攻殼機動隊 STAND ALONE COMPLEX 凍える機械
藤咲淳一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)桝本|金一《きんいち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
本文中の《》は〈〉で代用した。
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[#地付き]カバーイラスト/中澤一登  カラーピンナップ原画/新野量太
あらゆるネットが眼根を巡らせ
光や電子となった意思を
ある一方向に向かわせたとしても
“孤人”が複合体としての“個”になる程には
情報化されていない時代・・・
A.D.2030
おもな登場人物
members of section 9
草薙素子 ----- 公安9課の現場指揮を行う隊長的存在。世界でも屈指の義体使い
荒巻大輔 ----- 公安9課課長。明晰な頭脳と迅速な判断力で9課を指揮する
バトー ----- 元レンジャー部隊所属。ほぼ全身を義体化したサイボーグ
トグサ ----- 草薙の推薦で本庁から引き抜かれた新米隊員。電脳以外はほぼ生身
イシカワ ----- 情報戦のスペシャリスト。草薙とは軍属の頃から行動を共にする
サイトー ----- 狙撃手として並はずれた力量を持つ、寡黙な男
ボーマ ----- 身長2mを上回る大男。情報収集等バックアップで力を発揮
パズ ----- 無口でクールな愛煙家。ボーマとコンビを組むことが多い
タチコマ ----- 公安9課に9機配備されている小型の思考多脚戦車
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タナカ ----- 招慰難民居住区の住人。新浜若松組の依頼で暗殺仕事を請け負う
ササジマ ----- タナカの昔からの相棒で、招慰難民居住区の住人。
木下修造 ----- 与党政権第二勢力を代表するベテラン代議士
阪崎洋治 ----- 木下代議士の秘書
霧島奈々 ----- 新浜県警港湾署交通課勤務の巡査
トヨダ=カルノフ ----- 王手義体メーカー、トヨダケミカルの創立者
桝本金一 ----- トヨダケミカル専務。誘拐事件に巻き込まれる
ヨウ=テガン ----- 〈ツインズ〉の異名を持つ傭兵
the original episodes of STAND ALONE COMPLEX #2-#4
凍える機械
CONTENTS
魔弾の射手-----7
タチコマの恋-----79
凍える機械-----147
あとがき-----252
[#改ページ]
the original episodes of STAND ALONE COMPLEX
#02
魔弾の射手
DOUBLE TARGETS
[#改ページ]
義体が痛い。
タナカは、そう感じていた。
中でも、右手の人差し指に、特に強い痛みを覚える。
人差し指は、もっとも安価な義指のため、痛覚などの神経オプションは初めからついていない。痛みを感じるはずなどないのだが。
電脳と、義体をつなぐ伝達神経系のリンクに問題があるのだろうか。
そういえば、もう二年以上も、定期義体検査を受けていなかった。
だったら義体検査を受ければいい。必要ならば、壊れた部分を交換すればいいのだ。そのための義体=機械の体なのだから。だが――。
「さしあたっての問題は、義体より飯だよな」
招慰難民居住区に寄生する難民のままでは、義体の検査はおろか、飯を喰うのもままならない。義体の痛みよりも、今はこのすきっ腹のほうが深刻な間題だった。
「なにかいい仕事、見つかったの?」
声に振り返ると、ササジマがタナカを見ていた。
タナカは今年で39歳になる。ササジマは、確か27歳のはずだった。
ササジマと知り合って、もう二年になるのか。
ササジマとは、招慰難民居住区に流れ着く前、軍で同じ部隊にいた。タナカも、ササジマも、ろくでもない装備を渡されての一兵卒。戦地で生死を共にしてきた仲間だ。だから、腹を空かせるのも、寝るのも、こうして蒸し暑く挨臭い、真夏の陽射しで蒸された収容施設の一室で職を探すのも、一緒なのだ。
「まだ」
タナカは仕事を探している最中だったのだ。
電脳を求人サイトに接続する。
招慰難民居住区の難民ネットが運営する求人サイトだった。
酒落たテーブルと椅子のイメージが電脳内に展開される。タナカが、そこに〈座る〉ことで、サイトへのチェックインが完了する仕組みだった。
タナカは、チェックインを済ませると、現れたリクエストシートのアンケート部分をマークしていく。氏名、年齢、義体化率、保有する特殊技能……。こうすることで、適合する職種が放り込まれていくのだ。
だが、その結果タナカの前に現れた、数々の求人の特記項目には、必ず〈要・特殊移民就労査証〉の記載があった。
特殊移民とは、戦時中に招慰離民居住区に招かれた、アジア系難民たちのことを指している。
