魔法使いと弟子
藤島佑
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)敷物《しきもの》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)全力|疾走《しっそう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]END
-------------------------------------------------------
新人競作 テーマ 魔法使い Part 3
――なにせ私は、嫌われ者らしいからな
――自分で言ってちゃ世話ないでしょう……
[#ここから1字下げ]
意地悪でひねくれものの魔法使い。
そんな魔法使いに弟子入りした
少年の苦労は絶えない。
さて今回、少年が出会った災難とは……?
[#ここで字下げ終わり]
魔法使いと弟子
[#地から1字上げ]著/藤島佑《ふじしまたすく》
[#地から1字上げ]イラスト/|走 麻下《はしりました》
[#改ページ]
その日は夏祭りの初日だった。町の広場には、地面に敷物《しきもの》を広げて野菜を売る老婆《ろうば》、屋台で子供相手に飴《あめ》を売る男、芸をする道化師《どうけし》など、得意の品や芸を持ち寄り、露店《ろてん》を開いた人たちの声が響《ひび》いている。
賑《にぎ》やかな通りには、いつもより安く売られる品物を目当てに郊外《こうがい》から集まった客も多く、魔法使《まほうつか》いの弟子であるエドも、その中の一人だった。
エドは髪《かみ》も目も真っ黒で、容姿に目立つところはないが、ござっぱりとした印象の良い少年だ。
日焼けした健康的な肌《はだ》に、洗いざらしの綿《めん》の上着とズボンを身につけている。生成《きなり》色の服の裾《すそ》には魔法使いの弟子らしく、ふつうの人には複雑な文様《もんよう》にしか見えないが、それ自体が力を持つ魔法の言葉≠ェ若草の汁《しる》で描《えが》かれている。
エドがこの町へ来たのは、はじめてではない。顔なじみの人もいる。だが、今日はエドが通りかかっても、誰《だれ》も声をかけず、そっぽを向いていて――
「おかしい……」
エドはお金の代わりに使う自家製の野菜が入った籠《かご》を背負い直し、広場を見渡《みわた》した。通行人の若い娘《むすめ》と目が合ったが、彼女にも視線をそらされた。
あきらかに様子が変だ。
「俺《おれ》、なんかしたっけ?」
こめかみに指を当てて考える。
「俺の身近で、こんな風に差別されてる人が、一人だけいるけど……」
まさかと思い足元を見ると、エドの影《かげ》にもう一つ別の人影が重なっていた。
振《ふ》り返ると、エドが予想したとおり、二〇代半ばの青年が立っていた。
陽射《ひざ》しの影より暗いが、闇《やみ》よりは明るい紫紺《しこん》の布地に、水晶を散りばめた長衣姿の魔法使い。長い銀の髪を被《おお》うターバンにも水晶が輝《かがや》いている。
全身が夜色の青年は、エドの魔法の先生のハーヴィスだった。
「先生、どうしてここにいるんですか?」
丘《おか》の家で本を読んでいたはずなのに。いつから尾《つ》けられていたのだろうと、見上げた藍色《あいいろ》の瞳《ひとみ》は冷たい。
返事は、「ふん」と、鼻息一つで、ハーヴィスはエドの頭を樫《かし》の杖《つえ》で叩《たた》き、通り過ぎた。
「私が一緒《いっしょ》の方が物が安く手に入って良いだろう? なにせ私は嫌《きら》われ者らしいからな。はっはっは!」
「……自分で言ってりゃ世話ないって」
何がおかしいのか高笑うハーヴィスに、聞こえないようエドはぼやいた。
無愛想《ぶあいそ》、無礼、無遠慮《ぶえんりょ》と、ハーヴィスには、人間関係において大切な事が三つも欠けている。人付き合いの悪い魔法使いの、町での評判は悪かった。
