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藤堂志津子 恋愛傑作選
藤堂志津子
目 次
微笑みがえし
捨てる女
合 鍵
乾いた雨
乙女の祈り
水にゆらめく
贅沢な部屋
仮 睡
グレーの選択
[#改ページ]
微笑みがえし
長い前髪を何回となく片手でかきあげながら、佐希子《さきこ》は話をつづけた。
あくまでも気だるく、うんざりとした口調を保ち、ときどきはため息もはさむ。
そうやって、いかに自分は相手に関心がないかを強調する。
「……ところがね、彼はしつこいの。遠まわしに拒否しているのに、まるで気づこうともしなくて、私、本当に困るのよねえ、そういう男のひとって。だって、ほら、私って、せっかちなタイプは苦手でしょ……」
そこで話を中断させ、佐希子はテーブルの上のジュースの入ったグラスを手にし、ストローを口にくわえる。その姿勢のまま、喫茶店の窓のそとに視線を移す。脚を組む。
しかし、視界のすみでは原田の反応をうかがっていた。
さっきから彼は無表情だった。無表情のまま、根気よく佐希子のおしゃべりに耳を傾けている。まるで、こうするのが自分の義務だと思い決めているような辛抱強さだった。
そのまなざしは、やや伏目がちである。
彼はめったに正面切って佐希子を見ようとはしない。
一見、内気そうなその態度は、しかし内側には手に負えない頑固さを秘めていた。
ストローを口にした佐希子の頭の中を、半年前の別れの光景がよぎってゆく。
雨のあの夜も、原田はいまと同じように目を伏せ、頬の筋肉ひとつ動かさずに、佐希子の詰問に何も答えようとはしなかった。「当分はまだ結婚はしたくないんだ」そう言ったきり、押し黙ってしまったのだ。
そんな彼を目の前にして、佐希子も最後には物分りのよい女を演じていた。口もとが醜くゆがむのを必死に微笑みの形にねじ変え、かろうじて言葉にした。
「わかったわ。これまでの私たちの関係はゼロにもどしましょう。そのかわり、いつまでもいいお友だちでいてくれるわよね。私のいちばんの相談相手として」
それに対して原田は気のない返事をした。この場を切り抜けるには、そうしておくのが賢明だと、とっさに判断したからだろう。
けれど、佐希子はその約束を実行に移した。
この半年間、何回となく彼を呼びだしては、相談を持ちかけた。つねに男性関係のことだった。
ジュースのグラスをテーブルにもどし、佐希子はミニスカートにつつまれた脚を、ゆっくりと組み直した。十分に原田を意識した動作だった。
一瞬、伏目がちだった原田の目線がせわしなくまたたく。
太腿《ふともも》が半分ほどあらわになったそこに彼の熱っぽい視線を感じる。
やっぱり、と佐希子はつかのまの優越感にひたった。
(彼はこうして私と会うのも、まんざらではないと思っているに違いない。いや、ようやくいまになって、私と別れたのを後悔しているのかもしれない)
脚には多少の自信があった。異性からだけでなく、同性からもほめられたことは少なくない。
けれど、原田とつきあっていた頃、脚の美しさは誇示できなかった。彼は佐希子が派手な服装をするたびに眉《まゆ》をひそめた。口ではひと言も文句は言わずに、ほんのちょっとした表情で気持を伝えるのが、彼のくせだった。
別れた現在、佐希子がどんな恰好《かつこう》をしようとも、口出しする資格は彼にはない。
さらに皮肉にも、彼があれほど目をそむけていた佐希子のミニスカートが、こうして他人になってみると、それなりに魅力をもって彼の目を奪い取ってゆくではないか。
佐希子は勝ち誇った感情をたっぷりと味わってから、先ほどの話をむし返した。
しゃべりながら、ひんぱんに、これ見よがしに脚を組み替えた。
「でね、相談というのは、そういうしつこい男性への対応の仕方なの。ううん、別れるつもりは、私、ないの。わりと条件のそろったひとだから、しばらくはつきあってみるのも損はないし。ただ、どうやってそのしつこさを彼自身に自覚させるかなの。私が手を焼いてるってことを」
原田はふたたび目を伏せ、口の中でつぶやいた。つぶやきはくぐもっていて、よく聞き取れなかった。
佐希子はテーブル越しに身を乗りだす。わざと上体を大きく原田のほうへせりだし、Vネックのブラウスの胸を見せつけるようにした。Vネックの胸もとからは、官能的な香水のかおりが漂ってもいた。
「ね、あなたの意見を聞かせて」
案の定、香水は原田の鼻腔《びこう》を刺激したらしい。
彼の顔面がうっすらと赤くなった。ふいをくらったとき、彼は初心《うぶ》な少年のように、すぐに顔を赤らめる。
だが、それは彼の純情のあかしではないことを、佐希子は知っていた。一種の条件反射にすぎない。
実際、「結婚はしたくない」と暗に別れをほのめかした夜、原田の顔の色に変化はあらわれなかった。きめのこまかい色白な肌は、冴《さ》えざえとした透明感をたたえていた。
しかし、知りあった当初、ささいなことに赤面する二十七歳の原田は、佐希子の心に新鮮な印象を与えた。三歳上とは思えない純真さを感じた。すべての面倒を見てやりたくなるような錯覚をいだかせた。同時に、すべてが佐希子の意のままになるような。
だが現実は違った。
この赤面癖で、原田はずいぶんとトクをしている、と佐希子はあらためて自分のかつての思いこみに敗北感をかみしめる。
が、そうした内心をたくみにかくし、ミニスカートからのぞく脚と香水を計算に入れながらも、佐希子は表面上は兄に甘える妹のそぶりで助言を求めつづけてゆく。
「お願い、あなたの考え、率直に言ってみて。私、どうしたらいいのかわかんない」
「突然にそういうことをきかれても……」
無表情の下から、ようやく困惑の色がしみだしてきた。
「ついこのあいだまでつきあっていた男とはどうしたの」
「ああ、彼ね。彼とはとっくにさよならしたわ」
「かなりイイ線までいっていたんだろ」
「まあね。結局、つまんないひとだっていうのが私の結論」
「結論をだすのが早すぎるのじゃないか」
「少くとも一年はつきあってみろ、と言いたいわけ? あなたみたいに」
「いや、一年とは言わないけど……」
原田は赤くなり、急に歯切れが悪くなった。
交際してきっちり一年後、佐希子は彼から別れを告げられた。
一年間も喧嘩《けんか》ひとつせずに円満にやってきたのだから、と佐希子がこれから先にいっそうの期待を持ちはじめた矢先のことだった。
原田にしてみれば、一年間かけて、じっくりと佐希子の性格なりを観察したうえでの結論だったのだろう。
一年間という期間のとらえ方が、まるで正反対だった。
「あなたの言いたいことはわかるわ」
別れた夜のように、佐希子はすばやく物分りのよい女の口調になった。
「私はせっかちかもしれない。でもね、私、あと半年で二十六になるの。二十代の女性にとっては一年なんて、あっというまにすぎてしまう。だからぼんやりしていられないのよ」
二十五歳で結婚するのが夢だった。
だから二十四歳で友だちの紹介で原田と知りあい、たちまちに親交を深めたとき、佐希子はこれで夢がかないそうだと胸をときめかせた。
知りあって、ひと月とたたないうちに、佐希子のほうからホテルに誘ったのも、将来につながる確約がほしかったからだ。
が、原田は誘いは断わらなかったにもかかわらず、心のどこかで佐希子のそうした積極性にこだわっていた。
ときたま、冗談めかしてたずねたりした。
「きみって、いつもああいうふうに自分から誘うわけ?」
おそらくその疑いは日がたつにつれて「当分はまだ結婚はしたくない」という言葉をみちびきだしてきたのだろう。
そして別れてから半年後のいま、佐希子は彼が疑っていたとおりの男性関係の激しい、奔放なイメージの女になっていた。
この半年のあいだに、十人近い男性について原田に相談し、さらに次々と別れている。
相談といっても内容は他愛なく、また原田のアドバイスも要領のえない、あいまいな言葉の断片にすぎなかった。
夏も終りにさしかかったその土曜日の午後も「しつこい男」の解決策はこれといってないままに、ふたりは街中の喫茶店の前で別れた。
会ってから、まる二時間がすぎていた。
別れ際、佐希子は信頼しきった笑顔をむけ、ふたたび原田に念を押す。
「また相談に乗ってくれるでしょう」
「ああ……俺でよければ……」
「ありがとう。私、これから彼とデートなの。じゃあ、またね」
原田より先にきびすを返して歩きはじめる。彼がその後姿を見送ってくれているかどうかはわからない。
けれど佐希子は振り返ろうともせずに、快活な足取りで遠ざかってゆく。ミニスカートからすらりとのびているご自慢の脚にそそがれているかもしれない原田の視線を意識しながら、背すじをまっすぐにして、モデルのようにわき目もふらずに歩きつづける。
「きのうはどうもありがとう」
翌日の日曜日の正午すぎ、佐希子は原田にお礼の電話をかけた。
どちらも両親と同居しているが、自分専用の電話を自室に引いている。
「とても助かったわ」
「そう……」
「私、あれから彼に会ったでしょ。で、はっきり言ったの。あなたの気持はうれしいけど、あまり熱心すぎるのは困るって。彼、少しは理解してくれたみたい」
「よかったじゃないか」
「あなたのおかげよ」
「俺は別に……」
「ねえ、これからもいろいろと教えてもらえるかしら」
「教えるなんて……多少の力にはなれるかもしれないけど……」
「本当? よかった」
電話をきってから佐希子の胸に安堵《あんど》感がひろがった。
きのうの土曜日の午後に呼びだしたときも、原田はあっさりと承知した。そして、日曜日のきょうも彼は在宅している。先週も、その前の週も、いや、かれこれ三ヵ月前から彼の週末は変わりばえがしなかった。
つまり、現在の彼には、まだ特定の女性はいない確率が高い。
もし恋人がいたなら、土日はふさがっているか、外出しているはずだった。少くとも佐希子とつきあっていた頃の原田の週末は予定がびっしりで、佐希子以外の者が入りこむすきはなかった。
コードレス電話をベッドわきの小さなテーブルの上に置き、カバーをかけたベッドに横たわり、天井を見あげる。
原田がなんの相談にも役立っていないことは、だれよりもいちばん佐希子が知っていた。
原田自身はどうなのだろう、とこれまでにもたびたび想像した。
あまり自覚しているとは思えなかった。
佐希子のペースに巻きこまれ、なんとはなしに相談に乗っていてやっているような、自分のひと言ふた言が佐希子に影響を与えているような、そんな自信を匂わす言葉をときたま口にする。
そう思わせるように、こちらが仕向けているのに、まるで自分のアドバイスで佐希子が行動しているかのように見なしているらしい。
事実、彼にとっては悪い気持ではないだろう。かつてつきあっていて別れた女が、別れてからも何かと自分を頼りにする。恋愛感情が消えてからも、よりよい友だちとして、自分の身辺に出没する。ある意味では望ましいおしゃれなオトナの関係。
何も気づかずにバカな男、と佐希子は胸の中で吐き捨てる。
頭の悪い、さほど出世の見こみもない平凡なサラリーマンで、小心なくせして、変に頑固なところがあり、それでいてこちらが強引にでると拒否しきれない気の弱さがあり、だからこの半年間こちらのペースにまんまと引きずられている。
あの男のどこがいいのか、と佐希子は自分をあざ笑う。
思いっきりおのれを嘲笑《ちようしよう》しながら、しかし、佐希子は原田をあきらめきれずにいた。
その想いにずっともがきつづけてきた。
「当分は結婚したくない」と遠まわしに別れをほのめかされた夜、佐希子は足場を一挙にくずされたようなショックを受け、打ちのめされた。
ただ、せめてものプライドがとっさに働き、彼の前で醜態は見せず、むしろ物分りのよい女を演じることができた。
あの瞬間の原田への落ち着いた対応は、自分でも意外だった。さらに「いちばんの相談相手になってほしい」という台詞《せりふ》が、いともなめらかに口をついてでていた。数分前までは考えてもいなかったことだった。
多分、といまになって佐希子はつらい気持で思い返す。やんわりと結婚を拒まれ、そのショックにふるえながらも、私は彼を失いたくないという一念だけにしがみついていたに違いない。
その一念が予想外の機転を、智恵を引き寄せた。それほどまでに原田への想いは深いものになっていたのだ。
新しい男性問題を原田に持ちかける――最初の頃は当てつけの気持が心をしめていた。
彼に捨てられても私は平気なのだ、相手はいくらでもいる、と見せびらかしたかった。
しかし肩ひじを張った状態は、そう長くはつづかず、やがて佐希子は相談にかこつけて原田に会おうとしている自分に気づかされた。
相談、のひと言はじつに便利だった。これさえ使えば、原田は身構えずに会ってくれる。
だが、原田とのこの関係は、どこまで持ちこたえられるのか。
きのうミニスカートにむけられた彼のまなざしは、つかのまの熱っぽさを宿した。はっきりと、この目で確かめた。
が、佐希子は自惚《うぬぼ》れはしない。ミニスカートからはなれてこちらを見た彼の視線は、別れを言いだした日と同じ冷淡さにもどっていた。恋人であったときは、いっぺんとしてああいう冷淡な視線はむけられなかった。
天井を見あげたまま、佐希子は自分に問いかける。
私はどうしたいのだろう。
どうなってゆくのだろう。
原田に相談した「しつこい男」は実在しなかった。作り話である。
けれど、すべてが嘘ではない。
彼に話した十人近い男性のうち四人は本当だった。
ふたりは佐希子と同じ職場の同僚、ひとりは高校時代のクラスメート、残りのひとりはスナックで知りあった。いずれも独身であり、そこそこに結婚してもいいと思っている二十代の男たちである。
ただ原田に語ったことと異なるのは、四人とも現在進行形だった。
さらに原田に話したのとは違って、どの男性もむこうからではなく、佐希子から近づき、積極的に食事や酒に誘った。
もっと嘘の正体をあきらかにすると、四人のうち、だれとも身体の関係はない。
そして四人の男たちが佐希子をどう思っているのか、いまだにきいたことはなかった。きくまでもなく、佐希子はうっすらと察しはついている。
四人とも佐希子を見る目は平静そのものだった。特別な心のひだは読み取れない。少くとも、いまのところは。
その平静そのもののまなざしを、どうにかして変えさせたい、という欲望も佐希子の胸の奥にうずいていた。
なんのためなのかはわからない。
わからないけれど、このままではみじめになってしまう、とあせる。
原田に拒絶された自分の女としての魅力を、他の男でためしてみたいのかもしれなかった。
あるいは四人の中から選び取った相手を、そのうち必ず原田に見せつけてやりたいという見栄かもしれない。
どういうやり方であろうとも、とにかく原田を見返してやりたい。
以前の私はこんなにねじれた性分ではなかったのに、と佐希子はベッドの上できつく目をつむる。
ひたむきに原田との結婚を夢見ていた一年間、念願だった二十五歳のゴールイン。
それが一方的な、突然の破局を迎え、といっても決定的な別れにはならずに、原田とはつかずはなれずのおさまりの悪い関係に流れていっている。
原田の優柔不断さと、佐希子の負けん気と意地が、この半年間をあやふやに持続させてきた。
そのあやふやさが佐希子は自分でもじれったい。
公平に考えてみると、あの男のどこがいいのか。なぜにこれほどまでに執着するのか。
伏目がちの原田の横顔がよみがえってくる。長くて濃いまつげ、すぐに赤くなる色白な頬。
頭に浮かんできた原田の見馴《みな》れた横顔は、佐希子が小学生の時分に憧《あこが》れていたクラスメートにそっくりだった。口下手で、無器用で、いつもドジばかりふんでいた少年の面影が、原田のそれにかさなってくる。
おだやかな性格という以外に、なんの取り柄もないゆえに、奇妙な愛着をいだいてしまう男。どうしようもないと舌打ちしながらも、けっして憎めない男。
自分から別れを切りだしながらも、こちらが電話をかけるたびに沈んだ顔つきでやってくる原田に、佐希子はそれとは知らずに振りまわされていた。
秋の涼気と残暑が交互に訪れるようになった頃、佐希子は職場の上司の口癖をまねて「打ってでる」ことにした。
相変らず原田は相談役の立場から一歩も動こうとはしなかったし、佐希子がひそかなねらいをつけている四人の男たちも、こちらから声をかけないかぎり、飲みに誘ってくれようともしない。
手はじめはスナックで知りあった男だった。自宅のマンションの電話番号は会ったその夜のうちに教えられていた。
早々と会社から帰宅し、風呂《ふろ》あがりの肌の手入れ、特に自慢の脚の乳液マッサージを丹念にしてから、佐希子は男のもとに電話をかけた。
先方のそれは留守番用にセットされていて、まだ帰宅していないらしい。
留守番テープに名前と連絡がほしいという内容を吹きこみ、ゆったりとしてメロディックなピアノ曲のCDを聞きながら、日記帳をひろげた。毎日ではないけれど、週に三日は書き記している。
日記を書く習慣は、原田とつきあうまではなかった。彼と知りあい、ロマンチックに高揚した気分が高まりはじめた頃、その気持をだれかに語りたい思いにかられて、日記帳を買い求めた。
佐希子みずからもまるで気がついていなかったし、第三者が読んだなら、なおさらけむに巻かれてしまいそうな文章の並ぶ日記だった。
日記だけを読んでいると、そこからは、ひとりの男性を想いつめつづける、あわれにも哀しい女性が浮かびあがってくる。男性の言動に一喜一憂し、相手の心の不確かさにとまどい、嘆き、そうかと思うと、つかのまの期待に胸をかき乱され、激しく渇望し、やがて落胆のときがきて、深い物思いにとらわれてゆく内省的な女性の姿。
ことさら劇的に誇張しているのではなかった。佐希子としては正直に自分の気持を書きとめているつもりでいた。
ミニスカートと深いVネックのブラウスと香水をつけて原田と会った土曜日のページの文章も、彼への思慕が切々とつづられ、彼もまたその想いにほどよく応《こた》えてくれたという、しんみりとした展開だった。
わざとミニスカートをはいて、自慢の脚を見せつけたことも、めったにつけない官能的な香水を小道具に使った自分の心理も、また、それらに対して、原田が一瞬どぎまぎした様子も、ことごとく省略されていた。
佐希子の意識では、あえて省略したのではなかった。
実際はともかく、日記をひらき、ボールペンを握ったときから、佐希子は「心」にむかいあう。
自分自身の「心」であり、おそらくそうであるに違いない原田の「心」である。
スナックで知りあった男からの電話を心待ちにしながら、佐希子はこれまでの日記を拾い読みしてみた。
自分で書いたにもかかわらず、どの日付けのページもせつなかった。
これほどまでに原田という男性に気持を傾けている女の心根がいじらしく、なぜにその気持が原田に伝わらないのか、とあらためて哀しさがこみあげてくる。
感傷的な気分になったところで、ボールペンを手にし、何も進展しない現状から「打ってでる」決意を固めた心境を文字に移し変えはじめた。
H、というのは原田のことである。
「Hはやさしいけれど、やはり兄妹以上の結びつきにはならないみたいだ。
私がどれだけHを愛しているか、彼はぜんぜん気づいてもいないらしい。
愛するとはつらい。悲しいこと。
もうHを待たない、ときょう私は心を鬼にした。
Hにしても私が想いつづけるのは重荷になるだろう。重荷にはなりたくない。愛しているのだから。
新しい出会いを待とう。
そして、黙って静かにHからはなれてゆこう。これが愛情というものだ」
新しい出会い、すなわちスナックで知りあった男からの電話は、いつまでたってもかかってこなかった。
夜の十一時半まで佐希子は待ち、そしてあしたに期待して眠りについた。
翌日も、翌々日も、電話はこなかった。
いいかげんな男だ、と四日目の晩、佐希子は腹を立てながら日記帳をひろげ、そのとたん、しおらしい文章をつづっていた。
「私はだれからも愛されない女なのだ。
これといって、ひとよりすぐれたところはない。
少しだけ誇れるとしたら、脚の形だろうか。
みんなもそう言ってくれる。でも、お世辞かもしれないと思う。
私はコンプレックスのかたまり。こんな女を好きになってくれる男性はいない」
高校のクラスメートだった男は、細い目とがっしりとした体型の持ち主だった。
原田のセンの細い外見とは異なり、見るからに男らしいたくましさがみなぎっている。
酒にも強い。
彼とはこの夏のクラス会で卒業してからはじめて再会した。
脈がありそうだったのは、酔った彼がそれとなく言い寄ってくる言葉を吐いたからである。
「俺さあ、高校のときから、きみのような女性がタイプだったんだ。でも、俺なんか相手にされないと思って、声もかけられなかった」
結婚の対象としては悪くなかった。
まず身体が頑丈だし、性格もあっさりとして物事にこだわらない。体育会系らしい、おおまかな神経も、佐希子の言いなりになりそうで好ましく、学歴も勤めている会社も原田とくらべて多少まさっている。
佐希子の誘いに、これまでの二回と同じく、彼はふたつ返事でやってきた。といっても彼のほうから佐希子に声をかけたことはない。
待ちあわせた書店で彼は顔を見るなり、申し訳なさそうに言った。
「給料前で、俺、あまり金がないんだけど、いいかなあ」
前にも聞いた台詞《せりふ》だった。これで三回、彼におごることになる。しかし、結果がよければ、三回ぶんの出費などたいした負担にはならない、と佐希子は気持を切りかえた。
支払う側の佐希子のふところ具合を考えてか、彼はまず居酒屋へゆこうと提案してきた。場所はどこでもよかった。佐希子の目的はそんな目先のことではない。
あまり清潔とはいえない小さな居酒屋に入り、コップ酒が目の前に置かれるなり、彼の細い目はうれしさに輝いた。よほど酒が好きらしい。
彼は食欲も旺盛《おうせい》だった。さかんに飲み、かつ食べる。そればかりに気を取られている。
佐希子はどうにかしてロマンチックな雰囲気に持ってゆきたいのだが、彼の話題はもっぱら仕事と、佐希子の知らない友人についてで、会話はすれちがってばかりだった。
居酒屋ではロマンチックに盛りあがるのも場違いだろう、と佐希子はもっぱら聞き役にまわり、二軒目の店に望みをかけた。
さらに、それを実行にも移した。居酒屋をでると同時に言ったのだ。
「静かなバーかスナックにゆきたいわ」
彼は自信たっぷりに胸をそらせた。
「おう、それならまかせてくれ。俺の行きつけのスナックがある」
「カラオケは?」
「ない。静かな店だ」
案内されたスナックは、さっきの居酒屋と同様に年季の入った、客の体臭がしみこんでいるような古くて、わびしい店構えだった。客の体臭ばかりではない。トイレの臭気もそこはかとなく漂っている。
店のママは佐希子の母親ぐらいの五十すぎで、血色の悪い、むくんだ顔が、妙にこちらの不安をかき立ててくる。同情、に近い。
そこでもクラスメートの彼はウィスキーのグラスを何杯もからにした。水割りではなくオンザロックをかなりの速さでたいらげてゆく。
彼があまり酔わないうちに佐希子は本題に入ることにした。
「ね、クラス会のときに言ってたでしょう。高校の頃、わりと私が好みのタイプだったって」
「うん。脚の線が抜群によかったからな」
「女性の脚にこだわるわけ?」
「いや、そうとはかぎらないさ。脚ではきみが一位、バストの好みから言うと、ほら四組のあの子……ええと、なんて名前だったかなあ。で、ヒップの形のよさは一組の……」
「身体の部分ごとの好みなの?」
しらけた気持できき返す。
相手は平然と答えた。
「顔から脚までトータルした理想のタイプって、いそうでいないもんだよな」
「で、私は脚だけ……」
くじけそうになるのを、かろうじて自分で励まし、話をずらしてみた。
「女も二十五歳になると、いろいろと考えるのよねえ。たとえばね――」
佐希子はしんみりと語りはじめた。
カウンターに並んで腰かけているため、むかいあっているのより、ずっと正直に本心を口にだせた。結婚、職場でのわずらわしさ、両親との関係など、いくぶんおおげさにふくらませて、悩みや不平不満を、相手の気を引くニュアンスをこめてしゃべりつづけた。
かわいそうに、と相手に思わせる手[#「手」に傍点]だった。
ところが、いつのまにか彼はカウンターにつっぷしていた。寝息を立てている。
ママがぶっきら棒につぶやいた。
「このひと、いつもこうなのよ。大酒を飲んでは、こうやって寝てしまう。あたしも店を閉めれなくて困るのよねえ、まったく」
憮然《ぶぜん》として佐希子は椅子から立ちあがり、彼の肩をゆさぶった。
「帰りましょう。ほら、早く起きて」
相手は寝ぼけた声で言った。
「先に帰ってくれよ……ああ、お勘定は頼む……」
その夜、佐希子は屈辱感に頬をほてらせながら、日記帳をひろげた。
ボールペンを握ると、一挙に胸の中を哀しさがよぎってゆく。ほてる頬と、悲哀感をかみしめている心と、どちらも事実だった。両方とも本当の自分であり、佐希子は矛盾を感じない。
しかしボールペンは哀しみのほうに、より敏感だった。
「真実の出会いなど、はたしてあるのだろうか。
この世は錯覚だらけだ。その錯覚をさめた目で見ながらも、私は生きてゆかなければならない。
Hのことが思い出されてつらい。
彼のやさしさが、しきりと思い返される。
でもHにはこの私の気持は、けっしてとどかないだろう。
私は哀しい女だ。だれも愛してはくれない」
二週間後の土曜の夕方、佐希子と原田は結婚披露宴がおこなわれたあとのホテルのティールームで会っていた。花嫁はかつてふたりを引きあわせてくれた共通の友だちである。
「ウェディングドレスの彼女、とってもきれいだったわね」
佐希子はあざやかなピンクのミニ丈のドレスの下からのぞいている脚をしきりと組み直し、原田の関心をひきつけようとする。
だが彼は披露宴で飲みすぎたワインの酔いをさまそうとしてか、注文したジュースと氷の浮かんだコップの水を交互に口に運びつづけていた。
佐希子は胸につけたピンクのコサージュを指先で軽くつまみ、わざとしおらしく声のトーンを落とす。
「まっ白なウェディングドレスが似合ううちに結婚するのが、子供の頃からの私の夢だったわ……その白さに負けないぐらいの肌の張りがあるうちに……」
佐希子の言葉を無視して、原田はそばを通りかかったウェイトレスにおひやのおかわりを頼む。まったく聞いていなかったようだ。
落胆しかけた気持をいそいで切りかえ、佐希子はいつもの話題にもどった。めいっぱいの虚勢を張る。
「例のしつこい男、本当に困ってるのよねえ。一体どうしたらいいのかしら。ね、どう思う?」
原田はうっとうしげに、ようやく口を開いた。
「そいつはきみと結婚したがってるのじゃないのか」
「……まあね、多分、そうでしょうね」
「それだけ惚《ほ》れられてるのなら、思いきって一緒になったら」
「そんな……」
いつもらしからぬ原田の具体的なアドバイスに、佐希子は面くらった。
「そんな、私にだって好みがあるわよ」
佐希子の強い口調に、またもや原田は押し黙ってしまう。なんの感情も宿していない、飲み疲れしたまなざしだった。
原田のそっけない放心状態を、このときほど淋《さび》しいと思ったことはない。
佐希子は胸の中で叫ぶ。
(私を見てよ。見つめてよ)
この日が原田と会った最後になった。
伝票をチェックしていた佐希子は手の動きをとめ、腕時計をのぞく。同時に同じフロアのななめ奥へと目をこらす。
午後二時をすぎたこの時間帯、職場の中は閑散としていた。
営業部のほとんどは出払っていたし、佐希子が所属する総務部の連中も取引先の銀行へでかけたり、会議室でのお茶だしや営業部から頼まれた資料をまとめるために別の一室にこもりっきりだった。
フロアのななめ奥の営業部には数人の営業マンがそれぞれのデスクにつき、雑用をふくめた内勤にはげんでいる。
お目当ての彼は、いま電話中だった。佐希子と同じ二十五歳だが、大学卒の彼は、専門学校の二年を経て入社した佐希子の後輩にあたる。
用件がすみ、彼が受話器を置くのを待って、佐希子は内線番号のボタンを押す。
すぐさま彼が電話にでる。その後姿を遠くに見つめながら、佐希子は小声で話しかける。
「私、総務の岸辺です」
「あ、はい」
「この前のお願い、考えてくれたかしら」
「ええ、まあ」
彼の背中が前かがみになった。片手を額に押し当て、まわりをうかがうような困惑の気配が漂っている。
あまり女性|馴《な》れしていない性格だとは社内の噂から耳にはしていたけれど、佐希子にはその内気さとはにかみが好ましい。どこか原田を連想させるのだ。
「それで、ご返事は?」
「あのう、その件につきましては、後日、私どものほうから……」
逃げ口上にすぎない。
こうやって、これまでにも何回となく佐希子をはぐらかし、そのくせ、けっして自分からは連絡してこなかったではないか。自宅の電話番号も前々から教えてあった。
「後日などと言わずに、いますぐご返事してよ。おかしなひと。ドライブにいくぐらいなことを、どうしてそんなに迷ったりするの」
「そう言われましても、こちらの都合もありますので……」
さらに佐希子がたたみかけようとしたとき、彼の隣の席の電話が鳴ったようだった。その席の者の姿は見当らない。
救われたような声で彼が言う。
「すいません。電話がかかってきましたから」
言い終らないうちに電話はきれ、彼が隣の席へ身を乗りだすのが見えた。
同じ日の夕方。
出先から営業マンたちが次々と帰社してきた終業まぢかな時刻、佐希子はふたたび内線番号で彼を呼びだした。
岸辺です、そう名乗ったとたん、相手は押し黙った。周囲の者たちの耳を気にしているに違いない。
意気地なし、と佐希子は胸の中で、からかい半分でののしりながら、あと半分はスリリングなこの状況を楽しむ気持も働く。
午後はがらんとしていた佐希子のまわりも、ひとの動きが活発になっていた。
いつ、どのように、他人が耳をそばだてるか、わからない。
そのすきまをぬって、こうして内線電話をかける大胆さと、逃げ腰の彼を追いかける醍醐味《だいごみ》は、息苦しいほどの甘美さと、そこはかとない自虐の快感があった。相手が後ずさりすればするほど、追いかけたくなる。
「ねえ、どうしたの。何か言って」
甘えるような、おどすような口ぶりでせがむ。
営業部の彼は息をひそめている。
「だらしがないのね。そんなにまわりが気になるの。男のくせに」
そう言い捨てて、わざと乱暴に電話をきった。
二、三日はほうっておいて、また内線電話をかけることにしよう。
原田に似た、こういう内気で、おだやかな気性の男の気持を自分のほうにむかせる自信は多少はある。
原田にしても最初のうちは、ずいぶんと煮えきらなかったのだが、結局は、佐希子のこまめなアプローチに負けてつきあうようになった。
ふんぎりの悪いそうした男を、最終的にからめ取るにはホテルにゆくにかぎる。いったん身体の関係が生じたなら、男はそう簡単には、はなれてゆかない。たとえ、それが愛情よりも性欲に支配されてのことだとしても、男は女に引きずられてしまう。佐希子は、そんなふうに男を見なしていた。
ただ原田との破局から重要なポイントを学んだし、それをくり返してはならないと自戒する。
ホテルへゆく手順だった。
あくまでも男の側からそう仕むけたというふうに持ってゆかなくてはならない。
原田に対しては、佐希子はせっかちで結果をいそぎすぎた。
結婚をめざしている二十五歳まで、あと一年しかないという気持のざわめきが、むきだしの言葉となって吐きだされてしまった。
「私、このまま帰りたくないの。一晩中、あなたと一緒にいたい」
この言い方は失敗だった。
あとあとまで原田にこだわりを残させたし、佐希子を軽はずみな女ではないか、という疑いを彼の心のすみに根づかせてしまった。
いま接近している営業マンの彼には、そういうまちがいはするまい。
だが最後の一点を見つめていったとき、佐希子はわからなくなる。
原田は本当に私を愛していたのだろうか。
それとも無造作に身体を与えた私のような女を、結婚前につきあう手頃な相手と割り切っていたのだろうか。
つきあっていた一年間、原田は佐希子をほめるということを、いっぺんもしなかった。または、それに近い言葉さえも。
容姿については仕方がないにしても、性格上の好ましさを口にしたためしがなかった。
しかし、その考えを佐希子はいそいで払い落とす。発想をすばやく変える。
原田は無口だった。それだけの話だ。
営業マンの彼を内線電話で口説きつづける一方で、佐希子は広報室のふたつ上の男にも積極的に近づいていた。
こちらは、おおっぴらな態度で、いかにも彼になついている様子を、かくさなかった。
「私のお兄さんみたいに思っているの」
本心はもちろん違っていた。
望みは、兄のように慕っているうちに、いつのまにか恋愛感情が芽ばえた、というふうになりたい。
広報室の男はまんざらでもなさそうだった。
「私のお兄さんみたいな存在。私はあなたのファンなの」
そう言われて不愉快さを感じる人間はいないだろう。
しかし佐希子は、営業マンの彼と広報室の彼のふたまたをかけているつもりはなかった。
日記に書きとめる自筆の自画像と、現実の自分の行動に矛盾をおぼえないのと同じく、佐希子の内側では、どちらの男にも好感をいだき、どちらとも具体的には何も起きていないのだから、こじれることはない。
出会いのきっかけは多ければ多いほどいいはずだった。
そして、いくら待ってもきっかけが訪れないのなら、自分から一歩進んでゆくしかないだろう。
おとなしく引っこみ思案なままでは、男の関心を引くタイプではないのを、佐希子は十分に知っていた。
だれかに真剣に愛されたかった。その愛がまっしぐらに結婚にむかってほしい。
だが、男のほうから声をかけてくることはほとんどなかった。
そのためには、自分から男を愛そうとつとめる。
やがて、その男たちのだれかが、自分にふりむいてくれるかもしれない。
営業マンの彼と広報室の男、ふたりに媚《こび》をふりまきながら、佐希子の日記の中の女は、ますます打ちひしがれ、哀しみに沈み、ぬくもりに満ちた男の両腕、自分を抱きとめてくれるそれを切実に求めつづけていた。
淋《さび》しい女だった。
オーナー社長の急死で、臨時の人事異動が十一月の中旬にあわただしくおこなわれた。
仕事を結婚までの腰かけと思っている佐希子のような社内の大半のOLたちにとっては、それはさしたる問題ではなかった。
上司にどんな人物がこようとも、自分は自分であったし、事実、これまでにもそうしてきた。
ただ人事異動にともなう、いくつもの歓送迎会は一種のお祭り気分で心は浮き立つ。
人望がなく嫌われ者だった上司を送りだす場合は「ばんざい、せいせいした」という気持からはしゃいだし、人気のあった上司を見送るときは「悲しいです」の気持を思いっきり表現でき、日頃忘れていた自分の中の善意を心地よく引きだせた。
新しく迎える上司に対しても、期待と不安を秘めて、たがいに何かを探りあうやりとりは、毎日の単調な伝票整理からは味わえない緊張感をもたらす。
新しい上司にまつわる噂話も、つかのまの気晴しになる。
他の同僚はどうなのかたずねたことはないけれど、自分には関係のない、こうした人事異動のたび、佐希子はひっそりと張り切った。
というのもセクションごとの歓送迎会のあとの二次会、三次会では、かなりの無礼講で、セクションを越えてだれでも参加できるオープンなシステムが、いつの頃からか社内にできあがっていた。
その二次会や三次会の場所にすべりこみ、まぎれこむのが、佐希子は好きだった。しかも必ずめいっぱいのおめかしをして、同僚たち、特に男性たちから「おや!?」というまなざしで見られる瞬間の快感はやみつきになっていた。
その夜、佐希子は営業部の部長の送別会の二次会にもぐりこんでいた。
二次会の店はすでにあらかじめ決まっていて、佐希子も事前に耳に入れ、いったん自宅に帰ってから着がえをしてでてきたのだった。
スナックで開かれた二次会は参加者も多く、盛りあがっていた。営業部長の温厚な人柄と、部下の面倒見のよさの成果が、そこに端的にあらわれているようだった。
参加者のほとんどは、女性社員もふくめてかなり酔っていた。聞くところによると、一次会で何本ものウィスキー壜《びん》をからにしてきたのだという。
身体にぴったりとしたミニ丈の白いワンピースを着た佐希子は、ほの暗いスナックの中では、女性たちのだれよりも目立った。
酔った男たちは口々にその脚の美しさをほめたたえ、なかには酔いの勢いにまかせて、さわろうとしたりもする。
「やめてください……まあ、いやらしい」
と佐希子はのびてくる男たちの手から逃げまどいながらも、その顔は誇らしげに笑みくずれている。
逃げるふりをしながら、しかし佐希子の視線は、例のお目当ての営業マンがどのへんにすわっているか、しっかりと見定め、その方向へと進んでゆく。
やがて、足もとがもつれたふうを装って、佐希子は彼の横に倒れこみ、自分の席を確保するのに成功した。
相手は一瞬、酔いがさめた気まずい表情になったが、席を立つそぶりもなく、おだやかにグラスを手にしていた。
カラオケを唄《うた》いだす者、それにあわせて踊りはじめるカップル、仕事に関して議論をたたかわせている数名など、店内はさらににぎやかさをましてゆく。
佐希子は隣にすわっている営業マンの耳もとに顔を近づけた。カラオケがボリューム高く流れる中で、それは不しぜんな仕草ではなかった。
「どうして、いつまでも連絡をくれないの」
「そう言われても……」
「私、ずうっと待っていたのよ」
「すいません」
「ね、はっきり言って、私のこと、どう思ってるの」
「どうって……うまく説明は……」
「あやふやなひとねえ」
「俺、岸辺さんのこと、まだよく知りませんから」
「あら、おたがいによく知らないから、知ろうとしているのよ、私は」
「まあ、そうも言えますが……」
本当に原田に似た性格だった。
最初の頃の原田も、いまとそっくりなあいまいさで接していた。
