屋に通い勤めして、祖母と二人の暮らしをささえている家である。五両の詫び料は、ひさしぶりに二人の暮らしを潤す収入になるはずだった。その中から礼金はもらえない。そうかといって、詫び料が少ないと、信夫屋の息子を呼び出して脅すことまではしたくなかった。そこまで行くと仲裁稼業も少少うす汚れて来る。
そう思ってことわったのだが、ばあさんと娘が泣かんばかりに金を押しつけるので、取りもどし物百文、とある看板をみせて、百文の手間賃だけをもらった。手間をくったわりには実入りの少ない仕事だったのである。
──北見ほどではないが……。
おれも多分におひと好しのところがあるからな、と平四郎は反省する。看板にはさがし物二百文とも書いてあるのだから、きまりから言えば、おとらばあさんから合わせて三百文はもらっていいわけだったのだ。
明石半太夫のように、図太く構えないと、世の中を渡ってはいけぬらしいぞ、と思うのだが、そういう反省が生まれるのは、財布の中身が心細くなり、米も味噌も底をついて来たときだけで、懐に余裕があるときは、ま、ええわっとつい鷹揚《おうよう》に構えてしまうのである。
今日、北見の家をのぞきに行ったのも、何かいい話がないか、と様子を見に行ったあんばいだったのだが、寺子屋の師匠自身も不景気な顔をしているだけで、ほどのよい仲裁仕事などは話にも出て来なかった。
──ま、晩飯を馳走《ちそう》になったのだから、無駄足というわけじゃない。
平四郎はみみっちいことを考えながら、首をちぢめ、深く懐手《ふところで》をして暗い町を歩いた。時おり、首筋をなでて行く夜風がつめたい。いよいよ季節は秋に入るらしかった。
倹約、倹約という声が高いせいか、町の家家ははやく灯を消すとみえて、時刻はまだ五ツ(午後八時)にもなるまいと思われるのに、町は暗く、行きかうひとの姿もほとんどなかった。
──ふむ、水野というおひとは……。
江戸の町を火事場のあとのように真暗にしても、信じるところをつらぬくつもりらしいな、と平四郎は思った。そのことの良し悪しは、平四郎にはわからない。だが、兄の言ったように、水野のすすめる改革に、根強い反感を持つ勢力がいるということもわかるような気がした。五ツ刻《どき》といえば、改革がはじまる前は、まだ町ににぎやかな人通りがあり、家家からは灯のいろがこぼれ、犬が鳴き、どこからか女の嬌声《きようせい》や三味線の音なども聞こえて来たものだ。そのころがよくて、改革が悪いとは一概に言えないが、改革にはひとの自然な気持を無視した無理がある。
──いまは、犬も吠えない。
ひゅう、と風が鳴ったので、平四郎はまた首をすくめた。道は橋本町のあたりまで来たらしい。
そのとき、平四郎は暗い道で、何かが泣いている声を聞いた。はじめは蛙かと思ったが、蛙が鳴く季節ではない。声は行手の一軒の商家の軒下のあたりから聞こえて来る。
平四郎は、足音をひそめて泣いているものに近づいたが、正体がわかるとおどろいてそのものを地上から抱き上げた。着ぶくれた赤ん坊だった。そばに風呂敷包みが置いてある。赤ん坊は、平四郎が抱き上げると、勢いよく身体《からだ》をそり返らせて泣いた。
平四郎は赤ん坊を抱いたまま、眼の前の商家を見、それからあたりを見回した。誰かに、どこかから見られているような気がしている。
「この子を捨てた者が、このあたりにおるのではないか?」
と平四郎は言った。
「親であれば、あとで後悔するぞ。とりあえず拾って行くが、わしは村松町与助|店《だな》に住む神名平四郎という者だ。思い直して、すぐにも引き取りに来てもらいたいものだ」
平四郎は暗やみにむかって一席ぶったが、ひとりごとに終った。闇は沈黙したままだった。
二
平四郎は行燈《あんどん》に灯をいれた。その間にも赤ん坊は暗い畳の上でぎゃっ、ぎゃっと泣いている。
「まいったぞ、これは」
平四郎はこぼした。
「いま手当てしてやる。そうわめくな」
部屋が明るくなると、平四郎はひざまずいて赤ん坊を見た。顔を真赤にして泣いているので、生まれてどのぐらいになる子供かもわからなかったが、少なくとも生まれたての子供ではないとわかった。髪が黒く、口の中にちらと歯らしいものも見える。
着ている物は木綿物だが、粗末なものではなかった。赤ん坊のために、わざわざ縫ったとわかるさっぱりした物である。
平四郎は裾をまくって、赤ん坊のおしめに手をやった。うろおぼえの知識だが、赤ん坊が泣くのはおしめの濡れているときと、腹がすいたとき、それにぐあいが悪いときだぐらいはわかっている。
はたして、おしめがぐっしょりと濡れている。
「よし、よし。これだな」
平四郎はひとりごとを言いながら、風呂敷包みをあけてみた。中に着替えの着物とおしめ、おしゃぶりなどが入っている。物はきちんと畳んであって、赤ん坊を捨てた人間が女、それも何となくきちんとした人間が、やむを得ず捨て子したという印象をあたえたが、いまはそこまで詮索している余裕はない。いそいでおしめを換えた。
「や、これは女子《おなご》じゃ」
股間《こかん》をあらためて、平四郎はびっくりした。元気のいい泣き声、まるまると太った手足などから、平四郎は何となく拾って来た赤ん坊を男の子のように思っていたのである。
手をとめてしげしげと眺めていると、赤ん坊の股間からしゃっとおしっこがほとばしって、平四郎の手にかかった。不躾《ぶしつけ》な視線を咎《とが》めたようでもある。
「ふむ、元気な子じゃ」
濡れたおしめを取って、乾いたおしめをあててやると、赤ん坊は泣きやんだ。そして眼をひらいて平四郎を見た。くりくりした黒い眼が動き、女の子だとわかったせいか、肌もとりわけ白いようでけっこうかわいい子供だった。
「どうだ、これで気が済んだか?」
平四郎は抱き上げて、赤ん坊をあやしてみた。これで眠ってくれれば言うことはない。捨てたのが母親なら、捨てる前にたっぷり乳をのましたはずだ、と思ったがその見当ははずれたようだった。
赤ん坊は、平四郎があやすと笑い出しそうな顔になったが、それも一瞬で、まだ不満が残っているというふうに、またもやはげしく泣き出した。
平四郎は赤ん坊を抱いたまま立ち上がった。そのままうろうろと部屋の中を歩き回ったが、夜中にこう泣くようでは、腹がすいているに違いないと思わざるを得なかった。
平四郎は赤ん坊を抱いて家を出ると、となりの徳助の家の戸を叩いた。徳助は五十近い叩き大工である。女房の話によると、若いころから大工一本で来たということだが、その間に棟梁《とうりよう》になるというほどの腕もなく、あっちの親方、こっちの親方に使われて五十の坂を迎えようとしている。
そういう男だが、徳助も女房のおくまも無類の好人物だった。米がないと言えば貸してくれるし、初物の茄子《なす》を漬けたといっては、ひと皿持って来てくれたりするので、平四郎はこの隣人を、日ごろ大いに徳としている。
「おや、やっぱり旦那のとこかね」
手燭《てしよく》を持って戸をあけた徳助の女房は、平四郎の胸の中にいる赤ん坊をみて、眼をまるくした。
「聞き馴れない赤ん坊の声がするんで、どこだろうと不思議がっていたんだよ」
「なになに、赤ん坊だって?」
寝巻姿の徳助まで上がり框《かまち》に出て来て、赤ん坊をのぞきこんだ。赤ん坊は、ひとにもおびえたのか、一段と高い声で泣いた。
「夜分さわがせて済まん」
平四郎はあやまって、帰り道で赤ん坊をひろったいきさつを話した。
「ふーん、かわいい子だね。女の子だね」
徳助の女房は、股ぐらなぞのぞかなくとも言いあてた。
「こりゃおなかすいてんだよ、この子」
「そうらしいが、誰か乳をくれるひとはおらんかと思ってな」
「あたしのが出ればいいんだけど」
徳助の女房は、山のように盛り上がっている自分の胸を押さえた。
「もう子供もおしまいで、乳なんか干上がっちゃったからね。そうねえ……」
「半七の嬶《かかあ》が子供生んだじゃねえか」
と徳助が言った。
「そりゃおととしのことだよ。そのときだって、あのひとは乳が少ないってさわいでたんだから」
女房は額にしわを寄せたが、不意に顔をかがやかせて言った。
「いたいた、およしさんならまだたっぷり乳が出るはずだよ」
「およしというと、三造のところか?」
「そうそう。あのひとはお産が軽くてね。生んだ翌日にはもう台所をしているひとだから、ついうっかりしちゃうんだけど、この春に子供が生まれたの。行ってみなさいよ」
「そうか。よし、頼んでみよう」
「旦那、大丈夫ですか」
とおくまは言った。
「何だったら、あたしんとこで預かろうか?」
「いや、大丈夫だ」
「落っことさないようにしてくださいよ」
徳助の女房は、赤ん坊を抱いている平四郎の手もとを、気遣わしそうに見た。
──ふむ、三造の女房か。
路地の奥に歩きながら、平四郎は何となく笑いがこみ上げるのを感じた。
駕籠《かご》かきの三造と女房のおよしは、派手な夫婦喧嘩で裏店の顰蹙《ひんしゆく》を買っている夫婦である。平四郎も、この裏店にはじめて住みついた当時は、あたりをかまわない激烈な喧嘩に一再ならずおどろかされたものだ。
いまも、以前ほどではないが、時どき夫婦のはげしいののしり合いの声が洩れて来て、そのたびに裏店の者は、今度の喧嘩の種は何だと、あきもせずに耳をそばだてるのである。だがその激烈な夫婦喧嘩の合間にちゃんと子供もつくっているところが、おかしいといえばおかしかった。
三造の女房は、平四郎の頼みを気軽にひきうけた。
「お銭《あし》はないけど、乳がたっぷり出るのだけは自慢でね」
およしはそう言うと、平四郎に手燭を持たせ、上がり框に坐ると無造作に乳房をひっぱり出して、赤ん坊にふくませた。やはり腹がすいていたらしい。赤ん坊はおよしの乳房にしがみつくと、夢中になって乳を吸った。んぐ、んぐと喉に声を立て、息もつかずに飲みつづける。
「こりゃ、よっぽど腹へってたんだわ、旦那」
と三造の女房は言った。乳を飲む赤ん坊の喉声に、奥の部屋から洩れて来る、ごうごうという三造のいびきが重なる。かわいそうにね、といっておよしは赤ん坊のやわらかいほっぺたをつついた。
「こんなかわいい子を捨てた親は、どんな親だろ」
まったくだ、と平四郎は思った。捨てたのがこの子の親かどうかは、調べてみなければわからないことだが、もし三造の女房の言うように親が捨てたのだとすれば、それは夫婦喧嘩に明け暮れている三造夫婦より、ずっと不しあわせな人間に違いないという気がした。
およしは、親が見つかるまで預かろうか、と言ってくれたが、平四郎はことわった。子供を預かったことが、またぞろ夫婦喧嘩の種になったりしては申しわけないと思ったからである。ただ乳をもらうことだけを頼んだ。
現金なもので、乳をたっぷりのんだ赤ん坊は、平四郎の家にもどって来ると、生意気にも満足したというふうな大あくびをして、間もなく寝入ってしまった。
──さて、親をさがさなきゃならんな、親を……。
平四郎は床の中に寝かせた赤ん坊を眺めながら、そう思った。だが赤ん坊に振りまわされたせいか、ぐったりと疲れていて、すぐにはいい考えもうかばなかった。
三
神田橋本町の能登屋という履物屋に、平四郎は上がりこんでいる。相手になっているのは能登屋の旦那とおかみで、話している場所は能登屋の茶の間である。
四十過ぎの旦那は、よほどひまとみえて、平四郎が自分の家の軒下で赤ん坊をひろったという話を、熱心に聞いた。
「ははあ、それで?」
聞き終った能登屋の旦那は、まるくて平べったいお盆のような顔に、ひとを小バカにしたような笑いをうかべた。
「その捨て子が、この家にかかわりがないかと、聞きにみえたわけですな。いや、ごもっとも。聞きに回る順序としては、そうあるべきです」
「何か心あたりは?」
平四郎が言うと、旦那はうす笑いをうかべたまま、手を振った。
「あいにくと、何にもありませんなあ」
「こちらに年ごろの息子さんは?」
「伜《せがれ》はいません」
と旦那は言った。
「娘ばっかり三人。一番上がいま十八で、そろそろ婿をさがしているところです。二番目が十六ですが、上の娘も二番目も腹ぼてれんになったなどということはありませんし、一番下は十二でまだ子供。どっちみち赤ん坊にはかかわりがありませんな」
「奉公人の中に、赤ん坊を持ちこまれるようなひとはいませんか?」
「奉公人といっても、うちあたりの店はこの程度。五兵衛に安蔵、長助……」
旦那は指を三本まで折って、あとは小僧が二人いるだけです、と言った。
「小僧のほかはみんな所帯持ちで、固い男ばかりです。商人なのだから、少しは遊んだ方がいいとあたしがすすめるほどでしてな。とても女子に赤ん坊を送りつけられるなどという柄じゃありません」
「すると、あとは……」
平四郎は能登屋の旦那の顔をじっと見た。旦那はにがい顔をした。
「今度はあたしをお疑いですかな」
「疑うというわけではありませんが……」
「あたしも、よそから隠し子が出て来るほど、女子にもててみたいものだ」
「ほっ、ほっ」
同席していた能登屋のおかみが、口に手をあてて笑った。十八の娘がいるのだから、三十半ばを過ぎているだろうが、おかみはまだみずみずしい身体つきをしている。お盆のような顔の旦那には似合わない、美貌でもあった。
「それはちょっと、お見込みちがいのようですよ」
おかみは、なおも笑いながら言った。
「家の中が女ばかりでございましょ。うちのひとはいつも、もう女子はたくさん、息がつまるなどと申します。それに、うちのひとが女子にもてたためしがないことは、同業の間でも知らぬひとがいないほどですから」
「よしなさい。そこまで言うことはない」
と旦那は言った。
得るところなく、平四郎は能登屋を出た。おかみはあんなことを言って安心しているが、男というものは、どこに女子のひっかかりがあるかわかったもんじゃない、という一抹の疑いはあったが、しかし旦那の顔を思いうかべると、女にはもてないという方に軍配を上げたくなる。あの旦那に隠し子をつくるほどの甲斐性があるとは思えなかった。
──それに能登屋は商人だ。
たとえば女のひっかかりが出来たとしても、金で始末をつけるだろう。それも出来なくて世間に醜聞をさらすようでは、あれだけの店をやってはいけない。
──しかし……。
たったひとつの手がかりと思われた能登屋が無関係ということになると、赤ん坊の親さがしは雲をつかむような話になる、と平四郎は思った。
能登屋の前で赤ん坊をひろってから二日経ち、今日は三日目である。今日の昼すぎまで外にも出ずに赤ん坊の世話をしながらじっとしていたのは、どこからか子を捨てた者が名乗り出て来るのではないかという気がしたからである。
だが、何の音沙汰もなかった。そして音沙汰がないと決まれば、そういつまでも赤ん坊を相手に遊んでもいられないのである。
暮らしの金が心細くなっている。それもあるが、赤ん坊の世話というものが、けっこう大変なものだと平四郎は思い知った。しきりにおしめを換えなければならない。泣き出せば三造の家に走って乳をもらわなければならない。そうして手当てさえしてやれば、赤ん坊はきげんがよくて、平四郎があやすとけらけら笑ったりもするのだが、一緒になって喜んでいるわけにもいかないのだ。
換えのおしめは残り少なくなって、明日あたりは、そろそろ洗濯をしなければ間にあわなくなろう。自分の下帯さえ、めんどうでめったに洗わない平四郎は、それを考えると憂鬱になる。
むろん隣の徳助の女房や三造の女房が、預かってもいいと言ってくれるのだが、二人とも昼は内職にいそがしくて、自分の子供をかまうひまもないほどである。それを考えると、勝手に拾って来た子供を、それじゃと預けるのも気がひける。いつまでと期限のある話ではないから、よけいにためらう。
内職もせず、井戸端のあたりでさえずっているお六のような女房もいるが、そういう女にかぎって、赤ん坊を預かろうかなどということはおくびにも出さないのだ。噂は知れわたったとみえて、平四郎の顔をみると、
「拾って来たなんて言ってさ、ほんとは旦那の子供じゃないの?」
などと嘲弄《ちようろう》するようなことを言ってけらけら笑い、それっきりである。
同じ裏店に住むといっても、みんながみんな善意の人間というわけではない。それが世間というものだと思うものの、平四郎はうまくいかんものだな、と思う。
とにかく今日は、赤ん坊を三造の家に預け、とりあえずの手がかりと思われた能登屋をたずねたのだが、結果は何の収穫もなかったわけである。
──能登屋と……。
赤ん坊をむすびつけるのは無理のようだな、と思いながら、平四郎は裏店にもどった。うなだれて木戸をくぐる。めっきり秋めいた日射しが、正面から平四郎を照らした。
そのまぶしい光の中に、ひとが立ちさわぐ気配がみえたと思ったら、井戸端から立ち上がった二、三人の女房たちが平四郎の行手をふさいだ。
「旦那、大変なことがあったんだよ」
「何だ?」
と平四郎は言った。
「留守の間に、変なひとがたずねて来たんだよ。旦那のとこにさ」
「留守だといっても、中に入りこんじゃったんだから」
「赤ん坊をさらいに来たのさ。あたしゃ、きっとそうだと思うね」
女たちは口口に言った。待った、待ったと平四郎は言った。
「そういっぺんに言われては、何のことかわからん。ちゃんと話してくれ」
「………」
「誰がたずねて来たって?」
「お侍だよ」
と一人の女房が言った。二十《はたち》過ぎの若い武家で、身なりはきちんとしていたという。
その武家が来たのは、平四郎が出かけて間もなくである。神名平四郎の家はどこかとたずね、聞かれた女房が家を教えて、いまは留守だと言ったが、若い武家はかまわずに家の中に入って行った。
そこまでは路地にいた女房たちも、さほど気にしたわけではない。平四郎の商売の客か、それとも知り合いだろうぐらいに思っていたという。
だが外に出て来たとき、その若い武家の血相が変っていた。
「子供はどこだ」
と言った若い武家の顔も声も険悪で、女房たちはふるえ上がった。赤ん坊が三造の家にいることはみんなが知っていたが、若い武家にそのことを言ってしまっては悪いことが起こりそうだった。おとりという祈祷師《きとうし》の女房が、とっさの機転で赤ん坊はこの裏店にはいない。平四郎が遠くに預けたようだと言った。
「まことだな? 嘘をつくとただでは済まんぞ」
若い武家は、そう言って腰の刀に手をやり、蛇のような眼で女房たちをにらみ回した。女房たちはふるえ上がったが、ともかく嘘をつき通して追い払った。
平四郎は、聞いているうちに顔色が変った。
「それで? 赤ん坊は?」
「無事だよ。およしさんとこにいるよ」
「いや、済まなかった。よくやってくれた」
「あのお侍、いったい何者なのさ?」
「さあ、そいつはわしにもわからん」
平四郎は、女房たちに礼を言うと、大いそぎで駕籠かきの三造の家に行った。赤ん坊は無事だった。三造の女房は、平四郎から預かった子供を背中にくくりつけて、草履《ぞうり》編みの内職をしていたが、平四郎をみると、ほっとした顔になった。
「旦那、大変なことがあったんだよ」
「聞いた、聞いた。いや、こわい思いをしたろう。済まなんだ」
若い武家というのは何者だろう、という話をひとしきりしてから、平四郎は赤ん坊を受け取って家にもどった。乳をたっぷりもらったらしく、赤ん坊は眠りこけている。
家にもどった平四郎は、眼をまるくした。茶の間も、隣の三畳も戸があけはなしたままである。押し入れの襖《ふすま》まであいて、中の物が畳にこぼれ落ちている。狂暴なものが入り込んで来て、ひとしきり荒れ狂って出て行ったという感じだった。部屋の中に、踏み込んで来た者の悪意が残っていた。
「おい」
平四郎は、腕の中の赤ん坊の頬を指でつついた。おまえさんの素姓は何者かね、と胸の中でつぶやいた。疑惑が深まった。
四
飯を喰いながら、平四郎は時どき赤ん坊を見た。もう床の中に入っている赤ん坊は、手をにぎったりひらいたり、にぎった拳を口でしゃぶったりしながら、あば、あばとか、ぶうとかひとりごとを言っている。きげんがいいのだ。
しかし、いつ急に泣き出すかわかったもんじゃない、と思いながら、平四郎は赤ん坊に眼を配っている。どうせ床につく前に、もう一度三造の女房に乳もらいに行かねばならないのだから、それまでおとなしくしていてくれればいいが、と祈る気持である。
赤ん坊のために、暮らしの調子がすっかり狂っている。昨夜は、平四郎が睡気《ねむけ》がきざして頭がもうろうとして来ているのに、赤ん坊の方ははしゃいで、いっかな眠る気配もないのですっかり寝そびれてしまった。しかも朝早くから目ざめてぎゃっ、ぎゃっと泣きわめくので、平四郎は寝不足気味である。
──どこか、しっかりしたところに預けるしかないな。
たくあんを噛み鳴らしながら、平四郎は夕方からずっと頭の中に滞《とどこお》っている考えを、また反芻《はんすう》してみる。
赤ん坊を抱えていては、いざ仕事が来たときに動きがとれないだろう。それに仲裁仕事などというものは、坐って待っていても、そう簡単に向うからやって来はしないのだ。そういうときには、あちこち出歩いて仕事を拾って来るぐらいの意気ごみがないとやって行けないのだが、赤ん坊がいてはそれが出来ない。
──この小さくてかわいい生き物は……。
おれを干乾しにしかねないぞ、と平四郎は冗談でなくそう思う。いつまでも赤ん坊と遊んではいられないのだ。
むろん、赤ん坊を外に預けようかと考えるのは、それだけが理由ではない。正体不明の若い武家のことがある。家の中の荒らされようをみれば、その男が赤ん坊に好意をもっているとは思われない。多分、敵である。とすれば、うっかりと近所に赤ん坊を預けて外に出ることも出来ないのだ。
──さて……。
では、どこに預けるかが問題だった。はじめ平四郎は、赤ん坊を実家に連れ帰って、台所のおふくばあさんにでも預けようかと、軽く考えたのである。
おふくばあさん本人の乳房はもうしなび切って、物の用に立たないだろうが、ばあさんは近くの町の青物屋、魚屋にひろく顔がきく。もらい乳をして面倒みるぐらいのことはやってくれるかも知れない。
そう思ったのだが考えてみれば、おふくばあさんはもう齢である。自分の身をかばうのに精いっぱいかも知れなかった。そして、赤ん坊などを抱いて帰ったら、実家の中の平四郎をよく思っていない連中に、何と言われるか知れたものではなかった。それもうっとうしいことである。
──と、いって北見はひとり者だし……。
と思ったとき、平四郎の頭に天啓のように明石半太夫の顔がうかんで来た。
──そうか、明石のところに持ちこめばいいのだ。
明石はたしか、二人の子持ちのはずだから、赤ん坊を持ちこまれたぐらいで、女房が動顛《どうてん》することもあるまい。それに明石の女房は、もとは水茶屋に勤めた、いわゆる市井《しせい》の女子で、話して頼みこめば人情の何たるかを解《げ》せない人間でもなかろう。
そして明石本人については、なに、あいつに文句は言わせない、と平四郎の考えは不意に威丈高ないろを帯びる。こういうときこそ、借りを返させるいい機会である。
一番安全で、たしかな預け先を思いついて、平四郎が味噌汁をすすったとき、表の戸がとんとんと鳴った。ひそやかな音だったが、平四郎は一挙動で立ち上がると、部屋の隅に行って刀をつかみ上げた。昼に来たという正体不明の武家のことが頭にある。
だが平四郎の不意の身動きが、赤ん坊の機嫌を損じたらしかった。赤ん坊が泣きはじめた。顔を真赤にして、ぎゃっ、ぎゃっと泣きわめく。
「お、よし、よし」
うろたえて言ったが、外の客の方が先だった。平四郎は刀を提げて土間に出た。戸がはげしく叩かれた。
「どなたか?」
平四郎が用心深く言うと、夜分おそれいります、折り入ってお話があって参りました、という女の声がした。
「話? そなた一人かな?」
「はい、一人です」
平四郎は戸をあけた。すると二十前後と思われる女が立っていて、戸があくと家の中をのぞきこむようにした。
女を土間に入れると、平四郎はかわって外に出て、路地の中に鋭い眼をくばった。ほかに人の気配がないことをたしかめてから、平四郎は戸をしめて女を振りむいた。すると女の異様な姿が眼に入った。女は上がり框ににじり上がるようにして、部屋の中をのぞきこんでいる。平四郎を振りむこうともせず、胸の上で手をにぎりしめ、涙を流していた。じっさいに、女は喉の奥に泣き声を立てていた。泣きながら、眼はぴったりと赤ん坊を見つめている。
「赤ん坊の親か?」
直感で、平四郎が言うと、女は無言でうなずいた。
「それでは上がって、まず泣いている赤ん坊を静めてもらおうか」
平四郎が言うと、女はどことなく宙を踏むような足どりで茶の間に上がった。そして床の中の赤ん坊を抱き上げた。
おどろいたことに、赤ん坊はそれだけでぴたりと泣くのをやめた。女は赤ん坊を抱えたまま部屋の隅に行き、平四郎に背をむけたまま、赤ん坊に乳をあたえはじめた。たちまちんぐ、んぐという例の喉声がはじまり、赤ん坊は途中何度も満足そうな吐息を洩らした。時どきぴちゃぴちゃと音がするのは、握っている乳房を叩くのだろう。
騒騒しい物音がやみ、女は赤ん坊を床の中にもどした。半眼になった赤ん坊は、寝かされて大きなあくびをひとつすると、たちまちたわいなく寝入ってしまった。
「さすが、親子だの」
平四郎は感嘆していった。
女は襟《えり》をかきつくろうと、あらためて部屋の入口にもどり、深ぶかと頭をさげた。
「ご厄介をおかけしまして、何とお礼を申し上げたらいいやら、有難うございます」
「ま、こっちへ寄ってくれ」
お膳を片寄せて、平四郎は女を火鉢のそばに誘った。
「さて、話をうかがおうか」
平四郎はそう言ったが、そばに来た女を見て眼をみはった。女は小づくりな身体つきながら胸も腰もなまめかしくふくらみ、丈夫そうに見えた。肌の色も白いが、身なりは素朴な町女の姿である。その女の顔に、折檻《せつかん》のあとかと思われる傷があった。片頬が紫色に変色し、唇と右|瞼《まぶた》にも傷があって、幾分|腫《は》れている。
平四郎はうつむいている女を、注意深く見た。
「その傷は、どうされたな?」
「おはずかしいところをお目にかけます」
女は顔を上げずに低く言った。武家奉公でもしたことがある女かと、平四郎は思った。女の物の言いようには、ただの町家の女にはない丁寧な言いまわしがある。
「ま、傷のことはあと回しにしよう」
と平四郎は言った。
「とにかく、赤ん坊を捨てた仔細をうかがおうか」
女は自分のことを、一年前まで牛込御門外の旗本小谷|外記《げき》の屋敷に働いていた者だと言った。名前はくみである。
「台所で働いておりました」
「小谷という名ははじめて聞くが、禄高はどのぐらいかの」
「六百石と聞いております」
小谷は主人夫婦の仲が悪く、揉めごとの絶えない家だが、あるとき例によって家の中が揉めたあとで、小谷の妻が実家に帰った。ひと月も屋敷にもどらなかった。
その間に、小谷の屋敷で間違いが起こった。婢《はしため》のくみが、外記に犯されたのである。ただ一度の間違いだったが、くみは身籠った。
「待った」
と平四郎は言った。どこかで聞いたような話だと思ったら、それは平四郎自身の境遇に似ているのである。平四郎の死んだ母親も、神名家の召使いだったが、恥知らずの父親に犯されて平四郎を生んだのである。
平四郎は思わず、眠っている赤ん坊を見た。
「ちょっと聞くが……」
平四郎は口籠った。こういう話は、当人の口からは聞きづらいのだが、事情ははっきりさせなければならない。
「その間違いというやつだが、つまりは無理やりの手籠めということかね?」
くみは頬を染めた。しばらく黙ってうつむいていたが、膝の上の手をにぎりしめながら言った。
「でも、殿さまはお身体も弱く……。お気の毒なお方だと思っております」
「怨んではいないということだな?」
くみは、聞かれて改めて自分の胸の中をのぞきこむというふうに、首をかしげていたが、ようやくはいと言った。
それなら多少の救いがある、と平四郎は思った。よし、つづけてくれと言った。
身籠ったと知ったとき、くみは恐慌を来たした。小谷の妻は気性のはげしい女である。くみが小谷の子供を身籠っているなどと知れたら、親子もろとも成敗されかねなかった。くみは腹のふくらみが目立たないうちに小谷の屋敷からひまをとり、叔母の家に身を寄せた。そこで子供を生み落とし、やがて、子供連れでもいいと言ってくれる叔母の知り合いの商家に、住みこみの女中で入った。
ところがこの夏に、叔母の家を一人の若い武家がたずねて来た。間瀬仲之進という男である。間瀬は、くみと子供の居場所をたずね、叔母が言葉をにごすと、叔母に乱暴を加えて去った。
「間瀬?」
平四郎は顔をしかめた。
「二十過ぎの若い男か?」
「はい」
「その男なら、今日この家にも来たぞ」
「まあ」
くみの顔が、みるみる青ざめた。
「なに、心配いらん。赤ん坊はこのとおり無事だ。だが、その男は何者だね?」
「小谷さまのご養子になられる方です」
小谷の妻女は三十八。若いころに一度死産をしたことがあるだけで、その後子供が生まれなかった。齢から言ってもう子供が生まれる見込みはない。
一方当主の外記は、病弱のために小普請《こぶしん》入りをして数年経つ人間である。養子を定めることは小谷家の急務だった。その養子を、外記は自分の縁筋からもらいたがり、一方妻女は実家間瀬家の末弟仲之進を養子にしたがっている。
もともとそりの合わない小谷家の夫婦は、この養子問題ではげしく対立したが、妻女は強引に夫を説き伏せ、まわりにも仲之進との養子縁組みの根回しをすすめている。いずれ仲之進が小谷仲之進となる日が来るだろう。その日にそなえて妻女は、仲之進を小谷家に呼んで家宰《かさい》のような仕事をあたえている。
「ふむ、様子は相わかった」
と平四郎は言った。そのさ中に、屋敷の中の誰かの口から、くみのことが洩れたということだろう。正妻の腹でなくとも、当主の実の子がいるとなれば、養子話は一変する。仲之進の話はご破算にもなりかねない。
血眼《ちまなこ》になって赤ん坊のあとを追っかけている仲之進の背後には、姉である小谷の妻女の使嗾《しそう》があるのだ、と理解出来た。
「叔母の話を聞いて、わたくしはほかに働き口を変えましたが、間瀬さまはそこにも姿を現わしたのです。この子を生かしておくには、一緒にいてはあぶないと思い、ほかに預けるところもないので捨てることにしたのです」
くみのその判断は正しかった。間瀬仲之進は、今朝ついにくみの隠れ家をつきとめ、子供がいないとわかると、その場所を言えとはげしく折檻した。
間瀬は小谷の屋敷のものが、一様におぞけをふるうほどの癇癪《かんしやく》持ちである。くみにも狂暴な暴力を加えた。くみはついに居場所を白状した。子供が平四郎に拾われたとき、くみは数間先の路地に身をひそめていて、平四郎の声を聞いたのである。聞いて、胸に畳みこんでおいた。
しかし、子供の居場所を知っていて、白状出来たのはくみにとって幸いしたかも知れない。間瀬の折檻は狂気じみていて、言わなければ殺しかねないほどのものだったのである。
「胸くその悪い話だ」
と平四郎は言った。
「六百石の跡つぎに坐りたいために、赤ん坊の命まで狙うとはな」
「それだけではないと思います」
とくみが言った。
「ん?」
「奥さまは、それは悋気《りんき》のお強い方ですから」
くみという女の顔に、はっきりとおびえの色がうかんだ。
「よし、万事相わかった」
と平四郎は言った。
「あとはわしにまかせてもらおう。じつを申すと、わしは仲裁という仕事をやっておる」
平四郎は長長と仲裁仕事の披露目を言った。くみはぽかんとした表情で平四郎の顔をみている。
「つまりだ。そなたたち親子のように、進退に窮した人間を救って、何がしかの口銭を頂くのがわしの仕事でな。わしが赤ん坊を拾ったのは、双方にとって好都合だったというものだ」
「………」
「安心していいぞ。小谷との話は、わしがきっぱりとつけてやる」
「でも、わたくしはいまのところ、お払いする金の持ち合わせがありません」
「そんなことは心配するな」
平四郎はほがらかに言った。
「そういう口銭などというものは、誰かが払ってくれるものでな。なに、誰も払わんというならそれでもけっこう。赤ん坊のために、この際は手間賃を無視してひと肌脱ごう」
「ありがとう存じます」
「ところで、その話のつけようだが……」
平四郎は、くみの顔をじっと見た。
「この赤ん坊を、小谷の家の子として、あの家に引き取らせるやり方もある。それはどうかね?」
「いえ、いえ」
くみははげしく首を振った。
「そんなことをしたら、この子が殺されてしまいます」
「そのおそれは多分にあるな」
と平四郎は言った。
「すると、親子二人の暮らしが立つようにしてもらう。そんなところで話をまとめるか」
「もう、こちらからは何にも望みません」
とくみは言った。
「親子二人が、誰にもじゃまされずに生きて行ければ、それで十分です。神名さま、そのように話をつけていただけませんか」
五
「ここに五十両ある。これをくみに渡してくだされ」
小谷外記は、手文庫から出した金包みを、平四郎の前に置いた。そしてほかに懐紙に金をつつんだ。平四郎が横目で見ていると、それは五両である。小谷家は裕福な屋敷のようだった。
「これは些少《さしよう》ながら、赤子が世話になった礼じゃ。おさめてもらいたい」
「いや、いや、さようにご斟酌《しんしやく》をいただいておそれいります。これはいただくわけには参りませぬ」
喉から手が出るような礼金だが、兄から借りて来た紋つき羽織の手前もある。平四郎は辞退した。
大体が赤ん坊の始末をつけるためにかかった仕事で、儲け仕事というわけではない。それに、台所女中に手をつけるような殿さまはろくなもんじゃあるまい、と思って来たがその予想もはずれた。
小谷外記は四十半ばの男だったが、その齢でなお美男子だった。それも軽薄な美男子づらではなく、面長な立派な顔をして、平四郎をみる眼は終始沈着な光をたたえている。仲が悪いという妻女との確執《かくしつ》のためか、額に日ごろの苦渋を示すような皺がきざまれているのも悪くない。
くみのこともあっさり認め、あたら年若い女子に重荷を背負わせることになったと、率直な気持を告白したのも気持がよかった。外にも妾がいて、家の中にも平四郎の母を召使い兼妾で置いて、恬《てん》として恥じる色もなかった平四郎の父親とは雲泥の差である。外記は、妻女や間瀬仲之進に、これ以上の手出しはさせないことも、きっぱりと約束した。
「これはご辞退つかまつる」
平四郎は紙包みの金を押しもどした。
「赤ん坊をダシに謝礼を頂きに来たようで、気持が落ちつきませぬ」
「いや、それではこちらの気持が済まぬ」
二人が押し問答をしていると、部屋の外に足音がした。外記の目くばせで、平四郎はあわてて金を懐にねじこんだ。襖があいて、入って来たのは三十半ばの女性と二十過ぎの若者である。
「お話はつきましたか?」
とその女性が言った。色白のなかなか美貌の女だが、眼尻が吊った眼に険があり、声はぞっとするほどつめたかった。若い男が間瀬仲之進だろう。
「何の話だ?」
「くみのことですよ。そのぐらいのことがわからないとでも思っておいでですか」
殿さまの方は黙っている。唇のはしがぴくぴくとふるえたが、客の手前どなるのをひかえたというふうでもあった。
「どのようなお話になりました?」
「くみは、むろん子供もだが、当家には一切かかわりがないことになった。これで、そなたも満足だろう。以後、あの親子に手出しすることは、固く禁じるぞ」
「さぞ、お金を使われましたでしょうな」
奥方は、平四郎のふくらんだ懐のあたりをじっと見た。殿さまは、じろりと奥方をにらんだ。
「そなたの指図はうけぬ」
「よくそのようなごりっぱな口がきけますね。ご自分の不始末を棚に上げて」
奥方はぴしゃりと言った。じつになめらかに口が回る。そのよく回る口を、奥方は今度は平四郎の方にむけて来た。
「ご身分は存じ上げませんが、見知らぬひとに金子を預けて、大事ござりませぬかえ?」
「黙れ」
外記の顔が、怒りで赤くなった。
「他人のことを申す前に、おのれがあの親子にしたことを考えてみることだ。まことに聞くもはずかしいことをやってくれたものだの。このおひとのことなどは、斟酌無用……」
なおも言いかける小谷外記を、平四郎はあわてて制した。話の都合上、外記には神名の家の者と打ち明けたが、神名の末弟が仲裁仕事を請負って、口銭を取っているなどという噂が流れては、兄の監物の立つ瀬がなかろう。大目玉必至である。それに、小谷家の夫婦喧嘩にこれ以上つき合う必要はない。もらうべきものはもらった。
「では、それがしこれにて失礼つかまつる。お後のことはご心配なく」
「後のことというのは、どういうことですか?」
奥方が聞きとがめたが、平四郎はうやむやにごまかして部屋を出た。
──嫁をもらうときは、よっぽど気をつけねばならんな。
小谷の屋敷を出て、神田川の河岸にむかいながら、平四郎は小谷の妻女のことを思い出している。あたら美人も、額に青筋を立ててひと前でわが亭主を罵るようでは興ざめだ。悋気に心を奪われて、他をかえりみるゆとりがないとみえる。
──しかし、あれで大丈夫かね。
と思った。小谷外記は、妻女と養子見習いの仲之進がくみ親子にしたことを聞くと大いに驚き、憤慨もして、二度と手出しはさせないと約束したが、あの妻女を押さえるのは容易ではあるまい、という気もして来る。
河岸に出た平四郎は、揚場町の木戸を抜けて船河原橋の方に歩いて行った。河岸にある辻番所の灯が、かすかにあたりを照らしているだけで、人通りはもう絶えていた。赤ん坊は、今朝明石の家に預けて来たから、いそいで帰ることもない。
橋が黒黒と見えて来た。その橋の手前でひとが立っている。訝《いぶか》って平四郎は一度足をとめたが、人影が動かないのでそのまま歩いて行った。夜盗か、と一瞬思ったのは、懐に持ちつけない大金があるからだろう。まさか、とすぐに思い直した。
ところが、黒い人影は平四郎が近づくといきなり刀を抜いた。そのまままっすぐに走り寄って来る。何のことかわからないままに、平四郎も抜き合わせた。
斬り込んで来た刀をはね上げる。意外に鋭い打ちこみだった。黒い影は、平四郎のそばをすり抜けたが、すぐに反転して八双から斬りおろして来た。腰が入って、よく刀がのびる。辛うじて平四郎はかわしたが、刀を青眼に構え直したときには、もう落ちつきを取りもどしていた。相手の見当がついたためでもある。小谷と会っている間、蛇のような底光りする眼で平四郎を眺めていた間瀬仲之進だろう。近道を江戸川べりに出て、先回りしたのだ。
「間瀬仲之進だな」
平四郎が声をかけたが、相手は無言だった。じりじりと間合いをつめると、平四郎の剣先を巻き上げるように叩いて、鋭い刺突をかけて来た。
体を傾けてその刺突をかわすと、平四郎は相手の退き足にぴったりついて行った。間瀬と思われる男は川べりに追いつめられた。そして剣を上段に上げると、躍り上がるようにして斬りこんで来たが、一瞬早く身を沈めた平四郎の峰打ちを腹に喰って、苦悶の声をあげながら倒れた。
相手の刀を蹴りとばしてから、平四郎は海老のように腹を抱えている相手の襟をぐいとつかみ上げた。
「おい、奥方は金を取りもどして来いとでも言ったかね?」
「ちがう」
と男は言った。
「小谷の家の種を、ほかに残しておくことはならん」
「バカめが、まだそんなことを言っておる」
平四郎は、仲之進の頬を殴りつけた。
「よし、じゃ言ってやろう。おれをただの素浪人とみたかも知れんが、おれは目付の神名監物の舎弟だ」
こういう言い方は虎の威を借るようで大嫌いだが、時と場合によっては、その名前も使って値打ちが出るだろう、と平四郎は思った。目付の本職は旗本の監察と糾弾である。
「あの親子に万一のことがあったら、家内騒動を理由に小谷の家をぶっつぶしてやるぞ。貴様も小谷の養子になるつもりなら、そのぐらいのことは心得ておくことだ」
「………」
「元も子もなくなるぞ。それでよかったらやってみろ」
間瀬仲之進は、いやと言った。平四郎は、もう一度仲之進の頬をなぐりつけると、立ち上がって刀を鞘《さや》におさめた。振り返ってみたが、仲之進はまだ地面にのびていた。
──どうやら、これでケリがついたようだ。
ちと、殴りようが足りなかったかな、と思ったが、明日明石の家から赤ん坊を受け取り、五十両の金をそえてとどければ、くみは仲之進に加えられた折檻など忘れてしまうだろう、と平四郎は思った。
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過去の男
一
いざ赤ん坊を連れ帰るときになると、明石の妻女は帯を持ち出して、あっという間に平四郎の背に赤ん坊をくくりつけてしまった。
「これじゃ体裁がわるいな」
平四郎はテレた。
「この恰好じゃ、途中ひとがみるだろう」
「体裁など構わないじゃありませんか」
と、明石の妻女は平四郎の抗議を一蹴《いつしゆう》した。
「途中で落っことしたらどうしますか。近間なら抱いても行けましょうけど、馴れない男のひとが鎌倉河岸まで行くのは無理です」
「そうかな?」
「そうですとも」
妻女は、断固とした口調で言った。男はそんなこともわからないのか、と言いたげだった。
明石の妻女は、平四郎よりひとつ二つ年上だろう。すらりとした長身で、なかなかの美人である。押し出しがいい。平四郎はこういう女によわいのだ。気圧《けお》されてしまう。
それに、亭主の明石半太夫本人には、若干のこだわりが残っているが、妻女には今度は恩をうけた。わけのある捨て子を拾い、そのわけというものがなかなかに複雑で、赤ん坊の身に危険が迫ったので、平四郎はよんどころなく明石の家に赤ん坊を持ちこんだ。
妻女は何も言わずに赤ん坊を預かっただけでなく、ずいぶんマメに世話してくれたようである。つやつやと赤い子供の頬をみればわかる。
赤ん坊を背負って町を歩くのは、体裁のわるいことおびただしいが、妻女には抗《あらが》えなかった。なに、いざとなれば途中で背中からおろしてもいいのだ、と平四郎は思い直した。
「では、このまま行くか」
「そうなさいまし。あ、それからおしめはさっき換えましたし、お乳もたっぷり飲ませてあります。途中で泣き出すようなことはありませんよ。それから……」
と言って、妻女は平四郎に風呂敷包みを渡した。
「これは換えのおしめ。それに子供のおもちゃとわたしが縫った着物が入っています」
「や、ご造作をかけて相済まん。いずれ改めて礼にまいる」
「お礼などいりませんよ、水くさい」
明石の妻女は、もと水茶屋勤めの女らしくざっくばらんな口調で言い、改めて土間に降りた平四郎をみると、口に手をあてて笑った。
「なかなかお似合いですよ。神名さま」
「お世話になった。亭主どのによろしく言ってくれ」
子供二人も、妻女と一緒に門の外まで見送って、赤ちゃん元気でね、と手を振り、それにこたえてか、背中の赤ん坊がきゃっきゃっと笑って大さわぎだった。
──何がお似合いだ。
平四郎は憮然《ぶぜん》として歩いた。女房に逃げられたあわれな浪人者という恰好で、何となく下うつむいて町を行く。
──しかし……。
あの妻女は、なかなか出来た女子だ、と思った。あのいかがわしい明石のような男に、えてしてああいうしっかり者の女房がさずかるものだから、世の中はわからん。
首を振って歩いていると、くすくす笑う声がした。顔を上げると、前から来た齢ごろの町娘が二人、眼ひき袖ひき平四郎の方を見て笑っているではないか。平四郎がじろりとにらみつけると、二人は顔を赤くしていそぎ足に擦れちがったが、しばらくすると、またうしろで笑い声がした。
──ふん、笑わば笑え。
平四郎はやけくそで歩いた。はじめは途中でおろそうか、などと考えたのだが、太っている子供なので、北本所から両国に出るまでの間に、背負っている方が楽なのだとさとった。明石の妻女の言うことは間違っていなかったのである。
擦れちがうひとが、さっきの娘たちのように露骨に笑いはしないものの、やはり一瞬妙な顔で背中の赤ん坊をみる。若い男の見栄がある。平四郎はいささか情ないが、くみという女に、赤ん坊と旗本の小谷外記から預かった五十両の金を渡さないことには仕事が終らないのである。赤ん坊を背負って町を行くのも手間のうちだった。
誰かが自分を見ている。平四郎が強くそう感じたのは、両国橋を渡り終って、広小路から米沢町、吉川町の間にさしかかったときだった。平四郎は顔を上げた。
その眼に、米沢町の商家の軒下から、こちらを注視している武家の女の姿が映った。平四郎は足をとめた。一瞬棒立ちになり、声も出なかった。
──や、早苗どのだ。
早苗は、平四郎のもとの許嫁《いいなずけ》で、いまは御家人菱沼惣兵衛の女房になっている女性である。
小旗本である早苗の実家塚原家が潰れて、一家が消息を絶ったあと、平四郎はしばらく行状が荒れた。義姉から小遣いをくすね、遊所に出入りして、町の無頼と刃物沙汰の喧嘩をした。これで決まったと思われた婿入り先が突然に消滅して、神名家のただの冷や飯喰いにもどった失望感のためだけとは言えない。当時十四の早苗は、平四郎にとって初恋の少女でもあったのだ。
義姉のひとことから、最近の早苗の消息が知れ、ついに居場所を突きとめたのが昨年の暮近いころである。五年ぶりの再会だった。と言っても、そのときは一方的に平四郎が早苗の姿を見に行っただけで、言葉をかけたわけでない。むろん早苗は、平四郎に見られたことを知らなかったはずである。
以来平四郎は、早苗には近づいていない。早苗は人の妻である。手のとどかぬ遠い花だった。その前に、むかしの許嫁などという役にも立たない顔をつき出して、早苗の心をみだしてはならない、と平四郎は、こと初恋の女性のことになると、神妙な気持になる。消息が知れていることだけで満足した。
もっとも、早苗はいまも平四郎の気持の底にあって、ずしりと重い存在だが、早苗本人が平四郎をどう思っているかは皆目わからなかった。
実家の取り潰しから、菱沼家の主婦として平四郎の前に姿を現わすまでに、早苗はおそらく暮らしの激変を味わったはずである。その早苗が、ほんの二度ばかり顔を合わせただけの平四郎を、はたしておぼえているかどうかも心もとなかった。会ったところで、神名さまと言いますと? などと怪訝《けげん》な顔をされたりしては、身もフタもない。ひっこみがつかなくなる。
あえて早苗に会おうとしない平四郎の気持の中には、多分にそのおそれがふくまれていたのだが、いま商家の軒下からこちらを凝視している早苗の顔には、はっきりと平四郎を認めた表情がうかんでいる。あえて言えば、早苗は一種物がなしげな顔で、平四郎を見つめていたのである。
だがそれは束の間のことだった。早苗はついと顔をそむけると、足早に軒下をはなれた。うつむいて広小路の人ごみの中に消えるうしろ姿を、平四郎は茫然と見送った。
──ついておらん。
平四郎は憮然として歩き出した。足が重かった。赤子を背負い、手に嵩高《かさだか》な風呂敷包みまで持ったおれの姿を、早苗はなんと見たろうか、と思ったのである。
今日のような偶然の邂逅《かいこう》を避ける理由は何もない。一人だったら、平四郎は存外気楽に声をかけたかも知れないし、早苗だって、声をかけられていまのように逃げるような足どりで立ち去るとも思えなかった。背中によけいな赤ん坊をしょっていたことが、あたら再会の好機をつぶしたようである。
──早苗はおれを……。
多分所帯持ちと見ただろうな、と平四郎は思った。すると、下が汚れて来たのか、それまで静かだった赤ん坊が急に泣き出した。泣き声の大きい子だからよけいにひとが見る。平四郎はみじめな気分だった。
しかし、落ちこんだ気分も、鎌倉河岸にあるくみの叔母の家についたときには、どうやら持ち直していた。
「いや、疲れた、疲れた」
言いながら、平四郎が家の中に入って行くと、出て来たくみがとびつくようにして、平四郎の背中から子供を受け取った。叔母というひとも、まだ三十半ばの女だった。平四郎に、しきりに上がってくれと言った。
「では、お茶など一杯、馳走になって帰るか」
平四郎は茶の間に上がりこんだ。くみの叔母はどういう素姓の女なのか、しもた屋に住んで、家の中も気持よく片づいている。
「あの、お話をつけてもらえたのですね」
さっそくに子供に乳をあたえていたくみが、ふと顔を上げて言った。顔に子供を取りもどした喜びが、おさえようもなくかがやいている。
「つけた、つけた。以後、あんた方親子には、一切手出しせんと誓わせた」
平四郎は懐から五十両の金を出した。
「これは殿さまからの詫び料だ。いや、わしがせびり取ったわけではなく、渡してくれと頼まれたのだ」
うつむいて涙ぐんでいるくみに、その金を握らせたとき、平四郎は、今度の仕事はまあまあうまく行った方だな、とちょっぴり満足した。
二
くみの叔母の手料理で、早目の夜食を馳走になったので、平四郎が村松町の家にもどって来たときは、とっぷりと日が暮れた。
不景気で、裏店の家家はどこも油をケチっているとみえて、窓に灯がともっているのは、木戸に近い祈祷師の家だけである。西空の下の方にわずかに日没の赤味を残している空が、裏店の上では鋼《はがね》をのべたような色に変り、その中にひとつ、二つと星が光っている。
空はまぎれもなく、近づく冬の気配を示していたが、寒くはなかった。風がなく、一日あたたかい日が照りわたったぬくもりが、地上に残っている。
暗い路地をすすんだ平四郎は、家の前に黒い人影がうずくまっているのに気づいた。
「どなたかな?」
立ちどまって声をかけた。
「揉めごと仲裁の神名だが、わしにご用か?」
立ち上がった人影が、はいと言った。女である。
「頼みごとかの?」
「はい」
「や、これはお待たせした。もっと早くもどるはずだったが先方で馳走が出て……」
平四郎は、たてつけのわるい表戸をひと蹴りしてあけると、女に言った。
「待たれよ。すぐに灯をいれる」
平四郎は大あわてで、家に入ると行燈に灯をいれ、火鉢の火を掻きおこして女を家に呼びいれた。
入って来たのは、まだ十六、七と思われる若い女だった。小ざっぱりした縞物の着物を着ているが、その着物は何度も水をくぐったらしく色がさめていて、豊かな暮らしをしているとは見えない。
──女中奉公でもしている娘か。
と平四郎は見た。
「いま、お茶を進ぜよう」
「いえ、けっこうです」
「ま、遠慮するな」
平四郎は台所に立って、暗いところでお茶の支度をした。自分ものどがかわいている。部屋にもどると、考えこむようにうつむいていた女が顔をあげた。
手足が細く、胸もうすくて、少女からやっと大人になりかけた感じの娘だが、眼がきれいだった。黒黒とした眼が、平四郎を見た。
「少しぬるいかも知れんぞ」
平四郎は、火鉢の鉄瓶《てつびん》から湯を注いで、女にお茶を出した。女は頭をさげたが、お茶には手を出さなかった。硬い表情をしている。
「さて、話を聞こうか」
お茶をひとすすりして、平四郎はあぐらになった。
「固くならんでいいぞ。何でも話してくれ」
だが、娘はちらと平四郎を見ただけで、またうつむいてしまった。相談ごとがあって来たが、言おうか言うまいか、まだ迷っているというふうにも見える。
「黙っていちゃわからんな」
平四郎はにが笑いした。この齢ごろの女の子は、何を考えているかわからないから、扱いにくいなと思った。
「いくら秋の夜長でも、だ。そういつまであんたとにらめっこしているわけにもいかんだろう。お前さん、名前は?」
「おあきです」
「おあきさんか。いい名前じゃないか」
平四郎はお世辞を言ったが、ふと気づいて聞いた。
「お前さん、わしのことをどこで聞いて来たな?」
「おとしさんからです」
「おとし? 煮豆屋のおとしか」
これはおどろいた、と平四郎は言った。おとしは表通りの煮豆屋の娘で、男のもつれから首をくくろうとした。去年の暮の話である。見かねた平四郎がひと働きして、男とおとしを結びつけようとしたのだが、今度はおとしの方が薄情なその男を袖にして、話は実らなかった。
そしておとしは、今年の春にはさっさとべつの男に嫁入った。その男というのが、暮の事件でおとしの身を案じて駆けつけて来た幼な馴染みというのだから、男女の縁は測りがたい、と平四郎は思ったものである。
おとしは長崎屋の若旦那を袖にして、せっかくの平四郎の仲裁を無駄にしたが、しかしそのときの平四郎の働きをおぼえていて、悩みごとを抱えた知り合いの娘をさし向けて来たらしい。
おとしの知り合いか、なるほど、と平四郎は思った。それで、若い娘が夜分に男一人の家をたずねて来て、さほど警戒する様子もなく坐っているわけが飲みこめた。おれは、おとしには信用されていたからの、と平四郎は思った。
「すると、お前さんも、そこの表通りの娘さんかね」
「ちがいます。本所から来ました」
「ああ、そうか。向うでの知り合いか」
おとしは本所松坂町の桶屋で働いている参吉という男と所帯を持ったのである。住んでいるところは、桶屋の近くだと聞いた。娘はその近辺で働いていて、おとしと知り合ったということらしかった。
「そうか。おとしの知り合いなら、親身に話を聞かぬといかんな」
平四郎は多少大げさに言った。
「さて、もうよかろう。頼みごとというのを聞こうか」
「………」
娘が小さい声で、何か言った。
「え、何と言ったな?」
身を乗り出した平四郎に、娘は痩せた頬をいくらか赤くして男の名前を言った。
「ふむ、そのひとのことが心配で来たというのだな? わかった。で、その喜太郎というひとは、あんたとはどういうつながりかな?」
「夫婦約束をしています」
おあきは蚊のなくような声で言った。
「夫婦? ほう、夫婦約束……」
平四郎は、茫然と娘を見た。なんと、こましゃくれた娘ではないかと思った。不意に笑いがこみ上げて来て、平四郎は天井を見上げて笑った。
だが笑いやんでおあきを見ると、おあきは少し涙ぐんだ眼で、抗議するように平四郎を見ている。平四郎は頭をかいた。
「やあ、ごめん。笑っちゃいかんな。お前さん、齢はいくつかね?」
「十七です」
「ふむ、それならすぐにも嫁に行けるわけだ。え、嫁に行くのは来年か。なるほど。よし、じゃ、心配の中身を聞くか」
おあきは松坂町の隣、相生《あいおい》町一丁目の一膳飯屋で働いている。喜太郎は、おとしの亭主参吉と同じ親方に使われている桶《おけ》職人で、齢は二十一。毎日おあきの店に飯を喰いに来るので、おあきとは二年越しの知り合いである。
おあきと夫婦約束が出来たのは、今年の春に上野に花見に行ったときだが、秋に入ったころから喜太郎の様子がおかしくなった。
夏ごろまでは、よくおあきを外に引っぱり出して、竪川《たてかわ》の岸を散歩したり、深川の寺に連れて行ったりしていたのに、ぱったりとそういうことがなくなり、近ごろは何となくおあきを避ける様子さえみせる。
欠かさずに昼と夜の飯を喰いに来ていたのに、その飯にも来たり来なかったりで、ことに夜はほとんど家にいない。喜太郎は親方の家の奉公人ではなく、渡りの職人で、川を渡った松井町の裏店に一人で住んでいるのだが、おあきがたずねて行っても、いつも留守である。夜も出歩いているのだ。
「それだけかね?」
拍子抜けして、平四郎が言うと、おあきがええと言った。
「それで? その夜歩きを何だと思っているのかね、あんたは」
「好きなひとが出来たんです。きっと」
とおあきが言った。十七のおあきの顔に、一人前の女のような、分別くさい表情がうかんだ。また笑いがこみ上げて来たのを、平四郎はこらえた。しかつめらしく言った。
「なるほど、それはいかんなあ」
「調べてもらえますか?」
「調べる?」
「ええ、喜太郎さんのしていることを調べて、もし好きなひとが出来たのなら、お説教してもらいたいんですけど」
おやおや、おとしも変な仕事をむけてよこしたもんだと思ったが、むろんそれは平四郎の商売の領分である。
「おとしが、そうしてもらえと言ったのかね?」
「はい」
「よかろう。やってみよう」
平四郎が言うと、おあきは胸もとに手をいれて小さな巾着を取り出した。
「お手間賃はいくらですか?」
「そうさな」
平四郎がおあきの顔を見た。
「お前さんの恋敵《こいがたき》をさがすわけだから、これはさがし物になるかな。とすれば二百文。いやその女から、お前さんのいいひとを取りもどすことになるから、百文の口の取りもどし物になるか。いや、まてまて……」
捨て子の一件で、小谷外記からもらった五両の金が手つかずで残っている。懐があたたかいので、平四郎は鷹揚《おうよう》な気分になっていた。
「あんた、そのことでは喜太郎というひとと、ずいぶん言い合いもしたことだろうな?」
「はい。でも、あたしの言うことなど少しも聞いてくれないのです」
「ふむ、けしからん男だ。すると口論の仲裁料二十文ということになるかな。それでよかろう。手間賃は二十文、おっと、お金を頂くのは万事始末がついたあとだ。その巾着はしまいなさい」
平四郎はおあきを送って、戸の外に出た。星はあるが暗い夜だった。裏店の家家は、平四郎の家と祈祷師の家が灯をともしているだけで、ほかは無人のように黒黒と静まりかえっている。
「ちと、帰りがおそくなったな」
平四郎は夜空を仰いだ。若い娘を、一人で本所まで帰すのが心配になっている。おあきの帰りがおそくなったのには、こちらにも一半の責任があるのだ。
おあきを見ると、大事な頼みごとが終ってわれに返ったというふうに、少し怖《お》じた様子であたりを見回している。
「橋のあたりまで送って行くか」
「すみません」
「待て、ちょっと灯を消して来る」
見送りつきのお客さまである。二十文は安手間すぎたかと苦笑しながら、平四郎は灯を消しに家の中にもどった。
三
ところで、おあきの恋人喜太郎は、おあきが言ったように新しい女に会っているのではなかった。もっと危険なことをしていた。
おあきの頼みをひきうけた平四郎は、翌日本所相生町のおとしの家をたずねると、あらためてくわしい事情を聞いたが、おあきが言ったことは全部本当だった。
おあきは野州《やしゆう》の在から、親戚の一膳飯屋を頼って江戸に出て来た娘で、主人夫婦が親がわりで面倒をみているのだが、働き者で客にも好かれているおあきと、まじめな職人である喜太郎が夫婦約束をかわしたことは、一膳飯屋の主人も承知で、近所のひとたちからも祝福されていたのである。
「しかし、おあきはまだ十七だよ」
平四郎が言うと、おとしは何を言ってんですか、と言って笑った。おとしは幼な馴染みの参吉と結ばれて、すっかり職人の女房らしくなっていた。しあわせそうに見えた。
「女は十五、六になれば一人前ですよ。子供だって生めますよ」
おとしは平四郎の無知をあわれむように言った。
秋ごろから、喜太郎の様子が変ったのも、おあきの言ったとおりだった。おとしの亭主参吉の話によると、喜太郎は桶屋での仕事ぶりが変ったわけではなく、ただしきりに夜外を出歩いているのだという。仲間づき合いが悪くなり、時刻が来るとさっさと仕事をしまい、居残りをいやがる。そして、夜はしょっちゅう家を留守にしている。
「遊びに出るのかね」
「さあ、そこのところが解《げ》せねえんでね」
と参吉は首をかしげた。
「何か、ひとりでこそこそやっている様子なんだが、遊びですかね。そんなに毎晩遊び回るほどの金もねえはずなのに、不思議ですよ」
それだけ聞いて、平四郎はその夜から喜太郎という男のあとをつけはじめたのだが、この尾行は楽だった。喜太郎は、自分が誰かにつけられているなどとは夢にも思っていない様子で、平四郎はうしろから懐手《ふところで》してついて行けばいいのである。
十日も経たないうちに、喜太郎のお目あての人間がわかった。それは深川六間堀町に鼻緒問屋の看板をかかげている鮫島《さめじま》屋長兵衛という男だった。鮫島屋は、下駄、雪駄《せつた》の鼻緒、ビロード鼻緒、革鼻緒と手びろく履物の鼻緒を取りあつかい、あちこちの大名屋敷の御用もつとめて繁昌している。そういう店だった。
主人の長兵衛は、昼は店に坐っているが、夜はお供を一人連れて、大概外に出る。大方はとくい先の接待で、両国の料理茶屋で客をもてなしたり、そこからさらに駕籠で吉原に繰りこんだりする。水野の私娼廃止命令で、散在する岡場所は手痛い弾圧を喰らったが、吉原はこの改革のために、むしろ以前に倍して繁昌しているのである。
鮫島屋長兵衛は、駕籠で出ることもあるが、歩いて外出することもある。喜太郎は、その長兵衛のあとをつけているのであった。その尾行が何のためかも、ある晩の出来事で見当がついた。
その夜、喜太郎のあとをつけて松井町から弥勒寺《みろくじ》橋の方にむかった平四郎は、途中のひと気ない道で、むこうから来た二、三人連れの男たちが、喜太郎にからむのを見た。男たちはしたたかに酔っていて、喜太郎の身体にさわったり、通せんぼをしたりした。
はじめの間、喜太郎はおだやかに男たちの間をすり抜けようとしていた。だが男たちはしつこかった。そしてからかっている間に、男たちは悪ふざけが昂《こう》じてか、それともはじめからそのつもりだったのか、喜太郎の懐に手をつっこもうとしたようである。
だがつぎの瞬間、男たちはぎゃっと叫び声をあげて三方に散った。
「おっかねえな。出刃なんか出しやがってよ」
一人が逃げ腰で、うしろにさがりながら言った。
「からかっただけだ。そこまでやるつもりはねえぜ。気味のわるい野郎だ」
暗くて、平四郎からは喜太郎の手もとは見えなかった。だが男の声はよく聞こえた。喜太郎は出刃庖丁を懐にして、夜な夜な鮫島屋長兵衛のあとをつけ回していたのである。
翌日、平四郎はまたおとしの家をたずね、ちょうど昼飯を喰いにもどって来ていた参吉に会った。
「喜太郎は、もとからの桶職人かい?」
と平四郎は聞いた。
「以前はお店者《たなもの》か何かじゃなかったのかね?」
「いや、根っからの職人ですよ、旦那」
と、参吉は飯を掻きこみながら答えた。
「渡り者だが、腕はたしかな男だ。ちゃんと修業してます」
「ふーむ」
平四郎は首をひねった。