そのハーヴィスが、ドラゴン退治にかこつけて、近隣《きんりん》の山を砂塵《さじん》に変えたのは少し前のことだ。それ以来、偏屈《へんくつ》な魔法使いは、危険人物として行動を注視《ちゅうし》、敬遠《けいえん》されているのだが――
「あれは仕方のないことだったんだ」
エドは今でもそう思っている。
毒の息を吐《は》くドラゴンを町へ近づけないために、あそこで決着をつけるのは必要なことだった。説明すればきっとわかってもらえるのに、ハーヴィスは自分が怖《こわ》がられていることをおもしろがって、誤解を解《と》こうとしない。
「根性がひん曲がってんだよなあ」
好《この》んで悪役になりたがるのは、ハーヴィスくらいだろう。ため息をつくエドを残して、ハーヴィスは涼《すず》しい顔で通りの先を歩いていく。
エドは先生が自分から離《はな》れているうちに買い物を済ませてしまおうと、肉屋の出店に走り寄った。
噂《うわさ》のハーヴィス≠フ出現に頬《ほお》を強《こわ》ばらせていた店番の青年は、エドが笑顔《えがお》を見せると表情をやわらげた。
エドは何度かこの店で買い物をしたことがあって、青年とも顔見知りだった。
「こんにちは。鳥肉ある? できれば鶏《にわとり》がいいんだけど」
木のテーブルに並んだ品を見回す。
「鳩《はと》でよければありますよ」
青年が鳥の形をした肉の固まりを持ち上げた。脂《あぶら》も乗っているし、わりと大きい。エドは目を食欲で光らせ、身を乗り出す。
「人参《にんじん》二本とキュウリ三本、キャベツもつけるよ。どう? 交換《こうかん》してくれない?」
「そうですねえ――」
青年が迷う顔をしたので、エドはとっておきの山イモ二本も足した。
エドは弓にも魔法にも自信がないので、自力での肉や魚の捕獲《ほかく》は難しい。けれども、捕《と》れないからといって食べなければ、一五歳の育ち盛りのお腹《なか》は満足しないのだ。
「お願い!」
エドが拝《おが》むように手を合わせると、
「これが、頭を下げてまで欲しがるような品か?」
だしぬけに肩先《かたさき》から声がし、手が伸《の》びてきた。ハーヴィスの声だ。
「しなびてるではないか、この辺が」
ハーヴィスは指で鳩の腹をさす。
「そ、それは、この陽気ですから……」
天日《てんぴ》で少し乾《かわ》いてしまったと、青年が言い訳をした。ハーヴィスは胡散臭《うさんくさ》そうに目をすがめる。
おびえた青年が鳩を引っこめようとしたので、エドは焦《あせ》った。
「先生! 邪魔《じゃま》しないでください!」
後々《のちのち》の嫌味《いやみ》もおそれず、ハーヴィスを後ろに押《お》しやる。もう七日も、たんぱく質といえば豆ばかりで、エドは肉が食べたくてたまらなかった。
真剣《しんけん》なエドに、ハーヴィスは眉根《まゆね》を寄せる。
「肉はこれすてろおる≠ェたまって、体に良くないのだぞ」
「それでも食《く》いたいんです!」
「……やれやれ」
呆《あき》れたように首を振り、ハーヴィスはエドの手をつかんだ。小さくて光るものをその手に握《にぎ》らせる。
驚いたエドが手のひらを開くと、中に一枚の銀貨があった。
「へそくり?」
どこに隠《かく》していたのだろう。
銀貨は銅貨十枚分で、屋台の品を半分くらい買い占《し》められる価値があるのだが……これを使って買っても良いということなのだろうか。
「………」
少し迷ったが、エドは銀貨をズボンのポケットに仕舞《しま》い、わずかばかりの豆を足して鳩と交換してもらった。青年は豚《ぶた》の肩ロースで作ったハムをおまけしてくれた。
「――先生、ありがとうございました」
紙包みを籠《かご》に入れて、エドはハーヴイスに礼を言った。ハーヴィスは頷《うなず》きもせずに歩きだす。
エドは不思議な気持ちだった。ふだんは何かにつけて杖で小突《こづ》くのに、時々とても親切だ。弟子が不憫《ふびん》に思えたのだろうか?
