藤堂志津子
ジョーカー
目 次
ジョーカー・19歳
ジョーカー・27歳
ジョーカー・32歳
ジョーカー・19歳
ふたたび腕をのばして引き寄せようとする有原晋《ありはらしん》から身をかわすと、万穂子《まほこ》はベッドからすべりおりた。
床に散らばっている下着を拾いあげ、ゆっくりと身体《からだ》にはりつけてゆきながら、万穂子は早くひとりになりたかった。
ただ晋《すすむ》を傷つけてはならない。だから、わざとゆるい動きで、身仕度をととのえる。
白のポロシャツに紺のトレーナー、白のコットン・パンツに同色のソックスをはき終えると、万穂子は洗面所にむかった。
手を洗い、晋の使っているブラシを借りて、ショート・カットの髪をなでつける。
顔色が悪かった。ふだんも、けっして血色のよいほうではないけれど、晋とベッドをともにしたあとは、いっそう顔が蒼《あお》ざめてしまう。
鏡を見つめながら、万穂子は、まったく化粧っけのない頬《ほお》を、両手でこする。指先で軽くたたいてもみる。しばらくすると、ようやく薄い赤みをおびてきた。
万穂子は自分の顔立ちが好きではなかった。少なくとも三つ違いの姉の夕利子《ゆりこ》の、きれいな卵形の輪郭に、目も鼻も唇も、花のつぼみを思わせる、あどけなくも愛らしい造作にくらべると、めりはりに欠けた、ぼうっとけむったような容貌《ようぼう》である。
夕利子は母の信子《のぶこ》そっくり、万穂子は両親の欠点ばかり引きついでいると、子供の頃から言われつづけ、十九歳になった今も変らない。
父の達也《たつや》は、そうした万穂子の心中を察してか、いつかふたりきりのときに言ったことがあった。
「夕利子は二十代が花ざかりの目鼻立ちだが、万穂子はとしをとらない顔だ」
顔立ちばかりでなく、ふくらみのない身体《からだ》つきも、万穂子は気にいらなかった。コットン・パンツやジーンズばかり愛用しているのも、ブラウスにスカートといった女らしい服装が、まるで似合わないことを十分に承知しているからだ。
その点では、有原晋に、感謝に近い気持を持っていた。
くわしく聞いたことはないけれど、ともかく晋は自分に関心を持ってくれ、その身体を抱きたがった。
晋とベッドをともにしたのは、これで三回目である。
最初は二月のはじめの猛《もう》吹雪《ふぶき》の夜、やはり、晋の住むこのアパートの部屋だった。それからひと月半がすぎた四月のなかばのきょうまでで、三回というのが、多いのか少ないのか、万穂子には分らない。
晋は、万穂子にとって、その肉体に風通しのよさを与えてくれた最初の異性だった。
いつかくぐらなければならないそれを、万穂子は、できるだけ意味のない形で通過したいと考えていた。
彼はどう思っているのかは知らないけれど、万穂子は、晋に好感はいだいてはいても、愛とか、恋とは見なしていなかった。友だちなのは、確かである。けれど、それ以上でも、それ以下でもない。
晋は、万穂子の大学の同級生で、やさしい男だった。けっして無理強《むりじ》いはしないし、何よりも好ましいのは、話し方がおだやかで、万穂子の耳をおびえさすような荒さがない。
体型にしても、万穂子より十センチぐらい背丈は高いけれど、厚味のない、ひらべったい身体つきは、兄妹のように似ている。
きょうをふくめて三回の性交渉は、晋が遠慮がちに、せがんできた。
万穂子にしても、気乗りがしないとか、いやいやながらではなかった。ひと言で表現するなら、確認、である。
性交渉のたびに、自分の顔が異様に蒼ざめてしまうのが、万穂子には不思議でならなかった。
晋の肌はつねにほどよく暖かく乾いていて、その感触は、夏の陽《ひ》ざしと大地の豊かさをたっぷりと吸いとった草を連想させた。体臭は、ほとんど感じない。そうした生理的嫌悪はまったくないにもかかわらず、晋の肌からはなれた万穂子の顔面は奇妙に強張《こわば》り、死人のようにいっさいの赤味をかき消してしまっていた。
馴《な》れを待つしかないのかもしれなかった。
事後、蒼白《そうはく》になっている万穂子を見ても、晋は何も言わない。多分、彼は、女性の生理とはそういうものなのだろうと、気にもとめていないに違いない。晋にとっても、万穂子は、はじめて接した異性の身体とのことだった。
洗面所を出て1DKの部屋にもどると、晋も服を着終えて、ベッドの乱れを直していた。
床に置いてあった黒いデニムのリュックをとりあげ、万穂子は彼の背にむけて言う。
「晋、私、帰るわ」
彼が振り返る。目もとに不安と淋《さび》しさの入りまじった色が、濃くしみだしてくる。
「今、コーヒー、いれようと思っていたのに。……もう、帰るの」
万穂子は急いで玄関へ進む。
なぜか、晋とベッドをともにするたびに、たがいにそれとは分らない部分で、ひっそりと傷つけあっているように感じられて仕方がなかった。
万穂子の中の「女」が彼のどこかを適確に刺し、晋の中の「男」が、万穂子の何かを斬《き》りきざんでくる――。
友だち関係にとどまっているほうがよかったのかもしれない。それぞれの「女」と「男」を眠らせたまま、親しく、仲良くつきあっていたときの、あの柔らかに見返しあうまなざしが、今のふたりには失われてしまっていた。
「カオルさん、へんなこときいてもいいかしら?」
万穂子は、自分用にと、この店に置いてある白い大きなコーヒー・カップを両掌《りようて》でつつみこみ、カウンターの内側にいるカオルに視線を向けた。
カオルはその視線をはぐらかすことなく、まっすぐに受けとめ、それから手にしていた煙草《たばこ》を深々と吸いこみ、吐き出した。
けむりを追うカオルの目には、つかのまのうつろさが宿り、しかし、ふたたび万穂子を見た表情は、いつもの微笑をたたえていた。この世の中のすべての非は自分にある、そう言いたげな、そして、そのことを強い断念のうちに引き受けてしまっているような、特徴のある微笑だった。微笑のうしろに、たくさんのものを秘めていることも感じさせた。
「またはじまったわね。万穂さんのへんなこときいていい?=Bいいですよ、さあ、言ってごらんなさいな」
「本当にへんなことよ」
「だから、とにかく言ってみたら」
万穂子は伏目がちになる。
「カオルさんが男の人と……そのう、つまり、はじめて性的に関係したときって、どんな感じだったの」
「そうねえ、もう二十年も前のことよねえ」
カオルは三十八歳だった。
細身のすらりとしたプロポーションに、素晴《すばら》しく形の良いバストをしている。彫りの深い目鼻立ちは、四分の一、ドイツ人の血がまじっているとのことだった。
彼女は、万穂子の父の愛人である。
「二十年も前のこと」そう言いながら、カオルは遠くを眺めやるのではなく、透明なマニキュアをほどこした指先を見つめつづける。その姿勢のまま、ひとり言めかして、つぶやいた。
「幸せだったわ。幸せにも、いろんな種類があるけれど、どろどろしたもののない、まっさらな幸せだった……当然その彼との結婚を夢見て、彼の心を疑いもしなかった。望み通り、それから三年後、彼と結婚したわ。すると、そのとたん、私は不幸になっちゃったの」
この話はこれでおしまい、と言外に匂《にお》わせた言葉の切り方に、万穂子もそれ以上追求はしない。冷たくなったコーヒーを飲む。
この店「バグダッド」は喫茶店とバーをかねていた。
開店は午後三時からである。コーヒーや紅茶などのほかに、ピラフやスパゲティの軽食のメニューもあり、午後六時まではカオルひとりでこなしている。客もそう多くはない。
六時になると、店内の照明は仄暗《ほのぐら》くおとされ、一挙にバーの雰囲気に変る。アルバイトの若い女性もふたりやってくる。十二時までの営業だが、ときには明け方近くまでやっていることもあるらしい。定休日は日曜日となっている。
万穂子をこの店につれてきたのは父の達也だった。高校に入学した祝いのプレゼントを買いに街に出かけ、その帰りに立ち寄ったのである。プレゼントの品は時計だった。それは、黒っぽいオリーブ色のメタル・フレームに白くて丸い文字盤、ベルトもオリーブ色の革で作られた時計である。「色もデザインも万穂のイメージだ」と、父はいつにない強引さですすめ、万穂子は、その強引さがうれしかった。強《し》いられる心地よさをかみしめた。
万穂子の一家が住んでいるのは、札幌《さつぽろ》は豊平《とよひら》区の真駒内《まこまない》、「バグダッド」はそれより地下鉄で数駅前の平岸《ひらぎし》駅のそばにあった。大きなひとつの建物に、一階は店舗スペース、二階は住居という間取りが、縦にいくつか仕切られている造りで、「バグダッド」の隣の店は鮨《すし》屋、さらにその横は美容室というふうになっている。
四年前のその春、カオルの話によると、彼女と父の仲は、まだ「遠縁の間柄」にすぎなかったという。何回聞いても、よくのみこめないのだが、父の叔母《おば》の嫁ぎ先の、つまり夫である人の妹のつれあいの……という具合の、まさしく遠い親戚《しんせき》になるらしい。
その叔母の夫の葬儀で、父とカオルは再会した。
「ずっと昔に私と万穂さんのパパは会っているの。私は小学生で、彼は大学生だったわ。あの頃、達也さんはとてもハンサムで、子供心にも見とれたものよ」
カオルに紹介された日、高校生になったばかりの万穂子の彼女への第一印象は、きれいな人、だった。
万穂子の母の信子も美人と評判ではあるけれど、同じ美しさでも、タイプは違っていた。
母は人形のきれいさである。その美しさには、ある年齢に達したとき、いきなり無残なこわれ方をするような、あやうさがひそんでいる。そのあやうさを支えきる知力と、まろやかな性格が、母にはほとんど感じられない。
カオルには、どこか、突き抜けてしまったところがあった。自分の外見には無頓着《むとんちやく》で、それがかえって彼女の魅力に幅と陰翳《いんえい》をもたらせていた。
父とカオルが親密な関係になったのは、自分が高校二年生の冬だろう、万穂子は、確信していた。父の出張がやたらと多くなりはじめたのである。
そして大学生になってほどなく、なにげなくカオルに問いただしてみた。
カオルは驚いた様子もなく、哀《かな》しみの中の余裕とでも名づけたいような、いつもの微笑を浮かべ、耳に心地よいアルトの声で言った。
「やっぱりね。私も万穂さんは気づいていると思っていたわ。私のこと、軽蔑《けいべつ》する? でも達也さんは責めないでほしいの。だってね、万穂さん、強引に誘惑したのは、私のほうからなの」
どう返答すればよいのか、万穂子は口ごもった。
しばらくして、ようやく、たくさんの思いをこめてカオルを見つめた。
「軽蔑なんてしないわ。私、カオルさんのこと大好きだもの」
「ありがとう。うれしいわ。そんなふうに言ってくれるのは万穂さんだけよ」
万穂子もまたカオルのその言い方がうれしかった。母からは、一度としてかけられたことのないニュアンスを持つ言葉であり、表情だった。
現在、父の達也は五十歳、母の信子は四十三歳、カオルは三十八歳だった。
十九歳の万穂子は、父の年齢を思うとき、自分はあと三十一年間もどうやって生きてゆけばいいのだろうと怯《おび》えの感情にとらわれた。今ですら、もう十分に退屈なのに、五十歳までの持ち時間を、いかにしてこなせばいいのか、想像しただけで、胃がだるくなるような疲労感につつまれる。
母の年齢は、理由なく、うとましかった。特に姉の夕利子が、玉の輿《こし》としか言いようのない良縁にめぐまれ、この六月に挙式することに決まってからの母の、はしゃいだ、うわっ調子の言動には、目をそむけたくなる。
何よりも耐えがたいのは、四十三年間の人生を、ひとつの汚点もなかったかのごとく、まるごと肯定し、さらに他人にむけてそのことを臆面《おくめん》もなく誇らしげに口にすることだった。
夫と純粋|無垢《むく》なまま二十歳で結婚したこと、その娘も二十二歳の若さで「先方から望まれて」嫁いでゆくこと、夫は順調にエリート・コースを歩み、義理の息子となる人も、申し分のない肩書が保証されたエリートなことなど、どれもこれも彼女の願い通りになっている。
母は、唯一の汚点からは目をそむけ、無視しつづける。
それは万穂子だった。
万穂子のごく平凡な容貌は、美人の母にとっては、不満だらけの、あまりにもありふれたものであり、母が強くすすめた名門女子大学ではなく私立の共学校へ進学したことも、彼女には気に入らない。また、万穂子の無口さと、それでいて、ときたま口にする言葉の辛辣《しんらつ》さは、母の中の常識をうろたえさせる。
また母は、万穂子を汚点として突きはなしながらも、たえず嫉妬《しつと》していた。それは、夫の達也が妻の自分の言葉よりも、万穂子のひと言ふた言に、素直にうなずくからだった。
カオルの三十八歳という年齢は、とらえきれない。
母親であってもおかしくはないとしでもあり、それでいて話をしていると、ほんの数歳上の女性のように錯覚したり、ときによっては、百年の歳月をくぐり抜けてきたような老成した面をのぞかせたりする。
カオルの存在は、母も夕利子も知らない。
父と共有するその秘密は、万穂子には大切なものだった。
だが、いつであったか、カオルが珍しく冗談めかした物憂《ものう》い調子で言ったことがある。
「万穂さんは、私とあなたのパパにとってはトランプの|切り札《ジヨーカー》みたいな存在ね。こうしてそばにいるのが、ごくしぜんなようでいて、一歩まちがえると味方になるか、敵になるか……もちろん、今の私にはとっても貴重なお友だちよ」
父もカオルも自分を裏切らないでほしい、万穂子はそう切望していた。
どのような行為が裏切りなのか、それは漠然としていたけれど、そのときを怖《おそ》れる気持は、日ごとに濃くなってゆく。
今年の二月、父は出張で一週間、家を留守にした。父が出張に発《た》った日、万穂子は大学の帰りに「バグダッド」に寄ってみた。
「バグダッド」にはシャッターがおりていて、臨時休業の札がさげられていた。翌日も、そして次の日もシャッターはおりたままだった。
四日目の猛吹雪の日、やはり臨時休業の札がさがっているのを目にした万穂子は、しばらくあてどなく歩き、やがて晋の部屋に電話した。
そして、その夜、初めて彼に抱かれた。
カバーのかかったベッドに横になり、チェーホフの短編集を両手にひろげていた万穂子は、目に疲れをおぼえてきて、本を閉じた。
日曜日のきょう、家族そろっての朝食のあと、万穂子は二階の自室にこもって、チェーホフを読みふけっていた。
食事のときを除いて、万穂子が一階にいることは、ほとんどなかった。テレビには興味がなかったし、母の甲高《かんだか》く他愛《たあい》ないお喋りの声は、ある時期からひどく耳ざわりで神経にこたえるものになってしまっていた。夕利子の声のトーンも、けっして低くはないけれど、ゆったりとしたしゃべり方のため、それほど苦痛には感じない。
自室での万穂子は、音楽を聴《き》いたり、読書をしたり、大学の講義テキストを開いてみたり、ただぼんやりとベッドに寝そべって放心していたりする。窓の向こうに見える山々のつらなりを飽きもせずに眺め入っていることも少なくない。
チェーホフの短編集はカオルから、きのう借りてきた。ロシアの作家は、まったくといっていいくらい読んだことがなかった。トルストイの「戦争と平和」は、あまりに長すぎて途中でやめてしまったし、ドストエフスキーの「罪と罰」は、登場人物たちの饒舌《じようぜつ》さについてゆけずに、やはり中断した。
そのことが何かのついでに話題にのぼったとき、カオルがチェーホフをすすめた。
「私もチェーホフのような目で人生を眺められるといいのだけれど、まだまだダメね」
そう言うなり、カオルは、ちょっと待って、と言って、二階の住まいへ走って行き、二冊の短編集を手にしてもどってきた。
「それ、万穂さんに進呈するわ。感想、あとで聞かせてね」
階下は静かだった。
母と姉は結婚のための、こまごまとした買い物で街にでかけたし、父親もそのあと散歩に行くとドアのそとから声をかけて、でかけて行った。カオルの部屋かもしれない。
万穂子がふたたびチェーホフの本をひろげたとき、玄関のチャイムがなった。
居間におり、インターホンを手にする。
「あ、篠田《しのだ》です。近くまできたものですから」
夕利子の婚約者の篠田である。
「あのう、母も姉も、それに父も外出しておりますが」
「そうでしたか……いや、じつはきょうは万穂ちゃんに用があってね。開けてくれないかなあ」
急に馴《な》れなれしく話しかけてきた篠田に、一瞬、万穂子は不快さを感じた。
相手によって態度を豹変《ひようへん》させる人間を、篠田にかぎらず、万穂子は信用しなかった。社会的な地位や肩書を持つ者に対して卑屈におもねる人間ほど、自分より下だと見なした者には、尊大な対応をする。母もそういうタイプだった。
「私に用とは?」
インターホンの会話だけで終らせたかった。特別に顔をあわせて話をすることなど思いあたらない。
「こんな玄関先では……とにかく、おじゃまさせてくれないか。十分、いや、五分間でいいから」
あまり邪険に対応して、あとでそのことが母の耳に入り叱言《こごと》を言われるのもわずらわしい。
「分りました。今、まいります」
篠田を居間に案内し、キッチンに立つ。
「あのう、コーヒーがいいですか、それとも紅茶、緑茶――」
「緑茶がいいな」
ふたつきの茶碗《ちやわん》を茶たくにのせ、ソファにだらしなく身体を沈ませている篠田の前のテーブルに置く。
彼は、いつもの上質な背広上下ではなく、ポロシャツにブレザーのラフな服装だった。
夕利子より十歳上の三十二歳の篠田は、祖父の代からこの札幌で水産加工業を営んでいるかなり大きな会社の跡取りである。
夕利子と今年の一月に見合いし、翌日さっそく結婚を前提とした交際をしたいという返事が仲人《なこうど》を介してあった。
夕利子が「若くて、美人で、英会話ができる」のが気に入ったという。
母は大喜びで、すぐさま承諾した。夕利子は、そのそばで曖昧《あいまい》なほほえみを浮かべていただけだった。
結婚を前提にした交際がどういうものか万穂子には見当がつかない。しかし、結納をかわした三月までのあいだに、夕利子と篠田がデートをした回数は、万穂子の記憶では、片手でかぞえられる程度だった。
緑茶をひとくちすすってから、篠田は一目で不しぜんと分る笑《え》みを口もとにきざみ、正面にすわっている万穂子にもったいぶった口調できり出してきた。
「誤解というものは直接話しあうのが、いちばん賢明な方法だと思うんだ。そうじゃないかな?」
彼が何を言い出そうとしているのか、万穂子はさっぱり要領をえない。だが、慎重に口をつぐみ、相手の出方を待つ。
「ほら、先週の金曜日、Tホテルのロビーで、ぼくとばったり会っただろう。あのとき一緒だった女性は会社の女の子でね、別におかしな関係じゃないんだ。多分、万穂ちゃんは誤解したのではないかと、ふと気になって。結婚をひかえて、つまらない噂《うわさ》は立てられたくないからね」
黙って見つめ返すだけの万穂子に、篠田は徐々に落ち着きを失いはじめた。
もったいぶった口調は、せっかちな念押しにも変ってゆく。
「ね、このこと、きみの両親や夕利子さんにしゃべったの?」
「いいえ」
「そう。それならいいんだ。とにかく、あの一件は万穂ちゃんの胸にだけしまっておいてほしい。ね、約束だよ、いいね」
万穂子は無言をとおした。約束しなかった。
いつかこの男は姉を哀しませ苦しませる問題をひき起こすのではないか、なぜか、そんな予感がしてならない。将来の万一の場合を想像すると、彼とはどういう形であろうとも、共犯者にはなりたくなかった。
「おや、篠田さん、いらしてたのですか」
父の達也の出現に、篠田はびっくりした表情になり、それからあわてて立ちあがった。
「お留守のあいだに厚かましくおじゃまさせていただいています」
「散歩に出かけていましてね、お電話くだされば夕利子にもそう言っておきましたのに」
「いえ、いえ。わたしが気まぐれにお寄りしたのですから」
ふたりのやりとりをしりめに、万穂子はキッチンへ行って、父親の湯呑《ゆの》みに緑茶を入れて持ってくると、そのまま二階の自室に引きこもる。
篠田とTホテルのロビーで出会ったことを、万穂子は忘れてはいなかったけれど、さっき彼からそう言われるまで、まるで問題にはしていなかった。仕事の打ちあわせか、それに近い用事だろう、そう思いなしていた。
あの夜はTホテルのロビーで晋と待ちあわせしていたのだった。ススキノにあるそのホテルのそばのハンバーガー・ショップで晋がアルバイトをしているため、そのホテルのロビーは、このところしょっちゅう待ちあわせに使っている。
結局、篠田はあのときの女性と何かあったのだろう。わざわざ誤解をときにくるぐらいなのだから、よほどばつの悪い思いをしたに違いない。それとも、極端に小心なのか。これがきっかけになって、破談になるのを怖《おそ》れたのか。その怖れは夕利子を失うことよりも、おそらく世間体や外聞を気にしているからだろう。
しばらくして玄関先で話し声がし、ドアの閉まる音がした。篠田が帰ったらしい。
階段をのぼってくる父の足音が伝わってきた。
「万穂子、入ってもいいかな」
「どうぞ」
机の前の椅子《いす》を回転させ、父を迎える。
父はベッドのはしに腰をおろした。
「彼、何か言いにきたのかな? 態度がいつもと違っていた」
「別に。近くまできたから寄ってみた、それだけのことみたい」
「そうか、それならいい。……大学のほうはどうなんだい? 楽しいか」
「ふつうよ」
父は声を立てずに笑った。
「きみは何をたずねても、いつも、ふつう。ただし、否定的なニュアンスの、ふつう、だな。でも顔色は最近少しよくなったようで安心した。二月、三月はひどかった。さて、と」
ベッドからはなれ、ドアに進みかけたその背中に向かって、万穂子は思いきって言ってみた。
「パパ……連休の約束は守ってあげてね……カオルさん、とても楽しみにしているわ。がっかりさせないでね……」
ふつりと会話がとだえた。
父の綿のカーディガンの背中が激しく緊張し、ほどなく解かれる。
「まったく、きみは」
そう言って、父は両手をズボンのわきポケットに入れ、スリッパの先を見おろした。
やや淋しげな声だった。
「一体どこの家の娘で、どっちの味方なんだろうな……。いや、わたしの責任だな、これは」
夕食の席で、母が突然、家族旅行の計画を持ちだしてきた。自分の思いつきに酔ったような、いつもより甲高いその声は、万穂子の耳には耐えがたいほどだった。
夕利子が結婚する前に、ぜひとも全員で旅行がしたい、あと十日ほどで四月末からの連休に入る、じつはすでに手はずはととのっていて航空チケットの予約もすませてある、行き先は、そう言いかけた母の口を封じるように、父は抑揚なくさえぎった。
「わたしは出張があると言っておいたはずだが」
「まあ、聞いてませんよ、私は。夕利ちゃん、知っていた?」
「さあ」
万穂子はよどみなく断定した。
「私は聞いているわ。ひと月も前に、パパは私たち三人の前で確かにそう言った。だから私も連休の予定はとっくに決めてあるの」
「そんな」
母は一瞬、言葉につまったが、すぐさま高飛車に言いつのりはじめた。
「パパ、その出張は変更できないんですか。万穂も、予定を変えてちょうだい。だって、せっかくの最後の家族旅行のチャンスなのよ。それとも、パパも万穂も家族より仕事や自分のことのほうが大事だって言うの?」
「とにかく仕事なんだ」
父が断定するように言いくだす。めったにないその勢いに母は気圧《けお》された表情になり、やがて、それは不機嫌な歪《ゆが》みへすり変わってゆく。
「分りました。じゃあパパは無理だとしても、万穂、あなたは都合をつけて、スケジュールをずらしてちょうだい。いいわね」
「ごちそうさま」
万穂子は食卓からはなれ、やはり父と同じ妥協の余地のない語勢で言いきった。
「私、旅行へは行かない。ママと夕利子サンで行くといいわ」
階下の物音がたえた夜更け、万穂子の部屋のドアがノックされた。
「まだ起きてる?」
夕利子の声だった。
パジャマにグレーのガウンをはおった万穂子は、本を閉じ、ベッドからおりて、ドアを開ける。
夕利子が、はにかんだほほえみを浮かべて立っていた。
「もしよかったら、万穂ちゃんに使ってもらおうと思って」
差しだされたそれは、アイロンをかけ、ていねいに折りたたまれた数枚のトレーナーだった。
「どれもまだ一、二回しか着ていないの」
夕利子は廊下に立ったままである。万穂子は部屋に入るように目線でうながす。
「それって、どういうことなの」
万穂子の質問に、夕利子は口もとに淡い微笑を漂わせ、こういうスポーティな服装を篠田は好まないのだと説明した。
テニスやゴルフをする場合なら、もちろん、かまわない。ただ普段着は「篠田家の若奥さん」らしいシックで品のよい服装が望ましい。たとえば、ふいの大事な来客にも、そのまま玄関に迎えでることのできるいでたち――。だが夕利子には分っている。篠田は、夕利子の服装から、日常の立居振舞《たちいふるま》いのすべてにいたるまで、自分好みに染め変えたいのだろう。この数枚のトレーナーにしても、おそらく、あれこれと難癖《なんくせ》をつけて、処分させてしまうにちがいない。
「でも、どのトレーナーも思い出があるの。この白いのはパパの出張のおみやげ、このピンクはママが買ってくれたもの、黒いのは大学生のころ、お友だちと旅行したときにおそろいで買ったのね」
万穂子には姉の気持が理解しかねた。なぜ、そんなにも窮屈な相手と、どうして、なんの疑問もためらいもなく結婚できるのか。
昔からこうだった。夕利子は母の何よりのペットであり、歯がゆいほどに従順で、口答えひとつしたことがない。
その従順さは、ときには、愚かにも見える。知能がたりないのではないか、と本気で心配にもなってくる。ところが夕利子は、小学生の時分から大学卒業まで、さして勉強もしていないのに「よくできる子」だった。成績も万穂子よりずっとすぐれていた。
夕利子には、自分というものがなかった。自分自身にまるで鈍感であり、その点での発育が相当に遅れている、そう万穂子には感じられる。
昼間の篠田の弁解する姿が思い出された。万穂子は、目の前におっとりと椅子に腰かけている姉を見ているうちに胸がしめつけられる思いにおちいってくる。
母の前ではそっけなく振るまっているけれど、姉の結婚は打撃だった。自分をかげながら見守ってくれる大切な存在を、もぎとられるような痛みがある。
小学生のころ、母は父のいない場合にかぎってヒステリックに、訳もなく万穂子にあたってきた。万穂子は泣かなかった。どれほどひどい言葉を投げつけられ、心がずたずたになって血を流すほどに打ちのめされても、ぜったいに泣くまいと、母をにらみ返した。その顔が子供らしくなく、生意気だと、さらに母の怒りをあおってしまう。
そうしたとき、必ず泣きながら、信子と万穂子のあいだに立ちふさがるのが夕利子だった。
「お願い、万穂ちゃんを許してあげて」
この記憶は、いまだに万穂子の身体の中に生なましく息づいている。
不在である父は、いつか助けに駈《か》けつけてくるに違いない、と万穂子は期待しつづけていた。といっても、一度として、そういう劇的なシーンは訪れなかった。
万穂子は夕利子から目をそらしながら、冷淡にも聞こえる口調でたずねた。
「大学を出て、そのまますぐに結婚して、それで悔《く》いはないの」
「さあ、どうなのかしら。今の私には分らないわ」
「結局、夕利子サンはママの言うなりの道を歩いてゆくのね」
夕利子は瞬間、顔をくもらせた。いくえにもたたみこまれてある感情の、どの部分かを刺激したらしい。
「でも、万穂ちゃんには笑われるかもしれないけれど、私、人と争ったり、傷つけあったりするのがイヤなの。そうする前に、私の神経がこわれてしまいそうになる……」
四月末から五月の連休にかけて、母と夕利子は旅行に出かけた。
父親もカオルをともなって「出張」した。
どちらも一週間の予定である。
物音のたえた家の中は、こうした場合いつもそうだったけれど、万穂子をほっとさせた。
ひとりとり残されたこの状態は、幼い頃から味わいつづけてきた感覚と見事に一致する。
子供の万穂子は、ひとりぼっちの寂寥《せきりよう》感に背すじを冷たくさせながら、目の前に母や姉、そして父のいる光景が、どうしても不可解でならなかった。
キンキンとよくしゃべるあの女の人が「ママ」であり、心をどこかに置き忘れてきたように、つねに遠いまなざしでいるあの男の人が「パパ」であり、「ママ」が人形のように手もとからはなさずに可愛《かわい》がっているのが「お姉ちゃん」であり、そして、自分はこの人たちとなぜにこうして一緒にいるのか、いなくてはならないのか、その謎《なぞ》をだれも説明してはくれない。
もしかすると、自分はここにいなくてもいいのかもしれない、けれど、そうすると、一体どこへ行けばいいのか、そう思った小学一年生の万穂子は、その場所を探しにでかけた。夏休みだった。
学校の行き帰りに、いつも気がかりになっていた小道があり、その先は広々とした空間になっていた。その小道を万穂子は迷わず進んで行った。
陽が暮れたときには、広い草原の中を歩いていた。暗くなっても怖《おそ》ろしいとは感じなかった。必ず、そこはある、と信じていた。やがて疲れて草むらの中に眠りこんでしまった。
目がさめると、すでに朝となり、万穂子はたくさんの大人たちに囲まれ「ママ」と「パパ」もいた。「ママ」がひどく泣いているのが不思議だった。大人たちが、そこへ行こうとしている自分のじゃまをした、万穂子は腹立たしさのあまり、何をきかれても黙りこんでいたものである。
子供時代の、いちばんの思い出は、この草に抱かれて眠った夜のことだった。草の匂いは、万穂子の背にはりついていた寒々としたものを、きれいにぬぐい去ってくれた。それ以外に、ことさらなつかしさをおぼえる記憶はない。楽しい出来事も、悲しいことも、均一に薄められている。無感動な子供だった。
十九歳になった現在も、あの草の匂いは、ときおり鮮烈に鼻腔《びこう》の奥に甦《よみがえ》ってくる。そのたびに心は奇妙な不安にゆれる。今、自分がいるここは、仮の居場所にすぎない。早くそこを探しあてなくては、すべてがくずれてゆく――。
晋に、この小学一年生のときの「家出」を話したことがあった。性関係が生じるずっと前だった。
「きっと私は、そこへ行けば本当の家族に会えると思ったのね。でも、私が行きついたのは草はら。人間にまではたどりつかなかった」
「でも、キザだけど、こうも言える。草にだけは、出会えた」
「草は、結局、私に何も教えてはくれなかったわ」
「そうかなあ。俺《おれ》から見ると、万穂はしんの強い人間だよ。それは、あるいは草というかしぜんから教えられたことかもしれない」
「強い? この私が。まさか。私の内心はいつだってボロボロ」
「それも感じる。だから強いんだよ。だって万穂はほかの女の子たちのように、そのボロボロの内心で人の同情をひこうとはしないもの。むしろ、ぜったいに傷つかないというふりして、かくしている。万穂はそんなに鈍感じゃないのに、鈍感さを装うんだ。強い女をね」
こういう会話のできる晋が万穂子は気に入っていた。一緒にいると、自分ひとりではかかえきれないものを、わずかでも支え持ってもらっているような身軽さを感じる。
けれど性関係が入りこんできてから、ふたりの会話は、なぜかなめらかにはゆかなくなった。
友だちとしての晋は失いたくはない。十九歳の万穂子は、貪欲《どんよく》にそう願う。最近はぎくしゃくとした関係で、彼のそばにいると一刻も早くひとりになりたい衝動にかられてくることも少なくなかったけれど、もうしばらくたてば、馴《な》れが解決してくれるだろう。
万穂子は、精神的にあの呆然《ぼうぜん》としてひとりぼっちだった、子供時代にはもどりたくなかった。そのためにもどういう間柄にしろ、いったんかかわりを持った他人を手放したくはない。姉の夕利子の結婚話が持ちあがり、かけがえのない味方を失う心細さと比例して、その気持はいっそう強くなっていた。
家族が旅行中、万穂子は、いつも通りの毎日をすごした。晋は、この連休に祖父の七回|忌《き》の法事があるとかで、美唄《びばい》市の実家に帰っていた。
連休があけて十日ほどたった日の夕方、万穂子は「バグダッド」のカウンターでアイス・ティーを飲んでいた。ほかに客はいない。
カウンターの中に立ち、バーとしてのこの店にやってくる客にだすつまみをこしらえていたカオルが、手を動かしながら、さりげなく言った。
「万穂さん、ここには、もうあまりこないほうがいいと思うの」
「なぜ? パパが何か言ったの」
「そうじゃないわ。あのね、まだきちんと話しあったわけじゃないけれど、私と達也さん、近いうちに別れることになるかもしれない……」
信じられなかった。父とカオルの関係は、この先もずっとつづくもの、そう勝手に思いきめていた。
たくさんの疑問が頭の中をまわりはじめる。激しくうろたえている自分がいる。
父とカオルは似合いのカップルのはずだった。父と母のそれよりも、はるかに相性がよく、これまでのカオルの言葉からすると、あんなにも円満に、むつまじくやっていたではないか。
別れの理由をたずねる前に、思わず口走ってしまっていた。
「ふたりが別れるのはぜったいにイヤだわ、そんなこと」
カオルが手の動きをとめ、万穂子を見る。つつみこむような微笑を浮かべ、かすかに目を細める。
「ありがとう。でも仕方のないことなのよ」
「原因はどちらにあるの」
「さあ、おたがいさまってとこかしらね」
「カオルさん、お願い、ごまかさないで本当のこと話して」
「無理よ、万穂さんはまだ未成年、十九歳、大人の世界の入りくんだことは、あまり聞かせたくもないし」
カオルの子供扱いに、万穂子は苛立《いらだ》った。
まだ十九歳、しかし、もう十九歳でもあるのだ。
万穂子はカオルの横顔を見つめた。淋しさとあきらめのまじりあったカオルの心のありようが、透明なベールとなって、そこにはりついているようだった。
彼女はこの別れを哀しんでいる、万穂子は確信した。
「パパのほうが望んでいることなのね、そうでしょう?」
カオルは答えない。
「分ったわ。パパに直接きいてみる」
本気でそう考えたわけではなかった。カオルをゆさぶる手段のつもりであった。が、その口調は予想外に真《しん》に迫っていたらしい。カオルの表情に動揺があらわれた。
「それはだめよ。いえ、私の立場がなくなるわ。まるで私が万穂さんに余計なことを吹きこんだようにとられてしまう」
「でも私は事実を知りたいのよ」
知る権利がある、とさらにつづけた。この四年間、自分は父とカオルの味方のつもりだった。母の信子にはけっして口外しないことも父に固く約束し、それを守り抜いてもきた。
カオルの口もとがふっとほつれた。
「そう思い出したわ。達也さんが苦笑して言ったのよね、万穂子はおかしな娘だ、じつの母をあざむいても、父親の恋人の肩を持とうとしている。どういう心理なんだろうねって」
「あの人は、私にとっては母親じゃないの。パパの単なる正妻、第一夫人にすぎないわ」
「万穂子さんは本当にパパが好きなのね」
「違うわ。カオルさんが好きなの、私は」
