ヴァニラな花嫁くん
藤村裕香   (イラスト 日輪早夜)
門柱にドルフィンをあしらったベイエリアのホテルのコートヤードには、日がさんさんと降り注いでいた。
コートヤードをぐるりと取り囲んだこのホテルのラウンジは、オープンカフェのような雰囲気である。
ディズニーランドにほど近いこのホテルは、今日も家族連れやカップルでにぎわっていた。
ラウンジを通りすぎる楽しそうな人々を樋《ひ》野《の》伊《い》央《お》は、羨《うらや》ましげに眺める。
高校一年生の伊央は、もちろんディズニーランドが大好きだ。いつものように遊びにきたのなら楽しいが、今日は姉の鈴鹿《すずか》の見合いを潰《つぶ》しにやってきたのである。
生まれてから十五年間、伊央は鈴鹿の子分だった。
鈴鹿は自分のものは自分のもの、姉の命令にはぜったい服従で伊央を支配してきた。
本来ならそんな姉から解放されて喜んでいいはずなのだが、伊央は素直に喜べなかったのである。
実の姉かと思える酷《むご》いしうちに耐えながら暮らしてきた伊央だが、忙しい両親に代わって面倒をみてくれた鈴鹿が借金のかたに結婚させられるとなれば話はべつだ。
今日は、ぜったいに見合いを潰してやると勢いこんで、やってきたのである。
「鈴鹿お姉ちゃん、見合いの相手の人って社長なんだろう?」
ケーキを頬張《ほおば》っている鈴鹿に、紺色のスーツを着こんだ伊央は聞く。
限りなく童顔で女顔の伊央が着ると、スーツも七五三の衣装のようである。
「らしいね。伊央、食べないんだったらそれもちょうだいよ」
春らしいハッカ色のワンピースに身を包んだ鈴鹿は、性格は悪魔でも外見は女神のように美しい。
「なにのんびりしてるんだよ。いーのかよ、そんなおっさんと結婚させられちまうんだぜ」
伊央は眉《まゆ》をひそめて、自分のケーキに手を伸ばした鈴鹿を睨《にら》む。
つきそいなのに、ケーキも喉《のど》に通らないほど伊央は緊張していた。
「しかたないでしょう、うちの会社借金があるんだから。私がヒヒ親父と結婚すれば融資してくれるみたいだし」
鈴鹿はまったく気にするようすもなく、バクバクとケーキを食べる。
「鈴鹿お姉ちゃんまだ二十歳《はたち》だろう。借金のかたに若い娘と結婚しょうなんて、髪が薄くて腹がでた、ぶっさいくなおっさんだよ!」
若くて綺麗《きれい》な姉が、親が作った借金のためにそんな親父と結婚するなんて、伊央は納得できない。
「そんなおっさんだったら保険をがっぽりかけて、毎日酒と風邪薬でも飲ませてさっさとあの世に送るしかないよね」
伊央にそうまでいわれてしまうと、さすがに憂鬱《ゆううつ》になる鈴鹿である。
昨日急に両親にいわれたので、相手の写真もないし、履歴書もないような状態だ。
見合いというより、結婚を前提とした顔あわせという感じである。確かに父親の経営している会社はいきづまっていて、融資の条件には逆らえないのだろう。
それに会社が潰れたら鈴鹿だって大学にもいけないし、贅沢《ぜいたく》だってできないし、今の家にも住めない。こんな若くて美人が妻になるのだから、結婚の条件に大学を卒業したいといっ
ても大丈夫だと鈴鹿は思う。
「大丈夫だって、俺が絶対に潰してやるから」
そんな鈴鹿の思いも知らずに、伊央は勢いこんでいった。
「あんたは、気楽でいいよね」
鈴鹿は、伊央のコーヒーカップを掴《つか》むと一気飲みをする。
結婚させられたら、せいぜい伊央をいじめて憂さを晴らすしかない。
「俺だって、鈴鹿お姉ちゃんを助けてやろうと一生懸命考えているんだぜ!」
伊央は鈴鹿を睨んで、むっとした。
「社長がいかず後家のババアだったら、伊央を婿《むこ》にやれたのに残念だわ」
鈴鹿は頬杖をついて、ちらりと伊央をみる。
「俺まだ十五歳だから結婚できないんだよ!」
伊央は真剣に鈴鹿のことを思っていってるのだが、茶化されてばかりだ。
「くくっ」
すぐ側で笑い声がして、鈴鹿と伊央は同時にそちらをみた。
コートヤードを取り囲んでいるラウンジはそのまま通路にもなっていて、宿泊客や食事にきた人たちの通り道になっているのである。
ちょうど側《そば》を通った背の高い男性に、二人の会話が聞こえてしまったらしい。
大声で遠慮なしに話していたのだからしかたがないが、気恥ずかしくて伊央は俯《うつむ》いた。
「弟が、うるさくしてすみません」
鈴鹿は愛想よくその男性に微笑んだ。
「いいえ」
その男性は会釈して、二人の横を通りすぎる。
「ちょっと、カッコいいわねぇ」
男性の後ろ姿をみて、鈴鹿は吐息をついた。.背が高く精悍《せいかん》な顔だちをしていて、隙《すき》がなく仕事ができる男といった感じである。
「鈴鹿お姉ちゃんてば、まったくもうすぐ俺のせいにしてさ」
文句をいいながらも、伊央はその男性をじっとみた。
あんな人ならきっと文句なく鈴鹿は嫁にいくだろうなと、伊央は思う。姉の横には、やはり頭の薄い太ったおじさんより、若くてきりっとした男性が似合うに決まっている。
「いくら若くていい男だって、借金のかたに結婚しようなんてやつはお断り…といいたいところだけど、背に腹はかえられないか」
鈴鹿は拳《こぶし》を握りしめると、きりりと表情を引き締めた。
「背に腹はかえられないって、どーゆーことだよ?」
いつもは嫌ならぜったいに引かない鈴鹿が、こうも簡単にあきらめているのが伊央には納得できない。
「うちの従業員って、何人いるか知っている?その人たちの生活が私の返事ひとつにかかってるんだよ」
鈴鹿は憤慨している伊央に今の状況を説明する。
「しっ…、知らない」
そんなこと知ろうともしなかったと気がついて、伊央はしょんぼりとうなだれた。
もう鈴鹿一人の意志では動かせないほど、事態は悪くなっているということである。
「私も大学を中退するのは嫌だし、伊央だってせめて高校ぐらいはでないとね。あんたなんてぼんやりしたお坊ちゃんだから、就職だってむずかしいよ」
鈴鹿は童顔の伊央の頭をポンポンと叩《たた》く。
こうやって伊央にたっぷり恩を売っておいて、あとで憂さ晴らしをさせてもらおうと思って鈴鹿は悪魔の笑みをうかべた。
「うっ、うん」
鈴鹿がそんなに自分のことを考えていてくれたのかと感激して、伊央は涙ぐんで頷《うなず》く。
「鈴鹿、伊央!」
通路を叔母《おば》の華《はな》が二人を捜して大あわてで走ってきた。
「あっ、おばちゃん。ここっ、ここっ!」
伊央は手を挙《あ》げて、華に合図をする。
「あなたたちなにをのんびりしているの。先方はもういらしているのよ。鈴鹿、口の周りのケーキのクリームを拭《ふ》いて早く化粧を直していくのよ!」
華はテーブルの上に置いてあるナプキンで鈴鹿の口を強引に拭《ぬぐ》う。
「いいっておばちゃん。いい女は、相手を少しぐらい待たせても平気なのよ」
鈴鹿は余裕しゃくしゃくでにっこりと微《ほほ》笑《え》んだ。
「そんな立場じゃないでしょう、今すぐ直しなさい!」
華は鈴鹿を一喝する。
「はーいっ。こんなところで化粧直しなんて、恥だよ」
ブツブツいいながらもバッグから口紅を取りだして、鈴鹿は化粧を直す。
「おばちゃん、今日の着物もカッコいいね。でね、鈴鹿お姉ちゃんの相手の人ってはげててでぶってる?」
とばっちりがくる前にと思って、伊央はあわてて華の機嫌を取ってから聞いてみた。
「それがね、おばちゃんが代わりたいぐらいカッコいいのよ、もーうびっくり。ほらっ、早くしなさい鈴鹿!」
華はうっとりとすると、鈴鹿に怒鳴る。
「ほーんとう?」
鈴鹿はバッグに口紅をしまいながら、渋々立ちあがった。
「おばちゃんのいうことが信じられないの?」
華は腕を組んで、ジロリと鈴鹿を睨む。
「だっておばちゃん、ボルゾイをヤギと間違えたじゃない」
鈴鹿はまったく信じていない口調で、肩をすくめる。
「とにかく、くればわかるわよ!」
じれた華は鈴鹿の腕を掴むと、さっさと歩きだした。
「あっ、待ってよおばちゃん!」
伊央も立ちあがって、あわてて二人の後を追いかけた。
華に連れられて、鈴鹿と伊央は二階にある数寄屋造りの和食の店にはいった。
着物姿の女性従業員に、三人は座敷の個室に案内される。
「すみません、遅くなりまして」
襖《ふすま》を開けて中にはいると、華は必死の笑顔を作って待っていた二人になんども頭をさげた。
「いいえ。たいして待っていませんから」
二人のうち男性のほうが、おもしろそうに笑いながら答える。
「あっ!」
いつもなら大幅に遅れても平気な顔をしている鈴鹿も、その男性をみて思わず顔をひきつらせた。
「えっ?」
面の皮の厚い鈴鹿のあわてように、伊央は思わず身体《からだ》を乗りだして中を覗《のぞ》きこむ。
「げっ、さっきの人!」
伊央は思わず声をあげて、その男性を指さした。
コートヤードでお茶をしていた時、通りがかりに笑っていった男性である。
「伊央、指をさすんじゃありません!」
華は思いきり伊央の頭を叩く。
「すみません、本当に失礼な子で」
流れてきた冷や汗をハンカチで拭きながら、華は伊央の頭をぐいぐい押して謝らせる。
「いいえ。べつに構わないですよ」
男性はクスクスと笑っていた。
「ほらっ鈴鹿、ぼんやりしていないで早くおあがりなさい」
華はあっけにとられている鈴鹿の背中を押す。
「はい」
鈴鹿は素直に靴を脱いで座敷にあがり、座布団の上に座った。
続いて華と伊央もあがり、鈴鹿の横に座りこむ。
「初めまして、昂上《こうがみ》咲輝《さかき》です」
咲輝は自己紹介をする。
「樋野鈴鹿です」
ぼんやりと咲輝にみとれていた鈴鹿だが、ハッとしてきりりと表情を整える。
「ずいぶん可愛らしいお嬢さんですね。そちらは弟さんですか?」
咲輝はにっこり微笑むと、ちらりと伊央をみて聞く。
「はい」
伊央はドキリとして、自分をみている咲輝にコクンと額いた。
「弟の伊央です」
鈴鹿は、咲輝に伊央を紹介する。
「そう。伊央君っていうんだ」
咲輝は目を細めて、じつと伊央を凝視した。
「鈴鹿お姉ちゃん、おっさんでも、はげでも、でぶでもなくて、若くてカッコいいよ」
伊央は思わず、鈴鹿の耳元で囁《ささや》く。
「みればわかるわよ」
鈴鹿は小さな声で答えた。咲輝のみばえは完璧である。一重蓋《ひとえまぶた》の精悍な男らしい顔つきで、背も高く体つきもがっしりとしていて、スーツが似合う。
「咲輝さんはまだ学生の時にネット関係の会社を興しまして、この歳《とし》で上場企業にのしあげたやり手なんですよ。先見の明はあるんですが、今まで忙しかったのかまるで女っ気がありませんで。おせっかいと怒られるのはわかっているのですが、甥《おい》がいつまでも独身でいるのも困りものですから」
咲輝の横に座っている咲輝の伯母《おば》の菜津《なつ》はにこやかに話す。
「昂上さんっていくつなんですか?」
四十や五十代でないのはわかるが、そんなに結婚を急がなくてはいけない年齢なのかと思って伊央は聞いた。
「二十五歳ですよ」
咲輝は伊央をみつめて答える。
「俺より、十歳も上。やっぱおじさん」
思わず伊央は呟《つぶや》いた。
「伊央!」
鈴鹿の容赦のない平手が伊央の頭の上に飛ぶ。
「いてっ!なにするんだよ、鈴鹿お姉ちゃん」
頭を押さえて涙ぐむ伊央を咲輝と菜津はあっけにとられてみている。
「鈴鹿とは五歳違いだから、ちょうどいいですよね」
華は冷や汗を拭きながら、咲輝と菜津に向かって笑顔を作ってとりつくろった。
「中学生からみたら、確かに私はおじさんかもしれません」
咲輝は眉を寄せて、大きな吐息をつく。
「俺、高校生です」
伊央はぷっくりと頬を膨らませて、咲輝を睨んだ。
童顔で女顔なのをすごく気にしているので、他人にはっきりいわれるとむくれてしまう伊央である。
「十歳違いだというから、てっきり中学三年だと。コートヤードでみた時はもっと若くみえたから、それは失礼したね」
咲輝は笑いを噛《か》み殺して、膨れ面の伊央に謝った。
「伊央が童顔なのが悪いんだから、謝らなくていいですよ」
ずいぶん伊央にこだわっているなと思いながら、鈴鹿は咲輝にいう。
「鈴鹿お姉ちゃん!」
伊央はますます頼を膨らませた。
借金のために人身御供になるというのに、鈴鹿が咲輝に好意的なのが伊央は気にいらない。
確かに咲輝はカッコよくていい男で鈴鹿が気にいるのもわかるが、それだけでは納得できない伊央である。
「お食事がきましたよ。あら、おいしそうだこと」
華はこの場を納めようと必死で、運ばれてきた先付けを皆に勧めた。
料理が次々と運はれてくると皆|箸《はし》をすすめるのに忙しくて、会話が途切れがちになる。
「咲輝さんは、なにかご趣味はあるんですか?」
見合いだというのに遠慮なくパクパクと食べている鈴鹿に代わって、汗をかきながら華は咲輝に質問した。
「忙しくて、これといった趣味はないです」
咲輝は箸を止めて答える。
「仕事が趣味とかゆーのつまんないよ」
見合いを潰すためにきた当初の目的を思いだして、伊央は挑戦的に咲輝に突っこんだ。
「そうだね。人にはいえない趣味だから、ナイショにしておくってことにしようか」
咲輝はおもしろそうに伊央をみる。
「ううっ」
軽く咲輝にあしらわれても、それ以上聞くととんでもないものがでてきそうで、伊央は次の言葉がでてこなかった。
「子供ねぇ」
してやられてくやしがっている伊央をみて、鈴鹿は吐息をつく。
鈴鹿には咲輝が乗り気でなく、菜津に無理やり連れられて見合いさせられているとすぐにわかったが、伊央はわからなかったらしい。
潰さなくても、相手が断るだろうと鈴鹿にはすぐ予測できたのだ。
それはそれでありがたいが、そうなると融資の話はどうなるのだろうかと不安になる鈴鹿である。見合いはいいが融資まで断られると、非常にまずい。
二人になった時になんとしても咲輝にねじこんで、融資の話を成立させなければ困る。そのためにどうしたらいいかと、鈴鹿の頭の中はくるくるとまわり続けていた。
「伊央君は、お姉さんを私に盗《と》られると思っているのかい」
咲輝は、上から下までジロジロと伊央をみる。
「そんなの…違うよ」
まるで子供扱いなのが頭にくるが、伊央はいい返す術《すべ》を持たない。
丸裸にされそうな咲輝の強い視線が怖くて、伊央は思わずそっぽを向いた。
「そのとおりなんですよ。忙しい両親に代わって鈴鹿が面倒をみていたものですから、拗《す》ねてしまって」
華はこれ幸いと、鈴鹿をアピールする。
「わかりますわ。いいお姉さんなのね」
菜津は、鈴鹿に向かってにっこりと微笑む。
「ありがとうございます。弟は私がいないとなにもできないので、本当に困ってしまいます」
鈴鹿は日ごろの悪魔ぶりを押し隠して、すまして答えた。
「嘘《うそ》つき…」
思わず伊央は口の中で呟く。
いつもは意地悪で横暴なのに、よくもそんな態度がとれると呆《あき》れてしまう伊央である。
「大人ぶっても高校生じゃ、まだまだ子供と同じですからね」
咲輝は鼻先で笑うと、ちらりと伊央をみた。
「俺そんな子供じゃないから、平気です」
咲輝に完全に子供扱いされているとわかって、伊央はむっとする。
「それじゃ、大人だとでも?」
咲輝は楽しそうに首を傾《かし》げて聞く。
「大人です!」
伊央はむきになって答えた。
本当に大人だったらそんなことはいわないのに、答えてしまうところが伊央がまだ子供だという証拠である。
「そう、それはよかった」
咲輝は大きく額くと、くすくすと笑い続けた。
「咲輝、失礼ですよ。鈴鹿さんの弟さんに向かって、なんてことをいうんですか」
菜津が咲輝をたしなめる。
「はい。失礼しました」
神妙に咲輝は答えて、鈴鹿と華に会釈した。
「なんだよ」
咲輝に完全に無視されて、伊央はますます腹がたってくる。
もしかしたら弟になるかもしれないのに、その態度はなんなのかと突っかかりたくなってしまう伊央だ。咲輝にあしらわれて、まるで遊ばれているようである。
自分をみてばかにしたようにニヤニヤ笑っている咲輝を睨みつけて、伊央はでてきた会席料理を無言でバクバク食べ続けた。
咲輝は鈴鹿や華と話す時は、伊央にいうようなばかにした口調でなく、ていねいに言葉を選んでいる。それを聞いていると、伊央はますます腹がたってしまうのだ。
咲輝は女の人が喜びそうなグルメや旅の話題を選んで話して、鈴鹿も華も楽しそうにそれに応じている。
鈴鹿などは咲輝に会う前は見合いにまったく乗り気ではなかったようだが、今はすごく嬉《うれ》しそうだ。
自分が借金のために身売りされているということなど、まったく忘れているようである。
こんなに心配しているのに、掌《てのひら》を返したような鈴鹿の態度にも伊央は頭にきていた。
「鈴鹿お姉ちゃんの裏切り者…」
伊央はふて腐れて、鈴鹿を睨む。
「伊央、愛想よくしなさいよ」
鈴鹿は肘《ひじ》で伊央のわき腹をぐいぐい突きながら、小声で囁く。
「なんでだよ、俺なんかかんけーないじゃん」
伊央は唇を尖《とが》らせた。
「いいから、笑うのよ」
鈴鹿は咲輝にみえないようにして、伊央の膝《ひざ》をぴしゃりと叩く。
咲輝の興味は、伊央のほうにあるようだと見抜いての鈴鹿の判断である。
「はい、はい」
長年支配されてきたので鈴鹿には逆らえず、伊央は咲輝に向かって顔をひきつらせながら微笑んだ。
「あれっ?」
こちらが笑いかけたら咲輝も応《こた》えるようににっこりと微笑んでくれて、伊央は首を傾げる。
「刺し身は好きかい?私は生ものが苦手で、よかったら食べてくれるかな?」
咲輝は小鉢を伊央の前に差しだして聞く。
「あっ、うん」
伊央は返事をすると、もらってもいいのかなと思って、ちらりと鈴鹿をみる。
鈴鹿は無言でこっくりと頷いた。
「いただきます」
伊央は素直にそれを手元まで引き寄せる。
さすがに会席料理屋の刺し身は、自分の家で食べるのとは違っておいしい。
「伊央君は、なんでもおいしそうに食べていいわね。咲輝ときたらおいしいのかまずいのか、小さい時からいつも仏頂面で黙々と食べていてね。ピーマンは嫌いだし、にんじんも細切れにしても残すしで大変よ」
菜津は楽しそうに伊央に話した。
「そうですか」
咲輝は困って肩をすくめる。
「あははっ」
伊央は思わず笑った。
怖そうなイメージの咲輝が、子供みたいなことをしているとわかるとなんだか楽しい。
自分がばかにされたと思っていたから、咲輝の行動のすべてが悪くみえていたのかもしれないと伊央は反省する。
「鈴鹿さん大変だろうと思いますが、よろしくお願いしますね」
菜津は鈴鹿に向かって頭をさげた。
「はい」
『たぶん無理だと思うけど…』という言葉は胸の奥深くにしまって、鈴鹿は菜津ににっこりと微笑む。
咲輝の言動をみていると、とても自分に興味があるとは思えない。もしかしたらという思いが、鈴鹿の中にうず巻いていた。それならそれで、弱みを振って咲輝から金を引きだすという方法もある。鈴鹿はどこまでも悪魔で、悪知恵の働く女だった。
「鈴鹿お姉ちゃんの得意料理は、冷奴と卵焼きだよね」
伊央は屈託なくいう。
「これっ、伊央っ!」
華はあわてて、伊央の耳を引っ張った。
「いたたっ。おばちゃん離してよ」
本当のことなのに、なんで華は怒るんだろうと伊央は眉をひそめる。
「料理は得意じゃなくて」
冷や汗をかいている華のことなど気にせずに、鈴鹿もけろりとそれを肯定した。
「まだお若いお嬢さんですものね。台所に立つだけでも偉いですよ。おいおい覚えていだたければいいんですから」
菜津はフォローしながら、苦笑いを浮かべる。
「料理人を雇えばいいんですよ」
咲輝は笑いを噛み殺していった。
「料理人を雇えるなんて、やっぱ金持ちなんだ」
なんだかやけに咲輝と視線があうなあと思いつつ、伊央は感心して瞳を大きく見開く。
「金持ちは嫌いですか?」
咲輝は真剣に伊央をみつめて聞いた。
「お金はないよりは、あったほうがいいよ…、やっぱ」
今の自分が置かれている立場を思いだして、伊央はしょんぼりとして答える。
「そう…、ですか?」
咲輝はしばらく考えていたが、鈴鹿と伊央を見比べた。
「お金の話なんてはしたないですよ咲輝さん。鈴鹿さんに、ほかにもお聞きしたいことがあるでしょう」
菜津は咲輝をたしなめる。
「そうですね。学校ではサークルに参加されてますか」
咲輝は無難な話を切りだした。
「ええ、コスプレのサークルに」
鈴鹿は包み隠さずに、はっきりきっぱりと告げる。
「鈴鹿お姉ちゃん、いーの?」
伊央はこっそりと鈴鹿に聞いた。弟の伊央でさえちょっと危ないと思うのだから、見合い相手なら完全に引くだろう。
「いーのよ。聞いたのは向こうなんだから」
鈴鹿は堂々としたものである。
「コスプレですか?」
咲輝は眉をひそめた。
「コスプレ?」
菜津はなんのことかわからないようすで、首を傾げている。
「お、おビール、お注《つ》ぎしますね?」
華はあわてふためいて、ビール瓶を掴んで咲輝のグラスに注ぐ。
いきなりそんな話になってしまうと思っていなかった華は、大あわてである。
「すみません」
咲輝は華に軽く頭をさげた。
「私好きなアニメは『さくら』なんで、そのコスプレが中心なんです」
鈴鹿は華が焦りまくっているのも気にせずに話し続ける。
「そうですか、ゲームぐらいはしますが、アニメはさすがにみないので」
あまりにマニアックな鈴鹿の趣味に、咲輝は困り顔で対応していた。
「若いお嬢さんのお相手をするには、アニメぐらい知っていないとだめですよ咲輝さん」
それがどんなアニメかわからないながらも、菜津は困り果てている咲輝の背中を叩く。
「そうですね。今度勉強しておきます」
咲輝は吐息混じりに答えた。
「ぷぷっ」
あまりに生真面目《きまじめ》な答えで、思わず伊央は吹きだしてしまう。笑っては悪いが、すごくおかしい。
「伊央、失礼ですよ!」
華は伊央をたしなめた。
「だって、おっかしーんだもん」
伊央は、なかなか笑いを止めることができない。鈴鹿の趣味につきあうことなどないのに、勉強するなんてなんだか情けなくて笑ってしまう。
「確かにね」
鈴鹿もくすくすと笑っている。
「鈴鹿まで…」
なんて緊張感のない姉弟なんだろうかと、華は呆れて二の句が継げない。
「今度ぜひ、コスプレした姿をみせてください」
あくまでも真面目にいって、咲輝はビールを一口飲んだ。
それから後はあたり障りのない会話を交わして、お見合いは滞りなく進んでいく。
「それでは、後は若いお二人でごゆっくりお話をして」
デザートの水菓子を食べ終えると、華は咲輝と鈴鹿にいう。
「はい、では鈴鹿さん」
咲輝は先に席を立つと、鈴鹿を促した。
「鈴鹿お姉ちゃん」
伊央は急に心配になって、立ちあがった鈴鹿をみあげる。
「大丈夫だから、伊央はなあんにも心配しなくていいのよ」
鈴鹿は笑みを浮かべて、伊央の顕を撫《な》でた。
「うっ、うん」
その微笑みが悪魔めいていて、伊央はゾクッと身体を震わせる。
無理やり結婚させられそうで鈴鹿は可哀相《かわいそう》なはずのに、伊央は同情を感じるよりうすら寒い恐ろしさを感じた。
「伊央君、お姉さんをお借りするよ」
咲輝はクスリと笑って、伊央の肩を叩く。
「はっ、はい」
触れられた肩がなんだか熱くて、伊央はドギマギして返事をする。
二人が部屋からでていく後ろ姿をみているとなんだか寂しい気がするのは、鈴鹿を盗られてしまうような気持ちになっているからに違いないと、伊央は思いこもうとした。
二人がでていってから、伊央は気が気でない時間を過ごしていた。
大人のおばさん同士の話はつまらなくて、伊央はすっかり時間を持てあましている。
相手がもっとおじさんだったら伊央も見合いを潰そうと躍起になったのだが、若くてカッコいい咲輝ではそんな気になれなかった。
正直、悪魔な鈴鹿にはもったいないような相手だと思う。
鈴鹿が、お見合いに乗り気になってしまったのもわかるような気がする。最初はばかにされていると思ったが、咲輝は礼儀正しい普通の人だ。
それにしても、鈴鹿がみせたあの悪魔の笑みが気になる。あれはぜったいになにかよからぬことを考えているに違いない。だが、伊央にはそれがどんなことかわからなかったのである。
三十分ほどすると、鈴鹿と咲輝は楽しそうに談笑しながら帰ってきた。
「私、咲輝さんと結婚する!」
開口一番、鈴鹿は宣言する。
「えーっ!」
驚いて伊央は大声をあげた。
「まあまあ、こんなに早くお話が決まるとは」
華と菜津は嬉しそうである。
「本当に頭のいいお嬢さんですね。今すぐにでも、私の仕事を手伝ってもらいたいぐらいですよ」
咲輝は上機嫌で頷くと、伊央をみてにっこりと笑う。
「……」
さっきより強い視線で咲輝にみつめられて、伊央は動けなくなってしまった。
咲輝はまるで獲物を捕らえた虎《とら》のような視線を投げかけていて、自分は小ウサギになったようでなんだか伊央は怖くなる。
「伊央も、喜んでくれるよね」
鈴鹿は伊央の手を掴んで、たたみかけるようにいう。
「うっ、うん」
強く鈴鹿にいわれて伊央はつい頷いてしまったが、なんとなく納得いかない。
いいしれぬ不安が胸にうず巻いているが、強く反対できる雰囲気ではなかった。なにしろ鈴鹿本人が結婚すると嬉しそうにいってるので、伊央には反対できる理由はない。
文句なくいい男でお金持ちで、父親の会社に融資してくれる咲輝との結婚に反対する理由なんてひとつもないはずなのだ。
だが、伊央の胸の中にはどことなく違和感が残っている。けれど、なんとなく嫌だから結婚しないでなんて鈴鹿にいえるはずもない。
「咲輝さんの家すごく広くて部屋があまってるんだって、だから伊央も一緒に住もうね」
鈴鹿は伊央の肩を両手でがっしりと掴む。
「でも、新婚家庭に一緒に住むなんて…」
思わず伊央は口ごもった。
「学校だって今の家より近くなるし、両親が帰ってこないのをいいことに伊央に遊びまわられても困るでしょ。いいわね!」
有無をいわさない迫力で、鈴鹿は言葉を続ける。
「うっ、うん」
鈴鹿にそうまできっぱりいわれると、伊央は返事をするしかない。
「これでいいわね」
鈴鹿は咲輝をみあげるとにっこり笑って、Xサインをした。
咲輝と鈴鹿の結婚話は、トントン拍子に進んだ。
融資をしてもらいたい両親が反対するはずもなく、鈴鹿が乗り気なのであれよあれよという間に結婚式の準備はととのっていく。
鈴鹿に大きなダイヤの指輪をみせられて、本当に咲輝と結婚するんだとあらためて知らされると伊央の胸の中はますますもやもやしてきた。
鈴鹿を咲輝に盗られるようで寂しいのとは、少し違うようだが。そのもやもやがなんだか伊央にはよくわからない。
まだ鈴鹿が学生なので式は内輪だけでおこない、正式な披露宴は卒業してからということになっている。
内輪だけなら式なんていつでもいいじゃないかと伊央は思ったが、鈴鹿はジューンブライドにこだわっていた。
六月の結婚式なんて梅雨《つゆ》でジメジメしていて最悪だと伊央は思うのだが、世間では違うらしい。
六月に結婚式を挙げると幸せになれるというジンクスがあるからだが、それも梅雨なんてない外国のものだから伊央は納得できない。
幸せになりたい人たちは、どんなささいなことでも信じたい気持ちなのだろう。
けれど、融資してもらう条件で結婚をして幸せになれるのだろうかと、伊央は考える。
いくらデビルな性格でも、鈴鹿には幸せになってほしい。
野原の真ん中に立っている教会までのバージンロードをブルドーザーで整備するような、こんな早急で荒っぽい結婚をしていいのかと思う。
鈴鹿らしいといえばそのとおりだが、伊央の心の中にはまだなにかが引っかかっていた。
たんすやら昆布やらを持って、結納の時に咲輝は一回きたきりで、鈴鹿とデートしているようすもない。
咲輝は仕事で忙しいらしいが、これから長年つきあう鈴鹿のことをそんなに知らなくて大丈夫なのだろうか。
土壇場になってやっぱりやめますと鈴鹿がいいそうで怖い。
でも、そのほうが鈴鹿らしくていいかなとも、伊央は思う。
融資の話がなかったら伊央も素直にこの結婚を認められるのだろうが、やはり鈴鹿がみんなの犠牲になるようで納得できなかった。
それに新婚家庭に一緒に住まなくてはいけないというのが、なんとなく気にかかる。
結納の時に咲輝は、忙しくてほとんど家に帰れないので鈴鹿が浮気しないように見張ってくれと笑いながらいっていたが、強くいわれると姉のいうことに逆らえない伊央には荷が重い。
けれど、家でいつ帰るかわからない両親を待って過ごすより、今までと同じように鈴鹿と暮らすのは悪くない。
咲輝がほとんど家に帰ってこれないのなら気がねしないでいいし、今までと同じ生活になるということである。それで学校が、近くなるならいうことはない。
話がうますぎて引っかかるところがあるが、姉の動向を監視するのがその代償ならトントンというところだろう。
内輪だけといっても、式場の予約や、衣装の打ちあわせ、新婚旅行の準備、エステやらで鈴鹿は走りまわっていた。
忙しい咲輝に代わって、鈴鹿についていくのはいつも伊央の役目である。てきぱきと話を進めて値段交渉や日にちの調整をする鈴鹿は頼もしくて、自分が一緒についていなくてもいいのではないかと思ってしまう。
だがやはり一人でいくのは嫌なようで、頼りにされているのが嬉しい。
二人でウェディングドレスをみていると、自分が結婚式を挙げるような気分になってくるから不思議である。
伊央も早く彼女を作って、幸せな結婚をしたいとしみじみ思った。
結婚式当日は、朝から雨が降っていた。
雨は、庭の緑をさらに濃い色に染め変えていく。ところどころに咲いている紫陽花《あじさい》の紫や白が、その緑の中に寂しく浮きあがっていた。
やはり六月は雨なんだと伊央は吐息をつく。
新しい門出が雨なんて、二人のいく末を暗示しているようだと伊央は思う。
自分が結婚するのでもないのに、伊央は重くのしかかるような重圧を感じていた。
鈴鹿と一緒に式場やドレスなどをみにいったせいなのか、伊央のほうがマリッジブルーにかかったようである。
「伊央、いくよ」
鈴鹿は窓に張りついて外をじっとみている伊央に、陽気に声をかけた。
マリッジブルーなんて、まるで鈴鹿には関係ないように明るい。
「……」
振り向いた伊央は鈴鹿の姿に、一瞬言葉を失った。
「鈴鹿お姉ちゃん、なんでジーパンなの?」
Tシャツにブルゾンを羽織って、ジーパンをはいている鈴鹿を伊央は眉をひそめてみる。
そういう伊央は濃いグリーンのスーツを着ているのだが、童顔なのでまったく似合っていない。
「式場についたら着替えるんだし、いくまで楽してもいーじやない」
鈴鹿はけろりとしている。
「でも、新婚旅行その格好でいくわけ?」
そのアバウトな感覚についていけなくて、伊央は思わず鈴鹿に詰め寄った。
「新婚旅行っていったって、二泊三日の東京ディズニーランドだよ。このほうが動きやすくていいのよ」
鈴鹿はまったく引く気がない。
「そりゃあそうだけど。でも、なんでディズニーランドなの?三日あれば北海道でも沖縄でもいけるじゃん」
鈴鹿や咲輝の新婚旅行先には似つかわしくないと思って伊央は聞く。
「咲輝さんが飛行機に乗りたくないっていうんだもの。新幹線で熱海にいくよりマシじゃない」
大いばりで鈴鹿は答えた。
「ディズニーランドはしかたないとしても、スイートに泊まるのにジーパンなんて、俺ぜったいやだ!そんな女嫁にしたくない」
伊央は拳を握りしめて力説する。
