浪漫’s ロマンス
見参! 桜子姫
藤 水名子
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)紐《ひも》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)黒|法被《はっぴ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]装画/村上豊
-------------------------------------------------------
[#挿絵(img/01_000.jpg)入る]
〈帯〉
新境地! 大江戸冒険恋愛譚
痛快!
EXCITING!
藤版浪漫時代劇!
必殺の剣が奔る。桜子姫、危うし。
漆黒の髪に艶やかな目鼻立ち、三日月藩主の娘・桜子姫。
江戸家老の御家騒動の陰謀を阻止せんと上屋敷を出奔……。それに従うは、乳母の楓に、浪人者・藤十郎、女手妻師・お多香。ハチャメチャ痛快! もう、読みだしたらとまらない。
[#改ページ]
[#挿絵(img/01_001.jpg)入る]
浪漫’s ロマンス ROMANCE
見参! 桜子姫
藤 水名子 MINAKO FUJI
集英社
CONTENTS
桜子逍遙(さくらこしょうよう)
陋巷暗雲(ろうこうあんうん)
女賊跳梁(じょぞくちょうりょう)
妖異・髑髏壺(ようい・どくろつぼ)
浪士憂情(ろうしゆうじょう)
乳母殿の恋(うばどののこい)
[#地から1字上げ]装画/村上 豊
[#地から1字上げ]装丁/藤村雅史
浪漫’s ロマンス
見参! 桜子姫
[#改ページ]
桜子逍遙 さくらこしょうよう
1
「これでどうだい?」
「まだまだ……」
「長さがいまひとつかな」
「それにもちっと、頑丈なほうが」
「暴れられたら、ことだからな」
問題は、紐《ひも》の長さでもあり、且《か》つは適度な太さでもあった。
「じゃあ、これは?」
「あぶねぇな」
仮に、熊と八とでもしておこう。
齢《とし》の頃なら三十がらみ。言わずと知れた満面髭面《まんめんひげづら》の、人の二、三人は確実に殺していそうな御面相。素肌に纏《まと》った黒|法被《はっぴ》の袖は二の腕の上まで腕まくり、絡《から》げた裾から薄汚れた下帯の先もチラチラと覗き、露《あら》わな毛臑《けずね》の醜さといったらない。
見るからに品性卑しげな二人の男たちが、ともに額を突き合わせ、ヒソヒソと密談の真っ最中だった。
しゃがみこんだ土間の傍らには、安手の辻駕籠《つじかご》が放りだされたままである。
ねじり鉢巻きに揃いの法被――。
そう。なにを隠そうこの二人、上野から下谷《したや》あたりまで、広小路界隈を稼ぎ場とする駕籠|舁《か》き人足にほかならない。
ところが――。
「畜生ッ。この肝心なときに、縄の一本も家にねぇとはな」
「しょうがねぇ、扱《しご》きを縒《よ》り合わせて、三本も繋《つな》げばなんとか……」
今日のあがりの勘定よりもまだ真剣な面つきで交わし合う言葉は、仕事帰りの駕籠屋同士のものにしてはどうも奇妙だ。それに、家中の紐という紐をかき集め、あれでもないこれでもないと検討するらしい姿もどこか不穏。
「久々の上玉だぜ」
「二人でたっぷりと愉《たの》しんだあとは、女郎屋へ……」
「あれくれぇの別嬪《べっぴん》なら、吉原《なか》の大見世《おおみせ》でだって充分な値がつくってもんだ」
「今日はまったくツイてるぜ」
「こっちのほうは、少々足りねぇらしいけどな」
とやや太り肉《じし》で色の黒い熊のほうが、右の人差し指に自らの頭を指しつつ言えば、
「なぁに、そのほうが、いっそこっちも好都合ってもんよ」
少し痩《や》せ気味な狐顔の八が、ニタリと笑って歯を見せる。
言い交わす彼らの手の中には、女物と思われる赤や黄色の扱き帯が幾本かあった。それらを縒って、結んで、長い一本の縒り紐に仕立ててゆく作業に、しばし二人は没頭する。
本来の生業である駕籠舁き仕事のときにだって見せないに違いない真剣な顔つきであった。
斯《か》くて、……しばしのときが流れる。
「大変そうじゃのう」
不意に、部屋と仕切りの障子が開かれ、一人の美女がひょっこりと顔を出す。
「手伝ってとらそうか?」
屈託のない、若やいだ笑顔であった。
齢の頃なら十九か二十歳。艶《つや》やかな黒髪は、結わずに赤い丈長《たけなが》で一つに束ねただけ。その身に纏うた、浅紅色《せんこうしょく》の牡丹を二重に織り出した金襴は、目鼻だち鮮やかな彼女の顔だちにもよく似合うが、如何《いかん》せん派手すぎる。ひと昔前なら兎《と》も角《かく》、諸事倹約を旨とする昨今の御時世では、廓《くるわ》の大夫たちだって憚《はばか》って用いないに違いない。況《ま》してや堅気の町娘、武家の妻女であれば、気恥ずかしくって、到底袖を通せはしまい。
そんな風体に加えて、
「如何《いかが》すればよい?」
まるで男の、それも折り目正しい武士のような口調で喋《しゃべ》るものだから、一見しては、一体どういう出自の、どういう類いの女なのか、極めてわかりづらかった。
「その紐を、縒って一つに結べばよいのか?」
「い、いいえ、滅相もない。……お姫様にそんなことをしていただいちゃあ、罰が当たりまさあ」
「どうかお気になさらず、そちらでお休みになってておくんなさい」
気軽く土間へ降りて来て、二人の仲間に加わろうとする女の手を、彼らは慌てて止めにかかった。
「しかし、この仕事がすまぬうちは、播州《ばんしゅう》へは発ってくれぬのであろう?」
「そ、それは……」
「遠慮するな。苦しゅうないぞ」
と、飽くまで邪気のない可憐な笑顔で言われて、熊八は、互いに顔を見合わせた。
少々オツムが弱いらしいとは思っていたが、まさかここまで、おめでたいとは思わなかった――。
呆気《あっけ》にとられた二人の男は、ほぼ同じ瞬間、寸分違わぬ同じ感想を得たに違いない。
(お、おい、こうなったら、てっとり早く……)
(騒がれねぇように、まずは口を塞いでから)
(それから両手を、後ろ手に縛って……)
(おめえが頭を押さえつけてるうちに、俺らが足のほうを……)
目顔で見合った僅《わず》かのあいだに、忽《たちま》ち無言の談合がまとまった。
そうと決まれば、気づかれぬようそろそろと動いて、熊は女の右側へ、八は左側へと、それぞれが負った役割をはたすべく、素早くその身を処してゆく。
「できたぞ。……これでよいのか?」
とりどりの扱きで作った一本の長い縒り紐を両手にキュッと伸ばしつつ、女が言ったその瞬間――。
(いまだ!)
男たちの両目が、脂ぎったようにギラリと光った。
が――。
「そうじゃ!」
不意に女が立ち上がり、ツイと彼らに背を向けてしまったから、たまらない。
パッ、
と素早く身を翻し、同時に女へ襲いかからんとしていた熊八コンビ、肝心の目的物を失って、忽ち額を打ち合わせる羽目となる。
「楓《かえで》のことを、忘れておった。……はぐれて、道に迷わねばよいが」
立ち上がりざまに、女はふらりと、土間の端を歩いた。
悪人顔の駕籠舁きたちがそのときどういう態度に出ようと、もとより知ったことではない。心配顔に独りごちた女の視線は、そちらを見向きもしなかった。
熊と八は、ともに土間へ蹲《うずくま》った姿勢から、無念の面つきで女を見上げた。
彼らの誇る、ものの見事な人相の悪さは、即ち彼らの中身をも、如実に物語っていた。駕籠舁き仕事をはじめて、もうかれこれ七、八年近くになるが、この間お客を駕籠に乗せているより、自分たちがお客の上に乗っているほうが長いという、彼らは実に不届き千万な駕籠舁きだった。お客には、吟味に吟味を重ねた揚げ句、常に若い娘しか選ばなかった。こっそりと人気のない場所へ連れ込んで手ごめにするくらいは朝飯前。ときには、遊郭へ売り飛ばすという悪行をもしてのける。
いまだって、最前街角で拾ったこの奇態な美女を、二人がかりでさんざんに弄《もてあそ》んだ後、高値で遊郭へ売り飛ばさんものと、穏やかならぬ思案を固めているのだ。そのために必要な扱きであり、頑丈な縒り紐だった。
かくて完成した縒り紐は、屈強そうな熊の手に、いまや遅しと握られている。
「お乳母《うば》様のことなら、なにも心配は要りませんぜ。おっつけ追いついて来まさあ」
揉み手の低姿勢で八が言い、女の注意を引きつけたところで、そっと背後から忍び寄った熊が、まさにその縒り紐を、彼女の体へ打ち掛けんとしたその刹那《せつな》――。
「姫様ッ」
呼び声とともに、表の障子がカラリと開け放たれた。
七十がらみと見える武家の老女が一人、勢いよく飛び込んでくる。渋い茶縮緬《ちゃちりめん》の裾から、あまり見たくはない水色蹴出しを覗かせるほどに、甚《はなは》だ裾を乱していた。切り髪の白い毛束をゆらゆらと揺らし、真っ赤に上気した顔で、息も激しくきらしている。
「楓」
「ご無事でいらっしゃいましたか、姫様」
ホッとひと安堵の表情とともに、多少呼吸を整えてから、
「これ、そのほうども――」
老婆は即ち、二人の駕籠舁きへ、鋭く、一瞥《いちべつ》、視線をくれた。
「この、慮外者どもめッ。……来年には古稀《しちじゅう》を迎えようというこの足弱のばばを置き去りにして行くとは、如何なる料簡じゃ」
「…………」
老婆の気迫に一瞬|呑《の》まれ言葉を失くしてから、だが熊と八の二人は、突如その面つきを一変させた。
「畜生ッ」
「こうなりゃもう、ババアをぶち殺して、とっとと女をふん縛るまでよっ、熊ッ」
「おうッ」
相棒の掛け声に励まされ、大柄な熊の体が小さくとび跳ねた。目指す女の娜《しな》やかな肢体は、長く手を伸ばしたその半歩先にある。
「姫様ッ」
老女の金切り声が高くはりあげられたとほぼ同じ瞬間――。
どずっ、
鈍い殴打の音とともに、熊の鳩尾《みぞおち》へ、女の右肘が深く食い入り、彼の呼吸を一瞬間止めさせた。
「なにをいたす、慮外なッ」
「お気をつけなされませ。この者共、姫様に害を為さんとする不逞の輩《やから》にございまするぞ。或いは暮林《くればやし》の手の者かもしれませぬ」
「なに、暮林の?」
美しい姫君の顔つきが俄《にわか》に変わった。
老女の言葉に触発されたというよりは、身に迫る危急の事態に、知らず体が反応したのだ。
「…………」
声も発せず足下《あしもと》から襲いかかった八を、姫君は、容易《たやす》く裾を捌《さば》きざまあっさり蹴倒した。
「姫様、これを!」
老女が、両手に捧げていた細長い紫色の風呂敷包みを解けば、中からは、朱《あか》い下げ緒の、拵《こしら》えのいい刀の大小が現れる。その脇差《わきざし》のほうをやおら取り上げるなり、姫君へ駆け寄って手渡した老婆の早業は、倒された男たちが身を起こそうとするまでの、ほんの一瞬をも要さぬものであった。
「おのれ! にっくき逆臣、暮林蘇芳《くればやしすおう》。三日月藩《みかづきはん》七万石のお家乗っ取りを企み、飽くまでこの桜子を亡き者にせんとくわだてるか!」
「殺してはなりませぬぞ、姫様ッ。この者どもは、後々までの生き証人!」
「わかっておる、楓。……止め太刀を使おうほどに」
言いざま姫君が、スラリと脇差を抜き放った。翳《かざ》された刃《やいば》に忽ち二人の悪党面を映すその清冽なる白刃《はくじん》は、むろん稀代の大業物《おおわざもの》。銘は宗近《むねちか》、山城鍛冶《やましろのかじ》。その通称を『名物三日月《めいぶつみかづき》』と称す。もっとも、年代物の古大刀をいまは用いず、室内なので、とりあえず堀川国広《ほりかわくにひろ》の脇差のほうを抜いた。その鞘《さや》を、傍らへ来た老女の手に渡しつつ、姫君は隙《すき》もなく構えをとる。
「…………」
駕籠舁きたちは、呆気にとられた。
もうぼちぼち、仕事もあがろうかという火灯し頃の夕暮れ時。
「乗せてもらおうか」
若い娘にしては些《いささ》か尊大とも思えるそぶりで辻駕籠を呼び止めたその女をひと目見るなり、しめた! と北叟笑《ほくそえ》んだのは彼らのほうである。
しかもその行く先は、
「播磨《はりま》の国は三日月のご城下まで」
だと言う。
三日月などという藩の名前は、広小路界隈にたむろする講釈師の口からだって聞いたことはなかった。芝居・講談では毎度お馴染み『忠臣蔵』の赤穂《あこう》藩も、同じ播州《ばんしゅう》の小藩だったが、当主が殿中で刃傷沙汰《にんじょうざた》の後、遺された元藩士たちが仇の屋敷へ堂々討ち入るという空前絶後の大事件さえ起こらねば、江戸の市民はろくにその名を覚えることもなかったに違いない。
「我は、三日月藩主、森長国《もりながくに》が娘、桜子《さくらこ》」
と自ら名乗るだけあって、確かに、身に着けているのは上等の絹と錦だ。
大方頭の弱い大家の娘で、ふらふらと座敷牢を抜け出してきたものと思われた。泥人形に仕立てて苦界へ沈めるにはお誂《あつら》え――との不遜な胸算用に愈々《いよいよ》歓び、二人は娘を駕籠へ乗せた。邪魔な同行の老婆は途中でまいて、まんまと塒《ねぐら》へ連れ込んだまではよかったが。
少々頭が弱いどころか、まさか、刃物を振りまわす危険な狂人とは夢にも思わなかった。
「覚悟せよ」
「う、うわぁーっ」
だから二人は、その鋭い切《き》っ尖《さき》が自分を目がけて振り下ろされてくるのを待たず、揃って彼女に背を向けた。
「待てぃ!」
待てる道理がなかった。
二人は逃げた。
躍り上がるようにして表へ飛び出すと、揃って街路を駆けはじめた。
あとはもう、誰が何と言おうと、走りを止めるつもりは毛頭なかった。
「なんだ」
ホッと小さく吐息をつきつつ、桜子は脇差を鞘へ納めた。
納めたものを、青い浮線綾《ふせんりょう》の西陣帯のあいだへと無理矢理ぶちこみ、更には楓の手に残る宗近の大刀をも取り返してともに佩《お》びると、颯々《さつさつ》たる足取りの歩を進め出す。
「情けない奴らじゃのう」
「したが、まだまだご油断はなりませぬぞ。何処《どこ》に後詰めの伏兵を隠してないとも限りますまい。……一刻も早く、ここを立ち去らねば」
「そうじゃのう」
楓の言に素直に従い、桜子は、その駕籠屋の店を出た。
店とはいっても、それほどご大層なものではない。
一、二間程度の手狭な土間に、人足二人の宿所も兼ねているため、奥に一部屋、畳敷きの間を用意してあるが、それとて無人の廃屋を思わせる荒れ加減である。
「甘言を弄《ろう》して廃屋に誘い込み、人知れずこの身を害そうとは、おのれ逆臣暮林! なんたる悪辣《あくらつ》、なんたる卑怯!」
「おっしゃるとおりでございます。……この上は、一刻も早く国表《くにおもて》へ立ち戻り、江戸家老の企みを、お父君に告げられることです」
「わかっておる。……おのれ、許しはせぬぞ、暮林蘇芳」
ともに言い合いながら、二人はゆっくりと街路を歩いた。
見上げれば、頭上には満天の星が、いまにも降り零《こぼ》れんばかりに煌々《こうこう》と瞬き、主従の行く手を、明るく照らしてくれている。
「彦星に 戀《こい》はまさりぬ天の河 へだつる關《せき》をいまはやめてよ」
歩みを止めて、さりげない口調で桜子が詠んだ。
「業平《なりひら》でございますな、ゆかしいことで……」
「今宵は見事な星月夜じゃ」
「まことにもって……月かと見紛《みまが》うほどでございます」
「昔はよく、眠れぬ夜の徒然《つれづれ》に、そなたと歌合わせの遊びをしたものじゃ」
「姫様は、子供の頃から夜更かしがお好きでございましたから。……朝まで夜通し双六をしようなどと駄々を捏《こ》ねては、よくこの楓を困らせたものでございます」
皺の多い顔になお一層の小皺を寄せて、楓がうっそりと微笑する。見慣れているとはいえ、些かゾッとせぬ老女の笑い顔から目を逸《そ》らし、桜子は、再び歩を踏み出した。
「それにしても、七夕も過ぎたというのに、夜とはいってもひどく蒸すのう」
「まったくもって……」
桜子と楓は、だが再び歩を進めてから僅か五、六歩と行かぬうちに、また再び、ともに揃って歩を止めた。
「姫様」
楓が、低声で鋭く囁《ささや》きかける。
「わかっておる」
言わずもがな桜子の右手は、腰の大刀の柄《つか》にかけられていた。
そのとき彼女らを隙もなく取り巻いた不穏な空気が、あからさまな殺気という形をとって、忽ち二人の眼前へと現れる。
「暮林の手の者だな!」
口に出して問うまでもないことだった。
およそ十五歩前方の辻、天水桶の陰からも、バラバラと足音を蹴立て、袴《はかま》の股立《ももだ》ちをとって膝までからげた武士が数人――正確には全部で六人ほど――手に手に白刃を抜き連れつつ、忽ち桜子らの面前へ殺到してくる。
「退がっておれ、楓」
少しも慌てず、桜子は刀の鯉口《こいぐち》を寛《くつろ》げた。
「姫様も、お気をつけて」
「うん……だが、こやつらを、後々の生き証人として生かしておくことは確約できぬかもしれぬぞ」
「それは?」
「いずれも劣らぬ使い手揃い。……先程の奴らとは格が違う……止め太刀を使う余裕は……ないかもしれぬ」
曖昧《あいまい》に告げた、その同じ瞬間、桜子は大刀の鯉口を切ったまま、少しく腰を沈めていた。
「桜子姫ッ」
「お家のため!」
「お命、頂戴ッ!」
複数の叫びが、歌物語の舞台と見ゆる夏の夜空を徒《いたずら》に騒がせたとき――。
雪のように嫋《たお》やかな桜子姫の手中にて、刃が、閃光の如く放たれた。
2
「三日月藩一万五千石の為ッ」
一つ覚えのその決まり文句を耳にした瞬間、桜子の中で、何かが、音もなく崩れ落ちてゆく心地がした。
(お家のため――だと?)
湧き上がる怒りで、いまにも全身から夥《おびただ》しく血飛沫《ちしぶき》を噴きそうだった。
(冗談は休み休み言え!)
心で叫んだ同じ瞬間、桜子の刃は、過《あやま》たずに眼前の男の喉笛を突き、眼にも悍《いさ》ましい鮮血を迸《ほとばし》らせている。
どっ……びゅッ、
肉を裂き、血を飛沫《しぶ》かせる際の鋭い音が、一瞬間桜子の耳朶《じだ》を穿《うが》った。
(なにが、一万五千石だ!)
それもまた、彼女の怒りをかきたてた理由の一つにほかならなかった。
桜子の生まれた三日月藩は、美作《みまさか》津山藩主の森長武《もりながたけ》から知行を分知されたばかりの延宝《えんぽう》年間から元禄《げんろく》の頃までならいざ知らず、延享《えんきょう》二年、播磨・美作両国の天領を預けられてより、現在では実質七万石にまで身上を増やしている。実のところ、五万五千石に及ぶ下げ渡しの天領のことは、多少の子細があり、未《いま》だ公にされてはいない。いわばお目こぼしの隠し財産のようなものだから、正式な石高として計算に入れないのは仕方ないとして、これからその命を奪おうという桜子の前でまで、今更、建前の石高を口にする。その小賢《こざか》しい欺瞞《ぎまん》が、桜子にはなにより許せぬ気がした。
それ故、
「|※[#濁点付き平仮名う、1-4-84]《ヴ》っぶふぅ……」
低い断末魔の呻きとともに、ドッと倒れ込んでいった男の死屍《しし》をはた目に見ても、桜子の心は、最早《もはや》一片とて傷みはしない。
それよりもなお、
(右か左か……どっちから来るか――)
次の瞬間にはどう身を処せば長らえることができるか、それだけが偏《ひとえ》に彼女の頭を占めた。
「チッ」
激しい舌打ちとともに、左手後方から、一人の男が突き入れて来た。と同時に、右前方からも、隙もない壮年の武士が、大きく大刀を振りかぶってくる。
その一方――後方から来た敵の切っ尖を躱《かわ》しざま、前方の武士の刃を受け止めつつ、
(駄目だ……)
即ち桜子は絶望した。
更にその上もう一人の敵が、前面の敵に当たってガラ空きとなった彼女の左脇を襲うかのようだった。
鋭い太刀筋に、圧倒的な男の膂力《りょりょく》――。
如何に桜子が、新陰流免許皆伝の使い手とはいえ、この場は最早逃れられまい。
(破落戸《ごろつき》でも札付きでも盗っ人でも……鳴呼《ああ》、誰でもいいから……どうか姫様を助けて!)
三歩退がったところで固唾《かたず》を呑んでいた楓が、心ならずも思ってしまった、その刹那。
…………。
そいつの動きが、ピタリと止んだ。
(え?)
楓は思わず目を見張った。
刀を大上段に振り上げた動作のまま、それきりピタリと動きを止めた男の背中には、ひとふりの小柄《こづか》が突き刺さっていた。通常は、軽く皮膚を傷つけるほどの役にしかたたぬ貧弱な小柄も、このときは刃尖を深々と肉に食い込ませ、彼の命を瞬時に奪った。余程に、仕手の腕が優るとしか思えない。
「おのれ、何奴ッ!」
六人組の中で、どうやら首領格と思われる長身の武士が神経質な叫びをあげ、
「大の男が揃いも揃って、女一人を持て余すとは、滅多に見られぬ面白い見世物だな」
涼やかな男の声が、時を移さず闇中より響いた。
足音もろとも現れたるは、声音に違わず涼しげなる風情の男が一人。
ひと筋頬に鬢《びん》の後れた総髪、黒縮緬の無紋の着流し、下げ緒まで真っ黒な黒鞘の大小、素足に藁草履《わらぞうり》、懐手……。まだ三十にもならぬかと思われる、長身|痩躯《そうく》の浪人者だった。
しかも、
「…………」
未だ白刃の閃きやまぬ取り込み中の桜子が、咄嗟《とっさ》に目を奪われて見とれるほど、それは迫力ある美男である。
(在五《ざいごの》中将……)
一瞬王朝の貴公子すら思わせる風姿に見とれ、だが直《す》ぐに、
(違う……業平なんて、そんな軟弱な色男じゃない。この男、相当の使い手……)
思い返す間もなく、男が、桜子と白襷《しろだすき》の武士たちとのあいだへ、何の不自然さもなくスルスルと割り入って来る。
「貴様、邪魔する気か」
桜子の傍らにいたその首領格の中年の武士が、憎悪に歪んだ醜い顔を向けて言えば、美男の浪人者は少しく首を傾げて、
「さあ……ここは天下の大道だ。私の行く手を不当に阻み、通行を邪魔だてしているのはそちらのほうではないかな」
薄く口許を笑ませながら、言った。
ゾッとするほど冷たいものが、忽ち微笑の中から滲《にじ》む。一見役者のように優しく端麗な顔だちをしていながら、ややきつすぎるその切れ長の双眸《そうぼう》に、視線だけでも充分人が斬れるかと思われる凄みがあった。
「おのれ! ……この夜更けに、このような場所に通りがかったことを、己《おの》が身の不運と思うがよい!」
嵩《かさ》にかかって喚《わめ》く首領を、桜子は心底馬鹿だと思った。
「こうなれば、生かしてここを通すわけにはゆかぬ! ……よいかッ、まずはこの浪人から先に片付けるのじゃ!」
「おう!」
「心得た!」
二人の仲間を失って、残るは四人となりながらも、彼らの気勢はなお衰えていなかった。これこそが、まさにお家の一大事、一命を賭するは武士の本懐と堅く信じて疑わぬ八つの目が、同時に桜子の姿を捕らえた。が、その桜子の手前に、いつしか男の影が立つ。頼みもせぬのに我が身で自分を庇《かば》う恰好になった男の背を、瞬きもせぬ目で桜子は見つめた。
四つの切っ尖が、揃って男のほうを向いている。
ジリジリと土を踏んで動く藩士たちの微かな息遣いが、いやでも場の空気を張り詰めたものにさせる。
(四対二なら、最早勝負はついたも同じ……)
それまで八相の構えをとっていた桜子の両腕が知らずに下がり、いつしか刃が敵の膝頭へと向く下段霞の形へと変えられた。
(或いは、四人ともこの男が始末してくれるやもしれぬ)
そう思うと、桜子の体は、無意識に、小さく一歩、後退っていた。
桜子の予感したとおり、それはほんの一瞬、瞬き一つする間の出来事でしかなかった。
下段霞の姿勢から、桜子は一旦刃を跳ね上げて、小さく身を捻《ひね》りざまに、相手の右肩から左の脾腹《ひばら》へ、一刀に斬り下げた。
「おぎょあぁーっ」
断末魔は、長く尾を曳いて星空を騒がせた。
大きく袈裟《けさ》がけに両断された敵の体は、しばし二つ折りとなって地へ打ち伏し、そののち手足を小刻みに痙攣《けいれん》させながら、次第にダラリと弛緩していった。
桜子の刃は、いまやたっぷりと釁《ちぬ》られた。
残る四人とも男に始末してもらおうという密《ひそ》かな目論みは残念ながら外れたが、桜子の剣が一人を殪《たお》すあいだに、その見場のよい浪人者は、忽ち三人の敵を葬った。
折り目正しい星眼の構えから、同時に三方から踏み込んでくるその正面の敵に、先ずは鋭い突きをくれた。と同時に半歩身を退いて、右の相手を逆袈裟から斬りあげた。間髪おかずにすぐ三人目が突き入れてくれば、片足を軸に、
トン、
と軽く地を蹴って身を翻しざま、最後の一人の右胴を、脇構えから横殴りに両断するまで、桜子が、もう一人の敵を斬り殺すまでのときも要さなかった。
(見事なものじゃ)
汚れた刃を懐紙に拭いつつ、桜子は大いに舌を巻く。
理不尽な刺客たちへの怒りよりも、いまはこの通りすがりの浪人者への興味と称賛のほうが、より甚だしく彼女の内心を占めていた。
「折角の星月夜を、血で汚したな」
独りごちるように低く男は呟き、刃を拭ったその懐紙を、無造作に道端へ捨てた。捨てるなり、そのまま歩きだして行ってしまおうとする男を、
「ま……待たれい」
当然桜子は呼び止めねばならない。
「しばし、お待ちを……」
桜子は慌てて男を追った。
しかし男は歩みを止めない。
「私は、播州|佐用《さよ》は三日月藩主、森長国が長女にて、名を桜子と申す者。……どうか、ご貴殿の御名《おな》をお聞かせ願いたい」
「姫様……」
そのような見ず知らずの胡乱《うろん》な者に、迂闊《うかつ》に御名を名乗ったりなどして――と目顔で強く彼女の袖をひく楓に、
「要らぬことを申すな。命の恩人殿だぞ」
と、負けずに厳しく目顔で言い返しつつ、桜子もまた、足を止めぬ男の袂《たもと》を、咄嗟に掴《つか》んで引き戻さんと試みた。星影に照らされた男の横顔が、妖しいまでに仄白《ほのじろ》く映えている。束の間夏の夜の蒸し暑さをも忘れさせる、涼しく冴えた横顔だった。
「…………」
男は無言で振り向いた。
困惑が、隙のないその全身を漲《みなぎ》り溢れている。こういう涼しげな男でも、ときには困った顔をするものなのか。桜子は、何故だか妙に得をしたような気になった。
「もとより、『市井《しせい》無頼の輩故、名乗るほどの名は持たぬ』、などと言うのはなしじゃぞ」
如何にも男の言いそうなことを、先回りして桜子が言えば、その満面を渋く染めさせた困惑の色は愈々《いよいよ》濃くなる。
桜子は、黒縮緬の袂を掴む手から、少しも力を緩めずにいた。
「住之江廉十郎《すみのえれんじゅうろう》……」
当惑しきった男の口を、期せずして低い名乗りが漏れた。
「住之江殿」
「…………」
「危ないところをお助けいただき、忝《かたじけ》ない」
「いや……礼を言われるほどのことではない。私はただ、この道を、黙って通してもらいたかったまでのこと」
困惑顔に口ごもりながら、だがなお涼やかな矜持《きょうじ》を保ちつつ、廉十郎は言った。
「ご生国は?」
「上総《かずさ》の国」
問われた勢いにのってつい易々答えてしまいながら、廉十郎は内心|臍《ほぞ》を噬《か》んだ。
どうも、いけない。
自ら姫君を名乗る、この奇妙な美女の直ぐな視線に触れていると、最早名を捨て世を拗《す》ねた市井無頼の志も、脆《もろ》くも崩れ去りそうな気がしてくる。
「見事なお腕前でございまするな。すっかり感服仕りました」
「…………」
「この桜子、恥ずかしながら新陰流の免許を戴く者ではありまするが、貴殿の太刀技には及ぶべくもない己の未熟を知り、ただただ恥じ入るばかり……卒爾《そつじ》ながら、ご流儀をお尋ねいたしたいが?」
「…………」
一瞬間、息を詰めたような顔で桜子を見返してから、
「風光明媚流《ふうこうめいびりゅう》」
やや眉を顰《ひそ》めがちに廉十郎は告げた。
「風光……? ……はて、とんと聞かぬ名でござりまするな。流派は何《いず》れ? お師匠は何方《どなた》でござる?」
「流儀も流派も、拙者が、独自にて自得せし秘剣の奥義。もとより、師匠などあろうはずもない」
「なんと、自得なされたか! ……それでは、かの宮本二天《みやもとにてん》と同じく……」
廉十郎を見つめる桜子の目に、忽ち溢れるような憧憬の色が湧く。
「いや……別にそれほどのものでは……それではこれにて、拙者は失礼仕る」
廉十郎は、軽い眩暈《めまい》を覚えて少しく口ごもり、掴まれた袖を無理に取り戻すと、即ち踵《きびす》を返してしまった。美しい女だが、どこか波長が、常人と違っている。これ以上話していると、いつしか知らずに彼女の世界へ呑みこまれてしまいそうで、さしもの廉十郎も些か怖かった。
「恩に着ます、住之江殿」
去り行く背中にすかさず一礼する桜子の素直さは、流石《さすが》に廉十郎の胸へ深く食い入る。
が――、
「よい御仁じゃ。……のう、楓」
「はい、まことにもって」
「殿方に助けられたなど、私は、これが生まれてはじめてのことじゃ」
「姫様は、幼き頃より、闊達《かったつ》なご気性であられましたからなぁ。……殿方の助けを必要とすることなどとんとございませなんだ」
「それによい男ぶり……まるで光源氏じゃ」
「よもや姫様、あの浪人者に懸想《けそう》なされたのではありますまいな?」
「いまはじめて逢《お》うたばかりのお人ではないか」
「いつ逢うたかは問題ではございません。……気づいたときにはそのお方のことで胸がいっぱいになっている……それが、恋というものにございます」
「…………」
「いけませぬ、姫様」
「なにがじゃ」
「如何に命の恩人殿とは申せ、あのように得体の知れぬ、無頼の浪人者などを……姫様は、仮にも三日月藩の……」
「そんなことを言うて、楓、本当はそなたのほうが住之江殿に懸想したのではないのか?」
「なんと!」
「だから私に、殊更《ことさら》クギを刺しているのではないのか?」
「なんという情けない仰せられようでありましょう。……第一、楓の齢をお考えくださいまし。あの御仁とは、祖母と孫ほどに齢が違いまするぞ」
「齢などは此の際問題ではあるまい。……そもそも恋と申すは、そうしたものではないのかな?」
「姫様! お戯《たわむ》れも大概になされませ!」
「ハッハッハッハッ……」
憚《はばか》りもない大声で言い交わされる女主従らの言葉には、さしもの廉十郎も、苦笑を禁じ得なかった。
背中を向けて歩きだしてはいても、彼の耳は、終始背後へ注意を払っていたのである。
「さて、これからどうしようか、楓」
「駕籠を拾うというても、この夜更け――最早店じまいしてしまったやもしれませぬな」
「私はちょっと腹が空いたような気がするが」
「なにしろ、今朝方白金のお屋敷を出奔《しゅっぽん》いたしてより、食しましたるは、茶店の団子一本きりでございますからな」
「うん……なにか食したいぞ」
「はて、なにがよろしゅうございましょう?」
「そうじゃな……折角こうして屋敷の外に出ておるのじゃ、日頃は食せぬ珍しきものを食してみたい」
「日頃食せぬ、珍しきものでございまするか?」
「そうじゃ、……江戸の市中にて売られる名高き店屋《てんや》ものといえば、なにがあったかのう? ……鮨《すし》、心太《ところてん》、白飴、蕎麦《そば》、蕎麦……おお、そうじゃ! 赤穂浪士の講談にも出てくる蕎麦切りとやらを、この際私は食してみたいぞ」
「蕎麦切りでございますか……生憎《あいにく》このあたりに蕎麦屋などはとんと見当たりませぬが……なぁに、大江戸八百八町、その十軒に五軒は蕎麦を商うものであると聞いておりまする。試しに、そのあたりの家の者を叩き起こしてみましょうほどに」
「ほぉう……流石に楓は物知りじゃのう。……だが、この夜更けに叩き起こしても、はたしてすぐに食べさせてくれるであろうか?」
「もし否やを申せば、森家の名誉と武門の名にかけて、無礼討ちにしてくれるまで」
既に二十歩ほども先へ行きかけながら、廉十郎はつと足を止めた。
最早苦笑すらも興《おこ》らなかった。
踵を返して振り向くまでには、なお些かの勇気が要ったが、是非なきことと彼は諦《あきら》めた。
本気か冗談か――将又《はたまた》少々頭が弱いだけなのか、それは知らない。だが、何にせよ、これほど常識はずれの人迷惑な者共を、それと承知でこのままうち捨てて行けるほど、彼も外貌に似てクールな男ではあり得なかった。
「よい蕎麦屋を知っている。これも何かの縁だろう。もしよければ、一緒に参られぬか?」
引き返し来て、優しく言葉をかけるまで、彼は極力冷静を保とうと努めた。
何故自分が、そのような無用の努力を為さねばならぬのか。
鬢の後れ毛を掻《か》き上げながら、廉十郎は思った。
(ツイてない……矢張り賭場には行かなくてよかった)
「よいお人と知り合うた。……のう、楓」
そのとき桜子姫は、満面に歓びを露わにしたようだった。
「身は浮草の 根も定まらぬ人を待つ……」
「これ、姫様、鼻歌などとはしたない」
二人に背を見せ、ゆっくりと歩を進め出したとき、さも心地よげに歌い出す桜子姫の高い声と、それを窘《たしな》める老女の声とが重なって、廉十郎の耳朶を呆気なく凌駕《りょうが》した。
星影は、依然|清《さや》かに行く手を曝《さら》してくれている。
底の減った草履の底が土を踏む際の湿った足音は、何故かしら彼自身を、陰鬱な気分へと誘《いざな》ったのだった。
(まったく……)
廉十郎は、心中密かに嘆息する。
(これだから、育ちのよい世間見ずの姫君というものは――)
到底同じ人間とも思えぬ発想をするものらしい。
ときに苦笑し、ときに甚だ呆れ返ったりしながらも、彼は道々、桜子主従らの交わし合う言葉に、聞くともなしにぼんやり聞き入っている。
彼女らの会話からそれとなく察せられたのは、どうやら現在、三日月藩の江戸藩邸内には謀叛《むほん》の計画が着々と進行中らしい、ということだった。
参勤交代によって、藩主である桜子の父は、昨年より国許《くにもと》へ下向《げこう》している。主人なき三日月藩江戸屋敷内にては、現在江戸家老の暮林某がその権勢をほしいままにし、とうとうお家乗っ取りの大悪謀をめぐらせはじめた。
桜子の生母は、宮家から迎えられた長国の正室だったが、桜子を産んですぐ病に臥《ふ》し、男児を産むことなくこの世を去った。その後長国は再び正妻を迎えようとせず、江戸と国許の両方に側室をおいて、それぞれ男児をもうけさせた。江戸の側室お栄《えい》の方の子|万寿丸《まんじゅまる》君は当年十一歳になり、母とともに江戸住まい。次男の千匹丸《せんびきまる》はお国御前お近《ちか》の方の子で、万寿丸君と同じく、御齢十一。同《おな》い齢《どし》の兄弟であり、ともに側室の子という同等の身分でありながら、江戸と播磨とに遠く隔てられたがため、むざむざ我が子を次男の座に甘んじさせねばならなかったお近の方の恨みは深い。
暮林は、このお近の方と、お近の子である千匹丸に目をつけた。
このままでは、森家の後継者は万寿丸と決められ、誰一人、異議を唱える者はない。
そこで、暮林が国許のお近へあてた密使に託した言葉は、以下のもの。
「次期藩主には、是非とも千匹丸様を。そのために、殿のお命を縮め参らせるのです。密かに毒を用いて、日々少しずつ……一度に盛っては怪しまれます。飽くまで少量ずつにて。さすれば、こちらは江戸の万寿丸殿にも同じ薬を盛りましょうほどに……殿が薨《みまか》られる頃合いを見計らい、その直前に、幕府へ千匹丸様の養子願いを出しておけば、お家は安泰。千匹丸様はめでたく三日月藩藩主の座に就かれるというわけでございます、如何?」
そう耳許で囁かれて、誘惑に負けぬ人間はまずいまい。お近の方とて例外ではなかった。
となれば、国許では、暮林をとおしてお近の手に渡った唐《から》渡りの秘薬により、藩主長国の寿命も、いまや命旦夕《めいたんせき》に迫っている。
いち早くそれと察した桜子の身にも危険が迫った。
かくて孝心|篤《あつ》き桜子姫は、一刻も早くこの危急を国許の父へ報《し》らすべく藩邸より飛び出したのだった――というようなお家の秘事を、廉十郎のような見ず知らずの浪人者の耳に、いやでも入るほどの音声によって語り尽くす桜子の非常識に、彼は甚だ呆れ返ったのだった。
「ところが――」
まるで廉十郎に話して聞かせたいとしか思えぬように、更に口調を強め、語気を強めて桜子姫は言う。
「暮林の真の狙いは、父上のお命のみじゃ。お近の方は彼奴《きゃつ》に利用されているにすぎぬ。それが漸《ようや》く、私にもわかったのじゃ、楓」
「はい。曲がりなりにも暮林は江戸家老。既にお家の権勢を専らする者にございます。なにもわざわざ危ない橋を渡ってまで、殿とお世継ぎ様を弑《しい》する必要はございますまい」
「だが、それでも暮林は父上を弑さねばならぬ。……何故だかわかるか、楓?」
「お栄殿のお子……万寿丸殿が、実は暮林の子だからでございましょう」
「知っていたのか」
「お栄殿は、そもそも暮林が殿にお薦めした女子《おなご》。それ以前から、二人が通じていたとしても不思議はありますまい」
「次の藩主が自らの実子となれば、暮林の身は安泰。藩の実権は、完全に彼奴の手に握られることとなる」
「そのようなこと!」
「そうじゃ、断じて許してはならぬ」
決然として桜子は言い、それからしばし口を噤《つぐ》んだ。
歩きながら喋りとおして、流石に喉が渇いたのであろう。
いつしか彼らは一乗院の森を過ぎ、下谷同朋町の辻々へとかかっていた。
(それにしても……)
廉十郎は甚だ驚異を覚えるのだ。
聞いたこともない名ではあるが、三日月藩とやらの江戸屋敷は、千代田のお城より二里も離れた江戸の南西郊――下目黒は白金村のそばにあるらしい。今朝方|朝餉《あさげ》をとり終えて後、五つ半頃にその藩邸を出で、およそ丸一日がかりで、この広小路近辺まで辿り着いたものらしい。播磨の国へ向かうのが目的なのだから、なにも素直に、白金から西の方角へ進めばよいものを、あえてそうしなかったところに、桜子と楓の――既に常人とは一線を画した――尋常ならぬ知恵の働きがあった。
屋敷を抜け出した桜子主従が、国許へ向かうであろうことは、暮林ら追っ手の側には言わずと知れている。暮林が彼女らの出奔を知れば、即ちあとを追うであろう。
そこで、素直に西下の道はとらず、一旦江戸の町を東西に横切ってから、しかる後隅田川を猪牙舟《ちょきぶね》で下り、しかる後海路播磨を目指すというのはどうであろうか。
そうじゃ! それがよい。
「屹度《きっと》彼奴らの裏をかくことができるぞ」
「まことにもって」
桜子も楓も、ともに意気軒昂として談合を成したが、廉十郎は辛うじて苦笑に耐えた。
先刻。
悪巧みの駕籠|舁《か》きたちに逃げられてしまうまでは、偶々《たまたま》街頭で拾った辻駕籠にて、播州三日月の城下まで、労せず連れて行ってもらえるものと、頭から信じていたらしいこの二人の無知が可笑《おか》しかったのではない。将軍家のお膝下たる江戸ご府内から旅立つにあたって、真っ先に考えねばならぬ肝心の一事を、すっかり頭の外に置いているらしいその暢気《のんき》さが、真剣そのものな彼女らの話を聞くうち、彼には微笑ましくさえ思えてきたのである。
(これだから、育ちのよい姫君というものは)
新雪に耐えた寒中の白椿の如く涼しき外面のうちに、廉十郎は、必死で笑いを堪《こら》えていた。
桜子が言葉を切ってから、しばしの沈黙が夜風に流れる。
不忍池《しのばずのいけ》から吹かれてくるものか、少しく湿った生温かい空気が、ひそひそと身に纏わりついていた。思えば、いまは夏の真っ盛りなのである。
(すっかり忘れていた……私も、世間見ずな姫君のことは嗤《わら》えまいな)
廉十郎は、自嘲した。
そこはかとない憂いに身を沁《ひた》しつつ、人知れず物思うようなそんな風情が、まるで前世からの宿縁の如くよく似合う男だった。
(早いものだ、季節のめぐるのは……)
「おや」
つと歩みを止めた廉十郎のすぐ背後で、桜子が不意に声を漏らした。
「木戸が閉まっておるぞ」
心底驚いたような口ぶりだった。
「おまけに鍵までかけられておる」
当たり前だ。
江戸八百八町を整然と区切るそれらの木戸は、日没とともに閉じられて、しっかと錠をおろされてしまう。このまちに住む者なら知らぬはずのない、それが最低限の常識だった。
ところが桜子は、
「これでは通れぬ。……先へ進むためにはどうしたらよいのだろうか」
心底困惑したていで言い、
「やむをえませぬ。……こうなれば、無理にも木戸を破って押し通るよりほか……」
年齢にも似ぬ無分別さを発揮して楓が応える。
(底無しの阿呆だな)
木戸の前で足を止めてから、廉十郎は、はじめて二人を顧みた。
「…………」
何か言いかけ、だが、所詮無駄なことだと自ら心得て、言葉を止めてしまった瞬間――。
「何奴ッ!」
瞬時に身構え、大刀の柄に手をかけたのは桜子である。
ダッ、
しゅ……
シャ……ッと、
軽々と頭上を跳び越してゆく、慓《はや》く不穏な影に向けて、桜子は反射的な一刀を浴びせた。
はたして貉《むじな》か、物の怪《け》か――。
「…………」
次の瞬間、桜子は言葉を失った。
彼女らの頭上を瞬時に飛び越え、閉まった木戸を軽々と乗り越えたその者の姿が、明々たる星月夜に映えている。
ピタリと身を覆《おお》うべき黒装束に姿を偽り、娜《しな》やかな肢体を隙もなく包んだその体――。
「ふふ……」
木戸を飛び越えた軽やかな足をしばし止め、少しく桜子らを顧みた声の主はなんと女。それもかなり若い。含み笑った微かな声色が、ゾッとするほどの艶を含んでいる。
「旦那」
桜子は二度驚いた。
「お多香《たか》」
驚いたのは、呼ばれて応じた廉十郎の口辺が、極めて微かながらも、ひっそりと笑まれたことである。
「また、そんな美しいお嬢さんを連れなさって……あんまり悪さをするもんじゃありませんよ、住之江の旦那」
「お前こそ、今宵もまた荒稼ぎか?」
「私のはね、悪事じゃなくて世直しってんですよ。……その証拠に、盗んだ稼ぎで、私は着物一枚買ったことがありませんや」
「立派な心掛けだ。……されば義賊鬼あざみ、そなたが狙う今宵の獲物は一体何だ?」
「ふふ……」
黒一色の覆いの中で、女賊の笑いが低く漏らされた。
「…………」
答えに代えて、彼女の体が再び天高く舞い上がったとき、呆気にとられた桜子の頭上に、ヒラヒラと一枚の紙片が落ちた。
それを右手でしっかと掴み取り、
鬼あざみ、参上!――
墨痕淋漓《ぼっこんりんり》と認《したた》められたその女文字の字面を確認したときには、既に彼女の眼前に、当の女賊の姿はない。
「あれは……」
鬼あざみが立ち去ってよりしばし。
桜子は、ぼんやりその背に見とれていた。
「よもや公儀隠密ではありますまいな?」
厳しい口調で楓が問えば、廉十郎はクスッと小さく忍び笑って、
「〈鬼あざみ〉と称する、世にも珍しい女盗賊でござる」
しかし、存外生真面目な口調で応じた。
「なんと、盗賊……」
これにはさしもの桜子、楓、ともに絶句。
「将軍家のお膝下にて、斯くも大胆不敵にふるまうとはのう。……女子の身でありながら、豪気なことじゃ」
ややあって、甚だ嘆じ入るように漏らしてからは、桜子もすっかりおとなしくなった。楓においては、まして況《いわん》や。空腹感も既にその絶頂期を過ぎ、漸くにして、喋る元気も失せ果てたものと思われる。
(やれやれ……)
廉十郎は、心中密かに嘆息した。
3
「なに、播州へは旅立てぬとな?」
桜子姫の顔つきが見る間に一変した。
「通行手形がなければ、関所は通れぬ」
との一事を、至極当然の口調で廉十郎が告げたその直後のことである。彼を見つめる桜子の両瞳には、明らかな絶望と軽い憤慨とが半々くらいで宿っていた。
「そして、手形は通常、大名の妻子には与えられぬもの」
廉十郎の面上には依然涼しげな無表情。桜子よりもしばし遅れて屋台の蕎麦を食い終えた楓は、素知らぬ顔で茶を啜《すす》る。
本来部外者であるはずの蕎麦屋の仁吉《にきち》は、どうなることかと固唾を呑み、じっと成行を見守っていた。
既に今夜の商売を終え、すっかり竈《かまど》の火を落としてしまったところへ、フラリと廉十郎がやって来た。しかも、見慣れぬ美女と老女の二人を連れて――。
これが他の誰かなら、
「一昨日《おととい》来やがれ」
と追い返してしまうところだが、この眉目秀麗なる浪人者に対してはそうできない二、三の理由が、何を隠そう仁吉にはあった。
「是非とも美味い蕎麦が食いたいというので連れて来た」
恩に着せられ、無理矢理蕎麦を作らされた。
この間、廉十郎には酒二合。
ほどなく蕎麦が出来上がる。武家育ちの者にとっては少々塩辛く思える味つけのそれを、女たちが夢中で食べ終えるまでの切れ切れの会話からは、廉十郎と彼女らとの関わりを、充分仁吉に理解させるべき言葉は聞かれなかった。否、寧《むし》ろ、聞けば聞くほど、彼にはさっぱりわけがわからなくなった。
その結果、
(この女どもは、ちぃっとドタマが変なんじゃねぇのか?)
