[#表紙(表紙1.jpg)]
藤沢周平
よろずや平四郎活人剣(上)
目 次
辻 斬 り
浮 気 妻
盗 む 子 供
逃げる浪人
亡 霊
女 難
子《こ》 攫《さら》 い
娘 ご こ ろ
離縁のぞみ
伝 授 の 剣
道 楽 息 子
一 匹 狼
[#改ページ]
辻 斬 り
一
与之平という家主は、理屈に明るく、弁も立つ男だった。とうとうとまくし立てた。
「明石さまからは、かねがねお三人で道場をおやりになるとうかがっておりました。してみますれば、残るお二人さまに損料を頂いても、いっこうに差しつかえないのではなかろうかと、あたくし思いましたのです」
「待て、待て、おやじ」
神名《かんな》平四郎も弁舌とはったりではひけをとらない。凄味《すごみ》をきかせて家主を制した。
「それはなかろう。われわれ二人も明石に一杯喰わされたことでは、武具屋、米屋と同列だぞ。何を言うか」
「わかっておりまする。まずお聞きくださいまし」
与之平は金壺《かなつぼ》まなこを光らせて、平四郎と北見十蔵をひとにらみした。厚ぼったい唇に妙な迫力がある。
「そう思いましたのはほんとのことですが、失礼ながらお二人さまともにご浪人さん、損料をお払いになるお力などないことはわかっております。あの明石さま、いえ、この際は明石と呼び捨てにさせていただきましょうか」
「けっこうだ」
「あの明石に、お金を騙《かた》り取られたというご事情は、あたくしのあずかり知るところではございませんが、気の毒は気の毒。損料とまでは申しません」
「むろんだ」
と平四郎。
「しかしその上に、この建物をほかに貸すのをしばらく待てと申されましても、事情が事情、承服いたしかねますとあたくしも申し上げたいわけで」
「早速に借りたいと言う者でもおるのか?」
平四郎が聞くと、与之平はぐっと詰まった顔になった。すかさず平四郎が言った。
「このボロ家……」
平四郎は背後の建物の方に、ひらひらと指を振った。大げさに顔をしかめた。
「雨が降れば漏り、床は少なく見積っても三カ所ほどは根太《ねだ》が腐っておる。ぎこぎこ言う。すぐには借り手もつくまい」
与之平はいやな顔をして、口をつぐんでいる。たたみかけて平四郎は言った。
「長く待てとは言わん。われわれもこのままでは腹が癒《い》えぬゆえ、いまや必死に明石の行方を捜しておる。その消息がつかめるまで待てと申しておるのだ。どうかな? おやじ」
「もし消息がつかめないときは、どうなさいます?」
「そのときは、さっぱりとあきらめる。貸そうが売ろうが勝手にしてくれ。しかしだ、もしやつをつかまえることが出来れば、そのときは味噌屋、米屋をひき連れて、おやじも乗りこめばよい。おやじの顔も立とうし、また違約の詫び料やら損料やらも少しは取れるかも知れんぞ。むろんわれわれは金を取りもどし、この北見と一緒に改めて道場を借り受ける。な、八方うまく行くわけだ」
もっとも、つかまえたとき、明石半太夫が金を持っていればの話だ、と思い、それはきわめて望み薄だなという気もしたが、平四郎はそのことは黙った。
「よろしゅうございましょう」
考えこんでいた与之平が、ようやくそう言った。
「それではしばらく様子をみることにいたしましょうか」
「そう、そう。それが道理というものだ」
「しかし明石さまも罪なことをなさいます」
家主は、見つかる望みも少し出て来た夜逃げの主に、また敬語をもどした。
「あたくしはすっかりあの方を信用しておりました。年輩ではあり、失礼ながらお三人のうちでは風采《ふうさい》も一番。なにせ堂堂としたお方で、こういう方こそ道場をおやりになるにふさわしいと思いましたのです」
われわれもそれにだまされたのだ、と平四郎は腹の中で舌打ちした。
「くやしいのはちょうどそのころ、ほかからも借家の申し出があったことでございますよ。だがあたくしは明石さまの方を信用しました。それがこういうことになるのですから、世の中闇でございます。そのとき借りに参られた小宮山さまと申される方は、夜逃げもなさらずに、いまは塗師《ぬし》町に道場をお開きになったそうです」
家主の与之平の口調は、だんだん愚痴っぽくなった。
二
無念そうに唇を噛んで建物を眺めている与之平を残して、平四郎と北見十蔵は西神田の表通りに出た。
「しかし、無理に待たしぇでも……」
それまでずっと無言だった北見十蔵が言った。北国のなまりがある。
「そう簡単に明石が見つかるかの?」
「見つけるのだ」
平四郎は険しい顔つきで、年長の友人に噛みついた。
「貴公は有り金を出したといっても、寺子屋の師匠という暮らしのたつきがある。明日の米に困るわけではあるまい。だがおれはそうはいかん。やつが見つからねば、身の破滅だ」
芝|露月《ろうげつ》町の裏通りに、雲弘流の矢部三左衛門が道場を開いている。神名平四郎はそこの高弟で、北見十蔵、明石半太夫は時おり来て門弟を指南する、いわば賓客待遇の剣客だった。
雲弘流の正統は江戸に伝わっているが、流派の祖井鳥巨雲は、もと仙台藩士で、また巨雲の子五郎右衛門は肥後細川藩に仕えた。北見は仙台浪人、明石は肥後浪人である。北見は国元で、雲弘流のもととなった弘流を学び、また明石も肥後雲弘流をおさめていたので、江戸に来てから矢部とつき合いが出来、やがて道場に出入りするようになった。
ことに明石は熱心で、いま思い合わせればすでにそのとき怪しむべきだったのだが、ついに妻子を連れて道場に住みこむまでになったのである。つまり賓客から食客に下落したわけだが、当時は誰もそうは思わなかった。
明石は齢は四十恰好だが、上背のある堂堂たる体躯《たいく》を持ち、鼻下には品よく刈りこんだひげまで蓄えている。時おり出る国なまりに多少の難があるぐらいで、人品骨柄《じんぴんこつがら》、とても妻子連れの居候には見えない。明石は先生と呼ばれた。事実国元仕込みの雲弘流の腕は確かなものだった。
矢部道場は、建物が少し手狭になったなどという話が出るほど繁昌している。手不足だった。従ってずるずる入りこんで来た形の明石を疑うものなどは師匠をはじめ一人もおらず、矢部は離れのひと部屋をあたえて、この食客を大いに徳としていたのである。繁昌している道場は鷹揚《おうよう》だったのだ。
平四郎と北見に、ひとつ道場を興そうではないかと持ちかけたのは、むろん明石である。じつは自分は二十両の貯えを持っていると明石は小声で打ち明けた。あと二十両もあれば、しかるべき空き道場を借り、竹刀《しない》、防具をそろえるぐらいは出来る。なあに、金は半金も払えばよか、あとは弟子が持参する束脩《そくしゆう》でもって、難なく払えようと明石はいとも簡単に言ったのである。
平四郎は知行千石の旗本の子弟、といえば聞こえはいいが、内実は死んだ父親の妾腹の子で神名家の厄介者である。当人も自分の立場を先刻承知していて、隙あらば屋敷を飛び出すつもりでいたので、一も二もなくその話に乗った。北見も浪人して三年、寺子屋の師匠で喰うには困らないものの、鼻たれのガキを教えるのには倦《あ》きが来たとみえて、これも乗った。
北見が十両出し、平四郎が五両出した。その金を握って、明石はあとはまかせておけといったが、押し出しが立派なので話はすぐにまとまるとみえ、西神田|蝋燭《ろうそく》町に間もなく空き道場を見つけた。さっきの与之平の持ち家がそれである。
古びて道場の床が少し傾いてみえるその家を、平四郎と北見は一日置きにのぞきに行った。そのつど、明石に門人の申し込みはどのぐらい来ているかとたずね、はやくも武具屋からとどいて壁にかけてある防具をつけて、二人で嬉嬉《きき》として竹刀を打ち合ったのだから、無邪気な話だった。
道場につづく母屋に、明石の妻女と子供二人が引越して来て暮らしはじめたのは知っていたが、別に気にしなかった。道場主には年配りから見てくれから、明石を据えるのが穏当、ただし道場の実入りは三人で分ける。そういう話がついていた。
その結構な思惑が、一夜にしてひっくり返ったのが昨日のことである。例によって北見十蔵を誘って蝋燭町に行った平四郎が見たのは、ガランとして人気のない道場と、その前に突っ立っている仏頂づらの家主だけだった。壁に稽古道具は残っているものの、明石も妻子も見当らず、世帯道具までさっぱりと姿を消していた。
ひととおり家の中を検分して、玄関先にもどったが、平四郎も北見も顔見合わせるだけで声も出なかった。ようやく平四郎が、どっかに遊びに出たのではあるまいなと言ったが、与之平にあわれむような眼で見られただけだった。
「どこの世の中に、鍋釜まで持参して遊びに出るひとがありますか。夜逃げに決まってます」
与之平が指さした地面に、くっきりと車の轍《わだち》の跡が残っていた。
明石は鍋釜はむろん、米、味噌のはてまで全部持って行った。全部ツケの品物である。明石は越して来ると毎晩のように晩酌をやっていたというが、その酒もツケだった。明石は狡猾《こうかつ》で、米屋、酒屋をまず道場に案内し、壁にかかっている稽古道具を見せて信用させたらしい。その稽古道具もほんの手金を払っただけだったと与之平は言い、最後にとどめを刺すようにこう言った。
「あたしも怪しいと思っていました。道場を開くというのに、出入りするのは小商人《こあきんど》ばかりで、お弟子入りのひとなど一人もみえませんでしたからな」
「一人も?」
平四郎と北見は、絶句してまた顔を見合わせた。明石は二人が顔を出すと、一昨日は二人、今日は一人と入門申し込みの人数を数えあげて指を折り、十人も揃ったらいよいよ道場びらきといくかと、陽気な声をはり上げていたのである。
だが、与之平の言うことを信用するしかなかった。与之平の家はすぐ隣で、新来の店子《たなこ》を案じて、ひまがあれば垣根のむこうからこちらの様子を窺《うかが》っていたのだという。
その与之平も、夜逃げの気配までは見抜けなかったのである。
すぐにも貸し家札を貼り出すといきまく与之平をなだめ、北見が心魂をこめて書いた雲弘流指南の看板を抱えて茫然として昨日は家にもどったが、いい知恵も浮かばないままに今日また出直して家主に会いに行ったのである。
どうにかボロ道場を押さえはしたものの、二人の足は弾まなかった。道はやたらに人が混んでいる。この人混みの中から、早急に明石を捜し出すなどということが出来るものかどうかと、平四郎は憂鬱だった。
三
「明石は浪人して何年になるかな?」
平四郎が言うと、北見は、十五年と言った。
「そんげに聞いておるぞ」
ふむ、十五年かと思いながら、平四郎は背筋のあたりにうすら寒いものを感じた。十五年も浪人暮らしをすると、ああいう破廉恥なことも平気でやるようになるかと思ったのである。まさか米屋や酒屋が訴えて出るとは思えないし、平四郎にしても虎の子の五両をかすめ取られて頭に来てはいるものの、訴えてやるかとまでは思わない。明石の夜逃げにはそこまで読んだ悪質なものが感じられた。
「女房が若かったな」
平四郎は、明石の妻のことを言った。細面《ほそおもて》のなかなかの美人で、もてなしは手厚く笑顔に愛嬌があったのをおぼえている。
「まだ二十半ばだったろう。あの女房どの、武家の妻にしては愛嬌《あいきよう》があり過ぎたように思わんか?」
「むかしは水茶屋に働いていた女子《おなご》だ。そこで明石と仲好うなった」
「ふふん、あのひげにいかれたわけだ」
平四郎は冷笑したが、北見は黙黙と歩いている。北見はどちらかといえば口の重い男だった。浅黒くて馬のように長い顔に、吊り気味の眼、大きな口がいかめしいが、人柄は温厚で、手習いの子供にも、子供の親たちにも慕われているらしい。二人は紺屋町まで来た。
「寄っていかぬか。貰い物のうまい茶がある」
めずらしく、北見が自分から誘った。北見は、この町の糸屋の離れを借りている。離れは糸屋の先代が隠居所に建てた部屋で、店の方に回らなくとも裏木戸から入れるようになっている。北見は藩江戸屋敷にいる知人の口利きで、この部屋を借りていた。
離れに行くと、あねさんかぶりに頭を覆って手に箒《ほうき》を持った女が出迎え、先生お帰りなさいましと言った。三十近い大年増だが、肌が白く眼の大きい美人だった。
「お留守中に、お掃除をさせてもらいました。すぐに済みます。それまでお部屋で休んでいてくださいまし」
女はそう言って、平四郎にも今日は暑うございますねと愛想をふりまき、台所の方に姿を消した。
二人は手習いの子供の机が並んでいる部屋に行った。離れは糸屋の裏庭の隅にあって、その部屋に坐ると、ちょうど坪庭の池を眺める位置になる。
平四郎は縁側に立って、池の中を泳ぎまわっている鯉の群を眺めた。なかなか優雅なものではないかと思った。四畳半に三畳の自分の住居とひきくらべてみたのである。空は日射しがありながら空気がにごり、蒸し暑い。泳ぎ回る鯉の動きも、どこか懶《ものう》げだった。
振りむくと、優雅なこの部屋の主は、端然と坐って鼻毛を抜いている。平四郎はそばにもどった。
「あの女子は?」
平四郎は、掃除を終って台所で何かことこと物音を立てている女の方にあごをしゃくった。
「糸屋の女中か?」
「いや」
北見は鼻毛を引き抜くのをやめ、面白くもなさそうな顔で言った。
「手習いの子供の母親じゃ」
「ほほう?」
平四郎がにやりと笑って口をひらきかけたとき、女が盆にお茶をのせて現われた。女は二人にお茶をすすめると、部屋の出口に行って襷《たすき》と手拭いを風呂敷に包み、向き直って坐ると言った。
「あたくしはこれで失礼いたしますが、先生、お夕食の支度はなさらないでくださいましよ。水戸屋のおかみが、夕食に鮨《すし》をおとどけすると言っておりますから」
「や、毎度ご造作で、恐れ入る」
北見は悠然と答えた。丁寧な辞儀を残して女が出て行くのを見送ってから、平四郎は聞いた。
「いつもこんなぐあいか?」
「いつもというほどでもない」
「しかし、貴公がこんなに女子にモテるとは思わなんだな」
みめ決して醜くない町の女房たちにちやほやされている男を眼の前に見ては、声に羨望《せんぼう》とかすかな嫉妬までまじるのはいたしかたない。
「べつにモテてはおらん。子供の母親ばかりじゃ」
「しかし貴公がひとり身と知ってだな。部屋の掃除もしてくれる、飯もつくってくれるというのはただごとじゃない」
「………」
「いや、ひとり身というところがミソか。何となく構いたくなる女子どもの気持はわかる。この分だと、肩を揉《も》もうなどという女子もいそうだな。先生、お疲れでしょうと」
「そこまではやらん」
「どうかわかるもんか。や、ごくろうだったとこっちから手を握ったりはせんのか?」
「手など握りはせん」
茶碗を盆にもどして、北見はじろりと平四郎を見た。
「若いとはいえ、貴公が考えることはちと軽軽しいの。女子は油断ならぬものだ。うかつに手など握るべきものではない」
軽薄なことを言うと言わんばかりに、北見は平四郎をもうひとにらみすると、咳払いした。
「それよりは明石のことだ」
「ふむ」
「いろいろ考えたがどうもわからんて」
「何がだ?」
「いや、道場のことよ。はじめは、だ。最初から金を騙り取るために仕組んだことかと思った」
「それに決まっておる」
「十両の金はわしにとっても虎の子。やはり腹が立った」
「当然だ。それで腹が立たなきゃ人間じゃない」
「しかし、昨夜|寝《い》ねがてに考えておるうちに、ふとそうではあるまいと思ったな。わしは貴公より明石とのつき合いが長いからして知っておるが、あの男は見かけとは相違して気の小さい男じゃった」
「それがどうした? 要点を言え」
「家主の申したことをおぼえておるか。門人望みの者は一人も来なかったのじゃ。明石は誘った手前もあるからして、われわれにそのことをよう言えん。言いわけに窮して逃げ出したという筋書きではあるまいかの?」
「だからと言って、ひとの金を持ち逃げしていいわけはあるまい」
平四郎はにべもなく言った。北見は平四郎より六つ年上の三十だが、この北国生まれの年長の友人には、度しがたい人のよさがあると平四郎は思った。
「貴公がそう思うのはいっこうに構わんが、わしは明石を捜すのをあきらめんぞ。なにしろ暮らしがかかっておる」
実際、もし明石が見つからず金を取りもどせないとなったら、先行きはどうなるのだと、平四郎は眼の前が暗くなる思いだった。北見のように、明石半太夫に同情などしていられない。
「世の中、揉めごとというものは絶えんものだの」
嘆息するように、北見が言った。
「ここの糸屋なども、金はあり商いは繁昌して何不自由ないかと思えば、跡とりの伜《せがれ》が道楽者で、主人夫婦が手を焼いているようじゃ。この間は主人が伜を説諭してくれと頼みに参った」
「ふむ、説教してやったのか?」
「ひと通り言い聞かせはしたが、ただ口で言ったぐらいでは利き目はあるまい。様子が上の空であったな」
北見の話を聞いているうちに、平四郎は不意に天啓のようなものが頭の中にひらめくのを感じた。
明石を捜す仕事には、明日からでも早速とりかかるつもりだったが、見つかるかどうかということになると、甚だ悲観的な考えしか浮かんで来ない。かりに見つかったとしても、明石が悪かったと持ち逃げした金をそっくり返すとも思われなかった。
北見はやたらに同情しているが、明石が自分も二十両の金を持っていると言ったのは、まず嘘だ。はったりだ。一歩譲って、道場を開くというのが本気だったとしても、他人の褌《ふんどし》で相撲を取ろうとしたことは間違いない。
──すると、あれからざっと二十日ほど。
矢部道場から引越して来て、嬉嬉として暮らしていた一家の姿が、いまいましく眼に浮かんで来る。明石の懐におさまった二人の金が、いまも手つかずに残っているとは信じがたい。武具屋に払った手金も、その中から払ったに違いないのだ。
そのことはあくまで明石を捜して確かめることだが、その間の暮らし、また明石が見つからない場合の、その先の暮らしを考えねばならない。道場の話は取りやめになりましたと、おめおめと生家にもどれる立場ではなかった。そうかと言って、北見のように鮨を運んで来る女子がいるわけでもない。
暗く閉ざされた前途に、不意に北見のひと言が穴を開けたのである。そこからかすかな光が射しこんで来るのを平四郎は感じた。
──世に揉めごとの種は尽きまじ、だ。
ひょっとすると、これで喰えるかも知れないという気がした。世に揉めごとがあれば、その収拾に金を払おうとする人間がいてもおかしくない。現に平四郎と北見は、明石半太夫に金を騙り取られたが、奉行所に訴え出ようとまでは思わない。訴え出ても一文にもならないと考えているからだが、ここに一両の金で、明石から金を取りもどすことを請負う男がいたら、その男に一両を払うかも知れない。
この種の揉めごとなら、世に掃いて捨てるほどありそうだった。小は隣家との喧嘩口論から、大は大名旗本に貸し金を踏み倒された豪商などというものまで、だ。奉行所に訴えて出るほどのことでもない、あるいは訴えても益ないがそれでは腹がおさまらぬというたぐいの揉めごと。これを引きうけて始末をつけ、何がしかの報酬を手にすることが出来れば、暮らしは成り立つ。
──まず隗《かい》より始めよ、かな。
平四郎はにやりと北見十蔵に笑いかけた。
「北見、貴公おれに一両払う気はないかね」
「なじょして、わしが金を払わねばならん?」
「そうすれば、明石を見つける仕事は、おれ一人で請負う」
この男、正気かという眼で、北見が顔を見ているので、平四郎は具合悪くなってつるりと顔を撫《な》でた。
「いや、いまのは冗談、冗談」
「………」
「それはともかく、別に頼みがひとつある」
「何だ」
「貴公の達筆で、ひとつ看板を書いてくれぬか。文句はいま言う」
四
神名平四郎は、手足を縮めてまるくなって寝ている。眠っているのではなく、眼をつむったまま、裏店《うらだな》の路地から聞こえて来るさまざまな物音を聞いていた。いつまでも泣きやまない赤ん坊の声、子供を叱る迫力のある母親の声、例によって井戸端にでも集まっているらしい女房たちの笑い声などが、聞くともなしに耳に入って来る。
薄暗い部屋の中を、さっきから一匹のハエがうるさく飛び回っていて、時どき平四郎の顔や手に舞いおりてくる。寝返りを打ってハエを追い払う。ハエは平四郎の手のひと振りからのがれると、狂ったように天井やすすけた襖《ふすま》にぶつかりながら、ますます勢いよく飛び回った。
そのハエを外に追い出す気力もなく、平四郎は今度は手足をのばして仰向けになった。朝から明石半太夫の行方をさがし回ったので、ぐったりと疲れている。汗に濡れた着物が気味悪く背中に貼りつき、昼飯を喰っていないので腹も空いていたが、何をする気力もなく、じっと横になっている。
明石の行方は杳《よう》として知れなかった。はじめ平四郎は、少し高をくくっていた気味がある。手がかりは車だと思っていた。明石はどこからか車を借りて来たのである。その車に世帯の道具から、まだ金を払っていない米、味噌のはてまで積みこんでどこかへ行ったのだが、そう遠くに行ったはずはないという気がした。
尻はしょりに頬かむりぐらいには身をやつしたとしても、かりにも武家である。加えてあのひげである。遠い夜道をガラガラ車を引いて通れば、どこかの町木戸・番所あたりで見咎《みとが》められる恐れがある。
行った先は、ごく近間だ。車もそのへんで借りたものに違いない。その見当で、蝋燭町から隣の関口町、新銀《しんしろがね》町、西に行って三河町の通り一帯を、車を持っていそうな店を聞き回って歩いたのだが、明石らしい人物に車を貸したという家は見当らなかった。
方針を改めて矢部道場に行き、師匠の三左衛門にも会い、また明石の指南をうけて割合い親しかった門人連中にも聞き回ったが、誰も明石の消息を知らなかった。その後町で明石らしい者の姿を見かけたという者もいなかった。
北見は北見で、以前明石が住んでいた町に足を運んで聞いて回ったというが、そちらも収穫は皆無だった。明石半太夫と家族は、ボロ道場の前の路地に車の跡を残したあと、ぷっつりと消息を絶ってしまったわけである。
──見通しが甘かった。
ここまで念入りに捜しても見つからないところをみると、やはり明石は最初からその積りだったに違いないと思えて来る。北見などは人のよさを丸出しにして、明石に同情したような口をきいたが、とんでもない話だ。二人ともまんまと乗せられたのだ。
弧を描いて顔の上を飛びすぎようとしたハエを、平四郎はつかみ取った。壁に投げると、ハエは畳に落ちて騒騒しい羽音を立てたが、間もなく静かになった。
──見通しが甘いといえば……。
あれも駄目らしいな、と平四郎は思った。入口の柱に、北見に書いてもらった看板が下がっている。
よろずもめごと仲裁つかまつり候、と太目の筆で記し、その横に、喧嘩五十文、口論二十文、取りもどし物百文、さがし物二百文、ほかいろいろと細字で書いてあるのだが、思わしい反響はなかった。
看板は横七寸に縦一尺五寸の白木の板で、寺子屋の師匠の筆だけあって、文字は達筆である。かなり目立つ。それで看板をさげて一日二日は、平四郎の家の前に裏店の者ががやがやと集まっていたようである。
中に文字の読める者がいるらしく、声高に読んで聞かせる声がした。それはいいが、それにつれて裏店の者が、忍び笑いに笑う声まで聞こえて来て、平四郎は気を悪くした。
だが裏店の連中がバカにしたのも道理で、看板を見た、と家の中に入って来る者は一人も現われないままに、むなしく十日ほど経っている。
「これで暮らしを立てるのは、ちとむつかしかろう」
看板を書く手を途中でとめて、あわれむように言った北見の顔が浮かんで来る。
──屋敷にもどるしかないかな。
平四郎は、ふと気弱くそう思った。だがそう思ったとたんに、生家のひややかな空気がそばを吹き抜けたような気がしてぞっとした。
平四郎は、神名家の者の底つめたい眼の中で育った。ただ妾腹《しようふく》の子という理由だけではない。同じ妾腹でも、三弟の勝之助は人がましく扱われ、二年前にしかるべき家に婿入りしている。だが平四郎は、亡父|監物《けんもつ》が、晩年のしかも半中気の身で、台所働きの下婢《かひ》に生ませた子供だった。
まさという名前だったという平四郎の生みの親は、平四郎を生んだあと、身体《からだ》をこわし、家にもどされて病死したという。出入り商人の世話で神名家に奉公に上がったその不幸な娘は、神名家の者の言い方を借りると、素姓もたしかでない女だった。
そういう事情を知ったのは、十六か七の時である。台所婆さんのおふくの口から、そこまで聞き出したとき、心の底を荒廃した気分が横切ったのを、平四郎はいまも忘れていない。矢部道場での、猛烈な稽古ぶりが、師の三左衛門を驚かせたのはそのころである。
だが神名家の祝福されない冷や飯喰いにも、一度は日が当ろうとしたことがあったのだ。平四郎の行く末を案じた亡父が、死ぬ前に婿養子の縁組みをひとつまとめてくれたのである。相手は塚原という三百石の貧乏旗本だった。
平四郎が十九、塚原の娘が十四になったとき、早苗というその少女が招かれて神名家に来たことがある。そのときが初対面だった。
早苗は来るときは、供の老爺につきそわれて歩いて来たが、帰りは駕籠《かご》をもらって帰った。門前まで見送った平四郎に会釈して、駕籠に入ったとき、早苗の裾が上がり、白い脹《ふく》らはぎがちらと見えた。平四郎の胸がときめいた。
だが塚原の家は、翌年の春突然に取り潰《つぶ》された。羽州《うしゆう》柴橋の代官をしていた塚原の本家の当主が、不正があって腹を切らされた事件に連座して、改易《かいえき》処分を受けたのである。家禄、家屋敷を没収された塚原の家の者が、どこに行ったかを、平四郎は知らない。平四郎の記憶に残ったのは、これから大人になろうとする少女の、少し緊張して青白く見えた顔と、夕暮れの門前に、ちらと動いた白い脚だけである。
平四郎は、そのあと少し素行が荒れた。矢部道場には、小旗本、御家人の子弟が集まっていて、なかには金をたっぷり持ち、岡場所の遊びに精通している者もいた。平四郎はそういう連中の誘いを拒まなくなり、時には嫂《あによめ》の里尾からせびり取った小遣いで、自分から仲間を誘って盛り場に行くようになった。
そのことは間もなく、父の跡を継いでいる長兄に知れ、家中騒動するようなひと悶着があって、平四郎は以前にまして神名家の鼻つまみになった。その中で、いくらかでも平四郎に味方した者といえば、嫂の里尾ぐらいだったろう。
里尾は女の勘で、平四郎の不行跡《ふぎようせき》の原因に思いあたるところがあるらしく、また親子ほども齢のひらいた末弟の非行を不愍《ふびん》にも思うかして、せびられれば訓戒まじりに小遣いも渡し、また不行跡があらわれて、他家の人間になった兄たちまでつぎつぎに現われて平四郎を詰《なじ》ったときも、ただひとり平四郎をかばった。
しかし里尾にしても、神名家の奥の取りしきりがあり、わが子が三人もいて、その教育にも心を取られ、そういつまでも厄介者の末弟の世話に心を砕くことも出来ないのである。
だからこそ、平四郎は明石半太夫から道場の話が出たとき、小躍りするばかりにその話に乗ったのである。本所、深川の岡場所を遊び歩いたころ、不思議なことに平四郎の剣は急速に伸びて、やがて古参の兄弟子たちのなかにも敵する者がいないほどになった。矢部道場では師範代の河野助弥に次いで、次席を占める。剣にはいささか自信があった。
兄夫婦にその話を打ち明けると、夫婦は相談の末、十両の金をくれた。明石に騙《かた》り取られたのはその半金である。もどれない屋敷ではないが、こういう次第でと、おめおめと頭を下げては行きにくい気分があった。
──それに……。
かくも自由だと、平四郎は思うのだ。生家では、こんなふうに畳にひっくり返って鼻毛を抜いたりしていることは思いもよらない。
昼はむろん、夜も道場稽古でどんなに疲れていようと、甥や姪が挨拶に来るまでは、しかつめらしく書物ぐらいはひろげていなければならないし、それでいて喰い物は別、風呂はしまい湯である。そうして、なお婿の口はないかと、じっと生家に寄食しているのはやり切れなかった。
生家を出て、まだひと月にも足りないが、平四郎はこの裏店が気に入っている。路地に出ると、いつもかすかに小便くさい臭いが漂っているのは難だが、ここではいつ起きようと、またはいつ寝ようと文句を言う者はいない。
はじめは馴染みにくかった日雇いや大工の手間取り、棒手振《ぼてふ》りといった裏店の人間も、口は汚いがけっこう気のいい男たちであり、女房たちは親切だった。なかには若い平四郎を旦那などと奉ってくれる者もいて、盛り場に出入りしたころ女にだまされたり、地回りの若い者と渡り合ったりして少しは世の裏ものぞいた平四郎には、どことなく肌が合う。
──まったく、明石の話さえうまく運んでいれば、言うことなしだったのだ。
平四郎は少し伸びて来たさかやきを掻き、大きなあくびをしたが、ふとそのあくびを中途でとめた。
路地がざわめいていた。どたばたと人が走り、耳を澄ませると、何やら人の罵《ののし》りさわぐ声が聞こえ、女の鋭い叫び声のようなものも聞こえる。はね起きて、踵《かかと》の擦り切れた雪駄《せつた》をつっかけながら外に出ると、路地の一角が黒山の人だかりだった。駕籠かきの三造の家の前である。
──また、やっておる。
三造の家の夫婦喧嘩は、この裏店の名物だった。しかも喧嘩は数を重ねるたびに激烈なものになって、ついこの間などは近所の者も仲裁しあぐねて、大家の吉兵衛を呼んで来たほどである。
平四郎は苦笑してそちらに足を向けた。同じ裏店住まいのよしみで、仲裁役を買って出るかと思ったのだが、ふと気づいて足をもどすと、軒下の看板をおろして脇に抱えた。
三造の家の前には、裏店の足腰の立つ者はみな集まったかと思うほど人がいたが、見渡したところは年寄りに女、子供ばかりで、男たちの姿は見えなかった。もっともこの間の喧嘩を、平四郎は見ていないが屈強の男たちも扱いかねたという話だった。
それでも気丈な女房がいるもので、戸口に首を突っこんでしきりに制止の声をあげている。
「やめなさいよ、二人とも。ほらッ、そうして組みついて行くから叩かれるんじゃないか。男の力にゃかないっこないんだから、おやめッ。いい加減におしってば、およしさん」
だがその女房も、家の中から飛んで来た籐《とう》の枕に頭を打たれて、きゃっと言って逃げた。その間にも、家の中からはどたどたと床を踏みつける音、獣じみた男の怒号、泣きわめく女の声、火がついたように泣く子供の声などがはばかりもなく外に洩《も》れて来る。
平四郎は家の中に入った。家の中では半裸の男女が組み合っている。男はもともと半裸でいたらしかったが、女房の方も片袖がちぎれかかっていて、ぷりっとした乳房が丸出しだった。
「このあまァ、殺してやる」
「殺せ、さあいっそ殺しやがれ」
と、いやもう大変なさわぎ。亭主が髪を引っぱると、およしという女房は悲鳴をあげながら、負けずに亭主の腕に噛みつく。いて、てと今度は三造が悲鳴をあげる。
「こら、よさんか。いい加減にせんか」
平四郎は二人の間に割りこむと、まずむしゃぶりついている女房を亭主から引きはがし、次に亭主を羽がい締めにして、部屋の隅まで引きずった。三造の頑丈な身体は酒くさかった。
「旦那、手を放してくだせえ」
三造がわめいた。
「今日こそこの女に、しめしをつけてやるんだ」
「何がしめしだい、へん」
小柄でまるっこい身体つきをした女房がわめいた。いくらか正気づいたとみえて、乳房を隠し、ざんばらに乱れた髪を撫でつけながら、口だけは休みなく亭主を罵る。
「怠けもんの酒|喰《くら》いが。おまけにせっかくの稼ぎを根こそぎ女に使いやがって……」
しゃべっているうちに、女房はのぼせがもどって来たようである。またもつかみかかって来た。
「こっちこそ、しめしをつけてやる」
「やめろ」
平四郎は一喝した。矢部道場で鍛えた平四郎の声は、狭い家の中にひびき渡って、女房はのばしかけた手をひっこめ、きょとんとした眼で平四郎を見た。
いまの一喝は亭主の三造の方にも効いたらしく、三造の身体は急にぐんにゃりとした。平四郎が手を放すと、そのままずるずると畳に坐ってしまった。釣られたように、女房も坐った。
「子供をあわれと思わんのか」
平四郎は部屋の隅にうずくまって泣いている、四つぐらいの女の子に注意をうながした。
「かわいそうにおびえておるではないか。子供を前にして、あられもないつかみ合いを演じるとは、何たる恥知らずだ」
「………」
「近所迷惑ということもある。おぬしらの夫婦喧嘩には、裏店の者はほとほと倦きたと言っておるぞ。そうかといってつかみ合いの喧嘩をしているものを見過ごしにも出来ん」
平四郎は外にあごをしゃくった。
「それでああして集まって来ておる」
「よけいなお世話ですよ」
と、およしという女房が息をはずませながら言った。なかなかしたたかな女のようである。だまれ、と平四郎は言った。
「おかみもおかみだ。ひとの家の揉めごとに口をはさむわけではないが、聞いたかぎりでは亭主も悪い。しかしだ、そうだからと申して亭主につかみかかる女房がおるか。にっこり笑っていさめる。これが女房の勤めではないのか」
「旦那のおっしゃるとおりでさ」
不意に三造が、膝をそろえて言った。
「あっしもね、悪い悪いと思いながら帰って来るわけで、へい。今度からは金輪際バカな真似はよそう、と。それをですぜ、家にへえるなりいきなり胸倉つかまれたんじゃ、こっちも男だ。負けちゃいられねえから、ポカリとやるわけで、へい」
「そこを、亭主もぐっとこらえる」
「その通りでさ。このとおりあやまります。おい、およし、てめえも旦那にお詫び申し上げろ」
三造が言うと、女房も小声で相すみませんでした旦那、おさわがせしてと言った。平四郎はうなずいた。
「わかればよい」
平四郎は上がり框《かまち》に出た。すると入口に首を突っこんでいた女房連中が、口口にほめた。さすがはお武家さんだねえ、ぴたりと鎮めちゃったねえ。
平四郎は女房たちに手を振り、そこに立てかけてあった看板を提げると、茶の間に引き返した。あぐらになって、女房に掻きむしられた頬をなでている三造の前に、無言で看板を突き出す。
三造はあっけに取られた顔で、平四郎と看板を見くらべたが、たちまち満面朱をそそいだようになった。何の看板かは知っていたらしい。
「冗談じゃありませんぜ、旦那。このあっしらから金を取ろうって算段ですかい?」
それを聞くと、女房のおよしも子供をほうり出して立ち上がった。
「金払ってまでこの喧嘩止めてもらいたかないね。あたしゃこの亭主にはまだ言い分があるんだ。ちきしょう」
走り寄る女房をむかえて、駕籠かきの三造も殺気立って立ち上がる。平四郎は看板をほうり出して二人の間に割って入った。
「やめんか、こら。あやまる。金はいらん。これ、手を引かんか、二人とも」
五
夏も終りの季節。村松町与助|店《だな》にも、いっときうつくしい夕刻がおとずれる。空の半ばを埋めた夕焼けの下に、家は黒黒と軒をならべている。油を惜しんで、まだ灯をともしている家はないが、子供たちは家に入り、犬も軒下《のきした》にうずくまって、路地はひっそりと静まり返っている。
ついこの間までは、家家は窓を開け放ち、この時刻にはまだ子供たちが遊んでいて、路地には暑熱と間断ないざわめきが溢《あふ》れていたものだが、わずかの間の変化だった。誰もいない路地に、夕映えがかすかな光を落としている。
木戸を入った平四郎は、自分の家の前に人が立っているのを見た。長身の武家である。黒黒とみえるその武家姿の男は、顔を近づけてしきりに例の看板の文字を読んでいる気配でもある。
平四郎は胸が躍った。この間の三造夫婦の仲裁で、一段と評判を落とした看板だが、ついに依頼主が現われたかと思ったのである。いそぎ足に近づくと、男はくるりと振りむいて、頭巾をとった。
「や、これは」
と平四郎は言った。頭巾を取った顔は、長兄の監物だった。
「まず、どうぞ中へ」
平四郎が誘うと、監物は無言のまま入って来た。平四郎があわてて行燈《あんどん》に灯をいれると、監物は袴《はかま》をさばいて坐ったが、やはり無言でじろじろと部屋の中を見回している。
平四郎は、万年床を押し入れにほうり込み、隣の家に走って湯をもらうと、お茶を出したが、兄は手をつけなかった。まあ、坐れと言った。
「いま少しましな家かと思ったが……」
兄は不機嫌な顔で言った。
「このような家にしか住めんのか?」
「はあ、なかなか」
「道場の方は、どうなっておる?」
「は、少しずつ門人も集まりまして、近く道場開きも出来るかと存じます」
平四郎は、ひところの明石のような返事をした。腋《わき》の下に冷や汗がにじむのを感じた。今日も北見と一緒に道場に行って来たのだが、家主の与之平は急な借り手もないらしく何も言わなかったものの、武具屋が防具も竹刀も引き取って行ったとかで、何もない道場は寒ざむとして見えた。明石はまだ見つからない。
「道場をひらけば、そちらに移るのか」
「は、いずれは」
「それならばよいが、家の体面にもとるような暮らしざまは許されんぞ。この家ではまずい。道場がうまく行かなんだときは、即刻もどってまいれ」
「承知つかまつりました」
「表の看板は何じゃ?」
「………」
「何のことかと聞いておる」
長兄は万之助という名だが、家督を継いだとき監物と改めた。十年前に目付に就任し、羽振りは悪くない。齢は四十五だが、顔色はつやつやしている。平四郎はこの長兄の前に出ると、いつも何となく気圧《けお》される感じになる。職業柄か、問いつめて来る語気に棘《とげ》があるのもうっとうしかった。
「あれは、つまり……」
「つまり、何じゃ?」
「内職でござります」
「内職だと? たわけたことを言う」
監物はにがにがしげに言った。
「さほどに暮らしにくいなら、屋敷へもどれと申しておるのだ。べつにそなたを追い出したわけではない。それとも何か、まだ遊び足りず、金欲しさに内職を思い立ったか」
「とんでもござりません」
「では、何のための内職じゃ?」
「道場を開くには、思わぬ費《つい》えがかかるもののようでござります。ゆえに多少の貯えでもと思い立ったまで。他意はござりません」
「それにしても神名家の末弟が、裏店で内職かの。感心せぬ」
「お言葉ですが、それがしと同門の御家人の伜どもは、日ごろ必死と内職にはげんでおりますぞ」
「御家人と一緒にはならん」
そう言ったが、監物はそれ以上は追及しなかった。ほかに抱えている用があるらしく、不意に屈託ありげな表情になると、手をのばしてお茶をひと口すすった。だが番茶は口にあわなかったらしく、顔をしかめて平四郎を見た。
監物は眼をそらし、また平四郎の顔を見た。何か切り出しにくい用件を抱えているようにもみえる。平四郎の方から言った。
「何か、屋敷に変ったことでも?」
「いやいや、そうじゃない」
監物は手を振った。膝に眼を落とし、しばらく沈黙してから顔を上げた。
「築地の内に窪井という旗本がいるのを知っておるだろう」
「はあ」
神名家は築地にあるので、そのあたりの地理は大概わかっている。
「本願寺の西のあたりですか?」
「そうだ。そこの当主が、近ごろ町に出て辻斬りをやっておる」
「なんと」
平四郎は驚いて兄の顔を見た。
築地の西、俗に裏河岸《うらがし》と呼ばれる三十間堀の川端に、最初の辻斬りが現われたのは昨年の暮である。町人一人が重い傷を負った。以来この夏まで、辻斬りは数度出没して、二人の人間を斬殺し、四人に手傷を負わせた。殺された人間の中には、西国某藩の家臣が含まれている。
その辻斬りの主が、旗本窪井家の当主小左衛門とわかったのはつい最近のことで、幕閣では町奉行の方から上がって来たこの通報に対して厳重秘匿の処置を取った。そして処分を神名監物にまかせたのである。
「処分をまかせると言っても、罪名を着せて公にすることは、罷《まか》りならんという但し書きつきだ。と申すのは、窪井は七百石そこそこの家だが、粗略には扱えぬ家柄で知られておる。つまり遠い家系に将軍家の血筋が混じっているのだ」
上の方の意向は、窪井小左衛門に辻斬りをやめさせ、その余の一切は闇に葬りたい考えだった。その意を汲んで、監物は単身窪井家に乗りこんで小左衛門に会った。
しかし悪行を暴露されて恐れ入るかと思いのほか、小左衛門は終始ふてぶてしく犯行を否定し、監物の忠告を頭から無視する態度に出た。証拠があるなら拝見したいものだ、と逆に居直る言葉さえ吐いた。
「つまり、まだやる気だ」
監物はめずらしく太い吐息をついた。
「その男、狂人ですか?」
「いや、狂ってはおらん。年来刀を集めて鑑定に凝っておってな。腕におぼえがあるので自身試し斬りを思い立ったということであるらしい。もっとも、近ごろは辻斬りそのものが面白くなっている節もある」
「………」
「こうなれば手段はひとつ。力ずくでやめさせるしかないが、余人にはまかせられぬことだ。平四郎、そなたがやれ」
平四郎は仏頂づらで兄を見た。
「何だ、その顔は。そなたを道場に通わせたのは、遊びにやったわけではないぞ。いずれは家の役に立つこともあろうかと思ったからじゃ。いまがそのときだ。やれ」
「窪井小左衛門の齢は?」
「三十六じゃ」
「腕におぼえがあると申しますと、剣のたしなみの方は?」
「無形流の居合の名手という評判じゃな」
「難敵ですな」
平四郎はつぶやいた。窮地にたった兄の立場はわかり、引き受けるしかないこともわかっていたが、そのまま承知しましたと言っては面白くない気持がひとつある。長年冷や飯喰いで冷遇されて来た怨《うら》みが、胸の中にうごめいたようであった。
意地悪く、平四郎は言ってみた。
「兄上が取って押さえてはいかがですか」
「バカを申せ」
監物は謹厳な顔にわずかに狼狽のいろをうかべた。監物は、万之助といった若年のころ、数年柳生流を学んだが目ぼしい進歩はなくて終っている。
「わしに出来ることなら、ここまでたずねては来ぬ。御託《ごたく》を申さず、やれ。家のためだぞ」
またしても家のためかと、平四郎がうんざりしたとき、監物がごそごそと袂《たもと》をさぐって、奉書紙に包んだものを引っぱり出し、平四郎の前に押してよこした。
「里尾が、そなたに渡せと申した」
そして平四郎が押し頂くのを見ると、さっさと立ち上がった。
「いいか。頼んだぞ」
外に出ると、監物は念を押した。
「承知|仕《つかまつ》りました。義姉上《あねうえ》によしなに」
「そなたも気をつけろ」
最後にやっと肉親の兄らしい言葉を残すと、監物は四角張って木戸の方に去って行った。
部屋にもどって早速包みを開くと、小判が二枚入っていた。
──はじめからこれを出せば、話はもっと早かったのだ。
と平四郎は思った。はたして暮らしを案じた嫂が持たせたものか、それとも頼みごとをするために、兄が自分の裁量で持って来た金かはわからなかったが、これで暮らしの心配が多少うすらいだことは確かだった。
安堵のつぎに、無形流の居合を遣う男のことがうかんで来た。無形流は田宮流から出ている。その男はどのぐらいの遣い手なのかと思いながら、平四郎は黙然と行燈の灯を見つめた。
空に暈《かさ》を持った月が懸かっている。平四郎は、その男がゆっくりした足どりで木挽《こびき》橋の方に向かうのを見た。窪井家の潜り戸から外に出て来たその男が、小左衛門なのだろうと思ったが、まだわからなかった。
男は着流しで、顔を頭巾で包んでいる。かすかに雪駄の音をさせながら木挽橋の袂に出ると、右側の広小路の方に曲った。そのまま河岸を北に歩いて行く。
──あれが小左衛門だな……。
やはり狂っている、と平四郎は思った。辻斬りをやったことは、もう知られていることだから、またやるつもりなら場所を変えるはずである。だが窪井小左衛門と思われる男は、平然と河岸を北に向かっている。
場所に好みがあるのかも知れない、という気がした。場所だけでなく、天気にも好みがあるのかも知れなかった。
兄の頼みを引き受けてから、平四郎は連夜窪井家の門前を張りこみ、今夜が七日目だった。一夜は雨が降り、一夜は強い風が吹いた。その余は曇りだった。辻斬りの主は、月の光が好みかも知れないという気がした。月は暈を持っているせいで、どんよりと濁った光を地上に投げている。それでも河岸は遠くまで見渡せたが、ほかに人影はなく、動いているのは頭巾姿のやや小太りの男の姿だけだった。
平四郎は、そのうしろ姿をにらみながら、四丁目の橋を西に渡った。小左衛門と思われる男は、ゆっくりした足どりのまま遠ざかり、やがて物にまぎれて見えなくなったが、もしあれが小左衛門なら、紀伊国橋を渡って、こちら側の河岸をもどって来るだろう、と平四郎は思った。
河岸に大きな柳がある。平四郎はその下に入ると、刀の鯉口《こいぐち》を切り、腕を組んで木によりかかった。
長い刻《とき》が経った。三十間堀の両岸の町は、その間にほとんど灯を消し、物音もかすかに岸を打つ水音だけになった。人は一人も通らなかった。
ひょっとしたら、向う岸をもどってしまったかと心配になったころ、かすかな雪駄の音がひびいて来た。平四郎は柳の下を離れて道に出た。人影が近づいて来る。さっきの男だった。
その男は、突然道に現われた平四郎を見て立ちどまった。だがほんのちょっとの間だった。男はすぐに歩き出した。さっき窪井家の門を出たときから変らない、ゆっくりした足どりである。
男は十間の距離に迫った。わずかに腰を落としたようである。そのまま歩いて来る。
──やはり、窪井小左衛門だ。
平四郎は総毛立つような気がした。男の足運びには、どこか無気味な感じがある。平四郎も前に出た。間は五間、小左衛門はまだ変らぬ足どりで近づいて来る。
不意に小左衛門の身体が沈んだ。平四郎の眼には、小左衛門の上体がほとんど水平に寝たようにみえた。その身体の陰から、すさまじい速業をのせた剣が襲いかかって来た。平四郎は踏みこみながら、その剣を受けた。受けながら、体をひねった。平四郎が遣ったのは、陰ノ車という剣である。小左衛門の剣が巻き取られて宙に飛んだ。
すれ違った小左衛門は、振りむきざまに小刀を遣った。やはり鋭い剣だったが、平四郎は一髪の差でかわし、跳びさがりながら遠慮のない一撃を脇腹に叩き込んだ。峰を返したが、おそらく肋骨が折れたはずである。
窪井は苦痛の声を漏らしてよろめき、自分の手で頭巾をむしり取ったが、そのまま音立てて地面に転んだ。
平四郎は見向きもせずに、落ちている窪井の刀を拾い上げた。そして川岸に大きな石があるのを見つけると、その上に刀を叩きつけた。何度も叩きつけると、刀は折れはしなかったが、無残に曲った。平四郎は曲った刀を川に投げ捨てた。
──数奇《すき》は勝手だが、人の命を奪うことは許されん。
平四郎はうめき声を立てている窪井小左衛門を置き去りにしてもとの道をもどった。窪井の屋敷に知らせてやるつもりだった。ばからしいが、この後始末ももらった二両のうちだと思った。
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浮 気 妻
一
与助店の路地に、午後の日が降りそそいでいる。入口の敷居に腰をおろして、神名平四郎が鼻毛を抜いていると、前を通り抜けざまに、奥に住む女房が声をかけた。
「旦那、日なたぼっこですか。おひまでいいですねえ」
む、むと平四郎は口籠《くちごも》った。ひとを小バカにした挨拶を残して行った女房はお六という名前で、亭主は左官の下職をしている。亭主は働き者で、朝早く家を出、夕方になると気の毒なほど泥によごれた姿でもどって来るが、女房は見たところ怠け者だった。
裏店の女房にも働き者と怠け者がいて、朝亭主を仕事に送り出すと、自分も家に籠ってせっせと内職にはげむ者もいれば、一日中井戸のまわりにとぐろを巻いたり、よその家に上がりこんで茶飲み話に日を送ったりしている者もいる。
それぞれに家の事情というものがあるだろうから、一概におしゃべりに日を暮らすのが悪いとも言えないわけだが、少なくともお六はそちらの組だった。二人いる子供などそっちのけで、あっちに行ってはしゃべり、こっちに来てはしゃべりしている。
いくらしゃべっても減りそうもない厚い唇と、噂好き丸出しのよく動く眼を持つ三十女である。いまもやっと井戸端のおしゃべりを切り上げて来たばかりなのを、平四郎は見ている。
──おまえさんもひまでけっこうだ。
やっとやり返す言葉が胸にうかんで来たときには、お六は丸っこい背を見せて、自分の家に入るところだった。たちまちけたたましく子供を叱る声が聞こえて来たのは、家の中に残された子供が、何かわるさをしていたのだろう。
しかし、裏店の者がバカにするのも無理はないな、と平四郎は思った。よろず揉めごと仲裁の看板をかかげてから、ゆうに二十日ほど経っているが、客は一人もあらわれなかった。ただ一度大雨が降った翌日に、傘の貼りかえと間違えて、ボロ傘を手にした表町の者が一人来ただけである。大きく見通しを誤ったことは認めざるを得ない。
──ま、気にせぬことだ。
と平四郎は思った。武家が武家であることだけであがめられた時代が、徐徐に過ぎつつあるのを平四郎は感じている。
天保に入ってから、全国に飢饉が相つぎ、ことに天保七年の飢饉は、奥羽の死者十万といわれた大飢饉で、江戸でも米塩の値段はうなぎのぼりにはね上がった。この情勢を背景に、三河加茂郡、甲斐郡内地方に起きた一揆は、領主、代官も押さえかねる勢いだったことは江戸まで聞こえて来て、矢部道場でもひそひそと噂されたことはまだ記憶に新しい。
郡内騒動の翌年には、大坂で東町奉行所の元与力で陽明学者でもある大塩中斎が反乱を起こし、大砲を放って大坂の町を焼く騒ぎとなったが、大塩が率いた人数の大半は、暮らしに喘《あえ》ぐ市内の細民、近郷の貧農だったことが知られている。また昨年暮にはじまった羽州《うしゆう》荘内領農民による、藩主転封引きとめの一揆は、今年に至ってついに幕命撤回という未曾有《みぞう》の裁決を勝ちとっている。つい二月ほど前のことだ。
幕府の屋台骨、武家支配の世の中に罅《ひび》が入って来た感じは疑い得ない。平四郎がそう思うぐらいだから、二百四十年の間お布令《ふれ》に縛られて来た町人百姓が、そのことを感じ取らないわけはない。裏店の左官の女房お六が、がさつな口をきくのも無理ないわ、と平四郎は思う。そして実際、この節浪人などというものは掃いて捨てるほどいるのだ。裏店の連中にしても、武家だからと言っていちいちあがめた口などきいてはいられないということだろう。
──それでけっこう。
平四郎は、腰をあげ手をさしのべてあくびした。武家だからと、つねに一目おかれたのでは気が詰まる。仲間あつかいでけっこう。事実もくろみが次つぎとはずれて、前途にかなり不安ないまの暮らしは、三日も雨がつづけばシュンとなってしまうお六の亭主と相似たものだ。
どれ、手習い師匠の北見の家でものぞいて来るか、と思った平四郎の眼に、このとき木戸をくぐって路地に入って来た男の姿が見えた。白髪あたまで、背に風呂敷包みを背負ったその男は、木戸を入ったところで立ちどまり、きょろきょろと左右の家を見回している。神名家の下男|嘉助《かすけ》だった。むろん、平四郎をたずねて来たに相違ない。
「おい、じいさん。ここだ、ここだ」
平四郎が手を振ると、嘉助は満面に笑いをうかべて、小走りに近寄って来た。
「小坊ちゃま、ここでしたか?」
嘉助は平四郎の前に来ると、まずはお変りもなく、けっこうでござりまする、と何年も会わなかったひとにするように、律儀に挨拶した。
「おまえも元気そうで、何よりだ」
平四郎も仕方なく言った。嘉助はまだ二十前に神名家に奉公に入り、先先代、先代と神名家の当主の登城のお供もしたが、平四郎の兄の代になってからは、庭の手入れ、奥の使い走りなどのひま仕事に変った。身よりもなく、神名家で死に水をとってもらうつもりでいる年寄りである。齢は七十に近く、少少ぼけて来た。
「今日は何の用だ」
「はい、それでござります」
嘉助は風呂敷の結び目を解いて、背中の荷をおろすと胸に抱えたが、その姿勢のまま、不意に眼をみはって、まじまじと平四郎の家を見つめた。
「どうしたな? じいさん」
「ここが、小坊ちゃまのお家で?」
「ま、そうだ、安く借りておる」
「さようでござりますか。ここが小坊ちゃまのお住居……」
つぶやくと嘉助は急にくしゃくしゃに顔をゆがめ、ついでぽろぽろと涙をこぼした。
「なんとおいたわしい。高千石の神名家の小坊ちゃまが、このような裏店に……」
「まあまあ、それはいいではないか」
平四郎はあわてて言い、嘉助の袖をひっぱった。小柄で、平四郎の肩までしかない白髪あたまの年寄りが手放しで泣いている図を、事情を知らない者がみたら、平四郎が何かひどいことでも言って泣かせていると誤解しかねない。
「ともかく、中に入れ」
平四郎は嘉助を土間にひっぱりこんだ。
「何の用で来た? 包みの中身は何じゃ?」
「はい、それがでござります」
嘉助は土間に入り、平四郎に言われて板敷きに腰をおろすと、風呂敷包みをひろげにかかった。皺だらけの頬に、涙の粒がとまったままである。
「お殿さまのお言いつけで、おとどけ物を持って参じました」
「どれ、見せろ」
手伝って風呂敷をほどいてみると、中身は真新しい紋つきの羽織と袴である。ほかに襦袢《じゆばん》が二、三枚に足袋、扇子が添えてある。ひもで縛った紙包みもあって、開いてみると中には干鱈《ひだら》とゴマ塩、梅干しが入っている。
判じ物を見たようで、平四郎はあっけにとられた顔で嘉助を見た。
「これは何だ?」
「こちらの羽織、袴はお殿さまのお言いつけで揃えましたものだそうで……」
嘉助は、羽織、袴とそのほかの物を分けた。
「またこちらの品品は、ついでだからと奥さまが添えてよこされたものでござります」
「そうか」
平四郎は首をひねった。
「喰い物も肌着もわかるが、兄上が寄越された羽織、袴がわからんなあ、ここでは、こういうものは要らんぞ」
「それが、ナニでござります」
嘉助は口上を伝える顔つきになった。
「近ぢかに、お殿さまが小坊ちゃまをどこぞかへお連れなさる用がおありなのだそうで、その時の用意にとどけておけと、かようなお言いつけでござりました、はい。あ、それから質に入れたりなさることは罷《まか》りならぬと、きつい仰せでござりました」
「質には入れんが、はて、この羽織を着てどこに参るのかな?」
「察するに、何でござりますよ」
嘉助はさっき泣いたのを忘れた笑顔になった。
「これは小坊ちゃま。あなたさまのご縁組みでもおありなのでござりましょう。台所のおふくもそう申しておりました」
「ふむ、婿の口が見つかったかな」
「お楽しみに、お待ちなさいまし」
このようなむさくるしい場所に、長くお住まいになってはいけません、とぶつぶつ言いながら、嘉助は立ち上がり、のばした腰に風呂敷をゆわえつけた。
「では、嘉助はこれで失礼いたしまする」
「や、ごくろうだったな、じいさん。気をつけてもどれ」
「ちょっと、中を拝見」
嘉助が首をのばして茶の間をのぞきそうにしたので、平四郎はあわててその前に立ちふさがった。
「中は取り散らしておる。見んでもよろしい」
「さようで……」
嘉助は不服そうだったが、おとなしくもう一度辞儀を残すと出て行った。
平四郎は額の汗を拭いた。茶の間は万年床がそのままで、二、三日掃除もしていないから足の踏み場もないほど雑然としている。その有様を見たら、嘉助はもうひと泣き泣いたに違いなかった。
泣くのはかまわないが、嘉助や台所女中のおふくばあさんの話はその先が長い。平四郎の、そもそもの出生のいきさつからはじめて、若くして死んだ平四郎の生みの親があわれだと、また泣くのである。平四郎の母は、おふくに使われていた女中だったというから、おふくや嘉助にとっては、わが娘のようにも思えるのだろう。
だが、その話は、平四郎には苦手だった。ほっとして履物をつっかけて外に出た。習慣で木戸の方を一瞥《いちべつ》したが、客らしい者の姿はない。やはり北見のところに行くかと、平四郎は戸を閉めて歩き出した。
二
紺屋町の、北見十蔵が借りている糸屋の隠居所に行くと、ちょうど子供たちの手習いが終ったところだった。
口ぐちに挨拶を残して帰って行く子供たちを、北見は入口に立って見送っている。平四郎はかまわずに部屋の中に入った。
「ちょうどよいところに来た」
もどって来て部屋をのぞいた北見がそう言い、待て、いまお茶をいれると言うと台所にひっこんだ。北見はのっそりしているようで器用なところがあり、うまいお茶もいれれば、魚など一尾を丸のままで買って来て、刺身をつくって酒の肴《さかな》をこしらえたりする。
「貴公のところは、商売繁昌でけっこうだ」
平四郎は、北見がいれた香りのいいお茶を飲み、茶うけの大福を口にほうり込んだ。
「この大福も、差し入れか?」
「何を言う。わしが買ったものだ」
北見はじろりと平四郎を見た。
「荒れ模様だな。まだ客がつかんのか?」
「いかん、いかん。一人も来ない」
「だからむつかしかろうと申したのだ」
「それにしてもおかしいな」
平四郎は大福を飲みこみ、乱暴にお茶を飲み干した。
「世の中そんなに無事泰平かね、おい。子供たちの母親には、うまく言ってくれたろうな?」
「言ってある。これこれの男がいて、ちょっぴり駄賃を出せば、揉めごとなら一切請負って片づけてくれるとな」
「ふうむ、ここと長屋の連中……」
平四郎は指を折った。
「だいぶ触れが回ったはずだが、客がつかんところをみると、この商売ちと無理かの」
「ま、無理だろう」
北見は悠然と茶を啜《すす》った。
「商売換えが穏当かも知れんの」
「このわしに、ほかに何が出来る?」
「どこぞの道場に雇われて、代稽古を引きうけるなどはどうかの? 貴公の腕なら引く手あまただろう」
「喰わんがために剣を切り売りするのは好かん。道場を持つのとは話が違う」
「しかしな、きれいごとを言っては世を渡れんぞ」
つかみ上げた大福を皿にもどして平四郎がうなだれたとき、北見十蔵がぼそりと言った。
「話は違うが、明石がめっかったぞ」
「なに!」
平四郎はとび上がりそうになった。坐り直して北見を見た。
「いつだ?」
「三日前だ」
「やつはどこに住んでおる?」
「本所におった」
北見はその町の場所をくわしく話した。道場を開くからと、平四郎と北見から資金をあつめたまま夜逃げした明石半太夫の住居までつかんでいた。
「よくやった。天網恢恢疎《てんもうかいかいそ》にして漏らさずか。むかしのひとはよく言ったものだ」
と平四郎は言った。ひさしい胸のつかえがおりた気分だった。
「それでどうした?」
「どうしたとは?」
「むろん、胸ぐらつかんでしめ上げてやったろうな」
「いや、そういうことはせん」
「ん? そうか。じゃ、おだやかに話をつけたのだな?」
「いや、それもまだしておらん」
「……?」
「姿は見かけたが、まだ明石とは話しておらん」
平四郎は唖然として北見の顔を見た。つぎに胸に動いたのは怒気だった。
「それはどういうことだ?」
「神名、断言するが、明石は悪い人間じゃない」
「ひとの金を持ち逃げして、悪くないのかね?」
「いや、それは悪い。だが、これには必ずやわけがあるはずだ」
「そんなことは、本人をしめ上げてみなきゃわからん」
「しめ上げたところで、おそらく金はもどらんぞ」
「もどるかもどらんか、会って問いつめてみぬことにはわからんじゃないか」
平四郎は刀をつかみ上げて立ち上がった。
「貴公と話していても埒《らち》あかん。これから行って来る」
北見十蔵は、あえて止めなかった。だが、平四郎が隠居所を出るとき、うしろから声をかけて来た。
「平四郎、無理するなよ」
「………」
「明石は妻子持ちだ。必死と世を渡っておる。妻子の前であの男に恥をかかせるのはやめとけ」
何を言うか、おひと好しめ! 平四郎は見向きもせずに糸屋の裏庭を通り抜け、潜《くぐ》り戸から外に出た。
道場を開くからと、兄夫婦に金をもらって家を出たまではよかったが、虎の子の半金を明石半太夫に持ち逃げされてみると、ちょうど二階に上がったところで梯子《はしご》をはずされたあんばいだった。
いまさらおめおめと家にもどる気にもなれず、そうかといって、窮したあげくに新規の看板をあげてみた揉めごと仲裁の仕事にも、いっこうに客がつきそうでもない。
つまりお先真暗である。北見のように人の好いことは言っていられない。このままでは近ぢかにあごが干上がるのが眼に見えている。出資した五両の金もさることながら、まず明石の裏切りを、きびしく糾弾してやらないことには胸がおさまらん。
平四郎は、勢いよく町を歩いた。だが神田の町を抜けて、両国橋にさしかかったころには、やや怒りもさめて来た。北見は、いやに明石をかばっていたなと思った。事のはじめからそうだった。
──妻子持ちか。
平四郎はひとり者だから、妻子に対する情愛などというものはわからない。早い話が、そんなものはくそくらえとも思う。だが、どうやら北見はそうではないらしい。しきりに明石の妻子を気にする。
ひょっとしたら、あの男も妻子持ちかのと平四郎は胸の中につぶやいた。北見十蔵について知るところはきわめて少ない。仙台浪人であること、弘流の腕になみなみでない冴えを隠す遣い手であることがわかっているぐらいである。
だが年恰好から言えば、たとえば国元に妻子を残して浪人していると考えても不思議はない。かりにそういう事情だとすると、そうまでして浪人して江戸に住む北見には、どんな過去があったのかとも、平四郎は思った。