カオルは、万穂子がどれだけねばっても、ついに口を割ろうとはしなかった。
その場では根負けした万穂子はいったん自宅に帰り、夜を待つことにした。十一時になると母は就寝してしまう。
父とカオルの関係は、どうあっても、こわしたくはなかった。そのために、自分が手助けできることがあるのなら、可能なかぎり協力したい。
三人が顔をそろえるチャンスはなかったけれど、この四年間「バグダッド」は、万穂子の新しい家庭だった。週に三日は、欠かさず通っていた。いつもひとりで、有原晋にも教えてはいない。
カオルの自分を見る目には、信子のようなトゲはなかった。あるがままの万穂子をそっくり受け入れてくれた。つねに比較される姉の存在も、そこにはなかった。さらに父は、カオルとかかわることで、信子をひそかに裏切ってくれた。十代の万穂子には、どうしてもできないそれを、夫であり、男であるというだけでなしえた――。
夕食後、万穂子は、自室で科学概論の講義に提出するレポートのつづきを書き、途中で入浴してから、また机に向かった。
十一時をすぎて、階下の物音がたえたのを確かめてから、万穂子は自室をでた。達也はまだ帰宅していない。
家をあとにし、地下鉄駅へ足早に歩きながら、唐突に晋を思い出した。カオルからどのようにして話をききだそうか、そのことで頭がいっぱいなのに、ひと吹きの風のように晋の姿が頭の中をよぎっていった。ふたりきりで会ったのは連休前で、それ以来、彼の部屋には行ってはいないし、電話もかかってこなかった。
不安が寒気のように肌の上を駈《か》け抜けてゆく。だれも失いたくはない。
五月の札幌の夜気は、冷たかった。日中は汗ばむほどの暖かさでも、夜になると気温は急速にさがる。万穂子は黒のスエット・スーツの上にはおった白のブルゾンの前ボタンをはめる。
冷たい夜気は、札幌のこの季節特有の草の匂いをはらんでいた。それもまた万穂子の幼いころの記憶を、身体の奥底から立ちのぼらせてくる。せかされる思いで地下鉄駅へと小走りになっていた。
カオルは酔っていた。酔いの程度は外見からは推《お》し測《はか》れなかったけれど、素面《しらふ》のときには想像もつかない饒舌《じようぜつ》さで、万穂子を驚かせた。
酔ったカオルは、としよりも、ずっと稚《おさな》く感情の起伏を素直にあらわした。
客はふだん着姿の初老の男たちがボックス席に三人いるだけで、アルバイトの女性ふたりが相手になっている。
「さっきまで団体客がはいっていてね、私もつい飲みすぎちゃって。万穂さん、何か飲む?」
「ジン・トニック」
「あら、結構いけるくちなのね、知らなかった。パパの血すじね」
万穂子の前にジン・トニックのグラスを置き、カオルはまるいブランデーグラスを手に、カウンターのそとにでてきた。横に並んで腰かける。
「夕方の話をむし返しにきたのでしょう?」
カオルはいたずらっぽい表情で、万穂子の顔をのぞきこむ。目の焦点が、ややあやしくなっていた。
「私もあれから考えたわ。で、思い直したの。これは万穂さんが父親ばなれするいい機会かもしれない。あんまりパパを理想化して見ていると、どんな男も物足りなく、つまらなく思ってしまう。つまり結婚できなくなってしまうかもしれないのよね」
心外だった。父を理想の男性と考えたことはなかったし、父親ばなれする必要があるほど、寄りかかってもない。
「万穂さんはね、パパの正体を知らなさすぎる。あの人には私とこうなる前にも何人もの女がいたのよ。そして今回もそう」
新しい相手は二十三歳のOLだ、酔ったカオルはこともなげに打ち明けた。
取引会社のひとつに勤める彼女の話は前々から父に聞かされていたという。
最初、その女性は父の部下の男性と結婚を前提にして交際していたのだが、彼女が一方的にふられる結果になってしまった。
傷心の彼女は父に、相手の男性をどうにか説得できないだろうかと相談を持ちかけてきた。
カオルは、そのへんまでの事情はくわしく知っていた。父がカオルの部屋にやってくるたびに、話題にしていたからである。
ところがあるときから、父は彼女の名前をいっさい口にしなくなった。カオルがたずねても、うやむやに言葉をにごす。
カオルと会う回数がへりはじめたのも、その頃と一致した。それが数カ月前のことである。
連休の直前に、カオルは思いあまって父に問いただした。彼は否定も肯定もしなかった。そして言ったという。
「きみと別れるつもりはない。彼女が立ち直るまでのほんのすこしのあいだ、そばにいてやりたいだけなんだ」
連休に一緒に行くはずだった旅行を、カオルは中止にしたいと申し出た。父は承知した。
「頼みがある。万穂子には内緒にしておいてくれ」
連休の一週間、カオルはひとり旅に出かけた。父は、おそらく若い彼女とともにすごしたに違いない。
話を聞きながら、万穂子は胃が痛くなるほどの怒りをおぼえた。だれにむけての怒りなのかは判然としない。ただ許せなかった。何もかも一点たりとも認めるわけにはいかない。
「彼は私ともつきあい、彼女も手ばなしたくない。でも私がどこまで我慢できるか……。正直なところ、そろそろ限界なの、耐えきれないのよ」
カオルはブランデーで唇をしめらせる。
「私は彼を愛していたわ。今もそう。まったく金銭がらみの関係じゃなかったし、妻の座をねらっていたのでもない。でもね、万穂さん、女もとしをとるとみじめなものなの。二十三歳の彼女に熱中している達也さんの心を、三十八歳の私が引きもどせる自信なんてないわ。哀しいわねえ」
最後の言葉には痛々しいほどの感情がこもっていた。
「カオルさんはきれいだわ。十分にきれい」
「ありがとう。万穂さんと出会えてよかった……私の娘みたい……」
ふいにカオルの目から涙が噴き出した。
「あ、ごめんなさい」
カオルは泣き笑いの表情で、涙を指先でぬぐい去る。
「ばかね、私は。いつもこうなの。男運が悪いのね。相手につくしすぎて、いつもナメられてしまう。万穂さん、ひとつだけエラそうに教えるわ。男の心を引きとめておくためには、つねにじらしつづけること。私はね、口ではこう言っても、それが実行できないの」
万穂子の頭は腹立ちでほてりつづけた。
五十歳と二十三歳の組合せは、まったく親子ではないか。実際、夕利子はそれよりたったひとつ下の二十二、万穂子とは四つの差しかない。
三十八歳のカオルと五十歳の父を並べてみるとき、そこに不潔感は生じない。
けれど二十三歳を相手にしている父は、いやらしく、不潔このうえないイメージがふくらんでくる。
二十三歳の女性は、カオルのことは知っているのだろうか。父が巧妙に立ちまわり、かくしているのだろうか。もし、彼女が、カオルの存在を知っていながら、父とかかわっているのなら……万穂子の怒りは、いっそうそそり立ってくる。
「カオルさんは、このまま黙って引きさがるつもりなの。つまりパパと別れてしまう……」
「これ以上みにくくはなりたくない。せめてものプライドよ」
それからしばらくして、万穂子は二十三歳の女性の勤務先と名前を、ごく何気ないふうを装ってカオルからきき出した。
酔った彼女は、いぶかりもせずに、つぶやき返した。
「M金属の川奈時子《かわなときこ》……」
そして、いきなりカウンターにつっぷしたかと思うと、寝息を立てはじめた。
話を聞き終えても晋のおだやかな表情は変らなかった。
大仰《おおぎよう》に驚いて見せたり、軽薄な茶化しをしない彼の態度は、相手に誠実にむかいあっている証明のようで、それも万穂子にはうれしい。
すべてを打ち明けてみたのだった。
父とカオルの関係、新しい女性の出現、カオルの哀しみ、そして自分はどうにかして父とカオルの仲を修復させたいと願っていることなど、できるだけ平静な口調を保つように心がけた。
ふたりは晋の部屋で、ベッドの端に背中をもたせかけ、並んですわっていた。似たような細さのジーパンの足を長ながとのばし、裾《すそ》から出ているソックスの色も同じ白だった。
暮れどきの柔らかく淡い西陽《にしび》が窓からさしこんでいる。
万穂子の話がすんで、やや沈黙の数分間ののち、晋はぽつりと言った。
「おれの親も離婚しているんだ」
晋の両親は美唄市でパチンコ店を経営していると聞いている。
「おれはおふくろのほうに引きとられて、で、現在のおやじと再婚した。小学生になった年だったよ。離婚の原因はおやじの浮気だったらしいけれど」
そして晋は、いつか万穂子から「家出」の思い出話を聞かされたとき、他人事《ひとごと》とは思えない気持になったという。ただ小学生の晋が行こうとしたのは、漠然としたどこかではなく、別れた父だった。
「おれはきみほど根性のある小学生じゃなかったから、行動には移せなかったけれどね」
その父親は、今、札幌に住んでいる。晋は大学に入学してまもなく、父親に会いに行ってみた。街中でふたりきりで再会するつもりでいたのが、父親は息子《むすこ》をまっすぐ自宅につれて行った。
父親が再婚した人は、笑顔で晋を迎えた。腹ちがいの妹ふたりもいた。地味だけれども、明るく、思いやりにあふれたサラリーマンの家庭だった。
「おやじの奥さんは、いつでも遊びにいらっしゃいと言ってくれてね、妹たちも可愛かったし。でも、それから一回も行っていない。つらいんだ。いや、うらやましいと言うべきかなあ」
そのとき父親が語った離婚の原因は、母親から言われていたのとは正反対だった。裏切ったのは母親のほうで、離婚するにあたっては、「口どめ料」として、しかるべき金が父親にわたされた。母親の不倫相手であり、その金を支払ったのが、晋の現在の父だった。
「俺はこっちのほうを信じるよ。おふくろなら、そういうことをやりかねない女だから。今だって、亭主のほかに男がいるかもしれない。いや、いると思う、多分ね」
ここにもまた万穂子が、けっしてそうはなりたくない女の生き方があった。母の信子、姉の夕利子、そして晋の母親もあらたにここに加わってきた。
同性にむけては明確に好き嫌いの感情が働くのに、異性への判断は、自分自身でもじれったくなるほどに基準があやふやだった。
夕利子の結婚相手の篠田だけは、はっきりと苦手なタイプと言いきれる。母に似た部分をいくつも嗅《か》ぎとるからである。
母には容赦《ようしや》のない視線を浴びせられるのに対し、父には、どうしても視線がゆるむ。
父とカオルの関係を知った高校二年のときにしても、万穂子はなぜか「仕方がない」と納得できた。また、カオルは自分とこうなる以前にも、父には女たちがいたと言っていたが、それは万穂子もうっすらと感じつづけていたことだった。
父の女性関係は、十九歳の万穂子の理解をこえた、彼の心の「欠落の闇《やみ》」のひとつのあらわれのように思えてならない。万穂子自身の心の奥深いところにも、父と同じその闇が棲《す》みついている予感がする。
それは母の信子の価値観とは対極にある、この世の中の権威的なもの、実体のさだかではない虚名といったものを、せせら笑う資質からくるものかもしれなかった。といって、ではそれらとは正反対の何を最高の価値と見なすのか、と問われたなら、おそらく口ごもってしまうだろう。明快に、これとは指摘できない。しかし、心の「欠落の闇」は、母に代表される価値観の世界から顔をそむけているのは確かだった。
達也を、単なる「女好き」と呼ぶのはたやすい。ただ万穂子の心と淡く呼応するそれを凝視《ぎようし》してみるとき、万穂子は晋とのかかわりもそうであるように、切実に異性を求めてはいない自分を知る。
もちろん五十歳の父と十九歳の万穂子では、性別も異なり、人生経験もくらべものにならない。その違いを承知のうえで、本当のところを見きわめたい。その結論が、ただの「女好き」であったにしても、それはそれとして仕方がなかった。認めるしかないだろう。
「晋、私ね、パパの相手の二十三歳の女性に会ってみようと思うの」
晋はおだやかにたずねる。
「会ってどうするの」
「分らない。場合によってはパパと別れてほしいと頼むかもしれないし……」
「むこうが会うのを拒否するかもしれないし、また会ったとしても、万穂子は傷つくだけじゃないかなあ」
「傷つくのは子供のころから馴れているわ。その傷を自分で乗りこえてゆくことにも」
「それは、例のカオルさんのためなの?」
「半分はそうね」
万穂子の念頭に二月の猛吹雪の夜が浮かんでくる。父の「出張」は事前に知らされていた。だが、カオルはその「出張」の一週間、「バグダッド」を休業にすることを、ひと言も教えてはくれなかった。
あのときカオルは故意に万穂子をはじきだしたのだろう。あんなにも信頼していたのに。
「晋は私の味方になってくれる?」
「よくのみこめないな。万穂子の敵は何なのか」
「私の敵は……私自身よ。大人でも子供でもない中途半端な十九歳の私」
信子からうとまれつづけた十九年、父がいつか味方になってくれるだろうと信じてきた年月、母をだましてでも父の側に身をすり寄せ、カオルに気に入られようとしてきたこの四年間、家庭内で唯一のやさしさと思ってきた夕利子の結婚――何かを変えさせたかった。何かが自分を変えてほしい。
晋が腕を肩にまわしてきた。さからわなかった。また蒼ざめてしまうのかもしれないけれど、必ずいつかはその蒼さから脱出できるはずだった。そうでなければ、同じ大学の女子大生たちが、あんなにもたくさん、あんなにも「彼」とすごす夜のことをたのしげに、目を輝かせて話すはずがない。
川奈時子は、美人ではなく、華やかな雰囲気の持ち主でもなかった。
広い額と引きしまった顎《あご》の線が、かろうじてその特長と言えるだろうか。目鼻立ちは、ごく平凡で、少しずつの輪郭《りんかく》のずれが、なんとなく途方にくれた淋しげな顔立ちをこしらえてしまっている感じだった。
街中の喫茶店で、はじめて時子と会った瞬間、万穂子は自分に似ていることにうろたえた。ただ時子の髪は長く、うしろにたばねられてあった。
服装もグレーのスーツで目立つものではない。Vネックに切りこまれた襟もとから、やはり、ありふれた綿の白いシャツ・ブラウスがのぞき、それに重ねて、ほんのわずかに見えるスカーフのレモン色が、二十三歳らしい若々しさを思わせる程度だった。
万穂子のその日の恰好《かつこう》は、いつものジーパンに紺のポロシャツ、白のブルゾンで、学生とOLの違いが、いくらかその身なりに反映してはいるけれど、服装の好みのその根本には似かよったものが流れているのかもしれない。
万穂子にむけて、時子はじつに親しげで、人なつっこい笑顔を浮かべてきた。いかにも待ちわびていたというように。
「はじめまして。万穂子さんですね。板東《ばんどう》部長から、よくお話はうかがっています」
板東部長とは父のことである。
「板東さんにはとてもよくしていただいて」
注文したコーヒーが運ばれてきた。
「万穂子さんはM大学の二年生とか。私も大学に行きたかったのですけれど、父を早くになくし、弟たちもいるため高校を卒業してすぐに札幌で就職したんですよ。実家は函館《はこだて》です。五稜郭《ごりようかく》の近く」
時子の口調と表情には、みじんもひるみがなく、それどころか、友だちに話しかけるような打ちとけた態度だった。
努めてしぜんに、と自分に言いきかせながらも、どこか両肩に力の入っていた万穂子は、どう対応すべきなのか、時子の楽しそうな、にこやかさの前で、黙ってコーヒーを飲むしかない。
時子のおしゃべりが一段落し、万穂子は用心深くたずねた。
「あのう、電話でもお願いしましたけれど、このこと、父には内緒に……」
「はい。板東さんも、万穂子さんが心配というか、気がかりでたまらないようですから、余計なことはいっさいお耳には入れません」
意外な思いで問い返す。
「父が私を心配している?」
「ええ。くわしくはお話しになりませんけれど、自分のプライベートなことに万穂子さんを巻きこんでしまう結果になったとか……。で、きみなら、こういう場合どう思うか、どう考えるか、とよく質問されます。それで私が思うままに答えると、いや、彼女はそういう性格じゃないからとか、そんな甘い考えはしないとか。だから、私もいつのまにか万穂子さんの身代りといいますか、あ、ごめんなさい、失礼な言い方をして……それで、とても関心がありました」
相変わらず時子の口調は屈託がなく、悪びれたふうがなかった。
これは、ひとつの手なのだろうか、万穂子はひっそりと身構える。
だが目前の時子は、ほがらかな調子で、万穂子の家庭を話題にしはじめていた。父から聞かされていたことを、あらためて万穂子に確認するように、「――なんですってね」の言葉が、その最後に欠かさずつけたされた。
実際に父がそのようなニュアンスで語ったのか、時子が勝手に思い描いたものなのか、彼女の話からすると、万穂子の家庭は、これ以上は望めない理想的な団らんの場だった。
妻は美人で、夫や子に献身的なまでにつくすタイプの女性であり、もうすぐ嫁いでゆく長女はおっとりとした素直な性格、二女はちょっと男の子のような気性で無口で風変りなところがあるが、人の心に敏感な淋しがり屋。娘たちが子供のころ、よく家族で旅行に出かけたし、日曜日は出張などがないかぎり、できるだけ一家四人が一緒にすごすようにしている。
「板東さんはとても家族思いの夫であり父親なんですね。私もいずれ板東さんのような男性と結婚して、そういう家庭を作りたいと思います」
時子は、家庭内のごくささいな出来事まで知りつくしていた。たとえば、母の信子が興奮すると、甲高い声がいっそう金属音に近いものになってしまうことや、家族がもっとも好む飲み物は紅茶、朝食は和食などといった事柄である。
まさか、と半信半疑の気持だった。父の達也は口かずが少なく、日常の細かいことには、いっさい口出ししない。母にまかせきっている。そういう彼が家の中にそれほど関心を持っていたとは想像もできなかった。しかし時子があげてゆく万穂子の家庭の特徴は、どれもそのとおりである。
「父は、そういったことを、どんなとき川奈さんにお話ししたのでしょうか」
「あら、いつもです。いつもお会いするたびにこういったお話。私も楽しくて、つい調子のよい相づちなど打つものですから、板東さんもサービス精神から、あれこれとお話ししてくれるのかもしれません」
父は、よほど時子に心を許しているらしかった。カオルの前では、家庭、のひと言さえ避けているらしく、いつかカオルが、それを不満に感じている口振りで万穂子にそれとなくうったえてきた。
「達也さんのあれって、私への思いやりなのかしら、単に水くさいだけなのかしら」
時子から父の思いがけない一面を聞かされ、それを感情のどのポケットにおさめるべきなのか、処理しかねている万穂子を、しばらく無言で見つめていた時子は、遠慮がちな小声《こごえ》をむけてきた。
「あの、ね、万穂子さん。他人の私がこんなこと言うのはさしでがましいのですけれど、板東さんの、お父さまの話し相手になってあげてくださいな」
時子ののびやかな振舞いを、父の達也に愛されている自信のなせるわざ、そう見なしていた万穂子は、一瞬、かっとなった。
時子にさしずされるおぼえはない。
鋭く見返した。
「川奈さん、あなたに、父の愛人であるあなたに、そこまで言われるすじあいはないと思います」
時子は虚をつかれた顔つきになった。
「愛人? この私が、板東さんの?」
そして、しばらく万穂子になんの感情もこもらないまなざしをむけ、やがて困惑の苦笑を弱々しく浮かべた。
「それはまったくの誤解です。そうですか、万穂子さんが私に会いたいと言ってきたのは、そのためだったのですか」
しらをきるつもりなのか、万穂子は時子のどんな仕草も見逃すまいと、さらに目をりきませる。
時子はうつむきがちにつづけた。万穂子が自分に会いにきたのは、板東自身からのほのめかしがあり、相談相手として自分が呼ばれたものとばかり考えていた。
板東が日ごろから言っていたためである。
「あの子には自分をさらけだせる同年輩の友だちが必要だと思う。たとえば川奈くんのような。あの子はどうも大人の世界にばかり首をつっこみすぎるくせがある」
カオルのことを言っているのだ。しかも万穂子がカオルに馴れ親しんでいるのを快く思っていないことを、その言葉は伝えていた。
父の心中を、はじめてこうした形で教えられ、万穂子の胸に淋しさの細い風が流れてゆく。
時子は、さらに説明していった。
板東とは、いわば親子のようなつきあいにすぎない。会社での板東の部下のひとりと時子は交際していて、一時期は婚約さえかわした。そのころ板東に紹介され、いずれ挙式のさいには仲人を頼むつもりだった。ところが時子の相手は、婚約解消を申し出てきた。財産家の娘との養子縁組のほうを選んだのである。そんな時子を慰め、励ますために、板東はしばしば食事に誘ってくれた。板東が自分の家庭について語ったのは、そうした席ではもっとも無難な、時子を刺激しない話題だったからだろう。
四月末から五月の連休には、旅行にもつれて行ってくれた。時子が、旅行などというぜいたくは、高校の修学旅行ぐらいしか経験がないと言ったのが、ひどく板東の同情をかったらしい。
その旅行にしても、男と女のそれとはほど遠い、じつに清潔な毎日だった。旅の中でも板東は、しきりと家族の話、特に万穂子について語り聞かせた。
「そのとき、私、思いました。板東さんは、本当は万穂子さんとこうして旅行がしたかったのだろうなと」
時子のまなざしはやさしく万穂子を見つめる。
「くわしくは知りませんけれど、さっき言った、プライベートな出来事に万穂子さんを巻きこんでしまったという後悔や負い目が、板東さんにはかなりあるのでしょうね」
父がそれほど後悔することは、何もないではないか、万穂子にはその気持が不可解だった。
ただ川奈時子の存在はカオルが考えているようなものではなかったことが、万穂子の心を明るくした。
父について語る彼女の表情は、無邪気で、いかにも楽しげで、そして万穂子と同じ肉親を共有しているかのような親密さをゆらめかしつづけた。
万穂子は率直に時子にわびた。
「ごめんなさい。誤解していました」
「いいえ。私も厚かましすぎましたもの。板東さんが甘やかしてくださるのをいいことに……でも、万穂子さん、どうして私の名前や勤務先、分りました? お話からすると板東さんからお聞きになったとは思えませんし」
しばらく迷ってから、万穂子は晋がアルバイトをしているハンバーガー・ショップに時子を誘ってみた。彼は今夜は早番で、八時には解放される。
父とカオルと自分とのかかわりを、時子に説明するには、晋があいだにいてくれたほうが安心できた。また彼なら、万穂子の言葉不足な箇所を、上手におぎなってくれるに違いない。
万穂子の誘いに、時子はうれしそうにうなずく。
「アパートに帰っても、どうせ、ひとりぽっちですもの。でも失礼な言い方ですけれど、万穂子さんは私と似てますよね。板東さんが私を可愛がってくれたのも、なんとなく納得できるみたい」
翌日、万穂子は大学の帰りに「バグダッド」に寄った。
まだ午後三時の開店には早く、カオルは散らかった店の中を掃除していたが、出入口のドアは開け放たれていた。
一歩店に足をふみ入れ、万穂子はその乱れように目を見張った。ビール壜《びん》やウィスキー壜、グラスなどが壁や床に投げつけられたあとの、その破片が、いたるところに散在している。
万穂子がたずねる前に、カオルは、昨夜は客同士が大喧嘩《おおげんか》をして大変だった、とこともなげにつぶやいた。
「怪我人《けがにん》は出なかったの」
「まあ、引っかき傷ぐらいでしょう。こういう商売を長くやっていると、いろんな修羅場に出会うわね」
床の片づけが一段落すると、カオルはカウンターの内側に入って、グラス類を洗いはじめる。
万穂子はカウンターの椅子に腰をおろし、父の新しい相手だとカオルが言っていた二十三歳の女性に会ってきたことを打ち明けた。
カオルの、しぜんなままの濃い眉毛《まゆげ》の片方がぴくりと反応した。
「その女性、よくつきとめられたわね」
酔った自分が口走ったのはおぼえていないらしい。万穂子もそれを指摘するのは酷《こく》なような気がして、そのへんはぼかしてしまった。
「カオルさんはその女性を誤解しているみたいよ」
そして万穂子は、きのうの時子との会話をことこまかに再現してみせた。もちろん、そのあと晋をまじえてカオルと父の間柄を、おおまかに説明した時間は省略した。
話を聞きながらも、カオルは手を休めずに、洗ったグラスや皿、アイス・ペールなどを、カウンターの上にひろげたふきんの上に伏せてゆく。
黙りこくったその顔には、どんな表情も走らなかった。
万穂子は話の途中で何回となく時子の正直さや素直さを強調し、けっして嘘《うそ》をつくような女性ではない点を印象づけようともした。
長い説明がすみ、いつにない多弁さに疲れはてて万穂子は口をとざした。
カオルは、やはり沈黙したまま、洗い物をつづけている。
「カオルさん、これでもまだ信じられない?」
「まんまとその女にまるめこまれたみたいね、万穂さんは」
腹立ちの気配を漂わせた冷淡な返事だった。
「最近の女は、二十三にもなれば、結構したたかなものよ。万穂さんのような、まだ男も知らないうぶな学生を手玉にとるぐらいは朝めし前」
その口調は、万穂子がこれまでカオルから聞いたこともない粗《あら》っぽく、野卑《やひ》なひびきをおびていた。
男も知らないうぶな学生、この決めつけも意外だった。晋のことは、だれにも言ってはいない。だからといって、どうして万穂子が処女だとあたまごなしに断定してしまうのか。
「でも、本当にしたたかな女性とはタイプが違うのよ」
思わずむきになっていた。
「ほら、そこよ。万穂子さんがそこまで言い張るなんて珍しいじゃない。その女がいかにあなたを洗脳したか、そのぐらいヤリ手だって証拠でしょう」
カオルの思いこみは激しく、これ以上、時子についての疑いを晴らそうとしても無理のようだった。
「その後、パパとは話しあったの」
「いいえ。おたがいに、というより彼が避けているのよ。はぐらかそうとする魂胆《こんたん》が見えみえなのね」
父の対応の仕方にも、万穂子は不満をおぼえる。
なぜきちんと正確に時子との関係をカオルに伝えないのか。適当にごまかしてしまうから誤解が生じる。時子が自分に打ち明けたような、ああいう屈託のなさで説明すれば、カオルも素直に心を開いて、納得してくれるはずだった。
ふいに、カオルがいつもの微笑を浮かべてこちらを見た。
「ごめんなさい。なんだか万穂さんに八つ当りするような言い方をしてしまって。万穂さんが私のためを思ってくれて、そこまでしてくれたのに。感謝しているわ。その女に会いにまで行くなんて……ずいぶんと、いやな思いしたのでしょうね。分るわ、そういう状況のたまらなさは」
クリーム・ソーダの細長いグラスが目の前に置かれた。
カオルも洗い物をすませ、煙草に火をつける。
「万穂さんの気持はうれしいけれど、達也さんと私のことは、もうほうっておいてちょうだい。これはふたりだけの問題だから」
そんなわけにはゆかない、万穂子はクリーム・ソーダのストローをくわえながら、胸の中で強くつぶやいた。
カオルの苦しみを、そのままにしておくのはつらい。だいいち、それは誤解なのだから。また父が同時にふたりの女を持つような「浮気者」ではないことも、カオルに知ってもらいたい。
だが、たった数日のうちに、万穂子の心は微妙に変化していた。
父とカオルのことは、この誤解をとくだけでもう十分という気持が一方にはある。以前は、ふたりがずっとこのままのむつまじさを保ってほしいと願っていたのだけれど、時子と会ってみて、その気持は薄められた。
父と時子のまるで「親子」みたいなかかわりも悪くはなかった。いや、カオルとの場合よりも、もっと万穂子が心やすらかに入りこめるだろう。父を軸にして、時子と万穂子が姉妹のように支えあうことができたら、その関係は快適そのものになるのではないか。
カオルが煙草のけむりを吐きあげながら、話しかけてきた。
「余計なアドバイスかもしれないけれど、万穂さん、はじめての男性はよく考えて選んだほうがいいと思う。ろくでもない男に引っかかり、その男に振りまわされるのだけは、よしなさいね。老婆心《ろうばしん》だけれど、これだけは言っておきたいの。私や私のまわりの女たちの経験からだけど」
ろくでもない男に引っかかり、男に振りまわされる、その状態が、今の万穂子には理解できなかった。
そういう男に引っかからなければいいのだし、振りまわされなければいいだけの話である。また、もしそういう状況におちいったなら、そう気づいたときにその関係を切ってしまえばいいではないか。
晋の顔が、その裸身が念頭にともる。慎重に慎重をかさねて選んだ相手ではなかった。だが、まちがっていたという後悔はまったくない。できるだけ意味を持たない形で、くぐり抜けたかったという点では、晋はちょうどよい相手だった。
晋はやさしい。いい人だとも思う。しかし相変わらず友だちのままでとどまっている。今回の時子の件では、動揺した気持を根気よく吸いとってもらい、友だちのひとりとして、そばにいてもらったけれど、それは、晋でなければならないというものではなかった。
晋にしても同様な気持でいるような気がする。性的なかかわりを持ったからといって、彼が以前より熱っぽいまなざしをむけるわけでもなく、ごく普通に接してくる。
おそらく、晋も、性的なことを、さほど重要には感じていないのだろう。欲情は別にして、情緒面までそれにからめとられてはいないに違いない。
それは大人になるために、たがいの肉体的な違いを活用しあっての、ひとつの「練習」、そう見なしたほうが、むしろすっきりとする。愛とか恋は、また別のレベルのことだった。ベッドをともにするたびに味わう傷つけあう感覚も「練習」段階の、こなれのなさであり、いつかたがいの「男」と「女」を上手に溶かしてしまえるようになるだろう。
最初の男、ロスト・バージンの相手の男に対して、カオルは古めかしい神話を信じすぎていた。それは意外な一面でもあった。
女は男次第、男によって女の一生は左右される、これは母も頑固《がんこ》にも一貫していだいている考え方で、カオルのロスト・バージン神話に、どことなく似かよってもいる。
正反対な生き方をしていると思っていた母とカオルの流れの底には、男とは切りはなしては考えられない自分が、結局のところ、しぶとく根づいているのかもしれなかった。しかも、それは、男と並んで、仲良く手をとりあって立つのではなく、どこまでも男の足もとにまとわりつくイメージを連想させた。
気乗りのしない表情の時子に決意させたのは、「私たちのパパの名誉のため」という万穂子の言葉だった。
カオルの誤解は、時子に直接会って話せば簡単にとけるに違いない。
ふたりは、時子の勤めが終った午後六時半に、地下鉄・平岸駅で落ちあうことにした。
その日の時子の服装は、はじめて会ったときと同じグレーのスーツで、かなりくたびれかけている黒のバッグとロー・ヒールの靴、ブラウスだけが白の無地からストライプ模様のそれに変わっていた。
「バグダッド」へと並んで歩きながら、時子は恥じらいをふくんだ口調で言った。
「函館の実家に月々仕送りをしているの。就職するときから、それはもう決まっていたのに、私、札幌で働くことに憧《あこが》れて――」
考えが甘かった、時子は自嘲《じちよう》めかしてつづけた。
函館の実家にいて就職したほうが、家計を助けるには利口なやり方だった。仕送りをしながらのひとり暮らしは、毎月、食べてゆくだけで精一杯、おしゃれをする余裕などほとんどない。札幌にでてきたかった理由のひとつは、以前、婚約までかわした男性が二年早くこの街にきていたことである。彼は高校の先輩であり、万穂子の父の部下であるその男性との交際は高校生の頃からのものだった。
「お金持ちのお嬢さんのところに養子にゆく彼の気持が分らなくもないの。私のうちほどではないけれど、彼の家も裕福とは言えなかったから」
父の達也が時子をひんぱんに食事に招待し、旅行にまでつれだした理由が、ようやく理解できそうだった。そうさせてやりたかったのだろう。
「バグダッド」の明かりのともった看板が見えてきた。
「なんだか不安」
時子の声は緊張している。
「大丈夫よ。カオルさんは大人の女性。ちゃんと話を聞いてくれるわ」
店のドアを押して入る。
カウンターの中にアルバイトの女性が二人、カオルはカウンター席に腰かけ、煙草を吸っていた。客はまだ見当たらない。
「あら、万穂さん……珍しくお友だちと一緒ね。さ、どうぞ。カウンターでいいわね」
カオルの横に万穂子がすわり、その隣りに時子がおずおずとした様子で、椅子に浅く腰かける。
「何にします?」
「私はジン・トニック」
時子をうながすように振りむく。無言のうなずきが返ってくる。
「同じものをふたつ」
ほどなくグラスがふたりの目の前に置かれた。
「そちらの方も学生さんなの?」
カオルが柔らかな微笑で、ふたりを交互に眺める。
万穂子はさりげなく、けれど思いきって口にした。
「カオルさん、この方が、ほら、パパの新しい相手だと誤解されている……」
カオルの微笑が凍りついた。柔和さは次々と払い落とされ、やがて、能面の無表情さに固まる。
「はじめまして、川奈時子です。万穂子さんからお話をうかがって、私、びっくりして。板東さんと私のこと、あのう、全然そういう関係じゃないんです」
時子がしどろもどろにそこまで言って、言葉をとぎらす。
カオルは黙って、強い視線を時子にそそぎつづける。
気まずい雰囲気をやわらげようと、万穂子は口をはさむ。
「ね、カオルさん、これで分ってくれたでしょう。もし、やましいことがあるなら、時子さんもこうして会いにきたりしない」
「そうかしら」冷淡な口振りだった。
「あなた、私のことを探りにきたのじゃないの」
「まさか、そんな」時子はうろたえ気味に首を振る。
「カオルさん、考えすぎよ」
だが、もはやカオルの眼中に万穂子はいなかった。怒りをむき出しにした形相で、ひたすら時子をにらみつけ、喧嘩腰でまくし立てた。
「よくも、のこのことこの店にこれたわね。いい? 私がこんなことでだまされる女だと思っているの。さあ、白状なさいよ。達也さんとどんなふうに口裏をあわせようとしているのか。ほら、言いなさいよ。私は万穂さんほどうぶでもお人好しでもないからね。あんたのごまかしなんか、すぐに見破れるんだから」
カウンターの女性たちも、すみにたたずんで、ことのなりゆきを息をつめて見つめている。
カオルは、時子のほうへ身をのりだしてきた。興奮しきっている彼女を落ち着かせようと、万穂子は軽くカオルの腕に手をそえた。
「うるさいッ」
勢いよく払いのけられた。
万穂子は、いつものカオルらしからぬ様子にあっけにとられ、とっさの対応が思いつかなかった。
そのあいだにもカオルは言いつのり、わめき立てる。顔つきまで、ふだんのそれとはがらりと変っている。深いあきらめと、どこか突き抜けた断念のようなものは一挙にぬぐい去られ、顔立ちの鋭角的な美しさは、それだけにいっそう不気味なすさまじさで時子に迫りつづける。別人を見ているようだった。
「私を笑いものにするつもりなんでしょ。いいえ、分ってる。あんたは達也さんとぐるになって、私をだまそうとしている。そんなことぐらい、とうに承知ずみよ。私がおとなしくしているのを見くびって、まんまと万穂さんを自分の味方にして、そのうえで、達也さんまで奪いとる気でいるのよね」