かつての駕籠|舁《か》きたちと同じ感想を抱いてしまったのも無理はない。
「ご案じめされますな、姫様」
桜子姫がその驚きを全身に示したしばし後、悠然と番茶を喫し終えた楓が、自信たっぷりの顔で言い出した。
「下々《しもじも》のあいだには、抜け参りという風習があると聞き及びます」
「抜け参り?」
「伊勢参宮のため、こっそり家を抜け出すことにございます。我らもこの抜け参りを装い、三日月まで道中するのでございます」
「成程」
桜子は大いに感じ入った。
「流石《さすが》は楓。なんでもよく知っておるな」
(知っているどころか……)
腹中深く思いつつも、廉十郎は言葉をさし控えた。
(この二人のどこをどう見れば、お店者《たなもの》の抜け参りに見えるというのだ)
確かに、この何年か、江戸では伊勢神宮への御蔭参りが大流行していたのは事実である。
一生に一度くらい、伊勢参りをしていなければ人間ではないと言われるくらいの気風が、古くからこの日《ひ》の本《もと》の国にはある。
だから、多少資金繰りが苦しかろうと、借金してでもお参りをするというのが、長らく江戸っ子の心意気とされた。が、それすらかなわぬ商家の使用人――殊に年端もゆかぬ丁稚《でっち》小僧などのために、いつしか抜け参りという習慣ができた。主人にも内緒で店を抜け出した小僧が、無事道中できるよう、街道筋の心ある人々は、彼の手にした柄杓《ひしゃく》の中に些少《さしょう》の喜捨を施してやる。中には多額の金子《きんす》を施してくれる気前のいい有徳人もいることだろう。
しかし、これだけ立派な人相風体の大人二人が、いくら抜け参りを装って菅笠《すげがさ》を背負い、柄杓を持って歩いたとて、金を寄進してくれる者はまずいまい。まあ姫君ほどの美貌なら、適当に春でも鬻《ひさ》ぎつつ道中できぬということもあるまいが、厳格なお目付役の楓乳母が、そのような不名誉を決して許すまい。
(が、そうは言っても――)
それもこれもすべてお家のため、敬愛してやまぬお父上のためとあれば、孝行娘の桜子姫としては、己が身一つ犠牲にすることくらい、存外|厭《いと》わぬかもしれぬ――。
そこまで思ったとき、廉十郎はなんとなく嬉しくなり、口中にて低く、フフ……と笑いを漏らしてしまった。
「住之江殿?」
桜子が不審を覚えたのは当然だった。
「いや……なんにしても、今宵はもう夜も更け申した。抜け参りを装うにせよなんにせよ、何処《いずこ》かにて休まれ、出立《しゅったつ》は明日ということになされたほうがよいのでは?」
「どうする、楓?」
「したが、休むと申されましても、一体何処にて?」
姫君に対しては知恵者でとおる楓の方も、これにはしばし途方に暮れた。抜け参りという俗語は知っていても、夜更けに町中《まちなか》で宿を求める手段については、どうやら彼女も精通していないらしい。
「もし宜《よろ》しければ、拙者と一緒に参られぬか? ……むさ苦しいところだが、一夜の夜露を凌《しの》ぐのに、さほど不自由はなかろうと思われる」
見かねて廉十郎が助け舟を出せば、
「恩に着ます、住之江殿。……姫様、ここは住之江殿のご好意に甘えさせていただくといたしましょう」
楓は即座に喜色を示す軽々しさ。お家大事の忠烈女も、ほぼ丸一日を歩きづめできて、極度の疲労には耐えられぬものと見ゆ。
「では、参りますか」
「はい」
桜子、楓、ともに素直に廉十郎に従い、二八《にはち》蕎麦屋の屋台をあとにした。
後片付けの続きをしながら、だが残された若い仁吉は、心中思うともなく思っていた。
(旦那のことだ、大方あの別嬪《べっぴん》を女衒《ぜげん》にでも叩き売ろうって魂胆だろうが……かわいそうになぁ。婆さんのほうは、大川端でいきなりバッサリ、ってとこだろうぜ)
大きく嘆息し――しかし今夜一晩は、連れ込んだ己《おの》が住処《すみか》の長屋の一室で、廉十郎が、朝まであの美女を玩具《おもちゃ》にするのかと思うと、些か羨《うらや》ましい気がせぬでもない仁吉であった。
一日の疲れからか、寝息も高く、楓は熟熟《つらつら》とよく眠っている。
最前飲み水の中に混ぜて、眠り薬をたっぷり盛られたとは、夢にも気づいていないであろう。
「さて、姫君」
蝋燭《ろうそく》の火を吹き消す前に、廉十郎は桜子に向き直った。
狭い裏長屋の一室に、いまは男女が二人きり、といっていい状況だった。正体もなく熟睡した楓は、たとえ頬っぺたを思いきり抓《つね》りあげられたとしても、到底目を覚まさぬであろう。
「ここは徒士《かち》長屋であられるか?」
部屋に連れて来た当初、桜子は頻《しき》りと首を傾げた。
「住之江殿がお徒士侍とは思えぬが……はて、奇妙な」
「お気に召されませぬか?」
説明するのが億劫で、廉十郎は逆に問い返した。
「いいえ、よく片付いていて、武士らしいよいお部屋です。桜子は気に入りました」
ニッコリ笑って桜子の答えるのを聞くと、多少心が痛まぬでもない廉十郎だったが、ここまで来たら、もうあとへは引けない。
「さて、我らも休もうか、姫君」
廉十郎は言い、不意に傍らの燭の火を吹き消した。
部屋はおよそ六畳ほどの広さ。桜子の言うとおり、余計な調度は一切なく、ただ小さな行李が一つと、幾冊か書物の積まれた平机、刀架のみがあった。楓を寝かせたせんべい布団は、部屋隅一畳半ほどのところへ、ぴたりと壁へ寄せておっ付けた。
ということは、あとの残りの、約四・五畳ほどを、廉十郎と桜子とで自由に使って差し支えない。
「…………」
灯を吹き消すなり、廉十郎は、無言で桜子の側へ寄り、床ものべてない古畳の上へ、いきなり彼女を押し倒した。
「住之江殿…………」
驚いて言いかける桜子の唇を、廉十郎はすかさず塞いだ。言わずもがな、己の唇で。
厭《いや》がる女人を無理矢理犯すことにかけては、人後に落ちぬ無頼の男だった。といって、無用の暴力はふるわない。全身で伸しかかり、体の重みで押さえこんでしまえば、女は身動きがとれなくなる。諦めて抵抗を弱めかけるところへ、手慣れた所作で合わせを寛《くつろ》げさせ、帯目をまさぐりつつ、慌てず裾を割ってゆく。
おそらくは未だ男を知らぬであろう柔肌の胸乳《むなち》が震え、固く閉じられた両の腿は、男の手を頑《かたく》なに拒む。そこを力任せ、強引に拉《ひし》いでゆくときの快感は、いつも彼の心を妖しく酔わせた。
が――。
廉十郎はつと唇を離し、暴行の手を休めてみた。
いきなり抱きすくめられ、唇を吸われても、桜子は殆ど彼に抗《あらが》わない。最初の一瞬こそ、急な驚きから、ビクッと大きく身を震わせたものの、それきり彼女は身動《みじろ》ぎらしい身動ぎもせずにいた。闇の中で、男に唇を重ねられるままじっと身を委ね、彼の舌先が、まさに桜の花弁の如き桜子の舌を求めて歯間より侵入してくれば、素直にそれを迎え入れる。但し、両目は大きく見開かれ、じっと廉十郎を見つめたままだ。
甘く素肌を覆うかのような星明かりだけが仄暗く射し入る中で、男と女は、それが無頼の強姦魔と憐れな犠牲者とは思えぬほどの親密さで、少しく見つめ合っていた。
(なんだ、この女……)
廉十郎は訝《いぶか》った。
その不思議な落ち着きぶりを見るうち、もしや生娘ではないのかも、との疑いすら生じたほどである。
「私と、妹背《いもせ》の縁を結んでくださるか、住之江殿」
溜め息のでるほど長く見つめ合ったその一瞬後、桜子の口にした言葉は、彼にはまるきり聞き覚えのないものだった。
「…………」
「されば向後《こうご》は、非力でか弱いこの私のために、貴方様のお力をお貸し下さいまするな?」
強く念押しするような言い方をされて、廉十郎は愈々《いよいよ》戸惑うばかりである。
非力でか弱いこの私?
それは一体誰のことだ! 全体非力でか弱い娘が、白刃をかざして襲いかかる大の男を、顔色も変えず一刀に斬り捨てるような真似をするか。
「住之江殿……いや、向後は、上総介《かずさのすけ》様とお呼びいたしまする」
低く囁く桜子の声音に、漸次歓びの気色がこめられてゆくのを、半ば信じられぬ思いで廉十郎は聞いた。
(勝手に決めるな。……なにが上総介だ)
彼女と妹背の契りをし、向後か弱い姫君に力を貸す――。即ちそれがどういうことか。
(要するに……)
三日月藩七万石とやらのお家騒動に巻き込まれ、命を擦り減らすような面倒事の手伝いをさせられるだけのことではないか。
(冗談ではない)
柄にもなく、廉十郎は怖気《おぞけ》をふるった。
これまで、誰憚ることなく自由気ままな無頼の暮らしを娯《たの》しんできた。己が歓《たの》しみを全うするためには、多少の悪事も平然と執り行ってきた。後悔などしていない。そのために彼が捨てた幾つかのものに対して、今更何の顧みるところもないはずだった。
それなのに――。
「我が背の君」
疑う術も知らぬかのように潔い桜子姫の言葉を聞くうち、なにものにも動じぬはずの虚無の心が、気恥ずかしいほど烈しく高鳴った。
「上総介様」
呼ばれる度に、
(やめてくれ!)
と彼は叫びたかった。
いやだ。自分は絶対にこの姫の背の君になどはならぬ。堅く心に誓いながらもなお廉十郎は、だが桜子の体へかけた腕から、一向力を弛《ゆる》めることができなかった。
「生涯、貴方一人をお慕いいたしまする」
桜子姫は、至極自然に目を閉じた。
(どうかしている)
廉十郎は当惑した。
彼は知らない。物心つく頃から、桜子の愛読書は、『伊勢物語』と『五輪書』にほかならなかった。
むかし、をとこありけり。女に逢へり――。
という物語の世界を、常時傍らへ置いて彼女は成人した。偶然の出会いが必然に至り、終生|別《わか》たぬ出会いのあることを、などて信じて疑うまいことか。
(今業平と……)
目を閉じた桜子は、陶然心地よい忘我に陥った。
(宮本二天……)
在五中将と宮本武蔵。
ともに、彼女の理想とする男性像にほかならなかった。その二人を、足して二で割って苦みの薬味をふりかけたような男と、今夜は偶《たま》さか邂逅《かいこう》することができた。
(夢のようじゃ)
思いつつ、どうやら桜子は眠りに堕《お》ちた。
その無邪気で安らかなる寝顔を見ながら、廉十郎はホッと嘆息し、そっと彼女の、柔らかすぎる片頬に触れた。触れれば忽ち、五体を蕩《とろ》かしそうになる凄い快感が、彼を、淫楽の淵へ押し流さんとする。さすれば、五体の痺《しび》れるが如き悦楽が、これより彼の行き着く先には確実に待っている。だが、それでいながら、この姫君にだけは終生手出しをすまいと、このとき廉十郎は、堅く心に誓ったのだった。
4
「なんだと!」
驚く声音は女のようにかん高く、まるで絹地の裂けるが如きものだった。
「謎の浪人者が、姫を助けて何処ともなく逃げ去ったと?」
三日月藩江戸家老の暮林蘇芳は、見るからに生真面目そうな真一文字の細目を見開き、大きく息を呑んで言葉を吐いた。
齢の頃なら、五十がらみ。生真面目顔はしていても、その奥深い腹の底に、絶大なる野心を秘めた男である。
「何者じゃ、その浪人者とやらは?」
「存じませぬ……ただ、恐ろしく腕のたつ男でして、我が藩|選《え》りすぐりの使い手たちを悉《ことごと》く、瞬く間にて斬り捨て申しました」
「どのような浪人者じゃ?」
「お、恐るべき男にございます。……身の丈六尺ゆたかの大男にて、まさしく鬼神の如き形相の……その剣をふるう姿といえば、まさしく血に飢えた野獣のようで……」
見るも涼しげな優男《やさおとこ》にやられたと報告するのが口惜しく、ただ一人生きて立ち戻った検視役の若侍は、そこだけ嘘の報告をした。
「むぅ……」
蘇芳はしばし考え込んだ。
「如何に武芸自慢で跳ねっ返りの姫とはいえ、お屋敷うちから一歩も外へ出たことのない世間見ずの姫君が、斯くも大胆な真似をしでかすのはどうも妙だと思っておったが、そんな伏兵がおったとはな」
「よもや、公儀隠密では……」
「いや、考えられぬことではない」
蘇芳の手の中で、弄ばれた白檀《びゃくだん》の扇子が、パチパチと神経質な音をたてた。対する若侍は、枯れ朽ちる寸前の甘瓜とも見紛う末成《うらな》り顔に、ジリジリと燭芯の焦げるような大粒のあぶら汗を浮かべ、じっと蘇芳の面上へ見入っている。
「姫には一昨年、上様よりのお召しがあった」
「しかしその件は、上様のご病気により……」
「だが、完全に立ち消えになったわけではない。……色好みの上様のことじゃ、ご本復の暁には必ずや姫を大奥へ召されるであろう」
「…………」
「或いはあの折、ご公儀より姫の身辺に、お庭番が遣わされたのかもしれぬ」
「まさか……」
若侍が呟いたのを機に、しばしの沈黙が室内に流れた。
「ご公儀が乗り出しているとあれば、ことは一刻を争うぞ、蔵人《くらんど》」
「と、申されますと?」
「是が非でも姫を……隠密であろうとなかろうとかまわぬ、その浪人者ともども――」
「に、人数を繰り出すのでございますな?」
蔵人は、大きくゴクリと生唾を飲み込んだ。
言わずとしれたことだった。
選りすぐりの使い手たちがあっさり殪《たお》されてしまったいま、あとは数にものを言わせるよりほかない。如何に優れた達人と雖《いえど》も、一人で二十や三十という人数を相手にすれば畢竟《ひっきょう》疲れて剣の冴えが見られなくなる。そこを狙ってドッと押し寄せ、同時に打ちかかれば或いは傷つけられぬこともあるまい。傷つけ、苛《さいな》み、少しずつ消耗させてゆけば……という、これは実に気の長い、且つはセコい作戦であった。
「何奴ッ」
つと、それまで畳の縁へ落とされていた蘇芳の視線が前を向き、蔵人の背後――障子の外で微かに蠢《うごめ》く人影に対して厳しく差し向けられた。
「お茶を、お持ちいたしました、ご家老様」
静々と障子が引き開けられ、そこには若い腰元が、小さくすくんで指をつかえている。
蘇芳と蔵人とは、ともに小さく安堵した。
藩邸は少しく市中の郊外にあり、従って、夜更けに屋敷奥で密談を交わしておれば、シシオドシの高く鳴るようにかん高い気が、沈み込む重苦しさで、謀叛人たちの野望をも押し包んでしまいそうだった。
5
未明。
不穏な気色を夢枕の中にも察して、廉十郎はつと目を覚ました。何やら大勢、表に人の群れる気配がする、すると、
「なんであろう、上総介殿?」
ときの前後を競うようにして、桜子もまた目を覚まし、廉十郎とともに半身を起こした。
楓は目覚めない。昨夜の眠り薬が、まだたっぷり効き目を持続しているためだろう。
「…………」
廉十郎、それには応えず。
長年の習慣から、反射的に身を捩《よじ》り、傍らの刀架の大刀をひっ掴んだ。
「まさか追っ手が?」
「夜も明けぬうちから、ご苦労なことだ」
起きぬけの気怠げな表情ながらも廉十郎は呟き、即ち立ち上がる。
「しかし、暮林の手の者たちが、何故ここを嗅ぎ付けたのであろうか? ……夜が明けぬうちは木戸に鍵がかけられているから町中を通行できぬはずなのに……」
廉十郎を追って土間に降り立ちながら、桜子は頻りと首を傾げた。
「辻番に袖の下をやってこっそり開けさせたからに決まっているだろう」
などとわざわざ説明するのが億劫で、廉十郎は無言のまま、一気に表戸を開け放った。
外は、未だ夜の明けきらぬ薄闇によって水墨の濃淡のような色に閉ざされ、無数に蠢く者どもの影を、仄々《ほのぼの》と呑み込んでいた。
「…………」
瞬間、桜子は多少圧倒された。
十、二十……三十近い人数が、狭い裏長屋前の井戸端の場所を、隙間もなく占め尽くしている。夜明けを待たずに駆けつけてきたその意気込みのほどは認めるが、何分これだけの人数が白刃を抜き連れて雌雄を決する舞台としてここは手狭すぎ、あまり相応《ふさわ》しからぬのではないか。
(一人で、十五人ほどは殪《たお》さねばならぬな。いや、上総介は私より数段優る使い手だから、私が一人殪す間に、二人を殪してくれようか)
密かな胸算用を為しつつ、桜子は、廉十郎のあとに続いて表へ出る。
薄闇の中で、一斉に抜かれた多数の白刃が、淡く閃光を放ったかに見えた。
「逆臣暮林の手の者どもか?」
厳しい口調で桜子は問いかけたが、最早誰一人、それに答える者はない。
問答無用との意思表示を無言で表すため、彼らの中の何人かは、一塊になり、一度にドッと突き入れてきた。
「おのれ!」
それらの刃が面前まで達するのを待たず、桜子は自ら撃って出るつもりだった。上段霞の構えから猛然と突っ込んで、同時に二人を斬り捨てようとの腹積もりだった。が、及ばなかった。
ザッ……しゅん!
空を切り裂く鋭い刃音は、おそらく一つしか鳴らなかったものと思われる。
桜子に一歩先んじて踏み出した廉十郎の足下に、都合三つの死骸が――しかも瞬時にして転がった。
「み……ごと」
既に承知のことでありながら、桜子は思わず口走らずにいられなかった。
「その捷《はや》きこと、密やかなること……そして優美なるさま――まさしく花鳥風月の如しじゃ。風光明媚流花鳥風月剣……」
呪文の如く呟かれる桜子の言葉を、むろん廉十郎は聞かぬふりで黙殺した。
(やってられるか)
正直言って、泣きたいほどの気分であった。
「上総介殿、我が背の君」
無邪気に繰り返す桜子の言葉が、間違って呑み込んだ魚の小骨も同然、胸奥に刺さって容易には抜けない。冗談ではない。結局姫君には指一本触れることなく一夜を過ごした。
(もう真っ平だ)
と廉十郎は思った。
姫君と契《ちぎ》って彼女の背の君となり、たった一人の人間を殺すために、将軍家のお膝下たる江戸の市街を大挙して詰めかけ、朝っぱらから騒ぎを起こそうとするような非常識侍の集団を相手に戦うなど、金輪際御免|蒙《こうむ》りたかった。
(まるで、悪夢だ)
確かに思っている、そのはずなのに……。
結局一度抜き放った刃を納めるもならず、当面目の前に迫った敵を殪すことにのみ全力を傾けねばならぬ。
(この姫に手を出すことだけは、決してまかりならぬぞ、廉十郎)
風光明媚な一幅の画《え》の如くも見ゆる優雅な構えに身を固めつつ、とりあえずは、自らに堅く言い聞かすしかない廉十郎であった。
[#改ページ]
陋巷暗雲 ろうこうあんうん
1
鮮やかな牡丹花の赤い浮線綾《ふせんりょう》の背が、
くるり、
と半身を向け変える。
艶《あで》やかな横顔が、ハッと息つく暇もなく、目に飛び込んで来た。ただ漠然と美しいだけでなく、高貴の馥《かお》りを秘めた典雅な面差しだ。雪のような項《うなじ》から、豊かな黒髪を垂らした肩口のあたりまで、女らしい色香よりは、ピシリと一本筋のとおった折り目正しさが漂う。置き処《どころ》さえ間違えなければ絶品の雛《ひな》人形かと思えるが、いまある周囲の雰囲気とは最高のミスマッチだ。
垢《あか》じみた古畳とはあまりに不釣り合いな色の袖口が揺らめいて、白い腕から、縁の欠けた志野焼きの湯呑《ゆの》み茶碗が差し出されると、
「頂戴いたします」
渋みを帯びた老女の声音がそれを受けた。
傍らに座した老女が、正した膝を微塵《みじん》も崩さぬ淀みない所作で茶碗を取り上げ、ゆっくりと口許へ運ぶ。くすんだ色の唇を近づけ、ひと口ふた口と、音もなく啜《すす》る。
作法どおりに三口半で中身を飲み干し、茶碗をそっと脇へ置く。
「どうじゃ?」
ツンとすました姿勢のまま、主人役の姫君が問えば、老女は泰然、懐紙に口の端を拭ってから、
「結構なお点前《てまえ》――」
紋切り型に応え、悪びれぬ口調で言葉を切った。
「とは、言いかねまするな」
「不調法だったか?」
「いえ、姫様のお手前に文句をつけるものではございませぬ。ただ……」
「ただ?」
「味が、よくありませぬ」
「味が?」
「はっきり申しまして、不味《まず》うございます」
「なに、不味いか?」
「はい。おそらく水が悪いのでございましょう。……なにやら怪しげな……毒のような臭いがいたします」
「毒のような臭いじゃと?」
「姫様もお試しあれ」
老女に促され、姫君は茶碗を取り直すと、茶釜代わりに脇へ置いた鉄瓶から湯を注ぎ、再び棗《なつめ》の蓋《ふた》をとった。ところどころ塗りの剥げた松葉模様の蒔絵《まきえ》の棗のその中身は、お点前用の碾《ひ》き茶ならず、葉の真っ黒な番茶の如きものが、口までいっぱいに詰められている。しかし姫君は一向意に介さぬ様子で、それを茶サジに三杯ほど掬《すく》い、茶碗に入れると、器用な手つきで茶筅《ちゃせん》を使った。
コトリ、
やがて茶筅を置き、また姿勢を正して茶碗を手にとる。手のひらにのせ、ゆっくりと三遍まわしてから、あまり淑《しと》やかとは言い難いそぶりで喉を鳴らし、ごくっとひと息にそれを飲む。
「…………」
ひと口飲んだ途端に眉根を寄せ、険しい表情で茶碗を置いた。
「不味いぞ」
「然様《さよう》」
と言わんばかりのしたり顔で大きく頷き、老女は徐《おもむろ》に言葉を継ぐ。
「それに第一、器が下品《げぼん》でございます」
「下品か?」
「奥方様がご存命のみぎり、大殿が秘蔵の、朱雀天目《すざくてんもく》にてお流れを頂戴いたしましたる折のことが、齢古稀《よわいしちじゅう》を迎えようといういまでも、楓《かえで》には昨日のことのように思い出されまする」
「したが、この志野焼きは、上総介《かずさのすけ》殿の教えてくれた道具屋にて求めたものぞ」
「あの御仁《ごじん》は、得体の知れぬ素浪人にございます。茶の湯の道には必ずしも通暁《つうぎょう》しておられますまい」
「これ、楓、我が背の君をあまり悪《あ》しゅう言うものではないぞ。命をお助けいただいた御恩を、もう忘れたか?」
「これはとんだご無礼を」
いけしゃあしゃあとした顔で、楓が軽く頭を下げたのを見届けてから、廉十郎《れんじゅうろう》は、ゆっくりと壁穴から目を離した。
色の褪《あ》せた古畳の上には古道具屋で買い叩いた虫食いだらけの緋毛氈《ひもうせん》を敷き、精一杯茶の湯の気分を満喫する主従の、その非現実な光景が遠ざかり、穴の向こうに小さく消える。
(やれやれ……)
判で押したような長嘆息。
相変わらずな姫君主従のやりとりには、格別の目新しさも覚えぬが、朝帰りの気だるい体には、些《いささ》か難儀な見世物だった。
桜子姫《さくらこひめ》の口から、
「我が背の君」
という言葉が飛び出すのを聞く度に、忽《たちま》ち生きた心地もしなくなる廉十郎である。
昨夜は久しぶりの吉原詣《よしわらもうで》。大夫の柔らかな手枕にて結びし夢の余韻も、瞬時に身のうちを消し飛んでゆく。
廉十郎は、一旦外して手にとった暦を、元の壁に掛け直した。
直径五寸大の、覗《のぞ》きに手頃な壁の穴が塞がれると、廉十郎の心にはなんとかいつもの平安が戻る。もっとも、安普請の薄壁一枚隔てただけでは、隣室の話し声などほぼ筒抜け。本当に魂の平安を取り戻したいなら、いま立ち戻ったばかりの部屋を直ちに去り、フラリと表へ出て行くしかない。
「それはそうと、国許《くにもと》へ遣《つか》わした使いは、無事|播州《ばんしゅう》まで行き着いたであろうか?」
「如何様《いかさま》、もうそろそろ返事があってもよい頃でござりまするな」
「しかし、使いを出したは一昨日のことじゃぞ」
「漏れ聞くところによりますと、飛脚と申すは、一日にして千里の道も駆けとおすそうにございます」
「なんと! それでは名馬並ではないか!」
「まことにもって」
「天晴《あっぱれ》なものじゃのう」
桜子主従の会話する声が、屋外にて遊ぶ子供らのはしゃぎ声にも容易《たやす》く勝った。
「それにいたしましても――」
自分では精一杯声を落としているつもりの楓が、気重げな口調で言いかける。
「なんじゃ?」
「いつまでこのようにむさ苦しいあばら家に住まわねばならぬのでございましょう?」
「それは……暮林《くればやし》らの陰謀を挫《くじ》き、彼奴《きゃつ》らの勢力を一掃してしまうまでじゃ」
「矢張り我らも、国許へ向かったほうがよいのでは?」
「それはよしたほうがよい、と上総介殿が申された。我らの行動は、暮林の手の者共によって逐一見張られているようじゃ」
「なれど、姫様を斯様《かよう》な場所にお留めしておくことが、楓には耐えられませぬ。……還暦をも過ぎたる身で、かかる暮らしに甘んじるなど、もう嘆かわしゅうて、嘆かわしゅうて……」
「なんの、臥薪嘗胆《がしんしょうたん》の故事もあることじゃ。本朝にても、過ぐる元禄《げんろく》の御世、赤穂《あこう》の浪士たちは皆それぞれ市井《しせい》の庶民に身を窶《やつ》し、見事怨敵を討ち果たしたのじゃ」
最早《もはや》苦笑する気も興《おこ》さず、廉十郎は再び佩刀《はいとう》を手にとって、そそくさと土間へ降りた。
草履《ぞうり》をつっかけ、借金とりにでも追われる歩調で外へ出る。
その途端、
「おや、旦那、またお出かけですか?」
井戸端で大根を洗っていた、金六の女房おまさが、憚《はばか》りもない声音で呼びかけるのを、廉十郎は心底|疎《うと》ましく思った。だいたいこの女は、地声が馬鹿でかい上に、無口な錺《かざり》職人の女房に似ず、日頃から必要以上に口数が多い。
お喋《しゃべ》り女に相応《ふさわ》しく、拳固《げんこ》の一つや二つは平気で頬ばれそうなほどの大口を存分に広げ、口角泡を飛ばして喋る女の顔を、半ば呆気《あっけ》にとられて廉十郎は見た。
「なんですね、ついいましがた、朝帰りなすったばかりというのに」
「仕事だ」
廉十郎、文字どおりの苦虫噛みつぶし顔でポツリと一言。
「とかなんとかおっしゃって、どうせまた、常在寺裏あたりの博奕《ばくち》場へでもしけこもうって、魂胆なんでしょう。……いけませんよ、朝っぱらから、……折角可愛い奥方様もお貰《もら》いになったばかりだってのに、おうちを空けてばかりじゃありませんか」
「奥方?――一体誰が奥方だッ」
声高に言い返したく思ったとき、案の定、恐れたとおりにその部屋の戸がガラリと開き、
「上総介殿」
昨夜も十二分に睡眠と休養をとったらしい絶好調の顔色をした桜子姫が、ひょいとその顔を覗かせた。
「いま、お帰りか?」
「いや……その、ちと急用を思い出してな。これからまた、行かねばならぬところがある」
「それはまた、忙《せわ》しないことよのう。……朝餉《あさげ》はもう食されたのかえ?」
「騙《だま》されちゃいけませんよ、姫様。……朝帰りに博奕――しっかりとっちめてやんなきゃ、男はどこまでだってつけあがるんだから。……うちの宿六なんざぁ……」
おまさはすかさず口を挟む。聞こえなかったことにして、廉十郎はあくまで沈鬱な無表情を保つ。
「それでは姫、拙者はこれにて」
生真面目に一礼し、踵《きびす》を返す。
「おお、お気をつけて行かれよ」
桜子もまた、芝居のように折り目正しい辞儀をし返す。
「あれあれ、姫様ったら、ほんとにお甘いんだから」
「よいのじゃ、おまさ殿。上総介殿にはなにやら抜き差しならぬご用もおありのご様子。黙って送り出し、無事を祈るのが女子《おなご》のたしなみというもの。……のう、そうであったのう、楓?」
「住之江《すみのえ》殿は何処《いずこ》へ参られます?」
桜子とおまさのやりとりに、やおら楓までが加わる様子なので、廉十郎は流石《さすが》に度を失い、慌てて足を速めてしまった。
(やってられるか)
目隠し鬼に興じた子供らが歓声をあげて駆け回る輪の中央を突破して、廉十郎は一途に歩を進める。木戸を抜け、皆の視界から消え去るまで、決して気を抜かずに緊張感の漲《みなぎ》る体を運ばせた。
播州|三日月藩《みかづきはん》は藩主|森長国《もりながくに》が長女・桜子姫とその乳母《うば》・楓。
江戸家老・暮林|蘇芳《すおう》の陰謀を暴き、お家騒動を未然に防がんがため、藩の上屋敷を出奔《しゅっぽん》した。腕は新陰流免許皆伝。容姿は端麗。天真爛漫。……そんな烈女の桜子姫が、避け難い成行上、同じ長屋の廉十郎の隣家に住まうようになって早三日――。
廉十郎の気苦労を余所《よそ》に、非運で美貌の姫君は、いまではすっかり、住人たちの人気者となりおおせていた。
裏店《うらだな》の細路地を抜けて、漸《ようや》く人通りの多い表通りに出た。
広小路の賑わいはいつものことで、人々の発散する祭りのような喧騒が、廉十郎を束の間ホッとさせる。騒々しいのは苦手だが、二十数年見慣れた景色に身を置くことで何とはなしに安堵を覚えるのは、悲しいばかりの人の性だろう。
さほど食欲は湧かなかったが、「朝餉はもう食されたのか」という桜子の言葉をふと思い出し、廉十郎は、一軒の飯屋の前に足を止めた。「たこ屋」と下手くそな墨字で屋号を認《したた》めた軒行燈《のきあんどん》の紙の色も、墨と変わらぬほど真っ黒く汚れている。
「いらっしゃいませ」
たっぷりと脂色《やにいろ》の染みた縄暖簾《なわのれん》を肩先で割った途端、顔なじみの小女《こおんな》が、笑顔で彼を出迎えた。
五、六人も周りを囲めばもう満員御礼の細長い台が、左右に二つ置かれただけの手狭な店だ。腰掛けの樽と二人掛けの長床子《ながしょうじ》がそれぞれ二つずつ、台の周囲に並べられている。
一方の台は、既に二人の先客によって占められていた。紺飛白《こんがすり》の裾を思いきりからげた御用聞き風が向かい合い、ともに無言で飯をかっこんでいる。
「飯の前に、一本つけてもらおうか」
町人たちとは別の台へまわり、やおら腰をおろすなり、陰鬱な顔つきで廉十郎は言った。
「なんですね、朝っぱらから」
歯切れのよい女の声音を頭から浴びせられ、驚いて顔をあげる。
「お多香《たか》」
青いよろけ縞の着物に、粋《いき》な兵庫くずしのよく似合うキリリとした美貌の女である。大きく抜いた衣紋《えもん》からは、白い素肌をよりひきたてるように、黒繻子《くろしゅす》の半襟が覗いている。
「それとも、むかえ酒ですか?」
「お前こそ、随分早いな。……昨夜は早寝をしたとみえる」
廉十郎の眉間が少しく和んだ。
夜の巷《ちまた》を跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》する大盗の鬼あざみ――。
その昼間の顔が、広小路の一角に小屋を構える見世物一座「春狛座《はるこまざ》」の女手妻師・お多香大夫だと知る者は無論少ない。世間を騒がす大盗っ人の正体が、これほど婀娜《あだ》で艶冶《えんや》な美女と知れれば、すわ捕り物騒ぎとなった際、奉行所の役人どももさぞや大慌てするだろうと、廉十郎にはいまから楽しみなことである。
「いやですね、旦那。今日は観音様の縁日ですよ」
「そうか。……小屋は書き入れ時というわけだな」
苦笑を湛《たた》えた気安い表情とは裏腹、さも重たげな口調で廉十郎は言い、隣に座るよう、目顔でお多香に促した。
「それより、いいんですか、旦那?」
「なにがだ?」
「お姫様のことですよ。……ほっといて、また悪い奴らにつけ狙われでもしたら……」
「放っておいても、本人のあの腕前だ。心配はあるまい」
「でも、この前みたいに大勢で来られたら、いくら免許皆伝の姫君だって――」
「刺客に斬られてくれれば、寧《むし》ろ有り難い」
「まあ、旦那、冗談にしても、なんてこと!」
「冗談でも笑い事でもないぞ」
口調を変えず、ただ僅《わず》かに眉を顰《ひそ》めて言う顔つきが、いまにも泣きたいもののようにお多香の目に映る。
「少しは私の身にもなってみろ。あの姫君主従に関わったおかげで、私はあれから、連日夢見が悪いのだ」
「あら、どうして? ……あんな可愛らしい姫君から、『我が背の君』だなんて慕われたら、それこそ、男冥利に尽きる浮世の法楽ってもんじゃありませんか」
「お多香!」
思わぬ声音で怒鳴られると、お多香は小さく肩をすくめ、
「だって、仕方ないじゃありませんか。旦那は承知で、あの姫君を助けちまったんですから。……一度かかわったからは、とことん面倒をみるのが人の道ってもんですよ」
「盗っ人のお前から説教されるようでは、私もどうやら長いことないな」
「またそんな、憎まれ口ばかりおっしゃって。旦那だって、あの姫を不憫《ふびん》と思うからこそ、ついつい手を貸しちまうんじゃありませんか」
「…………」
小女の運んで来た徳利の酒を手酌であおりつつ、廉十郎はしばし言葉を休む。彼の手の中から徳利を取り上げ、そっと注ぎかけてやりながらも、お多香の横顔に、一抹複雑な翳《かげ》の宿ることを、おそらく廉十郎は気づいていまい。
(悪ぶっちゃいるけど……)
存外人の好い、他愛ないところのある男であることを、お多香は知っている。知っているから、気にかかる。眉一つ動かさずに平然と人を斬る無頼の冷酷さ、涼しげなその外貌からは想像もつかぬほどの激しい情に流されて、いつしか身を滅ぼしてしまうのではないか、と心|密《ひそ》かに危ぶんでいる。同時に癪《しゃく》の種でもある。たとえ憎かろうと愛《いと》しかろうと、廉十郎の心の中に、他の女の存在がひっかかっているのは、お多香にとって、あまり面白いことではない。
「そんなにおいやなら、いっそのこと、偽の手形でも用意して、乳母殿ともども、その三日月とやらへ旅立たせておあげになればいいじゃありませんか。……あとはどうなろうが、旦那の知ったことじゃありませんよ」
気づかぬうちに、つい意地悪な口調ともなる。
「…………」
廉十郎は応えない。応えぬということは、即ちそれができぬという回答にほかならなかった。苦々しい顔つきで、帯目に挟んだ煙管《きせる》を取り出し、葉を詰める。が、彼が店の小女に、
「煙草盆を」
と要求するより一瞬早く、お多香の手が、横合いからサッとそれを奪い取った。表情を変えぬ廉十郎の鼻先で、二本の指に挟みつけ、揶揄《からか》うようにクルリと回す。そしてそれを、
「どうぞ――」
にっこり笑って廉十郎の手に返したとき、煙管の先にはちゃんと火が点《つ》いて、仄《ほの》かに白煙が立ちのぼっているという寸法。手妻のお多香十八番、発火の術のさわりであった。
2
元々旧弊な大名家の生まれ育ちなので、桜子は割合、霊感とか虫の知らせとかいうものに信をおくほうである。
その男をひと目見たとき、桜子の胸に、それが萌《きざ》した。
異様に胸騒ぎがした、と言ってもいい。
ドキッと強く動悸がして、忽《たちま》ち鼓動が速まった。といって、好みのタイプの男前を見たとかいうことでは全くない。寧《むし》ろその男は、彼をひと目見た人間の十人中九人までが確実にそう感じるであろうと思われる類いの凶相の主だった。
広小路の寄せ場で講釈師の語りを聞いての帰り――。下足番の小僧から草履を受け取ったと同じ瞬間、桜子の目に、期せずしてその男の見事な総髪《そうはつ》が飛び込んで来た。
(おお、よい毛色じゃ。……蓋《けだ》し、烏《からす》の濡れ羽色というやつであろう)
つやつやとして色艶《いろつや》がよいだけでなく、髪の量も異常に多かった。正面から一陣風が吹き過ぎ、襟足より後ろの髪が翻ると、まさしく扇を広げたように見えるという有様だった。
草履を突っかけて小屋の外に出たとき、足早に行かんとする男の横顔が垣間見えた。
一瞬間、視線が凍りついた。
「如何《いかが》なされました、姫様?」
あとからついてきた楓に袖をひかれて我に返ると、桜子は無言で歩みをはじめた。
そして何歩か、その男の後を追ったところで、
「暫《しばら》く黙って、あの男を|尾行《つ》けるのじゃ」
「はて、あの者がなにか――?」
問いかける楓の言葉を厳しく目顔で制し、ともに促して先を急ぐ。グズグズしていては見失ってしまう。
男の纏《まと》うた茶色い紋服の、その痩《や》せぎすな背を凝視し続けた。紋服に、まだ真新しく見える仙台平《せんだいひら》の袴《はかま》を着けた身なりはそれほど悪くない。紋は、ありふれた右三つ巴《どもえ》。大小を帯びているから武士には相違あるまいが、どうやら扶持取りの武士ではなさそうだ。月代《さかやき》を剃らぬ総髪を、結わずに長く背に垂らすのは、学者か占い師に多い風である。男はそのどちらかだろうか。しかし桜子には、そのどちらでもないように思われた。
(あれほど人相の悪い男は見たことがない)
歳の頃なら四十がらみか。
薄く白粉《おしろい》でも刷《は》いたかと思われるほど青白い顔色の男だった。が、如何《いか》にも胸を患っていそうな白皙《はくせき》の美男というのとは全く趣を異にしていた。恐ろしく目つきが悪かった。白目の多い、小さな瞳の瞼《まぶた》は鋭く切れ上がっており、出合い頭にいきなり人を殺傷する、猛毒を塗った吹き矢の尖《さき》を思わせた。その両目と同様、唇もまた薄く切れ込んでいて、いつも濡れ光ったような色をしていた。
どこか、爬虫類《はちゅうるい》のぬめりを思わせる容貌《かお》だった。
そんな男が、自分以外のこの世の人間なら、誰も彼も無差別に呪い殺してやりたいとでも言うほどに思いつめた顔をして、街路を行く。
生理的な嫌悪感と男への不審がピタリと重なり、自然な戦慄を覚えたとき、桜子は漠然と明智光秀をイメージし、彼のあとを追うことに決めた。その男が、まるで光秀の生まれ変わりでもあるかのような錯覚すらおぼえた。
男は広小路を下谷方向に向けて歩き、北大門の前を過ぎ、鳥居丹後守《とりいたんごのかみ》の屋敷の手前の道を南へ折れた。ちょうど、桜子や廉十郎らの住まう裏店にも程近いかと思われた。
広小路を一本|逸《そ》れてしまうと、人通りがめっきり減ってくる。
桜子らは、尾行を相手に気《け》どられぬよう、ある程度の距離をとって進まねばならなかった。男と桜子らとのあいだに、およそ十間ほどの間隔ができた。
桜子は、これなら小声で話せば気づかれまいと思い、チラッと楓を顧みて、
「怪しい奴とは思わぬか?」
その耳元に低く囁《ささや》きかけた。自分では充分そのつもりだったが、何分その種の会話法には慣れぬこととて、通常普通の人々が盗み聞きを恐れず路上にて会話するときくらいの声音になった。それでも、楓にとっては少々聞きとりづらいほどの小声だったとみえ、
「は? なんでございます?」
小眉を顰《ひそ》めて問い返した。
あたり憚らぬ声音であった。
「これ、楓――」
窘《たしな》めようと思って視線を移した一瞬の隙《すき》に、前方の男が桜子の視界をかき消えた。
「しまった、気づかれたか……」
桜子は慌てて走りだした。お目見得以下の御家人衆の住まいと思われる簡素な家の門前を数軒過ぎ、四、五軒目にかかろうというところで、桜子はつと足を止めた。総髪の男が、いましも一軒の家の門口へ呑まれんとするところであった。
桜子は隣家の冠木《かぶき》門の柱にサッと身を隠し、それを見守った。男の姿が、完全に屋内へ消えるのを待ってから、小走りに行ってその家の前に立った。この当時、家の軒下に表札を提げておく習慣はない。桜子にもそれくらいの常識はあったから、男の名を知ることは諦《あきら》めていたのだが、期せずして僥倖《ぎょうこう》に巡り会った。
門口の貼り紙に、かなり達者な草書体で記されていたのは、
……流……学教授
戸座岩衒夭斎《とざいわげんようさい》、
の文字である。
……の部分は雨水にでも滲《にじ》んだものか、黒く汚れて全く読み取れない。
が、それを一瞥《いちべつ》した途端、
(楠流軍学教授――)
との文字を想起した桜子は、矢張りただ者ではない才知の持ち主と言えたろう。
「ひ……姫様……そのように走られましては……」
息を荒らげて彼女に追いつかんとする楓のほうを顧みる際、その家の向かい方に、赤い暖簾の小さな茶店のあるのが目に入った。店先の長床子には、一人の男が腰掛けている。
ついいましがた吸いつけたばかりらしい煙管を手に、男は静かに煙を吐いていた。
そして町人風体のその男をひと目見るなり、
「そうか!」
桜子の満面に喜色が漲った。
「矢張り私の目に狂いはなかったぞ、楓」
「一体、どうなされたと言うのでございます? ……楓には、なにがなにやら、さっぱり……」
「先程の総髪の男――あれは、幕府転覆を企む大悪人じゃぞ」
「なんと!」
楓が息を呑み、大きく目を見張ったと同じ瞬間、茶店の床子にいた男が、左手の煙管を取り落としそうになりながら、思わず床子から腰を浮かせた。
「あの男は、幕府転覆を企む一味の領袖《りょうしゅう》なのじゃ」
と、道場破りでもするときのような声音で、桜子は言い放った。
そのあと、茶店の店先にいるその男のほうへと顔を向けつつ、ゆっくりと近づいてゆく。
「――のう、そうではないか、左平次《さへいじ》」
「…………」
男は当惑した顔で桜子の視線に応え、黙って床子に座り直した。
三十半ばと見える、小柄な体格の男である。
深めの菅笠《すげがさ》に濃紺の道中着――しかも傍らには大きな風呂敷包みの荷物付きで、お店者《たなもの》の商用旅など装ってはいるが、明らかに目つきの鋭い、ちょっと苦み走ったいい男だった。
「姫様?」
「公儀お庭番、黒鍬《くろくわ》の左平次じゃ。――久しいのう、左平次」
「姫ッ」
黒鍬の左平次は悲鳴のような声をあげ、再び床子から腰を浮かせた。
「ほう、お庭番とは例のあの、伊賀やら甲賀やら申す忍びの……したが、姫様は何故斯様《なにゆえかよう》な御仁をご存じであらせられます?」
皺深い瞼に隠された楓の瞳が、忽ち好奇と興味に輝きだす。
「三年前、西の丸にて大御所様にお目見得の折、奥の局《つぼね》にて雪隠《せっちん》を借り、城中にて迷いし私を、左平次が案内してくれたのじゃ」
「お城の奥は男子禁制と聞いておりますが、お庭番は出入りを許されておりますのか?」
「そうじゃ。古来より、お庭番を一人見つけたら、その周辺に約五十倍の数のお庭番がいるとされておる。日頃は決して人前に姿を見せぬが、城内の至る所に常時三百名からのお庭番が身を潜め、外敵の侵入を防いでおるのじゃ」
「姫様、ちょっと……」
煙管の灰をポンと落として懐にしまいつつ、左平次は桜子に近寄った。無礼にならぬほどの強さでその袖を引き、目顔で促せば、
「なんじゃ?」
と問い返す桜子の顔つきは一向悪びれない。
「ここではなんですから、裏のほうにて、お話を――」
「それもそうじゃな。相わかった。……楓、そなたはここで、不穏な動きがないかどうか、あの家を見張っているのじゃ」
「かしこまりました」
謹慎な様子で畏《かしこ》まりつつ、楓はやおら、左平次のいた床子に腰を下ろす。
「団子でも食すふりをしながら、見張っておりましょう」
そして言うなり、手を叩いて店の者を呼んだ。
「団子と茶を所望じゃ」
褪《あ》せた黄八丈《きはちじょう》に赤い前掛けをした十七、八の若い娘が、それに応じて店内から顔を出すのを待たず、桜子は左平次に引かれて行った。
人影の途絶えた店の裏手は、昼なお鬱然たる鎮守の森である。余人に密談を盗み聞きされる虞《おそ》れはない。
桜子は、一応周囲に目を配り、人気のないのを確かめてから、自信ありげに切り出した。
「そなたもあの衒夭斎を怪しいと睨んだのであろう。流石はお庭番じゃ」
「…………」
相手に感じとれぬほどの微かさで左平次は嘆息し、笠をしたまま、桜子の顔をまじまじと熟視した。
相変わらず、美しい。彼がこれまで見てきた女たちの中でも格段の美貌である。江戸城の大奥にだって、彼女に比類する美女の数は片手の指を超えまい。妖艶《ようえん》というのではないが、対していて、こちらの胸の中にまでさやかな涼風が吹き抜ける心地のする清冽さを持ち合わせている。はじめて彼女を見た日から三年、その颯々《さつさつ》たる雰囲気に変わりはない。気だても、悪くない。頭だって、決して悪いわけではない、と左平次は思っている。ただ、思考のめぐらせ方が、余人と些か違っているという、それだけのことだろう。
「桜子姫の身辺に目を光らせい」
と大御所のご下命を受けてより、左平次は、断然桜子|贔屓《びいき》である。
この三年間、一日とて欠かさず彼女の身近にあり、彼女一人を見つめ続けてきたのだから、それも当然の結果であった。その種の身贔屓は、当然男女の思慕にも通じるものだ。
だが左平次は、
(身分が違う)
という、ギリギリの殆《あや》うい理屈で、常に己を戒めてきた。もとより忍耐強い男である。
「拙者が見張っていたのは、姫様、貴方《あなた》様のほうでござるぞ」
とうっかり口をすべらせてしまう失態は、よもや演じようわけもない。
桜子と楓が、三日月藩の上屋敷より出奔したことは、彼にとって多少歓ぶべき事態であった。藩内――特に江戸家老の周辺にて不穏な動きのあるらしいことは、彼とてとうに承知していた。家老のたくらみを知り、お家を護らんとて立ち上がった桜子姫の身には、当然危険が迫るだろう。いくら武芸に秀でた女丈夫の姫君でも、多数の敵を相手にしては到底勝ち目がない。
この職に就いて早十六年余。中堅の域に達し、いまが盛りの沈着冷静な公儀隠密の心は徒《いたずら》に逸《はや》った。
いよいよ危ないとなれば、お助けするのは自分の役目と心得、密かに胸をときめかせていたところが、
すわ、このとき!