そこまで考えて来ると、明石にしろ北見にしろ、自分の考えもおよばない大人の世界に住む男たちのようにも思えて来て、平四郎の怒りは、またちょっぴり萎えた。殺気立った足どりをゆるめて、平四郎は橋を渡り切ると南本所の町に向かった。
三
平四郎を見ても、明石半太夫は顔色ひとつ変えなかった。ちょっと足をとめただけで、すぐににこやかに笑いながら近づいて来た。
「やあ、やあ、やあ、おひさしぶりだ。その節はどうも、な。いかい不調法……」
肩にかけられた手を、平四郎は振りはらった。その平気な顔と、あつかましい大声に、一度おさまったはずの怒りが、また呼びもどされて来るようだった。
「話がある」
平四郎は冷たく言った。
「話? いかにも、いかにも……」
明石はいそがしくあたりを見回し、振りむいていま来た道の方を指さした。
「ついそこに、うまい田楽を喰わせる店がある。ちょいとつきあえ」
言うと明石は、さっさと先に立って歩き出した。幅広い堂堂とした背である。どういう仕事にありついたのか、着ている物も悪くない。
──ふむ、さすがに家に連れて行くのは気がひけるとみえる。
明石の背をにらみながら、平四郎は思った。さっき見て来たばかりだが、明石が住んでいる家は、生垣越しにちょっとした庭ものぞける、尋常なしもた屋だった。平四郎の住む裏店とは雲泥の差である。
その庭で、明石の妻女がしあわせそうに洗い物を干しているのも見たが、平四郎は足音をしのばせて家の前を通りすぎたから、妻女は気づかなかったろう。北見が言った言葉が頭にあって、明石のやったことは許せないが妻子は別、といった気持が働いて声もかけなかったのだが、眼の前の栄養の満ち足りた背中は、見るだけでむかつく。
おれは北見のように人の好いことは言わんぞ、と平四郎が気持をひきしめたとき、明石が振りむいて、ここだと言った。屋台に毛が生えたような小さな店で、軒下にすすけた赤|提灯《ちようちん》がさがっている。
「おやじ、酒だ」
穴ぐらのように暗い店の中に入りこむと、明石はほがらかに言った。平四郎にもすすめて掛けさせ、自分も腰をおろす。大きな身体の下で、樽がぎちぎちと鳴った。
奥から身体つきのずんぐりしたおやじが出て来て、まだ支度が出来ておりませんが、と言った。日は傾いたが、外はまだ明るい。
「わかっておる。酒があればよい。うむ、冷やでよか」
しかしおやじは、酒のほかに、醤油で煮しめたこんにゃくも出して来た。明石は満足そうに鼻を鳴らし、平四郎に酒を注ぎ、自分の盃も満たすと、その盃を眼の前にささげる恰好をした。
「まずは久闊《きゆうかつ》を詫びて一パイ」
平四郎は盃を手にしなかった。腕組みして眺めていると、明石もさすがにバツ悪くなったらしい。そっと盃をおくと、突然飯台の上に両手をついて頭をさげた。
「いや、済まなんだ。まさにこの通り」
「………」
「いや、じつを申すとな。突然に姿を隠したのにはわけがある」
あちこちに借金があった、と明石は言った。露月町裏通りの矢部道場に、食客で住みこんだのも、押し寄せる借金取りから遁《のが》れるためであり、道場を持とうと持ちかけたのも、ひと旗あげて旧債を返そうという心づもりだった。
「ところがだ、借金取りと申す者はえらく鼻が利く。間もなくして嗅ぎつけてあの道場にもやって来た。このままでは貴公らに迷惑をおよぼすことは必定《ひつじよう》と考えてな。やむなく身を隠したわけだ」
「どっちみち、すでに迷惑を蒙《こうむ》っておる」
「まあ、そう申すな。そう頭ごなしに言われると、わしゃ辛か」
明石はいかにも辛いといった思い入れで、盃をつまむとひと息に空けた。
──信用ならん。
と平四郎は思った。鼻下のひげが、手入れよくつやつやと光っているのも、何となくうさんくさい。
「すると、何か」
と平四郎は言った。
「われわれに迷惑をかけんように身を隠したというと、その時の金はまだ持っとるわけだろうな」
「そこだ、神名平四郎」
明石は手酌で、また盃を干すと、今度は慨嘆するそぶりをみせた。
「世の中というものは、うまく行かぬ。悪いことは重なるもので、ひそかにこの町に越して来たとたんに、今度は家内が大病を患った。これがごくたちの悪い病いで、貴公らから預かった金は、あらかた医者の薬代に消えた。申しわけもなか」
「ほほう、大病とな?」
平四郎は、いたって血色よく、せっせと干し物に精出していた明石の妻女を思い出しながら、少し意地悪い気持になって聞いた。
「それは大変だったな。で、その後の様子はどうじゃ? 病気はなおったか?」
「それが、だ。さっきも申したとおり、たちの悪い病いじゃによって、よほど具合よくはなったものの、まだ寝ておる。いまもわしが飯を炊いて、女房、子供に喰わせておる始末よ」
明石は、病妻と子供を抱えて難儀している父親づらをつくろうと苦労している。平四郎はバカらしくなった。この男は稀代の嘘つきだ。もっとも尻は抜けている。その尻を、平四郎はつついてやった。
「それはいかんなあ。一度北見と一緒に女房どのの病気を見舞わぬといかんな」
「いや、いや、その心配は無用」
はたして明石はあわてた。平四郎に徳利をむけて飲めと強《し》い、自分もつづけざまに酒をあおり、鼻下のひげをひねった。
「何しろ陋屋《ろうおく》、そこに家内が寝ておって、足の踏み場もない家じゃ」
そう言ってから、さすがに不安になったらしく、探るような眼で平四郎を見た。
「ところで、この町に来たのはどこぞでわしの消息を聞いてか?」
「いや、野暮用があって参ったら貴公の姿がみえた」
家もみた、北見におよそ七ツ(午後四時)ごろにはもどって来るらしいと聞いて、待ち伏せをかけた、などと言ってしまっては、明石も立つ瀬がなかろう、と平四郎は思った。だが、言うだけのことは言っておかなくてはならん。
「ところで貴公にあずけた金だが、薬代に化けたか、そうかでは済まん。いずれは返してもらえるだろうな」
「むろんだ。そのために、このとおり必死と働いている」
「いま、何をやっておる?」
「うむ、道場の手伝いだが、手間は悪くない」
明石は胸を張った。酔いが回った顔が、いやにてらてら光ると思ったら、店のおやじがいつの間にか小行燈に灯を入れたのである。やわらかい光が黒光りする羽目板や天井を照らし、振りむくと開けはなした入口にはようやく薄闇が寄せて来ていた。
「で、どうしたな?」
不意に明石が言った。盃を置いて平四郎が顔をあげると、明石がのぞきこむように顔を見ている。
「道場の話が立ち消えになって、屋敷にもどったか?」
「バカ言え。あの話はだめだったと、おめおめ家にもどれるものではない」
平四郎はこれまでのいきさつを話した。数日は北見と手分けして、必死に明石の行方を探したこと、与助店の家に掲げた看板のこと、ついにほかに借り手が現われて縁が切れた蝋燭町の空き道場のこと。
「ふーむ」
と明石はうなった。やおら腕組みを解いて、重重しく言った。
「貴公は屋敷にもどったものと思っとった。北見には手習い師匠という仕事がある。さっそくに暮らしに困ることもあるまいと思ったが、これは大きに誤った」
明石は酔って本性を現わしたような口をきいた。
「そういうわけだ。金は返してもらうぞ」
「わかった。しかしさっき言ったような事情でな。さっそくと言うわけにはいかん」
明石はしぶとくさっきの作り話に固執している。明石はぱんと手を打った。板場の中にいるおやじが、おどろいて立ち上がったほど大きな音だった。
「神名、客がいるぞ。その何とか申したな。揉めごと仲裁だ。まさに揉めごとを抱えて泣いている女子がいる」
「女子? 若い娘か?」
平四郎もすぐノルほうである。身を乗り出した。
「娘ではない。ひとの女房だが、これが悪い男につきまとわれて苦労しておる。相談をうけたのはわしだが、わしが乗り出しても一文にもならん。この女子をそちらに回してやろう」
四
平四郎は、男を店から呼び出すと、両国橋の橋ぎわの広場を横切って、真直ぐ駒止橋の方にむかった。男は黙ってついて来る。一見やさ男のようだが、度胸のいい男だった。
男の名は桝蔵《ますぞう》。尾上町の料理茶屋若狭屋の男衆である。料理屋勤めの人間らしく、髪の結い様から身なりまで垢抜けした三十過ぎの男だが、裏はどうして、したたかな悪である。
明石が住む南本所石原町の紙商、市毛屋のおかみおこうは、むろんそんなことは知らなかった。若狭屋は同業の集まりでよく使う料理茶屋で、たびたび亭主の代理で集まりに出ているおかみは、桝蔵とは顔馴染みである。
よく気が回って如才ない男衆だと思うぐらいで、格別の関心も持たなかったのだが、ある夜、間違いが起きた。
同業の集まりで、無理に酒をすすめられて悪酔いしたおこうは、若狭屋が呼んだ駕籠で家まで送ってもらった。桝蔵がつき添って来た。家の近くまで来たとき、桝蔵に少し歩いた方が酒がさめますと言われて駕籠を返したのは、やはり酔っていたせいだろう。暗い道で、それも自分の家が見えるところまで来て、おこうは突然に男に抱きしめられ、口を吸われた。
大勢あるお客さんの中でも、おかみさんほどうつくしいおひとはおりません、前から慕っておりましたという男の口説が、この上なく甘美に聞こえ、おこうは声を立てなかった。その場で、男と外で会う約束までかわしたのは、そのころ亭主の喜右衛門が離れた町に妾を囲って、夜は家を明けるようになっていたことが頭にあったからだろう。
おこうは二十八だった。若い妾に夢中な亭主にしっぺ返しする気持もあったが、おこう自身の身体も、亭主に捨てられてじっと家の中にうずくまっているには生ぐさ過ぎた。おこうはころがり込んで来た火遊びに身をまかせた。
三度ほど、外で男と会った。だが、四度目にはこわくなって、金をやって手を切ろうとしたが、ここで桝蔵が正体をあらわしたのである。桝蔵はあからさまに金をゆすり、ことわると市毛屋の店先に姿を現わした。市毛屋のおかみおこうは、これまでざっと三十両近い金を桝蔵にしぼり取られている。
おかみはそれだけしか知らないが、平四郎がひそかに聞いて回ったところでは、桝蔵にはほかにもかけ持ちでゆすっている女がいて、その金はすべて博奕《ばくち》と女につぎ込んでいるのである。
築地の平四郎の家に、政之助というどうにもならない賭けごと好きの中間《ちゆうげん》がいる。そのことは当主の監物《けんもつ》にも知れていて、監物は思い出したように呼びつけてはげしく叱責するのだが、政之助は昼は身を粉にして働くので辛うじて見のがされているのである。
政之助は博奕場なら、何様の下屋敷、どこそこの旗本の中間部屋と、掌《たなごころ》を指すようにそらんじていて、桝蔵が博奕を打っているらしいと知った平四郎が相談をかけると、政之助は二日後には苦もなく桝蔵が出入りしている博奕場を探し出して来た。六間堀そばにある、さる小大名の下屋敷の中の長屋で開かれる博奕場で、桝蔵はいい顔だった。
「旦那、どこまで参りますので……」
平四郎が駒止橋を渡り、藤堂家の下屋敷の前を抜けて、さらに河岸を北にすすむと、さすがに気味が悪くなったらしく、桝蔵が声をかけて来た。
「もう少しだ」
「何のお話か存じませんが、あたしもまだ仕事を残してますので、ひとつ手早くお願いしますよ」
このあたりでよかろうと言って、平四郎は立ちどまった。岸の真菰《まこも》のうしろに、ぴちゃぴちゃと大川の水音が聞こえる場所で、下屋敷の前とずっと北の横網町のはずれに、番所の灯が見えるが、灯はどちらも遠く、二人が立ちどまったあたりには、辛うじてお互いの顔が見えるほどの光がとどくだけである。
「市毛屋のおかみのことだ」
平四郎はおだやかに切り出した。市毛屋の女房おこうは、熟れ切った果実のような、いささか危険な匂いを発散させている美人だった。その美貌の女房をわがものとしただけで足りずに、金まで脅し取った悪党めと思わぬでもないが、平四郎は正義を行なうために来たわけではない。仕事である。事を荒立てずに話をつけるのが肝要だろう。
「話はおかみに聞いた。ちとやり方があくどいようだの。そろそろ手を引いたほうがよくはないか」
「何のことかと思ったら……」
桝蔵がくすりと笑ったようだった。
「市毛屋のおかみさんのことですか。それならこんな場所まで呼び出さなくとも、店で話してくれりゃよかったんです。あたしはなるほどあのおかみさんと他人ごとでないつき合いをさせてもらっていますが、それがどうかしましたか。あくどいとか、手をひけとか言うのは何のことかわかりませんね」
「尻は割れておるのだ、桝蔵」
平四郎は辛抱づよく言った。
「女が別れ話を持ち出すと、今度は金をゆすり取ったろう。おぼえがないとは言わせんぞ」
「お金? ああ、小遣いだとおかみがあたしにくれたお金のことですか? 冗談おっしゃっちゃいけません。あたしゃ一度だって、あのひとを脅したりしたことはありませんよ。遊ぶ金が要るだろうと、むこうさんが気を遣ってくれるだけで……」
「六間堀ばたの長屋で遊ぶ金かね」
平四郎が言うと、桝蔵がぎくりとしたように口をつぐんだ。平四郎は近づいて行って、桝蔵の手首を強く握った。
「尻は割れていると申したろう。口を利くからにはおまえがどういう男かは調べてある。おとなしく手を引く方が身のためだぞ。あくまで脅しをやめんということなら、こっちも出様がある。市毛屋の脅し、森下町多田屋の脅し、連夜の賭博、残らずその筋に持ち出すがよいか」
「………」
「と申しても、おまえを奉行所に突き出すのが本意ではない。ここに市毛屋のおかみがよこした手切れ金が五両ある。これでおとなしく手を引けば、こちらには事を荒立てる気はない」
平四郎は、どうかね、これで手を打たんかと言った。泥棒に追い銭という気もしたが、相手は存外したたかな男のようである。おかみから預かった金を使うのはやむを得まい。
だが桝蔵は、平四郎が考えていたよりもしたたかな男だった。平四郎が金をつかみ出そうと、片手を懐に突っこんだ隙に、ぱっと平四郎の手を振りほどいた。
「よけいなお世話だぜ、お侍」
桝蔵は身構えて、自分も片手を懐に入れた。どうやら匕首《あいくち》を呑んでいるらしい。声音《こわね》まで一変して、裏通りの顔を一ぺんにさらけ出した顔つきになった。平四郎を恐れていなかった。
「調べただと? ふん、それで何がわかった? おれを甘くみねえほうがいいぜ。市毛屋のおかみは大事な金づるだ。めったに放すわけにゃいかねえのさ。てめえこそ手を引きな」
「えらい啖呵《たんか》だの」
「うるせえ。たったの五両だと? ふん、子供の使いじゃあるめえし、そんなはした金で片をつけに来たとは笑わせるぜ」
無言で平四郎が詰め寄って行くと、はたして桝蔵はぱっと匕首を抜いた。腰を落とし、片手で距離を測りながら身構えたところは、一度や二度でない修羅場を踏んだ男に見えた。足をとめて平四郎が見つめると、桝蔵が猿のように歯をむいて叫んだ。
「どうしたい、お侍え。いっちょやってやろうじゃないか」
平四郎が足を踏み出すと、桝蔵が音もなく走って来て脇をすり抜けた。鋭く脾腹《ひばら》を薙《な》いで行ったが、平四郎は無言でかわした。敏捷《びんしよう》な男だった。桝蔵は振りむくとすぐに双手突きにぶつかって来た。足を送っただけでかわした平四郎に、桝蔵は今度は躍り上がるようにして斬りつける。
平四郎は慎重にかわしつづけた。桝蔵の匕首には、侮《あなど》りがたい速業が秘められている。二人はかすかな灯明かりがとどく薄闇の中で、もつれ合うようにめまぐるしく動き合ったが、やがて桝蔵の息が荒くなった。
しかし逃げる気配はみせずに、桝蔵は唾を吐き捨てると、背をまるめてまた平四郎の胸もとにとび込んで来た。瞬間、平四郎の体が躍った。一閃の刀に匕首が暗い宙に飛び、返す刀が桝蔵の髷《まげ》を飛ばした。
桝蔵は逃げようとしたが、平四郎が足を出すと、もんどり打って地面に這《は》った。はじかれたように振りむいて、桝蔵はざんばら髪の頭に手をやった。平四郎の手練を見たはずである。平四郎を見上げながら、尻さがりにいざる桝蔵の顔に、はじめて恐怖のいろがうかんだ。
「おまえのほうから手を出したのだぞ。本来なら斬り捨てて、そこの水に蹴こむところだ」
平四郎は威嚇《いかく》した。そして顫《ふる》えている桝蔵の胸ぐらをつかむと、懐の中に五両の金包みを落としてやった。
「これで話はついた。な、野暮はいわんことだ。だがこれ以上市毛屋につきまとうときは、今度は容赦せん。おぼえておくことだな」
五
「ありがとうございました、神名さま。ほんとうにこの三月ばかりは生きた心地もしませんでしたが、おかげさまで、ここ二、三日はぐっすりと眠れました」
と市毛屋のおかみは言った。なるほど頬のあたりにまだ少しやつれは見えるものの血色はよく、この前桝蔵の始末を頼みに来て、泣きながら浮気を白状したときにくらべると、別人のように眼がかがやいている。
桝蔵は若狭屋から姿を消した。若狭屋の主人にもかなりの金を借りていて、それを踏み倒して行ったというから、当分両国、本所|界隈《かいわい》に姿を現わすことはないだろう。政之助に確かめたところでは、桝蔵は常連になっていた六間堀ばたの博奕場にも姿を見せていないという。桝蔵がまた市毛屋の店先に押しかけることは、まずあるまい。
しかし浮気した女房というものは、どうも色っぽいものだな、と平四郎は思った。肩を落として泣き沈んだ姿にも風情があったが、こうして危難をくぐり抜けて、いきいきと眼を光らせている顔にも、平凡な日常に明け暮れている町の女房たちとはひと味違う、生の女くささといったようなものが仄《ほの》見えて、まぶしい。
しかし、その感想はひとまず措《お》いて、平四郎はつつしみ深く微笑した。相手は大事の客である。
「ま、あの男がおかみを煩わすことはもうあるまいと思うが、何かあったら知らせてもらおう」
「ありがとうございました。で、あの、お礼はいかほどお包みしたら……」
「これはわしの商売でな、おかみ。お礼ではなくて手間賃と申してもらいたいものだが、それよ、相手が刃物など持ち出して少少手こずったゆえ、一分も頂くか」
「それはお安うございます」
と言い、おかみは脇をむき、手早く金包みを二つ包むと、平四郎の前に押してよこした。
「こちらは些少《さしよう》ですが、お手間のほかのお礼でございます」
「や、これはかたじけない。遠慮なく頂くぞ」
平四郎は押しいただいて懐にしまった。お礼だと言ったほうの包みが、ずしりと重いのは、小判が入っているのだと知れた。平四郎の胸がふくらんだ。初仕事は上上の首尾で終ったようである。
「あの、神名さまは……」
それで立つかと思った市毛屋のおかみは、きょろきょろと部屋の中を見回して言った。
「まだ、おひとり身でいらっしゃいますか?」
「さよう、まだひとり」
「するとお部屋の掃除などは?」
「わしがしておる。と申しても、今日はおかみが来るゆえ、こうして片づけたが、掃除はめったにやらん」
「まあ、するとお食事の支度などもご自分で?」
「さよう、何とか喰っておる」
「それはまあ、ご不自由でございましょうね」
おかみはじっと平四郎を見た。何とも色っぽい眼で、平四郎はどきりとした。飯の支度が大変、などとこぼせば、すぐにも襷《たすき》がけで台所に立ちかねない、親しげないろが顔にあらわれている。
ひと心配が終ってほっとしたところで、おかみは眼の前の若い男に不意に母性をくすぐられたという具合でもあるらしい。悪い気はしないが、それは困ると平四郎は思った。女客といちいち親密になっては、商売が成り立つまい。
「なに、男ひとりの食事というものはがさつなものでな。今日の夜は、表の一膳飯屋で済ますつもりだ。生憎《あいにく》米も切れた」
「まあ、それは残念ですこと。何でしたらお食事の支度ぐらい、ざっとしてさし上げようかと思いましたのに」
「いや、その心配は、ひらにご無用」
まだ何か話したげなおかみを、ようやく表に送り出して、平四郎はひそかに額の汗をぬぐった。
──どうもあのおかみ、隙があり過ぎるな。
あれだから、妙な男につけ込まれたりするのだ、と思いながら、平四郎が形のよい臀《しり》をみせて木戸の外に消えるおかみを見送っていると、うしろで声がした。
「旦那、隅におけないね」
振りむくと、左官の女房お六がにやにや笑っている。
「あんな姿のいい年増がたずねて来たりしてさ」
「バカ言え」
平四郎は軒下の看板を指さした。胸を張って言った。
「客だ」
「へーえ」
お六は半信半疑という顔で、平四郎の顔と看板を見くらべる。
「ちょっと悪い男にからまれていた女子でな、口を利いてやった。手間ももらったぞ」
「あらまあ、この仕事、やっぱりお金になるんですか?」
「あたり前だ。いまにひきも切らず客がくる。おかみも何だ。男出入りで困ったなどというときはわしを頼め。近所のよしみで、手間の方はうんとまけて片づけてやるぞ」
「何言ってんですか。あたしゃこうみえても亭主ひと筋……」
懐があたたかくなって、平四郎がいい気持でくだらないおしゃべりをしていると、女房が旦那にまたお客さまのようですよ、と言った。
振りむくと、神名家で若党を勤めている岸井新六が立っていた。
「やあ、新六」
「しばらくでござります、平四郎さまはお変りもなく」
新六は律儀に挨拶をし、さる場所でお殿さまが待っているので、ご同道願いますと言った。
「何の用かの?」
「さあ、そこまではお聞きしておりませんが、羽織、袴で来るようにと申されました」
六
若党の新六が連れて行ったのは、江戸城|外濠《そとぼり》そばの上槙町だった。そこの小造りな料理屋で、神名監物が待っていて、平四郎が行くと飯を喰わせた。
しかし酒は飲ませず、女もむろん呼ばず、使いの岸井新六も部屋の隅に控えている。監物は、時どき窓から外を眺めるだけで、ろくに物もしゃべらない。ひさしぶりに刺身で飯を喰ったものの、平四郎はだんだんと気詰まりになって来た。どうも、縁談などというものではないらしい。
「兄上、何かお話があるのでは……」
説教を喰らうようなこともないはずだが、と思いながら平四郎が催促すると、監物はじろりと弟を見た。
「話があるのはわしではない。さるお方がお前に会うと仰せられておる。これから連れて行くゆえ、行儀よくせい」
「さるお方と申しますと?」
「お会いすればわかる」
「なにか、仕官の話ででもござりますか」
「違う。つべこべ申さず、少し控えておれ」
監物はそう言うと、また窓の方に眼をやった。平四郎は口をつぐんだが、そのときになって、ようやく監物がいつもより緊張している様子なのに気づいた。
監物が立ち上がったのは、窓の外が薄暗くなったときだった。監物は目深に頭巾をかぶって顔を隠すと、料理屋を出て鍛冶橋《かじばし》御門の方にむかった。平四郎と新六があとに従う。
二ノ曲輪《くるわ》に入ると監物はわき目も振らずもうひとつ濠を渡り、馬場先御門をくぐると、やがて西ノ丸下にある夜目にも広い大名屋敷に入った。監物が訪れることは伝わっていたらしく、門に控えていたその屋敷の家士と思われる男が、先に立って二人を邸内にみちびいた。新六は門わきの小屋に残った。
二人が通されたのは、表に近い十畳ほどの部屋だった。茶菓が出て、間もなくして部屋の外に足音がし、着流し姿の人物が部屋に入って来た。
年は三十前後、豊頬《ほうきよう》でおだやかな風貌にみえるが、眼に沈着な光がある。
「堀田じゃ。楽にいたせ」
その人物は気さくな口調で言った。平四郎は平伏した。兄が西ノ丸下に入ったときに、たずねる相手は、幕閣の要人らしいと見当がついたが、それは眼の前の人物、下総《しもうさ》佐倉藩主から老中に就任している堀田正篤だったわけである。
「誰かに見られたかの?」
堀田は監物にそう言った。眼に笑いをうかべている。
「いや、その心配はござりますまい」
監物は神妙に答えている。何となく秘密めかした空気が漂うのを、平四郎は奇妙に感じた。いや、見られてもかまわんが、と堀田はつぶやき、今度は平四郎に顔をむけた。
「神名の末弟だそうじゃの」
「はい」
「雲弘流の名手だと聞いた」
「いえ、なかなか」
平四郎は何となく赤面した。多少の自信はあるが、面とむかって名手などと呼ばれてはこそばゆい。
「謙遜せんでもよろしい。うわさは神名から聞いておる。その腕を見込んで、ちと頼みがある」
「………」
「一昨年、蘭学の徒が一度に捕えられた事件を、聞いておるかの?」
「は、あらましは……」
と平四郎は答えた。尚歯会《しようしかい》とも蛮社とも呼ぶ蘭学者の集まりがあった。三河田原藩の家老渡辺崋山、町医師高野長英、岸和田藩医小関三英、下総古河藩家老鷹見泉石、薩摩藩士小林専次郎、増上寺代官奥村喜三郎、それに幕臣の川路聖謨《かわじとしあきら》、江川英龍、羽倉外記《はくらげき》などが主な顔触れだったが、一昨年の天保十年五月に、幕府は突如としてこの一群の蘭学者に弾圧を加えた。
幕臣の江川、羽倉らは老中水野忠邦の再吟味で罪をまぬがれたが、小関三英は自殺し、渡辺崋山、高野長英らは幽囚の憂き目をみることになった。このことは江戸市中でもかなりの噂になったので、平四郎も耳にしている。
「あの一件は越前(水野忠邦)はさほど乗り気でなかったが、鳥居が強引にすすめたものでな。おのれの蘭学嫌いを押し通すために、越前を偽る上書までしておる。いかんことだ」
鳥居というのは、兄の監物と同じく目付を勤める鳥居|耀蔵《ようぞう》のことだろう。辣腕《らつわん》の役人だということを、平四郎もうすうす聞いている。水野忠邦にべったりとつき添って、その羽振りのよさは、兄やほかの目付の存在などかすむほどのものだと、いつか監物がこぼしていたのを聞いたおぼえがある。
「ま、それはそれとしてだ。高野長英はいま、小伝馬《こでんま》町の牢にいて、牢名主《ろうなぬし》を勤めておるらしい」
今年になって牢名主に推された長英は、ひまが出来ると外から筆墨を取り寄せて、せっせと書き物をはじめた。書き終えたものは「蛮社遭厄小記」というもので、長英はこれを出獄する者に頼んで、故郷である奥州|胆沢《いさわ》郡水沢に住む肉親に送った。
「この事情はさきの南町奉行の筒井伊賀が知っておる。小記は星川という牢の鍵役同心が、筒井の命令で高野に承知させて写し取り、それは南町奉行の手もとにとどいておる。わしも一読したが、これはいわば尋常の書でな。問題はない」
「………」
「ところがこのほど、蛮社遭厄小記が、もう一冊あることが判明した。つまり高野は同じ書名のものを二冊書いたわけだが、筒井のひそかな調べによれば、それには一昨年の幕府の蛮社断罪、つまりは鳥居のやったことだが、これに対する痛烈な批判と、遠大な対外政策が書かれておるという。その書き物は、牢の下男《しもおとこ》の手を通じてある男に渡され、この市中にある」
「………」
「その書き物を、いま筒井の元の配下と、鳥居の手の者が探しておる。筒井は蛮社の下曾根の父親であるからして、それが鳥居の手に落ちれば蘭学の徒は根こそぎ検束され、高野、渡辺らは極刑をあてられるだろうと憂慮しておる」
「………」
「監物に聞いたかも知れぬが、わしも蘭学の徒のはしくれでな。見過しには出来ん。それに高野が書いた対外政策というものをぜひとも見たい。手にいれるよう尽力してくれ」
「………」
「くわしくは監物に聞け」
堀田は淀みなくしゃべると、監物の方に向き直った。
「ざっと言えばこういうことだの?」
「さようにござります」
「あとは頼む。わしは調べ物があるゆえ、これまでにしよう。ごくろうだったな」
堀田の屋敷を出ると、漆黒の闇が三人を包んだ。新六は提灯をさげていたが、灯をともさなかった。
来た道を逆にたどり、鍛冶橋御門から濠ばたに出ると、新六は道ばたにしゃがんで、火打ち石を使った。平四郎は兄にささやいた。
「意外な話でしたな」
「しッ、口をつぐめ」
と監物は言った。そして、明日の朝屋敷に来いと言うと、提灯に灯を入れた新六を先に立てて、さっさと離れて行った。
時刻は、五ツ(午後八時)すぎだろう。町にはまだ家家から灯が洩れ、兄が歩いて行く五郎兵衛町から畳町にかかるあたりに、ちらちらと提灯の灯も見えた。まだ人の通いがある。
平四郎は二人の姿が、その闇に紛れるのを見とどけてから、日本橋の方角にむかってぶらぶらと歩き出した。
──ご大層な用心ぶりだ。
と平四郎は思った。堀田老中の話は意外で、いささか興味を掻き立てられもしたが、どこかに、今日ひさしぶりに着た羽織、袴のように、身にそぐわない感じがある。突然に幕府内部の生ぐさい掛け引きめいた場所に引っぱり出されたせいだろう。
むろんひっぱり出したのは兄である。監物は多分、それがしの舎弟にいささか役に立つ者がおります、などといい顔をしてしまったのだろう。
──兄は、鳥居とかいう同役の辣腕家と張り合うつもりかな。
平四郎は苦笑した。そのあたりまでは見えるが、高野長英という、蘭学者でいまは牢名主だという男の顔は見えて来なかった。今度の手伝いで、ご老中からお手当てが出るのかどうかを、一応は兄に確かめるものだろうな、などと思っただけである。
その気配に気づいたのは、日本橋から浜町河岸に出、橋を渡って久松町の近くまで来たときだった。振りむいたが闇だった。うしろから人が来る様子はない。だが顔をもどして歩き出すと、背後にかすかに物の気配が動いた。平四郎は河岸から久松町に入りこむと、すばやく走って路地のひとつに隠れた。刀の鯉口を切る。
気配は消えたように見えた。だがしばらくして平四郎が息を解いたとき、路地の入口の前を黒い人影がゆっくりと通りすぎた。夜目にも二本差しの姿に見えた。平四郎はふたたび息を殺した。
すると一度通りすぎた黒い影がもどって来て、またゆっくり眼の前を通りすぎた。平四郎はずいと道に出た。平四郎が斬りかけるのと、相手が振りむくのが同時のように思えたが、平四郎の剣は強くはね返された。
黒い影は音もなく走ると、橋を渡って対岸の闇に消えた。おどろくほどすばしこい相手だった。手にはね返されたときのしびれが残っている。平四郎は刀を鞘《さや》にもどすと、手を押し揉んだ。
──これは、これは。
後をつけて来たのは、この間の桝蔵かなどとちらと思ったのだが、とんだ見当違いだったようである。兄監物の用心は当然だったのだと思いあたっていた。つけて来たのは多分鳥居の配下だろう。目付神名監物と一緒に、夜分堀田屋敷を訪れたのが何者かを、確かめようとしたわけだろう。
鳥居の下に、侮れない剣を遣う男がいることを忘れずにおこうと思った。平四郎は、否応なしにある隠微な争闘の中に組みこまれてしまった自分を感じた。暗い道をゆっくりと歩き出した。
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盗む子供
一
長い時をかけて、小菊の花の虫を取ると、老人は縁側にもどった。縁側に腰をおろして、手入れした菊を眺める。
小菊は黄と白だった。かたむいた日射しの中に、ひと坪ほどの菊畑が色あざやかに目立っている。ひとしきり見眺めてから、老人は家の中にもどり、茶の間でお茶をいれた。さっき脱ぎ捨てた袖無しをはおり、お茶を持って縁側に引き返すと、そこにうずくまった。
──あれを植えたのは、ばあさんだったな。
その連れ合いが死んでから、もう五年になる。早いものだ、葬式を出したのが、昨日のことのように思えるが、もうそんなになる。ひと口お茶をすすって、老人は眼を菊畑にもどした。そのまま、凝然と動かなくなった。
老人の名前は伊兵衛。もとは駿河《するが》町で手びろく種物商をいとなんだ商人である。
伊兵衛は子供運に恵まれなかった。一男一女があって、掌中の珠のようにいつくしみ育てたが、男の子は十二のときに、はやり病いに冒されて死んだ。
妹の方のおわかは丈夫に育ち、婿をもらって家業をついだ。これで老後の煩いもないとひと安心したころになって、そのおわかもふとした風邪が大事を招いて病死した。子供はいなかった。
多田屋というその種物屋は、いまも駿河町にある。同業の家から迎えた婿の常次郎は好人物で、おわかが病死したときに身をひこうとしたが、伊兵衛は無理にとめて、そのまま店をつがせた。
伊兵衛はその一年前に隠居して、老妻をともなって紺屋町に移り住んでいた。齢も五十六になっていた。
また店にもどって、商いの采配を振ったり、客に愛想を言ったりするのが苦痛だった。それにおわかを失って、がっくりと気落ちしてもいた。裏店の担い売りから身を起こして、一代で築いた店である。誰に責任を負うこともなかった。常次郎にくれてやろうと思ったのである。
女房と二人、不自由せずに喰うだけの財産は手もとに取ってあった。不満はなかった。深く話し合ったことはなかったが、女房も伊兵衛のその気持はわかったとみえ、強いて反対はしなかった。二人とも、若いときにそれぞれ他国から出て来た人間で、国とのたよりはいつの間にか絶えている。身よりというほどの者はいなかった。自分たちの始末がつけられればいいと思っていた。
常次郎は時どき二人を見舞いに来た。しかし後ぞいをもらい、子供も生まれると、常次郎は次第に盆と正月に顔を出すだけになったが、伊兵衛は気にしなかった。その方が気楽でもあった。常次郎は商才もあったらしく、多田屋は繁昌し、店をひろげたという噂も聞いたが、伊兵衛はのぞきに行ったことはない。常次郎はもう他人だったし、多田屋は他人の店だった。そう思う気持に何の無理もないほどに、かつての自分の店から心がはなれていた。
自分の一生は、つまりは失敗だったのだと思うようになったのは、老妻に先立たれて半年もしたころだった。
子供もなく、むろん孫もなく、連れ合いもいなかった。いくらあたりを見回してもひとりだった。そして、いずれはこのおれも死を迎えるのだと伊兵衛は思った。
精が切れるほど働き、店を持ち、少しは人に知られる商人になった。そのことを誇らしく思ったこともあったが、とどのつまりはどうということもなかったのだという気がした。無駄な働きをしたものだ、とも思った。
そういう思いは、大方日暮れとか夜とかにやって来た。その考えに取り憑《つ》かれると、伊兵衛は一刻もの間、身じろぎもせずやって来ては通り過ぎる物思いに身をまかせるのである。
はじめて女房に出会ったころの思い出に、わずかに心を慰められることもあった。伊兵衛は二十一、女房のおつぎは十八。二人は知り合って間もなく、吸いつけられるようにして夫婦約束をかわした。おつぎの頬に|※[#「手へん+宛」、unicode6365]ぎ立ての桃のように、産毛《うぶげ》が光っていたのも思い出す。
──あのころは楽しかった。
心がはずむのは、そのころのことと、はじめての子供が生まれたときのことぐらいだった。あとはただ、商売と子供のことばかり心配して生きて来たような気がする。心はずむ思い出は少なかった。むしろすぎ去った人生は、身も心も打ち砕かれるような悲しみにいろどられている。
──つまりは、失敗の一生だったのだ。
ある日伊兵衛は、その結論を出したのだ。苦しみにも悲しみにも負けず、力をふりしぼってまた立ち上がる。それが男だと思って生きて来たが、みろ、と伊兵衛は思った。見回しても誰もいない。話し相手さえいない。
「あんた、若い女でも家にいれたらどうかね」
ある日たずねて来た知り合いがそう言った。伊兵衛の沈んだ顔色や、どことなく投げやりにみえる家のたたずまいをみて、心配したようである。
朝のうちに一度、頼んである近くの女房が家の中を掃除に来る。だが人の動きが少ないのに家の中はすぐに埃《ほこり》っぽくなるのだ。埃は、伊兵衛の上にも、うすく降りつもる。
「なに、女中という名目でいれればいい。世間の口など気にすることはないよ。まだそれぐらいの元気はあるだろう?」
伊兵衛より二つ年下で、脂切った皮膚をしている昔の同業仲間はそう言ったが、伊兵衛はにが笑いして首を振った。
死んだ女房とさえ、肌を触れ合わなくなってから何年も経っていたのだ。女など、どこの国の話かと思うようだった。
このごろ伊兵衛の心をとらえるものといえば、一日に一度はやって来る、とりとめもない物思いだけだった。それがやって来ると、伊兵衛は物を喰うことも忘れて、半ば呆けたようにぼんやりと時を過ごすのである。そしてすべての物思いが通りすぎたあとに、骨も凍るような孤独感がやって来た。
こんなふうにして、死ぬのを待つのかと思うときもあり、いや、これでいいのさ、と思うこともあった。
日が沈んだらしい。黄菊はうす闇の中にまぎれ、白い菊だけがぼんやりと庭の底に沈んでいる。
伊兵衛は立って雨戸を繰りはじめた。そして自分を家の中に閉じこめた。
二
表で用人の間坂彦内を相手に、大わらわで書類に眼を通している兄に挨拶してから、平四郎は義姉上にも挨拶して参ります、と言って奥に行った。
表との境に行って女中を呼び出し、嫂に取りついでもらった。この間の心づけの礼だけ言ってもどろうとしたが、出て来た嫂の里尾は、こちらにお入りと言った。
奥に入るとすぐの間に平四郎を通すと、嫂は女中にお茶を持って来るように言った。
「どうですか、町方の暮らしは」
嫂は平四郎をじろじろと見た。
「そなた、少し痩せたそうな」
「この家で徒食していたようなぐあいには参りません」
と平四郎は言った。
「これでも世の荒波に揉まれていますからな。多少は身もひきしまります」
「海の魚のようなことを言う」
嫂は笑った。
「何で食していると言ったぞ? よろず屋とか申したかえ?」
「義姉上、それは違う」
平四郎は閉口した。
「よろず屋と申すのは、俗に言う便利屋のことでござろう。あちこちに物をとどけたり。いや、あれは違うかな。何の品でも売る小店のことですかな。ともかく、それがしの商売はそれとは違います」
「どう違うのじゃ」
「よろず揉めごと仲裁でござる。世の揉めごとを引きうけ、うまく仲裁して駄賃をいただく。これが商売でござる」
「奇妙ななりわいよの。なにやら雲をつかむような」
嫂の里尾は頼りなげな眼で義弟を眺めた。
「そのようなことで口を養って行けるのかえ。心配でなりませぬ」
「なに、心配はご無用。世の中は面白いもので、少しずつそれがしの仕事にも客がつきかけて来ております。もっともはじめは加減がわからずに、少少恥を掻きましたが」
平四郎は、裏店の駕籠かき夫婦の喧嘩を仲裁しそこなった話をしてやった。嫂は元来が陽気なたちである。身をよじって笑った。お茶を運んで来た若い女中が、もらい笑いをしたほどである。
「そなたには、町方の水が性に合うそうな」
やっと笑いやんだ嫂が言った。
「したが、無理するまいぞ。糧《かて》に窮したときはいつでもこの家におもどり」
嫂は平四郎をじっと見た。嫂は亡くなった平四郎の母、台所働き上がりの妾になったひとに、神名家の人間の中で、ただひとり同情を惜しまなかったという。
そういうこともあって、平四郎にも小さいころから何かと目をかけて来た。嫂は四十二で、平四郎とは親子ほどに齢が違っていることもあり、小さいころは事実親代わりに平四郎の面倒を見た時期もあったのである。
嫂の表情には、いつまでも恰好がつかない末弟の行く末を案じるいろが出ている。それで思い出して、平四郎はこの間の差し入れの礼を言った。
「そのようなことはよい」
嫂は手をふったが、ふと屈託ありげな表情になって、あごを襟《えり》もとに埋めた。嫂は若いころは目立つほど姿のいい女性だったが、近ごろは少し太って来て、そういう恰好をするとあごにくびれが出る。
嫂は何か思案していた。言おうか言うまいか迷っているというふうに見えた。
「なにか?」
平四郎が催促すると、嫂はやっと顔を上げて言った。
「そなた、塚原の早苗さまのことをおぼえているかえ?」
「………」
平四郎は黙って嫂を見返したが、胸がさわいだ。早苗は三百石の旗本塚原家の娘で、一度は平四郎と婚約がととのった女である。塚原家が潰れたあと、杳《よう》として消息を断った。平四郎はそのあとやけを起こしてしばらく素行を乱し、家の者の顰蹙《ひんしゆく》を買った時期がある。
忘れるはずはない。しかし思いがけないひとの名前を聞いた、と思った。
「忘れるはずはないの」
平四郎の表情を注意深く見ながら嫂が言った。
「確かなことではないが、ついさきごろ、早苗さまらしき女子を町で見かけたのじゃ」
「町で? 場所は?」
「深川の八名川町のあたり。長慶寺の墓参に行った帰りじゃった」
長慶寺は深川森下町にある曹洞宗の寺で、神名家の菩提寺である。
「駕籠からちらと見ただけゆえ、確かではないぞえ。しかしあれは、早苗さまじゃった」
嫂はふたたびあごを襟に埋めたが、ふとあわてたように言った。
「したが、それだけのこと。気にすまいぞ」
「………」
「早苗さまらしきひとは、もはや人妻の身なりじゃったゆえ」
それは当然だろうと平四郎は思った。姿を消したとき、早苗は十四の少女だったが、あれから五年の歳月が経っている。
「で? やはり武家方の?」
「そう、武家のひとにはみえたが、さて……」
嫂は小さくかぶりを振った。
「何やら小さな包みを持って、ひとりで町を歩いてござった」
そのとき、どかどかと足音がして、兄の監物が来た。監物はひょいと奥をのぞき込むと、いきなりどなりつけた。
「いつまでも何をくだらぬ話をしておるか、平四郎。引き合わせる者が来ておる。すぐに表に来い」
監物はついでに自分の妻にも不機嫌な声を浴びせた。
「女子は埒《らち》もなく長話になっていかん。平四郎は遊びに来たわけではないぞ」
「はい、はい。お話はもう終りました」
嫂は微笑して夫をいなし、監物がまたどかどかと遠ざかると、平四郎にむかって、しばらくお待ちと言った。
嫂は奥に声をかけた。やって来たのは槙野という老女格の女中だった。
「これは平四郎さま。おひさしゅうございます」
槙野はバカ丁寧に頭をさげたが、厚化粧の顔に、どことなく侮《あなど》るようないろをうかべている。嫂は半分面白がっているが、平四郎が町によろず屋を開業したなどという話はとっくに奥に聞こえて、女中たちの間で恰好の物笑いの種になっているのかも知れなかった。
嫂の里尾は、槙野の耳に口を寄せて、何事かささやいている。槙野はちらちらと平四郎を見た。眼に底つめたい光がある。
ただいまは余分の金子《きんす》はありませぬ、と槙野が言っている。押し返して嫂がささやくのにも、槙野は首を振った。それは殿さまにおうかがいしませぬと、と言ったのが聞こえた。
嫂が小遣いをくれようとしているらしい、と平四郎は察した。
「いや、義姉上。商売は至極うまく行っておりまして、そのお気遣いは無用でござる」
「そうかえ」
嫂は向き直って顔を曇らせた。
「今日は手もと不如意《ふによい》なそうな。諸色《しよしき》が高騰《たかあが》りしているとかで、屋敷の暮らしも昔のようでない」
平四郎は奥を出て、兄が待つ表の間に行った。槙野め、と思った。いくら物が高くなったといっても、この家に一、二両の金がないなどということがあるものか。
あのばばあが意地悪をしたのだ。いや、惜しいことをした。
表の間に行くと、色が黒くひょろりと坐高の高い男がいた。黒羽織を着たそこらへんの家士という身なりの男で、遠慮したように襖《ふすま》ぎわにいる。
「御小人《おこびと》目付の樫村《かしむら》だ。この男がある場所にそなたを案内する。仕事の中身は樫村に聞け」
そう言うと、監物は大声で用人の間坂を呼び、新六に馬ひかせろと言った。気ぜわしい兄は、もう立ち上がっていた。
三
「あれが田島の家でござる」
樫村喜左衛門は、商い店の間にはさまれた小ぢんまりしたしもた屋を指さすと、すぐ前にある古びた赤提灯がぶらさがっている飲み屋の戸を押した。
すると無人かと思った暗い店の中から、人が二人立ち上がって来た。二人とも尋常でない眼つきをした男たちで、ただの町人とは思えなかった。
「何か動きはないか」
と樫村が言うと、二人は黙って首を振った。すると樫村は、平四郎と二人の男を引き合わせ、男たちに平四郎の住む場所を教えた。
四人がいる場所は三河町四丁目の裏町通りである。御小人目付の樫村が指さした家は、高野長英の蘭学の弟子で、田島耕作という男が住む家だった。
樫村がここまで来るみちみち話したことによれば、長英は牢の中で書き上げたもう一冊の「蛮社遭厄小記」を牢の下男《しもおとこ》に託して田島にとどけさせたのである。
田島はもと日本橋万町に履物の店を出していた小松屋の伜で二十七歳。数年前に小松屋が破産して一家が散り散りになったとき、女房と一緒にいまの家に引越して来て引き籠ったという。
長英の古い弟子で、ずっと麹町《こうじまち》の貝坂の塾に出入りしていたが、田島は地味な学究肌の人間だった。同じ長英門下の内田弥太郎、奥村喜三郎などが、江川英龍を助けて浦賀の地形測量に活躍したり、経緯機と名づける船の転覆防止機を考え出して注目されたりしていたのにくらべ、こつこつと蘭書を読むだけの田島は目立たない男だったらしい。
店が潰れても、暮らしに困らないほどの金は持っていたらしく、田島はむしろ商いにかかわりなく蘭学の勉強に没頭出来る日日を喜んでいたふしがある。
もう一冊の「蛮社遭厄小記」は、世に出ては危険な文書らしい。その過激の書ともいえる文書を、田島を選んでとどけた長英の真意はわからなかった。田島に読ませるだけで足れりとするのか、それとも田島の手からさらに何人《なんびと》にか、その書をとどけさせるつもりだったかも不明だった。
ただ、田島耕作はその文書を受け取ったと思われる直後から、女房ともども姿を消しているのである。
「こちらに」
樫村は平四郎をうながして、赤提灯の横の細路地に入った。見張りの男二人は店の中にもどった。
路地は身体を横にしないと通れないほど狭い。平四郎は、時どき蜘蛛の巣をはらいながら先を行く樫村の後からついて行った。路地は途中で何度も曲り、迷路を歩くように方角を失ったとき、ようやく元の道に出た。さっき眼の前にあった田島耕作の家が、今度は遠く右手に見える。
「あの酒屋の軒先をごらんください」
と樫村が言った。樫村が言ったのは、斜め向かい側の三河町三丁目裏町にある酒屋のことである。
軒先に出ている樽に腰かけて、若い男がいる。男は腕組みしたまま、身動きもせず顔を遠くにむけている。どうやら田島の家を見張っているようでもあった。
「店の中に、もう二人見張りがいるはずです。田島か、女房がもどって来たらつかまえるつもりですな。考えていることは同じです」
樫村は肉がうすく細長い鼻に、皺を寄せてちょっと笑った。するとこっちの見張りは、鳥居|耀蔵《ようぞう》という男が張りこませている男たちなのだろう。
「八方手をつくしていますが、田島の行方はまだつかめておらんのです。したがってここの見張りが大事でありましてな。もし田島なり女房なりがもどって来たとき、あの連中につれ去られたりしては眼もあてられません」
と樫村は言った。
平四郎の役目は、時どきここの見回りに来て、田島か女房がもどって来たときは、さっきの男たちに手を貸してすばやくこちらの手で押さえてしまうことだった。樫村は変ったことがあれば、すぐに使いをやりますからよろしくとも言った。
樫村と別れると、平四郎は紺屋町の方にむかって歩き出した。この間明石半太夫に出会ってからのいきさつをまだ北見に話していない。北見十蔵の寺子屋に寄って行くつもりだった。
──見張りと言っても……。
一日中べったりくっついていることもなかろう。こっちだって仕事がある、と平四郎は思った。
姿を隠した夫婦が昼日中のこのこもどって来るとも思われない。もどるなら日暮れか夜といったものだろう。第一報酬の問題がはっきりしない、と思った。
兄の監物は、どうやら平四郎をこき使って、堀田老中にいい顔をするつもりらしいが、ただ働きというのは困る、と平四郎は思っていた。こちらも暮らしというものがある。手間賃が出るかどうかは大きな問題である。
今朝は、それも確かめるつもりで行ったのだが、兄がいやに気ぜわしそうなので口に出しそびれた。しかし樫村という男に引き合わされ、仕事の中身ものみこんだものの、もうひとつ気持が弾まないのは、肝心のところの話が抜けているからだ。
手間賃が出るとわかり、それが気持を弾ませるほどの額ということででもあれば、赤提灯の飲み屋で一日中張り込むのもいとわないという気持はあるが、かりに手間が出てもほんの駄賃程度、もしくはただ働きということなら、こちらの出方もおのずと変って来る。せいぜい日暮れにちょっと顔を出して、兄の顔を立てるといった程度のことになろう。
堀田老中といっても扶持《ふち》をいただいているわけでなし、高野長英という蘭学者も、会ったことのない人物であれば、牢にいるといっても同情はうすい。兄の口車に乗って、暮らしをよそに手間賃の有無もはっきりしない仕事に走りまわるわけにはいかない。兄には暮らしのことはわからんのだから、と平四郎は用心する気持になっている。
奇妙なそぶりの男の子を見た。鍋町の西横町近くまで来たときである。齢は七つか八つぐらいだろう。顔も手足もろくに洗っていないのか、真黒に汚れているその子は、駄菓子屋の横の羽目板に、ぺったり貼りついている。時どき首をのばして店をのぞき、また首をひっこめると、手を着物にこすりつけて汗をぬぐう様子である。緊張しているのだ。
──ははあ。
平四郎は立ちどまった。やる気だな、と思った。時刻は真昼。道は白く日に照らされているだけで、人影は少ない。
ぱっと、子供の身体が動いた。駄菓子をつかむ、見むきもせず店を飛び出す。その動きがすばやかった。子供は平四郎の方に走って来た。ずいと軒下を出て、平四郎は駆けすぎる男の子の襟首をうしろからつかんだ。
四
さぞ子供たちでにぎやかだろうと思って行ったら、北見十蔵がいる糸屋のはなれはひっそりとしていた。誰もいない部屋で、北見が悠然とお茶をすすっている。
「今日は休みか?」
上がり込みながら平四郎が聞くと、北見はそうではないと言った。北見は手習いの子供たちを二組にわけている。いたずらがはげしい七つぐらいまでの子供たちは、昼前に教えて帰し、少しは分別もついた年上の子供たちは、昼過ぎからみっちり教える。
「半刻《はんとき》もすれば上の子たちが来る。こちらには商売往来、庭訓《ていきん》往来から孝経なども教えるから、小さな子と一緒には出来ん」
「ふーん、そういうものか。いま何人ぐらい教えておる?」
「ざっと二十人かの」
「すると月にかなりの実入りになるの」
平四郎はうらやましそうな顔をした。
「ひとりあたま、なんぼだ?」
「いやしいことを聞くものではない」
北見はたしなめる口調で言った。
「いやしいか何か知らんが、気になる」
平四郎は腰を上げて台所をのぞいた。
「何か、喰う物はないかね。昼飯をまだ喰っとらんのだよ」
「そこの飯櫃《めしびつ》に冷や飯が入っておる」
と北見が言った。
「漬け物を出して、茶漬けにしたらどうか」
「やあ、済まん」
平四郎は大いそぎで茶漬けをつくった。戸棚をのぞくと焼いた塩鮭があったので、それも出して部屋にもどると、北見がしぶい顔をした。
「その鮭は、夜のおかずにするつもりじゃった」
平四郎は返事もしないで、お茶漬けを流しこんだ。北見をあてにして来たわけではないが、駄菓子をちょろまかした子供を親のところに連れて行ったりしたので、昼飯を喰いそこねて腹がすいていた。
「子供が欲しいと言っている年寄りがおる」
がつがつ喰べている平四郎を眺めながら、北見が言った。塩鮭はあきらめたらしい。
「心あたりはないかの?」
「子供?」
平四郎はどんぶりから顔を上げた。
「小間使いか、何かを欲しがっているのかね」
「いや、そうではない」
北見は近くに住む、伊兵衛というもと種物屋の隠居の話をした。身よりをすべて失って、多少の財産だけはある孤独な老人は、近ごろ不意に素直で気性のいい子供がいれば養ってみようかと思い立ったのである。
その話を北見にしたのは糸屋の主人である。商用で外に出た帰りに、外を散歩している老人に会い、しばらく立ち話をしている間に、そういう話を聞き出したのである。糸屋の主人は、老人とむかしからの知り合いで、事情をよく知っていた。
「たちのいい子供であれば、養子にしてもいいというつもりらしい。つまりは、身辺あまりにさみしいので、そういうことを考えついたということのようじゃ。その気持はわからんでもないな」
「子供か」
平四郎は昼飯にもどった。
「子供の話なら、貴公のお手のものではないか。二十人もの子供が来ているのだ。その中から品《しな》よさそうなのを一人選んで、世話してはどうだ?」
「無茶を言ってはいかん」
北見は苦笑した。
「みんな双親《ふたおや》そろっているちゃんとした家の子だからの。親たちが、そう簡単に子供を手放すわけがない」
「そうか」
「相手がちゃんとした商家で子がいないなどということならどうかわからん。だが子供を欲しがっているのは、しもた屋に住んでおる隠居だからの。そのへんは、その年寄りも心得ていて、孤児でもいれば養いたいと申したそうだ」
「みなし子か。心あたりはないな」
平四郎は喰い終って箸をおいた。
「そいつは簡単には見つからんぞ」
「種物屋の隠居は、うまく子を世話してくれれば礼はすると言ってるらしいが」
「礼?」
平四郎は、気がなさそうに歯をせせりながら外を眺めていた顔を、北見にもどした。
「礼というと、どのぐらい出るものかな」
「さあて」
「一両もくれるか?」
「よくはわからんが、一両ということはあるまい、いま少し出そう」
「ふーん、そういうものか」
平四郎は考えこんだ。悪くない話が、そこにころがっているという気はするが、心あたりはなかった。
ざっと、いまいる与助店の子供たちの顔をさらってみた。いずれ劣らぬ鼻たれだが、親が手放すまいと思った。暮らしが貧しいがゆえに、かえって親子の情愛が濃いということもあるのだ。うかつなことは言えない。
そう思ったとき、花火がはじけるように平四郎の頭の中でひらめいたものがある。平四郎は立ち上がった。
「いまの話で、心あたりがある」
「ほう」
「また来る」
おい、どんぶりを片づけて行けという北見の言葉を上のそらに聞きながら、平四郎は喰べたあとを台所に運び、外に出た。
──まず、その隠居とやらに会うべきだ。
平四郎は北見に聞いた老人の住まいの方に足を向けた。
さっき鍋町でつかまえた子供の顔が頭の中にある。あれならみなし子みたいなものだと思った。
母親がいた。ひとこと親に注意をうながすべきだろうと思って、平四郎は子供を先立てて鍋町の北にある裏店に行ったのだが、同じ裏店でも、こういう場所もあるかと思うほど、そこは汚れ古びた住居だった。様子が与助店より一段とさがる。
その母親は、子供を背中にくくりつけ、髪ふりみだして内職をしていた。平四郎が、子供を引き立てて行ったのは、常習とみたからである。動きに一度や二度の盗みでない感じが出ていたのだ。
土間まで入って母親にそう言ったが、母親は顔も上げなかった。せわしなく草履緒《ぞうりお》の内職に手を走らせながら、親子四人がこれで喰ってますからねと言った。
「子供のしつけまでは手が回りませんよ」
親子四人というからには、働きのない父親でもいるかと思ったら、そうではなかった。二年ほど前に連れ合いが死んで、と母親は自分からそう言った。もう一人子供がいるのだ。
「盗み喰いしているのは知っていましたよ」
と母親は言った。そしてはじめて手をやすめて平四郎を見上げた。三十半ばの、やつれた顔をした女だった。
女は片頬に凄いような笑いをうかべて言った。
「でも家にもどっても喰い物がありませんからね。子供は外で腹に何かいれて来るんです。旦那、よけいなことをしてくれましたね」
これには平四郎も参った。財布をひっぱり出し、詫びとも弁解ともつかない不得要領な言葉をつぶやいて母親になけなしの一分銀を握らせると、早早にその家を出たのである。
──あの母親なら、いやとは言うまい。
ひょっとしたら、これは人助けにもなるというものだ。それに揉めごとそのものではないにしろ、老人、母親ともに悩みごとを抱えているところからすれば、その間を周旋して双方によかれとはからうのは、全体として、揉めごと仲裁の趣旨にもかなう。
──問題は、あの子供だ。
素姓ただしく、性質のいい子とは言えない。
──ま、少しは眼をつぶってもらわにゃ。
平四郎は強引に押しつける気になっている。北見に聞いた路地を入り、どうやらそれらしいしもた屋の前に立った。塀が回っていて、なかなか立派な家である。平四郎は繰り戸をあけて中に入った。
「ごめん」
と言うと、庭の隅から老人が立ち上がってこちらを見た。六十過ぎの白髪の老人である。少し腰が曲り加減だが、品のいいじいさんだった。
「やあ、やあ。お見事な菊ですな」
平四郎は老人の足もとにひろがる菊畑に眼をとめると、大声で言いながら近づいた。まず老人にいい印象を持ってもらわないと話をすすめにくいが、年寄りは丹精している物をほめられると喜ぶものだ。
「いや、見事ないろでござりますな。黄菊、白菊、菊はこれにかぎる。清楚ないろが何とも言えません」
「これは死んだばあさんが植えたものでしてな」
はたして老人はうれしそうに笑った。それからあらためて不思議そうな顔で平四郎を見た。
「ところで、どなたさまでござりましょう?」
「それがし、神名平四郎と申す。この町の糸屋の隠居部屋を借りておる北見、ご存じないかも知れませんが、このあたりではまことに評判のいい寺子屋の師匠ですぞ。その北見十蔵の友人でござる」
平四郎は北見のこの町における信用を大いに利用して自己紹介を行なったが、老人はまだ怪訝《けげん》な顔をしている。もっともだった。
「じつは今日うかがったのは……」
北見にこういう話を聞いた。ついては多少心あたりがあるのでおじゃました、と平四郎は腰低く来意を述べた。
「ああ、あのお話で……」
老人は頬を赤らめた。どこかはずかしげでもあった。
「年寄ると、人間意気地がなくなるものでしてな、神名さま」
老人は打ちとけた口ぶりになり、平四郎を縁側に誘った。
「もう何年もひとりで、ひとり暮らしには慣れたつもりでしたが、近ごろどういうわけか気が滅入っていたしかたありません」
「いや、それはそういうものでござろう」
年寄りの心境などよくわからないが、平四郎はもっともらしくうなずいた。
「人間やはり連れがいる方が、物ひとつ食するにしても気持がはずみますからな」
平四郎は一人暮らしだが、べつにそんなことは思わない。喰って寝て一人きりだというのは太平楽なものだと思っているが、年寄りはそんなものかと、かりに忖度《そんたく》して言ってみると、伊兵衛という老人は顔に喜びのいろをうかべた。
「それそれ。そういうことでございます。あたくしが、子供でも養おうかと、突飛もないことを思いつきましたのはそういうことでしてな。いやほんとに、一人きりで物を喰うほど味気ないことはございません」
老人はすっかり平四郎を信用した顔いろになっている。
「お若いのに、よく世間を見ていなさる。ところで、これはというような子供がおりましたか」
「素姓というものもない裏店の子でござる。したがって行儀も何も知らん子だが、そのあたりはよろしいか?」
「そんなことはあなた、いっこうにかまいません。身体が弱いとか、手くせが悪いとかいうことでなければ、もう、大概のことには眼をつぶります」
その手くせが悪いのだ、とはさすがに平四郎も言いかねた。口をつぐんで思案していると、老人が言った。
「つまりは、そばに誰かがいればよろしいのです、神名さま。ひとりというものはこわいものです。お若い方にはわからない。とてもおわかりにはなれません」
平四郎は老人の声に、深い孤独のひびきを聞いた気がした。思わず老人を見つめると、老人は無言でうなずいた。これなら、なんとかなるかも知れんな、と平四郎は思った。
五
二度までは黙って見ていたのだ。だが三度目に、竹蔵という子がまたも棚の上の小銭をくすね、その金で買って来たらしい餅菓子を庭の隅にかくれて喰っているのを見たとき、さすがに伊兵衛も胸が寒寒とした。
ひどいものだ。これじゃ家の中に泥棒を呼び入れたようなものだ。竹蔵を連れて来た平四郎という男に、とりあえず三両ものお礼を包んだのが悔まれる。あれは、考えてみると口のうまい男だった。
「竹蔵、そこで何をしている」
静かに声をかけると、子供は飛び上がるように立ち上がった。うしろに物を隠した手つきも、おびえた顔もみにくかった。
「ご飯はたっぷり食べさせているはずだ。腹がすいてるわけはあるまい。おまえはなにか盗み喰いが好きなのか。そういう子はこの家におけないよ」
「………」
「二度とお金をくすねたりしないと、神さまに誓うか。それが出来ないというなら、わたしにも考えがあるが、どうだ?」
伊兵衛が説教している間に、子供は少しずつ横に動いて距離をあけた。おびえた表情は消えて、白い眼が伊兵衛を見ている。
「どうするね? 神さまにもうしませんと誓うか。それともこの家を出ていくか。だが家に帰っても、おっかさんは家に入れてくれぬかも知れんぞ。飯だって喰わさないかも知れないよ」
伊兵衛は母親にも会って、十両の金を渡している。泣いて喜んだ姿が眼に残っている。母親は子供を手放すのを悲しがってはいなかった。いずれは一家心中かと思っていました。これで救われましたと言ったのだ。
子供は伊兵衛をじっと見た。そして不意にくそじじいと罵ると、ぱっと背をむけて逃げて行った。繰り戸が鳴る音がした。
伊兵衛はあとを追わなかった。ため息をついて縁側にもどり、そこから家の中に上がった。
──ま、仕方ない。
他人の子を育てるというのはむつかしいものだ。伊兵衛はそう思った。憑きものが落ちたように、何かさっぱりした気持になっていた。
