[#表紙(表紙.jpg)]
藤本ひとみ
華麗なるオデパン
目 次
恋 愛 法 廷
京都の狐狩り
チェックメイト
花 酔 い
飛  翔
[#改ページ]
恋 愛 法 廷
『それで、思い切って整形したんです』
真織《まおり》がシャワーブースの扉を開けると、あたりには、居間から流れ出すテレビの音があふれていた。
『勇気いりましたよお。もう三十代後半だし。でも、やってよかったって思ってるんです。人生、変わりましたもん』
真織は、練り色のポルトーのバスタオルを取り上げ、手早く髪をふいて包みこむと、同色のローブに腕を通した。そろそろ十月も半ばに入る。バス用品の色を、晩秋用に替えなければならなかった。
『一番変わったことって、やっぱりモテるようになったことです。夫、いますけど、チヤホヤされたら、気分いいですもん』
バス用品だけではない。食器も、いつまでもアビランドの薄手のリモージュを使っているわけにはいかなかった。食卓の上に初秋の雰囲気が漂っていては、いつ何時、来襲するかわからない父母に対応できない。
つい二カ月ほど前も、何の前触れもなく突然、母がやってきて、オーストリアから父が送ってくれたシャンデリアの手入れがきちんとできていないと、小言を言って帰ったばかりだった。
「なにも、あなたが直接、掃除をする必要はありませんよ。何のために使用人がいるの。人をうまく使えるかどうかで、あなたの力量がわかるのよ。将来、家に戻ってくるようなことになれば、何人の人を使わなければならなくなることか。しっかりしてちょうだいね」
真織は、ポルトーのタオル地のスリッパをはくと、サウナルームの前を通って浴室を出た。
『女なら、誰でもそんなふうに思うんじゃないですか』
廊下の途中に置かれたピエトロドゥーラのワゴンの脇を通りながら、ラリックのガラス器からオレンジピールを一本、つまみ上げる。口に入れながら真織は、先月、パリのベルナルドから送られてきたカタログに、新作のデザインが載っていたことを思い出した。
父母は、ヘレンドやアウガルティンがお気に入りだが、真織は、ベルナルドも悪くないと思っている。今夜、ロワイアル通りの店に電話を入れるか、サン・ジェルマンに住む友人に頼めば、遅くとも一週間、特別便なら四日で、手に入れることができるだろう。
『それに、何につけても得しますよ、美人のほうが、絶対』
テレビの音が近くなってくる。整形してモテるようになり、自ら美人と豪語しているテレビの中の女性は、いったいどの程度に美しいのだろう。
美しさというものは、評価する人間の趣味もあり、一概に言い切ることの難しいものだが、それでも、その場の注目を一気に奪ってしまうような、皆が息を呑むような美しさというものは、確かに存在する。真織も、いく度かパーティで、そんな女性と出会ったことがあった。だが、それを手術で作ろうとすれば、全身の整形が必要になる。
なぜなら、美しいと人に感じさせるためには、顔や体の形以上に、統一感や明るさ、あでやかさ、透明度といったものが必要になるからである。それを無視し、パーツだけを理想の形に整えても、品格が損《そこ》なわれ、不統一でちまちました雰囲気になる。それでは美人とは呼べないし、人目を奪うこともできない。
真織は、廊下の突き当たりにある居間に入り、通りぬけながら一瞬、テレビに目をやった。
『私、丸顔で、顎《あご》がなかったんです。それでまず顎を作って』
説明していたのは、身長百五十二、三センチ前後の小柄な女性だった。顔が大きく見えるのは、背が低いのに顎を作ってしまったからだろう。本人は満足しているものの、端から見れば、前の方がよかったかもしれないという典型的な例だった。
美しさは、天の恵みの一つにすぎない。もし恵まれなかったのなら、あえて求めようとしない方が、精神のあり方としては美しいと真織は思う。他の恵みに目を向ければいいだけの話ではないか。
与えられなかった美にこだわり、あくまで自分のものにしようと執着するその心は、金銭に捉われている心と同様、醜いことこの上ない。それをどうして自慢し、また周囲も肯定するのか、真織には不思議だった。
「今日、メグちゃんは来ないんだろ」
真織が居間の中ほどにある小さな螺旋《らせん》階段に足をかけた時、テレビの前のソファに横になっていた夫が、振り向きもせずに言った。
「夕飯は、どうするんだ」
めずらしく妻が出かけるというのに、行先を聞きもしない。気になるのは、自分がいつも通りに不自由のない夕べを過ごせるかどうかということだけのようだった。
真織は、こう言いたかった。
「私は、すませてくるわよ。あなたは、あなたでご自由に」
だが、いつものようにこう言った。
「冷蔵庫に準備してあるわ。デザートもよ。召し上がってね」
返事はなかった。真織は、階段を数段上ってから手すりごしに体を乗り出し、夫を見下ろした。
「大おじ様の十三回忌、善福寺のおば様と面影橋のおじ様もおそろいになるそうよ。母が、隆さんにも顔を出していただきなさいって」
夫は、テレビを見たままで答えた。
「うまく言っといてくれ。おまえの親戚って、ほんとに面倒でうるさくて、まいるよ」
予想通りの反応だった。確かに形式を大切にする家である。だが、それを知っての結婚ではなかったか。
テレビの中で、笑いがはじける。真織は、再び階段を上り始めながら言った。
「もう少し、音を小さくなさって」
夫は、ようやくこちらを見上げた。
「何言ってんだ。俺がこの家に移ってきて一番よかったと思ってるのは、好きなだけ音を出せるってことなんだぞ」
色の黒い、四角な顔の中で、細い目が不満げに瞬《またた》いていた。
「下町のアパートじゃあるまいし。庭が何十坪あると思ってるんだ。いいだろ。ほっといてくれ」
夫は、真織の父が現在、代表を務めている企業グループの中のメインの会社で、やり手といわれる男性だった。当時はまだ社長だった父が気に入って、家に連れてきたのが最初である。背が低く、首が短く、がっちりとした蟹のような体形で、エネルギッシュで、それまで心身共にスマートな青年たちばかりを見てきた真織には、驚異だった。
早くに父親を亡くし、都営アパートで育ったという三十歳の隆は、真織には想像もつかないようなことをたくさん経験していた。彼の話は、まるでシンドバッドの冒険談のようにおもしろく、そして時々、哀しかった。
そんな重みのある話を聞いてしまうと、真織は、自分の周りにいる青年たちの軽やかな話をつまらなく感じるようになった。彼らの中には、明るさと喜びと品のよさ、繊細さ、そしてほんの少しの感傷しかなかった。しかし隆の中には、暗さも悪意も悪趣味もあったのである。それが興味深かった。もっと彼を知りたいという気持ちで、真織は、自分より十歳年上だった隆に近づいた。
一人娘として家に拘束される自分の立場に、苦しさを感じ出した頃だった。周りにいた仲間たちの誰もが、真織同様に、家や親の名の大きさにあえぎながら、それを超えられずにいた。そんな中で、今は母も亡くし、親戚もなく身ひとつだという隆は、限りなく自由に羽ばたいているように見えた。自分の人生をどう生きてもいい自由さ。真織は、それにも惹かれたのだった。
隆と結婚したいと言った時、父は、たいそう喜んだ。元々そのつもりで連れてきたのかもしれなかった。父に言わせれば、隆こそ、現代の若者がなくしたすべてを持っている男なのだった。
母の反応は、正反対だった。あんな下品でがさつな人間を家に入れるわけにはいかないと言い張ったかと思えば、親戚中の物笑いになると泣いて懇願し、きっと後悔することになると脅《おど》しもし、最後には、母か男かどちらかを選べ、とまで言った。
「クラシックコンサートひとつ、まともに最後まで聴いていられない人ですよ。ミラノ・スカラ座の公演の時も、ニジンスキー追悼記念公演の時も、前から五列目の中央の席で、人目もはばからずあくびをしたし、タバコも我慢できないし、ワインを選ぶどころか知識すらなく、ビールを浴びるほど飲んで、それでよしとしている人ですよ。
言葉は、日本語だけしか話せないし、楽器も何一つ弾けない、スポーツも軒並みだめ、外国で暮らした経験もない。香蘭舎が何の会社なのかも知らない。覚えようともしない。どんなご本をお読みになるのと聞いたら、ほとんど読みません、よ。これでどうして、私たちと一緒に生活していけるというのでしょう。
お客様だけ考えても、この家には、年間十数組の外国の方がいらっしゃるのよ。たとえば、あなたの代父のベニーニュさんが今年もいらしたとき、あなたが結婚したいと言っているあの人に、いったいどんな接待ができるというの。あなたの夫としてふさわしい応対どころか、会話すらできないんじゃなくって。毎年夏にエジンバラで開かれるサー・ホイットマンご夫妻主催のパーティで、会場をわかせるような気の利いたご挨拶ができて。ニューヨークのモルガンのクリスマス会について、セッティングを考えたりホテル側と交渉したりできて。今年は、うちが幹事をしなければならないのよ。
あの人は、私たちとは人種が違うのよ。恥をかくのは、あなただけじゃないわ。お父様も、この私もですよ」
真織は、母の言い分が正しいとも、それほど価値があるとも思わなかった。貧しい育ち方をした隆にいろいろな経験がないのは当然で、それは、これから学んでいけばいいことだった。その間は、真織が補えば何の問題もない。
父や母の主導する暮らしに閉塞感を抱いていた真織は、エネルギッシュな隆が、この環境を切り開いてくれることを期待していた。それは、真織の周りにいる同じ様な境遇の青年たちには、とてもできないことだった。まったく違う生い立ちと価値観を持っている隆だからこそ、できる。二人で、お互いが本当に幸せだと思える暮らしを作っていきたい。真織は、そう願ったのだった。
母の抵抗は、長く続いた。結婚までたどりつくことができたのは、父が、ついに強い態度に出たからである。母に向かって、この上反対するならば家を出て行け、と言ったのだった。
真織が、彼にも努力をしてもらうようにするからと懐柔したこともあって、母は折れた。話が決まれば早いほうがいいと、真織が大学在学中に結婚し、同時に養子縁組をしたのである。斉藤隆は、高宮隆となった。
真織が大学を卒業する時、父が池尻大橋に持っていた土地に新居を建ててくれ、夫婦でのパラサイト暮らしにピリオドを打った。以降二十三年間、真織は、主婦である。
父と隆の関係は良好で、父が代表権を持つ会長になり、さらにグループの代表となると、隆も、専務に昇格した。休日も、時には父から誘われて行動を共にしている。しかし母との関係は、極めて悪かった。隆は、いまだに母の機嫌を損ねることしかできない。
結婚当初こそ、母に気を使い、高宮家に合わせようとの態度が見えたものの、三カ月もすると隆は自分の意見を主張し、頑として曲げなくなった。真織は、それでいいと思っていた。自分たちで、自分たちなりの暮らし方をするつもりだった。
だが、母との間に、あまり波風が立つのもまずい。真織は、間に入って調整役となった。時には母をごまかし、時には隆を説得して、なんとか二人を収めてきたのである。そんな暮らしを続けていたある日、ふっと、それまで思ってもみなかったことが胸をかすめた。
「ハイ、ジェーンよ。真織さん、元気で、いますか」
真織が大学生だった頃、家にホームステイしていたオーストラリア人のジュヌヴィエーヴからの電話だった。真織より三つ年下の律儀な娘で、毎年クリスマス近くなると、手作りのプレゼントを送ってくれていた。お小遣いの中で工夫しているらしく、包みからランチョンマットや鍋つかみ、ブックカバーが出てくると、家族が皆で彼女の笑顔を思い浮かべたものだった。
「実は、就職したのよ。それで初めてのお給料で、ニッポンのお父さんとお母さんに何か買いたいね。何がいいかね、真織さんに聞こうと思って」
真織は、父母の喜びそうなものについて助言した。ジュヌヴィエーヴは感謝し、電話を切る前に言い添えた。
「そういえば、真織さんの誕生日、もうすぐね。おめでとう」
その時、真織は思い至ったのだった。結婚してから一度も、自分の誕生日を祝っていないことに。
隆は、普通の日のように真織の誕生日をやりすごした。おめでとうの一言もない。もちろんプレゼントもない。考えてみれば真織は、結婚前を含め、隆から何かをもらったり、してもらったりしたことが一度もなかった。
請求はしたくない。何ももらわなくても、気持ちがあればいい。ずっとそう思ってきた。だが、気持ちがあるなら、言葉ぐらいはかけるはずではないか。ジュヌヴィエーヴからおめでとうと言われて、真織は初めてそう思った。
家族のために何かをする。それは、喜びではないのか。真織は、隆の誕生日をセッティングし、プレゼントを選ぶことが楽しかった。そういう積み重ねがお互いのつながりを深め、そこに、二人でなければ作れない暮らしが出来上がっていくのではないか。自分だけが祝ってもらって満足し、それ以上に発展しない精神は、どこかおかしいのではないか。
真織は、その夜、自分の誕生日を祝ってくれるよう、隆に求めた。結婚して初めての、要求だった。
隆は、わかったと言った。真織は、思い切って話してみてよかったと思った。隆がどんな演出をしてくれるか、期待で毎日を浮かれて過ごした。
しかし隆は、何の動きも見せなかった。それらしい気配さえ感じられなかった。真織は、料理のできない彼としては、レストランを予約するのにちがいないと考えたりした。当日になって突然言い出すとか、会社から電話をかけてきて、びっくりさせようという趣向かもしれない。とにかくいつでも出かけられるよう、準備だけはしておかなければ。
そして真織は、その日を待ちぼうけて過ごした。隆は、いつも通りに出かけていき、いつも通りに遅く帰ってきた。
「誕生日をお祝いしてくれるって約束だったでしょう」
真織がそう言うと、ああそうだったとだけ言って、自分のベッドにもぐりこんでしまった。三分もすると、鼾《いびき》が聞こえ始めた。
真織は、どこか高いところから突き落とされたような気がした。果てもなく落下していくような気持ちで、こう思った。隆には、他人と一緒に生活を作っていこうとする意思がないのではないかと。
それから気をつけて隆を見るようになった。どんな時も、まず自分がどうしたいかを考え、それに従って行動する人間であることが、ようやくわかった。その心の中に、妻である真織がどうしたいか、などという判断基準が生じることはなかった。つまり隆の希望にそっている場合だけ、真織は、二人で何かをすることができたのである。
それまでそれに気づかなかったのは、真織が隆の望み通りにしたいという強い気持ちを持っていたからだった。真織の心は、彼の心と一体化していたのである。一方的に、真織だけが。
なぜなのだろう。貧しかった過去が影を落としているのだろうか。一人の生活が長かったからかもしれない。二人の間に子供が生まれれば、変わるかもしれない。真織は、あらゆることを考え、想定し、試してみた。二十年間にわたって、もうこれ以上はできないというところまでした。強引に押し切った結婚である。自分の力で、未来を開いていくしかないと思ったのだった。
だが隆は、ほんの少しも変わらなかった。二十年間、まるで岩のように自分を主張し続け、譲ることを知らなかった。真織は疲れ、離婚を申し出た。
隆は、怒るだけだった。社長の椅子を目の前にしている隆にとって、離婚はすべてを失う危険をはらんでいた。
「俺は、そんな気は全然ない。口が裂けても、そんなこと、オヤジに言うなよ。オヤジは、俺に満足してる。孫もかわいがってる。全部壊れちまうってことになったら、どれほどショックを受けるか、わかってるだろうな。心臓の調子があんまりよくないんだろ」
真織は思う。あの時、母の言うことを聞いておけばよかったと。自分の力など信じず、自分に新しい生活を築けるなどと考えずに、おとなしく母の管理下にいればよかったのだ。そうすれば、今よりは、きっとましだった。
真織は、胡桃《くるみ》材の扉に手をかけ、自分の部屋に入った。庭を見下ろす十畳ほどの洋室で、以前はテレビが置いてあった。二人の居間だったのだが、離婚の話を出してから、隆は、下の居間を使うようになった。
その時にテレビも移動し、今は壁際に、日に焼けていない絨毯《じゆうたん》が見えている。真織は、時々思うことがある。この空間にはテレビが置かれていたのではなく、実は自分の幻想が住んでいたのかもしれないと。隆と二人で一つの暮らしを作っていけるという白昼夢。それがあの日、悲鳴のような声を残して消えていったのだ。
真織は、バスローブを脱ぎ、二メートルほどもある姿見の前に立った。いつものように自分の体を点検する。肌は、荒れていないか、くすみや染みができていないか、艶《つや》はあるか、たるみは出ていないか。
水がたまりそうな窪みを抱えた鎖骨から、ふっくらと盛り上がった二つの胸、しぼり上げたように狭まるウエストにまで丹念に目を配ると、今度は体をひねり、ヒップの線にそって視線をおとす。イギリスパンの頭のような丸みにも、その下に続く大腿から脚のラインにも、今のところ問題はなかった。
だが、いつまでこれが続くだろう。失われていくのは、時間の問題だった。その時、自分には、いったい何が残るのだろう。
ずっと専業主婦だった真織には、仕事も、誇れる経歴もない。頼りになるはずの父母も、しだいに年老いていく。中・高校の二人の娘たちは、ドイツとイギリスにいて、どうもそのまま大学に進み、現地で就職しそうだった。
ヨーロッパでは、十五歳で親から独立する。この年齢を過ぎて異性と性関係を持っていない子供は珍しいし、親もいっさい口出しをしないのが普通だった。真織としても、娘たちを束縛せず、自由に羽ばたかせてやりたいと思っている。戻ってくるという期待は、していなかった。
あれこれ考えると、真織に残るのは、心のかよわない夫だけということになる。それが、真織の生きた結果なのだった。
真織は、バスローブに腕を通し、ドレッサーの前のスツールに腰をおろした。鏡をおおう繻子《しゆす》のカバーをめくり上げ、今度は、顔の点検を始める。
時間をさかのぼることはできない。間違いをやり直すことは、どうだろう。できないのだろうか。幸せになりたいと望むのには、もう遅すぎるのだろうか。
真織は、ドレッサーの脇のライティングデスクに視線を流す。チェコ産の天板の上に、一通の手紙が載っていた。
「ごぶさたしています。私たちの会合に、あなたの麗しいお姿が見られなくなってから、もうずいぶんになりますが、お元気でしょうか。私たちは、相変わらず学生気分のまま、あの頃のように誰かのお宅に押しかけては、浮かれ騒ぎをくりかえしています。もし懐かしく思ってくださるのなら、たまにはお顔を見せてください。特に男の子たちが、残念そうにしています」
元日、真織の家には、父の傘下にあるグループ会社四十数社の代表たちがあいさつにくる。彼らの前で、父が杵《きね》を持ち、恒例となっている餅つきを行うのだが、いつの頃からか、子弟を同伴する役員が多くなった。
そこで気の合った何人かが中心となり、遊ぶ会ができたのである。親たちも、この付き合いを喜んで、回り持ちで自宅や別荘、海外に持っているシャトウやコンドミニアムを提供してくれた。会の名前は、親の脛《すね》をかじるという意味で、「Societe de ceux qui vivent aux depens de leurs parents」。ひと口に、オデパンと呼ばれていた。要するに今の言葉で言うパラサイトで、親の資産にまかせて、遊び歩く軽い感覚の若者の集まりだったのである。多い時には、三、四十人が集まった。
「男の子といっても、もう皆、三十代後半から四十代半ばですけれどね。でも、世間でよく言われるところの、オヤジなる物体に変化した子は、一人もいません。相変わらずダンディで、皮肉屋で、小憎らしい人たちばかりよ」
真織の結婚式の際には、彼らがオリジナルでオペレッタを作り、オーケストラ部と歌唱部にわかれて、大いに盛り上げてくれた。楽しむこと、楽しませることに関しては、誰もが労を惜しまなかったのである。
そのお礼にと、真織は、今の家に引っ越してから、彼らを集めてパーティを開いた。だが隆が、彼らとうまくいかなかった。
ほとんどのメンバーが隆より五、六歳歳下だったことから、隆は初め、皆が自分に敬意を払うものと思いこんでいた。しかし、そういう社会的常識の通じる青年たちではなかった。それぞれに傲岸不遜で、彼らが尊敬するのは、自分より豊富な経験や知識を持つ人間、あるいは自分より肉体的に優れている人間だけだったのである。
隆の尊厳は、すぐにひっくり返され、彼は不愉快さを隠さなかった。彼らよりずっと横暴な真織の父に対して、時に卑屈なほど譲り、うまくやっているというのに、真織の仲間に対して隆は、そういう態度を取らなかったのである。会は散々なことになり、以降、真織は参加しづらくなった。
「要するに、道楽息子、道楽娘の集まりじゃないか。くだらん付き合いだ。やめるんだな」
真織にしてみれば、青春期を共に過ごしてきた楽しい仲間だった。だが、集まりに顔を出していれば、いつかは、また自分の家や別荘に招かなければならなくなる。隆にいやな思いをさせたくなかった。
「女子のほうも、相変わらず意気盛んです。ただ、最近新しく入ってきたメンバーに、ちょっと手を焼いていて、できればあなたの一言がほしいと思っているのです。昔、よくしたように、こらしめてほしいのよ。覚えているでしょう、恋愛法廷のことを」
真織がまだ高校生の頃、南仏プロヴァンスの中心都市マルセイユの港から、船で地中海を南に十五分というレ・ボー小島で、オデパンの集まりが開かれた。その折、十三世紀にこの地方で流行したという恋愛法廷が話題となったのである。
恋愛法廷とは、女性ばかりで構成された模擬法廷のことで、持ちこまれるいろいろな恋愛事例の正邪について判決を下す機関だった。この史実にもとづき、真織たちは、仲間内の恋愛を取り上げてメンバー全員でそれを裁いたのである。真織は、その時、全員一致で選ばれた裁判長で、これは終身官とされていた。
「本当に、今の女の子ときたら、お行儀が悪くて。まあ、こんなことを書くと、いかにも分別があるようですね。実際は、そうでもないってことは、あなたがご存知でしょう。私たちは、いつも軽薄で、楽しみを求めることしかしてこなかったんですものね。今もよ。
こうして書いていると、いっそうあなたにお会いしたくなります。あなたがオデパンにお顔をお出しにならなくなって、もう二十三年がたちます。お考えは、変わりませんか。たまの一日くらいは、いいのではありませんか。今回の会場は、私の家です。といっても今、私は、叔父のホテルに居候しているのですが。どうぞ、いらしてください。
[#地付き]尾佐久《おざく》 華」
真織は、ドレッサーの引き出しから下がった金色のタッセルをつかみ、手前に開けた。中には、ゲランとパルファム・ジバンシイの秋の新色が一セットずつ入っていた。叔母が自分の化粧品をパリから取り寄せたついでに、買ってくれたものだった。
双方を開いて、真織は、アイシャドーと口紅の色を比べ、片方のセットを選んだ。秋には秋らしいメイクでなければ、ギャラントリーな女とは言えない。まず顔にのせる色を決め、それに合った服を選び、靴と下着、ストッキング、さらに香水へとよりすぐっていくのが、いつもの順序だった。
そうでなければ、顔が映えない。最初に服から選んでいく多くの女性のやり方は、ファッションブランドの陰謀に乗せられているとしか思えなかった。
真織は、ワードローブに歩み寄り、扉を両開きにする。毎年、秋の服は、春に行われるショーを見て発注することにしていた。今年は、流行のラインを取り入れたワンピースを三着と、スーツを三着、ニット系のアンサンブルを二着作った。親戚の集まりや、父母の代理で出席したコンサート等で、すでにどれも袖を通し、周りの反応も確かめてある。
少し迷ってから、真織は、枯葉色のノースリーブのワンピースを取り出した。ジャン・ルイ・シェレルのお勧め品である。久しぶりに参加するオデパンであり、尾佐久華の手紙によれば、新しいメンバーもいて、問題もあるらしい。そういう状況にふさわしい服でなければならなかった。つまり、センスのよさをほめられるようなデザインと品のよい色で、多少の華やかさがあって、しかも派手な感じのしないものである。
真織は、ワンピースのハンガーをワードローブの取っ手にかけ、少し下がって見つめた。それを着た自分をイメージしながら、小物を決めていく。
靴は、つま先が尖って、ヒールの高いシャルル・ジョルダンか、マノロ・ブラニクのスエードの焦げ茶。もしくは、少しはずして黒。バッグは、重みをつけてトカゲのケリーかクロッコのモラビト。ストッキングは、デニールの小さな普通の肌色。
いつもなら、これだけをメモして渡しておけば、化粧が終わるまでに全部をそろえてもらえるのだが、使用人が休みとあっては自分でするしかなかった。
真織は、靴とハンドバッグが収納してあるクロゼットに入り、棚の中に行儀よく納まっている靴箱とバッグの入っている保存袋をながめ回した。壁にはられた一覧表から目的の物の位置を確かめると、脚立に上って、それらを取り出す。どちらも二種類ずつ出しておき、後でしぼりこむことにした。
次に、ワードローブの隣に置かれているチェストの上の引き出しを開け、一面につまっている下着の中から、シバリスのブラジャーと薄手のティーバックを引き抜いた。下着の色は、口紅と同色にするというのが、ギャラントリーなやり方だったが、今日はもっとおとなしく、服の色にあわせるつもりでいた。
ガードルは使わない。ワンピースの美しさは、歩くときに浮き出る体の線の美しさに比例する。ガードルをつけると、ウエストからヒップにかけての線が硬くなり、動きが出にくくなって老けた印象を与えかねなかった。今のガードルというのは、腹部やヒップの形を補正するための下着である。体型をきちんと保っておけば、ほとんど必要のないものだと真織は思っていた。
包装されたままのストッキングが立ち並んでいる棚から、ウォルフォードの八デニールを見つけ出すと、ドレッサーの隣に戻って、寄木作りの香水収集箱の回転式蓋をあける。様々に装飾をほどこされた瓶と、息をひそめるように静かにその中に溜まっている琥珀《こはく》色の液体に視線をまつわらせながら香り立つノートを思い浮かべた。
香水を選ぶことは、自分の態度を決めることに似ている。甘やかで妖艶《ようえん》な香りにしても、はつらつとした爽やかな香りにしても、それを身にまとったとたんに、女の体はそれに従うようになるのだ。
真織の指先は、ゲランのシャリマーにふれた。だが、すぐシャネルのアリュールの方に伸び、まったく違う二つの間をさ迷う。どちらかに決めきれないのは、心が決まっていないからだった。なぜ突然、今日のオデパンに出る気になったのか、自分でもはっきりとわからない。
ただ懐かしいだけなのか、尾佐久華の願いを聞いてやりたかったのか、それとも行き詰まっている現状を打開するすべを求めてのことか。
結論のでないまま、真織はシャリマーを摘み上げた。真珠貝の形に作られた青い蓋を開けると、いささか粉っぽい香りが立ち上がる。それが空気の中でとろけ、瞬く間に官能的なしっとりとした流れを作って、真織を押し包んだ。
それを快く感じる自分に、真織は驚いた。今までシャリマーをこんなふうに受け止めたことは一度もなかった。真織は、ドレッサーの鏡に映っている自分の顔に目をやった。もう四十五歳になる。このくらいの香りは、身につけてもいい歳だった。
「マオさんよ」
尾佐久華が居候《いそうろう》をしている叔父のホテルというのは、新しい観光スポットとして開発された六本木六丁目の区画の一部だった。
真織は、光を調整してあるロビーから長いエスカレーターに乗り、吹き抜けを見下ろしながら中二階に向かった。右手上方から声が降ってきたのは、あと少しで行き着くという時だった。
「高宮さんがいらしたわ」
「まあ、本当に」
「なんて素敵、昔のままよ」
「全然変わっていらっしゃらないのね」
見上げれば、中二階の手すりにそって懐かしい顔が並んでいた。それらの間から、昔の日々が、まるで雫《しずく》のように零《こぼ》れ落ちてきて真織の心に染みとおった。
グリンツイングの森のエメラルド、シドニーの海の稲妻、クレタの夕焼け、シャルトルの青い朝。数えればきりもないいくつものシーンに、いつも一緒に居合わせた仲間たちだった。
真織は、まぶしくて目をほそめた。はしゃいで遊び、語り合い、時にはぶつかりながら共に過ごしてきた時間が、輝きながら彼女たちを包んでいた。真織は片手を挙げ、わずかにふり動かした。思い出に手を振っているような気がした。
「お久しぶり。皆様、お元気そうね」
すっかり上りきったエスカレーターから真織が足を踏み出すと、彼女たちは、小走りに近寄ってきた。彼女たちを包んでいた輝きが真織を取り巻き、二十三年前に連れ戻す。
そこでの真織は、浴びるほどの時間と自信を持ち、何の不可能も認めない、活力にあふれる若い女だった。
「お会いできてうれしいわ」
「私も」
口々にそういう仲間を見回して、真織は微笑み、一番端に立っていた尾佐久華に目を向けた。
「ご連絡をありがとう。今日、ここに来られたのは、あのお手紙の力よ」
華は、相変わらず丸い頬に、はにかんだような笑みを浮かべた。
「どうしてもお会いしたくて。あなたが必要でしたの」
尾佐久華の父親は、真織の父の系列会社の会長をしていた。母親の一族は、香港で食材会社とホテルを経営、ハワイでも、いくつかのホテルの買収や建て直しに関わっていると聞いている。
「まず、乾杯しましょう」
華がふり返ると、後方に立っていた二人のボーイのうちの一人が、用意されていたテーブルから銀の盆を取り上げた。笑顔をふりまきながら、並木のように立ち並んでいる細身のフルートグラスを全員に配る。
「かっこいいわね」
そう言いながら片目をつぶってみせたのは、東城美奈子《とうじようみなこ》だった。昔から、恋愛上手といわれていた。
「長身でスタイルのいいボーイをそろえることは、女性客を捕まえるのに必要なことだって、あなたの叔父様に伝えておいて。日本のホテルは、その点を考えなさ過ぎるわ。どのホテルも、ボーイの制服だけはヨーロッパの真似をしてるのに、中身に全然気を配らないんですもの。あの短い上着はなんのためなのって、言いたくなってしまうわよ」
御堂寺恭子《みどうじきようこ》が、京友禅の胸元に金の鎖でぶら下げていた眼鏡を取り上げ、顔にかけながら口を開いた。
「あら、何のためですの」
美奈子は、色濃く紅を引いた唇に笑いを含んだ。
「決まっているでしょう、女性客に、若い男性のお尻の線をお見せするためよ」
笑いが広がった。もう一人のボーイが、厚いバチストのナフキンに包んだシャンパンをついで回る。恭子は、眼鏡越しの視線で、ボーイの背中を下になぞった。真織は、美奈子と目を見合わせて笑いながら、ボーイが作業しやすいように小指をグラスの底に回した。
「恐れ入ります」
淡い薔薇《ばら》色の流れが、グラスの内側に沿って落ちる。序々に溜まって高くなっていく様子は、下から、もう一つのグラスが立ち上がって来るかのようだった。底からは、途切れることもなく泡がわき上がり、きらめいては、はじけて消えていく。
「クリュッグのロゼにしてみました」
華が、早くも頬を染めながら言った。
「フランスでの会なら、ドン・ペリニヨンでも悪くないと思ったのですけれど、日本では、なぜかドン・ペリは、おいしく感じられません。そう思われませんか」
問いかける華に、久保田藍子《くぼたあいこ》が小首をかしげながらうなずいた。
「説は、いくつかあるわ」
藍子の母は、パリで料亭「オテル・ドゥ・伊豆」を経営している。藍子本人も、世界的に名の通った「シュヴァリエ・デュ・タートヴァン」の騎士位を持っており、仲間の内では、一番ワインに詳しかった。
「私が妥当だと思っているのは、湿気説ね。日本の風土がドン・ペリに合わないんじゃないかという話よ。ほら、少し前に、日本でパスティスが流行ったことがあったでしょう。あれは本当につまらない流行で、おいしくなかったわよね。同じパスティスでも、皆でプロヴァンスに行って飲んだ時には、卒倒しそうなほどだったじゃない。素晴らしかったでしょう。あれは、やっぱり光が強くて乾燥しているプロヴァンスの空気の中でこそ、輝くものなのよ。ドン・ペリも、たぶん同じなのではないかと」
思い思いにグラスに見入る仲間を見回して、華が言った。
「では、乾杯しましょう。今日は、そうですね、フランス語、英語、イタリア語でどうでしょうか」
真織は、かつてのように目の位置より高くグラスを上げた。お互いに呼吸をはかり合い、心の中で声をそろえ、いっせいに解き放つ。
「サンテ、ボトム・アップ、アッラ・サリューテ」
吹き抜けの下方の階を通りかかっていたいく人かの客が、こちらを仰ぎ見た。真織たちは、笑い崩れる。出せる限りの声での乾杯。それも、オデパンの約束の一つだった。
「楽しいわ」
つぶやいて真織は、もう一度シャンパングラスを差し上げた。いろいろなところで行われたいろいろな乾杯が、次々と思い出された。地中海のコルシカ島、バルト海のゴトランド島、アドリア海のラストボ島、大西洋のカナリア諸島、セント・ヘレナ島、そして太平洋オアフ島。世界中に印した足跡の上に、真織の世界が広がっていた。限りなく自由だった。
だが真織は、その自由が、父母の力の下の自由であることを知っていた。隆と結婚したのは、真実の自由を求めてのことである。
その結果、新婚旅行が隆と一緒の、ただ一回の海外となった。日本語以外話せない隆は、メニュウが読めずに機嫌をそこね、またホテルの中で迷った時も誰にも聞くことができず、二度と行きたくないと怒ったのだった。
度を越した怒りの原点は、隆のコンプレックスだった。以降、真織は、海外の思い出話を口にすることも避けてきた。真実の自由どころの話ではなかった。
「ねえ、皆様、こっそり教えてくださらないこと」
恭子が小声で言い出した。
「皆様の中で、ご主人以外に、一本のシャンパンを一緒に開けるような男性をお持ちの方、いらっしゃるのかしら」
真織は、藍子と顔を見合わせた。一本のシャンパンを開ける男とは、深い関係の男という意味である。
「あら、そんな男なら、いつだって調達できるじゃないの」
美奈子がなんでもないといったように口を切った。
「よろしければ、ご紹介するわよ。後で、ご希望を書き出しておいてちょうだい。それより私が不自由しているのは」
話しながら、さもいやそうに口角を下げて見せる。
「一本のシャンパンを開けてくれるご主人そのものなのよ。実は、先月、離婚したの」
大きな声があがる。
「まあ、また」
「いったい何度目なの」
「私、最近、思っているわ。離婚は、あなたの趣味の一つに違いないって」
美奈子は、大きなため息をついた。
「もう贅沢は言わないわ。パリとニューヨークにマンションを持っていて、南の島に別荘、そのそれぞれに運転手と使用人がいて、私に、遊んで暮らしていていいって言ってくれれば、それだけで満足するわよ」
華が、腑《ふ》に落ちないといったように眉根を寄せた。
「確かご主人って、背の高いダンディな方で、スイス人でしたわよね。フランス育ちの実業家って言っていらしたでしょう。私、忘れないわ。ビアリッツのヴィラにご招待していただいた時のこと。皆でここを探検しようってことになって、地下の金庫室に忍びこんだら、まるでピラミッドの中に迷いこんだ盗賊みたいな気持ちがしたものよ。金塊《きんかい》とダイヤが山のようだったのですもの。それを捨てて、なぜパリとニューヨークと南の島なんて、そこそこの所で我慢する決心をなさったの」
美奈子は、肩をすくめた。
「そうね、そこそこでも独占できれば、その方がましだと判断したのよ。得体の知れない女と共有するよりはね」
大きく目を見開いた美奈子に、一同は、事情を察して口をすぼめた。
「いい恋愛をする、なんて簡単なことよ、いい結婚をすることに比べたらね」
美奈子の言葉に、真織はうなずき、シャンパングラスを傾けた。
「同感」
飲み干したシャンパンが体の内側を流れ落ち、そこに溜まっていた二十五年間をほぐしていくのを感じながら、真織は言った。
「私の結婚って、失敗だったわ」
四人が一瞬、動きを止めた。
「冒険しすぎた、のね」
共通するたくさんの思い出を持ち、気が合っていて、好きなことを言っても傷つける心配もない。そういう仲間たちの間にあって、真織は、自分の心が軽く明るく浮き立っていくのを感じた。二十五年間の重みと暗さが心からすべり落ちていく。真織は、それを他人事《ひとごと》のように眺めやった。
「若かったし、自分に自信があったから」
親から与えられた世界を、変えたかった。そのための二十五年だった。だが、真織は、それに失敗したのだ。
時間を取り戻すことは、できない。すべては、失われていくだろう。真織の若さも、父の権力や財力も。だが、だからといって手をこまねいていていいのか。最後に残るものが、あの夫だけという人生でいいのか。納得できるのか。それを、自分の生きた結果として、受け入れることができるのか。
「認めるわ。自分の間違いをね」
真織が言うと、脇で華が小さく笑った。
「高宮さんの口から出ると、敗北宣言も勝利宣言のように聞こえます。不思議ね」
美奈子が顎を上げ、タバコをふかす素振りをした。
「傲慢なのよ」
恭子と藍子が同時に口を開く。
「あら、個性的というべきでしょう」
「エネルギッシュなのよ。昔からね」
甲論乙駁《こうろんおつばく》しそうな雰囲気を感じ取って、真織は、あわててグラスを置き、両手を挙げた。
「先に言わせて。私、やり直すつもりよ」
いったん、口をついて出た言葉が、耳から入り、真織の心を高ぶらせた。
「しかも急いで。でないと、永久にやり直せなくなりそうなんですもの。やり直して幸せになるわ」
自分を説得するように言いながら、真織は、ここへ来てよかったと思った。隆と出会う前の自分に戻ったような気がする。
結婚してからずっと、真織は、隆の意向にそってきた。まず彼の気持ちを聞いてからでなければ、どんな決心も行動もしないようにしてきた。それが当然と思ってのことだったが、そんな生活の中で真織の心は、知らず知らずのうちに力を失い、しぼんできてしまったのかもしれなかった。
「じゃ、離婚なさるの」
藍子に聞かれて、真織は、視線を伏せた。隆が離婚に合意しないことはわかっている。間違っていたにしろ、かつて一度は、自分が必要とした相手に対し、あまり強引なことはしたくなかった。
「したいけれど、できないと思うわ。主人が承知しないから」
隆と一緒でなければ見られない夢を、確かに真織は見たのである。それが消えてしまったからといって、なかったことにはならなかった。
「心が通っているってわけじゃないのよ。主人は、今の地位を失うのが怖いの。気持ちは、わかるわ」
美奈子が、自分の離婚話の時よりもずっと真剣な声で言った。
「だったら、妻にきちんと対処しろって、話になるでしょうよ。離婚した方がいいわ。でなければ、やり直しは無理よ。だって、今のままでどうしてやり直せると思って。持っている何かを手放さなければ、新しいものをつかむことはできないわよ」
真織は目を上げ、珍しく真面目な表情の美奈子の頬を軽くたたいた。
「ありがとう。考えてみるわ」
皆のグラスが空いているのに気づいた華が、ボーイをふり返る。ボーイは微笑み、空になったシャンパンボトルを差し上げて見せた。
「まあ、いつの間に。皆様、なんてお早いのかしら」
恭子らしいおっとりとした言葉遣いが、深刻になっていた雰囲気を和らげた。
「ところで今日のオデパンは、シャンパンだけなの」
真織がからかうと、四人は口をつぐみ、目を見合わせた。視線でせかされた華が、あわてて説明を始める。
「男の子たちは、いつも通りシガールームに集まっています。今日の参加者は、十三人。合流してからお食事という手筈です。でも、その前に、お願いがあって。お手紙に書いたことなのですけれど」
真織は、うなずいた。できる限りのことは、するつもりになっていた。
「お行儀の悪い今どきの女の子ね」
オデパン、ひたすらに楽しみを追い求めるだけの浮わついた集団。真織は、隆に言われてそれに背を向けた。隆との生活を第一に考えたいとの思いからだったが、無意識のうちに、もっと落ち着いた毎日を送りたいと願ってもいたのだろう。重い人生を送ってきた隆を生涯の伴侶に選んだのも、ひとつには、そういう気持ちに左右されたからにちがいなかった。
だが、それがいったい何になったというのか。隆の重みが、真織の日々を充実させてくれたわけではなかった。そこに、真織の人生はなかったのだ。
「どんな子」
真織が聞くと、四人は、鼻持ちならないといったようにいっせいに鼻にしわを寄せた。オデパンにおける、ブーイングの印である。
「最初は、一年半くらい前だったかしら。角田君が連れていらしたの。付き合っていたのよ。それが、次の時には、加藤君が連れていらして、角田君の方は、それっきり出てこなくなってしまって」
「私たち、まあ、よくあることだからって思っていました。だって、ねえ、ありがちなことでしょう。ところが、今回の場合、ありすぎで」
「立て続けに相手を替えていったのよ。あれは、まあ、取っかえ引っかえ、っていわれてもしかたのないような感じだったわね。取られた方の男の子は、もう出席しなくなるし、一度なんてオデパンの最中に、ちょっとしたやり取りから言い争いが始まって、決闘まがいになったものだから驚いて、原因を探っていったら、結局、彼女だったの。手を出した、出さないって感情的な問題が潜んでいたのよ」
「会の空気がどんどん悪くなっていって、美馬《みま》君なんか、彼女が来なくなったら呼んでくれって言い捨てて、それっきり出てこなくなってしまうし。そのあとも、何人も抜けていったわ」
「私たちも、何とかしなければと思ったのです。それで、本人を呼んで、どういうつもりか聞いてみたところ」
「はっきり、こう言われたのよ。全員と寝てみて、一番いいのを取るつもりなの、ですって」
真織は、笑い出しそうになった。なんとまた、単純でわかりやすい価値観を持った女性なのだろう。
「もちろん、それだけじゃないわ。ここに集まっている男の子たちは皆、お家もいいし、コネも持っているでしょう。それが、もう一つの目的よ。彼女、フリーの宝飾デザイナーなの。彼らを利用して、ずいぶん仕事をしているわよ」
「オデパンは、皆で遊びまわって楽しむ会です。私たちは、遊び仲間でしょう。メンバーの誰かが困ったりしていれば、助けるという発想はあっても、利用しようなんて考えは、今まで誰の胸にも浮かばなかったはずだと思いませんこと。だって、そういう会なのですものね。誰かを利用しなければ生きていけない人なんて、オデパンにはふさわしくないというしかありませんわ」
「あからさまな恋の仕掛け方も、やめていただきたいと思っているのよ。ああ、あれは恋以前の問題というべきかもしれない。まるで繁殖期のメスなのですもの」
「つまり、オデパンのセンスがないのよ。男の子たちの気を惹いて仕事や恋愛相手を見つけて、本人なりに必死なのかもしれないけれど、その必死さ自体が、この会の趣旨を離れているわ。だって、親の脛をかじる会なのよ。世界が違うでしょ。あなたにふさわしい所にお帰りなさいってことよ」
「許せないのは、こんなにこの会を引っかき回して、平然としているってことです。自分の利益だけ考えて他人の感情を省みないなんて、あまり品のよろしい振る舞いとは言えませんでしょう。そういう心がけの方は、この会に顔を出す資格なんてないのです」
「このままでは、オデパンは、今までとは違うものになっていってしまうわ。オデパンは、私たちの青春よ。いつまでも無くしたくないの、絶対」
うなずき合う四人を、真織は見回した。年月を刻んだ顔のそこかしこから、昔の彼女たちの輝きがこぼれ出ていた。
いくら年を重ねても、たとえ自分が脛をかじられる立場になったとしても、なおオデパンでありたいと思う心の底には、万能感に満ち、幸せだった過去への郷愁や幻想が潜んでいるのかもしれない。だが、それが今の自分に力を与えてくれるのだとしたら。
それを守ることは、未来を守ることではないか。
真織は、自分たちのいる中二階のフロアから、両側に扉を配して奥に続く廊下の方へと視線を投げた。
「それで、問題の女性はどちらに。今日は来ていないの」
美奈子が、再び鼻にしわを寄せた。
「来てないはずないでしょう。一時間も前からやってきて、狩りの真っ最中よ。シガールームでね」
真織は、目を見張る。男性たちが集うシガールームは、女性にとってのパウダールームのようなものである。どこにも女人禁制とは書いてないが、遠慮するのが普通だった。そこまで入りこむなどという女性に、真織は今まで会ったことがない。おそらく世界中捜しても、ほとんどいないのではないか。
「大胆というか、無神経というか、表現に迷うところね」
真織が言うと、華が眉根を寄せた。
「常識をご存じないのだと思います。たとえ一時でもオデパンに出入りした方が、こんな無作法なことでは、この会の格が落ちます。教えてさしあげなければ。それができるのは、高宮さん、あなただけです」
まっすぐに見つめられて、真織は戸惑いながら微笑んだ。心の隅で、おもしろいかもしれないと思い始めていた。
「男の子たちは、なんと言っているの。たとえば、尾崎君とか」
尾崎貴明《おざきたかあき》の父は、高宮グループのメインとなる会社の会長だった。指導力を持つ父親に似て、貴明もこれまでオデパンの先頭に立ち、男性陣をまとめてきた。
「尾崎君は、彼女のせいで顔を出さなくなった人たちの中の一人」
美奈子が、ため息交じりに答えた。
「美馬君とか、イヴァン・クーラスとかもよ。つまりリーダーシップを取れる人物がいなくなって、結構がたがたしてしまっているわけ」
聞きながら真織は、わずかにうなずいた。まず、どういう理由でその女性を追及するのかについて、こちら側の意見をまとめ、合意を取っておかなければならなかった。
メンバー同士の恋愛は暗黙の了解で、個人の判断にまかせられている。ただ大人にふさわしい、上品なふるまいが要求されているだけであって、それも個人のセンスしだいだった。
複数の男性に言い寄ることは、女性から見れば上品なこととは言えなかったが、言い寄られた男性からすれば、うれしいことかも知れず、そこだけを追及すれば彼女の味方をする人間が現れないとも限らない。
それを避けるとなると、糾弾方法としては、華が書いてきた通り恋愛法廷を宣言することだった。だが、恋愛法廷を開廷するためには、被害者からの訴えが必要である。
「尾崎君に連絡がつくかしら。今、すぐよ」
華がバッグの中から携帯を取り出し、窓際に走りよっていく。その背中に、真織は声をかけた。
「私の名前を出してくださっていいわ。彼が出たら、代わって」
華は、片手でハワイ式のサインを出した。真織は、美奈子に向きなおる。
「今、彼女のねらいは、どこにあるの」
美奈子は、藍子に目を向けた。
「あなたが、ご存じよね」
藍子が、しかたなさそうに口を開いた。
「神山君よ。がっかりしてしまったわ、あんな女性にその気になるなんて」
美奈子が片目をつぶってみせる。真織は、そういうことかと了解した。では、藍子が訴えれば、恋愛法廷を開くことができる。
「オデパン正常化のために、協力するわ。私にとっても、大切な会ですもの」
言いながら真織は、四人を見回した。
「ただ、恋愛法廷は、ご存じのように当事者からの申し出がなければ成立しないものよ」
口をつぐんで真織は、藍子の顔色をうかがった。藍子は、わずかに視線を伏せただけだった。横顔は静かで表情に変化はない。どうやら自分の怨恨を理由に、表立った動きをしたくないようだった。
プライドが許さないのだろう。オデパンの浄化と私怨は、別のものとして考えたいと思っているのかもしれなかった。どんな場合でも、あくまで本人の自由を認める。これも、オデパンのポリシーの一つである。
では、問題の女性は、どういう方向から攻めればいいのか。現在、彼女といい関係にあるという神山を始めとして彼女の肩を持つメンバーもいるにちがいなく、うかつに行動すれば、オデパンが分裂しかねなかった。
真織は、窓際で電話中の華に目をやった。今は会に出てこないという尾崎を引っぱり出せるかどうかで、そうとう事情が変わってくる。
華は携帯を切り、再びかけなおしていた。尾崎は、現在、部長職にある。現場の最高責任者であり、おそらく半年先までスケジュールのつまっている毎日だろう。会議や取引先との打ち合わせ中、あるいは日本にいなくてつかまらない可能性もあった。
華は、三たびかけなおしを始めている。真織は奥歯をかみしめた。尾崎をあてにせずに動いたほうがいいかもしれない。となると、とにかくこの五人の間で基本線を引き、後は、相手の反応を見ながらやっていくしかなかった。
「訴えがなければ、恋愛法廷を開くことはできないわ。その他の方法としては、会の風紀を攪乱《かくらん》した責任を問うしかなくなるのだけれど、それでいいかしら」
三人は、うなずいた。真織は、もう一歩踏みこんで彼女たちの意思を確認する。
「で、どうなさりたいの」
三人は、口をそろえた。
「永久追放よ」
まあ、妥当なところかもしれなかった。
「わかったわ。彼女のプロフィールを教えて」
面と向かっての一騎打ちになるかも知れず、詳しい情報をつかんでおきたかった。
「メンバーの同伴で入ってきたのなら、調査してあるでしょう」
恭子がボーイに手をあげ、預けておいた封筒を請求した。
「お育ちは、よろしいとは言えないみたい」
真織は、届けられたA四判の封筒をあけ、パソコンで打たれた二枚の用箋に視線を落とした。
「両親の離婚で、母方の祖母の実家にあずけられ、放任されて、躾《しつけ》もあまり受けなかった様子なの」
近藤容子、二十八歳。地方で高校を卒業して上京、宝飾デザイナーを志望し、宝飾品店を転々とした末、三年ほど前にエトワに入社。間もなく、付き合いのあったカメラマンと結婚し、現在、新宿区内のマンションに住んでいる。
オデパンのメンバー角田俊之《つのだとしゆき》と出会ったのは、エトワ社に入った頃である。容子が新人研修期間で店頭に出て接客をしていた際、角田が妻と一緒に訪れたのだった。
「その時買った指輪にトラブルがあって、エトワが角田君の会社の近くだったことから、彼女がお詫びに行ったみたいね」
角田俊之の父親は、真織の父の傘下にある会社の社長の一人だった。収益的にいえば、グループ内では、「中の下」に位置する会社である。角田本人は、大学卒業後、いったん銀行に就職し、その後、父親の会社に入っていた。
「会社に足を運んだ時に、角田君が社長ジュニアだとわかったのでしょう」
角田が容子をオデパンに連れてくるようになったのは、それから一年後のことである。
「ところが、オデパンに来てみたら、もっといい条件の男の子がたくさんいたってわけね。加藤君に乗り換えると同時に、マンションでデザイナー事務所を開いたのよ。このお金を、加藤君がある程度出していて、だから次の薄田君と大変な喧嘩になったの」
薄田の次は木内、桑原と続いていた。
「ああ、本当にうんざりするような話ね。オデパンでこんな低次元の話題を交わす日が来るなんて、思ってもみなかったわ」
角田から桑原までつなげてグループ内の父親の地位を比較すれば、はっきりと上昇線を描いていた。わからないのは、現在ねらっているという神山である。
神山茂《かみやましげる》の父親は、取締役を務めてはいたが、俗にいうヒラトリで、能力を評価されている人物ではなかった。社長の地位にあった熱田の機嫌を取り結ぶのが上手で、そのために出世したのである。その熱田が心筋梗塞で死亡、社長が交代して社内の空気が一変してからは、過去の遺物扱いをされていた。
神山自身は、優しく気のいい男性である。だが覇気がなく、訥弁《とつべん》で、外見にも見るべきところがなかったため、派手で華やかなことをよしとするオデパンでは、あまりめだった存在ではなかった。
彼が一躍注目を集めたのは、オデパンの会がギリシャで開かれた時のことである。神山は、大学で専攻した考古学を生かし、皆をリードして古代の遊びを演出した。それ以降、メンバーには、高く評価されている。だが、それが近藤容子の心を惹きつけたとは、考えにくかった。
父親の地位もたいしたことがなく、本人の魅力もさほどではないとしたら、近藤容子が神山を相手にする理由は、なんだろう。
「彼女には、考古学の趣味があるのかしら」
真織がつぶやくと、三人は、まさかといったように目を合わせた。
「それでしたら、少しは尊敬できるのですけれどね」
「お勉強系は、お嫌いなのよ。本人は、必死に隠しているけれど、言葉も日本語しかできない様子で、以前、パシオンで食事をした時、フランス語のメニュウにひどく手こずっている感じだったわ。海外のオデパンには絶対参加しないし」
言葉が達者でないということは、オデパンにおいては、かなりな負荷である。何回か会に出ていれば、そのことに気づくし、そういう仲間たちとまともな付き合いをしようと思っているなら、すでに勉強を始めているはずだった。
「あの方が、男の子たちと交わしている会話って、それは、ひどいものよ。つまり、やったとかやらないとか、そんなことばかり。そのあからさまな言い方が、男の子たちには、新鮮に映っているみたいだけれど」
真織は息を吐き出した。そういうむき出しの女性と、これから向き合わなければならないと考えると、いささか気持ちが滅入った。どうも、センスのいい争いにはなりそうもない。
「マオさん」
呼ばれてふり返ると、窓辺で華が、飛び上がらんばかりに大きく手招きしていた。
「つかまりました。本人です」
真織は走りより、華から携帯を受け取った。尾崎を味方につけることができれば、半ば勝ったようなものだった。
「お久しぶり、高宮です」
意気ごんで言うと、小さな送音口の向こうから懐かしい声が返ってきた。
「よお、マオ」
二十五年前と少しも変わらない、滑らかで低い響きだった。