時子の顔面は漂白されてゆく。唇がかすかにふるえてもいた。そのくらいカオルの目には狂気じみた炎が燃えたぎり、何かにとり憑《つ》かれたとしかいいようのない狂暴さを全身からまき散らす。殺気に近かった。
「達也さんの考えることぐらい、とうに見抜いている。あんたは万穂にそっくり。だから彼はあんたにだまされたんだ。そう、だますことができた。あの親子はとんでもない親子なのさ。親子のくせして、まるで男と女みたいに、腐れ縁の男と女のように、はなれられないんだ。あんたはそれを知ってて、達也に、あの薄汚ない根性の男にとり入った、そう、万穂そっくりだから、それができたんだ」
恐怖に顔面を引きつらせながら、その瞬間、時子は口を開いた。そして語尾をわななかせ、カオルにむかって吠《ほ》え立てた。
「板東さんを、そんなふうにけがらわしく言うなんて……ええ、そうよ、はっきり言ってあげるわ。あなたの思いこみ通りよ。私は彼の新しい愛人です。どう、これでいい? すっきりした?」
カオルの身体が激しく痙攣《けいれん》したかと思うと、手もとにあったガラスの水差しを握りしめ、時子に投げつけた。とっさに身をかわした時子の背後の壁に水差しはぶつかり、音を立てて砕け散る。
「畜生ッ。畜生ッ」
カオルの罵《ののし》りをあとに、万穂子と時子は店をとびだした。
しばらく夢中で走った。
息がきれ、時子が立ちどまる。
数歩先を走っていた万穂子が振り返ると、時子はハンカチを両目に当てていた。
「時子さん……」
「あんなひどい言い方をするなんて。私、くやしくて、くやしくて、わざと嘘を言ってやったの。でも、ごめんなさい、万穂子さん、私のせいでもっとややこしいことになってしまったわ」
「いいのよ、多分、あれでよかったのよ」
カオルの鬼としか思えない変貌《へんぼう》ぶりが目に焼きついていた。さらに父と万穂子について吐き散らした、けがらわしい言葉のかずかずも、毒矢のように胸に刺さり、その傷口はじわじわとひろがって痛みをましてゆく。
しかし、自分に代ってカオルに刃向ってくれた時子、自分と同様にショックを受けながらも、しおれることなくカオルに仕返しをしてくれた時子の気持はうれしかった。
カオルが父にどういう報告をするのかは分らない。
だが、あの状況、カオルのあの形相と一方的な罵詈雑言《ばりぞうごん》、殺気立った態度は、それを目のあたりにした者でなければ、とても想像がつかないだろう。
そんなばかげた、と父が苦笑する光景ばかりが思い浮かぶ。笑ってとりあってくれないのは覚悟のうえで、万穂子は一応のことは父の耳に入れておこうと心に決める。
すべては自分が仕掛けてしまったことだった。カオルからだけの説明では、おそらく時子ばかりが悪者になってしまうに違いない。悪者呼ばわりされるのなら、むしろ、万穂子のほうなのだった。
時子を伴って帰宅すると、居間にいた母と夕利子は、面食らった表情をかくそうともしなかった。
万穂子が自宅に友だちをつれてきたことなど、いっぺんもなかったからである。
が、世間体や外聞にとりわけ敏感な母は、如才《じよさい》ない笑顔で時子を迎えた。
「まあ、いらっしゃい」
「お友だちの川奈時子さん。川奈さん、母と姉です」
「はじめまして、川奈です」
時子はカオルの前で示した緊張とは別の、どこかとりのぼせた、どぎまぎとした会釈をした。まぶしそうな視線を母と夕利子にむける。
「何か?……」にこやかに母がたずねる。
「あ、いえ、あのう、あんまりおふたりがおきれいなもので」
はからずも時子のその言葉は、一気に母の心をとらえてしまった。不器用な物言いが、素朴な真実味あふれるものとしてひびいたらしい。
「あら、あら」
母は上機嫌な笑い声を立て、夕利子も口もとをゆるませる。
「ところで万穂、お夕食は」
「まだよ。時子さんも」
すばやく食卓に食事の支度がととのい、ふたりは席につく。
すでに夕食はすませたという母と夕利子は、紅茶を入れ、クッキーをのせた洋皿をとりだしてきて、万穂子がとまどうような愛想のよさで同じテーブルを囲む。
母が時子に身もと調査のような質問をはじめたのに対して、万穂子は時子に代って返答した。
「時子さんは、もともとはパパの部下の方のお知りあいだったの」
カオルの一件をのぞいては、ほぼありのままを語った。また万穂子との最初の出会いは、父と時子が一緒のとき、街中で偶然に出会い、父に紹介されたのがきっかけ、ということにもした。
函館の実家に月々仕送りをしている、これを聞いたときの、母の反応は、万穂子をうろたえさせた。母にこういう面があったのか、とびっくりする反面、演技ではないのか、そう疑ってかかる幼い頃からの心の構えが同時に心を鎧《よろ》わせる。
「その若さで、ご実家に仕送り……さぞ大変でしょうねえ」
言いながら、母は涙ぐんだのだった。
「夕利子ちゃんより、たったひとつ上なだけなのに、ご苦労なさってるのね」
夕食後、ふたりは二階の万穂子の部屋に移った。
時子は、室内を興味深げに見まわし、やがてため息をつき、うっとりと言った。
「板東さんからお聞きしていた通りのご家庭ねえ。奥さまも上のお嬢さんも。そして、何か、こう、いい香りのするおうち……」
万穂子も妙に奇異な感じで、改めてわが家の空気を肌で受けとめていた。
客といえば篠田ぐらいで、夕利子と万穂子の友だちが押しかけてくることなど、ないに等しかった。また篠田が訪ねてきても、この家の雰囲気の色あいに変化は生じない。
だが今夜、時子を加えて、家の気配、そのたたずまいが微妙な揺れを流しはじめている。不鮮明にくぐもっていたものに、そのひとつひとつに、透明でまっすぐな光を当てられたような、そういうものと決めてかかっていたことが、別の角度からスポット・ライトを浴びて、まったく違った形をあらわしてきたような、そんな意外性をおびだしてきた――。
時子が机の上に重ねられたチェーホフの短編集二冊を指さした。
「チェーホフがお好きなの」
「それね、カオルさんからすすめられ、いただいた本なの」
「そう、カオルさんからの本……カオルさんについては、私はよくは知らないけれども、もしかすると、そんなに悪い人じゃないのかも……」
「ええ、そうなのよ。そうなのだけれど」
「たださっきの状態から判断すると、かなりヒステリックなところのある女性みたいね」
「私の知らない見たこともない姿だったわ、あれは」
カオルの苦悩のもとになっている誤解を、どうにかしてほぐしてやりたい、その結果が、こういうことになってしまった。万穂子はここ一週間ほどの目まぐるしさと、予想外の展開に、心の一部分が麻痺《まひ》したようなうつろさをおぼえた。
カオルを失いたくない、その一念からはじまった行動が、まったく正反対の結末になりそうだった。
だが、カオルのあの顔を見、あの言葉を聞いてしまった今、もはや彼女に寄りそってゆくことはできそうにもない。
カオルが、父と万穂子をどのように見なしていたか、逆上の状態を半分に差し引いても、そこに残るのは、やはり耳をふさぎたい悪意に満ちた内容だった。
いや、悪意だとあえて万穂子は決めつけたい。カオルのとらえていたことが、もし正解だとしても、認めたくなかったし、認めてはならなかった。
「あの親子はとんでもない親子なのさ。親子のくせして、まるで男と女みたいに、腐れ縁の男と女のように、はなれられないんだ」
子供の頃の、あの救いようのない渾沌《こんとん》の世界にもどることを、万穂子は拒否する。大人たちが発する、たくさんの言葉、その言葉を子供の万穂子も所有し、いくらでも使えるはずなのに、そのルールが分らない。大人たちがやすやすとかわしあっている言葉のルールが、幼い万穂子にはのみこめなかった。もどかしくてたまらない。
そのルールは、言葉は何かを表現しながら、同時に、表現された言葉の背後には、おびただしい沈黙――語ってはならない言葉がある。それをわきまえることだった。
子供の万穂子は、短い発語のたびに、母から叱《しか》られた。「なんということを言うの」。叱られた記憶ばかり残っている。ただ自分の口にした言葉は忘れてしまった。
言葉がひしめきあいながら、使う方法が見いだせなかった、汗ばむような苛立《いらだ》ちにつつまれていた年月は、ただ渾沌としていた。
十九歳の万穂子には、うっすらとあのルールが読みとれる。
カオルの言った言葉は、ルールからはずれるのだった。それを解明したくもない。
「親子のくせして、まるで男と女みたいに――」
この言葉は、できるだけ早く、こまかく切りきざんで記憶から捨ててしまおう。
ドアのむこうで夕利子の声がした。
「あのう、コーヒーとケーキ、どうかしら」
万穂子がドアを開けると、長方形の盆に三人ぶんのコーヒーカップとケーキが並んでいた。
夕利子らしい引っこみ思案なやり方で、それでも仲間に入りたい気持をこめての三人ぶんである。
「夕利子サンも少しおしゃべりしてゆかない?」
そう声をかけなければ、二人ぶんだけ置いて、自室に立ち去る姉の性格だった。
「私も、いいのかしら」
「どうぞ」
時子の人なつっこい笑顔につられて、夕利子もほほえみ返す。安堵《あんど》の色が目にやどり、童女めいた表情がのぞく。
唐突に、万穂子は胸がきしんでくる。つらさに似た感情だった。無菌状態のようにして育てられた姉が、あの篠田と結婚してうまくやってゆけるのか。彼は結婚を目前にしながら、他の女性とうしろめたい関係にあるらしく、そのことを釈明するために万穂子にわざわざ会いにきた。そのことを姉に忠告もせずにかくしつづけているのは、はたして正しい判断なのだろうか。
時子と他愛ない会話に興じている夕利子の姿を見つめる万穂子の耳に、玄関先の物音が伝わってきた。父が帰宅したらしかった。
「きょうのこと、聞いたよ。たった今、彼女の店に寄ってきたばかりだ」
背広からVネックのセーターに着がえた父は、二階の書斎の机の前の椅子に深く身体を沈ませ、万穂子が語りはじめる前に、そう切りだしてきた。その目もとには、淡い笑いがきざまれている。
万穂子と時子が「バグダッド」から逃げるようにして立ち去ったあと、カオルの荒れようはひどくなる一方で、たまりかねたアルバイトの女性が、父の勤務先に電話をかけてきたのだという。
彼は、さほど気にかけなかった。カオルの病的ともいえるヒステリックな状態は、いつものことだったからである。だから、そのまま書類チェックの残業をつづけ、きりのよいところまできて、ようやく会社をでた。
ついにやってしまったか、という思いが父にはあったようだ。電話のむこうで、アルバイトの女性が万穂子の名前を告げてきたときから、父は今回はこれまでどおりにはおさまらないだろうと覚悟は決めたという。
「バグダッド」へ行くと、店にカオルの姿はなかった。二階の住居に引きこもってしまっていた。
そのため父は、アルバイトの女性たちから、事の一部始終を聞くことができた。
「驚いたよ。万穂と一緒に川奈くんもきたというのだからね」
「川奈さん、私の部屋で夕利子サンとお話をしているわ」
「ああ。さっきママから」
カオルは、やや落ち着きをとりもどしていた。が、散乱した部屋の有様は、カオルの数時間の狂態を如実に物語り、父は、見馴《みな》れた光景とはいえ、やはりうんざりさせられた。
これまでと違って、父は寛大にはなれなかった。カオルが万穂子と時子に投げつけたという言葉のどれもが許しがたい。
カオルと別れる潮どきだろう。父の達也の心中をすばやく察したカオルは、その足もとにひれ伏すようにして謝りはじめた。もう何十回となくくり返してきたパターンでもあった。
「彼女は万穂の前では、物分りのよい大人の女を演じてきたから想像もつかないだろうが、わたしはこの四年間、正確には三年半ぐらい彼女のああいう姿を見せつけられてきた。異様に嫉妬心と独占欲の強い女で、そうだな、彼女のいちばんの嫉妬の対象は、きみだった。それでいて、きみを可愛いと思う気持も、まったくの嘘ではない」
実際、カオルは万穂子を傷つけてしまったことを父の前でわびつづけた。
もう手遅れだ、父は答えた。
「きみが怖れていたように、わたしは、きみよりも娘のほうを選ぶ」
カオルは黙ってうなだれた。ついに達也がそう断言した、ようやく白状してくれた、これで気がすんだ、とでもいうような平静さだった。
「これで、ようやくわたしたちの関係も終った」
父は晴れやかな笑顔をひろげ、それから椅子を回転させ、万穂子に背中をむけた。
「この四年間ずっと万穂にすまないことをしたと思っていたよ。父親の女性問題に、はからずも巻きこんでしまって。きみが彼女の店に行くのをとめるわけにもいかない……ただママや夕利子に内緒にしてくれた、これは感謝している」
そして父は、ひとつだけ不思議でならないのは川奈時子だ、と言った。
父は時子の前では、よき夫、よき父親である自分を誇張して語ってきた。そうありたい願望を多分にまじえて、そのイメージを保ってきたつもりである。また時子も、それを信じきっている様子だった。
そういう彼女に、万穂子はカオルの存在をどのように説明したのか。さらにカオルに会ってくれるように説得できたのか。
「パパは誠実な男、誠実であるがゆえにカオルさんとかかわらざるをえなかった、そういうことにしたの」
時子に父とカオルの関係を語ってくれたのは晋だった。ハンバーガー・ショップのアルバイトのあと、三人で会った夜である。事前に万穂子と打ちあわせしたのではない。
気がつくと、晋がいともなめらかにカオルの名前を時子に言いだしていた。
カオルは父の遠縁にあたり、これまでの人生は不幸の連続だった女性だった。ふたりが再会したときも、彼女はさまざまな出来事に立ち直れないくらいの打撃を受けていた。父はしぜんとカオルの相談相手になった。「バグダッド」を開店させるときも、達也はカオルの心の拠《よ》りどころとして、また、よきアドバイザーとして、かげで支えていた。
やがてカオルは父の達也に愛情を持ちはじめた。家庭を大切にする彼は、おかしな関係にはなるまいと心に決め、カオルにも何回となく言いふくめた。
だがカオルはあきらめなかった。父を必要とした。ついにカオルは言ったのだった。
「プラトニックな関係で十分。とにかく私のそばにいてほしい」
万穂子は、あの夜の晋の口調を思い浮かべながら、自分が言ったこととして父に語った。
「それで川奈くんは、納得したのか」
「ええ」
「なるほど、若いというのは、そういうことでもあるんだな。五十の男と三十八の女のプラトニック・ラブを疑いもせずに信じる……」
ふいに万穂子の頭に、晋の本心は、あるいは彼自身も意識していない本心は、これなのかもしれないという考えがひらめいた。
支えであり、助言者であり、だれよりも信頼しあいながらも、その関係はプラトニック、これは晋が万穂子との関係で望んでいることではないのか。だから、あんなにもなめらかに、即興にしては見事なほど、よどみなく語りえたのではなかったのか。
父は、カオルの、あのヒステリックな発作に、三年半も耐えてきたと言った。その我慢強さは、万穂子の想像を絶している。
だが、それは本当に忍耐だけの歳月だったのだろうか。十九歳の自分や晋が、どうあがいても理解しきれない、大人の性愛の何かが、父とカオルをむすびつけていたのではないのか。
万穂子の胸に、はじめて父を拒否する感情が立ちあがってきた。父とカオルのからみあった裸身が、あざやかに脳裡《のうり》にともる。極彩色の濃密さでうねる。不潔だった。目をそむけたい生理的な嫌悪にかられながら、しかし、万穂子は頭の中に描かれたそれを凝視する。しなくてはならなかった。
「パパ」
「ん?」
「パパはカオルさんだけじゃなかったでしょう。私が子供の頃から、パパには次々と何人もの女性がいたわよね」
「急にどうしたんだ」
「私、子供の頃から、それを知ってたわ。夕利子サンにはママがいつもいるのに、私のそばには、いつもだれもいなかった。パパはいてくれなかった……パパは、きっと、これから先もママ以外の女の人を必要とするのでしょう? 何回も、そうやって何回も……」
涙がこみあげかける。万穂子は必死にそれを押しもどす。
「パパの心の欠落は一体何? どんなつらさをかかえているの? 私はパパと同じタイプの人間みたいよ。そして、私には見えるの、自分の心の欠落とそのつらさが。簡単なことよ、私は両親から愛されない子供だった」
はっきりと口にだした。達也を傷つけるのではなく、母を苦しませるのではなく、自分自身がもうこれ以上みじめで、ひもじい思いを味わわないために、自分で自分に決着をつける。
「万穂、そんなことはない。パパもママもきみのことをとても大事にしてきたつもりだ」
「じゃあ、夕利子サンも大事にしてあげてよ」
万穂子は、篠田の一件を話した。
「あの人と結婚して、夕利子サンは幸せになれると思う?」
父は椅子から立ちあがった。
ゆっくりと振り返ったその顔は蒼ざめていた。
万穂子が晋とベッドをともにしたあとの、鏡の中に見る蒼さにそっくりだった。
「篠田君には、わたしからよく話をしておく。それから、万穂、ひとつだけ言っておく。親子ではなく、ひとりの人間としてだ」
父はそこで言葉を途切らせ、目に烈《はげ》しい光をたぎらせて、万穂子を見た。
「他人の心に土足で入りこむのはよしなさい。人はだれもが心につらさを持っている。だが、他人から、そのつらさをあれこれ言われるすじあいはない。心の闇とはそういうものだ」
万穂子は、ひるまずに見返す。
「闇をかかえる人間が、自分の子にも闇を持たせてしまうのね」
父の目に、一瞬、弱々しさが走った。
「万穂はいつからそういう女の子になってしまったんだ……」
万穂子はかろうじて口もとに笑みをはりつかせる。ようやく、それに成功する。
「多分、パパやママが私から長いあいだ目をはなしていたすきに」
父の書斎を出て、自室へもどりながら、万穂子は手の甲で涙をぬぐいつづけた。
時子と夕利子の笑い声がひびいてくる。
早く、あの笑いの輪の中に入らなくてはならない。
闇を共有できるのは、父の達也とだけだった。そして、たった今そのことを確信し、万穂子はある種のおだやかさを感じていた。
父が、もし話をはぐらかしたなら、闇はたちまちに憎しみに変色してしまっただろう。そうしなくてすんだことに満足している。
万穂子はこれから先、けっして父を憎まないに違いない自分が予感された。そして、父に言うべきだった言葉を舌の上でころがしてみる。
「私はいつだってパパの|切り札《ジヨーカー》になってあげる。カオルさんとパパが別れるきっかけを作ってあげたように」
六月、夕利子は結婚した。
夏のあいだ、万穂子と時子はひんぱんに会い、親しさを深めていった。
夏の終りの頃、万穂子と晋は、以前の友だちづきあいにもどることに決めた。そのほうが、自分たちにとってはしぜんだと、ふたりの気持は一致した。
十月に万穂子は二十歳《はたち》の誕生日を迎えた。
それからほどなく時子が万穂子の家に「下宿」することになった。夕利子の部屋が、それにあてられた。
憧《あこが》れの家庭の一員となった時子は幸せそうだった。
時子のその幸福は、父や母、万穂子の心にも、新鮮さをもたらした。
かつて父が時子に語っていた「理想的な家庭」が、ここにきて、はじめて築かれてゆこうとしていた。
四人とも、暗黙のうちに、自分の役割を心得て、破綻《はたん》は生じなかった。
万穂子は切り札ではない道化者《ジヨーカー》に徹する楽しさを満喫した。
時子の結婚は、それから三年後だった。
ジョーカー・27歳
志摩《しま》がいれてくれるコーヒーは豊潤でコクがあった。
おいしい、と万穂子《まほこ》が感じはじめてから半年になる。
その前の半年間は、そのつど味が違っていた。あとになって聞いたところによると、志摩は、万穂子の舌にあったそれを見つけだすため、コーヒー豆選びから、豆の挽《ひ》き具合、湯をそそぐテンポなど、かなりの試行錯誤をくり返したという。
万穂子はコーヒー通ではない。まずいかそうでないかは、漠然と区別はできるけれど、出されたものは黙って飲む。そのまずさを、いちいち寸評したり、顔をしかめたりはしない。それは食べもの全般にも当てはまることで、不快さは、なるべく表情にあらわさないのが万穂子の性格だった。
志摩がいれてくれるコーヒーについても、いっさい何も言わなかった。一回ごとの味の変化にしても、むしろ、内心ではおもしろがっていた。
だが志摩は、万穂子が目を輝かせて「おいしい」と思わず口走るその瞬間を、どうにかして実現させたかったらしい。
志摩|二郎《じろう》はそういう男だった。
万穂子は二十七歳、彼は四十歳になる。
白くて大きなカップに、たっぷりと入ったコーヒーをすすりながら、万穂子はベランダぎわのテーブルにつき、寝起きのぼんやりとした状態で、CDから流れてくるバロック音楽を、やはり弛緩《しかん》しきった身体《からだ》で受けとめていた。
キッチンからは、トーストを焼く香ばしい匂《にお》いが漂ってくる。
朝起きると同時にドアごしに耳に流れてくる快い旋律のクラシック曲、居間に行くとすばやく差し出される一杯のコーヒー、食事の仕度が整うまでの、放心のいっとき。週末のこうした朝が、すでに一年以上つづいていた。万穂子が着ている上質な綿のパジャマは、シルクに似た光沢を持つ白で、これも志摩からのプレゼントだった。
開け放ったベランダからは、初夏の風がレースのカーテンをそよがせながら忍び入り、その爽快《そうかい》な空気も、万穂子の目ざめをゆっくりとうながしてくれる。
何もかもが快適だった。
志摩と一緒にいると、その居心地のよさのあまり、ときどき得体の知れない不安が胸をかすめすぎてゆく。蟻《あり》のように黒くて小さなものの影が、ほんの一瞬、走り去る。
キッチンから志摩が長方形の銀の盆を手にあらわれた。
「今朝のサラダのドレッシングは最高のできばえだ。しかもごく低カロリー。万穂ちゃん、きょうの朝食は理想のダイエット食だ。ばくばく食べてくれよ」
万穂子はほほえみ返す。それに対して志摩は、ひとまわり大きな微笑で応《こた》える。
俗流紳士《スノツブ》を自称する彼は、いつも不思議なほどに上機嫌さをくずさない。また自分の精神のバランスをそこねるような出来事や事態からは、たくみに身をかわしてもいた。それが可能なのは、普通のサラリーマンではなく、趣味的にやっている画廊「ギャルソン」の経営者であり、さらにもっと怠惰《たいだ》に人生を送ろうとすれば、それも可能だからだった。
東京にうまれ育った志摩が、札幌にやってきたのは六年前である。名目は「画廊経営を手はじめに実業家の道を進む」ということだったらしい。だが、実際は単に「住み心地のよさそうな、自分がいちばん気に入っている札幌の街でしばらく暮らしてみたい」だけで、実業家として成功しようと思う気持は、まるでなかった。彼はうまれたときから、一生働かずにすむだけの財産を与えられていたからだ。
キッチンとテーブルを数回往復し、志摩はようやく椅子《いす》に腰かける。
朝の透明な陽《ひ》ざしの中にいて、彼の小麦色の皮膚は、十三歳下の万穂子のほうが引け目をおぼえるほど、若々しく張りがあった。すっきりと肉の薄い知的な容貌《ようぼう》に、それにふさわしい贅肉《ぜいにく》のない身体つきは、三十代前半と称してもおかしくはない。
「さ、万穂ちゃん、食事にしよう」
まだ食欲はわいてこなかったが、志摩にすすめられるままフォークを握る。
「来週、東京に行ってくる。ほら、年に一回おこなう画廊のオリジナル企画の下準備のために」
志摩はひと月に一回は東京へ帰る。版画家の妻のもとへもどる。ただせいぜい三、四日で、長居はしない。
「万穂ちゃん、やはり休みは取れないのかな。何回もしつこいようだけれど、一緒に東京に行けたらと思ってね。それに今回は、オペラも観《み》てこようと。きみにもぜひ観てもらいたいんだ。そのオペラ、かなり評判がいいらしい」
志摩とつき合いはじめてから、この一年間で観た映画や芝居、コンサートは一体どのくらいのかずになるだろうか。観終ってから、その感想を述べ合ったり、ともに感動したり、あるいは退屈だったと苦笑をかわしたりすることが、志摩にはこのうえない楽しみらしい。
「休みは無理よ。来週のスケジュールはもうびっしりだもの」
「そうだよなあ……きみの仕事はとにかくハードだから。いや、ぼくからするとハードすぎる」
ふいに冗談とも本気ともつかない腹立ちを、その声にこめてきた。
「本当に、万穂ちゃんは働きすぎだ。あの会社は人間を酷使しすぎるよ。投書してやろうか」
もちろん、最後の言葉は冗談だった。が、万穂子は調子をあわせる。
「よして。人数の少ない職場だから、すぐにバレてしまうわ」
「そうか。じゃあ、こういうプランはどうだ。きみがもっと人生をエンジョイできるような仕事を探す」
「今の仕事、私は好きなの」
小さな出版社が毎月発行している雑誌の編集者というのが万穂子の今の職業だった。大学を卒業してから三年間、新聞社でアルバイトをし、ようやく念願の編集の仕事にありつけた。志摩と知り合うきっかけになったのも、その雑誌だった。
おととしの秋、画廊「ギャルソン」では、北海道在住の数名の女流画家の作品展を開催した。志摩のオリジナル企画である。それを取材し、雑誌に掲載したのが万穂子だった。
「編集者をやりつづけていたいか……万穂ちゃん、いっそのこと編集長になったらどうかな」
「編集長?」
「ああ。そうしたら、もう少し時間の余裕もできて、ぼくと行動をともにできる。つまりだ、きみのために、ぼくは出版社をひとつ創《つく》る」
またはじまった。万穂子はわざと聞こえないふりを装う。フォークでスクランブルエッグをすくいあげ口に運ぶ。
うっかりして余計なことを言ったなら、志摩は真剣に出版社設立を考え出すに違いなかった。
以前に、仕事に疲れはてた万穂子が、あからさまな愚痴を言うかわりに、喫茶店をやってみたい、とつぶやいたことがある。志摩の腕を枕《まくら》にした裸の状態だった。本気で? 彼はたずねた。万穂子はうなずき返した。それから一週間ほどがすぎた日、会社に電話がかかってきた。
「万穂ちゃんのイメージしているのにぴったりな物件が見つかった。あそこなら、きょう、あすにでもオープンできるよ」
志摩の金銭感覚はサラリーマン家庭に育った万穂子には、とうてい理解しかねるところが少なくない。
また四十歳とは思えない無邪気さも、ときにはとまどってしまう。とまどいながらも、それは彼の魅力でもあった。
無邪気さをいまだに残す一方で、志摩は大人の男の節度をわきまえてもいた。妻について語ったのは、これまで一回だけだった。自分から口にしたのではない。万穂子が、映画や芝居に自分をひんぱんに誘う彼のこまめさに感心して、思わずきいてしまったのである。
「東京にいた頃は、いつもこんなふうに奥さま同伴で?」
そのとたん志摩は無表情になった。そして、おだやかに答えた。
「いや、ワイフは人なかに出るのを好まない。人間というか他人が好きじゃない人でね」
万穂子はいそいで冗談口調でその場を切り抜けようとした。
「でも志摩さんとご結婚なさったわ」
志摩も笑いをふくませた声で返答した。
「昔、結婚した当初は、ぼくは彼女が彼女自身を愛するのと同じように彼女を大切にしていたからね。ぼく自身のことはそっちのけにして。でも、結局ぼくは、彼女にはなりえないという、ごく当り前のことに気づかされただけだった」
そして志摩はやさしい目で万穂子を見つめた。
「ありがとう。いつもぼくにつきあってくれて。こういうのが夢だった」
サラダ・ドレッシングは志摩が自慢しただけあって、妙に食欲をそそるスパイスが加えられていた。生野菜がいくらでも食べられて、しかも飽《あ》きない。
ようやく食欲が出てきた万穂子の様子を満足げに眺めていた志摩が、正方形に切った薄いトーストにレバー・ペーストを塗りながらたずねた。
「きょうは土曜だけど仕事は?」
「座談会の記事をまとめるわ」
「また夜に会えないかな」
「残念だけど、姉と約束してあるの。久しぶりに夕食を一緒にしようって」
「そう」
つかのま気落ちした面持《おもも》ちになったが、次の瞬間には快活さを取りもどしていた。椅子から立ち上り、書斎へむかってゆく。
「忘れてたよ。夕利子《ゆりこ》さんにと思ってハンカチを買ってあったんだ。いや、デパートにふらりと立ち寄ったとき、とてもきれいなハンカチが目にとまってね、もしかすると夕利子さんの好みかもしれないと勝手に考えた」
志摩は万穂子の姉の夕利子と会ったことはなかった。夕利子にしても志摩の名前さえ知らない。
志摩はひらたい小箱を手にしてテーブルにやってきた。
「はい、これ」
それから、うしろにかくしていた片手を勢いよく突き出した。厚味のある長方形の箱だった。
「こっちは万穂ちゃん。夏のブラウスだ、気に入ってもらえるといいけれど」
志摩からのプレゼントは、これでいくつになるのだろう。この一年間で万穂子は急に衣裳《いしよう》持ちになってしまっていた。どの服も華やかで高価、万穂子自身ではとうてい買えそうにない品々だった。
最初の頃、プレゼントされるたびに、うれしくて胸がときめいた。
今は、奇妙なためらいをおぼえる。ほんの数秒間、プレゼントを受け取る手が迷いに揺れる。志摩がそれらしい仄《ほの》めかしさえしたことはないのに、なぜか彼の財力におもねっているような、媚《こ》びているような苛立《いらだ》ちを感じる。
「ありがとう」
一応そう言ってから、万穂子はここ何回となく口にしている言葉を、またもや口の中でつぶやいていた。
「その気持だけで十分なの。品物まではいらないの」
志摩の住むマンションの部屋から、そのまま出社し、座談会の録音テープを原稿に起こしたものに目を通して数カ所の手直しを入れると、その日の仕事は一段落した。
来月号の発行を無事終えたばかりの土曜日、編集室に出てきているのは万穂子だけだった。
夕方、会社を出て、地下鉄・大通《おおどおり》駅にむかう。
志摩には、姉の夕利子と夕食の約束があると言ったけれど、それは嘘《うそ》だった。
二年前、夕利子は篠田《しのだ》と離婚して実家にもどってきた。六年間の結婚生活の中で子供はいなかった。離婚の原因は、篠田の、もはや病いとしかいえない女性関係の乱れにいやけがさしたとのことだったが、万穂子は、姉の離婚は母の信子《のぶこ》の死と無関係ではないように思われて仕方がない。
信子は、夕利子が篠田家を出る半年ほど前に癌《がん》で亡くなった。享年四十九歳。身体の不調をうったえて病院へ行き、即刻の入院、それからたった三カ月後に死を迎えた。
万穂子より三つ上の夕利子は、信子に溺愛《できあい》され、篠田との結婚も、自分より信子の意向を優先させてのものだった。夕利子は母の人形ともいえた。
しかし、信子の死にあたって、夕利子は取り乱さなかった。人前で涙を見せることもなく、ごく平静な態度を保ちつづけた。
それから半年後、夕利子は実家にもどってきた。弁護士に離婚届けをあずけ、さらに夕利子が依頼した篠田の身辺調査報告書も渡し、もう二度と婚家の敷居をまたがない覚悟だと、万穂子と父の達也に言った。そのときも、夕利子は内心の強い決意をみじんも見せない涼しげな表情と、おっとりした口調で淡々と語った。
信子の死は、かなりまとまった金を夕利子にもたらした。生命保険の受取人として夕利子の名前が証書に記されていたからである。達也と万穂子の名は、そこにはいっさい見当らず、信子の徹底してかたよった愛情に、残された父娘《おやこ》ふたりは顔を見合わせて、苦笑するしかなかった。
夕利子は、自分が受け取った保険金を父と妹の三人で等分に分けようと申しでてきた。
父は首を横にふった。
「死んだママの気持を素直に受けなさい。それが供養というものだろう」
万穂子も同感だった。
だが夕利子は父の言葉にはおとなしく引き下がったが、万穂子には折を見ては熱心に説得しつづけた。万穂子は笑って相手にしなかった。
ある日帰宅すると、自室の机の上に、万穂子名義の預金通帳と新しい印鑑が置いてあった。夕利子が考えあぐねたすえに、そうしたらしい。
どうしたらいいのだろうかと万穂子が相談したとき、父は言った。
「そこが夕利子とママの性格の違いだろうな。もらっておきなさい。姉妹は仲良くするのがいちばんだ。いずれわたしもきみたちより先に逝《い》ってしまうだろうから」
しばらくして夕利子と篠田との離婚は成立した。
どういう話し合いがなされたのか、夕利子には慰藉《いしや》料が支払われた。
夕利子には離婚も母の死も、さしたる影響をおよぼしていないかのようだった。
むしろ、以前よりも伸びのびとふるまい、三十歳になった現在、ようやく青春を思いっきり謳歌《おうか》する日々を送っている。
実家にもどってからの夕利子は、さまざまな趣味のサークルに入り、急速に友だちをふやしていった。
一応、信子に代って家事全般を引き受け、その合い間に、写真、アートフラワー、書道などの習いものにいそしんでいる。どれも、まったくの楽しみで、そのうち免状を取得して、自分で教室を開こうというつもりもないという。
父の達也は五十八歳になる。
かつて勤めていた会社を定年前に退職し、今は大手の建設会社の傘下にある不動産会社の重役の座についていた。
万穂子が志摩の所で週末をすごしはじめたのと前後して、父も週の半分は外泊するようになった。その連絡先の電話番号は、娘たちに教えられていた。
娘たちもそれ以上くわしく追及はしなかった。ただ二人の意見は一致していた。
「パパがこの家に後妻を迎えるときは、パパの新しい家庭のじゃまにならないように自分たちはここをでよう」
だが父は、それらしきことにはひと言もふれなかった。
外泊の理由を説明しない、また説明も求めない、この暗黙の了解のうえに立ち、父娘三人の生活は、平穏にいとなまれている。
万穂子の金曜か土曜の夜の外泊についても、父も夕利子も何もたずねなかった。
「週に一回は宿直なの」
この言葉を二人とも深く詮索《せんさく》はしない。といって信じているとも思えない。
志摩にしても万穂子の家族構成は知っていた。
姉と一緒に家で夕食をする約束がある、という言い方に不思議そうな表情をする人々もいる。「同じ一軒の家に住みながら、どうして約束など必要とするのか」と。
しかし志摩はすんなりと納得する。そういう家族のかかわり方や、家庭の在《あ》りようが、彼にとっても不可解ではないらしかった。妻は東京に住み、彼はほとんど札幌で暮らす、この形は一般的に別居生活と呼ばれるけれど、志摩には、そうした意識はないようだった。別居とは一度も口にしたことがない。「好みの違い」とは言っていた。
六月末のその土曜日、夕利子と夕食をともにする約束はなかった。姉のもとには、いつもどおりに友だちが集まってきているだろう。
志摩のマンションの部屋は、快適そのもので、彼のいれてくれるコーヒーも手料理も、そしておしゃべりも申し分がなかった。
ただ、それは半日間だけでよく、正確には夜から翌朝まで満喫すれば、万穂子の満足感はみたされる。