子供が来て去るまで、たった十日だった。少し金を使い過ぎた悔いはあるが、その間、子供のすることなすことが珍しくて、伊兵衛は久しぶりに声を出して笑ったりしたのだ。十日間楽しませてもらったと思えば、それほど腹も立たない。
伊兵衛は枕と掻巻《かいま》きを持ち出して、縁側近くに横になった。庭を照りわたる日があたたかく、横になっても寒さは感じない。伊兵衛は眼をつむった。軽い疲れを感じていた。
伊兵衛が眼ざめたのは、日が傾いてからだった。日射しは庭から消えて、わずかに庭の隅の柿の梢を染めている。身ぶるいして、伊兵衛は起き上がった。あたりを見回した。誰もいなかった。家の中には、かすかな夕闇が入りこんで来ている。
──昨日までは……。
いまごろになると、竹蔵が飯を炊いていたのだ。家でも母親を手伝っていたらしく、竹蔵は米の量と水加減を教えると、上手に飯をつくった。
今日は自分でやらなきゃ。そう思ったが、伊兵衛は億劫《おつくう》だった。縁側に出てうずくまった。見ているうちに庭にうす闇が這いはじめた。柿の梢の日のいろも消えかけている。
──あれは、うまそうに飯を喰っていたな。
伊兵衛は、また竹蔵という子供のことを思い出している。竹蔵は八つにしては小柄だった。小柄な身体で、びっくりするほど喰べた。
その竹蔵を見ながら、伊兵衛は思いつくままに、いろいろなことをしゃべったのだ。お前も、いずれ商いをおぼえるといい、店というものは面白いものだぞ。そういうことを話すのは楽しかった。竹蔵は聞かれたことにしか答えない子供だったが、そういう話をべつにいやがるふうでもなかった。くりっとした眼がかわいかったな。
不意に伊兵衛は、襲われたようにうしろを振りむいた。何かが襲って来たわけではなかった。しんと静まりかえったうす闇があるだけだった。だがその中に、伊兵衛には馴染みの、心を苦しくする物がひそんでいる気配がした。伊兵衛はしばらく身じろぎもせず誰もいない家の中を見つめたが、ついにゆっくりと立ち上がった。
四半刻(三十分)ほど経ったころ、伊兵衛は鍋町の町並みを歩いていた。歩きながら伊兵衛は迷っている。未練たらしくこの町に来たことを、少し悔んでいた。年甲斐もないという気がしている。
同時に、伊兵衛はもう一度だけ、あの子を連れ帰ろうかとも思っていた。誰もいないあの家にもどるのは耐えがたい。もう沢山だ。
町は、まだ時刻が早いので、灯のいろで明るかった。店先に灯を出した商い店が、声をからして客を呼んでいる。
その道を、小さい黒い影がすばやく横切った。とたんに男の怒号がして、大きな男が道にとび出すと、横町に飛びこもうとした小さな影をつかまえた。
男は小さな身体をずるずると道まで引きずりもどすと、無造作に拳を振りおろした。はげしい子供の泣き声が起こった。そのときは、伊兵衛は何が起きたのかわかっていた。夢中で前にとび出した。
「何をなさる。こんな子供を」
伊兵衛は力まかせに男の手から竹蔵の身体をもぎとると、うしろにかばった。
「何をするって、店の物を盗んだからさ。太え野郎だ。大根をとりやがった」
「そう言っても、見てのとおり子供じゃありませんか。大人気ないことをなさる」
「じいさん、この町のひとじゃなさそうだな」
青物屋のおやじはにやにや笑った。おやじは集まって来たひとの顔をぐるりと見回してから、伊兵衛のうしろに指を突きつけた。そして、みんなも知ってるよな、と言った。
「こいつは裏の六兵衛長屋の後家の子で、この町じゃ、手くせが悪いので知られたガキさ」
「ともかくその大根、あたしが買わせてもらいましょう」
伊兵衛は財布をつかみ出した。
「その上であたしが、この子に言いきかせます」
「無駄だと思うがね」
青物屋のおやじはそう言ったが、伊兵衛の渡した金を見て、こんなにもらっていいのかいと言った。
伊兵衛が大根を受けとり、青物屋のおやじが店に入ると、人びとはいそがしく散って、立っているのは伊兵衛と竹蔵だけになった。竹蔵は、しっかりと伊兵衛の着物をつかんでいた。
不意に伊兵衛の胸に怒りが湧いた。自分がはずかしめられたような屈辱感が胸に残っている。
「性こりもなく、まだこんなことをしている」
伊兵衛は竹蔵の頭を張った。竹蔵は意気地なく泣き声をあげた。
「その性根を叩き直してやる。さあ、おいで」
伊兵衛は荒荒しく竹蔵の手をつかんだ。竹蔵はさからわなかった。泣きじゃくりながらついて来る。
伊兵衛は胸の中に荒っぽい怒りがうず巻いているのを感じた。こんなに怒ったのはひさしぶりだと思った。
──誰もしつけてやらないからだ。
おれがしつけてやる、と思った。その気持にはひさしく忘れていた快い昂《たかぶ》りが含まれていた。伊兵衛は壮年の男のように、大またに歩いたが、片手に大根をさげているのに気づいてふと足をとめた。
「これを、おっかさんに上げて帰ろう。な?」
竹蔵の顔をのぞき込んで、やさしく言った。
六
その女が、三丁目の方から裏通りを歩いて来るのは、平四郎も見ていたのだ。胸に風呂敷包みを抱えた、二十過ぎの町家の女だった。やや小太りで平凡な顔かたちをしている。
町はまだ明るい。こんな時刻に田島やその女房がもどって来ることもあるまい。平四郎もそう思っていたし、軒先に出ている樫村の配下もそう思っていたようである。配下の男は、片手で柱をつかみ、片手で鼻毛を抜きながら、表を眺めていた。十日以上もつづいている見張りに少し倦《あ》いているようでもあった。もう一人の男は、今日は来ていなかった。
だが、女は不意に田島の家の前で立ちどまると、軒下に入った。同時にうしろから来た男二人が女に襲いかかるのが見えた。
「やられた」
表に出ていた男は、ひと言叫ぶと矢のように走って、男たちに殴りかかって行った。平四郎も店の中から走り出た。その眼の前で、樫村の配下が殴り倒された。
女を襲った、鳥居の配下と思われる男二人は、平四郎を恐れなかった。一人がいきなり、体あたりに平四郎の腰の物にしがみつき、その間にもう一人が女の手をつかんで三丁目の方に逃げようとした。
平四郎は体を躍らせて男の股間を蹴り上げると、のけぞる男の首のつけ根に容赦のない手刀を叩きこんだ。男は、二度ほどくるくると身体を回してから、突きとばされたように地面にころんだ。
振りむきもせずに平四郎は、もう一人の男を追った。逃げ切れないと見たらしい。男は女の手を放して懐に手を差しこんだ。匕首でもつかみ出すつもりだったらしいが、そのときには平四郎はもう男の前に走り寄っていた。男の腕をつかみ上げると、体《たい》を入れて背負い投げを打った。男の姿は高高と宙に跳ね上がって地面に落ちると動かなくなった。その間に起き上がって来た樫村の配下が女の腕をつかんだが、その必要もなかったようである。女は呆然と立ちすくんでいた。
「田島さんのおかみさんですな?」
近づいて、平四郎がたずねると、女は小さくうなずいた。
「見たように、家にもどるのはあぶない。旦那もお前さんも悪いやつに狙われている」
「………」
「このひとと一緒に行ってください」
と平四郎は樫村の配下を指さした。
「このひとは、あなた方の味方だ。安心していられるところに案内してくれる」
そう言ったとき、平四郎は背後から人に見られているのを感じた。突然のさわぎに、物見高い通行人が立ちどまって、遠くからこちらを見ているが、それではない。
平四郎はゆっくり身体を回した。そこから二軒目の印形《いんぎよう》屋の軒下に男が一人立っていた。樫村と同じように黒羽織を着た武家だった。三十前後にみえる細おもての男である。だがその眼と足くばりに、平四郎は一瞬肌寒いものを感じた。
男の眼は、またたきもせず平四郎にそそがれている。感情の動きの見えない、乾いた眼だった。足はゆるやかに左右に開かれている。いつでも抜き打ちに刀を遣える体くばりに見えた。
──この間の夜の男だ。
直感でそう思った。平四郎も鯉口を切って、足をくばった。無言で見返した。この明るい中、人眼もある場所で、男が斬りかけて来るかどうかはわからなかったが、相手が刀を抜けば受けて立つ気になっていた。
何者かはわからないが、この男は兄の監物や堀田老中の考えていることに、いずれは大きな障害になって立ちはだかるような気がした。兄や老中にさほど同調しているつもりはないが、この男は危険だと思った。少なくとも、兄の身辺に近づけたい人間ではない。
男のうすい唇がふっとゆがんだ。そして不意に男は背をむけると、すたすたと三丁目の方に歩き去った。速い足で、男の姿はみるみる遠くなった。
「いまのは誰だい。知ってる男かね?」
平四郎が訊いたが、樫村の配下は首を振った。
「まだ明るいから、途中で変な真似はせんだろうが、用心するか。このひとは駕籠にのせて、おれも送って行こう」
駕籠があるところまで歩き、田島の女房をのせると、平四郎もつき添った。樫村と打ち合わせてある場所は、三島町の杉野という医者の家である。そこまで送りとどければよかった。
駕籠は無事に医者の家についた。そのときにはあたりが少しうす暗くなっていたが、あとをつけられた気配はなかった。そのことを確かめてから、平四郎は医者の家には入らずに紺屋町の方にむかった。家へのもどりかけに、伊兵衛の家をのぞいてみるつもりだった。
隠居の伊兵衛から、三両という予想以上の礼金をもらい、平四郎は一升買って北見十蔵と飲んだ。持つべきものは友だ、おかげさまでおれの仕事も順調だとオダをあげたまでは上上の気分だったが、一日二日経つとさすがに心配になった。
押しつけたタマがタマだ。うまく行っているはずはないという気がしたが、平四郎はその不安から強いて頬かむりを決めこんで過ごして来たのである。近づかなかった。へたに顔を出して、あの礼金は返してもらいましょうなどと言われても困る。
だが頬かむりしても、良心とやらはあざむけず、時おりこれが思い出したようにしくしくと痛む。今日も仕事が一段落したところでひょいと二人を思い出し、ついでにちくと良心の痛みを感じたというあんばいだった。
──一度はのぞいてみるものだろう。
ぐあい悪そうだったら逃げ帰るまでだ、と思いながら平四郎は、音を忍ばせて伊兵衛の家の庭に入った。
入口の左手、茶の間とおぼしいあたりから灯の色が庭までこぼれ、中でひとの話し声がしている。平四郎は軒下にたたずんだ。
「今日は釣銭を一文もごまかさなかったな。えらいぞ」
と伊兵衛が言った。
「駄菓子を買うぐらいの金はいつでもやる。欲しいときは黙って取らずに言いなさい」
「………」
「わかったな」
「そんなら明日、一文おくれ」
「よし、よし」
伊兵衛の声がやわらかくなった。
「盗みに馴れると役にも立たぬものまでとりたくなるものだ。おとといの大根は、ありゃ何だ? 盗ったところで喰えはしまい」
「ちがう。大根はおっかあのおみやげだよ。おっかあ、大根好きだから」
「おみやげ?」
はじけるような伊兵衛の笑い声がした。
「面白いことを言う。うん、心がけは殊勝だが、ひとの物で義理をするのはよくない。そうだ、竹蔵明日のことだがな……」
平四郎は静かに軒下をはなれた。足音をしのばせて庭を横切り外に出た。
──なんだ、うまく行っているではないか。
暗い道を歩きながら、平四郎はくすくす笑った。子供はまだ盗癖が改まらずに、大根か何かでひと騒動あった様子だが、伊兵衛の声に張りが出ているのはよくわかった。
──家の者がいるというのは、いいものらしいな。
おれは一人の方が気楽でいいが、と思ったとき、平四郎の頭を嫂が言っていた塚原の娘早苗のことが、ちらと横ぎった。
早苗が八名川町のあたりにいるのなら、一度会ってみたい気がした。しかし嫂が言うように早苗がもう人妻なら、それはやめた方がいいのだ。そのことで平四郎はずっと迷っている。暗い道を歩きながら、平四郎はめずらしく重苦しい表情になった。黙黙と歩いた。
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逃げる浪人
一
手短かに塚原の早苗のことを話すと、伊部金之助はすぐに請け合った。
「よし、おれにまかせろ。あのあたりの組屋敷にいるのなら、すぐに見つかる」
「はっきりそうだとは言っておらんのだぞ、伊部」
伊部の安請け合いを危うんで、神名平四郎は念を押した。
「義姉はただ、そのひとを八名川町の路上で見かけたと言っただけだ。風呂敷包みを持って歩いていたというから、御家人の嫁かというのも、おれの推量に過ぎん」
「わかった、わかった」
伊部はあくまで軽軽しく言った。
「しかし、さしあたりはその見当でさがしてみるしかなかろうが」
「それはそうだ」
「どんな顔の女子だと?」
「眼が細かったかな。瓜《うり》ざね顔だったようでもある」
宙をにらんで平四郎は思い出そうとしたが、はっきりしなかった。首を振った。
「あれから五年経っておる。顔も変ったろう。だからさっき申したようにだ、五年前に潰れた塚原の家の者ということでさがしてもらうしかない」
「それで? 見つかったらどうするつもりだ」
不意に伊部がそう言った。伊部はにやにや笑っている。
伊部は道場仲間の中でも遊び人で通っている男だ。何を言わせたがっているかはわかったが、平四郎はその手に乗らなかった。仏頂づらで答えた。
「どうもせん。義姉が申したのがそのひとかどうか、一応たしかめたいだけよ」
「それだけか? 会って旧交をあたためるとなると、ちと面倒があるぞ」
「よけいな気は回さんでくれ。そこまでは考えておらん」
「ふーん」
もっと何か言うかと思ったら、伊部は案外あっさりとうなずいた。根が単純で、物事をあまり深刻に考えないたちである。
つまりこうか、と伊部は言った。
「神名は、もと許嫁《いいなずけ》の娘が、家がつぶれていまはしがない御家人の嫁になっているらしい、はたしてそうかと気にかかるわけだ」
「ま、そんなところだ」
「美談だな、神名。こいつは美談だ。よし、おれにまかせろ」
「おいおい」
平四郎の方があわてた。
「貴公の話はすぐに大げさになっていかんなあ。あまり触れまわらずに、そっと調べてくれよ」
「わかった、わかった」
ひと汗流して行かんのか、と誘う伊部に別れて、平四郎は道場外の井戸端から裏口に出た。
裏の路地に出ると、平四郎はそっと額の汗をぬぐった。見つかったらどうするつもりだ、と伊部に問いつめられたときのことを思い出している。
正直のところ、そこまでは考えていなかったのだ。嫂の里尾に聞いた話が、重いしこりのように胸に残った。伊部金之助は、八名川町に住む御家人の次男坊である。伊部に頼んだら、五年前に姿を消した早苗かも知れない、その女をさがしてくれるかも知れないと思ったとき、平四郎には十九歳の分別しかなかったようである。
だが首尾よく頼みこんだいまは、二十四の分別がもどって来ている。軽率な男に大切の秘事を打ち明けてしまった後悔があった。もと旗本の塚原の娘がいるかと、騒騒しくあのあたりを聞き回る伊部の姿を考えると、肌が汗ばんで来る。
だが、そう思う一方に、伊部に頼みこんでほっとした気持もあった。うまく行けば、伊部は心の中にそっとしまって置いた女をさがし出して来るかも知れないのだ。
その先のことはわからないが、その想像には、やはり心を弾ませるものがひそんでいた。
──いまさら、取り消すことも出来ん。
平四郎はしいて腹をくくった。軽軽しい男には違いないが、伊部はバカではない。案じるほどのこともなく、ソツなく頼みごとを片づけてくれるような気もした。
二
与助店の木戸を入ると、井戸端にいる二、三人の女房が一斉に振りむいた。そして、口ぐちに旦那、お客さまですよと言った。
女たちは、平四郎の商売なるものが、いまだにしんから納得いかず、しかしながら平四郎本人は存外に餓えもせずにこの裏店に居つく気配なのが不思議らしく、平四郎に客があるといつもなみなみならない興味を示すのである。
路地に流れこんでいる赤らんだ日射しの中に、男が一人たたずんでいる。場所は平四郎の家の軒下である。しかも、平四郎の姿をみとめて路地の中ほどまで迎え出たところをみると、まさに女房たちが言う客であるらしかった。
「や、まいどご造作」
平四郎は女房たちに悠然と挨拶を残すと、この男に近づいて行った。
──みろ。
いよいよおれにも客がついて来た。そう思って胸をふくらませたが、客の様子がわかると、胸のふくらみは少ししぼんだ。
齢は四十を過ぎているだろう。脇差を一本帯びているところをみると、浪人らしかった。着ている物は、あきらかに洗いざらしたとわかる代物で、襟《えり》のあたり、裾のあたりにはほつれた糸がぶらさがっている。袴もつけず、着流しだった。
しばらく髪も手入れしていないとみえて、さかやきには椋鳥《むくどり》の子の羽毛のような柔毛《にこげ》が渦巻いている。頬も手も痩せた貧相な男だった。
──まずは、裏店の傘貼り浪人といったところか。
と平四郎は鑑定した。
これではあまり大きな商いは期待出来まい、と失望が胸をかすめたが、とりあえず相手は客である。にこやかに声をかけた。
「や、留守にしてすまんことです。よほど待たれたか?」
「いや、さほどにも」
男はもごもごと口ごもった。そして、細い眼をみひらくようにして、軒下の看板と平四郎の顔を見くらべてから言った。
「よろず揉めごと仲裁と申すのはここでござるな?」
「さよう、さよう」
平四郎は、男を招きいれる身ぶりを示しながら、戸をあけようとしたが、戸はすぐには開かなかった。ひさしくガタが来ているのだ。どんとひとつ足で蹴りつけてから満身の力をこめると、戸は今度はすべるようにあいた。
勢いあまって、つんのめるように土間に入ると、平四郎はあらためてにこやかに男を招きいれた。
「いや、じつにうれしい」
と平四郎は言った。
「打ち明けると、揉めごと仲裁と知って来る客は、存外少なくてな。ほかの商売と間違えてひとが来るのは往生する」
「………」
「いつぞやは傘貼りと間違えられた。は、は。ところで尊公も傘貼りか何かを?」
「いや、それがしは提灯を貼っておる」
似たようなものだ、と平四郎は思った。お茶を出すほどの客でもないと見きわめて、平四郎は男の前に坐りこんだ。
「では、ご用命の揉めごとと言うのをうけたまわろうか」
む、むと男は口ごもった。腕を組んで天井をにらんだかと思うと、今度は眼を伏せ、深ぶかと溜息をついたりして、なかなか言い出さない。
しびれを切らして、平四郎は催促した。
「いかがなされた?」
「それがし……」
男は、鼻から馬の鼻息ほどの太い吐息をひとつ吐き出してから、やっと言った。
「じつは、敵《かたき》持ちでござる」
「ははあ」
平四郎は、あらためて男の姿を見回した。厄介な揉めごとを持ちこまれた予感がした。しかし中身を聞いてみないことにはわからない。
「くわしくうけたまわろう」
「それがし、戸田勘十郎と申す者でござる」
もとは西国の某藩で、御納戸《おなんど》役を勤め、八十石をいただいていた、と戸田は言った。
武士の意気地という成行きで、日ごろそりの合わなかった上役の古沢嘉門を斬って国元を逐電《ちくてん》したのが十五年前、戸田はそのとき二十七だった。
戸田は一度真直ぐに江戸に来た。ひそみ隠れるには人の混む大きな町の方がいいと判断したのだが、その考えはあたっていて、戸田は数年どうにか無事の日日を江戸の隅で過ごすことが出来た。
しかし変名も、裏店の内職暮らしもようやく板についたころになって、戸田は路上で昔の同僚に会い、古沢の弟武左衛門が仇討《あだう》ちの許し状を持って戸田をさがし回っていることを聞いた。
しかも古沢武左衛門は、いま江戸に来ているという。戸田は裏店にもどるとその足で江戸を抜け出した。一人暮らしで、家族の煩いもないので身軽だった。上州から信濃に抜け、さらに北国街道を迂回して上方に入ると、今度は大坂の町に身をひそめた。そこで三年ほど過ごした。
しかし武左衛門は大坂にも現われたのである。今度は路上ですれ違ったのだが、先方は頬かむりで車を曳《ひ》いていた戸田に気づかなかった。
戸田勘十郎は、惜しげもなく大坂のねぐらを捨てた。今度は中仙道を通って江戸に舞いもどった。さらに数年経って、十五年の歳月はまたたく間に過ぎた。
「ところが、あきらめたかと言えばさにあらず、武左衛門がまたも江戸に現われたのでござる」
「………」
「古沢の家は、嘉門に子がなく、武左衛門が養子になる手はずでござったゆえ、それがしを討って家名を回復したい一心でござろう」
「ふむ」
平四郎は腕を組んだ。事情はわかったが、討手をおそれて、十五年も逃げ回っている男に同情はうすい。
武士の意気地と言ったが、尋常の理由があって相手を討ち果したものならば、討手をむかえて堂堂と立ち合えばいいではないかという気持がある。返り討ちは非道とはされていないし、時には名誉の扱いさえ受ける。
もっとも、そう思うのは平四郎が敵持ちの境遇に身を置いたことがないからかも知れなかった。風の音にも耳をそばだてる夜夜を過ごした者でなければ、討手を待つおそろしさはわかるまい。
──それに……。
相手を返り討ちに出来そうなご仁でもない、と平四郎は尾羽打ち枯らした感じの戸田を眺めた。しかしそうかと言って、戸田にかわって仇討ちの尻ぬぐいを引き受けるなどはご免だった。少少の駄賃をもらうぐらいでは引き合わない仕事だ。
用心深く、平四郎は聞いた。
「それで? この揉めごと屋にどうせよと言われる?」
「逃げ回るのにも、少少くたびれ申した」
と戸田勘十郎は言った。生気のとぼしい顔に、もの悲しげな笑いがうかんだ。
「そこで、お手前のはからいで、何とか武左衛門と談合に持ちこむ手はござらんかと思いましてな」
「談合? はて」
平四郎は首をかしげた。戸田の頼みは、自分にかわって武左衛門なる男を片づけてくれということではなくて、談合に持ちこんで、仇討ち話を解消したいということらしかった。
なるほどそれなら、看板にかかげる揉めごと仲裁の趣旨に合わないわけではない。
しかし、町の女房の浮気の後始末とはよほど違って、相手には家名とやらいうのっぴきならないものがかかっているのである。古沢武左衛門を説得し、二人を引きあわせて一杯やり、それで手じめというぐあいにはいかない気がした。
戸田勘十郎は、うつむいたままぼそぼそとしゃべっている。
「名乗り出て武左衛門を討つことは、いとやすいことでござる。しかし、古沢には老母がいて、この上の泣きをみせることも憚《はばか》られましてな。かたがたこちらにも、恥ずかしながら一緒に暮らしてもよいという女子が出て参った矢先でござれば……」
「ちょっと待った」
と平四郎は言った。
「いま、何と言われた?」
「……?」
「古沢武左衛門を討つことは、いとやすいとか言われなかったか?」
「おお、そのこと……」
戸田は肩をすくめた。
「武左衛門は、図体こそでかいものの、剣の方はからきしだめな男でござる」
「で、お手前の方は?」
「天心独名流を学んでござる」
戸田はいよいよ恥ずかしげに身体をすくめた。
「恥ずかしながら、旧藩では五指に数えられており申した」
「ほう」
平四郎は眼をみはった。天心独名流は、忠也派一刀流から出た素姓正しい流派で、祖は伊藤忠也の高弟|根来《ねごろ》八九郎重明である。貧にやつれたという恰好の戸田だが、みてくれとは裏腹に、かなりの遣い手であるらしかった。
平四郎は、戸田が持ちこんで来た難題に、ひと筋の光がさし込んで来たのを感じた。しかし慎重にたしかめた。
「すると、かりに貴公が古沢武左衛門と立ち合えば、まず貴公の勝ちと、そうなりますかな?」
「勝敗は時の運」
と言って、戸田は首をかしげたが、そこではじめて痩せた胸を張った。眼に光が出た。
「おたずねゆえ正直に申し上げるが、立ち合えば、まず九分どおりはそれがしの勝ちでござろう」
「ふむ、ふむ」
平四郎は胸の内を手で打った。それなら何とかなるかも知れないと言う気がした。
「で、武左衛門の居所はご存じなのですな?」
「数日前までは、藩江戸屋敷の長屋にいたが、いまはそこを出て、さる商家の離れを借りたようでござる。腰を据えてそれがしをさがすつもりと見受ける」
「それで、先方は貴公の居場所は知らんというわけだ」
「むろん」
平四郎は膝をすすめた。
「戸田殿、念のために武左衛門の兄を討った一件のいきさつを、いま少しくわしくうかがおうか」
三
古沢が止宿《ししゆく》している家は、油町の表通りにある蝋燭問屋で、黒の漆喰塗《しつくいぬ》りの店蔵《みせぐら》が目立つ大きな店だった。
武左衛門はすぐに出て来た。戸田勘十郎が言ったように、大きな身体をした男だった。肩にも胸にも相撲取りのような肉がついている。左手に刀をわしづかみにしていた。
油断のない顔つきで、ひととおり平四郎の人体《にんてい》をたしかめると、何の用かと言った。
「ここでは、ちと憚りがある」
平四郎は、帳場にいる番頭の眼を気にしながら、小声で言った。
「貴公のたずね人について、話があって参った」
「おう」
武左衛門は一瞬おどろいた顔になり、気ぜわしく、上がってくれと言った。
離れの部屋は、斜めに中庭を横切る廊下で母屋とつながっている。表の喧騒もとどかず、静かな部屋だった。
「早速だが……」
平四郎を部屋に招きいれると、武左衛門はせきこむように身体を乗り出して来た。
「神名殿という名に心当りはないが、話というのは戸田勘十郎のことでござろうな?」
「さよう」
「きゃつの居場所をご存じか?」
「まあな」
平四郎の少少横着な返事に、武左衛門もようやく平四郎がただ戸田の住居を知らせに来たわけではないとさとったらしかった。
ぐっとあごをひいて平四郎を見据えた。そういう顔をすると、眼尻の切れ上がった大きな眼と厚い唇がなかなかに兇悪な人相を生み出し、戸田よりはこっちの方が敵役にみえる。
どすのきいた声で、武左衛門が言った。
「ただでは教えられんということらしいな」
「まあ、そうだ」
「金か、浪人」
うす笑いをうかべて武左衛門が言った。神名殿が、いきなりただの浪人呼ばわりに下落したのは、およそ平四郎の腹の内を読んだというつもりらしかった。
つまり駄賃かせぎと鑑定したのだ。そう言えば、武左衛門はよほどいい金づるを握っているとみえて、血色もよく着ている物も立派で、裏店住まいの平四郎の比ではない。仇を追いもとめて十五年、などという歳月にやつれた感じは見あたらなかった。
「金ならあるぞ。ただし、まことに戸田の居場所を教えるならばだ」
「金じゃあないなあ」
戸田よりは、こっちの方が懐があったかそうだと思ったが、むろん武左衛門から金をひき出すのは筋違いである。
「戸田の居場所はたしかに知っているが、それを貴公にばらして金にしようというわけじゃない」
「じゃ、何の話で来た?」
「ま、ま。そういきり立たんで、少しじっくり話そうではないか。お茶などは出ないのかな?」
武左衛門は疑わしそうに平四郎を眺めたが、離れの入口まで出ると勢いよく手を叩いた。間もなくひとが来て、武左衛門がお茶を言いつける声が聞こえた。なかなかいばっている。
様子から察して、古沢武左衛門はこの家の食客というわけではなく、藩江戸屋敷とのつながりで離れを借りているという感じだった。
平四郎は胸の内に何となく反感が動くのを感じた。戸田を十五年もつけ狙っているというから、少しは風体に苦労がにじみ出ているような男かと思って来たのだが、その気色もない。藩の威光を背に、かなり恵まれている様子さえ窺われるのだ。
少しおどろかしてやろうか、と平四郎は思った。
「じつは昨日、戸田勘十郎に会った。こうしてたずねて来たのも、戸田の指し金でな」
「なに?」
はたして武左衛門は眼をむいた。息荒く言った。
「やつは、わしがここにいることを知っておるのか?」
「むろん、知っておる。あんたは戸田のいる所を知らんわけだから、用心した方がいいな」
平四郎がそう言ったとき、小女がお茶を運んで来た。小女がいる間、二人は口をつぐんだが、出て行くとすぐに武左衛門が口をひらいた。
「勘十郎は貴公を使いにして、何を言って来たのだ? 果し合いの申し込みか?」
「いや、戸田は、鬼ごっこはこのへんで終りにせんかと言っておる」
「……?」
「つまり、仇討ちなどやめたらどうかということだなあ」
「たわけたことを申せ」
憤然と武左衛門は言った。興奮するたちらしく、みるみる顔が赤くなり、膝頭をつかんだ手がぶるぶる顫えている。
「そのような話なら聞く耳持たん。帰ってもらおう。戸田の住所も聞かん。自分でさがす」
「まあ、そう息まかずにもう少し話そうではないか」
せっかくのお茶だ、頂戴しようと言って、平四郎はゆっくりお茶を飲んだ。そして茶碗を置くと不意に言った。
「しかし、あんたは剣の方はからっ下手だそうじゃないか。それで戸田に勝てるのかね」
武左衛門の顔に、ぎょっとした表情が動いた。憤慨して赤くなっていた顔が、みるみる色を失うのがみえた。
──戸田の言ったことはほんとだったな。
と平四郎は思った。もうひと押しした。
「無理せぬ方がいいと思うがな」
「よけいな斟酌《しんしやく》というものだ。武家の意地というものがある。構わんでもらいたい」
武左衛門はそう言ったが、あきらかに虚勢とわかる張りのない声だった。
「いや、貴公の事情はわかる。寝首を掻いてでも戸田を討ち取れば、家名はもどるしひょっとすれば加増ものだ。だが討ち洩らしたということになれば、家名再興はおろか、もどるにもどれんということだろうな」
「………」
「しかし、もっと悪いことがあるのをお忘れではないのか? 返り討ちになったら元も子もないということだ。公平にみて、貴公は戸田が逃げ回ってくれたおかげで、これまで命ながらえて来たという感じだからな」
「バカを申せ」
武左衛門が小さい声で抗議したが、平四郎は無視した。
「そこで、物は相談だ。ここに双方によかれという考えがあるので、ちと相談に乗ってもらいたい。申し遅れたが、それがしはこういう厄介な揉めごとをうまく片づけるのが商売でな。こういうことでは頼りになる男だ」
武左衛門は腕組みしてそっぽを向いている。聞く耳持たんという姿勢だが、出て行けと言わないところをみると、平四郎の言うことに耳を傾けるつもりなのだ。
「まず、戸田勘十郎を病気で死んだことにする。死んだ者は討てないから、貴公は戸田の髪とか、帯びていた刀とかを持って帰国する」
「そんなことじゃ、藩は承知せんぞ」
武左衛門はわめいた。ちゃんと聞いているのだ。平四郎に向き直って真剣な顔をした。
「そんなつくりごとで、旧禄をもどすほど、藩のお偉方はおめでたくないぞ。笑止な話だ」
「そりゃ旧禄はむつかしいかも知れんな」
と平四郎は言った。
「しかし聞いたところでは、貴公の家は藩でちょっとした家柄だそうじゃないか。まるまる百二十石を返してくれなくとも、家名を残し、旧禄の半分は許すぐらいには行くかも知れんて。三が一でもいいではないか。返り討ちになるよりはましだろう」
「………」
「戸田は病死ととどけ出てだな。あとはつてをもとめて裏から再興を願い出るのだ。役持ちの親戚もいて、上の方には顔が利くそうではないか。わしなら、そっちをとるな」
武左衛門は、眼をつぶり、額にうすく汗をかいている。
「無理にとは言わん。貴公が不承知なら、わしは手をひく。土台、さほど金になる話でもないからな」
「………」
「ただし、さっき申したように、貴公は戸田の居場所を知らんが、戸田はこの家を知っておる。この話がつぶれると、今度は逆に戸田に狙われるかも知れんから、出入りに気をつけることだな。それとも、また江戸屋敷の長屋に逃げこむかね」
古沢武左衛門は眼をひらいた。顔をひきつらせて言った。
「しかし病死などと申せば、検死がある。町方をあざむき、江戸屋敷の者をあざむかねばならん」
「存外に度胸がないな」
と平四郎は言った。
「そのへんの仕かけはおれの仕事だ。まかせてもらおう。安手間でも始末はちゃんとつける。どうかね?」
武左衛門は沈黙した。さっき平四郎をこの部屋に迎えたときより、身体がひと回りちぢんだようにもみえる。
ようやく武左衛門が言った。
「二、三日考えさせてもらえぬか」
四
「あんまり感心せんな」
と北見十蔵が言った。黙って平四郎の話を聞いたあとである。
「しかし立ち合えば、その武左衛門という男には、まず勝目はないのだぞ」
「それでいいではないか」
北見は静かにさとす口調で言った。
「たとえば返り討ちに会おうと、筋を通すのが武士の道というものだ。貴公のは、ちとやりすぎだ。筋を曲げるものだ」
「ほめられるかと思ったら、お説教かね」
平四郎はむくれた。
「貴公はそういうきれいごとで片づけようとするが、そもそものいきさつは、かなり醜悪なところからはじまったのだぞ」
古沢嘉門は御納戸頭を勤め、役目がら城下の商人たちとひんぱんな交際があった。茶屋酒にもよばれ、多額の袖の下を取っていた。時には茶屋酒に下役を誘い、賄賂もお裾分けしたが、それは自分のやっていることを隠蔽するためだった。
だから、誘いにも乗らず、賄賂のお裾分けもはねつけて受けない下役は嘉門に憎まれた。戸田勘十郎も憎まれた一人である。執務の上でさまざまな仕返しが来たが、そのうち嘉門はもっと陰湿な報復をはじめた。
勘十郎には、そのころ縁組みの話がすすんでいたが、突然に意味不明のことわりをうけて話がこわれた。つぎつぎと三度までこわれた。勘十郎が嘉門を斬って国元を立ち退《の》いたのは、それがいずれも古沢嘉門の差し金のせいと判明したときである。
「そこまでされたら、おれだって頭に血がのぼるな。戸田ははじめから斬る気ではなかったと言っておる。しかし戸田の詰問に対する嘉門とやらの挨拶が、じつにひとを愚弄したものだったそうだ」
「だから斬ったか」
と北見は言った。
「だが斬った以上は、仇と狙われて逃げ回るのは戸田という男の筋だ。途中で談合しようなどというのは、武家の作法にもとる」
「それじゃ、これはどうだ」
平四郎は息まいた。
「戸田勘十郎は今年四十二だ。その戸田に一緒に暮らそうかという相手が現われた。三十になる寡婦だ。職人の女房だったが、亭主と子供をなくして一人だそうだ。内職の縁で知り合ったそうだが、心やさしい女子らしい」
「………」
「かわいいではないか。戸田は四十にしてはじめて女子の情を知ったのだ。それでも逃げ回るのが筋かね」
「………」
「古沢武左衛門にしても、尋常に立ち合えばまず返り討ちだ。うまく申しひらきが出来て三が一でも禄を取りもどし、家名を回復すれば御の字ではないか。おれは人助けのつもりだがな」
「わかった、わかった」
と北見は言った。苦笑している。
「貴公のろくでもないたくらみに加担するようで気はすすまぬが、仕方ない、眼をつぶるか」
「玉宗寺の和尚に話してくれるか」
平四郎がそう言うと、北見はうなずいた。玉宗寺は浅草の本願寺前にある禅寺で、北見はそこの達玄という僧侶と懇意にしていた。
打ち合わせを済ませて、北見が借りている糸屋を出ると、平四郎はいそぎ足に両国の方にむかった。
少し気持がうきうきしている。戸田勘十郎に話を聞いたときは、厄介なだけで金にもならぬ仕事だと思ったが、いまは揉めごと仲裁の腕のみせどころだという気分になっている。
北見が非難したように、いささか武家の道にはずれる詐術という気はあるが、元来の非は討たれた側にあって、頼み人の戸田は、相手の非道に出会ったがために、これまでの人生を棒に振った男である。
残る先行きに、人並みの夢をかけて頼って来た以上は、よろず仲裁の看板の手前奮起せざるを得ないのだ。北見のように固いことを言ってはいられない。
──恰好なぞはくそくらえだ。
と思いながら、平四郎は勢いよく歩いた。形をととのえるためには、かなりの醜行、愚行をあえてする武家の内幕は十分に見て来ているつもりだった。
戸田勘十郎は、四十年その世界につき合って来ている。このあたりで勘弁してもらいたいと思ったとしても、それを咎《とが》めることは出来まい。
──それに、戸田はもう一介の提灯貼りだ。
武家の座から降りた男だと思った。
両国橋はたそがれていた。いそぎ足の通行人が、西に東に動いている。日がまったく落ち切らないうちに、家にもどろうと気がせいている足どりで、職人らしい二人連れが高調子の声ですれ違って行ったほかは、大方は無言で歩いている。
秋もそろそろしまいだが、寒くはなかった。辰巳の方角の空に、春の雲のように丸味を帯びた雲がうかんでいて、静かに夕焼けているが、足もとにまつわる夕闇は、橋を渡る間にも濃さを増した。
松坂町二丁目。元禄の昔は高家吉良《こうけきら》の下屋敷だったその町の路地裏に、市兵衛店という裏店がある。はじめてたずねるのだが、平四郎はさほど迷いもせず、戸田勘十郎の家をたずねあてた。
踏みこんだ土間に、煮物の匂いが漂っていた。
おとないを入れるまでもなく、そばの台所から女が顔を出し、平四郎の声を聞いて、すぐに戸田が顔を出した。
「ま、ま。上がってくだされ」
戸田は襷《たすき》をはずしながらそう言い、平四郎が茶の間に入ると、大いそぎで仕事の物を片づけて、坐る場所をつくった。
「だいぶ、ご繁昌のようでござるな」
平四郎が言うと、戸田は苦笑して、いそがしい割にはさほど金になりません、と言った。壁ぎわには、貼り上がった提灯が整然と吊りさげてあり、戸田のうしろにはまだ紙を貼っていない材料が山と積んである。
紙屑《かみくず》やら、糊を入れた大皿、小皿やらが雑然と散らかって、部屋の中は足の踏み場もないほどだった。
さっき台所から顔を出した女が、お茶を運んで来ると、小声で挨拶してひきさがった。小作りで色が白い、おとなしそうな顔をした女だった。
「もはや、お内儀もこちらにお住まいか?」
平四郎が小声で聞くと、戸田はあわてたそぶりで手を振った。
「いやいや、さようではござらん」
「……?」
「そちらにお頼みした一件の行く末をみるまでは、何事が起きるか知れませんからな。近寄るなと申しておるのですが……」
戸田は首筋に手をやった。四十を過ぎた戸田の顔に、若者のような含羞《がんしゆう》の表情がうかび、顔が赤くなった。
「なにせ、住居が近うござる。それで時おり食事の世話をさせろと申して来るわけで。いや、女子と申すものは奇体なものでござる」
そうか、と平四郎は思った。戸田勘十郎は思ったとおりに、いま一番しあわせな時を迎えているのだ。
平四郎は微笑した。
「近づくなというのは、ちとご無理。お内儀の気持はよくわかる。ところで……」
「………」
「今日、早速に古沢に会って参った」
戸田は顔を上げた。静かな眼で平四郎を見た。
「はじめは何を言うかという口ぶりだったが、だんだんに話しているうちにやわらかくなってな。こちらの言い分を納得した。ただし、その場では決心がつかぬとみえて、二、三日考えさせろと申しておった」
「それは当然」
と言ったが、戸田は少し疑わしげな顔をした。
「しかし、よく納得しましたな。いや、お手前のことを話に聞き、つい頼みには参ったものの、なにせ中身は仇討ち。古沢には武家の作法と家名というものがかかっておる。とてもうんとは言うまいと、半ばはあきらめておったところでござる」
「そこを何とかするのが仲裁人でな」
平四郎は胸を張った。武左衛門との話のやりとりをくわしく話して聞かせた。
「そういう次第で、貴公には、いや戸田勘十郎という敵持ちの武家には死んでもらうことになる」
さっきの女が、いつの間にか敷居ぎわに坐りこんで耳を傾けているのを、ちらとみながら平四郎は言葉をつづけた。
「かわりに今度は提灯貼りの……。いまは何と申されておるのかな?」
「吉十郎でござる」
「それそれ、提灯貼りの吉十郎で世を渡ってもらうことに相なる」
「うまく行けばよろしいが……」
平四郎の言葉を聞いて、戸田はかえって不安に駆られた様子でもあった。細い眼をはげしくしばたたいた。
「まかせていただこう」
平四郎は、戸田と女に等分に眼をくばりながら、胸を叩いた。
「それがしの友人で、さる寺の坊主と昵懇《じつこん》の男がおりましてな。その坊さまにひと芝居打ってもらうよう頼むことになっておる。いずれ腰の物ひと振り、ふだんの着物、それに戸田殿の髪の毛をひとつかみなどという小道具が必要になろうが、そこまでいけばお内儀、あとは何の心配もござりませんぞ」
戸田勘十郎は、二、三年前江戸の陋巷《ろうこう》で野垂れ死にをした。その証拠の品である刀、着ていた物、髪の毛などが、玉宗寺の達玄の手もとにある。ということを古沢武左衛門にのみこませてから、江戸屋敷にとどけ出させる。
これが平四郎が北見十蔵に持ちかけた相談の中身だった。二、三年前に、寺に葬られた無縁仏などがあれば、玉宗寺の和尚も、さほど芝居に骨折るまい、などと平四郎が焚《た》きつけたのである。
和尚が江戸屋敷からの検使をうまくまるめこんでくれれば、古沢武左衛門は証拠の品を持って国元に帰ることになる。
「人助けは寺の勤め。ましてあそこは禅家でござるからな。引きうけさえすれば、腹芸でうまくやってくれよう」
冷えたお茶を飲み干して、平四郎は膝をうかした。
「そういうわけでな、着着と手は打ってある。片づくのを楽しみにしてもらいたいものだ」
「ご厄介をかけるが、よしなに」
「なに、これはそれがしの商売。では」
平四郎は立ち上がった。
「お二人の邪魔をしてはいかん。おいとましよう」
これでいいのだ、と外に出て木戸の方にむかいながら、平四郎はそう思った。仇を討つの討たれるのと、一生をそれで送るのはバカげている。
この仲裁がうまく行けば、戸田勘十郎には、四十にしてはじめての安息が訪れるのだ。古沢にしても死んだ兄を慕って命をかけてもと思いつめている様子ではなかった。仇討ちという重荷から解き放たれるのは、悪いことであるはずがない。そう思うと、大いなる善行を施しつつあるような気がして来て、平四郎は陶然として裏店を後にした。
その平四郎を、木戸の外の暗がりで身じろぎもせず見送っている者がいたことには気づかなかった。黒く大きいその人影は、平四郎の姿が路地を出て牧野屋敷の門前の方に曲ったのを見とどけてから、するりと木戸を入って裏店の路地に身体をすべりこませた。
五
桶町にいる見張りを見舞ってから、平四郎と御小人《おこびと》目付の樫村喜左衛門は、また日本橋の方に足をむけた。
「現われませんなあ。この寒空にどこにもぐっておるものか」
鼻をすすりながら樫村が言った。昨日とは陽気が一変して寒ざむとした日だった。どことなく冬めいた気配が午後の町を覆っている。
樫村は寒さに弱いらしく、しきりに鼻水をすする。細長い鼻の下が赤くなっている。だが言っていることは深刻なのに、声音はのんびりしている。樫村には根っからの探索好きの感じがあって、こうして自分が配った見張りを見回るのを苦にしていない様子だった。
高野長英が書いた、もう一冊の「蛮社遭厄小記」を持っていると思われる田島耕作の行方は、杳《よう》として知れなかった。つい半月ほど前、田島の女房をつかまえたが、女房も行方を知らなかった。
女房は実家にもどされ、迎えに行くまで家にもどるなと固く言われていたのだが、あの日はあまりに夫からの消息がないので家まで来たところをつかまったのである。
樫村は女房を実家にもどした。見張りはそこにも置いてあるし、いま見回って来た桶町の履物屋にも置いてある。そこは潰れた小松屋の親戚で、田島の両親が厄介になっている家だが、姿を消してから田島はそこにも一度も姿を現わしていないのだ。
「こうなると、相手方に消されたかと思いたくなるな」
平四郎が言うと、樫村は笑って、それはあり得ませんと言った。
「げんに鳥居の配下は、いまだに田島の家を張っておりますし、さっきの話も、多分あちらの手の者がやったことだと思いますぞ」
さっきの話というのは、桶町の履物屋を見張っていた男が、何者かに後をつけられたと言ったことである。見張りは深夜と昼の二度交代する。その男は、先日の深夜、代わりの者と交代して家にもどる途中、何者かにつけ回されてこわい思いをした、という話をしたのだ。
「脅しをかけたつもりでしょうな。鳥居というひとには、そういうやり方を好むところがあります」
そう言って、樫村はくしゃみをした。すれ違う者が振りむいたほど大きなくしゃみだった。おや、とうとう風邪をひいたらしいな、と言って樫村は舌打ちした。
「田島は江戸にはおらんのじゃないかな」
ふと思いついて平四郎が言うと、樫村は微笑してうなずいた。
「さよう、それも考えて手は打ってあります。高野は上州に門人がおりますし、そちらにもひとをやって調べさせています。ほかに江戸の門人、尚歯会のひとびとにもひそかに事情を打ち明けて協力を願っていますが、いずれもいまのところは消息なしですな」
「………」
「南の町奉行矢部殿が失脚するかも知れないという噂があります」
不意に樫村は声をひそめてそう言ったが、そこでつづけざまにくしゃみをした。
「矢部殿は羽州荘内の百姓一揆の裁きで少しやり過ぎましたからな。しかし黒幕は鳥居でしょう」
樫村は上司の鳥居耀蔵のことは呼び捨てにした。
「筒井殿を失脚させたのも、かのご仁といわれていますからな。狙われては矢部殿も助からんでしょう。鳥居はその後釜に坐るつもりかも知れません。なにしろ水野老中の信頼厚いおひとですからな。ご老中が手がけている改革をすすめるには、その方がつごういいということかも知れません」
平四郎は黙って聞いていた。幕府内部のそういう事情は、聞いてもよくわからなかった。
「つまり……」
と言って、樫村は立ちどまると、また大きなくしゃみをした。やっぱり風邪だと言った。
「鳥居は、まだまだやる気です。油断ならん男です。だから、田島もこっちで押さえねば大変なことになると、神名さまはおっしゃるわけですな」
「帰って、休まれたらどうです?」
と平四郎は言った。樫村はさっきよりも鼻声になり、顔も赤くなっている。
「あとは三河町だけですが、なに、大丈夫。それがしが見回って来ます」
二人が立ちどまっている場所は、鍛冶町の角だった。されば、と言って樫村は首をかしげた。迷っている。仕事熱心な男である。
「それでは、それがしは杉野に寄ってひと休みしましょう。薬をつくってもらわんことにはどうしようもない」
「それがよろしい」
「ご足労だが、三河町を見回ったら、帰りに杉野に寄って様子を聞かせてくださらんか」
承知した、と平四郎は言った。杉野というのは三島町に住む医者で、樫村はその家を市中に出たときの休息所に使っていた。
平四郎は大通りを一たん新石町まで行って、それから左に曲った。そうすると雉子《きじ》町を通って三河町四丁目に出られる。三丁目には鳥居の配下がまだ見張りをつづけているだろうし、顔を合わせない方がよさそうだった。
うす曇りの空の下を、平四郎はいそぎ足に歩いた。二、三日考えると言った古沢武左衛門のことが気になっている。兄の監物に言われている見回りを、四、五日休んだので、今日は樫村につき合ったが、なるべく家を留守にしたくなかった。夕方までには家にもどるつもりでいた。
赤提灯の飲み屋が見えて来た。飲み屋は暗くなる前に亭主が来て商いをはじめるのだが、昼の間は無人で、樫村が手配した二人の見張り人に勝手に使わせている。
「おい」
平四郎は立てつけの悪い戸をあけると、中に声をかけた。
だが、次の瞬間はじかれたように一歩うしろにさがった。うす暗い店の中から強烈に匂って来たものがある。血だった。
さっき半分だけあけた戸を、平四郎はもう一度用心深くあけると、中をのぞきこんだ。うなぎの寝床のように細長い土間に、飯台と腰かけの樽がならんでいる。その間に倒れている人間がいた。確かめるまでもなく、見張りの二人だとわかった。ほかに人影はなかった。
平四郎は大股に道を横切ると、そこからみえる田島耕作の家に行った。釘づけにしてある戸はそのままだった。丁寧に調べたが、誰かが出入りした様子は見られなかった。
店にもどると、平四郎は中に踏みこんで倒れている二人を抱き上げ、傷をあらためた。二人ともただひと太刀で命を断たれていた。ひとりは頸根《くびね》を割られ、ひとりは脇腹を切られて腸《はらわた》がはみ出している。
死体は、まだ生あたたかく、やわらかかった。平四郎が手をはなすと、ぐにゃりと土間に崩れ落ちた。斬られて間もないのだ。
──残酷なことをする。
斬ったのが誰かは見当がついた。細おもての黒羽織の男である。
奥田という姓だけがわかっている。樫村に聞くと、素姓はわからないが、半年ほど前に鳥居耀蔵が御小人目付に雇いいれた男だと言った。樫村も姓だけで名前までは知らなかった男だ。
平四郎は天井を見上げ、左右の壁と柱を見た。狭い店である。その中でただひと太刀に男二人を斬って捨てたのは、並みの手練でないという気がした。
──あの男、居合を遣うのかも知れんな。
ふとそう思った。そのことを心に刻んだ。
平四郎は外に出ると静かに戸を閉めた。樫村喜左衛門がさっき言ったひと言が頭にうかんできた。
──これも脅しかね。
田島から手をひけ、という意味かも知れなかった。そう思ったとき、平四郎ははじめて、まだ見たことのない鳥居という男に強い反感が動くのを感じた。
鳥居の配下がいるかどうかをたしかめるため、三丁目裏町の方に足をむけかけたが、途中で思い直して雉子町の方に引き返した。一刻も早く樫村に知らせる方がよさそうだった。
六
平四郎が油町の古沢武左衛門をたずねたのは、二日後の夕方である。
樫村は、三河町四丁目の裏通りにすぐに新しい見張り人を配置し、平四郎は二日間この新顔の見張りにつきそった。奥田という男が現われたら、容赦なく斬り合うつもりだったが、奥田は姿をみせなかった。鳥居が見張りを置いている酒屋ものぞいてみたが、若い男が一人いて、平四郎をみるとおびえた顔になって立ち上がっただけで、そこにも奥田はいなかった。
──つづけて手を出して来ることもあるまい。
平四郎は、今日はそう判断して、早目に家に引き揚げ、ひと休みする間もなく古沢のいる油町に出かけて来たのである。考えさせてくれと言ったまま、古沢は姿をみせなかった。あれから五日経っている。
──心変りしたかな。
気持は十分に傾いたとみたのが、考えをひるがえしたということであれば、説得が足りなかったわけである。仲裁人もむつかしいと思いながら、蝋燭問屋の店に入った。
おとないを入れ、古沢に会いたいというと、応対した番頭の顔色が急にあわただしくなった。お待ちくださいと言って、すぐに奥に引っこんだ。土間に立って待っている平四郎を、店の者がちらちらと眺める。居心地悪かった。
しかし、待つ間もなくどかどかと足音がして、奥から武士が二人出て来た。古沢ではなかった。二人は、刀を提げたまま、立ちはだかるように平四郎の前に立つと、険しい顔で武左衛門に何の用かと聞いた。
言葉にある国|訛《なま》りで、古沢の藩の江戸屋敷の者らしいと見当がついた。武左衛門に何かあったらしい。
「用ということではござらん」
平四郎は慎重に答えた。
「通りがかりに、ふと思い出して立ち寄ったまで。神名平四郎と申してくれればわかる」
「武左衛門とは、どういうおつき合いか?」
「ただの知り合いでござる。昵懇につき合っているわけでもござらんが、たまには会って話す。それがなにか?」
二人の武士は顔を見合わせた。緊張を解いたようである。年かさの方の男が、沈痛な顔になった。
「武左衛門が、兄の仇をさがしていたことはご存じか?」
「あ、そのような話でござったな」
平四郎はつとめて平気な顔で言ったが、不意に口が渇いた。何事かあったのだ。この仲裁人をさし措《お》いて……。
「武左衛門は仇をさがしあてたが、返り討ちにあって相果てた。ほかに二人、江戸屋敷から助太刀が同行したが、こちらも手傷を負って屋敷は騒動しておる」
「それはいつ?」
「つい一刻ほど前のことじゃ。われらも武左衛門の死骸《しにがら》を屋敷に運んで、たったいまここに来たばかり」
「それはそれは……」
唾を飲みこんで、平四郎は言った。
「思いがけないことを聞いてござる。で、返り討ちというと当の相手は?」
「逃げた」
そういうわけで、お引き取りねがいたい、と言うと、男たちは平四郎をそっちのけで私語をはじめた。
平四郎は背をむけて店を出た。勘十郎はひと筋縄でいく男ではない、不意打ちなどと姑息な手を使うからああいうことになると言ったのが聞こえた。
外に出ると、平四郎はいそぎ足に本所にむかった。両国橋を渡ってからは走った。
──不意打ち?
古沢武左衛門は、どうしてにわかに戸田の棲家《すみか》をさがしあてたのだ? と思った。異様な胸さわぎがした。
松坂町の裏店に着いたときは、あたりは暗くなっていたが、戸田勘十郎の家は戸が開かれていて、そこから明るい光が路地に洩れていた。その光の中に、裏店の者らしい男女が四、五人立っていて、額をつき合わせるようにして話しこんでいるのが見えた。
平四郎が土間に入ると、中から年配の女が立って来て、入れ違いに外に出て行った。出るときに振りむいて、気を落とすんじゃないよ、おふじさんと言ったところをみると、戸田と夫婦約束をした女の知り合いか、この裏店の者らしかった。
部屋の中に女が坐っていた。平四郎をみると深ぶかとお辞儀をしたが、そのままうつむいてしまった。膝の上で固く手を握りしめている。
平四郎は部屋の中を見回した。相かわらず壁には仕上げたばかりの提灯がぶらさがっている。紙が散らばり、糊皿には糊がついたままの刷毛が突っこんである。ついさっきまで、そこに男が坐っていた痕跡がそのままに残っていた。
だが、戸田勘十郎がこの家にもどって来ることはもうなかろうと、平四郎は思った。
「思いがけないことだったな」
腰をおろして、平四郎は言った。
「お内儀は、斬り合いをみられたか」
「いいえ」
女は首を振った。うつむいたままで、でもそのときはこの家にいました、一緒に仕事をしていましたからと言った。
八ツ半(午後三時)ごろに、一人の武士がたずねて来た。土間に出た勘十郎は、すぐに部屋にもどると押入れから刀を出し、無言でまた出て行った。女はこれから何事が起きるのか、およその察しはついたが、おそろしくて声が出なかった。腰が抜けたようになって黙って見送った。
間もなく遠くからはげしい矢声のようなものが聞こえ、人の罵りさわぐ声、路地を走る足音などで裏店は騒然となったが、四半刻も経ったころ、勘十郎が走りもどって来た。頬から血を流し、血相が変っていた。
「だから引越した方がいいと言ったんです」
と女は小さな声で言った。
「と、言うと、何か怪しい節でもござったか?」
「身体の大きいお侍を見たんです。木戸のあたりで」
「それはいつのことだ?」
「神名さまが見えられた晩です」
平四郎は口をつぐんだ。その男は多分古沢武左衛門だろうと思った。悔恨に胸をつかまれていた。あとをつけられたのだ。あの男に、もっと用心すべきだった。
「そのことを、戸田殿に言われたか?」
「言いましたが、笑って相手にしませんでした」
おれもお人好しなら、戸田勘十郎もお人好しだと思った。武左衛門の方が、はるかに狡猾《こうかつ》だったようである。あの男は、平四郎のあとをつけて難なく戸田の住居をさがしあてると、助太刀まで用意したのだ。
平四郎が沈黙していると、女が懐に手をさしこんで、小さな紙包みを取り出した。
「神名さまがみえたら、これを渡してくれとあのひとに頼まれています」
包みをひらいてみると一分銀が入っていた。平四郎は包み直して、女の手を取ると、その金を握らせた。
「この金は頂きますまい。頼まれたことを、うまくはからえなんだ」
女の手の甲をひたひたと叩いてから、平四郎は立ち上がった。
「気長く待って上げなされ。戸田殿は、お内儀とめぐり合ったことを、この上なく喜んでいたようだ。そのうち必ず便りがござろう」
外へ出たが、女は送って出なかった。行燈の光の中に、置物のようにうつむいて坐っている。
──うまくいかんもんだな。
暗い町を両国橋の方に歩きながら、平四郎は胸が重くなるのを感じた。ひと並みの暮らしを夢みながら、またも逃げ出さざるを得なかった男を思った。黙黙と去る黒い背がみえた。
伊部に頼んだ早苗の消息も、まだとどいていない。兄の仕事の方も、遅遅としてはかどっていない。八方ふさがりという気がした。
両国橋の手前で、平四郎は立ちどまった。
──こういうときは、明石を襲って一杯やるのも悪くないな。
と思った。明石半太夫には貸しがある。一杯|奢《おご》るのをこばむようだったら、こちらにも考えがある。
平四郎は足を返して駒止橋の方にむかった。少し元気が出て来た。
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亡 霊
一
その男が来たとき、神名平四郎はまだ寝ていた。しかし夢うつつに聞いたおとずれの声を、客だと直感したのは、それだけ商売に身が入って来たのである。
がばとはね起きると、平四郎は寝間とも物置きともつかない隣の三畳に夜具を蹴込んだ。
「ただいま出る。暫時《ざんじ》お待ちあれ」
土間に声をかけると、台所に走りこんで顔を洗った。
頭が割れるように痛かった。昨夜、遅くまで明石半太夫とのんだ報《むく》いである。明石のおごりだった。平四郎は、昨日はべつに酒をおごらせるために立ち寄ったわけではなかったが、明石にはおよそ半年前、道場をひらくと称して平四郎といま一人の友人北見十蔵に出資を持ちかけ、その金を猫ババしたままだというひけ目がある。
多分そのひけ目のせいで、明石は平四郎の顔をみると、異様にあわてふためいて近くの飲み屋に誘うのである。酒で平四郎の口をふさごうという魂胆が丸みえだが、明石はどうやら猫ババの一件を妻女に話していないらしく、平四郎を家に入れるのを極度に恐れているふうでもあった。
そういう酒だから、おごりといっても友を迎えて愉快にやろうというわけではない。明石がのませるのはごく安酒である。酔いが翌日に残るのはその悪酒のせいもあるようだった。
平四郎が土間に出てみると、一見して商人とわかる、身なりのいい男が立っていた。齢は五十前後、血色のいい丸顔に、鬢《びん》のあたりに白いものがまじっているところは、なかなかの貫禄にみえ、これまで訪れた客の中では、まず文句なしに最上の客と思われる男である。
平四郎は恐縮して詫びを言った。
「お待たせ申し上げた。じつは昨夜も仕事で床に入るのが遅くなり、いま目ざめたばかりでござる」
ちょっぴり商売繁昌をにおわせてから、うやうやしく男を招きいれた。
「ささ、上がってくだされ」
「失礼いたしまする」
男はおだやかに辞儀をしてから、茶の間に上がって来た。
平四郎は長火鉢の灰をかきまわしたが、昨夜は遅く帰って、火などおこさなかったのに気づいてやめた。あらためて部屋の中を見回す。ここ数日は掃除もしていないので、部屋の中は埃っぽく寒ざむとして、商売繁昌の家とは見えなかった。
おまけにさっき蹴込んだ掻巻《かいまき》の袖が、襖にはさまっている。平四郎は腰を上げた。
「お待ちあれ、茶を一服進ぜよう」
「あ、その心配ならご無用に願います」
男は手をあげて平四郎をとめた。
「すぐにおいとまいたしますので」
さては家の中の様子を見て、商談に厭気《いやけ》がさしたかと平四郎は思ったが、男はそんなふうにも見えなかった。
平四郎が坐り直すのを待って、男は少し膝をすすめた。にこにこ笑っている。
「揉めごとの仲裁が、お仕事と聞いて参りましたが……」
「さよう。上は大名の心配事から、下は長屋の夫婦喧嘩まで、よろず引きうけて仲裁するのが、それがしの商売でござる」
「面白い商売でござりますな」
男は品のいい笑い声をあげた。
「申し遅れましたが、てまえは新シ橋ぎわの佐久間町で糸問屋をしております、臼杵《うすき》屋の番頭でございます」
「ははあ、番頭さん……」
これが番頭なら、主人はもっと立派だろうと平四郎は思った。
「で、ご用命の中身は?」
「それがでございます」
番頭は平四郎の顔をじっと見た。
「じつは、表の看板にはございませんことで、お願いに上がったのですが」
「………」
「脅し、などは取り扱いますか?」
番頭は声をひそめてそう言った。今度は平四郎の方が番頭を見た。
「誰かに脅されていると申すのですな?」
「さようでございます」
「番頭さんがか? それともお店の方か?」
「店の方でございます」
「ふーむ、脅しの狙いは? 金ですかな?」
「大金をふっかけて来ております」
平四郎は胸を張った。
「脅し、けっこう。手間賃さえいただければ何とか始末をつけて進ぜよう」
「ありがとう存じます。助かります」
「ただし、わしは用心棒ではなく、あくまでも仲裁が商売。相成るべくは話し合いで手をひかせたい。揉めごとがあるたびに、ひとを叩きのめしていては、評判を損じて後の商いに差しつかえる」
「ごもっともです。どうぞこちらさまのやりいいように」
「もっとも、そうなると多少金が出る。たとえば五十両とふっかけて来ておるものなら、十が一の五両はつかませるというぐあいでないと、話も埒《らち》あかんことになるだろうが、そのあたりはご承知いただけますかな」
番頭はもとのにこにこ顔にもどった。
「はい、それぐらいの出費は覚悟しております。おっしゃるとおりに手配いたしましょう」
「よろしい。では相手の名前、住まい。また脅しの種は何であるか、そのあたりの中身の話を承《うけたまわ》ろうか」
平四郎が言うと、臼杵屋の番頭はゆっくり首を振った。顔は柔和に笑ったままである。
「それは、この場では申し上げかねます」
「……?」
「じつは、お引きうけ頂けるかどうか、今日は取りあえずご様子をうかがいに上がったわけでして、主人は、お頼みの中身はお会いして、じかに申し上げたいと言っております」
「用心深いことですな」
と平四郎は言ったが、いずれ主人に会っていただきますと言いながら、男はもう腰を上げかけていた。
──おれを値踏みに来たかな?