自分で選んだ先生ながら、夜色の魔法使いはよくわからない人だった。
☆
背中の鳩とハムに上機嫌なエドが、ハーヴィスと町の出口へ向かって歩いていると、背後から大声で呼び止められた。
「ま、待てぇ! インチキ、ま、魔法使い!」
あからさまな敵意と喧嘩《けんか》文句を引っさげて、シルクハットを被《かぶ》った小柄《こがら》な男が駆《か》けてくる。男は振り向いたエドを追い抜《ぬ》き、ハーヴィスの前に回りこんで止まった。
黒い礼服の前ボタンがはち切れそうなほど太った小男は、この町の町長のトマスだった。
誰にでも嫌味《いやみ》を言うことで有名なトマスは、所有財産の山をハーヴィスの魔法で塵《ちり》にされてから、特に彼を目の敵《かたき》にしている。
ハーヴィスの姿を見つけると、必ずこうやって意地悪を言いに走ってくるのだが、四〇がらみの肥満体で全力|疾走《しっそう》は相当きついようだ。息が荒《あら》く、顔も赤い。
「こ、の、イカサマ、魔法使い、め。また、テーブルゲームで、詐欺《さぎ》でも、はたらきに、きたの、か?」
苦しそうだが言葉は聞き取れた。ハーヴィスの頬が動く。
エドは眉をひそめた。
「……また?」
嫌《いや》なことを聞いてしまった。エドはポケットの中の銀貨を意識する。疑惑《ぎわく》の視線に気づいたハーヴィスが、エドの額《ひたい》を杖で打った。
「私が、そんな小さなことをすると思っているのか?」
「そ、そうですよね。しませんよねえ」
額をさすり、エドは言ったが、「じゃあ、大きなことならするのか」と、問題は残った。
トマスは息が整うにつれ、饒舌《じょうぜつ》になる。
「町に家も買えない貧乏人が何しに来た? どうせ物など買えないだろう? 人々を恐怖《きょうふ》させる力はあっても、金はないものなあ」
意地悪く笑うトマスに、ハーヴィスの眼差《まなざ》しがみるみる険《けわ》しくなる。
ハーヴィスには嫌いな物がたくさんあるが、その中でも一、二位を争うのが、わがままで泣く子供と、傲慢《ごうまん》な物言いをする金持ちなのだ。
ハーヴィスは目を細めてトマスの手を見つめた。トマスの肥《こ》えた五本の指には、いろんな色の宝石の指輪がはめられている。喋《しゃべ》りながら、それを見せびらかすように指を動かすのが、また嫌味なのだが……。
「豚にアクセサリー」
的確な一言で、ハーヴィスはトマスを黙《だま》らせた。
エドは、思わず吹《ふ》き出しそうになるのを堪《こら》えるのが大変だった。
トマスがゆで豚のように真《ま》っ赤《か》になり、口をぱくぱくさせる。その、おもしろいように顔色を変えた彼を、ハーヴィスが一瞥《いちべつ》しただけで通り過ぎたので、エドは目を丸くした。
悪口を言われた先生が、三倍返し以下の口撃《こうげき》で黙るなんて、おかしい。
裏に何かありそうで、巻きぞえを食う前にその場から離れようとしたが、先にハーヴィスに襟首《えりくび》をつかまえられて、引っ張られた。肩越しにぶっきらぼうな声が投げかけられる。
「会合に出席してくる」
唐突《とうとつ》な話に、エドは面食らった。
「え? 全国魔法使い会議≠ノですか? でも、昨日は面倒《めんどう》臭いから欠席するって……」
「気が変わった。おまえは予定通りの日課をこなしておけ。さぼるなよ」
エドに口を挟《はさ》ませず、ハーヴィスは長衣の裾を大きくひるがえす。土埃《つちぼこり》が舞《ま》い、エドが瞬《まばた》きした間に、もう姿を消していた。
☆
夜になった。夕食のシチューもおいしくできたのに、ハーヴィスはまだ帰ってこない。
エドは、魔法使いの会合がどんなものか詳《くわ》しくは知らないのだが、ハーヴィスの帰宅が遅いというだけで不安になる。
「またどこかで、何か壊《こわ》してなければいいけど」
ハーヴィスは短気で、頭に血が上《のぼ》ると、目的達成のためには何をどうするか予測がつかないので怖い。おまけに、今日は機嫌《きげん》が悪いようだったので、よけいに気にかかる。