かつての大戦で、アジア地域の多くの人々が戦災で国を追われ、帰るべき土地を失ったが、彼ら難民の自国への招致を国際的に公言したのは、当時、日本政府だけだった。
アジアの兄弟たちの危機を見過ごすわけにはいかない――そうした声が方々で叫ばれたが、その一方で、自らの荒廃した国土を復興するために、この国は、危険を顧みずに働く安価な労働力を、大量に必要としていたのだ。
政府は、招慰難民居住区と呼ばれる専用の居住区を難民たちに提供。査証を発行して特定の条件下において就労する許可を与えると同時に、国内の企業に税制優遇措置などを取り、次々と難民を斡旋していった。
招慰難民は、この国に労働力を落とす。この国は、招慰難民に貸金を手渡す。
明快なシステムがそこにはあった。
体さえ丈夫であれば、いくらでも働き口を見つけることができる。また、義体化率が高ければ高いほど、仕事内容のリスクが高くなる分、実入りのいい働き口にも就ける。そのため、招慰難民居住区には、査証を得た特殊移民だけでなく、さまざまな人々が集まった。最初は一つだった招慰難民居住区は全国六ヶ所にまで増え、難民の総数も二〇〇万人を超えていた。
だが、それでも喰うものと眠る場所には困らなかった。
――戦争が終わるまでは。
終戦から四年。大戦による特需の終わりを示すかのように、大戦で急成長した企業が規模を縮小し、国土整備の要である土木建設の需要も落ち着きを見せ、失業率がゆるやかに上昇するにつれ、国民の難民に対する眼差しは、冷ややかなものに変化していった。
国民は税金の一部を難民たちの生活援助金に充てているのに、その国民の職を難民たちが奪っていく。難民は国民の生活を脅かす存在なのではないか――。そんな認識が、日に日に人々の間に広まっていったのだ。
こうした声を受け、衆院選挙を間近に控えた政府は、招慰難民の保護政策を、段階的に撤廃していく法案を捷案した。その一環として、招慰難民の査証の新規発行枠を制限すると同時に、就労規定を見直し、難民が働ける場所、職種などを大幅に制限したのだ。
これを受け、難民の生活は、大きく変化せざるを得なかった。
働き口が狭まり、援助だけに頼る難民が増えるのは仕方のないことだった。だが、その援助の上限も、財政の圧迫を理由に引き下げられ、難民たちの生活は日に日に最低限度へと近づいていったのだ。それでも、就労査証を持ち、援助を受けられる難民は、まだマシなほうである。難民の中には、難民認定を受けられず、招慰難民居住区で不法に暮らす者も少なくなかったのである。そうした査証を持たない難民は、これまでは、正式な認可を受けていない手配師などを頼って仕事を得ていた。だが、それも目に見えて減っているのが現実だった。
タナカとササジマも、こうした内の一人だった。
二人とも、もともとは難民ではなく、この国で生まれ育った、日本国籍を有する日本人だった。大戦時、就職先として選んだ軍で、秘密裏の作戦に参加し、戦地へと赴いたのだが、一発の銃弾も撃つことなく、戦争の終結を迎えていた。
だが、運の悪いことに、この出兵自体が、国際議論の火種となりそうな要素をはらんでいたために、政府は出兵を「なかったこと」にしてしまったのだ。彼らは、訓練中に船が沈んで、今も日本海の海底にいることになっている。
なにも知らないままに国に戻り、自分たちの居場所がどこにもないことを知った。そして、流れ着いた先が、この招慰難民居住区だった。このときから、二人は難民となった。
そして、生きるために、今日も仕事を探すのである。
タナカは、電脳に現れる求人情報を、一つ一つ取り込んでは、消していく。
一部の難民が引き起こしたテロ行為などの影響もあり、身元保証のない人間に斡旋される仕事は少ない。特記項目に、〈要・特殊移民就労査証〉の文字がない求人など、百件に数件あればいいほうだった。
求人サイトを覗き始めて二時間ほどが経過していた、そのときだった。
「――あ」
タナカが思わず声をあげた。ササジマが振り返る。
「仕事、あったぞ」
タナカは、ササジマに首筋の後ろから伸びたケーブルを差し出す。
ササジマがそれを、自分の首筋の後ろにある、QRSプラグに差し込んだ。
ササジマの電脳に、タナカが見ている求人情報が展開される。
[#ここから4字下げ]
求職内容: 解体業者求む(軍隊経験者優遇)
希望者は、当IDを個人IDに添付し、送信ボタンをおしてください。
おって面談情報を返信いたします。
[#ここで字下げ終わり]
二週間ぶりに現れた、条件なしの求人情報だった。
「ほんとだ」
「これなら俺たちでも大丈夫だろ」
二人とも、考える必要などなかった。
今、働いて金を得なければ、未来などないのである。
タナカも、ササジマも、送信ボタンを押すことに迷いはなかった。
「わしを暗殺?」
公安9課課長、荒巻大輔が眉間に深い縦皺を作る。
公安9課は内閣総理大臣直属の、カウンター・テロ組織である。荒巻は、その指揮官であった。