酔っていると見せかけて、佐希子は片手を彼の腕に乗せる。
「私、あなたのこと知りたいの」
「…………」
「もっとくわしく知りたいの。わかってくれるでしょう」
そのとき目の前に立つ者がいた。
「よう。元気でやってるか、飲んでいるか」
広報室の男だった。
にごった目もとと、ゆるんだ口調からすると、相当に酔っているらしい。
「きみか」
男は薄笑いを浮かべて、齢下の営業マンを見つめた。
「きみな、営業マンなら、もっとちゃんとしろよ。女に追いかけまわされて、先輩にどうしたらいいのかなんて相談するとは、情ないじゃないか」
「先輩、ちょっと待ってください」
営業マンはあわてて腰を浮かせかけた。
が、広報室の男はかまわずにつづける。
「きみも噂は聞いてるんだろう? 彼女はなかなかの女さ。社内で知らない者はいない。内線電話できみを口説いているかと思えば、この俺にもしきりと色目をつかう。まあ、どっちが本命なのか、どっちの男が彼女の手にオチるか、社内のやつらは賭《か》けをしている」
そばにいる女性社員たちがくすくす笑う声がした。
「きみ、賭けのこと、知らなかったのか。ばかだなあ。俺はとっくに知っていて、だから、きみがオチるほうに賭けておいた。だって、そうだろう。この俺がオチるはずがない。彼女の手のうちは全部わかっているんだから」
女性社員たちの笑いは、そこで爆笑に変わった。
広報室の男もにやにやしている。
営業マンは途方にくれた表情。
そのそばで佐希子は血の気の失《う》せた顔で、目の前のテーブルを見つめつづけた。
テーブルの上はグラスやポップコーン、びしょぬれになった紙のコースターなどが散乱していた。
まるで、いまの佐希子の頭の中のようだった。
広報室の男がテーブルをはさんだ反対側のスツールに腰をおろした。
「なあ、岸辺くん。プライベートなことは、あまりあれこれ言いたくないが、このままだと、きみは損をするぞ。自分がどう言われているのか知っているのか? 岸辺みたい≠ニいう言い方が社内ではやっているが、この意味、わかるか。手当り次第に男にベタベタすること、すぐに男に色目をつかうこと、これを岸辺みたい≠ニ称する――」
ぎりぎりのプライドが佐希子の背すじをのばさせた。
「なんて言われようと、私は平気です」
ふいにまわりの笑い声は消えた。
「男なんて、たいして重要なものじゃない。私にとっては使い捨てと同じです。私にしてみれば、その程度にしか思っていない男関係のことで、あれこれ言われるのは、まったく心外です。言いたいひとには勝手に言わせておけばいい」
広報室の男は、もうどうしようもない、というふうに首を左右に振った。
「そこまで開き直るのか……そうか、わかった、きみの好きなようにやればいいさ。しかしな、岸辺くん、もううちの社内の男で、まともにきみの相手になろうとするやつはいないよ。これだけはおぼえておいてくれ。きみのためにも」
そして広報室の男はその場から去っていった。
この一件は翌日から、たちまちのうちに社内中にひろまった。
同性からは反感の目で、男性からは嫌悪のまなざしがそそがれた。
昼休みに一緒に食事をとる相手もなく、佐希子はまったくの孤立状態におちいった。
くやしさとつらさをかみしめながら、しかしもはや原田には相談できるはずもない。
悪評はいっこうに消滅してゆかなかった。
社内中から敬遠されている自分を、その視線を針のように全身で受けとめ、佐希子は日ごとに暗く内攻しつづけた。
そして毎日、日記帳をひろげた。
なぜか、恨むべき対象は思いつかなかった。
書きつづってゆくほどに、すべての発端はこの自分にあるという思いを深めた。
原田と出会ったときから、突然自分は変わってしまった。
結婚は二十五歳で、と願っていた、その一年前に彼と知りあったのが、物狂いのはじまりだったのかもしれない。
それが破れ去っても、物狂いはおさまらなかった。いっそうあせりが生じてきた。
ときおり日記を読み返してみると、抽象的な言葉の羅列ながら、性急に物狂いのまっただなかにのみこまれてゆく自分が、うっすらと透けて見えてくる。
佐希子は辞表を提出した。
十二月末付けになっていた。
退職願の理由として「一身上の都合」ではなく「結婚」と明記した。
いまのところ、そういう予定はいっさいなかったが、どうしてもその文字を加えたかった。
それもまた社内の噂になった。
反感や嫌悪が、その噂によって、せせら笑いに転化していったが、ただひとり、広報室の男は好意的だった。
廊下ですれ違ったとき、彼は微笑んだ。
「よかったな。きみは結婚したほうが幸せになれるよ」
送別会もないままに退職した。だが、それは佐希子が望んだことだった。
両親のすすめるまま、佐希子は翌年の三月に見合いした。
相手の沢崎は四歳上の建築設計士で、現在は小人数の設計事務所で勤めているが、いずれ独立したいという。
口かずの少ない、おだやかな性格は原田に近いものがあったけれど、いったん口を開くと、それは考え抜いた的確さで、芯《しん》の強さをうかがわせるひと言ふた言だった。
原田よりも、はるかに自分の意見なり、考え方を打ちだしてくる。
両家の親たちが乗り気になったため、とりあえず交際へと進んだ。
だが、佐希子の胸は、かつて原田にいだいたようなときめきはなかった。
沢崎は色白でもなかったし、目もとが長くて濃いまつげにおおわれてもいない。
太い首と、厚みのある胴と、けっして長いとはいえない脚の持ち主だった。
ときめきはないけれど、不思議な安心感はいだく。
それは結婚を前提にして、という取り決めのせいかもしれなかったし、沢崎の人柄がかもしだす雰囲気なのかもしれなかった。
その安心感は、佐希子をしぜんと素直にさせてもいた。
原田とかかわる前の自分がもどってくるようだった。
はじめてのデートの日、沢崎は佐希子の脚をほめた。
「最初からこういうことを言うと、いやらしい男と思われるかもしれませんが、佐希子さんはとてもきれいな脚をしていますね。ミニスカートをはいたらぴったりでしょうね」
次のデートのときはこう言った。
「ぼくはあまりしゃべるのが得意じゃないのです。特に自分については。ですから、遠慮なく質問してください。そのほうが話しやすいから」
三回目のデートに、佐希子は思いきってミニ丈のワンピースを着ていった。
沢崎はそれを見て、これまでの彼らしくない、あからさまな感情をあらわした。
「よく似合います。いや、本当にすてきだ。本当にきれいな脚です、見とれました」
二週間後に会ったレストランで、佐希子はたずねた。
「恋愛の経験は、もちろん、おありなんでしょうね」
沢崎はまじめに率直に答えた。
「恋はしたことがありますが、いつも片想いばかりでした。ぼくは口下手なものですから、いつも相手に打ちあけられなくて……でも、あなたのような女性なら、恋愛のひとつやふたつ、あって当然だと思います」
「気になりませんか? もし私が過去にそういうことがあっても」
「当り前じゃないですか」
沢崎は白い歯を見せて笑った。
「何もないより、少しは男心をわかっている女性のほうが頼もしい、というより、手がかからないでしょう」
「男心なんて、私にはわかりません」
そして佐希子は、二十五歳を直前にした自分のみっともなさだけは自覚できたつもりだ、と微笑みながら語った。
「みっともなさ?」
「ええ。結婚へのあせり、だったのでしょうね。物狂いの状態といいますか……」
「物狂い?」
「はい……日記を読み返すと、そうとしか言いようがありません」
翌日の夜、沢崎から電話がかかってきた。
言いにくそうな歯切れの悪い口調だった。
「佐希子さん、嫌ならはっきりそうおっしゃってください。あのう、きのう言っていたあなたの日記ですが、ぼくが読んではだめでしょうか。いや、厚かましいお願いなのは承知しています。ただ、あなたをもっと知りたくて。嫌ならむりにとは言いません」
返事は数日後にすることにした。
佐希子の気持はゆれた。
沢崎は会う回数をかさねるほどに、そのよさがじんわりと伝わってくる相手だった。
だが、やはり、ときめきはない。
好きだ、という思いがないままに、結婚はできるものなのだろうか。
好きでもなかったのに、そうあとになって悔やんだりしないだろうか。
また佐希子の日記を読んだあと、彼はどんな反応をしてくるのか。
けっして気分のよいものではないに違いない。
佐希子のこれまでを、もっと具体的に詮索《せんさく》したくなるとも考えられる。
当然、この縁談はこわれてしまうだろう。
いや、いまのような気持のままなら、縁談はこわれたほうが正解かもしれない……。
数日後、佐希子は沢崎の自宅に電話をかけた。
自分のありのままの思いと迷いを語った。
意外な言葉が返ってきた。
「じつはぼくもあなたと同じ心境なのです。ただ日記を見せてもらったなら、自分の心が正確につかめるような気がしました。その日記を自分はどう受けとめるか、何かリトマス紙みたいで、とても失礼な話なのですが」
多分、と佐希子はその瞬間ひらめいた。沢崎が日記を読んだあとの結論は、同時に自分自身のそれにもなるだろう。
結着を沢崎にゆだねているのではなかった。
日記を彼がどのように解釈し、どのように感じたかによって、沢崎の人となりが、より明確にあらわれてくる。これまで見えなかった部分があぶりだされてくるかもしれない。
次の日、佐希子は沢崎の自宅に日記を郵送した。速達にも書留にもしなかった。万が一、何かの事故で日記が紛失してもかまわないという、半ばあきらめの感情がしきりとうごめいていた。
十日後、ふたりは新緑の香りのする公園をゆっくりと歩いていた。
佐希子の手には沢崎から返却された日記の入った紙袋があった。
「あなたは見かけより、ずっと淋《さび》しがり屋で、哀しさに敏感な女性なんですね。読んでいてつらくなりました」
それから沢崎は高校の古典の授業で学んだ「蜻蛉《かげろう》日記」を思い出した、とつづけた。
たくさんの嘆きや哀しみを書きとめながら、何かの救いを求めようとする心のもがき、自分を律しようとする痛々しいプライド、Hという男性への切々とした想い――。
うつむきがちに佐希子はつぶやいた。
「前にも言いましたように、みっともない姿だったでしょう」
「いや、そうは思わなかった。ただ、あなたから二十五歳というヒントをもらいましたから。つまり二十五歳というのは、女性が最初に結婚を意識する年齢……男のぼくにはそこを本当に理解できたかどうか、自信を持って断言はできませんが」
「男のひとには、そういう時期があるのですか。あせりというか、物狂いするような」
「魔のとき、ですか……あるのでしょうね。でも、とても日記に書けるしろものではない」
「なぜでしょう」
「はしたなさすぎます……佐希子さん、男が生理的にいちばん女のひとの身体を求める年齢をごぞんじですか」
佐希子は顔を赤らめながらうなずく。
「ええ、話には聞いてます」
「男の魔のときは、あの時期じゃないのかなあ。自分自身と闘うしかない、あの年齢が」
しばらくふたりは黙って公園を散策した。
やがて太い一本の樹にでくわした。数百年も生きながらえてきたであろう見事な幹の厚さであり、左右の青空をさえぎる堂々とした枝ぶりだった。
沢崎は樹を見あげ、さりげない口ぶりで言った。
「ぼくはおもしろ味のない男ですが、あなたには二度とああいう日記を書かせない男だと自惚《うぬぼ》れています」
その真意を探ろうと耳を澄ませた佐希子を振り返り、彼は白い歯を見せて笑った。
「あの日記の女のひとは、あなたの創作だと思いたいですね。でも創作だとしても、あなたの分身は必ず反映されているのでしょう」
そう言ってから沢崎は頭をかいた。照れくさそうだった。
「どうもあなたといると、ぼくはおしゃべりになるみたいです。自分でも驚いています」
ふいに佐希子の内側から原田の残影がきれいに消えていった。
原田は一年間のつきあいで何ひとつ変わらなかった。
でも沢崎は、このひとは変わってゆくかもしれない。私もまたそれにつられて変化してゆくに違いない。
自信のようなものがわいてきた。
沢崎を愛せるという自信だった。
男たちにむけて飢えた目をしていた頃の、自分の自信のなさが、あてどなさが、遠い出来事のように思われてきた。
「沢崎さん……」
相手がゆっくりとこちらを見る。
一瞬後、佐希子は微笑んでいた。それは沢崎に対してなのか、遠ざかってゆく原田との思い出にむけてなのか、区別はつかなかった。
いぶかしんだ表情の沢崎を見つめたまま、佐希子はゆっくりと微笑みをひろげつづけた。
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捨てる女
受話器を耳に当て、ひと言ふた言しゃべるうちに、玉紀《たまき》はいつもの美和子《みわこ》らしくないのに気づいた。
なんとなくこちらの様子をうかがうような、また妙におもねるようなニュアンスが、あいまいに引きのばす語尾に感じられる。
単刀直入に玉紀はたずねた。何事につけても、ぐずぐずしているのは性分にあわない。
「美和、はっきり言ったら? 持ってまわった言いまわし、私が嫌いなのは知ってるでしょ」
「うーん、いいのかなあ」
「早くしゃべってよ」
「じつは平賀《ひらが》さんのことなんだけど……」
平賀|渉二《しようじ》はここ一年ほどの玉紀の恋人である。二十六歳の玉紀よりふたつ上で、K新聞社の社会部の記者だった。
「彼がどうかしたの」
「本当にこんなこと話していいのか、まだ迷ってるんだけど……じつは平賀さんが女のひとと歩いているの見ちゃったの」
「仕事柄そんなのはいつものことよ」
平賀が玉紀以外の女性と連れ立っていたというだけで、一大事件のように忠告してくる美和子の稚《おさ》なさに、玉紀は半分うんざりし、残り半分は困ったものだ、と胸のなかで苦笑する。
「でもね、三回とも同じひとなのよ。三回とも偶然に私が目撃したわけでもあるけれど」
「どこで見たの?」
「最初は路上ですれ違ったの。次は、ほらTホテルの裏にあるパブ・ディーン≠ナ。カウンターに並んですわって、すごく親密な雰囲気だった。三回目は地下街の、例の待ちあわせ場所によく使われている噴水の所」
しかし玉紀はまだ半信半疑だった。職業柄、平賀がある取材のために特定の女性と回をかさねて会うことは珍しくないと聞いてもいる。
「どんな女性?」
「美人だったわ」
まるで自分が玉紀の心の代弁者みたいに、美和子は敗北感をにじませた沈んだ調子でぽつりとつぶやいた。
玉紀はわざと陽気にまぜっ返す。
「私より美人なの」
「うん。かなりのレベルの美人よ。スタイルもいいし、ファッション・センスもいいの。ちょっとモデルっぽい感じ……ああ、男好きする点では玉紀と似てるわ。ということは平賀さん好みの女性とも言える」
「美和、その三回の日にちがわかる?」
「待って。メモ帳を取ってくる」
几帳面《きちようめん》な彼女は日記と日録の中間のようなメモ帳を毎日つけていた。なかなか便利で貴重なメモ帳で、記憶があやふやなとき玉紀は美和子に電話をして、その前後数日のメモを読んでもらい思い出すきっかけに使わせてもらうのだ。これまで、かぞえきれないくらい役立っている。
美和子が受話器にもどってきた。
「ええとね、四月十日の土曜日、同じく四月十六日の金曜日、二十一日の水曜……この一週間ほど私、悩んでたのよ。玉紀に言うべきかどうかって」
玉紀は相手の後半の言葉はうわの空で聞き流した。頭のなかでは美和子の言った日にちを追っていた。
「ね、玉紀、心当りはあるの」
そくざに返答する。
「その三日間のことなら、彼から聞いてるわ。アパレル関係の連載記事の準備で、その方面の女性に取材するって」
「そうだったの」
ため息まじりに美和子は言った。拍子抜けしたような印象もなくはない。
「私の早とちりね。ごめん、玉紀。余計なおせっかいをしてしまって」
「ううん、美和の心配ありがたいと思うわ」
電話を切ってから玉紀は苛立《いらだ》った気持でキッチンにゆき、冷蔵庫からさっき勤め帰りにスーパーマーケットから買ってきたアイスティーの一リットル入りのボトルを取りだし、手荒くグラスについだ。勢いよく傾けたため、グラスの外側まで濡《ぬ》らしてしまった。
それにはかまわず、ひと息にアイスティーを飲みほし、二杯目をグラスに満たして、ふたたび布張りのソファにもどる。
いまいましさがこみあげてきた。
美和子から教えられなければ、このまま平賀にだまされてしまうところだった。
この一月から玉紀と平賀は平日に会うことに決めた。
それまでは週末ごとにそとで落ちあい、食事をしたり飲んだりして、玉紀がひとり暮らしをしているこの部屋に連れ立って帰ってくる。平賀は二回にいっぺんは、泊っていった。
週末は別々にすごそう、と言いだしたのは玉紀からである。
平賀は不満そうな顔つきをしたが、へんな部分で男の意地を張るくせのある彼は、なぜとききもせずに、ぶっきら棒に答えた。
「わかった。それもいいかもしれないな」
しかし、いまから思えば、彼は内心ほくそえんでいたのかもしれなかった。
週末は玉紀に拘束されず、自由気ままな独身男性のすごし方ができる、と。
実際、平賀は週末を利用して、さまざまな所に出没し、そして「ちょっとモデルっぽい」女性と知りあったに違いない。
美和子から聞いた「四月二十一日」ですべてがはっきりしたのだった。
水曜日のその夜は平賀とデートの約束だったのに、夕方、会社に彼から電話がかかってきた。
「すまない。急な仕事が入って、きょうはキャンセルにしてくれよ」
ほっとしながらも、予定がこちらの都合ではなく相手の都合で変更される不快さから、玉紀はむっとして問いつめる口調になった。
「そんなに急で大事な仕事なの」
その瞬間、彼は口走ったのだ。
「ああ、ちょっと警察がらみの面倒な事件になりそうなんだ」
警察がらみの仕事が、どうして地下街の噴水そばの「モデルっぽい」女性と会うことにむすびつくのか。
平賀はあきらかに嘘をついた。
急な仕事が入ったのではなく、彼女から突然の呼びだしを受けたのだろう。しかし、玉紀との約束をキャンセルしてまで、彼女のほうを選んだというのは、よほどせっぱつまった事情があったのか、あるいは平賀がそれだけ相手に夢中になっているかのどちらかしか考えられない。
玉紀は、おとといの月曜日に会った際の平賀の言動をこまかく思い浮かべてみた。
玉紀という恋人がいながら、かげで別の彼女とつきあっているにしては、図々《ずうずう》しいぐらいにこれまでどおりの平賀だった。
相変らずの無口さで、玉紀がしゃべる会社の出来事に興味深そうな目で耳を傾け、ときおり知りあった当初と同じ情のこもったまなざしをむけ、帰り際には「部屋にいってもいいかな」とさえ口にした。ちょっと照れたような、断わられるのをなかば覚悟したような、そんな態度まで示してみせたのだ。
もちろん玉紀は拒否した。週末ではなく平日に会うようになってからというもの、ひと月に一回しか彼を部屋には入れないと決めていた。
見かけによらず平賀は意外としたたかな一面を持っていたらしい。
ふたりの女性を同時に手玉に取れるような性格とは思ってもみなかった。
だからこそ、玉紀は朴訥《ぼくとつ》なそこに新鮮さを感じ、一年近くもかかわってきた。
彼はこれから先どうするつもりなのか。このままふたりの女性をあざむきつづけるつもりなのか、いずれか一方を切り捨てる心づもりでいるのだろうか。
そうはさせない、玉紀はきつく唇を噛《か》んだ。決着をつけるのは、この私だ。
そして玉紀は平賀の気持が他の女性に移っていると知ったいま、にわかに彼を手放したくないと思いはじめていた。
意地なのか、愛情からなのか、判然とはしない。
ただ、ここ数ヵ月の倦怠感《けんたいかん》、全身を気だるくおおっていたものが、一挙に払い落とされた気分になっていた。
数ヵ月前から平賀に対する玉紀の関心は薄れだしていた。
具体的な理由はなかった。
正直に言うなら、飽きた、のひと言につきる。
平賀だけではなく、どんな男性とも玉紀は一年以上つきあったためしがない。必ず飽きてしまう。
学生時代から玉紀は男性に不自由しなかった。
性格は勝気で、気まぐれ、相当に自分勝手であったけれど、その容姿は見事なまでに、そうした内面の気性とは正反対な雰囲気をかもしだしていた。
外見は楚々《そそ》として古風なタイプだった。
色白で、やや細長の顔に、ととのってはいるけれど、どことなく哀愁をおびた目鼻立ちは、黙っているだけで、ある種の男性たちの胸をざわめかせた。
自己主張の強い、自分のわがままをどこまでも押しとおそうとする女性に嫌気のさした男性とか、保護者意識の強い男性、もしくは女性|蔑視《べつし》の傾向を持つ男性などが、そんな玉紀の見かけには、ことさら弱かった。
体型も得をしていた。古風な顔立ちを裏切らない細身の、肩幅のない、ほっそりとした体つきは、いかにも頼りなげで、男性の支えを必要としているかのようだった。
男性は次々と積極的に玉紀に近づいてきた。近づいても、彼女はむげには断わらないだろう、少なくとも男性に恥をかかせるようなことはしないタイプのはずだ、そう思わせるのも玉紀の持ってうまれた天性のものとしかいいようがない。
事実、玉紀はどんな男性にも侮辱されたと思わすことなく、やんわりと拒むすべを心得ていた。自分について悪い噂が立つのは不利だ、そうわかっていたからである。ふられた男性が、自分をふった女性の、あることないことを悪しざまに言いふらす例は、いくつか見てもきた。
近づいてきた男性のなかから、玉紀は、そのおりおりの気分で相手を選びさえすればよかった。
選ぶ男性のタイプの一貫性はない。
ただ、どういったタイプの男性とつきあっても、しぜんと玉紀が主導権を握るかたちになった。
勝気、気まぐれ、自分勝手といった性格に加えて、玉紀は相手の心を読み取るのが早く、だからどの男性もそれとは気づかずに、玉紀の言いなりになってしまう。まるで彼自身が決めて行動しているような錯覚をいだいたままで。
そうした玉紀を観察していたらしい、学生のたまり場になっていた大学そばのパブのママは、卒業まぢかになってから、真顔で言ったものである。
「ね、玉紀ちゃん、就職先の会社がいやになったら、さっさと辞めても、あなたなら夜の世界で十分にやってゆけるわよ。そのときは私が相談に乗るわ」
社会にでてからも言い寄ってくる男性は少なくなかった。
多少の変化は、その相手が同世代よりも年配の男性がぐんとふえたことだったが、四、五十代のかれらの扱いも玉紀はすぐさまのみこんだ。二十代の男性にはない経験豊富な話題と財力は、はじめのうちこそ物珍しかったけれど、半年もたつと飽きてくる。
いったん飽きが生じたなら、相手がどんな手段を講じても、玉紀の気持をひるがえさすことはできなかった。
平賀も玉紀に近づいてきたひとりである。
彼の勤務する新聞社と玉紀の会社が同じブロック内にあり、昼休みによく利用する喫茶店でひんぱんに顔をあわせ、やがて彼が遠慮がちに声をかけてきたのがきっかけだった。
自分の言いなりになりそうな実直で、誠実そうな彼に、その頃の玉紀は安心感を見いだした。スレ[#「スレ」に傍点]ていない感じがよかった。
というのも、平賀に声をかけられるほんのひと月前に、妻子持ちの四十代の男性と別れたばかりで玉紀は精神的に疲れはてていた。
例によってこちらはとっくに飽きてしまったのに、相手がしつこかった。別れない、と言い張って、相当に玉紀を手こずらせた。
そして、ついに玉紀は相手を脅した。そこまではしたくなかったけれど仕方がなかった。
「あなたの会社の上司に私たちの関係を洗いざらいしゃべるわよ。私につきまとって迷惑している、どうにかしてくれって」
手を切るまでに三ヵ月かかり、玉紀はくたくたになっていた。
そこにあらわれたのが平賀だった。
彼に対しては「安らぎ」を求めてつきあいはじめた。既婚の四十代男性とのスタートは「障害を乗りこえて」盛りあがったし、その前のフリーのカメラマンの彼には「男のロマン」を感じ、だが、それとても三ヵ月しか持たなかったのだ。
平賀の実直さと誠実さが、安らぎではなく退屈に変わってきても、玉紀はいつになく辛抱強かった。
なぜかすぐに別れようとは考えず、会うのを週末から平日にずらしたり、部屋に泊らせるのは月に一回と決めたり、と時間稼ぎをしてきた。
われながら不思議だった。
飽きたなら、まっしぐらに強引に別れの方向に持ってゆくのが、これまでの玉紀の性分であり、相手の気持を思いやる発想など持ったためしがない。
しかし、ここにきて二十六歳という年齢が漠然と結婚を意識していて、その対象にふさわしいふたつ上の平賀を、とりあえず手もとに残しておこうとする打算が働いているのだろうか……まさか、と玉紀はその考えを打ち消す。
自分がその気になりさえすれば、平賀よりはるかに条件に恵まれた結婚相手が見つかるはずだ。
一体、自分は平賀のどこにこだわりつづけているのか、そう胸に問いかけるたびに呪文《じゆもん》のようによみがえってくるのが美和子の台詞《せりふ》なのである。
「平賀さんはいいひとよね。学生の頃からずっと私は玉紀のつきあった男のひとたちを見てきたけれど、彼は人間として、どのひとよりもいちばん信用できると思う。玉紀の友だちの私にもやさしくしてくれるしね」
玉紀とは反対に美和子は男性に対して用心深かった。そうした経験もほとんどない。
だが美和子なりの言いぶんはあった。
「私は本当に好きになった男性と長くじっくりと時間をかけて交際したいの」
また、つねづねこうも言っていた。
「玉紀のかかわる男性をそばで観察していると、とてもためになるわ。信頼できるひとか、ろくでもないやつか、目だけはしっかり肥えてゆくもの」
その美和子が手放しでほめたのは平賀だけだった。
二杯目のアイスティーのグラスをからにしてから、玉紀はコードレス電話を手に美和子の住むマンションの部屋の番号を押した。
さっきはカッとなってしまったけれど、彼女の目撃した状況をもっとくわしく知りたかった。
「あ、私、玉紀。さっきの平賀さんの件なんだけど、もう少し教えてもらいたいの」
「うん、いいわ。どんなこと」
「美和子の見た印象では、どっちのほうが楽しそうにしていたの?」
「女性のほう。露骨にはしゃいでいたし、平賀さんにべたついてた。仕事がらみの相手かもしれないけれど、あれは本当にあぶないなって思ったわ。だからこそ玉紀に電話したの」
「平賀さんの反応は?」
「彼はあまり表情にあらわさないし口かずが少ないから……うーん、私にはその心中は読めなかった」
「そう。ありがとう」
電話を切ってから三十分ほどして平賀から電話がかかってきた。
「こっちのスケジュールの調整もあるから、来週は何曜日に会えるか、一応きいておこうと思ったんだ」
別の彼女とかちあわないための調整だろう、そう玉紀は心のなかで毒づきながら、すかさず答えていた。
「週末がいいわ。そう、土曜日にして」
平賀が彼女と会っているのを見た美和子の話では、その三回のうちの二回が週末だったのをとっさに思い出し、わざと困らせてやりたかった。
だが彼は狼狽《ろうばい》の気配もなく応じた。
「わかった。しかし土曜日に会うのは久しぶりだな。じゃあ、いつものように六時にN書店で」
平賀と会うまでの十日間、玉紀は毎日考えつづけた。
彼に飽きかけているのは事実だった。
しかし別の女性の出現は予想外で、そのことが気にくわない。
これまではライバルなどあらわれる余地がないくらい相手の男性が玉紀にのめりこんでいる状態のなかで、玉紀のほうから一方的に別れを告げてきた。
それなのに今回は、もしかすると平賀が他の女性に心を奪われるあまり、玉紀に別れを切りださないともかぎらなかった。
その光景を想像すると玉紀は腹立たしくなってくる。
ぜったいに我慢できない。
彼女とのつきあいはいつからなのかわからないけれど、少なくとも玉紀が平賀に飽きて、会う曜日を変えてからなのは、まちがいがなかった。
先に飽きたのは玉紀であり、それをきょうまでなんとなく持続させてきたのも玉紀である。主導権はあくまでこちらが握っていた。
なぜなら、平賀に飽きを感じたあの時点で、玉紀は容赦なく彼を切り捨てることもできたのだから。
それをしなかったのは、平賀の実直さと誠実ぶりが、かつての男性たちのそれとは違って奥ゆきと幅を感じさせ、まったくの他人になるには、どことなくもったいないような気がしたからだ。さらに美和子のおすすめの男性なのも気持に引っかかっていた。
直感に従って、飽きがきたと同時に、別れを告げればよかった。
案の定、かかわってまる一年になろうとしている現在、彼は目移りしかけているか、してしまったではないか。
玉紀がもっとも怖れていたことだった。
いつ頃からか、玉紀は捨てられる女にだけはなりたくないと心に誓っていた。多分、両親の別居がそう思わせたのかもしれない。父が他に女性をつくり、母に離婚を願いでたが、かなえられなかった。そのため父は家をでていったのである。父に捨てられた母は意地になって籍にしがみついた。
あれから十年になる。父に捨てられた母は夫の悪口と恨みをいまだに玉紀にむかって言いちらし、その姿はみじめで、みにくかった。そして、いまだに籍を抜いてはいない。
就職と同時にひとり暮らしをはじめたのも、そんな母と顔をつきあわせているのがいやで、母の猛反対を押し切って家をでた。いまでも同じこの街に住む母のもとに帰るのは年にかぞえるぐらいしかない。
そう、捨てられる女になるのはまっぴらだった。
平賀と会う約束の日の前の晩、美和子が電話をかけてきた。
「例の彼女のこと、平賀さんと話しあってみた?」
「美和子は私の性格をよく知ってるじゃない。いちいちそんなことで目くじら立てるようでは女のプライドがすたるわよ。失敗だったわ。何ヵ月も前に彼に飽きたと思ったときに別れておくべきだった」
「で、どうするつもり?」
「結論はひとつ。こっちからさようならを言ってやるだけよ」
「……平賀さん、いいひとなのに……」
とっさに玉紀は声を荒らげていた。
「私がいながら、ほかの女といちゃつく男の、どこがいいひとなのよ」
翌日、N書店で落ちあったふたりは、行きつけの居酒屋にむかった。カウンターだけの小さな店で、無愛想なあるじは客同士の会話にもめったに口をはさんでこない。そこがよかった。
まずビールを頼み、料理を数品みつくろってもらうことにした。この店ではそうしたほうが、おいしい料理にありつけた。偏屈なあるじだった。
ふたつのグラスにビールをつぎおえたとたんに平賀が話しだした。いつもは口の重い彼にしては珍しい積極さである。
「きみに頼みがあるんだ。何もきかずに、しばらく俺とはなれていてくれないか」
一気にそう言ってから、平賀はグラスのなかのビールをたちまちに飲みほした。
玉紀はあっけに取られた。出ばなをくじかれたくやしさも胸によぎってゆく。
「それ、どういうこと?」
「だから理由はきかないでほしい」
「そんな勝手な……説明してよ。いえ、あなたは説明する義務があるし、私にはきく権利があるわ」
「権利と義務か。最近はだれもがこの言葉を大声でわめき立てている。うんざりするよ、まったく」
吐き捨てるように言うその口調にも、正面をむいた横顔にも、玉紀がこれまで知らなかった別人みたいな平賀がいた。野暮ったいぐらいに実直で、鈍感なまでに玉紀の言いなりになっていた男性とは思えない意志の強さをうかがわせる声と横顔だった。
玉紀はいくぶん気圧《けお》されながらも、負けじと背すじに力をこめた。
「私、わかってるのよ。別の女性ができたのでしょ」
「女性?」
平賀はやはり表情も変えずにきき返した。
「女性なんていないさ。何を根拠にそんなこと言いだすんだ」
「女性連れのあなたを見たひとがいるの。三回とも同じ女性だとか」
「仕事柄、同じ女性に何回か会うことはあるさ。それはきみにも言ってあるだろう?」
いつもと勝手が違った。平賀の動じなさがそれである。
玉紀は苛立《いらだ》った。主導権はこちらが握っていたはずなのに、今夜は巧みに彼のペースに巻きこまれていっている。
「じゃあ、どうして私とはなれたいのか、きちんと話してよ。女性が原因ではないのなら、あとはそんなに問題があることではないでしょう」
「きみを傷つける」
「そういう言い方って、いちばん卑怯《ひきよう》なのよ」
平賀はしばらく黙りこんだ。
カウンターごしにあるじの腕がのびてきて、焼き魚の皿がふたつ手わたされた。
だが、ふたりとも箸《はし》を持とうとはしなかった。
ようやく平賀が口を開いた。
「あることを取材していて、ある人物に出会ったんだ。そこで偶然きみの名前がでた。俺はきみとは関係のないふりをして、それとなく話をききだした」
平賀はからになったグラスにビールをついだ。玉紀のグラスにもビール壜《びん》を傾ける。
ふたたび彼はしゃべりだす。淡々とした調子だった。
「薄々気づいていたけれど、きみは俺の想像を絶するぐらいに男たちにもてたんだな。その人物は男関係が激しかったと言っていたが、まあ表現はどうでもいい。ただ俺は聞きたくなかったよ。特にきみがわずか数ヵ月で相手の男を捨て、またすぐに男を見つけて、それも捨てる、そのくり返しだったという話はね」
玉紀は顔面が強張《こわば》った。
いまの彼の口調からすると過去にかかわった男性たちの大半について、その人物はしゃべったらしい。
とっさに大学の近くにあったパブの五十代のママの顔が脳裏に浮かんだ。
かすれた声で玉紀は言った。
「あなたが取材した相手はだいたい見当がつくわ。嘘つきと評判だったひとよ。そんなひとの話を信用するわけ?」
「信用する、しないにこだわってはいない。ただ俺は気持の整理をしたいだけだ」
「いいえ、あなたはそのひとを信じて、私を信じてないのよ」
平賀が玉紀のほうを見た。
いつもと同じくネクタイの結び目がだらしなくゆるみ、着古したブレザーのグレーとそのネクタイの色はまるで似合ってはいない。
「きみと結婚したかった」
目をそらさずに彼は言い切った。
「いまもそう思っている。だから気持の整理が必要なんだ。だれを、何を信じるかが」
結婚、のひと言に玉紀は動揺した。
どう反応すべきなのか、こういう状況に馴《な》れていなかった。
と同時に、あんなにもたくさんの男性とつきあってきながら、結婚を口にした相手は平賀だけだ、と思いいたる。
少なからぬ衝撃だった。数ヵ月の交際で、玉紀は相手を捨てたつもりでいたけれど、じつは男性にとっては都合よく遊べる女性と見なされていたのかもしれないのだ。別れ方のきれいな、手のかからない便利な女……。
「平賀さん……本気で私との結婚を?」
「ああ、本気だ」
「私の悪い噂を聞いたいまも?」
「それはきみの過去にすぎない、過去の無責任な噂。俺が知ってるのは現在のきみだからね」
玉紀はうつむいた。
「もし俺がプロポーズしたら、オーケーしてくれるのかな」
退屈なだけのひとだ、と飽きたはずの平賀だった。
それなのに、この瞬間、飽きるどころか、彼の新しい一面を発見し、そこにときめいている玉紀がいた。初心《うぶ》な高校生にまいもどった心地がした。
「それとも俺は夫にするにはつまらない、退屈な男なのか……」
「そんなことはありません」
「じゃあ、プロポーズするチャンスを俺に与えてくれるね」
深々と玉紀はうなずいた。
「ただそのチャンスを活用するためには、もう少し時間がほしい。俺自身の気持にしっかりと決着をつけたいんだ。待っててくれるね」
三ヵ月後、玉紀は平賀から婚約指輪をプレゼントされた。小さなダイヤとプラチナを組みあわせたシンプルなデザインだった。そう高価な指輪ではなかったけれど、それは玉紀が、無理はしないで、と強く言ったからである。
部屋に遊びにきた美和子に指輪を見せながら、玉紀は苦さをまじえた冗談の口調で言った。
「やっぱり私は捨てられる女にならずにすんだわ。彼のおかげで」
美和子もほほえみを返してきた。
「よかったわ。言ったでしょ、平賀さんは信頼できる男性だって」
「でも学んだわ。他人をあなどってはいけないことを。私の過去の男性関係がまさか彼の耳に伝わるとは思ってもいなかった。それもあんなにもくわしく――」
と言いかけて、玉紀は愕然《がくぜん》として美和子を見た。
「もしかして、あなたなの、美和子」
実際の年齢より幼く見える美和子は肩をすくめ、ぺろりと舌をだした。
「ごめん、でもくわしくなんか話してない。玉紀には、こういうよくない噂がついてまわっているって平賀さんに言っただけ」
そして美和子は打ち明けた。
玉紀の平賀に対する気持が変化しだした頃から、彼の相談に何回となく乗っていたこと。「モデルっぽい」女性の存在をでっちあげ、玉紀の心を揺り動かそうとしたこと。玉紀の性格をのみこんでいる美和子が、居酒屋で彼がふるまうべき行動をこまかに教えたこと。
「つまり平賀さんと私は、まあ、言ってみれば二人三脚のようなものだったの。理由は簡単よ。平賀さんは玉紀をとても愛していたし、私も玉紀には彼しかいないと思っていたから。友だちには幸せになってもらいたいもの。まちがいのない相手とね」
玉紀は黙って苦笑し、それから指輪を見つめた。
男性をいとも無造作に捨ててきた自分が、遠い昔の影のように思われた。
そして、自分に捨てられたかれらが、いとも陽気に、無傷に、笑いさざめいている光景を、つかのま見たような錯覚にとらわれた。
かれらが笑っているのは、捨てる女、であった玉紀だった。
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合 鍵
電話がかかってきてから三十分後、大井田浩二《おおいだこうじ》は、亜由子《あゆこ》のアパートの部屋にあらわれた。六月の日曜日の午後早い時間だった。
浩二は黒のポロシャツに、同色の綿のカーディガン、ベージュのスラックスをはいている。
平日の夜、会社帰りに立ち寄るときのきちんとしたスーツ姿の浩二と、こうしたラフな恰好《かつこう》の場合の彼と、その雰囲気はなぜか別人のように感じられてしまう。