「いちいち、細かいことにうるさいね。べつに、伊央の嫁になるんじゃないから構わないよ」
鈴鹿は大きく肩をすくめた。
「でも、咲輝さんだって恥ずかしいよきっと。あの人のジーパン姿なんて考えられないし」
スーツ以外の咲輝の姿など考えられなくて、ジーパンの鈴鹿と連れだって歩くのかと思うと気の毒でならない。
「じゃあ、伊央はどんな格好ならいいの?」
鈴鹿は瞳の奥を煌《きら》めかせて、伊央に聞く。
「どんなって…、スモーキーピンクの可愛いスーツにお揃《そろ》いの帽子とかかぶっちゃって、手には小さなひな菊の花束とか持ってるのがいいな」
具体的にといわれるとけっこうむずかしいが、伊央の理想としてはこんなところである。
可愛くておしとやかで性格がいい、デビルな鈴鹿とは正反対のタイプと結婚しようと伊央は心に誓っていた。
「あんた、それいつの話してるのよ?新幹線の前でバンザイしろとかいわないでよね」
前時代の化石のような新婚旅行のスタイルである。このぶんなら、軽井沢の教会で馬車に乗れとでもいいだしかねない。
「新幹線なんか、乗らないじゃん。ディズニーランドにいくのにさ」
鈴鹿が妙なことをいっているので、伊央は眉をひそめた。
「まあ、そうだけどさ。伊央がいいなら、スーツに着替えてあげてもいいよ」
悪魔の笑みを浮かべて、鈴鹿は伊央を覗きこむ。
「いいよ、べつに」
鈴鹿の物言いに不穏なものを感じて、伊央は思わず後《あと》退《ず》さった。
「鈴鹿、伊央いきますよ」
二人がなかなかこないので、母親は玄関から大声で呼ぶ。
「あっ、ママが呼んでる。いこうっか伊央」
鈴鹿は伊央に向かって、手を差し伸べる。
「うん」
その手を掴んで、鈴鹿は明日からは自分の姉だけじゃなく、咲輝の奥さんになるんだなと伊央は寂しい気持ちになった。
「こんにちは」
伊央は新郎の控え室の扉をおずおずと開けて、首をだした。
鈴鹿に、これから兄になるんだし一緒に住むのだからちゃんと挨拶《あいさつ》をしてこいといわれたのである。
「伊央君、いらっしゃい。可愛いね」
咲蜂は伊央の姿を見て思わず微笑んで、手招きをした。
「はい」
伊央は控え室の中にはいって、扉を閉める。中には咲輝と、咲輝よりほっそりして穏和な顔のメガネをかけた男性が一緒にいた。
咲輝は白のタキシードがすごくよく似合っていて、思わず伊央はみとれてしまう。
「あの、お義兄《にい》さん。これから、よろしくお願いします」
ぼんやりしている場合じゃないと思って、伊央は深々と頭をさげた。
「こちらこそよろしく」
咲輝はにっこりと笑うと、両手を伸ばして伊央の手を握りしめる。
「ふうん。本当に可愛い子だね」
一緒にいたメガネの男性が、上から下までジロジロと伊央をみて呟いた。
「あのぉ?」
あまりに遠慮なしにみられて、伊央は恥ずかしくなって俯く。
「伊央君、私の悪友。医者になる予定の上総《かずさ》」
咲輝は伊央の手を離すと、上総の肩をポンポンと叩いた。
「予定は失礼だよ。国家試験だって受かったし、研修も終わったんだから。まあ、これからは研究のほうに進むけど。伊央君よろしく、病気になったら僕が看てあげるからね」
上総は人好きのする顔でにっこりと微笑むと、伊央の手をぎゅっと握る。
「はい。その時はよろしく」
社長の友達は医者なんだと感心ながら、伊央は上総をじっとみた。
「上総の診察じゃ、なにをされるかわかったものじゃない。気をつけないとだめだ」
咲輝は伊央を上総から引き離して、背中からぎゅっと抱きしめる。
「あの、あの…」
突然のことでどうしていいのかわからなくて、伊央は真っ赤になってじたばたした。
「咲輝のほうが危ないんじゃないか?こんなに可愛いんじゃあね」
あわてている伊央を意味ありげにみて、上総はくすくすと笑っている。
「おっ、俺、鈴鹿お姉ちゃんのとこに帰ります!」
伊央は咲輝の腕をすり抜けると、あわてて控え室の外にでた。
咲輝があんな冗談をする人だと思ってなかったので、あせってでてきてしまったが気を悪くしてないか気になる。
印象を悪くして、鈴鹿と結婚しないなんていいだしたらどうしようと心配になってきた。
やっぱりもう一度戻って謝ろうと、伊央は踵《きびす》を返す。その時、新婦の控え室のドアが開いて中から母親がでてきた。
「伊央、ちょうどよかった。いくわよ」
母親は伊央を呼ぶ。
「はいっ」
一瞬どうしようか考えたが、これから式なら今さら咲輝が考えを変えることはないだろうと思って伊央は返事をした。
母親の後について式場にはいって、伊央は神妙な面持ちで待つ。新郎の席にはさっきいた上総と、数人の若い男の人が座っていた。
「ママ、咲輝さんのお父さんとか、兄弟の人っていないの?」
伊央は母親に聞く。
普通なら式前に親戚同士の挨拶があるはずだが、それがなかった。
「ええ、ご両親とは絶縁状態だそうで、ご兄弟のことは聞いていないわね」
母親は眉を寄せて、不憫《ふびん》そうにじっと伊央をみつめる。
「ふうん」
若くして会社の社長になれた優秀な人材なのに、結婚式にきてもらえないぐらい両親と仲が悪いなんて伊央には信じられない。
なにかよほどの事情があるのだろうが、そんな人と一緒になって鈴鹿が幸せになれるのだろうかと伊央は不安になる。
伊央が考えこんでいると、音楽が式場に鳴り響いた。
父親と鈴鹿が仲良く並んで歩いてくる。
バージンロードを歩く鈴鹿をみて、伊央は思わず涙ぐんでしまった。
傲慢《ごうまん》で悪魔な鈴鹿にずいぶんいじめられたが、やはり嫁にいってしまうのは寂しい。
たとえこれから今までと同じように一緒に暮らしても、心もちがぜんぜん違う。
「ママ、鈴鹿お姉ちゃん綺麗だね」
久々にゆっくりと顔をみた母親に、伊央はいう。
「本当に綺麗…」
母親はさえない顔色で伊央をみようとせずに返事をした。
「鈴鹿お姉ちゃん、幸せになれるといいね」
会社の経営もうまくいってないらしいし、急な鈴鹿の結婚で母親も疲れているんだなと伊央は思う。
母親のことを気にしながらも、なぜ自分をみようとしないのかまでは、伊央は気がつかなかった。
「鈴鹿ならなれるでしょう」
母親は吐息をついて、両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
「うん。そーだね」
伊央は頷く。
鈴鹿と父親が祭壇の前までいくと、続いて咲輝とこの間お見合いの時に一緒にいた菜津が歩いてきた。
菜津をみて、伊央はなんでお見合いの時にきた華を式に呼ばないのかと不思議に思う。
伊央がどうしてなのかと考えている間にも、どんどん式は進んでいって、誓いの言葉や指輪の交換をしていた。
「あれっ?」
伊央が不思議に思って声をあげたのは、キスの時に二人が顔を近づけただけですぐに離れてしまったからである。
鈴鹿がまだ若いからなのか、人前でするのが恥ずかしかったのか、どちらにしても伊央は違和感を覚えた。
だが伊央がいくら考えてみても、結局は鈴鹿と咲輝の問題なのだからしかたがない。
にこやかに微笑みながら二人がバージンロードを戻ってくるのを拍手で迎えて、伊央は感激して涙ぐんでいた。
今の幸せそうな二人をみていると、伊央の不安はすべて|杞憂《きゆう》だと思えてくる。
浮かない顔の両親の横で、伊央は一人で感動していた。
咲輝に新郎の関係席にいた人たちを紹介されて挨拶をしていた伊央が、花嫁控え室に戻ってきた時は鈴鹿はすでにウェディングドレスを脱いで、ここにきた時と同じ服に着替えていた。
ソファに座ってくつろいでいるのは鈴鹿一人で、ほかにはだれもいない。
「あれ、お父さんとお母さんは?」
自分より早く花嫁控え室に戻ったはずの両親がいないので、伊央は首を傾げて聞く。
伊央は上総に捕まって、なかなか抜けだすことができなかったのである。
咲輝と上総は小学校からのつきあいらしく、上総は咲輝の昔のことをいろいろ話してくれた。
自分じゃなく鈴鹿に聞かせてあげればいいのにと思ったが、着替えていていないのだからしかたがない。同居する自分に話しておいて、後で鈴鹿に話せということなのかもしれないと納得してつきあっていたら、遅くなってしまった。
両親は伊央を置いて、さっさと花嫁控え室に戻ったのである。
「咲輝さんに、なにか話があるみたいだよ」
鈴鹿は立ちあがってドアの側までいくと、伊央にみえないようにそっと鍵《かぎ》をかけた。
「ふうん」
さっきも話していたのに変だなと思いながらも、伊央は頷く。
「鈴鹿お姉ちゃん、すっごい綺麗だったよ。それにとても幸せそうって感じで、俺感動して思わず泣いちゃったもん」
伊央は屈託なく鈴鹿を誉《ほ》めて、ほうっと吐息をついた。
今日の鈴鹿はいつもの凶悪さはなく、今までになくキラキラ輝いていたのである。
「エステもいったし、もともと私は美人だからあたりまえよね」
鈴鹿はいつもと変わらず、傲慢な態度で胸を張った。
「鈴鹿お姉ちゃん。もうちょっと控えめにならないと、咲輝さんに嫌われちゃうぞ」
伊央は呆れて鈴鹿をみる。今日の鈴鹿は、いつもと違って優しい女神様のようだと思ったのは大きな間違いらしい。綺麗だったのは外見だけで、中身はやはりデビルだった。
「咲降さんは今のままの私に、価値があるっていったよ。このままでいいって」
鈴鹿は自信満々で答える。
「はい、はい。ごちそうさまです」
この場で鈴鹿にのろけられると思わなかった伊央は、かなり寂しい気持ちになって頷いた。
「後は、新婚旅行だけなんだけどねぇ」
鈴鹿は伊央の前のイスに深々と座って、腕を組む。
「しょうがないじゃん、咲輝さん忙しいんだからさ。東京ディズニーランドで三日も遊べるなんて、俺だったら喜んじゃうけどな」
伊央は鈴鹿を元気づけるように明るくいう。
やはり新婚旅行といえば、海外旅行が普通である。今なら、ヨーロッパか定番のハワイが妥当だ。
普通に海外旅行にいけても、やはり新婚旅行は海外と憧《あこが》れている人が多いだろう。
「いきたくないなぁ」
鈴鹿はちらりと伊央をみた。
「なにいってんだよ。今さらそんなわがままなんてだめだよ」
近場でつまらない気持ちはわかるが、いく寸前にそんなことをいわれても困る。
「代わりに、伊央がいってよ」
鈴鹿はけろりとして、伊央の肩を叩く。
「なーにいってんだよ。そんなのぜったいだめに決まってるだろ」
伊央はあわてて立ちあがった。
「大丈夫だって!伊央って小さいし華奢《きゃしゃ》だから、私の服を着て化粧をすればぜったいわからないから平気だよ」
鈴鹿は伊央の腕を掴むと、強引に鏡台の前に引っ張っていく。
「無理だよ。髪型だってぜんぜん違うし、会ったとたんにすぐバレて大変な騒ぎになるってば」
伊央は鏡台のイスに座らせようとする鈴鹿に、じたばたと暴れて抵抗する。
「髪の毛なんて帽子で隠せばいいし、咲輝さんとは今日をいれて三回しか会ってないんだよ。ぜったい大丈夫!」
鈴鹿は自信を持って胸を張った。
「でも、新婚旅行なんだよ。向こうにつくまではだませても、その後はどうするんだよ」
伊央は困り果てて、泣きそうになる。
「バレたら謝って、逃げちゃえばいーの。咲輝さんだって、新婚旅行で花嫁に逃げられたなんて恥をかくだけだから。絶対いわないわよ」
鈴鹿はやけに自信ありげにきっぱりと告げた。
「でもこれから一緒に暮らすのに、新婚旅行をバックレたらまずいんじゃないの?」
ここで逃げても、この後一緒に暮らすのに大丈夫なのかと伊央は不安になる。
「いいのよ。融資してもらったし、後は離婚するだけだもの」
鈴鹿は悪魔の微笑みを浮かべた。
「えっ、そんなの咲輝さんが可真相じゃないか!」
融資してもらったのに式だけ挙げて逃げるなんて、あまりの鈴鹿のひどい仕打ちに伊央は咲輝が気の毒になる。
「私をお金で買おうなんて所詮《しょせん》無理なのよ。ホッホッホッ」
鈴鹿は高笑いをした。
「悪魔……」
咲輝が気の毒すぎて、思わず伊央は同情してしまう。
お金だけださせて一度もえっちもさせてもらえないで離婚だなんて、咲輝が可哀相すぎる。
だが、鈴鹿はもともとこんな性格だった。結婚するなんて素直にいいだしたのが、本当は不思議だったのである。
「誉め言葉と受け取ってあげるわ」
鈴鹿は伊央の顔を両手で掴んで、にっこりと笑う。
「いやだよおおっ!」
化粧水をつけようとする鈴鹿の手を伊央は必死で振り払った。
初めから結婚なんてする気がないのに咲輝をだましてお金をださせて、後始末を伊央に押しつけようとするなんてさすが悪魔な鈴鹿である。
わが姉ながら、そら恐ろしい人物だ。
「伊央、お姉ちゃんの命令が聞けないの?いじめるわよ!」
鈴鹿はじたばたして逃げようとする伊央に一喝する。
「はいっ」
長年の服従体質から抜けられない伊央は、鈴鹿に強くいわれると『はい』と返事をするしかない。それに、怖い鈴鹿にいじめられるのは嫌である。
伊央は渋々鈴鹿にしたがってされるままに化粧をして、服を着香えた。
「ほーらっ可愛くできた。やっぱり伊央は私の弟ね、ほれぼれするような美人よ」
鏡の中の伊央を覗きこんで、鈴鹿は満足げに笑う。
「まあ綺麗、これがアタシ?なんてゆーと思ってるのかよーっ!やだよおおっ、こんなのぜったいバレるよぉ。気持ち悪いよおぉっ!」
伊央は顔を歪《ゆが》めて、鏡の中の自分を指さした。
眉毛が細くて目の上が薄青白くて唇がピンク色の自分の顔なんて、はっきりいって気持ち悪い以外のなにものでもない。
「しかたないわね、お小遣いあげるから。ディズニーランドで思う存分遊びなさい」
鈴鹿は一万円札を二枚伊央の手に押しつけた。
「お小遣い?」
伊央にしっぽと耳があれば、今の言葉で間違いなくピンッと立っていたに違いない。
鈴鹿がお小遣いを二万円もくれるなんて、今までにない快挙である。
「やるっ!」
伊央は二万円で、すっかり鈴鹿に懐柔されてしまった。
咲輝にバレたら、すぐに入園して遊べばいいんだと伊央は単純に思う。
「よしっ、じゃあ決まりね」
鈴鹿はうまくいったと思ってほくそ笑む。
「うん」
伊央の心はすっかりディズニーランドへ飛んでいて、鈴鹿の企みにはまったく気がつかなかった。
伊央は帽子を目深にかぶって、咲輝と顔をあわせないように俯いていた。
式場の出入り口で咲輝にバレて騒ぎになったら大変なので、ドキドキものである。
思ったとおり咲輝はスーツ姿で、カジュアルなジーンズ姿の伊央とは不釣りあいな感じがした。
けれど、スモーキーピンクの可愛いスカートなんて伊央は死んでも着られないから、これでよかったのだろう。
伊央が初々しい新婚の花嫁さんの夢を語っていた時に、すでに鈴鹿は逃げる計画を立てて準備をしていたのだからそら恐ろしい。
それをまったく伊央に感づかせなかったのだから、鈴鹿もたいしたものである。ただ単に、伊央がぼけっとしていただけなのかもしれないが。
「きたよ」
リムジンが到着すると、咲輝は隣に立っていた伊央の腰に手をまわす。
「はい」
触られたらバレるかもしれないとドキリとしたが、伊央は小さな声で返事をした。
いつバレるかとドキドキしながらも無事にリムジンに乗りこんでしまうと、伊央は微笑みが浮かんでしまう。
両親も、見送ってくれた周りの人も咲輝も、まったく気がつかないのがすごくおもしろい。
こんなに簡単にだまされてくれると、なんだか癖になってしまいそうである。
心の中で、だましてごめんなさいと咲輝に謝りながら伊央はすっかり楽しくなってしまった。とにかく、ホテルにはいるまでバレなければいいのである。
バレてしまえば、後は楽しくディズニーランドで遊べばいいと伊央は軽く考えていた。
リムジンはドライブがてら途中でレインボーブリッジを渡り、お台場を通る。名所になった観覧車のすぐ側を通った。
東京に住んでいても、土日は混んでいて伊央は一度も乗ったことがない。
いいなあと思って伊央は窓に張りついて観覧車をみていたが、咲輝に感づかれては困るので無理やり顔を窓から引き離した。
咲輝にいろいろ話しかけられたらどうしようかと思っていたが、たいした会話もなくリムジンはお台場を通りすぎる。
ディズニーランドの近くまでくると、何メートルも走らないうちに案内板の標識が次々と現れた。
「あっ!ディズニーランド」
自分が鈴鹿の身代わりになっているのを忘れて、伊央ははしゃいで咲輝をみる。
「ホテルの近くだからね」
そのはしゃぎようをみて、咲輝はクスクスと笑った。
「あっ!」
咲輝と視線があって、伊央はあわてて俯くと自分の口を両手で塞《ふさ》ぐ。つい話しかけてしまったが、バレなかっただろうかと心臓がドキドキしてきた。
ホテルまで後少しなのに、こんなところでバレたら今までの苦労が水の泡である。
「ゴボッ!」
伊央は咳《せき》払いをしてシートに座りなおすと、帽子を目が隠れるまで引っ張った。
なにかいわれるかと思ったが、咲輝はそれ以上話さずにじっと前をみている。
リムジンはディズニーランドに近いホテルにはいっていく。前に、咲輝と鈴鹿が見合いをしたところである。
ホテルの入り口でリムジンは停車した。
ドアが開くのを待って伊央はそそくさと外にでる。もう少しでこの緊張から解放されるんだと思って、大きく伸びをしたいのを伊央はじっと我慢した。
ロビーにはいると、伊央は咲輝がチェックインの手続きをするのをじっと待つ。
ホテルの宿泊客や従業員にも極力顔をみられないようにと思って、伊央はじっと俯いていた。
もう少しだと念じながら、伊央は戻ってきた咲輝とともにボーイに案内されてエスカレーターに乗る。
後少しでバレるのかと思うと、心臓がますますドキドキと激しく鳴りだした。
とにかく早く謝って逃げだしたいという気持ちで、伊央の頭の中はいっぱいである。
エレベーターを降りて、ボーイの後について部屋への廊下を歩いていても、どうやって咲輝に謝ろうかとそればかり考えていた。
怒るのはあたりまえだし、ふざけるなと咲輝に殴られるかもしれないなと思って、伊央は歩きながら体を左右に動かしてすぐに逃げられるようにと準備運動をする。
「うわっ、広い!」
ボーイに案内されるままに客室にはいって、伊央は思わず声をあげた。
スイートだからあたりまえなのだが、部屋が二つもある。
部屋の内装はピンクでまとめられていて、ガラステーブルの上にはピンクのバラの花が飾られていて可愛かった。
もの珍しさにきょろきょろと周りをみまわしていた伊央だが、ボーイがでていって部屋に咲輝と二人きりになると急に不安がこみあげてくる。
「食事はどうする。和食がいいかい、それともフランス料理?予約をするよ」
咲輝はスーツの上着を脱ぐと、クローゼットのハンガーにかけながら聞く。
「あの…」
バレる前に咲輝に謝ろうと思っていたのに、いざとなるとなかなか決心できない。
先に謝ったほうが後でバレてから謝るより、咲輝の怒りも少ないと伊央は思う。
「なっ、なんでも…」
早く謝ってしまえばいいのに伊央はできないで、小さな声で答えた。
「そう。じゃあ、ルームサービスにしようか。ちょっと疲れたし汗もかいたから、シャワーを浴びてくるよ」
咲輝はいい残すと、返事を聞く前に隣のベッドルームに隣接しているバスルームにいく。
「どうしよおおっ」
ガチャリとバスルームの鍵のかかる音を聞いて、伊央はその場に座りこみそうになった。
思っていたほど簡単にことが進まず、伊央は泣きそうになる。本当だったらすぐに謝って、楽しくディズニーランドで遊ぶはずだったのに、まだ正体を明かすこともできない。
咲輝に黙ってこのまま逃げてしまおうかという考えが浮かんだが、新婚旅行先で花嫁がいなくなったらまず間違いなく警察を呼ぶだろう。
それはとてもまずい。
警察も怖いが、鈴鹿に罵倒《ばとう》されていじめられるのはもっと嫌だ。
しかたがないので、伊央は咲輝がバスルームからでてくるのを待つことにしたのである。
なにごともタイミングが大切だと思ってソファに座ってしばらくぼんやりしていると、シャワーを浴び終えた咲輝が隣の部屋からリビングにはいってきた。
「あのっ…」
伊央はバスタオルを一枚腰に巻いただけの咲輝の姿をみて、思わずその場に固まってしまう。あらためて、新婚旅行だったんだと思ったら、気の毒で言葉がでなくなった。
「シャワーを浴びてくるといい」
咲輝は固まっている伊央に向かって声をかける。
「いいです」
伊央は俯きながらブルブルと首を横に振った。
パニックで頭の中がぐるぐるまわっていて、どうしていいのかわからない。
「そうかい…」
咲輝はつかつかと伊央の前までいくと、彼を抱きあげてベッドルームに運ぶ。
「あの、だめです!」
完全にパニックになって、伊央は降ろしてもらおうとして必死でじたばたと暴れた。
「大丈夫だよ」
だが、咲輝はそれをものともせずにべッドルームに伊央を運ぶと、ダブルベッドの上に投げる。
「うわっ、違うんですぅ!俺は伊央です。鈴鹿お姉ちゃんじゃ、ありません!」
咲輝に上からのしかかられて、伊央は必死で叫んだ。
「知っているよ」
咲輝はクスクスと笑いながら伊央の身体の上から退《ど》く。
「えっ、知ってるって…」
伊央は目をパチパチさせて、咲輝をみつめた。
「リムジンに乗る前から、伊央君だって気がついていたよ」
咲輝は帽子を取って、伊央の髪を撫でた。
「えっ、じゃあなんでいわなかったの?」
知ってて黙っていたなんて、どうしてなのか伊央にはわからない。
「伊央君が一生懸命で、可愛かったから」
咲輝はクスリと笑う。
「ごめんなさい」
だましたのに咲輝はぜんぜん怒っていないようで、伊央の良心はちくちくと痛みはじめる。
新婚旅行で花嫁に逃げられてしまったのに優しいなんて、咲輝の気持ちを考えると伊央はいたたまれなくなった。
「いいよ。これから一緒に住むんだからね」
咲輝はいとおしげに、伊央の髪を撫で続ける。
「違う!鈴鹿お姉ちゃん咲輝さんに融資だけさせて、離婚するっていって俺を身代わりにして逃げちゃったんだ。咲輝さん気がついても騒がないでいてくれたのに、俺こんなこと簡単に引き受けちゃって、やっぱいけないよね。こんなだますようなまねしてごめんなさい」
鈴鹿に命令されたとはいえ、咲輝の気持ちを踏みにじるようなことに自分も荷担したのだ。
伊央は自分がした浅はかな行為を後悔するしかない。だんだん悲しくなってきて、涙がでてきてしまう。
「泣かなくていいから、顔がぐしゃぐしゃになってしまったよ。顔を洗って、ついでだからシャワーを浴びてくるといい。そうすれば少し落ち着くだろ。そうしたら、ちゃんと話をしよう、いいね」
咲輝は伊央をベッドから起こすと説得して、バスルームまで連れていった。
「うん」
伊央は泣きながら、素直にコクコクと頷く。
いわれるままにバスルームにはいって、伊央は思わず目を見張った。
大理石のバスルームは広くて、バスタブのほかにシャワールームが独立してある。
大きな鏡に映った自分の顔をみて、伊央は眉をひそめた。化粧が涙で落ちてしまって、変な顔になっている。
これでは、咲輝に顔を洗えといわれてもしかたがない。
最初は顔を洗うだけにしようと思ったのだが、別個になっているシャワールームをみたらやはり試してみたくなってしまった。
バスジェルやシャワーソルトや、いろいろアメニティが揃っているのにも興味を引かれたのである。
伊央は洗面台で顔をゴシゴシと洗って化粧を落とすと、ブルゾンとTシャツを脱ぐ。
大きな鏡に映った自分の姿は、まったいらな胸にブラジャーが張りついていてとてもこっけいである。
胸がないとすぐバレるといわれて苦しい思いでしていたブラジャーをはずすと、中から詰めこんだタオルがぼろりと落ちた。
「ふううっ」
圧迫されていたものから解放されて、伊央はほうっと吐息をつく。
胸のつかえがひとつ取れたようですっきりとして、伊央はジーパンとトランクスを脱いだ。
初めはトランクスじゃなく、フリルがついたパンツに替えろと鈴鹿にいわれたのだが、伊央は必死で抵抗したのである。
これをはくなら死んだほうがましだと必死にくいさがって、なんとか許してもらった。
伊央はガラス張りのシャワールームにはいると、コックを捻《ひね》る。温かなお湯がザッとでて、ガラスがあっという間に曇った。
水音が激しくシャワールームに響いて、その音以外はなにも聞えなくなる。
全身にお湯を浴びて水音だけを聞いていたら、咲輝のいったとおり落ち着いてきた。
身体を洗って、伊央は熱くなったシャワールームからでる。
冷たい大理石の上を素足で歩いて伊央は大きな洗面台の前までいき、洗面台の上に置いた服を捜す。
だが周りをみまわしても、それはどこにいったのかまったくみつからなかった。
バスタオルで身体を拭きながら、どうしようかと考えたが、ないものはしかたがない。
伊央はバスタオルを腰に巻いて、バスルームのドアを少し開けて中から顔をだした。咲輝にくらべると自分の身体つきがあまりにも子供で、そのままでるのは恥ずかしいような気がしたのである。
「咲輝さん。俺の服知りませんか?」
伊央はバスタオル一枚でベッドの上に腰をかけてテレビをみている咲輝に、おずおずと声をかけた。
「鈴鹿さんの服は着ないと思ったんで、こっちに持ってきた。伊央君の着替えは、旅行|鞄《かばん》の中にはいっているよ」
咲輝は振り向いて、ベッドの上にのっている旅行鞄を指さす。
「はい」
伊央は、よかったと思ってほっと胸を撫でおろした。
恥ずかしいと思いながらも伊央はそのままの姿でバスルームからでて、咲輝の前に置いてある旅行鞄のところまでいくと手を伸ばす。
「伊央君」
咲輝は伊央の腕を掴んで、自分の胸に引き寄せる。
「あのっ…」
急に咲輝に抱きしめられてどうしていいのかわからず、伊央はドギマギして視線をはずした。
「本当に可愛い」
咲輝は微笑むと、伊央にキスをする。
「んっ……」
伊央は目を見開いたまま咲輝のキスを受けて、硬直していた。なにがなんだかわからなくて、頭の中がぐるぐるしている。
頭の中はパニックになっていたが、咲輝に柔らかく抱きしめられてキスされるのはとても気持ちがいい。
「なっ、なにするんだ!」
気持ちのいいキスにうっとりと酔いそうになったが、伊央はハッと我に返って咲輝を突き放した。
「おっ、俺は、鈴鹿お姉ちゃんじゃないよ!」
伊央は手の甲で唇を拭いながら、咲輝を睨みつける。
いきなりキスをするなんて、鈴鹿の身代わりにされたとしか伊央には考えられない。
「知っているよ、伊央君だ」
咲輝は伊央の腕を掴むと、上からじっと覗きこむ。
「じゃ、なんでキスなんかするんだよ!」
身代わりじゃないとしたら、だました罰にからかってキスをしたのかと伊央は考える。
「好きだから…」
咲輝はにっこりと微笑んだ。
「えっ!」
聞き間違いかと思って、伊央はぽかんと大きく口を開ける。
「初めて会った時、私は伊央君に一目|惚《ぼ》れしてしまった」
咲輝は淡々といって、両手で伊央の顔を掴んだ。
「そっ、そんなの嘘だ」
伊央には、そんな重大な告白をあっさりという咲輝が信じられない。
「本当だ」
咲輝は真面目な表情でいう。
「じゃあ、なんで鈴鹿お姉ちゃんと結婚なんてしたんだよ」
自分を好きなのに鈴鹿と結婚したのも合点がいかなかった。
「世間体もあるし、そのほうが都合がいいと鈴鹿さんが教えてくれた。それに、私が好きだと告白しても伊央君は信じてくれたかい?」
咲輝は眉を寄せて、伊央をみつめる。
「それは…、好きだっていわれてもまだ信じられないし……」
伊央は困って、すぐ側にある咲輝の顔から視線をはずした。
そんなにじっとみつめられていると、ドキドキして変な気持ちになってしまう。
「そうだろう。だから私は鈴鹿さんの提案を受けいれることにしたんだ」
咲輝は吐息をつくと、いとおしげに伊央の頬をなんども撫でる。
「だって俺、男だ!咲輝さんそんなにカッコいいし、女の人にだってもてるだろう。なのになんで俺なの?」
伊央は親指の爪《つめ》を噛む。なんで自分なのか、伊央にはどうしても信じられなかった。
「私は女の人に興味が持てないんだ。だから鈴鹿さんとの見合いも義理でしただけで、結婚するつもりはなかった。けれど、伊央君に会って心が変わったよ。どうしても君を私のものにしたかった」
咲輝は伊央の顔から身体に手を移動させると、強引にべッドに押し倒す。
「ちょっ、ちょっとそれってなに?」
話が一足飛びに進んでしまって、伊央にはなんだか理解できない。
「見合いをした日、すぐに私が女性に興味がないと鈴鹿さんにばれてしまってね。伊央君に一目惚れをしたのも見破られてしまった。鈴鹿さんは、融資をする代わりに伊央君を私にくれると約束してくれたんだ」
咲輝は、伊央の腰に巻いてあったバスタオルをむしり取った。
「そっ、そんなの嘘っ!」
伊央の全身に鳥肌が立つ。
鈴鹿が借金のかたに自分を売ったなんて、信じたくない。信じたくないけど、頭の片隅ではあの鈴鹿ならやりかねないと伊央は思っていた。
考えてみると、初めから罠《わな》くさかったのである。けれど今までに比べて、あまりにも大がかりだったのでころりとだまされてしまった。
「伊央君のご両親も鈴鹿さんが説得してくれて、納得している。鈴鹿さんとの結婚は、伊央君と私が暮らすためのカムフラージュだ」
咲輝は楽しそうに微笑むと、伊央のまだ成長途中の身体を撫でさする。
「いやっ、そんなの嫌だっ!かっ、帰る。…うちに帰るっ!」
伊央は逃げようとして、咲輝の胸に両手をついて突っ張った。
「ハネムーンが終わったら、一緒に私の家に帰ろう。きっと伊央君も気にいってくれるはずだよ」
咲輝は伊央の両手首を掴んで、苦もなく引き剥《は》がす。
「ハネムーンって?」
伊央は力ではまったく咲輝にかなわないことを知って、涙ぐんで聞く。
「三日間で短いけどね。楽しく過ごそう」
咲輝は熱っぽい瞳でじっとみつめていたが、そっと伊央のそれに触れた。
「やだあっ、いゃだぁ、離せよ!」
瞬間雷に打たれたように、伊央の身体はビクンと強《こわ》張《ば》る。
伊央は力いっぱい咲輝の手を振り払うと、身体をエビのように丸めて震えていた。
咲輝にハネムーンの意味を知らされて、伊央は急に怖くなる。
「伊央君は、初めてなんだ……」
咲輝は優しく伊央をなだめて、震えて縮こまった身体を力ずくで開かせた。
「いやあっ、だれか助けて!」
身体を隠すこともかなわないと知ると、伊央は拳を作って泣きながら咲輝の胸を叩く。
「あきらめなさい。ここはスイートだ、叫んでもそうそう声は外に洩《も》れないよ」
咲輝は射るように強い視線でみつめると、伊央の両手を片手で一緒に掴んで上に引きあげた。
「あっ!いやだあっ。離せ!」
なんとか逃れようとして、伊央は必死で身体を捩《よじ》る。
「おとなしくしなさい」
咲輝は吐息をつくと、あいた手で伊央のものをぎゅつと握った。
「いっ、痛いっ!」
思わず伊央は悲鳴をあげた。
あまりの痛みに抵抗する気力も一気に萎《な》えて、強張っていた身体から力が抜ける。
「私は本来優しい男だ。怒らせるようなことをするのはやめて、いい子にしていなさい」
咲輝は痛みで震えている伊央の頼にキスをした。
「いやぁ……」
脅かされても、なにをされるかわかっているのにおとなしくしていることなどできない。
「伊央君は、もう私から逃げることはできないよ」
咲輝は優しくいって、まだ逃げようと抵抗している伊央の身体をぎゅっと抱きしめる。
「やだぁ、帰るの……。帰るぅぅ」