「今日の香水は、何」
真織は、ちょっと笑った。
「そういう話から入るわけ。相変わらずね」
電話の向こうで、ベッドがきしんだ。
「夜の十二時まで打ち合わせで、明日の朝七時には早朝会議って真夜中に、いきなりたたき起こされた僕の気持ちにもなってくれ。下着の色を教えてくれたっていいくらいだね」
やはり日本には、いないらしい。
「今、どちらなの」
真織が聞くと、貴明は声をひそめた。
「しっ、隣の美女が起きる」
真織は、あいていた片手を額に押し当てた。長い年月の間にすっかり忘れていた貴明の女好きを急に思い出し、頭が重くなるような気がした。これだけが欠点で、いくら説教しても直らなかったのである。大学時代から、彼女との一泊旅行の口実に使われ続けた真織としては、山ほど恨みがあった。
「わかったわよ。今すぐ部屋を出て、どこかから、華ちゃんの叔父様のホテルにかけ直して私を呼び出してちょうだい。待っているわ」
そのまま切ろうとすると、あわてたような声が耳に届いた。
「頼むから眠らせてくれ。早朝会議だって言っただろう。通訳なしだぜ」
真織は、かまわず言い放った。
「これを切って、三分以内にあなたから連絡がなかったら、奥様に電話を入れますからね。では、どうぞよろしく」
まったく強引なんだからな。まいるよ。
これが、ようやく俺への愛にめざめて告白し、かつ謝罪して、今後のことについて話し合いたいっていうのだったら、許すけれどね。で、何。
ああ、そのことね。俺がオデパンに出て行かなくなったのは、まあ、確かにそういうことだよ。
初めは、普通の仲間として付き合えると思っていたんだけれどね。夫が戦場写真専門のカメラマンっていうのも、おもしろそうだったし。だけど、あまりにも慎みがなさ過ぎるから、だんだん不愉快になってさ。
確かにオデパンは、遊ぶ会だよ。でも俺たちの遊びは、豊かだろう。多種多様、いろいろなことで遊んできた。ところが彼女の遊びときたら、唯一つしかない。つまり、セクシュアルな関係さ。それしか知らない貧しい精神だ。
単刀直入に誘ってくるのが刺激的でいいって、そう言った奴もいるよ。誘われたら、男として断われないからって言いながら、はまっていった奴もいる。皆、どっちかといえば、女にモテないタイプの連中さ。
はっきり言ってね、俺は女に不自由してない。俺が不自由しているのは、本当に心を許せる友人、つまり仲間だ。心置きなく遊び呆けられる仲間。それこそ、女なんかより数倍も手に入れにくいものだ。それを、オデパンに求めている。あと、高尚な遊びもね。
今までオデパンは、そういう要求を満たしてくれるものだった。メンバーは、男女に関係なく、皆いい仲間だった。ところが彼女が入ってきて、引っかき回して、そういう図式を崩しちまったのさ。セクシュアルな関係を結ぶだけが目的の、出会い系サークルみたいな雰囲気になっていった。それが、気に入らなかったんだ。
あと、美馬が彼女に反発して抜けていったことにも、結構影響されたかもしれない。美馬は何も言おうとしないから、こっちも聞いてないけれど、あいつを、あれほど怒らせる女って、信用できないって思ったよ。
あなたから見れば、俺は、めちゃくちゃなことをしているように感じられるだろうけれど、オデパンのルールは守ってきた。仲間を大切にしている。それは、わかってくれるだろう。俺たちは、一緒にオデパンを作ってきた。育ててきたといっても、いいかもしれない。そうだろ。
だって、必要なものだったんだ。俺たちの誰もが、それを感じていたはずだ。なぜって、自分の自立を考えなければならない思春期に、俺たちは皆、どうしたって超えることのできない立派な親や素晴らしい家を抱えていたんだから。
ほんの少しの夢も見られなかった。将来は決められていて、動かすことができなかった。ふてくされて、同じ悩みを持っているもの同士で、支えあい、遊び狂った。そんな中で、お互いになんとか現実と折り合いをつけ、自分を生かす道を見つけ出してきたんだ。
今になれば、親の影響力は当時ほどじゃない。だが、今度は、自分の力だけで、社会の中での競争に競《せ》り勝っていかなきゃならない。そんな時には、オデパンの仲間が、やっぱり必要なんだ。だから、ほんとうに大切にしてきた。
ところが近藤容子にとって、オデパンは、ようやく発見した獲物の多い森なんだ。たどりついた豊かな海なんだよ。収穫しなくちゃ損、って感じだろう。
他の連中は知らない。だが、俺は、獲物扱いされるのは真っ平だ。狩人や漁師になるのは、俺さ。でなきゃ、おもしろくない。
美馬と話し合って彼女を追い出すことも、そりゃあできたさ。だけど、やりたくなかった。美馬も俺もね。相手は女だぜ。まともにやりあうなんて、男としてできないよ。いびり出すみたいになるだろう。もちろん向こうだって、そういう格好に持っていくだろうし。
そうなったら、彼女を支持する連中との間で、オデパンが空中分解ってことにもなりかねない。それは避けたかった。悲しいじゃないか。それに、どんなスキャンダルに仕立てられるか知れたものじゃないよ。俺たちだって、今は週刊誌に売れるくらいの地位には、なっているからね。
そんなところで争って消耗するより、自分が引こうって気になったわけさ。たぶん、美馬も同じ気持ちだったんだと思うよ。
まあ、オデパンを守ろうとしなかったって言われると、それまでだけれど。でも、それはね、先にさっさと引いていったあなたから言われたくないことの一つだと、言っておこう。
あなたが来なくなったことで、顔を出す気力をなくした奴もたくさんいたんだよ。いや、本当本当。
しかたがないよ。なんだって変わっていくんだから。だからこそ、一瞬の真実を求めて人間は恋をする。そういったのは、アポリネールだったっけ。ああ、バザンね、失礼。
相変わらず人の揚げ足を取るそのくせは、早くなおさないとモテないぜ。ああ、もうご主人がいらっしゃる。失礼。
でもマダム、恋人も一人や二人、よろしいのでは。恋なくして人生なし、と言ったのはキルケゴールだ。いや、カマトウシスだったね、重ねて失礼。
で、そろそろ寝かせていただきたいのですが、よろしいでしょうか。
え、オデパンの正常化、そりゃあまた、結構なことで。終身裁判官のあなたらしい発想ですね。
いや、ばかにしているわけじゃないよ。ただ心配しているだけさ。つまり、あなたのように恵まれた人間は、彼女のような人間と同じ土俵に立つべきじゃないと思うよ。
ほう、恵まれていても、必ずしも幸せとは限らないと。まあ、否定はしない。おまけに俺の使っている恵まれるという言葉の定義に問題があると。わかった。日本に帰ったら、ゆっくり話を聞くよ。だから、お願いだから今夜は寝かせてくれ。
って言ってるのに、いったい、いつからサドなんだ。ああ、もうわかった、何でもするよ。
女王様は、何をお望みで。
はいはい、わかりました。ご協力申し上げます。何、言い方が気に入らない。なんてわがままなんだ。いえ、独り言です。申し訳ございません。オデパンの正常化は、私の切なる願いであります。そのために私は、協力を惜しみません。どんなことでもお申し付けくださいませ。これでよろしいでしょうか、マ・レーヌ。
おい、絶句するようなことを言ってくれるなよ。今、俺がどこにいると思ってるんだ。インポシブルだろう。
あ、ああ、そんな古い話を持ち出すわけか。卑怯《ひきよう》だぞ。くっそ、何でもやる気だな。前言撤回だ。あなたの性格は、実は近藤容子といい勝負かもしれない。いや、勝てるかも。
わかったよ、わかった。はいはい、俺に二言は、ありません。絶対にない。おっしゃる通りにいたします。じゃあね、もういいだろ。切るよ。
え、まだあるの。いい加減にしてくれ。もう、早く言えよ。
神山の交友関係っていったら、大学の同学部の連中くらいだろ。あいつ、付き合いが狭いからな。あと、美馬も結構仲良くしてたみたいだけれど。他には心当たりがないね。
美馬に連絡を取れって。いいよ、明日にでも。ああ、わかりましたよ、今すぐさせていただきます。ただ、あいつも海外かもしれないけれどね。この間からずっと、ドイツのプロジェクトにからんでるから。あなたが熱烈に会いたがっているって伝えてはおくけれど。問題は、愛情がどこまでの時速を出せるかってことだろうな。
ほう、ようやくおやすみを言う気になってくれたわけだ。うれしいよ。俺がこれから寝られるかどうかは別にしてね。覚えてろよ。
電話を切って、真織は微笑んだ。尾崎は、ちゃらんぽらんに見えながら、実は意志が強い。感情や状況に流されることは絶対にないし、いやなことを我慢して引き受けたりもしない。何のかんの言いながらも結局、了解したのは、彼もまたオデパンに戻ってきたいと思っており、そのために力を貸す気になったということに他ならなかった。
それにしても、尾崎のオデパン観が、これほど真剣で真面目なものであるとは思わなかった。真織などは、いまだにただのお遊び集団と思っているというのに。
それは、結婚することによって、親や家の拘束から逃れることができると信じていた真織と、生涯、それを背負っていかなければならないと覚悟していた尾崎との、心構えの違いなのかもしれなかった。
尾崎は、オデパンによって、生まれ落ちた環境を克服し、意義のある人生を生きようとしてきたのだ。そう考えると、真織は、自分の無為が恥ずかしかった。
「どうでした」
華が、心配そうにこちらをのぞきこむ。真織は、電話の載っているデスクに背を向けるようにして椅子を回し、華に向き直った。
「協力してくれるみたいよ。問題は、彼が今、日本にいないってことなんだけれど、引き受けたんだから、きっとなんとかするでしょう」
華は、わずかに眉根を寄せた。
「私、はらはらします。マオさんって、昔から男性に向かっては結構きつくて傲慢で、無理ばかりおっしゃるんですもの。男の子たちが、よく黙ってついてくるなあって思って感心してしまうくらいです。ご主人にも、そんなふうなのですか」
真織は、苦笑しながら腰を上げた。
「いいえ、何一つ逆らわない良妻賢母よ」
それがいけなかったのかもしれないと、真織は思った。
隆の世界は、真織からあまりにもかけ離れていた。そこには、真織が驚くものばかりしかなく、真織は、自分の価値判断の基準を持ちこむことができなかった。だから、隆の考えを、自分の物差しにした。すべてに隆の意見を聞き、それに従って進んできた。
その上にできあがった家庭に、真織の意見が少しも反映されていないのは、あたりまえのことだった。真織は、隆のための家庭をせっせと作り続け、自分をその外に置き続けてきたのだ。そして隆は、真織をその中に迎え入れようとはしなかった。
「お部屋、使用、終わりましたから」
華がレセプションに電話をかける。
「ええ、マネージャーに連絡してください。私、今日はそちらに回りませんけれど、明日早くには。はい、お疲れ様です」
意外に、てきぱきとした応対だった。真織が驚いていると、華が電話を置き、はにかみながら言った。
「今、このホテルで働いているのです。私、結婚していないから、母が心配して、もう年なのだから急いで結婚するか、何か仕事についた方がいいと言い出したのです。いくら財産があっても、将来一人で時間をもてあまして、寂しい思いをすることになるからって。でも、結婚したいと思わなかったので、叔父に頼んでここで働くことにしました。仕事を覚えておけば、香港に帰って母の手伝いをすることもできますから。生まれて初めて仕事について、たいへんなこともありますけれど、でも楽しいです。男の子たちが仕事に夢中になるのも、わかる気がします。一生懸命すればするほど、毎日が充実するのですもの」
真織はうなずき、華の後に従って廊下に出た。
誰もが、自分の生き方を見つけなければならない。間違えて生きてきてしまった真織は、これから新しい生き方を模索するしかなかった。
隆は、絶対に離婚に同意しないだろう。心の通わない結婚をしたままで、いったいどんな生き方ができるのか。もう一度人生をやり直すことが、果たして可能なのか。
華と真織が、先ほどの中二階に戻って行くと、ソファに座っていた三人が、それぞれに立ち上がった。真織は、藍子のそばにより、耳にささやいた。
「神山君は戻ってくるわ。たぶん利用されているだけよ。彼女は、彼を使って何かをしようとしているのだと思うの」
藍子は、一瞬、視線を泳がせた。
「まあ。でも、それはそれで別の意味で不愉快よ」
真織は笑わずにいられなかった。恋愛関係は難しい。
「そろそろダイニングの方にお移りくださいって、係の方が」
華に言われて、真織は大きく息を吸いこんだ。
「先に行ってらして。私は、狩りをしてから行くわ。女狐《めぎつね》を一匹ね。シガールームはどちら」
シガールームは、五階の、エグゼクティブフロアの奥にあった。エレベーターを降りると、他の階とは絨毯の色が違っており、踏み出した真織の靴先を深く包みこんだ。これだけ毛足の長い絨毯を敷いているホテルは、ヨーロッパにもめったにない。エグゼクティブとはいえ、廊下の絨毯がこれなら、スイートの客室などは、かなりの設《しつら》えにちがいなかった。一度泊まりに来てもいいかもしれないと思いながら、真織は、壁に取り付けられた金の矢印にそい、シガールームの前までたどり着いた。
樫材の両開きの扉に、シガールームと焼印が押され、葉巻の形をした金のノッカーが取り付けられている。あたりに係員の姿はなかった。
真織は、扉の取っ手をつかみ、そっと押してみた。重厚な外見とは裏腹に、扉は、きしみもせず、軽く動いた。わずかな隙間から、強い葉巻の香りが流れ出す。ざわめきに混じって、張りのある女性の声が聞こえた。
「あなたたちの中で、まだ私とやってないのは、たった三人だけよ」
真織は、扉の隙間に耳を押し当てた。
「何を恐がっているの。意気地なしね。それとも道徳とかに縛られているわけ」
ピンヒールの鋭い音が、部屋の中をゆっくりと動く。響き方から察して、床は大理石パネルと寄木で、近藤容子は、男性たちの間を歩き回っているようだった。
「くだらないこだわりは、捨てた方がいいんじゃない。オデパンは、遊ぶ会なんでしょう。私を抱いてみたいと思わないの。かなりいい女よ。ねえ深田君、あなたなら証明できるわよねえ」
低い笑いがおこり、冷やかしの声があがった。
「でも、ここじゃ無理だよ。ベッドがない」
笑いが大きくなり、ビリヤードの玉の雪崩《なだ》れ落ちる音が響いた。
「あら、あの台の上から玉をどければいいだけの話でしょう。皆の見てる前でやるなんて、ちょっと刺激的だわ。どう」
つまりこうやって、女狐は、獲物を狩り出すのだった。真織は、身を起こして扉から離れ、エレベーターホールに引き返した。そこに置かれていた電話を取り上げ、レセプションを呼び出す。
「今日、シガールームをお借りしているオデパンの高宮です。エグゼクティブフロアの係の方に、急いで五階まで来ていただけないかしら。シガールームの扉を両開きにしていただきたいの」
扉ひとつにも、ルールがある。
真織は、過去に一度だけ、その決まりを破ったことがあった。ヴェルヴェデーレ宮殿内で大人たちとはぐれた六歳の時のことである。ここぞと思う両開きの扉を、必死になって片方だけ開き、何とか父の仕事関係者のいるホールに出た。母にひどく叱られた。
たとえ宮殿内に閉じこめられたとしても、自分で両開きを開くようなはしたないまねは、断固してはならないと言われたのである。あまりの叱責を見かねた父が、真織を玄関に連れ出して、こう教えた。
「あそこに立っている人たちを見てごらん。あれは、扉を開く係の人だ。皆が自分の手で扉を開くようになったら、彼らは用がなくなり、解雇されてしまう。人から職を奪っては、いけない」
それからしばらくの間、真織は、扉を見ると立ちすくむようになった。教えられたすべてのルールを踏み破ることなく、その場に応じて活用できるようになったのは、小学校高学年になってからである。
「お待たせいたしました」
やがて、従業員用のエレベーターから、二人のボーイが姿をみせる。
「どうぞ」
先に立って、シガールームの前まで真織を案内すると、彼らは、両脇に分かれて扉の取っ手を握り、呼吸を合わせながら真織の気配をうかがった。真織は扉の向こうに、はしゃいでいる近藤容子の姿を思い描き、大きく息を吸いこんで言った。
「開けてちょうだい」
ゆっくりと扉が開いていき、壁にモーヴ色のブロケード織りを張った暗い室内が露《あらわ》になる。突き当たりに小さなカウンターを設けて大理石パネルを張り、残りの部分を寄木で埋めた床の上に、コルドバ革の椅子と、黒檀の丸テーブルがおかれていた。天井から下がった七宝の白いシャンデリアが、思い思いに座ったメンバーの上にぼんやりとした光を投げかけている。
扉近くに座っていたメンバーの一人が、空気の流れに気がついてふり向いた。真織は微笑んだ。彼は、信じられないといったように首を横にふった。
「マオだ」
つぶやきを耳にした男性たちは、いっせいにふり返り、あるいは立ち上がった。
「すごい」
「マオが来ている」
「何年ぶりだ」
歓声を上げて彼らは、出入り口に駆けよってきた。次々とさし伸べられる手から、真織は笑いながら身を引き、後ずさった。
「皆様、お久しぶり。ご機嫌はよろしくって」
合唱のような返事が返ってきた。
「もちろん。僕らは、いつも最高だ」
両手を拳に握り締め、力をこめて床を踏み鳴らしながらくりかえすいつもの挨拶だった。
「最高だったら最高だ」
誰かが止めない以上、いつまでもくりかえされる。真織は、二十三回を数えてから、両手を上げた。自分がこの会を留守にしていた年数だった。
「では皆様、ダイニングルームの方にいらして。そちらでゆっくりお話しいたしましょう。なにしろ女性の身では」
言いながら、彼らの後方に立っている近藤容子に眼を向けた。
「このお部屋には、入れませんもの」
容子は、真織が思っていたより、ずっと小柄だった。足元は見えなかったが、先ほど響いていたのは、明らかにピンヒールの音である。八センチ以下のピンヒールというものは存在しないと思ってもよいから、その分を引くと身長は、高めに見積もっても百五十六センチあるかないかだった。
ローズピンクのワンピースに包んだ体は、やせて骨ばっている。頭部が大きく、頭身は六を切っているかもしれなかった。ワンピースの胸元は、ニューヨークカットである。深くくれており、盛り上がったバストがのぞいていて、ここだけは合格点をやってもよいかに見えたが、正面から見ると、横幅が妙に狭く、取って付けたような不自然な感じを免れなかった。
補正用のブラジャーで胸を寄せ、盛り上げているために幅がでないのだろう。ウエスト部分の服地にもたつきが見えるのは、体に合っていないからにちがいなかった。
髪は脱色をし、レイヤーを入れたカジュアルロング。顔はエラが張っていて、イタリアあたりならモテなくもないといったところだった。眉を全部そり落として細く描き、一重まぶたの目をぐるりと黒く縁取り、唇を厚く塗っている。官能的に見せようとの意図なのだろうが、品が落ちてしまっていた。
この程度の女にオデパンがかきまわされたのかと思うと、真織は、しだいに腹立たしくなった。
「さ、皆様、どうぞ、出ていらして」
言いながら真織が廊下の端まで下がると、男性たちは、嬉々としてシガールームから出てきた。ただ容子だけが動かない。最後のメンバーが扉のところまで来たのを確かめて、真織は二人のボーイを代わる代わる見た。
「これで全員です。閉めてください」
廊下にあふれている男性たちの間に、わずかな緊張が走った。神山が、あわててシガールームに入っていく。真織はそれを無視し、全員に微笑みかけた。
「では皆様、まいりましょう。女性メンバーが待っておりましてよ」
身をひるがえし、先に立って歩き始めると、間もなく背後から神山の声がした。
「高宮さん、実は、紹介したい方が」
真織は振り向いた。容子を伴った神山が、メンバーたちの間から出てくるところだった。
「近藤容子さんです。宝飾のデザインをされています。今、女性誌『ヴォイス』で特集記事が出ているところで」
容子は、手持ちのバッグを開け、黒の名刺入れを取り出しながら真織を見た。
「初めてお目にかかります。お噂は聞いていましたが、まあ、なんて綺麗な方。肌が透き通るよう。びっくりしました。スタイルも抜群だし。うらやましいわあ。腕にしているのは、ショーメですね。とってもお似合い。今度ぜひ、私の作品をプレゼントさせてください。私、綺麗な方を見ると創作意欲がわいてくるんです、ムンムンとね」
つまり、こういう要領でメンバーに接近し、巧みに誘いをかけては、仕事につなげてきたということなのだろう。
「素敵なのをさしあげます。お楽しみに」
真織は、肉付きの薄い容子の顔を見ながら、自分の出方をあれこれと考えた。単刀直入に、出て行けと言うこともでき、嫌味や皮肉を連発して拒絶するという手もあり、また、その存在が見えないかのようにふるまい、まったく無視することによって追い出すという方法もあった。
注意しなければならないのは、男性メンバーの気持ちである。彼らは、シガールームに入れるほど彼女を気に入っている。はっきりとわかる形で真織が攻撃すれば、おそらく彼女に同情し、肩を持つだろう。
尾崎が言っていたように、彼女もそれを利用し、あおるにちがいなかった。そうなったら、オデパンは本当に分裂しかねない。
「まあ、うれしいですわ」
言いながら真織は名刺を受け取り、にこやかな笑みを容子にむけた。
「では、お目にかかったことを記念して」
表立った攻撃ができないとなれば、方法はひとつである。向こうから攻撃させること。そうしながら時間を稼ぎ、尾崎か美馬の助けを待つよりなかった。
「ダイニングルームに移動するまでの間に、ひと遊びしましょう」
真織は、容子の手を取って男性陣の先頭に出た。
「皆様、シリトリをしながら移動いたします。指揮は、私が執りますわ。皆様の間をひとまわりしたら、最後は容子さんがお答えになるのよ。よろしくって」
誰にも、異論のあろうはずがなかった。
「では、シャンジュ」
真織の後ろにいたメンバーの一人が、大声で答える。
「アントレ」
その隣から、すかさず次の答が響いた。
「オ」
シリトリは続いていく。容子の微笑みは、しだいにこわばった。真織は、素知らぬ顔でシリトリに興じるふうを見せていた。
「ユナニム」
順番は、容子に近づいてくる。あと二、三人を残すだけになった頃、真織の腕に容子の手がかかった。
「すみません。あの、ルールがよくわからなくて」
真織は、眉根をよせた。
「まあ、ごめんなさい。初めてですものね。当然ですわ。でも大丈夫。簡単ですのよ。フランス語で、語尾の一字、あるいは二字をとってつなげていくだけですから」
容子は顔色を失った。真織は、驚いたふうを装う。
「もしかしてフランス語は、ご堪能ではいらっしゃらないの」
容子は、あわてたようにうなずいた。
「ええ、フランス語だけは、どうも肌が合わなくて」
真織は、腕を伸ばして容子の背中を抱いた。
「それは失礼いたしました。今、変えますわ。初めに私が申し上げたシャンジュというのが、これからフランス語を使うという合図ですの。これは指揮者が自由に出していいものですから、今、容子さんのお得意な言葉に直しますわ。何がよろしいかしら。ラテン語、それともギリシャ語」
容子は、目を見開いて真織を見た。あまりにも大きく開いたために、ゆでた卵に黒い点を描いたかのように見えた。真織は、柔らかに笑って見せた。
「言葉遊びは、もっともオデパンらしい遊びの一つですのよ。あら、容子さん、あなたの番がきています。応援いたしますわ。何語になさいますの」
容子は、ひと声も出せなかった。
「まあ、お気になさらないでね、容子さん。なんといっても初めてなのですもの。でも、もうお慣れになったでしょう。では、もう一度。今度は、そうね、カンビオ」
真織の声に重ねるように、叫びに近いような勢いのいい言葉が飛び始める。だれかがカンツォーネを口ずさむと、たちまち大合唱がはじまった。廊下を行きかう客が驚いたように足を止める。真織は、軽く会釈をして彼らをやりすごした。
「皆様、もう少しお静かになすってね」
なごやかに言いながら真織は、容子の顔色をうかがった。うつむいた頬が震え始めていた。
「容子さん、今度こそお答えになってね。ほら、番ですわ。皆様、一瞬、足を止めてください。容子さんにお力を貸して差し上げて」
男性たちは立ち止まり、口をつぐんで容子を見つめた。沈黙が広がる。
「容子さん、どうかなさって」
真織が声をかけた瞬間、容子がぶちまけるような叫びを上げた。
「いい加減にしてよ、人をばかにして。あんたみたいに意地の悪い女、見たことないわよ」
神山が飛び出してきて容子の両肩に手をかけ、自分の方に向き直らせた。
「それは誤解だ。オデパンでは、よくやっていることなんだ」
容子は、ふっと笑った。
「あ、そう。何語もできなくて、悪かったわねえ。どうせ私は、教養なんてないわよ。でも、人間の価値ってのは、そんなことで決まるもんじゃないんじゃないの」
真織は、黙っていてもよかった。そのほうが、メンバーの目に、容子のヒステリックさがはっきりと映ったかもしれない。だが彼女のいう通り、しかけたのは真織である。その責任を、引き受けておきたかった。
「人間の価値なんて言葉が、あなたのお口から出るとは思わなかったわ」
言いながら真織は、容子の正面に回りこんだ。
「あなたは、やると、やらないしか、おっしゃらない方だとばかり思っていましたもの。誰彼かまわずにお誘いになるんですってね。つまり、そうしなければ、男性を手に入れることのできない方なのね。お気の毒に。本当にいい女というのは、黙っていても誘われるものよ。餌をまき散らして誘いこむなんて、大きな声ではとても言えない恥ずかしいことよ。お慎みなさい。それでオデパンのメンバーと親密になったとしても、ご自分に魅力があるなどと誤解なさらないでね。それは、気の迷いとか、間違いとか呼ばれるべきものです。すぐにさめて、後には何も残らないわ」
容子は真織から顔をそむけ、半ば笑いを含んだ唇に力をこめた。
「こんなにむかついたのって、初めてだわ。いいわ。私も言わせてもらう」
髪の先が頬を打つほど強く、容子は真織を振り仰ぎ、こわばった頬をゆがめるようにして大きく口を開いた。
「なに偉そうにしてんのよ。あんたって、財産目当ての男にだまされて結婚したんだそうじゃないの。あんたの旦那、貧乏人の生まれで、スキーもしたことないんですってね」
真織は息を呑んだ。容子の目の中で歓びが躍り上がる。
「もちろん、ダイビングもグライダーもだめ、そういう話についていくことさえできなくって、皆の前で仏頂面をしたあげく、出されたお酒のラベルのロシア語が読めなくて、チェコの酒だと言いはったそうじゃないの。当然、さっきの遊びにも入れなかったんでしょうねえ」
いく人ものメンバーと関係を持つだけでなく、角田から桑原にいたる上昇線を描くことができたのは、勘がすぐれていたというよりも、充分に情報収集をしながら動いたということであろう。このグループの代表の娘である真織についての情報を、集めていないわけがあるだろうか。
「皆が、シャンパンで乾杯しようとした時には、こう言ったそうね。いや、シャンペンよりビールがいい。シャンペンよ、ペン」
隆がオデパンに出席したのは、一度きりである。エピソードは、その時のものだった。いったい誰が話したのか。
「ワインをまるっきり知らなくて、最初から最後までビールでよくて、一樽分ほども飲んだんですってね。何とか彼を話題に入れようとして、誰かが、どんな遊びをなさるんですかと聞いたら、こう言ったんですって。マージャンだけですが、結構強いんですって。なんてダサい男」
真織は、男性メンバーに向けている自分の視線がしだいに厳しくなっていくのを感じ、あわてて目を伏せた。くりかえし自分に言い聞かせる。怒ることは簡単だ。誰にでもできる。だから、しない。泣くこともできる。簡単だ。だから、しない。美しく振る舞おう。今、自分がしなければならないことに全力を傾けよう。
「じゃあ音楽でもってことになって、みんなに楽器を配り始めたら、そそくさとタバコを吸いに出て行ってしまって、戻ってこなかったって。そんな男と結婚してて、あんた、幸せなの。ま、あんたは、いいかもしれないわね。こうして男をはべらせて、女王様気取りで。あ、わかった。これは、あんたのストレス解消なんだ。でも、旦那の方はたまんないよね。こんなお高い女房じゃ。あんた、いい気になってないで用心することね。絶対いるわよ、女」
言葉が切れると、笑い声が続いた。真織は、声が震えないように喉から力をぬいて言った。
「おっしゃりたいことがそれだけなら、どうぞ、お帰りください。私たちは、これから楽しい夕食会ですの。それとも、ご一緒に召し上がる」
容子は、一瞬、真織を見据え、身をひるがえすようにして男性たちに向き直った。
「こんな女がいなくても、私たちは、楽しくやっていけるわ。もっと楽しませてあげるわよ。行きましょう」
真織は、メンバーを見回した。彼らが動いたら終わりだと思った。
「何よ。何で黙ってるのよ。ほら、行きましょうったら」
容子は先に立ち、階段の方へと歩きかけた。一足進むごとに、その背中と男性メンバーとの間の空間が大きくなる。容子は振り返った。
「来ないの。ああそう、いいわよ。神山さん、あなただけでいいわ。あなたは、私を裏切ったりしないわよね」
神山の靴先が容子の方に向きかけるのを見て、真織は声を上げた。
「お帰りになるのなら、お一人でどうぞ」
神山の動きが全体にどう影響するか、読めなかった。止めることができれば、それに越したことはない。
「私たちは、これから会合ですと申し上げたでしょう」
容子は、目だけで笑った。
「神山さん、この女を取るの、それとも私を取るの、はっきりしてよ」
神山が真織を見た。わずかに頭を下げる。真織はあきらめ、目をつぶった。力は尽した。あとは、現実を受け入れるしかなかった。男性たちがざわめく。神山が出て行くのだろうか。全体が動くのだろうか。
「取るなら、やっぱり僕だろう」
聞き覚えのある声だった。目をあけると、メンバーをかきわけるようにして、美馬|貴司《たかし》の甘やかな笑顔が現れるところだった。
「久しぶりに全員がそろうって尾崎から電話が入ったからあわてて駆けつけてきたのに、神山君、それはないだろう。捨てないでくれよ」
肩を抱かれて、神山は動けない。美馬は、笑いながら容子を振り返った。
「ということで、男の友情に免じて、今日のところは引き上げてくれ。悪いな」
容子は大きく息をついた。腹立たしげにも、また思い切りをつけたようにも見えた。
「それじゃ、今日は、これで」
言い置いて、一瞬、真織をにらみつけてから背を向け、廊下の突き当たりの階段を下りていく。真織は、心の底からため息がでるような気がした。
「マオ、元気だったかい」
美馬が大きな右手を差し出す。受け止めながら真織は、男性陣の向こうに先ほどまでいなかった何人かの顔を見つけた。尾崎に頼んで招集をかけた脱退メンバーである。反・容子勢力として使うつもりだった。
「遅いわよ」
力まかせに握り締めると、美馬は、昔のように皮肉げな笑みを見せた。
「尾崎から電話があった時、実は、この近くのビルでちょうど会議が終わったところだったんだ。で、すぐ来たんだけれど、あなたの演説があまりにもすばらしかったんで、感動して聞きほれてて登場が遅れた」
真織は思い出した。尾崎と美馬は、二人共いたずら好きで、組ませると、ろくなことになった例《ため》しがなかったと。
「冗談じゃないわ。どうなることかと思ったわよ」
脇で、神山が申し訳なさそうにうつむいた。
「彼女にあんなこと、言わせてしまって、すみません」
真織は、こちらを見ているたくさんの視線に向かっていった。
「別にかまわないわ。皆が知っていることですもの。それに私」
真織の心を重くしていたのは、喪失感だった。何かを失ったという気持ち。それは若さであり、時間であり、夢だった。だが、すべてが失われたわけではない。まだ力が残っている。時間も、ないわけではなかった。
「やり直すつもりでいるの。新しい人生をさがすわ」
メンバーたちの大きな声が響いた。
「お手伝いします、極めて積極的に」
仲間もいる。多少、頼りなくはあるけれども。
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京都の狐狩り
「京都に集合」
耳元で急に言われて、真織は携帯電話を握りしめた。
「それって、何」
思わず日本語になる。薄暗い空間の中で、照明の当たっている作品群に見入っていた人々の何人かが、こちらを振り返った。
「Zitto(しっ)」
「Silenzio(静かに)」
日本なら、多少にらまれるくらいですむところである。
「Non fate chiasso(声を出すな)」
真織は、彼らに片手を挙げながら、通路に向かった。急ぐあまり床の凹凸に足先をひっかけ、つまずきそうになった。スフォルツァ城内部は、いまだにバリアフリーになっていない。芸術的配慮か、それともただ遅れているだけなのか。
見学順路に逆らい、旅行者集団の間を掻き分けて歩いていくと、またも声が飛んできた。
「Eh《こら》」
前方から小学生を引率した女教師がやってきて、真織の前で立ち止まり、こういうことをしてはいけませんと、生徒たちに教え始める。
「かけなおしましょうか」
様子を察したらしく、電話の向こうで御堂寺恭子が言った。
「今、どちらにいらっしゃるの」
光の降り注ぐ庭までたどり着いて、真織は体の力をぬいた。見渡す限り広がるセンピオーネ庭園のかなたに、イタリアを征服したナポレオンが勝利の入城をした凱旋門が見える。そのさらに向こうには、古い街道がパリまで続いているはずだった。
「ミラノよ」
仰ぎ見れば空には、駆け足で立ち去るこの地方の秋にふさわしい、冷たさを含んだ光が満ちていた。
「晴海谷にいれる作品を物色中なの」
真織の父が代表を務める企業グループは、現在、二つの美術館を保有、運営している。二〇一〇年には、都心近くに三館目を開館するため、プロジェクトが進行中だった。
『今度は、テーマ性を明確に出したものにしたい』
との父の意向で、真織も、多少の協力をすることになったのである。
「ミケランジェロの遺作なんていいかもしれないと、急に思いついたものだから見に来てみたのよ。本当なら、テーマを先に決めてから現物の調査ということになるのでしょうけれど、そんなスタンダードな線なら、他の方々がお引きになるでしょうし、一つの素晴らしい現物が全体を引っ張って、そこからテーマが決まっていくということもあるでしょう。久しぶりにミラノ風のオッソブーコが食べたかったというのも、理由の一つよ。昨日いただいたわ。バターが最高」
ひと呼吸おいて、恭子らしいおっとりとした声が返ってきた。
「まあ、私なら、断然スカロッピーナ・ア・ラ・ミラネーゼです。お話ししているだけで、もう顎の下が痛くなりそう。今夜はイタリアンに変更します。ミラノ風のお店を探さなくっちゃ。でもマオさん、ミケランジェロの遺作って、『ロンダニーニのピエタ』のことでしょう」
ピエタというのは、嘆きの聖母像とも言われ、イエスの遺体を抱いて悲しんでいるマリアを表した彫刻や絵画の総称であり、テーマのことである。
「私も、あれはなかなかだと思いますわ。でもマオさんは、ミケランジェロがお好きでなかったのじゃなくて」
真織は苦笑した。恭子の言っているのは、おそらくオデパンの面々でヴァチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂を見に行った時のことだろう。
「ダンテさえ感嘆したというあの礼拝堂の天井画も、『最後の審判』の壁画も、ちらっとご覧になっただけで、すっと通り過ぎてヴァチカン図書館の方に行ってしまわれたんですもの。皆で言っていたのよ。マオさんは、ミケランジェロがお嫌いらしいって」
ミケランジェロ・ブオナロッティは、十五世紀生まれの芸術家である。ルネサンス時代の人間にふさわしく、彫刻、絵画、建築、詩作など多くのジャンルに作品を残した。晩年に三つのピエタを制作したが、『ロンダニーニのピエタ』が最後の作品で、死ぬ直前まで鑿《のみ》をふるっていたと言われている。
「嫌いじゃないわ」
言いながら真織は、庭園の向こうから、しきりにウインクを送ってくる若い男に背を向けた。
「ただ、彼の絵は、評価できないと思っているだけよ。彫刻なら、気に入っているのがいくつかあるの。特にロンダニーニは、未完成のまま完成されている気がするの。不思議な魅力だわ」
恭子は、声をひそめた。
「でもあれは、確か今、ミラノ市立美術館の所蔵だったと思います。公立の美術館が外国の企業の取引に応じますかしら」
男は庭園内の小道を突っ切り、真織の前に回ってきた。真織は再び背を向ける。
「ラテン系の国は、お金しだいよ。力のあるブローカーを見つければ、どんなものだって何とかなるわ」
男は再び真織の前に回りこみ、微笑みかけてきた。幅の狭い顔に縮れた黒髪をたらし、褐色の肌をしている。どうやら南の生まれらしい。カラブリアかバジリカータ、あるいはサルディニアといったところだろうか。場所によっては、同国人から、ほとんどアフリカと言われかねない地方である。
「ところで」
真織は、みたび男に背を向け、彼が正面に立てないように吹きぬけの円柱と向かい合うと、そこに額を押しつけた。
「京都の話に戻っていただけるかしら」
誘いかける男がわずらわしく、早くこの場を離れたかった。
「ああ、ごめんなさい」
言って恭子は、紙の音をさせた。
「今度の土曜日、十九時から京都でオデパンの会を持ちましょうって話です。まず、マオさんの予定を聞いてくれって言われました。マオさんが来られるようだったら、連絡網にかけて流してほしいって」
オデパンが日本国内で会合を持つのは、めずらしいことだった。
「誰の招集なの」
真織が聞くと、恭子は、くすっと笑った。
「尾崎君です。珍しさの二乗でしょう」
尾崎は、オデパンの中でリーダー的存在だったが、自分から招集をかけることは今までめったになかった。
「美馬君のお母様のお誕生日なのですって。ご実家が京都だから、そのお屋敷に集まってお祝いしてあげようということらしいです。美馬君と一番親しい尾崎君らしい発想だと思って聞いたのですけれど」
真織は目を伏せ、芝生の上に視線をさまよわせた。どうも動機がはっきりしない。
オデパンでメンバーの誕生日を祝うことは、今まで何度となくあった。だが、親の誕生日を祝ったことはない。
しかも、美馬の母親は、本人が小学校高学年の頃に死んでいる。確かに美馬はマザコンぎみではあるが、いくらなんでも二十五年以上も前に死んだ母親の誕生日を、仲間を集めて祝おうなどという大それた気持ちは起こさないだろう。
となると、これは、尾崎一人の思いつきなのにちがいない。
すでに死んでしまった人間の誕生日を祝うなどという、よく考えれば意味のない企画を提案しながら、聞く人間にそれを感じさせないところが、いかにも尾崎らしかった。さて、目的は何だろう。
「私、前から一度、美馬君の京都のご実家に行ってみたかったんです。いえ、行きたがっているのは、私だけじゃないと思いますわ」
恭子の声には、弾みがつき始めていた。
「美馬君のお母様のご実家って、東山におありになるのでしょう。私、前に本人から聞いたことがあります。すぐ北側が高台寺、南隣が八坂の五重塔っていう素晴らしいロケーションの所で、屋上に上ると、京都全域がぐるっと一望のもとに見渡せるのですって。あこがれずにいられませんでしたわ。そこに実際に行けるなんて、夢のようです。招集をかけてくれた尾崎君に感謝してしまいます」
ということは、ここで真織が断わったら、相当恨まれるということだった。
「あこがれの、その美馬邸で、どう遊ぶって予定なの」
受けるしかないと思いながら、真織は、自分のスケジュールを思い浮かべた。
ミラノには、ヴェネツィア派の豊かなコレクションを持つブレーラ絵画館や、ルネサンス期の画家たちの作品を集めたアンブロジアーナ絵画館、ダ・ヴィンチの科学的素描が展示されている国立レオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館がある。また近隣には、ピアチェンツァやクレモーナ、ブレシア等、個性的な絵画を所蔵している街が数多く点在していた。
せっかくここまで来たのだから、近郊にも足を伸ばし、晴海谷絵画彫刻美術館に収蔵する候補作品のリストを充実させるつもりでいたのである。
だが、土曜日の十九時までに京都の東山に行くとなれば、金曜日にミラノを発ったのでは間に合わない。
来る時には、まずロンドンに出て、留学中の下の娘と会い、ヒースローからミラノのマルペンサ空港に入った。帰りは、ミュンヒェンに出て上の娘に会い、フランクフルトから成田に向かう予定だった。そうすれば娘たちの様子もわかるし、まあまあの環境で、日本まで十一時間余の旅をすることができた。
娘たちとは、夏休みに会った折、ゆっくりと話をしている。今回の渡欧を告げた時も、またぁという感じだったから約束は取り消してもよかった。だが、ファーストの座席は譲れない。
幼稚園の頃、真織は、ビジネスの座席を垣間見たことがあった。トイレに入ろうとした時、すぐ脇にかかっていたカーテンが開き、そこからパーサーが出てきたのである。カーテンの向こうには、恐ろしいほどたくさんの乗客がすわっていた。
母の説明によれば、この向こうはツーリスト・クラスという所で、そこにすわると、プラスチックの皿やコップで食事をしなければならない、ということだった。シートも、いくら倒しても百度くらいにしかならず、椅子に腰掛けた状態で眠らなければならない上に、降りる際には、ファーストの客が全員降りてしまうまで待たされるというのである。その時、真織は生涯ファースト以外には座るまいと決心した。
気持ちは、今も変わらない。ミラノ・マルペンサ空港に離着陸する日本直行便にはファーストクラスが設定されておらず、いつもの旅をしようと思えば、ウィーンかフランクフルト、もしくはパリを経由するしか方法がなかった。
三都市とミラノ間の飛行時間は、約一時間三十分。金曜日にミラノを出て、一番早い飛行機に乗り、どこかの都市でトランジットしたとしても、成田に着くのは翌日の十七時前後である。空港からタクシーで東京駅に駆けつけ、新幹線に飛び乗っても大幅な遅刻だった。
会に間に合わせるには、木曜日に発たねばならない。
「まさかジョワイユー・アニヴェルセーなんて言い合って、まじめに蝋燭を消そうなんてつまらない趣向じゃないでしょうね」
まあ、イタリアは遠い所ではない。もう一度足を運べばいいとしても、リストの作成半ばで絵画の宝庫から立ち去らねばならないのは、いささか不完全燃焼という感じだった。達成感が得られない。
「退屈なのはごめんだわ。尾崎君は何て言っているの」
恭子は意気ごんだ様子で答えた。
「彼の招集ですよ。退屈なはずがないでしょう。しかも、とってもくだらなくって、そこがオデパンらしいんです。いいですか。美馬君のお母様は、ザッハー・トルテがお好きで、いつもお誕生日に空輸させて、召し上がっていらしたのですって」
ザッハーというのは、オーストリアの首都ウィーンの国立歌劇場に隣り合って建つ名門ホテルの名前である。創業は一八七六年と古く、玄関を飾る緋色の日よけと、ロビーに展示されたたくさんの絵画や調度品で、他のホテルを圧倒している。
このホテル・ザッハーのカフェで売り出されたチョコレートケーキが、ザッハー・トルテで、瞬く間に世界中に知られるようになった。今では、ホテルよりもケーキの方が有名なほどである。
ザッハー・トルテの形はスタンダードな円形。スポンジの上を砂糖で固め、チョコレートをコーティングしたもので、これをタルト型に切り分け、たっぷりと生クリームを塗って食べる。
真織がまだ小学生の頃、父がウィーンから電話をしてきて、
「今日の空輸便でザッハー・トルテを送った。着くのは四日後の午後三時だそうだ。生クリームを泡立てて待つように」
というので、母や使用人たちと一緒に、緊張してザッハー・トルテをお出迎えしたことがあった。いく枚もの通関書類のついた木箱を開け、うやうやしく取り出して用意した銀の皿に乗せ、儀式のように切り分けて生クリームを塗り、いざ口に入れたら、思わずあたりかまわず飛び回りたくなるような甘さだった。
あれ以降、真織はザッハー・トルテを避けている。だが母は、かなり気に入ったらしく、以降よく父にねだっていた。美馬の母もそうだとすれば、その年代の女性に人気があるということなのだろう。
「それで、このケーキを尾崎君がウィーンまで買いに行って、名前とお祝いの言葉を入れてもらって、その日のうちに京都の東山まで運んでくるって趣向です。まずホテルから市内にあるお友達の飛行場まで、尾崎君がケーキを持って走る。そこから自家用セスナでシュヴェヒャート空港に出て、チャーターしておいた飛行機で関空に直行。関空には、三田君が最近買ったっていうボンバルディア・カナディアCL−六〇〇チャレンジャーを待機させておいて、京都の美馬君の家の飛行場まで。そこからまた尾崎君がケーキを持って走るの」
真織は笑い出しそうになった。尾崎は、高校二年の時に、四百メートル走の高校日本記録を出したことがある。今でも、走りには自信があるのだろう。
「その間、私たちは、ザッハー・トルテにつける生クリームを泡立てて待っているんですって。それで、ホテル・ザッハーから美馬君の家までの間に、いくつかのポイント地点を作って、そこを通過する時間を決めておいて、もし遅れたら、その時点で一分につき大さじ五杯の砂糖を、生クリームの中に入れていいことにするって言っていました。きっと死ぬほど甘いのができるわ」
真織は、絵画の宝庫を立ち去る決心をした。喜び勇んで、である。久しぶりにオデパンらしい企画で、楽しめそうだった。だが、もっとおもしろく、もっとばかばかしくできないものだろうか。
「もし尾崎君が十九時までに東山につかない場合は、罰ゲームなんて、ありかしら」
真織が持ちかけると、恭子は、はしゃいだ声を出した。
「いいですねえ。どんな」
真織は、少し考えてから言った。
「まず、彼を裸にして、ザッハー・トルテに塗るはずの生クリームを塗りつけて、羽根をまぶして」
恭子は笑い出した。羽根をまぶすというのは、オデパンの罰ゲームである。
元は、十八世紀のアメリカで、反革命家に対して行われた刑罰だった。当時のアメリカは、フランスから資金援助や軍隊の派遣を受け、独立戦争に勝利したばかりだったので、フランス革命に協力的だったのである。
まず反革命家を殴りつけ、傷だらけにする。次に堆肥の中に漬けこみ、これを引き出してタールを塗った後、羽根をまぶし、街から追放する。これが正式なやり方だった。
オデパンでは、そこまではしない。オリーブ油、蜂蜜、時には布海苔《ふのり》を体に塗り、枕をいくつか裂いて羽根を出し、その中をころがすのである。
「それから、そうね、テーブルの上に追い上げて、『交響曲第九番 喜びの歌』を歌ってもらうの」
恭子は息もできずに笑っている。真織はまだ満足できず、もう一ひねりほしいと、思いをめぐらせた。
「『喜びの歌』より『サ・イラ サ・イラ』の方がいいかしら。羽根まぶしと同じ一七九〇年代だし、両方とも革命関係だから」
すべてはうまくいくというこの歌詞は、オデパンでは、たいていアイロニーとして、当てこすり的に使われることが多かった。
「『サ・イラ サ・イラ』にしましょう。尾崎君に伝えて。今の条件を呑むなら、私に異論はありませんって。土曜日の十九時に、美馬君のご実家に行くわ」
電話を切って真織は、額を押し付けていた円柱から顔を起こした。瞬間、先ほどの男が、すっとそばによってきた。どうやら脇で待っていたらしい。微笑みを含んだ目で話しかけてくる。
その気はないと言ってやってもよかったが、それだけの会話で終わらないことは目に見えており、面倒だった。真織はにっこりと笑いかけ、男が歩をつめて来たところをねらって、その靴の上に自分の足を重ね、体重をかけた。
「Arrivederla(さようなら)」
真織のヒールは細い。男は声を上げた。真織は、そのまま男の足を踏み越え、スフォルツァ城の中に戻った。
城内は、第二次大戦後、市立美術館となった折に改造されたとはいえ、曲がりくねり、所々で極端に狭くなっている廊下や、厚さが一メートル以上もある壁が随所に残っており、歩きにくい。
「Ah《あっ》」
悲鳴が上がった方向に目をやると、先ほどすれ違った小学生の一行が、中庭の『馬の泉水』の周りにたむろしていた。そこから、黒い物が真織に向かって飛んでくる。とっさに手を伸ばして頭上で受け止めると、丸めた帽子だった。
一人の少年が両手を上げ、所有権を主張している。真織はそれを広げ、かぶってみせた。女教師が、少年の頭をつつきながらからかった。
「Quel cappellino le sta molto bene ai viso(あの帽子は彼女の顔にとても映えるのではないかしら)」
小学生たちは、男子も女子もいっせいに困ったような表情になった。少年は泣き出しそうである。真織は笑って帽子を脱ぎ、投げ返した。彼らの間から感謝の拍手と口笛が上がる。女教師が、微笑みながら太い声で真織に叫んだ。
「Grazie signora(ありがとう、奥さん)」
真織は、彼らに手を振り、上機嫌で階段を上った。
「尾崎君は、いったい何のつもりなのかな」
小学生をからかう女教師の口調をまね、声に出して言ってみる。
「その一、珍しく自分から招集をかけ、その二、珍しく日本国内に集合させ、その三、誰もが行きたがるという美馬君の実家を選び、その四、故人の誕生日などという奇妙な企画で、その五、法外なお金を使い、その六、絶対条件として私の参加を求めている」
つぶやきながら真織は吹き抜けの二階から礼拝堂を通り、『ロンダニーニのピエタ』を展示してある部屋に戻った。
相変わらずの人垣の向こうに、ミケランジェロの遺作は、凄惨な母子の姿を借りて立っている。この絶望と悲惨が、ルネサンスの巨人ミケランジェロのたどりついた場所だったのである。
真織は、ふと、自分の終着点はどこなのだろうと思った。人生は、もう半ばを過ぎた。これからは、未来に向かっていくというよりは、死に向かっていくというニュアンスのほうが日々濃くなっていくはずだった。
離婚したいと望みながら、このまま夫と暮らし、グループ代表の娘として死ぬのだろうか。それとも、どこかで新しい可能性を見出すことができるのか。
死ぬまでの時間を、心を寄せ合って過ごせるような男性との出会いがほしい。死後に誕生日を祝ってもらうほどでなくとも、生きている間だけでいいから、誕生日を祝ってくれるような誰かと、もう一度出会いたい。
そう思いながら、真織は、尾崎の招集の中で、はっきりしている点が一つだけあることに気がついた。
それは、死んでしまった人間の誕生日を祝うことの利点だった。たとえどんな誕生会になったとしても、本人は決して文句を言わない。
それが前提でオデパンを招集したのならば、つまり尾崎は、今回の会がたいへんなことになるかもしれないと、いや、なるに違いないと思っているのだ。そのために、わざと故人の誕生日を選んだ。
ひょっとして、たいへんなことを起こすために、すべてを企画したのかもしれなかった。
「まあ尾崎君ってば、いったい何をたくらんでいるんでしょ」
思わずつぶやいて、真織は視線の集中砲火を浴び、首をすくめた。
「Scusi(失礼)」
おもしろくなりそうだった。
そろそろ電話がくるんじゃないかと思っていたところだ。相変わらずいい勘だろう。
ところで、マダム、わからないことが一つあるのですが、お答えいただけますか。
どうしていつも、真夜中なんだ。おまけになぜ、こちらが一人じゃない時ばかりなんだ。これは嫌味かい。どっかで見張ってるのか。エージェントでも使ってるわけ。
ほう、俺がいつも、あなたと地軸をはさんで反対側にいるせいだと。あくまで俺のせいだと言い張るわけね。
ほんとにいい性格してるよねえ。いいかい。電話をかける人間は、自分の都合でかけるわけだ。その時に、国際電話識別番号の次の数字を見れば、相手がどこの国にいるかぐらい、わかるだろう。44はイギリス、49ならドイツ、1だったらアメリカ、852なら香港なんだ。
どうして、俺のいる国の時間に合わせられないんだ。できるはずだろう。あなたが夜中に起きてかけてくれれば、それですむことなんだ。
なに、面倒だと。どちらかが合わせなければならないのなら、俺がすべきだと。おまけにいつだって一人でベッドにいた例しがないんだから、しょうがないと。
あのねえ、あなたは、俺をはなはだしく誤解しているよ。おまけに自分のことも、理解できていない。
いいかい、あなたは最強の女だ。それに対して俺は、繊細な男なんだ。どっちがどっちをかばうべきか、一目瞭然だろう。どっちだ。言ってごらん。
ああ言葉って、なんてむなしいんだろう。だから男は、言葉が嫌いなんだ。
そのわりには、しゃべりまくってるって。別にしゃべりたくてしゃべってるわけじゃない。しゃべってないと寝ちゃいそうなんだよ。昨日、徹夜だったんだぞ。勘弁してくれよ。
あ、その件ね、御堂寺から電話があったよ。あなたとちがって、ちゃんと常識的な時間にね。彼女は、やさしいよなあ。
わっ、あなたもやさしいよ。ほんと、罰ゲームなんて考えてくれてさ。久しぶりのオデパンを盛り上げようって気持ちが、痛いほど伝わってきたよ。感動的だったね。
あ、あ、切るなよ。あなたの出した条件は、全部呑むって言っておいたから、伝わってるだろう。もう連絡網も流れているはず。あれ、そのことじゃないの。
ほう、俺が何をたくらんでいるのか、聞きたい。
マダム、俺のような男に口を開かせようと思ったら、ただではすまないってことをご存知ですかね。で、それでよろしいと。覚悟はできていらっしゃると思っていいのですね。
え、気取ってないで、さっさと話して寝たらどうかって。ごもっともです。
