攻殼機動隊 STAND ALONE COMPLEX 虚無回廊
藤咲淳一
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)見|極《きわ》める
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
本文中の《》は〈〉で代用した。
-------------------------------------------------------
[#地付き]ILLUSTRATION・中沢一登
あらゆるネットが眼根を巡らせ
光や電子となった意思を
ある一方向に向かわせたとしても
“孤人”が複合体としての“個”になる程には
情報化されていない時代・・・
A.D.2030
おもな登場人物
members of section 9
草薙素子 ----- 公安9課の現場指揮を行う隊長的存在。世界でも屈指の義体使い
荒巻大輔 ----- 公安9課課長。明晰な頭脳と迅速な判断力で9課を指揮する
バトー ----- 元レンジャー部隊所属。ほぼ全身を義体化したサイボーグ
トグサ ----- 草薙の推薦で本庁から引き抜かれた新米隊員。電脳以外はほぼ生身
イシカワ ----- 情報戦のスペシャリスト。草薙とは軍属の頃から行動を共にする
サイトー ----- 狙撃手として並はずれた力量を持つ、寡黙な男
ボーマ ----- 身長2mを上回る大男。情報収集等バックアップで力を発揮
パズ ----- 無口でクールな愛煙家。ボーマとコンビを組むことが多い
タチコマ ----- 公安9課に9機配備されている小型の思考多脚戦車
風居曜 ----- 新浜陸上自衛軍少年工科学校の学生、2週間前に電脳化
竹河朝治 ----- 電脳街に詳しい風居の友人
志川久光 ----- 新浜電脳街で人質を取り立て罷もる
逆見滋 ----- 記憶屋
佐波由美嗣 ----- 国内のブラックマーケットを掌握する佐渡山会会長
ナジフ=オスマル ----- 中東アジア暫定代表 国際麻薬密売組織〈赤い砂〉に命を狙われている
[#改ページ]
虚無回廊 THE LOST MEMORY
[#改ページ]
1
男は震える手で操縦桿《そうじゅうかん》を掴んでいた。
そのとき、それは男の脳へと飛び込んできたのだ。
大好きでした。
強い父さんが自慢でした。
今までありがとう。
だけど僕を忘れないでください。
ごめんなさい。
でも、まだ、僕は死にたくない。
それは息子のものだった。
男は狭いコクピットの中で一人、慟哭《どうこく》した。
目の前にあがる赤い火の玉を見ながら――。
[#改ページ]
2
君は包囲されている。武器を捨て、人質を解放し、|速《すみ》やかに投降しなさい。
「時間の無駄ね」
霧雨《きりさめ》が降りしきる中、公安9課の草薙《くさなぎ》|素子《もとこ》は高層ビルの上で、眼下から届く声に、そう|呟《つぶや》く。
この事件に対処する所轄警察の動きでは、事態の早期収拾は難しいだろう。
警官隊の|盾《たて》がパトライトの明かりを受けて、赤く明滅する。その盾が作り出すバリケードが扇状に、電脳街にある大型家電専門店〈サクライ〉の一階正面部分を取り囲んでいた。
その扇の|要《かなめ》にいるのは、店の奥に立て龍《こ》もる一人の少年と、それを取り囲む二十四名の人質だった。
少年は胸に爆弾を抱えていた。
文字通り、爆発する爆弾だった。
時限装置つきのC4爆弾は冷酷にカウントダウンを続ける。カウントは既に五〇〇を切っていた。
少年はその爆弾を胸に括《くく》りつけ、右手にはS&W《スミス&ウェッソン》三八口径リボルバー・チーフ・スペシャル、左手には爆弾の起爆装置を手にしていた。
今から一時間前。
休日の人出で|賑《にぎ》わう家電専門店の一階に少年は現れた。
青い上着のポケットからS&Wチーフを取り出すや、展示されていたモニター類を撃ち抜き、人質を取って立て龍もったのだ。そして胸のC4爆弾が本物であることを|誇示《こじ》するかのように、店の前に並べられた車に爆弾を仕掛けたことを宣言すると、次々と車を爆破していったのだ。
爆発による炎は霧雨によって鎮火していた。そしてそこには、鉄塊となった車が転がっているだけだった。
その映像がニュース・メディアを通じてネットで配信されている。
高層ビルの上から事件の現場を見下ろす草薙は、そのニュース・メディアにチャンネルを合わせる。
レポーターの音声情報が電脳に飛び込んできた。
『――繰り返しお伝えします。少年の要求は、病気療養を理由に引退した大堂《だいどう》元警視総監の直接謝罪です。警察では今回の事件を、先日、警察学校の卒業式典において発生した|大堂《だいどう》警視総監暗殺未遂事件の影響を受けたものではないかと見ており、少年への投降を呼びかけています』
ニュース・メディアを通じて全国の目がこの一角に集中し、事件の経緯を見守っていた。
既に狙撃手は配置されており、号令一つで少年を狙撃する態勢にはあった。だが、大堂元警視総監を中心とする汚職の疑惑が露呈されたばかりの現在、公衆の面前で未成年者を射殺すれば、警察に対する風当たりは一層強くなるだろう。そのために、警察は強硬手段をとれずにいた。
ニュース・メディアの映像が、少年の胸にある爆弾のカウントダウンをクローズアップする。
残り三〇〇秒。
この映像の視聴者たちは、爆発の瞬間も、モニターの向こう側の出来事として観客の立場で見ているのだろう。
こうしている間にも少年の胸に括りつけられた爆弾は、爆発までの時を刻む。
事態を見守る草薙素子のもとに、公安9課課長、|荒巻《あらまき》|大輔《だいすけ》からの電脳通信――電通が飛び込む。
『荒巻だ。話はついた。たった今、この時点より正式にこの件に関する指揮権が公安9諜に引き継がれる』
『了解。これより任務に当たる――行くぞ』
荒巻の連絡を待ちかねたように草薙は、眼下の街へと霧雨を|捲《ま》いてダイブする。
「――どうなってる?」
人質を取った少年は|戸《と》|惑《まど》っていた。
静かだった。
説得の声が|止《や》んでいた。
店の正面で盾を構えていた警官隊も、いつのまにか姿を消している。
死角に移動したのだろうか。
雨と、空調の音だけが少年の耳には届いている。
メディアの映像に目を向けると、そこには、いまだに警官隊がこの店の正面で盾を構えている様子が映し出されていた。
偽りの映像が流されている。
「人質がいるんだぞ。こいつらがどうなってもいいのか!」
|苛立《いらだ》ちをぶつけるように少年が叫んだ。
だが返ってくる声はない。
銃と爆弾で|脅《おど》された人質がざわつき始める。すすり泣く声も|漏《も》れ始める。
「黙れ!」少年がS&Wを人質に向けた。
「そこまでだ」
雨の中から太い声が聞こえてきた。
少年が振り返る。
店の人口に男が一人、立っていた。
ニメートル近い大男だ。
大男の|厳《いか》つい顔の目にあたる部分には、無機質な円筒レンズの義眼が|嵌《は》まっている。そしてその手には大振りなハンドガン――FNハイパワーが握られ、銃口は少年の頭部を正確にポイントしている。その両脇を|挟《はさ》むように二台の多脚戦車が待機していた。
警察の特殊部隊か――少年は思った。
だが大男の格好は、警察よりも軍の特殊部隊の装備に近い。
「この一帯に特殊報道管制を敷いてある。お前が何を叫はうと、その声が外部に漏れることはない。お前が人質を殺そうとしたって、その銃の装弾数は五発しかねえ。お前が五発撃ち終わる前に、俺がお前の頭にこいつの弾全部をぶち込んでやる」
そうレンズ目の大男が言った。
「俺にはこれがある。全員、巻き込むことだってできる!」
少年が胸に括りつけたC4爆弾と左手の起爆装置を見せつける。それを見た大男が怒鳴る。
「爆発させるならとっととやればいい。その気がねえから見せびらかしているだけだろうが!」
「来るな、ボタンを押すぞ!」
少年が起爆装置を握る手を大きく前に差し出し、親指をスイッチヘと伸ばす――そのときだった。
少年の背後の人質が何かに押されたように倒れこむ。
雨の幕を切り裂き、何かが少年の左手を|掠《かす》めた。
そう感じた少年が自分の左手を見ると、その手から親指が消えていた。
カランと音を立てて起爆装置が床に転がる。
後方の床に深々と狙撃銃から放たれた銃弾のマーキングがあった。
それを見て、少年は何が起きたのかを悟った。
起爆装置のボタンを押し込む親指のみを狙った、正確無比の狙撃があったのだ。
銃声と痛みは後からやってきた。
「あ――ぃひ!」
少年の声にならない叫びがあたりに響く。同時に少年のS&Wを握った右腕が|捻《ひね》られ、そのままの勢いで少年が床に転がる。
S&Wが人質の一人に向けて発砲された。
だがその銃弾が空中で停止する。
少年は自分を投げた人間を探すが、周囲には誰もいない。
そのとき少年は、不可視の手が己の首を押さえつけ、電脳と直結するプラグを|剥《む》き出しにするのを感じた。
「嫌だっ!」
だがその声が空気を震わせることはなかった。
少年の首のプラグに電脳錠が|挿《さ》し込まれていた。
一瞬の硬直の後、少年の身体が|弛緩《しかん》する。
電脳内の生体保持以外の機能を一時停止させる電脳錠は、電脳化の進む社会において、絶対的な効果を持つ拘束具だ。
少年が動かなくなると、少年を投げ飛ばした不可視の手が姿を見せる。
「制圧完了」
二九〇二式熱光学迷彩を解くと、草薙は少年を押さえ込んだまま、空中に止まった銃弾を見る。
銃弾を中心に空気が揺らぎ、男の姿が現れる。人質を|庇《かば》うように、防弾加工の施された盾を掲げたトグサとパズが、光学迷彩を解いたのだ。トグサの持った盾のど真ん中に、S&Wから発射された九ミリ三八スペシャルが|拉《ひしや》げて埋まっていた。
「持ってきてよかったぜ。当たり所が悪けりゃ、俺も義体化考えるとこだった」
それを見てほっと|溜息《ためいき》を漏らすトグサに、草薙が言った。
「任務継続中だ。C4をこいつから解除したわけじゃない。サイトー、周囲の状況は?」
向かいのビルの屋上から、少年の親指を狙撃したサイトーの電通が返ってくる。
『仲間と思える人間は確認できない』
『了解』
草薙は電通でサイトーに応え、|傍《かたわ》らにいるトグサを見る。
「トグサ、人質を誘導して安全なところに避難させろ。パズ、この少年の情報を集めて」
「了解」
草薙の指示を受け、トグサとパズが人質を誘導して店を出ていった。
店の中に少年と草薙だけが残された。
草薙は、少年の胸に括りつけられたC4爆弾を見る。
信管と起爆装置は手製のものだ。爆弾には起爆装置の電波を受信する受信装置がついている。そのタイムカウンターが静かに時を刻む。
残り時間は六十二秒。
バトーが草薙の背後からタイマーを|覗《のぞ》きこむ。
「どこで手に入れたか知らねぇが、C4は本物だな。バリケードの向こうで待機してる爆発物処理班呼んでも解体してる時間はねえぞ。俺たちでやっちまうか?」
「電脳から〈目覚しテロ〉の情報を引き抜くのが先だ」
草薙は9課本部で報道操作を行っているイシカワに電通を入れる。
『イシカワ、モニターを』
『了解。報道操作の有効時間もそろそろ限界だ。急いでくれ』
『わかってる』
草薙が腰につけられた小箱からケーブルを引き抜き、少年を拘束している電脳錠の端子に有線接続しながら言った。
「バトー、私か潜っている間に爆弾を|外《はず》しておいて」
「おい、それじゃお前が――」
草薙に反応がない。既に少年の電脳へとダイブを始めてしまっていた。
「――ったく、しょうがねえな。タチコマ、C4の分離準備」
『りょーかい!』
バトーは動かなくなった草薙を見る。
「信頼されてるってことなのかね、まったく」
そう言いながら、バトーは爆弾を少年の身体から外し始める。
光と音のパターンが有機的に|絡《から》み合う。記憶を電脳に送り出す際に|変圧素子《トランス》が記録として変換されていく。
情報化された記録が並ぶネットの世界から、有機的な記憶の世界への境界線――ゴーストラインを草薙は〈鍵〉を作りながら、奥へ奥へと進んでいく。
ゴーストラインを一段階越えていく|毎《ごと》に増す〈|機圧《きあつ》〉に微弱な不快感を覚えるが、草薙自身の意識レベルを少年のゴーストに同調させ、なりきることで、それは次第に希簿化していく。
電脳のレベル・ゲートを通過しながら、記憶野の中でも電脳活性値の異常に高い領域に到達する。
『記憶野に到達。この少年と外部ネットの現在の接続状況は?』
草薙は、公安9課本部で動きをモニターしているイシカワに電通を入れる。イシカワからすぐに返信があった。
『電脳錠が効いてます。外部ネットヘのノードは認められません。ネットから対象の少年への接続を試みる野次馬の数は数えてたらキリがありませんが、報道操作用の防壁で迎撃されてます』
『わかった。このままモニターを続けて』
草薙は少年の記憶を眺める。
草薙自身の視覚にそうしたものが実際に見えているわけではない。そう感じているだけである。
その状況をイシカワに伝える。証拠能力を持たせるために、電脳捜査のログを外部に記録するのである。それは草薙の言語野を通じてネットヘと伝達されていく。
『アレイに最適化の必要はあるが、不安定なマトリクスは認められない』
記憶野の光景は、少年の生活習慣を反映しているのか、情報が乱雑に配置されている。効率のいい記憶の収納形態とは呼べない。感じるままに収納しているだけのようだ。
少女の裸体。
銃器整備の手順。
教練カリキュラム。
電脳街の地図。
今月の学食の献立表。
リニア駅検索情報。
カルトニュースサイトのログ――。
記憶の大半がネットヘのリンク情報でしかなかった。
『情報コレクターか。大半がリンク切れしてるわね。集めるだけ集めて満足して情報整理もできてない。チャンク化の効率も悪いわね。外部記憶に多くを頼っているステロタイプのネット依存症だわ』
記憶野の中に漂う情報のレイヤーを掘り下げ、更に深層へと草薙は進んでいく。
情報の密度が濃くなってくる。
それは光として草薙には感じられていた。
一つ一つの光点が記憶の|素子《そし》を表す。その光が集まり、密度の濃い部分は大きな光となって感知されるのだ。宇宙に浮かぶ星のイメージが最も近いだろう。それぞれの光点の間を動く別の光点も見える。今は電脳錠の働きにより活動を停止しているが、|海《かい》|馬《ば》で行われている神経信号の動きをトレースしたものだろう。
その光の中に、黒点が見える。その黒点が光を侵食し始めていた。
『記憶が断片化を始めている。このままでは意味消失しかねないわ』
草薙はその領域をフリーズさせる。見ると既に大半の記憶の断片化が進んでいた。
『イシカワ。対象の記憶の中に、断片化した領域が見つかった。先の十二件と同様のものかもしれない。これより転送を開始する』
『了解。コードCで受け取る』
イシカワからの回線が閉じられ、電脳から記憶の転送が始まる。爆発までの残り時間は二十四秒。転送終了まで二十二秒。
『バトー、爆弾の解体は!』
『あと一本、ベルトを解体して処理班のドラム缶に放り込めば終わりだ』
『危険と判断したら退避しろ』
『少佐は?』
『転送終了は爆発の二秒前。ギリギリまで情報の転送を続ける。|脳《のう》|殼《かく》さえ無事ならなんとかなるだろう』
『馬鹿言え。こいつの爆発力じゃ、少佐のチタンの脳殼たって無事でいられるわけねえだろ!』
電通の合間にも残り時間は確実に減っていた。
既に十二秒を切っている。
草薙は転送されている記憶を見守る。その記憶の中に不可解なパターンを見つけ出す。
『これは――』
『少佐、急げ!』
バトーからの電通が飛び込む。
草薙は目の前にある不可解なパターンを取り出し、自らの電脳へと送り込む。
『転送終了を確認した』
イシカワの電通を受け取ると、草薙は少年の電脳から即座に意識を切り離す。
残り時間がゼロヘと切り替わる。退避している時間はなかった。
草薙のすぐ|傍《そば》で爆発音が|轟《とどろ》く。
空気を震わせる振動が草薙の義体を揺らした。
だがそれだけで、義体が損傷するような被害はなかった。
「――?」
「なんとか間に合ったぜ」
バトーが草薙の身体を庇うように覆っていた。バトーの背後を見ると、爆弾処理容器から空に向かって爆発の煙が伸びていた。爆弾のエネルギーを垂直方向に逃がすことで周囲の被害を抑える、ドラム缶状のものだ。
「残り二秒ってところだったな」
雨を捲きながら、空からティルトローターが通りに降下してくる。公安9課の空の移動基地ともいうべき、回転翼を有する航空機だ。
「現行犯の少年を回収して撤収する。タチコマ、少年を県警より先にティルトに収容しておけ」
青い半球状のボディに四本の脚、後部に有人ポッドを背負った多脚戦車のタチコマが、二本のマニピュレーターを振りながら、草薙に近寄ってくる。
「ねえねえ、少佐。この犯人の電脳、解析しちゃってもいい?」
「駄目よ。証拠能力がなくなるわ。言われたとおりに回収しなさい」
「りょーかぁい」
タチコマは少年をマニピュレーターで抱えると、ティルトローターの後部カーゴヘと運んでいった。
所轄の警察は警戒態勢を緩め、事後処理に当たっている。救出された人質たちも軽傷で済み、被害状況は少年が爆破させた乗用車と、撃ち抜かれたモニターだけに|留《とど》まった。
その様子を見守っていたバトーが、傍らに立つ草薙に言った。
「ある朝、目を覚ましたらボクはテロリストだった――〈目覚しテロリスト〉か。少年犯罪にしては行き過ぎだな。嫌な時代だね、まったく」
目覚しテロリスト。最初の事件は二年前に|遡《さかのぼ》る。
二〇二八年十月二十二日――早朝。
|新浜《ニイハマ》のペーパー・メディアの本社屋にC4爆弾を抱えた十四歳の少年、|笠松《かさまつ》トウが飛び込み、自爆した。
死者三名と四十二名の重軽傷者を出した事件だった。
事件後、笠松が生活していた部屋などを県警が家宅捜査したが、自爆に至る理由や状況が見つからず、家族や友人などの証言からも有力な証拠は得られずじまいだった。
笠松が使った爆弾は、ネットから作製方法を探り、材料を違法販売する店で入手して自作したものであるという捜査結果が出ていた。
鑑識の視点からも明らかに素人が作ったものであり、「爆発したのが不思議なくらいで、彼は運がよかったのだろう」という不謹慎な発言が、当時の記録に残されていた。
県警の調書には、衝動自殺の新たな一例という形で記録が|為《な》され、事件はほどなく捜査終了の声を聞くはずだった。
だが、その一年後に新たな事件が発生した。
二〇二九年十月十八日。
|日立《ひたち》|功治《こうじ》、|大甕《おおみか》|省吾《しょうご》、二人の十五歳の少年が、|博多《ハカタ》の航空整備会社の社宅施設で、施設内職員十四名を人質に取り、立て龍もった。
凶器はショットガン。
施設の警護室のロッカーの中に、護身用にと保管されていたものだった。手入れのために、担当職員がロッカーの錠前を電脳のパターン照合で外したところを襲われ、銃を奪われたのだ。
通報を受け、周囲を取り囲んだ県警に、少年たちは〈真実の究明を〉と叫ぶだけで、それ以上の具体的な要求はなかった。
龍城の最中、少年たちは次々と人質を撃ち殺し、駆けつけたメディアの報道する中、警官隊の狙撃による犯人射殺という最悪の結果で事件は|終焉《しゅうえん》を迎えた。
事件後、この日立、大甕二名の少年は、社宅内に暮らす、ごく普通の少年であることが判明した。
こうした突発性の少年犯罪が|俄《にわ》かに頻発するようになり、人々はこれらの事件を〈目覚しテロ〉事件と呼び始めていた。毒電波説や、諸外国の|諜報《ちょうほう》機関陰謀説、電脳ウィルスが原因である等の風評も|囁《ささや》かれるなか、今年に入り、事件は大きな動きを見せ始めた。
二〇三〇年九月十二目。
盗難車で|花巻《はなまき》警察署の正面玄関に突っ込んだ|結城《ゆうき》|允《まこと》、十六歳の事件で一つの転機があった。
事件後、結城少年は大腿部を複雑骨折、また内臓を一部破損したものの、頭部へのダメージはほとんど見られなかった。そのため、怪我の回復を待って記憶の解析と証言を取る、初の事例となったのである。
この証言で結城少年は、なぜ事件を起こしたのかはわからないと答えた。
事実、彼自身が反政府的な活動をしていた背景は見つからなかった。生活態度にも不審な点は見られず、衝動的な怒りが、彼を犯行に走らせたとしか思えなかった。
この事件がニュース・メディアで報じられると、世間の十代への不信感がつのり、少年犯罪に対する過剰なまでの|警《けい》|鐘《しょう》が叫ばれたのである。
この大人たちの過剰な反応が、少年たちの反感を買い、さらに少年犯罪の増加を生むという結果を招いていた。
だがここまでの事件であれば、所轄警察が捜査対象とすべき事件であった。
これらの〈目覚しテロ〉事件に内閣総理大臣直属のカウンター・テロ部隊である公安9課が関わるようになっていったのは、9課が警護に乗り出した大堂警視総監暗殺未遂事件での騒動と、少年たちの間に熱病のように広まる〈目覚しテロリスト〉への変貌に、何らかの関連性があるのではないかという、9課課長、荒巻の見解によるものだった。
〈目覚しテロ〉事件と同一と見られる、所轄警察が担当した先の十二例の事件を洗ってみたものの、証拠や手がかりとなる情報はなく、事件後、少年たちの記憶が部分的に断片化しており、少年自身がこの事件を引き起こした動機や記憶といったものをすべて消失しているという点だけが、全事件における共通事項だった。そのため公安9課は、事件を引き起こした少年から、事件現場で素早く記憶情報を抜き出し記録する手段を模索していた。
そして今、十三例目の事件に対し公安9課が介入し、断片的ながら、手がかりとなる情報を人手することに成功したのである。
少年を収容したティルトローターが上昇していく。
それを見送る草薙に、パズからの電通が入る。
『犯行を行った少年の個人情報が判明しました。名前は|志川《しかわ》|久光《ひさみつ》。前科なし。年齢十六歳。現在、新浜陸上自衛軍少年工科学校に在学。住居の認識番号もその学生寮になっています』
横にいたバトーが呟く。
「陸自の予備校生か。まさか学習プログラムにやばいもんが紛れ込んでるなんてこたあねえよな」
新浜陸上自衛軍少年工科学校は、陸上自衛軍の教育課程の中でも最も幼年課程にあたり、十五歳以上の志願者であれば、簡単な試験をクリアするだけで、誰でも入隊できるようなものだった。そのため、成績上進学に問題のある生徒や、一般教育課程への進学が不適応とされた学生が門を|叩《たた》くことになった。
卒業後は一般教育課程への再編入も可能だが、大抵の学生が陸上自衛軍への入隊の道を志願する。軍への就職に関しては、全面的に保障されていた。
教育課程も一般の学校と異なり、戦闘訓練に代表される軍事教練や、武器・兵器の取り扱いといったカリキュラムが盛り込まれている。
基本的には〈隊〉としての連帯感と団結力を|促《うなが》すような教育方針が取り入れられているとされ、課外での生活も全寮制の団体生活を強いられており、全生徒が親元を離れ、幾つかの学生寮で生活している。学習プログラムによる洗脳疑惑など、行き過ぎた教育課程が週刊誌の誌面を賑わすこともたびたびあった。
特殊な環境ゆえに、何かしらの意識操作が行われている可能性がある。
これらの事情を踏まえて草薙が言った。
「現在、使われている学習プログラムを確認する必要がありそうだな。私はこれから新浜陸自少年工学に向かう。トグサ、一緒に来い」
「了解」
「そんじゃ自宅待機から呼び出された俺はここで解散ってことで」
バトーが、それじゃ、と手を上げ立ち去ろうとする。それを草薙が呼び止めた。
「あら、課長から聞いてなかった?」
「何を?」
「待機命令は解除。バトー、サイトー、パズ、ボーマの四名は博多のサミット会場に先行して乗り込み、草を抜いておけ――って」
「聞いてねえぜ。そんなもん、所轄の仕事だろうが」
「所轄が頼りないって言ってたの、あなたでしょ。推薦しといたわ」
「マジ?」
[#改ページ]
3
『マジかよ?』
|風《かぜ》|居曜《いよう》は級友の|竹河《たけがわ》|朝治《ともはる》から送信された電脳通信に問い返した。
『竹河、俺|騙《だま》してんじゃねえの?』
『馬鹿、風居を騙して得することなんかねえよ。本当に身体に爆弾|括《くく》りつけたうちの生徒が、|新浜《ニイハマ》電脳街で人質取って立て|龍《こ》もった挙句に、特殊部隊にやられて警察にパクられたんだってよ』
『すげぇな。そんな根性据わったのがうちにいたか?』
『聞いて驚くな。|志川《しかわ》だよ』
『志川?』
風居は向かいの壁際に置かれた空のベッドを見る。そういえば同室の志川は昨日から部屋に帰ってきていなかった。
『あいつ、教練以外の時間は、部屋に閉じこもって四六時中ネットに繋がってるような奴だぜ。あいつにそんなことできるはずねえだろ?』
『俺もまさかと思ったさ。ネット繋いでみろよ。できるようになったんだろ?』
『ああ。なんとかな。それじゃ、後でな』
昼下がりの新浜陸上自衛軍少年工科学校の学生寮。自室のベッドの上に寝そべると、風居は電通を切り、ニュースチャンネルを検索する。検索に集中するため、目を閉じる。外部からの視覚刺激を受けた状態で、同時にネットを起動させるようなことはできなかった。
新浜。電脳街。銃。事件、とキーワードを言語野から電脳に常駐させたネットの検索域に送り込む。
一瞬にして、三十万件を超えるヒットがあった。それに条件を加えて絞り込んでいく。
少年。十六歳、と入力して五万件前後となる。さらに新浜陸上自衛軍少年工科学校と、自分の在籍する学習施設の名称を入れてみても、千件はあった。
この検索過程は何かを必死に思い出そうとする感じと一緒だ、と風居は思った。電脳を使いこなしていくためには、電脳を自分自身の延長であるとイメージすることが最短の道だと誰かが言っていたのを思い出す。風居は使い慣れない電脳を必死に操作する。まだ電脳が|馴《な》|染《じ》んでいないことに苛立ちを覚える。
自分が、電脳が主流となった世界に馴染めないと思う瞬間だ。
前世紀末、核の冬を経て起きた第四次非核大戦の長期化は、人類にとって技術と科学の進歩をもたらす起爆剤となった。
義手、義肢の延長線上にある義体とよばれるサイボーグ技術と、マイクロマシンの導入による電脳化の実現が、世界を大きく変える契機となった。
二〇〇三年に初の電脳兵器が戦線に投入され、人の脳と外部装置をリンクさせる技術革新が進むと同時に、脳自体の解明も急速な進歩を見せていった。
二〇一五年には記憶の機構が解明され、記憶を記録情報として御する|術《すべ》に人間は手をかけたのである。ネットに漂う膨大な量の情報を外部記憶として利用するために最も効率のよい手段として、ネットと脳とを直接繋ぐことに成功したのだ。
脳にマイクロマシンを注入し、一つの端末として機能させる電脳化は爆発的な普及を見せ、人は情報の海に漂う〈個〉となったのである。
端末と端末の直接接続は情報交換を効率よく行うための手段であり、人はこれを己の電脳で行い始めていた。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚という五感を通じた情報のコミュニケーションに頼らず、意思を直接、相手の電脳に送り込む手段が生まれることで、人の生活は次第にネットに依存する形で変貌し始めた。二〇二七年には、日本の政府は電脳立国を宣言。人と電脳との関わりを国家として公的に容認したのである。
今では、横行する誘拐犯罪対策として、位置情報を掴むために、まだ言葉を話すことのできない子供にマイクロマシンを注入して、電脳化することさえ行われていた。もちろん倫理上問題があるとして世論は沸騰し、二〇二四年の電脳公害白書論争に代表されるような電脳争議も起きていたが、そのこと自体、電脳が社会に浸透し、一般化したことの|証《あかし》だった。
だがその一方で、人々の中には、器質的に電脳不適応とされる人間も出てきたのである。
風居も電脳不適応者の一人だった。生物として生きていくうえでは健康体である。だが情報が支配する街の中で、その情報を取得できないことは、社会的な存在を否定されているに等しい。
教育課程も例外ではなかった。
授業内容は「電脳使用推奨」とされており、電脳化していない人間は、端末を用いてネットワークヘアクセスする以外に選択の余地はなかった。それは極めて限られた条件のもとでのネット利用であり、お世辞にもネットを活用しているとはいえなかった。越えられない壁がそこには存在していたのだ。「推奨」が、「必須」に変わるのは極めて近い将来であると誰もが思っていた。電脳不適応のレッテルを持つ者にとって、住みにくい世の中となっていた。
これが二〇三〇年という時代に満ちている空気だった。
今までの風居にはそれが重い|足《あし》|揃《かせ》となっていた。電脳化ができない以上、何かが起きて、世界が変わっていくのをただ待つしかなかったのだ。
その変わり目が、風居にも訪れることとなった。不適応を克服するだけの技術が開発され、風居はようやく電脳化を果たすことができたのだ。
つい、二週間前のことである。
他人よりも遅れて電脳化を果たした風居にとって、電脳化は、赤ん坊が立って歩きだすのと同義だった。
この街の住人になれたという実感を、後頭部に埋め込まれたトランスと、首筋の電極に触れるたびに満喫することができた。
街を歩いていても、景色は以前とは違って見えた。電脳化する前は、ビルの壁面を|這《は》う、ネット・インフラのケーブルが街に寄生する|蟲《むし》のように見え、おぞましかったのだ。だが電脳化し、生活が一変すると、ケーブルをもっと多く配置し、インフラを増強するべきだと思うようにもなった。
風居はまだ電脳を完全に活用しているわけではない。ネットと繋がるという基本的な機能を使えるようになっただけだ。特定の相手と直接脳内通信できる電通と、そしてネットの比較的深度の浅いところを眺めるのがやっとだった。正直なところ、それ以上はまだ怖いと感じる部分でもあり、今の自分が潜って行くと、ネットの海に溺れてしまい、帰ってこられなくなるような気がしていた。
そうした不安を振り払い、風居は記憶野から志川の顔を視覚情報として思い浮かべ、トランスに送り込んでみる。
ヒットした。
その記録をネットから電脳にダウンロードし、展開する。事件の瞬間を|提《とら》えた記録映像だった。大型家電専門店の一階で、人質を取って立て龍もる少年の映像が再生される。それは確かに風居がよく知る少年の顔であった。
「志川だ」
志川の顔はいつも青白く、やや太り気味なこともあって白豚と周りからは|渾《あだ》|名《な》されていた。内向的で、電脳を常にネットに繋いでいる。ややネット依存症の傾向があった。原則的にネットヘの接続が禁じられている構内は、不正な電脳の使用を抑えるために電波遮断の処理が施されている。それを気持ちが悪いと言う志川は自室に龍りがちで、どこか人を寄せつけないところがあった。
何を考えているかわからないような奴。それが風居の持っていた志川の印象だった。
まさか、と思いつつ、志川がなぜ、爆弾と銃を使って立て龍もりをしたのか、その疑問が|楔《くさび》のように思考の網に突き刺さる。おそらく誰よりも、ここ数年の志川を間近で見てきた風居でさえ、志川があのような行動に走る動機が思い浮かばないでいた。
木製のドアがノックされる。
「竹河か?」
よほど暇な奴だなと風居は思う。
先ほどまで電通で話をしていた、隣の部屋の級友、竹河朝治が、電通を切った自分を訪ねて、わざわざ部屋までやってきたのだろう。
ベッドに寝そべったまま、風居は天井に向けて声を出した。
「開いてるよ」
だが風居の想像を裏切って、ドアを開けたのは見知らぬ女だった。合成素材のコートを着ている。インナーは露出度が高く、ボリュームのある胸元が|覗《のぞ》いて見えていた。その傍には寮長が、普段は見せないような不安の色を顔に浮かべ、女の後ろに立っている。
風居は思わず身を起こす。
女は風居を|一瞥《いちべつ》しただけで、部屋に入るなり、室内を素早く見渡し、志川のベッドと机を眺めたまま、寮長に確認をする。
「ここが志川久光の部屋か」
寮長が二度も三度も頷く様は見ていて|滑《こつ》|稽《けい》だ、と風居は思う。
この学校以外に行き場所のない学生たちに対してはここぞとばかりに威張っている寮長だが、軍上層部の視察団や、官僚などの訪問には態度を急変させる。権威に弱い、|内《うち》|弁《べん》|慶《けい》なのだ。
風居には、寮長のこうした態度からこの女が何者なのか、おおよその想像はついていた。
寮長は風居と目が合うと、バツが悪いのか、|咳《せき》|払《ばら》いを一つ、二つしてから、風居にもったいぶった口調で話す。
「こちら、警察の方。君は、ああむ、前にもお世話になっているんだから、ああむ、失礼のないようにな、ああむ」
――余計なことを言うんじゃねえ!