伊央は子供のように涙声で訴えながら、爪を立てて咲輝の腕から逃げようとした。
本当だったら今ごろディズニーランドで遊んでいたはずなのに、咲輝にこんなことをされているのである。
こんなのはぜったいにおかしい、夢に違いないと思おうとしても、咲輝が自分を抱きしめている腕は現実のものだ。
「往生際が悪いな」
咲輝は笑いながら、伊央のものをふたたび掴む。
「ああっ!」
さっきのように力いっぱい握るのではなく、優しく包みこまれて伊央は顎《あご》をのけぞらせて声をあげた。
「本当に、可愛い」
元気のいい魚のように跳ねる伊央の身体は、釣り人が魚を釣ったような興奮を咲輝に与える。早くすべてを自分のものにしたくて、咲輝は細い伊央の首筋に唇をつけて強く吸いあげた。
「いあっ、やあっ!」
強い痛みの後じわりとそこが熱くなり、いつまでも唇を押しつけられているとジンッと痺れたようになる。
咲輝の唇が触れている場所に伊央の全部の神経が集中して、後の感覚が麻痺《まひ》したようになってきた。
「そうだ、おとなしくしておいで。そうしていれば、怖くしないから」
咲輝は唇を伊央の首筋から、じょじょに胸へとさげていく。そのたびに、肌に赤い跡が残されていった。
「ひゃっ!」
乳首を舐《な》められて、くすぐったさに伊央は思わず声をあげる。
初めはくすぐったいだけだったが、咲輝に噛まれたり吸われたりしているうちにだんだん奇妙な感覚がそこから湧《わ》きあがってきた。
「いい色になった」
咲輝は芯《しん》をもって立ちあがった乳首を舌先で割るように舐める。
「うあっ」
その痺れるような感覚が、伊央の下半身を直撃した。咲輝に乳首を弄《もてあそ》ばれて、感じてしまうなんて伊央には信じられない。
弄ばれた片方の乳首は赤く色づいてきつく尖っていて、咲輝に少しでも触れられると声をあげてしまうほど敏感になっていた。
「感じるんだ」
頭をもたげはじめた伊央のものをゆるゆると掴んで、咲輝は耳元で囁く。
「ちがっ…」
咲輝の低音が、ゾクンと伊央の腰を直撃した。
伊央は首まで真っ赤になって、両手で必死でそれを隠そうとする。
「隠さなくてもいい」
咲輝は笑うと、伊央の両手を掴んで引き離した。
「違う!こんなの…俺っ、違う…」
咲輝に勃起したものをじっとみつめられて、伊央は涙声で訴える。
乳首を舐められて、咲輝の声に反応してこんなになってしまうなんて、伊央は恥ずかしくて顔をあげることができない。
「もっとよくしてあげよう」
咲輝は微笑みながら身体をずらすと、伊央のものを口に含んだ。
「ひっ!」
柔らかく生暖かな感触に、伊央は息を詰めて震える。
肘をついて身体を少し持ちあげてみても、伊央には咲輝の髪の毛しかみえない。
ただ、ぴちゃぴちゃと咲輝が伊央のものを舐める音が聞こえてくるだけである。
「あっ、…ああっ、…やだっ」
嫌なのに、咲輝に与えられる快感に惑わされてかすれたような声しかでない。
「はあっ……、はあっ……、はあっ……、んあっ」
伊央の感覚のすべてが、咲輝の口と手で奉仕されているそこに集中していく。
咲輝の舌に翻弄《ほんろう》され、膨れあがる欲望を止められなくて伊央はただ喘《あえ》いでいた。
「もう、イキそうだ」
口を離すと、咲輝は唾液で濡《ぬ》れて光っている伊央のものの先を割るように指先でなぞる。
「ああっ!」
伊央はぎゅっと瞼《まぶた》を閉じて、襲ってくる射精感に耐えた。
「これだけで、イッたらだめだよ。伊央君には、こっちも覚えてもらわないと」
咲輝はベッドサイドのテーブルの上に用意しておいたゼリーを指先に取ると、窄《すぼ》まっている伊央の奥に指を滑らせる。
「あっ!」
今まで誰も触れたことがない場所に、違和感があり伊央は声をあげた。
「力を抜いているんだ、いいね」
咲輝は伊央の膝を折り曲げて左右に大きく開かせると、そこにじょじょに指先を埋めていく。
「いたっ、やあぁ!」
身体の中に異物をいれられるという、今まで知らなかった感覚に伊央は震えていた。
指先が少しはいっただけなのに、痛くて、気持ち悪くて伊央はじたばたと足を動かす。
「痛いんだ、しかたないね」
咲輝は吐息をつくと、暴れる伊央の足を動けないように膝で押さえた。
「いやあっ…、やだっ…、やだぁ…」
足を大きく左右に広げられ押さえつけられたうえ身体の中を探られて、伊央は泣きながら咲輝の胸を爪でかきむしる。
「つっ」
咲輝は目を細めて舌うちをすると、指を伊央の中に一気に根元まで押しこんだ。
「ひっ!」
伊央の身体は、恐怖と、痛みと、ショックで強張る。
「私を怒らせるようなことをするんじゃない」
咲輝は睨みつけると、身体にいれた指を出し入れしながら伊央のものを扱《しご》いた。
「あううっ、はあっ……、はあっ……はあっ……」
身体の中を指でかきまわされる痛みと、自分のものを扱かれる快感とで伊央の身体はバラバラになりそうである。自分のものでないように身体は熱くなっていた。
伊央のものは赤く充血して腹につきそうにそり返って、少しの刺激で爆発しそうになっている。
咲輝に扱かれている自分のものか、中を探られている粘膜の音なのか、どちらともわからない音がくちゅくちゅと響いていた。
「伊央っ、イキなさい」
咲輝は目を細めると、伊央の耳元で囁く。
「ひっ、ああんっ!」
伊央はその声にゾクンッと震えると、蜜《みつ》を飛ばした。
ふわっと宙に浮かんで引き落とされるような快感が、伊央を支配する。
「はあっ……、はあっ……、はあっ…、あっ…、はあっ……」
呼吸をするのがやっとで、伊央は抗議の声もでない。
「痛いぐらいだね」
咲輝は、伊央の身体の中にまだはいっている指を動かす。
射精の快感で伊央の身体は弛緩《しかん》しているのに、中は咲輝の指をぎゅっと締めつけて震えていた。
咲輝は伊央の中から指を引き抜くと、足を押さえていた膝を退かす。
「なに…するの?」
身体の中にはいっていた指の感覚がなくなってほっとしたのもつかの間で、両足を掴まれて曲げさせられ、膝を胸に押しつけられた。
この姿勢だと、咲輝の前にすべてをさらけだしてしまって恥ずかしい。
「よく滑るようにするだけだ。痛くはない」
咲輝は伊央の中にゼリーを流しこんで、指をいれて中を探った。
「なんで…、あっ、んんっ」
クチェリと音をたてて、ふたたび伊央の身体の中に咲輝の指がはいってくる。
さっきよりは痛くないが、気持ち悪さは変わらないし、咲輝になにをされるかわからない漠然とした不安感はいまだに消えない。
「んんっ!いたっ、…やっ!」
一本でもキツい身体の中に、咲輝の指がもう一本侵入してきた。
指が動かされると同時に身体の中になにかがはいってきて、それがグチュグチュと音をたてている。その音をさせているものが、滑りをよくさせるものなのだと伊央は感じていた。
「あっ、…はっ…、はあっ……。なんか変」
そうやって咲輝に身体の中を探られていると、馴染《なじ》んできてだんだん痛みを感じなくなってくる。それどころか、身体の奥が熱くなるように快感が湧きでてきた。
それがある個所を触られた時だけに起こるとわかって、伊央は知らず知らずのうちにそこに押しつけるように腰を浮かす。
こんなことで気持ちよくなるなんておかしいとわかっているのに、伊央はやめることができない。
「ああんっ」
快感がぞくぞくと背中を走り抜けて、伊央は嬌声《きょうせい》をあげる。
「少し緩くなってきたようだ」
咲輝は唇を少しだけ引きあげると、伊央の身体の中からゆっくりと指を引き抜いた。
「あっ、いやぁ、ダメッ」
伊央の身体は、咲輝の指を名残惜しがるように収縮する。
「もう快感を覚えたんだ、いい子だね、伊央。でも、これからが本番だ」
咲輝は伊央にキスをすると、腰に巻いていたバスタオルを取った。
「あっ!」
伊央ははっとして、天を突いている咲輝のものをみつめる。自分とは比べものにならないぐらい咲輝のものは大きくて、濃い色合いだった。
プラスチックの瓶にはいっている透明な液体が、それに塗られるのを伊央は息を詰めてみる。
「力を抜いていなさい」
咲輝は伊央の頭を撫でると、足の間に身体を滑りこませた。
伊央の股を胸につくまで押して、そこをあらわにすると熱くなった自らのものを押しあてる。
不安そうな伊央の表情をみて、大丈夫だろうかと危惧《きぐ》しながらも欲望には逆らえず、咲輝は腰を進めた。
「いっ、たっ!」
メリッと、身体が引き裂かれるような音を伊央は聞く。
「嫌だ、やめてっ!」
身体の中に熱い異物が押しこまれる痛みに、伊央は涙ぐんで咲輝の腕に爪を立てた。
「我慢しなさい」
咲輝は眉を寄せながらも、しっかりと伊央の腰を掴んで自らのものを中に押し進める。
「ひいいっ!いっ、いたいっ!」
あまりの痛みに伊央は泣きながら、咲輝のものから逃れようと身体をずりあがらせた。
「伊央、痛いのは最初だけだから。すぐに慣れる」
鳥肌をたてて顔を歪めている伊央に優しくいいながらも、咲輝はじりじりと中に自らのものをねじこむ。
かなりきつかったがここであきらめてしまえば、伊央の身体はいつまでも慣れないだろう。
「も、いい!慣れなくていい。だしてよ、なんでこんな痛いことするんだょぉ!」
伊央は泣きながら首を大きく左右に振って懇願する。涙がシーツに散って、いくつもの染みを作った。
「伊央が好きだからするんだ。けれど、私にはゆっくり伊央を慣らしてやる時間も、気持ちの余裕もない。今すぐに伊央とひとつになりたい」
咲輝は伊央の顔を掴んで真正面からみると、言葉の激しさとは裏腹に静かに告げる。
「そんなこといったって…、俺の気持ちはどうなるんだよっ!」
伊央は涙のたまった瞳で咲輝をみつめた。
いくら咲輝に好きだといわれても、伊央の気持ちは無視されたままである。大人たちの都合で売られて、好き勝手にされるなんてひどい。
「伊央は、私を好きになるしかないな」
咲輝は目を細めて冷たくいい放つと、伊央の腰を掴んだ指が白くなるまで力をいれて、一気に引き寄せた。
「ああうっ!」
ズズッと音をたてて、奥深くまで咲輝のものがはいりこむ。
頭の中が真っ白になり意識が飛んで、伊央は咲輝の腕を掴んでいた手を離した。
「伊央、大丈夫か、伊央?」
咲輝は、急にぐったりとした伊央の頬を叩いて名前を呼ぶ。
なんどかパシパシと頬を叩いていると、伊央は瞼を開けて虚《うつ》ろな視線を咲輝に向けた。
咲輝はほっとして、青ざめている伊央の頬をいとおしげに撫でる。
「動くから、力を抜いていい子にしていなさい。すぐに気持ちよくなるから」
伊央のものを手に包みこみながら、咲輝は腰を動かしはじめた。
「はっ……はあっ……、はあっ……、はっ……痛い…、痛いよぅ……」
身体の中を肉棒で擦《こす》られ突きあげられて、伊央は荒い息をつきながら涙を流す。
咲輝に動かされて、伊央はシーツの上で上下に揺らめいている。
「…いいよ。……伊央、好きだ」
伊央の粘膜に包まれ緩く締めつけられて、咲輝は今までない快感に夢中になって腰を動かしていた。
まだ成長過程の伊央の身体は、柔らかく咲輝を受け止めて絶頂へと導いてくれる。
「もっ、……いいっ。も……う、やめて!」
たくましい咲輝の腕に抱かれて、伊央は喘ぎながら懇願していた。
身体はバラバラになりそうに痛いのに意識ははっきりしていて、咲輝の言葉や表情のひとつひとつが脳裏に焼きついていく。
「はあっ……許して…、はっ……こんなこともうしないでよ…、はあっ……うあっ!」
身体の奥を深く抉《えぐ》られて、伊央は悲鳴をあげた。
いくら泣いても、叫んでも、やめてほしいと頼んでも、咲輝はやめてくれない。
「伊央、いこう一緒に…」
伊央の懇願などまるで開かずに咲輝はうっとりと瞼を閉じると、手の中の伊央のものを激しく扱いた。
「あうっ!」
咲輝にそれを扱かれると伊央の頭の中は霞《かすみ》がかかったようになって、もう冷静に考えられなくなる。
「…いくよ伊央、いち、にっ、さん!」
咲輝は勢いをつけて根元までいれると、伊央の奥で射精した。
「ああんっ!」
身体の中に咲輝の飛沫《しぶき》を感じた瞬間、伊央も精を吐く。
「はあっ…、はあっ……はっ、……はあっ……」
伊央は呆然《ぼうぜん》として、肩で息をついていた。頭の中が空っぽで、考える力もなにもかも失われてしまったようである。
「大丈夫か、伊央」
咲輝は身体を離すと、汗で顔に張りついている伊央の髪を優しく撫でた。
「…お尻が痛い…、お腹も痛い…」
伊央は恨みがましい視線で咲輝を睨んで、涙声で答える。
身体の奥はズキズキと痛んでいるのに、入り口は咲輝に擦られて感覚がなくなっていた。
自分のことを好きだといいながら、咲輝はなんでこんなひどいことを平気でするのだろう。
「みせてみなさい」
咲輝は身体をずらすと伊央の足を開かせて、指でそこを広げた。
伊央の中からは自分の放った体液がトロリと溢《あふ》れてきたが、充血しているだけで切れてはいない。
「あっ!」
さっきまで咲輝がはいっていた場所に視線を感じて、伊央は真っ赤になる。
「まだ慣れていないから痛いだけだ。明日も明後日《あさって》もある」
咲輝は身体をずらして、頬を赤く染めて俯いている伊央を抱きしめた。
「明日も明後日もって?」
伊央は驚いて、咲輝をみつめる。
「ハネムーンだといったはずだ。花嫁が先に帰っては話にならない」
咲輝は伊央の唇に軽くキスをした。
「俺は、花嫁じゃない。……もういいだろう、家に帰してよ!」
これ以上咲輝にされたら本当に壊れてしまいそうで、伊央は必死で頼む。
「だめだ、伊央には私のセックスを覚えてもらわないといけないからね」
咲輝は冷たく微笑むと、溢れだした伊央の涙を指で拭いた。
「こっ、こんなの犯罪なんだから、警察に訴えてやる!」
伊央は怖くて震えだしそうになるのを我慢して、咲輝を睨んで気丈にいい放つ。
「困ったね、こんなことはいいたくないんだが…。私は伊央のお父さんの会社にお金をだしている。これ以上わがままをいうなら、今すぐそれを返してもらわないといけないな。そうなると、伊央のご両親も会社に勤めている人も、困るんじゃないのかい?」
咲輝は鼻先で笑うと、伊央の顎を掴んだ。
「脅迫する気?」
伊央は震えながら、咲輝に聞く。
「したのは伊央が先だろう。私を怒らせないほうがいいといったはずだ」
咲輝はきゅっと目を細めると、微《かす》かに震えている伊央の唇に自分の唇をあわせた。
舌で唇を無理やりこじ開けて、貪《むさぼ》るようなキスをする。
伊央が苦しがって暴れても抱きしめたまま離さないで、舌で口腔の中をまさぐった。
飲みこみきれない唾液が伊央の唇の端から流れでても咲輝は唇を離そうとしないで、舌をからめて柔らかな感触を楽しむ。
伊央が完全に抵抗するのをあきらめてぐったりと身体から力を抜いた時、咲輝はゆっくりと唇を離した。
「くるしい……」
顎をつたう唾液を手で拭って、伊央は大きく息を吸う。
「伊央は初めてだったから、本当は今日はこれでやめるはずだったんだ…」
咲輝は困ったように微笑むと、荒い息をついている伊央の身体に熱くなったものを押しつける。
「やっ、やだっ!」
勃起した咲輝のものを感じて、伊央は必死でベッドの上を這《は》いずって逃げた。
「いやっ、いやあーっ!」
咲輝に足首を掴まれて引き寄せられると、無理やりベッドの上に俯《うつぶ》せに寝かされる。
腰だけを高く抱えあげられ、まだ痺れていて痛い肉を押し開いて咲輝の熱いものがはいってきた。
「あっ…、ああんっ!」
伊央は目の前の枕を掴んで、ぎゅっと瞼を閉じて蹂躙《じゅうりん》される痛みに耐える。
きつい角度で咲輝のものが出し入れされて、伊央の頭は枕に押しつけられ悲鳴と喘ぎはその中に消えていく。
ベッドがさっきより激しく揺れ、咲輝と伊央の皮膚がぶつかってパンパンと音をたてていた。
「あっ。……うあっ!…あううっ!」
手も足も感覚がなくてまるで自分の自由にならないのに、咲輝に犯されているそこだけがまるで別の生き物のようになって伊央に痛みと熱さを伝えている。
痛くて苦しいだけなのに、伊央の筋肉ははいっている咲輝のものを離すまいとすがりつく。
「伊央、痛いのか?」
伊央に聞いても明確な返事はなく、くぐもった悲鳴をあげるだけだ。
失神寸前の伊央をみて、咲輝はひどいことをしているという自覚はある。
一度抱いてしまえば後はおとなしくいうことを聞くと思ったのだが、伊央は外見に似合わず強情なところがあるようだ。
「もう私を怒らせたりしないね」
逃がさないためにも絶対者になって支配するのがいいのだと咲輝は自分自身にいい聞かせて、伊央の髪を掴んで上を向かせる。
「はっ、…はいっ」
伊央は目に涙をためて、苦しげに頷く。
咲輝とは数度しか会ってないのに、命令されてなんで逆らえないのかわからない。
長い間服従を強いられてきた鈴鹿に強くいわれると逆らえないのは、自分でもわかる。けれどこんなひどいことをされているのに、なぜ咲輝に素直に返事をしてしまうのだろう。
「いい子だ」
本当はこんな関係を望んでいるんじゃないと思いながら、咲輝は伊央の髪を離すと腰を掴んで突きあげた。
「うああっ!」
伊央はその衝撃で全身の筋肉を緊張させて、中にはいっている咲輝を力いっぱい締めあげる。
「くつっ!」
咲輝は奥歯を噛みしめると、食いちぎりそうに震えて締まる伊央の筋肉に抵抗した。
一ミリも動ける余裕がないはずの伊央の中から勢いよく引きずりだすと、咲輝は締まりかけたそこに一気に押しこむ。
「ひっ!」
伊央は息を飲んだ。
「伊央、可愛いよ」
咲輝はうっとりと瞼を閉じると、ふたたび抽挿《ちゅうそう》をくり返す。
「あッ……、あッ、……アッ……、アっ…、ああっ…」
だんだんと咲輝の動きが速くなって、伊央の身体は小刻みに揺らされる。
自分がだしている声なのか激しい呼吸の音なのかわからなくなった時に、咲輝が小さく呻《うめ》いて伊央の中に精を吐いた。
身体の中に液体が叩きつけられるのに鳥肌をたてながらも、伊央はこれで終わりなんだとほっと吐息をつく。
身体から咲輝がでていくと、伊央は静かに瞼を閉じた。
コーヒーのいい匂《にお》いが伊央の鼻腔をくすぐった。
鈴鹿が先に起きて、コーヒーをいれてくれるなんて珍しいことがあるものだと思いながら、伊央は瞼を開ける。
ピンクの枕カバーがまず目にはいった。
いつもはぜったいにしないことだが、どうやら俯せに寝ていたようである。
首だけを起したが、ピンクの壁紙と頭の上にあるスタンドしかみえない。
身体がだるくて、わざわざ起きてここがどこか確認する気にはなれなかった。
鈴鹿に聞けばいいと思って、伊央は枕に頭をつけて瞼を閉じる。
しばらくそのままうとうとしていたが、人の気配がしたので伊央は目を開けた。
「ここ、どこだっけ?」
だが、どうしたわけか声はかすれていてまともにでない。
「ホテルだよ。ルームサービスを取ったけど朝食にするか?」
すでに起きてスーツを着ている咲輝は、俯せのままの伊央の頭を撫でた。
「えっ!」
てっきり鈴鹿だと思ったのに違ったので、伊央は驚いて起きあがった。
「いっ、痛い!」
ズッキーンとあちこちの筋肉が痛んで、伊央はベッドの上にふたたび俯せる。
「大丈夫か?」
伊央の背中と腰を揉《も》むように撫でると、咲輝はゆっくりと彼を仰向けにして起きあがらせた。
「あっ、あーっ!」
咲輝の顔をみて伊央は昨日のことをはっきりと思いだし、首のつけ根まで真っ赤になる。
「おはよう、伊央」
咲輝はにっこりと微笑むと、伊央にキスをした。
「ごっ、強姦魔!嘘つき、人非人、俺を脅して無理やり、あっ、あんなことして…」
そこまで大声で怒鳴って、伊央はぽろりと涙をこぼす。
「よしよし、悪かったね。昨日は嬉しくて、ついいきすぎてしまったようだ」
咲輝は困ったように眉を寄せると、小さな子供をなだめるように伊央を抱きしめて、背中をなんども撫でた。
「痛い…」
伊央は目に涙をため、恨みがましく咲輝をみて唇を噛みしめる。
昨日とは違い今日の咲輝はとても優しいので、伊央は安心して胸に頭を預けた。
「ごめん」
咲輝は伊央の耳元で囁いて、頬に溢れている涙を唇で吸う。
「手も、足も、お腹も、お尻も、みんなすごく痛い!」
こうやってだだをこねて、咲輝の困った顔をみて憂さを晴らすぐらいしか伊央にはできない。
会社の融資を止めるといわれてしまえば、伊央はどんなひどいことをされてももう咲輝には逆らえないのである。
「抱いていってあげるから、服を着て食事をしよう」
咲輝は、ますます困りきった顔で伊央を覗きこんだ。
「えっ?あっ。ひゃーっ!」
いわれて初めて、伊央は真っ裸で咲輝に抱きついていたことに気がついた。
あわてて咲輝から手を離して、シーツで身体を隠す。
「今さらだな」
咲輝は手をロにあてて苦笑する。
昨日他人にはみせないような場所まで知ってしまったのに、今さら恥ずかしがっている伊央の行動がおかしくてしかたがない。
「きっ、着替えるからでていって!」
伊央は真っ赤になって、手近にある枕を咲輝に思いきりぶつけた。
「わかったよ」
咲輝は吐息をつくと、さっさとリビングルームに姿を消す。
「いっ、いたいっ!」
伊央は床の上に降りると、這って旅行鞄の側までいった。
自分では用意してないのに、昨日着ていた鈴鹿の服ではなく、伊央の服がちゃんと一式揃えられている。
初めから完全に鈴鹿と咲輝にだまされていたのだ。
ギシギシと痛む身体をそっと動かしながら、伊央はなんとか服を着る。ジーパンとTシャツという、ふだんなら五分もかからず着られる服に十五分もかかってしまった。
その間にもなんどか咲輝はようすをみにきていたが、伊央は思いきり追い払ったのである。
自力でなんとかリビングにいこうと思ったが、足に力がはいらなくてやはり這っていくしかない。
「どうして私を呼ばないんだ?みかけによらずに、伊央は本当に強情だ」
咲輝はベッドルームの床を這っている伊央をみつけて吐息をつくと、有無をいわせずに抱きあげた。
「ひっ、一人でいける。世話になんかなりたくない!」
伊央はむっとして、強がって咲輝を睨みつける。本当は暴れて咲輝の手から逃げたかったが、身体が痛くてそれどころではなかった。
「私の責任だ」
咲輝は短くいうと伊央をリビングのソファまで運んで注意深く降ろす。
「痛くないか?」
伊央のお尻の下と背中にクッションをいれてやりながら、咲輝は聞く。
「痛いよ、それも、全部咲輝さんのせいなんだから!」
伊央は頬を膨らませて、プイッと横を向いた。
「そうだな。嫌がる伊央に無理やりセックスして、足腰立たなくなるまで攻めたからね」
咲輝はクスリと笑って、おもしろそうに伊央を覗きこむ。
「ばっ、ばかっ!」
伊央は真っ赤になって俯いた。
咲輝にいわれると、やけに生々しく昨日のことを思いだしてしまう。
「本当のことだろう。あまり伊央がいいんで、私もやめられなくなった」
咲輝は伊央がいちいち過敏に反応するのが、おもしろくてしかたがない。
「知らない!」
伊央は怒りながら目の前に置かれているトマトジュースのはいったコップを取って、一気に飲み干した。
「たくさん食べておきなさい。体力がないと、私の相手はできないからね」
咲輝はさらりというと、怒っている伊央を楽しげにみた。
「ふーんだ!」
伊央はつんとして横を向く。
本当なら食べないと意地を張りたいところだったが、伊央はお腹が空《す》いて目がまわりそうだったのである。
昨夜は夕飯も食べずにあの運動量だ。食べ盛りの伊央が、お腹が空いて倒れそうでもしかたがない。
サラダとフルーツとハムが一緒にのっている皿を手元に寄せて、伊央はザクリとフォークで一刺しして黙々と食べた。
バランス的には問題ないのだろうが、今の伊央には物足りない量である。
優雅にのんびりと食事をしている咲輝を横目でみながら、伊央は時間がたったので冷めてしまったコーヒーにミルクと砂糖をいれて飲む。
ついでにグラタンの皿も手元まで引き寄せた。冷えて膜が張ったグラタンは牛乳の味が濃く感じられていまいちだが、お腹が空いているので我慢する。
「もっと、ルームサービスで頼むかい?」
無言でバクバクと食べている伊央をみかねて、咲輝は聞いた。
「うん」
伊央はその提案に、思わず満面の笑みを浮かべて答える。
「機嫌が直ったな」
咲輝は苦笑しながら立ちあがって、受話器を取った。
「違う、こんなんで俺はだまされたりしないんだから!」
食べ物につられて機嫌を直したと咲輝に思われるのが悔しくて、伊央は一生懸命いいわけをする。
「サンドイッチとサラダと、オードブルセット…」
電話をかけていた咲輝は、そんな伊央のいいわけなどまったく聞いていなかった。
お腹がいっぱいになると副交感神経が働いて、幸せな気持ちになるものである。
食事前は身体がだるくて中がズキズキ痛んで、声はかすれていて、頭はぼんやりして、なんだか腹がたって涙がすぐでてしまったがかなり落ち着いた。
今は、新聞に目を通している咲輝を観察する余裕もできてきたのである。
鈴鹿の結婚相手といっても伊央が咲輝と会ったのはほんの数回しかないので、こうやってじっくりと顔をみるのは初めてといっていいかもしれない。
昨日は、顔をみる余裕などまったくなかった。
童顔でまだまだ子供っぽい自分と比べると、咲輝はきりりとした男性的な顔つきである。
新聞を読んでいる今は無表情だが、伊央の印象ではもっと厳しい顔をしていたと思う。
「どうした、なにか用か?顔を洗いたいのか、まだ寝足りないのならべッドまで連れていくぞ」
その視線に気がついて、咲輝は微笑むと伊央の腰に手をまわした。
「いい。もうちょっとこうしている」
今は優しい顔をしているが、惑わされたらいけないと伊央は緊張して咲輝に答える。
昨日の咲輝はもっと意地悪で、冷酷に、自信満々の表情で伊央を支配したのだ。
少しでも油断したら、なにをされるかわからない。
「どうしたんだ、そんなに固くなって。私が怖いのか」
咲輝は笑いながら、伊央を覗きこんだ。
「あんなことされたら、誰だって怖い……」
吸いこまれそうな咲輝の視線に直撃され、伊央は震える指先で腰にまわされた彼の手を掴んで引き離す。
「そうかな?伊央もすぐに私にすがりつくようになる」
咲輝は伊央の顎を掴んで持ちあげると、挑発するように微笑む。
「俺は、咲輝さんがつきあってきたほかのやつらとは違うんだから!」
言外に前の恋人の存在を匂わせる咲輝の物言いに、伊央はかっとなって反発した。
咲輝に恋人がいようがいまいが、伊央には関係ないはずなのになぜか腹がたってしまう。
「目の前で赤い布を振られた牛のように、伊央は私の挑発に簡単にのってくれるね。本当に外見とはぜんぜん違う」
咲輝は苦笑しながら伊央に顔を近づけた。
「やだっ!」
キスされそうになって、伊央は咲輝の頬を力いっぱい叩く。
「伊央とつきあっていると、私は傷だらけになりそうだ」
咲輝は頬を押さえて冷たく微笑むと、伊央を抱きこんでソファの上に押し倒した。
「いっ、痛い!やめて、身体が痛いんだからっ!」
伊央は、上から伸し掛かってくる咲輝の肩を掴んで力いっぱい押し戻す。
「静かにしなさい!」
咲輝は伊央の手首を掴んでぎゅっと握りしめる。
「手、いっ、いたい…、やめっ…」
あまりの痛みに肩を掴んでいた手から力が抜けて、咲輝の顔が一気に近づいてきた。
「んっ!んんっ」
唇が重なり、歯列を割って咲輝の舌がはいってくる。
舌で口中をかきまわされると伊央の抵抗はじょじょに弱まり、咲輝に導かれるままに舌を絡ませた。
「あっ…」
咲輝の手が伊央のジーパンの上からそれを押し包み、まさぐるように動きはじめる。
甘い感覚に身体を支配されて、伊央は咲輝の首に両手を巻きつけてしがみついた。
嫌だと抵抗したはずなのに、いつの間にか咲輝の術にはまって伊央は自分から腰を押しつける。
痺れるような感覚がじょじょに広がりはじめた時、咲輝の唇は伊央から離れた。
「嫌がられると、無理にでもしたくなるものだな」
咲輝は微笑みながら唾液で濡れた伊央の唇を指でなぞると、首に巻きついていた腕を離して起きあがる。
「んっ…」
熱くなりはじめた身体を途中で放りだされて、伊央は涙ぐんで咲輝をみた。
「どうしたんだ。誘っているのか?」
咲輝は目を細めて、伊央の身体を舐めまわすように眺める。
「ちがうっ!」
一瞬冷水を浴びせられたように寒い気持ちになって、伊央はぎゅっと両足を閉じて横を向く。
一瞬でも、もっと咲輝にしてほしいなんて思ったことを呪《のろ》わずにはいられない。
自分を脅していうことを聞かせた咲輝に触られて、欲情したなんて悟られたくなかった。
「顔洗うから、バスルームにいく!」
伊央は動揺を隠すためにわざとぶっきらぼうにいって、咲輝に両手を突きだす。
「いいよ」
咲輝はにっこりと微笑むと伊央を抱きあげてバスルームまで運び、伊央が座ったままで顔を洗えるように、イスも用意した。
「もう、いい。終わったら呼ぶから」
咲輝の気遣いが嬉しいが、伊央はそれを認めて素直に『ありがとう』とはいえない。
もとはといえば咲輝のせいなのだからあたりまえだと思って、伊央はつんとして横を向いた。
「じゃあ、なにか必要だったら呼びなさい。それと、勃起していても抜かないほうがいい。
今夜、またたくさんださなくてはいけないからね」
咲輝はクスリと笑うと、バスルームのドアを締める。
「ばか!ばかあーっ!」
伊央は洗面台の上にのっていたタオルを、ドアに向けて思いきり投げつけた。
「もうっ、もううっ!大嫌い!」
伊央は真っ赤になって、洗面台の鏡と向かいあう。鏡の中の自分は昨日と同じ顔のはずなのに、究極に変な表情をしているようにみえる。
伊央はやけになって、水で顔をばしゃばしゃ洗った。
タオルで顔を拭いて鏡をもう一度みると赤みが消えてさっきよりましになっているが、表情がおかしいのには変わりがない。
あんなにひどいことを咲輝にされたのだから、もっと悲しくて傷ついた顔をしていてもいいはずなのに、なんだか嬉しそうで困ったような表情になってしまうのだ。
なんでこんな変な顔になってしまうのか、自分でもわからない。
「俺、すごい変!」
咲輝のことなんて嘘つきの強姦魔としか思っていないはずなのに、挑発されるとすぐのってしまったり、過去の男のことをほのめかされて怒るなんてどうかしている。
本当に数回しか会っていないので、伊央は今まで咲輝がどんな性格かなんてまるっきり知らなかった。
傲慢で冷たかったり、えっちで意地悪だったり、すごく優しかったり、伊央には咲輝のほんとうの顔がどれなのかさっぱりわからない。
咲輝がよくわからないから、気になって挑発にのってしまうんだと自分にいい聞かせた。
「俺を好きだなんていうからだ…」
潰れるかもしれない父親の会社に融資をして、鈴鹿と偽装結婚してまで、自分を欲しがった咲輝の気持ちが伊央は少し嬉しかったのである。
忙しい両親は伊央のことを構ってくれなかったし、姉の鈴鹿は意地悪だし、自分を好きだといってくれたのは咲輝が初めてだった。
童顔の伊央は、クラスメートの女の子たちからは男として人気がなかったし、男子生徒の中でも身体が小さいのがコンプレックスになっていたのである。
自分が特別にだれかから必要とされていると、今まで思ったことは一度もなかった。
心の底では、この状況から強引に攫《さら》ってくれる誰かを待ち望んでいたのかもしれない。
「終わったよーっ、迎えにきて!」