きょうの浩二はその服装にふさわしい、どこか物憂く投げやりな口調でたずねてきた。スーツ姿の彼には、そうしたくずれた匂いは漂わない。
「きのうの見合い、どうだった」
言いながら、ふたり掛けの小ぶりなソファに、その長身を沈みこませる。長い肢《あし》をだらしなく伸ばし、ソファの端に頭をのせて亜由子を見る目は、首をそり返した姿勢のため、なかば閉じられているようだった。
「お茶を飲んで、食事をして、映画を観たわ」
亜由子はキッチンわきのテーブルの椅子に横ずわりに腰かけ、背もたれに両腕を置く。
「映画か。どっちが誘ったんだ?」
「むこう」
「ふうん。それじゃあ、相手は結構きみのことが気に入ったようだな。どんな映画だった」
「フランス映画、恋愛物よ」
「なるほど。そうやって気分を盛りあげたか。ところで、きみは今後その相手とどうなるわけだ」
「さあ。まだ考えていない」
「むこうが結婚を前提に交際したいと言ってきたらどうする?」
「そうねえ」
しかし気持は固まりかけてもいた。
見合いをした相手は三十一歳の大手の建設会社に勤める建築設計技師。次男坊で、両親はすでにこの札幌で長男夫婦と同居しているという。
結婚相手としてはなんの不足もない。きのう半日間一緒にいて、明るく、快活な性格なのも、なんとなく理解できた。言葉の端々にユーモアがにじむ、おおらかな人柄だった。
亜由子とは四歳違いというのも無難なところだろう。
ただ全国に支社を持つ会社のため、転勤は覚悟しなくてはならない。
体型は、浩二とは反対に、背はそう高くはないが、がっしりとして、いかにも頼り甲斐《がい》のある力強さをみなぎらせている。
亜由子の説明を聞きながら、浩二はポロシャツの胸ポケットから、煙草を取りだし、ライターで火をつけた。
「転勤があるのか。そこがいちばんの欠点だな。ずっと札幌にいられるのなら問題はないが、全国あちこち歩くとなると、きみともそう会えなくなってしまう」
「まだそんなこと言ってるの」
亜由子は、呆《あき》れはてた気持で浩二を見返した。
「当然さ。俺はきみと別れるつもりはない。きみが結婚しても、俺たちの関係はこのままだ」
亜由子は思わず吐き捨てるように言っていた。
「私は会わないわよ。もう何回も言ってるでしょう」
(一体このひとは、どういうつもりで私とかかわっているのか)
浩二と亜由子は大学時代にゼミが一緒だった。専攻は西洋美術史である。
学生の頃は取り立てて親しい仲でもなく、卒業後一年たってゼミのクラス会があり、二次会、三次会と進んでゆくうちに、亜由子はつねに自分の隣にすわっているのが大井田浩二であることに気づいた。
三次会が行なわれたそのスナックで、浩二は背広の内ポケットから、北海道立美術館で来週から開催される「ユトリロ展」の入場チケットを二枚取りだした。
「もしよかったら一緒に行きませんか。来週連絡します。名刺か連絡先の電話番号を教えて下さい」
感情のこもらない、亜由子がたまさか自分の横にいたから声をかけただけ、といった彼の口調と表情を、亜由子もまたその場の話のつなぎのように受けとめた。
「勤め先はK商事、外渉部にいます。電話番号は――」
亜由子が口頭で告げた番号を、相手は復唱し、わかりました、と答えた。
翌週、勤務先に電話がかかってきた。大井田浩二と名乗られても見当がつかない。「ユトリロ展」の、と言われて亜由子はようやく三次会での短いやりとりを思いだした。
それから浩二とのつきあいがはじまった。
今年で四年目になり、ふたりは二十七歳になっていた。
この四年間の浩二との関係を、恋人同士と呼べるのかどうか、亜由子は適切な言葉を当てはめることができないままでいた。
たがいに「好き」「愛している」という会話をかわした記憶は一度もない。
肉体関係は個人的につきあいだしてから半年後に生じたが、それもコンサートの帰り、ススキノに寄って軽く飲んだあと、浩二が何気なくつぶやいた。酔いざましのコーヒーに誘うようななめらかさだった。
「ホテル、行こうか……」
「そうね……」
その日をきっかけに、浩二は、ひとり暮らしをしている亜由子のアパートの部屋にやってくるようになった。
不思議とその存在が気にならない男で、亜由子に対しても、いわゆる恋人らしい要求はいっさいしない。
週に一回はスーパーマーケットの大きな紙袋を両手にさげてあらわれ、野菜や肉、コーヒー豆、ウィスキーのボトル、缶詰類などを、冷蔵庫や、しかるべき保存スペースに置いてゆく。
「きみの好きに使っていいよ」
そして浩二自身が亜由子の部屋を訪ねてきた場合にしても、まったく手がかからなかった。
空腹であれば彼自身がキッチンに立って、チャーハンやお茶漬けなどをこしらえる。スーパーマーケットをのぞいてみたら、うまそうな刺身があったと言って、電気炊飯器の残りごはんを電子レンジで温め直し、すでに夕食をすませた亜由子には頓着《とんちやく》せずに、ひとりで食事をはじめる。
もちろん、キッチンに立つ前に、亜由子には必ずきく。「食べる? きみも」
しかし、浩二が部屋にあらわれる時間には、亜由子はたいがい夕食をすませてしまっていた。
浩二が食事を、あるいはウィスキーを飲みながらテレビを観ているとき、亜由子もまた彼にはかまわずに入浴したり、本を読んだり、隣の部屋で手紙を書いたりと、これまで通りの夜をすごす。
彼は何を考えているのか、私をどう思っているのか、そんなじれったさをおぼえた一時期もあった。
かかわってちょうど丸二年がたった頃である。
亜由子はある夜、さり気なくたずねてみた。
「なぜ私の部屋にやってくるの」
「安心できる」
「自分の家にいるほうが、ずっと気楽でしょうに」
浩二は両親と暮らしていた。ひとりっ子でもあった。
「あの家は、所詮《しよせん》、おやじたちの住まいだ」
期待通りの返答がもどってこない苛立《いらだ》ちに、亜由子は、いつになくきつい言い方をしていた。
「ここも、あなたの住まいじゃないわ。私の部屋よ」
浩二は押し黙った。
しばらくして彼は、やはり抑揚なく、言うだけは言ってみようか、といった消極的な提案をしてきた。
「変なふうに受けとらないでほしいのだが、ここのアパート代、半分俺に払わせてくれないかなあ。考えてみると、週のうち三、四日もここに入りびたっている。それから、もうひとつ、厚かましい頼みだが……」
「なあに」
「この部屋の合鍵《あいかぎ》、もらえないだろうか。いや、ここにくるときは、これまで通り、あらかじめ電話をかけてからにする。きみの留守のときに、合鍵を使ってあがりこむつもりはまったくない。これは絶対に約束する」
亜由子は半信半疑の思いで聞いていた。
留守に入りこまないとはいえ、合鍵を求める気持は、いつでも自由にこの部屋に出入りしたい、ということにつきるのではないか。
ただしアパート代の負担の件は、実際そうしてくれるのなら助かる、と亜由子は心の隅で、ふと欲が出た。
入社して三年目の給料でのひとり暮らしは、学生の頃より経済的には、むしろきつかった。
学生のようにジーパンとTシャツ、セーターで出社するわけにはいかない。制服のない職場でもあった。洋服や靴、その他のこまごました小物類をそろえるだけでも、結構な額になってゆく。
入社当時、亜由子は新調したシンプルな紺のスーツ一着しか持っていなかった。三ヵ月間それを着つづけたある日、上司にこっそりと呼ばれた。
「まだ安い給料で大変なのはわかる。しかし、わが社にはいろいろなお客様がお見えになる。着る物への配慮は、いわば仕事への自己投資と考えてもらいたい。失礼な言い方で申し訳ないが、わたしのポケットマネーを融通してあげるから、もう一着ぐらいスーツを買いなさい。ベージュ系の、もう少し大人っぽいのをね」
そういうものなのか、と亜由子は、さっそくその日の夕方、残り少ない預金をおろし、スーツを買い求めた。
それから三年、亜由子は通勤着用の服を、バッグや靴もふくめて、季節ごとに二、三品ずつ購入し、それはすべて月払いのローンとした。
だから、毎月の給料は、アパート代と衣類のローンで、その大半が消えてゆく。特別高価な服や装身具を買っているのではない。給料の手取り額が、他の企業より比較的よいとはいっても、二十代半ばではたかがしれていた。
合鍵とアパート代半分の交換条件を出してきた浩二に、亜由子は、心に宿った欲は伏せながら、ふたたびたずねた。
「じゃあ、あなたの言葉通りに、私のいないときに合鍵を使わないとすると、合鍵なんていらないでしょうに」
「合鍵はお守りにする」
「お守り?」
「ああ。いつでも帰る所があるんだ、という俺の心のお守りさ」
思わず亜由子は笑っていた。
「子供みたい」
実際の年齢より、ずっと落ち着いて見える浩二だからこそ、おかしかった。
「そう。俺は子供なんだ。どこかが子供の頃そのままに残っている」
「わかった。合鍵作るわ。それから……ここの家賃は月末払いなの」
アパート代を半分負担させる、そう決めたときから、亜由子の内側では、浩二への見方がひっそりと変化していった。
生活の一部分の面倒を見てもらう、それは亜由子のこれまでの感覚では、本当の恋人であるなら避けるべきこと、いや、してはならないことと心に決めていた。単にプレゼントを贈りあうのと、生活費の負担とは、あきらかに違う。
亜由子は、自分の身体のどこかに小さな腐敗が生じたのを感じた。自分でこしらえた傷だった。
けれど、その腐敗への自覚は、大井田浩二との関係に距離をもたらした。
浩二は、もはや、恋人とは呼べない男ではないのか。
亜由子にとって、浩二は奇妙に中途半端な存在に変りはじめた。
ただ、もし彼が亜由子との結婚を口にするような機会が訪れたときは、と亜由子は最後の望みも、それからしばらくはいだきつづけた。そう彼が仄《ほの》めかした瞬間から、アパート代の負担の件は帳消しにしてしまおう。
だが一年たっても望みは実現しなかった。
浩二は相変らず週の半分は部屋にやってくる。
亜由子を拘束する言葉は一言も口にせず、彼自身も好きなようにふるまっている。といっても、浩二は何事につけても物静かな男で、そばにいる亜由子さえ、浩二がいることを忘れることもしばしばだった。
昨年の夏、二十六歳も後半になった亜由子は、札幌に住む叔母《おば》から縁談を持ちこまれた。
亜由子は、浩二の反応を試すつもりで、そのことを彼に伝えた。
「そうか、俺たちも、もうじき二十七になるのか。男はともかく、女性なら真剣に結婚を考える齢だものなあ」
浩二は表情ひとつ動かさずに、のんびりとそう言ってから、まったくの他人事《ひとごと》のような淡さでつけたした。
「その見合い、してみたら。俺は、この先もずっと結婚はしないつもりだから」
一瞬、亜由子は言い返したかった。
浩二と自分自身に対して、何かやりきれないものをおぼえた。
(私たちの関係って、どう呼べばいいの、この三年間はなんなの)
亜由子の心中をさらに無視するように、浩二は、ごく当り前の口調で言ってのけた。
「きみが結婚しても、俺は別れないよ。結婚前からのつきあいだもの、不倫じゃない」
私にはこのひとがわからない、亜由子は全身の力が萎《な》えてゆくような無気力感につつまれた。同時に、この不可解さが自分を引きつけて放さなかったのだとも、改めて実感した。
亜由子の裡《うち》に細い氷の棒がひっそりと打ち立てられた。
浩二との関係の距離を保ちながらも、ほんのわずか残されていた期待が、その日を境にして、氷の棒と化した。
昨年の夏の見合いは、亜由子も相手の男性も、たがいにどこかで顔をそむけあうような第一印象のために破談に終った。
結果を聞いた浩二は、珍しく冗談口をたたいた。
「合鍵のお守りの効用があったのかな?」
それはどういう意味なのか、と問いかける心のふくらみは、もはや亜由子には失われていた。
そして二回目の今回の見合いは、あるいは、という予感が亜由子にあった。
相手の男性が浩二とは正反対のタイプ、少なくとも得体の知れない不可解さ、どうしてもその先端にさえ触れることのできない何かをかかえもっている人柄ではないらしいことも、亜由子に安心感を与える。
見合いから一日たったきょう、亜由子は、浩二との四年間のかかわりに、自分でもそれとは気づかずに疲れをおぼえていたことを知った。
きのうの相手への好感が、それだけ強まってきていた。
ソファにだらしなく半身をあずけている浩二を見すえるようにして、亜由子は言いきった。
「万が一、今回の縁談がまとまったときは、すぐにあなたと別れるわ」
浩二の目がいっそう細められる。おだやかに言い返してきた。
「なんかとがっているなあ。きみがそんな顔するの、はじめて見たよ……そうか、もはや合鍵《あいかぎ》のお守りのききめは駄目かもしれないな」
亜由子はさらにたたみこんだ。
「合鍵、返して」
今回の見合いが成功する、しないにかかわらず、浩二との関係は、これが限界だと亜由子の気持はふいに閉ざされてゆく。
「合鍵はプレゼントしてくれよ」
「持っていても仕方がないでしょう」
「四年間のいい思い出の記念になる。きみは――」
と言いかけて、浩二はもたれていたソファから上半身を起こすと、スラックスのポケットから札入れを抜き取った。
札入れの中の、いくつかついているファスナーを開け、合鍵を取りだす。それを掌《てのひら》にのせ、浩二はひとり言のようにつぶやいた。
「きみはこの四年間、俺をくつろがせてくれた。俺の好きなようにさせてくれた。この合鍵もくれた。しかし約束通り、きみの留守のときにこの鍵を使ったことは一回もない……」
浩二の背後から、これまで感じたことのない、陽炎《かげろう》のように儚《はかな》いものが漂いはじめる。虚無的な、しかし、それに徹しきれずにさまよいつづけている淋《さび》しさを思わせる気配だった。
「毎晩ベッドに入る前に、この合鍵を取りだして話しかける、いや、約束していた。俺を守ってくれよな、彼女がけっして俺にヒドイことを言ったり、したりしないようにしてくれよな、と。きみが結婚するのは仕方ないんだ。俺は結婚は避けたい男だから」
浩二の言葉の中に、かかわってからはじめて耳にする心の分泌液のような、透明でいて淡い味のするエキスが見えかくれする。
そのエキスは亜由子の耳の強張《こわば》りを薄膜で包みこむ。なぜか、亜由子の閉ざされた気持が、徐々にやわらぎだしていた。
「その、あなたの言うヒドイことっていうのは、どういうこと」
「まあ、ヒドイことと言っても、受けとめる側の個人差があるから、俺にとっては、ヒドくとも他人は違うかもしれないが」
浩二の声をさえぎるように電話のベルが鳴った。
受話器を手にすると、きのうの見合いにも付き添ってくれた叔母の張りきった声が聞こえてきた。
「亜由ちゃん、たった今、先方からの電話があったの。ぜひ結婚を前提におつきあいしたいって。あなたはどうなの?」
亜由子は斜め前のソファにすわっている浩二へと、ふと視線をそそぐ。
たがいの目がかちあった。一瞬、浩二はゆるくほほえみ、うなずき返してくる。叔母の快活な声が、受話器からあふれだし、浩二にまで伝わってしまったのかもしれない。
「叔母さん、あとから電話します。お風呂《ふろ》に入っていたところなので」
「あらあら。じゃあ、いったんきるわね。風邪引かないで。ごめんなさい」
受話器を置いた亜由子に、浩二は口もとにほほえみをはりつけたまま言った。
「きのうの見合いの件なんだろう。俺に遠慮することないのに。相手の男はオーケーそうじゃないのか」
「電話の声、聞こえたの?」
「いや。単なる勘。ときどき俺の勘も当るときがあるんだ。防御装置みたいに」
言い終らないうちに浩二は立ちあがった。
「ちょっと外の空気に当らないか。車できているんだ。コーヒーぐらい、最後につきあってくれるだろう?」
車はアパートの近くの駐車場にとめてあった。
父親に買ってもらったというその渋い紺色の4ドアを、浩二は通勤には使っていないという。「若僧が乗るには早すぎる車だ、生意気だって必ず言われるに決まっているからな」
車は亜由子のアパートのある地下鉄・麻生《あさぶ》駅から街中へと走りはじめた。
大通公園を過ぎ、ススキノの交差点を左折して豊平川《とよひらがわ》沿いの道路へと進む。やがて平岸《ひらぎし》へと入って行く。
閑静な住宅街の中にきて、亜由子は、こういう場所にしゃれた喫茶店でもできたのだろうか、とつかのまいぶかったが、あえて問いただしもしなかった。
そして、先刻、浩二が「俺の好きなようにさせてくれた」とは、自分のこういう無頓着《むとんちやく》さの好意的な解釈であり、振り返ってみると「浩二のやりたいように、そのために」と別段自分を抑えつけていたわけではなかった、と亜由子は今さらながらに自分の性格の一端を自覚させられた。
ただ自分のどういった点が浩二を「くつろがせて」いたのかがわからない。その疑問を亜由子は、ハンドルを握っている彼に何気なくきいてみた。
「そうだなあ。とにかく一緒にいても気をつかう必要もないし、のんびりした所があるし、おしゃべりでもないし。相性のよさなんだろうな、結局。俺はベタベタする女は苦手だから」
車は住宅街の坂を登って行く。
やがて浩二は、石塀に囲まれた古い一軒の平屋の前で車をとめた。
平屋といっても構えのどっしりとした家で、二百坪ほどの敷地には松や桜の樹々が程良く配置されている。
「ここ、俺の生まれた家。今は人に貸しているけれど。祖父が建てたんだ」
淡々とした説明の口調で、浩二は語ってゆく。
この家で浩二は祖父と両親の四人で暮らしていた。祖母は浩二が生まれたときに、すでに鬼籍に入っており、同居していた祖父も、彼が小学校一年生の冬に他界した。
小学校三年生になったばかりの春、学校から帰った彼は、鏡台の前で化粧をしている母親の姿を見て、とまどった。
母親は、外出するしないにかかわらず、つねに朝からの薄化粧を女のたしなみとしているひとであったが、午後のその時間に鏡台にむかっているのは珍しい。
しかも、その口紅は普段よりどぎついほどに赤く塗られていた。
「お出かけするの」と浩二はたずねた。
「ええ。浩ちゃんも一緒に行く?」
「僕、宿題あるもの」
「そう」
和服姿で外出して行った母親は、二度と家にはもどらなかった。
中学生になって浩二は、親戚《しんせき》の者から、彼の両親は長年いさかいをくり返し、母親は男と駆け落ちをしたのだと真相を聞かされた。
「でもね、当時あなたのお父さんにも別の女がいたのだから、どっちもどっちだった」
車のハンドルに両腕と顎《あご》をもたせかけ、浩二は正面を見たまま、やはり物静かな調子で言った。
「おふくろは俺を捨てた。でも、今、会ったなら、おふくろはそれは違うと言い張るだろうな。一緒に行くかどうか、ちゃんと俺に選択の余地を与えたはずだと」
「でも、お母さんは大事なことをはぶいて、ただそれだけをきいたのでしょう。選択の余地なんて、それも小学校の三年生にむかって」
「親類の者の話だと、おふくろは、そういう女だったらしいよ。つまり、自分は悪くない。悪いのは相手のほうだと一方的に決めつけるような……。みんな口をそろえて言うもの。さて、行くか」
浩二は車をスタートさせた。
再び街中へともどり、そのまま手稲山《ていねやま》方面へと走りはじめる。
四十分近く走った所で、真新しい家々が整然と建ち並ぶ区域に入って行く。
どれも似たような外観を持つ建て売り住宅街を通りすぎ、車は、山の中腹に十数軒ほど並んでいる家というより邸《やしき》といった趣きのある住宅を見あげる路上にとまった。
「四角くて白い、南向きの家、あれが俺の家だ」
「素敵ね。デザインが垢抜《あかぬ》けている」
「おやじの後妻の趣味。俺と十五歳しか違わないんだ。彼女がおやじと結婚したのは、現在のきみと同じ齢、二十七歳だったよ」
母親を失った浩二と父親の生活は小学校六年生までつづき、そのあいだの日常の世話は家政婦に頼んでいた。
浩二の新しい母親は、父親の会社の秘書であった。
少年の浩二の目に、二十七歳の、まだ楚々《そそ》とした風情を残した若い母親は、母親というよりお姉さんと呼びたいくらいの華やいだ印象を与えた。
彼女は優しかった。
もともと子供が好きなひとらしく、浩二を可愛がり、継母《ままはは》のイメージから連想される意地の悪さなど少しも見られない。
浩二は、母親の愛情の飢えを一挙に取りもどそうとするかのように彼女に甘えつづけた。
中学生になって反抗期を迎えてもおかしくはない年齢に達しても、彼は、ひたすら彼女にまとわりついた。その日の出来事を逐一報告しなければ気がすまない。
父親と彼女とのあいだの子供は生まれなかった。それは、どうやらふたりが結婚するにあたって、たがいに了解ずみのことのようらしい。
中学二年、三年になっても、浩二は新しい母親のそばにいつもいたがった。
それは高校になってまもなくの出来事である。
夕食の席で、母親は父親にむかって謎めいた笑みを浮かべた。
「あなた、何か変ったと思いません?」
新聞を広げていた父親は顔をあげ、妻を見つめた。
「どうかしたのか」
実際に気づいていない様子だった。
浩二がからかい気味に口をはさんだ。
「いやだなあ、おやじ。ほら、お母さんのヘア・スタイル、よくなったでしょ。俺、学校から帰ってきて、すぐにわかった」
言いながら、浩二は深い意図もなく、そのヘア・スタイルのいちばんの特徴である、ウェイブのかかった母親の前髪に手を触れさせた。
そのとたん、父親の掌が浩二の頬に勢いよく走った。
「甘ったれるのもいい加減にしろ。俺の女房だぞッ」
父親の目には激しい感情が燃えていた。
それ以来、浩二はできるだけ母親との接触を避けた。
特に父親をふくめた三人一緒の場合には、ほとんど口をきかなかった。
しかし彼女は、その対応にとまどいながらも、何くれとなく浩二の面倒を見たがる。
父親が不在のときは、以前通りの親しみと愛情で浩二に接してくる。
「それが困るんだよなあ。俺、おやじの気持がわからなくもないし、おやじはおやじなりに俺を可愛がってくれる。この新車だって、ちらっと言っただけで、ぽんと金をだしてくれた。お前が俺に甘えるのはこれがはじめてだな、とか言って。しかし、彼女はおやじの女房なんだ。おやじに変な誤解されたくないし、滑稽《こつけい》ないがみ合いもいやなんだ」
社会人となった浩二は、そのこともあってひとり暮らしをはじめようとした。
母親は泣いて引きとめた。
「私が追いだすみたいじゃないですか。結婚して別世帯になるのならともかくも、これまでずっと三人で仲良くやってきたでしょ? それなのに――」
妻の涙に浩二の父親も言葉をそえた。
「お母さんの気持にもなってやれ。ずっとお前をわが子のように育ててくれたじゃないか。その恩返しのつもりで、な、結婚するまでは家にいろ」
そこまで語ってから浩二は煙草に火をつけた。
「こういうのって複雑な家族関係なんだよなあ。さっき言った、ヒドイこと、の意味、少しは理解してくれたか。実のおふくろからある日突然捨てられること、反対に義理の、しかも十五しか違わない母親から溺愛《できあい》されること。俺、二十歳をすぎても女をどう扱えばいいのか、本当にわからなかったよ。どんなふうにしても、必ずそのあとでヒドイしっぺ返しがくるようでね」
「私が安全パイだったのは、どうして」
「さあ、勘としか言いようがない。いわゆる女っぽい気性じゃないだろう。バランスがとれている」
女をどう扱えばいいのかわからなかった、怖れていたというような言い方をしながら、亜由子をはじめて抱いた夜、浩二の女の身体の扱いは、かなり巧みだった。
今の話からすると、とても不思議な思いがする。亜由子は率直にそれをたずねてみた。
浩二は苦笑を浮かべた。自嘲《じちよう》のほほえみに近かった。
「彼女のことでおやじに殴られてから、しばらくして、悪友に誘われ、いわゆる女を買ってみた。おやじの気持が知りたくてね。しかしわからなかった。それからも商売女を買いつづけたけれど、やっぱりああいうことと、女の扱いは結びつかなかった。ただきみは、俺が女をどう扱えばいいのか、と考える前に、そんな考えは必要ない、という態度で接してくれた。何か、こう、あっけらかんとしていて」
といっても浩二は、亜由子への対応の仕方が、はたして「正しい女の扱い方」なのか、自信がなかった。
亜由子の部屋に通いはじめて、浩二は、こういう場合は、相手の女性に「合鍵《あいかぎ》がほしい」と申し出るのが「男の礼儀」ではないだろうかと迷いだした。しかし、こちらが一方的にせがむのは、厚かましいような、自惚《うぬぼ》れているように思われるのではないか。そこでアパート代の半分負担を思いついた。
きっかけは、そうしたばかげたことだったのだが、合鍵は、奇妙な作用を浩二に与えはじめた。安心感だった。ひとりの女と共有できるものを持った、それは浩二がこれまで味わったことのないやすらぎさえ感じさせた。
「ひとつだけ謝らなくてはならないんだ。きみが結婚してからも関係をつづける、あれは試しだった。本気でそう思っていたわけではない。きみは、いやだ、といつも答えた。それでほっとする。きみは俺のじつのおふくろとは違うタイプなんだと」
「あなたってひとは」
そう言ってから亜由子は、ふいにおかしさがこみあげてきた。笑いをにじませながらつづけた。
「あなたって、まったく難しくて、複雑で、困ったひとねえ。そのままだと、自分で言っている通りに結婚はできないわね、無理よ」
「うん。俺もそう思う」
「ついでに私の勝手な想像だけれど、二度目のお母さんは、あなたの初恋の相手じゃないの」
「それも自覚している。でも今はもう違うぜ」
「そうかしら」
「俺には合鍵がある。きみが結婚しても、この四年間ちゃんと女とかかわりあえたという思い出と、その思い出に支えられる自信が。合鍵がその証拠として俺を励ましてくれるよ」
浩二の口調が、多分、彼の意識しない淋《さび》しさと、少年の頃のままの稚《おさな》さをはらんで、亜由子の耳に流れこむ。
ふとつらさをおぼえた。
このひとをほうりだしてしまっていいものだろうか。
もしかすると、このひとは、じつの母に見捨てられた小学校三年生のときの打撃から、半分も立ち直ってはいないのではなかろうか。
亜由子は唐突にたずねてみた。
「私が結婚したら淋しい?」
浩二の表情が、一瞬、漂白された。
おびえた目で見返してくる。
それは驚愕《きようがく》に近い目の色だった。
けれど口からは二十七歳の男の分別が押しだされてくる。
「きみの幸せの邪魔はしないさ。俺は独身主義だけれど」
私は独身をつらぬくつもりは毛頭ない、と亜由子は胸の中で断言する。
だが、もうしばらくは婚期をのがしそうだった。
たとえば浩二の裡《うち》に潜む小学生が中学生に成長するまで、と亜由子は目安を立てる。
そして、やはり彼は恋人とは言いきれない中途半端な存在だった。十歳の少年を二十七歳の自分が恋人にするわけにはいかないだろう。
亜由子が渡した合鍵は、大井田浩二にとっては、恋愛関係の中の小道具ではなく、母親が留守のあいだに子供にあずけておく、家の鍵めいた代物なのだろう。母親は必ず帰ってくるという信頼に支えられたそれ。しかし、彼の母親はついに帰らなかった。
「あなたは単なる鍵っ子≠ネのね」
「どういうこと?」
「あとでゆっくり説明するわ。それより、食事をしてゆきましょうよ。おなかがすいたわ」
「見合いのことで電話しなくてもいいのか」
「結婚はしばらく延期する。どうも、ここにひとり、手のかかる大きな子供がいるみたいだから」
浩二は沈黙した。
しばらくして車をスタートさせる。
いつになくほがらかな調子で言った。
「子供って、でも、それなりに成長してゆくから、きみ、あんまり心配しなくても大丈夫だぜ」
「そう、保護者の公平で厳しい愛があればね」
六月の札幌の夕暮れどきがはじまっていた。
空の色は夕陽の朱に染まり、けれど、所々に夢のようなラベンダー色が混じっている。
浩二の横顔が西陽を受けて、はにかんだようにも、紅潮した肌の色のようにも見えた。
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乾いた雨
チャイナタウンと呼ばれる界隈《かいわい》を、気のむくままに歩きまわり、美術品店や宝飾店ものぞいてみたけれど、結局、私は何も買わず、ひと休みして飲茶《ヤムチヤ》を楽しむこともなく、宿泊先のホテルにむかう下り坂を降りはじめた。
カリフォルニア通りを東西に走るケーブルカーの路線沿いの舗道だった。
陽ざしはすでに傾きかけ、朝からふったり、やんだりをくりかえしていた小雨も、いまは小休止している。
けれど空はまだ雨雲におおわれ、天候が好転する気配はない。
青空のかけらも見えない二月も上旬のサンフランシスコだった。
日本からの便で空港に降り立った三日前の早朝から、この不順な空模様はつづいている。
といっても、傘をさすほどの激しい雨にはならず、道ゆくひとびとも、コートの襟を立て、そのあいだに顔をかくして雨をさえぎり、足早に通りすぎてゆくだけだ。
私も午後早くにホテルをでるとき、傘は持ってこなかった。ウインド・パーカーのフードをかぶればまにあうだろうと考え、実際、それで十分に小雨はしのげた。
日本で言うところの霧雨、小糠雨《こぬかあめ》という程度のふりだろう。
それでいて、湿気は感じない。空気は生温かく、しかも乾いていて、それが私には妙においしかった。ミネラル・ウォーターを一気に気化させたような、無臭のうまさ。
坂道を半分ほど降り、ホテルの建物の一端が見えている地点で私は立ちどまった。
ウインド・パーカーのフードをぬぎ、ポケットからたばこの箱を取りだして、ホテルのマッチで火をつける。財布もパーカーのポケットにつっこみ、ホテルの部屋の鍵《かぎ》はジーンズの脇ポケットにねじりこんであった。バッグはホテルに置いてきた。
煙草のけむりを深々と吸いこみ、吐きだしながら、この街もきょうをふくめて、あとふた晩の滞在だ、と私は漫然と考える。
この三日間と同じく、残りの二日の予定は別にない。
旅の同行者である矢田|圭吾《けいご》が、日中の仕事の打ちあわせからホテルにもどるのを待って、夕食をともにすることをはたす以外は、いっさい自由だった。
矢田はサンフランシスコの次はロサンゼルスに四、五日ゆくと言っていた。よかったら一緒にこないか、と昨夜も食事の席でさりげなく誘われた。私は返事をにごした。
これといった理由はない。単に気がすすまなかった。
この一年近く、私はすべてに対して、億劫《おつくう》な気持が先立ち、行動半径を極端にせばめて暮らした。
ひとり暮らしのアパートと会社を往復するだけの単調な毎日のなかに、さらに自分から埋もれてゆくようにして、ひとづきあいも避けつづけた。
最低限に必要な言葉のほかは、しゃべりたくなかった。
二十九歳という年齢さえも、中途半端で、おさまりの悪いものに感じられ、自分で自分を持てあましていた。
それでいて、私はどこかでひとを恋しがっていたのだろう。
だから昨年の十二月のなかば、以前にときたま通っていた酒場から忘年会の案内を受けた際、ふっと心が動いた。
当日、私はわざと残業している自分を意識しながら、残業ついでに[#「ついでに」に傍点]その忘年会に少しだけ顔をだしてみようか、という段取りを自分自身につけた。
一年ぶりに立ち寄った、貸し切り状態の酒場で、そこの常連客のひとりである矢田は、私の姿を見るなり、五十代とは思えない、例の張りのある大声をあげて、手招きした。ひとなつっこい笑いが、大柄で厚みのある体の上にのっていた。
「マユちゃん、久しぶりだなあ。こっちにきて、ちゃんと元気な顔を見せてくれよ」
隣りにすわった私に、矢田は快活に話しかけ、そして、今回のアメリカ出張についても語った。別に自慢し、ひけらかすのではなく、話のなりゆきというものだった。
私も、あいづち代りに答えた。
「いいですね。カリフォルニアですか……」
そのとたん、矢田は酔った勢いで、さらに上機嫌に顔をほころばせた。
「どうだ、マユちゃん、ぼくにつきあって、ふらりといってみないか。旅費も滞在費も、全部、ぼくが持つ。心配無用。こう見えても、社長業をやっているんだから」
そこでも私は無難に話をあわせた。
「私にとっては贅沢《ぜいたく》な旅行……」
それだけのやりとりだったのが、豪胆さのかげに、律儀で生まじめさをあわせ持つ矢田は、翌日、私の勤務先に電話をかけてきた。素面《しらふ》のあらたまった口調だった。
「きのうの旅行の件、具体的にすすめてもいいのかどうか、もういちど確かめようと思ってね。いや、誤解しないでほしい。マユちゃんを、どうこうしようとするよこしまな気持はない」
私は困惑した。すぐには返答しかねた……だが、あれから一ヵ月半、こうして私はサンフランシスコの舗道にたたずみ、たばこをくゆらしている。
目にしみるような青空ばかりを思い描いていたカリフォルニアが、小雨にふりこめられている現実を目のあたりにしても、すぐに、こういうものかと抵抗なく受け入れてしまったと同じく。
また、チャイナタウンを午後いっぱいうろつきながら、心をそそられる品を、ひとつも見つけだせなかったのと同様に。
昨日はフィッシャーマンズ・ウォーフで午後をつぶしたけれど、やはり、ほしいものにも、買いたいと興奮させられるものにも、出会わなかった。
ひとも、風景も、どんな品物も、私の目の上を、無感動に流れてゆく。刺さりこんではこない。
しかし、本来の私は明朗|闊達《かつたつ》とはいえないまでも、ここまで硬張《こわば》った感情の持ち主ではなかったはずだった。
一年前、同年輩の恋人から、前ぶれもなく別れを告げられた瞬間、私は泣きわめく行為を抑えこむのと引きかえに、心はたちまちにひからびた。
矢田が手配してくれたホテルは、チャイナタウンから歩いてほぼ十五分の「ハイアット・リージェンシー」だった。
フロントのあるホールから十七階まで吹き抜けになっている。
広々としたホールには、中央に巨大で抽象的な彫刻がすえられ、そのぐるりを、仕切り壁のない気軽なレストランや、華やかな飾りつけをほどこしたブティックなどが取り囲む。いくつもの石造りのベンチが配置されたこのホールを、待ちあわせだけに利用する客も少なくない。
チャイナタウンの散策からもどったその日も、一階の正面玄関の前で、私より数歩先に回転ドアを押した恰幅《かつぷく》のよい男性に目がとまった。五十代、いや、六十代になっているのだろうか。
男性は落ち着き払った物腰で、二階のホールにむかうエスカレーターに乗り、私もあとにつづいた。客室専用のエレベーターは一階にはなく、二階にあがらなくてはならない。
ホールについた男性は、まわりを見わたしながら彫刻へ進み、ズボンのポケットに片手を入れながら、ゆっくりとこちらを振り返った。人待ち顔で、その場に立つ。
男性はタキシード姿だった。
しらがまじりの顎《あご》ひげは、きちんと手入れがゆき届き、褐色の瞳《ひとみ》には少年めいた無邪気さと、大人の知的な分別が、これ見よがしでない等分な輝きを放っている。
さらに私の目をひいたのは、彼の手もとの彩りだった。透明なセロファン紙にくるまれた一輪の赤いバラ。おそらく、待ちあわせの相手に贈るのだろう。
堂々とした彼の態度と一輪のバラの組みあわせには、健康とセクシーさがまじり、私にはひどく新鮮に感じられた。
若くはないがゆえの魅力というものを、はっきり示された気持がした。
それはまた日本では、めったに見られない光景でもあった。
ホールにいるひとびとにしても、その男性に好奇のまなざしをそそぐどころか、まったく無視している。
だが私は、一枚の小気味よい筆づかいの絵を、思いがけず見せられた心地で、エレベーターの乗りぐちのほうへ、はき古したスニーカーの先を進ませた。
あの男性の相手を確かめたいとは考えなかった。正直いって、彼を喜ばせる相手の性別にも年齢にも、美醜にも関心がない。ただ、万が一にも彼が約束をすっぽかされたとしたなら、その失意の表情からは目をそむけたかったし、その現場を目撃するのがいやで、私は早ばやとホールから退散したともいえた。
円筒形のガラス張りのエレベーターに乗りこみ、十七階のボタンを押す。
あと残りふた晩、とふたたび日数をかぞえ、矢田を思い浮かべた。
よこしまな気持はないという言葉どおり、彼はこの三日間、ちらりとも怪しげな振るまいは見せず、私を当惑させなかった。どこまでも快活で、陽気な紳士でありつづけた。
もちろん、それは私の望むところであり、このまま何事もなく終ってほしいと願う。
その反面、私は無自覚なまま、だからこそ、手に負えないしたたかさで、矢田の心をもてあそぶ結果になっているのではないかという一抹の危惧《きぐ》もいだく。
私をこの旅行に誘ったのは、もののはずみであり、一種の気まぐれ、それ以上の理由はない、と矢田は説明した。
だが、はたして、なんの下心も持たない女に対し、気前よく何十万円もの金を浪費するものだろうか。
往復の航空券はファーストクラスとまではゆかないけれど、ビジネスクラスの席が取られていた。
このホテルの部屋にしても、ベランダからサンフランシスコ湾のベイ・ブリッジが眺められる、見晴しのよい一室が予約してあった。話によると、ここは階が上になるほど宿泊料も加算されてゆくという。
私がこれまで矢田と個人的にかかわっていたのなら話は別だ。
しかし、彼とは、たまさか立ち寄る酒場で、いっときの会話を楽しむ間柄にすぎない。
そういう淡いつきあいしかない私に、これだけの大盤振るまいをしてくれる矢田の本心がつかみきれなかった。
つかみきれないまま、私は彼の誘いに応じた。
彼の紳士的な台詞《せりふ》を信じたからではなく、むしろ、旅先で彼と男女の関係になってもかまわないといった開き直った感覚からである。
私は失恋で一挙にひからびてしまった自分の心に飽きあきしていた。あれから、すでに一年になろうとしているのに、私は少しも立ち直れなかった。
こんな状態から救いだしてくれるのなら、どんなきっかけであろうとも、やってみる値打ちはある。だめで、もともとなのだから。