志摩を愛してはいるのか、そう正面切ってきかれたなら、即答はできない。肯定も否定もできずに、言葉をにごしてしまうだろう。肯定するのは不安だった。自分は、はたして志摩個人を愛しているのか、彼がかもしだしてくれる、あの快適さに魅了されているのか、明確に区別ができない。
否定するのは怖《おそ》ろしかった。否定するぐらいなら、むしろ目をつむり、心のどこかに封印をして、愛している、と叫んだほうがずっとましに違いない。
彼を愛している、と言いきるには、志摩は万穂子にあまりにも与えすぎていた。お互いの関係に欠けている部分、埋めつくせない部分をひりつくような思いで感じ取ったときこそ、人はその不足から目をそらし、いそいで愛という言葉でおぎなおうとするのかもしれなかった。
均一な絹の柔らかさに包まれていると、愛が実感できない。少なくとも万穂子はそうだった。粗《あら》い麻の、多少は肌が痛くなるようなザラつきの関係の中にあって、愛のぬくみの貴重さがようやく切実に感じられてくるような気がする……。
志摩は、あいにくと、そういう核心にふれる問いかけはしなかった。
ただひたすら万穂子に与えつづける。
おそらく彼も分っているのだろう。もし、たがいの愛情を確認しあう会話を持ちだしてきたなら、関係はぎこちないものになってしまう。なぜなら志摩には東京に妻がいる。最後に帰ってゆける場所としての妻。
万穂子にも、志摩以外にそういう居場所が必要だった。今のところ、夕利子の待つ家が、母を失った家が、父が週に数回は帰ってくる家がある。
幾層にも心のひだを折りたたんだその頂点の、もっとも華やいだ位置に志摩がいた。
将来を誓い合わない恋人とは、そういうものかもしれなかった。
愛情とは別のレベルで、恋人を持つことはできる。欲望さえ持てばいい。それは肉体的なものにかぎらず、自分の何かを反映させたり、投影させたり、あくまでも自分を主軸にして異性をからめ取る。その意味で、恋人は基本的に美しくなければならなかった。容姿ではなく、自分を光り輝かせてくれる存在として、ダイヤモンドに似たガラス玉の美しさが不可欠だった。
真駒内の自宅に帰ると、玄関先にまでにぎやかな声があふれ、その活気に万穂子は一瞬たじろいだ。
が、これぐらいでいいのだ、と夕利子の顔を思い浮かべながら気持を切りかえる。
姉のかげりのない笑顔は気持を落ち着かせる。結婚前の夕利子は声を出して笑うことなどめったになく、いつも母のかげにかくれて、淋《さび》しげなほほえみを浮かべていた。その姿ははかなく、あぶなげだった。
家の中に入ってゆくと、居間のソファ・セットのぐるりには夕利子と同年輩の男女数名がスナップ写真を手に笑い興じていた。
「いらっしゃいませ」
万穂子は愛想よく声をかけた。
「またおじゃましています」
夕利子といちばん気があうらしい小柄で童顔の女性が、にこやかに挨拶《あいさつ》をする。週末には必ずやってくるひとりだった。
「ごゆっくりしていって下さいね」
おしゃべりに熱中していた夕利子が顔をあげた。
「あら、万穂ちゃん、お帰りなさい。今夜の食事はお楽しみよ。三種類のカレーの食べくらべなの。三人がそれぞれご自慢の腕をふるってくれるのですって」
カレーの匂いが充満してはいた。だが三種類のカレーをこしらえているとは、さぞかしキッチンは大騒ぎの状態だろう。
先週は、やはりだれかが冷しラーメンの自信作とやらを作って、皆に披露した。万穂子も仲間に加わって食べてみたが、なかなか工夫された盛りつけと味のよさだった。それが書道サークルで親しくなった二十代の男性の手によると聞いて、いっそう感心した。
こうやって、なんということもなく集まり、それぞれが夕食を担当し、トランプをしたり、ゲームに歓声をあげたりと、夕利子のまわりに集まる人々は、他愛《たあい》なくも無邪気で、万穂子は好感をいだいていた。
見たところ座の中心は夕利子である。けっして派手な言動で注目をあびようとしているのではなかったけれど、三十歳になって、衰えるどころか、さらにあでやかさをおびてきたその美貌《びぼう》は、人々の心をひきつけてはなさないのだろう。
女性たちは、いわば夕利子のファンのような存在、男性たちはファン心理よりも、もう少し濃い感情を持って集まってきているらしかった。そう万穂子は見なしている。
いつであったか、父もこの仲間と同席したことがあった。あとで万穂子に冗談めかして耳打ちした。
「よさそうな青年が何人もいるな。あの中のだれかと夕利子が再婚してくれたらと思うのは、親の欲張りかな」
父にしては珍しく夕利子を思いやる言葉だった。それが万穂子にはうれしく、弾んだ口調で答え返した。
「私もパパと同じこと考えてたわ」
万穂子が二階の自室へ引き上げかけたとき、夕利子の声が背後から追ってきた。
「甲村《こうむら》くんもきているのよ。今ちょっとおつかいに行っているけれど、例によって万穂ちゃんに相談があるみたい。帰ってきたら、お部屋におじゃまさせてもかまわないかしら」
「ええ。どうぞ」
甲村|信一《しんいち》は二十四歳のサラリーマンで、夕利子が所属する写真サークルの仲間だった。
この家にくるようになってから半年になる。はじめて訪ねてきた日から、甲村は万穂子にしきりと話しかけてきた。他の者の視線が夕利子ばかりにそそがれる中で、万穂子だけがどこか上の空でいる、そのすきまに身をすり寄せてきたような感じだった。
話し相手になってくれる万穂子に、甲村ははた目にもそれと分るほど馴《な》れ親しみ、いっときは皆のからかいのたねになったりもした。
しかし万穂子は、自分に向けられる甲村のまなざしに、姉に甘える弟のような気持以上のものは、まったく読み取れなかった。
彼は親身になって自分の話を聞いてくれる相手を必要としていた。悩みを吸い取ってくれる者を、ずっと探し求めていたに違いない。それがたまたま万穂子だったにすぎなかった。
二階の自室で着換えをし、志摩からプレゼントされたモーツァルト全集のCDの一枚をセットする。「交響曲・41番」だったのか、と音が流れはじめて、ようやく無造作に選んだ曲のタイトルに気づく。
学生の頃は別にして、ここ数年、歌声を伴う音楽はほとんど聴かなかった。声が、言葉がわずらわしい。ぼんやりと放心状態でくつろぐとき、意味や説明をはらんで部屋いっぱいにひびきわたる言葉は、耳を疲れさす。
今、階下から伝わってくるさまざまな人声には、万穂子の神経は、むしろなごんでいた。街の喧騒《けんそう》のまっただ中にいても平気である。
志摩とのおしゃべりも、もうすぐ現われるに違いない甲村の話に耳を傾けることも、けっして嫌いではない。
だがCDやテープから吐き出される音声は、どうしても苦手だった。主張や訴えがありすぎて、しかもそれを緩和《かんわ》させる身ぶり手ぶりといった無駄がないために、言葉は純度を高めて細く鋭い針のように、内側に刺さりこんでくる。
志摩と知り合う前、新聞社でアルバイトをしていた時期に、半年ほどつき合った男性がいた。経済部の記者で、とても頭がよく、優秀で、ただ万穂子より三歳上の彼の唯一の欠点は、電話での長話が好きなことだった。ほかの女性なら、あるいは、それを欠点とは思わないに違いない。やさしさ、とか、おしゃべり好きな楽しい人、とか称するのだろう。
だが、万穂子には、彼の理路整然とした、よどみない話し方、しかもえんえんとつづくその内容はくたびれはてるだけだった。頭が明晰《めいせき》なあまり、次の言葉が周到に用意されていて、話の間がなさすぎる。言葉につまったり、どう表現しようかというためらいが、まったくない。
面と向かっている場合は、彼の表情のそのつどの動きが、言葉の切れめのなさ、シャープな物言いを柔らげてくれる。しかし、電話では、それが見えない。
まったくつまらない理由だが、万穂子はそうした相手との交際が息苦しくなってしまった。相手の明快な雄弁さは、見えすぎ、聞こえすぎた。暗がりの部分をはさめて、万穂子を休ませるということがなかった。
結局、彼とはどんなふうにして疎遠になったのだろうか、思い出そうとするが、記憶に残る鮮明な情景はよみがえってはこない。多分、イエス・ノーをはっきり口にするのは避けて、徐々にこちらから遠のいたのだろう。
ドアがノックされた。
「甲村です。入ってもいいですか」
「どうぞ」
背丈は最近の二十代半ばの男性としてはごく普通だった。ただ広い肩幅と、そこから引きしまった腰まわりへとつづく線が、たるみのない清潔さで、いかにも男性的な体型を作り上げている。志摩もそうであったが、万穂子は見るからに清潔感のある男性が好きだった。
半袖《はんそで》の紺のポロシャツに、ぴったりとしたジーンズをはいた甲村は、その男性的な身体の輪郭の内側に、生真面目《きまじめ》で傷つきやすい感性を、つねにふるわせているようなところがある。彼はカーペットの上にあぐらをかいてすわりこむ。
「この前の話だけれど、手を引くことにしたよ」
どの話だろう、甲村が万穂子に困惑とともに打ち明けた事柄はひとつではなかった。が、黙って彼の次の言葉を待つ。
つねに一定の長さに切りそろえられた短い襟足を見せながら、甲村はうつむきがちにつづけた。
「あいつもへんに頑固で、主任がかなり折れた態度で和解しようとするのに、まったく口をきこうとはしない。そのうちに主任もあたまにきたらしく、途中からまた依怙地《いこじ》になっちゃってね、おれもいろいろと取りつくろおうとしたのだけれど、駄目だった。あいつ、八月いっぱいで会社を辞めることになった」
職場でのその問題は春から聞かされていた。甲村と同期入社のある男性が上司との相性が悪く、甲村はどうにかしてその関係を円滑にさせようと同僚を説得してきた。ところが仕事上のトラブルが生じ、その非はだれにあるとは言いきれないにもかかわらず、主任は日頃から相性の悪かった彼に責任を押しつけたのだという。結果、関係はいっそうこじれてしまった。甲村は二人の和解の場をもうけた。しかし、失敗に終ってしまった。
「おれがかえってふたりの仲をこじらせてしまったみたいで、そっとしておいたほうがよかったのかもしれない、そう反省している」
「そんなことはないでしょう」
「いや」甲村は自分を責めてゆく。
「おれの力不足なんだと思う。もっとふたりが歩み寄れるように、しぜんとそうできるように、おれがお互いの気持を相手にきちんと説明すべきだった」
甲村のしんそこから後悔しているらしい表情と沈黙に、万穂子もそれ以上は立ち入らずに、ただ見守りつづけた。
しばらくして、甲村は別の話題を持ち出してきた。
それも前々から相談されていた内容だった。社内の一歳下の女性から、ひどく積極的な好意を示されている。周囲の者にも、すぐにそれと分るほどに大胆で、あからさまな接近の仕方に、甲村は正直なところ対応しかね、迷惑さえ感じているのだが、相手にどのようにしてそれを伝えるべきか、ずっと考えてきた。傷つけたくなかった。
「女の子って怖ろしいな。おれがまともに相手にしないのに我慢できなくなったらしくて、今度はおれの悪口を言いふらしているらしい」
「悪口?」
「ああ。おれはあんなふうにして、つまり、のらりくらりとした態度で女の気持をもてあそぶ男、卑怯《ひきよう》な男だ、と……」
「それで、甲村くんはどうしているの」
「何も。弁解もしない。無視しているだけだ」
「それしかないと思うわ」
「しかし、たまらないよ。あいつみたいにおれも辞表をだしたくなる」
甲村は力なく笑った。
「しかし人生って面倒だなあ。行動を起こしてもうまくゆかないし、じっとしていても中傷される。一体どうすればいいのか分らなくなって、カメラの世界に逃げこむだけ。おれって、本当に弱い人間なんだな」
「弱くないわ」
万穂子は強く断定する。これは志摩から学んだことだった。というより、志摩は万穂子が弱気な言葉をもらすたびに、いともすみやかに励まし、「そうじゃない」と言いきってくれる。そのあとたしなめたり諌《いさ》めたりするにしても、とりあえずは、万穂子そのものを丸ごと肯定する。
「甲村くんのやさしさを理解する人が、今のところまわりに少ないだけじゃないのかしら」
「やさしくなんかないよ。弱いだけ。げんに万穂子さんにいつもこうして愚痴を聞いてもらっている」
階下からふたりを呼ぶ声がした。三種類のカレーを食べくらべする夕食の仕度ができたらしかった。
翌日の日曜日、夕利子と二人きりで遅い朝食のテーブルについた万穂子は、志摩からわたされたハンカチ・セットの小箱を志摩の名前は伏せて差しだした。父は昨夜も帰らなかった。
「あら」夕利子はうれしそうに頬《ほお》をゆるめ、さっそく包装紙をといてゆく。
ハンカチは三枚、いずれもフランス製である。黒地にサーモン・ピンクの鮮やかな花模様、パープル系の濃淡の一枚、淡いグリーンに銀の細いチェックが入ったもの。
「万穂ちゃんからいただいたハンカチ、もうずいぶんたくさんになったのよ」
夕利子は大切な品を扱う手つきで広げたハンカチをふたたび箱におさめる。その箱を食べ物のしみなどがつかないようにテーブルの端に置き、輪切りにしたフランスパンとバターの容器を引き寄せた。パンにバターを塗りながら、いたずらっぽい口調で言う。
「もうそろそろ秘密を教えてくれてもいいのじゃない?」
「何のこと?」
万穂子は二杯目の紅茶をティー・ポットからそそぎながらきき返す。
「万穂ちゃんは、本当に水くさいのね。昔、ママが嘆いていたことがあったけれど、分るような気がする。だって、仕事の話もしなければ、どんなお友だちがいるのかも全然教えてくれないでしょ」
どれもあなたには関係がない、万穂子は胸の中で答える。冷淡に突き放す気持からではなかった。いちいち報告し、説明するのは、ただ面倒だった。
それに夕利子の場合は、今は他人のことよりも自分自身に目をむけていてほしかった。彼女を支配してきた母が亡くなり、無自覚のままスタートして万穂子の懸念《けねん》どおりにこわれてしまった結婚生活からも解放され、夕利子はようやく自由になれた。これからどうしたいのか、どのように生きてゆくつもりなのか、夕利子は自分の考えを持たなくてはならなかった。だれに強《し》いられたのでもなく、自分自身の心から発する言葉を持ちえたとき、万穂子も安心して姉から目がはなせる。
押し黙って食事に専念している妹の、そうしたそっけなさに馴れている夕利子は、相変らずの屈託のなさでたたみかけてきた。
「じゃあ、私から質問してもいい? このハンカチは万穂ちゃんが買ってくれたのではないのでしょ」
このハンカチの好みは、万穂子らしくない、そう夕利子は付けたした。万穂子の趣味で選んだとしたら、もっと地味でシンプルな色柄になるはずである。
さらにこのハンカチは、ここ一年のうちに急に華やかになった万穂子の服装のセンスに相通じるものがある。
「つまりね、これはあくまでも私の想像だけれど、ハンカチを私にくださった方と万穂ちゃんのお洋服を選んだ方は同一人物じゃないのかしら。それも、あなたととても親密な間柄の男性」
「本当にすごい想像力ね。でも残念ながらはずれ。単なる私の気まぐれよ。そして単にそれがこの一年間つづいているだけ」
夕利子はそれ以上問いただしはしなかった。だが万穂子の言葉をうのみにはしていないらしい。余裕にみちたほほえみで万穂子を見るその表情は、自分の想像に自信を持っているそれだった。
「ところでね」
夕利子はテーブルから立ち上り、キッチンから洗い立てのイチゴと、それにかける生クリームを持ってきた。
「パパのことなんだけど、私、この前パパが家にいたとき再婚をすすめたの」
とっさに万穂子は顔が硬直した。気づかれないように紅茶の残りを飲みほして、呼吸を整える。
「だって、ここはパパの家よ。それなのに週の半分は別の所に泊って帰らない。おかしいでしょう? だからパパはその女性と再婚して、この家に落ち着くべきだと思うの」
父が再婚するときは自分たち娘はこの家をでるという取り決めだった……万穂子の心中を見すかしたように、夕利子はつづけた。
「で、私たちはマンションでも借りて住む。ふたり一緒でもいいし、同じマンションの別々の部屋でもかまわないわ」
万穂子は伏目がちにたずねた。
「パパはどう言っているの」
「そこなのよ、万穂ちゃん。パパは笑って取りあってくれないの。このままでいい、の一点張り。でね、あなたからもパパに言ってもらえないかしら、きちんと再婚するように」
ふいに腹が立ってきた。
夕利子はなぜ父にそれを言う前に、自分に相談しなかったのか。
父は再婚するのがもっとも望ましいなどと、どうしてあたまから決めてかかるのか。
「私はパパの再婚に反対よ。相手の女性がどういう人かは知らないけれど、とにかく家の中がごたごたするようなことはまっぴらだわ」
「だから私たちはこの家をでる……」
「でないわよ、私たちは」
「万穂ちゃん、それはあまりにも身勝手じゃない? パパの幸せを考えてあげなくちゃあ」
一体、夕利子はどんな気持から父に再婚をすすめたのか、万穂子にはまるで不可解だった。怒りがますますこみあげてくる。
自分はこの家をでても十分に自活してゆけるだろう。しかし、夕利子はいっぺんも就職した経験がなく、結婚前も結婚中も、そして現在も金銭的な苦労は味わったことがない。そういう夕利子がこの家をでたら、たとえ母の残した保険金があるにしろ、余計なつらさに身をさらすだけではないか。姉をほうってはおけない。ひとり暮らしなどさせられない。といって夕利子とふたりきりのマンション住まいは、考えただけで息がつまる。
相手が夕利子だからではなかった。志摩の、かなり広々としたマンションの部屋でも、万穂子は二日として彼と空間を共有できない自分を知らされた。一晩泊るのが精一杯で、長居は苦痛になってくる。あの部屋にいて、あれほど快適なはずなのに、早くひとりになりたいと思いはじめる。
自分以外の人間とともに暮らすには、万穂子にとっては、少なくともこの家のスペースぐらいは欠かせない。いつでも閉じこもれる自室があり、他者の気配をそう身近に感じないですむ、いくつもの仕切り壁があり、そうしたいと思えば浴室にもキッチンにも洗面所にも、だれとも顔を合わさずに行ける造り。
まったくのひとり暮らしなら、この家ほどの広さはいらない。だが夕利子との共同生活をするには、どうしても必要な広さだった。
それに父自身も、このままでいい、と言っているではないか。それなのに夕利子は、どうしてお節介なことをするのだろう。
「パパを再婚させるなんて、突然に言いだしたのは何か原因でもあったの」
万穂子は怒りを抑《おさ》えながら、できるだけ平静にたずねた。
「うちに遊びにくるお友だちがみんな、おかしいって言うのよ。娘たちがパパを追いだしているみたいだって」
「だれがそんな無責任なこと言うの」
「だからみんなよ。みんなが口をそろえて」
「それは、要するに、あなたがそういう家庭内のことをしゃべったからでしょう」
「だってお友だちがきくから」
「きかれても黙っていればいいじゃないの。あなたって、本当に無防備ね」
夕利子はうなだれた。
やがて、指先で目がしらを押さえ、涙声になった。
「私、自分に自信が持てないのよ……トシのわりに世間を知らなさすぎて……だからお友だちにいろいろと相談して……そのほうが間違いないと思って……」
万穂子は死んだ母の信子に、あらためて憤《いきどお》りをおぼえた。夕利子を溺愛し、世間から隔離するような育て方をし、その挙句、三十歳になっても、まるで幼児のような世智《せち》しか持てない娘にしてしまった。
母の死後、半年たって夕利子が嫁ぎ先からもどってきたときは、ようやく自分の意志で行動できるようになったと安堵《あんど》したのに、あれは何だったのだろうか。万穂子は、あの日の自信を夕利子に思い出させようとした。
「……ね、離婚のことを思い出して。あなたはちゃんと自分の判断でやれる人なのよ。私はそう信じているわ」
夕利子は顔をあげた。ぼんやりとしたまなざしを、あらぬかたに漂わす。
「あれは私の判断じゃないわ。確かに夫の素行調査はした。でもね、そうしなさいとママが言ったからなの。万が一のために証拠を握っておけと。でもママは死んだ。あのとき、私、ほっとしたの。ああ、これで家に帰れる。ママがいなくなったから、家に帰っても叱《しか》られない……」
万穂子の話にじっと耳を傾けていた父は、娘が口をつぐんでからも、しばらく何も言わなかった。書斎の机の前の革張りの椅子に身体を沈め、フローリングの床を見つめている。
耐えきれなくなって万穂子はうながした。
「パパ……」
父はゆっくりと正面のソファにすわっている万穂子へ視線をむける。他のことに気を取られていたような、うつろな目だった。
「それで、わたしにどうしろと言うんだね」
「どうしろって」
万穂子は、つかのま言葉につまる。
どうしていいのか分らないから、こうして父に相談したのだった。
「パパは夕利子さんのことが心配じゃないの」
「彼女はああいう性格なんだよ。ママが残してくれた金もあるし、いずれはわたしの保険金ももらえるように手続きはしてある。だから、この家でおとなしく、静かに暮らしていればいい。友だちにも恵まれているようだし」
親身さのまるで感じられない口調だった。
だが万穂子は無言で父を注視する。どんな感情もこめないよう用心深く心をたいらに保ち、目の前の五十八歳の初老の男を、あるがままに、どうにかして認めようとする。
「万穂子、きみはいくつになった?」
「二十七歳」
「夕利子は」
「三十よ」
「そうか。普通なら結婚して子供の一人や二人いてもおかしくはない年なんだな」
達也の目に奇妙に深く、暗いものが宿った。娘たちの年齢への感慨とか、いつくしみの情を凝縮させたものとは微妙に異なるまなざしだった。そこには、他者にむけて開かれてゆこうとする意志はない。どこまでも自分の内側だけを見つめる、閉じられた拒否の、暗い色合いがゆらめいていた。
この人は自分にしか関心のない男なのかもしれない、万穂子は十代の後半から漠然と感じていた思いを、ふたたびあらたにする。自分がもっとも大切であり、自分の心を不当に動揺させる事柄からは、できるだけ逃避しようとする脆弱《ぜいじやく》な神経の持ち主。それでいて「男として」という建て前を、なぜか万穂子の前ではかなぐり捨てて、むきだしの自分を示してくる。
それは自分への信頼かもしれない、かつての万穂子はそう思ったりもした。悪い気持はしなかった。
しかし、二十七歳の今は、父のその姿をある種の甘えとしか見なせない。
「万穂子、親という存在は、いや父親というのは、じつに無力なものだな。子を持ち、育て、それなりの希望を子にたくし、ところが子供がけっして自分の望みどおりにはならない事実を目のあたりにしたとき、何か人生の大きなワナにはまってしまったような心地になる。自分が仕掛けたワナかもしれないのだが」
「パパは私たち娘にどんな希望をたくしていたの」
「ごくごく平凡な生き方、考え方を持つ一生を送ってほしいと。だが、それは、おそらく無理なことかもしれないとも思っていた」
万穂子は父を見守る。父は一体、何を言いたいのか。
「信子とわたしは結婚すべきじゃなかったのかもしれない」
そして父は言ったのだった。
夕利子は自分の子ではないかもしれない。万穂子については、はっきりと自分の娘と断言できるけれど、夕利子には、どうしても最後の一線で納得がゆかない部分が残る。
父と結婚する前、母は、今の夕利子と同様に、たくさんの男友だちや女友だちに囲まれて遊び暮らしていた。父もしょっちゅう信子の家を訪ねてゆく仲間の一人だったけれど、取り巻きとまではゆかなかった。若い頃の母は美しく、じつに話の楽しいチャーミングな女性で、その家に集まる男性たちの中で彼女に憧《あこが》れていなかった者はいなかっただろう。取り巻きのうち何人かの男性は、母の恋人だという噂《うわさ》もあった。
ある日、父は母の両親から呼び出され、娘をもらってはくれまいか、と頼まれた。父の誠実さを見こんだとのことだった。父は有頂天になり、その場で快諾した。
「信子と結婚するまでは、確かにわたしは自分でも誠実な男だったと思う」
ところが、お嬢さん気分の抜けきらない母は、新婚家庭も実家にいたときと同じ状況にしてしまった。つねに、さまざまな男女が出入りする場として開放した。
「ママがあれほどまで夕利子を可愛《かわい》がったのは、わたしを怖れていたからだ。わたしが、そのことを知って、夕利子に危害を加えるかもしれないと。反対にママは万穂子には冷淡だった。きみがまぎれもなくわたしの子供だから」
話を聞きながら鳥肌立つ不快さに包まれてきた。
父がどうしてこういうことを娘に告げるのか。なんの根拠があって、夕利子は自分の子ではないと言いきれるのか。たとえ、事実であったにしても、今さら口にすべきことではないだろう。いや、それよりも、これは父の妄想にすぎない。もはや執念に近い妄想――。
万穂子はとっさに挑みかかる口調になっていた。
「パパはどこか神経を病んでいるのだわ。あるいは自分を正当化しようとしている。自分の女性関係の原因をママのせいにしようとするなんて。それに、そういう話はだれにも言わずに墓場まで持って行ってほしかった。私まで巻きぞえにしないで」
「わたしはただきみに理解してもらいたいと」
「理解? パパ、私に甘えないでよ。そんな話を一方的に聞かされる私の身にもなってよ、残酷だわ」
「そうだったのかもしれない。だが、わたしの夕利子への屈折した気持を、きみにだけは分ってもらいたかった。率直に言おう。わたしは夕利子については、いっさいかかわりたくないんだ。彼女はママに似すぎている。ママの若い頃そっくりだ」
「だから週に半分は外泊するわけ?」
父は答えなかった。
あなたは子供なのだ、万穂子は叫びたい衝動にかられた。母の信子も幼児性をふんだんに持っていたけれど、父も互角ではないか。
精神がまだいびつなままの子供同士が結婚し、子をうむ、それは万穂子にはほとんど許せないことだった。激しくこみ上げてくるものを必死に押しとどめ、万穂子はどうしても念を押しておこうと理性を働かす。
「夕利子さんはパパに再婚をすすめたそうだけれど、パパの本心はどうなの」
「まったくそのつもりはない」
「本当に?」
「ああ。この家は万穂子、きみにやりたいと思っている」
夕利子はわたしの子ではない、父のこの言葉に万穂子は何日間も苦しめられた。
父のそうした心中を知らずに、きょうはパパが帰ってくるに違いない日だから、と夕食の献立を父好みに工夫し、うれしそうにその帰宅を心待ちにする夕利子の邪心のなさを見ていると、いっそう胸がしめつけられた。
達也を憎んだ。思いっきり罵倒《ばとう》する夢もくり返し見た。軽蔑《けいべつ》もした。むしろ夕利子ではなく自分が父の子でなければよかったと、その感情のうねりを持てあましながら、本気で思いつめた。
夕利子にはぜったいに知られてはならなかった。彼女のもろい神経では、おそらく耐えられないだろう。だが、そのもろさこそ父の血すじを引いているのではないのか。
やがて万穂子は、父は何か壊《こわ》そうとしているのかもしれないと思いはじめた。きっかけは何もない。
ただ達也の、夕利子をわが子として否定しようとする心理、それをあえて万穂子に語ったときの外界からの光をいっさい遮断《しやだん》しようとしているみたいな暗い目を思い出すたびに、自虐と他虐がないまぜになった狂暴さをうっすらと感じ取る。静かに、とても静かに、それは何かを崩壊させようとしている。
もしかすると、それは父の年齢と、その老いの意識がなせるわざかもしれなかった。父は自分の死とともに、自己の生にまとわりついてきたいっさいを葬り去ろうとしているのだろうか。
老年と呼ぶには、他の同世代の男性にくらべて父は若々しかった。外見は若いけれど、その内側に刻まれてゆく年齢は着実に死に近づいてゆく。
父は、まだ少しも枯れてはいないのだった。実際に枯れきってしまう前の、激しい命のたぎりが、ここで一気に壊せ、と命じてくる。不本意なものをことごとく消し去ってしまおうとする。
そして父が壊したいのは、夕利子ではなく妹の自分のほうかもしれない、と万穂子は、ある日ふいに身ぶるいとともに思いいたった。
十九歳の頃、父の愛人であったカオルが投げつけてきた言葉が、鮮明に思い浮かんできた。
「親子のくせして、まるで男と女みたいに、腐れ縁の男と女のように、はなれられないんだ」
この言葉は、記憶から完璧《かんぺき》に抹殺《まつさつ》したいもののひとつだった。だがそうしたいと願えば願うほど、それは万穂子の脳裏《のうり》にしぶとく残りつづけた。
わが子として認めたくないのは、というより他人であってくれればいいのにと父が願うのは、夕利子ではなく万穂子であり、父は本心からこの家を万穂子だけにやりたいと我執をさらけだしてきたのではないのか。
父は壊したがっている。壊したがっているものの正体が淡く見えかけた瞬間、万穂子はいそいで思考を停止した。身ぶるいがした。嫌悪のほてりと寒気が交互に皮膚を走り出す。
夕利子はわたしの子ではない、余計な想念を払い落としながら、この言葉だけを引き寄せてくる。ふところにしっかりと抱きしめる。
父の言葉から夕利子を守りたかった。
それはとりもなおさず達也が壊したがっているものを、けっして壊させはしないことでもあった。
その日の午後の飛行機で帰ってきたばかりの志摩は、東京で買ってきた上等の白ワインとキャビアで万穂子を迎えた。
いつにもまして上機嫌な様子から、秋のオリジナル企画は順調なすべりだしらしいと万穂子の心も久しぶりになごんでくる。
父が語った夕利子の出生にまつわる件は、志摩が不在だった、たった一週間のことなのに、もう何カ月も重苦しさをかかえてきた気分だった。
「今回の企画はね、採算が取れるかどうかは度外視するつもりなんだよ。でも夢がある。そこが素晴しいんだ」
二十代のカメラマン、もしくはカメラマンの卵である人々を五、六名集めた写真展をやるのだという。もちろん全国から情報や作品を集め、参加してもらう人々には志摩が直接に声をかけ交渉する。
「はっきり言って、写真については、ぼくは素人だ。が、ここがスノッブの面目躍如《めんもくやくじよ》というか、ぼくの独断で選ばせてもらう。統一テーマも決めた。女性をテーマとする。ただしヌードはいらない。できれば、女性と風景とか、女性と街並みとか、女性像に何かをプラスさせた写真でやりたいんだ。万穂ちゃん、どう思う」
言いながら志摩の手は器用にクラッカーの上に、キャビアと生タマネギ、ボイルド・エッグのみじん切りを練り合わせたものを乗せてゆく。万穂子に手わたす。
キャビアは塩味がやや濃かったけれどおいしかった。ワインも、わざわざ東京から買ってきたというだけあって、押しつけがましさのない、軽快な舌ざわりである。おそらく何万円もしたに違いない。だが志摩は、こういう場合、値段をひけらかしたりはしなかった。おいしいものは単純においしさを味わえばいい。値段を聞いてしまうと、どうしてもその数字にまどわされて、正確な味を楽しめなくなりがちだからだという。
「私には写真はまったく分らないわ。でも年に一回のこの企画は、いわばあなたの道楽なのでしょう。だったら、とにかく好み優先でいいのじゃないかしら」
「ありがとう。そう言ってくれるとうれしいよ。じつは、すでに何人かの候補者をリスト・アップして、その作品ももらってきてある」
志摩が書斎にその資料を取りに行く。
万穂子は甲村のことを思い出していた。学生時代から全国のコンクールに応募し、いくつか入賞していると聞いている。プロのカメラマンにならないか、との誘いもあったらしいけれど、甲村は地道なサラリーマンになるほうを選んだ。
今、彼は職場の人間関係のわずらわしさで気持を滅入《めい》らせている。何らかの形で志摩のこの企画にかかわったなら、その気持も晴れるかもしれない。
書斎からもどっていた志摩に、甲村のことを話してみた。
「よさそうな青年じゃないか」
志摩は目を輝かした。いつもこうだった。万穂子が何気ない意見や感想、提案などを口にするたびに、彼は大仰に褒《ほ》めちぎったり、大賛成をしてくれたり、感心しきったうなずきを返してくる。それは遠まわしのお世辞やおだてだと分っていても、万穂子に少しずつ自信を与えてくれていた。
「作品を出品してもらうかどうかは別だけど、彼の作品もぜひ拝見したいな。万穂ちゃん、すまないがさっそくその甲村くんに連絡を取ってみてもらえないか」
志摩が広げはじめた資料は、カメラマンの顔写真まで添付されている詳細なものだった。カメラマンたちの作品はどれも人物像であり、共通のひとつのトーンがあり、志摩の好みを物語っている。
それらの写真を眺めながら、志摩は私が想像しているのよりははるかに人間が好きらしい、と万穂子はあらためて感じた。都会的に洗練された志摩の雰囲気や言動のうらには、人間の体温をひたすら求めている純朴さがひそんでいるのだろう。
また、どのカメラマンの顔も清潔で品がよい点も似ていて、作品と同時にカメラマンの容貌も選択の基準になっているようなのがおかしかった。
そのことを指摘すると、志摩はそれまで自覚していなかったらしく、一瞬虚を突かれた顔つきになり、それから小気味よい笑い声を上げた。
「本当だ。万穂ちゃん、これぞまさしくスノッブのきわみだ」
数時間後、万穂子はベッドの上で志摩の腕の中にいた。彼は性愛の面でも、途方もない快適さを与えてくれる相手だった。性愛が愛情の確認である前に、男と女の肉体の差が、いかに遊戯的に活用できるか、それを丹念に教えてくれた。志摩の、いたるところに示すそうした遊び心は、万穂子のどこか硬く一本気な性格を、不しぜんさを感じさせることなくほぐしていっているようだった。
天井を見上げ、志摩は世間話をするようなのどかさでつぶやいた。
「ワイフとね、離婚することになってね」
万穂子の耳が緊張する。いきなり聞かされる話だった。
「でも、じつに明るい離婚なんだ。ワイフが言うには、あなたはいてもいなくてもかまわない人だけど、籍が同じなのは気づまりだから別れたい。まったく彼女らしい発想でね、笑ってしまったよ」
志摩の次の言葉を万穂子は怖れた。離婚をきっかけに、もし彼が自分との同居や、より密接な関係を望んできたとしたら、それには応えられない。
また、いったんふたりのあいだに、そうした会話が交されてしまうと、同じ方向を見ているのならともかく、そうでなかった場合は、たがいの違いが浮き彫りにされ、その結果、関係は次第にぎこちなくなってゆくに違いない。表面上はたがいに相手の考えを了解しあったようでいて、心の中にはくすぶったものが残ってしまう。
考え方の違いは、できるなら、伏せたままにしておきたかった。直視したくはない。
万穂子は、志摩との関係は現状を維持していたかった。
ここ数年、大学時代の友人たちが次々と結婚している。豪華な披露宴、内輪だけのささやかな結婚パーティー、あでやかなウェディング・ドレスや金糸銀糸の刺繍《ししゆう》をほどこした打ちかけなど、どれを見てもうらやましさは感じなかった。ドレスの美しさに驚嘆はしても、結婚への夢や、あせりには結びつかない。
万穂子はなんとなく思いつづけていた。自分には結婚は無理だろう、むかないのではないか。