伊央は歯磨きを終えると、歯ブラシを洗面台の上に置いて大声で叫ぶ。
鏡の中を覗きこんでいると、すぐに咲輝がバスルームのドアを開けて中にはいってきた。
「これからどうする、ディズニーランドにいくか?」
咲輝はイスから伊央を抱きあげて聞く。
「そりゃ、いきたいけどこれじや痛くて動けないよ。トイレだってやっとなのにさ!」
伊央は膨れ面で、咲輝を睨む。
「そうか…」
咲輝は考えながら、ベッドルームを通ってリビングにいくと、伊央をソファの上に降ろした。
スリッパから靴にはきかえると、咲輝はキーと財布をスーツのポケットの中にいれる。
「どこかいくの?」
一人でここに残されるのが不安で伊央は聞く。
「二階だ」
咲輝は伊央のスニーカーを持ってきてはかせると抱きあげた。
「うん」
なにからなにまで咲輝にやってもらって、まるで自分が女王様になってしまったようだと伊央は思う。
咲輝に抱きかかえられたままエレベーターに乗り一階まで降りて、テラスレストランの奥のアーケードブティックに連れていかれた。
そこにはディズニーランド直営のキャラクターグッズのお店があって、キャラクター商品が所狭しと並べられている。
抱きかかえられたまま店にはいるのは少し恥ずかしかったが、正午少し前の店の中は販売員のほかに人はいない。
スペースの都合で種類は限られてしまうが、園内でしか買えないグッズがここにはある。
「好きなものを選びなさい」
咲輝は、伊央を棚の前に降ろした。
「えっ、好きなものってどーいうこと?」
必死で近くの棚に掴まって、伊央は首を傾げる。
「好きなものがないなら、ほかのホテルのショッブに連れていく」
咲輝は商品の品揃えを確かめながら伊央に告げた。
「ちょ、ちょっと待って!それって、俺に買ってくれるっていうこと?」
伊央は驚いて、咲輝に聞く。
咲輝は自分は悪いことなどしていないという態度だったが、伊央が遊びにいけないのを気にしていたようである。
「そうだ」
咲輝は素っ気なく返事をした。
「もし、全部っていったら?」
伊央は瞳の奥を煙めかせて聞く。
ぜったいに無理だとわかってはいたが、伊央は咲輝にわがままをいってみたい気分である。
「君、この店のものを全部…」
咲輝は販売員に向かって、手を挙げた。
「嘘っ!冗談だって、聞いてみただけなんだよーっ!」
伊央は大声でいいながら、あわてて咲輝の口を両手で押さえる。
「いったーっ!」
咲輝のロを押さえるために伸ばした腕や、腰や、足が、ズキーンと痛んだ。
「大丈夫か?」
その場にへなへなと座りこんでしまった伊央を、咲輝は抱き起こす。
「くすん、痛い…。咲輝さんは、わざと俺を脅かすようなことをいうんだからひどい」
伊央は目に涙を浮かべて、咲輝にしがみつく。
「本気だ。伊央が欲しいものなら、なんでも買ってやる」
咲輝は淡々といって、伊央の頭を撫でる。
「そんなの困る…」
本気で愛の告白をされているようだと思って、伊央は恥ずかしくなって俯いた。
「そんなにたくさん買ったら家にはいらなくなって、俺のいる場所がなくなる」
咲輝に答えてしまっていると思いながら、伊央はぼそぼそと呟く。
「それもそうだな」
咲輝は微笑んだ。
ホテルの部屋のソファには、ミッキーとミニーの特大ヌイグルミが仲良く座っている。
どうやってこれを持って帰るのだろうと思って、伊央は隣に座ってくつろいでいる咲輝をみた。
結局伊央が選んだのは腕時計だけで、あとのヌイグルミや大量のお菓子や日用品や、その他のこまごましたものを買ったのは咲輝である。
「お菓子、あんなにどうするの?」
とても食べられそうにない量のお菓子の缶の山をみて、伊央は聞く。
「会社の人たちに配る。三日も留守にするからな」
咲輝はさらりと答えた。
「送ればよかったのに。これ運ぶの大変だ」
家にいれるだけでもかなりの重労働になりそうで、伊央は思わず吐息をつく。
「ボーイに運んで車にいれてもらうから、大丈夫だよ」
咲輝はなんでもないことのように簡単にいう。
「そうじゃなくて、家にいれる時だよ。俺、たぶん運ぶの無理だし…」
伊央は咲輝が笑っているのをみて、言葉を詰まらせる。
「伊央は、私と一緒に帰ってくれるんだ」
咲輝は伊央を抱きしめて、にっこりと微笑む。
「だって、咲輝さんが俺を脅したんだろ…。だからしかたなく一緒に住むだけなんだから!」
当然のように一緒に帰るものだと思いこんでいた伊央は、咲輝にいわれてしどろもどろになる。
伊央は、完全に咲輝の術中にはまっていた。
「嬉しいよ」
咲輝は伊央の頬にキスをすると、抱きあげてベッドまで運ぶ。
「ちょっと、まだ明るいよ!なにするんだよ、すけべっ!やっ、…やだっ!」
Tシャツとジーパンとスニーカーを無理やり咲輝に脱がされて、伊央は必死で叫んだ。
「明るいのは、関係ない」
咲輝はスーツの上着を脱ぐと、きちんと締めていたネクタイを緩める。
「いっ、痛い!痛いんだから、いやーっ!」
こうなったら咲輝の罪悪感に訴えて逃げきるしかないと考えて、伊央は涙声をだした。
「それじゃ、おとなしくしていなさい」
咲輝はあっさりというと、ネクタイをはずして床に投げる。
「悪いと思わないんだ!俺をこんなにしたの咲輝さんなのに、まだする気?」
あまり簡単に片づけられてしまったので、伊央はむっとして抗議した。
「休みは、もう今日と明日しかない。時間は有意義に使わないとな」
咲輝はワイシャツも脱いで床に捨てる。
「これが、有意義にすることなのかよ!俺、咲輝さんの住んでるところも、生年月日も血液型も、趣味もなにも知らないよ。そういうの先に話すのが普通だよ!」
お互いのことを知りあうための話もなしに、いきなりセックスなんて、伊央には納得できない。
「そんなもの、資料を読めばわかる」
咲輝は冷たい視線で伊央をみる。
「咲輝さん俺のこと好きだっていったけど、俺の気持ちを無視して自分のしたいことだけするなんて、やっぱりお金で買ったと思ってるからだろ!」
そんなふうに思いたくはないが、咲輝にこんな扱いを受けると伊央にはそうとしか考えられない。
「そう伊央が思うなら、しかたがない」
咲輝は細い吐息をついて、伊央の腕を掴んだ。
「咲輝さん…」
否定してほしかったのに、そう簡単に肯定されてしまったのでは伊央はどうすることもできない。
なんだか悔しくて、涙が溢れそうだ。
「書類を読めばわかるようなことを話している時間は、私にはない」
咲輝は伊央を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめる。
「それじゃ、セックスするために俺を買ったのと同じじゃないか。優しいと思ってみなおしたのに、やっぱり咲輝さんは傲慢で冷たいんだ!」
伊央は唇を噛みしめて、視線をはずした。
「私を困らせないでくれ。好きだ伊央……。だから離れられないように、君を縛りつけたい」
ベッドの上に伊央を寝かせながら、咲輝は眉を寄せる。
「俺には咲輝さんのいってること、ぜんぜんわかんない」
少しはわかったつもりになっていたが、咲輝の感情は複雑すぎて伊央にはまったく理解できない。
「それでも構わない」
ちゃんと話せばわかることなのに、咲輝はそれを伊央に説明しようとは思わなかった。
今日と明日しか、伊央とゆっくり過ごしていられる時間はない。その後は、仕事づけになることは目にみえていた。
仕事で伊央を放りっぱなしにしている間に、逃げられてしまうのではないかと咲輝は危倶していたのである。
その前に、咲輝はどうしても伊央を自分に縛りつけておきたかったのだ。
「なんでそうやって突き放すんだよ!」
伊央は顔を顰《しか》めて、咲輝に抗議する。
「いい子にしていなさい」
咲輝はそれを無視して冷たくいうと、伊央の下着に手をかけた。
「…やっ。嫌だっ!」
昨日の苦しさと痛みが蘇《よみがえ》ってきて、伊央の身体は固く強張って震えだす。
「優しくしてあげるから」
咲輝は目を細めて、震えている伊央から下着を剥ぎ取った。
鏡に手をついて、伊央は喘いでいた。
膝下の大理石は冷たいのに、身体はやけに熱い。その原因は、伊央のものの根元にきつく巻きついている輪ゴムである。
広い大理石の洗面台の上にのせられて、鏡に映った自分の姿を伊央はいやおうなしにみせられていた。
身体にはいくつもの鬱血《うっけつ》の跡が点々と残っていて、勃起したものは根元でせき止められて、いつもは薄い赤なのに今は赤黒く変色している。
そんな姿を咲輝の前にさらして恥ずかしいはずなのに、伊央の表情はどこか淫《みだ》らで物欲しげだった。自分の姿を直視できなくて伊央は顔を背ける。
根元に食いこんだそれは、もう伊央の手ではずせる状態ではなくなっていた。伊央の視線は咲輝が持っている、小さな鋏《はさみ》に注がれている。
「よくみなさい。自分がどんな姿をしているのか」
咲輝は伊央の顎を掴むと、きちんと自分の姿をみるようにと正面を向かせた。
「いやだっ‥‥‥、こんなの俺じやない」
伊央はぎゅっと瞼を閉じる。
「イキたいんだろう」
すでに先を濡らしている伊央のものを片手で掴んで咲輝はゆっくりと扱く。
「んっ…、だめっ……、くるしいっ……咲輝さん、やめて!」
もう爆発しそうなのに根元を止められていてイケなくて、伊央はガクガクと膝頭を震わせていた。
「伊央が、いい子ならこれを取ってあげるよ」
咲輝は微笑みながら、根元に食いこんでいる輪ゴムに眉毛用の細い鋏の刃先を通す。
「早く!お願いだから取ってよ…」
その薄い刃先が通っただけでも、さらにゴムはきつく伊央の根元に食いこんで、苦しくて伊央は涙を流して咲輝に懇願した。
「伊央はだれのものだい?」
咲輝は伊央の耳元で囁く。
「咲輝さん…のもの…です。伊央は咲輝さんの……もの……」
伊央は呪文のように同じ言葉をくり返す。
「もし伊央が、私の側から逃げたらこれをする。苦しいのは嫌だろう?」
咲輝は伊央のものの先に爪を立てる。
「いっ、……はいっ、……嫌です」
痛みにビクッと体を震わせたが、伊央はなんとか咲輝に返事をした。
「いい子だ」
咲輝は微笑みながら伊央を呪縛していた、輪ゴムを鋏で切る。
「うあっ」
ぷつりと音をたてて切れた輪ゴムは、勢いよく弾けて伊央のものにビシリと当たった。
「あっ、ああーっ!」
焼けるような激痛が走った次の瞬間、伊央は射精する。鏡に伊央の精液が飛んで、ゆっくしたたりと滴り落ちた。
「はあっ……、はあっ、あっ……はあっ……」
今までにない激しい絶頂に、伊央は鏡に掌と頬をべったりとつけて虚ろに目を見開いている。
死にそうに心臓がドキドキしていて身体に力がはいらず、伊央はずるずると洗面台の上から落ちていく。
「伊央、まだだ。このぐらいで、呆《ほう》けてもらっては困るよ」
咲輝は洗面台から落ちそうになっている伊央を抱きあげると、泡に覆われているバスタブの中にはいった。
先に咲輝が座って、自分の勃起したものの上にゆっくりと伊央を座らせる。
「あっ、あ〜んっ!」
声をあげながらも、のぼりつめて弛緩した伊央の身体はすんなりと咲輝のものを受けいれた。
「今度は簡単にはいったな」
咲輝は、後ろから伊央の顎を持ちあげてキスをする。
「いいっ、咲輝…さん…」
今まで伊央を縛っていた理性がふっとんでしまって、気持ちのいい咲輝のキスを素直に受けた。
「ずっとこのままで、伊央といたい」
咲輝は背後から、伊央の身体をぎゅっと抱きしめる。
「くふっ」
中にはいっている咲輝がひときわ大きくなったようで、伊央は吐息をついた。
温かいお湯の中にはいっていて筋肉が緩んでいるせいか、咲輝に下から貫かれていても昨日より痛くない。
「うんっ」
咲輝に乳首を摘《つま》まれて、伊央は思わず声をあげた。ジンッとした痺れが、身体のすみずみにまで広がっていく。
「少し触っただけでここも、いいんだ」
伊央の身体が自分が与える快感に慣れはじめていると考えて、咲輝は微笑む。
咲輝は伊央の胸全体を掌で包むようにして指の間に乳首を挟むと、ゆっくりと揉みはじめる。
「あっ…、アアン……、やあ…っ、いっ……、いやぁっ!」
女の子のように胸を揉まれて、こんなに感じて乱れてしまうなんておかしいと伊央は、霞のかかった頭の隅で思う。だが、一度あげてしまった声は止められない。
「もっと、私を感じなさい」
咲輝は手の動きを止めずに、腰を突きあげた。
「はうっ!」
伊央は大きく目を見開いて息を飲む。
身体の中からグスグスに溶けてしまいそうな快感が突き抜けた。
「あっ、…うあっ、……はあっ、……だめっ…はあっ……やだっ」
伊央はバスタブの縁を掴んで、下から突きあげてくる咲輝のものを受け止める。
咲輝の動きにあわせて、バスタブのお湯が縁にあたってぴちゃぴちゃと跳ねた。
「お湯……が…はいる、そんな……に激しく、し……ないで!」
伊央は、切れ切れの声で咲輝に頼む。
だが咲輝はそれを無視して、いっそう激しく伊央を上下に動かした。お湯で温まっていた伊央の身体は、咲輝に中を擦られるとさらに熱くなっていく。
一度イッたはずなのに伊央のものはふたたび勃起して、泡の閏から見え隠れしている。
「はあっ…、はあっ……、あっ」
ビシャビシャと音をたてて、激しく水が身体を打つ。
伊央の頭の中は熱さでますます虚ろになって、話すのもおっくうになってきた。身体は咲輝に揺らされるままに、大きく上下に動いている。
「だめっ……、もだめ…、いく……、いっ……ちゃう!」
伊央はバスタブの縁に爪をたてて、ぎゅっと瞼を閉じた。泡の中にパタパタと音をたてて精液がとぶ。
「くっ!」
ビクビクと震えて締まる伊央の中に、咲輝も精を放っていた。
「んーっ」
伊央はぐったりと身体を前のめりに倒す。熱で脳細胞がかなり死滅してしまったようで、なにも考えられない。
「伊央お願いだ。私から逃げないでくれ」
咲輝は伊央をしっかりと抱きしめて、耳元でなんども囁いた。
身体が痛いのは昨日の朝と変わらない。全身筋肉痛で、動きがバラバラ状態である。
伊央は腕に力をいれて、なんとか上半身を起した。
「いったーっ!」
ふだん使ってない筋肉が、音をあげて軋《きし》んでいるようである。
咲輝にどんな体位をとらされたか考えてみると、この筋肉痛も不思議ではない。
隣で安らかに眠っている咲輝をみると、伊央はムカムカしてきた。
「ヘンタイ絶倫男!」
伊央は、隣で眠っている咲輝の頭をポカリと殴る。だが、殴ったのに起きないのが憎たらしい。
昨日はセックスの間に、食事をさせられていたようなものである。
『好きだ』といえばなにをしても許されるのかと思ってしまうぐらい、いろいろなことをされた。
伊央は慣らされるというのはこういうことなのかと、身をもって知ったのである。
もうぜったいにお婿にはいけない。咲輝の嫁として一生を過ごすしかないのかとあきらめてしまうほど、伊央は身体に覚えこまされた。
『優しくする』とかいってたはずなのに、どう考えても咲輝に優しくされた記憶はない。しきりに『逃げるな』とか、『縛りつける』とかいわれて、咲輝にひどいことをされた。
おかげでさまで、昨日と同じく逃げる気など起こらないぐらい身体が痛いのである。
伊央は、とことんデビルな人格の人にみこまれているようだ。
正直、今日帰れるのはとても嬉しい。
少なくとも、車に乗っている間は咲輝になにもされないからである。こんなささいなことに喜びをみつけてしまう自分が不憫だ。
伊央は腹いせに、咲輝の鼻を摘んでみる。
「…んっ」
呼吸が苦しくなって、咲輝は首を振って目を開けた。
「伊央…、おはよう」
咲輝は伊央が側にいることを確かめると、ほっとした表情で腰に手をまわして羽毛布団の中に引きずりこむ。
「いっ、いたたっ!」
伊央は思わず叫んだ。無理に引っ張られると、とても痛い。
「今日も痛いのか?」
咲輝は不思議そうな顔をして、腕の中に納まっている伊央をみる。
「あんなことすれば、全身が痛いに決まってるよ」
伊央は恨みがましい目で咲輝をみた。
「ここも痛いのか?」
咲輝はにっこりと笑って、伊央の唇にキスをする。
「痛くない…」
伊央はむっつりとして答えた。
「全身じゃないじゃないか」
してやったりという顔で、咲輝は嬉しそうに伊央の唇を指でなぞる。
「ずるい…」
うまく丸めこまれたようで、伊央はむっとした。
「そろそろ起きる時間だな。朝食を食べたらもう一回セックスして新居に帰ろう」
咲輝は上機嫌で、伊央に微笑む。
「俺、咲輝さんのせいで荷物は持てないからね」
伊央はますます不機嫌になってきっぱりいった。
伊央の家だって小さくはないが、咲輝の家は想像していたよりかなり大きなものだった。
それも建てて間もない新築の一軒家である。
幡ヶ谷の住宅地にある家は、土地も建坪も大きく、車が数台はいる車庫もべつにあった。
もし伊央が女の子だったら、間違いなく『玉の輿』である。
「咲輝さんが建てたの?」
伊央は目をぱちくりしながら聞く。
咲輝が両親と絶縁状態だと伊央が母親に聞いたのは、つい一昨日のことだ。新築なのだから、咲輝以外建てられる人がいないのはわかっていたが伊央には信じられない。
二十五歳の咲輝が建てられる家とは、とても考えられなかった。
「そうだ」
咲輝は短く答えるとエンジンを止めてキーを抜く。
「掃除するの大変そう」
伊央は思わず呟いた。
「家政婦さんがくるから大丈夫だ」
咲輝は、なんでもないことのようにさらりという。
咲輝はじっと伊央をみつめた。
「お見合いの時に一緒にきていた人は、もしかして俺たちのこと知ってるの?」
そういうことだったのかと納得しながらも、伊央は咲輝の伯母、菜津はどうだったのだろうかと疑問に思って聞く。
「伯母は小さいころから私を可愛がってくれて、私の趣味は知っている。それでもいつかは女性を好きになるだろうと、何回も私に見合い話を持ってきたんだ。私が鈴鹿さんと偽装結婚することを話しても、伯母は反対しなかった。表面上鈴鹿さんと結婚することになるから、伯母は私の両親が許すと思っていたのかもしれないな。実際は無理だったけどね」
咲輝は寂しそうに笑うと、運転席からでた。
「そうなんだ」
伊央にも鈴鹿のコスプレ趣味は理解できないが縁を切ろうとは思わないし、世間体が悪いだろう両親も無理にやめろとはいわない。
男を好きなのだって、コスプレだって、どっちも同レベルに趣味が悪いと伊央は思う。
「伊央、いくぞ」
先に車からでていた咲輝は助手席のドアを開けて、伊央に声をかけた。
「えっ、荷物は?」
どうしようかと一瞬|躊躇《ちゅうちょ》して、伊央は聞く。
「後でいい。まず伊央が先だ」
咲輝は伊央を抱きあげるとドアを閉めて、明かりがついている母屋の玄関に向かった。
「大きいね」
伊央は咲輝の首にしがみついて吐息をつく。側に寄ると、遠くからみていた時よりもさらに家は大きく感じられた。
「そうか」
咲輝は素っ気なく答えると、玄関のチャイムを押す。
「あれっ?」
伊央は一瞬だれも住んでいないはずなのに変だなと思ったが、すぐに家政婦の話を思いだした。
「はーいっ、今開けます」
インターフォンから返ってきた声に、伊央は聞き覚えがある。
「えっ?今の…」
伊央は眉をひそめて咲輝をみた。だが咲輝は伊央の視線に気がつかないのか、無表情のままである。
「お帰りなさーい!」
しばらくして、玄関のドアを開けてでてきたのは普段着姿の鈴鹿だった。
「すっ、鈴鹿お姉ちゃん!」
声を聞いた時からそうじゃないかと思っていたが、本当にでてくるとやはり驚いてしまう。
「今帰った。荷物があるんだが」
咲輝はあたりまえのように鈴鹿にいうと、玄関先に伊央を降ろした。
「おみやげ?いいよ、取ってきてあげる」
鈴鹿は瞳を輝かせる。
「量が多いので一人では無理だ」
咲輝は、すぐにでも玄関から飛びだしていきそうな鈴鹿を止めた。
「どーゆーこと?」
なんで鈴鹿が、家でくつろいでいるような姿でここにいるのか伊央には理解できない。
「伊央、靴を脱ぎなさい」
眉をひそめている伊央に、咲輝はいう。
「あっ、はい」
咲輝の命令口調に慣らされた伊央は、靴を脱いだ。
「いたた」
しゃがみこむと、やはり身体のあちこちが痛い。
「ふうん。調教されちゃったんだ」
鈴鹿は感心したような声をあげて、咲輝をちらりとみる。
「伊央、大丈夫か」
咲輝は無表情でそれを受け流して、伊央の側《そば》に座ると一緒に靴を脱ぐのを手伝う。
「うん。平気」
鈴鹿にみられているのが恥ずかしくて、伊央はそそくさとスニーカーを脱いだ。
「伊央を部屋に置いてきたら、私も荷物を取りにいくから待っていてくれ」
咲輝は鈴鹿にいい、伊央をふたたび抱きかかえると階段をのぼって二階にいく。
奥から二番目の部屋のドアを開けると、咲輝は伊央を抱いたまま中にはいった。
「あれっ、どーして?」
今まで自分の部屋にあったものがすべてこちらに移されていて、驚いて伊央は声をあげる。
「なにが必要かわからなかったので、全部こちらに移した。この部屋は伊央が自由に使って構わない」
いいながら、咲輝は伊央をベッドの上に降ろした。
「あっ、はい」
一緒に暮らすといってもひとつの部屋じゃないんだと、伊央はほっとする。
『縛りつける』だの、『逃げるな』だの咲輝にいわれ続けていたので、部屋の中に鉄格子と鎖でもあって繋《つな》がれるんじゃないかと不安に思っていたのだ。
「私たちの部屋はつきあたりだ」
咲輝は顎《あご》をしゃくって伊央に示す。
「たち?」
伊央は思わず聞き返した。
「寝室だ」
咲輝は淡々と答える。
「てっ…、ここにベッドありますけど」
伊央は今自分が座っているベッドを指さして、恐る恐る聞く。
「狭い」
咲輝は、きっぱりといいきる。
「そうか」
セミダブルのベッドが狭いようなことをやらされるんだと思って、伊央はがっくりと肩を落とした。
「私は荷物をいれてくるから。伊央は、おとなしくここにいなさい」
咲輝は伊央の額にキスをすると、部屋からでる。
「はふっ」
伊央は大きく息をつくと、痛くならないようにゆっくりとベッドの上に寝転がった。
置いてある場所が違うとはいえ、やはり自分のベッドは気が休まる。
ここ三日でいろいろなことがありすぎて、肉体的にも精神的にもすごく疲れて伊央はついうとうとしてしまった。
バタンとドアが開く大きな音がして、伊央は目が覚める。
「んっ…」
寝ぼけ眼で音のした方角をみると、鈴鹿が大きな塊を二つずるずると引きずっていた。
「あれっ、鈴鹿お姉ちゃん。どしたの?」
伊央は首だけを少しあげて、鈴鹿に聞く。
「どーしたのじゃないわよ。こんなどでかいヌイグルミ二つも買ってきて、あんたたちなに考えて生きてるの?」
鈴鹿は不機嫌な表情でミッキーとミニーのヌイグルミを部屋の端に置くと足で蹴《け》る。
「可哀相じゃないか、いったーっ!」
あまりにぞんざいな鈴鹿の扱いに伊央は我を忘れて思わず起きあがったが、ズキンと身体に痛みが走って蹲《うずくま》った。
「本当に、やられちゃったんだ…」
鈴鹿はあっけらかんとしていうと、ベッドのすぐ側までいってしゃがんで下から伊央の顔を覗きこむ。
「それも、これも全部鈴鹿お姉ちゃんのせいなんだからね!」
本当に痛いのに、わざわざみにきた鈴鹿が許せなくて伊央は大声で怒鳴る。
もとはといえば鈴鹿が身代わりになってくれとだまして、伊央をハネムーンにいかせたのがいけないのだ。もっと前からいうと、見合いの時に咲輝に伊央を売るようなことをしたのだから許せない。
「違うわよ。借金作った親がいけないんじゃない」
鈴鹿はけろりとしていうと、立ちあがる。
伊央の勉強机の前からイスを持ってきて、ベッドの側に置くと鈴鹿は座った。
「それはそうだけど……。見合いしたのは鈴鹿お姉ちゃんで、俺なんてぜんぜん関係なかったじやないか。それなのに、なんでいきなり……なんだよ」
思わず言葉を濁して、ブツブツロの中で呟く伊央である。
咲輝にべッドに押し倒されるまで、伊央はこんなことになるとは考えてもいなかった。ハネムーンに一緒にきたのが鈴鹿じゃなくて伊央だったので、咲輝が怒って意地悪をいっているとばかり思っていたのである。
それなのに、無理やり咲輝に犯されてしまったのだ。
「だって、咲輝さんは女じゃ勃《た》たないっていうんだからしょうがないでしょ」
鈴鹿は腕を組んで、伊央をちらりとみる。
「すーずーかお姉ちゃん!」
嫁入り前の若い娘がいう言葉ではないと、伊央は思う。
「うちは融資をしてもらいたい。けど咲輝さんは私と結婚する気はなくて、伊央が気にいったっていうんだからしかたないじゃない」
鈴鹿は眉を寄せる。
「それって、俺を売って咲輝さんからお金をもらったってことだろ」
伊央はぎゅっと拳を握りしめて、鈴鹿をみつめた。
「人聞きの悪い。融資なんだから、儲《もう》かったらちゃんと借りたお金は返すわよ。もらったわけじゃないの。あんた自分が売れるほどの人間だと思っているの?」
そんなことで怒っていたのかと、鈴鹿は呆れて伊央をみた。
「じゃあ、なんで俺をだまして咲輝さんのところにいかせたんだよ」
今すぐでないにしろ、いつかは返すつもりだったのなら、あんな目にあわなくてよかったはずなのにと伊央は思う。
「咲輝さんが伊央を好きだっていうから、両家の繁栄と幸せのために嫁にだしましょうってことになったのよ。まあ、強いていえば政略結婚ってとこかな」
鈴鹿はあくまでもこれは好意であって、策略ではないという態度を崩さない。
「おっ、俺の幸せはどうなるんだよ!」
やっぱり売ったんじゃないかと思って、伊央は涙ぐんで拳を震わせた。
「あらっ、幸せじゃないの。カッコよくてお金持ちの咲輝さんの花嫁くんよ。そんなの望んだって無理なのよ」
鈴鹿はいけしゃあしゃあという。
「俺は望んでなーい!俺は、可愛くて気だてのいいお嫁さんをもらいたいんだ〜っ。自分が嫁になりたいわけじゃないよ!」
伊央は目幅の涙をだーっと流した。
「私たちだって苦労したんだからね。偽装結婚なんてして周りの目を眩《くら》ませて、一緒に住むのに不自然じゃないように、伊央を同居ってかたちに持っていったんだから」
鈴鹿は伊央に指を突きつけて、どんなに大変だったか説明する。
「勝手にみんなが決めたんじゃないか」
伊央はプイッと横を向いた。
自分一人だけかやの外に置かれて、周りの人たちが勝手に決めたプランに乗れなんていうほうがムリである。
それも、咲輝の嫁だ。
やられてしまったとはいえ、伊央が『はいそうですか』と素直に応じられるわけがない。
「いっとくけどね伊央。ここから逃げだそうなんて、絶対に許さないからね。伊央の身体[#「身体」に傍点]にはうちの会社の全社員の生活がかかってるのよ。もし逃げたりしたら、私も両親も首つって死ぬわよ、いいわね!」
鈴鹿は伊央の両肩を掴んで、怨念《おんねん》のこもった視線でじっとみつめる。
「はっ、はいっ」
『どうして身体かな〜?』とは思ったが、鈴鹿のあまりの迫力に伊央は思わず頷いた。
鈴鹿だったら死んでも怨霊になって夢枕にたち、伊央の首をぐいぐい絞めそうで怖い。
「わかればいいのよ。学校だって前と同じように通わせてくれるし、ふだんは自由にしてていいんだよ。家政婦さんがいるから、炊事洗濯もしなくていいし前よりいい生活なんじゃないの?」
鈴鹿は大きな吐息をつく。本当だったら自分がその立場だったはずなのに、人生とは皮肉なものだ。
「お姉ちゃんが、家政婦さんやるの?」
鈴鹿の吐息の意味を勘違いして、伊央は思わず聞いた。
「なにバカなこといってるの。私は名目は咲輝さんの妻なの。ほかに家政婦さんがくるわよ」
鈴鹿は伊央の頭を平手で叩いた。
「じゃあ、鈴鹿お姉ちゃん、咲輝さんの財産|狙《ねら》ってるんだ」
だから一緒に住んでいるんだと納得して、伊央は手を叩く。
さすがに転んでもただでは起きない鈴鹿だと、感心する伊央である。
「咲輝さんのほうが一枚役者が上手なのよね、くやしいことに………。伊央を籍にいれるから、私との婚姻届けはださないのよ」
鈴鹿はくやしげに唇を噛みしめる。
「籍って、日本って男同士の結婚は認められてないんじゃないの?」
伊央は驚いて鈴鹿に聞く。アメリカのある州で認められたとテレビでみたが、日本でそんな話は聞いたことがない。
「養子縁組して、財産を伊央に譲るつもりらしいよ。それが咲輝さんの真心なんじゃないの」
鈴鹿は胸の前で指を組むと顎をのせて、羨《うらや》ましげに伊央をみる。
「そんな真心いらない〜っ!」
そんなことになったら一生咲輝から離れられないじゃないかと、伊央は本気で叫んだ。
漂ってくるコーヒーのいい香りで、伊央は目覚めた。
いつもの朝と同じように、学校にいかなくちゃいけないんだと思って、もそもそとベッドから起きだす。
「あっ、あれっ」
布団を引き剥《は》がしてから自分が裸だということに気がつき、伊央はあわてて腰まで布団を引っ張った。
ここは寝室だったんだと思いだして、隣をみたが咲輝はいない。
ベッドのスプリングの調子をみるからといって、昨夜咲輝にこの部屋に連れこまれた。後のことはあまり思いだしたくない。
今日は身体はだるいが、昨日のように動けないほど痛くはなかった。人間の身体は鍛えればなんにでも耐えられて、順応もするんだと初めて伊央は実感する。
筋肉がまだ張っていて少し痛いが、身体はなんとか動いた。
ベッドサイドの時計を見ると、七時ちょうどである。前より学校に近くなって、徒歩二十五分。電車を使うと十五分。自転車だったら、十分もあれば充分な距離である。
もうひと寝いりして、八時に起きても余裕でセーフだ。
また寝ようかと思ったが、一応咲輝に朝の挨拶《あいさつ》だけでもしようと思って伊央は床に落ちていたパジャマを着て階下にいく。
だが、リビングを捜しても、洗面所にも、トイレにも、キッチンにいっても咲輝はいない。
「咲輝さん!咲輝さん!」
呼んでみたが返事はなかった。こんな早い時間から会社にいくなんて社長は大変だなあと伊央は思う。
キッチンのテーブルの上のコーヒーメーカーが、ポコポコと音をたてていた。
この時間では鈴鹿もまだ起きてこないだろうし、家政婦がくる時間でもない。
コーヒーができあがる前に、咲輝は出勤する時間になってしまったんだと伊央は考える。
「咲輝さん、おはよう」
誰も起きない時間に一人ででかけるのは寂しいだろうなと思って、伊央は挨拶をしてみた。
もちろん返事はなかったが、ひとつ義務を果たしたような気分になるから不思議である。
夜に咲輝が帰ってきたら、おいしかったといってみようと伊央は思った。
だが、その日咲輝はいつまで待っても家に帰ってこなかったのである。
深夜まで待ってみたものの次の日も学校があるので、今日は帰ってこないんだとあきらめて伊央は自分の部屋で寝てしまった。
だが、朝起きるとやはりコーヒーが用意されていたのである。
咲輝は帰ってきたらしいが、朝も早いのにすでにもう仕事にいってしまったのだ。
会社から帰ってきた咲輝と、毎日セックスしなくてはいけないと覚悟していたのだが、拍子抜けである。
家事はすべて家政婦さんがきてやってくれるし、自分が特別しなくてはいけないこともない。鈴鹿のいうとおり、玉の輿生活だ。
あまり恵まれていると不安になってくるのが、人間の不思議なところである。
父親の会社に融資もしてもらって、伊央と鈴鹿を家に住まわせて、家事全部を担当してくれる家政婦さんも雇って、学費も全部払ってくれて、この間はお金がないと不便だろうと預金通帳とカードまで置いてあった。