では、おっしゃる通り休ませていただくことにして、どこかでお会いできませんかね。そうすれば、何も今夜、こうして声を忍んで話していなくてもすむ。
今、どこにいるの。ミラノ、近いじゃないか。明日、そっちに行くよ。食事でもしよう。
何だって。今、急に電波が乱れたよね。私は忙しいって聞こえてきたんだけれど、電波障害だよな。私は忙しい。俺の時間をこれほど奪っておいて、私は忙しい。言わないだろう、普通は。
くそっ、またその話か。毎度ながら、なんて汚いんだ。あのね、目的のために手段を選ばないっていうのは、確かに古典的攻撃方法ではあるけれども、あんまり品のいいものじゃないってことを知っておいてよね。
しかし、あなたが、大学時代にめざしていた道をあのまま進んで、検事の職にでもついていたら、日本の裁判所が重罪の判決を出す確率は、今より圧倒的に高くなったにちがいないね。
フランクフルトの検察に就職したら、世界的話題だぜ。あの市で、今一番稼いでいるのは、日本人の弁護士だ。世界有数の商業都市を舞台に日本人男女の対決なんて、ちょっと見てみたい気がするよ。
ああ、わかった、わかりました。俺が悪うございました。この世のどんな女性も及ばないほど魅力的なあなたに逆らうことなんて、誰にもできるはずはありません。今すぐ、この場で、包み隠さずお答え申し上げます。どうぞ、何でもお聞きくださいませ。
それ、さっきから本気で聞いているわけ。じゃ、俺が説明を終えたとたんに、そうじゃないかと思っていたのよ、なんて言うつもりなんだろ。
やめてくれよ。あなたには、もうわかっている。つまり、そういうことだよ。
え、はっきりさせたいって。しょうがないな。
そうだよ、おっしゃる通り、たいへんな会さ。あなたの参加が絶対条件なのは、すべてを運ぶのが、あなただからだ。俺と美馬で、そう決めた。あなたが引き受けないはずはないと、俺たちは思ったからね。
費用は、全部こちらで持つ。
今、一番の問題は、あなたが、俺たちぐらいの真剣さを持って、事を進めてくれるかどうかって点なんだけどさ。
これは狩りだ。俺と美馬が、狩り場を設定した。獲物が必ず誘い出されるような場所をね。そして狩人は、あなただ。あなたにしかできない。
俺たちにできるものなら、とっくにやっていたさ。それができなかったから、俺たちは引いていたんだ。だが、この間あなたが可能性を見せてくれた。美馬が、たいそう興奮して電話してきて、この企画が決まったんだ。
俺たちには、ここまでしかできない。あとは狩り方も含めて、あなたに任せる。やってくれ。
へえ、獲物は何か聞きたいって。この間のあなたの言葉を借りて言えば、お行儀の悪い女狐《めぎつね》一匹だ。ああ、前回あなたがいいところまで追いつめて仕とめ損なった、ということも付け加えておこうかな。
どう、少しはやる気になれたかい。
それは、大変けっこう。お手並を拝見するとしよう。
お狩り場の見取り図を、あなたの自宅にFAXしておくよ。狩りを組み立てるのに、必要だろう。
それじゃ。楽しみにしているよ、とてもね。
「あの二人、そんなこと、たくらんでいたの」
東城美奈子が、半ば笑いながら目を丸くした。
「驚いたわ。やる時には、やるってわけね」
喧騒を極める青山通りから外苑西通りに入り、西麻布の交差点に向かう途中の幅の広い道路の両側には、並木に隠れるようにしてしゃれたカフェや陶器、凝ったアンティックの店が点在していた。静かで落ち着ける空間が広がっており、真織たちのお気に入りの場所の一つである。
「これは、シークレット・ミッションですよ」
御堂寺恭子が、泥大島の紬《つむぎ》の襟に沿って指先をすべらせながら、籐のテーブル越しに真織の方に身を乗り出した。
「とっても、おもしろそう」
真織は苦笑した。お願いします、のひと言もなく、ひたすら相手の意欲をかき立て、いつの間にか頼みごとを押し付けてしまうというやり方が、いかにも尾崎らしかった。
おかげで真織は、あの翌日にミラノを立ち去らなければならなくなった。
招集が土曜日とあっては、あまり時間がない。早急に対策を立てなければならないこともあったが、それよりは、気持ちがはやって落ち着いていられなかったからである。
突然オデパンに侵入し、次々と男を誘惑し続けている女狐を、いかに狩り出すか。
そのことばかりが気になって、美術館のリスト作りどころではなくなってしまったのだった。話の最後に、
『前回、あなたが仕とめ損なった』
と付け加え、こちらのプライドを刺激して原動力にしようとした尾崎の思惑に、見事に引っかかったのかもしれなかった。
「くだらないのも、オデパンらしくて悪くないけれど、たまには、こういうのも素敵だと思いませんこと」
恭子の声を聞きながら美奈子が、先ほどから黙っている久保田藍子に視線を流した。
「まあね、久しぶりに血が騒ぐって感じではあるわね」
同意を求められて、藍子は、わずかに微笑みながらうなずいた。首からウエストのあたりまで垂れている真珠のネックレスが、晩秋の光を柔らかくはね返す。
いつものようにはっきりと意思表示をしないのは、神山を盗られたという思いがあるからだろう。それで冷静になれない。そんな状態でいろいろと話をしていれば、感情を抑えられなくなって取り乱し、聞き苦しい発言をしかねないと恐れているに違いなかった。
京都には藍子を連れて行かない方がよさそうだと、真織は思った。戦力にならないどころか、どこでどう傷つくかわからない。その時に気遣ってやれるだけの余裕が、こちら側にあるかどうか。真織には自信が持てなかった。
藍子抜きで、なんとかするしかない。尾佐久華は、香港の母親の病気で帰省していた。土曜日までには日本に帰ってこられそうもないとの連絡がきている。
「日本での会なら、きっと誘い出されてきますよ」
恭子は、ますます意気盛んである。
「だって、海外の会には、絶対参加しないんですもの。ほら、言葉がおできにならないでしょう。尾崎君と美馬君が踏み切ってくれたのなら、願ってもないことです」
いつもおっとりとしている恭子が今回に限って積極的に発言するのは、藍子に同情しているからかもしれなかった。二人は、昔から仲がいい。
「それにしても」
美奈子が、シルクジーンズの丈の短い上着のポケットに手を入れながら、珊瑚色の唇をすぼめた。
「やるからには完璧に仕とめないと、せっかくの投資が無駄になるわよ。彼らの使ったものを生かせなかったら、今後、あの二人に顔向けできなくなるわ」
恭子が、まじまじと美奈子を見た。
「東城さんがそんなことおっしゃるなんて思いませんでした。男なんて女に奉仕するためにいるのよって、前にそうおっしゃっていたような」
美奈子は組んでいた脚を下ろし、真面目な顔で恭子を見つめ返した。
「あのねえ、私にとって、あの二人は男じゃないの。仲間なのよ」
真織は、背もたれから体を起こした。
「完璧に仕とめるわ」
二度と、し損なったと言われたくない。
「参加者は、今のところ何人」
恭子が、脇の椅子からバッグを取り上げ、ノートと眼鏡ケースを出した。
「昨日までに連絡があったのは、同伴者も入れて、確か七十六人です」
美奈子が、籐の椅子をきしませる。
「七十六って、すごいんじゃない。このところ、ずっと二十人前後だったのに」
恭子は、細い金縁の眼鏡を広げ、両手でかけてから開いたノートに視線を落とした。
「間違いありません。男性が四十三人、残りが女性です。いつもより多いのは、美馬君の京都のご実家を一度見たかった、という人がたくさんいらっしゃるからです。私だって、あこがれていましたもの。それから、マオさんが出ていらっしゃることがはっきりしているのなら、行きたいという人たち。この両方で人数がふくれたのです。まだ増えますわ。返事のきていない人たちもいるから。最終的には、百人前後になるのじゃないかしら」
真織は、うなずいた。
「結構ね」
オデパンに会則はない。その場の呼吸と、総意で動く集団である。何かを決定する時には、多くのメンバーの面前で、彼らの顔色を見つつ同意を取りつける。そうでなければ、後でいろいろな意見が噴出し、足並みが乱れることになりかねなかった。
「その七十六人の中に、今回のターゲットは、まだ入っていないわけね」
真織が確認すると、恭子は目を伏せたままページをめくった。
「神山君からは、返事が来ていないんです」
美奈子が身を乗り出す。
「ターゲットが、神山君を捨てて別の男性に乗り換えたという可能性は。毎回、相手を替える女だったじゃないの」
恭子は、ページをめくり続けた。
「いいえ、他の男性の同伴者の中にも、近藤容子の名前は出てきていません」
藍子が、静かに口を開いた。
「乗り換える可能性は少ないと思います。今まではともかく、この間あんなことがあったんですから。マオさんが態度をはっきりさせたし、尾崎君も指令らしきものを出した。美馬君も動いたんですからね。今さら彼女の受け皿になろうなんて呑気《のんき》な男の子は、さすがにいないと思いますよ。近藤容子が来るとすれば、きっと神山君と、です」
真織はうなずき、恭子に向き直った。
「ターゲットを完全に狩り場に入れてほしいって、尾崎君に連絡しておいて」
恭子はメモを取る。
「そこまでは、あなたの仕事ですからって、私が言っていたって伝えてちょうだい」
恭子の手元を見つめていた美奈子が、微笑みを浮かべながら真織に視線を向けた。
「マオさん、どう狩るつもり」
美奈子の言葉に引っ張られるように、恭子も藍子も真織を見た。
「もう、考えてあるんでしょう。話してよ」
美奈子に言われて、真織は自分のバッグを引き寄せた。臙脂《えんじ》のファスナーを開け、尾崎から送られてきた美馬の実家の見取り図を出す。
「お狩り場の全体図よ。左側が一階、右側の下にあるのが二階、その上が三階」
テーブルの上に置くと、三人がのぞきこみ、いっせいにため息をもらした。
「大広間が三つ、つながるようになっています。これなら、二百人の着席晩餐会でも大丈夫ですね」
「ここからここまで、ワイン・カーブです。こんなに広いのって、ヨーロッパのお城にもめったにありません。いったい何万本入っているのでしょう」
「各階の一番いい場所が、食堂と寝室なのね。建てた人の趣味がわかるわ。エピキュリアンよ。好きだわ」
真織は、カルティエのボールペンをひねり、その先をエントランスの前に突いた。
「門からここまでは、芝生と玉砂利なの。それでね」
言いながら、思わず一人で笑いを含む。
「ドレスコードを決めることにしたわ」
三人は一瞬、顔を見合わせた。真織は、得意になりながら声をひそめた。
「コードはね」
三人が顔を寄せてくる。
「ホワイト・タイにしようと思っているのよ」
美奈子がふきだし、恭子がそれに続いた。先ほどまで硬い表情をしていた藍子も、自然に顔を和らげる。
「マオさんって、意外と性格悪かったんですねえ」
「あら、前からそうよ。知らなかったの」
「完璧主義なんですよ。徹底的にしないと、気がすまないタイプ」
ホワイト・タイとは、夜間の第一級礼装の指定をする時に使うドレスコードである。この指定がなされた時は、イブニング・テイルズすなわち燕尾服を着用し、ハイハット・トッパーをかぶり、ステッキと手袋を持つ。
タイは、白ピケのボウ。シャツは、ウイング・カラーでスティッフド・フロント。ベストは襟付きの白のピケ。靴は黒いエナメルのオペラ・パンプス。コートを着る場合は、チェスター・フィールドかインヴァネスなどと、細かな暗黙のルールもあった。
「私、絶対にマオさんを敵に回したくないです」
「ほんと。ターゲットに同情してしまいそう」
勢いづいた三人の話が途切れるのを待って、真織は続けた。
「イギリス風ではなくて、フランス風にしましょう。アビ指定ね。そうすれば、ステッキを持たなくてもよくなるわ。連絡は前日に。メンバーと同伴者、それぞれ別々にね」
恭子が、急いでメモを取る。
「たいていのメンバーは、衣装をそろえているはずだからあわてることもないと思うわ。同伴者の事情まではわからないけれど」
真織が言うのを聞きながら、美奈子が、腕を組んで椅子の背によりかかった。
「ターゲットが、ひっかかるのが目に見えるようだわ。だって教養がないのよ。何にもご存じないわ」
ドレスコードは、女性の服には言及しない。だが、男性にホワイト・タイ指定がなされた場合、同伴の女性は、足先の隠れるイブニングドレスでなければならなかった。髪はアップに結い上げ、肩までの手袋をするのが普通である。
「神山君は恋におぼれているから、まさか彼女がドレスコードの常識を知らない女とは思わず、当日、本人の服を見るまで気がつかない。気がついた時には遅すぎて、もうそのままで行くしかなくなるのよ。腕はもちろん、脚も出してくるわ。きっとミニスカートで高いヒールの靴を履いて、お得意の官能スタイルよ」
言いながら美奈子は、近藤容子のポーズを気取り、まわりに視線を配ってみせた。
「いい気になってやってきて、会場に入って初めて、腕や脚を出しているのは自分だけだと気づく。その時には、エントランス前の玉砂利で、靴のヒールはめちゃくちゃに傷ついているわ。ミニスカートじゃ、ヒールの傷は目立ちすぎよ。まるでマニキュアのはげた手みたいに無作法。その姿をひと目見れば、今回初めて会う人たちにも、彼女がどういう人間かよくわかるって、マオさんは考えているのでしょう。失敗したと思っている本人に、さらに周りの雰囲気で圧力をかける。悪い人ね」
にらまれて、真織は肩をすくめた。
「実は、もっと悪いことも考えているの」
三人は目を輝かせ、口をそろえた。
「まあ、素敵。どんな」
真織は、笑い出しながら彼女たちを見回した。
「ザッハー・トルテの到着を待つ間に、皆で、それを食べるのにふさわしいテーブルを作ったらどうかしら。美馬家にどんな食器類があるかわからないけれど、見取り図を見ると、これだけの広さのキッチンで、食器収納室がついているから、相当のものは期待できると思うのよ。行ってみて、その場でセッティングの様式を決めるわ。バロックにするとか、ネオクラシック、あるいはアンピール、アール・デコも素敵でしょ。テーブルセッティングの様式が決まったら、男性には、その様式にふさわしい音楽を考えてもらって、美馬家にある楽器で練習を始めてもらう。女性のほうは、食器、カトラリー、グラス、クロス、装飾の係に分かれて、すみやかにそれぞれの仕事についてもらう。それで、後で担当した人間の名前を発表して成績をつけるの」
感嘆のため息がもれた。
「そこまですれば、いくら鉄面皮でも、自分が来てはいけない所に来ているんだってことがわかるでしょう」
「完全にパニック状態になると思います」
「飛び出して行って、きっと二度と姿を見せないわ」
真織は、首を横にふった。
「これだけでは無理よ。この間のことを考えてみて。絶対に引こうとしなかったでしょう。この狩りがシャス・ア・クールだとすれば」
三人は、いっせいに体に力を入れた。オデパンでは、以前に二度ほど、フランスでシャス・ア・クールの会を持ったことがある。
「獲物は、傷を負って最後の森まで追いこまれた、というところね」
狩猟には、追い出し猟、待ち伏せ猟など、たくさんの方法があった。その中でシャス・ア・クールは、もっとも規模の大きなもので、猟犬を使った騎馬での狩りである。
「でもまだ生きていて、反撃の機会をねらっている」
オデパンのシャス・ア・クールでは、猟犬三百匹を使った。乗馬ができないメンバーはいなかったが、恭子をはじめとして猟銃を扱えない者が若干いて、資格を取って臨んだのである。その結果、ウサギや鶉《うずら》類はもちろん、後半で大きなノロ鹿と猪を狩り出し、皆がいつになく興奮して、後々までその気分が残った。今でも、シャス・ア・クールというと、当時のメンバーは必ず緊張する。
「完璧に仕とめるためには、最後の一撃が必要よ。それはまだ、考えてないの。でも心配しないで。私の手でやるわ。まかせておいてくださって大丈夫よ」
言って真織は、ボールペンをひねり、バッグの中に放りこんだ。
「恭子さんに、連絡係をお願いするわ。美奈子さんには、出版社か新聞社の編集者もしくはジャーナリストで、わがままを聞いてくれる人を探してほしいの。できるだけ早く紹介して。藍子さんには、ちょっと複雑な頼みごとがあるから、一緒に来てちょうだい」
真織が立ち上がると、三人もそれぞれに腰を上げた。まだ午後の三時前だった。
「東山でお会いできるのを、楽しみにしているわ」
美奈子が、石畳にヒールの音を響かせて立ち去る。精算を終えた恭子が、着物の襟を整えながら、ていねいにお辞儀をした。
「素晴らしい狩りになるといいですね。そう祈っています」
二人を見送って、真織は藍子を誘い、西麻布の交差点に足を向けた。
ようやく深くなってきた秋の光が、色づいた柿の木にまといつき、虫の食った葉の間から雫のようにこぼれ落ちてくる。
「狩りに、神山君を使おうと思うの」
真織の隣で藍子は、足を遊ばせるようにして歩いていた。答は返ってこない。真織は藍子を見た。藍子の視線は、前方の信号機に注がれていた。横顔は静かで、どんな表情も浮かんでいない。沈黙は深くなるばかりだった。
真織は、藍子の気持ちをはかりかね、うつむいた。彼女の心を読み取れないのは、自分が今まで恋らしい恋をしたことがなかったからだろうと思った。
夫と結婚にいたるまでの過程を、真織は恋だとばかり思っていた。だが今顧みれば、それは異質の人間に対する興味だったように感じられる。それを突きつめて考えることもなく結婚し、以来、恋とは無縁の日々を過ごしてきた。
恋をする女性の心の機微が理解できない。しかも、ただの恋ではなかった。藍子には夫がおり、家庭がある。神山についていえば、妻があり、かつ今回のターゲットとなっている愛人の容子がおり、さらに藍子がいるという複雑さだった。どう気を使えばいいのか、わからない。
「どうしても、彼が必要なの」
藍子が何らかの反応を見せるまで、自分の考えを説明していくしかないと考えて、真織は押しこむように言った。
「覚悟しておいてちょうだい」
一瞬、藍子は身じろぎした。
「それが」
答が返ってきたのは、しばらくしてからだった。
「さっき、マオさんのおっしゃった最後の一撃になるんですか」
言葉から、侮蔑の響きがにじみ出て真織の胸を突いた。いつにない鋭さだった。
おそらく真織の返事しだいで、藍子は態度を決めるつもりでいるのだろう。それがよくわかる切迫した声だった。真織はすかさず言った。
「いいえ」
他人を従わせるためには、いつも圧倒的な力を見せつけておかなければならない。繰り返し、繰り返し見せつけ続けながら、命令する側もそこにすべてを賭け、危険を背負う覚悟でいるのだとわからせる必要がある。それができなくなった時、人は、主導権を失うのだ。
「最後は、私の手でやるって言ったでしょう。人は使わない。私自身を使うわ」
藍子は、相変わらず前を向いたまま、緊張した微笑みを浮かべた。
「私の役目は」
真織は空を仰いだ。
「あなたには、東京で待機していてほしいの。神山君をフリーにして、あなたの前に連れてくるわ。約束する。それで、すべてを呑んで、よしとしてくれないかしら。過程でどんなことがあったとしても、怒らないで。これは、私にとってもさほど余裕のある狩りじゃないのよ。なにしろ性質《たち》の悪い獲物だから」
藍子は笑い出し、緊張をといた。
「わかりました」
言いながら足を止め、真織に向き直る。
「お任せします」
まっすぐな視線を受けて、真織は息をついた。とりあえず、階段を一つ上ったという気がした。
「お帰りを、楽しみにお待ちしていますわ」
車道を走ってきた車が、横断歩道の前で止まり、運転手が降りてきて扉を開ける。乗りこみながら真織は、藍子を振り返った。
「祈っていてちょうだい。あまり被害が大きくならないように、ってね」
扉が閉まる。窓のむこうで、いささか顔を曇らせている藍子に、真織は手を上げた。
「全力をつくすわ」
それしかないと思った。
オデパンの連絡、受け取りました。よかったら、京都まで、僕とご一緒していただけるとうれしいと思って、連絡係の御堂寺さん宛にメールを送ります。
あなたからいつ返事がきてもいいように、新幹線のグリーン席のチケットを押さえました。
できれば前日に京都入りし、どこかで遊ぶというのは、どうでしょう。せっかくの紅葉の季節ですから、大河内山荘にでも行きませんか。小倉山の南側斜面にありますから、京都市内はもちろんのこと、比叡山から大文字、東山一帯、保津川まで見渡せます。風光明媚な四阿《あずまや》でお話しするのも、乙なものでしょう。ご希望でしたら、山荘の内部も見学できるようにしておきます。
またもし、宿泊先がお決まりでないようでしたら、僕の宿泊予定の「柊家」に、よいお部屋をお取りします。京都でもっとも格式のある、また伝統を持つ旅館として有名ですが、僕がここを好きな理由は、とてもしなやかで美しい旅館だからです。
旅館に、しなやか、という形容詞は、おかしいと思われるかもしれませんが、それがぴったりなのです。一度いらしていただければ、おわかりいただけるでしょう。必ず、お気に召すと思います。
翌日は、表か裏、もしくは武者小路千家で、お茶をいただくというのも一興でしょう。これも、手配しておきます。
また昼食は、洛西の十輪寺か、宇治の万福寺で精進料理をいただくか、お寺がお気に召さなければ、「万亀楼」か「吉兆」で、あるいは比叡山まで足を伸ばして、「ロテル・ド・比叡」というのはどうですか。ここは、今、もっともトレンドな場所として人気のあるところです。
どこにせよ、あなたと一緒に行くことができれば、僕にとって、これ以上の幸福はありません。
よいお返事をお待ちしています。
[#地付き]真柴 良
急ぎのメールです。御堂寺さんが早くあなたに転送してくれることを願っています。
京都の会にご出席なさるとか。ぜひ僕の愛車を使ってください。
あなたをお乗せするのにふさわしい車が、いくつかあります。リムジンタイプがよろしければ、ベンツの新車がいいかと思います。中にバーを造ってあり、音響も素晴らしいので、退屈はさせません。
スポーツタイプがよろしければ、僕のもっとも愛するプラチナグレーのフェラーリ360モデナF1がオススメです。シートは、全部、特注で作らせてありますので、乗り心地は保証いたします。
またクラシックカーがご希望でしたら、シトロエンの一九一九年型、アロディーヌの一九三五年型、ポルシェの一九六四年型などが、ご用意できます。
前日に京都に泊まれば、ゆっくり遊べますよ。桂川に船を浮かべて、月見なんていかがですか。僕らの乗る船の他に、BGM用の船を用意して演奏させ、さらに料理船を一艘仕立てて、そこで作った料理を温かいうちにこちらの船に運ばせましょう。
音楽は、もちろん楽団を入れて、クラシックからジャズ、ロック、意外なところで笛、大革、太鼓なんていうお囃子《はやし》船も、いいかもしれませんね。
料理は、フレンチでもイタリアンでも中華でも、ご当地ものの京料理でも、お好みしだいです。
きっと食べ過ぎてしまうでしょうから、明くる朝は、「瓢亭《ひようてい》」で、朝粥《あさがゆ》といきましょう。もっともあなたは、食べ過ぎたからといって体型が変わるような女性ではなさそうですが。前回、出席した徳川彰から、昔と少しも変わっていらっしゃらなかったと聞きました。お会いするのが楽しみです。
あなたが、僕のプランを喜び、かつ採用してくれることを祈っています。では。
[#地付き]伊達圭介
もっと早く連絡したかったのですが、僕自身が、今回の会に参加できるかどうか不明だったので、こんなに遅れてしまいました。すみません。
きっともう、たくさんの誘いが来ていて、あなたは、決めてしまっているかもしれませんね。でも、どうか僕の企画を見るだけでも見てください。
京都までは、僕のヘリコプターでお送りできます。僕の家の屋上にあるヘリポートから、美馬の所まで、二時間弱です。あなたの大切な時間を無駄にせずにすむし、疲れる心配もありません。当日は、僕があなたの家まで、車でお迎えにあがります。
そして京都についたら、京都らしい遊びにお誘いします。
何だと思われますか。お茶屋遊びです。
祇園にはお茶屋が八十軒ほどありますが、僕が親しくしているのは白川沿いの店です。ここに繰り出し、舞妓や芸妓をたくさん呼んで、踊りや唄を見聞きしながら浮かれ騒いで過ごしましょう。
ちょうど、僕たちが行くこの日に、京の舞妓のうちでも三本の指に入るという妓が「衿替え」をします。「衿替え」というのは、舞妓から芸妓に代わることで、三日間だけ黒紋付を着るのです。本人にとって記念すべきこの日に立ち会い、それを見届ける客になるという企画は、きっとあなたの趣味に合うのではないかと思います。
あなたが僕に賛同し、僕との時間を取って下さるのなら、これ以上ないほどにうれしいです。でも、もしこのメールが遅すぎて間に合わなかったとしても、とても残念ですが、どうぞ気になさらないでください。
今回、あなたが出ていらっしゃると聞いて、僕は参加を決めました。二十三年ぶりにお会いするあなたと、以前より親しくなりたいというのが僕の希望です。どうか、それだけでも覚えていてください。
[#地付き]伊崎健児
「転送したのは、おもしろそうなものだけです。だって、全部で三十二通もきているのですもの。マオさんもお困りになると思って。ご要望があれば送りますが」
電話の向こうで、御堂寺恭子がキーの音をさせる。真織は思わず、受話器を持っていない方の手を横にふった。
「必要ないわ」
恭子は、少女のようにくすくす笑った。
「改めて思いました、皆、熱心なんだって。その三通の中でしたら、マオさんはどれに惹かれますか。私なら、伊崎君です。ヘリコプターで時間がかからないというのもいいし、お茶屋遊びも、おもしろそうだわ」
真織は、パソコンの画面で伊崎のメールを読み返した。
「彼らしいけれど」
伊崎健児は、オデパンのメンバーには珍しく、地方の出身である。明石にある母親の実家で生まれたのだが、未熟児で体が弱かったとかで、そのまま祖父母の元に預けられて育った。オデパンのメンバーになったのも、大学に入るために上京してきた時のことである。
その頃はすでに、メンバーの中でもひときわ背が高く、丈夫そうな体格をしていて、趣味はラグビーという体育会系の青年だったが、入会時期が遅かったせいか、それとも元々気が弱いのか、いつも誰かに遠慮している感じがあった。
「ヘリコプターは、がさつよ。女の乗り物じゃないわ。音がうるさくてイヤー・プロテクターをしなければならないから、会話も楽しめないし、髪型もくずれてしまうし」
電話口から恭子のため息がもれてきた。
「伊崎君に女の気持ちをわからせるのは、ゴリラに経済学を教えるようなものですよ、きっと。伊達君のは、いかがですか」
真織は、画面をスクロールさせ、伊達圭介のメールを出した。
「遠慮するわ」
伊達圭介は、車マニアである。
彼の父親は熱狂的な自動車レース愛好家で、フランス支社に派遣された折、ル・マン二十四時間耐久レースに参加し、サルト博物館に通いつめたあげく、タイヤ会社マシュランの経営者の娘と結婚した。この女性が彼に輪をかけた車好きで、二人の子供である圭介も、その流れをくんでいる。
オデパン内では、常に積極的に発言するところを評価されており、企画力も実行力も備えていることから、尾崎や美馬に続く人物とみなされていた。フランス人の母親を通じヨーロッパの上層階級に強いコネクションを持っていて、やはりフランス人とのハーフである徳川彰と共に、将来を有望視されている。
「車内は密室よ。運転手がいるにしても、絶対にこちらの会話に入ってこないから、京都まで伊達君と二人きりということになるわ。特別な話もないのにずっと一緒では、息がつまってしまうわよ。そのくらいなら、車内が広くて、雑音の多い新幹線の方がましだわ」
恭子は、再び大きな息をもらした。
「マオさんに気に入ってもらうって、本当に大変なことですね。男の子たちに同情します。それじゃ真柴君とご一緒なさいますか。そう連絡しますけれど」
真柴良は、繊細な気質の文学青年で、オデパンの中では、目立つ方ではない。いつもにこやかな微笑みをたたえ、皆の中に静かに混じっているという感じのやさしい存在だった。グループ内では、ほどほどの会社の専務を務める父親の下で、ほどほどの地位についている。
「これだけ打つのは、彼にしてみれば勇気をふりしぼったというところだと思いますから、ご褒美をあげてもいいかもしれませんね」
「いいえ」
言いながら真織は、メールの画面を閉じ、白いフロッピーを入れた。
「神山君から出席の連絡は、あって」
恭子がキーボードを叩く。
「もちろん。マオさんに言われて、私が尾崎君に連絡したら、翌日すぐ入ってきました。同伴者は予想通りです。ああ、あったわ。前泊はせず、当日に新幹線で京都に向かい、時間までに東山に入るとのことです。終わったら、最終に間に合えば、とんぼ返りをしたいって書いてありますけれど、無理ですね。だって尾崎君の羽根まぶしがあるんですもの。美馬君の家に何人泊まれるか聞いておきます。マオさんは、会が終わったらどうなさいます」
画面にボローニャの風景が浮き上がり、時計を掲げた建物の上に、イタリア語が重なった。真織は、椅子の背にもたれかかり、高く脚を組む。
「京都のオークラを取るわ。二階にゲラン・パリが入っているの。移動で肌にトラブルが出た場合、すぐ対処できるから」
恭子は、しきりにキーの音をさせた。
「それ、メンバーに流してもいいですか。マオさんが、どういう理由でどこにお泊まりになるかを、皆が聞きたがっているんです」
パソコンの画面は、白いレースの下着姿で横たわる女性を映し出す。透けたノンワイヤーブラジャーに、同じく透き通ったビスチェ風ガーターをつけ、ショーツは、シジミと呼びたいほどに小さな逆三角形だった。透明感のある繊細なレースで包まれた肌は、下着の向こうで月のように静かに輝いて見える。
「かまわないわ。ついでに、いくつか連絡をお願い」
言いながら真織は、画面を移動させ、新作のコーナーで止めた。
「真柴君と伊崎君には、適当にお断わりしておいて。ほかの子たちにもね。伊達君には、車種はなんでもいいから、フロアが広くて暖房がよくきいて、あらゆる設備を搭載してあるリムジンを、運転手つきで一日貸してと伝えてちょうだい。本人は、いらないわよ。それから神山君に、当日は京都までご一緒しましょうと言って。リムジンをそちらにやるから、私の家に迎えに来てってね。二人で楽しい旅をしましょうと、付け加えるのを忘れないで」
薄いラベンダー色のロングスリップを見つけて、真織はスクロールを止めた。胸元から足先まで体にそって流れ落ちる水のようなスリップのラインを、シルクの光沢が華やかに彩っている。
「でも神山君は」
恭子が戸惑ったような声を上げた。
「ターゲットと一緒に来るつもりですよ。同伴者の欄に、彼女の名前が書いてありますし、二人とも、都内に住んでいるのですもの。まさか別々に来たりはしないでしょう」
真織は、ラベンダーのロングスリップにカーソルを合わせ、クリックしながら答えた。
「とにかく、そう伝えてみてちょうだい。彼の返事しだいで、また考えるわ」
「何ですって」
容子は、親指でフィルターをはじき、タバコの先の灰を落としながら神山茂に視線を上げた。
「あの女に誘われたって、それ、何」
高くなった容子の声を気にして、神山は、あたりに視線を配った。雨の土曜日、新宿を見下ろすパークハイアットのラウンジは、いつもと同様、混み合っていた。
「僕にも、よくわからないんだよ。ほんとに突然、そう言われたんだ」
困惑した表情の神山を、容子はいらだたしげに見つめた。
「で、あんたは、どうしたわけ。もちろん、断わったんでしょうね。同伴者と行くからって、言ってくれたんでしょうね」
神山は、無言で目をそむける。容子は眉根をよせ、声をひそめた。
「え、ちょっと。断わってないわけ。そうなの。え、そうなの」
声が低くなった分、強くなった口調に、神山は、押し倒されそうな気分であわてて口を開いた。
「だって、断われないだろう。相手はマオさんなんだぞ。逆らえるわけないじゃないか。わかってくれよ」
容子は大きく肩を上下させ、憤慨の息を吐き出した。
「わからないわよ。あの女のどこが、そんなに偉いわけ。あんたがしっかりして、僕はもう約束してしまっていますからって言えば、それですむことじゃない。私は同伴者なんですから、誰が聞いたって一緒に行くのは当然のことでしょう」
神山は言葉に窮し、横を向いた。大きなガラス窓は滴り落ちる雨で曇り、新宿の街には、ガスがかかっている。見通しのきかない景観が、神山の気持ちをいっそう憂鬱にした。
「おまけに、楽しい旅をしましょうですって」
容子は、立て続けにタバコをふかした。
「人の男に向かって、なんてずうずうしい女なの」
前回のオデパンのことを考えれば、ただですむはずはないと思っていた。だが、こうも露骨な嫌がらせに出てくるとは予想外だった。きっぱりとした態度を取れない神山にも、腹が立つことこの上ない。
容子はソファの背もたれから体を起こし、神山との距離をつめた。ここはやはり神山の尻をたたき、毅然とした態度を取らせて撃退する以外になかった。
「だいたい、あんたは、いつもねえ」
言いかけて容子は言葉を呑んだ。真織の意図はおそらく、こちらの仲を裂き、打撃を与えることである。とすれば、ここで神山の機嫌を損ねたり、喧嘩をしたりすれば、真織の思う壺にちがいなかった。
容子は、明らかに機嫌を悪くしている神山を見ながら、タバコの火を灰皿にこすりつけた。体を倒し、再びソファにもたれこむ。とにかく彼を味方につけておかなければならなかった。
「あんたの立場がわからないわけじゃないのよ。でも私、不安なの。だってあの人は、私を毛嫌いしているでしょう。あんたとの間を裂いて、仲間はずれにして徹底的にいじめるつもりなんだわ。あんた、私がそんな目にあっても平気なの」
神山は、思ってもみないといった様子で容子に向き直った。
「そんな人じゃないよ」
容子は、悲しげに顔をそむける。
「陰に回った女の意地悪さなんて、男には絶対わからないわ。この間だって、あんたの知らないところでいろいろあったんだから。あんたに心配かけたくないから黙っていたけれど。私、とっても辛かったんだから。孤立してしまって」
声をつまらせ、バッグからハンカチを出して目頭に押し当てる。
「プライドなんて、ずたずただったわ。またあんな思いをしろって言うの」
乱れた声をしだいに大きくする容子に、神山はあわて、自分の唇の前に人差し指を立てた。
「じゃあ、行くのをやめればいいじゃないか。初めに僕が、そう言っただろう。それを君が、美馬の家なら行ってみたいって言うから」
容子は、ハンカチで口元をおおいながら、恨めしげな目を神山に向けた。
「二人で行くなら、いいと思ったのよ。こんなふうに私たちの間に割りこんでこられるなんて考えてもみなかったんだもの。でも、あんただけ行かせるのも心配。それこそ何が起こるかわからないじゃない。一緒に行くって連絡をしておいたって、こんなことをされるのよ。あんただけで行ったなら、すっかり洗脳されてしまって、もう私のところに戻ってきてくれないかも知れない。いやだわ、そんなの。悲しいわ。愛しているんだもの」
ハンカチに顔を埋め、肩を震わせている容子を見て、神山は苦笑した。
「ばかだな。そんなこと、あるわけないじゃないか。僕の気持ちは変わらないよ」
容子はしゃくりあげながら、最後の詰めにかかった。
「本当ね。あんたがそう言ってくれるなら、私も勇気を出すわ。いじめられても耐えてみせる。だから一緒に連れていってね」
ぬれた瞳で見つめられて、神山は、やむなくうなずいた。すかさず容子は喜んで見せる。
「うれしい。あんたに迷惑はかけないわ」
容子の機嫌がなおり、神山はほっと息をついた。彼女がどうするつもりなのか皆目わからなかったが、迷惑をかけないと言っているのだから、任せておけば何とかするのだろうと思った。
「出ましょう」
言って容子は、焦げ茶の革表紙にはさまれた伝票を神山の方に押しやった。
「ね、お願い」
ねだるように見つめながら手を伸ばし、立ち上がった神山の腕を捕らえて巻きつけると、体を寄せる。
「たまらなく、ほしいの。我慢できないくらい」
神山は、伝票の表紙で容子の頭を軽く叩いた。
「淫乱」
首をすくめながら、容子は笑って神山を仰ぐ。
「今すぐよ。ここの部屋を取って。泊まっていきましょうよ、ね」
カウンターに足を向けた神山の声が残る。
「空きがあればね」
容子はエレベーターホールに出て、奥にあるロビーに向かった。ともかくも、神山を縛り付けることはできた。残るは、あの女をどうするかという問題だった。
ロビー手前に、目立たないように表示されている化粧室の扉を押し、容子は順番を待つ列に並んだ。もし自分だったら。そう思いついたのは、その時である。
リムジンの中で男と二人きりの時間を持つのは、何のためだ。自分なら、男をオトすためだ。真織も、そう考えているのかもしれない。
京都まで行く間に、神山と関係を持つ。彼を誘惑し、丸めこみ、近藤容子とは別れますと言わせ、そのことをオデパンで発表すれば、前回以上の鮮やかな出し物になる。会は、さぞ盛り上がるにちがいない。
出てきた女性と入れ替わりに、容子は中に入り、高い音をたてて扉を閉めた。そんなこと、させるものか。見ているがいい。
「奥様」
胡桃材の扉を軽くたたいて、デキャンのエプロンをかけた恵美《めぐみ》が顔を出した。
「伊達さんのお車が着きました。今、車寄せでお待ちです」
真織は、大きな姿見の前に裸で立ち、手にした丸い鏡の角度を変えながら体を点検していた。
「いかがいたしましょう」
手鏡に見入りながら真織は、ウエストをひねり、ヒップの上にまで視線を這わせる。
「神山君が乗っているはずだから、緑のお部屋でお茶を差し上げて。車の暖房はつけっ放しにして、高めに設定しておくように伝えてちょうだい。荷物を積んでおいて」
恵美はうなずき、出入り口のそばに置いてあった馬の尾のボストンバッグと、衣装ケースを取り上げた。真織は鏡から目を離さない。確認のため、恵美は声をかけた。
「ここにある二点でいいですね。エルメスのですね」
真織の返事をもらって、ようやく恵美は安心する。以前に、帰ってきたばかりでまたすぐ出かけるという気ぜわしい中で、違う荷物を積みこんでしまったことがあった。
玄関まで下ろすのは恵美の役目であり、積みこむのは運転手の仕事である。現地に着くまで真織は荷物に触れないし、見もしない。そのため、間違いがわかった時には遅すぎるということになるのだった。
それ以降、恵美は思っている。自分がしっかりしていなければならない。奥様は、てんでだめなのだからと。
「あと十分で降りて行きます」
言いながら真織は、肩の後ろから腕の付け根に鏡を当てる。しみは、どこにもない。白さを通り越し、底から青白い光を放っているような肌だった。艶《つや》も悪くない。
真織は、キャリーハンガーにかけた二枚のロングスリップに目をやった。どちらも、ボローニャのラ・ペルラ本社から送られてきていた秋の新作コレクションの中の作品だった。
本社にアクセスすると、二作とも、日本では六本木ヒルズの支店においてあるというので、電話を入れて取り寄せた。
一方は、細い肩ひもがついた光沢感のある黒のシルクで、バスト下からヒップの上あたりまで帯状に切り取られており、そこに黒いレースで飾った透明なチュールが配されていた。ウエストを中心としてその上下部分が完全に透けて見え、そこにレースの模様が影を落とすために、タトゥーのように見える。背中は、肩甲骨の下まで開いていた。
もう一方は、リボンでつったホルターネックで、色は薄紫。ウエストから上に細かなレースをちりばめた総チュールで、バストが丸見えになるデザインだった。背中は、動き方によっては、ヒップの割れ目が見えるほど深いV字カットである。
ほとんどのロングスリップは脚がすっかり隠れる長さで、素材もシルクやベルベットが多く、レースやスパンコールをあしらったものもあって、一見イブニングドレスと見える。しかし、あくまで部屋着であり、着る時にはどんな下着もつけない。よって体型だけでなく、肌のトラブルまで素通しで見えてしまう。
真織が違うタイプの二枚を買ったのは、当日、肌のどこかに問題が生じ、その部分を隠さなければならなくなった時のためだった。
大きなイベントの前など、知らず知らずに緊張していて、朝起きると、胸元や肩先にぽつっとした発疹を発見することがある。結婚式の朝に多いことから、「花嫁の実」というかわいらしい名前で呼ばれているが、決して美しいものではなかった。できてしまったら最後、隠すしかない。
真織の場合、背中にできることはあまりなく、バストかウエストのどちらかが多かったので、それぞれをカバーできる二作を用意した。幸いなことに、今日は、どちらも着ることができた。
さて、ウエストを見せるか、バストを見せるか。
「必要なのは適度な刺激。あまり強すぎてもいけない。もちろん弱すぎても失敗する」
つぶやきながら真織は、ロングスリップをかけてあるキャリーハンガーの前を通り過ぎ、ドレッサーの隣に置かれた香水収集箱に歩み寄った。
回転式の蓋を開け、装飾を凝らした香水瓶の間に、指をさ迷わせる。目的は、はっきりしていた。
「軽すぎず、甘すぎず、下品にならず、重苦しくなく、官能的」
楕円や半球や扇形をした蓋を見下ろしながら、真織は、それぞれの香りを思い描き、ボトルの間を縫うように指を進める。
香水は、いくつかのノートで構成されており、時間を追って香りが変わっていくのが普通だった。ほどよい時間で官能的に香り出すものを選ばなければならない。
「ラストノートに、ムスク系を使っているのは」
真織は、背の低い四角な瓶の上に指を止める。ボトルネックにクリスタルのチェーンを巻き、シリアルナンバーの入ったランスタン・ド・ゲラン。今年の十月に発売されたばかりの新しい香水だった。
金のロゴを埋め込んだガラスの蓋を取ると、ベルガモットの香りが立ち上がった。さわやかでみずみずしいトップノートである。蓋の後ろにわずかについているピンクの雫を、真織はコットンに取った。触らないように気をつけながら二つ折りにし、両手の中で暖める。
間もなく香りは、マグノリアに変わった。夜明けにもっとも華麗な芳香を放つという中国原産の白い花である。ジャスミンの香気も加わり、手の中からこぼれ出さんばかりの豊かさをふりまく。
それらの奥からムスクが顔を出した。バニラのベースに支えられ、他の香りと入り混じり、揺れながら大きくなっていく。濃密な流れが生まれ、真織は、自分が秘密めいた空間に運ばれていくような気がした。
「いいんじゃない」
真織は、ランスタンの瓶を取り上げると、香水収集箱の収納スペースを開き、そこからランスタンのボディローションを取り出した。香水を完璧に使いこなそうと思ったら、同じ香りのボディローションで補助しなければならない。
本来なら、同香のシャワージェルを併用し、体の奥から香りを作っていくのだが、リムジンの中は密室である。加えて暖房をきかせるとなれば、いく層にもわたる香り作りは、暑苦しくなる危険があった。
ボディローションを手に取り、香気を体にまとうように塗りつけながら、真織は二枚のロングスリップをふり返った。少しずつ肌になじみ、自分自身となっていく香りが、着る服を決める。
香水瓶の口に薬指を押し付け、ぬれた指先で真織は耳の後ろをなでた。うなじから鎖骨にかけてなぞり、腰骨のくぼみと脚の付け根にそって指をはわせ、最後にバストトップにぬった。薄紫のロングスリップを取り、足先から入れて首の後ろでホルターのリボンを結べば、身支度が完了である。
今朝方、恵美がブラシをかけてつるしておいたセーブルミンクの長いコートを羽織り、真織は、サイドテーブルの上に並べられていたバッグの中から、紫のバックスキンのシャネルを取り上げた。こちらに向いている姿見に向かい、気取って敬礼してみせる。
「では、出発いたします。必ず仕とめてまいりますから、お楽しみに」
「お待たせしました」
真織が玄関脇に設《しつら》えられた小部屋の扉を開けると、中で神山が立ち上がった。
「京都までよろしくお願いします」
すでに黒いアビ姿で、白いボウタイを結んだ首のあたりがいささか苦しげに見えた。
「まあ、もうそんな格好なの」
真織が笑いをふくむと、神山は恥ずかしそうに目を伏せた。
「着替える所を確保してないんで」
真織は、玄関に向かいながら振り返った。
「言ってくだされば、ホテルにお部屋をお取りしたのに」
「いえ、ご迷惑はかけられませんから。これで充分です」
玄関の外では、伊達の運転手がグレーのベンツに毛バタキをかけていた。
「ああ、どうも」
あわてて走ってきて、車の扉を開ける。
「お言いつけ通り、暖房は高めにしておきました。室内は防音ですので、何かありましたら、車内電話で私までご連絡ください。それで、その」
運転手は、言葉を濁しながら神山に視線を投げた。
「あのぅ」
神山が、あわててさえぎる。
「ああ、そのままで大丈夫ですから。じゃマオさん、中に」
うながされて真織は、見送る恵美に手を上げ、リムジンに踏みこんだ。むっとするほど暑かった。
「何かあったの」
座りながら真織は乗りこんできた神山に目を向けた。神山は、真織と向かい合ったソファに腰を下ろすと冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターの瓶を出した。額に汗を浮かべ始めていた。
「いえ、何でもありません。お飲みになりますか」
真織は笑ってテーブル越しに腕を伸ばし、神山が持っていた瓶を取り上げた。
「ブランディで、乾杯しましょう。ストレートで作ってちょうだい。ああ、BGMをお願い。そうね、グァルネリの音が聞きたいわ。曲は何でもいいから」
神山は、オーディオのリモコンを動かし、ヴァイオリン曲の中からサン=サーンスの作品集を見つけ出してセットした。サイドボードからブランディグラスを出し、テーブルの上に並べる。車は、首都高速道路の入り口を入った。
「暑いわね。上着をお取りになったら。私も脱ぎます」
真織はセーブルミンクを脱ぎ、ソファの背にかけた。神山が、慎重に注いだブランディのグラスを持ちながら顔を上げる。
「そうですね。エアコン、調整しま……」
胸もあらわなスリップ姿を目にし、言葉がない。顔をこわばらせたまま目を見開き、息をつめていた。
「あら、似合わないかしら」
真織がほほえむと、神山も、取って付けたように笑った。
「とんでもない。お似合いです」
再び沈黙が広がる。真織は、グラスを上げた。
「素敵な旅に、乾杯」
神山は、オデパンのいつもの乾杯を口にしそうになり、あわてて真織に合わせた。真織は神山をにらむ。
「あなたって、女性と二人きりの時にも、そんなことなさるの」
神山は、取りつくろうような笑顔を浮かべ、急いでグラスをあおった。ビールでも飲むように口に流しこむ。それを見ながら真織は、舌の上でブランディをころがした。さて、どうするか。
棘《とげ》を含んだまろやかさが、少しずつ喉の奥へと移動していき、熱をはらみながら体の底に向かって流れ落ちる。真織は、自分の中で新しい花が開いていくような気がした。体のそこかしこで麝香《じやこう》が勢いを強め、華やかに香り立つ。
「私たちの間、遠すぎるわ。隣にいらしてくださらないこと」
神山は、はじかれたように立ち上がった。天井に頭をぶつけんばかりだった。テーブルをたたみ、真織の隣に寄って腰を下ろす。ゆっくりとソファが沈み、真織は神山の方に傾いた。
「お話をするだけなら」
真織は、手を伸ばして神山のグラスを取り上げ、自分の分と一緒に脇の棚に置いた。
「さっきの距離でよかったのよ」
手を伸ばして神山の頬に触れると、彼は一瞬、すくみ上がった。
「でも、キスをするには遠すぎたの。そうお思いになるでしょう」
真織が顔を近づけると、神山は背中をそらせた。真織は身を乗り出す。神山は、さらに後ろに体を引いた。
「マオさん、やめてください」
真織は一瞬、視線を下げた。
「あなたは、本当はそう思っていないわ」
神山は頬を赤らめ、横を向いた。
「では、からかわないでください」
真織は、笑ってもう一方の手を伸ばし、神山の両頬を包んで自分の方に向けた。
「本気になっていいの。でも、それではあなたが困るでしょう。今の彼女を、どうなさるおつもり」
視線をからめ取るようにして見すえると、神山は喉を鳴らして息を呑んだ。真織は顔を近づけ、耳にささやく。
「そんなに深刻に考えなくても、いいことよ。京都までの間を、誰にも内緒で楽しみましょうって言っているだけですもの。おいやなの。私のことがお嫌いなのかしら」
神山は、わずかにかぶりをふった。震えているようにも見えた。
「そんなこと。マオさんを嫌いな男なんて、オデパンにはいやしません。いえ、オデパンでなくても、あなたを断われる男なんていないでしょう」
真織は立ち上がった。
「じゃ、いいのね」
神山の返事を待たずに、彼の大腿の上に斜めに腰を下ろす。片腕を神山の首に回し、首を傾げて顔をのぞきこむと、彼の目に真剣な光がともっているのが見えた。
「私ね、深いキスが好きよ。唇を開けて」
神山の開いた唇に、真織は斜めに唇を押し当てた。
キスをするのは、ずいぶんと久しぶりだった。抱きしめられるのも、である。首の後ろで神山の指が、リボンを解いた。
「きれいな体だ」
首から鎖骨、その下へと移動していく神山の唇を感じながら、真織は天井を仰いだ。グァルネリ独特のエッジの立った音が、イザイの編曲したサン=サーンス「ワルツ・カプリース」をあざやかに歌い上げる。
「なんて白いんだろう。滑らかで、しなやかで、今まで見たこともないほど素敵だ」
このヴァイオリニストに、ブルッフのヴァイオリン協奏曲を弾かせてみたい。きっとうっとりするようなアダージョになるだろう。今年のクリスマス会に呼ぶのも、悪くないかもしれない。
「マオさん、何か言ってください。どうしてほしいですか」
神山に言われて真織は、あわてて気持ちを隠す。
「そうね、あなたの好きにして。思いっきり、して、いいのよ」
ついでに、ひと言付け加える。
「ああ、夢中になってしまいそう。どうしましょう」
神山の手が真織の体を持ち上げ、下敷きになっていたロングスリップを抜き取る。
「素晴らしい脚だ。こうして開くことができるなんて夢のようだ」
靴が脱がされ、絨毯の上にころがった。
「僕は、もうどうなってもいいくらいだ」
真織は自分の体を神山に任せ、再びヴァイオリンに聞き入った。オーディオは、どこのメーカーだろう。そう思いながらスピーカーを仰ぎ見ていた時、その脇からのぞいているカメラのレンズを見つけた。
思わず体を起こす。瞬間、運転席との間の扉が開き、ストロボの光が走った。
「いいショットが撮れたわ。オデパンの女王が真っ裸よ」
近藤容子が、カメラを手に扉をくぐって姿を見せた。美奈子の予想通り、大腿も露《あらわ》な黒のワンピースに網タイツ、赤いハイヒールだった。
「おまけに、男に迫りまくる一部始終を映したビデオもゲットだわ。運転席にはモニターがあってね、リモコンで操作できるのよ。設備のいい車ねえ。あら、高宮真織さん、何か着た方がいいんじゃない。暖房は止めさせてもらったわよ」
勝ち誇った笑みを浮かべる容子から、真織は目をそらせ、神山を見た。
「そういうことだったの」
神山は、とっさに言葉が出ないほどあわて、いく度も息を呑みこんだ末にようやく言った。
「ただ、一緒に行くだけだって言ったじゃないか。こっそり連れて行ってくれれば、それでいいって」
容子は、目をすえて神山をにらんだ。
「何言ってるのよ。僕の気持ちは変わらない、なんて言ってたくせに。ちょっと迫られただけで、すぐでれでれしちゃって。冗談じゃないわ。あんたって、女なら誰でもいいのね。よくわかったわよ。見損なったわ。自分の言葉も守れないような男は引っこんでなさい。私は、これから彼女と話があるの。さ、運転席の方に行って」
神山は、口を開いて何か言いかけた。その唇からまだ言葉が出ないうちに、容子が大声を上げた。
「行くのよ。さあ、行きなさい」
神山は、真織に目を向けた。
「マオさん、僕は」
真織は、容子を見すえたままうなずいた。
「後で聞くわ。とりあえず、席をはずしてちょうだい」
神山がしかたなさそうに背を向けるのを見ながら、真織はセーブルミンクを取り上げ、肩から羽織った。腕組みをしてソファに座り、高く脚を組む。扉が閉まる音がした。
「で、どうなさるおつもり」
容子は、含み笑いをもらした。
「写真とテープよ。高いわよお」
真織は脚を解いた。腕を組んだまま、容子をにらみすえる。
「条件を聞くわ。おっしゃい」
容子の目に激しい光が瞬いた。
「強気ね。殴り倒してやりたいわ」
真織は、ちょっと笑った。
「できるものなら、どうぞ。あなたに武道の心得がおありになるといいのですけれど。私、空手は初段、剣道は三段ですから」
容子は目を伏せ、しばらくじっとしていた。高ぶる気持ちを抑え、出方を考えていたらしく、間もなく顔を上げ、突き刺すように真織を見た。
「京都で、あんたたちが企んでいることを、いっさいがっさい話すこと。それだけじゃない。私がそれに引っかからないように、あなた自身が完璧にフォローすること。たとえば、この私の服ね。これをあなたが着て、あなたの用意しているイブニングドレスを私が着るってのは、どうかしら」
言いながら容子は、楽しげな笑い声を響かせた。
「きっと、おもしろいことになるわね。もしかしてあなたは、仲間を裏切ったと言われるんじゃないかしら」
真織は、できる限り静かに答えた。
「それだけ、かしら」
容子は手を伸ばし、セーブルミンクの襟元をつかみ寄せた。
「まだあるわ。オデパン男性メンバーのナンバー2、美馬貴司。彼との間を取り持つのよ。私に夢中にさせたいの。協力しなさい」
真織は、まじまじと容子を見つめた。今までどう考えてもわからなかった謎が、紐の結び目でもほどくように、するりと解けた気がした。
「それでわかったわ。あなたが神山君に近づいた理由が。美馬君と親しくて、あなたの自由になりそうなただ一人の男、それが神山君だったってことね」
容子は鼻で笑った。