男を送って外に出、木戸を出て行くうしろ姿を見送りながら平四郎はそう思った。
よろず仲裁などという看板は、もともといい加減なもので、人物を疑われても仕方ないようなものだが、平四郎は何となく面白くなかった。その気分の中には、釣り落とした魚が大きかったという感想もふくまれている。なにしろ上等の客と踏んだのだが、その客は、餌に喰いつくとみせかけて寸前に逃げ去ったようである。
──いや、待てよ。
平四郎は腕をこまねいた。
脅しの中身を聞きかけたところで、急にそわそわと逃げ腰になった番頭の姿を思い返している。頼む気で来たのを、ふと思い直したというふうにもみえた。
あれは何だ? と思ったが、考えてもわかることではなかった。いずれにしろ、せっかくやる気になった仕事が、手もとからするりと逃げ出して、あてもないものに変ったことだけは確かだった。
──主人が会うと言ったが……。
また声をかけて来るかどうか、あてには出来んなと平四郎は思った。
平四郎は大きなあくびをした。日の光が眼に痛い。忘れかけていた頭痛がもどって来て、平四郎はわれとわが頭を叩いた。
誰もいないと思った井戸端に、おとりという裏店の女房がいて、腰をのばして平四郎を見ている。多分身なりの立派な番頭が路地を出て行くところも見たに違いない。おとりの眼には、頭を叩いている平四郎の姿が、上客をつかまえ損って残念がっていると見えたかも知れなかった。
二
数日、平四郎は兄に頼まれている仕事に精出した。田島という蘭学徒の行方をさがす仕事である。
兄の神名|監物《けんもつ》と、同じ幕府目付の鳥居耀蔵。この二人が、失踪した田島耕作の行方をさがしていて、監物は要所要所に配下の見張りを置いている。平四郎の仕事は、いまのところ取りあえずこの見張りを巡回してまわって、様子をたしかめることだが、田島という男はいっこうに姿を現わさず、鳥居の配下で、監物の見張り二人を斬殺したと思われる、奥田という御小人《おこびと》目付も姿を見せなかった。兄の頼みは無給だった。それが平四郎には不満である。
もしや見張り場所に田島が現われたときは、すばやく拉致《らち》して兄の屋敷まで連れこむのが平四郎の役目である。その間に、鳥居の配下の邪魔が入ったときは、むろん腕に物言わせて排除する。その仕事が無給かと思う。
第一、冬にむかって少しずつ寒くなって行く町を回り歩くだけでも、そこばくの手当てに値しそうなものだと平四郎は考える。しかしそう思って、それとなく口に出してみたが、兄に一喝されて終りだった。
兄の立場は理解出来たし、手伝いを厭《いと》う気持はない。だが冬が眼の前というのに、次第に心細くなる懐具合を考えると、平四郎もひたすら滅私奉公というわけにはいかない。臼杵屋からは、案じたとおりにその後何の連絡もないこともあって、平四郎はこのところ仏頂づらで町を回り歩いている。
しかしその日、平四郎が夕方になって急に冷えて来た町から、顫えながら家にもどると、軒下に子供がいた。
「神名さまですか?」
平四郎をみると、子供はすぐに声をかけて来た。一人前に前垂れをしめて、一見して商家の小僧とわかる恰好をしているが、どうみてもまだ十二、三の子供だった。
「そうだ」
「佐久間町の臼杵屋からまいりました」
子供ははきはきした口ぶりで、旦那が会いたいと言っているので、さしつかえなければご案内したいと言った。大人のような口をきいた。
「おお」
平四郎は寒さを忘れた。半ばあきらめていた臼杵屋がつながりをつけて来たのである。
「こっちはいっこうにさしつかえない。どこにでも参るぞ」
「では、ご案内します」
子供はこましゃくれた口調で言った。すぐに歩き出したので、平四郎はあわてて後を追った。
子供が案内して行ったのは、柳橋平右衛門町の奥だった。似たような軒行燈《のきあんどん》が、並んで灯をともしている路地を、子供は迷う様子もなくあちこちと曲り、やがて一軒の小料理屋の前で立ちどまった。
「旦那はこの家でお待ちです」
「や、ごくろうだった」
平四郎は、歩きながらひそかに用意した駄賃を渡そうとしたが、子供は手を出さなかった。いただいては旦那に叱られます、と言うと、すぐに背をむけて闇の中に消えて行った。あくまでもこましゃくれた子供だった。
中に入って臼杵屋の名前を出すと、平四郎はすぐ二階に案内された。意外に古びた家で、平四郎が上がって行くと、梯子がぎいぎいと鳴った。おかみと思われる四十恰好の女がみちびいたのは、一番奥の部屋だった。
その部屋だけ、明るく灯がともっていて、中に入るとこの間の番頭が坐っていた。番頭は座布団からすべり降りると、平四郎に床の間の席をすすめた。
酒は、お話が済んだあとでいいよ、と言って女を去らせると、番頭はあらためて平四郎にむかい、この間はご無礼しましたと挨拶した。
「もう仲裁屋に用はないのかと思っていたが……」
平四郎が冗談を言うと、番頭は手を振った。
「とんでもございません。お頼みする気持は決まっていましたが、ちょっといそがしい商いがありまして、片づけるのに手間どりました。申しわけございません」
「ところで……」
平四郎は廊下の方を見た。
「旦那は後から来られるのか?」
「それも、お詫び申し上げないといけませんが……」
にこにこと笑いながら、番頭が言った。
「あたくしが、臼杵屋の主《あるじ》、徳兵衛でございます」
「悪い冗談だな」
平四郎は鋭い眼で徳兵衛を見た。
「そういうたちの悪い頼み人は、はじめてだ」
「お腹立ちはごもっともですが、これにはわけがございます。これからお話し申し上げる間に、おいおいわかって頂けようかと存じます」
徳兵衛はおだやかな口調で言った。平四郎は黙って徳兵衛を見たが、その顔にごく真面目な表情が出ているのを見て言った。
「では、頼みの中身を聞かせてもらおうか」
「その前におたずねしますが……」
徳兵衛はにこやかな表情にもどって言った。
「これから申し上げますことを、よそには一切もらさぬようにお願い出来ますか?」
「むろん」
平四郎はきっぱりと言った。
「頼み人の秘事をぺらぺら外でしゃべるようでは、この商売は成り立たん」
「はい、それで安心いたしました。いえ、この前におじゃましたとき、神名さまのおよそのお人柄はのみこめたつもりで、ただいまのは念のために申し上げたことです」
「金をゆすられているように聞いたが?」
「そのとおりでございます」
「相手は?」
「吉次、弥之助、仙助という、男三人です」
「ほほう」
平四郎は眼をほそめた。
「これはまた、にぎやかな顔触れだな。で、その連中が脅しをかけて来たわけというのは?」
「昔の金を返せというわけですよ」
徳兵衛の顔から、それまでのにこやかな表情がぬぐったように消えていた。丸い顔が仮面のようにのっぺりした感じになり、細い眼だけが光っている。
「昔というのは、いまから二十五年前のことです。その年に、増上寺門前の呉服屋八田屋に泥棒が入りまして、二百両の金を盗み出しました」
「………」
「その泥棒は五人で、うち三人がさっき申しました連中、残りは安太郎、喜平の二人ですが、安太郎は十年前に死に、残った一人があたくしでございます」
平四郎は徳兵衛を見た。徳兵衛も口をつぐんで平四郎を見返している。
「よし、くわしいことを聞こう」
と平四郎は言った。
五人の盗賊の中で、つかまったのは弥之助だった。弥之助は札つきの悪党として日ごろ奉行所の者に眼をつけられていて、その晩の盗みで運悪く怪我をした。外科医を頼んだところから足がついてつかまったのである。
弥之助は八田屋の盗みを白状した。だが、金の行方にも、ほかの仲間のことにも頑として口をつぐんだまま島送りになった。弥之助がつかまったのをみると、吉次、仙助の二人はいち早く江戸から抜け出して姿をくらました。この二人も奉行所に名前を知られていて、いずれは自分たちにもその筋の手がのびると判断したのである。
江戸に残って、盗んだ二百両を預かったのは、安太郎、喜平の二人だった。二人は堅気だった。安太郎は小間物問屋の奉公人で、喜平は経師《きようじ》屋の職人だった。手慰みに凝っていて、仲間の三人とはそこで知り合ったのだが、賭場通いも八田屋の盗みも、まわりに気づかれてはいなかった。
二人は、十年盗み金の御守《おも》りをした。だがその間弥之助はむろん、吉次からも仙助からも、一片の便りもなかった。
「やつら、死んだんじゃないか」
とある日、安太郎が言った。
「そろそろ金をわけてもよさそうだぜ」
二人ともそれぞれに所帯を持ち、齢も三十半ばになっていた。盗んだ金をもと手にひと旗あげるには、これ以上待てない齢になっていた。四十になってからでは遅すぎる。
「もう一年、待ってみよう」
と喜平は言った。分配は弥之助がやる決めになっていた。その約束を破って、しかも盗み金を二分するとなれば、明白な裏切りである。知れれば殺される。
喜平はこわかったのだ。だが安太郎が言ったことは、喜平の気持の中にも、もっと前からあった考えである。安太郎の言葉には、胸をしびれさせる甘美なひびきがあった。
一年後に、二人は金を分けて別れた。二度と会うまいと誓い合った。恐怖に百両の金が打ち勝ったのである。
喜平は徳兵衛と名前を変え、小さな糸屋をはじめた。店はうまく行き、十年後には株を買って糸問屋の店を張るまでになった。安太郎は奉公先を出て、深川の場末に小間物店を持ったが、商いはのびなかった。一度はつぶれたり、借金してまた建て直したりしている内に、身体をこわして病死した。
二度と会わないと言ったが、徳兵衛こと喜平は、このむかしの仲間から眼をはなさなかったのである。店がうまくいけばいくほど、徳兵衛は、昔の素姓を知る安太郎を警戒する気持を強めた。だが安太郎は、徳兵衛が案じたように、落ちぶれてこちらの店をさがしあててくるようなこともなく、死んだ。
徳兵衛はほっとした。ほかの三人の消息は依然として知れなかった。むろん便りもなかった。これからが、ほんとの自分の暮らしだと思った。
一抹《いちまつ》の不安は残っていた。だがその不安もだんだんと思い出すことが間遠になり、やがて忘れた。そうなったころ、最初の盗みから、二十五年の歳月が経っていたのである。
「ところが、盗みを働いたこともあやふやに思われるいまごろになって、突然に昔の三人が脅しをかけて来たのですよ。亡者が生き返って来たのです」
長い物語を終った徳兵衛は顔を上げた。顔は血の気を失い、徳兵衛は額にうっすらと汗をかいている。
注意深くその顔を見ながら、平四郎はたずねた。
「その三人は、あんたの店に来たのかね?」
「いえ、来たのは別の男です。桝六《ますろく》という男ですよ」
「桝六? 何者だね?」
「世の裏通りにも、神名さまに似て……」
と言って、徳兵衛は口辺にわずかに苦笑をうかべた。
「いえ、やることは悪辣《あくらつ》なものですが、とにかくひとの頼みごとを引きうけて始末をつける男がおりましてな。桝六はそういう仕事の男です」
「ふむ」
平四郎も苦笑した。
「すると、その桝六とやらが、三人の代理で来たわけか?」
「さようでございます」
「で、いくら出せと申しておるのだ?」
「千両でございます」
「千両?」
と言ったまま平四郎は絶句した。途方もない金額だった。
平四郎が腕をこまねいていると、徳兵衛が膳を押しのけて膝をすすめて来た。眼に狂おしいような光が浮かんでいる。
「かきあつめれば、そのぐらいの金はいまでもあります。でもそれを出してしまっては臼杵屋の商いが停まります。品物が回りませんから、ざっと半年もしたら店はつぶれてしまいましょう。残るのは借金だけということです」
「………」
「問屋と申しましても、あたくしの店などはやっと仲間に入れてもらったばかり。商いは小さなものです。千両の金を持って行かれては、おしまいです。連中は店をつぶす気ですよ。根こそぎ取り上げるつもりです」
「………」
「あたくしはようござんすよ。これまでの働きが惜しい気はしますが、もともとは悪銭をふくらましただけ。昔の裸一貫にもどったところでどうということもありません。だが、女房、子供がおります。奉公人がいます。あたくしを頼り切っているあの者たちはどう思うでしょう。それを考えると、とても生きてはおれません。千両出せということは、あたしに首をくくれと言うことですよ」
「いくらなら出せるのかね」
「二百両」
と徳兵衛は言った。
「上積みしてもせいぜいもう五十両。臼杵屋が世を渡って行くには、これ以上の金は出せません」
「………」
「神名さま」
徳兵衛は懇願する声音になった。
「そのあたりで話をつけて頂けませんでしょうか。二百両のお金だって、現金耳をそろえてとなると手痛い出費でございます。でも、お話によっては二百五十両までは黙って出しましょう」
「四が一で話をまとめるということだな」
「あたくしは、ひとには言えない昔のことを、残らずあなたさまにお話ししました。このお方ならと信用申し上げたからですよ。ほかに頼るひとはおりません。何とか、このあたくしを助けてくださるわけにはいきませんか」
「話をつけるとなると、その桝六という男に会うわけかな?」
「そうして頂きます。桝六はあたくしの返事を待っております」
「もし、金は出せないとことわったら、どうなるね?」
「弥之助たちは、そのときは一家みな殺しにすると言っているそうでございます」
平四郎は腕を組んだまま、襟《えり》にあごをうずめた。さっきから胸に少しずつある疑念がたまって来ている。その疑いを口に出した。
「臼杵屋さん、あんたは昔の仲間の三人とはまだ顔を合わせていないわけだ」
「はい、さようでございます」
「二十五年もの間、何の音沙汰もなかった連中が、急に現われて脅しをかけて来たというのは、ちょっと話が出来すぎている気もするがな」
「………」
「つまりだ。どこかで話を仕入れた桝六が、自分で芝居を書いて、昔の仲間の脅しと見せかけているという疑いはないのかね。もしそうだったら、ビタ一文出すことはないわけだ」
「それは、あたくしも考えました」
と徳兵衛は言った。
「さっきのような素姓を打ち明けたあとで、こういうお話をしてはおかしいと思われるかも知れませんが、あたくしも金を使って、その筋に少しは親しい人間がおります。そのひとに頼んで、奉行所のお赦《ゆる》し帳係りというところを調べてもらいました」
「………」
「神名さまに、仕事がいそがしくてご連絡が遅れたように申しましたが、そうではございません。じつはその調べの返事を待っていたのですが、今日、知りたいことがわかりました」
「………」
「弥之助は、今年の春、ご赦免に会って島からもどって来ているのです」
平四郎を見た徳兵衛の顔に、濃い恐怖のいろが浮かんでいる。唇は色を失い、顔面を玉になった汗がしたたり落ちた。
三
狭い入口で、平四郎はしばらく待たされたが、もどって来た若い女が庭の方に回ってくれと言っているというので、平四郎はまた外に出た。
さがしあてたその家は、隠居所とでもいった恰好のしもた屋だったが、かなり古びた家だった。生垣の間にはまっている格子戸も、ガタが来ていて一ぺんにはあかなかったし、家そのものも軒があちこち垂れさがり、羽目板も腐っているのが眼についた。玄関の上の屋根には、ひょろ長い草まで生えていたのである。
だが庭だけはひろかった。草ぼうぼうの庭を横切って、平四郎が家の横手の方に行くと、あけひろげた縁側に、一人の男が坐っているのが見えた。それが桝六であるらしかった。
桝六は、少女のように若い女に肩を揉ませていた。玄関に出て来た女とは違う、もっと年下の女である。
平四郎を見ると、桝六は女に何か言った。すると女は肩を揉むのをやめて、座敷の中から座布団をひとつ出して縁側に置き、奥に姿を消した。
桝六は、値踏みするように平四郎を見ている。平四郎も立ちどまって男を見た。面長《おもなが》で小柄、しわだらけの年寄りだった。
「臼杵屋さんのお使いだそうですな」
と桝六が言った。しゃがれて息苦しそうな、低い声だった。
「さよう」
「まず、こちらにおかけください。ただいま、お茶をお持ちします」
と桝六は言った。平四郎は縁側に行って腰をおろした。
庭の枯れ草に、いっぱいに日があたっている。塀ぎわのえごの木に、からす瓜のつるがのび上がっていて、そこから赤い実が数個ぶらさがっている。遠くから猛《たけ》り鳴く鵙《もず》の声が聞こえて来るだけで、本所御竹蔵北の町は静かだった。
「なかなか閑静な住まいではないか」
と平四郎は言った。すると桝六は、糸のように細い眼で平四郎を見た。
「なに、野中の小屋でございますよ。もう、死ぬのを待っている身ですから、家も庭も荒らし放題、ごらんのとおりです」
女がお茶を運んで来た。さっき玄関に迎えた娘で、明るい場所で見ると、匂い立つような美貌の女だった。齢は二十前だろう。
奥にひっこんだ娘と言い、この女と言い、桝六の娘とも受け取れない感じがあって、平四郎は胸の中で首をかしげた。どういう女たちかと思った。
「さて、それでは臼杵屋さんのご返事をうかがいましょうか」
女が去ると、茶碗を手に取りながら桝六が切り出した。
「ご決心がつきましたかな?」
「千両取られては、首をくくらにゃならんと臼杵屋は言っておる」
平四郎が言うと、桝六は口にはこびかけた茶碗をぴたりととめた。眼でつづきをとうながしている。
「少しまからんかというわけだが、どうかな?」
「いかほどに?」
「出せるのは二百両だと言っておる」
「お話になりません」
と桝六は言った。相かわらず息苦しそうに聞こえる声だったが、言い方はにべもないものだった。
「ふん、じゃ五十両積んで、二百五十両というのはどうだ? これで手を打とうじゃないか」
「おことわりします」
桝六はもうあさっての方を向いている。
「千両がビタ一文欠けても、この話はぶちこわしです。臼杵屋さんに、そう申し上げてもらいましょうか」
もう帰れと言わんばかりだった。平四郎はにが笑いした。
「悪党が、えらい勢いじゃないか」
「臼杵屋だって悪党ですよ。悪党には悪党の仁義というものがございますが、あのひとはそれを破りなすったらしい」
「それは聞いたが、臼杵屋だって遊んでいまの身代を築いたわけじゃない。それを、身代残らず渡せというのは、少し態度が大きすぎんかね」
「さあ、それはあたしのあずかり知らぬことです。ただ弥之助たちは、それでなければ腹の虫がおさまらないと言っているわけですな」
「千両か、みな殺しかということだな」
「さようでございます」
「弥之助とか吉次とかいう男は、本当にいるのかね?」
不意に平四郎は言ってみた。だが、桝六は黙って平四郎を見返しただけだった。皺深い顔には何の表情も現われていない。
「つまり、何だ。今度のことはお前さんが糸を引いているお芝居じゃないかということだよ」
「何をおっしゃいますやら」
つぶやくように桝六は言った。
「あたしは、ごらんのとおり、もう棺桶《かんおけ》に片足をつっこんだ老いぼれです。みなさんのお役に立って、細ぼそと口銭を稼いでいるだけの人間。そんな大それたことは、考えつくわけもありません」
「そうかね。まだなかなか元気そうに見えるが」
「お若い方」
と桝六は言った。細い眼がきらりと光って平四郎を見た。
「今度のことを、そのように甘くみたら、身の破滅だと、臼杵屋に伝えてもらいたいものですな」
「よし、わかった」
平四郎はがぶりとお茶を飲み干すと、立ち上がった。桝六が言った。
「どうわかりましたので?」
「そういうことなら、こっちもビタ一文出さんということさ」
「金を出さない?」
桝六はまるめていた背をのばして、まっすぐ平四郎を見た。蛇が鎌首をもたげたように見えた。
「そういうことだと、弥之助たちはあの店を襲うことになりますよ。それでもかまわないとおっしゃる?」
「仕方がないだろうな、金額が折り合わんのだから。もっとも、こっちも間に立った手前、臼杵屋がみな殺しにあうのを見すごすわけにもいかんだろうな。そのときは面倒みるつもりだから、弥之助とやらにそう言ってもらってもいいよ」
「お若い方」
桝六は、もう息も絶えだえといったしゃべり方をやめていた。凄味のある声を出した。
「何ぼで雇われなすった?」
「なあに、安手間だよ」
「酔狂なおひともいらっしゃるものだ」
二通りの声を使いわける年寄りは、仮面を脱ぎ捨てたようににたにた笑っている。
「それはそれは、面白いことになるでしょうな。言っておきますが、弥之助は、五人や十人の命知らずは、ひと声で集める男ですからな。用心なさるといいですよ」
平四郎も笑い返して背をむけた。
──どうして、どうして。
けっこう生ぐさいじいさんではないかと思った。これで、さっきの若い女たちの正体も知れたという気がした。あれは妾かも知れんな、と平四郎はちょっぴり桝六をうらやんだ。
──ま、こんなところが相場だろう。
ビタ一文引かないと出られては、こっちも仲裁人の立場がある。挨拶はあんなものだろう。徳兵衛は、桝六を裏の世界の仲裁人という言い方をしたが、似て非なるものだ。あれは、ただの悪の代弁屋にすぎん。
平四郎は勢いよく道を歩いた。大いそぎで明石と北見の家に加勢を頼みに回るつもりだった。
四
平四郎と明石半太夫は、臼杵屋の茶の間でお茶をのんでいる。北見十蔵の姿が見えないのは裏庭に見張りに出ているのである。三人が、夜分に臼杵屋に来て張り番をするようになって、今夜が三晩目だった。
一度、連中の出ようを見ようではないか、仲裁はそのあとだ、と言って平四郎が計画を打ち明けると、臼杵屋徳兵衛は顫え上がった。だが、平四郎にともなわれて来た明石と北見を見ると、どうにか安心した様子だった。ことに明石の堂堂たる人品骨柄は、徳兵衛をいたく感服させたようである。
万事おまかせする、と徳兵衛は言った。指図されたとおりに、徳兵衛と家族、奉公人は、日が暮れて店をしめると、あわただしく夜食をとって二階に上がる。
いまも、階下は平四郎と明石の二人がいるだけで、家の中の要所に懸け行燈がまたたいているばかり。家の中はしんとして物音ひとつしない。
明石が、喉を鳴らしてあくびをした。
「いったい、いつになったら来るのだ。徒然《つれづれ》なか」
「来てみなければわからん」
「それは、ちと殺生《せつしよう》だろう。わしには道場の手伝いという仕事がある。こう毎晩、泥棒の張り番をつづけては、昼の仕事にさしつかえる」
明石は文句の多い男である。平四郎が加勢を頼みに行くと、はじめはまたのみに来たかとあわてふためき、事情がわかると渋い顔をしたものの引きうけた。
だが、引きうけたのは、金を猫ババした弱味からで、友情を重んじたわけではなかったことは、その後の文句の多さをみてもわかる。臼杵屋の夜食がまずい、晩酌も出来ないのでは不便だと、たらたらと不平を言う。
臼杵屋の飯がまずかったら、外で喰べて来たらよさそうなものだが、明石はちゃんと飯刻《めしどき》に間に合うように来るのである。
「まあ、落ちつけ」
と平四郎は言った。
「ただ働きさせるわけではない。臼杵屋に話してあるから、いずれ応分の手間は出る」
「その話なら聞かずともよか」
明石はすねた。
「貴公には借りがある。よしんば手間が出ても、右から左ということは承知しておるとよ」
「そんな悪辣なことは考えておらんぞ」
平四郎はなだめた。
「手間は手間だ。受け取って使ったらよかろう。借金は借金であとで返してもらう。そこは混同したりせん。安心しろ」
なんと、明石はその手間賃にこだわっていたらしく、平四郎がそう言うと、急に元気になった。どれ、見張りをかわるかと言って、勢いよく部屋を出て行った。徳兵衛がそばにいたら、間違いなく信用を落とすところである。
それにくらべ、北見は立派だった、と平四郎は思った。
北見は事情を聞くと、何も言わずに承知した。もっとも平四郎は全部の事情を打ち明けたわけではなく、臼杵屋と仲裁人である平四郎が、もろともに危難を迎えているように話を潤色したのだが、そこを根ほり葉ほり聞きただしたりしないところが、北見のいいところだった。
北見は評判のいい寺子屋の師匠で、明石のように手間が欲しいわけではない。頼りになる男だ。お人好しなどとバカにしてはいかんと、平四郎が自分をいましめていると、北見十蔵がもどって来た。
外は寒いとみえて、北見は鼻の頭を赤くしている。手にしていた木剣を襖ぎわに立てかけてどっかりと坐った。犒《ねぎら》って、平四郎はお茶を出した。
「様子はどうだ?」
「何ともない」
北見はぼそりと言うと、熱いお茶をうまそうにすすった。そして顔を上げた。
「相手は何人ぐらい来るのかな?」
「わからんが、まあ、十人ぐらいは見込んだほうがよさそうだ」
「ふむ」
北見は首をかしげた。
「来るとわかっておるのに、なじょして奉行所にとどけて出んのだ?」
あまりの寒さに、北見もいましていることにやっと疑問が湧いて来たらしい。平四郎は、あわてて新しいお茶をついでやった。
「裏があるのだ、裏が」
「……?」
「それに、この家に恨みを抱いている連中が、はたして江戸にいるのかどうかもはっきりせんところがあってな。つまりは、亡霊のごときものがこの家を窺っているわけよ。そんなものを奉行所にとどけて出るわけにはいかんのだ」
北見は首を振った。
「それでは来るかどうか、さっぱりわからぬではないか?」
「いや、それが来るのだ。いまに見ておれ」
平四郎がそう言ったとき、裏庭の方で物音がした。木の枝が折れたようでもある。
平四郎は膝を立てて、そばに置いた木剣をにぎった。北見もすばやく立て膝になっている。二人は顔を見合わせたまま、耳を澄ました。
今度は騒然と大勢の足音がした。そして聞きおぼえのある、腹にこたえるような明石の気合が聞こえた。
「来たぞ」
平四郎が部屋を走り出ると、北見もすぐにあとにつづいた。予想したように、敵は塀を乗りこえて、裏庭から侵入して来たらしい。戸をはずす荒荒しい音がした。音は台所口と奥座敷の両方から聞こえて来る。
平四郎が台所に走ると、北見は奥の方に走って行った。騒然と熱い空気がこの家を包みはじめたようである。
台所に行くと、戸を蹴倒して二人の敵が入りこんで来たところだった。敵は平四郎を見ると、一瞬の間も置かずに斬りかかって来た。一人は脇差、一人は匕首を手にして、黒の短か着に足もとは草鞋《わらじ》、顔を黒布で包んだ軽快な身なりの男たちである。
木剣をふるって応酬しながら、平四郎は総身に鳥肌が立つのを感じた。襲って来たのは、ありふれた町のごろつき連中ではないらしい。無言のまま、右に左に、平四郎の木剣をかいくぐって迫って来る敵から、野犬の機敏さと残忍さが匂って来る。桝六が一家みな殺しと言ったのは、誇張でも何でもなかったのだ、と思った。
匕首の男が、身体をまるめてとび込んで来た。腹をえぐってひらめいた匕首を、体をひらいてかわすと、平四郎は腰を落として鋭く木剣を振った。男は匕首を落とした。そして、不意に打たれた腕を胸に抱くようにしながら、板の間に横転した。
脇差を構えている男に、木剣をつきつけながら、平四郎はぐいぐいと壁の方に押して行った。男から眼をはなさずに、外に向かって叫んだ。
「明石、殺すなよ。殺すと、あとが面倒だ」
明石半太夫がおうと答え、入りみだれる足音がしたと思うと、新たな敵が三人、家の中にとびこんで来た。
はばもうとしたとき、脇差の男が斬りかかって来た。無謀なほどに、身体ごと接近して叩きつけて来る刃先に、侮《あなど》れない鋭さがある。平四郎はうしろにとびさがりながら、鋭く脇差をはね上げると、奥に駆け抜けて行った敵を追った。茶の間の手前で一人に追いつき、うしろから背に一撃を叩きつけて倒したが、あとの二人はさらに奥の方に走り去った。
つぎつぎに襖をあける音がする。徳兵衛をさがしているのだ。平四郎は追わずに二階に行く梯子の下に走った。その平四郎の前に、たちまち二人の敵が現われた。さっきの脇差の男と、新たな匕首の男である。
脇差の男は執拗《しつよう》に斬りかかって来た。男たちはこういう修羅場に馴れているようだった。左右から平四郎を牽制《けんせい》するような動きをみせながら、軽がると凶器をあやつる。
猫のような身ごなしで、また敵がとび込んで来た。平四郎は脇差を巻いて落とすと、すれ違いざまに男の肩を打った。手加減しない力が籠《こも》ったらしい。男は肩を押さえると、よろめいて茶の間の障子に倒れかかって行った。障子が破れる音がひびいた。
正面に、まだもう一人の敵がいた。背をまるめて平四郎の隙を窺っている。その男に油断なく木剣を構えている平四郎の眼に、北見十蔵の背が見えた。
北見は三人の敵を相手にしている。だが押されているのではなかった。斬りかかった匕首の男を、北見はかわしもせずに、一瞬早く手首を打ったようである。匕首の男が手首を押さえて膝をつき、かわって前に出た二人の男が凶器をそろえて斬りこんで来るのを、北見は背筋をぴんとのばしたまま、すべるような身ごなしでかわしている。
いつの間にか、茶の間のまわりが斬り合いの場所になっていた。台所口から敵を追って来たらしい明石の姿が、廊下の曲り角でちらちらしている。明石は時折り、派手な気合を発した。動いている敵はまだ十人ほどいて、入り乱れる混戦になっている。
平四郎の前にも、また別の敵が二人加わった。平四郎が匕首の男を追って左に動いた瞬間、右手にいた男が一気に梯子を駆け上がった。敵は獣の嗅覚《きゆうかく》で、ついに徳兵衛たちの居場所を嗅《か》ぎあてたようである。
平四郎は後を追うと、容赦のない木剣を、相手の肩に浴びせた。音たてて梯子をすべり落ちる仲間を振りむきもせず、次の男が駆け上がって来る。平四郎は梯子の中ほどに立ちふさがったまま、男の頭を殴りつけた。男はころがり落ちたが、声を出さなかった。餓狼《がろう》に似た男たちである。容赦は出来なかった。
北見のはげしい気合が聞こえた。すぐ梯子の下だった。体を沈めて、北見があざやかに二人を倒したところだった。みしみしと家が鳴り、懸け行燈の灯がはげしくゆらめいた。
不意に野太い声がひびいた。
「ひき揚げだ」
その声を聞くと、黒衣姿の男たちは、一斉に凶器をひいた。倒れている仲間を肩にかけ、あっという間に台所口の方に姿を消した。しばらくざわめく風のような物音が外でしていたが、やがてそれもやむと、臼杵屋はしんと静まり返った。
その気配を、平四郎たちはそれぞれの場所で耳を澄まして聞いた。
「どうやら行ったらしいな」
梯子を降りて、平四郎は二人のそばに行った。
「怪我はなかったかね」
「腕をかすられたが、大した傷ではなさそうだ」
と明石が言った。三人はあらためてお互いの姿を眺め合った。手傷こそさほどのことはなかったものの、三人とも惨憺《さんたん》とした恰好になっている。明石は肩から胸のあたりにかけて着物をずたずたに裂かれ、北見は片袖がちぎれかけている。平四郎の姿も似たようなものだった。
「これで済んだのか?」
と北見が言った。もう懲《こ》りたという口ぶりだった。
「まあな。わしはこれからまだひと仕事残っているが、さっきの連中がもう一度襲って来ることは、まずあるまい」
「ちょっと裏を見回って来るか」
明石がそう言って、大股に姿を消した。すると、梯子の方で神名さまという声が聞こえた。徳兵衛が、梯子を途中まで降りて、こちらをのぞいている。
「もう降りてもいいぞ」
平四郎が言うと、徳兵衛は梯子を降りてそばに来た。青い顔をしている。
「やっぱり来ましたな」
「そういう連中だ。はじめからわかっていた」
「また来ますか?」
「そうはさせぬ。あとはまかせてもらおう」
ちょっとこちらに、と言って、徳兵衛は平四郎を梯子の下まで引っぱった。
「下の様子を窺っていたら、あの男の声が聞こえました」
と徳兵衛は言った。
「あの男? 誰のことだ?」
「引き揚げる、と言った声は、間違いなく弥之助でした」
五
「これで、手を打とうではないか」
平四郎は臼杵屋徳兵衛から預かって来た二百両の金を、桝六の前に積み上げた。
「腕ずくなら負けられぬというところを見せたが、それで話をうやむやにするような野暮なことはせん。臼杵屋にも、出すべきものはこのとおり出させる。これで話をつけよう」
「………」
「正直言って、臼杵屋の御守りはもう倦《あ》きた。いい加減に手をひきたいわけよ」
桝六は細い眼を平四郎に据えたまま、黙然と口をつぐんでいる。
「もっとも、それは出来ぬ、あくまで臼杵屋の命をもらうということなら、こっちもそうは言っておられん。最後まで相手になる。ただし今度は、手加減せずに斬るから、そのつもりでかかって来ることだな」
「脅しですかな」
「なあに、この前脅されたほんのお返しさ」
平四郎が言うと、桝六の顔が不意に真赤になった。こみ上げて来た憤怒をこらえきれなかったように見えた。
平四郎が無表情に見返していると、桝六はだんだんに顔色をもとにもどし、やがてうなずいた。
「負けましたな。それで手を打つことにしましょう」
「では証文を書いてもらうか。臼杵屋に見せる物がなくてはまずいからな」
平四郎がそう言うと、桝六は女に筆墨と紙を運ばせ、平四郎の眼の前で受取り証文を書いた。
「以後、臼杵屋には一切手を出さないと書き加えてもらおうか」
平四郎は注文を出した。桝六は言われるとおりに証文を書いて渡した。ひどい金釘流の文字だったが、要点は全部書いている。平四郎は紙を折って、大事そうに内懐にしまった。
「念のために聞くが、これで弥之助たちを押さえることが出来るのだろうな」
「桝六を見くびってもらっては困ります」
「けっこう」
平四郎は腰を上げた。長居は無用だった。背を向けたが、ふと平四郎は振りむいて声をかけた。
「いつもそうして、日向ぼっこをしてるのかね」
桝六は答えなかった。平四郎に細い眼をむけたまま、お若い方と言った。
「いずれまた、お会いすることになりそうですな」
「とんでもない」
と平四郎は言って、悪魔を振りはらうように手を振った。
「お前さんには、二度と会いたくないものだ」
外へ出ると、平四郎は大急ぎで両国の方にむかった。
徳兵衛に会って話がついたことを知らせ、証文を渡せば、平四郎自身は十両、明石と北見に五両ずつの手間賃をもらえることになっている。
それもいそぐが、平四郎は兄に頼まれた見張りの仕事が気になっている。夜の見張りを三晩も無断で怠け、昼は昼で一日中家で寝ていたから、兄に知れたらかんかんに怒られるはずである。
怒られるのはともかく、その後見張りがどうなったかが気がかりだった。臼杵屋の一件は、徳兵衛がまだ気もそぞろに心配しているだろうが、もう片づいたことである。そちらに行く前に、一、二カ所見張り場所を回って行こうと思った。
三河町の田島の家の前に行くと、ちょうど兄の配下、御小人目付の樫村が、見張りの男二人と話しているところだった。
「やあ、ごくろうさん」
と樫村は言い、不審そうな眼をむけて来た。
「二、三日、姿が見えなかったようですが」
「うむ。風邪をひきこんでな」
平四郎は咳をしてみせた。
「家で寝とった」
「それは、それは……」
と樫村は言い、平四郎の袖を引っぱった。
「何か、変ったことでも?」
「いえ、こっちは変りなしですが……」
樫村は声をひそめた。
「尚歯会の渡辺崋山が自裁しましたぞ」
平四郎は眼をみはった。崋山は尚歯会の重鎮で、蛮社の獄のあと国元田原藩に送られて、蟄居《ちつきよ》の暮らしを送っていたはずである。
「鳥居の差し金か?」
「さあ、くわしいことはまだわかりませんが、かかわりなしとも言えますまい」
平四郎は、空を見上げた。鉛色にひろがっている冬の雲に、権力というものが持つまがまがしい暗さを見たように思った。
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女 難
一
南本所石原町の紙商市毛屋のおかみの来訪は、神名平四郎にとってさまざまな意味で好もしいものだった。
おかみは友だちだという女を連れて来たのだが、女二人で遊びに来たわけではない。連れの女は頼みごとを抱えている客だった。つまり市毛屋のおかみは、そこばくの報酬を見こめる仕事を持って来たわけである。
また友だちの悩みごとを聞いて、平四郎を紹介することを思いついたというのは、この前平四郎を頼んで浮気の後始末をしてもらったことに、おかみが十分満足しているということだろう。
──おれも信用がついて来た。
と平四郎は思わざるを得ない。信用のひろがりを眼にするのは、悪い気持のものではなかった。
さらに、おかみの友だちが抱えている心配ごとというのが気に入った。妾《めかけ》狂いをしている旦那と女を別れさせてもらえないかというのが、頼みごとの中身だった。大変やわらかい話である。
──お妾などというのは悪くないな。
と平四郎は思った。つい先だって、佐久間町の糸問屋に雇われて、得体の知れない男たちを相手に大立ち回りをやったことが頭にある。
仕事の選《え》りごのみをするわけではないが、ああいう殺伐なのは出来れば願い下げにしたい。その点お妾がからんだ話などは、そこそこに色気もあって悪くない、と気持が動く。
平四郎は膝を乗り出した。
「ふむ。商いそっちのけで、お妾に夢中になっておると……。そのうらやましい亭主どのは、齢はおいくつだ?」
「うらやましいなんて、いやですよ神名さまは」
市毛屋のおかみはなれなれしい口をきいた。同じ町の油屋のおかみだという友だちがそばにいなければ、肩をぶちかねない口ぶりである。
おこうは、女二人を迎えて平四郎がお茶道具をひっぱり出すと、すぐに台所に立って埃をかぶっている茶碗と急須を洗い、自分でお茶を出して二人にすすめ、さっきからいやにまめまめしく立ち働いているのだが、平四郎は気にしないことにした。
「長兵衛さんは四十二か三よね、おたかさん」
とおこうは言った。さっきからしゃべっているのはおこう一人で、おたかという名の油屋のおかみは、口数が少なかった。
しかし亭主の女狂いで参っているというふうにもみえず、色の白いまる顔におっとりした微笑をうかべている。口数が少ないのは性格のようだった。おたかという女は三十半ばぐらいで、身なりも人柄にも、おこうよりは品が感じられる。
おたかは微笑したまま、亭主は四十五だと言った。落ちついた物言いをする女である。
「ふむ、四十五か」
平四郎は腕を組んだ。
「そのお妾とやらを囲って、だいぶになるかな?」
「気づいたのは半年ほど前ですが……」
おたかはうつむいて、低い声で言った。
「かれこれ思い合わせると、二年ほど前からかと思いますよ」
「そうだろ、そうだろ」
平四郎は大きくうなずいた。
「男も四十ぐらいまではしゃにむに働くようであるな。女よりは仕事の方が面白いのだ。しかしながら、四十の坂を越すと、何となく先がみえて来るな。やった仕事のあともみえて来て、わが器量はざっとこんなものかとも思うわけだ。そういうときに、ふっと家の外の遊びに誘われるということは、大いにあり得る」
「でも、うちの旦那はまだ三十五だけど、やっぱりお妾を囲ってますよ」
とおこうが言った。
「ついでに、そなたのご亭主の分も引きうけようか」
「あたしはようござんすよ」
おこうは笑った。
「うちの亭主の女好きは若いときからのもので、意見したところで、いまさらやむはずもないんですから。妾から引きはなしたところで、前のように遊び回られたんじゃたいへん。いまの方が安あがりだから、我慢してるんですよ」
おたかさんのところは事情が違うのだ、とおこうは言った。
油屋の長兵衛は働き者だった。夫婦二人ではじめた店を、ともかくも奉公人を五人も使う店にしたのは、長兵衛の働きである。
だが、まだ妾を囲うほどの店ではなかった。奉公人はまだ十四の小僧を含めて上はやっと二十すぎの若い者ばかりで、番頭もいなかった。長兵衛は商いの柱である。その柱が、いままで店にいたかと思うとふっと姿を消して半日ももどらない。帰って来たときには酒の香をさせていて、店の隅で思い出し笑いをしたりしている。
これで店のしまりがつくわけはなく、うすうす事情を察した若い者たちは、旦那を白い眼で見るようになった。当然商いにも隙が出来て、近ごろは店の客が少し減って来た気さえする。先行き非常に心細い、と油屋のおかみは言った。
「ご亭主は、むかし女遊びをしたことは?」
「一緒になる前のことは知りません。でも所帯を持ってからのことなら、それはもう堅い一方で……。それに大体」
おたかははにかむような笑いをうかべ、あのひとは女のひとにもてるような男ぶりじゃありませんのです、と言った。
「男は顔じゃないからの」
平四郎はそう言ったが、長兵衛がそういう男だから、突然の変りように家の者が動転しているという事情もわかるような気がした。
「金や物を持ち出しているのか?」
「物までは持って行きませんけど、お金はずんぶんかかっているようですよ。お手当てのほかに着物を買ってやったり、あたしなんか、ここ二、三年新しい着物も買ってもらっていないのに」
それに、家の中の費《つい》えに吝《しわ》くなったとおたかは言った。長兵衛は近ごろ、奉公人の食事のおかずにも文句を言うようになったという。これではおかみが先行きを心配するのも無理がない。
「引きはなすには金がかかるかも知れんな」
少し考えてから、平四郎は言った。
「どっちみち、手切れ金というものが入用になりそうだ」
「いかほどでしょうか?」
「それよ、ざっと三十両ほどかの。安く済んでも二十両は出さねばなるまい」
「そのぐらいのお金なら、何とかつごうがつきます」
とおたかは言った。顔に喜色がうかんでいる。その顔をみて、平四郎はさっきから疑問に思っていたことを口にした。
「一文の金も使わぬ手もないわけじゃないがな、おかみ。つまりお前さんがじかに乗りこんで掛け合ってみることだが、やってみる気はないかの?」
「………」
「そうでなければ、むしゃぶりついて亭主をいさめるとか」
「それが出来るぐらいなら、神名さまを頼ったりしませんよ」
とおこうが言った。
「おたかさんは、はたでみててもじれったいほど気の弱いひとなんですから。お妾の家に乗りこむなんてことは、考えただけで寝こんじゃいますよ、このひと」
「よし、わかった」
平四郎はひと肌ぬぐ気になった。といっても、むろんこれも商売のうちなので、うまく話がついたときには仲裁料二分をもらうことに話を決めて、平四郎は妾の名前と住んでいる家を聞いた。
油屋の妾の名前はおきぬ、齢は二十になったかならずで、家は横堀に近い長崎町の西裏にあるとおたかは言った。家に乗りこむほどの度胸はないが、おたかはそこまでは自分で確かめたらしかった。
二
しかし平四郎は、すぐにはその仕事にかかれなかった。小網町にある辰巳屋という菅笠問屋が、姿を消している田島耕作の女房の実家だが、数日前の夜、田島がその家のそばに姿を現わしたという知らせが入っていた。兄の神名|監物《けんもつ》から、厳重に見張れという指図がとどいている。
辰巳屋の向かい側にある甘酒屋に入ると、隅から御小人《おこびと》目付の樫村喜左衛門が手をあげた。樫村の前に六兵衛という見張り役の老人がかしこまっていて、平四郎をみると腰を浮かして挨拶した。
二人とも甘酒を飲みすぎたらしい、浮かない顔をしている。甘酒屋の亭主には、ざっと事情を話してあって、せっせと甘酒を飲むこともないのだが、寒いからどうしても二杯、三杯と注文する。
平四郎も、もう顔馴染みになっている亭主に、甘酒を注文した。
「仙吉は?」
向かい合って坐ると、平四郎はもう一人の見張りのことを聞いた。
「田島の女房が出かけたので、一応後をつけさせた」
と樫村は言った。
「ただの買物かも知れんがな」
こちらの手につかまったとき、女房は田島の行方を知らないと言っている。だが、樫村はその言葉をまるまる信じたわけではないらしかった。女房が外に出るたびに後をつけさせるのは、女房が出先でこっそり田島と会うことが考えられるからである。
「田島がもう一度現われることは考えられるかな?」
運ばれて来た甘酒を手もとに引き寄せながら、平四郎は小声で言った。
店は、甘酒屋といってもかなり広い。ほかに十人あまりの客がいた。店の中は土間と畳敷きの小座敷の席と二つに分れていて、どちらにも客がいる。その中に、敵方の鳥居|耀蔵《ようぞう》の配下がまぎれこんでいないとは言えない。
「それがしは、来るとにらんでいる」
と、やはり小声で樫村が言った。そして六兵衛に眼を移した。
「気づかれはしなかったと言ったな?」
「はい」
白髪の見張り男はうなずいた。
「しかし、途中で行方を見失いましたから、あの晩の見張りはしくじりました」
数日前の夜、田島耕作らしい男は、辰巳屋のすぐそばまで近づいたが、結局中に入らずに引き返したのである。
見張りの六兵衛が、その若い男に気づいたのは夕刻だった。辰巳屋から四、五軒西に行ったところが町角で、その角に小さな稲荷の祠《ほこら》がある。その前に常夜燈があった。男はその常夜燈のそばに長いこと立っていたのである。
若い商人ふうのその男に、六兵衛は一応眼をとめたのだが、それが田島だとは思わなかった。というのは、男は人待ち顔に立ってはいたが、べつに通行人を警戒するようでもなく、顔を隠したりもしていなかった。誰かとそこで待ち合わせているようにみえた。
ところが、日が落ちて町雇いの下男が回って来て、常夜燈に灯を入れたとき、六兵衛はその男が、まだそこに立っているのを見た。男は寒い夕刻を、一刻近くもそこにいたことになる。
六兵衛が改めてその男に眼を向けたとき、不意に男が歩き出した。男はすたすたと歩いて来て、六兵衛の眼の前を通りすぎた。甘酒屋は辰巳屋の真向かいにあるので、辰巳屋の前も通りすぎたわけである。
男はそのまま姿を消して、六兵衛の気持も男から逸《そ》れた。その男を、もともとそんなに気にしていたわけではない。蘭学の書生と聞いていたから、六兵衛の頭には、袴ぐらいはつけた田島の姿がある。その男は若い商人《あきんど》だった。
だが、それから半刻ほど経って、六兵衛はさっきの男が同じ道をもどって来たのに気づいた。というよりも、道はすっかり暗くなっていたので、六兵衛は突然に辰巳屋の店先にうかび上がったさっきの男を見たような具合だった。
通行人の足はとだえ、辰巳屋の店は戸を閉めている。男はつと店の軒下に入ると、潜《くぐ》り戸に手をかけた。六兵衛はどきりとした。そのときには、自分の迂闊《うかつ》さに気づいていた。その男が田島だと思いあたっている。
六兵衛は息をつめた。男の姿が餌に喰いつこうとしている獲物に見えた。田島が辰巳屋に入れば、甘酒屋の中にいる仙吉を樫村の家まで走らせるだけである。
だが、田島は潜り戸を開けなかった。思い直したように、軒から道に出て来た。そしてあっという間に、いそぎ足に歩き出した。六兵衛は、中にいる仙吉に連絡するひまもなく、後を追った。
だが田島と思われる男の足どりは、さっき常夜燈のそばにいたときとは打って変ってきびきびとすばやく、まるで六兵衛につけられたのを悟っているように、何度も町角を曲ったりした。六兵衛は必死に後を追ったが、ついに銀座の裏側、住吉町の表河岸のあたりで行方を見失ったのである。
「今度のことでわかったことが、二つありますな」
樫村は椀に残っている甘酒を、まずそうにすすってから言った。
「田島という男は、ぷっつりと消息を断ったまま、当然連絡があるべき尚歯会の人びとにも、姿を見せようとしない。これはひょっとしたらむこうの手に落ちて、ひそかに消されたのではあるまいかとまで疑ったが、ちゃんと生きていたとわかったのが、まず第一の収穫」
「………」
「それに、辛抱して見張りをつづけておれば、いずれどこかに再度姿を現わしそうだと見当がついたことが第二の収穫でござる。お目付さまのお見込み通りであった」
目付というのは、鳥居耀蔵と張り合っている形の、平四郎の兄監物のことである。
「それにしても……」
と平四郎は言った。
「田島という男は、何を恐れて姿を隠しておるのかな。いい加減に出て来てもよさそうなものだ」
「それはむろん……」
と言って、樫村はうつむいておくびを洩らし、これは失礼と詫びた。
「むろん、鳥居を恐れておるわけでありましょうな。もう一冊の小記が、もしも鳥居の手に渡るようなことがあれば、書いた本人の高野長英はむろん、ほかの尚歯会の人びとも無事では済まない。その判断があって、身をもってその書き物を守っている、というのがお目付のお考えです」
樫村がそう言ったとき、さっきから奥の小座敷にいた武士が立って土間に降りて来た。その男は、平四郎たちがいる土間の飯台のそばを、真直ぐ頭を上げたまま通り抜けると、勘定をはらって外に出て行った。
六兵衛が黙ってその後を追って行った。
三
「いまの男を、ごらんになりましたかな?」
と樫村が言った。樫村はうす笑いをうかべている。
「見た。どこぞの藩の勤番侍といった身なりだったが……」
「ところが、あれは鳥居の下にいる御小人目付です。組は違うが、名はたしか園井という男でござる」
「ほほう」
「時おり、ここで顔が合います。むろん鳥居の指図で辰巳屋を見回りに来ているに違いありませんが、ま、お互いにそ知らぬ顔をしているわけで……」
「………」
「鳥居も出来るのはせいぜいそれぐらいのことで、いまのところは、町奉行がこちら側についているだけ、こちらの方がやりいいといえますな。もっとも、矢部さまが職をひかれるだろうという噂はまことらしく、そうなると後釜の町奉行は間違いなく鳥居。そうならぬ前に、いまの面倒を片づけたいものですな」
と樫村は言った。
そのとき男が一人店に入って来て、それは仙吉だった。
「どうだったな?」
樫村が聞くと、仙吉は首を振った。
「荒布《あらめ》橋を渡りましたから、何かあるかと思いましたら、瀬戸物町まで行って買物です。女房はいま家にもどりました」
仙吉という見張り人は三十前後で、たくましく張った胸を持っている。気をつめて田島の女房のあとを追って来たらしく、懐から出した手拭いで、額にうかんだ汗をごしごしと拭いた。
「今夜はもうしばらく見張ろう」
樫村は仙吉にそう言い、いまのうちに飯を喰って来たらどうかと言った。河岸に出て、堀江町の三丁目に曲ったところに一膳飯屋があるが、その店は六ツ半(午後七時)には閉まる。
「平四郎どのも、ご一緒にいかがですかな?」
と樫村は言った。
樫村は、辰巳屋こそ勝負どころと眼をはなさないつもりらしかったが、田島耕作はついこの間姿をみせたばかりである。そう簡単には現われないだろうと平四郎は思っている。夜があまり更けないうちに、いい加減に引き揚げたかったが、樫村に先手を打たれた形だった。おれは帰るとは言いにくくなった。
平四郎は、仙吉と一緒に甘酒屋を出て、暗い夜道を一膳飯屋まで行った。大根の煮つけといわしの塩焼き、それに蜆《しじみ》の味噌汁がけっこううまかった。仙吉は、黙黙と飯を掻きこんでいる。平四郎は自前だが、この男の飯代は樫村が持つ。
仙吉の素姓は、平四郎にはよくわからなかった。兄の監物は、筒井政憲から矢部定謙と代った南の町奉行へとつながっている気配があるから、奉行所の下にいる岡っ引とか下っ引とかいう種類の人間かとも思ってみるが、そうとも受け取れない感じがあった。
六兵衛、仙吉それにほかの男たちも、一様に寡黙で、お上の威光をちらつかせたりするそぶりはみえない。そうかといって、男たちはむろんただの町人でもなかった。無精ひげが生えた眼つきの鋭い顔には、ある種の凄味がある。こういう探索を仕事にしている男たちには違いなかった。
素姓はわからないが、平四郎は兄の指図の下で働いているこの男たちに、いくらか負い目があるのを感じる。三河町にある田島の家を見張っていた男が二人殺された。ひと月ほど前のことである。斬ったのは多分鳥居の配下の御小人目付だろうと見当がついている。奥田という名がわかっている。腕の立つ男だ。
見回りが、ひと足遅れたがために、あの二人を殺してしまったという気持がある。遅れたのは平四郎の罪ではないが、そこまでやる相手と見抜けなかったのを、平四郎は失策だと感じている。この男たちを、もう殺してはならんとも思っていた。樫村も、そのことでは見張りの男たちに厳重に注意した模様だった。
「そなた、妻子はおるのか?」
飯を喰い終った仙吉に、平四郎はふと問いかけてみた。仙吉は怪訝《けげん》な顔で平四郎を見た。
「おります」
「こう毎晩、見張りがつづいては、家の者が苦情を言わんのかね」
「なに、馴れておりますから」
「子供は一人か、二人か?」
「二人です。上が五つ、下が二つ……」
仙吉の眼から光が消え、かすかな微笑のようなものが顔にうかんだが、その男は開きかけた心をそこで閉じたようだった。平四郎が味噌汁を飲み干すのを待って立ち上がり、では、行きましょうかと言った。
風はないが、底冷えのする夜だった。間もなく師走になるな、と思いながら、平四郎は仙吉と連れ立って甘酒屋にもどった。甘酒屋は、樫村が亭主と話をつけて、五ツ半(午後九時)まで店を開けておくことになっているという話だったが、店にもどると、樫村がつくねんと元の席に坐っているだけで、ほかには客はいなかった。
「外は冷えますぞ」
平四郎が言うと、樫村は、ではかわって御膳を頂いて来るか、と立ち上がった。
そのとき店の外で、鋭い声が樫村を呼んだ。いま表に残ったばかりの仙吉の声である。つづいて、ひとが走り回るような物音がした。
「来たぞ」
平四郎は刀を腰にもどすと、すばやく店をとび出した。樫村があとにつづいた。
常夜燈の近くで人がもつれ合って動いている。鈍く光ったのは刀だった。平四郎は一気に走った。走りながら刀を抜いた。六兵衛と仙吉が、武士二人を相手に斬りむすんでいるのが眼に入ったのである。
二人とも匕首を手にしているが、一方的に斬りまくられていた。それでも仙吉は軽がると動いて、どうにか刀を避けている様子だったが、六兵衛は逃げ回っているだけのようだった。猫がねずみをなぶるように、敵は六兵衛を一軒の軒下に追いつめて行くと、大きく刀を振りかぶった。
「待て」
平四郎が声をかけると、敵はすばやく振りむいた。そして無言のまま、振りかぶった刀を叩きつけて来た。
腰を落としてその刀をはね上げると、平四郎は刀を回して、刃唸《はうな》りするほどの一撃を相手の胴に叩きこんだ。背後でも刃《やいば》をまじえる音がひびいた。樫村が間に合ったのである。
平四郎の正面の敵は、平四郎の剣をかわした。すばやく二間ほどうしろにさがったのは、平四郎を油断ならない敵と見たのかも知れなかった。常夜燈のかすかな明かりを背負っているので、齢のころも顔もわからない。ただ、影法師のような黒い立ち姿がたくましかった。
男はぐいと横に回った。めずらしい下段の構えである。男はさらに半歩横に足を移した。剣先がぐいと上がったと思うと、男は疾風のように打ちこんで来た。同時に踏みこんだ平四郎の刀が宙にひらめいた。その動きが、一瞬速かった。
男の右手首を斬り放ったのがわかった。だが、その男は打ちこんだ勢いをそのままに、左手一本で斬りおろして来た。鼻先をキナ臭いものがかすめるのを感じながら、平四郎は辛うじてかわした。かわした姿勢が悪く、平四郎は思わず地面に片手をついた。
はっとしてはね起きたとき、男がくるりと背をむけた。すぐに走り去る足音がして、姿は闇に消えた。大丈夫ですかな、と言いながら、樫村が走り寄って来た。樫村の相手も逃げ去ったらしい。
平四郎の足もとに落ちている手をみて、樫村はほうと声を上げた。平四郎はその手を闇の中に蹴こんだ。手首から先を斬り落とされた男は、はやく手当てすれば命に別状はないはずだった。だが、これで今度は奥田という男が出て来るかも知れないな、と平四郎はちらと思った。
「それがしが相手した男は、いつも甘酒屋で顔の合う男だったが、そちらの相手は新顔のようであった」
樫村はまだ荒い息をしていた。
「向うのお目付どのも、どうやら辰巳屋に眼をつけて来たらしい」
「六兵衛は大丈夫かな」
振りむくと、六兵衛はまだ軒下に立っていた。近づいて声をかけると、六兵衛は道に出て来たが、軽く足をひきずっている。
「怪我したか?」
平四郎が声をかけると、六兵衛は、いえ、大した傷ではありませんと言った。
「一体どうしたのだ? 連中はいきなり斬りかかって来たのか?」
「いえ、そうではございません」
六兵衛が答えたとき、暗い道に足音がして、仙吉が駆けもどって来た。仙吉と六兵衛は、額をつき合わせると、小声でなにか鋭くささやき交した。そしてむき直った六兵衛が言った。
「相済みません。あの男を、またとり逃がしたようです」
「なに? 田島が現われたのか?」
「はい、もうちょっとのところで、邪魔が入りました」
と、六兵衛はくやしそうな口ぶりで言った。
六兵衛は常夜燈の陰に身をひそめていた。そこから道幅ぐらいの距離は、人の顔がぼんやりみえる。甘酒屋を出た鳥居の配下と思われる男は、足もとめずに河岸の方の道に姿を消すのを見とどけた。あとは田島の見張りだけだと思っていた。
平四郎と仙吉が飯を喰いに出たのは、甘酒屋の軒を洩れる明かりで見えた。二人がもどって来て、仙吉がこちらに向かって歩いて来るのも見えた。かわって飯を喰って来るかと思いながら、六兵衛も腰をのばした。
そのとき、突然に眼の前に田島の姿がうかび上がったのである。六兵衛は息をのんだ。田島が常夜燈の前をゆっくり通りすぎるのを見てから、道にとび出した。その姿を見たらしく、仙吉も猛然と走り寄って来た。だが、そのときどこかに隠れていたのか、さっきの男二人が姿を現わすと、いきなり斬りかかって来たのである。
「たしかに、田島だったのだな?」
と樫村が聞いた。
「たしかです。袖をつかまえたのに、逃げられました」
「ひととおりさがし回りましたが、影も形もみえませんでした」
と仙吉も言った。平四郎と樫村は顔を見合わせた。
「残念だったな。これでこの界隈《かいわい》に田島が現われることは、ちと見込み薄になったな」
平四郎が言うと、樫村は案外にのんびりした顔で、いや、そうとも限りませんと言った。
「田島という男も、隠れはしているものの、そろそろひと恋しくなって来たようでござる。さあ、これで面白くなって来ましたぞ。なに、見張りを厳重にしておけば、いずれどこかにまた現われます」
平四郎は樫村の顔を見た。浅黒い顔をしたさほど見ばえのしないこの男は、めったなことで動じない肝の太さと辛抱強さを身につけているらしいと思った。
四
しかし樫村の見込みにもかかわらず、田島はすぐには姿を現わさなかった。またぷっつりと足跡を絶ったようにみえた。樫村は甘酒屋から引き揚げ、平四郎も一日に一度、見張り人のいる場所を回り歩くやり方にもどった。その間に、平四郎は油屋のおかみに頼まれた仕事に少しずつ手をつけた。
おきぬという女は、なかなかの美人だった。小柄で細腰、眼に少し険のある顔立ちに、かえって男心をそそる色気がある若い女だった。おきぬは一日に一度は湯屋に行く。雨の日も、少少の雨なら傘をさして出かける。もともときれい好きな女なのかも知れないが、平四郎はそういうおきぬの姿に、ひとの妾で暮らしている女の悲しい習性のようなものをみて、いささかあわれを催したぐらいである。
湯屋の帰りに、おきぬは肴屋《さかなや》や青物屋に寄って買物をする。油屋長兵衛は、深川の方の岡場所でおきぬを見そめ、妾に囲ったという話だったが、女中をつけてやるほどの金はないらしい。いまおきぬが住んでいるしもた屋も借家だという。おきぬは自分で手料理を作って旦那を迎えるのだろう。思ったよりもつましい暮らしではないか、と平四郎はともすれば、細身で眼に険のあるその女に同情しそうになる。
湯屋に行って、帰り道に買物をするほかは、おきぬは家にこもったままだった。旦那ひと筋にみえた。
旦那の長兵衛は、大概夕方にやって来る。しかし時には、まだ八ツ(午後二時)さがりというのに、あわただしく下駄を鳴らしてやって来て、夕方にはその家を出て帰ることがあって、おかみの言ったことが嘘でないことが確かめられた。
長兵衛は、赤ら顔の大きな男である。巨漢といってもよい。家の中ではどんな顔をしているのか知らないが、道を歩くときにはこわい顔をしている。左頬からあごにかけて、どういうわけかそこだけ、目立つほどのあばたがあって、眼つきもよくない。醜男《ぶおとこ》の部類に入るだろう。
その長兵衛は、夕方になると、大きな身体をゆすって、息せき切って妾宅《しようたく》にやって来る。よほど妾をかわいがっているらしく、これではめったな意見など加えたら殺されかねまい、と改めて納得するようだった。
数日ならずして、この程度のことはわかったが、さて、これだけでうまく油屋のおかみの頼みを片づけることが出来るかどうかと、平四郎はいささか心もとなかった。長兵衛の方でもおきぬの方でもどちらでもいいが、何か弱味のようなものが見つかれば、そこを握って切札にすることが出来るのだが、と思った。
「あの家を、男がたずねて来るなどということはないのか」
そばをすすりながら、平四郎はたずねた。おきぬの家の並びにあるそば屋の中である。痩せて青白い顔をしたそば屋の亭主は、なぜかおきぬの旦那油屋の長兵衛に、なみなみならぬ反感を抱いていて、平四郎の聞くことには熱心に答える。
「男って言えば、あの角力《すもう》取りのような旦那だけですよ」
「いや、旦那じゃなくてだ。こう、おきぬの色男といった格の男を見かけることはないかね」
「色男ねえ……」
そば屋の亭主は、首をかしげたが、残念そうに言った。
「ちょっと見かけたことがありませんなあ」
「ふうむ、身持ちは固いのだな」
「待ってくださいよ」
亭主は釜のそばで宙をにらんだ。
「色男かなんか知りませんけどね。あの女は時どき出かけることがありますぜ」
お前さん、よその家のことでよけいな口をきかない方がいいよ、と同じ板場の中にいる女房が言った。その女房も、亭主に負けないぐらいに痩せている。
うるせえ、と亭主は言った。
「時どきというと?」
「月二度ぐらいでさ。こう、おめかしをしやしてね。出かけるとまず半日はもどって来ないね。そして大概旦那が通って来る時刻にゃちゃんともどってるところが、怪しいと言えば怪しいね」
お前さん、と女房が尻をつついたが、亭主はその手を振りはらった。
「一度調べてみるとよござんすよ。何ですかい、あのおきぬって女は、何かうしろ暗いことでもあるんですかい? かわいい女だが、どうも眼つきがけわしいと思ったが、案の定だったなあ」
あまりあてにしないでそば屋の亭主の言うことを確かめてみた平四郎は、意外な収穫に恵まれた。
一日、おきぬは着飾って外に出た。どこかにお詣《まい》りか、それとももとの古巣の岡場所にでも遊びに行くところかと思ったが違った。おきぬは竪川《たてかわ》に出て、川沿いの道を西に歩き、松井町一丁目まで行くと、そこの裏長屋の一軒に入った。そのままひっそりしていたが、夕方近くなってその家から出て来たときは、若い男と二人連れだった。男は河岸の道までおきぬを見送って出ると、そこで別れた。
男の名は道蔵、齢は二十一で、何をして暮らしているのかは、長屋の者も知らなかった。道蔵はこの春、長屋に引越して来たばかりで、まわりの人間とはほとんどつき合いがなかった。おきぬが通って来ていることには気づいていたが、長屋の者は誰も素姓を知らなかった。
五
あくまでごねるようだったら、松井町の男という例の切札を出してやろうと思ったが、おきぬはあっさり話に乗って来た。
「いいですよ。おかみさんがそんなに心配してるんなら、あたしの方は身をひいたってかまいやしない。好きでとった旦那でもないし」
「そうか。それを聞いたら、おかみもさぞ喜ぶだろう」
「ちょっと」
おきぬは、あごをひいて平四郎を見た。そうすると、白いあごがわずかにくくりあごのようになって、かわいい顔になる女だった。
「あたしはべつに人助けのために身をひくんじゃありませんからね。妾奉公もたいがいあきが来たから、お話に乗ろうかというだけ」
「わかっておる」
「ほんとにわかってるのかしら。お話に乗ると、つまり明日から米の飯の心配をしなきゃならないわけ。ただじゃいやだよ」
「当座の費用は用意してある」
「いくら?」
「二十両でどうだ?」
「とんでもない」
おきぬは手を振った。
「お武家さんの前だけど、おととい来いっていいたいね。二十両なんてお金は、旦那。この節は女のひとり暮らしだってあっという間になくなっちゃいますよ。それにあたい、妾暮らしでぜいたくが身についちゃったからねえ」
「いくらなら手を打つな?」
「倍の四十両はいただかなくちゃ」
「そりゃ高い」
と平四郎は言った。
「わしもひとり暮らしだが、いくら諸色《しよしき》が高いと申しても、まず月に一両二分あれば店賃《たなちん》をはらって楽に暮らせるな。二両あったら御《おん》の字というものだ。そんなには出せん」