咲輝にこんなに世話になっているのに、自分がその義務を果たしていなくて伊央の不安はますますつのってきた。
毎朝新しいコーヒーはいれられているのに咲輝の姿をみることがなくて、伊央はだんだん不安になってきた。
帰りに家政婦さんがコーヒーメーカーのタイマーをいれているのかと思ったが、セットしてないし、鈴鹿にも聞いてみたがそんなことは朝起きてからすればいいと一笑されたのである。
自分が寝る前に確かめてみたが、タイマーはやはりセットされていなかった。
伊央が寝ている間に帰ってきて、起きる前にでていってしまう咲輝の仕業としか考えられない。帰ってきたのなら起こしてくれればいいのにと、なんだか腹立たしく思ってしまう。
今まで被害者意識が先にたち、自分のことばかりを不憫《ふびん》だと嘆いてばかりいてそんな感情が湧いてくるなんて考えたこともなかったが、伊央は咲輝のことがすごく気になりだしたのである。
書類に書いてあるようなことは聞くなと咲輝はいっていたが、誕生日すら伊央はまだ教えてもらっていない。
鈴鹿に聞けばいいことなのだろうが、自分でいったんだからわかるような書類を持ってきてほしかった。
明日はお休みという日に、伊央は思いきって咲輝が帰ってくるまで待つことにしたのである。だが、深夜を過ぎて朝方になっても、日がでても咲輝は帰ってこなかった。
起きてきた鈴鹿と入れ違いで、伊央はあきらめて自分の部屋に帰って寝てしまったのである。
伊央が熟睡している間に咲輝は帰ってきて、コーヒーを飲んでまたでていったという。
タイミングの悪さに、自分に腹がたってしまう伊央である。
こんな生活は嫌だと思っていたのに、いざ咲輝に放りっぱなしにされると寂しくてしかたがない。
たったひとつのコミュニケーションの手段が、朝のコーヒーなんて寂しすぎる。それも咲輝から一方的に与えられるもので、自分はなにひとつ対応することができない。
それが、伊央は腹立たしかった。
好きなんかじゃないはずなのに、咲輝に抱きしめてキスしてもらいたいと思ってしまうのはなぜなのだろう。
伊央は自分の心が、少し変化していることに気がついていた。
二十畳近い広いリビングには、感じのいい英国製の家具が揃えられている。
キュリオには、ロイヤルコペンハーゲンや、ウエッジウッドのティーセットがきちんと並べられていた。
リビングの一角には、大画面のフラットテレビが備えつけられている。
「邪魔よ!」
鈴鹿は目の前にいる伊央を邪険に手で退《ど》かした。
伊央はもう三十分近く、ソファから立ったり座ったり、うろうろあっちにいったりこっちにいったりとリビングの中を徘徊《はいかい》しているのである。
三十分もうろうろされたら、鈴鹿でなくても邪険に押し退けたくなるだろう。
「あっ、ごめん」
テレビの前に立ち塞《ふさ》がっていたと気がついて、伊央はすごすごとそこから立ち退き、アームチェアーに座りこむ。
「なにイライラしてるの。まるで動物園のクマみたいにうろうろして」
どうせまた少ししたらうろうろしはじめるんだろうとテレビを観るのをあきらめて、鈴鹿は伊央に聞く。
「イライラなんてしてない。なんか暇で…」
伊央は吐息をつきながら、腕を組んだ。
「部屋に帰って、ゲームでもやれば。インターネットなんて手もあるわよ」
目の前でうろつかれないように、鈴鹿は部屋でできることを伊央に勧める。
「う〜ん、でも」
部屋に引っこんでしまったら、咲輝が帰ってきたのに気づかないかもしれないと思って、伊央は言葉を濁した。
伊央は咲輝の顔を十日もみていないし、一言も口をきいていないのである。
一度チャンスはあったのだが、タイミングが悪くそれを逃がしてしまったのだ。
下手をしたら、ずっと顔をみることができないかもしれない。
「はっきりしないなあ」
鈴鹿は眉をひそめて、伊央をみる。
「あのさ、鈴鹿お姉ちゃん。咲輝さんさあ、仕事忙しいのかな?」
伊央は上目遣いで鈴鹿をみて聞く。
咲輝のことを聞けるのは、伊央にはやはり鈴鹿しかいないのである。家政婦にも聞いてみたが、咲輝とはあまり会ったことがないようで、くわしい人柄などはわからないようだ。
「そりゃあ、社長だから忙しいんじゃないの?」
あたりまえのことを鈴鹿は素っ気なく答える。
「でも普通の会社の社長って、出勤は普通の社員よりすっごく遅くて、昼寝とかして、二時ごろからハンコ押して、社員より先に帰って接待とか受けて、週に一度はお得意さんをゴルフに連れていくとかだろう。なんでそんなに忙しいんだよ」
伊央は納得できなくて、鈴鹿に聞く。
忙しいと口を開けばいっていた両親も、よくよく考えてみると咲輝ほどではなかったと伊央は思う。接待で遅くなり朝は起きられないので、それを『忙しい』の理由にしていたし、自分の趣味のゴルフに仕事だといってでかけていた。
「そうはっきりと、具体例をだされてもね」
鈴鹿は苦笑いをする。それが日常化していたから、会社の経営が成り立たなくなっていったのかもしれない。
「社員が少ないにもかかわらず莫大《ばくだい》な利益をあげているから、咲輝さんは自分もたくさん仕事をしてるんだよ」
そこのところは、鈴鹿も咲輝を評価していた。
「咲輝さんって、どんな会社の社長さんなの?」
伊央は興味津々で聞く。
「携帯電話のネットの検索サービスの会社」
鈴鹿はさらりという。パソコンに代わって、誰にでも簡単にインターネットを身近に使える携帯の新サービスである。
「ああっ、あれ?」
今が伸びざかりの職種なら、忙しくてあたりまえだと伊央は納得した。
「咲輝さんのことが、気になるんだ」
鈴鹿は伊央をみてニヤニヤと笑う。
「ちっ、違うよ!」
伊央はあわてて、大きく首を横に振った。
「否定しなくていーよ。伊央が咲輝さんを好きになれば、私も首つらなくていいし、会社も安泰、社員も幸せ。いうことなしじゃない」
鈴鹿はパチパチと手を叩いて、にっこりと微笑む。
「おっ、俺は咲輝さんなんか好きじゃないんだから」
鈴鹿にからかい半分でいわれると、ますます強く否定したくなってしまう伊央である。
「そうかなぁ。うろうろしていたのは、咲輝さんが帰ってこないか待ちわびていたからじゃないの。隠さなくていいのよ。ほーっほっほっ」
瞳を三日月型にし、ロに手をあてて鈴鹿は笑う。ここで力いっぱい突けば、伊央がリビングから逃げだすに違いないという判断からである。
咲輝のことがますます気になって、さらにこの場からいなくなってくれればテレビがゆっくりみられて一石二鳥だ。悪魔だといわれるのは、だてじゃない。
「かっ、隠してなんかないよ。俺、部屋にいく!」
伊央は真っ赤になって、アームチェアーから立ちあがった。
「まーあ、真っ赤になっちゃって。愛しているのね咲輝さんを!」
鈴鹿は大声で、伊央にとどめを刺す。
「ちがーうっ!」
真っ赤になって否定しても、肯定していることにしかならないが、伊央は黙っているわけにはいかない。
「どうしたんだ、なにを騒いでいるんだ?」
リビングのドアを開けて、咲輝は伊央と鈴鹿を交互にみる。
「あっ、咲輝さん…。お帰りなさい」
思わず微笑みそうになる顔を引き締めて、伊央はぶっきらぼうにいう。
「ただいま。おみやげ」
咲輝は持っていた紙袋を伊央に押しつけた。
「えっ?」
伊央は驚いて咲輝をみる。
「よかったわね、伊央お待ちかねの人があらわれて」
鈴鹿は横目で伊央をみると、咲輝を指さした。
「違うっていっているだろう。俺、自分の部屋にいくからね!」
本当はもっと咲輝と話したいと思ったが、伊央は袋を握りしめてリビングのドアノブを掴《つか》む。
「伊央!」
咲輝は、でていこうとする伊央の腕を掴んで引き止める。
「夕食と風呂は済んだか?」
咲輝は無表情のまま伊央をみて聞く。
「…はいっ」
一瞬躊躇して、伊央は答えた。
「私も後でいく。待ってなさい」
咲輝は伊央の耳元で囁《ささや》くと腕を離して、背中を押す。
「……」
伊央は無言で頷《うなず》くと、そそくさとリビングからでた。
咲輝の側から離れて階段をのぼるころになって、伊央は急にドキドキしてきたのである。
あの『待ってなさい』は、するから寝室で待ってなさいの意味だと考えて、伊央は眩暈《めまい》がしてきた。
それに素直に頷いてしまった自分も、なにを考えていたのかよくわからない。
伊央は自分の部屋に戻って、ベッドの上に腰をかけてしばらく呆然《ぼうぜん》としていた。
咲輝にあったら『毎朝コーヒーをいれてくれてありがとう』とお礼をいおうと思っていたのにいえなかったし、こんなに毎日、早朝から深夜まで働いていて身体は大丈夫なのか聞くこともできなかったのである。
パジャマに着替えようと思って、伊央はたんすの引きだしを開けた。だが、なにも着ていないほうがいいのかもしれないと考えなおす。
その一瞬後には、そんないかにもという姿でいるのも恥ずかしいと一人で赤面した。
たんすの前をいったりきたりする姿は、リビングでの状況となんら変わりがない。
「やっぱりパジャマにする!」
寝室にはやっぱりパジャマだと決断して、伊央は着た。
後は、『二人の寝室』にいくだけである。その時になって、伊央は咲輝のおみやげを思いだす。
やはり目の前で開けて喜んだほうがいいかなぁと思って、伊央は紙袋を掴むと自分の部屋からでた。
隣の部屋のドアノブを掴んで中にはいる。
伊央は深呼吸して、大きなベッドの端にちょこんと座った。
寝室なので、ベッドのほかにはサイドテーブルと丈の低いクローゼットと、シェードランプぐらいしかない。
気をまぎらわせるものがなにもないので、咲輝がくるのを黙ってじっと待つしかなかった。
こんなところで一人で待っていると、前にされた時のことを思いだしてしまう。
十日もたっているのだから、日々の出来事の中にまぎれて消えてしまってもおかしくないはずなのに、なぜか鮮明に覚えているのだ。
それだけショックも大きかったのである。
歯医者で、抜歯の時に待っているような気分だと伊央は思う。
落ち着かなくて、ドキドキして、早く終わるのをひたすら待つというあの感じである。
しばらくすると、咲輝がドアを開けて部屋の中にはいってきた。
髪の毛が濡れているので、咲輝は風呂にはいってきたのだろう。さっきはスーツをきっちり着こんでいたが、いまは伊央とお揃いのパジャマ姿である。
それも、ホテルのアーケードで買ったミッキーのもので、咲輝にはファンシーすぎて伊央は直視するのが気恥ずかしい。
自分がこの部屋にきてからそんなに時間がたっていないのに、もう風呂にはいってくるなんて素早いと伊央は感心した。
だが本当のところは伊央が自分の部屋でうろうろ迷っていて、寝室にくるのが遅くなっただけなのである。
咲輝がドアを閉める小さな音にも、伊央の心臓は過激に反応した。
なんだか死にそうにドキドキしている。
カチリと鍵のかかる音がやけに生々しくて、伊央はそのとたんに逃げだしたくなった。
今なら咲輝を押し退けて逃げられるかもしれないと思ったとたん、ぎゅっと抱きしめられる。
温かかった。
十日ぶりに咲輝に抱きしめられて、伊央の胸はきゅんと痛む。
優しく背中を撫《な》でられていると、不意にツンと鼻の奥が痛くなる。
「泣かなくていい。寂しかったんだな」
咲輝は微笑むと、伊央の顎を掴んで上を向かせた。
「ちがっ…」
泣こうと思っていないのに、勝手に涙がでてくるのである。
「伊央」
咲輝は伊央の唇に優しくキスをすると、そのまま肩を押してベッドに寝かせようとした。
だが、足に紙袋があたってがさがさ大きな音をたてたので動きを止める。
「袋、持ってきたんだな」
咲輝は伊央から手を離して、自分の足下を覗《のぞ》きこむ。
「あっ、おみやげ、みてもいいかな?」
伊央はベッドに手をついて、倒れそうになっていた身体を戻しながら聞く。
「いいよ」
咲輝はフッと笑って、伊央の隣に座った。
「じゃ、これ開けてみる」
伊央は涙を手で拭《ぬぐ》ってから、一番小さい包みを紙袋の中から取りだして開ける。
中からは、ブルーのクリアカラーの小さな楕円形のものがでてきた。
「これっ、なに?」
中には小さな乾電池がひとつと、なにか機械のようなものがはいっているのが透けてみえるが、はっきりいって伊央にはなんだかわからない。
「ほかのも開けてみなさい」
咲輝は笑いを噛み殺《ころ》して、伊央に促した。
「これで、呪文を唱えて遊べっていう気?」
次の包みを開くと、棒の先にいちごの形のものがついたものがはいっている。
テレビアニメの女の子戦隊ものや魔法もののステッキのようで、伊央は咲輝に子供扱いされてるのかと眉をひそめた。
「呪文は唱えないけどね」
咲輝は伊央の反応を楽しんでいる。
「えっ?」
首を傾《かし》げながら、伊央は袋の底にあった一番大きな包みを開けてみた。
「……」
思わず伊央は絶句する。
男性器の形を模したそれをみれば、いくら疎い伊央でもはっきりとそれがなにかわかった。
「なっ、なに考えてんだよ!」
思わず伊央は咲輝にそれを投げつける。
「鈴鹿さんから聞いたよ。私のいないあいだ、これで慰めて寂しさをまぎらわすといい」
咲輝は笑いながら、投げつけられたものを拾った。
「やっぱり、咲輝さんなんか嫌いだ!」
伊央は怒鳴ると、寝室からでていこうとベッドから立ちあがる。
鈴鹿がどんなことを吹きこんだのかわからないが、咲輝も勘違いしすぎだ。
伊央をバカにしているとしか思えない。
「伊央!」
咲輝は素早く立ちあがると、でていこうとドアに向かって歩きはじめた伊央を背中から羽交い締めにした。
「やっ、やだっ!」
逃げようとじたばたと暴れても、咲輝に引きずられて伊央はベッドの上に押し倒される。
「おとなしくしなさい」
咲輝は威圧的にいって、伊央のパジャマの中に手をいれた。
「んっ、やめて!」
伊央は両足を閉じると身体を捩《よじ》って、咲輝の手をそれ以上いれさせないようにする。だが、強い力で押さえつけられ、下着の中に手をいれられた。
「だめっ!だめえっ!」
最初のうちはなんとか抵抗していた伊央だが、咲輝に掴まれて揉《も》まれていると気持ちよくなってきて力がはいらなくなる。
「力を抜いていなさい」
咲輝は伊央の耳元で囁くと、柔らかく耳朶《みみたぶ》を噛んだ。
「うっ…」
痺《しび》れるような快感が身体を襲って、伊央は完全に動けなくなる。
「私を困らせるようなことをするのはやめなさい」
咲輝は伊央のものを扱《しご》きながらパジャマと下着を脱がして、足を大きく広げさせた。
ゆっくりと膝《ひざ》を開かせて、蕾《つぼみ》を指先で撫でる。
前に充分に慣らして赤く花開いていたはずの伊央のそこは、色を失って固く閉まっていた。
「あっ、いやぁ」
久々に咲輝にそこに触れられると、前の痛みを思いだして伊央の身体は恐怖で固く強《こわ》張《ば》る。
「慣らさないとだめだな」
咲輝はそこから手を離すと、サイドテーブルの引きだしを開けて中を探った。
「いい、慣らさなくてもいいっ!」
伊央は目に涙をためて、咲輝をみる。
「慣らさないと、伊央が痛いだけだよ。ゆっくりやってあげるから、力を抜いていなさい」
咲輝は優しくいって、だだをこねて暴れだしそうな伊央をなだめた。
「いやだっ、したくない!」
伊央は咲輝の腕を掴んで、無理やり起きあがろうとする。
「放しなさい。伊央!」
咲輝は両手で伊央の手を引き剥がすと、両肩を掴んでベッドに押しつけた。
「やだっ…、怖い!」
上から押さえつけられる圧迫感で、伊央の不安はさらに高まっていく。
「おびえないで、伊央」
咲輝は子供をあやすように伊央の額に優しくキスをした。
「伊央を好きだからすることだ。怖いことなどない」
耳元で囁きながら、両手で伊央のものを愛撫する。しばらく愛撫し続けると、がちがちに強張っていた伊央の身体がじょじょに溶けて柔らかくなっていった。
咲輝は伊央の膝を曲げて胸につくまで押し、さらされたそこを舌で舐《な》める。
「だめっ、そんなとこ舐めたらキ夕ナイ!」
生温かく柔らかなものをそこに感じて、伊央はビクッと震えると泣きながら叫んだ。
だが言葉で拒んでも伊央の身体は抵抗できないで、咲輝の舌をどんどん中に誘いこんでしまう。
恥ずかしいのに拒むことができなくて、咲輝の舌に奥まで侵入されてしまった。
「あっ、やあっ」
舌と一緒に指も挿入されて、咲輝に身体の中をじょじょに広げられていく。中に、潤滑剤もいれられてかきまわされると、身体がそれに反応してしまって抵抗する気力も萎えていく。
「もう、大丈夫だな」
咲輝は舌と指を中からだして、起きあがって伊央を覗きこむ。
「咲輝さん…、あつい」
伊央は真っ赤な顔をして喘《あえ》ぎながら咲輝にしがみついた。
咲輝の愛撫で身体の中も外も、今まで感じたことのない快感に支配されている。
「試してみようか」
咲輝は微笑んで伊央の片足を自分の肩まで引きあげると、手の中に包んだスケルトンブルーの楕円のものを身体の中に挿入していく。
「なに、なにいれたの?」
異物感に伊央は、眉を寄せる。だが、それほど苦しくはなくすぐにその大きさに慣れた。
「すぐにわかる」
咲輝はスイッチをいれると、指先で伊央の奥深くにそれを押しいれる。
「ああっ!」
悲鳴とともに背がのけぞり、伊央のものが膨れあがって弾けた。
低いモー夕ー昔を発して、伊央の身体の中にはいっているものは震え続ける。
「あっ、取って!いやあっ」
身体の中で異物が震える初めての感覚に伊央は鳥肌をたてて、咲輝のパジャマを掴んだ。
「伊央の精液がついてしまった」
咲輝は伊央の懇願を無視して身体を離すと、汚れたパジャマを脱ぎ捨てる。
「伊央、舐めなさい」
ベッドの上で丸くなって震えていた伊央の頭を掴んで、咲輝は自分のものをその鼻先につけた。
「あっ…」
伊央は視線をはずして、おずおずとそれを掴む。
「中のを止めてほしいなら、しなさい」
命令をこめた口調でいい、咲輝は伊央をみつめる。
「はいっ」
伊央は従順に頷いた。
咲輝の前に跪《ひざまず》いて、伊央は彼のものを舐める。足を閉じて正座をすると、中の振動が強く伝わって口を開けることもままならないので、膝をついて獣のように腰をあげた。
「いい子だ」
咲輝は微笑んで足を投げだすと、高くあがった伊央のそこに手を伸ばす。
人差し指をゆっくりと肉の中に埋めていくと、振動に突き当たった。指先で触れていてこれだけ激しいと感じるのだから、中にいれている伊央はかなりきついはずである。
証拠に、伊央の膝はガクガクと震えていた。
咲輝は中指もいれて、ロー夕ーを指の間に挟んでじょじょに引き抜く。
「あっ、……んっ、……んんっ」
伊央はだんだんせりあがってくる振動に感じて腰をくねらせながら、咲輝に奉仕した。
「ひいっ…あっ、……はあっ、…はっ…はあっ」
爆発したはずなのに、伊央のものはその振動にまた反応してしまっている。
咲輝の指で引きあげられたロー夕ーは、身体からでかかっているというのにまだスイッチを止められずに震えていた。
伊央はもう咲輝のものを舐めるどころではなく手で掴んだまま、荒い呼吸をくり返しているだけである。
「ほらっ、取れた」
咲輝は手で掴んで伊央の中からロー夕ーを引き抜くと、スイッチを切った。
「あっ、ふうっ」
伊央は大きな吐息をついてベッドの上にへたりこむ。
「もういいよ。伊央のおかげで大きくなったし、これだけ濡れていればすぐにはいるだろう」
咲輝は伊央を抱き起こすと、自分の膝の上に向かいあわせになるように引きあげる。
「俺……、だめっ…はいんない…、中が変…」
咲輝の大きなものを身体の下に感じて、伊央は首を横に振った。
「私に任せなさい」
咲輝は伊央の頬にキスをして腰を掴むと、躊躇なく熱くなった自分のものを奥に押し当てる。ゆっくりと伊央の腰を引き寄せて、咲輝は広げるように中に押しこんでいく。
一番太いところがはいると、後はスムーズに伊央の身体の中に納まった。
「痛い?」
咲輝は、震えてしがみついてくる伊央に聞く。
「ううん」
伊央は頬を上気させて、潤んだ瞳で咲輝をみつめる。
この前のように痛くないし、ロー夕ーのように震えて苦しいわけでもない。すごく熱いのに身体に馴染《なじ》んで、ほっとするような気持ちよさがある。
「怖くなかっただろう。さっきのとどちらがいい?」
咲輝は意地悪な質問を伊央にぶつけてみた。
「あっ、……咲輝さんの」
伊央は真っ赤になって、蚊《か》の泣くような声で呟《つぶや》いた。
「ずいぶん素直になったものだな」
咲輝は微笑むと、腰を動かしはじめる。
「あっ!」
伊央の身体が快感でしなった。頭に突き抜ける心地よい衝撃を伊央は瞼を閉じて受ける。
「伊央も動きなさい。自分で気持ちいいところを捜すんだ。いいね」
だんだんと激しく伊央を突きあげながら、咲輝は囁く。
「つうっ」
伊央は咲輝の動きにあわせて、自分も腰を揺らしていた。
「あっ……、咲輝さん……、あっ……、ああ……んっ、……うあっ、……くっつ」
咲輝の膝のうえで伊央は自らも揺れながら、声をあげる。
「あっ、……そこ!いいっ……んっ」
奥を擦られて、気持ちよさに伊央は咲輝の腕にぎゅっと爪をたてた。
こんな大声をだしたら鈴鹿に聞えてしまうかもしれないが、止めることができない。
「好きだ。伊央」
咲輝は、細い身体を激しく動かして乱れはじめた伊央を目を細めてみた。
ベッドのスプリングが壊れそうに、ギシギシと悲鳴をあげている。
それでも止められずに、二人はお互いの快楽を高めるために動き続けた。
「ああうっ。…イクッ、はあっ、咲輝さん、もっイクッ」
咲輝に中を抉《えぐ》られ続けて、伊央の身体は快感を溢《あふ》れださせている。
濡れはじめた伊央のものは二人の間で擦られて、爆発寸前だ。
ほんの少し前までは、咲輝とセックスするのは怖くて痛くて嫌だったはずなのに、こんなに気持ちよくなるなんて伊央には信じられない。
「まだだ伊央」
咲輝は伊央の根元を掴むと、動きを速くする。
「いっ、あっ」
せき止められて気が狂いそうに、伊央はもだえた。
「咲輝さん……、もう……あっ、……だしたい………お願……いだから、……んあっ!」
伊央は夢中で咲輝の手を掴んで、懇願する。
ださせてもらえず、咲輝にさんざん揺らされて気が遠くなりかけた時、唐突に身体をベッドの上に押し倒されて引き抜かれた。
「伊央っ!」
咲輝は伊央の中に一気に根元まで押しいりながら、根元をきつく握っていた手を離す。
かなり激しい収縮が咲輝を襲う。
今までにない激しさで、咲輝は伊央の中に放っていた。
「ああっ」
伊央は、身体の内と外で精液が発射されるドクンという音を感じる。
目の前が真っ白になって、耳鳴りがした。どこまでも落ちていく感覚があって、このまま死んでしまいそうだと思う。
だが、しばらくすると音も感覚が蘇《よみがえ》ってきて、温かな咲輝の腕に抱かれているのだとわかる。
「伊央、最高だった」
うっすらと汗をかいて、咲輝は興奮気味に伊央にキスをした。
「ううっ」
伊央は、ぽろぽろと涙を流して泣きだす。
「痛いのか?どこだかいってごらん」
咲輝は身体を離すと、心配して伊央を覗きこむ。
「違う…、痛くない」
伊央は両手で顔を覆って、プルプルと首を横に振った。
「じゃあどうしたんだ?」
泣いている理由がわからなくて、咲輝は首を傾げる。
「咲輝さんといると、俺は、もう俺じゃないんだ」
伊央は小さな声でいう。
咲輝にセックスされると、自分が違う人になっていくような気がして伊央は怖かった。
今までの自分の身体ではなく、どんどん咲輝に改造されていくようである。それに心も咲輝に引きずられていってしまう。
「伊央はこの部屋にくる時には、こうなることは覚悟できていたはずだろう」
咲輝は顔を隠していた伊央の両手をはずして聞く。
「…うん」
伊央は素直に頷いた。
咲輝に『待っていなさい』といわれて、ここにきたのは確かにこうなるとわかっていてきたのである。
「もし、伊央がここにきてなかったら。犯してた」
伊央の細い首に両手をかけて、咲輝は残酷に微笑む。
「今のは、違うっていうの?」
伊央は不審の瞳を咲輝に向ける。
「違うな。少なくとも手足は縛ってないし、一番大きなバイブはいれてない」
笑顔を崩さずに咲輝はさらりという。
「そんなことしようと思ってたんだ?」
伊央はキッと咲輝を睨《にら》みつける。
「私はそういうこともできる男だと、伊央には覚えていてもらわないと」
咲輝は伊央の首から手を離して、頬に残っている涙を舐めた。
「また脅していうこと聞かせる気?」
伊央は下唇を噛む。
「違うよ。私は伊央が、逃げていってしまうのに怯《おび》えている」
咲輝は眉を寄せて伊央から、視線をはずした。
「俺が、逃げられないの知ってるくせに」
そんな寂しそうな顔をして、同情を引こうとするなんてずるいと伊央は思う。
「そうしむけたのは、私だったな」
咲輝は嗜虐《しぎゃく》的な笑みを浮かべる。
脅して無理やり縛っても、結局は自分のものにならないと知っているのに咲輝はやめることができない。
「俺の身体は咲輝さんを愛するように、いつの間にか変えられてしまった」
こんなひどいことをされたら咲輝を嫌いになって当然なのに、放っておかれるよりいいなんてどうかしていると伊央は思う。
こんなのはおかしいはずなのだが、それが事実である。
お金で人を買って、脅して無理やり犯して、それなのにずっと放っておいて、伊央に逃げられるのに怯えてる咲輝が気になるなんて、本当に頭がどうにかなってしまったとしか思えない。
「それは嬉《うれ》しい。伊央の心が私のものにならなくてもね」
咲輝は伊央の頬《ほお》を両手で包んで、皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「咲輝さんなんて、大嫌い!」
伊央は口をへの字に曲げて、キッと咲輝を睨んだ。
いったら負けてしまうようで、気になるなんて口が裂けてもいえない。
「私を嫌いでも、伊央が私のものには変わりない。せいぜい私から離れられない身体に、改造するしかないようだな」
咲輝は挑戦的な伊央の視線を真っ向から跳ね返した。
どうして咲輝の前にいくと、ああも逆らいきったことしかいえないんだろうと、伊央は頭を抱えて悩んだ。
身体は素直に咲輝の命令に従うのに、心は素直になれない。
本当に闘牛の牛のように、咲輝に向かって一直線に走って角を突きつけてしまう。おかげで、一番太いバイブまでいれられて責めたてられた。
伊央は起きる気力もなくて、学校をさぼって寝ている。
あんなに激しいセックスをしたのに、咲輝は朝早くからまた会社にでかけていった。
コーヒーのいい香りを嗅《か》ぎながら、寝ぼけた頭で『毎朝コーヒーをいれてくれてありがとう』と咲輝にいえなかったと反省する。
咲輝に逆らって、さらに疲れを増長させるようなことをさせてしまったのも悪かったかなと、ちらりと思う。
だがやはり自分のせいではなく、咲輝が根っからへン夕イだからだと思いなおした。
なにからなにまで咲輝の世話になって、これから一緒に暮らしていかなければならないのに、初めからこの調子で大丈夫なのか伊央は心配になってくる。
仕事が忙しいのはこの十日でよくわかったが、咲輝と話をする時間が欲しいと、伊央は切実に思った。
サイドテーブルの上には、咲輝の履歴を書いた書類が置いてある。
書類を読めばわかるようなことを話すのは時間の無駄というが、きちんと整理された綺麗《きれい》な文字を読むより咲輝の口で伝えてほしいと伊央は思う。
そのほうが嬉しいし、心地よい咲輝の声とともに心の中に残る。
咲輝は身体の繋がりばかりを求めるけれど、身体だけでなく心もわかりあいたい。
嫁にしたいといったのだから、咲輝はそこのところに気を遣ってくれてもいいのにと思う。
籍にいれて財産も譲りたいと鈴鹿に話していたというが、扱いが愛人のようで伊央は気にいらなかった。
家族になるのだから話しあいは必要なのだが、咲輝に強く否定されてしまうと伊央はそれ以上強く主張できない。
咲輝が父親の会社に融資してくれた分を返済できるまでは、伊央は対等の立場にはなれないんだと思う。
なんだか歯がゆい気持ちでいっぱいである。
少し前までは平凡な高校生だったのに、なんでこんなことで悩まなくてはいけないのだろうか。
お金で買われただけならこんなに悩まないで不幸だと泣いていればよかったのに、咲輝が『好きだ』なんていうからいけないのだ。
自分を必要だといわれたら、やはり心は動く。
それに、強引な行動や、支配的な言葉とは裏腹の咲輝の辛そうな表情や、自分を責めるような自嘲《じちょう》的な物言いが気になっていた。
そんなこだわりを取り払ってしまえば、歩み寄れるような気が伊央はしていたのである。
そうすれば、伊央も素直になれるような気がした。
案の定、咲輝はまた仕事に追われているようで毎晩遅くならないと帰ってこない。
ただ今までと違うことは、朝起きると枕元にMDだのモバイルだのブランドものの時計だのが置いてあることだ。
この間バイブで責められた時に怒って、『こんなおみやげじゃなく、まともなものを買ってこい!』と伊央が叫んだかららしい。
プレゼントしてくれるのは嬉しいが、伊央のために咲輝が忙しい時間をまた減らしているんじゃないかと胃が痛くなってきた。
伊央が欲しいのは物ではなく咲輝と話をする時間のはずなのに、余計なことをいってしまったと反省するしかない。
リビングのテーブルには今朝枕元に置いてあったプレゼントの包みがもとのように包装しなおして置いてある。
「今日はなにをもらったの?」
学校から帰ってきた鈴鹿は興味津々で、テーブルの上を覗きこんだ。
「プラダの携帯ケース」
伊央は浮かない顔をして、吐息混じりに答える。
「なによ。プレゼントしてもらってるのに浮かない顔ね」
ソファに座りながら、鈴鹿はそんなようすの伊央を呆れてみた。
「だって、こんなのもらってもしかたないよ」
伊央はますます憂鬱《ゆううつ》な顔でため息をつく。
「じゃ、私もらう!」
鈴鹿は瞳を輝かせて、包みを掴んだ。
「だっ、だめっ!ぜったいだめ」
伊央はあわてて、鈴鹿の手からそれを奪い返す。
「なによけちっ、いらないならちょうだいよ」
鈴鹿は顔を顰《しか》めて伊央を睨みつける。今までなら弟のものは自分のものだったはずなのに、この伊央の逆らいかたは尋常でない。
「咲輝さんに返すんだから、そうしたらもらえばいいじゃないか」
伊央はいつもと違う強い口調で、鈴鹿に立ち向かった。
「せっかく咲輝さんがくれたのに失礼じゃないの?」
くれたものを返してしまうなんて、伊央の気持ちがわからなくて鈴鹿は首を傾げる。
「俺、なんにもしてないのにこんなのもらう理由がないよ」
伊央はむっつりとして、目の前の包みに視線を落とす。
「プレゼントをもらうのに理由が必要なんて、伊央って子供だね。くれるっていうんだからもらえばいいじゃない」
鈴鹿は呆れて伊央の頭を叩く。
「でも、もらってもお礼もいえないしさ。いつ帰ってくるのかわからないし」
自分は咲輝のことをよく知らないのに、毎回伊央好みのものをプレゼントしてくれるのが癪《しゃく》でくやしい。
「お礼の手紙でも書いとけば」
鈴鹿はあっけらかんという。
「う〜ん」
手っ取り早い方法だが、伊央はやはり自分の口から直接お礼がいいたい。