「あんまり役に立たなかったけどね。その分、あんたを使わせてもらうわ。京都にいる間に美馬貴司をくどくのよ。私と関係を持つように追いこみなさい。できるでしょう、女王様ですものね。もしできなかったら、その時は、この写真とビデオが女王様の冠を剥《は》ぎ取ることになるわよ。自分を守りたかったら私に協力するのね。あら、返事がないじゃない。わかったの、どうなの」
容子は襟元をつかむ手に力をこめ、揺さぶった。
「はっきりなさいよ」
真織は、ゆっくりとうなずいた。顔や声に感情が表れないように、慎重に押し隠す。
「わかったわ」
容子ははじけるように笑い出し、真織のセーブルミンクを剥ぎ取ると自分の肩に羽織った。
「ああ、すっきりした。あんたは当分、私の奴隷ね。どうせなら、ここまでビデオに撮っておくんだったわ」
言いながら、ソファに腰をすえ、真織を見上げる。
「ところで、一杯注いでくれないかしら、奴隷さん。ああ、服は着なくていいのよ。彼があんなにほめていた体を、私もじっくり見せてもらうわ。写真を撮るのも、いいかもね。早くしなさいよ。ブランディをストレートでね」
真織は、容子に背を向け、サイドボードの前にひざまずいた。グラスを出しながら、ほっと息をつく。
何もかも予定通りに進んでいた。獲物は、上機嫌で罠《わな》の中に飛びこんできたのだ。
まあ、一杯くらいは作ってあげよう。京都まで、束の間の勝利を楽しむがいい。その浮かれ気分が、敗北感をより深くするだろう。
「どうぞ」
あとは罠を絞り上げ、とどめの一撃を加えるだけだった。
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「へえ、そういう罠だったの」
容子は軽い抑揚をつけて言いながら、いく度も首を縦にふってみせた。納得しているというよりは、ばかにし、それをこちらにわからせようとしているのだろうと真織は思った。
「ちっとも知らなかったわ」
口の中には、ルームサービスで取ったサンドイッチがまだ入っている。京都ホテルオークラに入ったのは、お昼直前だった。
「ドレスコードはアビって連絡だったから、男だけの指定かと思ったし、神山さんったら何も言わないんだから」
真織は、黙って自分の衣装ケースをクロゼットにつるし、中央のファスナーを開けた。ゆるやかに革のケースがゆがみ、ファスナーの間からこぼれるようにベルベット地のベアトップが顔を出す。ダイヤモンド光沢といわれる輝きを秘めたマラカイトグリーンのフルレングスで、昨年のパリ・コレで気に入ったものの一つだった。
「今朝、私のワンピースを見てから、ようやく言ったのよ。それ、ちがうよって」
真織は衣装ケースの中を探り、ベアトップをつるす脇付け紐を二本、縫い目の間から取り出しながら答えた。
「言わなくてもわかっているものと思ったのでしょう。男性がアビなら、女性はローブデコルテというのがあたりまえですから」
容子が頬をこわばらせるのを横目で見ながら、真織は二本の脇付け紐を両手で持ち、衣装ケースから引き出した。緑色のきらめきが、足元に向かって滝のようになだれ落ちる。
「あら、いいじゃない」
容子は、窓辺に置かれたソファから腰を上げた。窓ガラスの向こう、早い午後の日差しを浴びた家々の間に本能寺の甍《いらか》が光っている。容子は、黒い影のように真織に近寄り、手を伸ばした。
「すっごく細かな起毛。これ、|ベッチン《ヽヽヽヽ》なの」
真織は口をつぐんだまま、わずかに首をかしげた。ばかばかしくて答える気になれなかった。
「知らないわけ。へえ、女王様にも、わからないことってあるんだ」
真織は、ベアトップをハンガーにつるし、衣装ケースのポケットから二本の鎖を出した。エメラルド色をしたダイヤモンドをつないだ細いプラチナの鎖で、ベアトップにつけて肩紐にする。
パリ・コレでモデルが着ていたサンプルは、緑色に着色したガラスを使ってあったが、真織は注文の際、ファンシーダイヤモンドに変えるよう指示を出した。一カラットでフローレス、トルコフスキー・プロポーションの緑のダイヤが三十六個つながっている。
本当は二カラットを使い、数ももっと多くしたかった。ベルベットの丈の長いドレスである。その重量感に負けない作りにしなければバランスが取れない。もちろんダイヤの質も、妥協するつもりはなかった。
ダイヤモンドの質は、普通、色とクラリティ、カットで決まる。ファンシーダイヤの場合は、クラリティとカットである。
クラリティ・グレードの頂点は、熟練した専門家が十倍の拡大鏡で見て傷を見つけられないもので、これをフローレスと呼ぶ。
カット・プロポーションの方は、一九一九年に数学者マルセル・トルコフスキーが算出した、通称トルコフスキー・プロポーションが理想カットと言われていた。
これらを備えた二カラットのファンシーダイヤを五十個並べてプラチナでつなげ、肩紐にしたかったのである。
オートクチュールでは、それほどのダイヤはそろえられないというので、真織が代理人を通じ、ロンドンのチャーター・ハウス・ストリートに出入りできるバイヤーに注文を出した。
チャーター・ハウス・ストリート二番地には、まだ市場に出ていないダイヤモンドが集まっている。世界のダイヤの九〇パーセントがここにあるといわれており、出入りできるバイヤーの数は、約二百人。彼らが、「サイト」と呼ばれる取引を通じ、この組織からダイヤを買い取って市場に出すのである。
バイヤーとの接触は非常に難しいと言われていたが、代理人の力で、なんとか契約を結ぶことができた。
すでに市場に出たものについては、ニューヨーク、アントワープ、アムステルダムなどのダイヤモンド取引所のメンバーに依頼した。世界中から探し出そうとしたのである。ところが、手に入らなかった。
色付きのダイヤ自体が少ないうえに、カラットが一以上で無傷、かつ理想カットとなると、それだけ手をつくしても一カラットで三十六個をそろえるのがやっとだった。
「あと五年いただければ、二カラット、フローレス、トルコフスキー・プロポーションのエメラルド・ファンシーを五十個ずつ、計百個そろえてお見せいたしますが」
そう言ったバイヤーもいたが、五年も待つことなどとてもできなかった。ドレスの方が流行遅れになってしまう。やむなく一カラット三十六個で妥協したが、ダイヤの数が少なくきらめきが小さいだけにプラチナの部分がめだってしまい、ベストとは言えない仕上がりになっていた。
「結構、豪華じゃない。これって、本物のエメラルドなの」
真織は、まじまじと容子の顔を見た。
容子は宝飾デザイナー志望で、宝飾品店を転々とした後、オデパンのメンバーの一人、加藤正に資金を出させ、宝飾デザインの店を開いていたはずである。緑のファンシーダイヤとエメラルドの区別がつかないとは、どういうことだろう。
「いいえ」
真織は、試しに言ってみた。
「彩色したクリスタル・ガラスです」
容子は、ばかにしたような笑みを浮かべながら真織が差し出したダイヤの鎖を手に取り、裏を返して細工を見た。
「やっぱりねえ。本物とは輝きがちがうと思ったんだ」
真織は肩をすくめた。
良質のダイヤを細工する時には必ず、キュレットと呼ばれる後部の先端が外から見えるようにする。それでガラスと区別を付け、ダイヤモンドであることを証明するのだが、その細工を見ていながらなおガラスと思っているのは、宝飾関係者として相当お粗末だった。
宝飾品店の中には、大きな店舗で全国展開をしていても、非常に怪しげな店もある。そんな所で、内包物の入ったダイヤをごまかす加工や、メレー・ダイヤの埋めこみばかりをやってきたのかもしれなかった。
「でも惜しいな。この鎖を金にすれば、もっとゴージャスに見えるのに。でも、まあいいわ。これ、私が着ますからね」
容子に言われて、真織は、改めて彼女を見回した。
身長は低く、頭部が大きく、やせて骨ばっており、女性らしい豊かさを下着で補っているのがはっきりと見て取れる。
真織は身長百六十三センチ、体重四十九キロ、座高八十、頭身は七・八である。ウエストは五十九で、ヒップやバストとは二十五センチ以上の開きがあった。
ドレスは裸で採寸し、仮縫いもして、寸分の狂いもないように体にぴったりと仕立ててある。そのためにパリまで三度も足を運んだのである。
「サイズが、お合いになるかしら」
真織が言うと、容子はベアトップの裏地の間を見回し、タグを捜した。
「これ、サイズ表示が全然ないじゃない。もしかしてワンサイズとかの安物ってことなの。いったい何サイズよ」
真織は、マイ・サイズと言いたくなるのをこらえ、いちおう近いサイズを言ってみた。
「三十六くらいかしら」
容子は頬をゆがめ、真織をふり返った。
「何それ。このくらいの大きさだったら、普通、七か九ってもんよ」
日本式のサイズしか知らないらしい。真織はつきあうのが面倒になり、うなずいた。
「ええ、たぶんそのくらいだわ」
容子は、意気揚々と自分のワンピースのファスナーを下ろした。
「じゃ、着られるわよ」
下着姿でハンガーからベアトップを取り、脇付け紐を持って身ごろを床の上に下ろす。どうやらそのまま着るつもりらしかった。
「そのブラジャーでは、背中の開きから見えてしまいます。お取りにならないと」
真織が声をかけると、容子は、くりの大きい後ろ身ごろに目をやり、しかたなさそうにベアトップを床に置いた。両腕を背中にまわし、ホックをはずしながら真織に目を上げる。
「不便な作りね。あんたは、いつもどうしてんの。ブラジャーがなかったら胸の形がきちんとしないでしょ。ヌーブラとか、使ってんの」
真織の考えた通り、両胸にパッドが入った肉厚のブラジャーから貧弱な胸が現れた。
「下着で形を整えたりはしませんわ」
そう言ってから真織は、容子の胸に目をやり、ちょっと笑った。
「成熟した体でないと、着られない服もありますのよ」
容子は、わずかに鼻をならし、床に置かれたベアトップの真ん中に荒々しく踏みこんだ。体にそって持ち上げると、真織の取り付けたダイヤの鎖を肩にまわし、脇の下のファスナーを締めにかかる。
さて、どこでひっかかるか。そう思いながら真織はボストンバッグを開け、中から靴を出した。
ドレスを採寸した後、すぐに靴を見に行った。同系色で、ヒールが細く高いものがほしかったのだが、店頭にはあまり出ていなかった。
注文しなければ無理かもしれないと思いながら、フランソワ一世通りのタニノ・クリスティー、モンテーニュ通りのフェラガモ、カンボン通りのシャネルとまわり、結局マドレーヌ大通りのシャルル・ジョルダンの直営店で、深緑の十二センチのヒールを見つけた。
それを買い、仮縫いの時に持ちこんでドレス丈を決めたのである。裸の体に靴だけはき、床すれすれで裾を切った。この靴でなければ着られない服だった。
「ちょっと手伝ってよ」
目を向けると、案の定、容子がウエストの位置で苦戦していた。
「ここから上がらないのよ。このジッパー、壊れてるんじゃないの」
真織が近寄ってみると、ウエストの肉がファスナーに挟みこまれんばかりだった。ヒップの盛り上がりがおさまるはずの部分は、中身が入っていないらしく、やせた駱駝《らくだ》のこぶさながらにたるんでいる。よく言えば、ぺったりとして凹凸の少ない和風の体、悪く言えば幼児体型というところだろうか。
「息を吐いて」
真織は、片手でファスナーの持ち手をつまみ、もう一方の手で布地をつかんだ。
「そのまま止めていて」
容子のウエストが細くなった瞬間をねらい、素早くファスナーを引き上げる。
「ふうっ。入ったじゃない」
ファスナーは、何とか口を閉じたが、さも不服そうに横じわを刻み、容子が呼吸するたびにまるで生き物のように動いて、今にもその不満を吐き出さんばかりだった。
真織は、むき出しになった容子の肩から背中に視線をはわせた。肌の色は、どちらかといえば白かったが、透明感がなくくすんでいた。ホクロとソバカスが散っており、何かの痕らしい褐色がかったシミもいくつか残っている。背中には、先端に小さな膿《うみ》を持った吹き出物もあった。
肩はともかく、背中は、自分では絶対に手入れのできない部分である。石鹸で洗うくらいがせいぜいで、スクラブも一人では充分にかけられないし、マッサージやパックも不可能だった。エステティックサロンで、エステティシャンの手を借りるよりない。
定期的に手入れをし、プロの目で管理している背中は流れるようなラインを持ち、透明感があり、決して生々しくない。そうなってこそ、都市という人工的な空間の中で人目にさらすことができた。
ヨーロッパでは、手入れの行き届いた背中はステータスシンボルとなる。野暮な背中しか持っていない女性は、とにかく出さないことを心がけるしかなかった。
「どうかな」
容子は、裾を引きずりながら鏡の前に歩いていく。ひと足運ぶたびに、食いこむほどに密着しているウエスト部分が体の揺れを映し出した。ゆるみのありすぎるバスト周りの布地は、まるで板でも入っているかのように静止したままである。
あれでは、服の中でバストが泳いでいるに違いない。その様子を想像して、真織はふき出しそうになった。
「へえ、カッコいいじゃん」
容子は鏡の前でポーズを取り、体をひねって振り返った。
「あんたより私の方が似合うかもよ」
真織は歩み寄り、先ほど取りつけたプラチナの肩紐の片方に手をかけ、クリップ式の留め金をはずした。ドレスが肩からずり落ちる。
「何すんのよ」
布地を押さえて声を荒くした容子に、真織は言い聞かせた。
「それは、ベアトップのドレスです。バスト周りでドレスを支えるように作られていて、そういう着方をしなければ、きれいなシルエットが出ません。肩紐は、ドレスを支えるものではなく、ただの飾り紐なのです。紐がなければ落ちてしまうようであれば、それは体に合わないということですし、見ている人間にも、すぐにわかってしまいます。丈も合っていませんし、おやめになったほうがよろしいのでは」
容子は、真織をにらみながらベアトップのファスナーを下ろした。自分でも、苦しくて無理だと判断したのだろう。
「じゃ、これはあんたが着れば。私には別のを何とかしなさいよ」
またもウエストで突っかかる。
「なによ、このへぼジッパー」
しゃにむに押し下げようとする容子を、真織はあわてて制した。
「息を吐いて」
持ってきたのは、この服だけであり、それに合う靴だけである。裂かれてしまったら代わりがなかった。
「何とかできるんでしょうね」
容子は床に落ちた服をまたいでテーブルにより、置いてあったタバコの箱を取り上げた。
「そりゃあ、するわよねえ。するしかないでしょう。それとも、あのビデオの公開の方がいいかしら」
真織は、壁の時計に目を上げた。集合時間の一時間前に美馬邸に着くとして、あと五時間あった。
「ドレスだけでよろしいのかしら」
真織が聞くと、容子は、箱からタバコを引き出していた指を止めた。笑いを含んで真織を見る。
「いいわけないじゃないの。あんたたちの企みの中には確か、玉砂利でヒールをズルむけにするって企画もあったわよねえ」
言いながら、真織がボストンバッグから出しておいた靴に視線を流す。
「ふうん、ああいうのが正解なんだ」
シャルル・ジョルダンの十二センチヒールは、革でなく銀色の金属で巻いてあった。今回、美馬の家の玉砂利に対応できそうだと考えて、まずこの靴を選んだ結果、あのベアトップを着ることになったのである。
「高慢ちきの女たちをぎゃふんと言わせるだけの靴を、用意してもらおうじゃないの」
真織は、電話に手を伸ばしながら言った。
「バッグも、ご用立ていたしましょうか」
容子は、人差し指と中指の間にタバコをはさんだまま、天井を仰いで笑い出した。
「その手には乗るもんですか。あれ、ごらんなさいよ」
タバコの先で、窓辺に置かれた容子のハンドバッグを指し示す。台形をしたブルーブラックの牛革で、四十センチほどの大きさだった。
「ケリーよ。エルメスの」
ケリーは、女優グレース・ケリーが愛用したことで世界中に名前を知られ、爆発的なブームとなったバッグ「サックアクロア」の通称である。
「七十八万円もしたのよ。最高級よ。シャネルにだって、グッチにだって負けないわ。これ以上のバッグなんてないわよ」
エルメスのケリー・バッグは、多様である。パリの本店に行けば、素材、染色、大きさ、縫い方を指定し、自分の好みのケリー・バッグを注文することができた。もっとも高価なものは、大型のクロッコダイルの背中のみを使った外縫いのバッグで、真織が買った時には、確か五百万円前後だった。
日本ではオーダーを受け付けておらず、また牛革ならともかく、トカゲやクロッコは入ってこないことが多い。真織は、ケリーがほしくなったらパリまで出向くことにしている。
「あんたのお仲間だって、そうは持ってないでしょ。これだけは、絶対誰にも負けないわよ。どこに持ってったって、すごいって顔をされるんだから。うまくだまして、もっとグレードの低いバッグと代えさせようったって、そうはいかないわよ」
言い放って容子は、タバコに火をつけた。音をたてて窓辺の長椅子にすわり、小気味よさそうに大きく煙を吐き出しながら真織を見る。
「お気の毒さまね」
真織は、しだいに面倒になってきた。容子のやせぎすの体の中に、無知がどっしりとつまっているように見える。
「無理にとは申しませんわ。そうね、それもまあ悪くはないと言っておきましょう」
投げやりな調子で真織が言うと、容子は、ふっと表情を硬くした。
「何よ。何かあるわけ」
食い入るように真織の顔を見すえ、落ち着きなく目を瞬かせる。
「言いなさいよ」
怒鳴った容子に、真織は向き直り、微笑んで見せた。
「たとえアビ指定でなくても、パーティ会場に持ちこむ場合、ケリーなら、せいぜい二十五センチまでです。それ以上の大きさでは笑われるでしょう。これはルールではなくて、センスというものです。大きなバッグを持ち歩いて、他人のフォーマルウェアを傷つけたり汚したりしないというエチケットの問題でもあります。おわかりかしら」
容子は視線を伏せ、しきりとタバコをふかした。
「ブランド物で価格が高ければ、どこに持っていってもいいというものではありませんのよ。そういうふうに考えるのは、傍若無人で恥ずかしいことですわ。もう一つ、ケリー・バッグは、身長に合った大きさを選びます。あなたのお背でしたら、あれは大きすぎますわ。お似合いになるのは、そうね、せいぜい二十八センチくらいかしら」
容子は、タバコをもみ消して立ち上がった。いたたまれないといったように両の掌を上に向け、突き動かして叫ぶ。
「じゃ、パーティ用のエルメスをなんとかしなさいよ。エルメスよ、エルメス」
真織は、再び電話機に手を伸ばした。いい品物を短時間にそろえようと思えば、デパートを利用するのがベストである。真織は、東京銀座の松屋をひいきにしていたが、エルメスのバッグとなれば、日本橋の三越を呼ぶしかなかった。
「はい、オペレーターでございます」
真織は、三越のお帳場係につないでもらおうとして容子の耳を気にした。各デパートのお帳場の係員とは、売り手と買い手の関係を越え、信頼で結ばれている。容子に情報を与えれば、どこで利用されるか知れたものではなかった。
「This is Takamiya Maori」
フランス語でもよかったが、ホテルのオペレーターには英語の方が通じやすい。早口で話せば、容子には聞き取れないはずだった。
「なによ、カッコつけちゃって」
背中で容子が毒づいた。
「れっきとした日本人が、日本で日本語使わないって、恥ずかしいことじゃないのかしらねえ」
オペレーターは、すぐお帳場係につなぎ、真織の担当者を呼んでくれた。
「これは高宮様、いつもお世話になります。ありがとうございます」
お帳場の担当者は、常に愛想がいい。
「これから申し上げるものを、すぐにそろえて、新幹線で京都まで持ってきてくださらないかしら」
言いながら真織は、容子を振り返った。改めて体型を見まわし、シルエットを吟味する。少し前に各ブティックから届いた今シーズンの新商品のリストを頭に思い浮かべながら、試着しなくても失敗なく着られそうなドレスと靴を選び出した。
「マックス・マーラの、ホルターネックのテント型のドレス。シルクの艶がきれいに出ているタイプだったと思うわ。腰を太い金のチェーンで結ぶものね。黒のサテンの手袋も一緒に。ええ、肩までの長さ。それから靴もお願いします。セルジオ・ロッシの真紅のサンダルで、ヒールに金の星が打ち付けてあるもの。え、ロッシは、そちらに入っていなかった。そう。じゃマノロ・ブラニクは。まあ。では、フェンディにします。紐にラインストーンのついた九・五センチくらいのヒールのジュエリーサンダルがあったと思うの。踵《かかと》が金の金属でできているのよ。サイズは」
真織が容子に視線を投げると、容子が指を立てて自分の足の大きさを教えた。真織は、それをイタリアサイズに直して伝える。
「もう一つ、エルメスのパーティバッグがほしいのですけれど。まあ、そうね。じゃ、こうします。ケリーでありさえすれば、どんなものでも。素材もこだわらないわ。サイズは、二十五センチ以下、色は、黒か濃紺。エルメスから当たってみてくださらない。今、オークラにいますの。十七時半までに来てくだされば間に合いますわ。どうぞ、よろしく」
受話器を置いて、真織は容子を見た。腕に、ホワイトゴールドの太いバングルをし、指には小さなカラーストーンをあしらった指輪を三つはめている。脱色し、レイヤーを入れたカジュアルロングの髪の耳元には、細い銀鎖のピアスが揺れていた。
真織は、何度目かのため息をつく。コーディネイトは完璧。でも、このセンスのないアクセサリーで、すべてぶち壊し。
ま、いいとしよう。アクセサリーまでそろえて完全無欠に仕上げたとしても、それを身に着けるのは、貧弱で手入れの行き届いていないあの体である。また、その上に乗るのは、あの品のない顔であり、あの無知な頭である。ばかばかしくて、いくら作戦のうちとはいえ熱を注ぎこむ気になれなかった。
「地図で見ると」
美馬の母親の実家は、東山の南部にあり、法観寺に隣接していた。
「この突き当たりになってますが」
沈んでいく黄丹《おうに》色の夕日を窓の外に見ながら坂を上りきると、四本の道が交差するこぢんまりとしたロータリーに出た。右手には森が広がり、左手は開けて下り坂になっている。
「ああ、この右ですね。表札が出ています」
広がり始めた薄闇の向こうに、大きな錬鉄の門扉《もんぴ》が立っていた。和風の門灯が、奥に続く小道をぼんやりと照らしている。
運転手がリムジンをとめると、容子は、自分でドアを開いて降りようとした。真織はあわてて腕をつかむ。
「いけません」
ドアの開閉は、運転手の仕事である。早く降りたい素振りを見せると、運転手もあせる。急いで運転席から飛び出して、対向車に接触されそうになったり、後部座席のドアに走り寄ろうとして足をすべらせ、骨折した運転手の話を、真織は、幼稚園に入る前に聞かされた。車で通園することになったためである。
「たとえ早く車から出たかったとしても、決してそのふうを見せてはなりません。扉が開くまで、しっかりと座っていること。それが、運転手付きの車に乗るということなのです。子供だからといって思うままにふるまうことは、はしたないことですよ」
車の後ろを回って来た運転手が真織の脇のドアを開け、片手で天井を押さえながらたずねた。
「お迎えは、何時に」
真織は、ドレスの裾を引き上げ、まず片足を出してから運転手の腕の下をくぐって外に降り立った。
「まだ決まっていませんの。この車にお電話しますわ。でも、二十一時より前になることは絶対にありませんから、その間、安心してお食事をしてらして」
運転手は、笑みを浮かべた。
「お気遣いありがとうございます」
車から半身を出した容子の体の下で、布の破ける音が響く。
「うわ、やっちゃったみたい」
さらに音を大きくしながら容子は、中腰のまま動きを止めた。
「どーしよ」
見れば、高いヒールがドレスを被うチュールの後ろの裾を踏んでいる。着なれない長さで、裾周りにまで注意が届かなかったらしい。
「もう一度、お座りになって。裾をお持ちしますから。はい、このままそっと出てらして」
なんとか容子を外に出し、ふと気づくと、スニーカーにリュック姿の観光客の一団が足を止め、こちらを見ていた。
北の円山公園や南の清水寺の方から歩いてきたり、また法観寺や霊山歴史館などを訪れる人々でにぎわう場所に、リムジンやローブデコルテ姿は、いかにもそぐわなかった。
「行きましょう」
真織は容子をせきたて、砂利道を踏んで美馬家の門に向かった。ところが、容子が付いてこなかった。
「まあ、ちょっと景色を見てからね。へえ、結構坂の上にあんのね」
一人でどんどん観光客の方に踏みこんでいく。
「なんだろうねえ、あの人たち」
足を止めていた観光客の間から声が上がった。
「映画か、テレビじゃないの」
「でも、見たことない女優だねえ」
「そりゃ、芸能人なんていっぱいいるから」
異形の者でも見るような目を容子に向けながら、観光客たちは後ずさった。
「ああ、風が気持ちいい。ちょっと来て見なさいよ」
言いながら容子は、背筋を伸ばした。眼下の景色と、道の脇に溜まり出した観光客を、一緒に睥睨《へいげい》する。
「遅れたって平気よ」
声高に話すのは、彼らの耳に入れようとの意図にちがいなかった。
「だって、この会の主役は、ワタクシたちなんですもの」
得意げな横顔に、夕日が最後の光を投げる。アイラインでぐるりと縁取った一重まぶたや、厚く塗った唇が生き生きと輝き始めていた。
「で、今日の会では、フランス語を使えばいいの。それともドイツ語」
表情は、ますます生気を増していく。
「ああ、たまにはスペイン語なんてのも楽しいんじゃない」
オデパンの男性たちが次々に虜《とりこ》になった理由がつかめたと、真織は思った。容子は、他人の注目を集めることが好きで、そうなると自己陶酔して変貌する女なのだ。
「オーストリアからチャーター便で運んでくるケーキは、いつ着くって言っていたかしら」
演じているわけではないのだろう。才能のある俳優や、天才的な詐欺師と呼ばれる人種同様、自然にそういう擬態を作る。自分自身を目立たせることができない人間の、自己顕示の一種なのかもしれなかった。
思ってもみなかった変身に、真織は見とれながら、ふっと自分の稚拙な自己顕示を思った。
生まれた環境や家に拘束され、父母の主導する生活に従っていくことが苦しくてたまらなくなって、真織は母の反対を押し切り、今の夫と結婚した。それが唯一の自己顕示だった。
だが、得たものは何もなかった。取り返しのつかない二十五年間を失ったばかりでなく、間違いだったとわかりきった結婚を、いまだに解消できずにいる。自己顕示に失敗した人間だった。
「やっぱりお誕生日にウィーンのケーキがなかったら、興ざめよねえ」
容子は、断片的知識を寄せ集め、実体があるかのように見せていた。それを作り出す力は、どこから生まれてくるのだろう。自分にもそんな力があったらと、真織は思った。もしかして人生を変えていくことができるかもしれない。
背後で、派手なクラクションが響く。ふり返ると、暗緑色のジャガーが坂を上りつめてくるところだった。後ろに、ボルボとファイヤーバードが続いている。
「やあマオ、久しぶり」
車体の低いジャガーを真織の脇につけ、ドアを砂利道にこすらんばかりにして大谷冬実が飛び出してきた。よく磨きこんだ黒いエナメルの靴が砂利に埋もれ、たちまち白く曇っていく。
「会えてうれしいよ」
バラッシャー地の黒の燕尾服の首元に、白ピケのボウタイをバランスよく結び、オフホワイトのダブルのウエストコートを合わせていた。
「相変わらずきれいだ」
両手を差し出した大谷に、真織は片手を突き出す。大谷は、苦笑して真織の手を押しいただき、甲に唇をつけた。
「お目にかかれて光栄です、だっけ。アビ指定の会なんて久しぶりだから、忘れちゃったよ」
真織は、大谷の胸元に視線を流した。バチストの白いポケットチーフが、均等な間隔のスリー・ピーク・マナーで飾られていた。この折り方を覚えていられたのだから、まあ合格としよう。真織は微笑んで言った。
「あなたもお元気そうね。何よりです」
真織が言葉をかけている間に、次々と車が到着し、ドアの音が立て続けに響いた。狭いロータリーは、色とりどりの車と燕尾服でいっぱいになる。坂の途中で止まったランドローバーから井上丈太郎が顔を出し、灰色のハイハットをふり回して叫んだ。
「おーい、マオのそばに行かせないつもりか」
はじけるような笑いが上がり、憎まれ口がとんだ。
「一生、そこにいろ」
「おまえの分も楽しんでおくよ。心配するな」
頭上の空気が騒がしくなる。ふり仰ぐと、ヘリコプターが近づいてきていた。イヤー・プロテクターをつけた伊崎健児が、ドスキンの燕尾服に包んだ体を機外に乗り出して手をふっている。
「誰か、あいつを止めてやれよ。落ちるぞ」
「いいんじゃない。きっと三回転半で着地するよ」
「点数ボードを用意しておこう」
真織は、観光客の目を気にして言った。
「ここで騒ぎたくないわ。中に入りましょう」
男性たちは、それぞれの車に戻って行き、運転手に指示を出した。その間を縫って、タキシードクロスの燕尾服を着た加藤純がゆっくりと歩み寄ってくる。左手を体の後ろに隠していた。
「久しぶりだから、プレゼント」
言いながら加藤は、回すようにして左腕を前に出した。その先に、ブルームーンの花束が握られていた。
「これが好きだったよね」
ブルームーンは、青薔薇の代表ともいえる品種である。くすんだモーヴ色の花びらや、半剣弁高芯で高貴な感じのするシルエットを、真織はたいそう気に入っていた。だが、注文でしか手に入らない。
「まあ、ありがとう」
受け取ると、独特の強い香気が立ち上った。真織は加藤の顔を見た。鼻のまわりが心なしか赤らんでみえる。
加藤はアレルギーを持っていた。青薔薇の中でもっとも強い匂いを持つブルームーンと一緒の旅は、さぞ辛かったにちがいない。真織は、笑いながら言った。
「あなたとエントランスまで行くわ」
加藤は、右手に持っていたハイハットを頭に乗せ、キッドの手袋を握りながら左腕を真織に差し出した。
「では、お手を」
言いながら仲間たちをふり返り、初めてにやっと笑った。
「諸君、お先に」
失意のため息があたりに広がった。歩き出しながら真織は、容子の姿を探した。背後で男性たちの声が響く。
「神山は、どうしたんですか。え、もう中に」
「信じられない。同伴の女性を放っておいてですか」
「よろしければ、僕がエスコートしましょう」
どうやら一人にしておいても大丈夫のようだった。真織は、加藤に花束を預けると、道に敷いてある砂利の大きさを見定め、片手でドレスの裾を持ち上げた。
高いヒールで砂利道を歩く時には、砂利の大きさによって歩き方を変える。よろけたり、つまずいたりしないためである。
「日が沈みますね」
加藤の声で顔を上げると、色を深めた山の端に、熟した柿のような陽が隠れていくところだった。見る見る姿を消し、後にぽっかりと黒い残像を残す。
「京都の夕日というのは、なんとなくゆかしい感じがしませんか」
言ってから加藤は、唇の端に照れたような笑みを浮かべた。
「まあ、太陽は一つですからね。どこの夕日も変わらないって言えば、変わらないんですけどね」
自分の言葉を自分で混ぜ返すところが、いかにも加藤らしかった。真織は、笑いながら首を横にふった。
「夕日って、太陽の問題だけではないでしょう」
加藤純の父親は、高宮グループの顧問弁護士を務めるかたわら、弁護士事務所を経営している。加藤自身は、真織の父の系列企業に入り、抜群のバランス感覚を生かして部下を取りまとめ、第一線で指揮に当たっていた。
「オゾンの状態、上空の大気の状態、街の空気の透明度とか、細かな要素がからんできらめきや色が変わってくるのですもの。見る側のメンタリティによっても、きっと違って見えるわ」
加藤は門扉の前に立ち、門柱の上部についているカメラに向かって手を上げた。
「ちなみに今日の夕日は、どう見えますか」
門扉が震え始め、ゆっくりと左右に開いていく。真織は山の端をふり返った。
「そうね」
御堂寺恭子にも、東城美奈子にも、事情を話す時間がなかった。ドレスコードにそった容子を見て、それが真織の手配だと知って彼女たちがどう反応するか。ゲームは難しいところにさしかかっていた。
「決意の赤さ、かしら」
向き直ると、開ききった門扉の奥にはプラタナスの並木に囲まれた小道が見えた。ゆるやかなカーブを描いて、まだらの幹をみせる木々の向こうに続いている。後方で、容子のけたたましい笑いが響いた。
「やっだあ。エッチね」
真織の隣で、加藤が静かな声で言った。
「僕に、何かお手伝いができますか」
真織は小道に踏み出した。とにかく完璧に仕とめることだ。手段を選ぶ余裕はないかもしれない。
「僕が必要になったら、いつでも合図してください。ずっとあなたの様子に気をつけていますから」
真織は加藤に目を向けた。本当なら、何も考えずオデパンらしく遊びましょうと言いたいところだったが、いたしかたなかった。
「その時は、よろしく」
「マオさん」
容子のローブデコルテを見て絶句した美奈子は、ディオールの象牙色のシフォンドレスを着ていた。この秋に発表された新作である。日本には入ってこなかったはずだから、パリかモンテカルロで買ったのだろう。
イヤリングとネックレスをカルティエのプリュイ・ド・ディアマンでそろえ、腕輪を兼ねた時計だけショパールの大きなハッピー・スポーツにしているのは、凝り固まった感じを避け、どこかに隙をつくるのが好きな美奈子らしいコーディネイトだった。
声さえ出せない恭子は、京友禅に秋の草花を手描きした蘇芳《すおう》色の訪問着を着ていた。髪に螺鈿《らでん》の櫛を差し、指には、帯止めと同じ純白の珊瑚の指輪をはめている。
「まあ皆さん、素敵なお召し物ね。私のは、どうかしら」
言いながら容子は、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「真織さんに見立てていただいたのよ」
美奈子も恭子もそろって目を見開いた。真織は視線をそらせた。容子は出迎えたメンバーの間をすり抜け、メインエントランスからホールに入っていく。
「どこに行けばいいの」
容子の声を聞きつけて、奥に続いている広い廊下の向こうから神山が飛び出してきた。容子は得意気に両腕を広げ、彼の前でくるりと回って見せた。
「どう神山さん。似合うかしら」
神山は硬い表情のままわずかにうなずき、目で真織の様子をうかがった。
「ああ、とてもいいよ」
釈明したいことがあるのだろう。真織は横を向いた。今ここで神山の話を聞いていても始まらない。
「どこで待てばいいのかしら」
言いながら容子は、メンバーの顔をひと通り眺め回し、最後に真織に視線をとめた。
「高宮さん、案内して」
命令に近かった。メンバーの目から目に、驚きが走り抜ける。
「いたしますわ」
真織の返事が、それをいっそう大きくした。ふくれ上がる疑問が不審に変わって行くのを感じながら、真織は、手にしていたレモンイエローのビーズのバッグを開き、尾崎からFAXされた用紙を出した。
廊下の左側にはシガールームがあり、その隣がバーになっている。向かい合ってメインダイニングと、それよりわずかに狭いダイニングがあり、キッチン、使用人用食堂、そして大広間とドレッシングルームが並んでいた。間取りから考えれば、バーがウェイティングになっているのだろう。
「こちらみたいね。どうぞ」
美奈子は立ちつくし、恭子にいたっては、泣き出さんばかりの顔になった。真織は、彼女たちに背を向ける。
「まいりましょう」
容子は、意気揚々とした視線をメンバーに投げつけ、真織の後に続いた。笑いを押し殺し、真織に肩をよせてささやく。
「楽しいわねえ」
力のこもった、太い声だった。
「次は、そうねえ、私をメンバーに紹介してもらおうかしら」
オデパンのメンバーなら誰でも、同伴者を会に連れてくることができた。だが、その同伴者が全体に紹介され、認知されることはない。あくまでその時だけの、プライベートゲストという扱いだった。今まで容子は、そういう形でオデパンに参加していた。
「あなたの口から、直接紹介するのよ」
真織による紹介は、認知の強制である。メンバーと同じ待遇をもってオデパンに迎えいれたいという意思表示であり、真織がいったんそう決めたら、誰にも反対できなかった。
「そうしたら、私は、自由にこの会に出入りできるわけよ。メンバーも、私に一目おくようになるし」
容子は、うれしくてたまらないといった目で、探るように真織を見た。
「いろんなことが、好き勝手にできるようになるわねえ」
狡猾で恥知らずな生き物が、暗い喜びに陶酔しながらこちらを覗きこんでいる。真織は、そんな気分になった。浅ましい臭気があたりに立ちこめ、耐えがたい。
「ウェイティングには、きっとたくさんのメンバーが集まっています」
いくら計画通りとは言え、このままのさばらせておくわけにはいかない。そう思いながら真織は容子の視線を避け、まっすぐ前を見た。
「いちおう、ご紹介いたしますから、その後、あなたから何か話題を提供してください。沈黙が広がってしまっては、あなたの社交性が疑われますわ」
容子は疑わしげな表情になった。
「どんな話がウケるのよ。引っ掛けは、なしにしてよね」
真織はさりげなさを装った。
「オデパンが遊びの会であることは、あなたもご存知でしょう。遊ぶことなら、何でもいいと思いますわ。今の季節の遊びとか」
容子は納得した様子だった。真織は、シガールームの前を通り過ぎ、開いていたバーの出入り口をくぐる。
内部は、天井と壁に樫材を張り、床にバーントアンバーの細かなファイアンスを敷きつめた造りだった。所々に、杏色の間接照明がともっている。落ち着いた雰囲気の中、右手の隅にカウンターがあり、庭に向かった二十畳あまりのスペースには、革のソファがゆったりと置かれていた。
数十人の男女のメンバーが思い思いにくつろいでいる。真織は、美馬の姿がないのを確かめてから声をかけた。
「皆様、お久しぶり」
メンバーたちはいっせいにふり向き、立ち上がった。男性は早くも拳を握り締め、タイミングを計り始めている。真織は、笑い出しながらいつもの挨拶を口にした。
「ご機嫌はよろしくって」
そろった合唱が返ってきた。
「もちろん」
男性たちは拳を揺さぶり、力をこめて床を踏み鳴らした。
「僕らは、いつも最高だ。最高だったら、最高だ」
止めない限り、いつまでも繰り返される。真織は、全員の顔を見回してから両手を上げた。
合図を見落とした者は、一人もいなかった。部屋に満ちていた声が瞬時に収まる。
「もうご存知の方も多いと思いますけれど、改めて私から、ご紹介いたしますわ」
メンバーの視線は、真織から容子に流れ、収まっていた空気がざわっと波立った。
「近藤容子さんです」
真織は、容子を指し示しながら脇に退いた。容子は、長く裾を引くフルレングスのドレスを片手で持ち上げ、胸を張って一歩前に出た。
「近藤容子です。高宮さんから直接のご紹介にあずかって、こんな幸せなことはありません。どうぞ、よろしくお願いします」
わずかに頭を下げてから一同を見回し、微笑みかける。
「この冬は、皆様どんなふうに過ごされるんですか。インドアも結構ですが、私は、アウトドア派なんです。冬のスポーツと言えば、やはりスキーですよね」
同意を求めた容子に、誰一人うなずく者はいなかった。容子の声は、半ば浮き上がる。
「私もスキーに行こうと思っています。どこがいいかしら」
言葉を投げかけながら容子は、沈黙の中に沈んでいるように見えるメンバーを、なんとか自分の話に乗せようと必死になった。
「どなたか、あまり人が行かない静かな所を知ってらっしゃる方、教えて頂けないかしら」
反応は、まったくなかった。誰もが、聞いたことのない言葉でも聞くような表情で、容子を見ていた。
容子は、頭の中で自分の話を反芻《はんすう》した。どこかに間違いがあったのだろうか。この金持ち連中に軽蔑されるようなところがあったのか。
何も思い当たらなかった。つまり、わざとだ。とっさにそう思った。自分を無視しようとしているのにちがいない。よし、それならできないようにしてやる。
容子は、メンバーを見回した。
「ねえ、角田さん」
角田俊之は、容子が最初にねらった男である。父親は、真織の父の傘下にある会社の社長の一人で、本人は呑気で警戒心がなく、人がよさそうなのが一見してわかった。
オトしやすいタイプと踏んだのだが、思わぬ伏兵がいた。妻である。
異様に嫉妬深く、詮索好きなこの妻に対し、お坊ちゃんである本人のカモフラージュがあまりに稚拙だったため、容子が完全に抱きこむ前にバレてしまった。
妻が容子の会社に乗りこんで来て、容子は首になったのである。
幸い、すぐに加藤正という代替が見つかり、彼に資金を出させて自分の事務所を開くまでにこぎつけたのだが、一時はどうなることかと思ったものだ。
痛い経験だったが、容子にとって、角田は依然として使いやすい男だった。妻さえ一緒でなければいいのだ。
「いい所を教えてもらえないかしら」
角田は、とまどった様子で隣にいた矢部達子を見た。
「教えてって、どう言えば」
話をふられた達子は、ため息をつく。
「ええ、どう言えばいいのか、ちょっとお返事に困りますわね。そもそもスキーは冬のスポーツではございませんもの。私たちは、冬にスキーをしたことはございません。スキーは、夏のスポーツですわ」
容子は言葉を失った。
「冬は、寒いでしょう。それで私たち、たいていハワイかフィジー、さもなければ南半球のオーストラリアあたりでサーフィンをいたしますの。クリスマスには、サンタクロースを呼んでヨットレースですわ。サンタクロースの水着の色をご存知かしら。赤地に白の水玉が飛んでいますのよ」
メンバーの間に、笑いが広がった。
「スキーに行くのは、七月か八月ですわね。スイスかオーストリアがほとんどですけれど、時にはフィンランドやノルウェーにもまいります。アイスランドもよろしくってよ。あわてんぼさんには、国境のないスキー場の方がよろしいようですから」
言いながら達子は、真織に目配《めくばせ》を送った。真織はメンバーを見回す。
「今日は、安国君はいらっしゃるかしら」
メンバーたちは顔を見合わせ、含み笑いをしながら身を引いた。後ろのほうにいた安国浩一郎の姿が露になると、再び笑いが広がった。
「スイスでスキーをしている時にね、彼がさっそうと滑り降りていって、しばらくして、泣きそうな声で携帯電話をかけてきて、たいへんだ、突然のインフレらしい、缶ジュース一本が千フランもしてる、僕ら皆、日本に帰れなくなるぞって」
爆笑が起こった。その真ん中で、安国がしみじみと口を開く。
「あの時は、携帯っていう手段があって本当によかったと思ったけれど、今になってみるとなかったほうがよかったですね。スキーっていうと、いまだにこうしていじめられるんだから」
笑い声はいっそう大きくなった。容子が真織の腕をつかむ。
「どういうことなの」
真織が首を傾げると、容子はいらだたしげにささやいた。
「なんで千フランなの、なんで笑ってるのよ」
どうやら意味がわかっていないらしい。真織は小声で答えた。
「私たちはアルプスの南側にいて、そこから滑り降りていった安国君は、自分がいつの間にかイタリアに入っていたのに気づかなかったのです。イタリアの通貨単位はリラで、一スイス・フランは百リラです。それで自動販売機でジュースを買おうとして、数字を見たらゼロがいくつも並んでいるので、パニックを起こしたのです」
容子の笑い声が静かな部屋にひびいた。安国がいささか苦い顔をし始め、女性たちも眉をひそめる。沈黙が重くなり、笑っている容子とメンバーの間を隔てた。
「なんとかしなさいよ」
気がついた容子が、肘で真織をつついた。
「あんたが話を続けるのよ。さあ、早く」
真織は、容子の顔にうかんだ焦《あせ》りの色を楽しみながら口を開いた。
「ゲレンデで結ばれた恋も、いくつかありましたわね。インスブルックのスキー場で知り合ったアラブの石油王と結婚なさった江田美由紀さん。今日は、いらっしゃらないわね。お国がたいへんなのでしょう。それから、林田桜子さん。お見えかしら」
ふり返るメンバーたちの中ほどから、緋色に金糸銀糸の縫い取りをしたサリー姿の女性が進み出た。長い黒髪を一つに束ねて金銀の細工物を編みこみ、体のいたるところにルビーと真珠をいく重にも飾って、ほとんど素肌が見えないほどだった。
「マオさん、お久しぶりです。お会いできてうれしいわ」
真織は、相変わらず一途な感じのする桜子の目を見てうなずき、容子に視線を流した。
「サン・モリッツのスキー場で、インドのマハラジャと出会ってご結婚なさったのよ。ご主人は、ジャイサメール王家の四十二代目の王クマール・シン・ラオ・クワッドさん。日本との合弁会社や、ダイヤモンド鉱山などたくさんの会社をお持ちで、動物愛護協会のインド代表や、イギリスBBC放送のスポーツ解説もなさっていらっしゃる方です。オリンピックにも出場されたのよ」
容子は、桜子の体中にちりばめられた宝石を見つめていた。吸い寄せられ、離れられないという感じだった。
桜子は最初恥ずかしそうな笑みを浮かべて立っていたが、そのうちにあまりにも不躾《ぶしつけ》だと感じたらしく、体をひねるようにして真織に向き直った。肩で容子の視線をさえぎり、真織と自分の空間を確保する。優しい性格だったが、潔癖で好き嫌いがはっきりしていた。
「今日は、もう少しで、来られないところでした」
言って桜子は、容子に背をむけながらメンバーの方に向きを変えた。容子は、桜子の背後に隠れてしまい、集団からはじき出される形になった。
真織は苦笑した。これでこそ、現地で多くの女性と争いながら妻の座を確保し続けるという芸当ができるのにちがいなかった。
「出発の前日、靴の手入れをする召使が病気で倒れてしまったのです。他の係の者に手入れをさせることはできない決まりですし、私の出発を聞いて見送りにつめかけてきている人々の前に、手入れの行き届かない靴で出ることもできない。夫の面目がつぶれてしまいますもの。もう出発をあきらめるよりないと、決心したほどです。幸い、その者の縁戚筋の人間が山の向こうの村からかけつけて来てくれまして、なんとかこうして出てこられたのですけれど」
メンバーは、桜子の強運に惜しみない拍手を送った。真織も、である。ただ、部屋の隅に隔離された形となった容子だけが、憤然として突っ立っていた。
「オデパンのメンバーの方々にご連絡します」
樫材で造られた天井から恭子の声が流れる。
「ただいま、尾崎君が関西空港に到着しました。これから三田君のボンバルディアに乗りこむところです。予定時間より十六分の遅れ」
尻上がりの高い口笛が、部屋の空気を切った。
「男性の方々は、お庭の茶室のそばにあるお蔵の前に集合し、中の楽器で練習を始めてください。女性の方々は、キッチンの隣の食器収納室でテーブルセッティングを決めると共に、生クリームの泡立てを始めてください。現在、罰ゲームのお砂糖は十六かける五杯分です」
メンバーは、大きな声で笑いながら勇んでバーを後にした。それを見送って、真織が、後に続く。
柔らかな杏色の光を浴び、しなやかに動きながら遠ざかろうとするその白い背中に、容子は、突き刺すように言った。
「フォローが足りないんじゃないの」
真織はふり向き、つやっぽいチェリーピンクに塗った小さな唇をゆっくりと開いた。
「まあ、そうでしたかしら」
可憐な微笑みの底で敵意がきらめき、容子の胸を傷つけた。
「他人のフォローをするなんて慣れないものですから、ごめんなさいませ」
優雅で上品な言葉のそこかしこから、毒気が漂い出していた。これほど上辺を取りつくろうことに長《た》けた女は見たことがない。そう思いながら容子は、負けてたまるものかという気持ちになった。
「あんたって相当、性格悪いわね」
真織は笑みを大きくした。
「まあ、そんなこと。気のせいですわ」
あくまで、本心をみせないつもりらしい。容子は舌打ちし、腕を組んだ。
「キッチンでは、完璧にフォローしてもらうわ」
言いながら、どこに落とし穴があるかわからないこれからのことについて考える。美馬とは、まだつながりが付いていない。彼の印象を悪くしないためにも、これ以上の失敗は避けたかった。
「あんた」
真織を見すえながら、容子は押しつけるようにつぶやいた。
「今から、ここですることは全部、先に口に出して説明しなさい。それで、いちいち私の了解を求めるのよ。インドの召使のようにね」
真織は黙っていた。罠が使いものにならなくなると感じ、あせっているのだろう。容子は、多少なりとも胸がすくような気がした。
「でなけりゃ、どうなるか。頭のいいあんたに、何度も言う必要はないわよねえ」
「まあぁ」
美馬家の食器収納室は、台所と使用人用食堂の間にあり、五十畳ほどの広さだった。出入り口に、和・洋・中の各国食器棚の位置が表示されており、洋食器だけでも、幅が五メートルほどある脚付きのカップボードが、四、五十脚並んでいた。
「ありとあらゆる食器がありますわ」
食器棚で迷路のように区切られた通路を歩きながら、恭子が困惑した様子で真織を見た。
「これでは、どんな様式のセッティングでもできてしまいます。どうやって絞りましょう」
真織は、天井まで届く食器棚に目を上げた。ルネサンス様式のアカンサスの葉をあしらった食器セットに始まり、ルイ十五世様式の金の縁取りの入ったロカイユ模様のセットから、アール・デコの機能的なベージュの食器一式まで、そろっていた。
棚の中ほどについている引き出しには、カトラリーが入っており、二本歯のフォークから三本歯、四本歯、またナイフも含めて紋章やモチーフ入りなど、あらゆる時代の様式に対応できるようになっている。
食器類の次に大きなスペースを占めているのはグラス類で、こちらも摂政様式のフルート型グラスからアール・ヌーボー様式のドームのグラスまであり、その他金器銀器専用の展示棚や燭台を収めた収納棚もあった。
様々な装飾で飾られたガラス窓の向こうに、静かに並んでいる幾百年もの時を超えた食器類を、真織は、うっとりと見回した。これらがどんな国で、どんな料理と共にどんな客に供されてきたのかと考えると、興味がつきない。
多くの客たちの賞賛を浴びたにちがいない見事なアンピールの皿や、ネオクラシックのモンテスボールを眺めていると、それらの奥から当時の客たちの眼差が浮かび上がり、じっとこちらを見つめ返してくるような気がした。
「豊富、のひと言につきるわ」
リネン室を見に行っていた美奈子が、感嘆して戻ってきた。
「素材、色、模様、刺繍、なんでもありよ。ナフキンリングやカトラリーレストも充分。マオさん、どうするの」
目にきつい光があるのは、先ほどからの真織の態度が納得できないからだろう。
オデパンの女性たちは、気持ちをそのまま顔に出す。他人に気を使わなければならないような生活をしていないせいもあるが、心を隠すことは簡単だと知っていて、自分をそのまま表現する方が相手が対応しやすく、かえって親切だと考えているせいでもあった。
「今回のメインは、ケーキ皿です」
真織は、食器棚の下部に設《しつら》えられている木の扉のついた収納スペースを見た。この大きさの食器棚なら、ガラス窓に飾られている食器の五、六倍の数がしまわれているはずだった。
「各様式のケーキ皿を数えてください。この会の人数分の皿が用意できる様式で、テーブルをセッティングしましょう」
すぐさま扉を開きにかかろうとするメンバーたちの後ろで、容子が大きく咳払いをした。真織は、しかたなく付け加える。
「容子さん、それでよろしいかしら」
メンバーたちは、あぜんとした表情になった。真織が誰かに了承を求めるなどということは、かつてないことだった。
「たいへん結構だわ」
容子は、腕を組んで壁によりかかりながら嬉々とした様子で答えた。
「始めていいわよ」
美奈子が気色ばみ、荒々しく扉の取っ手をつかんだ。他のメンバーたちも、不満げな音をたてて食器棚を開ける。
「アール・ヌーボー、ガレ作のガラスケーキ皿十二枚」
「ルイ・フィリップ様式、アウガルティン窯のビーダーマイヤーのケーキ皿三十六枚」
「ルイ十五世様式、セーブル窯のブルーニュアージュのケーキ皿二十四枚」
メンバーたちのとげのある口調と、穏やかならぬ顔色からして、真織は、あまり高価なものは使いたくないという気持ちになった。
美馬家の食器コレクションは、恐ろしいほど充実している。そのまま博物館に移行しても不思議はないほどであり、世界に一つしかないものが混じっていることも考えられた。そんなものを壊してしまったら。
「ルネサンス様式、ランピーニ窯の赤いケーキ皿七十二枚、同じくメディチ・ブルーのケーキ皿六十枚」
「ヴィクトリアン様式、ヘレンド窯のロスチャイルドバード・ブルースケールのケーキ皿二十四枚」
真織は、祈るような思いで結果を待った。全員分の皿が整っているのは、ナポレオン三世様式だけだとわかった時には、どれほどほっとしたことだろう。
ナポレオン三世様式は、一八〇〇年代の半ばから二十年ほど流行したスタイルで、比較的家庭的、今日的でもあった。たとえいくつか壊したとしても、買い足すことが可能なものが多い。
「では」
真織は女性メンバーの人数を数え、頭の中で割り振りを考えた。
「ナポレオン三世様式でセットします。お皿、カトラリー、ナフキンとテーブルクロス、グラスとカラフ、それぞれに三名ずつ付いてください。残りの方々は、台所に移動して生クリームの準備を」
片隅で恭子がひっそりと手を上げた。真織がうなずくと、恭子は、いく分こわばった表情で口を開いた。
「久保田藍子さんから、ザッハー・トルテの口直しにと、美馬家にあるデザートワインの赤と白の中からセレクトした三種類のワインリストが送られてきていますが」
語尾に妙に力をいれた恭子の胸の内は、真織にもよくわかった。東京で藍子が狩りの成功を祈っているというのに、あなたはいったい何をやっているのか。そんなところだろう。もうしばらく我慢してもらうしかなかった。
「それでは、白と赤のワイン用のグラスの用意もお願いします」