寮長のそうした態度にも口調にも、風居はやり場のない|憤《いきどお》りを感じる。
こいつは俺のことを、いつも色眼鏡をかけて見ていやがる。訓練中に使用する音と煙だけの模擬爆弾をこいつの部屋のドアに仕掛けてやったら、さぞかし痛快だろうな。
そんな空想で憤りを静めるしかないのだ。
寮長は警察の女の後ろについてまわり、女のすることを背中越しに覗き、何ごとかを女に話しかけている。
女はその言葉など耳に入っていないかのように、マイペースに志川の机を物色し続けていた。
志川の机の上には、何に使うのかよくわからない端末や機械類が転がっていた。
陸上自衛軍少年工科学校の生徒だけに、工学関連に興味を持つ生徒が半数。残りは、することも行く場所もなく、軍に入ってあり余る若いエネルギーを発散させようかと思っているような生徒だった。志川は間違いなく前者であり、風居は後者であった。
志川が自らの電脳を補佐するような部品を電脳街で買い集め、消灯時間を過ぎても組み立てている光景を何度か目にしている。
|眩《まぶ》しいから電気を消せ、と言っても、そうしたときの志川は頑固で、すぐ終わるからと言っていつまでも作業をやめようとはしなかった。そうした機器類のうち、風居がわかるものといえば、視覚を投影させるためのペーパー・モニターくらいのものだった。
女が机の上の、十センチ四方の金属の立方体の|函《はこ》を取り上げ、そこに腰のあたりから取り出したケーブルを繋ぐ。
「――無修正画像だらけだな」
つまらなさそうに函を机の上に置くと、コートの内側から三つに祈られた紙を取り出す。
「捜査権を行使し、彼の持ち物を一時こちらで預かります。この書類にサインを」
校長の許可が|要《い》りますので、と寮長はそれを持って|慌《あわ》てて部屋を出て行く。
寮長が廊下を足早に去っていく音が消えると、部屋には女と風居だけが残された。
風居はベッドの上で半身を起こしたまま、固まっていた。
できることなら今すぐ部屋を出て行きたかった。早くこの女に部屋を出て行ってもらいたかった。
思ったことが伝わったかのように、女が風居を見る。
風居と目が合う。
冷たい、風居を人間としてではなく一個の物体として観察しているような目だった。
「志川の友人か?」
「あ――」
風居はすぐに返事ができなかった。女の持つ雰囲気に|呑《の》まれている。|喉《のど》がカラカラに渇いていた。
「この一週間、志川に変わったところはなかったか?」
「べ、別に」
「部屋での態度や様子に異常は?」
「部屋にいる間はずっとネットに繋がってたし、それ以外はわけわかんない機械組み立ててたことぐらいしか――」
「どんなネットに入っていたかわかるか?」
「あいつの行くところなんて、俺が行けるはずないよ。俺、電脳化したばかりだし――」
女の目に感情が浮かぶ。
軽い驚きとでもいうものだろうか、物珍しそうに風居を見る。電脳化をしていない人間など、失業人口よりも少ないのだ。風居は思わず言い訳してしまう。
「俺、電脳不適応だったから」
「そうか」
また女が風居の顔をじっと見つめる。
逃げ出したくなるような沈黙が部屋の中に満ちていく。
そして女が言った。
「――風居曜。電脳化承認番号C-72GTH3004。第三種電脳障害者であるため、定期検査の必要あり。それと、三度の補導歴か」
女の言葉に風居は凍りつく。女は風居の過去に何の前触れもなく触れてきた。
「厚労省のデータベースに記録されている情報を検索しただけだ」
女は言った。だが厚労省――厚生労働省で管理されている個人情報は、特別な事情のない限り、第三者に開示されることはないはずである。ネットの端末自体も、何重という防壁によってハッキングなどの侵入を|阻《はば》むように作られているはずだった。電脳化をしていない子供でもそうした事実は知っている。だが目の前の女は強固な防壁をわずかな時間で突破し、風居の個人情報を手にいれたのだ。
――いったい何者なんだ?
そのとき、寮長が一人の男を連れて戻って来る。ジャケットを着た若い男だった。この男も刑事なのか。
「少佐、書類受取、確認しました」
若い刑事が、書類を少佐と呼ばれた女に渡す。
「わかった。書類にある荷物を収容し撤収する」
女はコートの内側に受け取った書類を仕舞い、部屋を出て行った。
――少佐?
風居は思った。女刑事は少佐と呼ばれていた。警察であるなら、その階級は部長であったり、警視であったりするはず。少佐などという呼称は〈軍〉以外で用いられることがない。
現に風居が属する、この新浜陸上自衛軍少年工科学校の特別教官の中にも、少佐階級の人間が何名かいたのを憶えている。
ならば〈軍〉の人間なのか。
だが寮長は〈警察〉と言っていた。
何者なのか。
志川の起こしたテロ事件の捜査なら〈警察〉のはずだ。だがそれを超えたものが動いているように思えてならなかった。
少佐と呼ばれた女刑事と若い刑事が去ると、〈警視庁〉のロゴを背負った作業服の集団が部屋に|雪崩《なだれ》|込《こ》み、志川の荷物を収容していく。
くず入れのゴミから設置されていたベッドに至るまで、志川が生活の中で触れていたものすべてを持ち去っていく。
そして十分も経過した頃には、志川のいた|痕《こん》|跡《せき》はこの部屋から消えており、一人には広すぎる空間が拡がっていた。
部屋の壁紙や床に残る日焼けの跡や、埃の|堆《たい》|積《せき》したベッドの足の跡だけが、ここに志川がいたということを物語っていた。
居心地が悪かった。
おそらく志川がこの部屋に戻ってくることはないだろう。相部屋になって三ヵ月になるが、特に何を話したとか、一緒にどこかに行ったなどという記憶はなかった。
寂しさなどはない。
ただ|空《むな》しさに似た感覚が襲ってくる。この部屋にいるのがたまらなく嫌になっていた。
「おい、ケーサツ来たんだって?」
ノックもせずにドアが開かれ、隣室にいる悪友の竹河が部屋に入ってくる。
「あれ、警察なんかじゃないぜ」
「寮長は警察って言ってたぜ。俺もちらっと見たけど、すげえ体の女と冴えねえ若い刑事がいたけどな」
「あの女、〈少佐〉って呼ばれてたんだ」
「〈少佐〉?」
「ああ。若い刑事が呼んでた」
「あれじゃねえの、刑事がよく渾名つけるやつ。あの若いのどう見ても刑事って感じだったしな。それに〈警視庁〉のロゴ人った服着た連中、来てただろ。教室や教練場にも行ったらしくてさ、志川の机からロッカーまで持って行っちまったんだとさ」
竹河はそう言いながら空になった部屋半分を見る。
「ここも綺麗さっぱりなくなっちまったもんだな。で、お前何も知らないわけ?」
「知らないって何か?」
「何って志川のこと」
「知るかよ、そんなこと」
そう言って風居は椅子に掛けられた上着を手に取る。
この部屋にいたくなかった。〈少佐〉と呼ばれた女に、思いがけず触れられた古傷のことも、思考の片隅に引っかかっていた。
「出かけるのか?」
「なんかここの空気重いからさ、気分転換」
「電脳街?」
今はどこでもよかった。
「ああ」と|曖昧《あいまい》な返事を残し、風居は部屋を出て行った。
[#改ページ]
4
公安9課には専門の鑑識班がいる。
通称〈赤服〉と呼ばれている彼らは、サイバー・テロや武装テロを未然に防ぐ、攻性の組織である公安9課直属の解析機関だ。
多種多様な犯罪への知識と、|迅《じん》|速《そく》な対応を要求されるため、技術者たちの中でも極めて有能なスタッフたちで構成されていた。
その赤服たちの目の前に、一人の少年が横だわっている。
公安9課が新浜電脳街で確保した〈目覚しテロリスト〉と思われる少年、|志川《しかわ》|久光《ひさみつ》である。
志川の首筋にあるコネクタに突き刺さったケーブルが壁の端末へ延び、その電脳の状況が壁面のモニターに映し出されている。
「記録の|癒着《ゆちやく》が見られない点から、若年性電脳障害の可能性はないようだ」
「素人にしては強固な防壁だ。市販ベースの防壁をカスタマイズして使用しているね」
「強固なだけで柔軟性がない。こうした型の防壁を崩すのはそれほど難しいことではないね」
「|所詮《しよせん》はアマチュア。趣味の|範躊《はんちゆう》を出ていない。いたずらに電脳を|弄《いじ》り回した末の事故という可能性も捨てきれない。ほら、ここに特異な波形が出ている。これは防壁とウィルス検索機能同士が機能衝突している際に見られる波形だな」
「――あなたたちの推論はいらないわ」
鑑識室に現れた|草薙《くさなぎ》が、いつ終わるとも知れない赤服たちの議論へ、痛烈な言葉を投げかける。
当の赤服たちは、こうしたことに慣れているのか、批判一つしない。草薙相手に、それが時間の無駄でしかないことがわかっているからだろう。
赤服たちに向かって草薙が言った。
「この少年が電脳街で暴走するに至った原因がどこにあるのか、あなたたちの調査結果を聞きたいのだけど、お願いできるかしら」
「対象の少年、志川久光の電脳への外部介入による強制支配の可能性は、我々の見識ではゼロに近い」
「ダウンロードしたファイル経由のウィルス感染や、他者からのゴーストハックによる強制的な干渉の痕跡は発見できなかった、ということね」
「そう。つまり、少年が自らの意思で銃を持ち、C4爆弾を抱えて人質を取り、電脳街で騒ぎを起こしたというのが、我々の統一見解だ」
「こちらの調査では、この少年がそのような思想傾向の持ち主であるという証拠はあがっていない。他人との必要以上の接触は避けて、ネットを生活の場にしているような少年だってことがアクセス・ログからも判明しているわ。ネット依存症の傾向はあるにせよ、平均的な十代の少年が、理由もないままに、衝動的にあんな事件を引き起こしたと?」
「そういうことになる。もしその答えが正しいのだとすれば、十代という年齢がそうさせるのかもしれない」
「若さがそうさせる? 思い切った結論ね」
「残念ながらそれが真相かもしれない。社会的な自己の位置づけに対し、未成熟であり、かつ自己中心的な世代だ。だからこそ環境に対し従属的に自らを変えるのではなく、環境を変える方向へと短絡的に走ろうとする。ともすれば未成熟な世代である十代すべてが、ああした突発性のテロ活動に踏み込む余地があるという残念な答えになるのかもしれない。こうした|輩《やから》への対処方法は、支配型の教育指導か、遺伝子治療、もしくは強制排除以外ないかもしれないね」
「強硬策か。世論が黙っていないでしょうね。ドラッグの可能性は?」
「体内に残留する麻薬成分の検査も行ってみたが、電脳麻薬や通常麻薬のすべてに陰性反応が出たよ」
電脳麻薬は電脳内に定着したマイクロマシンに働きかけ、脳内にある|側《そく》|坐《ざ》|核《かく》で、ドーパミンが分泌されやすい状況を作り出すよう促すプログラムである。
ドーパミンはニューロンと呼ばれる神経細胞間で信号のやり取りを行う際に放出される物質である。それがニューロンのドーパミン受容体と結合し、電位変化や、細胞内の情報伝達系の活発化など、様々な変化を受け手のニューロンに引き起こす。
ドーパミンが脳内で伝達異常を起こすと、幻覚やパラノイア等の症状に加え、発話や運動が制御不能に陥り、不必要と自覚しながらも同一反復行動を取る強迫神経症になることもあるのである。これは麻薬やコカイン、アンフェタミンを使った場合と同様の症状である。
電脳麻薬は、このように麻薬同様の作用を引き起こすことができるため、電脳ウィルスと並ぶ脅威として、今や社会問題の一つにまで発展していた。
しかし、ネットに広まる多くの電脳麻薬の効果は、通常麻薬からはほど遠いものだ。より強い刺激を求める場合、電脳麻薬と通常麻薬をミックスして刺激を増進させる〈セッション〉が、現在の主流になっていた。
「麻薬の可能性はない――か」
「データはそう物語っている。詳細な鑑識結果はそこに置いてある。|荒巻《あらまき》課長に提出しようと思っていたところだよ」
「私が持っていく」
草薙は、赤服の指差したワゴンの上から、|M M D《マイクロミニデイスク》を取り上げると部屋を出て行った。
公安9課の廊下を歩きながら、草薙は事件に思いを巡らせる。
昨日まで普通に生活していた少年が、電脳がウィルスに感染したわけでもなく、ゴーストハックされたわけでもなく、自らの意思で、しかも衝動的に犯行を起こした。状況と、解析結果からもそれは明らかとなっている。ならば動機は何なのか。
草薙は荒巻への経過報告のために、公安9課内の廊下を課長室へと向かいながら、それを考えていた。
志川久光の部屋から押収した荷物からは、事件の動機と結びつくようなものは何も発見できなかった。外部記憶装置の中にあったのは、志川の記憶の中にも見られた、十代の少女とおぼしき全裸の立体画像データが数万点と、電脳内での擬似的な接触を目的とした感覚体感型のモデルデータが数体のみ。ウィルスの混在などを疑い、すべての解析を済ませてみたが、データに|隠《いん》|蔽《ぺい》されていたウィルスは、どれもネット初期からあるオーソドックスなスタイルのスパム型のものだった。その中からは、ゴーストハックをするような電脳支配型のものは発見できなかった。
草薙は課長室の重そうな木製のドアを軽くノックした。
「入れ」
ドアを開けると、正面の高価な応接セットの向こうにあるマホガニーの執務机で、眼鏡を掛け、忙しく書類に目を通す男の姿があった。
|禿《は》げ上がった頭に残った白髪は、|獅子《しし》のたてがみを思わせる。
小柄ではあるが、全身を|隙《すき》のないダブルのスーツで固めたその姿は、何者にも屈することのない意思を感じさせる。
目の前にいるこの初老の男が、内閣総理大臣直属のカウンター・テロ組織である公安9課のボス、荒巻|大輔《だいすけ》である。
汚職で私腹を|肥《こ》やす官僚、国家転覆を|企《たくら》むテロリストたちに対し、銃と戦車、そして正義という信念を持って立ち向かう男であった。
その荒巻の前に草薙が立つ。
「課長。〈目覚しテロ〉事件、十三例目の鑑識報告があがったわ」
荒巻が手を止めた。
眼鏡を額にあげ、じろり、と鋭い眼光で草薙を見る。
「前例と同じ結果が出ているのであろう?」
荒巻はゆっくりと机の上で手を組んで言った。
「顔に書いてあるわい」
草薙が肩を|竦《すく》める。
「そのとおりよ。十三例目も、前の十二例と同じ。すべて個人の意思による事件、という報告しかあがってこないわ」
「今後、志川久光の供述を取っても同じことが言えそうだな」
「おそらく」と草薙は、荒巻の執務机の前にあるソファーに腰を沈める。
「何をしたのか|憶《おぼ》えていない。僕が本当にそんなこと、したんですか――そう言うでしょうね。事件から百六十八時間前の記憶が断片化して意味消失するパターンは、先の十二例と一緒ね。ネットヘのアクセス・ログを洗ってみても、そういった命令を含んだプログラムを落とした痕跡もなければサイトも存在していない」
「ネットの中に犯行の芽はないということか」
「そういうことね」
「そうなると、先の〈笑い男〉に絡んだ警視総監襲撃事件との関連性があるかどうかだな」
「そうね」
〈笑い男〉事件。
二〇二四年一月末のことである。
マイクロマシンで急成長したセラノ・ゲノミクス社社長、アーネスト=セラノ氏が出勤のため、自宅を出たまま三日間、行方不明となる事件が起きた。
そして四日目の朝。新浜の繁華街で生中継をしていた天気情報番組のカメラの前に、全身を青いパーカーに身を包み、フードを|目《ま》|深《ぶか》に、さらに帽子を被った一人の男にS&Wチーフを突きつけられる形で、セラノ氏は姿を現したのである。
「真実を話せ」とS&Wを握った男はセラノ氏に向かって言っていた。男は自分の顔を撮ろうとしたメディアのカメラに気づき、その場にあるすべての映像記録端末、電脳化した人間の視覚をハッキングし、画像をリアルタイムでマスキングしていったのだ。
通報により警察が集結しつつあることを知ると、男はセラノ氏を置き去りにして、その場から逃走する。逃走の最中も、周囲にいる通行人などの電脳をハッキングし、すべての電脳から自分の顔の視覚記憶を、マスキング画像に上書きしていったのである。
彼の顔を見たのは電脳化していない路上生活者二名のみと言われている。
電脳化社会の上でこそ、成り立つ新たな犯罪だった。
その後、彼は視覚記憶を上書きしていったマスキング画像の絵柄から、〈笑い男〉と称されるようになっていった。
〈笑い男〉はセラノ氏誘拐をきっかけに、その名前でセラノ社に対し、「殺人を促すウィルスをマイクロマシンのプログラムに混入した」という脅遺文を送りつける。
社会的信用を落としたセラノ社は、存続の危機に|瀕《ひん》した。
政府は、セラノ社の従業員及び国家の財源でもあったマイクロマシン産業を救うために、公的資金の導入を決め、救済に乗り出す。すると〈笑い男〉は「もう許す」と、|掌《てのひら》を返したようにセラノ社への脅迫に終了宣言文を出し、失墜したセラノ社の代わりに業界第一位となったマイクロマシン企業への脅迫に切り替えたのである。
政府はセラノ社同様、公的資金の導入という形で早々と事態の収拾を図ろうとした。その結果、セラノ社を含めた都合六社へ脅迫がなされ、政府と〈笑い男〉との間でイタチゴッコが続けられたのである。
〈笑い男〉が完全撤退を宣言した後も、この一連の事件の謎はいまだ解明されずにいた。
そして、人が六年という月日の中で〈笑い男〉事件を記憶の奥底に仕舞いこみ、社会がそれを忘れようとしていたとき、〈笑い男〉は再び現れたのである。
|盗視覚素子《とうしかくそし》、通称〈インターセプター〉を、〈笑い男〉事件の継続捜査を続けていた特捜刑事に不正使用したとしてバッシングされた警察が、その謝罪のために開いた記者会見――その席上で、〈笑い男〉は警視総監暗殺を予告したのだ。
そして予告の日――警察学校の卒業式典において警視総監の|挨《あい》|拶《さつ》が行われようとした矢先、事件は起きたのである。総監を警護するSPたちの、連絡用メールの合間に分割して送付されていた遅効性ウィルスが起動し、SPの一人が電磁警棒を警視総監に振り下ろそうとしたのである。さらに会場には、次々と自称〈笑い男〉が現れ、それぞれに警視総監の命を狙ったのだ。
「あの事件でナナオ=Aの使用した分割型の遅効性ウィルスが確認されたのは、最初に暴走したSP、ただ一人だけだったな」
「ええ。残りすべての犯人たちは、警視総監の暗殺予告を〈笑い男〉から自分に当てられたメッセージとして受け取り、自発的に犯行を起こしたものばかり。彼らは皆、横の繋がりがなく、同時多発的に同一目的で行動を起こした|模《も》|倣《ほう》|犯《はん》たち。同時多発テロというより、現象――スタンド・アローン・コンプレックスと呼ぶべきでしょうね」
「今回の事件、〈笑い男〉事件と関連性があると思うか?」
草薙は一つ息を吐き、荒巻を見る。
「今回の志川久光の事件、一見すると六年前のセラノ氏誘拐の際の〈笑い男〉事件を模倣しているようだけど、事件を引き起こす動機が短絡的で厚みに欠けるわ。他の十二例もそう。現象になるほどの件数が報告されているとは言えないわ。動機がない少年たちがなぜ突発的にテロリストになったのかは、これから調べるしかない。けれど、事件直後の電脳から消失しかけた記憶を入手したことで、ようやく半歩前進といったところかしら」
「記憶の解析状況は?」
「イシカワが鋭意継続調査中。同様の障害報告や、類似する記憶の断片を中心に検索してるわ」
「この一件の捜査も重要だが、|博多《ハカタ》で行われるマイクロマシン環境サミット開催が近い。そこに出席するナジフ=オスマル氏の警護を要請されている」
「ナジフ=オスマル――中東アジア和平の立役者ね。確か、暗殺未遂には星の数ほどあったけれど、突然の予定変更でそれを回避しているそうね。警備員泣かせだってことは聞いているけど、そのナジフの警護を9課がするの?」
「そうだ」
荒巻が卓上パネルのボタンを押すと、壁面に貼られたスクリーンに、一人の男性の姿が投影される。
ナジフ=オスマル。民族紛争の長引く中東アジアに平和をもたらした立役者であり、現中東アジア|暫《ざん》|定《てい》代表である。
貧困が争いを呼ぶ。貧しいからこそ、人はテロリストに身を落とす。そう提唱するナジフ氏の国はオピューム=ロードの一角にあたり、そこで栽培された|芥子《けし》から精製される麻薬は、ゲリラの重要な資金源となっていた。ナジフ氏は麻薬|撲《ぼく》|滅《めつ》を|謳《うた》い、それに賛同した国連軍を積極的に活用して芥子畑を焼き払い、荒地となった跡地にマイクロマシン産業を根づかせようと企業誘致を働きかけていた。国民が富むための産業さえ根づけば、貧しさゆえの争いは起こり得ないとナジフ氏は主張し、多くの賛同を得ていた。
「資金源を失った麻薬密売組織が裏で動いている可能性がある。実態の把握できない国際的麻薬密売組織の〈赤い砂〉が、国内のブラックマーケットの一つである、|佐《さ》|渡《ど》|山《やま》会と接触したという情報も入っている。今、バトーたちに捜査を継続させているところだ」
「私もそれに合流を?」
「不服か?」
「いいえ。一連の〈目覚しテロ〉事件の最終的な目的が、世間を騒がすだけに|留《とど》まっているなら、所轄に引き継げばいい。けど――」
「けど?」
「この事件、まだ幕が開いたばかりのように思えるのよ。事件の形はバラバラだけど、少年たちは〈真相の究明〉という一つの点に向かって行動を起こしている。ベクトルは違うけど、到達地点は同じだわ。その目的がまだ何かはわからないけれど、〈笑い男〉事件のような現象とは異なる、何者かの意図を感じるのよ」
荒巻は|暫《しば》しの沈黙の後、草薙に言った。
「よかろう。サミット開催に対するテロは、ナジフ氏を狙う以外にも横行するはずだ。今は不安の芽を一つでも|摘《つ》み取るに限るからな。少佐は引き続き〈目覚しテロ〉を追ってくれ。以上だ」
「了解」
草薙は執務室を出て、ダイブ・ルームヘと向かう。電脳犯罪に立ち向かうための拠点となる部屋で、中には高価な身代わり防壁を設備したネットヘのダイブ装置が数基、設置されている。
冷房が効きすぎるほど効いている室内の中央に、使用中のダイブ装置があった。
そこには|髭《ひげ》を伸ばした、むさい印象を与える男が座り、身代わり防壁をつけて、ネットに潜り込んでいる。
草薙は身代わり防壁に近づくと、自分の首の後ろからケーブルを延ばし、ダイブ装置に有線接続する。
草薙の電脳内にインターフェースが展開する。
ネット内の情報をトランスが変換し、視覚野に展開しているのである。
草薙はイシカワの接続している経路をネットから検索し、自分の電脳を接続する。
少年犯罪。
無差別テロ。
笑い男。
ウィルス――。
先の少年が犯した事件に関わる検索情報が次々と展開されていく。何十万件とある項目の中から、イシカワはそれらを|迅《じん》|速《そく》に整理分類し、取捨選択していく。ニュースサイトから個人情報、警視庁の公安監視網や巡回中の警察官による定時報告まで、必要と思われる情報のみが〈|籠《かご》〉に放り込まれていく。イシカワの持つイメージなのだろう。必要のないものは〈|焚《た》き火〉にくべられ消去される。〈|塵《ちり》|箱《ばこ》〉と異なり、拾い上げることはできない。イシカワの経験に基づく勘が選択基準になっている。
その動きが止まったところで、草薙はケーブルを|外《はず》してネットから抜ける。
イシカワがダイブ装置の身代わり防壁を外し、シャツの胸ポケットから取り出した煙草に火を|点《つ》け、深く息を吸い込んでいた。煙草の火が赤く発光し、灰を成長させる。
「捜査に進展は?」
草薙が問いかけると、返事の代わりとばかりに青白い煙を大きく吐き出す。煙は拡散する前に天井の排気口へと吸い込まれていく。
「決め手となるような情報は見つかってない」
イシカワが草薙を見る。その顔には、やや疲労の色が浮いているようだ。
「記憶の断片化は通常、時系列が過去に|遡《さかのぼ》るほど多くなっていくものなんだが、志川の場合、事件当日の欠損率は九十七パーセント。これをピークとして、百七十時間前までの記憶欠損が激しく、八十七パーセントを超過する割合を示している。この数値は断片化というより、消去の痕跡と言うべきなのかもしれんな。通常、本人にとって印象的な記憶があれば、それは記憶の外周上に確実に残り、他の記憶と関進づけ合うことで残されているはずなんだが、この電脳にはそうした記憶も残されていない。根こそぎ消されちまってる」
「消去の手法は?」
「記憶の断片化の状況を見る限り、ゴーストハックなどの外部介入による消去方法なら痕跡など残さずに消し去ることができるはずだ。だがその場合、電脳への干渉が長いため、〈枝〉が残りやすい。この場合、痕跡に断片が相当数残されていることから、自動的に消去プログラムが起動した可能性が高い」
「断片率の傾向は?」
「シミュレートの結果では一致している。おそらく同一のプログラムによるものだろう。ネットの捜査はこれ以上、無意味だろう。今度は断片化された記憶の修復を試そうと思ってる」
イシカワが傍らに置かれた記憶箱を指差す。
「志川の記憶をバックアップしたもんだ。これから潜るところさ」
イシカワが大きく伸びをした。|強《こわ》|張《ば》った筋肉が音を立てる。ダイブ装置を再装着しようとしたイシカワを草薙が制する。
「私がやる。バックアップを頼むわ」
そう言うと、草薙は情報の光の中へとダイブしていく。
志川の断片化した記憶から、記憶野のアドレスを割り出し、そこに向かって潜行していく。
光の密度が濃くなっていく。
草薙は軽い圧迫感を覚える。
|機圧《きあつ》対策に自分自身を電脳の中ではNULLとして存在させる。
電脳の状態は安定を保っている。
草薙は電脳街で志川の脳に潜ったときに見つけたアドレスまで一気にジャンプする。
草薙の目の前に、断片化した記憶が浮遊していた。草薙の視覚野には、それらの断片は、ところどころが欠けた円形の二次平面状のインターフェースとして視認されていた。断片の端々から伸びる細い回線が、記憶野に張り巡らされた脳内のネットに届かずに中途で切れている。草薙はその断片の一つに手を伸ばす。実際に手を伸ばしたわけではない。電脳空間に投影された草薙自身の幻影である。
――これなら再生可能か。
手が断片に触れる。
断片が細かく震えた。断片から伸びた回線がその接続先を求めて動き出す。草薙が自分の身体からケーブルを取り出し、その一つを回線に接続すると断片の震えが止まり、断片の欠損部分が埋められていき、一つの円を形成していく。
断片が映像に形を変える。
『視覚野の記憶か?』
草薙がその映像を再生していく。
志川の感覚器官から取り込まれた情報が記録された記憶を電脳から検索し、記憶の断片から想定される予測記憶のエミュレートを同時に行い、視覚情報として投影させていく。
コマ落としのような再生速度だ。
関連性を持った記憶が次々と繋がれ、映像を構築していく。記憶の糸から|紡《つむ》ぎ出される心象と異なり、電脳に情報として記録蓄積された記憶である。
女が見えた。白いシャツの前をはだけ、|淫《いん》|猥《わい》な姿態でこちらを誘う。
『リアリティのない記憶ね』
志川という少年の生活状況から、こうした経験があったとは思えない。
『おそらく〈夢屋〉で売られている記憶ですな』
イシカワが答える。
『アダルト物なら、P2P系の取引でトレードされてるマニア向けの記憶でしょう。もともとは、電脳化の際に記憶の整理ができず、オーバーフローを引き起こしてしまう者を対象とした、記憶治療プログラムの一つだった。それがいつの間にか商売として成立してたってわけです』
『指向性の高い擬似記憶か』
草薙は、電脳に擬似記憶をインストールするのが|流《は》|行《や》ったことを思い出す。たしかデザイナーが作製した記憶の断片情報を脳の中で再生し、それを実体験として体感する娯楽だったはずだ。
悲しい、楽しい、恐ろしい――こうした感情が想起されるのは、ある情報にまつわる記憶の連鎖があるからだ。たとえば犬を見て恐怖を感じる人間がいたとする。それは、彼のなかで「犬」という情報が、「|噛《か》まれた」「|吠《ほ》えられた」などという恐怖の記憶と強固に結びついているからだ。もし、この「恐怖」を克服しようとするならば、「犬」という情報と、彼が体験した恐怖の記憶の間のリンクを切ってしまえばいい。逆に、犬に対する好意的な記憶を大量に注入し、新たに関連づけていくことで、今度は犬を見ると|嬉《うれ》しい、といった感情が引き出されてくるようになる。
このように、医療用に開発された記憶の誘導プログラムを応用して生み出されたのが、数々の擬似記憶作品だ。
人は夢を見るとき、〈忘却すべき記憶〉と、〈記録すべき記憶〉とを己の中で仕分けているという。この〈記録すべき記憶〉の中に、情報の断片を割り込ませることで、夢の内容を誘導することが可能になったのだ。
擬似記憶が映画などと異なるのは、同じプログラムでも、ユーザーの意思が介在することで、内容が変わっていくことだ。見るたびに違う結末を見せる夢は、新たな娯楽として、電脳化社会の中に受け入れられていった。
だが、感情を左右するほどの擬似記憶情報は、複雑なリンクを有するために、完全な形でネットに存在させることは難しかった。圧縮情報など、劣化した記憶のやり取りが関の山だ。
擬似記憶を収集するマニアたちの中には、より質の高い記憶を求めて、非圧縮の記憶情報をやり取りする者も現われた。だが、こうした行為は電脳硬化症を引き起こしやすく、リスクが高すぎる。
それなら、記憶箱などの外部記憶装置を電脳と有線接続することで、記憶野に直接働きかけるほうが、質の高い記憶を楽しむことができる。そのため、そうした記憶箱から擬似記憶を直接インストールすることを商売とする者が出始めたのである。
こうした擬似記憶を売買する人間は〈夢屋〉と呼ばれていた。
〈夢屋〉が現れ始めた頃は、物珍しさに飛びつく客も多かった。
だが、今では一部のマニアに支持されるだけの存在となり、その数自体も激減していた。
草薙は記憶の断片を再生し始める。連続した映像とならずに、時間軸でソートした静止画レベルでの再生でしかない。
平凡なアダルト系の視覚記憶が再生され続けていく。時折、他の感覚が刺激されることもあるが、大半が視覚記録だった。これは志川という少年の|嗜《し》|好《こう》の問題だろう。
『何だ?』
断片の色彩が変わる。
先のアダルト系とは異質のものだった。
雨の降る高層ビル群。
『イシカワ、該当する建築物の構成を検索』
『やってます。新浜の電脳街B4地区の高層ビル群です』
『画像が不安定だな。この辺の記憶は映像としての意味を保持しているな』
静止画が途切れ途切れだが、連続して繋がり始める。
断片化がそれほど進んでいない領域なのだろう。
不安定な映像だ。薬物か、それに類するプログラムが流し込まれているのか、|酪《めい》|酎《てい》感が認められる。
人通りの少ないビルの裏手。
ケーブルを中継する巨大なハブが壁面に設置されている。|蜘《く》|蛛《も》の巣の中心のような場所が映し出される。見上げているのか、下からの映像だった。
『ここは?』草薙がイシカワに確認する。
『ポイントの特定ができません。おそらく電脳街のネット・インフラの中継地点なんでしょうが、類似するポイントが多すぎます』
そのハブのある風景の前に誰かが立っている。
人物像全体に意図的に再生を|妨《さまた》げるように集中的なノイズが発生している。草薙は再構築の密度をその人物に集中させた。
ノイズが除去され、人物像が明確に現れてくる。それは少年の姿だった。
『志川と同じくらいの少女――いや、少年か』
中性的な、線の細そうな少年だった。
こちらに笑いかけているようにも見える。
その少年が手を差し仲べる。手には銃が握られていた。
志川が犯行に使ったS&Wチーフ・スペシャルと同じものだ。
グリップをこちらに向けている。攻撃の意思ではなく、銃そのものを志川に差し出している。
志川はその銃を受け取った。
草薙の右手に銃のグリップを握る感触と、その重みが情報として伝わる。
黒。
そこで映像がブラックアウトする。
「何かありましたか?」
イシカワが草薙を見ていた。
「イシカワ、再構築した映像に映っていた少年の素性を調べろ。未成年だ。厚労省から検索するのが早い」
「了解」
イシカワがネットに潜る。その検索状況がサブモニターに展開されていく。
この国に住む人間であれば、基本的に厚労省の保険関係のネットには登録されている。ただ密入国などにより、近年、未登録の子供たちも多く存在するのが現状だった。そうなると地道な捜査を展開する以外あり得なかった。だが、この記憶に映し出されていた外見、雰囲気をみると、下層から中層階級の一般家庭に暮らしている少年なのだろう。
サブモニターに映る少年の輪郭情報から検索をかけていく。成長の早い少年期にあるため、多少の顔かたちの変化を参考にいれての幅広い検索だ。目の位置、耳の位置、目の|虹《こう》|彩《さい》、鼻や唇の形状、|顎《あご》のラインなど、次から次へと、検索項目が絞り込まれていく。
「出ました」イシカワがダイブ端末を外す。
サブモニターに少年の顔が映し出される。
最新登録日が古いためか、幼い印象が漂う。だが顔かたちの特徴から、記憶に映った少年に間違いないだろう。
「この少年の詳細なデータは?」
「モニターに出します」
モニターの文字列が並んでいく
姓名・|逆見《さかみ》|悟《さとる》。二〇一四年六月三日生。二〇二四年一〇月二二日死亡。
「死亡?」草薙が検索内容をイシカワに確認する。
「ああ、死亡してる。死因は飛行機事故。確か、|札幌《サツポロ》発新浜行の定期便が台風の影響で墜落した事故があっただろう。あの事件の犠牲者だ」
「乗客百七十六名を乗せた定期便JNA123便が、連絡を断って六十分後に日本海に散らばる|残《ざん》|骸《がい》となった姿を、捜索中の自衛軍機が見つけた事故ね」
「機体トラブルの発生が事故原因とされた。だが航空会社はパイロットの操縦ミスや整備不良を認めず、天災によるトラブルを主張。遺族との賠償問題は平行線を|辿《たど》ったまま、じゃなかったか」
「それじゃ志川が見たこの少年は誰なのかしら」
「化けて出たのかな」
イシカワが肩を竦める。
「海岸に漂着した、搭乗していなかった等の現在も生存している可能性を含めて、この事故の記録を調べておいてもらえるかしら」
「それは構わんが――どこへ?」
草薙がコートを|翻《ひるがえ》し電算室を出て行こうとしていた。イシカワがその背中に声をかけた。
「新浜電脳街――あそこに何かがあるんでしょう」
[#改ページ]
5
すえた匂いが|風居《かぜい》の鼻を突く。
新浜電脳街の深層には、電脳化する前から何度も来ているというのに、この匂いにだけは|馴《な》|染《じ》めないと風居は思った。
通りの隅に|無精髭《ぶしようひげ》をだらしなく伸ばし、服も|垢《あか》で黒光りしているような中年の男が倒れている。生きているのか、死んでいるのか。だがそれは一つではなく、通りのそこかしこに見られる姿だった。路上だけでなく、ビルの側面を|這《は》うケーブルや、エアコンの室外機、非常階段の下などは夜露を|凌《しの》げる絶好のポイントだった。彼らはこの匂いを街の空気として受け入れている。
もうじき日が落ちる。
吐く息が白くなる。
高層化の進む電脳街の下層にあたるこの一帯は、ビルの谷底同然で、既に薄暗く、温度も下がり始めている。昨日降った雨がまだ路面に残っているため、普段よりも空気が冷ややかだ。
上層の街では電光掲示板や看板の明かりが|点《とも》り始め、下層の暗さがより密度を増す。
ここには活気などなかった。
ここにあるのは汚濁した現実と|混《こん》|沌《とん》だ。だからここに生きる人間はネットに希望を見出そうとするのだ。
自分もその一人なのだと風居は思う。
狭い通りの頭上を見上げると、細いケーブルがビルの間を幾重にも往復している。それぞれのビルにはセキュリティが機能しているはずなのだが、それでも全自動化の進むメンテナンス通路などに、電脳化した難民や浮浪者が棲みついてしまう。そうした者たちが、ネットと繋がるためにケーブルを分岐させているのだろう。
この街はネットに支配されている。
電脳なしにはまともな生活すら|叶《かな》わぬ構造になっているのだ。
電脳から出力される脳波の形状が、電脳の指紋ともいうべき〈電紋〉と呼称され、個人識別の際の判断材料にもされている。街に|溢《あふ》れるペーパーメディアは、暗号コードによるプリントが中心となり、文字媒体よりも多くの情報を紙面に圧縮して掲載している。それは電脳化していない人間には何の意味も成さない記号の羅列であった。そうやって世界の物ごとは、すべて数値によって置き換えられていくのだろう。記憶や事象だけでなく、感情や夢までも。
「どこ行くんだよ」
風居の後ろをついて歩く|竹河《たけがわ》が声をかけた。風居は振り向きもせずに答える。
「決めてない」
「だったらよ、〈夢屋〉行こうぜ、〈夢屋〉。こんなときは夢見て眠っちまうのが一番さ」
「夢か。あれ、あんまり合わないんだよな。なんか都合がよすぎて」
「そりゃ、擬似記憶だからな。お前、ホンバン、まだなんだろ?」
「ホンバン?」
「生だよ。生」
「違法だろ、それ」
「まあな」
竹河が風居の横まで走り、肩を組む。
「あんまりでかい声じゃ言えねえけど、デザイナーが作った擬似記憶なんて演出過剰で先が読めるもんがほとんどだろ。けどよ、ホンバンは他人の記憶を|覗《のぞ》くのと同じくらい剰激的なんだぜ。一回くらいやっとけよ」
「お前が行きたいだけなんだろ?」
風居が竹河に返す。竹河は笑って答える。
「何事も経験だよ、経験。電脳化して間もない風居君にはもう少し、いろんな経験させてあげたいんだよ。一つ年上の僕としてはサ」
「同じ学年のくせに」
「ま、ここは任せろって。それじゃ、いきますか」
竹河が風居の返事も聞かずに歩き始める。風居に異論はなかった。
普段行く道とは異なるほうへと竹河は足を運ぶ。風居はそれに黙ってついていく。
やがて戦時下の様相をそのままに残し、再開発から忘れ去られた街の一角が現れる。
そこにはスラム化した下層部分に生まれた、もう一つの電脳街の姿があった。
奥を見ると、ビルの壁面を這うケーブルが絡み合うように重なり、街に寄生するバラックの群れがあった。
|招慰《しようい》難民地区から抜け出してきた義体化難民などの人間が多く、海外から流入した不法滞在者も少なくない。警察が自らの安全を理由に積極的な介入を避けているため、違法業者が多数|軒《のき》を連ねており、それを求める人間たちもまた、数多くここを訪れる。電脳倫理法に抵触するような違法電脳ソフトは、ネットを介するのではなく、有線によるダウンロードという形で扱われている。
風居はここまで来たことがなかった。
雰囲気に呑まれ、風居は思わず足を止めた。
細い路地の両側のバラックに軒を連ねる店には、電脳に接続するための新旧さまざまなプラグやコネクタが並ぶ。中には風居が見たこともないような形状のものまである。また別の店には、義体の部品と思える義肢や義手がそのまま軒先から下がり、異様な雰囲気を漂わせている。
上を見ると、上層のビル郡は谷を形成する壁となって|聳《そび》え立つ。
夜空は、黒い線となってわずかに見えるだけだ。
空が遠かった。
ここは地の底なのだ。
上層の光がここまで届くことはない。
その光を少しでも吸い取ろうと、街のライフラインともいえるネットワーク・インフラのケーブルから違法に分配され、それぞれのバラックヘと延びていく細いケーブルが、網の目となり天を覆う。
思わず立ち止まった風居の肩を竹河がっつく。
竹河はさらに奥へと風居を導く。
そこは通りの突き当たりで、奥の壁に這ったケーブルが絡み合う様は、ビルの壁面にできた巨大な蜘蛛の巣のようでもあった。
電脳街に張り巡らされた神経ともいえるケーブルが集中する、街の脳殼ともいうべき場所だった。
「ここだ」
竹河が言った。風居は竹河が指差すバラックを見る。
鋼鉄の廃材を幾重にも|束《たば》ねて柱にし、重い鉄板の屋根を支えている。その屋根にはビルから延びる電源供給用の、子供の胴体ほどもあるケーブルがバラックの中へと引き込まれてい
る。バラックの周囲には用途不明の冷蔵庫ほどの大きさの機械が転がる。
「本当にこんなところでやってるのか?」
「営業中に見えないところがいいんだよ。違法物のホンバン扱ってて、壁に大きく〈ホンバンあります〉なんて書けるわけないだろ」
「そりゃそうだ」
「ま、百聞は一見に|如《し》かずさ。中はもう少しマシだよ」
そう言うと竹河は風居の背を押し、外に向けて開かれたドアからバラックの中へと押しやる。
だがバラックの中には、粗末な椅子と小型のテーブル、天井まで届く縦長のロッカー、そして中ほどが人の形に沈んだ寝台が並んでいるだけだった。テーブルの上には古ぼけた記憶箱が載せられている。
「おい――」
言ってることが違うだろ、と言いかけた風居を竹河は|遮《さえぎ》る。
「まあ、俺を信じろって」
そう言うと竹河は手馴れた様子でロッカーを開き、中からアイマスクを取り出し、風居にそれをつける。
「何するんだよ」
アイマスクを外そうとする風居を制して竹河が説明する。
「ここは秘密主義なんでな、ちょいと魔法をかけさせてもらうのさ。俺もお前と同じようにマスクをしてる」
「魔法?」
不意に別の男の声が聞こえる。
「心配することないよ。互いの安全を確保するために、必要以上にものを知らないほうがいいってこともあるのよ。わかる?」
よくわからなかったが風居はとりあえず|頷《うなず》く。一方的に目を隠された状況が不安だったのだ。
風居の手がいきなり握られる。分厚い手が、逃げ出せないほどの力で掴んでくる。
「さ、こっちへ」
|覚束《おぼつか》ない足取りで、手を引かれるままに風居は歩く。
冷えた空気が風居を包み込み、背中でバタンと何かが閉じる音がした。
不安にかられ手を伸ばすと、手に冷えたコンクリートらしい感触が伝わってくる。
そして何メートル歩いただろうか。特に階段も傾斜もなく、平坦なままの道が続いていた。
――あのバラックにこれだけの奥行きがあったのか?