「俺、今日から咲輝さんが帰ってくるのここで待つ」
しばらく考えていたが、伊央は決心した。
「それは構わないけどさ、ここでえっちするのはやめなよ」
鈴鹿は頬に手をあてて、視線を遠くに飛ばす。
「鈴鹿お姉ちゃん!」
伊央は真っ赤になってソファから立ちあがった。
「だって、あんたたちはじめるとうるさいんだもん。寝室は防音してあるから少しはましだけどさ、ここでやられたらはっきりいって迷惑だよ」
鈴鹿は伊央の焦り具合などまったく気にかけずに、悪魔な笑みを浮かべる。
「ひ〜ん!」
伊央は恥ずかしくて、泣きながら顔を両手で覆った。
「あれっ?」
寝た時と天井の模様が違うと、目を開けて伊央はぼんやりと思った。
左右を見まわしてみて、やっと自分の部屋だと伊央は確認する。
リビングのソファで寝ていたのに、いつの間にパジャマに着香えて自分の部屋のベッドで寝たのだろうと、伊央は寝ぼけた頭で考えた。
「う〜ん?」
どう考えても、どうやってここに戻ってきたのか思いだせない。
視線を移すと、リビングのテーブルの上に置いたはずの咲輝からのプレゼントも、勉強机の上に戻っている。
見慣れないものがひとつ、その包みの一番上にのっていた。
「うわっ!」
伊央はあわてて飛び起きると、ペタペタと自分の身体を触ってみる。
なにもされていないようだ。
それにしても服を着替えさせられてベッドに運ばれても、気がつかないで寝こけていたなんて恥ずかしい。
お礼をいって、もうプレゼントはいらないといおうと決心したのに、グーグー寝ていたなんて情けない限りである。
でも咲輝が、自分をベッドまで運んでくれたのは嬉しかった。
咲輝の手だから安心して、伊央は起きられなかったのかもしれない。
そんなことばかりもいってられないので、今夜こそはぜったいに起きていて、咲輝にお礼をいおうと伊央は朝っぱらから決意した。
だが、途中までの記憶はあるのだが、いつの間にかうつらうつら眠ってしまったらしい。
気がつくと、伊央はまた昨日と同じように着替えてベッドで寝ていた。
昨日は体育の授業があって身体が疲れたからいけないとか、夕食を食べすぎてしまったから眠くなってしまったと自分にいいわけをしてみるが、情けなくなるだけである。
ただ昨日と違うのは、頭の片隅に微かに咲輝の手の感触を覚えていたことだ。だが、たとえそれを覚えていたとしても、お礼をいえないのだったら同じことである。
今度こそはと決意した三日目は、濃いコーヒーを飲んだり、メントールいりのガムを噛んだりしてなんとか起きていた。
時計はもう二時をまわっている。
カタンという微《かす》かな音で、うつらうつらしていた伊央は目を開けた。
寝てしまうところだったと思って、伊央はパシパシと自分の頬を叩くと廊下にでて電気をつける。
「伊央か」
玄関で靴を脱いでいた咲輝はいきなり電気がついたので驚いたが、ぼんやりとした表情で廊下に立っている伊央をみつけてにっこりと笑う。
「もう遅い、早く寝なさい」
咲輝は廊下を歩くと、伊央の頭を軽く叩く。
「はい」
伊央はにっこりと笑って、咲輝にぎゅっとしがみついた。
安心できる広い胸と、柔らかな咲輝の香りに包まれて伊央はほっとする。
会えたと思ってほっとしたとたん眠くなって、伊央はコクンと頷くと咲輝の胸に頭を預けて目を閉じた。
「伊央?」
寄りかかって寝息をたてはじめた伊央を咲輝はあわてて支える。ずっしりとした重さが、一気に咲輝にかかってくる。
「どうしたものかな」
咲輝は吐息をつくと、持っていたソフトケースを捨てて伊央を抱きあげた。
安心しきって眠っている伊央を咲輝は部屋まで運んでいき、パジャマに着替えさせる。
最初はくたくたして着せづらかったが、三日目ともなると咲輝ももう慣れてしまった。
伊央の身体に布団をかけると、唇にキスをする。
この間はついバイブで伊央を責めてしまったが、機嫌を直してくれただろうかと咲輝は寝顔を覗きこむ。
伊央の好きそうなものをプレゼントしてみたが、喜んでくれたか心配である。
開けているようだが使っていないので、気にいらなかったのかもしれないと落ちこみそうになってしまう。
仕事なら自信を持って進んでいけるのに、この恋に関してはうまくいかない。
いくら好きだといっても伊央は不審がるだけで、心を開いてはくれないのである。
腕に抱いていても、いつも伊央はふわふわしていて掴みどころがない。喜んでいるのかと思えば、掌を返したように攻撃してくる。
心が掴めないことにイライラして、ひどいことをしてしまったこともあった。
伊央が自分より十歳も年下の子供だということを忘れて、無理なことを強要もしたのである。
ここ数日、伊央が寝ないで自分を待っていたことは知っていた。起こしてなんの話なのか聞くことはできたが、咲輝は怖くてそれができなかったのである。
伊央から、拒絶の言葉を聞くのがいやだった。
けれどさっき微笑んで抱きついてきた伊央をみて、聞けばよかったかもしれないと咲輝は後悔しはじめたのである。
このまま伊央を抱いてしまいたかったが、明日の仕事に差し支えるので我慢して咲輝は立ちあがった。
「おやすみ伊央」
咲輝はドアを閉めると、捨ててきたソフトケースを取りにいくために階下に戻る。
一方咲輝と会えたことですっかり安心した伊央は、心地よい眠りにはいっていた。
朝起きた時にしまったと思ったが、もう後の祭りである。
あっという間に三日分のプレゼントがたまってしまって、伊央は作戦を変えることにした。
待っていても会えないのなら、こちらからいけばいい。
咲輝からもらった履歴書の書類の中に、会社の名前や住所は書いてあった。確かに、話さなくてもわかることである。
生年月日も、血液型も、出身校も、趣味も、特技も、住所もなにもかも一般的なことは書類上に書かれてあった。
けれど伊央が知りたいことは、こんな書類ではわからないのである。
学校の授業が終わると、伊央は制服のまま住所を頼りに咲輝の会社までいった。
自分の父親の経営している会社より建物も小さくて古く、働いてる人の数も格段に少ないようである。
建物は古かったが、玄関をはいっても雑然としたところがなく、よく掃除が行き届いているようだった。
玄関をはいると受付嬢がいることは、父親の会社と変わりない。
「すいません。咲輝さん…、社長さんいますか。俺、樋野伊央っていいます」
伊央はつかつかと、その前までいくと、受付の女性にいう。
「はい。アポイントメントはお取りですか?」
受付の若い女性は制服姿の伊央を訝《いぶか》ることもなく、ていねいに応対する。
「取ってないんですけど……」
ここにくれば会えると思っていたが、咲輝は忙しかったんだと伊央はあらためて気がついた。
「そうですか、失礼ですがアポイントメントをお取りになって、またお越しください」
女性はすまなさそうに頭をさげる。
「俺、義弟《おとうと》なんですけど。姉が社長と結婚して…」
せっかくここまできたのにこのまま帰ることができなくて、伊央は必死で食いさがる。
「ああっ、はいっ」
女性はすぐに大きく頷いた。
「取り次いでもらえますか?」
咲輝の義弟と名乗るのは嫌だったが、受付の女性の反応でこれが世間での自分の立場なのだと伊央はあらためて知る。
「はい、あっ、社長」
受付の女性は、客を送って玄関に降りてきた咲輝を目ざとくみつけた。
「咲輝さん」
伊央はスーツ姿の咲輝に声をかける。
「お気をつけてお帰りください」
だが咲輝はそれを無視して、一緒に送ってきた客に挨拶をした。
「しまったかな」
嬉しくて声をかけてしまったが、咲輝が客を送りだすのを待ってから声をかければよかったと伊央は唇を噛む。
邪魔しにきてしまったかもしれないと居心地の悪い思いで、伊央はじっと咲輝が、客を送りだすのを待っていた。
客が玄関からでていくと、咲輝は伊央をみもしないでさっと階段へと歩いていく。
「咲輝さん、待って!」
無視されたと思ったが、伊央はふたたび咲輝に声をかけた。
咲輝が忙しいのはわかっているが、このまま帰ったらまた伊央の心が重くなるプレゼントが増えるだけである。
伊央はあわてて走ると、咲輝の手を掴む。
咲輝の手は体温がないかのように、ひんやりと冷たかった。ハッとして咲輝をみあげると、ひどく顔色が悪くてどこか生気がない。
「帰りなさい。ここは遊び場じゃない」
咲輝は冷たくいうと、伊央の手を払った。
「すぐ帰る。でもこれだけ……、プレゼントありがとう。でも、もういらないから!」
伊央は胸の前でぎゅっと手を握ると、咲輝にいう。
やっぱり邪魔だったんだと悲しくなって、涙がでる前に伊央は走って玄関から飛びだした。
あんなに冷たくあしらうなんて、やっぱり咲輝は伊央のことをなんとも思っていないのだろう。
『好きだ』という言葉で、伊央をその気にさせてだますなんてひどい。それならいっそ、お金で買ったからいうことを聞けといわれたほうがましである。
その場限りの言葉に心を動かされてしまった自分が甘かったのだ。だが、咲輝に魅《ひ》かれはじめていただけに裏切りが心に痛い。
伊央は涙をこらえて家まで戻ると、咲輝にもらったプレゼントをひとまとめにして袋の中に突っこんだ。
伊央は紙袋を持ってキッチンにいったが、そこにいるはずの家政婦はいない。洗面所や風呂場や庭を一周してみたが、みつからなかった。
しかたがないので、それを持ったまま伊央はリビングにいく。
「鈴鹿お姉ちゃん、家政婦さんは?」
伊央は、リビングのソファでくつろいでいる鈴鹿に聞いた。
「夕飯の買いだしにいったよ。それなに?」
鈴鹿は伊央の紙袋を目ざとくみつけると、瞳を輝かせて聞く。
「捨てる!」
言葉少なに伊央はいう。
「捨てるって待ちなさいよ、捨てるなら私によこしなさい!咲輝さんに失礼とかいってたのはどうしたのよ!」
鈴鹿はあわててソファから立ちあがると、伊央の手から紙袋を奪い取った。捨てるなんてとんでもない、これなら売ったってけっこうなお金になる。
「今日、咲輝さんにプレゼントのお礼をいいに会社にいったんだ。そうしたら無視された」
伊央はその時のことを思いだして悲しくなって、唇をぎゅっと噛みしめた。
「あったりまえでしょう。咲輝さん仕事で忙しいんだから、伊央に構っている暇なんかないんだよ」
鈴鹿は呆れて、大きく肩をすくめる。
「でも、無視するなんてひどいじゃないか」
伊央はズキリとした胸の痛みを思いだして涙ぐむ。
「伊央って、本当に子供だよね!咲輝さんも大変だ」
鈴鹿は呆れて、伊央の頭をポンッと叩いた。
忙しい咲輝のところにいっても、相手にしてもらえるわけがない。
「緊急の用事でもないのに、こられたら迷惑だよ」
鈴鹿ははっきりきっぱりといった。
「でも、これ以上なにかもらうの悪いし…」
伊央の言葉は歯切れが悪い。咲輝に会うことばかり考えていて、相手の迷惑なんて伊央はぜんぜん考えていなかった。
「そんなの、手紙で構わないでしょ」
ますます鈴鹿は呆れて、伊央をみる。
「でも、なんだか心が伝わらないような気がして……」
自分でいってても真実味がないと気がついて、伊央はしょんぼりと俯《うつむ》く。
手紙だと心が伝わらないなんて嘘だ。伊央は、ただ咲輝の顔をみたかっただけである。
「よしよし。気持ちはわかるけどね」
唇を噛みしめている伊央の頭を鈴鹿は撫でた。
「なんだよ!なにがわかるんだよ」
伊央はバッと顔をあげて、鈴鹿の手を振り払う。
「伊央は、咲輝さんに会いたかっただけなんだ。もうそれって恋だよね」
鈴鹿は過剰に反応する伊央をおもしろそうにみる。
「達うっ!俺は本当にお礼しにいっただけなんだから!」
伊央は真っ赤になって反論した。
鈴鹿に見破られていたのが、すごく腹立たしくて恥ずかしい。
「顔、真っ赤だよ」
鈴鹿はにっこりと微笑む。
「もう、いいっ!」
伊央は怒って鈴鹿に背を向けると、どかどかと足音も高く歩きだす。
ここにいたら鈴鹿にどんなからかいを受けるかわからないので、伊央は早々に逃げだすことに決めた。
伊央がリビングのドア近くまで歩いたとき、電話のベルがリビングに鳴り響く。
「あっ、電話。伊央取って」
鈴鹿は自分のほうが電話に近いのに、当然のように伊央に頼む。
「えっ、鈴鹿お姉ちゃんのほうが近いじゃないか」
不満を洩《も》らしながらも、長年の服従体質から抜けられない伊央は、わざわざ戻って受話器を取った。
「もしもし…、えっ!咲輝さんが?」
伊央は受話器を取り落としそうになる。
「どうしたの?」
そのただならぬようすに鈴鹿はソファから立ちあがって、伊央の側までいくと受話器を奪った。
「えっ、咲輝さんが倒れた。病院はどこですか?」
鈴鹿はてきぱきと、受け答えをして受話器を置く。
「鈴鹿お姉ちゃん。咲輝さん死んじゃうの?」
伊央は真っ青な顔で、唇を噛みしめる。そういえば掴んだ手はひどく冷たかったし、顔色もよくなくて疲れているようだった。
忙しいのに自分が急にいったりしたから、きっと咲輝が倒れてしまったのである。
「とにかく病院にいこう」
鈴鹿は元気づけるように伊央の肩を叩く。
「咲輝さん死なないで…」
伊央はぎゅっと手を組んで一生懸命祈った。
咲輝が入院した個室には、応接セットもテレビも冷蔵庫もお風呂もトイレもついていた。
本当にここが病室なのかと、目を疑うほどりっぱな部屋である。
だがベッドには青白い顔の咲輝が眠っていて、側には白衣を着た医師が立っていた。
「咲輝さん!」
伊央は思わず叫んで、側に走り寄る。
「おやっ、久しぶりだね伊央君」
咲輝の側にいた上総は、走ってきた伊央に声をかけた。
「あっ!結婚式の時に会った人だ。この病院の医師なんですか?」
伊央は驚いて上総に聞く。
「ここは親父の病院でね。僕は研究専門なんだけど、呼びだされたんだ。まったくわがままなんだからな、咲輝は」
上総は大げさに肩をすくめる。
「咲輝さんどこが悪いの、まさか、死んだりしないよね」
伊央は不安になって、勢いこんで上総に聞く。
「大丈夫、死んだりしない。ストレスと睡眠不足と、偏食が原因。点滴うったからすぐ元気になる。単なる過労だよ」
上総は心配げな伊央を覗きこんで、にっこりと微笑む。
「そうか、よかった」
伊央はほっとして、眠っている咲輝の手を両手で握る。その手はいつもと違って、ひんやりと冷たい。
「単なる過労っていっても、たび重なればヤバイよね」
咲輝のようすをじっと観察していた鈴鹿は、上総をみあげる。
「そうだな咲輝は働きすぎるから、奥さんが気をつけてあげないとね」
上総は意味ありげに伊央の頭を撫でると、鈴鹿に向かってにっこり微笑んだ。
「ふうん。伊央がそうだと、知ってるんだ」
鈴鹿は別段驚いたようすもなく、上総を上から下までジロジロと眺める。
病床で呼びだすほど咲輝が信頼している人間なら、そのぐらい知っていても不思議ではない。
「お噂《うわさ》はよく聞いてます。お父さんの会社に咲輝が融資を決めたのは、あなたがいたからですよ、鈴鹿さん」
上絵は笑顔を崩さずにいう。
「えっ、私?咲輝さんは伊央を好きだからっていってたわよ」
鈴鹿は訝しげに眉を寄せた。
「それもあるでしようけど、帰ってくるあてのない会社に融資なんてしません。鈴鹿さんほど頭の回転が早い女性も珍しいといってましたよ。会社もあなたの代になったら、伸びるだろうと確信しているようです」
上総は淡々と告げる。
「どうせ悪知恵が働くって、いったんでしよう」
そんな社交辞令のような台詞《せりふ》をまったく信じないで、鈴鹿は肩をすくめる。
「本当によくおわかりで」
上総は感心して頷いた。
「そこまで誉《ほ》められたら、融資してくれたお金をさっさと返さないとね。伊央は咲輝さんが好きらしいから、対等の立場にしてやらないと可哀相」
鈴鹿はにっこりと笑う。
「鈴鹿お姉ちゃん!」
伊央は咲輝の手を離して、驚いて振り向いた。
「伊央…」
咲輝は顔を顰めて目を開けると、伊央に向かって手を伸ばす。
「咲輝さん、大丈夫!」
伊央はあわてて咲輝の手を握って、覗きこんだ。
「ああ。ちょっとクラッとしただけなのに、みんな大げさに騒いだだけだ」
咲輝は伊央の手を振り返して、じっとみつめる。
「大げさじゃない!若いから大丈夫なんて過信してると、本当に動けなくなるぞ!」
上総は真剣な表情で咲輝を怒った。
「わかったよ。おとなしく寝てる」
咲輝は吐息をついて頷く。どっちにしろ、点滴のチューブを腕につけられているのでしばらくは動けない。
「じゃ、看護は特別に伊央君に任せるから、今日一日ゆっくりと休養してくれ。明日には退院できるから」
上総は伊央ににっこりと笑うと、病室からでていった。
「じゃ、後は伊央に任せときゃいいのね。あっ、私も帰ろうっと」
鈴鹿はあっさりいうと、やれやれと肩をすくめて病室からでる。
「ごめんなさい。咲輝さんが倒れたの、俺のせいだ…」
病室で二人きりになると、伊央は咲輝に謝った。
「伊央のせいじゃない」
咲輝は、泣きそうな顔をしている伊央の頬に手をあてる。
「咲輝さんが忙しいのに、俺が会社にいったりしたから…」
伊央は咲輝の手の上から、自分の頬を押さえた。
咲輝の手はいつもの力強さがなくて、そのまま滑り落ちてしまいそうである。
「無視して悪かったよ」
瞼を閉じると咲輝は呟くようにいう。
「俺、どうしても咲輝さんに会いたかったから、無視されて悲しかった」
伊央はじっと咲輝をみつめた。
「プレゼントはいらないって、いうために会いにきたのに?」
皮肉混じりの笑みを咲輝は浮かべる。咲輝の気持ちを断りにきたのに、無視されて悲しいなんて都合がよすぎる。
「プレゼントは嬉しいけど。俺、咲輝さんになにもお返しできないから…」
伊央はぎゅっと唇を噛みしめた。
「伊央は、今まで私がつきあってきた恋人のだれより気むずかしいな。おみやげが気にいらないと怒るし、違うものをプレゼントしろといっておきながら、いらないと突き返す。私はもうどうしていいのかわからない」
咲輝は吐息をつくと、伊央から視線をはずした。
「プレゼントより、少しでも咲輝さんと話したい」
伊央はおずおずと、青白い咲輝の頬を両手で包む。
「なにを話すんだ?十歳も離れているんだ、共通の話題なんてなにも思いつかないな」
咲輝は固い表情で、伊央を突き放すようなことをいう。
「咲輝さんって、もしかして最初俺がいったこと気にしてたんだ?」
伊央は咲輝が突き放すことをいう原因に気がついて、思わず微笑んだ。
「……」
咲輝は沈黙する。確かに、心のどこかにそれが引っかかっていた。
忙しいからとか、書類を読めばわかるからと突き放したのは、伊央と話題があわないのを恐れたからだ。
「俺、咲輝さんのこともっとよく知りたい。だから咲輝さん、いろいろ話してよ」
伊央はじっと、咲輝をみつめる。
「伊央が会社まできてくれて嬉しかった。けれど社員の手前、素直に喜ぶことはできなかったんだ。すまなかった」
咲輝は今日のことを謝る。
「俺が咲輝さんのお嫁くんなのは、会社の人たちには秘密だったね。えっちな咲輝さんが俺をみてムラムラしちゃうの忘れていったのが悪かったんだ。社員の前でセックスはシャレにならないよね」
伊央はにっこりと笑う。
「すごく勘違いしているよ、それは」
これが伊央との会話を避けてきた結果なのだと気がついて、咲輝は大きな吐息をつく。
冗談でなく、伊央が咲輝の性格をそんな獣と思っているとしたら、かなり困ったことである。
「えっ、そのとおりだよ!」
伊央は思いきり首を傾げた。今まで咲輝が伊央にした数々のことを総合すると、そうとしか考えられない。
「まいった。ちゃんと伊央と話をする時間を作るよ」
これ以上他人に間違いを伝えられたらまずいと思って、咲輝は返事をした。
家の中はシンッと静まり返っていた。
夜中に帰宅した咲輝はシャワーを浴びると、寝室のドアを開けて電気をつける。
「えっ?」
いつもはない塊がベッドの上にあって、咲輝は驚いて声をあげた。
頭まですっぽりと羽毛布団をかけているのでだれだかわからないが、気持ちよさそうな寝息が聞えている。
咲輝は眉をひそめながらつかつかと側にいくと、無造作に羽毛布団を剥いだ。
「伊央!」
いつもなら自分の部屋で寝ている伊央が、今日は寝室のベッドの上で丸くなって寝ている。
「うーん」
眩《まぶ》しさに手で顔を覆いながら、伊央は薄目を開けた。
「あーっ、咲輝さん帰ってきたんだ。やっぱここで待ってればよかったんだぁ」
眠い目を擦って起きあがると、伊央は咲輝の手を掴んで引っ張る。
「どうしたんだ急に。自分の部屋で寝ないのか?」
咲輝は困惑気味に、伊央の隣に座った。
「んーっ、咲輝さんと一緒に寝るんだ」
伊央は咲輝にぎゅっとしがみつく。
「いいのか、伊央が寝ている間に私はなにをするかわからないぞ」
咲輝は伊央を胸に抱き寄せて、そのままベッドに横になる。
「やぁだーっあよ」
伊央は寝ぼけ眼でふにゃふにゃいうと、足を咲輝の身体に絡ませた。
「誘うようなことをすると、本気になるぞ」
咲輝は嬉しいような困ったような複雑な表情を浮かべて、絡みつく伊央の足を手ではずすと羽毛布団をかける。
「なんにもしなくても、咲輝さんに抱きついてるだけで気持ちいい」
伊央はうとうとしながら、咲輝の胸に頭を擦りつける。
「伊央も気持ちいいよ」
咲輝は微笑むと、伊央を両手で抱きしめた。
「俺、料理教室にいきたいな」
ふわっと咲輝の香りに包まれて、いいたかったことを思いだし、伊央は顔をあげる。
「料理は家政婦さんが作ってくれるだろう。なんで料理教室なんかいきたいんだ?」
咲輝は首を傾げて聞く。
「咲輝さんのご飯作りたいから」
伊央は恥ずかしげに、微笑んだ。
「私の?」
食事はほとんど家でとらないのに、なんで伊央がそんなことをいいだしたのか咲輝には見当がつかない。
「だって上総|医師《せんせい》が、咲輝さんは栄養のバランスが悪いっていってたから。だめかな」
伊央は甘えるような表情で咲輝を窺《うかが》う。
「いいよ。私の知りあいが開いている教室があるから、そこにいくといい」
伊央が作ってくれるのは嬉しいが、少し気恥ずかしくて咲輝はむずかしい顔で頷く。
「うん。ありがとう」
すんなりと認めてくれたので、伊央は嬉しくなって咲輝にキスをした。
「伊央…」
咲輝は驚いてそれを受ける。
伊央が自分から嬉しげにキスをしてくれるなんて初めての経験で、咲輝は心臓がドキリとしてしまった。
唇が触れただけのキスに、ドキドキしてしまうなんて久しぶりの感覚である。
「じゃ、お休みなさーい」
唇を離すと、伊央はすっかり満足して瞼を閉じた。
咲輝に料理教室に通うことを認められたので、安心したら急激に眠気が襲ってきたのである。
「えっ、伊央?」
すぐに心地のよい伊央の寝息が聞こえてきて、咲輝は取り残されてしまった。
「しかたがない…」
咲輝は吐息をつくと、電気を消して横になる。
伊央の暖かい体温と心地よい寝息が、咲輝を眠りへと誘《いざな》う。こんなのも悪くないと思って、咲輝は瞼《まぶた》を閉じた。
「昂上さんから聞いてますよぉ」
どこか女性っぽい男性講師に教室に案内されて、お料理教室というのは普通こんなにきらびやかなものなのだろうかと伊央は顔をひきつらせた。
教室の壁紙はローラアシュレイだし、天井の明かりはガレっぽい。咲輝の大学の先輩というこの男性講師も、ダイヤのピアスをしていて、指輪をつけている。
女性ばかりなのは覚悟していたが、想像していたのとどこか雰囲気が違う。
サークル的なわきあいあいといった感じでもなく、だれかのために一生懸命料理を作ろうという雰囲気でもない。かといって、職人|気質《かたぎ》の技術優先的なものもない。
やる気のない人たちが、のほほんと料理をしているという感じである。
生徒の女性たちも、よくみると伊央でも知っている有名ブランドの服を着て、料理に邪魔そうなダイヤがちりばめられた時計とか、大きなイヤリングをしていた。
こんなので、ちゃんと料理を教えてくれるのか不安になる伊央である。
「樋野君は、年齢が同じぐらいの子がいるほうがいいわね。君より二つ年上の高校三年生の子もいるのよ」
講師は一人だけ男性が混じっているテーブルに伊央を連れていった。
「ちょっと久我《くが》君、今度はいった樋野君です。同じ男同士で、仲良くしてあげてね」
大根を洗っている男性に講師は声をかける。
「あっ、こんにちは。久我|裕士《ゆうじ》です」
おっとりとした雰囲気の裕士は、ていねいに深々と伊央に頭をさげた。
背は伊央より高く、髪の毛は全体的にやや長くてシャギーがはいっている。ナチュラルな性格を映す大きな瞳が、人のよさそうな雰囲気とマッチしていた。
「樋野伊央です。よろしくお願いします」
伊央もそれにつられて挨拶をする。
「じゃ、皆さんもよろしくね」
テーブルのみんなにいうと、講師はさっとその場から去った。
「えっと、なにをすればいいのかな?」
伊央は裕士をみて聞く。
「一緒に洗ってくれると、嬉しいな」
裕士は人好きのする笑顔で、にっこりと笑って答えた。
お料理教室が終わって、伊央と裕士は教室近くのス夕ーバックスコーヒーにきていた。
「あの人たち、いつもあんな調子なんだ?」
伊央はアイスモカを飲みながら、裕士に聞く。
同じグループの女性たちはどうみても料理など作る気がなく、一生懸命作っていたのは裕士と伊央だけだったのである。
作りもしないで、ガツガツ食べるのは一人前だから腹がたってしまう。
「あの人たちは、料理なんて作らなくていいところのお嬢様たちばかりだから」
裕士は伊央のように怒ることもなく、いつものことだとのんびりと構えていた。
「じゃああのエルメスの服とか、シャネルの服って、なーんちゃってものじゃないんだ」
高い服なのに、醤油《しょうゆ》が飛んでも気にしないで食べていたなと伊央は感心する。
その|無頓着《むとんちゃく》で無神経なところが、お嬢様らしいなと伊央は納得した。
「あははっ、おもしろいことをいうね伊央君は」
裕士はのんびりと笑う。
「裕士君は、なんであんなところで料理なんて習っているんだ?もっとましな料理教室たくさんありそうなのに」
あんなところで習っても、イライラするだけだと思って伊央は聞く。
「あそこ以外はだめだっていわれたから。でも、みんながやらないから自分でやらなきゃならないでしょう。よく覚えられるんだ」
裕士はのほほんという。
「そんな人のいいこといってるから、お嬢様面をしているバカにつけいられるんだよ」
伊央は後片づけまで裕士に押しつけようとした、同じグループの女性たちに自分で食べたものは自分で洗えと、きっぱりといったのである。
「ありがとう、伊央君。そんなこといってくれたの君が初めてだよ」
裕士は伊央の手をしっかりと振って、にっこりと微笑んだ。
「初めはバカらしくて、やめようと思ったけど。裕士君を一人にしておけない」
伊央はぎゅっと裕士の手を握り返す。
料理教室なんて初めてで、勝手がわからなかった伊央に親切に教えてくれた人のいい裕士をあんなところに一人で置いておくのは可哀相だ。
「ところで、伊央君はなんであそこの料理教室にきたの?普通の人は知らないはずだよ」
裕士は首を傾げて聞く。あの教室は普通の料理教室では相手にしていられない、お嬢様の駆込寺のような料理教室なのだ。
「紹介だよ。あんなところだと知っていたら、自分で捜してたな」
だが、咲輝の意図がよくわかるような気がする。恋愛対象どころか、好きになれない女の人たちばかりだ。
「ふうん。伊央君って、年上の実業家と縁組でもあるの?」
裕士はのんびりとした口調で聞く。
「えっ!なっなんで?」
伊央は驚いて、裕士をみる。のんびりしていてとても目端のきく人物とは思えないが、鋭いところをついてきた。
「なんとなくさ。伊央君ぐらいの年齢で料理教室に通うなんて、キャリアで年上のおばさまに囲われちゃったりしてとか…ちょっと考えただけ」
裕士は屈託なくいう。
「そっか、あはははっ」
伊央は虚《うつ》ろに笑った。キャリアで年上のおばさま[#「おばさま」に傍点]ではないが、すれすれである。
「そんなの、僕以外ないよね。あははっ」
裕士はさらりといって、コーヒーを飲んだ。
「そうだね。…えっ?」
返事をしてから、伊央は眉をひそめて裕士をみる。
「って、裕士君、おばさまに囲われてるの!」
伊央は驚いて裕士の手を掴んだ。
「まあ…、おばさまじゃないけどね…」
冗談で聞き流してくれると思っていたのに、伊央に詰め寄られて裕士は困って言葉を濁す。
「そうか…」
伊央は息を飲む。裕士を囲っているのが女の人とはいえ、伊央はまるで同志に出会ったような共感を覚えた。
そのまま告白するのは気が引けたが、同じ境遇の裕士にいろいろ相談にのってもらえたらと伊央は考える。
今までみたいに一人で悩まなくても、話すことができれば少しは明るい気持ちになるはずだ。
「裕士君。……実は、俺もなんだ」
伊央は咲輝の性別を隠して、裕士に告白する。
「えっ、本当に!伊央君も?」
裕士はぎゅっと伊央の手を握り返す。
「なんか嬉しい。いろいろ相談してもいい?」
伊央はじっと裕士をみる。
「うん、僕でよければ。僕も困ったことあったら、相談してもいいかな?」
裕士はコクンと頷くと、伊央に聞く。
「うん。二人で相談すれば、きっとなんとかなるよ」
伊央は力強く答えた。
咲輝のためにはじめた料理教室だったが、すぐに伊央は楽しくなった。
やる気のない人向けだけあって講師の先生は初歩から懇切丁寧に教えてくれるし、周りのお嬢さまたちがやらないので、必然的に自分でやる量が増えるのでどんどん上達していく。
似たような境遇の裕士と話ができるのも、家にいる時より気晴らしになった。
裕士は今まで伊央の周りにはいなかったのほほんとした人物で、聞き上手なので側にいると気が休まる。
料理教室の後には裕士とファーストフードに寄ってたわいない話をするのが、伊央の楽しみになっていた。
「なんか、楽しそうだね伊央」
いつもよりうきうきしている伊央に裕士は聞く。
「うん。いくつか料理を習ったから、それと料理の本に載ってた簡単にできるのを組み合わせてお弁当を作ってあげたら、おいしいって誉められたんだ」
伊央はにこにこしながら裕士に話す。
「伊央、一生懸命やってたからね。誉められてよかったねーっ」
裕士は自分のことのように喜んで、伊央の手をぎゅっと握った。
「うん。やっぱ裕士にいってもらえると嬉しい!」
伊央はしみじみ頷く。
姉の鈴鹿に咲輝に誉められたと自慢したら、お世辞にきまっていると鼻先で笑われたのである。
「お弁当を誉めてくれるなんて、伊央の婚約者って優しい人なんだね。どんな人なのかなぁ」
裕士は期待をこめた瞳で伊央をみた。
「どんなって……」
伊央は言葉に詰まった。裕士には伊央を囲っているのは男だと、告白していない。
「伊央と婚約する前はけっこういろんな人とつきあってたみたいだから、綺麗な人なんだろうな。それに優しそうじゃないか。歳はいくつ離れてるの?」
裕士は一口コーラを飲んで、おっとりと聞く。
「綺麗……かな?あと、背が高くて、たまに優しい時もあるけど、いつもは違う。歳は十歳違い」
咲輝は男前だが、綺麗かと聞かれるとちょっと違うと伊央は思う。優しいのか、冷たいのか意地悪なのか親切なのか、咲輝の性格はよくわからない。確実にそうだといいきれるのは背の高さと年齢差だけなんてなんだか寂しい。