話している真織の前に容子が進み出て、メンバーとの間に立ちふさがる。ふり返って真織を見、目の端で催促した。真織はやむなく言った。
「それでよろしいでしょうか、容子さん」
容子は、抑えきれないといったような笑みをもらした。
「もちろんよ」
真織は、腕時計に視線を落とす。約束の時間まであと三十分ほどあった。それまでの我慢だと思いながら自分をなだめる。
「マオさんは」
美奈子がつっかかるような声を上げた。
「どの班にお入りになるの。そちらのかたは」
正面切ってにらみにかかった美奈子を、容子は軽くかわして真織に視線を流した。
「私は、彼女と一緒よ。だって、私の知識を貸してほしいって言われてるんだもの。そうよねえ、高宮さん。あら、これって、バラしちゃいけないことだったわ。ごめんなさいねえ」
メンバーの顔に一瞬、疑いの影が落ちた。真織は、ため息がこぼれそうになるのをこらえて平静を取りつくろう。
「ええ、私とご一緒に、点検と仕上げをお願いいたします。では皆さん、取りかかってくださいませ」
「三田のボンバルディアは、ただいま吹田市上空を通過、すでに十九分の遅れ。尾崎の羽根まぶしの刑は、ほぼ決定的」
恭子とアナウンスを代わった水守和彦の威勢のいい声が屋敷内に流れると、庭にある蔵に出入りしていた男性メンバーたちが、いっせいに歓声を上げた。
「いいぞ」
「初めてじゃないか、尾崎の罰ゲームって」
「ああ、しみじみと楽しみだなあ」
笑いながら真織は、黒々と立ち並ぶ植木の間に敷かれた飛び石を踏み、蔵に近づいた。後ろに容子が続く。
「いったいいつ美馬貴司に話をつけるつもりよ。私がこんな所まで来たのは、そのためなんですからね。まったくばかばかしい。こんなことやって、どこが楽しいっていうのよ。無駄にお金を使って浮かれ騒いで、いい気なもんね」
真織は、群青色の空を仰いだ。二十三夜の下弦の月が、山の端に斜めにかかっている。空気が乾燥しているのか、蜂蜜のような輝きをおびていた。
「人にも物にも、それぞれの場があるということを、ご存知かしら。月は、空」
玉砂利の向こうの小池で、かすかな水音が上がる。
「魚は水。オデパンはオデパン。そして」
足を運びながら真織は、肩越しに容子に視線を流した。
「狐は巣穴。ご自分の場にいらっしゃれば、疑問がわくこともないわ。今からでも遅くないわよ。お戻りになったら」
容子は、ふっと鼻で笑った。
「獲物を仕とめてからね」
一筋縄ではいかない女だった。真織はうつむき、自分たちの影が、伸びたり縮んだりしながら侵入者よけの白い玉砂利の上を這っていくのを見つめた。
「ああ、マオ」
蔵の前の水銀灯の明かりの下で、ヴァイオリンの弦を巻いていた上条直樹が上気した顔を上げた。
「これ、何だと思う」
差し出されたヴァイオリンは、やや大きめだった。夜の闇に溶けこみそうなほど深みのある紅色のニスが塗られている。
真織は手に取り、裏を返して見た。裏板に現れている年輪は細かく、やせた人間の肋骨のように見えた。脇板にはアラベスク模様が彫りこまれている。
「クリストでしょ。ストラディヴァリの。製作年はわからないけれど、初期かしら」
アントニオ・ストラディヴァリウスが作り、現在残っているヴァイオリンの数は、世界中で約六百本といわれている。呼称が付いているものも多く、板の模様や色で呼ばれたり、歴代の著名な所有者の名前を冠したりしていた。
「当たり」
言って上条は、蔵の出入り口あたりにたむろしているメンバーをふり返った。
「クリストって何年製作だっけ。一六七八かな」
一番端にいた朝倉正臣が、手にしていたフルートのゆがみを直しながら答えた。
「ん。一六七七年製作の『サンライズ』と、一六七九年製作の『ヘリエ』の間に作られているから、たぶんね。それより気になるのは、何でこれが、こんなに捻《ひね》くれてるのかってことなんだけど」
メンバーの間を回遊していた本多拓也が、朝倉の肩に肘をつき、もたれかかりながら言った。
「それはね、正臣君」
真織は男性たちを見回す。ここにも美馬の姿はなかった。
「このフルートが一九八九年生まれだからだ」
いったい美馬はどこにいるのだろう。
「つまり現在、十五歳。思春期真っ盛りなのさ」
「おい拓、今、一瞬本気にしたぞ」
「僕も」
上条は笑いながら逆手でヴァイオリンを持ち、首に押し当てると、顎だけで支えて真織に目を上げた。
「この時代のストラディヴァリは、アマティの影響が残っていて上品なんだ」
三十年前と同じ、喜びが輝き立つような目だった。
「それに、心にぴたっと寄り添ってくる感じ」
小学校の時、上条は、将来はヴァイオリニストになりたいと言っていた。ヴァイオリンへの愛着は、今もひとしおなのだろう。
「ほらね」
はじかれた弦が上条の指先でポロポロと音をたてた。繊細な感じのする長い指の端に、形のよい爪が並んでいる。
昔は、よく弦で指を痛めていたものだった。最近は、あまり弾く機会がないのにちがいない。上条が部長を務めている会社は、収益がひどく落ちこんでいると真織は父から聞いていた。
「音の好みは、性格だよね。僕は、アマティか、ストラディヴァリの初期が好きだ。でも、マオは、グァルネリだろう。強い強いハガネのような音が好きなんだ。それは」
言いながら上条は、踏みこむように真織を見た。
「あなたが強いからか、それとも強さにあこがれているからか、どっちかな」
真織は笑って視線を伏せた。結婚前は、自分は強いと信じていた。すべての可能性を持っていると信じることができた。今はもう、信じない。
「さあね。お蔵の中に、ストラディヴァリは全部で何本あるの」
本多拓也が燕尾服の尾を整えながら近寄ってきて、片膝を敷石についた。
「姫、全部で六本でございます。内、ヴィオラとチェロが一本ずつありまして、いかにも今宵にふさわしいかと」
真織は少し考えてから言った。
「じゃ、クワルテットが組めるわね。テーブルのセッティングは、一八〇〇年代半ばから約二十年よ。そのあたりの音楽となると、シューベルトかシュトラウス、ブラームスあたりかしら」
真織は、自分の背後で男性たちと談笑している容子をふり返った。
「容子さんの、ご推薦は」
ベルリオーズあたりをあげてほしいところだった。わざとはずしておいたのである。
「あら」
容子は、親しげな笑みを投げてきた。
「そのことは、さっきお話ししたじゃないの。音楽の方は、高宮さんの趣味におまかせするって。ねえ皆さん、高宮真織プロデュースを聞きたいわよねえ」
男性たちが拍手をする。容子は唇の端に笑いを浮かべた。
真織は奥歯をかみしめる。容子のかわし方は、だんだん巧みになってきていた。このままズルズルと逃げられ、とどめをさせないという事態もありえないことではない。遊び気分はひとまず棚上げにし、急いだほうがよさそうだった。
「では、先ほどの年代のクワルテットなら、何の曲がよろしいかしら」
いく人かの手が上がった。ここは上条に華を持たせてやりたいと考えて、真織は彼を指し、曲名をたずねた。
「『死と乙女』なんて、どうかな」
弦楽四重奏第十四番ニ短調D八一〇「死と乙女」は、フランツ・シューベルトの作で、彼の死後五年たって初演が行われた。何かに憑かれたように激しい最終楽章が印象的な曲である。
「亡くなった女性の誕生日という、今回のオデパンの趣旨にも合っているし」
真織は、男性陣がうなずくのを確認してから上条に目を向けた。
「それでいきましょう。あなたにおまかせするわ。よろしく」
上条の頬が、ぱっと華やいだ。
「ベストをつくすよ」
好きなヴァイオリンに思い切り浸る時間が、毎日の辛さに耐える力を育んでくれるといい。そう思いながら真織は身をひるがえした。
蔵の庇《ひさし》の下に取り付けられた小型のオーディオがわずかに揺れ、水守のアナウンスが流れ出す。
「ただいま枚方《ひらかた》上空。遅れは、なんと九分に短縮。尾崎貴明、猛然と追い上げ中」
真織の背後で、どっと不満の吐息がもれた。
「そういえば、あいつって、いつも帳尻はきっちりあわせる奴だったよ」
「くっそ、時間通りならお楽しみが一つ減るぞ」
「誰か、妨害に走れよ」
真織は、笑いながら食器収納室に急いだ。容子の声が、後を追いかけてきて背中にぶつかる。
「もし時間通りなら、罰ゲームを考えた人が罰を受けるっていうのは、どう」
ふり返ると、大喜びする男性たちの真ん中に容子が立ち、笑いをかみ殺しながらこちらを見ていた。
その小さな体が、急にぐいっとふくらんだように感じて、真織は一瞬立ちすくんだ。瞬く間に脱皮し、成長していく昆虫を見ているような気がした。
「マオさん、できました」
食器収納室の前の廊下には、小テーブルが用意され、その上に、一人分のセッティングが作られていた。
「点検と仕上げをお願いします」
白いテーブルクロスの中央より少し手前に、緑の薔薇を描いたアウガルティンのケーキ皿が置かれ、両側に銀のナイフとフォーク、生クリーム用の大きなスプーンがセットされている。その奥に、三種類の透明なグラスが並べられていた。赤と白のデザートワイン、それにミネラルウォーター用である。
一見、何の問題もないように見えながら、故意に様式を無視したとしか思われないセッティングだった。真織は眉根を寄せながら目を上げ、テーブルの向こうに立っている女性たちを見回した。
「どなたがなさったの」
女性たちは、口をそろえた。
「全員で」
真織には抗議の声に聞こえた。
「あら、お待たせしたかしら」
廊下の向こうに容子の姿が見え、近づいてくると、美奈子が勇んだ様子で一歩前に出た。
「まず、容子さんに点検していただこうかしら。ねえ皆さん、マオさんにお教えになるほどの知識を、私たちにもぜひみせていただきたいものよね」
全員の同意の声が上がった。並んでいる女性たちの間から、憎悪が陽炎《かげろう》のように立ち昇り、きらきらとその切っ先を光らせていた。
容子は、警戒の色をあらわにしながらテーブルの上に視線を落とした。右手と左手をかすかに動かしているのは、フォークとナイフの位置が逆なのではないかと疑っているのだろう。
そんな単純な罠ではなかった。これを知らなければ馬鹿にされても仕方がないと言えるほど、はっきりと大胆に作られている。
真織は、美奈子が笑いを含み始めるのを見ながら容子の様子をうかがった。
「まあ、きれいではあるわね」
言いながら容子は真織に向き直った。
「でも、先に高宮さんにお願いするわ。私がさっき庭で教えてあげたことをどれほど活用できるか、見てみたいのよ。さあ、やって」
容子は後ろに身を引き、真織の耳のそばでささやいた。
「やるのよ。そして私の手柄にしなさい」
真織は笑い出しそうになった。オデパンのメンバーを小手先でごまかすことなど、できるはずもない。皆、幼い頃からあらゆる本物に触れて育ってきている。目も耳も感覚も、確かだった。
「この女たちに私を見直させるのよ」
あなたにそれだけの価値があるなら、簡単にできるでしょうけれどね。そう言いたい気持ちを抑えて、真織はテーブルに歩み寄った。
「マオさん」
美奈子が表情を固くし、わずかに身を乗り出す。
「私たちは、これをあなたでなく、近藤容子さんに点検してもらいたいと思っているんです」
懇願するようでも、また説得するようでもあった。眼差は、東京での申し合わせを思い出してほしいと訴えている。
「それが全員の希望なんです」
テーブルの向こうでひと塊になっていた女性たちが、それぞれにうなずいた。真織の背後で容子が明るい声を上げる。
「あら、私の希望は高宮さんに点検してもらうことよ」
真織は、一団となっている女性たちが、襞《ひだ》でもよせるようにじりっと自分に歩をつめるような気がした。後ろから伸びた容子の手が真織の肩に乗る。
「さあ、どうするのかしらねえ」
容子の言いなりにならずにすむ方法も、ないではなかった。
この場で、リムジンの中での出来事を話す。彼女たちの理解を得、合意を取りつければ、容子を締め出すことは可能だった。
だが、今日の参加者の中で女性メンバーの占める割合は、三割前後にすぎない。残りの七割である男性陣は、説明だけでは納得しないかもしれないし、容子も扇動するだろう。それでは彼女を締め出すどころか、オデパンが二つに割れてしまう。
尾崎との約束は、容子を完璧に仕とめることだった。どうにも言い逃れのできないところ、誰もが了解するところまで持っていかなければ、それはできない。
「ナポレオン三世様式ですから」
真織はテーブルの上を指差した。これは賭けだ。ぎりぎりまで力をつくそう。
「テーブルクロスは無地ではなく」
女性たちは息をつめた。容子が勢いよく笑い出す。
「アップリケのついたものを使用します」
危険は大きい。女性たちの総意を無視してこのまま強行し、万が一、仕とめられなかったら。オデパンから出て行くのは、真織になるかもしれなかった。
「グラスもカトラリーも直接テーブルの上には置きません。グラスにはコースターを、カトラリーにはカトラリーレストを使ってください」
だが約束を守りたい。あなたにしかできないと言った尾崎の言葉に応えたい。
「生クリームは、スプーンを使わずナイフで代用します」
美馬の期待、藍子の信頼を裏切らない自分でありたい。
「ワイングラスが三つありますが、この様式の場合、一つだけ色付きのグラスにします」
それでだめなら、もうあきらめるのだ。失う覚悟をすればいい。
「そしてナイフとフォークは、黒檀か象牙、もしくは貝をはめこんだ柄の付いた物。これでナポレオン三世様式のテーブルセッティングの完成です」
説明を終わり、真織が口を閉ざすと、容子が手を叩きながらテーブルに近寄ってきた。
「よくできました。まあ、教えたとおりに覚えていて、えらいわあ」
言いながら、いまいましげに女性たちを眺め回す。
「まったく、よくもでたらめなことを。私がだまされるとでも思ったの。冗談じゃないわ。あのねえ、あんたたちの女王様はこの私の味方なのよ。何をやったって無駄よ。よく覚えておくのね。特に、そこのあんた」
容子は腕を上げ、指の先で美奈子を差した。
「さっきからいい目付きをしてるじゃない。態度もいいしね。こんな姑息なマネをしないで、少しは私のご機嫌を取ったほうが賢明なんじゃないかしらね」
美奈子は、黙ったまま腰に当てていた片手を離し、テーブルクロスをつかんだ。真織は思わず目をつぶる。
「美奈子さん、おやめになっ」
恭子の声に、転倒する食器やグラスの派手な音が重なった。それらが収まるのを待って真織が目を開けると、床に散乱した食器類の上に、美奈子が手にしていたテーブルクロスを投げ捨てるところだった。
「マオさん」
叩き付けるような視線が飛んでくる。
「ちょっといいかしら」
「三田のボンバルディア・カナディアCL−六〇〇チャレンジャーは、招提《しようだい》を通過中。遅れは、七分を切った。尾崎、必死の爆走」
水守のアナウンスを聞きながら、真織は、女性メンバーが生クリームを泡立てているキッチンの前を通り過ぎ、その脇にあるペイストリー・ルームの扉を開けた。壁にも天井にも、バターと砂糖の匂いが染み付いた八畳ほどのこぢんまりとした部屋だった。
「どういうことなの」
美奈子は扉を閉め、鍵をかけるなり、先に入った真織の前に回りこんだ。
「説明してちょうだい」
真織は、廊下側に開いた嵌《は》め殺しの窓に寄った。
「皆、不審に思っているわ。私もよ。いったいどうなっているの。ドレスコードにしたって、テーブルセッティングにしたって、考えたのはマオさんでしょう」
真織はペイストリー・ルームを見回した。
「それを自分から滅茶苦茶にして、しかもあんな女の言いなりで」
隣接する台所から、生クリームを泡立てるメンバーたちのはしゃいだ笑いが伝わってきた。美奈子は、耐えられないといったように頬をゆがめた。
「私は、乗せられてきた船からいきなり投げ出された感じよ。これじゃ、裏切ったと思われてもしかたないわ。納得のいく説明をしてよ」
美奈子の声が空気を揺するたびに、甘い香りが波のように立ち上がり、真織の方に押し寄せてきた。濃厚な甘みにまといつかれ、真織は、いささか息苦しくなった。
オデパンのメンバーは感情を隠さない。中でも美奈子は、それがはなはだしかった。常日頃そういう生活をしていると、いざそれを隠そうとした時、不自然さが顔を出す。
勝ち誇っている容子をこのまま油断させておくためには、美奈子も一緒に欺《あざむ》いておいたほうがよさそうだった。
だが、反旗をひるがえしてもらっては困る。そこだけは、今きっちりと押さえ、確約を取っておかなければならなかった。
「東京で、あなたは、こうおっしゃったわね」
真織は慎重に言葉を選んだ。
「尾崎君と美馬君は、私にとっては男じゃない、仲間だと」
美奈子は眉を上げながら、二、三回軽くうなずいた。
「ええ、言ったわ」
真織は、指先が震え出すほどに緊張している自分をなだめようとして、美奈子に背を向けた。
「あなたにとって、男と仲間は、どこが違うの」
こつりとヒールの音をさせて、美奈子は部屋の中を歩き出した。
「そうね、仲間に対しては、まず礼節を守るわ」
真織は、刺すように口から飛び出していこうとする言葉を喉の奥に引き戻し、ゆっくりと解き放った。
「具体的に、おっしゃってくださらないかしら」
美奈子は、真織の正面まで来て立ち止まる。
「彼らに、女の武器を使わないってことよ」
どうやら顔を見ながら話を進めたいらしかった。真織は、しかたなく美奈子に視線を上げた。
「では同性の仲間に対しては、どういう信条を持っていらっしゃるの」
真織が見すえると、美奈子は一瞬、唇をすぼめた。
「そこにもっていくわけね。話に乗るんじゃなかったわ」
真織は、頬が引きつらないように注意しながら微笑んだ。
「おっしゃって」
美奈子は、ふてくされたように横を向き、腕を組んだ。
「ただ信じること、無条件でね」
このあとの展開を考えている様子のその横顔に向かって、真織は念を押した。
「では今日も、そのようにお願いするわ」
美奈子は、怒りをふくんだ顔で向き直った。
「説明は」
声がしだいに大きくなる。
「何もなしってわけなの」
真織は、窓の外から家の中をのぞきこむように、美奈子の目からその心中をうかがいながらとりあえず強く出た。
「そうよ。だって、あなたは今、無条件で信じるとおっしゃったじゃないの」
美奈子は、腹立たしげに両手を握りしめた。
「今までは仲間よ。でも、今日で考えさせてもらうわ」
真織は、その言葉尻をとらえた。
「では今日のところは、信じてもらえるわけね」
美奈子は黙りこんだ。底のほうで何かがふつふつと煮えているような目で、じっと真織を見ながら口を開く。
「どうして仲間だなんて言えるの。マオさんはさっき、私たちを無視してあの女の意見を取り上げたのよ。皆を代表していた私の顔は、つぶされたわ。これが仲間に対する態度なわけ」
面子《メンツ》の問題がからむと、美奈子はいつも頑なになる。真織は、話の方向を変えた。
「仲間と思ってもらえないのなら、しかたがないわ」
和解をあきらめたと見せる。
「お好きになさってちょうだい。あなたのご自由よ。オデパンを退会なさるのなら、メンバーには、その旨話しておきます」
美奈子の顔に動揺が走った。だが、いったん言い出したことを簡単に撤回できるような性格ではない。真織はそこを捕らえた。
「残念ね。今までとても仲良くやってきたのに」
美奈子は、わずかに後ずさった。真織を見すえ、自分の中から力を振り絞るようにして乾いた声を出す。
「それは、私のセリフよ。あんな女に自由に振る舞わせているあなたに、誰がついていくと思って。退会は、あなたということになるんじゃないかしら」
真織は驚きを装った。ここまで亀裂を入れておけば、容子に疑われることもないだろうと思いながら、詰めにかかる。頭の片隅では、美奈子の言う通りの結末になるかもしれないと感じていた。先は読めない。ただ力をつくすだけだ。
「あなたの気持ちは、よくわかったわ。でも今日だけは、黙って見ていていただきたいの。お願いよ。約束してちょうだい」
美奈子は、たまらないといったように首を横に振った。
「私の顔はつぶしておきながら、自分の立場は守ろうってわけなの。もうたくさん。こんなエンド・マークがつくなんて思ってもみなかったわ。ええ、聞いてあげるわよ。最後のお願いをね。その代わり、今後一切、二度と私に話しかけないで」
扉の音をさせて美奈子は出て行き、真織は大きな息をついた。美奈子は、約束を守るだろう。彼女は押さえた。さあ、次は。
「マオ」
つややかなバリトンが、天井から降ってくる。真織は顔を上げ、彩色梁の間からのぞいているビデオのレンズを見つけた。
「悪いけど、僕の部屋まで上がってきてくれないかな」
今までどこにも姿の見えなかったこの家の主、美馬貴司の声だった。
「話をしたいんだ」
次に押さえなければならない相手からの、タイミングのいいコンタクトである。真織は微笑んだ。
「今いくわ」
腕にかけていた巾着型のパーティバッグに手を入れ、携帯電話を取り出して、真織は時間を確認した。そろそろ連絡が入る頃である。聞き逃さないようにしなければならなかった。
美馬の部屋は、屋敷の三階にあった。南側に大きなテラスを構えており、目の前に法観寺の五重の塔がそびえている。文化財への配慮からか、そちら側だけがコンクリート造りだった。
三方に窓を取り、天井をトップライトにして光を蓄えた明るい部屋の中央に、チェス・メンの並んだ黒檀のテーブルがあり、そこに向かった肘掛け椅子に美馬貴司がゆったりとすわっていた。コルドバ革を張った背もたれに寄りかかり、高く脚を組んだまま椅子ごと真織に向き直る。
「ようこそ、美馬邸へ」
形のいい顎が埋まりそうなほどたっぷりとしたタートルネックの黒のカシミヤを着ていた。ボリュームがあるのは、襟と袖だけで、身ごろは、しなやかな体の線がはっきりと浮き上がるほど細身に仕立ててあり、伸縮性のある細いパンツとひと続きになって百八十四センチの長身を際だたせていた。
腕には、クロッコのバンドのついた大きめの時計をしている。それがただ一つのアクセサリーだった。先端の開いたギリシャ十字のマークを見るまでもなく、ヴァシュロン・コンスタンタン社のマルタとわかる。相変わらずいい趣味だった。
「まあ」
真織は、窓のない北側の壁を見回した。全面に、各部屋や廊下の様子を映し出すテレビモニターが埋めこまれていた。数えてみれば、二十六機もある。
それでも病院の集中管理室のような雰囲気にならないのは、モニターの一つ一つがアンティックの額縁に入っているからだろう。絵画を集めた十九世紀の典型的な美術室といった感じだったが、画像の動きに合わせて光がちらつき、落ち着かなかった。
「にぎやかなお部屋ね」
のぞき見られていたことへの抗議をこめてそう言うと、美馬は、座っていた椅子の肘掛けから片手を上げ、そこに内蔵されたボタンの一つを押した。テレビモニターの前に、音もなくタピストリーが降りてきてすべてをおおい隠し、重厚な感じの部屋になった。
「第二次大戦後、ここは、進駐軍第六師団の将校クラブになっていて、全館に盗聴用の配線が張り巡らされていたんだ。それを利用して、現代風にアレンジしてみたんだけれど」
この重々しさを和らげるために、多方面から光を取り入れてあるのだろう。
「これで、少しは落ち着くかな」
真織はうなずき、タピストリーを背にして美馬に向き直った。
「結構よ。お話をうかがうわ」
美馬は、テーブルをはさんで自分と向かい合っているソファをさした。
「座って。それこそ、落ち着かないってものだろう」
言いながら高く組んでいた脚を下ろし、ゆっくりと前かがみになると、開いた大腿に肘をつく。
「もう、やめよう」
真織を見つめてそう言うと、美馬は両手の指を組み合わせ、二本の親指を目頭に押し当てた。
「尾崎には、僕から言うよ」
真織は、紺と金のブロケード織りを張ったソファに腰を下ろした。手にしていた携帯電話をチェスボードの脇に置き、肘掛けに乗っていた絹張りのクッションを持ち上げる。できるだけ明るい声で聞いてみた。
「どうして、今さらそんなことを」
美馬ははじかれたように顔を上げ、両手を下ろした。
「あなたのダメージが大きすぎる。美奈子さんじゃないけれど、誰かにへつらうあなたなんて、とても見ていられないよ」
非難するようなきつい眼差だったが、目の中には艶《あで》やかな光が瞬いていた。不思議な艶を持つ漆黒の瞳。昔からそうだったと真織は思った。そのせいで、とんでもない誤解を招いたこともあった。真織は笑いながら言った。
「美馬君、いくつになったの」
美馬は、いささか気色ばんだ。
「三十三」
たくましい体格をしていながら、どことなく繊細な雰囲気を漂わせているせいで、美馬は、いつも年齢不詳と見られていた。実はオデパンの中では、年少のほうである。真織とは、十二歳の開きがあった。
本人は、自分の知識や経験に絶対の自信をもっていて、常に年長者と肩を並べて対等の会話をする。メンバーに年齢のことでからかわれると、美馬は、よくむくれたものだった。
「大きくなったわねえ、なんてのは、なしだぜ」
ふてくされた横顔は、少年の時のままだった。真織は膝の上のクッションを抱きしめ、ソファの背にもたれかかった。
「大人の美馬君、あなたの部下は、あなたにへつらわないとでも思っているの」
美馬は、ゆとりのある笑みを浮かべた。
「へつらわない奴しか、そばに置かない。道徳的な問題じゃなくて、純粋に力学の問題でね。阿諛追従《あゆついしよう》者には、大樹に寄りそうだけの力しかないからさ。僕がほしいのは、自ら大樹になろうとするエネルギーを持つ奴だ。見る目は確かだよ。他に質問は」
美馬の部下を務めるのは、結構大変かもしれないと真織は思った。後十年たったら、変わるだろうか。
「高度成長期の幻想を、引きずってるんじゃないの」
真織が突っこむと、美馬は笑みを大きくした。
「ここであなたと経営について議論する気はないよ。話を戻そう。僕はね、あなたにこれほど泥をかぶらせてまで、オデパンを維持継続しようとは思わないよ。尾崎だって、そう言うだろう。だいたいね」
話は、しだいに美馬のペースになっていく。巻きこまれまいとして真織は、抱きこんでいたクッションから身を起こし、姿勢を正した。
美奈子を押さえたように、美馬も押さえなければならない。美馬は、真織が企んだ狩りの、ハンターの一人なのだ。無理にでも協力してもらわなければならなかった。
「もう手をつけたのよ。やり遂げるわ。私の性格はご存知でしょう。やるといったら、やるのよ」
美馬は吐息をつき、椅子の背にもたれこんだ。
「今のままじゃ、無理だね。仕とめられないよ。ここでずっと見ていたけれど、ターゲットは、どんどん増長しているじゃないか。いったい、どうやるつもり」
真織はうつむき、四角いクッションの角をつまんだ。
美馬が真織の性格を知っている以上に、真織は美馬の性格を知っている。高潔で情熱的、時に大胆、負けず嫌いで不屈、親分肌で人の窮地を見過ごしにできない。
「八光流って知っているかしら。柔道に吸収された武道の一つで、護身術の一流派よ」
真織の言葉に、美馬は神妙な表情になった。
「あなたが習っていたってことは知っている」
真織は、クッションの角を絞り上げながら美馬に目を向けた。言わせたい言葉は、ただ一つだった。
「相手の力を利用して、それで相手を倒すの。だから、相手が襲ってこなければ使えない。追いつめて、追いつめて、襲わせるの。そしてカウンターパンチよ」
美馬は眉根を寄せた。
「冗談。パンチドランカーになるぜ」
真織は笑って首を横に振った。
「覚悟の上だわ。とにかくやるのよ」
美馬は片手を上げ、真織に見せてから、その人差し指を肘掛けのボタンの一つにかけた。
「ハンズフリーだ。声が全館に流れる。僕が皆に話すよ」
真織は、息をつめて美馬を見すえた。ただの脅しか、あるいは本気か、譲歩するつもりはあるのかないのか。
「あなたがやめないなら、僕があなたの計画にピリオドを打つ」
美馬の目には、悲しげな影があった。理解されない悲しみが澱《おり》のように瞳の底に沈んでいる。真織の待ち望んでいるひと言が流れ出すとすれば、たぶんそこからだった。真織は、もう少し進んでみる決心をした。
「わかってもらえないのね。残念だわ」
美馬は、ふっと笑った。
「それは、僕のセリフだ」
悲しみの影は深くなっていく。真織は力をこめて言い放った。
「どうしてもやるわ。その人差し指を下ろしたら、あなたは私の敵にまわったと判断するわよ」
美馬の瞳の底から悲しみが突き上げ、怒りに変わって唇からあふれ出した。
「そんなこと、危なすぎてさせられないって言ってるだろう。あなたが心配なんだ。オデパンの存続より、あなたの方が大切だよ」
それこそ、真織が待っていた言葉だった。
「あなたが協力してくれさえすれば、ちっとも危険じゃなくなるのよ」
真織は身を乗り出した。
「ちょっと力を貸してくれるだけで、いいの。何もかもうまくいくわ。やってくれるでしょう。そこまで私を心配してくれているのだから、まさか断わることはしないわよね。それともさっきからの言葉は、嘘だったの」
美馬は口角を下げた。
「乗せられた」
真織が笑い出すと、美馬も続いた。ひとしきり笑ってから、興味津々といった様子で美馬が身を乗り出した。
「で、何をやらせたいわけ。素直に頼みにこなかったところをみると、僕がかなり反発しそうなことなんだろう」
勘は悪くない。そう思いながら真織は立ち上がった。肘掛け椅子に歩み寄り、その脇にしゃがみこんで美馬を見上げる。
「あなたが、目的のために手段を選ぶ人だってことは、知っているわ。私もそうよ。力を持っていさえすれば、手段を選ぶゆとりがあるのよ。そうでしょう」
美馬がうなずく。その目の中を、真織はのぞきこんだ。
「でも、今回は無理。ターゲットは、メンバーの中に食いこみすぎている。こうなってしまったのは、放置しておいたあなたや、私にも責任があるのよ。オデパンを守るために、一肌脱いでもらうわ。一肌脱ぐって、慣用句として使っているわけじゃないのよ。その通りの意味に取ってちょうだい」
美馬は表情をこわばらせた。真織は立ち上がる。
「あなたの寝室に女狐を追いこむわ。後は、あなたしだいよ。お任せします」
美馬は片手で両眼をおおい、天井を仰いで大きな息をついた。
「そういうことは、尾崎に頼んでよ。あいつの得意分野だろう」
黒檀のテーブルの上で真織の携帯電話が鳴り出す。真織は手を伸ばした。
「あいにく、狐のご指名なのよ。たぶん、あなたの次には、尾崎君を狙っているのだと思うけれどね」
受信ボタンを押すと、男性にしては、やや高めの声が聞こえてきた。
「沖田ですが、今、着きました」
駒はそろった。真織は、空いている片手を強く握り締めた。
「オークラの一階、『レックコート』にいらして。お待ちしているわ」
電話を切ると、美馬が不審げに片目を細め、こちらを見ていた。
「誰か、来るの」
真織は、出入り口に足を向けながら美馬を振り返った。
「狩人が一人。迎えに行ってくるわ。あなたは役目を果たしておいてね。最短でも、二時間くらいは楽しんでいていただけると助かるわ」
美馬は、まいったといったように首を横に振った。
「冗談。好きな相手ならともかく、あれじゃあね。趣味は、わりといい方なんだ」
真織は扉に手をかけた。
「ま、頑張ってみて。あなたの新機軸に期待しているわ。意外と、新しい自分を発見できるかもしれなくってよ」
美馬が半ば立ち上がり、片手でチェスボードの上をさらって駒をつかみ取った。真織は、あわてて部屋を飛び出す。扉に駒のぶつかる音が響いた。頭上から、水守和彦の力のこもったアナウンスが流れ出す。
「ただ今、八幡《やわた》上空。遅れは、五分まで縮まった。尾崎、名誉をかけて驀進《ばくしん》中」
「沖田|戒《かい》です」
立ち上がって名刺を差し出したのは、三十歳前後の長髪の青年だった。足のそばに、大きなカメラバッグと折りたたみ式のレフ板が放り出すように置かれていた。
「『日読新聞』で時々、仕事をさせてもらっています」
伸ばしているのか、それとも無精なのかよくわからないほどの髭面だったが、強い光を宿した鮮烈な眼差をしていた。視線は、真織をやや見下ろしており、中肉で、日本人には珍しいほど頭部が小さく、バランスのよい体型だった。
「編集長から、指名の仕事だと聞いてうかがったんですが」
真織は彼に椅子を勧め、自分も腰を下ろした。
「ええ。十九時から一時間の撮影で、助手はなし、ギャランティは十万、半額を前払いで。アゴアシとフィルムは、別料金というお話だったと思うけれど」
美奈子が懇意にしているというジャーナリストを通じ、探し出したカメラマンだった。
「はい、それで来たんですが」
言いながら沖田は語尾を濁し、片方の頬をゆがめて真織を見た。
「本当に、僕でいいんですか。編集長が勧めるし、ギャラもよかったんでとりあえず来たんですが、新幹線の中で気になり出してしまって。なんで僕なんかに指名がきたのかって。僕の専門は報道なんで、パーティのグラビアなんかはあまり撮ってないんです。戦場ばっかりで」
今にも後ずさりし、回れ右をして帰っていってしまいそうだった。自分の意義が見出せない仕事は、したくないのかもしれない。
「自信がない、ということかしら」
真織がからかうと、沖田の声は、わずかに怒気を含んだ。
「違いますよ。いちおうプロですからね、何でもちゃんと撮ります。ギャラもほしいし。でも、もしかして間違いだったら、お互いの不幸じゃないですか。後でもめるのは、いやなんで」
どうやらまじめで正直、もめ事を好まないタイプらしい。真織は、パーティバッグの中から小切手を出し、テーブルに置いた。
「間違いじゃないわ。この仕事は、お金のためと割り切ってしていただいたほうがいいと思うの。おできになるかしら」
沖田は、小切手に視線を落とした。長い睫《まつげ》だった。何も言わない。返事を待ちながら真織は、見るともなく沖田を見ていた。日に焼けた首と手。彼をあぶったのは、どこの国の太陽だったのだろうか。
「わかりました」
そう言って沖田は目を上げ、少しうれしそうに微笑んだ。
「たいそうなギャラを、ありがとうございます。助かります」
よく見ると童顔で、かわいい笑顔だった。髭面は、外国で軽く見られないための武装なのかもしれない。
「ずっと、戦場ばかり撮っているの」
前払いの小切手を渡して真織が聞くと、沖田は首を横に振った。癖のない髪がさらっと揺れ、真織の鼻にシトラスの香りを届けた。
「初めは、人物でした」
カルバン・クラインの男性用オードトワレ『永遠《エタニテイ》』だった。
「食えなかったんで助手をしてて、写真集の仕事で数年前にアフガンに行って、はまったんです」
気恥ずかしそうに笑いながら、沖田は、ふっと視線を揺らめかせた。突き刺すような眼差が急に曇り、柔らかくなった。
「それからは、もう戦場ばっかり」
先ほどまで真織に向けていた強い目で、どうやら自分自身を見ているらしかった。
「日本に戻ってくるのは、その資金を稼ぐためだけです。あっちでは使う一方なんで。どれだけあっても足りません。次は、バグダッドに行こうと思っているし」
口をつぐんで自分の思いの中に沈んでいく沖田を、真織は現実に引き戻した。
「あなた、お子さんはいらっしゃるの」
沖田はわずかに首を振った。
「妻だけです」
妻がいることは知っている。怪しげな宝飾デザイナーで、容子という名前なのだ。沖田をここに呼んだのは、彼が彼女の夫であるからだった。
「僕のただ一人の理解者で、金銭的にはかなり彼女を頼っています。ヒモって言われても、しかたないかも」
自嘲的な笑みだったが、重くはなかった。
「でも、僕の夢を追っていいって言ってくれてるからありがたいです」
夫婦仲は、いいらしい。真織は心が重くなっていくのを感じたが、今さらどうしようもなかった。いささか気はとがめるが、この青年には、泣いてもらうしかない。
「スポンサーをお探しになったら、いかが」
真織がそう言うと、沖田は、思ってもみないといったような笑みを含んだ。
「僕は、まだ無名です。探しても無駄ですよ。いるわけないですから」
真織は、パーティバッグから携帯電話を取り出し、美馬の携帯の短縮ボタンを押した。声をかけるより早く、さもいやそうな返事が聞こえた。
「催促はご無用だ。これから、ちゃんと誘いこむよ」
真織はちょっと笑った。
「寝室は、どちら」
美馬は、ぎしっと椅子の音をさせた。
「さっきの部屋の隣。もしかして、あなたが助けに来てくれるわけ」
「かもしれないわ。鍵をかけないでおいてね」
電話を切って、真織は沖田に目を向けた。
「これから、現場にご案内します。今日の仕事がうまくいったら、私があなたのスポンサーを引き受けてもいいわ」
慰謝料代わりに受け取ってほしかった。
10
「ただいま、宇治上空を通過。東山に向かって北上中。遅れは、なんと二分」
男性陣から上がる驚嘆の声を聞きながら、真織は玄関を入った。
「やっぱり帳尻は合わせるんだよ、あいつって」
「くっそ、くやしいなあ」
後ろについてくる沖田を振り返り、廊下の中ほどにあるシガールームの手前の階段を指し示す。
「それを上って三階まで行って、廊下の突き当たりの部屋よ。寝室だから、カーテンが下りているかもしれないわ。露出に気をつけて。ノックをせずに入って一枚撮ったら、こちらに降りてきてちょうだい」
沖田は声をひそめた。
「ノックをせずにって、隠し撮りですか」
真織は、ざわめきの伝わってくるメインダイニングに視線を流した。
「今日はパーティなの。びっくりするような企画がいろいろあって、その中の一つよ。寝室で仲良くしている恋人たちを冷やかそうってアイディアなの」
沖田は、眉を上げた。
「それでプロのカメラマンを雇って、十万払うんですか。いかにも、お金持ちのお遊び、って感じですね」
あきれているようでも、馬鹿にしているようでもあった。十万あればアフガンなら、あるいは自分なら、もっと有意義に使うと考えたのだろう。
「あなたにとって、おもしろくない仕事であることはわかっているわ」
戦場と寝室では、比べ物にならないに決まっていた。
「お金のためと割り切ってやってくださればいいのよ。そうしてちょうだい」
沖田は一瞬、真顔になり、真織の脇をすり抜けるようにして階段に向かいながら言った。
「言い過ぎました。すいません」
振り向かず、そのまま階段を上っていった。潔癖な感じのする背中だった。
破滅に向かっていったのだろうか。そうかもしれない。そうでないかもしれなかった。真織は、彼があまりショックを受けないように祈りながらメインダイニングに向かった。
「Voilala reine!(女王様の登場だ)」
真織が扉を開けると、誰かが叫び、拍手が上がった。見回せば、六人ずつ座れる丸テーブルが十八脚、部屋の中に円を描くように並べられ、テーブルクロスからグラスまでナポレオン三世様式できちんとセットされていた。
中央に一脚だけ置かれたブナ材の小さな角テーブルには、銀のボウルが乗っており、泡立てた生クリームが入っている。そばには、羽根まぶしに使うビニールを敷いたビリヤード台も用意されていた。
真織は、部屋の奥の壁にそって並んでいる女性たちと、楽器を手にして反対側の壁ぞいに立っている男性たちを見回した。美馬と容子の姿はない。真織は、立てた人差し指を自分の唇に当てた。
「これから、今回のオデパンのメインのショウが始まります。どうぞ、お静かに。そしてお見逃しなく」
不審げな、あるいは興味ぶかそうな視線が部屋中を飛び交った。階上から大声が響いたのは、まもなくである。
「ばかね。あんたは、はめられたのよ」
ドアの音に続いて階段を転がり落ちるような足音がし、近づいてきて、開いていた扉から容子が踏みこんできた。男物のガウンの前をかき合わせながらまっすぐ真織に歩み寄り、頬を震わせてにらみすえる。
「よくもやってくれたわね」
真織は、にこやかに微笑んだ。
「まあ、お礼にはおよびませんわ」
容子は、金切り声を上げた。
「あのビデオを、これから皆に見せてやる」
沈黙が広がった。容子は肩で息をつくと、意気揚々とメンバーの方に踏み出した。
「あなた方の女王様の、とんでもなくみっともないお姿をお見せするわ。真っ裸で神山さんに迫りまくるシーンよ」
メンバーたちは絶句し、顔を見合わせた。容子は勝ち誇り、笑みを浮かべて真織を振り返った。
「今さら謝っても、だめよ。もう遅いのよ。自分のやったことを後悔するがいいわ」
部屋の空気を裂いて指笛が響いた。口笛も上がる。容子が向き直ると、男性メンバーがいっせいに、かぶっていた帽子を空中に放り上げるところだった。
「イヤッホー。マオのヌードなんて、何年ぶりだろう」
「フィジーのチャリティショウ以来じゃないか」
「いやあ、感激だなあ」
「だけど、なんで相手が神山なんだ。どうして僕じゃないんだ」
「不当だ。うらやましすぎる」
「よし。まず見てから、神山の罰を決めよう」
女性陣も追随する。
「そういえば最近、ヌーディストクラブにも行かなくなりましたものね」
「久しぶりですわ。マオさんなら、おきれいなのはわかりきっていますもの。楽しみ」
「ところで、どこまで映っているのかしら」
「あら、最後までに決まっていますわ」
「じゃ、メモを取らなければ。マオ流のくどき方を、ぜひ身につけて参考にしたいわ」
真織は、容子のそばによった。
「ということですわ。皆様のご期待に添えるほどの内容ではなかったと思いますけれど、どうぞ公開してくださいませ」
容子は震えはじめた。血の気の引いた顔をゆがめ、喉の奥から声を絞り出す。
「最初から、そのつもりだったんだ。油断させて、私とあの人をめちゃめちゃにするつもりだったんだ。なんて女。なんてずるがしこい。あんたこそ女狐よ」
空気が動き、振り返ると扉から沖田がゆっくりと入ってくるところだった。レフ板を突っこんだカメラバッグを、重そうに引きずっている。
「戒」
叫んで容子が走りよった。
「この連中、おかしいんだ。あの女が裸で男に迫っていたのに、問題にもしないなんて。いかれてるんだよ。あたしは、はめられたんだ。そうなんだよ。ね、ね、わかってよ」
御堂寺恭子が、いつになく大きな声を出した。
「そんなことをおっしゃるなら、結婚していながら、誰彼かまわず誘っていらしたあなたの行動は、相当な問題ということになりますわね」
沖田は容子の二の腕をつかみ、部屋の隅に連れていった。
「僕のせいだとは思っている。きちんと話をしよう。今日のところは、帰ったほうがいい」
容子は、何度も首を横に振った。
「いやよ。わかったって言って。私の言うとおりだって言って。言ってくれなかったら帰らない」
沖田は、容子をつかんでいる腕に力をこめ、顔をのぞきこんだ。
「ここでそんなことを言っていても始まらないよ。落ち着いて。とにかく帰るんだ」
容子は、おびえたような視線で沖田を見た。
「わかってくれているの。私たちの間は何の変わりもないって思っていていいの。それなら、一緒に帰って」
沖田は目をそむけた。
「僕のせいだって、さっき言ったよ。君がこうなったのは、きっと僕が甘えすぎたからだ。だけど、僕は今の生き方を変えられないし、さっきの君の姿も忘れられないから、一緒には帰れない。話し合いの時間は、ちゃんと取るよ。荷物も取りに行く。今までありがとう」
容子は、真織に顔を向けた。
「ちきしょう」
見る間に涙が浮かび上がり、頬をつたってこぼれ落ちた。
「ちきしょう」
かみしめるようにつぶやきながら容子は真織に歩み寄り、片手を振り上げた。
「この女」
真織の頬で、高い音があがる。瞬間、メンバーの中から加藤純が声を上げた。
「緊急動議」
加藤は、右手を高く上げながらメンバーを見回した。
「たとえ、どのような理由においても、オデパンの席上でメンバーの女性に暴力が振るわれるようなことがあってはならないし、僕は、それを許さない。全員がこれに賛同してくれると信じている。どうだろう」
たちまち、いくつもの右手が上がった。神山の手も混じっていた。
「支持する」
「もちろんだ」
「賛成です」
手の数は増えていき、まるで林のようになった。
全員の挙手の間に、ただ一人、東城美奈子が埋まって立っていた。上条直樹が言った。
「あなたの意見は」
美奈子は、含み笑いをしながら降参でもするかのように両手をあげた。
「異議ありません」
真織は大きな息をついた。狩りは、終わったのだった。
「では、動議提案者として僕から」
言いながら加藤が容子の前に立った。
「あなたを、オデパンの集会から永久追放とします。今すぐ、ここから出て行ってください」
賛同の拍手が起こり、追い立てるように強くなった。真織は、メンバーの中に伊達圭介の顔を探し、そばによった。
「彼女を、車で送ってあげて」
伊達は片目をつぶった。
「僕は、運転手に命令するだけでいいんだよね。同行しなくてもいい、と言ってくれるなら、宇宙の果てまでもお送りいたしますが」
真織は笑って、伊達の背を押した。
「早く。オークラによって服と荷物を取るのを忘れないでと伝えて」
拍手の中を、容子は伊達に付き添われて出て行った。扉の前で一瞬、肩越しに真織を振り返ったが、充血した目には恨みがこもっていた。
「おぼえてるがいいわ」
真織は微笑んだ。
「お元気でね」
容子が出て行くと、拍手はやみ、メンバーの視線は自然に沖田に集まった。それに気づいて沖田は、そそくさと立ち去ろうとした。
「スポンサーになるわ」
真織の声で、沖田が動きを止める。
「ご希望の金額は」
沖田は真織を振り返った。
「お断わりします」
噛み付くような目だった。こんな目で戦場に立っているのかもしれないと、真織は思った。思いつめていて熱い、獣のような目。
「では残りのギャランティとフィルム代は、円ではなくてドルでお支払いするわ。必要なのでしょう。断わらないでね。いただいた名刺のご住所に送ればよろしくって」
沖田は、わずかに笑ったように見えた。そのまま背中を向け、歩き出しながら言い残す。
「あそこは彼女の家なんで。落ち着き先が決まったら、連絡します」
バッグを引きずるようにして出て行く沖田を、真織は見送った。打たれた頬が熱かった。
「ショウは、終了かな」
美馬がバスローブの紐を締めながら現れ、両腕を開いて見せた。
「今回の功労者に、女王のキスを」
壁に取り付けられていたからくり時計の扉が、音を立てて回り始める。中から黄金の馬に乗ったアポロンが現れ、天使がラッパを吹き鳴らして午後七時を告げた。
「十九時だ」
男性メンバーが、いっせいに叫んだ。
「尾崎の奴、遅れたぞ」
「やった。最終タイムを計れ」
「まあ、羽根まぶしね。皆様、ご用意を」
大騒ぎになった部屋の中を、真織は微笑みながらながめまわした。今までの様々なことを思い出すと、心の底からため息が出た。
とにかく全員の前で、容子が加害者であることをはっきりさせる。後は、メンバーが各自で考えて結論を出すだろうと考えたのだが、何とかうまくいってよかった。
「誰が遅刻だって」
声と共に出入り口から、堂々とした体を白い燕尾服に包んだ尾崎が姿を見せた。高く掲げた左手の上には、カバーをかぶせたケーキ・ホルダーが乗っている。後ろに、小柄な三田健一郎が肩の荷を下ろしたといった表情で続いていた。よほどほっとしたのか、まだインカムをつけたままだった。
「あのね、君たちは知らないだろうが」
尾崎は、神様でさえも丸めこめると定評のある自信たっぷりな口調で言いながら、メンバーの一人一人に視線を配った。
「あの時計は、実は、鳴り終わる時がその時間なんだぜ」
メンバーが時計を振り仰ぐのと、天使たちがラッパを吹き納めるのが同時だった。
「くっそ」
くやしげな声があがり、床が踏み鳴らされる。尾崎は笑いながら真織に近づいた。
「やあ、マオ」
言いながら、声をひそめる。
「仕とめたかい」
窺《うかが》うような眼差に、真織は胸を張ってみせた。
「自分にできないことがあるなんて、もう信じないわ」
背後でメンバーの大声が上がった。
「おい、尾崎。ケーキは一個だけか」
「おまえ、どうやって分けるんだよ。百人以上いるんだぞ」
「大失敗ね」
「そうよ、ペナルティだわ」
つめ寄られて、尾崎は、さりげなく真織の後ろに身を隠した。
「切り分けはマオがする。なにしろ今、自分にできないことはないと言い切ったばかりだ。女王様のお手並を拝見しよう」
感心しきったような吐息があたりに満ちた。
「素晴らしいわ」
「マオが言うと、できそうな気がするから不思議だ」
真織は尾崎をにらんだ。尾崎は、ケーキを掲げていた腕を真織の前に下ろし、もう一方の手でカバーを取った。ザッハー・トルテが顔を出す。
「ま、とりあえず、ジョワイユー・アニヴェルセー」
尾崎の力のある声に、全員が引きずられた。
「ジョワイユー・アニヴェルセー」
クラッカーが鳴る。尾崎が耳元で言った。
「マオ、ありがとう。お礼と言っちゃなんだけど、今夜、俺とつきあわないか」
真織は笑い出しながら首を横にふった。胸の中でさっきの言葉をくりかえす。
自分にできないことがあるなんて、もう信じない。
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花 酔 い
「今年の桜は、少し遅れるってお話ですわよ」
「毎年、この季節になると、気がもめることですわね」
「でも、観なければ春が始まりませんもの」
「あ、ほら、あちらを。高宮代表のお嬢様じゃございませんこと」
「まあ、なんてお珍しい。こういう席でお姿を拝見するのは、ずいぶんとお久しぶりのような気がいたしますが」
「ご結婚なさって以来ですわ、きっと」
「あのお部屋から出ていらしたということは、両殿下にご挨拶なさっていらっしゃったのかしら」
「確かお母様が、そちらの関係の方だという話を聞いていますよ」
「相変わらずおきれいですわねえ。夜会巻きがよくお似合いで、ため息の出るようなかただわ」
「すべてに恵まれた女性ですもの。世の中の女性という女性が望む到達点に、生まれた時から立っていらっしゃるようなかたでしょう」
「まあ、ある意味では悲劇ですよ。生まれた時に何もかも持っていたら、生きるにつれて失うだけ、ということになりますからね」
「おっしゃる通りですわ。だから、ほら、ご結婚がねえ。ご自分で決められたお相手だそうですけれど、ずいぶんなかただって噂でしょう」
「無趣味、無教養で、スポーツも楽器も、何一つおできにならないんですって。最初に聞いた時には耳を疑いましたわ。主人なんて、こう言いましたのよ。おい、冗談だろうって」
「あのご結婚で、あのかたが失ったものは大きかったでしょうね」
「完璧な環境に生まれただけに、その後は何をしても、それより落ちていくということになるのですよ。お気の毒に」
「まあ高宮代表も、ご年齢からいって、そろそろグループのトップを退かれることでしょうし、ご本人も、今はいくらおきれいでも、これからは女の坂を下っていかれるわけですからね。他人事でも、なんだか心細くなってしまうような状況ですわね」
「あら、こちらにいらっしゃるわ」
着席晩餐会の前には、カクテル・シーンが入ることが多い。真織は両殿下に謁見を終えて控えの間を出、シャンパングラスを片手に談笑する招待客の間を縫って歩いた。
今日は、父に頼まれての代理出席である。父のグループと横のつながりのある関係者の顔を見つけ出し、もれなく挨拶をしておかなければならなかった。
「まあ、戸田会長。ご無沙汰しております。高宮真織でございます」
鋭い光をふりまくヴェネツィアのシャンデリアの下、ディナージャケットに身を包んだ男性の六割は日本人、あとはアメリカ人が二、三割、イタリア語やフランス語も聞こえていた。
出席者の平均年齢は、六十歳前後。そのためか、日本人女性は着物姿が多かった。
「Bonsoir, Monsieur Morin, comment allez-vous?」
真織は、ディオールのシルクのローブデコルテを着ていた。役目がら、装飾の多い服は避けようと考えて、リボンもフリルもレースも付いていないスレンダーなラインを選び、色は黒にした。晩餐会にふさわしい華やかさを付け加えるために、イヤリングは大粒の真珠、首には三重の真珠のチョーカーを巻いている。
真珠は、黒いドレスにもっとも映えるアクセサリーである。鈍い虹色の輝きは、真織の肌にもよく合った。
「これは、『薫風会』の皆様、お久しぶりでございます」
真織が声をかけると、ウェイティングルームの出入り口あたりに溜まっていた五、六人の女性のグループが、いっせいに顔を向けた。
「皆様、お元気そうで」
言いながら真織は、薫風会の中心である棟方弥生の姿を探し、微笑みかけた。
「家元も、お変わりなくて何よりでございます」
中年の女性ばかりのグループに接触する時、ボスの存在は絶対に無視できない。
「ご無沙汰いたしておりまして、本当に申し訳ございません。母が、この間の組香にお邪魔できなかったことを、たいそう残念がっておりました。またお声をかけていただけると、きっと喜ぶと思いますが」
棟方弥生は、両眼の端に小波《さざなみ》のような皴《しわ》を浮かべて笑顔を作った。
「来月、おもしろい沈香《じんこう》が手に入る予定です。宇治山香を聞こうかと思っているところですよ。そうお伝えになって」
真織は微笑みを大きくした。
「はい、必ず」
目の前を、相島基二が通りかかる。相島貿易のCEOだった。見失わないうちに声をかけねばならない。真織は、さりげなく話を切り上げにかかった。
「母に申し伝えます。ありがとうございました。では」
足を踏み出そうとすると、一番端にいたメンバーが口を切った。
「よろしかったら、今度あなたもぜひご一緒に。ねえ、家元」
「ああ、そうですね。そうなさってください」
相島は、人ごみの中に紛れこんでいく。真織はいらだったが、薫風会も大切な取引相手の奥様方の集まりである。日本文化に興味のない真織の母が参加しているのも、そのためだった。おろそかにするわけにはいかない。
「まあ、ありがとうございます。お邪魔にならないといいのですが」
「あら、そんなこと。ねえ、皆様」
棟方に誘われ、メンバー一人一人の話が始まった。中年以降の女性、それも特に専業主婦は、相手の顔色から状況判断のできないタイプが多い。真織が何とか話を終わらせようと必死になっていると、バッグの中から携帯電話の着信メロディが流れた。