自分が育ってきた家庭の在《あ》り方の、その折りおりの記憶が苦く、克明に残りすぎていた。記憶から解き放たれる自信もなかった。母の信子を失った現在も、その家は相変らず秩序なくうごめいている。
家にいてもうんざりするだけだし仕事にも意欲が持てない、という理由から、結婚に踏みきる女友だちも少なくはなかった。
万穂子にしても父の達也、姉の夕利子にうんざりしないわけではない。だが、いつの頃からか、そこから逃げ出すよりも、あるがままを引き受けるしかないと心に決めた。父や姉との関係を見きわめずに、途中で投げ出してしまったなら、結局、それは他者との関係にも反映してしまうような気がする。
見きわめるには時間がかかる。おそらく、いわゆる婚期や出産適齢期と称される時期をのがしてしまうに違いない。
だが見きわめずに他者と結婚する勇気は、万穂子には持てなかった。
たった四人の家族だったのに、その何倍もの人間の姿を、家族一人ひとりに見すぎてしまったのかもしれない。
われに返ると志摩は離婚の話からはなれ、東京で観てきたオペラについてしゃべっていた。いささか期待はずれでがっかりしたという。
万穂子はほっとした。自分との関係と離婚のことは、志摩にとっても別のレベルでとらえている事柄らしい。
オペラの話題が途絶えたのを見計らって、万穂子は、夕利子のかわりにハンカチの礼を口にした。
「姉はどのハンカチも好みにぴったりだと喜んでいたわ」
「そう、よかった。これでも結構、心をこめて選んでいるつもりだったからね」
わずかにためらってから、万穂子は志摩に言ってみた。
「姉にそとで働くことをおぼえさせたいの」
それから夕利子のこれまでを手短に説明した。働くにあたって、もっとも心配なのは、夕利子が世間の空気というものを、ほとんど知らないことで、そのために他人の言動に左右されやすく、染まりやすい点を特に強調した。
「だから仕事や職場の人間関係によっては、かえって自信を失わせたり、人嫌いになったりしないかと……」
志摩は造作なく返答した。
「ちょうどよさそうな職がある」
「姉でも大丈夫?」
「ああ、大丈夫、保証する。画廊の受付けや手伝い。これならいいだろう? 今いる女性が辞めたがっているようだし、だいいち、このぼくがついている」
画廊「ギャルソン」の受付け係なら、夕利子にもどうにかやれるかもしれない。
志摩が、ぼくがついている、と言ってくれたのも心強く、うれしかった。
「ありがとう。でも、もし姉が役立たずで、むしろ足手まといになるようだったら、そのときは私にはっきりそう言ってくれる?」
「もちろん」
万穂子は思わず志摩に抱きついた。感謝の気持を、そんな形ででも精一杯示したかった。
万穂子を受けとめながら、志摩はやさしい口調でささやいた。
「きみの魅力はこういうギャップだね。ふだんはいたって淡々としている。それでいてふっと情の濃さがあらわれる。それがぼくのようないいかげんな男の目には、妙に物哀《ものがな》しさとなってうつるよ」
夕利子には、ふたりの関係は、とりあえず黙っておくことにした。これは話し合うまでもなく、すぐに一致をみた。
志摩は、夕利子におかしな遠慮はさせたくないから、と言い、万穂子は単に照れくささからだった。
数日後の夜、甲村と夕利子をまじえて四人でイタリア料理の店で食事をした。志摩の招待で、夕利子の形式的な面接と、甲村の作品を見せてもらうためである。志摩と万穂子は「雑誌編集をとおしての知りあい」だった。
夕利子と甲村は痛々しいくらいに緊張していた。
だが志摩の初対面とは思えない打ちとけた、人なつっこい態度につられ、ふたりはたちまちにくつろぎはじめた。肩の線から強張《こわば》りが消えてゆく。
志摩も彼一流のサービス精神を差し引いたにしても、ふたりを相当に気に入ったらしかった。
夕利子の「とても三十歳には見えない初々しい美しさ」への感嘆は、万穂子がこれまで耳にした女性たちにむける讃辞《さんじ》の中では際立って実感がこもっていたし、甲村にそそぐまなざしと口調には、まるで息子《むすこ》を愛《め》でる父親のような寛大さがあふれていた。
甲村が持参した彼の撮った写真は、たちまち志摩に気に入られた。
「素人の私ですが、あなたの才能はサラリーマンにしておくのは惜しい。いずれ、ぼくがしかるべき所にご紹介しましょう。約束します」
甲村は感激を全身であらわした。
「ありがとうございます。はじめてお会いした方から、このようなご好意……おまかせします……」
仕事への不安を稚《おさ》ない物言いで、しかし気取りもなく訴える夕利子には、くり返し言った。
「分らないことは、ぼくにおききなさい。知らないのは恥ではありません。だれでも最初は何も知らなくて当然なのですから」
夕利子の怯《おび》えたような視線は、志摩と万穂子のあいだをせわしなく往復していたが、やがて子供のように、こっくりとうなずいた。
イタリア料理の店を出てから、志摩が案内したのは静かなバーだった。予約してあったらしく、ふたつしかないボックス席のひとつにすみやかに通された。
バーでは、志摩は甲村と夕利子に自分の四十年の人生を、おもしろおかしく語り聞かせた。
「思わせぶりなのが何よりも苦手でしてね。おふたりに少しでも早くぼくという人間をのみこんでいただきたいのですよ」
話の内容は、万穂子がこれまで断片的に聞かされていたことと少しの矛盾もなかった。自慢に聞こえそうなことは、すべてスノッブの一言によって中和させるのも、いつものくせである。
甲村と夕利子が志摩に引きこまれてゆく様子が、その血が快活さを宿してゆくさまが、万穂子にはありありと感じられた。
自分もそうだった。志摩と知りあった当初、彼と会っていると、なぜか生きているという充足感が与えられた。心が活気をおびてくる。そういう他人に出会ったのははじめてだった。そのことを彼に打ち明けたとき、志摩は、万穂子の頬をゆっくりと撫《な》でながら答えた。
「それはぼくがからっぽの人間だからだよ。からっぽであるけれど四十年生きてきた経験、いやおうなく身についてしまったものがある。それをぼくは楽天的に全部プラスの要素に変え、若い人々に与えたいと思う。でも相性があって、ぼくが与えたくとも拒否する人間もいる。それは与えてもらうのがいやな人々でね、そういう人々は一生そういう生き方をするのだろうな。きみは、与えてもらいたがった。ただし、ぼくの勝手な想像だけれど、きみはやがて与えたがる側になる人だと思う。二十七歳、この年齢が一時的に与えてもらいたいと望んでいる。もともとぼくはからっぽ人間だが、もっとからっぽになりたい。だから、若い人たちにぼくが与えられるものを惜しみなく進呈してゆきたい。からっぽ人間のぼくと充実を願う若い人、たがいに求めるものが、ここで合致する。きみとぼくは運がよかった。こうして出会えたからね」
甲村の空白の度合いは分らない。
ただ夕利子のそれは、万穂子とはくらべものにならないくらい深くて広いはずだった。
夕利子が母の信子によって奪われてしまったそこを、志摩が仕事という目に見えるやり方でうめつくしてくれることを、万穂子はしんそこから願う。それは、父の達也にはけっしてできないことだった。
志摩が、他者に自分を与えながら、自分を無にしてゆこうとする男なら、達也は他者をつねに巻きこんで、そのために過剰になってゆく男かもしれなかった。
志摩と達也の大きな違いは、四十歳でそれを自覚するか、五十八歳になっても無自覚なままかだろう。
志摩には子供がいない。子供がいないからこそ、かろやかに自覚できることかもしれなかった。
八月がすぎようとしていた。
たったひと月のうちに、夕利子の変貌《へんぼう》には目を見張るものがあった。
午前十一時から夜の七時半まで画廊を手伝うかたわら、これまでと同じく家事を一手に引き受け、その忙しさをまったく苦にしている様子もない。
これまで通っていた写真、書道、アートフラワーの教室はすべて辞めてしまったという。週末ごとに集まっていた仲間ともしぜんと遠のき、だがその人脈はつかずはなれずに保っていて、画廊の催し物案内の葉書などの送り先に利用していた。
週の半分は外泊するけれど、曜日の定まっていなかった父にも、夕利子は自分から積極的に協力してくれるよう申しでた。
「パパ、私の夕食の仕度の都合もあるので、帰宅する曜日をあらかじめ決めておいてもらえないかしら」
その場に居合わせた万穂子も口ぞえした。
「夕利子さんはパパや私以上に大忙しの毎日なの」
娘たちの言葉を、外泊する自分への婉曲《えんきよく》な当てこすりと誤解したらしく、父は目のまわりを歪《ゆが》ませた。
「どういうスケジュールが、きみたちにとって望ましいんだね」
夕利子は屈託なくあっけらかんと答えた。
「あのね、一日置きというよりまとめてもらえると助かるのだけれど」
「分った。木、金、土にしよう。日曜の夜は帰る」投げやりな口調だった。
「ありがとう、パパ」
夕利子が風呂《ふろ》の湯かげんを見に居間をでていったあと、万穂子はさりげなく父に言った。
「パパが夕利子さんを見捨てようとしても、私は自分の姉をそんなふうにはさせないわ」
夕利子が仕事も家事も手抜きすることなく見事にこなすのを、万穂子もはじめは意外な驚きで見守っていた。だが考えてみれば、夕利子は小学生の時分から大学卒業まで、つねに成績は優秀で、勉強面における集中力、応用力、判断力などは、はるかに妹を上まわっていた。
ただ、それを現実に活《い》かす機会がなかった。母の支配下に置かれつづけた。
「私、自分でもびっくりしているの」
ある日、夕利子は画廊を訪れた万穂子に言った。
「やればできたのね。でも自惚《うぬぼ》れてはいないの。こんなふうにやってゆけるのは、私ひとりの力じゃないわ。万穂ちゃんや志摩さん、それに甲村くんが親切に励ましてくれたり、根気よくアドバイスしてくれる、そのおかげなの」
甲村は、初対面の日から、すっかり志摩に心酔してしまっていた。会社帰りには、必ず画廊の奥の事務所に彼を訪ね、休みの日には終日、志摩と行動をともにしたがった。
そうした甲村からの慕われように、志摩は幾分かのとまどいを示しながらも、まんざらでもない表情だった。
「甲村くんは素直で純真だね、何かしてあげると、そのうれしさを率直に表情にだす。あの笑顔を見ると、また何かしてあげたくなってしまうよ」
夕利子と甲村が志摩にかかわるようになってから、万穂子と彼がふたりきりで会う回数は、次第にへっていった。
どちらかが避けているわけではなく、志摩は秋の写真展の準備に追われ、万穂子も雑誌編集の仕事のあわただしさにかまけ、それでいて、ひんぱんに顔はあわせている。仕事の途中、夕利子の様子を見に行った画廊に志摩が居合わせたり、甲村から写真展に出品する写真撮影の相談を持ちかけられたバーに志摩がふらりとあらわれたり、帰りの遅くなった夕利子を志摩が車で自宅まで送ってきたりといったことがたび重なった。
そうした場合、志摩と万穂子は「知りあい」の域を超えない親しみとそっけなさのないまぜになった対応をする。
志摩はこのゲームを楽しんでいるようだった。ときどき夕利子や甲村に分らないように、意味ありげに片目をつむってみせたり、いたずらっぽい微笑を投げかけてくる。
万穂子には、ゲームととらえるゆとりはなかった。夕利子から、どうしても目がはなせない。
実際、夕利子は画廊の仕事と家事を巧みにこなしていたけれど、いつの頃からか、この二つを同時に過不足なく両立させなくてはならないという、ひたむきな気持をいだきはじめていた。それは強迫観念にも似た潔癖さで、長年、自分がまともな生き方をしてこなかったことへの自覚と悔いが、夕利子をせき立てているらしい。
万穂子は家事を分担しようと提案した。
「大丈夫よ」夕利子はほほえみ返す。
「やるだけやってみるわ。自分の限界に挑戦するなんてこと、これまでなかったんですもの。どちらも中途半端にはしたくないの」
志摩の夕利子への評価は高かった。
特に日に日に身につけてゆく実務能力の上達ぶりと、接客面における柔らかでエレガントな物腰は、これまで働いてもらった女性たちの比ではないという。万穂子から、志摩のその感想を聞かされた夕利子は、いっそう張り切った。
万穂子は、そうした夕利子を複雑な思いで眺めつづけた。眺めるしかなかった。
姉をひとり立ちさせようと考え、そのきっかけを作ったのは自分である。だが夕利子がこれほどまで無我夢中になるとは、まったく予想外だった。これまでの夕利子からすると、もっとおっとりと仕事を楽しみ、もっとゆったりと家事を処理し、すべて彼女ならではの時間の流れの中に組み込まれてゆくものと考えていた。またそれでよかった。
だが夕利子の目には、かつての夢見るような淡さはかき消え、万穂子さえたじろがせる熱気が燃えていた。
画廊に勤めてからふた月がすぎ、夕利子は病的なほどに痩《や》せた。が、体調に差しさわりはないという。
九月の週明けのその夜、父娘三人の夕食のあと、父が夕利子に書斎にくるように言った。
残された万穂子の胸に不安の影が宿る。これまで父と夕利子がふたりだけで話すなどということはなかった。少なくとも記憶にはない。
不安に耐えきれず、また浅ましい行為だと恥じ入りながらも、万穂子の足は書斎のドアの前にむかって行った。
父が何か言っているらしいが、その声は低くて聞きとれない。
やがて夕利子の甲高《かんだか》い口調がひびいてきた。
「私はもう親の言うなりにはならないわ。勤めを辞めて、そして、私はどうすればいいのよ……いえ、分っているわ、パパは私を再婚させてこの家から追い払ってしまいたいのでしょう」
夕利子が父に対してこれほどきつい調子で言うのを、万穂子ははじめて耳にした。
「私はママに可愛がられた。でもパパが思っているほど私はママを好きじゃなかった。だってね、私がパパの子ではないかもしれないとパパが疑っている、そのことを私がうんと小さな頃から言いつづける母親なんて……私がどれほど傷つくかも考えない親なんて……」
父は無言でいるようだった。
しばらくして、いつもの夕利子の声音が伝わってきた。
「ごめんなさい、パパ。言いすぎたわ。でも、もう私のことはかまわないで。もしかするとパパと私は赤の他人かもしれない。そう思うと、この家にいるのがつらくなるわ。ただ、万穂ちゃんがいてくれる。彼女とは血のつながりがあるわ。だから、私はこの家にいさせてもらえる、そう思っているの。パパ、私、この家にもうしばらくいてもいいでしょう?」
夕利子が内側からドアの把手《とつて》をつかむ気配がし、万穂子は足音を忍ばせて、いそいでその場から立ち去った。
夕利子は、母から聞かされつづけてきたと言っていた。
父から聞いて万穂子がかくそうとしたことを、母はとっくに夕利子に暴露して、しかも、結論はあいまいにしたまま亡くなってしまった。
さっきの言い争いの発端は、多分、夕利子の再婚をすすめた父の言葉からだったに違いない。そのすすめを、夕利子が素直に受けとめないのも当然なような気がした。
そして、画廊の仕事と家事のどちらも完璧にやりとげようとしているのも、この家にいさせてもらうために、あるいは、いさせてもらえなくなったときを考えて、夕利子なりにふたつの道への努力をしているのだろう。
画廊に勤める前、夕利子は父に再婚をすすめた。自分と万穂子はこの家をでようともいった。姉妹が別々に暮らしてもいいし、一緒でもいい、夕利子はそう言葉を濁していたけれど、本心はふたりで暮らしたかったに違いない。
夕利子はこの家から追いだされるような事態におちいるより先に、自分からでようとした。父の再婚をきっかけにして、波風を立てない形で、それを実行に移そうとした。
心のひだをむきだしにする性格の夕利子ではなかった。いくえにも折りたたまれたそれを、できるだけ他人に悟られまいとする。なぜなら、夕利子は、自分の心のひだという「我《が》」を主張するのは、はしたないことのように、母の支配の中で教えこまれて育ったのだ。しかも「我」を言い張るよりも前に「我」を吸い取ろうとする母親の愛情がある。しかし、母はけっして吸い取ってはいなかった。いないと分っていても、夕利子は不満をもらさずにいた。それを言ったなら母を悲しませるからだと、夕利子の感性は知りつくしていたのだろう。
夕利子の気持を想像すると、万穂子はつらくなる。
あらためて父の再婚を考えた。
父とは週に三日の半同棲《どうせい》の間柄にある彼女に、この家にきてもらう。自分たち姉妹はこの家をでる。
老いの足音をその肉体に感じながら、だからこそ父がいっさいの常識をはねのけてやろうとしていること、それは自分が気に入っている娘とそうでない娘の区別をきっちりとすることであり、その幼稚な発想と執念を支えるのは、妻への復讐以外には考えられない。
だが夕利子も万穂子も、すりかえられた憎しみの対象として生まれてきたのではなかった。
昔、母の信子は万穂子の存在に苛立《いらだ》ちつづけた。
今、父は、夕利子をないがしろにしようとしている。それでいて四人は「家族」の名でくくられるのだった。
「じつはねえ、万穂ちゃん、困ったことになってねえ」
言葉とはうらはらに、志摩の表情には奇妙な明るさとはずみが広がっていた。
二カ月ぶりに訪れた彼の部屋だった。志摩から相談があると言って誘われた。
夕食はいつものように彼の手料理ではなく、近くの中華料理店から届けられた大皿が、テーブルの上にいくつかのっている。
「ぼくがこれから話す前に、約束してほしいんだ。怒らない、誤解しない、だれも責めない……まあ、驚きはするだろうけれど」
「そんなに大変なことなの?」
「少なくともぼくときみにとっては事件だ」
万穂子は志摩の口もとを凝視した。
「数日前、夕利子さんから結婚してほしいと申しこまれた」
一瞬、耳鳴りがした。が、耳鳴りと感じた音は、すばやく悲鳴に変った。夕利子の声の幻聴だった。
万穂子は夕利子の悲鳴を耳奥で故意に反響させながら、用心深く志摩の言葉を待つ。すべてのベースは、この切実な悲鳴のはずだった。
志摩は万穂子の心中を思いやってか、かすかに眉間《みけん》をくもらせたが、顔面に刷《は》かれた高揚感は、かくしようもない愉楽の感情を物語っている。
「夕利子さんが悪いのじゃない。なんせ彼女はぼくときみの関係を知らないのだから」
「それで志摩さんはどう返事を……」
「もうじき写真展がひかえていることだし、それが終ってから、あらためて話しあおうと。まあ、話しあうといっても、ぼくの答えはすでに決まっている。彼女はきみのお姉さんなのだからね」
万穂子は足もとに視線を落とした。後悔が胸をよぎってゆく。志摩との関係を言っておくべきだったのかもしれない。
「姉はどんなふうにそれを、つまり志摩さんにプロポーズしたのかしら」
「じつに単刀直入でね、ぼくが離婚したばかりのことは甲村くんから聞いたらしい。彼女はこうも言ったよ。奥さんではなく、秘書をかねた愛人のような存在でもいい、とにかくそばに置いてほしい。真剣だったよ、夕利子さんは。あんなひたむきさを女性から示されたのは久しぶりなんで、ぼくもいささかまいってしまった」
だが、その口調は困惑よりも、そこはかとないうれしさをにじませていた。
「もしも、彼女が私の姉でないとしたら、あなたはそれでも彼女のプロポーズを断るかしら」
志摩は、そこでようやく慎重になった。短く返答する。
「夕利子さんは素敵な女性だ」
「私への気がねは必要ないわ。あなたは本当は姉をどう思っているのか知りたいの」
「好感は持っている」
「あなたは誤解するかもしれないけれど、私は姉に幸せになってもらいたいの。だから正直な気持を聞かせて」
「きみ自身の幸せは?」
「もちろん、私も幸せになることには貪欲《どんよく》よ。それに私はそうしたいと考えたら、すぐに行動する。でも姉の場合は、私ほど男性を見る目がこえていないわ」
思惑どおり、最後の台詞《せりふ》に志摩は笑ってくれた。
雰囲気のほぐれたところで、万穂子はあらためて夕利子のこれまでの三十年間を、父や母とのあいだの葛藤《かつとう》はぼかして、かいつまんで説明した。理解してやってほしいという一念からだった。
しゃべりながら、万穂子は、夕利子と自分が一体化してゆくような錯覚にとらわれた。嫉妬心《しつとしん》は不思議と生じなかった。
志摩に夕利子のよさを語りながら、心のすみでは、姉の今回の大胆さは、父と関連があるに違いないと確信しつづけていた。あの家から円満な状態ででるには志摩の存在が何よりのはずだった。あるいは相手は彼でなくてもよかったのかもしれないけれど。
しかし万穂子には、志摩なら、という安心感があった。彼ならば夕利子にとって最良のパートナーになってくれるだろう。それは自分が十分に分っている。
「――だから姉にはあなたが必要だと思うの。おかしな言い方だけれど、彼女は世間というものに、まるでスレていないから、あなたにしても育てがいがある」
「それは感じていた。ぼくは、まだ出来上っていない人間にいたく関心と興味がそそられるたちの男だからね」
ただ夕利子とのことは、やはりしばらく考えさせてほしい、結論は写真展が終ってからにしたい、と志摩は付け足した。
「さてと、食事にしようじゃないか」
テーブルにむかいあってすわったふたりは、これまでと同じわだかまりのなさで食事に取りかかる。というより志摩のペースに巻きこまれ、すべてがごくしぜんな流れであるように思われてくる。
ほろ酔い機嫌になった志摩が冗談とも本気ともつかない言葉をつぶやいた。
「ぼくとしては、きみとも夕利子さんとも甲村くんとも、みんな一緒に仲良くやってゆきたいんだよなあ。だれかひとりだけ選ぶなんてむずかしい。それぞれのよさがあって、どれも捨てがたい。ぼくはみんな好きなんだ」
食後、ベッドへとうながされたとき、万穂子には抵抗はなかった。
ただこのいっときだけは限りなく快適であろうとする志摩の、見事なまでのサービス精神は、何かを麻痺《まひ》させる力をその背後にはりつけていた。
それは彼が自称するように、からっぽな人間だけが持ちうるものかもしれなかった。一見、無秩序のようでいて、そこには、やさしさのひと言にまとめあげられ、吸収されてゆく秩序がある。
言葉によって完璧に埋めつくせないのが人間の内側なら、いっそ、からっぽでいてくれるほうが明快だった。
志摩に抱かれながら、万穂子は、つかのま父を思い出した。その姿は、なぜか、全身にかさぶたのように無数の言葉をはりつかせ、それでいて孔《あな》だらけのみにくさだった。言葉に執着するあまり、父自身がおびただしい傷を負っていた。
だれがじつの娘か、どうでもいいことではないか。そう思った瞬間、万穂子は志摩にうわごとのようにせがんでいた。
「ほかの女の人の名前を呼んで。私以外の」
志摩はひるまなかった。万穂子の求めるままに、その耳もとでささやきつづけた。たくさんの女たちの名前がベッドのまわりに陽炎《かげろう》のように漂いはじめた。
十月の第一週から開催された写真展は、初日から盛況だった。
万穂子がたずさわっている月刊誌の美術欄でも大きく取り上げた。
志摩の好みで全国から集められた二十代のカメラマン六名の作品は、統一テーマの「女たち」を、さまざまにとらえ、その中でも話題を集めたのは甲村だった。
彼の作品に登場している「女たち」は、いずれも女装した男で、十代のあどけない美少女から、中年のくたびれた横顔を見せている女まで「愁《うれ》い」の表情や心象風景を撮っていた。
女装の男性、という設定のあざとさは、甲村がその賛否両論をはじめから計算してのことで、モデルなどの手配には志摩もかなり協力していたようだった。
写真展を契機に、甲村は会社を辞め、プロのカメラマンの道に進む手はずも整っている。東京に出て、しかるべきスタジオに見習いとして入る。段取りは志摩がつけた。
写真展の二週間、万穂子は毎日、会社の帰りや昼休みに画廊「ギャルソン」に顔を出した。
夕利子の働きぶりはなかなかのものだった。つねに控え目だけれども、こまやかな気づかいもおこたりなく、何よりも夕利子の清楚《せいそ》な風情と美しさは、画廊のイメージにふさわしい品位をそえている。
志摩もあらためて夕利子を見直したらしい。
「画廊の女主人《マダム》としても遜色《そんしよく》はない」
その評価が、どういう形であれ、夕利子の望む結果になってくれることを、万穂子はひそかに願った。
時子《ときこ》と夕利子の夫であった篠田《しのだ》が画廊にあらわれたのは写真展の最終日の前日の夜、閉館まぎわになってからである。
画廊には志摩、甲村、万穂子、夕利子の四人だけが残っていた。
篠田の姿を見るなり、夕利子は口の中で小さく叫び、その場に立ちすくんでしまった。
「ごぶさたしています」
黒っぽい和服に身を包んだ時子は、姉妹のどちらにともなく深々とお辞儀をした。
時子は三十一歳、三歳になる子供がいて、まずは円満な結婚生活を送っている。
篠田は万穂子には目礼、志摩と甲村に対しても軽く頭をさげただけで、その視線はせわしなく夕利子にそそがれてゆく。確か志摩と同じ四十歳になるはずだと万穂子は、ひとまわり贅肉をつけた、かつての義兄に鋭いまなざしをむける。
「夕利子さん、お仕事はもうおしまいなのでしょう?」
時子の遠慮がちな質問に、万穂子が姉にかわって答える。
「ええ。でも、まだ後片づけがありますから」
万穂子は、ほとんど時子をにらみつけていた。篠田と夕利子の結婚がどういった日々であったか、夕利子の結婚後三年間も万穂子の家に下宿して家族同様に暮らしたのだから、時子もおおよそのことは知っているはずだった。それなのに今さら篠田と一緒にやってくるとはどういう神経なのか。それとも夫と子供に恵まれた幸福な毎日が、他人への思いやりや配慮というものを鈍くさせてしまったのだろうか。
二人とも時子を姉妹のように思ってきた。
夕利子は、何事にも前向きで、明るい人柄の時子に好感をいだいていた。万穂子も時子が好きだった。結婚したときも心から祝福した。
万穂子の心を読み取ったように、時子は申し訳なさそうに肩をすぼめ、目を伏せる。
「篠田さんが夕利子さんにどうしてもお話ししたいことがあるそうで……あのう、私などがしゃしゃりでるのはどうかと思ったのですけれど、お父さまに頼まれまして……夕利子さん、少々おつき合いいただけませんでしょうか……」
夕利子が万穂子のほうへ後ずさり、ブラウスの袖を軽く引く。頼むという合図だった。
「姉としては篠田さんとお話しすることは何もありません」
「でも、とにかくお話だけは聞いていただきたいと……」
「お引き取り下さい。まだ仕事がありますので」
篠田がようやく口をきった。
「いや、万穂ちゃん、突然おじゃましてすまない。時子さんを責めないでくれ。わたしが強引に頼みこんだのだ」
相変らず尊大な態度だった。
「夕利子、三十分、いや十五分でいい。ちょっとつき合ってくれ」
夕利子が万穂子の腕にしがみつく。黙って首を横にふる。
様子をうかがっていた志摩が、おだやかに声をかけてきた。
「夕利子さん、ここでそちらさまとお話ししてはどうかな。ぼくと甲村くんは奥の事務所で打ち合せすることがあるし」
万穂子はすばやく返答する。
「すいません。ここを使わせていただきます」
志摩と甲村が奥のドアのむこうに消えたあと、四人は画廊のすみのソファ・セットに移った。
「じつはきみのお父さんにもすでに了解してもらっているのだが――」
篠田は夕利子と復縁したいという。
いろいろと女性関係はあったが、やはり篠田は夕利子を忘れかねている自分に気づかされた。篠田の両親も、息子の嫁としては夕利子以外に考えられないと、復縁には大賛成をし、一日も早く夕利子がもどってくれるよう切望している。
すでに父の達也とは数日前に夕食をともにし、復縁を願い出た。すべて夕利子次第だ、父はそう答えた。
篠田は達也に同席してもらいたいと懇願したが、それだけはがんとして拒否された。なおもしつこく頼みつづける篠田に、達也は不承ぶしょうに時子の名前を告げた。ただし時子はあくまでも立ち会い人として同行するだけで、復縁問題にまで巻きこまないことが条件だった。
「これまでのことは水に流して、わたしとやり直してくれないか。な、夕利子」
「姉はもどるつもりはまったくありません」
「夕利子、頼む。この通りだ」
篠田はテーブルに両手をつき、大仰に頭をさげてみせた。
「篠田さん、よして下さい」
「いや、わたしの真意を分ってもらうためなら何だってする」
時子は、その場にいたたまれない気持を全身で表現していた。顔を伏せて、身じろぎもしない。
「あなたは別として」
夕利子が小刻みに声をふるわせ、小声で言った。
「篠田のご両親にはとても可愛がっていただきました。その感謝の気持は今も変りません。でも、あなたとの生活は私にはどうしても……」
「そのおふくろなんだがな、夕利子、このところあまり健康がすぐれなくて。きみに会いたがっている」
夕利子の動揺する気配がはっきりと感じ取れた。声がうわずりはじめている。
「お母さま、どこがお悪いのですか」
「肝臓だ」
「そんな……あんなにお元気な方でしたのに……」
篠田の、からめ手から夕利子の同情を引こうとするやり方に、万穂子はいっそう彼への嫌悪がつのってくる。
夕利子のあっけないほどのもろさも歯がゆかった。志摩にプロポーズするほどに自分を確立したはずなのに、そのことを忘れて、篠田がちらつかせる目先の出来事に、もう心を動かされている。
「万穂ちゃん……」
狼狽《ろうばい》し、途方にくれた表情で、夕利子が助けを求めてきた。
「落ち着いて。あなたは自分自身のことを、まず第一に考えるべきなのよ」
「だって、篠田のお母さまが……」
「冷酷な言い方だけれど、あの方は、他人なのよ。あなたの母親じゃない」
「万穂ちゃん」いきなり篠田の声が荒くなった。
「余計なことは言わないでくれ。これは夕利子が決める。前々からそうじゃないかと思っていたが、夕利子の家出をそそのかしたのは、きみだろう? きみが夕利子に悪智恵《わるぢえ》をつけたんだ」
「言いがかりはやめて下さい」
「知らばっくれるな。夕利子はな、あんな無謀なことをする女じゃない。うしろでだれかが糸を引いていたからこそ、家出などというとんでもないことをやらかしたんだ」
篠田のそれは、ほとんど怒鳴り声になっていた。その目は憎しみをたぎらせ、今にも万穂子に手をあげようとする殺気立った表情だった。
「万穂ちゃんは関係ないわ」
そのとき夕利子が不気味なほど物静かな口調で言った。
「家出するように言ったのはママよ。亡くなったママ。ママはあなたの女性関係のだらしなさを早くから知っていたみたい。それで私に言っていたの。ママに万が一のことがあったときは、私にまとまった保険金がおりるようになっている。それを持って、あとは好きなように生きなさい。夫に保険金を横取りされないようにって」
「まさか。お母さんはわたしを全面的に信用してくれていた」
「ママはそういう人だったの。男の人の扱いが、ある意味ではとても上手だったわ。パパに対しても、つねに何も知らない妻を装っていた」
「夕利子、お前いつからそんな嘘をつくような女になったんだ」
低い声で時子が口をはさむ。
「夕利子さんのおっしゃったことは本当ですわ。亡くなられた奥さまは、私にも同じことを打ち明けられていました。自分にもしものことがあったときは、夕利子さんに家出するように言ってある――」
「そう。とりあえずは時子さんのもとに身を寄せるようにとも。でも私はやはり実家に帰りたかったの、どうしても、あの家に」
四人は一様に黙りこむ。
万穂子は軽く目をつむった。
理屈ではなく、とにかく姉がかわいそうでならない。この人のこれまでの人生は何だったのか、そう思うと涙がこぼれそうになる。
自分が幼い時分から、母の愛情に飢えていたのと同じく、夕利子は父の信頼、自分の娘だという本心からの認知を切望してきたに違いない。
篠田が立ち上った。夕利子の肩に手をかけた。
「ばかげた話はもうおしまいだ。さ、夕利子、一緒に帰ろう。おふくろに会ってやってくれ」
「あなた、教えて。パパは本当はどう言ったの? 本当に夕利子次第だと言ったの? どんな調子で?」
「そんなことはもうおぼえてない。さあ、夕利子」
篠田は力ずくで夕利子を引き寄せようとした。
夕利子が細い叫びを放つ。
「ずいぶんとにぎやかですねえ」
志摩がドアの内側からあらわれた。甲村もつづく。
「失礼ですが、ここはわたしどもの画廊ですので、どうかお手やわらかにお願いしますよ。まずは夕利子さんをおはなし下さい」
篠田は負けずに言い返す。
「お騒がせして申し訳ないが、これは内輪の問題です。口出しは無用です」
篠田は夕利子の腕をつかんだままだった。
「ほう、内輪ですか。そうしますと、ぼくもお仲間のひとりになりますね」
「仲間?」
「はい。夕利子さんはぼくの秘書のような存在であり、また恋人でもあり、将来は妻になるかもしれない女性ですから」
篠田の血相が変った。
「貴様、よくも俺の女房に」
篠田の片腕を時子が強くとらえるのと、万穂子が言い返すのとは同時だった。
「姉はもうあなたの妻じゃないわ。みっともない真似《まね》はやめて。帰ってちょうだい」
万穂子と篠田はしばし敵意をむき出しにして見つめ合った。
時子が区切りをつけた。
「これで気がすんだでしょう、篠田さん。夕利子さんはもうあなたの奥さまじゃないのよ」
時子は彼をうながし、志摩や万穂子に会釈すると画廊から出て行った。
ふうっと志摩がおどけた表情でため息をついた。
「夕利子さんもいろいろと大変だったんだねえ。彼のあの大声だろう、ついつい拝聴してしまった。いや、盗み聞きしてしまったことは謝ります」
いきなり床に物を叩《たた》きつける音がした。
三人が振り返ると、甲村が青ざめた顔をして立ちつくしている。その足もとには、壁からはずした写真のパネルが転がり、それは甲村の作品だった。夜の雨の中に、女装した年齢不詳の男性が、輪郭を微妙にぼかした像となってたたずんでいる。
「甲村くん、どうしたの」
万穂子が近づきかけた。
「いいかげんにしてくれよ、いいかげんに」
甲村はうつろにつぶやきつづけた。
「おれはみんながうまくいくよう、幸福になるよう願っている。でも、でもいつもだめになる。あんたたちみたいに勝手な人ばかりだからだよ……それに、それに志摩さんが恋人だったなんて、将来、結婚するかもしれないなんて……夕利子さん、ぼくはずっとずっと……」
一時間後、四人は志摩の部屋にいた。
甲村はキッチンのそばの小テーブルに背中を見せて腰かけ、打ちのめされた気持をかくそうともしなかった。
志摩は愛用の革張りの肘掛《ひじか》け椅子に身体をあずけ、宙を見上げている。その顔は、いつもと変らぬのどかさだった。
夕利子はベランダぎわの黒|籐《とう》の椅子に腰をおろし、その目はぼんやりと志摩にそそがれている。見つめているのではなく、単にそうやって目を休めているような表情だった。
万穂子はベランダを背にして立ち、三人の姿を交互に眺めつづけた。
しばらくして志摩が口をきった。
先刻、夕利子の恋人のように振るまったのは篠田を退散させるためであり、実際はふたりの間柄は潔白だと説明しはじめた。
ただそのうち甲村に話すつもりでいたのだが、夕利子を画廊の手伝いだけでなく、志摩個人の秘書にするつもりでいる、とも付け加えた。