「でも、二十両なんて手切れ金は、あたいという女をみくびってますよ。おかみさんだって、旦那を取り返そうと言うんでしょ? 少しはあたいの顔も立ててくれなきゃ」
「よろしい。顔を立てようじゃないか」
と平四郎は言った。
「中をとって三十両。これで手を打とう。これ以上は出せんぞ」
「三十両ねえ」
おきぬは襟《えり》にあごをうずめたまま、上眼づかいに平四郎を見たが、平四郎の顔つきからこれ以上引き出すのは無理とふんだか、ぱっと笑顔になった。
「いいでしょ。油屋の旦那じゃ、そこらへんが相場でしょうから」
「そうしろ。三十両あれば、一年や二年は遊んで暮らせるというものだ。その間にもちっとましな旦那を見つければいいではないか」
話がうまく運んで、平四郎は気が軽くなり、おきぬを相手に軽口を叩いた。
「うまい後釜が見つからんときは、おれを頼め。手間賃さえ頂けば、手ごろな旦那をみつくろってやらんでもない」
「おもしろい旦那」
おきぬはけらけら笑った。
「でも、あたいは承知しても、むこうはどうなるのさ。あたいを気に入ってんだから、ちょっとやそっとじゃうんとは言わないよ」
「それはこっちの仕事だ。考えていることがある。ちょいと耳を貸せ」
平四郎はそばに来たおきぬの耳に何かささやいた。聞きながら、おきぬはけらけら笑っている。気性はごく明るい女のようである。
「それぐらいのお芝居なら、あたいにだって出来るよ」
「よし、ではそれで行くか」
「そうと決まったら、一杯やりましょうよ、旦那。いま、お酒の支度をするから」
その日、油屋の主人長兵衛が来たのは、六ツ(午後六時)過ぎだった。いつもより遅い。そのせいか、長兵衛はあたふたと駆けこんで来た。
暗い土間で、物に蹴つまずいた音を立てながら、おきぬ、遅くなって済まなんだ、何分女房がうるさくてなどと言っている。あの身体のどこから出るかと思うような、やさしい猫なで声だった。
「今夜は寒いから、湯豆腐に……」
言いながら障子をあけた長兵衛は、そのまましきいの上に棒立ちになった。
平四郎は盃を手にしたまま、平気な顔で長兵衛の顔を見上げている。おきぬは平四郎の肩にしなだれかかって、これもにやにや笑いながら長兵衛を見ている。
「これは、いったい……」
長兵衛はどもった。赤鬼のような顔になった。
「いったい何の真似だ、おきぬ」
「見ればわかるでしょ?」
とおきぬが言った。
「今夜は、もう旦那は来ないと思ったもの」
「ちょっとお前さま」
平四郎の前に坐って、長兵衛は息をはずませた。
「わけをお聞かせ願いましょう、わけを」
「わけと言われても、ちと困るなあ」
平四郎は肩にかかっているおきぬの手を握って、なめらかな指をなぶった。
「つまり、こういう仲なのだが……」
「ずっと前から?」
「さよう、ずっと前からだ」
「このあま、すべた」
と長兵衛はおきぬを罵った。だが、おきぬはしれっとした顔で言い返した。
「だって仕方ないでしょ。あたいからお妾にしてくれって頼んだわけじゃないんですから。むりやりお妾にされちまったんだから」
「そうそう」
平四郎は相槌《あいづち》を打った。
「いや、油屋。これでもずいぶんと遠慮しとったのだ。おきぬに男がいるとわかっては、そっちも気色悪かろうと思ってな」
「………」
「色男も存外に苦労の多いものでな。旦那に知れぬように忍んで来るのは骨であった。しかし隠しごとというのはうまくいかんものだな。は、は。こうばったりと顔が合うとは思わなかったぞ」
「………」
「ま、お近づきのしるしに、どうだな、一杯いこうか」
平四郎が盃を突き出すと、わなわなと身体をふるわせていた長兵衛は、いきなりその盃を払い落とした。
そして、手をのばして平四郎の前のお膳をひっくり返そうとしたようである。だがその手を、平四郎はすばやくつかんだ。二本の腕が宙でからみ合って、たがいに相手をねじ伏せようと力を出した。
だが、平四郎の技が長兵衛の力を上回った。長兵衛は腰を浮かして、渾身《こんしん》の力を出したが、ついに仰むけにどしんとひっくり返った。
立ち上がると、長兵衛は手をさすりながら、しきいぎわまでさがった。そこでおきぬに酒をついでもらっている平四郎を、無念そうに見ている。
「このままでは済みませんよ、お武家さん」
「ま、ま、そうこわいことを申さずに、よろしくな」
平四郎が言うと、長兵衛はやっとあきらめたらしく、荒荒しく部屋を出て行った。やがてはじけ返るほどの勢いで戸を閉めた音が聞こえた。
おきぬがくすくす笑った。
「これであきらめたかしら」
「いや、そうたやすくはいかんだろう」
平四郎はおきぬから少し身体をはなして言った。芝居が終ったのに、おきぬはまだ身体を押しつけて来ている。かなり酔っているようだった。
「ま、ここ数日が勝負だろうな。それまで、ちょくちょくこの家に通わせてもらうことになるが、よろしく頼む」
「よろしくなんて、他人行儀を言わないでよ」
とおきぬは言った。おきぬは酔ってしまって、芝居と現実のけじめがはっきりしていないらしい。
銚子をとり上げて、今夜はゆっくりして行きなさいなと言った。ぞくりとするような流し目で見られて、平四郎も悪い気はしない。あぐらになって盃を出した。
四半刻《しはんとき》(三十分)ほどして、平四郎はおきぬの家を出た。ほろ酔い機嫌になっていた。
──かわいい女ではないか。
とおきぬのことを思っている。おきぬはすっかり酔ってしまって、しまいには泊って行ってもかまわないのよ、などと言ったのだ。
そういういささかだらしのないところも、実家の屋敷で万事きっちりし過ぎた女たちをみて来た平四郎には、なんとも好もしく思われて来る。しかし言われるままに鼻の下をのばして泊ってしまっては、仕事のけじめがつかなくなる。そう思って出て来たが、平四郎は少し惜しい気もした。
こういう余禄まであっては、悪い仕事とは言えないな、と平四郎は思った。おきぬのほっそりした指の感触、身体を寄せて来たときに匂った髪の香などを思い返して、平四郎は陶然として端唄《はうた》を口ずさんだが、武家屋敷の間を抜けて永倉町の角に近づいたとき、うしろからいきなり頸《くび》をつかまれた。
すさまじい力だった。平四郎は一瞬身体が地面から浮き上がるのを感じた。頸をしめつける腕をつかんで振りほどこうとしたが、びくともしなかった。
──長兵衛だ。
気が遠くなるような感覚の中で、平四郎はそう思い、思わず腰の刀に手をやろうとしたが、思いとどまった。この男を殺してしまっては仕事も何もあったものではない。
平四郎は、じりじりと締めつけて来る手に、また身体が浮き上がるのを感じながら、長兵衛の腕に爪を立てた。だが、長兵衛と思われる背後の男は、それでこたえた様子もなく、ますます指の力を強めて来ただけである。ひとことも声を出さないのが無気味だった。平四郎は眼に血がのぼって来るのを感じた。
長兵衛の腕から手を離すと、渾身の力をこめて、みぞおちに肱打《ひじう》ちを喰《くら》わせた。背後の男が、うっと唸った。もう一度肱打ちを試みると、今度は頸の指がわずかにゆるんだ。
その一瞬の隙に、平四郎はぱっと指をはずすと、振りむきもせず相手の腕をかついで背負い投げを打った。岩のようなものが、平四郎の肩を越えて、前方の地面に落ちた。投げた物のあまりの重さに、平四郎も腰がくだけて膝をついたほどである。
勢いよく地面に落ちた人間は、そのまま動かなかった。長長とのびている。近づいて、顔を改めると、かすかな星明かりで、やはり長兵衛だとわかった。一たんはおきぬの家を引き揚げたものの、腹の虫がおさまらずに平四郎の帰りを待ち受けていたものらしい。
だが角力取りのように大きな身体の男は、案外に意気地なく気絶していた。息のあるのをたしかめてから、平四郎は活を入れようとしたが、思いとどまって駕籠をさがすためにその場をはなれた。
バカ力を持つその男は、そのままで駕籠で店に送りとどけるのが安全のようだった。平四郎は歩きながらひりひりする頸を撫でた。
六
油屋のおかみと市毛屋のおこうが連れ立ってやって来た。油屋のおかみは、この前にたずねて来たときよりも顔色がよく、表情も明るくなっている。
「これがおきぬという女子から取った受取りだ」
平四郎はおかみに三十両の受取りを渡した。もっともおきぬは無筆なので、平四郎が金三十両なりを受け取った、以後旦那とはいっさいかかわりを持ちませんと書いて、おきぬに爪印を捺《お》させただけである。
おかみは受取りを丁寧にたたんで胸にしまうと、平四郎に手間賃二分と礼金だという紙包みをさし出した。この前の市毛屋のおかみの例から言って、礼金の中身は一両は固い、と平四郎はふんだ。
「旦那はその後、いかがかな」
金包みを手もとに引き寄せながら、平四郎はにこやかに聞いた。長兵衛の気絶さわぎがあってから数日、平四郎は時刻をみはからっておきぬの家に行った。
はたして、長兵衛は未練がいっぱいで二度、三度とおきぬの家をたずねて来たが、そのたびに平四郎が色男然と酒をのんでいるので、しまいにはあきらめたようだった。最後の二日はぷっつりと姿を見せなくなった。
「おかげさまで」
とおかみはにこにこ笑いながら言った。
「このごろはすっかり落ちついたようです。むかしのあのひとにもどったようで、一所懸命に働いてますよ」
「夜はおたかさんのお酌で晩酌をやるんですってよ」
来ると、自分の家のように台所に入ってお茶の支度をしたおこうがそう言った。おこうはちゃっかり煎餅まで買って来て平四郎にもすすめ、腰を落ちつけて茶飲み話をしようという構えである。
油屋のおかみも、心配ごとがなくなり、平四郎にも馴れて気がほぐれているらしい。赤い顔をして、あらいやだなどと言っておこうの膝を打ったりしている。
「それはけっこうだ」
「ね、この旦那はお若いけど頼りになるひとでしょ?」
「ほんとに」
二人の年増女にじっと顔を見られて、平四郎は赤面し、咳ばらいをした。
「神名さま、お米はどこですか?」
おこうが膝をうかして言った。
「今日こそ晩御飯の支度をしてさし上げますよ」
「いや、その儀はひらに……」
平四郎があわてて手を振っていると、入口に女の声がした。立って行ってみると、おきぬだった。きれいに着飾り、化粧の香をぷんぷんさせて立っている。
「やあ、上がらんか」
と言ったが、平四郎は中に油屋のおかみがいるのに気づいて、あわてて自分から土間に降りた。
「いま、客でな。なにしろ狭い家で、お前さんを上げてはまずい」
「そうですかあ?」
おきぬは鼻にかかった声で言い、不満そうだった。
「ところで、今日は何か用か?」
外に出てから平四郎が言うと、おきぬはいきなり身体を寄せて来て平四郎の手をつねった。
「何か用かじゃないでしょ?」
「はて」
手をさすりながら、平四郎は首をかしげた。こういう馴れなれしい口をきかれるようなことは思いあたらない。
「また遊びに来るって言ったじゃない」
「ああ、そうだったかな」
「言いましたよ」
おきぬはまた身体を寄せて来た。平四郎は手をかばった。おきぬはあたりを見回して声をひそめた。
「あてにしてたんだよ、あたい」
「しかし、近ごろちといそがしい」
「あたいは男っ気がないとさびしくてだめな女なの」
とおきぬは言った。
「来られないんなら、新しい旦那をめっけてよ」
「新しい旦那? おれは旦那の周旋まではやっておらん」
「だって言ったじゃない?」
「あれは言葉のあやというものだ、おきぬ」
「嘘つき」
とおきぬは言った。
「遊びにも来ない、旦那も世話してくれないというんだったら、油屋の旦那とよりをもどしちゃうよ、あたい、お金なんかいらないんだから」
「しッ」
と平四郎は言った。
「バカを申せ。そういうことを言うのなら、油屋の旦那に例の男のことを話すぞ。それでもいいのか」
「例の男ってなにさ?」
「松井町にいる男だ。道蔵という名もわかっておる」
「道蔵? あれあたいの弟だよ」
「弟? でたらめを言ってはいかん。年上の弟がいるもんか」
「年上って、旦那はあたいをいくつだと思ってるのさ。もう二十六だよ。男なしじゃいられない齢なのよ」
形勢がいちじるしく非なのを、平四郎は認めないわけにはいかなかった。戸口をみると、油屋のおかみとおこうが立っていて、女につきまとわれて弱っている平四郎を、白けた顔で眺めている。
平四郎はくるりと背をむけて歩き出した。
「ねえ、どうするの?」
うしろからおきぬの声が追いかけて来た。
「遊びに来てくれる?」
木戸を出ると、平四郎は突然走り出した。
──女難だ、これは女難だ。
女は嫌いではないが、こう急にまわりに女っ気が多くなっても困る。走りながら平四郎はそう思っている。
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子《こ》 攫《さら》 い
一
神名平四郎は、道場仲間の伊部金之助に盃をさし出した。
「ま、一杯いこうか」
「や、相すまんな」
と伊部は言ったが、それは口だけで顔はべつにすまなそうでもなかった。塚原早苗の消息を聞きに道場をたずねた平四郎に、伊部は、消息はつかんだ、しかしひと口には言えんなあと、露骨に一杯のませろと謎をかけて来たのだ。
むろん早苗をさがし出してくれたというだけで、一杯おごる価値はある。平四郎は即座に伊部を飲み屋に誘った。二人がいまいる場所は、道場がある裏通りを北に歩いて、源助町のはずれまで来たところにある小料理屋である。だいぶガタが来た古い家で、そこのおかみも、小料理屋のおかみの定石《じようせき》からはずれて、ぶくぶくに太ったひどいご面相の四十女だが、酒はうまい。
二人は土間から這い上がったところにある、障子なしの畳敷きのところに坐っている。細長い畳敷きの場所は、うす汚れて木枠など黒光りしている衝立《ついたて》で幾つかに仕切っているだけなので、日がかげったとみて早くも駆けこんで来た先客の男たちの、声高なおしゃべりが、衝立のむこうから筒抜けに聞こえる。
一杯のませるのにやぶさかではないが、奥の部屋まで行くことはない。席料が高くなると平四郎は思ったのだが、以前、何度かここに一緒にのみに来ている伊部は文句は言わなかった。うまそうに盃を干した。
「たしかに早苗どのだったのだな?」
平四郎は、伊部に酒をついでやりながら聞いた。
「むろん。間違いない。そのひとは御書物同心の組屋敷におられる」
「御書物同心?」
平四郎は眉をひそめた。
「あれは、お扶持はどのぐらいのものだったかの?」
「三十俵二人扶持さ。おれのところよりはいい」
と伊部は言った。伊部の父親は小普請《こぶしん》方の手代を勤めている。ふーむ、と平四郎はうなった。
「それで、ご亭主の名は? 子はおるのか?」
「まあ、待て」
伊部は平四郎の手もとにある酒を、自分の方に引き寄せながら、そうせかすなと言った。
「その早苗どのというひとを探し出すまでには、これでもずいぶんと苦労があったのだぞ。なにしろ、この家にもとお旗本の塚原の娘御がおられますか、というわけにはいかん」
「そうだろ、そうだろ」
平四郎は相槌《あいづち》を打ったが、盃をあける伊部の手つきをみて、少し不安になって来た。懐ぐあいの都合もあって、なるべくあっさりと切り上げたいところだが、そうもいかない感じがして来たのである。
それに伊部の酒癖がよくないことも思い出していた。伊部金之助は、深酔いすると一たん眼が据わり、ついで泣き上戸《じようご》に変る。なんとかそこまでいかずに済ませたいものだという平四郎の心配をよそに、伊部は早い手つきで盃をあけながら、早苗をさがし出すまでの経緯をしゃべっている。
その話しぶりが、いつの間にかくどくなっている。たまりかねて平四郎は口をはさんだ。
「いや、苦労をかけた。ところで、そこは何という家だ」
「菱沼だ。御書物同心の菱沼惣兵衛」
伊部はそう言ったが、じろりと平四郎を見た。少しいやな眼つきになっている。
「話の腰を折るな。苦労話は、まだ終っておらん」
「それはそうだが、おれも頼みごとの中身が気になる」
平四郎は下手に出た。
「まず早苗どのの様子を聞かせてくれ。貴様の苦心談は、あとでゆっくり聞かせてもらおう」
伊部は、またいやな顔つきで黙って平四郎を見返したが、不意に板場の方を向いて、酒だとどなった。女中があわてて飛んで来た。
「その菱沼だが、齢《とし》はいくつだ?」
平四郎は、女中が運んで来た酒をついでやりながら、なだめるような口調で聞いた。
「齢? 齢は四十二だよ」
「なんだと?」
平四郎は思わず手をのばして、伊部の胸ぐらをつかんだ。
「おい、金之助。でたらめを言っちゃいかんぞ。それとももう酔ったか?」
「酔ってなどおらん」
おれにさわるなと言って、伊部は平四郎の手を振りはらった。そうしてすぐに盃に手をのばした。伊部はどうやら、しばらくうまい酒をのんでいないらしい。
「おい、しっかり答えろよ。菱沼惣兵衛が四十男だというのは間違いないのだな?」
「間違いない。ちゃんと調べた」
「子はいるのか?」
「それはおらんそうだぜ」
伊部は顔を上げないでそう答え、せっせと酒を口に運んでいる。平四郎は腕組みして、眼を膝に落とした。
早苗がなぜそんなところに嫁入っているのかわからなかった。伊部の言葉からは、ただ家がつぶれて御家人の家に嫁入ったというだけでない、もっと複雑なものが匂って来る。小さな包みを抱えて、町を歩いていた早苗を見たという嫂《あによめ》の言葉が、頭にうかんで来た。平四郎の頭の中で、早苗のその姿は、背をむけて歩いている。孤独なうしろ姿に思われた。
──しあわせとは言えないようだ。
と平四郎は思った。気持が暗くなった。
「あのな、金之助」
と平四郎は言った。
「菱沼の禄は、年三十俵と申したな?」
「三十俵二人扶持」
伊部は顔も上げないで答えた。ふだん色白の顔が、もう茹《ゆ》でたように赤くなっている。
「うん、それだ。するとそこの女房などは、内職をやらんといかんか?」
「まあ、なみの家はそうだ。だが菱沼の家では、内職などせんだろうさ」
「なぜだ?」
「惣兵衛は金貸しだ。それが内職だ」
平四郎は、自分がはずかしめられたように下を向いた。伊部のそのひと言で、早苗がいま置かれている境遇が、どういうものかが、よくのみこめたような気がした。
御家人の中には小金を持っている者がいて、ごく内証に知り合いに金を貸して蓄財にふけっているのだと聞いたことがある。内証の融通金といっても、中身は高利貸しである。菱沼がそれなのだ。暮らし向きが苦しい人びとは、そういう男が近間にいることを重宝にして、しばしば金を借りに来るが、内心では蛇蝎《だかつ》のようにその金貸しを忌み嫌うのである。当人だけではない。家族も嫌われる。
それにしても、と平四郎は考えこんだ。早苗はなぜそんな金貸し男、それも二十以上も齢がはなれている男の妻におさまっているのだろうか。
「おい、平四郎。神名平四郎」
呼ばれて顔をあげると、伊部がじっと平四郎を見つめていた。眼がすっかり据わっている。平四郎はあわてて言った。
「どうした? 酒が切れたか?」
「酒はある」
「では、何だ?」
「貴様、早苗というひとをさがし出したおれの苦労話は、後まわしだと言ったな?」
「後まわし? そんなふうに言ったおぼえはないなあ」
「いや、言った」
「後でゆっくり聞くと言ったのだ。そうだ、聞かせてもらおうじゃないか。さぞ苦労したろう?」
「誠意がこもっておらん、その口ぶりは」
伊部金之助は、平四郎をねめつけたが、不意にその顔がくしゃくしゃにゆがんだ。伊部はべそをかいている。
「ただの苦心じゃなかったのだぞ。ほかならぬ貴様の頼みと思えばこそ、おれは誠心誠意……」
「わかった、悪かった」
平四郎は伊部に酒をついだ。ぽろぽろと涙をこぼしながら、伊部は盃をさし出している。
「さあ、話せ。何でも話せ」
この酒は長くなりそうだぞ、と平四郎はうんざりした。新しく来た町人客が、泣いている伊部に好奇の眼を投げて、奥に入って行った。ろれつの回らない口で話しかける伊部に酒をすすめながら、平四郎は自分も泣きたい気分だった。
二
まだのみ足りなさそうな伊部をなだめすかして、どうにか家に帰し、平四郎が裏店《うらだな》にもどって来たのは五ツ半(午後九時)ごろである。
裏店の者はあらまし寝たらしく、細ぼそと灯が洩れているのは、一番奥の祈祷山伏《きとうやまぶし》の白雲坊の家だけである。暗い路地に踏みこみながら、平四郎は太い吐息を洩らした。伊部金之助に聞いた早苗の消息が気持を重苦しくしている。
聞かなければよかったとは思わなかった。五年ぶりに知れたもとの許嫁《いいなずけ》の消息に、かすかに安堵する気分がある。どうしたかと気がかりだったそのひとが、ともあれ生きていて人の妻になっていたのである。
だが伊部の話から推測するかぎりでは、そのひとはしあわせに暮らしているとは言えないようだった。そして平四郎自身はといえば、ただその事実を知ったというだけで、一指も動かせない立場にある。相手は人妻である。
もう一度吐息を洩らしたとき、平四郎は自分の家の軒下に人影が動いたのを見た。思わず一歩、二歩とうしろに跳んだ。とっさに、鳥居耀蔵の配下かという頭が働いたのだが違った。
「わしだ」
と黒い影が言った。寺子屋師匠の北見十蔵の声である。
「どうした? いまごろ」
平四郎はおどろいて言った。
「ちと急用ができてな」
「ずっと待っていたのか?」
「それよ、日暮れからずっとだ」
何の用だ? と平四郎は思った。
「ともかく上がらんか」
「いや、そうしてもおられんのだが……」
と北見は言い、いや、やっぱり上がらぬとまずいかとつぶやいた。日ごろは落ちついている男が、どことなく取り乱しているようにもみえた。
北見は家に入る平四郎のあとから、中に入って来た。平四郎が、火鉢の灰を掘って、埋めておいた燠火《おきび》を掘り起こすと、北見はにじり寄って手をかざした。外は寒かったに違いない。
「急用というのは何だ?」
平四郎が聞くと、北見は懐から紙を取り出してひろげると、黙って平四郎に渡した。
それは手紙だった。子供は元気でいるから安心しろ、ついては二百両持って来い。その金と子供を引き換えると書いてあり、日づけと場所が書きそえてある。日づけは明日の五ツ(午後八時)、場所は柳原、籾蔵《もみぐら》の東端となっている。達筆の手紙だった。
「何だ、これは?」
と平四郎は言った。
「子供が攫《さら》われたのか?」
「そうだ」
北見はうなずいた。深刻な表情をしている。
「石太郎という五つになる子供だ。わしのところに手習いに通っていて、まずいことに帰りの道で攫われたらしい」
北見のところに通って来る子供は、昼過ぎから来る十歳以上の子の中に、三人ばかり紺屋町の外から来る子がまじっているほかは、大方は近所の子供である。評判のいい寺子屋といっても、せいぜいそのぐらいのものなのだ。
石太郎のように小さな子もいるが、子供たちは来るとき誘いあわせて連れ立って来るし、帰りも一緒である。北見のところに手習いに通わせるのを不安に思う親などはいない。ところが昨日の昼まえ、手習いを終ってもどったはずの石太郎が、家に帰らないというので大さわぎになった。
「そいつはまずいな」
と平四郎は言った。
「それで番屋にはとどけて出たのか?」
「いや、とどけておらん。それというのも、これとは別に、とどけるなという手紙が来ているというのだ」
石太郎は、ふだんの日は手習いを終えると、昼までに家にもどる。家は小原屋という両替屋である。
「両替屋? 金貸しかね?」
平四郎は北見を見た。ちらと早苗の夫のことが頭をかすめたようである。
「まあ、そうだ」
と北見は言った。両替商は金銀を換えて手数料をとるだけでなく、他人の金を預かり、また金を貸しつけて利息を取るのが商売だが、一番利益が上がるのは金の貸しつけで、大きな両替商になると、大名屋敷にまで金を貸し出す。
小原屋はそんなに大きな両替商ではない。しかし大方は商人相手の金貸しで、かなり裕福に暮らしている。それはともかく、昼を過ぎても子供が帰らないので、小原屋では北見のところに迎えの人間をよこした。それが石太郎が帰ってから一刻(二時間)後のことだった。
北見から子供は帰ったという返事を聞いた段階でも、小原屋ではさほど気にしたわけではなかったようだ。一緒に帰った子供たちのところを聞き回ったりした。だが、石太郎はどこにも見あたらないまま、時刻は七ツ(午後四時)になった。小原屋では大さわぎになった。再度使いが来て、北見も早早に昼過ぎからの手習いを閉じ、小原屋に駆けつけた。
ちょうどそのさわぎを見はからったように、一通の手紙が小原屋の店先に投げこまれたのである。達筆の字で、子供を預かっている、しかしこのことを役人にとどけると、子供の命はない、おとなしくあとの指図を待て、と書いてあった。
それで、石太郎が何者かに攫われたことがはっきりしたのである。
「そして、これが今日の夕方投げこまれた二通目の手紙だ」
と北見は言った。
「二百両か、大金だな」
と平四郎は言った。
「しかし、この金は出すしかあるまい。小原屋ではどう言ってるのだ?」
「金は出すそうだ。子供の命には換えられんからな。しかし、小原屋では、金と子供を引き換える役目をわしにやってくれと言っておる」
「ほう? どうして店の者がやらんのだね?」
と平四郎は言った。
「郷右衛門というのが、小原屋の主人の名だが、郷右衛門は、金は渡した、子供は引き取れぬ、つまり虻《あぶ》ハチ取らずになりはしないかと心配しておるのだな。なにしろ相手の正体がまるでわからぬ。この取引きには自信がないそうだ。それでわしに代わりに行ってくれと頼んで来たのだ」
「ふん、貫禄を見こまれたかな」
「貫禄ということもなかろうが、武家が出て行けば、向うもそう嘗《な》めたまねもせんだろうという見込みだろう」
「一理はあるな」
「そこで今夜来たのは、だ。その役目、おぬしにやってもらえんかと思ってな」
「おれが?」
平四郎はびっくりした顔をあげた。
「どうして、そこにおれが出て来るのだ?」
「わしは、つまり、あまり弁口《べんこう》が立つ方じゃない。ことに、そういう大事の場面で、うまくしゃべることが出来るかどうかは、まことに心もとない」
「しかし、人攫いは二百両持ってくれば、子供を引き渡すと言っておるわけだろ? 一方、小原屋は二百両の金は出すと言っておる。人攫いをつかまえてくれと言っているわけじゃない。ことは簡単だろう」
「あっさりとことが運べば、問題はない。だが正体もわからん相手の申すことを信用してやることだから、あるいは不測の事態が持ち上がる心配もある。わしはそういうところで機転がきく方じゃない」
「こっちだって、人攫いと談合するなどは、あまりぞっとせんな。敵に回してうれしい相手じゃない。子供の命がかかっている仕事などは苦手だ」
「御託《ごたく》を申さず、おぬしがやれ」
二の足を踏んでいる平四郎に、北見は急に押しつけ口調でそう言った。
「表の看板に、よろず仲裁うけたまわる、とあるではないか。手間賃の方は、わしが小原屋にかけ合う。やってくれ」
三
小原屋郷右衛門は意外に若く、まだ三十半ばぐらいの男だった。だが、がっしりした大柄な身体で、はやくも腹が前にせり出し、眼つきはかなり険しい方である。やり手の金貸しにみえた。
だが、北見十蔵と一緒に小原屋をおとずれて話を聞いているうちに、平四郎は郷右衛門の顔に、時おりはげしくおびえるいろが、現われては消えるのに気づいた。子供を攫われた親としては当然とも言えるその表情が、平四郎にはなぜか気になった。郷右衛門はそのとき、話をよそに自分ひとりの考えにふけっているようにも見えたのである。
女房の方は眼を赤く泣きはらしていて、平四郎の聞くことにも、探索の手がかりになるようなことは、何ひとつ答えられなかった。
「ちょっと、旦那と二人だけで話してみたいのだが……」
ころあいを見て、平四郎は北見と小原屋の主人の顔を交互に見てそう言った。北見は黙ってうなずき、郷右衛門は、よろしゅうございます、ではあちらでと言って、すぐに立ち上がった。
奥の小座敷にむかい合って坐り、火桶《ひおけ》を運んで来た女中が去ると、平四郎は単刀直入に言った。
「ざっくばらんにお聞きするわけだが、ご主人は今度の人攫いに心あたりがあるのではないかな?」
「いえ、いえ」
郷右衛門は手を振った。
「心あたりなど、あるわけはございません。だから、このように心配しているわけで……」
「しかし、相手のやり方を考えると、大勢いる子供の中から、こちらの子供をちゃんと選りわけて、しかも後で間違いなく手紙をとどけて来ている。こちらのことをよく調べたか、あるいは内情を知っている者の仕業としか思えん」
「………」
「もうひとつは、あの手紙だ。書いてあることは乱暴なものだが、筆は達筆だった。どうも、ただの行きがかりの人攫いとも思われぬところがあるのでな」
郷右衛門はうつむいた。額にうっすらと汗をかいている。
「こういうことを聞くのはですな。二百両の金を渡した、引き換えに子供を引き取った。そういうふうに、すんなりとことが運べば、二百両の大損ではあるが、まあまあよろしい。しかし、相手はもっと悪辣《あくらつ》なことをたくらんでいないとも限らぬ」
郷右衛門が顔をあげた。
「と、申しますと?」
「たとえば金を渡す、受け取った子供は別人だったとか。夜のことだ。使いのわしにはそのあたりは自信がない。また、こういうことがあってはならんが、巧言を弄《ろう》して金は取り上げ、子供はひそかに命を断つとか、そういうたぐいのことだな。むろん、わしが引きうける以上はそういうヘマはやらんように心掛けるが、それにしても、相手が何者か、かいもく見当がつかんのでは、いざというときに心もとない」
「………」
「それに、いまひとつ不審がある」
と平四郎は言った。
「子供を渡すから、金を持って来いと言われたら、何はともあれ、親が駆けつけるのが筋ではないのかな? なぜ、おぬし本人が行かぬ?」
郷右衛門はまた顔を上げた。顔に恐怖のいろがうかんでいる。びっしょりと汗をかいていた。
「神名さまと申されましたな」
郷右衛門は、懐紙を取り出して、額の汗をぬぐった。脂切った大きな顔が、青ざめて生気を失っている。
唇をなめて、郷右衛門が言った。
「これから申し上げますことは、ほかには、たとえ北見さまにも内証にしていただけますか?」
「よろしい。で? 心あたりがあるのだな?」
「いえ、確かな心あたりというのではございません」
小原屋の主人は、そう言って、深ぶかと吐息をひとつついた。ちょっと口をつぐんでからつづけた。
「お察しかも知れませんが、この商売はひとの恨みを買うことの多いなりわいでございます。金を借りにくるお方は、みな切羽つまってこの家にやって参ります。のぞむ金を手に握られたときの喜びようといったらございません。この世の極楽を見たというお顔をなさいます。このわたくしめを、手をあわせて拝むおひとさえおられます」
「………」
「だが、そうやって金を借りて行ったおひとも、一たん金を握ったあとは、このわたくしを敵《かたき》のように思いなさる。むろんわたくしが、元金と利息を取り立てにかかるからです。しかしわたくしは両替屋で世を渡っております。金を貸しておがまれる筋合いもないかわりに、相手につごうがあるからといって、貸し金の取り立てを手加減したりもしません。そんなことをすれば、いずれ小原屋はつぶれて、一家路頭に迷うことになりますからな」
平四郎は黙って聞いていた。眼の前にいる男の住む世界が、うっすらと見えて来るのを感じていた。小原屋は、四方を敵に囲まれて世を渡っているのだ。それがこの男のなりわいだった。
「わたくしは、父親の代からの両替屋でございますから、金を借りに来るおひとの心のうちは、おおよそつかんでいるつもりでしてな。商いはきちんとさせてもらいますが、高利をふっかけたことも、格別|因業《いんごう》な取り立てをしたおぼえもございません。それでもこの商いは、ひとの恨みを避けられないところがありまして、あるいはと思う心あたりが三つほどございます」
小原屋は、三軒の商家の名をあげた。小泉町の木綿問屋、箱崎町の履物屋、佐内町の小間物問屋。
「この三軒は、わたくしから金を借りたあとに、よそからも大金を借り入れました。それでも商いが立ちいかなくなったとみたとき、わたくしはある手を打ちました。これは商いの上のいくさでございますから、いたしかたございません。辛うじて元金だけは取りもどしました」
三軒の店は、それぞれつぶれ、ことに青戸屋という小間物問屋では、つぶれた店を明けわたす日に、夫婦そろって首をつった。そう語りながら、小原屋は暗い表情で首を振った。
「わたくしが因業なのではございません。因業なのはお金です」
「わかった」
と平四郎は言った。
「ちゃんと心あたりがあるではないか」
平四郎が言うと、小原屋郷右衛門は沈黙した。その顔に、あらためて色濃い恐怖の表情がうかんで来た。では、手短かに三軒の店の人間の消息を聞こうではないか、と平四郎は言った。
四
小泉町の木綿問屋は、蔵前の西福寺近くの裏店に逼塞《ひつそく》している。箱崎町の履物屋一家は、箱崎町から南本所の林町に移ったが、そのあとの行方はわからない。佐内町の小間物問屋の家族は、四散したまま、はじめから行方が知れない。
「まあ、ざっとこんな様子なのだ。これだけじゃ雲をつかむような話だが、あたってみてくれんか」
と平四郎は頼みこんだが、仙吉はやるともやらないとも言わなかった。うつむいて、平四郎のおごりの甘酒をすすった。
仙吉は、平四郎の兄神名監物が、蘭学書生の田島耕作をつかまえるために配ってある見張りの一人で、直接には御小人目付樫村喜左衛門の指図で動いている。屈強な身体つきをした男である。
「むろん樫村さんには、おれから話す。なにしろ子供ひとりの命がかかっている。少ない手間も出すぞ」
「手間などは、よござんすが……」
と仙吉は低い声で言った。
「ただ間に合うか、どうか」
「間に合わんときは、べつの手を考える。とにかく、やれるところまでやってくれ」
六兵衛に話してみましょう、と仙吉は言って、すっと立ち上がると表に出て行った。六兵衛というのは、もう一人の白髪の見張り人である。その六兵衛は承知した。
やってみるという仙吉の返事を聞いてから、平四郎は小網町の甘酒屋を出た。小原屋のことが気がかりだが、どうせ夕方までは、じたばたしてもはじまらないことだった。見張り人を置いてあるところを見回り、ついでに途中で樫村をつかまえ、仙吉を借りたことをことわるつもりだった。
樫村は、つい昼すぎ小網町に回って来たばかりだというから、三河町か桶町、もしくは三島町の杉野という医者の家にでも行けばつかまるだろう。
──仙吉がうまくやってくれればいいが……。
と平四郎は思った、仙吉に調べを頼んだ潰《つぶ》れ店《だな》の家族の中に、子供を攫った人間がいるとはかぎらないのだが、平四郎は小原屋にとどいた達筆の手紙と、小原屋自身から聞いた話が微妙につながっているようにも思うのである。
──子供を殺したりはせんだろう。
会う前にそんな真似をすれば、二百両の金はフイになると、平四郎は思った。小原屋は金貸しである。子供の無事も確かめないで、二百両を渡すようなことはするはずがないことを、相手も十分に知っていると思われた。うすら寒い風が、時おり吹きすぎる町を歩きながら、平四郎はそれにしても気の重い仕事だと思った。
暮れ六ツ(午後六時)に小原屋に着いた平四郎は、あわただしい顔色の小原屋に迎えられた。茶の間に行くと、そこに北見と小原屋の女房がいて、手紙のようなものを見ていた。
「これが、たったいま投げこまれたものだ」
平四郎が坐ると、北見がそう言って手紙を回してよこした。
「ずいぶんと筆マメな人攫いだな」
平四郎は言いながら手紙を受け取ったが、眼を走らせると眉をひそめた。手紙には、二百両の金は、小原屋郷右衛門が一人で持参のこと、ほかに人を頼むと、子供の命にかかわる、と書いてあった。
「まるで、こっちの動きを見張っているようじゃないか」
平四郎が言うと、小原屋は青い顔をして言った。
「これで手足を封じられました。いえ、わたしが参ります。はじめからそうすべきことでした」
「そいつはやめた方がいいな」
と平四郎は言った。平四郎はまだ手紙の文句に眼を落としていた。そこから、それまでは感じなかった邪悪な意志のようなものが匂って来るように思われたのである。
ただ金が目あてなら、小原屋を指名するまでもない。子供と金を取りかえればいいのだ。そのあとの逃げる算段は十分についているだろうから、取引きはそれで済む。小原屋本人が出て来いと、それも取引きの時刻ぎりぎりに通知して来たところに、姿の見えない敵の企みが感じられる。
小原屋は、前後の見境いもなしに、その指図にしたがおうとしているが、それこそ人攫いの狙いかも知れないではないか。金もさることながら、敵は小原屋にも用があるのだ。相手は、間違いなく小原屋に恨みを持つ者だろう、という気がして来た。
「おれにまかせてもらおう。やはりおれが行こう」
「しかし、それでは子供の命にかかわると書いてあります」
「子供もなにだが、お前さんが出て行けば、お前さんの命の方が危ないと思うがな」
平四郎がそう言うと、小原屋の女房も北見もはっと顔を上げて、小原屋を見た。
五
紺屋町から、元誓願寺前通りに折れ、神田川の河岸に出た。
暗い夜だった。持って来た提灯《ちようちん》を消すと、平四郎は御籾蔵の塀の端に立った。あたたかい季節だと、すぐそばの土堤《どて》のあたりはござを抱いた夜鷹《よたか》が行き来する場所である。御禁制だの、取締りだのと言っても、闇にまぎれて出るものは出る。
だが寒くて暗い河岸どおりには、人の気配は見えなかった。暗い闇がつづいているだけである。人攫い男にはおあつらえの夜だろうと平四郎は思った。
その闇の中に、かすかな人の気配がした。気配は橋の方から来たようである。三間ほどむこうにじっと立ちどまっている。むこうから話しかけて来るのを、平四郎は辛抱づよく待った。暗くて、姿は見えなかった。
「小原屋の使いだな?」
相手は不意に声をかけて来た。まだ若い声に聞こえた。
「そうだ」
「郷右衛門に来いと言ったはずだぞ。勝手な真似をするなら、こっちにも覚悟がある」
静かな言い方だが、声に凄味があった。刃物を持っているな、と平四郎は思った。
「まあ、いいではないか」
と平四郎は言った。
「旦那は、暗いところはこわくていやだそうだ。よんどころなく代わりに来たが、べつに怪しい者じゃない。手間をもらって頼まれただけの者だ」
「侍だな?」
「そうだが、無腰で来た。提灯で見たろう? 刃物は持っておらん」
「金は持って来たのか?」
「持っている。子供をくれるなら、二百両耳をそろえて渡す」
男は沈黙した。考えているようである。しばらくして言った。
「それじゃ、とりあえず金をもらおうか」
「おっと待った」
と平四郎は言った。墨のような闇にも、いくぶん眼が慣れて、三、四間先に立っている人影がぼんやりと見える。一人だった。背の高い男である。
「子供はどうなる?」
「子供はそばまで来ている。しかし、いますぐは渡せない。使いじゃ信用出来ないからな。金を渡せば、明日の朝、小原屋の前までとどける。こいつは信用してもらっていい」
「冗談じゃない」
平四郎は言った。
「そんな子供だましみたいな言い方に乗って、金を渡すわけにはいかん」
「それなら、今度は小原屋主人をよこすことだ。日にちと場所は、あとで教える」
黒い人影が身動きした。用心深くこちらに顔をむけたまま、うしろにさがる気配だった。
「ひとりで来いと、小原屋に言えよ。つきそいはおことわりだ」
「おい、子供は無事だろうな」
平四郎は鋭く声をかけた。
「子供を手にかけたりしたら、江戸中しらみつぶしにさがしても、貴様をたずね出すぞ」
「安心しな」
と言った声は、かなり遠かった。
「大事な金のかただ。殺したりはしない。おれはそんな男じゃない」
その声を最後に、男の声も気配もぷっつりと絶えた。平四郎は額に手をやった。うっすらと汗をかいていた。やはり緊張していたのだ。
──とにかく……。
これでひと晩は稼いだ、と思った。だが、予想したとおりに、相手は用心深い男のようだった。手も足も出なかった感じが残っている。仙吉の調べが頼りだな、と平四郎は思った。
六
翌日は、何の音沙汰もなかった。それはそれで小原屋の人間を不安がらせたが、中一日おいて三日目の昼過ぎに、人攫いの手紙が投げこまれた。人攫いは、その手紙を、買物に出た小原屋の女中の袂《たもと》に投げこんで行ったのである。
おまさというその若い女中は、すれ違いざまに投げこまれたその結び文にはすぐに気づいたが、人ごみの中のことで、相手の顔は見ていなかった。手紙には、今夜五ツ(午後八時)、鎌倉河岸、りゅうかん橋そばとあり、亭主ひとりで来ること、と念を押していた。
小原屋から使いをうけた平四郎は、すぐに小網町に行った。そこの甘酒屋の真ん前が、田島耕作の女房の実家で、御小人目付の樫村はそこに辛抱づよく見張りを置いている。
だが甘酒屋の中には、樫村も目ざす仙吉もいなくて、六兵衛だけがつくねんと坐っていた。
「仙吉はあれっきりか?」
平四郎が言うと、六兵衛はうなずいた。
「あれっきりです。一度も姿を見せておりません」
すると、こちらの頼みを聞いて、せっせとたずね回っているのだ、と平四郎は思った。
──だが、間に合うかどうかだ。
仙吉が、平四郎ののぞんでいることをのみこんで、子供を質にとって脅しをかけて来ている男の正体をつきとめてくれれば、まだ手の打ちようもあろうと考えたのだが、それはもう手遅れかも知れなかった。
今夜はもう代役は利かない。小原屋郷右衛門が出て行って、そこで結着がつくことになるだろうが、どう結着がつくかが問題なのだと、平四郎は思っている。
二百両の金を奪われるのはやむを得ないだろうが、敵がなおその上に、小原屋の主人本人に害意を抱いているようなのが気になる。もし敵が、郷右衛門に襲いかかって来るようなことがあれば守らねばならないだろう。だが、一方で子供も救い出さねばならぬ。
そのためには、こちらも相応の手を打っておかねばならないのだが、相手の正体も人数も不明では、手の打ちようもない。
──こいつはむつかしいな。
と平四郎は思った。
「おれはこれから小原屋に行く。もし仙吉がもどったら、そっちによこしてくれ」
平四郎は、六兵衛にそう言いおいて、甘酒屋を出た。
小原屋に行った平四郎は、すぐに茶の間に通されたが、主人の郷右衛門を見ておどろいた。人攫いが指図して来た時刻まで、まだ一刻半(三時間)はあるというのに、郷右衛門はもう着替えて、そばに提灯まで用意している。ふくらんだ懐に、二百両の金がおさまっていることは聞くまでもないと思われた。
郷右衛門のほかには、北見と郷右衛門の女房がいるだけだった。
「ちと、支度が早過ぎはしないか?」
坐りながら、平四郎は言った。すると茶をすすっていた北見が、顔をあげて言った。
「わしもそう申したのだが、なにせ気持が落ちつかぬと言われる」
「はい、その通りです」
と郷右衛門が言った。青い顔をしていた。
「もう、これ以上待たされるのはごめんです。一刻もはやくけりをつけたい気持です」
「その気持はわかるが……」
と平四郎は言った。
「しかし龍閑橋までは、ご亭主の足でも四半刻(三十分)とかかるまい、あまり早く行ってひとりで立っていたりすると、あのあたりは人通りも少ないところゆえ、ほかの物盗りに襲われぬともかぎらぬ。ま、落ちつくことだ」
「あの……」
と小原屋の女房が口をはさんだ。
「佐吉という、顔見知りの十手《じつて》持ちの親方さんがおりますが、このひとを頼んだらいけませんでしょうか。あたくしは主人の身が心配で……」
「子供の命が惜しかったら、その考えはやめることです」
平四郎はにべもなく言った。
「ご亭主の身は、それがしと北見が陰ながら守ります。ご心配にはおよばぬ。それよりはおかみ、茶漬けか何か出ませんかな。ざっと腹ごしらえしてから出かける方がよさそうだ」
平四郎の言葉で、みんなが茶漬けを喰うことになった。と言っても、二杯も三杯もおかわりをしたのは平四郎と北見だけで、郷右衛門は、一椀の茶漬けをようやく喰べおわった。
それでも物を喰っている間は、郷右衛門もいくらか緊張がゆるんだように見えたが、夜食を終って落ちつくと間もなく、そろそろ行きますかな、と言った。平四郎はまだまだと言った。
「そろそろ出かけます」
ついに、これ以上は待てないというふうに、郷右衛門がきっぱりとそう言ったとき、時刻は六ツ半(午後七時)を回っていた。平四郎は北見と顔を見合わせて、やむを得んな、と言った。
「それでは出かけていただこう。それがしと北見は、ごく隠密に後をつけ、向うに着いてからも近くに隠れています。いざというときはとび出しますから、ま、おまかせあれ」
平四郎がそう言い、郷右衛門が立ち上がったとき、店に残っていた奉公人が来て、神名さまにお客さまですと言った。大いそぎで店に出ると仙吉が立っていた。
仙吉との話は短くて済んだ。仙吉を帰して茶の間にもどると、平四郎は北見を廊下に呼び出して、あわただしく打ち合わせをした。それから郷右衛門に、出かけてくれと言った。
提灯を持った郷右衛門が、表の潜り戸から外に出るのを見とどけてから、平四郎と北見十蔵は裏に回り、そっと塀外に忍び出た。
七
郷右衛門は、神田堀の河岸沿いの道を、まっすぐ鎌倉河岸目ざして歩いている。気がせくのか、それとも胸に抱える不安のためか、いそぎ足になっている。
平四郎は、その提灯の灯を見失わない程度に、ゆっくり後をつけて行った。北見十蔵は、途中で主水《もんど》橋を南に渡った。向う岸を本銀町の先まで出ることになっている。
途中、二、三人のひとに出会ったが、乞食橋を過ぎるころから、人足はばったり途絶えて、揺れながら前を行く小原屋の提灯が見えるだけになった。
その灯が立ちどまった。龍閑橋の袂についたのである。郷右衛門は、そのままあたりをさぐるようにじっと立っていたが、やがて平四郎に言われたとおりに、灯を消した。平四郎は足をはやめて郷右衛門に近づき、橋袂から三間ほどの距離にある枯芒《かれすすき》の根もとに身をひそめた。
橋から神田堀に沿って、数間のあいだ、岸べに芒が生いしげっている。もう少し冬めくと刈り取られるその芒が、身を隠すにはつごうのいい草むらになっている。もっとも、郷右衛門が灯を消すと、あたりは闇につつまれて、身を隠すこともいらなくなったが、平四郎はそこにうずくまったまま、身じろぎもせずあたりの気配を窺った。
敵は郷右衛門が来るより先に、このあたりに身をひそめているのかも知れなかったし、あるいは岸にうずくまっている平四郎のうしろから来るかも知れないのだ。
刻が移った。五ツ(午後八時)を回ったはずである。橋袂にいる小原屋は、ことりとも物音を立てなかったが、おそらく恐怖に身を顫わせているに違いないと、平四郎は思った。
突然、闇の中にかすかな物音がひびいた。その物音と一緒に、郷右衛門がいるあたりで、青白い火花が散った。音と火花の正体はすぐに知れた。恐怖に堪えきれなくなった小原屋が、提灯に灯をともそうとしているのだ。
──まずい。
平四郎が思わず膝を浮かしたとき、橋袂で、ひと声がした。声は小原屋のものではなかった。おとといの夜、籾蔵のそばで聞いた声である。男が、どこから現われたのか、平四郎にはまったくわからなかった。
平四郎は地を這うようにして、わずかに前にすすんだ。今度は男の声が、はっきり聞こえて来た。
「灯などなくとも、話は出来る」
と男の声が言った。
「金は持って来たか?」
「はい、言われたとおりに、用意して来ました」
小原屋の声はみじめに顫えている。
「どれ、出してみろ」
「あの、その前に子供を……」
「子供は心配しなくともいい。そこまで連れて来ている。おれは約束を守る男だ」
「はい」
ちょっとの間、沈黙がはさまった。小原屋が懐から出した金包みを、男がたしかめたらしい。平四郎は、もうひと膝、橋の方ににじり寄った。ぼんやりと二人の男の顔がうかび上がった。小原屋が急に言った。
「あ、それは困ります」
「心配するな。金は子供と引き換えにもらう」
男はそう言ったが、つづいて別のことを言い出した。
「美濃屋という真綿屋のことをおぼえているかね」
「美濃屋? さあ……」
「ある両替屋から金を借りたが、催促がきびしくてつぶれた店だ。身体が弱かったそこのおかみは、そのあと間もなく死んだ。娘がいて借金を返すために身売りをしたんだが、土台弱い身体には、その勤めは無理だったらしくてな、つい半年ほど前に死んだ」
「………」
「お前さん、ほんとに美濃屋のことをおぼえてないかね? 五年前につぶれた店だが……」
「………」
「なに、忘れたら忘れたでいいんだ。無理に思い出すことはない」
男の声は、おしゃべりを楽しんでいるように、快活に聞こえた。
「ところで、ほんとにひとりだろうな? お供なんぞは来ていないだろうな?」
「わたしひとりです、はい」
「ちょっと、こっちへ来な」
と男が言った。平四郎は立ち上がると猛然と橋に走った。同時に小原屋がおびえた叫び声をあげた。その声に苦痛のひびきがまじった。刺されたのだ。
平四郎は暗やみの鬼ごっこのように、橋の上を走り回っている二人の男の間に割って入った。男は匕首を持っていた。逃げはせずに平四郎に突きかかって来た。
二度、三度とかわしてから、平四郎は男の手もとにとびこんで匕首をもぎ取ると、川に投げこんだ。男は屈せずに素手で組みついて来た。長身で膂力《りよりよく》もある男の力は侮《あなど》りがたいものがあったが、がっしりと四つに組み合った末に、機をみて仕かけた平四郎の投げ業が見事に決まって、男の身体ははげしい音を立てて橋の上に落ちた。
「滝蔵、逃げろ」
平四郎にうしろ手に押さえられた男が叫んだ。
「じゃまが入った。子供は渡すな」
だが平四郎はあわてなかった。男を押さえつけながら、欄干の下にうずくまっている小原屋に声をかけた。
「そちらの旦那、怪我はひどいかね」
「刃物で腕を刺されました。でも大丈夫のようです」
小原屋はよろよろと立ち上がった。
「わたくしは大丈夫だが、子供はどうなったでしょう」
「なに、いまに現われます」
平四郎が言った声を聞きつけたように、橋に足音がして、大小二つの黒い人影が近づいて来た。北見十蔵と、小原屋の子供石太郎だった。平四郎が声をかけた。
「やあ、うまく行ったようだな?」
「うん。むこうの橋袂にひそんでおった。しかし一緒にいた男と女は逃げたが、それでいいのか」
「いい、いい。子供がもどれば言うことはない」
そのとき、北見から渡された子供を抱いた小原屋が、突然に言った。
「神名さま、北見さま。その男をすぐに番屋に突き出してください。まったくとんでもない男だ。世の毒虫というものです。こういう男を野放しにしておいてはいけません」
「そいつはまずいんじゃないかね」
と平四郎が言った。小原屋はいそがしく火打ち石を打っていた手をとめた。
「なぜです?」
「仲間が逃げたそうだ。この男をお上に突き出すのはかまわんが、仲間がそれを恨んで、またぞろその子を攫いにかかる心配もあるわな」
小原屋はぎょっとしたように口をつぐんだ。黙ったまま、また火打ち石を叩いた。提灯に灯がともったのを見て、平四郎は押さえていた男を引き起こした。
二十半ばの若い男だった。少し崩れた感じがあるが、精悍《せいかん》な表情をした男である。立ち上がると、またたきもしない眼で小原屋を見た。平四郎に投げられたとき擦りむいたとみえて、頬から血が流れているその顔から、小原屋はうとましそうに眼をそむけたが、小原屋につかまっている子供は、こわがる様子はなかった。攫われはしたが、そこで虐待されたわけではないらしい。
「お上抜きですすめて来た話だ。ここは話合いで手を打ってはどうかな?」
「とおっしゃいますと?」
小原屋はさぐるような眼で、平四郎を見た。
「旦那の懐には、いま二百両あるわけだ」
「はい。それがどうしました?」
「その四半分の五十両を、この若い衆にやってだな。それで今度のことは一切水に流す、というのはどうかね?」
「とんでもない」
と小原屋は言った。血相が変っている。
「どうしてこのわたしが、人攫いをお上に突き出すことを堪忍《かんにん》した上に、五十両のお金まで払わなければいけませんのですか?」
「さあ、胸に手をあてて考えてみたらわかることじゃないかな」
「わかりませんね。とにかくわたくしは、こんな見ず知らずの悪党に、ビタ一文たりとも払う気はありませんからね」
「だが、さっきまでは、二百両と子供を取りかえるつもりでいたんじゃないのか?」
「さっきはさっき。こうして子供が無事にもどって来たいまは、べつです。五十両などとはとんでもない」
「しかし、一文も払わんということになると、この男の恨みは残るなあ」
「恨み?」
小原屋はぎょっとしたように男を見た。小原屋を見つめている若い男の顔に、うす笑いがうかんだ。
「さよう、恨みだよ、小原屋さん。あんた、ご自分でも言ってたじゃないかね、心あたりがあるって。手間賃をいただく関係もあるから、あまり酷なことは言いたくないが、旦那だってどっこいどっこいの悪党なのだ」
「しかし、ひとの恨みがこわくては、この商いは張っていけませんです」
「そいつは立派な考えだ。しかしそれなら、もう一度子供かおかみさんを攫われたとしても、今度は泣きごとを言わんことですな」
小原屋はうつむいた。やがて顔を上げると、決心したように言った。
「では五両出しましょう。それで、すべて帳消しとしましょう」
「五両、たったの? はした金だな」
と平四郎は言った。人攫い男も、はした金だ、と言ったが、平四郎が黙れと言うと顔をそむけた。
「では、十両出しましょう、十両。これがぎりぎりのところです」
小原屋は守銭奴の素顔をむき出しにしていた。だが結局、平四郎は、小原屋から五十両の金をもぎ取った。そうしてから、平四郎は提灯の明かりであらためて小原屋の顔を見た。
「小原屋の旦那、あんたほんとうに美濃屋という真綿屋をおぼえていないのかね?」
「美濃屋というのは、知りませんなあ」
と小原屋は言った。途方にくれたような顔だった。平四郎は北見に、小原屋さんを送って行ってくれと言った。
提灯の光を囲んだ三人が、橋を降りて河岸沿いの道を遠ざかるのを見送ってから、平四郎はつかまえていた男の手を放して言った。
「友次郎というそうだな」
見張り人の仙吉は、岡っ引はだしの探索の腕を持つ男だった。仙吉は三日足らずの間に、平四郎が探索を頼んだ三軒の店の者の行方をことごとくつきとめた。そしてそこで聞き出した話から、人攫いをやってのけそうな男、友次郎を割り出して来たのである。
友次郎は、やはり小原屋からの借金でつぶれた真綿商、美濃屋の息子だった。ただし、家がつぶれた当時は、身を持ち崩して家を出ていて、妹が家の犠牲になったことは、ずっと後で知ったのである。
友次郎は、いまは所帯を持ち、平右衛門町の根子《ねこ》屋で働いている。裏店住まいの暮らしで、深川の色町に身を沈めている妹を請け出す力はなかった。その妹が病死したとき、友次郎はあらためて小原屋を恨んだはずだと、仙吉がたずねあてたもと小間物問屋の息子が言ったという。
「亡くなった妹の供養金として、五十両はべつに多い金じゃない。もらっておけ」
「申しわけございません、旦那」
「ただし、こんなうまい話がまたあるだろうと思ったら、とんだ思い違いだぞ。ほんとなら、いまごろはお上のご厄介になって牢屋送りになっておる。仲裁人のわしの手にかかったから助かったのだ。じつを申すと、わしの仕事と申したものが……」
平四郎は、ひとくさり友次郎にわが商売の披露目《ひろめ》を言ってから、あらためて説教をやり直した。
「しかし、子攫いなどというものは、悪事の中でももっとも卑劣な所業というべきものだ。男の風上にもおけん。だがそれはそれとして、貴様の心情に一点同情すべきところがあり、小原屋のしたことは一点憎むべきところがある。それゆえ、金を取ってやったが、その金、無駄に使ったら承知せんぞ。まず妹の墓でもたててやることだ」
小原屋には寄らず、平四郎はまっすぐ与助店の自分の家にもどった。すると暗い軒下から出て自分を迎えた者がある。
またしても北見十蔵かと、平四郎はぎょっとしたが、やあと言ったのは御小人目付の樫村喜左衛門だった。
「やあ、どうした?」
と言ったが、平四郎の胸は不意に早鐘を打った。悪いことが起きたのだ。
「夜分に、相すまん」
と詫びてから、樫村はちょっと押し黙った。そしてぐっと低い声になってつづけた。
「えらいことになった」
「………」
「田島耕作が攫われた」
誰に? とは聞くまでもなかった。鳥居耀蔵の手の者に奪われたのだ。平四郎もささやき声になった。
「いつのことだな?」
「今日の日暮れだ。田島は小網町の女房の実家に現われたが……」
「………」
「そのとき、見張りは六兵衛一人でした。そこをやられた」
「六兵衛は?」
「怪我をしたが、命に別状はない」
二人は沈黙した。仙吉が留守だったから、そういうことになったのだとわかっている。仙吉を小原屋の探索に回してもらうことを、平四郎は内証で樫村に頼み、樫村は承知した。
「兄に会ったか?」
と平四郎は言った。
「いや、そのことだが、これから一緒に行ってくれまいか」
と樫村は言った。平四郎はうなずいたが、怒り狂う兄の顔を思いうかべただけで、肩のあたりにどっと疲れがかぶさって来るのを感じた。
──田島は……。
いい大人のくせに攫われるとは何ごとだ、と平四郎は思った。共犯者のように黙りこくっている樫村をうながして、木戸にむかった。
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娘ごころ
一
「いまさら、じたばたしてもはじまらん」
樫村喜左衛門が言って、ぱたりと膝を打った。樫村には、御小人目付という職業に似つかわしくない、のんびりした一面がある。
きびしさにかけるように見えるが、事実は案外に度胸があるのかも知れなかった。蘭学書生の田島耕作を、鳥居耀蔵の手に奪われたときは、さすがに意気|銷沈《しようちん》して、目付の神名監物《かんなけんもつ》に報告するのに平四郎に同道を頼んだりしたが、叱られたあとは配下の探索の者を使って、ねちこく田島の行方をさがし回っている。
田島が奪い去られた直後に、鳥居は失脚した矢部定謙のあとを襲って町奉行に昇進した。つかまえた一蘭学書生の吟味どころではない、眼が回るような多忙に見舞われているはずである。拘禁されている田島をさがし出し、奪い返すならいまのうちだった。
今日樫村は、使っている探索の者五人を、東両国のそば屋の二階に呼んで、これまでの報告を聞いたところである。行きがかりで、神名平四郎も同席している。だが仙吉たちの報告はかんばしいものではなかった。
仙吉、六兵衛など配下の男たちは、樫村の指図にしたがって、鳥居の息がかかっている旗本屋敷、空屋敷、隠居所などをしらみつぶしにあたっているのだが、いまのところは田島の影もつかめていないのである。
だがそう聞いても、樫村はさほど落胆したようには見えなかった。手を打って階下の女中を呼んでから言った。
「明日からは、小梅、柳島、亀戸のあたりを回ってもらう。あのあたりには、鳥居に近づいている商人の寮があるし、旗本の隠居所もある。そこらで見つからなかったら、また別に手を打とう。ま、今夜は景気づけに、ちくと一杯やってくれ」
「おれは失礼しよう」
平四郎は、立ち上がりながら、刀を腰にもどした。
「出番までには間がありそうだ。手がかりが見つかったら知らせてくれ」
「さようか、お帰りになるか」
と言ったが、樫村は無理にひきとめなかった。これでそば屋の勘定がいくらか安く上がると思ったのかも知れない。
樫村に梯子の上まで見送られて、平四郎はそば屋を出た。残って酒盛りに加わっても、さほどうまい肴《さかな》は出ないだろうと思っている。金主が兄の監物であれ、樫村自身であれ、飲めや唄えやという酒になるわけはない。
それに景気づけの酒であるから、飲みながらまだ細かい話もあるだろう。兄の命令で田島の事件に首を突っこんではいるものの、探索などということになると門外漢である。ま、内輪で飲んでもらった方がよさそうだと、半ば気をきかせたのだが、平四郎は両国橋を渡りかけてから腹が空いていることに気づいた。
階下でそばを一杯喰って来るのだったと思ったが、引きかえすのも億劫《おつくう》で、そのまま橋に踏みこんだ。うす暗くなった橋の上を、黙黙と人が行き交っている。寒気はさほどでないが、ひとはけ日没の赤いいろを残している西空は、もう冬のものだった。季節は師走に入っている。平四郎も肩をまるめて、人ごみにまぎれながら、橋を渡った。
──年も暮れるか。
ふとその感慨が胸にうかんで来た。
兄の家を出て、裏店によろず仲裁の看板をかかげて、とにかく飢えずに年を越せそうなのが、いまの平四郎には奇妙なことのように思われる。
はじめはそうは思わなかった。諸人のわずらいを仲裁して報酬をもらう仕事を思いついたとき、平四郎は心中思わず手を打ったものだ。友人の北見十蔵が、看板を書いてくれながら、この看板で世をわたるのはむつかしかろうと言ったときも、平四郎は何を言うかと思っただけである。
だが、この四月ほどの間に、平四郎はいささか世間を見た。たとえば揉めごとを抱えていても、ひとはその揉めごとに、すぐには金など出さないものだと知った。人は揉めごとをじっと抱えこんだり、あるいは何とか独力でけりをつけたりして暮らしているのだ。
北見が言ったとおり、世の中はなかなか塩からく出来ている。これまであった仲裁仕事の半分は、北見や明石半太夫が周旋して回してよこしたものであることが、平四郎にもわかっている。
そうは思っても、感慨は格別湿ったものではなかった。平四郎は元来楽天的な男である。
──ま、みておれ。
世の中の塩からさはいささか理解したが、それでも考えにあまって、平四郎の商売を頼って来た人間はいたのである。剣と弁口にはいささか自信がある。先行きは明るかろうて、と平四郎は思った。むかしの悪事仲間から脅された、臼杵屋という糸問屋からもらった手間賃が、半金の五両は手つかずで残っていることも心を明るくする。そのことを思い出すと、この商売も、どうして捨てたものではない、と思えて来るのだ。
少少綱渡りといった感じはあったが、とにかく年を越すには、何のわずらいもない、と平四郎は思った。与助店の連中など、平四郎に五両もの貯えがあると知ったら、眼をむくに違いない。
──それに……。
もはや、外の空気が身に染まった。めったに看板をおろすわけにはいかない、とも思った。
ただひとつ、年も暮れるかという感慨の中に、微妙な影を落とすものがある。もとの許嫁《いいなずけ》早苗のことである。早苗が、金貸しの御家人、それも二十も齢のはなれた男の妻になっているということは、平四郎の気持を重苦しくする。
だが、伊部金之助から聞いたその話は、聞いただけでそのままになっていた。蘭学書生の田島耕作が、鳥居方の手に落ちるという出来事があって、しばらくごたごたがつづいたせいもあるが、平四郎は、一度早苗に会って事情をたしかめたい気持があるものの、いまはひとの妻になっている女に会ったりしていいものかと迷っているのだ。
──よけいなお世話だと申すかも知れんな。
会ってみて、早苗がそう言うこともあり得る、それならそれでいいのだ、と平四郎は思う。早苗に寄せる関心は、もともとごく淡い感傷から出ている。嫂の里尾が早苗を見かけたなどと言わなければ、あまり思い出すこともなかったひとなのだ。
──だが、そうでない場合が困るて。
嫂の言葉や伊部の話は、早苗の姿をどことなくしあわせ薄い女といった色合いに染め上げるのを感じる。だからこそ会ってみたい気持が動くのだが、会ってもしその事実をたしかめたところで、平四郎が早苗をしあわせに出来るというわけではない。
早苗のことを考えるといつもやって来る、はてしない迷いといったものに取り憑《つ》かれた感じで、平四郎は眉をひそめ、いそぎ足に橋を渡った。
広小路に入り、米沢町の町並みに沿って歩きながら、平四郎はきょろきょろと喰い物屋を物色した。早苗のこともさることながら、空腹が一段と堪えがたくなって来たようである。
難なく一膳飯屋が見つかった。一人暮らしとは言いながら、食事は家で煮炊きするのが経済だと承知しているのだが、さっきから腹の虫が催促している。障子にめしと大書し、内側にあたたかそうな灯をともしている店にむかって、平四郎は歩いて行った。
障子に手をかけようとしたとき、平四郎はふと三軒ほど先の戸を閉めた商家の軒下に、ひと組の男女がもつれ合うように動いているのを見た。思わず手をひいて、そちらを透し見た平四郎の方に、不意にばたばたと女が走ってきた。
──おや?