自分なりの覚悟はつけてきたものの、私はできるなら、矢田とは一線を越えたくはないという気持も半分は残っていた。
新しい男女の関係にふみこんでゆくのは、私には、まだ、わずらわしかった。
そして、このわずらわしいという拒否の思いが、私の言動にこまかくあらわれていて、矢田がひそかに、かくし持っている下心を発揮する機会を、そのつど暗黙に奪い取っているのかもしれない。
彼にしてみれば、口先のやりとりはどうであれ、私が出張先についてきたこと自体が、すべてを承知していると受けとめても当然なのだ。
私は十代の少女ではなく、あと一年で三十歳になる。そのぐらいの駆け引きは心得ていなければならない年齢だった。
だが、抱かれてもかまわない、という一方では、それを避けようとする私の矛盾した心理は、おそらく彼にもしぜんと伝わり、そのため矢田自身をも、手も足もだせない心境におちいらせているのかもしれない。彼は、これまでずっと紳士的に私に接してきた。それを、あられもなく破るのは、彼のプライドが許さないのだろう。
そこを逆手に取って、矢田の心をもてあそんでいるような自分を感じると、私はいたたまれなさをおぼえた。
矢田の下心につけ入って、彼を愚弄《ぐろう》して喜ぶような趣味はない。自分のために、どれだけ男に貢がせたかを誇るような女の価値観にも、ついぞなじめなかった。
しかし、いま私はそれと同じことをしていた。
出張に同伴すると答えたとき、私たちは言外に「商談」を成立させていたはずだった。
そんなつもりはなかった、としらを切るには、もはや小娘とはいえない私の年齢が許さない。
どこにでもいる、ありふれたOLだったけれど、少なくとも他人を手玉に取るようなまねだけは、してこなかった。
十七階でエレベーターを降り、廊下つづきのビュッフェ・コーナーを通りすぎて、部屋にもどる。ビュッフェ・コーナーは上層階の宿泊客だけに設けられた無料の軽食サービスで、朝と夕方の二回、数種類のパンとチーズとハムが山盛りに台の上に並べられ、食べやすく切られたメロンやオレンジなどの大皿も置かれる。スモークサーモンやカナッペのたぐいもあり、客によっては、朝晩の食事をここですませてしまう者もいる。コーヒー、ミルク、紅茶も飲み放題で、盆にのせて、部屋に持ち帰ってもいい。アルコール類だけは、注文のたびに支払いをする。
四人用のテーブルが五つに、二人用が二つ、タキシードを着用したメキシコ系の男性がここの責任者として取り仕切っている。上階の泊り客はわずかなのか、朝夕とも満席の光景は見たためしがなかった。
私のひとりきりの朝食は三日間とも、このコーナーを利用していた。矢田が仕事にでかけたあと、ゆっくりくつろぎながらフォークを動かす。カフェイン抜きのコーヒーにパン、甘味が薄くて果物というより野菜の味のするメロン、七面鳥のハムにチーズといった組みあわせを、すでに三日つづけ、しかし、まだ飽きなかった。
部屋の前まできて鍵穴《かぎあな》に鍵をさしこもうとした際、ドアの下にはさまれている紙片に気づいた。拾いあげてみると、矢田がすでに仕事からもどり「帰り次第、電話がほしい」と自筆で走り書きしてあった。
矢田のいる隣りのドアに視線を走らせてから、私は手早く、しかも物音を立てないようにして、室内にすべりこむ。
スニーカーを持参した室内ばきに替え、ウインド・パーカーをハンガーにつるし、私はベランダのガラス戸を開けて、たばこに火をつけた。パーカーのフードで小雨をさえぎっていたつもりだったけれど、髪はいくらか湿っていて、特有のにおいがした。シャンプーしなければ、矢田の前にはでられない。
時間をかけてフィルターぎりぎりまでたばこを喫い、寝椅子の前のテーブルの灰皿でもみ消してからの私の行動はすばやかった。
シャワーを浴びて髪を洗い、バスルームに備えつけのドライヤーで乾かし、すぐさま化粧に取りかかる。服は白いタイトなワンピースにしようと、シャワーしながら決めていた。襟ぐりが大きく開いたその一着は、あるいはドレスアップの必要がある場合にと、いったん閉じたトランクを開けて詰めこんだものだった。
これまで三回の夕食、私はつねに同じ黒のスカートに、ブラウスだけを替えていた。矢田は何も言わなかったけれど、彼が予約を入れていたレストランやスシ・バーの高級な雰囲気に、その服装はいささか貧弱でなかったとはいえない。
一時間とかからずに身仕度はととのった。受話器を取りあげ、隣りの矢田の部屋番号をまわす。
うたた寝でもしていたらしく、電話にでた彼の声はまのびして、かすれていた。
「私のほうはすぐにでも外出できますけれど」
寝すごしたと勘違いしたのか、矢田はあわてた口調で、十五分後に、と言って、せわしなく電話をきった。しかし、まだ夜の六時にもなってはいない。
ベランダぎわのティー・テーブルの前の背の高い椅子に浅く腰かけ、私はベイ・ブリッジを眺めやる。ミニチュア・サイズに見える車の往来がとぎれなくつづき、海面は鉛色によどんでいた。
今夜の私のいでたちから、そこにこめられた合図を、矢田は敏感に嗅《か》ぎ取ってくれるだろうか。いや、彼がこちらの意図を汲《く》み取れるように、私もつとめて、その気があるふりをしなくてはならない。といっても、その気があるふりをするには、どういった仕草や表情で彼に接したらよいのか、気持の表現に不器用な私は、つかのま、途方にくれた。一年前に恋人がはなれていったのも、この不器用さが、わざわいしていた。
「もっと自分をさらけだせよ。そうすれば可愛げのある女になるのに……なんか、こう、他人行儀で、おれとしてはやりにくいんだよなあ」
この言葉は、別れてからも思い返すたびに私を萎縮《いしゆく》させた。恋人の目には、気取っているとうつっても、私にはそんなつもりはなく、ごくしぜんに振るまっているつもりだったのだ。
おそらく彼は、もっとあけすけなおしゃべりをする、すべてに開けっぴろげな性格の女性とばかりつきあってきたに違いない。そうしたタイプとは異なる私に最初は物珍しさをおぼえたものの、結局は、不可解さが苛立《いらだ》ちに昂《こう》じ、日ましにうとましくなっていったのだろう。
一年がたち、ようやくそう考えられるようになってきた。
同時に以前よりもっとぎこちない唇の動きしかできなくなっている自分を知った。
その私が、どうやって矢田に、その気があることを伝えられるのだろう。彼に恋をしているのなら、おのずと熱っぽいまなざしにもなれる。言葉なしで、ただ見つめていればいい。しかし好感をいだいている程度なのに、そこまで高度な演技力は、私にはとうてい無理だった。
困惑したままで十五分はすぎようとし、私は仕方なく小ぶりのセカンドバッグを握りしめて椅子から立ちあがった。
矢田はすでに廊下にでて、吹き抜けの手すりにもたれて、二階のホールを見おろしていた。
私の部屋のドアの閉まる音に振り返り、そのとたん彼一流のサービス精神と快活さで顔を輝かせた。
「その服、いいねえ。とても似合う。きれいだよ」
サンフランシスコの街中にいても、まわりに見劣りしないだけの体格を持つ彼は、濃茶色の毛糸のカーディガンを無造作にはおっていた。夕食は三日間ともスーツにネクタイをしめていたのに、多分、私の恰好《かつこう》とつりあいが取れないと思い、今夜は軽装にしたのだろう。しかし、彼とは反対に、私はブラウスとスカートではなく、ちょっとあらたまった印象を与えるワンピース姿だった。たがいの思惑のずれに、私たちは一瞬、きまりの悪さをかみしめたが、矢田はすかさず機転を働かせた。
「食事にゆく前に、ビュッフェ・コーナーで軽く一杯やりたい気分だな。ドレスアップしたマユちゃんを、じっくり眺めながら」
先客は六十代とおぼしき、帽子をかぶった青い瞳《ひとみ》の小柄な婦人がいるだけだった。ガラス壁からそとを見わたせる二人掛け用のテーブルにつき、皿に取り分けた果物をナイフでていねいに小さく切っては口に運んでゆく。皿の上には、つややかなリンゴが一個、まるごとのってもいた。
私たちはもうひとつの二人掛けのテーブルにむかいあってすわった。矢田が指を鳴らしてボーイを呼び、彼はジントニックを、私はビールを注文した。運ばれてきた飲みものの代金をボーイにわたしたあと、矢田は、今夜は味は保証するが造りは屋台よりはいくらかましといった中華料理の店にゆくつもりだった、とおかしそうに語った。
「しかし、これほどのレディに変身したマユちゃんには、あの店は似つかわしくないものでね。あそこはキャンセルしよう」
「いいえ、私、着かえてきますから」
腰を浮かせかけた私の腕を、矢田は敏捷《びんしよう》につかみ、椅子にもどらせた。
「もったいない。そのままでいてくれないか」
「でも……」
やや口ごもってから、私は言った。
「せっかく旅行につれてきてもらったのに、私、矢田さんに恥かしい思いをさせていたのですね、きっと」
「そんな言い方をしちゃいけないよ。ぼくが早とちりをしていたんだ。きみぐらいの年齢の女性は、ふだんはあまりゆく機会のないような高級レストランがお望みじゃないか、と。それだけの話でね……ところで、きょうはどのへんを見てまわったの?」
「チャイナタウンに」
それに対して矢田は、チャイナタウンで何を買ったのか、何を食べてみたのか、と矢つぎ早に質問してきたけれど、私は彼の期待にそうような返事はできなかった。きのうフィッシャーマンズ・ウォーフへいった報告と同様、私が口にした内容は、いたってそっけなく、めりはりにも欠けていた。
しかし彼は昨夜と違って失望の色は見せず、代りに痛ましいものを見るに似た視線を私に押し当ててきた。
グラスのなかの残りのジントニックをひと息にあけ、ボーイに二杯目を頼んでから、矢田は神妙に顔つきを引きしめた。
「マユちゃん、気を悪くしないで聞いてもらいたいのだが……つまり、そのう、なんだ、ぼくはきみにこの旅行を楽しんでもらいたい。だから、マユちゃんに多少のおこづかいを都合しても、かまわないとは思っていた。ただ言いだすチャンスがなくて……しかし、きみが不自由しているのを聞いて、それで、いまこうして、失礼とは思いながら、ようやく……」
言いにくそうに言葉を必死で選んでいる矢田を見守っているうちに、私は彼が誤解しているのだ、と少しずつ気がついてきた。
彼の思いこみを訂正しようとしたそのとき、あらたなジントニックのグラスがテーブルの上に置かれ、矢田とボーイの支払いのやりとりのため、私の言葉はさえぎられてしまった。
「……あのね、矢田さん……」
「……いや、ちょっと待ってくれ、おれに言わせてほしい」
ボーイが去るなり、矢田はグラスをわしづかみにして、ジュースを飲む勢いでたいらげてしまった。その動作は見るからに自分を勇気づけ、口もとをなめらかにしようとする心中を物語っていた。
すべてにおいて私の何倍も世なれているはずの、彼の予想外の不器用さを目のあたりにして、私は意外に思うのと一緒に、奇妙なやすらぎをおぼえた。
矢田は目を泳がせながら懸命に説明をつづける。
「……ぼくとしては、マユちゃんが困っているのを、見て見ぬふりをしているよりもだ、そのう、援助したほうが、よっぽど楽というか……といっても、現金をさしだすのも、あまりに露骨で、いや味なようで……しかし、率直に言ってくれると、こっちも助かる場合もあって……」
狼狽《ろうばい》気味の状態にあるのをねらって、私は彼の本心を引きだしてみたかった。ふいを食らったなら、取りつくろう余裕もなく、意外と本音を聞きだせるのではあるまいか。
「矢田さん」
彼のまなざしが私の上にとまった。
陽焼けした角張った顔に、小さめな目と形のよい鼻、それらをバランスよく受けとめている品のよい唇に、私は、いまはじめて正面切ってむかいあっていた。矢田の顔面はうっすらと汗ばみ、しかし、暑いと感じる室温ではなかった。
「誘われて、のこのこついてきた私も軽率な女ですけれど、でも、矢田さんはどうして私に声をかけてくれたのですか」
矢田は虚をつかれた表情になったが、すぐに笑顔を取りもどした。狼狽から立ち直っている、いつもの安定した笑顔だった。
「要するに、ぼくに男としての下心ありなしかってことだね。ないと答えたら、きみに失礼になるかもしれないけれど、若い時分から気がすむまで遊んできた男は、この年になると、ときどき色恋抜きの、つまらない道楽がしたくなるものでね。女房にも後指のさされない、きれいな遊びが」
そして矢田は、酒場の忘年会にあらわれた私を、かれこれ一年ぶりに見て、別人のような暗さを感じたという。
「このままじゃいけない、この五十男はそう思ってね、思ったとたんにマユちゃんを誘っていたわけだ。酔っていて気が大きくなっていたとはいえ、いったん口にだしたことは、必ず実行するのが、ぼくの信条。会社をこれまでやってこれたのも、この信条があったから、というのは冗談にしても、まあこの旅行がマユちゃんの気晴しになってくれたら、というそれだけの気持なんだよ」
分ってくれるだろうか、そう問いかけてきた目には、いたずらっぽい光が快活に宿っていて、私は彼の下心を疑った自惚《うぬぼ》れを恥じた。野暮な質問をしてしまった、という思いも、ようやくわいてきた。
「それで、と、話のつづきをしたいところだが、おなかもすいてきたし……」
矢田はそこでふたたび私たちの服装を見くらべた。
「部屋にいったん帰って店にキャンセルの電話を入れて、着かえてくるよ。せっかくマユちゃんがドレスアップしてくれたのだから。それはマユちゃんが、ようやく前むきのやる気をだした証拠だとも思いたいからね」
立ちあがろうとする彼に、私は遠慮がちに声をかけてみた。
「今夜はこのまま、ここで夕食をすませませんか?」
場を移すのは面倒という気持からではなく、四日目にして、はじめて打ちとけた会話ができたうれしさを、このまま持続させたかった。
「ここで?」
「ええ」
「でも、ハムとか果物の軽いものばかりで物足りないのじゃないか。いや、ぼくはかまわないけれど、マユちゃんが」
「毎晩、ご馳走《ちそう》をいただいてますから、たまには……」
「ダイエットにもいいか」
「はい」
「じゃあ、そうしよう」
矢田は一気にグラスをからにし、ボーイにお代りを言いつけたあと、中華料理店にキャンセルの電話をしに中座した。
そのあいだに私は料理の大皿が並んだ長方形のテーブルに進み、取り皿にまんべんなくよそいはじめた。一品のもれもなく取り分けてゆくと、それは五皿になり、小さなテーブルの上は飲みもののグラスを加えて、すきまなくふさがれてしまった。塩味のパンも持ってきた。
二時間後、ほろ酔いの矢田と、少量のビールで頬をほてらせた私は、満ち足りた表情で席を立った。
私が手持ちの金に不足しているという彼の誤解もとけたし、その誤解をまねいた私の無関心と無感動の原因だった失恋についても、淡々と湿っぽくなく語ることができた。
矢田は笑い話に仕立て直した、過去の愛人たちとの顛末《てんまつ》を陽気に披露し、けれど、そういった話は、とどのつまりは長年つれ添った妻の自慢話を引き立てるのに役立たせる結果になっただけだった。
ビュッフェ・コーナーの席は、いつのまにか客でうまり、ただ、ほとんどがひとりでテーブルについていた。
帽子をかぶった青い目の婦人は、まだ丸のままのリンゴを目の前にして、ガラス壁のむこうの夜景に眺め入り、自分だけの時間にひたっているらしかった。あるいは、時間に置き去りにされたことを、静かに反芻《はんすう》していたのかもしれない。
部屋のドアの前にたどりつき、矢田と私は顔を見あわせ、なんということもなく、ほほえみあった。
そのとたん、私の唇と舌は勝手に動いていた。
「もしよかったら、私の部屋で飲み直しますか」
部屋の冷蔵庫にはホテル側がミニ・バーと称してワインのハーフボトルをはじめ、バーボンやスコッチのミニ・ボトルが何種類もつめこまれている。
私の誘いに、矢田は待っていたとばかりにうなずき、笑いを顔中にひろげた。
その瞬間、私はひらめいた。
下心はない、道楽だ、と断言してみせた彼の用意周到なワナに、まんまとはまったらしい……。
けれど、私は近づいてくる矢田を片手をだして迎え入れ、笑いかけてさえいたのだ。
握り返された彼の掌《てのひら》は、大きく、厚みがあり、たっぷりと温かく、そして乾いていた。
日本を発《た》つ際に思い描いていたカリフォルニアの陽ざしを、はじめてその手に感じた。
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乙女の祈り
三十二歳のその男は、ほとんどしゃべらなかった。
かなり内気な性格らしく、きまり悪そうな伏目を保ち、ろくに千恵子を見ようともしない。
外見の印象はかなり好ましかった。
七月の季節にふさわしい明るいグレーのソフト・スーツに白のワイシャツ、スーツと同系色のネクタイには、やはり夏らしい小さな水玉が涼しげに散っている。
この服装からすると、そう鈍感な神経の持ち主ではなさそうだった。季節や場所柄をきちんとわきまえている。
ほどよくととのえられた髪型からも清潔感が感じられた。
顔立ちにしても十人並みといえるだろう。少なくとも千恵子の苦手な「くどい顔」ではない。
学歴、家族構成、勤務先、いずれを考えても、こちらが望む及第点には十分に達している。
身長も十センチほどの開きはあり、フォーマルウェア着用の場合の高いヒールの靴も、気がねなくはくことができる。
十五回目の見合いで、ようやくつき[#「つき」に傍点]がまわってきたのかもしれない。
だが千恵子の気持の半分ははずみながらも、残り半分は冷静に男のたたずまいを観察していた。
しゃべらないを越えて、男は無口すぎた。
内気で内向的な性格であろうとも、ここは見合いの席であることを、あらかじめ承知してやってきたはずだった。
自分と同様に、入会金二万円、一回の紹介料五千円を払った結婚相談所を通して、このホテルのティー・ラウンジにあらわれたのではないか。
いま男は氷を浮かべたアイス・コーヒーをストローで飲んでいる。
まなざしは伏せられているけれど、この瞬間、男の関心はアイス・コーヒーにだけ集中されているのを、その眉間《みけん》と頬の緊張感から千恵子は読み取る。
ストローがズズッと耳ざわりな音を立て、グラスの中の最後の一滴まで吸いあげた。
男は肩で大きくため息をつき、グラスをテーブルにもどす。
視線は千恵子を無視して、ガラス壁のむこうのホテルの庭園へと流れてゆく。
出会いから二十分がすぎていた。
そのあいだに男が言った言葉は三つだけだった。
「はじめまして」
「アイス・コーヒーをください」
「ずいぶんと冷房がきいているホテルだな」
結局、と千恵子は自分に言いふくめる。彼にとってはこの私は好みのイメージではなかったに違いない。結婚相談所のリストで顔写真と全身の写真は見てきたはずだが、実物を見て落胆したのだろう。
これまでにも二人の見合い相手から言われていた。
「写真の雰囲気とちょっと、こう、なにか……」
半年前のリスト登録に際して、千恵子が選んだ写真二枚は、どちらも五年前のスナップ写真だった。
そして千恵子は十日前に二十九歳の誕生日を迎えた。
五年前の二枚の写真は、われながら若々しさにあふれていると思う。無邪気で、特に目もとにやわらかさがあり、屈託のない明るさが写真全体に大きな特徴を与えている。
あの頃からくらべると千恵子は四キロ痩《や》せ、頬の肉の落ち具合もほどよく、すっきりと洗練された顔立ちになったと自分では満足しているのだが、友だちの美津子《みつこ》は遠慮がちに、五年前の写真をすすめた。
「男のひとって、明るく健康そうなタイプがいちばんみたいよ」
また美津子は、きっかけは何であれ、じかに会ったそのときからが勝負だ、そのためにも、より多い出会いを大切にすべきだ、と彼女にしては、いつになく力説した。
半年前の時点で、すでに十回の見合いを経験していた千恵子は、その挫折感《ざせつかん》もあり、忠告にしたがった。
が、リストの写真と実物の違いは、これまで四回の出会いを可能にさせたにもかかわらず、交際の段階まで進展はしない結果をもたらした。
五回目のきょうも、どうもそのへんに落ち着きそうだった。
それならば駄目でもともと、千恵子の胸に居直りと挑戦的な気分が宿る。
真っ赤なサマー・スーツの背すじをのばし、バストをつきだすようにして姿勢をただす。
「――さん」
男の苗字《みようじ》を口にした。
「これからどういたしましょうか」
庭園を眺めていた男の横顔が、かすかに引きつった。
つかのま横目を使って千恵子を見る。
そのとたんだった。
千恵子はひらめいた。このおびえたような横目づかいは、ある種のタイプの男たちに共通の表情だった。過去の十四回の見合いでえた学習とも教訓とも識別チェック法ともいえる。
だが先入観のまちがいもある。これも見合いをこなすなかで学んだことだった。
千恵子は、にこやかさを心がけながら、小首をかしげて親しげに語りかけてみた。
「映画でもごらんになります? それともそのあたりを散歩します?」
相手は急にまばたきがせわしくなった。だが伏目がちなのは変わらない。
「映画なら……」
低く、不明瞭《ふめいりよう》な声音だった。
「そのう、ビデオなら、ぼくの部屋にいっぱいありますし……もっともそろっているのはホラー・ビデオで、そのう、散歩するなら、ぼくの部屋にファミコンがたくさんあるので……散歩と同じものでしょう、ファミコンも」
ビデオならホラー物。
散歩もファミコン・ゲームも同じ。
この発想が間接的に伝えてくることを、あらためて言葉に置きかえ、念を押す必要はなかった。
見合いした相手のうち半数は、この手合いか、もしくはそれに近い性格の持ち主であり、千恵子は驚きはしない。
すこぶるつきで最悪な相手にも会っていた。千恵子と同年齢の、一見、体育会系の筋肉質のある男などは、財布から、なんと「リカちゃん人形」の写真を取りだして見せたのだった。
しかも写真は何枚もあり、そのつど「リカちゃん人形」の服装は異なっていた。
「可愛いだろう」と男は太いダミ声を甘くふるわせて目をほそめた。
「リカちゃんの服は、すべて俺が買ってきてやるんだ。そして記念に写真を撮る。リカちゃんは、俺の理想の女性さ」
多分、あの男はどこか勘違いをして、そういう打ちとけ方で、千恵子と親しくなろうとしたのかもしれなかった。悪気も隠微さも茶目っけも、そこにはなく、いたって邪心のない、ほがらかさだけが彼の顔面をおおっていた――。
「あらら、ごめんなさい」
千恵子は十五回目の見合い相手の前で、大げさに声を張りあげた。ことさらに腕時計をひけらかして見せる。
「私、うっかりしていました。これから帯広の父を札幌駅に迎えにゆかなくては。今朝、電話があって、急にこちらに遊びにくるというものですから」
父のひと言に相手はいっそうおびえた顔つきになった。
「きょうはとりあえずこれで失礼させていただきます。本当に申し訳ありません」
千恵子は椅子から立ちあがる。上半身を揺らさずに、腰から下だけを使うモデルのような歩き方で出入り口へむかってゆく。
真っ赤なミニ丈のスーツの内側は、敗北感がみちていた。けれど、けっしてそれをあらわさず、あくまでも堂々と立ち去る。
だてに見合いの数をこなしているのではない。私は自分を安売りしない、安易な妥協などしない女なのだ。
相手に言っているのではなかった。
十五回も見合いをして、いまだに良縁に恵まれない自分自身のプライドに暗示をかけるため、破談に終るたびに、その場に残してゆく捨て台詞《ぜりふ》だった。
その夜、マンションでひとり暮らしをしている千恵子のもとに、美津子から電話がかかってきた。
「相談があるのだけれど」
いつもながらに、か細い声である。
壁の時計は八時をすぎていた。
「長居はしないわ。最終バスに間にあうように十時にはおいとまするから」
札幌の郊外に家族とともに住む美津子は、どんなに遅くなっても十時半の最終バスに乗って帰宅する。厳格な家庭に育ち、また、それにさからおうともしない、いまどき珍しい女性だった。
「わかったわ。すぐにいらっしゃい」
美津子は、あと半年後に三十歳の大台にのる。見合い歴は十回をかぞえ、現在は十一回目の相手と、ようやく交際にこぎつけたばかりだった。
三十歳を目前にひかえた気迫が、交際にまでいたらせたのだろう。おとなしい美津子にしては、体当り的アプローチの成果がみのったのである。
千恵子と美津子が知りあったのは、一年前、独身の二十代ばかり集めたホテルのパーティー会場で、パーティーのタイトルは気のきいた、おしゃれなネーミングがなされていたけれど、暗黙のうちに集団見合いの場だと、参加者は心得ていた。八千円の参加料だった。
だが本気で見合いの意気ごみでのぞんだのは、ごくわずかであり、大多数の二十代は遊び心でやってきたらしい。
というのも、目に力のこもっている本気派は、じとっとしめったムードを全身から漂わせ、それがために遊び心派からは直観的に敬遠された。
踊りにも誘われず、話しかけられもせず、会場のすみに設置された、いくつかのテーブルに、しぜんと押しやられてしまったひとびとの中にふたりはいた。
押しやられ組の中には、ヤケになってウィスキーをあおり、その勢いで踊りの輪にとびこんでゆく男もいたけれど、たいがいはうらみっぽいまなざしで、しょんぼりと椅子に腰かけていた。
しかし千恵子は負けなかった。腹を立てていた。前宣伝にいつわりあり、と主催者側のスタッフらしい数人の男女をにらみつけ、目的もなく群れつどっている軽薄[#「軽薄」に傍点]な二十代に敵意をいだきつづけた。その日も千恵子は真っ赤なワンピースを着ていた。赤は自分に似合うと信じていたし、これほど目立つ色はないはずだった。それも腹立ちの原因になっていた。目立つ赤を、なぜに男たちは無視するのか。気づかないのか。
千恵子の隣で、そのうち、グスグスと鼻をすする音がした。振りむくと、地味な白っぽいワンピース姿の女が、ハンカチをしきりと目に当てている。
「どうしたのですか」
おもわず声をかけていた。
ハンカチを握りしめている女は気のよさそうな、どこかあどけなさの残る表情で素直に答えた。あどけないけれど、ごく平凡な顔立ちだった。
「私、やっぱりモテないんです。よくわかりました。このパーティー、集団お見合いなんですよね、それなのに……」
最後まで言わせたくなかった。おたがいに、みじめすぎた。
千恵子はその女の腕に手をかけ、立ちあがらせた。意外と背が高かった。百六十五センチはゆうにある。
「でましょう。一緒にお茶でも飲みましょう」
それが美津子だった。
ふたりは急速に接近した。
結婚願望がまずベースにあり、しかもどちらも積極的に見合いにいどみ、断わったり、断わられたりの、人生の機微をかみしめてきた経験を持つ。
同類の親近感のうえ、ふたりが男性に求める要素が正反対だったのもさいわいした。
千恵子は、学歴、職業、年収を重視し、あっさりした顔が好みなのに対して、美津子は、あくまでも人柄本位で「ピンとくる相性のよさ」を追求し、造作のくっきりとした濃い目鼻立ちの顔に惹《ひ》かれるという。
見合いのきっかけ作りの方法も、それまでの美津子は素朴だった。勤務先の上司の紹介や友だちのつてを頼り、「結婚したいの」と、だれかれなくふれまわっている。
結婚をあせりはじめたのは二十五歳の後半というのも一致していた。
ふたりとも両親がせかしたのではなかった。むしろ、いつまでも手もとに置いておきたいような言葉をちらつかせる。千恵子も美津子もふたり姉弟《きようだい》の長女だった。
ただ二十五歳になったとたん、ふたりの短大時代の友だちや、職場の同年齢の女性たちが、バタバタと結婚した。
披露宴に出席する回数がふえてゆくにつれて、少しずつ不安になりはじめた。
自分は出遅れているのではないか。
このままではイイ男は残らずいなくなってしまうのではないか。
現在の職場にいても、退屈なまま、いたずらにトシを取ってゆくだけで、働きがいもなければ、充実感も望めない。
普通の女であるからには、やはり、結婚をめざすべきなのだ。
じっと待っていても、ステキな男性があらわれないことも、良縁がころがりこんでこないことも、ふたりはさまざまな女友だちの例から学んでいた。
見事ゴールインした女友だちは、決断をしぶる恋人や、玉の輿《こし》にのるために、さらには親の反対を押し切ってなど、ありとあらゆる努力を惜しまなかった。あるいは、さしたる意志も持たずに、親の言いなりになって見合い結婚をした者も、婚約期間の中で、恋愛感情をむりやりかき立て、あたかも相思相愛のカップルのようにふるまって、まわりに見せつける。周囲をうらやましがらせることによって、自分たちの結婚の正当化をはかる。挙式までのあいだ、くじけそうになる気持や胸をよぎってゆく後悔を、第三者をそのように巻きこんで、高揚感を持続させようとする。
もちろん、努力なしの勝利、という例外はある。
ただ、そういうひと握りの幸運な女性は、先天性ともいうべき男にモテる資質を持っているか、お金持ちのお嬢さんにかぎられる。
千恵子も美津子も、その点では、けっして自惚《うぬぼ》れなかった。
自力で切り開いてゆくしかない。
見合いを飽くことなくくりかえすのは恥とは思わなかった。
結婚は一生にかかわる問題である。
どこまでも自分の感性や条件にあう男を見いだそうとするこの真摯《しんし》さは当然ではないか。
結婚を切望する女にとって恥というなら、それは何も行動せず、おのれのほどもわきまえず、人形みたいに気取っていることだった。白馬の王子がむこうからやってくるのを心待ちしながら、澄ました顔で。
美津子は十五分後に千恵子の住む地下鉄駅そばのワンルーム・マンションにあらわれた。
性格を反映した相変らず地味な服装だった。白地の半袖《はんそで》ブラウスにグレーのプリーツスカートを組みあわせている。
部屋に入るなり、美津子はカーペットを敷きつめた床にぺたりとすわりこみ、哀願のまなざしで千恵子を見あげた。
「どうしよう、千恵子さん」
「いきなり、どうしたの。とにかく、そんなところにいないで椅子に腰かけて」
言いながら冷蔵庫から麦茶を持ってくる。
「さっきまで彼と一緒だったの」
彼とは見合いした相手である。
「あら、うまくいっているのね。よかったじゃないの。私なんて、さんざんよ。きょうの相手は、またもやオタク族=Bどうして結婚相談所にくる男って、ああいうタイプが多いのかしら。やんなっちゃう。で、彼とは?」
美津子の表情はそこで分裂した。顔面が突然に赤くなると同時に唇は笑いの形にひろがり、一方、目の中にうっすらと涙がはかれた。
「きみのことを、もっとよく知りたいと彼は言うの」
「好調な進展ぶりじゃないの」
「それが……あの、結婚って夜の生活のほうも大切だと」
いっそう美津子の顔は赤くほてりだす。
「だからね、それをためしたい、と。……これ、どう受けとめたらいいのかしら」
聞いたこともない話だった。
見合いをし、交際にまですすみ、その途中で性の相性をチェックする――。
千恵子は思わず腕を組む。
「その彼は真面目な人だと言っていたわよね」
「ええ、ちゃんとしたサラリーマン。いいかげんなひとではないわ。へんに暗くもない」
ためらいのない返答だった。
「ね、千恵子さんならどうする?」
千恵子はめいっぱいの想像力を働かしてみる。
相手の男は、もしかすると照れているのかもしれなかった。本当は美津子を結婚の相手だと心に決めながら、プロポーズの言葉を言いだせずに、わざと悪ぶった表現を口にしたのではないのか。ホテルでふたりきりになってから、だれの耳も気にしなくていい状況をととのえ、あらためて結婚を申しこむつもりだとも考えられる。
また、見合い相手とベッドをともにする段階までゆこうとすること自体、すなわち結婚と見なすのが常識だろう。
千恵子は真顔になってたずねた。
「美津子さんの気持はどうなの。彼と結婚してもいいと思っているわけ?」
恥かしそうに美津子はうつむく。
「ようやく出会った男性、彼以上のひとはいままでいなかったわ。地道な考え方をしている誠実な人柄だし、思いやりもあるし……」
「じゃあ、迷うことないでしょう。私なら彼とホテルにゆくわ。だって、どう考えても、彼の言っている内容は、結婚を前提にしているとしか思えない。ふつう、まだ決意を固めていないのに、見合い相手にそんな大胆な提案をするはずがないもの」
美津子の目が輝いた。
「そう、そうよね。私もきっとそうだとは思ったのだけれど、いきなり言われて動転してしまって……でも、私、どうしよう」
美津子は両手で頬を押さえる。うれしさと羞恥心《しゆうちしん》がないまぜになったまなざしだった。
「どうしようって?」
「ほら最終バスは十時半だし、外泊はできないし……」
「土曜の午後か日曜にしてもらったら」
「そんな明るいうちからホテルだなんて」
「みんなやってるわよ」
「そうなの?……いえ、私が心配なのは、そういうことじゃなくて……じつはね」
美津子はふたたびうつむく。
「……じつは私、男のひととのそういう体験ないの……どうしよう……」
告白されるまでもなく、千恵子はうすうす気づいていた。
現代の二十代女性には処女などいない、とどこかの雑誌に書いてあったけれど、千恵子のまわりには、男性経験のない女たちがけっこういるのだった。
けれど、処女たちは、それをかくそうとする。二十代も後半になるほど、処女すなわち男に見むきもされない女、というイメージが定着しているため、必死に経験者のふりを装う。
また、十分にごまかせる。ちまたには、きわどいセックス記事がごまんと流布されているから、それを読み、あたかも自分が実践したことのように語れば、だれも処女とは思わない。
千恵子にしても美津子とほぼ似たようなものだった。短大生のころに、ひとりだけつきあっていた男がいて、それ以降は特定の相手はいなかったし、性的にはほとんど未成熟に近い。
だが美津子の目には、そううつっていないらしい。言葉のはしばしにそれを感じるし、おとなしく、地味な彼女の感覚からすると、見合いの場に真っ赤なスーツを着用してゆく度胸は、豊富な男性経験なくしてはできない、と見なしている。見合いにあけくれている現在はともかく「二十五歳までは、千恵子さん、かなり遊んでいたのでしょう?」と、羨望《せんぼう》のまなざしをむける。
あえて否定はしなかった。千恵子のささやかな見栄である。
ただ千恵子のほうは、美津子が処女なことを早くから見破っていた。見合いを何回となくくりかえしながら、しかも三十歳を目前にして、結婚相手は何よりも人柄優先、と言いつづけるのは、男への幻想をいだいているからに違いない。しかも彼女の場合はカマトトぶってそう言っているのではなく、しんそこから「結婚はたがいの人柄次第」と信じきっている。人柄さえよければ、貧しくともかまわないなどとは、中学生でさえ考えないだろうと千恵子は思う。現代の女子中学生の憧《あこが》れはシャネルのブランド品なのである。
しかし、美津子のそうした世間知らずの乙女心を、千恵子は嫌いではなかった。高学歴、高収入の男をねらっている自分が、いつのまにか忘れ去ってしまったものを、彼女の中に見る。
「教えてよ、千恵子さん」
どうしよう、をくりかえしていた美津子が、ようやく夢心地の状態から現実にまいもどってきた。
「はじめてのベッドインはどんなふうにすればいいの? たとえば下着はどこまで身につけているのがエチケットなのか、その下着にしても色やデザインはどういうのが好ましいのか」
千恵子は以前に頭にたたきこんでおいた「彼と迎えるはじめての夜」という女性誌の特集を思い返す。いつか役立つだろうと、かなり真剣に読み、切り取ったその数ページをしばらくのあいだ保存し、折あるごとに取りだして復習していたのである。
「男のひとはね、清楚《せいそ》さにいちばん弱いのよ。だから下着は白にかぎる。スリップはベッドインの必需品じゃないかしら。セクシーさを演出できるから。でもスリップのデザインはセクシーすぎるのは避けるべきよ」
「そう、わかったわ。で、ショーツはどの程度のがいいの? パンツかパンティかスキャンティ」
つかのま千恵子は返答に窮する。
「ええとね、スキャンティは駄目よ」
言いながら、美津子の外見からするとぶ厚い綿の白パンツの雰囲気、と思うけれど、それはさしひかえる。
「パンティが無難ね。ちゃんとおへそがかくれるぐらいの。ハイレグ・タイプはあまりすすめたくない」
千恵子の言葉の途中から、美津子はバッグから手帳をだしてメモしはじめた。
「最後の質問だけれど、ホテルの部屋に入ってから私はどうすればいいのかしら」
「男のひとのリードにまかせる。ぜったいにでしゃばってはいけないわ」
これだけは短大生のころの初体験から力強く真心をこめて断定できた。
「ありがとう、千恵子さん、助かったわ。この調子だと、三十歳になる前に花嫁|衣裳《いしよう》が着られるかもしれない。二十九と三十じゃ、ひびきがまるで違うもの」
美津子が帰ったあと、千恵子はアイロン台を押し入れからだしてきた。
きょうの見合いで着た真っ赤なスーツのスカートのしわにアイロンを当てはじめる。
あすの日曜日の午後にもうひとつ見合いの予定が入っていた。登録者の名簿を見て先方がいたく乗り気だという結婚相談所の話だった。
美津子が十一回目の見合い相手と順調にゆきはじめてから、千恵子もいっそう意欲をかき立てられてきた。あせりともいえる。
こちらの条件や好みをとやかく言う前に、望まれたのなら、一応、会うだけは会ってみよう。どこに掘りだしモノがあるかわからない。
美津子は、目的を同じくする「戦友」であるとともに、自分たちの不遇を嘆きあう「同志」でもあり、同時によりよきライバルにもなっていた。
親子連れでにぎわう遊園地の中を散策しながら、初対面のその男はよくしゃべった。
まるで旧知の間柄みたいなひとなつっこさで、笑顔をふんだんにアクセントに使い、たわいない話を、楽しそうに話しつづける。
背はさほど高くはない。体型は痩《や》せているのか、ふくよかなのか、それとは識別できない服装だった。