「喜太郎の口から、鮫島屋という名を聞いたことはないかね?」
「鮫島屋? そいつは何者です?」
「六間堀の鼻緒屋だ。なかなか羽振りのいい店だよ」
「聞いてませんなあ」
「喜太郎の素姓で知ってることはないかね? たとえばどこの生まれとか……」
「さあ、生まれは芝だと言ってたなあ。ほかのことは知りませんよ」
「芝のどこだえ?」
「三島町と言ったかな? いや、七軒町だったかも知れねえな。あとで聞いてみますか?」
そうしてくれ、と平四郎は言った。亭主に飯を給仕していたおとしが、心配そうに言った。
「何か、めんどうなことになるんですか?」
「いやいや、大したことはない。心配はいらん」
と言ったが、平四郎はこれは二十文の仕事じゃなかったかなと思っていた。
四
江戸も場末のあたりでは、何軒かの料理茶屋が改革で転業を強いられたと、噂があった。しかし東両国の一帯は、まだそこまではいかず、料理茶屋も店をひらいていたが、お上をはばかってか軒行燈をはずしたり、早目に灯を消したりするので、あたりは暗かった。
町が暗ければ人通りも少なく、まだ五ツ(午後八時)というのに、橋詰から広場一帯、料理茶屋や喰べ物屋などが並ぶ一角まで、しんと静まって、むかしにくらべるとひとかたならないさびれようである。
わずかに橋番屋と元町の伽羅《きやら》屋の店先から洩れる灯が、町の一角を照らしている。そのうす暗い町を、両国橋を渡って来た駕籠が二挺、ひっそりと広場を横切って料理茶屋初花の前にとまった。
その駕籠を待っていたらしい。初花の前に急に灯のいろが動き、あわただしい人声と足音が乱れた。駕籠を呼んで客が帰るところである。どれが客か、平四郎が立っているところからは見えなかったが、やがて駕籠が上がり、店の者たちの口口の挨拶の中を、両国橋の方に去って行った。
灯と一緒に、見送りの人間が店の中に入り、戸が閉まる音がして、あたりはまたもとのうす暗い町にもどった。
その一部始終を見とどけてから、男は物陰から道に出て来た。うす暗い道に立って、ちょっとの間思案するようにも見えたが、男はすぐに橋に背をむけ、平四郎が隠れている方にもどって来た。うつむいたまま、すたすたと草履の音を立てて平四郎の前を通りすぎた。一ツ目橋の方に行くようである。
平四郎は男をやり過ごし、しばらくうしろ姿を見送ってから後をつけた。前を行く黒いうしろ姿は、桶職人の喜太郎である。
喜太郎は一ツ目橋を渡った。そして、すぐに河岸を左に折れた。家にもどる足どりは速かった。そのあたりも、改革がはじまる前は、八郎兵衛屋敷の女郎屋を目あてに男たちが群れあつまり、ござを抱えた夜鷹《よたか》なども出没して夜おそくまでにぎわった場所だが、いまは死んだ町のようだった。どこからか洩れる明かりが、時おり眼を横切るだけで、すれ違うひともいなかった。
喜太郎は松井町の一丁目を通りすぎて、六間堀にかかる真名板《まないた》橋を渡った。橋を渡れば、住む裏店がある二丁目である。
喜太郎が橋を渡り切ったところで、平四郎はうしろから声をかけた。
「晩飯がまだじゃないのかね」
喜太郎はぎょっとしたようである。すばやく振りむいた。立ちどまってじっと声の主を見ていたが、平四郎が近づくと逃げそうにした。手が懐に行く。
「物騒な真似はやめてくれ」
と平四郎は言った。
「わしはおあきに頼まれて、お前さんに会いに来た者だ」
「………」
「参吉の女房の実家の近くに住んでおる者でな。神名平四郎と申す。おとしに名前を聞いておらんか」
つぎつぎに知り合いの名前を言ったのが利いたか、喜太郎は懐から手をひいた。
「そう、そう、べつに怪しいもんじゃない。あそこに灯が出てるのは、そば屋かな」
と平四郎は言った。そこから見える通りの右手に、喰い物屋らしい行燈が出ている。
「冷えて来たから、そばでも喰おうじゃないか。お前さんに話があるのだ」
「おれは話すことなんぞねえぜ」
と喜太郎が言った。
「ま、そう言わずにつき合え」
平四郎はそう言うと、喜太郎の前をずんずん通りすぎて、地面に行燈を置いてある店に歩いて行った。はたしてそば屋だった。立て行燈の腹に、うどん、そばきりと書いてある。
「やっぱりそば屋だった」
平四郎は振りむいて、喜太郎に笑いかけた。
「わしは、こういう勘はよく働く方でな。金や女のことじゃ、勘がいいとは言えんが」
喜太郎は、うさんくさそうに平四郎の顔を見ていたが、平四郎がのれんをわけて中に入ると、のっそりと後につづいた。女子供のように逃げ隠れも出来まいと思った様子である。
「何にするかな?」
平四郎が聞くと、喜太郎はそっけない口調で何でもいいと言った。
「おやじ、かけうどんを二つくれ」
と平四郎は言った。この仕事は、出来て手間二十文である。いろいろな調べで、すでに足が出ている。喜太郎にも、そんなにうまいものを喰わせることはないのだ。
「おつゆを熱くしてな。つゆのぬるいのはいただけんぞ」
釜場のおやじが気のないような返事をした。客は二人だけである。そろそろ店をしめようかと思っていたところに飛びこんだか、二人はさほど歓迎されている様子ではなかった。
「鮫島屋長兵衛を狙ってるな?」
飯台にむかい合うと、平四郎はずばりと言った。喜太郎が顔を上げた。
喜太郎は肉づきのいい身体をしているが、太ってはいない。職人らしくかっちりとしまった体格で、顔にはまだいくらか童顔が残っている。若若しいその顔に、はげしい動揺のいろがうかんだ。
「そのわけも調べた。お前さんが鮫島屋を恨むのも無理はない、と思ったね」
と平四郎は言った。
喜太郎の家は、芝七軒町で麻と苧《からむし》を扱う小さな問屋をしていた。生駒屋と言った。だがある年に仕入れに見込み違いを来たしたのが原因で、急に店が傾くのである。品物の仕入れがうまく行かないのをさとった生駒屋の主人は、そのとき無理な借金をして遠国から品物をかきあつめたのだが、その借金先が悪質な高利貸しだった。みるみるうちに利息がふくれ上がり、主人は来る日も来る日も利息払いに追われたが、借金は少しも減らなかった。かえって少しずつふえて行った。当然商いが乱れる。支払うところに払えず、もらうべきところから金が入らなかった。高利貸しが、取引き先まで手を回しはじめたのである。
噂を聞いて品物を買い叩く同業者が出て来た。黙って取引きを切る店が現われた。つぎの仕入れの時期が来たが、主人の手もとには仕入れに回す金は、一両も残っていなかった。その間にも、借金は利息を呑みこんで無気味にふえつづけた。蜘蛛の糸にかかった羽虫同様だった。
高利貸しの名前は百蔵と言った。痩せて背が高く、声の大きい男だった。百蔵は三日にあげず喜太郎の家に現われて、返済を迫って家の者がふるえ上がるほどの大声を出した。半狂乱のうちに、生駒屋の主人夫婦、つまり喜太郎の両親は首をくくって死んだ。小さな問屋がつぶれたあとに、まだ五百両の借金が残っていた。
「お前さんが五つの時だそうだな。残ったお前さんが音羽にいる遠い親戚に預けられたことも聞いたよ」
うどんが来たので、平四郎はどんぶりを引きよせたが、喜太郎は手を出さなかった。青ざめた顔をうつむけている。
「百蔵というのは、そのころ西久保の方に住んでいたんだが、悪いやつだったそうだ。金はいくらでも持っていて、愛想よく言いなりに貸したが、利息は目の玉がとび出るほどの高利だったらしい。ほんのいっときと思って借りた連中が、みなつぶれたという話を聞いたな。取り立てにかかると、まるで鬼だったそうだ」
平四郎はうどんをすすった。喜太郎にもすすめたが、喜太郎は喰う気をなくしたようである。箸もとらなかった。
「その百蔵が、いまの鮫島屋の旦那とはおどろいたね。鮫島屋は、高利貸しの前身をひた隠しにしていて、町役人にも大金をつかって口どめしているそうだよ。もっとも、わしも金をつかませて、その町役人の一人から聞き出したんだがね」
「………」
「鮫島屋が、いまの町に店を持って十五年になるそうだ。あんたの家がつぶれたころに身分を隠していまの町に移って来たわけだ。しかし、金が出来ると、人間人相まで変るものかね。いまは相撲取りのように太っている。むろん齢もとったが、むかしの面影はまるでないと聞いたよ。お前さん、よく百蔵とわかったな」
「ひとに聞いたのだ」
「ふーむ、それで親の敵討《かたきう》ちを思い立ったかね。だが、そいつは考えものだぞ」
いらないんなら、わしが喰っていいか、と平四郎が言うと、喜太郎がうなずいた。平四郎は喜太郎のどんぶりを手もとに引きよせた。
「大いに考えものだ。相手がいくら悪辣な男でも、刺せばあんたもお仕置きをまぬがれんぞ。所帯を持とうと約束したおあきはどうなる? 悪党になどかまわずに、おあきと一緒になれば、ごくまっとうな暮らしが出来ると思うがね。これぞといった女子もおらんわしからみると、うらやましい話だ」
平四郎は、自分のグチも述べた。のびてしまって、味の失せたうどんを、半分ぐらいで喰うのをやめて、じっと喜太郎を見た。
「おあきはいい娘だ。しあわせは眼に見えているのだ、喜太郎。ここは考え直した方がよくはないか」
五
「旦那はむかし、西久保へんで金貸しをしていたそうですな」
挨拶を終えた平四郎が、いきなりそう言ったときの鮫島屋長兵衛の狼狽ぶりは見ものだった。
長兵衛は驚愕《きようがく》のいろを露わにして、平四郎の口をふさごうとでもするように、腰をうかして手をのばしかけたが、すぐにその手をひっこめると、きょろきょろと店の方を窺った。つぎには、さっきは愛想もなく迎えたむっつり顔に、無理な笑いをうかべて、胸をそらせた。
長兵衛は、やっと体勢を立て直したという顔で言った。
「不思議なことをおっしゃいますなあ。どこからそんなことを聞きましたかな?」
「不思議って言い方はないだろう、鮫島屋さん」
平四郎は無表情に言った。
「血も涙もない高利貸しだったというじゃないか。なに、隠すことはないよ。隠されちゃ話がすすまん」
「そうですか」
と長兵衛は言った。顔も手足も大きい巨漢だが、頭の回転ははやいようである。しばらくうつむいてから言った。
「いえ、べつに隠すわけじゃありませんが、急にむかしのことを言われてはびっくりします。たしかにひとに金を貸していたことはありますが、それはむかしのことで、近ごろのあたしは、そんなことは忘れて商いに精出しているものですから」
鮫島屋長兵衛は、そう言うと肉の厚い顔に小ずるいような笑いをうかべた。
「それに、誰にだって思い出したくない古傷のひとつや二つはあるものです。芝で金貸しをしてたとき、あたしゃまだ若かった。無分別な商売もしましたから、そのころのことは思い出したくもないのです」
「それで名前まで変えたというわけだ」
平四郎は、長兵衛のうさんくさげな思い入れなどにはかまわずに言った。
「そりゃ思い出したくはないだろうさ。ひとを泣かせ、店をつぶし回り、蝮《まむし》の百蔵と言われたそうだからな」
むかしの名前を言われて、長兵衛がつめたいものを踏んづけたような顔をしたのも無視した。平四郎は部屋の中の調度や天井、襖までじろじろと見回してから言った。
「ひとから血とあぶらをしぼり取ると、こういう立派な家が出来るわけだ」
「それはちと、言い過ぎじゃありませんかな」
長兵衛は怒らなかった。かわりににたにた笑いながらそう言った。隠しても同情をひこうとしても無駄だとさとって、ちらと本来の素顔をのぞかせたようでもある。
長兵衛は首をつき出して、平四郎の顔をのぞくようにした。五十を過ぎているだろうが、頭こそ白いものの肩はまるく盛り上がって、肉の厚い赤ら顔はてらてら光っている。眼をほそめて笑いかけて来る長兵衛の顔には、うす気味のわるい迫力のようなものがあった。
「神名さまのご商売は、何とおっしゃいましたかな?」
「揉めごと仲裁だ。何かのときに役立たぬものでもないから、おぼえておいてくれ」
平四郎が商売の披露目を言うと、長兵衛はうなずいた。
「で、あたしのむかしのことは、誰に聞きました?」
「それは言えんなあ」
「すると、今日のご用は?」
長兵衛のにたにた笑いが大きくなった。
「金ですかな?」
「そりゃ違う、鮫島屋」
と平四郎は手を振った。
「わしは、ゆすりたかりは働かん。いろいろと言ったのは、お前さんに手っとり早くむかしのことを思い出してもらうためだ。むろん商売で来ておる」
「ご商売?」
「お前さん、ひとに命を狙われていたのを知っていたかな?」
「まさか」
と言ったが、長兵衛は笑いを消した。
「誰です? そんなバカなことを考えているのは」
「芝の七軒町に生駒屋という店があったのをおぼえているかね。麻を扱う小さな問屋だったそうだが」
「生駒屋?」
長兵衛は首をかしげたが、やがて、ああ思い出しました、と言った。
「小さな店なのに、二百両という大金を貸したので、取り立てに苦労しましたよ」
「じゃ、そこの主人夫婦が、借金に責められて首をつったのもおぼえているだろうな」
「さあ、そこまでは知りません。忘れました」
長兵衛は冷淡な声で言った。
「そこまでいちいちおぼえていては、あの商売は出来ませんです。すると何ですか? その生駒屋の誰かがあたしを怨んで、殺そうとしているとでも言うのですかな?」
「まあ、そうだ」
「誰か知らないが、浅はかな気を起こすものだ」
口調もひややかだったが、長兵衛の顔を、一瞬ひどく冷酷ないろがかすめて過ぎたように見えた。
「金貸しばかりが悪いように言われますが、神名さん、借金というものは借りる者がいなければ成り立ちませんよ。貸せば利息を取るのは金貸しの商売です。貸し借りのもつれの半分は、借りた方にも責任があるのに、世間はそこをみようとしませんな。いまごろ、ひとが首をくくったのがどうこうと言われるのは、あたしゃとんだ迷惑です」
「じゃ、ほっとくかね?」
「え?」
「いや、ひとの命を狙うとはおだやかなことじゃないから、先方の男を説きつけてな、お前さんと手打ちに持って行こうかと思って来たのだが、お前さんが、べつにわるいことをしたわけじゃない、構わんでくれというなら、わしがしゃしゃり出ることはない。手をひいたっていいのだ」
「それは困ります」
と長兵衛は言った。思案するようにじっと平四郎を見たが、またにたにた笑い出した。よくみれば底に何を隠しているかわからないような、邪悪な笑顔だった。
「神名さん、相手の男というのはどなたです?」
「おれをなめてもらっちゃ困るな」
平四郎も笑い返してやった。
「おだやかに話をつけてくれと言うんなら、会わせもするが、ここで名前を言うわけにゃいかん」
「手打ちで何をやろうというのです? あたしから金でも取りますかな」
「お前さんは、金のことしか頭にない男のようだが違うね」
と平四郎は言った。
「相手は、死んだ生駒屋夫婦にすまないことをしたと、お前さんから詫びの言葉を聞きたいそうだ。そのひと言を聞けば気がすむのではないかと、これはおれが言ってやったのだがね」
「詫びる?」
長兵衛の顔が、不意に真赤になった。
「この鮫島屋が詫びるだって?」
「鮫島屋じゃないよ。詫びるのは、蝮の百蔵さ」
ずけずけと言う平四郎の顔を、長兵衛はしばらくにらんでいたが、やがて肩の力を抜いた。
「わかりました。腑に落ちない話だが、あたしも誰とも知れない男に、命を狙われたりしては間尺《ましやく》に合いません。おっしゃるとおりにいたしましょう」
「じゃ、おれの方で会う段取りをつけていいんだな?」
「ちょっと待ってください」
と長兵衛は言った。
「この手打ちの仲裁料はおいくらですか?」
「仲裁料? そんなものはいらないよ」
と平四郎は言った。
「この件じゃ、お前さんの汚い金はもらいたくないね」
「それじゃ、手打ちの場所はあたしにまかせてもらいましょうか。一席設けさせていただきます」
「それはかまわんだろう」
「明後日の六ツ半(午後七時)、場所は東両国の初花でどうですか?」
「けっこうだ。こういうことは早い方がいい」
「神名さま」
長兵衛は、ほそめた眼で平四郎をじっと見た。
「その男が、この鮫島屋が金貸しの百蔵だと、どこから聞き出したか、ご存じありませんか」
「さあ、知らんな」
「そのことを知っているのは、このあたりではほんの二、三人しかいないはずです。不思議だ」
「気になるんなら、会ったときに聞けばいいだろう」
言い捨てて、平四郎は立ち上がった。鮫島屋は、一緒にいると不快さがつのって来るような男だった。
六
鮫島屋が神妙に詫びを言って、手打ちはとどこおりなく終った。言葉どおり、一席設けてあったが、話合いがついたから、それじゃ愉快にやろうという集まりではない。酌をする女たちの手前、二、三杯盃をふくんだだけで、平四郎と喜太郎はすぐに料理茶屋初花を出た。
「見たとおり、殺すほどの値打ちもない男さ」
と平四郎は言った。喜太郎は、はいと言った。
「ま、不満はあるだろうが、あのとおり頭をさげて詫びを言ったのだから、勘弁してやれ。むかしのことを言っても仕方がない」
「ご厄介をかけちまって」
と喜太郎は言った。
店の前で右と左に別れると、平四郎は橋の方にむかった。星も見えない曇り空だが、暗い中に、ぼんやりと白く橋板がうかび上がっている。
その橋の途中にひとがいた。二本差しの侍である。その男は、橋の欄干によりかかって、身を乗り出すように川を見ていた。
──何だ、いまごろ。
ひとと待ちあわせてでもいるのかな、と思ったとき、男がくるりと平四郎に向き直った。そして抜き打ちに斬りつけて来た。
間一髪で、平四郎はかわした。かわしたときは抜き合わせていた。男に気づいたからよかったのだ。ぼんやり考えごとでもしていたら斬られたろうと思った。
「おい、辻斬りか」
声をかけたが、相手は答えなかった。無言のままじりじりと間合いをつめて来る。橋板を擦るかすかな足音に、男が刀を使い馴れている気配があった。
「神名という者だ。人違いはごめんこうむるぜ」
平四郎は言ってみたが、男はまた斬りこんで来た。青眼の構えから、すいと踏みこんで、すばやい剣が肩を襲って来た。平四郎ははね返したが、体が入れ替って欄干を背にしょった。すかさず男が正面から打ちこんで来たが、平四郎が体を沈めたので、男は打ちこみを途中でとめ、うしろに跳ぼうとした。その瞬間、平四郎の峰打ちの一撃が正確に男の腹を叩いた。うっとうめいて、腹を抱えると、男はそのまま橋板の上に横転した。
男の腹に一撃を叩きこんだとき、平四郎はすべるように三間ほど横に走ったが、そこで踏みとどまると刀を鞘《さや》におさめた。
「おい、貴様何者だ」
声をかけたが男は答えなかった。かすかなうめき声を洩らしながら、懸命に起き上がろうとしている。のびたさかやきが見えた。平四郎と同様の浪人者らしい。
そばに行きかけて、平四郎はふと足をとめた。
──長兵衛だ。
そう思ったとたん、血が逆流する思いを味わった。これでもいまは、大名のお屋敷にも出入りさせてもらっています。くれぐれもむかしのことはご内分にねがいますよ、と言った長兵衛の声と顔を思い出している。神妙な声とは裏腹に、長兵衛の眼は蛇のように喜太郎にからみついていたのだ。
長兵衛は、仲直りするために喜太郎に会ったわけではあるまい。むかしの自分を知っているのが、どんな人間かをたしかめたかったのだ。そして、会ったあとは二人を消す段取りをつけていたに違いない。それがこの男だ。
身をひるがえして、平四郎は暗い町を疾駆した。喜太郎の身に危険が迫っている、と思った。長兵衛は平四郎にさえ、刺客をむけて来たのだ。過去を知るだけでなく、自分に怨みまで抱く男の存在は、いつか自分にとって命取りになりかねない、と思ったとしても不思議はない。
松井町一丁目。竪川べりの暗い河岸の道を、黒く大きい人影が行くのが見えた。その先に動いているのは喜太郎だろう。
──長兵衛だ。
平四郎はそのまま走った。ちらと振りむいた長兵衛が、思いがけないすばやい身ごなしで、前に走るのが見えた。蝙蝠《こうもり》のように、ふわりと黒いものが宙をとんだのは、羽織をぬぎ捨てたのだ。
「喜太郎、あぶないぞ」
平四郎は叫んだ。喜太郎があわてて横に逃げた。夜目にも鈍く光る匕首《あいくち》をふりかざして追う長兵衛の前を、勢いあまって平四郎は走り抜けた。
長兵衛の悲鳴が闇にひびきわたった。走り抜けざまの峰打ちが、長兵衛の腕の骨を砕いたはずである。
「二十文でけっこう」
と平四郎は言った。村松町与助店の平四郎の家の前で、喜太郎、おあきの二人と押し問答をしている。
「いえ、それじゃあんまり」
と喜太郎が言うのに、平四郎は手を振った。
「いいんだ。今度の仕事は損得ずくでやったことじゃない」
「そうですか。でも……」
「それより、二人の祝言《しゆうげん》はいつごろになるのかね」
「少し早くすることにしたんです」
はにかみながら、おあきが言った。この前見たときは、痩せっぽちの子供っぽい女だと思ったが、喜太郎とならんでいるところをみるとそうでもなかった。
おあきには、若い娘のそこはかとない色気がまつわりついている。それは、いまおあきがしあわせな気分でいるせいかも知れなかった。
「年明けの三月には所帯を持とうと決めました」
「それはよかった」
平四郎は若い二人を眺めた。二人のしあわせにひと役買っているというのは、悪い気分のものではなかった。余分の金なんかとれるものじゃない。
「それはそうと、上がらんか。何もないが」
「いえ、これから浅草寺に行きますので」
と喜太郎が言った。
「そいつはうらやましい」
と平四郎は言った。晩秋のあたたかい日射しの中を、何度か頭をさげて帰る二人を見送ったが、ふと思いついて声をかけた。
「所帯を持ってだ、夫婦喧嘩が起きたようなときは、またわしを頼め。口論の仲裁二十文だ」
しあわせそうな笑い声を残して、二人は木戸を出て行った。
──ま、一段落だな。
と平四郎は思った。鮫島屋長兵衛は悪辣な男だったが、今度こういうことをしたら、お上に突き出すぞと脅してある。腕を折られて、いささかこっちのこわさも思い知ったろうし、もう喜太郎に手出しすることはあるまい、と思った。
平四郎は腕をさし上げて、大きなあくびをした。一緒に浅草寺参りをする相手もいないのだから、あくびでもするしかしようがない。
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密 通
一
女のすすり泣きを耳にしたようである。神名平四郎は足をとめた。神田紺屋町の糸屋の隠居所、つまり北見十蔵の仮住居の前である。
──何だ?
平四郎は聞き耳を立てた。北見は、平四郎からみると女嫌いではないかと思われるほど、身辺に女っ気が乏しい暮らしをしている男で、その住居から女の泣き声が洩れて来るなどは、およそ似つかわしくないことだった。
もっとも北見は寺子屋の師匠である。たずねて来ているのは、子供の母親かも知れなかった。子供たちを送り迎えする母親たちが、お師匠さんの殺風景な暮らしぶりを見かねて、時おり掃除をしたり、喰い物を差し入れたりしているのを、平四郎は見かけることがある。泣いているのはそういう女房の一人で、家の中のグチ話を聞かせているのかも知れない。
平四郎はそうも思ったが、どっちみち具合わるいところに来合わせたようだった。
──出直すか。
べつにいそがしい用があるわけではなかった。底つめたい師走の曇り空を見上げて、平四郎が踵《きびす》をかえそうとしたとき、不意に戸が開いて、北見と女が出て来た。
「やあ」
平四郎は何となくバツの悪い笑顔をむけたが、北見は例によってむっつりしているだけで、女の方も突然の人影におどろいたように、ちらと平四郎を見ただけであった。軽い会釈を残して平四郎の前を通りすぎた。齢は三十近くにみえる。武家の女だった。
「中で待っていろ、すぐにもどる」
言い残して、北見が女の後を追って行った。塀の外まで見送るつもりらしい。
──何だこれは?
平四郎は、狐につままれたような顔で、家の中に入った。女が、細面の品のいい顔をした美人だったことに度胆を抜かれている。どこで知りあった女か、北見もなかなか油断はならないと思った。
家に入ると、平四郎は台所から茶碗を持って来て、部屋に出ている茶器から勝手にお茶をついだ。箱火鉢の中の鉄瓶《てつびん》に、湯がたぎっていた。炭もたっぷり使っていて、寺子屋の師匠は揉めごと仲裁屋よりも懐具合が潤沢《じゆんたく》であるらしい。
平四郎は障子をひらいて縁側に出た。池の中の鯉を眼でさがした。ゆっくり泳ぎまわっている鯉もいたが、鯉は大部分大きな石のそばに、折り重なるようにあつまったまま、じっと静止している。時おりその中の二、三尾が尾を動かすぐらいで、鯉のむれは、水の中に得体の知れない黒黒としたものが沈んでいるようにも見えた。
──魚は冬籠《ふゆごも》りか。
おれの方は、もうひと働きしないと、冬籠りというわけにはいかんな、と平四郎が思ったとき、入口に物音がして、北見がもどって来た。
刀も帯びず、このごろは惣髪《そうはつ》にしている髪をうしろで束ね、袖無し羽織を着た北見は、寺子屋の師匠というよりも、医者のように見えた。気むずかしい顔をしている。
障子を閉めて、平四郎は部屋にもどった。
「誰だ? さっきの美人は?」
腰をおろしながら、平四郎は無遠慮に聞いたが、北見はじろりと平四郎を見返しただけだった。火鉢のそばにきっちりと坐ると、自分もお茶をついで飲んだ。
ふむ、言わぬ気だな、と平四郎は思った。隠されるとよけいに知りたくなる。
「水くさいな、おれにも言えんような仲の女子か」
「………」
「おどろいた、おどろいた。貴公に、あんな美人の知り合いがいたとはな。これだから世の中、油断がならんのだて」
「む」
と、北見が口の中でうなった。やっと顔を上げると、そっけない口調で言った。
「大げさに言うな。あれは家内だ」
「家内? ほう?」
平四郎は唖然として北見を見た。
「貴公、奥方がいたのか?」
「………」
「国元から出て来たのだな?」
平四郎は、部屋の隅に置いてある風呂敷包みをちらと眺めた。
「あんな美人の奥方を国元に置いて、よく一人で江戸にいられるな」
「いや、家内と言っても、いまは縁を切った女子だ。他人だ」
生の感情をめったに外に出さない北見が、めずらしく額に苦しげな皺を寄せた。だが、それは一瞬だった。北見はいつもの淡淡とした表情にもどって言った。
「そのことは、これ以上聞くな。いつか話す。それよりは、ちとほかに相談がある」
「……?」
「貴公は、道場のことはもうあきらめたのか?」
「おれ? いや」
平四郎は憤然として首を振った。
「あきらめたわけじゃない。そもそもは道場をやるということで家をとび出したのだからな。こういうやりくり商売で日を送るのは本意じゃない。しかし道場をやるには、金がいるだろう。どうにもならん」
はじめに道場を経営するという話が出たとき、明石半太夫が二十両出すと言った。その二十両の元手に、北見が十両、平四郎が五両の金を積んで話に乗ったのである。
だが、いまいささか市井の暮らしの塩辛さに馴れた眼で眺めると、平四郎はいまならまず、ざっと、五、六十両の金は必要だと思わざるを得ない。しかるべき建物を借り、道場むきに多少手直しもし、竹刀《しない》、防具などの稽古道具もそろえる、となると、明石があのとき、いとも簡単に言ったような、四十両もあればよか、ということではおさまりそうもないとわかる。
明石がああ安いことを言ったのは、はじめから二人を騙《だま》しにかけるつもりだったからではないかと平四郎は疑っている。そして五、六十両の金となると、平四郎には手のとどく金額ではない。
「むろん、金がいる」
と北見が言った。
「しかし、三人がその気になってかかれば、すぐには無理でも、三月、半年の後には何とかなりそうなものだ」
「ちょっと待て」
と平四郎はけわしい声を出した。
「三人というと、あの半太夫を誘うつもりか?」
「声をかけぬわけには行くまい。成行きというものがある」
北見は少しも動じない顔で言い、それに金のことにしても、明石抜きでは無理だと言った。平四郎にもそれはわかる。わかるので舌打ちした。
「また騙されても知らんぞ」
「もう騙されはせん」
北見はめずらしく、きっぱりと言った。
「それに、金のことも何だが、明石は明石で使い途《みち》がある」
「ふむ、あのひげだな」
と平四郎は言った。道場を構えるといっても、北見は表に出たがらない人間だし、平四郎は腕には自信があるものの、道場主という柄ではない。その点明石の押し出しは立派なものだった。どこに出してもはずかしくない。
「よかろう」
明石のひげとひと回り太った堂堂とした体躯を思いうかべながら、平四郎は言った。
「ただし、明石が言ったような、四十両などという金じゃ、ちょっと道場は持てんぞ」
「いくらぐらいかかるかの?」
「ざっと六十両か。ぎりぎり押さえても五十両はいるな」
「ふむ」
北見はあごを撫《な》でたが、すぐに言った。
「半金ほどは、わしが出せると思う」
「おい、おい。ほんとかね?」
平四郎は眼をむいた。
「寺子屋の師匠というのは、そんなにもうかるのか? それとも、何か悪いことをしたんじゃあるまいな。気味が悪い話だ」
「悪いことなどせん」
北見は無表情に言った。
「家内、いやさっき来た女子が、暮らしの足しにと少し金を置いて行った。だが、わしには不用の金でな。それで道場のことを思い出したわけだ」
「ふむ」
「一度、三人で相談してみるか」
「いいだろう」
と言って、平四郎は腕組みを解くと、窺うように北見の顔を見た。
「しかし、道場をひらくとなると、当分国には帰らんということだな。それでかまわんのか?」
北見は平四郎の顔から眼をそらした。むっつりしたまま答えなかった。
二
北見十蔵に飯を炊かせて、早目の夜食を喰い、もとの妻女が持ってきたという胴着を一枚わけてもらって、平四郎が家にもどったのは六ツ半(午後七時)ごろである。
日中も底冷えしたが、暗くなると夜気はひしと寒くなった。平四郎は暗い道を鼻水をすすりながらもどって来たのだが、寒いからといって、夜具に這いこむには少少時刻が早いようだった。
「まず部屋をあっためて……」
一服するか。ひとりごとを言って、長火鉢の灰を掘り起こしてみたが、火は消えていた。鉄瓶の湯もさめて、つめたくなっている。
平四郎は、台所に入って竈《へつつい》に火を焚《た》いた。湯をわかす間、手をかざして竈の火であたたまると、ようやく身体を縛っていた寒気が抜けた。その勢いで、洗い桶に突っこんだままの茶碗や箸、小鉢などを洗い、ついでに鍋釜も洗って、明日の朝の米をといだ。
「道場か……」
一度は夢とあきらめた話だが、北見十蔵の意外な言葉で、また手がとどきそうな距離にもどって来た気配を平四郎は感じる。あの吝《しわ》くて油断のならない明石が、この話を聞いてどう出て来るかという問題が残っているが、明石も乗気で、過去の醜行を恥じて多少は多目の金を負担するということにでもなれば、決してまとまらない話ではない。すでに半金は北見の懐にあるのだ。
おれも倹約して金をため、せめて十両ぐらいは持ち分として出さなきゃ大きな顔は出来まい、と平四郎は思った。気楽な一人暮らしで、ちょっとした金が入ればすぐに飲みに出たり、まだ安い金で遊ばせる女がいると聞きこむと、遠い深川の場末まで走って、いかがわしい店で遊んでくるなどということもしたが、思えば無駄な金を使ったものだ。
あれをそのままためこんでいたら、いまごろは暮らしたほかに十両足らずの金は残っていたはずだと、平四郎は胸の中でみみっちい金勘定をしながら、竈の燠《おき》を火鉢に移し、わいた湯でお茶を入れた。
そのかわり、道場を持ったら今度は身を固めなきゃ、とも思った。誰にも縛られない一人暮らしほど気楽なものはないが、喰わんがためとはいえ、この寒い季節に台所でこちょこちょ水仕事をやるのはかなわん。そう思ったとき、ついこの間、米沢町の路上で見かけた早苗の顔がうかんで来たのに、平四郎はあわてた。
「いかん、いかん。あのひとはいかん」
平四郎は、大声でひとりごとを言うと、頭を振って、北見十蔵からもらって来た風呂敷包みをひき寄せた。
北見がくれた胴着は、仕立てたばかりのものだった。あたたかそうに綿が入っていて、軽い。二枚あるから一枚やろう、などと北見は気軽に言ったが、平四郎には、その胴着があの妻女が別れた夫のために自分で仕立てた物のように思われる。
──どういう夫婦なのか。
北見が何も話さないからわからないが、背後にはおそらく複雑な事情があるに違いない、と思いながら、平四郎が胴着を眺めていると、入口の戸が小さく鳴った。
風かと疑ったほど小さな音だったが、耳を澄ましていると、またほとほとと戸が鳴った。遠慮深げな物音は、裏店の者ではなく外からの客のようである。茶碗を猫板に置いて、平四郎は立ち上がった。
──まさか……。
胴着が惜しくなって、北見が取り返しに来たわけでもあるまい、と思いながら、平四郎は土間に降りて戸をあけた。
すると軒下にいた黒い人影が、黙って頭を下げた。小柄な町人|髷《まげ》の男である。
「どなたじゃな」
平四郎が言うと、男は女のように細くはっきりした声で、美濃屋八兵衛と申します、と言った。
「夜分、おそれいりますが、こちらが仲裁屋さんとうかがって、頼みごとに参りました者でございます」
「や、お客さんか」
もっと早く気づくべきだったのだ、と平四郎は心中で舌打ちした。道場の話が出たり、北見十蔵の妻女という女を見かけたりして考えることが多く、今夜はつい商売気がお留守になっている感じだが、むろん道場を持つ話にしろ、身を固める思惑にしろ、商売の稼ぎが前提である。肝心の商売をなおざりにして、先の夢ばかり追ってもしようがない。
「これは失礼した。いかにもよろず仲裁の神名平四郎でござる」
仲裁屋の本来に立ちもどって、平四郎は大あわてで美濃屋という男を招きいれた。
「さ、遠慮なく上がられよ。なにせ一人住まいで汚い家でござるが、は、は。まずお話をうかがおう」
美濃屋八兵衛は平四郎の後から茶の間に入って来たが、遠慮深く部屋を入ったところに坐った。
「そこは寒い。ずっと火鉢のそばにすすまれよ。はて、お茶をいれかえねば……」
平四郎は茶器を持って、どたどたと台所に走った。一瞥《いちべつ》して美濃屋が四十恰好の、身なりいやしくない店の旦那風なのをたしかめている。
胸の中の商売の勘が、悪くない客だぞと告げている。茶をいれかえ、台所の吊し棚から埃をかぶった茶碗をおろして洗いながら、平四郎はまた声をかけた。
「遠慮なく火に手をのべられよ。近ごろ夜分はぐっと冷えてござる」
それでも美濃屋は、まだ遠慮していたが、平四郎がお茶をすすめ、そこではお話が遠いと言うと、やっと火鉢のそばににじり寄って来た。だがそのまま黙ってうつむいている。
外で見たときも小柄な男だと思ったが、明るいところでみると、美濃屋はいっそう小柄に見えた。だがその印象は実際の背丈よりも、身体つきから来るようである。美濃屋八兵衛は骨細で、女のような撫で肩をしていた。
顔も細かった。額のひろい顔が、下に行くにしたがって先ぼそりになり、しゃくれたようなあごで終っている。しかし着ている物はきちんとしているし、額のあたりはてらてら光っていて、貧相な感じはまったくなかった。
「ええと、美濃屋さんは……」
相手が黙っているので、平四郎は仕方なく素姓調べからはじめた。
「ご商売の方は?」
「堀留二丁目で染種《そめくさ》を商っております」
と美濃屋は言った。染種は布を染める染料だというぐらいのことは、平四郎も知っている。
「すると問屋さんですかな?」
「さようでございます」
美濃屋はやはり女のような、細い声で言った。
「それで、と……」
平四郎は美濃屋の顔を見た。そのときになって額が光っているのは汗だと気づいた。美濃屋は、この寒い夜に汗をかいているのである。
平四郎は眼をほそめた。注意深い口調で聞いた。
「では、頼みごとというのをうかがいますかな」
「………」
美濃屋はすぐには答えなかった。膝の上で手をにぎりしめている、と思ううちに、その膝に滴滴と涙がしたたり落ちるのが見えた。
──これは、これは。
と平四郎は思った。半ばあきれている。
仲裁を頼みに来て、泣いた者がいないわけではないが、大ていは女だった。男が泣くのはめずらしい、と思ったのだが、だがこの撫で肩で女のような声を持つ染種屋の旦那は、泣かずにいられないような用事を抱えているのかも知れないとも思った。
「ご心配はいりませんぞ」
と平四郎は言った。
「ここで話されることは、神かけて外に洩らすことはせぬ。この神名を信用して、心配ごとは、何ごとであれ腹蔵なく打ち明けてもらいたいものだ」
「………」
「第一話を聞かぬことには、手の打ちようがござらんのでな。さ、話をうかがおうか」
「ひとに脅されております」
美濃屋の旦那は、泣くのをやめて言った。
「ほほう、脅しか。いや、それならべつにめずらしいことではない。よくあることでな。以前にも手ごわい脅しをかけて来た男を片づけてやったことがある」
平四郎は、まだうつむいている美濃屋を力づけてやった。
「脅しをかけて来た、その悪いやつは何者ですかな? それと脅しの種は何事です?」
「それが……」
と言って、美濃屋は顔を上げたが、色白な気弱そうなその顔が、急に真赤にそまった。のみならず、美濃屋の物腰に、急におどおどと物におびえる感じが出て来たようでもある。
──何だ、これは。
と思ったが、平四郎は美濃屋の赤面には気づかないふりで、わざとそっけなくうながした。
「それが、どうなされたな?」
「………」
「美濃屋さん、だいぶ打ち明けづらそうな話ですな」
と平四郎は言った。眼の前の男の優柔不断ぶりを、少し持てあまし気味になっている。
「そういうことなら、こちらは無理に聞こうとは思わん。引き取っていただいてもいっこうに構わんのだが……」
「いえ、それは困ります」
美濃屋はいそいで言った。やっと話すと決めたらしく、今度は顔色を白くしている。唇を噛んでから、美濃屋は話しはじめた。
「私はひとの女房と間違いを起こしました。いまその女子の亭主に脅されておりますのです、はい」
三
美濃屋は去年の春先、十五年連れそった女房を失った。腹に出来た腫物《はれもの》が命取りになったのだが、痛みを訴えて床についてからわずかひと月。あっという間の病死で、美濃屋は、当座は茫然として商いも手につかない日を過ごしたのである。
ようやく正気に返って商いに手をもどしたのは、ひととおりの仏事が終ったころだが、そのときになってはたと困ったのは家の中のことだった。
子供は今年十二になる娘一人だが、美濃屋には女中二人を含めて十二人の奉公人がいる。うち番頭、手代をふくめて男五人が通い、女中も一人は通いだが、残る六人は美濃屋の家の中で寝起きし、飯を喰っている。
女房は、死病をもらいうけて倒れるまでは、めったに風邪をひくこともなかった丈夫な女で、亭主、子供から家の中の奉公人の世話まできりきりと切り回し、旦那の八兵衛自身はおよそ家の中のことに気を使うことなどなかったのである。
商いのほかの、その家の中の雑用が、女房の死後はもろに美濃屋の上にふりかかって来た。仲間の寄り合いに出かけるにも何を着て行ったらいいかわからない。娘が稽古事の師匠の家の祝い事に招ばれているが、何を着せ何を持たせてやったらいいかわからない。そのたびに美濃屋は、おろおろと家の中を走り回った。
それに女中二人が、住みこみも通いもまだ十七と十八の娘だった。旦那さま、味噌が切れましたとか、今夜のおかずは何にしましょうとか言われると、美濃屋は混乱して商いも手につかなくなるのだ。
これじゃとてもやっていけない、と思ったとき、八兵衛はおくまに相談をかけてみることを思いついたのである。おくまは十三のときに女中奉公に来て、松枝《まつがえ》町の鍛冶職人に嫁入るまで、十二年も美濃屋で働いていた女である。美濃屋の家のことなら、自分の家同様に知っていた。
嫁入って七年ぐらい経つが、その間もおくまは時どき元の古巣の美濃屋に顔を出し、酒好きの亭主の悪口をきかせたり、ついでに台所を手伝ったりしていた。夫婦の間には子供が出来なくて、おくま自身は、いまも家で内職をしたり、外に手伝い働きに出たりしていることも、八兵衛は死んだ女房の口から聞いている。
女房が死んだときも、むろんおくまはさっそく駆けつけて、身内の不幸に会ったように泣き、そのあとは泊り込みで、お通夜から葬式、初七日とつづく仏事の混雑を切り回して行ったのである。あのときだって、おくまがいなかったらどうなったかわからない。
──おくまを頼もう。
そう思ったとき、八兵衛は真実ほっとして、一難をのがれた気がしたのである。
八兵衛の思いつきはうまく行った。おくまはどうせ内職をしている身だからと、八兵衛の頼みを喜んで引きうけたし、亭主の徳五郎も、女房の内職の稼ぎと美濃屋からもらう手間を秤《はかり》にかけて、これは損はないと踏んだかすぐに承知した。
松枝町から堀留までは、さほど距離があるわけではない。おくまは毎日通い勤めをした。遠国から取引きの客が来ていそがしいなどというときには、おくまは泊ることもあったが、そういうときも一たん裏店にもどって、亭主の飯の支度をして来るので、何の支障もなかった。万事うまく行った。おくまが家の中の面倒をみるようになってから、美濃屋は活気を取りもどした。
女房の一周忌が済んだころから、八兵衛に再婚話が持ちこまれるようになったが、八兵衛は耳を藉《か》さなかった。十二年も美濃屋に奉公したおくまは、奉公人もふくめた美濃屋の人間の喰べ物の好みまで知りつくしていたし、八兵衛が外に出るときに、何を着せればいいかもわかっていた。母親を失った娘も、家の者のようにおくまを頼りにした。
──おくまがいればいい。
八兵衛はそう思い、家の中のことは一切おくまにまかせて商いに専念した。四十の坂を越えた八兵衛は、新しい女房をもらうことには気持が動かなかった。新しくやり直すなどということは、考えるだけで気疲れがするようだった。
ところが、古馴染みの、気ごころの知れた女中に対する過度の信頼には、八兵衛が思いもしなかった落とし穴がひそんでいたのである。どうしてああいうことになったのか、八兵衛にはいまもってわからない。だが、ともかくその出来事は今年の秋口に起こったのである。
その夜、八兵衛は仲間(組合)の寄り合いから酔って帰った。ふだんはあまり飲まないのに、足もともおぼつかないほど酔ってしまったのは、秋から仲間の役持ちをやることになって、しきりに盃をさされたからである。
馴染みの駕籠屋に、かつぎこまれるようにして家の中に入ると、一人だけ起きて待っていたおくまが出迎えた。
「おや、おくまは泊りだったのか」
ろれつの回らない舌で、自分がそう言ったのを八兵衛はおぼえている。茶の間に入って、ふらふら揺れながらおくまに羽織をぬがせてもらったのをかすかにおぼえている。だが、そのあとの記憶は闇に沈んだままである。
喉のかわきに目ざめたとき、八兵衛はおくまとひとつ床の中にいた。
──これは、えらいことになった。
八兵衛は愕然《がくぜん》とした。あわてて起き上がろうとした。すると、眠ったともみえない眼で、じっと八兵衛を見つめていたおくまが、いきなり肩に手を回して来ると、おかわいそうな旦那さま、と言った。
おくまは大女である。抱きかかえられると、八兵衛は身動き出来なくなった。だが、八兵衛が床から逃げなかったのは、それだけではなかった。有明行燈の光が、しどけなくひらいたおくまの胸を照らし、そこに男の抗しがたいものが見えていた。子供を生んだことがない大きな乳房が、いびつにゆがんで胸からはみ出しているのを無言で見つめてから、八兵衛は自分もそのやわらかなものに顔を押しつけて行った。
「ふむ」
平四郎はうなった。
「間違いは、そのとき一度だけかな?」
「いえ」
と言って、美濃屋はまた顔を赤くした。どうやら美濃屋の旦那は、その間違いのあと、おくまという女の大きな乳房の擒《とりこ》になったらしいな、と平四郎は思った。少少うらやましい気がし、また心さびしい男やもめの心境もわからないでもなかったが、相手が有夫の女では、やはり頂ける話ではない。
「それはまずかったな」
と平四郎は言った。
「それで、嗅ぎつけた亭主が怒ってどなりこんで来たというわけか」
「いえ、外から呼び出しをかけて来ました」
と美濃屋は言った。そのときのことを思い出したか、おびえた顔をした。
「呼び出し?」
「はい、塩河岸の方にある汚い屋台店に、呼び出されましたのです」
「ふむ。で、金を出せと凄んでみせでもしたかね?」
「いえ、おくまの亭主は、金など欲しくないと言うのです」
「へえ? 金はいらない……」
「はい、堪忍《かんにん》ならないから、一切合切世間にバラしてやる、とこうです。いくら詫びても聞きませんのです。美濃屋はもう、おしまいです」
「その徳五郎という男は、そのとき殴りつけるとか、あんたに乱暴したかね?」
「いえ、そこまではやりませんでしたが、なにせ物すごい剣幕で、あたしゃ寿命が縮みました。もう、女子は懲《こ》りました」
「狙いはやっぱり金だよ、美濃屋さん」
と平四郎は言った。
「そうでしょうか?」
「そうさ。世間にバラすつもりなら、外に呼び出すまでもない、お店にどなりこんで行けば済むことだ」
「はい、ごもっともです」
「しかしそんなことをすれば、美濃屋さんの信用も落ちるが、女房の恥も、自分のバカさ加減も、一緒に世間に吹聴することになると、ちゃんとわかっているのだ、その男は」
「はあ」
「呼び出して、腹いせに殴りつける手もあるのに、それもやっておらん。ということは、いずれ金のことを持ち出して来るとみた方がいい」
と言ってから、平四郎はさっきから気になっていたことを聞いた。
「ところで、お気に入りのおくまさんはどうしましたかな」
「はい、亭主に呼び出されたあくる日に、十両の金を持たせて、ひまをやりました」
「亭主のことは言わずに?」
「もちろんです」
「おくまの方も、そのことについては何も言わなかったのですな?」
「言うわけがありません。おくまは亭主があんな真似をしたことを知らないんですから」
「さあーて、そいつはどうかな」
と平四郎は言った。
「つつもたせという手だってありますからな、美濃屋さん。そう疑えば、おくまは十両もらって、もう元を取ったようなものだ」
「つつもたせ?」
美濃屋八兵衛はきょとんとした眼で平四郎を見たが、急に背筋をのばすと、憤然とした口調になった。
「何をおっしゃいます。おくまはそんな女子じゃありませんよ。お詫びのしるしだと言って、あたしは十両出しました。その十両をおくまは、詫びるのは自分の方だ、この金は頂くわけにはいかないと、なかなか受け取らなかったぐらいですからね」
「なるほど、金銭ずくじゃなかったというわけだ。それはけっこう」
平四郎は美濃屋の顔をじっと見た。
「しかしだ、美濃屋さん。それならおくまの亭主は、女房の不始末というやつを、一体誰から聞きましたかな?」
「………」
美濃屋はぐっとつまった顔になった。しかし頑固に首を振ると、小声で抗議するように言った。
「しかし、それはおくまじゃありませんです。はい」
「よろしい。様子は大体わかりました」
と平四郎は言った。
「すると、何ですな? それがしの役目は、おくまの亭主が二度と脅しをかけたりせぬよう、始末をつければいいと、こうですな?」
「そのようにお願い出来ましょうか」
「もちろん、もちろん。それがわしの商売でな。表の看板はダテに掲げておるわけじゃない」
平四郎は胸を張った。
「ただし、さっきも申したとおり、先方の狙いは金だ。始末をつけるには金がかかるな」
「はい。いかほど用意したらよろしいでしょうか?」
「どのくらい出せますかな?」
「三十両、いいえ、徳五郎のあの勢いですから五十両まで覚悟しております」
「五十両?」
平四郎は手を振った。
「そんなに払うことはない。間男の堪忍料も近ごろは相場が下落して五、六両とか言うではないか」
「………」
美濃屋は不満そうに平四郎を見た。金額のことではなく、間男と言ったのが気にいらなかったらしい。おくまとのことは、うす汚れた色事ではなく、清らかな男女の情愛とでも言いたげなその顔は噴飯ものだったが、平四郎はおだやかに言った。
「いや、すでに女房の方に十両やったことだし、あと十両も払えば御の字だろう」
「おくまにやった金とは、べつに考えていただきます」
と美濃屋は言った。あくまでも純情な愛に固執するつもりとみえた。
四
しかし、美濃屋の言ったことも、ある程度はあたっていたのである。
美濃屋の依頼を受けた翌日、平四郎はさっそく松枝町の裏店に出かけた。美濃屋が約束した報酬は五両で、暮をひかえ、かつははるか先の道場のことも考えあわせると、張りきらざるを得ない。
裏店では徳五郎が働きに出、おくまも留守だったのが、平四郎にはかえって好都合だった。井戸端に出ていた裏店の女房から、いろいろと夫婦のうわさ話を仕入れると、今度は馬《うま》ノ鞍《くら》横町の鍛冶屋に行った。徳五郎はそこの雇い人である。
時刻をはかって行ったつもりだが、鍛冶屋はまだ仕事をしていた。思ったより大きな鍛冶屋で、土間に数人の職人が動いている。表戸はひらいたままで、暗い路上に立つと、中の男たちの姿がまる見えだった。
この寒いのに、上半身裸の男が二人もいる。半裸の男たちは、勢いよく重い鎚《つち》を振りおろしていた。土間の梁《はり》からつるした裸火と、時おり燃えあがる鞴《ふいご》の明かりに、男たちのもりもりと筋肉が張った胸と腕が、躍動してうかび上がる。
その裸男の一人が、徳五郎であるらしい。背丈はさほどにないが、蟹《かに》のように横幅のある部厚い胸と、濃いひげづらが美濃屋から聞いた徳五郎の風貌に一致している。かなり険悪な人相の男だった。
──なるほど。
これじゃ、美濃屋の旦那がこわがって泣くのも無理はない、と平四郎は思った。
暮れ六ツ(午後六時)を告げる本石町の鐘を聞いたのは、松枝町の裏店を出て、途中の永井町のあたりまで来たころである。いったいこの鍛冶屋は、いつまで働いているのだ、と思ったとき、騒騒しい鎚の音がはたとやんだ。
そのあとは早かった。一人、二人と職人たちが出て来て、あばよとも言わずに暗い路に消えて行った。最後に出て来たのが徳五郎だった。徳五郎は、道の端に立っている平四郎に、ちらと眼を走らせただけで、前を通りすぎて行った。
しばらく後をつけてから、平四郎は声をかけた。
「だいぶ、ご精が出たようだな」
徳五郎が振りむいた。そしてぎょっとしたように立ちどまった。鍛冶屋の前にいた侍だと気づいたらしい。
だが逃げる様子はなく、黙ってこちらを透かし見るようにして立っている。平四郎はゆっくり追いついた。
「あやしい者じゃない」
とりあえずそう言った。
「お前さんが、徳五郎さんだな?」
「それがどうした?」
と徳五郎が言った。身構えている。
「ま、ま、そう固くならんでくれ。わしは堀留の美濃屋に頼まれて来た者だ」
それを聞くと、徳五郎は背をむけて歩き出した。すばやく横に並んで歩きながら、平四郎は言った。
「お前さんと、ちょっと話したいのだ」
「話すことなんざ、ねえよ」
徳五郎はそっけなく言った。すたすたと足を早める。
「ま、そう言わずに、ちくと一杯やろうじゃないか」
平四郎が言うと、徳五郎は立ちどまった。徳五郎は飲み助である。美濃屋もそう言ったし、裏店の女房たちも口をきわめて徳五郎の酒を非難したのだ。あれじゃおくまさんがかわいそうだと。平四郎の言葉は、徳五郎の泣きどころを突いたらしい。
ともかく徳五郎は立ちどまった。平四郎はその泣きどころを、もうひと押しやわらかく押してやる。
「鍛冶屋というものは、豪儀に力を出すものだな」
感心してみせた。
「力仕事のあとの一杯は悪くないものだぞ。ことに今夜のように冷える晩は酒がうまい。これから飯だろうが、飯もうまくなる」
「おれは何も話さねえよ」
うなるように徳五郎は言った。話すのはいやだが、一杯やるのは差し支えないということらしい。
「そう、そう、話はあとにして、まず酒だ。ええーと……」
平四郎はきょろきょろとあたりを見回した。そこは三島町の角で、まだ店を閉じていない商家の灯がちらほらと見え、ひとも歩いている。その黒い影のようなひとの行き来のうしろに、心細げな赤提灯の灯が見えた。場所は富山町二丁目と永井町にはさまれた路地の入口へんらしい。あそこでよかろうと、平四郎は言った。
そこは田楽屋、女たちが言うおでん屋だった。屋台に毛が生えたような小さな店で、坐るところもない。飲み屋という見当は違ったようである。
「おやじ、酒はないのか?」
念のために聞くと、案に相違して、店の亭主はございますと言った。しなびたへちまのような細長い顔をした、白髪の亭主は、店の横の潜《くぐ》り戸から、二人を板場の中に入れた。そこに一脚の飯台と樽の腰かけが三つ置いてあったが、二人が腰かけると店の中はいっぱいになった。
「熱燗《あつかん》にしてくれ。寒いからな」
言いながら横をみると、徳五郎ははやくも手を揉んでいる。平四郎は亭主に言った。
「盃はいらんから、茶碗をもらおう。それと豆腐をくれ。うん、芋田楽もいいな」
熱燗の酒と焼きたての田楽が来ると、平四郎は遠慮なくやってくれと言った。徳五郎はじろりと平四郎の顔を見たが、茶碗に酒が注がれると喉を鳴らした。
いい飲みっぷりで、徳五郎の茶碗はたちまち空になる。平四郎は黙って酒を注いでやった。どうせすぐにはしゃべるまいから、少し酔わせてやろうと思っていた。酔えば、口も軽くなる。
徳五郎が飲み、銚子が二本、三本と空になる間に、女が二人、子供が一人田楽を買いに来て去った。やはり酒を飲ませるよりは田楽を売る店のようである。
空の銚子は五本になったが、徳五郎はまだ手も休めず飲んでいる。時どきじろりと平四郎を盗み見るだけで、ひと言も口をきかなかった。馬のように鼻息が荒くなっただけである。
平四郎が注ぐのをやめると、徳五郎は今度は自分から銚子に手をのばして来た。厚かましい男である。たまりかねて、平四郎は手荒くその手を払った。だが顔の方はにこやかに笑いながら話しかけた。
「そろそろ、よかろう。な?」
「あんだ?」
徳五郎は険悪な顔をむけた。在の生まれででもあるのか、言葉に若干|訛《なまり》がある。
「いや、われわれは肝胆相照らして飲んだ。非常に愉快だ。だが、このままだんまりで飲み終って、さよならというのではわびしい。な? そうは思わんか」
「思わねえ」
「ま、そう言うな。いや、飲みたきゃもっと飲んでもいいのだ。だが少しは話をせんとな」
「………」
徳五郎は、蛇のような眼で上目遣いに平四郎を見ている。そして、また銚子に手をのばした。平四郎は邪険にその手を払いのける。そしてにこにこ笑いながら、仲裁稼業の披露目を言った。
「そういうわけでな。さっきも言ったとおり、美濃屋の旦那に頼まれて、お前さんとの間を仲裁に来たのだ」
「………」
「どうだね? 美濃屋は悪いことをしたと平謝りに謝っている。許してやる気はないかね?」
「謝って済むこっちゃねえ」
「それはそうだ。美濃屋もただで許してくれとは言っておらん。詫び料は出すと、こう言っているんだが……」
「金なんざ、いらねえや」
と言って、徳五郎はまた銚子に手をのばした。力をこめて、平四郎はその手を払いのける。へちまのような顔をした亭主が、びっくりした眼で、二人の手の争いを見つめている。
「詫びも聞きたくない、金もいらないとなると、美濃屋をどうするつもりだね?」
「どうするか、お前さんに話す義理はねえや」
「お銚子五本の義理はあるぞ」
と平四郎は言った。
「美濃屋の話によると、お前さんは間男の一件を世間にバラすと言ったそうだな。しかしそうなると、女房の恥も世間に晒《さら》すことになるわけだが、かみさんは承知なのかね?」
「おくま?」
徳五郎はちらと平四郎を見た。ひげづらに一瞬狼狽のいろが走ったようである。
「女房は何にも知らねえよ」
「いや、つつもたせじゃないかと、こいつは美濃屋が言うんじゃなくて、おれの勘だが、違ったかね」
「見当違えだ」
徳五郎の顔に、ひとを小バカにしたようなうす笑いがうかんだ。
「おくまはそんな女じゃねえ」
「こいつはおもしろい」
と平四郎は言った。
「かみさんは何にも知らんと……。すると亭主のお前さんが、そうして美濃屋に脅しをかけているのをどう思うか、一ぺんかみさんに聞いて……」
「やめろ」
不意に徳五郎が吠えた。樽を蹴とばして立ち上がると、いきなり平四郎の首に両手をかけて来た。おそろしく機敏な動きで、かわす間もなく平四郎はつかまっている。万力のように首をしめつけて来る手の力を防ぐのに精一杯だった。田楽屋の亭主が悲鳴をあげた。
「やい、さんぴん」
鬼のような赤い顔をした徳五郎が、平四郎の上にのしかかってわめいた。
「女房にそんなことを言ってみろ。てめえの首根っこ引っこぬいてやるぞ」
「わかった、わかった」
平四郎は謝った。すると徳五郎は、不意に手をゆるめ、風のように戸をあおって外に出て行った。
平四郎は咳《せき》をした。
「おやじ、水を一杯くれ」
亭主が顫《ふる》える手でさし出した茶碗の水を飲むと、咳はおさまったが、バカ力に締められた首がひりひりと痛んだ。
──ふむ。
首を撫でながら、平四郎は、あの男何で急に怒り出したのだ? と思った。女房のおくまに聞くと言ったひと言が気にさわったらしい、とは見当がつく。だがそのことと、徳五郎の突然の怒りがどう結びつくのかはわからなかった。
──女房に内緒の脅しだということかね。
平四郎は、最初におくまのことを口にしたとき、徳五郎がうろたえた顔をしたことを思い出している。不思議なことだが、徳五郎は美濃屋を脅しながら、一方でそのことが女房に洩れるのをおそれている風でもある。
それがなぜかはわからないが、もしそうだとすれば、少なくともつつもたせの疑いは消えたわけである。はて、それじゃ徳五郎は女房の浮気話を誰から仕入れたのだろう。
──それはともかく……。
狙いはやっぱり金だな、と平四郎は思った。女房にも内緒にしているからには、徳五郎は美濃屋と女房の間の醜聞を、世間にバラすつもりなど毛頭ないのだ。
「おやじ、田楽をあっため直してくれ」
と平四郎は言った。飲み直しながら、もう少し考えるつもりになっている。
五
おくまに会って、平四郎は美濃屋八兵衛がおくまを頼りにしたわけがわかったように思った。
おくまは家の中で内職したり、隣町の小泉町にある越前屋という履物屋で、下駄や草履の鼻緒の縫い子をしたりしている。その日は越前屋の方にいたが、呼び出すとすぐに店先に出て来た。
美濃屋が言ったとおり、おくまは大女だった。平四郎にさほど見劣りしないほどに背丈があって、しっかりした身体つきをしているが、背丈があるので太っては見えない。大きいなりに、身体は釣合いがとれていて、おくまはほんの少し猫背だった。
顔ははっきり言えば不美人である。おくまは浅黒い肌をし、眼と口が大きいわりには低い鼻を持っている。だが話してみると、明るくてはきはきした物言いが、その十人並みを下回る容貌をうまいぐあいに補っていることがすぐにわかった。おくまは男のようにさっぱりした気性の持主のようである。それでいて、がさつなところはなくけっこう女らしくもあるのだった。
身分を名乗って、平四郎がいきなり美濃屋との情事のことを持ち出すと、おくまは顔を赤らめたが、すぐにからからと笑った。
「いやだよ、美濃屋の旦那はそんなことまで言ったんですか」
「そんなことと言うが、そこが肝心の話でな」
と平四郎は言った。
「旦那が困っておる」
「困ってる?」
おくまは怪訝な顔をした。
「何を困ってるんですか? あれはもう片づいた話ですよ」
「そうかね」
「そうですとも。あたしゃ情が濃すぎるっていうかねえ。つい、へんなことになっちまって旦那に迷惑をかけたけど。そりゃあ、ねえ、やっぱりよくないことだから……」
おくまはまた顔を赤くした。小さくうなずいた。
「だから、もう話は終ったんですよ」
「ところが、その話にご亭主が割りこんで来ておるのだ」
「亭主だって?」
おくまは眼をまるくした。
平四郎は余分なことは言わずに、ただ徳五郎に脅されて、美濃屋が弱っていることだけを話した。おくまは黙って聞いていたが、話が終ると、小さな声であのバカ、と罵った。おくまの顔にうかんでいるのは、亭主に浮気を嗅ぎつけられたおびえではなく、憤慨のいろである。
注意深くその顔をみながら、平四郎は言った。
「ひととおりはあんたも知っておいた方がいいだろうと思って来たのだが、あんたは何も言わん方がいいな。ご亭主とは、わしが話をつける」
おくまとはそれで別れたが、平四郎は家にはもどらずに、そのままおくまが仕事を終って、越前屋から出て来るのを待った。日が落ちると、物陰に立っている平四郎はたちまち夜の寒気に包まれたが、五両の手間賃のためには、少少の寒さは我慢しなければならない。
おくまが越前屋から出て来たのは、暮れ六ツを少し回ったころだった。腕を抱くようにして、少し猫背のおくまが前を通りすぎるのを見送ってから、平四郎はゆっくり後をつけた。
裏店の暗い路地に入って、おくまは自分の家に姿を消した。おくまの家には灯がともっている。亭主の徳五郎がもどって来ているらしい。足音をしのばせて、平四郎は戸の外に立った。
どうしたんだい、こんなに早く、おくまが言っている。それに答えた徳五郎の声は、低くて聞きとれなかった。冗談じゃないよ、もう酒の匂いをさせているくせに、とおくまが言って、それっきり声は聞こえなくなった。つぎの声を待って、平四郎は外で冷えて来た手をこすり合わせる。
「変なことを耳にしたんだけどね」
不意に、おくまの声が耳のそばでした。つづいて水の音がする。おくまが台所に入って来たらしい。
「お前さん、美濃屋の旦那を脅しているんだって?」
平四郎は耳を澄ませる。
「あたしが浮気したなんて、いったい誰に聞いたんだね、バカバカしい」
「………」
「言ってごらんよ、誰に聞いたか。根も葉もないことを持ち出して旦那を脅すなんて、よくもそんなことが出来たもんだ」
「………」