火にかけた薬壺《くすりつぼ》の中を、大きな木べらでかき混ぜながら、エドは長く息を吐き、
「……そろそろ、いいかな」
一〇数えてから壺の中をのぞいた。
とろりとした液体は蜂蜜《はちみつ》に似ているが、火を点《つ》ければ火薬となり、物に塗布《とふ》すれば擬態《ぎたい》効果の得られる魔法の薬だ。
仕上げに水銀を入れると急に油臭く、火薬らしくなった。
灰を被せて竈《かまど》の火を消したエドは、小さな匙《さじ》に薬をすくい取った。金貨に見せられるかもと、ちょっぴり打算《ださん》を抱《いだ》きつつ、昼間にハーヴィスから貰《もら》った銀貨に塗《ぬ》ってみる。
だけど、金貨にはならなかった。
「そういえば、呪文《じゅもん》があったな――」
魔法薬全科≠フページをめくった時だ。
「わぅ」と、弱々しい動物の声が聞こえた。振り返ると、いつ戻ってきたのか、ハーヴィスが寝《ね》ぼけ眼《まなこ》の子犬を抱いて戸口に立っていた。
少し大きな三角耳が特徴《とくちょう》の、白地に黒色模様のある子犬だ。ふかふかの毛の喉元《のどもと》で真新しい銀の首輪が光っている。
「おかえりなさい……それは?」
「犬だ」
身もふたもない。
「俺にも抱かせてくださいよ」
エドが手を伸ばすと、ハーヴィスは子犬を袖の下に隠した。
「触《さわ》りたいか? 本当に触りたいんだな?」
しつこく問い返すハーヴィスは、唇《くちびる》の片端《かたはし》を上げて笑っていた。不吉なものを感じたエドは手を引っこめた。
「……まさか、食用じゃないですよね?」
とんでもない薬の材料とか、よからぬ儀式の生贄《いけにえ》に使う気なのかも知れない。
「命を粗末《そまつ》に扱《あつか》うと、天から罰《ばつ》が下りますよ」
真顔で忠告したエドの眉間《みけん》に、ハーヴィスは思いきり杖を突き入れた。
「いつから私は邪教徒になったんだ?」
「痛っ。違うんですか?」
「失敬な」
ハーヴィスは憮然《ぶぜん》として続き間へと行き、窓辺に置かれた籐《とう》の揺《ゆ》り椅子《いす》に腰《こし》を下ろした。
膝に乗せた子犬の背を優《やさ》しくなでる。
「捨てると言うから貰《もら》ったのだ。私が譲《ゆず》り受けなければ、この憐《あわ》れな命は人跡未踏《じんせきみとう》の樹海に放り出されるところだったんだぞ」
「それはかわいそうに。じゃあ、先生は良いことをしたんですね! 素晴《すば》らしい!」
エドは、先生が無料《ただ》で人助けをするような人ではないと知っている。内心とても怪《あや》しんだが、これ以上機嫌を損《そこ》ねないように、ちゃんと褒《ほ》めておいた。
子犬は何も知らない顔で、すやすや眠っていた。
☆
翌日の夕刻。ハーヴィスが私用で出かけると、エドはミルクの入った小皿とやわらかいパンを手に、二階へと駆け上がった。
朝、ハーヴィスに子犬の餌《えさ》について尋《たず》ねたら、「働かざる者、食うべからず」と、冷たい返答があった。が――
「そういうわけにいかないよなあ。だいたい、子犬に何して働けっていうんだよ」
丸一日何も口にせず、お腹を空《す》かせているだろう子犬を気の毒に思い、エドははじめて先生の部屋への無断侵入を試《こころ》みた。
錆《さ》びた蝶番《ちょうつがい》のきしむ扉《とびら》を開く。幸い、扉には、死人が出るような泥棒《どろぼう》よけの魔法はかけられていなかった。
家具の少ない部屋の真ん中に、鳥籠《とりかご》風の檻《おり》が置かれていた。黄昏時《たそがれどき》を過ぎた暗い室内で、その檻は月光のような青白い燐光《りんこう》を放っていた。
狭い柵《さく》の中で、子犬が震えている。
エドは柵に顔を近づけて子犬に話しかけた。
「よしよし、かわいそうに。お兄さんがおいしいミルクをあげますからねえ」
そう言い、手のひらを前に出して意識を集中すると、服の裾を離れた魔力|増幅《ぞうふく》≠フ力を持つ文様の羅列《られつ》が、若草色の光の帯となって、エドを包んだ。
一時的にだが、魔力を高めたエドの呟《つぶや》く呪文に応《こた》え、小さな魔法|陣《じん》が現れる。