と目を輝かせた瞬間、たまたまその場に居合わせた素浪人に、あっさりその役を攫《さら》われてしまった。口惜しくはあったが、結局登場の機会を失って、この数日、虚しく桜子の身辺に目を光らせ続けたのである。
「いつからじゃ?」
「は、三年前より――」
唐突に問われ、つい釣り込まれて応えてから、左平次は激しく臍《ほぞ》をかんだ。
「なんと、三年も!」
一瞬間大きく目を見張り、
「三年も前から、ご公儀はあの衒夭斎に目をつけておったのか」
たちどころに得心して満足げに口辺を弛《ゆる》める桜子の笑みが見る見る遠のき、大きく揺らぐような心地を、左平次は覚えた。
「よう、わかった。あたりをつけたまでで、左平次にも未だ奴の陰謀の実態は掴《つか》めておらぬのじゃな? ……よかろう。この桜子も、及ばずながら助太刀いたすぞ。なんでも申しつけてくれい。……そうじゃ、あの軍学塾に門弟として潜入し、それとなく中の様子を探るというのはどうじゃ?」
「…………」
絶句したきり、左平次は二の句が継げなくなった。
桜子の性格とその思考法なら、いい加減知り抜いたはずの左平次が、そのときしばし、眩暈《めまい》を感じて立ちすくんだのである。
3
「幕府転覆を企む大悪人?」
「然様《さよう》、軍学教授の看板を掲げて門弟を募り、彼奴らを率いて乱を起こす腹積もりと推察いたしました」
「風の強い日を選んで江戸の城下に火を放ち、八百八町を灰にする計画と?」
「それと同時に兵を挙げ、混乱に乗じて江戸城まで攻め寄せるつもりに相違ありますまい」
「成程」
廉十郎は、一応納得顔に頷《うなず》いた。
それからやおら顔をあげ、依然膝を崩さぬ姿勢のまま、真っ直ぐ桜子の目を見据える。
「ときに、姫――」
「なんじゃ、上総介殿?」
「本日広小路、柳亭《りゅうてい》師匠の演目は、『由井丸橋射天録《ゆいまるばししゃてんろく》』正雪《しょうせつ》自害のくだりと拝察いたしたが」
「なんと、上総介殿も聴講なされたか?」
「いや……」
端正な眉間に苦《にが》みを刷きつつ、廉十郎は虚しく、視線を宙に泳がせた。
見慣れた我が家の、煤《すす》けたような部屋の中に、たった一人、場違いなひな人形を据えただけで、まるきり見知らぬ場所にいるかと錯覚する違和感は依然拭えない。
傍らでは、燭の火が、いまにも消え入りそうに、絶えず小さく震えている。もし、いま目の前にいる美貌の姫が、あの火のように心許無く、襲いくる運命に翻弄されるだけのか弱い存在ならどんなによかったろうと彼は思う。
思うほどに、嘆息せずにはおられない。
桜子の面上から目を逸らし、しばし思索する風を装ってから、思い決したように視線を戻した。
「それで、その軍学教授の大悪人が――」
「姓名の儀は、戸座岩衒夭斎」
「その戸座岩|某《なにがし》が、張孔堂《ちょうこうどう》正雪の再来と合点なされたわけですな?」
「そのとおりじゃ、上総介殿」
得たりとばかりに大きく身を乗り出しつつ、桜子は頷く。
「しかし、張孔堂の企みが、結局無に帰したように、戸座岩某の陰謀も、終《つい》に成就せぬものとは思われぬか?」
静かな口調で、廉十郎は問い返した。
この語り口、この表情が、多分彼には最も相応しいと思われる沈みきった顔色声音だ。
「それは……」
桜子は口ごもり、必死になにかを思案する風だった。そう言えば、この姫の困惑する顔を、知り合ってからはじめて見たと思い、廉十郎は多少いい気になった。が、
「成就せぬかもしれないし、或いは成就するかもしれぬのではあるまいか?」
負けずに厳《おごそ》かな口調になり、桜子は問い返した。
正論である、桜子姫にしては珍しく。但し、それが彼女一人の妄想ではなく、すべて現実であった場合、の話だが。
「何万という無辜《むこ》の民の命が失われるかもしれぬ企ては、なんとしても未然に防がねばなりますまい」
「いかにも」
いい加減な返事をし返しながら、廉十郎はそろそろ話を切り上げたく思っている。
朝帰りのあと、ろくに休息もとらず再び市街へ出て、いつもの賭場をまわり、特に儲けもせず損もせず、夕刻からは、馴染みの居酒屋で一刻近く飲んだ。全く疲れを感じていないと言えば嘘になる。
「姫の仰せられることは一々もっとも。それについては、明日にでも至善の策を図るとして、今夜のところはもう休まれたほうがよいのではありますまいかな? ……乳母殿も、案じておられよう」
「はい、そういたします」
桜子はあっさり承知した。
この素直さだけは評価していい、と廉十郎も思う。桜子は腰をあげ、土間へ降りると、
「それでは、おやすみなさいませ、上総介殿」
草履を足に突っかけつつ顔だけ顧みて言い、スルスルと歩を進め、そしてガラリと障子戸を開いた。
開いた先の闇中に、男が一人、呆気にとられた顔で立ち尽くしている。
「なんじゃ、左平次」
「…………」
「その者は?」
「公儀お庭番、黒鍬の左平次という者です」
訝《いぶか》る廉十郎に、桜子が屈託のない口調で告げたときには、既に左平次の姿は闇に消えている。妙技とも思えるその身ごなしを目のあたりにして、廉十郎はまたしても暗然たる思いにとらわれた。
衒夭斎とやら言う軍学者の陰謀どころではない。
なにか途轍もなく大きな力が自分の周辺で蠢《うごめ》き、このまま手も無く取り込まれてしまいそうに思え、廉十郎は、いつにない不気味さを感じはじめていた。
桜子が去ってからもなお暫く、きちんと正した膝を崩さずに、廉十郎は端坐していた。
じっと目を閉じている。
フッ、
と気を抜かせるような、ほんの僅かな空気の揺らぎも見逃すまいとするように、彼の素肌は、研ぎ澄まされた刃《やいば》の体感を誇った。
「言いたいことがあるなら、さっさと姿を現したらどうだ?」
つと目を開き、懶《ものう》げな口調で廉十郎は漏らした。独りごちるさり気なさとは裏腹、虚空を見据えたその両眼には、目前の敵なら即ち一刀両断するだけの彊《つよ》さが宿っている。
「いつまでも、そんなところにコソコソ隠れていられては目障りだ」
廉十郎が言い終えたその途端、音もなく、空気が動いた。
廉十郎の身に、本人も気づかぬ無意識の緊張がひた走る。
かさっ、
と衣の擦れるほどの物音もしなかった。
廉十郎は表面上、全く顔色を変えずにいたが、内心の動揺は自分でも否みきれなかった。
土間と部屋とを仕切った衣桁《いこう》の陰に、男がいる。まるで、もう一刻以上も前からそこにそうして座り込んでいるかに見える落ち着いた風情は、社殿の前の狛犬《こまいぬ》の片割れを思わせた。
「この数日、姫と私の周辺につきまとっていたな」
「矢張り、気づいておられたか。……睨んだとおり、隙のないお人じゃ」
押し殺した声音で左平次は応え、その半身を、クルリと廉十郎のほうへ向け変えた。瞬間廉十郎は、鍛え抜かれた殺気の塊が真正面から自分を襲う錯覚にとらわれ、ゾッと背筋を凍らせた。最前彼が天井裏に潜んでいた気配までは廉十郎にも薄々察せられていた。だが、促されて、そこから軽々と身を舞わせ、次に何処《どこ》へ現れるつもりなのか、廉十郎には皆目見当がつかなかったのである。
「夜分、かかる仕儀にて御意を得る無礼を許されよ」
「もとより、武士としての礼節などはとうの昔に金に換えた、見てのとおりの無頼の徒だ」
「その無頼を見込んで、貴殿に願いの儀があるのだが、住之江殿」
「さて、改まってなんであろう?――公儀お庭番、黒鍬の左平次殿とやら」
自分だけが姓を呼ばれては、なにか弱みを掴まれたように思え、ついむきになって相手の名を呼び返した。そういう大人げのなさが、桜子とのつきあいによって齎《もたら》された影響だとは、無論廉十郎は気づいていない。
「衒夭斎のことじゃ」
「なんだ、隠密殿。まさかお手前までが、その戸座岩某とやらいう無名の軍学者に謀叛《むほん》の疑いあり、と申されるのではあるまいな」
「いや、拙者の役目は謀叛人の探索ではなく、桜子姫の身辺警護でござる」
生真面目な顔つきを崩さずにいう左平次の語調の中に、どこか一抹、廉十郎は桜子の匂いを感じとった。
「それほど大事な姫君ならば、早々にそちらが保護して、どこか適当な場所へ匿《かくま》われたらいかがなものか?」
「…………」
左平次は、そのとき何故か苦しげな顔つきをして返事を渋ってから、
「桜子姫は、いずれ大御所様のお召しを受けるべきお方でござる」
重々しい口調で告げ、また言葉を止める。
「それで?」
「三日月藩の江戸家老一派にお家騒動の動きがあることは貴殿も既にご存じのことと思うが」
「それが?」
「大名家にてお家騒動が生じ、これがご公儀の知るところともなれば、良くて蟄居《ちっきょ》謹慎、減封――最悪の場合には改易お取り潰しの厳罰を受け申す」
「取り潰した大名家の禄を窮乏した幕府の財政にあてるのは公儀の常套《じょうとう》手段。そのためにこそ、そなたらお庭番が日々暗躍しておるのではないか」
廉十郎に指摘されると、左平次は一層苦しげに眉を顰《ひそ》め、膝下の、畳の縁へ視線を落とした。
「三日月藩江戸家老一派の動きは、幸いにして、未だ公儀に知られてはおり申さぬ」
「それは……」
面妖《みょう》ではないか、そなたというものが四六時中姫についていながら、と言いかけ――だが廉十郎は、左平次のその苦悩に満ちた表情の意味が漸くわかって、言葉を止めた。
大御所の命で、長らく姫の身辺に身を置くうち、彼の心には変化が生じた。即ち、冷酷非情の公儀隠密が、あの姫の特異な人柄に触れ、毒気を抜かれて、いまではすっかり、その情にほだされている。だから、お家騒動の事態を公儀に知らしめ、三日月藩の存亡を危うくするのは忍びない。
「つまり、そういうことか?」
苦しげな様子で言い渋る左平次に代わり、廉十郎は懇切丁寧に事の要諦《ようてい》を語り、相手の心底までも| 慮 《おもんぱか》ってやった。左平次にはその親切が余程身に沁みたのか、廉十郎の語っているあいだじゅう、遂に一言の相槌《あいづち》とてうたず、黙って項垂《うなだ》れていた。
「それ故、姫には決して軽々しい行いをなされぬよう、貴殿にも是非ご助力いただきたいのでござる。……姫は、残念ながら貴殿の申されることなら素直にお聞き入れあるらしい故」
「相わかった」
左平次の心中を察した廉十郎はあっさり頷く物分かりのよさをみせた。
仮に衒夭斎が謀叛人の首謀者で、密かに幕府転覆計画を策しているのが事実だとしても、桜子に、自ら率先してこの陰謀を暴き、一味の連中と華々しく市中にて斬り結ぶような真似をされたのではたまらない。もしそうなれば、あの姫君のことだ、
「やあやあ遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ。我こそは三日月藩主の嫡流《ちゃくりゅう》にして、森長国が一子、桜子なり」
と大音声《だいおんじょう》の名乗りをあげ、ここを先途と触れまわるであろうこと必定。世間の目は、いやでも三日月藩という存在に向けられる。
「そなたも、ご苦労なことだな、隠密殿」
しみじみとした口調で言う廉十郎の温かい言葉に心が和んだのか、左平次の辛《つら》そうな表情がふと弛んだ。対する廉十郎の側にも、最早身を切られるような緊張感はない。
公儀隠密と無頼の素浪人――。
そんな、互いの立場の垣根を取り払えば、ともによく似た境遇の者同士として、口には出せない共感を覚えるようだった。
4
「はて――」
冊子の頁を繰る手をふと休め、暮林蘇芳は首を捻った。
「天の為すところを知り、人の為すところを知る者は、至れり。天の為す所を知る者は、天にして生くるなり。人の為すところを知る者は、その知の知る所を以て、其の知の知らざる所を養う。……荘子という学者は妙な考え方をするものよのう。たとえ自然の営みを知り、人間の営みを知ったとて、人はそうそう、自然のあるがままには生きられぬ。なまじ人間の営みを知るからこそ無用の欲もでる」
淡々として独りごち、蘇芳がその実直そうな生真面目顔を上に向けたとき――。
部屋の障子が、
スゥーッ、
と敷居の上を滑り、くどいほど濃密な麝香《じゃこう》の香りが忽ち室内を席巻した。
「この時刻まで部屋に明かりを灯し、一人でなにをしているかと思えば、書見かえ? ほんに学問熱心なお方よのう」
「お方様」
白綾の寝間着一枚の上へ、中の透けた薄物の青絽《あおろ》の打掛けを羽織っただけのお栄《えい》の方は、ひっそりと足音を消して室内に入り、蘇芳の傍らへと躙《にじ》り寄る。その体にたっぷりと焚き染めた麝香の匂いは、まるで搦《から》め捕《と》る性急さで蘇芳の身に纏わりついた。
「どうなされました、この夜更けに?」
しかし蘇芳は眉一つ動かさず、甘い移り香を拒絶する冷たさで言い放つ。
「お世継ぎ君のご生母ともあろうお方が、余人に見られればなんとします」
「ツレないことを申されるものではありませぬ。……妾《わらわ》はもう、心細うて心細うて……万寿丸《まんじゅまる》は、本当に森家の後継ぎになれましょうや?」
「ご懸念には及びますまい。すべて順調に事を運んでおりますれば――」
「小娘の始末は、もうついたのかえ?」
たっぷりと媚《こび》を孕《はら》んだ視線の遣《や》り方をしながら、お栄の方は、至極自然に、その身を蘇芳の肩へしな垂れさせる。当惑しつつも、蘇芳は成行から片手を伸ばし、むっちりと肉《しし》むらの詰まったその腰を、支えてやらねばならなくなる。今年三十になったばかり。まだまだ女盛りといっていい豊満な肉体からは、見せかけだけの蘇芳の謹厳も遂には凌駕《りょうが》するほど、圧倒的な煽情《せんじょう》の色香が放射されていた。
「…………」
「もし万一、桜子めが大御所様にでも直訴に及んだ場合には、一体なんとなされる?」
「何一つ、証拠はござらぬ。たとえご下問にあっても、しらをきりとおせばすむことでござる。……それに、いまのところはその心配もござらぬ」
「何故じゃ?」
すぐ耳元まで顔を寄せて尋ねるお栄の方の熱い吐息が、蘇芳の耳朶《じだ》を擽《くすぐ》っている。
「忌々《いまいま》しいことじゃが、桜子は恐るべき剣の使い手じゃ。選《え》りすぐりの者を遣わしてもならず、人数を繰り出してもなお、かなわなんだではないか。……それをどうやって、始末するおつもりなのじゃ?」
「ならば、桜子以上の使い手を刺客に選べばよい」
ぞんざいな口調とともに、蘇芳の手が軽くお栄の方の体を撥《は》ねた。峻拒《しゅんきょ》したのではない。遂に欲望を堪《こら》えきれなくなった蘇芳が、自ら女の体に触れ易いよう、互いの体の位置を変えたのである。
「そ……のような使い手が、はたして家中におりましょうや?」
「家……中の者ではない」
「で……は……外部の者を?」
「そう……だ。世の中には、金さえ貰《もら》えばなんでもするという無頼の輩《やから》がうようよしておる。そういう者を……雇うのだ。……後々のことを考えれば、寧ろそのほうが都合がよい――後腐れが……なくてな」
「桜子を……始末したあとで……おお、そやつの口も……」
「封じてしまえば……よい。……ああ――」
あとは互いの喘《あえ》ぎが激しく絡んで、とてもじゃないが言葉を交わせる余裕はない。
唇と唇が、互いの肉と肉とが溶け合うばかりに貪婪《どんらん》な、熟年男女の情交であった。
(藩主の側室と江戸家老の密通か。……呆れたものだ)
公儀お庭番黒鍬の左平次の、その冷ややかな目が、天井裏より注がれていることに、もとより気づく二人ではない。
5
団子の残りは、最早皿に一本きりだった。
桜子は、何気なくそれに手を伸ばしかけたが、期せずして楓の手のほうが一歩先んじた。
桜子の手はむなしく空を掴むのみ。ふと見れば、餡《あん》の残りが、寂しく皿を汚していた。
「これ、団子をもうひと皿所望じゃ」
すかさず一個目を頬ばりつつ楓の言った言葉の声音は低くくぐもったものになる。茶店の女は幾分呆れ気味な目を向けながらも、
「はい、ただいま」
と短く応え、即座に店の奥へ引っ込んだ。
団子はそれで三皿目だった。
一皿に三本ずつ盛られてくるため、桜子と楓とで、互いに四本ずつ食した勘定になる。余った最後の一本は、結局楓の胃の腑におさまった。他になにもすることがない徒然《とぜん》を凌《しの》ぐには、矢張り無心に口を動かしているしかないらしい。
桜子はやおら茶碗を取り上げて、冷めた番茶をひと口啜った。
視線は、常に真正面の家の門口へ向けられたままである。
「……学教授」
の貼り紙が、ときに弱く風にそよいでいるさまは、正月の凧《たこ》上げを見るように長閑《のどか》であった。桜子と楓とが茶店の床子に腰掛け、団子を食しはじめてから一刻――。何人かの若い武士がその家を訪うていた。月代《さかやき》を綺麗に剃っているのやら総髪|髷《まげ》の者やら、風体身なりはまちまちだったが、どの男も、主持ちの扶持取り侍には見えなかった。合計すれば、およそ十二、三人の数にはなるだろう。彼らは皆、小半刻もすると家を出て、何人かずつ連れ立ちながら、ガヤガヤと雑談を交わしつつ、街路を右と左に別れて行った。
教授が終了したのであろう。
(町場の似非《えせ》軍学者にしては、まあ賑わっているほうだろう)
桜子らからは死角を成した茶店の木戸口の陰から、廉十郎もまた、その同じ家の門口に視線を注いでいた。
ほどなく運ばれて来た四皿目の団子を、桜子と楓とでそれぞれ一本ずつとったとき、奇《く》しくも門口の格子戸が開かれた。期待どおり路上に現れたのは、見事な黒髪を背に靡《なび》かせた総髪の男――桜子の言う、幕府転覆計画の首謀者・戸座岩衒夭斎にほかなるまい。
「気どられぬよう、さり気なく振舞うのじゃ、楓」
「心得ております」
桜子と楓は思いきり狼狽《ろうばい》し、且《か》つは緊張したそぶりを見せながら、それでも懸命に団子を食い続けた。食いながら、桜子の目は衒夭斎を見ず、傍らの、床子の上に落ちている。その細長い紫色の風呂敷包みの中に、自慢の名刀『名物三日月』が隠されていることは言うまでもない。由《よし》ない緊張に蝕まれた桜子の心は、つい頼みの太刀に向けられた。不覚にも、団子の串を差し挟んだ桜子の指先は微かに震えていた。
(ええい、これは武者ぶるいなのじゃ!)
桜子、深く己を恥じて、殊更《ことさら》自分に言い聞かせた。
だが、当の衒夭斎自身は、胡乱《うろん》な目つきで見られていようことなど夢にも思わぬ様子で、桜子たちのいる茶店の前をゆっくりと通り過ぎる。仕立てのいい仙台平の袴が堂々と刻む歩調に、男の自信が集約されているように思え、ちょっとばかり癪に障る。
(成程、姫君がすっかりその気になるのも無理はないほどの凶相だな)
妙なことに感心しながら、廉十郎もまた、横顔にて衒夭斎をやり過ごした。
小さな堆朱《ついしゅ》の手文庫を、さも大事そうに小脇に抱えた衒夭斎は、どうやら広小路のほうへ向かうものと見えた。
「すわこそ!」
桜子は刀の包みをとって床子から立ち上がり、即ち衒夭斎のあとを追う。団子代を支払うことも忘れ、楓もすぐさまそのあとに続く。
「待たれよ」
鉄砲玉の勢いで路上に飛び出した桜子の前に、やおら廉十郎が立ちはだかる。
「上総介殿!」
「そのようにおっとり刀で走りだしたのでは、先方に気づかれてしまいますぞ」
「なれど、ぐずぐずしては賊が逃げてしまう。あの堆朱の手文庫……あの中に、きっと密書がしまわれているのじゃ!」
(一体何の密書だ)
呆れ顔を押し隠しつつ、廉十郎は殊更柔和な笑顔を貌《つく》ると、
「ここから先は、それがしにお任せあれ」
逸りがちな桜子の体を、片手で優しく押し返した。
「上総介殿……」
桜子の瞳に、見る見る花のほころぶような感動の滲むのを、こそばゆい思いで廉十郎は眺めた。それは一途な、思慕の瞳だった。
「姫はここで、いま少し衒夭斎の家を見張っておられるがよい。されば、他にも怪しい人物が、あの家に出入りせぬとも限るまい。衒夭斎の行き先とその目的は、必ずやこの上総介が探ってみせましょうほどに」
「かたじけない、上総介殿」
「なんの。何万という無辜《むこ》の民を救うためでござる」
言うなり廉十郎は踵を返した。
心ならずも桜子に調子を合わせ、恥ずかしい台詞を口にしたことが、いやでいやでたまらなかった。
(人相は悪いが、どうやら剣の腕は大したこともなさそうだな)
廉十郎の目は、無意識に衒夭斎の下肢を追いかけた。
一流の使い手というものは、身ごなしを見るまでもなく、歩き方を一瞥しただけでそれと察せられる。見る者が見れば、足の運び一つ見ただけで、その者の使う剣筋までもある程度は予想できる、という。廉十郎の見る限り、衒夭斎の足運びには、きらめくような剣才の閃きは感じられなかった。それどころか、二尺以上の長さの棒なら、竹刀《しない》はおろか、天秤棒一つ手にしたことはない、という口だろう。刀をさした腰に力がなく、そのため歩を刻む度、体が浮き気味になる。第一、その大刀も、
(大方|竹光《たけみつ》であろう)
と廉十郎は見た。刀を差し慣れぬ者がたまに本身を持てば、そこにだけ妙に意識が集中し、どこかぎこちない様子になるが、逆に差し慣れた者であれば、刀を差すことで自然と腰が沈み、どっしりと腰の据わった、安定感のある歩き方となる。衒夭斎の刻む歩調には、浮足立ったぎこちなさも腰の据わった安定感も、そのどちらも見られなかった。
(それにしても……)
一文の得にもならぬというのにコソコソと他人のあとを|尾行《つ》けまわしている自分が、廉十郎には情けなくってしょうがない。いやなら途中で止める手もあったのに、つい足がそちらを向き、衒夭斎の背を目で追っている。これもすべて、桜子の薫陶故かと思うと、自分は生涯あの姫から逃れられぬ運命のようにも思えてくるのだ。
そんな廉十郎の心中を余所《よそ》に、幕府転覆計画の首謀者・戸座岩衒夭斎は行く。
大門町を過ぎ、広小路を、一向《ひたすら》上野の方向へ向かっていた。
縁日ではないが、今日も相変わらずの人出の多さで、互いに体を擦り合わせねば前へ進めぬ広小路の人波を行くことしばし――。
漸くにして彼が足を止めたのは、なんと、廉十郎には既にお馴染み、稀代の女賊にして女手妻師、鬼あざみのお多香が大夫を務める見世物小屋「春狛座」の楽屋口である。
まさかと思う間にも、衒夭斎は軽い足どりでその中へ入って行った。
(どういうわけだ?)
訝りながらも、廉十郎は逡巡《しゅんじゅん》した。
いまなら、お多香に用のあるふりをして堂々と楽屋に入って行くこともできるが、それではあまりに行動があざとく、桜子姫的なように思え、廉十郎にはためらわれたのである。
ためらううちにもときがたち、やがて用を終えたらしい衒夭斎が、再び楽屋口に姿を現した。しかし、そのとき彼の左脇からは、最前までさも大事そうに抱えられていた、あの堆朱の手文庫が消えていたのである。
「ああ、あの、八卦見《はっけみ》の先生みたいなお武家様ね」
軽く頷いてみせてから、お多香は不意に笑い転げた。
狭い楽屋の中には彼女の他に、見習い中の少女が二人、道具類の片付けなどをしている。唐突な高笑いに驚き、ハッと顔をあげてこちらを見た。
「それが、可笑《おか》しいったらないですよ」
笑いつつ、お多香は件《くだん》の手文庫を傍らから取り出して蓋を取り、中身を廉十郎の目に曝《さら》す。
入っていたのは、綺麗な桜色をした一枚の短冊である。流麗且つ繊細な、王朝の女流歌人の如き文字で、一首の和歌が認められている。即ち、
玉ゆらの露もまだ干ぬ槙の葉に
恋ぞ積もりて春の夜の夢
サッと一読してから、廉十郎は思わず噴き出しかけた。どこかで聞いたような字句を繋《つな》ぎ合わせただけの、障子の継ぎ貼りを思わせる歌である。素人目にも滑稽《こっけい》極まりない。
「なんだ、これは?」
「あの先生が、あたしにくだすったんですよ」
「つまり……恋歌というわけか」
ニヤリと口辺を弛ませながら廉十郎は言い、短冊を手にとって、矯《た》めつ眇《すが》めつそれを眺めた。
「これでもう、十首目くらいになりますかね。『強《し》いて返歌は求めぬ。これは儂《わし》の道楽だと思ってくれ』とおっしゃって……」
「他の歌もすべてこの調子か?」
「ええ……まあ」
「変わった口説き方もあったものだ」
「なにしろお堅い国学の先生ですからね。お弟子さんをとって和歌を教えてるそうですけど、本当でしょうかねぇ?」
「え?」
事もなげに言って、お多香は漸く笑いをおさめたが、同時に廉十郎の表情からも笑いが消えた。
「いまなんと申した?」
「え? ……だって、ご本人がこんなひどい歌しか作れないのに、高い授業料をとって人に教えてるなんて、本当だとすれば詐欺みたいな話じゃありませんか」
「いや……そうではなくて……確か、国学の先生だと?」
「ええ……国学教授の戸座岩衒夭斎、って……旦那もご存じじゃなかったんですか?」
「国学者……」
ぼんやり口中に呟いてから、廉十郎はふとまた口辺を弛め、こみあげる可笑しさを喉元に溜めた。
(国学者か……とんだ学者違いだ。三十一文字を捏《こ》ねまわすのが商売のひ弱な歌詠みに、幕府転覆の大計画は到底策せまいな)
6
広小路を少し外れた黒門町の御家人屋敷周辺は、いつもながら閑静なところである。
行き交《か》う人の数は飽くまで少なく、たまに棒手振《ぼてふ》りの豆腐屋などが通ったりすると、客を呼ぶその声音が、谺《こだま》の如く、いつまでも街路の端から端を鳴り響いていたりする。
約一町ばかり続いた通りの中で、店らしい店といえば、赤い暖簾の茶店が一軒きりで、あとは小さな煮売り屋の一つも見当たらない。
廉十郎がそこまで立ち戻ってみると、桜子と楓は、依然店の外の同じ床子に腰掛け、相変わらず団子を食っている。もう何皿、平らげたことだろう。口中に纏わりつく餡の甘さを想像するだけで、廉十郎は胸が悪くなる。
「あ、上総介殿」
廉十郎を見ると、桜子は忽ち喜色を顔に浮かべ、
「小半刻ほど前、衒夭斎が戻って参りましたぞ」
団子の追加を注文するときのような声音で言った。
つと――。
未だ一本残った団子の皿から、最後の一本を取ろうかどうか迷っていた楓が苦しげに眉を顰め、低く呻《うめ》いて腹を押さえた。
「如何《いかが》いたした?」
桜子は驚き、廉十郎も慌てて走り寄る。
(団子の食い過ぎだ)
との内心は注意深く隠して、さも心配顔に覗きこんだ。
「癪《しゃく》の痛みであられるか?」
「いや、楓には癪の持病はないはずじゃが」
桜子が首を傾げて言ったとき、背後に不穏の気配を察する――。
ふわッ。
と軽い羽根のようなものが、そのとき桜子の耳元を緩《ゆる》く掠めた。
桜子はいち早く身を避け、佩刀を掴んで立ち上がった。苦痛に耐えかねた楓はひと声呻いて身を二つ折にし、その場に小さく蹲《うずくま》る。
果たせる哉《かな》、不幸中の幸い。
一見羽毛の如く見える小さな毛針が、二つの対象物を同時に失い、虚しく空《くう》を舞って土の上に落ちた。毛針の尖《さき》には、蓋《けだ》し即効性の猛毒が塗られていよう。
「おのれ、何奴!」
刀を抜き放ちざまに桜子は身構え、廉十郎もまた鋭くそちらを顧みた。
赤い前掛けをした茶店の女が、ひょっとこ面《めん》の真似でもするように小さく口を尖らせてそこにいた。いつもの娘ではなかった。矢鱈《やたら》と背が高い上に、白塗りの鬼瓦のような顔をした女だ。無造作に塗りたくった白粉が斑《まだら》になり、僅かに覗いた地肌の色は漁師もさながら、よく陽《ひ》に焼けていた。
「さては団子に毒を盛ったな!」
桜子の悲痛な叫びはもとより無視され、第二の攻撃が間髪入れずに彼女を襲う――。
しかし、女の口中より噴き出された毛針が、捷《はや》く桜子の喉元へ達しようとするよりなお速く、廉十郎の両手が桜子の背を強く押した。押された桜子は呆気なく体勢を崩し、前へのめって片膝をついた。
「なにをするのじゃ、慮外な!」
柳眉《りゅうび》を逆立てて桜子は激昂したが、なにをするもなにも、このとき廉十郎は、殆ういところで彼女の命を救ったのである。もし桜子が、毛針を刃に切り払わんとて無謀に刀を振り下ろせば、それ自体の重みを持たぬ力無き羽毛は、その鋭い刃風に舞ってフワリと飛び、或いは白い首筋を傷つけていたことだろう。
しかし彼には、それを桜子に釈明している暇はなかった。
前掛け女の背後に、いつしか四人ばかりの屈強の男が出現していた。
否、女にしてはひどく大柄に見える赤前掛けの、その結い綿髷の女が、実は女ではなく、男が女装しているものと、そのときはじめて、廉十郎は気づいた。或いは桜子も気づいたか。
「暮林の手の者かッ」
厳しく問うたとて、無論応える者はない。
「そのほうら、見慣れぬ顔じゃ。……さては家中の者ではないな」
「暮林めが金で雇い入れたる破落戸《ごろつき》どもでござる」
桜子の言葉を受けて、待ってましたとばかりに黒鍬の左平次が登場した。彼はそれまで、保護色の黒っぽい布を頭からスッポリと被り、茶屋の屋根上に潜んでいた。ここで出遅れれば又候《またぞろ》先日の二の舞いとばかり、踊るような身の処し方で、渦中へ身を飛び込ませたのである。
「お気をつけ遊ばせ、姫。金で魂を売り渡す外道なれど、この者共、もとは我らと源を同じゅうする、甲賀の忍びにござりまするぞ」
「案ずるな、左平次。……上総介殿直伝の風光明媚流花鳥風月剣の前には、いかな使い手も有象無象《うぞうむぞう》にすぎぬ」
(私は……伝授した覚えはないぞ)
顔の青ざめる思いで廉十郎は聞き流した。
観念したような諦め顔で、ゆっくりと刀の柄《つか》に手をかける。
毛針戦法が最早通じぬと見るや、五人の刺客は、揃って太刀を抜き連れた。女装の男が咄嗟《とっさ》に脱ぎ捨てた黄八丈が、ぶわっ、と大きく空気を孕みつつ、一瞬間桜子らの視界を遮った。それから、ドカドカと地面を蹴る足音が、空を舞う着物の向こうで高らかに鳴った。
「推参なり、下郎ッ!」
凜《りん》として鋭い桜子の叫びが道の端から端まで、路上いっぱいに迸《ほとばし》ったとき、閑静な屋敷町は一転殺気の坩堝《るつぼ》と化した。
衒夭斎は吃驚《びっくり》した。
なんの騒ぎかと思って門口に立ち、少しだけ開いた戸口から覗き見れば、路上に戦う廉十郎の黒の着流しの背が目に飛び込んで来る。それが、動転した彼の目には、奉行所の定廻りの同心が用いる黒羽織かと錯覚された。
鋭く切れ上がった衒夭斎の目が戦慄に震えた。
(役人が、儂を捕らえに!)
絶望の闇が、忽ち彼を虜《とりこ》にする。
(すべてが露顕いたしたか……最早これまで!)
事が露顕した以上、張孔堂正雪の如く、潔く腹を切らねばならぬと覚悟を決めたとき、真っ赤な綾錦の袖を翻し、悪漢の一人と激しく斬り結ぶ桜子の姿を見た。刃の細長い忍び刀を縦横にふるっては素早く跳梁するお庭番左平次の姿も見えた。
(なんだ、あの連中は?)
衒夭斎は訝り、戸口をもう少し広く開いてみた。
折しもその瞬間、やや下段気味な脇構えから逆|袈裟《けさ》に一刀、廉十郎の太刀が相手の右腋を深く抉《えぐ》った。
びっ……シュワ、
と夥《おびただ》しく鮮血が飛沫《しぶ》くあまりの残忍さに耐えきれず、衒夭斎は思わずそこから目を逸らした。そして直ちに戸口を閉ざし、家の奥へと駆け戻った。
「お見事、上総介殿! いまのはさしずめ、秘剣〈細雪《ささめゆき》の舞〉と名づけましょうぞ!」
興奮過剰に桜子の叫んだ声音も、残念ながらその耳には届かない。
(破落戸か……博徒同士の喧嘩出入りだ。……関わらぬがよい)
衒夭斎は居間に戻ると、元どおり、書見台の前に端坐した。
一応形だけ書面に目をやってみたところで、ぎっしり詰まった四角い文字が、まともに読み取れるわけもない。動悸が激しく胸を打ち、目の前がクラクラした。
「落ち着け、落ち着くのだ。……まだ露顕したわけではない。……そうだ。女手妻師を仲間に引き込み、燧《ひうち》を使わずに家へ火をかけさせ、火事の混乱と騒ぎに乗じて町屋の豪商宅に押し入って金品を強奪せんとするこの計画が、よもや露顕しようはずもない。何故なら、いまの儂は和歌を教える国学者だ。非力な国学者の儂を、一体誰が疑うというのだ……」
無意識な衒夭斎の呟きを聞くものは、日だまりの縁側に気持ちよく昼寝する彼の飼い猫以外、いまは誰一人としていなかった。
[#改ページ]
女賊跳梁 じょぞくちょうりょう
1
「なんと!」
暮林蘇芳《くればやしすおう》は絶句した。
寸糸の如く見える細い目が、忽《たちま》ち、柳の葉ほどの大きさまで、目一杯見開かれる。
「毒も、効かぬのか……」
「はい。……先日、上野元黒門町の茶屋にて、多量の付子《ぶす》を用いましたが、一向に……」
対する用人《ようにん》の余目蔵人《あまるめくらんど》は弱冠二十歳。
印象の薄い、その末成《うらな》りの生白い面を伏せ、恐懼《きょうく》のていを崩さない。
「うぅむ……恐るべし、桜子姫《さくらこひめ》」
「それに、乳母《うば》の楓《かえで》も」
「多量の付子を食らって、なお平然としておるとは……」
「つらつら思いまするに――」
「なんじゃ?」
茫然《ぼうぜん》と宙へ漂わせていた目を据えて、蘇芳は蔵人の、そのよく磨かれた月代《さかやき》の額へと視線を落とす。
「桜子姫とその乳母・楓は、この上屋敷におわした頃から、もう何年もの長きに亘り、食事に毒を盛られており申した」
「それが?」
「生来毒には強い体質であられた上に、毎日少しずつ服用せし毒に体が慣れ……つまり、その、お毒味役の者の如くに……毒に対して――」
「耐性ができたというのじゃな?」
というようなことを、まさか蘇芳は言わず、ただただ信じ難い目の色をして、うっすら汗の滲《にじ》んだ蔵人の額をじっと見返しただけである。
「もしそれがまこととすれば、厄介じゃ。……毒も効かぬ、人数を繰り出すこともかなわぬ、となれば、はて、如何《いか》にして姫を葬り奉ったものか……」
「如何様《いかさま》、難儀なことに相成りました」
蔵人は少しく顔をあげ、蘇芳の視線に応じて言った。
「む……」
つと、蘇芳の面上に緊張が漲《みなぎ》った。
やおら腰をあげるなり、長押《なげし》に隠し入れた槍を取る。ものも言わずに手元で扱《しご》き、けら首から朱鞘《しゅざや》を振り捨てると、天井の一か所に向け、鋭く穂先を突き上げた。
「ご家老!」
「くせ者じゃッ」
ドズッ、
と小気味よく貫かれた白木の天井板のその一点から、ツッ……と一滴血筋が伝うのと、
「チュウッ」
ひと声高く、小動物の鳴き声がそれに重なるのとが、殆ど同じ瞬間のことだった。
「鼠《ねずみ》のようでございまするな?」
「たわけ。……これはな、移し身の術じゃ」
「移し身、でございまするか?」
「気配を知られたと察して咄嗟《とっさ》に鼠を身代わりとし、己は間一髪で身を躱《かわ》す――忍びの者がよく使う手よ」
蘇芳は鼻先に嘯《うそぶ》いたが、蔵人は少しく訝《いぶか》った。
「賊を捕らえるため、宿直《とのい》の者共を呼ばぬのでございますか?」
「無駄じゃ。……移し身を用いたということは、忍びはもう、この近くにはおらぬ。今頃は、とっくに屋敷の外へ逃れておるわ」
「然様《さよう》……でござりまするか?」
一抹の疑念を晴らし得ぬ顔つきで、蔵人が僅《わず》かに小首を傾げたこのとき――。
密談の間の天井裏では、公儀お庭番・黒鍬《くろくわ》の左平次《さへいじ》がピクとも身動《みじろ》ぎをせぬままに、ホッと安堵の胸を撫で下ろしていた。
吐息一つ漏らさず息をひそめ、
(あの江戸家老、意外に油断がならぬ)
と冷や汗をかいた左平次の、その身をひそめた場所から一、二間離れたところで、丸々と肥えた大鼠が一匹、槍の穂先に体の真ん中を貫かれ、無残にも息絶えている。たまたまそこを通りかかったが身の不運の、実に憐れな鼠であった。
左平次は、しばしその場で、己の身を石と化した。
体内から、生き物としての一切の気配を殺し、ただ一向《ひたすら》、我が身を静物と化すための修練を、物心つく頃から欠かさず積み重ねてきた左平次である。己を石と化したまま寸刻を過ごし、蘇芳と蔵人との交わす会話に耳を傾けた。
「しかし、一応念のため、宿直の者を呼ばれたほうが宜しいのでは?」
「無駄じゃと申しておろうが。……それよりも、桜子姫じゃ。……さて、どうしたものか」
「また、忍びの者を雇い入れまするか?」
「あれは駄目じゃ。金がかかりすぎる。……それに、そのほうが見つけて来た忍びは、ものの見事に為損《しそん》じたではないか」
「…………」
「なんぞ、よい手立てはないものか」
(今夜はもう、思案のまとまる様子はないな)
最早《もはや》これ以上、何刻ここへとどまろうと、有意義な話は聞けぬと左平次は判じた。判じれば即ち、速やかに立ち去る。音もなく天井裏を這い進んで屋根に上がり、屋根伝い塀際へ寄ると、そこから敷地外へ、ムササビの身ごなしで逃れ出た。逃れ出たときには、闇に溶け込む黒装束も頭から真っ白く蜘蛛《くも》の巣まみれ、素肌はジットリ汗まみれとなっている。
(江戸家老|奴《め》。なんとしても姫君を亡き者にせんとの考えじゃな。……おのれ、そうはさせぬぞ。この左平次、命に代えても姫君のお命を守りとおしてみせるわッ)
新たなる決意に燃えた左平次の、その苦み走った半顔を――だが今宵は、照らす月とてどこにも見当たらぬ、貉《むじな》の目の如き真闇《しんあん》の晩だった。
闇色が、深く濃い。
自らの進むべき道の一歩先も定かならぬ闇夜の晩には、数々の奇妙が生じるものと、古来より言い伝えられている。しかし、左平次のような商売の者にとって、闇は、歓迎すべき天の恵みと言えた。
(盗賊どもも、この闇に乗ずれば、さぞや仕事がしやすかろう)
ガラにもなく滑稽《こっけい》なことを思い、無意識に口辺を弛《ゆる》める。
夏とは雖《いえど》も、凍えるばかりなしじまの流れる闇の市中を、左平次は一途に疾走した。まさしく、駿馬《しゅんめ》と見紛《みまが》う足の速さで――。
疾駆する左平次の脚は、その刹那《せつな》、吹き過ぎる風の夙《はや》さにも優った。
つと――。
左平次は走る速度を緩《ゆる》め、全身を鋭い切《き》っ尖《さき》の如く化した。
無意識の緊張が、指先にまで漲った。行く手の闇から、彼と同様、全力で疾走して来る者の気配を感じる。
(何者?)
この闇夜。しかも時刻は既に子《ね》の刻をまわっている。身内が危篤に陥ったとかいう理由なら、提灯《ちょうちん》を持って来るのが普通である。深夜、明かりも灯さず、真っ暗な市中を走りまわるなど、まともな生業《なりわい》の者であり得ようわけもなかった。
(盗っ人か――)
思った瞬間。
左平次のすぐ脇を、一陣の黒い風とも思えるなにものかが行き過ぎた。
左平次が慌てて顧みると、相手も五、六歩行ったところで足を止め、小さく振り向く。
殺気はない。
左平次の姿を闇中に捕らえんとする相手の気色には、ただ微量の驚きが感じられただけだった。
左平次の夜目は、常人の五倍から六倍ほどの詳細さで対象物を見極める。それが、黒一色の衣装に身を固め、同じく黒の頭巾《ずきん》で頬被《ほおかぶ》りをした盗っ人装束の者とはすぐに判明した。
(ン?)
頬被りの中の目が、左平次には、一抹|艶《つや》っぽい色気を湛《たた》えているように思えたとき、だが相手はやおら身を翻し、走りだして行った。
(女か)
身ごなしの中に、どこか柔和な優しさと舞いの一所作を見るような華麗さが窺《うかが》えた。
(女の盗っ人とは珍しい)
少しく愉快な気分に浸りながら、左平次もまた、自らの進むべき方向へと歩を進め出していた。
稀代の女盗賊か、将又《はたまた》つまらぬこそ泥か。
何《いず》れにせよ、不思議な女賊との、真闇の中での一瞬の邂逅《かいこう》は、非情のさだめに生きる公儀お庭番・黒鍬の左平次の心を、束の間和ませた。まるで、彼が、この世に唯一人、彼に生きる希望を授けてくれる、その女性を思うときのように――。
(なんだったんだろう、あの男――)
しばし走りを進めてから、〈鬼あざみ〉お多香《たか》は小首を傾げた。
闇中に出会った瞬間、まるで触れ合うものを傷つけずにはおかぬ、全身殺気の塊のようなその気配に少なからず戦《おのの》いた。が、お多香を女と知ったからか、それらの殺気は瞬時に潰《つい》えた。それでも、対しているだけで、男の鋭い眼光が我が身を二つに切り裂きはせぬかという虞《おそ》れに囚《とら》われた。長居は無用と、お多香は判じた。
後腐れなく身を翻し、走りだしたお多香を、男が追って来る気配は全くなかった。
(同業者?)
チラッと想像してみただけで、お多香はそれ以上、その男について考えるのをやめた。今夜彼女が目指す目的の家まで、あと残り二十歩というところまで近づいたのである。
ただ真っ黒く影を翳《かざ》して聳《そび》えるその家の軒先に立つと、お多香は一旦足を止め、呼吸を調えた。
吉田屋善右衛門《よしだやぜんえもん》。
それが、目指すこの家の主人の名である。
太物《ふともの》問屋だなどとは名ばかりの破落戸《ごろつき》親分で、この界隈では有名な悪徳高利貸にほかならない。表向き、綿や麻の反物を商う傍ら、親切ごかして貧乏人に金を貸し、馬鹿高い利息を吸いあげる。店には手代と称する破落戸が何人もいて、一転暴力行使の取り立て屋と化す。払えなければ、娘や女房を、強引に岡場所へ叩き売る。……絵に描いたような悪徳商人である。
(薄汚ねぇ悪徳奴ッ)
激しい憤慨に衝き上げられるようにして、お多香は吉田屋へと忍び入った。
既に、今夜のための下調べは充分に為されている。破落戸の用心棒どもも、明日は月に一度の店の休日であるため、粗方《あらかた》吉原《なか》へ繰り出していよう。
路地を通って店の真裏へまわり込み、軽々と木戸を乗り越える。瞬間、草を踏みしだく足音は巧みに殺した。目指すは白壁塗りの土蔵。頑丈そうな南京錠も、髪に挿してきた簪《かんざし》の尖で容易《たやす》く開けられる。
土蔵の戸を引き開ける前に、お多香はその扉の下部へ、用意の油を流しこんだ。こうしておけば、音もなく戸を開くことが可能となる。お多香は一歩、中へ入る。土蔵の中には、どうやら、多量の小銭から発する金属臭が漂っている。所詮大きな悪事は働けず、小悪によって小利を貪《むさぼ》る主人に似合いの、饐《す》えて湿った臭いであった。
(さてと、例のものは……)
お多香の目的は、もとよりせこい小銭などにはない。注意深く周囲へ目を配りつつ金属臭の中を進む。悪徳高利貸に、一泡どころか二泡も三泡も吹かせるに充分なそれが、はたして土蔵の何処《どこ》にしまわれているのかを、お多香は速やかに捜し出さねばならなかった。
ピィーッ、
と一天を劈《つんざ》いてかん高く鳴る呼び子の音が、お多香の行く手をことごとく阻んでいた。
(駄目だ……ここから先へは進めない)
お多香は辻《つじ》を右手へ折れた。人声と夥《おびただ》しい足音が、忽ち彼女の周囲に迫るのを感じている。それでも一心に、お多香は走った。走り着いた先には、下谷広小路の大木戸が高く聳え立つ。思いきり勢いのある助走をつけて、その上を飛び越えること自体は、さほど難しい技ではなかった。
だが、もうそろそろ夜の明け白まんとするこの時刻。これ以上長く走りまわっていては、執拗《しつよう》な追跡者たちの目を遁《のが》れて身を隠すことも、至難の業に思われた。
(仕方ない……)
木戸を越えたときから、お多香の頭にあった、或る一人の人物――。その男の許へと一途にひた走るため、彼女は懸命に先を急いだ。東の空の白むときも近い。只管《ひたすら》、急ぐ。
裏門坂通りの横丁を少しく入った路地奥の、全部で六軒ある裏店《うらだな》の割長屋の一つとして、その家はある。軒下に置かれた漬物樽を利用して一旦屋根にあがり、屋根裏を使って部屋のうちへ忍び入らんとした。
が、部屋の主は既に気配を察して眠りから醒め、床上に端座している。
「お多香か?」
廉十郎《れんじゅうろう》が低く彼女を呼んだ。
促されたように、お多香は音もなく畳へ降り立つ。
「旦那」
「どうやらしくじったようだな。……遠くで捕り方の声がする」
「面目ありません」
被り物をとり、素顔を男の目に曝《さら》しつつ、お多香は悄然項垂《しょうぜんうなだ》れた。
「それで、獲物は?」
「借金の証文三十枚はその場で焼き捨てました。……それに、これ――」
と、お多香が懐から取り出して見せたのは、少々形は歪《いびつ》ながらも目映《まばゆ》い輝きを放つ拳骨《げんこつ》大の金塊が二つ。廉十郎は眩《まぶ》しげに目を細めてそれに見入った。
「ほう……無垢《むく》か? ……吉田屋という男は、小銭を蓄えるのが趣味と聞いているが」
「小銭が貯《た》まると、黄金に換《か》えるんです。……質の悪い小判なんぞを集めるよりは余程気がきいてますからね」
「二つで……二百両ほどの価《あたい》にはなるか?」
「ええ。……多分、あの土蔵にあった小銭を全部かき集めたって、百両にもなりゃしません」
「それだけ稼げば、当分遊んで暮らせるな」
「馬鹿言っちゃいけません。こいつは全部百文銭に換えて、気の毒な人たちに配るんです」
「ご苦労なことだ」
「ええ、義賊ですから」
やや得意げに胸を反らして応えるお多香を、しばし無言で見つめてから、廉十郎は再び布団の上へ身を横たえた。彼が一日をはじめる時刻までには未だ些《いささ》かのときがある。
「お前も休め、お多香。……ひと晩中走りまわって、ヘトヘトだろう」
「ええ……」
小さく頷《うなず》き、ためらいがちに、横たわる彼の背中へと躙《にじ》り寄ってゆきながら、もしかしたら、このまま休めぬことになるのでは――いや、寧《むし》ろそうなって欲しいと、淡い期待を胸に抱いた。
2
遠くで、心太《ところてん》売りの客を呼ぶ声がした。
ふと目が醒めると、部屋の中に――勿論|臥所《ふしど》の中にも、廉十郎の姿は既にない。
(なんだ……)
なにも置き去りにしなくたって、と多少恨みに思いつつお多香は床をあげ、肌も露《あら》わに寝乱れた肌襦袢《はだじゅばん》からかねて用意の着物に着替える。鏡が見当たらぬので竈《かまど》の脇の水瓶の水に映して髪を整え、表へ出た。外では、かなり陽も高くなっているようで、炊《かし》ぎの支度をする女将《おかみ》さんたちの姿も井戸端には見られない。生ゴミの臭い溢れる狭い通路を速足で駆け抜けて木戸を出た。そのまま速足で路地を少しく行ったところで、ちょうど外出から戻ったらしい桜子、楓の二人連れが、心太売りから心太を買っているところに遭遇した。
「やあ、上総介《かずさのすけ》殿に会いに参られたのか、お多香殿?」
心太の器からチラッと目をあげ、桜子はお多香を見る。
「え……いえね、ちょ……ちょっと……」
お多香は少しく口ごもる。
上総介=住之江《すみのえ》廉十郎。
偶然出会ったこの美男の浪人者を、我が背の君と堅く信じる桜子に対して、まさか彼と一夜をともにしたのだとは、口が裂けてもお多香には言えない。しかし桜子は何事も穿鑿《せんさく》せず、立ったまま、心太を啜《すす》るのに夢中だ。大名家の姫君がそんな行儀の悪いことでよいのかと、お多香のほうが不安になる。
「これはなかなか、乙なものじゃのう、楓」
「はい。異なる食べ物でございまするな」
「したが、ちと、酢がきつすぎるようじゃ。砂糖をまぶせば如何《いかが》であろうか?」
苦笑を堪《こら》えて、お多香は問うた。
「それより、お姫様こそ、どうなすったんです、今時分?」
「うん。大家殿が紹介してくれた凧張《たこば》りの仕事を貰《もら》いに、百人町まで行って来たのじゃ」
「姫様が、凧張りを?」
とお多香は言われてはじめて、桜子と楓とが、ともにその傍らへ置いている大きな風呂敷包みに気づき、目を見張った。
「苟《いやしく》も、三日月藩《みかづきはん》七万石のお姫様が……このような下賤の仕事に手を染めるなど、なんと、嘆かわしいことでありましょう」
楓の眉間には、深く不快の縦皺が刻まれている。
「何を言うのじゃ、楓。折角大家殿が紹介してくだされた仕事ではないか。それに、五万五千石の下げ渡し領のことを、そのように声高に申してはならぬ」
「なれど姫様――」
「我らが朝晩の糧《かて》を得るためじゃ。いつまでも、上総介殿にばかり頼ってはいられぬ。そうではないか」
「ではありましょうが」
「そうじゃ! お多香殿!」
「は、はい?」
「お多香殿の一座でも、何か、私にできる仕事がないだろうか?」
「ひ、姫様が、見世物小屋に?」
「凧張りの仕事では、百枚張っても、たったの一朱にしかならぬのじゃ。それ故、他にもなにか、金子《きんす》を求める手立てを講じねばならぬ。……芸事ならば、剣術以外にも色々と習うておるのだが……」
少しも悪びれずにいう桜子の優美な顔をつくづくとうち眺めながら、お多香が咄嗟に返す言葉を失くしていると、
「姫様は、小笠原流の礼法はもとより、茶道はお裏から立花《りっか》に琴、書画、香道に及ぶまで、諸事芸道に通じておられる」
すかさず楓が、したり顔に胸を張って言う。
「そ……そうでございまするか」
お多香は曖昧《あいまい》に微笑した。
見世物小屋の舞台で小笠原流の礼儀作法を見せて、一体誰が喜んでくれるというのだろう。
「如何であろう?」
「さ、さあ……姫様なら、さしずめ居合抜きなんていかがでしょうね。……今度親方に話してみます。……それじゃあ、これで――」
廉十郎の気鬱の意味が多少なりわかった気がして、お多香は早々に別れを告げ、桜子主従には直ちに背を向けた。
「頼みまするぞ、お多香殿」
即ち歩を進めだし、忽ち小走りになるお多香の背を、桜子の言葉が執拗に追いかけたが、素知らぬふりでお多香は逃れ去った。
春狛座《はるこまざ》の舞台がはねた後、お多香はふと気が向いて、常在寺裏の賭場へ出向いてみた。
もしかしたら廉十郎が来ているかもしれない、という期待が半分、あとの半分は彼女自身の嗜好《しこう》でもある。その生計の大半を博徒の用心棒によって稼ぎ出している廉十郎は、これまで何度も、賭場の用心棒を請け負っており、彼の顔が見たさに通ううち、お多香もここでは、ちょっとした顔になった。
「よっ、姐《ねえ》さん。いつもながら、いい女っぷりだね」
と帳場の若い衆も、彼女を見るなり気安い口をきく。
「当たり前だよ」
軽くいなして、とりあえずは熱気に溢れる盆茣蓙《ぼんござ》の周辺を横目に、堂の片隅へと身を寄せた。諸肌《もろはだ》脱ぎの背中一面に、鮮やかな不動明王の刺青《いれずみ》をした若い男が、座の中心にて壺を振るさまを、しばしぼんやり眺めている。
そうしていながら、周囲の話し声に、それとなく耳を傾けてみる。
「近頃景気はどうですね、日向屋《ひゅうがや》さん?」
「いやいや、景気もなにも、相変わらず世の中物騒で……昨夜も大門町の吉田屋さんが賊に押し入られたそうで……」
「そうそう、ごっそりやられたそうですな」
賭場に来ている殆どの者は博徒か定職を持たない気ままな遊び人風体の男だが、中には堅気の、商家の主人めいた者も何人かいる。
「噂によると、今年もまた、運上金の額が吊り上げられますようで」
「え、またですか? やれやれ……お上は、我々のように利を貪らず、細々と真っ正直に商売している者を軒並みつぶしておしまいになるつもりでしょうか」
「まったくです。去年も私どもでは、向島《むこうじま》の寮を処分して、運上金を払いましたぞ」
(よく言うよ)
聞いていて、お多香は内心の失笑を禁じ得ない。利を貪らず、細々と真っ正直に商売しているような商人が、なんでまた陽のあるうちから賭場へ出入りしたりするか。しかも、進んではあまり賭けようとせず、雑談の合間、三度に一度――或いは五度に一度くらいの割で、チビチビとせこい賭け方をする。勝負の行方自体にそれほど興味はなく、ただ損失額を必要最小限に抑えたいとの魂胆は見え見えだった。大方、胴元である親分への義理で、仕方なく顔を出しているにすぎない。博徒の親分に義理立てしようなどという商家の主人が、もとより真っ正直な人間であり得ようわけがなかった。
「そうそう、景気といえば――高麗屋《こうらいや》さんですよ」
「相変わらず、すごい羽振りですな」
「ええ、まったく、羨《うらや》ましい限りです。……なんでも、今月の末にはまた一つ、駿河町へ新しい店を出されるとか」
「なんと、また一つ……あのお方は、先代|出羽屋《でわや》さんの後を継がれてからというもの、羨ましいほどの運のよさですな」
「出羽屋さんの身代はおろか、そのお得意様もそっくり受け継がれたのですからな」
(高麗屋――だって?)