そう風居が思ったとき、マスクを外していいと、男の声が言った。
最初に見えたのは壁一面に並べられたハイスペックの電脳機器類だった。一際大きく、配線が集中しているのがサーバーだろう。そこから延びたケーブルが部屋の中央に並べられた五台の寝台に繋がっている。それで部屋がいっぱいになっていた。熱対策のためだろう。空調が効きすぎて寒いくらいだ。
「あんた、初めてだな」
風居の下のほうから声が聞こえてきた。見ると腰の高さほどしかない小男が立っている。体のところどころに機械部品がむき出しになった箇所があり、明らかに義体とわかる外観をしていた。
小男が風居を|睨《にら》みつけるように見上げている。
「俺のダチだよ」と竹河が小男に説明する。すると小男が険しい表情を崩す。
「あんたの知り合いか。おかしな糸は|繋《つな》がってないよな」
「ああ。そんなやつ、俺が付き合うわけねえし。だからこんなとこ来るんだよ」
「そりゃそうだな」
小男が風居を見て、|下卑《げび》た笑みを浮かべる。
「おたく、ホンバン初めてだろ。ホンバンにはまると抜けらんなくなるぜ。そこらに出回ってる既製品なんかと違って、視聴覚情報だけじゃなく、触覚、味覚、嗅覚まで再現できる。臨場感が比べものにならん。客の中には視聴覚を切って触覚と嗅覚、味覚だけで楽しむマニアックなのもいるけどな。好みに合わせて多少のカスタマイズはできるが、望む夢とは限らんのがホンバンの特徴だ。さ、そこに横になって」
小男は風居を強引に寝台に横たわらせる。忙しく動き、寝台の下に設置された記憶箱からケーブルを引き出し、風居の後頭部に繋ごうとする。
「QRSプラグか。それも最新型だな、こりゃ。あんた、まだ電脳化して日が浅いね」
「浅いも何も、そいつはまだ電脳化したてさ。二週間と|経《た》っちゃいないよ」
風居が答える代わりに竹河が言った。ここは竹河に任せておけばいいか、と風居は静観することに決めた。
店主である小男と竹河がサーバーの前で話し込んでいる。どうせ下らないことなのだろう。きっと自分に見せる夢を選んでいるに違いない。竹河という男の性格から、まともなものは選んでこないと思うが、それはそれでいいと風居は思った。
市販されているような、単なる擬似記憶ならば風居は何度か体験したことがある。最初は十六歳の好奇心から、アダルト系のものだったのだが、風居の嗜好には合わなかった。自分の思い通りに進む展開に、違和感だけが先行し、どうしても夢に馴染めないのだった。
竹河が風居を呼んだ。
「準備できたぜ」
「何を見せるつもりなんだ?」
「とっておきのホンバンさ。俺が選んだスペシャル・ドリームってやつだ」
そういって有線コネクタを風居に差し出す。風居はそれを受け取り、首の後ろのプラグに|挿《さ》し込む。
電脳内に外部記憶との接続を示すシグナルが表示され、記憶野に圧縮情報が流れ込む。
「風居。記憶が落とし込まれたら、あとはこいつをつけてそのまま寝てな。流し込んだ記憶をお前の電脳に適合させるパッチを流し込むから」
竹河が寝台の枕元に掛けられていたヘッドギアを風居に渡す。頭をすっぽりと覆う、ヘルメットのようなもので、目までが隠れることになる。睡眠状態を誘発し、電脳の周波数や電圧を調整する補助器具だ。これは通常の〈夢屋〉でも使われているものだった。これを装着したときの、頭の中を手で|撫《な》でられるような感触が苦手だった。
ヘッドギアを被ると視界が暗黒で覆われる。同時に霧が頭部全体を包み込み、五感が鈍くなっていくのを感じる。睡眠誘導プログラムだろう。適度に浅く、夢を見やすいREM睡眠状態を意図的に作り出すのである。それも快適な睡眠を、だ。
頭脳は明確に動いている。身体だけが動かない。昔からこの国で言われる金縛りの状態なのだろう。
暗闇だ。
それが突然、映像に切り替わる。
昼日中の公園だろうか。
空を見上げていた。
次に緑色の芝生が目に飛び込んでくる。それ以外の光景はモノクロだった。
視線の先に芝生に横たわる女の姿がある。三十を目の前にした女だろうか。白いカッターシャツを着ている。その胸元が大きく開かれ、豊かな|膨《ふく》らみが女が動くたびに揺れる。
黒いタイトスカートのスリットは深く、透き通るほどに白い|太《ふと》|腿《もも》が対照的に覗いていた。
その女が髪を|掻《か》きあげ、手招く。
意思とは関係なしに、女に近づき、胸へと顔を埋めていく。
女に頭を抱かれる感触があった。
女の体臭がした。甘い匂いだった。
そこで記憶が跳んだ。
記憶の再生ではありがちなことだ。
先程の女がしどけない姿でベッドに横たわっている。汗ばんだ肌に間接照明が映りこむ。体の隆起が濃い影を落とす。
胸に、腕に、脚にと、女の体温を感じる。女に抱かれているのだと風居は感じ、自らの|動《どう》|悸《き》が早まるのを自覚する。
そしてまた記憶が跳ぶ。
|轟音《ごうおん》が耳を打つ。
正確に音が聞こえたわけではない。これは聴覚を通して聞こえた音の記憶だと風居は感じていた。
何も見えない。
そこは暗闇だった。
次に猛烈な熱さが触覚を刺激する。
熱い。
これは何なのか。
風居は恐怖する。
声が聞こえてきた。
――落ちる!
声はそう叫んでいた。
この夢は何だ。被虐嗜好の人間が経験した記憶なのか。
突然、大勢の人間の|叫《きよう》|喚《かん》が耳に飛び込む。
何が起きたのか、確かめようにも、
右側で乾いた音が響いた。
映像が右を向いた。
見ると、隣のシートに座っていた女の目がこちらを向いている。焦点が合っていない。
――母さん。
記憶の主はその女を母と感じていた。
その母の額には黒い穴があき、そこから赤い血が流れ出ている。先程まで母だったものは今は死体でしかない。
――これは一体何だ?
風居自身には状況が把握できない。何が起きているのかさえも。
突然、白い光に包まれる。
何かが見えたような気がした。
そして猛烈な熱さ。肌が焼かれる。脳にその感触が伝わる。
「――!」
風居は叫んだ。だがそれは声にならない。ただ、そのままの勢いでヘッドギアを|毟《むし》り取り、上体を跳ね起こす。首の後ろに繋がったケーブルが勢いで外れていく。
|喘《あえ》ぎながら肩で大きく息をする。その呼吸音が部屋に響き、耳に届き始める。
風居は、ようやく自分の状態に気づき、冷静に自分自身を観察し始める。
額から流れる汗が|顎《あご》を伝い、|滴《したた》り落ち、一つ、二つと服の布地に吸い込まれていく。
体中が|脂汗《あぶらあせ》で湿っていた。
部屋の冷気が痛い。
「どうした。そんなによかったのか?」
風居がゆっくりと顔を上げると、自分を覗き込む竹河の顔があった。
「え?」
「この前、俺も使ったんだけど、ありゃあ一回見ただけでしばらく後引くからなあ。部屋に帰っても、きっとまた夢に見ちまうぜ。ホンバンのいいところは、他人の記憶を自分で体験したように感じられるとこなんだよなあ」
「――どういうことなんだ?」
「どういうことって?」
説明しようとした夢の記憶が薄らいでいく。記憶の糸を繋ぎ、消えそうになる『何か』を必死に紡いでいく。あれは何だったのか。そう、確か――。
「あいつは、誰だ?」
「あいつ?」
「出てきたんだよ、俺たちと同じくらいの年齢で、顔はよくわからなかったけど――そう、俺はそいつを知ってるんだ」
「そんな奴、出てきたかな。あるとすればお前の記憶の混乱だよ」
「あ?」
「俺が選んだのは『女教師の課外授業』ってやつだぜ。俺らと同じ年の奴に手取り足取り、あっちの授業教えるってやつさ。その相手役ってのが、たまたま、お前の知ってる奴だっただけじゃねえの?」
「そうなのか――」
「ああ。でも相手役の記憶だから、他に男なんか出てこねえはずだけど。もしかしたら混ざり物なのかもな」
竹河が小男を見る。小男が憤慨して言った。
「そんなことあるか。俺のプライドに|賭《か》けても、混ざり物なんてことねえよ。お前が見た後、誰も使ってねえよ。記憶箱も記憶を落とすごとにフォーマットかけ直して真っ白に戻してるんだ。ゴミなんか残りやしねえよ。この兄ちゃんの電脳にゴミがあるんじゃねえのか?」
「風居の電脳はまだ使って二週間だぜ。そんなゴミなんか入る余地ねえよ。なあ」
返事をする気力はなかった。
あれは電脳に残された記憶情報のゴミなのだろうか。記憶情報に残るゴミは断片的なものであり、いずれ劣化し、忘却の海へと沈められていく。
だがあれだけ鮮明なゴミが存在するのだろうか。
風居自身、割り切れない何かを感じていた。そしてあの夢を見た瞬間から、電脳全体が何かに包まれたような感覚があった。これもあの夢のせいなのだろうか。
風居は自分自身に問い返す。
――一体、俺は何を見たんだ?
[#改ページ]
6
その車がニューポートシティ・ホテルの駐車場に入れられてから既に二時間が経過していた。ドライバーが戻ってくる気配はない。黒塗りの高級セダンだ。
「あっちの車のほうが居心地よさそうだな」
トグサがやや離れた駐車スペースに停めたランチャ・ストラトスの助手席で|愚《ぐ》|痴《ち》をこぽす。
「何なら乗り換えてくるか?」
運転席に座ったバトーがハンドルに両手と|顎《あご》を乗せ、フロントガラス越しに前方に視線を配る。その目に|嵌《は》まったレンズは黒塗りのセダンを捉えたままだ。
トグサが、そんなバトーの横顔には目もくれず、手元に広げた資料を見ながら、|冷《さ》め切った缶コーヒーを一ロ|啜《すす》る。
「柔らかすぎるソファじゃ、眠くなりそうで張り込みには不向きだろ。張り込みには狭くて硬いシートがぴったりさ」
トグサはランチャのコクピットに納められたレカロのバケットシートをぽんと叩く。
「刑事上がりは|贅沢《ぜいたく》で困るぜ」
バトーがトグサを見てぽやく。
「装備品にケチつけて、自分専用にカスタマイズした銃を持ってる軍隊上がりが贅沢じゃないとでも?」
「趣味で|骨董品《こつとうひん》ぶら下げてるお前さんに言われたかぁないね」
「実益も兼ねてるさ」
「たった六発で背中を守られる身にもなれよ」
「だったら旦那が俺の背中を守るかい?」
「十年早えよ。新米が」
公安9諜のメンバーのほとんどが軍隊経験者であった。その中でトグサだけが刑事上がりという異色の存在だった。
部隊が一つの方向に硬化することを回避するために、トグサのような人間を編入した、と草薙が言っていたのをバトーは思い返す。
バトー自身から見れば頼りない新米だが、自分にはない何かがあるからこそ、こうした危険と隣り合わせの任務にも就いているのだろう。バトーは電脳内にインターフェースを展開し、任務内容を確認する。
ナジフ=オスマル氏暗殺を|目《もく》|論《ろ》む国際的麻薬密売グループである〈赤い砂〉が、暗殺用の武器購入のため、国内のブラックマーケットを掌握している|佐《さ》|渡《ど》|山《やま》会と接触したという情報を、公安9課は掴んでいた。
バトーとトグサは、佐渡山会の会長である佐渡山|真嗣《まさつぐ》への二十四時間の行確に入っていた。
〈赤い砂〉へと渡る武器の全容を掴むための作戦であった。
事前情報から考慮するならば、既に佐渡山会から〈赤い砂〉に暗殺に必要な武器が渡される段取りはついている。おそらく一両日中に大量の武器が〈赤い砂〉へと引き渡されるのだろう。
暗殺を阻止するためには、佐渡山から〈赤い砂〉への武器供給の線を断ち切っておくのが最も効率のいいやり方なのだ。
そのための佐渡山拘束だった。
『佐渡山がロビーから地下駐車場行きのエレベータに乗った。ボディガードは二名』
ホテルのロビーで張り込んでいるパズから電通が入る。
バトーがルームミラー越しにエレベータを見ると、ロビーから地下6階の駐車場まで天井近くのエレベータ・ランプが移動し、そして止まったところだった。
エレベータのドアが開く。
「旦那、出てきたぜ」と後方を見て、トグサがランチャのドアに手をかける。
「まだだ」
バトーがトグサを制する。
ルームミラー越しに後方を見ると、十五メートルほど後ろの駐車場とロビーとを繋ぐエレベータから佐渡山が降りてくるのが見える。周囲を警戒するようにボディガードの男が二人、佐渡山の両脇を固めている。一人はニメートルを超える大男、もう一人はビヤ樽のような体型をした男で、二人とも黒いスーツ姿だ。
おそらく違法改造された高出力義体なのだろう。バトーがにやり、と暴力的な笑みを浮かべる。
「遠慮はいらねえな」
バトーが手にスタン・ナックルを装着する。
|拳《こぶし》の部分には、殴った相手に瞬時に四十万ボルトの超高圧電流を流すための電極がつけられていた。体の制御を電気的な信号に頼る義体サイボーグはもちろん、生身の人間にも大きなダメージを与える近接格闘用武器の一つである。
バトーはスタン・ナックルの電圧調整用のボリュームを最大まで回す。
「お前は右のビヤ樽を押さえろ。俺は左の大男と佐渡山を押さえる」
「俺が二人を相手してやろうか」
「生意気言うんじゃねえよ、新米」
佐渡山たちが柱の陰になり、こちらの姿が見えなくなったところでバトーがランチャを降りて飛び出した。
「新米じゃないっての」
トグサがスタン・ナックルをつけて後に続く。
風を巻いてバトーが佐渡山との距離を一息に詰める。
大男がバトーに気づいた。
違法改造した高出力義体がバトーに向けて凶悪な拳を突き出してくる。
バトーはそれをわずかに身をよじって|躱《かわ》す。
風圧がバトーの体を押し戻す。
バトーは、そのままの姿勢から、カウンターで大男の腹部に、ボルテージを最大まで上げたスタン・ナックルを叩き込む。
激しい打撃音と共に、男のボディが地面から浮き上がる。
瞬間、青白い火花が、男の背中から突き抜けた。
男はバトーの体に寄り掛かるように倒れこみ、バトーがそれをよけると、そのままコンクリートの床と激しいキスを交わす。
体から白い煙が立ち上ると、大男はそのままぴくりとも動かなくなる。
バトーが佐渡山を振り返る。
佐渡山の手が上着の|懐《ふところ》の中に入るのが見えた。
舌打ち一つ、バトーが身を沈める。
すると先ほどまでバトーの頭があったあたりを銃弾が飛んでいき、後方のコンクリートの柱にヒットマークを刻み込む。
バトーは低い姿勢のまま前へと転がり、佐渡山との距離を詰めた。
逆立ちの要領で腕を軸に体を伸ばし、下から佐渡山の銃を持った腕を|蹴《け》り上げる。
「ぐぁ!」
ぐしゃり、という嫌な音と共に、佐渡山の腕が半ばほどからへし折れる。だが佐渡山は残ったもう一方の手でバトーの頭を狙う。指の先が開き、接触性の雷管が覗く。バトーは身をよじってこれを|躱《かわ》す。
佐渡山の左手がコンクリートの床面に触れると、その箇所が爆発音と共に大きく|抉《えぐ》れた。
佐渡山の左腕の手首から先が消えていた。
バトーは素早く佐渡山の背後に回ると、佐渡山に向けて腰から抜いたFNハイパワーを突きつける。
「危ねえな、まったく」
そう言いながら、バトーは佐渡山の首のプラグに電脳錠をぶち込む。
「ぅわ!」
トグサの声にバトーが振り返ると、ビヤ樽との格闘の真っ最中だった。
「何やってやがる」
バトーのぼやきにトグサは応える余裕がない。
激しい暴力の応酬が展開されていた。
トグサの一撃がビヤ樽のボディにヒットし青白い光を上げた。
ビヤ樽はそれをものともせず、トグサに向けて右腕を振り下ろす。
トグサは間一髪のところでそれを躾す。
トグサの頬がざっくりと切れていた。
赤い血がトグサの頬から顎へと伝わり、|雫《しずく》となって地面を赤く|濡《ぬ》らす。
トグサが見ると、ビヤ樽の右腕から鋭い刃先が覗いていた。暗器の一種なのだろう。
鈍そうな義体の割に動きに無駄がない。
「あっちが当たりか」
バトーが|呟《つぶや》いた。
ビヤ樽の右腕が、トグサに向けて鋭く突き出される。
トグサがビヤ樽の|凶刃《きようじん》を身を沈めて躱す。
だがビヤ樽の短い脚が小器用に回転し、トグサの脚を払った。
トグサが大きくバランスを崩し、背中から床に叩きつけられる。
「ぐう!」
トグサの口から、肺の中の空気が一気に吐き出される。
苦悶に|歪《ゆが》む表情でトグサが見上げると、ビヤ樽の歪んだ笑みが見えた。
トグサが腰のマテバM2008を素早く引き抜く。
だがビヤ樽の動きが早かった。
ポイントし、トリガーを引く寸前でトグサの手が蹴り上げられ、マテバが床をすべる。
ビヤ樽の凶刃が振り上げられた。
「!」
躱せない。そう覚悟したトグサが目を閉じた。
トグサの脳裏に家で待つ妻子の顔が浮かんだ。
そのとき、乾いた銃声が駐車場内に響いて、その幻影を打ち破る。
見るとビヤ樽の頭が消えてなくなっていた。
ビヤ樽はそのまま横に転がると、起き上がることは二度となかった。
バトーを見ると、FNハイパワーから青白い硝煙が立ち上っている。
「貸しにしといてやるよ」
バトーはホルスターにFNハイパワーを仕舞いながら、トグサに手を差し仲べた。
トグサはその手を払い、|憮《ぶ》|然《ぜん》とした表情で起き上がる。
バトーは肩を|竦《すく》め、床に転がるマテバを拾い上げるトグサに声をかけた。
「お前のほうが当たり引いちまったようだな」
「ああ」トグサが力ない声で返す。
「死神に会っちまったって面だぜ」
「かみさんと子供の顔が浮かんだんだ」
「家族持ちの|辛《つら》いところだな」
「だから頑張れるときもあるんだけどな。こういうときは、さすがに|堪《こた》える」
「これからもそんなことだらけさ。頭切り替えて、佐渡山を9課に運ぶぞ」
バトーが電通で本部に連絡を入れる。
『バトーだ。対象を押さえた。車、回してくれ』
『了解。二分で向かう』
ホテルの周囲を流していた公安9課の仲間であるサイトーが応答する。
バトーは佐渡山たちが乗ってきた高級セダンの周囲を注意深く回り、床に|這《は》うようにして車体の下部も覗き込み、そのまま潜り込む。
そこにトグサがやって来て、バトーに声をかける。
「なあ、旦那。こいつら、この車で9課まで運んじまったほうが早いんじゃないの?」
車体下部からバトーが答える。
「ああ、それなら楽なんだが、この手の仕事は慎重すぎるくらいで丁度いいのさ」
「慎重ね。情報握ってるやつを|拉《ら》|致《ち》ろってのが慎重な人間のやることなのかね」
「ときには大胆にってのを付け加えといてくれ。――ほれ、あった」
バトーが車体の下から這い出てきて、トグサの手に何かを乗せる。
小型の発信機だった。
「結構、わかりにくいところにあったぜ。おそらく車体バラさねえとわからねえようなところにも、仕掛けられてるだろうな。予定通り、この車は別の使い方をするさ」
「別の?」
そこに|滑《すべ》るように一台のバンが入ってくる。『青心工機』と後部に書かれた業者用のバンだった。バンはバトーとトグサのいる横手にぴたりと停まる。
運転席からサイトーが顔を覗かせた。片目を黒い眼帯で覆った、坊主頭の|強《こわ》|面《もて》の男だ。どう見てもその筋の者にしか見えない。
「待たせたな」
「何、一分四十七秒だ。悪いタイムじゃねえさ」
後部の両開きのドアが開かれ、バトー同様、目にレンズを嵌めた坊主頭の大男と、中肉中背の目つきの悪い狐目の男が降りてくる。大男がボーマ、そして狐目がパズと言う。
サイトー、ボーマ、パズすべてが公安9課の隊員だった。ボーマがバンを降りるなり、床に転がったままの大男と、頭を吹き飛ばされたビヤ樽の腰のあたりを両手で掴み、床を引き摺《ず》って高級セダンヘと運んでいく。
サイトーがバトーから佐渡山を受け取り、バンの後部に押し込む。バトーは高級セダンを見ながらパズに言った。
「案の定、発信機だらけだ」
「わかった」
ボーマが高級ワゴンのドアの|鍵《かぎ》|穴《あな》にコネクタを差し込むと、カチリと音を立ててドアの鍵が開く。ドアを開け、大男とビヤ樽を後部シートに投げ入れる。
「車とガードの二人は適当に流した後、処分しておく」
そう言ってパズとボーマは高級セダンに乗り込み、駐車場から走り去っていった。
「そんじゃ俺らも9課に戻って一仕事するかね」
バトーはそう言うと佐渡山を乗せたバンの後部ドアを閉めた。
[#改ページ]
7
人質立て|籠《こ》もり事件のあった電脳街の大型家電専門店は、三日前の事件などなかったかのように、日常を取り戻していた。
ただ、床を|穿《うが》ったライフル・マークの上には、小振りな板で目張りがしてあり、その周囲は光沢を放つ養生テープで|留《と》められていた。テープの端は多くの客が通り過ぎていったために、既にめくれ上がって汚れていた。
そこで何かあったかなど、その瞬間を通り過ぎれば過去のものとなっていく。
リアルタイムで事件を感じていないものにとって、メディアが伝える事後情報などすべてが絵空事として捉えられ、その時間を過ぎれば、記憶の中から次第に消去されていく。
この事件もそうなのだろう。
|草薙《くさなぎ》は事件の名残を見ながら、|志川《しかわ》が事件に移るまでの行動をプロファイルしていく。
まずは動機だった。
草薙が調べた限り、志川|久光《ひさみつ》の育った環境には何の問題も見られなかった。
今の時代ならどこにでもいる内向的なネット・マニアの少年だった。
法に触れそうな行動があるとするならば、違法プログラムを使用したアダルト映像の収集程度のものだった。こうした行動で、注意や警告を受けることはあるかもしれないが、逮捕にまで至るような事例はあまり聞いたことがなかった。
ログを見ても、C4爆弾で無差別テロを引き起こそうとするだけの情報収集などを特に行った様子は見られなかった。
彼の周囲を取り巻く環境にも、反体制の学生運動に加入しているような|輩《やから》は特に見受けられない。
終戦後、社会や経済の復興に伴い、強硬な政治姿勢が貫かれることがたびたびあり、その都度、反体制を叫ぶ声があがり、各地で暴動などが起こった。そうした運動は、多感で、生きることに意義を見出そうと迷走する十代の青少年たちに大きな影響を与えていた。体制を打破しようと叫ぶ声に、心|躍《おど》ることもあるだろう。何かをぶち壊す様が意味もなく格好のいいものに思えているのだ。あらゆることに反抗することが、生きているすべての意味でもあったのかもしれない。
草薙は、そう推理することしか、できない。
自らの体験に|準《なぞら》えることはできなかった。
草薙にそうした十代はなかったからだ。
六歳で全身を義体化して以来、特殊な状況下での生き方を強要されてきた。
思い通りにならなかったのは、周囲を取り巻く状況以前に、もっと身近なことだった。義体となった全身そのものが思い通りに動かず、草薙自身の前に立ちはだかる。そして思考を|司《つかさど》る脳も電脳化を余儀なくされ、自らの身体すべてが|抗《あらが》うべき対象となったのだ。
毎日が戦いだった。
戦うべき相手のない状況で生まれ育ち、抗うべき、かりそめの存在を自ら見出さなければならない十代を、理解することはできない。ただ純粋なまでに信念に|殉《じゆん》じようとする、青臭さを感じる姿勢には、共感できるものがあった。
公安9課そのものが、そうした存在だからなのかもしれない。
だが事件を起こした少年たちが共通して所属している組織といえば、国の教育機関しかなかった。再度、教育プログラムを洗ってみるのが賢明か――。
とにかく手がかりが少なすぎる。
今、手元にあるものといえば、あの断片化した記憶に映る少年の姿だけだった。
「お前は何者だ?」
草薙は思わず言葉を口に出す。
不意に電通が飛び込んできた。
『よう、少佐。ブルーな波形が出ているぜ』
『バトーか。何の用だ?』
『こっちで押さえた|佐渡山《さどやま》会の佐渡山なんだが、妙なことを言ってたんで教えといたほうがいいと思ってな』
『妙なこと?』
『佐渡山会が扱ってきたブラック・マーケットの商品は〈北〉や、大陸を通じて流れてくるのがほとんどだ。だがその中に、面白いものがあったぜ』
『面白いもの?』
『ああ。戦時中の話になるが、〈北〉の電脳化部隊が軍隊の統制を取るために教育課程で使用していた〈兵錬学習装置〉さ』
『聞いたことがある。軍を完全なる隊として成立させるために、個人個人の意識の中に統一された意識を植え込む教育装置。聞こえはいいが言ってしまえばただの洗脳装置だったはずだ。それが国内に?』
『その通りさ。あれをやられた奴は、特に自分では意識していないにも|拘《かか》わらず、自らの意思のように目的に対して従順になっていく。非人道的なんで、表向き、その存在は公表されてないがな』
草薙の中で点と点とが繋がり始める。
『バトー、その洗脳装置はどこで取引されてる?』
『|小松《コマツ》だ』
『小松?』
『空自の小松基地がある小松さ。佐渡山が〈赤い砂〉から依頼された武器ってのがこいつなんだそうだ』
『他には?』
『佐渡山の記憶を信じる限りじゃ、今のところ、こいつだけさ』
『洗脳装置でナジフ氏を洗脳でもするつもりかしら』
『さあな。そいつを確かめに、俺とトグサで小松に飛ぶ。佐渡山がこっちにいると〈赤い砂〉が知ったら、強硬策に出ないとも限らんしな。おそらく他の武器もあるんだろうが、その前にそいつをかっさらってくるさ。どうだい、役に立つ情報だったろ?』
『そうね。あなたにしては気が|利《き》いてるわ』
『俺はいつだって気が利いてるさ。じゃあな』
バトーからの電通が切れると、草薙はイシカワに電通を入れた。
『イシカワ、草薙だ。〈北〉製の洗脳装置を知っているか?』
『バトーから聞いてます。今、資料を|揃《そろ》えているところですが、こいつはかなり旧式の|代《しろ》|物《もの》ですな。トリガーとなる目的を、記憶野に暗号化して埋没させ、それを感覚器官が感知する事で、命令が本人の意思とは無関係に強制的に実行される仕掛けです』
『暗号のパターンは解析可能か?』
『当時のキー・コードさえ拾えればなんとかなるでしょうな。時間はかかりますが、やってみます』
電通が切れる。
草薙は大型家電専門店の前を離れ、電脳街の大通りに沿ってゆっくりと歩き始めた。
歩きながら思考を|纏《まと》め上げていく。路面を叩く靴音が一定のリズムを打ち出し、街のノイズを消していく。
小松で洗脳装置を手にいれた男が、この〈目覚しテロ〉事件の鍵となる男に違いない。だが〈目覚しテロ〉事件の発生状況を見る限りにおいては、事件が起きた場所は、|博多《ハカタ》を含めて九州圏で三件、|新浜《ニイハマ》とその周囲の圏内で六件、他、地方圏で四件とバラつきがあった。
拠点を特定させないためにも移動しながら犯行に及んでいるという可能性も捨てきれないではないが、あまりにも意味がなかった。
拠点を特定させたくないのであれば、もう少し移動が頻繁に行われてもいいはずなのだ。
それにこのテロの最終目的は何なのか。
テロを起こしそうなグループから声明文が出されたという情報はなかった。
テロの標的とされるイベントがあるとするならば、今は博多で行われるマイクロマシン環境サミットをおいて他に該当しそうなものはない。
だが事件自体は、三年前が最初のはずだった。
事件ごとにアピールも、対象も違っている。
事件を引き起こした少年たちにも横の繋がりがない。
〈笑い男〉事件のように模倣者たちが引き起こしたものなのだろうか。
だが〈目覚しテロ〉には模倣するような最初の事件が存在してはいない。
共通しているのは、事件後、保護された少年の記憶の一部が同じように断片化しているという点だけなのだ。
そうしたウィルスをネットに流した愉快犯の|仕《し》|業《わざ》なのか。だが赤服たち鑑識からは、ウィルス感染の可能性は低いという報告があがっていた。
この犯行には、もう少し違う何かがあるような気がする。草薙はそう感じていた。
新浜電脳街人目のアーケードに差しかかったところで、草薙は足を止める。
目の前を歩いてくる少年に見覚えがあった。
二人連れで、一人が肩を|担《かつ》がれて歩いてくる。その肩を借りているほうは確か――。
少年のほうも、草薙に気づいたようだった。
「新浜陸上自衛軍少年工科学校の|風《かぜ》|居《い》|曜《よう》か。ここで何をしている?」
風居は足を止めた。
「いえ……別に」
「顔色が悪いようだが?」
「何ともないです」
風居の態度に何かある、と草薙は感じていた。
風居に肩を貸していた男が風居に問う。
「なあ、風居。この女、誰よ?」
「志川の事件を調べに来た女刑事だよ」
「ああ、志川のところに来た女刑事さんかぁ。俺たち、何にも悪いことしてませんよ」
「お前は?」
「|竹河《たけがわ》です。こいつの友人です」
軽い男だと、草薙は思った。
念のため、新浜陸上自衛軍少年工科学校の学生名簿をネットから検索する。
竹河|朝治《ともはる》。十七歳。一年留年。
年齢的には風居や志川よりも一つ上だが、出席日数が足りなかったために留年していた。素行に問題あり、という評価が下されていた。風居とは同じクラスで、寮は隣部屋らしい。
おそらく志川との交流はないだろう。
この二人は、どちらかといえば志川とは反対側に位置する少年たちに見える。だが、同じ世代の少年である以上、何かしら共通の接点が見出せるかもしれない。
「お前たちはこのあたりによく来るのか?」
草薙の問いに答えたのは、案の定、竹河だった。
「いえね、刑事さん。僕たち、健全な学生なんですよ。さすがに工科学校在学なんで、電脳街に興味がないって言ったら嘘になりますけど。まあ、電脳街で遊ぶところっていったら、ネットゲームやネットチャットぐらい。あとは〈夢屋〉くらいっすよ」
「〈夢屋〉か。確か擬似記憶を体感させるソフトだったな。一昔前に流行って、今は|廃《すた》れたと聞いていたが」
「ネットムービーよりは面自いっすよ。電脳街探せば〈夢屋〉なんか幾らでもあります」
「竹河」
風居が竹河に声をかけ、立ち去ろうとする。だが足元が定まらないのか、|蹟《つまず》き転んでしまう。
「くそっ」
「ほら、まだ夢酔いしてんだから無理すんなよ」
竹河が風居に肩を貸す。そして肩越しに草薙を振り返る。
「そんじゃ刑事さん、縁があったら今度は二人きりでお願いしまーす」
二人が去った後、草薙は電脳街にある〈夢屋〉をネットから検索し始める。
竹河という少年の言うように、陸上自衛軍少年工科学校の生徒たちの趣味、嗜好というものがある程度の偏重傾向にあるとするなら、その方向から志川の活動範囲を限定できるはずだった。草薙たち社会人層から見た〈夢屋〉というのは、流行遅れに感じるものの、今の十代の少年たちには目新しい娯楽の一つとして受け入れられているのかもしれない。
「捜査範囲を垂直方向に広げてみるか」
草薙はそう呟くと電脳街の深部へと足を向けた。
[#改ページ]
8
「お前さ、さっきから変だぜ」
竹河はフェンスを乗り越えながら、フェンスの手前で待つ風居に言った。
新浜陸上自衛軍少年工科学校の門限はとうに過ぎていた。風居が〈夢屋〉で体調を崩し、休んでいたためだった。
「ほら」
|竹河《たけがわ》はフェンスの上から下にいる風居に手を差し出す。風居がその手を掴むと軽々と引き上げられる。
「軽いな、お前」
フェンスを乗り越えると、風居は竹河の手を払う。
「なんだよ」
「ほっとけよ」
風居が先に立って歩きだす。
「おい、そっちやばいって」
「何が――」
風居が竹河を振り返ったとき、風居の後ろから声がかけられる。
「風居|曜《よう》、あぁむ。やっぱりお前か」
振り返ると学生寮の寮長が立っていた。
「前々から怪しいと思っていたが――あぁむ、志川もお前に影響されて、あぁむ、あんなことしたんじゃないのかね?」
――俺が?