薄緑《うすみどり》に光る三角形の魔法陣は、ごく初歩的な鍵《かぎ》開けの術だが、対象に魔法や呪《のろ》いがかかっていると、その種類を魔法の言葉≠ナ教えてくれる優《すぐ》れものだ。
「あれ、これって……」
宙に浮かぶ文様を読んだエドは、目を瞬かせた。
ハーヴィスが檻にかけていたのは、部外者を拒《こば》むものではなくて、中の者を封《ふう》じる魔法だった。その証拠《しょうこ》に手を触《ふ》れても何ともない。
エドは柵を開けて子犬を呼び出す。子犬は尻尾《しっぽ》を振りながら出てきた。
円《つぶ》らな瞳が陽《ひ》のない部屋で赤く閃《ひらめ》いたが、皿を置くために下を向いていたエドは気がつかなかった。
「たくさん飲みな。おかわりもあるからね」
エドは子犬を怖がらせないように笑顔で皿を差し出す。
しかし、子犬はミルクの匂いを嗅《か》ぎもせず、唸《うな》りながら後退《あとずさ》り、部屋を出ていってしまった。
「お、おいっ!」
エドは急いで部屋を出たが、子犬はそこにいなかった。
「いぬぅ!」
名前がないので固有名詞を呼ぶ。
わんともすんとも応答がない。
子犬はエドの部屋にも居間にもいなかった。
エドは屈《かが》んで食卓《しょくたく》テーブルの下ものぞく。子犬はいない。そして――
「何をしている?」
反対側の椅子の向こうに、紫紺の裾が揺れた時、エドは本気で泣きそうになった。
「すみません!」
なにはともあれ土下座した。
「子犬を逃がしてしまいました!」
「そうか」
返ってきたのは、気が抜けるほど素っ気ない答えだった。覚悟《かくご》していた罵《ののし》りもなく、おそるおそる顔を上げると、ハーヴィスは薄笑《うすわら》いを浮かべていた。
指先で銀の輪を弄《もてあそ》んでいる。
銀の首輪には、今朝はなかった文様が彫《ほ》られていた。それが魔を封じる魔法の言葉≠セと、エドにも一目でわかった。
「あの犬は器《うつわ》だった……」
静かな声でハーヴィスが語りだす。エドの中で嫌な予感がふくらみ――
「中に悪霊《あくりょう》が封じてあった」
的中した。
「悪霊って……何ですか?」
「勉強不足だな。悪いことをする霊≠ノ決まっている」
「そういう意味じゃなくて……」
脱力《だつりょく》し、消えそうな声でエドが言うのを、「わかっている」と、ハーヴィスは鼻先であしらった。
「ふん。封じた奴《やつ》が死んでも改心しなかった放火犯の霊≠ニか言ってたな」
「ほ、放火ぁ? どうして、そんなものを貰ってきたんですか!」
つい大きな声になったが、答えは聞かなくても想像できた。ハーヴィスは町長のトマスにけなされた後、会合へ出向いて、子犬を譲り受けてきたのだから。
「……先生、復讐《ふくしゅう》は良くないですよ」
悪口を言われたぐらいで悪霊を持ち出すなんて大人《おとな》げない。
だが、ハーヴィスは弟子の忠言《ちゅうげん》に肩をすくめただけだった。
「もう遅い。昨夜、あの犬には、トマスの家がどれだけ立派で燃やし甲斐《がい》があるものかを、たっぷり話して聞かせたからな。今頃あれは奴のところで……ふふっ。まぁ、いずれそうするつもりだったのだから、手間《てま》がはぶけたというものだ。だから、子犬を逃がしたことを責めはせん。気にするな」
「気にしますよ!」
それで人死にが出たら洒落《しゃれ》にならない。
エドは慌ててハーヴィスの手から首輪をかすめ取ると外へ出た。
ズボンのポケットから白樺《しらかば》の葉を取り出し、呪文を唱える。すると、一枚の葉っぱから枝が伸びた。そこから小枝が広がり、緑が茂《しげ》り、手折ったばかりのような立派な木枝になる。
白樺はエドがまたがると、枝先に広がる緑を震わせ、鈴《すず》に似た音色を響かせながら空に浮かび上がった。
☆
夏とはいえ上空は風が冷たかったが、エドは出せるかぎりのスピードで急いだ。
そして、町の奥まったところにあるトマスの屋敷《やしき》に近づいた時、それは聞こえてきた。