低いスタンドカラーの白のシャツに、たっぷりめの麻の茶色のジャケット、焦茶色のスラックスは、ウエストまわりにいくつものタックを取ってだぶつかせた、いわゆるソフト・パンツである。パンツの裾《すそ》は長く、茶と白のコンビネーションの靴の甲の部分にまでかかっていた。二十代の若者雑誌で見かけるそのファッションを、三十六歳の彼はそっくり真似て、それでいて違和感は与えない。
自信と快活さで着こなしている感じだった。
顔立ちにしても、じっくり眺めると、造作のひとつひとつが大まかで、コミカルな目鼻立ちなのだが、表情の豊かさが美醜をこえた好感度をもたらしている。
男から手わたされた名刺の肩書きには「輸入雑貨・福富商事、代表取締役」と記され、街中のビルに事務所をかまえていた。
千恵子に名刺を差しだしながら、男はたずねられる前にさりげなく説明した。
「以前は父のやっている家具の卸問屋の手伝いをしていましてね、そのとき買い手《バイヤー》としてヨーロッパ各地を歩いていた下地をいかして、この商売をスタートしました。そうですね、もう六年になりますか、早いものです」
男は一瞬遠くを見つめるまなざしになり、ひと呼吸おいて、そっけないほどの口調でつぶやいた。
「おかげさまで、年収だけは二千万……」
びっくりして息がつまりそうになったが、千恵子は平静さを装い問い返した。
「それは会社の売上げ高ですか」
男は苦笑しながら首を横にふった。そのときだけ陽気さは消え、目もとに物淋《ものさび》しいかげりが生じた。
「ぼく自身の年収です。しかし、いくら金があっても独り身だと、つまらないものですねえ」
それから男は、いまはじめて千恵子の存在に気づいた、自分自身の閉じられた世界から浮上してきたといったあわてた顔つきになった。
「すみません。お会いしたばかりのあなたに愚痴をこぼしたりして。でも、こうしてお会いしてみると、やはりぼくの勘は当っていたと思います」
「どういう勘でしたの?」
男はソフト・パンツのわきポケットに両手を入れた。答えにくそうに、黙って数歩ゆっくりと進む。さっきの目もとのかげりと同様に、快活さのかげからときおりのぞく憂いの気配は、妙に関心をそそった。
ふたりはソフトクリームの売店とメリーゴーラウンドにはさまれた路上を歩いていた。
男はポケットに手をつっこんだまま、いきなり首をそらせて空を見あげた。
「あなたはひととひとの縁というものを信じますか」
「縁、ですか……」
「そう。三十六歳のきょうまで、女性とのつきあいがなかった、とは言いません。でも、所詮《しよせん》、縁のない女性ばかりでした」
男の話し方には独特の間がはさまれた。それが説得力をおびて、こちらの胸にしみ入ってくる。
にぎやかな笑顔をともなってのおしゃべりと、こうした、しんみりとした語りの対比は意外性に富み、加えてまたそれは男の相手を退屈させない細心のサービス精神と、その裏に秘められた繊細な心根を暗黙に伝えてきてもいた。
「結婚相談所へいったのは、はっきり言って、からかいまじりでした。でも――」
長い沈黙がはさまれた。千恵子が苛立《いらだ》ちをおぼえるほどに長かった。
ようやく男が口をきる。
「でも、あなたのリストと写真を見て、ぼくはピンときました。そのときの気持をひと言で表現するなら、ぼくと同じハートを持つ女性がいる。失礼ですが、リストに載せている写真は一、二年前のものではありませんか。あなたの生年月日を拝見してそう想像したのですが」
話は悪い方向に流れてはいない、そうとっさに判断した千恵子は素直にうなずいた。
「はい。数年前の写真です」
「そうでしょう」
いきなり男の声は快活さを取りもどした。
「そう、そうなんだ、あなたという方は。ぼくにはわかるのです。あなたは、あのたくさんのリストに登録されている女性とはひと味もふた味も違ったスパイスのきいたプライドをお持ちだろうと。ぼくはこう考えましたね、あなたはあの相談所のレベルの高さを示す一種のステイタス・シンボルがわりに使われているのではないのか。だって信じられませんよ。こんなチャーミングな女性がご自分からああいう所に入会するなんて」
千恵子は慎重に口をつぐんでいた。
訂正するよりも、男の思いこみのままにしておくほうがとくな気がした。
男の称讃《しようさん》はさらにつづいた。
「きょうは直接お会いして、ぼくの勘と想像はまちがっていなかったと確信しました。その赤のスーツが物語っています。あなたは、あえて、あざやかな赤の洋服を着ることによって、男たちに伝えているのでしょう? この赤にひるむような男性など相手にしない。写真にしても同じ心理が働いている。わざと実際の年齢とはかけはなれた写真を使い、男たちの心をカク乱させ、それでもあなたに会おうとする勇気のある男性しか相手にしない」
なるほど、と千恵子は感心する。そういう解釈の仕方もあるのか。三十六歳の、自分で事業を手がけるような気骨ある男性は、ごく普通のサラリーマンとは異なり、その発想までユニークなものらしい。
しかも男はしつこくなかった。
遊園地をひとまわりして、ふたたび出入り口にもどってくると、にこやかに言った。
「自惚《うぬぼ》れてもいいでしょうか。あなたとは長いおつきあいができそうな予感がするのですが」
口もとは笑みをきざみながら、男の目は真剣だった。初対面のコミカルな印象はぬぐい去られ、魅力あふれる三十代の男がそこにいた。千恵子はその目に吸いこまれそうになった。頭がぼうっと熱くなってくる。
男はくりかえした。
「近いうちにお会いできますか」
「ええ」
「では、きょうはこれでお別れします。本当はもっと長くご一緒したいのですが、最初から無遠慮なやつとは思われたくないので」
そして男は千恵子の自宅と職場の電話番号をきいた。できるだけ自分から連絡するともつけたした。男は職業柄、営業や打ちあわせにでていることが多く、ただし木曜日はたいがいデスクワークをしているため、まちがいなく事務所にいるとも言った。最後に男は自宅の電話番号をメモ書きにして、千恵子の手に握らせた。
千恵子の頭の中はピンク色のもやがかかっている状態だった。
外見など、この際もはやどうでもいい。あの話術の巧みさ、経済力、さらにいまどき珍しい男らしい押しの強さと、スマートな身の引き方、どれをとっても申し分がなかった。
近いうちにという約束通り、三日後、男から誘いの電話がかかってきた。それも、いきなり今夜会おうというのではなく、あすの晩の都合をたずねる、ゆきとどいた配慮だった。フランス料理のディナーを予約したいという。もちろん千恵子が断わる理由はない。
ピンクに染まった頭の中のもやは、日ましに濃さを深めていった。
男は律義に三日置きに連絡してきて、そのたびに目新しいレストランや和風料理の店、しゃれたバーなどに千恵子を連れだした。
何よりも千恵子の心をとろけさせたのは、デートから帰ってマンションの自宅に着くなり、男から電話がかかってくることだった。
「もっと話したかったことを思いだしてね。いや、それはこの次にするよ」「無事に帰り着いたか心配になって」「別に用はないけれど、もう一度きみの声が聞きたくなった」
男とひんぱんに会いはじめるようになってから三週目に入ったその夜、千恵子は美津子の家に電話をしてみた。
美津子のほうの一件が、その後どうなったのか、というのは口実で、千恵子は自分の身に訪れた幸運を、だれかにしゃべりたくてたまらなかった。
電話口にでた美津子の歯切れは、例によってもたついていた。家族の耳を意識しているためである。
美津子のほうの進展はなかった。あと一歩の決心がつかないのだという。
当りさわりのない励ましの言葉を口にしてから、千恵子は「年収二千万円の、このところデートを重ねている男性」の報告をした。
「まあ、すごいじゃない。玉の輿《こし》ってことよね」
美津子の無邪気な驚きの声は、いたく千恵子の自尊心を満足させた。
声をひそめ、美津子がせきこむようにたずねる。
「プロポーズはされたの」
「時間の問題じゃないかしら」
そして千恵子は勝利者の余裕から、美津子に忠告した。
「何ごともタイミングが大切よ。あなたも、ここぞ、というときは打ってでなくちゃ」
十日がすぎた。
年収二千万円の男は五日前から海外の買いつけにでかけていた。予定は二週間とのことだった。
その夜、千恵子がひさしぶりの残業をしてマンションに帰ってくると、玄関のドアの前に美津子がたたずんでいた。
「まあ、突然にどうしたの」
「千恵子さん……」
顔をあげるなり、美津子の目から涙がほとばしった。両のまぶたが腫《は》れているところからすると、いま急に泣きだしたのではないらしい。
ドアの鍵《かぎ》を開け、一階の郵便受けから取ってきた配達物や夕刊をつかんでいる手で美津子に入るようにとうながす。
部屋にあがりこんだとたん、美津子は床にすわりこみ声を立てて泣きじゃくりだした。
「ちょっと美津子さん、落ち着いてよ。何があったの」
美津子は泣きやまない。
うんざりとした心地で、千恵子は冷蔵庫から缶ビールを二個持ってきた。
「さあ、これでも飲んで少しは気を取り直して」
「あ、ありがとう」
涙でぐしょぬれになった顔をハンカチでふこうともせず、美津子は蓋《ふた》を開けたそれを大量にのどに流しこむ。ヤケ酒のつもりなのか、泣きすぎて身体が水分を要求していたのか、いつもの美津子らしからぬ飲みっぷりだった。
「わけを話してくれるわね」
ソファに腰かけ、おだやかな千恵子の口調に、美津子はこくりとうなずく。うなずきながら、またもや大粒の涙があふれでた。
「彼と……ホテルにいったの。先週の土曜日の午後に……」
「それで?」
美津子はもじもじとうつむく。涙がカーペットにしたたり、黒いシミを作った。
「ほら、ちゃんと話してごらんなさいよ……ああ、そうか、ベッドインにしくじったのね」
「違うわ……そのう、合体[#「合体」に傍点]は成功したの。ところが、四、五日後に彼と会ったとき、もう交際はやめようと」
「だれが?」思わず大声で問い返していた。
「彼が、一方的にそう言ったの」
「でもベッドインはうまくいったのでしょう」
「そうよ、合体[#「合体」に傍点]はできた……でも、でもね、彼が言うには、ぼくたちの性的な相性はよくないって。たがいに不幸になるだけだって。ね、千恵子さん、性的な相性って、そんなにすぐにわかるものなの? 努力しても無駄なの?」
千恵子は猛然と腹が立ってきた。
美津子の相手の思惑は測りかねる。最初はどういう気持から彼女をホテルに誘ったのか、それは当人にしかわからない。
しかし、結果として、これは「ヤリ逃げ」ではないか。
それでも、ごくまっとうなサラリーマンが、見合いで知りあい、交際していた女性とホテルにまでゆき、その身体を抱き、挙句の果ては交際を中止したいなどと、もはや常識では考えられない。
考えられないけれど、事実、美津子はそう言われたという。
「あなたはそれに対してどう答えたの」
千恵子の声は怒気をふくんでいた。
「私、わからないもの。カラダの相性のお見合いなんて、今回がはじめてだし、どう返答していいのか。あるいは、こういう見合いもあるのかもしれないし……」
思わず千恵子は声をあららげていた。
「そんな見合い、あるわけないでしょ。しかも、あなたは初体験だというのに」
ワッとふたたび美津子は泣いた。号泣に近い激しさだった。
「彼、私のこと……処女《バージン》じゃないと……二十九にもなって……そんなの嘘だと……」
泣き寝入りはさせない、千恵子は唇をかむ。いちまつの後悔と罪の意識も感じた。
迷っている美津子に「タイミングが大切、打ってでよ」とそそのかしたのは、この自分だった。
けれど見合いの場を利用して「ヤリ逃げ」するような男が、この世にいるとは、まさか思いもよらなかったのだ。
どういう神経の男なのか。それが常習犯だとしたら、見捨ててはおけない。なんらかの制裁を受けて当然ではないか。
美津子の嗚咽《おえつ》を聞きながら、千恵子は気持のたかぶりを少しでも鎮めようと、郵便受けから持ってきたダイレクト・メールやチラシを手もとに引き寄せる。夕刊をひろげる。
新聞の文字はほとんど読めなかった。興奮のあまり、ひとところを注視できない。
やがて社会面のページにきて、そのまま新聞を折りたたもうとし、瞬間、千恵子の記憶のどこかがざわめいた。
見おぼえのある顔――。
いそいで社会面にもどり、目をこらす。
年収二千万円の男だった。
正面をじっと見つめた顔は、何かの動物を連想させるコミカルさが丸だしになっていたけれど、目尻《めじり》のさがり具合と、大きな厚い唇の特徴は、確かに彼に違いない。
「結婚詐欺」
この四文字が脳天をつらぬいてゆく。
名前も、千恵子の知っているそれとは異なっていた。つかまったのは千葉県で、「これまで四名の女性から被害届がだされていた」。
男が逮捕されなければ、五人目の被害者は、この私だったのだろう、千恵子はショックのあまり空白になった頭のすみでぼんやりと思った。
男は初対面の日に言った。「ぼくと同じハートを持つ女性」。あれは、結婚相談所のリストに登録した写真が、現在のものではないのを見破り、それが意味することを彼なりの嗅覚《きゆうかく》でとらえ、獲物になりうると判断したうえでの台詞《せりふ》だったのかもしれない。
詐欺師のハート、男は本当はこう言いたかったのだろうか。アマチュアの詐欺とプロの詐欺。それが、ついあの言葉になったのか。
「どうしたの、顔が真っ青よ」
ハンカチを目に当てながら、美津子が心配そうに声をかけてきた。
「気分でも悪いの?」
千恵子は吐き捨てる。
「ええ、むかむかするわ」
「ごめんなさい。私のことでイヤな思いをさせて」
「違う、あなたのことじゃないの。この世の中のズルイ男すべてにムカつくの」
いくつになろうとも、結婚に夢や期待をたくす女の気持は、その心の根底にあるのは「乙女心」のはずだった。
結婚相手にいくつもの条件を求めながら、そういう女たちが本当は心の奥で望んでいるのは「愛し」「愛される」ことであり、その相互の愛が確認されたとき、さまざまな条件はどうでもよくなってしまう。千恵子はそういった例を身近に見てきてもいた。
もちろん、結婚にまるでこだわらない女性たちもいるし、結婚したくないと言いきる女性も近頃では少なくない。
しかし、ひとたび結婚したい、と思ったときの女性たちは、何歳であろうと、心は乙女にまいもどる。
また、乙女にまいもどらなければ、結婚はできないのかもしれなかった。いっときの気の迷いの「乙女心」であろうと。
千恵子はふいに泣けてきた。
かろうじて自分の中に残っていた乙女心を、ここにきて一気にふみにじられたくやしさからだった。
「千恵子さん、私のこと、そこまで親身になってくれるのね」
美津子があらたな涙を流しはじめた。
そうだった、彼女こそ乙女であり、その純な乙女心を無残に打ちくだいた男がいる。
許せなかった。
明確に、一点のためらいもなく、許せない、と糾弾できるのは、美津子のカラダを奪って捨てた男――。
千恵子の心は燃え立ってきた。
結婚詐欺にはまりかけた自分への怒りが、美津子への同情とすりかえられてゆく。
「あなたをだました男の名前は? どこに勤めているの?」
鋭く追及する千恵子の足もとで美津子は泣きつづける。
だが、半年後に三十歳を迎える乙女は、なぜか、けっして口を割ろうとはしなかった。
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水にゆらめく
七月半ばの土曜日、マンションの部屋の玄関チャイムが、おどけたリズムにのって、せわしなく数回鳴らされた。
夜の七時をすぎている。
緑川に違いない。
啓子は、夕方から飲みつづけているウイスキーグラスをテーブルに置き、椅子から立ち上がる。
シャワーを浴びたあとにまとった黒のタオル地のガウン一枚きりの恰好《かつこう》だった。
玄関のドアを開ける。
予想通り廊下には緑川が立っていた。
目が合うなり、すかさずほほえみかけてくる。といきなり、わざとらしい素速さで直立不動の姿勢になり、こんばんは、という声とともに、長い身体がふたつに折られた。
その手には、彼が勤める建材会社の社名入りのグレーの紙袋が握られている。
緑川を部屋に入れ、啓子はウイスキーグラスを手に、挑みかかる口調で言った。
「あなたたちの芝居はいつ終りになるのよ」
緑川はそれには答えず、テーブルの上のウイスキーボトルをつかみ取る。壜《びん》の中身は、まだ三センチほどしか減ってはいない。
「きのう飲んでいたカティサーク、あれ、あけてしまったんですか? 少し気をつけないと肝臓を悪くしてしまいますよ。ああ、例の件ですね。あとで和也がやってくるはずです。電話しておきましたから」
啓子は腹立たしさを抑えながら、皮肉っぽくきき返す。
「それで彼があらわれたなら、私はどんなふうに演じればいいのよ」
「別に何も。一幕物の無言劇というところでしょうか。しかし、きょうは蒸し暑いですねえ。夜になってもちっとも涼しくならない」
緑川はネクタイの結び目をゆるめ、失礼、と言って背広を脱ぐ。長袖《ながそで》のワイシャツを肘《ひじ》へとたくし上げながら、やや遠慮がちに言ってきた。
「すいません、お水一杯いただけませんか」
啓子は冷蔵庫に近づき、中から冷たいおしぼりと、和也用にと決めてある銅のビア・カップ、壜ビールを取り出して、テーブルに並べる。
テーブルをはさんでむかい合って椅子に腰かけ、緑川はおしぼりで顔をふき、手酌でビールを飲みはじめながら、啓子の心づかいにしきりと感心してみせた。
「十分によくひやしたおしぼりに、このビア・カップ、啓子さんは意外と古風な面をお持ちなんですね。つねに相手を思いやっての、こうした配慮」
けれど、その目には、からかうような笑いがにじんでいる。
啓子は相手を無視してグラスを口に運びつづけた。
自分より五つ齢下の、この二十五歳の男がまだ大学生だった時分から、啓子はことあるごとに冷笑のまとにされてきた。そういう緑川に舌打ちし、ときには内心本気で怒りをおぼえたりもしたけれど、和也の親友なのだから、と表面上はいつも笑い流してきた。
「しかし、こういう啓子さんと別れようとするのですから、和也も愚か者ですよ」
不意に啓子はいきり立った。
おとといの晩からこらえていたものが一挙に爆発した。
気がついた瞬間、手にしていたグラスを緑川にむけて思いっきり投げつけ、けれど、相手はいち早く身をかわして、その場からとびのいていた。
「いけませんねえ」
緑川は苦笑しながら、壁に当って割れたグラスの破片を拾い上げては、屑箱《くずばこ》に捨て、その作業が終ると、キッチンへ行って新たなグラスを持ってくる。
テーブルの上のアイス・ペールから氷を取り出してグラスに入れ、ウイスキーをそそぐ。
「薄目にしましょう」
そう言いながらグラスに水差しの口を傾ける。
二十五歳の若さにしては、小面憎いほどのその余裕と落ち着きが、さらに啓子の神経を苛立《いらだ》たせる。
煙草をくわえ、ふるえる指先でマッチを擦ろうとしたが、何回やっても火はつかず、やがてマッチの軸はすべて使い果たしてしまった。いまいましさがこみ上げてきて、今度はからのマッチ箱を床に叩《たた》きつける。
そんな啓子の姿を、それまで黙って眺めていた緑川が、テーブルごしにライターの火を寄せてきた。
「マッチ箱にさっきのウイスキーがかかったんですよ。でも女性は五つ上であろうと下であっても、たいして変わらないものなんですね。いえ、ばかにしているのじゃありませんよ。なんせ僕は啓子さんに惚《ほ》れていますからね、何をやっても可愛く見えるわけです」
口惜しさをかみしめながら、啓子は緑川を睨《にら》みつけた。それに対して、緑川は白い端整な顔に一点の歪《ゆが》みもきざまずに、平然と啓子の視線を受けとめる。
「からかうのもいい加減にしてッ」啓子は吐き捨てた。
「強姦《ごうかん》まがいのことまでしながら、一体、あなたっていう人は……」
待ってください、と緑川が中途でさえぎる。
「あれはどう考えても和姦としか思えませんでしたけれどね」
夕方から自棄《やけ》になって飲みつづけていたウイスキーの酔いが、突然、啓子の顔にのぼってきた。頬が激しくほてり出す。
啓子は緑川の視線を避けるようにして、いそいで椅子からはなれ、隣の寝室へと移る。ベッドの端に腰をおろし、網戸の入った開け放った窓へと上体をむけて深呼吸をくり返す。
緑川の言う通り、今夜は珍しく蒸し暑い。日中はどれほど気温が高くても、夜になると、どこからともなく程良い涼風が渡りはじめるのが札幌の夏のはずなのに、窓からはひとすじの冷気も忍びこんではこない。
啓子は額にしみ出してきた汗をティッシュペーパーでぬぐう。マンションのこの部屋には、冷房設備も整っていたけれど、スイッチを入れたことはほとんどなかった。下村和也がやってきて、暑さに耐えきれなくなったような様子を示した場合にだけ、冷房をきかせる。啓子自身は、冷房は苦手だった。三年前、会社での席が、冷房機に近いところにあったとき、その人工の冷気で体調をくずして以来、冷房には極力気をつけていた。
居間から緑川の声が聞こえてきた。
「テレビ、見てもいいですか」
返事もせずにほうっておくと、しばらくたってからテレビをつけ、チャンネルを変えている音が伝わってきた。
多少の遠慮はあるのか、その音量はかなり低められている。何の番組を見ているのか見当もつかないぐらいだった。
ちょうど一週間前になる。
その夜は、このマンションから歩いて五分ほどの、地下鉄|麻生《あさぶ》駅のそばの居酒屋で、啓子と和也、緑川の三人は、かなり長い時間飲みつづけていた。緑川のおごりだった。
二年前、大学を卒業した緑川は、大学院に進んだ和也とは違って、建材会社に就職し、それと同時に、啓子と和也をひんぱんに飲みに呼び出すようになった。もちろん、支払いは彼が持つ。
「大学時代、さんざん啓子さんにご馳走《ちそう》になりましたからね、そのお返しです」
かれらが大学三年生であった当時、啓子としては、緑川の面倒まで見るつもりはなかった。
けれど和也はつねに緑川と一緒にあらわれる。
彼がそばにいるとほっとする、という和也の、まだ異性に対して臆《おく》するところのある稚《おさな》さに苦笑しながらも、啓子は、その初々しさもまた好ましかった。
やがて和也は啓子のこの部屋にひとりでやってくるようになってからも、折あるごとに、緑川を仲間に加えたがり、そのつど啓子は内心とはうらはらに、それを受け入れた。
一週間前の居酒屋で、啓子はふたりにすすめられるまま、めったに飲まない冷酒を、その口当りの良さにつられて、ガラス製のちょこ[#「ちょこ」に傍点]で杯を重ねていった。
やがて日頃愛飲しているウイスキーとは格段に濃さの違う酔いがまわってきた。
まだ飲んでいる、というふたりを残して、啓子はマンションに帰り、化粧を落すのがようやくなほどの酩酊《めいてい》状態でベッドに倒れこんだ。
どのくらいの時間眠っていたのか、気がつくと、横に和也が寝ていた。素裸である。
暗闇の中で、まだ相当に酔っていた啓子は、相手のなすがままにさせておいた。
その夜の和也は、この半年間のおざなりな行為とは打って変わった激しさで啓子を驚かせた。酔いにしびれた頭の片隅で、あるいは、と啓子は、つかのまの期待さえいだいた。和也は、例の彼女とは別れるつもりなのかもしれない――。
行為は長く、いつまでたってもその身体は啓子からはなれようとはしなかった。
男の額の汗が啓子の顔にしたたり、密着した相手の肉体は、ことごとくおびただしい汗を啓子の肌になすりつけてくる。
男の全身から吹き出す汗が、啓子の身体をまんべんなく濡《ぬ》らしきったとき、ようやく相手の力が抜けた。
終ってからはじめて相手の声を聞いた。
「ありがとう、啓子さん」
緑川だった。
翌日から啓子の部屋の玄関チャイムは、毎晩鳴りつづけた。
そのリズムをつけた、ふざけたようなチャイムの押し方は、あきらかに和也ではなかった。また和也であろうとも、啓子は、どちらの男にも会いたくはない、居留守を使い、ひたすらウイスキーグラスを握りしめていた。
四日がすぎたおとといの晩、やはり玄関チャイムが鳴ったとき、啓子は、緑川だと確かめたうえで、彼を部屋に上げた。
問いただしたいことがあった。
土曜日のあの夜、緑川は、啓子の部屋の鍵《かぎ》は、居酒屋からここにくる途中の道で拾った釘《くぎ》で開けた、と説明した。酔いと、相手が緑川だったという打撃で、頭が混乱していた啓子は、それ以上追及する余裕は失っていた。
けれど、時間がたつにつれ、緑川の説明の安易さに気づきはじめた。マンションの管理人にもたずねてみた。
「今どきのマンションの部屋の鍵が、そんな釘一本で簡単に開けられると思いますか」
緑川を部屋に上げ、啓子は自分も立ったまま、怒りをぶつけていった。
「あなたは和也からこの部屋の合鍵を盗んだのね」
緑川は無表情に啓子を見つめ、やがて、にやりと口もとをほつらせた。
「さすがお見事と言いたいところですが、まあ、半分だけの正解ですね」
「どういうことなのよ」
「とにかく立ったままじゃなんですから、その椅子におすわりください」
言いながら緑川はそばにあった椅子を引き寄せて腰かける。
背広のポケットから煙草を取り出して一本くわえ、啓子にもすすめてくる。
「自分のがあるわ」啓子は邪険に突っぱねる。
緑川は一瞬目に淋《さび》しさの気配を走らせた。けれど、それもまた演技なのかどうか分らないと、啓子は身構える。
「啓子さんは、どうしてそう僕を嫌うのかなあ」
「嫌ってはいないわ。ただ、あなたには女をナメているところがある。きっとハンサムですらりとしているから、小学生の頃から女にもてて、そう、うんざりするぐらいもてて、それで、どこかで女をナメるようになってしまったのでしょうね」
「そうかもしれませんねえ」
緑川は素直にうなずいた。
「自慢に聞こえるでしょうけれど、僕は小学生の頃から、あのバレンタインデーというのがじつにいやでしたね。女の子から山ほどチョコレートをもらう。で、特定の女の子に礼などを言うと、もうクラス中の噂になって、女の子同士がいがみ合う。たまらないですよ、あれは。啓子さんは、やはりせっせとチョコレートをばらまく女の子でしたか」
「話をはぐらかさないでよ。この前の土曜日のこと、きちんと説明して」
「和也の持っているこの部屋の合鍵、一応借りましたよ。借りて、もうひとつ合鍵を作った」
「あなたのことだから、上手に嘘をついて、和也をだましたのでしょうね」
「僕は彼をだましていませんし、彼もだまされてはいない。つまり、これは彼と合意のうえでのことです」
「あなたが私を襲うことも?」
まさか、と思いながら言ってみた啓子の言葉に、緑川は、やはり目をそらさずに即答した。
「ええ、そうです。ただ、それを実行する日は、まだ決まっていなかった……」
緑川は和也との計画を抑揚なく話し出した。
その日をいつにするかは未定だった。
和也の決心が、最後のところで、いつもぐらつくからである。
ただ筋書きは出来あがっている。
緑川が啓子を飲みに誘う。
しかし、なんらかの理由がなければ、啓子は緑川とふたりきりで会おうとはしないだろう。
そこで、緑川は、和也と彼女のことで折入って話がある、と言って啓子を電話で呼び出す。
啓子と待ち合わせるバーも決めてある。
カクテルを中心に飲ませるバーで、そこで緑川は次々と啓子にカクテルをすすめ、酔わせてしまう。
マンションまで送り、しかし、啓子は緑川を部屋には入れないだろう。
啓子が寝入った頃を見はからって、緑川は合鍵で部屋に侵入し、眠っている啓子を襲う。
その現場に和也がやってくる。
啓子がどう弁解しようとも、和也はそれには耳を貸さない。
すなわち、啓子と別れる口実ができたことになる――。
緑川の話の途中から、啓子は顔が硬張《こわば》ってゆくのを感じた。
ちゃちな発想だ、と胸の中で嗤《わら》いながら、その嗤いさえもえぐってゆく深い哀しみにとらわれてきた。
和也は、そうまでして私と別れたかったのか。
緑川がしゃべり終ったとき、啓子は硬張った表情の、その固さが音を立てて剥《は》がれ落ちてゆくような、めいっぱいの嘲笑《ちようしよう》を顔面に広げた。
「子供じみた考え方ねえ。発案者はふたりのうちどっちなの」
「どちらとも言えませんね。なんとなく、そういう話になった」
「いつからそんなバカげたことを計画していたのよ」
「かれこれ二ヵ月になりますか」
啓子の背筋から、ふたたび力が抜けてゆく。
二ヵ月も前から、こういう計画を練りながら、和也はこの部屋に通ってきていたのか。週に一回、義務をはたさなくてはならない、そんな気持から、ここで食事をし、ベッドに入っていたのか。
しかし啓子の感情は、まだ和也への信頼を残していた。
緑川にそそのかされた挙句の出来心に違いない。
啓子は緑川に鋭い視線を押し当てた。
「ふたりでなんとなく考えたことではなく、あなたが和也に悪知恵を吹きこんだのでしょう。あなたならやりかねないと思うわ」
緑川は、ひるまずに見つめ返してくる。
短いけれど、激しくとがったものが、ふたりのあいだを渡り合う。
やがて緑川は、啓子を凝視したまま言いきった。
「そうですよ、僕が発案者です。和也は啓子さんと手を切りたがっている。僕はあなたを抱きたかった。そのふたつを結びつけると、啓子さんの言う子供じみた計画がでてきた」
そこまで言ってから、緑川の目は、いっそう光をみなぎらせた。
「ただ和也はひと言も反対しなかった。反対はしなかったけれど、それを実行する日を決めかねていた」
「それなのに、あなたは土曜日の夜、親友を裏切って、ああいう行動にでた」
「裏切ったとは思ってませんよ、僕は」
緑川は平然と言い放った。
「啓子さんのベッドの上の姿など、だれにも見せたくない。いや、見たくない、和也の本心はそうだろうと想像したわけです。それに、さっきも白状したように、僕はあなたを抱きたかった、それだけですよ」
啓子は皮肉たっぷりに斬り返す。
「私を抱いて満足した?」
緑川は照れる様子もなく返答した。
「良かったですねえ。できれば、あと何回か、こういうチャンスに恵まれればと思いますねえ」
「でて行ってッ。早く帰ってよッ」啓子は叫んでいた。
きのうの晩も緑川はやってきた。
啓子はたずねた。
「和也は、土曜日の一件は知っているの?」
「まだ話していません」
「私、あなたたちの芝居の筋書き通りにするわ。そうすれば和也も心残りなく私と別れられる、非は私にある、そう思わせてあげればいいわけよね。彼の心の負担にならないように」
言いながら啓子の内側では、たくさんの感情がひしめいていた。
もしかすると、かれらのこの計画に乗るのは、自分自身の、和也への執着を断ち切るためかもしれなかった。
こんなひと芝居を打つよりも、啓子が和也に「別れましょう」と告げ、その言葉を彼が信用すれば、すべてが解決する。
しかし、緑川のこのあくどい計画に、和也が反対しなかったということも、啓子を打ちのめし、その傷の深さは、次第に依怙地《いこじ》なものを生み出してもいた。
反対しなかった和也の気持のかげには、啓子への、もはや憎しみに近い思いが見えかくれする。
それほど私が憎いのなら、と故意に別れを拒否してやろうかとも考える。
その一方では、和也とかかわっていたこの三年半の楽しい思い出がよみがえってきて、最後のしめくくりは、彼の望み通りにしてやりたい、と心がしおれる。
その望みは、「別れましょう」と言ってやることではなかった。
和也は、かかわった当初からどこかで啓子を、怖れていた。それは五歳下の自分をためらいもなく恋人にし、かつて啓子がつき合った男たちが、ことごとく齢下だったという、世間一般とはいささかずれている啓子の感覚そのものに、和也は不可解さを、また、ときとしては不気味さを感じているようだった。
緑川と三人で飲んだりすると、和也は、必ずそれらしきことを口走ったりもした。
「齢下の男ばかりというのは、ある種の偏りだよなあ。齢下も[#「も」に傍点]いたというのなら分るけど。な、緑川」
「どんな人間にも偏っているところがあるさ。まあ、確かにお前にはないな。お前の場合は子供すぎて、自分の偏りを気づくにはいたっていないとも言える」
「そうかなあ。俺はへんな意味じゃなくて、啓子さんは変わった女性だと思うよ。女の人って、ほら、たいがい齢上の男性が好きでしょ」
「和也、お前はじつに常識的な人間だな」
啓子を、変わった女と見なし、そこにほのかな怖れをいだいている和也にとっては、その別れ方も、特異であればあるほど、納得するに違いなかった。
和也自身、あらかじめ承知していたとはいえ、緑川が描いてみせた筋書き通りの光景を目のあたりにしたとき、彼の中で理屈抜きですとんと了解できる啓子像が、啓子らしい別れ方があるはずだった。
昨夜、緑川に段取りはまかせる、とそれなりにおだやかな心境で一任したはずなのに、きょうになると、また心はざわめき出してきた。
落ち着こうとしてウイスキーを飲みはじめたのが、逆効果となって、緑川にグラスを投げつけてしまった。啓子は後悔にとらわれた。
また和也にはたくさんの思い残しがありながら、啓子は、土曜日の夜のベッドの中の感動を忘れかねている自分にも戸惑いつづけていた。
あの充足感は、和也から与えられてきたそれとは比較にならないほど深かった。
啓子は、ベッドに腰かけたまま、居間でテレビを観ている緑川にたずねた。
「ところで今夜の私はどうすればいいの」
「和也は家庭教師のバイトで十時ぐらいにくると言ってましたから、それまでは好きなようにしていてください」
「それはつまり」と言いかけて、啓子は、不意に顔が紅潮してくる。
「あの筋書き通りだと、あなたと私が一緒にベッドに入っているという……」
「そういうことです」
十時まではまだ二時間以上ある。
しかし啓子は、もはやウイスキーを飲む気持にはなれなかった。素面《しらふ》でいたほうが、失敗なくその場を乗りきれるだろう。
啓子は素裸の上にまとっていたタオル地のガウンを脱ぎ、Tシャツとジーンズに着換えた。腕時計もつける。
居間にもどると、テーブルの上のビール壜《びん》はからになっていた。
冷蔵庫から新たな一本を取り出して栓を抜き、緑川の前に置く。
それから、チーズやハムを切り、冷凍の枝豆をゆでて、酒のつまみにとテーブルに持ってゆく。
「さっきは悪かったわ。グラスの破片で指などけがをしなかった?」
緑川は、からかいの口調をむけてきた。
「これはまたどうしたのですか、やけにしおらしくなって」
「あなたに当り散らしてすまなかったと思っているの。本来は私と和也だけの問題なのに、すっかりあなたまで巻きこんでしまっている」
「いや、僕も結構楽しませてもらっていますよ。最近はこういう華々しいドラマは、なかなかありませんからね。啓子さんのグラス投げ、あんなこと最近の若い女はまずやらないでしょう。グラス投げるほど、そのぐらい男に惚《ほ》れるなんてことないですよ」
「私、本当に和也に惚れているのかしらね」
それは自問のつぶやきになっていた。つぶやきながら、啓子は曖昧《あいまい》に緑川にほほえみかける。
そのほほえみを受けて、瞬間、緑川は真顔になった。
が、ひと呼吸あとには、緑川はその表情を解き放つ。
いつもの軽い冗談の調子で言いとばす。
「多分、惚れているのでしょう。僕が啓子さんに惚れているのと同じように」
啓子はテーブルからはなれ、玄関へと歩きはじめる。
「でかけるのですか」緑川の声だけが追ってきた。
「裏の公園で少し涼んでくるわ」
腕時計をのぞくと、一時間がすぎていた。
住宅地の中にあるその児童公園には、もはや人影は見当らなかった。常夜灯のそばのブランコに乗ってはしゃいでいた浴衣《ゆかた》姿の若い男女も、いつのまにか帰ってしまったらしい。
公園のベンチに腰をおろし、夕涼みを楽しむ赤ん坊を抱いた若い母親や、小さな花壇を指さしながら語り合う老夫婦の姿を眺めているうちに、啓子の混濁していた感情は徐々に濾過《ろか》されていった。
和也との仲はもうお終《しま》いになった、啓子は自分に言いふくめる。
緑川が考えついたという、あの悪意に満ちた計画に、和也は反対しなかった。そのくらい彼は自分と別れたがっている。
半年前、和也から彼女との関係を打ち明けられたとき、啓子はさほど驚かなかった。
いずれ和也は同年輩の女性に心|惹《ひ》かれてゆくだろう、とつき合いはじめた最初から覚悟していた。自分が齢上の引け目からではなかった。
緑川がかつて和也を「じつに常識的な人間だ」と多少の侮蔑《ぶべつ》をこめて評したことがあったけれど、啓子には、彼のその「常識的なところ」、どちらへもはみ出さないバランスのとれた性格が美点として感じられた。と同時に、その彼の「常識」が、五歳上の自分の存在をまるごと受け入れられなくなるだろうとも予感した。世間的に絶対多数をしめる、男が齢上で女はそれより数歳下、という組合せを、彼の「常識」は、いずれ求めるようになるに違いない。
彼女は、和也と同じ大学の四年生で、彼より二歳下になる。
啓子にきかれるまま、和也は言葉を選びながら、神妙な顔つきで語った。
「彼女は外見も性格も地味で、堅実で、一緒にいても、そうしゃべることはないけれど、でも、なんとなく安心するんだ」
その言葉を聞きながら、啓子は、和也が自分とふたりきりでそとで食事をするときなど、つねにばつの悪そうな、あたりを気づかう落ち着きのない視線になることに思いいたった。彼は「常識」に怯《おび》えていたのだろう。自分たちが、世の人々にどう見られているか、それが気掛かりでならなかったのだろう。緑川をまじえると、急に表情を明るくする、それは、啓子と自分の関係のカムフラージュになっていた――。
「で、彼女とは結婚を前提として交際しようと思う。僕が大学院を来春に卒業して、おたがいに二、三年会社勤めをして、それから結婚というふうに。彼女、働いてみたいと言うし」
「良さそうな方ね」