すくい上げた袂《たもと》で、半ば顔をかくして横をはしり過ぎた若い女を見て、平四郎は眼をまるくした。平四郎が時どき買いに行く、表通りの煮豆屋の娘のようである。
女のあとを、若い男が追って行った。羽織を着て、足袋《たび》をはいたお店者《たなもの》ふうの男だった。何か怪しからんことでもしかけるつもりか、と平四郎はちょっと身構えたが、通りすぎた男が、おとし、ちょっと待ってくれないか、と呼びかける声を聞くと、苦笑して飯屋の戸をあけた。
数人の男たちが、声高にしゃべりながら、飯を喰っていた。平四郎が入って行くと、男たちはちょっと顔を上げて平四郎を見たが、すぐに自分たちの話にもどった。浪人者などは、べつにめずらしくもないのだろう。小女が寄って来て注文を聞いて行った。
──痴話喧嘩か。
平四郎は、たったいま見た、煮豆屋の娘のことを思い出していた。煮豆屋は、親子二人で店をやっていて、なかなか繁昌している。父親は口数の少ない男だが、おとしという娘は愛嬌のある美人で、平四郎も、煮豆を買いに行くと軽口をたたいたりする。
齢は十八か、やっと九。ほっそりした身体つきで、笑うと白い歯がきれいな娘で、まだ男など知るまいと眺めていたのだが、女は油断ならんものだ、と平四郎は思った。
小女が飯を運んで来たので、おとしのことはそれっきり平四郎の頭からはなれたのだが、翌日の昼過ぎ、平四郎は煮豆屋の娘おとしが、昨夜のうちに首をくくろうとはかったことを聞いた。裏店の女たちの話によると、おとしは男にだまされたのだということである。
二
数日経って、平四郎は丼《どんぶり》を手に、煮豆屋に行った。無口なおやじはいなくて、娘のおとしだけがいた。
丼に煮豆を入れてもらい、金をはらってから平四郎は言った。
「死ぬほど思いつめる前に、なぜおれを頼まぬ?」
おとしは顔を上げて平四郎を見た。頬のいろが褪《あ》せて、眼には力がなくおとしはぼんやりした表情をしている。いきいきとした笑顔で客をあしらっていた以前にくらべると、別人のように見えた。
「お前さんを捨てた男というのは、瀬戸物町の長崎屋の若旦那だそうだな」
「………」
「今度同業の千田屋から嫁をもらう話が出て来たので、そっちの方に乗りかえたのだろうな。悪いやつだ」
「ちがいます」
と、おとしが言った。
「なにがちがうんだ?」
「若旦那はそんなひとじゃありません。ただ、気が弱くて親のすすめるお嫁さんをことわれなくているんです」
「女子はこれだから困る」
平四郎は舌打ちした。
「そんな甘いことをいっておるからだまされるのだ。その手はずるい男がよくつかう手なのだ。そうやって、つごう悪くなると、すぐに親の陰にかくれる。その証拠に、お前さんが首をくくろうとしたと聞いて、若旦那が飛んで来たか? 来やしまい?」
おとしは暗い眼で、じっと平四郎を見ている。
「おれにまかせろ。おれの商売は知っておるな?」
「はい」
「お前さんのように、男に捨てられて泣きをみている女などというのは、おれの商売の上得意でな。ちゃんと始末をつけてやる。どうしても添いたいというなら、若旦那に添わしてやるぞ」
「でも、もういいんです」
おとしはうつむいて、前垂れをいじった。
「あきらめましたから」
「おれの商売を信用せんようだな?」
「そうじゃありませんけど、もともと身分が違いますから。こうなるのはわかっていました」
「しかし、若旦那は、お前さんを嫁にすると言っておったのだろうが」
「………」
「身分もへちまもあるか。あたら娘をなぐさんで捨てて、ちゃっかりとほかの女に乗りかえようという根性が気にいらん」
「ですから、それは……」
「若旦那が悪いのじゃないというわけだろう。よろしい。それならそれでぐっとやりやすくなる。相手の親を説得するぐらいは、わけもないことだ」
「でも、うちのおとっつぁんだって、わけを知れば反対します」
「おやじは、事情を知らんのか?」
「ええ」
「よし、頑迷|固陋《ころう》な親たちを、まとめて説得してやる。しばらくおれにまかせろ。その間に変な気を起こすんじゃないぞ。まかせるとなれば、お前はおれの雇主だからな」
勢いよく言う平四郎を、おとしは心配そうに見まもっている。そこに新しい客が来た。で、平四郎はおとしに笑いかけて出口の方に歩いた。
「手間賃は心配いらん。少少押しつけの気味があるから、首尾よく行ったら丼に煮豆を一杯ということにしよう」
平四郎は外へ出た。新しい女客は、近所の者でもあるのか、おとしちゃん、元気出たかいと言うのが聞こえた。
三
茶のお稽古を終えた娘たちは、連れ立って両国広小路の方に歩き出した。いつもの三人である。その中の一人が、岩本町の真綿商千田屋の娘おけいだった。色白で、少ししゃくれ気味のあごをした、勝気そうな娘である。
娘たちは、あまり言葉もかわさないでつつましい足どりで町を歩き、やがて両国橋を渡ると、東両国に出て一軒の水茶屋に入った。平四郎もつづいて同じ店に入った。
水茶屋の中に入ると、娘たちの様子が一変した。馴染みの店らしく、手ぎわよく奥の方に席を取ると、注文を聞きに寄って行った店の女中を相手に、にぎやかにおしゃべりをし、合間にきゃっと笑い声をあげたり、かなりはしたなくさわいでいる。店の中にいた先客が、おどろいてそっちを眺めたほどだった。
平四郎は自分もお茶をもらいながら、時どき娘たちの様子を窺ったが、娘たちはおしゃべりに余念がないばかりで、格別変ったことが起こりそうにはなかった。
──ふむ、この程度のことかな。
平四郎はいくぶん失望し、この程度のことなら、そういつまで娘たちにつき合うこともなかろうと思った。
お稽古に通うおけいの後をつけてみようかと思い立ったのは、千田屋の様子を聞きに行った岩本町で、あの娘さんなら、かなりの遊び好きですよ、と聞き捨てならないことを言った町の女房がいたからである。
それで、何かあるかと思いながら、おけいのあとをつけてみたのだが、稽古が終ると近くの甘酒屋に入ったり、小間物屋をひやかしたりはするものの、べつに男の影がさすわけでもなく、酒をのんだりする様子も見えなかった。顔触れはいつも同じ三人で稽古仲間で気が合っているらしい。
気の合った友だちと、勝手に町を歩き回ったりすることが許されている、そういう活発な娘の一人にすぎないように、おけいはみえる。三日ほどあとをつけてみて、平四郎がつかんだのはその程度のことだった。今日は橋を越えて東両国まで来たが、これもどうということはないらしい。
そろそろ腰を上げようかと思ったとき、平四郎の前を勢いよく通って、奥の娘たちの方に行った若い男がいる。みるからに派手な柄の綿入れ半纏を羽織り、ひげづらを頬かむりで包んだ大男である。
「今日は寒いや」
男はおけいたちの前に行くと、頬かむりを取って言った。さかやきがのび、険しい人相をした男である。娘たちはきゃあと声をあげた。
おどろいたのではなく、男を歓迎した嬌声のようだった。おけいが言っている。
「鉄ちゃん、おそかったじゃないか」
「おれはおめえたちのような、親のすねかじりとは違うんだ」
乱暴に腰をおろしながら、男が言った。
「今日もやるだけの仕事は終って来たんだぜ。きっちりしたもんだ。ところで、このまえはおもしろかったろう?」
娘たちは口ぐちにおもしろかったと言った。
「今日も、これから行くかい」
娘たちはまた一斉に派手な声をあげ、行くと言った。
すると釜場にいた店のおかみが、いそぎ足に娘たちのところへ行った。
「ちょっと、あんたがた」
四十過ぎの痩せたおかみは、こわい声を出した。
「ここは村芝居の小屋じゃないんだからね。ほかのお客さんの迷惑になるから、あんまり騒騒しい声を出すのはやめとくれ」
お上の取締りというのがきびしくなって、来年には岡場所はおろか、水茶屋、料理茶屋が、みな廃業を命ぜられるだろうという噂が高くなっていた。水茶屋も、ひところは奥や二階の部屋で酒を出したものだが、取締りがはじまってからは、町触れでそういう抜け道はすべて禁止された。
それでも足りなくて、商売替えを押しつけて来るつもりらしいという噂に、水茶屋でもお上に気を使ってぴりぴりしている様子だった。おかみのきつい口調にそれが出ている。
すると鉄と呼ばれた男がさっと立ち上がった。
「何でえ、客にたいしてケチをつけるつもりかい、ばあさん」
ひと声凄んでから、鉄は急ににたにた笑った。
「と、言いたいところだが、いま出かけようと思ってたところなんだ。なあに、迷惑なんかかけねえよ。いま出る」
な? と言って振りむくと、娘たちもうなずいて腰を浮かした。顔がまるく背の低い娘なんか、鉄のたんかがおかしかったらしく、うつむいてくすくす笑っている。
男一人と女三人が出て行くのを見送りながら、平四郎もいそいで勘定をはらった。外に出てみると、四人は水茶屋からほど近い料理茶屋の門を入るところだった。そろそろ日が落ちる時刻なのに、べつに気にかける様子も見えなかった。
四人が家に入ったのを見とどけてから、平四郎は水茶屋に引き返した。
「さっきの男は、顔見知りかね」
平四郎が聞くと、鉄という男にばあさんと言われたおかみが、憤然とした顔で言った。
「このへんじゃ、あの男の顔を知らないひとなんかいませんよ。竪川の船頭してんだけど、中身はごろつきだからね」
「名前は?」
「鉄三郎。みんなはうわばみの鉄って言ってるね」
これはすごい、と平四郎は思った。うわばみの鉄とは恐れ入った。これはいける。
「女たちを、この先の料理茶屋に連れこんだようだが、中で何をやるのか、知らんかな?」
「旦那さん、お役人さんですか?」
「いや、そうじゃない。さっきの娘たちの一人をちょっと知ってる者でな。気がかりゆえ、たずねているのだが」
「何か、変な遊びやっているようですよ。この先の料理屋って言うと、初花さんだろうと思うけど、芸人を呼んでね、変な踊りをみせたり」
「ふーむ」
「あたしらもそうだけど、このへんはいまに残らず店を閉めさせられちゃうらしいからねえ。初花さんなんかも、いまのうちというんで、客集めに芸人を呼んだり、荒稼ぎしてるって噂ですよ」
四
平四郎は長崎屋の若旦那新太郎に、酒をついだ。新太郎は上眼づかいに平四郎を見た。磨いたようにつるりとした顔に、おどおどした表情が動いている。
煮豆屋のおとしのことで話がある、と平四郎が言ったので、脅しでもかけられるかと心配している顔色だった。平四郎も浪人暮らしが板につくに従って、風体《ふうてい》も少し垢《あか》じみて来た。上品とは言えない。
「おとしは、あんたの家に三年、女中奉公をしたのだそうだな?」
「はい」
「やめたのは一年前か。そのときに夫婦約束をかわしたそうじゃないか」
「はい」
新太郎はぴくりと顔をひきつらせた。
「男がいったんかわした約束を、別の縁談が出て来たとたんに反故《ほご》にしたのはどういうわけかな?」
「………」
「おとしに倦《あ》きたのか?」
平四郎が言うと、新太郎はいそいで首を振った。
「ちがいます。ただ、おとしのことは、親に内緒だったもので、親からほかの縁談を持ち出されると、いやだとは言えなかったんです」
「言えばよかったではないか。わたしには言いかわした女子がいますと、言うべきだ」
「そんな」
新太郎はべそをかきそうな顔になった。
「うちの親のことを知らないから、そんなことをおっしゃるんです。それはもう、きびしいおやじなんですから。女中といい仲になっていたなんてわかったら、勘当ものです」
「しかし、おとしには嫁にするからと約束したのだろうが」
「………」
「貴様の言うことには誠意がないな」
新太郎は、また顔をひきつらせた。こりゃ見込みないな、と平四郎は思った。ちゃんとした、身分も釣りあうような家から嫁をもらうまでの一ときの慰みもの、とまでは思わなくとも、腹の底からおとしを嫁にと思ったわけではないらしいという気がした。
おとしは美人で気性も明るく、男を惹きつけるだけの魅力を持つ娘だ。新太郎がその新鮮な色香に惹きつけられたことは間違いないだろう。おとしの歓心を買うために、夫婦約束をしたときも、格別嘘をつくつもりでもなかったかも知れない。
だが親と争ってまで、おとしを嫁に迎える気持はなかったらしい。ごく無責任な男なのだ。これは二人を一緒にするよりも、おとしに因果をふくめてあきらめさせる方が親切かも知れぬ、と思ったが、乗りかかった船である。それに、自分から買って出た仲裁でもある、と平四郎は思った。
「すると、何か」
と平四郎は言った。
「もし、親が承諾するなら、煮豆屋のおとしと夫婦になるのはかまわんのだな?」
「そりゃ、もう」
「よし、それなら貴様の親御の説得は、このおれにまかせてもらおう」
平四郎がそう言ったのに、新太郎はうかない顔で、はあと言っただけだった。
「貴様に捨てられて、おとしは首をくくろうとしたのだぞ。いま少しはきとせんか」
平四郎に叱咤されて、新太郎はあわてて顔を上げたが、ぼんやり平四郎の顔を見ているだけだった。
「どうも貴様の本音は、おとしには倦きた。嫁にもらうには千田屋の娘の方がいいと思っているようでもある」
「いえ、そんなことはありません」
「しかし、千田屋の娘は遊び好きだぞ。男と遊び回ったりしているのを知っておるのか?」
「え?」
新太郎は眼をまるくした。
「誰のことを言ってるんですか?」
「むろん、おけいのことだ。うわばみの鉄などというごろつきと、恐れげもなくつき合っているようだから、嫁にもらったら尻に敷かれぬように、用心することだ」
「あの……」
新太郎は真青になっていた。額にうかんだ冷や汗を、取り出した懐紙でいそがしく拭きながら言った。
「いま、何とおっしゃいました? うわばみとかいうのは、何ですか?」
「うわばみの鉄と言ってな。竪川の船頭だというが、ま、あのあたりのごろつきだな。背は、それよ、六尺近くもあるかな」
「おけいがそんな男と?」
「おけい一人じゃない。二、三人一緒のようだ。どういうつき合いか、くわしいことは知らん。自分でたしかめてみることだな」
新太郎はせわしなく額の汗を拭いたが、不意に手をのばして、盃の酒をひと息にあけた。そしてじっと飯台に眼を落とした。平四郎が酒をついでやったのにも気づかない様子だった。
「どうしたな? 若旦那」
「あの神名さまとおっしゃいましたか?」
「さよう、神名平四郎。揉めごとの仲裁をなりわいとしておる。おぼえておいてくれ」
「まことに申しかねますが、一度わたくしの親に、おとしのことを話してもらえませんか。わたくしはべつにおとしに倦きたわけでも何でもありません。気心も知れているし、いい女子だと思っています。ただ、親があまりにうるさく言うもので……」
「お前さんも、ころころと気持の変るひとだな」
平四郎は言ったが、鷹揚《おうよう》にうなずいた。
「けっこうだ。そのように気持が固まったのであれば、親御に会ってみよう」
五
だが新太郎の父親長崎屋嘉兵衛は、おそろしく頑固な男だった。色白のつるりとした顔の新太郎の、これが父親かと思うような、頬骨が出た馬のように長いごつごつした顔をじっと平四郎にむけて、無表情に話を聞き終ったが、口をひらいたときは、平四郎の身分調べからはじめた。
村松町の与助店に住むと言うと、嘉兵衛は裏店の人間とはあまりつきあっていないという顔をし、揉めごとの仲裁という仕事の中身を聞くと、いよいようさんくさげに眉をひそめた。
「もとで要らずのご商売とはうらやましいお話ですな。われわれ商人は、なかなかそういうわけにはまいりません」
と、皮肉まで言った。厭味なおやじである。
「それで? おとしの父親に頼まれて、この長崎屋の嫁に、娘を押し込んでやるとでも請負いましたかな?」
「いや、父親は知らん。おとしもあまり乗気ではなかったようだが、近所のよしみで、話すだけは話してみようと思って来たわけだ」
「それでも、ご商売とあればなにがしかの手間賃は取る約束でしょうな」
「話が通じてうまく事が運べば、娘に煮豆を一杯もらうことになっておる」
同席していた嘉兵衛の女房が、奇妙な微笑をうかべて平四郎を見た。色白のふっくらした顔の女房は、にが虫を噛みつぶしたような顔をしている嘉兵衛とは違って、さっきから平四郎の言うことを面白そうに聞いている気配だった。
その気配に勘づいたのか、嘉兵衛は振りむいてじろりと女房を睨みつけてから、あらためて平四郎に膝をむけた。
「お話はうけたまわりましたので、ご返事を申し上げましょう。折角のご周旋ですが、長崎屋ではおとしを嫁に迎える気はありません」
「ほほう」
平四郎は、自分のうしろに小さくなっている新太郎を振りむいてから言った。
「それでは、この息子どのの不始末は、どうけりをつけるつもりですかな。長崎屋さんほどの、世間に信用もあるお店が、頬かむりというわけには行きますまい」
「むろん、伜の不始末は不始末」
嘉兵衛は、平四郎の肩越しに息子の新太郎をぐっと睨んだ。
「家の女中を慰んで捨てたなどと言われては、店ののれんに傷がつきます。おとしの家には、わたしが伜を同道して参りまして、七重の膝を八重に折ってお詫びして来ます。まったく、いい恥さらしだ」
嘉兵衛は、煮豆屋の前に頭を下げる自分の姿を思いうかべてか、憤懣《ふんまん》の声を吐き捨てたが、顔の方は無表情につづけた。
「あとは金で始末をつけるしかありません。お武家さん、こう申しては何でございますが、世の中万事金でございますよ。大丈夫、それでけりがつきます」
「どうかな」
と平四郎は言った。
「煮豆屋じゃ、金などいらんと言うかも知れないよ。それにしても、おとしという娘を嫁にすることならんというのは、どういうわけですかな? 女中で使ってたから、こちらのほうがよくご存じだろうが、あの娘は気だてがよくてなかなかの美人。嫁にしてはずかしいような娘とは思えぬが」
「身分というものがございますよ、身分。釣り合わぬは不縁のもとです」
「その身分だが、煮豆屋も元からの煮豆屋じゃなくて、以前は芝の方で下り塩の仲買いの店を張っておったと聞いたぞ」
これはおとしから聞いた話である。煮豆屋のおやじ宇右衛門は、ひところは塩の仲買いで羽振りがいい時期があったらしい。だがおとしが子供のころに、その店はつぶれて、いまの小体《こてい》な煮豆屋に商売替えした。
そう言われてみると、お客にもめったに口をきかないほど無口なおとしの父親には、ちょっとした身ぶりや、白髪まじりの面長の顔に、根っからの煮豆屋のおやじとも思えない品のようなものがあるのを思い出しながら、平四郎はそう言ったのだが、嘉兵衛の答えは、にべもないものだった。
「むかしはむかし、今は今です。長崎屋と煮豆屋の娘は釣り合いません」
「よかろう」
と平四郎は言った。千田屋のことでは、もうひとつつかんでいることがあるのだ。近所で聞きこんだ噂を、千田屋の手代に一杯|奢《おご》ってたしかめたことで、ここで表沙汰にするのは本意ではないが、長崎屋がこうまですげなくするなら、持ち出すのもやむを得まい。
「なるほど千田屋なら商いは一緒、身分も釣り合うというわけだろうが、その千田屋に金貸しがどなりこんで来て、ひと騒動あったのはご存じかな?」
「え?」
話は終ったばかりで、天井をむいていた嘉兵衛が、平四郎に眼をもどした。いくらかうろたえた顔になっている。
「それは、いつのことです?」
「ざっとひと月ほども前かな」
「ふーむ」
嘉兵衛はふかぶかと腕を組んだ。
「千田屋は、商いは大きいが借金も多いそうじゃないか」
「それを、誰から聞きました?」
嘉兵衛は窺うように平四郎を見た。
「誰からとは言えんが、こちらも商売、でたらめを言ってるわけじゃない。気になるのなら自分でたしかめたらよかろう。もっとも金貸しがどなり込んで来て、大さわぎしたというのは、あのへんじゃ知らない者がいない話だ」
「ふーむ、そうですか」
嘉兵衛はうなってから、そばの女房の方に膝をむけた。声を落として話している。
「すると、あの話ももっとたしかめないといかんな」
「商いがうまく行ってないというお話ですか?」
「それと安房屋《あわや》から仕入れ金を借りたとか言ってたじゃないか」
「それはあたしは知りませんよ」
「新太郎」
嘉兵衛は息子に呼びかけた。
「千田屋の、安房屋からの借金がどうなったか聞いていないかね」
「さあ」
新太郎は首をかしげている。
「お前は女子には手が早いが、商いのことは何も聞いてない男だな。そんなことじゃ、長崎屋の身代もお前の代には傾くよ。情けないことだ」
嘉兵衛は、また女房にむき直って小声になった。
「おとしというのは、どんな女子だったかな」
「ほら、器量よしでよく気がつく子がいたじゃありませんか。いまのおくらの前の子ですよ」
「さっぱりわからないな」
「あたしはね、無理に千田屋さんから頂かなくとも、嫁ならあの子で十分と思いますよ。それに、新太郎がそんな仕打ちをしてたなんて、おとしがかわいそうじゃありませんか。先方の親にもはずかしい」
「ばか、はやまるな」
嘉兵衛は女房を叱りつけてから、平四郎にむき直った。いかめしい顔に、にたにた笑いをうかべている。嘉兵衛は、咳ばらいをひとつしてから言った。
「神名さまでしたな? いや、世の中にはお聞きしないとわからないことがあるものですな」
「おとしのことは、考え直してもらえたかね」
「いえ、それはナニでございます。この場で、では嫁として引きとりますとも、ちと申しかねますが、お話の趣旨はよくうけたまわりました」
「ふむ」
「いずれ伜と一緒に、先方には詫びに出むかねばなりません。その節に、先方の親御とも、またいろいろとお話しさせていただこうと、は、は。ま、そう思いますので、ひとつその、今後ともよろしく」
六
煮豆屋をのぞくと、店の中に若い男がいておとしと話していた。めずらしくおやじも話に加わっている。職人ふうのその男は、客ではなく、顔見知りのように見えた。
「ひまそうじゃないか」
声をかけてから、平四郎は目顔でおやじを外に呼び出した。
「おとしのことで話があるのだが、立ち話も何だ、ちょっと家まで来てくれんか」
平四郎が言うと、おとしの父親は黙ってうなずいた。二人はそのまま店先をはなれて、平四郎の家がある路地に入りこんだ。
「ちょっと待ってくれよ」
おやじを部屋に上げてから、平四郎は大いそぎで火鉢の火を掘り起こし、鉄瓶の湯が沸いていたのでお茶を出した。
「おとしが首をくくろうとしたときは、驚いたろう」
平四郎が言うと、おやじは驚いたなんてものじゃありません、この世の終りと思いましたと言った。
「なにしろ四つのときから、男手ひとつで育てた娘ですから」
「ふむ、おかみさんはそんなに昔に亡《な》くなったのか」
「さようでございます。それで張りをなくしたせいもありますが、店もつぶれましてな。あのころはひどい目に会いました」
「それで、おとしのことだが……」
平四郎はお茶をすすめた。
「わけは聞いたな?」
おやじはうなずいた。平四郎を見返した眼に怒りがある。
「それでだ。よけいなお世話とは思ったが、ちと見過ごし出来ん気持があってな。じつは長崎屋にかけ合いに行ってみたのだ」
平四郎は、これまでのいきさつをざっと話した。千田屋の側の話は、くわしいことははぶいた。
「申しわけありません」
とおやじは言った。
「ご心配をおかけしまして」
「なに、煮豆一杯の手間賃でも、商売は商売。やるだけのことはやらんとな。泣き寝入りじゃ、おとしがあまりにかわいそうだ」
「………」
「で、そういうわけだから、近く長崎屋が息子を連れて詫びに来るはずだ。そのときに、ひょっとするとおとしを嫁に、という話が出るかも知れん。腹も立とうが、そのときはおとしのために話に乗ってやることだな」
「………」
おやじはじっとうつむいている。
「どうしたな? 不服か」
「神名さまのお心づくしは、身にしみて有難いと思いますが……」
と言って、おとしの父親は顔を上げた。
「むろん長崎屋さんには謝ってもらいます。謝ってはもらいますが、嫁にはやりませんし、ましてお金などビタ一文頂戴する気はありません」
「ちょっと待った、おやじ」
と平四郎は言った。それではいままでの苦労が無になるではないか。
「金はともかくだ。嫁にやらんというのは、ちと片意地が過ぎないかね。先方はおやじを嫁にくれというわけじゃない、おとしをもらうわけだからな」
「神名さま」
とおとしの父親は言った。煮豆屋のおやじには似つかわしくない、色白の品のいい顔に、てこでも動かないかたくなないろがうかんでいる。
「わたくしは、おとしをついまだ子供のような気がしておりました。しかしこの前ああいうことがあって、娘ももう一人前の女子になったのだと眼がさめるような気がしました。嫁に欲しいというひとがあれば、もう喜んで明日にでもさし上げます。しかし煮豆屋にも意地があります。長崎屋さんには娘はやりません」
「参ったな」
と平四郎は言った。
「お前さんが、こんなに頑固な男だとは思わなかった」
平四郎が嘆息したとき、入口にひとが来た気配がした。ちょっと待ってくれと言って、土間に出ると、樫村の手下の一人で峯蔵という男が立っていた。同じ手下の仙吉に似て、俊敏そうな身体つきをした若い男である。
峯蔵は平四郎をみると、すっと身体をひいて外に出た。履物をつっかけて平四郎が出て行くと、身体を寄せた峯蔵が小声で言った。
「田島の居所が見つかりました」
「どこだ?」
平四郎は鋭く峯蔵を見返した。
「亀戸です。辻ノ橋の東ですが、すぐ来てもらえますか?」
「よし、すぐ行く。待っててくれ」
平四郎は家の中に引き返すと、おとしの父親に急用が出来たので出かけると言った。
「さっきの話だがな……」
身支度しながら、土間に降りるおやじに声をかけた。
「おとしとよく相談してみることだな。娘がかわいいなら、娘がのぞむようにしてやるのが親というものだろう」
しかしおやじははきとした返事をしなかった。ご迷惑をかけました、と礼の言葉だけ残して、出て行った。
峯蔵と連れ立って、平四郎は与助店を出ると、無言で道をいそいだ。
「むこうの手配りはどうだ? 厳重そうに見えたか?」
両国橋を渡って、竪川の河岸に出たところで、平四郎は峯蔵に聞いた。
「お侍が三人いるようです」
「こっちは?」
「樫村さまが、もう見張りについております。ほかにはあっしを入れて三人」
「三十前後の、細面の男がいたかな?」
平四郎は奥田という名前の、鳥居の配下のことを考えながら言ったのだが、峯蔵は、そこまではわかりません、と言った。二人はまた無言で道をいそいだ。日暮れが近くなって、少し風が出て来たようだった。うしろから来る風に首筋を吹かれて、平四郎は歩きながら首をちぢめた。
田島が押し込められているという家は、横川堀を東に渡って、竪川の河岸をしばらく歩き、河岸沿いの町並みから左に入ったところにあった。町裏に御家人の組屋敷や、小旗本の屋敷などが散在していたが、まだ田地が残り、雑木林が風に鳴っていた。
「あれだ」
一軒の百姓家の土間で平四郎を迎えた樫村喜左衛門が、外に出てその家を指さした。雑木林のそばに、市中の商人の寮かと思われる建物がある。
そこまで来る間に日が落ちて、西空はわずかに黄ばんだ光を残しているだけだった。その空を、風に流される低い雲が、矢のように飛び過ぎるのが見える。建物は、西空を背景に黒くうずくまっていて、窓に黄色い灯が見えていた。
「番人は三人だそうだな」
「長助が、昼の間に物売りに化けてさぐって来たのだが、まず間違いはあるまい」
長助というのは、背後の土間で仙吉、峯蔵とひそひそと話し合っている男で、この間両国のそば屋にも来ていた樫村の手下である。六兵衛と、もう一人の与之助という男は来ていなかった。
「田島がいるのは確かだろうな?」
「長助が姿を見ている。縛られているわけではなく、警固の連中と同じ部屋にいたのが、長助が突然入って行ったので、あわてて次の間に隠すのを見たそうだから、確かだ」
「すぐに斬りこむかな?」
「いや、もう少し待とう」
樫村は空の暗さを測るように、顔を西空に向けた。白湯《さゆ》を一杯もらって、一服してからかかろう、と樫村は言った。
樫村と平四郎、それに樫村の手下三人が、百姓家を出て田島が拘禁されている家にむかったころ、地面はとっぷりと暗くなった。柴折戸《しおりど》をひらいて庭に入ったが、家の中の者に気づかれた様子はなかった。
軒下に近づくと、中から低い話し声が聞こえた。時おり笑い声がまじる。
樫村の合図で、仙吉が戸をあけて中に入って行った。すると家の中で急に鋭い声がとび交い、つづいて土間で男が怒号する声がした。そして突然に仙吉が外に飛び出して来た。
そのあとを追って、黒い人影が外に走り出て来た。平四郎がその前に立ちふさがる。男はぎょっとしたように立ちどまると、とっさに刀に手をかけたが、平四郎の峰打ちの方が早かった。
男は声もなく地面にのめったが、その物音で、中の男たちも異変を察知したらしい。どしどしと板を踏み鳴らす音がして、男たちは縁側の戸をあけはなった。家の中の光にうかび上がった黒い人影は三つ。長助が見た男たちのほかに、もう一人いたらしい。あるいは後から加わった男かも知れなかった。
「よし、踏みこむぞ」
樫村の声を合図に、五人は一斉に土間から家の中に入りこんだ。抜刀していた男たちが迎え撃った。
樫村も羽織を脱ぎ捨てて抜刀している。はげしい斬り合いになった。平四郎は一瞬の間に男たちの顔をたしかめたが、奥田という男はいなかった。だが平四郎を目がけて斬り込んで来た男も、鋭い太刀を遣う男だった。男は平四郎に追いつめられると、縁側から庭にとび降りた。
斬りかけては退き、斬りかけては退く粘っこい剣を遣う男を、平四郎は辛抱してかわしながら、機をみて踏みこむと一瞬の胴斬りに倒した。
縁側にとび上がった平四郎を、樫村を相手にしていた男たちがちらと見た。樫村はその隙を見のがさなかったらしい。おうりゃ、と古めかしい気合もろとも男の肩を斬り下げた。よろめく男を、とどめを刺すように胸をつらぬいて仕とめた。
樫村は意外に堂に入った刀遣いで、また容赦のない剣をふるっていた。その様子を見て、匕首で立ちむかう仙吉と峯蔵を相手にしていた男が、ぱっと外に逃げようとした。だが平四郎の一撃に腿《もも》を斬られ、縁側からころげ落ちたところに、仙吉が匕首をかざして組みついて行った。男の絶叫が聞こえた。
長助が、奥の間から手だけ縛られている田島を連れ出して来た。田島耕作は、小男で商人としか見えない風体の男だった。額がひろく、その下の眼が澄んでいる。虐待されたわけではないらしく、やつれているようには見えない。
田島は部屋にころがっている武家の死体を見て身ぶるいした。
「なに、心配することはない。それがしたちは貴公の味方だ。これから安心出来る場所に連れて行く。女房どのにも会わせよう」
樫村はなだめるように言い、ところで高野が預けた小記は、渡してしまったかなと聞いた。
「それはここには持っていません」
「すると? まだどこかに隠しているわけだ」
「はい」
「かくのごとしだ」
樫村は手を打った。
「間に合った」
さあ、長居は無用だ、引き揚げようと樫村が言い、仙吉たちは灯を消し、台所の火をたしかめに走った。田島を取りかこむようにして、五人は暗い家を忍び出た。竪川の河岸に出てから、樫村は誰か怪我したかと聞いた。峯蔵が薄い手傷を負っただけだった。
翌日、平四郎は昼過ぎまで寝た。ひさしぶりに身体を使って疲れたこともあったが、起きて飯の支度をするのが億劫で、じっと夜具にくるまっていると、女の声がした。
「どなたかな?」
今日は商売の方も休みにしたいものだ、と思いながら、夜具の中から声をかけると、若い女の声がおとしですと言った。煮豆屋のおとしだ。平四郎はあわてて起き上がって着替え、夜具を次の間に蹴込んだ。
「やあ、おとし」
平四郎はあくびをしながら言った。
「どうした?」
「この間のお話ですけど……」
おとしは土間に入って来て、上がり框《かまち》に腰かけた。平四郎もしゃがんだ。
「今日、長崎屋さんが家に来ました」
「ほう、来たか。それで?」
平四郎はさかやきをかきむしっていた手をとめた。
「どういう話だった?」
「あたしをお嫁にしてもいい、というお話なんです。でも、あたしきっぱりとことわりました」
「そりゃまた、どうして? おやじさんがよせと言ったか?」
「そうじゃないんです。あたしの気持でおことわりしたんです」
「ふーむ。もったいないような話だがな」
「あのひとも一緒に来たんです」
「新太郎若旦那かね?」
「ええ。あのひとの顔をみたら、やっぱりことわった方がいいんだってことが、はっきりわかったんです」
「………」
「男をみる眼がなかったんです。今日はそれがよくわかりました」
「男をみる眼がねえ。あの若旦那も、たしかにしまらないところはあるな」
「それに、おとっつぁんも言ってましたけど、長崎屋さんのあわれみをうけるのはいやです。嫁に行っても、先ざきうまく行くとは思えません」
「あんたがそう思うなら、仕方ないな」
「それで、これ……」
おとしは袂の陰から丼一杯の煮豆を出した。
「お約束の煮豆。こんなものでおはずかしいのですけど」
「いや、もらっておこう」
平四郎は憮然《ぶぜん》として丼を受け取った。はかりがたいのは娘ごころだと思っていた。首つりさわぎまで起こしたのに、今度はおとしの方で若旦那を袖にしたらしい。
「いま起きたんですか?」
おとしが平四郎の顔をじろじろ見ながら言った。
「さよう、お前さんの声に起こされた」
「それじゃ、ご飯もまだですか?」
「これから飯を炊く」
「ご飯と味噌汁ぐらいでしたら、あたしがしてあげます」
「それじゃ気の毒だ」
「いいんですよ。お店の方はまだひまですから。それにお礼が煮豆一杯じゃ申しわけありませんから」
おとしは勝手に台所に入って来た。平四郎は茶の間にひっこんだ。間もなく台所から米をとぐ音が聞こえて来た。
──これは助かったな。
平四郎はぼんやりと思ったが、ふとおとしがすっかり前の明るさを取りもどしているのに気づいた。
同時に、昨日煮豆屋にいて、おとしと話していた若い男のことを思い出していた。
「ちょいとたずねるが……」
「はい、何ですか?」
おとしの声は、もう底抜けに明るい。
「昨日、店に職人ふうの若い男が来ておったな? あれは誰かね?」
「………」
「どうした? 客ではなく知り合いのようにみえたぞ」
「教えましょうか」
おとしがくすくす笑っている。
「うむ、教えてくれ」
「参吉というひとですよ。子供のころに友だちにしてたひとで、いま本所の桶屋さんに奉公に行ってるのですけど、あたしがあんなことをしたと聞いて、びっくりして飛んで来たんですって」
ふむ、そういうわけか、と平四郎は無精ひげがのびたあごを掻いた。仲裁は無駄骨に終ったようだが、おとしのためには、長崎屋に嫁入るよりは職人の女房になる方が、しあわせかも知れないと思った。台所から飯の炊ける匂いがして来た。
[#改ページ]
離縁のぞみ
一
神名平四郎は、甘酒を飲んでいる。
といっても、三杯目の甘酒がいささか胃にもたれて、さっきからおくびばかりもらしていた。それでも奥にいる店のおやじに気をつかって、時おり椀を口にはこぶのだが、正直に言うと、もう甘酒の香を嗅ぐのもいやになっていた。
おくびを洩らしながら、平四郎は眼をはなさず、そこから見える御家人屋敷を眺めている。古びた板塀に囲まれて、組屋敷の中の様子は知れないが、半町ほど六間堀の方に寄ったところに、道にむかってひらいている出入り口があって、そこを人が出入りするさまはよく見えた。
平四郎が甘酒屋に来たのは八ツ半(午後三時)前。それから一刻《いつとき》ほどの間に、さまざまな人間がそこを出入りした。大きな風呂敷包みを背負ったお店者《たなもの》ふうの男、天秤で青物の籠を担った青物屋のおやじ、若い町娘、そして祈祷をなりわいとするらしい、山伏姿の男などである。
祈祷山伏は塀の外にある木戸番小屋で見咎《みとが》められたらしく、威丈高に言い合う声が平四郎のいるところまで聞こえたが、難なく通り抜けたのは、組屋敷の中のどこかの家に、祈祷を頼まれて来たものらしかった。
組屋敷から外に出て行く者もいた。品のいい白髪の老婆、質素ななりをした二人連れの武家娘、少し崩れた感じがある、のっぺりした顔の若い武士は、屋敷の中で冷や飯を喰っている次、三男かとみえた。恰幅《かつぷく》がよく、いかめしい顔をした中年の女が出て行ったが、どこかの妻女と思われたその女は間もなくもどって来た。手に持つ糸の束らしいものが見えたのは、表の町で内職のお針の糸をもとめて来たというふうに見えた。
だが、祈祷山伏も青物屋も去り、御船蔵の方から射しかけて来る冬の日射しが色あせるころになっても、早苗が外に出て来る様子はなかった。
──今日も、無駄足を踏んだな。
平四郎は、日のいろが逃げてかわりに少しずつ白っぽい暮色が這いはじめた道を、じっと見つめた。道はぱったりと人通りがとだえたままである。三日通ったが、むかしの許嫁早苗には会えず、今日も終るらしかった。
──ま、そううまくはいかんだろうて。
と、平四郎は思った。一度は会って、声をかけてみるものだろうと決心して来たことだが、平四郎の胸にはわずかに気後れがある。早苗に会えなかったことで、どこかほっとした気分があるのも事実だった。
平四郎は店の奥を振りむいた。屋台に毛がはえた程度の、せまくて細長い店である。入口の戸もない。穴ぐらのような店で、風のある日はさぞ寒かろうと思われた。
客は平四郎一人だった。平四郎が振りむくと、釜のそばに所在なげに立っていたおやじが、無言で愛想笑いをした。五十近い髪に白いものがまじるおやじは、愛想笑いをしながら、寒そうに手を揉んでいる。
「おやじ」
おやじは手を揉むのをやめて、へいと言った。
「前は御家人屋敷だな?」
「へい」
「甘酒をとどけろ、などということはないのか」
「そういうことはございませんが、あんまりお客が少ないときは、触れ売りに参りましてな。買っていただきます」
「門番が、やかましいことは言わんのか?」
「へい、その前に熱いのを一杯さしあげますと、たいがいはお許しを頂けます」
ふむ、ちと物がこまいが袖の下というわけかと、平四郎は思った。おやじに頼みこんで甘酒屋に身をやつし、早苗の家をのぞいて来るという手はあるわけだと平四郎は思った。
そのとき組屋敷の出口から、女が一人出て来るのが見えた。その女が、甘酒屋の方にむかって歩いて来るのを、平四郎はしばらくぼんやりと見ていたようである。
だが、すぐに気づいて立つと、あわただしく言った。
「おやじ、勘定だ」
女は頭巾で顔を包んでいた。平四郎に見えたのは、頭巾の中の白い顔と質素な着物の胸に抱いた風呂敷包みだけだが、平四郎はなぜか、出て来たのは早苗だと確信していた。
女は平四郎が金を数えている間に、甘酒屋の前を通りすぎた。ひと呼吸置いて、甘酒屋を出ると、平四郎も女のあとを追った。
道は左に武家屋敷がつづき、右側は六間堀町の飛び地をはさんで、御船蔵の手代屋敷がつづいている。女はその道を、ややいそぎ足に西にむかっていた。どこにも立ち寄る気配はなく、やがて道の突きあたりに、うす赤い日没の空を背景に廃屋《はいおく》のようにそびえる御船蔵が見えて来た。
──やはり、早苗だ。
と平四郎は思った。さっき、なぜ女が早苗だと直感したかがわかっていた。ひとには、それぞれに歩きぐせがある。平四郎が早苗に会ったのは、わずかに二度。招かれて早苗が平四郎の家に来たときと、それからひと月ほどあとに、兄の監物の使いで、平四郎が早苗の家、いずれ自分が婿に入るべき塚原家をおとずれたときだけである。
それだけで、背をまっすぐにのばし、腰を前に押し出すように、少少取り澄まして足早に歩く早苗の歩きぐせを記憶にとどめたのは、平四郎がそのころ、やがては妻になると決まった十四の少女に淡い恋ごころを抱いていたからだろう。早苗は大胆に、しかも優雅に歩くと思ったのである。
記憶のなかのその歩きぐせが、前を行く女のうしろ姿にはっきりと出ていた。ただしその女が早苗なら、早苗はもう手足のかぼそい少女ではなかった。肩はまるく、腰には成熟した女の稔《みの》りが隠されている。感傷の中の少女の面影をもとめに来て、平四郎は一人の人妻を見てしまったようだった。
いろあせた夕映えの空を背景に、臈《ろう》たけたそれでいてどことなく孤独な影をまとう女の姿が、影絵になってうかび上がるのを見つめながら、平四郎は胸の中に淡いかなしみのようなものがひろがるのを感じた。
早苗と思われるその女は、御船蔵前の河岸通りに出ると、ためらいのない足どりで道を左に曲った。その先には新大橋があり、小名木《おなぎ》川がある。
平四郎も河岸に出た。もはや寒い夜だというのに、早苗はどこに行くつもりかと思った。そう思いながら、平四郎は足をとめた。姿を見かけたら声をかけるつもりだったのだが、その気持にためらいが生まれている。
──また、機会もあろう。
平四郎は、めずらしく気弱になってそう思った。早苗はもう一人前の女で、ほかに助けをもとめるやわな女には見えなかった。胸の中の甘く湿った気分は、そのことを確かめたところから生まれたようでもある。早苗は、むかしいささかの縁はあったが、いまは他人でしかも人妻だった。
──ちゃんとやっておるではないか。
女の姿が、うす闇の中に動くまばらな人影の中にまぎれるのを見とどけて、平四郎は背をむけた。しかし、それだから無駄足を踏んだとは思わなかった。早苗に会った満足感は、疑いもなく胸の底に残っていた。
二
路地のかすかな灯明かりの中にうかび上がった女の姿が、迎えるように近づいて来るのをみて、平四郎は足をとめた。帰りを待っていた客のような気がしたのである。
「あの……」
はたして、その女は声をかけて来た。
「仲裁のお仕事の方でしょうか」
「さよう」
平四郎は胸を張って、女を見た。そうそう、ねがわくばそういう言い方で、頼みごとを持ちこんで来る客が、どしどし現われて欲しいものだと思った。いつも友人の北見十蔵や明石半太夫のお情で仕事をもらうのでは、肩身が狭い。
「それがし、神名平四郎と申してな。仰せのとおり諸事揉めごと仲裁をなりわいとしておる。どこでお聞きになられたか知らんが、ひとにはかなり信用されておる」
ひと息に商売の披露目を言ってから、平四郎はおやと小首をかしげた。女の顔に見おぼえがあった。
「お内儀」
と言ったのは、女が齢のころは三十半ば、とみたからだが、正直のところ平四郎には女の齢はわからない。嫂の里尾の齢なども、いつも三つ四つは若くみて、嫂に喜ばれているのだ。
とにかく三十半ば、しかも身なりもきちんとして、品《しな》いやしくない町家の女房とみて、とりあえずそう言ったのである。
「お内儀を、どこかで見かけはせなんだかの?」
「はい、二、三度こちらさまをたずねて参りまして……」
「それがしをか?」
「はい、でもここまで来て気後れして、頼みごとを申しかねてもどりました」
「おう、そうか」
と平四郎は言った。そういえば、どこかで見かけたというのは、この路地でのことだったのだ。長屋に来た客にしては、品のいい女だと思いながらすれ違ったのを平四郎は思い出している。あれはおれの家に来た帰りだったのか。
「お内儀、遠慮などはさらさらいらんことですぞ」
平四郎は勢い込んで言った。
「みるとおり、ごくざっかけない男。ことに女子衆には親切で知られておる。いや、いや決して変な意味ではござりませんぞ。は、は」
平四郎は少少はしゃぎ過ぎという感じで、女を家にみちびいた。
部屋に上がると、平四郎はまず万年床を隣の部屋に蹴込み、行燈に灯をいれ、火鉢の灰を掘り起こして残っていた火種に炭を足し、さいわいにぬるんでいた鉄瓶の湯がちーと鳴り出すと、すかさず茶をいれ、八面|六臂《ろつぴ》の働きをした。
「さて、ご依頼のことをうけたまわろうか」
ようやく落ちついて、女とむかい合って坐ると、平四郎は言った。だが、女はうつむいたままだった。
「どうなされた?」
注意ぶかく女を見ながら平四郎が言うと、女は今度は袂《たもと》をすくい上げて顔を隠した。外では尋常な物言いをした女が、低い嗚咽《おえつ》の声を洩らしている。
「よほどのことがござるらしいな」
と平四郎は言った。
「しかしながら、用件は遠慮なく言われたらいい。それがしも商売、少少のことではおどろかぬ」
言ったが、平四郎は、まあ泣きたいだけ泣かせておこうと思った。こういうときは、下手に口をはさんでもはじまらぬと、相場が決まったものだ。
腕組みをして、平四郎は女が泣きやむのを待った。その上でじっくり言い分を聞こうと、衆生済度《しゆじようさいど》を説く坊さまのような心境になっている。
はたして女は、ひとりで泣きやんだ。いそいで涙を拭くと、顔を上げてちらと微笑した。明るい灯のそばで見ると、女は眼がきれいで頬のあたりにも残りの色香といった色気がある。光るようなきめの細かい肌を持ち、平四郎はまた齢の鑑定に自信を失い、いそいで、齢を二つほど引きさげた。
若いころは、さぞひとが振り返って見たろうと思われるその女は、低い声でおはずかしいところをお目にかけまして、と言った。
「でも、お頼みしたいことが、あんまり情ないことなもので、つい……」
「なに、気にされるな」
平四郎は言って、お茶を一杯いかがとすすめた。
「いろいろなことで、頼む人が来る。何を聞いてもおどろかん。申されよ」
「離縁したいのです」
と、女は言った。
「離縁? というと、いまのご主人とか?」
「はい」
「それぐらいのことなら、ご自分で申されてはどうかな?」
いささか拍子抜けして、平四郎は言った。なんだ、いい齢をして旦那と痴話喧嘩でもしたかと思ったのだが、女の顔にうかんだ表情をみて口をつぐんだ。女の顔にうかんでいるのは、おびえのいろである。
「お内儀、くわしい話をうかがおうか」
と、平四郎は言った。
女の名はおとわ。高砂町の竹皮問屋粟野屋のおかみである。おとわが、いつごろから亭主の角左衛門を嫌うようになったかははっきりしない。子供を二人も亡くし、そのあと夫婦の間に子供は恵まれないとわかったころからかとおとわは思うのだが、それはともかく、近ごろおとわは亭主の角左衛門が身ぶるいするほど厭《いや》になっている。
亭主がそばに寄って来ると、身体が固くなり、自分でも顔色が変るのがわかる。当然夜のことも三度に一度は拒み、抱かれても死人のようになって一刻を過ごすだけである。嫌う気持が尋常でなかった。
そういうことは、亭主の角左衛門にもすぐわかるとみえて、角左衛門は近ごろ、よけいにべたべたと女房にまつわりつくようになった。同衾《どうきん》を拒んだりすると、鬼のように荒れ狂っておとわを殴りつけ、言うことをきかせる。その折檻《せつかん》が堪えがたい。
一度、おとわは離縁してくれと言ってみた。夫婦が寝部屋にいたときのことである。そのときの角左衛門の怒りがもの凄かった。おとわはところ嫌わず殴られ、足蹴《あしげ》にされて、一時は殺されるかと思った。そのあとで、角左衛門はいつもより念入りにおとわの身体をいたぶった。
さんざん痛めつけたおとわの身体にむしゃぶりつきながら、角左衛門は別れるなどと言わないでくれと懇願し、もう一度言ったら殺すと脅した。夫婦はいま、地獄の底にいる。
「お見せすることも出来ませんけど」
おとわは顔を赤くして言った。
「身体中、打ち身のあざだらけですよ」
ふーむ、とうなって平四郎は腕を組んだ。これまでいろいろな仲裁仕事に首を突っこんで来たが、こういう奇怪な話ははじめて聞いたと思った。男女の機微というものを、まったく知らないわけではないが、これはおれの手にあまるかな、とちらと思った。
だが、おとわはいました話を打ち明けかねて、訪ねては来たものの二度も素戻《すもど》りしたのである。それでもほかに頼るところはなくて、今夜また来たのだ。
気を取り直して、平四郎は言った。
「お内儀はいくつになられる」
「三十七です」
これだ、と平四郎は思った。おとわははじめの読みよりも、もっと年を喰っていた。
「旦那は?」
「四十三」
「四十三と三十七かね」
平四郎は顔をしかめた。
「ちと、大人気ない騒ぎのようでもあるな」
おとわはまた顔を赤らめたが、無言だった。大人気なかろうが何だろうが、粟野屋の夫婦がいま、地獄の底をのた打ち回っていることは確からしい、と平四郎は思い返した。それに、中年の男女の心の中には、若い平四郎などが窺い知ることの出来ない、複雑なひだが隠されているのかも知れなかった。
くだらない説教はやめて、まず出来ることからはじめねばなるまい、と平四郎は思った。第一、若造の説教などで何とかなるような夫婦仲なら、このお内儀が恥を忍んで仲裁を頼みに来たりはしまい。
「どうも解せぬところがある」
と平四郎は言った。
「ご亭主と夫婦になったのは、お内儀がいくつのときかね?」
「十九の年です」
「と、すると十八年」
平四郎は指を繰った。
「ざっと二十年ということだの? 二十年近くも連れ添ったご亭主が、急に厭になるというところが解らんの」
「………」
「わけもなしに、ということはなかろう。何かわけがあったのじゃないかな?」
おとわは首を振って、つと顔をそむけた。そのとき平四郎は、おとわの顔をあるかがやきといったものが走り過ぎたような気がしたが、あるいは一瞬の錯覚かも知れなかった。
「子供のせいかも知れません」
おとわは、暗い部屋の隅に眼をそらしたまま、つぶやくように言った。
「はじめの子供は、水子のうちに流したのです。小さな店を持ったばかりで、寝る間も惜しんで働きました。子供を生むゆとりなどなかったのですよ」
「………」
「二度目の子供は生みましたが、二つのときに死にました。ぐあいが悪いのはわかっていましたが、店がいそがしくて見てやれませんでした。あわてて医者に運んだときはもう手遅れでした。あたしが二十六のときですよ。あのころから、少しずつ亭主を憎むようになった気がいたします。商いのことしか頭になくて、子供が死んでも、葬式を出す手間を惜しんで商いに走り回るようなひとでしたから」
「ふむ。およそはのみこめる気がするな」
「もっとも、そのおかげでいまは問屋の株も買い、少しは人に知られた店にもなったのですけど、でも……」
「………」
「それがどうだというのでしょうね」
おとわは眼を平四郎にもどすと、低いがはっきりした声で言った。
「あたしはちっともうれしくないのですよ。たとえ裏店のひと間住まいでも、親子仲よく暮らせる道もあったのじゃないかと思えてならないんです。連れ添うひとを間違えました」
「話は変るが……」
と平四郎は言った。
「ご亭主は、お妾などは持たんのか?」
「そんな無駄金を使うようなひとではありませんのです」
そう言ったおとわの声には、はっきりと軽蔑のひびきがふくまれていた。
「ひとは堅物などと言ってくれますけど、違うのです。吝《しわ》いだけの話ですよ」
三
粟野屋角左衛門は、平四郎の言うことを黙って聞いていた。といっても声を出さないだけで、顔はずっとにたにた笑いをうかべている。
平四郎は笑わない。気色の悪いおやじだと思いながら、無表情に話をし終った。
「というわけで、おかみさんは是が非でも離縁してもらいたいとのぞんでいるわけだが……」
「………」
「ご主人には、その気はおありかな?」
「ありませんな」
うす笑いをうかべたまま、角左衛門はにべもなく言った。
「今度女房に会ったら、何を寝言を言っているかとあたしが言ったと話してください。いえ、あなたさまに話してもらうこともありませんな。私の口からそう申します」
「………」
「いや、ごくろうさんでした」
角左衛門はすっと笑いをひっこめた。すると、頬骨の張った扁平《へんぺい》な顔に、急につめたいものが現われたようだった。話は終ったというつもりらしい。
角左衛門は、商人らしくないだみ声を持っている。その声で言った。
「ところで、うちのかみさんは、今日はどこにおりますかな?」
「ちょっと待った」
と平四郎は言った。角左衛門の態度にむかっと来ている。
「まだ、話は終っておらん。子供の使いではなく、こちらも商売で話に来ている。もそっと、実のある返事を聞きたいものだ」
「だから、ご返事はさっき申しました。離縁などとはとんでもない話です。ま、お話になりませんな、ばかばかしい。大体、夫婦の間のことを親類縁者というわけでもない赤の他人に頼むというのがばかげていますよ。ちゃんちゃらおかしくて、へそが茶をわかします」
と言ってから、角左衛門はもとのにたにた笑いにもどった。
「このご返事では気にいりませんかな」
「気にいらんな」
と平四郎は言った。
「親類縁者というが、そういう者はおらんと聞いた。だからこちらのおかみは、わしの商売を頼って来たわけでな。いわばこのわしが親類がわりとさっきことわってある」
「どなたが参られてもおなじことです」
と角左衛門は、顔を天井にむけてうそぶいた。
「誰の女房でもない、わが女房。煮て喰おうと焼いて喰おうと、ぶっ叩こうとかわいがろうと手前の勝手ですよ」
「………」
「それともナニですか。そう言ったからといって、お奉行所に訴えてでも出ますかな?」
平四郎は一方的に言いまくられている。眼の前にいるのが、かなりしたたかな男だということはわかっているが、その男がおとわのれっきとした夫であることは、どう動かしようもない事実なのだ。理はむこうにある。
平四郎は、会ってみた上で言い方もあろうと思って来てみたのだが、いざ話をはじめてみると、果し合いで、はじめから著しく不利な地形に立たされた剣士のような気分になっている。刀のふるいようがないのだ。
いくら仲裁が商売でも、夫婦の揉めごとに口をつっこむのはやはり無理かと思ったが、眼の前で勝ちほこっている男がつら憎くもあった。
「次第によっては奉行所にも行くさ」
と平四郎は言った。
「いくら夫婦と言っても、身体にあざが残るほどぶっ叩いていいというものではあるまい。そうなれば、夫婦というよりは他人だ。おかみが奉行所に行くと言うときは付きそって行くぞ」
「さっきからそんなことをおっしゃってますが、それはいったい誰のことですか?」
角左衛門はしゃあしゃあとした顔で言った。
「煮て喰うの、焼いて喰うのと言ったのは言葉のあや。私はあれに手を上げたことなど、一度もありませんよ」
「………」
「それとも、何か証拠でもありますかな。たとえば女房の身体をみたとか……」
角左衛門はいやしい眼つきで平四郎を見た。平四郎は顔を赤くした。しぶとくて恥知らずで、役者はこの男が数等上らしいと認めざるを得なかった。
「ま、よかろう」
と平四郎は言った。
「お前さんが嘘をついていることはわかっておるが、残念ながら証拠はない。言い合いをしても無駄だから、今日のところは引き揚げるとしよう」
「ごくろうさまでございますな」
角左衛門は、うす笑いで平四郎を見ている。
「とんだ骨折りで」
「しかし粟野屋」
と平四郎もうす笑いを返してやった。
「こっちも、もう前金を頂いてしまった。つまりこちらのおかみは、それがしの大事の雇主というわけでな。その雇主に手を上げたりしたら、ただでは済まさん。そのことはおぼえておいてもらおう」
角左衛門は鼻白んだ顔で、黙って平四郎を見た。
「証拠がない、などというが、その気なら証拠などすぐあつまるさ。お前さん方の閨《ねや》のばかさわぎなどというものは、とっくに雇い人に知られておるぞ。そう言ったからといって、雇い人の口をふさごうなどとは考えぬ方がいい。それこそれっきとした証拠になる」
「………」
「また来る。それまではおかみを大事にすることだ。手をあげたことがわかったら、それ相当のことをするぞ。奉行所に行くのも一法だが、わしの仕事には、暗やみでうしろから足をすくうなどという手も入っておる。めったなことはせぬことだ」
平四郎は、最後には脅しをかけた。一刻近くいて、お茶一杯も出ない待遇のわるさにも腹を立てていた。
与助|店《だな》の家にもどると、平四郎は眼をみはった。あちこち蜘蛛の巣がかかり、外から舞いこんだ落葉が散らばっているはずの土間がすっかり掃き清められて、おそろしくきれいになっているのだ。
履物といっても、ちびた下駄と雪駄《せつた》が二、三足だが、それもきちんとそろえられ、埃だらけだった上がり框《かまち》も、光るほど拭きこまれている。一度終った正月が、また来たようなあんばいだった。
「やあ、これはこれは」
平四郎が大声を出すと、粟野屋のおかみが障子をあけてお帰りなさいませと言った。
「何か、えらくきれいにしてもらったようだな」
「はい、ひまでしたから」
部屋の中も塵《ちり》ひとつなく掃除され、台所の床も光っている。平四郎は恐縮したが、おとわはまるで気にかけている様子もなく、どかりと坐った平四郎に、すぐせき込むようにたずねた。
「いかがでした? 話の様子は?」
「だめ、だめ。まるで話にならん」
平四郎が手を振ると、おとわの顔を暗い失望のいろがかすめた。だが、おとわは気を取り直したように、平四郎にお茶をすすめた。
「主人には会ったのですか?」
「会った。だが、いかんなあ。会って話せば、何か手もあろうと思ったのだが、どうも軽くあしらわれた感じだ。そう申しては何だが、なかなかしたたかな旦那だの」
「ええ」
おとわはうなずいてうつむいた。
「証拠があるまい、などと言いおった」
「証拠?」
おとわは顔を上げた。
「おかみを折檻したという証拠さ」
「証拠ならございます。お見せしましょうか」
おとわがきっとした顔になって、帯〆に手をかけたので、平四郎はあわててとめた。中年女はこれだから困る、と思った。
「まあ、それはいい。見なくともわかっておる。しかし、はじめて行ったが大きなお店だな。それでも未練はないのだな?」
「未練など、これっぽちもありません。出来ることなら話が決まるまでここに泊めていただいて、家になどもどりたくない気持です」
とおとわは言ったが、平四郎は返事をしなかった。姥《うば》ざくらといった魅力のあるおかみを泊めたりして、もしやひょんなことになっては公私混同、商いのさわりになる。
「いっそ、逃げ出すかね」
と平四郎は言った。下策だが、その手がないわけではない。
「もっともそうなると、身の回りの物も金もさほど持ち出せんだろうが、いやな旦那からは逃げられるわけだ」
「少しぐらいの手持ちのお金はあります。でも、それが出来るぐらいなら、こちらに頼みには来ませんでした」
「ふむ」
「逃げたりしたら、草の根をわけても探し出しますよ。あのひとはそういうひとです」
おとわの顔に、濃いおびえのいろがうかんだ。その顔をじっと見てから、平四郎は言った。
「おかみ、こわがることはない」
「………」
「今日一度だけでは、話もうまく運ばなんだが、おかみに手をあげたりしたら、ただでは済まさぬと言いおいて来た。だから、いやなご亭主の言うことなど、聞かんでもよろしい。無体なことを仕かけたら、わしを呼ぶと言え。そなたは雇主だからの。使いがあればいつでも駆けつけるぞ」
「ありがとうございます」
「礼にはおよばんさ」
と平四郎は言った。そして少し考えこんでから言った。
「夜のこともな。断乎はねつけてよいのだ。その方がうまく行くかも知れんて」
四
新大橋を東にわたると、粟野屋角左衛門は迷いのない足どりで、河岸を左に、御船蔵の方に曲った。
行先はわかっている。一ツ目橋に近い御旅所裏の娼家に行くのだ。といっても、そのあたり一帯の妓楼には、そろそろ取締りの手が回って、三月には正式に廃業の触れが出るという、その触れを待たずに店を閉じた妓楼もあり、以前のように公然と客を引いている家はない。女たちが肉をひさぐ場所は、ただのしもた屋のような家や、小さな飲み屋などに変りつつあった。
触れが出ようが出まいが、女をもとめる男がいて、金で身体を売る女がいるかぎり、そのあきないは、世の裏側を流れる水のように、奥深く隠されたままつづくのである。角左衛門は、そういう一軒の家に行こうとしている。
少し風があった。首から顔半分を襟巻《えりまき》で隠した角左衛門は、暗い道を少し前かがみに身体を傾けて、いそぎ足に歩いて行く。
──達者なものだ。
と、平四郎は思った。平四郎も余分な金が入ったときは、道場の伊部金之助などを誘って、岡場所に繰りこんだりもするが、懐がさびしいときにまで女を買いたいとは思わない。そういうことは、なければないで済んだ。岡場所の取締りがきびしくなったと聞くと、そういう時期に出かけても仕方ない、とさっぱりとあきらめる。
そういうことから言えば、角左衛門という四十男は、ひと一倍血の気の多いたちなのかも知れなかった。長身の身体を、のめるように傾けて道をいそぐ姿には、女を抱くことしか考えていない一途《いちず》な感じが出ている。
──いまのところ……。
提灯の灯にうかび上がる角左衛門の黒いうしろ姿を見ながら、平四郎は、あの男はいまのところ、こっちの思い通りに動いている、と思った。
おとわに、亭主の閨の誘いをこばんでみろ、とすすめたのは、おとわの話から角左衛門はかなり好色な男らしいと、見当がついていたのである。おとわにそうすすめたあと、平四郎はもう一度粟野屋に行って、にらみをきかせて来た。
脅しに類したことをやっている、という気はしたが、気が咎《とが》めるほどではなかった。角左衛門は、会えば会うほど憎体《にくてい》な男だった。ひとを喰ったような挨拶をし、憎まれ口を叩き、平四郎の商売を嘲笑《あざわら》ったりする。そういうやり方で、商いの道でものし上がった男だと見当がついた。
しかしそういう角左衛門も、二本差しの平四郎に釘を打たれたことには、さすがに憚《はばか》る気持があるらしく、女房を殴りつけることだけはやめたらしかった。そして御旅所裏の安女郎を買いに出たのである。通いはじめてから半月ほども経つ。
女房とうまくいかず、それでも吉原には行かずに本所の岡場所に来るところが、角左衛門らしかった。おとわの言ったとおり、吝い男なのだろうか、それは平四郎にとって好都合なことだった。
角左衛門は、御船蔵を通りすぎて、石置場前まで来ると、右に曲った。ずんずんと御旅所裏に入って行く。そのあたりは、隣の八郎兵衛屋敷の妓楼とあわせて遊客の集まる場所だが、いまはどの路地も森閑としていた。妓楼も細ぼそと灯をともしていて、中には外に洩れる灯もない真暗な建物もあった。取締りの噂をおそれて、妓楼も鳴りを静め、客も寄りつかなくなっているのだろう。
角左衛門だけが勢いよく歩いて行く。そして路地の奥に隠れるように赤提灯を出している、一軒の飲み屋に入った。だが角左衛門は酒を飲まない。用があるのはその飲み屋の二階である。そこに金で男に抱かれる女がいる。
平四郎はその女の名前も知っている。このところ角左衛門がせっせと通いつめているその女は、おてるという名の、元気のいい娘である。齢は二十。
平四郎は角左衛門が飲み屋の中に姿を消すのを確かめると、路地を引き返して河岸にもどった。何も角左衛門が女を抱いて出て来るまでつき合うことはない。角左衛門がいつもと同じ場所に来たことを確かめれば足りた。それに、粟野屋にまだ用事があった。
平四郎は、河岸の道をいそぎ足に新大橋にむかった。風は送り風になったが、川から吹き上げて来るので、やはり寒い。平四郎は腕を組み、首をちぢめて歩いた。
──商売となると……。
それが何の商売であれ、楽ということはないものだな、と平四郎は思った。首尾よく始末がつけば、おとわから二両の手当てが出ることになっている。だが、その二両をもらうためには、こうして夜の川風にもさらされねばならん。
暗い道を、いそいで橋を渡り、高砂町までもどると、平四郎は粟野屋の潜り戸を叩いた。戸の内側に灯のいろが動き、女が戸をあけた。おとわだった。
「いかがでした……」
とおとわは言った。
「大丈夫だ。うまく行っておる。それで、五両の金は?」
「用意してあります。いまお持ちになりますか?」
「いや、明日にでもわしの家にとどけてもらおうか」
ぐずぐずしていると、角左衛門が帰って来るかも知れなかった。女を抱きたい一心でいそぐ足も早かったが、安女郎に大事の金を使ったと、後悔しながらもどる足も早かろう。
「寒いのにごくろうさまです」
「なに、これも商売だ」
と平四郎は言った。そう言ったとたんに、大きなくしゃみが出た。手を振って、平四郎は潜り戸の前をはなれた。
五
粟野屋の店先が見えるところまで来ると、平四郎はおてるを振りむいた。
「あの店だ」
「おや、大きなお店じゃないか」
おてるは音立て鳴らしていたほおずきを、ぷっと吐き出して言った。
「うまくやってくれよ」
「大丈夫、まかしといてよ。あたい、お芝居ならうまいんだからさ」
「よし、行け」
平四郎は、おてるの大きな臀《しり》をぱんと叩いた。とたんにおてるは、気取った足どりに変って平四郎のそばを離れて行った。着ている物も地味で、少少とうが立っている気味はあるが、見たところは普通の町娘と変りない。
平四郎は、そこにある洗い張り屋の軒下に身を寄せた。そのまま腕組みして、道を横切ったおてるが、度胸よく粟野屋の店の中に姿を消すところまで見送った。
曇り空で、肌寒い二月の午後である。道を行くひとびとは、何となくうつむき加減に、肩をすくめて歩いていた。どことなく威勢が悪い通行人の姿が、平四郎には、ただ寒いからというだけのことでなく、近ごろの不景気とつながっているようにも思えて来る。
老中水野忠邦がすすめる改革は、じわじわと市民の暮らしをまわりから締め上げて来ていて、世の中が少しずつ窮屈になっている感じは拭《ぬぐ》えないのだ。
幕府は、去年の十月七日堺町の芝居小屋中村座から火が出て、隣の葺屋《ふきや》町にある市村座も焼けたのを好機に、そのまま両座の再建を禁じ、暮になって両座と木挽《こびき》町の森田座、俗に江戸三座と呼ばれる芝居小屋を浅草の園部藩下屋敷あとに移すことを命じた。三座が、猿若町と呼ばれることになった下屋敷あとに移転を終ったのは、この正月のことである。
また二月に入ってからは、市民に人気がある娘浄瑠璃などの寄場《よせば》、およそ五百軒を閉じさせた。神道講釈、心学、軍書講釈、昔話などの寄場十五軒だけは残したが、色気もない講釈ものに、残されたからといって人が殺到するはずもなく、市民の楽しみは著しく奪われたというべきだったが、水野ははじめ、芝居小屋は三座ともにつぶすつもりだったというから、講釈ものの寄場を残したのもお情のつもりだったかも知れない。
間もなく吉原以外の岡場所は、ことごとく取り払われ、料理茶屋、水茶屋に商売替えを強いられるだろうといううわさに、はやくも転業をはかって店を閉じる家が続出し、いわゆる盛り場は火が消えたようになってしまった。しかも改革はこれからが本番で、一枚摺りの役者絵、遊女絵はご法度《はつと》、絵草紙の類も忠孝貞節、勧善懲悪ものなど、お固い中身のものをのぞいては出版まかりならない。下品な人情本などはもってのほかということになるらしかった。
むろん博奕《ばくち》、富くじは徹底して取締られ、女髪結も禁止、入れ墨や顔を隠すかぶりものなどもご法度、けばけばしい彩りのものは凧絵《たこえ》といえどもつくれなくなるだろうと言われている。
水野老中は、諸色《しよしき》の高騰《たかあが》り、風俗の紊乱《びんらん》、身分序列の混乱など、いまの世の諸悪はすべて、上から下まで分を越えたぜいたくに耽《ふけ》っているところから来るとみている。しかし世の中の仕組みは、一見無駄な費《つい》えと思われる金が動くことによって、暮らしが活気を帯び、市民が活力を呼びおこされるように出来ているので、無駄を一切廃止するということになると、世の中が陰気になるのは避けられなかった。
そういう水野の改革に対して、たとえばいささか下情に通じている北町奉行遠山|景元《かげもと》、さきに失脚した南町奉行矢部|定謙《さだのり》などはひそかな批判の意見を持っていたが、水野の改革の意志は断乎としたものだった。水野は、改革の実行によって市中の商人が離散し、江戸がさびれてもかまわないと言い切っていた。
そしてその水野には鳥居|耀蔵《ようぞう》という、忠実な共鳴者がいた。南町奉行にすすみ、叙爵して甲斐守《かいのかみ》忠耀《ただてる》となった鳥居は、就任以来の徹底した取締りぶりから、はやくも酷吏《こくり》の評判をたてまつられている。もと目付の非情で仮借《かしやく》のない眼が、いまは江戸市民に向けられているのである。
──元気ないな。
何となく陰気な通行人を眺めながら、平四郎はそういう世の流れを思いうかべている。ついでに、無職の浪人者などもきびしく取締られると聞いたことを思い出し、おれの商売は大丈夫かねとも思った。
そのとき、粟野屋の店先が何となくざわめき、前を通るひとが、一人二人と立ちどまるのが見えた。どことなく不景気なつら構えの町人たちも、持ち前の好奇心だけは失っていないらしい。みるみる粟野屋の前に小さな人だかりが出来た。