不覚にもお多香は、このときまで、その店の名を知らずにいた。お多香は全身の神経を耳に集中し、二人の商店主の交わす会話を一言とて聞き漏らすまいとする。彼女が足繁く賭場へ出入りするもう一つの目的。巷《ちまた》に蔓延《はびこ》る悪徳商人――それに関する情報の収集は、案外こんなところで功を奏したりするのだ。だが。
二人の商店主は、ともに萎《しな》びた沢庵を思わせるその小皺がちの顔を盆の中央の壺皿へと向け、再び束の間の勝負に挑む気色である。
お多香はそれ以上の無言の穿鑿を一旦|諦《あきら》め、自分もまた、盆の上の壺の中身に注意を傾けた。
「よう、お多香姐さん」
親しげに名を呼ばれ、ハッと顔をあげると、身なりのいい若い武士が、五月晴れのような笑顔を見せながら彼女の側へ来る。齢《とし》の頃は二十代後半。廉十郎よりはやや若い。
女賭博師を気取ったお多香の、その粋《いき》な艶姿《あですがた》も、汗臭く湿った堂内にあってはかなり異質で浮いているが、彼の身なりや雰囲気にはそれ以上のものがあった。紅梅の小桜模様を全面に散らした白綸子《しろりんず》の小袖に派手な金紗袴《きんしゃばかま》、腰には柄巻《つかまき》まで真っ白な白鞘の大小を帯びているとくれば、この後ろ暗い賭場の中ならずとも、相当に目立つ。その上本人は、いっそそれを他に誇って見せたいような、得意満面たる顔つきの若者だった。
「歴《れっき》としたご直参の若様が、真っ昼間から賭場がよいですか?」
軽い皮肉をこめた言葉を返しながら、お多香は薄く微笑した。
三河以来の直参旗本、二千石の時宗《ときむね》家。その次男坊・時宗|弥五郎左衛門《やごろうざえもん》というのが、その元禄絵巻から抜け出たような若者の名だ。
「お父上様、お兄上様たちは、ご老中へのご機嫌伺いに余念がないってのに、部屋ずみのご身分はお気楽でらっしゃいますこと」
「なぁに、それだって、住之江の旦那ほどじゃねぇさ」
ごく伝法な江戸弁で弥五郎左衛門は言い、軽く肩を竦《すく》めてみせた。
「住之江の旦那?」
お多香は少しく小眉を顰《ひそ》める。
廉十郎と弥五郎左衛門とは同じ道場に剣を学んだ古馴染み同士という過去を持つ。長い間、竹刀《しない》の勝負では百戦百敗の廉十郎に対して、弥五郎左衛門が、何かにつけて対抗意識を燃やし続けていることは、お多香もよく知っている。廉十郎に岡惚れしているお多香にも、だからこそ、それと承知で執拗に言い寄ってくる。
「道端で拾った頭の弱い別嬪《べっぴん》を長屋へ引き込んで、散々慰みものにしてるそうじゃねぇか。いくら無頼の素浪人だって、そいつぁよくねぇ了見だぜ」
「違います!」
お多香は思わず高声を放った。
全身暑く汗まみれの壺振りまでが、瞬間驚いて彼女を顧みたほどの、それほどの高い音量だった。
「違いますって、弥五郎様。……それは誤解です」
「どんな誤解だい?」
「それは……」
問い返されて、だがお多香は容易く答をためらった。桜子姫が、正真正銘|播州《ばんしゅう》三日月藩一万五千石の領主たる森長国《もりながくに》の娘であるというその正体を、はたしてこの旗本家の放蕩《ほうとう》息子に明かしてよいものか、しばし逡巡《しゅんじゅん》したのである。
3
立看板には、
高麗屋、
と大きく、立派な金打ちの文字が並んでいる。
如何に薄く箔したとはいっても、その金箔だけで、ちょっとした値打ちはあろう。どうやら噂に聞くところ、看板を盗まれたことも一度や二度ではないという。それでも懲りずに金箔を用いるところを見ると、成金趣味の、顔を見るだけで虫酸《むしず》の走りそうなほど厭味《いやみ》な主人であろうと想像できる。
(江戸市中に設けた出店の数が既に三つ。まともな稼ぎをしてて、これだけ儲けられるわけがない。……なんで、一介の呉服商なんかであるもんか)
丸に菱形――その真ん中に高の一字という屋号を白抜きした軒下の長|暖簾《のれん》が翻るさまをうち眺めながら、お多香は確信した。
(裏にまわって、相当|阿漕《あこぎ》な稼ぎをしてるに決まってるさ)
主人の嘉兵衛《かへえ》は、今年五十になる将棋好きの男で、この界隈ではとびきり人の好い、温厚篤実な人物でとおっている、という。そんな評判が周囲に飛び交うからには、その主人は、最早尋常一様の人間ではない。箸にも棒にもかからぬ悪党が、表面善人を装って他を欺《あざむ》くのは、彼らの用いる常套《じょうとう》手段である。
(次の獲物にはちょうどいい――)
思った瞬間、不意に背後から肩を叩かれた。
「お多香さん」
別段驚くには及ばない。
広小路の見世物小屋で手妻の芸を披露する大夫のお多香は、結構町内の人気者なのだ。
「あら、鈴虫の親分」
内心の動揺を見事に押し隠して、お多香は艶やかな笑顔をみせた。
下谷界隈を縄張りとする岡っ引〈鈴虫〉の辰吉《たつきち》の、その反っ歯がちな下ぶくれ面の二、三歩後ろには、南町同心・佐々岡源三《ささおかげんぞう》の、なかなかに苦み走った横顔が見えている。
「たまには一杯つきあってくれよ、な、お多香姐さん」
と馴れ馴れしくお多香の肩へ手をかけたままで〈鈴虫〉の辰吉は言い、下卑た笑いを口辺に滲ませた。ふたつ名の〈鈴虫〉というのは、彼が生活のため、鈴虫の飼育を内職にしていることから付いたあだ名で、それ以上の含みは特にない。そのため彼の体には、鈴虫の餌にする生の茄子《なす》や胡瓜《きゅうり》の匂いが、濃厚に染み付いている。齢《とし》は四十。女房には数年前に逃げられた。
「ええ、よござんすよ。なんなら、いまからでも――」
「え、ほ、本当かい?」
辰吉が真に受け、更にお多香へ執拗な口説きをしようと試みるところへ、
「行くぞ、辰」
佐々岡が、渋い顔つきでその袖を引いた。
齢の頃なら、三十がらみ。廉十郎よりはやや年上か。……席の温まる間もない定廻り同心の常で、充分に日焼けした精悍《せいかん》な容貌を有している。同心といえば、直参とは名ばかりのほんの卑役である。年収が二百石程度と、当然ながら扶持も少ない。それ故、始終腹を空かせた野良犬のようなその目つきは例外なく鋭く、ときには人殺しの博徒を思わせるほど凶悪な人相の者もいる。佐々岡もまさしくその類いだ。暗くうち沈んだ表情には、孤独の面影が漂って、お多香は結構好みだったりもするのだが、廉十郎とは一見似通った雰囲気を持ちながら、その立場の両極端な違いから、どうやら佐々岡は、住之江廉十郎という浪人者を、心底憎み嫌っているようだった。
辰吉を促し、先に立って行きかける足をふと止めて、
「お多香」
佐々岡が、お多香を顧みる。
「お前の情人《いろ》の、あの人斬り狼のことだが」
と悪意たっぷりに言う〈人斬り狼〉とは、無論廉十郎のことにほかならない。
「住之江の旦那が、なにか?」
「頭の弱い大身《たいしん》の娘をかどわかして来て、慰みものにしてるそうだな。……日頃から、箸にも棒にもかからぬ悪党だとは思っていたが、まさかここまでとは思わなかった。……そのうち尻尾|掴《つか》んで、必ずしょっ引いてやるから、首を洗って待っていろ、と伝えておけ」
(ああ、またはじまった……)
と頭を抱えたくなる気持ちを抑えつつ、
「お伝えいたします」
一向平然としてお多香は言い返した。
佐々岡は瞬間鼻白んだ顔になったが、すぐ眉間を暗く翳《かげ》らせ、無言で踵《きびす》を返して行った。辰吉が慌ててそのあとを追う。
(でも……旦那のこと、あたしの情人だって……)
不愉快な二人連れの後ろ姿を見送りながら、だがお多香には、そのことが少しく嬉しかった。
「王手じゃ、高麗屋」
桜子姫が壱二の目に打った手駒の金が、先手の王将を頭金に追い詰め、とどめをさした。
「いや、これは……参りました」
高麗屋嘉兵衛は、近頃太り気味な恵比寿顔を少しく顰《しか》め、素直に投了の意を示す。日の出の勢いで商売を繁盛させ、いまや江戸でも十指に入ろうという大店《おおだな》の主人にしては、意外なほど気さくで人好きのする男だった。
いまから十年ほど前――高麗屋が新たに藩の御用商人となり、白金の上屋敷に出入りするようになった頃からのつき合いである。当時からいまに到るまで、桜子の知り得る限り、およそ笑顔以外の表情というものを余人に見せたことのない男だ。
「どうじゃ、高麗屋、今度は香落《きょうお》ちでもうひと勝負――」
「いえいえ、手前如き者では、香落ちどころか、たとえ飛車角落ちであっても、到底姫様にはかないませぬ」
「そう謙遜《けんそん》するものではない。……そもそも私に、将棋の手ほどきをしてくれたのは他でもない、そちだったではないか」
「遠い昔の、姫様が、未だご幼少の砌《みぎり》のことでございます。……あれから一途にご研鑽《けんさん》を積まれ、斯《か》くも上達を遂げられましたいまとなりましては、手前など、とてもお相手にもなりませぬ」
「然様、もうかれこれ、十年にもなりまするかのう。……あの頃が懐かしゅうござりまするな、高麗屋殿」
桜子の傍らで端然と茶を啜っていた楓が、茶碗を置き、ふと顔をあげて口を挟んだ。
「まことにもって」
満更偽りとも思えぬ温顔にて迎合しながら、高麗屋は盤の上に並んだ駒をかき寄せ、箱の中へと手早くしまう。
「ときに高麗屋、先程の願いの儀じゃが――」
桜子は、自らの膝下へ置かれた茶碗を取り上げ、最早冷めきった茶を、別段意にも介さずひと口啜った。
「その儀にございますが――」
不意に眉間を顰め、これ以上ないというくらい悲壮な声音で、高麗屋は応じる。
「手前にはまだ信じられませぬ。……あのご家老が、よもや、お家のっとりの謀叛《むほん》など企んでおられようとは……」
「だが真実なのじゃ。……蘇芳めはお栄《えい》の方と通じ、あろうことか父上と千匹丸《せんびきまる》とをともに亡き者にし、お家を我がものにせんと企む、大悪人なのじゃ」
「それ故にこそ、姫様も斯様《かよう》に市井《しせい》へと身を落とし、ご不自由なされておいでなのです、高麗屋殿」
「嘆かわしいことにございます」
憤懣《ふんまん》やる方ない楓の言葉に応じ、高麗屋は忽ち目頭を押さえる。花も実もあるその反応に楓は満足し、残りの干菓子を一口に頬ばった。
「援助してくれるであろうか?」
「それは……もう――」
言いかけて、高麗屋は一旦言葉を止め、桜子の顔をつくづくと見返す。
「姫様」
「なんじゃ?」
「姫様は、西の丸でのお目見得以来、大御所様の覚えもめでたいと聞き及びます。……いっそ、大御所様のお力添えを仰ぐというのは如何なものでござりましょう?」
「それは駄目じゃ」
「何故に?」
「斯様な藩内の揉め事――お家騒動の出来《しゅったい》などがご公儀に知れてみよ。……三日月藩は即刻おとり潰しじゃ」
「ごもっともにございます」
高麗屋嘉兵衛は小さく頷いた。
それからしばし、小首を傾げて思案の風情をみせてから、やおら姿勢を正し、桜子の顔を真っ正面から直視した。
「委細承知いたしました」
「高麗屋」
「手前も、縁あってご当家にお出入りを許されました者にございます。なんで、ご当家のためにならぬことをいたしましょう」
「手を貸してくれるのじゃな?」
「もとより――」
「では、早速じゃが――」
「はい」
「凧張りよりも分のよい仕事を、周旋してはもらえぬか?」
「…………」
即座には答えられず、高麗屋はじっと桜子姫の顔に見入った。桜子もまた、言いきったあとの言葉は継がず、無言で相手を見つめていた。漸《ようや》くにして口中の干菓子を飲み下し得た楓の目は、やや落ち着きなく庭先へ向けられていた。
いまを盛りと、大輪の芙蓉を幾つも花咲かせたその庭先からは、時折高く、蝉の鳴く音が響いている。
4
(え?)
その店の庇下《ひさしした》から、突如姿を現した桜子と楓をひと目見たとき、お多香は仰天した。
(桜子姫が、どうして高麗屋に?)
着物を新調しに来たのでないことはまず間違いない。凧張りの内職で、かろうじて一朱二朱の日銭を稼ぐ彼女らに、この店で商っているような極上の友禅を求める財力は到底あり得まい。だが、だとしたら一体、桜子らは何の用があって、この十組問屋《とくみどんや》の長とも言っていい高級呉服店を訪うたのか。
お多香は遂に、自らの好奇心に負け、その斜向《はすむ》かいの軒下から飛び出した。
足早に近寄ってゆけば、桜子もまた、徐《おもむろ》にお多香を顧みて、
「お多香殿ではないか」
少しく口辺に、微笑を滲ませる。
「高麗屋さんに、なんのご用で?」
単刀直入に、お多香は問うた。焦りのあまり、桜子を相手に駆け引きし、こちらの手の内を探らせぬための巧妙な手管《てくだ》を用いようという余裕は、粉微塵《こなみじん》に失われていた。
「仕事を周旋してもらおうと思うてな。……凧張りだけでは、到底暮らし向きがたたぬ故」
「仕事を、ですか?」
「高麗屋は、十年前より当家出入りの御用商人なのじゃ」
「え?」
「高麗屋殿は、常日頃より、姫様とご懇意にしておられた」
目を丸くしたお多香の鼻先に、ツンととりすました顔つきで楓が述べた。いつもながら皺の深い、強持《こわも》てがちな顔の中にさり気ない喜色が窺えるのは、余程相手を気に入っている証拠だろう。
桜子もまた、大きく頷き返しつつ、
「私の、将棋仲間なのじゃ」
と事もなげに言う。
「将棋、ですか?」
「うん。将棋はヘボじゃが、心根の優しい男じゃぞ。母を知らずに育ったこの桜子に、なにかと気を遣ってくれてのう。屋敷に参る度、唐《から》や南蛮渡りの珍しい品などを土産にくれたものじゃ……のう、楓、あれは何と申したかのう? ……ぎやまん作りの、こう、ぺたんぺたんと不思議な音のでる――」
「びいどろ、でございましょう。南蛮の笛にございまする。……なれど楓には、かすてえら、とやら申す南蛮菓子のほうがゆかしく思われましたな」
「そなたは甘いものが好きじゃのう、楓」
「あ、あの……高麗屋さんは、南蛮物の商いもなさってるんでございますか?」
「内緒で、ほんの少しだけじゃ」
「え、それじゃあ――」
抜け荷買いではないか、と言いかけ、慌ててお多香は口を噤《つぐ》んだ。
桜子は一向悪びれない。
「そうなのじゃ。高麗屋は、ご公儀に内緒で抜け荷買いをしておる。……近頃は不景気で、商売もなかなか大変らしい」
「そ……そうですか」
「それでは、これにて」
「失礼いたします、お多香殿」
桜子と楓は軽く会釈をしてから、唖然として見送るお多香をその場に残し、人波に溢れた広徳寺前通りを颯々《さつさつ》と辿って行った。
「久しぶりで高麗屋と話し込んでいたら、すっかり帰りが遅くなってしまった。急ごう、楓」
「はい。……日が暮れては、まちまちの木戸が閉じられてしまいます」
「したが、少し見ぬ間に、高麗屋は随分と老けたようじゃのう」
「この一年ほどのことにござりまする」
「商売が、あまり上手くいっていないのであろうか?」
「さあ……商売のことは、ようわかりませぬが」
「今日も、相当疲れておるようじゃった」
「然様でござりまするか?」
「そうじゃ。……先程の二局目――私が、一局目と同じに、三手目で中飛車の手を用いたのに、まるで気づかなんだ。……手筋をみれば、いまその者がなにを考えておるか、だいたいはわかるものじゃ」
「それで、高麗屋殿は対局の最中一体なにを考えておりました?」
「…………」
一瞬間口を噤んでから、
「そう言えば、帰り際に、近々我らを酒宴に招待したいとか申しておったのう」
桜子は涼しい顔で話題を変えた。
「はい、申しておりました」
「近々と言うと、矢張り明日の晩あたりであろうか?」
「案外、今宵のことかもしれませぬ」
「楽しみなことじゃのう」
だが桜子は、弛めた口許を、そのとき不意に厳しく引き締めた。
「楓」
低く呼んだ次の瞬間――。
桜子の右手には、両手に捧げられた楓の袂《たもと》より掴み取った、『名物三日月』の名刀がある。掴むと同時に左腰へ提げ、桜子はその鯉口《こいぐち》を切った。
黄昏時《たそがれどき》の薄暗がりに包まれた道の正面から、極めて剣呑《けんのん》な気配が近づいて来る。
(何者!)
と思う間もなく、
ギュンッ、
突如高く鍔鳴《つばな》りをさせたその刹那《せつな》。
「なにをする!」
低い男の声音が、桜子の耳朶《じだ》を鋭く抉《えぐ》った。
「笑止!」
負けずに高く、桜子は叫んだ。
「なにをするかとは、こちらの言い草じゃ」
全身の緊張を柄頭《つかがしら》の手にこめた桜子の前に、満面に怒気を漲《みなぎ》らせた一人の武士が、刀を八相に構え、不遜にも立ち塞がっている。黒みがかった青飛白《あおがすり》の着流しを纏《まと》う、三十がらみの強持ての武士だ。
「なんだ、女か……」
彼の口中より少しく侮蔑《ぶべつ》の音声が発せられるのを、桜子は決して聞き逃さなかった。
「おのれ! 悪逆非道の辻斬り風情が、この桜子を愚弄するか!」
「辻斬り? ……ふん、貴様らこそ、この時刻に人気のない道を来るなどとても堅気の女とは思えんから、大方女|騙《かた》りの強盗か、化け損ねの女狐《めぎつね》づれであろう」
「ぶ、無礼なッ! ……身は、三日月藩主・森長国が息女、桜子なるぞッ」
「なんだ、ただの左巻きか」
「黙れ、下郎!」
裂帛《れっぱく》の気合に気圧《けお》され、相手が些かの怯《ひる》みを覚えた一瞬、桜子は左半身の体勢になり、その切っ尖は、ピタリと彼の喉笛あたりへ向けられる。刃《やいば》を水平に、中段霞の構えをとったのだ。それに合わせて、武士は右八相のまま、小さく一歩、左足を進める――。
両者、間合いへの距離は、一歩半。
互いに踏み出せば、必殺の間合いまでは一気に迫れる。
「待て、待て、待てぇーいッ!」
突如、歌うように明るい男の声音が分け入るように飛び込んできて、両者の殺気を跡形もなく奪い去った。
「よりによってこんな別嬪《べっぴん》さんと、斬り合いなんて、穏やかじゃねぇぜ、源さん」
「馴れ馴れしく呼ぶな」
南町同心・佐々岡源三は、ふと冷静に立ち戻って刀をひきながら、極めて不快げな目つきで、その身なりのいい若い武士を見た。
「なんだ、あんた、また飲んでるのか?」
時宗弥五郎左衛門もまた、佐々岡の顔をひと目見るなり、眉を顰める。
「貴様のようなご大身のボンボンになにがわかる。……世の中腹の立つことばかりだ。酒でも飲まずばやってられんわ」
「そりゃそうだろうけどな。……だからって、道端で出合い頭、いきなり人に斬りつけるなんざ、よくねぇ了見だぜ」
「ごちゃごちゃと、喧《やかま》しい。……儂《わし》はただ、家に帰ろうとしているだけだ。斬りつけてきたのはその女狐のほうが先だ」
暗い夜の瞳で弥五郎左衛門と桜子と楓の三人を順繰りに一瞥《いちべつ》してから、太刀を納めた佐々岡は、彼らの横を通り抜け、ゆっくりとその歩を進め出す。その足どりはいたってしっかりしたものである。酔っているようにはとても見えなかった。
さしもの桜子も、呆気《あっけ》にとられてその背を見送った。
「すまねぇな、娘さん。……陰気な野郎で、あのとおり酒癖も悪いときてる。いい齢して独り身なもんだから、年頃の若い娘を見ると、すっかり頭に血がのぼっちまうらしい」
「危ない男じゃ」
しみじみと呟いてから、桜子はふと弥五郎左衛門のほうを見た。
「お手前は?」
「へ?」
好奇に溢れる弥五郎左衛門の若い目が、桜子の全身を嘗《な》めるように熱視する。
日頃ライバル視している住之江廉十郎が、おかしな娘と老婆を長屋へ連れ込んだという噂を耳にしたときから、彼はその娘を、見たくて見たくてしょうがなかった。人相風体をお多香から聞き、何処かで偶然出会えはせぬかとてぐすねひいて広小路界隈をうろついた。遠目にも派手やかな綾錦の小袖の色が見えた瞬間、そうと確信して来てみれば案の定、とんだところで桜子姫、だ。
弥五郎左衛門には意外だった。刀さえ持たせねば、ごく普通の、花めいた美女である。
が、確かに佐々岡の言うとおり、そろそろ日も暮れ落ちんとするこの時刻。唯一人老婆の供を連れただけで、人気のない路地裏通りを徘徊《はいかい》し、剰《あまつさ》え大刀を抜いて大の男と渡り合おうとは、狐狸《こり》妖怪の所業と誤解されても無理はなかった。
「身は、播州三日月は一万五千石の国主・森長国が一女、桜子と申す。お助けいただいたこと、一応お礼申し上げる。……お手前の御名を、お教え願えまいか?」
「じ、直参旗本・時宗|掃部助《かもんのすけ》が次男、弥五郎左衛門――」
折り目正しい桜子の語調につい釣り込まれ、思わず答えてしまってから、だが弥五郎左衛門は苦笑した。自らを大名の姫だと名乗るこの美女は、矢張り正気の沙汰とは思えない。
(しかし……)
長く見つめるうちに、弥五郎左衛門はまた、別な感慨を持った。桜子姫の面貌《めんぼう》に、高貴の匂いを嗅《か》げば嗅ぐほど、一万五千石のお姫様というのも、強《あなが》ち眉唾《まゆつば》ではないように思えてきたのである。
「時宗殿のご生国は?」
「え、生国? ……え、江戸でござるが……」
「江戸以外の土地に住まれたことは?」
「三河以来の直参に候えば、江戸より外へは一歩も出たことがござらぬ」
「然様か」
桜子は頷いた。江戸の生まれ育ちであればしょうがない。桜子は、この若者に、お礼代わりの勝手な官名を与えることを諦めねばならなかった。
5
それから、三日ほど後。
桜子と楓は、高麗屋嘉兵衛から正式な招きを受けた。
「古い知人の招待を受けましたので、ちょっと出かけて参ります」
と、桜子がその旨を廉十郎に告げたとき、彼は無関心な顔で聞き流し、
「ゆるりと行って参られよ」
一言述べただけである。
その知人の名が何というのかさえ、彼は殊更《ことさら》問い質しもせず、桜子とその乳母・楓を送り出した。別れ際、自分でも些か冷淡すぎると思い返し、
「遅くなるようなら、先方のお宅に泊まられるとよい。夜道は危険であります故」
さも優しげにつけ加えたが、もしそうなってくれれば、今夜は久しぶりで枕を高くして眠れると、内心大きに期待した。
「それでは、留守を頼みましたぞ、上総介殿」
桜子姫とその乳母は、恭《うやうや》しく一礼してから彼の許を去った。
廉十郎は、その足音が裏木戸より出でて、次第に小さく遠ざかるのを聞いてから、やおら酒瓶を引き寄せる。昼間の暑さは夕刻を過ぎてやや和らいだが、今夜も寝苦しい夜になりそうだ。直接瓶の口から口腔内へと流し込んだ酒の味は、だが、今夜は妙に苦っぽいように感じられ、廉十郎はぼんやりと物思う。
(市中に知人があったのか。……そのような者があるならあるで、なにも、こんなところに逼塞《ひっそく》せず、そちらの世話になればよいものを)
そんなことをチラッと考えてから、廉十郎にははじめて、桜子の言う知人とは一体何処の誰なのかが気になった。
大名家の姫として、上屋敷の中でだけ生い育った桜子にもし知人があるとすれば、それは屋敷内の者しかいない。若《も》しくは同じ大名家の姫君たちなどとある程度の交流はあったかもしれないが……。否、新陰流の剣を学んだと言うから、或いはその剣の師か?
しばし廉十郎は思案したが、結局これといって決定的な答えは見いだせず、口中の酒がいよいよ苦くなる。そこで一旦酒をやめ、ゴロリとその場へ、身を横たえた。そのまま怠惰な、片頬杖の姿勢になる。
花は折りたし梢は高し
眺め暮らすや木の下に
無意識に、低く口遊《くちずさ》んだ。
それからまた、苦笑した。無意識のうちとはいえ、我知らず桜子姫のことを思った自分に、彼は少しく可笑《おか》しみを覚えたのである。多少言動が突飛だということを除けば、容姿の美しさは比類ない。一度くらい抱いてみるのも、案外悪くないのではないか。淡い酔いのせいか、廉十郎の身に、微情が湧いた。
(矢張り、無理だな)
苦笑の度合いが、一層増した。
桜子姫の大きな瞳にじっと見つめられ、
「我が背の君」
という言葉を聞いたが最後、廉十郎は忽ち萎えて、肝心のものが役に立たなくなるであろう、と想像した。そんな他愛もない想像をめぐらすうち、つと睡魔が訪れて、彼は微睡《まどろ》みの夢に堕《お》ちた。
つと、眠りから醒めた。
自分ではほんの寸刻、うたた寝しただけのつもりでいたが、実際には、かなりのときを過ごしたらしい。肌に感じる空気が、夜の気配にシンと冷えている。
息をひそめる緊張に、彼の素肌をゾッと鳥肌だたせる気配に応じ、廉十郎は目を醒ました。いつの間にか蝋燭《ろうそく》の火が燃え尽き、闇が、彼の頭上にある。廉十郎は闇中に蠢《うごめ》くものの気配を探った。
(殺気は、ない――)
と判じ、多少なり安堵したとき、周囲がパッと明るくなった。
燭台の傍らに、公儀お庭番・黒鍬の左平次の、俊敏に動く小柄な体がある。その手の中には、燧《ひうち》が握られていた。
「左平次」
「失礼|仕《つかまつ》る」
「先に声をかけてから入って来れぬのか? これではまるで盗賊ではないか。……いきなり斬りつけられても文句は言えぬぞ」
つと起き上がりざま、廉十郎の述べた苦情に、左平次は曖昧に笑っていた。剃刀《かみそり》の刃を思わせる尖鋭な外貌の男だが、笑えば案外愛嬌のある顔になる。だが、その微笑の理由が、
「斬れるものなら、斬ってみるがいい」
という絶対の自信に裏打ちされていることを知ると、廉十郎には些か忌々《いまいま》しい。
「申し訳ない。……つい、いつもの癖で」
「困った癖だ」
廉十郎は言い、お返しのつもりで苦く口辺をほころばしたが、左平次は応じず、すぐ真顔に戻って彼を見据えた。
「ときに住之江殿、桜子姫のお姿が見えぬようだが」
「ああ、なんでも知人の招きを受けて、夕餉《ゆうげ》を馳走になるとか。……今夜は遅くなるから、先方の家に泊まるそうだ」
「知人の? ……一体何処の誰でござる?」
「さあ、知らぬな」
「そんな、無責任な!」
左平次は、忽ち眉間を険しくする。
「無責任とは心外な! 俺には四六時中、あの姫を見張っておらねばならぬ理由はないぞ」
廉十郎もつられて不快顔になった。
「お主こそ、大事な姫の身辺から目をはなすとは、お庭番としての職務怠慢ではないか」
「拙者は、暮林一派の動向を探らんがため、三日月藩の上屋敷へ忍んでおったのだ」
「それこそ、本末転倒も甚《はなは》だしいではないか。お主の勤めは、あくまで桜子姫の身辺に目を光らすことで、三日月藩の内情を探る任ではないはずだ」
「拙者が探っていたのは三日月藩の内情に非ず」
「では、なんだ?」
「暮林蘇芳めが、次は如何なる卑怯な手段にて桜子姫の身を襲わせるか、をだ」
「…………」
廉十郎が言葉を止めたので、左平次も、そこで漸く、思案のために首を捻《ひね》る暇《いとま》を得た。
「その知人とやらの名を、貴殿は聞かれなんだのか?」
今度は激することなく、注意深い口調で左平次は問うた。
「聞いたかもしれぬが……忘れた」
廉十郎は口ごもった。彼とて、本心ではそれを後ろめたく感じているのである。
「まさか――」
なお思案顔を続ける左平次の面上に、見る間に疑惑の表情が刷《は》かれた。
「その知人の名、もしや、高麗屋、と言うておられなんだか?」
「…………」
「高麗屋嘉兵衛、じゃ」
「そうかと言われれば、そんな気もするが……」
「だとすれば、姫の身が危ない!」
燭台の脇へおろした腰をつとあげて、左平次は高く、悲鳴にも似た叫びを発した。
「罠だ! ……三日月藩江戸屋敷の出入り商人である高麗屋は、もうとっくに暮林の意を受けておる!」
「なんだと?」
廉十郎もまた、それを聞くなり弾かれたように腰をあげ、右手は、無意識に佩刀《はいとう》を掴んでいた。
「とすれば、今頃、姫は……」
「急ごう!」
先《ま》ずは左平次が、次いで廉十郎も軽々と身を躍らせて、燭の火もそのままに、部屋を飛び出した。
例によって行商人風体の左平次はからげた裾を僅かに揺らし、廉十郎は着流しの裾を大きく翻して、ともに月夜の道をひた走った。
独りぼっち、置き去りにされたような三夜目の月光が、ひたぶるに無人の路を行く二人の男の背を映し、二つの影は、寄り添い合うかのように、ときにピタリと重なるのだった。
6
「今宵は、どうぞ、ごゆるりとお休みくだされませ」
恭しく述べ、高麗屋は桜子らの部屋を出た。
今夜は日本橋の一流料亭の板前を招いて作らせたという夕餉の膳は文句なしに美味で、桜子は少しく酒も過ごした。甘党の楓は、ほんのひと口|嘗《な》めただけの酒に酔い、さっさと眠りの床に就いてしまったが、桜子はしばし、高麗屋と差し向かいで酒肴《しゅこう》を愉しんだ。心地よい酔いがゆっくりと彼女の身を浸していって、本当に気持ちのいい晩だった。床に就いてからも、酔いの続きの心地よい夢が、桜子の褥《しとね》を優しく飾ってくれるものと思われた。
桜子の上機嫌顔を最後にチラッと顧みて、高麗屋は静かに襖を閉め、踵を返した。
足音もたてず、我が家の廊下を少しく歩く。
(二十年……そして、八年か――)
高麗屋は軽く溜め息をついた。
明かりの少ない薄闇の中へ身を置いたとき、自らの来し方行く末などを思って、些か気が重くなった。
高麗屋嘉兵衛は孤独だった。
妻も子もなく、ただ商売のためにだけ、彼は生きていた。だが、二十年余も身を粉にして働いて得たものは、多少の金と、このどうしようもない寂寞感《せきばくかん》だけだった。
(何故こんなことになってしまったのか……)
ときには彼は、頭を抱えたくもなる。
彼は元々、さる盗賊団の引き込み役だった。
二十数年前、『出羽屋』という、当時江戸でも有数の大店へ、頭の命令で潜り込んだのがそもそものはじまりだった。〈白高麗《しろこま》〉の九郎蔵というのが、高麗屋嘉兵衛のもう一つの名前だった。あだ名の由来は彼が生来色白で、彼の父親が高麗人参の仲買でひと儲けしたということにほかならなかった。如何にも生真面目そうな色白の顔と人当たりのよいその笑顔とが商家の手代役にはうってつけだった。
ところが、彼の所属していた盗賊団が、全く別のつとめの際、火盗改めの探索によって一網打尽にされてしまった。頭や仲間たちは遂に彼の存在を明かすことなく処刑されたため、彼は全く孤立無援の形で出羽屋にとり残された。店を辞めても戻れる場所のない彼は、仕方なく、そのまま出羽屋で働き続けた。その働きぶりが主人の目にとまり、手代から組頭役、支配役、筆頭番頭と出世して、とうとう主人から、店を任されるまでになってしまった。自分でも信じられなかった。
(しかし、所詮俺は商売の素人だ。そのうちボロが出て、身代を潰《つぶ》すにきまってる)
とタカをくくり、慎重に事を決せねばならぬ局面でも、常に大胆な断を下してきた。どういうわけか、それがすべてうまくいった。
主人から店を受け継ぐ際、本来なら同じ屋号を用いるべきところ、敢えてそれを変えたのは、このほうが、非合法の手段で先代から乗っ取ったというイメージが強くなろうとの考えからだった。商家の主人として生きるにしても、彼は周囲の人々から、少しでも悪く思われたかった。彼は自分の中の悪の血が潰《つい》え去ってしまうことに、耐え難い淋しさを感じていた。だが、周囲の人間は皆彼を信頼し、裏でこっそり、〈仏〉の嘉兵衛などと呼んでいた。
昔の悪仲間がどこかで嗅ぎつけて、彼の過去をネタに、いつか彼を強請《ゆす》りに来ることも夢想した。しかし、いつまでたってもそれはなかった。
真っ当な商売には飽き足らず、抜け荷もやった。人に金を貸した際には、一割から二割の高い利息をとった。非情な悪徳高利貸と噂されるのを期待してのことだが、本当の高利貸の中には五割の利息をとっている者もあると、あとで知って愕然《がくぜん》とした。余人の恨みを買うこともなく商売は繁盛し、出店の数も年々増えた。
しかし彼は孤独だった。
これは彼の、真に望んだ人生ではない。いつかは本来の自分に戻るときが来る。これはほんの一時旅の途上に宿借りする類いの、仮の場所にすぎぬのだと思えばこそ、妻も娶《めと》らず、家族も作らずに過ごしてきた。
そしてとうとう五十になった。淋しかった。十組問屋の寄り合いの際など、他の店主たちが子や孫の自慢話をするのを、彼は黙って聞いていた。完璧な作り笑いを満面に擬しながらも、心の中では泣いていた。
突然桜子姫が訪ねて来てくれたときは、本当に嬉しかった。
姫が、まるで我が子のように可愛く思えた。苟《いやしく》も大名家の姫君をそんな風に思うなど大それた勘違いかもしれないが、彼はかまわなかった。
姫が店を訪れる数日前、三日月藩の江戸家老から、
「もし桜子姫がそのほうの店に立ち寄らば、甘言を弄《ろう》して捕らえおき、すぐにこちらへ知らせて欲しい」
という旨の指令を受けていた。が、彼には即座に、桜子姫を害そうとする家老の意図が読めたから、従うつもりはさらさらなかった。
そういうことではなくて、彼は姫にはいつまでもこの家にいてもらいたかった。
酒宴の席で、さり気なくそれを言うと、
「それはならぬ」
と姫は即座に首を振った。
「何故《なにゆえ》でございます?」
「私には、立派な背の君がおわすのじゃ。そのお方と離れて暮らすわけにはゆかぬ」
「然様でございますか……」
高麗屋は一旦落胆し、だがすぐ思い返して、
「ならば、このように、時々店に遊びに来てくださいまするか?」
と尋ねると、
「それはよい」
即ち大きく頷いた後、
「じゃが、仕事の合間にじゃぞ」
大真面目な顔で姫は応えた。
それだけでも高麗屋には嬉しかった。
桜子姫と話していると、自分がまるで、この姫を騙《だま》して、南蛮にでも売り飛ばそうとしている稀代の悪徳商人のように錯覚でき、この上もなく幸福な気分になれるのだった。
夜九つ――。
月明かりはシンと冴え渡り、真闇にはほど遠いものの、寝静まった深夜の澱《よど》みが、本来の営みには些か異質な存在も、寛大に呑み込んでくれるものと思われた。
梟《ふくろう》の鳴き声一つせぬ静謐《せいひつ》の街路を、〈鬼あざみ〉お多香は疾駆した。
狙いをつけてから、店の周辺を下調べすること約三日。いつもと比べて、ちょっと準備期間が短すぎる気もするが、お多香はやれると判断した。家の造りは極めて簡単で、間口四間半の前土間の奥が、使用人らの住居、主人の住まう奥の間、庭、そして土蔵という並びになっている。しかも、これだけの大店にもかかわらず、土蔵はたったの一つきりで、賊に押し入ってくれと言わんばかりの安易な構造をしていた。どぶ板伝いに路地を通ってゆけば土蔵を控えた裏庭の真後ろに出ることが出来、忍び入るのは案外|容易《たやす》い。
が、お多香が路地に入り、高麗屋の勝手口に臨んだとき、既にその戸が開け放されている。
(どういうことなの、今時分?)
お多香は当然不審を覚えたし、如何にも何かの罠めいて無防備に開かれた戸口から迂闊《うかつ》に中へ入ることがためらわれた。真っ白く冴えた月明かりの下、見れば、乾いた土の上には無数の足跡が残されている。それがどういうことを意味しているのか、無論お多香にはある程度想像できた。
(もしや、ひと足先に誰かが……?)
しばし逡巡しているところへ、表通りのほうから微かに二つの足音が響いた。お多香は咄嗟に身を処して、戸口の、庇の上へと素早く身を乗り上げる。そうして小さく、身を伏せた。そこへ、息を切らせて駆けつけたのは、廉十郎と左平次の二人である。一度は闇中に邂逅しているといっても、お多香はもとより左平次の素顔もその正体も知らない。
(旦那!)
思わず声の漏れかけるのを間際で抑え、お多香は廉十郎の姿を薄闇に見透かした。廉十郎は眉一つ動かさぬ顔で開かれた戸口を見、
「遅かったか」
と低く呟いただけである。
「姫!」
短く叫んで、左平次がいち早く家の中へ飛び込んでいった。廉十郎が仕方なさそうにその後に続いたので、お多香も慌てて庇から降り、彼らを追う。
(どうして旦那が、ここに?)