「酒代でも欲しかったのかい? ほんとにはずかしい。あたしゃもうあの家の前を通れやしないよ」
「美濃屋の旦那は……」
突然徳五郎の声がした。台所に来たらしい。
「おめえと寝たと白状したぜ」
「そりゃ、お前さんに脅されたからそう言ったんだろ。そのこわい顔で脅されたら、大概の男はあることないことしゃべっちゃうわ」
「ひとに聞いたんだ。しらばくれてもダメだ」
「だから誰が言ったと聞いてんじゃないか。疑うんなら証拠を出してみな、証拠を」
「このあま、証拠だと?」
徳五郎の声が変った。顔でも殴ったらしく、ぴしゃりと音がした。
「てめえの浮気は棚に上げて、太えことをぬかす女だ」
「おや、ぶったね。よくも、このあたしをぶったね」
どたどたと板の間を踏み鳴らす音が聞こえた。どうやらおくまが亭主にむしゃぶりついたらしい。手をこすりながら、平四郎はその物音を聞いている。
「いいよ、わかったよ」
息をはずませたおくまの声が聞こえた。
「旦那と寝たといえばいいんでしょ。はいそのとおりですよ。悪うございましたね。あたしゃ悪い女房ですからね。ひまをもらいます」
「………」
「誰がこんな暮らしに未練があるものか。仕事は休む、年中酒の気が切れない。ごらんよ、いくらあたしが働いたって、追っつきゃしないじゃないか。先の楽しみなんか、何にもありゃしない」
「うるせえ」
「浮気がどうしたって? へん、お前さん、そんなこと言えた義理かね。あっちの方はダメになったって、あたしにさわりもしなくなっていくらになると思うんだい。一年だよ」
「………」
「それだって酒を飲みすぎるからじゃないか。ちゃんと暮らしてんのなら、あたしゃそれでも何にも言わないよ。そうじゃないんだから、亭主づらして浮気の咎《とが》め立てされても承服出来ないね。よござんす、あくまで疑うのなら、あたしゃひまをもらいます。一人で暮らす方がよっぽどせいせいする」
どたどたと足音が遠ざかった。二人とも奥に行ったのだ。おくまは本気で荷物をくくるつもりらしい。
奥で物音がし、争う声が聞こえて来るが、平四郎の耳にはよく聞きとれなかった。
──ははあ、これだな。
手を揉みながら、平四郎はひとりでうなずいた。美濃屋を脅しながら、一方でそのことが女房に知れるのをおそれている。徳五郎の首尾一貫しない態度が不思議だったが、要するに徳五郎は、ふだん女房に頭が上がらない男なのだ、と納得した。飲み助であるだけでなく、仕事にも身が入らない怠け者らしい。
「おい、待てよおくま」
と徳五郎が言っている。二人は今度は奥から上がり框《かまち》まで出て来たようである。
「放しなさいよ。あたしゃほんとに、お前さんには愛想がつきてんだから」
「待ってくれよ」
不意に徳五郎の声が弱弱しく変った。
「待てよ、気を静めてくれよおくま。おれが悪かった」
「何だね、男らしくもない。お放しってば」
「かんべんしてくれよ」
徳五郎の泣き声が聞こえた。女房にしがみついている気配でもある。
「おめえに行かれちゃ、明日からどう暮らしたらいいかわからねえ」
徳五郎はすすり泣いている。存外だらしのない男である。
「おれが悪かったんならあやまる。考え直してくれよ、おくま」
これが三十も半ばを過ぎた男のせりふかと、平四郎はあきれたが、そこで戸をあけた。ぎょっとして振りむいた二人に言った。
「おくまさん、ご亭主をちょっと借りるよ」
木戸の外まで連れ出してから、平四郎は徳五郎に向き直った。
「話は残らず聞いたぞ」
徳五郎は黙って立っている。
「行かれて困るかみさんなら、言うことを信用するしかないじゃないか」
「………」
「いったいお前さん、その話をどこから仕入れたのかね」
「おはなだ」
と徳五郎が言った。心なしか肩を落としているように見えた。
「おはなというのは、美濃屋の女中だな? おはなと、どういう話になってるんだ?」
「旦那を脅して、金は山分けにする相談が出来てたんだ」
「ふむ、そいつがかみさんに知れたら、またひと騒動だな」
と平四郎は脅した。
「で? 旦那からいくら巻き上げるつもりだったのかね」
「五両さ」
と徳五郎は言った。平四郎は声を立てずに笑ったが、徳五郎には気づかれずに済んだようである。平四郎は、懐から十両の金包みを出して、徳五郎に渡した。
「美濃屋から預かって来た金だ。これだけあれば、かみさんに知られずに当分飲めるぞ。おはななどという女には一文もやることはない。旦那にからくりがバレたと言えば、おはなはびっくりして手をひくさ」
「………」
「このへんが手の打ちどころだな。これ以上こじらすと、大事のかみさんが、本気で出て行くぞ」
徳五郎はうなずいて、金を懐にしまった。その姿をみて、平四郎は蛇足をつけ加えた。
「それにな。たまには素面《しらふ》で帰って、かみさんにもさわってやることだ」
「よけいなお世話だ」
平四郎のひと言が気にさわったらしく、徳五郎はいきなりつかみかかって来たが、平四郎は腕の急所をつかんで、この間のお返しをしてやった。いてて、と徳五郎は悲鳴をあげた。
「それじゃ元気でな、かみさんを大事にしろ」
平四郎は背をむけた。さほどの知恵はない、あわれな飲んだくれ亭主が、まだ立ったままこっちを見送っている気配がしたが、振りむかなかった。
ああいう夫婦はああいう夫婦で、けっこう何とか釣合いがとれてずっと行くものだ、という気がした。美濃屋の一件は暮らしに疲れたおくまが、途中でちょっと寄り道しただけにすぎないようにも思えた。
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家出女房
一
神名平四郎は、井戸端で洗濯にはげんでいる。暮のうちに無精をしたので、汚れ物は山のようにたまって、中には越中ふんどしが五本もまじっている。取りかえる越中もなくなったので、やむを得ず洗濯にかかったのだが、正月早早の洗い物はぱっとしない。
第一寒かった。日が射しているから洗濯をするにはよかろうと思ったのだが、外に出るとけっこう風がある。平四郎は友人の北見十蔵にもらった胴着を着こみ、首に手拭いを巻きつけて病み上がりの病人といった恰好に着ぶくれている。水もつめたかった。鉄瓶に一杯、沸かした湯を持って来て、盥《たらい》に汲んだ水にちょっ、ちょっとまぜて使っているのだが、その工夫もさほどの役には立たなかった。
救いは洗濯をしているのが自分一人だということで、近所の女房連中に見つかったら、山のような汚れ物はさっそくからかいの種にされるところである。口の悪い女房たちの姿が見えないのは、まだ松ノ内で出かける者は出かけ、そうでない者は家に籠っているのだろう。
日ごろは子供の泣き声、その子供を罵り叱る女房たちの声が洩れて来る路地もひっそりしている。時おり聞こえるひとの声もおだやかで、中に笑い声もまじるのは、裏店《うらだな》も人並みの正月をむかえた証拠である。まずはめでたいことだと思いながら、平四郎はせっせと洗濯にはげんでいる。もうひと息で終りだった。
「あら、旦那。お洗濯ですか」
うつむいていた頭の上から、いきなり艶っぽい女の声が降ってきたので、平四郎はあわてて洗っていた越中を、洗い物の下に隠した。
顔を上げると、おちかという顔馴染みの女が立っていた。おちかは表通りに小さな煮しめ屋の店を出している女で、平四郎も懐があたたかいときは味のいい煮しめを買って来ることがある。
それにしても、おちかがいつ木戸を入って来たのか、平四郎はまったく気づかなかった。寒さにかじかんでいたとはいえ、雲弘流矢部道場にその人ありと言われたおれとしたことが不覚だった、と平四郎は反省する。
「何か用か」
と平四郎は言った。おちかは、たしかめたことはないが齢は二十五、六だろう。子持ちの後家で、気性のさっぱりした美人である。煮しめを買いに行くと、ついでに無駄口を叩いてくる仲だが、もう少しで洗濯が終るところに邪魔をいれられては歓迎出来ない。
水から上げた手が、たちまち風にかじかむのを感じながら、平四郎はすげない口調で言ったが、おちかは動じなかった。
「沢山な洗濯物ね。あら、あら、越中なんかもだいぶためこんだみたい」
おちかは洗い物の中にある越中ふんどしを、目ざとく見つけたようである。所帯を持つ前は岡場所勤めをしていたというおちかは、美人のくせに平気でそういうことを言う女である。
「ふーん、それで正月早早のお洗濯なんだわ」
「用がなければ去《い》んでもらおうか。わしはいそがしい」
平四郎は仏頂づらで言った。せっかく、かしましい女どもの眼がなくて幸い、と寒い中を洗い物に精を出しているのに、今度は表通りの女が来て茶茶をいれる。
平四郎につめたい眼で見られて、おちかは口をとがらした。
「でも、あたし旦那に用があって来たんだよ」
「わしに、何の用だ?」
「何の用はないでしょ。ちょっと仲裁を頼みに来ましたのさ」
「何だ、客か」
平四郎はあわてて立ち上がった。初仕事が舞いこんだのだ。洗濯どころではない。
「なぜはじめにそれを言わんか。そういうことなら家へ入ってもらおう」
「でも、洗濯をやってしまったら?」
「なに、こんなものは後でいい」
「もうちょっとじゃないのさ。いい、あたしがやったげる」
いかん、手を出すなという間もなく、おちかは腕まくりしてしゃがみこみ、無造作に水に手を突っ込んでいる。
「おや、ま、また越中が出て来た」
おちかのけたたましい笑い声に、平四郎は赤面してあたりを見回したが、さいわいに誰も見ていなかった。
しかし、女はえらいものだ、と平四郎は感心した。おちかは平四郎を家の中に追いこむと、平四郎が夜具を隣の部屋に蹴こんだり、火鉢の火を掻き起こしたり、茶碗を洗ったりしている間に、大量の洗い物を軒下に干し終った。
つぎに台所でもたついている平四郎をみると、いいからいいから、男は坐ってらっしゃいなどと、今度は平四郎を台所から追い出し、火を起こし、茶碗を洗ってまたたく間にお茶の支度をする。おちかの手にかかると、お盆も茶碗もピカピカになった。
沸いた湯を持って茶の間にもどると、おちかはぬかりなく自分にもお茶をつぎ、平四郎にも、はいお茶をどうぞなどと言う。平四郎は何もすることがなくて、どっちが客かわからない。
「さて、用件を聞くかな」
一服して、ようやくこの家の主《あるじ》の立場を取りもどした平四郎が言った。
「大工の芳《よつ》ちゃんのことですよ」
「よっちゃん? そりゃ何者だ?」
「あら、ごめんなさい。あたしの隣に住んでいる大工なの」
おちかは表通りに間口一間半の店を借りて商売をやっているが、住居は平四郎がいる与助店とは逆の方、浜町堀に近い裏店にある。
大工の芳ちゃんの名は芳次郎。齢は三十四で二人の子持ちである。気性のおとなしい好人物だが、その人のよさが災いしてか、それとも、もともとそれだけの器量しかないのか、三十半ばになってもいっこうにうだつがあがる様子もなく、いまだにむかし奉公した親方に使われる、手間取り大工の身である。
もっとも、大工、左官のみんながみんな、年月が経って親方、棟梁《とうりよう》になれるわけではなく、手間取り大工だっていなければ家は建たない。またそこそこに暮らせるだけの手間をもらって、家族円満に暮らしていければ、人一倍気も頭も使う棟梁になることもないようなものだが、芳次郎の家には問題が起きた。
去年の秋に、女房が家出したのである。女房に逃げられ、二人の子供を抱えた芳次郎は、気が抜けた人間のようになって、仕事どころか、子供に飯を喰わせるのも忘れるようなぼんやりした日を送っている。
「情ない男だな」
とりあえず、平四郎は言った。
「亭主、子供を置き去りにして逃げるような女房は、ろくな女じゃあるまい。そんな女子にはさっさと見切りをつけて、若い女房でももらえばいいのだ」
「若くなくともいいのよ、ちゃんと面倒みてくれるひとなら」
とおちかは言った。おちかは話しているうちに興奮してきたらしく、浅黒くととのった顔に血のいろをのぼらせ、眼をきらきら光らせている。
「あたしも言ってやったの。おかみさんは、もうもどらないつもりで家を出たんだから、いい加減にあきらめなさいよ、男一匹、この有様じゃ情ないじゃないかって」
「まったくだ」
「謎もかけてやったわよ。とにかく子供の面倒をみてくれるひとをさがさなきゃだめじゃないか、そのつもりでちっとまわりを見回してみたらってね」
「何だい、それは?」
と平四郎は言った。
「自分のことを言ってるらしいな」
「まあね」
「ふむ、家出した女房の後釜を狙ったわけだ。おまえさん、芳ちゃんという男に気があるんだな?」
「とんでもない」
おちかは手を振った。
「そうじゃないんだよ。ただ、かみさんが家出したあと、ずっとあたしが隣の面倒みてるわけ。知らんぷりしてれば、自分じゃ飯もつくれないんだからね。あれじゃおやじさんはともかく、子供がかわいそうだわ。しようがないから飯を炊いてやったり、たまには掃除もしてやったりしているのよ」
「へえ?」
「そんなことを、もう三月《みつき》もやってるからね。破《わ》れ鍋に綴《と》じブタで、いっそ丸ごと面倒みちゃおかしらんという気にもなったのよ。それで、ちょいと謎をかけてみたんだけど、それがダメ。芳ちゃんは、キョトンとしているだけで、まるで話が通じないんだから」
「わかった」
平四郎は大きくうなずいた。
「そのことを大工の芳ちゃんに話してだ。仲を取りもてというわけだな」
「ちがう、ちがう」
おちかはまた手を振った。
「それはもういいの。芳ちゃんにその気があれば、というだけの話で、べつにあたしの方で子持ちの男やもめに気があるわけじゃないんだから」
「じゃ、頼みごとと言うのは何だね?」
「隣のかみさんをつかまえて、元の鞘《さや》におさめてもらえないかと思ってさ」
「ふむ」
「というのはね。芳ちゃんは心底かみさんに惚れてるわけ。こないだも、夜中にひとの泣き声がするから隣に行ってみたのよ。子供二人はもう寝てた。そばで芳ちゃんが泣いてるのよね。哀れというか、みじめというか」
「しようがない男だな」
「あたしなんかも、亭主に死なれたときは、そりゃ一時はぼんやりしちまったけど、すぐにこうしちゃいられないと思ったものね。だから借金までして煮しめ屋をはじめたんだけど、芳ちゃんを見てると、男はわりあい意気地がないねえ」
「男によりけりだろう」
「そうかしら。とにかく、あのひとを見てると、あぶなくてしようがないわけ。飯を喰ったかしらとか、親子心中をしかけるつもりじゃないかしらとかね。ありゃ百年たっても、代わりのかみさんもらってという気にはならないね」
「そんな男がこの世にいるとは、信じられん」
「そうかといって、あたしもいつまでもかけ持ちで隣の面倒みているわけにはいかないのよ。そうでなくとも、あたしゃひとの二倍は働いているからね。疲れちまってね。だからもう、かみさんにもどってもらうしかないのよ」
「しかし、家を出て行方知れずとなると……」
平四郎はうかない顔であごを撫でた。
「さがすのに、ちと手間どりそうだな」
「さがす? べつにさがさなくともいいの。居場所はわかってんですから」
とおちかが言った。
二
「なに? 居場所が知れてると?」
平四郎はあっけにとられて、おちかの顔を見た。
「どこにいるのだ? その女房は」
「柳橋平右衛門町。住吉という船宿で、住みこみの女中をしてますよ」
「それなら、力ずくで引っぱって来ればいいのだ」
「誰が? 芳ちゃんがですか? あのひとにそんな甲斐性があったら、旦那を頼みに来ませんよ」
「なるほど」
「もっとも、あのひとも二度ほどかみさんに会いに行ったらしいわ。と言っても、ただかみさんの前で泣いて来たに違いないけどね。芳ちゃんだけじゃないのよ。一度は大家さんもご一緒してくれたんだけど、おきちさん、それが芳ちゃんのかみさんの名前だけどね、おきちさんの挨拶はけんもホロロ、取りつくしまもなかったそうよ」
「ふむ、したたかな女だな」
または亭主から、心がはなれてしまったかだ、と平四郎は思った。心がはなれてしまえば、夫婦はもとの他人にもどるだけである。
しかし、子供がいるのにな、とも思った。亭主と縁を切ったからといって、子供とまで他人になれるわけではなかろう。
「その女房は、家を出て船宿に勤めはじめたわけだな?」
「そうじゃないの。おきちさんは、三年ほど前から、通い勤めで住吉で働いてたんですよ。子供がいると、どこの家も暮らしが大変だからねえ。家の中で内職したり、外に手伝いに出たり、かみさんたちもけっこう働いているのよ」
「船宿か。ふむ」
平四郎は、しきりにあごを撫でた。
「男でも出来たかな? 何か、そんなことを聞いておらんか」
「いいえ」
おちかは首を振った。
「しかしだ。男でも出来なきゃ、そうあっさりと亭主、子供を置き去りには出来まい」
「男ねえ」
おちかは首をひねった。
「あのひと、そんなふうには見えないひとだけどねえ」
「よし、わかった」
と平四郎は言った。
「大工の芳ちゃんは、家にいるかね?」
「いますよ。暮に親方が来てさんざんどなってさ。つまり、そろそろしゃきっとしなきゃだめ、と言うわけ。それで一昨日は親方の家の仕事始めに顔を出して来たようだけど、本物の仕事にかかるのは明日からだと言ってたから」
「それじゃ、とりあえず芳ちゃんに会おう。案内してくれ」
簡単に身支度して外に出ると、日射しがまぶしかった。まだ風があるが、朝の身を切るような寒さは影をひそめて、日があたるところはいくぶんあたたかい。
「ところで、仲裁料は誰が払うのかね?」
おちかと連れ立って表通りに出たところで、平四郎は聞いた。
「ただというわけにはいかんぞ」
「わかってますよ。あたしが払いますよ、誰に頼まれたわけでもないんだから」
「そうか。そこははっきりしとかんとな」
「でも、居場所は知れてるんですから、二百文のさがし物じゃないわ」
洗濯物を干している間に、看板を読んだらしく、おちかは言った。
「こりゃおどろいた。お前さん、文字が読めるのか」
「はばかりさま。あたしゃ読み本を読むのが大好きさ」
「ひとはみかけによらんものだ」
「白状すると、娘のころにお妾をしたことがあるのよ、二年ばかり。そのときあんまり退屈だから、絵双紙だの黄表紙だのというものを買ってもらって、旦那に文字を教わったわけ」
「えらいものだ」
と平四郎は言った。
「それじゃ、取りもどし物百文というのも読めたろう。手間は百文だ」
「喧嘩五十文というのがあったじゃないか。もとはといえば夫婦喧嘩からはじまったことなんだから、それにしてよ」
「五十文じゃ、足代にもならん」
「煮しめ一皿つきというのはどう? 旦那」
「たったの五十文か。気が乗らん仕事だ」
ぼやいているうちに、二人はおちかが住む裏店に着いた。そこの路地もひっそりして、子供が二人ほど、隅でコマを回しているだけだった。
「ここがあたしの家」
おちかは一軒の家を指し、そこを通りすぎて隣の家の戸をあけた。二人が土間に入ると、正面の障子があいて、六つか七つとみえる女の子が二人、まだ三つぐらいの男の子が一人姿を現わした。
「さあ、あんたたち」
おちかは手を叩いた。
「おっかさんたち、内緒の話があるんだから、家へ行って遊んどいで。おみち、炬燵《こたつ》の火に気をつけてよ」
と言ったのは、子供たちの一人がおちかの子なのだろう。おちかに言われて、子供たちはおとなしく家を出て行った。
さあ、旦那どうぞと呼ばれて、平四郎は茶の間に上がった。長火鉢のそばにいた男が、平四郎を見ると、もぞもぞと身体を動かして坐り直した。
「このひとが、あんたに話した仲裁の旦那だよ」
おちかが平四郎を紹介すると、芳次郎が何か口の中でもごもご言って、頭をさげた。いま、お茶の支度をするから、と言っておちかが台所に行った隙に、平四郎は手短かに仲裁屋の披露目を言った。
今度のかみさんの一件にかかわらず、何事であれ、困ったことが起きたときは呼んでもらいたいものだと言い、手間賃の安いことも力説したが、芳次郎はあいまいにうなずいただけだった。
明るい外から入って来ていっとき眼がくらんだが、眼が馴れると部屋の様子も芳次郎も、やっとはっきり見えて来た。部屋は、世話好きのおちかが掃除しているせいか、意外にさっぱりしている。
だが長火鉢の向うに、首うなだれている芳次郎本人はあまりいただけなかった。芳ちゃんなどというから、ちょっといなせな感じの大工かと思ったら大違いで、無精ひげをのばした馬づらの中年男である。女房に逃げられた心労のせいか、顔いろは青白く、頬のあたりに憔悴《しようすい》のいろが濃い。大工職といえば力仕事だろうに、肩のあたりの肉も薄いようで、一見して頼りない感じの男だった。
ふむ、これだからかえっておちかが男気を出したか、と平四郎が納得したとき、おちかがお茶道具をはこんで来た。
「この旦那に頼めば大丈夫。おきちさん、じきにもどって来るから、安心しなさいよ」
お茶をくばりながらおちかが言ったが、平四郎は手を振った。
「かならず帰るとは請負えんぞ、おちか」
「あら、どうしてさ」
「ご亭主の言い分はおよそわかるが、かみさんの言うことはこれから聞かにゃならん。向うの言い分に理があってだ、どうしても帰るわけにはいかんということになれば、わしもかみさんに綱つけて引っぱって来ることは出来ぬということさ」
「そりゃそうだけど」
「ま、やるだけやってみる。しかし、いま言ったことは、ご亭主にも覚悟してもらわぬといかんな」
芳次郎はうなずかなかった。棒のように身体を固くしてうつむいている。
「かみさんが家出したわけはわからんかね」
「さあ」
と芳次郎は言った。やっと顔を上げて平四郎を見た。それで気づいたが、芳次郎は女のようにやさしい眼をしている男だった。馬づらで、唇が厚く、鼻恰好もいいとは言えないが、眼のやさしさが顔全体の造作を救って、眼の前の男がきわめつきの善人であることを物語っているのである。
それで女たちに芳ちゃんなどと気やすく呼ばれてるわけだな、と平四郎は納得した。平四郎も眼の前の憔悴した芳ちゃんに、そぞろ同情の気持が動くのを禁じ得ない。
「わけもわからずか。ひどいかみさんだな」
「………」
「しかし、家を出るとき、何かは言い残したろう」
「貧乏暮らしに倦《あ》きたとか……」
芳次郎が、やっと言葉らしいことを口にした。声も女のようにやさしかった。
「ふむ、そんなことを言ったかね。しかし、本音じゃなさそうだな。人間、そのぐらいのことで亭主、子供を捨てられるものじゃない」
「………」
「男がいるようじゃなかったかね?」
「そんな……」
芳次郎は蚊が鳴くような声で言い、力なく首を振った。
「ま、それはいい。わしがたしかめることだ」
「………」
「しかし、それはそれとしてだ。わけはどうあれ、家出してもう三月だよ、芳次郎さん」
と平四郎は言った。
「かみさんをもどすことを悪いとは言わんが、男としては、べつの考えがあってしかるべき時期だとは思わんかね?」
「………」
「つまり、何だ。こっちはこっちで、この際若い女でももらって……」
「若くなくともいいんだよ」
と、大年増《おおどしま》のおちかが抗議をいれた。
「そうそ、べつに若くなくともいいが、これと思う女子を家に入れてだな。かみさんを見返してやる気持はないかね?」
芳次郎は顔を上げた。平四郎を見る眼に不安と猜疑《さいぎ》のいろがうかんでいる。さっき平四郎が述べたてた披露目の文句とは違うじゃないかと、抗議しているようでもある。
平四郎は、おちかを振りむいた。
「やっぱりダメだな。まるでその気がない」
「でしょう? そうなんだから」
芳次郎は、なおも猜疑の眼を光らせて、二人の小声の内緒話に聞き耳を立てている。
三
「ひとに話してもらっちゃ困りますよ」
ばあさんはもったいをつけた。平四郎と並んで、ちょこちょこ歩いている白髪のばあさんはおくめという名前で、住吉に通い勤めしている手伝いばあさんである。家は橘町の四丁目にある。
平四郎とばあさんは、柳橋を渡って広小路に出たところである。風はないが曇り空で、日暮れ近い広場には身体をしめつける寒気が立ちこめている。歩いている人影もまばらだった。
「相手は長吉と言ってね。お店の抱えの船頭ですよ」
「ふむ、齢は?」
「二十四、五じゃないかしら」
「ははあ、するとおきちより年下だな」
「四つも五つも年下ですよ」
ばあさんは立ちどまって、手をうしろに回すと腰をのばして平四郎を見た。
「だからあたしもおきちさんに言ってやったわけ。あんた、いまは若い男にちやほやされて喜んでるかも知れないけど、年取ったら捨てられるよ、泣きをみるよってね」
「ま、歩きながら聞こう」
と平四郎がうながすと、おくめばあさんはまたちょこまかと足を動かして歩き出した。少し腰が曲っているが、元気なばあさんである。
「その長吉という船頭は、人間はどうかね? しっかりしてるのかい?」
「とんでもない」
ばあさんは、歩きながら手を振った。
「ちゃんと暮らしてる男なら、あたしゃ何も言いませんよ。齢が上だろうと下だろうと、知ったこっちゃありませんよ。そうじゃないんですから」
「ふむ、怠け者かね?」
「いえ、仕事はちゃんとやってますよ。船頭の腕はいいんですよ、力もあるし。だけど、あの男はその稼ぎを全部使っちゃうわけ」
「酒か? それとも女か?」
「博奕《ばくち》」
ばあさんはまた立ちどまって、平四郎をじっと見たが、すぐに思い出したように歩き出した。二人は米沢町と横山町三丁目の間の通りに入っている。そこで前方から来た女房が顔見知りとみえて、ばあちゃんいま帰りかね、と声をかけて来た。女は連れの平四郎に好奇の眼をむけた。
あいさ、今日は冷えるねと、ばあさんは元気よく声を返したが、その女とすれ違うと声をひそめた。
「このご時世に博奕やってんですよ。お上に見つかったら、これですよ」
おくめばあさんは、手で首を叩いた。打首というつもりらしい。
「なんであたしが知ってるかというとね、その日になると呼び出しの男が来るわけ。どれもこれも人相の悪い男ですよ。その取りつぎをあたしがやってるの」
「ははあ」
「長吉に頼まれたんだよ。こういう男が来たら取りついでくれろ、とさ。もっとも長吉も何のお使いかまでは言わなかったが、あたしにはわかったよ。あたしの息子が親泣かせの極道でね。いまは行方知れずになってるけど、これが博奕好きで、そりゃもう大変な苦労したんだから。だから、博奕打ちはひと目見りゃわかりますのさ」
「長吉は、むかしから住吉の船頭をしているのかな?」
「いーえ、来たのは二年前。船頭というのはわたり者が多いからねえ。ちょっとでも手間のいいところを見つけると、すぐに店を移っちゃうのさ」
「博奕は住吉に来てからはじめたのかな?」
「違いますよ、旦那」
とおくめはいそがしく手を振った。
「あの男は、来たときから、もう出来上がった博奕打ちだったね。でも、それは誰も知らない。住吉で知ってるのはあたしだけさ」
「ふむ」
「誰にも話すつもりはなかったけど、おきちさんというひとがいいひとだからねえ。あたしゃ、おきちさんがもしや長吉と所帯を持つなどという話になったら、そのときは言ってやるつもりだった。でも住吉の旦那にも、おかみさんにも言わないよ」
「それが無難だな。長吉に仕返しでもされたら大変だ」
「それもあるけど、家にも博奕打ちが一人いるからねえ。ひとのことなど言えやしない」
ばあさんは深深とため息をついた。おくめばあさんの身体が、急にひと回り小さくなったように見えた。
だが、ばあさんは立ちどまるとしゃっきりと背をのばし、眼をいからせて平四郎を見た。
「あたしゃ気持の上じゃ、あのろくでなしをかばっているつもりだよ。ところが長吉のやつはあたしが何も知らずに取りついでいると思って、バカにしてんだからね。駄賃ぐらいくれてもよさそうなものなのに、逆さまにばあさん小銭があったら貸せなんて言うんだから」
「太いやつだ」
と平四郎も言った。
「ところで、おきちと長吉が出来たのは、いつごろからかわからんか?」
「男と女のことだからねえ。はっきりはしないけど……」
おくめばあさんは口ごもってから言った。
「変だと思ったのは、一年前ごろかねえ。そのころから、ひとに隠れるようにして長吉に金を貸したりしてたから。このごろは大っぴらに貢いでいるようだけど」
そんなに前からか、と平四郎は思った。芳次郎の無精ひげがのびた馬づらと、ひとのよさそうな眼がうかんで来た。
平四郎は、懐から財布をつかみ出すと、二十文ほどの小銭をおくめの手の中にあけてやった。おちかに頼まれた仕事で、足が出るのは間違いないと思われた。
四
通された部屋は三畳で、平四郎が坐ると一パイになった感じだったが、一番小さい部屋と注文したのだから、文句は言えない。畳も古くてケバ立っているが、遊びに来たわけではないから、気にしないことにした。どうせ足が出るにしろ、かかりの費用は最小限に押さえたいところである。
おきちという女中に、お酌を頼みたいと言うと、部屋に案内した若い女は、かしこまりましたという丁寧な返事とは裏腹に、ひとを小バカにしたような笑顔で平四郎をみたが、はたして階下に降りて行ったあと、そのまま何の音沙汰もない。
あるいは酒はお銚子一本でいいと言ったので、よけいにバカにされたかも知れないが、なにも、吉原に繰りこむ旦那衆が定宿にしているような、住吉などという家で高い酒を飲むことはないのだ。せち辛い世の中だが、安くてうまい酒を飲ませるところがないわけではない。要は費《つい》えを押さえることだと、平四郎はおきちの来るのがおそいのにも、腹を立てないことにした。
それにしても、そのあと四半刻《しはんとき》(三十分)経ってもお茶一杯運んで来ないのは、よくよくもうからない客とみられたらしかった。時世をはばかってか、三味線の音も歌声も聞こえないが、二階の部屋にはあちこちと客が入っているらしく、時どき押さえた笑い声や話し声が洩れて来る。
火鉢にしがみつくようにして、膝を抱き鼻毛を引きぬきながら、平四郎が所在なくほかの部屋の声を聞いていると、やっと足音がして部屋の外にとまった。すぐに襖《ふすま》がひらいて膳の物をささげた女が入って来た。
ごくありふれた顔の女だった。ふっくらとした丸顔とちんまりした鼻、少少受け口の唇は、美人とは言えないがひとに親しみやすい感じをあたえるだろう。これが芳次郎の女房おきちであるらしかった。齢は三十だと聞いているが、全体の感じがもっと若かった。
女は眼を伏せたまま挨拶をすると、すぐに酒の酌をした。姿勢も表情も固く、酌をする手つきがぎごちなかった。
「あんたが、おきちさんだね」
と平四郎は言った。女ははいと答えたが、まだ眼を伏せたままである。
そのときになって平四郎も気づいたのだが、おきちの身なりは不断着である。おきちは座敷回りの女中ではなく、台所などで働いているらしい。それで変な笑い方をしたのか、と平四郎はさっきの若い女中の笑いを理解した。
おきちが固くなっているのも無理はない、と思った。おきちは台所の自分を名指しだと聞き、しかも客は武家だとも聞かされて、半ば疑いながら部屋に来た様子でもある。内心何事かと思っているに違いなかった。
「じつは、わたしは飲みに来たわけじゃない。あんたに話があって来たのだ」
平四郎が言うと、おきちははじめて顔をあげて平四郎を見た。顔にはっきりと不審そうな表情をうかべている。
だが、平四郎がつづけて、あんたのご亭主の知り合いだと言うと、おきちはすぐに不審のいろを解いた。話というものの察しがついたようである。
おきちは顔をそむけた。その横顔に、意外にかたくなないろが出た。平四郎が持って来た話の前に、いそいで壁をつくったようでもある。
「いや、そう言っても、わしはご亭主の味方というわけではない。来たのはわしの商売でな」
平四郎は、ここでも仲裁屋の披露目を言った。
「そういうわけで、頼まれて口銭稼ぎに来たのだが、なに、無理やりにあんたの腕をひっぱって、ご亭主の前に連れて行こうというわけじゃない。夫婦には夫婦の機微というものがあってな。無理なことをしてもうまくいかん」
「………」
おきちは眼を平四郎にもどした。平四郎の言うことに納得が行って、話というものを聞いてみる気になったようだった。
一杯ついでくれと言うと、おきちは素直に銚子を取り上げて、平四郎に酒をついだ。そして、はじめて自分から声を出した。
「ごくろうさまですけど、あのひとのところにもどる気はないんです。お話を聞いても無駄だと思いますけど」
「ま、ま、それは後の話にして、その前に聞きたいことがある」
平四郎はちびちびと盃を干し、一たん盃を伏せた。
「家を出る気になった、わけを聞きたいな」
「………」
「芳次郎と所帯を持って、十年ほどになるそうだな」
「十一年です」
「ふむ、十一年。短くはない年月だ。しかも子供が二人もおる」
おきちはまたうつむいた。
「十年余も一緒に暮らした亭主を捨てる気になったというのは、こりゃやっぱり並のことじゃない。何かわけがあったのかね?」
「わけと言っても……」
おきちは平四郎を見た。変にぼんやりした表情になっている。
「ただ、何となくいやになったんです」
「なるほど。いや、そういうこともないことじゃなかろうが、何かもう少し、きっかけがありそうなものじゃないか」
「所帯を持ったとき、あたしは十八でした」
おきちは平四郎の顔を見ながら、低い声で言った。だが、ぼんやりした眼は、平四郎というよりは、自分の過去を見ているようでもあった。
「あのひとは、奉公が終って三年ばかり経ったころで、とてもよく働くひとでした」
おきちはそのころ、芝の源助町で酒屋に奉公していた。そこで、酒屋の隠居部屋を建てに来た芳次郎と知り合ったのである。身よりのないおきちは、芳次郎のやさしい人柄に惹かれた。芳次郎は、大工職人には似合わない、おとなしくてやさしい男だった。
だが、所帯を持って数年経つうちに、おきちは亭主の芳次郎が、ひとにやさしくおとなしい性格のために、どんどん仲間から置き去りにされるのをみた。一緒に奉公を終えた仲間が一本立ちしたり、早くも棟梁と呼ばれたりする中で、芳次郎だけはいつまでも親方から離れられず、手間取り大工だった。
「ははあ、それで不満だったかな?」
と平四郎は言った。
「いつまでもうだつが上がらない亭主に倦きが来たか。しかし、世の中手間取り大工もいなきゃ……」
「いいえ、そうじゃないんです」
おきちは強く首を振った。
「そりゃ所帯を持ったころは、このひとはいつか棟梁になるひとだろうと思わないわけじゃありませんでした。とても働き者でしたから。でも、棟梁にはなれそうにないとわかっても、あたしはそのことで不足を言ったことはないですよ」
「そうかね」
「ええ。だって棟梁になるには、金もいれば器量もいるんですから。なれないからと、あのひとを責める気持はありません」
「すると、ほかに何か不足だったのかな? 貧しい暮らしか?」
おきちは、また首を振った。考えこむように、しばらくうつむいていたがやっと顔を上げた。
「あのひとは、物事を自分で決めたことが、一度もないひとなんです」
「………」
「所帯を持って間もなく、腹に子供が出来ました」
だが、芳次郎の手間は安く、おきちはやっと鼻緒縫いの内職を見つけたばかりで、子供を生んでも親子三人が暮らしていけそうになかった。おきちは、少しは暮らしの見通しがついたところで子供を生みたかった。
相談をかけたが、芳次郎は子供を生むともおろすとも、決めることが出来なかった。おろおろといつまでも迷っていた。結局おきちは自分で決心をつけて、子おろしのばあさんをたずね、最初の子をおろしたのである。そのときは、芳次郎のそのあとのいたわりがやさしかったので、おきちは子をおろした心と身体の痛みを忘れた。
だが、それがはじまりだったのである。芳次郎は、親方が一人立ちするつもりなら、金をつごうしようと言ってくれたときも、自分では決められなかった。内職では間に合わなくなり、おきちが外働きに出ようかと、相談をかけたときにも、いいとも悪いとも言えなかった。すべておきちが決めるしかなかった。
何でも女房まかせの芳次郎を、おきちははじめの間はおかしくも思い、またうれしくも思っていたのである。あんたは子供みたいで、とおきちは亭主に言った。自分じゃ何にも出来ないし、決められないひとなんだから。
子供が二人になったころも、家には子供が三人いるんだからね、と苦情を言いながら、子供のような亭主の面倒をみるのに、おきちはけっこう張り合いを持っていたのである。
「でも、ある日ふっと考えたんです。このまま、ずーっと行って齢取っちゃうのだろうかって。とってもさびしい気がした」
おきちは、あらぬ方を眺めながら、低い声でしゃべっていた。平四郎に話しているというよりも、自分に話しかけているように見えた。
「自分も働きづめで、それでも暮らしはちっとも楽にならないし、さびしいなと思ったんです。聞きわけのない子供、働くことは働くけれども、暮らしの大事なところでは何ひとつ自分で決められない亭主。あのひとたちの面倒をみるのに疲れたんですよ、きっと」
「………」
「やさしいひとだと思いこんでいたけど、あのひとは、ただあたしに甘ったれていただけですよ」
「なるほど。それで亭主に愛想をつかしたかな」
と平四郎は言った。
「しかし、子供がいるだろう。子供に未練はないのかね?」
おきちは夢からさめたように、平四郎を見たが、すぐに低い声で言った。
「でも、もういまからでは手遅れですから」
「長吉という男が出来たからかね?」
おきちは眼をいっぱいひらいて、平四郎を見た。みるみる顔が赤くなって、おきちは眼を伏せた。
「あんたは外に働きに出て、ご亭主とは違う、もっとテキパキと世を渡っている男たちを見たのだな。それで働くしか能のない、家の中は女房まかせのご亭主に厭気がさしたのかも知れんが、さて、外の男たちがご亭主の芳次郎さんより、どれほどマシな男たちかは、表づらだけじゃわからんことだぞ。男などというものは、まあ大体似たりよったりだと考えて間違いはない」
「………」
「それはともかく、長吉が博奕を打ってるのを知ってたかね?」
おきちは、また眼をみはって平四郎を見た。はじめて聞いたという顔色である。おきちは口の中で何かつぶやいたが、平四郎には聞きとれなかった。
「そうか、だいぶ貢がされているらしいから、気づいていたかと思ったが、違うようだな。だが、こいつはほんとの話だ。わしは一度あとをつけてな。博奕場がある場所もつきとめた」
「………」
「長吉に入れあげるのは考えものだぞ、おきち。あの男は博奕打ちだ。こういうご時世に、博奕を打ってると知れたら、こりゃただじゃ済まん。まず重罪はまぬがれんな」
「そのときはそのときですよ、旦那」
不意におきちが言った。おきちの顔にも身体にも、また平四郎の説得を受けつけない壁の固さがあらわれた。
お酌しましょうか、と言っておきちは銚子を取り上げた。だがそう言っただけで、酒をつごうとはせず、顔をそむけた。そのままの姿勢で、おきちは暗い声を出した。
「いまさら後もどりも出来ませんからね」
五
「相手は大川で櫓《ろ》を漕《こ》いでいる船頭だからな。おまけに博奕打ちだ。気は荒いし、腕っ節も強い」
平四郎の話を聞いているうちに、芳次郎の顔から血の気がひき、眼に恐怖のいろがうかんだ。にぎりしめた膝の上のこぶしが、小さくふるえている。
「どうした?」
平四郎は叱咤した。
「こわいか。こわくて女房のことはあきらめるというんなら、わしは手をひいてもかまわんのだ」
「いいえ、旦那」
芳次郎は、はげしく首を振った。
「その男のところに連れて行ってください。お願いだ」
「そう来なくてはな。さっきも言ったように、わしは手を貸さんぞ。連れて行くだけだ。かわいい女房を取り戻すのに、他人をあてにしちゃいかん。一人でやる。いいな」
「へえ。へえ」
「相手は博奕打ちだ。人間の屑だ。そいつから女房を取りもどして来るのだ。それが出来なきゃ男とは言えん。女房が泣くぞ」
「やりますとも、旦那。へえ、やります」
言いながら、芳次郎はがたがた顫《ふる》えている。眼をつりあげ、いまにも倒れそうに、青い顔をしている芳次郎のそばに寄ると、平四郎はぐいと袖をしごいて、腕を出させた。
「ほう、えらい力瘤《ちからこぶ》じゃないか」
心配そうに二人を眺めているおちかや子供たちの前で、平四郎は案外な固い肉がついている芳次郎の腕を、つかんだり放したりした。
「ふむ、さすが大工だ。これならあの船頭といい勝負だろう。骨はひろってやる。やれ」
では、出かけるかと平四郎は言い、話だけで腰が抜けたのか、なかなか立てない芳次郎の腕をひっぱってやった。
家を出ると、外はもううす暗くなっていた。丁度いい時刻だ、と平四郎が言うと、おちかが袖をひっぱった。芳次郎の方を盗み見ながら、おちかは声をひそめた。
「大丈夫かしら? あまり無理しない方がいいんじゃないの?」
「なに、心配はいらんよ。わしがついておる」
ささやき返して、平四郎は芳次郎に行くか、と声をかけた。
二人が米沢町に出て広小路を横切り、柳橋を渡ったのは、六ツ(午後六時)ごろだった。橋のきわにある柳の陰に、二人は姿を隠した。
「長吉は今日昼番でな。夜は川向うの家に帰る。そろそろ住吉から出て来る時刻だ」
ここまで調べるのに、だいぶ金を使ったな、と平四郎は胸の中で、みみっちくこれまでの費《つい》えを勘定した。
「家にもどる晩は、おきちが一緒だ」
つけ足して言ったが、芳次郎は何も言わなかった。身体の顫えはどうにかおさまったようだったが、ほのかな町のあかりに浮かんだ顔には、生気がなかった。ぼんやりとひとの行き来がある町角のあたりを見ている。
改革の前は夜おそくまでにぎわったこのあたりも、料理茶屋、小料理屋などがつぎつぎと店を閉めたので、町の灯はかぼそく、通るひとの姿もまばらだった。
「寒いな」
手をこすりあわせて、平四郎が言ったとき、町角を回って橋の方に来る二人連れの男女が見えた。しばらく眼をこらしてから、平四郎は来たぞと言った。
とたんに芳次郎の身体が顫え出した。がちがちと歯の鳴る音がする。芳次郎は、平四郎の顔を見て、意味不明の声を立てた。芳次郎は尻ごみをした。
「しっかりしろ」
平四郎はどなりつけると、突きとばすように芳次郎を道に押し出した。
突然に眼の前にとび出した男を見て、長吉はおどろいたらしい。足をとめて、何だい、こいつはと言った。
二人の前に突立ったまま、芳次郎は瘧《おこり》にかかったように顫えている。それでも長吉の顔を指さして何か言ったようだったが、平四郎の耳には、わ、わ、わという声が聞こえただけである。
「どきな、じゃまだ」
長吉は芳次郎の胸を押した。そのひと押しで、芳次郎はたわいなく地面に尻餅をついたが、立ち上がると急にこぶしを振り上げて長吉になぐりかかって行った。だが、足がひょろついている。
「やめて、おまえさん」
後じさりながら、おきちが悲鳴をあげた。長吉は芳次郎のこぶしをあっさりかわした。かわされて、芳次郎はよろめいている。
その恰好を見、振りむいておきちを眺めてから、長吉が言った。
「こいつはおもしれえや。おめえ、おきちの亭主だな?」
長吉は、やっと身体をたて直した芳次郎の前に、背をまるめるような恰好で近づいて行った。長吉は芳次郎の顔をのぞきこんだ。そして、長《なげ》えつらだと言った。
「そうか、おっかあを取りもどしに来たってわけだ。なかなか、いい度胸じゃねえか」
「………」
「どうした? さあ、やってみな。おれはまだこの女に用があるんだ。亭主が迎えに来たから、おお、そうかと渡すわけにゃいかねえよ。取り返したかったら、腕ずくで来い」
「………」
「やれよ、おい。やり方はこうだぜ」
すばやく、長吉はこぶしを繰り出した。こぶしは芳次郎の頬に、鈍い音を立てた。ぐらりと傾いた顔に、間をおかず今度は左手のこぶしが飛んだ。手をのばして、芳次郎は長吉につかみかかろうとしたが、長吉は軽がるととび退《の》いた。そこで踏みこむと、またすばやいこぶしを繰り出した。軽快に、長吉は芳次郎を痛めつけていた。
長吉のこぶしが飛ぶたびに、芳次郎の身体は右に左に傾いた。芳次郎は少しずつうしろにさがっている。
だが、それまで空をかきむしるだけだった芳次郎の手が、やっと長吉の袖をつかんだ。その袖をたぐると、芳次郎はうおーッと叫んだ。いきり立った馬の勢いで、一気に三間ほどの距離を押しもどすと、芳次郎は長吉の胴に抱きつき、そのまま相手の身体をかつぎ上げた。追いつめられて、柱をかつぐ手間取り大工のクソ力が出たらしい。
芳次郎は、長吉を地面に投げ落とした。だが殴られすぎて体力を消耗したらしく、叩きつけるまでには至らなかった。投げたとたんに息を切らして、自分もふらついている。
長吉はすぐに起き上がった。軽い足どりで芳次郎の前に立った。
「こう来なくっちゃ、おもしろくねえ」
長吉はのしかかるように、芳次郎の肩をつかんだ。二人の男はがっちりと組み合ったが、そうなると芳次郎は喧嘩馴れしている長吉の敵ではなかった。長吉の腰車にかけられて、芳次郎の身体は宙を一回転して地面に落ちた。芳次郎は、ぐっというような声を洩らした。のろのろと起き上がろうとしたが、どこかを打ったらしく、頭を抱えると身体を曲げてまた横になった。その身体に、長吉の足蹴りがとんだ。無言の凶暴な蹴りに、芳次郎の身体がそり返った。
「やめて、お願い」
走って来たおきちが、かぶさるように芳次郎に抱きついてかばった。
「やろう、見せつけやがって」
長吉はおきちの腰を蹴った。背に足をのせて体重をかけた。おきちが悲鳴をあげた。
そこまで見て、平四郎は木陰から走り出た。ぎょっとしてふりむいた長吉の腹に、強烈な当身を叩きこむと、後も見ずに道を走り抜けて町家の軒下に身をひそめた。
泣き声を洩らしながら、おきちが芳次郎を抱き起こしている。
「大丈夫? ねえ、しっかりして。大丈夫?」
ひょろひょろと、芳次郎は立ち上がった。そして地面にのびている長吉を見、すすり泣いているおきちを見た。
突然に破天荒なことが起きた。芳次郎がいきなりおきちの顔を殴りつけたのである。
「このあまァ、男などつくりやがって」
どなられて、おきちは一瞬呆然と芳次郎を見上げた。だがつぎの瞬間、おきちは身体をまるくして芳次郎の胸にとびこんでいた。
「もっとぶって。あたしは悪い女なんだから」
泣きわめくおきちを、芳次郎はしっかりと抱きかかえた。そして肩に手を回したまま歩き出した。
芳次郎は地面に寝ている長吉を見て、自分が打ち倒したと思ったかも知れなかった。おきちの肩を抱いて、橋の方に遠ざかるうしろ姿に、どことなく男の本来に目ざめたとでもいうような、昂然《こうぜん》とした気配が出ている。平四郎は笑いを噛み殺すのに苦労した。
二人の姿が橋のむこうに消えてから、平四郎は軒下から出て、長吉に活を入れた。長吉は、はじかれたように起き上がった。
「よう、博奕打ち」
と平四郎は言った。
「お目ざめだな」
「てめえは、誰だい?」
「ま、わしのことなどどうでもいい」
平四郎も、この男にまで仲裁屋の披露目を言う気はしなかった。
「それよりも、さっきの大工の女房のことだ。あの女子には、これ以上手を出すな。手出ししたらただでは済まさんぞ。わしがそう言ったことをおぼえておくことだ」
「脅しかね?」
長吉は、にやにや笑った。
「しかし、こっちにも都合というものがあるからな。脅されて、へい、かしこまりましたというわけにはいかねえや。もっとも、代償があればべつだ」
「代償など払わん」
平四郎はきびしい声を出した。
「お前さん、博奕を打ってるな。おそれながらとお上に訴えて出れば、お前ら、一網打尽だ。しかしおきちから手をひけば、このことは黙っていてやろう」
長吉は黙りこんだ。さぐるような眼で平四郎を見ている。
「取引きといえば、こんなところだろうな」
「何かの間違いじゃねえのかい」
と長吉が言った。声が緊張している。長吉は平四郎から身体をはなして、足を踏みかえた。殴り合いにそなえたようでもある。
「どっから聞いたか知らねえが、博奕なんか打っちゃいねえぜ」
「とぼけちゃいかんな。こっちは賭場がどこにあるかも知っておる。お前さんのあとをつけたのだ。そのことが知れたら、お前さんの仲間がさぞ喜ぶだろうな」
「このやろう」
不意に長吉の身体が動いた。手に匕首が光って、匕首の先は鋭く平四郎の腹を抉《えぐ》って来た。寸前に体をかわすと、平四郎はつかんだ腕の急所を押した。
ふりほどこうと、長吉は必死にあばれた。すごい力で、平四郎は振り回されそうになったが、足を踏みしめて、低い気合を発した。動きがとまって、長吉は身をよじったが、ついに堪え切れずにわめき声をあげた。
「おきちから、手をひくか?」
「痛え、はなしやがれ」
「手をひくか、それともまだやる気か、どっちだ」
「わかった。手をひく」
平四郎は長吉をはなした。よろめいて立ち直ったところに、すっと身を寄せると、強烈な腰投げを打った。長吉の身体は、高高と宙に舞って地面に落ちた。
起き上がろうともがいている長吉を見ながら、地面から匕首を拾い上げた。橋から暗い川に匕首を投げこむと、平四郎は後も見ずにその場を立ち去った。
おちかが五十文の手間賃と丼にいれた煮しめを持って来たとき、平四郎は台所で飯を炊いていた。
「手伝おうか」
おちかが台所に首を突っこんで来たが、平四郎は茶の間に押しもどした。
「もうすぐ出来る」
「そうお?」
世話焼きのおちかは、不満そうに茶の間にもどったが、そこから声をかけて来た。
「手間賃は、おきちさんが出したんだよ。旦那によろしく言ってくれって」
「そうか」
平四郎は竈《へつつい》の火を落とした。あとは余熱で蒸せばいいのだ。平四郎は近ごろ飯炊きがめっきりうまくなった。
茶の間にもどると、おちかが勝手にお茶を入れて飲んでいた。平四郎は丼のフタをあけてみた。店を閉めるときに詰めて来たとみえて、煮しめはまだ湯気が立っている。
「うまそうだな。これで今夜の飯が喰える」
「煮しめは、あたしの志さ」
「しかし、今度の仕事は足が出たぞ」
「悪かったねえ。あたしもあんなこわい男がからんでるなんて知らなかったから、気軽に頼んだんだけど」
「まあ、よかろう、うまく元の鞘におさまったわけだからな。ところであの夫婦、その後どうしているかな?」
「それが少し変なのさ」
おちかは口に手をあててくすくす笑った。
「一日、二日は、芳ちゃんが柄でもない大きな声を出して、少しいばってたみたい。おきちさんも、はい、はいなんて、かわいい声を出してさ。でも、昨日あたりから芳ちゃんの声が聞こえなくなって、また元にもどったみたいね」
平四郎も笑った。しかし、元にもどったとしても、おきちは一度は亭主の芳次郎が、身体を張って自分を取り返そうとしたのを見たのである。もう家出することはあるまい。
「あれは、元来がそういう夫婦なのだ」
「でも、おきちさんは変ったわ。前はなんかこう、思いつめたような顔してたけど、気性が明るくなってね。よくしゃべるし、笑うし。もう外働きはやめて、内職するんだって」
おちかは、そこでどういうわけかため息をついた。
「やっぱり夫婦っていいねえ。別れるの何のとさわいでも、ひと風吹いたあとはけろっと仲よくなるんだから」
「けっこうなことじゃないか」
「旦那はどうなのさ」
不意におちかは鉾先《ほこさき》を平四郎にむけた。
「いつまでひとり身でいるつもり? ほんとに見ちゃいられないね、大の男が飯を炊いたり、釜を洗ったり」
「わしのことはほっといてくれ」
「せめて晩飯の支度ぐらい、してあげようか。少しはおいしいご飯を喰べさせてあげられると思うよ」
大工の芳ちゃんに振られたおちかは、今度は平四郎に目をつけたらしい。子持ちの寡婦ながら、色気あふれる大年増に、じっと見つめられて、平四郎が返答に窮していると、土間にひとが入って来た気配がして、小坊ちゃま、おられますかという声がした。
おちかが変な顔をした。
「小坊ちゃまって言ってるよ」
「わしのことだ」
平四郎は自分の顔を指すと立ち上がった。障子をあけると、ほの暗い土間に築地の屋敷から来た嘉助《かすけ》が立っていた。
「お殿さまのご伝言を持って参りました」
と嘉助は言った。これから深川の町に出かけるから、供しろという兄の監物《けんもつ》の命令を持って来たのである。用件を伝えながら、嘉助は部屋の中にいるおちかをちろちろと見ている。ひとり者のはずの平四郎の家に、醜《みにく》からぬ女がいるのが気にいらない様子だった。
「飯を喰ってからではいかんか」
と平四郎が言ったが、嘉助は首を振った。
「小坊ちゃまのお供をしてすぐにもどって来いという、お言いつけでござります」
嘉助は、融通というものがまったく利かない年寄りである。平四郎はあきらめて、部屋にもどると身支度をして、腰に刀を帯びた。
「お出かけですか、旦那」
腰を浮かしながら、おちかが言った。
「いそぎの仕事が出来た。それも、きついわりには手間賃の出ない仕事だ」
このまま出かけるから、後を始末して帰ってくれとおちかに頼んで、平四郎は嘉助と一緒に家を出た。
寒い夜気が、身体をしめつけて来た。兄のお供というのは、例の鳥居|甲斐守《かいのかみ》の配下の動きを見張る仕事だろう。この寒さをおして、兄が深川まで出かけるのは、見過ごし出来ない動きが出て来たということかも知れなかった。
はて、何だろうと考えていると、提灯をさげた嘉助が小坊ちゃまと言った。
「さっきの女子は、何者でござりますか?」
「近所の知り合いだ」
「あんな年増女を身辺に近づけるのは、考えものですぞ。年増で美人というのは、よくありません」
ちょっとの間に、嘉助は抜かりなくおちかを観察したようである。
「ああいう女子は男を迷わせます。女子はこわいものですからな、お気をつけなさいまし」
まったくだと平四郎は思った。町を抜けて浜町堀の河岸に出ると、身を切るような川風が吹きつけて来た。
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走 る 男
一
わずかに風があって、その風には冬の名残りのつめたさが含まれているが、二月の日射しは明るくてあたたかい。そのあたたかさは、佐柄木町蔵地《さえきちようくらち》の角を曲って材木河岸に出ると、いっそうはっきりして来る。
風は町の屋並みに遮られて、河岸に立つ柳の梢をゆるがすだけである。枝に羽毛のような白い物が光るのは、やがて芽吹く兆しだろう。その柳にも、歩いて行く神名平四郎にも、荒荒しいほどの二月の光が降りそそぐ。
──そろそろ春だな。
懐手《ふところで》して歩きながら、平四郎はそう思っている。いま別れて来たばかりの北見十蔵のように風流を解するわけでもなく、またさほど懐があたたかいわけでもないのに、寒い冬が終って春が来るというそれだけのことが、平四郎のようなひとり者の胸まで、何となく明るくするようである。
──少少がんばって働いて……。
今年は道場をもたなきゃ、という気になる。北見と話して来たのはそういうことだった。二、三日中には本所に住む明石半太夫をたずねて、まず平四郎がその話を持ちかけてみることになっている。
──なに、四の五の言わせぬ。
明石は一度道場をやろうと持ちかけて、その気になった平四郎と北見が金を出すと、その金を猫ババして姿をくらました男だ。その後交際が復活して、金の話は何となくうやむやになっているが、再度道場を持つということになれば、明石は当然、さきの失態を踏まえた上で、多少多目に費用を負担すべきだろう。
あの男のことだから、わしはこのたびは抜ける、などと言い出しかねないが、そんなことを言ったら、今度こそおれの貸し分はむろんのこと、北見の分まで残らず取り立ててやる。
鼻息を荒げて、平四郎は懐から手を出したが、そのとき前方にひとが騒ぐ声を聞いて、眼を上げた。
男が走っている。お店者《たなもの》ふうの三十前後の男だった。男は地蔵橋を一散に走り抜けてこちら河岸に移ると、通行人にぶつかりながら、平四郎の方にむかって走って来る。近づくにつれて、髪は乱れ、足もとは足袋《たび》はだしで、歯を喰いしばり眼をつり上げた男の姿が見えて来た。
走っているのはその男だけではなかった。うしろからもう一人来る。そちらはひげづらの職人ふうの男だった。物騒なことに、手に光る物を握っている。
お店者は平四郎の前まで来たところで、足がもつれたらしくよろめいた。そのままつんのめるように平四郎にぶつかったが、走りながら平四郎を武家と見定めていたらしく、いきなりしがみついて来た。
「お助けください、お武家さま」
男はわめいた。
「ひとに追われております」
「わかった、わかった。見ればわかる」
平四郎は男をうしろにかばうと、追って来た男にむかって手をひろげた。
「ちょっと待て、ひげ男」
平四郎のドスが利いた制止の声に、がむしゃらに追って来た男も、ぎょっとしたように足をとめた。腹がけ姿の職人で、手にしているのは、刺されたら馬だってぶっ倒れそうな、大きな鑿《のみ》である。
油断なく身構えながら、平四郎が言った。
「真昼間に、刃物でひとを追い回すとは、穏やかじゃないな、おい。わけを聞こう」
「かまわねえでくだせえ、旦那」
とひげ男もわめいた。頬からあごまでのびているひげのせいで齢《とし》を喰っているようにみえるが、じっさいには先に逃げて来たお店者と似た齢ごろの男だった。
「そいつはおれの嬶《かかあ》を間男しやがったんで」
「間男?」
「そうよ。やろう、生かしちゃおけねえ」
職人はいきり立って鑿を振りまわし、やい、小花屋の手代と叫んだ。
「前へ出て来い。こいつを一発、てめえのどたまにお見舞いしてやらなくちゃ気がおさまらねえ」
「よしとくれよ、熊五郎さん」
平四郎のうしろから顔だけのぞかせたお店者が、あわれっぽい声で抗議した。二人は顔見知りらしい。
「どこからそんなことを聞きこんだか知らないが、あたしゃあんたのかみさんなんぞ、さわったこともないよ」
その声を聞いて、いつの間にか道ばたに足をとめていた通行人がどっと笑った。熊五郎はやじ馬を睨《ね》めつけた。それから小花屋の手代にむき直った。
「やろう、言いわけはきかねえぞ。嬶がそう白状してるんだ」
「そんな、無茶な」
「待った、ちょっと待った」
平四郎は二人の言い争いに割って入った。熊五郎と呼ばれた男に、とにかくその物騒なものをひっこめろと言うと、ひげづらの職人もいくらかのぼせがさめたか、あたりを見回しながら鑿を背に隠した。
「よろしい。そこで話し合いというわけだが、じつはわしは……」
平四郎は仲裁仕事の披露目を言った。目ひき袖ひきこちらを眺めているやじ馬にも聞こえるように、明瞭にかつ話をくだいて述べたてた。
「と、言うわけでな、お前さん方は願ってもない仲裁人に出会ったわけだ」
「仲裁なんざ、いらねえ」
熊五郎という職人は、うなるように言った。
「おれは、そいつのどたまをぶち割ってやるんだ」
「お前さんの方はどうかね?」
平四郎は、うしろの男を振りむいた。小花屋の手代と呼ばれたその男は、まだ青い顔をして、平四郎の袖をしっかりと握っている。
どうだと聞かれて、男はあわててうなずいた。顫《ふる》え声で言った。
「お願いします。何とかしてください。あたしゃ刃物で追い回されるのはごめんです」
「よろしい、それで話が決まった」
平四郎はひげ男に向き直ると、こら、熊五郎と言った。
「貴様は仲裁はいらんというが、手代さんはわしに話をつけてくれと言っておる。つまりこのひとは、ただいまからわしの大事の依頼人になったわけだな」
「………」
「わかるかな? この話が埒《らち》あくまで、手出しはゆるさんぞ。もう話の途中でこのひとに怪我でもさせたら、ただでは済まさん。いいな?」
熊五郎は、牛のような気味わるい眼で平四郎を見返したが、さすがに平四郎に手むかうことまではしなかった。
鼻の穴をふくらませて、もう一度手代をにらみつけると、ぺっと唾を吐いて背をむけた。いま来た道をすたすたと引き返して行った。頑丈そうな背中である。
揉めごとはこれでおしまいらしいと見きわめがついたか、やじ馬が散りはじめた。平四郎は、まだ袖をつかんでいる手代の手をはらいのけて声をかけた。
「わしの家まで来てもらって、話をうかがおうか。なに、そんなに遠い場所じゃない。村松町の裏店《うらだな》でな。申しおくれたが、わしの名は神名平四郎だ」
二
男の名は清助。小舟町一丁目に大きな店を構える、小間物問屋小花屋の手代である。小花屋は小間物を卸す一方で店売りもやっていて、近くの町町の女たちが、よく紅、白粉《おしろい》を買いに来る。
熊五郎の女房およしもそういう一人で、熊五郎本人は隣町の堀江町三丁目に住む檜物《ひもの》職人だが、およしは両国の小料理屋で働いている。客商売だから身だしなみにも気をつかって、小花屋にも紅、白粉から櫛《くし》、笄《こうがい》などを買いに来ている。馴染み客の一人だ、と清助は言った。
「あたしは店売りをまかされていますから、どうしてもお客さまのお相手をすることが多くなります」
と清助が言った。平四郎はあらためて清助を見直した。少少軽軽しい感じはあるが、清助は色白のいい男だった。
「事情はわかった」
平四郎は深刻な顔をしている手代に、お茶をすすめた。
「ところで早速本題に入るが、手代さん、あんたほんとに間男したんじゃあるまいな」
「とんでもありません」
どうやら恐怖も去って、落ちつきを取りもどしたらしい清助は、憤然と言った。
「何かの間違いです。たしかにおよしさんは、時どき買物にみえます。客商売だけあって、くだけた話もするひとですから、あたしも冗談口を叩いたりすることはあります。だけどそれは、商人とお客さまの話ですよ。間男なんて話はとんでもない」
「しかし熊公は……」
と平四郎は言った。
「かみさんが白状したとか言ってたぞ」
「それがあたしにはわかりませんですよ、旦那」
と清助は言った。途方に暮れたような顔をした。
「まさか、およしさんがそんなことを言ったとは思えませんが、もし言ったとしたらどういうつもりなんでしょう」
「手ぐらいは握ったことがあるんじゃないのかね?」
「いえ、いえ。まるっきり身におぼえのないことです」