啓子はにこやかに相槌《あいづち》を打ちながら、次にきっぱりと言った。
「でも私はあなたとは別れないわ」
和也は愕然《がくぜん》とした面持ちで啓子を見返した。
「でも心配しないで。彼女との仲をじゃまするつもりはないの。要するに、これまで通りってこと。だって仕方ないでしょ、私、あなたが好きだもの」
和也は途方にくれた目をして、黙ってうなだれた。今年の一月のことである。
それからも和也は週に一度は、マンションのこの部屋へやってきた。
緑川との件が生じる先週の土曜日まで、和也はこの半年間啓子のもとに通いつづけた。
その表情は、彼女があらわれる以前ののどかさを取りもどしている日もあったが、たいがいは、気乗りのしない暗さをはりつけていた。
明らかに気持を滅入《めい》らせている顔。何もしゃべりたくないという意思表示のように、きつく閉ざされた唇と、拒絶のまなざし。ときには、啓子を見る目に、露骨な嫌悪をにじませた。
そのたびに啓子はこともなげに言った。
「じきに馴《な》れるわ」
和也が、自分を切り捨てられないのは、怖れからだ、と啓子は分っていた。知り合った当初から、和也が漠然と嗅《か》ぎ取っていた、彼なりの啓子への怖れを、現実に目のあたりにしたことが、和也を縛りつづけてきた。
彼女との交際を告げられてからほどない一月末の猛吹雪の晩、緑川をまじえた三人で、いつもの居酒屋で飲んでいた。
誘ったのは和也で、しきりに緑川に目くばせをして、彼に何かを言わせようとしている様子だった。緑川は無視している。
そのうち和也はふらりと店からでて行った。
「酔いをさましているのでしょう」
緑川はそう言ってから、低く、短くつけ足した。
「あいつに頼まれたけれど、僕は啓子さんにあれこれと指図する立場じゃない」
三十分がすぎた。和也はもどってこない。
探してくるわ、酔いに勢いづいた啓子は、緑川がとめるのも聞かずに、オーバーを着ながらおもてに飛び出した。
居酒屋の周辺をうろつきまわってみたが、和也の姿は見当らない。吹雪が髪にささりこんで、啓子の頭は真っ白になっていた。
ふたたび居酒屋に引き返し、出入口の戸を細く開けてのぞいたが、緑川の後姿しか認められない。
いっそのことそとで待っていよう、酔いに麻痺《まひ》した啓子の気持は、その思いつきに浮き立った。
啓子は居酒屋の路地にしゃがみこみ、そして、それきり記憶は途絶えた。
目がさめると、自分の部屋のベッドに寝ていた。和也と緑川が弾《はじ》かれたように床から立ち上がる。
「凍死するところでしたよ。和也がもどってきたのに、啓子さんは帰らない。この部屋にも電話をしてみたり、あのあたりを探したり。あんなところにかくれているとは思わなかった」
「大丈夫? 具合、悪くない?」
身を乗り出してきた和也の、そのまなざしが、啓子を喜ばせた。
彼女との仲を打ち明けて以来、つねに冷淡さを走らせていた和也の目に、以前と変わりのない柔らかなものを見たような気がした。
啓子は満ち足りた心地で返答した。酔いもまだ抜けきってはいなかった。
「あのまま死んでも本望だったわ。あなたを失うくらいなら」
一瞬、和也の顔が硬直した。目に恐怖の色を浮かべた。
緑川が、なぜか、けたたましい笑い声をまき散らした。
自分のあの言葉が、この半年間、和也を身動きできない、少なくとも自分のもとからはなれられない状態におちいらせていたのだろう、と啓子は反芻《はんすう》する。けれど、とっさのあの言葉は、なかば冗談のつもりで口走ったにすぎなかった。
緑川が二ヵ月前に考えついたという「啓子との別れ方」に、和也ははじめどんな反応を示したのだろうか。
緑川にそそのかされた形で、結局、同意したのではなかったのか。
知り合った当時、まだ大学三年生であった和也の姿を、啓子は念頭にともらせる。
太くて、すわりの良い首を持つ現在の和也からは想像もつかないくらい、あの頃の彼の首筋はかぼそかった。身体全体が少年ぽさをふんだんに残し、他人からからかわれると、すぐに顔を赤らめて、どぎまぎとした風情で目を伏せる。
出会いは約四年前である。
啓子が勤め帰りに食事をしたり、コーヒーを飲んだりしていた地下鉄麻生駅そばの喫茶店に、いつも似たような顔ぶれの大学生たちがやってくるようになった。
あとから和也に聞いた話によると、彼や緑川の仲間のひとりであった学生が、麻生駅近くのアパートに移り、そこがたまり場のようになっていたのだという。和也も緑川も自宅から通学していた。
「緑川はコーヒーにわりとうるさくてね、ただあの喫茶店のコーヒーはうまいというものだから」
男子学生の中で、もっとも目立ったのは、長身でハンサムな緑川だったが、啓子の関心は、ひとえまぶたの涼しげな目を持つ、いかにも内気そうな和也にそそがれた。
やがて啓子はかれらと顔馴《かおな》じみになり、ひと言ふた言のあいさつめいたやりとりから、次第に親交を深めていった。その頃よく行ったのは、やはりこの近くにある焼き鳥屋で、麻生に住む学生相手の、低料金の商売で繁盛していた。
打ちとけてゆくにつれて、こむずかしい議論を持ちかけられたり、啓子が耳にしたこともないような外国の作家を教えられたりもした。
かれらはいずれも、かなり上等な頭脳の持ち主で、その話題の豊富さと、頭の回転の速さには目を見張るものがあった。啓子にはとうていついてゆけない。
和也は弁の立つほうではなかった。
啓子とは違って、議論の内容は十分に把握している返答をつぶやいたりはしても、自分からはめったにしゃべらないし、口もはさまない。
緑川は、そうした議論には加わらなかった。ただ、ときたま、鋭い言葉を斬りつけるようにして投げつけ、白熱した状況に水をさす。
大学が冬休みに入る少し前の土曜日、いつもの焼き鳥屋で、啓子には苦手な難しい話が展開されはじめた。和也を見ると、やはり退屈そうに自分の掌《てのひら》に眺め入っている。啓子は声をかけた。
「ゲーム場にでも行かない?」
ゲーム場の帰りにスナックに立ち寄り、そして和也は啓子をマンションにまで送ってきた。
その夜、数日後に和也とふたりきりで飲む約束を交わした。
約束の日の夕方、啓子の職場に和也から電話がかかってきた。
「あのう、緑川も一緒に連れて行っていいですか」
啓子の意に反して、つねに三人で会うことが何回かつづいたある夜のスナックで、緑川はトイレに立つふりを装って、啓子の耳もとでささやいた。
「僕は失礼します。和也、頼みます」
啓子はマンションまで送ってきた和也に、お茶でも飲んでいったら? と誘ってみると、相手は予想に反して素直にうなずいた。
和也にとって啓子ははじめての女性体験だった。
翌日から彼は毎晩のようにやってきては、啓子の身体をむさぼった。
それからほぼ一年、和也は、「常識」を忘れ去っていた。その期間は、ふたりきりでそとで食事をしたり、飲んだりすることに抵抗を示さなかった。ひたすら熱っぽい目で、啓子だけを注視しつづけた。
ただ、彼は、自分でもおそらくそれとは意識しないままに、五歳上の女への防御を働かせていた。目を輝かせ、ほがらかな口調で、和也は何回となく言ったものである。
「啓子さんとのことは、きっといい思い出になるだろうな」
「こういうことを最初に教えてもらう相手は、齢上がいいとは聞いていたけど、本当だね」
「同年輩の女の子となら、こうはゆかないと思うよ。だって、女の子も二十歳をすぎてくると、かかわった男と結婚ってこと、すぐ考えるでしょ、こっちにはまったくその気がなくても。女の子は、そこが面倒でね、そう簡単につき合うと、とんでもない目に遭うらしい。先輩たちがそんなふうにして、結局、結婚させられるはめになったと嘆いていた」
和也は、啓子の肉体に馴れはじめてくるのと比例して、「常識」の感覚を取りもどしていった。そとでの飲食の場に、必ず緑川を同席させようとした。
いや、その前に、と啓子は充実していた最初の一年間を、ふたたび振り返ってみる。
和也の当時の熱っぽいまなざしは、単に性欲の心地良い解放感がもたらした、はしゃぎ気分の反映だったのかもしれない。
あれほど連日マンションへやってきて、啓子を抱きながら、和也はその年の秋の大学院の受験に見事合格した。しかも、相当に上位の成績であり、教授からほめられた、と嬉《うれ》しそうに言っていた。
見方をさらに変えると、啓子という性欲処理の対象をえて、和也は、そうした面での悩みが解消され、思いきり受験勉強に没頭できたともいえるのではないだろうか。
そう考えても、啓子は、自分が利用されたという、うらみがましい気持はわいてこなかった。
もし、それを利用と言うのなら、和也がやったことは、ごく表面上の利用であり、啓子が彼とかかわってきたこの三年半は、もっと根深い部分で彼を利用しつづけた――。
公園のそこかしこに植えられているポプラの樹々の葉が、いっせいにざわめきはじめた。
ようやく風がでてきたらしい。
風は涼しいというよりも、むしろ肌寒さをおぼえるほどの冷気をはらみ、啓子は思わず身をすくめる。
つい数日前までの蒸し暑さが信じられないぐらいの大気の変容ぶりは、札幌では珍しいことではなかった。
啓子はTシャツからでている両腕を鳥肌立たせながら、風のひややかさが胸の血管まで白っぽくさせたような気持の中で、和也とはきれいに縁を切ろう、と思い決めた。
緑川が考えた、あのちゃちな筋書きなど、もはや不要だった。
和也が、啓子と別れるにあたっての不安な部分、啓子が言葉とはうらはらに、何か物騒な事態を引き起こすのではないかという怖れを取り除く理由をつけてやればいい。
それは緑川の考案したストーリー全体に流れる女の性を見くだした視点を、そのままなぞってやることだろう。
あの筋書きでは、啓子が緑川に犯されている現場に、和也が踏みこんできて、それを口実として和也が啓子とのかかわりを絶ち切ることになっている。
しかし、その状況がまさしく強姦《ごうかん》であったとしたら、和也が憎むべき相手は緑川である。啓子を泥酔させて襲うのだから、和也は緑川を殴りつけるのが当然だろう。被害者は啓子である。
ところが、あの筋書きでは、そうした事柄はいっさい省略されて、「緑川に犯されてしまった」つまり、「彼を受け入れた」啓子を、和也は許せない。
強姦というものにつきものの、それが果たして強姦であったか、和姦であったかの論議の中で、男と女の肉体上の違いを述べながら、世の好色な男たちが下卑た笑いを浮かべながら結論づける「女も結構楽しんでいた」式の発想が、あの筋書きには見えかくれしている。そうでなかったなら、和也は、そうたやすく啓子を、許せない[#「許せない」に傍点]などとは言いきれないはずだった。
筋書きにそって、啓子が言うべき別れの理由は、そこで決まってくる。
「緑川さんと肉体関係が生じてしまった。彼を好きになってしまった。だから別れたい」
そのとき啓子は、女の性のさがに翻弄《ほんろう》されてしまった、男たちの伝説的な女≠演じなくてはならない。その男のことは本当は好きではない、けれど男の肉体から、どうしてもはなれられないという、今や伝説の女=B少なくとも、啓子のまわりにはひとりも見当らないタイプの女。
風がいっそう冷たくなってきた。
部屋にもどろうと啓子がベンチから立ち上がったとき、和也の声がした。
「啓子さん」
久しぶりに耳にする柔和さのこもった口調だった。
近づいてくるその表情も、知り合った当初の初々しい、はにかんだ笑みをたたえている。
「さっき啓子さんの部屋で緑川といろいろと話したんだけど」
言いながら和也はベンチに腰かける。
啓子も並んで、ふたたびすわる。
何気なく腕時計をのぞくと、九時半になろうとしていた。
「家庭教師のバイト、早く終ったのね」
「バイト? きょうはないよ。水曜と金曜に変わったんだ。で、きょう緑川から電話があって、九時に啓子さんの部屋にくるように言われて」
「九時? 十時ではないの?」
「いや九時」
緑川が言い間違えたのかもしれないと、啓子はそれ以上はきかなかった。
「啓子さん」
しばらくして和也が、やはり優しい声音をむけてきた。
「緑川から聞いたよ。僕とのこと、あきらめてくれたんだってね。あいつからその話を聞かされて、なんか、こう、僕もしんみりして。僕もたくさんわがまま言って、啓子さんの世話になって、今、改めて申し訳なかったと思っている」
和也の素直な物言いに、啓子もまたこれまでのさまざまな感情のうねりが一挙に清められてゆく心地になった。
そう、これが本来の和也なのだ、としめった思いにもとらわれる。
「僕はばかだったよ。啓子さんの本当の気持が分らなくて、緑川からああ言われるまで、啓子さんの気持をまったく誤解していた」
ああ言われる、とは一体緑川は何を、どんなふうにしゃべったのか、啓子はいぶかりながらも、とりあえず慎重に口をつぐみつづけた。
「緑川は、いつも冗談か本気か判断に迷うようなシニカルな態度をとるけれど、根はとても真面目なんだ。頭もきれるし、僕よりもはるかに優秀な男でね。ゼミの教授にも大学院に進んで、そのまま大学に残るようにすすめられたけど、卒業して、しかも東京方面の大手企業の就職試験はすべて受けないで、札幌で勤めた。これは僕の想像だけど、あいつは啓子さんが好きなんだ。だから札幌からはなれようとしない」
「まさか。あの人はそんな甘ちゃんじゃないわ」
「啓子さんは、あいつを知らなさすぎるよ。あのポーズにだまされているだけさ。多分、あいつは喫茶店で啓子さんと知り合った頃から、ずっと啓子さんを思っていた……」
しかし、啓子の記憶には、緑川からのそうしたそぶりは、ひとつとして残っていない。
あの頃の緑川の得意のからかいは、啓子の無知を指摘することだった。
その言葉は辛辣《しんらつ》で、容赦なく、ときには啓子を怒りで青ざめさせるほどの毒に満ちていた。
「こんなことも知らないなんて、信じられませんねえ」
「どこの短大卒ですって、へえ、そう悪くはありませんね。それともあの短大は、以前はかなり程度が低かったのかなあ」
「あなたの発想、そして言動は、野蛮人に近いですよね。少なくとも知的な女性とは言えない」
緑川について啓子がたずねようとしたとき、和也はふたたび口を開いた。
「話はもどるけれど、僕、啓子さんに謝らなくてはならないな。三年半もつき合ってきて、それなのに……」
「男と女がつき合ってきて、どちらが悪くて、どちらが謝らなければならないということはないわ。五分五分でしょう」
「そう言ってくれるとほっとするけれど、でも、あんな卑劣なことまでやろうとしたのだから」
「あんなって?」
「あいつから聞いたでしょう、緑川がむりやり啓子さんと関係して、その現場を僕が見てしまう、そして別れ話へと持ってゆく」
「それは緑川さんがそそのかした……」
「違うよ」
和也は明るい口調で言い放った。一瞬、誇らしげなひびきもおびた。
「あれを考えたのは僕さ」
啓子はとっさに和也を見返した。
和也の表情は、どこまでも晴朗だった。
あのやり方は大学の先輩から聞かされた、と和也はのどかに話しはじめる。
その女を手ごめにしてしまう。いったん肉体関係が生じたなら、女なんて弱いものだ、新しい男になびいてしまう――。
和也は、数ヵ月前から緑川にその計画を語り、協力を頼みつづけた。
緑川は、いつの場合も拒否した。
先週の金曜日にも、再度、緑川に持ちかけた。
緑川は、しばらく黙って和也を見つめ、分った、とついに返答してくれた。
翌日、計画通りに啓子を誘って三人で飲み、啓子が先に帰ったあと、緑川は、もう一週間待ってくれ、と和也に言ってきた。
「後味の良いものじゃないからな。もう少し時間をくれ。俺もそれなりに覚悟する必要がある」
和也は納得した。
あの夜ふたりは居酒屋の前で別れた。
「あんなばかげた計画を実行しなくてよかったよ」
和也の口調は屈託なくつづく。
「あんなことをしなくても、啓子さんはやっぱりちゃんと分ってくれたのだから」
発案者は和也だったのか、啓子は思いがけない話に、言葉を失っていた。
さっきマンションの部屋で、緑川を問いただしたとき、彼は自分が言い出したことだと認めた。
あれは、和也をかばったにすぎなかった。
だが、計画を立てたのは和也自身だったという事実に加えて、今それを打ち明けた彼の口調と表情の明るさが、啓子の心を激しくたたきのめした。
和也の初々しさや年齢よりもずっとあどけなさの残る言動、それは結局、どしがたい無神経さ、鈍感さにすぎなかったのだろう。
残酷な少年そのものといえる。
「啓子さん、この三年半、本当にありがとう」
和也はほがらかにそう言って、握手を求めるように右手を差し出した。
啓子は目をそむける。
気づかないふうを装って、空を見上げる。
「それじゃあ、帰るよ」
和也が去って行く。
やがて、その靴の音が、どう耳を澄ませても聞き取れなくなった瞬間、啓子は吼《ほ》え立てたい衝動にとらわれた。
どのくらいの時間がたったのか、公園の周辺の家の窓あかりが、ひとつ、ふたつと消えはじめた。
風は次第に強さをましている。
その冷たさに、啓子の身体は小きざみにふるえる。
けれどベンチに腰かけたまま、啓子は立ち上がろうともしなかった。
ブランコが風に揺れている。
かすかな軋《きし》みを放ち出す。
それが幼い子供の悲鳴に聞こえる。
おかあさんッ。
おかあさーん。
ブランコが人気もなく揺れる光景を目にするたび、なぜか、啓子の頭の中で、その声が飛び交う。
啓子より三つ下の、四歳の誕生日を迎えてほどなく、川で溺《おぼ》れ死んだ弟を思い出す。
小学校一年生の夏休みのその日、友だち数人と川辺に遊びに行くつもりの啓子に、弟はまつわりついた。
「おかあさんにきいて、いいって言ったらね」
いったん家の中に走って行った弟は、目を輝かせてでてきた。
そのうしろから母親の声が追ってくる。
「啓子、その子の手を放しちゃだめよ、川は危険だからね」
川辺で友だちとはしゃいでいるうちに、その手を忘れた。
むこう岸で釣りをしていた男の人の叫びを聞くまで、思い出しもしなかった。
「子供が川に落ちたぞゥ」
それから先のことはよくおぼえていない。
気がついたとき、啓子は家へと必死で駈《か》けていた。
おかあさんッ。
おかあさーん。
弟の遺体を目前にして母親は半狂乱になった。
「どうしてッ、どうして手を放したのよぉ」
大人たちが死んだ弟について、ひと言もふれない長い年月がすぎ、やがて少しずつ美化されて語られはじめた。
「おとなしくて、のみこみが速くて、あんないい子はいなかった」
「気が弱いくらいに優しくて、小さいのによく気がついて、まったく利発な坊やでしたね」
そのそばで、啓子はいつも手の痺《しび》れと痛みを味わった。
風に揺れるブランコを見るたびに、弟の姿がよみがえってくるのは、記憶のどこかに、ブランコに乗って、上機嫌な笑いを浮かべている弟の顔が灼《や》きついているからなのだろうか。
和也と知り合う前も、啓子は齢下の男にしか関心がむかなかった。
しかも、この人はそのうち私を見限って去って行くだろうという予感をいだかせる相手ばかりなのも共通していた。
また実際にその通りになった。
そのとき啓子は、かつて、いつのまにか弟の手を放していたのと同様のあきらめの早さで相手と別れた。
けれど和也に対してだけは、それができなかった。
これまでになく執着した。
もしかすると、大人たちが死んだ弟を語るそばにいて、しぜんと啓子が思い描いていた弟の像と、あまりにも重なりすぎていたのかもしれなかった。
和也が啓子を利用していたとするなら、啓子もまた、和也の中に死んだ弟を見つづけようと利用していた。
「寒くはありませんか」
緑川だった。
「ハンガーにかかっていたジャケットを持ってきました」
手渡された麻のそれを着る。
緑川は啓子に背中をむけて立ち、背広のポケットから煙草を取り出して火をつける。
啓子は力ない調子でたずねた。
「あなたは、和也に私のこと、どんなふうに言ったの」
「どんなふうに、とは」
「彼とても素直で、私に感謝までしたわ」
「そうですか。じゃあ、きれいな別れ方だったわけですね。僕もあいつがそうしてくれるようにと願ってました。啓子さんに対するあいつの勘違いをひとつひとつ訂正したんです。ただ僕たちがやろうとした筋書きを啓子さんが知っていることは言いました。反対に僕と啓子さんの真夜中の出来事は伏せておきましたけれど」
「今夜のことは、すべてあなたの計画でしょう? あなたは最初から、あの芝居をするつもりはなかった。私には和也は十時にくると告げ、和也には九時にこいと。和也が九時にきた時点では、私たちはまだベッドにも入ってはいない」
ややためらったあと緑川は低く答えた。
「ええ、そういうことです」
「今夜の計画は、すべてあなたの思惑通りに運んだわけね」
「思惑以上でしたよ。啓子さんが、この公園に行ってくると言ってでかけているあいだに、あいつとじっくり話ができた」
「私が部屋にいた場合はどうするつもりだったの」
「和也とふたりで喫茶店でも行って、啓子さんには部屋で待っていてもらう」
「数時間のうちにバタバタと問題を解決してしまおうとしたのはなぜなの」
「あいつと啓子さんのいがみ合いは、もう半年になるんですよ。僕は第三者ですけれど、もううんざりしてきてましたからね」
「そうね、ずいぶんとあなたを呼びだして、私たちの気まずさをやわらげてもらったわ。でも、もう大丈夫よ、和也への見切りはようやくついたから。あの芝居の筋書きも彼が思いついたものだと知って、私はそこまで嫌われていたのかと痛感したもの」
「あいつ」と、緑川は驚いた声を発して、啓子を振り返った。
「あいつ、そのことまであなたにしゃべったのですか。発案者は僕にしておくようにと、あれほど念を押したのに」
「それを実行するのは、先週の土曜日だったそうね。でも、あなたがおじけづいて、一週間待ってもらった。つまり、和也は今夜その現場を目撃するため、私の部屋にやってきた。和也はね、そういったこと、少しの恥じらいも、ためらいもなく、むしろ楽しそうに私にしゃべったわ。それは大学の先輩に教わったことだとも」
啓子は不意に目の中が熱くなった。
「寒くなりましたから、啓子さん、もどりましょう。いえ、啓子さんの部屋ではなく、そのへんの居酒屋へでも」
「あまり人なかで話せることではないわ」
言いながら、啓子はいそいで指の先で目頭をぬぐい、マンションへの道を歩きはじめた。
緑川がひとりごとのようにつぶやいた。
「いわゆる常識≠チていうのは何なのでしょうねえ」
マンションの部屋に着き、啓子はひえきった身体を温めるために、熱いコーヒーをふたり分いれる。
「和也は、どこかで私を偏りのある変わった女だと思いつづけていたわ。それを否定はしない。確かに私にはへんなところがたくさんある」
コーヒーカップを置いたテーブルの前の椅子に腰をおろしながら、啓子は言った。
「でも私から見ると、和也が今回私とどうしても別れたくて計画したあのストーリーは、まるで女をばかにしたものよ、それこそ非常識な発想だと思う。まず、強姦《ごうかん》というのがとんでもないこと。犯された女を許せないと切り捨てる男もおかしな考え方。許せないのレベルじゃないでしょう、それは」
「あいつからその筋書きを聞いたとき、僕も啓子さんと同じようなことを言ったんですよ。そうしたら、そのやりくちで上手に女と手を切るのに成功した先輩がいる、そう言い張るんです。僕も学生の頃、そういった話は聞いてました。でも、もはや、それは大時代的な昔話だろうと」
ところが和也は、緑川も知っているある男の名前を言い出してきた。
その男は、実際にその方法で女と別れたのだという。
まさか、と緑川は信じなかった。
それから半月ほどたった深夜、緑川の家に和也から電話がかかってきた。
例の男と飲んでいる、でてこないか、と誘う。
緑川は好奇心からその男の話を聞きにでかけた。
男は、緑川と同じく大学卒業後、札幌で就職していた。公務員だという。
地味で野暮ったい雰囲気の男で、その彼が、女と別れるために、友だちに頼んで女を襲わせたとは、一見したところ想像もつかない。
和也が男に質問しはじめた。
男はうつむきがちに、ぼそぼそと答える。
「ポイントは」と男は、やはり世間話をしているような何気なさで言った。
「セックスのわざにたけたやつでなければだめだ、頼めない」
その結果、「女はその男に夢中になって、まんまときれいにはなれて行ってくれた」。
男がその手を使ったのは、同期生の中にその経験者がいるという噂を聞き、相手の体験談をそのまま実行したにすぎないのだという。
「信じられない……だって和也は一応大学院まで行っている人間よ」
緑川の話が終ったとたん、啓子は思わず言っていた。
女と別れるために、友だちにその女を強姦してくれと頼む男。
それを引き受ける男。
男の肉体に溺《おぼ》れこみ、あっさりと前の男と別れる女。
まったく別の次元の話のようだった。
「僕も信じられませんでしたよ。しかも、その男は、じつに淡々と、そう、まるで、そういうのもひとつの常識にすぎないといった口調でしたからね」
けれど、啓子や自分の「常識」とは、また違った「常識」の流れがあるのだろう、と緑川はつづけた。
また、その流れは無数にあるのかもしれないともつけ足した。
それぞれが信じている「常識」にそって人々は、自分の在り方に疑いも持たずに生活して行く。
ただ自分の思いこんでいる別の「常識」に出会ったとき、人はそれを「非常識」だとそしる。
「あいつは、齢下の男とばかりつき合う啓子さんを、またあいつの想像を絶した行動にでるあなたを、あいつなりに、おそらく非常識と思っていたのでしょうね」
「どこかで私を怖れていたわ」
「自分の考える常識の範囲ではなかったからでしょう」
そして自分も自分の「常識」の領域の中で生きてきた、それを啓子さんによってこわされた、と緑川は口もとに淡い笑みを浮かべた。
「さっき自慢したでしょう、僕は女にもてた、バレンタインデーのチョコレートをいつも山ほどもらった」
緑川にとって、女たちが自分にむらがるのは当然のことだった。小学生の頃から、女は自分に注目するものと考えていた。
けれど大学三年のとき、啓子は、緑川には目もくれずに和也にむかって行った。
緑川が一目置く男ならともかく、和也は、あの頃の仲間うちでは、どちらかというとないがしろにされている男だったのである。
緑川のプライドは傷ついた。
啓子の関心をそそろうと、わざと悪口めいたことを面とむかって口にしたりもした。
どうあがいても啓子は和也から目をそらそうとはしなかった。
「生意気な言い方ですけど、本当に、あいつのどこが、そんなに啓子さんを熱中させるのか、理解できませんでした。今も分りません。ただ、男と女の仲というのは、他人には介入のできないものだということを、十分に学びましたよ」
「多分、私は彼に死んだ弟を見ていたのよ」
「弟さんを?」
「そう、四歳で死んだわ」
大人たちが語る、あの子がもし生きていたとしたなら、という弟のイメージを、和也はいくつも持っていた。
分別をわきまえた、道を踏みはずす不安のない青年。
少し照れ屋な部分。
自分の我《が》を張るよりも、まわりの者の意見を優先するおだやかな気性。
頭脳的にも人並み以上の男。
そうした長所を認めながらも、しかし、啓子は、その長所がいつでも、すみやかに短所に変わることも見つづけてきた。
分別は、ときに狡猾《こうかつ》さとなった。
照れは臆病《おくびよう》にすり変わる。
おだやかな気性は主体性のなさに、人並み以上の知力といっても、所詮《しよせん》それは、学校の成績のよさであって、真の明晰《めいせき》さとは別物であることを知った。
自分が手を放したために生じた弟の死への負い目は、弟をほうふつとさせる和也の欠点のほうにより敏感だったかもしれない。
あの子は、死んでも仕方がなかった、啓子の心の闇は、ひそかにそう納得したがっていた。
けれど現実には、彼への執着は激しく、啓子にしては根強いものがあった。
けっして別れまいとするほとんど厭《いや》がらせのようなそれもまた、啓子の相矛盾する心のしわざだったのかもしれない。
手を放すべきときが訪れたのにもかかわらず、あえて、手を放すまいとしたのは、啓子の意識しないところで、幾重にももつれ合っている感情が、このときとばかりに、死んだ弟への復讐《ふくしゆう》を思いつく。ぜったいに手は放さない……。
大人たち、特に母親のあの日の叫びが、啓子の耳奥にいまだに生きつづけていた。
「どうしてッ、どうして手を放したのよぉ」
母親は、長い年月、その言動の端々に啓子への責めを匂わし、啓子を苦しめた。
「私の常識のベースは、きっとそのへんからはじまっていると思うの」
不意に緑川は、この三年半、啓子が見馴《みな》れた彼にもどっていた。
皮肉っぽく、からかいまじりの口調で言った。
「それを解き明かすのはフロイトですか、ユングですか。生憎《あいにく》と僕は啓子さんのセラピストになるほどの許容量《キヤパシテイ》は持ち合わせませんので」
「だれにも、そんなことは期待していないわ」
「でも今しゃべったじゃないですか」
「話の成り行きよ」
「まあ、そういうことにしておきますか。しかし、弟さんの話を聞いて、ようやく僕もこの何年間の謎が解けてすっきりしました」
「ずいぶんとこだわっていたみたいね」
「それはそうですよ。大学三年までの、僕の人生における常識が打ち破られた、あれは画期的な事件でしたから」
「事件だなんて……」
啓子は思わず苦笑した。
たかが自分の友だちのひとりが、五つ上の女とつき合った、というだけのことではないか。
「おかしいですか。でも僕は二十二歳のあのときまで、あれほど女に無視された経験はありませんでしたね」
「あなたのそれまでの常識というのは、すべての女の上に、まるで絶対主のように君臨していることだったのかしら、母親に対しても」
プライド、のひと言が啓子の念頭に宿る。自分には無縁ではあるそれが、そんなにも人を動かす要素になるとは想像もつかない。
けれど、目前の緑川の目のたぎりは、そういうこともあるのだ、と教えているようでもあった。
無視されるのが、それほどまでに口惜しいのなら、緑川もまた啓子を無視し返せばいい。それなのに三年半も、啓子と和也の関係にかかわりつづけてきた緑川の気持が推し測りかねる。
「あなたは不思議な人ね」
「なぜですか」
「私に無視されたのが、そんなに口惜しいのなら、私たちからはなれればいいのに。むしろ、その反対に入りこんでくるというのが、よく分らない」
「時期を待っていたのですよ」
「時期?」
「ええ。和也があなたからはなれるときを」
緑川は、複雑な笑みを頬にきざむ。
「和也もあなたも、僕からすると、とても単純で扱いやすい人間だった。僕の何気ないひと言ふた言で、まるで人形のように、僕の意のままに行動してくれる」
そして緑川は、和也から例の筋書きを聞かされた日から自分の賭《か》けははじまった、と話しはじめた。
彼の目的は、啓子に、和也があのような芝居を打ってでも別れようとしている、それを分らせることだった。
「話だけでは、あなたは信じないでしょう」
といって、緑川は、和也の計画通りに、ベッドでのあられもない自分の姿を、たとえ親友といえども人目にさらすことなど、まっぴらだった。
一週間前、泥酔状態にあった啓子を抱いたあと、緑川はわざと相手が自分であることを知らせた。行為ののち、すぐさま眠ってしまった啓子を揺り起こして、あえて声を放った。
「ありがとう、啓子さん」
さっき和也とふたりで啓子の部屋で話をしたとき、すべてあるがままに打ち明けるように、和也をそそのかした。
和也の筋書きを緑川から聞かされた啓子は、その突飛さに笑いころげた、とつけ足し、和也の「常識」をまるごと評価する言葉もふんだんに駆使したという。
和也の、あのひとかけらの曇りもない明るさは、そうした緑川の励ましとも称賛ともつかない言葉に裏打ちされてのものだった。
公園で啓子から「今夜のことは、すべてあなたの計画でしょう?」とたずねられたときは、いささかあせった。
この一週間の計画がことごとく露見してしまったのかと思い、それならば、といったん気持を定めていたが、啓子の言うのは「今夜のことだけ」らしいと分って、淡い落胆さえ味わったという。
「黙っていようかとも思いましたが、だめですね、自分の手柄話はどうしても口に出したくなる」
啓子は緑川を鋭く見すえた。
「どこが手柄なのよ」
「三年半前のあなたの僕に対する態度へのお返しです」
勢い良く啓子は立ち上がった。
気がつくと、掌《てのひら》は緑川の頬に走っていた。
緑川の右の頬が斜めに赤くなってくる。
頬に手を当てながら、緑川の表情は奇妙になごんでゆく。
「グラス投げについでこれですか。でも、これで僕がたくらんだことと互角になりますね。それとも、今度は左の頬、殴りますか」
緑川の、心の奥底にひそむ屈折が感じられた。
無視された腹いせとか、プライドうんぬんでは片がつかない、何か途方もなく暗くて深いものが、その目にたたえられている。
おかあさんッ。
おかあさーん。
啓子の耳は、だれとも知れぬその声を聞く。
だれもが遠い昔、そう叫んだことがあったに違いなかった。
そして、そのときに返された言葉やまなざしや手の仕草の鮮やかな記憶が基線となって、それぞれの「常識」が育ちはじめる――。
啓子は、緑川の頬を殴った手の先から全身の力が流れ出して行く無気力感にとらわれた。椅子の背にだらしなく身体をもたせかける。
緑川がこれまで啓子が耳にしたこともないうつろな口調でつぶやいた。
「その女と肉体関係を結んだって、その心までは奪い取れません。そんなのは最初から分っていたんです。ただ、惚《ほ》れるのは、こちらの勝手ですから」
その言葉は、啓子が和也にむけて、そっくりそのまま言いたかったことだった。
そう、はじめから分っていた。
分りながら、その領域にどんどん押し入って行った。
敵対するお互いの「常識」を、うっすらと予測しながらも踏みこみつづける。
啓子に怖れはなかった。
おかあさんッ。
おかあさーん。
この声が自分の耳の中で飛び交っているうちは、どんな相手とも、いずれ別れるときがくる。
それだけは確実に分っている。
それ以上、何を怖れる必要があるのだろうか。
啓子は、無気力感に襲われながらも、キッチンからグラスを持ってきた。
ウイスキーボトルはテーブルの上に乗ったままだった。
二個のグラスにウイスキーを注ぎ、緑川の目前に置く。
「私と和也との別れを祝して」
緑川がグラスを握りしめて、啓子を見る。
一瞬、鏡にむかっているような、自分の表情が目の高さに浮いているような錯覚におちいった。
緑川がグラスを軽くかかげる。
「僕と和也の友人関係のピリオドのために。そして、あなたと僕の、愛と憎しみのはじまりを祝して」
啓子は、その言葉を否定はしなかった。
おそらく緑川とは当分どんな形であれ、かかわってゆくことになるだろう。
たがいの闇の部分に刃《やいば》をむけ、突き立て、刺し合いながら。
しかし、どれほど傷つこうとも、緑川との関係は無駄にはしたくないと啓子は望む。
その関係の果てが、憎悪でしめくくられようとも、確実に何かを見つけ、つかみ出さなくてはならない。
緑川という男とつき合う価値は、そこにある。
啓子の心中を見透したように、緑川がそっけなく言った。
「僕を、あなたの死んだ弟と思ったらどうですか。言いたいこと、全部吐き出してください。僕は平気ですから。啓子さんの台詞《せりふ》によると、僕は女をナメている男。その男が、どこまで女をナメられるか、啓子さん、思いっきりやってみてはどうですか」
暗くて、深い感情の交錯する緑川の目だった。
啓子は、自分もまた緑川と同じ目をして見つめ返しているのだろうと想像した。
最初に相手の手を放そうとするのは、一体、どちらだろうか。
啓子の胸に猛々《たけだけ》しい勢いが広がりはじめていた。
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贅沢な部屋
あすの早朝会議で出席者にくばる資料を、一部ずつホチキスでとめて、ようやく作業は終った。
戸田|祥子《しようこ》は、ワープロで打たれたそれに、改めて目を通す。
文字のまちがいはない。
質問を受けそうな箇所を、しっかりと頭に入れ、説明のポイントも、やはり頭の中で確認する。
九月に入ったばかりのその日曜日、会社にきているのは祥子だけだった。
資料を机の横に積みあげ、祥子は腕時計を見る。午後一時になろうとしている。
背後の窓をおおっていたブラインドを引きあげると、札幌の九月とは思えない、強くて、ねばりつくような光が目を鋭く刺激してくる。
きのうの十時までの残業と、きょう八時から会社にきてワープロにむかっていた疲れが、視神経から一挙に全身に広がってゆく。
といっても、ひと仕事やり終えた心地よい疲労感で、祥子は疲れながらも充実しているこうしたひとときが嫌いではなかった。
しかも、あすの会議では皆を説得し、自分が立てたこのプランを通す自信は十分にある。
窓から机の上の資料へ視線を移す。
久しぶりに余裕のやわらかな空白が心に宿ってきた。
祥子は机の前の椅子にもどり、受話器を取りあげた。
もう一方の手で、革装のぶ厚い手帳をめくってみる。
一日ごとにびっしりとスケジュールの書きこみがされているページを追ってゆくと、奥島敬一と会ったしるしの「OKU」は、ようやく十六日前の欄に見出《みいだ》せた。
奥島の住むマンションの部屋の電話番号をまわす。
呼び出しのベルが数回鳴ったところで奥島の声が聞こえてきた。
「はい、奥島です」
「私。今、会社なの。ようやく一段落ついたので、これからそっちへ行こうと思うのだけれど」
「そうですか。まあ、それもいいですけれど……」
いつもの彼のしゃべり方ではなかった。
そばにだれかいるらしい。
しかし、奥島はめったに自分の部屋にひとを迎えようとはしないはずだった。
あの部屋には、祥子の、女の気配を感じさせるものが少なくない。つい[#「つい」に傍点]になったコーヒーカップなどの食器類は、男の奥島が選んだとは思われない色柄で統一されてある。バスルームには、ピンクの歯ブラシやバスタオルなどが置かれている。