風居が寮長を見返す。
「なんだね、その目は。あぁむ、お前のような前科持ちがいられるのはここぐらいしかないんだぞ。あぁむ、ここを出ても、お前ら未成年者は救済施設に強制収容されるか、あぁむ、路上で生活するかのどちらかなんだぞ。あぁむ、それがわかっとるのかね」
風居の意識が白く飛ぶ。
次の瞬間、遠くで竹河の声が聞こえたような気がした。
|拳《こぶし》が熟い。
気がつくと、目の前で寮長が、大の字に倒れていた。鼻から血が流れ、こけた頬を伝い、地面に黒い染みが広がっていく。
倒れた寮長の横に竹河が歩み寄り、|屈《かが》み込んで顔を|覗《のぞ》き込む。
「あーあ、やっちまったなぁ」
そう言って風居の顔を見る。
「まあ、あれだけ言われりゃ、手も出るけどな。このままほっといても敷地内だ。死にはしねぇだろ」
風居は、ようやく自分が何をしたのか理解した。
肩にぽんと手が置かれる。
風居は思わず、その手を振り払う。見ると、驚いた竹河の顔があった。
「なんだよ、人が心配してやってるってのに」
「ほっといてくれよっ」
「なんだよ、むかつくなあ。お前さ、自分の置かれてる立場考えてみろよ。寮長殴ったら、よくて謹慎、悪けりや退学。お前、行くところないんだろ。だったら明日にでも謝って、謹慎に|留《とど》めてもらえるように――」
「お前に俺がわかるわけないだろ」
風居は竹河の言葉を|遮《さえぎ》り強く拒絶し、竹河と大の字に伸びている寮長を置き捨てて、その場を立ち去った。
部屋に戻るなり、明かりも|点《つ》けずに風居はベッドに横たわり、天井をただじっと見つめる。
――最悪だ。
この|苛立《いらだ》ちの原因が何なのか、わからないでいた。
夢酔いのせいで気分が悪いからそうなるのか。
竹河の馴れ馴れしさがそう思わせるのか。
寮長の威張りくさった態度に腹が立つのか。
電脳街で、あの女刑事に会ってしまったことが原因なのか。
電脳化に適応できなかった自分の過去が、そう思わせるのか。
|沸々《ふつふつ》と|沸《ふ》きだす感情に風居は|身《み》|悶《もだ》える。
消えてしまいたい。
風居はそう思う。
目に飛び込むすべての視覚情報が邪魔だった。
耳に飛び込むすべての聴覚情報が邪魔だった。
匂いも、味も、触感も、すべてが今の自分には必要ないものだった。
目を閉じてみる。
耳を|塞《ふさ》いでみる。
息を止めてみる。
電脳を操作し、感覚器官を閉ざす機能があることは知っている。だがそれをしたことは一度もなかった。義体ならまだしも、生身でそれをやることは、生体機能に異常を|来《きた》す可能性があると電脳化の際に医師に警告されていた。
今、風居はそれを意図的に試みようとしていた。感覚器官が閉ざされなくとも、せめて最低限度のレベルまで鈍化し、|麻《ま》|痺《ひ》してくれれば、それでいい――。
心を閉ざしてしまいたかった。
風居は電脳から感覚神経のボリュームを絞るイメージを思い描く。
次第にすべての器官が|痺《しび》れるようで、どこか深いところに体が沈んでいく感覚があった。
どこまでも沈んでいく感覚。
ひたすら深い海の底へと沈んでいく――そうした感触に似ていると思った。事実、そうしたことを体感したことはないのだが、なぜかそう思うことで納得できたのだ。
二度と浮かび上がれないような恐怖が訪れ、そこでボリュームを絞るのを|止《や》めた。
代わりに頭の中に思い浮かんだのは、夢の中に現れた少年だった。
確かに、あの少年だった。
そう風居は確信していた。
少年は風居に手を差し伸べている。手を伸ばせばすぐにでも届きそうに思えた。
少年のいる世界が|眩《まぶ》しく感じられる。堅く目を閉じているのに、さらに目を閉じようとする。|瞼《まぶた》に力が入り、|眉《み》|間《けん》に痛みを覚える。
これは夢なのだ。記憶の中の心象にすぎないのだ――と風居の理性が叫ぶ。
だがあの世界に行きたいと、風居の意識が叫んでいた。
風居はどこかでこうした体験をした記憶があるのを感じていた。
届きそうで届かないもの。
自分の記憶の底に沈めてあるはずの記憶が浮上し始める。
――ああ、これはあのときの校庭に似ているんだ。
それは風居が八歳のときだった。
電脳診断において、電脳不適応と認定されたとき、風居は通常の学習クラスから、特殊学習クラスヘと移動させられた。
今まで一緒に遊んでいた友人たちの目が、好意から脅威へと変わっていくのが感じられていた。
放課後、一緒に遊ぼうとしても、もう誰もその輪の中に、風居をいれようとするものはいなかった。
風居は輪からはじき出された存在となったのだ。
授業内容も一変していた。
教室の様子に大きな差はない。
ただ電脳教育に順ずるカリキュラムが大きく削除されており、代わりに旧式な端末の扱い方と、電脳言語を文字によって理解することを要求された。
初めは理解できなかった電脳不適応という障害も、一年、また一年と学年が上がり、学校という社会から、世間という社会へと視野が広がっていくにつれ、その|隔《へだ》たりが幼い少年にも大きなものであることが感じ取れたのである。
そんな風居に、親も、親類も、近所の人間も、誰もが同じような表情でこう言ったのだ。
かわいそうに。
何がかわいそうなのか。
同じようにものを考え、話し、走り、飛び、笑う。
なのに、ただ一点、社会に適応できない自分を、周囲はかわいそうと決めつける。
誰も自分を理解できないのだ。
そう感じた風居は、一人でいることが多くなっていた。
何かを変えていきたかった。
風居は、電脳不適応障害者の集まる、暗い教室の中から、陽光に満ちた校庭で遊ぶ、かつての友達の声を聞きながら、窓ガラス一枚だけで隔てられる、別の世界が存在することを知ったのだ。
風居は叫んだ。
そして手にした椅子でガラスを割った。
何枚も何枚も。
教室のガラスすべてを割ったのだ。
大人たちに取り押さえられ、床に倒されても椅子を手から放そうとはしなかった。
自分を隔てる壁を壊すための武器を、手放すことなどできなかったのである。
あのとき見た校庭の景色。
届きそうで届かないもの。
あの夢の中に出てきた少年は、もしかすると自分を永遠の時の中に連れ出してくれる存在なのかもしれない。
風居はあの夢の中で起きたことをもう一度再現しようと試みる。
熱さ。
痛み。
混乱。
母。
リボルバー。
そして怒り。
これらが自分を包み込んだという意識はあった。だがそれが何を意味しているのか想像はできない。
ホンバンの夢は実際に起きた誰かの記憶の再現だと竹河は言っていた。
そうであるなら、あれは実際に起きた事件の一幕ということになるのではないか。
絶対的に絶望的な状況の中の記憶。
擬似記憶であるとするならば、余りにもリアルすぎた。漂う空気の匂いも、体の震えも、隣にいた母の死も、そのすべてがエンターテインメントとして成立させようという意思はまるで感じられなかった。ただリアルなだけ――現実にあった出来事を再生しているとしか思えないのだ。
竹河が風居に見せようとした夢は、ただのリアルな性行為の再現記憶でしかないと言っていた。竹河自身がそれを試していると言っていた以上、危うく穴兄弟となるところだったのかもしれない。正確には仮想的現実記憶の上でのそれなのだが、あまり気分のいいものではない。
竹河が意図したものでないとするならば、あの〈夢屋〉の主人である小男が仕組んだことなのか。
だがそれはあり得ない。
風居に対して、あのようなものを仕掛ける理由がない。小男が仕組んでないとするならば、あのホンバンの記憶そのものに刻まれていたものだということになる。
見える者と見えない者がいる。だとすれば人が選ぶのではなく、夢が人を選ぶというのだろうか。そして見た者に、何かを伝えようとしているのだろうか。
風居は夢が伝える答えを渇望した。何か、知りたかった。そう強く望んだとき、夢の中の人影が意識の中に現れた。
少年だ、と風居は思った。
姿はない。
ただそこにいるということだけがわかっていた。懐かしさにも似た何かが意識の中を|過《よぎ》る。
どこか中性的な不思議な少年だ――不可視の姿であるのにそれが伝わってくる。
記憶情報が混濁しているだけなのかもしれない。だがその存在感だけは、あの夢を見たときと同じように、リアルなものだった。
風居は声を出してみる。実際の空気を震動させる音声によるものではない。意識の、思念の声だ。
「お前は何なんだ?」
少年はゆっくりと風居を指差す。言葉はなかった。
「お前は俺なのか?」
肯定も否定もない。何の揺れも感じられない。
「俺がお前なのか?」
そのとき、意識が白い光へと浮上していく感覚が風居を包み込む。
風居が目を開けた。
目の前には、竹河の顔があった。
「あ、目え開いた」
竹河はそう言って|慌《あわただ》しく走り去っていく。パタパタと鳴るのは足音――スリッパの音のようだった。
風居が天井を見る。
自分の部屋の天井ではない。高さが違っていた。
横を見ようと、首を|捻《ひね》ろうとしたが、頭が動かなかった。何かで固定されているような感じがしていた。触ろうと、手を伸ばそうとするが、その手も動きはしなかった。身体すべてが鎖で縛られているような、そんな感じがしていた。そして、息苦しくもあった。
すべてが重かった。
重力が三倍、四倍になってしまったんじゃないのか。そう思いたくなるような気分だ。
やがて、またパタパタという足音が近づいていくる。今度はガラガラという車輪を転がす音と、何人かの足音が混じっている。
騒がしいだけだった。
「うるさい」
そう言葉に出そうとしたのだが声にならない。実際に出たのは音ですらない|吐《と》|息《いき》だった。
――何だ、これは。
そう風居が感じたとき、竹河の顔が再び頭上に現れた。ただ、それは暗く、色もどこか|褪《あ》せて見えた。
「先生、呼んできたぜ」
その声も遠くに聞こえている。
竹河を押しのけて、無機質なプラスチックでできた|蟷《かま》|螂《きり》のような中年の男が顔を覗かせた。
右目にレンズの義眼が|嵌《は》め込まれている。反対側から、女性型アンドロイドが顔を覗かせていた。頭に白い|頭《ず》|巾《きん》を被り、その中央に赤十字が見て取れた。
――ああ、ここは病院だ。
風居はようやく自分がどこにいるのかを認識していた。状況はまだわかっていない。
忙しげに、蟷螂顔の医師や何の表情も浮かべない女性型アンドロイドの看護師が、風居の体に、丸い板を向けていく。
その形状に見覚えがあった。確か電脳化した際に、マイクロマシンを脳に定着させるために使った誘導機。
その時、初めて蟷螂顔の医師が話すのを聞いた。
「電脳活性率が40%まで低下していたために、君の体内に活性化を促すマイクロマシンを注入している。運ばれてきた状態では生命の危険があったため、電脳倫理法に基づいて強制的な感覚器官の覚醒を|促《うなが》す治療法を選択した。君の場合、電脳不適応障害者で、処理適応値が検定範囲の最低値に近いため、今回のような事故が起こらないようにするためには、電脳の使用に機能制限を設けておくことをお勧めする。では、ここから電脳と感覚器官間の経路再構築の継続治療を行っていくが、イエスなら|瞬《まばたき》きを一回。ノーなら瞬きを二回してくれたまえ」
――生命の危険?
何が危険なのだと風居は|戸惑《とまど》う。感覚器官の覚醒云々と話す医師の言葉に、ようやく自分自身の身体が生体活動の危険を伴う状態にあったのだと自覚する。電脳の感覚器官を切ったまま、深層に長くいすぎたのかもしれなかった。
風居の感覚では数分も|経《た》ってはいなかったのだが、実際には十時間以上もこの状態にあり、もう少し遅ければ末端器官が電脳と切り離されていたようだ。
義体化していない生身の身体に電脳を置く場合、感覚器官と電脳との長時間の不通状態は同期喪失を促進し、やがては電脳と肉体との別離に至ることもある。義体であれば、電脳とそれぞれの部位の切り離しを想定した|欺《ぎ》|瞞《まん》信号を発信させることで、正常な状態を保持しようとするのである。特殊な職業に従事する義体化労働者の一部には、意図的に感覚器官を断ち、特殊な状況に身体を設定する者もいた。
だが風居の肉体は生身だった。
風居は生身でありながら、義体でしかできないことを電脳に命じていたのである。
それは肉体の放棄――死を意味していた。
――ま だ 死 ね な い。
間延びした思考の中、風居はようやくその言葉を思い描く。
ゆっくりと瞼を閉じて、ゆっくりと開く。そしてそのまま蟷螂顔の医師を見る。
医師は何やら看護師の女性型アンドロイドに指示を出し、風居の頭部に細長い針を突き刺していく。
痛みはなかった。
ただ眼球から飛び込む光の量が少しずつ増え始め、その眩しさが痛かった。耳から入る空気の振動は、|賑《にぎ》やかさを通り越し、|騒《そう》|々《ぞう》しいほどだった。|鼻《び》|腔《こう》で感じ取る空気中の匂いもむせ返るほど濃い。舌や四肢の|痺《しび》れが解け始め、毛細血管を流れる血液が神経を刺激し、刺すような痛みが風居を襲った。
すべての神経が電脳とリンクし、風居の身体として機能し始めたのだ。
そして一斉に虚脱感に包まれる。刺激の反動だった。
元に戻るのに三十二時間の安静が必要だと言い残し、蟷螂顔の医師は、女性型アンドロイドと共に去っていった。
一人では広すぎる部屋に、風居と竹河だけが残された。
六人入れる病室の中には風居しか入っていない。
「お前さ、寮長殴ったこと、悔やんでこんなことしたのか?」
風居は答えなかった。
「寮長さ、志川がテロ騒ぎ起こして、今度はお前が退学なんてことになったらさ、管理が不十分だって上から言われそうなんで、殴ったこと不問にするって言ってたぞ。まあ、お前がこうして死にかけて病院に運ばれたんでパニくっちまったんだろうな」
竹河は風居のベッドの横にある、丸いスツールに腰かける。
「お前さ、なんであんなことしたんだよ?」
風居がようやく竹河を見て言った。
「あんなこと?」
「ああ。なんで感覚器官を閉ざすなんて無茶やったんだよ」
「別に――理由なんて――」
そう言うと風居は目を閉じた。
どうして感覚器官を絞ろうと思ったんだろう。現実から逃げ出したかったという思いもあった。だがそれはきっかけにすぎない。感覚器官のボリュームに手をかけるまでの動機でしかない。そこから先はあの夢にあった。
そう――。
「夢の続きを見たかったんだ」
ぽつりと風居は|呟《つぶや》く。
竹河の目が思わず丸くなる。
「夢って、あの〈夢屋〉のか?」
「ああ」
「ただのアダルト・ドリームだろ。あんなの、また行けばいくらでも見られるのに」
「その夢じゃない。俺が見たいのは、あのとき見た夢の続きなんだ。あの夢に出てきた奴に会えれば、何かがわかるような気がしたから」
「そんなもん、あるわけないだろ。夢なんてただのちっぽけな記憶の|塊《かたまり》じゃねえかよ。それにあれは他人の記憶だ。続きを見たからって、答えなんか出たりするようなもんじゃねえよ。お前さ、俺と同じで、大して頭よくないのに、考えすぎると熱出るぞ。とりあえず今日と明日は病院なんだから、ゆっくり休んどけよ」
「そうする」
面会時間が過ぎ、竹河が帰っていくと、部屋の広さに加え、無装飾な病院の内装にことさら、寂しさを覚える。電脳が対象となる治療のため、ネットヘの接続も禁止されていた。
ただ時間だけが過ぎていく。
刻々と時間だけが。
今は時間が必要なのだ。そう自分に言い聞かせる。
ゆっくりと、自分が目を覚ますまでの、時間が。
[#改ページ]
9
電脳街のメインストリートの|外《はず》れの路地に、違法ソフトや無許可での改造を行った電脳機能向上器具を扱う|一《ひと》|坪《つぼ》商いの小店がある。
薄暗い照明に照らされ、〈トツカ接続器具〉と書かれた看板が夕暮れの陰の中に浮かんでいた。
看板の下にある店頭のワゴンの上には、様々な形状の電脳用の接続器具が並べられており、新設・交換承りますの張り紙が貼られていた。
だが実際に並べられているのは、表面を覆うコーティングが効力をなくし、腐食や酸化が進んでいるものや、明らかに|錆《さび》が浮いているようなものなど、スペックどおりの機能はとても期待できそうにない|代《しろ》|物《もの》ばかりであった。もちろん、メインストリートの清潔な店に並ぶ商品と同じような物は一つも見られない。
周囲には、同規模の小店が|軒《のき》を連ねており、その奥に座る店主の面構えを見ても、そのどれもがまともでないことが一目でわかる。店の前を歩くとき、店の主たちは眠っているようでも油断ない視線を通りへと向けている。獲物を捕らえる肉食獣のように、鋭い視線を、幅ニメートルもない通りへと向けているのだ。
その視線が人影を捕まえた。上玉の客か、そうでない客かを見極めようと目の光が増す。だが次の瞬間、その目には|諦《あきら》めと不安が同時に浮かび、目を合わせぬようにと、ある者は店の奥へと消え、ある者は寝たふりを繰り返す。
その客はこの|界隈《かいわい》の常連といってもいい。だが、店にもたらす利益よりも、店がこうむる損害のほうが大きいという結果が見えているだけに、関わり合いになるのを誰もが避けようとする。
その客の足が向いたのは、〈トツカ接続器具〉だった。
他の店の主たちは、通り過ぎた災厄に胸を|撫《な》で下ろし、同じ通りに軒を連ねる〈トツカ接続器具〉を訪れた不幸を笑いこそすれ、同情するものなどI人もいなかった。
当の〈トツカ接続器具〉の店主、トツカ|正《まさ》|満《みつ》は、女が自分の店に入ってきた瞬間に、日焼けし|擦《す》り切れたジャンパーに顔を埋めたまま、パイプ椅子からずり落ちていた。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない。ニヵ月ぶりかしら?」
「三ヵ月ぶりでさ。まさか公安の姉さんが、うちなんかにそうそういらっしゃるとは思わなかったんで。で、今日は何か|要《い》りようで?」
女は|草薙《くさなぎ》だった。床から立ち上がったトツカは草薙の胸ほどまでの背丈だが、胴回りの太さは草薙の倍はあろうかというボールのような男だ。
「今日欲しいのは物じゃなくて情報のほう。この近辺で店を開いている〈夢屋〉の営業情報を知りたいの。それも許可証を持たない業者のほうをね」
「〈夢屋〉。これまた何でそんな一昔前の商売をお探しで?」
「知りたい?」
草薙の冷たい笑みが店主に向けられる。
「――いえ、結構です」
トツカは草薙と深い関わりを持った挙句に、二度と戻らなかったかつての商売|敵《がたき》を思い出す。その男は草薙の注文に対し欲を持ちすぎた。草薙が何を探し出そうとしているのか、それを探ろうとした。その結果、姿を見せなくなった。そして数ヵ月の時を経て新浜|埠《ふ》|頭《とう》の拡張工事現場に姿を現したとき、男の全身はコンクリート・ミキサーで粉砕されていた。彼の識別コードが刻まれた義体の一部だけが、かろうじてそこに残されていたのである。
草薙は、トツカをはじめとした不法な取引に応じる商売人たちと、〈公安〉という身分を隠さずに付き合っている。それは、彼女自身が彼らの持つ情報網や商品を必要としているからであり、その代価として彼らのしていることに目を|瞑《つむ》るといった等価交換で成り立っている関係なのである。
この一帯にいる連中は皆、|脛《すね》に傷持つ身である。表向きの顔とは別に必ず裏の顔を持っていた。トツカの場合、情報を売ることが裏の|生《なり》|業《わい》で、草薙のアンテナの一つとして機能しており、草薙との付き合いの中で甘い蜜を|啜《すす》ることもあれば、苦い思いをすることもあった。
だからこそトツカは思うのだ。こうした手合いとは適当な距離を置いて付き合うのが生き残るための|術《すべ》なのだと。
トツカは店の奥に行き、古ぼけたノート型の端末を取り出す。電脳に代表されるインプランタブル型や、ウェアラブルな装着型の端末が定着する前、人は端末をこうした形で持ち運んでいた。もう三十年ほど昔の話だ。命令実行形式はキーによる言語入力をコード化し、中央演算装置に送り出して処理をする形になっている。
「|骨董品《こつとうひん》を持ち出してきたわね」
トツカが本体のパワーを入れるとチープな起動音がスピーカーを震わせる。起動するまでに電脳に比べると気が遠くなるほどの時間がかかる。画面が安定し、黒一色の背景に白いコマンドプロンプトが現れたところで、トツカは、ある命令を呼び出すコマンドを手で入力する。
「ネットで情報を抜かれることのほうが恐ろしいんでね、こいつならいざというときにハードごと破壊すれば証拠は残らねえし、ネットに情報を転化させるのも楽なんでね」
画面に文字が現れる。意味を成さない英数字の羅列だ。
「ああ、これだ」
トツカはジャンパーのポケットから記憶デバイスを取り出し、店の奥に転がる接続端子の中から適当なものを選ぶと旧世代端末を経由して、記憶端子へと繋ぐ。
端末のキーを操作すると、画面の中にバーが現れ、それが少しずつ色を変えていく。記憶端子に情報の複製が行われる。
「情報の複製に一八〇秒もかかるのね」
「暗号化された情報を、記憶端子の中で認識するよう、解読しながらだから仕方ねえさ」
「これに店の情報があるわけね」
「ああ。けどよ、やつらとの深い付き合いはねえから、細かい部分までは拾いきれねえぜ。頑張っても店やってる奴の外面の情報までが限界だな」
「それでいいわ。そこから先は私の方で直接聞き出すわ」
複製が終了し、トツカは草薙に記憶端子を渡す。
草薙はそれを腰のポーチにつけられた身代わり防壁の端子に接続する。それを経由して情報が草薙の電脳へと展開される。
「ウィルスはないようね」
「人聞きが悪い。姉さんに一服盛ろうなんて馬鹿な真似しませんって。信用してくださいよ」
「信用してるわよ。だから記憶も消さないし、脳も焼ききらない」
「喜んでいいのかどうか、とにかく厚意に感謝しときます」
トツカの言葉に草薙は答えなかった。
「なんだよ、もうネットかよ」
草薙はトツカから得た情報をもとに既にネットに潜り、次の捜査に手をつけていた。記憶端子から抜いた座標と店の情報を電脳街の地図情報に照会し、ネットからそれに符号する情報を拾い集めていく。正式な営業許可を取りつけている擬似記憶上映業者は電脳街だけで六十四店舗。違法な業者は、既に一部マニアのための商売となっているため、八と少なかった。その八つの中から絞り込まなければならなかった。一つの店に踏み込めば、おそらくその情報は、ネットや口コミで、連鎖的に街に広まっていく。狭い街のことだ。次の目標に辿りつく前に、そこはもぬけの殼となっているだろう。
草薙はここに来る前に風居に会ったことから、風居の行動をトレースする事で店を割り出す。〈目覚しテロリスト〉として事件を起こした志川と同じ陸上自衛軍少年工科学校にいるだけに、口コミで情報が広がるとするなら、同じ店を訪れた可能性は高い。
草薙は電脳の中にもう一枚、〈窓〉を開いて、電脳街の地図を出す。そこに風居と遭遇したポイントを表示させる。
草薙は本部のオペレーターに電通を入れる。
『こちら草薙。公安監視網のアクセス許可を申請する』
電通と同時に暗号化された個別認証を提示する。
『こちら本部。草薙|素子《もとこ》の個別認証を確認。アクセス、許可します』
公安監視網は、全国の道路、施設などに設置された危険予防システムである。自動ナンバー読み取り装置や、速度超過車を自動撮影する装置のような、Nシステムなどに代表される〈旅行時間計測システム〉を検索することで、ネットという巨大なデータベースに集約される情報から、特定の人間の行動記録を時間と位置の面から洗い出すことが可能となっていた。
個人名義のクレジットカードなどは、その使用目的、金額、時間、場所などを追う上で最も有効な手段であり、通常はプライバシーの侵害を防ぐための措置はされているが、公安9課のように超法規的な組織の前には有効な捜査資料の一つとなるのである。
電脳化全盛の社会において、ネットにアクセスするということは、個人の活動記録をすべてネット・ログに残すということだ。ハッカーたちはその足跡を消して活動してはいるが、多くのネット利用者はそれを気にすることはない。利便性を理由に、個人が一情報となり、管理分類されることを受け入れているのだ。
生を受け、名前という個別分類の認識表示を手にいれた瞬間から、ネットの中で、人は情報の一つとなっていく。
個別に数値を振った個人の番号管理に過剰な反応を示す人間もいるのが現状ではあるが、それに反するためには、情報である名前を捨てることから始めなければならない。
だがそれは社会のシステムの中で〈個〉を喪失するということを意味している。
人間が生活のために作り上げてきた社会という構図からはじき出されることは、行き場所を失うことになるのである。それは情報に満たされた現代社会において、無意味な選択でしかない。
草薙が探すべき風居曜という対象は、幸いなことにこの枠から外れることなく生きている存在だった。
事前に入手していた風居の個人情報と検索情報を照合し、電脳街での行動履歴をリスト化していく。
草薙と電脳街の人目で会う七十二分前に、風居はカードを使い、リニアの新浜電脳街駅付近のATMから現金を引き出している。その後の足取りを追う。
メインストリートから下層へと続く信号付近の全方位Nシステムの映像には、風居と竹何の姿が|捉《とら》えられていた。進行方向は下層へ向かっている。風居が向かった下層への進人跡と、草薙がトツカから得た夢屋の情報を重ね合わせていく。該当する対象は三つあった。
草薙はそこまでの情報に加え、〈目覚しテロリスト〉として公安9課に拘置されている志川久光が、この監視装置に捉えられていないかを検索する。
検索期間は事件が起きた当日から一週間前まで――志川の記憶の中が断片化していた期間である。
数秒と待たずに検索結果が表示される。
風居の姿を捉えた監視装置には、志川の姿も捉えられていた。事件より四日前の記録だった。
それは風居と竹河が向かった下層へと続く通りから、志川がメインストリートヘと現れる場面を捉えていた。通りへ進入する記録は残されていない。進入経路は無数に存在するため、それを特定することは時間の無駄となる。
――他に決め手になるものは?