また、甲村がプロ・カメラマンの道に進むために東京に行くのをきっかけに、志摩も仕事の場をそちらに徐々に移行してゆこうと考えていた。
その場合は、もちろん夕利子も志摩と行動をともにしてもらいたい。
甲村も夕利子も自分としては当分は手ばなしたくはない、志摩はそう言いながら万穂子を見つめた。目で問いかけてきた。「これでいいのだろうね」と。
万穂子は、自分でも不思議なくらいこの事実を平静に受けとめていた。
夕利子に今必要なのは、結婚ではなく、大きな存在に支えられ、包まれ、そして、やがてひとり歩きができるようになることであり、志摩ならきっとそれを可能にしてくれる。
夕利子が彼に求めているものも、男女の愛より、もっと人間味の濃い、いわば父親がわりのようなものではないのか。
甲村にしても、その生真面目な性格と素直さは、物事をけっしてややこしくはしないだろう。それに彼にしても志摩の包容力に頼りきっている。
志摩が椅子の中から上体を起こした。快活に言う。
「さあ、深刻ぶるのはやめにしよう。ぼくのプランはすべて話した。今度はそれぞれの意見なり、異議申し立てなりをしてもらいたい。ええと、そうだな、第三者的な立場から万穂ちゃんの感想をききたい」
万穂子は甲村の背中を意識しながら、志摩の快活さに調子を合わせる。
「志摩さんらしいわ。スノッブで、からっぽ人間で、それでいてとても人間好きで。私がこの三人組の中に加えられていないのが残念なくらい。甲村くん、志摩さんとの出会いは大切にしてほしいわ。自分がいちばん自分らしくなれる相手とのかかわりは大事だと思う。それが異性でも同性でも。それから、うちの夕利子さんは、あなたもとうにご承知とは思うけれど、はた迷惑なくらい世間知らずなの。だから志摩さんの秘書になってきたえてもらうと同時に、あなたにも何かと助けてもらいたいわ」
甲村の背中がかすかに動いた。
次に夕利子の考えが求められた。
夕利子は志摩が巧みに伏せていたプロポーズの件を自分から暴露してしまった。しゃべりながら、これこそが自分の世間知らずの証拠だと淡く笑った。
「結婚したいわけじゃないのね。でも志摩さんのそばにいたい。それがうまく説明できなくて、プロポーズになってしまったの」
夕利子にしては珍しく歯切れのよい口調で断言した。その目は甲村の背を見ていた。
「それに、私、うすうす感じていたの、甲村さんの気持を。そのくせ志摩さんにプロポーズなどしてしまうのだから……、甲村さんごめんなさいね」
最後に志摩は甲村をうながした。
甲村はようやく皆のほうに身体のむきを変えた。
「ぼくは何も言うことはありません。夕利子さんともこれまで同様仲良くやってゆける自信はあります」
ふいに甲村は泣きだした。
ずっと感情を昂《たか》ぶらせていたその緊張感が一挙にほどけ、涙となってゆるみはじめたらしかった。
志摩がやさしくたしなめた。
「甲村くん、いつも言っているだろう。きみのそのデリケートさは、ぼくは大好きだけど、プロになるにはもっと強くならなくてはね」
写真展が終了した数日後、万穂子と志摩は彼の部屋で会った。
万穂子は夕利子のことで礼を述べた。くれぐれもよろしく、とあらためて頼みもした。
シャンペンが用意されてあった。
乾杯のあと、志摩は少し哀《かな》しみのこもった目で万穂子を見つめた。そして、来月早々にも、夕利子と甲村を伴って東京へ行ってくる、多分、しばらくはもどってこないだろう、と語った。
「ぼくたちは別れる必要があると思うかい」
「ええ。もしかすると、あなたはいつか夕利子さんの夫になる人かもしれないから」
「そんなに夕利子さんが大切なの」
「昔ね、うんと小さな頃、私が母に理由なく叱られたり、いじめられるたびに、夕利子さんが、あのおとなしくてお人形のようだった彼女が泣きながらかばってくれたの。その恩義があるわ」
志摩を深く愛していた。
別れると決まって、はじめてそれが自覚された。
万穂子は、しかし、口には出さなかった。
志摩の愛すべきスノッブさと、からっぽな内側にはひとりよりふたりが棲《す》むべきであり、いっときの感傷で引きとめてはならない。
彼を必要とする甲村と夕利子に囲まれ、充実している志摩のこれからの姿が万穂子には鮮明に見えていた。
一年後、画廊「ギャルソン」は売却された。
志摩は東京で次々と事業に手を染めていった。札幌では想像もつかなかった彼の一面だった。
事業はことごとく成功した。
夕利子は志摩の秘書として、すぐれた手腕を発揮しているらしかった。
甲村のために志摩はスタジオを作った。
プロ・カメラマンとして甲村は次第に忙しくなっていった。
三年後、夕利子からの電話で志摩の死を知らされた。過労による突然の死ということだった。
通夜にも葬儀にも万穂子はあえて行かなかった。
ほどなく甲村と夕利子は結婚した。挙式も披露宴もなく入籍だけですませた。それから、わずか三カ月後には子供も生まれた。その男の子には、志摩の「二郎」という名がつけられた。
満一歳の誕生日を迎えた二郎の写真が送られてきたとき、万穂子はとっさに息を呑んだ。志摩によく似ていた。似すぎていた。
その写真を見つめながら、万穂子は長いあいだ泣きつづけた。
ジョーカー・32歳
澄みきった青空は、一見したところ夏のそれと同じまぶしさを広げてはいたが、正視できないほどのたぎりはなかった。
それは、もはや札幌の夏の空ではない。
青空の変化につづくのは風だった。
夏の名残をはらんだ生ぬるい風のあちこちに、こまかいガラスの破片のような冷たさを秘めて、秋の訪れを人々の肌に伝える。
九月に入ってまもない土曜日の午後、万穂子《まほこ》は奥田伸広《おくだのぶひろ》に誘われて、新しくできた喫茶店の広々としたカフェ・テラスにいた。
植物園のそばに建てられたその店は、広くてしゃれた白いカフェ・テラスが呼びもので、オープンするとすぐに若者たちの人気を集めた。夜六時からは本格的なフランス料理が、わりあいと低料金で食べられるのも評判を呼び、客の年齢層は広範囲にわたっていた。
喫茶店の隣りには、小規模ながら舶来品の《インポート・》小物《グツズ》ショップが、それとは分らないようなシックな木製のドアの内側に造られている。
万穂子が眺めているだけでも、そのドアはひんぱんに客を迎え入れ、出てくる客の手には必ずといっていいほど買い物後の白い紙袋が握られていて、こちらも客層は十代から年配者までかなり幅広い。
買い物をおえた人々の大半は、やはりこの喫茶店に立ち寄る。
お茶を飲んでひと休みしてから、そちらの店に行く人々も少なくはない。
どちらの店も、二十八歳の奥田がオーナーだった。
「順調なスタートね」
万穂子は二杯目の紅茶をポットからカップにそそぎながら言った。
「おかげさまで、六月にオープンしてから連日こんなふうでね、口コミっていうのは想像していた以上にすごいものだと思ったよ」
開店記念として、飲み物無料券を、市内の各大学のサークルなどに、大量に配布したのだった。
「でも万穂子さんがようやくこの店にきてくれてうれしいよ」
「あれじゃあ断れないでしょう」
その日の午後、奥田から自宅に電話がかかってきた。車ですぐ近くまできている、迎えに行くから一緒に店にきてほしい――。
「ところで、新しい仕事は見つかったの」
「いいえ」
万穂子は今年の三月いっぱいで、数年間勤めた出版社を辞めた。
学生の頃から憧《あこが》れていた編集者の仕事は、それなりにやりがいもあり楽しかったが、札幌での出版事業はまだまだ難しい点が山積みされていた。要は採算ベースの問題で、経営は雑誌販売よりも、広告収入に頼って、かろうじて成り立っていた。
そこでは当然、営業サイドの発言力が強くなる。
入社当初はそのからくりに気づきもしなかったし、まわりの人々もあえて教えてはくれなかったけれど、編集の実権は営業にあり、すなわち記事を掲載するかどうかの裏取引きが、暗黙におこなわれていた。たとえば著名な人物、特に政財界に重要なポストを持つ人物のスキャンダルを嗅《か》ぎつけ、調べあげ、その記事を掲載するか、あるいは買い取るかの交渉が秘密裡《ひみつり》におこなわれる。その結果いかんによって誌面が決まるという具合だった。
それを知ったとき万穂子は相当なショックを受けた。先輩女性にあらためてたずねてもみた。彼女はこともなげに言った。
「そうじゃない出版社もあるわ。でも、うちの会社は昔からこれが常識なの。あなた、それを承知で入社したのじゃなかったの」
少しずつ改善されてゆくかもしれないと万穂子は期待した。
だがその状況は変ることなく、またそれに疑問をいだく万穂子の心も変らなかった。年ごとに苦々しいものがたまってゆく一方で、ついに耐えきれなくなった今年の三月に退社した。
退職後のあてはなかった。
そして退社してはじめて、その出版社にいたことが、万穂子自身にもダーティーなイメージを与えてしまっている事実を思い知らされた。
辞めた今になって、学生時代の友人たちが口をそろえて言うのだった。
「見切りをつけたのは正解だけど、あの会社に長くいすぎたわね。万穂子のこれからの再就職に支障がなければいいけれど……」
友人たちの紹介で、三、四件、編集制作にかかわるプロダクションや、企業の広報課などを訪ねてみたが、万穂子が持参した履歴書は相手の顔をくもらせたり、眉《まゆ》をひそめさせるだけだった。
万穂子は三十二歳になっていた。
その年齢も、したたかなものを感じさせるらしく、結局、引き取り手はなかった。
さめかけた紅茶をすすっている万穂子に、奥田はためらいがちにたずねてきた。
「やっぱり編集の仕事をやりたいわけ?」
「それはもうあきらめたわ」
姉の夕利子《ゆりこ》のいる東京に行こうか、といっときは考えた。
だが特殊な資格は何もない。編集の業務に多少なりともたずさわっていたというだけで、東京にでてフリー・ライターとして通用するだけの自信もない。さらに、いちからやり直すには、三十二歳という年齢はもはや遅すぎるのではないか、出版関係のどの職場の採用試験を受けても、この一点で受け入れてはもらえないのではないか。
加えて、父の達也《たつや》の存在も気がかりだった。父は現在六十三歳である。会社の役員として、いまだに現役で、老いの徴候はまったく見当らないけれど、ここにきて、父をひとりにさせるのは、万穂子の気持が許さない。
正確には父はひとりではなかった。週の半分は愛人宅に寝泊りしている。六、七年つづいている相手だった。
カフェ・テラスを照らしていた陽《ひ》ざしがややかげりはじめた。
万穂子は半袖《はんそで》の紺のポロシャツの肩にかけていた同色のカーディガンに腕をとおす。
奥田があわてた表情を見せた。
「まだ帰らないでほしい。話があるんだ。ちょっと場所を移そう」
万穂子の心は淡く揺れ、身構える。
あのことにまつわる話なら、できるだけ避けたかった。この店が六月にオープンするのを知りながら、また開店祝いのパーティーの案内状ももらいながら、九月のきょうまで奥田と顔をあわせまいとしていたのは、あの夜の出来事にふれたくないからだった。
出版社を辞め、再就職先を探してまわっても、ことごとく拒否されていた四月、万穂子は激しく落ちこんでいた。投げやりな気持になってもいた。
奥田はそんな万穂子を慰めてくれた。心配して毎日のように電話をくれ、食事に誘ってくれたり、万穂子の気のすむまでバーの片隅で相手になってくれたりした。
そして酔った挙句に、二人はホテルに行った。
だが奥田には二十四歳の「彼女」がいた。
それまでの万穂子は、奥田と「彼女」の関係の相談を受けていた立場で、彼に対して特別な感情はいだいていなかった。
酔いのはずみとしかいいようのないあの夜を、万穂子は後悔しつづけてきた。「彼女」には会ったことがない。しかし申し訳ないことをした、二度とあやまちをしてはならない、そう心に決めていた。
「お話って何かしら。ここで言えないこと?」
「そういうわけではないが……万穂子さんの就職の件で少しは手伝えるかと」
ほっとする。そんな心のうちを知られまいとうつむきかげんになった万穂子の髪を、暮れどきの風が乱してゆく。
「ずいぶんと髪がのびたね。万穂子さんは、どちらかというとショート・ヘアが似合うと思うけれど、ロングにするつもりなの」
万穂子は顔をあげ、苦笑する。
退社してから、いっぺんも美容室に行っていなかった。そうした余裕を忘れていた。
奥田が万穂子を車で連れて行ったのは、ススキノの南のはずれにあるビルの九階にある「オクダ・コーポレーション」のオフィスである。
このオフィスには、約一年半前、万穂子は雑誌の連載シリーズ「企業訪問」の取材で、何回かきたことがあり、それが奥田伸広と親しくなったきっかけだった。
彼の父親が社長、母親が専務をつとめている。どちらにも万穂子は取材の際に会っていて、特に専務には好意的な対応をしてもらった。幼い時分に亡くした長女が生きていれば万穂子と同じ齢《とし》であり、さらに万穂子がすでに母を病気で失い、父とふたり暮しだと知って、同情と親近感の入り混った心境になったらしい。伸広はひとりっ子である。
地階の駐車場からエレベーターで九階に上る。さまざまな事務所が入っている十二階建てのこのビルも「オクダ・コーポレーション」の所有だった。
オフィスに着くと、広々としたフロアを横切って、奥田は応接室に進んでゆく。三十名ほどの事務職の人々が、この本部で働いている。
「どうぞ、おかけ下さい」
オフィスにきて、奥田は急にあらたまった物腰になった。彼自身は意識していない職場での顔が、育ちのよいおっとりした雰囲気をこわすことなく、しぜんとでてきたらしい。
会社での彼の肩書きは「取締役・企画部長」である。
万穂子は奥田のくだけた服装を、これまで一度も目にしていない。いつも上質なスーツに白のワイシャツ、渋い色柄のネクタイをしめている。肌はきめこまかく色白で、細身の体型とともに、上品で清潔な印象を与える。近づくと、そこはかとない芳香が漂ってくる。
お茶を運んできた若い女性が立ち去ったあと、テーブルをはさんで、万穂子の正面の革張りの椅子《いす》に腰かけていた奥田は、いくぶん身を乗りだしてきた。
「さっきの話のつづきだけど、本当に編集の仕事にはこだわりがないというか、未練はないんだね」
「ええ。ようやく現実というものが分ってきたわ。私が甘かった」
「働く意志はあるの? いや、結婚する予定などがあるのかと思って」
「結婚の予定はゼロ。それに結婚するよりも仕事がしたいの」
「仕事内容への希望は?」
「もうそんな贅沢《ぜいたく》は言っていられないわ。三十二歳、特殊技能もなし……」
「そうか。それなら話を切りだしやすい。じつはね、専務とも相談したのだけれど、うちの会社にきてもらえないかと」
万穂子はびっくりして奥田を見返す。
「オクダ・コーポレーション」は札幌、旭川《あさひかわ》、函館《はこだて》にそれぞれシティ・ホテルを持ち、さらに先刻の喫茶店をふくめてレストランなどの飲食店をいくつか経営し、ブティックやメンズ・ファッションの店など、その事業は多岐《たき》にわたっている。奥田の祖父の代からこうした商売をはじめ、その基盤は北海道内のあちこちの広大な土地を、何十年も前から買い占めてきたところにあった。
だが万穂子がこの会社に入ったとしても、何がやれるのだろうか。
応接室のドアがノックされた。はい、と奥田が返答すると同時に、専務があらわれる。
「部長会議がはじまりますよ、伸広」
「あ、そうだった。じゃ万穂子さん、ぼくはこれで失礼します」
奥田と入れ違いに専務が入ってきて、息子の体温でぬくまった椅子にすわる。彼の色白なのは母親ゆずりだった。
「お久しぶりね、板東《ばんどう》さん」
「ごぶさたしております。あのせつはいろいろとお世話になりました」
「本当言うと、お久しぶりという感じがしないのよ。あなたのことは伸広からよく聞いていましたから」
専務は五十代半ばのはずだった。しかし、とてもそんな年齢には見えない。十歳若く称しても通用する。専務のポストにあり、しかも単に名目上の役職ではなく、実際に第一線で働いている緊張感と意気込みが、彼女から老いの気配を追いだしてしまっているのだろう。
服装も華やかだった。その日は白の絹のブラウスに白のタイト・スカート、その上にピンクとラベンダー色をぼかしたシフォンの透けたブラウスを重ね、その裾《すそ》はウェストの部分でふわりと結んでいる。白のブラウスの襟元からは、プラチナのチェーンに小粒のルビーを一個だけあしらったプチ・ネックレス、指輪もルビーとダイヤで作られた小さな正方形のデザインである。
「伸広から話はもう聞いたかしら、あなたの入社のこと」
「はい。でも、あのう、私は経理もできませんし、接客業の経験もなく、とにかくこちらの会社でおやりになっている事業のすべて、何も分らないのです」
「だれでもはじめはみんなそうよ。仕事はおぼえてゆくもの、それだけのこと」
「別に謙遜《けんそん》して言っているのではありません。具体的にどの仕事を与えられても、私はまったく使いものにならない人間です」
専務はおかしそうに笑った。
「あなたのよさはそこなのよ。取材にこられたときから感じていた。へんに自分を飾ろうとしない。見栄《みえ》も張らない。つまり、全然はったりというものがないのね」
そして専務はつづけた。
万穂子が取材にやってきた一年半前に忠告しようかと考えた。あの出版社には長くいないほうがいい。長くいればいるほど、万穂子はマイナスのイメージで見られてしまう。もし転職のあてがなく、編集の仕事に固執しないのなら、うちの会社にきてはどうかと。
「でも、板東さんの取材を見ていると、とても熱心でひたむきで、こんなことを言いだすのは、かえって失礼な気がしたの」
そうかもしれなかった。あの頃はたくさんの疑問や不満をいだきながらも、万が一の可能性に期待していた。少しでもよい企画を立てることで会社の現状が変るかもしれないと、半分は失望しながら、半分は必死だった。しかし、それは青くさい理想にすぎず、あの編集室ではそんな子供っぽい意欲など、あっさりと捨てた人々だけが生き残れた。今になって、ようやくその現実が見えてくる。
専務は息子が手をつけなかったお茶を、薄いピンクのマニキュアをした手で優雅に口に運ぶ。
「あなたにはお礼を言わなくちゃならないの。伸広の相談にいろいろとのってくれていたそうね。多分あなたのアドバイスのおかげだと思うのだけれど、あの子、ようやく彼女と別れてくれたし……」
知らなかった。が、万穂子は慎重に専務の言葉を待つ。
「あの子、万穂子さんにも報告したでしょうけれど、私はどうも彼女が信用できなくて。ちゃんとしたご家庭のお嬢さんなのは分るわ。でもねえ、結婚して楽をしたい、リッチな生活をしたい、しかし夫の仕事にはいっさいかかわりたくないという気持がありありで、伸広のことを本気で好きなのかどうか、私はずっと心配だった。伸広もそこにようやく気がついたらしいの。で、別れて、むしろすっきりしたらしく、いちだんと仕事に身を入れるようになったわ」
奥田はどうして「彼女」についてひと言もふれなかったのだろう。といって、そのことを彼からじかに聞きたくはなかった。漠然とながら、四月の夜の出来事と無関係ではないように想像された。だが、あの夜の自分をどう説明してよいのか、万穂子はいまだにとまどっている。奥田とは友だちでいるべきだった。
「さてと、板東さんの仕事についてだけれども、こういうのはどうかしら。うちの会社の業務内容を理解してもらうまで、とりあえず私のアシスタントとして働いてもらう。一緒にあちこちまわっているうちに、自分にむいているのはどれか、しぜんと分ってくるでしょう」
「その期間はどれくらいいただけるのでしょうか?」
「あなたの気がすむまで」
万穂子は専務が破格の待遇で自分を受け入れようとしてくれるその好意に恐縮すると同時に不安になる。その反面、それに丸ごと寄りかかってしまってもいいのか、と自分をいましめる。
そんな万穂子の心中にはかまわず、相手はごく事務的な口調で、給料、夏・冬のボーナスの額、勤務時間などの条件を並べ立ててゆく。
「どうかしら、働いてみる?」
「あまりにもよくしていただいて、これでいいのかと……」
「何を言ってるの」
専務は笑いとばす。
「これはビジネス。取引きよ。伸広の彼女のことは、まったく私の頭痛のタネだった。それをあなたが解決してくれた。そのお礼なの。すなわちビジネス」
「お礼と言われるほどのことは何も」
「いいえ、伸広に聞いているわ。板東さんによって気持の整理ができて、決心したのだって。どう? 私のアシスタントをしてくれるかしら」
「はい。精一杯、勤めさせていただきます」
「そう、よかった。いつから出社できる?」
「あさっての月曜日からでも」
「お父さまに相談しなくてはならないでしょう」
「いえ、父も喜ぶと思います」
「ひとつだけ注文をつけさせてもらってもいいかしら」
そう前置きして、専務は万穂子のアシスタントとしての服装について、いくつかの助言をした。
基本的にスーツを着用してほしい。だが、へんに地味すぎるのも考えものである。どちらかというと、ファッショナブルで華やいだ感じのほうが好ましい。
もし、そうしたスーツを持っていないのなら、会社で経営しているブティックで買うといい。社員割引きになっているし、やはり社員特典として無利息のローンも使える。
「そうだわ、伸広を付添い役にさせましょう。あの子なら、今私が言ったスーツの傾向をよくのみ込んでいるはずだし、第三者の目であなたに似合う服かどうか判断してくれるから。出社は、そうね、やっぱり月曜からにしてもらおうかしら……私、わがままなのよね」
専務はほがらかな笑い声を立てた。
その夜、万穂子はいつになく父の帰りを待ちわびた。といって父が帰ってくる確証はない。
父が愛人のもとから帰宅するのは、ここ数年、ひどく不規則になっていた。姉の夕利子がいた頃は、週のおしまいの半分は必ず自宅ですごしていたのが、いつのまにか、その取り決めもあやふやになってしまった。
愛人宅の電話番号を知らないわけではない。緊急の場合には、とむしろ父から教えられている。
だが再就職の件は電話をかけるほどのことではない。
出版社を辞めたとき、父の反応はいたくそっけなく、三十歳をすぎた娘のこれからを別に心配する様子もなく、ほとんど関心がないといった顔つきを示した。
万穂子は今では父に対する期待を、できるだけ自分を正視してほしいという望みを、きれいに捨て去っていた。
昔は違った。期待を持ちつづけていたし、父もまたいくらかはぐらかし気味ながら、万穂子がそれを求めたときは、それなりに応《こた》えてくれもした。
父がなぜ自分の娘を、自分の分身をきちんと見つめようとしないのか、万穂子には不可解だった。
憎しみからとは思えない。かつて父は妻の信子《のぶこ》と長女の夕利子に、うっすらと憎しみの感情をいだいていたことは知っている。しかし、万穂子に向けられる目に、そうしたあくどいものは宿らなかった。
いつの頃から、父が万穂子から視線をはぐらかしはじめたのか、もはや思い出せない。ただ年齢を重ねてゆくほどに、万穂子を見つめるまなざしに苦痛の色合いが濃くなってきた。
それは、自分のつらい記憶を目のあたりに再現させられたなら、そういう表情をするに違いないというような感情の歪《ゆが》みを感じさせた。
父は何かを悔いているらしかった。
だが実際は、現在の万穂子は、以前に父がそうさせたいと願ったとおりになっている。母は他界し、姉は東京で結婚し、この家は万穂子だけのものになった。父は万穂子にこの家をやりたいと言っていたが、その望みはかなえられた。
父が何を後悔しているのか、万穂子には見当がつかない。大げさな発想をするなら、万穂子の存在そのものを悔やんでいるのかもしれなかった。
その想像が当っていたにしても、もはやたじろがず、腹も立てず、哀《かな》しさもおぼえない自分を万穂子は知っていた。
父にはまだためらいがある。娘としての万穂子を心のどこかで見切りをつけてしまうことへの怖《おそ》れを持っている。
しかし、万穂子はとうに父を自分の心の中で切り捨てていた。父という存在としては。板東達也というひとりの男性だけが残っている。そして、その男を、万穂子は嫌いではなかった。
人間として物哀《ものがな》しさを感じさせる、どこかいびつなところのあるその男は、万穂子によく似ていた。彼は結婚すべきではなかった。自分で制御できないいびつさは、まわりの者たちも傷つけてしまう。彼の不幸は結婚してしまったことにあるのかもしれない。
万穂子は、これまで一度として結婚したいとは思わなかった。それは、板東達也という男を父に持ち、その男が振りまわされている彼自身の心のメカニズムが、まるで万穂子のそれのように、くっきりと読み取れたからかもしれない。
ある時期から、万穂子はその男に言ってやりたいひと言を、胸に刻みつづけてきた。
「虚無に溺《おぼ》れないで」
また次のように慰めてもやりたかった。
「あなたは絶えまなく小さく発狂してきたのでしょうね。だれにも知られまいと懸命にかくしながら」
自分には発狂はない、そう万穂子は確信していた。虚無にも溺れはしない。
なぜなら、溺れる前に、ごく幼い時分から万穂子は自分の存在価値はもちろん、存在理由すらないといったことを、母の信子から何かにつけてたたきこまれて育ってきた。
だからこそ、晴朗に生きたかった。自分の内側の空洞を明るく照らしてくれるものを、残らず大切にしたいと切望した。
その夜、十時をすぎても父は帰らなかった。この時間まで帰宅しなければ、愛人宅に泊ることを意味する。
電話のベルが鳴りはじめた。
でてみると奥田だった。
「ごめん、電話するのが遅くなった。さっきおふくろに言われた。あした買い物に行こう」
「専務はお見通しね。私がちゃんとしたスーツを持っていないのを、ちゃんと分っている」
「それは、ほら、ぼくが万穂子さんについての情報をイン・プットしているから」
「今回のことではお世話になったわ。本当にありがとう」
翌日、午後一時に街中の喫茶店で落ち合う約束がかわされた。
新しい仕事に向けて、万穂子の胸はかすかな不安と、奥田親子の好意にめいっぱい応えなくてはという意欲にふるえていた。
「オクダ・コーポレーション」が経営するそのブティックで、万穂子は四着のスーツを買い求めた。
奥田の意見に素直に従い、これから迎える秋・冬の季節感を考慮して、色調は茶系統を基本にした。ベージュに近い茶色から、焼き栗《ぐり》のような黒っぽいそれまで、下はすべてタイト・スカートのスーツを選んだ。四着の上下を幾通りにも組合せられるようにとの奥田のアドバイスである。
スカートはうしろにスリットの入ったごく普通のタイトだったが、上着はいずれも凝《こ》ったデザインで、同色のレースを巧みに使ったものや、左右アンバランスなカッティング、細い金布で縁取りされた一着など、茶系統の沈みを、むしろ大人の落ち着いたゴージャスさに活《い》かしたデザインだった。
スーツの下に着るブラウスやアクセントとしてのスカーフも二、三枚ずつ購入した。
「靴とバッグは大丈夫?」
奥田の質問に、万穂子は手持ちの品をざっと思い浮かべる。
「ええ、どうにかまにあうと思うわ」
買い物をすませたあと、近くの喫茶店に入ってひと休みすることにした。奥田はきょうもスーツ姿である。万穂子は出版社に勤めていた頃と同じく外出着とも普段着とも区別のないセーターにジーンズだった。あらたまった取材などの場には、この上にジャケットをはおってごまかした。
注文したコーヒーが運ばれてきた。
「おふくろはね、そんなにむずかしい人間じゃないから気楽にやればいいよ。もちろん仕事にはきびしいけれど。それと礼儀作法にも、ちょっとうるさいな」
万穂子は奥田の言葉に熱心に耳を傾ける。彼としては何気なく言っているつもりの内容でも、新入社員の万穂子にとっては、大きなヒントになる。
「今回うちの会社にきてもらうことになって、それがはたして万穂子さんに適した仕事になるかどうかはまだ分らないけれど、ぼくとしてはまずかったかなと」
「どうして」
「これまでみたいに会ってもらえないのじゃないかと思ってね」
万穂子は黙ってコーヒーにミルクを加える。奥田のまなざしに、一瞬ひたむきな光がこもったのを見て、わけもなく動揺したのだ。
「彼女とは別れたよ。五月の末だったかな」
「そう」
「すごい捨て台詞《ぜりふ》を言われちゃったよ。あなたのようなマザコン男は結婚なんてできないでしょうって。彼女、十月に結婚するらしい。どうもぼくのほかにつきあっていた男がいたみたいで、それが今になってようやく判明した」
奥田は笑いをふくませた声でそう言ったあと、その口調のままたずねてきた。
「万穂子さんから見ても、ぼくはマザコン男なのかなあ」
「そういう感じはないけれど」
慰めの言葉ではなかった。奥田と会っていても、話題はもっぱら仕事に関することであり、母親の話は仕事にからんで、ときたまでてくるだけである。いっぺんだけ母親のことが話の中心になった日もあったが、それは仕事に情熱を燃やす母に、かまってもらえなかった少年時代の淋《さび》しさと、母を理解しようとした心の葛藤《かつとう》を、遠い思い出としてユーモアまじりに語っただけだった。
「別に自己弁解じゃないけれど、マザコン男というなら、ぼくよりもおやじのほうがずっとマザコンだと思うよ。いまだに祖母の言うなりだもの。女の人の場合はファザコンとかいうのでしょ。万穂子さんにもその気はあるの」
「ファザー・コンプレックスにつきまとわれているような、そんな可愛《かわい》らしい齢ではないけれど、多分、あるのでしょうね。かなりねじれた形で」
「ねじれた形?」
「もっと若い頃は父に私を理解してもらいたかった。でも父は理解する前に、おそらく直感的に私という人間を分っていたのね。それが最近になってようやく見えてきたわ。きっと私が父の何かを、やはり勘で見抜いていたように。で、おたがいに顔をそむけあう……」
「そうかあ。ぼくは反対におふくろが分らない。分らないということに気づいて、ある時点から考えるのをやめにしたんだ。おふくろはおふくろ、ぼくはぼくだと」
「そのほうがずっと賢明じゃないかしら。たとえ肉親でも結局は他人。分ったつもりでいても中途半端にしか理解していないのよ。私もそのくちだけど、中途半端に相手が見えるから、かえって手に負えない。突き放して考えられないのね」
奥田はほほえみを浮かべて万穂子を見つめていた。
「やっぱりこういう話は万穂子さんとしかできないな。会話をしているっていう感じだもの」
万穂子の気持も同じだった。
自分の心を正直にさらけだせる相手は、現在は奥田のほかにはいない。
奥田に取材の件ではじめて会ったとき、万穂子はすでに予備知識を持ってのぞんだはずなのに、彼を会社の三代目であるとは話の途中までまったく気づかなかった。これまで取材した二、三十代の次期後継者のタイプとは異なり、奥田の対応はごくしぜん体で、気負いもなければ、傲慢《ごうまん》さもなく、慇懃無礼《いんぎんぶれい》のかけらもない。その場に専務があらわれ、ようやく息子だと話のなりゆきから悟った。万穂子が自分のうかつさをわびると、奥田は苦笑し、専務は楽しげに笑った。
「この子は貫禄《かんろく》がないんですよ」
「いや、ぼくは子供の頃から、ちょっとでも他人を見くだしたり、バカにしたりするようなことをすると、専務からこっぴどく叱《しか》られましてね、そのチェックは今でもやられていますから。かえって、へんに卑屈になるのかもしれませんね」
取材記事が会社の宣伝になる、そのお礼だと奥田に食事に招かれたのは、それからほどなくだった。万穂子のほうがお礼をしなくてはならない立場なのに、そういうそつのなさは、やはり会社のトップとなるべき人物として教育されているらしく、そこにも専務のかげが見えかくれした。
万穂子と以前と変らぬやりとりができ、奥田はくつろいだ気持になったようだった。
「以前みたいに、ときどきはふたりきりでお酒を飲んだりしてもらえないかなあ」
「専務からクレームが入ると思うわ」
「最初からオープンな関係にしておけばいい」
「あくまでも友だちとしてならかまわないけれど、それ以上のおつきあいはできないわ」
そう言いながら四月のホテルの件は、もののはずみだったと言外に匂わす。
奥田はおだやかに万穂子を見つめ、おっとりと返答した。
「友だちで十分だよ。ぼくには何でも話せる友だちが必要なんだ」
喫茶店の前で二人は別れた。
万穂子は美容室に寄り、のびた髪を、これまで通りのショート・ヘアにしてもらうつもりだった。
翌日の月曜日、万穂子は専務から言われた出勤時間より三十分早く出社した。
十時半にあらわれた専務は、万穂子の着ているスーツに満足気なうなずきを返し、次に専務室がきれいに掃除され、机の一輪ざしに赤いバラが飾られているのを見て、淡くほほえむ。
万穂子は総務課の女性から事前に聞いていた専務の出社直後の習慣である、アメリカン・コーヒーをすかさずいれて持ってゆく。
「板東さん、かなり早くから出社してきていたの」
「いえ。つい三十分前です」
それから専務は皆に万穂子を紹介した。
専務の一日のおおよそのスケジュールは、十時半に出社し、午前中は書類に目を通したり、来客に会う。昼食は近くの蕎麦屋《そばや》に出前を頼むか、商談をまじえた会食に出かける。午後は各店舗をまわって責任者と打ちあわせをしたり、会議に出席したりと、あわただしく動きまわる。それでも社長と分担した仕事量で、社長が海外出張などで留守の場合には、多忙をきわめるのだという。夜は七時まで会社にいる。接待や宴会、各パーティーの出席は社長の役割になっているけれど、たまには社長の代理として出席しなくてはならない。
専務は、よほど内密な打ちあわせを除き、必ず万穂子を同伴し、同席させた。そのようにして仕事をおぼえさせようとしていた。
最初の一週間、万穂子は緊張とストレスにくたくたになり、帰宅して入浴するのがようやくの有様だった。そのあとはベッドにふらつきながらもぐりこむ。
父の靴が玄関先にあっても、話をする気力もなかった。
二週目に入り、少しずつ馴《な》れてきた。
専務のスケジュール調整の要領ものみこめてきて、彼女の表情から来客の重要度も判断がつくようになり、頃合いを見計らって、来客にそれとなく退出してもらう物言いも身につきはじめた。
定休日は日曜日である。土曜日は平日通りの営業で、社員は交代で休みを取って週休二日制の勤務となっていた。
専務は土曜日も休まない。万穂子もそれにならい、また休みを要求する気持も起きなかった。とにかく仕事をおぼえるのにやっきになっていた。
丸ひと月がすぎ、カレンダーは十月に入った。
その週の土曜日、万穂子は専務に夕食に誘われた。
「私、これでもダイエットを心がけているの。それで和食にしたけれどいいかしら」
つれてゆかれたのは産地直送の生ガキのおいしい店で、すでに小さな座敷が予約されてあった。
卓に向かい合ってすわると、ほどなく次々と料理が運ばれてきた。
「板東さんのお昼の出前のメニューを見ていると、好き嫌いはあまりないようだから、お料理は適当に頼んでおいたのよ……しかし、この一カ月、よく頑張りましたね。ご苦労さま」