薄闇の中に仄白《ほのじろ》く冴えた廉十郎の横顔へ問いかけたく思ったとき、ふと、邸内に、複数人の身動きする気配を感じとった。それもただの気配ではない。刃と刃が激しく触れ合い、血飛沫《ちしぶき》を迸《ほとばし》らせる類いの、それは多量の殺気である。家の中には、大勢の奉公人が起居している。彼らは夜明けから日没後まで休む間もなく課せられた激務のため、皆一様に熟睡しているのだ。ちょっとやそっとの気配くらいには目を覚まさない。否、枕元で鼓でも打ち鳴らされぬ限り、到底夢から醒めないだろう。そんな彼らの寝泊まりする大部屋の一つを横切れば、庭に面した通り廊下に出る。
廊下に出てから少しく奥へ進み、左平次、廉十郎らの歩みに合わせてつと足を止めた。
(あっ……)
即ち、お多香は佇立《ちょりつ》した。
「風光明媚流・雪華《せっか》の舞ッ!」
凜《りん》乎《こ》たる叫びとともに、桜子姫の優美な肢体が月光の下を舞っていた。
大業物《おおわざもの》『名物三日月』の切っ尖が墨絵の如き闇をうならせ、その棟が、無造作に男の腹を叩いた。黒装束のその男、ひと声|呻《うめ》いて瞬時に悶絶。桜子はすぐさま刀を返し、下段から逆|袈裟《けさ》、次いで八相――向かい来る敵の一人の脳天を軽くぶっ叩く。男の悲鳴は止《や》む間もない。しかる後、束の間の脇構えから、相手の胴体を真っ二つにせんとの勢いでひと太刀、ふた太刀……身を翻して下段霞、と絶え間無くその身を躍らせつつ、
「椿の太刀!」
「鴛鴦《えんおう》斬りッ」
「風刃斬《ふうはざん》ッ!」
「三日月剣!」
などと、いちいち必殺剣の名を叫んだ。
そして、叫び止んだときには、彼女を取り巻き、その身を害さんと目論《もくろ》んだすべての男は、一人の例外とてなく、地に叩き伏せられている。左平次も廉十郎も――そしてお多香も、ともにぼんやり、そのさまに見入った。
「姫様、お怪我は!」
少し離れた梔子《くちなし》の植木のあたりで油断なく短刀を構えていた高麗屋嘉兵衛が、そうと見るや忽ち駆け寄る。面上から、いつもの恵比寿笑いを消した高麗屋の目には隙《すき》のない光が宿り、口辺も厳しく引き締まっていた。
「この彦六めが、まさか盗賊の引き込みだったとは……」
足下に転がる若い手代を、さも憎々しげに足蹴にしたその顔は、まさしく〈白高麗〉の九郎蔵とふたつ名をとった頃の、彼本来の皃《かお》に相違ない。
「大事に至らず、上々であった」
息も乱さず桜子は言い、刀を納めつつ、
「それにしても、高麗屋、そちもなかなかの働きであったのう。……それに、盗っ人どもの気配にいち早く気づいたるは、一家の主人として見上げた心がけじゃ」
満足顔に言い下してから、ふと気配に気づいて、廉十郎らのほうを顧みた。
「上総介殿……それに、左平次も」
如何にも付け足しのように名を呼ばれたのが、左平次には少しく悲しかった。
「どうしてここに?」
「い、いや……」
無垢の純金よりもまだよく光る瞳に真っ直ぐ見つめられ、期せずして廉十郎は戸惑った。
「こ……高麗屋が、三日月藩の御用商人であると聞き及び、てっきり、姫を害する江戸家老一派の罠ではないかと……」
「この桜子の身を案じてくだされたのか、上総介殿?」
「い、いや……」
歓びに照り輝く桜子の視線は、なお一層、廉十郎を当惑させる。
「別に……そういうわけでは……」
否定の意を、極めて曖昧な言葉で濁しながらも、しかし彼は、
(もしかしたら、そうかもしれない)
と、弱々しく心で肯定していた。それが自分でもそら恐ろしく、いまは菩薩とも見まごう桜子の笑顔を、極力見ないようにした。が、
「そうじゃ、高麗屋!」
桜子は不意にまた、高麗屋を顧みた。
「は?」
「早く、役人を呼ぶのじゃ! こやつらを、捕縛させねばならぬ!」
「おお! そうじゃ!!」
桜子の叫びに促され、未だ、懐かしい過去を身に甦《よみがえ》らせた興奮の残る高麗屋はすぐさま踵を返して走り、騒ぎを聞きつけ、いま漸く目を覚ましたらしい楓は、
「何事にございます!」
と厳しく眉間を狭めつつ、障子のうちより顔を出す――。
[#改ページ]
妖異・髑髏壺 ようい・どくろつぼ
1
「いつ見ても、惚れ惚れしますわねぇ、六代目の芸には……」
「ほんとに、先代に勝るとも劣らぬ好《よ》い男ぶり」
「あら、『幡随《ばんずい》』なら、やっぱり先代幸四郎の長兵衛が絶品でしたわよ」
「そうそう……あの初演の折は、富三郎の女形が、そりゃ美しゅうございました」
「まあ、五代目の初演の折といえば、かれこれ三十年も昔のことじゃありませんか。……大黒屋《だいこくや》の女将《おかみ》さん、そのころ一体おいくつでしたの?」
「…………」
「いやですねぇ、伊勢屋《いせや》の女将さん。……齢《とし》のことは、お互い言いっこなしですよ」
「おほほほほほほ……」
「ほほほほほほ……」
舞台の役者たちも顔負けな白塗り化粧を施した商家の女将風が数人、舞台前の特等席を陣取って、幕間《まくあい》の雑談に花を咲かせている。大音声《だいおんじょう》の馬鹿笑いも場内の喧噪の中にあっては少しも目立たぬのをよいことに、真っ赤な口腔の奥の奥まで、互いに惜しげもなく見せびらかし合っていた。
もとより、他の席も――桟敷《さじき》までほぼ満席に詰まった客たちの話し声で、小屋の中は溢れ返っている。
お馴染み浅草寺裏、猿若町《さるわかちょう》の中村座は今日も、満員御礼の大盛況ぶりだった。
「さきほどの……あの小紫役を演じておったのはなんと男の役者じゃそうな。……芝居とは面白きものじゃのう、楓《かえで》」
「はい、まことにもって。……下々《しもじも》の女子《おなご》どもがはしたなく目の色を変えるのもわかる気がいたしまするな」
「幸四郎の出番では、そなたも目の色を変えていたな、楓」
「なにを仰せられます、姫様。……姫様こそ、先程は、役者が台詞を述べている最中に、唐突な大声など出されたりして、はしたのうございましたぞ」
「あれは、芝居を観るときの、昔からのしきたりなのじゃ――のう、高麗屋《こうらいや》、そうであったのう?」
本日主演の花形役者と同じ屋号を有するその温顔の大店《おおだな》主人に話しかけながら、桜子姫は、ふと視線を向け変えた。
その刹那《せつな》――。
桜子姫の血は、熱く滾《たぎ》った。
たったいま観劇したばかりの『幡随長兵衛|精進俎板《しょうじんまないた》』という世話物の芝居にエキサイトしていたためばかりではない。確かに芝居の内容でもかなり熱くなったが、むしろ大半は、激しい怒りの故だった。
「おのれ!」
桟敷席の対面に、お栄《えい》の方の白塗りの顔が見え隠れしている。
たんなる偶然にしては、あまりに出来過ぎたこの邂逅《かいこう》は、或いは今日の招待主である高麗屋のはからいか、と疑いたくなるほどだ。
「なんと!」
桜子の視線に気づいてそれを認めた隣席の楓も、すぐさま声をはりあげた。
「苟《いやしく》も、森家七万石のご側室ともあろうお方が、このような遊興の場に出入りするとは、呆れたものにござりまするな」
憤りの発し方が、些《いささ》かズレている気もするが、彼女の言うのも、一応もっともだ。
大名家のご簾中《れんちゅう》、息女はもとより、側室、部屋子と雖《いえど》も、濫《みだ》りに市中を横行し、町人どもの出入りするような場所に気安く足を踏み入れてよいわけがない。
況《ま》してや、お栄の方は、表向き嫡子《ちゃくし》の生母ということになっている。商家の後家を装った地味な黄蘗色《きはだいろ》の桔梗柄《ききょうがら》の着物に、葡萄色《えびいろ》のお高祖頭巾《こそずきん》もはずさぬまま、お忍びの姿はしているが、彼女を仇敵と見做《みな》す桜子姫の目は誤魔化せない。
「藩主を殺害し、当家とは縁もゆかりもない不義の子を藩主の座に就けんとする、古今|未曾有《みぞう》の大悪事を画しておきながら、自らは暢気《のんき》に芝居見物とは片腹痛し!」
声音を低めようという配慮もなしに、まるで舞台台詞の如き音量で桜子姫は叫んだ。
幸い、場内には依然幕間中の雑談の喧噪が盤踞《ばんきょ》していたから、弁当を使いながら陽気に談笑する客たちの声にかき消され、場違いな叫び声は、一場を席巻するまでにいたらずすんだ。しかし、用意の茶菓《さか》を恭《うやうや》しく彼女に差し出さんとしていた高麗屋はその見幕に驚いて、手にした菓子皿を、そのとき思わず取り落とした。
「お栄の方さまが、あれに?」
高麗屋|嘉兵衛《かへえ》は、膝に落ちた、広小路『風車堂』の練り菓子を慌てて拾いあげながら、恐る恐る問い返す。
「見よ、あの鼻持ちならぬ厚化粧の顔をッ」
桜子姫の体は、激しい憤慨にうち震えている。
「ここで出遭《でお》うたもなにかの縁。ただいまこの場にて、ご成敗なさりまするか?」
「いや――」
楓の勧めに、だが桜子姫は、苦しげな表情で首を振った。昂ぶっていながらも、存外口調は冷静である。
「ここでは、人目がある。……如何《いか》に謀叛《むほん》人の成敗とは申せ、刃《やいば》を用いての刃傷沙汰《にんじょうざた》となれば、本日我らをこの小屋へ招いてくれた高麗屋にも迷惑が及ぼう」
「なれど、姫様――」
口惜しや――と言いたげな顔で、楓は桜子姫ににじり寄った。しかし桜子姫は微動だにしない。いつのまに、そんな常識めいた判断ができるようになったのか。高麗屋は、内心の意外さを隠そうともせず、露骨に目を丸くしている。
(大人に、なられたのであろうか……)
そう思えば、一抹淋しく感じられぬこともない。彼には、桜子姫のその、如何にも姫君らしい世間見ずや人迷惑なほどの天真爛漫さが、なにより愛《いと》しく思えていたのだ。
桜子と楓はともに無念を託《かこ》ち、高麗屋は己の感慨に終始する。その真向かい――舞台を挟んで彼らの真正面に位置する桟敷席には、三日月藩《みかづきはん》藩主・森長国《もりながくに》の側室にして、名目上の長国の長子・万寿丸《まんじゅまる》の生母たる女が、お付きの若い侍女たちに囲まれながら、大口を開けて弁当を食し、憚《はばか》りもないさまで笑いころげていた。
暮れ残る夕色の中に、娘の身に纏《まと》った明るい黄八丈《きはちじょう》の着物の色だけが、鮮やかに浮き立っていた。
娘は、人気の途絶えた橋の上を、一方の橋袂《はしだもと》からもう一方の橋袂まで行きつ戻りつし、結局欄干の中ほどへ戻る。そんなことを、もう何度繰り返したことだろう。偶然通りかかった無縁の通行人でも、そうした娘のさまを見れば、誰もが例外なく不審を抱く。
「なにをしているのであろう?」
「はて……落とし物でもいたしたのでしょうか」
たとえ桜子姫主従といえど、決して例外ではなかった。
橋袂から五、六歩離れた柳の幹蔭に佇《たたず》みながら、二人は注意深く娘を見守る。年の頃は十六、七。桜子姫よりは二つ三つ若く見える丸顔の、鮮やかな山吹の色がよく似合う色白の可憐な娘だが、町娘らしいゆいわたの髷《まげ》はやや乱れて後れ毛が頬にほつれ、今日は朝からかなり歩きづめたのか、足袋《たび》も少しく泥に汚れていた。寸刻観察してから、つと頓悟《とんご》したように桜子姫が言った。
「もしや、あの娘、身投げをする気ではあるまいか?」
「おお、それに相違ござりませぬ!」
突如頓狂な声をあげて、楓も断じた。
「あの年頃の娘が、なにやら思案顔に橋の上を行きつ戻りつ……これはもう、身投げのほかは考えられませぬ!」
楓の大声は、当然ながら、橋上の娘の耳へ届くにも充分であった。娘はハッと桜子らを顧みると、卒然追いつめられたような顔つきになり、飴色《あめいろ》の欄干に両手をかけた。そのままやおら腰を持ち上げ、左足の草履《ぞうり》の裏で橋桁を蹴って、いましも流れへ飛び込まんとする風情――。
「待てい!」
桜子姫は夢中で叫んだ。
「お若ェの、お待ちなせぇ」
咄嗟《とっさ》に、最前見て来たばかりの芝居の中の名台詞が口をついたのは、この切迫した状況下にあってはなかなか上出来。桜子姫も、内心満足を隠せない。
娘の動作が、一瞬間停止した。
心で覚悟を決めていても、いざとなっては体のほうが怯《ひる》んだのか。素直に桜子姫の呼びかけに応じたものか、それは本人に聞いてみなければわかるまい。とにかく、娘を止めんとする桜子姫のほうには、一瞬の猶予が与えられた。
「死んではならぬッ」
高く叫びを発しざま、桜子姫の両足は強く地を蹴った――。
桜子姫の四肢は、そのとき、靭《しな》やかな駿馬《しゅんめ》か敏捷《びんしょう》な野兎《のうさぎ》のように躍動し、目的を遂げる。すべての宿世《すくせ》の柵《しがらみ》から逃れんとて虚空に身を躍らせんとする娘の袖を捕らえ――その体が宙に浮くより一瞬早く、桜色の帯目に食らいついた。
「はなしてください! いやぁ、死なせてぇッ」
娘の絶叫が、桜子姫の腕の中で遮二無二|抗《あらが》い、夕闇の静けさを破らんとする。
だが、娘を捕らえた桜子姫の力は、その優雅な外見からはおよそ想像もつかぬほど強固なものだった。如何に激しく抗おうとも決して許さぬ厳しい力を腕にこめながら、だが年下の娘に向ける視線は、飽くまで優しい。
「それほど、死にたいのか?」
抵抗する娘の体を強引に欄干から引き離し、川端の柳の根方へ押しやりながら、姉のような口調で桜子姫は問うた。
「死にたい……もう、生きていたって、なに一つ、いいことなんかありゃしない」
「そうとは限るまい」
「いいえ、そうです。……そうなんです」
「何故わかる?」
「だって、お父っつぁんもおっ母さんも死んじまって、お父っつぁんのお店もなくなって、わたしには、もう誰もいないんですから。……いいことなんか、あるわけないんです」
「だが、死ぬのは苦しいぞ」
「…………」
「たとえ水に潜っても、或いは死にきれず、もがき苦しむことになるだけかもしれぬ。それでもよいのか?」
「でも、たとえ一時苦しい思いをしても、死んだあとでは楽になれます」
「地獄に堕《お》ちるかもしれぬではないか」
「それでも、いい!」
「一度無間地獄《ひとたびむげんじごく》とやらに陥《おちい》らば、亡者となりて鬼どもの絶え間もない責め苦を受け、永劫の闇の中で苦しみ続けねばならぬそうじゃ」
「…………」
あらぬ虚空を彷徨《さまよ》っていた娘の目が、はじめてそこに、桜子姫の顔《かんばせ》をとらえた。そして、あまりに優美なその面《おもて》に出会うとしばしおののき、圧倒されたようだった。
「生くるも地獄、死ぬも地獄じゃ。だが、これまで死後の地獄を見て来た者はおらぬから、その苦痛を知ることはできぬ。知らぬということは、なんとそら恐ろしいこととは思わぬか? ……底無しの恐ろしさじゃ。それに比べれば、生あるうちの苦しみなど、たかが知れているではないか」
「でも……わたしの苦しみなど、あなた様はご存じない……」
「そなたはまだ若い。いまは辛くとも、きっとこの先、いいことがあろう」
ところが、教え諭すような桜子姫の言葉を聞くなり、娘は激しく頭をうち振り、四肢をバタつかせて不快を訴えた。
「ああ、いやっ……どうしてみんな、そういう言い方をするのかしら? ……いまは辛くとも、そのうちきっといいことがある。そのうちきっと、幸せになれるって……なれっこないじゃない。……去年までのわたしより、絶対幸せになれるって約束してくれるなら、生きていてもいいわ!」
「…………」
「そんなこと、あり得ない……わたしにはもう二度と、あんな幸せなときはこないのよ」
「なにがあったのじゃ?」
ふらつく娘の体を背後からしっかと支えつつ、一方の手で、優しく娘の髪に触れる。
その途端、娘は嗚咽《おえつ》を堪《こら》えかね、声をあげて泣きだした。
娘の激情がおさまるまで、桜子姫は気長に待った。幼女のように泣きじゃくる彼女の顔を自分に向けさせ、そっと胸に抱いてやりながら、根気よく待ち続けたのだった。
娘の名はお琴《こと》といい、ついこのあいだまで、江戸でも有数の大店、『芳野屋《よしのや》』という油問屋の一人娘だった。
ところが先頃、知人の婚礼に呼ばれた帰りの途で、両親が、隅田川の土手から川に落ちて死に、店は人手に渡ってしまった。他に寄《よ》る辺《べ》のないお琴は、父方の叔父の家に引き取られたが、山谷堀のそばでささやかな乾物店を営むというこの叔父夫婦が、夫婦揃って大変な因業者で、事毎に、お琴に辛くあたる、と言う。朝から晩まで、それこそ足腰の立たなくなるほどこき使い、失敗すれば、「愚図」だ「馬鹿」だと口汚く罵る。ついこのあいだまでお嬢様と呼ばれて奉公人たちにかしずかれ、大事な箱入り娘として育てられたお琴が、急な重労働に耐えられるわけがない。
日々の辛さに堪え兼ねて、父母が命を喪《うしな》ったと同じ流れに飛び込み、両親のもとへゆこうと思ったのも、どうやら無理からぬことのようだった。
(なんと、不憫《ふびん》な……)
お琴の境遇には大いに同情を禁じ得なかったものの、それでも桜子姫は、自らの声を励まして言った。
「世の中は、辛いことばかりじゃ。だが、逃げてはならぬ。……叔父たちに苛《いじ》められるくらい、なんじゃ。私など、物心つかぬうちに母を喪ってからというもの、私の存在を快く思わぬ者たちから、毎日のように毒を盛られていたのじゃぞ。見かけは恭しく、さも親しげにふるまいながら、裏ではなにを思うているかわからぬ――他人《ひと》とは、常にそうしたものじゃ」
「姫様!」
屈託もなく語る桜子姫を制止せんとて、楓が悲痛な面持ちで悲鳴をあげた。
が、桜子姫は一向意に介さず、典雅な微笑を口辺に絶やさぬ。
「よいのじゃ、楓。……のう、娘、そなたの叔父たちは、あからさまにそなたを苛めると言う。少なくとも底意のない証拠じゃ。見かけは優しげにふるまいながら、いきなり毒を盛られるよりはましと思わぬか?」
「…………」
「この世は地獄じゃ。……だが、自らの心がけ一つで極楽とすることもできる。のう、お琴殿、そなたには、好いた殿御はおらぬのか?」
「いいえ」
「ならば、一刻も早く、そういう殿御を見つけるべきじゃ。愛しいお方を想う心があれば、それだけで、人の世は極楽となる」
「…………」
「そのお方のお姿を拝するだけで、ただそれだけで、幸せになれる。そういうお方に出逢《でお》うたならば、金輪際、自ら命を絶とうなどとは思わぬものじゃ」
「でも、そのお方が、こちらの思いを受け入れてくださらない場合には? そのときこそ、本当に死にたくなるのではありませんか?」
とは問い返さず、お琴はじっと桜子姫を見つめていた。どうやら、桜子姫に勝るとも劣らぬ世間見ずらしい彼女には、桜子姫の言う理屈の殆《あや》うさに露《つゆ》気づかぬようだった。
「もう、死にたいなどとは思わぬな?」
「は……い」
戸惑いがちに、お琴は応じた。
桜子姫を見つめるその双眸《そうぼう》には、死の妄執《もうしゅう》にとりつかれた者の、冥《くら》い絶望はみられない。桜子姫はもう一度、お琴の肩に優しく手をかけた。お琴は少しく肩を震わせたが、もう涙はみせず、小さく頷《うなず》くと、健気な微笑を桜子姫に返した。既に赫光《しゃっこう》の暮れ落ちんとする夕闇の中で、それでも桜子姫の纏うた豪勢な錦の小袖の色は際《きわ》だっている。
無人の橋袂。時刻は夕刻。たとえ気のきいた背景音楽の介添えはなくとも、なかなかに感動的な場面である。
(なんと……)
そして、その一部始終を、一方の橋袂の柳の幹に凭《もた》れかけながら、氷の如く冴えた肢体を黒の着流しに包んだ美貌の浪人者――住之江廉十郎《すみのえれんじゅうろう》が見届けていたのだった。
2
雲間から顔を覗かせたばかりの明るい半月が、白々と川面を照らしていた。
船頭を乗せぬ野放図な舟は、流れにも乗らず川縁にあり、緩々《ゆるゆる》と岸辺を漂っている。遊覧用の屋形船と違い、小型で屋根を持たない猪牙舟《ちょきぶね》は、一度流れに乗れば、その舟脚は格段に速い。本来、吉原がよいの遊冶郎《ゆうやろう》が、通を気どって使いたがる。だから、船上でゆっくりと酒肴《しゅこう》を楽しむような舟遊びの目的には相応《ふさわ》しくない。
月光に映えた虚無の横顔には、次第に濃い憂いの翳《かげ》がさし、口中に流し込む酒の味すら、しばし忘れさせていた。
(桜子姫――)
廉十郎の胸裡に、ふと意外な面影が萌《きざ》す。
盃を持った手が、自分でも気づかぬうちに中途で止まっている。思わず苦笑して、冷えた酒を、グイッと大きくひと息にあおった。
正直言って、戸惑っている。
(あの姫君に、斯様《かよう》な一面があったとは……)
桜子姫の過ごした不幸な幼年期の心の傷《いた》みを思うと、自分でも意外なほどに胸が痛んだ。
はじめて会ったときから、ただ能天気で世間見ずな姫だと思った。なまじ関わりあったのが百年目の身の不運で、こういう思い込みの激しい相手から、「我が背の君」に選ばれてしまった自分は、きっと天下一不幸な男なのだろう。うっかり相手のペースに嵌《は》まれば、二度とは逃れられぬさだめを負わされると一途に虞《おそ》れ、極力姫には近づかぬよう努めた。
それでも、桜子姫のことがまるで気にならなかったと言えば、心にもない嘘になる。
気になるからこそ、自らのそばにおき、その危急の際には、即ち駆けつけんとした。
そしてまた、彼は今日、桜子姫の心にいまも深く残る哀しみの澱《おり》を知ってしまった。
幼い頃から周囲に邪魔者扱いされ、剰《あまつさ》え、信じる近侍たちからまで毒を盛られたその衝撃は、幼い姫の心を、永久に、暗黒の闇の淵へと追いやるには充分だったろう。たとえ余人を一切信じず、氷の如く心を閉ざした狭量な人間になってしまったとしても、誰も彼女を咎められはしなかった。
が、桜子姫はそうならなかった。
何度身近な者の裏切りに遭おうと、純真|無垢《むく》な心のまま、他人を信じる心を失わなかった。なんと懐の深い――哀しみにうち勝つだけの彊《つよ》さを秘めた姫なのだろう。
(桜子……姫……)
廉十郎の脳裡を、麗しき佳人の面影だけが占めた。
まさに、そのとき――。
「旦那ァ」
無粋な男の声音が、彼の孤高の想念を無神経に遮った。
「今日は折角大もうけしたってのに、辛気臭ェ面《つら》はなしですぜ。そろそろ吉原《なか》へでもくりだしましょうや」
至高の夢から、一挙に廉十郎を味気無い現実へ引き戻した、その二十前後の若い男は、仙八《せんぱち》という名の博奕《ばくち》打ちだった。小皺がちな子猿のように可憐な容貌をしていながら、その左頬の皮膚がザクリと抉《えぐ》れ、無残な刀創《かたなきず》の痕が残るのは、いかさまがバレて、しっかり焼きを入れられた折の名残に相違ない。
「ねぇ、旦那ったら」
「そうだな」
体の向きを変えて応えながら、廉十郎のけだるげな表情は変わらない。
常在寺裏の賭場で半日ねばった甲斐もあってか、確かに今夜、廉十郎の懐はあたたかい。吉原の三分女郎を抱いたとしても、まだ充分に釣りがくる。今日でもう十日以上も女に触れていない廉十郎の体には、それも悪くない。しかし廉十郎は、依然その重い腰をあげる気になれなかった。
「仙八」
やがて低声で、若い博徒の名を呼んだとき、更にその眉間を曇らせ、廉十郎は盃を置いた。
「舟を岸に戻せ」
「へ?」
「吉原は、またこの次にする」
「旦那! そんな――」
殺生な、と言いかけた仙八に、途中で言葉を止めさせたもの――。
それは、廉十郎のこの上なく気鬱げな表情に相違なかった。
一刻後。
陸《おか》にあがると、廉十郎の足は、特別どこへ向かうということもなく、無意識に人のいない道ばかりを選んで歩いた。
両国橋を渡り、千代田のお城を右手に望みながら、武家屋敷の門が厳《きび》しく並ぶあたりを行く。屋敷街を抜けて更に先を行けば、蛙の喧《やかま》しく鳴き交う畦道《あぜみち》にかかる。周辺には明かり一つ灯らぬ月下の道を一人行くうち、幾分心が落ち着いてくる。
(このまま行方もしれず、何処《どこ》かへ……)
廉十郎の足は、そのまま西へと向けられた。
西へ――そのまま永遠に歩きづめても、僅《わず》かも疲れを覚えそうにない不気味な予感が、漫《そぞ》ろに彼を導いていた。
(なんと、酔狂な……)
そのひとの面影を身のうちより消し去るため、敢えて哀しく、廉十郎は心中にて呟いた。
そろそろ温《ぬる》く海風の吹き寄せる下りの道は、いましばし長く――更に西へ西へと続いているようだった。
(このまま……何処までも――)
その夜、住之江廉十郎の孤影は、何処とも知れず、彼を知るすべての人の前から消えたのだった。
3
桜子姫はもとより、お多香《たか》や町名主である長屋の大家にも一言とて告げず、廉十郎が江戸の市中から姿を消してしまった。
最後に彼を見た無職者の仙八に尋ねても、なにも聞かされていない、と言う。杳《よう》としてその行方の知れぬまま、三日のときがすぎた。
裏店《うらだな》の井戸端で、おかみさんたちのささやく噂も、さまざまである。やれ、借金取りから逃げ出したのだとか、吉原の女郎を足抜けさせて一緒に駆け落ちしたのだ、とか……。中には、数日前に鉄砲洲稲荷の境内で起こった辻《つじ》斬り強盗の犯人は廉十郎だと言う者もある。元々、人を斬るなど屁とも思わぬ男のことだから、ここで会ったが百年目の仇討ちの追っ手にバッタリ出くわし、返り討ちにした揚げ句金品を奪い、又候《またぞろ》逐電したに違いない、とも……。
話半分にしても、すっかり板に付いた極悪人ぶりである。
もとより噂は、桜子姫一人を避けてとおるものではない。
「大丈夫ですよ、姫様、心配なさらなくても、旦那はすぐに帰ってきますから。……あのとおり、気まぐれなお方ですからね」
「うん、心配はしておらぬ」
お多香は桜子姫の心中を| 慮 《おもんぱか》り、実際には心配でならぬ内心をひた隠した作り笑顔で言ったのに、意外や当の姫君はケロリとしている。
「私は、我が背の君である上総介《かずさのすけ》殿を信じておる。上総介殿とて、同様であろう。それ故私には一言も告げず、お出かけになられたのじゃ。我らは互いに信じ合《お》うておる。……のう、楓、まことの夫婦とは、そうあらねばならぬのじゃったな?」
「御意」
頷く楓のしたり顔にも大いに呆れたが、天晴《あっぱれ》貞女の鑑《かがみ》の如くご立派すぎる桜子姫の言葉には、流石《さすが》に返す言葉もないお多香であった。
しかし、背の君である廉十郎から置き去りにされ、姫はさぞやお歎《なげ》きのことであろうと勝手に憶測した連中が、
「いざ、桜子姫をお慰めせん」
と、次から次、彼女の長屋を訪うため、姫君の身辺は、ここへきて俄《にわか》に賑やかである。
中でも、廉十郎に対して異様な競争心を燃やす旗本家の冷や飯食い、時宗弥五郎左衛門《ときむねやごろうざえもん》の攻勢は凄《すさ》まじかった。
廉十郎の留守に乗じて、あわよくば、美貌の姫君を寝盗ってしまおうとの魂胆だから、得意の話術にも、ここを先途と磨きがかかるというものだ。
「いえね、その、住之江の旦那と俺《おい》らのあいだの因縁なんてな、そう大したもんじゃねえんですよ。十四のときから通い詰めた道場へね、旦那も時々通って来てて、手合わせするたび、いつもこっぴどくやられてたってだけのことでね。……まったく、あの鬼みてぇな強さには、俺らはいまだに兜を脱ぎますのさ」
「弥五郎左殿も、上総介殿と同じく、剣は風光明媚流《ふうこうめいびりゅう》を学ばれたか?」
三河以来の名家の子息が、地回りそこのけの伝法な口調で語る言葉に、桜子姫は興味深く耳を傾けている。
「なぁに、俺らはただの一刀流でさあ。……風光明媚流ってのは、旦那が勝手に編み出した流儀ですぜ」
「成程、お若い頃より、擢《ぬきん》でた剣才がおありだったのじゃな。……流石は我が背の君……」
ともすれば、桜子姫の目は遠く彼方を彷徨いがちになる。いま目の前にいない男のことばかりを想い、当分は思慕の念がやみそうにない姫君の様子には、さしもの弥五郎左衛門も、ホトホトまいってしまう。
「ま、昔話はこのくらいにして、と。……そうそう……近頃江戸では、〈髑髏壺《どくろつぼ》〉の呪いってやつが、えらく評判になってましてね」
「髑髏壺、とな?」
耳慣れぬ、目新しい言葉を聞けば、桜子姫の興味も忽《たちま》ちそちらに移る。
「かなり由緒ある骨董品らしいんだが、なんでもそれを手に入れた者が、次々と不慮の死を遂げてるってんで、『そいつあきっと、壺の呪いだろうぜ』って、言い出すもンがいてね。そういうことになっちまったのさ。……蘭方医の手にかかりゃあ、コロリだって治しちまうってこの世ン中に、馬鹿馬鹿しいような話なんだが」
「それで、その〈髑髏壼〉とは、一体如何なる代物なのじゃ?」
「なぁに、大きさはこれくれぇ――」
と弥五郎左衛門は両手で作った輪を胸の前で小さく広げてみせながら、
「別段珍しくもねぇ、伊万里の茶壺らしいんですが、染付に描かれたその模様が、うすっ気味の悪ィ髑髏の柄だってんで、余計噂に尾鰭《おひれ》がついたらしいやね」
「これまでにその茶壺を手にせし者たちは、皆ことごとく不慮の死を遂げておると申されますのか、時宗殿?」
それまで黙って、部屋の片隅で茶道具の手入れを行っていた楓が、ふと顧みて弥五郎左衛門に問うた。鋭く射竦《いすく》める老女の視線に、少しくたじろぐ。古稀《しちじゅう》を迎えんとしてなお矍鑠《かくしゃく》たるこの厳格な老女を苦手とすることでは、弥五郎左衛門とて例外ではない。
「なんでも、慶長《けいちょう》だか元和《げんな》頃だかの年代物らしいから、そんな昔のことは知りませんがね。最近の話だと、御厩河岸《おうまやがし》の芳野屋とかいう油問屋の主人夫婦が、川で溺れ死んだって話でさあ」
「弥五郎左殿、いまなんと?」
桜子姫は、ハッと顔色を変えて弥五郎左衛門を見た。
「へ? ……慶長だか元和だか、確かな年代ははっきりわからねぇ、って――」
「そうではなくて、溺れ死んだ主人夫婦の店の名じゃ!」
「よ……芳野屋……なんでも、問屋仲間の一つに数えられるほどの大店だったのに、主人の死後はすっかり身代も傾いちまって、店は人手に渡ったって話ですぜ」
厳しい叱責にも似た桜子姫の語調に、少しく戸惑いながら弥五郎左衛門は応じる。
「お琴の二親じゃ」
桜子姫は弥五郎左衛門の面上から目を離し、鋭く投げかけられた楓の視線に答えるように、短く言った。
4
「そもそも〈髑髏壺〉と申すは、三日月藩に古くから伝わる、家宝の一つにございました」
淡々として、楓は言い継ぐ。
「正式な名を、〈青楼玉竜壺《せいろうぎょくりゅうこ》〉と申しまして、御藩祖|長俊《ながとし》公が、兄君であられる美作《みまさか》津山藩主・森長武《もりながたけ》公より、知行分知の折、下賜品の一つとして譲られし品にございました。労咳《ろうがい》の宿痾《しゅくあ》を擁しておられた御藩祖が、かの病に効くと言われる獣の生き血を入れて用いられた所以《ゆえん》にて、斯様《かよう》に禍々《まがまが》しき名を付けられたものにございましょう。……養生の甲斐もなく長俊公は亡くなられ、爾来《じらい》壼は、不吉の徴《しるし》として、お陣屋のお納戸の奥深くにしまわれたのでございます」
「それはまことか、楓?」
問いに応じて、楓は小さく頷いた。忠実な老女を見つめる桜子姫の瞳に、一抹疑いの念が宿る。
「陣屋の納戸の奥にしまわれているはずの不吉の壺が、それでは何故、江戸の商人の手に渡ったのだ?」
「わかりませぬ」
「弥五郎左殿の申された〈髑髏壺〉なるものと、我が家の家宝の〈青楼玉竜壺〉とが同一のものであると、そなたには本当に言いきれるのか、楓?」
「はい」
「何故じゃ?」
「時宗殿の示された壺の特徴は、かつて私の見知った〈青楼玉竜壺〉のものとそっくり同じでございました」
(本当だろうか?)
これには桜子姫と雖《いえど》も、些か首をひねらざるを得ない。
弥五郎左衛門の示した〈髑髏壺〉の特徴とは、胸にひと抱えはないであろうと思われるその大きさに髑髏の図《え》という、漠然とした外形にすぎない。髑髏の図だろうが毒蛇の図だろうが、その大きさの茶壺なら、世の中にはいくらでも存在するだろう。
「したが、楓」
自らの疑いを一旦振り払い、桜子姫は真顔になった。
「もし仮に、そなたの言う我が家の家宝〈青楼玉竜壺〉と、巷《ちまた》に噂される呪いの〈髑髏壺〉とが同一のものであった場合、それは由々しき問題ぞ」
「はい」
「当家重代の家宝が、何奴かによって納戸より持ち去られ、江戸にある。……しかも、人手に渡っておるのだ。ことの是非は、必ずや突きとめねばならぬ」
いつもながら力強い桜子姫の言葉に楓が頷き、目と目を見交わす二人のあいだに、それからしばしの沈黙が齎《もたら》された。
ことの是非を突きとめるために、一体どういう行動を起こせばよいのか、ここはひとまず、入念な思案の必要があった。
「左平次《さへいじ》ッ!」
やおらすっくと立って闇《くら》い天井を見上げ、桜子姫は高く叫んだ。
「左平次――これ、左平次、おらぬのか?」
(姫……)
天井裏にて、ことの次第をすっかり盗み聞いていた左平次は、そのとき一瞬躊躇する。
(ここで返事をすれば、日頃姫の身辺に目を光らせている拙者の役目が、姫に知られてしまう)
だが、もし出てゆかねば、桜子姫の落胆は言うに及ばない。少なくとも、いまこの瞬間、姫は確実に自分を頼りにしてくれている。それは取りも直さず、左平次が、常に自分の身近に侍っていてくれればよい、と考えている証左にほかならない。だが、左平次が必ずしも、四六時中自分のそばにいるわけではないと知れば、桜子姫は悲しむ。姫の落胆、姫の悲愁……。そんなものを、自分は見たくない。
少しく悩んだ揚げ句――だが結局は、桜子姫の意向に逆らえぬ自分を、左平次は痛感した。
「左平次ッ――黒鍬《くろくわ》の左平次は何処《いずこ》ッ?」
「はっ、ここにおりまする――」
低声で応えざま、左平次は天井の節板を外し、音もなく室内へ降り立った。降り立つと同時、桜子姫の面前に小さく跪《ひざまず》き、主君の命を待つ従順な家臣のていをとる。そのとき、
「なんと!」
楓は少なからず目をまわしたが、
「おお、矢張りおったか」
桜子姫には別段驚いた様子もない。
「一刻前から、そこにおったか?」
「はい」
「流石《さすが》は忍びの達人、お庭番じゃ。まるで気配を感じさせなかったぞ」
「恐れ入ります」
「いまの話、聞いていたな?」
「は……恐れながら――」
「よいのじゃ。話す手間が省ける」
嫣然《えんぜん》無邪気な笑い顔をみせてから、ほぼ予想どおりの言葉を桜子姫は口にする。
「〈髑髏壺〉の真偽を確かめるのじゃ。手伝《てつど》うてくれような?」
「はっ、仰せのままに」
即座に叩頭《こうとう》してしまったが、流石に左平次の心は重かった。
(住之江殿がご出奔《しゅっぽん》なされた気持ちもわからぬではない)
しかし自分は、公儀隠密。厳しい掟に縛られた、忍びの世界に生きる者だ。与えられた任務を捨て、職を辞して逃げ出すことは許されない。それがなにより嬉しい務めである反面、なにより辛く――憂鬱でもある。
「頼んだぞ、左平次」
なにより嬉しい桜子姫の直《す》ぐな視線をまともに浴びながら、その実悲喜こもごもの左平次であった。
重苦しい暗雲の帳《とばり》が、見る間に月を覆《おお》ってしまった。
と――。
(敵……か?)
左平次の五体は、そのとき皮膚を被《おお》う体毛の一本までもが、鋭利な刃の如く化した。
(五……六……いや、七人か)
小柄だが、靭《しな》やかな野獣のような体が殺気に満ちるまで、一瞬の間があればよい。左平次はためらうことなく刀の柄《つか》に手をかけた。居合の速さで引き抜くと同時、その身を高く、虚空へ跳ばせた。
それと前後し、行く手を阻んでバラバラと彼を取り巻いた複数の黒影は、睨んだとおり全部で七つ――。
刃を振り上げ、振り下ろすまでの短いあいだに、言葉による挨拶は要らない。ただ、無言で投げ交わす殺気の応酬があればよい。
「ッ……」
声にはださない気合とともに、左平次の切《き》っ尖《さき》が閃光を放つ。
ときを移さず、「うっ」と低く短い呻《うめ》きが漏らされ、一個の影が、地上に倒れ伏す。
真っ先に襲った影を、苦もなく両断したその刃を、左平次は左手に持ち替えた。
彼らの世界では〈抜刀変異流《ばっとうへんいりゅう》〉と呼ばれる両手使いの剣である。変幻自在に刀を持ち替え、左右どちらからの攻撃にも対応できる。斬られた相手は、断末魔の悲鳴を迸《ほとばし》らせるまでもなく、即ち安易な死に臨む。
(この剣は……伊賀者だな)
一合《いちごう》も刃をあわさずそれを悟ると、左平次は注意深く身を処した。
なまなかな殺気の量ではない。
たとえ一人がやられても、グルリと彼の四囲を取り巻いた囲みの輪を崩しもせず、ジリジリと詰め寄せてくる。
(手だれ揃いだ――)
左平次の両腋を、知らず知らず、ジットリと冷たいものが伝う。しかしそれが、肌衣の布を濡らす前に、彼は相手の正体をおおよそ知ることができた。普通忍びの者同士が、私怨によって刃を交えることはない。彼らは常に、主君――或いは雇い主の意向によって動く。となれば、公儀お庭番たる左平次を、それと承知で襲う彼らの雇い主の正体は、最早《もはや》言わずと知れている。
ズシャッ、
ぼぁらっ……
左平次の横っ面を狙ってくる刃の一つを強く撥ねざま、持ち替えた刀でそいつの喉笛を突いた。貫きざま、すぐ翻って別の刃を受け止める。思案をしている暇はなかった。
シャシャシャシャ……
「…………」
しばし、真闇《しんあん》の中にて繰り広げられる激しい暗闘を、無音ながらも、極めて剣呑《けんのん》な気配で遮った者がある。
「…………」
残り五人の刺客たちのあいだを、忽ち狼狽《ろうばい》が駆け抜けた。
音もなく近づいて来た幾つかの気配は、左平次に加担するものだったのである。
退《ひ》け――と低く、闇中に命じる声音が響いた。影たちは瞬時に後退り、数歩退いたところで揃って踵《きびす》を返すと、現れたときと同じく速やかに退散した。
代わって、今度は三つの黒影が左平次の背後に近づく。
「小頭《こがしら》」
闇中で、聞き覚えのある声音が左平次を呼んだ。
左平次は、甲賀忍組《こうがしのびぐみ》組頭、水口鬼姿郎《みなぐちきしろう》という者の配下に属する、その小頭である。通常は、数十人からの部下を颯爽《さっそう》と指揮し、任務を遂行する。しかし、大御所直々のお声がかりによって桜子姫の身辺警護を務めるこの三年間というもの、一人、忍組の主流から外れた形になっていた。
「它九《たきゅう》、亀六《きろく》、がま次」
三つの影たちの名を順に呼んでから、左平次は刀を拭って鞘《さや》へ納めた。
「いまの者たちは?」
「三日月藩の江戸家老一味が雇った刺客である」
とは、口が裂けても左平次には言えなかった。
「わからぬ……以前我らの働きによって取り潰された大名家の、その残党どもが雇うた刺客かもしれぬ」
大仰に顔を顰《しか》め、首を捻《ひね》りつつ空惚《そらとぼ》ければ、影たちは、多少の驚きを禁じ得ない。
「なんと!」
「しかし、甲賀忍組の小頭を――黒鍬の左平次ほどの者を狙うとなれば、尋常の一味にはござりますまい」
「早速お頭に報告いたさねば……」
「そうだな」
内心の苦々しさを押し隠しつつ、左平次は頷いた。
(お頭に報告すれば、畢竟《ひっきょう》わたしの周辺が探られる。……これ以上はもう、三日月藩の内情を公儀に隠しおおせまい)
それにしても、刺客を雇って左平次を消そうとした江戸家老一味の大胆さである。公儀お庭番に刃を向けるなど、尋常に考えれば到底正気の沙汰とは思われないが、逆に言えば、もうそこまで、彼らの謀議は進行しているのだ、とも言える。秘密を握る唯一のお庭番である左平次を殺し、次いで桜子姫主従を殺し、一挙に藩主謀殺を実行に移す。万寿丸は、正式な藩主の世嗣《よつぎ》であるから、藩主が死ねば、なんの問題もなく、彼は家督を相続できる。お家乗っ取りの計画は、成就まで、あと一歩というところだ。
然《しか》るに、この逼迫《ひっぱく》した状況下で、桜子姫主従は暢気《のんき》に茶壺の探索などを行おうとしている。こんなことをしていて、本当によいのであろうか、と左平次は忽ち暗然たる思いにとらわれ、心中深く嘆息した。
その持ち主に不幸を齎《もたら》すという〈髑髏壺〉の行方は、案外あっさり、調べがついた。
灯台もと暗し、というべきか――。破産して人手に渡った『芳野屋』の蔵にあって競売にかけられた染付の茶壺は、なんとちゃっかり、高麗屋の蔵に納まっていたのである。
「これは、いわば染め間違いでございますな。……はじめから髑髏を描くつもりはなく、なにか別の絵柄を付けようとしていたところが、描き手の拙《つたな》さから、このように醜き図柄となってしまったのでございましょう」
髑髏とも般若《はんにゃ》とも判然とせぬその異様な図柄の古い伊万里を指し示しながら為される高麗屋の説明を、桜子姫、楓、弥五郎左衛門――それに左平次の四人は言葉もなく聞いていた。〈髑髏壺〉と呼ばれる不気味な呪いの茶壺の正体が、ただの描き損じの不良品であったとは、少なからず拍子抜けである。
「手前、このところ、妙に骨董づいておりましてな。あちこちの競《せ》りに出向いておりましたところが、どうもその先々で、見覚えのある品をば目にいたすのでございます」
十年来の御用商人である高麗屋が、森家所蔵の品の幾つかを拝見したことがあったとしても、不思議はない。なにしろ高麗屋は商人で、商品を見る目にかけては、武士が刀を選ぶとき以上に厳しいのだ。だから一度見ただけの品でも決して忘れず、その折の記憶とともに、しっかり見覚えていたとしても不思議はなかった。
桜子姫は、商人としての高麗屋の目を全面的に信頼した。
「ふうむ……当家の家宝が、江戸の市中にて大量に競り売りされていると申すのじゃな」
「由々しき問題にござりまするぞ、姫様」
わざわざ楓のしたり顔発言を待たずとも、桜子姫とて当然同じことを思っている。
少しく思案顔で首を傾げてから、
「そうじゃ……そうに違いない」
桜子姫は低く呟いた。
「なんでございまする?」
「暮林《くればやし》めの、仕業じゃ」
「なんと!」
「そうじゃ……当家の家宝を密《ひそ》かに持ち出し、競りにかけて私腹を肥やさんとの暮林めの| 謀 《はかりごと》じゃ。それに相違あるまい」
「おお、それに違いありませぬ」
「こうなれば、暮林めを直接問い詰め、すべてを白状させるのじゃ!」
狭い長屋の一室に肩を寄せ合って座っていた高麗屋、左平次、弥五郎左衛門の三人をともに驚愕《きょうがく》させる勢いで、桜子姫は雄々しく叫んだ。叫びざま、
ダン、
と強く、畳を蹴って立ち上がり、固く拳を握りしめながら、なお声高に言い放つのだった。
「お琴の二親の敵討ちじゃ! ……これより藩邸に乗り込み、暮林とお栄の方とを、ともにこの手で、成敗いたすッ」
5
軽く枝葉をかさがせて山中を訪れる風は、早くも初秋の薫りを伝えている。
空は目に染む碧《あお》さを湛《たた》え、一点の曇りもない。ひときわ高い杉の大木が、行く手に濃い影を落としている。三羽四羽と山鳩の群れ飛ぶさまを、額に滲《にじ》む汗を拭うのも忘れ、廉十郎はぼんやり眺めていた。
最前、峠の茶屋にて暫時の休息をとったのが、既に一刻以上も前のことになる。それから休みもなく歩きづめていた。それなのに、不思議と疲労はおぼえない。江戸から数えて三十里余。あてどのない独り旅を決めこんで、一心不乱に歩き続けた。
気がつくと、廉十郎は箱根峠の坂を越え、山中深く分け入っている。
ふらりと江戸を発ってから、早三、四日が過ぎたであろうか。日数のことは、はじめから頭になかった。いくら酔狂とはいえ、これほどの酔狂も滅多にあるまい。
(折角ここまで来たのだ。ひと風呂浴びてゆくか)
咄嗟に思ってしまったのは、如何にも能天気な桜子姫的発想である。それに気づくと、廉十郎は我ながら苦笑を禁じ得なかった。
(姫のことを忘れんがために、ここまで来たか?)
ふと自問してみて、だが到底答えることが能《あた》わぬと知ると、廉十郎は自ら狼狽した。そしてまた、懶《ものう》げな眉間を一層|曖《くら》く曇らせると、薄く洩れ陽の射しかける道を避け、翳《かげ》をとどめた叢《くさむら》がちの道端を行く。磨り減った草履の底が惻惻《そくそく》と草を踏む音に、自ら深く気鬱を覚えた。
(湯につかれば、つまらぬ浮世の憂いはすぐに忘れよう)
江戸で過ごす日々の喧噪こそがまるで夢のように、そこには底知れぬ静寂だけがあった。
廉十郎が無意識に選んだ道の果てに、おそらく村で一軒きりの旅籠《はたご》と思《おぼ》しき大きな二階建ての家が見えている。古びた禅寺風の建物中に、いまは唯一の安らぎが待ち受けている気がして、廉十郎は一途に先を急いだ。
通されたのは二階の一室で、東隅のその部屋の窓辺からは、自然石の苔むした狭い庭が一望できる。
しかしその窓辺から廉十郎が瞠《みつ》めているのは、その疎《まば》らなうろこ雲の流れゆく先――江戸に続くと思われる遠い空の彼方ばかりだった。
「お客さん、江戸から?」
最前|濯《すす》ぎをつかわせてくれながら、若い女中が彼に問うた。廉十郎が無言で頷くと、
「へェー、今日は江戸からのお客さんが大勢お見えだァ。珍しいこともあるんだなァ」
娘は目を丸くしたものである。
「俺のほかにも、客がいるのか?」
湯治客で賑わう箱根の宿場ならともかく、こんな山深いところまでわざわざ湯に入りに来る酔狂人が自分一人ではなかったことを意外に思い、廉十郎も目を丸くした。
「ええ、なんでも、えらいお武家さまがお忍びとかで……お供の衆を十人も従えて来なすった」
「そうか」
そう聞いた途端に興味を失うのは、廉十郎のいつもの癖である。いずれ暇を持て余した有閑旗本のお殿様ずれであろう、と思われた。
部屋にとおされ、窓辺から視線を落としていると、おそらくはそのお供の衆と思われる、揃いの熨斗目《のしめ》に裁《た》っ着《つ》け袴《ばかま》という旅装束の若い武士が数名、眼下の庭を横切って行った。
「夕餉《ゆうげ》にはお酒をおつけしますか?」
「ああ、二本もらおう」
さも気だるげに答えてから、かしこまりました、とも言わずに出て行ってしまおうとする娘の背中に、
「風呂は?」
と短く、廉十郎は問うた。
「下の――裏庭の藪《やぶ》の奥に、岩風呂がごぜぇます」
答えて、一度は返しかけた踵を束の間戻すと、娘はチラッと廉十郎を顧みて、
「お侍さん、いい男だね。……おら、生まれてこの方、村を出たこた一度もねぇが、お客さんみてぇな男前拝んだなぁ、生まれてはじめてだ」
「…………」
屈託のない顔で言い捨てざま、そそくさと部屋を出て行った。
「まいった……俺はそれほど、色男だったか」
苦笑気味に独りごちた廉十郎の面上には、しかし困惑の色が滲み、その両頬は、仄《ほの》かな赤みを帯びていた。
夕餉の前に軽く汗を流しておこうと風呂場へ向かった。
屋内の浴室は、どうせ江戸の旗本どもに占領されていようと思われたので、露天の岩風呂のほうへ行く。いまにも時雨《しぐれ》てきそうな空模様の夕間暮れ、野生の獣らとともに自然の沸き湯に浸かるという行為を思うと、廉十郎の機嫌も少しはよくなる。
花は折りたし梢は高し……
つい無意識に、小唄の一つも口遊《くちずさ》みかけて――だが廉十郎はつと、やめた。次いで密かに、息もひそめる。朽葉色の竹垣に囲われた露天風呂にも、どうやら先客があるらしい。
竹垣の内側から低く人声がして、聞くともなしに盗み聞くと、廉十郎もよく知る名前が耳に飛びこんできて、吃驚《びっくり》する。
「それで、桜子姫は、その後|如何《いかが》なされておる?」
(なに――)
廉十郎は卒然呼吸を止める。
「相変わらずのご様子でございまするな。……高麗屋の誘いで芝居を観たり、舟遊びに出かけたり。……暮らし向きのためか、近頃は凧張《たこば》りの内職などもいたしておるようでございます」
「ほう、凧張りをな。……臥薪嘗胆《がしんしょうたん》の故事に倣《なろ》うたとはいえ、苟《いやしく》も七万石の姫君が、あわれなことよの」
「まことにもって」
答えたほうはまだ若々しい、二十歳そこそこと思われる男の声音。問いを発して嘆じたほうは、既に五十過ぎの中年男だろう。
「姫もよくよく、酔狂なお方じゃな」
愉《たの》しげに口中で含み笑う声音が、老猫の鳴き声にも似て低く嗄《しわが》れている。
「姫がことは、そう急がずともよいぞ、蔵人《くらんど》」
「は、それは?」
「大御所のご容体は、かなりお悪いらしい。命旦夕《めいたんせき》に迫っておるそうじゃ」
「城中に遣わした忍びの者の報告にございまするか?」
「そうだ。桜子姫|贔屓《びいき》の大御所さえこの世を去れば、最早あの姫は孤立無援。……いずれは我が手中に落ちる」
「なれど、姫の身辺に目を光らせておるお庭番がことは? ……たとえ殿を葬り奉《たてまつ》ったとしても、そのことがご公儀に知れれば、当家は当然お取り潰《つぶ》し――」
「なに、そのことも、既に手はうってある」
「先頃雇い入れた伊賀者をお使いあそばしましたか?」
「いちいち、わかりきったことを聞くな、蔵人」
中年のほうの口調が、少しく渋いものとなる。湯につかってから、既に半刻近く。そろそろ話を切り上げ、湯からあがりたいのかもしれない。しかし、肝心の密談にひと区切りをつけねば、密議の首謀者として、その中途であがることは許されないのだろう。
「それより、例の件じゃ」
「国許のお陣屋の納戸よりめぼしい品を持ち出し、江戸にて売りさばくことにございまするな。……ご安心くだされ。国許にも、既に我らの同志を募ってございます。家宝の持ち出しは順調に……」
「桜子姫のお暮らしほどではないが、近頃は我らもなかなか、資金繰りが苦しい。殿のお亡くなりになられて後、万寿丸の家督相続がすんなり行われるよう、幕閣の要人方への贈賄もばかにならぬ故なぁ」
嘆じてから即ち、若い男の返答を待たずに、
「したがのう――」
中年男の声音が、再び渋く嗄れた。
「あれはまずかったぞ、蔵人。……他は別段差し障りのないお道具類の中で、あの壺だけが目立ちすぎた。しかも、偶然とはいえ、あの壺を手にせし者が、次々と世を去っていたとはな……。どこにでも、話に面白半分の尾鰭をつけたがる輩《やから》はいるものよ。〈髑髏壺〉のことが人の噂となれば、当然|市井《しせい》にある桜子姫と楓の耳にも入る。……桜子姫はともかく、当家に仕えし年月においては、お国家老の秋草《あきくさ》殿にも勝る楓なら、きっと気づくぞ」
「はい、申し訳ござりませぬ。……噂になる前に、直ちに当方にて回収するつもりでおりましたが……」
「しくじったのじゃな?」
あからさまな不快を湛えた語調で問い返され、若い男は少しく口ごもった。
「油問屋の主人夫婦を事故に見せかけて殺害し、偽の証文を用いて店を潰したまでは巧くいったのですが。……その、蔵出しの競売の折に……」
「競り落とせなんだのか?」
「はい。……一両の差で、高麗屋めに競り落とされてしまい申した」
「…………」
若い男のその発言が蓋《けだ》し重大なものと思わせるに充分なほど長く、中年男は沈黙していた。湯あたりを気にして、手短に話を切り上げるどころではないらしい。
寸刻後――。
「高麗屋、か」
三日月藩江戸家老・暮林|蘇芳《すおう》は、独りごちるように口中にて呟き、目を閉じた。
むろんそのときには既に、岩風呂の竹垣の外には、息をひそめた住之江廉十郎の姿が見られなかったことは言うまでもない。
6
江戸城本丸より北西へ三里。
田園風景も長閑《のどか》な白金村と下目黒との中間あたりに、代々森家の藩邸はある。すぐ近くに、松平|讃岐守《さぬきのかみ》や堀|出雲守《いずものかみ》などの屋敷もあるにはあるが、松平家や堀家のそれは万一有事の際の別邸――避難場所のようなものだから、日頃当主やその夫人たちは滅多に寄りつかない。従って、主人のいない別宅に大人数を配するわけがなく、屋敷と庭の手入れをするために残された数人の中間《ちゅうげん》と下働きの小者がいるだけの邸内は、いつもひっそりと静まっている。
しかし、森家のそれは歴《れっき》とした上屋敷。宿直《とのい》の武士からご側室付きの侍女たちまで入れれば、常に百人近い人数がその邸内に起居しているのだ。
(妙だな)
ヒラリと飛びついた高塀の上より一瞥《いちべつ》しただけで、左平次はそう感じた。
そのように鍛えられた左平次の目は、暗がりでもすべてを見透かす。素肌が、危険か否かを一瞬にして感じさせる。
藩邸の警備が如何にも手薄で、いつも見慣れた、腕の覚えのある武士たちの姿が一向に見えない。のみならず、門卒たちをはじめとして、邸内にいる者どもには一切張りつめた警戒心がなく、これではまったく、忍び入ってくれと言わんばかりである。
(罠か――)
そうとしか、思えない。
「まずは拙者が、中の様子を窺《うかが》ってみましょう」
その必要はない、正面から堂々と乗り込むまでじゃ、と主張する桜子姫をなんとか押しとどめ、左平次は単身、邸内に忍び入った。
もう三年もの長きに渡り、忍び慣れた屋敷である。勝手はわかっているので、目的の場所まで行き着くのに、ものの寸刻とはかからない。やがて目的を遂げ、塀の外にて待つ桜子姫らのもとへ戻ったとき、左平次は緩く首を振り、
「暮林蘇芳は、今宵この屋敷にはおりませぬ」
内心の安堵を徹頭徹尾隠しはたして、悲痛な面持ちを貌《つく》りつつ、告げた。
「宿直の者たちの、密かに雑談するところによれば、数日前より箱根の湯へ、お忍びにて湯治に参っておるそうでございます」
「箱根の湯に!」
聞くなり、桜子姫の顔もまた、救いもないような悲痛に染まった。
「どうなされます?」
楓に促されてもなお、しばし星月夜の天を仰いで思案を続けていた桜子姫は、ふと傍らの弥五郎左衛門を顧みた。
「すまなんだな、弥五郎左殿。……いくら上総介殿がおられぬからと言うて、なんの関わりもないお手前を巻き込んでしもうて……」
「なぁに、どうせ退屈をもて余してたとこさ。姫のお役にたてるなら、なんだっていたしますぜ」
満開の花吹雪がいまにも目の前を吹き過ぎそうに錯覚させる紅梅の袖をフワリと打ち振って、弥五郎左衛門は応じる。育ちのよさそうな童顔に、伝法な無頼の言葉つきは大変不似合いだったが、本人はいたってご満悦。軽く白鞘の柄を叩いて、まるでみえでも切る風情だ。
「然様《さよう》か」
負けじと舞台役者の名調子めいてゆっくりと頭をまわし、頷く桜子姫。
「それでは退屈|凌《しの》ぎにもうひと幕、茶番につきあってもらおうか」
「茶番に?」
「暮林が不在なれば、致し方ない。いまはせめてお栄の方だけでも、こちらの手中にいたすのじゃ」
「姫様、それは……」
「屋敷内におるお栄の方を、我らが拉致するのじゃ」
「無茶です!」
我を忘れて左平次が言ったのは、桜子姫の言葉が、未だ言い終わらぬうちである。常に冷静と非情を欠いたことのない冷徹なお庭番の平常を奪ってなおあまりあるほど、そのとき桜子姫の発言は左平次を仰天させた。
お栄の方を拉致する――。
それは、この人数で正々堂々、邸内に乗り込み、警護の武士たちと激しく斬り結んだ揚げ句に、一人の女を――それも藩主の側室を、屋敷内より拉致するということなのか?