「清廉潔白かね? もしや何かあるのなら、隠さずに聞かせてもらわないと、後がうまく運ばんぞ」
「旦那、あたしがそんな男に見えますか?」
と清助が言った。
正直なことを言えば、清助は色白で唇が薄く、少少軽薄な女たらしに見えないこともないのだが、本人は大真面目のようである。平四郎は依頼主の顔を立てた。
「いや、いや。そんなふうには見えんぞ」
「あたしゃ、清廉潔白ですよ」
力をこめて清助は言った。言いながら、身におぼえのないことで刃物で脅かされたくやしさがこみ上げて来たらしい。
「熊五郎のやつ、いっそ番屋にとどけてやればよかった」
と清助は言った。平四郎はあわてた。話を番屋に持ちこまれては、商売の方がフイになる。
「手代さん、そいつはよくない」
と平四郎は言った。
「このテの話を番屋に持ちこんでも、まず埒あかんとむかしから相場が決まったものだ」
「そうでしょうか?」
「そうとも。世の中、わしのような善人ばかりとは限らん。番屋に行っても、事実間男したのではないかと疑われるのがオチだ」
平四郎は脅した。
清助は、それで番屋に訴えるのはあきらめたようだった。それじゃやっぱり、旦那にお頼みします、と言った。
「それがいい。なに、まかしてもらえばすぐに無実の証《あかし》を立ててやる。熊五郎に文句などは言わせぬ」
「あの、仲裁料のほうは?」
「成行きにもよるが、ま、一分もいただけばよかろう」
大きな店の手代なら、懐はあたたかろうと思って、平四郎は少し吹きかけてみたが、清助はかえってほっとした顔をした。内心もっと金がかかるものと思っていたようでもある。
「何分よろしく頼みます」
「あと二つ三つ聞いておこう」
と平四郎は言った。
「手代さんは所帯持ちだろうな?」
「いえ、あたしはまだひとりです」
「ははあ、それじゃ女子にもてて仕方なかろう」
「とんでもありません。仕事がいそがしくて、女子どころではありませんです」
「そんなものかな。ええーと、さっき申した熊五郎の女房だが、働き先はわかっていますかな?」
「東両国の、たしかつばめ屋という小料理屋だと思いますが」
「よろしい。まず、その女房に会ってみるものだろうな。ひょっとしたら手代さんにもご足労願うことになるかも知れんので、そのつもりでいてもらおう」
三
明石半太夫は、相変らず血色よく肥っていた。額などてらてら光って、見ればひげの艶《つや》もよい。
半太夫はいま、麹町に直心流の道場をひらく筒井三斎という老人のところに入りこんで、道場で稽古をつけるかたわら、身よりのいない道場主に取り入って用人のような仕事までしているらしい。
この前聞いた話では、金銭のことまでまかされているのだという。してみると、そのあたりから抜け目なく余禄を頂戴していることは、まず間違いないのである。そうやって一戸を構えて妻子を養い、本人もいたって血色よく肥っているのだから、人物はさておくとして、半太夫の世渡りのしたたかさは、平四郎も認めざるを得ないのだ。
平四郎だけでなく、北見十蔵もそこを認めて、半太夫を誘えと言うのである。道場をやるということは、剣を教えるだけでなく、金銭の出入りをともなう一個の事業をはじめるということでもある。その道場をもとでに、喰っていかねばならぬ。
ということになると、寺子屋の師匠やはかない仲裁屋の口銭稼ぎで、細細と日日の糧《かて》を得ている北見や平四郎は、まずその任ではない。ほとんど無から有を生じて、しかもなおその上に、厚かましく肥え肥っている明石半太夫こそ、経営をまかせて最適というのは、平四郎と北見の一致した意見だった。
その明石半太夫は、平四郎の顔を見ると、いつものようにわずかの狼狽のいろを示した。そそくさと土間に降りて履物をつっかけると、平四郎の肩を押すようにして外に出た。
「例の田楽の店に行くか」
明石は猫なで声を出した。狼狽のいろといい、猫なで声といい、すべて心にやましいことがある証拠だが、明石のしぶといところは、それだから猫ババした金を清算して、すっきりと対等のつき合いにもどそうという気配がまるでみえない点である。あくまでも当面を糊塗《こと》して、肝心のところは頬かむりで済まそうとする。
訪ねて行っても家に上げないのが、その一例で、明石はおそらく猫ババの一件は妻女には打ち明けていないのである。だから平四郎の顔をみると、たちまちうろたえて外に誘い出す。
まったく姑息なやり方で、そういう明石をみると、平四郎もこの男とはたして道場を一緒にやっていいものかどうかと首をかしげたくなる。しかし、田楽で一杯やるのは、べつに拒む筋合いのことでもないから、黙ってついて行った。
田楽の店というのは、明石の家から歩いていくらもない町角にある飲み屋で、ひとが四、五人も入ればいっぱいになるような、小さな店である。二人はすすけた赤提灯が照らす軒をくぐった。
「例の話だな?」
焼きたての田楽と酒が運ばれて来ると、明石はまめに平四郎に酒をつぎ、顔をつき出して言った。ほかに客もいないのに、声をひそめるのは、気持にやましいものがあるせいだと平四郎は思った。
答えずに、平四郎は酒をあおり、豆腐の田楽をかじった。味噌の味もよく、焼きたての熱い田楽はうまかった。
「いや、忘れたわけじゃない。せめて半金はととのえて返済しようと、これでもつとめてはいるのだが、なにせ所帯持ち。暮らしにかかる上に……」
道場の手間も安い、と明石は、その手間の安いわけを縷縷《るる》述べ立てている。
平四郎は、明石の弁解にはとりあわず、手酌で酒を飲んだ。やっと腹があたたまったところで、顔を上げて言った。
「む、その話も何だが、今夜の用件はそれじゃない」
「なに? 金の催促じゃないのか?」
明石はあんぐりと口をあいた。
「金はむろん、返してもらう。当然だ」
平四郎は、露骨にほっとした顔をしている明石をひとにらみしてから、しかし今夜はべつの話で来たのだ、と言った。
「北見が、もう一度道場をやらんかと言っておる」
「何だ、それをはやく言わんか」
明石は現金に、平四郎の前から銚子をたぐりよせ、それがあらまし空だと知ると、いまいましげに、おやじ、酒だとわめいた。
「しかし、道場をひらくとなると……」
明石は、平四郎にばかり気をつかって損したと言わんばかりに、せっせと手酌で盃をあけながら言った。
「先立つものは金だな。その用意はあるのか?」
「………」
「近ごろは諸色《しよしき》が高くなっておるからの。かりに空き道場を借りるとなると、どんなボロ道場でも月二分は払わねばなるまい。下手すると倍はとられるな。家賃だけで年に十二両だ。そうかといって大きな家を借りて手を加えるとなると、それにまた金がかかるぞ。まず二、三十両の金は出て行く。それに竹刀《しない》、防具、われわれの喰《く》い扶持《ぶち》……」
明石は実際家らしく、こまごまと金額をならべた。聞いているうちに、平四郎は腹が立って来た。
「そう費用がかさむのも、あのときに一度機会をのがしたからだと思わんのか」
平四郎が言うと、さすがの明石もむっと黙りこんだ。だが平四郎の指摘が胸にこたえて、前非を悔いているという顔ではなかった。つごうのわるいことには口を噤《つぐ》んでいようという感じである。
はたして、すぐに反撃して来た。
「その話はひとまずおこうじゃないか。それよりはこれからの算段が先だ」
「………」
「おい、おい」
明石の顔に、また狼狽のいろがあらわれた。
「まさか、金は取り立てて仲間には加えんというわけじゃあるまいな。それはちと、つれないぞ」
「そんな薄情なことは考えておらん。こうしてたずねて来たのは、むろん貴公にその気があれば誘おうというつもりだ」
「さすがは友だちだ。いや、ありがたい」
「と言うと? やる気があるのだな?」
「やる、やる」
明石ははしゃぎ加減に言ったが、そこで急に酒で赤くなった顔を前に出して来た。声をひそめて、じつを言うとな、神名、と言った。
「わしゃ、いまの道場にちと居辛くなっておるのよ」
「何だ、遣い込みでもしたか?」
「いや、いや。そんな大げさなものじゃない」
明石は手を振った。
「道場にはけっこういろいろと商人が出入りしておる。道具の買い換えから門人がつかう弁当の買い入れまで、わしゃすべてまかされておる。それで商人から賄賂を取ったのが、バレてしまった」
「………」
「なに、賄賂と申してもほんの爪の垢《あか》ほどのものだ。小金だ。それを取り上げてわしを悪しざまに言う者がおる。辛か」
明石はそっくり返ったり、逆に身を乗り出したりしながら、手真似入りで弁じ立てた。その身ぶり手ぶりが何となく大道の香具師《やし》めいていて、平四郎の胸に得体の知れない不安がひろがる。
道場の費用のことでは、北見十蔵が半金を持つと言ったことを、この男にはしばらく内緒にした方がよさそうだ、と平四郎は思った。
四
小花屋の手代清助と落ち合う約束をしたので、平四郎は明石半太夫との話を適当なところで切り上げた。
明石と別れて東両国まで来たときには、わずかに腹におさめた酒もさめて、平四郎は寒くなった。二月の陽気は、晴れて風さえなければまぎれもない春の到来を思わせてあたたかいが、夜になると急に夜気が冷えて冬に逆もどりする。油断ならない季節である。
平四郎は手を懐に突っこみ首をすくめて、人気ない暗い広場を横切った。途中で五ツ(午後八時)の鐘を聞いたばかりである。時刻はそう遅いわけでもないのに、町がしんかんとして深夜のようであるのは、改革がすすんで、料理茶屋、貸席、喰べ物屋などが並ぶこのあたりもすっかりさびれ、灯を慕ってうろつく人間が姿を消したせいである。
つばめ屋という小料理屋は、貸席中村の横の路地を入ったところにある。細細と軒行燈《のきあんどん》が照らすその店の前に、小花屋の手代清助がいた。
「やあ、待たせた」
平四郎が言うと、清助が、いえそんなでもありません、と言った。清助も寒そうに首をちぢめている。
「まず、はじめにわしが会って話を聞く。ころあいをみて、あんたに声をかけるから、それまで店で軽くやっていてもらおうか」
平四郎は手早く手順を打ち合わせた。熊五郎の女房およしに会って、事の次第を問いつめるのが目的だが、はじめから清助が同席しては、およしがほんとのことをしゃべらない心配がある。
それにもうひとつ、平四郎は依頼主の清助にも一抹の疑いを残していた。檜物師の熊五郎が、白昼鑿をふりかざして追いかけるほどだから、間男とまではいかなくとも、清助とおよしの間には、何かのひっかかりがあったのではないかという気もするのである。そのへんをさぐるためにも、はじめに一人で会ったほうがよさそうだった。
二人がいきなり顔を合わせ、一人が関係があったと言い、一人がなかったと否定して、二人でがあがあどなり合うなどということになると、事が男女の話であるだけに収拾つかなくなるだろう。
そのへんを考えて、平四郎はそう言ったのだが、清助はべつにこだわる様子もなく、わかりましたと言った。寒そうな顔をして、一刻も早く店の中に入りたいといった様子だった。
店に入ると、平四郎は飯台がならぶ土間に清助を残して、上にあがった。狭い店だが、二階と下に客をいれる部屋があった。店のおかみらしい、二階に案内した四十過ぎの女が、火鉢の火を掘りおこして去って行くと、入れ違いに二十半ばぐらいの女中がお茶をはこんで来て、注文を聞いた。
「そうだな、まず二、三本はこんでもらおうか。肴《さかな》はみつくろってもらえばよい」
今夜の掛かりは、階下にいる清助が払うことに話がついているので、平四郎は鷹揚《おうよう》に言った。
「それから、ひとつ頼みがある」
「はい」
「およしさんという女中さんがいるはずだが、そのひとにお酌を頼みたいのだ」
「およしはあたくしですけど」
と、その女が言った。きまり悪そうな笑いをうかべている。
「これはおどろいた」
平四郎も苦笑した。
「あんたが熊五郎さんのかみさん?」
「ええ」
女は笑いを含んだ眼で、じっと平四郎を見た。のびやかな身体つきで、顔もふっくらとしたいい女だった。眼もとに、男を惑わすような色気がある。
「どうもおどろいたな」
と平四郎は繰り返した。
「いや、あんたにちょっと話があって来たのだ。と申しても、べつに胡乱《うろん》な話ではない。わしは村松町に住む神名という浪人者でな。仲裁というざっかけない商売をしておる」
「………」
「いや、話はあとにして、酒をもらおう。お酌はしてもらえるかな?」
「ええ、ごらんのとおり店は閑古鳥が鳴いてますから、お酌などいくらでもしてあげますよ」
およしは、平四郎に色っぽい流し目をくれて出て行った。
──あれが、熊公のかみさんかい。
と平四郎は思った。檜物職人の女房が美人でわるいわけはないが、平四郎は何となくでくでくに太って男のような口をきく女を想像していたようである。平四郎が住む与助|店《だな》には、そのテの女房が多い。
およしの色っぽさは予想外だった。あれじゃ、熊五郎が鑿を持ち出すわけだ、と思い、同時に階下にいる依頼主に対して、またちらりと疑いが動くのを感じた。ほんとに何もなかったのだろうか。
およしが酒肴《しゆこう》をはこんで来たので、平四郎は酒をついでもらった。寒い夜気の中を歩いて来たので、熱燗の酒がうまかった。ただ酒だと思うと、ことさらうまい。
「近ごろ、商売の方はどうかね?」
平四郎が言うと、およしは首を振った。
「だめですよ、旦那。なにせ、お客が来ないんですから。ウチのおかみさんも、もう店をしめようかなんて言うんですけどね。馴染みのお客さんがいて、そのひとたちが、もう少し辛抱しろ、いまに世の中が変るなどと言うもんですから、どうにかつづけてますけどね」
「あんたは、ここで働くようになって、どれぐらい経つのかな?」
「もう、三年です。子供がいませんからね、家にいてもしようがないし。それにあたし、所帯を持つ前もこういうお店で働いてたんです。場所は違いますけど」
「ふむ、ご亭主とはそこで知り合ったのかな?」
「ええ。深川の白梅という店でした」
「そのころはご亭主も、若くて粋《いき》だったんだろう」
「どうだか……」
およしはうつむいて笑い、平四郎が盃をさすと遠慮なく受けた。いい飲みっぷりだった。
「ところで、階下に小花屋の手代さんが来ているのに気づいたかね」
「あら、知らなかった。あたしは今夜はお部屋のかかりだものだから」
およしは眼をまるくして言い、ご返盃といって平四郎に盃を返した。
「あの手代さんが……。めずらしいこともあるものね」
「そうかね。時時来るんじゃないのか?」
「あら、はじめてでしょ? この店じゃ見かけたことがありませんよ」
平四郎はおよしの顔を注意深く見たが、嘘を言っているようには見えなかった。
「それじゃ聞くが、ご亭主が鑿でもってあの手代さんを追いかけ回した話は知ってるだろうな?」
「あら、あら」
およしは眼をいっぱいにひらいた。そういう表情も色っぽく見える女だった。
「あたしゃ聞いてませんよ。いつのことですか、それ?」
「昨日の昼だ」
「それじゃ聞いてないわ。あたしここ四、五日ずっとここに泊ってますから。でも……」
およしは、まだおどろきのさめない顔で言った。
「何でそんな喧嘩をしたんですか、物騒な」
「心あたりはないのかね?」
「心あたりですって、あたしが?」
およしはじっと平四郎を見たが、その顔にはじめて疑わしげな表情がうかんだ。
「旦那、何のことを言ってるんですか。あたしゃ、そんな喧嘩のことは何も知りませんよ」
「そうかね? ご亭主は、小花屋の手代に、あんたを間男されたと思っているのだ」
「間男? あら、いやだ」
とおよしは言った。およしはかおを仰向け、口に手をあててけらけら笑った。
「そんなバカな話を、どこで聞いたのかしらね」
「ご亭主は、あんたがそう白状したと言ってるよ」
「白状ですって?」
およしはまた笑いかけたが、ふと真顔にもどった。うつむいて考えるふうだったが、やがて上げた顔が赤くなっていた。およしの顔にうかんでいるのは怒りだった。
あのバカ、とおよしは小さく罵った。
「何てバカだろう。あんなことを真にうけるなんて……」
「どうした?」
平四郎の声に、およしはわれに返ったように平四郎を見た。はずかしそうに身をくねらせた。
「旦那、それ夫婦喧嘩の、憎まれ口を真にうけたんですよ、ウチのひと」
「憎まれ口?」
「ええ。ウチのひとったら、見かけとは大違いの焼餅やきなんです」
ことの起こりは改革だった。以前は宵の口からにぎわった店もばったり客足がとだえ、ひどく不景気になった。いっそ客がまったくないのなら、店を閉じるのだが、実際はそうでもなく、古いつき合いの常連がいて、そういう客が、以前ならそろそろ店をしめようという時刻に急にあつまって来て、大いそぎで飲み喰いして帰って行く。
「こういうご時世ですからね。お客さんも世の中に遠慮してんですよ」
とおよしは言った。
遠慮して、宵の口からオダをあげる客は少なくなった。とは言うものの、飲まずにいられない客が、通行人もまばらになったころに、忍ぶように来て飲んで行くのだという。
そのため、家の始末があるので六ツ半(午後七時)には帰してもらっていたおよしも、最後まで居残るようになり、時には堀江町の家まで帰るのも面倒で、店に泊る夜もあった。
熊五郎はそれが気にいらない。たびたび夫婦喧嘩をした。熊五郎は、泊らなきゃならないなら店をやめろと言うが、およしには店をやめる気は毛頭ない。熊五郎一人の稼ぎでは、裏店住まいから抜け出せないということもあるが、金のためだけでなく、およしはもともと水商売が好きなのである。
店に来ると、自分でも気持がいきいきしてくるのがわかる。家に引っこんで、辛気くさい内職などするのは真平だと思う。それに、店をやめろという熊五郎の言い分が、大部分は焼餅から出ていることを知っているから、言うことをきくのもバカらしかった。
およしは自分を身持ちが固い方だと思っている。客にくどかれたこともないではないが、上手にいなして来た。ひとにうしろ指さされるようなことはしていなかった。水商売の女だからとは言われたくないと、むしろひそかに肩肘張って生きている気味がある。それだけに、亭主が変に焼餅をやき出したのがうっとうしくてならない。
数日前の夫婦喧嘩で、熊五郎がまたしてもさんざんにおよしの身状《みじよう》を疑うようなことを言い、しまいには小花屋の手代と店先で長話していたことまで言い出したので、およしはかっとして、ああ、あの手代さんと寝たよ、それがどうしたね、と言ってしまった。そのままちょっとした荷物を持って店に来たきり、家にもどっていない。
「すると、まるっきりでらためを言ったわけか?」
平四郎はあきれて聞いた。
「ええ、腹立ちまぎれに言ったことですよ。亭主があんまりしつこいんで。でも、まさかそれを真にうけて、鑿ふり回すほどバカだとは思わなかった。つくづく愛想がつきたわ」
「ふむ」
平四郎は、憤慨している無責任な女房を眺めた。小人《しようじん》玉を懐《いだ》いて罪ありというが、あんまり色っぽい女房を持つのも考えものだなという気がした。
色っぽい上に水商売が好きだという女房を抱えて、熊五郎も気の休まるひまがないのだろう。だが、夫婦喧嘩のとばっちりをうけて、あらぬ疑いをかけられた清助こそ、気の毒というほかはない。
「あたし、どうしよう」
とおよしが言った。少ししおれた顔になっている。
「手代さんに申しわけないことをしてしまった」
「なに、事情がわかればそれでいいのだ。あとは仲裁に入ったわしが丸くおさめてやる」
と平四郎は言った。
「それはそれとして、手代さんをここに呼んで来て、ひとこと詫びを言ったらどうかね」
そうする、と言っておよしは、そそくさと部屋を出て行った。
間もなく、およしに連れられた清助が、むっつりした顔で部屋に入って来た。平四郎の前に出ている酒肴の膳をみて、少し顔をひきつらせたのは、今夜の払いが自分持ちだったことを思い出したのだろう。
「ああ、手代さん」
と平四郎は言った。
「真相が知れた」
「………」
「夫婦喧嘩の腹立ちまぎれに、あんたと浮気したと、でたらめを言ったのだそうだ」
「何ということを言ってくれたんですか、およしさん」
と手代の清助は言った。
「あたしゃおかげでご亭主に、鑿で、鑿で……」
と言って絶句し、眼に涙までためたのは、そのときの恐怖から、眼の前の酒代の払いまで、蒙《こうむ》った迷惑の数数が一度に胸にあふれて来たせいかも知れない。
「ごめんね、手代さん」
およしは身体をくねらせ、清助に色っぽい流し目を送った。
「そんなさわぎになるなんて、あたしゃ考えもしなかったのよ」
五
「そういうわけでな。手代さんは雪のように潔白だ。かみさんも、今夜は家にもどると言っておる。くわしくはかみさんに聞いてくれ」
平四郎は上機嫌で言った。
場所は、堀江町の熊五郎が働いている檜物屋のすぐそばの飲み屋。平四郎と手代の清助がならんで坐り、そのむかい側に、熊五郎がいる。
東両国の小料理屋で、熊五郎の女房に会った昨日の今日で、清助が一刻もはやく話をつけてくれというので、平四郎は清助と待ちあわせ、仕事を終って檜物屋を出て来た熊五郎を、飲み屋に連れこんだところである。
「まずはめでたい」
平四郎は大声で言った。飯台と樽腰かけが土間にならぶだけの殺風景な店の中には、仕事帰りの職人がぎっしり入っていて、日が暮れたばかりというのに、もう酔いが回ってオダをあげている者がいる。
どなるような話し声、笑う声、店の者を呼ぶ声などがわんわんと入りまじって、小さな声を出したのでは話が通じない。
「そういうことだから、ここは気持よく盃をかわしてだな。いろいろと誤解もあったがこのへんで水に流す。それでいいな」
平四郎は、運ばれて来た酒を、清助にも熊五郎にもついだ。自分の盃も満たして、ではと言って盃をかかげた。
平四郎を見習って清助も盃を持ったが、熊五郎は腕組みしたまま、まだうさんくさげな眼で二人を見つめている。
「どうした、熊五郎」
と平四郎は、言った。
「盃を持たんか。それとも何か、貴様まだこの手代さんを疑っているのかね」
「嬶は白状したんだ」
「だまれ」
平四郎は盃を置いて、熊五郎をにらみつけた。
「それがとんだ濡れ衣だということは、いまわしが話して聞かせたではないか。貴様、わしの言うことを信用せんと言うのなら、こっちも考えがあるぞ」
「熊五郎さん、いい加減にしてくれよ」
と清助が哀願するように言った。
「あたしゃこのたびはほんとに迷惑したんだ。あんたには脅される。店でも、何かあったんじゃないかなんて言われる。立つ瀬がありませんよ、これじゃ」
「………」
「この神名の旦那の立ち会いで、あたしゃおよしさん、いえ、あんたのかみさんに会いました。かみさんは、わるいことをしたとあたしに謝ったんですよ。ねえ、旦那」
「そうだよ。かみさんは、だ。夫婦喧嘩のあげくの憎まれ口を本当にするほど、バカな亭主だとは思わなかったと言っとったな。このへんで、男らしくはきとせんか」
「うるせえ」
と熊五郎は言った。熊五郎は銚子をひきよせると手酌で飲みはじめた。乱暴な飲みっぷりである。
飯台越しに、平四郎はすばやく熊五郎の手首をつかんだ。いきなり急所を押さえたので、熊五郎は盃を持ったまま、いててと言って腰を浮かした。その顔をのぞきこみながら、平四郎が言った。
「手打ちの酒を飲んだというのは、話がわかったということだな? まだ文句があるのなら、酒は飲まさんぞ」
「文句なんかねえ。放してくれ」
と熊五郎は言った。平四郎が手を放すと、熊五郎は尻を落として手首をさすったが、すぐに坐り直して盃に手をもどした。そういう酒なら、しこたま飲んでやろうと決めたふうにも見えた。うつむいてせっせと飲んでいる。
「ここの払いはどうなるんですか?」
清助が平四郎の耳にささやいた。
「やっぱりあたしが払うんですか?」
「そりゃ、あんたが払うしかなかろうな。わしは払う立場じゃないし、ましてその男が払うとは思えん」
平四郎があごで熊五郎をさすと、手代の清助は一瞬泣きそうに顔をゆがめた。とんだ災厄を背負いこんだ、わが身の不運に泣けて来るという顔つきである。
それにはかまわずに、平四郎も熊五郎の手から銚子をひったくって、自分の盃に酒をついだ。
「まあ、けちけちしなさんな、手代さん。ものは考えようだ。これで災難ひとつのがれたと思えば、飲み屋の酒代ぐらいは安いものだ」
「そうだよな、旦那」
不意に眼の前の熊五郎が言った。大いそぎでつめこんだ酒が利いて来たらしく、熊五郎のひげづらは真赤になっている。
「やい、小花屋の手代、けちけちすんな」
熊五郎はどなったが、どういうわけか顔はさっきまでの仏頂づらとは打って変って、機嫌のいい笑いをうかべている。
熊五郎は自分の盃を勢いよく干すと、手代の清助にその盃をさした。
「いや、わるかったよ、手代さん」
熊五郎は笑い上戸《じようご》の気があるらしい。にこにこ笑いながら立ち上がると、飯台越しにしなだれかかるように清助の肩に手を置いた。
「大体、うちの嬶が間男するわけはねえんだ。あいつは見かけよりは固い女だ。それを疑ったおれがわるかった。かんべんしてくんな」
半刻《はんとき》(一時間)後に、平四郎はその店を出た。熊五郎の酒はきりがなく、ひとことしゃべってはわははと笑い、しまいには飯台を回って清助のそばに坐りこみ、肩を抱いてまだ飲もうという構えだった。
──ま、仲直りが出来ればけっこうではないか。
酒くさい大男にからみつかれ、迷惑そうに顔をしかめていた清助を思い出しながら、平四郎はひとり笑いしながら与助店の木戸をくぐった。
一分の手間はもうもらってある。あとは寝るだけだと思いながら路地を歩いて行くと、家の前にひとがいた。築地の実家から来た嘉助《かすけ》である。
「どうした、嘉助」
「お待ちしてましたぞ、小坊ちゃま。殿さまのお呼びです」
「またかね」
平四郎はうんざりした声で言った。兄の神名|監物《けんもつ》を護衛する仕事は、一文の手間も出ないばかりか、酒の匂いなどさせて行くと叱責《しつせき》を浴びる。
「ちょっと待て、いま、顔を洗って行く」
と平四郎は言った。
六
神名監物は永代橋を渡った。暗い夜だが、それでも見るひとが見れば、監物の目付風の歩き方に気づくかも知れない。監物は肩を張り、一切わき目をせずにまっすぐ足をはこんで行く。
──また、御家人屋敷かな。
二間ほどうしろからついて行きながら、平四郎はそう思った。
ひとしきり町人の店を監察して回っていた鳥居甲斐守の配下が、今度は本所から深川にかけた一帯で動き回っていた。監物がこのところひんぱんに平四郎を呼び出すのは、今度の監察先が御家人屋敷におよんでいることがわかったからである。
改革をすすめる水野老中は、一般の奢侈《しやし》禁止などの措置を徹底させる一方で、幕政の刷新にもきびしい態度でのぞんでいた。諸役所の綱紀粛正、なかでも賄賂の習慣の一掃がその眼目である。
通達は一再ならず出されて、その趣旨は諸役所の末端まで行きわたったはずだが、それでも抜け道をたどって、出入り町人との裏取引きを絶っていない者がいるのかも知れなかった。あるいは水野老中が、そう疑っているということかも知れない。
とにかく水野につながる町奉行の鳥居が、深夜ひそかに、とは言っても町奉行の私兵ともいうべき男たちを動かして、御家人の調べにまで手を出しているのである。
御家人は本来、目付の支配に属する御小人《おこびと》目付が監察することになっている。背後に水野の指令があるとはいえ、町奉行の鳥居が調べに乗り出すのは越権行為だった。だから鳥居も監察は深夜をえらび、また実際の調べには御小人目付の奥田伝之丞らを使っているのだが、違法は違法である。御小人目付は上司の御徒《おかち》目付の命によって動くべきものだが、奥田らはその手つづきを踏んでいない。
そう言ったのは兄だが、しかしべつの老中堀田正篤につながっている兄の監物は、堀田の指令があるせいか、鳥居の配下をつかまえて、その点を糾弾する様子はなかった。ただどこからか来る密報をうけると、その場に出かけて行って、鳥居の配下がすることを逐一見とどけるだけである。
監物は小名木《おなぎ》川にかかる万年橋を渡った。はやい足どりである。大川の河岸をさらに北にすすんで、籾蔵《もみぐら》の長い塀にそって、今度は東に入りこんだ。右が籾蔵の塀、左が武家屋敷で、道は河明かりからも遠ざかり、一層暗くなった。
築地の屋敷を出るときは、酒の香を身につけている平四郎に、監物はしきりに小言を言ったが、橋を渡るころからはずっと無言のままだった。監物は緊張しているようだった。
武家屋敷の塀がと切れたところに、朦朧《もうろう》と黒い人影が立っていて、二人が近づくと歩み寄って来て頭をさげた。
「ごくろうさまにござります」
と言った低い声が、御小人目付の樫村喜左衛門だった。樫村は監物と同様、頭をすっぽりと黒い頭巾で隠している。
「来ているか?」
「はい」
短い言葉をかわしただけで、樫村は歩き出した。すぐに左に曲った。その後に監物と平四郎がつづいた。三人が入って行ったのは八名川町である。平四郎は、何となく胸さわぎがした。八名川町はもとの許嫁《いいなずけ》早苗が住む町である。
町角をひとつ曲ると、平四郎の胸さわぎは現実のものとなった。樫村は早苗が住む組屋敷の木戸を入って行く。樫村が木戸番に何かささやき、木戸番が恐れるように監物に頭をさげたのは、事前にことわりを言ってあった様子でもある。監物はそこも、わき目もふらず通りすぎた。
樫村が二人をみちびいたのは、組屋敷の中の一軒の生垣の内だった。そこから、道をはさんだ斜め前に、戸がひらき、家の中から外に灯のいろが流れ出ている屋敷が見える。戸があいているのはその一軒だけだった。ほかの家は、道の両側にひっそりと静まり返っている。
およそ四半刻もしたころ、戸があいている家の入口に、ひとの気配が動いた。それまで凝然と動かなかった樫村が、出て来ますとささやいた。
外まで流れ出ている灯影《ほかげ》の中に、不意に四、五人の男たちが出て来た。男たちは無言のまま軒下をはなれると、三人が立っている生垣の方に近づいて来た。そして前を通りすぎて行った。黒っぽい身なりの男たちで、いずれも武家だったが、その男たちに囲まれるようにして、下うつむいて行く一人の男がいる。その四十年配の男だけが、ほかの男たちとは違う雰囲気をまとっている。
──引き立てられて行くところだな。
と平四郎は思った。だがそう思いながら、何気なく男たちが出て来た家を振りむいた平四郎は、不意に身体がこわばるのを感じた。家の入口に女が立っている。
ほのかな光に、男たちを見送っている女の横顔が見えた。白い顔に、かぼそく見える立ち姿が早苗だった。
「連れ出されたのは、御書物同心の菱沼惣兵衛です」
と樫村がささやいている。
「どこへ連れて行くつもりでしょうか?」
「場所がどこであれ、越権行為だ」
と監物が言った。その声を聞きながら、平四郎は身動きも出来ず、早苗を見つめている。では、参りますか、という樫村の声で、ようやく兄のうしろについて、生垣の内から粗末な門に出た。
そのとき、木戸の方からすたすたとひとの足音がして、一人の男が姿を現わした。男は三人の姿を見ると、ぴたりと足をとめた。三間のむこうから、男はこちらを凝視している。そのときには、平四郎はその男の正体に気づいていた。
暗くて顔はよく見えないが、立ちどまった瞬間の、何気ない体くばり、わずかに寄せて来る殺気に似た険しい気配は、御小人目付の奥田伝之丞である。
さっきは気づかなかったが、奥田は菱沼を拉致して行った男たちの中にいたのだろう。生垣の中にいるひとの気配を怪しんで、引き返して来たように見えた。奥田の無言の立ち姿から殺気を感じたのかも知れない。樫村が刀の鯉口を切った気配がした。
平四郎は前に出た。奥田はそれでも動かなかったが、平四郎が刀の柄《つか》に手をのせて、もう一歩前に出ると、音もなくうしろに足をひいた。鼻で、低く笑ったようである。奥田は不意に二、三歩うしろに身体をひくと、今度は足音も立てずに背をむけて去った。
「いまのが例の男だな?」
「はあ、奥田という男です。うす気味のわるい男でして」
監物と樫村が話している。平四郎はうしろを振りむいた。早苗の姿は消えて、菱沼の家は闇に沈んでいた。
ひとが騒ぐ声に、平四郎が顔をあげると、前方から男が走って来た。眼をつり上げ、歯を喰いしばって走って来る男は、小花屋の手代清助だった。
走っているのは清助一人ではなく、うしろからもう一人の男が追いかけて来る。ひげづらの職人ふうの男はむろん檜物職人の熊五郎である。熊五郎は右手に木槌《きづち》を握っている。
「おい、どうした?」
平四郎が声をかけたのに、清助はこの前のようにはすがりついて来なかった。ちらと平四郎を見ただけで、喘《あえ》ぎながら横を駆け抜けて行った。
「こら、待て」
平四郎は追って来た熊五郎をつかまえた。熊五郎はわめいた。
「旦那、かまわねえでくだせえ。やろう、女房を間男しやがった」
「まだそんなことを言っとるのか、貴様」
「今度は本物なんで。ちきしょうめ、あいつただじゃおかねえ」
熊五郎は平四郎の手を振り切ると、馬のように鼻息を荒げて走り去った。
そこは堀江町三丁目。熊五郎が働いている檜物屋からさほどはなれていない道である。平四郎はそこから見える檜物屋に歩いて行った。いまの騒ぎで、仕事をほうり出して来たらしい職人が四、五人、外に出ていた。
「熊五郎はいったい、どうしたのだ」
平四郎が聞くと、職人たちは顔見合わせてにやにや笑った。若い一人が言った。
「嬶を間男されたんでさ」
「相手は小花屋の手代かね?」
「旦那、よく知ってますね」
「しかし、その話は一度ケリがついているはずだぞ。わしが仲裁したのだ」
「へーえ、そうですか」
と言ったが、若い男はまだにやにや笑っている。
「でも、今度はつばめ屋の二階で、二人が寝てるところを見たそうですぜ。熊さんが怒るのも無理ねえやな」
「それはいつの話だ?」
「昨夜だと言ったな、おい」
男はほかの男たちを振りむいた。そこで男たちはどっと笑った。
──ふむ。
平四郎は檜物屋の前をはなれた。この前の話はでたらめだったが、今度は本物らしい、と思った。すると、この前ああいうことがあって、それが密通のきっかけになったかも知れん。なにせ、あの女房は色気がありすぎたと、平四郎は清助の前で身体をくねらせたおよしを思い出している。
──いやはや……。
男女のことはひと筋縄ではいかないものだと、平四郎は憮然《ぶぜん》として、さっき二人の男が走り去った方を眺めた。
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逆 転
一
「それで? 菱沼惣兵衛は組屋敷に帰っておるのだな?」
神名平四郎は、伊部の顔色に気をつけながら酒をついでいる。
それというのも、道場仲間の伊部金之助の酒は、適量を越えると泣き上戸に変るのだ。泣くことなんか全然ありはしない、およそくだらない話を、涙まじりに綿綿とならべたてて聞き手に同感を強い、うっかり返事を怠ると今度はからんで来る。そのころから、酒の量も水を飲むように底が知れなくなるから、油断ならない。
だが、今日の伊部はまだそこまで行っていなかった。しあわせそうな顔色で、平四郎の盃を受けている。
もっとも時刻がまだ早かった。平四郎は今日ひさしぶりに道場をたずねて、稽古にひと汗流した。そのあとで伊部を外に誘い出したのだが、道場では師匠の矢部三左衛門自身が、板の間に降りて稽古をつけている最中だったから、伊部を飲み屋に連れて行くところだと知れたら、師匠に怒られたかも知れない。
だが、道場に来たのは稽古のためではなく、伊部に会いに来たのである。
「それで別条はないのか? 暮らしはもとにもどったのか?」
「まあ、そうせかすな」
と伊部は言って、盃をつき出した。聞きたいことはいっぱいあるから、平四郎は酒をついでやる。
「帰っては来たが、別条ないとは言えんだろうな」
伊部は気を持たせるようなことを言い、ぐいと盃をあけた。
「それはどういうことだ?」
「惣兵衛の内職が上の方にバレたのだ」
菱沼惣兵衛が、内職に高利の金貸しをしていることは、八名川町近辺の御家人屋敷の間では隠れもない事実だったのだが、そのことを外に告げる者はいなかった。
御家人たちは、惣兵衛がしていることを軽侮の眼で眺めながら、一方すぐそばに手軽に金を融通してくれる男がいることを重宝にもして、時どき金を借りた。御家人だけでなく、家計のやりくりに苦しむ旗本まで金を借りに来ていた。それだから、あえて上役に告げる者もいなかったのである。
ところで、先夜何者とも知れない男たちに、拉致されるように屋敷から連れ出された惣兵衛は、二日後に組屋敷にもどったが、その直後に、御書物同心の役を解かれて小普請《こぶしん》組に編入されたのである。支配の御書物奉行に、内職がバレたのだと伊部は言った。
「それだけで済めばいいが、長年の金貸しで手に入れた不浄の金を、お上に上納しろという密命まであったらしいぞ、儲けを吐き出せば、醜行ではあるが罪には問わんということだろうな」
「それは手厳しい」
と平四郎はつぶやいた。惣兵衛に同情するわけではないが、小金を元手に金貸しをやっている御家人は、何も惣兵衛一人ではない。ほかにもいるのだ。
──やっぱりそうか。
と平四郎は思った。惣兵衛が御小人目付の奥田伝之丞に連行される現場を見たとき、平四郎はそれが惣兵衛の内職にかかわりある事件に違いないと思ったのである。
幕府目付を勤める兄の監物も、兄に同行した御小人目付樫村喜左衛門も、そのことについてはひと言も触れなかったが、奥田伝之丞は町奉行の鳥居甲斐守につながる男である。幕政の綱紀一新を改革の柱のひとつとする水野老中の密命をうけた鳥居が、これまで野放しにしていた幕臣の金貸しを、一掃しに乗り出したのだ。それで、鳥居の私兵とも言うべき監察の男たちが、夜間ひんぴんと御家人町に出没するわけが読めた、と平四郎は思った。
「惣兵衛も、今度は参ったろう」
「………」
「いや、惣兵衛はどうでもいいが、女房があわれだな」
いつか米沢町の町角で、ちらと見かけた早苗の白い顔を平四郎は思いうかべ、胸がうずくのを感じた。
金貸しの女房として、元来が貶《おとし》める眼で見られて来たに違いない早苗は、これからは金を借りる用もなくなった周囲から、もっと露骨な嘲《あざけ》りをうけはしないだろうか。
「惣兵衛の女房の消息は聞いておらんかね。さぞ肩身せまく暮らしていることだろうな」
「………」
返事がないので眼をあげると、伊部金之助が据わった眼で平四郎を見ていた。早苗の運命を思いやっている間に、伊部はすっかり出来上がったようである。平四郎はあわてて銚子を振ってみた。みんな空だった。
「おい、神名平四郎」
伊部は平四郎を睨《ね》めつけた。
「貴様、まだひとの女房に未練を持ってるな?」
「未練? 冗談じゃない」
客が入って来たので、平四郎は小声で言い返した。畳敷きの長床を衝立《ついたて》で仕切ってあるだけの飲み屋なので、声は筒抜けである。
「ただ、ちょっと気になるから聞いただけだ。大きな声を出すな」
「大きな声で何が悪い」
伊部がよけいに大声を張り上げたので、端の方に席を取った小商人《こあきんど》ふうの客二人が、不安そうにこちらを見た。
「言いわけはやめろ、未練たっぷりじゃねえか」
「金之助、静まれ。そうだ、もう少し飲もうじゃないか」
平四郎は身を乗り出して伊部の腕をつかみ、板場の中で心配そうに二人を見つめている店の亭主に、酒だとどなった。
だが、伊部は平四郎の腕を振りはらった。
「友だち甲斐のないやつだ。てめえの女のことばっかりしゃべりやがって」
伊部は平四郎をにらんだが、その顔が急にくしゃくしゃに歪んだ。大粒の涙をこぼした。
「少しはおれのことを聞いてくれてもいいじゃないか」
「聞く。聞いてやるとも」
平四郎はいそがしく伊部をなぐさめ、おやじ酒持って来いと言った。
「聞いてもらいたい話というのは何だ、金之助。さては女でも出来たか? ん?」
伊部金之助は答えない。両手で顔を隠して、さめざめと泣いている。泣きに入る一歩手前で引き揚げるのは、なかなかむつかしいものだと平四郎は思った。引き揚げる時機を失ったからには、今夜の酒は長くなりそうだった。うんざりした。
「酒はまだか?」
溢れ出る涙をぬぐいながら、伊部が催促している。
二
まだ日があるうちから飲み出したのに、平四郎が伊部と別れて家にもどって来たとき、時刻は六ツ半(午後七時)を回っていた。
──労多くして……。
得るところは少なかったな、と思いながら平四郎は裏店《うらだな》の木戸をくぐった。
菱沼惣兵衛のその後の様子が知れたのは収穫だが、本音を言うと平四郎は、ついでに菱沼の家の事情、ことに早苗の消息を片鱗《へんりん》たりとも聞きたかったのである。そこを聞けなかったので、飲んだあとにしては気分がもうひとつ浮かなかった。伊部にただ酒を飲まれたとまでは言わないが、思ったより酒代が嵩《かさ》んだという思いを禁じ得ない。
そうかといって、泣きが入ってしまった伊部を、振り切って途中で帰るのは至難の業なのだ。そんなそぶりをちょっとでも見せると、伊部は眼のいろを変えてしがみついて来る。結局らちもない泣き言、繰り言に相槌を打ちながら、最後までつき合うほかはないのである。
平四郎はいまになってその疲れが出て来て、何となくぐったりしている。これから飯を炊くのかと思うと、余計に気が滅入って、足どり重く家にむかう。
家家の窓から灯のいろが外にこぼれている。昼見ればごく殺風景で貧相な与助店の路地も、季節が春を迎えたせいか、灯のいろが潤んでまんざらでもない夜景に見えた。だが家の前まで来て、平四郎はぎょっとして足をとめた。たしか出るときにしめて行ったはずの表戸があいている。しかもかすかに路地の明かりに透かしてみると、土間の奥、上がり框《かまち》のあたりに人がいるようでもある。
「誰だ?」
誰何《すいか》してみてからふと気づいた。また築地の兄が使いをよこしたのかも知れない。
「中にいるのは嘉助か?」
そう言ったとき、土間の奥の人影がむくむくと動いて、小柄な痩せた男が外に出て来た。嘉助ではなかった。
「相済みませんです」
と男は言った。
「中で待たせて頂いているうちに、居眠りしたらしゅうございます」
「ははあ」
平四郎は男を見た。顔はよく見えないが、羽織を着た商人ふうの男である。
「ひょっとすると、仲裁のお客さんかね」
「さようでございます」
男は恐縮したしぐさで頭を下げた。
「夜分に、ナニでござりますが、ちょっと頼みごとがありまして」
「かまわん、かまわん」
これで伊部金之助に飲ませた分を、早速に取り返せるかも知れないぞと思った。仕事が舞いこむほどうれしいことはない。平四郎は、にわかに元気になって言った。
「頼みごととあれば夜分も起き抜けも気遣いは一切無用。さあ、上がってもらおうか」
昼はもうあたたかいので、火鉢には火がない。行燈に灯をいれて客を招き入れると、平四郎は台所に降りて、大いそぎで湯をわかした。
残りの燠火《おきび》を火鉢に移し、お茶をすすめてあらためて客を見る。四十前後の細面の男だった。外で見た印象にたがわず痩せた小男である。
──しかし、身なりは悪くない。
と平四郎は鑑定した。まずは中どころの商人といった様子の男だった。だが、その中どころの商人は、どこか打ちひしがれたような感じを身につけている。それは顔のせいかも知れなかった。男は細くて気弱そうな眼と、男にはめずらしい受け口気味の唇を持っている。うつむいている顔が、べそをかいているように見えなくもない。
「さて、用件をうかがいますかな」
平四郎が言うと、男がはっと顔を上げて、手嶋屋彦六と申します、富沢町で古着を商っていますと言った。富沢町は、浜町堀をへだてた南の町である。
「富沢町なら、ごく近い」
「はい。それでこちらのご商売のことを耳にしまして」
けっこうなことだ、と平四郎は思った。村松町与助店の仲裁屋の名前は、少なくともこの界隈《かいわい》には行きわたっているわけである。
「何か厄介なことでもありましたかな?」
「はい、厄介といえば厄介……」
と言って手嶋屋はまたうつむいたが、すぐに顔を上げると、思い切ったように言った。
「こちらでは、夫婦喧嘩の仲裁も扱うと聞きましたが、ほんとでしょうか」
「夫婦喧嘩ねえ」
平四郎は首をかしげた。平四郎はよく近所の女房たちに、夫婦喧嘩のときはわしを呼べ、仲裁してやるぞなどと言うが、これは半ば冗談口である。
たとえば家の中で夫婦が喧嘩をしても、誰も呼びに来ないし、時たま駕籠かきの三造夫婦の喧嘩仲裁に駆り出されることはあっても、これは平四郎自身が見かねて駆けつけるのである。口銭稼ぎどころか、三造の女房があとで漬け物一皿でもとどけて来ればよしとすべきで、余計なことをしてくれたと、当の三造夫婦に白い眼で見られることさえある。
結局夫婦喧嘩は犬も喰わないというのが真相で、喧嘩も、当事者夫婦の場合は口銭稼ぎには結びつかないものだ、と平四郎は思っているのである。
しかし、ふだんそう思っているだけに、どうやら夫婦喧嘩の仲裁を頼みに来たらしいその男に興味を持った。
「ご自分のことですかな?」
とたしかめたのは、手嶋屋が、ひとを頼むほどの夫婦喧嘩をする男には見えなかったからである。ところが手嶋屋は、はいとうなずいた。
「かなり、はげしくおやりになる?」
「そうです。ひどいものです」
「……?」
「喧嘩のたびにあざだらけになります」
「誰が?」
「むろん、あたしです」
と手嶋屋は言った。平四郎は苦笑した。何となく意気地のない話のようである。
「失礼だが、手嶋屋さん」
と平四郎は言った。
「あんたも男一匹、どんなに強いかみさんか知らないが、女一人ぐらい張り倒してやったらどうですか。わたしを頼むまでもない」
「………」
「たまには男の強さを見せてやるのもいいものですぞ。かえって家庭円満の秘訣になることがある」
手嶋屋の女房は、夫婦喧嘩になると見境もなく亭主にとびかかる狂暴な女のようだが、手嶋屋は男である。しかし古手《ふるて》商いの店を張っていれば世間体というものもあろうから、じっとこらえて手を出さないのだろう。
そう思って平四郎は言ったのだが、相手は無言でうつむいている。
「そりゃ、わたしは仲裁を看板にあげている人間だから、頼まれれば夫婦喧嘩の仲裁だってやりますよ、手間さえ頂けば。しかし、その前にやるだけのことをやってみたらどうですかな? 一発張り倒してやって、様子をみるのです」
すると手嶋屋が顔をあげた。
「でも、女房はあたしより身体も大きいし、力も強いのです」
「ははあ」
平四郎は、手嶋屋彦六をじっと見た。彦六は、べそをかいたような顔で平四郎を見返している。そうか、この男は本気で助けをもとめに来ているのか、と平四郎は思った。腕力では、女房にかなわないから、仲裁屋を頼みに来たのである。情ない話だった。
「その喧嘩だが……」
平四郎は咳《せき》ばらいした。
「かなり、頻繁におやりになる?」
「ええ、もうしょっちゅうです」
「喧嘩のもとは何ですか?」
と聞いたのは、たとえば彦六が外に妾を囲っているとか、女房が浮気しているとか、確かなわけがあって、夫婦仲が揉めているのだろうと思ったからである。
そういう、夫婦の話し合いだけでは片づかない事情があって、喧嘩で日を暮らしていると言うのなら、むつかしいには違いないが平四郎が解決に乗り出す余地はある。第三者を頼むというのも悪い方法ではない。
だが、彦六の返事は期待を裏切るものだった。
「べつに、これといったわけはありません」
「わけはない? するとどういうことですかな? わけもなく毎日喧嘩してるということですか?」
平四郎は、自分の質問がかなり間のびしていることを感じながらそう言った。だが、彦六は神妙な顔でうなずいた。
「話せば、長いことになります」
三
手嶋屋彦六が、いまの場所に店を構えたのは、ざっと十五年前である。彦六はいま四十二だから、二十七のときである。それまでは古手物の行商をしていた。
彦六は江戸の市中も回ったが、主な回り先はむしろ江戸周辺だった。王子、向嶋といった江戸近郊の村村、板橋宿、内藤新宿、千住宿といった街道口の宿場町、それに舟で行く行徳《ぎようとく》近辺の村村。彦六はそういう場所に固いとくい先を持っていて、上方《かみがた》下りの古手物などを背負って行って喜ばれていた。
十八のときから行商をはじめ、十年足らずの間に富沢町に店を持つまでになったのは、足を棒にしてせっせと田舎回りにはげんだ賜《たまもの》である。
「なるほど」
かなり長い話なので、平四郎は途中で口をはさんだ。
「十年で店を持てましたかな? 古手の行商というのは、よほど儲かるものとみえる」
と言ったが、いくら儲かっても、自分に行商が出来るわけでもないので、話を催促した。
「それで?」
「女房も、行商先でもらいました」
と彦六は言った。
女房のおうらは、行徳の舟着き場にある腰かけ茶屋の娘だった。茶屋の亭主、つまりおうらの父親が彦六の商いぶりを見込んで、嫁にくれたのである。彦六はそのとき二十五だった。それからは女房と二人で行商に回った。
「おうらはよく働く女でした。行商は、日のあるうちは目いっぱい歩きますので、朝は早いし、夜はおそうございます。宿に帰るのも、家にもどるのも夜中でしてな、ぐったりと疲れたものです。それでもおうらは、苦情ひとつ言いませなんだ」
「………」
「そのころは若くてかわいい女房でした。二人で歩いていると、行商の苦労もさほど気にならなかったものです」
若かりしむかしを回顧して、彦六はちょっぴり女房ののろけを言ったが、すぐに苦い現実に立ち返ったらしく、もとの渋面にもどった。
「それが近ごろは人間が変りました」
「どう変りましたかな?」
「いえ、変ったのではなくて、あれはもともとそういう女子だったのです」
古手屋の店を持ったといっても、小僧一人を雇っただけである。来るか来ないかわからない客を待って、店に坐っているわけにはいかない。彦六は、店番を女房にまかせ、自分はそれまでどおり外売りに精出した。包みを背負ってせっせと市中を歩き、商いが思わしくないとなれば、ためらわずにむかし馴染みの田舎のとくい先まで足をのばした。
要するに、店は持ったが彦六自身は、朝早く家を出て夜おそく家にもどる、行商のころとさほど変りない暮らしをつづけて来たのである。その働きと次第に客がついたおかげで、商いをやめた隣の煮しめ屋を買って店を建て増しし、奉公人は五人までふえた。気がつくと彦六は四十になっていた。
「あたしも、もう齢です。外回りをやめて店にいたいと思いました」
「当然ですな、手嶋屋さん」
「ところが、女房はそれを喜びませんのです」
「ははあ」
平四郎は彦六の顔を見た。
「しかし、まさか外で働いて来いと、亭主を追い出すわけではあるまい」
「そこまではしません」
と彦六は言った。
「しかし一緒に暮らしてみると、というのも変なものでございますが、なにせあたしは外ばっかり回っていましたから、昼日中女房と顔をつき合わして暮らすのははじめてです。そうなってみると、おうらはじつに口やかましい女でしてな、箸の上げ下ろしにまで文句を言います」
「なるほど」
「あたしの顔さえ見れば文句を言っているのです。帳場には女房が坐っていますし、自分の店なのに、あたしには自分の居場所がないのですよ」
「それは困ったな」
亭主をもり立てて、一緒に仕事を大きくして来た女房に、よくそういう女がいるものだ、と平四郎は思った。そういう女は、亭主にむかって誰のおかげでこれまでになったと思う、などと言うのだ。
「あまり文句が多いから、あたしもどなりつけました。そうしたら物を投げる、胸ぐらをつかむで、まるで山猫でした」
「ふーむ、大変なかみさんだ」
「あまり面白くないので、ありもしない用事をこしらえて、同業の家に遊びに行ったことがあります。そうしたら近間の岡場所に連れていかれて、まだ、いまのようにお取締りがきびしくないころでしたから、楽しゅうございましたよ」
「そいつはうらやましい」
「ところがそのあとがいけません」
と彦六は言った。
「家にもどったら女房が待ちかまえていて、どこで遊んで来たと大喧嘩になりました。なに、喧嘩といっても、あたしが殴られるだけですよ。あたしゃ、力じゃおうらにかないませんから」
「かみさんが悋気《りんき》したのだ」
「はい、そういうことには、よく鼻が利く女でして」
「もっとも、岡場所の女と寝て帰ったりしたら、かみさんならずとも怒る女房はいるだろうな」
「いえ、あたしはよその女と寝たことなんぞありません、そのときも、酒を頂いて帰っただけですよ。あたしゃ女房のほかには、女の肌を知りません」
「これはおどろいたね」
と言って、平四郎はまじめくさったかおをしている手嶋屋を眺めた。
「それで殴られたんじゃ間尺《ましやく》に合わない。すると何ですな、そっちの方はかみさんとうまく行ってるわけだ」
平四郎の露骨な言葉に、彦六は顔を赤らめた。是認した顔いろである。これだから夫婦というものは油断ならない。
「しかしおうらがやさしいのは、閨《ねや》の中だけでして」
彦六は弁解するように言った。
「朝起きれば、ころっとひとが変りますからな。近ごろあたしは、夜の夜中まで女房にこき使われているような気がいたしますです」
平四郎は思わず失笑したが、彦六はうつむいていて気づかない。
「でもあたしも、もう四十二」
と彦六は言った。
「店は繁昌して、商いの方も心配がないところまで来ました。このへんで商い仲間に誘われれば吉原にも行ったり、少しはつき合いもよくし、自分でも楽をしたいものだと思います」
「当然だ。手嶋屋さんはそれだけの働きをして来ている」
「ところが、女房はその金をくれません。いったいあたしは何のために……、何のために……」
と言って手嶋屋彦六は絶句した。見ると眼にいっぱい涙をためている。懸命に働いた過去を振りかえり、それにしては見返りが少なすぎる現在に思いあたって、胸がふさがったというように見える。
今日は泣き男に縁がある日だ、と平四郎は思った。
「すると、財布の紐はかみさんがにぎっているわけですな」
「はい」
手嶋屋は、まだ受け口の唇をわななかせている。
「それがよくなかった。財布をまかせきりにすると、亭主の立場はどうしても弱くなる」
「でも、あたしはずっと外働きでしたから」
「ふむ。手嶋屋さん、あんたはこれまで、自分では茶屋遊びなんかもやったことがないわけだ」
「はい、一度も。さっきお話しした、深川の小料理屋に行ったのが、はじめての遊びです」
「それもよくなかったな。かみさんは、そういうあんたを見て来てですな、男というものはこんなものだと思いこんでいるのだ。男が茶屋遊びもし、たまには軽い浮気もする。それで世の中とつき合っているなどとは考えん」
「………」
「働いて金をはこんで来るだけのものだと思っているから、外働きをやめたあんたの値打ちも下がったということだろうな」
そう言ったが、平四郎にはそれだけのことではないこともわかっている。
与助店に甚助という瓦職人がいる。甚助は雨の日も風の日も一日も休まず、大川橋の先にある中ノ郷の瓦焼き屋に通い働きをしている。子供が五人もいる。妻子あわせて六人も養っているのだから大いばりしてもいいようなものだが、甚助はそうではない。
しょっちゅう女房にどなられ、おどおどと女房の顔いろを見ながら暮らしている。雨の日など、腰に弁当のにぎり飯をくくりつけて木戸を出て行く甚助を見ると、平四郎は同情を禁じ得ない。ひとの家の中のことはわからないが、甚助が家の中で大事にされているとは思えなかった。
組み合わせが悪いのだ、と平四郎は思う。そう気がついたときは、子供が二、三人出来ていて、いまさら別れようとも言えない。ずるずると、大概はその悪い組み合わせを墓場まで引きずって行くのである。手嶋屋の場合も、境遇こそ違え中身は同じことだろうという気がした。商いの相棒としては上等だが、暮らしの中の思いやりに欠ける女房を引きあてたのだ。
甚助の、何となく影のうすいうしろ姿を思いうかべながら、平四郎は言った。
「手嶋屋さん、この仲裁はなかなかむつかしいですなあ」
「そうですか」
手嶋屋は不安そうに平四郎を見つめた。
「むつかしい。かみさんには、べつにあんたに辛くあたっているつもりはないだろうから、取りなしてもなかなかわかってはくれんだろう」
しかし手嶋屋が甚助と違うところは、いまの状態をあきらめずに、何とかしたいと思って仲裁屋を頼って来たことである。ひと肌脱いでみるものだろうな、と平四郎は思った。
「ええーと、手嶋屋さんののぞみは、まず男の外のつき合いぐらいは認めろと……」
「それに、朝から晩までがみがみとどなるのをやめてもらいたいのですよ。あたしゃ、子供じゃありませんから」
「なるほど」
「それに、帳場にはあたしが坐ります。手嶋屋の主はあたしなんですから」
「しかし、それは……」
と言いかけて、平四郎はやめた。自分でそれが言えるなら、手嶋屋彦六は平四郎を頼って来たりはしなかったろう。
四
「亭主がそんなことを言ったんですか」
と、おうらが言った。血色のいい顔に、うすら笑いをうかべている。背丈は彦六とさほど変りないが、おうらはでっぷりと太って、いかにも腕力がありそうだった。
「みっともない」
おうらは吐き捨てるように言った。同時に顔の笑いも消えて、険しい表情になった。
「言いたいことがあったら、あたしに言えばいいじゃないですか。家の外にまで、恥をさらすことはないですよ」
「ところがご亭主は、おかみさんがこわくて、じかには言えないと言うのですな」
そう言ってから、平四郎はおうらの言ったことに訂正を申し入れた。
「外に恥をさらすと言われたが、話を聞いたのはそれがし一人。仲裁屋は、客が頼んで来た話を、ほかに洩らしたりはせんから、その点はご心配におよばぬ」
「それにしても、赤の他人に持って行く話じゃないですよ」
「そうかといって、じかに文句を言えば殴られると思っている」
「あたしゃ亭主を殴ったりしませんよ」
とおうらは言った。平然としている。おとぼけだとしたら、かなりしたたかな女である。
「あたしゃ、そんな女じゃありませんよ。亭主が何か、大げさなことを言ってるんですよ」
「そうかね」
と言ったが、平四郎はこれはつついても水掛け論になると思った。
「ま、それはそれとして……」
出されたお茶を一服して、平四郎は庭に眼をやった。手嶋屋の茶の間は、庭に面している。狭い庭だが、小さな池に鯉が泳いでいるのが見え、庭の隅に満天星《どうだんつつじ》が真白に花をつけている。
行商から身を起こして、これだけの店を持ったのだから、手嶋屋の働きは立派なものだと思った。その彦六が、女房に虐待されて助けをもとめに来ているなどとは信じがたい。
「ご亭主は、帳場は自分でやりたいと言っておる。そこはどうですかな?」
「だめですね」
おうらは、にべもなく首を振った。
「帳面は、お店をはじめてからこのかた、ずっとあたしがつけてますからね。いまになって帳場をまかせたところで、あのひと帳面の見方もわかりませんよ」
「それは、やらせてみなければわかるまい」
「いーえ、だめ」
おうらはきつい口調で言った。
「むかしと違って、商いが大きくなってますからね。間違いでも出されたら大変ですよ」
「しかし、それがだめだとなると、ご亭主もすることがなくて困るだろう」
「何も困ることはないでしょ?」
手嶋屋の女房は、木で鼻をくくったような言い方をした。
「お店に出て、客の相手をしなさいって言ってるんです。それを、店でお前に指図されるのはいやだなんて、言うことが変ってるんですよ、あのひとは」
彦六は、客や奉公人の前で、女房にがみがみと指図されるのがいやだったのだろう、と思ったが、平四郎はそのことを指摘するのはやめた。喧嘩になれば亭主を殴りつける女が、男の体面などという、繊細にして微妙な呼吸を理解出来るとは思えない。
「ご亭主は、同業とのつき合いがあると言っておる」
どうせ、だめだろうと思いながら、平四郎は言ってみた。ここまで話してみて、手嶋屋の女房の性格は大体つかめた気がしている。自分以外の人間の立場に、理解がないのだ。
「店を張って行くからには、仲間とたまには吉原にも行かなければ、同業の間に軽く見られるというのだな」
「行けばいいでしょ、吉原でもどこでも」
と言ったが、肉の厚い丸顔が、もう怒気を溜めて赤くなっている。悋気はひと一倍強い女のようである。
「行けと言われても問題は金でな。その金を快く出してもらいたいというわけだ」
「なに言ってんですか」
とおうらは言った。隠していた本性を現わしたように、おうらの声は大きくなった。
「どこに、亭主がよその女と遊ぶ金をやる女房がいますか」
そういう女房だっていないことはないんだが、と思ったが平四郎は黙った。
「バカも休み休み言えって言ってくださいよ。あたしゃそんなムダ金は一文だって出しませんからね。遊びたかったら、自分でお金を稼いで来ればいいんですよ」
「………」
「仲裁屋さん。こんなくだらない話をしてないで、どこにいるのか知りませんが、亭主に早く家にもどるように言ってくださいな」
五
平四郎が家にもどると、障子をあけて顔を出した彦六が、どうでしたと言った。彦六は昨夜平四郎が仲裁を引きうけると、すっかり頼りにして、今日は朝から平四郎の家に上がりこんで、首尾やいかにと待っているのである。
「どうもいかんな」
足の埃をはらって、平四郎は家の中に入った。平四郎のためにお茶をいれながら、彦六は顔に落胆のいろをうかべた。
「だめでしたか?」
「いろいろ並べてやったが、うんとは言わん」
平四郎は、火鉢のそばにどかりと腰をおろした。疲れていた。疲れは、ひと筋縄ではいかない女と渡り合ったせいのようでもある。
「あんたのかみさんだが、あれはなかなか手強《てごわ》い女子だ」
「そうでしょうなあ。うんとは言わないでしょうなあ」
平四郎にお茶をさし出した手を膝にもどして、彦六はうつむいた。そうすると受け口の唇が、べそをかいているようにみえる。
「だめなはずです。それじゃと折れるような女なら、こうして頼みに来たりはしません。自分で言います」