草薙は志川の電脳に潜入した際に現れた、あの|蜘《く》|蛛《も》の巣のようなハブがあった場所を思い返す。電脳街に点在する、ネット・インフラの中継地点だった。
電脳街のハブの座標が、草薙の電脳内に表示されている地図へと上書きされる。先に特定していた三つの〈夢屋〉のうち、一つがその付近に該当する。再開発が遅れている地区だった。
おそらく、そこなのだろう。
草薙はネットを抜けた。
草薙の目に光が戻る。見ると、トツカが草薙のポーチに顔を近づけ、|矯《た》めつ|眇《すが》めつ眺めていた。
「身代わり防壁がお気に入りかしら?」
草薙が声をかけると、トツカは慌てて草薙から離れる。
「な、何もしてねえっすよ。最新型のハードウェアの防壁って奴がどんなコネクタの強制排除機能を持っているのか型番見てただけっす」
「あら、そう」
そう言って草薙は腰につけられたポーチから身代わり防壁を外し、ケーブルが接続するコネクタを引き抜く。取り外したコネクタを見ると、|雌《めす》型コネクタの上にもう一つ、同径の雌型コネクタが被せられていた。そのコネクタには極小な発信装置が取り付けられていた。
草薙はそれをトツカの目の前に|翳《かざ》す。
「これ、返しておくわ。それじゃ、また寄らせてもらうわ」
「そ、それはどうも」
トツカはひき|攣《つ》った顔のまま、草薙を見送った。
既に夜も深まっていた。
だが電脳街の人通りは絶えることがない。|賑《にぎ》わいを見せるメインストリートから、下層へと通じる通りへの分岐を、草薙は迷うことなく入っていく。
その通りは、暗く、重く、冬だというのに蒸し暑かった。
電光掲示の|艶《つや》やかなメインストリートの明るさが、この下層域の暗さをより際立たせる。
路面にはゴミが散乱している。
室外機やインフラのケーブルなどが、ビルのコンクリート壁に貼り付いているのが目立つ。また、ビルの室外機や排気口から出される気化熱が通りの温度を上げていた。
草薙はごく自然に通りへの一歩を踏み出す。周囲を観察し、ゆっくりと足を進めながら公安9課本部へと電通を入れる。
『こちら草薙。タチコマ二機をこれから送る座標に待機させておいて』
『了解』
オペレーターの無機質な声が応えると、同時にタチコマが電通に割り込んでくる。
『少佐〜、何の命令ですかぁ?』
『保険をかけておく。二機で二箇所の店を監視。逃走する人間は確保。いいな」
『グレネードの使用許可願えますかっ!』
タチコマの嬉しそうな要望に草薙は冷たい答えを返す。
『却下する』
『えー、対戦車砲とか持ち出してきたらどうするんですか?』
『そのときは|速《すみ》やかに撤退。こんなところで壊されでもしたら、ハイエナどもに|螺《ね》|子《じ》の一本に至るまでバラされるわよ』
『バラされるとは分解されるということですか?』
『そういうこと。ニューロチップまでバラされて、掃除機に突っ込まれて電脳街の店先に並ぶことにならないように気をつけなさい』
『りょーかい!』
スラム化した街の一角が見えてくる。電脳街の深層部だ。
通りの片隅に寝そべる路上生活者が場違いな草薙に視線を送る。
奥へと進むごとに、|饐《す》えた匂いと|機《き》|圧《あつ》の密度が増し、微小な電磁波が|蟲《むし》となって電脳を|這《は》いまわる。おそらく覗き趣味のハッカーたちなのだろう。
しかし草薙のゴーストラインを乗り越えようとしたハッカーたちは、草薙の電脳に設置された想像以上に堅牢で凶暴な|攻《こう》|性《せい》|防《ぼう》|壁《へき》に迎撃され、ネットから消えていく。消えていったハッカーたちの多くは、よくて電脳機能に|著《いちじる》しい障害が出るか、悪ければ脳を焼ききられているはずである。
そうしたハッカーたちへの同情など|微《み》|塵《じん》もない草薙は、淡々と奥へと足を進めていく。
ビルの壁面を這うケーブルに沿って足を進めれば、目的のハブヘと通じるはずである。
やがて目の前の壁面に巨大なハブが、街灯の明かりに下から照らされているのが見える。
あらゆる方向から延びるケーブルがこのハブヘと集中し、まさに蜘蛛の巣となってビルの壁面を飾る。この一帯はバラックでできた居住区となっているようであった。
街は眠りに就き、|人気《ひとけ》は感じられなかった。
――確かに、あの場所と同じだ。
目の前の景色が、志川の記憶に出てきた場所と重なっていく。記憶の中では、この場所で謎の少年から銃を受け取っていたのである。
電脳内に表示された地図は、目の前のバラックが探している店であることを示している。壁伝いに歩き、店の戸口まで素早く近づく。奥は壁になっており、入口らしいものは見えない。屋根部分からの侵入も考慮するが、義体の重量を計算に入れると、おそらく屋根素材が粗末なだけに、そうもたないだろう。
草薙は腰のホルスターから、セブロM5を抜き取り、壁に背を預ける。
装弾数十九発プラスー発。義体の外装を突き破り内部破壊を可能にする五・四五×一八ミリ高速徹甲弾を|装《そう》|填《てん》してある。公安9課正式採用のハンドガンだ。草薙はこれを必ず携行していた。
中からの物音はない。
ドアを見ると、ドアノブの下に暗証番号を打ち込むテン・キーが配置されている。
草薙はふと笑う。
ドアの下のほうに目立たないようにコネクタが見える。おそらくテン・キーはダミーで、トラップを発動させるためのものだろう。小屋の主の電紋を認識して開錠するポピュラーなドア・ロックが使われている。スラムの粗末なバラックには不釣合いな設備だ。
――当たりだな。
この様子だと、壁材も一見粗末なバラック素材に見えるが、襲撃などを考慮して時間稼ぎをするだけの被破壊特性をもっているに違いない。
バックアップする仲間がいるのであれば、ドアの|蝶《ちよう》|番《つがい》をスラッグショットで撃ち抜くなど、潜入のバリエーションは広がるのだが、今は一人だ。安全策を取るのが最良と思えた。そのためにはこの鍵をどうにかしなければならなかった。テン・キーを押して開錠するとどういったトラップが発動するか興味はあったが、それはここを押さえてから試してみても遅くはない。
草薙は自分の身代わり防壁からケーブルを延ばし、電子鍵のコネクタに接続した。電子鍵から送られてくる信号に含まれる認識用の型番から、品名を特定する。
二十五年式ミツワ・ロック製の電子錠だ。
草薙はネットからミツワ・ロックの企業データベースヘの侵入を試みる。
セキュリティは鍵メーカーの割にはオーソドックスな作りで、破かに防壁自体の厚さは堅牢といえるだろうが、攻性防壁というわけでもなく、多少の手間と時間をかければ、草薙レベルのハッカーであれば侵入の痕跡を残すことなく鍵を関くことができた。
そのまま型番に合う電紋を探し出し、引き抜く。余計なものに気を取られ、無駄に時間をかけているだけで〈枝〉が残る危険性はあった。
必要なものを手に入れ、草薙はネットから戻ってくる。わずか十数秒の間にこれだけのことをやってのけていた。
メーカーから人手した電紋を電子錠へと流し込む。
カチリと小さな音を立てドア・ロックが外れる。草薙は姿勢を低くし、ゆっくりとドアノブを回し、二センチほど間いて止める。その|隙《すき》|間《ま》にベルトから取り出したミラーを滑り込ませ、中の様子を探る。トラップらしき存在は認められない。
草薙は立ち上がると、ドアを間く。
部屋の中には粗末な椅子とテーブルがあり、その上に記憶箱が置かれている。その他にはロッカーと、空っぽな寝台が置かれているだけの何もない部屋だった。
「誰もいないか――」
草薙は部屋の中を見渡す。草薙の潜入をいち早く察知して逃げ出したのか。部屋の中に、他に入口らしいものは見られない。
ベッドに触れてみると、シーツは冷たく、もう何時間も人が入った様子は感じられない。
草薙はテーブルの上に置かれた記憶箱の前に向かう。旧式の記憶箱で外装にところどころ|錆《さび》が浮いている。結線にもコーティングがはがれ鋼線が|剥《む》き出しとなっている箇所があった。
「ダミーを兼ねたトラップね」
草薙はポンと記憶箱を叩いて、中身を探ろうともしない。
残るはロッカーだけだった。
背の高いスチール製のロッカーヘと近づき、おもむろにロッカーを開く。どこにでもある普通のロッカーであり、スチール製の網棚と、棒が一本渡してある。そこにアイマスクが三本掛けられているだけだ。
草薙はロッカーの周囲を注意深く見る。ロッカーは後ろの壁にぴたりとつけられ、床には無理に動かしたような跡は見られない。引きずった形跡もなかった。
だが草薙の目はそれを見逃さなかった。
「これは――」
床に薄くだが足跡が見える。ゴムと床がこすれあってできた足跡のようだった。
草薙は床面の照り返しを確かめるように目線を下げていく。
足跡は人目から、このロッカーの手前までを結ぶ道を作り出していた。何度も人間が往復し、自然と定着したものだろう。
草薙はそれを確かめると、再度ロッカーの扉を開く。中を確かめ、おもむろに足をロッカーの底板に乗せる。
するとロッカーの背板が音もなく開いていく。奥にはコンクリートで四方を固められた通路が見えた。
「これが本当の入口か」
バラックの奥行きから考えると、おそらく背にしたビルにもともとあったドアを利用したものだろう。草薙はその中に足を踏み入れる。
冷えた空気が草薙の身体を包み込む。周囲のコンクリートの壁も床も、同様の冷たさを蓄えていた。冷やさなければならない理由が、ここにはあるということなのだろう。
コンクリートの通路の突き当たりには鋼鉄製の扉があった。単純な構造の扉だった。ドアノブに手をかけると、鍵がかかっている様子はなかった。草薙は扉を開く。
部屋から冷気が流れ出してきた。
広さ七メートル四方の部屋だった。
壁一面にハイスペックな電脳機器が並んでいる。そしてそこから伸びたケーブルが五台の寝台へと繋げられている。電脳手術などによく使われる手術用の寝台だった。頭が乗せられる部分にはマイクロマシンを定着させる機械などが設置されている。遠隔手術用のマニピュレーターまでもが装備された、このスラムには似つかわしくないものばかりであった。
この部屋の中で草薙の目を引いたものは、寝合の下部に取りつけられている記憶箱だった。
それには脳殼が搭載されていた。
草薙がその情報を抜こうと|屈《かが》んだとき、草薙の背後から襲撃する影があった。草薙はそれを身をよじって|躱《かわ》す。草薙の顔の数ミリ横を白光が通り過ぎる。
コンクリートの床に硬い刃先が|弾《はじ》け、火花を散らす。
草薙が見ると、大振りのナイフを両手に持った小男が跳躍を始めようと身を屈めたところだった。小男はそのまま低い天井まで飛び上がり、天井を蹴って草薙へとナイフを向けて突っ込んでくる。草薙はその場で背中を床につけるように後ろに倒れて、凶刃を躱す。そしてそのまま下から、上を通り過ぎていく小男の腹部を蹴り上げる。
小男が天井に背中から激突する。
蹴り上げた勢いで立ち上がった草薙は、落下してくる小男に向けて、鋭いミドルキックを叩き込む。だが小男は身体を丸め、それを躱し着地すると草薙と距離をとるように後方に飛びながら、両手に持ったナイフを投げつけようと構える。
だがナイフは投げられることなく、セブロM5から撃ちだされた高速徹甲弾によって破壊された小男の手と一緒に、さらに後方へと弾き飛ばされた。
壁に当たった金属の涼しい音が響いた。
草薙と小男が向かい合う。
両手を失った小男は|怯《ひる》むことなく、草薙に向かって突進してくる。その口が大きく開かれる。口の中には鋭い牙が伸びていた。
草薙の首筋に牙が届く寸前、草薙は飛んでくる小男の身体を手で払い|往《い》なす。
小男はそのままの勢いで寝台に激突し、寝台から延びるケーブルに噛みついた。
瞬間、青白い火花が飛び散る。
草薙が思わず声を漏らす。
「|電撃牙《スタンファング》か!」
東南アジアのサイボーグ・ゲリラの格闘用義体が好んで使った暗器だった。
上顎と下顎から伸びる牙に仕込まれた電極が、喘まれた相手の体内に食い込むと、義体を内部から破壊する高圧電流を流し込むのである。
その効果は、スタンという形容が|優《やさ》しすぎるほどのものであった。
軍時代、相当数の戦闘を重ねている草薙ですら噂で聞くだけで、実際に遭遇するのはこれが初めてだった。
小男の牙から高圧電流が放出されていた。噛みつかれたものが草薙の義体であれば、ただでは済まないだろう。
小男がむくりと身体を起こす。
「仕方ない」
草薙がそう眩く。小男が再び草薙に牙を|剥《む》く。
「|哈《ハ》!」
小男が気合と共に草薙に跳びかかる。
小男が草薙の視界から消えた。
姿勢が低い。地面を這うような跳躍だった。小男の牙は草薙の首ではなく脚を欲していた。
凶悪な牙が再び草薙を襲った。
草薙の右手が動き、炎が噴出する。
それはセブロM5から撃ち出された高速徹甲弾の火線だった。
小男の電撃牙は草薙の肉を前に噛みあうことなく、上顎と下顎は永遠の別れを迎え、そのまま草薙の両脇に転がっていく。
小男の身体は草薙の前に突っ伏して倒れていた。
その頭部は草薙が撃ち込んだ高速徹甲弾により粉砕されている。草薙はそれを見下ろし、セブロM5を小男の背中にポイントしている。
小男の体はぴくりとも動かない。
その背中に向けて草薙は言葉を浴びせる。
「まだ続ける気か」
草薙はそう言うと、顔色を変えずに小男の右足に向けてセブロM5のトリガーを絞る。乾いた銃声と共に、小男の右|膝《ひざ》の下から先が粉砕された。だが小男はぴくりとも動かない。
「わかった。俺の負けだ」
声は草薙の背中から聞こえてきた。
草薙がゆっくりと振り返る。
不意に床に伏していた小男の体が持ち上がる。小男が残った左足で床を跳ね、そのまま体を中心に回転し、草薙の頭部を|踵《かかと》で狙ってきた。
銃声が響く。
草薙の顔は小男から後ろを向いたままだった。ただその右手だけが小男に向けられている。
小男は左足も粉砕され、|四《し》|肢《し》をもがれた形で床に|蠢《うごめ》いていた。
草薙はセブロM5の弾倉を取り外し、新しい弾倉を|籠《こ》める。
そしてそれを、寝台の下に置かれた記憶箱へとポイントする。
「次はどうする?」
草薙が|微笑《ほほえ》む。
「怖い女だな。大抵の奴なら今ので頭を砕かれて|逝《い》っちまってるんだが」
声が寝台の横に設置されたスピーカーから聞こえてくる。
「そうね。今までのは私以外の人間だからそうなったのね」
「参ったよ。もうこれ以上、やられたんじゃ一人でメンテナンスもできやしない」
軽いモーター音がして寝台の半分が持ち上がる。
寝台の横につけられた、遠隔手術用のマニピュレーターが動き出し、寝台の上にあるカメラが草薙に向けられる。
この寝台そのものが小男の身体であった。
「また新しい義体を用意しないとな」
草薙はまだセブロM5を構えたままだった。
「格闘戦用の義体を遠隔操作して、自分はのんびり横になっていたわけ?」
「俺の電脳じゃ、この部屋の中が限界だからな。外行くときは、あっちに乗り換えてたさ。まったく、|余《よ》|所《そ》|行《ゆ》きの身体を好きなようにしやがって。なあ、悪いんだが、その銃を下ろしてくれないかな。もう抵抗はしないよ。こっちは手の内を|晒《さら》したんだぜ」
「言葉が信じられるなら、この街を歩くのに銃を持ち歩く必要はないわ。残念だけど、要求するのは私のほう。あなたはそれに答えるだけよ。いいわね」
「――あんた、ただの刑事じゃねえな。公安か」
草薙はその問いには答えずに、一方的に尋問を開始する。
「お前に聞きたいことが三つある。一つはこの少年がここに来たかどうか」
草薙はジャケットの内ポケットから一枚の写真を取り出す。それには志川久光が写っていた。寝台のマニピュレーターが伸び、その写真を掴み、寝台のカメラに近づける。
「こいつか。うちの常連だったな。確かあれだろ。電脳街で人質取って立て籠もった奴だ」
草薙が写真をマニピュレーターから取り返し、再び懐に仕舞う。
「この少年がここで何を見ていたのか、お前は知ってるか?」
「そりゃあ、俺がセッティングしてるんだから知ってるさ。ただのアダルト・ドリームさ」
「ただの?――ホンバンなんだろ?」
「ああ。確かに裏モノさ。『地獄のアマゾネス軍隊』、『女教師の課外授業』、『女性刑務所物語』他多数。数えてられないね。こいつが見てたのは、どれもこれもマニア受けB級のくそったればかり。どうだい、あんたも見てみるかい?」
「残念だけど、興味ないわ。今、興味があるのは何があの少年をテロリストに仕立てあげたのか――だわ。お前が仕込んだわけじゃないわよね?」
マニピュレーターを横に震わせ、寝台が否定する。
「|滅相《めつそう》もねえ。俺があいつを無差別テロリストに仕立てて何しようってんだよ。別に今の体制にもこれからにも、俺たちが裏でも表でも商売を続けていければ不満はねえさ」
「そうか」
草薙は一枚のディスクを取り出す。
「二つ目。この中に志川から取り出した記憶の断片の一コマが入っている。この記憶に入っている人物に見覚えはないかしら?」
「そいつを寝台のスロットに入れな」
草薙が寝台の横につけられたスロットにディスクを放り込む。
映像が再生されると、寝台が|素《す》っ|頓《とん》|狂《きよう》な声をあげる。
「なんだこりゃ」
「場所はおそらくこの店の人口の前。あのハブ、見覚えあるでしょう?」
「確かに、そう言われりゃそうかもな。それよりもこのガキだ」
「見覚えは?」
寝台のスロットからディスクが吐き出される。
「ないな」と素気なく寝台が答える。
「こんなガキがこの辺を一人で歩いてみろよ。今頃、色街のその手の店で、オヤジ相手に|檻《おり》の中さ」
草薙がディスクを仕舞いながら言った。
「志川が最後にここに来たのはいつだ?」
「確か――一週間くらい前か」
事件があってから既に二日が経過している。五日ほど前に志川はここを訪れ、記憶を電脳に落としたことになる。そして三日後に事件は起きた。
「そのとき、志川が見た夢は?」
「覚えてねえが、奴のゴースト・キーとサーバーヘのアクセス・ログ調べりゃわかるかもな」
草薙が壁の電脳端末のうち、一際ケーブルが集中している端末を見る。あれがサーバーなのだろう。
「その夢はどこから仕入れた?」
小男である寝台は答えない。
「答えないなら記憶に聞くだけだ」
草薙がプラグを引き抜き、寝台に設置された記憶箱に近づく。
「わ、わかった。お前さんに俺の頭の中、引っ|掻《か》き回されるほうが怖くてかなわねえ。話すよ」
寝台のカメラが、あきらめたようにうな|垂《だ》れる。
「あんた、記憶屋っての聞いたことあるかい?」
「記憶屋?」
「そう。擬似記憶を作り上げるアーティストどもさ。表の〈夢屋〉じゃ、夢を呼び起こすための擬似記憶を客の記憶に植えつける。その擬似記憶が呼び水になって、客が好みの夢を自分なりにアレンジして見るってのが〈夢屋〉のカラクリだ。だが俺たちが付き合ってる記憶屋ってのは、他人の記憶をそのまま盗んでくるのさ。ネットに繋がっている人間のゴースト・キーを探り当て、そいつでゴーストラインを乗り越えて記憶を抜いてくるんだそうだ。よほど大量に、深層にある重要な記憶を抜くんじゃない限り、|盗《と》られた本人は単に忘れたと思っちまうんだろうな。誰も気づきやしない。忘れた記憶を、脳神経のネットワークが補完しあって再構築する場合もあるしな」
「まるでコソ泥だな」
「その通り。奴らは記憶を盗むコソ泥さ。だがハッキングに関する腕は確かなもんだ。特に錠前破りの腕は相当なもんだろうな。下手すりや軍の防壁だって開けちまうような連中だ」
「それだけの腕を持っていて、コソ泥商売で落ち着いているのか?」
「あいつらは全員が全員、覗きが|生《い》き|甲《が》|斐《い》なのさ。他人が何をしているのか、それを覗くことが至上の喜びなんだ。そのためなら、なんだってするような奴らさ」
「それを集め、用済みの記憶をお前たちに売りに来るわけか」
「ああ。他人が女といいことしてる記憶を覗いて、自分の記憶野に流し込んで、他の記憶とのリンクを作り出しちまう。そして自分がやった気になるわけだ。それを思い返して自分でするのさ。奴らはよ。大抵がエロ系のホンバン記憶を持ち込んでくるが、中には変わった奴もいる。他人が痛みを感じる瞬間の記憶や、吐き気を催すような体調を盗んでくる奴がいる。この前は|生牡蠣《なまがき》にあたって食中毒を引き起こした奴の記憶を抜いてきた奴がいてな、あれは強烈だったよ、ほんと。ないはずの胃から胃液が逆流するかと思ったくらいさ」
「それで志川が見たという記憶を持ってきた記憶屋は誰なんだ?」
「確か、この辺じゃあまり見かけない初顔の記憶屋さ。どこから仕入れたか知らねえが、現役軍人の記憶とか抜いてきてたな。希少価値が高いんで、買わせてもらったよ」
「その記憶屋の特徴は何かあったのか?」
「いや。極めて普通のおっさんだったよ。特徴がないのが特徴のような、そんなおっさんだったな。そういや、志川ってあんたが言ってるテロリストになっちまった小僧が来る少し前に、記憶屋がその記憶を置いていったのさ。思い出したよ。けどな、新作だっていって置いてったアダルト物がネットに落ちてる奴ばかりでさ、まあ、損したのかもしれねえな。もったいねえから、新作だって|騙《だま》して売ってたんだけどよ。そういや、志川って奴があの記憶を最初に見たんだったな」
「最初に?」
「ああ、間違いねえな。次は同じ学校の、やっぱりここの常連の奴が見てるな」
「常連?」
草薙の脳裏にここに来ていた風居と竹河の姿が|過《よ》ぎる。
「その記憶は?」
「そこのサーバーさ。どうせ抜いていくんだろ」
「ものわかりがいいな」
草薙は壁一面に設置されている電脳機器を眺める。
「勝手に引っ掻き回されるよりはマシさ。俺が知ってるのはそれぐらいだ。あとは自分で調べなよ、公安の姉ちゃん」
マニピュレーターが草薙を指差す。
「そうさせてもらうわ」
草薙がサーバーにプラグを繋ぐ。膨大なデータが電脳に流れ込んでくる。草薙はそのデータをネットを経由して公安9課のデータ端末へと転送する流れを構築する。あとは放っておいてもサーバーの記憶は9課へと転送されていく。
『タチコマ、対象のマークを解除。ポイントN135Z‐E35Pに至急集合』
『りょーかい!』
草薙がタチコマとの電通を解除する。この小男の処分をどうするか、そう草薙が思ったとき、小男が言った。
「それじゃ、俺は行かせてもらうよ」
そういった瞬間、寝台から小男の気配が消える。
部屋の外で激しい物音がした。
入口近くのバラックのほうだった。
バラックに通じる廊下のドアが開き、小男が顔を覗かせる。寝台の記憶箱の方も偽装だったのだ。
「それじゃあな!」
言葉を残し、小男が部屋の出口から一目散に逃げ出していく。後を追う間もなかった。
バラックに戻ってみると、ベッドがひっくり返り、その下が人の形に|抉《えぐ》れていた。おそらく今から追跡しても、追いつくことは不可能だろう。
「あの調子じゃ、あれも本体かどうか怪しいところね」
草薙は電脳街に生きる住人たちの|逞《たくま》しさと|強《したた》かさに感心する。おそらく本体は、別のところからリモートで義体を制御しているのだろう。この街の至る所にある他人の端末を中継用にハッキングして、命令を与えているのだ。追跡者は、本人に辿りつくことなく、永遠に中継に使われた端末の所在を探し続けることになるのだろう。
草薙は、違法記憶の取り扱い現場発見という通報を警察に流し、タチコマに現場の保全を命じると、9課へと引き上げていった。
[#改ページ]
10
9課に戻った|草薙《くさなぎ》は、電算室に入るなり、転送してあった記憶の解析に乗り出した。
部屋にイシカワの姿はなく、草薙一人だった。
記憶を転送した記憶箱に自分の電脳を繋ぐ。
記憶箱の中にあった記憶のうち、大半がアダルト系のホンバンの記憶だった。
まずは|志川《しかわ》が見たという記憶を読み込む。
電脳の活性レベルを休眠状態に落とし、REM状態で形成される夢を見るためのエミュレータを即興で作り上げる,
草薙は記憶を再生させた。
シナプスが新たな記憶に触発され、五感に感覚情報が伝えられる。
平凡なアダルト・ドリームだった。よくある展開。よくある濡れ場。男が受身となるステロタイプのアダルト物だ。十代の少年たちならこれで十分なのだろう。
終わりまで再生してみたが、結局、これといって有益な情報を掴むことはできなかった。
サーバーに記録されていた常連客の情報を参照する。
志川の在籍していた新浜陸上自衛軍少年工科学校の生徒名が十数名ほど。その中に、草薙が新浜電脳街で会った|竹河《たけがわ》と|風居《かぜい》の名前もあった。
違法物とはいえ、電脳麻薬に比べれば|悪《いた》|戯《ずら》の域を出ないものであった。警察もホンバンの夢を売る者に罰則を与えることがあっても、買う側まで取り締まるほど暇ではない。
目覚しテロリストたちに共通することは何か。
草薙は事件の一覧を展開する。
二〇二八年十月二十二日。|笠松《かさまつ》トウの新浜ペーパー・メディアヘの自爆テロ。事件当時十四歳。
同年、十月二十五日。|勝田《かつた》|英明《ひであき》の新浜市内、住宅地での自爆テロ。事件当時十四歳。
同年、十月二十六日。|村松《むらまつ》|巌《いわお》の新浜大学付属中等学校での自爆事件。事件当時十四歳。
同年、十一月二日。|真壁《まかべ》ロイ。博多で盗難車での自爆テロ。事件当時十四歳。
二〇二九年十月十八日。|日立《ひたち》|功治《こうじ》、|大甕《おおみか》|省吾《しようご》の博多での立て龍もり事件。事件当時十五歳。
同年十月二十日。|山方《やまがた》|智紀《とものり》のバスジャック未遂。犯人自殺による結末。事件当時十五歳。
同年十月二十三日。|利根《とね》ユウジ以下三名、テクノラインでの暴走、自爆。事件当時十五歳。
同年十月二十七日。|友部《ともべ》マイケル、関東|招慰《しようい》難民地区での難民解放デモ運動中に路上焼死。事件当時十五歳。
同年十月二十八日。|孫目《まごめ》ケイ。小松でのスポーツ大会における人質立て龍もり。その後、電脳自殺。事件当時十五歳。
同年十月三十日。|藤代《ふじしろ》|公一《こういち》の自爆テロ。事件当時十五歳。
同年十一月七日。|石岡《いしおか》トウジの乗用車強奪。人質をとったまま暴走。最後には自殺。事件当時十五歳。
二〇三〇年九月十二日。|結城《ゆうき》|允《まこと》は花巻警察署への自爆テロ未遂。事件当時、十六歳。
そして五日前。
志川|久光《ひさみつ》による大型家電専門店立て龍もり事件。事件当時十六歳。
年齢は現在のところ、十四歳から十六歳まで。
事件が起きた場所も違えば、目的も手段も異なっている。
時期が九月から十一月に集中しているという点だけが特徴的といえる。
だが、そこには統一性などなかった。
この事件の共通点はどこにあるのか。
事件を起こした少年たちのデータを展開し、草薙は一つの共通点に気づいた。
「全員、二〇一四年生まれか」
事件を追うごとに年齢が上がっているのは、この事件を引き起こす要因であるニ○一四年生まれの少年が成長しているからであった。
なぜこの年の生まれでなければならないのか。
歴史的に見ても二〇一四年に重要な事件が起きたという記録はない。
とにかく、この年に生まれた少年たちが〈目覚しテロ〉の重要な鍵を握っていることは確かだった。
そしてあの断片化した記憶も。
草薙は記憶の再生対象者の電脳構成に誕生年という参照項目を設定する。
二〇一四。
コードを入力し、記憶を再生し始める。
アダルト・ドリームが再生された。
しばらくは様々な性行為の記憶が再生されていく。
その中にあって草薙は冷静にそれを受け止めていた。
やがて『女教師と課外授業』が再生されたとき、異変は起きた。
これまで再生されていた場面に、ノイズ交じりの映像が断片的に登場していく。
その映像は旅客機内部の状況を映し出していた。
酸素マスクが天井から|吊《つ》り下がっている。
乗客たちのほとんどが膝を抱える形で椅子に脚を上げ、頭を座席より低く|屈《かが》める、緊急時の安全姿勢を保持していた。
機内の前方壁面には煙草の火を消すことを促す指示灯と、ベルト着用のサインがモニターに表示されていた。
大きな揺れを感じている。
だがその視点を強引に床へと固定する手があった。
母の手だ。そう記憶は告げていた。
やがて視点は自分の爪先に固定されていく。
そしてそれは起こった。
一発の銃声が機内に響く。
――ハイジャックか。
銃声がしただけで、誰が撃ったのかは見えない。おそらくこの記憶を持った人間は、顔を上げることなく、この事態に直面していたのだろう。
そして隣席で誰かが撃たれる。
記憶の主は母だと感じていた。
そして次は自分の番だと――。
――これは!
草薙の電脳に大量の記憶が流れ込んでくる。
父さんヘ――。
――この記憶は|遺言《ゆいごん》だ。
そう草薙が感じたときだった。
光と熱が周囲を包み込む。
白い。
すべてが白い光に包まれていく――記憶はそこで途切れていた。
草薙はその白い光の中に何かを見たような気がしていた。
そして何かを聞いたような気もしていた。
まるで何かが溶け合うような感触もあった。
「強制的に記憶を融合させようとする意思、か」
草薙はそう呟く。
イシカワが部屋に入ってきた。
「ああ、少佐、ここでしたか」
「なんだ?」
「例の〈北〉の洗脳装置、キー・コードのパターン解析なんですが、赤服たちの手を借りてようやく終わりましたよ。旧式の割には結構、手強い奴でした」
イシカワが話を続けようとしたところを草薙が|遮《さえぎ》る。
「どう手強かったのか、じっくり聞いてみたいところだけれど、先にキー・コードの解析結果をくれない?」
「ああ、すいません。コードNK2469で9課のデータベースに置いてあります」
「これね」
草薙はキー・コードを自分の電脳に落としこむ。
「少佐、そいつで何をするつもりなんです?」
「目覚しテロリストになった少年たち、全員が二〇一四年生まれという共通項が出てる」
「なるほど。発動条件が生まれた年に関係があったんですな。我々の目線で見たところで、解析できなかったはずですな」
「彼らが、テロ行為に出るきっかけが記憶屋の作り出したアダルト・ドリームである可能性が高い。そして十三例目の志川って少年が見た記憶の中に、気になるものが隠されているわ」
「気になるもの?」
「おそらくハイジャックに遭遇した少年の記憶。そして遺言情報よ。内容は確認できなかったけどね」
「ハイジャックの遭遇記憶で何をしようとしてたっていうんでしょうな」
「それを解く鍵が、この記憶を作り上げた記憶屋が使った〈北〉の洗脳装置のキー・コードじゃないのかしら。試してみるわ」
草薙は再び電脳を記憶箱へと接続する。
先ほど見た記憶にキー・コードを照合させる。すると記憶のリンク先が網目のように浮かび上がる。
『イシカワ、モニターしてる?』
『ええ。妙なパターンの構造ですな。ノードが一つの方向――辺縁系に集中するような構造になってる。まるで蜘蛛の巣だ』
『電脳内のノルアドレナリンの過剰分泌を促すようなシステムを形成しているようね。この構造は、そう。〈怒り〉を導く誘導プログラム。ある状況を打開するために突破しようという意思が生み出されるようになるわ』
『それがあの少年たちをテロに仕立て上げると?』
『いいえ。これだけじゃ、衝動性優勢型のパターンに|嵌《は》まっていくだけで、多少の性格変動はあっても、自己犠牲を求めるテロリストにまでなるとは考えにくいわ。テロリストに仕立て上げるには、もう一つ動機となる条件が必要になるわね』
『例えば、メディアのニュースで見た何かの事件で怒りを感じるとか――」
『外的要因が引き金となるケースは十分考えられるわ。でも、もし、この〈目覚しテロ〉が何かを狙った行為だとするならば、それだけでは特定の目的を持ったテロリストに育て上げることはできない。ただの無差別、無目的のテロリストが生まれるだけね。それはテロではなく、ただの狂人の犯行でしかないわ』
『だとしたら、最低限の保険をかけておく必要があるということですな。この記憶箱の記憶にそうした仕掛けがあるとは考えられませんか?』
『その可能性もあるわね。トレースしてみる』
草薙が記憶箱の記録の一つ一つを走査する。
ある目的を持って、テロリストに仕立て上げているのだとすれば、その起因となる記憶が残されているはずである。
志川が見た記憶から呼び起こされる〈怒り〉の因子のリンク先を探し出す。
検索結果はゼロ。到達すべきリンク先が存在していない。
存在するはずのものがない。
外的要因が引き金になるにしても、それが爆発するための火種は必要なのだ。
見えないが、確かに存在し得るもの。
それを探して記憶を注意深く走査していく。
それが向かうべきリンク先を多角的に走査していく。
草薙はネットのレベルを引き上げて、電脳全体をマクロ視点で|俯《ふ》|瞰《かん》|視《し》する。
記憶群の中に、認識情報のない、そこだけ隙間ができているような空間が存在する。
――これは何だ?