無茶とか無謀をとおり越して、いっそ馬鹿馬鹿しいほどの幼稚な計画である。しかし、一体なにを拠り所としてそういう物腰態度がとれるのか知らないが、
「無茶ではない」
一向落ち着いた口ぶりで、桜子姫は言う。
「今宵は暮林がおらぬ――ということは、邸内には、最早目ぼしい使い手は残っておらぬ。大半の手だれの者は、箱根へ行くのに、暮林が供として伴ったであろう。由来暮林とはそういう男よ。大それた野心を懐くにしては我が身の安泰をこそ願う、小心者なのじゃッ」
吐き捨てるように言い放った桜子姫の頬が、激しい怒りに、熱く火照って見えた。
「先《ま》ずは左平次、そちが忍び入りて表門の衛士らを倒し、且《か》つ南の土蔵のあたりで騒ぎを起こすのじゃ。さすれば、警護の者共は皆そちらへ向かうはず。……そのあいだに我らは奥の間におるお栄の方をひっ捕らえよう。あとはお栄の体を盾にして、屋敷の外へ逃れるまでじゃ」
「お……」
「それは――」
「一分の疎漏もない、見事な策にござります、姫様!」
弥五郎左衛門と高麗屋と楓とは、ほぼ同時に声をあげ、大いに嘆じ入った。確かに桜子の言うとおりにすれば、すべては上手くゆくように、一同には思えた。
「よいか、左平次?」
「はっ、仰せのままに」
左平次は、それほど感心したわけでもなかったが、いまのところ桜子姫の希《ねが》いを容《い》れるためには、その方法しかないように思え、不承不承――表面上はあくまで快く| 承 《うけたまわ》った。
(連れ出すまではまあよいとして……もし万一暴れられた場合、当て身をくれて眠らせねばならぬ。……お栄の方のあの太った体を担がされるのは、やはりわたしであろうな)
左平次は長嘆息するしかなかった。
桜子姫と楓は論外。非力な悪徳商人の高麗屋も若様育ちの弥五郎左衛門も、ともに力仕事には相応しくないようだった。
「ええい、眠れぬ」
忌々《いまいま》しげに独りごちてから、お栄の方はやおら床上に体を起こし、
「誰ぞ、酒を持てッ」
襖の外に侍《はべ》る宿直の侍女に向けて、声高に命じた。
この数日来の苛立たしさに加えて、豊満な女体の奥が、熱く疼《うず》く。本来その血の高まりをしずめてくれるべき唯一の男――暮林蘇芳は、湯治と称して、暢気《のんき》に箱根くんだりまで出かけて行った。行くなら行くで、何故自分を伴ってくれなかったのか、お栄の方には、それが一途に恨めしかった。
ほどなく、台所へ飛んで行った若い侍女が、提げ持った盆に、酒器と盃とを載せて現れた。
それと同時に、漸く室内の行燈《あんどん》には火が入れられる。
「今宵はひどく蒸すようじゃ」
侍女に注がせた盃の酒を、まるで無頼の大酒飲みがするように、グイッとひと息にあけ、なお不機嫌なふくれっ面でお栄の方は言う。
若い侍女は一言とて応えず、傍らに退いたきり、小さく顔を伏せていた。お栄の方は恐ろしい。いろんな意味で、日頃からそら恐ろしいお方だが、酒を所望したときの彼女は、とりわけ恐ろしい。だから極力、その顔も見ないようにする。もし間違って目が合ったりしたら、
「なにをジロジロ、妾《わらわ》の顔を見ておる!」
と頭ごなしに叱責され、最悪の場合には、
「妾が太っていると思うて、心の中であざ笑っておるのであろう!」
とまでも、言いがかりをつけられかねない。
以前、同じ目に遭った同輩の侍女がいて、そのとき彼女は、咄嗟に、
(へェー、それでも少しは気にしていたのね)
と思ってしまったその内心を、見抜かれずにすんで本当にホッとしたものだ。不運な同輩は、さんざんに折檻《せっかん》を受けた上、その日のうちに暇をとらされた。彼女らは元々江戸の生まれではなく、藩主の命でやむなく播磨《はりま》から下向しているため、暇を出されて身一つで放り出されれば、手形も旅費も所持していないため国許へ帰るもならず、旅費を稼ぎ出すために、即ち辻君にでも身を落とすしか道はない。想像しただけで、怖気《おぞけ》がたつ。
「さがってよい」
不機嫌な声で命じられ、侍女は内心の歓びを押し隠しつつ、慎しやかに退出した。襖を閉じ、一歩部屋の外に出た途端、ピョンピョン跳ねたいほどの気分であった。
やがて、半刻。
独り黙々と酒を酌み続け、三合入りほどの酒器の中身を空にしたお栄の方は、更に追加の酒を命じようとして――ふと、部屋の外の物音に耳をすました。
「なにごとじゃ? ……表のほうが、妙に騒がしいようじゃが――」
襖の外からの返事はなく、部屋隅の行燈の炎が、そのとき心なしか大きく揺らいだように思えた。
「これ、美鈴《みすず》――何故答えぬ。美鈴、美鈴ッ」
お栄の方は、ヒステリックに侍女の名を呼んだ。酒の酔いが、体のすみずみまで充分ゆき渡ったせいで、平素にもましてその声音はかん高く、語調も荒い。
「美鈴ッ」
「まるで、さかりのついた雌犬のような声音じゃのう、お栄の方」
襖がガラリと開かれて、そこから現れ出でたひとの姿を一瞥するなり、お栄の方は、「あっ」と、大きくのけ反った。
「そのほうの悪事も、最早これまで。観念いたせッ」
澱《よど》んだ空気を瞬時にうち破る言葉とともに、旗幟鮮明《きしせんめい》の桜子姫が、従う楓の手の中から奪い、抜き放ったるは、『名物三日月』。大業物《おおわざもの》の鋭い切っ尖が、ピタリとお栄の方の、弛《たる》んだ首の根に向けられる。
「ひ……ひィーッ」
「命までとるつもりはない――だが、おとなしく我らと同道してもらおう。さもなくば、秋霜烈日のこの刃、容赦なく、汝《なんじ》の命を奪うであろう」
厳然と言い放つ桜子姫の美しい顔が、このときお栄の方の目には、まるで結跏趺坐《けっかふざ》の不動明王の如くにも映った。
歯の根も噛み合わぬほどに体がうち震え、桜子姫の左右に立つ、色白丸顔の青年武士と目つきの鋭い大店主人の姿などは、まったくその目に入らなかった。
「それで、お栄の方の身柄はいま何処に?」
「はい、高麗屋の土蔵の奥に――」
屈託のない桜子姫の顔を見て、廉十郎は少しく安堵したが、安堵したのだと覚った瞬間、そんな自分がたまらなくいやで、甚《はなは》だしい自己嫌悪に陥った。
暮林らの陰謀を知り、大慌てで江戸へとって返してみたものの、とき既に遅し。桜子姫の英断の下、すべての行動は起こされたあとだった。「我が背の君」とまで頼られておきながら、姫のその一大事に参加できなかった無念が半分。既に起こってしまった一大事への驚愕が半分に入り混じる、廉十郎の心境は複雑だった。
「上総介殿も、無事に戻られてなによりじゃ」
一点の曇りもない笑顔で桜子姫は言う。
「箱根山中の秘湯にて暮林主従の密談を耳にし、彼奴《きゃつ》らの陰謀を阻止せんがため、夜通し走って、大急ぎで江戸へ舞い戻ったのだ」
とは、たとえどういうきっかけがあっても、廉十郎には到底言い出せなかった。ただ、低く押し殺した声音で、
「お栄の方を虜《とりこ》とし、それで、これから先、一体どうなさるおつもりか?」
眉一つ動かさずに、桜子姫に問うた。
誰が見ても、いつもの彼の――虚無の翳を、その青白き面に宿した素浪人・住之江廉十郎の様子である。内心の動揺を、よもや見抜かれていまい、と廉十郎は信じた。
「お栄の方は大切な生き証人じゃ。万寿丸が父上のお子でないことを白状させ、暮林らの動きを封じ、国許の父上をお救い申し上げる。如何であろう? ……完璧な策とは思われまいか?」
「え? ……ああ……まあ――」
多少の狼狽を隠せず、廉十郎は口ごもった。
桜子姫の狙いに、誤りはなかった。お家乗っ取りの一方の首謀者であるお栄の方さえ押さえておけば、江戸家老の暮林とて最早身動きのとりようがない。これぞ起死回生――逆転の一打。なにものにも替え難い、最高の切り札を、桜子姫は手中にしたのだ。廉十郎の気鬱が、それほどの大事に際して姫を助けられなかったという無念からきていることは間違いなかった。
(あのとき、江戸を離れさえしなければ……)
深く無念を託《かこ》ちつつ、廉十郎が静かに瞑目《めいもく》したその瞬間――。
「あのう……ごめんくださりませ」
戸口の外で、遠慮がちな若い娘の声がして、桜子姫も廉十郎も、ともに視線をそちらへ投げた。
「苦しゅうない。入るがよい」
ためらいもせずに桜子姫が応えると、破れ目の多い障子戸がスルスルと開いて、可憐な顔が小さく覗く。桜子姫、廉十郎、ともに見知った顔である。しかも、廉十郎にとっては、そもそも現在のこの苦境、絶大なる無念を招く原因を作ってくれた、その張本人――身投げ娘のお琴ではないか。
「おはようございます、姫様」
「なんじゃ、お琴ではないか」
桜子姫に名を呼ばれ、その娘――お琴は、仄かに頬を赤らめたようだった。
「このように朝早くから、何の用じゃ?」
純白の朝陽に彩られて輝く黄八丈の着物を眩《まぶ》しくふり仰ぎながら、桜子姫は問うた。
「わたし、姫様があのときおっしゃられた言葉の意味が、ようやくわかりました」
「そうか、それはよかった。……それで一体、どこがどうわかったのじゃ?」
「そのお方のお姿を拝するだけで幸せになれる……そういうお方に出逢うたならば、金輪際自ら命を絶とうなどとは思わぬものだ、と姫様は仰せられました」
「おう、確かに私はそう言った」
「出会って……しまいまし……た……」
戸口からずいっと身をこじ入れるなり、俯いたお琴の言葉尻が悲しく途切れるのを、なにか不吉な呪いでもかけられる思いで廉十郎は聞いた。
「そういうお方に……出会ってしまったのです」
「そ、そうか、それはよかった。……それで、相手は一体、何処の誰じゃ?」
「姫様!」
許しも得ずに進み寄った土間から、お琴はいきなり、畳の上へと身を乗り上げた。
「お慕いいたしておりますッ」
「え?」
(やはりな……)
廉十郎の気重な予感は的中した。
生きることに疲れて死を希った夢見がちの幼い娘が、凜々《りり》しく美しい年上の同性に憧れ、恋い慕うことは、廉十郎には、さほど奇異とは思われなかった。
「お願いでございます。どうか、姫様のおそばにおいてくださいッ」
「えっ? ……そ……それは……しかし……上総介殿、どうしよう」
拝み倒す語気で娘からにじり寄られて、救いを求める桜子姫の視線に応じ、廉十郎は微笑した。我ながら、気恥ずかしくなるほど慈愛に満ちた、兄の如く優しげな微笑であった。
一方、その頃――。
播州佐用《ばんしゅうさよ》郡は三日月の城下(陣屋周辺のこと)を出立《しゅったつ》した一人の武士が、一刻も早く出府をはたさんものと、東海道を早馬にて東上していたが、もとより、桜子姫は、それを知らない。
[#改ページ]
浪士憂情 ろうしゆうじょう
1
昼下がりの麗《うら》らかな陽《ひ》が、独り行く住之江廉十郎《すみのえれんじゅうろう》の、黒縮緬《くろちりめん》の着流しの肩に射していた。
道端に生えた不揃いな松並木が、ちょうど手頃な日蔭を頭上に齎《もたら》している。彼の視界より、最後の人影が過ぎ去ってから、もうかなりのときが経つ。枝上に囀《さえず》る鳥の声と虫の鳴く声以外はなにも聞こえぬ静寂の中を進むほどに、いよいよ草いきれが強くなる。それでも一向、不愉快な感じはしない。
暑くもなく寒くもなく、心地よい風が清《さや》かに懐を吹き抜けてゆくような田野の小径《こみち》をそぞろ歩いていると、無意識に鼻唄が口をつく。
誰《たれ》踏みそめて恋の道
巷《ちまた》に人の迷ふらん
謡曲『恋の重荷』の一節を、だが廉十郎は、文字どおり一節|口遊《くちずさ》んだだけでやめ、次いで足を止めた。
本街道を下りきって、もうじき田の畦《あぜ》にぶつかるというところで、不意に、彼の目の前に、一人の男の背中が出現した。
(派手な男だな)
と咄嗟《とっさ》に廉十郎が思ったほど、その男の、両袖に紅葉を散らした萌黄《もえぎ》小袖、濃い紫|緞子《どんす》の袴《はかま》といういでたちは、代わり映えのしない殺風景な景色の中で目をひいた。しかし、彼が咄嗟に足を止めたのは、なにもあでやかなその衣装のせいばかりではない。まるで陰間茶屋から逃げ出してきたばかりの色若衆かと思える身なりのその若侍の行く手を阻んで、ざっと二十名近い人数の武士たちが、手に手に刀を抜き連れていたのである。
若侍のほうも、刀を抜いて星眼に構え、既に応戦の態勢に入っている。
長閑《のどか》なるべき田園風景にはちょっと不似合いな、物騒極まる光景だった。
若侍の後方、約五、六歩というところで足を止めてからしばしのち、廉十郎はその背に問うた。
「加勢いたそうか?」
「できればそう願いたいが……」
若侍は、端麗な美貌の面《おもて》をチラッと向け変え、廉十郎を見た。齢《とし》の頃なら二十二、三。若衆趣味など間違っても持ち合わせぬ廉十郎でさえ、一瞬間見とれてしまったほどに人目をひく、艶《つや》やかな容貌の主だ。
(はたして、桜子姫《さくらこひめ》とどちらが上か?)
咄嗟に見当違いなことを思う廉十郎に、美貌の若侍は、並びのよい白い歯を爽《さわ》やかに見せて言う。
「生憎《あいにく》と、金はないぞ」
言葉とともに、手中の刀が鋭く一旋された。
後先も考えずに真っ正面から突っ込んで来た男の、右肩から左|脾腹《ひばら》までを袈裟《けさ》がけに一刀……返り血などは一切浴びず、易々と斬撃した。相手は断末魔の悲鳴すらあげる暇もなく、即死。廉十郎の目から見ても惚れ惚れするような見事な腕で、本来ならば、加勢など恃《たの》みそうもないタイプだが、さすがに二十人からの大人数に隙間《すきま》もなく囲まれたなら、話は別だ。
見たところ、廉十郎に輪をかけた痩身の優男《やさおとこ》だから、長丁場の戦いともなれば、そうは体が保つまい。
(まるで、姫にはじめて出逢ったときのようだな)
何故そんな気になったのかは、廉十郎にもよくわからない。はじめは、ほんのちょっとした悪戯心だったのだとしか、言いようがなかった。
「金よりも、そなたの身柄を、一晩所望したいと言ったら?」
「…………」
思わず口走ってしまった廉十郎も自ら驚いたが、当然相手は、それ以上に驚いた。
「お主、そういう趣味か?」
「…………」
一瞬間|呆気《あっけ》にとられた男の脇ががら空きとなるところへ、二人の男が、同時に殺到する。
廉十郎は、無言で一歩、進み出た。
「殺してもよい相手かな?」
早口に若侍へ問うたときには、カチャリと小さく鯉口《こいぐち》を切っている。
「もとより――」
応ずる若侍のすぐ左脇へと立った瞬間、廉十郎の右腕から閃光が迸《ほとばし》った。
どっ……ぴしゅーッ、
鋭く肉を断ち、激しく鮮血を飛沫《しぶ》かせる音とともに、二個の死骸が、虚しく地面に転がっている。抜き打ちざま、瞬時に二人を斬殺した刀を、大きく上下に振って血糊《ちのり》を落とす。声もなく倒れ伏した死骸になどは目もくれず、廉十郎は手中の刀を、そのまま下段に構えた。
「貴様!」
「邪魔だてするつもりなら、容赦はせぬぞ」
ジリジリと包囲を固める武士たちのあいだから、たちまち幾つかの怒声が飛ぶ。誰も彼も、殺気に滾《たぎ》る両眼をギラギラと血走らせ、体中の憎悪をその満面に湛《たた》えている。
「ふふふ……」
低く口中に声をたて、廉十郎は不気味に含み笑った。
「ごたくを並べる暇があるなら、さっさとかかって来たらどうだ? ……ぐずぐずしていると、またぞろ助勢を買って出る者が現れぬとも限らぬぞ」
「おのれ!」
異口同音の怒声を発しざま、数人の者が、一度にドッと押し寄せた。
近くで対峙《たいじ》してみて気づいたが、武士たちは皆、くたびれ果てた旅装束の、まるでたったいま大掃除でもして来たように埃塗《ほこりまみ》れの男たちだった。
「どこのどなたか存ぜぬが」
「ん?」
「ご助勢、かたじけない」
敵の刃《やいば》が眼前に到るまでのあいだに、若侍が短く、廉十郎の耳朶《じだ》へ告げた。
「礼は要らぬ。……ちょうど退屈していたところだ」
答えた語尾と、下段から逆袈裟に斬りあげる廉十郎の動作がピタリと重なる。
「ガヒャアァー」
「ひゃぎぁあーッ」
斬音の絶叫の入り混じる中で、だが廉十郎の優れた聴覚は確かに聞きわけた。新たなる援軍が駆けつけるための、その高らかな足音を――。
「右京之介《うきょうのすけ》! 右京之介ではないかッ」
桜子姫の満面が歓びに輝くのを、不思議な気持ちで廉十郎は見つめた。
戦いは終わった。
血に飢えた襲撃者の群れは、一つの例外として許さず、すべてが身に深い刀創《かたなきず》を受け、力無く地に打ち伏している。
「ええい! この不届き者どもッ」
まずはじめに、その乱刃に参加する際、大音声《だいおんじょう》で桜子姫は喚《わめ》いた。
「お一人でフラリと長屋を出られた上総介《かずさのすけ》殿の後ろ姿があまりにお寂しそうだったので、気になってついて来てみてよかった! ……おのれ、斯様《かよう》な大人数にて、たった一人を襲うとは、許し難し! ……私も――この桜子も加勢いたしまするぞ、上総介殿!」
「おお、姫!」
すると、それまで廉十郎より数歩傍らで黙々と刀をふるっていた若侍が、やおら桜子姫を顧みたのである。しかし、桜子姫は彼を見向きもしなかった。
喚きつつ、自ら渦中へと飛び込んで来た桜子姫の手の中には、既に『名物三日月』二尺五寸の大業物《おおわぎもの》が抜き放たれている。ひとたび刀を手にした桜子姫の目に映るのは、即ち目の前に群がる敵の姿のみ――。
「姫様、お気をつけあそばされませ!」
乱刃の輪の中からは数歩離れたところで発せられた楓《かえで》の金切り声は、いつものように桜子姫を勇気づけた。
やがて、すべての敵が視界より消えたとき、桜子姫ははじめて、近づいてきた若侍の顔を見、そして素直な歓声をあげた。
「右京之介!」
「まあ、これはこれは……秋草《あきくさ》殿のご子息ではござりませぬか!」
次いで楓も、歓声をあげた。
「お懐かしゅうございます、姫」
「おお、右京之介も、息災でなによりじゃ。監物《けんもつ》にも変わりはないか?」
「はい、相変わらずの頑固者にございまするが」
「ご家老様が、最後に江戸にご出府なされてから、もうかれこれ十年にもなりまするなぁ」
「そうじゃ。右京之介とも十年ぶりじゃのう」
「ここで姫にお目にかかれるとは、それがしは、まことにもって運がようござる。……一刻も早く江戸に辿り着かんものと、寝る間も惜しんで早馬を乗り継いで参ったのでございますが、小田原まで来たとき、とうとう代え馬を失い、足止めを食ったが身の不運。……旅の疲れからか、不注意にも風邪をひいて床につき、つい何泊も逗留《とうりゅう》してしまいました。……なんとか江戸入りしたところで、遂に追っ手に追いつかれ、この始末にございます」
右京之介の言葉を聞いた桜子姫はつと顔つきを変え、眉宇《びう》を厳しくする。
「すると、右京之介、こたびの急な出府のおもむきは?」
「はい、姫様よりの書状にて、江戸家老一味の企みを知り、取る物も取りあえず……」
「そうか。……では、こやつらは、暮林《くればやし》の手の者共か。……家宝の品をこっそり持ち出し、江戸で売りさばいておることといい、彼奴《きゃつ》らの勢力は、最早《もはや》そこまで、国許《くにもと》に及んでおるのか」
足下に転がる男たちを一瞥《いちべつ》しつつ、桜子姫の顔は暗然たる色に染まる。
「したが、ご安心召され。この秋草右京之介が参りましたからは、姫をお助けし、必ずや、逆臣暮林めの野望を食い止めてごらんにいれまする」
「頼むぞ、右京之介」
「こちらの始末がつく頃には、国許にても、父が、暮林一派の殲滅《せんめつ》を図っているはずにございます」
「ときは一刻を争うのじゃ、右京之介」
「心得ております。この右京之介、たとえ一命に代えましても、必ずや姫をお守りいたしまするぞ」
「おお、なんと心強い仰せにございましょう、姫様。……まこと、右京之介殿こそは、もののふの鑑《かがみ》にございますなあ」
(よりによって国家老の息子が、単身乗り込んで来るとは……)
桜子姫主従の陽気なやりとりを黙って傍観しながら、廉十郎の面持ちは、憂鬱そのものだった。
江戸家老が、江戸屋敷の藩士をすっかり巻き込んで、お家乗っ取りを画している。その陰謀の魔の手は、既に国許にまで及んでいる、という。ただ一人、それを阻止せんと欲する正義の使徒・桜子姫主従は命からがら江戸屋敷より逃れ、いまは市井《しせい》に逼塞《ひっそく》している。
悲運の姫を助け、一味の野望を未然に防がんとするのに――如何《いか》に剣の腕がたつとはいえ――線の細い青侍が一人、取る物も取りあえず駆けつけて来た、という。思えば暢気《のんき》な話だが、この恐るべき悠長さは、はたして桜子姫一人に限らぬ、三日月藩《みかづきはん》内に共通する体質なのであろうか。
(なんにせよ、この男がやって来たことで、事態はより厄介なことになろう)
秋草右京之介の、その色鮮やかな衣装にも負けず、葭町《よしちょう》へ行けば、即刻売れっ子になれそうな麗しい顔を、廉十郎は無言で見つめていた。
「そうそう……貴殿にも、礼をせねばなりませぬなあ」
無遠慮な視線に気づいたらしく、右京之介はふと廉十郎に笑いかけた。
「それがしの身柄を、今宵一夜、所望なされるか?」
鼻白んだ憂鬱顔のまま、廉十郎は黙って右京之介の笑顔から目を逸《そ》らした。
人の神経を、無闇と逆撫でするような笑顔だと思った。しかし一面、
(魔性の笑顔――)
とも思った。
2
「むぅん」
まるで、極度の腹痛に耐え兼ねてでもいるかのようなうなり声である。
「むむむむ……」
三日月藩江戸家老・暮林|蘇芳《すおう》の目は、もうかれこれ半刻近くも、碁盤の上に注がれたままだ。精一杯見開いても柳の葉ほどにもならぬ眠ったような目をより細め、半ば石に埋められた盤上を凝《じ》っと見つめては、瞬きすらも忘れたようであった。
「ご家老」
傍らに控えた余目蔵人《あまるめくらんど》が、見かねて声をかけるのにもまったく知らん顔である。
「ううむ……見れば見るほど、見事なものよのう。先年行われた、本因坊《ほんいんぼう》と井上のこの因縁争碁。……師匠の井上|因碩《いんせき》から代打ちを命じられた弟子の赤星因徹《あかぼしいんてつ》が、三日間の死闘の末、中二日おいた四日目の対局において、二百四十六手目にして自ら投了した直後、血を吐いて死んだという、因縁の一番じゃ。……しかし、勝敗を分けたは、矢張りこの百二十手目、因徹の仕掛けたふりかわりの策が、あっさり破られ、ふりかわったつもりの本因坊の石が、再び息を吹き返したことであろうな。流石《さすが》は本因坊|丈和《じょうわ》、名人碁所の名に恥じぬ、巧手ぶりじゃ」
「ご家老!」
「ふうん……ここまでは、赤星もなかなか健闘しておったのじゃがなあ。……ここで一挙に、勝負を決せんとしたは、自ら墓穴を掘るが行為。短慮な若造の失策よのう。勝負師は、あくまで老獪《ろうかい》でなければならぬのじゃ」
「ご家老ッ、それがしの話を――」
「煩《うるさ》い奴じゃのう、先程から……一体なにが言いたいのじゃ」
指間に挟んだ白石を、蘇芳はパチリと無造作に盤の隅へ置きざま、その右手を軽く顳《こめ》|※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《かみ》のあたりで振って、目の前の蠅《はえ》でも追うような手つきをした。依然として、蔵人のほうなど見向きもしない。
「お栄《えい》の方様のことにございます。……これ、このように、桜子姫からの書状には、『お栄の方を取り戻したくば、江戸家老、暮林蘇芳がただ一人《いちにん》にて引き取りに来るべし』と書かれてございます。もし、要求に従わぬ場合は、お栄の方様のお命は……」
「知らぬなあ」
蘇芳が視線を落とした碁盤のすぐ隣に、一枚の紙片が開かれている。
書き手の人柄を思わせるように、流麗|且《か》つ一抹の力強さを湛えた筆致で認《したた》められた文字はほんの数行にすぎない。たとえ、寸暇を惜しんで碁盤の目と睨めっこしていたとしても、ほんの一瞥しただけで、充分理解できる内容である。
しかるに蘇芳は、血相を変えた蔵人が、許しも乞わずに部屋へ飛び込んで来て、
「こ……こここれを、ご覧くだされ」
と一通の書状を彼の面前へ差し出してからも、蔵人の顔はおろか、その書面をすら一顧だにしていなかった。
そして一顧だにせぬまま、横顔から、冷ややかに言い放ったのである。
「お栄の方のことなど、儂《わし》は知らぬ」
「は?」
「お栄の方は、お世嗣《よつぎ》・万寿丸《まんじゅまる》様のご生母という身分をもわきまえず、勝手気ままに上屋敷を抜け出され、遊びほうけた揚げ句、行方不明になられた。そのようなお方の身を案ずる必要はない、と申しておるのじゃ」
「な……なれど、お栄の方様は……」
お栄の方が蘇芳の愛人だということを密《ひそ》かに知る蔵人は、そのことを| 慮 《おもんぱか》ってか、あまりにも冷ややかすぎる江戸家老の態度に戸惑った。
「わからぬ奴じゃのう。お栄の方など、もう要らぬのじゃ」
「は? そ、それは……」
「事ここにいたらば、我らの目論《もくろ》みは最早かなったも同然。……お栄の方など、いようがいまいが、同じことじゃ」
「…………」
「お栄の方など、好きにするがよい。殺したくば、殺せばよいのじゃ。……国表《くにおもて》には、急な病にて、ご落命あそばされた、と知らせてやればよい」
蘇芳の目は、依然眠たげに細められたきり、ほんの一瞬とて、碁盤の上からはずされることはなかった。
蔵人にも、もうそれ以上、彼に対して言うべき言葉は見つからなかった。仕方なくその場で一礼し、彼にとっては神にも等しい江戸家老の座所を静かに辞去した。
音もなく障子を閉め、陽のあたる廊下にぼんやり歩を進めはじめたとき、あるかないかわからぬ程度のその貧しい心にも、うそ寒いすきま風の吹き抜ける心地がして、蔵人にはやりきれなかった。
ギュッ、
と固く軋《きし》ませた扉の隙間から、そっと中を覗《のぞ》きこむ。
暗闇に、その切れ長の両眼ばかりがギラギラと妖しく光っている。切れ切れに漏らされる低い呻《うめ》きも、さながら野獣の雌を思わせた。
「かなり気がたっているようじゃな」
入口の扉が開き、人の入って来る気配を察すると、きつく後ろ手に縛られ、身動きならぬはずの身体を激しく揺すり、矢鱈《やたら》と足をバタつかせた。裾が開いて、つきたての餅さながらの太腿までが惜しげもなく露《あら》わとなるが、本人は一向気にかける様子もない。
足音を忍ばせる歩き方で、一歩一歩ゆっくりと近づき、猿轡《さるぐつわ》をはずした途端――。
「お、おのれェーッ、よくも! ……この、無礼者めがぁッ!」
桁外れな金切り声が一同の耳朶を劈《つんざ》いて、暗くて狭い土蔵の奥を、さながらお祭り騒ぎのように賑やかな場所に変えた。
「よくも、よくも、よくもぉーッ……妾《わらわ》を、お世嗣・万寿丸君の生母であるこの妾を、このような場所に押し込めて、一体どうするつもりじゃ! ……慮外な真似は許さぬぞ! ……おのれ、おのれぇーッ、このような、黴《かび》臭い、狭苦しいところに……暮林を……そうじゃ、暮林をこれへ呼べい! 暮林を呼ぶのじゃーあッ」
「これはひどい」
一瞬間唖然としてから、右京之介は再び手中の手拭でお栄の方の口を覆《おお》い、きつく噛ませて、声の漏れぬようにした。
「ぬ……うぐぐぐぐ……ふぅふぅッ」
意味不明な呻き声が、未練がましく、押し込まれた手拭の中から聞こえてくるが、土蔵の外まで聞こえるほどの音量ではない。
「一昨日来、ずっとこの調子でございまして。なにぶん、近所迷惑になりますので、食事のとき以外は、このように、猿轡をかませておくしか……」
手燭の灯をかざしつつ、高麗屋《こうらいや》が嘆息する。
「やむをえまい。……食事を与えているのだから、まさか死ぬことはあるまい」
「したが、高麗屋殿、家の者たちが不審がりはしませぬか?」
「家の者には、恩人に頼まれて、気の病を患う娘を預かっていると申し聞かせてございます」
「そうか」
桜子姫も楓も、呻き続けるお栄の方の狂態から、片時も目を離さない。
「厠《かわや》を使わせるのもひと苦労であろう」
「まあ、それは……なんとか。……それよりも、困ったことがございましてな」
「なんじゃ?」
「お栄の方をこちらにお隠し申してから、この機会にと思い、土蔵の鍵を、これまでよりもより頑丈なものに替えたのでございますが、どこで嗅《か》ぎつけたか、盗賊どもがそれを知り、中に途方もないお宝を隠しているに違いないと、つけ狙っている様子でして……」
「ほう、盗賊どもが……高麗屋には、盗賊どもが自分の家の土蔵を狙っていると、何故わかるのじゃ?」
「それは……」
かつて盗賊の仲間にいたことがあったので、そこはそれ、蛇の道は蛇と申しまして――とは、高麗屋にはさすがに言えず、
「まあ、なんとはなしに、察せられるものでございまして……」
適当にお茶を濁して、桜子姫の無邪気な問いから辛くも逃れた。
「して、暮林からの返事は?」
お栄の方のそばを離れ、桜子たちのほうへ戻りつつ、右京之介がふと問うた。
「…………」
小さく首を振ってから、
「あまりにもかわいそうすぎて、本人には聞かせる気にもならぬ」
桜子姫は気まずげに目を伏せる。
「暮林蘇芳という男は、鬼よ」
しかし、やがて思い決したように顔をあげ、再びお栄の方のほうを見据えながら、冷たく感情を消した口調でポツリと告げた。
「お栄の方など、もう要らぬそうじゃ」
「なんと!」
右京之介の冴えた目が、ハッと大きく見開かれる。
「お世嗣のご生母であるお栄の方は、過日急な病により、上屋敷内にて亡くなったそうじゃ。……つまり、いまここにいるお栄の方は、その名を騙《かた》る真っ赤な偽者。煮るなと焼くなと、好きにせよ――と言ってきおったのじゃ」
「恐るべし、暮林蘇芳。……野望のためなら、己の子を産んだ女をすら、あっさり見捨てることができるとは……」
半ば茫然《ぼうぜん》と呟かれた右京之介の言葉が言い終えぬうちに、まるで狂ったようなお栄の方の身悶えが、ピタリとやんだ。
「うっうぅ……ぐぐ……げぇげぇ……」
呻き声が、心なしか、悲しい哀調を帯びる。
そして、桜子姫と右京之介とをともにふり仰いだ視線に、無意識の哀願がこめられてしまうまで、さほどのときは要さなかった。
が、桜子姫は一向意に介さず、聞こえよがしの声で右京之介に問う。
「どうしたものかのう、右京之介」
「されば、暮林めの望みどおり、お栄の方には、ここで死んでいただくよりほか、ございますまい」
「矢張り、それしかないか」
「御意」
「死体の始末は、こちらで| 承 《うけたまわ》りましょう。……なんなら生かしたまま抜け荷買いの船に乗せて、異国へ売りとばしてもようございます。異人どもに言わせると、日本の女子《おなご》は、皆実際よりも年若く彼奴らの目に映るそうにございます。されば三十年増とて、少女のごとく見えましょうぞ」
「ふむ……それも悪くないな、高麗屋」
「たとえお家乗っ取りを策した稀代の悪女とは申せ、手にかけて殺したとあれば、寝覚めも悪くなりましょうほどに」
「ひぃッ……」
悲鳴すらろくにあげられぬお栄の方の両眼に、そのとき薄く涙が滲《にじ》んだ。
桜子姫も右京之介も――そして高麗屋も楓もともに語らず、薄暗い土蔵内に、重苦しい沈黙のときが流れた。
日頃は温厚な高麗屋の目が鋭く光り、楓もまた、厳しい視線でお栄の方を見据えていた。
「ぬぅぐ、うぐ……くっくっ……」
お栄の方にとっては、いたたまれぬときが無為に過ぎる。
つと、桜子姫が、お栄の方を振り向いて、
「冗談じゃ」
悪びれぬ口調で短く告げた。
日頃は天女のごとくも見えるその顔が、このとき虚ろなギヤマン細工のようになったお栄の方の目には、修羅とも般若《はんにゃ》とも映っていた。
3
沸き返る広小路の人波さえも、思わず見惚《みと》れて道を譲ってしまいたくなるような、そんな豪華な二人連れが行く。
絢爛《けんらん》たる綾錦の袖を元気よく翻して行く桜子姫の背後には、今日に限って、老女楓の姿が見あたらない。代わりに、桜子姫と妍《けん》を競ってもおかしくないほど艶《あで》やかな若侍が、ピタリとその傍らに侍っていた。
「大変な賑わいでございまするな」
「まるで祭りのようであろう」
「いやいや、ご城下の秋祭りなど、到底この賑わいには及びますまい」
人目も憚《はばか》らずに喧噪の中を往来し、やがて不忍池の畔《ほとり》に出た。間近く望んだ上野の森にもやがて陽が暮れ落ちんとするこの時刻、二人の語らいを邪魔するものは、飛び立つ間際の水鳥の羽音以外になにもない。
「美しいのう、右京之介。……こうしていると、人の世の無意味な争いなど、なにもかもすっかり忘れてしまいそうになる」
樹下へ入れば、長く垂れ落ちた枝葉の先が頭上にまで降りかかりそうな柳の根方へ寄ると、桜子姫はふと足を止め、右京之介を顧みた。
「姫」
傾きかけた陽光のせいか、右京之介の両頬が、心なしか紅潮して見える。
「なんじゃ?」
「姫は覚えておられまするか?」
「なにをじゃ?」
「十年前、それがしが、父とともに出府いたしましたる折、上屋敷にて、はじめて姫にお目どおりいたしたときのことでございます」
「覚えておる。……私は九つ、そなたは十二。ちょうどよい、遊び相手であった」
「然様《さよう》、遊び相手でございました」
鸚鵡《おうむ》返しに頷《うなず》いた右京之介の目に、チラッと微妙な苦笑が滲む。
「それに、ちょうどよい稽古相手でもあったな。……あの頃私は、ようやく竹刀《しない》を持ちはじめたばかりであったが、そなたは既に、大人たちとも互角に打ち合っていた」
「稽古以外のことは、なにも覚えておられませぬか?」
「はて?」
桜子姫の瞳が、さも不思議そうに右京之介を覗き込んだ。
「他になにか、忘れていることがあるか?」
「姫とそれがしとで、勝負をいたしました」
「うん。そなたにはとうとうかなわなんだな」
「あの折、姫は、十年たってもそれがしに勝つことがかなわなければ、そのときはそれがしの妻になってくださると仰せられました」
「なに! それは、まことか?」
「天地神明に誓って、まことにございます」
「覚えておらぬぞ」
淡く輝くこと翡翠《ひすい》のごとき桜子姫の瞳が、一旦大きく戦慄《わなな》いてから、徐々に絶望的な色を帯びてゆく。
「すまぬ右京之介……」
それから小さく、肩を落とした。
「姫?」
「約束は果たせぬ。……私には既に、心に決めた背の君がおわすのじゃ」
「あの住之江とか申す、素浪人のことにございまするか?」
「そうじゃ」
ためらうことなく、桜子姫は頷いた。
その面上から少しく顔を背け、右京之介は苦く口中に忍び笑った。
「まだ、肝心の勝負もいたしてはおりませぬのに、そうはっきり仰せられるとは……それがしも嫌われたものでございます」
「右京之介……」
「よいのです。……戯《たわむ》れにございます。無礼なことを申しあげました。どうか、お許しを」
「そうじゃ。楓が心配しているかもしれぬ。そろそろ帰るとしよう、右京之介」
皮肉な口調の右京之介の言葉は聞かぬふりで黙殺し、桜子姫は、クルリとそこから踵《きびす》を返した。相手の心中など委細|忖度《そんたく》せず、形勢不利と察すれば強引に話題を変えてしまうのが桜子姫の得意技であり、そこは流石《さすが》に余人に傅《かしず》かれるのに慣れた姫君の持ち味でもあるのだが、
(それはあんまりだ)
と、少し離れた柳の幹蔭から、二人のやりとりをすっかり盗み聞いた廉十郎は思った。
そそくさと歩きだした桜子姫のあとを仕方なく追いはじめた右京之介の背が、見る見る視界のはずれまで去るのを見届けてから、廉十郎もまた幹蔭を出た。
薄赫《うすあか》く輝く池の中ほどにポッカリ浮かんだ弁天島の小さな祠《ほこら》をしばしうち眺めてから、ゆっくりと踵を返す。
二人が去ったのとは逆の方角へ向けて、ほんの数歩歩きだしたとき、
「気が揉めるでしょう、旦那」
背後から、気安くポンと肩を叩かれて、廉十郎は仰天した。しかし、色にはださず、
「お多香《たか》」
傍らに寄り添う、小粋《こいき》な美女を一瞥した。
「相変わらず、猫のような奴だ。……もしお前が刺客なら、いまごろ私は息をしていないな」
内心の狼狽《ろうばい》を気《け》どられぬよう、なるべくゆっくり話したつもりだが、額に滲む冷や汗を見抜かれるのがいやで、慌てて右手の甲をそこにあてた。
「いやですねぇ。旦那があんまり物思い顔で、心ここにあらずってご様子だったから、ちょっと脅かしてさしあげたんじゃありませんか」
「脅かしすぎだ」
歩調を変えずに廉十郎は歩き、無愛想な横顔をお多香に向ける。
「でも、気になるんでしょう?」
「なにがだ」
「あの、綺麗な顔のお侍と、姫君のことが――」
「戯《たわ》けたことを」
鼻先で薄く嗤《わら》おうとして、だが廉十郎には上手く笑えず、半ばひきつったような顔になった。それをお多香に看破されるのがいやで、またまた歩調を速めてしまう。
「相変わらずの天の邪鬼ですね。あんまり意地を張ってると、取り返しのつかないことになりますよ」
「なにが言いたいのだ」
「いいんですか、姫君をあのお侍にとられちゃっても?」
「それこそ、願ったりかなったりというものだ。……姫君は、麗しの忠臣殿と力を合わせて江戸家老一味を粉砕し、さっさと元の鞘《さや》におさまるがよかろう。私は、一日も早く、この馬鹿騒ぎにケリをつけてもらえれば有り難い」
「…………」
言い捨てざまに一段と歩を速めた廉十郎の背が、お多香をその場に置き去りにした。お多香は黙って見送った。あえて、追おうとしなかったのである。
(やっぱりあたしが、泣きをみるのかね)
苦い思いがこみあげて、柄にもなく、湿った感情に胸を満たされた。
(この、お多香|姐《ねえ》さんが……)
それを思えば自嘲したくもあり、いますぐ声をあげて泣きじゃくりたくもあった。
伊達にいくつもの修羅場をくぐってきたわけではない。両手の指でも足らぬ数の浮名も流し、今更色恋沙汰の一つや二つで大騒ぎするほどの純情は、どこにも残されていないはずのお多香である。廉十郎のそのさまを見れば、彼の心中など、知るのが癪《しゃく》なほどにわかってしまう。
お多香には、知るのが辛い現実であった。
廉十郎は、桜子姫に惹かれている。
そのことに自分でも気づき、懊悩《おうのう》し、自ら否定せんと悪足掻《わるあが》きしている。最早救いようのない末期症状といえた。
(ふん。……いいさ、どうせ男なんざ、この世にゃ星の数ほどいやがるんだ。旦那よりいい男だって、腐るほどいるさ)
強い自嘲をこめた負け惜しみを、心一杯に言い聞かせてから、お多香はふと、背後を顧みた。
「袖にされたのかい、お多香さん」
「いやですね、弥五郎《やごろう》様。……そんなところから、ろくろっ首みたいに……」
さきほどまで、廉十郎がその身をひそめていた同じ柳の幹蔭に、いつのまにか、時宗《ときむね》弥五郎左衛門が隠れている。育ちのよさそうな坊っちゃん顔を見ると、お多香はあからさまに顔を顰《しか》めた。
「なんなら俺《おい》らが、慰めてやるぜ」
「言い寄る相手が、違うんじゃありませんか、若様」
冷たく言い捨て、お多香は弥五郎左衛門に背を向ける。
へ、と驚く男の鼻面へ、
「逆立ちしたって勝てっこない住之江の旦那と、どうあってもはりあいたいなら、さっさと姫君をいただいちまうことですね。……もっとも、その度胸がおありなら――」
背中から切り口上に投げつけると、既に視界にもない廉十郎のあとを追い、足早に歩きだした。数歩行って、たちまち小走りになった女の後ろ姿を、呆気にとられて弥五郎左衛門は見送った。
「やれやれ……ご不興を買ったか」
独りごちたときには、彼もまた踵を返し、歩を進め出している。金紗袴《きんしゃばかま》の裾を、自ら蹴りあげて歩く弾むような足どりを、そろそろ淡い夕闇が包み込もうとしていた。
「すると矢張り、暮林はお栄の方を見捨てるつもりか。……『煮るなと焼くなと勝手にしろ』というあの返書に、偽りはないのじゃな、左平次《さへいじ》」
「はい」
小さく頷く左平次のほうを見ず、桜子姫はゆっくりと視線をめぐらし、やがて薄暗い部屋の一点――細く灯る燭の火に目をやった。
「なんと卑劣な男であろう」
「それどころか、あの様子では、一両日中に高麗屋を襲い、不義密通の生き証人であるお栄の方を葬るつもりではないか、とさえ思われまする」
「卑劣じゃ! 卑劣きわまりない!」
激しく身を震わせ、声を震わせて、楓が全身全霊の怒声を放つ。
「暮林という男は、鬼か蛇でございまするぞ、姫様!」
「そのとおりじゃ。したが、困ったのう。まさか暮林が、お栄の方を助けに来ぬとは夢にも思わなんだ故、こちらもこれから、どういう手を打ったらよいものか……」
「折角の生き証人まで手中にしておりながら、口惜しゅうございます、姫様」
「こうなればもう、お栄の方を引き連れ、ともに国表へ下向《げこう》するしかないか……」
「姫!」
不意に、それまで黙って、物静かに控えていた右京之介が、高く声を放ちざま、大きくにじり寄って桜子姫の面前までまかり出た。と言っても、狭い長屋の一室である。離れて座しても、所詮片手を伸ばせばすぐ肩に触れるところに、左平次も廉十郎も座っている。
「なんじゃ、右京之介」
「この機に乗じて、一挙に暮林一味を叩くのです! それしか手はありませぬぞ!」
「なんじゃと?」
「生き証人であり、なおかつ人質でもあるお栄の方を手中にした我々が、よもやこれ以上の攻勢にでるとは、彼奴《きゃつ》ら、夢にも思いますまい。……お栄の方など要らぬ、と大みえを切ったあとでもあり、きっと油断しているに違いありませぬ」
「なるほど」
「ならば、彼奴らが行動を起こす前に、こちらが先手を打つのです。……そうだ! 善は急げ! 早速、今夜にでも、上屋敷を襲いましょう」
「…………」
一瞬間考えこむそぶりをみせてから、桜子姫は、ふと廉十郎のほうを向いた。
「如何《いかが》であろう、上総介殿?」
緩《ゆる》く壁に凭《もた》れ、居眠りでもしているように薄く目を閉じていた廉十郎は、はじめて目を開け、桜子姫の視線を受け止めた。
それからさり気なく視線を遣《や》って、右京之介を一瞥した。さあらぬていでチラッと横目に見返すだけのその目の中に、だがあからさまな彼への敵意を読みとって大いに満足すると、
「姫のお心のままになされるがよろしかろう」
無意識のうちに口辺が弛《ゆる》んだ。
「なれど上総介殿――」
桜子姫の満面が、見る見る困惑の色に染まっていった。
「これだけの人数で上屋敷を襲撃するのは、チト無謀ではあるまいか?」
「…………」
極力表情を変えぬよう、廉十郎は努力を惜しまなかった。左平次も同様だった。
しかし、瞬間虚空に出会った二人の目が、ともに、
(桜子姫が、なんと常識的なことを!)
という絶大な驚異を語っていたことに、彼らはともに安堵した。
4
(はてさて、不思議なこともあるものだ)
廉十郎は首を捻《ひね》る。無謀としか思えぬ上屋敷襲撃などという悲壮な行為は、そもそも桜子姫の最も好むところではないか。
(市井の暮らしに馴染むうちに、あの桜子姫にも、人並みな分別というものが身についたのであろうか)
刀に打ち粉をふりながら、廉十郎は考える。
そのことにホッとひと安堵しながらも、どうやら一抹の淋しさを感じてしまうことは否めない。知り合ってから今日まで、一日も早く、あの常識はずれの突飛な言動から解放されたいと願い続けてきた。それなのに、いまは何故か、出会った頃の非常識な姫君のことが慕わしい。
(馬鹿な……)
自ら苦笑せずにはいられなかったとき――。
「住之江殿」
つと、頭上から低く呼びかけられた。
廉十郎は別段驚かず、
「いちいち天井裏を用いずとも、入口を使えばよいではないか」
とも言わずに、憂い顔をいよいよ暗くし、ムッツリと押し黙っていた。
左平次のほうも、そこは心得たもので、
「あいすまぬ、いつ、いつもの癖で――」
などとは断りもせずに、スッと音もなく畳の上へ降り立つと、廉十郎の座した対面に、さっさと胡座《あぐら》をかいてしまう。
「なんの用だ?」
懐紙を取り出し、刃にふった白い粉を拭い取りながら、廉十郎は、すっかり顔馴染みとなった公儀お庭番の姿を認めた。鋭い目つきと苦み走った顔だちの割には、笑うと存外、愛嬌がある。が、いまは生来の無表情に、たっぷりと不快を溜めたらしい仏頂面だ。
「どう思われる?」
「なにをだ?」
「右京之介とかいう、青二才のことでござる」
「さて……」
「拙者は気に入らぬな」
「嫉妬か?」
思わず口から漏れそうになる言葉を間際で堪《こら》え、とりあえずは廉十郎も無表情を装った。
左平次の気持ちが、わからぬでもない。
これまで彼は、公儀お庭番という立場を超え、桜子姫が我が身にも代え難く思う三日月藩のため、彼女の望むがまま、その手足となって働いてきた。彼にとっては一文の得にもならぬどころか、ひとつ間違えば自分の身を危うくするかもしれぬ行為である。すべては桜子姫故の無償の奉仕であった。
が、如何に姫のためを思って尽くそうと、所詮お庭番の宿命から逃れられぬ以上、どこまでいっても左平次は孤独だ。それに引き換え、歴《れっき》とした藩士であり、国家老の息子でもある右京之介は、ここで桜子姫を助けて謀叛《むほん》の陰謀を打ち砕いておけば、天晴《あっぱれ》! 忠臣の鑑《かがみ》、と誉めそやされ、蓋《けだ》し、姫君のおぼえもめでたいことだろう。
本来人間としての真価が、生まれや身分や立場によって決められるものでないとすれば、これはあまりに不公平というものだ。
そんな左平次の、やる方ない憤懣がよくわかるだけに、廉十郎は気安く言葉をかける気になれなかった。
しかし左平次は、不意に人間らしい不快を身体から消し、洗い流したような無表情の隠密顔になると、口調を変えて、
「まあ、それはそれとして……今宵の用向きというのは、ほかでもない。貴殿に、折り入って頼みたいことがあるのだが」
ひどく改まった言い方をした。
「聞こう」
廉十郎もまた、あくまで気鬱な無頼浪人の表情を崩さずに聞いた。
「桜子姫のことだ」
「姫の?」
「姫のことを、これからも、どうか宜しくお頼み申す。……姫は貴殿をこの世で唯一人の背の君と思い、信じきっておられる。……どうか、姫の思いを裏切らぬように願いたい」
「それは――」
「貴殿が姫をどう思われているかは、もとより承知の上でお頼みしているのじゃ」
一旦言葉を切ったあと、ほんの一瞬、眉間に苦渋を滲ませてから、いっそすっきりしたような顔つきで左平次は言った。
「拙者はこれより、三日月藩上屋敷に侵入し、江戸家老、暮林蘇芳を斬るつもりじゃ」
「…………」
「はじめから、なにも迷わず、こうしていればよかった。……さすれば姫を、何度も危険な目に遭わさずすんだものを……」
「だが、そんなことをすれば、そなたは……」
「拙者の心配より、姫のことを、くれぐれもお頼み申しますぞ、住之江殿。……あんな、秋草の青二才よりは、まだ貴殿のほうが信ずるに足る御仁じゃ。……どうか、頼みましたぞ」
言うが早いか、一瞬間言葉を失った廉十郎の目の前で、左平次の体が音もなく消えた。
「左平次!」
だが、慌てふためいて腰をあげ、おろおろするような愚劣な真似を、廉十郎はあえて慎んだ。
常人の目にはわからずとも、五感のすべてが人並み以上に発達している廉十郎に、気配を察するなというほうが無理な相談だった。左平次は先《ま》ず、物音をたてずに高く跳んで衣桁《いこう》の向こう側に身を隠した。それからまた高く跳躍して、入って来たときと同じ天井裏から屋根へ――そして表へと、素早く身を動かしたのである。鍛えられた四股が、廉十郎の視界の果てに消えるまで、瞬きする間のときも要さなかった。
(死ぬ気か、左平次)
ゆっくりと鞘へ戻した刀を右手に掴み直し、廉十郎は立ちあがった。立ちあがりざま、傍らの刀架より掴み取った小刀とともに、研ぎ澄まされた大刀を腰に佩《は》く。土間へおりてから、入口まで歩を進める足どりに遅滞はない。
(姫のことを嗤《わら》えぬな。……あの姫と知りあってからというもの、どうやらこの俺も、少々酔狂がすぎるようだ)
自家の障子戸を後ろ手に閉めてから、裏店《うらだな》の細路地を抜けきるまでのあいだ、廉十郎の胸に湧いた思いは、はたして自嘲か、恋慕の念か――。
とうに亥の刻は過ぎていよう。
花は折りたし梢は高し
眺め暮らすや木の下に
吐息一つたたぬ深夜の道を、朗々と吟ずる歌声が行く。月明かりの路上。長く背後へ伸びた影は、まるで恋しい男との逢いびきの場へでも出向くかのように、溌剌《はつらつ》とした歩調を刻む。長く背に垂れた束髪の先が、まるでそのあとを追う者においでおいでをするように、淡く妖しく揺れている。
下谷同朋町から長者町へと抜ける最初の木戸を突破してから、自分の数歩前を行く者がどうやら桜子姫と知って、廉十郎は首の根がへし折れるほどの衝撃を得た。
(何故、姫が……)
足音を殺すことも忘れて速足に近づけば、
「上総介殿」
振り向きもせず歩を進めたままで、桜子姫が彼を呼ぶ。
「この時刻、お一人で、何処《どこ》へ行かれるおつもりか?」
「白金の屋敷へ――」
わかりきった答だったので、さほど驚きはしなかった。ただ、驚きに代わる多大な不審が、廉十郎の思考を、殊更《ことさら》鈍いものにした。
「なにをしに、参られる?」
「暮林を、斬りに」
「…………」
「私は、三日月藩主・森長国《もりながくに》が娘。……左平次一人を、死なせるわけにはまいりませぬ」
「存じておられたのか」
「薄壁一枚隔てた隣室の会話も聞けぬようでは、新陰流の免許を返上したほうがよい」
やや大股な歩みで彼女の隣に並びながら、廉十郎は、今夜はまるで別人のようにも見える桜子姫の横顔に見とれた。視線を変えず、横顔のままで、桜子姫は言う。
「上総介殿」
「…………」
「かたじけない」
「はて、礼を言われるようなことを、私はなにもしていないが」
「いいえ。こうして、ともに来てくだされたこと、桜子は終生忘れませぬ」
そのとき廉十郎の胸に、名状しがたい熱さがこみあげた。無頼と虚無を道連れに来た彼が、これまで一度として体験したことのない、それは灼けつくような熱さであった。それに続いて、忘れたはずの遠い記憶が去来する。
つと、思い出してはならぬと心に決め、固く封印したはずの一つの面影が彼の胸裏を掠め、廉十郎は自ら狼狽した。
(何故こんなときに、彼女の面影など……)
それは、彼にとって必ずしも快い思い出ではなく、寧《むし》ろ、心苦しい部類に属する記憶の中の、ほんのちっぽけな、断片にすぎなかった。
(馬鹿な……。もう十年以上も昔のことではないか。……それに、あのひとは、俺を憎み、恨みとおして死んでいったのだ)
焦れる心の一方で、自分がたったいま、あのひとの面影に桜子姫のそれをピタリと重ね合わせていたのだと知り、愕然《がくぜん》とした。後悔、懺悔《ざんげ》、思慕。……これまでの自分には全く無縁だった種々の感情が、押し寄せる津波のごとく廉十郎の身を被う――。
(違う! ……姫はあのひとではない!)