彦六は深深とため息をついた。そして懐をさぐると巾着をつかみ出した。
「仕方ありません。あたしは家にもどります。そしてこれからも、ずっと女房の尻に敷かれるわけですよ。なにせ、むこうの方が力が強いんですから。おいくらですか?」
「………」
「お手間をとらせた分は、お払いしますよ」
「ちょっと待った。手嶋屋さん」
と平四郎は言った。
「かみさん、荒れてますからな。いま帰ったら、あんた首をしめられるよ」
手嶋屋彦六はぎょっとした顔になった。
「ま、その巾着はしまって、一服したら出かけよう」
「え? どこへですか?」
「心配しなさんな。あんたの家じゃなくて、もっといいところだ」
平四郎はぬるいお茶を飲んだ。そして、少し荒療治をしてみるかな、とつぶやいた。
それから半刻(一時間)ほどして、平四郎は彦六を連れて家を出ると、両国の方に向かった。ひとが混んでいる橋を渡って行くと、中に折った桜の枝を持っている者がいた。
「ほう、もう花見がはじまったかな」
「はあ」
彦六は浮かない顔をしている。平四郎が荒療治の中身を話して聞かせると、それしかテはありませんと力強くうなずいたのに、いざ実行にかかるとなると、彦六はやはり心配が先立つらしかった。
橋の下から吹き上げて来る風はいささかつめたいが、水色の空が頭上にひろがり、日はまぶしいほど橋の上に降りそそいで来る。橋の上手にも下手にも、幾|艘《そう》かの舟が走っていて、船頭が櫓《ろ》を押すたびに、櫓の先に日の光が砕けるのが見えた。
東両国に渡ったところで、二人はそば屋に入って昼食を取った。金は彦六に払わせた。こういう掛かりは依頼人が負担すべきである。
そば屋を出ると、平四郎は黒文字で歯をせせりながら一ツ目橋の方に向かった。うしろから、いくらか不安そうな表情で彦六がついて来る。
橋を渡り、石置場の前まで来ると、平四郎は道を左に回った。
「ここが、八郎兵衛屋敷だ」
「へ?」
「一度も来たことがないのかね。女郎屋だよ、みんな」
「ははあ」
彦六はきょろきょろとそちらを見る。まんざら興味がなくもない顔色である。
「いまはだめだ。みんな廃業してしまった。ご改革前は、夜になるとずいぶんとにぎわった場所だがな」
平四郎は親切に説明してやる。
「しかし、こういう場所はなかなか廃《すた》れん。時期が来れば、また立ち直るな」
平四郎は八郎兵衛屋敷の横を通りすぎ、八幡宮の御旅所と勝福寺の間にある、狭い路地に入りこんで行った。そこは片側は勝福寺の板塀だが、片側には水茶屋ふうの店とか、得体の知れない二階建てのしもた屋などがならんでいる。
水茶屋は廃業してから久しいとみえて、表の戸が半分はずれたままになっている。どこからか明かりが洩れているらしく、店の中の腰かけに埃がつもっているのが見えた。
路地には人影もなく、歩いて行っても何の物音も聞こえなかった。昼下がりの春の日射しが、寺の塀にさしかけているだけで、御旅所裏の家家は、廃墟のようにうす暗く森閑としている。
「神名さん」
彦六が、うしろから平四郎の袖を引いた。振りむくと、青い顔をしている。
「やっぱり帰りましょうか。あたしゃやっぱり、家にいる方がいい」
「ここまで来て、弱気なことを言っちゃいかん」
平四郎は叱咤した。
「かみさんに頭を下げさせるには、この手しかないと、あれほど話したじゃないか」
「それはそうですが……」
彦六はあたりを見回した。
「あたしゃ、何だか気味がわるい」
「男になるかならぬかの境目だぞ。このまま帰れば、一生かみさんの尻の下だ」
「はい、はい、ごもっともです」
彦六はがくがくとうなずいたが、そのとき、そばの茶店の奥から、真黒な猫がとび出して足もとを横切ったので、きゃっと言って平四郎の袖にしがみついた。
平四郎は一軒のしもた屋の前で足をとめた。家の前に盆栽の棚があって、さっき水をやったばかりとみえ、盆栽から水が滴《したた》っている。その家だけ、暮らしの匂いがした。
ぴったりと雨戸がしまっている二階を見上げてから、平四郎は格子戸をあけた。眼のしょぼついた、白髪のばあさんが出て来た。
「神名だ。おてるは起きてるかね」
「おや旦那、めずらしい」
ばあさんは歯切れのいい口調で言った。
「さっき起きたようだよ、呼ぼうか」
「そうしてくれ」
平四郎が言うと、ばあさんは奥に姿を消した。家の中で話し声がしたと思うと、間もなく梯子を踏む足音がして、おてるが出て来た。
おてるは、去年の暮まではこの路地の角にある飲み屋にいた。そこの二階で内緒で男を抱いていたのだが、奉行所の手先がさぐりを入れて来たので、飲み屋を出ていまはこの家にいる。たび重なる奉行所の手入れをかわして、しぶとく生き残った隠れ売女《ばいた》だが、おてるは病気の両親を養っているから、そう簡単に仕事をやめるわけにはいかないのだ。
「旦那、しばらく」
おてるは、平四郎を見るとにっこり笑ってしなをつくった。おてるは相変らず娼婦には見えない、血色のいい顔をしている。屈託のない明るい顔をしているから、奉行所の手先もつい見のがしてしまうのだろう。
「どうだね、商売の方は」
と平四郎は言った。
「客は来るかね」
「だめ、だめ」
おてるは手を振った。だがそういうしぐさも陽気な女だった。
「お取締りがきびしいから、お客も怖気をふるって寄りつきやしない。下のばあさんが時どき男を引っぱってくるけど、お茶|挽《ひ》いてるときの方が多いね」
と言って、おてるは平四郎に色眼をつかった。
「どう? 旦那。ひさしぶりに二階に上がらない? 昼間の|あれ《ヽヽ》もいいもんだよ」
「折角だが、遠慮しよう」
と平四郎は言った。
「今日は客を連れて来たのだ。古手屋の旦那だから、わしよりも金になる」
ちょっと外に出てくれと言って、平四郎はおてるを外に連れ出した。勝福寺の塀にくっつくようにして、しょんぼり立っていた彦六が二人を見た。不安そうな顔をしている。
「あれが古手屋の旦那だ」
と平四郎はささやいた。
「あの男を、四、五日預かってくれんかな?」
「あれがそうなの?」
おてるは彦六をちらと見た。彦六があわてて眼を伏せる。
「あんまりぱっとしないみたい」
「しかし金になるぞ。一日一分……」
と言ってから平四郎は胸算用した。どうせ、あの欲深そうな彦六の女房に出させるつもりの金である。もう少しはずんでもよかろう。
「いや、飯つきで一日二分だ。それなら下のばあさんもいやとは言うまい」
「ほんと?」
「ほんとだとも。四、五日と言ったが、場合によっては十日ぐらいにのびるかも知れん。そうなると五両の金が入って来る勘定だな」
「うっそお!」
とおてるは言った。つかつかと歩いて彦六のそばに行くと、あらためて上から下まで見おろした。
「思ったより、かわいいおじさんじゃないの」
かわいいのは彦六より金の方だろうが、若い娘にそう言われた彦六は赤くなっている。だが赤くなりながらも、ちらちらと平四郎に視線を投げて来るのは、これからどうなるのか、まだ先に不安があるからだろう。
「いいよ、預かってあげる」
おてるは彦六の手をにぎって、平四郎を振りむいた。
「たっぷりかわいがってやるから、安心していいよ」
「そんなに気を入れることはないさ」
と平四郎は言った。
「一日二分の分だけかわいがってくれればいい」
六
ひとが入って来た気配に、障子をあけると、手嶋屋の女房が立っていた。
「おじゃましますよ」
元気のない声でそう言うと、おうらは平四郎の返事も待たずに、部屋に上がって来た。平四郎はあわてて夜具を隣の部屋に蹴込み、台所に行って竈《へつつい》に火を燃やした。手早く鉄瓶をかけて湯をわかす。
──やっと来たか。
と思った。茶の間を振りむくと、火のない火鉢のそばに、おうらが坐っている。大きな背が、何となくしょんぼりしているように見えた。
おうらにお茶を出してから、平四郎は火鉢をへだてて坐った。
「さて、今日はどういう用件かな。取りもどし物は百文、さがし物ならちょっと高くて二百文だが……」
「旦那、ふざけないで亭主を返してくださいよ」
とおうらは言った。
彦六がもどらなかった翌朝、亭主をどこにやったと、血相を変えてどなりこんで来たときの勢いはない。
亭主の居場所などは知らんと突っぱねられたおうらは、そのあといずれはもどって来るさと、高をくくっていたのだろうが、いつまで経っても音沙汰がないので、辛抱し切れずにまたたずねて来たらしい。
さすがに心配が募って来たらしく、顔がやつれている。頬の肉が落ち、顔いろが悪く、眼の下に青黒い隈《くま》が浮いていた。
「返せという言い方はなかろう、おかみ」
と平四郎は言った。
「ご亭主は子供じゃない。帰りたければ自分の足で帰って来るだろうし、わしがご亭主を、無理に隠しているような言い方は迷惑だな」
「でも、いるところはご存じなんでしょ?」
おうらは平四郎の顔をちらと見た。出されたお茶には手をつけなかった。
「困るんです、教えてもらわないと」
「どう困るんだな?」
女をいじめているようで気がさすが、ここは大事のところである。平四郎は粘った。
「ご亭主の話を聞いたかぎりでは、家の中でさほど大事にされているようでもなかったが、出て行かれると、やはり困るかね?」
「困ります。かりにも一家の主ですから。世間体というものもありますし……」
「ほう、世間体……」
平四郎はわざと眼をむいた。
「しかしご亭主は、これまでおかみに、だいぶ世間向けの顔をつぶされて来た、と申していたな。いまさら世間体といっても帰る気になるかどうかは、いささか疑問だ」
「いえ、世間体なんか、どうでもいいんです」
不意におうらは叫ぶように言った。
「あたしゃ亭主の身の上が心配で。あのひと、一人じゃ何にも出来ないひとですよ。ちゃんとご飯を喰べているんですか?」
「飯は喰っていると思うがな」
「着換えだって一人じゃ出来ないひとですよ。足袋まであたしがそろえてやってるんです。それなのにもう十日も経つのに、何の音沙汰もないなんて……」
おうらは手で顔を覆った。すすり泣きながら言った。
「あのひと生きているんでしょうか。それを考えると、あたしゃ夜も眠れない……」
「そう心配することはないと思うがね」
と平四郎は言った。変ったことがあれば、おてるが何か言って来るだろう。何の音沙汰もないというのは、二人でよろしくやっている証拠である。
「しかし、おかみがどうしても心配だ、帰ってもらいたいというなら、心あたりをさがしてやってもいいのだが」
おうらは顔を上げた。泣いたあとだから、ひどい顔になっている。
「ほんとですか?」
「ほんとうだ。ただし、ただ心配だから帰れといっても、ご亭主は帰らんだろうな。家出するからにはよほどの決心で出たのだ」
「どうしたらいいんですか?」
「まず、ご亭主をがみがみどなりつけたりしないことだ」
「あたしゃどなったおぼえはありませんよ」
「そういう言い方はいかんな。あんたはどなっているんだ。女房にどなられたりすると、男は大そう傷つく。みじめな気分で、仕事どころでなくなる。気をつけることですな。ご亭主の頭を張るなどはもっての外だ」
「亭主がそう言ってるんなら、気をつけます」
「よろしい。つぎに遊ぶ小遣いぐらいは持たせる。女房がこわくて仲間づき合いも出来ない男、と言われてはご亭主の立つ瀬がない。世間に軽く見られる」
「………」
「どうしたな? そのぐらいのことは承知せんと、ご亭主はもどらんよ」
「わかりました。たまの遊びは仕方ないですよ。あたしもそんなにやかましく言うつもりはありません」
「もっと早くそう言えば、ご亭主も家出なんかはしなかったろうに。さて、もうひとつある。帳場をご亭主にまかせることだが……」
「それはだめです」
とおうらが言った。しおれていた蛇が、鎌首をもたげたような感じだった。
「亭主は帳面がわかる男じゃありませんよ」
「やらせてみなくちゃわかるまい」
と平四郎は言った。
「わからんところは教えてやればいい。肝心の帳場もまかせられなくて、一家の主だなどと言われても、ご亭主は喜ばんだろうな」
「………」
「要するに、旦那を立ててやることだよ。そうすれば、黙っていても帰って来る。それが出来んということになると、ご亭主は家に帰ってもしようがないということだろうし、わしもちと説得がむつかしくなる」
おうらはしばらくうつむいて考えていた。やっと顔を上げて言った。
「いま言われたことを承知すれば、うちのひとはもどって来るんでしょうか?」
「多分、大丈夫だろうな。しかし無理することはないよ、おかみさん。そこまでは譲れないと言うんなら、それはそれで仕方ないことだ。わしは手をひく」
「そんなことを言わないで、お頼みしますよ、旦那」
とおうらは言った。その顔を、平四郎はじっと見た。
「本気だな?」
「ええ、本気です」
「それじゃ、あとはご亭主の喰《く》い扶持《ぶち》の支払いとわしの頂く手間賃が残るだけだ。よし、さっそく出かけよう」
「おてるさん、お世話になったね」
と言って、女房の前もかまわず見送りに出たおてるの手をにぎったのは、十日の流連《いつづけ》で彦六も度胸がついたのだろう。おてるも笑顔でその手をにぎり返している。たったいま、喰い扶持の名目で五両の金が入ったのだからおてるの笑顔は当然である。
その様子を、おうらは眼を吊り上げて見ていたが、平四郎と顔が合うと、あわてて笑顔をつくった。
「おねえちゃん、お世話になりましたね」
その笑顔のまま、おうらはおてるにお愛想を言い、亭主の袖をひっぱった。
「さあ、お前さん、帰りましょ」
「それじゃ、長い間……」
十日前に平四郎と別れるときは、ひどく心細げだったのに、彦六は名残り惜しそうにおてるに手を振り、ようやく背を向けた。よほどおてるの待遇がよかったようである。
「きつそうなおかみさんだけど、あのひと大丈夫なのかしら」
「大丈夫だろう」
平四郎はおてるを振りむいた。
「こっちの言うことは全部承知したし、ここの払いも文句を言わずに払った。やっぱり夫婦だ。亭主は金には換えられないとみえる」
平四郎がそう言ったとき、背後で彦六の大きな声がした。
路地の角のところで、夫婦が揉めている様子である。お前が迎えに来たからとか、あたしゃべつに帰りたかないんだとかいう、彦六の声が聞こえて来る。
声だけでなく、彦六は勢いよくこっちにもどりそうにした。その腕をつかまえて、女房が片手おがみに亭主を言いなだめている様子である。おうらは頭をさげている。今度は懐から鼻紙を出して、いそがしく眼にあてた。
その前に、小男の彦六がふんぞり返っている。どうやら夫婦の立場がこれまでとは逆転したようだった。もっとも、先行きのことはわからない。
「ほら、うまく行ってる」
おてるにささやいて、平四郎がもう一度振りむくと、もう夫婦の姿は消えていて、路地の角にはまぶしい春の光が溢れているだけだった。
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襲 う 蛇
一
その日、神名平四郎をたずねて来た仲裁依頼人は、武家だった。齢は四十前後で、およそ裏店には似つかわしくない、立派な風采をしている。
「与助店の仲裁屋どのというのは、こちらかの?」
と武家は言った。いかにも、と言ったが、寝床から這い出たばかりの平四郎はあわてた。
「取りちらかしていてござる。暫時《ざんじ》お待ちください」
「いや、気遣いは無用。そのまま、そのまま」
男は気さくに言ったが、夜具は敷きっぱなしだし、平四郎は寝巻のままである。いまにも上がりこんで来そうな男を制して、平四郎は畳を踏み鳴らしながら、部屋を片づけはじめた。
一人暮らしが長くなると、どうしても身の回りの始末がだらしなくなる。火鉢のまわりには昨夜の夜食のあとがそのまま残っていた。飯茶碗、箸のたぐいはもちろん、鍋釜、梅干しの壺まで畳に置きっ放しで、部屋の中は橋下のおこもの住まいのように雑然としている。
平四郎は空っぽの鍋に茶碗や箸を投げいれ、片手にお釜をひっつかんで隣の三畳に押し込んだ。あまりあわてたので梅干しを入れた壺を蹴とばしてしまい、大いそぎでこぼれ出した梅をひろう。夜具を蹴込み、色男といい女のことを書いてある読本《よみほん》をほうりこんで間の襖《ふすま》をしめると、ひと息つくひまもなく、今度は着換える。
「や、お待たせした」
障子をひらくと、外に出ていた武家が、にこにこ笑いながら入って来た。
「どうやら、まだおやすみのところを邪魔したらしゅうござるな」
「いや、おはずかしい」
平四郎はうしろ首に手をやった。
「なにせ、このところ商売が混みましてな」
商売繁昌を装った。
「昨夜も、仕事でちと帰りが遅くなり、つい朝寝を決めこんだような次第で」
「ほほう」
立派な身なりの武家は、感心した顔になった。
「夜も働かれるとな」
「さよう。このところのように、仕事が三つも重なると、なかなか日のあるうちに商売を済ますという具合にもいきません」
なに、ここ四、五日仕事などひとつもなくて、日が暮れると早早に飯を喰い、寝床にもぐって読本を読んでいたのだ。富沢町の古手《ふるて》屋の夫婦喧嘩を仲裁して、三両の手間賃が入った。懐があたたかくなると、気分はやはり一服という形になる。
──しかし……。
仕事があり余っているように言うのも考えものだな、と平四郎は思った。眼の前の男は、仕事を持って来た客である。
「しかし、いそがしいのはこの商売の花でござる。仕事が入らずに遊んでおるようでは、この商売は成り立ちませんのでな」
は、はと平四郎は笑い、精力的に仕事をこなす仲裁屋という顔つきで、さてと形をあらためた。
「ご用件をうけたまわりますかな」
男は北国の小藩の名を言い、江戸留守居の役を勤めていると言った。姓名は宮内喜平である。それで男の垢《あか》ぬけた身なり、どことなく如才ない物言いなどが納得出来た。江戸留守居は、幕府や他藩との公的な折衝にあたる役持ちである。
「このようなことが、こちらの仕事で扱ってもらえるかどうか、いささか疑問だが、さるひとにこちらのお名前を聞いて、まずは相談に参った次第じゃ」
「さるひとと申されますと?」
「越後村松藩の助川六兵衛どのだが」
「ああ、助川どの」
村松藩の剣客、日田孫之丞にふりかかった危難を救うために、ひと働きしたことを平四郎は思い出した。
ついでに、人のよさそうな助川から、平四郎が五両、明石半太夫が一両、しめて六両というやや法外な手間をむしり取ったことも思い出したが、平四郎はそっちの方には眼をつぶった。多少多目の手間をもらったことは事実だが、最後には相手方の数人と斬り合ってまで日田の面倒を見たのだから、帳尻は合っている。
あの助川が、平四郎の名前をおぼえていて、新しい客を周旋して来たというのはけっこうな話である。あのときの一件に、助川が悪い印象を持っていない証拠だ。平四郎は鷹揚《おうよう》にうなずいた。
「存じておる。で、貴殿の依頼事と申されるのは?」
「それがどうも、曖昧《あいまい》にしてかつ模糊《もこ》とした話で、それがし自身にもはきとした仔細《しさい》はつかめておらんのだが……」
宮内喜平は、いかにも困惑したという顔になって、歯切れわるい言葉をつづけたが、不意に顔を上げるとはっきりした声で言った。
「それがし、ひとにつけられておる」
「誰に?」
「いや、名前はわからん。見たところは浪人者ですな」
と言って宮内は、あらためて平四郎を見た。
「いや浪人と申しても、貴殿とは異っていかにも尾羽打ち枯らしたといったご仁での。その男が、ここひと月ばかり、しきりにそれがしのあとをつけて来る。困ったものじゃ」
「素姓もわからんのですな?」
「わからぬ。こちらも気になるゆえ、屋敷の者に命じて、逆にその男の後を追わせてみたが、脅されて途中からもどって参った」
「すると、何ですか?」
と平四郎は言った。
「素姓も知れぬ胡乱《うろん》な浪人者が外に出る貴殿のあとからついて来ると、こういうことですな?」
「そのとおり」
「何か、心あたりは?」
「それが、なんにもない」
宮内はお手上げだという顔をした。
「心あたりがあれば、しかるべき手を打つことも出来るのだが、これぞと思うようなことは何ひとつ思いあたらぬ」
「ははあ」
「一度だけ、その男と言葉をかわしたことがござる」
と宮内は言った。
「近づくところを待ちうけて、何ぞ用かと聞いてやった。ところがその者の申すには、用などない、勝手に歩いているだけだという挨拶であった」
「ふむ」
「しかしそれがしも、ああそうかでは済まぬ場合ゆえ、用がないなら、あとをつけるのはやめてもらおうと申した。ところが、その男の返事がまたひとを喰ったものでな。あとをつけられたと思うのはそちらの勝手、ここは天下の大道ゆえ、どっちに歩こうと指図はうけぬ、とこうじゃ」
「ははあ、奇妙な男ですな」
と平四郎は言った。宮内の話に興味をそそられている。
「いたずらかな? でなければ狂者か」
「いやいや、さようにはござるまい」
と宮内は言った。宮内喜平はお盆のように丸くて扁平な顔をしている。眼の細い好人物めいたその顔に、緊張のいろがうかんでいた。
「眼つきの悪い男でござった」
「ははあ、眼つき……」
「その、何と申すか、向き合ったときに寒気が致したな。身におぼえのないことだが、その男の眼に、何か深い怨恨とでも申そうか、怪しからぬ気配があっての、つまりは、その……」
「殺気を感じられたということですかな?」
「それ、それ……」
宮内は懐紙を出した。藩の外交を受け持って四方に使いすることは得手だが、剣にはいっこうに不案内という様子に見える宮内は、しきりに懐紙で額の汗をぬぐった。
「白昼、人通りのある場所でした問答ゆえ、相手もまさか刀を抜きはしなかったが、あれが夜分であったら、斬られたかも知れぬて」
「………」
「なにせ、皆目わけの知れぬところが無気味。と、申してもそれがしも武士、屋敷うちであまり見苦しく騒ぎ立てることも憚《はばか》られる。というわけでこちらに頼みに来た次第だが……」
「………」
「いかがでござろう。こちらのお仕事に合うかどうか、いささか心もとない気もするが、この厄介事、何とか始末をつけていただけないかの」
「なかなか、むつかしい話でござるな」
と平四郎は少しもったいをつけた。内心は、その変な浪人者をとっつかまえて、事情を糾明すれば難なく片づきそうな話にも思えたが、たったいま仕事がどっさりあると言ったばかりである。そう腰かるく引きうけては、商売の重みにかけるというものだ。
「それに、なにせいまはほかの仕事を抱えておることでもあり……」
「重重承知しておる」
と宮内は言った。
「そこを無理にお頼みすることゆえ、手当ての方は少少はずませて頂くつもりだ」
宮内は、交渉事に長《た》けた留守居らしく、要点をつかんだ言い方をした。
「助川は、手間賃の相場は五両ぐらいと申したが、事の始末がついたときには、さらに一両上積みするということで、いかがでござろう。お引きうけ頂けまいか?」
「さよう……」
平四郎は腕組みして天井を見上げた。今度はもったいをつけたわけではなく、とんでもない好条件の話に、思わずにっこりしそうになった顔を相手の眼から隠したのである。
そのことを悟らない宮内が、まだ言っている。
「それがしは役目柄、外に出る用が多うござってな。そのつど何者とも知れぬ男につけまわされるのには、ほとほと迷惑してござる。ひとつ骨折ってこの面倒を取りのぞいては頂けまいか」
「よろしかろう」
平四郎は腕組みを解くと、ぽんと膝を叩いた。うまく行けば六両の手間が手に入る仕事である。声に力が籠った。
「お引きうけした。ついてはさっそく、その胡乱な浪人者をそれがしの眼でつきとめねばなりませんな。間違いがあっては困る。その者の人相|風体《ふうてい》、齢のころなどをくわしくうかがおうか」
「お話しするまでもござらん」
宮内喜平は苦笑した。
「その男なら、いまもこの路地の外に立って、わしが帰るのを待っているはずでござる」
二
神田猿楽町の道筋にある藩江戸屋敷に、宮内が姿を消したあと、どうするのかと見守っていると、その浪人者はすぐに門前から踵《きびす》を返して来た。
──まるで、白昼の送り狼だな。
と平四郎は思った。あれでは宮内が気味悪がるのも無理はない。
何気なく前に歩きながら、平四郎は道をもどって来る浪人者を仔細に観察した。背が高く肩幅がある堂堂とした体躯の男だった。胸のあたりも盛り上がって、身体つきは明石半太夫に似ている。もっとも、明石は近ごろ腹が出てかなり醜い。似ていると言ったら、浪人者が怒るかも知れない。
だがその立派な身体を包んでいる衣服は、いい加減粗末なものだった。黒紋付を着て、胸を張って歩いて来るが、その紋付は垢じみてよれよれになっている。何の紋かも判然としなかった。
男はまばたきをしない眼で、平四郎を見た。
そして擦れ違って行った。高い鼻、くぼんだ頬、そして意外に小さな金壺眼《かなつぼまなこ》。ひと口に言えば悪相の男だった。齢は三十半ばだろう。
──ふむ。
平四郎はうしろを振りむいた。男の幅ひろい背が、武家屋敷の角を曲るところだった。その姿が見えなくなるのを待って、平四郎も踵を返した。
──一体、何のつもりかな?
男の行動が解せなかった。宮内喜平を与助店の木戸から出すと、宮内が言ったとおり、表通りに出たところでさっきの男が姿を現わした。男はべつに姿を隠すわけでもなく、四、五間の距離をおいて宮内をつけて行くだけなので、その後を追う平四郎は何の苦労もいらなかった。
だが結果は見たようなものである。男は宮内が藩邸に入るのを見とどけると、あっけなく踵を返した。二人が多町を経て武家町に入ったとき、平四郎は、男が宮内に害意を抱く者なら、ここらで刀を抜くことだってあり得ると思い、それとなく男との距離をつめたのだが、結局は何事も起こらなかった。
武家町を行く間、前後に人影を見ない閑散とした道もあったのに、男の足どりには何の変化も見られなかったのである。
──ま、本人に聞いてみるしかあるまい。
平四郎は人ごみの中に見え隠れする、大柄な男の背を見つめながらそう思った。道は武家町を抜けて三河町の通りに入っていた。男は通りを真直ぐお濠の方に歩いて行く。
──む。
平四郎は鼻をひくつかせた。道ばたの店から煮物のいい匂いがして来る。横目で見ると、そこは煮しめ屋だった、平四郎の腹がつつしみなく鳴った。
──飯を喰っとらんからな。
そう思ったが、いまは胡乱な浪人者を追う方が先である。三河町三丁目の角を左に曲った浪人を追って、平四郎は空き腹をなだめながら足をいそがせた。
悪相の浪人者が入って行ったのは、永富町三丁目、土器《かわらけ》をつくる店が多いので俗に土物店《つちものだな》と呼ばれる町の裏店だった。木戸の陰から見ていると、浪人者は路地をのこのこと歩いて一軒の家に入った。その戸がしまる。そこが男の住居らしい。
奥の方に子供が二、三人遊んでいるだけで、ひっそりとしている路地を歩いて、平四郎はその家の前まで行った。
戸を開くと、上がり框《かまち》に男が腰かけていた。腰からはずした刀を左手に握ったままで、小さな眼でつめたく平四郎を凝視している。平四郎は一歩さがった。
「やあ」
と平四郎は言った。
「ここは、貴公の家か」
「………」
「ひとり住まいかね、おれもひとり暮らしだが、ひとり暮らしが気楽かというと、案外そうでもないものだ。飯の支度だ、洗濯だとけっこう手間どる。貴公も大変だろう」
「お若いの」
浪人者が低いだみ声を出した。
「何で、わしのあとをつける」
「ああ、そのことか」
平四郎は手を振った。
「貴公が宮内という男をつけるのと同じことでな。べつにわけはない」
「わしを愚弄する気か」
浪人者は、やはり低い声で言った。
「愚弄? とんでもない、ただ物を聞くために立ち寄っただけだよ」
「………」
「いや、言い方が悪かったかな。ざっくばらんに行こうか、ざっくばらんに」
と平四郎は言って、刀を握っている男の手を指さした。
「あやしい者じゃないから、そいつを放してもらおうか」
だが男は刀を放さなかった。無言で平四郎を見ている。
「おれは村松町に住む神名という者でな。よろず揉めごとの仲裁を請負っている。もっとも、貴公は何で喰ってるか知らんが、おれの商売はあまりはやらんから、真似はせぬ方がいいな」
牽制してから、平四郎は本題に入った。
「そう言えばおわかりだろうが、宮内に頼まれて来たのだ。一体、何であの男のあとをつけるのかね?」
「………」
「宮内は非常に迷惑だと言っておった。それに貴公が何者かも知らんし、あとをつけられるような心あたりはまったくないと、不思議がってもいる」
「………」
「それでおれに相談に来たというのはつまり、何かしかるべきわけがあるのなら償うということだな。それで鬼ごっこはやめにしてもらいたいというわけだ。そのへんの折り合いをつけるのもおれの商売だからな」
「………」
「しかし、宮内に心あたりが何もないということは、あるいは貴公が人違いしているのだということだってあり得る。ま、このへんのことは話を聞かなきゃ、どうにもならん」
「人違いではない」
浪人者が低いだみ声で言った。
「わしがつけておるのは、あの屋敷で江戸留守居を勤める宮内喜平、つまりあの男だ。なぜあとをつけるかは言えんな。そのわけは、いまに本人が思い出すだろう」
「弱ったな」
と平四郎は言った。
「じゃ、わけの方はひとまずおくとして、狙いは何だね? ただのいやがらせか? それとも金かね?」
男の顔に奇妙な笑いがうかんだ。金ではないと男は言って立ち上がった。じろりと平四郎をにらんだ。
「お若いの、商売か何か知らんが、この件には首を突っこまぬことだな。後悔するぞ」
男は平四郎に顔を向けたまま、ひょいと上がり框に上がった。そして障子をあけて中に入ると、ぴしゃりと戸をしめた。すばやい身ごなしだった。
平四郎は土間に踏みこんだ。
「おい、話はまだ終っとらんぞ。これで帰れというのは、ちとつれない仕打ちじゃないのか」
「………」
「悪いようにはせぬと言っとるのだ。ちっとは中身を匂わしてもいいじゃないか」
平四郎はわめいたが、障子の中の人物はうんでもすんでもなかった。これ以上何か言っても無駄だなと平四郎は思った。近所で、浪人者の名ぐらいはたしかめて、あとは帰るしかないだろう。
そう思ったとき、急に空きっ腹が身にこたえて来た。足もとがふらつく感覚に襲われた。
「おい、水をいっぱい……」
馳走してくれぬかと言いかけて、平四郎はやめた。外に出て、戸を閉めた。
三
戌井《いぬい》勘十郎という名前がわかっただけである。戌井が何をして喰っているのかは、裏店の者たちも知らなかった。裏店の連中は、無口でこわい顔をしている戌井を、日ごろ恐れ憚っている様子で、平四郎が聞くことにもあまりはきとしたことを言わなかった。
──これだけじゃ、しようがないな。
と平四郎は思った。
戌井勘十郎という、あの無気味な浪人者が言ったことで、ただひとつ手がかりらしいものがある。戌井は、なぜあとをつけるか、宮内喜平から言えば、なぜつけられるかということだが、そのわけはいまに宮内自身が思い出すだろうと言ったのだ。
戌井のその言葉は、何の心あたりもないという宮内の言葉に反して、戌井と宮内がかつてどこかで足どりを交錯させたことがあることを示している、と考えてよさそうだった。そして、宮内がそのことを忘れている以上、戌井の過去を洗うしかないのだ。
──カギはそのへんにあるな。
そう見当はついたが、その穿鑿《せんさく》は平四郎の任ではなかった。平四郎がいくらかひとにすぐれているのは雲弘流の剣と達者な弁口だけで、探索ごとはごく苦手である。
──そうだ。
仙吉を頼もう、と不意に思いついた。仙吉は、兄監物の配下である御小人目付樫村喜左衛門が使っている小者《こもの》だが、探索を仕事にしている男だから、樫村に話して仙吉を借りれば、戌井勘十郎の正体を洗ってくれるだろう。
兄と樫村には、兄が鳥居耀蔵と張り合って、高野長英の手記を追いかけたときに、ずいぶんと手を貸している。それでいてビタ一文の報償をもらったわけではなく、ただ働きに甘んじたのだから、二人には貸しがある勘定だ。兄には内緒で、樫村をつかまえて談じこんでみよう、と平四郎は思った。
その思案がうかんでほっとした平四郎は、どこかに喰い物屋はないかと眼でさがした。空腹はいまや堪えがたいほどになっている。
ほどなく一軒のうどん屋が眼についた。だが同時に、そのうどん屋の先をこちらに歩いて来る女の姿を認めて、平四郎は思わず立ちどまった。一瞬かかえている空腹を忘れたほどである。
白壁町の町並みに、やわらかい午後の日が射しかけている。その、さほどにひとが混んではいない通りを、うつむき加減に歩いて来る女が、まぎれもない早苗だった。早苗は、平四郎とは反対側の軒下近くを、ややいそぎ足に歩いて来る。
考えるより先に、平四郎は道を横切って、早苗が来る方角に身体を移していた。姿勢よく足を運んで来るが、早苗の白い顔は憂いを含んでいる。顔だけでなく、早苗は全身に憂愁のいろをまとっていた。身にまとう憂愁の気配のために、早苗の姿は、白日の下でただ一人孤立して見える。
平四郎にいつもの分別を捨てさせたのは、その発見だったようである。平四郎はゆっくり足を運びながら、元の許嫁の姿を正面から見つめた。早苗は気づかなかったようである。平四郎が足をとめると、はじめて顔を上げた。
早苗は立ちどまった。あ、と軽いおどろきの声をあげたようである。だが早苗は、その口を手で覆うと、軽い辞儀を残して平四郎のわきをすり抜けようとした。平四郎はその袖をつかんだ。
「待たれよ、早苗どの」
と言ったが、平四郎は袖をつかんだ自分の行為に狼狽していた。すぐに手を放した。
「おいそぎか」
「………」
「おいそぎでなかったら、そこでうどんを一杯つき合わぬか」
早苗が顔を上げて平四郎を見た。その眼が、平四郎の胸を刺した。身体つきも豊かなら、頬のあたりにもいくらか肉がつき、早苗には十五で別れた少女の面影はない。どこから見ても人妻だった。だが眼はむかしのままに澄んでいた。一瞬平四郎は十五の少女を見たようだった。
早苗はしかし、顔を伏せた。ぎごちなく言った。
「失礼ながら、いそぎますので」
「待った」
平四郎は鋭く言った。
「話がある」
「………」
「そなたの身辺のことは、いささか存じ上げておる。案じてもいた。そのことで、少少聞きたいことがあるのだ」
早苗の顔が赤くなった。きっと口をひきむすんだが、振り切って去ろうとはしなかった。
「ここで別れてしまえば、またいつ会えるか、わからん。長くはひきとめぬ。暫時つき合わぬか」
早苗は顔を上げて左右を見た。道を行く人びとが、二人をちらちらと見て通る。それで決心がついたようだった。早苗は、ではちょっとだけ、と言った。
すぐそばのうどん屋に入ると、平四郎はうどんを注文した。早苗はいらない、と言ったので、ひとつだけにした。
「別れてどれぐらいになるかの? ざっと足かけ五年ほどに相成るか」
平四郎は感情をこめてそう言った。眼の前のひとと、さほど打ちとけてつき合ったわけではない。二、三度、相互に家をたずねて、しかも人をまじえてぎごちない会話を交しただけである。
だが、こうしてむかい合ってみると、平四郎は、自分が長い間早苗を心にかけて来たことに、あらためて気づくようだった。再会の喜びが気持よく胸に溢れて来る。
平四郎は吟味するように早苗を見た。小ざっぱりと装ってはいるものの、早苗は決して裕福な武家のひとには見えなかった。家の中では、日毎内職にはげんでいる微禄の家の女子、と見えるのは、早苗が膝の上にかさばった風呂敷包みをのせているせいもあるだろう。
「そなたの消息が知れたのは、去年のことだ」
と平四郎は言った。
「築地の嫂が、八名川町近辺の路上で、そなたを見かけたと申してな。それで友人に頼んでいまの暮らしをつきとめてもらったのだ」
「おはずかしゅうございます」
早苗は、包みをつかんでいる手に眼を落としたまま、低く固い声で言った。
「おさがしになど、ならなければよかったのに」
「そうはいかん」
と平四郎は言った。
「そなたが姿を消してから、ずっと行方を気にかけていたのだ」
「………」
「しかし、いまの境遇が知れても、一向に解せなんだ。一体どういう縁で、菱沼の家のひととなられたか、そのあたりの事情を聞かせてもらいたいものだ」
「あの家に、買われたのでございますよ」
不意に顔を上げて、早苗がそう言ったとき、おかみがうどんをはこんで来た。平四郎はとびつくようにうどんを引き寄せた。
「失礼だが、これを頂きながらお話を聞いてもよろしいか。なにせ、朝から何も喰っとらんので眼が回りそうだ」
「おや、ま、それは大変……」
早苗はあっけにとられたような顔で平四郎を見た。あわただしく言った。
「どうぞ、ご遠慮なく召し上がれ。でも、まあ、どうしていまごろまで……」
「仕事がいそがしくて、飯喰うひまがなかった。失礼する」
平四郎はがつがつとうどんをすすりにかかった。その様子を心配そうに見つめていた早苗が、小声で言った。
「もうひとつ、お取りになってはいかがですか」
「そうしよう」
おかみ、もうひとつうどんをくれと、平四郎はどなった。
いまのやりとりで気持がほぐれたのか、早苗は淡淡とした口調で事情を打ち明けた。
改易になったとき、塚原の家にはあちこちに借財があった。とくに大きかったのは八名川町の御家人菱沼惣兵衛に借りた二百両の金である。惣兵衛からの借金は高利で、元金の二百両がそのときには五百両近くに膨れ上がっていた。
貧乏旗本と言っても、家具|什器《じゆうき》のほか、書画、刀剣の類など、売ればいくらかの金になる物はある。早苗の父はそうした物を売り払った金を借金の返済にあてた。だが、惣兵衛の借金だけは返し切れなかった。内金として三十両を払ったのが精一杯だった。
利息が利息を生む高利の借金では、その三十両も焼石に水と思われたが、早苗の父はともかくそれで一応の恰好をつけ、一家の者を連れて小田原藩に仕える親戚の家に身を寄せた。
だが惣兵衛の督促はきびしかった。身を寄せた先に、たびたび督促の使いをよこした。その使いという男が、御家人の冷や飯喰いで、柄が悪かった。玄関先で大声を張り上げる。親戚の家の者は眉をひそめた。
使いが来ると、早苗の父はあわただしく玄関に走り出る。言いなだめる父の低い声と、わざとのように大声で罵りさわぐ男の声を、早苗は、一家にあたえられた部屋で、母と妹と肩を寄せ合って聞いた。屈辱と怒り、加えるに厄介になっている屋敷の人びとに対する気遣いで、身体もふるえる思いをした。
早苗にしてそうだったのだから、当の父親には堪えがたい日日だったろう。一年ほど経って、早苗の父は病気で倒れた。いつものように、菱沼の使いとわたり合っているうちに、不意に激昂《げつこう》して刀を抜こうとした。その瞬間、発作に襲われて倒れたのである。中風だった。
早苗の父が病気で倒れたのを知ると、惣兵衛は母に新たな提案を持って来た。早苗を妻に申しうけたい、そのかわりに、借金は棒引きにしてやってもいいと言うのであった。
「その話を受けたときに、私は死んだのです」
と早苗は言った。そして、何となく遠いひとを眺めるような眼で平四郎を見た。
「小田原の親戚に、身を寄せた当時は、よく平四郎さまのことを思い出しました。ひょっこりと現われて、私をこの苦境から救い出してくれるかも知れないと、侘《わび》しい空想にふけったものです」
「ふむ」
「でも、江戸にもどってからは……」
早苗は深深と溜息をひとつついた。
「もう、あなたさまのことを考えることもありませんでした。人なみの暮らしから、一切望みを絶って参りましたゆえ」
「人身御供《ひとみごくう》だ。そなたの亭主だが、菱沼というのは怪しからん男だな。やり方が汚い」
平四郎は新しくはこばれて来たうどんに、猛然と手をつけながら言った。
「しかし、菱沼惣兵衛も今度は参ったろう。金貸しは停止、役も解かれて小普請入りになったそうではないか」
「はい、よくご存じですこと」
早苗は眼をみはって、平四郎を見た。
「それで私はほっとしましたけれども」
「ご亭主はそうも行くまい。近ごろ、どうしておるな?」
「菱沼のことは、話したくありませぬ」
早苗はぴしりと言った。平四郎はおどろいて箸をとめた。そうかと言った。そういう早苗の気持はわからないでもない。
「ふむ、そうだろうな」
「それより、あなたさまのことをお聞かせくださいませ」
「おれか……」
「はい。いま、何をしておいでですか? お見うけしたところ、武家勤めとは思われませんけど」
早苗は、いまになって好奇心をそそられたというように、平四郎の身なりに眼を走らせた。
「神名のお屋敷は出られたのですね?」
「さよう、いまは浪人暮らしをしておる。やってみると、これが大そう気楽なものだ。ちょっとした仕事があってな。それで十分に喰える」
しかし、その仕事の中身は、早苗には言いたくなかった。あまり世間体のいい仕事とは言えない、と平四郎自身が自覚している。早苗をがっかりさせたくはなかった。
平四郎は肩身せまい思いで、早苗の顔は見ずにうどんをすすったが、ふとひとつだけ胸を張って言えることがあったのに気がついた。
「近く道場をやることになっておる」
箸をおいて、平四郎は言った。
「友人二人が一緒でな。いまその資金稼ぎに、せっせと働いておるところだ」
「おうらやましいこと」
早苗はつぶやいた。そして小声でつづけた。
「そういえば平四郎さまは、雲弘流のご修行に熱心でございましたね」
「おぼえていてくれたか」
平四郎は笑顔で早苗を見た。ごく限られた、二人だけが理解する小さな世界が姿を現わしたようだった。
「二人の友人というのも、その道場仲間でな。気のいい連中なのだ」
「ぜひともおやりなさいませ」
と言ったが、早苗はしかし、それ以上平四郎の話に乗って来る気配は見せなかった。もとの固い表情にもどって風呂敷包みをひきよせると、そろそろ行かなければと言った。
「ご亭主がうるさいのか?」
「はい」
早苗はちらと笑顔を見せた。さびしげな笑いだった。早苗は立ち上がった。
「今日はひさしぶりにお目にかかれて、うれしゅうございました」
「待った、早苗どの」
平四郎も立ち上がった。そのときには決心がついていた。このひとのほかに、生涯をともにする女子は、この世にいまい。
「今度は、いつお会い出来るかな」
「それは……」
と言ってから、早苗はあわてたように平四郎を見た。
「何をおっしゃいます。そのようなお約束は出来ませぬ」
「では、これっきりか?」
「………」
「借りはもう、返したのではないかな。なにも、好んで一生金貸しの家に縛られることもあるまい」
かりに早苗が家を出ても、いまの菱沼には、それじゃ先の金を返せと、小田原に掛け合いに行く気力はあるまい、と平四郎は思った。もし菱沼が、あえてそれをやるつもりなら、幕府が菱沼に下した裁きを思い出させて、脅してやってもいい。
平四郎は、早苗を凝視したまま、低い声で言った。
「逃げて、おれの家に来ぬか。あとの面倒は引き受ける。何を隠そう、おれの商売というやつが、それに類した仕事なのだ」
「………」
「よろず揉めごと仲裁と申してな。面倒ごとを片づけてやって、なかなか信用を得ておる」
「でも……」
早苗の顔に、不審とも戸惑いともとれる奇妙な表情がうかんだ。
「でも、平四郎さまは、もう家の方がおられるのでしょ?」
「家の方? そんな者はおらぬ」
「でもいつぞや、お子を背負っておられたではありませんか?」
「え? 子供だって?」
平四郎はあっけにとられて早苗を見たが、すぐに、くみという女の子供を背負って、米沢町にさしかかったとき、早苗と顔を合わせたことを思い出した。
あれは明石の妻女が、むりやり子供を背中にくくりつけたのである。こういう誤解が生じるから、いやだと言ったのだ。平四郎はあわてて手を振った。
「あれはよその家の子だ。誤解されては困る。おれはまだひとり身だ」
「………」
「まあ、坐らぬか。あれも仕事のうちでな。よそにあずけた子供を背負って、親に返しに行くところだった」
「まだ、おひとり身だったのですか」
早苗はつぶやいた。その声はなぜか悲痛なひびきを帯びて聞こえた。早苗は平四郎から眼をはずすと、ゆっくりと身体を腰かけにもどした。そのまま身じろぎもせず、あらぬ方を見つめた。
早苗が、それでも返らぬ過去を嘆いているのか、それとも、自分を放棄することが生きることだったその灰色の道の前途に、ぼんやりと不確かではあるが、自身の力で生き得るのぞみが残されているのを確かめようとしているのかはわからなかった。
青白さを増した早苗の顔を、平四郎は無言で見守った。
四
「戌井勘十郎は常陸《ひたち》笠間藩の出です」
と仙吉は言った。仙吉は無口な男だが、探索の仔細を告げる言葉は明瞭で無駄がなかった。
勘十郎は戌井家の庶子で、戌井家に養われて育ちはしたものの、その後正妻に男子が生まれたので、家督相続では出番のない身分だった。二十を過ぎても思わしい縁談もなく、このままでは家に寄食する厄介叔父になるかと心配されたが、勘十郎は二十五のとき、剣術修行を名目に出府を願い出て許された。勘十郎は国元で、いささか剣名を知られていたのである。
江戸に出て二、三年は、熱心に剣術修行にはげんだ様子だったが、その後素行が乱れて無頼《ぶらい》にまじわるようになった。そのことが知れて、数年前には家から絶縁を宣告され、江戸藩邸にも出入りを禁止された。
「ふむ、剣が出来る男なのだな」
そのことを心にとめておこうと、平四郎は思った。
「その勘十郎が、どこで宮内とぶつかるのかね」
「勘十郎の腹違いの弟、戌井駒之助という男が、二年前に江戸藩邸で腹を切っています。藩の使いで宮内というひとのところに行き、もどるとすぐに腹を切ったそうです」
「ほほう、理由は何だ?」
「持って行った書付けを突き返されたとかいう話でした。先方で怒られたということです。もっともその書付けというのは、藩邸の係が改めると確かに間違いがあったそうで、後でべつの使いが持って行ったら、宮内というひとは今度は問題もなく受け取ったということです。藩邸には、戌井は無駄腹を切ったという噂が流れたそうです」
「ふむ。宮内によほど強く叱責されでもしたかの?」
「さあ、そっちの方は調べていませんが」
「いい。それはおれから聞いてみよう」
と平四郎は言った。
「その無駄腹というのは、つまり腹を切るほどのこともないのに切ったということだろうな」
「そう言っていました。駒之助というひとは、大そうに小心で、そのくせ癇癪《かんしやく》持ちだったそうです」
なるほど、するとこうかと平四郎は思った。戌井勘十郎は、弟が藩邸で自裁したことを知り、その原因が宮内にあることを突きとめたのだろう。それで宮内のあとをつけはじめたのだ。
──やはり、怨恨だ。
と平四郎は思った。金ではない、と言った勘十郎のせりふを思い返し、また殺気を感じたという宮内の言葉も思い出していた。勘十郎は、いまはのそのそあとをつけているだけだが、いつかは必ず宮内を襲うつもりでいるのだ。
──その、いつかというのは……。
いつのことだ? と思ったが、平四郎にはわからなかった。
「駒之助が腹を切って、戌井の家は潰れたのかな?」
「いえ、それは大丈夫だったそうで。駒之助には六つになる子供がいて、無事跡目をついだそうです」
「勘十郎と駒之助の仲はどうだったんだろうな?」
「それも聞いてみました。二人は至極仲がよかったそうです。駒之助は、勘十郎が実家から勘当されたあとも、親に隠して江戸にいる兄に暮らしの金を送っていたそうで」
「ほほう」
「駒之助は、家督をついで間もなく江戸詰になったのだそうですが、江戸に来るとちょくちょく兄に会っていたそうです。もっとも勘十郎がお屋敷への出入りをとめられていたので、外で会っていたという話でしたがね」
「わかった。いや、おまえさんの調べは大したものだ。ごくろうだった」
平四郎は、用意しておいた一分の駄賃を、仙吉に渡した。仙吉がもとの無口な男にもどって家を出て行くと、平四郎はすぐに身支度を改めて、自分も家を出た。
猿楽町の藩邸に行くと、折りよく宮内がいて、平四郎を邸内の自分の長屋に案内した。召使いのばあさんが、二人にお茶を出してひっこむと、宮内はすぐに言った。
「その後、談合の方はいくらかすすみましたかな?」
「それが、さっぱり」
と平四郎は言った。男が土物店に住む戌井勘十郎という浪人者で、仲裁話を持ちかけたが拒否されたことまでは、宮内に報告してある。
宮内は落胆した顔で、平四郎を見た。仲裁屋などといっても、この程度のものかと思っているかも知れなかった。
「しかし、相手の正体が知れました」
「ほう」
宮内は口に運びかけた茶碗を膝にもどした。じっと平四郎を見た。
「何者でござる?」
「宮内さまは、戌井駒之助という名前に心あたりがおありですかな?」
「戌井駒之助? はて。戌井と申すからには、あの浪人者の縁者かの?」
「勘十郎の弟です。笠間藩士でした」
「はて、笠間藩の戌井駒之助……」
宮内は腕をこまねいたが、やがて匙《さじ》を投げたように言った。
「おぼえがないの。はじめて聞く名前だ」
「しかしその男は、貴殿に叱責されたのを苦にしたとかで自裁しています。二年ほど前です。おぼえがありませんか?」
「叱責? わしが?」
宮内は苦笑した。
「それは何かの間違いではないかの。わしはひとを叱ったりすることはごく嫌いでな、そこの台所にいるばあさんでさえ叱ったことなどない。まして、他藩の人間を叱りとばしたりすることは考えられん」
「しかし、お勤めの上のこととなると、いかがでしょうかな」
平四郎は、仙吉が江戸の笠間藩邸で聞きあつめて来たことを、くわしく話した。宮内は眉をひそめて聞いていたが、平四郎の話が終ると、待てというように手をあげた。
「ははあ、思い出した。それは二年前の夏のことじゃ。たしかに笠間藩と公用の文書をやり取りした。そのときの使者が戌井と申したかの?」
宮内は額に手をあてた。
「そのとき、先方の文書に不備があって……。ふむ、思い出した」
宮内は、今度ははっきり平四郎の顔を見た。
「その文書の不備と申すものは、ごく単純な先方の思い違いでの。問題になるようなものではなかった。ただ、そのままには受け取れないので、書式を改めて再度お持ち願いたいと言ったのだ」
「ははあ」
「ところが先方の使い、戌井だったかどうか、名前は忘れたが、その男はわしがそう言うと、急に顔色を変えよった。使いに馴れておらぬ男のようであったな。ふむ、ふむ、だんだんに思い出した」
宮内は顔をしかめた。
「わしはひとことも叱りも怒りもしなかった。使いに不馴れな男と見当がついたゆえ、改めるべき箇所はこことここというふうに、懇切に説明して帰したのだ」
「………」
「それを、使いの文書を突き返されたと受け取ったかの? だが、それにしても、腹を切るほどのことでは断じてなかった。何を思い違いしたかの?」
「笠間藩でも、戌井は無駄腹を切ったと、評判があったようでござる」
「若い者は、思いがけないことをやる」
宮内は太い溜息をついた。
「しかし、わしが叱責したとか、相手をはずかしめたとかいうのであれば、縁者に恨まれてもやむを得んが、事実はそうではない。わしはあのとき、使いの若い者をかなり親切に扱ったつもりだ。自裁の原因がわしにあるように言われるのはいささか迷惑じゃな。むろん、死んだ若者を気の毒とは思うが、そこまでは責任が持てぬ」
「お話が事実とすると、逆恨みのたぐいですな」
と平四郎も言った。
「自裁の原因は、駒之助本人にあるようだ」
「それはともかく……」
宮内は苦笑した。
「すると、わしは弟の敵と狙われているわけかの? うっとうしいことじゃ」
「勘十郎も、ひと筋縄でいかない変った男のようでござる。十分にご用心されたい」
「用心すると申しても、さて、どうしたらよいかの? わしは勤めが勤めゆえ、外へ出ぬわけにはいかぬ」
「まさか、白昼弟の敵と斬ってかかることもせんだろうと思いますが、お供には多少剣の心得が有る者を同行されたらよろしかろう。夜の外出には、それがしが陰ながらつき添って、身辺を警戒することにいたしましょう」
「………」
「むろん、勘十郎をなお説得してみますが、こちらはいまのところ望み薄。となると、相応の用心をするほかはありませぬ」
「厄介なことに相成った」
「夜、お出になるご予定は?」
「明日の夜、さる藩の者と柳橋の料理屋で会食することになっておるが」
「その料理屋の名前をうかがっておきましょう」
と平四郎は言った。
五
「つまり、こう言っては何だが、貴公の弟は勝手に腹を切ったのだ。藩邸でもそのことは認めておる」
戌井勘十郎は、じろりと平四郎を見返したが、何も言わなかった。
「宮内に言わせればとんだ迷惑な話でな。むろんその一件で、若い者が腹を切ったのは気の毒だと言っておる。しかし、それがあたかも宮内本人が、貴公の弟をはずかしめたためと思われることには、断じて承服出来ないそうだ。叱責もしなかったし、意地悪く扱ったわけでもないと言っておったな。取りかわした文書というやつ自体が、それほど問題のあるものじゃなかったそうだ」
「………」
「そうそう、笠間藩は八万石で譜代《ふだい》、こちらは四万石足らずの外様《とざま》の小藩。先方の使者を叱責したり出来るわけがないとも申しておったな」
「どうかわかるものか」
それまで無言だった勘十郎が、低いだみ声で言った。
「それは、死んだ弟に聞いてみぬことにはわからん」
「貴公も、よくよく頑固な男だな」
平四郎は匙を投げた言い方になった。
「そういう変な思い込みは、戌井の血統かね、おい」
勘十郎はまばたかない眼を、じっと平四郎に据えている。相変らず膝に刀を引きつけているのが無気味だった。
「ここらで手を打たんかね、おい。宮内は、気の毒だったと言っておる。それでいいじゃないか。金がいるなら金を取ってやるぜ」
「………」
「弟の敵というのは、どう考えても筋違いだな。やってみろよ。笠間藩は騒動して、へたすると、お前さんの実家が潰れるぜ。それでもいいのか」
「そんなことにはならん」
勘十郎はうす笑いした。笑うと悪相に凄みが出る。
「わしは、実家から縁を切られた男だ」
「ふむ。じゃ、やれ」
平四郎はやけくそで言った。
「貴公がそのつもりなら、こっちもしつこくやるぞ。宮内に手は出させん。請負った仕事だ。どこまでもじゃましてやる」
勘十郎は相手にしなかった。刀をさげて、上がり框にのっそりと立ち上がった。
「宮内喜平はどうしておる?」
「………」
「だいぶこたえて来たろう。まあ、長くは苦しめん。そのうちけりをつけると伝えてもらおうか」
「貴公、蛇みたいな男だな」
思わず、平四郎は鋭く罵った。
──そうか、そういうことか。
宮内をつけ回したのは、不安をあたえ、理由をさぐらせるのが目的だったらしい。そして宮内が真相をさぐりあてたところで斬る。それに違いなかった。陰湿なやり方だと思った。
平四郎の罵りを、勘十郎は歯牙にもかけなかった。すばやく動くと部屋の中に入った。大きな蛇が、のたりとのばしていた尾を巻いて、一瞬に藪《やぶ》に隠れたようにも見えた。平四郎は、自分が相手にしている男が、これまで出会ったことのない、陰湿な嗜好《しこう》を持つ男なのを悟った。いやな相手だった。
──しかし、やめるわけにもいかんしな。
と平四郎は思った。六両の手間賃は、道場を持つ資金の足しになるだろう。そして道場を持つことは、早苗にまで公言してしまったのだ。あとにはひけなかった。
料理茶屋といっても、近ごろは三味線の音がするわけでも、歌声が聞こえるわけでもない。細細と灯が洩れるその家から、供を連れた宮内が出て来たのは、五ツ(午後八時)過ぎだった。
いまは馬ノ鞍横町を歩いている。供の者が持っている提灯《ちようちん》の明かりに、二人の姿がうかび上がるのを見つめながら、平四郎は変事が起きればいつでも駆けつけられる距離を、つかず離れずつけて行く。
供についている長助という中間《ちゆうげん》は、一刀流の町道場に通っている若者である。戌井勘十郎が現われて斬りかかっても、一合、二合は斬り合って防げるだろう。
先を行く二人のほかに人影はなく、二人は大通りを越えて西神田に入った。そして多町と竪大工《たてだいく》町の間を通りすぎたとき、平四郎は二人の背後に、音もなく黒い人影が現われたのを見た。
その男は、西裏通りから出て来たようである。手に、鈍く刀が光るのが見えた。
「長助、気をつけろ」
わめきながら、平四郎は夜の道を疾駆した。そのときには、男は二人に襲いかかり、迎え討った長助とはげしく斬り合う音をひびかせた。長助は敢然と立ちむかっていたが、男の方が腕ははるかに上だったようである。深く踏みこんだ男の刀が一閃《いつせん》すると、長助の身体は突きとばされたように、町家の軒下までとんで倒れた。
だが、男が反対側の軒下にいる宮内に向き直る前に、平四郎は二人の間に滑りこんだ。
「待った」
刀を構えながら、平四郎はどなった。
「おれがお相手しよう」
男はやはり戌井勘十郎だった。提灯は宮内の手に移っていて、その光に勘十郎の仮面のような顔がうかんでいる。
勘十郎は無気味に光る眼を平四郎に据えたまま、するすると後にさがった。さがりながら、剣を青眼から上段に移したが、つけこむ隙はまったく見せなかった。巨躯がふりかぶる上段の剣に、のしかかるような迫力がある。
──こいつは……。
大した腕の野郎だぜ、と平四郎は思った。青眼の剣で、油断なく身を固めた。じりと爪先を前にすすめたとき、すさまじい一撃が降って来た。三間の距離を、勘十郎は滑るように詰めて、刀を振りおろして来た。
かわす間もなく、平四郎は摺《す》り上げる剣で襲って来た剣をはね上げた。すれ違いざまに相手の胴に一撃を送ったが、勘十郎は軽軽とかわした。勘十郎の剣が、また上段に上がる。だがすぐには打ちこんで来なかった。長い対峙《たいじ》になった。平四郎も打ちこめず、隙を窺ったまま時が経った。
じりっと勘十郎が間合いを詰めて来た。平四郎がさがる。勘十郎の足がとまった。と思った瞬間、また速い剣が襲って来た。同時に平四郎も前に出て、鋭く相手の肩を打った。腕にかすり傷を負ったが、平四郎の剣も相手の肩を斬ったようである。二人は振りむいてまた打ち合い、とびはなれると再び長い対峙にもどった。
斬り合いながら、相互に致命傷をあたえるに至らないまま時が経った。平四郎は袖が破れ、脇腹をかすられて、そこも衣服が裂けた。乱れた髪が、汗のためにべっとりと額に貼りついている。
勘十郎もあちこち着ている物が破れ、惨憺《さんたん》とした恰好になっている。だが青眼にもどした剣を構えた姿は微動もしていない。まばたかない眼が、つめたく平四郎を見つめて、平四郎は蛇に見られているような気がした。
三たび、勘十郎は剣を軽軽と上段に構えた。じりじりと間合いをつめて来る。その圧迫感に平四郎は喘《あえ》いだ。全身汗に濡れている。喘ぎながら、右に左に小刻みに足を移した。矢部道場で飛鳥と呼ぶ極意剣である。相打ちの型の中に活をもとめる剣でもある。鋭く相手の動きを見守りながら、打ち込みを待った。
山が崩れかかるように、勘十郎の身体が滑って来た。剣が落ちかかる。だが勘十郎の剣は、平四郎の足の運びに眩惑されて、わずかに正面をはずした。そのときには、体をまるめて平四郎は相手の剣の下に飛びこんでいる。そのまま腕を薙《な》ぎ上げながら、一髪の差で相手の横をすべり抜けた。
存分に斬った手応えがあった。足をとめて振りむくと、刀をさげて勘十郎が立っていた。にやりと笑ったようである。だが次の瞬間、勘十郎の巨躯は音たてて横転した。
同時に平四郎も地面に膝をついた。喉はからからで、胸はとび上がるようなはげしい鼓動を打っている。平四郎は犬のように喘いだ。
走り寄って来た宮内が、ふるえる声をかけて来た。
「大丈夫かの?」
「六両じゃ、ちと安かった。命がけだ」
喘ぎながら平四郎はぼやいた。
宮内を屋敷の前まで送ったあと、這うようにして村松町の裏店にもどると、家の前に黒い人影が立っている。樫村の配下仙吉だった。
「大事なことを忘れていました」
と仙吉は言った。
「戌井勘十郎は、小石川の酒井道場で免許取りの剣士だったそうです」
「直心影流だ。それをはやく言ってくれなくては困る」
平四郎は、もう一度ぼやいた。
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暁の決闘
一
山城屋の番頭をしたがえて、家を出ようと戸をあけると、外に明石半太夫が立っていた。むこうも、まさに戸をあけようとしたところだったらしい。
「お、どうした?」
神名平四郎が言うのと同時に、明石も、何だ出かけるところかと言った。
「仕事だよ、仕事」
言いながら、平四郎は検分するように、明石の風体をじろじろと見た。出入りの商人から袖の下を取っていたのがバレて、勤める道場で疎外されているという話を聞いてから、平四郎は少なからず明石のことを気にしている。
失職して、明石の暮らしがどうなるかは平四郎の知ったことではないが、いずれは一緒に道場をやろうという約束がある。しかも平四郎の近ごろの金の溜まりぐあいから言うと、その約束の日は近きにありという感じになっているのだ。
そういうときに、明石が失職して、またぞろ夜逃げということになっては、計画も一頓挫を来たすことになる。それだけでなく、明石には五両の貸しがある。いますぐ取り立てることは無理としても、一緒に道場をやっていれば、それもいつかは取り返す機会があろう。夜逃げはそういう一切を御破算にする。ねがわくば道場をひらくまで、明石にはせめていまの暮らしを堅持してもらいたいものだ。
そういう気持があるので、昼日中、のっと現われた明石を、平四郎は入念に眺めたのだが、格別の変りはなかった。着ている物はいつもの上等の絹物だし、顔いろはつやつやしている。腹の出ぐあい、ひげの照り。すべては明石がまわりの白眼視にもめげず頑張っていることを示している。
「何か、用だったのか?」
ひと安心して平四郎が聞いたが、明石はむ、むとうなっただけである。