「お客さまがきているみたいね」
「そんなところです」
「珍しいこと。でも会社の方じゃないでしょう」
「僕にもいろいろとありますから」
そして奥島は、わざとらしい笑い声をひびかせた。
都合の悪い場合や、争いごとを避けようとするときに、そうやって物事をうやむやにしてしまおうとする、いかにも見えすいた、うつろな笑いだった。
以前、祥子は遠まわしに、そのことを注意したことがある。不誠実な印象を与えるからよしたほうがいい――。
「お客さまは何時頃までいる予定なの」
「さあ、僕としては言いようがありませんね」
ふいに祥子の勘がとがった。
思わず言っていた。
「そこにいるのは女性ね?」
奥島のつかのまの動揺を示すように、ほんの数秒間の沈黙がはさまれた。
その沈黙がすでに答えになっている、と祥子はすぐさま判断する。
知りあってまもない間柄ではなかった。
五年来の関係がつづいている。
数秒間の狼狽《ろうばい》ののち、奥島は、やはり曖昧《あいまい》に返答した。
「いや、それは考えすぎですよ」
「そう。わかったわ。それじゃあ」
電話をきると同時に、祥子はハンドバッグを手に、勢いよく椅子から立ちあがっていた。
客の姿はなかった。
代わりにキッチンに二個の紅茶|茶碗《ぢやわん》と、生クリームのついた二枚の皿が並んでいた。
食器棚の中のつい[#「つい」に傍点]のコーヒーカップはひとつしか見当らない。
バスルームへ行ってみると、祥子の歯ブラシもバスタオルも失くなっていた。
自分の勘が見事に的中したショックに打ちのめされそうになりながら、祥子は奥島にたずねた。頭の中はからっぽだった。
「どういうことなの、これは」
声が小刻みにふるえていた。
怒りや腹立たしさを感じる前に、ショックの大きさのあまり、神経に狂いが生じているらしかった。
奥島はソファに腰かけ、両膝《りようひざ》に左右の肘《ひじ》をのせ、組みあわせた手に顎《あご》を置き、やや蒼《あお》ざめた表情で、力なく前方の壁を見つめていた。
「俺もどうしたらいいのかわからなかったんだ……」
つぶやくようにそう言ってからの奥島の話の内容は、さらに祥子の気持をたたきのめした。
今年の一月の末に、奥島は会社の上司のすすめで見合いをした。
男が三十四歳にもなって独身なのは、社内外にさしさわりがある、と前々から奥島に親身に忠告しつづけてくれていた上司だった。彼の顔を立てるつもりだけであったその見合いは、急に奥島の心を変えた。相手の女性も奥島を気に入り、縁談はすみやかに進行していった。
奥島の両親も釧路《くしろ》からやってきて、すでに彼女と会っている。挙式は来年の五月を予定し、披露宴会場も予約ずみである。
彼女とは毎週、土曜日か日曜日そとで食事などしていたのだが、数ヵ月前から、この部屋ですごすようになった。奥島の住んでいる所を見たいと彼女にせがまれて、どうしても防ぎようがなく、結局、きょうのような最悪の結果をまねいてしまったのだという。
奥島の話の途中から、祥子はその場にすわりこんでしまっていた。身体中がふるえはじめて、立っていられなくなったのである。
祥子はふるえる声でようやく言っていた。
「ずっと、私に、黙っていて……それで、それで……最後に、私に、どう、打ち明ける、つもりで、いたの……」
「本当に俺自身、途方にくれていた。ごめん、許してくれ。でも、俺もきみとつきあっていることに疲れてきて、いちからやり直したいと。この五年間、いつもきみのペースに振りまわされてきた。きみの仕事に、と言うべきかもしれない。きみはすべて仕事優先で、俺と会うのはその次のこと。はたして仕事のためで会えないのか、別の男がいるのじゃないか、そういう想いに苦しめられた時期もあった……」
早くこの部屋から出て行きたかった。ひとりになって、この混乱した感情を鎮めたい。
けれど祥子の全身のふるえは激しさの度合をましてくるばかりだった。
ふたたび、全身の力をふりしぼって、ようやく口を開いた。
「お願い……私を、立ちあがらせて……身体が、ふるえて……どうしても……立て、ない……」
奥島が驚いた表情で、祥子へと首をむける。すかさずソファからはなれ、祥子の前に身をかがめた。つらそうにつぶやく。
「やっぱり、俺、まちがっていたんだろうか」
祥子の目から涙がふきだした。それを見た奥島の瞳《ひとみ》にもうるんだものが一気に広がる。
「大丈夫か……立てるか」
うなずきながら、祥子は思わず嗚咽《おえつ》していた。涙がブラウスの胸に点となって、つづけざまにこぼれ落ちた。
空が見えなかった。
太々とした幹を持つ樹々の、何本もの枝が交錯《こうさく》しあい、さらにどの枝もびっしりと葉をしげらせて、祥子の頭上をおおっている。
大通公園六丁目のベンチのひとつに腰かけてから数時間がすぎ、気持はようやく落ち着きを取りもどしてきているようだった。学生の頃から、心がしおれるたびに、ここにやってくる。自室に閉じこもっていたり、喫茶店の隅ではけっしていやされない清涼な空気が、この大木の並ぶ空間にはたえまなく流れている。
奥島の見合いと結婚、それはもうとめられない状況にまで進んでしまっているという。見合いをしたのは一月下旬と言っていた。すると七ヵ月以上も、奥島は祥子にかくしつづけていたことになる。そこまで巧妙な一面を持っていたのか、と彼を意外に思う反面、祥子は自分の鈍感さを嗤《わら》う。今になってみると、さほど気にもかけずにいたいくつかの事柄が、すべてつじつまがあってくる。
それまで会うのは週末に限られていたのが、平日に替えないか、そう彼が言いだしてきたのは二月半ば頃だった。縁談が成立した直後だったに違いない。平日にしたい理由として、奥島は「最近は仕事がらみで土曜日に飲む機会が多くなってきている。また春になれば、やはりつきあいゴルフが日曜日ごとに入ってくるようになるから」と、ごく普通の表情で説明した。祥子も了解した。けれど、それは見合い相手の女性から、いつか彼の住まいを見たいといったような仄《ほの》めかしがあったためだったのだろう。
「ガラス工芸・美術展」の入場半券が、部屋の床に落ちていたこともあった。奥島の趣味は碁とゴルフで、文学や美術など、いわゆる芸術的なものには関心がない。珍しい、とは思ったけれど、祥子はしいてたずねようともしなかった。それもまた女性に誘われて行ったのかもしれない。こうなってみて、はじめてあの半券が特別な意味を持っていたことに思いいたる。
奥島の部屋にある冷蔵庫に、ケーキなどの菓子がつねに入っているようになったのは、六月ぐらいからだったろうか。祥子と同様に、彼も甘い物は苦手なはずだった。けれどそれもまた「この頃疲れているのかなあ。甘い物がやたらと食べたくなってね」という、奥島の言葉をうのみにしてしまっていた。
奥島を責められない自分がいた。「疲れた」「きみのペースに振りまわされてきた」「いちからやり直したい」。どの言葉も切実なひびきがあった。しかも二年前、彼からプロポーズされたとき、「もう少し待って」と答えてもいる。祥子は三十歳だった。
それから二年間、祥子はそれ以前にもまして仕事に没頭してきた。週に一回会うどころか、電話もかけない数週間があったりもした。夜遅く会社から帰り、留守番電話に奥島の声が録音されていても、こちらから電話をする気力さえないほどに、仕事に全精力をそそいでしまっている毎日だった。翌日になると、彼の電話の声は忘れてしまっている。
創立して十年もたたない会社である。アルバイトやパート、就職のための情報誌の発行からはじまったのが、予想外な大当りとなって、毎年、信じられないような急成長をつづけていた。この二年間は、新事業展開が課題となり、祥子はそのプロジェクト・チームのサブ・リーダーの役を命じられた。社長はまだ三十代の若さで、祥子の大学の先輩にも当る。食品会社の事務職に退屈していた祥子に、うちにこないかと声をかけてくれたのも彼であった。
(私はどう弁解しようとも、確かに奥島より仕事を大切にしてきた。彼のおだやかさとやさしさに対し、どこかでタカをくくり、いつまでも待っていてくれると信じこんでいた。けれど、なぜ彼は見合いの結果が出た時点で、私に正直に言わなかったのだろうか)
祥子は頭上の葉叢《はむら》を見上げた。やはり空の色は、たわわな緑のさえぎりで、ひとかけらも見えない。
もしかすると奥島は、きょうのような日がいつかやってくることを、ひそかに望んでいたのかもしれなかった。彼の口からはひと言もきりださない。祥子が勘づくときを心待ちにしていた。あの部屋にいたはずの女性には、仕事で急用ができたなどと言って帰ってもらったとも想像できる。電話での不自然なやりとりから何かを感じ取り、部屋を訪ねてくるに違いない祥子の気性をのみこんでの、したたかな計算が、そこには働いていた――。
五年間、一回として大声を発したことのなかった男だった。祥子の仕事にどこかで嫉妬《しつと》しているようではあったが、それらしき言葉は言ったためしがない。ただじっと祥子の変るのを、いっさいの感情を抑えて見守りつづけてきた男だった。自分から積極的にふるまえない男の、ようやく思いついた別れ方。
祥子は自問する。今なら、かろうじて間にあうかもしれない。奥島に泣きつき、懇願し、破談にしてほしいと迫ることも可能だろう。仕事か彼か――どちらを選ぶか。
身体がまたもやふるえはじめた。つらい選択だった。奥島との五年間の重みが、改めて実感された。あのおだやかさに、幾度となく慰められ、支えられてきた場面も脳裡《のうり》をよぎってゆく。
結局、と祥子はしばらくして胸の中で自分に言いふくめる。男はこんなふうに裏切るではないか。だが、仕事はあざむかない。
結論とは反対に、ふるえは激しさを強め、涙がとめようもなく流れはじめた。
奥島との別れは、祥子に後遺症を残した。時と場所をかまわずに、突然に指先が痙攣《けいれん》し、コーヒーカップを片手で持てなくなったり、箸《はし》を思うように扱えなくなる。小刻みなそのふるえは、意志の力では制御できない。
指先のふるえには悩まされながらも、心は徐々に回復していった。仕事の多忙さと、それなりの充実感が、削《そ》ぎとられた心の部分を少しずつ埋めてゆく。その忙しさに、むしろ祥子は感謝した。
マンションの四階にある奥島の部屋のあかりは消えていた。まだ帰ってきていないらしい。祥子はトレンチコートのポケットに手を入れ、さっきキー・ホルダーからはずした彼の部屋の合鍵《スペア・キー》の感触を確かめる。会社からの帰りだった。
十月もなかばをすぎていた。下旬になると初雪の季節を迎える。
奥島が帰宅していないと知って、祥子の気持はふいに変った。鍵《かぎ》を郵便受けに返しておこうとだけ思っていたのが、にわかにあの部屋への懐しさがこみあげてきた。
ふたりが交際しはじめてから一年後、奥島は北区のアパートから、平岸《ひらぎし》のこの新築のマンションへ引越した。祥子も仕事の合い間をぬって、引越しの手伝いをし、ソファやカーペット、食器棚、寝具類の買い物にも連れ立って出かけた。楽しく、心はずむ日々だった。暗黙のうちに、この部屋はふたりのもの、という気持で結ばれていた。
叔母《おば》の家に同居している祥子にしても、奥島の新しい住まいは、単に恋人の部屋である以上の執着があった。ひまを見つけては、小さな食卓のテーブルクロス、しゃれたスープ皿とスプーン置き、壁にかける版画、クッションなどを買い求めては、部屋に運んでゆく。奥島はそのたびに目を細めて、祥子のもってきた品を物珍しそうに手に取って眺める。彼もまた、祥子がそんなふうに入りこんでくるのを、ごく当り前に受けとめていた。
祥子は急ぎ足になってマンションへとむかう。エレベーターで四階に上り、合鍵を使って部屋に入る。あかりをつける。
部屋の中は、九月のはじめにきたときと、何ひとつ変ってはいなかった。ベランダぎわに置かれたふたり掛けのソファ、食卓のテーブルクロス、その上の一輪ざし。
立ったまま室内を見渡していると、玄関のドアが乱暴に閉まる音がした。振り返ると、奥島が、これまで見たこともない憤りの形相でこちらを睨《にら》みつけている。
「なんでここにきたんだッ」
祥子はコートのポケットから合鍵を取りだして、ソファの前のテーブルに置く。
「まったく、もう」
そう吐き捨てながら、奥島はコートも脱がずにソファに腰をおろし、顔面を両手でせわしなくさすりつづける。
「もはや弁解の余地はない。彼女はきみの存在に気づいた」
奥島と彼女を乗せたタクシーがマンション前にとまるのと、この部屋にあかりがついたのは、まったく同時だったという。相手は不審がった。奥島は必死で嘘をつき、とりあえずタクシーからおりた。タクシーはそのまま彼女を乗せて走り去って行った。
「ひどい偶然ね」
祥子はひややかに、取り乱している男を見つめた。
「ああ、最悪だ。破談になるかもしれない」
破談を怖れている口調だった。
そのとき祥子は胸の中で、小気味よいものが走りすぎてゆくのを感じた。
嫌がらせをするつもりなど、まったくなかった。合鍵を返すのが目的でやってきた。しかし、じつに皮肉な効果を及ぼしてしまったらしい。
自分ひとり無傷で、ふたりの女を上手にあしらおうとした奥島に、このくらいの打撃を味わわせてもいいだろう。計算外のことが、いくらでも起きてくるのが世の中だ、そう思い知ってもいいだろう。祥子は、どこまでも冷淡に、打ちのめされている男の姿を眺めつづけた。
電話のベルが鳴りはじめる。奥島は強張《こわば》った表情で受話器を凝視し、やがて、顔面をゆがませながら立ちあがって、電話に出た。
「はい。あ、僕です……いえ、たいしたことはなく、何か管理人が用があったらしい……いや、そんなことは……それは誤解、考えすぎですよ……まさか、僕が、冗談でしょう……」
祥子に背中をむけ、わざとらしい、うつろな笑い声で打ち消そうとしている奥島に、つかのま憎しみと怒りをおぼえた。電話の相手は、おそらく彼女だろう。
祥子は玄関へと歩きだす。居間をあとにする瞬間、思いっきり力をこめてドアを閉める。もちろん、電話の相手の耳を十分意識しての行動だった。玄関のドアも同じように、けたたましい音をひびかせて閉め、そのとたん、祥子の気持の何かがふっ切れた。
待ちあわせの喫茶店に五分遅れでついた祥子を見て、相手の女性は、目に驚きをあらわした。横の椅子に毛皮の半コートが置かれている。
「本当に祥子さんですか。奥島さんから聞いていたのと、ずいぶんイメージが違って……。あ、失礼しました」
奥島の見合い相手の女性から会社に電話がかかってきたのは、その日の午後早くだった。突然だが夜にでも会ってもらえないかという。
合鍵を返しに行った晩から、約ひと月がたち、雨と雪の日々が交互に訪れている。
相手と同じコーヒーを注文してから祥子はたずねた。
「彼は私のこと、どのように言ってました?」
「いかにも勝ち気なキャリア・ウーマンで、それと男性関係も派手なという感じで……」
祥子は苦笑する。
「彼はやはり最後まで私への疑いを持ちつづけていたのね。私が他の男性とつきあっているという……でもそれは男じゃなく仕事……」
細身の、目の大きな女性だった。二十七歳で、今もまだ会社勤めをしている、三人|兄姉《きようだい》の末っ子、父親は教育関係の仕事などといったことを、自分から歯切れよく紹介した。
「奥島さんから、すべて聞きました。彼、いろいろとごまかそうとしたのですけれど、そういうのって、すぐわかりますでしょう。だから、もうここまできたのだから、ありのままに話してほしいと。でも、彼のそういう態度を見て、私、自信がなくなりました。結婚に対してです。第一、祥子さんのことも、全然別人のようなイメージで言っていましたし……」
「私のこと、あまりよく言っていなかったのね」
相手は伏目がちになって、うなずく。
「それはきっと彼があなたと本気で結婚したいと思っている証拠だと思う。あなたの自分への不信感をどうにかして取り除こうとして、私への気持はもうこれっぽちも残っていない、そう言いたいのじゃないかしら」
「祥子さんにとって、彼はどういうひとでしたか」
真剣なまなざしだった。
祥子の心の奥に封をしていた奥島へのさまざまな感情がうごめきだす。手の指先がかすかにふるえはじめる。しかし、相手がききたがっているのは、彼の欠点ではないはずだった。奥島へ愛想《あいそ》づかしをしたのなら、わざわざ祥子に会いにくるはずがないだろう。おそらく、彼女は混乱し、彼女なりに苦しみ、そして救われたくて、こうして会おうとしたに違いない。
祥子は自分の本心とは別に、彼女に言ってやらなくてはならない内容を、すばやく頭の中で選択する。
祥子を注視する彼女の目も、その目鼻立ちにも、知的で意志的なものが読み取れた。勇気をふりしぼって、電話をかけ、呼びだしたのだろう。祥子は、心とはうらはらに、口もとにほほえみを漂わす。
「人間はある一面だけで評価してはいけないと思うの。つまり、彼が私に見せていた面と、あなたへの対応はきっと違う。でも、どちらも彼なのね。確かに私たちはつきあっていた。でも、彼は、仕事人間の私には耐えられなくなった。いつも妄想をいだいて、彼なりにつらかったのでしょう。だから、あなたに言った、私は男関係の派手な女だと。彼はそう信じていた。女がそれだけ仕事に打ちこむことが、結局、彼には理解できなかったのでしょう」
「私にも言ってました。結婚したら家庭に入って欲しいと。でも、祥子さんの気持、生意気ですけれど、私はなんとなくわかるような気がします。彼から祥子さんとのこと聞いてから、悩みました。でも会社にいると、その悩みもうすらいでゆく。今回の件で、仕事を持っていてよかったと実感しましたもの」
「彼はいいひとよ。おだやかで、やさしくて。そのよさが、仕事にかまけている私の前では、思いっきり発揮できなかった。あなたが家庭に専念したなら、彼のその部分は、安心してあなたにそそがれると思うわ」
「そうでしょうか……」
「そうよ」祥子は力強く断定する。
「じゃあ、もうひとつきかせてください。彼は私とお見合いしたのに、なぜ、ずっと祥子さんにかくしていたのでしょうか」
率直にあふれ出ようとする言葉を、祥子はあわてて押しとどめる。大きく深呼吸をする。
「それが、つまり彼のやさしさ。私を傷つけたくなかったのでしょう」
「でも最後は同じことじゃありませんか。いつかは打ち明けざるをえないでしょう?」
「あなたたちがお見合いをした頃から、ついこのあいだまで、私、仕事のプレッシャーで、いつになくまいっていたの。彼はそういう私をそれ以上傷つけたくなくて、打ち明ける時機を待っていたらしいわ」よどみなく嘘がつけた。
納得しかねる表情で相手は祥子の心のうちを探るように目を力ませた。
「そうでしょうか。彼の祥子さんへのみれんじゃないかと」
「彼にはそんなみれんはないはずよ。私の仕事への嫉妬《しつと》と妄想の五年、いえ、正確には四年間に明けくれていたのだから」
こともなげにそう言ったものの、祥子には、別の考えがひらめいた。奥島は縁談を進める反面、いつか近いうちに、祥子が仕事上で徹底的に打ちのめされ、自分のもとにもどってくることを期待していたのではないか。ぎりぎりまで待とうとしたのではないか。
しかし、まさかとすかさず否定する。奥島には、そんな度量はないはずだった。上司からすすめられた見合いを、しかも、着実にまとまってきている縁談を壊してしまうような大胆さは持ちあわせない。
「祥子さんにお会いしてよかったと思います。突然お呼び立てして申し訳ありませんでした」
「幸せになってくださいね」
ひと足先に喫茶店を出た祥子は、いくつものネオンサインに照らされた夜の街を、やみくもに歩きつづけた。ふっ切れたはずの想いが、なまなましく胸の中によみがえってくる。あの日以来の全身のふるえに襲われてもいた。
彼女に会うべきではなかった。どうして会ってしまったのか。
どう処理しようもない、うねる感情にとらわれながら、しかし祥子は、これでようやく奥島への借りを返した気分にもなっていた。自分が仕事に埋没するたびに、彼に与えていたであろう、邪推の苦しみ、いくら言葉をつくして説明しても、彼の心から取り除けなかった自分への不信感を、今はじめてこういう形で返すことができた。
そして、奥島の無言の妬心を察知するたびに、そのうとましさから逃げるように、ふたたび仕事にのめりこんでいった自分たちの関係の堂々めぐりは、所詮《しよせん》、こういう結末を迎えるしかなかったのだ。祥子は自分自身を慰める。慰めても、理屈ではわかっていても、身体のふるえはとまらなかった。
彼女と会ってから二週間がすぎた。
会議が終った正午少し前、祥子に電話がかかってきた。
奥島だった。会社のすぐそばの喫茶店にきている、ほんの十分でもいい、会えないだろうか、と遠慮がちにたずねる。
「すぐ行くわ」
祥子はどこかうわの空で答える。
会議で何人もの同僚と意見をたたかわせてほてった頭は、仕事以外の事柄から現実味を失わせていた。
奥島が、あの[#「あの」に傍点]奥島だとむすびついたのは、ハンドバッグを手に、喫茶店へ行き、その顔を見た瞬間だった。
「あなただったの……」
祥子はつぶやきながら、そこではじめて頭のスイッチが切り換えられるのを感じた。
「きっと、私はいつもこうだったのね」
茫然《ぼうぜん》としている祥子に、奥島は、どうかしたのかと物静かにたずねる。
「いえ、ばかげたこと……。ただ、自分が実生活面では、いつもうわの空でいることが多かったのだろうと、今、はじめて気がついた……」
「知らなかったの?」
相手は余裕にみちた笑顔になった。
「きみは僕と一緒にいても、つねに何かほかのことに気を取られているような、おかしなクセがあった」
注文したコーヒーが祥子の前に置かれた。
「彼女から聞いたよ」
「そう」
「それで言われた。あなたは祥子さんにひどいことをした、きちんと謝るべきだ。それで、こうしておわびにきた。きみは僕の悪口はひと言も口にしなかったそうだね」
奥島の言葉によって、祥子の心のどこかに、まだ巣食っていたあくどいしこりが、たちまちに流れ落ちてゆく。
奇妙な明るさにつつまれてくる。
「あなたを悪く言わなかったのは、あなたのためじゃないわ。彼女の、私に会いにきたその勇気と、聡明《そうめい》さを同じ女として認めたからよ。理知的な良さそうな方ね。いい奥さんになると思う」
そして彼女に言われたからと称して、こうして謝りにきたという奥島のよさも、改めて評価したい気持だった。
やはり彼は想像していたほど卑劣でも、ずるい男でもなく、そのよさを引きだしえたのは、相手が彼女だったからだろう。
「仕事はうまく行っているの」
「とりあえずは順調よ」
「引越しすることにした。いや、結婚後に住む部屋じゃないんだ。彼女がね、ここは、あなたと祥子さんの部屋だ、そこに私が行くわけにはいかないと言うものだから、それで……」
ふいに言葉が途切れた。
奥島の目が充血しはじめた。
「あの部屋にずっと住んでいるつもりだった、きみとね。二年前にプロポーズしたとき、正式な結婚は先になっても、きみと一緒に暮らしたかった。でもきみには……」
「仕事しかなかった」
「仕事という別の男がね」
奥島は目をしばたたかせ、伝票を手に立ちあがった。
「ごめん、大事な時間をとらせて。じゃあ、これで」
窓ぎわの席に取り残され、祥子は、店を出て地下鉄駅へと歩いて行く奥島の姿を見送りつづけた。雪がちらついている。十一月も末になった。
胸にしめったものが揺れつづける。
私もあの部屋はいつまでも忘れないだろう。二十七歳からの五年間、私の、女としてもっとも贅沢《ぜいたく》であったとき。心やさしい恋人がいて、楽しい仕事があって、プロポーズされる前から、すでに十分にみたされていた。満足しきっていたために、プロポーズへの特別な喜びはなかった。
あの部屋は、多分ふたたび手にいれることはないだろう。祥子は奥島の姿が見えなくなっても、窓から視線をはずさずに、あの部屋の光景を、鮮やかに何度となくよみがえらせた。
淡雪がふっては消え、またふっては溶け、そのくり返しの中から訪れてくる札幌の冬がはじまろうとしていた。
あの部屋のベランダに小さな雪だるまをこしらえた二十八歳と三十歳の引越してはじめての冬が、懐しく思いだされた。
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仮 睡
シャワーをあびた身体に、ホテルのバスタオルを巻きつけて部屋にもどってみると、佐村はダブルベッドの上に大の字になっていた。
目は閉じられ、ホテルのバスローブを着た胸は規則正しい呼吸音とともに上下をくり返しつづける。
和可子《わかこ》は声をかけてみた。
反応はない。
以前にもこうしたことは何回かあった。和可子がシャワーを使っているほぼ十分ぐらいのあいだに、椅子やベッドの上でうたた寝をしてしまう。
しかし、和可子が近づいてくる気配や、そばに立っただけで、佐村はすぐに目をさました。睡魔におそわれながらも、自分が、今だれと、どこにいるのかを意識のすみにきっちりととらえていた。
それが立てつづけにここ四、五回ほど、うたた寝ではなく熟睡になってしまった。和可子に名前を呼ばれ、あわてて目ざめる。
だが今夜は声をかけても身じろぎもせず深々と寝入ってしまっている。
ほどけかけたバスタオルの端を、ふたたびきつく身体に巻きつけ、和可子はカーテンを引いたベランダぎわの肘掛《ひじか》け椅子に腰かけた。目の前のガラスの丸テーブルの上には、佐村の煙草とライターがのっている。
一本くわえ、火をつける。
バスローブの袖口《そでぐち》からはゴルフ焼けした腕がのぞいている。裾《すそ》からでている足は、それとは正反対に生白い。
和可子は煙草のけむりを吐きあげながら、佐村の足からゆっくりと視線をそらす。
いっぺんも陽にさらしたことのないようなその足の生白さに、かすかな嫌悪を感じたのだった。それは若いひとびとのけがれのない色白さとは異なり、ふやけきった死者の皮膚を連想させた。妙に薄汚ない。
だれにともない腹立たしさにとらわれ、和可子は火のついた煙草を手荒く灰皿の底でもみ消す。
佐村とこうした関係になってから一年半になる。
そのあいだに彼は五十五歳の誕生日を迎えた。
身体の関係を持った当初から、佐村にはホテルでうたた寝をするくせがあり、それは三十三歳の和可子を驚かせた。
女性とホテルにやってきて、その女性がシャワーをあびている、ほんの十数分を利用して寝入ってしまう男性など、これまで和可子は知らなかった。
しかも、ちょっと仮眠をとる、と断わるのではなく、佐村の場合は、彼自身も気づかぬうちに、うたた寝をしてしまうらしいことが、和可子にはいっそう不可解に感じられた。
だがそれは結局、年齢にともなう肉体の衰えの兆候、そうわかったのは、つい最近のことである。
考えてみれば、二十二歳上の佐村は、和可子のまわりに出没する男たちの中では、いちばんの年長者だった。もちろん妻も子供もいる。会社ではかなり重要なポストについてもいた。
今年の夏は全国的に猛暑がつづき、和可子と佐村が住む札幌も例外ではなかった。
札幌では冷房機《クーラー》は一般の家庭には、ほとんど設置されていない。日中いくら暑くても、夜になると涼しくなるのが例年の夏の札幌で、暑くて寝苦しい、眠れないといった話はめったに聞かない。扇風機を使うのがせいぜいである。
それが今年は七月から真夏日がつづき、八月いっぱいはうだるような暑気、さらに残暑がなかったはずの札幌の街は、九月に入ってからも長く夏の気温を引きずり、暑さ負けで病院通いをするひとも少なくなかった。
ふた月前の八月、やはり札幌市内の別のホテルで逢《あ》ったとき、佐村はしきりと、この夏はこたえる、と口走り、昨年の夏とくらべて体力の低下を訴えた。
和可子も暑さには弱い。毎年、夏になると食欲が減退して、数キロは痩《や》せる。だから佐村のぼやきも、あまり気にとめなかった。和可子にしてみれば、札幌の夏は、今年にかぎらず、いちじるしく体調をくずす季節だったからである。
その夜ホテル内の日本料理の店で食事をはじめたときだった。
佐村はアルコールにそう弱いほうではなく、しかも、いつもの飲みなれたウイスキーの水割りのグラスを手にしていた。
二杯目がからになる頃、ふいに佐村の呂律《ろれつ》があやしくなった。話し方もまわりくどくなり、それは、あきらかに酩酊《めいてい》の状態といえた。意外な急変ぶりだった。
和可子はとまどいながらも、料理に箸《はし》を進ませ、その一方で用心深く佐村の様子をうかがっていた。
佐村は、やはりすっかり酔っていて、それはほろ酔いを一挙にとびこえた酔っぱらいのゆるんだ、だらしのない口調だった。声が少しずつ大きくなってゆくのにも閉口した。
和可子は早々に食事をきりあげ、ホテルの部屋に佐村を連れ帰った。
ソファに深く沈みこんだ彼は、やや酔いがさめてきたようだったが、シャワーをあびる気力はなく、和可子に先にシャワーを使うようにと、やはりまわらぬ舌で言った。
そして、和可子が十分ほどしてバスルームからもどってくると、佐村はソファの上で熟睡していたのだった。
夏の暑さのせいで、すっかり体調のバランスが乱れてしまったのだろう。和可子はそのまま佐村を三十分ほど寝かせておいたのである。
ところが、その夜以来、佐村と逢《あ》うたびにこのパターンがくり返されることになってしまった。
残暑のすぎた九月のなかば、秋の風が街中を吹き流れだした十月の初旬、紅葉のまっさかりの今、佐村は相変らず和可子と逢うなりウイスキーのグラスを手にする。たがいの仕事の都合で、それぞれがすでに夕食をすませてきた場合もあれば、ホテル内で一緒に食事をすることもある。
いずれにしても佐村は一日の仕事の区切りをつけるようにウイスキーを飲む。二杯グラスをかさねたところで、突然の酔いが彼をおそってくる。舌がなめらかさを失う。
佐村には自覚がないようだった。
自分が他人の目には完璧《かんぺき》な酔っぱらいとうつっているとは思わず、彼自身は、くつろいだ、陽気な、ほろ酔いに身をまかせていると思っているのかもしれない。
だが和可子はうんざりだった。
たった二杯の水割りで理性を半分奪い取られ、さらに、かつての自分の酒量に自信を持っている彼は、二杯ではけっしてやめようとはしない。それでいて、自分がもう相当にできあがっているという冷静な判断も忘れ、ますます酔ってゆく。
酔った佐村とのあいだには、ろくな会話も成立しなかった。
酔っぱらった者がたいがいそうであるように、佐村は一方的にしゃべり、その内容は不満や愚痴、これまでの輝かしい実績の自慢、会社や世の中に対する嘲笑《ちようしよう》や批判などが、意味のない笑いでその毒味を薄めながら、とりとめもなく語られてゆく。
その合間に、和可子にしつこく同意を求めてくる。
「な、そうだろう?」「そう思わないか?」
やがて三杯目を飲みほした佐村は、呂律どころか目の焦点もあやしくなり、和可子の苛立《いらだ》ちと忍耐も限界に達してしまう。部屋にもどるように、佐村をうながさずにはいられない。
そして和可子がシャワーをあびている短い時間、佐村は眠り、声をかけて起こすまで目をさまさない。
ひと眠りしたあとは、多少は元気を回復するのか、彼はバスルームに行き、シャワーの音をひびかせはじめる。
不思議なことに、ベッドの中での彼の体力は、あれほどウイスキーに占領されてしまった脳とは違って、以前より衰えたとは、とても思われない快調さだった。
だが和可子は、そこにいたるまでの佐村の「お守り」としかいいようのない時間が、たまらなく苦痛になってきていた。その苦痛はベッドにまで持ちこまれ、いくら佐村の肉体が快調であっても、それに心地良く反応はできなかった。
目の前のダブルベッドで佐村は眠りつづけている。
バスローブ姿ではあるけれど、例によってシャワーはまだ使っていない。
ベージュ系の、目にやさしいベッドカバーの色をぼんやりと見つめているうちに、和可子は肌寒さをおぼえてきた。バスタオルを巻きつけただけの恰好《かつこう》である。
バスルームのドアの反対側にあるクロゼットへ進み、佐村の背広やワイシャツと並んでハンガーにかけておいた茶色いスーツを取りだす。
クロゼットの内側の棚には、予備の毛布が透明なビニール袋につつまれて置かれてあった。
和可子は肩ごしにうしろを振り返り、バスローブの袖や裾からでている佐村の手足に視線を走らせ、棚から毛布を引きおろす。
毛布を佐村の身体にそっとかけてから、物音を立てないようにしてスーツに着替えはじめた。
佐村の寝息が深くなった。やはり、バスローブ一枚では眠りながらも身体は寒さを感じていたのだろう。
スーツを身につけ、つや消しのゴールドのネックレスとイアリングもつけ終えた和可子は、電話の置かれているベッドわきのサイドテーブルの上からメモ用紙とボールペンを持ってきて、ふたたびベランダぎわの肘掛《ひじか》け椅子に腰かけた。
自分たちの関係はきょうかぎりにしたい、そういう内容を書くつもりだった。
実際のところ、この言葉は八月に言うつもりでいた。それがなんとなくきりだせずにいたのは、たった二杯の水割りで、だらしなく酩酊してしまうようになってしまった佐村の中の「老い」を感じてしまったからだった。
五十五歳にして「老い」とは残酷かもしれない。
けれど、和可子が目のあたりにした彼のあの酔い方は、老化現象のひとつのはじまりとしかいいようがなかった。
佐村に何気なく、この夏の暑さ負け以外の身体の不調さをたずねてもみた。水割りの一杯目が半分にもへっていない、まともな話し方をする彼に、である。
佐村は揺れのないまなざしで上機嫌に答えた。
「いや俺もこの夏のまいり方で少し心配になって、身体のあちこちを検査してもらってね。その結果、まったくの健康体だとたいこばんを押してもらった」
確かに真夏のやや憔悴《しようすい》していた顔つきは一時的なもので、次に逢ったときの彼は肌の色つやも以前と同じ柔らかさを取りもどしていた。
まったくの健康体、そう診断されたにもかかわらず、たった二杯の水割りで、あそこまで正体を失うのは、単にアルコールに弱くなったという説明では片づかない。
それは突然にやってきたのだった。
しかも素面《しらふ》の佐村には考えられないような自分への客観視がまるで欠如している。
かつての彼なら必ず言ったものである。
「すまない。俺、少し酔ってしまったようだ」
だが、このふた月間、そうした言葉は一回も聞いたことがなく、気がついた瞬間には、もうべろべろの状態におちいっている。
まさしく、一瞬後にそれは佐村におそいかかり、その直前まで彼は正気だった。
ほんの一瞬、ひと呼吸で、あっけなく酒精《アルコール》にのみこまれてゆくその豹変《ひようへん》ぶりは、佐村の人格そのものまで崩壊してしまうのではないかと、最初の頃、和可子は不気味さをおぼえた。
けれど、突如としておそってくる泥酔以外、佐村にはこれといった変化は見当らなかった。「老い」の前ぶれは、どうやらここまででストップし、安定したらしい。
身体のあちこちを検査したと佐村は言っていたけれど、脳まで綿密に調べてもらったのかどうか、和可子はききそびれていた。
もしかすると脳の毛細血管が、ほんの少しずつ切れてしまったのではないのか。生命にかかわるほどではないにしても、肉体のどこかを鈍麻させ、麻痺《まひ》させるような、ごく小さな障害――。
佐村の前で、その想像は口にはだせなかった。彼にはまったく自分の変化についての自覚はなく、そして、それこそが「老い」の前兆そのもののような気がした。
メモ用紙とボールペンを手に、和可子は彼にどうこの別れを納得してもらえるかと考えあぐねた。
彼の「老い」にショックを受け、それがどの程度までのものなのか、どこかで見定めなければ安心できない気持から、ふた月も引きのばしてしまったのだが、和可子はこの夏のうちに身辺の整理をしてしまうつもりでいたのだった。
この数年間、和可子には恋人と呼べる相手はいなかった。
そのかわりに何人もの男たちがいた。
佐村にしてもその中のひとりでしかない。
複数の男との関係は和可子の投げやりな私生活がまねいた結果だった。
どこにでもある、けれど和可子にしては、かなりの打撃だった失恋は、息をするにもつらさを感じるような月日がすぎたあと、異性を見る目を、まるで違ったものにしてしまっていた。
それは愛情の対象ではなかった。
気晴しであり、退屈しのぎであり、ひまつぶしであり、寂しさしのぎとなっていた。
よほど生理的に受けつけない相手をのぞいて、和可子は気軽に誘いに応じたし、気軽にこちらから声をかけもした。
もてる、もてないという話以前の、もっと低級なレベルでの男女の接近は、プライドや見栄をすて去ってみると、予想外に簡単なことだった。
和可子のように異性をとらえている男たちが、信じられないくらいたくさんいた。
考えてみれば当然だった。
風俗営業の店やセックス産業を支えているのは、そうしたものを必要とする男たちがいるからこそであり、そこに金銭も愛情もからませずに、ひらたくいえば、もっと安あがりに相手になってくれる女は、かれらにとっては願ってもないことである。
事実、和可子は、ベッドを共にした男たちから何も要求しなかった。
そのことを、むしろ薄気味悪がって二度と逢《あ》おうとはしない男もいたし、いっそう関心をいだく男もいた。たとえ、ゆきずりの関係でも相性のよい男もいたし、和可子に愛情めかした言葉をささやきはじめた男もいた。
だが和可子にとって、所詮《しよせん》、男たちは、単調な会社勤めの生活に、いっとき彩りをそえてくれる存在にすぎなかった。
疲れは昨年の暮あたりから徐々に感じはじめていた。
だれも愛せないというむなしさが、いつのまにかホコリのように積みあげられ、そのホコリは和可子の内側にもうずたかくたまっていて、いくら深呼吸をくり返しても、ホコリは和可子の内と外をただでたり入ったりするだけだった。