それは見えない記憶だった。
その空間には確かに記憶が存在するが、再生するために必要な認識情報が消されていた。
意味を持つ空白がそこには存在していた。
草薙が、〈夢屋〉の記憶箱の中にあった、アダルト・ドリームの再生の最中に見た白い光は、これだったのかもしれない。
『意図的に認識情報が消されている』
『そういえば、電脳障害の記憶治療の一環で、PTSD、つまり心的外傷後ストレス障害などの治療方法の一つに、記憶の再生を抑えるために、意図的に認識情報を削除し、記憶再生を不可能にしてしまう方法があります』
『トラウマとなる記憶を意図的に思い出させないという荒療治ね』
『トラウマとなるような記憶が他の記憶との関連性を保持している場合もあるんで、|迂《う》|闊《かつ》に消すわけにはいけないような場合を想定し、こうした方法が用いられていると聞いたことがあります。確か、軍などで帰還兵の心的障害を取り除く場合や、過酷な作戦に従事する際に恐怖に結びつく部分を一時的に思い出しにくくさせることで、恐怖を克服させる際に使われていたと思います。ドラッグの高揚感に頼るより確実ですからね』
『この記憶を再生してみるわ』
『モニターしておきます。気をつけてください』
『わかってる』
草薙はその記憶に仮の認識情報を与えて再生可能な状態に修復する。
そして自分の記憶野へと流し込み始める――。
まずは身体全体に加わる重力を感じていた。
次に手に振動が伝わる。
何の振動か。
手の形状から何かを握っている。おそらく|操《そう》|縦《じゆう》|桿《かん》だ。
視覚野に記憶が投影されていく。
雲海が広がる。
息苦しい。
顔を覆う圧迫感。
――マスク。パイロットの酸素マスクか。
飛行中の戦闘機に乗るパイロットの記憶だった。視覚野だけでなく、五感すべての感覚が記録されていた。
悪天候の中の飛行だった。
パイロットの緊張が伝わってくる。
草薙はその視界の中に映る計器から、ネットにある戦闘機の仕様を照合していく。
防衛省のデータベースにそれはあった。
――FA18Fか。
音速を超えている。
雲海が開け、視界の先に光点が見える。
航空灯と衝突防止灯だ。
民間の旅客機が前方を飛行しているのだ。識別信号は――JNA123。
JNA123。草薙の記憶のどこかに残されていた機体番号だった。
突然、警報が鳴り響く。
そして指に伝わるトリガーの感触。
不意に視覚が黒一色に覆われた――。
記憶がそこで途切れる。
同時に草薙の電脳に向かって何かが迫る。
――これは何だ!
暗い記録。
――この男は――?
瞬時に感じ取れたのはそこまでだった。
それ以上に危険を感じていた。
草薙が記憶箱との接続を強制排除する。
|刹那《せつな》、身代わり防壁が火花を噴き出す。
電脳からのソフトレベルでの排除では、システムロックされた段階で、操作不能に陥る可能性があった。
情報の不整合が電脳に残るなど多少のリスクはあるものの、ハードレベルでの、物理的な接続の排除こそが最も効果的な手段だった。
「危ないところだったわね」
「防壁の一種のようですな」
「何かが迫ってくる。それはわかったわ。軍の防壁にも似ていたかもしれない」
草薙が髪を|掻《か》きあげ、首のプラグを引き抜く。記憶箱に接続していたプラグの先が|焦《こ》げていた。
記憶箱を見ながら草薙が言った。
「この記憶、スクランブルで発進したパイロットの記憶だったわ。確かに、こんなもの、そう簡単に入手できるものじゃないし、それに――」
JNA123便。
草薙はネットの中から該当する機体番号を選び出す。
それはニュースサイトの中に数多く存在していた。
二〇二四年十月二十二日未明。
札幌発新浜行の国内線旅客機JNA123便が、進路を変えた台風十四号を原因とした悪天候の影響で、石川県沖四十キロの地点で墜落。乗員乗客百七十六名全員が死亡したと報じられていた。
台風一過の朝、墜落地点に急行した海上保安庁、自衛軍の|哨《しよう》|戒《かい》|機《き》によって海上に浮かぶJNA123便の尾翼と機体の一部が発見された。
台風後の高波の影響から、海底探査が行われたのは墜落の四日後。遺体や機体の残骸、そしてデータレコーダは潮に流されたと判断され、すべてを発見することはできなかった。
その後の調査で悪天候下での無理な飛行が原因とされ、様々な論議を呼んでいた。
操縦していた機長は飛行時間二万時間超のベテランであり、人為的なミスは考えにくく、予期せぬ機体トラブルがあったとも言われている。
また当時の死亡者の中に、防衛費縮小を公約し当選したベテランの野党議員、|大室《おおむろ》|大蔵《だいぞう》氏と、その秘書官が含まれており、大室の死により、防衛費の現状維持が決定したとまで噂されていたのである。
草薙はダイブルームを出ると、荒巻の執務室へと足を向けていた。
ノックなしにいきなりドアを開ける。
デスクの向こうに立つ荒巻に対し、|髭《ひげ》を|蓄《たくわ》え眼鏡をかけた男が、ちょうどソファの前に立っているところだった。
「ノックもなしになんだ」
「気にするな、荒巻。もう私の用件は済んだ」
「そうか、すまんな」
「それじゃ失礼するよ」
そう言って|久保田《くぼた》は部屋を出て行く。草薙は横を通り過ぎる髭の男に敬礼する。
草薙の背後でドアが閉まる音がした。
「陸自情報部の久保田部長――」
「国防大臣宛てに脅迫文が送られてきているそうだ」
「脅迫文?」
「内容は久保田のほうでも掴んではおらんそうだ」
「また軍の|尻拭《しりぬぐ》いに私たちが出動?」
「いや。サミットが終わるまでは、ナジフ氏警護が最優先だ」
「そのナジフなんだけど、〈目覚しテロ〉の最終目的が彼よ。記憶屋が組み上げた記憶の中に、彼を襲うよう、洗脳するプログラムが仕込まれていたわ」
草薙が荒巻にディスクを差し出す。
「これにその記憶が入ってる。〈目覚しテロ〉の捜査中に見つけたものなんだけど、記憶屋が扱ってる商品よ」
荒巻は受け取ったディスクを携帯端末へと|挿《さ》し込み、それを自分の電脳へと接続させる。
荒巻が|瞼《まぶた》を閉じる。
部屋の中に、重い沈黙が続く。
時折、荒巻の眉がぴくりと動く。
荒巻が記憶を再生しているのだろう。
そして荒巻は瞼を開き、草薙を見て言った。
「――少佐、この記憶の持ち主は?」
「おそらく記憶屋本人。これだけ他の記憶と違っていて、電脳全体のフォーマット係数の同期が一番取れていたわ」
「記憶屋が〈目覚しテロ〉でナジフ氏暗殺を狙っていたとでも?」
「〈赤い砂〉と佐渡山とを結んでいた点が記憶屋だったのかもしれない」
「記憶屋の正体は掴めそうか?」
「ええ、この記憶を持っていた記憶屋なんだけど、おそらく軍関係――FA18Fを操縦していたことから、空自の人間でしょうね」
「〈目覚しテロ〉の目的がナジフ氏であるならば、暗殺手段は何なのだ?」
「志川の電脳を洗いなおしてログを調べてみたんだけど、ネットを通じて、インストールされた記憶の修正プログラムが投げられていたわ。|傍《はた》から見ると単なるダイレクト・メールのデータなんだけど、この記憶に働きかけるパッチが分割送信されてる」
「意図的に関連性のない事件を装ったということか。そのメールの送信元は特定できておるのか?」
「小松からよ。バトーたちが向かっているはずね」
荒巻が眼光鋭く呟く。
「小松か――」
荒巻は携帯端末を取り出し、呼出ボタンを押した。
[#改ページ]
11
FA18Fスーパーホーネットが白いラインを青空に描いていく。
|轟《ごう》音がトグサの耳を支配している。
目の前に広がるどことなく前世紀の郷愁感を感じさせる|小松《コマツ》市の街並みと、一機あたり七十億円というスーパーホーネットが空を飛ぶ光景は言い知れないギャップを感じさせる。一世代前の機体ではあるが、電脳戦対応の仕様とすることで、いまだに現役の機体として国家防衛の主力兵器の一翼を担っている。
市街地からそう離れていないところに、航空自衛軍の小松基地があった。大陸を臨む、この国の防衛拠点である。前大戦でも、その|鉾《ほこ》|先《さき》は大陸へと向けられており、終戦を迎えた現在も変わることなく今に至る。既に鉾先の敵は亡くとも、鉾を向け続けている。
この街には軍人相手の店が多く軒を連ねている。街を走る車輛も、通常のナンバーではなく、軍を示す特殊コードを振られたナンバーの車輌が多い。街を歩く人々も基地に関わって生きていくことで、持ちつ持たれつの関係を保っていた。
そうした特殊な環境下だからこそ生まれる需要と供給の世界があった。無論、裏の世界の話である。トグサにはそうした世界のほうが馴染み深い。
アーケードのある繁華街の賑わいが遥か遠くに聞こえる。
繁華街から一本、通りを入り数百メートルほど行くと、町工場や倉庫などが目立ち始める。
戦時中、軍用機の製造整備を行う航空機メーカーの工場が基地周辺に誘致され、軍需産業の下請け受注を行う町工場が自然発生的にこの裏通りに集まっていた。
終戦を迎えた今、特注の義体に必要な微細部品を、手作業で作りだす職人が集まる町となっていた。
正直、栄えているとは言い難いところだった。昼日中だというのに静まり返っている。時析、部品を削る音がどこからか聞こえてくるぐらいだ。
アスファルトに染みついたオイルの染みが黒い。空気の中にも機械油の匂いが溶け込んでいるようにも感じられた。
その倉庫は似たような建物が並ぶ倉庫群の一つだった。
バトーとトグサはそこに踏み込もうとしていた。
トグサの手にはマテバM2008が握られている。
マキナ・テルモ・バレスティック社――マテバ社が製造する競技用として開発された六連装のオートマティック・リボルバーの最新モデルだ。フルラグ・バレルにつけられたシリンダーは撃鉄を引き起こしながら、シングル・アクションで次弾をバレルヘと送り出していく。特異な構造の理由は速射時における命中精度を上げるための工夫とも言われている。一癖あるトグサの愛銃だ。
平凡な倉庫だった。
外観から推測される広さは小型の体育館並み。バスケットボールのコートが一面入るかどうか。表を覆うシャッターには〈無断立入禁止〉の文字がペンキで書きなぐられている。
二階部分に窓があり、内側からブラインドが下りている。
倉庫の壁面には必要以上の空調の室外機が設置されていた。そしてそのすべてが稼動し、中の熱を外へと放出している。
シャッターの横に金属製のドアがあった。
出入口はここ以外にないようだ。
バトーがドアノブにそっと手を掛け、|眉《み》|間《けん》に|皺《しわ》を寄せ、トグサを見る。
『開いてるぜ』バトーが電通でトグサに告げる。
異変を感じ取ったバトーとトグサはドアの内側へと踏み込む。
ひんやりとした空気が足元から流れてくる。異常なまでに室内は冷やされている。
素早く銃と視線を向け、部屋の状況を把握する。
人影はない。
ただ機械だけが静かな稼動音を立てている。
バトーとトグサは銃をホルスターに仕舞い、部屋を見渡す。
「なんだこりゃ――」バトーが声を上げる。
狭い倉庫の内部にぎっしりと、天井近くに至るまで電脳機器類が積まれている。そこから延びるケーブルの先に、大人一人が入れる大きさのカプセルが設置されている。
それが数基並んでいた。
バトーが電脳機器をまじまじと見つめる。型式やスイッチの呼称は日本語ではなく、ハングルで表記されていた。
「こりゃ、〈北〉の洗脳装置だな」
「こいつが?」
「別名〈兵錬学習装置〉さ。こいつで勇猛果敢な怖いもの知らずの兵隊がたくさん生まれてくるのさ。もっとも、こいつを使う国はもう亡くなっちまってるがな」
「課長や少佐は、こいつで犯人が洗脳記憶を作り上げ、ばら|撒《ま》いてたって言ってたが――」
トグサがカプセルの中にある物を見て声を上げる。
「旦那!」
トグサの声にバトーがカプセルを覗き込む。するとその中には|年《とし》|端《は》もいかない少年の顔があった。
「ガキだと?」
「こっちもだ」
並んでいるカプセルを覗き込むと、そこには都合六体の人間が入れられていた。生身の人間ではない。そこにあるのは義体だった。
すべてが子供から少年にかけての年代――つまり十代の少年に見えた。
それを見てトグサが|呟《つぶや》く。
「これ、なんとなく、みんな同じ顔に見えないか?」
バトーもトグサの顔に顔を近づけて見る。
言われてみれば確かに似ているようにも見える。そしてバトーは一つのことに気づく。
「こりゃ似てる、似てねえの問題じゃねえぞ。全員、同一人物の義体じゃねえか」
バトーがそう言ってカプセルの一つを開ける。一番大人っぽい顔つきをしている義体だった。
「標準型じゃねえな。顔は造顔作家の手にかかったデザイナーズブランドだ。それもご丁寧に六体も並べやがって」
そう言いながらバトーは義体の首筋にケーブルを挿し込む。
バトーの眉間に縦皺が寄る。
「外見はできてるが、中身はからっきしだな」
「どういう意昧なんだよ?」
「こいつの電脳の中身は記憶がいくつか突っ込まれてるだけだ。そのどれもこれもが他人の記憶さ」
「他人の?」
「ああ。どういう理由かわからねえが、こいつの義体には同世代の少年たちの|生《なま》の記憶が抜き取られて放り込んである。好きな女のこと、バイクのこと、戦争のこと、そして将来のこと。みんなこの年頃のガキが経験してそうなもんばかりが詰まってやがる」
「――ちょっと待ってくれよ、旦那。ここでは〈記憶屋〉が〈赤い砂〉に武器を渡すことになってるんだよな」
「ああ、そうだ」
「じゃあなんでここにこんな記憶だけ詰め込んだ人形みたいなもんがあるんだよ?」
バトーは洗脳装置に目をやる。
「意図はわからねえが、とりあえず詰め込まれてる記憶を抜くぞ。手がかりがこれしかない以上、こいつに何かあるんだろうさ。俺はここをやっちまう。お前は反対側のカプセルの中を覗いといてくれ」
「わかった」
バトーはバックアップ用の簡易な情報端末を腰のポーチから取り出し少年の電脳にアクセスする。
「ゴーストラインなんかありゃしねえ。AIも積まれてねえってなると、ただの外部記憶装置ってことも言われかねねえなあ」
バトーは抜きながら記憶情報を眺める。
「ふん、女の裸に、青臭い体験談の数々かよ。|反《へ》吐《ど》が出るぜ」
「旦那!」
バトーが見ると、トグサの目の前のカプセルの中に人間が収納されていた。
バトーがロックを外し、カプセルを開く。
生臭い臭気が鼻をついた。
初めて見る男の顔だった。
年齢は五十を少し出たところか。|顎《あご》|髭《ひげ》に白いものが混じり始めている。
上半身には耐水・耐熱加工が施されてはいるが、色|褪《あ》せ、日に焼けている状態から、その効果が持続しているとは思えないようなフライト・ジャケットと、その下には|襟《えり》が黒く変色したようなポロシャツを身につけていた。
下はもともとの色が何色であったのか判別のつきかねるカーゴ・パンツをはいていた。靴は編み上げの|半《はん》|長《ちよう》|靴《か》だ。爪先に入った金具が革の間から覗いていた。
男の太い横皺が二本刻まれた額に、黒い穴がぽっかりとあいている。
バトーが男の肩を掴み、前に引き倒す。
ぐらり、と動き、男の後頭部が、バトーの肩口から覗いていたトグサに直面する。
「う――」
白い脳殼が剥き出しになっていた。
アルミと人工頭蓋でできた普及品の脳殼だった。その脳殼の後ろ半分が吹き飛び、マイクロマシンの満ちた|脳《のう》|漿《しよう》と、赤黒く変色しつつある血液とをカプセルの中にぶちまけていた。
飛び散った脳殼の破片や肉片、そして脳漿と血液がカプセルの背もたれの部分をぬるりと流れ落ちる。
「至近距離から一発か」
バトーがそれを指で|掬《すく》う。指の跡を背もたれに残し、それはバトーの指にねっとりと付着する。
まだ乾ききってはいなかった。
「それほど経っちゃいねえな」
背もたれの頭にあたる部分に黒い穴があき、下地の奥にある金属板のところにひしゃげた銃弾が覗く。
バトーはそれをポケットから取り出した、ビクトリノックスの刃先で|抉《えぐ》りだす。
「九×一九ミリか」
バトーは男の死体をカプセルに押し戻すと、屈みこみ、カプセルの下に落ちているものを探し始めた。
「あったぜ」
そう言ったバトーが体を起こしたとき、その指先に|薬《やく》|莢《きよう》が|摘《つま》まれていた。
「こいつを|殺《や》った奴ぁ、相当焦ってたのか――後始末を忘れてやがる。その手のプロってわけじゃなさそうだ。こんな大事なもん、忘れていきやがるし、こいつを殺すにしても最低ニ発は撃ち込むだろ」
「旦那」
男の死体を見ていたトグサが、男の腰の後ろのホルスターに|挿《さ》されたままの54式拳銃を抜き取り、弾倉を取り出す。グリップには中国製の粗悪コピーであることを示す黒星が刻み込まれていた。
弾が撃たれた痕跡はない。
「抜き取る前に殺されてるってことは、殺されるはずじゃない局面で殺されたってわけか」
トグサが立ち上がり、男の顔を見つめる。
「こいつは誰なんだ?」
「俺たちが会いたがってた武器密売人――少佐の捜してる〈記憶屋〉本人かもしれねえな」
「こいつが?」
「もう少しデータを集めねえと確証は得られねえが――」
そうバトーが言ったときだった。
外からエンジンの音が近づいてくる。
トグサとバトーの注意が外に向いた。バトーはシャッターまで走りより、新聞の受け入れ口からそっと外を覗く。
外には一台の小型トラックとバンが止まっていた。バンから五人、男が降りてくる。
「一人は素人。残りはプロか」
――逆見の奴が裏切ったんだ。
先頭に立っている事務屋風の七三分けの男の|喚《わめ》き声が耳に届く。事務屋の手にはSIGザウエルP220が握られていた。
黙れと□に手を当て、周囲の四人が男をバンに押し戻す。その手にはスコーピオンVz61が握られている。チェコ製で主に特殊部隊が用いる性能のいいサブマシンガンだ。やや時代遅れの感はあるが、携帯性や、取り回しのよさなど、今でも現役で使用されるだけの理由があるのだろう。
男たちは周囲をざっと見回し、人気がないことを確かめる。そのうちの一人が小型トラックの荷台のドアを開く。
「!」
バトーは小型トラックの後輪が異常に沈み込んでいることに気づく。トラックの荷台が大きく揺れ、何が積まれているのかを悟った。
バトーがトグサに向かって電通する。
『上だ!』
トグサは二階部分の事務所へと続く階段を駆け上る。バトーもシャッターから全力で離れ、階段を二階部分まで跳躍する。
そのままの勢いでドアを突き破り、二人が事務所に転がり込んだ瞬間、一階の倉庫部分を覆っていたシャッターが爆音と共に吹き飛んだ。爆発の震動が事務所の床を揺らす。
「何なんだ!」
トグサが叫ぶ。バトーが返した。
「思考戦車だ」
シャッターであった金属板の集合体の向こうから、光学迷彩を施した思考戦車の輪郭が爆発で舞い上がった|粉《ふん》|塵《じん》に浮かび上がる。
「何であんなもんが」
「掃除をしに来たんだろ」
思考戦車の前方には二門のグレネード砲が取り付けられていた。そのグレネード砲が続けざまに火を噴いた。
倉庫にうずたかく積まれていた電脳機器や、洗脳装置のカプセルがただの|鉄《てつ》|塊《かい》へと姿を変えていく。
思考戦車の後ろから現れた男たちが倉庫に何かを仕掛けていく。
C4だ。
「旦那!」
「奴ら、ここを跡形もなく消し飛ばすつもりか」
「俺たちもか?」
「ここにいりゃそうなるな」
「どうするんだよ?」
「幸い奴ら、俺たちの存在には気づいちゃいねえ。空でも飛んで逃げるさ」
「空?」
爆音と震動が同時に襲ってくる。
事務所の天井の蛍光灯が落下し、派手な音を立てる。
二階の存在に気づいたのか、思考戦車がグレネードの砲口を二階へと向けた。
「行くぜ!」
言うなり、バトーはトグサの体を抱え、ブラインドの掛かった窓へと走り出す。
「おい、旦那――」
「俺を信じろ」
バトーがFNハイパワーの一点射撃で窓ガラスを撃ち破る。
ガラスが砕け、外へと光りながら散っていく。下に停まっていた小型トラックと、光学迷彩をかけていたアームスーツの輪郭が浮かび上がる。
バトーはトグサを抱えたまま、窓枠に足をかけ、一気に跳躍した。
通りを飛び越えた向かいの倉庫まで、距離にして十二メートル。高さは十メートルを超えている。
一瞬のことだった。
二百キロを超える重量でこの距離を飛んだのだ。
義体ならではのパワーがそれを可能にしていた。
バトーの背中で爆発音が聞こえた。さっきまでいた事務所が倉庫下から撃ちだされたグレネード弾の直撃を受け、床が爆発したのだろう。
下で男たちの声が上がるのが聞こえる。
ドン、と重い音を立て、バトーとトグサは向かいの倉庫の屋上に着地する。屋根を覆っていたコンクリートがバトーを中心に|剥《はく》|離《り》し、四散する。勢い余って放り出されたトグサが転がり、屋上から落ちる寸前でようやく止まる。
顔を上げると、先ほどまでいた倉庫が爆発音と共に激しく崩落を始めていた。死体も洗脳機械もすべてが焼け焦げ、|瓦《が》|礫《れき》の下に埋もれていく。バトーは素早く屋上の縁まで|匍《ほ》|匐《ふく》|前《ぜん》|進《しん》で体を進める。
下を覗くと、七・六二ミリの弾幕がバトーを迎えた。素早く頭を引っ込める。髪の毛が数本、持っていかれる。
「どうする、旦那。逃げたはいいが、袋の|鼠《ねずみ》に変わりはないぜ」
「|窮鼠猫《きゆうそねこ》を|噛《か》むって言葉もあるんだろ」
弾幕が落ち着くのを待ってバトーが素早く下を覗き、FNハイパワーを撃ち込む。
逃げ遅れた一人に当たる。
倉庫の中から思考戦車が姿を見せる。グレネード砲がこちらを向いている。
「やべえ!」
トグサとバトーが屋上を奥へと転がる。
グレネード弾が命中する。
コンクリートの瓦礫を舞い上がらせ、屋上の縁が吹き飛んだ。
遠くからサイレンが近づいてくる。消防車と救急車のサイレンだ。
路上で車のエンジン音がする。
「――終わりか」
トグサが顔を覗かせると、小型トラックのハッチが閉められるところだった。
男の一人が屋上を振り仰ぎ、スコーピオンを向ける。トグサが慌てて頭を引く。
車のタイヤを鳴らして、狭い路地をバンと小型トラックが遠ざかっていった。入れ替わりに、消防車のパトライトの赤い光が倉庫街を照らす。
「ようやく来たか」
「旦那が呼んだのか?」
「ああ。思考戦車を見た段階で、俺の中の善良なる一市民が火事だって連絡を入れたのさ。あんなのとまともにやりあってたら義体の交換だけじゃ済まねえだろ?」
「俺は義体じゃないって。必要に迫られない限り、生まれたときから付き合ってる身体に|拘《こだわ》っていたいね」
倉庫下で集まった野次馬がこちらを見ていた。
「俺たちも|退《ひ》くぜ。マークが外れちまった以上、ここにいる理由はねえ。それに軍が介入してきた以上、作戦を練り直す必要が出てきた」
「そうだな――」
そう言ってバトーとトグサは倉庫街を後にした。
その倉庫の炎上する光景を眺める野次馬の中に、十六歳の目があった。
その目は一つだけではなく、次第に数を増していった。
その目は、目の前で起きた事実を、ただ受け止めていた。
固く、拳を握り締めながら。
[#改ページ]
12
メディアの報道番組はすべて、中東和平の立役者であるナジフ=オスマルが、中東アジアの|暫《ざん》|定《てい》代表として、マイクロマシン環境サミットに出席のため来日したことを伝えていた。
|新浜《ニイハマ》国際空港に着陸した国際線から降り立つナジフは、厳重な警護に囲まれ新浜国際ホテルヘと向かうと、現地レポーターが伝えていた。
ナジフの傍らには見覚えのある顔があった。
ひとりの女性が、ナジフに寄り添うように張りついている。
――あれは確か、少佐って呼ばれてた女刑事か――。
風居はパジャマ姿のまま、病院の食堂でそれを見ていた。
どこにでもある標準型の女性義体である。風居の思い過ごしなのかもしれなかった。
風居は手にしたフォークをテーブルに投げる。
目の前には空っぽになった食事のトレイが置かれている。
味のない、くそまずい食事だったが、舌よりも身体がそれを欲していた。
――このままここにいたら健康になっちまう。
そう皮肉めいたことを思い浮かべることしか、ここではできない。
朝七時に起床し、夜九時には消灯である。
電脳系の治療に専念するために、ネットにも接続できない。
素っ気なさすぎるほど、無機質な病院の内装には既に飽きが来ていた。
施設の寮から運び込まれて四日が|経《た》っている。手足の|麻《ま》|痺《ひ》もだいぶ取れてきたようだった。もう走ったり、跳ねたりしても手足がついてくるようにはなっているだろう。
寮の友人の竹河は、風居がここに運ばれた初日に来たきりで、あの日以来、顔を見せる事はなかった。自分が連れて行った〈夢屋〉が原因で、風居が救急車で運ばれるような騒ぎを起こしたために顔があわせづらいのだろう。それに、病院で竹河が面白がれるようなものは何一つなかった。
電脳神経系の病棟にはあまり若い人間はいない。十代でここにいるのは風居だけかもしれない。電脳硬化症や、電脳閉殼症といった、電脳特有の症状の治療のために入院している初老の人間がほとんどだ。
退屈だった。
あと一日、明朝の検査で問題がなければ退院になる。それが待てない。そう感じている。
もうすぐ消灯時間が近いせいか、食堂内の明かりも半分が消されている。
風居と同じように退屈を持て余している患者たちが、所在なく、頑固に残っているだけだった。
そのうち巡回の看護師がメディアのスイッチを消しに来る。退屈なベッドに戻れと無言で命令するのだ。
「そうだったのか」
風居は思わず言葉を口にする。
声が想像以上に食堂内に響いた。食堂にいた数人の患者が一斉に風居を振り返る。だがすぐに関心なさそうにメディアに視線を戻していった。
――ここは、あの頃の生活と同じ感じがする。
電脳化前の|辛《つら》い日々。
息詰まるような圧迫感と|閉《へい》|塞《そく》|感《かん》。そして何かに追い立てられるように、一日一日を生きていかなければならない|焦《しよう》|燥《そう》|感《かん》。
名前も、自由も、人間としての尊厳も、そして未来さえも奪われた日々。
選択の余地なく進まざるを得なかった工科学校も、国の平和のため、自らを鍛えるため、仲間意識を高めるためと、すべて|建《たて》|前《まえ》のために縛られた日々だった。
そして今、身体に悪いから寝なければならない。食べなければならない。落ち着かねばならない。廊下を走ってはならない。騒いではならない。何をしてもならない。病院での生活も規則という強制力で束縛された、拘束生活でしかない。
――それは君が自由を欲しているからだ。
いつの間にかテーブルの向かいの席に少年が座っていた。あのとき、会った少年だった。
――どこで会った?