「急用かね?」
「いや、急用というわけじゃない。ただちょっと……」
明石はいつもに似げなく、もぐもぐと口ごもり、やっと言った。
「じつは北見のことで、いささか気になることが出来てな」
「北見がどうかしたか?」
「いや、いまどうこうというわけでもないのだが……」
明石の言うことは、いやに歯切れがわるい。平四郎はじれったくなった。
「急ぎの話でなければ、歩きながら聞こうか。このとおり……」
と言って振りむくと、山城屋の番頭が、畏《おそ》れかしこむと言った顔つきで明石を見つめているのが眼に入った。
「これから仕事に出かけねばならん」
「よかろう。歩きながら話す」
と明石は言った。先に立って木戸の方に歩き出した。立派な身なり、肩幅も背丈もある大柄な体格、悠揚迫らない歩きぶり。背中から見ても明石の貫禄は相当なものだった。中身を知らない番頭が、感嘆の眼で見るのも無理ないのである。
──これで、中身は存外の詐欺漢なのだからな。
平四郎は、腹の中に笑いが動くのを感じた。明石半太夫は肥後雲弘流の遣い手だが、詐欺漢を兼ねている。平四郎と北見十蔵を騙《かた》って道場開きの費用を猫ババしただけではなく、いま現在もかなりきわどい世渡りをしていることは、知るひとぞ知るところだ。
だが、中身はたしかにうさん臭い男に違いないが、明石の押し出しの立派さは、将来道場をひらくときに必ず物をいうはずだった。道場の表向けの顔ということになると、北見は見るからに土臭くて口下手だし、平四郎は弁口こそ達者だが、若すぎておよそ重味というものに欠ける。明石こそ適任なのだ。なにしろ明石の堂堂たる見てくれには、あの勘定高い蝋燭《ろうそく》町の家主与之平さえ、まんまとだまされたぐらいなのだから。
平四郎が、腹の中でそんな考えにふけっているとは露知らない明石は、表通りに出るとさっそく身を寄せて来た。
「近ごろ、北見に会ったか?」
「いや、このところ商売繁昌でな。しばらく行っておらん」
「ふむ。すると、やつのところに国元の女房が来ておるのは知らんのだな?」
「女房?」
平四郎は明石の顔を見た。だいぶ前になるが、北見の家をたずねたとき、北見の前で泣いていた、品のいい女のことを思い出している。
「そのひとには一度会ったことがある。そうか、また来ているのか」
「女房だけじゃない。子供も来ておる」
と明石は言った。
「子供だと?」
平四郎はあっけにとられて明石を見た。
「北見には子供がいるのか?」
「いるとも」
明石はうなずいた。
「塚原保之助、当年八歳だが、この子供は塚原家の当主ということになっているのだな。神名は北見の旧姓を知っとるか?」
「いや、知らん」
「やつは旧姓塚原十蔵というのよ。塚原家の婿に入って保之助という子をもうけたが、勤めの上で失態があったとかで、累《るい》が養家におよぶのをおそれて自分から離縁になり、もとの北見にもどったというわけだ」
「ふーん、それで江戸に出て寺子屋の師匠になったか」
平四郎は腕組みした。考えてみると、北見からそういう話を聞いたことは、一度もないのだ。
「どうも国元に何かあるんじゃないかと思っていたが、そういう事情か」
「なかなかに複雑な話らしい。くわしいことは知らんが」
「貴公、その話をいつ聞いたのだ?」
「芝の道場を手伝っていたころよ。北見は高五十石の家を残すために、自分で身をひいたわけだ。婿は辛か。そこへ行くとわしなどは……」
と言いかけたが、明石はそこで、今日平四郎をたずねて来た肝心の用件を思い出したらしかった。ぐっと顔を近づけて来た。明石は、つややかなひげに似つかわしくない、沈痛な表情をつくった。
「ところで、気になることというやつだが……」
「おお、それよ、何のことだ?」
明石はすぐには答えなかった。ひげをひとひねりして唇を噛んでから、少し声を落として言った。
「やつは、誰かと果し合いをやるつもりらしい」
「何だと?」
平四郎は大声を出した。
「ほんとか、おい」
「間違いなか」
「誰だ、相手は?」
「しッ」
明石は平四郎を制して、あたりを見回した。こみ入った話とみて、山城屋の番頭は少しはなれた町家の軒下に立っている。ほかには、真夏めいた乾いた日射しの下を、まばらにひとが行き交っているだけだった。
「そこまではわからん」
と明石は言った。
「ぽろっとそれらしいことを洩らしただけでな。北見はあとを言わんのだ」
「口の重い男だからな」
「口が重いではすまされん」
明石はめずらしくいきり立ったような声を出した。北見の口の重さとのんきそうな平四郎の口ぶりと、その両方に腹が立つというふうにも見えた。
「わかった、わかった」
平四郎はあやまった。明石の苛立ちはわかる。北見の身の上に異変が起きようとしているのに、確かな情報をつかめないので焦《じ》れているのだ。
「とりあえず事情を聞かなきゃな。場合によっては助太刀せにゃならん」
「そういうことよ」
明石は、平四郎が事情をのみこんだとみてか、険しい表情を解いた。ひげをしごいて言った。
「助太刀が要るかどうかは先の判断だが、とりあえず果し合いの相手、場所と日時ぐらいは確かめぬとまずい」
「そのとおりだ。それを北見は言わんのか」
「問いつめたが言わん」
「ふむ」
「お手出し無用という態度だったぞ」
「悪い性分だ」
と平四郎は言った。
「やつは見かけはやわらかいが、根は頑固な男だ」
しかし、はたしてそれだけだろうかと平四郎は疑った。果し合いの裏には、親友といえども洩らしてはならないような事情があるのかも知れぬ。そうなると非常に厄介だった。
「参ったな、どうする?」
平四郎が言うと、明石はまた噛みつくような顔をした。
「どうするもこうするもない。今度は貴公の番だ。行って確かめて来い」
「おれに言うかな?」
「口を割らせろ」
明石はわめいた。
「貴様も弁口を売物に世を渡っている男だろうが……」
「弁口だけじゃ、なかなか埒《らち》あかんぜ。この間などは白刃を振り回して、えらく疲れた」
「ともかく、それぐらいのことを聞き出せなくては、商売が成り立つまい。北見を説得出来んくらいなら看板をおろすべきだ」
「おやおや」
とんだとばっちりだ、と平四郎は思った。
「わかった。ともかくあたってみよう」
「あくまで教えぬというなら、われわれのつき合いもこれまでだと、強く出てみろ」
「よかろう。手をつくしてみる」
と平四郎は言った。
明石があまりにわめくので、平四郎にも北見がいまにも一人で死地に乗り込もうとしているように思えて来た。いずれにしろ、北見を見殺しには出来ない。平四郎は請け合った。
「よし、おれにまかせろ。何とか聞き出す」
「しっかりやれ」
明石はいばっている。
「その果し合いには……」
と平四郎は言った。
「北見の女房、子供がからんでいるような気がするな」
「おそらくそうだ。だが、それについてもやつは何も言わん。困った男だ」
「よし」
平四郎は腕組みをとくと、ぱんと手を打ちあわせた。
「おれはこれから、仕事で駿河町まで行かなきゃならんが、帰りに北見をのぞいてみよう」
二
「おはずかしいことですが、原因は伜の放蕩《ほうとう》です」
と山城屋善助は言った。山城屋は駿河町に店を張って、なかなかの繁昌ぶりをみせている真綿問屋である。
事実、店も平四郎の予想以上に大きく、通された奥の部屋は、客間らしい贅《ぜい》をつくした部屋だった。軒下にさげた簾《すだれ》を通して、日射しをいっぱいにうけた庭が見える。だが、平四郎とむかい合っている主人の善助は、大きな身体に似つかわしくない青ざめた顔をし、声も低かった。
山城屋善助は、外から脅迫をうけているのである。その脅迫は普通のものではなかった。伜の万之助を渡すか、山城屋の身代を渡すかどっちかに決めろという脅しだった。
「伜は放蕩者でしてな」
善助はにがにがしげに言った。
「遊ぶのを悪いとは言いません。あたしは大目に見て来ました。あたしだって若いころはずいぶんと遊びましたからな」
しかし善助は二十半ばできっぱりと遊びと縁を切り、身を固めて商いに精出したが、万之助は今年三十である。商いには見向きもせず、まだ遊び回っている。
しかし万之助の遊びには意地汚いところがあった。吉原のきれいな遊びにはじきに倦《あ》きて、しきりに岡場所に出入りするようになっていたが、改革で岡場所がさびれると、かえって意地になったように隠し売女などを置く家を漁《あさ》って回った。
そうしている間に、万之助はそういういかがわしい一軒の家を切り回している女主《おんなあるじ》と意気投合し、抜きさしならない仲になったのである。女の名はおくみ、齢は万之助より五つも上だった。
「それが大変な女でした」
善助は深深とため息をついた。
「脅しをかけて来た男の話によると、そのおくみは、堅気のご商売ではない、何とかいう親分の囲い者だそうです」
「ちょっと待った」
と平四郎は言った。
「脅しに来た男というのは、するとその女の旦那自身じゃなく、別人ですか」
「はい、代理で来たと言いました」
「子分かな」
平四郎は首をかしげた。
「さあ、どうでしょうか。なにせうす気味の悪い男でして、その男がならべていった脅しの文句を思い出すと、いまも身の毛がよだちます。お上になどとどけ出たら、一家みな殺しだと、そんなことまで申しますのです」
「ははあ、それで奉行所にとどけるのはあきらめたわけですな」
「とても、とても」
山城屋善助は首を振った。
「ただの脅しとは思えませんでした。それにその男は女の旦那のことは、香《や》具|師《し》を束ねているこわいおひととかと言っただけで、名前も住家も申しませんのですよ。とどけ出ようもありませんが、なにせ気味が悪くて、うっかりしたことをやれば、後で何されるかわからないという気がいたしました」
「なるほど。しかしそこはひととおり調べてみないと、鵜《う》のみには出来んところだな」
「神名さま」
山城屋は、途方に暮れたという眼で平四郎を見た。その顔には、よく見ると寝不足のいろがありありと出ている。
「何か方法はございましょうか。あたくしも商いの上ではかなりこわい思いをしたこともありますが、今度のようなことははじめてです。伜か身代かと言われては、何とも手の打ちようがありません。いくらバカ息子でも、身代が惜しいからと渡すわけにも参りませんし、さればといって……」
「まあまあ山城屋さん、そう思い詰めないことです。そんな無法な言い分が罷《まか》り通っていいものでもあるまいし、それに、どこかに道はありますよ」
「そうでしょうか」
「ところで、それがしのことはどこから聞き出したかな?」
「同業の長崎屋さんですよ。信用のおけるひとだから、一度相談なさるといいと言われましてな」
「ああ、そうですか」
平四郎はうなずいたが、内心くすぐったい気がした。
瀬戸物町の長崎屋には、煮豆屋の娘おとしのことで、半ば脅しをかける恰好で乗りこんだことがある。だが先方は、そのときの平四郎に悪い印象を持たず、窮地に立った山城屋に信用のおける仲裁屋を推薦したということらしい。
──もっとも……。
長崎屋の跡取り、新太郎も道楽者だった、と平四郎は思った。長崎屋の頑固者の主人嘉兵衛は、山城屋の話を聞いて身につまされ、世話を焼く気になったのかも知れなかった。
いずれにしろ、長崎屋やこの山城屋のような商人たちにまでとくい先がひろがることは、わるいことではない。平四郎は気をよくして言った。
「山城屋さん。この話は私にまかせて頂きましょう」
「よろしくお願いいたします」
「しかし、それがしもカラ手で話をつけるというわけにはいきませんな。最後は金の駆け引きということになりますぞ。そのへんは覚悟してもらわんと……」
「それはもう、お金で済むことなら何とでもいたしますです」
「どのくらい出せますかな?」
「身代を渡せと言われましたからには、あたくしも腹を決めております。千両はいたしかたありません」
「千両……」
平四郎はあわてて手を振った。
「そんな、あんた千両などということを口にしちゃいけませんなあ。生娘をだましたという話じゃない、相手はひとのお妾です。しかも年上だ」
「でも、相手が悪すぎます」
「それにしても、千両箱を持たせてやるにはおよびませんよ。ま、多く見積って三百両の話ですな」
「そんなことで済みましょうか」
「そのへんで押さえぬことには、仲裁したとは言えん」
平四郎は見得を切った。
「ところで、その脅しの男は、今度はいつ来ると言いましたかな?」
「しあさって、三日後です」
「これはいそがしくなった」
平四郎は腰を浮かした。
「それじゃ、若旦那にちょっと会って行きましょうか」
三
──どこの親も……。
ドラ息子で苦労してるようだな、と山城屋を出て北見十蔵の家にむかいながら、平四郎は思った。いま会って来た山城屋も、また平四郎を推薦したという長崎屋も、商人としてはなかなかの男たちらしい、と平四郎は鑑定しているのだが、その男たちも、遊び呆けている息子たちには手を焼いている様子なのが気の毒になって来る。
──どこの家にも……。
多かれ少なかれ家の中の煩いというものがあって、それは金があるから免れ得るという性質のものでもなかろう。それが人間のより集まりである世の中の自然というものだろうから、この世は、貧富を問わずなかなかに住みにくい仕かけになっているわけだ、と平四郎は柄にもない感慨に耽《ふけ》った。
ついでに、それだから世の中の油差しとも言うべき仲裁屋も、このとおり喰って行けるわけだと自画自讃した。
──しかし……。
はたして金で片づくかな、とちらと思った。山城屋には三百両でケリをつける、と見得を切ったが、相手が、脅し男の言うとおり香具師の親分だったりすれば、金では承知しないかも知れないという危惧《きぐ》もないわけではなかった。そういう連中は、本気で腕一本、脚一本を欲しがったりするのだ。
だが、山城屋が約束した報酬は十両だった。山城屋は、この仕事のむつかしさを知っていて、金に糸目をつけなかったのである。この十両は大きい、と平四郎は思っている。道場持ちの見通しは、これでぐっと明るくなったという気がした。
何とかうまく始末をつけたいものだ、と思いながら、平四郎は紺屋町の糸屋の裏木戸を押した。
北見十蔵が借りている隠居所の前に立つと、家の中でひとの声がした。やわらかい女の声だった。それに答えて、何とあの無口な北見が長長としゃべっている。つぎにまた女の声がし、澄んだ少年の声が聞こえた。
──ひさしぶりに、一家|団欒《だんらん》というところかね。
平四郎は邪魔するのが悪いような気がして来た。平四郎の想像を裏書きするように、今度は北見の妻が笑う声が聞こえた。弾むような、いきいきした笑い声だった。この前会ったときとは雲泥の相違である。この前は、同じ場所に立って、妻女のしのび泣く声を聞いたのだ。
平四郎は咳ばらいした。家の中の話し声が、ぴたりとやんだ。
「神名だ。お邪魔していいかな」
遠慮気味に平四郎が言うと、北見の声が、おう、上がれと言った。そして平四郎が土間に踏みこむ前に障子があいて、北見の妻女が顔を出した。
はたして前に見た面長の美人だった。妻女も平四郎の顔に見おぼえがあったとみえ、眼もとに親しみをみせて、狭いところですが、どうぞお上がりなされませ、と言った。
なに、家の中が狭いことは先刻承知である。刀をはずして平四郎は家の中に入った。
部屋の中に、利発そうな顔をした少年がいた。
「ご子息か?」
坐りながら、平四郎が北見に言うと、少年は謹直に姿勢をただして姓名を名乗った。塚原保之助だと言った。挨拶を済ませると、少年は次の間に立って行った。
少年が去ると、今度は新しいお茶をはこんで来た妻女が丁寧な挨拶をするので、平四郎はいつものようにあぐらをかくというわけにはいかなかった。北見の妻女は、この前見たときよりも若くなったような顔をしている。繰り返し、北見が日ごろ世話になっていると礼をのべるので、平四郎は赤面した。こっちの方がよほど世話になっているのである。
内密の話で来たと察したらしく、妻女は日が暮れないうちに、外に買物に出て来ると言った。北見に話しかける、国なまりのあるやわらかい言葉に、わずかに甘えがひそんでいるように平四郎には聞こえる。
当の北見十蔵は、いつもののっそりした男に返って、む、むと言っていたが、妻女が出て行くと、平四郎にまあ膝をくずせと言った。
「明石に聞いて来たか?」
「そうだ」
平四郎はお茶をすすった。
「いったい、どうなっておるのだ?」
「どうもこうもない」
北見は苦笑した。
「保之助を連れて、突然に家内がやって来てな。塚原の家は捨てて、ここに来て一緒に暮らすなどと気がふれたようなことを申す。それでこの有様だ」
北見は言いながら、まんざらでもないような顔をしたが、すぐにその顔をひきしめた。
「しかし、そんなわけにはいかん。保之助も家内も間もなく国に帰す」
「果し合いというやつは、その前にやるのかね」
北見はじろりと平四郎を見た。ついで天井を見上げ、うすらとぼけた顔をつくった。
「何のことかわからんぞ。そういうつまらんことを言い触らしたのは明石か」
「明石は本気で心配しておる」
と平四郎は言った。むろん、おれもだとつけ加えた。
「いや、貴公が手を出すなと言うなら、手は出さん。誓ってもいい。しかしかりにも、一緒に道場をやろうと言って来た仲の人間がだな、北見が果し合いをするそうだ、ほう、そうかいでは済まんじゃないか。われわれにも委細を知る権利がある」
「………」
「貴公は腕に自信があるつもりかも知れんが、果し合いとなれば勝敗は時の運だぞ。助太刀は遠慮しても、友だちとして骨は拾わなきゃならんということだってある。場所と日時を教えろ」
「貴公らにはかかわりないことだ。わし一人で始末せねばならんことでな」
「だから一人でやれ。手は出さんと言ってるじゃないか。それに、いま思い出したが、貴公の奥方をはじめて見かけたとき、貴公は別れて住む事情については、あとで話すと言ったはずだぞ。それを、いま聞こうじゃないか。それも言わんというのは、ちと水くさくないかね」
北見は平四郎の顔をじっと見た。その顔を、平四郎はにらみ返した。
「いま話せ。あとじゃおそい」
「保之助」
不意に北見が子供を呼んだ。すぐに返事がして、さっきの少年が出て来た。
「このひとと話す間、庭を歩いて来なさい」
少年は、はいと言った。一礼して外に出て行った。
「話せば長いことだが、いまから三年前に、わしは勤めの上で失態があって、藩から放逐された。表向きはそうなっておるが、事実は異なる」
と北見十蔵は言った。
三年前、北見は塚原十蔵と名乗って、勘定奉行の下で働いていた。そのころ仙台藩の財政は疲弊の極に達していた。寛政年間から文化の半ばごろまでは、江戸の米の値段が高かったので、藩農政の特色である農民の余剰米を買い上げ、江戸に回送して売却する買米制度が功を奏して、藩財政は比較的|潤沢《じゆんたく》だった。なにしろ藩は、この買米で寛政三、四年には五十万両という巨利を得たのである。
しかし財政にゆとりがあったのは文化初年代までで、文化も半ばを過ぎるころから、藩財政は、まさに急坂をころげ落ちるように悪化する。
江戸の米価が下落して、買米制度の利が失われたことが第一の打撃だった。蝦夷地《えぞち》警備の諸掛りという新しい費《つい》えが財政の弱りに拍車をかける。つづいて二度にわたる関東の河川工事に、幕命によって計二十万両の上納金を余儀なくされたのが、藩財政を決定的に悪化させた。追い討ちをかけるように天保連年の飢饉が襲って来た。
その結果、藩は一転して七十万両の借財を抱えることになり、表高六十二万石、実質百万石と言われた藩が、費えを切りつめるために内実十万石の格式で、諸事節約を心がけねばならないほどだった。むろん借金の返済も滞《とどこお》るようになる。
そういう状況を見て、長年仙台藩の蔵元として、財政を一手に切り盛りして来た大坂の豪商升屋が、徐徐に手を引く気配をみせて来た。共倒れを警戒して、藩を見限りにかかったのである。藩では新たな財政の切り盛り役をさがさねばならなかった。藩で奈良屋、日野屋など、城下の豪商に呼びかけて、藩財政の建て直しに協力をもとめていた。
日野屋から藩が借入れた二千両のうち、百両の金が紛失するという事件は、ちょうどそういう時期に起きたのである。
四
日野屋から金を受け取り、城内の金蔵まではこんだのは北見、当時の塚原十蔵と直接の上役野瀬金十郎だった。二人は勘定方の小者四人を使って借入金を城内にはこび込み、金蔵に納めた。勘定奉行が立ち会った。
ところが、数日してその金を取り出そうとしたところ、中から封印された切餅四つ、計百両の金が紛失しているのが発見されたのである。その事件は外部には秘匿《ひとく》された。責任者の一人野瀬が、出入司を勤めた家の跡取りだったからである。
出入司は藩の財政、民政の両方を支配する重い役職で、野瀬の家は七百石の上士だった。野瀬の父親は病身で、役職につくことがなく早く隠居したが、野瀬はいずれは藩財政を司《つかさど》る出入司を勤める人間とみられている。勘定奉行の支配下にいたのは、見習いの意味があったのである。秘密にされたのは、そういう野瀬の立場を考慮したからにほかならない。
だが、秘匿されはしたものの、内部の調べは峻烈《しゆんれつ》だった。藩では百両の金もさることながら、藩財政が窮地に立っているときに、公金を私した者がいることを重く視たのである。そして調べは、当然のことながら北見に対して苛酷だった。外部から来た者の仕業でないことは立証されていたので、北見の家は家探しまで受けた。
むろんあらぬ疑いである。北見は評定役《ひようじようやく》支配の役人の取調べに、頑強に抵抗した。百両の金を懐にすべりこませる機会があったのは、野瀬金十郎一人だということはわかっていたが、そのことも口にしなかった。
そうしている間に、封印したままの百両の金が、ひょっこり出て来たのである。そのへんで藩も、事件のあらましを察知したようだった。藩は調べを打ち切った。ただし事件の一切を北見の責任と断じて、六十日の閉門を命じた。
藩の処分はそれで終ったが、塚原家の親族の者たちはそれでおさまらなかった。事件の内情を藩も言わず、北見自身も一言も洩らさないために、彼らの不安は激烈だった。累が自分たちにおよぶのを恐れたのである。
彼らはたびたび親族会議をひらいた。そして閉門が解けた北見を会議の席に呼び出すと、塚原家からの離籍を迫った。北見の妻女高江の泣訴も受けつけなかった。北見は承諾した。隠居願いを提出して家督を保之助に譲ると、つぎには塚原の家から離籍したのである。
城下をはなれて、明日は江戸にむかうという日の夜、北見は単身で野瀬金十郎の屋敷をたずねた。
「あの金は、尊公が懐に入れたのだとわかっておる。あくまで知らぬふりで押し通すおつもりか」
二人きりになった部屋で北見が言い出すと野瀬の顔色が変った。すぐに白状した。野瀬はそのころ遊びが過ぎて、内緒の借金に苦しんでいた。日野屋からはこんできた金をみている内に、悪心を起こして百両の金を懐にねじこんだのだが、使う度胸はなくて、数日考えあぐねた末に、機を見て金蔵にもどしたのである。
野瀬は詫びた。北見には申しわけないことをした、と言った。だがそう言いながら、ほかには洩らさないでくれと泣き言も言った。北見の家には十分援助するし、機をみて上の者にねがって、北見が家中に復帰出来るように骨折るつもりだ、とも言った。ただし、司直に自分の罪を名乗り出るとは言わなかった。
野瀬は餞別《せんべつ》を出したが、北見はその金を叩き返した。家には援助はいらぬし、帰藩のための骨折りなど無用のことだとはっきり言ってその屋敷を出た。十分に胸が晴れたわけではなかったが、野瀬が犯行を認めたことに、わずかに満足していた。
しかし野瀬金十郎は、北見が考えていたよりも悪辣な男だったのである。北見が城下を去って半年も経ったころから、野瀬は見舞いと称して、時おり金品を持って塚原家をたずねるようになった。高江は北見から言い含められていたので、そのつどきびしくことわった。むろん家の中にも上げなかった。
だが野瀬は執拗な男だった。手きびしくことわられても、三月も経つとまたひょっこりと顔を出した。夫のいない家には迷惑な客だった。野瀬の顔を見ると、高江は怒りと近所に対する気遣いで汗ばむ思いをした。事実塚原の家の周辺では、たびたびの野瀬のおとずれを好奇の眼で眺めていたのである。
一年ほど前に、野瀬の意図がどのあたりにあるのかがはっきりした。ある夜、酒気を帯びてたずねて来た野瀬は、高江に言い寄って来たのである。しかも、公金紛失の吟味が途中で打ち切られ、塚原の家がつつがなく残ったのは自分のおかげだと脅した。北見は一生城下の土を踏むことは出来ぬとも言った。野瀬を追い返すために、高江は懐剣を持ち出さねばならなかった。
「どうもあきれた男だな」
と平四郎は言った。
「武士の風上にもおけんやつだ。それにしても、貴公の人のいいのにも感心した」
「………」
「吟味にかけられたとき、なぜその男のことをバラさなかったのだ。上士だから遠慮したのかね」
「十分に疑わしかったが、証拠のない話だ」
むっつりした顔で、北見が言った。
「確かな証拠もないのに名を持ち出せば、上士を誹謗することになる。かえって取調べの心証を悪くすることも考えられた」
「やれやれ」
平四郎は両手をさし上げて、背のびした。
「何事も家のためか。婿は辛いな」
「………」
「なるほど、しかしそれで事情はわかった。かみさんも子供も、それでいたたまれなくなって、逃げて来たというわけか」
「まあ、そうだ」
「その気持はわかるなあ。すると、果し合いの相手はその金十郎という男だな」
「………」
「いつ、やるんだ。仙台にもどってやり合うのかね」
平四郎が聞いたとき、ただいまもどりましたと言って、北見の妻女がもどって来た。平四郎はあわてて坐り直した。
妻女が行燈に灯をいれたので、平四郎ははじめて部屋の中がうす暗くなっているのに気づいた。北見の話が長かったのだ。妻女は新しくお茶をいれ、買って来た餅菓子をすすめると、ひっそりと夫のうしろに坐った。
「じつは、金十郎が近く出府して来るかも知れないのだ」
と北見が言った。
「勤めで失策があったとかの噂があるらしい。それにさっきの一件を、高江が塚原の家を後見しておる老人に訴えたから、それも理由のひとつかも知れんが、ともかく金十郎は江戸詰に決まった」
「ふむ、けりをつけるにはいい機会だな」
平四郎が言うと、北見は果し合いが許されるかどうかはわからんと言った。
「国元の道場で同門だった男に、大番頭《おおばんがしら》がいる。冤罪《えんざい》だから助けてくれとは、あのときは言えんかったが、果し合いなら骨折ってくれるかも知れぬと思ってな。事情を残らず話して、許可をもとめてやった。いま、その返事を待っているところだ」
「おやめなされ、と言ったのですよ」
妻女が口をはさんだ。
「塚原の家のことはあきらめました。ここで親子三人で暮らすほうが、なんぼういいかわからないと申したのですが、北見は聞きませぬ」
「あたりまえだ。そんな勝手を親族も藩も許すわけはない」
北見がたしなめると、妻女はうつむいた。色白の顔に、愁いのいろが濃くなった。
「しかし、何だろう?」
平四郎は景気をつけるように、威勢よく言った。
「その金十郎とかいう男は、果し合いとなったらひと討ちの相手だろうが……」
「そうはいかん」
北見が苦笑した。
「金十郎は三徳流の遣い手でな。城下でもちょっと知られた男なのだ」
「そうか。品性|陋劣《ろうれつ》な男に、案外そういうのがいるものだが、嘆かわしいことさ」
平四郎は言ったが、胸に新しい緊張が芽ばえたのを感じた。
五
御小人《おこびと》目付樫村喜左衛門の手下仙吉を外に待たせておいて、平四郎は目ざす家の戸をあけた。
場所は本所|常盤《ときわ》町。このあたりは虎屋、戸田屋、豊本などの遊女屋を取り巻いて、小料理屋や飲み屋が並び、ちょっとした盛り場だったのだが、いまはすっかりさびれて、町は灯のいろもか細く、通る人も稀だった。
元は小料理屋とわかるその家も、軒下からわずかに灯が洩れているだけで、あたりの闇の方が濃かった。土間に入ったが、そこも暗いままで、灯は奥の方から射して来る。
訪《おとな》いをいれると、手燭《てしよく》を持った四十恰好の太った女が出て来たが、平四郎の顔を見ると、そっけない声で言った。
「いま、商売休んでるんだけどね」
「いや、遊びに来たわけじゃない。おかみに会いたい。駿河町の山城屋の使いだと言ってくれればわかるはずだ」
女は手燭を突きつけるようにして、しばらく平四郎の顔を見ていたが、無言で背をむけた。大きな臀《しり》だった。
女がつきあたりの部屋に消えたまま、しばらく時が経ったが、不意に障子があいて、黒い人影が廊下に出て来た。
「どうぞォ、お上がりなさいまし」
人影はそこから声をかけて来た。女の声だった。若い女のように、きれいで張りのある声である。これが話のおかみかな、と訝《いぶか》りながら平四郎は刀をはずして上にあがった。
通された場所は茶の間だった。女の住居らしくこまごました飾りのある部屋で、柱には短冊がさがっているし、茶箪笥《ちやだんす》の上には、三つも四つも人形が置いてある。長押《なげし》には大きな熊手がかけてあった。
「山城屋さんのお使いというから、お店のひとかと思ったらお武家さんじゃないの」
と女は言った。万之助より五つも年上というから、小皺の多い中婆さんかと思ったら、まるで見当が違った。どう見ても三十前にしか見えない女だった。しかもとび切りの美人である。
眼は黒黒として、紅を濃くひいた幾分とがり気味の唇に、なかなかの色気があった。肌は若い娘のようにやわらかく光っている。
「外は肌寒かったでしょ? いま、お茶をいれますからね」
女は平四郎を見てにっと笑うと、茶道具を引き寄せた。さっそくだが、と平四郎は言った。外に仙吉を待たせてある。美人だからといって、そういつまで女を鑑賞しているわけにはいかない。
「山城屋がいま脅しをかけられていることは、あんたも知ってることでしょうな?」
「あら、まあ」
女はお茶をいれていた手をとめて、眼をみはった。美人であるだけでなく、おとぼけもなかなかの女のようである。
「あたしゃ知りませんよ。何のことですか、誰に脅されてんですか?」
「ご存じない? そりゃ不思議だ。脅しをかけているのは、あんたの旦那だよ。つまり、あんたと山城屋の伜が、仲が好すぎるのが気にいらんと言うことらしいな」
「おや、旦那にバレたのかしら」
女はけろりとして言った。
「それだからといって、ひとを脅すなんて野暮な旦那。でもあのひとが嫉くのも無理ないわ。若旦那とはすっかり気が合っちゃってねえ。そうなの? 若旦那、それでここ四、五日みえないんですか」
「お茶をもらおうか」
と平四郎は言い、女がさし出した茶をぐっと飲んだ。うまい茶だった。
「さてと、おかみ。おとぼけはこのへんで終りにしようや。もうちょっと、ざっくばらんに行こうじゃないか」
「………」
女は上眼づかいに平四郎を見ながら、黙ってお茶をすすっている。
「旦那が山城屋に脅しをかけていることを、あんたが知らんはずはない。先刻承知のことさ。ひょっとしたら、はじめからそのつもりであのバカ息子をくわえこんだのかも知れんが、じつは今夜は、そのことで文句を言いに来たわけじゃない。旦那に伝えてもらいたいことがある」
「何だか、すっかりお見通しのようだね」
女は茶碗を猫板にもどして、くすくす笑った。顔を上げて言った。
「伝えるって、何のことさ」
「山城屋は、脅しを受けて立つと言ってるよ」
「受けて立つ?」
女は笑いを消した。胸をおこして平四郎を見た。
「どう受けると言うんだね?」
「お上に訴えて出るということだよ。あんたの旦那もまずいんだなあ。金をよこせというなら話はわかるが、息子をよこせの、身代そっくり頂きだのと言われちゃ、山城屋も逃げ場がないわけだ。だから訴えると言っておる」
「度胸あるじゃないの。へーえ」
「訴えて出ると、まずさしあたり、明日にでも奉行所の連中がここへ来てだ。お前さんをひっくくって行く。ひっくくったお前さんを叩けば、旦那の正体もバレて来るというわけでな。山城屋はそれで行くと、腹を決めたらしいよ。窮鼠《きゆうそ》猫を噛むというやつだな」
「面白いじゃないか」
女は嘲《あざけ》るように口を曲げた。悪い女だった。人相が急に険しくなり、声音までさっきとは少し変って来ている。
「やれるものならやってみな。そんな真似をしたら、山城屋は一家みな殺しだよ。あたしゃいい加減のことを言ってんじゃないよ。あんた、何でもわかっているような口をきくけど、ウチの旦那のこわさを知らないね」
「一家みな殺しというせりふが好きなようだな。脅しに来た男もそう言ったらしいよ。おお、こわい。こいつは顫えが来た」
平四郎は腰を上げた。
「とにかくそういうことでな。考え直すならいまのうちだと、旦那に伝えてもらえんか。おじゃまさん」
廊下にすべり出た平四郎のうしろで、女が鋭く罵った声が聞こえた。
外へ出ると、平四郎は天水桶の陰にうずくまっている仙吉のそばに行った。同じようにしゃがんだ。
さっきの女が出てきたのは、それから四半刻(三十分)ほど経ってからだった。提灯を持ったお供がついている。お供は屈強な体つきの男だった。
「よし、つけてくれ」
平四郎が言うと、足音もなく仙吉がそばをはなれて行った。
六
「女の旦那は灰屋門左衛門。間違いなく香具師の親方だそうです」
平四郎が言うと、山城屋の顔が急に血の気を失って白くなった。相手が必ずしも金でけりがつかない人間であることを理解し、そういう人間にかかわりあった身の不運に青ざめたように見えた。
「なに、大丈夫。金で片づきます。ただし三百両と申し上げたが、こりゃ五百両は取られるかも知れませんなあ」
「神名さま」
山城屋は顫える声で言った。
「お金に糸目はつけません。場合によっては千両でも二千両でも出します。何とかお頼み申しますよ」
「心得た。ところで……」
平四郎は、眼で外の明るみをさぐった。
「もう、そろそろかな?」
「はい、七ツ(午後四時)ごろと言ってましたから、もう間もなくでございましょう」
「来たら、おれには構わんで、そいつの相手をしてもらおうか。こっちは途中から出て行くことにする」
「わかりました」
と山城屋は言った。では、それまで店の方をしていますので、と言って山城屋は部屋を出て行った。
──なるほど、店ねえ。
脅しの前に血の気を失っているのに、山城屋善助はさすが商人と言うべきか、それとも商いに精出している方がまだしも気がまぎれるということか、と平四郎は考えた。
しかしまた山城屋は、平四郎が何とかなるようなことを言ったので、それで正気を保っているのかも知れなかった。そう考えると、今度の仲裁は責任重大である。
来るやつは、どんな男だろうかと思った。その男は山城屋の返事を聞きに来るのである。ゆうべ、おくみという女に、それとなく金で片をつけようじゃないかと吹きこんだことは、親分にとどき、今日来る男にもとどいているだろうか。
──話のわかる男だといいが……。
と平四郎は思った。
眠くなったので、平四郎は尻をすべらせて壁によりかかると眼をつむった。昨夜、仙吉を待って遅くまで起きていたのがたたったようである。だが仙吉は昨夜は現われず、今日も昼過ぎになってやって来た。
仙吉は昨夜おくみの行先をつきとめたが、旦那の素姓まではつきとめられなかった。それで今日も朝から出かけ、昼近くなってやっと男が灰屋門左衛門であることを確かめたのである。仙吉の調べは信用出来る、と思いながら、平四郎はうとうとと眠りに誘われた。
いつの間にか眠ったらしい。肩を叩かれて目覚めると日が落ちていた。眼の前に番頭の顔があった。
「来てるのか?」
平四郎が言うと、番頭はがくがくとうなずいた。眼がつり上がったような顔をしている。平四郎は立ち上がった。手に刀を握る。
「茶の間だな?」
「はい、そうです」
番頭は、やっと声が出たようだった。平四郎は無造作に歩いて行ったが、茶の間の手前で足をとめた。
男の声が聞こえた。非常に陰気な声である。山城屋ではなかった。しゃべっているのは脅しの男らしい。声の合間に、年寄りくさいぜいぜいという喘《あえ》ぎ声がまじる。
──はてな?
平四郎は首をかしげた。息苦しそうな、低い声に聞きおぼえがある。
──なんと、桝六だ。
平四郎はうなずいた。桝六は臼杵屋という糸問屋に脅しをかけて来て、平四郎とわたり合ったことがある脅しの請負人である。年季の入ったその脅しには、誰だって顫え上がる。脅しで口銭を取るところは、平四郎の商売に似ていなくもないが、桝六はつねに得体の知れない闇を背負って来る、悪の代理人なのだ。
──おれをおぼえているかな。
と思いながら、平四郎は茶の間に入った。桝六は平四郎を見たが、顔いろを動かさなかった。眠そうな眼で、平四郎を見、山城屋を見た。
「これはこれは、おどろいたな」
平四郎は桝六の前に坐った。
「どうも山城屋さんのこわがりようが、ただ事じゃないと思ったら、お前さんか」
「………」
「相変らず元気そうで何よりだ。脅しが面白くて年取るひまもないわけだ」
「棺桶に片足突っこんだ年寄りを、からかうもんじゃありません」
桝六は無表情に言った。
「こちらのまわりに、お若い武家の姿がちらついていると聞きましたが、やっぱりあんたさんでしたか」
「で、話はどうなりました?」
平四郎は桝六には構わずに、山城屋を振りむいた。山城屋は首を振った。山城屋はげっそりとやつれた顔をし、さっきより身体までひと回り縮んだように見えた。
「お話になりません。伜を渡すか、身代残らず渡すか、二つにひとつだと申しますのです。金のことを言いますと、雷のような声をお出しになります」
「それがこのじいさまの、得意手のひとつなのさ」
と平四郎は言った。
「しばらく、このじいさまと二人きりにしてもらえませんかな」
「どうぞ、どうぞ」
山城屋は露骨にほっとした顔になり、いそいで部屋を出て行った。平四郎はあぐらになった。
「こんどは、いやにあこぎなことを言うじゃないか」
「べつに」
「べつにという言い方はあるまい。伜だの身代だのと言われちゃ、山城屋だって挨拶に困るというものだ。出来ない相談を持ちこんじゃいかんな」
「あたしは、頼まれたひとの言い分をお伝えしているだけですよ」
「じゃ、頼んだひとに言ってもらおうか。生娘をさらってどうこうしたというわけじゃなし、あんな中婆さんのことで、少し大騒ぎし過ぎるんじゃねえかとな。それに、ほんとのところはあのおくみの方が、ここの若旦那をひっかけたんじゃないのかね。そうなるとつつもたせだな」
「そう考えるのは、こちらさんのご勝手でしょう」
「よし、それはひとまずおくとして、あまり追いつめると山城屋は奉行所に駆けこむぞ」
「あのお方に、そんな度胸がありますかな」
「なあに、度胸なんかいらんさ。おくみとおくみの旦那、灰屋門左衛門と正体はわかってるぜ、その二人を奉行所にしょっぴいてもらって、それで幕だな、この事件は。たちの悪い脅しだからな。あんたも気をつけた方がいい」
「そのかわり、ここのご一家はみな殺しになりますよ」
「そんなことはさせんさ。臼杵屋のときのことを思い出してもらいたいものだ。あのときはだいぶ怪我人が出たはずだぜ」
「だいぶお調べのようだが……」
桝六は奇妙な笑いをうかべた。
「お上に訴えて出ても、おくみも灰屋の旦那もつかまりませんよ。二人とも昨夜の家にはもうおりません。だから訴えて出たら、まず身の危険を覚悟なさることです。みな殺しだからと言って、必ずこの家に乗りこんで来るとは限りませんよ。殺しはどこでも出来ます」
「大した脅しだ」
と平四郎は言った。
「じゃ、おれがさがすさ。まず二人の身柄を押さえて、山城屋に身の回りの用心を十分にさせてから奉行所に突き出す」
「それはおやめになった方がいい。あんたさんの身があぶない」
と桝六は言った。
「いまだって、お気づきじゃなかろうが、あんたさん見張られていますよ」
「それも脅しかね?」
「いいえ、お若い方は裏の世界をご存じないから、ちょっぴり忠告してあげただけですよ」
「そうか、おれも狙われているか」
平四郎はにやにや笑った。
「だが、こっちこそそいつはやめた方がいいと忠告したいな。じいさん、おれの素姓を知ってるのかね」
「………」
「兄貴がお城で目付をしている」
おれがやられたところで、兄は犯人をさがしてなどくれないだろうな、と思いながら、平四郎はその兄をダシに使った。
「おれを刺してみろ、一網打尽だぞ。門左衛門もお前さんもだ。隠れたってだめだ。目付の配下の探索は、雪駄をちゃらちゃらさせて、お天道さまの下ばかり歩いているお役人の調べとは違う。昼も夜も、草の根をわけてさがすぞ」
「大変な脅しでございますな」
桝六がつぶやいた。
「そういうことさ。おたがいに手の内を見せたわけだ」
平四郎は桝六の前に顔を突き出した。桝六も避けなかった。二人は鼻をつき合わせて睨み合った。桝六の額に汗がにじんでいる。
「金で片をつけようという伝言はとどいているはずだ」
平四郎は低い声で言った。
「いくらの腹づもりで来たんだ?」
「千両さ」
打てばひびくように桝六が答えた。平四郎は首を振った。
「おくみは千両という玉じゃない。三百両だな、せいぜい」
「それじゃおれの顔が立たねえ」
と桝六が言った。平四郎は、桝六がはじめて弱音を吐いたように感じた。桝六も老いたのかもしれない。
「いくらなら、顔が立つんだ?」
「七百両」
平四郎は首を振った。桝六の顔がゆがんだ。
「じゃ、五百両だ」
平四郎が、真綿問屋山城屋に降りかかった災難を、五百両で片づけてから半月ほど経ったころ、青山梅窓院裏の空地に、十人ほどの人影が集まった。
夜は明けたばかりで、昨夜の雨に濡れた草や樹が吐き出す霧が、ゆるやかに空地の上を移動していた。動きながら、霧は濃くなったり薄くなったりしている。日はまだのぼる気配がなく、霧を吐き出す樹の間から、無数の鳥の声が聞こえた。
刀を構えてむかい合っているのは、北見十蔵と野瀬金十郎である。二人は長い間対峙したままだった。二人がわずかに動くたびに、構えた刀身が鋭く光った。
北見が、少しずつ間を詰めて行き、野瀬はあとにさがっていた。北見よりわずかに年上に見える野瀬の眼が吊り上がっている。張り裂けるばかりにみはった眼で、野瀬は北見を凝視していた。野瀬の顔に、追いつめられた者の恐怖が出ている。
だが、斬り込んだのは野瀬金十郎の方だった。地を蹴って、野瀬は襲いかかった。野瀬の発した気合が寺院裏の森にひびいて、わんと反響した。
だが野瀬の剣を、北見は捲き上げて、宙天高くとばした。
「斬らんでくれ。おれを助けろ」
野瀬は草の上に跪《ひざまず》いた。額に突きつけた北見の剣先を、おがむように手を合わせた。
「おれは負けた。あやまる、このとおりあやまる」
野瀬はわめきつづけた。北見がすっと剣をひき、鞘《さや》におさめた。野瀬を見つめたまま、一、二歩しりぞいて背をむける。その背に、小刀を引き抜いた野瀬が躍りかかった。
「北見!」
平四郎が叫んだのと、北見がとう、とはげしい気合を発したのが、ほとんど同時だった。抜き打ちに、北見は野瀬の胴を斬りはらっていた。
それまで空地の隅に凝然と立っていた、仙台藩屋敷の検分の武士が、ゆっくりと歩み寄って来た。人数は三人である。
跪いていた膝を起こすと、北見はそちらに一礼してもどって来た。保之助が父を迎えに走って行った。
「北見の雲弘流は大したものだ」
と言って、明石半太夫がひげをしごいた。
「しかし、これで北見は帰藩が叶わなくなりましたな」
平四郎は、手を握りしめて夫を見つめている北見の妻女に言った。
「これから、どうなされます?」
「十年……」
と妻女はつぶやいた。眼はまたたきもせず夫を見ている。
「あと十年経てば、保之助は元服を終って嫁をもらいます。そうしたら、私はおひまをもらって北見のそばに参ります」
妻女は平四郎を見て笑おうとした。だが、その眼に不意におびただしい涙が溢れた。
北見が気合を発したとき、一度黙りこんだ鳥が、またにぎやかにさえずりはじめた。東の空に赤いいろがさして来たが、霧はまだ動いていた。
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浮草の女
一
「三十両。場合によっては、いま少し出してもいい」
と北見十蔵が言った。明石半太夫が眼をまるくした。
「ほほう、三十両……」
「よせ、よせ。そんなに出すことはない」
神名平四郎は、明石の顔に険しい眼をとばした。
「そう手の内を見せてしまうと、また明石につけ込まれるぞ」
「それはどういう意味だ?」
明石がむっとしたように平四郎を見たが、平四郎はにらみ返した。
「自分の胸に聞いてみろ」
「………」
明石は眼をそらした。バツ悪そうに天井を見上げて口をつぐんだ。
「まあ、そのことはいいではないか」
北見が割って入った。
「せっかく新規に道場を持とうということで、こうして集まったのだからな」
「そういうこと」
と明石は言った。しゃあしゃあとした口ぶりにもどってつづけた。
「神名のように、古いことばかり申しては、話がすすまん」
「しかし、この際だからむかしのことは帳消しというのは承服出来ん。明石は、何らかの形で誠意を見せるべきだ。北見の金をあてにする根性じゃ、先が思いやられる」
「わかっておる。そうがみがみ言うな」
明石は手を振った。
「むろん、応分の金はわしも出す。その上だ。わしは今度は、率先して貴公らの使い走りをやるつもりだぞ」
「使い走り?」
「そうよ。まず、しかるべき空き道場をさがさにゃならん。道場がなければ、相当の貸し家を見つけて道場らしく手入れせねばならんだろうが、これには家主の同意がいる。この手の交渉事は、かなり手間取ると覚悟した方がいい。さて、それが決まったら、今度は武具屋との取引きがある」
「………」
「神名は仕事があろうし、北見も子供らを放りっぱなしで道場をさがして歩くというわけにはいかんだろう。よろしい、わしが引きうける。大よその下準備はわしにまかしてもらおう」
「それはけっこうだが……」
平四郎はうさんくさそうに、明石を見た。
「その下準備のところで、前金などということはやめた方がいいぞ。どうしてもというときは、わしか北見が同行する」
「これだ」
明石がわめいた。
「誠意を見せろとか申して、これだ。そこまで疑うなら、わしは何もやらん。わしの手持ちは十五両。それだけ出して、あとは何にもやらんぞ」
「しかし、神名が申したことは正論だ」
めずらしく、北見がぴしゃりと言った。
「既往は問わぬとして、今回は貴公に金のことはまかせられん」
「………」
「一任するより手間取ることはわかるが、金の出入りについては、残らず相談してもらおう。それが不満だというなら、何もやらんでいい。なに、いそぐことはない。ぽつりぽつり道場をさがすことからはじめればいいのだ」
「わかった」
案外素直に明石が言った。
「金のことでは、わしはよくよく信用を失ったらしいが、それはもっともだ。一度貴公らに手痛い迷惑をかけておるからの」
「わかっておればいい」
平四郎はずけずけと言った。
「貴公に問題ありとすれば、そのあたりの自覚に欠けるところだ」
「よろしい。何も言うな」
明石はわめいた。
「つまりは、何事によらず貴公らに相談してすすめるということばい。よか。それで行こうじゃないか」
「………」
「話は決まった。よし、明日からさっそく空き道場をさがして回るか」
「明日から?」
平四郎は、また疑わしい顔で明石を見た。
「それはけっこうだが、貴公の勤めの方はかまわんのか?」
「………」
「そう言えば、明石はいやに道場の話をいそぐようでもある」
北見にまで見つめられて、明石はうつむくと首筋をなでた。だが顔を上げたときは深刻な表情になっていた。
「わかるか? いや、親友の眼は欺けんの」
「……?」
「白状すると、一昨日をもって道場の方はクビになった。つまり、わしゃ生計《たつき》の道を失ったのよ」
「ははあ」
平四郎と北見は顔を見合わせた。今日の昼すぎ、明石は突然に平四郎の家をおとずれ、道場の話はどうなった? これから北見の家でひと相談せぬかと、いやにせっつく様子だったが、裏にはこの事情が介在したわけである。つまり、突然に居心地のいい職場を失って、いても立ってもいられなくなったのだ。
道理で平四郎が連発する厭味にへこたれもせず、道場さがしに献身する姿勢をみせたわけだと、平四郎と北見がうなずき合っているのにも気づかず、明石はひとりで慨嘆している。
「やはり、出入りの商人から袖の下を取ったのがまずかった。なに、袖の下と申してもごくちびっとしたものだが、そもそもの日ごろの仕事ぶりにおいてだ、わしゃ精励しとるとは言えなか。気が乗らんのじゃよ。このたびはそれがたたったな」
「………」
「ま、それはそれとして、わしは来年は四十二。厄年じゃ。このあたりで一番|褌《ふんどし》をしめ直してかからにゃ行先が暗い。いつまでも雇われの道場手伝いではまずか」
「こりゃ、少し話をいそいだ方がいいかも知れんのう」
北見が重重しくつぶやく。その言わんとするところを察して、平四郎も騒騒しく言った。
「早い方がいい。持っている十五両とかを喰いつぶされてはコトだぞ」
「十五両?」
明石が聞きとがめて二人を見た。
「十五両は出すと言った言葉に二言はない。親子四人、歯を喰いしばってもその金には手をつけぬから安心しろ」
「まあ、そう悲愴がるな」
平四郎は北見を見た。
「それじゃ、明石には早速に今日からでも動いてもらうことにしてだ。ここらで景気づけに一杯やるというのはどうかな?」
「うむ、よかろう。しかし、この家に酒は置いてないぞ。わしは飲まんからのう」
「ひとっ走り、おれが買って来る。と言ってもこっちは持ち合わせがないが」
「わしも持っておらんなあ」
遅れじと、明石が言った。平四郎が手を出すと、北見がむっつりした顔で懐から財布を出し、平四郎に渡した。
二
木戸の前で、平四郎はお六とすれ違った。
「よう、お出かけか?」
お六は裏店《うらだな》で一番のおしゃべり女で、ふだんは敬遠気味に扱っているのだが、少し酒が入っている平四郎は、気軽に声をかけた。
「あら、旦那。お客さんですよ」
とお六が言った。平四郎の商売も、近ごろはすっかり裏店に公認された形で、たずねて来る人間を不審な眼で見る者はいなくなった。
「ほう? 客……」
平四郎はあわてた。
「待ってるのか?」
「かれこれ半刻(一時間)ほどになるんじゃないの」
「それはいかん」
と言ったとき、お六がすっと平四郎に身体を寄せて来た。
「きれいな娘さんですよ」
「………」
「ちょっと齢を喰ってるけど、いいとこの娘さんだと、あたしゃにらんだね。何だろ? 頼み事って。好いたひとがいるけど、親がやかましくて一緒になれないとか、そんなんじゃないかしらねえ?」
「さあて、そいつは聞いてみなきゃわからんな」
「あたしの勘はきっとあたってるよ」
お六は丸顔の、さほど高くもない鼻をうごめかすような表情をした。おそらく裏店の女たちは、平四郎の家に客が来るといつもそんな品定めをしているに違いない。
「だって、その娘さんたら、ひどく思いつめた顔してたもの」
「あんたの勘があたってたら、あとで教えよう」
平四郎が言うと、お六はようやく満足したらしくはなれて行った。
木戸を入ると、平四郎は井戸に寄って水を汲み上げ、口をすすぎ顔を洗った。かりにも商売の客を迎えるのである。酒の気が目立ってはまずい。さっぱりして家にむかうと、軒下にしゃがんでいた人影が、つと立ち上がった。二十前後と思われる女だった。
「やあ、お待たせした。いまそこで……」
平四郎は木戸の方を指さした。
「裏店の者に出会って、お客さんが来ていると聞いた。留守にして済まなかった」
「いいえ」
女は小さく首を振った。ちらと歯を見せて笑ったが、そのかすかな笑いが、かえって顔にうかんでいる屈託ありげな気配を目立たせてしまった。女はすぐに笑いを消した。
──なるほど。
平四郎はお六の眼力におどろいた。女は齢は喰っているが、娘だった。ちらとのぞいた歯が白かったし、その眼で見ると身体つきにある硬さがある。
瓜実《うりざね》顔のおとなしそうな顔をした女だった。背丈もあり、すらりとした身体つきをしていて、顔を覆う暗い表情がなければ、かなりの美人にみえるだろう。はて? この暗さは何だろうと思ったが、それは話を聞いてみないことにはわからないことだった。
「立ち話もなるまい。さ、遠慮なく入っていただこうか」
と言ってから、平四郎は茶の間に夜具を敷いたままだったのを思い出した。娘を押しとどめた。
「暫時待たれよ」
大いそぎで家の中にとび込むと、夜具やがらくたを隣の三畳にほうり込む。窓をいっぱいにあけ、団扇《うちわ》を手にして窓の外にぱたぱたと埃を追い出す。そうしてから娘を呼び入れた。
「なみと申します」
平四郎とむかい合うと、娘は自分から名乗った。しっかりした口を利く娘だった。
「家は筑波屋と言いまして、雉子《きじ》町で雪駄を商っております」
「ああ、雪駄屋さん」
平四郎は、なんとなく店先で客に応対している、しっかり者の娘を連想した。
「それで? 頼み事というのは?」
「おとっつぁんのことなんです」
と言って、娘は下唇を噛んだ。
「おとっつぁんがどうかしましたかな?」
「こんなことをお願いしていいものかどうかと、ずいぶん迷いましたが……」
「何でもおっしゃって頂こう。どこかで噂を聞いて来られたと思うが、商いの心配から、家の中の心配、男女の揉めごと、何でも引きうけて、しかるべく片をつけるのがこの商売でござってな。察するに、あんたの相談事は、その中のどれからしい」
「いまおっしゃったこと全部です」
と娘は言った。
「全部? これはおどろいた」
「そもそもはおとっつぁんのことなんです。外に女が出来たらしいんです」
「女? ははあ、なるほど」
平四郎は腕をこまねいた。
「おとっつぁんはいま、おいくつかな?」
「四十八です」
「ふむ、その年ごろが案外にあぶない。年寄ることは眼に見えている。家の中、商いにも少少倦きが来た。まだ女子を相手にする元気が残っているうちに、もうひと花咲かせたい。幸いに、長年営営と働いて来たおかげで、外で浮気をたのしむほどの貯えはある。不埒《ふらち》な話だが、男はついそう考えて女子に迷うことがある。つまりは年取ることへのあせりだな」
「………」
「しかし、家の者はそれじゃたまったもんじゃない。その年ごろの女狂いというのは、下手すると家をめちゃめちゃにしかねない。察するにそういうことで、あんたのおっかさんが嘆いていると、そういう話かな?」
「いえ、おっかさんは死にました。あたしの小さいときに」
「ははあ」
平四郎はおなみの顔を見た。暮れるまでには、まだ一刻の間があって、窓からやわらかい夕方の光が射しこんでいる。おなみの顔には、依然として暗いかげがあった。
そうか、するとこの娘は、父親の突然の変貌を一身に引きうけて、その重みに耐えているのだ、と平四郎は思った。
「外で浮気をするぐらいは、何でもありません」
とおなみは言った。
「自分の父親のことをこんなふうに言うのはおかしいかも知れませんが、あたしはおとっつぁんがお妾を囲ってもかまわないとさえ思っていました。なにしろ、おっかさんに死なれてから、後添えももらわず、あたしたち姉弟を育てるのに必死になって来たひとですから」
「なるほど」
「でも、おとっつぁんはもともと遊び人じゃないんです。同業のひとに遊びに誘われても、めったに飲みにも出ないものですから、つき合いが悪いなどとも言われてたひとですから」
「ふむ、堅物なのだ」
「ええ、そうです」
おなみは深深とため息をついた。
「それが、去年の暮あたりから、時どき外に飲みに出るようになりました。ええ、それはかまわないんです、さっき言ったように。おとっつぁんにも気ばらしがいるんです」
「………」
「ところが、それがただの気ばらしですまないことに気づきました。二月ほど前にです」
「どういうことかな」
「お金がなくなってるんです。仕入れの金とはべつに、家には多少の貯えがありました。それがどんどん減ってるんです」
「ほほう」
平四郎は、おなみの顔をじっと見た。
「ちょっと聞きにくいことだが、あんたのおとっつぁんが持ち出したお金がどのぐらいか、教えてもらえるかな?」
「二百両を越えています」
「二百両? そりゃ大金だ」
と平四郎は言った。北見が三十両を出し、明石半太夫が半金の十五両を出す。平四郎はがんばって二十両は出したいものだと言った。しめて六十五両。それで行く行くは、三人が家族もろとも喰って行けるだろうという話をして来たばかりである。
「去年の暮からというと、およそ半年か」
平四郎は首をかしげた。
「場所は吉原かな? あそこで遊ぶとかなりの金が出る」
「いえ、それが違うんです。場末の飲み屋だそうです」
「ほうっ、おとっつぁんがそう言ったのかね」
「いえ、文吉さんが……」
と言って、おなみはちらと平四郎を見てうつむいた。顔が赤くなったようだった。
「文吉というと? あんたの家の奉公人か?」
「そうじゃありません。うちに品物を卸している問屋の手代さんですが、そのひとに頼んで、一度おとっつぁんの後をつけてもらったんです」
「ははあ」
平四郎はおなみをじっと見た。
「そういう頼みを引きうけるところを見ると、その文吉というひとは、あんたのいいひとか何かだろうな」
「夫婦約束をしています」
おなみはあっさりと言った。
「あのひとは、もともとうちと同じ雪駄屋さんなのです。もう一、二年経てば奉公を打ち切って店に帰りますので、そのときに祝言《しゆうげん》を挙げると決まっています。ええ、おとっつぁんも承知の上です」
「あんたは婿をとるひとかと思ったら、嫁に行くわけだ」
「うちは弟が跡取りです。うちの商いなど小さなものですから、いまよそに奉公に行ってますけど」
「なるほど、場末の飲み屋か……」
平四郎はあごを撫でた。
「半年で二百両というと、月にならしてざっと三十両ちょっとということになるな。すると何かな? おとっつぁんは、ちょいちょいそこに出かけているわけだ」
「それが、そうでもないんです。出かけるのはせいぜい、月に二、三度ですけど」
「二、三度? そりゃおかしい」
と平四郎は言った。その勘定から言うと、おなみの父親は、場末の飲み屋に行くたびに、十両から十五両の金を使って来ることになる。平四郎はようやく、雪駄屋の娘の思いあぐねたような顔の意味をさとった。
「おとっつぁんは、よほど悪い女にひっかかったらしいな」
「文吉さんもそう言うんです」
「わかった」
平四郎は膝を乗り出した。
「いま少しくわしいことをうかがおう。まずその飲み屋の場所だ」
三
南本所松井町の一丁目と二丁目をつないで、橋が二つかかっている。山城橋と真名板《まないた》橋である。その店は、一丁目の通りを東に行って、山城橋にぶつかったところで、六間堀の河岸に沿って南に曲ったところにあった。
うっかりすると気づかずに通りすぎそうな、狭い路地の中にあるその店は、表に看板も行燈も出ていなかったが、中に入るとちゃんとした飲み屋になっていた。うなぎの寝床のように細長い土間に、粗末な飯台と樽腰かけが置いてあり、客が数人いた。酌取りの小女《こおんな》までいる。
平四郎の姿を見ると、板場の中のおやじも客も、ぎょっとしたように身体をこわばらせたのは、平四郎が武家だったからかも知れない。平四郎が樽に腰かけ、小女が注文を聞きに寄って来ると、客はほっとしたように身体を動かし、思い思いにしゃべりはじめたが、その声もあたりをはばかるように低かった。灯火もわざとそうしているのか、暗い。
酒を注文してから、平四郎はそれとなく店の中を見回したが、おなみの父親弥助の姿は見えなかった。そのかわりに、店の奥の方に二階にのぼる梯子があるのが見えた。
──ふむ、二階にべつに飲ませる部屋があるらしいな。
と思った。その部屋には酒があるだけでなく、女もいるのだろう。
改革で、御旅所から松井町、常盤町にかけて、竪川《たてかわ》の南に点在していた岡場所は、あっという間に潰れたはずだが、同じ地元のほんのちょっと場所をずらしたところに、こういう形で残っているのだ。しぶといものだ、と平四郎は思った。
むろん、そういう商売に、町役人や岡っ引が気づかないわけはないのだが、鼻薬をかがせて目こぼしを頼むというやり方がないわけではない。ま、あまり目立たないようにやってくれ、ということになれば、奉行所の定町廻りなどが嗅ぎつけて来る気遣いはまずないから、商売は成り立つ。やって来る客は遊びに飢えているから、密告する心配もない。
飲みながら、平四郎は板場にいる白髪のおやじを時どき見たが、おやじには平四郎をさほど気にしている様子は見えなかった。
五ツ(午後八時)ごろになって、はたして二階からひとが降りて来た。そのときだけ、板場のおやじが気遣うようにちらと平四郎を見たが、平四郎は気づかないふりをした。しかし、二階から降りて来た男は弥助ではなかった。
おなみの話を聞いたあとで、平四郎は一度それとなく筑波屋を外からのぞいて、主人の弥助の姿をたしかめている。裏店のお六は、おなみをいいとこの娘さんだよ、と言ったが、それだけはお六の眼力もはずれて、雉子町の雪駄屋は、小ぢんまりしたごく並みの商家だった。そして主人の弥助も干からびたような、冴えない顔つきをした小柄な男だった。これがおなみの父親かと、平四郎は戸惑いを感じたほどである。
二階から降りて来た男も、身なりは商人だったがまだ四十前の男だった。背も高い。男は肉の厚い顔を酒気でほてらせながら、一緒に降りて来た二十半ばの女に見送られて出て行った。女は土間にとどまって酌をはじめた。
そのまま刻が経って、客は一人、二人と帰って行った。残っているのは、隅にいる職人風の男三人と、白髪で品のいい顔をした年寄り、それに平四郎だけになった。
──おなみの間違いじゃないのか?