おてるがはじめたらしい、と平四郎は思った。大股に道を横切ると、ひとをかきわけて粟野屋の店に入った。
元気のよいわめき声をあげているおてるを、店の奉公人が、手とり足とり表に連れ出そうとしている。だが、おてるは足をふんばって、男たちの手を振りはらった。
「さわるんじゃないよ、いやらしいね」
おてるは板の間に棒立ちになっている角左衛門の前に、胸をつき出して迫って行った。
「話は簡単じゃないのさ。旦那が寝ものがたりに、あたいをお妾にしてくれると言ったお約束はどうなってますか、と聞いただけだよ。お店まで来たくはなかったけどさ、あたいも近ごろ商売がきびしくなったからねえ。ちっといそいでんだよ」
「気ちがいだ。この女は狂っている」
角左衛門は声をふるわせて言った。顔は真青で、眼は落ちつきなく、そばに立っている内儀のおとわを見、奉公人たちを見、店の外に立っている弥次馬を見た。
「何のことを言っておるのか。私にはさっぱりわからない。なに、かまわないから、その女を外に連れ出しておくれ」
「さわるんじゃないって言ったろ」
おてるは、腕をつかみに来た店の男たちを邪険に振りはらった。
「外にほうり出そうって言うのなら、それでもかまわないけど、そうしたらあたしゃ、外で大声でわめくよ。粟野屋の旦那は、御旅所あたりの安女郎を買って、あげくのはてにかわいそうな女郎をだましかけたってね」
「ちょっと」
角左衛門は青くなったり、赤くなったりしている。おてるを手まねきした。
「ちょっと、こっちへ来なさい」
「あいよ」
「あんたの、のぞみは何だね。金か? 金ならはらうから、いい加減にしておくれ」
「はばかりさま。あたしゃしがない女郎だけど、まだゆすりは働いたことがないよ。見損わないでおくれ」
そこまで見て、平四郎は角左衛門の前にすすみ出た。角左衛門は、はじめて平四郎に気づいたらしい。袖をつかんで店の隅に引っぱって行った。
「あんただね?」
角左衛門は、しれっとした顔で板の間に腰をおろしたおてるの方にあごをしゃくった。
「あんたの差し金じゃないのかい?」
「さあて、何のことかさっぱりわからんな」
平四郎はとぼけた。
「だが聞いたことはなかなか面白かった。町の者はもっと面白がっているだろうて。それに、あの女はべつに嘘を並べたわけでもないらしい」
「………」
「女郎と寝るときは、変なうれしがらせは言わん方がいいと思うな。ああいう場所で稼いでいる連中は、案外にひとを信じやすくてな、すぐに本気にするものだ」
平四郎はねちねちといたぶった。好色でけちんぼ、小心なほど世間を恐れているくせに、女房にはすぐに手をあげる男にうんざりしていた。その嫌悪感は、なぜかまだ見たことがない、金貸しだという早苗の夫に対する敵意につながっているようである。
弱りきっている粟野屋の旦那に、平四郎はこれっぽちも同情しなかった。
「いまのざまを見ては、おかみさんもいよいよ愛想がつきたことだろうて。まず先行き、見込みはないな」
「………」
「こうしよう。あの女はわしが話をつけて引き取らせる。二度と店にどなりこんで来るようなことはさせぬ。かわりに旦那は、おかみに去り状を出す、というのはどうかね」
罠にかかった獣のような眼で、角左衛門は平四郎を見ている。平四郎は無慈悲にひと押しした。
「それとも、あの女にもうちょっとわめかせるかね。しかしそうなると、粟野屋の旦那が隠れ売女《ばいた》を買っていたことが、すっかり世間に知れわたって、お上の眼というやつが光るということにもなりかねんなあ」
角左衛門と話をつけた平四郎は、胸を張って粟野屋を出た。片手でおてるの手をつかんでいる。すっかり芝居づいたおてるは、店を出るところでひとあばれし、大向うに見立てた弥次馬の前で、平四郎の足を蹴って見せたりした。
「いや、なかなかの役者ぶりだった」
新大橋が見える河岸まで出たところで、平四郎はおてるを振りむくと大笑いした。
「おかげでうまくいったぞ」
「金をもらうお客さんだから、あたしゃ黙って抱かれてたけど、あの旦那、嫌いだったんだ。あんないやらしい男って、客の中にもめったにいないよ。だからぽんぽん言ってやったのさ」
「上出来だった」
平四郎は懐から五両の金包みを出すと、おてるの手に握らせた。
「約束の金だ。受けとってくれ」
お妾うんぬんという話は、平四郎が言っておてるの方から持ちかけさせたことだから、角左衛門を罠にはめた気味はあるのだが、罪悪感は薄い。
金を受けとったおてるは、あら重い、と言った。娼婦には見えない血色のいい丸顔に、あけっぴろげな喜びのいろがうかんだ。
「ほんとにいいんですか? こんなにいただいて」
「いいとも。あんたのような辛い勤めのひとには、たまにそういうご褒美があっていい。遠慮なくもらっておけばいいのだ」
「うれしい」
おてるは丸い顔に金包みをあてた。
「病気の親がいるから、いまの仕事を抜けることも出来ないけど、これがあれば当分は危ない橋をわたらなくても済みそうだ」
おてるは笑った。粟野屋のおかみから出た金は、肩身せまく世を渡っている女に、多少の潤いをあたえることになったらしい。
おてるは橋の方に歩き、立ちどまって平四郎を振りむくと、白い歯をみせて笑った。手をあげて、陽気な娼婦が叫んだ。
「また頼むことがあったら、いつでも来てよ。言われたとおりに、うまくやって上げるからさ」
その家は表店《おもてだな》だが、間口二間のせまくて古びた家だった。両隣の豆腐屋と桶屋にはさみつけられるようにして立っている。
軒下に看板が出ている。竹皮ぞうりと書き、そのそばに小さく、おつくろいもうけたまわりますと書き添えてある。平四郎がその看板を眺めていると、家の中で話し声がした。女と男の子の声である。
女の声は明るくて別人かと思ったが、やはり粟野屋のもとのおかみ、おとわだった。家の中の二人の話し声は、不意に笑い声に変った。笑い声も明るかった。
平四郎は足音を盗んで軒下をはなれると、そこから半町ほど離れた煮しめ屋に寄った。鍋の上にかがんで、煮しめの味を見ていたおやじが顔を上げて、いらっしゃいと言った。
「いや、客じゃないのだ。ちと、たずねたいことがあってな」
「へ?」
おやじは不審そうな顔をしたが、平四郎がいま見て来た家のことをたずねると、すぐに表情をゆるめた。
「草履職人だね。亭主は松蔵と言いやしてね。齢は三十四だったかな」
「おかみは?」
「それがね、旦那」
亭主は煮炊き場の仕切りから、身を乗り出して来た。平四郎を、そのあたりの浪人者とみてか、気やすい笑顔になっている。
「松蔵というやつは、三年前に嬶《かかあ》を病気でなくしましてね。男の子が一人いるもんで、だいぶ苦労したんでさ。職人の腕は確かな男だが、女中を雇うほどの金はあるもんじゃない。われわれだってそうだけどね」
もっともうちの嬶なんざ、めったなことじゃくたばらねえ丈夫な女だから、その心配もねえけどよ、と言っておやじはへへへと笑った。平四郎もお義理に笑った。
おしゃべりなおやじだが、聞かなくともむこうで全部しゃべってくれそうなのは助かる、と思った。おやじは唇をなめて言葉をつづけた。
「そういうわけで、一時はげっそりやつれてね。かわいそうだとは思ったが、かわりの嬶といっても、そう簡単にめっかるもんじゃねえ。ひとつや二つは話はあったらしいがまとまらなくってよ。しかし、何だかんだと言っているうちに早いもんだ、三年経っちまった」
「ふむ、そうか。おやじ、その大根がうまそうだな。ひとつくれんか」
毎度ありい、とおやじは言った。おやじが皿に乗せてくれた大根の煮しめを、平四郎は土間に立ったままあふあふいって喰った。熱くてうまかった。
「ふむ、それで?」
「ところが、いまごろになって、松蔵のやつ、ひょっこりと新しい嬶をもらいやがった。ほんの、十日も前のことですよ」
「ほほう」
「それがまた、別嬪《べつぴん》でね。といっても若い女じゃない。齢は松蔵とおっつかっつ、ま、ひとつ二つ下かな」
このおやじも、女の齢の目利きは不得手らしいな、と平四郎は思った。おとわは三十七なのだ。
「齢はそんなもんだが、何ちゅうか、お品があるってえのかねえ、ああいうのは。おっとりして美人で、それはもう、職人の女房にゃもったいねえような嬶なんでさ」
おやじは手を休め、羨望をこめて言ったが、不意に声をひそめて、旦那、表を見なせえと言った。一人の男が、煮しめ屋の前を通りすぎ、さっきの家に入って行くのを、平四郎は手に皿と箸を持ったまま見送った。
「あれが松蔵かね」
「そうですよ。あいつも悪い男じゃないけどね。それにしても、いい嬶をもらい当てたもんだ」
金を払って、平四郎は煮しめ屋を出た。そこは深川富川町という町である。粟野屋からは遠い場所にある町だった。
──ふむ。
ひょっとしたら、あのおかみにはめられたかな、と平四郎は思っていた。
去り状をもらった、と言って、おとわが二両の手間賃を持って挨拶に来たのは十日ほど前のことである。おとわははればれとした顔をしていた。
これからどうする? と平四郎は聞いたが、おとわはあいまいに笑って言わなかった。ご心配はいりません、どっちみち粟野屋のおかみでいるよりはしあわせになれるでしょうから、と言った。
だが、平四郎はそろそろ四十に手がとどく齢になって一人になったおとわが気がかりだった。落ちついた先を見とどけるものだろうと思って粟野屋をたずねたが、そのときには、もうおとわはいなかった。
亭主の角左衛門は、平四郎の顔を見ると敵に出会ったような顔をし、あとはそっぽを向いていた。おとわが角左衛門や店の奉公人に、落ちつき先を言い残して行くはずはない、とあきらめて、平四郎はそのまま粟野屋を出たのだが、店の近くで使いからもどって来た女中に会って、立ち話からおとわの手回りの荷を運んだ男がいることを知った。それはおとわが懇意にしていた同業のおかみの息子で、その息子の口から、さっきの家の在り場所がわかったのである。
しかし今日その家をたずねるまで、平四郎はおとわが一人暮らしをはじめたものとばかり思っていたのである。荷物を運んで来た息子は、家の前まで来て帰され、中に入っていなかった。無人の家のようだったなどと言っていたのだ。
だが来てみると、おとわはちゃんとおさまるべき場所におさまっていたのである。それが、昨日や今日まとまった話であるわけはない。調べればすぐにわかることだが、竹皮草履の職人松蔵は、粟野屋か、そうでなければ同業者の店にでも出入りしていた男なのだろう。そして女房をなくした松蔵と、亭主を嫌っているおとわの間に、あるとき心を通わせ合うようなことがあったに違いない、という想像には無理がなかった。相場はそんなところだろう。
──こりゃ、中年者の……。
恋の取りもち役をやったことになるかな、と平四郎は思った。そうなると、身体中に亭主に打たれたあざがあるという、おとわの話まで疑わしくなってくるようだった。
あざなどひとつもない、真白な女の身体が不意に眼にうかんだのを、あわてて打ち消しながら、平四郎は、なに、それだっていいではないかと思った。
平四郎の耳には、さっき軒下で聞いたおとわと子供の声が残っている。それは明るくてしあわせそうな声だったのだ。裏店のひと間住まいでも、親子仲よく暮らせたらと、おとわは言ったが、三十七のおとわがようやくのぞむしあわせを手に入れたことは疑いなかったのである。
松蔵という男を見てよかった、とも平四郎は思った。松蔵は中背だが、引きしまった男らしい顔と、がっしりした身体を持ち、みるからに実直な職人に見えた。おとわには、底に何を隠しているか知れないような角左衛門より、松蔵のほうが似合うだろう。
こうなると、角左衛門にもちょっぴり同情が湧かないでもないが、あの男が、少なくとも女房を大事にしなかったことだけは事実だろう。逃げられたのは身から出たサビとも言える。それに、角左衛門から、一文でも手当てをもらったわけじゃないからな、と平四郎は割り切ることにした。
竪川《たてかわ》の岸まで出ると、町がたそがれて来た。水の上に夕映えのいろが映っている。まだ冬の風景だったが、平四郎は、耳にさっきはじめて聞いたおとわの笑い声が甦《よみがえ》るのを感じた。二両の仲裁仕事が全部終ったと思った。
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伝授の剣
一
神名平四郎は、寝ころんで鼻毛を抜いている。外はいい季候で、路地にあつまった裏店の女房たちが、雀のようにさえずっている声が聞こえるが、平四郎は外に出る気にもなれず、天井をにらみながらまた力をこめて鼻毛を抜いた。
手もと不如意だった。今朝念入りに改めてみたが、財布の中身は一分銀ひとつに穴明き銭が八十三文。それが全財産だった。いたって丈夫な方だが生身の身体、いつ病気をしないでもないと、不時の費《つい》えにそなえて一分銀は手をつけないことにしているので、使える金は八十三文である。
これでは陽気がいいからと、外を遊び歩くわけにもいかない。それどころか、出歩かなければ腹の減りも少なく、飯も一椀ぐらいは節約出来ようと、いじましい計算も働いて、平四郎は家の中にごろごろしているのである。むろん、留守の間に来た客をのがしては大変という考えもある。
金がないのは、べつに遊興に使ったわけではなく、仕事がなくて居喰いをしたせいである。金があるうちに買い込んでおいたので、米はまだあるが、青物も味噌も底をついて来た。
──この分だと……。
いまにあごが干上がるぞ、と思いながら、平四郎が憂鬱な顔でまた鼻毛に手をのばしたとき、表の戸があいた。
戸をあけた人間は、挨拶もなしに土間に踏みこんで来ると、いきなり間の障子をあけた。客にしては、少し様子がおかしいと思いながら、あわてて起き上がった平四郎の前に、ぬっと顔をつき出した無礼な男は、めずらしや明石半太夫である。明石はそのまま家の中に上がって来た。
「どうしたな?」
刀をはずして、どかりと坐りながら明石が言った。
「いやに不景気そうではないか」
平四郎のようなにわか浪人ではなく、浪人暮らしにたっぷり年期が入っている明石は、すでにして部屋の中の空気と平四郎の浮かない顔いろから、暮らしむきの落ちこみをさとったらしかった。平四郎の粥腹《かゆばら》にひびく大声でそう言った。
「そういう貴公は、ますます景気がよさそうで何よりだ」
平四郎は皮肉を言った。明石半太夫は、もともとの大きな身体が、少少腹まで出て、相変らず栄養が満ち足りた様子をしている。顔いろもよく、鼻下のひげはつやつやしていた。さかやきがのびているところをのぞけば、身につけている羽織、袴《はかま》は上物、きちんと足袋まではいて、とてもただいま浪人中の人間には見えない。どこかの藩の役持ちぐらいにはみえる。
だが、この大男の中身が、存外の喰わせ者だと知っている平四郎には、明石の堂堂たる押し出しが、ことさらうさんくさく思われるのである。よく来た、と立ち上がってお茶をいれる気にもなれなかった。
──もっとも……。
明石が景気よくなって、あの金を返しに来たというなら別だ、と思いながら、平四郎は明石の顔いろをうかがった。
平四郎は、明石に五両の金を貸している。明石は、一緒に道場をやろうと出費させたその金を猫ババしたのだから、貸したというよりは騙《かた》り取られたというべきだが、平四郎は明石の名誉のために貸したと思うことにしている。
明石はその金を、まだ返していない。そしてそのたぐいの金を取り返すのは至難の業だと平四郎は知った。はじめの間は、その金に暮らしがかかっていたから、平四郎もなりふりかまわず返済を催促した。しかし明石はじつに巧みな遁辞《とんじ》、多くは嘘八百の言いわけをならべて、平四郎の追及をかわすのである。
平四郎は金貸しではない。明石の家に乗りこんで催促するほどの強引さは持ち合わせなかった。いくら家で厄介者視されていたといっても、旗本の子弟という矜持《きようじ》がある。これに反して、明石は暮らしのためには手段をえらばない男である。平四郎とは暮らしに対する腰の据わりが違う。恥を知る者が恥知らずに勝てるわけがない。まったく埒《らち》があかなかった。
そうこうしている間に、平四郎にも仕事の報酬が入り、暮らしにゆとりが出来ると、勢い明石に貸してある金のことも意識から遠のいた。
しかしまったく念頭から消えたわけではなく、催促をあきらめたかわりに、明石半太夫に対する不信感が残った。そしていまのように金に窮しているとき明石の顔をみれば、貸した金のことを思い出すのは、ごく自然の成行きというものだった。
だが明石半太夫は、騙り取ったままになっている金のことなど、おくびにも出さなかった。平四郎の皮肉など通じた様子もなく、平気な顔でまあまあだ、と言った。
そして不意に恩着せがましい口調で、喜べ、仕事を持って来てやったぞ、と言った。
「虫の知らせというやつだな。どうも貴公が仕事に窮している気がしたのだ」
明石は友だちづらをつくって鼻をうごめかしたが、平四郎は素直に喜べなかった。むっつりした顔で言った。
「仕事の中身を聞かぬことには、すぐには喜べんな」
二
明石半太夫は、いま麹町に直心流の道場を開いている筒井三斎の道場を手伝っている。
「直心流だと?」
平四郎はうさんくさげに明石を見た。
「貴公は、肥後雲弘流ではなかったのか?」
「雲弘流さ。だが前には一刀流を手伝ったこともあるし、こういうことは何とかなるものだ」
明石半太夫はあいまいなことを言った。
その筒井道場の高弟に、日田孫之丞という者がいる。越後村松藩の藩士である。日田ははじめて江戸詰で来た二十のときに筒井道場に入門し、その後七年のうち、妻を娶《めと》るために帰国した半年をのぞいて、ずっと江戸詰で剣の修行に打ちこんで来た。日田の剣才を見込んだ藩が、特にそうはからったのである。
その日田孫之丞が間もなく帰国することになったので、師の三斎が風切ノ太刀と呼ぶ秘伝をさずけることにした。それは筒井道場では稀有《けう》の出来事だった。筒井三斎がその秘伝をさずけるのは、ほぼ十年に一度。受けた者は、まだ二人しかいない。日田はその三人目にえらばれたのである。
日田孫之丞の剣才は天稟《てんぴん》のもので、国元にいたとき一刀流を学んでいたとはいえ、筒井道場に入門するとたちまち頭角をあらわし、二年目には免許を受けた。三斎はふだん孫之丞を特に称揚することはなかったのだが、その剣才には深く注目していたらしい。秘伝の太刀をさずけることにしたのが、その証拠だった。
「それはめでたいではないか」
と平四郎は言った。
「ところがそうでもないのだ。そばから故障が入った」
「故障だと?」
「埴生《はにゆう》康之介という男がいる。孫之丞よりは三年先輩で、これも出来る男だ。その埴生が孫之丞にひそかに圧力をかけた」
「圧力?」
「技倆《ぎりよう》いまだ未熟ということで、秘伝を受けるのを辞退しろというわけだよ」
「何だい、そりゃ」
と平四郎は言った。
「いやなことを言うじゃないか。ことは剣の道の話だろう? 盆暮れにいただき物をするのとは話が違うぞ」
「まったくだ」
と言ったが、明石は鼻下のひげをひとひねりして、それにはわけがあるのだ、と言った。
「いま筒井道場で、門弟の筆頭にいるのが埴生だ。孫之丞は、席次で言うと三番目」
「ほほう、その男は一の弟子か」
「筒井道場の風切ノ秘伝というのは、知るひとぞ知る、その道では評判の極意らしくてな。それが筒井道場の本物の奥許しだとも言われているらしい」
「ふむ」
「道場が小さいわりには、門人に番町の旗本あたりの子弟が多く、裕福なのもその評判があずかっているという話だ。埴生は、その秘伝が自分を素通りして孫之丞に行くというのは我慢出来んと考えているわけだ」
「面目がつぶれるというわけか?」
「そう、そう。それに埴生は番町で一千石の旗本の跡とりだ。ふだん取巻きがついていて、かなりいばってもいる。すんなりと孫之丞に秘伝がわたると、二重に面目が立たないと思っているわけよ」
「話はわかった」
と平四郎は言った。
「なるほど揉めごとは揉めごとだが、ちょっと仲裁にはむかんようだな。それにおれに話を持ちこむよりは、その筒井というお師匠さんにばっさりと裁断してもらう方が早いのではないか。お師匠さんはご存じなのかね?」
「いや、まだ知らん」
と言って明石半太夫はあごをなでた。
「簡単にそう言うがな、平四郎。ウチの師匠ときたら、剣ひと筋とでも言うか、なにしろ浮世のことにはとんとうといおひとなのだ。手伝い婆さんがいて、身の回りの面倒をみているだけで、奥方もいなければ子もいない。まったく一人暮らしで、はやい話が仙人のようなものだ。門弟の間にそんなごたごたが持ち上がっているなどと申し上げても、お信じになるまいて」
「齢は?」
「もはや七十だ。じゃによって、暮らしむき全般のことは、わしが頼まれて万事指図しておる」
「ふーむ、すると何か」
平四郎は明石の顔をしげしげと眺めた。
「道場を手伝っているというのは、そういう仕事か。つまりは雇われの家士といったものだな」
「用人と言ってもらいたいものだ」
明石はひげをなでながら言った。
「もっとも、時たま木刀を持って道場に出ることもある。わしが相手にするのは、新入りの若い者か、町人だがな」
なるほど、それでは雲弘流でも直心流でもさほど変りがないわけだ、と平四郎は思った。そして立場がそういうものなら、明石はそこで、かなりいい思いをしているに違いなかった。明石の弁舌をもってすれば、七十年寄りを言いくるめるのなどはわけもないだろう。
筒井という道場ははやっているようだから、その収入から明石はかなり猫ババしていることも考えられる。それで明石の立派な身なりが納得行った気がしながら、平四郎は話を仕事の方にもどした。
「それで、わしにどうしろと言うのだ?」
「事情は話したとおり。双方を説得して、というのは孫之丞の方も埴生の横槍には、かなり頭に来ておるからの、両方を説得してまるく納めてもらいたいわけだ」
「………」
「いまのうちなら、まだ誰もこのことを知らん。知っとるのはほんの一部の人間だ。だがもし、これが門人同士のいがみ合いということになって世間に洩れたら、こら筒井道場の評判がガタ落ちになること請け合いだからの」
「用人どのも、せっかくの職を失うというわけだ」
平四郎は冷笑した。
「しかし、それぐらいのことなら、貴公が自分で納められんのか。一応は、道場で顔を利かせているだろうに」
「だめ、だめ。あかん」
明石は手を振った。
「わしには、それほどの信用はなかとよ。ひととおりは忠告してみたが、聞かれなんだ」
「なるほど信用はなかろうな」
と平四郎は言った。
「だが、わしを頼むと、金がかかるぞ」
「それは心配ない。金主はおる」
「その金主というのは貴公か?」
「そうじゃない。村松藩が金を出す」
「ほほう」
「引きうける気があるなら、一度村松藩の江戸屋敷に行って、助川というひとに会ってもらう。そのひとが、金をはらってくれる」
「いくら出すと言っていたかね?」
「三両だ」
平四郎は無言で明石の顔を見つめた。すると明石はバツ悪い顔になって言った。
「いや、間違えた。五両と言ったようだ。うむ、たしか五両だった」
「金のことでは、貴公は信用出来ん。引きうけるときは、貴公を通さずに、その助川とかいうひととじかに取引きするぞ」
「むろんだ。そうしてもらってかまわん」
間に入って周旋料を取ろうとしたらしい明石は、あきらめたように言った。
「ふむ、五両か」
平四郎はつぶやいた。四肢に力がみなぎって来たようだった。要するに埴生という男を説得出来ればいい仕事らしい。楽ではなさそうだが、やってみようと思った。
三
平四郎は、ひさしぶりに築地の実家にもどった。嫂《あによめ》の里尾や台所働きのおふく婆さんなど、ほんの三、四人をのぞけば、実家の人間は平四郎を神名家の厄介者として扱った。いい記憶は残っていない屋敷である。
その屋敷をはなれて住むことになって、平四郎はそれだけはせいせいしていたのだが、ひさしぶりに来てみると、やはり懐かしかった。だが玄関に立つと、他家をおとずれたような敷居が高い感じがするのも否めなかった。
平四郎が他人行儀に訪《おとな》いをいれると、ひょっこりと用人の間坂彦内が出て来て、何を遠慮しておられますかと、引き上げるように平四郎を家の中に入れた。
だが、そうして久闊《きゆうかつ》の挨拶を述べながら、彦内は抜かりなく平四郎の身なりを確かめているようだった。外に出てひとり暮らしをしているのは仕方ないが、尾羽打ち枯らして金をせびりに来たりされてはかなわないと思っている様子がありありと見える。
平四郎は、めずらしく家にいるという兄の部屋に歩きながら言ってやった。
「今日は借り物があって来たが、金じゃない。安心しろ、彦内」
「はい。いえ、そのようなことは……」
前を歩いていた彦内は、つまずいてつんのめりそうになった。
兄の監物は、自分の部屋で書類を見ていたが、平四郎をむかえた顔は、機嫌がよさそうに見えた。冬の間、高野長英の書類の一件で、平四郎をこき使ったことが、まだ頭に残っているせいだろう。
無沙汰を詫びる平四郎に、ゆったりした笑顔をむけた。
「どうした? めずらしいではないか?」
「はあ、じつは借り物がありまして……」
「借り物?」
「兄上のお古でけっこうですが、見苦しからぬ羽織、袴があれば暫時拝借したいと思って参りました」
「羽織をどうするのだ?」
せっかく見せた笑顔を、監物はひっこめた。疑わしげに平四郎を見た。
「自分のはどうした? いつぞや堀田侯の前に連れて行ったとき、足袋までそろえてあたえたはずだぞ」
兄の監物は、こういうことにこまかいのだ。平四郎は手を首にやって恐縮の体《てい》をつくった。
「それが暮らしがつまった折りに、質屋に入れたままで。なに、そのうちうけ出しますが、ただいまは質倉に眠っております」
「情ない男だ」
と監物は言った。
「一人で暮らすと立派なことを言いながら、いまだにそのざまか。それでは身を立てる、嫁をもらう、すべておぼつかないぞ。神名の家の名をけがすような暮らしざまをするぐらいなら家にもどれ。御家人ぐらいならすぐにも婿の口はあるのだ」
「いえ、兄上」
平四郎は恐慌を来たして、手を振った。こんな牢獄のように底つめたい家に呼びもどされたのではたまったものではない。
「決して家名をけがすような真似はいたしません。それに羽織を借りに参りましたのも、そのことです」
「そのこととは何だ?」
「仕官話です」
「仕官とな?」
監物は、剣のほかのことはあまり信用のおけない末弟の顔をじっと見た。
「仕官の口があるのか?」
「ま、行ってみぬことにはわかりませんが……」
「どこだ?」
「越後村松藩です」
そこに仕事の口銭を稼ぎに行くのだと知ったら、兄はさぞ猛《たけ》り狂うだろうなと思いながら、平四郎はそう言った。もっとも羽織、袴で村松藩江戸屋敷に行くのは事実だから、話のうち半分は本当のことである。
「村松藩というと、あそこは三万石か。小さな藩だな」
と言ったが、監物の顔はいくらかなごんだ。
「そういうことなら、里尾に言って借りて行け。ただし、それをまた質に入れるなどは許さん」
「むろんです。兄上。ところで、少少おうかがいしたいことがありますが……」
「何だ?」
「埴生という旗本がありますな、番町に。あそこはどういう家ですか?」
「どういう家とは、何のことだ?」
「つまり暮らしむきとか、当主の評判とか……」
監物は書類の方に眼をもどしかけていたが、それを聞くと平四郎に険しい顔をむけた。
「何の用があってそのようなことを聞く?」
「いえ、ただひとにたずねられたもので。それがしも、いまは陋巷《ろうこう》にいますが、やはり旗本の家の者。それで、そういうことを聞く者もおるわけでして、は、は」
「埴生は、わが家と同様家禄は一千石だが……」
監物は何となく疑わしいような目つきで平四郎を眺めながら言った。
「この家をみてもわかるとおり、暮らしむきが楽なわけはなかろう。諸色は高騰りする一方だが、武家は体面を落とすわけにはいかん。口にこそ言わね、どこの家も台所は苦しいはずだ」
「はあ」
「目付は名誉の職と思うゆえ、わしも精勤これつとめておるが、これとて持高勤めだからの。お役料がつくわけでもない」
監物は愚痴を言った。しかし謹厳な監物は、愚痴をこぼしたのをすぐに恥じる顔色になって、簡単に埴生のことを言った。
「埴生の家は小普請《こぶしん》だ。当主の庄左衛門は、ま、凡庸な男だな」
「それだけですか?」
「埴生の父が御使番を勤めていたことがあるが、失態があって小普請入りしている。以来非役のままだと聞いている」
要するに暮らし向きは神名家と似たもので、代代非役というからには、あまりパッとしない家なのだ、と平四郎は解釈した。
平四郎が礼を言うと、監物は鷹揚《おうよう》にうなずいてから言った。
「この時刻に、わしが家にいるのは変だと思わんか」
「はあ、まことに」
時刻は八ツ(午後二時)を回ったばかりである。言われてみると、目付に非番はないはずだった。
「特命を受けての。ちと、市中を密行して来たばかりだ」
堀田侯の特命だ、と監物は少し得意そうに言い、机の上の書類を指で叩いた。
「近ごろの市中のさびれようは、ひとかたならぬものだそうだの」
「お話になりません」
と平四郎は言った。
「兄上の前で何ですが、昼の間ちょっと町を歩いたぐらいでは真相はわかりませんぞ。夜になるといかに世間に活気がないか、ひと眼でみてとれます。店は日が暮れると早早に閉めますし、盛り場などは、いまや死んだ町も同然、暗くて危くて歩けるものではありません」
「そういう報告はとどいている」
監物は、ぺらぺらと書類をめくってみせた。
「堀田さまは改革の行きすぎを憂慮しておられる。法というものは、世に出るとひとり歩きするものだからの。時には庶民に対して無慈悲な力をふるうことがある。さようなことになると、天下の乱れを呼びかねないと考えておられるわけだ」
「ごもっともです」
「ことに堀田さまは、鳥居の取締りぶりを懸念しておられる。やつの酷吏の評判は営中にも聞こえておるからの」
権力の争いというものは、男を活気づけるものらしい。監物の顔にはいきいきした表情がうかんでいる。いまの改革政策は、老中首座の水野忠邦と町奉行の鳥居耀蔵を中心に動いているが、その反対派というべき勢力も、ひそかな動きを開始しているということらしかった。
「おう、その鳥居のことだが……」
監物は平四郎に微笑をむけた。
「この前はいっぱい喰わせてやったが、堀田さまはご満足だった。高野という蘭学者が書いた例のものは、やはり有益なものだったらしい。そなたの働きのことも申し上げておいたぞ。お耳にいれておけば、いつか役に立つかも知れんからの」
「それは、どうも」
「そのうち、いまの探索のことでも手を借りることが出来るかも知れん。そのときは手伝え」
平四郎はあいまいにうなずいた。どうせまたただ働きだろうと思うと、いい返事は出来なかった。
四
下谷《したや》の御成道《おなりみち》にある村松藩江戸屋敷をたずねて、助川六兵衛の名前を言うと、平四郎はすぐに一室に通された。
待っている間にお茶が出て、扱いも丁寧なのは、明石半太夫から手落ちなく知らせがとどいているらしかった。
助川はあまり待たせないで部屋に入って来た。腹が前にせり出て、顔もまるく、大きな眼を持つ男だった。齢は四十恰好にみえる。
「いや、このたびは厄介な願いごとを持ちこみ、恐縮なことでござる」
助川は気さくに挨拶したが、言葉は丁寧だった。明石がどういう話し方をしたのかはわからないが、助川の顔にはかすかな戸惑いと好奇心のようなものがうかんでいる。
揉めごとを仲裁する男というものを、どう扱ったらいいか、様子をさぐっているというふうにも見えた。
「で、お願いの件でござるが、お引きうけ頂けますかな?」
「その前に、二、三おたずねしてよろしいか?」
と平四郎は言った。こういう屋敷に羽織、袴で来たのははじめてだが、揉めごと仲裁は生業である。遠慮した口を利いてはいられない。何なりと、と助川が言った。
「本来この種の争いごとは、本人同士の間で片をつけるものかと思うが、ご藩では日田と申されるおひとにずいぶんと肩入れされているように見受ける」
「その通りでござる」
「むろん、ご家中であれば肩入れは当然。しかしかたわらから眺めると、そこのところがいささか大げさに過ぎるようでもある。何か、わけがおありか?」
「いや」
助川の顔に苦笑がうかんだ。
「わけと言われると少少困り申すが、孫之丞の剣才というものは、殿もよくご存じでな。日ごろ孫之丞を大切にせい、と言われる」
「………」
「というのも、わが藩は越後の小藩。藩祖以来の尚武の気風はあるものの、武芸師範というものを高禄で抱えるわけにはいかん。また、殿ご自身が神伝流と申す剣法をよく遣われるのに、家中からはこれまで特に剣槍に秀でた者も出なんだ。そこに孫之丞のような男が出たということで、殿をはじめ、藩内では内心狂喜しておるわけでな。孫之丞は、帰国すると剣術師範に抜擢《ばつてき》されることになっておる」
「ははあ」
「何とかと申す秘伝は、通っている道場の真の奥許しだというからには、ぜがひでもそれは受けさせなければならん。そのことに横槍が入ったことは、当屋敷でも少数の者しか知らぬ。しかし申した事情ゆえ、自分のことは自分で始末しろとも言えんだろうと、上の者は申すわけでござる」
「………」
「それに、相手が旗本の子弟というところが厄介でござってな」
助川は声をひそめた。露骨に嫌悪の表情をうかべたところをみると、明石は平四郎の身分まではしゃべっていない様子だった。
平四郎も、顔をしかめて言ってやった。
「さよう、さよう。将軍家をかさに着るあの手合いには、まったくうんざりする」
「わが殿は、申しては何ながら英邁《えいまい》のお方でござってな。なにせ神伝流、旗本などを恐れてはおらぬ。話を聞けば激怒して、その埴生とやらの屋敷にねじこめとお命じになるのは必定《ひつじよう》」
「ふむ」
「しかし当屋敷の役持ちが恐れておるのは、まさにそのことでな。旗本といざこざは起こしたくないというのが腹でござる。そこで、内密に話をつけられるものならと、かの明石どのと申されるご用人の方に相談をかけた次第」
「用人?」
平四郎は眼をまるくした。明石はこのあたりまでそんなほらを吹き回っているらしい。
「相わかった」
と平四郎は言った。
「では手取りばやく用談に入ろう」
「よしなに」
「それがしは、埴生というその男を説得するわけだが、殴りつけて言うことをきかせるというわけにはいかぬ」
「ごもっとも」
「つまるところ金を使うしかあるまいが、こちらでは金子《きんす》を用意出来ますかな?」
助川は大きな眼でじっと平四郎を見た。顔に不安のいろがうかび出ている。
「なにせ、当家は小藩……」
助川は当惑したように口ごもった。
「金子と言われても多額には用意いたしかねるが、いかほどに?」
「さよう」
平四郎にも、その額ははっきりしていないのだ。いい加減の見当で言った。
「五十両ではいかがかな?」
「五十両……」
助川は眼の玉がとび出たような顔をした。よほど驚いたらしい。あわてて手を振った。
「とてもとても……。当屋敷の一年の費用と申したものが、ざっと……。ええと」
「では、三十両ではいかがか?」
助川は、まだ首をひねっている。平四郎は言った。香具師《やし》のような口調になった。
「じゃ、二十両でかけ合ってみるか、二十両」
「そのくらいなら……」
助川六兵衛はやっとうなずいて、懐紙で額の汗を拭いた。恰幅《かつぷく》に似合わず小心な人物らしかった。
「二十両で、むこうがうんと言うかどうかはわからんが、ま、持つものを持たぬと、かけ合いというやつは、まことにやりにくい。世の中、万事金でござるからな」
「そのようで……」
助川はひきつったような笑顔をみせた。そして、そのときになって、ようやく平四郎の商売に疑問を抱いたというふうに、不安そうに言った。
「その金が、たしかに先方に渡ったという証拠は、その、お見せいただけますな」
「むろんだ。やつにはちゃんと受取りを書かせるし、日田孫之丞には手を触れないという一札も取って来てやる」
「何分、よしなに」
と言ったが、助川はまだ不安そうに平四郎を見つめている。羽織、袴姿をはじめは信用したが、いまはその中身である人物に深い疑惑を抱いているというようにみえた。
「安心されよ。引きうけるからには、必ずけりをつけ申す」
平四郎は笑顔をむけ、一両日中にその金をもらいに来るので、用意しておいて頂きたいと言った。
立ち上がりしなに、ふと思いついて言った。
「で、それがしの手当ては五両。これは間違いありませんな?」
「さよう。ほかに、明石どのに一両の周旋料という約定でござる」
と助川六兵衛が言った。平四郎は明石の抜け目なさにあいた口がふさがらなかった。
五
埴生康之介は、面長な美男子だった。背が高く色白で、これじゃ女子にもてるだろうなと、あまりもてる機会のない平四郎は思った。康之介が、仲間と一緒に時おり吉原に繰り込んでいることは調べがついている。
「ちょっと、どこかで話が出来ないかな?」
「何の話だ?」
と康之介は言った。声の低い男だった。
「日田孫之丞の一件だ。そう言えばわかるだろう?」
「さあ、わからんな」
と康之介は言った。つめたい眼で平四郎を見た。
「それに、貴公が何者かも知らん。見ず知らずの男とは話さんことにしている」
「おれは神名平四郎。築地の神名監物の家の者だ。もっとも末弟だがな」
「………」
康之介はうす笑いをうかべた。肉のうすい唇が酷薄そうに見えて、平四郎はさっきの印象を訂正した。遊び人ではあるだろうが、そんなに女子にもてているわけではあるまい。
「神名の冷や飯喰いか。その貴公が、何で日田の一件に首を突っこんで来るのだ?」
「おれの商売でな」
平四郎は、道場の門前にかたまって、じっとこちらを見ている康之介の仲間たちを見ながら言った。
「こういう揉めごとを仲裁して、口銭を稼いでいる」
康之介のうす笑いが、顔いっぱいにひろがった。面白いな、と言った。
「仲裁の頼み手は誰かね? 日田か?」
「それはここでは言えん」
平四郎が言うと、康之介はうしろを振りむいて仲間に手を振った。その合図を見ると、数人の道場仲間は、無言で門前を離れて行った。
「さてと……」
歩き出しながら、平四郎は言った。
「酒にはまだ早い時刻だ。それにこの話はしらふでやる必要がある。餅屋でもさがすか」
康之介は、それには答えずに黙って平四郎に肩をならべて来た。そして不意に言った。
「貴公、剣術の方はかなりやってるな」
「そう見えるかね」
「道場はどこだ?」
「露月町の矢部道場さ」
「雲弘流か。すると、この話は明石から聞いたな?」
勘のいい男だ、と平四郎は思った。三丁目の角まで来たときに、表通りからちょっと引っこんだ路にあつらえ向きの店が見えた。餅、だんごと染め抜いた旗が出ていて、店の内に緋《ひ》の毛氈《もうせん》が見える。
平四郎が店に入ると、康之介も黙ってうしろにつづいた。
「さてと……」
勝手に団子とお茶を注文すると、平四郎はすぐに切り出した。店の中はきれいで、ほかには人もいなかった。
「ざっくばらんに聞くが、圧力をかけて日田が言うことを聞かなかったら、どうするつもりだな? 腕でも折るか?」
「………」
康之介は答えなかった。さっきと同じうす笑いをうかべると、運ばれて来たお茶を飲んだ。女のような白い指をしている。
「日田孫之丞は、伝授をことわるわけにはいかんのだ。あの男の肩には一藩の期待がかかっておる」
「そんなことは知らん」
「ふむ。しかしだな、そんな無理をしてもだ。師匠がそれでは日田のかわりにと、貴公にその秘伝とやらをさずけるとは思えんぞ」
「それもかかわりがないな」
「ふむ」
平四郎はつかみ上げた団子を皿にもどして、康之介をじっと見た。
「しかし、ここは考えものだぜ、おい」
と平四郎は言った。
「この無理押しのまずいところは、もうあちこちに洩れてしまったことだ。明石半太夫が知っておる。日田の藩屋敷の連中も知っておる。日田に何かを仕かければ、やったのは貴公とすぐに知れわたる」
「………」
康之介はにやにや笑っている。
「それに、明石はそのことをまだ師匠に言ってないが、貴公が妙なことをやれば、こりゃ言わざるを得んだろう。そうなれば、まず間違いなく破門だ。恥の上塗りだな」
「ひとにはわからんようにやる」
「ふーむ、貴公もかなりしつこい男だな」
平四郎は溜息をつき、やけくそのように団子を喰い、がぶりとお茶を飲んだ。そして改めて康之介を見た。
「体面|云云《うんぬん》というが、おれの眼からみれば、ま、児戯《じぎ》に類するさわぎだな。日田の腕をへし折ったところでクソの足しにもならん」
「見解の相違だな」
「どうかね。ではもっとざっくばらんに言うか。ここはひとつ金で片をつけないかね?」
「金?」
康之介はじろりと平四郎を見た。平四郎は平気な顔で見返した。
「そう、金だ。日田孫之丞の腕一本を、金で買おうじゃないか。その金でもって、貴公は仲間を連れて吉原あたりで、ぱっとさわいで鬱を散じるというのはどうかね?」
「………」
「松葉屋の菊遊とかいう女子が馴染みだそうじゃないか。いやいや、おれの前で体面をつくろうことはいらん、大概様子はわかっている」
「貴公、女衒《ぜげん》のような口をきく男だな」
「そうかね。ま、腕をへし折るの、顔に傷をつけるのと殺風景なことをやるよりは、その方が穏やかでいいと思うがな。その気があるなら、金は用意してある。二十両だ」
「………」
「どうだ、これで手を打たんかね」
不意に康之介が哄笑《こうしよう》した。平四郎が黙ってみていると、康之介はやっと笑いやんで言った。
「面白い話だ。これが貴公の商売とやらいうやつか」
「そうだ。いまのところ、これで飯を喰っている」
「口銭はいくらだ」
「五両だよ。悪くない手当てだ。だから、この二十両の金の話を受けられんというなら、べつの手を考える。そのときは、こっちもしつこくやるぞ。日田という男に、手は触れさせん」
平四郎はやんわりと脅しをかけたが、康之介はその脅しは歯牙《しが》にもかけなかった。
「二十両は、悪くないな」
とだけ言った。
「そうだろ? どっちを取るかと聞かれたら、おれなら金の方を取るな」
六
「何刻《なんどき》だ?」
平四郎が聞くと、明石が眠そうな声で、おっつけ七ツ(午前四時)だろう、間もなく夜が明けるぞと言った。
二人は麹町筒井道場の母屋の軒下に、おこものように身を寄せ合って、うずくまっている。身体の節節が痛んだ。
道場主の筒井三斎が、日田孫之丞に秘伝の太刀の伝授をはじめたのが七日前である。伝授は、深夜九ツ(十二時)から暁にかけて行なわれた。その間、日田孫之丞はずっと母屋のひと部屋に起居し、日暮れに門人たちが帰ると、外井戸で水を浴びて身を清め、道場に入ると深夜まで瞑想《めいそう》の刻を過ごす。そして九ツになると師を迎えて伝授を受ける日課をくり返しているのだという。
伝授の最後の夜を見とどけようと言い出したのは、平四郎である。明石は迷惑そうだったが、埴生康之介が襲って来るかも知れんと言うと、しぶしぶつき合った。
だが、明石は一夜の不寝《ねず》の番がこたえたらしく、愚痴を言った。
「これで、そっちが五両、わしはただの一両では割が合わん」
「文句を言うな」
と、平四郎は言った。
「一両の周旋料でも、手間は手間だ。ここで変なことになったら、その一両も手に入らんぞ。水の泡だ」
埴生康之介は二十両の金を受け取った。だが平四郎には、かすかな不信感が残った。最後まで油断は禁物だぞ、という気持である。それは康之介の顔にうかぶうす笑いのせいかも知れなかった。金を受け取るときも、康之介はそのうす笑いをうかべていたのである。
平四郎は、康之介から旗本の子弟に似つかわしくない、やくざな印象を受け取っている。表づらのことではなかった。その印象は内側から来た。金を渡したあとで、平四郎はこの男は、一たん交した約束を平然と破りかねないな、と思ったのである。
「おい」
平四郎は、肩をつかんで半分居眠っている明石をゆさぶった。
道場では、肺腑《はいふ》をつらぬくようだった気合の声が一刻前にはやんで、ぴったりと閉め切った戸の隙間からかすかに灯が漏れて来るだけだったのだが、いまその灯がふっと消えたのを見たのである。
「何だ」
と明石は言った。
「どうやら終ったらしい。間もなく出て来るぞ」
「や、こうしてはおられん。師匠にめっかったらえらいことになる」
外に出よう、と明石は平四郎をせき立てた。自称筒井道場の用人の立場は、いたって弱いもののようである。
二人は足音をしのばせて門まで歩き、潜り戸をあけると路上に出た。町はまだ暗かったが、その暗がりに白いものが澱《よど》んでいる。夜明けを告げる霧だった。
平四郎は、道の両側にならぶ町家の軒下を、油断のない眼でたしかめ、さらにうしろを振りむいて、そちらも確かめた。ひとの気配はなく、町はまだ眠っていた。
「これで、下谷に帰るところまで見とどければ、仕事は終りだ」
「下谷だと?」
明石は大きなあくびの声を立てた。
「下谷まで行くのか。かなわん」
平四郎はシッと言った。平四郎は明石の袖を引いて、道場の門から十間ほども離れた町家の軒下にある、大きな天水桶《てんすいおけ》の陰に身をひそめた。明石もそれにならった。
そのまま、時が過ぎた。その間に少しずつ空が明るくなったが、町はまだ暗く、しんと静まり返ったままだった。
「出て来た」
と、平四郎がささやいた。
道場の潜り戸があいて、黒い人影が外に出て来た。一人だった。中背、痩身の姿は、日田孫之丞である。
歩き出したとき、孫之丞は少しよろめいた。かなり疲れているようである。蹌踉《そうろう》とした足どりで、孫之丞が表通りにむかうのをたしかめてから、平四郎と明石は軒下を出て後を追った。
筒井道場は麹町の七丁目にある。孫之丞は、表通りを半蔵門の方にむかっていた。
「何ごともないらしいな」
平四郎がささやいたとき、明石がそうでもなか、と言った。
「あれを見ろ」
そう言ったときには、明石はもう刀の柄《つか》をおさえて疾駆していた。平四郎も地を蹴ってあとを追った。五丁目の角にさしかかった孫之丞を、夜の名残りの暗さが吐き出したような数人の人影が、声もたてずに押し包んだのを見たのである。
「待った、ちょっと待った」
明石は疾呼《しつこ》した。
「その中に埴生康之介がいるだろう。話がある」
だが、駆け寄った明石にむかって、振りむいた一人がいきなり斬りかけて来た。男たちは顔を黒い布で包んでいた。
明石半太夫は、すばやく抜き合わせて、襲って来た刀をはらうと、凄味のある声を出した。
「ほほう、問答無用というわけか」
明石は、金のことではだらしがないが、雲弘流の剣は信用出来る男である。するすると間合いをあけて、斬り合う姿勢を示した。その明石に、追いついた平四郎が声をかけた。
「斬るなよ、半太夫。斬るとあとが面倒だ」
その声が引き金になったように、男たちはいっせいに刀を抜いた。
たちまち乱闘になった。平四郎は眼の前の敵を、青眼に構えたままぐいぐい押した。敵は押されて引き足を乱したが、すぐに体勢を立て直して、無言のまま右に逃げた。だが、そこで体をひねるようにしながら、平四郎の小手に打ちこんで来た。鋭い太刀さばきである。
平四郎は下段に移した刀で、その打ちこみをはね上げた。そして半ば体を回して、背後に動いた敵を斬った。刀の峰を使ったが、おそらく肋《あばら》が折れただろう。上段に刀をふりかぶって殺到して来た敵は、そのままの姿勢でうしろによろめき、刀を落として倒れた。
息つく間もなく、正面の敵が胴を狙って斬りかかって来た。平四郎はうしろに跳んだ。一髪の差でかわすと、間をおかずに斬り返した。敵は二撃まで受け流したが、平四郎が十分に踏みこんで放った一撃を受けそこねて刀を落とした。
跳びのいて小刀に手をやる。その腕を平四郎は容赦なく峰打ちで叩いた。腕をかかえるようにうずくまる敵には見むきもせず、平四郎は二人の敵を相手に斬り合っている明石の方に走った。明石はすでに一人を倒していて、その足もとに黒い人影が長長とのびている。
走りながら、平四郎はちらと孫之丞を見た。孫之丞は長身の男、埴生康之介と思われる黒い人影と対峙《たいじ》していた。まだ刀を抜いていないようである。
不安が平四郎の頭をかすめた。孫之丞は秘剣伝授に力を使い果して、刀を抜く気力もないのか。
「孫之丞、なぜ抜かぬ」
平四郎が叱咤《しつた》すると、その声を聞きつけ明石の相手の一人が、刀を引いて平四郎に走り寄って来た。平四郎も刀を上げた。敵は走りながら、剣を八双に引き上げた。そして平四郎の面前を斜めにすり抜けながら、鋭い剣を振りおろして来た。剣先は体をひねってかわした平四郎の肩先をかすめた。埴生は襲撃の仲間に手練の男たちをあつめたようである。
走り抜ける男にぴったり並行して、平四郎も走った。そして立ちどまってもう一度斬り合ったとき、平四郎の剣がわずかに早く敵の小手を打った。敵は膝を折って手首をかばったが、痛みに堪えかねたらしく、手首を腹に抱いたまま、どうと横に倒れた。
顔を上げた平四郎の眼に、敵を町家の軒下まで追いつめた明石が、とどめの一撃をはなったのが見えた。敵は突きとばされたように、町家の羽目板に背をぶっつけると、そのままずるずると地面に崩れ落ちた。
「斬ったか?」
走り寄った平四郎が声をかけると、明石はいいやと言った。
「首をぶっ叩いてやったら気絶したらしい」
二人はうしろを振りむいた。助太刀の男たちは全部片づいて、残っているのは日田孫之丞と埴生康之介の二人だけだった。
二人は、平四郎と明石が助っ人を片づけている間に、半町ほども離れたところに移っていた。埴生は剣を青眼に構えていたが、孫之丞はまだ剣を抜いていないようである。
「どうした? 孫之丞はなぜ抜かぬ?」
ゆっくり歩み寄りながら、明石が不審そうにつぶやいた。平四郎は黙って首を振った。
空を微光が覆い、町は白っぽい暁のいろに包まれはじめていた。道の上をあるかなきかの霧がただよい流れていく。その中に対峙する二人の男が立っていた。
十間ほどの距離まで来て、二人は立ちどまった。明石が不安そうに言った。
「手伝わんでいいかな?」
「まあ、待て」
「しかし、ここでやられたんじゃ、眼もあてられんぞ」
「大丈夫のようだ。まあ、少し見物しよう」
と平四郎は言った。
少しずつ埴生が押し、日田孫之丞は少しずつさがっている。だが孫之丞の両手は自然に垂れ、足の運びはやわらかかった。距離はおよそ三間。その距離を埴生が詰めあぐねているらしいのを平四郎は見た。
町のどこかで、戸が開く音がした。その物音にせかされたように、埴生の剣がすっと上段に上がった。埴生はやはり筒井道場筆頭の剣客だった。上段の剣に呼応するように、なめらかに身体が動いた。そのままなだれるような打ち込みが日田孫之丞に襲いかかった。
その剣を迎えて、孫之丞は茫然と立っていたようである。だが埴生の剣が身に落ちかかる寸前に、孫之丞の身体が目にもとまらず屈伸した。しゅ、しゅという短い物音を、平四郎は聞いたようである。見たのも聞いたのもそれだけだったのに、埴生の剣は手もとをはなれて、高く宙にとび、次いでまっすぐに落ちて離れた地面に突きささった。
埴生は顔を覆った布をむしり取ると、地面に叩きつけた。だらりと腕を下げて立っている孫之丞をしばらくにらんでいたが、不意に荒荒しく歩き出すと、刀を拾って腰にもどした。
歩き出す前に、埴生はつめたい一瞥《いちべつ》を平四郎と明石に送って来たが、そのまま無言で背をむけた。その背に、明石がどなった。
「約定に違反した。二十両の金は返してもらうぞ」
「よせ、よせ」
と平四郎はとめた。
「武家の風上にもおけん男だ。かけ合ったところで、金を返しはせんよ」
平四郎は、こちらを見てじっと立っている孫之丞に声をかけた。
「見事なお手並みを拝見した。そのまま行かれよ。かかわり合いになってはまずい」
二日後に、明石半太夫が与助店の平四郎をたずねて来た。
「手当てをもらって来てやったぞ」
軒下に洗濯物を干していた平四郎に近づくと、明石はひげをひねりながら言った。
「や、それはすまなんだ」
「孫之丞は、今朝国元に発《た》ったそうだ」
「それはめでたい」
「どれ、手を出せ」
明石はひろげた平四郎の掌に、小判を落とした。ひい、ふうと数えた。
「みい、ようと」
「あと一枚」
「え? 何だ?」
「あと一枚だ」
「ふむ」
明石は名残り惜しそうに、最後の一枚をちゃりんと乗せた。平四郎は無表情に、金を懐にねじこんだ。金のことでは、何事であれこの男に気を許してはならないのだ。
「しかし、何だな……」
少しバツが悪そうな顔で明石が言った。
「孫之丞が遣った剣は見事なものだった。あれは何か? やはり居合かな?」
「そのようだったな」
平四郎は青い空を眺めた。明石が言った眼にもとまらぬその剣だけは、まだ眼に残っていた。
[#改ページ]
道楽息子
一
ひさしく逢っていないが、達者だろうかと書いてある。たまには逢いたいものだとも書いてあった。北見十蔵の手紙はきちょうめんで、手蹟《しゆせき》はさすがに寺子屋の師匠だけあって、品よく格調が高い。
──達者だとも。
このとおりぴんぴんしているが、なにせざっかけない商売、一件いくらの手間賃稼ぎで日を暮らしているので、友人の家といってもめったには行けぬ、と思いながら、神名平四郎は片手で鼻毛を抜きながら手紙を読んでいる。
ふと顔を上げると、手紙を持って来た男の子が、じっと平四郎の顔を見ている。平四郎は鼻から手をおろした。咳ばらいをひとつして、また手紙に眼を走らせる。
さて、吉報があると北見はつづけていた。さる裕福な商家の主人から、家の中のことで相談事を持ちかけられたが、話の中身を聞いたところ、貴公の仕事に打ってつけのようである。よって貴公を推薦しておいたので、出来るだけはやく、次の人物をたずねられてはどうかと北見は書き、最後にその商人の名前と住居を記していた。本銀町一丁目竹皮問屋、橘屋甚兵衛。
──持つべきものは友人だ。
平四郎は手紙を押しいただいた。その様子を、また子供がじっと見つめているのに気づいて、平四郎は言った。
「手紙は読んだ。神名がありがたがっておったと、お師匠さんに言ってくれ」
言われて、子供は立ち上がったが、もじもじしながら平四郎をみている。十ぐらいの真黒な顔をした男の子だった。
「そうだ。あとで寄ると言ってもらおうか。それだけで、返事はいらんのだから、帰ってよろしい」
「………」
「おお、そうか」
平四郎は、やっと気づいて金入れをさぐり、五文の駄賃を鼻紙につつんで子供に渡した。子供は、駄賃をうけとると、礼も言わずにあっという間に姿を消した。
──ふむ。
戸をしめに立ち、ついでに朝からうっとうしく曇ったままの空を見上げながら、平四郎は、北見も子供のしつけまでは手が回らんらしいなと思った。
「あたしは家の者の運にめぐまれない男でしてな」
橘屋甚兵衛は、平四郎に会うと、のっけから泣きごとを言った。
「五年前に女房を病気でなくしました。たったひとりの子供は、ひとに言うもはずかしい道楽者に仕上がって、もう三年もの間、家には寄りつきません。いや、一度だけふらりと来ましたな。去年のいまごろです。ところがそのときの言いぐさが憎い。いま思い出しても腹が煮えます」
甚兵衛は五十ぐらいだろう。色の黒い角ばった顔をした大男である。口が大きく、声も大きかった。まるで平四郎が、その道楽息子ででもあるように、眼をつりあげてしゃべっている。
「ひさしぶりにもどって来た道楽息子が、何と言ったと思います? 神名さま。おやじももう齢だ。一人きりでさびしいようだったら、そろそろもどって来てもいいぜ、とこうです。まるでやくざ者のせりふです。あたしゃお前の世話にはならんと、どなってやりました」
「しかし、ご主人」
と平四郎は言った。
「その息子どのは、案外親の身を案じてそう申したのかも知れんぞ」
「とんでもありません」
甚兵衛は手を振った。
「そんな殊勝な息子じゃありません。根っからの怠け者で、むかしは少しは家の商いも手伝いましたが、それがほんとにいやいやながら。あたしゃ、店の奉公人にはずかしかった」
甚兵衛は声をつまらせ、ドラ息子を持ったみじめな父親という思い入れをつくってみせたが、すぐに元気のいい声にもどってつづけた。
「あたしゃどなりつけました。まだ若い者にナメられてはいられませんからな。ひとにあわれまれるほど、老いぼれちゃいない、そのたるみ切ったやくざなつらは見たくないから、二度とこの家に足踏みするな、おまえなんぞは勘当だと言ってやりました。勘当と言われて、あいつも青ざめていましたな。いい気味でした」
「ほんとに勘当したのかね」
「それがです、神名さま」
甚兵衛は、急に肩を落とし、声にも力がなくなった。
「親というものは弱いものです。そのときは、近くで奉公人も聞いておりましたから、その手前もありましてな。お前がようなものは勘当だと、はっきりと二度まで申しました。しかしそれはつまり世間むけのこと、お役所には勘当の届けは出しておりません」
「………」
「お役所は勘当届けをあまり喜びませんのです。それもありますが、真実のことを申しますとな、あたしゃあの子に負い目があるのですよ」
甚兵衛はため息をつき、平四郎にお菓子をつまんでくださいと言った。言われなくとも、平四郎はさっきから上等の羊かんを口にいれている。菓子もお茶もうまかった。
「負い目というのも何でございますが、なにせ一人息子ということで、あたしも死んだ女房も甘やかし放題、いまのような道楽息子に仕上がったのも無理からぬわけでございますよ」
「その気持はわかる」
平四郎は、実家でもめったにお目にかかれないような上等の羊かんを頬ばり、あふあふ言いながら相槌を打った。
「で、ござんしょ? それにこの店、この商い……」
甚兵衛は両手を胸の前にひろげて、ぐるりと家の中を見回すようなしぐさをした。
「息子を勘当して、誰に渡したらいいんです? 不出来な息子ではあるけれども、いつかは目がさめて家にもどって来はしないだろうかと、思わずにはいられませんです」
「親の気持としては、さもあるべきだな」
平四郎は、がぶりとお茶を飲んだ。
「その息子どのに説教して、家に連れて来いと、そういうわけだな?」
「いいえ、違います」
と甚兵衛は言った。
甚兵衛は、表向きは伜《せがれ》を勘当したようなことを言って、世間体をつくろっているが、内実は人を雇って時どき息子の消息をさぐらせていた。庄次郎というその道楽息子は、いま深川の門前仲町で、料理屋の下働きのようなことをやっている。
料理屋の使い走りでも何でも、働いて金をもらう気になったのはいいことだと喜んでいたら、ご改革ということが出て来て、料理屋商売もさびれる一方になった。困ったことだと思っているうちに、もうひとつ頭の痛いことが出て来た。
庄次郎は、家に帰ることを断念したつもりか、三月ほど前に、仲町の隣の黒江町で女と所帯を持ってしまったのである。
「それが、なんと裾継《すそつぎ》の女郎上がりらしいというのです」
「ほほう」
「あたしゃね、これでも若いころはちっとは女を泣かせたこともある」
甚兵衛の声は、また大きくなった。憤慨に堪えないという顔いろになった。
「女遊びが悪いなどと野暮は言いません。伜にも、吉原で遊んで来いとすすめたことがあるくらいです。あれも世間を知る修業のうちですからな。でも裾継はいけません」
「そんなものかな」
平四郎も少しは盛り場の事情を知っている。吉原だろうと裾継だろうと、女に変りはあるまいという気がしたが、そういう平四郎をみて、甚兵衛はいかめしく首を振った。
「いけません。あたしゃさきほど、伜もいつか目がさめるかも知れないと言いましたが、目がさめずにそのままということだって考えてます。そのときは仕方ないと、そこまで腹を決めてますよ。しかし神名さま。もしもですよ、もしも伜が改心して家にもどって来たとき、裾継の女郎が一緒では困るのです。橘屋ののれんに傷がつきます」
「すると、わしは何をやればいいのかな?」
「二人を別れさせてください。伜がうす汚れた所帯持ちなどに落ちぶれないうちに。子供など生まれてごらんなさい、あとはどうにもなりませんからな」
甚兵衛は親の身勝手をむき出しに、わめくような声で言っていた。
「あたしがそうしたとは、伜に知られたくありません。女をつかまえて、こっそりと因果をふくめてくださらんか。なに、たかが女郎上がりの女です。金を見せてやればうんと言いますよ。三十両、いや五十両まで出しましょう。伜を買いもどすと思えば安いものだ」
平四郎は承知した。あまりいい役目ではないと思ったが、けりがつけば三両という手間賃は大きかった。
「ところで……」
頼みごとは済んだという顔になった甚兵衛が、口調を改めた。
「神名さまは用心棒のような仕事はなさいませんので?」
「泥棒防ぎか。それはやらんな。わしはこっちを使う仕事しかやらん」
平四郎は自分の頭を指さした。
「用心棒がどうしたな?」
「じつはちょっと、気になる手紙をもらいまして」
甚兵衛は、立って行って仏壇のひき出しから一通の手紙を出して来た。平四郎がひらいてみると、脅し文である。一石橋まで千両箱をひとつ運んで来い。甘くみて言うとおりにしなかったり、役人にとどけたりしたら、あとで思い知らせてやる、と書いてあった。
「千両箱を持って来いとは、大きく出たものだな。どこの馬鹿野郎だ、こいつは」
手紙を見ながら平四郎は言った。下手くそな字が、脅された者にとってはかえって無気味だったろう。金を持って来いと指定した日づけはひと月ほど前になっている。
「まさか、千両箱を運んで行ったわけじゃなかろう?」
「とんでもございません。頭と身体を使って懸命に稼ぎ出した金です。どこの馬の骨ともわからない者に、びた一文くれてやる気はありませんよ。ただ、あたしも気味悪うございましたから、番屋にはとどけて出ました」
「町方では調べてくれたかね?」
「はい、お役人さまと土地の岡っ引の親分が来て、いろいろと聞いては行きましたが、用心するように、とそれだけです。ご改革で甘い汁を吸えなくなったごろつきなんぞが、いろいろと悪事をたくらんでいて、千両とは言わなくとも、目をつけた商人を脅すなどということがあちこちで出て来ているそうです。いちいち取り上げてはいられないという話でした」
「で、そのあとは?」
「ぷっつりと音沙汰なしです。これがかえって気味が悪くて、近ごろは、用心棒でも雇おうかと思案しているところでございますよ」
二
黒江町の六庵店。油堀からわかれた掘割が南にさがる場所の河岸から、ちょっと奥に入ったところにある裏店である。
井戸端で洗い物をしている女房たちに聞くと、庄次郎の家はすぐにわかったが、二人ともいまは留守だと女房たちは言った。
「でも、おもんちゃんの方はじきもどって来るけど」
頬ぼねが高く、髪ふり乱して男のような声を出す四十女がそう言った。侍姿の平四郎がめずらしいらしく、ほかの者も手をやすめてこちらを見ている。
庄次郎と一緒に住んでいる女は、おもんというらしい。平四郎は咳ばらいして言った。
「そのおもんちゃんは、買物にでも出たかな?」
「そうじゃありませんよ、旦那」
と平四郎よりも低くて太い声を持つその女が言った。
「働きに行ってますからね。川向うの万年町に。そこの草履《ぞうり》屋で働いてんですよ。あの子、手先が器用だからいいわ」
「じきもどって来るのだな?」
「ええ、大てい七ツ半(午後五時)にはもどって来ますよ。晩飯の支度があるからね」
「じゃ、このへんで待たせてもらおうか」
平四郎が言うと、髪ふり乱したその女は、どうぞご勝手にと言った。平四郎は井戸の近くに雨ざらしになっている樽を引き起こして腰をおろした。西に傾いた日射しが、河岸の方からまっすぐに裏店の路地にさしこんで来て、暑い。
平四郎は胸もとの襟《えり》をくつろげて、わずかに路地を吹き抜ける風をいれた。すっかり腰を落ちつけてしまった平四郎をみて、さっきの女がどうにも気になるというふうに、おそるおそる声をかけて来た。
「失礼さんですが、旦那は庄ちゃんたちとどういうお知り合いで?」
「庄ちゃん?」
平四郎は女たちを見た。声の太い女がそう聞いたので、一たん洗い物に手をもどしたほかの女たちも、また平四郎を見ている。
「ああ、庄次郎のことか。なに、古い知り合いだ」
平四郎はそう言ったが、女たちは納得していない顔いろだった。まだ疑わしげに平四郎を見ている。
「もっとも、むかし一緒に飲んだことがあるというだけの知り合いでな。庄次郎は、むかしは景気がよかった。おまえさん方が知っているかどうかわからんが、神田にあるちょっとした店の跡とりの伜なのだ」
「そうだってね」
「知っとったか。その道楽息子が、いよいよ親に勘当を喰らったと聞いたから、どんな様子かと立ち寄ってみただけ。わしはべつに、怪しいものではない」
「怪しいなんて思わないけどさ」
「ところで、庄次郎は近ごろどんなぐあいかね」
と平四郎は聞いた。おもんという女とどういう話になるかはわからないが、会う前にいまの二人の暮らしぶりを聞いておく方がよさそうだった。
「まだ荒れてるかね?」
「近ごろはそんなことはないようだね」
と声の太い女が言った。ほかの女たちはほとんど声を出さず、黙ってうなずいたりしている。
「近ごろは、というとひところはかなり荒れたわけだ」
「ここに越して来たときはおせんという女と一緒だったものね」
「あの女、庄ちゃんより三つ年上だったってさ」
不意にころころ太った色の白い女が横から口をはさんだ。すると女たちは急にがやがやと自分たちでしゃべり出した。
「あらぁ、あたいは五つ年上って聞いたよ」
「まさかぁ、五つってことはないよ。いくら年上だって」
「でも、いつだってごてごてと厚化粧してたじゃないか」
「あれは商売だから仕方ないよ、あんた。そりゃ、それでもって齢も隠したかも知れないけどさ」
「だけどさ、いけ好かない女だったねえ」
「悪い女だったよ。このへんで会っても挨拶ひとつするじゃなし、澄まし返ってさ」
「庄ちゃんとよく喧嘩してたじゃないか、あのころ」
「そう、取っ組み合いの喧嘩さ」
「そんなふうなわけですよ、旦那」
と声の太い女が言った。
「おせんという女は、小料理屋のおかみだと言ってましたけどね。あたしらのみたところじゃ淫売宿のおかみだったね。庄ちゃんはその女にここで囲われていたわけ。つまり男めかけ」
「そいつはうらやましい」
平四郎が言うと、女たちはどっと笑った。
「旦那、男はみんなそんなことを言いますけどね。いざその境遇に落ちてごらんなさいな。楽なものじゃないみたいでしたよ」
声の太い女が、教訓めいた言い方をしたので、ほかの女たちはまた笑った。平四郎も苦笑した。
「さようか。いかんか」
「だって庄ちゃんは、あの女の腰巻きまで洗わされてましたからね。そうしちゃ酒飲んでね、夜中に女がもどって来ると、今度は生かすの殺すのと喧嘩ですよ。あのころは荒れてたわ」
「それでどうした?」
「越して来て半年もして別れたわけ。つまり、庄ちゃんてひとは、女に捨てられたわけですよ。当然あたしらは庄ちゃんは、この裏店を出て行くもんだと思ってた。ところが出てかないで自分で働きはじめたもんね。仲町の方の料理屋の下働きに出たんですけどね。酒もぷっつりとやめちゃってさ」
「そいつはえらいじゃないか」
「だからあたしらもさ。ちょっぴり見直したというかね。むかしのことは言わないで、つき合ってやろうじゃないかって話したのよ。それというのも、うすうすあのひとの素姓は知ってたしさ。道楽息子のなれの果てってのは、ちょっとあわれなところもあるのよね」
「それはあるなあ。いや、庄次郎はしあわせ者だ」
と平四郎は言った。
「そのおせんという女と別れたのは、いつごろのことかね?」
「二年ぐらいも前かしら。いまより暑いころのような気もするから、もっと後かしらね」
庄次郎が自分の家に現われて、もどってもいいようなことを言ったのは、女と別れたあたりのことだな、と平四郎は思った。甚兵衛が知っているのはそれから後のことなのだ。
「それで、いま一緒に暮らしているおもんちゃんとかいうひとはどうなんだ?」
「どうって?」
「いい女房だとか、悪い女房だとか……」
「いいんじゃない、あれぐらいなら」
それまであんまり笑わなかった声の太い女が、うす笑いをうかべて平四郎を見ると、うしろを振りむいて、ねえと言った。
すると、ほかの女たちが、口ぐちに言った。
「庄次郎というひとは、おもんちゃんでもってるようなものさ」
「そうそ、なにしろ根がお店の坊ちゃんだからねえ。根性というものはないわ。根性ならうちの亭主の方があるね」