ずっと昔から知っているような気がしていた。
――随分と前から。
そう少年が答える。風居と同じ答えだった。
そして少年はこう告げた。
――君はもっと自分に正直にならないといけないね。いつも君は感情を抑えている。君はもっと正直に生きるべきなんだよ。泣きたい時は泣けばいい。笑いたいときは笑えばいい。怒りたいときは怒ればいいんだ。感情をもっと表に出して生きていってもいいんだよ。君はもう自分自身で歩いていけるはずなんだから。
少年が立ち上がり、手を差し伸べていた。
風居は自分が何をしたいのか、それを考えた。
自分は何をしていけばいいのか。何を信じて生きていけばいいのか。
――君の内に|湧《わ》く感情のままに生きればいいんだよ。
少年が|囁《ささや》く。
自分の中に湧き起こるもの。
熱いものだ。
熱く|滾《たぎ》る何か。
それが噴出せずに、腹の奥底で溜まっている――ちょうどマグマが噴火できずに圧力を増しているような、そんな感じだった。
風居は、自らの意識の中に芽生え始めた何かに|戸《と》|惑《まど》っていた。
この病院という閉鎖されたシステムを支配している医師や看護師の白衣姿に、空々しさを感じてしまう。
患者は奴らの実験体であり、金のなる木なのだ。
メディアでニュースに合わせて感情を露骨なまでに表すキャスターのポリシーのなさに腹が立つ。
奴らは言葉ですべてを正当化する。
そんな奴の着ているシャツの白さまでもが憎かった。
奴らは世界中を白く塗りつぶしちまう。
世界全てが白ければそれでいいのか。
お前にはお前の色があるのだろう。
お前は真実を口にしているのか。
真実を俺達に伝えているのか。
お前の言う事が真実なのか。
真実だと誰が知っている。
真実は誰が決めるんだ。
それはお前じゃない。
俺が決めることだ。
俺がすることだ。
何をするのか。
風居の思考が徐々に短絡化していく。何がそうさせるのかはわからない。ただ頭の中で何かが叫んでいるような気がしていた。自分が何をすべきなのか。それがわかっているような気がしていた。
風居は席を立つ。食堂の安いパイプ椅子が床と|擦《す》れて不快な音を立てた。
食堂にいた患者たちが一斉に風居を見る。
風居はただ一点を見つめていた。
何かが呼んでいた。
記憶の中に向かうべき場所が記録されていた。
「行かなくっちゃ」
そう眩き、風居は食堂を出て行った。
メディアのニュース映像の中で、ナジフ=オスマル氏が歓迎の花束を手に笑っていた。
白い歯がこぼれていた。
翌日、看護師が起床を知らせるため、病室を回っていたとき、風居の姿はなく、空のベッドが冷たくなっているだけだった。病院から連絡を受けた新浜陸上自衛軍少年工科学校の寮にもその姿は見られなかった。〈理由なき失踪〉という、十代によくある家出症候群の一種ということで、数日の間、様子を見るという、珍しくもない処置がなされた。警察に捜素願が届けられることはなかった。
この日、十六歳の少年たちの〈理由なき失踪〉が、全国で同時多発的に起きていた。
[#改ページ]
13
|新浜《ニイハマ》の高層化した街の明かりが遥か天空まで伸び、地上に現れた銀河の如く光を密集させて輝いている。
その中に幾条もの筋となり、銀河に集まる光の川がある。新浜の街を縫うように造られた高速道路群であった。
その上を黒塗りのリムジンが走っていた。
前後には護衛のSPの乗ったバンが二台ずつ走っている。
街の光が黒いリムジンの車窓に映り、輝いていた。その輝きの向こうに、鋭い視線を走らせる|草薙《くさなぎ》の姿があった。
ナジフ氏を中央に、草薙とトグサがその両脇を固める形で後部座席に収まっている。
窓の外に視線を住いだまま、草薙がトグサに電通する。
『|小松《コマツ》で介入してきた軍の消息は掴めた?』
『今のところ何も――』と、トグサも窓の外に視線を向けたまま答える。
『記録を洗っても、何もでてきませんでした。課長から軍の件は自分に預けて、ナジフの警備を固めろって命令されたんです。でもこれって用心しすぎじゃないっすかね?』
ナジフの提案により、偽装した同型のリムジンが六台用意され、すべてが違うルートを取り、時間差を取って新浜国際ホテルを目指していた。各ルートは走行前に封鎖されており、リムジンがポイントを通過して十分以上たってから、ようやく封鎖が解除されている。
今走っているルート自体、ナジフが空港に到着後、渋滞や事故などの交通事情を考慮した上で、ランダムに選び出したものである。
草薙が横のナジフを見る。
彫りの深い顔からは、長旅の疲れや、命を狙われているという焦燥や恐怖は|微《み》|塵《じん》も感じられない。中東アジアを代表する男としての威厳が溢れていた。自らが麻薬密売組織の暗殺の対象となっていると知りながら、正義と信念のもと、危険とされていたサミット参加を決めたという。祖国の未来のために命を賭しているのだ。
貧困をなくすために、麻薬栽培に取って代わる産業として、枯れた大地にマイクロマシン産業の誘致を行う――そのために、アジア諸国を巡る多忙な日々を送っていると聞いている。大胆な性格に見えるが、その裏で用意周到な偽装工作を行うなど、臆病とも思える|緻《ち》|密《みつ》さもあわせ持っている。それが、ナジフ=オスマルに対面し、草薙が感じたことだった。
『ルートE異常なし』
『ルートC異常なし』
妨害などの有無を伝える定期連絡の暗号電通が警備関係者の間で飛び交う。
『ルートB異常なし』
草薙が定期連絡に応える。
『ルートA、対向車線を逆走する暴走車を確認』
車中に緊張が走る。
――仕掛けてきたか。
『ルートA、暴走車が中央分離帯を乗り越えて後方に進入』
『ルートC、暴走車確認!』
『ルートF、こちらもです!』
同時多発的に複数のルートが狙われ始めた。
草薙はこのルートに危険が及ぶ可能性を危惧する。
「トグサ、対向車線に異常は!」
「今のところ異常は認められません」
トグサがそう告げたときだった。
草薙たちの乗ったリムジンの前方に分岐路が見えてくる。それは、高速道路が幾重にも重なり合い分岐する立体交差へと続いていた。
その一つ、リムジンが走る高速と直角に交わる立体交差のガードレール部分に、異常が現れ始めていた。
激突音が響き、ガードレールが外側に向かって変形し、次第にその|歪《ゆが》みが大きくなっていく。
ガードレールの背後に、巨大なタンクローリーのタンクが覗く。
このまま進めばタンクローリーが落下してくるのは目に見えていた。
草薙は、衛星の交通情報から落下しそうなタンクローリーのデータを探し出す。
電脳に映し出される表示には、タンクローリーが、積載量ギリギリにガソリンを積んでいることが示されていた。
前方を走る、SPの乗ったバンのブレーキランプが光る。
「ぅわ!」
運転手はそれに連動し思わずブレーキを踏んでいた。
「止まるな、進め!」
ナジフを狙う〈赤い砂〉のテロリストの目的は、暴走車によるリムジンの直接破壊ではない。走行しているリムジンを足止めし、第二撃を確実に加えてくるはずなのだ。
それを看破した草薙が、リムジンの走行システムをハッキングする。
ブレーキのために、車重が前方に寄っている。前進しようとする後輪の回転が加わり、わずかに曲がった|舵《だ》|輪《りん》がエネルギーを横方向に逃がす。リムジンは大きくスピンし、真後ろを向き始めていた。
草薙は一瞬、アクセルをオフにし、リムジンのコントロールを慣性に委ねる。そして再びリムジンが前方を向こうとした瞬間、ハンドルを逆に切り、リムジンの向きをコントロールする。
前方で停まろうとしているバンを|躱《かわ》しながら、方向を微妙に変えていく。
タイヤが大きく悲鳴をあげていた。
車窓から飛び込む街の光が線となって流れる。
その光が安定し、線から点に戻る。
アクセルがオンになった。
前方向へと押し出されるようにベクトルが加わったリムジンは、一気に前へと突き抜ける。
ここまでが、ほんの一瞬のことだった。
この様子をリムジンの中から見ていたトグサの脳裏には、家で待つ妻と二人の子供の姿が|過《よ》ぎっていた。それでもナジフ氏の身体を自らの身体で覆い、少しでも|盾《たて》になろうとしたのは、職業意識が骨まで染みついている|証《あかし》だろう。
大きな音を立て、ガードレールを突き破って、巨大なタンクローリーが上から進行方向にコマ落としで落下してくる。
リムジンはわずかに早く、タンクローリーの着地点を通過し、立体交差の下へと潜り込んで行く。
リムジンの後方で爆発が起こる。爆炎の速度はリムジンのそれを上回り、一度、視界が炎で覆われる。
包み隠そうとする炎の魔手を振り切って、リムジンは立体交差を抜け、新浜の街へと入っていく。
ルームミラー一面に赤い壁が映っていた。
「トグサ」
ナジフに覆い披さるトグサに、草薙が声をかける。
「え――」
草薙の声に顔を上げたトグサは、リアウィンドウ越しに遠ざかる景色を見て、何か起きたのかを瞬時に悟っていた。
草薙はナジフにも声をかける。
「もう大丈夫です」
「ありがとう」
ナジフは落ち着いた態度で礼を述べると、頭を下げる。そしてありのままを受け入れようとするかのように、後方の炎を見てやや表情を|翳《かげ》らせたが、それ以上は何も言おうとはしなかった。
自らが歩む道の前にも後にも、こうした破壊と|殺《さつ》|戮《りく》が繰り返されていくことなど、とうに覚悟しているのだろう。
感傷に|耽《ふけ》ることなく、自らの歩むべき道を|見《み》|据《す》えている男の顔だった。
そのナジフを暗殺しようとする者がいる。
突然のルート変更は、その回避策の一つとして、ナジフの提案で決まったものだ。
このルート変更を知っているのは、警護の関係者以外に考えられなかった。
――敵は身内にあり、か。
草薙がそう思ったとき、次々と他のリムジンから連絡が飛び込んでくる。
『ルートB、トラブルを回避。行動を継続する。連絡を請う』
『ルートC、障害を排除』
『ルートA、障害を排除。ただし行動不能。救援を求める』
『ルートD、銃撃応戦中』
『ルートF、Eの状況は?』
返答がない。
「やられちまったのか」
トグサが拳を|掌《てのひら》に叩きつけ、苦々しく顔を|顰《しか》める。
「冷静になれ。今はナジフ氏を宿泊先へと送り届けるのが先決だ。襲撃がまだ予想される以上、対応を取らなければならないが――」
草薙がそう言いかけたとき、ナジフが口を開く。
「提案があるのだが――」
草薙はナジフを見た。
[#改ページ]
14
狭く暗い部屋だった。
天井の高さも低い。
その低い天井に小さなモニターがつけられていた。そこに炎上するタンクローリーが映し出されている。そして次々と高速道路で起きた事故の映像が流されていく。
ニュースの映像らしかった。
音声が消されているため、詳しい状況はわかっていない。
そこにナジフ=オスマルの顔が映し出される。
続いてナジフが新浜国際ホテルのロビーヘとSPに囲まれて入っていく様が映し出されていた。
「我が同朋たちは尊い命を落とした。だが機会はまだある。必ずある。次の機会に必ず目的を|叶《かな》えようではないか」
偉そうな大人の声が聞こえる。
姿は見えない。
電脳に直接響く音声だった。
その声に応え、闇の中で一斉に|頷《うなず》く気配がする。
五人、いや十人、それ以上いる。大勢の気配だった。
――僕たちがしたいことは、こんなことじゃないよ。
あの少年が|囁《ささや》いた。
彼は常に僕の目の前にいた。
今、彼は偉そうな大人の横で笑いかけている。
初めに会ったとき、彼はまだ十歳の姿をしていた。だが今は僕自身と同じ、十六歳の姿形をしている。
初めて会ったのはいつだったろう。
もうそんなことはどうでもいいと思っているのだが、意識の奥底でそれを求める声がする。
――うるさい。
その声を強引に意識の深淵へと沈めていく。次第に声が遠ざかっていく。
これでいいんだ、と思う。
僕は彼の言う通り、ついて行けばいいのだ。それが自分の信じた道であり、自分が向かうべき道なのだから。
その通りだ。
少年が頷く。
――君はよく僕について来てくれたね。それももうすぐ終わるんだ。僕らは僕らだけができることをやらないといけない。そのために、僕らはここにいるんだから。
その通りだ。
僕が頷く。
――僕ら全員が僕であり君なんだ。
「――しようじゃないかっ!」
偉そうな大人が|陶《とう》|酔《すい》しきった声で何かを言っていた。
僕たちに|檄《げき》を飛ばしているつもりらしい。
お前なんか関係ない。僕らは僕らのやりたいようにやるのだ。お前に言われなくてもナジフだか、なんだか知らないが、そいつが僕らの邪魔をするつもりなら消してやるよ。その気になれば僕らはお前なんか消してしまえるんだから。お前には僕らが必要だろうけど、僕らにはお前が必要ない。
少年がそう言った。
僕もそう言った。
僕以外の大勢もそう言った。
この狭い空間の中で何かが満ち溢れるのを感じていた。それは肌に突き刺さるようにピリピリした刺激だ。
そしてこの手の中にある、黒くて硬く冷たい|塊《かたまり》。
これが僕らの力だった。
これが僕の力だった。
これが少年の力だった。
――僕らは静かに時を待つだけだ。
[#改ページ]
15
|新浜《ニイハマ》国際ホテルの最上階に位置するスウィート・ルームはマイクロマシン環境サミットの期間中、ナジフ=オスマル氏以外の泊まり客をすべて断っていた。またこの下に位置する階も急遽、泊まり客をキャンセルするよう、警備を担当する警視庁よりホテル側に要請があった。
ホテルのロビーにまで物々しい警備態勢が敷かれていた。プロテクタに身を包んだ機動隊が、ホテルから空港に至る道路に一定区画毎に立っている。隊員すべてが|SMG《サブマシンガン》で武装し、|四人単位《フオウ・マン・セル》で巡回していた。
先の高速道路上での襲撃を受け、警視庁は新浜国際ホテルの警備に予定の倍の数を投入せざるを得なかった。
ホテル上空を警察のヘリが往復していく。
草薙はこの様子を、新浜国際空港にほど近いエアポートホテルの一室から眺めながら、公安9課課長、荒巻大輔からの電通を受け取っていた。
『高速道路でルートAからルートFまでの経路を襲撃した暴走車及び事故車輛だが、当局が拘束した搭乗者及び同乗者全員が、二〇一四年生まれの十六歳の少年たちだった。収容された生存者の電脳内には断片化した記憶が存在しており、キー・コードで照合した結果、記憶屋の作成した洗脳記憶の痕跡も発見された』
『ナジフを狙っている以上、コントローラは〈赤い砂〉が握っていると考えるべきね』
『記憶屋が死んでいる以上、そうなるな』
『その〈赤い砂〉が、私たちの使ったルートを割り出す時間が、シミュレーションより二分以上も早かったわ。誤差を含めても、情報が|漏《ろう》|洩《えい》していない限り、あり得ない数値よ』
『――内通者の可能性を考慮したほうがいいようだな』
『ナジフ警護に間する情報を知っているのは警視庁の上層部と、軍上層部。そして公安1課、6課、9課の総理直属の特殊機関だけ』
『この中に〈赤い砂〉と繋がりのある人間がいるということか』
『そういうことになるわ』
『わかった。関係者それぞれの背後関係をパズ、ボーマに洗わせる』
『了解。課長、このホテルにナジフが滞在していることを知っている人間は?』
『今のところ、わしを含めた9課全員と、内閣総理大臣に留めてある』
『そう。今夜のところは安心して眠れるかもしれないわね』
『ナジフにはそう言っておくがいい。お前とトグサはナジフがサミット会場入りするまで、不眠不休の警護を継続だ』
『――了解』
本当に、優しさなど存在しない職場だと常々思う。だがこのシビアな環境の中にこそ、己が生きるに足るだけの充実感があるように感じられるのだと、草薙は思っている。義体の体が疲労を感じることはほとんどない。生身の頃から付き合っている脳の一部だけが疲労していく。緊張状態の中にあるとはいえ、脳の機能を最大限に活かすための休息は、可能な限り取るようにしている。
今はそれができる時なのかもしれない。
高速道路での妨害に遭遇し、ナジフ氏の提案で、新浜国際ホテルヘの宿泊は急遽取りやめることとなった。
代わりに選んだのは空港に近いというだけが取り得でしかない、エアポートホテルだった。
新浜国際ホテルに比べれば、ランクは二つほど下になる。だが草薙は、ナジフ氏が泊まるような場所ではないという、意外性に賭けてみることにしたのだ。
ナジフが宿泊していると大々的に報じられている、新浜国際ホテルを襲撃されれば、それですべてがおしまいになるのだ。
〈赤い砂〉がナジフ暗殺に総力戦を仕掛けてきている以上、リスクは回避しなければならない。
先の高速道路の暴走で拘束された〈目覚しテロリスト〉の数は十四名。一度にこれだけの数が現れたのは初めてだった。
統制も取れているようだった。
おそらく、これまでの〈目覚しテロ〉事件は、洗脳プログラムの微調整を兼ねた試験に過ぎなかったのだろう。志川久光の事件を最後に〈目覚しテロリスト〉たちは、組織だったテロ集団へと進化を遂げようとしていた。
だが、彼らがある種の洗脳を受けているのだとすれば、何者かがそれを促しているはずである。〈目覚しテロ〉を誕生させる記憶を作り上げた記憶屋は既に死んでいた。だとすればそれは誰か。
草薙のもとに電通が入る。
イシカワからだった。
『少佐、バトーたちが小松で発見した少年義体の中にあった記憶なんですが、その中から志川久光本人の記憶が発見されました』
『志川の記憶が?』
『ええ。内容はどうしようもないものなんですが、そうした記憶が志川をはじめとして三十名分ほど集められています』
『そうか。新浜電脳街で〈記憶屋〉として動いていたのは、そこにいた男に間違いなさそうだな』
『その男の身元も判明しています。名前は|逆見《さかみ》|滋《しげる》』
『逆見?』
『ええ、逆見です。年齢五十二歳。こっちが思った通り、元小松基地勤務のパイロットです』
『退役の時期は?』
『六年前の十一月。理由は一身上の都合です。身上を調査したんですが、逆見の息子がこの一週間前に飛行機事故で亡くなってます』
『――逆見|悟《さとる》か?』
『JNA123便の墜落事故で亡くなった少年です。死亡当時十歳。息子の死に衝撃を受け、操縦桿が握れなくなったんでしょうな。その後は記憶屋として裏金を稼ぎながら、そのすべてを死んだ自分の息子そっくりの義体を作り上げることに注ぎ込んでいたんじゃないでしょうか』
草薙は記憶屋が――逆見が扱っていた記憶を思い返す。
あの記憶には機内の光景が収録されていた。
記憶の中で起きていたことが真実であるとすれば、JNA123便の墜落事故には、隠された真実が存在することになる。
『イシカワ。JNA123便の事故記録を洗い直し、データレコーダの有無を確かめて。記録では存在していないことになっているけど、おそらく、どこかに存在しているはずよ』
『了解』
電脳全盛のこの時代、航空機のデータレコーダには音声だけでなく、アンテナを通じて発信された電波がどの衛星を中継し、どのアドレスに向けて発信されたのかという通信記録が残されるようになっていた。プライバシーという観点から、会話内容は記録されてはおらず、アドレスのやり取りが主体となっている。
志川少年に〈目覚しテロリスト〉への変貌を遂げさせた記憶には、JNA123便の記憶が刷り込まれていた。
記憶屋が死んだ今も、過去に記憶を電脳に取り込んだ人間――特に二〇一四年に生まれた、現在十六歳の少年たちに仕込まれた意思は|囁《ささや》きかけるのだ。
戦え、と。
だが、一体何のために戦え、というのだろうか。
ナジフ氏暗殺を狙う〈赤い砂〉の計画に乗る形で目的を|遂《すい》|行《こう》しようとするのであれば、その|鉾《ほこ》|先《さき》は、最終的には当然ナジフ氏へと向けられる。
それなら、なぜ軍が事件に介入したのか。
何故、記憶屋である逆見を消さなければならなかったのか。
バトーとトグサが目撃した現場の状況から、逆見に抵抗の意思はなかった。
おそらく、あそこで行われていたのは何かの取引なのだろう。
では何を取引の材料としていたというのか。
――鍵はJNA123便の墜落事故にあるはずだ。
あの逆見という記憶屋だけが知っている情報、それは軍を揺るがすスキャンダルになり得るだけの情報でなければならない。
――そうか。
草薙はその答えを確かめるために荒巻へと電通を入れる。
『課長、軍に脅迫文があったそうだけど、それって航空自衛軍じゃない?』
草薙は頭を切り替えようと、廊下に出る。草薙の他にSPが数人、常時ナジフに張り付いている。目立ちすぎぬように、距離を置いてナジフを|護《まも》っている。
これだけのSPを乗り越えてナジフ暗殺を|謀《はか》るのは難しい。
狙撃の線も考えられるが、ナジフ自身が用心深く、予定を突如変更することなどざらにあった。このホテルも、「警戒が厳重なホテルでは。”ここにナジフがいる”と宣伝しているようなものだ」と言われて、突然、新しい宿泊先を探すことになったのだ。
新浜国際ホテルを警戒している機動隊たちは、いもしない部屋の主を護っているのである。
狙撃の成否は、いかに正確な情報を入手するかにある。ポイントを決め、ひたすら待つ。
たった一度、トリガーを絞るためだけに、集中力を切らすことなく待ちつづけるのである。
予定の立たないナジフ氏の行動に、狙撃での暗殺は無意味だ。そう草薙は結論づける。
念のため、空港やサミット会場など、通過地点が限られるポイントにはサイトーを派遣し、狙撃ポイントを洗い出し、警備の人間を配置してあった。
標的を点として狙う暗殺手段は意味を|為《な》さない。となると残された暗殺手段は面を使った方法となる。
ガスか、爆弾か。
どちらも無差別の殺戮手段である。
ガスは即効性が薄く、成功には不安定な要素が多い。それにナジフも馬鹿ではない。考えられうるガスヘの予防措置を|施《ほどこ》しているはずだ。おそらくその線はない。
残るは爆弾を使った無差別テロが予想された。
C4に代表される|可《か》|塑《そ》性の爆薬は、その形状を変化させ、あらゆるものにカムフラージュが可能だ。時と場所を選べば、最大限の効果を生み出す。爆発時のエネルギー量にもよるが、ある程度の距離にさえ近づけば、対象を巻き込んでしまうことができるのである。
志川は爆弾を胸に|括《くく》りつけていた。あれは軍用のC4爆弾だった。このホテルのワンフロアなら|瓦《が》|礫《れき》に変えるだけの破壊力を有している。
新浜国際ホテルにそれが仕掛けられていないという保証はない。
爆弾対策にはボーマを派遣している。
可能性の高い調度品や車など、考えられ得る可能性は排除しているはずである。
今の段階で打てる手は、すべて打ってある。
草薙はロビーヘと下りる。
ロビーは閑散としており、怪しい人影は見られない。
ここは、空港に近いというだけが売りの二流のホテルだった。
明日、新浜からサミットの行われる博多へと飛び立つまでの十数時間。
今は、ナジフ氏がここにいるという情報が漏れなければいいのだ。
ここにナジフ氏がいることを知っているのは、公安9課の面々と、ナジフ氏の一部関係者以外にはいない。
おそらく仕掛けてくるとするならば空港だろう。
そう草薙のゴーストは囁くのであった。
[#改ページ]
16
二〇三〇年十月二十二日。
その日は雨が降っていた。
霧のような雨だった。
|新浜《ニイハマ》国際空港の管制塔が、雨の幕の裏側に、灰色の影となって現れる。
空港へと続く高速道路の上を、|飛《ひ》|沫《まつ》を上げながらリムジンが走る。
リムジンの後部座席では、ナジフが車窓越しに流れる新浜市の灰色の風景を眺めていた。
その横に|草薙《くさなぎ》が座っていた。
今のところ、ナジフの予定が漏れた形跡はない。
この分なら予定時間よりも一時間ほど早く、空港に到着するだろう。
新浜国際ホテルでは、ナジフの影武者が報道陣に朝の挨拶をかけているニュース映像が、車載モニターに映し出されていた。
今、この瞬間を狙われるかもしれない。その危険性が常につきまとう。
前後を走るSPの乗った改造バンから、異常を知らせる連絡はない。
おそらく空港までは問題なく到着できるだろう。
だが問題は空港そのものにあった。
空港はホテルのようにおいそれと変更が利かない。一箇所しかないのだ。
陸路を選択する可能性もあったが、陸路の場合、テロを仕掛けるポイントが多く存在するため、要人輸送には向いていないとの結論が出されていた。
|荒巻《あらまき》から電通が飛び込む。
『荒巻だ。ナジフから依頼のあった件、すべて準備が整った。現状、空港でトグサが待機しておる』
『了解』
『チャーター便は予定通りの時刻にフライトする。それでいいんだな』
『ええ。ナジフのリクエストどおりよ。空港の完全閉鎖はやはり無理だったようね』
『航空会社各社が抗議文を政府に提出して、この結果だ。国交大臣、国防大臣が積極的に動いたらしい』
『国の威信より、老後の利益ということね』
『嘆かわしいことだが、それが|罷《まか》り通る世の中だ。いいか、〈赤い砂〉がナジフ暗殺を仕掛けてくるのであれば、おそらく空港が標的となる。用心するんだ』
荒巻からの電通が切れる。草薙は代わってトグサを呼び出す。
『少佐。おはようございます』
『空港のフライト状況はどうなってる?』
『雨の影響で到着に影響は出ていますが、離陸は予定通り、スムーズに流れています』
『空港内の警備状況は?』
『ゲートを含め、空港警備隊に県警の増援を加えて、通常の三倍の人数を投入して警戒に当たっています。旅客の状況ですが、チャー夕ー便の影響で、その時間帯の空港への立ち入りが禁じられているために、多少の混雑が認められます』
『そのほうが好都合ね。あと五分ほどで空港に着く。指定された搭乗ゲートで待機しろ』
『了解』
空港が大分近づいてくる。交通整理の影響か、渋滞が続いていた。大混雑という程ではない。
前方を走るバンから連絡が入る。渋滞を回避して進むかどうか、である。
「目立つ行動はできるだけ避ける。フライトまでの時間はまだ十分にある。このまま流れに乗せて、途中で特別進人口へ入ればいい」
草薙はそうSPに命じる。
空港の滑走路に、軍が用意したナジフが搭乗する予定のチャーター便の姿が見えた。
四基のエンジンを持った、政府が所有する大型旅客機である。
|国賓《こくひん》や政府高官が国内移動の際に使用する、特別仕様のもので、動く娯楽施設と一部で陰口を叩かれていた。
その周囲には、空港警備隊の姿が見える。突入用のアサルトスーツを全員が着用し、手には短機関銃を装備している。
空港施設の監視塔に目を向けると、狙撃手と観測員が配備され、いつでも狙撃の態勢に入れるよう、準備していた。
やがてリムジンが渋滞を抜け、空港への進入口に進路変更する。
空港前のバスゲートにはこれから出発するのであろうか、学生たちの姿が多く見えた。バスのフロントガラスに貼られた紙片には、〈ソードリーグ国際親善試合選手団〉と書かれていた。
一瞬、草薙の脳裏を〈目覚しテロ〉の影が過ぎる。草薙は空港に待機するトグサに電通を入れる。
『トグサ、バスゲートに集まってる学生たちを調べておいて。思い過ごしかもしれないけど』
『了解。警備隊を派遣しておきます』
バスの横を通り過ぎ、リムジンは特別関係者のみが通過可能なゲートヘと向かった。
早朝の空港内の広い発着ゲートは、まばらに人影が見られる程度だった。
あと一時間ほどで、ここも閉鎖されるため、特別な用事がない場合、航空機での移動は避けるようアナウンスされていた。
それでも航空機での移動を余儀なくされているビジネスマンや、旅行に出る団体客などが、空港のベンチや床に荷物を置き、その上に座り込んでいる姿がそこかしこに見えていた。
荷物検査では通常の三倍以上の精密な検査が要求されるため、それに比例して列が長くなる。自分の番が近づくにつれ、必要以上の緊張を|強《し》いられるようだった。そこを無事に通過すると、皆一様に|安《あん》|堵《ど》の表情を顔に浮かべた。
出発まで残り三十分。
搭乗はギリギリでいい。
ナジフは搭乗機のフライトまで、空港内の特別待機室で時間を過ごす予定になっていた。
その間の時間を使い、草薙は空港内の様子を見回っていた。
『イシカワ。空港内のネットの活性状況を報告』
『今のところ、ウィルスや悪質な妨害電波などは見られません』
『例のテロリストに類するような事件は起きている?』
『便乗テロなら幾つか確認できてますが、ナジフ暗殺に絡むようなものは今のところは確認できません』
『わかった。引き続きネットを見張って、何かあったらすぐに知らせて』
『了解』
草薙は二階のデッキ部分から、一階のロビーへと下りる。
荷物検査のゲート付近でトグサが待機していた。
「少佐」
「さっきの〈ソードリーグ国際親善試合選手団〉ですが、試合用のソードは荷物預かり所で|梱《こん》|包《ぽう》され、後部格納庫に収納されるようです。手荷物には登録されていません。それに彼らの身元も確認してあり、特に怪しいと思われる対象者は確認できませんでした」
「そう――思い過ごしなら、それでいいわ」
「でも、ナジフの警護、少佐だけで本当に大丈夫なんですか?」
「気付かれなければ問題はないわ。それよりバトーはどこに待機してる?」
トグサが天井を指差す。
「天井裏?」
「9課のティルトで空から監視中。念のため、完全武装のタチコマ三機を積みこんでます」
「おおげさね」
草薙は苦笑交じりにロビーを見渡す。
ビジネスマンに団体の学生たち。家族連れと送迎の人間の声がロビーに響き、空気がざわめく。
「静かすぎるわ――」
草薙が|呟《つぶや》いた。
「え、こんなにざわついているのに?」
「――ええ。取り越し苦労ならいいのだけれど、今もどこかでナジフが現れるのを、待っている人間がいるわ」
「体に爆弾を抱えて、ですか。今のところ、空港に入るのに二重三重の持ち込み検査を受けなきゃならないんですよ。これだけの警戒態勢なんて新浜国際空港開設以来だって、ここの空港の警備隊も愚痴をこぼしてました」
「愚痴で済むなら安いものね。でも、どんなに厳重に警戒しても、機械も人間も|騙《だま》すことはできるわ。現に私がこうした物を許可なく持ち込んでいる」
草薙はコートを広げ、腰に|挿《さ》したセブロM5と閃光手投げ弾をトグサに見せる。
「確かに――」
トグサは苦笑するしかなかった。
できることなら、すべての乗客を公安9課でチェックできればよかったのだ。
だがそれは物理的に無理な話だといえよう。今は警備システム全体を|俯《ふ》|瞰《かん》|視《し》して、その|隙《すき》を埋めていくことぐらいしかできなかった。
液晶掲示板にフライト状況が表示される。
JNA062便出発準備完了。
札幌から新浜を経由して、博多に飛ぶ便である。
音速を超える鋭いフォルムの機体は、わずか三十分たらずで新浜と博多とを結ぶ。
この便の後に、ナジフの乗るチャーター機が飛び立つ予定になっていた。
それを見てトグサが言った。
「少佐、そろそろ時間です」
「そうね」
「少佐」
トグサが草薙を呼び止める。
「何?」
「あの、ご健闘を祈ります」
トグサの言葉に、草薙は笑い、軽く敬礼して去っていった。
なぜあんなことを言ったのか。
残されたトグサは、なぜか草薙に、言わずにはいられなかったのだ。
「――考えすぎか」
札幌発、新浜経由、博多行きの国内線定期便ジャンボ・ジェット、JNA062便の四基のエンジンが放つ|甲《かん》|高《だか》いアイドリング音が空港内に響く。
全長七十メート超、最大離陸重量二七十トンを超える空のホテルである。
今、JNA062便がタキシングを始め、滑走路への進入を始める。
その奥でナジフ氏専用に用意されたチャーター機が搭乗ゲートヘと姿を現し始めていた。
空港の送迎ロビーでは、マスコミ関係者がナジフ氏がチャーター機に乗る様を撮るために、テラスに鈴なりになっている。
要人の報道とはいえ、その数は多すぎた。
明らかに、彼らは昨夜起きた同時多発テロに続く事件を期待しているのだ。
JNA062便は既に滑走路に入り、離陸準備を終えていた。
『JNA062,wind 236 at 8kt, cleared for take off』
離陸許可を伝える電通がJNA062便へと伝えられる。
ターボファン・エンジンの吸気音が空港内に大きく|轟《とどろ》く。
ブレーキを外された機体は大きく前へと加速し始め、全長三千メートルの滑走路を走る風となっていく。
翼に風を|孕《はら》んだ機体が重力の束縛を離れ、やがて大地との一時の別れを迎える。
ランディング・ギアが機体内部へと格納され、白いJNA062便の機体は青空へと吸い込まれるように、離陸していった――そのときであった。
JNA062便にもその振動は伝わったのだろうか。
空港では、ナジフ氏搭乗を控えていたチャーター機が突然、爆発炎上したのだ。
突如生まれた黒い入道雲の出現は、空港内をパニックに|陥《おとしい》れるのに十分な演出効果を持っていた。
送迎ゲートは、逃げだす旅客たちで混乱していた。階段で折り重なり悲鳴を上げる者、その場で泣き崩れ人の波に呑まれていく者等、まさに地獄絵図が展開していた。
そしてトグサの姿は、その地獄の中にあった。
『トグサ、少佐は!』
『トグサ、状況を報告しろ!』
バトー、荒巻から慌しく電通が飛び込む。
『ナジフのチャーター機が爆発。機体の後部がなくなっています』
『ナジフと少佐の状況は?』
『まだ確認できていません。空港内の電波が混線して、専用回線にも影響が出ています』
搭乗ゲートの近くで連続した銃声が聞こえる。サブマシンガンの発射音だった。それが交錯している。
『現在、チャーター機周辺で銃撃戦が展開されています』
トグサは逃げる旅客たちを|掻《か》き分け、滑走路に面した窓へと向かう。そこから、サブマシンガンの銃口から飛び出すマズルフラッシュが|瞬《またた》いて見える。
トグサの目に映ったのはサブマシンガンを握り抵抗する、幼さを残した|面《おも》|立《だ》ちのテロリストの姿だった。
「一体、どこから入った――」
テロリストたちが、空港警備隊によって制圧されるのは時間の問題だった。今、確認しなければならないのは草薙とナジフの安否のほうだ。
炎上するチャーター機に目を向けると、周りを取り囲む消防車から噴出された消化剤が、白く滑走路を|濡《ぬ》らしていた。
『少佐、聞こえますか、少佐』
チャーター機が再び大きな爆発をした。残された機体の前半分か完全に|崩《ほう》|落《らく》し、鉄くずへと姿を変えた。
『少佐!』
『間こえてるわよ』
『よかった――今、どこに?』
『空の上』
『空?』
『JNA062便のファースト・クラスよ』
『え?』
草薙の姿は本人の言うように、JNA062便のファースト・クラスの一席に収まっていた。そしてその隣には、サングラスをかけた長身の中東系の顔立ちの男が、ヘッドホンをかけて座っていた。
ナジフ=オスマルであった。
『ナジフのオーダーで、チャーター機搭乗をキャンセルして、一つ前のJNA062便に搭乗したのよ。今頃、チャーター機には私とナジフ氏のゴースト認証発信機をつけた義体が二体、転がっているはずかしら』
『そんな――聞いてませんよ』
『言ってないもの、当然よ。ナジフ氏から空港に来るリムジンの中で、この計画を初めて聞かされたのよ。まさかチケットを取っているなんて私も知らなかったわ。さすが〈中東アジア代表〉ってところかしら』
バトーからも電通が割り込む。
『じゃあ、俺たちの上を通り過ぎてったジャンボに乗ってたのか。今から追うぜ』
『追いつければね』
『追いつくさ。――ったく、俺らを|騙《だま》しやがって』
『このことを知っていたのは、9課の中でも私と課長の二人だけよ。それに他の関係者には、まだ|漏《も》らしていないわ』
草薙は隣に座るナジフを見る。
ナジフは草薙に軽く|微《ほほ》|笑《え》み、肩を|竦《すく》めた。
この用心深さがあるからこそ、この男は、ここまで生き延びてこれたのだろう。
草薙はそれを感じていた。
機内放送が聞こえる。
空港で起きたニュースは意図的に放送されてはない。
いずれ知らされることになるだろうが、いらぬパニックを機内で引き起こさないための配慮だった。機長も乗務員たちも頼りになるベテランが多いようだった。
――新浜-福岡の飛行時間は三〇分。これなら何もすることがなさそうね。
そう思いながらも、草薙は何かを感じていた。
電脳を薄く包み込む、見えない何かがあるような気がする。
不意に、電脳に、〈目覚しテロ〉の洗脳記憶の中にあった少年――|逆見《さかみ》|悟《さとる》の姿が思い浮かぶ。その逆見は十六歳まで成長した姿だった。
――ノイズか?