「えっ?そんなに若いんだ。社長さんだっていうから、もっと年寄りかと思っていた」
裕士は驚いて目を見張った。
「十歳も歳が違ってたら、充分年寄りだよ。俺、あの人の考えていることぜんぜんわかんないもん」
伊央は困って言葉を濁す。
「でも、伊央はまだ近いよ。僕は十五歳も上だから」
裕士はにこにこ微笑みながら、なにげなく話した。
「そうなんだ……。いつもなに話してるの?」
咲輝と自分より歳が離れているなんて、裕士がなにを話しているのか伊央には想像もつかない。
「なにって、普通のことだよ。伊央だって学校であったこととか、テレビとか、趣味の話とかするでしょう?」
裕士は首を傾げる。
「忙しくて帰りが遅いし、たまに早く帰ってくるとえっちになっちゃって……。話なんかあんまりできなくて」
伊央は首を横に振ると、裕士の耳元に顔を近づけて小さな声で囁く。
「えっちしてるなら、大丈夫だよ。会話もなくて、えっちもなくなったらまずいけど」
裕士は小さく吹きだすと、けろりとしていった。
「裕士もえっちするの?」
おっとりとして淡白そうな裕士から、そんな大胆な答えが返ってくるとは思わなくて伊央は聞く。
「やだなあ。するよ」
裕士は、なんでもないことのように答える。
「それって、お金もらっているから義務で?そんな年上の人とでも平気?」
伊央はじっと裕士をみつめて真剣に聞く。
「義務だけじゃできないでしょ。確かに僕はお金で囲われているけど、あの人のことが好きだよ」
裕士は微笑んで答えると、少し寂しげに俯いた。
「でも、好きでもお金で買われているって思いは、心に引っかかるよね」
伊央には、裕士の気持ちが痛いほどわかる。裕士の寂しさや心の痛みは、伊央自身のものと重なるのだ。
「そうだね。伊央はどうなのかな?」
裕士は伊央に聞く。
「俺は、……気になるけど好きかどうかなんて、わからない。だって、自分の好き勝手に俺のこと扱うし、挑発するし冷たいし、プレゼントすれば機嫌が直ると思ってるし、鬼畜なえっちするし……」
伊央はブツブツいいながら、指折り数える。
「わからないふりをしてるだけで、もう伊央の心の中で答えはでてるんじゃないかい?」
裕士は膨れ面で文句をいっている伊央を微笑ましく眺める。
「そんなの認めたくない。なんだか負けるような気がする!」
伊央は渋々本音を吐いた。
「好きになると負けるっていうのが、伊央らしいね」
伊央と婚約者の状況が目にみえるようで、裕士はおかしくなってしまう。
社長をしている気の強い女の人なら、伊央をいじめて泣かせたくなるのもわかるような気がする可愛らしさである。
「だって、心までお金で買われたみたいな気がしてさ」
伊央はぷくっと頬を膨らませた。裕士のように素直にすべてを受けいれて、咲輝のことを好きになるなんて伊央にはできそうにない。
心に引っかかりがありすぎて、その前に爆裂しそうである。
「ところでさ伊央、鬼畜なえっちってどんなことされたのかなぁ?」
裕士は興味津々で身体をのりだした。
「えっ、えっとーお」
咲輝の文句をいうのに夢中で、ついうっかりロを滑らせたらしい。
「やっぱり、SM?でも見たところ跡らしいものはないみたいだけど」
おっとりしている裕士でもやはり気になって、伊央の腕を掴んでカッターシャツの袖を捲《めく》った。
「違うって、そーゆーんじゃなくて。玩具《おもちゃ》とか使われて………」
もごもごと歯切れ悪く、伊央は言葉を濁す。
「えっ、伊央が相手に使うんじゃなくて?」
裕士は不思議そうに首を傾げる。
「あっ、そーか。えーっと、えっと」
伊央は裕士に妙な顔をされて、ハッと気がついた。
咲輝のことを女性と偽っているのに、女性に伊央がバイブを使われたとなると普通ではない。
最初にSMだと聞かれた時に、頷いてしまえばそれも通用したが、否定してしまったのでどう答えていいのか伊央はわからなくなってしまった。
「やっぱり女王様なんだ、カッコいい!」
伊央が答えられないのはそのとおりなんだと、裕士は勝手に納得する。
二十五歳で、背が高くて、綺麗な顔で、社長さんで女王様なら、可愛くてちょっと気の強い伊央にはぴったりの相手だと裕士はのほほんと思う。
「あははっ」
伊央は虚ろに笑うしかない。
気のいい裕士をだましているようで心が痛むが、すべてを告白する勇気は伊央にはまだない。
断片的に相談することしかできないのがつらいが、たぶんいつかは裕士に話せる日がくるだろう。
「玩具は僕も使ったことがないなぁ。便利そうな気もするけど……、そういえば、今度新宿のデパートで『料理グッズ便利展』っていうのがあるんだけど、一緒にいかない?」
裕士は急に思いだしてポンッと手を打つと、鞄《かばん》の中から広告を取りだして机の上に広げた。
「うんいく!あと俺、|合羽《かっぱ》橋とかいってみたいな」
話題が変わったので、伊央はほっとして頷く。
「合羽橋かぁ、僕もいったことはないよ」
裕士は瞳を輝かして頷く。
「うん。じゃあ、合羽橋もいこう」
伊央は微笑みながら提案した。
ここのところ毎日雨が続いている。
梅雨だからしかたがないが、蒸し暑くてじめじめしていてうっとうしい。
気分だけは夏らしくしたくて、伊央はコアラ模様のアロハシャツにジーパンをはき紺のエプロンをつけていた。
今日は学校が休みの土曜日なので、いつものように鈴鹿にお弁当を託さないで咲輝のところに自分で持っていける。
授業がある時は伊央は咲輝の会社まで届けることができないので、授業の始まりが遅い鈴鹿に託していたのだ。
はじめのうちは『なんでわざわざ私が持っていかなくちゃいけないの』とブツブツいっていた鈴鹿だが、このごろは今日のおかずはなんなのか積極的に聞いてくる。
梅雨時なのでお弁当の中身にも気を追っていたが、お昼近くのこの時間に持っていけるので習っても今まで作れなかったものができて楽しい。
ハッと気がつくと、重箱にいれないと無理な量を作ってしまっていた。
伊央はどうしようか迷ったが、せっかく作ったんだからと思ってせっせと重箱に詰める。
裕士に盛りつけも大切と注意されたので、伊央はいろどりを考えて丁寧にいれていく。
全部詰め終えると、それを風呂敷に包んだ。
なんだか、花見かピクニックでもいくようなうきうきした気分になるのが不思議である。
「鈴鹿お姉ちゃんどこーっ!」
鈴鹿にでかけると一言いおうと思ったが、一階の自室にも、リビングにもいない。伊央にはでかける時にどこにだれといくのかしつこく聞くのに、自分がでかける時はずいぶんいいかげんだと思う。
鍵は持っているはずだしいいかと思って、伊央は重箱を持って家をでた。
電車に乗ってでかけるのは楽しいが、雨なのがいただけない。けれど咲輝が喜んでくれるなら雨の中でも、伊央は平気である。
ふだんの咲輝は、伊央に気を遣ってくれてとても優しい。いいところもたくさんみつけられるようになったし、咲輝の気持ちも理解できるようになった。
でも、鈴鹿の見合いの時に出会って、だましてセックスした咲輝のことを好きな自分の心を認めるのが嫌なのである。
今までのことを全部キャンセルして、ふたたび出会いからはじめられたら、伊央はもっと素直に咲輝に好きだといえるのにと思う。
咲輝が倒れてから、伊央の気持ちは大きく揺れていた。
好きだといってくれる咲輝に答えられないのが苦しいのに、素直に答えるのも嫌なのである。
電車を降りても雨はまだ降っていた。
土曜日なのに、会社の入り口には受付のお姉さんがいる。だが、今日はこの間とは違う人だ。
「こんにちは。俺、樋野伊央っていいますが、社長さんにお弁当持ってきました」
伊央は、つかつかとその女性の前にいくと、にっこりと笑って用件を告げる。
「あっ、ご苦労さまです。樋野さんっていうと、社長の義弟さんですね。今日のお弁当はいちだんと大きくて。お姉さんお料理上手ですね、いつも社長の今日のおかずはなんなのか、評判なんですよ」
受付の女性はにっこりと笑って、重箱を受け取った。
「えっ!あっ、はいっ」
なんで鈴鹿が作ったことになっているんだと思いながら、伊央は返事をする。
どうりでこのごろおかずはなんだとか、いろいろ聞いてくるわけだ。表向きには咲輝の奥さんになっているからしかたがないとしても、伊央に黙って自分で作ったことにしているなんてひどい。
「あれっ。そういえばさっき、奥さんがきていたような」
受付の女性は、頬に手をあてて首を傾げた。
「忘れたみたいなんです。鈴鹿お姉ちゃんてぱ、そそっかしくて」
せっかく作ったお弁当を咲輝に渡してもらえないと困るので、伊央はあわてていい繕う。
「そうみたいですね。時々、違うおかずの話とかしてます」
受付の女性はケラケラと笑った。
「はあっ」
伊央は曖昧《あいまい》に相槌《あいづち》をうつ。
自分で作ったんじゃないのに、いいかげんなことをいうからボロがでるのだ。後で鈴鹿に、文句をいってやらないと気がすまない伊央である。
「あっ、お二人きましたよ」
受付の女性は、咲輝と鈴鹿が階段から降りてきたのに気がついて伊央にいう。
「えっ」
伊央は受付嬢にいわれるままに、振り返った。
咲輝と鈴鹿が仲良さそうに話しながら歩いてくる。
「あらっ、伊央どうしたの?」
咲輝より先に鈴鹿が伊央をみつけて、不思議そうに首を傾げた。
「お弁当忘れていたのを届けてくれたんですよ」
受付の女性が、むっつりとしている伊央の代わりに答える。
「あっ、すっかり忘れてた。本当に私って、あわて者で」
鈴鹿は悪びれもせずに答えた。
「伊央」
咲輝は伊央に微笑みかける。
「俺、帰る!」
伊央は不機嫌にいうと、くるりと踵《きびす》を返して玄関からでた。
ものすごく不愉快な気分である。
鈴鹿が伊央のお弁当をさも自分が作ったようにいうのも嫌だった。それに咲輝は伊央がきた時にはすぐに追い返したのに、鈴鹿の時は追い返さずに話をしているのである。
鈴鹿ならよくて、なぜ伊央はだめなのだろう。二人で仲良さそうにしていたのが、すごく気にかかる。
それに鈴鹿がお弁当を作ったと勘違いされていると、咲輝はなんで教えてくれなかったのだろう。
咲輝は本当は鈴鹿のことが好きで、伊央のことなどお金で買った性欲処理の相手としかみていないのかもしれない。
だから、伊央にはおいしいとお世辞をいって、お弁当は鈴鹿が作ったことにして世間体を保っているのである。悪い考えばかりが伊央の頭の中に溢れてきてしまう。
降りかかる雨に逆らって、伊央はもやもやした心を抱えながら急いで駅まで走った。
家に戻っても、咲輝と鈴鹿の仲良さそうな姿が浮かんでしまって、伊央は不機嫌そのものだった。
頭の中は咲輝のことでいっぱいで、テレビをみているはずなのに、目の前で画面がただ流れているようにしか感じられない。
鈴鹿も咲輝のことなんてなんとも思ってないといいながら、伊央に黙って会いにいくなんてずるいと思う。
伊央に隠れてこそこそ会っているなんて、二人ともお互いが好きだからだとしか思えない。
嫌な考えばかりが、伊央の頭の中をぐるぐるとまわっていた。
伊央が悩んでソファの上でごろごろしていると、リビングのドアが開き、鈴鹿が上機嫌ではいってきた。
「なんで、俺が作ったお弁当を自分で作ったなんていうんだよ」
楽しそうな鈴鹿のようすをみていると、伊央はますます腹がたってきて不機嫌にいう。
「しかたないじゃない、表向きは私が咲輝さんの奥さんになってるんだから」
なんでそんなつまらないことで文句をいうんだと思って、鈴鹿は眉をひそめて答える。
「べつに奥さんが作らなくても、おかしくないじゃないか。俺が一生懸命作ったのに、自分が作ったことにするなんてひどいよ!」
伊央はむっとして、鈴鹿を睨みつけた。
「咲輝さんは伊央が作ってるって知ってるんだから、べつに他の人が勘違いしてたっていいじゃない」
機嫌が悪いと思いながらも、いつものように強くいえば引くだろうと考えて鈴鹿は開きなおる。
「そんなの関係ない!勘違いじゃなくて鈴鹿お姉ちゃんは、自分で作ったってみんなにいったんだろ」
鈴鹿と咲輝のことを疑って機嫌の悪い伊央は、いつになく強気だ。
「いいじゃないのそんなこと。うるさいわね!」
なかなか引かない伊央にじれて、鈴鹿はたたみかけるように大声でいう。
「咲輝さんの奥さんだって認められたいんだったら、鈴鹿お姉ちゃんがお弁当作れば!俺鈴鹿お姉ちゃんのために身を引くからいーよ」
それに反発して、伊央は大声で叫んだ。
「なにいってんの、伊央の身体にうちの会社の運命がかかっているの忘れたの?」
伊央の剣幕に、鈴鹿はあわてて声を抑える。
「俺の代わりに、鈴鹿お姉ちゃんが咲輝さんのお嫁さんになればいいよ。それで丸く収まるんだから」
唇をぎゅっと噛みしめて、伊央は鈴鹿をみた。
「咲輝さんが好きなのは伊央なんだよ」
なにを勘違いしてるんだろうと考えながら、鈴鹿は伊央をなだめる。
「咲輝さんは俺のことなんて好きじゃない!もういいんだ、でていくんだから!」
いつも伊央の知らないところで、咲輝と鈴鹿が二人で相談して決めていたのだから、今回だってまただまそうとしているに違いない。
「自分で作ったなんていった、私が悪かったから。そんなこといわないで」
伊央にでていかれるとまずいので、鈴鹿も必死である。
「嫌だ!」
今さら謝られても、伊央の疑惑は膨れあがるばかりで抑えられない。
「ちょっと伊央、私首つって死ぬわよ!会社の人だって明日からどうやって生活するの?」
鈴鹿は必死の形相で、伊央の手を掴む。
「俺にはもう関係ない!」
伊央は鈴鹿の手を振り払うと、自分の部屋に走って戻った。
バッグの中に着替えを無造作に突っこむ。感情に任せていってしまったが、もう後には引けない。
しばらくは、裕士のところに泊まらせてもらおうと伊央は考えていた。
この不安定な感情のままで、咲輝には会いたくない。会えば、どんなひどいことをいってしまうかわからなかった。
とにかくここから逃げて少しでも冷静になったら、きっと咲輝と鈴鹿のことを祝福できるに違いない。
それまでは、どこか咲輝のわからないところにいきたいと伊央は思った。
荷物をまとめて部屋からでると、目の前に咲輝が立っていた。
部屋に戻って荷物をまとめるのにそんなに時間がかかっていないはずなのに、どうして咲輝がこんなに早く帰ってきたのか伊央にはわからない。
「退いて!」
くじけそうになる心を奮い立たせて、伊央は咲輝を睨みつける。
「その荷物はどうした。どこにいく気だ?」
咲輝は伊央が歩けないように立ち塞《ふさ》がると、威圧的に聞いた。
「どこだっていいだろ。でていくんだから、咲輝さんは鈴鹿お姉ちゃんと仲良くすればいいじゃないか!」
伊央は咲輝の身体に突き当たって、そのまま力ずくで退かそうとする。
「なにを怒っているんだ?」
咲輝はいこうとする伊央を身体全体で止めた。
「もう俺はだまされないからな!」
伊央はキッと咲輝を睨みつけると、今度は手で退かそうと力をいれる。
「なにをいっているのかわからない」
咲輝は困惑気味に伊央を覗きこむと、逃がさないように両腕を掴んだ。
「俺より鈴鹿お姉ちゃんのほうが好きなんだろ。俺には会社にくるなっていったのに、鈴鹿お姉ちゃんとはなんで会うんだよ」
伊央は身体を捩《よじ》って暴れると、文句をいう。
本当に咲輝が鈴鹿を好きなのか確かめたわけでもないのに、伊央の心は捕らわれてしまったように固まっている。
「アメリカに留学したいと相談されたからだ」
咲輝はそのことかと思って、吐息をついた。
「えっ?」
伊央は瞳を真ん丸くして、咲輝をみあげる。
そんな話は、鈴鹿から聞いていない。本当のことなのか、まただまされているのか、伊央は俯いて考える。
「妖妬《しっと》してくれたのかい?」
咲輝は微笑みながら伊央の顎を掴んで、上を向かせた。
「留学なんて聞いてない。そんなの、咲輝さんが俺をごまかすための嘘かもしれないじゃないか」
揺れる心を押し隠して、伊央は咲輝の手を払って顔を背けるとロをへの字に曲げる。
「嘘じゃないから、本人に聞くといい」
咲輝は振り返って、階段に張りついて頭だけをだしてようすを窺っている鈴鹿を指さした。
「えっ?」
伊央は鈴鹿をみる。
「本当だよ」
鈴鹿は渋々と階段をあがっていく。
「嘘だ!二人で俺をだまそうと相談したんだ」
伊央は強情にいい張って、鈴鹿を睨んだ。
「違うよ。咲輝さんに留学費用をだしてもらおうと相談にいったの」
伊央にでていかれてはその計画も水の泡になってしまうので、鈴鹿はしかたなく正直に話す。
「本当に?」
伊央は疑いの眼差しで、咲輝を伺う。
「伊央と私の関係をばらされたくなければ、留学費用をだせっていわれたよ」
咲輝は大きく吐息をつく。
「それって、脅迫だよ…」
あまりに鈴鹿らしくて、二の句が継げない伊央だ。
伊央を売って融資させたのに、さらに関係をばらすと脅して咲輝に自分の留学費用までださせようなんて、さすがにデビルな姉の鈴鹿である。
「人聞きの悪いこといわないで、相談なんだから。私がいなくなれば、二人みずいらずで楽しいことができるじゃないの。でも表向き妻の私がいきなりいなくなるんじゃマズイでしょ。
だから留学ということで、その費用をだしてもらおうかなと咲輝さんに相談にいったら、伊央が勝手に勘違いして騒いでるんじゃない」
鈴鹿は大いばりで胸を張る。
「……ごめんなさい」
伊央はシュンとして俯いた。
自分一人で勘違いをして大騒ぎしていたなんて、本当にバ力みたいである。
こんなつまらない間違いをおかすなんて恥ずかしい限りだが、咲輝のことになるとどうも伊央は感情的になって冷静になれない。
「誤解は解けたようだな」
咲輝はにっこりと微笑む。
「……うん」
伊央は恥ずかしげにコクンと頷く。
「鈴鹿さん、保留にしておいた留学の件は引き受けた。その代わり今日は、目を瞑《つぶ》ってくれ」
咲輝は鈴鹿をちらりとみると、伊央の腕を掴んだ。
「はいはい」
うんざりしながら鈴鹿は返事をすると、踵を返して階段を降りていく。
「咲輝さん?」
その言葉の意味するところを想像して、伊央は上目遣いに咲輝をみる。
「いくぞ」
言葉少なにいうと、咲輝は伊央の腕を引っ張って寝室に連れていった。
「咲輝さん、なんか怖い」
伊央は咲輝の顔色を窺ってビクビクする。
「伊央の態度が気になって、仕事を放ってきた」
咲輝は伊央が手に持っていたバッグを掴んで、無造作に床に放り投げた。
「じゃ、早く帰らないと」
ドスンと鈍い音をたてて落ちたバッグの音に怯えながら、伊央は咲輝にいう。
「ここをでて、どこにいく気だったんだ?」
咲輝は伊央をベッドの前まで追いつめて聞く。
「友達のところだよ」
なんだか咲輝が怖くて、伊央はドキドキしながら答えた。
「学校の友達か?」
咲輝は確認する。
伊央がまた家出をするようなことになっても、学校の友達ならば名簿で調べがつく。
「違う、裕士のところ」
咲輝の考えに気がつかない伊央は、正直に答えた。
「この間も一緒にでかけたといってたな。このごろよくその名前を聞くが、どこの友達だ?」
伊央の口からほかの男の名前を聞くと、咲輝の胸の奥は蝕《むしば》まれていくようにじりじりと痛む。
咲輝はさりげなく、伊央に気がつかれないように探りをいれる。
「料理教室の友達。なんでも相談にのってくれてすごくいいやつ」
のほほんとした裕士を思いだして、伊央は思わずにっこりとした。ぜひ裕士を紹介したいが、咲輝のことを女性だと偽っているのでできないのが残念である。
「好きなのか?」
咲輝は無表情で、確信をロにした。
「うん」
その意味をよく理解しないままに、伊央はなにげなく答える。
「わかった」
咲輝の心に黒いものが一気に湧きあがって、それを抑えきれずに力まかせに伊央をベッドの上に押し倒した。
「…久しぶりなんだから……、優しくしてくれないと嫌だ」
鋭い視線にさらされて、伊央はビクリと震える。覚悟していたが、咲輝に乱暴に扱われるとやはり怖い。
「伊央が、ほかの男を受けいれていなければね」
咲輝は目を細めて、伊央のコアラ模様のアロハシャツを乱暴に剥ぎ取った。
「そっ、そんなことしてない!」
伊央は驚いて咲輝をみつめる。
「好きな裕士とは、してないのか」
咲輝はネクタイを抜くと、伊央の手を縛った。
「裕士は友達だっていっただろう。なにいってんだよ、これほどいて!」
伊央は怒りながら縛られた手を咲輝の前に突きだす。
「信じられないな」
咲輝は冷たくいうと、伊央のジーパンと下着を膝の下まで降ろして強引に俯せに寝かせた。
ジーパンを脱がさずに足に絡まるところで止めたのは、伊央を逃がさないための配慮である。
「手が痛いからほどいて!」
縛られた手が身体の下になって痺れてきて、伊央は膝から下をバタバタと動かして咲輝に抗議した。
「暴れるんじゃない」
咲輝は伊央の足を膝で押さえると、双球を割って指を薄く色づいているそこに押しあてる。
「なっ、なにするんだよ。やっ、やだっ。いたっ!」
なんの潤いもほどこされていないそこにいきなり指をいれられて、伊央は悲鳴をあげた。
「きついな」
咲輝は無表情のままで、指を中に埋める。
「だから、そんなことしてないっていってるのに。いっ、痛いーっ!」
無造作に中で指を動かされて、伊央は身体を強張らせた。
「痛いのに、こんなに締めているのか?」
咲輝は身体の中で指を曲げて、伊央の耳元で囁くように聞く。
「いたーいっ、ひどい!咲輝さんの意地悪!」
不自由に身体を縛られ、指をいれられて中を触られれば痛くて身体が強張ってもしかたがない。
締めているんじゃなくて、緩められないだけだ。
「伊央は、痛がっているのは最初だけだったな。最後は私のほうが驚くような媚態《びたい》をみせる……」
咲輝は赤く色づいている伊央の耳朶を噛むと、身体から指を抜く。
「んーっ」
異物が身体からでてほっとしたのと同時に、咲輝に噛まれたそこからゾクッと痺れが走った。
「鳥肌がたっている」
粟《あわ》だっている伊央の背中を眺めると、咲輝はジッパーをさげて自らのものを引きだす。
足に絡まったジーパンのためにわずかしか開いていない伊央のそこに、熱くなったものを咲輝は押しあてる。
「だめっ、いきなりいれたら壊れる!」
伊央は恐怖で震えて、必死で顔をねじ曲げた。
指先でも痛いのに、まだ緩んでいないそこに咲輝のものをいれられたら裂けてしまう。
「じゃあ、どうしてほしいのかいってごらん」
咲輝は、恐怖で震えている伊央に残酷な笑みを浮かべて聞く。
「痛くないように中を広げて…」
伊央は顔を真っ赤にして、小さな声で告げた。
「じゃあ、伊央もこれがはいるように準備しないと」
咲輝は自らのものを伊央の鼻先に突きつける。
「……手をほどいてくれないとできない」
伊央は眉を寄せて、視線だけを上にあげた。
「わかった」
咲輝は伊央の膝下で止まっているジーパンと下着を脱がせると、俯せの身体を起こして手を縛っていたネクタイをほどく。
「いつっ」
伊央は身体の下に敷かれて、痺れてしまった手を擦った。
「伊央、きなさい」
咲輝はスーツを脱ぐとベッドの上に座って、伊央の頭を掴んで引き寄せる。
「はい」
伊央はまだ痺れている手でぎこちなく咲輝のものを掴むと、躊躇なくそれを舐めた。
「よく、濡らしておかないと痛いのは伊央だ」
咲輝は掌にローションを取って指先につける。腕を伸ばして、伊央の身体の中にそれを塗りこめた。
「んんっ」
前かがみになったので咲輝のものが伊央の喉の奥までぐっとはいってきて、苦しくなって呻《うめ》く。
「歯を立てるんじゃない」
苦しげに眉を寄せている伊央にいうと、咲輝は人差し指に中指を添えてじょじょに身体の中にいれていく。
「ううっ」
身体に指がはいってくる違和感と、咲輝のものが喉の奥に詰まっている圧迫感とで、伊央は苦しくて涙がでてくる。
「舌を使いなさい」
銜《くわ》えているだけでまったく動かなくなった伊央を咲輝は叱咤《しった》した。
「んうっ……、ぐうっ」
身体を支えている肘と膝が小刻みに震えてきたが、伊央は咲輝にいわれたように必死で舌を使う。
伊央の奉仕で咲輝がまた大きくなったようで、さらに喉の奥が苦しくなる。
「苦しそうだな」
咲輝は身体にはいっていた指を引き抜いて、涙を流している伊央を目を細めてみつめた。
伊央の長い捷毛《まつげ》が細かく震えて、透明の涙が頬をつたう。
「ああうっ、……はあっ、……はあっ」
伊央の口の中から唾液に濡れた咲輝のものが、ずるりと引きだされる。
呼吸を妨げていたものから解放されて、伊央はシーツに頭をつけて激しく空気を吸った。
「伊央…」
咲輝は伊央の髪を掴んで顔をあげさせると、唾液で濡れた唇を指でなぞる。この唇で自分以外の男の名を呼び、好きだとこともなげにいったのだ。
そしてその男のもとに、逃げようとしていたのである。凶暴な思いが、一気に咲輝の身体の奥底から湧きあがってきた。
「私から逃げようなんて考えるな、伊央」
咲輝は眉をひそめて、伊央を自分の膝に抱きあげる。
「咲輝さん?あっ、ちょっと…」
身体の下に咲輝の勃起したものがあたって、伊央は腕を突っ張って抱擁から逃れようとした。
「おとなしくしなさい」
咲輝は腕の中から逃れようとする伊央の腰を両手で掴む。
「まだ、だめっ!はいらない」
まだ充分にほぐれていないそこに咲輝のものをあてがわれて、伊央は激しく抵抗した。
「大丈夫だ」
咲輝は伊央の腰を引いて、自分の腰を突きあげる。
「んっ!いったーいっ!」
ぐぐっと身体を引き裂くように咲輝のものがはいってきて、伊央は大声で叫んだ。
「いたいっ!いたーいっ!いたいいーっ!」
伊央はだだっ子のように騒いで、両手の拳で咲輝の胸を打つ。
「全部はいっているのに、騒ぐほど痛いのか?」
咲輝は傷ついていないか確かめるように、はいっている周囲をなぞった。
「んうっ!」
伊央はビクッと身体を強張らせて、咲輝の胸に爪をたてる。そこから快感が湧きだしてきて、ゾクゾクッと身体が震えてしまう。
「こっちも勃ってきた。伊央は、こうされるのがいいんだな」
咲輝はクスリと笑うと、身体の間にきつそうに挟まれているものに視線を落とす。
「ちがう…。あっ!はあっ」
グンッと身体が持ちあがって、伊央は咲輝の首に両手を巻きつけてしがみつく。
根元まではいっていたはずなのに、さらに奥に咲輝を感じて苦しい。
「伊央、好きだ」
咲輝は吐息とともに囁いて、伊央の中からギリギリまで引き抜いた。一瞬間をおいて、前より奥に深く突きあげる。
「あっ、いあっ!」
激しい衝撃で息が詰まった。
「くるし…、乱暴にしたら、やだ…」
好きならもっと優しくしてくれればいいのに、なぜこんなに責めるようなことをするのか伊央にはわからない。
「優しくされたいのなら、私の前でほかの男の話をするのはやめなさい」
咲輝は伊央の顔を両手で包むと、頬をいとおしげにそっと撫でた。
「まさか……、妖妬してる?」
伊央は驚いて、じっと咲輝をみつめる。
「そうだ」
咲輝はそれを素直に認めると、伊央の身体をベッドに倒した。
「くあっ!」
角度が変わって、咲輝のものが中を決って伊央は呻き声をあげる。苦しいはずなのに、咲輝の本音が聞けたので伊央は嬉しい。
咲輝は大人だから、自分のようにつまらないことで怒ったり、落ちこんだりしないと伊央は思っていた。
「伊央の心が、私の自由にならないのはわかっている。大人げない嫉妬をするなんて、みっともないと自分でも思う。けれど、伊央の身体は私が買ったものだ。私から逃げだそうなんて、許さない!」
咲輝は強い視線で伊央をみつめる。
「咲輝さん?」
表面からではわからない咲輝の激しさと脆《もろ》さを一度にみて、伊央は言葉を失った。
独善的で力で伊央を自由にしてきたように思えた咲輝も、自分と同じように迷っていたのである。
「伊央の身体がだれのものか、もう一度思いださせてあげよう」
咲輝は伊央の両足を自分の肩に引きあげて、返事ができないぐらい激しく動きはじめた。
「やあっ……、はあっ……、いやっ!……はあっ…う、んっ…」
伊央は瞼を閉じて、ただ咲輝にしがみつく。
咲輝がでていく時の血の気が引くような解放感と、はいってくる時の圧迫感が交互にやってきて、伊央の頭の中は朦朧《もうろう》としてきた。
「愛している伊央……」
こんなことをしても心まで縛ることはできないと知っていながら、咲輝は溺《おぼ》れるように伊央を抱く。
「咲輝さん……」
奥を抉られて苦しいのに、伊央の身体は咲輝の熱でだんだん溶かされていった。
伊央はベッドに俯せて、じっと咲輝をみていた。
久しぶりだったし、乱暴にされたので身体を動かすのがつらい。
どこか後悔しているような咲輝の表情をみるのはこれが初めてではないが、今日は彼の心がわかるような気がする。
「俺、痛いっていったのに、どうして無理にしたの?」
伊央はそろそろと手を伸ばして、横に座っている咲輝の手を握って聞く。
「ほかの男を好きだといったから、伊央が私のものだということを思いだしてもらうためだ」
咲輝は自分の激情で、伊央にひどいことをしてしまったと思って渋い顔をして答える。
「俺のこと本当に好き?」
伊央は咲輝の手を口元に持っていくと、そっとキスをする。
「好きだ……。伊央が私のことを嫌いでも、どんな手を使っても手放す気はない」
咲輝は驚いて手を引くと、じっと伊央をみつめた。
「俺、咲輝さんのこと……」
伊央は上半身を起こすと、咲輝の側ににじり寄ってその肩に頭を預ける。
「……嫌いじゃないよ」
伊央は大きく深呼吸していう。
やっぱり好きとはいえなかったけれど、伊央の今のせいいっぱいの咲輝への思いである。
「気まぐれな高校生のいうことなど信じられない」
咲輝は冷たい視線で伊央を突き放した。
伊央が自分から甘えてくるなんてめったにないことであるが、咲輝はそれを素直に受け止めることができない。
咲輝と鈴鹿の仲を誤解して嫉妬していたすぐ後に、ほかの男のことをいとも簡単に好きだという伊央の言葉など容易に信じられない。
「本当だよ!なんで信じてくれないんだよっ?」
決心して一生懸命いったのに、なんでそんなに疑り深いのかと伊央は頬を膨らませる。
「信じろだと?好意を持ってくれているのかと思うと、大嫌いだと宣言する。セックスは嫌だと拒むくせに、一緒にベッドにはいって私を誘惑する。プレゼントが欲しいといったのに、突き返す。勘違いで一人で勝手に怒って、気になって仕事を放りだしてきた私にほかの男のところに家出するといったのはだれだ?」
咲輝は呆れて肩をすくめた。
「うっ……」
全部本当のことなので、返す言葉がない伊央である。
咲輝が好きになりそうで怖くて、自分の思いとは全部正反対のことをしてきたし、わがままも自分勝手もし放題だった。咲輝にそう思われてもしかたがない。
伊央が素直に咲輝に好きだといえればいいのだが、こんなに状況がこじれてしまったのではそれもいえなかった。
「私はそろそろ仕事に戻らないと」
黙りこんでしまった伊央に背中を向けると、咲輝は立ちあがる。
「俺…」
咲輝に本当の自分の気持ちを知ってもらいたいのに言葉がでてこなくて、伊央は唇を噛みしめた。
「今日は帰らない…」
咲輝は服を着ると、思いつめている伊央を無表情にみた。
「咲輝さん?」
自分以外のだれかに慰めてもらうという咲輝の言葉の裏を感じ取って、伊央は驚いて顔をあげる。