だが、自分でもその狎《な》れぬ感情に戸惑ううち、それはたちまち、疾風のごとく過ぎ去った。あとには、凜《りん》として気高い姫君の横顔を、手放しで称賛する気持ちしか残らない。
(桜子姫……今宵私は、貴女のために命を捨てよう)
それからしばし後。自らの胸に湧いた大いなる感動もやがて鎮まる頃、廉十郎にはふと気になることがある。
「ところで、お乳母《うば》殿は?」
妙にそわそわと落ち着かぬ顔で、何度も背後を振り返りつつ、桜子姫に問うた。
「よく寝ておりました」
こともなげに、桜子姫は応えた。
獣の気配がする――。
意識で捉えるより先に、体のほうが緊張した。邸内へ忍び入ってから、ふと息を殺す。不覚にも、我知らず、体が薄く震えていることを知り、左平次は慄然《りつぜん》とした。ソクソクと砂を踏み、微かな息遣いで虚空を震わせながら来る相手が、自分と同じ人間であるとは、彼には到底思いかねた。
それほどに、呼吸の間合いが、尋常一様のものとは違っている。
(これは……人ではない)
しばし左平次は立ちすくんだ。そこから先へは一歩でも歩を進めることがためらわれ、更なる恐怖に囚われかけたとき――。
(もしや?)
漸くにして、左平次は覚《さと》った。
(忍犬《にんけん》か)
覚ってホッとすると同時、新たな緊張が身を襲う。
これまで、何度となくこの屋敷には忍び入ったが、庭先に忍犬を放ち、侵入者に備えるような小癪な真似をしていたことは、一度もなかった。もとより、この屋敷の住人たちは、忍犬などというものの存在を、知識としてすら夢にも知るまい。
(ということは――)
今夜この屋敷に放たれている忍犬は、何者かが、余所《よそ》から連れ込んだものに相違ない。
そして、その何者かというのは、
(お頭《かしら》にちがいない)
一本の黒松の枝上へ、サッと身を跳ばせながら、左平次は確信した。
遂に来るべきときが来た。
左平次のささやかな隠し事が、忍組《しのびぐみ》の組頭に露見したのだ。報告を怠ったことは、この世界に於いて即ち裏切りを意味する。裏切り者には死あるのみ、というこの世界の掟に従い、彼は仲間たちによる厳しい制裁を受けねばならない。
(だが、その前に、今宵の目的だけは果たさせてもらうぞ!)
左平次は思いきりよく枝上から飛んだ。
幾つかの獣の気配が、彼のすぐ下まで迫っていた。飛びつつ、諸刃《もろは》の忍び刀をきき手に抜き、闇の虚空をめがけて二、三度ふるう。
「ギャン!」
「ギャアン!」
「ギュワーア!」
断末魔の獣の叫びが、死体の転がる鈍い音とともに、三度短く耳朶《じだ》を穿《うが》った。
同じ瞬間、犬たちの口に銜《くわ》えられた細い刃が、彼の腋や肩口を間一髪、殆《あや》ういところで掠めている。忍犬は通常、その正体を隠すため、殺しの際には決して己の牙を用いず、クナイや手裏剣のような得物《えもの》を使う。
忍者は、その修業に臨んで、最低限獣の身ごなしを身につけようと必死になる。高く跳び、低く地を這い、速く走る――そういう申し分のない素質を備えた犬たちは、ときに凄腕の刺客ともなった。
(うっ……まだいる)
左平次は、つと小さく跳び退った。
跳び退って着地した同じ瞬間――。
それまで彼のいた足下の土が、バッと大きく跳ねあがり――否、実際にはそれまで土の中にいた生き物が、土を掘り抜いて高く跳びあがったのだが――左平次をめがけ、砲弾のごとくに迫り来た。
その一瞬。
左平次はヒヤリとした。或いは、痛い一撃を覚悟せねばならぬ、と思うほどの、唐突で意外な攻撃だった。だが、惜しい哉《かな》、その生き物の跳躍力が、僅《わず》かながら彼に劣っていた。
しっかりと口に銜えられた短い刃が左平次の喉首に達する前に、そいつの体は落下にかかった。トン、と地に降り立つ音を聞く以前に、左平次は、咄嗟に懐から取り出したものを、素早く地面に落としている。それは、脂身のたっぷり残る、干し肉の塊だった。
そいつはクナイを口から放り出すと、即座にかぶりついた。畢竟《ひっきょう》、畜生の悲しさか。……不意打ちの名手も、美味しい餌には滅法弱かった。
忍犬は、本来その主人以外の者から、決して餌をもらわぬようにしつけられているものだが、中にはたまさか、いやしい犬もいるものだ。
(珍しい犬だな)
左平次はむろん夜目がきく。しばし目を凝らしてその犬を見た。必要以上に胴体が長く、脚の短い犬だった。小柄な体つきながらも、長く尖った鼻のあたりに精悍《せいかん》さの漂う顔つきは、他の犬たちともやや異なっている。顔の両側に長く垂れた耳が、なんとなく異国風にも思えた。或いは穴掘り用に作られた、新しい犬種かもしれない。
左平次は屈みこみ、無心に肉を食らうその胴の長い小犬の頭を撫でてやった。
足下に転がる他の犬たちは、或いはハアハアと激しく息を乱し、或いはヒィヒィと苦痛の呻きを漏らし続けている。人殺しの技を仕込まれた忍犬とはいえ、物言わぬ生き物を手にかけるのは忍びなかった。手当をしてやれば二、三日ほどで回復する程度の浅い斬り方を、左平次はしたのである。
それから左平次は、刀に付いた血を手早く払い、鞘に戻して高く跳躍した。
気配すらろくによませぬ次の危険が、彼のすぐそばまで、足音もなく忍び寄っている。
5
上屋敷の表門は、当然ながら堅く閉じられ、招かれざる侵入者の訪れなど固く拒んでいる。
「開門、開門――ッ」
廉十郎が、アッと驚く暇もなかった。
桜子姫の大音声が、一瞬にして闇を破り、森閑たる夜のしじまを震わせたのである。
今夜の桜子姫はどこか違う。たった二人で屋敷の門を打ち破り、邸内へ侵入するために、或いはなんらかの奇策がありや?――と疑った、その矢先の出来事である。ものの見事にあてがはずれたことを悔やむ以前に、廉十郎はただ茫然とその場に立ち尽くし、桜子姫がとる次の行動に見入っていた。
「門を開けい、桜子が戻ったのじゃーッ。直ちに、門を開けよッ」
凜としてよく響く声音で、桜子姫は断固怒鳴った。
廉十郎は黙って見とれた。止めようという気も、それに協力してともに喚こうという気もなく、ただぼんやり、美貌の姫の横顔が青白い月光に皓々《こうこう》と映えるさまを傍観していた。
「暮林、出てまいれェーッ。そのほうが目の敵といたしておるこの桜子が、自ら出向いてやったのじゃッ。……出てまいれェーッ」
それからまもなく、廉十郎が更に目を見張るべき事態が出来《しゅったい》した。
桜子姫の求めに応じて、屋敷の門が、易々と彼らの前に開かれたのである。
(罠か?)
と疑う以前に、それでこそ桜子姫だ、と感心する気持ちのほうが、より大きく廉十郎の胸に萌《きざ》した。
「足下に、お気をつけあれ」
「はい」
桜子姫は素直に頷く。桜子姫と廉十郎の二人が邸内に踏み入ってすぐ、気まぐれな群雲が、輪切りの梨のごとき歪《いびつ》な月を覆い隠してしまった。だが、無明の闇が、人の心に徒《いたずら》な不安を齎すというのは、凡人たちの生んだ迷信にすぎないであろう。一つの道を極めた達人にとって、闇はあくまで闇にすぎず、光もまた、見たままの光にすぎない。既にして、視覚以外のすべての五感を以て物事を見極める〈心眼〉を会得した者たちに、闇はいっそ、心地よいほどの緊迫感を与えてくれる。
桜子姫と廉十郎は、ともに、邸内に一歩踏み入ったときから、常に我が身を取り巻いている殺気の幾つかに、その第一歩目から気づいていた。不思議なことに、桜子姫らを呑《の》み込んだ巨大な高麗門の内側に、彼らのためにその扉を開けたはずの門番の姿は存在せず、門の両脇の番所からもお長屋からも、警護の者が駆けつけてくる気配はなかった。そのことに、むろん不審を覚えぬものではなかったが、かまわず先へと進み入った。
(面妖《みょう》だな)
廉十郎にとって、些《いささ》か不気味に思えたのは、漂う気配の、その尋常でない殺気の微妙さである。あからさまに強く発せられる殺気なら、それほど慌てず、じっくりと余裕を以て対処できる。だが、あるかないかの僅かな殺気に対しては、いつ何処で襲って来るかの見当もつかぬため、不意を打たれる恐れがある。流石に、桜子姫も並の使い手ではない。廉十郎が抱いたと同様の危惧を、ほぼ同時に抱いたものとみえ、
「おかしい……この屋敷に、何故これほどの使い手が――」
無意識に口走ってしまってから、
「上総介殿ッ」
短く廉十郎を呼んだ。その低い呼び声が闇に吸われたときには、彼らの体はともに小さく跳び退り、少しく左右に分かれている――。
間一髪の殆うさだった。
閃光を放ちながら来た鋭い刃が、いま少しのところで、桜子姫の喉笛なり廉十郎の脳天なりを、辛くも掠めていたのである。
「黒鍬《くろくわ》の左平次」
自分を呼ぶ底低い声音に、今更怖じ気づくほどの可憐さは、微塵《みじん》も残されていない。
「裏切り者として、制裁を受ける覚悟はできておろうな」
甲賀忍組組頭・水口鬼姿郎《みなぐちきしろう》の冷ややかな声が、闇の彼方より密やかに響いた。
左平次は松の枝上にピタリと身を伏せ、いまは一切の気配を断つことに成功している。そのため頭の鬼姿郎までが些か焦れて、あえて左平次を挑発する手段に出た。万一左平次の心の平静をかき乱すことができなければ、逆に自分をこそ危うくする、いわば諸刃の剣ともいうべき攻撃法である。
(誰がうかうか、その手にのるものか)
左平次は腹をくくっている。
鬼姿郎が今夜率いて邸内に放った忍者たちの数は、少なくとも二十。それだけの人数を一手に引き受けねばならぬ以上、ものの寸刻でケリがつくとは到底思われない。長時間に及ぶ戦いを覚悟した上で、左平次はじっくりと腰を据えることにした。
どうせ、生きてここを出られるとは思っていない。それならせめて、今夜命を賭してここへ来た最低限の目的くらいは果たしたい。この世に生まれて三十余年。自分のような影の宿命に生きる者が、確かにこの世に生きたという証を求めるとすれば、それしかない。
「左平次、どこだ? どこにおる? コソコソと逃げ隠れしたところで、最早うぬの命運はここに尽きた。せめて最期は男らしく、自ら姿を現したらどうだ?」
(お頭ともあろう者が、なんという子供だましの手を使うのだ)
「江戸家老とその一味を暗殺し、三日月藩の存亡をかけたお家騒動の事実を今宵限り葬ろうといううぬの目論みも、我らが参ったからは最早為し得ぬ。……この上は、手間をかけさせずにさっさと姿をみせ、命乞いの一つもしてみることだ」
(馬鹿め。……誰がするものか)
虚しく響く鬼姿郎の声を、左平次は内心あざ笑っていた。寧ろその愚劣さを、気の毒に思うほどのゆとりもあった。
だが――。
「うぬが命に代えがたく思う桜子姫も、もうじきここへやって来るぞ」
たった一言の低い囁《ささや》きが、左平次の平常心を容易《たやす》く打ち砕いた。
(ひ、姫が……まさか――)
戦慄を以て思った瞬間、それまで保ちに保っていた左平次の術は脆《もろ》くも破れた。
当然あるべき人としての思いが――驚愕や恐怖や……これまで左平次が目を背け、一向《ひたすら》押し殺すことで隠密としての自己を全うしてきた人間的な感情のすべてが一挙に湧出し、その存在を知らしめるべき気配となって、彼の体内より、最早隠しようもなく流れ出したのである。
「そこか」
北叟笑《ほくそえ》む鬼姿郎の呟きは、彼の耳には殆ど届かなかった。
それよりも、無神経に小砂利を踏んでくる二つの足音が、悪夢のように耳朶に飛び込んだその瞬間――。
「きえぇーいッ!」
狂気の如き気合を口中より放ちざま、左平次は飛んだ。
鳥のように、飛んだ。
ほぼ水平に体を処しつつ、空中で引き抜いた刀を逆手に持ち替える際、まるで水底を泳ぐ鮃《ひらめ》のごとく、その身を悠々と翻し、且つ大きく跳ねさせた。
「愚かなり、左平次――」
「死ね、鬼姿郎ッ!」
打ち下ろす刃と受け止める刃とが、闇の虚空に烈《はげ》しく出会う――。
「左平次ーッ、左平次はおらぬか!」
天女のごとき桜子姫の声音を、できれば閨房《けいぼう》の中で聞きたいなどという甘い望みに囚《とら》われたこのとき、左平次は至福のただ中にあった。
6
ズジャアーァッ、
と派手に鮮血を飛沫《しぶ》かせた意志のない肉体が、はたして鬼姿郎のものだったかどうか、左平次にはわからない。
ただ彼は、一匹の悪鬼羅刹《あっきらせつ》と化したかのごとく、休まず刃を振りまわしていた。
「左平次ッ」
知らぬ間に、桜子姫が彼のすぐそばまで寄っていた。
異常にゆっくりとした動きで地に倒れゆく死体の向こうに桜子姫の顔を垣間見たとき、左平次の身ごなしにも心にも些かの隙が生じた。
「姫様、何故、ここへ……」
「公儀お庭番たるそなたが、三日月藩とこの私のためだけに働くということが、なにを意味するかということくらい、私にもわかる」
「…………」
「そなた一人を、死なせるわけにはゆかぬ」
(ああ、姫様!)
天にも昇る心地の感動が、左平次の胸に押し寄せた。全身の血が沸騰して、その熱く沸き立つ彼の胸を、だが次の瞬間――。
「裏切り者ッ!」
冷たい白刃が鋭く貫くのを、左平次は遂に避け得なかった。
「ぬ……ぐぅッ」
しかし、倒れ込んでゆく間際、左平次の左手に閃いた刃は、確かにそいつの喉笛を抉《えぐ》った。相手は、即死。或いは、それが鬼姿郎であったかもしれない。夥《おびただ》しい量の返り血は、左平次の黒装束を朱《あけ》に染めたが、それがはたして相手の血なのか、自ら流した血であるのか、判然とはしなかった。
「左平次ーッ」
桜子姫の白い腕が、そのとき左平次の半身を、しっかと抱きとめた。
「しっかりするのじゃ、左平次。……死んではならぬ」
「姫……姫……ああ、夢にまで見た姫の腕《かいな》が……」
うわ言のように口走る声は、桜子姫の耳には届かない。
「なにを言っておるのじゃ。……血止めをするまで、口をきいてはならぬ」
「仲間を裏切った拙者は、抜け忍として、終生追われねばなり申さぬ。目的を果たせなんだのは無念にござるが……せめて姫のために死ぬことができて、本望にございます」
「そのように気の弱いことでどうするのじゃ。公儀隠密を辞めて抜け忍となるなら、今日から私が雇うてとらす。これからは、我がお庭番となるがよい」
「ありがたき……幸せ……」
「左平次、左平次ーッ」
桜子姫は激しく身を揉んだ。
残りのお庭番たちと激しく斬り結びつつ来た廉十郎がふと足を止めたとき、軽い嫉妬をおぼえたほどの熱心さで、彼女は左平次の体をかき抱いていた。抱きながら、だが桜子姫はふと異を覚えた。
「ン?」
手に触れた胸のあたりが、妙に硬く、ゴツゴツしている。発達しすぎた人の筋肉とも思われぬ硬さと冷たさに驚いて、桜子姫は思わず左平次の胸倉を開いた。
忍び装束の一枚下では、真っ黒い鋼《はがね》の鎖が、隙もなくその体を被《おお》っている。
「なんじゃ、これは?」
指摘されてみて、左平次もはじめて思い当たった。
(そうだ! ……今宵は用心のため、鎖帷子《くさりかたびら》を着用していたのだった)
やられた、と思った瞬間、勝手に頭のほうが反応してしまったが、よく考えてみれば、体のどこにも、創《きず》を受けた痛みがない。それもそのはず。敵の刃は強固な鎖に阻まれて、左平次の急所まで到達することは終《つい》ぞないのだった。
そうとわかってからも、だが左平次はすぐに元気なところを見せようとせず、依然桜子姫の腕に支えられたままでいた。折角のチャンスである。いま少し、瀕死のふりをしようかどうしようかと思案しているとき、つと群雲が晴れ、乾いた夜風が、一同の頭上に、淡き月明かりを呼び入れた。
「おや?」
ふと傍らを見ると、通路に面した館の雨戸が、すべて閉め忘れられており、障子も開かれたままである。桜子姫は、あっさり左平次の体から手を離し、小砂利を踏んでそちらへ向かった。当然、廉十郎も左平次も、我勝ちにとそのあとを追う。
軒下に置かれた手水《ちょうず》の水が赤く濁っている。
桜子姫は――むろん廉十郎も左平次も――薄い緊張で全身を被った。
「あっ……」
桜子姫の口を、短い驚きが迸った。
濡れ縁の上に、俯せの男が転がっている。抱き起こし、揺さぶってみずとも明らかだ。死体である。注意深く縁先を進みながら、桜子姫は、真闇《しんあん》をとどめる障子の奥を透かし見た。血の臭いがする。そこにもここにも、死体が転がっていて然るべき腥《なまぐさ》さが、どこからともなく漂っていた。
つと、視界が一遍に開かれた。
室内の行燈《あんどん》に火が入ったその瞬間、桜子姫の目に映ったのは、床置きの獅子香炉《ししこうろ》と、掛軸の「蓮池水禽図《れんちすいきんず》」。……それに、盆提灯《ぼんちょうちん》の傍らに佇《たたず》む、少しく意外な男の姿だった。
血腥《ちなまぐさ》いのも道理であった。
血刀をひっ提げた男の周辺に、無数の死骸が転がっている。ある者は無念の断末魔に形相をひきつらせ、ある者は、眠るがごとく自然な様子で。
「右京之介! ……そなたはお栄の方を見張るため、高麗屋へ行っていたのではなかったのか」
「逆臣・暮林蘇芳以下、暮林に与《くみ》する謀叛人どもは、たったいま、すべてこの手で始末いたしました」
血刀を、己《おの》が袂《たもと》に拭いつつ、こともなげに右京之介は言い、桜子姫の眉間に、驚きと同量の不審が刷《は》かれるのを待ってから、更に驚くべき言葉を口にした。
「そして、桜子姫、あなたにもここで死んでいただく」
言葉とともに、右京之介は、舞うような所作で高く躍りあがった。振りあげた大刀を振り下ろしざま、桜子姫の眼前へと迫る。その切《き》っ尖《さき》を軽く打ち払って、桜子姫は絶句した。
「なんの真似じゃ、右京之介」
「あなたはご存じあるまいが、千匹丸《せんびきまる》は我が父とお近《ちか》の方とのあいだにできた子――つまり、我が弟にあたり申す。……お近の方は、元々我が父監物の女でござった」
「そ……それはまことか!」
雷鳴の轟《とどろ》き落ちるがごとき衝撃が、桜子姫の背筋をひた走った。
「あなた様のお命を頂戴し、返す刀で万寿丸を殺せば、即ちお家は我が父のもの。国表の暮林一味をも一網打尽に粉砕したならば、最早邪魔者はどこにもおり申さぬ」
驚愕のあまり、しばし身動きすらもかなうまいと思われた桜子姫の目の前で、右京之介の軽やかな四肢が、再び高く舞い上がった。
一瞬の幻影を思わせるに充分な身ごなしであった。縁先から身を躍らせ、庭先の白砂の上に降り立つと、右京之介は、不敵な笑顔で桜子姫を顧みた。
桜子姫も素早く歩を進め、魔性のごときその笑みと静かに対峙する。
「よいのです、上総介殿」
そのとき、自ら進み出、桜子姫と右京之介のあいだへ割り入ろうとする廉十郎を、桜子姫は緩く制した。
「不届き者の成敗は、せめて我が手で――」
「はて、はたして成敗できますかな? あなたに剣をお教えしたのは、そもそもそれがしにございまするぞ」
「それは十年も前のことじゃ。いまは、上総介殿直伝の風光明媚流《ふうこうめいびりゅう》花鳥風月の必殺剣が我にあり。……そのほうごときに後《おく》れはとらぬ!」
「笑止でござる」
「おのれ! 推参《すいさん》なり、右京之介ッ」
綾錦の袖を、ブワリと大きく翻しざま、桜子姫は八相の構えをとる。
構えるなり、自らを一個の刃と化して高く跳んだ。右京之介は陽の構え――。即ち脇構えから軽く擦《す》りあげ、相手の刃を迎え撃つ。
ぎゅん!
と火花を散らす一合《いちごう》の末、両者は再び、二手に分かれた。
「姫……姫がもし、あのときの約束を忘れずにいてくだされたなら……どこの馬の骨とも知れぬ素浪人などに心を奪われておられねば……それがしは、姫を斬りとうはなかった」
「くだらぬ世迷《よま》い言《ごと》は、やめにせい!」
苦しげな右京之介の呟き声も、高ぶった桜子姫の耳には一切届かない。
(殆うい――)
廉十郎は息をつめて見守った。
右京之介の構えが、脇構えから中段霞へと変わる。桜子姫は変わらずの右八相。剣を握った右手を右肩の前に、体を斜めに開き、剣先をやや後ろにしたこの構えでいる限り、即座に攻撃、或いは攻撃から防御の態勢をとれる。
一方右京之介の小霞は、桜子姫の喉首あたりに向いた切っ尖がそよとも動かず、恐ろしいほど堂に入っている。
(斬るとみせかけ、突きに転じるつもりだな)
ということが、廉十郎の目には一目瞭然だった。両腕を肩より下へおろし、刃をほぼ水平に置いた中段霞の構えからだと、突きにはいる際、腕がよく伸び手元で更に深く斬り込める。
桜子姫は、そうした右京之介の動きをよんでいるのかいないのか、水面のように静かな面持ち。泰然自若として、少しも焦るそぶりはみせない。
寸刻――。
吐息すらつかずに睨み合う緊張感の中で、二人はともに、竹刀をとって向かい合った幼い日のことを想ったであろう。
充分な間合いは成った。
これ以上ときをおけば、ただ気力が殺《そ》がれて技も心も萎えるだけ、というギリギリのところで、一瞬早く、右京之介のほうが動いた。
「さらば、桜子姫ッ」
音もたてずに地を蹴った右京之介の動きは速かったが、それに応ずる桜子姫の動きもまた、負けず劣らず速かった。
ギ……ィンッ、
刃と刃のぶつかり合いではなく、それは、右京之介の大刀が、切っ尖から五寸ばかりのところまで真っ二つに叩き折られる音だった。その音が少しく余韻を引いて鳴り終えぬうちに、大業物・宗近、『名物三日月』が二度閃いた。
桜子姫の袖が、夜風を受けてフワリとはためき、右京之介の目を眩惑《げんわく》したものか。
否、矢張り桜子姫が刀を振り下ろし、且つ斬り上げる動作のほうが、一瞬右京之介に勝ったのだ。
(見事!)
月下に映えたる血飛沫《ちしぶき》を、花びらの舞い散るさまと、廉十郎は見た。
「うあぉあぁーッ」
大きくのけ反り、そのまま仰のけの姿勢で背後に倒れる右京之介の絶叫を、桜子姫の耳は最後まで聞き届けなかった。右京之介が倒れていったその先には池があり、悲鳴も半ばで、彼の体は水中に落ちたのだ。
「風光明媚流〈電光の舞〉というのはいかがでしょう?」
桜子姫の美しい顔が、廉十郎を振り向きざま、にっこり微笑んだ。
「いかにも、その剣の夙《はや》きこと、電光石火のごとし。……見事な必殺剣にござる」
内心呆れ返りつつも、とりあえず廉十郎が調子を合わせたとき――、
「お急ぎくだされ! おっつけ町方の者どもが駆けつけてまいりますぞッ」
不意に背後で、左平次が怒鳴った。
大名屋敷内の揉め事に、通常町方が口出しをする権限はない。だが、屋敷の表門を開け放ったまま、隣近所をも憚らぬこれだけの騒ぎを行ったのだ。況《ま》してや、屋敷の内には死屍累々《ししるいるい》と転がる有様。お節介な近所の者が番屋まで走らずとも、夜間|巡邏《じゅんら》の定廻りなどが、うっかりやって来ぬとも限るまい。
「左平次の申すとおり、急がれたほうがよさそうだ、姫」
廉十郎は、迷わず桜子姫の手をとった。
必殺剣の使い手にしては少々柔らかすぎる小さな手をきつく握ると、寒さと呼ぶにはほど遠いが、そろそろ秋涼を孕《はら》みつつある夜風の中に、えも言われぬ湿った熱さを、廉十郎は感じてしまった。それから、身を翻して走りだすまでの短いあいだに、「上総介殿」と呼ばれることに僅かの嫌悪も覚えぬようになっている自分を知り、苦笑した。
既に、五、六歩彼らに先んじた左平次が、早く早く、と二人を急き立てている。
[#改ページ]
〈番外編〉
乳母殿の恋 うばどののこい
1
闇に滲《にじ》んだ墨文字は、かろうじて「そば・うどん」と読めた。
看板の明かりは、こそとも揺らがない。
まるで往来の彼方《あちら》と此方《こちら》に、見えない壁が作られて、風の流れをせき止めているかのようだ。おまけに、ぶ厚く重たげな雨雲が、満天の星月夜さえも遮る陰気な闇夜。三日三晩燃え続ける山火事の、その猛火の如き陽が暮れ落ちてから何刻か。かなり夜も更けたというのに、昼間の熱気がまるで去らない。
(くそっ、どうせなら、ひと雨くりゃあ、いいのによ)
暑い。
じっとしていても、沸々と湧いて出た汗が、水でも浴びたほどに夥《おびただ》しく素肌を滴《したた》る。まるで、ぬるま湯の風呂に何時間も浸かっているかのようだ。二の腕の上まで捲《まく》りあげた袂《たもと》に額の汗を拭っても、拭ったそばから、
じわり、
と滲みでてくるのがわかり、仁吉《にきち》は絶望的な気分に陥《おちい》った。
沸き立つ釜の湯をじっと見つめていると、それだけで眩暈《めまい》がする。
「おい、まだかよ」
屋台の端にいた岡っ引の辰吉《たつきち》が、不意に癇立《かんだ》った声をあげ、不快を助長した。
「へい、お待ち」
促された仁吉が、慣れた手つきで、丼を相手の前に差し出すと、〈鈴虫〉の飼育を内職にしていることから、そのあだ名を持つ唐茄子《とうなす》顔の親分は、瞬間妙な顔つきをして、丼の中身と仁吉とを見較べた。
「おい」
皺の寄った目尻と薄い眉が、見る間に吊り上がる。
「へえ?」
「おいらがたのんだのは、うどんじゃなくて、そばだぜ」
「エーッ!」
仁吉は仰天した。
「『えー』じゃねぇよ。この暑さで、ドタマがどうかしちまったのか?」
「…………」
仁吉はガックリと肩を落とした。目に見えて顔色が変わり、この世の終わりかと思える絶望的な落胆が、さほど大きくもない彼の全身を占め、満面に漲《みなぎ》る。すると、
「おい、うどんはこっちだ」
一人おいて、床子《しょうじ》のもう一方の端にいた不気味な男までが、つられたように怒声を放った。
香油で整えた総髪《そうはつ》を、張孔堂正雪《ちょうこうどうしょうせつ》の如く肩口に垂らし、このくそ暑いのにきっちりと紋服を着込んだ、恐ろしく人相の悪い男である。見ているだけでこちらが不愉快になりそうなこんな客は、できればご遠慮願いたいものだが、客商売であってみれば、そうも言っていられない。
「どうでもいいけど、早くしてくんな」
「へい、もう少々お待ちを」
低く低く頭を下げ、仁吉は、辰吉のほうへ一旦差し出した丼を、そそくさとひっこめる。
兎《と》に角《かく》、暑い。
こんな夜は、いっそ商売を休みたいところだが、もとより宵越しの銭は持たぬ主義の彼が一夜でも商売をサボれば、即ち明日の糧《かて》にも事欠いてしまう。
(それにしても、こんなくそ暑い晩に、よくそばなんぞ食う気になれるな、この連中は)
煮えたぎる湯の中に、新たな蕎麦《そば》の玉をぶち込みながら、仁吉のボヤきは一向やまない。
(おまけに……)
チラッと目をあげ、客たちの顔を一瞥《いちべつ》する。
三人掛けほどの長床子に、お客はきっちり三人。向かって左側から、辰吉親分、その雇い主である同心の佐々岡《ささおか》、そして人相の悪い総髪の怪人物、という配列になっている。
佐々岡のみは蕎麦もうどんも注文せず、燗《かん》冷ましの酒ばかりを、もう半刻あまりも、チビチビと手酌であおっていた。この男の酒癖の悪さは、彼の立ち回り先である下谷界隈でも定評がある。飯屋に入れば下働きの小女《こおんな》に悪態をつく、酌婦にはからむ――ときには、見境もなく暴れて勘定を踏み倒すことさえあるらしい。
最前、〈鈴虫〉の辰吉を伴った佐々岡が、その陰気な痩《や》せぎすの顔に、この世の苦渋を一身に集めて現れたとき、仁吉は死にたいほどの気分になった。それでも一応頭を下げ、
「お役目、ご苦労さんです」
と声をかけてみたが、彼は、殺気だつほど鋭い両眼に、瞬間ギロリと冷たい光を湛《たた》え、仁吉を睨んだだけである。ヒヤリと首筋にあてられた刃《やいば》に、まるで、首と胴とを生き別れにされたような錯覚を覚え、仁吉は内心|怖気《おぞけ》をふるった。
「葱《ねぎ》はどうした!」
「へ、へい……どうも、すんません」
紋服の怪人物に怒鳴りつけられ、仁吉は忽《たちま》ち震え上がった。
辰吉の前から一旦さげた丼を、注意深く彼の前に差し出した途端のことである。恐る恐る視線をあげると、矢鱈《やたら》と目を血走らせた正雪男が、額に浮かべた青筋をフルフルとうち震わせて怒りに耐えている。そのあまりの形相の凄《すさ》まじさに、仁吉はすっかり肝を冷やした。
「葱だ!」
「へ、ねぎ?」
「葱!」
「を、どうなさりたいんで?」
「葱がのっておらぬぞ!」
「あ……こいつはとんだ粗相《そそう》を。……申し訳ありやせん」
仁吉は慌てて、小鉢の中の刻みおきの薬味ネギを一つまみ、うどんの上に振りかける。少しく手が震えて、葱の半ばは丼の外へこぼれてしまった。
「まったく……」
なお執拗《しつよう》に、口中でブツブツと文句を言いながらも、男は箸をとり、口をすぼめてうどんを啜《すす》りはじめた。
(まったく……)
文句を言いたい気持ちは、仁吉とて同じだった。たかがひとつまみの葱くらいのことで、いまにもとって食らわんばかりの怒られ方をされたのではたまらない。この商売をはじめてそろそろ十年余。まあそれなりに、年季を積んでいる。今夜のような初歩的なミスを犯すなど、仁吉にしても非常に珍しいことなのである。動揺もしている。それもこれも、皆、頭の中まで煮え繰り返ってしまいそうなこの暑さの為せるわざなのだ。多少は大目に見てくれたっていいだろう。
「おい、おいらのそばは?」
「へ、へい、ただいまッ」
促され、慌てて作った蕎麦の丼を、辰吉の前に差し出しながら、仁吉は、額の汗を、拭いたくて拭いたくて仕方なかった。しかし、それは諦《あきら》めねばならなかった。すぐ近くから、足音が聞こえはじめている。もしかしたら、新しい客かもしれなかった。
(あれ?)
ふと、暑さに朦朧《もうろう》とした仁吉の頭にも、一抹の清涼感を齎《もたら》すような男の横顔が視界を横切り、過ぎ去ってゆく。
(旦那……)
住之江廉十郎《すみのえれんじゅうろう》は、そのときチラッと視線を向け、仁吉に微笑を投げたようだが、そのまま歩みは緩《ゆる》めず、言葉もかけずに去って行く。
仁吉のほうでも、あえて呼び止めるような真似はしなかった。
同心の佐々岡は、訳もなく廉十郎を毛嫌いしている。誰に好かれ、誰に嫌われようとも、歯牙にもかける廉十郎ではないが、自分の顔を見るだけで、すぐさまダンビラまで振りかざしかねない危険な男と、わざわざ同席する気にはならないだろう。
仁吉の屋台の前を通り過ぎる際、幕府転覆を企む謎の怪人物・戸座岩衒夭斎《とざいわげんようさい》の姿が目に入り、廉十郎は我知らず苦笑を興《おこ》した。
怪人物だって、ときには蕎麦くらい食べるだろう。葱をめぐる、仁吉と衒夭斎との会話が耳に飛び込んで来たときこそは、思わず噴き出しかけた。待ちに待った折角のうどんが葱抜きでは、さだめし味気無いものに相違あるまい。しかし、ちょっとしたことで怒りっぽくなっているのは、この熱帯夜の猛暑のせいもあろうが、幕府転覆の大計画が、どうやらうまく進んでいないものと思われる。
(それにしても……)
江戸の治安と秩序を守る立場の佐々岡と辰吉が、なにも知らずに衒夭斎と同席しているのだから、ちょっと皮肉な図柄ではないか。
(さて、蕎麦も食いそこねたことだし、帰って寝るか)
廉十郎の足は、自然と長屋のほうに向く。
だが廣徳寺前の通りを過ぎて、下谷稲荷の裏手に出たところで、廉十郎の足は、ややゆるまざるを得なくなった。
(三人……それに、一人か――)
それは、廉十郎をつけ狙って来た者たちの気配ではなかった。
白刃を抜きつれている気配もなかった。
では何故、廉十郎の注意がそちらに向いたのか?
それは、その気配のうち少なくとも三人までが、彼の肌にもすっかりお馴染みの、明日なき無頼の風を、それとは知らず、廉十郎の胸へ送り込んで来たからに相違ない。そして、廉十郎の体内から、束の間夏の夜の熱気が去り、初霜のおり立つが如き冷ややかさが宿るのもまた、この同じ瞬間のことなのだ。
「人が来る――」
三人のうちの一人が、耳聡《みみざと》く廉十郎の足音を聞きつけた。
「ちっ……邪魔が入ったか」
「仕方ない。改めて、また後日――」
他の二人の口走る声音に耳を傾け、注意深く廉十郎は聞いた。しばし足を止めていた。
路地の奥から、浪人風体の三人の武士が一散に走り出て、廉十郎のことなど一顧だにせず、走り去った。
廉十郎はゆっくりと歩を進め、濃く闇の溜まったその路地奥へ目を据える。ある程度夜目をきかすことのできる廉十郎の視野に、ポツリと佇《たたず》む一つの人影があった。両肩を落として、ガックリと項垂《うなだ》れた、それは弱々しい影である。
それでも精一杯の虚勢か、ほんの申し訳程度の力で大刀の柄《つか》に手をかけた姿が、一層の憐れを誘っていた。
廉十郎は、そこから先へ進んで彼に近づこうとはせず、立ち止まった場所から、しばし黙って、彼の背を見つめた。確実に七十は過ぎた年頃の、かなり老齢の武士と思われた。
やがて武士は踵《きびす》を返し、月影一つささぬ道に、極めて億劫そうな足どりの歩を進め出した。すぐそばをすり抜けながら、廉十郎の存在にはまるで気づかずに行く老人の背を、なお廉十郎は見送り続けた。
(脅されていたか? ……それとも、連中の悪事に加担する気か?)
廉十郎の心に、やがて重い影がさした。
彼を気重にさせた理由は二つあった。
この世に存在すべき理由を見失い、すべての未来を捨てた無頼の道を歩みはじめたときから、他人の不幸というものには殊更《ことさら》無関心の姿勢をとり――というより寧《むし》ろ進んで、それを己《おの》が幸運と考えるべき生き方を心掛けてきた。そんな自分が、見ず知らずの行きずりの老人の不幸に、なんの気まぐれか、心を傷《いた》めようとしている。自らの信条が揺らぎはじめている、というそのことに、厭《いや》でも気づかされたときから、廉十郎の心は重くなる一方だった。
2
大家の徳右衛門《とくえもん》は、三枚橋のたもとで子供相手の玩具《おもちゃ》屋を商っている。
独楽《こま》、凧《たこ》、羽子板等の他に、紙や墨筆も売っているから、大人の客も少なくはない。だから、間口一間半ほどの狭い店先に座り込み、主人と長話を決め込んでいるのが、ひやかしに来た近所の悪ガキどもでなかったとしても、さほど不思議はないはずだった。
ただ、鬢《びん》から毛束の先まですっかり真っ白な切り髪を、今日に限って、妙に艶めかしく揺らめかせた、それが、折り目正しい武家の老婦人とくれば、多少事情も違ってくる。優雅な物腰で口許に運んだ左手の甲の内側で、もうかれこれ三十年以上も紅《べに》をつけたことのない唇が、嫁いだばかりの新妻の如く初々しく微笑んでいるのである。道行く人々も、好奇の視線を向けざるを得ない。
元々やじ馬根性には乏しい廉十郎であったが、これには足を止め、遠巻きに盗み見ぬわけにはいかなかった。
「あら、まあ、お乳母《うば》様じゃありませんか」
驚いたような女の声音に、こっちこそ驚いて振り向けば、昨夜もたっぷり夜のお勤めに精を出したらしい〈鬼あざみ〉のお多香姐御《たかあねご》が、寝不足気味の目を見開いて、廉十郎の背後から覗《のぞ》きこむ。大きく抜いた衣紋《えもん》のあたりから、こぼれる肌のなまめかしさも相変わらずだ。
ひた隠しにしていた覗き趣味を暴かれたようで、廉十郎は少しくきまりが悪いが、お多香は別段意にも介さず、さも親しげな様子で話し込む徳右衛門と楓《かえで》の二人を注視している。
「なにやら、しんねこですねぇ」
「…………」
お多香の目が、なにを思ったか、千両|富《とみ》でも引き当てたようにパッと輝いた。
「徳さんとお乳母様……うん、案外いけるかも!」
「悪い冗談だ」
「冗談なもんですか! ね、よく見りゃ結構、お似合いじゃありませんか」
「徳右衛門のほうが、ひとまわりも年下だろう」
お多香の突飛な発想には苦笑させられながらも、やや呆れ顔に廉十郎は応じる。
「間夫《まぶ》にするには、ちょうどいい年の差ですよ」
「しかし乳母殿は寡婦だ。仮に男をつくったとしても、間夫にはなるまい」
「あ、そうか」
お多香が合点したところで、彼らの背後にピタリと止まる足音がある。迫り来るいやな予感に、廉十郎は立ち竦《すく》んだ。
「上総介《かずさのすけ》殿」
その声音を聞くと、それだけで心が憂えた。
近頃彼の信条を揺るがせているその理由の大半。早い話が、疫病神……。
振り向けば、そこに、花より優美な桜子姫《さくらこひめ》の顔《かんばせ》がある。雪の如き面《おもて》は、白粉《おしろい》の助けなど借りずとも充分清楚で、生来の高貴さを露ほども損なわない。身に纏《まと》うた真っ赤な綾錦は、照りつける真夏の陽光の下、それに勝るとも劣らぬ、陽気な絢爛《けんらん》を放っていた。
「大家殿のところへ、内職の品を届けに行ったきり、いつまでたっても戻らぬと思ったら、楓め、案の定油を売っておったのか」
「ちょっと、姫様――」
早速にそちらへ足を向けかける桜子姫の袂を、お多香がすかさず引き止めた。
「折角うまくいきそうなのに、邪魔しちゃいけませんよ」
「はて、邪魔とは?」
桜子姫は当然のこと、怪訝《けげん》そうに小首を傾げる。
「姫様だって、お乳母様が幸せになるのを、悪くは思わないでしょう?」
「楓が幸せに? ……はて、どういうことであろう、お多香殿?」
「お乳母様と、大家の徳さんのことですよ。どうですね? 姫様の目からご覧になっても、お似合いだとは思われませんか?」
「ふうむ……」
視線をそちらに向けたまま、しばし考え込む風情をみせると、桜子姫は、廉十郎が心配したよりは存外そのことについての察しがよく、
「しかし、楓は一応落飾した身じゃ。そういう者が、別の殿御に嫁いでも、よいものであろうか?」
頻《しき》りと首を捻《ひね》ってから、救いを求めるように廉十郎のほうを見た。
「さて、そのことだが……」
少しく迷ってから、結局廉十郎は、自らの胸に芽生えた興味に勝てず桜子姫に問うた。
「ご落飾なされているからには、お乳母殿はかつて一度は嫁がれたことがおありなのか?」
問いつつも、彼は、自分の中に、そうした興味本位の感情が湧いたことを、激しく恥じた。クールな無頼の素浪人にあるまじき行いだった。もとより、桜子姫がそんなことには一向頓着せず、ゆっくりと首を横に振ってくれるのが、廉十郎にはなにより有り難かった。
「嫁いだことはない」
「それでは、何故髪をおろされた?」
「嫁いだことはないが、楓には、かつて妹背《いもせ》の契りを結んだお方があったのじゃ」
「許婚者《いいなずけ》、ってことですね?」
すかさずお多香が口をはさむ。
「うん」
「その、許婚者殿とは?」
「わけあって、遂に結ばれることはなかったらしい」
「まあ……」
「しかし、それはまた、何故?」
思わず、身を乗り出し気味にして、廉十郎は問うた。問うてしまってから、しかし彼は、深く己を恥じていた。愚劣な興味本位も、遂にここまで極まったか。
(俺らしくもない!)
廉十郎は激しく己を叱りつけた。
が、それでも聞きたい気持ちに変わりはなかった。
「私が生まれるよりも、ずっと昔の話じゃ。詳しゅうは知らぬ」
呆気《あっけ》ないほど明快すぎる、桜子姫の答えであった。
(大家殿と話し込んでいて、すっかりときのたつのを忘れてしもうた。……姫様が、さぞや心配なされているだろう)
帰路につく楓の足は無意識に速まる。
こんなときは、少しく堀端に沿って進み、一丁目の徒士《かち》長屋裏手を二丁目方面へ抜ける近道を辿るに限る。桜子姫とともに上屋敷を出奔《しゅっぽん》し、市井《しせい》に暮らすようになって早一月あまり。この界隈の地理にもすっかり通暁するようになった。
(それにしても、大家殿は……)
楓は、最前まで徳右衛門と交わした会話をふと胸に反芻《はんすう》し、薄く思い出し笑いしてしまう。
(古稀《しちじゅう》も近いこのばばをつかまえて、『いつもお若い』などと、見えすいた世辞を……)
見えすいたお世辞と頭ではわかっていても、自然と顔がほころんでしまうのだから、確かに楓も、まだまだ若い。
「もしもし」
「ちょっと」
「ごめんなすって」
つと、複数重なる野太い男たちの声に呼び止められた。
楓は、たちどころに心地よい回想から醒め、我に返る。足を止めて顧みれば、腕まくりをした与太者風の若い男が三人、仲の良さを見せびらかすように肩を寄せ合い、雁首《がんくび》を揃えている。大の男が三人も肩を並べれば、それだけで道幅がいっぱいに塞がれてしまう、狭苦しい路地なのである。たちの悪い破落戸《ごろつき》が堅気の衆を脅すには、ちょうど手頃な場所でもあった。
「なんじゃ」
楓はジロリと相手をひと睨み。
それぞれ、右頬、左頬、額、と――まるでそれぞれの個性を主張するように刻まれた向こう疵《きず》の髭面《ひげづら》が三つ、卑屈な笑みを滲ませているが、楓は怯《ひる》まない。
「いえね、ものは相談なんだがね――」
「相談つうか、まあ、お願いなんだけどねぇ」
「その……なんてか、近頃とんとツキに見放されちまった哀れなおれたちに、ちっとばかり、施しをしてくださるおつもりはありやせんかね、お上品でお優しい、お武家のおばあさま?」
「さて、面妖《めんよう》な。……月に見放されたとは? そのほうら、一体いつから、明月を拝んでおらぬのか? 次の望月までには、まだ十日あまりも待たねばならぬが……」
眉間を険しく狭め、訝《いぶか》る表情を楓は強める。
「ふざけんなッ、このバ――」
「またまた、面白いご冗談をおっしゃるおばば様だ」
右頬疵の男が忽ち声を荒らげかけるのを、隣の額疵の男がすかさず制し、
「ま、その、俗に言う、手元不如意ってやつでしてね」
唇の両端をだらしなく歪めるニヤニヤ笑いの度を、一層強めた。
「それがどうした? このばばに、なんの関わりがあろうぞ?」
「まあ、そう言わずに、ちょっとばかり、都合してもらえませんかね? 一両でも二両でも、かまわねぇんですがね」
「はて、これはいよいよ異なことを聞く。何故見ず知らずのそなたらなどのために、わしが金子《きんす》を都合せねばならぬのか?」
「わからねぇババアだな、痛ェ目見たくなかったら、金だせって言ってんだよ!」
右頬疵の男が、気短な性らしく、とうとう堪《こら》えきれずに怒声を放ったから、たまらない。
「たわけめッ!」
頭ごなしに、楓は一喝した。
「うぬら、五体満足な体に生まれながら、正業にもつかず、遊びほうけた揚げ句に、見ず知らずの者に金を無心するとは、何事ぞ! 恥を知れい!」
三人の与太者が、楓の威に打たれたのは、ほんの一瞬間のことだった。
「この、クソババアがッ」
「痛ェ目にあわねぇと、わからねぇらしいな」
残りの二人も、揃って卑屈な笑みをかなぐり捨て、罪人であることを示す二の腕の刺青《いれずみ》をこれ見よがしにひけらかしながら、ここを先途と喚《わめ》きたてた。
が、もとより恐れをなすような楓ではない。
「笑止!」
ひと声高く叫ぶやいなや、両手に抱えた風呂敷の包みを背後に投げ捨てると、
「齢古稀《よわいしちじゅう》のばばあと思うて見損なうでない! かつては新陰流の門に学び、小太刀の奥義をも極めたるこの切《き》っ尖《さき》、うぬらごとき、不逞の輩《やから》に躱《かわ》せるものではないと知れいッ」
帯にさした茶色い繻珍《しゅちん》の袋から、素早く懐剣を引き抜いた。
切《き》っ尖《さき》を向けて逆手に構え、左手を、そっと右手首に添えてゆく。剣の構えで言うなら、さしずめ、小霞《こがすみ》。血気に逸《はや》って真っ正面からかかってくるなら、その無防備な喉元を突くことなど、楓にとっては造作もない。
「さあ、いでや、悪党ッ!」
年齢など僅《わず》かも感じさせずにしゃきっと背筋を伸ばして立つその姿、一分の隙《すき》もない使い手とおぼゆ――。
が、如何《いかん》せん、技の修練を行ってから今日まで、あまりに長い歳月が経ちすぎている。
隙のない構えの中で唯一つ、その、肝心の足下だけがおぼつかぬことを、与太者どもは目ざとく見抜いた。
「ケッ、笑わせらあ!」
「年寄りの冷や水はたいがいにしときなッ」
「だまって、財布ごとわたしゃあいいんだよ」
髭の濃い半顔を、まるで嚔《くしゃみ》のあとのようにクシャクシャに歪ませながら、男たちが大股で近づいたときである。
彼らの背後から、一個の小石が投ぜられた。
どういうつもりか、それは、楓をめがけて投げつけられた石だった。顔の真っ正面に飛んで来る石を避けるために、彼女はその場で大きく腰をひねり、身を躱さねばならなかった。
折しも楓がその所作を行ったと同じ瞬間、三人の中の真ん中にいた額疵の男が、
「ぶっ殺すぞ、このクソババア!」
罵声《ばせい》も激しく、拳を振りあげながら、彼女をめがけて真っ直ぐ来るところだった。しかし、楓が斜めに身を躱したため、彼は肝心の目的物を失い、背後に聳《そび》える板塀に、頭から激突する羽目に陥った。それと殆どときを同じくして、側面から迫り、楓の左袂をひっ掴《つか》まんとしていた男は、少しく蹌踉《よろ》けざまの彼女が、右から左へ軽く振った刃の尖に、偶然その右頬を切り裂かれねばならなかった。
「ぎゃーあ、いてぇッ」
島帰りの悪党にしては、存外可憐な悲鳴であった。
やや遅れて、楓のもう一方の側面を狙おうとしていた右頬疵の男は、仲間の流した血に怯え、完全に度を失った。
「うわァーッ」
直ちに踵を返し、逃げ出そうとした方向に、運悪く、人がいた。しかも、武士。
「か弱き婦女子を強力《ごうりき》にて脅さんとする不届き者ども!」
かなり年老いたりとはいえ、腰に佩《お》びた二刀は伊達じゃないとばかり、矍鑠《かくしゃく》として、既に刀を抜き放っている。
「ひっ……」
高く大上段に振りかざされた切っ尖が、その鼻面へと振り下ろされるのを待たず、男は再び踵を返した。そして、頭部を強打してのたうつ仲間や、傷ついた頬を押さえて蹲《うずくま》る仲間のことなど一顧だにせず、全身を射放たれた矢の如く変えて、楓の横を擦り抜けた。そのまま、全速力で走りだす。乾いた土を激しく蹴立てる足音は、ひとたまりもなく、路地の外へと遠ざかった。
それに気づくと、それまでのたうったり苦悶したりしていた他の二人もすっくと立ち上がり、あとをも見ずに駆け出して行く。言わずもがな、右頬疵の男が走り去ったと同じ、路地の入口を目指して。
「お怪我はござらぬか?」
楓がしばし呆気にとられていたところへ、もともと皺深いその顔を、さも人の好さそうな微笑で一層皺だらけにしながら、件《くだん》の老武士がやって来る。
(なにをぬかすか――)
という目で、楓は厳しく老武士を睨んだ。
助けられたなどとは、夢にも思わない。先刻、楓に向かって石を投げたのがこの老人であることは、最早《もはや》明白だった。一つ間違えば、力いっぱい投げられた石は楓の眉間に当たり、いまごろ板塀の前で悶絶していたのは楓のほうだったかもしれないのである。
「楓殿」
(え?)