平四郎は、だんだんにそう思いはじめていた。筑波屋の小僧が、父親が出かけたというおなみの伝言を持って来たのは、暮六ツ(午後六時)の鐘を聞いて間もなくである。
平四郎は真直ぐにこの店に来たのだが、そしてたしかにこの店だという感触は動かないのに、弥助がいる気配は皆無だった。だが弥助が河岸を変えるはずはなかった。この店には、弥助が二百両もの金を貢いだ女がいるのだ。もう少し待ってみようと思ったとき、さっき客を送って降りて来た女が寄って来た。
「お武家さん、あんまり飲まないね」
銚子を取り上げながら、女が言った。眼がくぼんで口が大きく、頬骨の張った変った顔立ちをしているが、変に色っぽい女だった。くぼんでいる眼が細く、笑っているように見えて、嵩《かさ》のある胸をしている。
「うむ、遠くまで帰らにゃならんからな。そう酔ってもいられない」
盃を出しながら、平四郎がそう言ったとき、また二階からひとが降りて来た。今度こそ弥助だった。だがあとからついて来た女を見て、平四郎は思わず口をあいた。
その女は四十ぐらいに見えた。あるいはもっといってるかも知れない。丸顔で顔立ちは醜くないがそばを通りすぎるとき眼を走らせると、おびただしい小皺が見えた。女は疲れはてたような顔をしていた。背は弥助よりわずかに高い。
「どうしたの?」
そばの女が脇腹をつついたので、平四郎はあわてて盃を干した。
「ここは、二階に上がるともっとうまい酒がのめるらしいな」
「あら、お武家さんはじめて?」
女は警戒するように顔をひいて、平四郎を見た。
「いや、知り合いに聞いて来たんだが、二階のことは言っていなかった」
「よそでしゃべっちゃ、だめですよ」
「わかっておる。こうみえても江戸者だ。野暮なことは言わんよ」
「そんならいいけど。なにしろ近ごろ、世の中うるさいからねえ」
女は一杯頂戴な、と言った。女に酒を注いでいると、弥助を送って出た女がもどって来た。女はそのまま二階に姿を消した。
「旦那も、あたしたちも、びくびくしながら商売してんだから」
おんなはあけすけに言った。
「ごりっぱだ。それが岡場所の心意気というものだ。今度は少し金を持って来て、二階に上げてもらおうか」
「あら、そんなに高かないよ。たったの五百文だよ」
女はさらにあけすけに言った。
「でも、今夜はだめね。ここは五ツ半(午後九時)には店を閉めることになってんだから。商売の方は大目にみてもらってるらしいけど、そのかわりに時刻は守れ、とか言われてんのさ」
「なるほど」
「また来てよ。そしてあたしを呼んで」
「よしよし。ところで、若いひとばかりと思ったら、そうでもないようだな。だいぶくたびれたのもいるじゃないか」
「え? ああ、おまつさんのこと?」
女は紅い口をあけてげらげら笑った。
「でも、あのひとはいいの。あれで、いい旦那がついてんだから」
「さっき帰ったおやじさんだな」
さほどうれしそうにも見えない顔をうつむけて、そばを通りすぎて行った弥助を思い出しながら、平四郎が、なおも突っこんで聞こうとしたとき、板場のおやじが、お客さんお時刻になりましたので、と言った。
その声で奥の職人たちも、白髪の年寄りも立ち上がった。
「大いそぎであけてしまおう」
平四郎は銚子を傾けて、盃を満たした。
「おまえさん方はここに泊りかね」
「そうじゃないよ。みんな通いさ。家が近いからね」
と言ったが、女は誤解したらしい。
「だめ、だめ。あたしゃこれでも所帯持ちなんだから、家へついて来たりしちゃだめよ」
「そうか、そいつは残念だ」
平四郎は言ったが、それで聞きたいことは聞けたのである。勘定をはらって外に出た。
四
女の言ったとおりだった。飲み屋というよりは曖昧宿《あいまいやど》といった商売をしているその家からぞろぞろと女が出て来た。
女は六人もいる。物陰から見ていた平四郎は、その中に弥助の相手をしたおまつという女がいるのを見つけた。暗くて顔は見えないが、わり合い背丈がある猫背の姿がその女だった。一人だけ、女たちのかたまりから一歩遅れるようにして歩いて行くので、すぐにわかった。
「降るかと思ったら、降らないじゃないか」
空でも見上げたらしい声で、一人が言う。
「今年は空梅雨《からつゆ》だよ。おかげさんで洗い物がかわいていいぐあいだよ」
「だけど降るものが降らないと、なんか落ちつかないじゃないか」
「いいの、雨の心配なんかしなくたって。あたしら百姓してるわけじゃないんだから」
女たちは屈託のない声でしゃべり、誰かが言った最後の言葉で、けたたましく笑った。おまつという女は、その話にも加わらず、やはり一歩遅れてついて行く様子だった。
女たちは一団となって二ツ目橋を北に渡った。そこで二手に分れた。
「おやすみねえ」
「そいじゃ、おやすみ。また明日ねえ」
女たちは、骨の折れる夜なべ仕事を終えたとでもいうような、ほがらかな声をかわして別れた。人数が減って話す声は小さくなったが、女たちのおしゃべりはつづいている。松坂町の角に来ると、もう深夜だというのにしばらく立ち話までしたが、そこでまた二手に分れて、今度はおまつは一人になった。
辻番屋の灯が、遠くにぽつりと見えるだけで、ほかには洩れる灯影《ほかげ》もない暗い道を、おまつはさほどいそぐ足どりでもなく両国橋の方にむかっている。夜道に馴れているのか、それとも考えごとでもしているのか、物におびえる様子もなく、平四郎を振りむくこともしなかった。もっとも平四郎は、つけているとさとられないように、かなりはなれて歩いている。
おまつの姿が不意に消えた。小泉町の角を曲ったのである。平四郎はあわてて後を追った。角まで来たとき、さらに路地に曲るおまつの姿を見つけた。
おまつが入って行ったのは、その路地の奥にある裏店だった。木戸から見ていると、裏店の路地に入ったおまつが、急に足をはやめたのが見えた。そして一軒の家に姿を消した。そこがおまつという女の住居らしい。
戸が半分ほどあいていた。平四郎がのぞきこむと、中の障子に男と女の影が映っていた。
「あんた、来てたの」
とおまつが言っている。
「今夜は来てないと思った。どうせ明日だろうと思ったから、ゆっくり歩いて来たんだけど。ほら、あたしは心ノ臓の持病があるから、いそぐと息が切れるんだよ」
女たちと一緒にいたときは、陰鬱に黙りこくっていたおまつが、早口に、若い女のように甘ったるい声でしゃべっている。
──男はだれだ?
と平四郎は思った。まさか弥助じゃあるまいな、と思ったとき、影の男が口を利いた。弥助ではなく若い男の声だった。
「例の金はどうしたい? うまく巻き上げたか?」
声は若いが、ぞっとするほどつめたい声音に聞こえた。
「ちょっと待ってよ。いま、お茶をいれ換えるから」
「お茶なんざいいよ。さっきから飲みつづけで、腹ん中がぼがぼしてんだ」
「そんなこと言ったって、あたしだって飲みたいじゃないか」
「いいから、巻き上げて来た金を出しなって言うんだよ」
「しようがないひとだねえ。まるで、だだっ子だねえ」
男のつめたい声が、おまつは気にならないらしい。軽い笑い声まで立てた。
「ほら、十両。ちゃんともらって来たから、数えてみなさいよ」
「………」
「でもね、作ちゃん。あたしゃ、あのひとにおねだりするのは、もう疲れたからね。そりゃ病気だ、引越しだと、わけさえこしらえれば、あのひとは何にも言わずに金をくれるけどさ。近ごろ、言いわけつくるのにくたびれちゃった」
「じゃ、何にも言わなきゃいいじゃねえか。金おくれ、それでいいんだよ」
「そんなことは出来ないよ、あんた。考えてみなさいよ。あのひとだって、何でこんなに金がいるんだろうって、内心不思議がっているよ。だから、これこれで金がいるって言うのは、あたしのあのひとに対するせめてものいたわりなんだよ」
「ちぇ、いたわりだって。胸くそのわるいことを言うぜ」
「でも、あのひとから金を取るのも、このへんでおしまいにしていいんじゃない? もう、ずいぶんもらったはずだよ」
「だめだ、だめだ」
男は荒荒しく言った。
「しぼれば、まだ出るって。もうひとふんばりしてみな」
「だってあのひと、もう金を持ってないよ。今夜は、はっきりそう言ったもの」
「そんなことがあるもんか。あれだけの店をかまえて、ちゃんと商売してんじゃないか」
「あら、どうするの」
おまつの声が変った。障子に映る男の影が立ち上がっている。
「今夜は泊るんじゃなかったの」
「筑波屋からしぼれなくなったら、おめえとはおしめえだぜ」
「大丈夫だよ。あたしだって、ちゃんと商売が出来るんだから。いままでのようにはいかなくとも、あんたに小遣いやるぐらいは楽に稼げるよ」
「だれが、おめえのようなばばあを相手に、銭を払うかよ」
「それじゃ、あのひとにもっと頼んでみる。ね、きっとそうするから、今夜は泊ってよ」
「手をはなせよ。おれはいそがしいんだ」
「作ちゃん、待って。しばらくぶりに来たんじゃないか。つめたくしないで、おねがい」
どたどたと物音がした。平四郎は身をひいて、隣の家の入口にある空き樽の陰にかくれた。
すぐに男が出て来た。内から射す光にうかび上がったのは、声で想像したとおりに、まだ若い男だった。三十にはなっていないだろう。戸も閉めずに男は出て行った。
──女もわるい女だが、男はそれに輪をかけた太いやつだ。
後を追おうかどうしようかと、一瞬迷ったが、平四郎はすぐに男のあとを追った。そのときになって、戸をあけはなしたままの女の家から、押し殺した泣き声が洩れるのが聞こえた。
五
「そういうわけだよ、筑波屋さん。もう、あの女子からは手を引いた方がいい」
団子をかじりながら、平四郎は弥助に説教を試みた。場所は筑波屋と同じ通りにある餅団子屋。小ぎれいな店の中に、緋毛氈《ひもうせん》を敷いた低い腰かけがあって、店売りのほかにそこで団子を喰わせ、お茶も出してくれる。
「娘さんが心配するようにだ、あんたがただの色恋沙汰でおまつとかいうあの女子に通いつめているとは、わしは思っておらん」
「………」
「たしかにあの女子には、そぞろあわれを催すといったところがある。知り合って頼られると、今度は見捨てるにしのびなくなったという事情かも知らんが、それにしては使った金が大きすぎるな」
「………」
「それも、渡した金があの女子の役に立っているなら話はべつだ。そうじゃなくて、あんたの金は、右から左にさっき言った作蔵という金喰い虫の手に渡っているのだから、話にならんわけだ」
「その男、何をやってると言いました?」
それまでぼんやりした顔で平四郎の話を聞いていた弥助が、不意にそう聞いた。
「何もやっておらん。遊んでるだけだ。もとは若いくせに女衒《ぜげん》で鳴らした男だというが、ご改革で仕事が落ち目になると、今度はむかし岡場所に世話した女たちに喰らいついて、金をたかり取っている。ま、世に言うダニだな。たしかめてはおらんが、おまつともそういうつながりだろう」
「………」
「おまつは若い情人《いろ》に貢いでいるつもりのようだが、なに、やつの頭には金しかなかろう。近所の話では、夜は家にいたことがないというし、とっかえ引っかえ若い女を連れ込んでいるそうだ。何も四十ばあさんに惚れているわけじゃない」
「………」
「事情はこんなところだ。手のひきどきですな、筑波屋さん。これ以上あの女にかかわりあっていると、身代にひびが入りますよ」
「………」
「べつに考えることはあるまい。それともあんた、あの女子に惚れていなさるとでも言うのかね?」
平四郎は、やや苛立って語気を強めた。うつむいて、皿の団子に眼を落としている弥助の髪の毛が薄くなっているのが見える。半白の髪の間に、てらてら光る地肌がのぞいている。いい齢をして、何を考え込んでいるのだと思ったとき、弥助が顔を上げた。
「惚れたはれたということじゃありませんが、それじゃといますぐ手をひくわけにはいきませんのです」
「なんで?」
「あのおまつは……」
と言って、弥助はあわれみを乞うような眼で平四郎を見た。
「誰にも言っていませんが、あたしの別れた女房なのです」
「なんだって?」
「はい、あれがおなみの母親です。男をつくって家をとび出したのが、娘が八つのとき、十二年前です。その後消息を聞くこともありませんでしたが、去年の暮に、こういうところで働いていると便りをよこしました」
「おなみさんは、母親は死んだと言っておったが……」
「それは自分にそう言い聞かせているのでしょうよ。あたしだって女房のことなど、とっくにあきらめていました。悪い女でしたから。便りをもらったときも、しばらくは打っちゃって置きました。でも、そのうちにどうにも気になりましてな。行ってみたらあのとおりです」
「こいつはおどろいた」
平四郎は、まだあいた口がふさがらない。
「おまつがちゃんと暮らしているのなら、何も言うことはなかった。だがあの体たらくです。身体は弱いし、あんな場所で男相手に働いている。若い間はまだいいですよ。本人の勝手次第です。あたしはうっちゃっておきます」
「………」
「だが、おまつはもう若くない。ごらんになったかと思いますが、あれはもうばあさんです。若いころは人目に立つほどきれいな女でしたが、昔の面影はありません。みっともないばあさんになりました。それでいてまだ、男相手の商売をしているのです」
「………」
「はじめて会ったとき、あたしはこれがあのおまつかと思って、情なくて思わず涙が出ました。あれも泣きました。二人で手を取り合って泣いたものです」
「そのことを、なぜ娘さんに話さなかったのかな? 打ち明けていれば、ここまで深間にはまる前に、打つ手があっただろうに」
「おなみには話せません。あれは母親に捨てられて、ほんとに苦労しましたのです。いまごろ母親が出て来たなどと言っても、許すはずがありません」
「………」
「おまつもそのことはわかっていましてな、子供たちには黙っていてくれろと言いました。捨てた子供たちがこわいのですよ」
「そういうものかね」
「あれの金のせびりようがただ事でないのはわかっていました。でも、筑波屋といっても、もともとはおまつと二人で細ぼそとはじめた店です。あれのために金を使うのを、あたしゃ惜しいとはこれっぽちも思わないのですよ」
「………」
「娘の心配はもっともだが、おまつが頼れるのは、この世であたし一人なのです。たとえうしろに男がいるとしても、だからといってあれを見捨てるわけには参りません」
「あんたのその気持は、男としてりっぱなものだが、先方がそれでほんとに有難がっているかどうかはわからんぞ」
「………」
「それに、作蔵という男を甘くみないことだ。あんたがその気持でいるかぎり、あの男はどこまでも喰いついて来ますぞ」
厄介なことになった、と平四郎は思った。内幕をバラして、女と手を切るように説得すれば、それで事は終りだと考えたが、そう簡単にはいかないらしい。事情がわかっても、弥助はさほどおどろいた様子もなく、なにしろ思い込みがはげしい。いまのおまつをかばってやれるのは自分一人だと思っているのだ。
新しい仕事が出来たようだった。こうなったら、なにはともあれ作蔵をおまつから切りはなすしかないのだ。そうしないと、話は片づかない。
──ちっと安かったかな。
おなみと約束した一分という手間賃を思い出し、平四郎はこの仕事を甘くみたことを悔いた。
その夜、平四郎は横堀川の河岸にほど近い作蔵の家をたずねた。そのあたりは菊川町の三丁目である。作蔵の家は、河岸から路地に入ったところにある裏店にあった。
作蔵は出支度をしていたところだったらしい。おまつという女のことで話がある、というと作蔵は気軽な口調で、ちょうどいいや、これから出かけるところだったと言った。
灯を消し、戸をしめてすぐに外に出て来た。平四郎の先に立って木戸をくぐり、路地を抜けて河岸に出る。
「旦那はおまつと同じ裏店かね」
浪人者とふんで、作蔵は気安く話しかけて来る。
「話ってえのは何です? あのばばあが何か苦情でも言ったんですかい?」
「なに、簡単な話だ」
平四郎も気軽な口調で応じた。
「あの女子と、手を切るようにすすめに来たのだ」
「手を切る?」
作蔵はならべていた肩を、つとはなした。ジロリと平四郎を見た。
「冗談じゃねえ。あの女はなかなか役に立つ女だ。切れるつもりなんか、ねえぜ」
「この女衒野郎が」
と平四郎は言った。
「おまえがやってることは、こっちには全部お見通しだぞ。女を喰い物にして大そう甘い汁を吸ってるそうじゃないか。小汚い男だ」
作蔵は怒らなかった。へらへら笑った。えらい言われ方だぜ、と言った。
「お前さん、誰かに頼まれて来たらしいな。頼んだ相手は筑波屋かね」
「べつに頼まれたわけじゃないが、ま、見るに見かねたというところかな」
「おせっかいはよしなよ、旦那」
と作蔵は言った。二本差しをナメ切った口ぶりである。
「馴れねえ場所に手出しすると、怪我するぜ」
作蔵はすたすたと歩き出した。平四郎はあとを追った。
「おい、ちょっと待て」
「しつこいな」
作蔵は振りむいた。
「おれ、しつこいのは嫌いなんだよ」
そう言ったのと、手に匕首が光ったのが同時だった。作蔵の黒い姿が背をまるめてぶつかって来た。
平四郎はかわしたが、作蔵の身ごなしも速かった。くるりと体を回して、鋭く突きかかって来る。かわしながら、平四郎は相手の腕をつかもうとしたが、作蔵は巧みにすり抜けた。逃げる気配は見せず、唾を吐き捨てるとまた身体ごとぶつかるようにして匕首を遣った。見かけに相違して狂暴な男だった。
平四郎は摺り足で、すばやく数歩さがった。匕首をかざして迫って来た作蔵の足に、抜き打ちの一撃を叩きつけた。悲鳴をあげて、作蔵の身体が暗い地面にのめった。
「斬りやがったな、さんぴん」
平四郎が近づくと、作蔵は苦痛に喘ぎながら罵った。平四郎は、その手から匕首をもぎ取って川に投げ込んだ。
「斬っちゃいない。骨ぐらいは折れたかな」
「ちきしょう」
「おい、女衒」
平四郎は作蔵の襟首をつかみ上げた。痛みに、作蔵が身をよじる。
「おまつから手を引くことだ。筑波屋からもな。これ以上つきまとうと、今度は暗やみでばっさりやる。なに、簡単なことだ。斬ったあとはこの川に蹴込めば、それでおまえは終りだ」
六
平四郎は落ちつかない。
平四郎の家に、突然に早苗が現われたのは、八ツ(午後二時)過ぎである。早苗がこの家をたずねあてて来たこと自体が驚天動地の出来事だった。ひと月ほど前に、白壁町のうどん屋で早苗に会ったとき、裏店のある場所を教えはしたが、まさか本人がたずねて来るとは思わなかったのである。
しかも早苗は、平四郎にすすめられると、しばらくためらいはしたものの、結局上がって来た。上がってしまうと、早苗は平四郎のひとり住まいの何もかもがめずらしいというふうに、あちらをのぞきこちらをのぞき、すっかり腰を落ちつけてしまったが、平四郎の方は、逆に落ちつきを失った。
お茶を出さねば、と台所で湯をわかし、お茶菓子がないと表にとび出し、ようやく向き合って坐ると、いま話がすすんでいる道場のこと、昨日で片づいた筑波屋の仲裁仕事などを話して聞かせる。だが、その話の合間にも、急に立って台所から漬け物を出して来たりする。
いまも、話の途中でひょいと台所に立った自分を、早苗が怪訝な眼で見送ったのはわかっているが、平四郎はじっとしていられないのだ。
──今日は、部屋を片づけておいてよかった。
何の用事もない台所に立って、そんな埒もないことを考えているのである。平四郎はまた茶の間にもどった。
「それで、あとはうまく行ったのですか」
と早苗が聞いた。早苗が言っているのは、筑波屋の後始末のことである。
「わしの仕事は、そこまでで終りでの。そのあとはどうなったかはわからん。しかし、その男と手が切れてしまえば、おまつは病気持ちの、あわれな母親だ。むかしの恨みは忘れて、ひき取ってはどうかと、わしは娘に極力すすめたわけだ」
「それがよろしゅうございましょうよ。何と言っても他人ではないのですから」
早苗はあわれな中年の娼婦に、いたく同情をそそられた様子だった。
「娘は、はじめのうちはその話をがんとして受けつけなかったな。ずっと、おっかさんは死んだものと思って来たというわけだ。いまさら家にもどってもらいたくないとまで言ったが、しまいには折れて、自分が一度会いに行くと申した」
「それはようござんした」
「その仕事の手間が一分だ」
と平四郎は言った。
早苗に会ったとき、仕事の中身を言いそびれたが、今日のように楽屋裏をのぞかれてしまうと、隠す気はなくなっている。早苗は眼をみはった。
「まあ、一分。いい手間賃ですこと」
「うむ。作蔵という厄介者を片づけてやったからな」
そこで、ふといい考えがうかんだ。
「どうかの? 早苗どの。今夜は夜食をたべて行かぬか」
「まあ」
「馳走するぞ。これでも魚を焼いたり、味噌汁をつくったりは出来る」
早苗はくすくす笑ったが、顔を上げると居住まいを直した。
「せっかくですが、そうのんびりもしていられません。そろそろおいとませねば……」
「まだ、よかろう」
「いえ、また参ります」
早苗は一礼すると、すばやく立ち上がった。ひきとめるように立ち上がった平四郎を、早苗はじっと見た。
「平四郎さまのために、お食事をつくってさし上げられるようになるとよろしいのですけど……」
「いつかは、そうなる」
平四郎は早苗の肩をつかんだ。
「また、来てくれるだろうな」
「はい」
肩を引きよせると、早苗は平四郎の胸にやわらかく額をつけて来た。血のざわめきにうながされて、平四郎は早苗を抱いた腕に力をこめた。苦しそうに早苗が顔を上げ、二人の眼が合った。だが早苗はすぐに眼を閉じ、平四郎は花弁のような唇を吸った。
平四郎の腕の中で、早苗の身体が顫えている。激情に揺られて、二人はよろめき、崩れるように膝をついた。平四郎は盲目になっている。半ば夢うつつに、早苗の身体を静かに畳に横たえると、顫える指で帯を解いた。ひさしく夢みて来た女体への渇望に煽《あお》られて、頭の中は火になっていた。
「平四郎さま」
「………」
「平四郎さま」
「黙りなさい」
と平四郎は言った。女は、よくこんなときに話しかけたり出来るものだ、と思った。
「私をお抱きになったら、もう菱沼の家にはもどりませんよ」
「………」
「そのお覚悟が、おありですか?」
ぎょっとして、平四郎が白い胸から顔を上げたとき、入口にひとが訪《おとな》う声がした。
筑波屋の娘おなみと一緒に、平四郎は竪川の河岸を東にいそいでいる。おまつが姿を消したのである。
おまつは筑波屋にもどることになった。昨日がそう約束した日だったが、おまつは姿を見せなかった。今日の昼になっても、何の音沙汰もないので、おなみが小泉町の裏店に行ってみると、母親は三日前にそこを引き払っていた。どこに行ったかは、誰も知らなかった。
おなみはいそいで松井町の飲み屋に行ってみたが、おまつはそこもやめていた。小泉町の裏店から姿を消した日と同じ日である。おまつはそこでも、誰にも行く先を言っていなかった。
「あたしが悪かったんです」
おなみが涙声で言った。
「おっかさんに会いに行った日、あたしはあのひとにひどいことを言ったんです。あんたに、母親づらで筑波屋にもどって来る資格なんかない、とそんなことを言ってしまいました。あのみじめな姿を見て、のぼせ上がってしまったんですよ」
「………」
「かわいそうだと思うよりは、情なくて憎くて、我慢できなかったんです」
「その気持は、わからんでもないな」
「もちろん、おしまいにはのぼせもさめて、家にもどるようにと言ったのですが、おっかさんはきっと、あたしの悪態が胸にこたえたんです。だから姿を消したんです」
「まだあきらめるのははやい。ひょっとすると、これからたずねる家にいるかも知れんからな」
言いながら、平四郎は早苗はまた来るだろうかと思った。
──惜しいことをした。
とも思った。おなみが来なかったら、二人は結ばれたろう。ひょっとしたら、早苗はそこまで覚悟してたずねて来たかも知れないのだ。平四郎の頭に、早苗の白い胸がちらついた。
「このあたりですか?」
おなみの声に、平四郎ははっとわれに返った。いまはおまつをさがすのが先だった。早苗はまた来るだろうが、おまつの行方をさがすのは容易なことではない。作蔵の家にいてくれ、とねがった。
作蔵は家にいた。若い女が一緒だった。作蔵は白い布でぐるぐる巻きにした足を、これ見よがしに平四郎にむけて突き出しながら、ひねくれた口をきいた。
「おまつなんて女は知らねえな」
「ここへは来なかったんだな」
「来るわけがねえよ。女には自分の家を知らせねえのが、おれのやり方さ。知らせちまうとろくなことがねえからな。ぎゃあぎゃあわめきやがったりよ」
作蔵は、うしろから肩につかまっている女を振りむいた。
「おめえのことじゃねえよ。おめえはべつだ」
平四郎とおなみは、横堀川の河岸に出ると、そこで立ちどまった。
「おっかさん、どこへ行ったのかしら」
おなみは茫然とした顔で、川を見つめた。水嵩の増した水面を、ただよい流れて行く浮草が見えた。浮草のひと群は、岸に寄りついて、いっとき草にすがったが、また水勢に押されてはなれて行った。
「わしも、手をつくしてさがしてみよう」
と平四郎は言った。おまつは浮草だ。だが流れて行く先は、いずれ松井町の店のような場所だろう。仙吉にでも頼めばさがしあてるかも知れない。
「いつかは見つかる。あまり自分を責めぬことだ」
と平四郎は言った。
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宿 敵
一
灯を消した縁側に、男は黒い影のようにうずくまっている。
時刻はおよそ四ツ(午後十時)過ぎ。家の者も奉公人も寝静まって、家の中はことりとも音がしなかった。男が顔をむけている暗い庭で、虫が鳴いているだけである。男が、寝もやらずまだ暗い縁側にうずくまっているなどとは、誰も思わないだろう。隣の部屋に寝ている男の女房は、ごく寝つきのいいたちである。
男はため息をついた。思い出したように身じろぎすると、足もとの煙管《きせる》を取りあげて煙草をつめた。小さな手焙《てあぶ》りの中の火種は、豆のように小さくなっている。
男は胸を傾けると、慎重に火種から火を吸いつけた。深深と吸い込んだ煙を吐き出す。男が煙草を吸うたびに、煙管の先の火皿が赤くなったり、暗くなったりしたが、小さな火はわずかに男の尖った鼻先をうかび上がらせるだけで、男の表情まではわからなかった。
昼の日射しはまだ十分に暑かったのに、夜気は冷えている。昼と夜のその急激な変化の中に、秋の気配がひそんでいた。今年の夏も、もう終るのだ。
男は最後の煙をゆっくりと吐き出した。そして音を立てないように、手のひらに煙管を打ちつけて、煙草の灰を落とした。男は、自分が深夜ただひとり起きていることを、家の中の者にさとられたくなかったのである。
男は灰吹きの中に落とした吸い殻が、一瞬ぼうと赤らむのを見つめたが、火が消えると、身じろぎしてまた身体を庭にむけた。そのままじっと動かなくなった。
むろん男は、ただ暗やみの中でそうして涼んでいるのではなかった。胸の中にうかんでいる、一人の男のことを考えつづけていたのである。
二十年ぶりに眼の前に現われたその男が言った脅し文句も、一言残らず胸に残っていた。
「おれがひとことでもしゃべってみな。おめえの商売はもうおしめえだぜ」
男の言うとおりだった。ひとことでも世間に洩れれば、それでおしまいだ。商いどころか、この土地にもいられなくなるだろう。子供も、親とはなれて行くかも知れない。女房は……。女房だけは、ともかくもついて来るだろう。
結局商いも家も捨てて、女房と二人で世間の表から身を隠し、江戸の、ひとに知れない片隅で老い朽ちるほかはなくなるだろう。商人としての地位と信用、家の中のしあわせ、要するに二十年かかって築き上げたもの一切が、無になるのだ。
それじゃ、あの男の言うとおり、黙って五十両の金を渡すべきだろうか。
──いや、それはだめだ。
男はいつの間にか弱気に傾いている気持をはげますように、強く首を振った。一度金を渡してしまえばおしまいだ。あの男は、つぎには百両つごうしてくれと言って来るだろう。その金がなくなれば、またぞろ平然と店先に現われるだろう。
男は闇の中で身体を固くした。やはり、殺すしか方法はないのかも知れない、と思ったのである。殺すか、それとも以前、古着商いの手嶋屋に聞いた奇妙な商売の男、神名という仲裁屋を頼むか、どちらかである。
判断に迷って、男は思わず小さなうめき声を洩らした。そして自分の声におどろいてあたりを見回したが、四囲には静かな闇があるだけだった。しかし、仲裁屋などというあいまいな仕事の男を、信用出来るものだろうか。男は抱えている秘密の重さと神名平四郎を秤《はかり》にかけながら、じっと眼の前の闇を見つめた。
二
同じころ、神名平四郎は築地にある神名家の兄の居間にいた。
「これを読め」
兄の監物は、一枚の紙を平四郎に渡した。それは老中水野忠邦の名で出された通達の写しだった。
中身は去る六月一日に江戸周辺を皮切りに発令された大名領、旗本領の上知《じようち》に関する通達で、水野は江戸から長岡領新潟港、大坂|最寄《もよ》り地と拡大された上知の状況経過を縷縷《るる》述べたあとで、私の利害を言い立てて、上知令に異存を持つ者は、わがもとに申し出よ、と例によって激越な文言で通達を締めくくっていた。
「これはな、本日大小目付あてに出された通達だ」
監物は、平四郎から写しを受け取ると、やや興奮した顔付きで、折りたたんだ写しでひたひたと手のひらを打った。
「どうだ、読んでわかったか?」
「何がですか?」
「何がだと? バカめ」
監物は一人で興奮している。平四郎を睨《ね》めつけて言った。
「ご老中は焦っておられるのだ。この文書を読めば、一目瞭然だろうが……」
「ははあ」
平四郎は、前に兄に聞いた上知令には根強い反対があるという話を思い出した。よくはわからないが、兄が興奮しているのはそのことだろう。
「例の反対のことですな」
「それだ。反対の火の手がますます強くなったので、この通達となったことは疑いない」
「………」
「ここだけの話だ。誰にも言うなよ」
監物は声をひそめた。
誰にも言うはずがないじゃないか、と平四郎は思う。平四郎の目下の関心は、明石半太夫が見つけた借家を道場に改築したいのだが、大家がなかなかうんと言わないこと、それに二十両は出すと見得を切ったのに、まだ四、五両は足りない道場の負担金のことなどにしぼられている。それにつけ加えれば、兄の長話に倦きて、ともすれば睡気が兆して来るのを、どうごまかすかぐらいである。
上知令などという話は、兄がわいわい言うからやっと思い出したことだった。ひとに話すわけはないと思ったが、そんなことをあからさまに言えば、監物の機嫌を損じるだけである。もっともらしく誓った。
「むろん、誰にも申しません」
「よし」
監物は満足そうにうなずくと、さらに声をひそめた。
「大物が反対に回ったぞ。紀州侯|斉順《なりより》さまだ。背後にはご隠居の治宝《はるとみ》さまがひかえておる」
「………」
「それに、改革派の仲が割れた。大目付の遠山左衛門尉|景元《かげもと》、御側御用取次の新見《しんみ》伊賀守正路、それに勘定奉行の井上、跡部。跡部|良弼《よしすけ》は水野老中の実の弟だ。それに遠山のあとに北町奉行に入った阿部正蔵、小普請奉行の川路|聖謨《としあきら》……」
監物は指を折った。
「これだけの人数が、上知令反対に回った。もっとも遠山などは、奉行をしていたころからご改革には不満を申しておったな。あまりに急激なしめつけは、市民の活気を奪うという意見は、堀田さまと同じだ。さすが遠山は、市民というものをよく見ておる」
「………」
「そういうわけで、いまも上知令を支持して変らないのは鳥居|甲斐守《かいのかみ》、天文方兼御書物奉行の渋川六蔵、御金改役後藤三右衛門。いわゆる水野の三羽烏と、あとは側用人の堀|親※[#「うかんむり/王/缶」、unicode5bda]《ちかしげ》、目付の榊原忠義ぐらいのものだ」
「ははあ」
「寥寥《りようりよう》たるありさまだ。それに老中といえば役目柄、面とむかって異をとなえることは出来ぬというまでで、堀田さま、土井さまも腹の中は上知令反対だ。水野老中にもそれは読めているから、いても立ってもいられない心境だろう。それでこの通達となったのだ」
「そうですか。なるほど」
「水野老中が、なぜ上知令に執着するか、わかるか?」
兄はこちらの頭の程度をためすような顔で見ているが、そんなことがおれにわかるわけはない、と平四郎は思った。
「いえ、いっこうに」
「情ない男だな、おまえも」
監物は、弟の政治に対する無知をあわれむように言った。
上知令は、江戸、大坂の最寄り地、およそ十里四方をメドに、その範囲に錯綜して含まれている大名領飛び地、旗本領を一括して幕府直轄領に召しあげ、公収された土地に見合う替え地はほかにあたえようとするものだが、その狙いは三つほどある、と監物は言った。
ひとつは窮迫する幕府財政の補強である。年貢の収公率の多寡《たか》は、その土地土地の実情によるわけだが、一般的に言えば幕府直轄領はゆるやかで、大名、旗本の私領は取り上げの率が高い。それは常識だった。
上知の指名を受けた大坂最寄り地は、およそ二十七万石、江戸一円の最寄り地もその程度と考えれば、およそ五十四、五万石の収公率の高い土地が、労せずして幕領となるのである。その差がもたらす収益は、いささか幕府の金蔵を潤すことになるだろう。
第二の狙いは幕領、私領の年貢収公率の平均化である。水野老中は、上知を下命した土地の替え地については、三ツ五分以下、つまり百石につき三十五石以下の収公率の土地に限定すべきだとした。幕府本来の知行割の方針である三ツ五分渡しの徹底をはかったのである。むろん、それだけで全国諸藩の収公率が改まることはあり得ないが、忠邦の狙いはいま少し高いところにある。
替え地は三ツ五分以下の土地、と押し切ることによって、年貢収公率に対する幕府本来の考え方を、改めて諸藩に示し、かたがた幕府の威令を再確認させる、その精神的効果を狙ったのである。
狙いの第三は、上知した土地を緊迫化して来た海防の基地とすることである。将軍|乃至《ないし》は幕閣の、直接指揮が可能な土地を、政治、経済の中心地のまわりに確保することで、海防軍備の強化と将軍、幕閣の威信確立を狙ったのだ。
「つまり、上知令は水野老中がすすめて来たご改革の総仕上げの段階ということになる。幕府の威信を回復して、将軍の威令のもと、諸藩の帰属統一をはかる。それでないと、押しよせる内憂外患を乗り切ることはむつかしいと考えておられるのだ」
「なるほど。よくわかりました」
と言ったが、平四郎は襲いかかる睡魔と必死にたたかっている。ともするとくっつきそうになる瞼をあけているのに懸命で、小むずかしい兄の話は半分も理解出来なかった。
「ご趣旨は立派である。そのことには、何びとも異存はない。だからこそご改革にひとも集まったのだが、遠山が言ったように、問題はそのすすめ方だ。性急にすぎる。根回しということがないから、いたるところで衝突しては反感を買う。そこをまた、鳥居などに、唆《そそのか》されて強引に押し切られるゆえ、天下に怨嗟《えんさ》の声が満ちるということになって来ておる」
「………」
「しかし今度の上知令では、いかな水野さまでも強行突破というわけに行くかどうか、甚だ疑問だて」
「………」
「上知の場所に領地を持つ大名、旗本は──、その中には老中の堀田さま、土井さまも含まれておるが、一応は畏《かしこま》る姿勢をみせているものの、内心は大不満だ。よそに移されれば、事実上の減石ということになるから、当然だ。そこへもって来て、新しい問題が出て来た」
「………」
「上知領地の百姓、町人が、猛反対の火の手を挙げておるのだ。いまの世の中、領主はその土地の百姓町人から、大体は先納金・立替金などの名目で借金しているのが相場だ。それがだ、領主が替わるということになると、借金棚上げ、場合によっては破棄という心配が出て来た。こらっ、聞いとるのか」
なにか、いきなり大喝されたようなので、平四郎はおどろいて顔を上げた。見ると、兄の監物がにが虫を噛みつぶしたような顔をして、こっちをにらんでいる。
平四郎は赤面した。ついにたまらずこっくりやってしまったらしい。
「はあ、うかがっております。兄上のおっしゃることは、まことにもっともで」
「何がもっともだ」
監物は慨嘆する口調になった。
「平四郎、おまえが市井に出るのを許したのは、広くひとの世を見たら、いくらか人間修業の足しにもなろうかと思ったのだが、市井に狎《な》れて武家の行儀まで忘れては、話にならんぞ。しゃんとせい」
「はあ」
なに、むかしからこうだったのだと思ったが、平四郎は恐縮した顔をつくった。
「申しわけありません」
「いいか。百姓、町人から猛然と訴えの声が上がったのだ」
怒って、話はおしまいかと思ったら、監物はまだつづけるつもりらしい。
「よそへ行くなら借金は返せというわけだ。それが聞かれなければ、新領主である将軍家にも年貢はおさめないとも言っておる。水野老中も、こういう事態は予想しなかったろうて。遠山が、水野老中は下じもの情にうといと言うのはこういうことだな」
「はあ、いかにも」
「ところで、例の鳥居のことだ」
監物はまだまだ平四郎を寝かせるつもりなどないらしい。本題はこれからだという顔をした。
「鳥居は本日付けをもって、勘定奉行兼任となった。十八日には、老中命令で、いまやっておる印旛《いんば》沼の開鑿《かいさく》工事を視察に行くというし、水野老中の信頼はいよいよ厚いというわけだの」
「………」
「ところがだ、平四郎。誰にも申すなよ」
監物はまた念をおした。監物の顔には、睡気どころか、手に唾《つば》するといった表情が現われている。
「おどろくべきことだが、鳥居はいま、水野老中を裏切りにかかっている」
「え、ほんとですか?」
平四郎はおどろいた。一ぺんに睡気がさめた。
「まことさ。こちらは証拠を握りつつある」
監物は、他人の秘事を嗅ぎつけた目付の顔になった。
「鳥居はこれまで、改革反対派の動静をさぐっては水野老中に報告し、時には自身の判断で、ひそかに弾圧を加えたりして来た。堀田老中や当時町奉行だった遠山の落度さがしまでしておる。おまえはただのお供で、何も知らんかったろうが、わしは逆に、鳥居のそういう動きを逐一調べて来たのだ」
「ははあ」
「だが、ここに来て鳥居は、ご改革は前途多難と踏んだのだ。水野老中と心中するのは避けたいというわけで、いまは自身の生き残り策に取りかかっておる」
「汚い男ですな」
「堀田さまは、水野老中の改革を誤らせたのは、むしろ鳥居だと見ておる。生き残りは許さんというお覚悟だ。わしは鳥居のあがきを見とどけねばならぬ」
「………」
「いまに奇怪な動きが起きるぞ、平四郎。むこうも用心するだろうから、こっちも命がけじゃな。いいか、わしを守れ。あと一、二度の夜行で、長かった仕事も終りだ」
「かしこまりました。ご懸念なく」
兄の気迫に押されて、平四郎は思わず神妙に言うと、監物はやっと神名家の長兄の顔にもどって、もうそろそろ四ツ半(午後十一時)だろう、と言った。
「今夜はもうおそい。泊って行け」
そのころ、暗い縁側にうずくまっていた男も、ついに決心をつけた。
若いころならともかく、と男は思った。ひと一人を殺すことは、とても無理だ。明日の朝、ともかく神名という仲裁屋をたずねてみよう。
男は立ち上がって、音を立てないように静かに雨戸を閉めた。そしてどうせ眠れはしない長い夜を、せめて横になって過ごすために茶の間を横切って寝間にむかった。
三
次の日、平四郎が裏店にもどったのは四ツ(午前十時)ごろだった。
起きたらすぐに帰るつもりだったのだが、嫂の里尾が朝の食事をして行けと引きとめた。引きとめたのは、しばらく姿を見せなかった神名家の末弟の行状を調べる意図もあったらしく、平四郎は別室で飯を喰い、登城する兄をひさしぶりに玄関に見送ったあと、里尾に呼ばれて、根掘り葉掘り暮らしの模様を聞かれた。
平四郎はとくいになって、仲裁稼業で危ない橋を渡った話などを聞かせたが、その話を嫂はあまり喜ばなかった。心配そうに眉をひそめただけである。しかし、平四郎が早苗と再会したこと、近く道場が持てる目処《めど》がついたことなどを話すと、里尾はようやく愁眉《しゆうび》をひらき、いい加減な暮らしながら、ともかく義弟が何とか暮らしの辻つまを合わせていることを納得したようだった。
兄の監物には内緒だという一両の小遣いと、山芋のみやげをもらって、平四郎が家にもどると、軒下に商人|体《てい》の男が立っていた。
──客だな。
平四郎がそう思ったのは、あてずっぽうの判断ではない。男の顔に、ひと眼でわかる濃い憔悴《しようすい》のいろがうかんでいたからだ。五十過ぎの、身なりがよく半白の髪を持つその男は、まさに仲裁をもとめに来た人間の顔をしていたのである。
「やあ、お客さんかな。留守にして済まなんだ」
近寄りながら平四郎が声をかけると、男は誘われたようにあいまいな微笑をうかべて、軒下から出て来た。
「十軒店で呉服を商っております桔梗屋《ききようや》小兵衛と申します。こちらが仲裁屋さんで?」
「さよう、さよう。さあ、遠慮なく上がってもらおうか」
平四郎は、深刻な顔をした客の気分を引き立てるように、ことさら陽気な声を張り上げた。嫂から思いがけなく一両もらったすぐあとに客である。今日は金運がついているという気もした。
平四郎が湯をわかしてお茶をいれる間、桔梗屋は、ひっそりと坐っていた。
「さて、お話をうかがいますかな」
お茶をすすめながら平四郎が言ったが、桔梗屋はすぐには口をひらかなかった。お茶にも手を出さず、じっと膝においた手を見つめている。桔梗屋は、一度顔を上げて平四郎を見たが、すぐにまた眼を伏せた。
顔にうかんでいるのは、濃いためらいのいろだった。桔梗屋の顔はすっかり青ざめて、ここをたずねて来たのを後悔しているようにも見える。
「桔梗屋さん」
と平四郎は言った。こういう客はめずらしくはない。ためらっても、いずれはしゃべるのだ。
「念のために申し上げるが、ここで話されることは、神かけて外に触れ回るようなことはしませんぞ。そこは信用して、何事であれ打ち明けてもらいたいものだ」
「………」
「しかし、思い立って来てはみたものの、どうにも打ち明けかねるということであれば、このままお帰りになってもいっこうにかまわんし、また、日をあらためて出直して来られてもよろしいわけだ」
「いえ、もう日にちがありません」
顔を上げて桔梗屋が言った。しかし、つづけて何か言うかと思ったら、またうつむいてしまった。平四郎は胸の中で舌打ちした。少し話題を変えた方がいいかも知れない。
「この家のことを、どちらで聞きましたかな?」
「手嶋屋さんです。富沢町の古手《ふるて》屋さん」
「ああ、あの手嶋屋さん」
女房が強くて、どうにもならないと駆けこんで来た男だ。平四郎は笑った。
「あのときの仲裁の中身を聞きましたかな?」
「はい」
「その後どうです? うまくいってますか?」
「大そううまくいって、こちらさまのおかげだと言っておりました」
と言ったが、桔梗屋は無駄話をして、いくらか気持がほぐれたらしい。深深とため息をついた。
「手嶋屋さんはいいですよ。心配ごとといえば夫婦喧嘩ぐらいのものですから」
「あんたの心配ごとは何です?」
すかさず平四郎が言うと、桔梗屋は一瞬黙り込んだが、すぐに正面から平四郎を見た。やっと話すと、心を決めたらしい。
「ひとに脅されております。それでお願いに上がりました」
「ははあ、脅し……」
平四郎はじっと桔梗屋を見た。おおよその見当はついていたのだ。脅しの後始末はめずらしいことではない、と思ったが、つぎに言い出した桔梗屋の言葉は意外だった。
「あたしは、いまは桔梗屋の旦那などと呼ばれて、一人前の商人のような顔をしていますが、もともとはそんな資格などない男です。世間の表に出てはいけなかった人間ですよ」
これをごらんください、と言って、桔梗屋小兵衛は袖をまくり上げた。右肘の手前ぐるりに、すさまじい火傷《やけど》の痕《あと》が現われた。平四郎は眼をみはった。
「これが何か、おわかりですか?」
「さあて」
「入れ墨を焼いた痕です」
桔梗屋は袖をおろした。顔いろも平静にもどって、淡淡とした口調でつづけた。
「私は入れ墨者です。そして女房は、小田原城下で安女郎をしていました。そこから無断で足抜きした女です。これが桔梗屋の正体です」
「………」
「おどろかれましたでしょうな」
「いや」
平四郎は首を振った。
「も少し、くわしい話を聞こうか」
「いまから二十四、五年前のことです」
と桔梗屋は言った。
桔梗屋小兵衛は、そのころ宗吉という名前で、小田原城下の呉服屋に勤めていた。手代をしていた。
手代になったころ、宗吉には城下の女郎屋に馴染みの女が出来た。おはつという名前で、はじめて会ったときは十七だった。宗吉は、もうその女とははなれられないと思っていたが、女を身請けする金があるはずはなく、また世間がそれを許すはずもなかった。ただわずかなひまを盗んでは、せっせとおはつのいる女郎屋に通うほかはなかった。
二年後に破局が来た。行李《こうり》の底にたくわえていた金はすべて使いはたし、宗吉はついに店の金に手を出してつかまったのである。幸いに、宗吉が盗み取った金は大金ではなかった。当座の遊ぶ金が欲しかっただけである。
宗吉は一年の入牢のあと、腕に入れ墨をいれられて牢を出された。その宗吉を、おはつは待っていたのである。小田原の在にある親の家に、肩身せまくうずくまっていた宗吉に、ある日おはつから伝言がとどいた。おはつは、会いたいと訴えて来たのである。
宗吉は家の中にある金になりそうな物を、残らず掻きあつめて風呂敷に包むと、そのまま小田原に走った。もう家にもどらないつもりだったから、親兄弟もこわくはなかった。城下に入って持って来た物を金に換えると、宗吉はおはつに会いに行った。そして、その夜のうちに、おはつを城下から連れ出す手はずをつけたのである。
「若いころは、無鉄砲なことをするものですなあ」
桔梗屋は、過去を顧《かえり》みる茫然とした表情になってそう言った。
「こわいものは、何もありませんでした。ただ、おはつと一緒にいたかった」
二人は江戸を目指した。当然追手がかかるものと覚悟し、その用心もしたのに、不思議にそれらしい気配もないままに、二人は川崎の宿場にたどりついた。おはつがためていた金で、道中切手だけは手に入れていたので、品川の木戸を抜けるのは大丈夫だと思われた。その夜宗吉は、小さな宿屋のひと部屋で、おはつに命じて腕の入れ墨を焼かせた。
「焼いた火箸《ひばし》をあてながら、女房は泣きましてな。用意した薬で手当てをしましたものの、翌朝は腕がこんなに……」
と言って、桔梗屋は左手で右腕を押さえてみせた。
「腫《は》れ上がりましたが、宿の者に怪しまれた様子でしたから、そのまま川崎を発ちました」
二人はどうにか江戸にもぐり込んだ。そして宗吉は習いおぼえた商いの道に、おはつはべつの商家に女中奉公に入ることが出来た。二人は懸命に働き、十年後には小さな店を持つことが出来た。
「子供も二人出来ましてね。上の子はもう十六になりました」
と桔梗屋は言った。
「商いの方も、運にめぐまれまして、十軒店に桔梗屋の看板を上げることが出来ました。もう大丈夫だと思いましたが、やっぱりその考え方は甘かったようです」
桔梗屋は、自嘲するように、低い笑い声を立てた。
「三日前に、あたしたちの昔のことを知っている男が現われて、脅しをかけて来ました。金を出さなかったら、昔のことを残らず触れ回るというのです」
「いくら出せというのかね?」
「五十両です。いえ、五十両の金は何とかなりますが、それで済むはずがありません。その男はあたしの店を喰いつぶすまで、脅しをやめないでしょう。桔梗屋はもう終りです」
そうかも知れんな、と平四郎は思った。さればといってお上に訴えて出ることは出来ない脅しである。桔梗屋が落ち込んだ苦しみの深さが見えた。
「何者だね、その男は?」
「小田原のご城下で岡っ引をしていました。あたしをつかまえたのが、その男です」
四
その男は、ずかずかと桔梗屋の店に入って来た。主人の小兵衛の合図を見るまでもなく、平四郎はひと眼でその男が恐喝の主だとわかった。
鬢《びん》の毛は、おそろしく後退して、ひとつかみほどの白髪が後頭部に残っているだけである。そのくせ顔は漁師のように赤黒く、てらてら光っている。顔の造作がまた特異だった。頬骨のあたりがつるりとしているのに、尖った鼻と口が前に突き出ているので、男の風貌は烏天狗《からすてんぐ》に似ていた。
平四郎は、すばやく店の隅から立つと、男の肘をつかんだ。
「勘七さんだね?」
「誰だい、おまえさんは」
勘七はじろりと平四郎を見た。皮膚の裂け目から瞳がのぞいている感じの眼を動かして、平四郎を上から下まで眺めた。武家を恐れる様子などまったくなく、もう長く江戸で暮らしているとみえて、言葉は達者な江戸弁だった。
「ま、素姓はあとで名乗るとして、ちょっとそこまで顔を貸してもらいたいのだが」
「おまえさんに用はねえよ」
と言ったが、平四郎が握っていた肘にぐいと力を加えると、勘七は痛そうに顔をしかめた。およその事情はそれで読んだらしい。勘七は凄い一瞥《いちべつ》を帳場にいる小兵衛に投げると、平四郎に肘をつかまれたまま、おとなしく店を出た。
店の中には、四、五人の客がいたが、平四郎が客の眼を塞ぐようにして、すばやく事を運んだので、一瞬の争いには誰も気づかなかったようである。
店先を数歩はなれてから、平四郎は勘七の腕をはなした。
「団子は好きかね?」
「嫌えだ」
と勘七は言った。そうでなくとも尖っている口を不満そうにとがらせているが、逃げる気配は見せなかった。
「じゃ、ここにしよう」
平四郎は豆腐屋の前で立ちどまった。
「一杯やりながら話したいところだが、まだ日が高い。それにうまい酒を飲めるかどうかは、おまえさんと談合してみなくちゃわからんことだからな」
「そうかね」
勘七はにべもない口調で言った。平四郎は店に入り込むと、油揚げを二枚焼いてくれと言った。そして仕事場に接している上がり框《かまち》に腰をおろした。勘七もそれに倣った。焼いた油揚げを喰うつもりとみえる。
豆腐屋の主人が、店の隅で油揚げを焼いている間に、平四郎は手短かに仲裁屋の披露目を言った。
「そういうわけで、話をつけてくれるように頼まれたのだ。かわいそうに、桔梗屋は恐れおののいているぞ」
「あたりめえだ。野郎、ふざけやがって」
勘七は罵った。
「何が桔梗屋でございだ。てめえは入れ墨者で、嬶《かかあ》は安女郎上がりのくせしやがって。あのもったいぶった店を見ただけで、胸がむかつくぜ」
平四郎はあらためて勘七の風体をじっとみた。齢は桔梗屋より少し上だろう。五十半ばと思われたが、皮膚の色、手足の太さはまだ年寄りという感じではない。
だが着ている物は、かなり粗末だった。ボロとまでは言わないが、よほど洗いざらした代物《しろもの》で、裾の方に大きな継ぎがしてある。
「おまえさん、もとは岡っ引をしてたそうだが……」
と平四郎は言った。
「いまは、何で喰ってるんだい?」
「そこまで聞かせる義理はねえよ」
「ま、そう言わずに聞かせてもらいたいものだ。わしは素姓も名も名乗った。おまえさんも言うべきだ。言って損するものでもあるまい」
「川船の船頭だ」
勘七はうるさそうに言ったが、そこに主人が皿に乗せた油揚げをはこんで来たので、馳走になるにしては無愛想にすぎたと思い直したらしい。つけ加えた。
「荷舟だよ。運ぶのは材木だな」
「ま、喰ってくれ」
平四郎は油揚げをすすめた。醤油をかけると、油揚げはいい匂いを立てた。
「ずっと船頭かね?」
「その前は深川に長くいた。子供屋で働いてたんだ。お武家は知ってるかどうか知らねえが、芸者や女郎を抱えている家さ」
勘七はがつがつと油揚げを喰った。どうやら腹が空いているらしく、とても五十両の脅しをかけて来た大物には見えない。
「子供屋ぐらいは、わしだって知ってるよ」
と平四郎は言った。
「それじゃ、かなりいい思いもしたろう?」
勘七はちろりと平四郎を見た。
「ああ、女には不自由しなかったな。懐にはかなりの駄賃も入って来たし、あのころはよかった。ご改革とかでダメになりやがった」
「一人かね?」
「一人だよ。一人暮らしは気楽でいい」
平四郎は油揚げを口にはこんだ。荒涼とした一人の男の暮らしが見えて来た。もとは岡っ引で、そのあと江戸へ出て長く女郎屋の下働きをして来た男だ。いまは女郎屋が潰れたので荷舟の船頭をしている。身の回りに女はいない。むろん子供もいない。
その男が、ある日呉服屋の店先で、むかしつかまえたことがある入れ墨者を見つけたのだ。その店の主人だ。驚愕した男は、なおよく調べてみたに違いない。ひとをさぐるのは、かつての男の生業《なりわい》だった。そして桔梗屋の主人はむかしの入れ墨者に間違いなく、女房はその男と一緒に姿をくらました小田原の女郎なのを突きとめたのだ。
そのとき男の胸を焼いたのは、おそらく憤怒だったろう。怒りには、強い嫉妬が含まれている。男は、この世の中で浮かび上がった者と、沈んだ者の姿をはっきりと見たのだ。
「小田原を出たのは、いつごろかね?」
「そんなことはいいじゃねえか。身元調べはもう沢山だ」
油揚げを喰い終った勘七が言った。烏天狗のような顔に、はっきりと不快そうな表情がうかんだ。
「さあ、本題に入ろうぜ、仲裁屋さんよ」
「よかろう」
と平四郎も言った。皿を置いて、正面から川船頭の顔を見た。
「桔梗屋は、五十両の無心には応じられないと言っている」
「………」
「なるほど考えてみれば、入れ墨者が改心して働いて、呉服屋になってわるいという道理はないからな。おかみさんのことにしてもそうだ。逃げたときには、借金はいくらも残っていなかったそうじゃないか。だから女郎屋も追手を出さなかったのだ。まして二十年も昔の過ちだ。もうむこうだって忘れてる」
「………」
「もっとも桔梗屋は、折りをみて小田原に謝りに行ってもいいと言っている。そうなれば、もうおまえさんに脅されることもないわけだ。そういう次第で、五十両などという大金は出さん」
「いくらなら出すんだ?」
「十両。そのへんが相場だろうと、わしも申した」
「おい、仲裁屋さんよ」
勘七が変に低い声で言った。
「ずいぶん、ひとをナメたことを言うじゃねえか」
「べつに、ナメたわけじゃない。世間相場というものを言っただけだ」
「そうかね」
勘七は平四郎にじっと眼を据えた。細い眼に無気味な光が宿ったように見えた。
「しかしそれじゃ、桔梗屋もあんたも、考えが甘えのじゃないかね」
「………」
「いいよ、そっちがそのつもりなら十両なんてはした金はいらねえよ。そのかわり、しつこく世間に触れてやるぜ、おい」
勘七は、もと岡っ引の執拗な本性をむき出しにかかって来たようだった。
「こうみえてもおれは文字が書けるからな。店先に張り紙してやるぜ。なに、毎日店先にがんばって、客をつかまえて話してやったっていいんだ。主人は入れ墨者で、嬶は安女郎上がりだってな」
「………」
「十日もやったら、桔梗屋の店には閑古鳥が鳴いて、蜘蛛が巣を張るだろうぜ。そうなったら、さぞ面白かろう。桔梗屋なんて構えたって、もうおしめえだ」
「そんなことをしてみろ。貴様も脅しでつかまるぞ」
「脅し?」
勘七は、のっそりと立ち上がった。
「金はいらねえと言ってるんだ。どうして脅しでつかまるんだい?」
「………」
「けっ、もう少しいい話かと思ったら、おまえさんたちの知恵はそんなもんかい。それじゃ、あばよ。ごちそうさん」
「待て」
平四郎も立ち上がった。失敗したと思った。相手はひと筋縄でいかない男のようである。執念深い上に、狡猾《こうかつ》な知恵も持ち合わせている。
「まあ、そういきり立つな」
金を払って豆腐屋を出ると、平四郎は言った。
「いま少し、色をつけた話にならんかどうか、桔梗屋と相談してみる」
「信用ならねえ」
「信用ならん? それじゃ思うとおりにやれ」
平四郎は立ちどまって、勘七をにらんだ。
「そのかわり、こっちも貴様のこれまでの行状を残らず洗うぞ。どうせ真白の堅気暮らしというわけじゃあるまい。|しみ《ヽヽ》を見つけ出して牢屋にぶち込んでやる」
勘七の顔に、はじめてひるんだような表情がうかんだのを見ながら、平四郎はもうひと押しした。
「牢屋じゃ、もと岡っ引というと、囚人たちが大喜びでかわいがってくれるそうじゃないか」
桔梗屋にもどって、勘七との交渉をいま少し先にのばしたことを告げ、早目の夜食を馳走になって裏店にもどると、薄闇につつまれた軒下に、仙吉がうずくまっていた。仙吉は兄監物の配下、御小人目付の樫村喜左衛門に使われている探索の男である。
仙吉は、平四郎を見るとすぐに立ち上がって、足音もなくそばに寄って来た。
「お目付さまがお呼びです」
「いまからかい?」
「すぐにお連れして来いとのお言葉です。大そうお急ぎのご様子でした」
「やれやれ」
平四郎はため息をついた。兄の呼び出しはいつも気ぜわしいのだ。桔梗屋で、飯を喰って来てよかったと思った。
平四郎は仙吉と肩をならべて、すぐに裏店の路地を出た。遅れると、兄の機嫌がわるくなるのはよくわかっている。
「どこまで行くのだ?」
「通《とおり》町の三丁目です」
と仙吉は言った。何だ、さっき行って来た通りにもどるのか、と平四郎はうんざりした。そのうえ、十軒店は日本橋の北だが、通町はもっと遠い、橋の南にある。
「ゆっくり行こう。な?」
仙吉は無口で足が速い。ともすればこっちが遅れがちになるので、平四郎はうしろから声をかけたが、仙吉は足どりをゆるめなかった。
「お帰りを四半刻(三十分)ほどお待ちしましたので、急ぎませんと」
「なに、四半刻ぐらい、どうということはない」
息をはずませて平四郎は言ったが、ふと思いついて仙吉に追いつくと、横に並んだ。