ルーズで投げやりで何人もの男たちとかかわる生活も、馴《な》れてしまえば、また別な退屈さをうみだしてくる。
その退屈さからもホコリは生じてきた。
今年の春、和可子はあらためて現在の自分の身辺にいる男たちをかぞえあげていってみた。
思っていた以上の人数だった。
ひと月かふた月にいっぺん逢うぐらいの男たちなのに、それが一年、二年とながくつづいている。
結婚、を理由にすることにした。
逢う男ごとに、それを口にし、別れを告げた。
どの男も物わかりよく了承し、いざこざにまでは進展しなかった。
和可子がかれらのだれひとりとして愛情を持たなかったと同様に、かれらのだれひとりとして和可子を愛してはいなかったことが、痛快なくらい立証された。
男たちすべてと話をつけ、きれいに別れ、そして最後に残ったひとりが佐村である。
佐村は、男たちの中では「最レギュラー」といえた。
かかわった年数では佐村より長い相手もいたけれど、和可子に電話をかけてきて逢った回数は彼がもっとも多かった。
ダブルベッドの上では佐村が安らかな寝息を立てていた。
和可子は自分の迷いを滑稽《こつけい》に感じた。
他の男たちにそうしたように、メモ用紙には、結婚する、とだけ書けば事たりる。それがへんにためらわれて仕方がなかった。
佐村の「老い」のきざしを、この目で見てしまったからかもしれない。
「老い」にむけて進んでゆくしかない相手に、嘘とはいえ「結婚」の文字をつきつけるのは、じつに酷なようで、良心が奇妙に痛む。
しかし佐村自身は、自分の変化を意識していないのだから、和可子がそこまで気をまわす必要はなかった。
あれは偶然でしかない、和可子はそう自分に言いふくめる。
佐村と逢った八月のあの夜、和可子はその日かぎりで彼との関係を清算するつもりでいた。もちろん結婚を口実にする。
ところが、佐村の、たった水割り二杯の酩酊《めいてい》ぶりにでくわし、話をきりだせなくなってしまった。そのままきょうまでふた月もすぎている。
和可子は気持がさだまらない状態で部屋の中を見わたした。
ベッドカバーのベージュを基調色にして、クリーム色の壁紙、濃い緑の別珍を張った肘掛《ひじか》け椅子、クリーム色のカーテンなど、上品に、居心地よい配色だった。
思い返してみると、佐村はこの一年半、和可子を、いわゆるラブホテルにつれて行ったことがなかった。つねに街中のサービスのゆきとどいたホテルを予約し、ホテル内の飲食店を利用する場合も、周囲をうかがう素振りや小心さを示したことはない。いつも自然体で、それでいて堂々としていた。
恋人と思っていたのだろうか、和可子は今になってはじめて疑問がわいてきた。
もちろん佐村は、和可子の男性関係は知らない。どの男にもそれは黙っているのがルールだろうと、それらしきほのめかしさえ避けていた。
しかし和可子は佐村を恋人とは思ってもいなかった。だいいち特別な感情さえ持ったことがない。加えて、相手が自分をどう思っているのか、いちいちたずねもしないできた。
かかわっていた男たちは、その大半がラブホテルかモーテルを利用した。金銭的な余裕がある、なしにかかわらず、和可子をつれて行く所はそこだと、あたまから疑いもせずに決めつけているらしかった。
佐村みたいに一貫して、こうして街中のホテルに案内する男は、おそらくほかにはいなかったはずである。
もし彼が恋人と見なしていたのなら、結婚という言葉は、あきらかに傷つけてしまうに違いない。
しばらく思案してから、和可子はボールペンを握り直した。
「静かに暮らしたくなりました」
紙片に書いた文字を読み返す。
気持はその通りだった。
だが、何か物足りない。
佐村にではなく、自分にむけて和可子は書き加えてみる。
「乱れた生活に疲れました。三十三歳にもなって」
そこまでつづけて、ふいにうつろさが胸に広がった。
そう、三十三にもなったのに、私は何をしているのだろう。
結婚への切実な望みは、いつのまにか、きれいに消えはてている。
おびただしい男たちとつきあってきたこの数年間は、むなしさを確認するだけだった。
一体どうして、あんな生活が送れたのだろう。
自分をどんどん安売りして、私はその先に何を見ようとしていたのか。
いや、もしかすると「何もない」このことを身体の芯《しん》までしみわたらせたくて、ああした日々を必要としていたのかもしれない。
何もない、そう見すえてしまったなら、意外とおだやかな心境になって、あるがままを受け入れ、もう若くはない自分の齢にさえもわずらわされず、ゆっくりと生きてゆけると考えたのだろうか。
それは精一杯、愛し抜いたと言いきれる恋人に去られたときから、その痛手から立ち直る唯一の手段として、ひそかに心の中で育ててきた知恵だった……。
和可子はメモ用紙から顔をあげ、佐村の寝姿へ視線をむけた。
彼の「老い」の前兆がどの程度か、見定めて安心したかったのは本当だった。
だが心の奥では、その「老い」のあらわれ方に魅せられていたような気もする。
半分はいまいましく嫌悪しながら、あとの半分は見ていたかった[#「見ていたかった」に傍点]のだ。
彼が自覚しないかぎり、佐村には「老い」はない。
むしろ、それは和可子にある。
たった二杯のウイスキーの水割りに、たちまちに理性を失って、しつこく、くどくどしゃべりちらす佐村の「お守り」をしながら、和可子は、これから歩みだしはじめようとしている自分の「何もない」人生のゆきつく先を、あらかじめ予習していたに違いない。
そして、何十年かたったそのとき、自分には「お守り」はひとりもいないのだ、と自分に何回となく言い聞かせるために。そうした生き方を選ぼうとしている自分のために。
いくつかの文字のつらなったメモ用紙を破り取り、まるめてクズ箱にすてると、和可子は、ふたたびボールペンを持ちかえた。
「しばらくは」と書いて、次の言葉の選択に迷う。
正直な気持からすると「仮死」とつづけたかった。
しかし、この言葉はあざとすぎ、いかにも大仰で気恥かしい。
ダブルベッドのほうへちらりと目を走らせてから、ボールペンを走らせる。
「しばらくは仮睡《かみん》していたいと思います。静かに、おとなしく。今、あなたが広いベッドの上で安らかな寝息を立てているように」
バスルームで軽く化粧を直してでてくると、ベッドの上に佐村が起きあがっていた。
その手には、ついさっきサイドテーブルに置いたメモ用紙が握られ、和可子をうろたえさせた。
佐村の熟睡ぶりからすると、彼が目ざめないうちに部屋をあとにできるだろうと考えていたのだった。
そして、時間を見はからって、そとからここに電話をかけ、佐村に帰宅をうながすつもりでいた。
佐村は不審なまなざしで和可子とメモ用紙を交互に眺めた。
「どういう意味なのかな。抽象的でさっぱりわからない」
和可子はあいまいな笑いを口もとにきざむ。
「その仮眠を冬眠と変えても意味は同じです」
「とうみん?」
「ええ。冬になると熊が冬眠する、あの冬眠です」
佐村はメモ用紙に目を移す。しばらく無言で見つめ入っている。
「要するに」
佐村は眉《まゆ》を寄せた。
「……別れたい、そういうことか」
和可子は答えない。それが返答になるだろう。
「俺には何を言う資格もない」
苦々しさをかみしめている口調だった。
「ただひとつだけ教えてほしい。結婚するのか、恋人ができたのか、その理由だけは」
和可子は口ごもる。
いつわりであっても、そのどちらかを理由にしたほうが佐村の気持としては納得するのかもしれない。
あるいは沈黙を守り通すのを、佐村の本心は願っているのだろうか。
立ちつくしている和可子に、佐村はとにかく椅子にすわるように言った。
「誤解しないでもらいたい。俺は、結婚するにしろ、恋人ができたにしろ、それが真実なら心から祝福する」
佐村の顔にかすかなゆがみが生じた。
「ただ以前のような生活にもどりたい、俺ひとりに縛られたくないという理由からでは、きみを手放すわけにはいかない」
一瞬、彼が何を言っているのか、理解ができなかった。
いぶかしみながら見返す和可子の視線を避けるように、佐村はベランダに目をむけた。
そして、つぶやくようにスナック「K」の名前を口にした。
和可子の表情が固くなる。
ススキノにあるスナック「K」は、一時期ひんぱんに通っていた店だった。そこにやってくる客たちの何人かと和可子は関係を持ち、やがてなんとはなしに足が遠のいた。
「俺が聞いたのはそのスナックからじゃない。ほかの店でだ。ただその店にスナックK≠フ常連だったという男がきていて、奇妙な女の話をしたことがあった。姿、恰好《かつこう》、すべてきみによく似ているので、俺はびっくりしてしまったよ。しかし、とても信じられない。俺の知っているきみは、あの男が言っていたような女じゃないからね」
「その男性は、その奇妙な女をどう言っていたのですか」
和可子の声は平静だった。
もう、あの生活は終っている。だれがどんなふうに噂しようとも平気だった。
いや、最初から噂されるのは覚悟していた。自分など、もうどうなってもいいという捨てばちな気持だったからこそ、ああいう行動ができたのだった。
「その男の言った言葉など、俺は口にしたくもない。そうだな、その話を聞いたのは、半年ぐらい前だった」
和可子は冷淡に言い放つ。
「それであなたはこの半年間、私を観察していたのですか」
「いや」
すばやい答えだった。
「俺はきみを信じていた。もし仮にきみが実際そういう生活を送っていた時期があったとしても、きっと事情があったのだろう、そう思っていた。今でもな」
さらに佐村はこの一年半、和可子には自分以外の男はいないと信じていたのだろう。信じようとしたに違いない。
佐村はお人好《ひとよ》しだった。無類のお人好し……胸の中であざけりながら、和可子は、それとはまったく反対の感情にとらわれてもいた。
あの「老い」の前兆が、佐村をそこまで寛大にさせたのだろうか、それとも、他人とのいさかいを怖れるぐらいにおだやかで、お人好しだからこそ、まだ五十五歳の若さで「老い」までも呼びこんでしまったのか。
ふいに哀しさがこみあげてきた。
佐村の善良さが哀しかった。
「和可子、しつこいようだが、私と別れようとする本当の理由は何なのだ?」
「そのメモの通りです。静かに暮らしたいだけ。これまでのいっさいを忘れて……」
「俺といると静かではないのか。俺はじゃま者かな」
寂しげなその口調と共に、佐村の表情は急に十歳もふけこんだようだった。
二杯の水割りが「老い」を誘いだすだけではなく、彼の「老い」はもっと深いところで着実に進んでいるのかもしれない、そう思わせる力ない顔つきに、和可子はドキリとした。
佐村の目が哀願するようなそれに変わりはじめた。
じゃまではなかった。
一緒にまどろみの中を漂う相手として、彼はいちばん最適かもしれない。「老い」がすべてをあいまいに、ゆるやかにぼかしつづけてくれるのなら、今の和可子が必要としているのは、まさしくそれだった。
「お守り」をするのではなく、共に「仮睡」の中にいる、そう考えれば苛立《いらだ》つこともない。
これから佐村と逢《あ》うのは、ホテルではなく、和可子のひとり住まいのマンションの部屋のほうが、何かと便利だった。
二杯の水割りが引きだす彼の「老い」も、ホテルとは違って人目を気にしなくてもすむ。
和可子は言っていた。
「今度はいつお逢いできますか」
そのとたん佐村の表情は五十五歳の男のそれに変わっていた。
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グレーの選択
あなたとお別れしてから、ひと月がすぎようとしています。
この手紙をあなたの勤務先にお送りするのは、あなたの奥さまの目にふれることを怖れて、このようにしました。
いま私はロスアンジェルスにいます。
あなたにさようならを言った翌日に札幌を発《た》ち、その日のうちに成田空港をはなれたのです。
「夫」とは一緒ではありません。
私はあなたに嘘をついていました。それもほぼ三ヵ月にわたって。
私があなたに三ヵ月のあいだ話してきた「縁談」も「相手は妻を亡くした五十代の男性」も「内輪だけの挙式」も、すべてでたらめだったのです。
それは、ひとえにあなたを傷つけたくなく(結果は同じことになりますが)、少しずつあなたにあきらめてもらい、心の準備をし、そして、しぜんと私との別れを受け入れるようになってもらいたかったからでした。
このように申しあげると、多分、あなたはおっしゃるでしょう。
「よくも平気で三ヵ月間もぼくをだませた」
平気ではありませんでした。
三ヵ月間、私は何回となくあなたに白状しそうになりました。すべてが私の創作なのだ、と。
そのたびに自問自答をくり返したものです。
あなたを本当に愛しているのなら、どの方法を取るのがいちばんなのだろう。
できるなら、私は別れたくありませんでした。
でも、私は三十四歳です。二十歳の女性のように自分の気持に忠実につっ走るには、さまざまな人間模様や人生の断片をかいま見てきました。
あなたは私と同じ年ですけれど、あなたは私よりもっとそのへんのところは、おわかりだと思います。
人生は白と黒にきっぱりと区分けはできない、グレーの濃淡のようなものだ、と。
このことを頭で理解していても、しかし皮肉ですね。私たちは、こと自分たちの関係においては、いつのまにか白か黒かの選択を自分自身に迫っていたのですから。
ひとは恋愛をすると実際の年齢を忘れ、たちまちに中学生か高校生にまいもどってしまうのでしょうか……。
ここロスアンジェルスでは、友人宅に居候しています。
学生時代の女友だちがアメリカの男性と結婚し、前々から遊びにくるように誘われていたので、今回思いきって甘えさせてもらいました。
あさってはニューヨークに発ちます。やはり知人がいて、ルームメイトがアパートの部屋からでていったため、ひと部屋空いているからこないか、という手紙が数日前にとどいたのです。
ニューヨークにもひと月ほど滞在するつもりですが、まだはっきりとは決めてません。
そして帰国後、私は札幌ではなく他の街に住むことになるでしょう。新しい就職先のめどもおおよそついていますし、それもこれも札幌を発つ前にあわただしいながらに準備しておいたのです。
アメリカにきても、あなたと別れた、すさまじいばかりのつらさは、いっこうに薄れません。
心臓にほんの小さな穴が生じ、そこから絶えまなく細い細い血が流れでているような感じです。
私のほうから別れを決めたはずなのに、なんともだらしのない状態で、自分でもあきれはてています。
あなたは、いくらか立ち直って下さいましたか。それが気がかりでなりません。
かかわっていた二年間、私たちはたくさんのおしゃべりをしました。ふたりともそれほど多弁な人間ではなかったはずなのに、一緒にいるときの私たちは、なんとおしゃべりだったのでしょう。
それでもまだ話したりなかったような気がしてなりません。この手紙はその不足をおぎないたい気持から書きはじめました。同時にあなたへの想いを整理し、少しでもあなたを忘れるための手段として。
二年前の夏の高校の同期会で、卒業以来はじめてあなたにお会いしたときのなつかしさとうれしさは、いまでも鮮明におぼえています。
三十歳をすぎ、同期生のなかには、いちじるしく体型の変わったひとびとも多く、高校時代の面影など、どこにも見当らないひともいて、私はとまどいつづけていたものです。
ところがあなたは十数年前とちっとも変わりなく、私をびっくりさせました。多少の変化は骨格がややたくましくなられたことでしたが、それにしても、いかついとまではいきません。
Kホテルのパーティー会場であなたの姿に気づいた私は胸が高鳴りました。
あなたの麻のグレーのブレザーを遠くから眺めながら、私は近づいてゆく勇気もなく、ウィスキーの薄い水割りのグラスを手に、その場にたたずんでいたのです。目でしつこくあなたの姿を追いながら。
それは、まるで高校生の頃を再現したような状態でした。
私は高校の三年間、いえ、大学生になってからも、ずっとあなたを想っていました。
初恋と呼ぶには深すぎて強すぎる想いであり、恋愛感情というには、あまりにも性的な部分が欠落していたと思います。
そして淡い恋心からスタートしたそれは、二年もたつと、いつのまにか揺るぎのない愛に育っていったのも事実です。
高校に入学した日、同じクラスの私の隣りの席だったのがあなたでした。落ち着いた物腰と口調、相手を見るときの、なんともいいようのないやさしいまなざしに私はどぎまぎさせられたのを記憶しています。
あなたのそのまなざしは、だれに対しても同じでした。いつくしむように見るのです。自分と同年齢のあなたが、そんなにも他人にむけてやさしい視線でいられることが、私には不思議でたまらなかったのをおぼえています。
日がたつにつれ、あなたの数学の成績が抜群なのが、だれの目にもあきらかになってきました。ある日、私があなたに数学の宿題のことでたずねたのが、口をきくきっかけになり、それから私たちは親しいクラスメートになったのです。
あなたに数学を教えてもらうお返しに、私は次々と本を貸しました。現代国語は苦手というあなたに「参考書と思って」と、外国文学全集のなかでも読みやすく、おもしろそうな本を選んで週に二、三冊ずつ手わたしたのでした。
しばらくすると、下校時にあなたが玄関のすみでそれとなく私を待っていてくれるようになったのです。言葉で約束したのでもなく、私が待つ場合もあり、バス停までただ黙々と肩を並べて歩くだけの時間……。
二年生になりクラス替えになるまで、私たちのこうした、つかみどころのない交際はつづきました。噂にならないぐらい、私たちの交流はひっそりと、またある意味では巧みだったわけです。でも、つきあっている、という感覚は私にはありませんでした。というより私は自分に自信がなく、同期生のなかでもトップクラスにいて、女生徒にも人気のあったあなたが、私をまともに相手にしてくれているとは思ってもみなかったのです。
案の定、二年生になってほどなく、「スピーカー」というニックネームのおしゃべりな男生徒が、あなたが同じクラスのある女生徒に関心を持っていると、いろんな所でふれまわりました。やっぱり、と私は納得と落胆を同時に味わったのです。でも、その頃の私はすでに心のなかにあなただけを棲《す》まわせ、他のひとが入りこむすきのない状態におちいっていました。校庭で、廊下で、あなたの姿を遠くから見つめて、ひっそりと満足している、そんな高校生の私だったのです。
二年前の同期会であなたに再会し、私は当時のことを、あざやかによみがえらせました。
ぼんやりとつっ立っている私に気づき、あなたはまっすぐ近づいてきたのです。あの、いつくしむような、やさしいまなざし、そこに、ほんの少しまぶしいものを見るような色をこめて。
「きみに会えると期待してきた」と、あなたは言ってくれました。
「よく本を貸してもらったね」とも。
あなたが東京の大学に進み、そのまま東京の大手企業に就職したことは知ってましたが、この春から札幌支社に転勤してきたとは、そのときはじめて知ったのです。二年前に結婚し、子供はいないといったことも。
同期会を境にして、私たちは月に一、二回会うようになりました。
ふたりともよこしまな気持はまるでなかったはずです。あなたには奥さまがいらしたし、私にも恋人に近い男性がいました。
旧交をなつかしむ、この言葉がそっくり当てはまる、うしろめたさのないおつきあいです。
会うたびに、私たちは高校をでてからのこれまでのそれぞれの出来事を語りあいました。十数年の空白をそうやって埋めていったのです。
三十二歳の私は、もはや純心|無垢《むく》な十五歳の高校生ではありません。私は打ち明けずにはいられなかったのです。あなたを好きだったことを、思い出をこめて。
「ありがとう。うれしいよ」
そうあなたは素直に反応し、当時の自分はだれとも深くつきあうことをみずから禁じていたのだ、と言いました。
その日あなたはようやくその理由を話してくれたのです。
あなたが十三歳のとき、七つ上のお兄さんが自殺なさったこと、だからあなたも二十歳になるのを怖れつづけていた。自分も兄のようになるのではないか、と。
お兄さんの自殺はその前兆らしきものが何もなかったことが、余計あなたをおびえさせていました。
高校生のあなたはお兄さんの死を胸に秘め、同時に交友関係を極端にせばめるよう意図的にそうしていたのです。
お兄さんの死について語ってから、次にあなたはもっと淡々とした口調で言いました。
「二十歳をすぎたとき、ほっとしたよ。これで兄貴のようにならずにすんだ。しかし、ひどいよな、おれが二十三になった年にこんどはおやじが自殺したんだから。六十歳でね。きっとおやじは兄貴の自殺のショックを十年間たえているのが精一杯だったのだろうな」
いまは六十になるのが怖ろしい、とあなたはうつろに笑いながら言いました。
職場結婚された奥さまには、このふたりの死は病死ということにしている、また、自分は子供を持てない体だ、とも打ち明け、それを承知で結婚した、と私に話してくれたあなたは、とてもつらそうでした。
「結婚前にパイプ・カットをした新郎なんて、信じられないだろう? しかし、女のひとはやっぱり子供がほしいらしいな。うちの家内も最近になって養子を望みだしてね。いまさら真相を話すわけにもいかず、まいってるよ」
私たちの関係が友だち以上に進展しはじめたのは、この会話のあとからではなかったでしょうか。
あなたは自分の心の秘密をさらけだせる相手をようやく見つけ、私は、といえば、あなたの哀しさや苦しみ、癒《いや》しようのない孤独感が気の毒でならなかったのです。
自分の気持を洗いざらいしゃべったあなたは、これがくせになった、と苦笑しながら、ひんぱんに私の部屋に電話をかけてくるようになりました。
あなたの話を聞き、けっして非難したり、やりこめたりせず、ひたすら慰めと励まし役に徹するのが私のつとめだったのです。
苦痛ではありませんでした。
むしろ、かつて深く想っていたあなたが、十数年たって、ようやく私を必要としてくれているのが、このうえない喜びだったのです。そして、あなたが私と会話したあとの、あのつかのま解放されたような晴れやかな表情になるのを目のあたりにする瞬間、私もまたかぎりない充実感にひたりました。
おしゃべりするだけの間柄が半年つづき、真冬のあの晩、あなたがタクシーで私をマンションまで送ってきてくれ、部屋に立ち寄ったのがまちがいだったのかもしれません。
いえ、そうではなく、私たちはどちらも、いずれそうなることがわかっていたはずです。
私たちはあまりにもたくさん話しすぎ、言葉での愛撫《あいぶ》はもう十分になされ、あとは体での確認をしなくてはならないほどに、その関係は熟しきっていたと思います。
どちらが誘ったか、正直なところ、私はいまだに思い出せません。そのぐらい、なめらかに私たちはベッドのなかに入っていたのです。
おぼえていますでしょうか。
はじめて抱きあったあと、私たちはたがいに呆然《ぼうぜん》としましたね。あまりの完璧《かんぺき》な一体感、それがもたらした快楽のはてしない深さ。
そのときだけではありませんでした。
私たちのセックスは、いつも激しいめまいのように私たちをおそい、忘我の状態を長びかせました。
おそらく私たちをあれほどまで燃え立たせたのは「死の恐怖」だったに違いありません。
あなたは自分の死への衝動を怖れ、私は死にのみこまれてゆくかもしれないあなたを怖れました。死にたくはないあなたと、あなたを死なせたくない私と、その思いの一致が、あれほどまでの快楽を引きだしてきたのでしょう。
そして体がもたらす快楽はいっそうあなたを解放させ、ベッドをともにしたあと、裸のままであなたはさらに打ちとけて、私を相手にしゃべりつづけたものでした。
同期会から一年半がすぎた頃、あなたは思いつめた顔つきで、奥さまとの別居を考えている、と私に告げました。当時、私たちは週に二回、ときには三回会うようになっていたものです。
「時間がないんだ。札幌支社にいるのはだいたい三年と決まっている。転勤になる前にきみとの関係を少しでも固めておきたいんだ。それに、いつおれが兄貴やおやじのようにならないともかぎらない。きみと一緒にいれる時間がいつまでなのか、それを考えると焦ってくる」
うれしい言葉でした。
そこまで私を愛してくれている証拠ですから。
でも私はあなたのその気持をそそのかすようなことはするまい、とひそかに決めました。
奥さまの立場を想像してしまったのです。
あなたのお兄さんやお父さんの死の事実も知らされず、子が持てないと承知の上で結婚した奥さまは、それだけあなたを愛しているのでしょう。なのに、ここにきて別居を一方的につきつけるのは、ひどすぎるように思いました。
「焦らないで。いそがないで」
私に言えるのはこれだけだったのです。
それに、あなたは自分がお兄さんやお父さんのようになるかもしれないとおびえていましたが、この一年半かかわってきて、私は大丈夫だという気がしていました。
あなたの言動にはエキセントリックなところはひとつもなく、ごく正常な神経の持ち主としか見えません。
自分のうちにひそんでいるかもしれない狂気に日々おののいているあなたとくらべ、自分はまともと信じこんでいるひとのなかに、その正常さを疑いたくなるような人物が、私のまわりにも結構いたからです。
「きみを失いたくない」
あなたはそうも言ってくれました。
「この先どうなるかわからないおれを、すべて知ったうえで受けとめてくれる相手はきみしかいないだろう」
奥さまか私か、あなたは口で言っているよりももっと深刻にひとりで悩んでいました。といっても、それはあとになって判明したことで、その頃の私はあなたの深刻さの程度を推し測れなかったのです。
別居の件はどうなったのか、あなたはついに教えてくれませんでした。
でもこれは私の勝手な臆測《おくそく》ですけれど、あなたは奥さまに切りだせなかったのではないでしょうか。
冷静に考えたとき、あなたは自分がしようとしていることが、どれだけ奥さまにとって残酷か、痛感したはずです。子供がうめなくても、あなたとの結婚を望んだ奥さまの、そのひたむきな想いも思い出されたに違いありません。
そんなあなたを、妻と愛人を上手に操作している「ずるい男」と一言のもとに決めつけるひともいるでしょう。
でも私は自分の身近にいるひとを、いとも簡単に容赦なく切り捨てられるひとのほうが信用できません。
あなたが悩んでいた頃、私はいつもこう言ってました。
「私はこのままでいいの、このままの関係で」
物分りのよいこの言葉の裏側には、じつはさまざまな感情がかくされていたのです。
私もまたあなたを独占したい欲望に苦しめられ、しかし、それを言ったなら、さらにあなたの気持を追いつめてしまいます。奥さまへの申しわけない思いと同時に、恨まれたくないという都合のよい逃げの姿勢。もっと本心をいうなら、この言葉こそ、あなたを自分のもとに引きとめておく最上の手段だ、という計算も働いていたのです。
その反対に「私のこと、どうするつもり?」と迫ったなら、相手は興醒《きようざ》めして、どうにかしてはなれてゆこうとするでしょう。
あなたのことを言っているのではありません。大部分の男性の心理はそうだろうと想像するからです。三十代も前半の私にはそのへんの機微は少しはわかっているつもりでした。あなたがはじめての恋愛の相手でもありませんでしたし、それなりに、にがい経験もへてきたのですから。
でも、あの当時、私は本心をむきだしにして、「奥さまか私のどちらを選ぶの?」と、あなたにしつこくつめ寄り、とことん食いさがり、うんざりさせ、あなたの私への愛情がさめるようにもってゆくべきだった、そういまになって悔いてます。それからあとのあなたの変化が予知できていたのなら、むりにでもそのようにすべきでした。
あなたが殺気立った普通ではない目つきをするようになったのは、別居うんぬんを口にしてから二ヵ月後だったと記憶します。
きっとあなたは意識していなかったでしょう。
私は何回となくその目に出会い、一瞬、背すじにうそ寒さをおぼえたものです。
その目には怒りと憎悪と何かにむけて燃えさかってゆこうとする冷たい炎が、ほとばしっていました。
最初、私はその目は自分にそそがれているのか、とたじろぎましたが、やがて、そうではないことは、あなたのいつもどおりのやさしい口調から納得したのです。
では奥さまに対してなのかもしれないとも考え、あなたの言動を注意深く観察しました。けれど言葉の端々からは、まるでそういった感情はくみ取れないのです。
そのうちあなたは自分を罵倒《ばとう》する、口汚ない台詞《せりふ》を言いちらすようになり、そして、私はようやく気づきました。
あなたの普通ではない目つきは、あなた自身にむけられているものなのだ、と。
あなたは、奥さまと私のあいだに立ち、いくら苦しみ悩んでも、どちらか一方を選ぶことのできない自分を激しく憎んでいたのです。
その反面では、奥さまと私への自責の念にさいなまれ、それはまたいっそう自分を憎む方向へあなたを追いやるという悪循環でした。
「こんな男なんていないほうがましなんだ」
「だらしない人間だな、おれは」
「こういうおれの優柔不断さを、きみはしっかりおぼえておいてくれ。こういう男だということを」
高校一年のときに、私をどぎまぎさせた、相手をいつくしみ、つつみこむようなまなざしは、もはやありませんでした。
自分を徹底して憎悪し、自分の言葉で自分の心を切り刻んでゆこうとしているあなたがそこにいるのです。
私がいくら慰めても、あなたは耳を貸しません。自分を否定する世界にどんどん入りこみ、そこからあなたを引きもどそうとする私の手を、かろうじて弱々しく握り返してくるだけなのです。
あなたと会わない夜、私は泣きました。
このままでは、あなたもお兄さんやお父さんと同じ結末を迎えるのではないかという切迫した不安と怖れ。
おたがいに愛しあっているのに、どうしようもない状態におちいり、私は自分の力ではあなたを救いあげられないという現実のむごさ。
そして、ここまできびしく自分と対峙《たいじ》し、狂気すらまねきかねない、あなたの誠実さに、私はあらためて強い愛情を持ちました。
涙を流す夜を何回となく重ねてゆくうちに、私がしなくてはならないたったひとつのことに気づきました。
あなたから、あの目を失くすことです。
みずから死になだれこんでゆくかもしれないあなたをとめることです。
自分の力だけであなたを救えない私は、架空の人物を創りあげました。
それが「五十代の妻を亡くした男性との縁談」だったのです。
「……じつはこういうお話を持ちかけられて」
遠慮がちにこう私が切りだしたとき、あなたはおびえた子供の目になりました。
「待ってくれ。その縁談はどこまで話が進んでいるんだ? 煮えきらないおれが言えることではないが……」
「お願い、最後まで聞いて」
私はおだやかさを心がけました。
目的はあなたを刺激し、奥さまか私かを選択させるのではなく、あなたが家庭に帰ってくれることだったからです。
あなたは奥さまをけっして嫌ってはいません。
たまたま私とこうなってしまったために苦悩しているだけで、私がいなくなれば、奥さまと元どおりの生活を円満に送れるはずなのです。いくらかぎくしゃくした夫婦関係も、月日とともに修復できるでしょう。
私の縁談にあなたは二ヵ月近く動揺しました。
「おれに言える資格はないが……」
うつむきながらそう前置きして、それとなく私に思いとどまってくれるよう言葉少なに頼みこんでくるあなたを前にして、私は目頭が熱くなったものです。すべて嘘なの、何回となく叫びたくなりました。
「その縁談のこと、おれにもしばらく考えさせてくれないか」
私たちは数回それについて話しあいました。つねにおだやかに、たがいをいたわる気持を忘れずに。
縁談を検討[#「検討」に傍点]しあうことは、ひいては私たちのこの二年間の関係を冷静に、反芻《はんすう》することでもありました。
話しあいをするほどに、あなたの目から殺気が消え、やがて、あの普通ではない目つきは見事に消えていったのです。
それが目的だったはずなのに、あなた本来の落ち着いたまなざししか見られなくなった私は、哀しく淋《さび》しい思いにとらわれました。
「おれはきみを縛ることはできない」
あなたがつらそうにつぶやいたその瞬間に、私たちの別れは決定的になったのです。
私は胸のなかで涙をこぼしました。
そして、ほほえみを浮かべながら、必死な願いをこめて言わずにはいられなかった。
「挙式まではこのままつきあっていて。もちろん性的な関係はなしで。ごめんなさい、わがまま言って」
「きみの夫になるひとに悪いよ、それは」
「だから、うしろめたいことは、いっさいなしにして。ね、いいでしょう?」
いつくしみのまなざしで、あなたはしばらくじっと私を見つめ、数秒後には黙ってうなずいてくれました。
挙式までのひと月のあいだ、私はあなたに問われるままに夫になる男性について断片的に語り、その裏ではあわただしく身辺整理をし、アメリカに発《た》つ手配をし、帰国後の身の振り方を何人ものひとに相談していたのです。睡眠時間をけずってでも、そんなふうに忙しく動きまわっていたのは、ひとえに、あなたと別れる哀しさとやり切れなさをまぎらわせるためでした。
それをあなたは誤解して言いました。
「結婚するとなると、やはり張り切るものなんだな。きみのそういう一面、おれは気づかなかった」
「私だって女ですもの、こう見えてもね」
軽口をたたきながら、私はいそいであなたに背をむけました。抑えていたものが音を立てて破れ、突然に泣きそうになったのです。
千歳《ちとせ》空港を発つとき、見送りはだれもいませんでした。
搭乗まぎわになり、私はたまらなくなってあなたの勤務先に電話をしたのです。ただ、あなたの声が聞きたくて。
「幸せになってくれ。二年間ありがとう。感謝している」
トイレに駈《か》けこみ、私は声を押しころして泣きました。
この手紙で「縁談」が嘘だったと告白しましたが、もうひとつ、私は大きな嘘をついたようです。
あなたが殺気立った普通ではない目をするようになった頃、私はあくどい考えに取りつかれたことを白状します。
私はあなたを自分だけのものにしたかった。所有欲は相当に高まっていたのです。
このままあなたをほうっておくと、あなたのお父さんやお兄さんのようになる、これは確信していました。
あなたがそうなるのも悪くはない、と考えたのです。
私はあなたをいたわるふうを装いながら、実際は言葉巧みに自殺をそそのかしてゆく。
ただし、その場所は私の部屋であり、第一発見者が私であり、自殺の手段も回復可能なものでなくてはなりません。
自殺未遂をしたあなたのことは、会社にも奥さまにもすぐに伝わり、同時に私の存在もあかるみにでてしまいます。
再起したとしても、会社は要注意人物として、あなたを冷遇しだすはずです。
奥さまは離婚を言いだすかもしれません。
会社にも居づらくなり、奥さまからも見はなされたあなたは、私のところへくるしかないでしょう。
そして私は多少の神経障害を起こしているかもしれないあなたをまるごと受けとめ、あなたをようやくひとり占めした喜びをしんそこからかみしめる……。
現実には、私はこれとは正反対の行動を取ってしまいました。
理由はあなたを愛していたからです。
人生の敗残者にはどうしてもさせられなかったためです。
数学のよくできる、学年でもトップクラスにいた高校生のあなたの姿をくり返し思い浮かべました。二十歳になるのを怖れて、友だちを作ることさえ自分に禁じていた十代のあなたです。
そして現在は六十歳という二十六年も先の自分を怖れているあなたがいます。
あなたはけっして口にしなかったけれど、殺気立った目になっていた頃、自分のうちの狂気を自覚していたのではないでしょうか。頭のよいあなたが、それをわからないはずがありません。
そのため、あなたは以前よりももっとお父さんの死を意識し、自分の神経のあやうさに自信を失っているのではないでしょうか。
それを想像すると私は胸が痛みます。だれにも語れない、あなたの暗闇を知っているのはこの私だけだからです。
皮肉な話だと思います。
あなたが胸のうちを洗いざらいしゃべれるのは私だけだったのに、私たちの恋愛は、あなたの内側にひそんでいた狂気を引きずりだす結果になったのですから。
約束はできませんが、もし私が五十代になり、健康でいたなら、どんなかたちであろうとも、あなたのそばにもどりたいと漠然と考えています。
そのときは恋愛感情は失くなっているかもしれません。でも、お友だちでいることはできるでしょう? 友だちとしてでも、いろんな話ができる関係になっていたい。
六十歳になったあなたの、たったひとりで死を選んでゆくような、みじめな訃報《ふほう》は聞きたくないからです。
ぜったいに、あなたひとりで死なせたくない、ぜったいに。
そのとき私にふたたび、たくさんのことを心おきなく打ち明けてくれますか。だれにも語れないすべてを。
私たちの関係は一時的に中断しているだけ、この考えは私を慰めます。
夢物語だとあなたは笑うでしょうか。
笑うのでしたなら、高校一年から七年にわたって、あなたを愛しつづけていた昔の私も一緒に笑って下さい。
わき目もふらずに、あなただけを想っていた十五歳から二十二歳までの私を。
初出一覧
「微笑みがえし」 『目醒め』講談社文庫
「捨てる女」   『淋しがり』講談社文庫
「合 鍵」    『かそけき音の』集英社文庫
「乾いた雨」   『淋しがり』講談社文庫
「乙女の祈り」  『聖なる湖』文春文庫
「水にゆらめく」 『恋人よ』文春文庫
「贅沢な部屋」  『かそけき音の』集英社文庫
「仮 睡」    『プワゾン』講談社文庫
「グレーの選択」 『せつない時間』講談社文庫
角川文庫『藤堂志津子 恋愛傑作選』平成14年8月25日初版発行