「ぎゃああああああ!」
裏返った、中年男の悲鳴。
「間に合わなかったか……」
エドは顔をしかめた。
二階の窓から屋敷へ入りこむ。大きな家だが使用人の姿は見えなかった。トマスが給料を出し渋《しぶ》ったために、使用人全員が団結して休んでいるという噂は本当だったらしい。
広い屋敷の廊下《ろうか》には、人の代わりではないかと思うほど物が多かった。雑然《ざつぜん》と配置された壺や鎧《よろい》の置物が、迷路みたいな壁を作っている。
エドは天井《てんじょう》近くを飛ぶことで、邪魔なそれらを避けることができた。歩きだったら迷子になっていただろう。
階段に近づいたエドは、極端《きょくたん》に強い悪意を全身で感じ、身震いをした。
肌《はだ》を刺す、その不穏《ふおん》な気配をたどって一階へ向かうと、精巧《せいこう》な彫《ほ》りの施《ほどこ》された立派な扉の前へ着いた。
扉の向こうに悪霊がいるだろうと思い、一度深呼吸をしてからノブに手を伸ばす。
扉が内側から乱暴に押し開けられたのは、その瞬間《しゅんかん》だった。
「わっ!」
びっくりしたエドは白樺から落ちて、廊下に尻もちをついた。明るい室内から、汗《あせ》みずくのトマスが、うろたえ、足をもつれさせながら転がり出てきた。
「きさま、どうしてここに……」
エドを見つけたトマスの顔が、恐怖に引きつれた青から怒りに紅潮《こうちょう》していき、
「あ、あれは、きさまの仕業か!」
叫んで彼が指を差した部屋の方から、黄色い尾《お》を引く火の玉が飛んできた。
二人|揃《そろ》って床《ゆか》に伏《ふ》せる。
「しょ、書状があ、事業計画があ……」
頭を抱《かか》えたトマスが情けなく呻《うめ》いた。部屋の中が明るいのは、火事になっているせいだった。倒れた蝋燭《ろうそく》が机の上の紙を焼き焦《こ》がし、窓際《まどぎわ》のカーテンを巻きこんで、きな臭い煙《けむり》と橙色《だいだいいろ》の炎《ほのお》を勢いよく吐き出している。
燃え盛る窓辺に、白地に黒色模様の子犬が前足を腕組みのようにして、後足だけで立っていた。
「いぬ! 家へ戻るんだ!」
叫ぶエドの声に、火炎《かえん》を陶然《とうぜん》と眺めていた子犬が面《おもて》を上げた。舌打ちしてエドを睨《ね》めつける。犬というより人間の表情だった。
エドが首輪を後ろ手に隠して立ち上がると、子犬が唸《うな》った。丸い目を赤く光らせ、毛先から炎を噴《ふ》き出して威嚇《いかく》する。
火の玉となった子犬はにやりと鼻面《はなづら》を歪《ゆが》めて笑い、窓から逃げ出した。
「あ、こら! 待て!」
部屋に踏み込んだエドは、行く手をさえぎる炎の壁を前にして、魔法と懐《ふところ》の小道具とどちらを使おうか迷った。すぐに決断して懐を探ると、魔法の薬入りの小瓶《ごびん》を取り出した。
栓《せん》を抜いて小瓶を投げる。水色の雫《しずく》が飛び散り、瞬時に炎を水蒸気に変えた。即座《そくざ》に子犬を追い、エドは窓から白樺の枝で飛び立つ。庭に炎の獣道《けものみち》が延びていた。小さな体を火炎で武装した子犬は、屋敷の門を出て町へ向かっていく。
「大変だ!」
今夜はお祭りで、広場には燃えやすい屋台が並んでいる。エドはこっちに気を引ける弱点はないかと、飛びながら思案し、
「これを使ってみようか……」
ズボンのポケットから銀貨を手に取り、短い魔法の言葉をつむいだ。
☆
日が暮れてからも祭りを楽しんでいた人たちが、炎をまとった子犬を見て悲鳴をあげた。
子犬は人間にはかまわずに、屋台へ近づく。
「やめろ!」
鋭《するど》い声で子犬を制し、悪霊の行く手に回り込んだエドは、にっこりと笑顔を作って、魔法で形を変えた銀貨を掲《かか》げた。
「ほらほち、いい匂いだろう? お肉だよう」
銀貨は鳥のもも肉に変化していた。皮はこんがり狐色《きつねいろ》に焼けて、匂いもとても香《こう》ばしい。
エドは悪霊の弱点は思いつかなかったが、子犬の弱みならわかった。今は悪霊の器になっているとはいえ、空腹の子犬が肉に心引かれないわけがない。