「兄の用が終ったら、またわしにひと仕事頼まれてくれんか。ちと遠方に行ってもらいたいのだ」
仙吉は返事をしなかった。黙黙と足をいそがせて、あまり歓迎しない様子である。
「むろん、樫村さんには話す。路銀も用意するし、駄賃もたっぷり出すぞ。たまには旅もよかろう」
仙吉は、やっと平四郎に顔をむけた。
「遠方というと、どちらですか?」
「小田原だ」
と平四郎は言った。
五
女中に案内されて入った二階の部屋は、真暗だった。その闇の中から、いきなり叱声が飛んで来た。
「おそいぞ。どこをうろついておった?」
ご機嫌斜めの兄の声は、窓のそばから聞こえて来る。見ると、戸をあけた窓の内側に、黒い頭が二つ見える。一人は樫村喜左衛門だろう。
手当てをもらって雇われているわけじゃあるまいし、どこをうろつこうと勝手だ、と思ったが、平四郎は黒い人影に膝でにじり寄って、詫びを言った。
「申しわけありません。野暮用で外に出ておりましたもので」
「まあ、いい。そこに控えておれ」
監物はいばって言った。そのまま樫村とひそひそささやき声をかわして、窓の外に顔をむけた。どうやら向かい側の料理茶屋山吹の玄関先を見張っている様子である。
平四郎は何もすることがなくて、手持ち無沙汰に坐っている。仙吉にうながされて、小ぎれいな小料理屋の中に入ったときは、さては兄が、日ごろの護衛仕事を多として、一杯飲ませるつもりかなと胸ふくらませたのだが、一杯どころかお茶も出る気配がない。ただ暗やみに坐らされているだけである。
所在なく、平四郎が鼻毛を引き抜いていると、突然兄と樫村が鋭くささやきかわすのが聞こえた。
「見たか?」
と言ったのは兄である。樫村の声が答えた。
「たしかに。ご老中に間違いありません」
「なるほど、土井侯か。ほう、ほう」
と監物がつぶやいて、二人はまた沈黙した。沈黙したが、部屋の中の空気は異様に張りつめている。わけは知れないままに、平四郎も鼻毛を抜く作業を遠慮して、じっと暗がりの二人を見つめた。
ものの四半刻も経ったかと思うころ、また監物がささやいた。
「出て来たぞ」
「では」
樫村が一礼するのが見えた。
「こちらはお駕籠をつけて、見届けます」
「頼むぞ。気をつけろ」
監物が言うと、樫村は平四郎と挨拶をかわす間もなく、すばやく部屋を横切って出て行った。
「平四郎、こっちへ来い」
しばらくして監物が言ったので、平四郎は窓ぎわに行った。外を見ると、料理茶屋山吹の玄関先が丸見えである。門にも、門を入って短い砂利道の先にある玄関にも、懸け行燈が出ていて出入りするひとの顔がよく見えた。
「あの中に……」
監物は山吹の方にあごをしゃくった。
「鳥居が来ておるらしい」
「ははあ」
「その知らせと、そのあとの山吹の様子が物物しい、鳥居は料亭に客を迎えるのではないかという樫村の報告があったので、いそいで来てみたのだが、事実だった」
「………」
「客は土井老中だった。目付が老中を呼びつけるとは奇怪だが、内実はそうではあるまい。鳥居は老中屋敷をたずねるのを憚《はばか》ったのだろう。土井さまに会うことを、何びとにも知られたくなかったのだ」
「………」
「そして土井老中が、お忍びで市中に出て来たということは、ぜひとも鳥居の話を聞きたかったからにほかならぬ。いや、待てよ」
監物は振りむいて、暗い部屋の中にしばらく眼を凝らした。そして、やっと平四郎に顔をもどした。
「いや、ただの話ではなく、鳥居はご老中に書類を渡したかも知れんな。鳥居は手もとに、ご改革に関する膨大な機密書類をにぎっておる。中には改革反対派に対して行なって来た探索、恫喝、落度さがしといった工作の記録も含まれている、そういう書類だ。それが反対派の手に渡れば、水野老中はまず失脚ものだな」
「………」
「いや、いや、まだそこまではやっておらんか」
顔は平四郎にむけているが、監物の小声は自問自答に似ている。
「取引きか、ふむ。鳥居は手の内の書類を明かして、水野失脚後の身分保証をもとめたのかも知れんな」
監物はようやく納得出来る推測を得たらしく、身じろぎして窓の外に眼をむけた。それから一刻(二時間)、監物は平四郎に話しかけることはおろか、しわぶきの声ひとつ立てず山吹の監視をつづけた。身じろぎもせず、じっと眼を光らせている姿は、探索の鬼といった恰好だった。自分の兄ながら、平四郎はそういう監物の姿に、一種|畏敬《いけい》の気持をおぼえたほどである。
時刻はおよそ五ツ半(午後九時)過ぎ。見張りの間に町は少しずつ灯を落とし、暗くなっていた。料理茶屋、小料理屋がならぶ通三丁目のその一角も、店はつぎつぎと灯を落とし、山吹の懸け行燈も、門の灯は消えて、残るのは玄関先の一灯だけである。
無言で、監物が平四郎の膝をつついた。いつの間にか、玄関先に黒い駕籠が据えられて、その周りに数人の人影が動いている。中の一人が駕籠に入ったが、それが鳥居甲斐守かどうかはわからなかった。
「行くぞ」
兄の低い声で、平四郎は立ち上がった。足がしびれていて、思わずよろめいたが、監物もそこまで気を配るゆとりはないらしかった。部屋を出ながら、もう頭からすっぽりと頭巾をかぶっている。玄関に降りると、四十年配の、この店のおかみと思われる女が出て来て、無言で二人を見送った。
小料理屋の軒を出ると、わずかに射す路地の明かりで、いままさに大通りに出て角を曲ろうとしている駕籠が見えた。監物と平四郎は、いそいであとを追った。
表通りに出て、黒黒と動く駕籠の一行を見送っていると、思いがけなく道の一カ所が急に明るくなった。提灯だった。供の小者が、表通りに出てから提灯に灯をいれたらしい。立ち上がった提灯持ちは、小走りに駕籠に追いついた。その明かりで、駕籠には帯刀の武家二人がつき従っているのが見えた。
「提灯を見たか」
ゆっくりと遠ざかる駕籠を見送りながら、監物が言った。
「鳥居の家紋だ。ずいぶんと用心しているが、ま、当然だろうて」
「後を追いますか?」
「いや、ここまで見届ければよかろう。帰るぞ」
監物は先に立って、いま出て来た路地にずんずんもどって行った。監物はこのあたりの地理にくわしいらしく、暗い路地を、迷う様子もなく器用に折れたりして、やがて紅葉川の河岸に出た。
出たところ一帯は新場と呼ばれて、河岸に肴屋《さかなや》が立ちならび、毎日魚の市が立つ場所である。肴屋の店はもう寝静まったらしく、灯のいろもなく黒黒と一列に並んでいる。暗い中に魚臭だけが立ちこめていた。
そんな場所を歩くときも、監物の歩き方は、わき目を振らず肩肘張ってずんずん歩く目付風である。平四郎には何となく滑稽に思われるが、さっきすさまじい目付の仕事ぶりを目にしただけに、そういう兄を侮る気持は起きなかった。河岸の道は、真直ぐ行けば、白魚橋、真福寺橋を渡って築地に入る。
河岸の道の中ほどにある越中橋まで来たときには魚臭は遠のいていた。川にはいくらか風が通るとみえて、河岸の柳が時おりもの憂げに枝を振り、その下に仄白《ほのじろ》く道がつづいているだけである。河岸の反対側に並ぶ材木町の家家はぴったりと戸を閉ざし、道にはひとの気配はなかった。
前を向いたままで、監物がいままで考えていたことを洩らすというふうに、ぽつりと言った。
「越前どのも、今年の冬まではもつまい」
そのとき、平四郎は背後から風のようなものが来て、横を走り抜けたのを感じた。白刃が光り、黒い影が監物に躍りかかる。だがその一瞬前に、平四郎は地を蹴って二つの人影の間にすべり込んでいた。
平四郎が抜き合わせた刀が、相手の刀をはね上げたとき刀が鳴り、火花がきらめいた。相手はすばやく反転すると、するすると足をひいて間合いをあけた。地を摺《す》るような右下段の構えをとって、黒い人影はぴたりと静止した。
顔をたしかめるまでもない。相手は鳥居の股肱《ここう》、奥田伝之丞だろう。黒鍬《くろくわ》の者から、剣の腕を見込まれて鳥居の警衛に転じた男である。おそらく今夜は、駕籠で帰る鳥居をはなれて、その後の動きを見張っていたに違いない。
──あぶなかった。
平四郎はぞっとした。平四郎は奥田を、居合に熟練の業《わざ》を持つ男とみている。その第一撃を、ともかくはね返せたのは僥倖《ぎようこう》だったと思ったのである。平四郎の踏みこみが、一歩遅れたら監物は斬られていただろう。
「兄上」
慎重に青眼の構えを固めながら、平四郎は背後に声をかけた。
「そこを動かないでください。手出しは無用ですぞ」
監物が、よしと言った。平四郎ははだしの爪先を使って、ぐいと前にすすんだ。奥田は黒い塑像《そぞう》のように動かない。だが、平四郎がまさに斬り合いの間合いに入ろうとしたとき、奥田は身じろぎして足を踏みかえた。右足が前に出て膝がゆるみ、奥田の身体はわずかに沈んだ。平四郎は足をとめた。
──攻めの型だ。
右下段の剣は、平四郎の打ち込みをかわして反撃に転じる守勢の型だと思ったが、違うようだった。奥田はそのままの構えから攻撃して来るつもりらしい。
地を踏みしめながら、平四郎は奥田の右に回った。奥田は、いつかは結着をつけねばなるまいと心がけて来た宿敵である。奥田を斃《たお》さないかぎり、兄の安全は保障しがたい。つねに暗殺の危険にさらされるのだ。
結着をつける、いまがそのときだと平四郎は思った。一歩もひかない構えをみせている奥田もそう思っていることを、疑わなかった。
奥田も身体を回したが、その足はこびがわずかに乱れた。平四郎は猛然と斬り込んで行った。踏みこんで相手の肩を一撃する。だが、はたして奥田はかわさなかった。奥田の身体は地をなめるように沈んだ。その姿勢のまま、平四郎のわきをすり抜けて行った。すさまじい一撃が平四郎のわき腹をかすめた。
──ふん、やるもんだ。
平四郎は胸の中で悪態をついた。平四郎の剣先は相手の肩の肉を裂いたはずである。だが平四郎も斬られていた。わき腹がひりひりするのは、奥田の下段から摺り上げて来た剣が、着物を裂き、皮膚をかすって行ったのである。しかしまあ、大したことはあるまい。
平四郎は、青眼から剣を八双に構え直した。奥田はじっと動かず、こちらを見守っている。今度は左下段に構えていた。変化を予測しがたい構えだ。平四郎もすぐには間合いをつめず、慎重に相手の出方を窺った。
対峙は、およそ四半刻(三十分)はつづいたろう。ついに奥田が足を踏みかえた。奥田は剣をそろりと青眼に移した。つぎの瞬間、奥田は四間の距離をすべるように走って来た。平四郎は動かなかった。斬り合いの間合いに踏みこんだ奥田の剣先が上がる。その一瞬をとらえて平四郎も前に踏みこんだ。八双の剣が奥田の頭上を襲う。奥田はその剣を払った。そして体を回しながら矢のような刺突を仕かけて来た。だが平四郎は踏み込んだ足を軸に、ほとんど一本立ちに相手の剣をかわしながら、目にもとまらぬ第二撃を相手の籠手《こて》に叩きつけていた。そのときには次の足を存分に踏み込んでいる。
面から籠手へ、肩打ちから籠手へ、一足の踏み込みからつぎの踏み込みまで、息をつかせぬ連続わざ。師匠の矢部三左衛門が磯波と名づけた矢部道場の極意わざを、奥田はかわせなかった。
刀を握った手首を切りはなされて、奥田はよろめいた。だが、奥田も剣士だった。大きくうしろにとぶと、左手ですばやく小刀を抜いた。
「ごめん」
平四郎ははじめて声を出した。とどめの一撃を肩に打ち込んだ。肩を斬り下げられて、奥田はなおも小刀を構え、幽鬼のようによろめき立っていたが、ついに膝を折った。音を立てずに奥田の身体はゆっくりと崩れ落ち、やがて手足をのばして横たわると動かなくなった。
肘を上げて、平四郎は顔面の汗をぬぐった。精根を使いはたして、出来れば自分も奥田のように、地面に横になりたいぐらいだった。
背後から、監物の声が聞こえて来た。
「平四郎、おまえは剣だけは見どころがある男と思っていたが、わしの眼に狂いはなかった。よくやった」
めったにない兄のほめ言葉だが、平四郎は息がはずんですぐには答えられなかった。
たずねあてた勘七の家は、松坂町の一丁目裏。回向院《えこういん》の塀と境を接するごみごみした裏店の中にあった。
勘七は褌《ふんどし》一丁の姿で出て来た。上がり框にあぐらをかくと、すくい上げるような眼つきで平四郎を見た。
「やっぱり五十両は出せんそうだ」
「………」
「五十両渡して、それで終りという保証はないからな。桔梗屋の言うことももっともだ」
「それじゃ、あのことをバラしてもいいんだな」
勘七が陰気な声で言った。
「桔梗屋は仕方ないと言っている。そのかわり、もし世間に触れ出されたら、桔梗屋の方もおまえの旧悪を訴え出るそうだ。それでおあいこにしましょうというわけだ」
「………」
「小田原で、物持ちの家の女房の浮気を種に、だいぶ金を脅し取ったそうじゃないか。おまけにその女房を手籠《てご》めにかけて、口ふさぎに殺しにかかったところを騒がれて、そのまま城下を逃げ出したということもわかっている」
「………」
「脅しで金を巻き上げたのは、その女房だけじゃないそうだから、訴えられて奉行所につかまったら大変だよ、じいさん。旧悪が全部出て来たら、よくて島送り。へたすると打首が相場だろうな」
勘七はぐったりと首を落としている。骨組みだけはたくましいが、よくみると皺だらけの裸だった。いくら残暑だといっても、もう裸という季節ではない。あちこちがたるんでいる裸と汚れた褌がみじめだった。
勘七が顔を上げた。光を失った細い眼で、平四郎をじっと見た。
「じゃ、宗吉の野郎は一文も出さねえというのかい?」
「いや、おまえさんが二度と桔梗屋に顔を出さないと誓えば、昔なじみにいくらかの金は融通してもいいと言っている。それで事が穏便に済めばということだ」
「いくらくれるんだい」
「二十両だ。この前、色をつけると言っただろう。わしは嘘は言わん」
「………」
「ただし、それっきりだ。それ以上はビタ一文出さんし、またおかしなこと言い出したら、今度はすぐに奉行所に訴えて出る。わかったかね?」
「わかった」
と勘七が言った。何かぶつぶつとつぶやいたが、急にはっきりした声で言った。
「よし、それで手を打とう」
「いばってる場合じゃないだろう、じいさん。こっちもおまえさんのキンタマをにぎっていることを忘れなさんな」
平四郎はたしなめた。その金は、明日桔梗屋にもらいに行けと言いおいて、異臭が籠る家を出た。
明るいが、夏のはげしさはない日射しが、身体をつつんだ。背後の家の中に、裸の恐喝男が、まだ、じっと膝を抱いてうずくまっている気配を感じながら、平四郎は木戸口にいそいだ。
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燃える落日
一
重厚な文字で、雲弘流指南と書いた看板を表に掲げると、三人の男は万感こもごもいたるといった顔で、しばらくその看板を眺めた。それから屋内に引き返して、床板にじかに敷いた荒むしろの上に車座にあぐらをかいた。
三人の男は、明石半太夫、北見十蔵、神名平四郎である。三人の前には、箸と盃しかのってない膳が据えてある。
「やはり、匂うな」
平四郎が鼻をひくつかせて、あたりを見回した。神田連雀町の裏通りに、いま三人が看板を掲げたばかりの道場は、もとは醤油問屋の納屋だった建物である。
道場に改築することでは家主とひと悶着あったが、話がついて床板を張り、大き目の武者窓を三方につけ、師範席と神棚を設けると、建物はこれが醤油屋の納屋だったかと思うほど、十分に広い道場になった。予想外に出費が嵩《かさ》んだが、ここまで仕上げた大工の腕には、三人とも満足している。
だが、ついこの間まで醤油の空樽が詰まっていた建物は、隅隅まで醤油の匂いがしみこんで、嗅ぐ気がなくても匂って来る。
「なに、気にすることはない」
と明石が言った。
「道場開きが済んでだ、稽古がはじまれば、匂いなど気にもならなくなる」
「そうだ」
と北見十蔵もうなずいた。
道場開きは、まだ先のことである。道場の南側の壁がぽっかりと口をあけている。日の光が入って来るそこにまだ建てかけの木組みが見えるのは、狭いながら母屋をくっつけるつもりだし、竹刀《しない》、防具などの稽古道具もまだ入れていなかった。
今日は大安吉日。北見が縁起をかついで新しく看板を書き上げたので、三人はとりあえず半出来の道場に看板を掲げにきたのである。三人は、何かというと誘い合わせて、新しい道場を見に来ずにはいられない。
神棚だけは、小さな白木の社《やしろ》と八幡宮のお札をおさめて出来上がった。そこに御神酒《おみき》が上がり、灯火がゆらめいているのは、さっき看板をそなえておがんだ名残りである。あとは直会《なおらい》、神棚にささげた御神酒を頂いて、簡単な酒盛りをするつもりだった。
「おそいな」
明石が首をのばして、外をのぞくようにした。外では、明石の妻女が、酒をあたためているはずだった。と言っても、今日は休みの大工が、竃《へつつい》がわりに地面に穴を掘って使っている焚火跡に鍋をかけるので、火を焚きつけるのに苦労しているらしい。
時おり柴が火にはじける音がし、うっすらと煙の匂いが入って来る。
「まあ、いいではないか。ゆっくり行こう。まだ日は高いことだし」
北見がのんびりと言った。
「道場開きには、矢部先生も来てくれそうだ」
平四郎が言うと、明石も北見も明るい顔になって、それはよかったと言った。旧道場への挨拶は、平四郎に一任されている。
「吉報があるぞ」
「何だ」
「先生が、前回の始末をいたく心配されていてな」
と言って、平四郎は明石の顔をじろりと見た。
「先生は、この前はただ人が集まらずに失敗したと思っておられる」
「それで?」
明石が狼狽した顔になった。
「ほんとのことを言ったのか?」
「そんなことは言わんよ。いまさら、内輪の恥をさらすことはない」
「そうだ。そのとおりだぞ」
明石は額の汗をぬぐっている。
「ともかく、そう思っておられて、今度は五人ばかり、門弟をわけようとおっしゃってくれた。この近辺から露月《ろうげつ》町の道場に通っている者が、五、六人いるそうだ」
「有難い話だ。大きに助かる」
と北見が言った。
「わしも三人ほど……」
明石が鼻の穴をふくらませた。
「前の道場から誘ってある。これでも、わしゃ初心の者の面倒見がよかったからの」
「すると、あてにしていい門人が、十人足らずはいるわけか」
と北見が言った。
「幸先いいのう。わしも藩邸に顔出しして、ひととおり披露目だけは言って来ようかの」
「矢部先生の話だが、近ごろは江戸詰の若い藩士、町人などの弟子入りがふえているそうだ」
平四郎が言うと、明石が大きくうなずいた。
「異人船だ、打ちこわしだと、世の中が物騒になって来たからよ。わが道場も、いい時期に開くというものだ」
本来なら道場は二年前に開けているのである。明石の言葉には、依然として反省が抜け落ちているが、平四郎はあまり気にならなかった。待望ひさしかった道場が、多少醤油の香がするとはいえ、こうして出来上がったのを見ると、やはり気持が浮き立つ。前途洋洋という気分になる。こまかいことは言いたくない。
「ところで、母屋が出来上がったら、誰が留守番に入ることになるな?」
北見が言って、明石と平四郎の顔を見くらべた。
「わしは寺子屋があるからの。当分はいまの家をはなれられんぞ」
「こっちはひとり者だ」
平四郎と北見は顔を見合わせ、それから明石をじっと見た。
とたんに、明石の顔が真赤になった。さすが厚顔、押しの一手で世を渡って来た明石も、この前の不始末を思い出さないわけにはいかなかったようだ。外には、あのときの夜逃げの相棒がいることだから、なおさらである。
「わしはいかん。わしは遠慮するぞ」
明石は外を振りむき、小声で言った。
「いやなに、また夜逃げするわけはないが、その、何と申すか、道義、さよう道義としてだ。わしは自粛すべきものだと思う」
「そうかも知れんな」
北見が重重しくうなずいた。そして平四郎を振りむいた。
「神名、貴公が泊るか」
「おれか」
平四郎は道場を見回した。どうせ自分で飯を炊くのだから、どこに住んでも同じようなものだが、にぎやかな裏店から、急にがらんとしたところに引越して来ることを考えると、いささかひとり者のわびしさが身に沁みるようだった。
「そうしろ、ここに腰を落ちつけろ」
明石は騒騒しく言った。
「腰を落ちつけて、嫁でもさがさんか。ひとり者はどうもむさくるしくていかん。いや、北見のことじゃない。北見は根が所帯持ちゆえ身ぎれいにしとるが、貴公は近ごろ薄汚れる一方のようだ」
「そうかね」
「そうとも。当道場の品位にもかかわることばい。嫁を見つけろ」
膝をむけて、明石が説教口調になったとき、明石の妻女が酒をはこんで来た。妻女はきれいに化粧をして赤い襷《たすき》などをかけ、豊満な女っぷりにいっそう磨きがかかったように見える。
「お待たせしました。お燗《かん》がつきましたよ」
明石の妻女は、こういう集まりが嫌いではないらしく、浮き浮きした声で言いながら寄って来たが、何もない膳の上を見て眉をひそめた。肴《さかな》は後でとどくと、北見が言ったのである。
「おや、お肴はまだでございますか」
「なに、いまに来よう。そろそろはじめようではないか」
北見は立って行って、うやうやしく神棚に一拝すると、御神酒の徳利をおろした。そのとき、通りに面した入口のあたりが、急ににぎやかになったと思うと、手に手に風呂敷を抱えた中年の女が、一度に三人も道場に入ってきた。
「先生、おそくなりました」
床に膝をついてそう言ったのは、北見が教えている手習いの子供の母親なのだろう。なるほど、肴は注文してあると北見が言ったのは、母親たちの差し入れのことかと、平四郎は納得した。
「鯛を焼かせましたんですよ。それが案外に手間どりまして……」
と言って、女は改めて道場の中を見回した。
「まあ、ご立派な道場が出来まして。おめでとうございます」
「さあ、こっちに寄ってくれ」
鷹揚《おうよう》に北見が言うと、女たちはきゃっきゃっと笑い声を立てながら三人がいる場所に来た。北見が道場のことを話し、女たちは差し入れがてら道場を見に来たという様子だった。北見の人気はなかなかのものだ、と平四郎は思った。
道場の中が、不似合いな女たちの声で一ぺんににぎやかになった。
二
平四郎が村松町の与助店にもどって来たのは暮れ六ツ(午後六時)過ぎ。路地はもう薄暗くなっていた。
平四郎はいい気分に酔っている。肴を差し入れて来た母親たちがお酌をし、明石の妻女も気取っているような女ではないから、それに加わって、けっこうにぎやかな小宴になった。女たちの酌で平四郎はかなり飲み、強いられて謡《うたい》のひと節をうなったりした。
──おや……。
家の前まで来て、平四郎は酔眼をみはった。家の中に灯がともっている。いくらか酒がさめた気分がしながら、おもわず刀の鯉口を切ったのは、この前鳥居甲斐守の警固人、奥田伝之丞を斬ったことを思い出したからである。
鳥居の執念深さは、兄の監物からいやになるほど聞かされている。奥田を討たれた鳥居が、刺客をむけて来たということだってあり得る。
平四郎は、静かに戸をあけた。足音を立てずに土間に踏み込む。台所で水音がした。のぞきこむと、うずくまって水仕事をしていた女がぎょっとしたように平四郎を振りむいた。早苗だった。平四郎は、茫然と早苗の顔を見た。
「お帰りなさいませ」
襷をはずしながら台所の入口に出て来た早苗は、板の間に坐って頭をさげた。
「ここで、何をしておるな?」
思わず、平四郎は間の抜けたことを聞いた。不意討ちを喰って、酔った頭が少し混乱を来たしている。
だが、早苗の返事もおかしなものだった。うろたえたように言う。
「はい、お米をといでおりました」
「いや、何か緊急のことがあって参られたかと聞いておる」
「いいえ」
早苗は首を振った。もう落ちつきを取りもどして、早苗は正面から平四郎の顔を見た。
「わたくし、菱沼の家を出て参りました。ご迷惑かも知れませぬが、今夜からこの家に置いて頂きます」
「迷惑……」
平四郎は絶句した。そうか、早苗がとうとう決心をつけたかと思った。言葉がつづかなくて、平四郎は早苗の手を握った。白くて細い指だった。
「よく参られた。よろしい、あとはわしがケリをつけることだ。そなたは大船に乗った気持でいられよ」
手を握るだけでは物足りなくなって、身体を乗り出して肩に手をのばすと、早苗が身じろぎして身体をひいた。
「あの、お客さまですよ」
「客?」
平四郎はぎょっとして、しまっている障子の方を見た。声をひそめた。
「中にいるのか?」
「はい、さきほどからお待ちかねです」
平四郎は憤然として履物を脱いだ。せっかく気持が盛り上がったところで、客に水をさされるのは今度が二度目である。それも商売が繁昌して、応接にいとまないほどに客が来るというのならべつだが、ふだんは閑古鳥が啼いているくせに、大事なときに客が来る。
平四郎は心もち荒っぽい手つきで障子をあけたが、中にいる客を見て拍子抜けした。火鉢のそばに、膝をそろえて坐っているのは、まだ十にはなるまいと思われる男の子である。
子供は、うなだれていた顔を上げて、平四郎を見た。その顔に見おぼえがある。
「ええーと」
平四郎は子供の前に坐って、ろくに洗っていないらしい薄汚れた顔と、膝の上の手を見た。
「あんたは、よくこのへんで遊んでいる子供だな」
「………」
「何か頼みがあって来たらしいが、言ってみなさい」
「………」
「どうした? 黙っていてはわからんぞ」
平四郎が言うと、子供は急にしくしく泣き出した。うつむいて泣きながら、膝の上の拳《こぶし》を固くにぎっている。
「男が泣いちゃいかんぞ。さあ、話しなさい」
「………」
「早苗どの」
平四郎が呼ぶと、はいと言って台所から早苗が顔をのぞかせた。かいがいしく襷がけした腕が、白くまぶしい。
「客と言ったが、この子はそなたに何か申したのかな?」
「はい。父親が行方知れずだそうでございますよ」
襷をはずして部屋に入って来た早苗がおっとりした声で言った。
「何でも、大そう酒癖のよろしくないおひとだそうで、その父親が行方知れず、母親は病気で困っているというお話でした。ね? あなた、そうでしたね」
子供は泣きやんでうなずいた。
「前にも一度、平四郎さまをお頼みしたことがあるとか申しましたよ」
「わかった。八助だ」
平四郎は言って、子供の顔をのぞいた。
「お前、八助の子供だな?」
「うん」
と子供は言った。
「八助はいつからもどらないんだ?」
「昨夜から」
「それで? おっかあがどうしたと?」
「腹が痛くて寝てる」
「ここへ行けと、おっかあが言ったのか?」
「うん」
平四郎は早苗を振りむいた。
「行方知れずなどという大そうなものじゃない。また、飲んだくれて家へ帰るのを忘れてるんだ。どれ、ちょっと様子を見てくる」
行ってらっしゃいませ、お気をつけあそばせという早苗の声に送られて、平四郎は子供を連れて家を出た。
八助は、裏の同朋町に住む桶職人である。父親の代からの桶職で、一応は町の表長屋に小さな店を構えているが、商売はさほどはやらず、新しい桶をつくるよりは、修繕の古桶の尻を叩いていることが多い。
といっても、家族は八助のほかに女房と子供二人で、喰って行くにはそれでさしつかえないのだが、亭主の八助には悪癖があった。ふだんは無口でおとなしい男だが、年に二、三度物に憑《つ》かれたように酒を飲んで、あげくのはてに姿をくらますのである。
姿をくらますといっても、女を買いに行くとかいうのではない。飲み足りなくて外に出る。そして一たん出てしまうと、長いときは数日ももどって来ないのだ。その間は、生きているのか死んでいるのかもわからない。
はじめのころ、女房はひとを頼んでさがしに行ってもらっていた。だが度重なると、頼まれる方もいい顔はせず、逃げるようになったので、女房は子供の手を引いて自分でさがしに行くようになった。
ところが八助もさるもので、飲んだくれの嗅覚《きゆうかく》がさがしあてるのか、めったにはひとに見つからないような、しかも安くてうまい酒を飲ませる店を見つけてもぐり込むので、さがしあてるにはひと苦労するのである。八助と女房は、ここ四、五年というもの、そういうかくれんぼのようなことを繰り返しているのだった。平四郎が頼まれたのは、今年の冬のことである。
平四郎の顔を見ると、八助の女房は床に起き上がろうとした。三十半ばの女房は、ざんばら髪のすごい顔をしていたが、平四郎を見てほっとした顔色になった。
「いい。そのまま寝ておれ」
と平四郎は言って、女房の枕もとに坐った。
「腹が痛むそうだが、ぐあいはどうだ?」
「さっき薬を飲んだら、いくらか落ちつきましたけど」
「また、出たそうだな」
「ええ、ほんとにしようがない男ですよ。もうほっとこうかと思ったんですけどね。あたしも腹が痛んだりして心細いものだから」
「さがしてみよう。と言っても、今夜のうちに見つかるかどうかはわからんぞ」
「いいんですよ。旦那がさがしてくれていると思うだけで、気が休まりますから」
「よし、わしにまかせろ。さがし物二百文だが、いいか?」
「はい、わかっています」
平四郎は膝を起こした。
「今夜は柳橋のあたりをさがしてみる。ところで、子供の飯は大丈夫か?」
「さっき、隣のおきよさんが来てくれて、支度してくれましたから、大丈夫です」
「まったくしようがない亭主だな」
ぼやきながら、平四郎は八助の家を出た。
その足で平四郎は手近な柳橋平右衛門町に行った。心あたりをさがしたが、八助の姿は見つからなかった。足が疲れただけで、平四郎はむなしく広小路にもどった。不景気な町が、暗くおし黙っている。
平四郎は両国橋の方を見た。橋のむこうに、わずかに灯のいろがちらついていた。
──やっこさん、むこうに渡ったな。
そういう勘が働いたが、橋を渡ってさがしに行く気にはなれなかった。時刻がおそく、疲れていた。腹も空いていた。
そして、平四郎はさっきからひとつのことが気になっていた。早苗のことだった。平四郎の酔いは、あらかたさめている。さめてみると、さっき家にいた早苗はまぼろしではなかったかと思えて来るようだった。
平四郎は足を返すと、いそいで家の方にむかった。
三
平四郎は一ツ目橋を南に渡った。
時刻はおよそ七ツ(午後四時)。時おり背の方から吹いて来る風が、竪川の落ち口の水をわずかに波立たせ、右手に見えて来た石置場の芒《すすき》の穂をざわめかせるのが見える。西空に傾いた日が、その上に白い光を投げかけていた。橋番のおやじは、番小屋の外に出て、双手をさしあげてあくびをしている。
──秋だな。
橋を渡り切って、石置場の矢来に沿って、なおも南に歩きながら、平四郎はそう思った。道は白く、背中を押す風はひややかな気配を含んでいる。その風がぱたりとやむと、町は一瞬静まり返り、その静けさの中に、どこかでひとが話す声や、大川を行く舟の櫓《ろ》のきしみが、意外な近さに聞こえた。
舟の姿は、点在する芒の群落にさえぎられて見えなかったが、人声の主はわかった。矢来の中に四、五人の半纏《はんてん》を着た男たちがいて、運んで来た石を積み上げているところだった。からからと石の音がひびき、すでに積み上げられた石の山は鈍く日射しを照り返している。
八名川町の菱沼惣兵衛をたずねようとしている平四郎の胸には、かすかな緊張があった。
──どんな男か。
と思いながら足をはこんでいる。高利貸しでもあり早苗の夫でもあるその男と、平四郎はただ一度八名川町の組屋敷の路上ですれ違っている。といっても、深夜のわずかにかたわらの家から洩れる、灯の影の中で見たにすぎない。顔もよくわからない人物だった。
これまでは、ただ憎悪と侮りしか感じなかったその男に、いま会いに行く段になって、かすかな気持の怯《ひる》みを感じるのは、昨夜早苗と結ばれたからである。追う者が、追われる立場に変った奇妙なとまどいが、平四郎の胸にないわけではない。
だが一方のその気持を圧倒して、平四郎を鼓舞しているのも、ほかならぬ早苗との一夜の記憶だった。
早苗は、風呂敷包みひとつで家を出て来ていた。灯を消した部屋の中で、早苗はその包みから白い寝衣を出し、ひっそりと着替えると、挨拶して敷きならべた貧しい夜具に入ったが、誘われると、素直に平四郎の横に入って来た。
はじめてむかい合ってとった夜食、そのあとの長い物語り。そして夜が更けて二人の寝場所を定めるまで、早苗はまるで、以前から平四郎の妻だったように、落ちついて自然に振舞っていたのだが、儀式のようにつつましく平四郎とむすばれたあとで、はげしく泣いた。
早苗は、平四郎と別れた十五の少女の昔に帰ったようにむせび泣き、はじめから平四郎と結ばれたかったと訴えた。そういう早苗を、平四郎はもう一度、熱い手で抱き取らずにはいられなかったのである。
今朝の早苗は、やや青白い顔をしているものの、もう昨日と変りない平静さを取りもどしていたのだが、平四郎の五体には、まだ昨夜の早苗の感触が残っている。
思いがけなくゆたかな胸、平四郎を受け入れた厚い腰、かさねた腹のぬくみ……。抱いたのは十五の少女ではなく、二十一のずしりと稔った女体だったが、元来は平四郎のものだったのだ。もう、誰にもやることは出来ぬ。
白日の物思いから立ちもどると、そこは御舟蔵から八名川町に通じる道だった。平四郎は深く息を吸った。
訪《おとな》いを入れると、四十過ぎの青白い顔をした男が出て来た。面長の陰気な顔をしたその男が、菱沼惣兵衛本人であるらしい。
「菱沼どのですな?」
「………」
相手は声を出さずにうなずいた。礼儀をわきまえぬ男である。
「神名平四郎と申す」
「………」
「早苗どのをお預かりしている者だが……」
男は、神名という名前にも、早苗という名前にも何の動揺も示さなかった。しかし平四郎のことは聞いていないのかも知れない。惣兵衛は、無言のまま手真似で上がれと合図した。
部屋の中はきれいに片づいているが、主人に似つかわしく暗く、空気は冷えている。早苗は、こんな家で六、七年も辛抱したのかと平四郎は思った。暗い家の中が、早苗の若さを閉じこめた牢獄のように見えて来た。
菱沼惣兵衛は、平四郎の前に少し背をまるめるようにして、つくねんと坐っている。ほかにひとがいる気配はなく、お茶も出さぬ気らしかった。
「早速だが……」
平四郎は、注意深く菱沼惣兵衛を見ながら言った。
「こちらのご新造だった早苗どのは、もう、この家にはもどりたくないと言っておる」
「………」
「事情を聞いたかぎりでは、それがしにもそれが妥当かと思われた。それで、以後あのひとは、この家には縁なき他人となったと承知されたい」
「………」
「そのことをお知らせするためにうかがったわけだが、何か異存があればうけたまわる」
「貴公はその……」
それまで黙っていた惣兵衛が、ぼそぼそと言った。小さな声である。旗本も泣かせた高利貸しというからには、赤ら顔の脂ぎった男でもあろうかと思って来た平四郎には、意外なことばかりである。
「神名どのと申されたかな。家内とはどういう……」
「むかしの許嫁でござった。つまり、金貸しに早苗どのを奪われた男といえばわかりやすいかな」
「………」
惣兵衛は、喉の奥に小さな声を立てた。それで正体が知れたというようにうなずいたが、ふと見ると、眼のいろが変っている。惣兵衛は、蛇のようなつめたい眼で平四郎を凝視していた。
「しかし」
陰気な声で、惣兵衛は言った。
「あれはわが女房でござる。何か了見違いをしているようだが、たわごとを申さず家にもどるようにと、伝えてくだされ。飯炊く者がおらず、閉口しておる」
「飯炊きか」
平四郎は薄笑いした。
「あのひとは、この家の飯を炊くのはもういやだと言ってるんだがね」
「お若いひと」
惣兵衛が凄みのある声を出した。まるめた背が、いつの間にかぴんとのびて、こめかみに青い筋が浮き出ている。そうなってみると悪相の男だった。平四郎の挑発が功を奏して、正体を現わしかけているらしい。
「わしはふざけるのは好きでない」
と惣兵衛は言った。
「あれが、そういう甘いことを考えているなら、別の伝言をしてもらおうか。あれは借金のカタに取った女子だ。勝手な真似はゆるさぬと言ってもらおう」
「やっと本音を出して来たようだな。これで物が言いやすくなった」
と平四郎は言った。
「それじゃ、その借金の証文を見せてもらおうか」
「………」
「証文なんか、持っちゃいないんだろ?」
「………」
「あんたは町奉行の手につかまって、金貸しをとめられた。ついでに家探しを受けて、証文は取り上げられ、焼かれたのだ」
「女房がそう言ったのか。それは臆測だ」
「別の筋からも聞いておる」
平四郎ははったりを噛ませた。証文が焼かれたらしいと言うことは、早苗から聞いたのだ。惣兵衛からそのグチを聞いたとき、早苗は家を出る機会が訪れたのを知ったのである。
「目付の筋だよ。言いおくれたが、おれは目付の神名監物の弟だ」
このときとばかり、平四郎は兄の名を利用したが、目付の名前は利き目があった。惣兵衛は背をまるめた。
「いや、塚原の証文はあると言うんなら、見せてもらってもいいんだが、そうなると鳥居がまた喜ぶだろうな。二百両の借金を五百両に膨らませて、その借金のカタに娘をむりやり女房にしたなどというのは、これはもう、町の金貸し顔負けの悪業だよ」
「………」
「これが知れたら、とても小普請入りぐらいじゃ済まない。お家断絶だな」
「わしを脅すつもりかな」
惣兵衛が弱弱しく言った。
「なに、早苗の去り状を書きやすいように言ってやってるだけだよ。おとなしく書く方が身のためじゃないかね。もっとも……」
平四郎はひとつ脅しをかけた。
「今日は力ずくでも、去り状を取るつもりで来たのだ」
「………」
惣兵衛はうつむいて、じっと考えこんでいたが、やがて顔を上げると意外なことを言い出した。
「わしはいま、金に窮している。ひとには言えんほどだ」
「………」
「あの女子に……」
と惣兵衛は早苗のことを言った。
「もう聞いたかも知れんが、この家にある金は、すべて金貸しで得た不浄の金ということで、お上に取り上げられた。貸した金はあるが、証文を焼かれたゆえ、取り立てることも出来ん。ひどいやり方だ」
「当然のむくいだな」
「あの女子には、さほど未練はない。去り状を書いてもいいが、わしもこれまで金貸しで来た男だ。脅されて書くことはせぬ」
「………」
「去り状を買わんか。安くしておくぞ」
平四郎は惣兵衛の顔を見た。本気らしかった。
「いくらだ?」
「二十両」
「とんでもない」
平四郎は手を振った。
「ひとを見て値をつけることだな。こっちは、神名家の末弟には違いないが、いまのところは素浪人だ。そんな金は出せぬ」
「じゃ、十五両」
粘っこい口調で惣兵衛は言った。
「だめだな」
「十両にしよう。これがぎりぎりだ。十両も出せぬと言うなら、去り状は書かぬ。あとは勝手にしたらよかろう」
「待った」
と平四郎は言った。早苗を妻にするには、何としても惣兵衛の去り状が必要だった。その一枚の書き付けが、この蛇のように陰湿な男から早苗を解き放つことを考えれば、十両は高くはないと思った。相手がその気になっているうちに、手をしめた方がいい。
「よかろう。十両で手を打とう。去り状はいつ書く?」
「金と引き換えだ」
無表情に惣兵衛が言った。
「その紙切れが欲しかったら、はやく金を持って来ることだの」
「よろしい。ほかに異存はないな」
「ない」
と惣兵衛は言った。そうして、不意に述懐する口調になって言った。
「こうなったから言うが、あの女子と暮らして、格別楽しいことはなかった。あれはついに、わしになつかなかった」
「当然だろう。金で買われて来たひとだ。虫のいいことを申すな」
「それにしても、情のこわい女子だった。一切口をきかぬ。笑いもせぬ。閨《ねや》の中では石のようだった。借金のカタだと思えば惜しい気がするだけで、未練はない。あれは大そうな女子だぞ。貴公も気をつけることだ」
平四郎は、あることを思い出している。二度目に抱かれたとき、早苗は狂ったのだ。眼を上げると、惣兵衛がじっと平四郎を見ていた。
ふむ、と惣兵衛は鼻を鳴らした。惣兵衛の顔に、はじめて嫉妬のいろが動いた。だがすぐにもとの表情にもどってつぶやくように言った。
「そうか。貴公とはそうでもないらしいな。ま、けっこうなことだ」
菱沼惣兵衛の家を出ると、平四郎は大川の河岸の道に出て、永代橋の方にむかった。道場の金は北見に預けてしまって、いまのところ一文なしである。兄の監物に会って、十両の借用を申し込むつもりだったが、金にきびしい兄のことを考えると、いささか足どりも鈍る気がした。
四
いざとなったら、嫂の里尾に加勢を頼まねばなるまいと思ったのに、下城して来た兄に借金のことを言い出すと、監物は意外にも手文庫から十両の金を出し、この金はお前にやろうと言った。
「道場がはじまれば、塚原の娘とそこに住むと申すのだな?」
「はい」
「いつわりを申すなよ。今度わしをたばかったら、ただでは済まさん」
「誓って、申し上げたとおりです」
と言ったが、平四郎はその金で、菱沼惣兵衛から早苗の去り状を買うなどと打ち明けたわけではない。道場びらきが目前に迫っていること、早苗とそこに住むことを言っただけである。
監物は、真偽を見さだめるといった目つきで、じっと平四郎をにらんだが、すぐに機嫌のいい顔にもどった。
道場の費用が七十両近くかかっていること、その費用のうち、平四郎がともかく自分の働きで二十両を負担したことを、正直に言ったのが気に入ったらしい。加えて、むかし許嫁だった早苗を妻に娶《めと》ると言ったことも、兄の心証をよくしたらしかった。
「塚原の家は、潰れ旗本だが、素姓はたしかなものだ」
と監物は言った。嫂から早苗のことを聞いていた節もあったが、要するに平四郎が、市井の女ではなく、素姓の知れている娘と結ばれるならよろしいということなのだ。その兄に、今日の菱沼とのやりとりを聞かせたら、眼を剥《む》くだろう。
「それにな、平四郎」
監物は、厄介者の末弟の始末がつきそうで安心したのか、ふだんよりもぐっと機嫌のいい顔をしている。
「今度の探索では、わしはいささか面目をほどこした。ずいぶんとおまえをこき使ったが、褒美を考えなかったわけではないぞ。その金には、その分も含まれておる」
「有難く頂戴いたします」
「ところで、昨夜堀田さまのお屋敷に呼ばれてな」
監物は、平四郎のことはそれで片づいたという顔つきで、ぐっと身体を乗り出して来た。上知令が発令されて以来、改革推進、反対両派の軋轢《あつれき》が表面化して来たことは、この前会ったときに聞かされている。長い両派暗闘の間でひと役買い、いまなお一枚噛んでいるらしい監物は、その後の経過を洩らす話相手を欲しがっていたようである。
また、むつかしい政治向きの話かと、平四郎は内心うんざりしたが、もらった金の手前もあって、そういう顔は出来ない。神妙に話を合わせた。
「兄上も、何かと大変ですな」
「そうよ。おどろいたことに、土井侯がご同席だった。呼ばれたのはわし一人だ」
監物は鼻をうごめかすような顔をした。幕政の中枢で働いている、という自負が仄見《ほのみ》える。
「じつを申すとな。わしは樫村に命じて鳥居の配下、石河|疇之丞《ちゆうのじよう》、浜中三右衛門という者の動静をさぐらせておった。石河は小普請、浜中は火之番という軽い者だが、これがどうして、鳥居の命をうけてなかなか大胆なことをやっておる」
「………」
「改革反対派の身辺に出入りして、反対派要人の動きを巨細《こさい》にわたって鳥居に報告していたのだ。堀田さまに呼ばれたのは、連中の動きを報告するためだったが、その席でおどろくべきことを聞いた」
監物は鼻息を荒げたが、そこで平四郎の顔をじっと見て、他言するなよと言った。
「決して」
「鳥居はすでに、機密書類を土井侯に渡しておる。反対派の探索と弾圧、それについて水野老中が下した指令のいちいち。こういう一切を含む書類だ」
「ははあ、するとあのとき……」
「いや、山吹の会見では、鳥居は機密書類の提出をほのめかし、わが身の保全を打診しただけだったらしい。渡したのはつい先日だ」
「………」
「それもだ。鳥居はその前に水野老中と大論争をしておる。上知令を死守し、反対派を一斉追放すべしと迫ったというのだが、すでに紀州侯が上知反対に回ったことで打撃をうけている水野老中が、鳥居が言うような荒っぽい手段に踏み切れるわけはない。そこで鳥居はいよいよ改革に見切りをつけ、わが身の保全に転じたというわけだ」
「明白な裏切りですな」
「裏切りも裏切り、鳥居はいまはそれ以上のことをやっておる」
監物はぐっとあごを引いた。険しい眼は、平四郎よりも、当面の敵鳥居甲斐守を見つめているように、あらぬ方に据えられている。その眼を、監物は平四郎にもどした。
「昨日、将軍家の御小姓中山肥後守が自裁した。なぜだか、わかるか?」
江戸城中のことが、平四郎にわかるわけはないのに、監物はそう言った。
「この件は、わしと同僚が徹底して洗い上げたが、こういうことだ」
上知令をめぐる反対派の結集で、水野忠邦は窮地に立たされていたが、まだ改革の総仕上げともいうべき上知令推進をあきらめたわけではなかった。
反対派の中の最大の難物は、御三家の一人紀州家である。忠邦は紀伊領は幕領並みという解釈を打ち出すことで、上知令から紀伊領を除外する苦肉の策を考えた。その余は、あくまで上知徹底をはかるという方針である。
しかしそのことを知った鳥居は、ひそかに将軍|家慶《いえよし》の小姓中山肥後守に会い、忠邦の新しい方針は天下騒動のもとであり、将軍家の屋台骨まで危うくするものだと吹きこんだ。中山は、将軍に会うと受け売りの危機感を上奏し、忠邦の新方針に許諾をあたえないようにと直諫《ちよつかん》を敢てした。
小姓が政務に口をはさむことは、厳しく禁じられている一項である。中山は御側御用取次の新見《しんみ》伊賀守に越権行為を咎められ、即日自裁したのである。
「中山は鳥居に乗せられたのだ。鳥居がなぜそこまで策略を弄《ろう》したかわかるかな」
それぐらいは、平四郎だってわかる。
「すでに水野老中を裏切ってしまった鳥居としては、ご老中が上知令で勝ちをおさめることはもはや好ましくない、という考えでしょうな」
「そのとおり。じつに悪辣な男だ」
監物は、不快そうに顔をしかめた。
「かれはいまや、水野老中追い落としの急先鋒として暗躍しておる。しかも鳥居のさきの策略は功を奏してな。これまでも将軍家周辺、大奥でかんばしくなかった水野老中の評判は、中山の自裁で一挙に下落した。大奥が敵に回っては、ご老中といえども勝ち目はない」
監物は口をつぐんだ。平四郎の顔をみて、しばらくためらう様子をみせたが、それが今夜聞かせたかった話の眼目らしく、ついに口を切った。監物はささやき声になっている。
「誰にも申すなよ、よいか」
「はい」
「近く将軍家の御名で、上知令は取りやめとなり、水野老中は罷免《ひめん》される」
二人は沈黙した。平四郎にも、兄の言ったことの意味はわかった。水野が主導してすすめて来たきびしい改革が、ついに瓦解《がかい》を迎えたということなのだ。新しい世が来るのだろうか。
「するとこれからは……」
と平四郎は言った。
「堀田さま、土井さまあたりが中心で、政治を切り回すことになりますか?」
「それが、そうはうまくいかんのだ……」
兄はあごを撫でた。
「堀田さまは、老中を辞される。多分、水野老中と期を同じくして幕閣を去るという形になろう」
「それはまた、なぜ?」
「水野老中は堀田さまを信用なされていた。堀田さまが、改革に批判の気持を抱かれることにも、うすうすお気づきでな。あるときひそかに、協力せよとのおさとしがあったらしい。堀田さまは初志を変えられなかったが、改革ご破算の見通しがついたいまは、水野老中に殉ずべきだとのお考えらしい。英明なお方だが、権力に淡泊なところがあの方の唯一の欠点かな」
「………」
「土井老中は残る」
と監物は言って胸を張った。
「取引きした以上、水野老中の処分にからめて鳥居を断罪すること出来ぬ、と土井さまは言われる。だが機を見て鳥居を幕政からのぞくご決心に変りはない。わしは今度、土井さまのお指図で動くことになったぞ。かれとのいくさは、まだ終っておらん」
五
足もともおぼつかなく酔っている八助を、かつぎ上げるようにして、平四郎は竪川の河岸を歩いている。
今日は、朝から一日中、東両国のかいわいを、八助をさがして歩き回ったが見つからなかった。やむを得ず、夜食を喰いに家までもどり、兄にもらった十両を懐に、菱沼惣兵衛をたずねるために出直す途中で、ふと思いついて、むかし盛り場でにぎわった松井町の一角をのぞいてみたら、そこに八助がいたのである。
「しっかりしろ」
蛸《たこ》のようにしなだれかかって来る八助を、平四郎は叱咤した。どうしようかと、平四郎は思い惑っている。
折角八名川町の近くまで来ているのだから、橋向うまで引き返すのは業腹《ごうはら》である。だが、ここで八助を放してしまえば、またどこかにもぐり込んでしまうことは、目に見えているのだ。
「一人で歩けんのか?」
「へ?」
八助は酒くさい息を吹きかけて、平四郎を見た。といっても、あたりはすっかり暗くなっている。平四郎の顔も、はっきりとは見えていないだろう。
「旦那、どなたさんでしたっけ?」
「与助店の神名だ。おぼえておらんか?」
「へい、与助店……」
八助はくにゃりと膝を折って、平四郎の肩からずり落ちそうになった。あわてて平四郎は身体をささえてやる。
──こりゃだめだな。
菱沼の方は後回しにして、八助を先にとどけるべきだろうと、平四郎は腹を決めた。今朝のぞいてみると、八助の女房は腹の痛みはどうやらおさまったものの、まだ飯を喰う気になれないと言って、ぼんやりと床に坐っていたのである。
亭主が今夜ももどらなければ、女房、子供はまた心配するだろう。
「よし、送ってやる」
「………」
「しっかり歩かんか」
平四郎は文句を言い言い、河岸を一ツ目橋の方にむかった。じれったいほどおそい足どりで、肩にかかって来る身体は重い。夜になって、ひと目がないだけ幸いだった。
「しゃんとせい。いま少しで橋だ」
言ったとき、平四郎は背後に異様なものの気配が動くのを感じた。気配は風のように平四郎に襲いかかって来た。
とっさに八助を突きとばし、自分は逆に水ぎわに飛んでから振りむいた。その平四郎に、正面から黒い人影が迫ってきた。鈍い白刃がひらめく。
さらに横に飛んで、平四郎はすばやく抜き合わせた。踏みこんで来た相手の剣をはね上げて、つば競《ぜ》り合いに持ち込んだ。腹が立ってぐいぐい押した。相手がさほどの腕でないことは、いまの斬り合いでほぼつかめている。
はたして、相手は押されてよろけている。だが、平四郎がひとつ押してはなれると、相手はまたやみくもに斬りかかってきた。無茶苦茶な刀法だが、危険だった。平四郎は慎重に受け流し、はね返し、機を見て峰打ちの一撃を相手の腹に叩き込んだ。
うっと言って、黒い人影は一間もふっとび、そのまま地面にのびてしまった。
「何者だ?」
油断なく近づくと、平四郎は剣を片手に移して、やっと膝を起こした相手の肩をつかんだ。相手は黙っている。遠い自身番の明かりに、ぼんやりと浮かび上がったのは、尾羽打ち枯らした形の浪人者である。髪は乱れ、無精ひげがのびた四十前後の男だった。
鳥居が、執念深く刺客をむけて来たのかと思ったが、違ったようだった。
「辻斬りか?」
「………」
「いや、違うようだな」
平四郎は、うつむいて腹を押さえている男を、どこかで見かけたような気がした。それもそんなに前ではない。今日の昼だ。
「貴公、ずっとおれをつけていたな?」
「………」
「わかった。頼み主は八名川町の菱沼という男だろう。そうだな?」
「わしを、どうするつもりだな?」
はじめて男が口をきいた。落ちついた低い声だった。否定しないことが、答えになっている。
「どうもせん。行っていい」
平四郎が肩をはなすと、男は立ち上がって刀を拾った。まだ腹を押さえている。
「いくらで頼まれたのかね?」
「一分だ」
請負いの闇討ちに失敗した男は、短く言うと背をむけた。肩につぎあてがしてある、貧相な背中だった。ぱちりと刀を鞘におさめる音がした。
その背中に、平四郎は思わず呼びかけた。
「貴公、妻子はいるのか?」
「………」
男は振りむいた。光る眼で、平四郎を見ている。その前に、平四郎は歩み寄った。
「妻子はいるかと聞いておる」
「女房に子供三人、それがどうしたな?」
「折角の仕事をフイにして気の毒だった。これを持って行ってくれ」
平四郎は懐から一両小判をつかみ出すと、男の手に握らせた。男は黙って平四郎の顔を見ていたが、丁寧に一礼すると背をむけた。姿はすぐに闇に消えた。
──懐があたたかいと……。
すぐこれだからな、と平四郎は思いながら、惣録《そうろく》屋敷の塀に近寄って行った。すると、つきとばされて倒れているかと思った八助が、ぼんやりと立って頭を撫でている。
「八助、目がさめたか?」
平四郎が言うと、八助はおれどっかで頭をぶったらしいや、とつぶやいた。
「おれが誰か、わかるか?」
平四郎が、自身番の光がとどく方に顔をむけて言うと、八助はおや、与助店の旦那だと言った。塀でしたたかに頭を打って、酒もいくらかさめて来たらしい。
「旦那が、どうしてこんなところに」
「お前を迎えに来たのだ」
「へ?」
「かみさんが病気だぞ」
「え? 嬶《かかあ》が……」
そいつは大変だとつぶやいて、八助は道に出て来た。
「ここは惣録屋敷のそばだ。わかるな?」
「へい、わかりまさ」
「大いそぎで家に帰ってやれ。そうせぬと、かみさんに恨まれるぞ」
「へい」
「歩いてみろ」
平四郎に言われて、八助は橋の方にむかって歩き出した。はじめはふらついていたが、足どりは段段にたしかになって来た。
「そのまま家に帰る。いいな。途中で寄り道したら承知せんぞ」
うしろからどなってから、平四郎は尻をからげた。八助とは反対側の方に、河岸の道を疾駆した。
菱沼惣兵衛の家に着くと、平四郎はずかずかとあがり込んだ。
「金は用意して来た。去り状は出来ているかね」
「いや、まだだ」
「では、いますぐ書いてもらおう」
惣兵衛は無表情に平四郎を一瞥したが、べつに逆らいもしなかった。平四郎が見ている前で小机を持ち出し、さらさらと離縁状を書いた。
その紙を取り上げてから、平四郎は懐の金を出した。
「言われたとおり、十両払うつもりだったが、気が変った」
「………」
「ひとを使って、闇討ちをかけようなどという了見はよくない。本来ならそれで十両棒引きにするところだが、後に執念が残ってもかわいそうだ。半金だけ払おう」
立ち上がった拍子に、机が動いて五両の金が畳に散らばった。菱沼惣兵衛は顔いろも変えず、這い回ってその金を拾っている。
平四郎は部屋を出ようとして、惣兵衛を振りむいた。
「おい神名平四郎をなめるなよ」
「………」
「闇討ちをかけられて恐れ入るような男じゃないぞ。また今夜のようなことがあったら、今度は貴様をばっさりやってやる。おぼえておくことだな」
「柄のわるい男だ。とても御目付の舎弟とは思えん」
惣兵衛がぶつぶつ言っている。背をむけて土間に降りた平四郎に、まだ惣兵衛のひとりごとが聞こえた。
「早苗も、ひどい亭主をひきあてたものだ」
平四郎と早苗が家を出ると、外にあつまっていた女房連中と子供たちが奇声をあげた。朝のうちに挨拶回りをしたので、二人がこれから連雀町の道場に引越すのだということはわかっている。
「旦那、お似合いだよ」
誰かが言うと、女たちはどっと笑った。ひやかしの声の中に、好意がこもっている。
「こっちに来たら、また寄っとくれよ」
「何にもないけど、番茶ぐらいは出すからさ」
女たちは口ぐちに言った。駕籠かきの三造の女房およしがいる。隣の徳助の女房がいる。話を聞きつけたらしく、煮しめ屋のおちかと隣の女房おきちも顔を見せていた。
「世話になった。忘れぬ」
「連雀町の方に参られたら、みなさまもどうぞお寄りくださいまし」
と早苗も言った。早苗の言葉が丁寧だというので、女房たちはまた笑ったが、早苗もにこにこして女房たちを眺めている。
平四郎はよろずもめごと仲裁の看板をはずして小わきに抱えた。
「さあ、行くか」
と言った。裏店の連中が、ぞろぞろと木戸の外まで見送ってくれた。手を振ってわかれた。
ひとのいないところまで来て、平四郎が言った。
「これから、まだひと苦労せねばならんぞ」
「はい、あなたさまのいらっしゃるところに、どこまでもついて参ります」
言っていることは甘ったるいが、平四郎は背に夜具と鍋釜をつめた大きな荷を背負い、早苗は風呂敷包みを二つ手に提げて、もう少し暗ければ夜逃げか泥棒と間違えられそうな恰好をしている。
二人は岩本町の角を曲って、馬ノ鞍横町の通りに出た。まっすぐ西神田までつづくその通りの正面に、地平に落ちかかる日が見えた。赤く大きな夕日は、町の屋並みにひっかかって、少し揺れている。空に金色の光が漂いはじめていた。
鍋町の大通りに出た二人は、そこで異様な光景を見て足をとめた。人びとが走っている。走る人びとは口ぐちに何か叫びながら、帯のように連なって南の方に走って行く。
「ちょっと、待った」
平四郎が、前を走りすぎる男の袖をつかまえた。
「何事が起きたのかね?」
「水野が老中をやめさせられたんだとよ」
袖をつかまれた職人姿のひげづらの男は、歯を剥き出して笑った。
「水野の貧乏神が、お役ご免になって屋敷を追われるって言うからよ。見に行くのだ。もう、何千人もひとが集まって、屋敷に石を投げたりしてるそうだぜ。面白え見ものだぜ」
男はわめきたてると、風のように走り去った。切れ目なく走って行く人びとの群を、しばらく見送ってから、平四郎は早苗を振りむいて行くかと言った。
連雀町はすぐそこだった。その町も金色の日没の光にまぶしく彩《いろど》られつつあった。天保十四年|閏《うるう》九月十三日の日が沈むところだった。
[#地付き](完)
本書は、一九八五年に刊行された文庫の新装版を底本としています。
〈底 本〉文春文庫 平成十五年十二月十日刊