「そりゃそうだろうよ。おたくは日雇いで女房子供六人の口を養ってんだから、根性がなきゃもたないよ」
「あんた、何もこんなところで日雇いを持ち出すことはないじゃないか」
「ちょっと待った」
平四郎は立ち上がって、女たちの話に割って入った。
「すると何だ、そのおもんちゃんは、よほどしっかりしたやり手らしいな」
「やり手? ちょっと違うんじゃないかね、おもんちゃんは。もっとかわいい子ですよ」
と声の太い女が言い、そのままの声音でつづけた。
「そういうことは本人に会って確かめるのが一番じゃないの。いま帰って来たから」
平四郎が振りむくと、木戸から一人の女が路地に入って来るところだった。ほっそりしてかわいい顔の女だった。というより、それはまだ娘のようにみえる女だった。齢はせいぜい十八、九だろう。
女は侍姿の平四郎に、ちょっと怪訝《けげん》そうな眼をむけたが、すぐにあかるい声で、ただいまと言った。女たちは、口ぐちにお帰りと答えた。
三
「とにかく一度会ってみることですな」
平四郎は甚兵衛に言った。甚兵衛はにが虫を噛みつぶしたような顔でそっぽをむいている。
「ご主人」
と平四郎は言った。
「大事な息子どのに悪い虫がついては困る、というお気持はよくわかる。だが今度のことに限って言えば、むしろ悪い虫というのはこちらの息子さんの方ですな」
「………」
甚兵衛は、無言のまま、平四郎に白い眼をむけた。
「いや、そう言えばお気を悪くされるかも知れんが、それがし、正直のところを申しておる。あの二人はへたに引きはなさない方が、息子さんのためですぞ」
「………」
「なにしろあの娘は、貧しいことをいっこう苦にしておらん。じめついたところがなく、明るく暮らしているところが至極よろしいな」
「そりゃ貧乏は苦にしないでしょうよ」
甚兵衛がやっと口をきいた。
「裾継の女郎上がりですからな」
「それそれ、雇われて素姓を調べたのがどういう男か知らんが、いい加減なことを言ったものだ。おもんは女郎などしておらん。息子さんが働いている松葉屋という料理屋で、台所の下働きをしておったそうだ」
「それは本人がそう申しただけでございましょ?」
甚兵衛は意地の悪い口調を改めなかった。吐き出すように言った。
「自分の口から、じつは女郎をしていまして、などという女はおりませんからな」
「女郎でも、下働きでもどっちでもよろしい。とにかく一度会うことをおすすめする」
平四郎は熱心に言った。
「かわいい娘ですぞ。かなりの美人だが、澄ましこんだ美人というわけじゃない。本人はなりふりかまわず働いておる。息子さんもうまい女子をひきあてたものだ」
「甘い、甘い」
と甚兵衛は言った。またにが虫を噛んだような顔にもどっている。
「神名さまも、お若いだけに甘いことをおっしゃる。女子などと申しますものはです、裏も表もあるひと筋縄ではいかない生き物でございますよ。ところが、お話をうかがっていますと、その女子のみてくれにすっかりだまされなすったようでございますな」
「みてくれ? わしはそうは思わんが」
「お金の話を出してみましたか? 三十両、いえ話によっては五十両までは出そうというあのお話はどうしました?」
「むろん言ってみた。だが、こっちが恥をかいただけだったな」
と平四郎は言った。
平四郎はおもんに会うとすぐに、これは庄次郎というドラ息子にはもったいない娘だと見当がついた。甚兵衛が言うような、みてくれのかわいい顔にだまされたわけではない。
おもんの人柄のよさは内側から出て来るものだった。おもんは橘屋の使いで来たという平四郎を、悪く警戒する様子もなく、素直に話を聞いた。
甚兵衛が、二人を別れさせたがっているという話を聞かせると、さすがに暗い顔をしたが、金のことはきっぱりとことわった。庄次郎は勘当された身と聞いたので一緒になったが、実家がそういう考えでいるのなら、自分が橘屋の嫁になれるとは思わないから、身をひくのは当然だろう。しかしそれについて金をもらうことはしたくない、と若い娘とも思えないきっぱりした口上だった。
「金はいらんそうだ」
「どうですかな?」
甚兵衛は疑わしそうな顔をした。
「神名さまに、いっそお金を持参してもらう方がよかったかも知れませんな。眼の前に金を積んでみせたら、その女子もそんなきれいな口がきけたかどうか、あやしいものだ」
「ともあれ、そういうことでな。わしは一度ご主人がじかにその娘に会ってみるのもよかろうと思った。それでおもんにも、息子さんには内緒で親御に会わせようと約束してまいった」
「ミイラ取りがミイラになったわけです」
甚兵衛がつぶやいたが、平四郎はかまわずに言った。
「ご承知なら、段取りはそれがしがつける。しかしそれは気にいらん、ぜがひでも二人を別れさせねば気が済まんということであれば、その役目は余人に頼むのがよろしかろう。それがしは降りる。ただし一日、二日手間を喰ったゆえ、日当だけは頂かねばならんが」
「いやなことをおっしゃる」
甚兵衛はますますにがい顔をした。
「会いますよ。その女子に会えばいいのでしょ? けっこう、どこか小料理屋の二階ででも会うような段取りをつけてください。よろしゅうござんす。会って私がその女子の化けの皮をはいでやります」
四
どこの馬の骨とも知れない者を、橘屋の家に招き入れることは気がすすみません。それにあたしゃいそがしい身だから、深川まで息子の女に会いに行くなどもまっぴら、と甚兵衛が拗《す》ねたようなことを言うので、平四郎は甚兵衛の店からほど遠からぬ品川町に、「ひぐらし」という料亭を見つけて席を取った。
約束は七ツ(午後四時)。八ツ半(午後三時)過ぎに、平四郎が橘屋に行ってみると、甚兵衛はせっかちな性分とみえて、もう身支度をととのえていたので、二人は少し早目に店を出て品川町にむかった。
二人が案内されたのは、庭に面したひと部屋だった。梅雨がまだ明けていないので、晴れてはいてもむし暑く、部屋はうす暗かった。二人は「ひぐらし」につくまでひと汗かいたのだが、からりと襖《ふすま》をひらいたその部屋に入ると、庭から涼しい風が入って来て、汗は間もなくひいた。下草はきれいに刈りこんであるが、庭の樹樹は旺盛に葉を茂らせ、濃い葉影をつくっている。その間に暮れいろを帯びた日射しが、筋のようにさしこみ、風が吹きすぎるたびに、暗い木の葉が揺れて光った。
「ここは涼しくてよい」
平四郎が茶をすすりながら言うと、甚兵衛が、娘は必ず来ると言いましたかと言った。
「そう申した。ご懸念にはおよばん」
「それにしては遅いようですな」
「まだ、七ツには間がありますぞ。少し落ちつかれてはいかがですかな」
平四郎がそう言ったとき、廊下に足音がして、女中が顔を出した。中年の女中はお客さまがおみえでございます、と言って、ひざまずいたままうしろを振りむいた。
すると、足音もなくおもんが部屋の入口に現われた。しきいぎわに坐ると、黙って一礼した。おもんは白っぽい細かな絣《かすり》のひとえに紺の帯をしていた。そのあっさりした着付けが、瓜ざね顔の若若しい顔をひき立てている。
「やあ、来た」
甚兵衛は意表をつかれたような顔をして、ちょっとの間おもんを見ていたが、急にあわただしく女中に膳を運ぶように言い、おもんにはこちらに寄りなさい、と言った。
おもんはそう言われても坐った場所から動かなかったが、女中が膳の物や酒を運んで来ると、自分も立って膳を作るのを手伝った。
「あんたはお客さんなんだから、坐っていなさい」
甚兵衛は叱るような声で言い、酒肴《しゆこう》をはこび終った女中が、行燈に灯をいれて去り、三人が膳の前に落ちつくと、さっそく銚子をとりあげておもんに言った。
「いっぱい、どうですかな?」
おもんは首を振って、お酒はいただきませんと言った。甚兵衛は平四郎に銚子をむけた。
「あんた、おやんなさい」
「わしはけっこう。ひとりでやります。それよりも……」
平四郎は膳の上の魚をむしりながら、少しずつたそがれて行く庭を見た。
「あまり酒が入らんうちに、話をすませてはいかがですかな」
「それもそうだが、ちっとは飲まなければ話も出ては来ません」
内緒の話なので、お酌はいらないと言ってある。誰も酌をしてくれないので、甚兵衛は手酌で二、三杯飲んだ。そして、さてと言った。
「あたしが庄次郎の父親です」
「………」
おもんは膝に手を置いたまま、無理に拉致されて来た女のようにうつむいている。
「庄次郎と暮らすようになって、どのぐらいになりますかな?」
「三月ほどです」
「それであんた……」
甚兵衛は盃を置いて、にらむようにおもんを見た。
「庄次郎が橘屋の跡とりということは、知っていましたかな?」
「そう聞きました」
「聞いたのは一緒になる前か、それともあとか?」
甚兵衛の問いは露骨になった。するとおもんがはじめて顔をあげた。おもんは青白い顔をしていた。
「橘屋の跡とりだから一緒になったのかと聞いていらっしゃるのでしたら、それは違います」
「ふむ。すると庄次郎がそう言ったのは、一緒になった後のことですか」
「後です。聞きましたけれども、あたしは橘屋さんがどんなお店かは、まだ存じ上げておりません。おうわさでは大そうなご身代のようですけど、あたしにはかかわりがありませんので」
「ふむ」
甚兵衛は鼻白んだ顔になって平四郎を見たが、平四郎はにやりと笑っただけで、盃に酒をついだ。橘屋の身代をふりかざしている甚兵衛が、鼻先をぴしゃりとやられた形なのが、小気味よかった。おもんは、言うだけのことを言おうと、腹を決めて来たらしい。だがそうなると、甚兵衛も面白くないだろうから、話はもつれるだろうな。
平四郎がそう思ったとき、不意に甚兵衛が平四郎の耳に口を寄せて、「なかなかしっかりした子ですな。あたしゃこの子が気に入りました」とささやいた。
平四郎が甚兵衛を見ると、甚兵衛はすぐに身体をはなしておもんに向き直り、咳ばらいをひとつした。
「ところで、あたしにはわからないことがひとつある。教えてくださらんか」
「………」
「庄次郎は、親の口から言うのも異なものですが、始末におえない道楽者です。何の取柄《とりえ》もない男です。ところがあんたは、みたところ器量もよく、なかなかしっかりした娘さんのようだ。いやいや、これはお世辞じゃない」
「………」
「そのあんたが、庄次郎のどこがよくて一緒になんなすった? だまされでもしましたかな、あの道楽者に?」
「違います」
とおもんは言った。うつむいたまま小さい声で言った。
「庄次郎さんは、あたしにとてもやさしくしてくれましたから」
「ほう、やさしく……」
甚兵衛は絶句したように、しばらく口をつぐんだ。そして深深とため息をついてから言った。
「あの道楽息子の取柄といったら、むかしからそれしかなかった。女子にだけはやさしいのです」
「あたしは小さいときに両親に死に別れました」
おもんは、小さいがはっきりした声で言った。
「それで子供のときからずっと他人さまのご飯をいただいて来ました。世間のつめたさだけはよく存じています。庄次郎さんのような、やさしいひとにめぐり合ったのは、はじめてでした」
「めぐり合ったか、しようもないやつにめぐり合ったものだ」
甚兵衛は、ぶつぶつとひとりごとを言ったが、急に思い出したように盃の酒を飲んだ。そして背筋をのばすと、おもんに言った。
「ところで、これから言うことは庄次郎に言ってもらっては困ることですから、そのつもりで聞いてもらいますよ」
「はい」
「あたしはね、表向きはあの子に勘当着せたことにしていますが、ほんとのところはそうじゃありません。お役所にはとどけていないのですよ。そう言えばおわかりだろうが、あたしの胸の内は、いずれは懇懇《こんこん》と言いきかせて家にもどしたいということです。いくら馬鹿息子でも、たった一人の子供ですからな」
「………」
「しかし、そのときにだ。あんたも一緒に、というわけにはいかんのです。むごいようだが、橘屋にも世間体というものがありましてな。庄次郎の嫁は、それ相当の店からもらわんと世間に笑われるのですよ」
「お気持はよくわかります。今日はきっと、そういう話だろうと覚悟をきめて来ました」
おもんは顔をあげると、何度も胸の中でくり返したせりふを言うように、淀《よど》みのない口調でそう言った。
おもんは、青白い顔に笑いをうかべようとしたようである。だがうまく笑えなくて半泣きの表情になった。だが、おもんは涙をこぼさなかった。しっかりした声でつづけた。
「身分が違うと言われては仕方がありません。あたくし、そういうことはよくわかりますから」
「と言うと? 伜とは別れてもらえるのですな?」
「はい。がんばっても仕方がないことですから。それに、庄次郎さんのためにも、その方がいいと思いますから」
「ただで別れてくれとは言いませんよ」
と甚兵衛はいくらかやさしい声になって言った。
「五十両受け取ってください。足りなければ、もっとさし上げてもいい。あんたのこのあとの暮らしの足しにしてもらいましょう」
「いえ」
おもんははげしく首を振った。青白かった顔が、ぱっと血の色に染まった。
「お金はいただきません。そのことは、この前にもそちらのお武家さまに申しました。あたしはお金のために庄次郎さんと一緒になったわけじゃありませんし、それに、そんな大金をいただかなくとも、一人で暮らして行けますから」
お話もお済みのようですから、これで帰らせてもらいます、と言っておもんは立ち上がろうとした。すると甚兵衛がほかの部屋まで聞こえるような大声で、待ちなさいと言った。
「ちょっと待ちなさい。話はまだ終っちゃいません」
甚兵衛はひとにらみしておもんを坐らせると、平四郎に膝をむけて興奮した声を出した。
「神名さまのおっしゃるとおりでしたな。あたしゃこのひとが気に入りました」
「わしは間違ったことは言っておらん。もっとも、そっちのひとがご主人を気に入ってくれたかどうかは問題だな」
平四郎は顔も上げずに、魚をつつきながらそう言った。甚兵衛は勢いよくおもんにむき直った。
「おもんさん。いろいろと失礼なことばかり言った。お気にさわったかも知れんが、かんべんしてくださいよ」
「………」
おもんは、甚兵衛の豹変ぶりを、茫然と見守っている。表情はまだ固かった。
「あたしゃ、あんたを試すつもりであんなことを言ったわけじゃない。本気で別れてもらうつもりだったが、考えが変りました。庄次郎が家にもどるもどらないは二の次の話です。どっちみちあんたには、庄次郎の嫁でいてもらわんとな。このとおり、親としてあんたに頼みます」
甚兵衛は深深と頭をさげた。甚兵衛はご飯をたべて行けとすすめたが、おもんはそこまでは気持がほぐれていないらしく、帰ると言い出した。甚兵衛は駕籠を呼ばせようとしたが、おもんは駕籠賃がもったいないから、とそれをことわって歩いて帰った。
「あれです。あれなら橘屋の嫁として立派につとまります」
おもんを門前まで見送って部屋にもどると、甚兵衛がうれしそうに言った。
「それがしは、これでお役ご免というわけだ」
平四郎が言うと、甚兵衛は首を振って、もうひとつ頼みがあると言った。
「息子をこのままにしておけません。潮どきです。ひとつ神名さまからじっくり言い聞かせて、家にもどしてもらうわけにはいきませんか」
五
──嫁の方はしっかり者だが、この息子には問題があるな。
手ごろな石に腰をおろして、庄次郎の仕事ぶりを眺めながら、平四郎はそう思っている。場所は門前仲町の料理屋松葉屋の裏庭で、庄次郎は薪《まき》を割っている。
薪を割って羽目板のそばに積み上げる。ずっと下働きをしているというから、はじめての仕事でもないだろうに、庄次郎の仕事ぶりはたどたどしかった。だが問題だと思うのは、そのことではなかった。
庄次郎の身ぶりそぶりに、ちらちらと世を拗ねた者のやくざな気配がちらつくのである。庄次郎は父親には似ないで、わり合いととのった顔をしていた。日には焼けないたちらしく、色が白い。その顔に時おりつめたい笑いをうかべ、平四郎を見る眼が鋭かった。大店の息子の面影はなかった。
「家へ帰りたいと思うことはないのか」
と平四郎が言うと、庄次郎はにべもない口調で、ないねと言った。
「一度その気になって、家にもどったことがあるんだ。だがおやじのやつ、おれを叩き出しやがった。おれはあの日、奉公人の手で外にほうり出されたんだ」
庄次郎ははげしい勢いで、まさかりをふりおろした。二つに割れた薪が飛んだ。
「いまに、思い知らせてやる」
それはひとりごとだったが、平四郎の耳にはっきりと聞こえた。甘ったれの常として、自分を棚に上げた逆恨みの気持が、この男にも強いらしかった。
「しかし、そろそろいいのじゃないか」
と平四郎は言った。
「料理屋の薪割りもけっこうだが、もどって商売に身をいれてはどうだな?」
「もどる?」
庄次郎はちらと平四郎を見、顔に冷笑をうかべた。
「もどれるわけがないじゃありませんか。おれは勘当の身なんだ」
「いや、あんたは勘当にはなっていない」
平四郎が言うと、庄次郎は振りかぶったまさかりをおろして、平四郎を見た。驚愕《きようがく》の表情になっている。
「勘当になっていないって、どういうことですか? いい加減なことを言ってもらいたくないな」
「いや、おやじさんは届けを出さなかった」
平四郎は眼の前の木の根っ子を指さして、坐らんかね、と言った。庄次郎はまさかりを置くと、のろのろと歩いて来て、平四郎の前に腰をおろした。
「いや、親というものは概《おおむ》ねそういうものらしいが、なかなか勘当までは踏み切れんものらしい。つまりは、そこまで言えば改心して商売に身を入れるかと、はかないのぞみをかけて言ってみるだけよ。だが、その親心が子供に通じることはまずない。人の親の辛いところだ」
平四郎は、甚兵衛がいまの暮らしも、おもんのことも知っていること、おもんには一度会っていることまで洗いざらいしゃべった。甚兵衛がそうしてくれと言ったのである。
おもんは口どめされたことを固く守ったとみえて、庄次郎の顔には驚きのいろがひろがった。
「そういうことでな、おやじさんは性根を入れ替えてもどる気があるなら、あんたのかみさんもろとも、何にも言わずに引き取るというのだ。しかし、いやだと言うなら、それも仕方ない。ここらできっぱりとけじめをつけようというわけだな。そういう頼みをうけて来たのだが、さて、どう返事するかね?」
「しまった」
と庄次郎が言った。顔いろが変っている。
「どうした?」
平四郎は注意深く庄次郎を見た。
「おれはそんなことは知らないから、一途におやじを憎んでいたんだ」
「それはいい。しまったというのは何のことだ?」
「やくざ者が家を襲うことになっている」
庄次郎は父親が憎くてならなかった。千両持って一石橋まで来いと、人に書かせた脅し文を投げこんだのは庄次郎である。だが無視された。
そのことを以前の悪い仲間に打ち明けたのが軽率だった。仲間は庄次郎の子供じみた脅しを嘲笑《あざわら》ったが、二、三日して庄次郎の知らない男を連れて来た。その男は、おやじにひと泡吹かせたいのなら、金はおれたちの仲間で奪って来てやるから手引きしろと言った。
庄次郎はそこまでの度胸はない。尻込みしたが、結局橘屋の出入り口、奉公人が寝ている場所、父親の寝部屋、金のしまい場所、鍵のかくし場所などを残らず吐かされてしまった。男たちは明日の夜橘屋を襲うことになっている。
「人数は何人ぐらいだね」
「五、六人て言ってたな」
「あんたも一緒に行くわけか?」
「まさか。おれはただ、おやじには手を触れないという約束で、家の中のことをしゃべっただけですよ。もっとも、分け前はもらえることになっている」
「救い難いドラ息子だな、あんたも」
平四郎は手をのばして、庄次郎の襟をつかんだ。おびえがうかんでいる眼をのぞきこみながら、低い声で言った。
「いまからすぐ、そのむかしの仲間に会いに行くんだ。口上は教えてやろう。脅し文が入ってから、橘屋では腕の立つ用心棒を二人雇った。盗みに入るのはやめた方がいい。そう言うのだ」
「………」
「連中はそれでも押しこむかも知れんが、あんたは、おれは降りると言うのだ、はっきりとな、それを言わぬと、裏切ったと思われて、殺されるぞ」
六
平四郎と北見十蔵が、橘屋の裏庭にひそんでから、一刻(二時間)経った。星も見えない暗い夜で、夜盗が忍んで来るにはおあつらえの晩のようである。
北見がぴしゃりと腕かどこかを叩いた。
「蚊がいるな」
と平四郎が小声で言うと、北見はかなわんと言い、ついでのようにぼやいた。
「わしは糸屋の隠居に頼まれたから伝えただけで、橘屋などというひとはよく知らんのだ」
「まあ、そう言うな」
北見を一夜の用心棒にひっぱり出した平四郎は、けんめいになだめた。
「おれにしても、ここまで踏みこむことになるとは、思いもしなかったのだ。だが成行きでやむを得ん。あとはご勝手にというわけにはいかんからなあ。手間のことがある。全部片づけて、すっきりした気分で手間をもらいたいものだ」
「本職の盗っ人ではなくて、無頼《ぶらい》の連中らしいという話は本当か?」
「ドラ息子の話ではそうだ。だが真実は来てみなければわからん」
脛《すね》をちくりとやられて、平四郎もぴしゃりと脛を叩いた。
「しかし、なるべく斬らん方がいいな」
「………」
「妙な連中が、後あとまで橘屋に恨みを残すようなことは避けたい。ドラ息子はあまり好かん男だが、そのドラの嫁と申したものが、なかなか好ましい女子でな」
平四郎は、闇の中でひとりで首を振った。
「世の中は妙なものだ。おれのようないい男に、美人で気だてのよい嫁がさずかるとは限らんし、ドラ息子にああいう上玉の娘がくっついて来ることもある」
北見が、不意にしっと言った。塀のあたりで小さい物音がしたようだった。場所は、二人がひそんでいるえごの木の樹陰《こかげ》から、少し左に行ったところである。
二人は木の下から這い出ると二手にわかれた。北見は裏戸のそばに行き、平四郎は物音が聞こえた塀の下に行った。
平四郎の耳は、塀の外にいる人間の荒い息遣いをとらえている。気配で数人はいると思われた。その気配だけだった男たちが、不意に低い声をあわせて、せーのと言った。
声とともに、塀の上に黒い人影がぬっとせり上がって来た。男はしばらく屋敷の内をのぞきこんでいたが、やがて塀の上に這い上がると、いきなり無謀な感じで下にとび降りて来た。平四郎の目の前である。
平四郎は襟がみをつかんで男を引き起こすと、みぞおちに強烈な当て身を叩き込んだ。声を上げるひまもなく地面にのびた男の手から、綱をもぎ取ると、平四郎は塀の外へ投げ返してやった。
裏戸に行くと、北見がぴったりと塀にはりついて、刀の柄《つか》に手をかけている。平四郎はその肩を叩いて、出るぞとささやいた。裏戸をひらいて路地に出ると、塀の外に数人の黒い人影がいて、塀を見上げている。綱が返って来たのはどういうわけだと思っているらしい。
「おい、こっちだ」
平四郎は声をかけた。
「ここがあいておる」
男たちは、一斉に平四郎と北見を振りむいた。平四郎も北見も二本差しなのは、夜目にも見えたはずである。だが男たちは逃げなかった。無言で走り寄って来た。
「やっぱり、素人さんだぜ」
と平四郎が言った。匕首《あいくち》を構えている者もいれば、脇差らしいものをふりかざした男もいた。無言のまま殺到して来る男たちに、狂暴な感じがつきまとっている。平四郎も北見も刀を抜いた。
男たちは身体をぶちあてるようにして、斬りこんで来た。手加減してはいられなかった。峰だけは返したが、平四郎は男たちの刃物をかわしながら、隙を見て力まかせに刀をふるった。男たちの一人は、平四郎の一撃をまともに腹に喰って、塀までふっ飛んだが、それでもまた起き上がって来た。執拗な男たちだった。
その執拗な攻撃を、北見がうまくさばいていた。男たちをあしらいあしらい、ここぞと思うところで放つ一撃で、北見は確実に一人ずつ倒している。
平四郎が、最後に残った一人を塀の方に追いつめて行くと、北見がうしろから、手伝うかと声をかけて来た。
「いや」
平四郎は首を振った。脇差を持った相手は退くとみせて度胸よく斬りこんで来る。平四郎は斬りこませておいて、その脇差を巻き落とした。刀を拾おうとした男の肩口を据え物を斬るように峰で打った。
男たちは地面を這っていた。そしてはなれた場所まで行くと、やっと立ち上がった。足をひきずっている者もいる。平四郎は塀の内に引き返すと、まだ気を失っている男をかつぎ上げ、外にほうり出すと逃げて行く男たちに声をかけた。
「おい、忘れ物だぞ」
北見と一緒に裏庭に入ると、裏戸をしめて錠をおろした。
「怪我をしたか?」
平四郎がたずねると、北見はいや大丈夫だと言った。騒ぎが終ったとわかったらしい。それまで真暗だった橘屋の建物に灯がともった。
「一服してもどろうではないか」
と平四郎は台所口に回りながら言った。
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一 匹 狼
一
「お武家さまをお呼び立てしたりして、申しわけございません」
女は詫びながら、神名平四郎にお茶をすすめた。
「お頼みごとをするのですから、ほんとならあたくしの方でおじゃましないといけませんのですけど、なにせいそがしい商売なもので、ご無礼をさせていただきました」
「なに、気にされるな、おかみ」
平四郎は鷹揚《おうよう》に手を振った。
「頼みごとと申しても、ただで手を貸すわけじゃない。引きうけて手間をもらうのはわしの商売だ。仕事とあればどこまでもとんで来る」
平四郎がいるのは、東両国のあづま屋という料理屋の二階座敷である。使いをもらって来たのだが、手摺りの先にある柳の葉越しに、竪川の落ち口から涼しい風が吹きこんで来て、自分の家にいるよりずっとよかった。
与助店の平四郎の家は狭くて暑苦しいので、平四郎は、日中はたいてい下帯ひとつで畳の上にひっくり返っている。それでもいつの間にか汗みどろになって、井戸に水を汲みに走ったりするのだ。とても客を迎えるという状態ではない。風が通り抜ける料理屋の二階にいると、生き返ったような気分になる。
そのうえ、眼の前のおかみが感じのいい女だった。齢はざっと二十六、七だろう。女にしては背丈のある方だが、太ってはいないから大女というわけではない。さりとて痩せて骨ばっているわけでもなく、白地に青く朝顔を染めぬいた浴衣《ゆかた》に包んだ身体は、のびのびとして見える。腰も胸も厚かった。
おかみは顔をあわせるとすぐに名前を名乗ったが、それによればおかみの名はおこまというのである。美貌だった。のびのびした身体つきにくらべて、顔がやや小ぶりで、目鼻立ちのはっきりした顔には、小皺ひとつみえない。
平四郎が、おこまは二十六、七だろうと鑑定したのは全体の身体つきからだが、小皺ひとつない顔が、若いためではなく、日ごろ念入りに磨き立てているせいだと見たからでもある。
呼ばれて来た先のおかみが、大輪の朝顔のような美人だったことに、平四郎は悪い気持はしない。おこまは、この暑いさ中に、汗ひとつかいていないようである。だが、いつまでも美人のおかみを鑑賞しているわけにもいかなかった。用件は何か、と平四郎は聞いた。
「それが、ちょっと……」
おかみは、言い淀んでうつむいたが、すぐに顔をあげて微笑した。
「お噂によりますと、神名さまは揉めごとならどのようなことでもお引きうけくださると聞きましたが、ほんとでございますか?」
「さよう、まず選《え》りごのみはしておらんな。ただし、わしのやり方はいわゆる円満に片をつけるというやつでな。あいつが憎いから殺してくれといった頼みごとは困る」
「まさか……」
と言ったが、おかみはまだ思案しているようである。そうしている間にも、うちわでゆるやかに平四郎に風を送りつづけているところが、料理屋のおかみだった。
平四郎は助け舟を出した。
「とにかく、その頼みごとというのを申されたらどうかな? むつかしくて、これは出来んということであれば、わしは正直にことわる。思案は、話してみてからでもおそくはあるまい」
「そうでございますね」
おかみはつぶやくと、やっと決心したように正面から平四郎を見た。うつくしい女子だと、平四郎はまた思った。おこまの眼は、深いいろをたたえていて、軽躁《けいそう》なところがないのがいい。
その眼で、じっと平四郎を見ながら、おこまはふっと頬を染めた。
「お笑いになってはいやですよ」
「べつに。わしはあまり笑わん方だ」
「気になって気になって、仕方のない男のひとがいるのですよ」
「どこのどいつだ、その果報者は?」
思わずいきり立った声になったのは、仲裁屋の職分を踏みはずしたというべきだった。失礼と言って、平四郎は親指を立てると、声をひそめた。
「旦那に内緒の、コレかね?」
「あら……」
おこまは肩をすくめると、手で口を覆って笑った。
「この家に旦那はいませんの。六年前に死にました。ずいぶん齢のはなれたひとでしたからね」
「ほほう」
平四郎はあらためておこまを眺めた。眼の前にいる、一見はなやかな感じのおかみは寡婦《かふ》なのかと思った。
「おひとり身とは知らなんだ。そんなふうには見えん」
「人間が、がさつに出来ていますから」
おこまはくすくすと笑った。
「すると、その美人のやもめの心を動かす男が出て参ったというわけかな?」
「そういうのでもないのですけど……」
おこまは、やっと決心したようにひとりの男の名前を口にした。
男の名は吉次。深川三間町の治平店に住んでいて、齢は三十二。三年前に女房を亡くして、子供が三人いる。
吉次は、隣の深川元町にある両替屋山幸に雇われているが、奉公人としてではなく、もっぱら貸金の取り立てに使われているらしい。それはかまわないが、山幸は両替屋の看板を出しているものの、裏で高利貸しもしていて、そっちではかなりあくどい商売をして儲けている。吉次が雇われているのは、この裏の商売の方で、貸金の取り立てというものの、仕事の中身は脅し、ゆすりに似ている。
男一人、どんな仕事で喰おうと勝手だが、吉次はその仕事のために、あちこちでひとの恨みを買っているらしい。本人の身の上も心配だが、第一あれでは子供がかわいそうだ、とおこまは言った。
「その吉次というひとと、おかみとのつながりは?」
「むかしむかしの知り合いですよ」
と言ったが、おこまはまたぽっと顔を赤くし、はにかむように笑った。
「そんなんじゃお引きうけ頂けないんでしょ? よござんす、白状します」
「そうしてもらう方がいいな」
「吉ちゃんとは、同じ裏店で育ったんです。本所の、そばに畑があるような辺鄙《へんぴ》なところで、家が隣同士でした。そう言えば、おわかりでしょ? あたし、ひところは吉ちゃんのお嫁になるもんだと思ってたんですよ」
「………」
「ところが、あたしは両親が病気で倒れて、大家さんの世話で妾奉公に出たんです。十七のときでした。ひと晩泣き明かしましたよ、よくある話ですけどね」
「………」
「だから、六年前に死んだ旦那というひとは、そういう旦那なわけ。その旦那が腹の大きいひとでしたから、この家をもらって、料理屋のおかみづらをしていますけど、あたしはふしあわせな女なんです」
おこまはそう言いながら、自分で吹き出した。もともとが明るい性格で、深刻な話は苦手らしい。
「これで、事情がのみこめまして?」
「すると、吉次というひとの消息は、ずっと気にかけていたわけかの?」
「それが、そうじゃないんですよ、神名さま。そりゃ、たまには思い出すこともありましたけど、あたしあのひとのことなどずっと忘れて暮らしていました。だって別れたのが十二年前ですもの」
おこまは自分の齢を白状したことになる。二十六、七という平四郎の見当は、ほんのちょっぴりずれていて、おこまは二十九になっている。
「それが、いまから半年ほど前に、思いがけないところでばったり会ったんです。そのときはあたし、ほんとに心ノ臓がとまるかと思いました」
おこまは、豊かな胸に手をあてて、眼をつぶるしぐさをした。
半年ほど前に、おこまは神田の富沢町にいる、大津屋という太物《ふともの》問屋に遊びに行っていた。大津屋では、客をもてなすのにしじゅうあづま屋を使い、また大津屋の主人とおこまの死んだ旦那が同業仲間で親しかったので、おこまは大津屋のおかみとは友だちづき合いをしている。
その日も、奥の客座敷で大津屋のおかみと話しこんでいるうちに、不意に表の茶の間から、凄味のあるどなり声が聞こえて来たのである。その声を聞くと、おかみは顔色を変えて立って行った。おかみがなかなかもどらず、忌《いま》わしい言い争いの声がいっこうにおさまらないので、おこまはこっそりとのぞきに行った。ほんの好奇心からだった。そしてそこで大津屋夫婦を並べてどなりつけている吉次を見たのである。
「その吉次と会って話してみたのか?」
と平四郎は聞いた。
「いいえ」
「それにしては、よく事情を知っておる」
「ひとに頼んで、調べてもらったのですよ」
「話は相わかった」
と平四郎は言った。事情はわかって、商談にかかる時期である。
「で、わしに頼みというのは?」
「吉ちゃんに会って、話してもらえませんかしら」
「どういうふうにかな?」
「あたし、あのひとが危い橋を渡っているような気がするんです。まだ若いから、あんなことも出来るんでしょうけど、いまに年取ります。長つづきする仕事じゃありませんよ」
「………」
「吉ちゃんに言ってくださいな。商売替えするつもりなら、この家にだって仕事はいっぱいあるんです。子供もろとも、そっくり引き取ってもいいと、あたしは思っているんです」
平四郎は、吉次がうらやましくなった。
「でも、女のあたしからそんなことを言ったら、あのひとはあたしの眼のとどかないところに、行方をくらましてしまいます。そういうひとなんですから」
「すると、おかみの名は出さん方がいいというのかね」
「ええ、なるべく」
「しかし、しまいには名前を言わぬことにはおさまるまい」
「神名さまにお願いしたいのは、そこのところなんです。うまく言いくるめて、というと何ですけど、なるべくおだやかに、吉ちゃんがその気になるように、話をつけてもらえませんかしら」
そう言ってから、おこまは不意に肩を落とすとため息をついた。しばらく口をつぐんでから、顔を上げて言った。
「吉ちゃんは、むかし鏡師に奉公してたんです。いい職人になるだろうと言われていました。それが、あんなふうになったのは、あたしのこともあるかも知れないんです。ぐれたのは、あたしが妾奉公に出て、間もなくだそうですから。それからもうひとつ。死んだかみさんはあたしの友だちでした」
二
三間町の治平店をたずねると、吉次はいなくて、おこまが言っていた子供三人だけが留守番をしていた。
「そうか。留守なら仕方がない。また来よう」
平四郎は、東両国のおこまの家から、真直ぐ三間町まで来たのだが、べつに今日のうちに頼まれ仕事を片づけようと思ったわけではない。とりあえず様子を見に来ただけなので、そう言って背をむけた。
すると、応対した娘がうしろから声をかけた。
「お侍さん、ご用があるんでしたらもう少し待ったらいかがですか。おとっつぁんなら、じきにもどりますから」
おや、と平四郎は娘を見た。大人のような口をきいた娘は、せいぜい八つぐらいだろう。浅黒い肌をして痩せた女の子だが、くりっとした利口そうな眼が、平四郎を見つめている。
──何と、こましゃくれた娘ではないか。
平四郎は感嘆して、あらためて子供たちを見た。娘は台所の入口に、一人前の女のように膝をそろえて坐っている。茶の間には六つぐらいの男の子と、もっと年下の女の子がいて、柱の陰からのぞいている。平四郎の答えやいかにと窺っている様子なのだ。
平四郎は、鼻の頭をこすって、むむとうなった。
「さようか。それでは少し待たせてもらうぞ」
そう言って平四郎が上がり框《かまち》に腰をおろすと、三人の子供は、それで話が決まったというふうに、急に動き出した。
上の娘は台所にひっこみ、男の子は外に出た。男の子は遊びに行ったわけではなく、軒下から箒《ほうき》を持ち出すと、家の前を掃きはじめた。そして台所にひっこんだ娘は、お盆に茶碗をのせて運んで来た。
「何もありませんけど」
「や、これはご造作……」
またしてもど肝を抜かれた感じで、平四郎は茶碗を受け取った。少少生ぬるいが、中の物は麦湯である。遠い道を歩いて来たので、けっこううまかった。
澄ましこんで台所にひっこんだ娘は、菜っ葉でもきざむらしく庖丁の音を立てはじめたが、これがまた大人顔負けの物音なのだ。誰か大人がいるのではないかと、平四郎は思わず台所をのぞきこんだが、羽目板の隙間から射しこむ日の光の中に、うずくまって庖丁を使っているのは、やはりその娘だった。
娘はやがて竈《かまど》に火をおこしたらしい。むっとした熱気が流れ、味噌汁の香がただよって来た。表では弟の方が使っている竹箒の音がする。茶の間にいる一番小さい子は、ことりとも音を立てないが、一人で遊んででもいるのか。
平四郎は感心して、娘に声をかけた。
「いつも、こうやってあんたが飯の支度をするのか?」
「はい」
「えらいものだ。わしの家の近所の鼻たれどもに見せてやりたいものだ」
そう言ったとき、表でちゃんお帰りという声がし、入口にぬっと人影が立った。中背で肩の骨が突っぱっている痩せた男である。逆光になっていて人相はよく見えないが、眼つきの鋭い男だとはわかった。
表の男の子がちゃんと呼んだところをみると、それが吉次という男なのだろう。だが吉次は、この家の子供たちほどには愛想がよくなかった。台所の娘が出て来て、お帰りと言ったのにも、返事もせずにじっと平四郎を見つめている。
平四郎は立ち上がって吉次と向き合った。
「わしは神名平四郎という者だ。なに、怪しい者じゃない。ただの浪人者だ」
「………」
「さるひとに頼まれてな。ちと、お前さんと談合したいことがあって参った。いやいや、お前さんの商売にはかかわりがない。べつのことで耳よりの話を持って来たのだが……」
「………」
「手間はとらせぬ。上にあげてもらっていいか」
「家に入りてえのなら……」
吉次がはじめて声を出した。低くて陰気な声だった。
「その長物を預かるぜ」
「これか」
平四郎は腰の物を見たが、よろしいと言って両刀をはずした。すると吉次は、外に立ったまま、はるとひとこと声をかけた。はるというのが娘の名前なのだろう。その声を聞くと、台所から娘が出て来て、心得たふうに両刀を受け取って引っこんだ。
──なかなか用心深いものだな。
と平四郎は思った。平四郎が刀を渡すのを見とどけると、吉次はすっと土間に入って来た。物も言わずに平四郎の前を通って茶の間に入った。
上がっていいということだろうと思って、平四郎も後から茶の間に入った。遊んでいた下の女の子は、人みしりをするたちなのか、入れ違いに人形を抱いたまま台所に出て行った。
長火鉢をへだてて、平四郎が吉次の前に坐ると、台所の娘がまた麦湯をはこんで来た。ひと息に麦湯を飲み干した吉次が、腰の煙草いれをはずす。すると娘は、見はからっていたように、十能《じゆうのう》にちょっぴり燠火《おきび》をのせて持って来た。
吉次はすっぱすっぱと煙草を吸いはじめた。煙の中から、黙って平四郎を見つめている。肉が落ちた頬と鋭い眼が人相を険しくしているが、吉次には狂暴な感じはなかった。むしろもの静かな感じの男だった。吉次は広い額や引きしまった口、通った鼻筋あたりに、もっと若いころはさぞ男前だったろうと思わせる面影を残している。真黒に日焼けしているのは、取り立て仕事がいそがしくて、炎天の下を毎日とび回っているせいだろう。
「商売繁昌のようで結構だな」
平四郎が言ったが、吉次は答えなかった。黙って煙草をふかしている。
「しかし、何だ。子供たちのしつけが行きとどいているのにはおどろく。感心したな」
平四郎は世辞を言ったが、吉次はそれにも答えなかった。瞬きの少ないビードロのような眼をじっと平四郎に据えている。
平四郎はせき払いした。
「用件を申そう。じつはさるひとがおぬしの仕事の中身を知って心配しておってな。長くはつづくまいと言っておる。それで商売替えする気があるなら、仕事はあるというわけだが、その気はないかな?」
「………」
「新しい仕事というのは、ひと口に言えば料理屋の下働きといったものだが、中身は客の送り迎え、店の内外の掃除、ちょっとした大工仕事、まあ、そんなものだ。堅気の仕事だ」
「………」
「いい条件がついておる。子供もろとも、三食と寝るところは保証すると言っておる。その料理屋に住みこみでもいいし、それが窮屈だというなら、そばに一軒借りてやってもいい。子供たちは、その家の子同然に面倒みる、というのはそこは子供がいない家なのだ」
「………」
「悪い話じゃない。おぬしにその気がないなら、わしがかわりにすみこんでもいいと思うぐらいだが、わしはお呼びじゃない。お前さんにその気があるなら、というわけだ。お名指しだ」
「………」
「どうかね、このへんで商売替えする気はないか?」
「信用ならねえ」
と吉次がぼそりと言った。口のはしにかすかな冷笑がうかんでいる。
「だいぶうまい話のようだが、裏があるんだろ? 裏の話を聞かねえことには、何にも言えねえな。それに、たかがこれぐらいの話に、ご浪人さんとはいえお武家が使い走りで来るというのも気にいらねえ」
「おっと、それは誤解だ」
平四郎はあわてて自分の商売の披露目を言った。
「という次第で、これはわしの商売。あちこちで話の片をつけて、その口銭で喰っておる」
「………」
「それに、裏と申すがな、この話には裏はない。そのおひとは、ごくまっとうに、お前さんのことを心配しておるのだ」
「誰だい」
と吉次が言った。吉次の眼は、平四郎の話を全然信じていなかった。
「せっかくだから、その親切なおせっかい野郎の名前を聞こうじゃねえか」
こりゃだめだ、と平四郎は思った。あづま屋のおかみは、出来れば名前を出さずに、などと言ったが、そんなことで済むはずがないことは、はじめからわかっていたのだ。
それに、おこまの名前を出してこの男の反応をみるのも、悪くない手だ、と平四郎は腹を決めた。
「よし、じゃぶちまけよう。その料理屋というのは東両国のあづま屋。そう大きな店じゃないが繁昌しておる。頼み主はここのおかみでね。名前はおこまというひとだといえば、心あたりがあるんじゃないかね」
ビードロの玉のように、感情の動きを見せない吉次の眼が、一瞬はげしくまたたいた。だが、それだけだった。黙って煙草をふかした。
「おこまさんは、お前さんもさることながら、子供たちがかわいそうだと言っておる。そのあたりも考えてみたらどうかね?」
「よけいなお世話だ」
吉次が静かに言った。
「女の世話にゃならねえよ」
三
日が落ちると、さっそくにやぶ蚊が平四郎の脛《すね》を刺しに来た。平四郎は、物音を立てないように、平手で蚊をつぶした。
平四郎がうずくまっているのは、木場の材木屋の横手の草むらの中である。何という材木屋かわからないが、新築の大きな家だった。家の裏手に、大小の丸太を積み上げた材木置場があり、家の横には、両側の羽目板と屋根しかない、がらんどうの大きな小屋がある。製材場か、人夫の休み場かだろう。その小屋につづいている堀にも、ぎっしりと丸太がうかんでいる。
吉次の返事は、木で鼻をくくったようなものだったが、それでひきさがっては、仲裁屋の沽券《こけん》にかかわるというものだった。平四郎は、あづま屋のおかみに一応その報告をしてから、少し手間どるがあとはまかせてもらいたい、と言った。
そして、そのあと吉次のあとをつけ回って数日経つ。吉次が元町の両替屋を出るところから、うしろについて行って仕事ぶりを見る。と言っても、家の中まで入るわけではないからくわしい話のやりとりまではわからないが、そうしていると、けっこう吉次の凄みのある脅しの声が外に洩れて来たりして、およその仕事ぶりはわかった。
ある商家では、吉次の怒声にまじって大人の泣き声がしたし、ある船宿では、吉次が外に出るやいなや、塩の桶を抱えた太った女が道が真白になるほど塩をまいた。塩の一部は背をむけた吉次の肩にもかかったが、吉次は振りむきもしなかった。あづま屋のおかみの話のとおりで、吉次は世の鼻つまみ仕事を引きうけているのである。
吉次の行く先はさまざまだった。商い店もあれば、船宿もあり、小旗本と思われる屋敷にも、おそれげもなく乗りこんで行ったし、ちょっとした構えの寺に入って行ったこともあった。そして、今日は木場の材木屋である。
あとをつけるといっても、平四郎はこそこそと身を隠して様子をさぐるわけではない。両替屋の山幸の家の前で、吉次が出て来るのを待っている。時には今日はどちらかな、などと声をかけることもあるが、吉次は返事をしない。じろりと一瞥《いちべつ》をくれるだけで、見むきもせずに歩いて行く。その後からついて行くだけだから、暑さをべつにすれば楽なものだった。
平四郎があとをつけはじめてから、吉次が仕事を休んだのはたった一日。翌日には例の無愛想な顔でまた出て来たから、その一日はただの骨休めだったらしい。山幸にいくらで雇われているのかは知らないが、なかなか勤勉な男である。
──だが、長くはつづくまい。
と、平四郎も思っている。家の中から聞こえて来る怒声のやりとりを聞きながらの感想である。相変らず凄味のある吉次の声が聞こえて来るが、今日の相手は、その吉次の声を押しつぶすような、迫力のある怒声の持ち主だった。どなり合いの間に、何か重い物が倒れるような物音までまじった。
いざというときはとびこまなきゃならんな、と平四郎が心配したほどのどなり合いは、しかし不意にぱたりとやんだ。平四郎は腰を浮かせて竹垣ににじり寄った。灯がともったまま、しんと静まりかえっている障子をじっと見守る。
吉次のお守《も》りまで頼まれたわけではないが、ここであの男が殺されたりしたら身もフタもないことになる。手当てもさることながら、子供の嘆き、あづま屋のおかみの嘆きは目もあてられないことになろう。
──どうした?
平四郎は立ち上がった。手をかけて竹垣をおどりこえようとしたとき、障子の内から不意に笑い声が起こった。さっきのどなり声の主に違いない。笑っている男は、笑い声まで迫力があった。平四郎は耳を澄ました。迫力のある笑い声にまじって、あの吉次が笑ったらこうもあろうかと思われるような、陰気な含み笑いが聞こえる。そして笑い声がやむと、つぎに手締めの音がした。話がついて、仲直りというわけらしい。
平四郎は、詰めていた息を吐き出した。あのどなり合いも、仲直りまでの手順のひとつだったらしい、と思うとばからしくなった。返済の期限のことでか、高い利息のことでか、とにかく吉次が宰領をまかされている範囲のことで折り合いがついたということなのだ。吉次は間もなく出て来るだろうと思いながら、平四郎は頬に来た蚊をぴしゃりとやった。
吉次はすぐに出て来た。門もない庭から道に出ると、すたすたと歩き出した。東の空に、いまのぼったばかりの途方もなく大きく赤い月が懸かっている。吉次はその月にむかって歩いている。亥《い》ノ堀川の河岸に出て、高橋《たかばし》にむかうつもりらしい。月は半ば靄《もや》とも雲ともつかないものに覆われていて、まだ下界を照らすほどの光はなかったが、吉次のうしろ姿はよく見えた。
竹垣の端まで出て、平四郎はしばらくその背を見送ったが、あとをつけるために一歩道に踏み出したとき、材木屋の庭から不意に黒い人影が走り出て来たので、はっと身をひいた。道に出て来たのは、屈強な身体つきの男三人である。男たちはすばやく道の左右を見回したが、すぐに吉次を見つけたらしい。砂を蹴立てる足音を残して、猛然と追っていった。
平四郎もすぐあとを追った。走りながら、やっと面白くなって来た、と思っていた。汗をふきふき吉次の尻を追いかけ回していたのは、いずれはこういう揉めごとが起きるだろうと期待していたからである。
揉めごとといっても、平四郎には吉次の揉めごとの仲裁を買って出るつもりはまったくない。吉次はひと筋縄ではいかない頑固者と見きわめがついている。一度は危い目に会って、自分で懲《こ》りるしかないのだ。懲りて気が弱ったところに、この前の話を蒸し返してやれば、いくら頑固者でも気持が動くだろう。平四郎のもくろみはそういうものだった。
いささか迂遠《うえん》なやり方と思わないでもないが、仲裁稼業は辛抱が肝心なのだ。第一、吉次の首に縄をつけて、あづま屋までひっぱって行くわけにはいかない。
──さあ、やってくれ。
平四郎は前を走って行く三人の男に声援を送った。あの頑固者の取り立て屋を、殺さない程度に痛めつけてくれ、と思った。おそらく、さっき迫力のある声で笑っていた男は、吉次を送り出したあとで、笑ったことも手を締めたことも気にいらないと考え直したに違いないのだ。つまり、どなり合いのつづきをやろうというわけだろうが、そうこなくては面白くない。
そう思いながら平四郎は、むろん連中が刃物を出して、吉次が危なくなったときは助けなくてはなるまいと思っていたのである。
だが、平四郎のもくろみははずれた。男たちが吉次に追いついたのは、崎川橋の手前である。そのあたりは建っている家も不揃いで、河岸には草ぼうぼうの空地が目立つ。男たちはそのあたりで一気に距離をつめて、吉次に追いついた。
何か言いながら、吉次を草むらに連れこむ。吉次はおとなしく草むらに入って行った。だがその先の話がもつれたようである。三人が言いあわせたように匕首を抜いたのが見えた。だが吉次は、そのときは自分も匕首を握っていた。
吉次の動きはおどろくほど機敏だった。正面の大男を匕首の一撃でのけぞらせると、足をとばして横から追っていた男の匕首を蹴り上げた。匕首が鈍く光って宙にとぶのが見えた。うしろから突っこんで行った男を、吉次は体をかわしながら腕を抱きこんだ。その一瞬前に、強烈な肘《ひじ》打ちを相手の脇腹に叩き込んだようである。抱きこんで匕首の柄で顔面を一撃してから、吉次が腕を放すと、男はずるずると草むらに沈みこんでしまった。
匕首を飛ばされた男は、無謀にも両手をひろげて吉次につかみかかって行ったが、吉次はその男には匕首を使わなかった。すばやく足をとばして男の股間《こかん》を蹴り上げた。そのひと蹴りで、男は棒が倒れるようにのけぞって倒れた。吉次の攻撃は、残忍ですばやかった。
吉次は、匕首を持っている大男と一対一でむきあった。怒号して男が斬りつけるのに、吉次は逃げずに自分から踏みこんで行く。二人とも匕首を使っていたが、吉次の動きの方が男よりも一瞬速かった。吉次も手傷を負ったようだが、大男の方が傷は深い、と平四郎には見えた。その証拠に、大男の方が少しずつうしろにさがっている。吉次は男を追いつめていた。男は、もう斬りかかるのをやめていた。防ぐのに手一杯のようだった。
吉次が手を出し、男が匕首を渡した。その匕首を、吉次は川に投げこんだ。そして道に出て来るとすたすたと歩き出した。うしろで男が草むらにうずくまるのが見えた。
ゆっくりとあとを追った平四郎が、吉次の家の戸をあけると、上がり框に腰をおろした吉次が、肩の傷の手当てをしているところだった。はるという娘が、甲斐がいしく傷口を洗っている。吉次は戸をあけた平四郎に眼もくれなかった。
「なかなかあざやかな手並みだったな。山幸がお前さんを雇っているわけがよくわかったよ」
平四郎が言ったが、吉次は返事をしなかった。娘もそ知らぬふりで、丹念に傷口の汚れを洗い落としている。
「しかし、こういうことをつづけていると、あまり長生きは出来んぞ。この間の話を、少し考えてみる気にならんか」
「よけいなお世話だ」
ひとことだけ、吉次は言った。それから、この男がと思うようなやさしい声で、おはるや、今度は棚の焼酎を持ってきておくれ、と言った。
四
平四郎は、おはるを連れて竪川の河岸を歩いている。吉次の留守をみはからって連れ出して来たのだ。あとの二人は、隣の鋳《い》かけ屋に頼んで来た。
午後の白い日射しが、ぎらぎらと竪川の上に弾けている。材木を積んだ舟が一|艘《そう》、ゆっくりと落ち口にむかって漕《こ》ぎくだって行くのが見えた。船頭が使う竿《さお》の先にも、白い日の光が砕ける。
「もう間もなくだ」
と平四郎は言った。おはるをあづま屋に連れて行くのである。
「いまはやっておらんが、以前は橋ぎわにいろいろと見世物が出ていたものだ。見たことがあるかね?」
「ある」
とおはるは言った。おはるは家にいるときよりもいくらか緊張しているようだった。口数が少なく、その分だけいつもより子供っぽく見えた。じっさい、この娘が飯の支度どころか、父親の傷の手当てまでしていたなどとは信じられない、と平四郎は思った。
「あんたに会いたいというおばさんの家は、見世物小屋があった近くにある」
「一ツ目橋の近くでしょ?」
「そうだ。さっきも言ったが、そのおばさんはだな、おやじさんの商売のこともさることながら、あんたたち子供がかわいそうだと言っておる」
「………」
「あんたは飯の支度も出来る。おやじさんの傷の手当ても出来る。利口な娘だ。だが、まだ子供だ。子供らしく遊びたいときだってあるだろうというわけだ。傷の手当てなどはさせたくないと言っている」
不意におはるが立ちどまった。くるりと平四郎に背をむけると、手で顔を覆った。平四郎の言葉で、ふだんは押し殺している父親の仕事に対する心配や、母親のいないさびしさなどが刺戟されたというふうに見えた。
柳の枝が垂れさがっている下で、声を殺して泣いているおはるの小さな背に、この娘がふだん懸命にこらえているものが出ているのを、平四郎は腕組みして見ている。
そばを通りすぎるひとが、二人に好奇の眼を投げて行く。だがおはるはそんなに長くは泣いていなかった。懐から出した鼻紙で顔を拭き、その紙をちんと鼻をかんで捨てると、平四郎にむき直った。まぶしげに笑ってから言った。
「ごめんね」
「なあに、かまわん」
と平四郎は言った。
「人間泣きたいときは我慢せずに泣けばよい。その方があとがさっぱりする」
二人はまた歩き出した。一ツ目橋が見えて来た。
「そのおばさん、あたいのおっかさんを知ってたって、ほんと?」
「ああ、幼な友だちだそうだ。それにそのおばさんは、あんたのおやじさんのこともよく知っている。子供の時分の話だがな、おやじさんの嫁になりたいと考えたこともあるそうだ」
「ふーん」
おはるは考え深そうにうなずいた。
おこまは、二人を待っていた。二階の奥の一番上等の座敷に、二人を通した。
「まあ、まあ、あんたがおはるちゃん?」
むかい合って坐ると、おこまは挨拶抜きでいきなりそう言い、じっとおはるを見つめたかと思うと、懐から鼻紙を出して眼を押さえた。しばらくそうしていたが、手をはなすとにっこりとおはるに笑いかけた。
「ごめんなさい。でも、おばちゃんびっくりしちゃったのよ。あんたがおみっちゃんの小さいころにそっくりだったもので。今日はよく来てくれたわね」
「こんにちは、おじゃまします」
と、おはるは大人のような挨拶をしたが、そこに女中が白玉やところてんを運んで来ると、そっちの方をじっと見た。
「さあ、今日は聞きたいことがいっぱいあるの。これを喰べながら、お話を聞かせてちょうだい」
「わしはどうしようか」
と平四郎は言った。
「神名さまも、ここにいてください。あたしこの子を見て、お頼みしたことはやっぱり間違っていなかったという気がします。ご一緒にこの子の話を聞いてください」
「そうするか」
平四郎は白玉の椀をひきよせながら、ぐちを言った。
「しかし吉次は、白玉を喰わせると言ってもついては来んからなあ」
五
平四郎は、相変らず吉次のあとをつけている。この間はあてがはずれたが、木場のはずれであったようなことは、また必ずあるに違いないと思っていた。あの頑固者をこっちの土俵に引きずりこんで話をつけるには、気長にそういう機会を待つしかない、と思っているのである。
吉次は大概昼過ぎに家を出る。そして一たん両替屋の山幸に寄り、そこで仕事の指図をうけて出かける。仕事は夕方までに終ることもあり、夜にかかることもあった。どっちの場合も、吉次はまた山幸にもどって、しばらくして家に帰る。
平四郎は、たまには吉次が山幸にもどったところを見て、そこから家に帰ることもあるが、大ていは吉次が裏店の家に入るところまで見とどけてから、ぶらぶらと帰途につくようにしていた。
あづま屋のおかみは鷹揚な女で、平四郎の考えを聞くと、いくら日にちがかかろうとその間の日当は出すと言った。吉次との話がついたときは、べつに手当てが出る。成功報酬というわけである。悪い仕事ではなかった。ぶらぶらとあとをつけている間にも、ちゃんと日銭は稼げている。日当は一日五百文で、吉次との間に話がつけば、五両の手当てがもらえる約束である。
日当の手前もあって、平四郎はなるべく手抜きせずに吉次のあとをつける。山幸は元町の行徳通りにあって、そこから吉次の家までそう遠くはないといっても、その間に吉次が襲われる心配がまったくないわけではない。もしそうなっては、待ちうける機会をのがすだけでなく、万一のことがあれば眼の前にぶらさがっている五両の手当てがフイになるのだ。
というわけで、平四郎は今夜も山幸から出て来る吉次を待ち、ぶらぶらとあとをつけている。吉次は平四郎には眼もくれず、先に立ってすたすたと歩いて行く。
吉次は今夜、山幸を出るのがいつもより遅く、時刻は五ツ半(午後九時)を過ぎている。空にこうこうと月が光って、あとをつけるのに何の苦労もいらなかった。
行徳通りから三間町の方面に曲る道に入る、片側は町家、片側が武家屋敷の塀で、夜は人通りの少ないさびしい場所だ。塀のはずれに、武家屋敷の辻番所の灯が見える。
その道で、吉次が不意に足をとめた。ふりむいてお武家さんと言った。めずらしいことである。さてはやっと話し合う気になったかと、平四郎は手を揉む感じで近寄ると、何だと言った。
「おはるのことですがね」
吉次は、光る眼でじっと平四郎を見据えながら言った。
「よけいな知恵はつけねえでもらいましょうか。近ごろ妙なことを言い出して、うるさくってしようがねえ」
平四郎は、ははあと思った。おはるをあづま屋のおかみに会わせたのは平四郎の才覚である。搦手《からめて》から攻めてみるのも一法だろうと思ったのだが、なにせ吉次の家は親子一体という感じの家である。さほどに効果を期待したわけではない。
だからおこまが、白玉をうまそうにたべるおはるをみて、家に来れば白玉などいつでもたべさせてあげる、などと露骨に誘いかけている言葉も、そばにいながらいい加減に聞きながしていたのである。だがおはるは、そのときの白玉や、そのあとで出た高価な蒸し菓子、帰りにもらった姉さま人形などが存外気に入って、父親に、あづま屋に行こうとせがんだりしたのかも知れなかった。
そうだとすれば、おこまはさすが女で、利口だといってもおはるがただの子供にすぎないと見抜いていたとも言える。
平四郎はにやにや笑った。
「まあ、そう怒るな。あづま屋のおかみが、一ぺんは会ってみたいというから連れて行ったまで。他意はない」
「おこまにも言ってもらいましょう。料理屋のおかみがなに様のつもりか知らねえが、よその暮らしによけいなおせっかいはいらねえとね。はばかりながらおれも男だ。他人の世話にゃならねえよ」
「そううまく行くかね」
と言って、平四郎は吉次に眼くばせした。それではじめて気づいたらしい。吉次ははじかれたように平四郎から身体をはなすと、塀を背負って、懐に手を入れた。
いつの間に忍び寄ったのか。むかい側の町家の軒下に、黒黒と数人の男が立って、二人を見つめていたのである。吉次が動くのと同時に、軒下から走り出た男二人が、すばやく退路を断った。黒い布で頬かぶりをした男たちである。手にはもう匕首が光っている。
──こいつはみものだぜ。
と平四郎は思った。平四郎は身におぼえがないから、多分吉次を襲って来たのだろうが、その男たちは玄人《くろうと》だった。動きにむだがなく、軒下から道に出て来た男たちの身ごなしもツボにはまっている。男たちは歩きながら匕首を抜いた。この連中は、身体は大きいが匕首の扱い方を知らなかった木場の男たちとは違う。
平四郎は、吉次とは少しはなれて、用心深く塀に身を寄せたが、はたして男たちのなかの一人だけが平四郎の動きを監視するように、じっとこちらをみて立っているだけで、ほかの男たちは平四郎に眼もくれなかった。じりじりと吉次を囲んだ輪をせばめて行く。
そして突然に乱闘がはじまった。吉次は相かわらず敏捷だった。はじめから匕首を使ったのは、男たちの殺気を読んだのだろう。右に左に、軽快に動いた。逃げる気配はみせず、男たちを恐れてもいなかった。
──大した度胸だ。
平四郎は感嘆した。さすが、おこまの世話にはならないと見得を切っただけのことはあると思った。
男たちのうちの一人が、がくりと膝を折って地面にうずくまった。そのまま立ち上がれないでいるのは、吉次に刺されたのだ。また一人、乱闘からはなれた男が、町家の軒下までよろめき走ると、どっと腰を落とした。
だが吉次が優勢だったのは、そこまでだった。あとの三人は冷静に吉次を追いつめていた。一人は吉次の刺突を軽がるとかわしている。そして横から斬りこんだ男の匕首が速かった。吉次の動きが急に鈍った。相手の匕首をかわしたとき、吉次は足をもつれさせたようである。疲れたか、それとも刺されたかしたのだ。
それまで、吉次の匕首をかわすだけで、攻撃をかけていなかった男が、正面に回った。腰がぴたりと決まり、足のはこびが地に吸いついたように見える男である。吉次が少しずつうしろにさがった。
──潮どきだ。
平四郎は塀から背をはなして、道に出た。すると、それまで無言で平四郎を見まもっていた男が、一瞬のためらいもなく攻撃をかけて来た。男は三間の距離を一気に跳躍した。黒い蝙蝠《こうもり》が飛んでくるようだった。平四郎の抜き打ちが、一髪の差で間にあい、男は平四郎の背後に落ちると、そのまま動かなくなったが、平四郎は背筋が冷えるのを感じた。だがかえりみるひまもなく、乱闘をつづけている男たちに駆け寄った。
男たちは、やはり玄人だった。平四郎の姿をちらとみると、匕首を引いて、あっという間に横町の闇に姿を消した。傷をうけてうずくまっていた男たちも、いつの間にか消えていた。
残っているのは、平四郎の峰打ちを喰った男だけである。月に照らされた道に男は長長とのびていた。
「おい、大丈夫か?」
平四郎が声をかけると、吉次は大丈夫だと言った。だが、髪は乱れ、着物はあちこち斬り裂かれて、吉次は幽鬼のような姿になっている。顔にも血が流れている。
平四郎が、倒れている男のそばにもどると、吉次もついて来た。
「斬ったのかい?」
と吉次が言った。
「いや、峰打ちだ。そのうち自分で気づいてもどるさ」
言いながら、平四郎は男の頬かぶりを取った。その顔を見て、吉次が、やっぱり徳蔵だぜ、と言った。平四郎もその顔に見おぼえがあった。山幸の店先で、二、三度見かけた男である。
「こいつは何者だね?」
「山幸の雇い人さ」
吉次は吐き出すように言い、汚ねえ手を使いやがる、とつぶやいた。襲って来たのは、山幸に使われている男たちらしい。
「雇い主に、命を狙われるようなことでもやったのかね」
「そうじゃねえよ」
吉次はちょっと口をつぐんだが、あっさりと言った。
「今日、おれはちょっとしたでかい仕事をして来たのだが、中身はお上の法に触れている。むろん、山幸の言いつけでしたことだが、山幸はおれを生かしておいたんじゃまずいと考えたんだろうよ」
よくあることだ、と吉次は言った。そして、今夜はお武家さんに助けられたらしいや、すまなかったと言うと背をむけた。
その背に、平四郎は呼びかけた。
「山幸じゃもう働けんというわけだ。お前さんも年貢のおさめどきだな」
「………」
「おい、この前の話を考え直す気はないかね」
吉次は答えなかった。すたすたと遠ざかって行った。
二日後の夕刻、平四郎は竪川の河岸を東両国にむかって歩いていた。いささか気落ちしている。
吉次を助けた翌日、平四郎は昼過ぎになって吉次の家をたずねた。昨夜のことで、吉次もかなり気持が落ちこんでいるはずだから、そこをつかまえて話をつけようという心組みだった。だが、たずねた吉次の家は、もぬけの殻だったのである。空き家になっていた。
裏店の者に聞くと、吉次と子供たちは、朝早く引越して行ったという。どこへ行ったかは誰も知らなかった。平四郎はあわててあづま屋にもどったが、そこにも何の消息もなかった。手当て五両のもとが、忽然《こつぜん》と消え失せたわけである。
おこまに尻を叩かれて、昨日、今日と親子の行方をさがしたが、手がかりはまったくつかめなかった。
──当然、気づくべきだったのだ。
平四郎は自分の頭を殴りつけたい気分になっている。吉次は山幸の眼のとどかないところに姿を隠したのだ。
冴えない顔であづま屋にもどると、顔馴染みになった女中が、神名さまが見えたら二階のおかみさんの部屋に来るように言われてます、と言った。
──そう期待されても、おみやげは何もないのだ。
と思いながら、平四郎は梯子をのぼって二階のおこまの部屋に行った。すると中で子供の声がした。なんとおはるの声である。平四郎はさっと襖《ふすま》をあけた。
「やあ、これは、これは」
と言ったきり、平四郎は茫然としきいぎわに立ちすくんだ。おこまの前に、子供が三人いる。おはるとその下の弟と、一番下の女の子。三人は行儀よく坐って、出されたせんべいをたべていた。
「おはいりになったらどうですか」
おこまがにこにこしながら言った。平四郎が坐ると、子供たちはこんにちはと挨拶した。
──こんにちはもないものだ。心配させてからに。
苦笑して、平四郎はおこまに親指を立てて見せた。
「これも一緒かね」
「とんでもない」
とおこまは言ったが、顔はまだ笑っている。
「おはるちゃんが、これの……」
と言って、おこまも親指を立てた。
「留守中に勝手に来たんですって。いまごろは心配して、さぞうろうろさがし回っているでしょうよ」
おこまは小気味よさそうに言った。機嫌がいいのは、子供たちに好かれたおばさんの役割がまんざらでもないのだろう。
そのとき、下の女の子がおはるに言った。
「今晩、おばちゃんの家に泊るの?」
「だめよ、おとっつぁんが心配するから」
「でも、あたいは泊りたい」
下の女の子はそう言うとべそをかいた。平四郎とおこまは顔を見あわせて笑った。
「家は?」
「横網町の与次郎店ですって」
「何だ、近いところだ」
吉次も気が弱ったかな、と平四郎は思った。それなら五両の話をつける絶好の機会だ。平四郎は立ち上がった。
「泊っていいかどうか、おじさんが聞いて来てやるぞ。それまで、ここで遊んでいることだな」
そう言うと、おこまも平四郎の考えをさとったらしく、頼みますよと言った。平四郎は大いそぎであづま屋を出た。
与次郎店は、横網町の北の混み入った路地の奥にあった。新しく越して来た家と言うと、吉次の家はすぐにわかった。戸は開いていて、のぞくと上がり框に吉次が腰をおろしている。鋭い眼で平四郎を見返したが、顔は憔悴《しようすい》し切っている。
「やあ、やあ。まんざら知らぬ仲でもあるまいに、ことわりもなしに姿を消すとは、ちとつれないではないか」
「………」
「子供たちがおらんので、困っているのじゃないかね」
吉次はじっと平四郎を見た。そして陰気な声で、あんたの指し金じゃあるまいな、と言った。
「バカ言いなさんな。わしはたったいまこの家を見つけたばかりだ」
「………」
「しかし、子供たちなら、あづま屋のあたりをさがしたら見つかるかも知れんなあ」
吉次は何も言わなかったが、顔にみるみる安堵のいろがうかび上がった。二、三度眼をまたたかせた。平四郎はつかんでいた柱から、手をはなした。ずけずけと言った。
「強情もいい加減にすることだな。三人の子持ちが、一匹狼を気取っても仕方あるまい。とにかく、一度おこまさんに会ってみることだ。お前さん、気づいているかどうか知らんが、近くに越して来たのは気が弱っている証拠だよ。うん、間違いない」
それだけ言って、平四郎は背をむけた。表通りに出て、町家から天水桶の陰に立った。そして待った。吉次が表通りに出て来たのは、それから四半刻ほど経ったころである。吉次はさっぱりした着物に着替えていた。子供を迎えに行くただの父親に見えた。おこまに会いさえすれば、例の話は難なくつくだろう。
──ふむ。
今度の手間は、手に入れるのに苦労した、と平四郎は思った。吉次の姿が消えてから、たそがれて来た道をゆっくり歩き出した。
[#地付き](上巻 了)
本書は、一九八五年に刊行された文庫の新装版を底本としています。
〈底 本〉文春文庫 平成十五年十二月十日刊