視線に含んだ険しさを消さぬまま、楓はギョッとして目を見張った。当然、夜中に厠《かわや》の前で幽霊にでも出くわしたような表情になる。
「楓殿であろう? お懐かしゅうござる」
「失礼ながら、そなた様は?」
問い返しながらも、楓は相手を熟視して、必死で記憶の糸を手繰ろうと努めた。
年をとることの無念さを、これほど恨みに思うのは久しぶりだった。皺と埃に被《おお》われた翁面《おきなめん》のような老爺《ろうや》の顔を、いくら心をこめて丹念に、嘗《な》めるように凝視しようとも、楓の中には、毛筋ほどの想いも甦《よみがえ》ってはこなかったのである。
仕方なく、相手が身に着けた黒綸子《くろりんず》の紋服の、その左三つ巴《どもえ》の紋所から、彼の正体を推し量らんと試みたとき――。
「思い出されぬか……いや、無理はなかろう」
老人は、やや遠慮がちに伏せられたその目のあたりに、一抹寂しげな色を過《よぎ》らせてから、
「小寺甚内《こでらじんない》でござる」
折り目正しく一礼し、些《いささ》か芝居がかったかたい口調で名乗ったのだった。
「団子はいかがでござる? ここの団子は美味いと、近所でも評判でござるが」
「いいえ、団子は結構でございます」
楓は静かに首を振った。
以前、団子の食い過ぎでひどい腹痛に襲われた折の記憶が体に甦り、嫌悪感が喉元までこみあげた。チラッと想像するだけで、吐き気がする。
「では、茶を二杯所望じゃ」
甚内は、短く店の小女に命じた。
楓は興奮の極《きわみ》にあった。
かつて城下を歩けば、苦もなく娘らの視線を釘付けにし、その心を蕩《とろ》かすことのできた美男の面影がいまはどこにもなく、見知らぬ別人としか思えない。着物の黒色に映えた白髪の見事さが、彼の身に過ぎた歳月の多さを物語っていた。それでも、いい。それでも楓には充分だった。楓は、傾きかけた赫光《しゃっこう》に向かう物静かな横顔に、往年の彼の人となり、当時の自身の想いを、容易《たやす》く重ね合わせることができた。
(おお……なんという偶然! まさか、このお方と、生きて再びまみえるとは……)
その瞬間。
楓の心はあらゆる感慨に耐えきれず激しく震え、崩れ落ちてしまうかに思われた。
「路地の奥から貴女《あなた》のお声が聞こえてきたとき、儂《わし》にはすぐにわかり申した。……元気のよいところも、貴女はちっとも変わらぬな」
まるで揶揄《からか》うような甚内の言葉には、少なからず胸が傷まぬでもなかった。
「あなた様は、すっかりお変わりになられましたようで――」
だから殊更《ことさら》、相手が傷つくような言葉を選んだ。
「あれから、何方《どなた》かに嫁がれましたのか?」
「…………」
しばし答えをためらってから、
「いいえ」
観念したように、楓は首を振った。
「では、何故《なにゆえ》のご落飾か?」
当然生まれ出るべき次の問いは、だが、遂に甚内の口からは発せられなかった。
「あなた様は?」
代わりに楓が、問いを発した。
「奥方様は?」
「おりませぬ」
甚内は答えをためらわなかった。
「先年病にて身罷《みまか》り申した」
「然様《さよう》でございますか」
軽く頷《うなず》き、なにげない言葉を口にしながら、このとき楓の胸には万感の思いがこみあげていた。だが、それを堪えて、
「江戸には、いつから?」
更になにげない問いを、彼女は口にした。
「もうかれこれ、二十年ほどになりますかな」
「あれから、他家へご仕官なされましたのか?」
「ええ。……いまは気楽な、隠居の身でござるが」
「お子様は何人おいでになります?」
「二人でござる。……今年の正月、次男の嫁に、二人目の子が生まれ申した」
「それは、おめでとうございます」
それから先は、他愛ない近況報告と世間話になった。
話しながら、楓はぼんやり、茶店の店先から望める土手の柳を見つめていた。夕暮れの柔らかい残り陽の中で、音もなく風に揺らされる柳の葉を見ていると、心なしかこちらの身にも一陣の涼風の吹き込む心地がした。
孫の話題になると、甚内は俄《にわか》に多弁になり、楓が内心|辟易《へきえき》するほどの勢いで喋《しゃべ》りまくった。専《もっぱ》ら聞き役に徹しながら、楓はふと、甚内の年齢を考えた。
二番目の子が生まれたばかりという彼の次男は、おそらく二十代後半か三十代前半という年頃であろう。長男は、それより更に五つ六つ年上としても、どちらも甚内が四十を過ぎてからの子であることに間違いない。
(どうやら甚内殿は晩婚であられたようじゃ)
そんなことを、チラッと頭の片隅で思いながら、楓は甚内の面上に視線を戻した。
思わず、目を閉じてしまいたかった。二度と戻ることのない歳月と、やりきれぬ悲しみのあかしが、そこにあった。
3
刃にふった打ち粉を、そっと懐紙に拭いとってから、桜子姫は、刀をすぐに鞘《さや》には戻さず、しばし燭火に翳《かざ》して、じっと見つめた。
山城鍛冶《やましろのかじ》、宗近《むねちか》。『名物三日月』と銘される、稀代の大業物《おおわざもの》だ。
鋩子《ぼうし》の先から見事に浮き出た小乱《こみだれ》の刃文が、まるで計算され尽くした幾何学模様でもあるかのように美しい。地鉄《じがね》は、僅かの乱れも見せぬ正調|柾目肌《まさめはだ》。
四条天皇の御剣と言われる『小狐丸』の作者、三条宗近の手になる平安時代の古刀である。戦国期以降、刀は、切れ味の優れる備前物が珍重されるようになったが、芸術的な美しさでいえば、粟田口《あわたぐち》という一派の祖を生んだ山城鍛冶のものが、数段勝る。脇差《わきざし》として彼女の使用する堀川国広などは、同じ山城鍛冶でもずっと後世の、桃山時代の作で、如何《いか》にも実用本位という感じがする。見比べてみれば、その品格の差は、一目瞭然である。
森家重代の家宝であり、本来ならば、藩主の御座所である陣屋の白書院の床の間に飾られているべき優雅な白銀《しろがね》鞘の名刀に、あろうことか桜子姫は、既に何度か人の血を吸わせた。
国許《くにもと》で病床に就いているはずの父がもし知れば、蓋《けだ》し卒倒することであろう。
「のう、楓――」
刀身に目をやったままで、桜子姫はつと、背後で、お点前《てまえ》に用いた志野焼きの茶碗を懸命に磨いている楓に呼びかけた。
楓からの返事はなかった。ぼんやり考え事でもしていて、桜子姫の声が耳に入らなかったものらしい。
「楓?」
「は、はい」
楓は慌てて、顔をあげる。
両手で大事に包み込んだ茶碗の中に、五十年前の甚内の顔が映って見え、桜子姫によって忽ちかき消されたところであった。まるで悪さを見つかった悪童のように、なんとかそれをとりつくろわねばならぬ、と焦った。
「お、お茶でも淹《い》れまするか?」
「茶は、いまさっき飲んだばかりではないか」
「そ……そうでした」
「どうした、楓?」
刀を鞘へおさめ、刀架に戻しざま、桜子姫はクルリと楓を振り向いた。
「は? どうした、とは、如何なるお尋ねのご用向きでございまする?」
「用向きではない」
大真面目な顔で桜子姫は首を振った。それからしばし瞑目《めいもく》し、なにごとか黙考する様子を見せてから、
「のう、楓――」
急にしんみりした口調で、桜子姫は切り出した。
「我らは、お家の危急を救わんがため、こうして上屋敷を出奔し、ともに臥薪嘗胆《がしんしょうたん》の日々を送っておる。……大義のために、ともに、手を携えてゆかねばならぬのじゃ」
「はい」
一体なにが言いたいのだ、という不審を孕《はら》んだ目で、楓は桜子姫を見つめ返す。
「楓には、申し訳ないと思うておるのじゃ。……我が家の大事のために、既に老齢であるそなたを、このような危険なことに巻き込んでおる……本当に、申し訳ないと……」
「なにを仰せられます、姫様、このばばは、一度《ひとたび》姫様にお仕え申し上げました日から、既に残り少ないこの命、すべて姫様に捧げたつもりでおりますものを!」
「わかっておる。我らは一心同体じゃ」
「もとより!」
「では、隠し事は……よそうではないか」
いつになく気弱な口調で言い、桜子姫は軽く目を伏せた。言葉のうちに、なにか一抹、後ろめたさを秘めている証拠であった。しかし楓は――楓は楓で、このときの桜子姫の言葉に多大な打撃を受けたがために、二十年近くのあいだ、一日とて欠かさず眺め暮らしてきた人の表情をすら見落とした。
「か、隠し事など……このばばは、なにも……」
「この数日、そなたの様子は明らかに変じゃ」
「…………」
「私には言えぬようなことか?」
「姫様!」
遂に思い決したというように、楓は桜子姫の前に両手をつき、ガックリと頭を項垂れさせた。
「お許しください、姫様。……楓は……楓は……」
「は、話してくれようか?」
桜子姫は、小さく膝を乗り出して問う。
「はい、実は……私には、以前、偕老同穴《かいろうどうけつ》の契りを結ばんとした殿御がございました」
「なに、偕老同穴とな?」
「出会《でお》うたのでございます」
「だ、誰と?」
「その……殿御と、ほんの数日前に、この江戸の市中にて」
「その、偕老同穴の殿御とか?」
「はい」
「大家……徳右衛門殿ではないのか?」
「は? 徳右衛門殿が、どういたしましたので?」
「い、いや……別に……。それで、その殿御とはどうなったのじゃ?」
「しばしの間、昔話をして、そのまま市中にて別れました」
「互いの住まいは教え合わなんだのか?」
「はい」
「そうか」
桜子姫は、小さく嘆息した。
「五十年も昔の、古い話でございます」
真実を語ったことで、すっかり気持ちの落ち着いた楓は、もう桜子姫の表情を読み違えはしなかった。
楓は沈黙し、小難しげに目を閉じた。
桜子姫がいま最も知りたがっている彼女の昔話を話して聞かせるには、楓自身が、自らの過去を反芻し、きちんと整理してみる必要があった。そして、肝心の記憶を隅々まで甦らせるには、少しくときが必要だったのである。
楓と、小寺甚内との婚約が調ったのは、それぞれが、十八と二十五の齢《とし》のことであった。
娘の十八といえば、決して若すぎるとは言えないが、当時から城勤めを経験し、その際《きわ》だった才気を、先代の未亡人からも愛されていた楓は、そのため婚期が少々遅れた。
楓の父は、勘定奉行という藩の要職にあり、甚内の父は、ほぼ同格の普請奉行だった。
甚内は、幼い頃より文武両道に優れ(とは楓自身の語ったことだが)殊に剣の腕にかけては、十代の末年、武者修行の目的で諸国|行脚《あんぎゃ》の旅にでたこともあったくらいだから、当然藩内では彼の右にでる者がなかった、と言う。その上、秀麗|且《か》つ端正なその容姿も手伝って、城下に住む年頃の娘で、彼に憧れぬ者はなかったほどだ。(と楓は言う)
かたや、文武に優れた藩内一の色男。かたや、評判の才女。似合いの夫婦になるはずだった。親同士のあいだで決められた縁組ではあったが、二人は互いに、激しく相手を恋い慕っていた(のだ、と楓は言う)。
人目を忍んで(許婚者とはいえ、双方|躾《しつけ》の厳しい家に生まれ育っていたから)彼らはよく、陣屋の裏手の、椈《ぶな》の木の森の中で逢引をした。秘密の逢瀬を重ねながらも、やましいことはなにもなく、ただ将来の夢や他愛もない世間話を語らうだけの逢引だった。そうした逢瀬を繰り返しながら、彼らは、婚礼の日を指折り数えて待ち侘びた。
だが、待ちに待った彼らの婚礼は、終《つい》ぞ行われることがなかった。
普請奉行である甚内の父が、陣屋の普請に関して不正を行っていたという事実が暴かれ、彼の一家は、藩を去らねばならなくなったのである。
「私も一緒に、お連れくださいませ」
既に心は、彼と夫婦になったつもりでいる楓は、当然甚内の袖にすがって懇願した。
「いや、父は罪人として処断され、拙者も同罪に問われておる。このような男と一緒にまいられても、そなたは幸せにはなれぬ」
甚内はにべもなく撥ねつけた。
「いいのです、それでも!」
「いいや、ならぬ。……そなたは、誰か別の相手と幸せになってくだされ」
「いやです、甚内様ッ」
「さらばだ、楓殿」
涙ながらにすがる女を振り切って、男は去った。
それから、幾星霜のときが流れた。
女は、男が言うように別の結婚相手を見つけて幸せになるという道を選ばず、遂に結ばれることのなかった許婚者に終生の操をたて、髪をおろした。
それが、いまから五十年ほど前のことである。
4
「よくある話だ」
という感想はあえて漏らさず、廉十郎は、すべて聞き終えてからも、なお沈黙を守っていた。
聞く前には、あれほど興味があった話題なのに、すっかり聞いてしまったあとでは、嘘のように心が醒めている。年寄りならば、誰でも一つや二つは必ず持っている、ありふれた昔話などを、子供のように聞きたがった自分が、いまではひどく呪わしいものにさえ思えた。
(つまらぬことを聞いてしまった)
黙っていると、冴えた眉間のあたりに、次第に濃い焦燥の色が滲んだ。
(俺としたことが……)
口中に含んだ酒の味が、やや苦くも感じられた。
すべてを語り終えて、ホッと一息ついたばかりの桜子姫の顔を見つめていると、周囲の人声が、俄に耳に飛び込んでくる。一座に齎《もたら》された沈黙は、廉十郎の心をいやでも重くした。
「お乳母様は、いまでもその、小寺ってお侍のことが、忘れられないんですね」
鍋に残った泥鰌《どじょう》の一尾の、その最後のひと口を呑《の》み込んでから、やおらお多香が口を開いた。
「何故、そう思うのじゃ、お多香殿?」
喋るのに忙しく、最後の一尾を食べ損ねた桜子姫は、それ故、やや無念の残る目でお多香を見つめつつ問い返す。
「だって、思いつめた揚げ句、とうとう髪までおろしちまったそのお相手でしょ。偶然町中で出会ったってんなら、相手の居場所くらいは知りたいと思うのが人情ってもんですよ。それを、聞きもしないで、そのまま別れたってことは、できれば二度と会いたくはない、ってことじゃありませんか」
「その会いたくないと思う相手を、楓はいまでも慕うておると言うのか?」
「そう思いますね」
「面妖な」
「だって、会えばお互いに、昔の、きれいな思い出ってやつが壊れちまうかもしれない。だから、いまのその人に、お乳母様は会いたくないって思うんじゃないですか。……それって、いまでもその頃のことを……その人を忘れられずにいるってことですよ」
「成程」
桜子姫が納得顔に頷いたとき、どこかで、ときを告げる鐘の音が、四つ、鳴った。
「いけない、小屋のあく時刻だ」
お多香はハッと口走り、そそくさと腰をあげると、
「食べだちで悪いんですが、あたしは行かせてもらいますよ」
言う間も惜しんで踵を返した。昼時で、足の踏み場もないほどごった返した店内を見る間に小股で走り抜け、さっさと門口へ向かって行く。
「勝手な奴だ」
その背をしまいまでは見送らず、苦々しくも廉十郎は呟いた。それからチラッと視線を戻し、桜子姫の面上に浮かぶ無念と未練の色を確かめた。
「どうかな、姫、もう一人前、泥鰌を食されるか?」
「いただきます」
ためらうことなく、桜子姫は答えた。
廉十郎は、忙しく店内を行き来する小僧の一人を呼び止めた。酒と泥鰌鍋一人前とを追加注文すると、それが席へ届くまでのあいだ、差し向かいの二人には、格別交わすべき言葉もない。居心地の悪さに耐えるため、廉十郎は極力目を伏せていた。
彼らの周囲の席は、お勤め途中の岡っ引や職人、湯屋帰りの若旦那、遊び人たちなどで隙もなく占められ、箸と皿とが触れ合う音、盆と人とのぶつかる音――それに無意味な笑い声などで、耳を覆《おお》いたくなるほどの喧噪に包まれていた。
話し疲れて寡黙になった桜子姫と、殊更口にすべき言葉を持たない廉十郎とのあいだに流れる小さな静寂は、それらの喧噪の中にあって、いっそ異様なほどだった。
「ところで――」
ふと、廉十郎は視線をあげた。
驚いたことに、桜子姫は真っ直ぐな視線で、絶えず彼のことを見据えている。
「お乳母殿は、どうしておられる?」
あまりに直《す》ぐな桜子姫の視線に、内心ひどくドギマギしながら――しかし、さあらぬていで、廉十郎は問うた。
「大家殿の許へ、使いに出しました」
桜子姫が応じたとき、泥鰌のあまりすらろくに貰《もら》っていないかのように痩せぎすな小僧の手によって、一本の燗酒《かんざけ》徳利と泥鰌鍋とが、彼らの席へ齎された。
あとは、互いに無言で、飲み、そして食べればよい。
(あの乳母殿が――)
手酌で盃を重ねながら、廉十郎は思った。
矢張り、昔の男に再会したことで、未《いま》だに気が動転しているのであろう。そうでなければ、あのご忠義一筋の乳母殿が、こうも度々、大事な姫君の身辺を離れるわけがなかった。
(いや、或いは……)
すると、最前お多香の言い残した言葉が、妙に気になりだしたから不思議であった。
「お乳母様は、いまでも小寺ってお侍のことが、忘れられないんですね」
と、お多香は言い、それには廉十郎も内心同感だった。
忘れない、ということは、即ち相手に、未練があるということだ。が、未練はあっても、二度とは会わない。そういう、愚直なまでのけじめのつけ方が、如何にも頑固者の乳母殿らしく思えて、チラッと好感をおぼえたのだが、どうやらそれも、彼の勝手な思い過ごしだったかもしれない。
案外桜子姫を出し抜いて、こっそり小寺甚内とやらに会いに行っている楓の狂喜を思い、廉十郎は苦笑したくなった。が、苦い酒で口中を潤し、かろうじてその欲求に耐えた。
お家大事の烈女と雖《いえど》も、四六時中緊張の糸を張り巡らせているわけにはいかない。たまには気を弛めてひと休みすることだってあるだろう。そんな当たり前のことが、廉十郎にはひどく滑稽《こっけい》に思え、思わず笑いを堪えたのだった。
「たまには、上総介殿のお好きな賭場とやらを見てみたい」
と言う桜子姫を持て余しながらも、しばし連れだって、広小路を歩いた。
依然酷暑が続いているといっても、そろそろ八月も末である。ふとしたことで陽が翳《かげ》り、微風が柳の葉を揺らしたときなど、素肌に齎される清涼感が心地よい。漸くにして初秋の香りを漂わせつつある街路の様子に目をとめながら、廉十郎は無言で歩いた。桜子姫も黙っている。忙《せわ》しなく人々の行き交う雑鬧《ざっとう》の中をかき分けて進みながらも、彼らを包む雰囲気はシンとして、不思議と沈み返っている。
ふと、往来の一角に、廉十郎は足を止めた。
「いかがなされた、上総介殿?」
「…………」
廉十郎の視線が、通りに面した、とある骨董品屋の店先へと釘付けになる。
仕立てのよい仙台平《せんだいひら》の袴《はかま》に、黒綸子の紋服という姿で、お供の中間《ちゅうげん》を一人連れた、大身《たいしん》の老主人風の武士が、いまゆっくりと骨董屋の店先へ入って行く。その老武士の容貌に、廉十郎は些かの見覚えがあった。すぐには誰と思い出すことができなかったので、合点がゆくまで、しばし立ち止まって考え込むことになる。
「あの、骨董屋になにか?」
「いや……骨董屋ではなく、いま店に入って行った老人のほうに……」
「お知り合いか?」
「そういうわけではないのだが……」
廉十郎の言葉尻はいつになく煮え切らないものだった。
「見忘れてしまわれたのか?」
「ええ……まあ」
「では、我らもあの店に入ろう、上総介殿」
「え?」
至極あっさり提案されて、廉十郎は面食らった。
「顔を見せれば、先方のほうで上総介殿を思い出してくれるかもしれないし、もしあちらも上総介殿を思い出せぬようなら、客のふりをして暫《しばら》く店先に居座り、あちらが店を出たあとで、店の主人に、相手の姓名を問えばよいではないか」
「…………」
「さあ」
桜子姫に促され、廉十郎は渋々従った。平素の彼なら、そんな見えすいた擬態を装うものではないが、些か気になることもあり、どうしても、その老武士の正体を知りたく思ったのだ。
桜子姫と廉十郎の二人が薄暗い店内に入ってゆくと、老武士と主人の話もそろそろ終わりかけているらしく、老武士は、半ばその腰をあげんとしている。
「それでは、宜《よろ》しく頼む」
店内の棚に、幾つか無造作に並べられた象嵌《ぞうがん》の煙管差《きせるさし》や、古い蒔絵《まきえ》の手箱、縁に罅《ひび》の入った染付の碗などを手にとって見るフリをするほどの時も要さず、立ち上がりざまに老武士は告げた。三十がらみで、どことなくやさぐれた風貌の中間を引き連れた老武士が店を出て行き、往来の人波の中に消えるのを待ってから、桜子姫と廉十郎とは、揃って帳場のほうを振り向いた。
主人は、年齢は五十がらみだが、まるで中国の書画に描かれる童子のように、無心で欲の少ない顔をしている。木箱から取り出したばかりの黒っぽい天目《てんもく》茶碗を、子細に眺めまわしているところだった。おそらく、たったいま、老武士が置いて行ったものに違いない。
「ちと尋ねるが――」
桜子姫が近づいてゆくと、主人はハッと顔をあげ、やや訝しげな目つきで、彼女と廉十郎とを見比べた。当然だろう。錦絵から抜け出たかと思える派手な装いの姫君と不逞の素浪人。連れ立っているのが、如何にも不自然な二人連れである。しかし桜子姫は、もとより相手の抱く感情などには頓着せず、自分の問いたいことを問う。
「いまの御仁は、何処《どこ》の何方じゃ?」
「はあ?」
「いましがた、その天目を置いて行かれたお方じゃ。昔の知人によう似ておいでだった故」
「そうでございますか。……確か、神田は松下町のあたりにお住まいのお武家様で、小幡様とか……」
「顔身知りではないのか?」
チラッと視線を厳しくしながら廉十郎が問うと、
「はい。本日ただいま、はじめてお見えになったお客様でございます」
主人はやや不安げに眉を曇らせた。
童子顔に相応《ふさわ》しく、極めて素直な生まれつきであるらしかった。
「その天目を、売りに来たのか?」
「いえ、お売りになろうというのではございません」
「では、なんだ?」
少しく鋭さの宿る語気で問われ、主人は一瞬間考え込む様子を見せた。見ず知らずの浪人者が何故そんなことを問うのか、また、問われたことに、何故自分が答えねばならぬのか、しばし真剣に悩んでいる風情だったが、別段言うのを憚《はばか》る内容でもあるまいと判断してか、
「実は――」
やがて唇辺に笑みさえ浮かべて口を開いたとき、おそらく従来の彼の本性と思われる、ひどく明るい表情が、その満面にひろがっていた。
桜子姫と廉十郎とは、ともに黙って、彼の話に聞き入った。
5
「楓殿」
不意に背後から名を呼ばれ、その聞き覚えのある男の声音に、陽気な胸騒ぎをおぼえながら振り向くと、案の定小寺甚内である。
「甚内殿……」
正直言って、驚いた。
甚内のことを物思うていた、その矢先のことだったのである。過日、二度と会うまいと心に決め、あえて住処《すみか》を聞かずに別れたものの、楓には、矢張り甚内のことが気になってならなかった。
廉十郎の看破したとおり、桜子姫の身辺を離れ、こうして一人で行動していれば、或いは再び、市中で彼に見《まみ》えることができるのではあるまいかという、些かセコい目論《もくろ》みが、子爪の先ほどもなかったとは言い切れまい。
「不思議なものじゃ……」
「なにがでございまする?」
互いに目顔で促し合い、道端に身を寄せながら、二人は視線を交わした。
「先日偶然、そなたと出会うてから、儂は、そなたのことが気になって気になって仕方なかった。気持ちというものは、確かに通じるものらしい。こうして再び、巡り会えたのですからな」
「私も、そう思います」
とは言わず、楓は、ただ黙って、甚内を見つめる視線の中に力をこめた。自らを強く保っておかねば、頭の芯から朦朧としてきて、いまにも両の足が地を離れてゆきそうな錯覚に耐えられそうになかった。既に往年の輝きを失って久しい楓の両頬が、紅でもさしたような色に染まりかけていた。
「急いでおられるか?」
「姫に言いつけられたお役目の途中でございます故、一刻も早く、戻らねばなりませぬ」
「では、お屋敷までお送りいたそう。……その帰途にて、ゆるゆると話をするくらいなら、お役目の障りにはなりますまい?」
「いえ、その……思えば役目は、既に果たしておりまする。……それほど急がねばならぬ理由は特に……」
いつになく気弱げに口ごもりながら、楓は考えていた。既に藩を去って久しいこの男に、現在桜子姫と自分の置かれた境遇や藩内の状況を、詳《つまび》らかに語るべきか否かということを。
南町同心・佐々岡源三は、彼の外見的特徴の半ば以上を占める、そのあまりに尖鋭すぎる両眼を、一層|剣呑《けんのん》にギラつかせながら、
「畜生、くだらねぇ。……くだらねぇんだよッ」
湧き起こる怒りを、くどいほど露《あら》わにした。
手先の辰吉は、もういい加減慣れっこなので、今更|宥《なだ》める気もしないとばかり、明後日《あさって》のほうを向いたまま、黙々と飯を食らっている。
「だいたいな、子供|騙《だま》しのこんな手口に、あっさり騙されるほうが悪いんだ。奴ら、あわよくばひと儲けしてやろうなんてェ、小汚ェ魂胆でいやがるから、つまらねぇ騙《かた》りにひっかかりやがるのよ」
「でも、それにしたって、なかなかの連中じゃありませんか、旦那」
ある程度酒が進んで、大半目つきの据わった佐々岡に対し、こんな狎《な》れ口をきいても、五体無事でいられるのは、物事の理非も弁《わきま》えぬ子供か、老人――或いはとびきりの美女くらいなものだろう。酔うと手のつけられない男だが、どこまで飲んでも、最低限の理性くらいは保つことのできる男だ、佐々岡は。それを承知で、お多香も大胆なからみ方をしているのである。
「申し合わせた一方が、まずはおとりのブツで店の主人を釣る。『殿様に拝領した大事な組茶碗を、うっかり壊してしまった。もとより、どこにでも転がっているという品ではないが、そこは人の作るものである。万が一、同じものが世に出回っていないとも限らぬ。期待はせぬが、もし同じ品が手に入れば、金に糸目はつけぬので是非探して欲しい』ってんでしょ。立派なお武家がそんなことを言ってきたら、町屋の古道具屋の爺《じじい》が騙されちまうのも無理ありませんよ。で、それから何日かして、今度はもう一方が、それと全く同じ品を持って、その古道具屋にやって来る。『家宝の茶碗だが、背に腹は代えられぬ。但し、十両以下では決して売らぬぞ』ってね。爺は、しめた、と思うわけでしょ。十両で引き取ったって、そのあと五十両でも百両でも、そのお武家に、好きなだけふっかけりゃいいと思ってんだから」
「騙されるほうが馬鹿なんだ。……考えればすぐにわかることじゃねぇか。もし本当にご立派な大身の侍なら、家に出入りの道具屋ってのがいるもんだ。それを、なんでわざわざ、町場の古道具屋に持ち込む必要がある」
「ま、そりゃそうでしょうけど……けど、今月に入ってもう五軒も、同じ手口でやられてるんでしょう?」
「くだらねぇ話さ」
吐き捨てるように言って、佐々岡は、実際そのあと、口中の唾を、
ベッ、
と店の土間へ吐き捨てた。
お多香は小さく肩を竦める。
丼の飯を食い終えた辰吉が、紙のような顔色をして、ぼんやりお多香を見つめている。
お多香は苦笑を押し隠し、
「旦那も、ご苦労が絶えませんねぇ」
中身のすっかり冷えた徳利の首をひょいとつまみあげた。きっちり彼の手中に握られたまま、絶えず小さく震え続けている佐々岡の猪口《ちょこ》の中へ、慣れた手つきで注いでやる。佐々岡、ものも言わずにグイッとひと息、敵討ちでもする勢いで、それを飲み下す。
「それじゃあたしは、そろそろ失礼させていただきますよ。……明日はお不動様の縁日で、小屋の開くのが早いんでね」
辰吉が、彼女を見てなにか言いかけるのを黙殺し、お多香はさっさと腰をあげた。佐々岡はお多香のほうなど見向きもしない。
「酒だ! 酒がねぇぞッ」
店の奥で洗い物をしている主人に向けて喚く佐々岡の大声を背中に聞き流しつつ、お多香は『たこ屋』をあとにした。縄暖簾《なわのれん》を肩先に撥ねあげて外に出る際、店の外の辻行燈《つじあんどん》の陰で待つ廉十郎と、奇《く》しくも目が合った。
「そんな……もうこれで最後にするという約束だったではないか」
老人の弱々しい声音が、それでも精一杯非難の色を含んで、路地の奥から聞こえてくる。注意して耳を傾ければ、ヒソヒソと呟かれる他の声音も、概《おおむ》ね廉十郎には聞きとれた。なにしろ彼の研ぎ澄まされた聴覚は、優に常人の二倍から三倍の能力を備えていたのである。
「今更そんなことが言えた義理か」
「これまでずっと、よろしくやってきたのではないか」
「なんなら息子に、洗いざらいぶちまけるぞ。『お前の親父は騙りの一味だ』とな」
「そ、それだけは……」
老人のもの以外、聞こえる声の種類は全部で三種。どれも三十から四十がらみと思われる低い男の声音である。
「ならば黙って、我らの言うことを聞いておればいいのだ」
「例のババアのほうはどうなった?」
「あの齢まで屋敷勤めを続けておるのだ。相当ためこんでいるはずだ」
「…………」
廉十郎は足音もたてずにそっとその場を離れ、二合目の酒を注文したばかりの居酒屋の店先へ戻った。
ほどなく店の者が運んで来た酢蛸《すだこ》を肴《さかな》に、しばし手酌で呑んでいると、やがて戻って来たのはションボリと肩を落とした老人が、一人きりである。今夜は仕立てのいい紋服姿ではなく、垢《あか》じみた鼠色《ねずみいろ》の木綿|袷《あわせ》を身に纏っているため、広小路の骨董屋で会ったときに比べると、段違いにうらぶれた感じがする。が、先夜稲荷下の路地で見かけた老人と、確かに同一人に違いないと廉十郎に確信させたのは、その服装の故である。どこか身の丈に合っていないような借り物の紋服よりは、そちらの普段着のほうが、本人には余程似合っている。
ゆっくりと元の席につき、じっと俯《うつむ》いて、孤独な一人酒を再開するまでのあいだ、老人は、すぐ向かい側にいる廉十郎のほうへは、チラとも視線を走らせなかった。もっとも、もし仮に、真正面から視線を合わせていたとしても、老人のほうでは、廉十郎の顔になど、些かの見覚えもなかったに違いないが。
老人の住まいは、浅草傅法院の北側の外塀に背中を接する蛇骨《じゃこつ》長屋の一部屋だった。
近所の者の話によれば、彼が長屋に住みついて、もうかれこれ十年以上にもなるということだった。また、或る者の話では、老人には、神田表猿楽町のあたりに、家族がいるらしい、とのことでもあった。それを聞いただけで、廉十郎には、老人の背負った事情の概ねが理解できた。
廉十郎は、老人の部屋の前まで足を運びながら、もとよりそこを訪《おとの》うつもりなどはなかった。ただ、ぼんやり明かりの灯る障子戸の奥で、湿った咳の音がするのを聞き届けたなりで、彼は、裏店《うらだな》の出入口である破れ木戸に背を向けていた。
(俺は一体、なにをしているのだ?)
孤影を緩く背後に曳かせて歩を進め出したとき、廉十郎の心に、哀しみにも似た自嘲が湧いた。
6
楓の様子が、いよいよおかしい。
凧張りの内職をしながら――或いは茶道具の手入れをしながらも、終日うわの空。食事もろくに喉をとおらぬ様子。
見かねた桜子姫が、
「どうした、楓?」
と話しかけても、確実に螺子《ねじ》の二、三本は弛《ゆる》んでしまったような顔を向け、
「はあ……」
とか、
「い……いえ」
とか、気のない返事をするばかりである。
つい今朝方も、井戸端で大根など洗っていて、すっかり泥が落ちたのになお気づかず、ぼんやりと洗い続けているものだから、金六の女房のおまさが、
「お乳母様がボケちまった」
と騒ぎだす始末だった。
桜子姫も、これには大方途方に暮れている。
「楓は一体、どうしてしまったのであろうか? まさか、おまさ殿の申されるとおり、本当にボケてしまったのでは……」
「まあ、そのようなこともござるまいが……」
廉十郎は口ごもらざるを得ない。
ボケたと言えば、ある意味でそう言えぬこともあるまい。世の中には、色ボケとか欲ボケとかいう言葉もある。楓の場合、一体、どのボケの分野に属するだろう。
「乳母殿は、姫に、なんぞ隠し事でもなされておるのではあるまいか?」
「楓が? まさか――」
行灯の火が明るく映えた瞳を、桜子姫は大きく見開く。廉十郎は全く動ぜず。
「しかし、ここ数日というもの、相変わらず、乳母殿お一人にての外出が続いておられるようだが」
「それは、大家殿のところや、内職の品の届け先に……楓が、是非にも一人で行きたいと申す故」
「是非にも一人で行きたがるのは、小寺|某《なにがし》とやらいう、昔の許婚者に密会するためとは思われぬか?」
「なに、密会とな?」
食い入るように廉十郎を見つめる桜子姫の面上に、忽ち驚きの表情が加わってゆく。
「別に不思議はござるまい。……色の道に、年齢は問題ではない、と仰せられたのは姫でござろう」
「不思議はないが……それなら、なにも、隠れてコソコソ密会などせず、そう申してくれたらよいものを……」
「それは――」
「私と楓の仲ではないか。水臭いにもほどがある」
「そうは言っても、姫とて、こうして乳母殿の寝静まった頃、こっそり拙者の部屋に見えられることを、乳母殿には内緒にしておられるではないか」
とは言わず、廉十郎は、益々《ますます》自らの身のうちに厳しい緊張を強い、端座した下肢のあたりに力をこめた。
緊張せぬわけには、ゆかぬのだ。
いまこの瞬間にも、彼の部屋の天井裏には、公儀お庭番・黒鍬《くろくわ》の左平次《さへいじ》がピタリとはりつき、匕首《あいくち》の尖よりなお研ぎ澄まされたその眼光が、寸刻とて気を許すことなく、姫と自分の様子を監視しているのである。もし万一、吉原《なか》に行きそびれて己《おの》が欲望のはけ口を見失った廉十郎が、間違っても姫を襲ったりしようものなら、いつでもその無防備な盆の窪《くぼ》へ、毒針の一本も打ち込む用意はあるのだぞ――との念を、これでもかとばかりにこめた目で。
「とにかく――」
ゆっくり結論を述べようとして、廉十郎は、口の中がカラカラに渇いていることに気づいた。
「一度、乳母殿のあとを|尾行《つ》けられてはいかがかな?」
よく口がまわらぬようで、もどかしい気がしたのは、張り詰めた緊張のせいばかりではなかったらしい。
(暑さのせいだ)
自らに言い訳してしまったとき、どうやら、桜子姫の直ぐな視線に長く見つめられていたせいらしいと感じ、喉の渇きは弥増《いやま》した。
尾行は、存外簡単なものだった。
それというのも、尾行けられている本人たちの、背後への気配りにはまるで無頓着、という絶大なる協力もあってのことである。楓と甚内の二人は、広小路を同朋町方面に向かい、そして、上野町を一丁目から二丁目に下る通り沿いを緩々と進む。やがて通りを左へ折れ、更に何本かの路地を抜けると、僅かに茂った雑木林の中ほど、一軒の古寺へと行き着くことになる。
どう贔屓目《ひいきめ》に見ても、仏が在《おわ》すとは到底思えぬ、鼠と埃と蜘蛛《くも》の巣の住まいでしかない。大方、博奕《ばくち》で作った借金のカタにご本尊を奪われた住職が、とっとと夜逃げを決め込んで、既に数年。或いは追い詰められた住職の怨念か、心ある檀家たちの恨みか。丑《うし》三つ時には、専ら「出る」という触れ込みの荒れ寺であろう。白昼と雖もその不気味さに変わりはなく、近づく者とて一人もないに違いない。
その傾きかけた半蔀《はじとみ》の格子戸を押し開けて、二人は堂内へと入ってゆく。
「なんだ、出会い茶屋ではないのか」
思わず漏らされた桜子姫の呟きに、内心ギョッとさせられながらも、廉十郎は冷めた目顔で、彼女に無言を促した。
本堂の階段の下まで行き、流石《さすが》にそれ以上近づくことがためらわれたとき、
「これははたして、如何なる仕儀にございまするか、甚内殿!」
楓の叫び声が、ところどころ大きく破損した本堂を突き抜け、雑木林じゅうに響き渡った。
「すわこそ!」
桜子姫は扉に飛びつき、格子の隙間から覗きこむ。殆ど反射的に廉十郎の体も同じ動きをして、桜子姫の背後から、薄暗い堂の中を透かし見ることになる。
堂内には、楓と甚内以外にも、数人の者がいた。よくよく目を凝らすうちにも、それらが薄汚れた浪人風体の武士で、廉十郎にとってはどれも見覚えのある顔と知れたとき、彼にはおおよその事態が呑み込めた。
「待ってくれ、乱暴はしないという約束ではないか!」
「貴様がグズグズしているから、我らで手っ取り早くケリをつけてやろうというのではないか」
「近頃では、町方の詮議も厳しくなってきているからな」
「ここで少々まとまった金を手に入れ、上方へでも逃げたほうが、身のためということよ」
「だからといって、なにも楓殿をこのような目に遭わせずとも……」
甚内の気弱げな呟きが言い終えるのを待たず、桜子姫は、勢いよく扉を蹴破っていた。
「楓を離せい、不屈き者どもッ」
桜子姫には、無論ことの次第は全く呑み込めていない。が、百の理屈も所詮一つの事実にはかなわぬ道理。いまこの瞬間、彼女の目の前で楓が不逞浪人どもの虜《とりこ》となり、浪人どもは、揃って刀を抜き連れている。その一場面を見るだけで、たとえ事情など何一つ知らずとも、桜子姫のとるべき態度は既に決していた。
「姫様!」
浪人の一人に肩を掴まれながら、楓が悲しい叫びをあげた。浪人どもは、もとより揃って、桜子姫のほうを見た。
「おお、このババアの主人か。ちょうどいい。ババアを無事に返してほしくば、いますぐ百両持って来い!」
「なんと!」
一歩堂内に足を踏み入れたきり、桜子姫はそれ以上先へ進もうとせず、そのまま入口の前に立ち尽くしていた。浪人どもの強持《こわも》て顔やその脅し文句に恐れ入る桜子姫では、無論ない。薄暗い堂の奥から、桜子姫をじっと見つめる楓の目の中に、チラッと光るものを見いだしてしまったのだ。それが涙と知ることさえ、桜子姫には信じられなかった。
「姫様、面目のうございます」
「楓……」
「いい齢をして男の甘言に籠絡され、姫様のことも等閑《なおざり》にしてまいりました、その報いでございます。……どうか、このまま、お見捨てくだされ」
「なにを言うのじゃ!」
楓の目に浮かぶ涙を、それと認めたその刹那《せつな》――。
「この、人の皮着た外道ども!」
桜子姫の中で、なにか途轍もなく熱いものが、激しく爆《は》ぜる心地がした。たんなる怒りの激情だけではない。名状しがたい哀しみが、このとき桜子姫の心を、瞬時に衝き動かしたのである。
「推参《すいさん》なり、外道ッ!」
鯉口《こいぐち》を切る間ももどかしく、桜子姫は抜刀した。
帯目にぶち込んできた佩刀《はいとう》宗近を抜き放つと同時に、その両足で軋《きし》みのひどい床を蹴って跳んだ。寺の本堂の天井は、通常の建物よりもずっと高く作られているため、堂内であっても大刀を用いることが出来るのが有り難かった。
「う……うわぇッ」
礼盤に片足をかけていた額傷の浪人が、諸手《もろて》を挙げて大きくのけ反った。大上段から振り下ろした桜子姫の一撃が、彼の背中を真っ二つに割っていた。天井を睨んで仰向けに倒れたきり、男はそのままピクリとも動かない。おそらく、即死であろう。
不意をつかれて、あとの二人は仰天した。
彼らは人質の楓に刃を突きつけることも忘れ、反射的に応戦の体勢に入ったが、それこそ桜子姫の思う壺であった。
桜子姫の剣は、冴えに冴えた。
真一文字に振り下ろされて来る相手の切っ尖を巻討ちに大きく撥ね返しざま、スルッと進んでそいつの手元へつけ入った。
「あっ」
相手が慌てて飛び退かんとするより早く、桜子姫の刃が彼の鮮血を飛沫《しぶ》かせた。巻討ちの体勢から繰り出す。見事な突き。更に、胡蝶《こちょう》の身ごなしで体を反転しざま、残る一人を逆|袈裟《けさ》に斬り上げた。
「ギャッ」
断末魔の悲鳴は意外に短く、しかもほぼ同じ瞬間に発せられていた。もとより、ときを同じくして倒れた二つの死骸などに、桜子姫の興味はない。
「薄汚い、騙りめ。よくも楓の気持ちを踏み躙《にじ》るような真似を!」
桜子姫の目は、いまや甚内一人に向けられていた。
「違う!」
突如として、悲鳴のような声音を、甚内ははりあげた。そして叫びざま、
「動くな!」
楓の襟髪を掴んでその場に――空っぽの須弥壇《しゅみだん》の前に引き据えた。老人とは思えぬ膂力《りょりょく》の強さである。
「なにをなされる、甚内殿!」
一旦は抵抗を試みたものの、その喉元へ、直ちに切っ尖を突きつけられるに及んで、楓は諦めた。
「儂は……儂は騙りではない」
「騙りではないか! 楓を騙して、人質にして、金を奪い取らんとした、立派な騙りだ!」
「違う! 儂は、桜子姫を亡き者にせんがため、江戸家老に雇われた刺客なのだ」
「な、なんと!」
甚内の膝下あたりへ引き据えられたまま楓は驚倒し、憐れなほどに狼狽《ろうばい》した。
「さあ、楓殿の命が惜しくば、おとなしく刀をお捨てなされ、姫」
「おのれ、卑怯な……」
「捨ててはなりませぬぞ、姫ッ!」
声も嗄《か》れよと、楓が絶叫した。
「もうじき古稀を迎えるこのばばの命など、今更惜しゅうはございませぬ! どうか、姫! 姫の刃にて、この卑怯者めをご成敗くださりませェーッ」
「ええい、黙りなさい、楓」
強くひっ掴んだ楓の襟髪を、力任せに甚内は引き上げた。喉が絞まって、ムググ……と口中に呻《うめ》いたきり、楓は言葉を発せられなくなる。右手に振り上げた刀を、いましも振り下ろさんとの姿勢を見せながら、老齢とも思えぬ声音で、甚内は叫んだ。
「さあ、姫、刀を捨てるんだ!」
「仕方ない……楓の命には代えられぬ」
桜子姫の手中より、宗近の名刀がこぼれ落ちたか、落ちぬか――という、その間際のことだった。
何処《いずこ》より投げられたものか、飛来した一擲《いってき》の小石が、甚内の、刀を持ったその右手の甲に、過《あやま》たず命中した。
「うっ……」
束の間の苦痛に呻いて甚内は刀を取り落とし、その一瞬の隙を、桜子姫は決して見逃さない。
「おのれ、金で魂を売り渡した下種《げす》めッ」
「斬ってはならぬ、姫!」
一旦は手放しかけた刀を、再び強く握り直して強く地を蹴った桜子姫を、だが冴えた男の声音が、真正面から鋭く阻んだ。
小石を投げるなり、甚内の背後より密かに忍び寄った廉十郎が、彼の右手を、素早く逆手に掴み取ったところであった。
「上総介殿」
「あとは、お上の裁きに任せたほうがよい。金で雇われた刺客風情を、姫がその刃にかけるほどのこともありますまい」
桜子姫の無為な興奮を、一瞬にして冷ますのに充分な、この上なく静かな声音であった。
桜子姫は釁《ちぬ》られた刀を懐紙で清め、鞘に戻すと、ガックリと倒れこんでしまった楓の肩にそっと手をかけた。痩せて、余分な肉など一寸も持たぬ背が、ビクとも身動《みじろ》ぎをしていない。桜子姫は、黙ってその背を抱き起こした。
「姫様……」
桜子姫には、きっと、涙と鼻水とでクシャクシャになっているであろう楓の顔が、とてもまともに見られなかった。
* * * * *
「それはまことか、上総介殿?」
黙って先を歩いていた桜子姫の足が、廉十郎の言葉に応じてつと止まる。
不審をいっぱいに溜めた目で廉十郎を顧みざま、その疑問を、余すところなく口にした。
「では、小寺甚内は、私と楓の命を奪わんがため、暮林《くればやし》に雇われた刺客ではないと言われるのだな?」
「あのご老人は、悪党の一味に見込まれ、騙りの手伝いをさせられていただけの御仁《ごじん》。刺客などではござらぬ」
「では、あのとき、何故急にあのような真似を?」
「あの御仁が乳母殿に近づいたのは、確かに、長く奥仕えをしていた楓殿の、これまでに貯めこんできた金品を、奪い取る目的だった。三日月藩を去ってから数年……若い頃には、甘言を以て大商家の娘などを誑《たぶら》かし、金を騙しとるような真似もしていたらしい。……が、いくらなんでも、そうした本性を、かつての許婚者だった乳母殿には知られたくなかったのだろう」
「だからといって、なにも、刺客でもないものを、わざわざ刺客だなどと偽らいでも……」
「男とは、ときにそうしたものでござるよ」
独りごちるように言った廉十郎の面上に、ふと一抹の淋しさが滲み、すぐに潰《つい》えた。
「ケチな騙りの一味と思われるよりは、孤高の刺客と思われたほうが、まだましと思うたのであろう」
「何故《なにゆえ》?」
「小寺殿は、その後、つてを頼ってさる東北の小藩に仕官し、所帯も持たれた。しかし、ご内儀とは先年死別し、いまは勤番勤めのご子息やその家族とも折り合いが悪く、一人家を出て、長屋暮らしをしておるらしい。一人暮らしの淋しさから、つい若い頃の悪い癖を思い出し、騙りの一味に手を貸してしまったが、あとで後悔した。殊に、そんなことがご子息の仕えるお家に知れたら一大事。しかし、一味の者は、その弱みを盾に取り、小寺殿を一味から解放しようとはしなかった。脅されて、やむなく続けた騙り稼業だ。……そんな惨めな境遇を、昔の許婚者には知られたくありますまい」
「そうであろうか? 金で雇われて人の命を奪う刺客とて充分惨めじゃ。……私には、どちらも同じようにしか思えぬが」
桜子姫は首を傾げる。
「然様、姫にとっては、そうであろう」
廉十郎の口辺に、皮肉とは多少違った、やや哀しげな笑みがふとこぼれる。
騙りと刺客。どちらも悪党には違いない。一本気で正義感の強い桜子姫にとっては、偽言を以て他人様の金品を掠め取る騙りも、報酬のために人を斬る刺客も、同じひとくくりの悪党にしか思えぬのだろう。しかし、この世には、人を殺すよりもまだ物悲しい悪事がある。
「したが姫、この上総介も、金で雇われる刺客づれと、なんら変わらぬ男でござる」
「上総介殿」
「そしてもし、何処かで昔の女に出会うようなことがあれば、つまらぬ見栄を張って、嘘をつくかもしれぬ、愚かな男かもしれぬ」
「…………」
「乳母殿には、真実を話されぬがよい」
「わかりました」
少しく項垂れて、桜子姫は頷いた。
「楓には話しませぬ。したが……」
呟く声音が微かに震えている。
「姫?」
「楓が、かわいそうじゃ。……折角、昔お慕いした殿御に会えたというのに……」
桜子姫の肩が目に見えて震えだし、思わず手をかけてやりたくなる衝動を、だが廉十郎は間際で堪えた。いま手を差し伸べてしまったら、きっと取り返しのつかないことになる。こみあげる欲求に絶対打ち勝てるという確信を持った自分を、このとき彼は、この世のどこにも、見いだすことができなかった。
月かと見紛う星明かりが、清《さや》かに彼らの足下を照らしていた。
白い仄明かりの下で、桜子姫の強い輪郭が、見る間に淡く暈《ぼか》されてゆく。廉十郎は、戦慄した。桜子姫の瞳を濡らした涙が、日頃は頑《かたく》なに凍てついた自身の心を、容易く溶かしてゆくことに――。
そういえば、この快活な姫君の涙を見るのは、これがはじめてのことになる。笑顔の美しい女は、泣き顔だって美しい。そんな当たり前の理屈に廉十郎が気づくまで、たいしたときは要さなかった。
「姫は、お優しい」
かろうじて平静を保った声音で呟きながら、廉十郎は、自分の口の中が、妙に渇いていることを知った。いつもより、些か過剰に喋りすぎたせいだとは思わなかった。
渇きの故か、不思議と鼓動の速まる気がした。
(まずいな……)
苦い、もの思いであった。
廉十郎は、自らの心に課した自制の箍《たが》が外れるのも時間の問題だということを、いまはっきりと感じていた。
[#改ページ]
[#挿絵(img/01_278.jpg)入る]
藤 水名子
Fuji Minako
1964年6月29日、宇都宮市生まれ。
作新学院を経て、日大中国文学科に入学。
8ミリ映画研究会に所属し、制作に熱中するあまり、胸を患い、入院療養生活に。その間、幼き日より心秘かに願っていた執筆活動に向かう。1991年、27歳の秋、『涼州賦』により第4回小説すばる新人賞を受賞。
〈中国歴史活劇・恋愛小説〉という独自のニュー・ジャンルを切り開き、注目を集める。
著書に『赤壁の宴』『あなたの胸で眠りたい』『futo(風刀)』『花道士』などがある。趣味は乗馬、映画、旅行。
初出誌/小説すばる 1995年10月号、96年2月号、4月号、8月号、10月号の連載に書き下ろしを加えました。
[#改ページ]
底本
集英社 単行本
浪漫’s ロマンス 見参! 桜子姫
著 者――藤《ふじ》 水名子《みなこ》
1997年3月20日 第1刷発行
発行者――小島民雄
発行所――株式会社 集英社
[#地付き]2008年10月1日作成 hj
[#改ページ]
修正
《→ 〈
》→ 〉
置き換え文字
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94
蝉《※》 ※[#「虫+單」、第3水準1-91-66]「虫+單」、第3水準1-91-66
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
溌《※》 ※[#「さんずい+發」、第3水準1-87-9]「さんずい+發」、第3水準1-87-9
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
|※《かみ》 ※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]「需+頁」、第3水準1-94-6
|※《ヴ》 ※[#濁点付き平仮名う、1-4-84]濁点付き平仮名う、1-4-84