「あら。申し訳ございません。ちょっと失礼いたします」
言いながらその場を離れ、真織はバッグの中に手を入れると、電話をかけてくれた相手に感謝をしながら電源を切り、相島を追いかけた。
「相島さん、お久しぶりです」
相島はふり向き、目を丸くしてみせた。
「真織ちゃんか。本当、久しぶりだねえ。親父さんは、元気か」
「はい、おかげさまで」
実のところは、あまり元気でもない。心臓の調子が、前にもまして悪くなっていた。今日の欠席も、そのためである。医師の話によれば、狭心症が心筋梗塞に移行する危険があるとのことだった。
だが企業グループの代表の健康状態は、企業全体に影響を与える。とても正直には言えなかった。
「そうだ。一度、一緒にメシ食おうって言っておいてくれないかな。内々で話があるからって」
真織は、うなずいた。
「今夜中に伝えます」
トップ同士の会談は、こんなふうに決まることが多い。真織は、小さな頃からそれを見てきた。だからパーティには出席しなければならないのだ。もし父も真織もこの場にいなかったら、相島は、その話を別の人間に持っていってしまっただろう。
よい話だとは限らないが、悪いなら、乗らなければいいだけである。とにかく間口は広く取り、誰からのどんな提案も、最初に流れこんでくるようにしておく必要があった。
「相島さん、探していたんですよ。ご紹介したい方がいて」
横から声をかけてきたのは、宮城コーポレーションの社長だった。
「ああ、どうも」
相島が宮城に向き直ったのを潮に、真織は、その場を離れた。手首を返して時計を見る。晩餐会が始まるまでには、あと十五分ほどあった。
晩餐会場に入ってしまえば、席が決められている。自由に動ける今のうちに、一人でも多く挨拶をしておきたかった。
真織は、薫風会のメンバーがいるウェイティングルームの前を避け、ホール中央の飾り螺旋《らせん》階段の後ろを通って、その先にあるカウンターバーの方に行こうとした。
「よう、マオ」
急に降ってきた声に驚いて目を上げると、螺旋階段の途中、真織の頭より少し高いところに尾崎の顔があった。錬鉄の手すりに片腕をつき、そこに体重をかけてこちらを見下ろしながら、もう一方の手に持った携帯電話を掲げて見せる。
「今、窮地を救ってやったのは俺だぜ」
体にぴったりと合ったミッドナイト・ブルーのディナージャケットがよじれ、ピケのシャツ越しに厚い胸が透けて見えた。
「それなのに、電話を切りっぱなしでお礼の言葉もないなんて、ずいぶんだよなあ」
真織は、手にしていたシャンパングラスを脇のテーブルに置くと、バッグを開き、携帯電話を取り出して電源を入れた。着信履歴には、確かに尾崎の番号があった。
「どこで見ていたの。いつから」
真織がにらみ上げると、尾崎は、口角を下げた。
「ここで、最初から。あなたの大活躍に敬服しておりました。なにせ殿下のお控えの間から出ていらして、あっという間に十三人もの方々とご商談を」
尾崎は、ゆっくりと身を起こし、長い脚をもてあますようにしながら階段を下りてきた。パテントレザーの黒い靴がシャンデリアの光をはね返す。艶のあるディナージャケットに影が走り、精悍な体の線を浮き立たせた。
尾崎のスタイルのよさは、オデパンの中でもトップクラスである。その分、性格が悪い。
「父の代理ですからね」
そこまで言って、真織は眉根を寄せた。なぜ、尾崎がここにいるのだろう。
「この会への招待は、父だけだと聞いていたわよ」
尾崎は、わずかに肩をすくめた。
「あなたのお目付け役として」
真織の前に降り立ちながら尾崎は、襟に差していた赤いカーネーションを抜き、真織に差し出した。
「高宮代表から私に、白羽の矢が」
ディナージャケット用のブートニアは、赤のカーネーションが正統である。だが会場を見回しても、日本人でブートニアを付けている客は、他に見当たらなかった。よほど慣れていないと、気軽にはできないのだろう。
それを受け取ろうとして真織は、手を止めた。確かに父は、尾崎に目をかけていた。だが、娘にサポートをつけようと考えたならば、その第一候補は、娘婿《むすめむこ》の隆になるはずだった。
真織は、家を出る時、恵美から言われた言葉を思い出す。
『だんな様は、今夜は、珍しくご予定が入っていらっしゃらないとのことで、まっすぐお帰りだそうです。夕食のメニュウ、どういたしましょう』
真織は尾崎を見つめ、できるだけやさしげに微笑んでみせた。
「へたな嘘ね。百年の恋もさめるわ」
尾崎は片目をつぶった。
「相変わらず、お察しのよろしいことで」
真織は、カーネーションを尾崎の手から取り、乱暴にその襟に差し返した。
「本当のことをおっしゃい」
尾崎はため息をつき、会場の奥のほうに視線を流した。
「実は、マダムのエスコートですよ」
談笑する人々の間から、尾崎夫人のでっぷりとした体がのぞいていた。
「あら、いらっしゃっているのね」
尾崎咲美は日米のハーフである。現在、父親の後をついでアメリカのコンサルティング会社を経営し、日本の化粧品会社の社外取締役も兼任していた。まだ細身だった十代の終わりに尾崎と出会い、ひと目惚れして昼夜を問わず追いかけまわしたパワフルな女性で、逃げ切れないと観念した尾崎と、めでたくゴールインしたのだった。
「じゃ、ご挨拶しなくちゃ」
足を向けようとする真織の二の腕を、尾崎があわててつかんだ。
「家庭の平和を乱すのはやめてくれ。今年に入って、また太ったんだ。同年代で自分より細い女性を見ると、極端に機嫌が悪くなる。特に、あなたは天敵だ」
そういえば、このところ真織は、尾崎夫人と顔を合わせていなかった。去年、ワイン会社のクリスマスパーティで見かけたのが最後である。
「もしかして、それでわざと会わせないようにしていたわけ」
真織が聞くと、尾崎は軽く、何度かうなずいてみせた。
「アメリカと日本という違いはあるにせよ、自分とあなたは同じような境遇だと思っているからね。元々、ライバル意識が強い」
真織は体を傾け、人々の間に挟まれている夫人を観察した。全身は見えなかったが、顎の下あたりや、肩から背中にかけての脂肪のつき方から判断して、確かにかなりのものかもしれなかった。
「苦労してるよ。君のほうがずっと魅力的だ、そうとも、数千倍もだ、と百回くらい言うと、やっと機嫌が直る。だが、この後がまた大変で、まあダーリン、うれしいわ。じゃ愛の証拠を見せて、とくる。朝まで離してもらえない」
真織は笑い出した。
「お互いに、ベッドの愛好家でよかったわね。あなたには、ぴったりの奥様じゃないこと」
尾崎は、いやな顔をして真織を見た。
「あなたも、歳と共に嫌味がきつくなるよね」
鈴の音が響き、係員が看板を掲げながら会場を回り始めた。
『お時間でございます。皆様、二階の晩餐会場にお越しくださいませ』
出入り口近くの大階段に向かう人の流れができていく。真織は、今井田ホールディングスのCEOの姿を見つけた。
「失礼するわ」
すばやく言って今井田の後を追おうとすると、後ろで尾崎の声がした。
「晩餐の後、いいかな。ちょっと話があるんだ」
振り返ると、珍しく殊勝な表情だった。
「バーで待ってる」
「いやあ、声をかけていただいてよかった。そんなわけですよ。ヨーロッパから戻りしだい、代表には連絡させていただきますが」
「わかりました」
開け放された扉の手前で、真織は立ち止まり、お辞儀をした。
「申し伝えます」
今井田は真織に片手を上げ、もう一方の手でポケットに入れた着席カードを探りながら、華やかな照明に彩られた晩餐会場に踏みこんでいった。それを見送り、真織が振り返ると、招待客たちが三々五々、幅の広い廊下を歩いてこちらにやってくるところだった。
このあたりで待ち構え、もうひと仕事しよう。そう考えて真織は、入ってくる客たちの邪魔にならないように壁際に寄った。ストロボの光が目を刺す。
見れば、会場内に二人のカメラマンがおり、客たちの様子を写真に撮って歩いていた。ごく近くでカメラを構えていたそのうちの一人が、一瞬、沖田に見えた。真織は立ちすくんだ。
「ああ、すいません」
レンズを下ろしてこちらを見た顔は、似ても似つかないものだった。
「いいえ、ごめんなさい」
あわてて言いながら真織は、胸が痛むのを感じた。そこに沖田の眼差があり、じっとこちらを見つめているような気がした。強い光を宿した鮮烈な二つの目。見すえるようでいて、決して踏みこんではこない不思議な眼差。
あれ以来、連絡はなかった。真織はギャランティを支払えずにいる。
「まあ、高宮代表のお嬢様」
声の方に向き直ると、くすんだ灰汁《あく》色の和服を着た初老の女性が、身を低くして歩み寄ってくるところだった。
「栗山でございます。この間の展覧会では、高宮代表にたいそうお世話になりまして」
白磁の代表的陶芸家で人間国宝の栗山修二の妻、兼マネージャーだった。
「おかげ様で栗山もたいそう喜んでおりました。実は今度、日本橋の画廊で栗山の作品を百点ほど展示していただくことになりまして、合わせて特別制作の白磁緋牡丹彫文皿を販売することになりました。ぜひまた代表のお力添えをと、栗山が申しております。近々、栗山共々ご挨拶にうかがいたいと思っておりますが」
栗山修二は、焼き物一筋の陶芸家で、彼がここまでこられたのは、ひとえに妻のマネージメント能力の賜物といわれている。どこで会ってもひたすら営業に徹しており、真織の父など、遠くから姿を見ただけで逃げ腰になるほどだった。
『あのバアさんにつかまったら最後、うんと言うまで離してもらえないからな』
真織も気をつけてはいたのだが、ここで会うとは思わず、うっかりしていた。
「代表のご都合は、いかがなものでございましょうねえ」
答に窮しながら見れば、栗山の後ろには、梨園《りえん》に嫁いだ元女優が並んでいた。彼女もまた、敏腕マネージャーとの評価が高い。
昨年秋、歌舞伎のヨーロッパ公演の企画が持ち上がった際、真織の父が先方の国々の大統領や文化大臣との交渉の窓口となり、グループとして協賛したことから付き合いができた。栗山の妻同様、挨拶かたがた次の公演のバックアップの依頼にちがいなかった。
真織は、父から何の情報も、もちろん権限も与えられていない。独断で、うかつな約束はできなかった。となれば、何とかごまかして切り抜けるしかない。父も、それでよしと考えて真織に任せたのだろう。さて、どう逃げたものか。
「間もなく両殿下がお出ましになります」
係員が、廊下に溜まっている客たちの間を触れ歩く。
「どうぞ皆様、お席にお着きくださいませ」
その声に重ねるように、真織のバッグの中で携帯電話が鳴り出した。
「ちょっと失礼いたします」
その場から離れながら、真織は、彼女たちが着席するまで戻って来ないつもりでスモーキングスペースに足を向けた。
きっとまた尾崎だ。どこかで見ていて、かけてきたのだろう。二度も助けられたとあっては、このあとの話は高いものにつくかもしれない。
そう思う真織の脇を、尾崎が、そ知らぬ顔で通りすぎた。片腕で夫人をエスコートし、もう一方の手で前方の何かを指して話しながら晩餐会場の出入り口に向かっていく。真織のバッグの中では、携帯電話が鳴り続けていた。
真織は、あわててバッグの蓋をあけた。わずかに震えている電話をつかみ出し、通話ボタンを押す。
「はい」
耳に沈黙が流れこんだ。真織が不審に思うよりわずかに早く、透明感のある声が響く。
「沖田です」
真織の胸で、あの眼差が瞬いた。
「落ち着き先が決まりましたので、ご連絡しました」
プランタン銀座の前を通り過ぎ、真織は、次の四辻でタクシーを降りた。大通りの向こうの闇の中に、濃い緑色の窓枠で縁取られたカフェ「オディール」が見える。
窓ごとにきらびやかな明かりが灯り、談笑する客たちがそのまま店の飾りとなっているカフェは、夜の海に浮かんでいる大きな客船のように見えた。この店のどこかに沖田がいて、自分を待っているのだと思うと、真織は胸がきしむような気がした。
今頃、バーにいるだろう尾崎に、電話をかける気にもなれない。彼と話をするだけの、気持ちのゆとりがなかった。
信号が変わるのを待ちながら真織は、髪に手を当て、後れ毛が出ていないかどうかを確認した。チョーカーとイヤリングはタクシーの中ではずし、バッグにしまってある。揺れる車内で小切手も書いた。
住所を伝えようと電話してきただけの沖田に、今すぐ会おうとしているのは、なぜだろう。
「いらっしゃいませ」
カフェの扉を開けると、カウベルの音と共に、正面のレセプションにいた小柄な店員がカウンターを回って姿を見せた。
「お一人様でしょうか」
言いながら背伸びをし、混みあう店内に視線を走らせる。真織は首を横に振った。
「待ち合わせなのよ。中を見せていただいてもよろしいかしら」
その声が聞こえたらしく、出入り口に近い窓ぎわのテーブルに座っていた男性が、こちらを振り返った。
癖のない髪の影を受けた二つの目が白熱灯の光を反射し、森の中で捕まった動物のようにきらめいて見えた。髭はない。
「ああ、あそこみたい」
言いながら真織は、京都で見た沖田の、噛みつくような目を思い出した。あれ以来、会うのは初めてだった。
現実の沖田は、真織の中にいる彼とは違うだろう。甘くはないはずである。これからあの続きを始めなければならないのかもしれない。真織は息を吸いこみ、覚悟を固めた。
「ご案内します」
先に立った店員の後に続いて、真織は、沖田のテーブルに近づいた。沖田は立ち上がり、椅子の脇に出て軽く頭を下げた。濃紺のソフトジャケットに芥子《からし》色のスタンドカラーのシャツを合わせ、スリムストレートのジーンズ、スエードのアンクルブーツを履いていた。悪くないセンスだった。
「わざわざ、すみません」
沖田が体を起こすと、あたりにふわっと『永遠《エタニテイ》』の香りが広がった。
「こちらこそ、こんな格好でごめんなさい。パーティの帰りなの」
真織は、籐の椅子に腰を下ろしながら、沖田の前に置かれているドラフトビールのグラスを見た。残りはわずかだった。
「お代わりをなさったら。私もいただきますから」
マールがあるかどうかを確認し、真織が注文すると、沖田は驚いたようだった。
「マールですか。酒、強いんですね」
真織はバッグを膝の上に乗せ、片手で胃のあたりを押さえてみせた。
「実は食べすぎたの。マールって消化を助けるのよ。ご存知」
沖田は、わずかに笑いながら首を横にふった。
「ほんとですか。僕は、かなり度数が高いってことだけしか知りません」
真織はいささかむきになり、沖田の方に身を乗り出した。
「あら、本当よ。成分は、ブドウジュースと同じですもの」
沖田は、笑みを大きくした。
「その言い方には」
髭のない笑顔は、思っていたよりもいっそう童顔で、無邪気だった。
「カルヴァドスを、リンゴジュースと同じっていうくらいの信憑性しかないですよ」
強い光を宿した眼差でまっすぐに見つめられて、真織はまぶしかった。自分の内にあるその眼差が、静かに現実と重なり合っていくのを感じながら、真織は微笑んだ。どうやら言い争いは、しなくてもすみそうだった。
店員がマールとビールを運んでくると、話題が途切れた。お互いに、黙ってグラスを口に運ぶ。真織は膝の上に置いたバッグから、小切手を入れた封筒を出した。
「お約束のお金です」
沖田は、わずかに低頭したように見えた。
「いただきます」
中も見ずにジャケットの内ポケットに突っこむと、腰を上げる。
「それじゃ」
真織は彼を仰ぎ見た。
「また、アフガンに行くの」
沖田は言いよどみ、いったん浮かせた腰を再び椅子の上に収めた。
「ええ、できるだけ早く」
グラスをつかみ、残っていたビールをあおると、自分自身を見つめるように視線を伏せた。
「バグダッドでもいいと思っているんですが、今、いろいろとうるさくなってしまって」
真織は、日本人ジャーナリストとボランティアが戦地で拘束された事件を思い浮かべた。一時期は、テレビも新聞もトップで扱い、国会でも話題になって、内閣の退陣問題にまで発展しそうな勢いだった。
「でも、必ず行きます」
言いながら沖田は、いたずらっぽい光を浮かべた目で踏みこむように真織を見た。
「自己責任で、ね」
真織は、笑いながらグラスを傾けた。何が沖田を戦場に惹きつけるのだろう。
丸いグラスをまわし、褐色のマールのまろやかな動きを追いながら真織は、それが自分にとって、まったく未知の世界であることに気が付いた。
世界中を見てきたはずだった。南極にさえも行った。もちろんアフガニスタンにも、イラクにも入国した。だが戦場にだけは、足を踏み入れたことがなかった。
窓の外の闇と人の流れを映している沖田の目を、真織は、そっと盗み見た。自分は、この鮮烈な目ほどには、多くを見ていないのかもしれない。そう感じた。初めてのことだった。
「これからも、戦場を撮るつもりなの」
問いかけると、沖田は眉根を寄せた。苦しげに見えた。
「というか、もう日本では、僕は生きていけないんじゃないかって感じてるんです。最初にアフガンから戻ってきた時に、そう思いました。秩序立った社会や、制度の中で生きていくことって、どこかで周りと折り合いをつけるってことじゃないですか。時には、自分をごまかさなけりゃならない」
沖田は真織に顔を向け、同意を求めるように眉を上げた。
「ちがいますか」
切りこむように言われて、真織はうなずいた。確かに真織も、妥協して生きている。結婚という枠を壊せないまま、その中で自分をごまかしていた。
「でも、戦場にはそれがない。皆、ぎりぎりまで自分を突きつめ、他人を突きつめて暮らしている。そんな中で一度生きてしまうと、心が戻って来られないというか、この社会に帰ってきても適応できないんです。日本で生きていくためにしなければならないいろいろなことが、どうでもいいことに思えてきてしまって」
心をアフガンに置いてきたのか、それとも心にアフガンを焼き付けてきたのか。
「人それぞれだと思いますが、少なくとも、僕はそうです」
もう一度、ぎりぎりの世界に戻って行きたいと熱望しているその目が、容赦なく胸に刺しこんできて、真織はいたたまれない気持ちになった。動物園にいる動物が、野生の仲間と接触したら、こんな気持ちになるのかもしれない。そう思いながら真織は、グラスを口に運んだ。
沈思黙考には醸造系のアルコールが最適だと言ったのは、アポリネールだったか、それともホイットマンだったか。
「これ」
真織がマールを舌の上でころがしていると、沖田がフィルムケースを二本出し、テーブルに置いた。
「あの時のネガです。お返ししておきます。使ったのは片方だけです」
真織はちょっと笑った。今考えれば、ずいぶんな仕事を頼んだものだった。
「ありがとう。ごめんなさいね」
沖田は、ふっと顔を上げた。視線が一瞬、空に浮き、それから真織を捕らえた。
「彼女とは別れました」
真織は横を向いた。あまり聞きたい話ではなかった。
「そう」
軽く答えると、沖田は、両手を自分の大腿の上につき、前のめりになった。
「どうしてだと思いますか」
真織は肩をすくめた。原因はわかりすぎるほどだった。
「私のせいだとおっしゃりたいわけかしら」
「違います」
きっぱりといって沖田は、肩から力を抜き、椅子の背にもたれかかった。
「あのことは、きっかけにはなりました。が、すべてじゃなかった。あれで僕は、自分が彼女に愛情を持っていないことに気がついたんです」
真織が驚いて沖田を見ると、彼は自嘲的な笑みを浮かべ、目を伏せた。
「今考えてみると、僕にとって彼女との生活は、最初から何か、欠けるところのあるものだったのだと思います。それを埋めてくれたのが、アフガンだったような気がする。だから、アフガンに囚われてしまったんです、たぶん」
長い睫《まつげ》の影を映した瞳が、震えるように小刻みに動いていた。
「初めは手段だったものが、目的になってしまうって時々あることでしょう。あなたのせいじゃありません。元々、空洞を抱えた生活だったんです」
真織は、掌に包んだグラスの中でくるくるとマールを回した。
「誰にとっても、そうなんじゃないかしら。人生って、たぶんどこかしら、何かしら欠けているものなのよ、きっと」
沖田は、急に背もたれから身を起こした。
「あなたにとっても、ですか」
真織が視線を上げると、くいいるようにこちらを見つめている二つの目があった。
「好きに金を使えて、たくさんの仲間がいて、美貌で、人がほしがるものなら何でも持っているようなあなたにとっても、人生は欠けているものなんですか」
真織は、冗談にしてしまいたくて片目をつぶった。
「もちろんよ。もしかして私も、アフガンに行ったほうがいいかしらね」
沖田は笑顔になった。両手のひとさし指で、空中に丸を描いてみせる。
「トイレなんて、ただの穴ですよ。何の囲いもなくて、しかもたいてい二階です。下を歩いていると、上からストーンと落ちてくる。はね返ります」
真織は笑い出し、首を横に振った。沖田は活気づき、背筋を伸ばして両腕をテーブルの上に載せた。
「でも、女性はモテますよ。絶対数が少ないんで、どんな女性でも女神のようにきれいに見えるんです。何日かぶりに、ちらっと姿を見かけたりすると、すっごくうれしくてカメラマン同士で情報交換をして、わざわざ見学ツアーを組んだりします。暇な時だけですけどね。皆で出かけて、建物の陰なんかからこっそり見るんです」
身振り手ぶりで説明する沖田に、真織は、くすくす笑った。
「たまに間違って、顔を合わせてしまったりすると、知らんふりでカメラを磨いてハミングなんかしたりして。心臓は、どきどき」
心が少しずつ柔らかくなっていき、そっと沖田の方になびいていくような気がした。
「どうして男って、あんなに女性が好きなんだろうな」
下唇を突き出した沖田に、真織は微笑んだ。
「女性もよ。女子高なんかに男性の訪問客があったりすると、物陰という物陰は全部、息をひそめた女生徒に占領されるわ。日本だけじゃないみたいよ。フランスの十八世紀の女子修道院の記録にも、そんなのがありますから」
沖田は、半ば驚き、半ばあきれたように小さな息をついた。
「へえ、そうかぁ」
話が途切れ、真織は、残り少なくなったマールを口に運んだ。自分と沖田の間に、不思議なやさしさが満ちてきたように感じた。
「いつ、出発するの」
真織が聞くと、沖田は、ビールを飲み干し、グラスを置いた。
「できるだけ早く。つまり資金ができしだい、です」
もう戻ってこないかもしれない。そう思いながら真織は言った。
「じゃ、もう一度仕事をお願いするわ」
沖田は浮き足立った。
「ほんとですか」
真織はうなずいたが、あてはなかった。ただ永久の別れの前に、もう一度会いたかった。
「助かります。何を撮るんですか」
真織は、バッグの中から手帳を出し、オデパンのメンバーの住所録に視線を流した。カメラが趣味の人間も多い。話を持ちかければ、何らかの機会を作ってくれるだろう。一番自然なのは、オデパンで会合を持つことだった。風光明媚な所で会を開けば、カメラマンを雇ってもおかしくはない。
「後で連絡するわ」
沖田は一瞬、意地悪な少年のように目を光らせた。
「また、寝室ですか」
真織は、両手を上げてみせた。
「降参。その話は、もうしないで」
沖田は笑い、グラスを指差した。
「あと一杯、ごちそうしてくれたら忘れます」
真織は体をひねり、店員に手を上げた。
「同じものでいいかしら」
沖田は首を横にふり、店員を見上げた。
「僕もマールを。本当にブドウジュースと同じかどうか試してみます」
真織は、ふき出しながら沖田を見た。こんなふうにくつろいだ気持ちで向かい合うようになるとは思ってもみなかった。
「そういえば、さっきは乾杯しませんでしたね」
言いながら沖田は新しいグラスを取り上げ、傾けて真織のグラスの縁に当てた。
「いただきます」
微笑んだ沖田の目の中で、闇と白熱灯の光が混ざり合い、ゆっくりと揺れた。その目の底に焼きついているにちがいない生と死を、真織は想像した。自分の知らないものを知っている目。それは、限りなく深く見えた。
へえ、そうですか。人をさんざん待たせて、ついにはすっぽかした言い訳が、それですか。そういう気分じゃなかったと。ちょっと電話をかけてくれる親切さすらなかったのも、ただ気分が向かなかったからだと。わかりましたよ。
確かにあなたは、あの日お忙しかった。それは認めます。だが俺だって、まんざら暇というわけでもないんだってことを、ご存知ですかね。
え、暇じゃないのだったら、さっさと用件を言えって。なるほど、おっしゃる通り、ごもっともです。しかし、あなたの頭の中には、ごめんなさいという言葉はインプットされていないんですか。それは、人間としてどこか欠けていると思いませんか。
わ、ちょっと、切らないでよ。わかった、用件に入るよ。ほんとにもう、やさしくないんだから。え、今頃わかったのかだって。それって、何ですかね。いわゆる、居直りというやつですか。
わかった。待って。今度こそほんと、本題に入る。
実は、うちの別荘の桜の古木が、今年、久しぶりに花をつけそうなんだ。樹齢千年と言われている樹だよ。あなたにぜひ見せたいと思って。あなただけにね。二人で花を見るのも、たまにはいいんじゃないかと。
郡山から車で四十分くらいかな。いつ来られる。迎えに行ってもいいよ。たぶん、開花が一週間後、それから満開、散り始めるまで一週間、かな。終わりの方になると葉が出てきて汚くなるだろうから、そうだな、気温の変化にもよるけれど、一番いい時期は、今から十二、三日後って感じだろうな。
細かなことは、また連絡するよ。取り敢えずお忙しいあなたのスケジュールを空けておいてほしいと思ってね。
おや、珍しく素直な返事だよね。何か、たくらんでるわけかな。ああ、失礼。性格を知り抜いてるものでね、つい。
じゃ、楽しみにしているよ。一日空けてくれれば充分だ。もっとも、どうしても泊まりたいっていうのなら、俺は拒まないけれどね。その時は、夜桜はもちろん、もっと素敵な夢も見せてあげられると思うよ。あ、切りやがった。
『次は、イラクのニュースです』
真織はパンにバターを塗る手を止め、テレビに目を向けた。
『戦闘が、依然続いているバグダッド周辺では』
そこまでしか聞こえなかった。画面が乱れ、間もなく映ったのは、タレントと卓球をする十五歳の少女だった。
『さあ、愛ちゃん、真剣です。キャリアの意地をみせるか』
アナウンサーの声に重ねるように、夫が言った。
「まったく、素人相手に真剣になったってしょうがないだろうに。大人気ない女だ」
テーブルの脇に立ってスープを注いでいた恵美が、あやすような目で夫を見た。
「だんな様、愛ちゃんは、まだ中学生ですよ」
夫は、テレビのスイッチを切り、新聞を取り上げた。
「それにしたって、プロだろう。タレントごときに本気になるなんて、力量が知れるってもんだ」
恵美は真織に目を向けた。真織は、小さく横に首を振った。恵美は肩をすくめ、口をつぐんだ。スープを注ぎ終わると、ヨーグルトと蜂蜜、マスタードの瓶をならべてから、台所に戻っていく。
「それにしても、このオバさんは、いったい何なんだ。毎日毎日、手抜き料理で」
ソーセージを持ってきた恵美が、夫のそばを通りすがりに手元の新聞をのぞきこみ、こらえきれないといったような笑いをもらした。
「ああ、まつ子さんですか。ののちゃんとのぼる君のお母さんです。よくとらえてますよね、主婦の心理を」
夫は、がさっと音をたてて新聞をひっくり返した。
「主婦失格だな」
恵美は、目を見開いて真織を見る。真織は、またもそっと首を横に振った。恵美はため息をつき、ソーセージを盛った皿を置いて再び台所に戻っていった。
十五歳の少女の真剣さを、大人気ないとしか評価できない感性、新聞の四コマ漫画のわずかな毒を楽しめない精神。そんな男を、自分は夫としているのだと考えると、真織は体から力が抜けていくような気がした。それは憂鬱にも、倦怠にも似ていた。
「あとは、車の中で食べるからサンドイッチにしてくれ。シャワーを浴びて、三十分で出かける。夜の予定は、まぬけな秘書が今頃ブッキング中だ。後で聞いといてくれ」
新聞を置いて夫が出て行ってしまうと、真織は急いでテレビをつけ、イラクのニュースにチャンネルを合わせた。
「奥様」
夫の食器を片付けにきた恵美が、しみじみと言った。
「こう申しあげては何ですが、奥様は本当に辛抱強い方だと思います」
真織は笑い、テレビに見入った。イラクの映像を目に映しながら、真織が見ていたのは、胸の内にある沖田の眼差だった。
沖田が戦場と出会い、それを心に焼き付けてしまったように、真織の心にも彼が焼き付いていた。真織は、戦場を通して沖田を見ているのだった。
真織はうつむき、自分に問いかけた。なぜ沖田なのか。
それはおそらく、生と死を見すえている沖田という存在が、真織にとって刺激的であるからだった。
幼稚な男を夫とし、彼に逆らわずに毎日を過ごすというくだらない人生を送っているからこそ、ぎりぎりの世界で生きようとしている沖田の感性と精神が貴重に思える。彼の中に宿った痛ましいほどに純粋な魂が、いとおしかった。
「奥様、尾佐久様からお電話が入りました」
真織はテレビの音量を下げ、体を傾けてサイドテーブルの上にある受話器のハンズフリーボタンを押した。
「お久しぶり。お母様のご容態は、いかが」
声をかけると、居間の天井から尾佐久華の答が流れ出した。
「ご心配おかけしまして。先日のオデパンにも参加できなくて、申し訳ありませんでした。おかげ様ですっかりよくなって、先月から日本に戻ってきています。昨晩、お電話をいただいたとメイドから聞いて、おかけしてみましたが、今、よろしいですか」
真織は、グレープフルーツジュースの入ったタンブラーを取り上げた。
「ええ」
朝食用には、一五八六年に創業したというパリの老舗サン・ルイのクリスタルを使っている。繊細なカッティングと、唇の切れそうなほど薄い縁が、朝のぼんやりとした頭に刺激を与えてくれた。
「オデパンのメンバーに流してほしかったの。お花見をしましょうって。場所は、郡山の尾崎君の別荘よ。樹齢千年の桜の木が花をつけそうなんですって」
尾佐久華は弾んだ声を出した。
「まあ、なんて素敵なんでしょう。老木っていうのが、何ともいえない風情ですわ。楽しみです」
真織はジュースを飲み干し、グラスに刻まれている自分の名前を爪先でなぞった。
「来週の日曜日あたりがぴったりだと思うわ。カメラマンも呼んであるの。何か変わった趣向がほしいと思っているのだけれど、いいアイディアがあって」
しばらくの沈黙の後、小さな笑い声が響いた。
「皆で桜に扮するというのはどうでしょう。桜の花のついたものか、あるいは桜色のものを身につけて集合するのです。小物では面白くありませんから、服か下着に限定して。下着の場合は、必ず全員に見せるということで。もちろん似合わないものを着てきた場合は、ペナルティです」
真織は笑い出した。男性にとっては、なかなか高いハードルになりそうで面白かった。
「一番立派な桜になったメンバーには、ご褒美を」
真織は、壁際に置いてあるワインセラーを振り返った。昨年ブルゴーニュの友人から、桜の実で作った果実酒が贈られてきていた。押し花のラベルを貼ったピンクの限定ボトルで、オークションでは一万ユーロの値段がついたという話だった。
「ご褒美は、まかせて。じゃ、連絡をよろしく」
電話を切って真織は、沖田に桜色を着せたらどうなるだろうと考えた。「霞桜」のような白に近い桜色でボリュームのあるトレンチコートの下に、四月の空のようなダンガリーのシャツ、黄膚色のタイを締める。
でも似合うのは、きっとセルリアンブルーだ。その面積を大きくしたほうがいい。トレンチをセルリアンでおさえて、「東彼岸」のようなうっすらとした紅色のシャツ、臙脂《えんじ》のタイを合わせたら、元々バランスのいい体付きなのだから、かなりいい男になるだろう。もしかして、うっとりとしてしまうかもしれない。
真織は、一人でくすくす笑った。そんな沖田を想像するのも、そんな自分の反応を考えてみるのも、楽しいことだった。
「奥様、今朝は、この間いただいたハロッズのオカイティトレジャーを開けてみましょうか。でも残念なことに、セカンドでなくてファーストなんですよ。ちょっと浅いと思うんですが、どうしましょう。よろしいですか」
うなずきながら真織は、考えてみる。今度、沖田と会った時には、言えるだろうか。仕事を提供したのは、もう一度会ってみたかったからだと。
言えないかもしれない。いや、言わないかも、しれなかった。
やってくれましたね。今日、尾佐久から連絡がありましたよ。高宮さんの招集で、オデパンで郡山のお花見だって。
あのねえ、俺に恨みでもあるのかい。あなただけに見せたいと言ったのに。
え、皆で見ても桜に変わりはないだろうって。いやだなあ、情緒を理解しない女は。なに、俺と情緒を味わいたくない。あ、そう。
わかったよ。では、本当のことを言おう。実は、あなたに頼みごとがあったんだ。あの晩餐会の夜に、あなたのせいで言いそびれたことがね。
ただの花見のために、お忙しいあなたをわざわざ郡山くんだりまで呼び出したりすると思うかい。千年目の桜の下で、折り入って、二人だけの話があったんだよ。それを滅茶苦茶にしてくれて。本当になんて人だ。
お、なんと。話ならどこでもできる、今ここですらできる、さっさと話せと、こういうわけか。
悲しいなあ。人生の機微をわからないって。あなたも、四十半ばだろう。そろそろムードなるものを解する気持ちになってもいいと思いますがねえ。
え、ムードはいいから話の骨子を明らかにしろって。いや、だめだね。今回は、すごくムードが重要なんだ。それに頼らなけりゃならない話さ。
最初にあのバーに誘ったのも、あそこが、都内のバーの中ではベストの夜景、内装、酒をそろえてあるからだよ。気持ちよく酔えるからさ。郡山の桜もそうだ。
『花酔い』って言葉を知ってるかい。桜の香りは、人間を酔わせ、情動を起こさせ、理性を失わせる。老木についた花ほど、それが強い。桜に酔わされた人間は、夢心地で、自分のしたいようにふるまう。そして常識の枠を踏み越えるんだ。
ああ、しゃべりすぎた。お利口さんのあなたには、おそらく察しがついただろう。今回、俺が頼もうとしていることは、普通ならあなたが絶対、うんとは言わないことだってね。
ちょっと酔わせて、それから話したい。酔って選択する人生は、結構楽しいものかもしれないよ。
ま、一刻を争う話じゃないから、またにしよう。でも、これだけは言っておく。必ず受けてもらうよ。どんなことをしても、きっとあなたに受けさせる。俺にしては、珍しく強硬でまじめだろう。意志は固いよ。そのつもりでいてくれ。じゃあね。
「桜、ですか」
沖田の声には、戸惑いがにじんでいた。臆しているようでもあった。真織は、半ば笑いながらマジスのガーデンチェアから身を起こした。空いていた右手で、テーブルの上のメタルカンのジョーロを取り上げる。戦争カメラマンが、桜にたじろぐとは思わなかった。
「あら、寝室のほうが得意だったかしら」
電話の向こうで、沖田は、がたっと椅子の音をさせた。
「その話はもうしないでと言われています」
声がくぐもり、電波が乱れる。
「す、ません、ちょ、と」
真織は、大きなガラス戸越しに部屋の中をのぞき見た。壁時計の針は、もうすぐ一時を指そうとしている。きっと喫茶店かレストランにでもいて、話すために外に出ようとしているのだろう。
真織は、沖田の声が届くのを待ちながら、座ったままでジョーロから水を振りまいた。先週、ウィッチフォード社のテラコッタ鉢を二十個ほど買い、新しい寄せ植えを作って植栽スペースの縁に並べたばかりである。
二階のバルコニーの一部に土を入れ、数種類の常緑樹を植えて作った空中庭園は、その向こうに広がる目黒川沿いの緑とつながり、一体感のある風景を作り出していた。
目を上げれば、いつの間にか光は強さを増し、空一面に、霞のような白い雲が広がっている。春が来ようとしていた。目黒川沿いの桜の木も、どことなく煙って見える。
真織は双眼鏡を取り上げ、一番近くの桜に向けてみた。ふくらんだ蕾が萼《がく》を押し広げ、わずかに薄桃色の肌をのぞかせていた。尾崎の言葉が思い出された。
『花酔いって、知ってるかい』
なかなかしゃれた言い方だった。
夢見心地で感情のおもむくままに行動できたら。それは、至福の中に踏みこんで行くようなものだ。どんなに幸せなことだろう。
「すいません。聞こえますか」
耳元で沖田の声がした。
「桜でも、大丈夫です。あまり得意じゃないんですが、できると思います。ただ初めてなんで、事前に雰囲気を見られるとうれしいんですが」
「いいわよ。郡山だけれど」
真織がすまして答えると、沖田はわずかに声のトーンを落とした。
「いいです。都内の桜で練習しておきます」
ないのは時間か旅費か、どちらだろう。
「実際の撮影は、来週の日曜日。一日拘束で、アゴアシをつけます」
言いながら真織は、アフガンで写真を撮って暮らすのにどのくらいの費用がかかるのだろうと考えた。その相当分を出してやりたかったのだが、見当もつかない。
「ギャラは今回も十万。ただし、今度はドルで払います」
電話の向こうで沖田は、一瞬、息をつめた。
「その代わり、フィルム代はそちら持ちよ」
条件をつけることで沖田の気持ちを楽にしようとしながら、真織はふっと、自分の頭に思い描いた彼の姿を見てみたくなった。こっそりと罠をかける。
「当日は、服装の指定もありますから守ってください」
沖田は、ゆっくりと緊張を解いた。
「またですか。僕はタキシードなんて持ってませんよ。作る気もありません。無駄ですから」
真織は、あわててなだめにかかった。
「費用は、こちらで持つわ。ちょっと複雑な指定だから、一緒に買いにいきましょう。買い物の時間も拘束に入ると思うけれど、これもお払いしたほうがいいのかしら」
口をつぐみ、様子をうかがう。断わらないでほしいと祈るような気持ちで息をつめていると、やがて沖田の返事が返ってきた。
「そんなのは、かまいませんけれど」
不服げな語尾が気になった。真織は押し付けるように言った。
「会場に入る人間は、全員、指定服よ。カメラマンもね。それも仕事の条件のうち」
沖田はため息をついた。
「わかりました。で、買い物はいつ、どこで」
真織は、おもわずチェアの背もたれから体を浮かした。躍り上がりたいような気がした。
「そうね」
突然のことで、どこで調達すればいいのかが思い浮かばなかった。ブランドとしては、軽くなく重くもないアルマーニか、ミラ・ショーンあたりがいいのだろうが、いきなり路面店のある銀座を連れまわすのも、かわいそうに思えた。
となると、ブランドが一堂に会しているデパートがベストということになる。サイズの直しを考えると、早く行っておいたほうがよさそうだった。
「明日、あいているかしら」
沖田は、スケジュールを確認したらしく、しばらく時間を置いて答えた。
「ええ、明日は大丈夫です」
真織は携帯電話を握りしめた。
「日本橋の三越の六階に、お得意様サロンがあるわ。私の名前で予約しておきます。受付でそう言って、入って待っていてちょうだい。十三時に行きます」
沖田は、真織の言った通りに繰り返して確認し、電話を切った。真織も電話機を耳から離す。頬が熱かった。
「あの女からでしょ」
背後から声をかけると、沖田は驚いたように振り返った。容子はあざ笑おうとしたが、頬が引きつるのをとめられなかった。
「そうなんでしょ。隠してもだめよ。わかるんだから。私たちの間を滅茶苦茶にしておいてあんたに接触してくるなんて、いったいどういう気なのかしら」
沖田は黙って携帯電話を閉じ、ジャケットのポケットに入れた。
「テーブルに戻って話そう」
昼下がりの代官山には、昔と同様のゆったりとした時間が流れている。それをいらだたしく思いながら容子は、沖田の後ろに従った。
「相手をするあんたもあんたよ。黙って切っちゃえばいいのに」
椅子に座りながら容子はタバコを一本抜き取り、箱をテーブルに放り出した。
「呼び出されたんでしょ。まさか、行くつもりじゃないでしょうね」
沖田は両腕をテーブルに乗せ、容子を見た。
「君が、大事な話があるって言うから来たんだ。それを聞こう。話してくれないか」
容子は、鼻で笑いながら煙を吐き出した。
「ごまかさないでよ。卑怯な人ね。もしかして、今あの女と付き合ってるの。え、どうなのよ」
見すえられて沖田は、まっすぐに見つめ返した。
「答える必要はないと思う。それは僕のことであって、君にはもう、関係のないことだからね」
沖田の視線に押され、容子は横を向いた。どうすれば自分のペースに巻きこめるのかを考えながらタバコをふかす。
引っ越しをしたばかりの沖田は金に困っている。誰からの仕事でも受けるだろう。容子を不機嫌にしたのは、そんなことではなかった。
電話をかけてきた相手が誰かを知った時の沖田の表情。一瞬にして輝いたその目。あんな顔を見たのは、結婚したての頃だけだった。特にここ二、三年、容子にそんな顔が向けられることはなかった。
いったい誰が沖田にこんな顔をさせるのか。聞き耳をたてていたら、相手がわかった。この世で一番いやな女だった。
容子の計画を邪魔し、恥をかかせたあげくに離婚にまで追いこんだ女。
今日、沖田を呼び出したのは、彼が他の女と関係しないうちに復縁を迫るためだった。お互いが恋に燃えていた時期によく使ったカフェレストランを選んだのも、その頃のことを思い出させるためである。沖田の気持ちを探りながら、何とかうまく丸めこんでしまおうと思っていた。その矢先に、新しい恋をしていますとはっきり書いた顔を突きつけられては、やっていられない。
代官山の駅を降り、「シンポジオン」に向かって歩きながら容子は、方法は二つだと思っていた。強気でいくか、泣き落としでいくか。今、片方は試してみた。反応は芳しくなかった。では、もう一つの方法を試すしかない。
「関係ないですって。何てひどい言い方なの。離婚届一枚で、心までさっぱり整理してしまえるわけ。私には、そんなことできないわ。夫だったあなたのことは今でも気になるし、とても心配よ」
悲しげにみつめると、沖田は、強い光を浮かべた目に戸惑いを含んだ。いけると、容子は思った。
「あんたは、あの女のことを知らないのよ。私は知っているわ。他人を罠に落とすような女よ。外見はきれいでも、心の中は腐っているのよ。傲慢でわがままで、人を差別して、それを楽しんでいる。あんたは、いい人だから気がつかないかもしれないけれど、でも、あの女が何につけてもお金を積んで、こっちを思い通りに動かそうとしてるってことは感じるでしょう」
沖田は目をそむけた。容子は言葉を重ねる。
「あんな女と関わっていたら、きっとひどい目にあうわ。あんたのことだって、どうせ自分と対等の人間だとは思っていないに決まってるんだもの。心では馬鹿にしてるに違いないわ。私なんて面と向かって、住む世界が違うのよって言われたけれど、要するにそういう神経なのよ」
沖田は、伏せた睫の下で視線をさ迷わせた。動揺している様子を見てとって、容子は話をまとめにかかる。
「あなたが傷つくのを黙ってみてられないわ。行かないで。お願いよ。私、やっぱりあなたのことを愛しているのね。だってこんなに真剣になってしまうんだもの」
沖田は目を閉じた。容子は息をつめ、沖田の口からもれる言葉を待った。
「わかった」
ゆっくりと目を開けながら沖田は容子に向き直り、わずかに身を乗り出した。
「それは、君からのアドヴァイスとして聞いておく。で、急ぎの話というのは、何」
容子は奥歯をかみしめた。乗ってこない。いいセンまでいったと思ったのに。自分がもう一度手に入れたいと望んでいる沖田の愛情は、今、真織に向かっているのだと考えると、容子は、怒りで体がふくれ上がりそうだった。
つぶしてやる。あんな女にいい思いをさせてたまるか。見ていなさい。お互いに二度と会う気が起きないくらい、徹底的に打ちのめしてやる。
「わかったわ。話します」
容子は吸いかけのタバコを口から離し、先を灰皿に押し付けて消すと、沖田を見た。
「実は、妊娠しているの。あなたの子供よ」
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「いらっしゃいませ」
日本橋三越の車寄せには、常時三、四人の「お車係」が待機している。都内のホテルでもこれだけの人数をそろえているところは少なく、やはり老舗の風格だった。
「これは、高宮様のお嬢様、いらっしゃいませ」
車のドアを開けてくれた係員に微笑みながら、真織は脚を下ろした。脇に置いてあったセカンドバッグを引き寄せると、身をかがめて外に出る。
「いってらっしゃいませ」
いつでもどこでも高宮様とは言われず、高宮様のお嬢様と呼ばれる。それは真織が、父の作った世界に依存して生きている証拠に他ならなかった。結婚して子供を持つ今でも、独立した自分の世界を築くことができずにいる。
一階からエスカレーターに乗り六階に向かいながら、真織は通り過ぎるショウウィンドウに自分を映してみた。
ヴィトンの淡黄のVネックに黒のショートカーディガン、ドルチェ&ガッバーナの黒のミニスカート。できるだけ若くカジュアルな装いにしたのは、沖田の年齢を考えてのことだった。
真織の年齢相応の服では、いかにも、金満家のマダムが若い男性に服を買ってやっているという雰囲気になる。沖田も、居心地が悪いに決まっていた。このくらいにしておけば、親戚のお姉さん程度で納まるだろう。
六階でエスカレーターを降り、真織は、厚い絨毯を踏んで顧客のために用意されたサロンに向かった。前日に個室を予約し、お帳場の担当者も呼んである。
「高宮さん」
廊下の角を曲がり、サロンの扉の方に足を踏み出したとたん、後ろから声が飛んできた。
「お久しぶりね」
ふり向くと、曲がり角の壁に寄りかかっているチューリップハットの女性が見えた。真織は、いったん足を止めた。女性は、帽子の縁をわずかに上げてみせた。容子だった。
「あら、奇遇ね」
真織は静かに言い、再び背を向けてサロンに向かって歩き出した。関わりたくなかった。
「戒は、来ないわよ」
背中を突かれる思いで真織が立ち止まると、容子の小さな笑い声が聞こえた。
「代わりに私が来たの。戒から頼まれてね」
容子は壁から身を起こし、腕組みを解いた。
「出て、話しましょうよ。あんただって、知ってる人間に聞かれてうれしい話じゃないでしょう。一回り以上も年下の男を誘惑しようとしているなんてね」
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昼食時を迎えた「カフェウィーン」の店内は、いつにも増して混み合っていた。日本で唯一、ウィーンのカフェハウス協会から公認された店というふれこみで、混み方も、テーブルの間をせっせと動き回るボーイの働きぶりも、確かにウィーン並みだった。
「私たち、やり直すことになったの」
笑みを浮かべながら容子は、自分の胸の下の方に視線を落とした。
「私と、戒と、そして赤ちゃんの三人でね」
真織は、じっと容子を見つめた。
「それは、おめでとう」
そうとしか言えなかった。
「お幸せにね」
真織は、ひどく落胆している自分を見せまいとして、言葉を重ねながらアインシュペナーのカップを持ち上げた。
待ち合わせを十三時に設定したのは、もし沖田が昼食前だったら、一緒に何か食べようと考えたからだった。真織は、今まで一度も沖田と食事をしたことがない。どんなものを選び、どんな風に食べるのか、見てみたかった。
だが容子とでは、とてもそんな気になれない。カフェ一杯でも、胸につかえるくらいだった。
「ありがとう。戒にも伝えておくわ」
容子は、さっさとアマデューストーストを平らげていく。真織は、カップの中でくるくると輪を描きながらこげ茶色に染まっていくホイップクリームを見つめた。
これほど身にこたえるとは思わなかった。沖田とは、まだ付き合ってもいない。心を寄せ合ったわけでもない。何の関係もできていないというのに、なぜだろう。
「それで、あんたに言っておきたいんだけど」
容子は手を上げてボーイをつかまえ、ケーキの見本を持ってきてくれるように頼むと、音を立てて椅子を前につめた。
「もう戒に、手を出さないでもらいたいわ。会うのはもちろん、連絡もしないで。今度の仕事もお断わりよ。私の収入で充分やっていけますから。永久に私たちの前に顔を出さないで。戒も、そう望んでいるわ。前みたいに、あんたに遊び半分で生活をかき回されたくないって思っているのよ。もう絶対に、戒があんたに連絡を取ることはないわ。私に、そう誓ったんだから。あんたにも、そう言っておいてほしいって言ってたわよ」
真織はカフェから目を上げ、容子を見た。
「あなたと彼の事情はわかったわ。それは、私には関係のないことです。でも仕事の話は、私と彼の間で成立したものよ。断わるのなら、なぜ彼が直接、話しにこないの」
容子は一瞬、口をつぐんだ。真織がじっと様子を見ていると、容子は、いささか不貞腐れたように下唇を突き出した。
「こういう時、男ってのは逃げたがるものなのよ。かっこ悪いことはいやがって、女に押し付けるんだから。戒が私に頼んだのよ。キャンセルしておいてくれって。自分で言うのはいやだからって。そうじゃなかったら、仕事のことも、あんたたちがこの時間にここで待ち合わせてることも、私が知ってるはずないでしょう」
それは、確かにその通りだった。だが相手は容子である。どんなことでもしかねなかった。
「なあに、あんた、私を疑うわけ」
容子は笑いながら、ボーイが持ってきたケーキの一つを指差した。
「それとアメリカンちょうだい。ないの。アメリカンに近いのは。じゃ、そのゲルター何とかでいいわ」
立ち去るボーイの姿を見送って、容子は腕を組み、真織を見すえた。
「信じられないんなら、今ここで戒に電話をかけてみなさいよ。自分の耳で確かめるといいわ」
真織は息をつめた。そこまで言えるということは、本当に沖田から頼まれているのかもしれなかった。
「戒はね、もうあんたの声は聞きたくないって言ってたわよ。でも、あんたに未練があるんだったら仕方ないわね。かけてみるといいんじゃない。その代わり、けんもほろろにされても知らないわよ」
薄ら笑いを浮かべる容子の表情に、どことなく力が入った。ここに賭けているといったような雰囲気がにじみ出る。真織は不審に思ったが、とりあえず提案に乗ってみるしかなかった。
「じゃ、確かめさせてもらうわ」
真織が携帯電話を取り出すと、容子の目が底から光を放った。
「どうぞ」
いやな感じだと思いながら真織は、沖田の番号を探した。通話ボタンを押し、耳に当てる。テーブルの向こうで容子の目は、ますます輝きを増していた。
数回の呼び出し音の後、回線のつながる小さな音がし、ゆっくりとした声が聞こえた。
「この電話は、お客様のお申し出により、おつなぎできません」
真織は携帯電話を下ろした。
「どうしたの」
容子が、うれしくてたまらないといったような笑みを浮かべた。
「戒は、ああ見えても結構、性格が極端だから、着信拒否とかにしてたりして」
沖田との連絡は、この電話で取るしかなかった。彼の住所も、出入り先も知らない。この電話をふさがれたということは、もうこちらからは連絡ができないということだった。沖田が連絡を拒否しているということでもある。
「わかりました」
真織は、テーブルの上に置かれた伝票に手を伸ばした。
「仕事は、キャンセルということで結構です」
容子は声を上げて笑い出した。
「わかってもらえてうれしいわ」
周りの客が、いっせいにこちらを見る。真織は伝票を取り、立ち上がった。
「ありがとうございました」
レジで代金を払って真織は、一階に下りるエスカレーターに乗った。買い物に来たカップルとすれ違う。楽しげな笑顔が、胸に痛かった。
まだ、何の関係もなかったというのに、どうしてこれほどダメージが大きいのだろう。いったいどんな夢を見ていたというのだろう。
「お帰りなさいませ。ご自宅でよろしいですか」
うなずいて真織は、開けられた車のドアから後部座席に乗りこみ、両手で顔をおおった。
たぶん沖田は、真織が初めて作ろうとした真織だけの世界の、最初の住人になるはずの人間だったのだ。
いや、逆かもしれない。沖田に惹かれて真織は、彼を知りたくなったのだ。彼を知ることは、彼と二人の空間を作り、広げることだった。それが充実していけば、真織は、父の作った世界以外に住むことになる。憂鬱な現状を変えうる出発点、それが沖田だった。
だが今、彼を失って、それらは全部、崩れてしまった。どうして絶望せずにいられるだろう。声をあげて泣いてもおかしくないくらいだと真織は思った。
真織を見送って容子は、ゆっくりとケーキを食べ、コーヒーを飲んだ。充分に時間をかけ、真織が引き返してこないことを確かめてから、おもむろにバッグから携帯電話を取り出す。
「あ、すみません。昨日、携帯を失くしたって届けを出した沖田戒と申しますけど、見つかったんで、止めてある回線、元に戻してもらいたいんですが。何分くらいでつながるようになりますか。えっと、暗証番号はですね」
サービスセンターとの話を終えてから、一服し、容子は立ち上がった。カフェを出て、真織の姿がないかどうかに気を配りながら、一階まで降りる。すいている案内所を探して店内を歩き、中央部にあるインフォメーションのカウンターに寄ると、バッグの中から、昨夜パソコンで打った手紙を取り出した。
「すみません。今、六階のお得意様サロンに来ているこの宛名のかたに、届けてください。高宮真織の代理の者から、といっていただければわかりますから」
案内嬢はやさしげな微笑を浮かべ、手紙を引き受けた。カウンターから離れながら容子は、サービスセンターの係員から言われた時間を見計らい、今度は自分の携帯電話を取り出した。先ほどまで止めてあった回線の番号を押す。耳をすますと、バッグの中からバイブの低いうなりが響いてきた。元通りだった。
容子は笑いながらバッグに手を入れ、震えている携帯電話を取り出した。スイッチを切り、再びバッグに放りこむと、自分の携帯のメモリーの中から目的の番号を見つけ出す。
じっくりと罠をしぼっていく時の緊張感と快感は、こたえられなかった。容子は、人ごみを避けて階段の踊り場まで上り、その壁に寄りかかって呼び出し音に耳を傾けた。