ふいに肩の力が抜け、同時になぜか万穂子は胸が熱くなった。自分でもうろたえてしまうほど、専務の言葉が心にしみた。瞬間、母の信子を思い出していた。
「板東さんの根性は見上げたものよ。いざとなると大変な底力《そこぢから》を発揮する人なのね。もしかすると最初から編集者より、こういう仕事のほうがむいていたのじゃない?」
おしまいはからかうような口振りになりながら、それでも専務は上機嫌だった。
「これは私の予感だけれど、あなたは私のアシスタントで終る人ではないわ。本気でうちの会社の業務内容をくわしく勉強してみてごらんなさいよ。どの仕事に力をそそぎたいか、少しでも早くねらいをさだめるといいわ」
「ありがとうございます」
頭をさげ、上体を起こしたとたん、涙が一滴こぼれ落ちた。
「あ、申し訳ありません」
急いでバッグからハンカチを取りだす。
「いえ、私こそ何か気に障ること言ったかしら。もし、そうならごめんなさいね」
「そうではありません。私、こんなふうに褒《ほ》められたの、はじめてなものですから」
「はじめて?」
専務はいぶかしんで問い返したが、追及はしなかった。
二十七歳の頃の恋人だった志摩二郎《しまじろう》も、万穂子にやさしく、何を言っても賛同し、褒め言葉を惜しまなかったけれど、それはある種の身びいきと欲目からだと分っていた。励ましでもあった。
だが正当に評価され、褒めてくれたのは専務がはじめてではないだろうか。
万穂子は自分の中に、まだそんな子供っぽい願望が眠っていたことに、われながらあきれはてていた。父や母から褒められた記憶は、確かにない。自分はそういう人間なのだ、と心のどこかで納得し、他人からどう評価されるかなど、いっさい気にもかけない習性が身についていた。悪く評されるのを当然としてきた。
それが今の専務の言葉で、とうに消えていたはずのものが突然によみがえり、万穂子の感情を揺さぶった。
特に亡くなった母が専務の年齢に近く、生前は万穂子をうとみつづけていただけに、年配の同性からの思いがけない讃辞《さんじ》に、万穂子はまるであの世の母からの許しを得たような、つかのまの錯覚にとらわれた。
三十二歳になっても、しかも母が死んでいるにもかかわらず、母に愛されなかったという思い出は、自分で自覚する以上に根強い劣等感になっていたのだろう。
考えてみれば、このひと月間、自分の力をめいっぱい試そうとしてきたのは、どこかで専務と母を重ねていたからではなかったか。
奥田が仲立ちをしてくれたとはいえ、実際は専務が万穂子の引き取り手となってくれた。その好意にどうにかして応えたい、そう思ったのは事実だが、そのうしろには「母にむかうもう一度のチャンス」を与えられたという深い意識が働いていたのではなかろうか。いきなり噴き出してきた涙は、単に評価された喜びというだけでは説明がつかない。普段の万穂子は涙もろくはなかった。歯をくいしばっても、そうした弱味を見せるのは恥としていた。
卓にはひと通りの料理が並べつくされてしまっていた。
万穂子はようやく涙を抑えこみ、ハンカチを膝《ひざ》に置く。
「すみません、取り乱してしまいまして」
「まずはビールで乾杯しましょう。ああ、それからね、あとで伸広があなたを迎えにくると言ってたわ。バーにご案内したいそうよ」
生ガキはおいしかった。レモン汁をたらしてすするそれは、いくらでも喉《のど》を通り抜けてゆく。
「もっと生ガキを注文しましょうか」
「いえ。ほかにもたくさんご馳走《ちそう》がありますから」
万穂子は箸置《はしお》きにいったん箸をもどし、マツタケの土びん蒸しのうつわを手前に引き寄せた。そのほかに天ぷら、刺身の盛り合せ、季節の野菜の煮物、キノコの和《あ》え物、茶碗蒸しなどが所せましと並んでいる。
久しぶりに品かずの豊富な、そして、相手が母と同年輩の専務のせいか、食事らしい食事をしている心地がした。
姉の夕利子が東京へ行き、父の不在の夜がひんぱんになり出してからというもの、食事の楽しみとは無縁になっていた。つねに栄養のバランスを心掛けて食べなくては、の義務感のみが優先する。
「あら、このキノコの和え物、とてもおいしいわ。ね、食べてごらんなさい」
専務のすすめで、その小鉢を手に取る。ひと箸すくって舌に乗せる。
「秋の味、ですね」
「本当にあっというまにもう秋ねえ」
他愛《たあい》ないそうしたやりとりが、何よりも食欲をそそってくれた。
二時間後、万穂子は奥田と新しくできたホテルのバー・カウンターの席についていた。
著名な空間プロデューサーが手掛け、インテリアはイタリアのデザイナーによるものと聞かされていたそのバーの造りは、素人の万穂子にはあまりピンとこなかった。
札幌市内のあちこちに造られている若者向けのレストランやバー、パブなどの、無機質で、そっけないほどシンプルな店内と、どこか一脈通じるものがあり、その点ではさして変りばえのしない流行《はやり》ものに感じられる。
照明は、従来のこうした店にしては明るい。人間臭というものが、見事にかき消されている。ここにくる客は、人間というより、金属でできたロボットがふさわしい。人間の体温や息づかいなどの生なましさを、いっさい拒否しているような空間は、芸術ではあるのかもしれないが、客のほうがまだそこまで洗練されていなかった。
奥田にバーの印象を問われるままに、万穂子はそんな感想を述べた。
「多分、完璧《かんぺき》すぎるのね。この店自体が人間を加えてはじめて完成するといった造りではなく、人間が入るとその完成美がくずれてしまう。だから、完璧だけど、なんとなく居心地が悪い。この店にとって自分はじゃま者じゃないかという気がしてくる」
「なるほど」奥田は笑った。
「おもしろい見方だ。ところで、ぼくがプロデュースしたあのカフェ・テラスのある喫茶店はどう? 率直な意見を聞きたいな」
「あそこは、このバーとくらべると、ずっといい意味で野暮《やぼ》ったい。だから、くつろげるのね」
「じつはね」奥田はドライ・マティーニのグラスの柄を片手でつかみ、もう一方の手をズボンのポケットに入れ、うつむきがちに言った。
早くもあの喫茶店を買いたいという申し出があったという。隣接している|舶来品の小物《インポート・グツズ》ショップも一緒にである。
社長はこの話に乗り気で、ただし土地までは手ばなさないのを条件にしている。というのも、まだ極秘ではあるけれど、あの辺いったいを関西方面の不動産会社が少しずつ買い占めにかかってくる気配で、いずれそうした商談が持ち上ってくるに違いない。社長は、そのときに備えて土地だけは残し、喫茶店は今のうちから「オクダ・コーポレーション」の経営から切りはなしておきたいと考えている。
つまり息子の奥田を別の事業にまわし、儲《もう》けの少ない喫茶店は他人に売る。関西系の資本が介入してくる前に、しかるべき手を打って、その不動産会社が何をもくろんでいるのかの情報を集め、損得を十分に考えたうえで、土地の売買を有利に持ってゆく策を練ろうとしている。
「おやじは、いや、社長は最初からそのつもりだった。ぼくは数日前にそれを聞かされ、いささかショックだったよ。あの店ふたつは、当然ぼくの思いどおりにやれるものと思いこんでいたからね。社長にはそんな読みもできなかったのかと叱られたけど」
万穂子は黙って奥田と同じドライ・マティーニのグラスを見つめつづけた。
奥田の口調は淋しそうだった。彼がまるでそういう掛け引きは念頭になく、単純に喫茶店の開店を喜び、万穂子に見せたがっていたのを知っているだけに、出鼻をくじかれたつらさと口惜《くや》しさの度合いが想像された。
「社長は言ったよ、お前にはビジネスがまだまだ分っていない。考えが甘すぎる」
自分にも分らない、万穂子は胸の中でつぶやく。しかし、この会社でやり抜いていこうと決めたからには、ビジネスの割り切りと見定めを、早く身につけなくてはならないだろう。
「ぼくはこういう商売にむいていないのかもしれない。お金をできるだけ有効にころがして、それだけで利益を得るなんて、なんだかサギのような気がしてならないんだ」
「じゃあ、何にならむいていると思うの」
「普通のサラリーマンさ。そして普通の家庭を持つ。ぼくが子供の頃に味わったような、おふくろが仕事でしょっちゅう家にいない状態は、自分の子供には経験させたくない」
「野心がないのね」
「おやじやおふくろほどには、きっとないだろうな」
「結婚したら? 家庭を持って、奥さんには家のことと育児に専念してもらう。そういう自分の家庭を持てば、きっと落ち着くし、何かがふっ切れるのじゃないかしら」
奥田は固い表情で黙りこむ。
余計なことを言いすぎたらしいと、万穂子も口をつぐむ。しかし、どの言葉が彼のカンにさわったのか見当もつかない。
それぞれ二杯目のカクテルを注文し、それが目の前に差し出されて、奥田はようやく口を開いた。
「仕事はおもしろい?」
「まだそう感じる余裕はないわ。とにかく無我夢中よ」
「専務はきみのこと褒めていた。とても気に入っているみたいで、自分の片腕にするつもりらしい」
「期待に応えられるといいけれど」
ふいに万穂子は酔いを感じてきた。
二杯目のマティーニはほとんどなくなっている。かなり速いピッチで飲んでいたらしい。
このひと月間どうにか大きな失敗もなくやりこなしてきた緊張が、あすは休みだという解放感を得て、一挙にほぐれてきたのだろう。
だが快い酔いだった。
奥田がバーテンに合図し、次の注文をしているのを万穂子はとめなかった。もう一杯だけ飲んで、あとは家に帰りベッドにもぐりこみさえすればいい。
父は今夜も愛人宅に泊まるような予感がする。帰っても、だれもいない冷えびえとした家だった。仕事が順調にいっていることも、そのごほうびとして専務に食事に誘われたことも、話す相手はいない。それならば、いっそ奥田とこうして取りとめのない会話をかわし、気分よく酔って帰宅するほうが、きょう一日を幸せにしめくくることができる。
あらたに運ばれてきたカクテルは淡いグリーン色をしていた。口にふくむとミントの香りがさわやかで、ジンをベースにしたマティーニに馴れていた舌に、また新鮮な刺激を与えてきた。口中に森の樹々《きぎ》の匂いが広がる。
「これ、おいしいわ」
「このバーのオリジナルらしいよ」
万穂子はカウンターの内側で立ち働く数名のバーテンダーや、棚に並んだリキュールの壜《びん》を眺めながら、ぼんやりとカクテルを楽しみつづけた。いつのまにか奥田が横にいることも忘れ去っていた。
今回の就職については、まだ東京の夕利子とその夫の甲村《こうむら》にも知らせず、同じ札幌に住む時子《ときこ》にも伝えてはいない。自信がなかったからである。出版社を辞めたことさえ報告をひかえていた。見通しがついてから連絡しても遅くはないだろう。おかしな心配はさせたくなかった。今回の仕事にしても、ひと月たったとはいえ、もう少し時間を待って、大丈夫だと言いきれるようになってから知らせるつもりでいた。
夕利子も時子も、そして甲村も、万穂子の性分は分っている。結婚への夢を持っていないのも承知している。が、三十歳をすぎての転職となれば、それなりに危惧《きぐ》をいだかせるかもしれない。不必要にまわりの者の心を波立たせるのは、万穂子の意に反する。できるだけ、そうはさせたくない。これは、そうした他人の心に無頓着《むとんちやく》だった父や母から反面教師的に学んだことだった。
奥田の声にわれに返る。
「万穂子さんは、ときどきとても淋しげで哀しい表情をするね」
「私が?」
そんなことを言われたのは、はじめてである。
酔いが万穂子を軽やかな状態にさせていた。思わず陽気な笑いをふくませて答え返す。
「だれかが言っていたわ。女も三十をすぎると、否応《いやおう》なくかげりが出てくるのですって。私もそうなのでしょう。淋しくも哀しくもなくとも、他人の目にはそううつる」
「そうかなあ。ぼくには違うように思える」
「どう違うのかしら」
「これはぼくの勝手な想像だけど、万穂子さんは人生に対して、いや自分に対しても、とうにたくさんのものを、あきらめてしまった人のように見える」
あきらめてはいない、万穂子は胸の中で言い返す。あきらめてはいないけれど、どれだけ努力してもみのらないものが、たくさんあることだけは痛感している。
奥田はつづける。
「或《あ》るあきらめがあるから、仕事にあれだけ熱中できる、ぼくにはそう思えて仕方がないんだ」
「私は仕事が好きなの」
「もちろん、嫌いならああまで没頭はできない。でも、万穂子さんを見ていると、出版社にいたときもそうだったけれど、本当は、その本心は何にも熱中していない、熱中しているふりをしているような感じがするんだ」
「そんなふうに見えるなんて心外というか、意外というか……」
唐突に奥田はたずねた。
「恋人はいるの」
「残念ながらいないわ」
そう言ってはみたものの、万穂子は、恋人を求める気持はなかった。志摩二郎を、すでに亡くなった彼を、いまだに心のすみに棲《す》まわせ、あたためていた。
「ぼくのことを友だちだと言ってくれたよね。その友だちとして頼みがあるんだ。今夜はもう少しつき合ってほしい」
言いながら奥田はスツールから降り立っていた。
一階にあるバーを出て、エレベーターへむかう。最上階のラウンジで飲み直そうとしているのか、万穂子は酔いに溶けた頭で、淡いピンクに染まった奥田の横顔に視線を走らせ、それ以上の詮索《せんさく》はしなかった。考えるのが億劫《おつくう》になってもいた。
エレベーターがとまり、奥田にうながされて廊下に出る。ラウンジではなかった。客室番号を左右の矢印で示したプレートが、正面の壁に見えた。
「部屋を取ってあるんだ」
万穂子は、無言のまま、ひるむ。
「きのうも例の喫茶店の売却の件で、おやじとかなり派手に喧嘩《けんか》したんで、家には帰りたくないんだ。おふくろには言ってきてある」
「でも……」
「とにかく部屋に行こう。こんな所でもめているのはみっともないからね」
奥田は背広のポケットからキーを取り出し、万穂子の背を軽く押しやる。
部屋に入り、ふたりきりになると、万穂子は急に酔いがさめた心地になった。身構えてもいた。
奥田はベッドの端に腰かけ、背広のボタンをはずし、ネクタイをゆるめた。
「おやじの口癖をまねて、ストレートにビジネスライクに言う。おたがいの気晴しの相手として、ときどきこんなふうな会い方をしてもらえないかな。友だちでいいんだ」
彼にしては珍しく早口だった。何回もくり返し練習してきたようなよどみのなさでもある。けれど、まなざしは不安に揺れていた。
「こんなふうな会い方って、ホテルの部屋で……」
「しかし、あくまでも友だちだ」
「それはまずいでしょう。社長や専務に知られたら」
せっかく得た仕事を台なしにはしたくなかった。奥田と個人的にかかわっていることが露見したなら、社長や専務の怒りをかい、クビにされないともかぎらない。
「悪いけど、私は今の仕事を失いたくないの」
ドアへ進みかけた背中に、奥田の切羽詰まった声が追ってきた。
「その仕事を、この場で、たった今、失うこともできるんだよ、ぼくのひと言で」
背骨に強い打撃を受けたようだった。
そうだったのか、そういう思惑《おもわく》で、奥田は今回の就職に手を差しのべてくれたのか。
万穂子は振り返った。いっさいの感情を払い落とした顔で彼を見つめた。
万穂子のそうした凍《い》てついた無表情さを、奥田は受けとめかねて、うつむく。
「ごめん。ひどいことを言ってしまった……でも、本心から言ったのじゃない。分ってほしい……ごめん」
万穂子はバッグを椅子に置き、スーツのボタンをはずしはじめた。
「私は、仕事を、失いたくないの……シャワーを浴びてくるわ」
だが、その夜、素裸になってベッドに入った万穂子を、奥田はただきつく抱きしめているだけだった。背広とネクタイを取り除いた姿で、まるで子供にもどったかのように、万穂子の胸に顔をうめつづけた。
「……そうか、新しい仕事が見つかったのか……何やら忙しそうにしているとは思っていたが」
父の達也は居間のソファに身体《からだ》を沈め、ブランデー・グラスを片手に、抑揚《よくよう》なくつぶやいた。その目はグラスの中身にそそがれている。
「長つづきしそうか」
「多分ね」
万穂子はテーブルの反対側に置かれた、夕利子がいつもすわっていたグレーの布張りの椅子に腰かけていた。
奥田の予想外の言葉をホテルで聞いてから十日がすぎた夜だった。あれ以来、まだ彼からの誘いはなかったが、万穂子の凍てついた心はほぐれず、だからといって彼を拒絶するつもりもない。これもビジネスの一環、そう処理して、あえて思い迷うのは避けていた。
「じつは、わたしからも万穂に話がある」
父はそれでもなお娘を正視しようとはしなかった。そうしないための小道具として、ブランデー・グラスを手にしているのかもしれない。
「わたしに、もしものことがあったときのために、今のうちに言っておく。いろいろと考えたのだが、弁護士の田中《たなか》くんとも相談して、やはりきみの耳に入れておくべきだと……万穂には弟がいる。といっても法律上のことで血のつながりはない」
「弟?」
「ああ。きみもとっくに承知していると思うが、わたしと関係のある彼女の子供だ。彼女とほかの男とのあいだにできた男の子なんだが、その男が認知しない。彼女に泣きつかれて、わたしが認知してやった。まだ幼くて、来年、小学生になる」
万穂子の頭の中がゆっくりと渦巻いてくる。
その子は父の子ではないのか。
父から緊急の際には、と教えられていた愛人宅の電話番号は、ここ約十年、変っていなかった。来年、小学生になるというなら、彼女とほかの男とのあいだにできた子供というのは不しぜんではないか。
万穂子の疑問を察知したように、父は付け足した。
「十年近くつき合っていると、男と女にはいろいろとある。特に彼女はススキノのクラブのママで、男出入りもわたしだけとはかぎらない。要するに彼女にとっては、わたしは無難なレギュラー。数年前、彼女は浮気をして妊娠した。で、どうしても産みたいと言い張った……。昨年、幼稚園に入るとき、父親がいないとかわいそうだとか言って、しつこく頼みこまれてな。だが、万穂には、いっさい迷惑がかからないように、弁護士に立ちあってもらったうえで遺言書を作成しておいた。もし仮にわたしが死んでも、すべて万穂のものだ。その子には一円もゆかない。これは彼女も納得している」
「パパもずいぶんとお人好《ひとよ》しなのね。自分の子でもないのに認知するなんて」
思わず皮肉まじりのからかいが口をついて出た。腹立たしくもあった。
「わたしも齢のせいか、多少の人助けぐらいはしてもいいかと。くり返すようだが、万穂には迷惑はかけない」
父はずっと妻の信子を疑い、夕利子を自分の娘ではないと決めつけてきた。
それなのに、公然と浮気をする愛人と十年近くも関係し、さらにほかの男が産ませた子を認知してやるとは、一体どういう心境の変化なのか。
父は六十三歳だった。年齢に伴う気持の変りようは分らないでもない。自分自身にもそれを感じる。だが、母と夕利子をあれだけ苦しめておきながら、単に齢とともに寛大になったというのは、あまりにも身勝手すぎる。何事も年齢のせいにするのは、卑怯《ひきよう》ではないか。
父をそう責めたいと思う一方で、万穂子は、父とその愛人の関係にもけっしてノーマルとは言いがたい歪《ゆが》みを嗅ぎ取る。
あれだけ妻に強い猜疑心《さいぎしん》をいだいていた父が、愛人の浮気に平静でいられたのだろうか。
万穂子の頭の中に、奇怪な心理のからくりが図式のように浮かんでくる。
父のほとんど病的なまでの不信感が、図式の核になっている。その核は依怙地《いこじ》なまでに固く、突きくずせない。そのため、核が発散する想像力は、途方もなく暗く強烈な疑いに塗りこめられている。あたまから疑ってかかる。反論は受けつけない。いや、父にしても自分の病的なそれを、相手の女性からどうにかして解《と》いてもらいたいのだが、最後の一点で核は打ち砕かれるのを拒む。
そうした関係の中で唯一の救いは、父の想像が当っていたと示してやることではなかろうか。父に「やはり、そうだったのか」と安堵《あんど》させてやりさえすれば、父の妄想は消えてゆく。父の敵は、父自身のそれなのだから。
そのとき、愛人は、まさしく公然と浮気をし、平然とその痕跡《こんせき》を父に見せ、父の不信感が正解だったことを知らせてやる。
それこそが父にとっては明快な男女関係ではないのか。
多分、父は、自分を裏切る女性を、いっさいのかくし立てなしに目のあたりにすることによって、その女性をはじめて信頼しはじめる――。
妻の信子への疑惑を、死後もなお捨てきれずにいるのは、彼女が最後まで身の潔白を言いつづけていたからではないのか。彼女は、たとえ嘘《うそ》であろうとも言うべきだったのかもしれない。「夕利子はあなたの娘ではない」と。その瞬間、父は救われたのかもしれなかった。
父が愛人の子を認知したのも、自分の子ではないという「父にとっての真実」を掌握《しようあく》できたからこその寛大さであり、ある種の人助けなのかもしれない。
おだやかで巨大な虚無が、父の内側をゆっくりとむしばみ、食い荒らしはじめたのは、結婚してからのこと、とこれまでの万穂子は考えていた。しかし父はもっと以前から「発病」していたに違いない。幼年期をすぎ、無心な子供時代も終り、自分が「男」という子を産めない、しかもその子が自分の子であるということを信じるしかない生き物だと自覚したときから、父は漠然とおびえだし、病みはじめた……。
いつのまにか窓ガラスに雨が打ちつけられていた。
札幌の十月の雨は、一回降るごとに寒さをつのらせてくる。秋の終りが近づいてくることを、ひと雨ごとに知らせる。
雨のせいか、居間の温度も急速にさがってきたようだった。
万穂子は肌寒さをおぼえてきた。風呂《ふろ》に入って身体を暖めるのが、いちばん手っ取り早い。その前に、もう一度確かめてみた。
「パパ、認知したその子は、本当に単なる法律上のことで、私にはいっさい関係がないのね。面倒なことにはならないのね」
「きちんとそのようにしてある」
「でも自分の子ではなくても、情が移るというか、可愛いと思うときもあるでしょう」
「奇妙な動物を見ている気分だ。可愛いと思うよりも、まず奇妙だ。特に男の子の、あの元気さというかうるささは」
父は相変らず手にしたブランデー・グラスを見つめている。
「ときどきあの子が万穂の子だったらと思う。きっと可愛くて仕方がないだろう。だが、万穂の夫となると、これがピンとこない。万穂とその子供だけがいてくれたら、と想像してしまう……あの子は彼女の子だ。わたしはあの子にはかなり冷淡だろうな。しかし、やさしくする義務もない。したくもない」
幼稚園児だというその男の子に、万穂子は同情をおぼえる。
父の中の冷えきった血が言わせる言葉は、容赦なく残酷だった。万穂子の夫はいらない、ただし万穂子とその子供がいてくれたなら――この言葉も、いっさいの甘味を取り除いた父のエゴイストぶりを正直に伝えていた。
傷を負った獣が、その痛みをうったえるような唸《うな》りが、万穂子の耳に流れてきては、遠《とお》ざかる。
それは街中のホテルの十階の部屋の窓のそとを吹き荒れてゆく十一月も末の風の音だった。
だが風の音とはいいきってしまえないような悲痛な吠《ほ》え声もときたま混っていて、万穂子は思わず窓辺にたたずんでしまっていた。助けを求める手負いの動物が、ホテルの近くのビルのどこかにひそんでいるような気がして、ネオンサインのあかりを頼りに、夜の色のむこうへ目をこらす。
何も見えない。悲痛な吠え声も風のしわざだったらしい。そう思いながらも、どこかで、何かが必死にうったえ、うめいている幻聴が耳奥でこだましつづける。
背後のソファ・セットでは、奥田がルーム・サービスで取り寄せたスコッチ・ウィスキーを飲みながら、次第に呂律《ろれつ》が怪しくなってきた口調で、社長への不平不満をつぶやいていた。
このところ社長と奥田の衝突は、妻であり母でもある専務の手にも負えないぐらいひんぱんに、そして激しくなっていた。
問題は奥田のほうにあった。社長の言うことなすことに、ほとんど感情的な反発をぶつけてゆく。言いがかりそのものだった。
社長は、そんな息子の反抗に動じるふうもなく、軽くいなしてしまうのだが、それもまた奥田を逆上させる結果になる。いさかいは家にも持ちこまれ、仲介役の専務は夫と息子の板ばさみになって困惑しきっていた。
つい数日前も、専務は店屋物で昼食をすましたあと、いつになくため息をつき、弱音を吐いた。
「二十八にもなって父親に反抗するなんて、板東さん、どういうことなのかしらねえ。私にはあの子の気持が理解できないわ。とにかく言っている内容はめちゃくちゃ。主人に非はないの。間違っているのは伸広よ。経営方針を批判するほどの力量も度量も、まだまだあの子にはない。伸広の言っているのは理想にすぎないの」
そう言ってから専務は、万穂子に、伸広のお守り役をしばらく頼む、それは残業扱いにすると付け足して、万穂子を苦笑させた。
「いえ、私は真剣にお願いしているのよ。経費でおとせるものは、ちゃんと申請して。伸広はあなたにだけは心を許している。相談に乗ってやってちょうだい」
専務が息子と万穂子の関係をどうとらえているのかは分らなかった。しかし、いずれにしろ、万穂子は、奥田の相手をすることも仕事のひとつとして割り切って考えるように、心のある部分を封じていた。
奥田は社長への反発を深めてゆくに比例して、万穂子を呼び出す回数が多くなっているようだった。そうした場合は、温室育ちそのままの強引さとわがままをむきだしにした。
奥田はホテルの部屋で万穂子とふたりきりになると、まずルーム・サービスでウィスキーを注文し、そのあとはひたすら飲みつづける。酔っても荒れることはない。彼が社長に突っかかってゆく場面は、万穂子も何回か目撃していたが、そうした攻撃性はホテルの部屋ではあらわれなかった。
奥田の社長への反抗は、カフェ・テラスのある喫茶店の売却に端を発しているらしいとは薄々気づいてはいるものの、あの一件が彼に与えた傷の深さは、万穂子には測りかねた。正直なところ、なぜそこまでこだわり、ビジネスに徹しきれないのかと、奥田の感傷をいぶかしむ気持のほうが強い。
酔った奥田は、妙に黙りこんでしまうか、ひとり言めいた小声《こごえ》で社長や会社の仕事についてとりとめなくしゃべるかのどちらかだった。
いつであったか長い時間グラスを手に沈黙している奥田に言ったことがある。入社以来、彼に対する言葉づかいは、上司と部下のそれにあらためられていた。
「おじゃまでしたら、私は失礼しますけれども……」
奥田はすがりつくようなまなざしになった。
「いや、少しもじゃまじゃない。むしろ、ここに一緒にいてほしい」
今夜で何回ホテルにきただろうか。
しかし、万穂子が以前に「友だちとしてつき合いたい」と言った約束を守ってくれているのか、彼は性交渉を持とうとはしなかった。それらしい言葉はまったく口にせず、ただ飲んでいる。
窓辺に立ってうしろを振り返ると、やや充血した目でこちらを見ている奥田の姿があった。視線があう。奥田は久しぶりに淡いほほえみを浮かべた。
「後姿だけ見ていると、二十歳《はたち》の女性と称しても通用するね、万穂子さんは。特に腰まわりがほっそりしていて、安産型とは正反対だ」
「だから結婚しないのです」
万穂子のそくざの返答に、奥田は声を立てて笑った。
「そうか。それは知らなかった。でも、万穂子さんがごく普通に結婚して子供を産む姿なんて想像できないな。なんだか似合わないような気がする」
奥田のグラスの中身がからになりかけていた。万穂子は窓際から椅子へ移り、奥田のグラスに薄い水割りをこしらえた。今夜も彼は飲みすぎている。ごく短時間のうちにウィスキーのハーフ・ボトルの半分はあけてしまった。
「うちのおふくろも本当はあまり子供がほしくなかったらしいよ。子供よりもおやじの片腕としてバリバリやっているのが性にあっていたとか。でも跡継ぎをぜひにと祖母に言われて、しぶしぶ妊娠して産まれたのが一歳にもならないうちに亡くなった姉、そして次がこのぼくさ。男の子だったので、これでもう責任ははたした、だからもう子供は必要ない――ぼくはね、小さい頃、きょうだいがほしくてたまらなかった。もし今のぼくに弟がいたとしたなら、好きなように人生を送らせてやるよ。おやじやおふくろがどう言おうと、ぼくがガードしてやる」
奥田の鬱屈《うつくつ》に、ようやく裂け目が生じてきた。万穂子は、そこにすかさず入りこむ。
「今のご自分の状態に不満なのですか」
グラスを口に運びかけた奥田の手が途中でとまる。もう一方の手で前髪をかきあげながら、かすかに目をほそめる。
「うまく表現できないな。不満だ、そう言ったとしたら、じゃあほかに何をしたいのか……それも分らない。なんせぼくは会社の跡継ぎ用にこの世に送り出されてきた人間だから、そういう教育ばかりされてきたから、要は、世間知らずのドラ息子。こうして毎晩飲んだくれている」
「でも飲んだくれているのも、そろそろ飽きてきたのじゃありませんか」
奥田は一瞬ふいをくらった表情になり、やがて徐々に苦笑をひろげてゆく。
「そう、飽きたよ、もうとっくに飽きている、反抗のポーズには」
そう言ってから彼は万穂子を見つめた。そのまなざしに一途《いちず》な熱っぽいものを走らせながらも、口調は冗談まじりだった。
「もっと別の充実したことをしたいと思う。何もかも忘れてしまえるようなことをね」
奥田の視線をまっすぐに受けとめながら、万穂子は、これも仕事のうちだ、と専務からの依頼を思い浮かべる。「伸広のお守り役をよろしくね」
万穂子は目に力をこめ、たくさんのふくみをこめてたずねた。
「私、シャワーを浴びてきましょうか」
奥田の顔つきが急にけわしくなった。そして、それとなく視線をそらせてゆく。
「おふくろの、いや、専務からの指図なのかそれは」
「専務は関係ありません」
「しかし、万穂子さんはぼくにはっきりと言ったじゃないか。友だちとしてならつきあうと。それなのに、どうして突然に――」
「私の気持が変ったのです」
「嘘だ。万穂子さん、そこまで無理をすることないよ。もっと言うなら、そこまで専務に忠誠をつくす必要はない……。しかし、専務はさすがだな。ちゃんと万穂子さんの人となりを見抜いている」
「見抜く? どういうことですか」
「専務は万穂子さんがアシスタントになってから、いたくご満悦なんだ。ようやく自分のブレーンになってくれそうな人材が見つかった、しかも、きちんと自分のほどをわきまえている、でしゃばらない、そのうえ、彼女は仕事に対してはじつにクールに対応する」
専務はまわりの人々にそんなふうに言ってくれているのか、万穂子は感謝の念で胸がいっぱいになった。思わずうつむく。
だが忠誠をつくすなどという献身的な感情からではない。とにかく仕事を一日も早くおぼえなくてはと必死だった。しくじりたくないという強い思いもある。出版社を辞めてから、この会社に拾ってもらうまで、職探しに苦労した日々は二度とくり返したくはなかった。三十二歳という年齢は、まともな再就職を望むには、あきらかに障害になることを身をもって知らされた。
多分この切実さは、二十八歳にして将来へのレールに乗っている奥田には、とうてい実感できないだろう。
「万穂子さん」
顔を上げると、奥田はウィスキーのハーフ・ボトルの残りをすべてグラスにあけているところだった。
「そんなに飲むと身体にさわります」
奥田は耳をかさない。そっけなくきき返してくる。
「こういうことも専務に報告しているのだろう。何をどれだけ飲んで、どのホテルに泊まって……」
「報告なんてしていません」
「いいんだ。分っているから」
どうやら奥田は誤解しているみたいだった。確かに専務から「お守り」は頼まれた。が、奥田の行動についての報告を求められたことはなく、報告したこともない。万穂子は彼の誤解をとこうと、懸命に説明した。
だが返ってきたのは、自嘲《じちよう》と冷笑の入りまじった言葉だった。
「専務の命令なのだろう? さっきシャワーを浴びてこようかと言ったのは」
「ですから、それは私の勝手な考えで――」
「もういいよ。だましあいは、もういい。でもね、ぼくはぼくなりに万穂子さんを大切にしているつもりだ。だから、社長や専務にさからってぼくは抱かない」
言っている意味がまるで不明だった。
率直にそのことを告げる万穂子を、奥田ははじめ信じていないようだったが、少しずつ真顔になってきた。
「ちょっと待ってくれ。酔っているせいか頭が混乱してきた」
頭をかかえこむ奥田に、万穂子は落ち着いた口調で質問し、彼の混乱を整理することにつとめた。それは誤解を訂正するためにも必要だった。
だが奥田が断片的に語る内容をつなぎ合わせてゆくうちに、万穂子は愕然《がくぜん》としてきた。
社長と専務は、結婚や女性関係について、くれぐれも慎重に考えるようにとこれまで以上のしつこさで息子に釘《くぎ》を刺したという。社長は言った。
「彼女≠フ件ではずいぶんと勉強になっただろう。今後はそのへんをよくふまえて女性と交際するように。ただし結婚相手は個人の好き嫌いではなく、会社ぐるみの相手だと考えてもらいたい」
そのそばから専務は、結婚するまでの相手として万穂子とつき合ってはどうか、とすすめた。もちろん、万穂子は結婚の対象としては認めない。四歳も齢上であり、健康な跡継ぎを産むには、もっと若い女性がふさわしい。さらに万穂子と結婚しても、会社には何のメリットもない。
ただ万穂子なら信用が置ける。割り切ってもくれるだろう。伸広のセックス・フレンドとなってくれた場合には、しかるべき手当ても出す。結婚が決まった際には、きれいに手を引いてもらう。
そうした話は、カフェ・テラスのある喫茶店の売却で、社長と奥田がやり合ったとき、息子のビジネス感覚のとぼしさに苛立《いらだ》った社長と専務が、結婚に対する甘い考えまで一掃《いつそう》しようとして切り出したのだという。
それは万穂子が入社してひと月がすぎ、専務にご馳走になり、そのあと奥田と会い、ホテルの部屋につれこまれた夜の数日前の出来事だった。
奥田は専務の口ぶりから、万穂子もとうに了承ずみだと見なしていた。
「でも、ぼくはあの夜、万穂子さんを抱けなかった。そして、ずっと社長と専務と万穂子さんはグルになっていると思いこんでいた」
万穂子は頭の中で、ビジネス、のひと言だけをまわしつづけた。そのことさえしっかりと頭に植えつけてしまいさえすれば、専務が奥田にすすめたことも、やろうとしていたことも、批難するにあたらない。
自分に言い聞かすためにも、万穂子はあえて口に出す。
「社長と専務の考え方は当然です。会社のことを思えば、跡継ぎの結婚問題は事業のひとつですもの。それに私ならあなたの一時的な相手として大丈夫だと判断してくれたのは、それだけ私を信じてくれている証拠でしょう」
「万穂子さんはそれで平気なの。そんなふうな相手にされても腹が立たないの」
瞬間、万穂子はきつく目をつむる。何も考えてはいけないのだった。心をにごらせる事柄よりも、その相手が奥田伸広だったのは幸運だと、むしろプラスにとらえなくてはならない。