草薙は思った。
その逆見が|囁《ささや》く。
「さあ、行こう」
草薙が囁いていた。
隣に座るナジフが、|訝《いぶか》しそうに草薙の顔を見る。
なんでもない、と草薙が首を横に振る。
何かが起きる。そんな予感がしていた。それを確かめるべく、シートに設置されたネット用のプラグに接続する。
光となった情報を|辿《たど》り、機内のデータベースヘとアクセスする。
通常、機長以下、特定の搭乗員以外のアクセス許可は下りないのだが、草薙はそのチェックをすり抜け、乗客名簿の情報を引き抜く。
ファースト・クラス十席、ビジネス・クラス五十席、エコノミー・クラス二百四十席の乗客の情報が瞬時に展開されていく。
現在の乗客数は二百六十七名。
既に新浜国際空港から搭乗した乗客のリストは、空港の搭乗受付のアンドロイドから人手していた。残りは札幌から乗っていた乗客のチェックだった。
その名簿の中に草薙は、あり得ない名前を発見する。
サカミサトル(十六歳)。
そう名簿には記載されていた。
逆見悟は六年前のJNA123便の墜落事故で死亡したはずだ。元航空自衛軍パイロットであり、〈記憶屋〉でもあった逆見|滋《しげる》の息子であり、事故の際に幼い命を落としていた。
――同姓同名?
更に詳しい情報を調べていく。だが現れるデータはサカミサトルが逆見悟であることを示す情報ばかりであった。
エコノミー・クラス。席番32−EW。
草薙はネットから戻り、席を立ち上がる。
何かあったのか、という顔でナジフ氏が見上げた。その顔に緊張の色が浮かぶ。こうした事態を敏感に察知するナジフを、草薙はありがたいと思った。
「気になることがあります。それを調べてきます」
草薙は席を立ち、後部キャビンヘ飲み物を取りに行くように、自然な姿で歩いていく。ビジネス・クラスとエコノミーを隔てるカーテンの隙間から、エコノミーの様子が|覗《のぞ》けた。
席番32列目のE――そして窓側を探す。
窓に顔を向けている少年の姿があった。
「あれは――」
草薙が思わず声を上げる。
それは逆見悟ではなかった。
「|風居《かぜい》――|曜《よう》」
少年は新浜陸上自衛軍少年工科学校の風居曜だったのである。
機内にアナウンスが流れ出す。
『間もなく、この機は自動飛行に移行いたします』
アナウンスが終わると風居が静かに立ち上がる。
――はじめよう。
逆見の声が草薙の電脳に響く。
それをきっかけにエコノミー・シートに座っていた、風居と同世代と思われる少年たちが一斉に立ち上がった。
その数、総勢八名。
周囲の乗客は何事かと、それを見る。
その顔が|強《こわ》|張《ば》り、恐怖にゆがみ始めた。
「きゃあああっ」
エコノミーから女の悲鳴が上がる。振り向いた人々が、エコノミー・クラスの状況を把握し、硬直する。
立ち上がった少年たちの手には、グロック17が握られていた。
オーストリア製のセミ・オートのハンドガンで、各国の軍や警察が好んで採用しているものだ。
空港の放射線探知機にも形が映らない、プラスチック・フレームの初期型のものだろう。
今となっては|骨董品《こつとうひん》の部類に入るものだが、人を死に至らしめることは十分に可能であり、脅威であることに変わりはなかった。
「大人しくしていてください、そうすれば、今のところ、誰にも危害を加えるつもりはありません」
少年の一人が、いやに落ち着いた声で語りだした。少年が風居に向かって|頷《うなず》くと、風居はその左手に握られたものを乗客に見せる。
そこには、時限装置のついたC4爆弾が握られていた。
カウンターが残り時間を刻む。
残り時間は二〇分。
草薙はこの状況に舌打ちしながら物陰に隠れ、エコノミーの状況を見張る。
何故、もっと早く乗客名簿を洗わなかったのか。次々と危険を回避する、ナジフの奇策に油断が生じていたのも確かだった。
この状態で八名のハイジャック犯を始末するのは難しい。
今、必要なのは正確な情報、そしてそれを外部に伝えることにある。
草薙は手近な端末にプラグを挿し込み、ネットに繋がると情報を拾う。
外部との接続は制限されているため、機内に記録されている情報から搭乗記録やチケット購入記録を洗い出す。
――あった。
チケット購人日は三日前。購入元は札幌となっている。
今、エコノミーのシートで立ち上がっている少年たちの|素《す》|性《じよう》を洗う。
おそらく風居同様、偽名なのだろうが――年齢は一様に十六歳となっていた。
チケット購人日、場所は同時期、同一券売場を示している。
これはおそらく、計画的犯行の一環なのだろう。
このチケットを購入した人物が〈赤い砂〉に関わる人間であるとするならば、ナジフの乗るはずだったチャーター機を狙った犯行であるに違いない。
だが彼らは今、こうしてここにいる。
ナジフがこの機に搭乗を決めたのは今日のことだ。
本当にナジフを狙った犯行なのか。
疑問は次から次へと湧いてくる。だがその疑問を解消する前に、目の前の事態をどうにかするのが先決だった。
だが、草薙はこの状況下で一人で動けないことを知っていた。
今、わかっているだけでも相手にしなければならない数が八名。
犠牲なしに攻略できる数ではない。
それにここは地上ではなく空の上――音速で飛ぶ旅客機の機内なのだ。
銃弾が窓を突き破るだけで、気圧の差が機体にどういった影響を及ぼすか、想像する必要はないだろう。たとえ小さな穴だとしても、そこから外へと流出する空気と、減圧によって生じた気圧異常に、人間がまともな状態でいられるはずがないのである。
まして、手にしたC4が爆発すれば、高度三万フィートの上空では周囲の気圧が低いため、膨張への抵抗が弱く、爆発の効果は増加する。機体は跡形もなく吹き飛んでしまうだろう。
草薙はこの状況を知らせるため、荒巻に電通する。傍受されないように、暗号回線を使用した。傍受されたとしても、ただのノイズとしてしか聞こえないはずだ。
『こちら草薙――』
『どうした?』
『ハイジャック発生よ』
『なんだと?』
『犯人の目的は現在のところ不明。武装は確認できているだけでもグロック17が八丁。C4爆弾が一つ。札幌から乗り込んだ十六歳の少年たちが中心で、搭乗記録には逆見悟の名前があるわ』
『逆見――逆見滋の息子か』
『ええ。でも乗っていたのは別の少年。名前は風居曜。新浜陸上自衛軍少年工科学校在学の学生。〈目覚しテロ〉で確保した、|志川《しかわ》|久光《ひさみつ》と同室の少年だったはず』
『その少年がなぜ、そこに?』
『おそらく同じ夢を見たのね』
『夢――逆見滋が作り出した擬似記憶のことか』
『そうなるわね』
『ハイジャック犯の目的が判明するまで経過を見守るしかあるまい。空の上での強攻策は最終手段だ』
『了解。状況が変わったら、また報告する。ナジフをなんとかするわ』
電通を切り、エコノミーの状況を観察すると、少年のうち三名が前へと歩き始めていた。
草薙はファースト・クラスに急いで戻り、ナジフに耳打ちする。
「この機はハイジャック犯の支配下に置かれています。できるだけ顔を上げないようお願いします」
ナジフはハイジャックという言葉には驚きはしたが、至って冷静だった。そして自分が置かれた立場もよく理解していた。
ナジフは草薙に耳打ちする。
「ハイジャック犯の武器は何だね?」
「グロックと、C4」
「C4?」
「|可塑《かそ》性の爆弾――プラスチック爆弾のことです」
「彼らは爆弾を持っているのかね?」
「ええ。狙いはおそらくあなたです。できるだけ顔を上げずに大人しくしていてください。犯人を剌激しないことが、空では絶対のルールです」
「――そうだな」
そう言うとナジフは脚を上げ、それを抱えるようにして、顔を膝の間へと埋める。
そしてその間から鋭い眼光で、ハイジャックの少年がファースト・クラスに現れた様子を|睨《にら》んでいた。
草薙もシートに腰かけ、その様子を見る。
客室乗務員の一人を人質に取っていた。
乗客たちは冷静だった。
エコノミー席の人々は、最初のうちは|騒《そう》|然《ぜん》となったのだが、乗務員たちの努力の|甲《か》|斐《い》もあり、今は冷静さを保つことに最大限の労力を割いていた。
張りつめた空気の中に、時折すすり泣く声が交じる。
ハイジャックの少年のうち、三人ほどが、コクピットに向かった。
ほどなく、機内放送から少年の声が聞こえてくる。
コクピットの制圧に成功したのだろう。
『JNA062便にご搭乗の皆様、大変申し訳ありませんが、この機はハイジャックされました』
機長の落ち着いた声が機内に響く。
放送の後、機内を水を打ったような静けさが支配していた。
不気味な少年たちの犯行の動機が今、明かされるのだ。
この状況を草薙は電通のチャンネルを開いたまま、荒巻たちへと伝達する。ネットの向こうで聞いているはずだ。
静かに、少年の声が機内放送から流れてきた。
『この機は現在、博多に向かっております。ですが、着陸することは保障の限りではございません。しばらく、博多上空からの展望を楽しんでもらうことになると思います』
ナジフが思わず顔を上げる。
――ナジフ。
草薙は小声でナジフをたしなめる。
ナジフは、わかった、と軽く頷くと再び顔を膝の間に埋める。
草薙の斜め前に少年が一人、グロックを特ったまま立っていた。
特に誰を狙おうというわけでもない。周囲を油断なく見渡し、右手に握ったグロックを思い出したかのように、あちらこちらに向けていく。
乗客たちは皆、一様に頭をシートよりも低く下げ、自分の爪先を見ている。
機内放送の声だけが、動くもののない機内に響く。
『この放送は地上の管制に向けても、伝えられています。国民のすべてに、僕たちが望むものを知ってもらいたいからです。僕たちが望むもの、それは〈真実の究明〉にあります。今、僕たちは一つの意思に同調し、一つの目的を成し遂げるために、自らの意思で、このハイジャックに踏み切りました』
静かな声だった。
これが十六歳の少年の声なのだろうか。|抑《よく》|揚《よう》のない話し方が不気味に感じられた。
『六年前、JNA123便という航空機が墜落事故を引き起こしました。|憶《おぼ》えている方もまだ多いのではないでしょうか。その事故は政府によって、悪天候による機体トラブルと操縦ミスという短絡的な結論が出されて、調査が終了してしまったのです』
長い沈黙があった。その沈黙から、何かを|溜《た》めているような、耐えているような、そして震えるような怒りを感じずにはいられない。
『あの日、一機の航空自衛軍の迎撃機が、小松基地を飛び立ちました。FA18Fが一機。もちろん、記録には残っていません。なぜ、そんなことを知っているのか。僕たちはその迎撃機を操縦していた本人から、事件の真相を教えられたからです。そして僕たちが、JNA123便に搭乗していたからなのです』
――逆見悟の記憶か。
機内の放送はさらに続けられる。
『六年前のあの日、JNA123便はハイジャックに遭遇しました。その対策のために、軍は迎撃機を向かわせました。万が一を考えての行動です。それを非難しようとは思っていません。そして迎撃機のパイロットに、ハイジャック犯が新浜上空での自爆を計画しているため、機を破壊しろという命令が下ります。彼は命令に対し従順でした。悪天候の中、震える操縦桿のミサイル発射ボタンを冷静に押し込んだのです。空対空ミサイルがJNA123便に吸い込まれていく様子を、退避行動を取りながら、彼は見ていました。目の前でJNA123便は炎に包まれていきました。爆発の振動が彼の乗る、FA18Fに伝わってきた瞬間、声が彼のもとに飛び込んできました。それが僕の声だったのです。息子である僕の、彼に向けた遺言だったんです』
沈黙が支配していた。
初めて語られるあの日の真相に、機内が水を打ったような静けさに包まれる。
『でもこの事実、皆さんは知りませんよね。なんででしょうね、|防人《さきもり》さん。当時の航空自衛軍幕僚長であり、現在の国防大臣である、防人|基成《もとなり》さん。僕の父さんが、こうなる事態を避けるために、真実を伝えるよう手紙を送ったのに、あなたは暴力でそれに答えたんですよね。あなたがしたことを、あなたの口から国民の皆さんに語ってもらえませんか。もし、これが|叶《かな》えられない場合、この機を博多上空で爆破し、墜落させます』
機内は騒然となった。
悲鳴が満ちる。
怒声もあった。
床を踏み鳴らす音も混じっていた。
草薙は舌打ちする。
少年が言ったことが実行されれば、最悪の結果となるだろう。
この少年たちの狙いは初めからコレだったのだ。
JNA123便が墜落したその日、小松基地より飛び立ったのは、逆見滋の搭乗した迎撃機だった。
そしてその逆見滋は〈記憶屋〉となり、新浜電脳街で夢となる擬似記憶を売り、無自覚のうちに生まれるテロリストを作り上げていったのである。
これが〈赤い砂〉に引き渡される商品であり、〈赤い砂〉は彼らを使ってチャーター機の爆破を成功させていた。ナジフ氏が予定通りにチャーター機に搭乗していれば、暗殺に成功していたのである。
だが今、このJNA062便にいる少年たちはチャーター機爆破には参加せずに、この機に留まり、ハイジャックに成功していた。
今の段階では。
そして要求された、現職の国防大臣による真相の告白。
――志川の事件もそうだった。
そうなのだ。つまり、〈記憶屋〉であった逆見滋は取引先であった〈赤い砂〉や、佐渡山を|騙《だま》したのである。
そして小松で殺された逆見の隠れ家に残る洗脳記憶の証拠すべてを消そうと現れたのは、国防省の息のかかった特殊部隊なのだろう。逆見は国防大臣に対し、直接何かを要求したのだ。それで消されることとなった。
これは〈記憶屋〉逆見滋が最初から仕組んでいたものなのだろう。乗客名簿にあった逆見悟の名前に象徴されるように、六年前の墜落事故を理由にした復讐なのだ。
今、彼らが機内放送で伝えている言葉は、そのまま要求となって管制を通じて、政府に伝わっているはずである。
『少佐、聞こえるか?』荒巻から電通が飛び込んでくる。
『国防大臣の命令により、航空自衛軍基地より、JNA062便に向けて迎撃機二機が飛び立った。七分で到着する』
『ナジフ氏が乗っているのに?』
『残念だが、現時点においてナジフ氏は、チャーター機の爆発に巻き込まれ、生死不明の状態なのだ。今はJNA062便の乗客二百六十七名の命よりも、博多に生きる百万人の人間の安全を優先させる――」
電通が途切れる。
『課長?』
ネットが外部から隔離されていた。
おそらく軍が、余計な情報が漏れないように、防壁を張り巡らせたのだ。
ふと草薙の真横にもう一人、少年が立った。
「あんたは――?」
横目で声の主を見る。
風居であった。
「こんなところで会うなんて、皮肉なものね。風居曜」
「気安く呼ぶな!」
風居の中で何かが動く。
怒りの衝動にも似た何かが動く。
「志川がいなくなった日から、あんたに会ったときから、俺はどこかおかしくなっていった。あの日から俺は僕へと変わり、僕のための復讐を|遂《と》げるために、俺の怒りを育てていった。そして俺の中に芽生えた僕の意識が静かに目を覚ます頃、僕自身が何をすべきなのかがわかったんだ。僕は僕一人ではなく、僕ら全員が同じ気持ちを持った同一存在なんだ。俺を利用し、僕は一人の復讐者として、真実を世に知らしめるために戦わなきゃならない」
「逆見悟との意識の癒着がだいぶ進んでいるようね。今、お前が感じている、その怒りさえも自分の意思だというのか?」
「やめろ、そんな言い方は。これが俺の意思じゃなかったとしても、俺は俺を受け入れてくれる僕の意思を大切にしたいだけなんだ」
「お前は自分で何もしようとしてはいない。ただ誰かが世界を、自分の都合のいい形に変えてくれるのを待っているだけの|臆《おく》|病《びよう》|者《もの》だ」
「俺が臆病者?」
「自らしたことを正面から受け止めることができないだけの臆病者だろう?」
「俺はそんなもんじゃない!」
風居がグロックを抜き、草薙に向ける。
そのときだった。
機体が大きく揺れ始める。
突然、斜めに床が回転していく。
機体が傾いているのだ。
風居が叫ぶ。
「どうなってる!」
ハイジャックの少年の一人が答えた。
「機体が勝手に――外部から制御システムが上書きされてるんだ」
その声が終わった瞬間、さらに機体の傾きが大きくなる。
急激なバンクに、機内のあちこちで悲鳴が上がった。
立っていた風居がバランスを崩し、壁面に投げ出される。
シートベルトをつけずに立っていた、ハイジャックの少年たち全員が投げ出されることとなった。
急速な落下状態に機体は入っていた。
その瞬間を草薙は見逃さなかった。
草薙はがC4爆弾を握っていた風居の左腕をセブロM5で撃ちぬく。
風居が見ると、手首から先が消失していた。
万が一を考慮し、機内用にセットした低速軟頭弾が、生身の肉体を破壊する。貫通力よりもストッピングパワーを重視した弾頭だった。
C4を握った手首が床に落ちる。爆発までの残り時間は十分を切っていた。
風居がその痛みに悶絶《もんぜつ》し、床を転がる。
突然、機体が落下を始め、機内が自由落下に伴う無重力状態へと突入する。
草薙はそのタイミングを逃さず、壁を蹴り、空中を滑るように少年たちに接近し、その拳を、膝を、少年たちの体へと叩き込んでいく。
少年たちは、何があったかわからないうちに次々と悶絶し、意識を飛ばされる。
グロックを草薙へと向ける余裕もない、迅速《じんそく》さだった。
全身義体の使い手が、その性能をフルに引き出していた。
電脳は物理限界を超えた動きを要求し、義体はそれに応えていた。
一人、また一人、と少年が倒れていく。
あっという間の出来事だった。
わずか数秒と経たない間に、客席に立っていたハイジャックの少年たちが倒れていた。
その数、六名。
あと二名いる。
「コクピットか」
まだ機体は制御不能のままである。
この中で起きたことを知られないうちに、コクピットの少年二人を拘束し、機体の制御回復を図らなければならない。
万が一のことを考え、草薙は乗客たちを後部のエコノミーへと避難させる。
熱ダレを起こした義体は、関節各部の制御が鈍くなり、既に限界を超えていることを告げていた。
草薙はよろめきながらコクピットヘと向かう。
その草薙の前にナジフが立っていた。
「私も協力しよう。相手は二人。一人より、二人のほうが確実だ」
「感謝します、ミスター・ナジフ」
護るべきVIPではあるが、この機体が墜落すれば元も子もない。
ナジフと草薙は不安定な機体の中をコクピットに向けて移動していく。
コクピットのドアは大きく開かれたままだった。
制御不能に陥った機体をどうにかしようと、少年たちが操縦桿を握っていた。
機長と副操縦士たちは既に息絶えているようだった。おそらく、機長たちが意図的に機体を制御不能にしようとしたと、少年たちが思ったのだろう。彼らはプロのテロリストではなかった。怒りの衝動で事件を引き起こす〈目覚しテロリスト〉なのだ。
二人の少年は操縦桿を制御するので手一杯のようで、コクピットを覗きこむ草薙とナジフの様子に気づいてはいない。
草薙はナジフにバックアップをするよう、手で合図し、拾い上げたグロックを渡す。
ナジフはそれを受け取り、草薙の指示に従った。
ゆっくりと、草薙が少年たちの背後に忍び寄り、ケーブルを引き抜くや、それを少年の一人の首筋にあるプラグヘと挿し込んだ。
電脳を一気にフリーズさせる命令を草薙は流し込む。
少年が体を|仰《の》け|反《ぞ》らせ、シートから転げ落ちる。
その様子に隣に座っていた少年が気づくが、既に草薙が行動を起こしていた。
すべては草薙が背後に忍び寄った時点で決まっていたのだ。
残りの少年一人も、草薙の腕の中で力をなくしていた。
「終わったわ」
草薙がナジフを振り返った。
突然、草薙の腕を、脚を衝撃が襲う。反射的に腰のセブロM5を引き抜くが、それも弾き飛ばされた。
ナジフの手に握られていたグロックが立て続けに火を噴いていた。
|躱《かわ》す間もなかった。
草薙は、ただ壊れた人形のように、床に崩れる。
その草薙をナジフが見下ろしていた。
「いろいろとプランが狂ってしまったよ」
「ナジフ――」
草薙の腹部が思い切り蹴り上げられ、コクピットから、ファースト・クラスのシートあたりまで転がっていく。
草薙はナジフを見る。
ナジフがコクピットに座り、操縦桿を握っていた。
「〈赤い砂〉の作戦では、ハイジャックされたこの機は、犯人の要請を受けて、そのまま大陸へと逃亡する手はずになっていた。そこで中東和平の代表、ナジフ=オスマルは|拉《ら》|致《ち》され、多大な身代金を支払われて釈放。そうなるはずだったんだよ。それがこの有様だ。テロリストを供給した男に、まんまとしてやられたよ」
左右に傾いていた機体が、次第に水平姿勢を取り戻していく。
「ハイジャックが起きたとき、念のために機体の制御プログラムを書き換えておいたんだ」
ナジフは自らが仕掛けたプログラムを解除する。
高度は二万三千フィートから八千フィートまで落ちていた。
草薙がナジフに向かって言った。
「〈赤い砂〉に命を狙われながら、常にギリギリで生還を果たす――そういうことか。お前が〈赤い砂〉の裏にいたのか」
「〈赤い砂〉の価値を上げていくためにも強敵は必要なんだよ。敵がいないなら作ればいい。〈赤い砂〉の中には本気で私の命を狙ってくるものもいる。スリルのある仕事だよ」
床に転がったまま、草薙は周囲の状況を確認する。
風居が|悶《もだ》えながら倒れている。
草薙の電脳に電通が飛び込んできた。
『少佐、どうなってる?』
『バトーか』
『ああ、軍の|攪《かく》|乱《らん》防壁に穴をあけるのに時間がかかっちまった』
『お前の位置は?』
『少佐の乗った機体のケツを下から見てるよ。何かあった?』
『ナジフが〈赤い砂〉と|繋《つな》がっていたんだ。ナジフが今、この機体を操縦してる。私は今、義体を動かせない状態にある。なんとか動くのは左腕だけだ。バトー、この機体を制圧しろ』
『どうやって。外からじゃ中に乗り込むのは不可能だぜ?』
『機体側面のドアを強制排除する』
『動けねえんだろ?』
『まだ、手がある』
そういって草薙は風居を見る。
ドアの|傍《そば》に風居の身体が転がっていた。痛みのあまり失神しているのだろう。
左腕に力を込め、身体を反転させると、風居の傍に転がる。
首筋からケーブルを引き抜き、風居の首筋のプラグヘと挿し込んだ。
「あ――」
風居が一瞬、蒼白な顔を草薙に向ける。
草薙が風居の電脳に、己の電脳をリンクさせていく。
ハッキングではなく、風居自身を己の手足として使うためにとった強制手段だった。
風居の電脳が草薙によって支配される。
この瞬間、風居は草薙となっていた。無論、風居の意識はある。
風居は電脳の中で、草薙の生の意識に触れていた。
『何を――』風居が抗う。
『お前自身の手で、未来を変えろ。それが嫌なら――』
床に転がっていた風居が体を起こす。視線の先に、動かぬ人形となった草薙が転がっていた。草薙はすべての意識を風居の体に移していた。草薙が抜けた後、風居自身になんらかの後遺症が残る可能性はあった。だが、今は後のことを考えている場合ではなかった。
風居の体を気密ドアヘと向かわせる。
そこにバトーから電通が飛び込んできた。
『少佐、ドアの横にタチコマで張りついた。いつでもいいぜ』
風居の残された右手が気密ドアの強制排除ボタンを叩く。カバーガラスを割って、ボタンが押され、ドアが外側に向かって弾け飛ぶ。
風居の身体が外へと流れ出ようとする。伸ばした右手でドアの横にあるパイプをしっかりと掴んだ。
だがドアの傍にあった草薙の身体が、そのままドアから外へと飛び出す。
風居の首筋にあったケーブルが外れ、風居は遠ざかる草薙をその目で捉えていた。
「あ――」
「少佐!」
ドアの外で叫ぶ声が聞こえた。青い何かが機体から草薙を追って飛んでいく。
「あの女!」
風居の背後で声がした。
見るとナジフが立っていた。ドアが強制排除されたことをコクピットで知ったのだろう。
ドアの前に立つナジフに向かってドアの外から銃弾が撃ち込まれる。
ナジフの頭部の皮膜が|剥《はく》|離《り》し、チタンの脳殼が|剥《む》き出しになっていく。
だがナジフは二、三歩後退しただけで、それを|堪《こら》える。
「畜生、低速弾じゃ倒せねえか」
ドアの外からレンズ目の大男、バトーが機内に飛び込み、そのままナジフに|対《たい》|峙《じ》する。
手にはスタン・ナックルが|嵌《は》まっていた。
「行くぜ」
バトーが床を蹴った。
草薙は大空を舞いながら、眼下に迫る大地を見つめていた。
高度八千フィートから落下すれば、チタンの脳殼といえど無事に済むはずがない。
――ここまでか。
そう草薙が思ったときだった。
『少佐ーぁ!』
電通が草薙の電脳に飛び込む。
『右ですぅ!』
草薙は視線を右へと向ける。タチコマが空中をダイブしていた。
JNA062便にバトーを下ろすと、降下してきたのだ。
タチコマが後部ポッドにある、噴出孔から液状ワイヤを草薙に向かって吐き出す。
草薙の身体が空中で液状ワイヤに絡まり、タチコマヘと引き寄せられる。
『少佐を確保!』
『りょーかい!』
ティルトローターが飛び込んでくる。
その主翼の上にタチコマが載っていた。
草薙に向かって手を振っていた。
その光景は風居の目の前で展開されていた。
バトーの左腕がねじり取られ、そのまま嫌な音を立てて二つに折られる。
そのまま強烈な一撃がバトーのボディヘと吸い込まれる。
体を〈く〉の字に折りながらバトーが床を転がっていく。
一方的な展開だった。
ナジフの格闘戦闘能力はバトーの想像以上のものがあった。
「くそ、こんなデータ、どこにもなかったじゃねえか」
「無論だ。私の過去は私以外、誰も知らないのだからな」
ナジフがバトーの正面から強烈な|踵《かかと》を落とす。バトーは体を転がし、それを躱す。踵の勢いで床が|歪《ゆが》む。
下からバトーがナジフの脚を払う。だがナジフはそれを腰を落とし、受けてみせる。
「くそ!」
バトーの脚をナジフは手で掴み、そのままバトーの巨体をスイングさせる。バトーの体がファースト・クラスのシートを|薙《な》ぎ|倒《たお》しながら飛ばされる。
その先は大きく開いたドアの外だ。
ぽっかりと大空が口を開けていた。
「く――」
バトーは右手を伸ばし、ドア横のハンドルを?む。だが体は外に大きく流されようとしていた。右手と右足だけでその体を支えている。
ナジフが、落ちているグロックと時を刻むC4を拾い上げ、C4を、動けないバトーのポケットにねじ込む。
「プレゼントだ。もうじき爆発する」
「遠慮するよ」
「ふん。低速弾では強化された君たちの義体そのものを破壊するのは困難だが、指ぐらいならどうだろうな?」
ナジフのグロックがバトーの人差し指を吹き飛ばす。
サディスティックな笑みがナジフの顔に浮かぶ。これがこの男本来の顔なのだろう。
ナジフは笑いながらバトーの指を飛ばす。
中指が消えていた。
薬指と中指の二本で、流されそうになるバトーの体重を支えるのは、バトー自身困難だ。
次第に指が開いていく。
「バイバイだ」
そう言って、バトーにグロックを向けたナジフの身体に何かがぶつかり大きく揺れた。
見ると風居が、ナジフに身体をぶつけていた。
「この――」
ナジフの注意が風居に向いた一瞬のことだった。
不意に空中から機内に向けて火線が飛び込んでくる。
それがナジフの腕を、脚を通過していく。
JNA062便と並行に飛行するティルトローターがあった。
その上部に立つタチコマの姿があった。
マニピュレーターにつけられた機銃がナジフに向けられ火を噴く。
ナジフが踊っていた。
突き抜けた高速徹甲弾はJNA062便の反対側の外壁に大きく穴をあけ、ナジフの身体を破壊しながら外へと押しやる。
それでもナジフは、穴の縁に手をかけ、踏みとどまる。
そこに機内に戻ったバトーが、ナジフの上着のポケットにC4をねじ込む。
「返すぜ」
バトーはナジフを大きく蹴飛ばした。
ナジフの身体が宙を舞った。
そこにタチコマの機銃が撃ち込まれ、C4がその爆発エネルギーを外へと拡散させる。
空中に炎の華が開いていた。
タチコマの後部ハッチが開き、草薙が顔を|覗《のぞ》かせて言った。
「バイバイ」
草薙の髪が八千フィートの風に揺れていた。
バトーがJNA062便から草薙に笑いかける。
その横を航空自衛軍の迎撃機が通過していった。
『こちら公安9課の草薙。ハイジャックは制圧された。以上だ』
[#改ページ]
17
青空を飛行機雲が白い線を描きながら飛んでいく。
公安9課の屋上で、|草薙《くさなぎ》と|荒巻《あらまき》はそれを見ていた。
「義体のほうはもういいのか?」
「ええ」
「国防大臣の|防人《さきもり》氏が辞任を表明したそうだ。六年前のJNA123便に絡む墜落事故|隠《いん》|蔽《ぺい》の事実が発覚したのが原因とされている」
「その隠蔽を指示したのが防人で、対立していた|大室《おおむろ》氏の暗殺を計画していた証拠も見つかったそうね。さっきパズとボーマから連絡があったわ」
「隠匿《いんとく》されていたデータボックスも見つかったそうだな?」
「ええ。|逆見《さかみ》が懇意にしていた〈夢屋〉が持っていたそうよ。逆見は、自分の息子、逆見|悟《さとる》の乗ったJNA123便を、自らの手で墜落させたとき、その遺言電通を受け取ってしまっていたのね。そのことがショックで軍を辞め、この事実を私欲と保身のために隠蔽した防人に復讐しようと、この〈目覚しテロ〉を計画した。今となっては、そう推察するしかないのだけれど――〈目覚しテロ〉に目覚めた少年たちがすべて、逆見の洗脳記憶の言いなりになっていたとは思えない。おそらくテロに走る原因は、彼らの中に積もっていた、世の中に対する不満なんじゃないかって感じるのよ」
「そういえば少佐も逆見の洗脳記憶を流し込んだのだったな」
「あの洗脳記憶が怒りを生むんじゃないわ。怒りは本人の深い意識の中で、熱く|滾《たぎ》っているマグマのようなものだから」
「今の世の中では、誰もがテロリストになる得るということか。忙しくなりそうだな」
「そうならないためにも、うちのようなところがあるんでしょう?」
「そうだな」
風に揺れる、白いシーツの向こうに青い空か覗いていた。
もう、ずいぶんと昔の話のようにも思えていた。
頭の中からいろんなものが抜け落ちている。
そんな気がしていた。
記憶がいくつか足りていない。
失った左手は義体にすることで取り戻すことができる。
だが失った記憶は取り戻せるのだろうか。
何かを変えるには、ただ待っているだけでは変わらない。
誰かが変えるのではなく、自分が変わることなのだ。
それでも駄目なら、自分自身で変えていくしかないのだ。
記憶がないなら、作り出せばいいのだ。
――お前自身の手で、未来を変えろ。
今、それがわかったような気がしていた。
高い空を見上げて――風居は思うのであった。
[#改ページ]
あとがき
二〇〇一年六月五目の事でした。
「BLOOD THE LAST VAMPIRE」の小説が一段落し、カバーを描いて頂いた寺田克也さんに明日挨拶にいくんですよ、という報告をプロダクション・アイジー代表取締役の石川光久さんにしにいったときの事でした。
押井守さんの「藤咲はもっと書かないといけない時期だから」というコメントを盾に、石川さんがその場で当時プロデューサーになったばかりの松家雄一郎さんに電話を入れ、半ば強引に脚本チーム入りが決定したのをいまだに覚えています。
そして翌日、六月六日水曜日の午後。雨が降っていました。
初めて脚本家チームの面々と「攻殼機動隊 STAND ALONE COMPLEX」の監督である神山健治さんに、顔を合わせることになったのです。
あの当時は、周りは全員プロの物書き。自分はただのゲーム屋。ただ、がむしゃらに書くしかない、という気持ちに駆られ、家に帰ってからの殆どを脚本作業に費やしていました。
土日の休日などなくなり、毎週の本読みに合わせて脚本をあげる日々が続いたのです。
あれから二年半。
1stシリーズは無事に全巻DVDが発売され、この本が刊行されるころには、地上波放映も始まっていると思います。おそらく自分が担当した話数も放映されている時期かもしれません。
今回のエピソードは、アナザー・ストーリーの位置づけですが、時期的には1stの6話以降のエピソードであるという設定です。
自分でも思い出深いエピソードの「暗殺の二重奏」を脚本にした段階で、何かまだ残るものがあったために、リライトというわけではなく、〈記憶〉というテーマに絡んだ、もう一つのエピソードという形で書いています。
この本を読んで、「攻殼S.A.C.」に興味を持った方には、是非、ベースであるテレビ版を見ていただくことをお勧めいたします。
また義体のアクションを堪能したい方には、是非、ゲーム版をプレイしていただければと思っています。たぶん、二〇〇四年の三月ごろには出るんじゃないでしょうか。
それでは、またお会いできる日の事を夢見て、日々精進致しますので、何卒、御贔屓の程、宜しく御願い致します。
二〇〇三年十二月――自宅にて。
[#改ページ]
2004年1月31日 発行
発行者 松下武義
発行所 株式会社徳間書店
〒105-8055 東京都港区芝大門2-2-1
2008/11/16 校正 hoge