12
「お茶をもう一杯、いかがですか。それとも、何か違うものでもお持ちしましょうか」
沖田はソファの背もたれから体を起こし、軽く頭を下げた。
「もう結構です」
そう言ってから、付け加えた。
「すいません」
係員は、あわてて微笑んだ。
「いえ、お気になさらずに。それにしても遅いですねえ」
沖田は、腕時計に視線を落とした。約束の時間が一時間ほど過ぎていた。
「いつもは、お時間より前にいらっしゃるのに」
テーブルをはさんで沖田の前に座っていたお帳場係の男性が腰を上げた。
「もう一度、店内を見てきましょう。さっき見た時は、どこにもいらっしゃらなかったんですが、念のためにもう一回。いつもお車ですからね。運転手が付いてますから、どう考えたってこんなに遅れるはずはないですから。受付の方にも連絡を取って、ご伝言を受けていないか聞いてきます。沖田様、どうぞお楽になすっていてください」
沖田は、ますます身を縮めた。
「すいません」
大理石の内装、シャンデリア、革のソファ、様付けで呼ばれることも含め、慣れないことばかりで居心地が悪くて仕方がなかった。足を踏み入れた瞬間から、もう帰りたかったのだが、一秒でも早く真織が来てくれることを願って待っていたのである。それが、もう一時間を超える。容子の言葉が思い出された。
『どうせ対等の人間だとは思っていないに決まってるんだもの。私なんて面と向かって、住む世界が違うって言われたのよ』
沖田は、夜のカフェに現れた真織の、華やかで洗練された姿を思った。確かに、住む世界は違っていた。
だが、彼女がこちらに手を伸ばしているように感じたのだ。あれは錯覚だったのだろうか。
「では何かありましたら、お声をおかけくださいませ」
出ていく店員を見送って、沖田はほっと息をついた。内ポケットで着信音が響く。沖田は、すばやく上着に手を突っこんだ。
「はい」
「ああ、戒」
容子だった。
「携帯貸してくれてどうもありがとう。おかげで商談、うまくまとまったわ。ほんとにピンチだったのよ。助かっちゃった」
容子が心底困っている様子だったので断われなかった。真織との待ち合わせ場所と時間は決めてあったから問題はないと思っていたのだが、軽率だった。
「私の携帯、見つかったから、あんたのを返しに行くわ。あの後、いつもの新聞社の携帯、うまく借りられたかどうか心配してたんだけど。これがつながってるってことは大丈夫だったってことよね。でも何かと不便でしょう。番号を知ってる人以外は、不審電話だと思って出てくれないものね。すぐ行くわ。今どこにいるの」
沖田は返事につまった。容子がくすっと笑う。
「あら、そんなに用心しなくてもいいじゃない。とにかく会いましょうよ。昨日の相談だって、結論出てないんだし。今日がだめなら、明日でもいいのよ」
扉の外でノックの音が響いた。沖田は、あわてて通話口を手で囲った。
「後で、連絡するから」
それでおとなしく引き下がってくれない場合は、強引に切ろうと思った。
「わかったわ。きっとよ。忘れないでね」
容子は、あっさりと会話を切り上げた。機嫌がよかったらしい。沖田は、電話機をしまいながら扉の向こうに声をかけた。
「どうぞ」
真織に違いないと思った。ようやく会えると思うと、心の底からため息が出た。
「失礼します」
顔を出したのは、先ほどの係員だった。
「一階のインフォメーションの係が、高宮様の代理とおっしゃる方から、沖田様あてのお手紙を預かったそうで、届けてまいりましたが」
差し出された白い封筒には、パソコンで沖田の名前が印字してあり、後ろには、高宮真織とあった。手紙をことづけてきたということは、ここに来ないということだろうか。何か急な用事でもできたのか。あれこれと考えながら、沖田は、封を切り、中から白い便箋を出して広げた。
「沖田戒様
まさか、あなたが私の言葉を本気にし、わざわざ足を運んでいらっしゃるとは思いませんでした。ほんの悪ふざけだったのよ。ごめんなさいね。
それから仕事の件ですけれど、あなたよりネームバリューのあるカメラマンが見つかったので、彼に頼むことにしました。こちらも、ごめんなさいね。
またお時間があったら、私たちのお遊びにつきあっていただけると、うれしいわ。じゃあね。
[#地付き]高宮真織」
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急な電話にも驚いたけれど、いつにないその殊勝さには、もっと驚くね。どうしたの。何か悪いものでも食べたのかい。
おやおや、冗談にも対応できない、か。こりゃ相当だね。ほんとに、どうしたの。
黙って言うことを聞いてくれ、だって。ま、そこそこの気の強さは残っているわけだな。
へえ、この間の件か。いいよ、話しても。ただ、電話じゃ困る。あなたを酔わせてからでないとね。
おい、エゴイスト呼ばわりはやめてくれよ。提案者が、自分に都合のよい条件を整えるのは当然のことだろう。
それに今、上海なんだ。隣に美女はいるかって。もちろんだろう。中国の女性は、肌もきれいだし、背も高くてなかなかだよ。ん、顔のことは言わない主義だ。ベッドの中では、顔はそんなに問題にならないよ。
よし、こうしよう。明日、日本に帰るけれど、大阪本社に寄って即シンガポールだ。金曜日に戻る。確かその日、八方園で何かあって、招待状が来てただろ。
ああ思い出した、フランス・プライベートバンク・レセプションだ。八方園なら、ちょうど庭の桜が見ごろだろうから、俺の名前で離れの部屋を取っておく。レセプションに出て、その後で来てくれないか。
夜桜の小道を歩いて離れに着くころには、ほろ酔いだろう。実り多い話ができそうで、うれしいよ。
え、心構えがいるからヒントをくれって。しょうがないな。ちょっとだけだよ。我が企業グループに関しての話さ。
じゃあね、会えるのを楽しみにしているよ。
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「まあ、高宮代表のお嬢様がいらっしゃるわ。お着物姿って、珍しいんじゃございませんこと」
「あれは、染波文訪問着ですわ。間違いございません。一昨年、天竜寺の壁画を完成させて文化勲章を受けた加野又衛門のお作ですわよ」
「檜扇《ひおうぎ》の西陣帯がよく映って。素晴らしいですわね」
「お着物に着られてしまう方って時々いらっしゃいますけれど、あの方はねえ、何をお召しになっても、ご本人のお美しさが引き立つばかり」
「どうせ女と生まれるなら、ああいうふうに生まれたかったですわね。どれほど人生が楽しくなることか」
「そうでもないってお話ですわよ。いろいろとご事情があるとか。プライベートだけでなく、グループの方も。今は、高宮代表が抜群の求心力をお持ちでまとめていらっしゃるけれど、もうお歳でしょう」
「ええ、その後は、結構ゴタゴタしそうだって噂は、聞いておりますわ」
「あら、出て行ってしまわれるわ。どちらにいらっしゃるのかしら」
「離れ家の方角ですわ。きっと別の会合がおありになるのでしょう。お忙しいのね」
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八方園は、江戸時代に大名の上屋敷だった地所を、大正時代に入って結婚式および宴会場に改造したもので、広大な庭はそのまま残され、樹木数五百本を誇る桜の名所となっていた。都内で見られる桜のほとんどの品種が集められており、開花時期には、一般にも開放されるため、一日中見物人でにぎわっている。
真織は、レセプション会場から庭に出て、夜の中にたたずむ桜の木々の間を歩いた。受付で聞いたところ、尾崎の予約した離れ家は庭の一番奥にあり、築山と池を越えたその向こうということだった。
「『牡丹庵』といいます。お庭の随所に白い矢印が出ていますので、それを目印に、とにかく奥へ奥へといらっしゃってください」
真織は、ライトアップされた枝々を仰ぎ見ながら築山を上った。時折、風が渡り、木々をざわめかせる。薄い花びらを通して、夜が静かに降りてくるのが見えた。
「この辺の花は、散ってるのね。日当たりのせいかしら。白っぽいのと、ピンクっぽいのもあるし、種類が違うのかなあ」
「ああ、危ない。走っちゃだめ。坂だからゆっくり来なさい。待っててあげるから、ね」
「ねえねえ、知ってる。都会の雀って、桜食べるんだってさ」
なよやかに枝を動かす紅《べに》枝垂《しだれ》や、すでに散り始めた小彼岸桜、まだ蕾の鬱金《うこん》など、いろいろな花を見ながら、真織はゆっくりと山道を歩いた。上りきって振り仰ぐと、わずかに欠けた月の前を、雲が早く走っていくのが見えた。
「明日あたり、雨だって言ってましたよ」
「咲くと、すぐ散ってしまうんですよねえ。花の命は何とやら、ですね」
西陣のバッグの中で、メールの着信音が響く。取り出してみると、尾崎だった。
「悪い。武田に捕まった。十五分で何とかする。先に入ってて。よろしく」
真織は、小柄な体にエネルギーを漲《みなぎ》らせ、尽きることなくしゃべり続ける武田海上火災の代表の顔を思い出した。十五分で彼をまいて来られたら、尾崎をほめてやってもいい。
「遅れたらペナルティよ。何にするかは、これから決めるわ」
メールを打ち終わって、真織は携帯電話をしまった。平坦な道をしばらく歩いて、下り坂にさしかかる。
尾崎の話を聞いてみる気になったのは、どうしてだろう。決まっている。沖田を失ったからだ。真織はうつむき、下り坂の両側を埋める躑躅《つつじ》を見つめた。
沖田に代わる何かがほしかった。現状を変えたい。そのためのきっかけとなる何か。もしかして尾崎の話の中に、それがあるかもしれないと思ったのだった。
築山を降りて池のほとりに出ると、さすがにもう人の姿は見当たらなかった。灌木の間に埋めこまれた白い矢印は、池に沿った小道を指している。水辺には、大きな節のある染井吉野が一本、しなやかな腕を水の上に伸ばしていた。
枝と枝が重なり合い、絡み合い、静かに咲き誇っている。じっと見つめていると、何百という花々の息遣いが波のように伝わってきて、真織は呼吸が苦しくなった。群青色の夜の中で、ゆっくりと香りを広げながら華やいでいく桜の樹に吸いこまれてしまいそうだった。
ストロボの光が闇を切って走る。背後でシャッターの落ちる音がした。こんなところにまだ人がいたのかと思いながら、真織は振り返った。こちらに背を向け、後退《あとずさ》りながら桜を撮っていた男性が、ゆっくりとカメラを下ろし、向き直った。
「ああ、すいません。急にストロボを焚いて」
真織は、信じられない思いでその顔を見つめた。暗がりの中で強い光を放つその二つの目を、ずいぶんと長い間見つめていて、ようやく言った。
「桜は、苦手だったんじゃなかったかしら」
沖田は、張り付いたように真織を見返し、息を呑んだままで答えた。
「ええ。でも、日本での記念にと思って」
真織も、沖田から目をそらせることができなかった。吸い寄せられるように沖田を見ていた。
「なぜ、苦手なの」
「いやな思い出があって」
沖田も、なお真織を見つめたままだった。
「アフガンで、地雷を踏んだ人間を見た時、飛び散った肉片が桜の花のようだった、から」
「そう、それはショックね」
言いながら真織は、さっきから自分が、どうでもいいことばかり口にしているような気がした。本当に言いたいことが心の底に溜まっている。言葉にできない。
真織を拒否し、新しい生活に入ろうとしている沖田。仕事を放り出し、連絡を絶つという卑怯なやり方で、それを真織に突きつけた彼。容子を使って。
もっと他のやり方は、なかったの。もう少しやさしくっても、よかったんじゃない。私は、あなたを大切に思っていたのよ。もしあなたが望んだなら、たとえ自分が望んでいなくても、ウイ《いいわ》と言ったわ。どんなことでも、それがあなたの気持ちだからという理由で認めたわ。
私がそういう人間だって、わからなかったの。あなたは、少しも私を見ていなかったのね。そんなあなたと新しい世界を作っていけるかもしれないと思うなんて、私もどうかしていたわね。
言いたいことは、山ほどあった。それを何一つ言えないのは、なぜだろう。どうしてこんなふうに、見つめてばかりいるのだろう。
「新しい仕事は、入ったの」
「いいえ、まだ」
沖田から目が離せない。
「こんな話をしたいんじゃないわ」
「僕もそうです」
心から言葉が出てこない。思いが頭の中に渦をまき、視線に変わって沖田に向かっていくばかりだった。
どうしてだろう。なぜこんなふうにしているのだろう。いらだたしく思う真織の目の前を、風に乗った花びらが斜めに横切り、甘やかな香りが通り過ぎた。真織は香りを追い、顔を上げた。
頭上に一本の枝が伸び、立彼岸の薄い紅色の花が風にそよいでいた。空中に散った香りが真織の上に降りかかる。透明な帯のようにまといつき、息の中に忍びこんで真織の心を洗い流していた。
真織は、尾崎の言葉を思い出した。
──花酔いって知ってるかい。桜の香りは人間を酔わせ、理性を失わせる。桜に酔わされた人間は、夢心地で自分のしたいように振る舞う──
真織は、ちょっと笑った。自分は、本当は沖田を失いたくなかったのだと、その時わかった。沖田がどんな事情を抱え、どんな立場に立っていようと、とにかく彼がほしかったのだ。自分のものにしたかった。
「私、花に酔ったみたい。こんなにあなたを見ているのが、その証拠だわ。あなたは酔ったりはしないの」
真織が言うと、沖田はわずかに微笑んだ。
「僕も、酔っているみたいです」
たとえば奇跡のように、こんな所で偶然出会えた時には、酔いに身を任せてもいいのかもしれない。楽しく、無責任に、すべてを桜のせいにして。
「じゃ、この先の離れ家で、酔いをさますというのはどうかしら」
見れば矢印は、密集して続く桜並木の方を指していた。花々が夜の中に広がり、白い海のように波打っている。
「もっと酔いそうですよ」
沖田が笑った。
「我を忘れてしまうかもしれない」
真織は、一歩前に出て沖田を仰いだ。
「それでもかまわなくってよ、私は」
沖田は一瞬、口をつぐみ、それから静かに言った。
「僕もです」
桜の香りが、潮のように高くなっていく。息苦しくなって真織は、並木の方に体を向けた。
「さっきから、同意ばかりしているのね」
ゆっくりと歩き出しながら、帯締めに指をかけ、結び目を解く。離れ家には、鍵がないかもしれない。だが、来るのは尾崎だ。これを玄関のどこかにかけておけば、中で何が起きているかはわかってくれるだろう。
「あなたらしい言葉を聞きたいわ」
振り返ってそう言うと、沖田は、真織を魅了してやまない二つの目に、あざやかな光を浮かべた。
「ご期待に応えられると思います、離れ家の中で」
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飛  翔
「それでどうしたの」
シャワーブースの扉を開け、美馬は、雫のしたたる髪をかきあげながら尾崎を見た。
「桜の若木に、その帯締めがかかっているのを見た。それで、その後、どうしたの」
尾崎は、白いタオルを敷きつめたリクライニングチェアに腰を下ろした。イルデのドライビングシューズを履いた足を高く組み、両手で帯締めの左右の端を持つ。
「どうしたのって、どうしようもないだろう」
二つの拳を近づけ、帯締めをたるませてから勢いよく引っ張ってぱちんと鳴らした。
「そのまま帰ってこようとしたんだけれど、もし誰かが来て事が発覚したら困ると思ってさ。それで引き返して、離れ家の前で見張りを」
美馬は仰向き、扉を押さえていた手で両眼をおおった。
「やっぱり」
ブースの扉がゆっくりと閉まり、声がくぐもる。
「なんてまぬけなまねを」
尾崎貴明の父は、高宮グループのメイン会社の会長を務めている。貴明も現在、局長のポストにあり、将来のトップ候補の一人と言われていた。それが、約束を反故にされたあげく情事の見張りをしていたのかと考えると、美馬は、情けなさのあまり怒る気にもなれなかった。
「その時のあなたの顔を想像すると、僕は、この先十年くらい笑えそうだよ」
尾崎は帯締めを首にかけ、リクライニングチェアの背にもたれかかった。
「俺も、だ」
ため息まじりに両腕を上げ、頭の後ろで指を組んで天井を仰ぐ。
「間抜けだよなあ」
枝折《しお》り戸から中をのぞくと、敷石の上には、真織の草履と男の靴が並んでいた。その上、帯締めが外に置いてあったのだから、中で何が起こっていたかは言を俟《ま》たない。
それを邪魔するどころか守るようなまねをしたのだから、どう考えても馬鹿馬鹿しいとしか言いようがなかった。
「しかたがなかったんだ」
ぼんやりとつぶやきながら尾崎は、鮮明に脳裏に焼きついている離れ家の玄関先を思い浮かべた。
「あの場で下手に騒げば、マオだって意地になる。彼女を怒らせるのはまずい。相手がどう出るかはわからないが、場合によってはスキャンダルだ。それこそ命取りになる。大事な時期だからな。背に腹は代えられない」
美馬は、棚からオフホワイトのバスタオルを取り、腰に巻きつけながらシャワーブースから外に出た。濡れた足をサントーニのパイルシューズに突っこんで、寝そべっている尾崎の前に立つ。
「それで、マオの恋人をそのまま見逃したわけ」
声には、責めるような響きがあった。
「あなたらしくもない」
尾崎が視線を上げると、艶やかな光を浮かべた美馬の目が、濡れた髪の間からこちらを見下ろしていた。
「つぶすべきだ」
尾崎は横を向いた。
「そりゃ、そうしたいよ。できるものならね」
美馬は、音をたててフローリングの床を歩き、冷蔵庫の最上段の扉に手をかけると、乱暴に開けた。
「できない理由はないだろう」
コントレックスのペットボトルをつかみ出し、蓋をねじ切る。
「僕の時だってつぶしたんだ。忘れちゃいないよね」
尾崎は軽い笑い声を立てた。
「あれは、納得してもらったものと思っていたけれどね。でも、おまえが望むのなら」
美馬が振り返ると、尾崎の顔から笑みが消えていくところだった。
「ここでもう一度、あの時の続きをやってもいいよ」
眼差が緊張をはらみ、透明度を増していく。
「やるか」
まつわりついてくるその視線を振り払おうとして、美馬は顔をそむけ、ペットボトルに口をつけた。
「冗談。今さら一戦交える気はないよ」
一気に飲み下し、手首で唇をぬぐう。
「で、どうするつもり」
尾崎は、天井を仰いでつぶやいた。
「現在、名案なし、だな」
美馬は、床に敷いたトルコのキリムの上に座りこみ、胡坐《あぐら》をかきながら尾崎の様子をうかがった。
尾崎が、真織の情事を見逃した本当の理由は何だろう。真織と友好関係を保ち、スキャンダルを避ける。ただそれだけのためか。
昔、オデパンで流れた噂は、美馬の耳にも入っていた。尾崎は、いずれ真織と結婚する。だが、噂のまま二人ともそれぞれ別の相手と結婚し、今に至っていた。
美馬は、赤と紺の亀甲模様を織り出したキリムの大きなクッションを片腕で抱き寄せた。表情が見えないほうが、尾崎に意図を読まれにくい。
クッションを持ち上げて胡坐の上にすえ、美馬は、半ばその陰に隠れて軽い調子で切り出した。
「僕が動いてもいいよ。あなたのやり方は知っているつもりだ。つまり、オデパンのすべてのメンバーを高宮グループの資産と考え、会社のために運用する。その際、個人の犠牲はやむをえないと」
尾崎が、跳ね上がるように上半身を起こした。
「よせ」
声は叫びに近かった。美馬は、クッションを叩くようにして押しつぶし、その上に顔を乗せた。
「尻尾を出したね」
尾崎は頬をこわばらせた。美馬は、くすっと笑った。
「あなたはマオに惚れていて、だから今回、とっさに何の手も打てなかった。それどころか、いまだに何もできずに呆けている。僕たちの計画をめちゃくちゃにしかねないマオの恋愛なのに、つぶせない。何のかんのと理由をつけて、自分を納得させようとしている。そうだろ」
尾崎は、両手で胸を押さえ、そのまま後ろに体を倒した。
「致命傷だ。会社に休暇届を出しておいてくれ」
美馬は立ち上がり、壁のフックからヴィラデルミティアの黒いシルクローブを取って腕を通した。腰骨に巻いたバスタオルをソファに放り投げると、片手でクッションをつかみ上げ、尾崎に歩み寄る。
尾崎は目を細め、苦しげな息をついていた。美馬は、尾崎の顔の真上にクッションを差し出した。
「理由の欄に失恋と書く気か。目を覚ませよ、局長」
手を放すと、クッションはわずかに弾み、下からうめき声がした。
「いい女を二、三人、紹介してくれたら、なんとかなるかも」
「使う糸は、花の部分だけでも七色ございます」
言いながら老女は、煤竹《すすたけ》色の布地から巧みに刺繍《ししゆう》針を引き出した。針の後ろから朱鷺《とき》色の刺繍糸がついてくる。
「桜は、私の一番好きな花でございましてね。今回のお仕事も、蕾《つぼみ》の時のしおらしさ、咲き誇る時の華やかさと輝き、それらを見る時の心のざわめきまで感じられるような作品にしたいと思って、一針一針刺しております」
真織はうなずきながら、そばに立てられている筒状の刺繍糸を見た。全部で二、三十色もあるだろうか。天井から煌々と照りつける強いライトをはね返した絹糸が、彩色された金属管のような光を放っていた。
尾崎の別荘での花見の会が今週末の日曜日と決まり、先日、連絡が流れた。真織が、桜の刺繍を施した訪問着を着ていこうと思ったのは、つい三、四日前のことである。すぐさま実家に出入りしている呉服屋を呼び、桜の幹の色をした反物《たんもの》を探すと同時に、腕のいい刺繍作家のいる工房を紹介してもらった。
「今、刺しているのは肩の部分になります」
刺繍デザイナーで、工房の経営者でもある中年女性が、真織の前にデザイン画を描いたスケッチブックを開いて見せた。脇から呉服屋がのぞきこむ。
「藤巻が、この肩の部分と裾周りを担当させていただいております。残りは、他の者が」
見回せば、工房の中では数人の女性たちがせわしなく針を動かしていた。
「うちは、機械は使っておりません。全部、手仕事です。その分、日数がかかりましてね。でも、仕上がりには自信を持っております。何しろ」
自慢話は、長くなりそうな気配だった。呉服屋が、真織に目配《めくばせ》をしながら口を開く。
「あ、そろそろ参りましょうか」
女社長は、不満げに口をつぐみながら玄関先まで送ってきた。
「もう少し、お時間がおありになれば、全部を藤巻が担当させていただけましたのに。本人も残念がっております。これをご縁に、ぜひごひいきに」
真織は、うなずいて礼を言い、呉服屋と共に工房を出た。
「あの人は、いいセンスなんですが、ここがね」
親指で自分の鼻をつついて、呉服屋は、うんざりしたような表情で真織を見た。
「ま、女手一つでやってくると、ああなるのでしょうな。勘弁してやってください。土曜日の納期には、必ず間に合わせますから」
小さな池の周りに春の草花が雑然と生い茂る庭を歩いていくと、遠くでホトトギスの声がした。真織は目を上げ、工房のすぐ裏手に迫っている山を見た。芽吹いたばかりの柔らかな緑が、暗緑色の木々の間で揺れていた。
「もうホトトギスがきたんですね」
「ええ、今年はいやに早いです。異常気象のせいでしょうかね」
工房の名前を大きく掲げた門の前に出ると、車をふきながら待っていた運転手があわてて手袋をはずし、真織の前にドアを開いた。真織は、呉服屋に頭を下げた。
「急なお願いをいたしまして申し訳ございませんでした。お世話になりました」
呉服屋は、長い顔に愛想のいい微笑みを浮かべた。
「とんでもない。いつでもお役立てください。高宮代表と奥様にどうぞよろしく」
真織は車に乗りこみ、一礼した。窓の外で、呉服屋も腰を折る。
「どちらに」
運転手に聞かれて真織が顔を上げると、車はもう公道に出ていた。道路の脇には、高速道路の出入り口を示す標識がいくつも立ち並び、土埃をかぶった草がざわざわと揺れている。
「そうね、いったん家に戻ろうかしら」
「池尻のほうですか、それとも目白の」
真織は、手を伸ばして自動車電話を取り上げた。
「様子を探ってみるわ」
今回は、母に口をきいてもらっていた。報告を忘れたら、気分を悪くするのは目に見えている。電話を入れ、ついでにご機嫌伺いもしておいたほうがよさそうだった。
「ああ、ママ。今、八王子の工房を出た所です。よろしくとのことでした」
電話の向こうから、母の小さな笑い声が聞こえた。
「びっくりするほど顔の長い人でしょ。あれは、私が今までに見た中で一番長い顔だわ。馬を除けばね。あの工房の女性経営者は、彼の女よ」
真織は、鼻をつついた時の呉服屋の表情を思い出した。
「気づかなかったわ」
言いながら、沖田戒を思う。あれから連絡がなかった。真織も、していない。オデパンの会での撮影の件も、宙に浮いたままになっていた。
だが、一度なりとも関係を持ったのである。人に知られれば、真織は沖田の女といわれるのだろう。
沖田の女。なかなか刺激的な響きだった。自分の人生が変わったように思える。しかし沖田がまだ若く、独身であることを考えれば、沖田の方が真織の男と呼ばれる可能性が高かった。
真織の男。どことなく打算的な匂いの漂うその言葉を、沖田はきっと喜ばないだろう。怒るかもしれないし、落ちこむかもしれなかった。そんな彼を想像して、真織は、一人で笑みを浮かべた。
「よくあることよ」
さらりと言いながら母は、薄紙の音をさせた。
「もし、これからこちらにいらっしゃるのなら、ホテルオークラのシュークリームがありますよ」
真織は、通話口を押さえ、運転手の方に身を乗り出した。
「目白へ」
母は、来いという代わりに食べ物の話を出す。
「いただきたいわ。四時に間に合うようにします」
真織の家では、おやつのことを四時という。フランスの言い方である。イギリスに留学していた母が、なぜかフランスの習慣を身につけて帰ってきて、真織の小さな頃には、家の中でそれが定着していた。
「お夕飯も用意しておきましょう。隆さんには、こちらから連絡を入れておきます。よろしいわね」
逆らえるはずもない。真織は承知して受話器を置いた。
「新宿で、下りてください」
いくら急に呼ばれたからといっても、手ぶらで行けば、気が回らないのは私の躾が悪かったのかしら、と言われるのはわかりきっている。
「『高野』で果物を買っていくわ。いいものがなければ、『日比谷花壇』で薔薇を」
自動車電話が震えるような低い音を立て、運転手が一瞬、横を向いた。
「私が、出ます」
恐縮する運転手に微笑みながら真織は左のイヤリングを取り、受話器を耳に押し当てた。
「高宮です」
即座に、艶やかな低い声が響いた。
「やあ、ご機嫌はいかがかな」
尾崎だった。真織は口角を下げた。いつもいつも、急いでいる時に限ってかけてくる。
「とっても悪いわ。またね」
切りあげようとする真織をものともせず、尾崎はしゃべり続けた。
「どこからどこへ移動中のわけ。途中でピックアップしてくれよ。話がある」
相変わらず強引だった。
「パリからイスタンブールよ」
真織が答えると、尾崎は、ちょっと笑った。
「じゃ、ブダペストあたりでいいかな。三十分取ってくれれば充分だよ。よろしく」
真織は、片手の中でころがしていたイヤリングを握りしめた。
「だめよ。母が待っているの」
尾崎のかすかなため息が聞こえた。
「待っているのは、お母上ばかりではございません。あなたはお忘れになっていらっしゃるようですが、この私も、ずうっと前からお待ち申し上げているのです」
真織は、この間から何度か尾崎の話をキャンセルしていたことを思い出した。
「あら、今日は素面《しらふ》よ。酔っていないとだめな話だって言っていたでしょう」
「状況がかわりましてね」
電話の向こうで、ライターの蓋をはね上げる音がした。真織は耳をすませる。ジッポー独特の着火音が響いた。
「うんと言ってもらえばすむ話じゃなくなったんだ。素面で約束してもらいたい」
尾崎は早口になっていく。禁煙している彼が煙草を吸っていて、しかも早口にしゃべるとなると、どうもかなり追いつめられているらしかった。
「いいわ」
真織は左手首を返し、時計に視線を落とした。
「今から、そうね、四十分くらいで池袋に着くわ。ホテルメトロポリタンの『フィオレンティーナ』に三時半に」
母の方はなんとかごまかし、とりあえず尾崎の焦燥を解決してやるしかなさそうだった。
ホテルメトロポリタンは立教大学に近く、創設当時は教授陣でにぎわっていた。今は、アジアからの観光客も多い。
高い天井の下に広がるロビーの端に、観光バスから下ろされた大量の荷物が置かれているのを見ながら、真織は、キルティングをしたシャネルのバッグを小脇に抱えこんだ。金鎖を手首にからめ、錬鉄の手すりのついた階段を急ぎ足で上る。赤い絨毯の廊下を曲がると、「フィオレンティーナ」の入り口があった。
「待ち合わせですの。よろしいかしら」
出てきたウェイターにそう言ったとたんに、店の奥の椅子で尾崎が片手を上げた。
「ああ、あちらよ」
ウェイターは微笑み、真織の先に立った。
「お待たせしたかしら」
真織が近づくと、尾崎は椅子から立ち上がった。シルクシャンタンの明るいグレーの上下に、襟の小さなシルバーホワイトのシャツを合わせ、バーガンディのネクタイをシングルノットで結んでいる。背が高く筋肉質なだけに、細身のスーツでも重量感があった。パーティですれ違ったら、名前くらいは聞いてみたいような男である。
「いや、今来たところ」
視線を下げれば、灰皿には大量の吸殻があった。
「嘘つきね」
笑いながら真織は椅子に腰を下ろした。尾崎の前でフルートグラスが空《から》になっていた。
「素面で話すんじゃなかったの。それとも、また状況が変わったのかしら」
尾崎は眉を上げた。
「シャンパンは酒じゃないよ。クリュッグだけれど、あなたも、どう」
真織がうなずくと、尾崎は手を上げてウェイターを呼び、同じものを注文した。差し上げた袖口から、ブレゲ社のトゥールビヨンがのぞく。
「あら。それ、何年の」
ブレゲ社は、天才時計技師と言われたアブラハム・ルイ・ブレゲが一七七五年に創設した時計会社である。トゥールビヨンは、重力による誤差を自動調整する機能で、一八〇一年に特許を取得して以降、ブレゲ社の顔となっていた。
「二〇〇二年のバーゼルフェアのニューモデルだ」
真織は、沖田がアフガニスタンに行く日がきたら、餞別《せんべつ》に時計を贈るというのもいいかもしれないと思った。毎日、見てくれるだろうし、ブレゲなら、いざという時には高く売れる。自分が彼にしてやれることといったら、そのくらいしかなさそうだった。
「日本で買うと、どのくらい。一千万前後かしら」
運ばれてきたシャンパングラスを持ち上げながら真織が聞くと、尾崎はうつむき、親指でフェイスをなぞった。
「この間、ワンランク下のに、千二百万がついてたと思ったな。金額より大変なのは時間だよ。これも、スイスに注文して一年半待った。下手すると、次のモデルが出ちまう」
真織は、苦笑しながらシャンパンを口にした。そんなには待てない。
ヨーロッパの老舗《しにせ》の中には、王侯貴族の注文を受けて製作にかかり、出来上がった時には発注者が死んでしまっていたなどというエピソードを持っている店が少なくない。それが伝統というわけでもないのだろうが、いまだに時間が止まっているかのような商売をすることがよくあった。
「そろそろ本題に入っていいかな」
尾崎がそういうのと、真織のバッグの中から携帯電話の着信音が流れるのが、同時だった。真織は尾崎を見た。尾崎は、片手で電話に出るようにうながしながら形のいい唇をゆがめた。
「もちろん、こう言うんだろ。今、とっても機嫌が悪いの。またね」
真織は、肩をすくめてバッグを開けた。携帯電話を取り出して見ると、ディスプレイに沖田の文字が浮き上がっていた。初めての連絡だった。
真織は、あわてて二つ折りの電話機を開いた。待ち受け画面が下になっていたが、持ち替える余裕もなく、とにかく通話ボタンを押したとたんに取り落とした。思わず声をもらすと、そばを通りかかっていたウェイターが振り返った。
「どうなさいました」
「いえ、大丈夫です。ごめんなさい」
真織は椅子の下にかがみこみ、手を伸ばして急いで拾い上げた。もう一方の手でバッグの金鎖をつかみ、あわただしく店の出入り口に向かう。今にも切れてしまいそうな気がした。
「真織です」
受話口を強く耳に押し付けながら店を出ると、笑いを含んだ沖田の声が聞こえてきた。
「落としましたね。痛かったです」
真織は微笑んだ。胸の奥から愛しさがこみ上げてきて体中にあふれ出し、ただ微笑むことしかできなかった。
「お元気でしたか」
「ええ、とても」
言いながら真織は、レストランの脇の壁によりかかった。吹き抜けの眼下には、団体旅行客で賑わうロビーが広がる。
「ばたばたしていて、ご連絡できませんでした。すみません」
ていねいな言葉遣いを聞いていると、あの離れ家での出来事が夢のように思われた。
後のことも先のことも考えず、何もかも一気に飛び越えるようにして肌を重ねた。何も聞かず、何も話さず、ただ抱き合って過ごした一夜は、恋と言うより、桜の見せた夢と言った方が正しいのかもしれなかった。
夢はあっけなく、現実を変えることはない。真織は、失ったと思った沖田を再び得たような気がしたが、別れてしまえば、胸にはまた喪失感が広がった。満たされない。
渇いた人間が水を求めるような激しさで沖田を欲している自分に気づいて、真織は不思議な気がした。
沖田に惹かれるのは、あの目のせいだった。生と死を焼き付けた沖田の目。その重みを、真織は沖田と共有したいのだ。
かつて真織は、重い人生を送ってきた夫を伴侶に選び、軽すぎる日々に背を向けようとして失敗した。原因は、はっきりしている。夫が、自分の重みを捨て去ろうとしていたからだ。実力と結婚により、夫は過去の重みから逃れようとしていた。
もっとしっかりと重みを抱えている人間でなければならない。自ら重みを選び、背負って歩いているような人間でなければならない。
それが沖田だった。彼と、人生を重ねてみたい。
だが、彼がどう思っているのかわからなかった。歳も離れていて、環境も考え方も違う。ひと夜を過ごしはしたが、それが愛情なのかどうかさえ、はっきりとしなかった。
沖田にその意思がなければ、接触してもしかたがない。ひと夜の夢だったのだと思って忘れた方が傷にならずにすむ。
そんなことを考えていて、真織は沖田に連絡をしなかった。会いたいという思いに身を任せて行動するには、やはり桜の香りが必要なのだろう。そう思いながら、散っていく桜を家のベランダから見ていた。
「金が何とかなったんで」
言いながら沖田は、押し切るように声に力をこめた。
「飛行機のチケットを取りました。今週末に安いのがあって」
真織は、すぐに返事ができなかった。早すぎて、ブレゲを準備する間もない。
「前と同じように、とりあえずスイスに入って入国許可を待つことにしました」
行く先は戦場だった。帰って来るとは限らない。
「日曜日に発ちます、昼の十二時頃」
真織が尾崎の別荘に向かう日だった。十二時なら、おそらくパーティの真っ最中だろう。
「撮影の約束を反故にして申し訳ないです」
真織は、何度も息を呑みこんだあげくに言った。
「そう」
止めることはできない。それが彼の選択であり、生き方なのだ。だからこそ彼に惹かれたのだ。
「そう」
くり返して言いながら真織は、自分に言い聞かせた。あれは夢だったのだ。ひと夜限りのものなのだ。夢に実りはない。ただ覚めるだけだ。取り乱していてもしかたがない。夢の中で一瞬、人生が交差しただけのことなのだ。彼がそこから離れて行ってしまうのなら、自分は、自分の人生に戻るよりない。
「気をつけてね」
恋人だったら、もっと情熱的な言い方ができただろう。年下の女性だったら、さらに言えたはずだ。あるいは、ここに桜のひと枝でもあったら。
「はい」
答えて沖田は、黙りこんだ。真織は、耳にかすかに届く沖田の息遣いを聞いていた。それは彼が今、確かに生きている証《あかし》だった。この息遣いを忘れない。真織は、そう自分に言いきかせた。いつまでもよく覚えておこう。
「あなたと出会って、僕は桜が好きになりました」
真織は微笑んだ。これからは、桜の季節が来るたびに沖田のことを考えるのだろうと思った。
「アフガンで、思い出してね」
沖田は、再び口をつぐんだ。真織は、別れの言葉と電話を切る音がいつ聞こえてきてもいいように心の準備をした。
「もし、あなたの都合がよかったら」
真織の耳の中で、沖田の声がわずかに震えた。
「出発の前の晩、土曜日ですが、一緒に過ごしたいんです」
真織は唇に手を当てた。沖田の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。
「もう帰れないかもしれないので、最後に会っていきたい」
そう言ってから、沖田は自嘲的な笑いをもらした。
「もちろん、あなたのご都合がよかったら、ですが」
真織は、できるだけ静かに答えた。
「都合が悪いと言ったら、どうするの」
沈黙が返ってきた。真織は息をひそめ、祈るような気持ちで待った。
沖田が愛情を見せてくれたら。それを頼りに自分も踏み出せる。夢のひと夜は、現実の恋に変わるかもしれない。
だが、沖田にそこまでの気持ちがないのなら、このまますれ違った方がいい。一人で想いを募らせているなどというのは、大人のすることではなかった。
「どうするの」
真織が言葉を重ねると、やがて、半ばかすれた沖田の声が届いた。
「それでも、どうしても会いたい」
真織は、息を吐きながら目を閉じた。階段を一気に上りつめたような気がした。
「いいわ」
首を傾けて真織は肩の間に携帯電話をはさみ、バッグから手帳を出した。ホテルのリストを探し、目を通す。
「翌日が成田なら、箱崎のホテルがいいでしょう」
夢は現実になる。今度こそ心を結ぶ。きっとできるだろう。
「ロワイヤル・ホテルに部屋を取っておきます」
頬をつたって、リストの上に涙が落ちた。
「待っているわ」
「さあ、座ってくれ。今度は、何があっても話を中断しないからね。いいかい」
真織が席に戻ると、尾崎は、ナイフをチーズに突き立てながら口を開いた。
「京都のオデパンで、あなたの力を見せてもらった。人心掌握の才能があると見た。人を動かすことができるわけだ」
真織は、慎重に尾崎の表情をうかがった。彼が他人をほめるのは、自分のために利用しようとしている時だけだ。さて、何を企んでいるのだろう。
「その力を遊ばせておくのはもったいない。うちのグループのために働いてくれないか。とりあえず俺か、美馬の秘書という名目はどうだろう。あなたは確か、ドイツでIHK認定の秘書資格を取ってるはずだ。ドイツ仕込みの秘書なんて、有能すぎて恐ろしいほどだぜ」
真織は笑い出しそうになった。想像もしなかったことである。
「そんな気はないわ」
尾崎はナイフを止め、真織に目を向けた。長い睫が、漆黒の瞳に深い陰影を刻みつけていた。
「今、うちの父親たちがもっぱら話題にしているのは、高宮代表の健康だ。それがグループ全体に関わる問題になっているのは、知っているだろう」
真織はうなずいた。自分の父が、何らかの理由で代表を務められなくなった場合、求心力を失ったグループがどうなるかという話は、ことあるごとに経済系の新聞や雑誌に書きたてられていた。
「たった一人の健康に、グループ全体の運命がかかっているようでは健全な企業とは言えない。代表が元気な今のうちに、世代交代がスムースに行われるように準備をする必要がある。今までそれができなかったのは、代表の独裁が原因だ。ま、うちの父親世代の年功序列意識もあり、傘下の各会社が急成長しすぎて現状を回すのに手いっぱい、とても将来のことまでかまっていられなかったせいでもあるだろうけどね。だが、もうやらなければならない時期だ。心臓は、かなり悪いんだろ」
踏みこむように見すえてくる尾崎の眼差から、真織は顔をそむけた。
「ええ、まあ、そうよ」
尾崎は声をひそめた。
「このまま代表が倒れたら、傘下の会長社長の中の誰がそのポストに座ることになっているか、知ってるかい」
それは、真織の父の口からよく出る名前だった。尾崎の父親が会長を務める会社の社長で、真織の夫の上司である。
「まあね」
真織は、あいまいな答え方をした。尾崎の意図がわからない以上、どんな情報も与えることはできなかった。
「はっきり言って器じゃない。グループ全体をまとめる力は、彼にはないだろう。といって、他に期待できる人物がいるわけじゃない。つまり我がグループの現在の会長社長たちは全員、代表の取り巻きで、代表の命令通りに動いて業績を積んできた人間ばかりなんだ。誰一人、代表の意思を無視して動かないし、動けない。代表の手足なんだ。
彼らがそうなったのは、代表のせいでもある。自分におとなしく従う人間だけをそばに置いて、反対する者や耳ざわりな意見を言う者は、遠ざけたり詰め腹を切らせたりしてきた。だから主体性のないイエスマンばかりが残ったし、そうでない者も、生きていくためにそういう仮面をかぶり続けた結果、主体性を失ってしまったというわけさ。命令を実行すること、そこから何かを発展させていくことだけは誰もがピカイチだが、全体を見通し命令を下して動かしていける技量を持つ人間が、一人もいない。
代表がいなくなるということは、グループの頭がなくなるということだ。どうなると思う。空中分解だ。グループがばらばらになったら、銀行は融資を見直すだろう。いいところは外資系の企業がさらっていくだろうが、その他は捨てられる。うち全体で、いったい何万人の人間が働いていると思う。彼らの生活を保障してやらなけりゃならない」
尾崎は乱暴にチーズを押し切り、ナイフの先に突き刺してそのまま口に入れた。
「俺と美馬で、やる」
真織は息をつめた。何かを企んでいるとは思ったが、そこまでとは予想していなかった。
「驚いたわ」
真織がつぶやくと、尾崎は、熱っぽい光を浮かべた目にわずかに笑いを含んだ。
「社内外から適任を探し出し、その人物を立てて、今の第一候補をおろすつもりだ。オデパンのメンバー全員に手を貸してもらう。代表に心酔していない俺たちの世代が、一番純粋に企業の利益だけで行動できるんだ」
言い切って尾崎は、音を立ててナイフを置いた。
「あなたにも協力を頼みたい。俺か美馬のそばについてくれるように頼んだのは、そのためだ」
真織は身を乗り出した。テーブルに両腕をつき、あたりに視線を配ってから声を落とす。
「それは、一般的な言葉で言えば、企業内クーデターということよ。乗っ取りと言われることもあるわ。わかっているの」
尾崎は、うっとりとした微笑みを浮かべた。
「もちろん。もっと的確な表現は、革命だ」
尾崎は、昔から時々、危険な企みに陶酔する癖がある。本人に言わせれば、決行か否かの決断を下し、可能性に向かって突き進む時の燃焼感がたまらないということだが、後始末は、たいてい真織に回ってきた。いらだたしく思いながら真織は、尾崎をにらみすえた。
「どうしてもやるわけ。失敗しても、子供のときみたいに謝ってすむってわけにはいかないのよ。覚悟はできているのね」
尾崎は脚を組み、上半身を乗り出すと真織に顔を突きつけた。
「そうでなかったら、あなたを誘うはずはないだろう。俺も美馬も、腹はすわってるよ」
真織は食い下がった。
「じゃ、二人でやれば。メンバーを巻きこまないで」
真織も、父の後を受けて代表になるといわれている人物に関して、尾崎の言う通りの批判があることは知っていた。だが、どう考えても危険すぎる賭けに思えて、引き止めたいという気持ちが先に立った。
「これをオデパンでやることに、何の意味があるのよ。オデパンは、お楽しみのための会よ。趣旨に反することで集合をかけるなんて許さないわ」
尾崎は、大きくうなずいた。
「もちろんだ。だがこれは、もっともオデパンらしいことなんだ。いいか、よく聞いてくれ。俺たちは皆、超えることのできない立派な親を抱えてきた。親の作った世界に住まざるをえなかったんだ。そうだろう。そういう現実と何とか折り合いをつけ、自分を生かす道を探すためにオデパンが必要だった。だが今、ここで革命を起こす。俺たちは親の世界を壊し、俺たちの世界を確立する。親を超えていくんだ。すごいだろう。これ以上のお楽しみって、ちょっとないぜ。声をかければ、皆が賛同するはずだ。そうは思わないか」
真織は、ため息をつきながら椅子の背にもたれかかった。目的のためならどんな策略もためらわず、どんな詭弁も弄する。尾崎がそういう男だとわかっていても、聞いているうちに賛同する気になってしまうのが、我ながら不思議だった。
「力を貸してくれるだろう」
尾崎は、オデパンの女性メンバーから必殺の微笑と呼ばれている静かで不敵な感じのする笑みを広げ、押し付けるようにささやいた。
「あなたの動きは、メンバー全員に影響を与える。頼むよ。いいね」
真織は天井を仰いだ。
「もう少し考えさせて」
代表の娘としての立場もある。後継者について父がどう考えているのか、社内の声を知っているのかどうか、改めて聞いてみる必要もありそうだった。
「とりあえず、あなたか美馬君の秘書になることについては、大筋で合意しますと言っておくわ」
そばにいれば、危ない時に助けたり、止めたりもできるかもしれない。
「ばかな二人を、見殺しにできないもの」
尾崎は、椅子の上でゆっくりと重心を移動させ、組んでいた脚をほどいた。
「ここまでは、酔わせてウイと言わせるつもりだった。感情に訴えられる話だからね」
言いながら両手を襟にかけ、ぴんと伸ばして姿勢を正す。
「次は、素面《しらふ》で約束してもらいたいこと。感情に訴えると失敗する話さ。両方同時にしなけりゃならなくなったのは、時間がなくなったからだ。あなたのせいでね」
真織は、風向きが変わるのを感じた。尾崎の表情に真剣で陰鬱《いんうつ》な影が落ちる。
「メンバーを巻きこむわけだから、計画は、どんなことがあっても成功させる。そのために、危険はできるかぎり排除しておきたい。一番困るのは、スキャンダルだ。対抗勢力に利用されると致命傷になる。そこであなたにお願いなんだが」
真織は、背もたれから身を起こした。尾崎が突き刺すように言う。
「あの離れ家でランデヴーしていた若い男を何とかしてくれ」
真織は、自分の耳が信じられなかった。思わず声が高くなる。
「いつも隣に女を侍《はべ》らせているあなたから、そんなことを言われるなんて思ってもみなかったわ」
尾崎は、いらだたしげに片手で髪をかき上げながら、もう一方の腕をテーブルに載せた。
「俺はいいんだ。相手はプロだし、合意の関係だ。だが、あの男はまずい。なぜって、真面目そうだからだ。利用されやすい。おまけに、くっついている女の性質が悪いときてる。最悪だ」
それは、確かにその通りだった。
「彼なら、日曜日にアフガンに発つわ」
真織は、先ほどの電話を思い出しながらうつむいた。
「帰ってくる意思があるかどうかも、わからない。意思があっても、帰ってこられないということもあるし」
尾崎は、ほっとしたような息をついた。
「一年も行っていてもらえれば、ありがたいな。その間にすべて終わる。じゃ、出発まででいいから接触を控えてくれ」
真織は目をむいた。
「愛しい人が二度と帰らないかもしれないっていうのに、見送らないなんてことできないでしょう。絶対に会うわ」
尾崎は鼻で笑った。眼差には、鋭いきらめきがあった。
「愛しい人、ですか。四十代も半ばになって、二人も子供を持っている専業主婦の言葉とは思えませんね」
挑発的な言葉を並べ立てるのは、なんとかこちらの構えを崩そうとしてのことである。それがわかっていながら、真織は、むっとせずにいられなかった。
相手を自分のペースに巻きこんでいく話運びは尾崎の独壇場で、それに乗せられていくと結局、彼の結論に同意させられる。避けるためには、話の流れをかえるしかなかった。
真織は腕を組み、斜めに尾崎を見た。
「私が法律をやっていたことは、ご存知よね」
尾崎は方向転換に気づき、警戒の色を露《あらわ》にした。
「もちろん。あなたの天職は検事だと今でも思っておりますよ」
言いながら、探るような視線を伸ばしてくる。真織は、この際はっきりと宣言しておいたほうがいいだろうと思った。
「法律的な見地から申し述べますと、何年も性交渉のない夫婦は、関係が破綻しているものと見なされます。よって婚外関係を持っても不正なこととは考えられず、責任は問われないのです。私の場合は、まさにそう。スキャンダルになんてなりようもありません」
尾崎は苦笑した。
「お言葉ですが、検事様、スキャンダルというのは、法廷の結論を待つものではございません。法的に正しかろうが間違っていようが、とにかく面白くて醜い事件なら何でも、無責任にかつオーバーに、事実をゆがめてまでも騒ぎ立てる。これが正しいスキャンダルのあり方です。つまり、噂が立っただけでも信用を失墜するということですよ。それを利用しようとする人間がいれば、なおのことだ」
しだいに早口になる尾崎の前で、真織は隣の椅子に置いたバッグを引き寄せた。
「あなたがもし、どうしてもとおっしゃるのなら」
腹立ちまぎれに、本当の気持ちをぶちまけてみる。
「彼と別れるのではなくて、夫と離婚いたしますわ。では失礼」
あぜんとした様子でこちらを見上げている尾崎に背を向けて、真織は足音も荒く店を出た。最後になるかもしれない沖田との夜を、何があってもあきらめるつもりはなかった。
「だから、正攻法じゃ無理だって言ったんだよ」
美馬は、白いショートパンツのポケットから黄色のボールを出した。親指でラシャの乱れを直しながら、コートの向こうに立つ尾崎に目をやる。
「強硬手段を使えばいい。マオにかまっていないで、直接、男の方にあたるんだ」
床に弾ませたボールをつかみ、空中に放り上げる美馬を見ながら、尾崎は手にしていたラケットのガットの隙間に指をつっこんだ。
「おまえって、いやな男だよなあ。おまえと話してると、つくづく自分が善良だと思えてくるよ」
美馬は、バックスイングもつけずに黒いラケットを背中に振り上げ、そらせた背を一気に伸ばしてボールをとらえた。
「あなただって充分いやな男さ」
弾けるような音を立ててボールが飛び、尾崎の足元に突き刺さる。
「今回に関しては、愛情が邪魔をしてるだけだ」
尾崎は、ラケットのフレームでボールを押さえ、引っ掛けてガットの上に拾い上げた。
「真フラットだ。すごいな。いつまでキャノンが打てるんだ。全英だ、全米だって飛び回っていたのは、十四、五歳の頃だろう」
ライトを受けて虹色に輝く籠にボールを放りこみながら尾崎は中をのぞきこみ、ざっと数を数えた。
「三、四十は打ったぞ。そろそろ芝に出ようぜ」
美馬は椅子にかけておいたタオルを取り、グリップの革をぬぐいながら時計を仰いだ。二十三時を回ろうとしていた。
「明日、早朝会議って聞いてるけど、いいの」
尾崎は黙ってラケットを小脇にはさみ、肩にタオルを放り上げると、ローンコートに通じる鉄の扉を開けた。
「一時間だけやろう。のしてやる」
コートでは、美馬の方が先輩だった。どんな試合にしろ、今まで尾崎が勝った例しはない。美馬は、壁のスイッチに手をかけながら尾崎を振り返った。
「僕があの男に会うよ。話をつけてくる。いいだろう」
練習場のライトを落とすと、ローンコートから届くアーク灯の光の中で、尾崎の横顔が濡れたように光って見えた。
「おまえは手を汚すな。汚いところは俺がやる」
「昨日の夜、尾崎君の別荘に下見に行ってきました」
尾佐久華は、いくぶん頬を紅潮させて膝を乗り出した。
「素晴らしい樹でした。週末くらいがちょうど満開です。開会を日曜日にして、正解でした」
曜日に関係なく混みあっている銀座にも、静かで落ち着いた空間を提供してくれる気持ちのよいティールームがいくつかある。中央通りに面したワシントン靴店の六階、「カフェ・ド・ワシントン」も、その一つだった。
昔は、インポートの靴が展示されていた場所が、今は高級フットケアサロンになっており、品のよい婦人たちが出入りしている。その隣にカフェがあった。
「設営の下準備をして手配をすませてきました。井上君が喜んでやってくれて」
井上丈太郎の父親は、高宮グループの中では中堅どころの会社の専務を務めている。いずれ社長になると言われていながらいまだになれずにいるのは、現社長が七十八歳をすぎても退任しないためだった。
もっとも、その上には八十三歳になる会長が居座っており、あながち社長ばかりを責められない。高宮グループの老害といわれる部分だった。
丈太郎は、小学校の頃から舞台に興味を持ち、将来は演出家になりたいと言っていた。しかし今では、オデパンの他のメンバーと同じくあきらめて、会社勤めに精を出している。
「井上君のアイディアで、まず桜の老木をぐるっと一周する花道を作ることにしました。この外側に椅子を並べて三百六十度の観客席にします。井上君の弁によれば、ファッションショウとお能の舞台を合体させたイメージなのですって」
真織は、よく泡立ったココアのカップを傾けた。
「素敵だと思うわ」
華は、ほっとしたように微笑み、ストレートのジュースをストローでかき回した。
「今度の会は、問題がなくて気が楽です。京都での会は大変だったとうかがいましたから」
真織は肩をすくめた。
「めったにできない経験だったわ。それなりに楽しかったわよ」
華は、とがめるような光を浮かべた目で真織をにらんだ。
「そんなことをおっしゃれるのは、マオさんだからです。美奈子さんも恭子さんも皆様、相当に血圧が上がってしまわれたみたいですよ。美馬君なんて、もうちょっと遅かったら本当にあの女狐の餌になるところだったって、こぼしていましたもの。自分が一番ひどい役回りだったって」
真織は笑い出した。チェスの駒を扉に投げつけた美馬の顔が思い出された。
「まあ、彼には気の毒だったわ。でも、ご存知かしら。法律的に言えば、女性が男性にレイプされたら犯罪だけれど、その逆は犯罪にならないのよ」
華が目を見張った。
「そんな。女性が強引に押し倒しても、ですか」
真織は、若かった頃に研修に行った弁護士事務所での会話を思い出した。
「男性被害者は、へえ、そりゃ、いい思いをしましたねと言われて、それで終わりよ」
華は、信じられないといったように首を横に振った。