案の定、子犬の目は黒色に戻り、毛を包んでいた炎がほんの少し弱まった。
「わん、わんっ!」
食欲で悪霊を押し退《の》け、一時的に正体を取り戻した子犬が、無邪気に尻尾を振りながら、もも肉目がけて飛びかかってくる。
「まだ渡せないよ」
子犬をかわしてエドは空へと上った。
そこから追い駆けっこが逆転した。エドを追って子犬が走る。エドは子犬を丘の上の家へと誘導《ゆうどう》していった。
「先生の魔法なら、悪霊から子犬を助けられるはずだ」
つむじ曲がりの魔法使いに子犬の生死を託《たく》すのは不安だったが、もともとの原因はハーヴィスが作ったのだ。ここはきっちり責任を取って助けてもらおう。
☆
「ただいま戻りました!」
ドアを蹴《け》り開けて、エドは部屋に飛びこんだ。ハーヴィスは揺り椅子に座り、優雅《ゆうが》に本を読んでいた。
顔を上げたハーヴィスは、エドの手に首輪が握られたままなのを見て、眉間にしわを寄せた。
「犬はどうした?」
応《こた》えるまでもなかった。吠《ほ》えながら、火の玉が飛び込んできたのだ。
エドの背中に飛びつこうとした子犬は、前足が届く寸前で、ハーヴィスが指先で飛ばした小さな魔法陣に弾《はじ》かれた。
青い菱形《ひしがた》の内外には複雑な魔法の言葉≠ェ、一文様の狂《くる》いもなく正確に刻まれている。ほんの一瞬で出現させたものでも、ハーヴィスの魔法は完璧《かんぺき》で、エドはわずかの間、状況《じょうきょう》を忘れて見とれた。青い魔法陣が、倒れた子犬の下で大きく広がる。光が炎を吸いつくし、消滅《しょうめつ》すると同時にエドは我に返った。
すぐに、気絶している子犬に駆け寄ろうとしたが、子犬の口から一筋の黒い煙が立ち上るのを見て足を止めた。
細い煙はエドの背丈ほどになると、上方に穴を穿《うが》ったような赤い目を開き、その下に細く笑っているような口を形作る。
黒い煙は子犬から離れると、目もくらむ速さでエドの眼前に迫《せま》り、ハーヴィスの頭上を巡《めぐ》り、我が物顔で室内を飛び回っては柱や壁に火を点けた。
「これが悪霊の正体?」
黒い疾風から、エドは両手で視界を庇《かば》う。
「誰が連れて来いと言ったあ!」
読みかけの本を燃やされたハーヴィスは、こめかみに青筋を立てて叫んだ。そして、怒りのままに長く強力な呪文を唱えはじめる。
一方、部屋をめちゃくちゃにした悪霊は放置されていた薬壺の匂いに興味を示した。油の匂いのする薬に顔を近づけ、うっとりと目を細める。
それから、壺に手を伸ばしたかと思うと、いきなりそれを横倒しにした。
蜂蜜色の火薬が板の目を伝い、床に広がる。指先に小さな炎を生み出した悪霊は、陰気に笑いながら、薬の上に火種《ひだね》となる炎を落とした。
「――!」
エドは子犬を抱き上げて逃げようとしたが、薬に足を滑《すべ》らせて転んだ。呪文を唱える間なんてなかった。子犬を懐に抱いて、床に伏せる。
ぼっと着火の音がした。部屋の中が一瞬、真空となって時が止まる。直後に白い閃光《せんこう》が迸《ほとばし》り、続く轟音《ごうおん》がエドの鼓膜《こまく》を震わせた。
詠唱《えいしょう》を終えたハーヴィスは、いつの間にか移動し、エドを背に庇って立っていた。
爆発《ばくはつ》音の後、熱波《ねっぱ》が押し寄せる直前に放たれたのは、白い巨大《きょだい》な魔法陣だった。二重円の内側、六線星形の中から現れた冷たい気配が、二人の周囲をぞろりと這《は》う。
息をつめて緊張《きんちょう》していたエドは、その正体を見ることもなく、子犬を抱きしめたまま気を失った。
☆
気がつくと空と星が見えた。きら星の群れから流星がすべり落ちる。
疲《つか》れていたエドは、意識がはっきりしても、しばらく星を仰《あお》いでいた。
ふいに吹いた風に氷の粒が混ざっていて、不思議に思い顔を横に向けると、そばに巨大な氷の蛇《へび》の頭が転がっていた。透《す》き通った色彩《しきさい》の中で、唯一《ゆいいつ》色を持つ金色の目がエドを見つめている。