目を開け、万穂子は唇に笑《え》みをはりつけた。
「これで誤解はすべてとけましたね。もう子供っぽい反抗はやめにしては。何の解決にもなりませんもの。ただアルコールで身体を悪くするだけです」
奥田はうなずく。目を伏せたまま言う。
「会社には長くいてくれるのだろうか」
「そのつもりです。できましたら停年まで」
「今は専務のアシスタントだけれど、いずれぼくのブレーンになってほしい。いつまでも社長や専務の言いなりにはなっていない。できるだけ早く、ぼくがトップになる。そのためにも万穂子さんは必要なんだ。ぼくの支えとして」
万穂子は立ちあがり、ハンガーにかけられた奥田の上着を取ってくる。
「ありがとう」
そう言って奥田は万穂子が広げた上着の袖に腕を通す。
「ぼくは結婚しない。一生、独身でいる。これが社長と専務への最大の反抗だ。そして万穂子さんを侮辱した二人への報復だ」
万穂子は複雑な気持だった。
ビジネスという言葉からは、いたって単純明快な乾いたひびきが伝わってくるはずなのに、自分が直面しているその世界は、もっと生なましく、入り組んでいた。
ビジネスと親子関係、人間関係が幾重《いくえ》にももつれ合い、それもまた仕事の原動力として見逃せないものになっているのは確かだった。
考えてみれば、以前に勤めていた出版社でも、万穂子たちがおこなう編集のビジネスをかげで操作していたのは金銭関係であった。金銭にからんで、闇《やみ》の部分での人間関係も錯綜《さくそう》していた。それに耐えられなくて退職した。
不純物の質は異なるけれど、どちらの会社もビジネス以外の混沌《こんとん》とした要素をたくさんはらんでいる。そうした要素のうごめきが、これとは指摘できないウイルスのようなものが、企業を基底から絶えず揺さぶり、その揺れがビジネスを太らせたり、浄化したり、増殖させてゆくのかもしれない。ビジネスは生き物だった。
奥田は、ビジネスに不可欠ともいえる不純物を過敏に嫌悪しすぎている。彼の若さが、まだそれらを呑《の》みこむことができない。
奥田とくらべると、いつのまにか、したたかな仮面を自在に扱いはじめている自分を、万穂子はくっきりと意識する。失業中の半年間で、急速に身にそなわってきた弱者のこざかしい智恵《ちえ》――。
奥田の「お守り」の延長として、ビジネスの一環として、彼とベッドをともにしてもかまわないと考えた自分の汚れを、今になって万穂子は恥じていた。
この仕事を手放すまいとするあがきが、しぜんと自分を卑《いや》しくさせた。十代、二十代にはなかったそうした一面は、年齢をへるごとに亡くなった母の信子に似てくるようで、万穂子は自分をつかのま嫌悪した。
奥田はふたたびかつての彼に立ち直り、仕事に励みはじめた。
社長と専務に表面立って反発することもなく、一応円満な家族関係を保っているらしい。
専務は、それを万穂子の手柄だととらえていた。奥田がかなりそのように吹聴《ふいちよう》しているようだった。さらに彼は社長と専務をあざむいた。
十二月のなかば、専務は言ったのだった。
「来年の一月から板東さんには特別手当てを出すことにしましたよ。伸広が公私ともに、ずいぶんとあなたのお世話になっているようなので、その謝礼金と思ってちょうだい」
言われたその金額は、月々の給料を上まわっていた。
数日後、奥田に誘われ、約束のバーに出かけて行った万穂子は、そのことを彼に問いただした。
奥田はあっさりと認め、そしていたずらっぽく笑った。
「いいじゃないか。くれるものはもらっておくといい。だいいち、万穂子さんは専務のアシスタントとして、そのくらいの働きをしている」
「でもそれは私がセックス・フレンドである場合のお手当てです」
「セックス・フレンドではなくても、こうして貴重な時間をさいて、ぼくの話し相手になってくれている。特別手当ては当然だよ」
また奥田は、社長と専務に、そう思わせておくほうがふたりを安心させる、親孝行にもなると言い添えた。奥田が万穂子とつきあっているかぎり、おかしな女性にかかわる危険が少なくなる、そう社長たちは考えている。
「噂《うわさ》が心配です」
「ぼくたちのこと? 大丈夫だ、社長も専務もスキャンダルは怖れているから、ぜったいに他人にはもらさないよ」
納得しかねている万穂子に、奥田はいつになく自信に満ちた口調で断言した。
「ぼくは万穂子さんを裏切らない。いや、ぼく自身の気持に忠実でありたいんだ。仕事上ではいくらでも妥協したり、折りあいをつけたり、自説をまげたりしても、ぼくの生き方については、だれにも口だしさせない。これだけはゆずらない。そのひとつとして、万穂子さんの特別手当てを専務にださせた。ぼくにとっては生まれてはじめての快挙だよ」
その週の日曜日の午後、久しぶりに時子が家に訪ねてきた。地味な和服姿だった。
時子からは事前に連絡があったため、その日は父も在宅していた。
小学生の子供ふたりを持つ時子は三十六歳になる。会うたびごとに、ふくよかになってゆく彼女は、二十歳の頃とまるで体型の変らない万穂子とは対照的で、ふくよかさに比例して、その性格もいっそうおおらかになってきたようだった。
訪問の意図は分っている。時子は中元と歳暮の時期になると、必ずひとりでやってきて近況を伝えたり、思い出話を楽しんでゆく。
テーブルの上に差しだされた今年の歳暮は、例年通り紅茶のセットだった。母が生きていたあいだ、万穂子の家ではお茶というと、それは紅茶のことで、時子には忘れられないいくつかの情景と一緒に、記憶に深く刻まれているらしい。
時子の来訪を告げても、父の達也はいっこうに二階の書斎から降りてこなかった。
万穂子は再就職の件を、時子にはじめて打ち明けた。
「そうでしたか……でも相変らず万穂子さんは自分のことは人頼みにしないで、すべて自分だけでなさっているのですねえ。まあ、お父さまがああいう方ですから仕方ないのでしょうけれど、就職の相談ぐらい乗ってくれてもいいでしょうに」
「パパはまるで変らないわ。昔通りにこの家と愛人宅を何日か置きに往復している。そういうパパをずっと見て育ったせいか、私は男の人はそういうものだと心のどこかで認めてしまっているところがあるの」
「うちの主人は反対です」
時子はかすかにため息をつく。
「品行方正なのも、あそこまでゆくと少し窮屈《きゆうくつ》ですわ。朝七時半に出勤して、夜の七時には帰宅する。これが毎日なのですから」
居間のドアが開き、父があらわれた。背広姿でオーバーとマフラーを手にしている。
「万穂、わたしは出かける。きょうは帰らない。時子、たまにきたのだから、何かおいしいものでもご馳走しよう。さあ、仕度して」
時子は困惑した表情で万穂子を見返した。
無表情に万穂子はうながす。
「時子さん、パパがせっかくああ言っているのだから」
「でも……」
「いいの。気にしないで」
ふたりを送りだし、玄関のドアを閉めたとたん、万穂子は胸の中に砂まじりのザラついた風が吹き荒れているような気分だった。
父は居間のドアを開けた瞬間、またしてもあの目で、あの苦痛のまなざしで自分を見た。時子へとすばやく移った視線には、それはきれいに消えていた。いつくしみの光だけがひろがった。
そうした父の目に馴れてはいる。いるけれど、ふだんは比較する対象がいないために、父の苦痛の度合いまでは気づかなかった。しかし、時子にむけられたそれを目のあたりにし、万穂子は父がいかに自分を拒否したがっているのか、自分の存在がうとましいのか、いやというほど知らされた。
激しい哀しさと淋しさにおそわれてきた。自分の何もかもが否定され、足もとが根底からくずれ去ってゆくような心もとなさをおぼえた。
姉の夕利子が東京へ行ってからのこの五年間、巧みに抑えていた心のうつろさが、一挙にゆらめき出てくる。世間知らずの夕利子の将来を案じながら、案じること自体が自分の支えになりつづけていることを、万穂子はぼんやりと自覚していた。しかし、認めようとはしなかった。認めてしまったとき、自分のうつろさだけが残るのが怖《おそ》ろしかった。
万穂子はせかされるように身仕度をして、家をでた。表通りにきてタクシーを拾う。会社の住所を告げる。右手はキー・ホルダーを握りしめていた。専務から、緊急の場合にとわたされた会社の玄関の鍵《かぎ》が、自宅のそれとともに金属の輪の中で音を立てる。
会社のあるビルに着き、警備員室に挨拶《あいさつ》してからエレベーターで九階に上る。
鍵を開けて入ったフロアには人の気配はなかった。専務室の手前の小部屋にある自分のデスクに進み、椅子に腰かける。
もはや自分の居場所はここだけなのだ、万穂子は胸の中でつぶやく。
ふいに子供の頃の日々が甦《よみがえ》ってきた。母にうとまれながらも、父だけは味方、と信じていた十代のあてどない心も鮮明に思い出された。母を亡くしたあと、嫁ぎ先からもどってきた姉の夕利子とむつまじくすごしていた数年間、志摩二郎のあの快適だった部屋、夕利子と志摩と甲村が東京へ発《た》って行った雪の千歳《ちとせ》空港。三人を見送ったときの奇妙な高揚感と、帰りのバスの中で突然におちいってしまった虚脱感。齢とともに荒廃してゆく父は、現在では味方でも敵でもなく、人生のボタンをかけ違えた気の毒な男のひとりだった。
その父が激しい苦痛の色をあらわにして自分を見つめるのは「小さな発狂」のせいだと分っていても、ときには耐えられない感情がこみあげてくる。二十代の万穂子はそれに対して怒りでむかっていった。だが、三十歳をこえてから哀しさと淋しさに身体をえぐられるような思いを味わうことも少なくはなかった。父が内側にかかえているそれが、万穂子の中にひそんでいる同じひびきを持つものを的確に探り当て、まっしぐらに刺さってくる。
自分の居場所はここ、万穂子はもう一度自分に言いふくめる。
仕事は忙しいけれど、やりがいがあった。専務が万穂子の働きぶりを、何気ないひと言ふた言で評価してくれるのが、大きな励みにもなっていた。万穂子が奥田のセックス・フレンドになったと息子から聞かされてからの専務は、これまでにもまして身内感覚で万穂子に社長への不満や愚痴なども口にするようになった。専務のそうした態度は、ビジネスと情が不思議にからみ合い、暗黙のうちにビジネスにおける対人関係を教えてくれてもいた。そうした専務に、万穂子は信子からは感じられなかった母親のぬくみを日いちにちと吸い取ってもゆく。
「あ、万穂子さんだったの」
開けたドアの前に奥田が立っていた。
「下の警備員室でだれかが出社していると聞いて……いや、ぼくは手帳をデスクに忘れて、それを取りにきたんだ」
奥田はワイシャツの上に紺のVネックのセーター、同色のズボンだった。ラフな服装で、背広姿よりはるかに若々しい。
「仕事?」
「ええ……街に出たついでに、あすの専務のスケジュールを確認しておこうと」
「休みの日まで熱心だなあ。車できているから、用がすんだのなら送って行くよ」
奥田の好意に甘えることにした。
真駒内《まこまない》の自宅には二十分ほどで着いた。
「お茶でもいかがですか」
奥田はうれしそうにうなずき、車から降りる。
紅茶を出し、仕事の話などしているうちに、すっかり日が暮れてしまっていた。
簡単な手料理しかできないが、と夕食をしてゆくようにすすめると、奥田はそれにも笑顔で応えた。
「ぼくも手伝うよ。これでもちょっとした腕前なんだ……ところで万穂子さんのお父さんは?」
「出かけているの」
冷蔵庫の中のあり合せの材料や缶詰を使った夕食は、それでもテーブルに並べると、かなりの品かずで見栄《みばえ》がした。生鮭《なまざけ》のソテーにレモンを添えた一皿、オイル漬けのカキをメインに小エビや帆立て貝、イカなどの魚介類のシチュー、レタスをざくざくに切った上にベーコンをみじん切りにして炒《いた》めたのをドレッシングがわりに油ごとかけたサラダ、野菜をたっぷり入れたピラフも作った。
レタスのサラダとピラフは奥田がこしらえ、その手際のよさには感心させられた。万穂子は、やはり料理が上手だった志摩をつかのま思い出す。
テーブルの椅子に向かいあってすわり、食事をはじめながら、万穂子は時子と父がつれ立って出かけてから、せき立てられるように心のひもじさが求めていたのは、こうした情景だったのだと気づかされた。自宅でのこうした夕食はもう何年間も失われていた。
奥田は上機嫌だった。
「こういうのっていいな」と幾度となく口走り、どの料理もきれいにたいらげてしまう。
食後の洗い物も手伝ってくれた。
時計が八時をまわり、奥田はソファから立ち上った。
「それじゃあ、帰るよ」
玄関までの廊下を歩きながら、目の前の奥田の背中にしがみつきたい衝動《しようどう》にかられた。ただ人恋しかった。同時に、こんなにも他者を必要としている自分に、内心たじろいでもいた。いくらでも閉ざされていってほつれないのがこれまでではなかったのか。
ふいに廊下の途中で奥田が立ちどまった。振り返りざま万穂子を抱きしめてくる。相手のなすがままになり、やがて万穂子は両腕に力をこめて奥田を抱きしめていた。目尻《めじり》から涙が一滴こぼれ落ちた。
それからふたりは二階の万穂子の部屋へ上って行った。
父が死んだ。
年があらたまった一月の二週目の日曜日の夜だった。
車で小樽《おたる》から札幌に向かう道のカーブを切りそこねて崖《がけ》から転落した。
運転席には三十代後半の女性が、助手席には父が乗っていた。どちらも即死だった。
こまかな事後処理は父の弁護士が、葬儀のいっさいは父が役員をしていた会社の人々が取りしきってくれた。
通夜には東京から夕利子夫婦も駈《か》けつけ、もちろん時子も、奥田も列席した。
だが万穂子にとって、一連の出来事は、まるで夢の中を漂っている希薄さで、焼香にきてくれた人々の顔も、あとになってみると、ほとんど記憶になかった。
翌日の葬儀、引きつづいて火葬場へと移り、骨となった父を見たとたん現実に引きもどされ、涙がこみあげてきた。
万穂子は思わず胸の中で語りかけていた。
「パパ。これでようやく楽になれたわね」
専務は落ち着くまでしばらく会社を休むようにと言ってくれたが、夕利子が二歳の息子とともに滞在していた一週間がすぎると、万穂子は出社することにした。
そのほうが少しでも気がまぎれた。また、父が亡くなっても、万穂子の家の生活のリズムはさほど変化がなく、いつの頃からか、この家は父のものではなくなっていたのだと、あらためて胸がきしんだ。
一週間ぶりで出社した万穂子に、専務はただ黙ってうなずき返した。
二月に入ってまもない雪の日の午後、勤務中の万穂子は専務の許可を得て、父の弁護士の事務所を訪ねた。先方から会社に電話があり、その場に居合わせた専務が、そうしたことは早く片をつけたほうがいいと便宜《べんぎ》をはかってくれたのだった。
弁護士は父の遺言状を差し出した。
そこには家の名義は十年も前から万穂子のものに書き換えられていることや、生命保険の受取り人も万穂子になっているといった内容が記されていた。夕利子にもいくばくかの金が残された。しかし、万穂子に与えられている金額はその二倍をこえるという片寄り方だった。
もう一枚の遺言状には、愛人の名前が登場し、その子「義文《よしふみ》」は認知はしたが、事実上の父は自分ではなく、自分の死後はいっさい万穂子や夕利子とは無関係であり、財産分与もなしと記され、末尾には愛人の署名と捺印《なついん》もされてあった。
車を運転していた三十代後半の女性、それが父の愛人だった。
「弁護士さんは、この女性のこともよくご存じなのですか」
「こまかい相談を何回か引き受けたりしました。さっぱりとした気性の、たくましい方でした」
「あのう、その残された坊やは……」
四十代半ばと思われる弁護士は眉間《みけん》をくもらせた。
「今は家政婦さんの家に頼んでありますが、近々施設に預けるようになるでしょう。つまり母親のほうの身寄りがいないのです。彼女自身、私生児だったということもありまして」
「この坊やの認知の件は父から聞いておりました……父は自分の子ではないと。本当なのでしょうか」
相手は腕組みをし、考えこむ表情になった。しばらく言いあぐねている様子で床を見つめる。
やがて、ようやく口を開いた彼は、血液鑑定では、万穂子の父が、その子の父であっても不思議ではないと答えた。
父か父でないかの口論の場に、弁護士は立ちあったことも多々あるという。
愛人は「あなたの子に間違いはない」と言い張り、父は「ほかの男の子供だ」の一点張りで耳をかそうともしない。
もめ事はくり返され、子供が幼稚園に入園する直前、愛人は「私生児にだけはしたくない」の思いから、認知さえしてくれれば、あとのすべては望まないと、父と誓約書を交した。それが二通目の遺言状である。
「立ち入ったことをおうかがいしますが、その女性の男性関係は、父が疑っても仕方がないような状態だったのでしょうか」
「わたしもくわしくは存じあげません。ススキノのクラブのママという職業柄、男性と食事をしたり、ゴルフにつき合ったりは当然ですが、それが特別な関係にむすびつくとはかぎりませんし……ただ、こういう言い方は失礼かもしれませんが、わたしのお二人への感じでは、亡くなられた板東氏は、なんと言いますか、かたくなに彼女の浮気と決めつけ、彼女の弁明は全然信じていなかったようです」
姉の夕利子を自分の娘と認めなかったのと同じ状況だった。
「あの気性のさっぱりした女性が板東氏のその頑固さに泣いたりしたこともありました」
真実は分らない。一生分らないかもしれない。
しかし、その男の子が、腹違いの弟である可能性も大きい。
「その坊やは父に似ていますか」
「ご両親のどちらにもあまり似ておりません。父親そっくりでしたなら、板東氏も多少は納得したと思いますが。いや、わたしにも義文くんと同じ齢の男の子がいますもので、この件はつらいですよ、正直なところ」
弁護士のもとを退出し、会社にもどるタクシーの中で、万穂子は義文という子のことが頭からはなれなかった。
もしかすると弟かもしれない。
あるいは、まったくの他人かもしれない。
だが、どちらにしても、まだたった五歳の子がいっぺんに両親を亡くし、施設に預けられようとしている。
弁護士は言っていた。ススキノのクラブを売却しても、その金は店の借金の清算に当てがわれて消えてしまうだろう。母子《おやこ》の住んでいたマンションも賃貸である。義文に残されたものは何もない――。
会社に帰り、専務に一応の報告をした。義文についてはふれなかった。
「そう、何もトラブルがなくてよかったこと。お父さまがしっかりと遺言を書いておいてくださったからね」
その夜、万穂子は東京の夕利子に電話をかけた。遺言状の内容について語り、その不公平さを申し訳ない気持で伝えると、受話器のむこうで夕利子はこだわりなく言った。
「ママが保険金の受取り人を私だけにしておいたのと同じね。気にしないで。これでようやくおあいこですもの」
次に万穂子は義文の存在を告げた。夕利子をびっくりさせないように、間を置きながら、説明してゆく。
しかし、それでも夕利子はかなりのショックを受けたらしい。どれだけ口調をやわらげても、話の内容そのものが、あまりにも突拍子もない出来事だった。
「……つまり私たちの弟かどうかは断定もできないし、否定もできないの」
数分の沈黙ののち、夕利子の声がようやく聞こえてきた。
「かわいそうね、その坊や。私、自分の昔を思い出してしまったわ……パパは死ぬまで私を自分の娘だと信じてなかったと思う。遺言状で私と万穂ちゃんを区別しているのが多分その証拠でもあるし……でも、私のことはもういいの。その坊やが気がかり……」
そして夕利子は申し訳なさそうな声音で、妊娠五カ月目に入ったと伝えてきた。父の葬儀のときにすでに分ってはいたのだが、とても言える雰囲気ではなかった、と。
「……だから、私がその坊やを引き取るのは、今のところむずかしいし……」
万穂子はそくざに言いきる。
「もちろんよ。あなたは甲村さんとの家庭を大事にすることだけ考えていればいい」
二歳になる二郎は、やはり志摩の子に間違いがなかった。彼にうりふたつであり、甲村は夕利子が志摩の子を身ごもっているのを承知のうえで、志摩の死後、夕利子と結婚した。
夕利子と甲村の家庭が幸せにいとなまれてゆくことを、万穂子は願っていた。夕利子の話によると、甲村は二郎に対しては、子煩悩《こぼんのう》の見本みたいな父親ぶりだという。
「おめでとう。二人目の子供が産まれると知って甲村さんは大喜びでしょう」
「彼には感謝しているわ」
「残された坊やについては、私がしばらく考えてみる。あなたは元気な赤ちゃんを産むことだけに専念して」
夕利子に電話をして、万穂子の気持は次第に固まりはじめてきた。
こちらからは何も言わないうちに、夕利子は自分がその子を引き取ることを考え、ただ現在の状況では無理、と言葉をにごした。もし、妊娠していなかったなら、夕利子は自分の手もとで育ててもいいと思ったに違いない。
夕利子の代りにそれができるのは万穂子だった。万穂子しかいない、ともいえた。
だが、まだ気持はさだまらなかった。たくさんの覚悟が必要であり、しかし、子を持った経験のない万穂子には、何をどう覚悟すべきなのかさえ分らない。
さしあたっての問題は仕事と子育てを、どう両立させてゆくかだった。次に子供を育ててゆく自信、子供が自分になついてくれるかどうかの不安もある。
翌日の夜、万穂子は奥田に相談があると称して、自宅にきてくれるように頼んだ。レストランやバーなどで、うかつに話せる事柄ではなかった。
やってきた奥田に、万穂子は慎重に言葉を選びながら、事情を説明した。それは当然、家庭内の恥部をさらすことでもあったが、万穂子はプライドや面子《メンツ》よりも事実を正確に伝えたいと考えた。
「五歳の男の子か。可愛いだろうなあ」
話を聞き終えた奥田は、頬《ほお》をゆるめてまっ先にそう言った。
「しかし弟というよりも、万穂子さんのかくし子じゃないかと世間は疑うかもしれないね」
奥田はさらにいたずらっぽく目を輝かせる。
奥田の言う通りだろう。三十二歳の万穂子の腹違いの五歳の弟というまわりくどい表現よりも、万穂子の子ども、という言い方のほうを他人は抵抗なく信用するに違いない。義文を引き取る、これは同時に万穂子のこれから先の人生を、ある程度まで限定する結果になるだろう。また多くの時間と自由を奪われることも予想しておかなくてはならない。
「でも、本当の弟だという確証はないの」
「確証はなくても、じつの弟かもしれないよ」
相変らず奥田は妙にはずんだ口調で言い返す。第三者の無責任な言い草のように聞こえ、万穂子の耳は苛立《いらだ》った。
「あなたはもっとまじめに相談に乗ってくれると思ったのに。これは見方によっては、私の一生の問題にかかわるのよ。そして、あの男の子の人生も、ここで決まってしまうかもしれない。私があの子の面倒を中途半端にしか見られないのなら、最初から施設に預かってもらうほうが、あの子にとってはいいのかもしれないでしょう」
「その子には会ったの」
「まだ。きっと、会ってしまったら、そのままこの家につれてきてしまうと思うわ。一時的な同情と感傷に負けて」
「それでいいのじゃないかなあ。今までの話からすると、万穂子さんはその子を育てるつもりになっているような印象を受けた。問題は日常生活の具体的なことをどう処理し解決してゆくかだろう?」
「育てる決心はまだついていないの。早い話、自信がないのよ、不安なの」
「ぼくも手伝うよ」
奥田はさらりと言ってのけた。
万穂子は後悔しはじめていた。奥田にもだれにも相談するべきことではなかったのかもしれない。自分ひとりで考え、自分の納得のゆく結論を出してこそ、どの方法をとろうとも、それなりに覚悟ができる。奥田の、あまりにも軽い対応は、単なる好奇心からとしか思えなかった。
押し黙ってしまった万穂子の様子に気づかないのか、奥田はいっそう明るい口調になってゆく。
「五歳の男の子か……何か、こう生活に張り合いがでてくるなあ。目の前がパーッと開けてくる気分だ」
「……他人事《ひとごと》だと思って、そんなことを……」
「他人事? 違うよ、まったく違う。ひとつの夢を描いていたんだ」
奥田はその夢を語り出す。
五歳の弟は、おそらく万穂子がいくら説明しても、世間は万穂子の子だとささやき合う可能性が高い。
加えて、奥田がその子の世話をひんぱんにみているとなれば、そこに噂が立つだろう。
すなわち、あの男の子は、奥田と万穂子のあいだにできた子供ではないのか。
噂は社長や専務の耳にも、いずれ入る。ふたりは奥田と万穂子を問いただすに違いない。
「そのとき、ぼくはこう返答する。ご想像におまかせします。ただぼくは独身をつらぬきます……。万穂子さんは好きなように答えればいい。できれば、ぼくと口裏を合わせてくれると、ありがたいけれどもね」
しかし、義文には、彼がどれだけ理解するかは別として、ありのままを子供のうちから教えておきたい、奥田はすでにその夢が実現したかのような、断固とした調子でつづけた。
彼が万穂子の弟かもしれないこと、父と母は自動車事故で亡くなったために万穂子と一緒に暮らすにいたった事情など、子供心には正確に理解できなくとも、事実はできるだけ歪めずに話すべきではないか。
「――そうだな、母親については、まだ入籍していなかったが、実際は二人目の妻だったということにする。愛人だったとは言いたくないなあ。その子がかわいそうだもの」
「あなた自身の存在はどう説明するの?」
瞬間、奥田は返答に窮《きゆう》した。宙をにらみつける。
「大胆にこう言いきる。万穂子さんの恋人」
万穂子は首を横にふる。
奥田も苦笑する。
二人はどちらからともなく自分たちの関係を規定し合うのを避けていた。愛情を確認する会話もでなかった。
奥田が十二月のなかばに万穂子の家にきたときから二月のきょうまで、ベッドをともにしたのはあの日をふくめて三回きりである。それでいながら、週のうちの半分は会って、おしゃべりをする関係がつづいていた。
二人とも性には淡泊だった。淡泊ではあるけれど、ときにはたがいの異性の匂いにむせ返りそうな濃密な気配が漂い、その息苦しさを解消するためには、裸になるのがいちばんだった。
ベッドをともにすることによって、ふたたび性にとらわれない、友情に近いおだやかな関係が保たれた。
愛情が高まっての性交渉というより、たがいの性の違いを、むしろ薄めてゆく手段のようなそれだった。裸になって、あるがままの相手を直視すればするほど、未知の部分は失われ、いたずらに胸をときめかす要素は消えてゆく。
二人が望んでいるかかわり方は、恋人ではなく、肉親にいだくようなゆるやかで均一な愛情の交感だった。
宙を見上げていた奥田が、ふたたびひとり言めかしてつぶやく。
「万穂子さんとぼくの間柄を素直に表現すると、やっぱり友だちかなあ」
万穂子はほほえみながら、うなずく。
奥田の夢を聞いているうちに、万穂子は次第に気持がまとまりはじめていた。
どれだけのことを、あの子にしてやれるかは分らない。
だが愛情を持って接する自信はあった。それは三十二歳になって痛感しはじめた人恋しさの感情や、居場所を求める心の在りようを思い返すとき、そのうつろさや淋しさを五歳の子が埋めてくれるかもしれないという期待にもつながった。
義文は何もしなくていい。一緒に暮らす、そのこと自体が、多分たくさんのものを与えてくれるだろう。
「あなたの夢のおかげで決心がついたわ。弟は私が引き取って育てる」
奥田はたちまちに顔面を紅潮させた。とりのぼせた声をあげる。
「そう。じゃあ、さっそく具体的な課題を検討しよう。あ、万穂子さんは弁護士に連絡を入れてとりあえず施設行きはストップしてもらうように。それからさっきの噂の件はまだあとまわしでいいから、あすにでも専務に相談するといい。正直に打ち明けて、力になってもらうべきだ。専務はあれでも結構やさしいところがあるからね」
義文を一目見るなり、万穂子は自分の弟だと直感した。夕利子に似た顔立ちで、きれいな卵形の輪郭に、目鼻立ちはぱっちりとして愛らしかった。
その土曜日の午後、弁護士事務所に義文を迎えに行く万穂子には時子と奥田も同伴した。二人とも強引についてきたという形だった。
時子も同じ感想をつぶやいた。
「やはりお父さまの子ですわ。夕利子さんに似てますもの」
義文は、いきなりあらわれた三人の大人におびえるどころか、きかん気な表情で目に力をこめて見返した。
弁護士はあらかじめ義文に言い聞かせていたらしかった。
「義文くん、ほら、さっきお話ししたきみのお姉さんだよ。はじめまして、と言うんだろう?」
義文は挑みかかるようなまなざしを万穂子にむける。
「はじめまして……。でも、おばさんでしょ」
「いや、おばさんに見えても……あ、失礼……義文くんのお姉さんなんだよ。お姉さんも義文くんのパパの子供だからね」
「分かんないよォ、そんなこと。おばさんは、おばさんだもん」
三人は思わず笑ってしまう。
やさしげな容貌《ようぼう》とは違って、結構わんぱくな性格らしい。
万穂子はテーブルごしに身を乗り出した。
「義文くんとおばさんは姉弟なの。きょうから一緒に暮らすのよ。仲良くしましょうね」
「幼稚園は?」
「これまで通りよ。でも、もうすぐ幼稚園ではなくて、小学生になるわ」
「サクラ幼稚園のイチゴ組だよ」
「そうよ。おばさんが送り迎えするわ」
「ママが死んだから?」
「おばさんのパパも一緒に死んだの」
奥田が待ちきれないように割りこんできた。
「ぼくはこのおばさんの友だちなんだ。よろしくね。義文くんと遊ぶのを楽しみにしているよ」
義文の目が万穂子にそそいでいたそれよりも、柔らかくなって奥田を見る。ませた口調でたずねる。
「男同士の約束って、破ったらダメなんだよ。おじさんは嘘つかない?」
「おじさんは男だ。嘘はきらいだ」
奥田はもはや義文しか眼中にない言動に走りはじめていた。
弁護士事務所を出た四人は、奥田の運転する車で万穂子の家に行く。
義文の身のまわりの品は、昨日のうちに家政婦だった人からいくつかのダンボールに詰められて届けられていた。
「ここがぼくのうち?」
車から降りるなり、義文は築後四十年になろうとしている家を指さした。
「ぼくんちより大きいんだね。かくれんぼもできる?」
奥田が義文の手を取り玄関口へ進んでゆく。
二人が家中の「探検」に出かけたあと、万穂子と時子は紅茶を飲みながら、居間でくつろぐ。
「よく決心されましたわね。義文ちゃんを引き取ることで、万穂子さんはかなり不自由になるでしょうに。たとえば結婚とか……」
「未婚の母になった気分ね。でも結婚への憧れは若いときからなかったから、私にはこういう形のほうがいいのかもしれないわ」
専務に今回の事情を話したとき、その反応は時子の今の言葉と似たようなものだった。そして万穂子も今と同様の返答をした。
あすには住みこみの家政婦もやってくる手はずになっている。子供のためにもそうするようにすすめ、しかるべき人物を紹介してくれたのも専務だった。五十歳の未亡人で、すでに社会人になって独立している子供が二人いる。
さらに専務は、子供がいると何かと不便だからと言って車を買うこともアドバイスし、顔見知りの業者に引きあわせてもくれた。
「でも仕事はこれまでと同じようにやってもらいたいわ。手抜きは許しませんよ」
専務のそうしたビジネス観と情、冷たさと暖かさのバランスが、万穂子にはむしろ対応しやすかった。めりはりがよく見えた。
「万穂子さんのお父さまは、考えようによっては幸せな方ですわね。昔から、なぜか万穂子さんをこの家にずっと置いておきたいと言ってらした。その通りになりましたもの」
「うんと齢のはなれた弟を私に押しつけることによってね」
「お父さまの本心は、万穂子さんと二人きりでこの家で静かに暮らしたかったのだと思います。でも、おかしな言い方ですけれど、お父さまは万穂子さんを愛しすぎて、そうはできなかった……」
万穂子は長年来の疑問を口にできるのは、このときしかないように思われ、時子にそれをぶつけてみた。
「パパと時子さんのあいだには、いわゆる男女関係はなかったの。間違っていたらごめんなさい。事実を知りたいだけなの。私の勝手な想像では、つい最近まで、パパが死ぬまでつづいていたように思うのだけれど」
時子はすぐには答えなかった。
しばらくして、ごく落ち着いた声が返ってきた。
「亡くなられた方については、あまりお話ししたくはありません。どう言っても悪口になりそうで……ただ私はね、万穂子さん、あなたの身がわりでしたのよ。お父さまは、あなたしか愛していませんでした」
にぎやかな足音とともに義文が居間にあらわれた。そのうしろに奥田がつづく。
「ね、おじさんから言われたんだ。おばさんのこと万穂サンて呼んだらって。おばさんもそれがいい?」
万穂子は義文の頭に手を置く。
「ママでもおばさんでもお姉さんでもいいのよ。義文くんがいちばん言いやすいので」
奥田があわてて言う。
「駄目だよ、ママだなんて。今のうちから彼にきちんとした人間関係を教えておくべきだ」
時子も言い添える。
「正しくは、お姉さん、なんですけれどもねえ」
大人たちのやりとりをじっと見守っていた義文は、急に声を張りあげた。
「ぼく、万穂サンて呼ぶ。おじさんの言うとおりにする」
奥田の顔がだらしなく笑みくずれた。義文を抱き上げる。
「そうか。おじさんの言うとおりにするか。そうだよな、男同士の仲だもんな」
そんなふたりを眺めながら、万穂子は、もうじき訪れる義文の小学校の入学式に何を着せようかと考えていた。ゆっくりと心がはずんでくる。ストレートに愛情をそそげる対象を得て、万穂子は自分の中に眠っていた豊かなものが、ようやく動き出すのを感じていた。
一年がすぎた。
万穂子の気持の半分は母親のそれになりきっていたけれど、義文は齢のはなれた弟であり、また一人の人間であるという冷静な視点も忘れなかった。
赤の他人かもしれない、これもときどき自分に言いふくめるように思い出すようにした。
といっても義文に対する愛情は強く、深くなってゆく一方だった。
幼い者が身近にいる生活は、にぎやかであり、リズム感に富み、そして、うららかなものを万穂子に与えつづけた。
奥田は、ほとんど毎日のように義文の顔を見にやってきた。
たとえ十分しかいられなくても車を走らせてくる。万穂子が留守と知っていても、義文にさえ会えれば満足らしかった。
休日には三人で出かけることも多く、そのプランはいつも奥田が立てた。
義文はときどき万穂子にたずねた。
「万穂サンは、ぼくのママなのかなあ。いや、違うんだよね。ぼくのママは死んだんだよね?」
そのたびに万穂子は答えた。
「そう、あなたのママは死んだの。そして私のパパもママも死んでしまったの」
義文はじっと万穂子を見つめる。その目は問いつづけている。
(じゃあ、万穂さんは、ぼくの何なの?)
が、義文は口には出さない。
清らかに澄んだ湖にも似た瞳は、ただ万穂子の姿を写している。刻みつけてゆく。
そんなとき、万穂子は精一杯のいつくしみをこめて、義文にほほえみ返してやるしかなかった。
「ここはね、私たちの家なの。あなたと私の家」
角川文庫『ジョーカー』平成5年12月25日初版発行
平成10年3月10日11版発行