「法律って、意外と偏向しているんですねえ」
真織は、下唇を突き出しながらうなずいた。
「残念だけれど、万能じゃないわ。裁判で勝っても、いったん広まったスキャンダルを押さえることはできないしね」
言いながら尾崎の顔を思い浮かべる。おそらく彼の言うことの方が正しいのだろう。
尾崎がオデパンの力を背景にして計画を立ち上げれば、現在、社長をしている後継者候補と正面切って争うことになる。その後継者候補のすぐ上には、尾崎の父がおり、すぐ下には真織の夫がいた。
血縁や上下関係が絡み合っている内部抗争において、スキャンダルは、確かに命取りになる。だが、だからといって真織は自分を犠牲にする気になれなかった。
たまらなく惹かれた相手とようやく結ばれそうな、ようやく恋になりそうな夜である。この機会を逃せば、もう一生会えないかもしれないただ一度きりの夜だった。どうして会わずにいられようか。
「もしあなたが」
真織は、目の前の華に目を向けた。
「どちらも大切な二つのことの、どちらかを犠牲にしなければならなくなったとしたら、何を基準にして選ぶの」
質問が唐突だったのだろう。華はしばし表情を止めていた。やがて目を伏せ、頬にいたずらっぽい笑いを浮かべる。
「私は選びません。どちらも大切だったら、両方とも犠牲にしなくてすむようにどうにかします。この世のことは、やり方しだいできっと何とかなるものですわ。そうじゃありません」
真織は微笑んだ。
「そうよね」
尾崎の計画に支障が出ないようにすればいい。誰にも知られないように事を運ぶのだ。誰も知らないことは、起こらなかったことと同じだった。
「なぜ、そんなことを」
言って沖田はいったん口をつぐみ、言葉を選んでいる様子だった。やがて再び口を開く。
「あなたから言われなければならないのか、わかりませんね」
声は低く、穏やかでささやくようだったが、真っ直ぐに尾崎を見すえる目には敵意が光っていた。
「僕の人生は、それがよかろうと悪かろうと僕が決めることです」
尾崎は、いく本目かのタバコを手にした。唇の間に押しこんでジッポーの蓋を開ける。
「そう、構えないでくれよ」
夕方のショットバーは、待ち合わせをする人々で混みあっていた。ほとんどが中年以上の男性なのは、銀座三丁目という場所柄だろう。ネオクラシック調のスーツ姿が多い中で、沖田のジップフロントのブルゾンは、異星人のように浮いていた。
「君が君らしい人生を歩むのに、俺は口を出しゃしないよ。そこに彼女を巻きこむなと言っているだけだ」
ジッポーのウィールをひねり、目を伏せてタバコに火をつけていると、沖田の静かな声がした。
「僕が、一方的に巻きこんでいるわけではありません」
尾崎は、音を立てて蓋を閉じた。目を上げると、こちらを見つめる沖田の顔には挑むような笑みが広がっていた。
「合意の上です」
尾崎は、あの離れ家を思った。時間に遅れ、あわてて飛んで行った目の前に、通行禁止のロープのように掛けられていた真織の帯締め。玄関に並んでいた真織の草履と沖田の靴。じりっと胸がこげるような気がした。
「俺は、君に話してるんだぜ」
尾崎は掌の中にジッポーを握りしめ、むきになりそうな自分を抑えながら話の方向を変えた。
「君たちの間が合意かどうかなんて、知っちゃいない。彼女のために、引いてほしいと言ってるんだ、君にね」
開いた両腿の上に肘をつき、尾崎は、低いテーブル越しに身を乗り出した。
「彼女は結婚しているんだぜ。これが知れたら、家庭が壊れる。君に責任が取れるのか」
沖田は目を伏せた。
「恋愛は、自己責任でしょう」
さらりとした言い方だった。尾崎は、沖田の年齢を思い出した。今夜、会うに当たってひと通りのことは調べてきた。まだ三十一歳だった。
「お互いに、自分のしたことに対して自分が責任を取ればいいのだと思います」
尾崎は、舌打ちをしたいような気持ちだった。会社の中を見回してみても、今の三十代初めの世代というのは、男として生きるより、人間として生きることを当たり前としているようなところが見受けられる。
「それに、あなたのような第三者から言われるべきことでもありません」
尾崎は穴の開くほど沖田を見つめ、ゆっくりと唇を動かした。
「それはつまり」
タバコから立ち上る煙が、言葉の形に揺れた。
「彼女の家庭が壊れてもそれは彼女の責任だと、こういうことか」
語尾にこめた侮蔑のニュアンスに気づいたらしく、沖田は視線を上げた。その目にぶつけるように、尾崎は吐き捨てた。
「ふざけるな。それでも男か」
沖田は横を向いた。
「あなたとこうして話していても、仕方がないと思います。どこまでいっても、きっと平行線でしょう」
立ち上がりそうな気配を見せる沖田に、尾崎は、いらだちながら次の展開を考えた。こんな頑固な男を選んだ真織を、呪いたい気分だった。
「彼女の幸せを考えてやってくれよ」
沖田の胸ポケットで携帯電話の着信音が上がる。
「失礼」
言いながら沖田が電話を取り出すのを、尾崎はにらみすえた。いい手が浮かばない。
「え、ちょっと、待って」
息を呑むように言って、沖田は立ち上がった。
「待て。容子、だめだ。待て。もしもし、もしもし」
耳から離した携帯電話を、沖田は一気に折りたたみ、床に置いてあったナップザックを持ち上げた。
「急用ができました。失礼します」
尾崎は、斜めに沖田を見た。行き詰まっていた話のターニングポイントになるかもしれなかった。
「まだ、あの女と切れてないのか」
怒らせて、足を止めさせる。
「いったい何人、女を抱えてるんだ」
沖田は、むっとしたように振り返った。
「きちんと別れました」
「じゃ、連絡がくるのはなぜだ。高宮真織は、このことを知っているわけか」
沖田は向き直り、何か言いたげに唇に力を入れた。そこから言葉が出るより早く、尾崎が決め付けた。
「ファムファタルって知ってるか」
真織と沖田の関係を絶つことができなければ、沖田と容子の関係を深くすればいい。容子が沖田をしっかりつかんで離さなければ、真織の方が引くだろう。
「運命の女だ。男を破滅させずにおかない女のことさ。そんなのに出会って、取り憑かれちまったら、もうどうしようもない。いくら別れようとしても無理なんだ。ま、あきらめるんだな」
電話を切って容子は、待ち受け画面の時刻表示を見た。都内のどこにいるにしても、タクシーなら三十分、電車でも四十分もあれば来るだろう。
ベッド周りを見回し、もう一度念を入れてあちらこちらを乱れさせる。コップを倒し、掛け布団を半ばずり落とし、枕を床に置いた。もっとも大切なのは、産婦人科の名前の印刷された薬袋の位置だった。
最初、枕元に置いてあったそれを、容子は、いったんサイドテーブルの上に置き、思い直して床に落とした。袋の中から、空になったカプセル梱包材が飛び出た。
トイレを開け、先ほど流した睡眠薬の一部でもどこかに引っかかっていないかどうか、よく点検する。ついでに洗面台の引き出しにしまってあったカミソリを全部出し、カバーを取ってばらばらに置いた。
もう少し狂おしいところがあったほうがいいかもしれない。そう考えて容子は、ドレッサーの鏡に口紅で沖田の名前を大きく書いた。ハートマークを付けようかとも思ったが、それでは深刻さに欠けるのでやめ、代わりに震えるような文字で、愛していると付け加えた。舞台としては完璧だと思った。最後に、ドアの鍵を開ける。
『悪いけれど、あきらめてくれ。もう一緒にやっていくつもりはないよ。子供については、養育費を負担するということで了解してほしい。来週アフガンに行くから、貯金通帳を渡しておく。僕の貯金の全部だ。もし帰ってこられなくなった時には、これで何とかやっていってくれ。帰ってこられれば、金銭的なことはできるだけする。でも、もう一緒に暮らすことだけはできないから、それはわかってほしい』
沖田戒からそう言われたのは、先週のことだった。子供が産まれるということにすれば、沖田も考えを変えるに違いないと思ったのに、それでもよりが戻らなかった。何とかして復縁し、その後で流産したことにしようという計画だったのだが、見事に失敗した。
どこかで流産を装わなければ、嘘をついていたことがばれる。どうせやらなければならないのなら、ここでもうひと勝負してみよう。
そう考えて容子は、産婦人科に行き、思いつく限りの症状を訴えて睡眠薬をもらった。最後のチャンスに賭けることにしたのである。
「よし、と。じゃ、化粧にかかろう」
容子は、緑色の化粧下地を手に取り、顔に伸ばして青白さを出すと、ついでに唇にもつけて赤みを消した。
上機嫌で、体を放り出すようにしてベッドに倒れこむ。口にする言葉をいくつか準備しているうちに、インターホンが鳴り響いた。容子は時計を見る。三十四分が過ぎていた。
「タクシーで来たみたいね。お金、あるじゃん」
ドアのノブを揺さぶる音がする。
「馬鹿ね。開いてるわよ」
沖田は、容子がいらいらするほどドアに手こずっていた。やがてけたたましい音をたてて開け放つ。
「容子、どこだ」
あわただしい足音が短い廊下を走って台所に向かい、クロゼットに出入りし、最後にこちらに近づいてきた。開いていたドアから沖田の姿が現れる。顔が緊張でこわばっていた。容子は、胸がときめくのを感じながら目をつぶった。
「容子」
駆けつけてきた男に抱き起こされるのは、なんとも気持ちのよいものだった。容子は、うっとりとして目を開けた。ささやくようにつぶやく。
「ああ、戒」
沖田は、両腕で容子を抱き上げベッドに寝かせ直すと、掛け布団で体をおおった。身をまかせながら容子は、弱々しい視線で沖田を仰いだ。
「赤ちゃんのことは、ごめんね。赤ちゃんもあんたも失って、私、生きていく力がなくなってしまったの。最後に会えて幸せだわ」
沖田はポケットから携帯電話を出し、救急車の番号を押しながら言った。
「飲んだ薬を見せて」
容子は、精一杯寂しげな笑みを作った。
「あんたの足の下よ」
沖田は、自分が踏みつけていた薬袋に気づき、拾い上げた。袋から飛び出していたカプセル梱包材の文字を読み、大きな息をつく。
「これ、睡眠調整剤だよ」
表情を和らげ、笑い出しそうになりながら沖田は、携帯電話を閉じた。
「これじゃ、絶対に死ねない」
容子は、奥歯をかみしめた。睡眠薬を出してほしいと頼んで、出しておきますという返事だったのに、あのやぶ医者め。これでは喜劇だ。最後のチャンスが滅茶苦茶になる。
「気分はどう。念のために病院で診てもらったほうが安心かもしれない。救急車を呼んだら怒られそうだから、無線でタクシーを呼ぶよ」
容子はあわてて手を伸ばし、沖田の動きをさえぎった。病院などに行けば、すべてがバレてしまう。
「いいの。私、もう生きていたくないんだもの。だって、すべてを失ったのよ。どうして生きていけるの」
沖田は表情をかげらせた。
「でも、あんたが思い直してくれたら、きっともう一度希望を持てると思うんだけれど」
沖田は、携帯電話のボタンを押す手を止めた。枕元に腰を下ろし、容子を見つめる。
「僕たちの関係は、もう終わったんだ。わかってほしい」
暗く真剣な眼差だった。沖田の気持ちは、なお変わっていないらしい。
沖田がいったん心を決めたら、それを変えさせるのは不可能に近いことだと容子は知っていた。だが、だからといってこのまま引き下がれば、永遠に他人になる。そんなことは絶対にいやだった。
「じゃ、せめてアフガンに行く日まで、ここに一緒に住んで。前みたいに」
言いながら容子は涙をあふれさせた。
「それであきらめるから。お願い、いてくれるだけでいいから。それ以上何にも求めないから」
とりあえず一緒にいれば、新しい手を打つこともできる。そう考えながら、容子は、声を途切れさせた。ひとしきり泣いてから、悲しげな眼差で沖田の様子をうかがう。
「本当にそれであきらめるから。そのくらい、いいでしょう。昔の女に、そのくらいはしてくれるものよ。最後のお願いなんだから」
沖田は顔をそむけた。容子は身を起こし、沖田の二の腕をつかんでゆさぶった。
「でなかったら、私、あきらめきれない。もう絶対に死んで、どこまでもあんたについていくから。本気よ。だってまだ愛してるんだもの。ねえ、お願いよ。最後に一緒に過ごして。そしたら、それを思い出にして生きていくから」
揺さぶられながら、沖田は重そうに口を開いた。
「わかった。それで君の気がすむなら、そうしよう。ただし、金曜日までにしてほしい」
容子は微笑んだ。
「それでいいわ。ありがとう」
胸に不満が膨れ上がっていた。なぜ出発の前日は、ここに泊まれないのか。答は聞くまでもないような気がした。すでに誰かと約束をしているからだ。
「あんた、もしかしてもう好きな女ができたの」
沖田は立ち上がりながら言った。
「気分はどう。いくら睡眠調整剤でも、多少の影響は出ると思うよ。本当に飲んでいればね」
容子は胸を突かれ、顔を上げた。そこに沖田の穏やかな微笑みがあった。
「結婚している間、ずっと君に負担をかけてきたと思っている。今、君の願いを聞くのは、その負い目からだ。君と出会ったことや一緒に過ごした日々を後悔したくない。きれいな別れ方をしようよ」
やさしいけれどもはっきりとした口調で言われて、容子は押され、うなずいた。
薬を飲んでいないことに、沖田は気づいたのだ。それでも責めない。いつもそうだった。決して他人を問いつめない。そんな沖田が好きだったのだ。
容子は失いたくないと思った。やっぱり絶対に別れたくない。自分には、そういう包容力のある男が必要なのだ。
沖田の気持ちを取り戻すしかない。出発までの間に何とかしよう。まずは、新しい女と別れさせることだ。相手を失えば、こっちに転びやすくなる。いったい誰なのだろう。出入りの新聞社の女か、それとも。
思いをめぐらした瞬間、脳裏にあの女の顔が浮かんだ。まさか。あれほど徹底的に痛めつけたのに。復活するなんて、そんなこと考えられない。
そうは思ってみたものの、その顔は鮮明さを増すばかりだった。いやな予感がした。勘は鋭いほうだ。おまけによく当たる。容子は眉根を寄せた。
「気分が悪くなってきたわ。ちょっと横になる」
もし相手があの女だとしたら。最悪だ。容子は、沖田がかけてくれた掛け布団の端を握りしめた。絶対に許さない。もちろん会わせるものか。急いで確かめなければ。
あの女につながっていて自分が使えそうな人物を、容子は、一人しか知らなかった。神山茂である。あれ以来連絡をとっていなかったが、何とでもなるに違いなかった。
10
「ちゃんと点検はしておきましたよ。急がせたわりには、いい出来じゃないの」
母に言われて、真織は座敷の隅に目を向けた。開いた衣桁《いこう》に、先ほど届けられたばかりの着物が掛けられている。薄紫からマゼンタ・ピンクまで、光の中でさまざまに色をかえながら舞い散る桜の花びらからは、枝のざわめきや香りも漂い出してきそうだった。
真織は、あの離れ家を思った。桜の中で過ごした初めての夜。アフガンの太陽が焼いた肌は熱く、胸に耳を押し当てると血の流れる音がした。
「私も、今度頼んでみようかしら」
真織は、着物バッグの中からたとう紙を出し、畳の上に広げて立ち上がった。
「お時間を充分にいただきたいって言っていたわ。でも、なぜこちらに届いたのかしら。池尻の方にって言っておいたのだけれど」
母は、わずかに笑った。
「パパに顔つなぎがしたかったのでしょう」
高宮代表のお嬢様であるということは、つまり、そういうことだった。真織と関わる多くの人間は、本当は父と関わろうとしているのだ。
「奥様」
障子の向こうで、年配の使用人の声がした。
「だんな様がお出かけになります」
母は、ちらっと時計を仰いだ。
「あら、今日はずいぶん早いのね」
言いながら漆の座卓に手をおいて腰を上げかけ、真織を振り返った。
「久しぶりにあなたも、お見送りをなさったら」
真織は、たたみかけていた着物を置いた。こんな時なら、さりげなく本音を聞きだすことができるかもしれないと思った。
「今週の土曜日に」
使用人が開けた障子から、母は、足袋をすべらせるようにして外に出た。姿勢を正して廊下を歩き出しながら、髪のほつれを指でかき上げる。
「ロワイヤル・ホテルに部屋を取ったのですって」
母の後ろに続いていた真織は、敷居につっかかりそうになった。
「支配人から電話がありましたよ。お嬢様からご予約が入りましたけれど、代表がご利用になるのでしたら、いつものサウス・ウイングの一号室でよろしいでしょうかって。いちおう、いいことにしておきましたけれどね」
真織は口をすぼめた。うれしさに気を取られ、口止めを忘れていた。
「ええ、一号室で大丈夫よ。日曜日に郡山でオデパンの会を開くの。朝早いから、ホテルから出たほうが便利かしらと思って」
何とか言いつくろうと、母は目の端に笑みをにじませた。
「あのホテルから便利なのは、成田だけですよ」
真織は、母がこれ以上話を進めてきたら何と応えたものかと考えた。しかし、母はそれきり何も言わなかった。
「お、来てたのか」
打ち水をした玄関で、父は靴の紐を結んでいた。脇には、靴箆《くつべら》を持った使用人が立ち、ドアのそばには、服ブラシと櫛を手にした女性の使用人がいて身繕いに目を配っている。昔どおりの光景だったが、父の髪だけが半ば以上も白くなっていた。
「表の監視カメラにテープが入ってないだろ」
そう言われて母は、後ろからついてきていた使用人を振り返った。
「あら、前にあなたが、うるさいから抜いておけとおっしゃったから、ねえ」
父は、ゆっくりと立ち上がった。
「先週の重役誘拐事件の時、会社の警備担当がすっ飛んできて、ご自宅の監視カメラは常時作動してますよねって言うんだ。テープなんて入っちゃいねえよと答えてやったら、それ以来、毎日うるさくってさ。ま、一、二カ月は入れておこう。何かあったら、あいつの首が飛ぶからな」
父が足を踏み出すのを待って、ドアが開かれる。門に向かう小道沿いに並んだ使用人たちが頭を下げた。
「いってらっしゃいませ」
真織は三和土《たたき》に下り、サンダルをつっかけると、父を追いかけて肩を並べた。
「私、パパの会社の一つに就職するかもしれないわ」
父は眉を上げて真織を見た。
「雇ってくれるところがあるのか。そりゃ、気の毒を絵に描いたようだな」
真織が背広越しに二の腕をつねると、父は肩を揺すって笑った。
「その場合、私は何年間くらい、代表のお嬢さんって言われなきゃならないのかしら」
父は、笑いを顔に残したまま黙って足を運んだ。真織が様子を見ていると、やがてため息と共に、まるで他人事のようにつぶやいた。
「そう長いことじゃないだろう」
意外に素直な答だった。機嫌は悪くないらしい。真織は、思い切って踏みこんだ。
「後継者は誰になるの」
父は一瞬、足元に視線を落とした。
「候補は何人かいるよ。有力なのも含めて」
言いながら目を上げ、開いている門の方を見る。わずかに顎を動かし、言いよどみながら数歩歩いてから、ようやくぽつりと言った。
「隆君は、どうだい」
予想外の答だった。本気だとすれば、父も、今の第一候補や取り巻きたちの中から選ぶことはできないと考えているのかもしれない。
真織は、もっとゆっくり話したいと思ったが、門はもう目の前だった。運転手が待ち構えている。ここで切り上げるしかなかった。
「きっとママが許さないわ。またひと騒動よ。結婚の時みたいにね」
父は肩をすくめた。
「あれは、なかなかだったな」
笑いをかみ殺す父を見て、真織は結婚の時のことを思い出した。仕事ばかりしていて家にはほとんどいない父だったが、あの時は、心の底から頼もしく思ったものだった。厳しい競争社会を生き抜いてきた男の強さを感じた。
ひょっとして今度も、味方になってくれるだろうか。どうしようもなくなっている結婚生活を、一刀両断にするような見解を示してくれるだろうか。
真織の心の中で、甘えと、父の意見を聞きたい気持ちが入り混じり、口からこぼれ出た。
「ねえパパ、私、実は離婚したいと思っているの」
父は足を止めた。こちらを向いた顔に、笑みはなかった。すぐ前で運転手が頭を下げる。
「お待ちしておりました」
父は運転手にうなずき、開けられたドアから中に乗りこみながら言い捨てた。
「許さん」
11
「マオは、あいつと土曜の夜に会う。場所は、箱崎のロワイヤル・ホテル。サウス・ウイングの一階のスイートだ」
受話器を置いて叫びながら、尾崎はソファから身を起こし、体をもたせかけていたクッションを天井に放り上げた。
「マオの母上が何か知ってるかもしれないと思ったんだけれど、大当たりだ」
美馬は、尾崎に背を向けたまま消音ペダルを踏みこみ、楽譜台に置いた楽譜を広げた。
「今の、マオの母上だったのか。誰を探ってるのかわからなかったよ。妙に親しい口のきき方だったし」
尾崎は、鼻歌まじりに居間のテーブルの脇にあった椅子を持ち出し、美馬の隣にすえた。
「実は彼女は、俺とマオが結婚するものと思っていて、ずっと息子扱いしていたんだ。いまだにそのままさ。どうも、それが彼女の夢だったらしい。土曜日にロワイヤル・ホテルで会う相手は、俺じゃないかって言われたよ。あなたなら許すって。マオの名誉のために、会のメンバーで泊まりこむことにしておいたけど。おい、もうちょっとそっちに行けよ」
美馬は、いやな顔をして尾崎を見た。
「一人で弾きたいんだ」
尾崎は、意にも介さず楽譜を取り上げ、勢いよくページをめくった。
「ショパンなんてやめろよ。リストにしようぜ」
美馬はため息をもらした。
「指を骨折するよ、尾崎さん、あなたがね」
尾崎は、口をとがらせながらリストの楽曲を探す。
「おあいにく。ピアノとヴィオラは、俺の方が先輩だ。ところで、二人を会わせないようにするいいアイディアはないものかね、美馬君」
美馬は尾崎の手から楽譜を取り上げた。
「簡単だ。二人が会うっていう情報を、近藤容子に流すんだ。何が何でも阻止してくれるだろうよ」
尾崎は、目を見開いて美馬を見た。開いた唇から吐息のようなつぶやきがこぼれる。
「お、ボン」
うっとりと目を細め、尾崎は腰を上げた。
「Elle est bien bonne(なかなかいい)」
浮かされたようにつぶやきながら、腕を組んで部屋の中を歩き回る。
「この際、あの女に役に立ってもらおう。神山が使えるかな」
美馬はピアノに向き直り、元のページを出した楽譜を置くと、鍵盤の上に両手を差し出し、小指と親指の間を大きく広げた。
「ただし、注意しなければならないことが一つ」
背後で尾崎が足をとめた。美馬は指先に力をこめ、叩き下ろす。
「頭に血を上らせた近藤容子が、マオの夫に接触する可能性がある」
尾崎は笑って腕をほどいた。
「それも利用しよう」
12
「部屋は、サウス・ウイングの一階、一号室です」
言いながら真織は、携帯電話を持っていないほうの手を窓から入る光の中にかざした。指先に桜の花が咲いている。昨夜、時間をかけて一輪一輪描きこんだ。
いつもならネイリストを呼ぶのだが、昨日は自分でしてみたかった。桜が好きになったという沖田のことを考え、彼と会える明日の夜に思いをはせながら爪を塗っていると、体中、桜色に染まっていくような気がした。
「待っているわ」
たぶん、ずっと待っていたのだ。あの離れ家で別れた時からずっと、この日が来るのを待っていた。夢のひと夜を、現実の恋にする日を。
「待っているわ」
重ねて言うと、沖田は声に笑いを含んだ。
「できるだけ早く、行きます。最後の仕事があるんですが、大至急終わらせて」
真織は、光の中で片手をひるがえした。桜がざわめく。
「先に入っています。フロントを通さず、直接、サウス・ウイングの一号室に来て」
声がしだいに甘くなっていく。
「いいこと」
沖田はくすっと笑った。
「わかりました。仕事が終わったら、連絡を入れます。じゃ」
電話が切れる。真織は携帯を二つ折りにし、黒のバーキンに放りこんで立ち上がった。帽子を取り上げて頭に載せ、姿見の前まで歩いて全身を点検する。扉の外で恵美の足音がした。
「奥様、車の準備ができました」
真織はバッグを取り上げ、もう一度姿見の中の自分に視線を投げた。船に乗って港から出ていく時のような気持ちだった。ふくらむばかりの期待と胸をしめつけられるような不安、もう引き返せないという切羽詰まった気持ちが入り混じり、胸の中で揺れていた。
「今、行きます」
言いながら真織は扉に手をかけ、部屋の中を振り返った。壁際に、日に焼けていない一角があった。夫と一緒に幸せになれると思っていた真織の、幻想の跡。
この結婚生活こそが、夢のひと夜よりもさらにはかない、実体のないものだったのかもしれない。そう思いながら真織は背をむけ、部屋を出た。失う勇気を持とう。
廊下には、着物バッグとボストンバッグを下げた恵美が待っていた。真織の姿を見て、先に立つ。
「郡山の方は、雨模様だそうです。今日降ってしまって、桜は大丈夫なんでしょうか」
螺旋階段をおり、ホールを歩いて玄関に出ると、昨日選んでおいたマノロ・ブラニクの黒いハイヒールが尖《とが》った靴先を扉に向けていた。
「雨って、満開の時に必ず降りますでしょう。神様も意地悪ですよね。わざわざ東京から見に行くっていうのに」
真織は笑いながら靴に足を入れた。体をひねってシューズミラーを見る。角を取った細いヒールが艶やかな光を反射していた。
「メンバーが皆、桜になるのよ。花もびっくりして散るのをやめると思うわ」
玄関を出ると、横付けされていた車の脇で運転手が頭を下げた。恵美が手にしていた荷物を渡しながら、ふっと眉根を寄せる。
「そういえば、奥様。昨日からだんな様が、何度もお聞きになるんですよ。郡山なんて一時間半もあれば着くのに、どうして前の日から泊まりこむ必要があるんだって」
真織は立ちすくみそうになった。ハイヒールの踵がぐらっと揺れる。
「そういうことだって、ありますよねえ。今までオデパンの会なんて、無関心どころか避けるようになさっていらっしゃったでしょう。それなのに今回に限って、俺も行こうかなんておっしゃったり、ホテル名をお聞きになったり。いったいどういう風の吹きまわしなんでしょうかねえ」
振り返った恵美の前で、真織は、あわてて帽子の庇を引き下げた。
「さあ、どうなのかしら」
何かが、耳に入ったのに違いなかった。でなければ、そんな反応を示すはずがない。
「いちおう、今日のお泊まりのホテルとお部屋をお教えしておきました。奥様の方に、ご連絡があるかもしれませんね」
連絡だけなら何とでもなる。だが、本人が直接やってくることも考えられた。真織は、めまいがするような気がした。何とかしなければ。
夫に知られるのは構わなかった。覚悟の上である。問題なのは、もめごとになって沖田との時間が台無しになることだった。最後になるかもしれないこの夜を、有意義に過ごしたい。
「では、出発いたします。よろしいでしょうか」
真織がうなずくと、運転手は、いつも通り静かに車を発進させた。窓の外で恵美が頭を下げる。
「お気をつけていってらっしゃいませ」
真織は唇をかみしめた。誰にも知られないようにしてきたつもりだったのに、いったいどこから情報がもれたのだろう。
ホテルに前泊するのを知っているのは、母だけのはずだった。母と夫は犬猿の仲である。必要があっても口をきかないくらいだから、母が夫に話したとは考えられなかった。では、どこから。
母とも夫とも親しく、かつ沖田のことを知っていて、真織との間を裂こうとしている。そんな人間を、真織は、ただ一人しか知らなかった。憤慨の息をついて真織は、バッグの中から携帯電話をつかみ出した。
13
お待ちしておりました。あなたにしては、いささか時間がかかりましたね。
ま、そうお怒りにならないで。お互いの利害が対立していたわけですから、しかたのないことでしょう。
おや、ご主人が。やっぱり、そう動きましたか。いえ、こちらは遠隔操作をしているものですからね。なかなか思い通りにはいかなくて。あざといやり方になって失礼しました。
で、事態の収拾についてですが、ご主人を今日一日、足止めすることは可能ですよ。やりましょうか。ただし、あの男とは今後一切、会わないことが条件です。
え、クーデターの必要はないかもしれないって。それ、どの程度確実なわけ。そんな、あやふやな。それだけの根拠じゃ、危険を見過ごしにするわけにはいかないな。
お、罵詈雑言《ばりぞうごん》を。いいよ、好きなだけ言えば。気がすんだら選んでよ。今夜をご主人との修羅場にするか、それとも一人の清らかな夜にするか。
ほう、あきらめると。だからご主人をなんとかしてほしいと。えらく素直ですな。信じてもよろしいんでしょうね。まさかとは思いますが、私がご主人を足止めしている間に、こっそりあの男を引き入れる、なんてことはないんでしょうね。
いいでしょう。ご主人のほうは引き受けました。約束は、お守りくださいね。
14
「ねえ」
言って容子は、沖田の前に回りこんだ。
「やっぱり行かないで。最後の夜を一緒に過ごしたい」
両腕をつかんで揺さぶると、沖田は顔をそむけた。
「仕事に遅れるから、どいてくれ」
横顔は静かで、今までになく冷ややかだった。
「君の望みは叶えたつもりだ。今度は君が、約束を守ってほしい」
容子は、沖田をつかむ手に力をこめた。
「一緒にいて」
この数日の間に、何とかよりを戻すつもりだった。ところが取り付く島もなかった。朝、早くから仕事に出かけ、夜は遅く帰って来て、部屋に鍵をかける。腕によりをかけてきれいに装い、夕食を作って待っていても、誘惑する暇どころか話す時間さえなかった。
「そんなに私が嫌いなの」
涙ぐんで言うと、沖田は腕で容子の体を押しのけ、玄関に腰を下ろしてハイカットのスニーカーをはき始めた。これでもう終わりなのだと思うと容子はたまらない気がした。
「お願い、考え直して」
沖田は黙ってスニーカーの紐を締め、立ち上がった。容子に向き直りながら片方の肩にナップザックを担ぎ上げる。
「さよなら。元気で」
身をひるがえして出て行こうとする沖田に、容子は叫んだ。
「今夜、ロワイヤル・ホテルにいくんでしょう。サウス・ウイングの一号室でしょう。ちゃんと知ってるわよ」
沖田は振り返った。長い前髪の影を受けた二つの目が、底から強いきらめきを放った。
「あの女になんか、会わせない」
心の動きをよく映すこの目が好きだったと、容子は思った。さらさらとした癖のない髪も。
「絶対に会えないわ。なぜって一号室の前の部屋には、カメラが張りこんでいるのよ。あんたが部屋に入って行ったら、その写真があの女のダンナのところに届くわ。証拠写真よ。あの女は、もう終わり。あんたが彼女を破滅させることになるわね。それがわかっていて、あんた、あの女の所に行けるの」
沖田は一瞬、口を引き結んだ。唇が見えなくなるほど強くくいしばる癖も、好きだった。何もかもが好きなのだ。自分のものにならないのなら、いっそ滅茶苦茶にしてやる。
「行けないわよねえ。でも、もし今夜、私を抱いてくれたら、そうしたらあの女のダンナをうまく丸めこんであげる。あの女は、とりあえず首がつながるってわけよ。どう」
15
案内のベルボーイが立ち去ると、真織は、着物バッグのファスナーを開いた。着物を取り出して和装ハンガーにかけ、片手に持ったままクロゼットを開けてみる。裾が床に付きそうだった。真織はあちこち見回し、それを窓辺にぶら下げた。
ゆったりとした室内にはBGMが流れ、テーブルの上にアレンジメントの花かごと、焼き菓子が置かれている。レースのカーテンが引かれた大きなガラス戸の向こうは、和式の庭園だった。館内電話の柔らかなベルが鳴る。
「ルームサービスでございます。ウェルカムドリンクをお持ちいたしますが、ご希望がございますでしょうか」
真織は断わり、時計を見上げた。尾崎は、今頃、夫の足止めにかかっているだろう。だまされたことがわかったら怒り狂うだろうが、しかたがない。尾崎との関係を壊すことになったとしても、真織は今夜、沖田に会いたかった。
バスルームに通じる扉を開け、服を脱いでシャワーブースに入ると、真織は、体を流してバスローブを着た。冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを出す。
このホテルには、スイスの高級化粧品会社ラ・プレリーのエステティックサロンが入っていた。軽い疲れを取るには最適だったが、いつ沖田が来るかもしれないという時に、エステのリクライニングチェアに横になる気にはなれなかった。
真織は、また時計を見上げる。沖田は、できるだけ早く来ると言っていた。彼がやって来たら、そして一緒になれたら。それ以降は黄金のように貴重な時間だった。携帯電話は、まだ鳴らない。
真織はバッグの中から電話を出し、テーブルに置くと、その前のソファに腰を下ろした。じっと見つめていると、今にも鳴り出しそうな気がした。
まだ仕事中なのだろうか。メールでも送ってみようか。いや、邪魔をしないほうが早く終わるかもしれない。
あれこれと考えながら携帯電話を開いたり閉じたりしていると、部屋の電話が鳴り始めた。真織はナイトテーブルに歩み寄り、ベッドに腰を下ろして受話器を取り上げた。
「高宮様、沖田様からお電話でございます」
真織はテーブルを振り返った。開いたままだった携帯電話のディスプレイで、静かに明かりが消えていくところだった。
どうしてホテルの電話なのだろう。電波の悪い所にでもいるのだろうか。そうは思ったが、とにかくかかってきたことでほっとした。もう待たなくてもいい。
「つないでください」
真織は脚を組み、バスローブの裾の乱れをなおした。どこからかけているのだろう。ひょっとして、もうホテルに入ったのかもしれない。建物内では、場所によって電波が届かない所もあるはずだった。
たとえば同じフロアのエレベーターホールにいて、あるいは部屋の前の廊下にいて、電話が終わった直後にドアをノックする。まだ少年っぽさを残した沖田のやりそうなことだった。
真織は微笑んだ。そんなまねをしたら、何と言ってからかってやろうか。和らいだ心に、声がすべりこむ。
「おあいにく。戒じゃなくて容子さんよ」
真織は胸が縮み上がるような気がした。息を飲み下し、震えを抑える。
「戒は、来やしないわよ」
なぜ容子がここを知っているのか。沖田はどうしたのか。疑問が頭の中をかけめぐり、掌から汗が吹き出した。
「日本での最後の夜は、あたしと過ごすことになったの」
電話の向こうで、容子は笑い声をたてた。
「あんたじゃなくて、あたしを抱きたくなったんですって。お気の毒さま。戒にとってあんたはやっぱり、金があるだけの年上女に過ぎなかったのよねえ。まあ、わざわざホテルまで取っちゃって、可哀想。一人寝の今夜は、さぞ長い夜になるでしょうねえ。もっとも、他人の家庭を壊して亭主を盗ろうとしたんだから、そのくらいの犠牲は当たり前かもね」
もってまわった言い方と、鼻にかかった笑い声が我慢できないほど癇にさわった。真織は、桜色の爪を手の中に入れ、握りしめた。
「そう」
沖田は、会いたいと言った。どうしても会いたいと言ったのだ。
「じゃ、本人の口から聞くことにするわ」
きっと来る。夢は現実にできる。今夜、彼と恋をする。
「わざわざお電話をありがとう」
真織は、叩きつけるように受話器を置いた。
沖田は、来ないのだろうか。夢は、夢のままなのか。何を失ってもほしかったものは、手に入らないのか。テーブルの上で携帯電話は、ひっそりとしていた。
今に鳴る。真織は立ち上がり、テーブルに寄って携帯電話を見下ろした。彼は来る。きっと来る。そう信じる。今夜、ここで恋のひと夜を過ごすのだ。
携帯電話は静まり返っていた。いくら見つめていても、鳴る気配もない。連絡してみようか。
真織は、携帯電話を取り上げ、開いてボタンを押しかけた。だが、もし容子の言った通り彼に来る気がないのだとしたら。
真織は唇をかみしめ、電話機を置いた。催促してまで来させても、しかたがない。
ほしいのは愛情であり、情熱だった。自分を求めてくれる心、彼の胸に彼自身が燃やす火。それがほしかった。焚《た》き付け、あおりたててみても意味がない。
真織は片付けを終え、携帯電話を振り返った。沈黙している。雨が降り始めていた。
十二時になって、真織はカーテンを閉め、部屋の明かりを消した。携帯電話をバイブレーターにし、枕元に置く。約束の土曜日は終わった。もう日曜になってしまった。まだ仕事をしているのか。それとも容子と一緒にいるのか。
朝まで、どのくらいの時間があるのだろう。めまいがするほど長い夜だった。だが、あきらめがたいものをあきらめるには、ちょうどいいかもしれない。
強くなった雨足がガラス戸を叩くのを聞きながら、真織は眠りかけた。ひと際激しくガラス戸が揺れ、目が覚める。携帯電話を開けてみると、待ち受け画面の時刻表示は、二時を過ぎていた。
真織は起き上がり、携帯電話を膝のうえに置いた。闇の中で大きな息をつく。これが現実だ。夢は夢なのだ。ほしかったものは手に入らない。どうやって生きていこう。
膝の上で電話が震える。見下ろせば、ディスプレイに沖田の名前が灯っていた。つい先ほどまで待ち焦がれていたその文字を、真織は、しばらく見つめていた。
約束を破ったことを謝りたいのだろう。出なくてもいい。そんな言葉を聞いても仕方がない。そう思いながら真織は電話機を開き、耳に当てた。なお、聞こうとしている自分が不思議だった。いったい何を聞きたいのだろう。謝罪の言葉しか聞こえてこないことは、わかっているのに。
「すみませんでした」
真織は、小さく笑った。泣くだけの力が出てこなかった。
「いいのよ。おやすみなさい」
瞬間、庭に面したガラス戸が大きく二度揺れた。
「ここを開けてください」
真織は飛び起きた。
「ここにいます」
立ち上がって枕元のカーテンの開閉ボタンを押す。両手を使って、レースまで一気に開いた。
雨が滝のように流れ落ちるガラス戸の向こうに、沖田が立っていた。ずぶぬれで顔まで泥にまみれている。真織はあわてて鍵をあけ、戸を開いた。突風が吹きこむ。
「戦場よりハードだ」
沖田は部屋に踏みこみ、両手で雫のしたたる髪をかき上げながら真っ直ぐにドアまで歩いた。
「ストロボの音とか、聞こえませんでしたか」
のぞき穴から廊下の様子を見回す。
「いいえ。どうしたの」
ガラス戸を閉めて真織が振り返ると、沖田はようやく表情を和らげた。大きく肩を上下させながら、汚れた顔に笑みを浮かべる。
「何でもありません。暗くなるのを待っていたら、雨が降ってきて。一階だから窓の方から回ろうとしたら、三メートルほどの塀を二つ越えなくちゃならなくて、警備員に見つかって追われて、逃げたらころんで、それから迷って、こんな時間になった」
真織は笑い出した。
「馬鹿ね。なぜドアから来ないの」
言いながら涙がこぼれそうになり、あわててうつむいた。
「ちょっと力試しをしたくて」
声と共に冷たい手が伸び、二つの掌が真織の頬をおおった。真織が顔を上げると、そこにあの眼差があった。
「遅れて、ごめん」
真織は、どうしても自分のものにしたかったその目を見つめた。
「これから遅れを取り戻してくれれば、許すわ」
沖田の唇を感じながら、真織は腕を回して濡れた体を抱きしめた。冷たい肌の奥から、強い鼓動が聞こえた。
「言いたいことがあったんだ。これまで言えなくて」
沖田は真織の耳に口付けながらささやいた。
「連れて行きたい」
言葉は、水のように真織の胸の底まで流れ落ちた。真織は目を見開いた。アフガンに行く。それこそ沖田の重みを共有することだった。
「一緒に行こう」
16
「昨日、こちらにまいりましたの」
御堂寺恭子が、着物の裾をさばきながら真織の先に立った。
「一時は、雨がひどくて心配しました。桜の樹にレインコートでもかけたい気分でしたわ。でも先ほど、まるで嘘のように上がって桜日和とでもいいたいようなお天気になりましたの。本当によかったですわ」
井上丈太郎の指揮下で設営された廊下は、檜《ひのき》の匂いがした。
「先ほどお着物をお預かりしたところの奥が更衣室になります。右が男性、左が女性です。着替えたら、ここを通って」
廊下の左右に下がった紅白の幔幕《まんまく》を通し、雨あがりの明るい光が射しこんで床にぼんやりとした楕円模様を描いていた。
「この先を曲がり、円形の花道に出ます。こちらですわ」
幔幕のトンネルをくぐり抜けると、目の前に、節くれた枝を四方八方に伸ばす大木があった。いちめんに花をつけ、まるで薔薇色の霧でもまとっているかのように見える。その幹を一周するように幅三メートルほどの回廊が作られ、外側にはメンバーの座る椅子が並べられていた。
「不思議ですわね。樹齢千年の老女なのに、花は、少女みたいにみずみずしくて可憐ですわ」
うなずいて真織は、沖田との夜を思った。一瞬一瞬が、この上もなく新鮮で甘やかだった。
「いくつになっても、女なら、心は少女なのかもしれないわね」
胸に、沖田のあの目があった。真織は、それをいとおしく思ったが、どんなことをしてもそれが自分のものにならないことを、今は知っていた。
初めての夜に沖田を得たと思ったように、昨夜も、そう思った。今度こそ本当の恋をするつもりだった。
恋はできた。夜の中で抱き合い、話し、また抱き合い、話し、ふざけあって、また抱き合った。沖田の愛情と自分の想いを、今度こそしっかりと結びつけた。だが、沖田の重みを共有することはできなかった。
それは沖田だけのものだった。沖田の中に焼きついた重み。それゆえに彼は、それを抱えてアフガンに戻って行くのだ。それを持たないゆえに、真織はアフガンに行けなかった。
他人の重みで自分の人生を染めることはできない。自分が根付くためには、自分の重みを持たなければならないのだ。自分自身に重みがなければ、それが見つかるまで軽く生きるしかない。
軽薄さの中で生きる。それも自分らしい生き方かもしれなかった。時がたてば、軽さも軽みになっていくだろう。
「マオさんのお着物は、どちらで」
恭子と一緒に花道を一周し、更衣室の方に引き返していくと、集まり始めたメンバーたちのざわめきが伝わってきた。
「日本橋の呉服屋で京友禅をあつらえて、今日の趣向に合わせて刺繍を入れました。何しろ時間がなかったので急ごしらえになりましたけれど」
真織の答に、恭子は、ため息まじりに同意した。
「ええ、それが今回のハードルでしたわ。私も着物ですけれど、借り着ですのよ。でも、ちょっと工夫しましたけれど」
工夫とは何だろう。普段から着物を着ている恭子がわざわざ借りたとなれば、相当におもしろいものにちがいなかった。
「楽しみだわ。じゃ、着替えましょうか」
幔幕の廊下を過ぎ、更衣室の前まで来ると、玄関の扉が立て続けに開き、衣装を手にしたメンバーが次々と姿を見せた。男性更衣室から美馬が飛び出してくる。
「マオ、尾崎さんを止めてくれ」
美馬は、オールドローズ色のローシルクのスリーピースに灰桜のシャツを合わせ、退紅のネクタイをしめていた。よく似合う。
「あら、素敵じゃない」
真織が言うと、美馬は、それどころではないといったように眉根を寄せた。
「あの人が何を着るって言っていると思う」
真織は、恭子と顔を見合わせた。美馬は片手で両眼をおおう。
「ベビーピンクの褌《ふんどし》だって。最悪だ」
恭子が笑い出した。
「よろしいのじゃない。尾崎君の体は魅力的よ」
美馬が声を大きくした。
「問題は、ベビーピンクと褌の組み合わせだ。ただの悪趣味だろ。誰も見たくないと思うよ。その上に着る羽織袴も持ってきてるのに、どうしても脱ぐって言い張るんだ。昨日、あまりにも自分の思い通りに事が運んだものだから、調子に乗っちゃってさ。止まらないんだ」
真織は、尾崎に約束したことを思い出した。
「多少、怒らせてもいいのなら、やってみるけれど」
真織の申し出に、美馬は深くうなずいた。
「もう、どうとでもしていいよ。どうなっても今よりはましだ」
真織は、男性更衣室に指定された居間のドアを開けた。左右の壁に沿ってロッカーが並べられ、衝立で区切られた着替えスペースが設けられている。衣装を点検しているメンバーたちの真ん中で、尾崎が絹の長い布にアイロンを当てていた。確かにベビーピンクである。
「やあ、マオ。どうだい、これ」
得意げな笑顔の前まで進んで立ち止まり、真織は、着ていたアルマーニのブラウスの胸ボタンを二つはずした。右手で襟を引っ張って、鎖骨の下を露《あらわ》にする。
「昨日の夜、ちょっとした内出血を作ってしまったのよ。どうやって隠せばいいかしら」
尾崎は目を見張った。
「その形って」
後は、言葉にならない。真織は素早く更衣室を出た。扉の向こうで尾崎の憤懣《ふんまん》が爆発する。
「マオ、裏切ったな」
真織は笑いながら、あぜんとしている美馬を見た。
「怒りがさめたら、落ちこむと思うわ。ケアをお願い」
言い置いて、恭子を誘って女性更衣室に入る。
「マオさん、いかが。これ」
ロッカーの前で衣装を胸に当てていた東城美奈子が、もう一方の手の先に桜色のサテンの靴を引っかけながら振り返った。
「賞品は、もらったわ」
ローズピンクのウェディングドレスだった。全面にビーズで作った桜の花びらを散らしてある。絞ったウエストから長いトーンを引き、裾周りは五、六メートル以上もありそうなほど広がっていた。誰も近寄れそうもない。
「素敵ね」
いつもどこかに隙を作るのが美奈子のファッションだったが、今回は寸分の隙もない。相当、肩に力が入ったようだった。
「問題は、あの花道が通れるかどうか、だけかしら」
美奈子が青ざめる。
「そこまで考えてなかったわ」
真織の脇で尾佐久華がアイロン台の前に座りこみ、薄紅色のチャイナドレスを広げた。桜の花をかたどった金糸の刺繍がきらびやかな光を放っている。
「香港でお作りになったの」
真織が聞くと、華はアイロンの温度を下げながらうなずいた。両耳の上で団子のようにまとめた髪型が、なかなか愛らしかった。
「本店は上海なんですけれど、祖母がいつも作っているお店で無理を聞いてくれるので」
恭子が、ひと抱えもあるような大きな衣装ケースを持ち出してきて、真織の前に置いた。
「借りるのに、三人もの方にお世話になりましたわ」
言いながら蓋を開け、重そうに衣装を持ち上げる。華が感嘆の声をもらした。
「まあ、なんて素敵なのでしょう」
浅葱《あさぎ》色の布地に白のしだれ桜を染めつけ、銀の桜を縫い取った打掛けだった。
「『京鹿子娘道成寺《きようかのこむすめどうじようじ》』で花子が着る浅葱地枝垂桜文様《あさぎじしだれざくらもんよう》です。どうせ借りるなら派手にしようと思いまして、梨園のかたにお願いしましたの」
各自、工夫を凝らしたらしかった。ドアをノックする音がし、今回の幹事の一人が姿を見せる。
「あと三十分でパーティを始めます。支度のできた方から会場にお入りください」
真織は、急いで着付けにかかった。髪をまとめて結い上げ、鼈甲《べつこう》の櫛で止める。時計とアクセサリーをはずし、下着まで全部を脱いでから、足袋をはき、綸子《りんず》の長襦袢に袖を通した。腰紐の端を口にくわえ、体に巻きつけながらメンバーを振り返る。
「誰か、帯を手伝ってくださる」
薔薇色のマーメイドラインのワンピースを着ていた久保田藍子が、桜の生花を盛り付けた大きな帽子を脱ぎ、歩み寄ってきた。真織の西陣帯を取り上げ、扱《しご》いて帯板をはさむ。耳の下で、ヴァンクリーフ・アンド・アーペルの桜のイヤリングが揺れていた。
「どう結びます」
真織は、タオルでウエストのくびれを埋め、伊達締めを巻いた。普通のお太鼓ではおもしろくない。奇抜さをねらうなら「だらりの帯」だが、品格に欠ける。
「福良雀《ふくらすずめ》か、それとも二枚扇。どちらがよろしいかしら」
藍子は帯柄に目を通し、あちらを折り、こちらの向きを変え、矯《た》めつ眇《すが》めつ眺めてから答えた。
「柄的には、どちらも大丈夫です。でもマオさんは、背筋からヒップの線がおきれいだから、それを引き立てたほうがよろしいのでは」
着物というのは、意外にヒップの目立つ衣服である。そのラインをしっかり見せるとなったら、文庫が一番だった。
「じゃ、変わり文庫に」
藍子と二人がかりで帯を仕上げ、次に恭子の着付けを手伝う。二重太鼓で格調を出した。
「さあ、これで皆様、よろしいわね。まいりましょう。どなたかお二人ほど、美奈子さんに手を貸して差し上げて。服の裾をお持ちしないと」
着替えスペースの中で身動きの取れなくなっていた美奈子は、真織に向かって音のしそうなウインクを投げた。
「私が優勝したら、賞品はマオさんと山分けでいいわ」
笑いながら更衣室を出て、玄関から庭に向かう。手入れの行き届いた芝生を踏み、中庭に通じる錬鉄の門まで来ると、どこかからのどかなチャイムが流れてきた。
「まあ、メリーさんの羊だわ。歌いましょうか。何語になさる」
言いながら真織は、隣を歩いていた華の腕時計をのぞきこんだ。ピアジェのダンサーが十二時を指している。胸に沖田の言葉が甦った。
『どうしても来てくれないんですか。なぜ』
『じゃあなたは、私が行かないでと言ったら、やめてくれるの』
真織は、浅葱色の空を仰いだ。沖田の乗ったジェットの音が聞こえたような気がした。
「さようなら」
女性たちを引き連れて会場に入ると、男性メンバーの多くは席についていた。誰が決めたのか、同性が隣同士にならないよう一席ずつ空けて座っている。こういう気の利いたことをするのは、美馬か加藤純だろう。
「お、女性陣のご登場だ」
「いいなあ。やっぱりぐっと華やかになるよね」
井上が、心配そうに花道の周りを回りながらなお幹事に指示を出していた。自分の着替えまで手が回らないらしい。
「もう、よろしいんじゃない。着替えていらっしゃれば。功労者のあなたが席につかなくては始まらないわ」
真織に言われて、井上ははにかんだ笑みを浮かべた。手にしていたペンチをジーンズの後ろポケットに入れ、別荘に向かう。
「幹事の方々も、どうぞお着替えになって」
矢部達子や真柴良、朝倉正臣が引き返していくのを見送って、真織はメンバーを見回した。男性たちは、桜に近い色のスーツやスリーピース、ジャケットが多かった。
伊達圭介と徳川彰は、申し合わせたらしくロングレングス・コートを引っ掛けている。伊達は、大島桜系の鬱金《うこん》の白に近い緑色、徳川は彼岸桜のマゼンタで、共に彼ららしいフレンチアイビーだった。
伊崎健児は、目のさめるような躑躅《つつじ》色のペーズリー模様の入ったシルクブルゾンを着ていた。原色にちかい配色が、体育会系といわれる彼に似つかわしかった。本多拓也は、石竹色のレザージャケットである。
「全員、そろいました」
進行兼アナウンス役担当の水守和彦は、光沢のあるベルベッティーンの撫子《なでしこ》色のスタンドカラージャケットに、同色のタフタのパンツを合わせていた。フォーマルといってもよいほどきちんとしている。
安国浩一郎は、牡丹色のベゾッソ・ウォモのスーツだったが、襟元に七宝の桜のブローチをつけていて、アクセサリーをほとんど使わない男性陣内でひときわ目立っていた。
「じゃ、始めましょうか」
そう言ってから真織は、尾崎がいないことに気づいた。
「尾崎君は」
水守が肩をすくめる。
「なんでも皆に発表したいことがあるそうで、始まったら最初に舞台に呼び出してくれって言ってました。いいですか、始めても」
真織がうなずくと、水守は、マイクを片手に立ち上がった。
「では、オデパン桜の会をスタートします。最初に、尾崎君からメンバーに提案があるそうです。尾崎君、どうぞ」
皆の視線が花道に集まる。真織のそばで美馬が目をつぶった。
「おとなしく着物を着て出て来てくれますように」
期待をこめて見つめる一同の前に、紅白の幕の中から尾崎が姿を現す。ベビーピンクの紋付羽織袴だった。真織の隣で、ほっとしたような吐息がもれた。
「諸君、ショウに先立って、不肖尾崎がオデパン最大の楽しみの提案をする。よく聞いてくれ」
言いながら尾崎は、両腕を大きく開いた。ベビーピンクの袖が空中に広がり、尾崎の大きな体を華やかに彩った。
「我がグループの次期代表については、諸君もいろいろと話を聞いていることと思う。僕の提案は、オデパンの力で今の第一候補を引きずりおろし、もっと適任を探し出して押し立てるというものだ」
会場が一瞬、静まり返った。
「俺たちは皆、超えることのできない偉い親の下に生まれ、親の作った世界に住んできた。もう一生このままだと覚悟してきたメンバーもいることだろう。だが今、それが変わる。俺たちは、ここで革命を起こすんだ。親の世界を壊し、自分たちの新しい世界を作り上げる。俺たちは親を超えていくんだ。これ以上の、お楽しみがあるか。ないはずだ」
あおるように言い切って、尾崎は、真織に手を差し伸べた。
「この計画に基づき、女王様は、我らの企業グループに就職されることとなった」
驚きの声が上がった。メンバーの目が、いっせいに真織に向けられる。
「さあ、女王様の着任挨拶だ。拍手を」
爆発するかのような拍手が起こった。真織は尾崎をにらみつけた。思い通りに事を運んでいくやり方がいささかしゃくにさわったが、見回せばメンバーのどの目も、大きな喜びを露《あらわ》にしていた。
確かに魅力的な提案だった。真織自身も抵抗できなかったのだから、メンバーが熱狂するのも無理はない。真織は立ち上がり、皮肉をこめて答えた。
「ばかな提案者を見捨てられないので、いちおう同意しました。今後、仕事の場でお会いするかもしれませんが、どうぞよろしく」
歓声を上げてメンバーは立ち上がった。男性たちが拳を握り締める。
「僕らは、いつも最高だ。最高だったら最高だ」
地面を踏みしめ、大声を張り上げて繰り返す彼らの真ん中で、尾崎が片目をつぶった。ゆっくりと唇を動かす。
「やっぱり愛してるよ」
そう読めた。真織は微笑んで返事をした。
「寝ぼけないで」
隣で恭子があたりを見回す。
「風が出てきましたわね」
空には薄い雲が広がり、桜は、うずくように枝を揺らせていた。花びらがあたりに舞い始めている。
「まあ、花吹雪が」
男性メンバーの合唱は、ますます大きく響き渡る。楽しい午後になりそうだった。真織も、そっとつぶやいてみる。
「最高だったら最高だ」
人生を変えていくことが、できるかもしれなかった。
単行本 『オデパン』 二〇〇四年十月 文藝春秋刊
*文庫化にあたり改題しました。
〈底 本〉文春文庫 平成十九年十月十日刊