だけど怖くはなかった。エドは最後に耳にした呪文を思い出した。
氷の生物を操《あやつ》るのは、ハーヴィスが得意としている術の一つだ。氷の蛇に胴体がないのは、エドを爆風から庇い、エドの代わりに熱を浴びたからだろう。
「ありがとう」
笑みを向けると、その言葉を合図にしたように金の目から光が失われ、氷の蛇は盛夏《せいか》の空気に溶《と》けて消えた。
エドはゆっくりと身を起こして、丘を見回す。
エドの作った火薬は優秀《ゆうしゅう》だったらしい。すべてが吹き飛んだ荒涼《こうりょう》とした景色《けしき》にいっそう疲れを感じてうつむくと、煤《すす》けた膝に、やわらかい毛の固まりが乗ってきた。
「わんっ!」
「いぬ! 無事だったんだあ!」
エド同様に、煤で汚《よご》れて黒色模様の増えた子犬を抱きしめる。子犬のぬくもりは、疲労《ひろう》したエドの心と体を瞬《またた》く間にほぐし、癒《いや》した。
だが、癒されない者もいた。
「……良かったな、犬だけは無事で」
頬を緩《ゆる》めたエドの後頭部を杖で殴《なぐ》り、ふくれっ面《つら》のハーヴィスが隣に腰を落として、胡座《あぐら》をかいた。
「ヴっ――」
これはもう一度土下座だろうか。
エドは怯《ひる》んだが、ハーヴィスはそれ以上不平は言わなかった。髪を押さえていたターバンを外し、苛立《いらだ》ちのおさまらない表情で髪をかき回す。
「先生、すみませんでした。まさか爆発するなんて、思わなくて……」
エドは素直《すなお》に謝罪したが、膝に頬づえをついたハーヴィスは、ふてくされて応じなかった。
エドは首輪を子犬にはめながら、上目|遣《づか》いに尋ねる。
「あのう、悪霊はどうしました?」
「ふん。捕《つか》まえたに決まってるだろう。八つ裂《ざ》きにして踏みにじってから凍《こお》らせて、このとおり小者《こもの》に相応《ふさわ》しい物に封じてやった」
ハーヴィスは唇に笑みを浮かべ、手の上に出現させた灰色の小石を、丘の斜面《しゃめん》へと投げ捨てた。
封じられた悪霊が転がっていく。
相変わらず敵には容赦《ようしゃ》なしだ。
エドは口元をひきつらせ、ハーヴィスから目をそらした。が、顔を振り向けた先に、あるべき家がなくて――
「……当分、野宿《のじゅく》ですね」
寂《さび》しくなったエドは子犬を抱き寄せた。
気づまりな時が流れる。
しばしの沈黙《ちんもく》の後、突然《とつぜん》、エドがぱっと明るく表情を変えて立ち上がった。
「そうだ! みんな失《な》くなってしまいましたし、どうせ野宿するなら、旅に出ませんか?」
騒《さわ》ぎを起こしてしまった以上、しばらく町にも行けないし、我ながら名案だと思った。
ハーヴィスは思いきり迷惑そうに吐息《といき》をついたが、文句は言わなかった。
エドは遠くに目を向ける。丘から見渡せる景色は、端《はし》の方が夜闇と混ざり合って見晴らしがきかず、つまらないほど狭《せま》くしか見えない。
エドは世界が開ける夜明けを待ち遠しく思い、胸を弾《はず》ませた。
「いぬは、どっちの方角におもしろいことがあると思う?」
指で喉をくすぐると、子犬は大熊座《おおぐまざ》の方を向いて吠えた。
「北か。涼しくていいかもね」
「南だ」
エドの声に、ハーヴィスの声が重なった。
「子犬と逆じゃないですかあ……」
まったくひねくれている。エドはがっくりと肩を落としたが、子犬は南でもうれしそうで、尻尾をぱたぱた振っていた。
エドのズボンのポケットには、魔法の解けた銀貨が一枚入っている。
当てのない、二人と一匹の旅の資金としては心許《こころもと》ないが……まあ、なんとかなるだろう。
[#地付き]END
[#改ページ]
底本
The Sneaker 12月号増刊
The Beans [ザ・ビーンズ] VOL.1 2002.12
発 行 二〇〇二年一二月一日 発行
発行者 井上伸一郎
発行所 株式会社角川書店
[#地付き]校正M 2007.11.06