いかないでほしいと止めたいのにいえなくて、咲輝が寝室からでていく後ろ姿を伊央はただみつめていることしかできなかった。
咲輝の家のリビングのソファに座って、裕士は伊央を覗きこんだ。
「どうしたの急に?」
伊央が泣きながら電話をかけてよこしたので、裕士はわざわざ家まで訪ねてきたのである。
「ごめん…」
咲輝にまた誤解されるとわかっていても、伊央はどうしても裕士に会って話を聞いてもらいたかった。
「なにかあったんでしょ、僕でよかったら相談にのるからなんでも話してごらん」
裕士は表情を曇らせて俯いている伊央をリラックスさせようとして、にっこりと微笑む。
「俺、……」
相談しようと決心したはずなのに、裕士の顔をみたら伊央は急に心が揺らいでしまった。
裕士に本気で相談するには、咲輝のことを隠していることはできない。
婚約者は女性じゃなくて男の咲輝だったと告白して、裕士にまで突き放されたら伊央はもう立ちなおれないだろう。
「なにかあったんだよね。いってごらん、一人で抱えこんでてもしかたないでしょ。二人ならきっといい知恵もでるはずだよ。ねっ、友達なんだからさ」
裕士は伊央に、熱心に話しかける。
「裕士……、俺ね」
その言葉に勇気づけられて、伊央は裕士の手をぎゅっと掴んだ。
「んっ、どうしたの?」
思いつめた伊央の表情をみて、裕士は首を債げる。
「俺、今まで裕士のことだましてた。実は婚約者って、女の人じゃなくて昂上咲輝っていう男の人なんだ!」
一気にいってしまって、伊央は大きく吐息をついた。
「なあんだぁ」
裕士はのほほんと答える。
「えっ?」
伊央はきょとんとして裕士を見返す。軽蔑《けいべつ》されて、友達なんかじゃないと冷たく突き放されるかもしれないと思ったのに、この呑気《のんき》さはどうしたことだろう。
「やっぱりそうだったんだ。伊央にバイブを使うなんて、女の人じゃ無理だと思ってたんだ。
でも、それなら僕と一緒だね」
裕士はクスクス笑いながら、伊央の手を握り返した。
「ええっ!」
伊央は思わず大声をあげる。
「おっ、男の人に囲われてるなんて、裕士、一言もいわなかったじゃないか」
伊央は裕士に詰め寄った。
「僕は、女の人に囲われているともいってないよ」
相変わらずのんびりした調子で裕士は微笑む。
「そんな、そんなあっ!」
あんなに必死に悩んでいたのが、バ力みたいである。もっと早く裕士に本当のことをいえばよかったと後悔するだけだ。
「ほら悩んでないでいってごらん。なんでも答えてあげられるよ」
裕士は伊央の悩みを解決してあげようと、真面目な調子でいう。
「俺が裕士のことを好きだと咲輝さんに誤解されて、無理やりセックスされた……」
伊央は上目遣いで裕士をみる。もっと早くわかっていれば裕士にいろいろ相談できて、咲輝に責められることもなかったに違いない。
「僕なんかのことでやきもちを焼くなんて、伊央は愛されてるんだね」
裕士はあくまで脳天気に、よしよしと伊央の頭を撫でた。
「うん。俺もそう思うけど、咲輝さんは俺のいうことをなにひとつ信じてくれない」
伊央はしょんぼりとしてうなだれる。
「なにを信じてくれなかったの?」
裕士は首を傾げて聞く。
「裕士は友達だっていったのに信じてくれなかったし、咲輝さんを嫌いじゃないっていうことも……」
勇気をだしていったのだから『嫌いじゃない』という言葉だけでも、信じてもらいたかった。咲輝は、自分が伊央に愛されることなんてぜったいにないと確信しているようである。
「好きだっていえなかったの?」
少し気が強い伊央らしいいいかただと、裕士は微笑ましく思う。だが、それが咲輝には伝わらなかったのだろう。好きだといえばすぐに思いが伝わっただろうに、伊央もたいがい意地っ張りである。
「…うん」
伊央は膨れ面でこっくりと頷いた。
『好きだ』という言葉も咲輝に否定されてしまったらと思うと、怖くて伊央はいえなかったのである。
「それで、喧嘩《けんか》になったんだね」
裕士は気の毒そうに伊央を覗きこむ。
「喧嘩じゃないけどなんだか気まずくなって、咲輝さん今日は帰らないってでていっちゃった…」
伊央はその時のことを思いだして、暗く沈んだ気持ちになった。咲輝がほかの人のところにいってしまったかと思うと、胸がズキズキと痛くて苦しい。
「なんでいかないでって、止めなかったんだい?」
伊央がすがりついて止めれば、きっと咲輝の気が変わったに違いないと裕士は思う。
「だって、咲輝さんほかの人に慰めてもらうって、俺なんかもう必要ないって……」
つんっと鼻の奥が痛くなって、ぽろぽろと涙がでてきた。
「そんなこといったの?」
不器用な伊央も悪いが、本当にそんなことをいったなら咲輝も許せないと裕士は思う。
「いってないけど、ぜったいそうだよ!」
伊央は泣きながら、大きく首を左右に振る。
「そんなの自分で勝手に決めつけたらだめだよ。ちゃんとはっきり聞いて、自分の気持ちを咲輝さんに伝えないとね」
裕士はぎゅっと抱きしめて、泣きじゃくる伊央をなだめた。
「好きだっていっても、咲輝さんに信じてもらえないかもしれない。そうしたら俺、どうすればいいのかわからない」
伊央は、裕士のシャツをぎゅっと握りしめて訴える。
「本当に可愛いね。僕でさえそう思うんだから、伊央に好きだっていわれたら咲輝さんの心はぜったいに動くよ」
好きという前からそんなことを心配していたら、恋を始めることもできない。
「はじめからやりなおせればいいのに…。鈴鹿お姉ちゃんの見合いなんかが初めての出会いじゃなくて、お金なんか絡んでなくて、そうしたら俺だって素直になれるし、咲輝さんだって信じてくれててうまくいくはずなんだ」
お金で買われたと思うから伊央は自分の心に素直になれなかったし、咲輝はそれを負い目に感じていて伊央が自分を好きになるとは考えられないようだ。
「今までの時間をすべてなかったことにしてしまうのはむずかしいよ。それでも、はじめからやりなおして素直になれるんだったら試してみるのは悪くないね」
裕士は伊央の頭を撫でながら、優しくいう。
「本当にそう思う?」
伊央は涙を拭って、裕士をみた。
「まず、電話してみなよ。咲輝さん携帯電話ぐらい持っているでしょ」
裕士は伊央の身体から手を離して立ちあがると、電話の受話器を持ちあげる。
「うん」
伊央はこっくりと頷くと、手で涙を拭った。
「まず、『ごめんなさい』って謝るんだよ。仲直りの基本だからね」
裕士はにっこりと笑うと伊央に受話器を渡す。
「裕士、ありがとう」
メモリーにはいっている咲輝の携帯電話の番号を押しながら、伊央は裕士にべこりと頭をさげた。
「さっきは、ごめんなさい」
何回かのコール音の後、電話にでた咲輝に、裕士にいわれたとおり伊央はまず謝る。
「ほかの人のところにいかないで、俺のところに帰ってきてよ!」
咲輝が目の前にいなければ、伊央は自分の思いを素直にいえることに気がついた。
『いかないよ。ただ仕事を放ってきてしまったから、今日は帰れないといっただけだ』
電話の向こうの咲輝の声は困惑気味である。
「明日の朝には帰れる?」
伊央の問いに『ああ』と咲輝の答が返ってきた。
「じゃあ、ディズニーランドでデートして!俺、出会いから咲輝さんとやりなおしたいんだ。そうしたら素直になれて、ぜったいうまくいくんだから」
受話器を握りしめて、伊央は必死に訴える。
『また気まぐれかい?』
呆れたような、咲輝の答が帰ってきた。
「違うよ!鈴鹿お姉ちゃんやお金のことを考えないで、咲輝さんともう一度出会いたい」
そうしたら『好き』といえるという言葉を伊央は飲みこむ。
『わかった。伊央がそうしたいというなら』
吐息混じりの咲輝の答を聞いて、伊央は受話器を置いた。
「どうだった、大丈夫?」
裕士は心配気に伊央を覗きこむ。
「うん。ほかの人のとこにもいかないし、デートもしてくれるって」
不安な気持ちを残しながらも伊央はこっくりと頷いた。
久々の梅雨の晴れ間の日曜日。開園前の入り口には、嫌というほど人が並んでいた。
開園前までには必ずいくから先にいっててくれと会社から電話をくれた咲輝は、まだ現れない。
外の売店で、一番新しいパスポートケースを買って待っているのに、開園時間を過ぎても咲輝はまだこなかった。
開園してもすぐにメインエントランスから人がいなくなるわけではないが、三十分たち、一時間が過ぎるころには、あれだけ並んでいた人々は園内に吸いこまれて消えていく。
正面入り口から向かって左寄り二つ目のチケットブースが空いているとか、入園するのに並ぶのなら右側の真ん中の入り口が早いと知っているのに、これだけ人がいなくなってしまえばもうどこからはいろうが関係ない。
入り口で出迎えてくれるキャラク夕ーたちもこの時間ではもういなくなっている。後はさらにもう一時間後の十時にならないとでてこない。
カメラも持ってきたのに、写真も撮《と》れないじゃないかと思って伊央は頬を膨らませた。
約束の時間から一時間もたつのに、なんで連絡もくれないのかと伊央は、握りしめた携帯電話を睨みつける。忙しいのかもしれないと思って、こちらから電話をするのを遠慮しているのに。連絡もしてきてくれないのは、許しがたい。
こんなことになるんだったら、無理やりでも姉の鈴鹿を連れてくるんだったと伊央は後悔した。
もう少し待ってみようか、それとも連絡をいれてみようか伊央は考える。朝早く家をでてご飯を食べていないので、そろそろお腹も空《す》いてきた。
後三十分待っても咲輝がこなかったらメールをいれて、中にはいってしまおうと伊央は決心する。
メインエントランスの周りには適当に座れる場所がない。チケットブースを越えて入り口の側にはベンチがあるが、そこに座ると駅や駐車場からきた人にはわかりづらい。後は駅から続く歩道の下にベンチがあるがそこも同じである。
結局、伊央はさらに三十分間チケットブースの前でぼんやりと咲輝を待った。開園前から並んでいた人はみんな入園してしまったので、日の光が遮れる場所で待てるのはありがたいが、時間を遅らせてのんびりやってきた親子連れや恋人たちや、友達同士のグループが側を通るのを目の当たりにしてしまうと悲しい気持ちになる。
三十分待って、伊央は重い腰をあげた。
『先に入園している。電話くらいよこせ!』
怒りのメールを素早くいれて、伊央はチケットブースでパスポートを買う。日曜日なのに、ディズニーランドにはいるのに一人なんて寂しすぎる。
けれどお腹が空いて腹がたってきたし、咲輝が時間どおりにくるなんて期待した自分が甘かったのだ。
今までだってさんざん放っておかれて、待たされたではないか。遅れてきた咲輝が羨ましがるぐらい、いろいろ乗ってやると伊央は心に決めて勇んで入園した。
入り口をはいって、インフォメーションのカタログを取っていると、携帯電話からエレクトリカルパレードのテーマが流れてくる。
「咲輝さん?」
伊央は顔をパッと輝かせて、携帯電話の受信を押す。
『伊央すまない、もう少しかかりそうだ。ついたら電話をするから』
受話器の向こうから、咲輝の声がした。
「早くきてくれないと、ほかの人にナンパされるかも」
伊央は怒りながら答える。ほかの人に取られたくないんだったら、ちゃんと捕まえていてほしいと伊央は思う。
『それは困るな。なるべく早くいくようにするから、待っていてくれ』
返事の後、キスの音が聞こえて切れた。
「うん。」
それだけで、今までの不安とイライラがすっと消えてしまうから現金なものである。
伊央は携帯電話をワンショルダーのバッグにいれると、さっそく朝食を取るために歩きだした。
開園一時間を過ぎれば、だいたいどこのレストランもワゴンも通常営業をしている。
伊央はワールドバザールを左手に折れて、右側にあるグレートアメリカン・ワッフルカンパニーにはいった。ここでは、ミッキーの形のサクサクのワッフルが食べられるのである。
焼くのにけっこう時間がかかるので一度並びだすと買う時に時間がかかるが、午前中の早い時間ならそこそこ空いていた。
伊央は迷わずチョコレートソースがかかっているものを選び、天気がいいのでテラスで日を浴びて紅茶を飲みながら朝食代わりに食べる。
さすがにこの時間から、少しはずれたこの場所にいる人は少ない。ここも午後になって並び疲れた人がではじめると混んでくるのだが、今は一人でいることが気にならない場所である。
伊央はトゥディズインフォメーションを開いて、午後のショーの時間をチェックした。あの電話の調子ではすぐはこないだろうが、午後には咲輝がいつ電話をしてくるかわからないので、電波が届く外にいたほうがいいと思ったのである。
そうと決まれば、もう一人でも突き進むしかない。
伊央はワッフルを食べて紅茶を一気飲みすると、ゴミを捨ててトゥーンタウンを目指して歩いた。
まずはミッキーと写真が撮れる、ミッキーの家とミート・ミッキーを目指す。写真を撮る場所にいくまでのミッキーの家の中もいろいろ楽しいし、待っている間に短編の映画をみられるので一人でも飽きない。周りは小さな子供を連れた家族連れが圧倒的に多いので、その世話でほかに気をまわすような人も少ないようだ。
それに写真はキャストの人が撮ってくれるので、ミッキーと二人で仲良く写れるのが嬉しい。三十分ほど待ってミッキーと写真を撮ると、また伊央はお腹が空いてきた。
トゥーンタウンの中では、ここでしか売っていないスプリングロールやプレッツェルのワゴンやフルーツピザなどもある。
伊央はスプリングロールを買って食べながら、ポップコーンのワゴンへと歩く。ここでは園内に三か所しかない、キャラメルのポップコーンがある。
いつも人気だが、時間によって波があって遠目からみた時に空いていたのでチャンスだと思って、伊央は買いに走った。
ワゴンの側までいくと甘い香りが漂ってきて、幸せな気分になる。通常の大きさもあるが、スーベニアバケットもあって首からぶらさげて歩いている人も多い。
空いていたので買ってしまったが、やはり咲輝がきてから一緒に食べればよかったかなと伊央は考える。
早くきてくれないかなと思って、伊央はバッグの中から携帯電話を取った。もう一度メールをしてみようかと思ったが、ついたら電話をくれるという咲輝の約束を信じて伊央はやめる。
ポップコーンを食べながら、午前中はあまり待たなくていいアトラクションをまわろうと伊央は決めた。
午前中が比較的空いているスターツアーズやスペースマウンテンに乗って、ホーンテッドマンションからでると、もうお昼をとうに過ぎている。
長時間ではないが一人で並んでいるのはやはり寂しいし、一人でアトラクションにはいるのもどこか気づまりだ。
周りの人が楽しそうにしていればいるほど、自分が一人だということを思い知らされるようである。
このまま咲輝がこなかったらという考えが伊央の頭の中をちらりとかすめた。だが、すぐに頭を振って伊央はそれを打ち消す。
咲輝はくると、約束したのである。
伊央は一番混んでいる時間のファンタジーランドを一人で歩いていった。
ショーも携帯電話が気になって落ち着いてみることもできないし、レストランにはいってしまうと繋がらなくなりそうではいれない。
伊央はワゴンやカウンタ−で食べ物や飲み物を買って、ショーをみながら日中の暑い中を過ごした。
二時のパレードが終わっても、スーパーダンシン・マニアが始まってもいっこうに携帯が鳴ることはない。
いっそのこと鳴らないように切ってしまおうかと思ったが、そうする勇気もなかった。
今までさんざん振りまわしてきた咲輝に試されているのか、運命に翻弄《ほんろう》されているのか、どちらにしても待つ身はつらい。
はじめからやりなおすといったことを、伊央はすでに後悔しはじめていた。
夕闇が迫っていた。
六時半をまわると、空はじょじょに濃い藍《あい》色に変わってくる。あれから、一度も携帯電話は鳴らなかった。
小さな子供と一緒の家族連れは日が暮れはじめると早々にいなくなり、残っているのはグループできた人たちか恋人たちである。
園内のそこここに電気がつきはじめると、伊央は悲しい気持ちになった。ノスタルジックな淡い白熱灯の光が多いせいかもしれない。
ライトアップされたシンデレラ城は、ここがマジックとファンタジーの国だと主張している。ここでならはじめからやりなおせると伊央は信じていたが、それも夢ではないかと思うようになってきた。
魔法はいつかとけてしまうし、叶《かな》わないから夢なのである。
それでも一時《ひととき》の魔法に酔うために、伊央はパレードルートに向かって歩きだした。
伊央は、ファンティリュージョンがはじまるのをホーンテッドマンションの入り口より、ややウエスタンランド寄りでじっと待つ。
パレードルートはすでに紐《ひも》で仕切られていて、ルートを跨いで行き来することはできなくなっていた。
一瞬にして周りの電気が消え、仕切られている紐についたソリュームの黄色い光だけになる。
どよめきが起きた次の瞬間には、音楽が流れはじめていた。ミッキーを乗せたフロートが光の洪水を運んでくる。
笑顔と踊りと、光が織りなす夢のような世界がここにはあった。電飾を反射する沿道の人々の顔は期待と興奮に満ちていて、皆楽しそうである。
手を振って声をかける人、八ミリビデオをまわす人、呆然とみいる人、それぞれが光のパレードに夢中になっていた。
伊央も周りの人たち同様に、手を振り返してくれるミッキーに興奮して手を振る。
目の前の光景に引きこまれて、夢に埋没する寸前の伊央の耳に自分の携帯電話の音楽が聞こえてきた。
ハッとして、あわてて伊央は携帯電話を取る。
『私だ、遅れてすまない。今どこにいるんだ?』
待ち続けた咲輝の声を聞いて、伊央は泣きそうになった。声が詰まって、返事ができそうにない。
『伊央、怒っているのはわかる。けれど、どこにいるか教えてくれ』
大きな音で流れているはずの音楽も、周りの歓声もすべて消えて、伊央の耳には咲輝の声だけしかはいってこなくなった。
「本当に好きなら、俺を捜せるはずだよね」
伊央は携帯電話を前に突きだして、周りの音楽や歓声を咲輝に聞かせる。
「わかった?」
こんなに長い時間待たされたのだから、このぐらいの意地悪はしても当然だ。
『ファンティリュージョンだな?』
咲輝はすぐに答える。
「待ってる。でもパレードが俺の前を通りすぎるまでにこないと、移動するからね」
伊央は携帯電話を切ると、王子様が助けにきてくれるのを待つお姫様の気持ちになって、目の前の魔女のフロートをみた。
咲輝は必死で走っていた。
スーツのポケットには、ビクトリアンジュエリーボックスで買った箱が、カタカタと音をたてている。
ファンティリュージョンのパレードルートはかなり広いが、はじまってすぐのこの時間ならまだファンタジーランド近くで、フロートが止まっているはずだ。
咲輝が電話をした入り口からは一番奥になるし、フロートが止まっている場所は特定できるがかなり幅広い場所を捜さなければならない。
全部のフロートが通りすぎる時間は二、三十分というところだろうか。
それまでにその場所にたどり着いて、伊央を捜さなければならないとなるとかなり大変だ。
フロートが通るために道は寸断されていて、歩くのにも一苦労である。
咲輝はワールドバザールから、一直線に進んでシンデレラ城の脇を通り抜けるルートを選んだ。
一か所だけパレードルートを横切らなくてはいけないが、この時間ではまだ通路が確保されていて全部が仕切られてはいない。
人混みを押し分けて、細い道を迂回《うかい》しながら咲輝は走り続けた。
こんなに遅くなってしまってすまないという気持ちと、それでも伊央がずっと待っていてくれたことが嬉しいのとで咲輝は飛ぶような気持ちで走り続ける。
空飛ぶダンボの脇を通り抜けて、フロートがみえる場所に咲輝はたどり着いた。
素早く周りをみまわすが、伊央らしき人物はいない。
人を押し分けながら進んでいくと、紐で仕切られた道の向こう側に伊央がいるのを咲輝はみつけた。
目の前を最後の大きなフロートが通りすぎ、咲輝の視界から一瞬伊央の姿が消える。
エンディングを飾るキャストが通りすぎると、忙しく目の前の仕切りの紐がはずされ咲輝の周りにいた人々はいっせいに動きだす。
道の向こう側にいる伊央も、咲輝に気がつかずに周りの人と一緒に動きだした。
「伊央!」
咲輝は大声で叫んで伊央の側にいこうとしたが、人に阻まれて思うように動けない。
一瞬にして、伊央は人混みの中にまぎれて消えてしまった。
「伊央…」
咲輝は呆然として、その場に立ちつくす。
今まで自分の思いどおりにならなかったことはなにもなかったのに、伊央に関しては本当にうまくいかない。
見つけたと思っても、捕まえられないし、やっと捕まえても、すぐにするりと手から逃げてしまうのである。
このまま、伊央を二度と捕まえられないのかもしれないと危ぶんだ時、携帯電話が鳴った。
『間にあわなかったね。お姫様は悪い魔女に食べられちゃったよ』
怒っていると思ったのに、伊央の声はどこか寂しげである。
「ホーンテッドマンションの前にいただろう。ちゃんと見つけたけど、仕切りが邪魔していけなかったんだ!」
いつもの冷静さを完全に失って、興奮気味に咲輝はまくしたてた。
『これから車ではいるから、魔女の館の出口で待っててよ』
伊央からの電話は唐突に切れる。
「魔女の館?」
咲輝は首を傾げた。
シンデレラ城ミステリーツアーかと思ったが、『車ではいる』という言葉が引っかかった。
ミステリーツアーは、歩きでまわるアトラクションなので、車には乗らない。
ホーンテッドマンションなら乗り物に乗るが、魔女の館という意味にはそぐわない。
咲輝はうろうろするばかりで、伊央を捜すことができなかった。
そのころ伊央は、白雪姫と七人の小人のアトラクションからでてきたところだった。
「ちょっとむずかしかったかな?」
いっこうに現れそうにない咲輝をあきらめて、伊央は歩きだす。
白雪姫とは名ばかりで、魔女ばかりがクローズアップされて、子供も泣きだす怖いアトラクションのひとつの白雪姫と七人の小人を伊央は『魔女の館』と呼んでいたのである。
もう少しヒントを多くしてあげないと、閉園時間になっても捜しだせないかもしれないと思って、伊央は咲輝に携帯電話をかけた。
『伊央どこにいるんだ?いいかげんに教えてくれ』
いつもの冷静な咲輝ではない興奮した声を聞いていると、長時間待たされたうっぷんも晴れていくから不思議である。
「さっきまでは、白雪姫と七人の小人にいた。今度のヒントは、近くにキャラメルのポップコーンワゴンがあって、シンデレラ城と花火がよくみえるところ。俺お腹が空いたから、ついでに側で売っているスペアリブを買ってきて」
伊央は咲輝に伝えると、携帯電話を切った。
花火が終わるまでに咲輝が自分を捜しだしてくれたら、ちゃんと告白しようと思って伊央は高いツリーをみあげた。
今度のヒントはより具体的だったので、咲輝にもある程度の予想がついた。
キャラメルのポップコーンの甘ったるい匂いは、さっきから近くで漂っている。匂いを頼りに歩くと、シンデレラのゴールデンカルーセルの前のワゴンがその甘い香りを発していた。
シンデレラ城はすぐ間近だし、かなり近いが花火もみえるだろう。だが、周りをいくら捜してみても、伊央がいっていたスペアリブを売っている店がない。
「スペアリブを売っている店はどこですか?」
しかたがないので、咲輝は近くにいたキャストに聞いてみた。
「アドベンチャーランドのスキッパーズギャレーで売ってます。チキルームの前ですよ」
意外なほど簡単に答えが帰ってきた。
「ありがとうございます」
ていねいに礼をいうと、咲輝はアドベンチャーランドを目指して走っていく。
花火といっていたので、花火が終わればまた伊央は移動するに違いない。その前に、今度はなんとしても捕まえなければならない。
キャストに聞いたとおりにチキルームの前にいくと、スペアリブのワゴンがあった。キャラメルポップコーンの甘い匂いも、周りに漂っている。
急いでスペアリブを買って周りを見まわしてみたが、大きな塔やツリーに囲まれていて、ここからはシンデレラ城がまったくみえなかった。
伊央のヒントの二つまでは揃ったが、ここでも三つは揃わない。
いったいどこから花火とシンデレラ城がみえるのだろうかと考えて、咲輝はハッとして目の前のツリーに視線を止めた。
ところどころに明かりがついているスイスファミリー・ツリーハウスはアトラクションになっていて、上にのぼれるようになっている。
ここからでは葉が生い茂っていてなにもみえないが、上からならシンデレラ城がみえるかもしれないと考えたのである。
咲輝は半信半疑で、そのアトラクションにパスポートを提示してはいった。
大きなツリーの周りを木の階段がぐるりと取り巻いていて、その途中にロビンソン一家の木の家が再現されて、キッチンや寝室やリビングなどが展示してある。
下からみあげてみると、けっこう上まで階段は続いていた。中ほどまで階段をのぼってみたが、葉に覆いつくされていて外はみえない。
ここではないかもしれないと思いながらも、引き返すことなく咲輝は階段をのぼり続ける。
途中でパンッとなにかが弾《はじ》ける音が聞えてきた。
「はじまったか」
花火が弾ける音だと気がついて、咲輝は吐息をつく。
寝室が展示されている場所をぐるりと取り囲む通路を歩いて、階段をのぼって少し曲がったとたん目の前が開けた。
真横からみるシンデレラ城の少し上に、綺麗な大輪の花が開いている。
葉が切り取られたようにぽっかりと空いた空間の手摺《てすり》に寄りかかって、花火にみいっている人物には見覚えがあった。
「伊央…」
ずいぶん時間がかかったけれど、咲輝はやっと伊央をみつけだせたのである。
「遅かったね」
伊央はゆっくり振り向くと、にっこりと笑う。
「遅くなって悪かった」
咲輝は息をはずませながら、伊央に頼まれたスペアリブを手渡した。
いつもなら取り乱したところのない咲輝が、髪を乱して、汗をかきながら必死で階段をのぼってきたのである。
「待たされていた俺の気持ち、少しはわかった?いつもこんな気持ちで、咲輝さんのこと待ってたって知らなかっただろう」
その姿をみて、伊央は今までの憂さを晴らしたような気分になった。
「ああ」
いつ帰ってくるかわからない自分を待っていた伊央は、こんな気持ちだったのかと咲輝は思う。
どこにいるかわからない伊央からの連絡をじっと待って、ヒントを頼りに必死で捜してもみつからない。じりじりした気持ちと、早くみつけなければという焦りとで胸が潰れそうだった。
「伊央。ごめん」
咲輝は伊央をぎゅっと抱きしめる。
大輪の花火がいくつもあがり二人を赤く照らしていた。
「うん、許してあげる。俺、咲輝さんのことが好きだから」
伊央は顔をあげると、じっと咲輝をみつめて告白する。
「伊央?本当に…」
咲輝は驚いて、伊央の肩を両手で掴んだ。
「樋野伊央です。高校一年生、家族は両親と姉。好きになったので、これからおつきあいしてくれますか?」
伊央はぺこりと頭をさげる。
「昂上咲輝、二十五歳。一目惚れしたので、私のお嫁くんになってください」
咲輝は笑いながらいうと、伊央の顎を掴んでキスをした。
最後の花火がパラパラと音を発して弾けて、キラキラと輝きながら消える。
「それって変だよ。最初からやりなおすっていったのに、プロポーズしてすぐにキスなんてさ」
伊央は咲輝を睨む。
「時間は関係ないよ」
咲輝はスーツのポケットの中から箱を取りだして、ミッキーの形の十八金の指輪を伊央の左手の薬指にはめる。
「あっ、ミッキーだ」
キラキラと輝くダイヤもアクセントにはいっていた。
「これなら子供っぽい伊央には、違和感がないだろう。左手の薬指の意味は知ってるね」
咲輝は確かめるように伊央に聞く。
「うん…。でも出会って初めてのデートで、婚約までするかな普通?」
伊央は納得できない思いで答えた。
「私は普通じゃない人間だから」
くすくすと笑いながら咲輝は乱れた髪をかきあげて、ネクタイを緩める。
「初デートに遅刻してくるなんて、普通ならそれだけでふられるよ!」
伊央は右手に持ったスペアリブを振りまわして力説した。
「伊央が、待っていてくれてよかった」
咲輝はそれを手で避けて、上着を脱ぐ。
「まだ、俺ビッグサンダーマウンテンにも、スプラッシュマウンテンにも乗ってないんだからね。お腹だって空いたし、スペシャルメニュー食べるんだから!」
これだけ待たされたのだから、伊央はわがままのいい放題である。
「まだ時間はあるから一緒に乗ろう。なんでも食べさせてあげるから、そんなに怒らないで」
咲輝は伊央の背中を押して、階段を降りるようにと促した。
「でも後一時間半しかない」
ブツブツいいながら、伊央は咲輝の手を掴んで階段を降りはじめる。
「しかたがない。だめだったら、ほかのものに乗せて食べさせてあげるから…」
咲輝は階段を降りながら、伊央の耳元でそっと囁く。
「咲輝さんのえっち!」
伊央は真っ赤になって咲輝を睨んだ。
あとがき
ラブリー好きのみなさまお待たせしました。久々のラブリーものです。
もう今年は、ラブリーものはでないかもしれないと危ぶんでいたのですが、このような機会を与えていただけてよかったです。とはいえ、どうもラブリーよりエッチが多くなっちゃって……。今月はそういう月なのかも……。大きな声ではいえないけど、勝手にエロ月間と決めました。
エロいうえに急にお願いしてしまって、日輪早夜先生にも大変申し訳なく思ってます。
日輪先生の描く男の子はいーですよね、うっとり。………はっ!つい、妄想モードにはいってしまいました。私、妄想はいると突然無口になってしまうんですが気にしないでくださいね。すべてこの季節が悪いんです!と気候のせいにしておこう。
タイトルはほとんど編集のF山さまが考えてくれました。最初に私が考えたタイトルは、モー娘の曲とバッティングしていてあきらめたんですが、曲がでるずっと前から考えていたのにちょっと悔しい。てゆーか、つ○くと同じセンスなのは嫌かも……。
私は東京ディズニーランドマニアなんで、今回は書いててすっごく楽しかったです。もう毎月ミッキーに会いにいってます。パラパラミッキーは1stステージがはじまって三日目にいって覚えられなかったのが悔しくて、ホームページからダウンロードして、家で必死で練習しました。年パス買いたいんですけど、毎日いっちゃいそうで買えません(バカ者)。
本当は中でディズニーランドの穴場をもっと書きたかったのですが、そんなことをしたら十巻ぐらいになってしまいそうなのでやめました(笑)。
ディズニーランドでみた、中学生男の子同士の××とか、おじさんと小学生男子の○○○○とかもいれたかったんですけどね〜。おじさん同士が手を繋いでる姿はよくみます。
いやはやあそこは恐ろしいところですよ。でも、普通のアベックのキスはなんじゃタウンでみるほうが多いかも、なぜか毎回二、三回はみるんですよね。
よかったらお手紙くださいね。シャレード編集部宛てに送っていただければ私のもとに届きますので。ご意見ご希望は、アンケートで送っていただけると嬉しいです。特に小中高校生のみなさまから送っていただけると、私もシャレード編集部も喜びますので。
藤村裕香
*本作品は書き下ろしです。