トグサから、公安9課の全てのメンバーに、緊急招集が掛けられたのは一五分前。荒巻を始めとする、公安9課の面々が本部作戦室に集合し、トグサからの報告を聞いたのだ。
それが、荒巻大輔が暗殺対象となっている、という情報だったのだ。
スクリーンの前に立つトグサは気が気でなかった。
「ええ、確かな情報です」
「どこで掴んだ情報なのかしら?」
スクリーン正面に並べられた椅子の最前列に、足を組んで座る、草薙素子、通称(少佐)がトグサに向き直る。
「招慰難民地区で頻発しはじめた武装テロの件で、武器の流入ルートを探るために、難民専門に武器を卸す、密売組織を張っていたところ、そこで、妙な情報を耳にしたんです」
「妙な情報?」
「この組織に、暗殺の仕事が舞い込んだようで、その対象が、公安関係者。身辺情報もかなり正確に把握しているようで、あとは実行者を探す段取りに入っていました。暗殺対象者だけでも割り出そうと、連中の隙をついて情報を覗き見したんです」
「それが課長だったってわけね。あなた、そんなことで、9課全員に招集をかけたわけ?」
「――え?」
拍子抜けしたトグサの反応に、目にレンズがはまった義体の大男のバトーが笑った。
「お前な、荒事専門の公安9課の課長が、命狙われてるなんてな、珍しいことじゃねえんだ。ただでさえ、難民のテロが多くて人手が足りねえんだ。課長が暗殺されるかも、くらいでいちいち招集なんてかけるんじゃねえ。だから、いつまで経っても新人って言われるんだぜ」
「そんなの、旦那が言ってるだけだろ」
「それで、密売人が摘んだ身辺情報の出所、洗ったんでしょうね?」
「それはこれから――」
草薙の問い掛けに、トグサが言いよどむ。
「これからじゃない。課長の命が狙われていることより、課長の動きが掴まれていることの方が問題だわ」
「すみません」
「落ち込んでる暇があったら、次の手を考えろ」
トグサの肩を叩く手があった。トグサが振り返ると、そこに髭面のイシカワの顔があった。公安9課の中にあって、ネットからの情報収集や情報操作を任されることの多いベテランだった。
「若い者の開けた穴は、年寄りが埋める。お前さんが情報を拾い上げて開けた穴をつついて、俺が情報の出所を調べといた」
バトーがイシカワを茶化す。
「さすがオジイ。伊達に年はとってねえな」
「それで、出所はどこなの?」
イシカワが草薙を見る。
「内務省の総務部だ」
荒巻が厳しい目を向ける。
「政府機関の防壁を破ったのか」
政府機関のネットには、ハッカーなどの侵入を防ぐために、何重にも迷路防壁や、攻性防壁が張り巡らされていた。外部からはいるためのIDやパスワードなどは、二時間おきに変えられており、また個人認証のチェック機構も頑健なものだった。
イシカワが、内務省のセキュリティを突破したハッカーの侵入経路をスクリーンに映し出す。
その侵入経路の先には、〈ARAMAKI:Sectlon9〉とあった。
荒巻大輔を示す個人記号だった。
「この経路で侵入し、課長が関わる内務省で行われる会議予定などを覗き見たようです」
「内務省はこのことを?」
「感知してません。覗き穴も、相当巧妙に作ってあって、普通には見つけられるもんじゃありません」
「そうか」
草薙が荒巻に向かって言った。
「で、どうするの? 覗き穴を塞ぐのは簡単だけれど――」
「また穴を開けられないとも限らんのだろう、少佐?」
「そのとおりよ。内務省から情報を引き出すようなやつが、課長を狙ってるのだとすれば、トグサの心配も、あながち的外れとは言い切れないわね」
トグサが顔を上げる。
「だったら課長を、どう守るか考えないと――」
トグサの言葉を、荒巻の声が遮った。
「暗殺者がわしの命を狙っているのであれば、狙わせればいいだろう」
「それじゃ課長が――」
「餌がなければ魚は釣れんよ。わしは、これから内務大臣との定例会議にでかける。その後、義体の件で、トヨダケミカル社のカトウ氏から会いたいと連絡があってな、会う約束がある」
草薙が首をかしげる。
「トヨダケミカルのカトウ?」
草薙が、ネットからトヨダケミカルの役職名簿を引き出し、カトウの名を検索していく。
カトウ=ノブヨシ。トヨダケミカル管理部の部長であった。
「国内三大義体メーカーの管理部長が、内部告発でもするつもりかしら」
「人目のつかないところで会いたいということだが、会ってみるまで用向きはわからんよ。
わしは、カトウに会った後、本部に戻る予定だ。少佐、あとは任せる」
そう言って荒巻が立ち上がり、作戦室を出て行く。荒巻の背中に草薙が声をかけた。
「バトー、サイトー。課長を頼むわ」
「了解」
「わかった。オヤジのことは任せとけ」
サイトーとバトーが荒巻の後を追った。
「私たちは、このハッカーの線と、武器の流れから暗殺者を追い込んでいく。いくぞ!」
解体業者の求人情報のアドレスは、NPO団体のひとつをさしていた。
にいはま難民救護協会。
そんな名前だった。
タナカとササジマの二人は今、そのNPO団体の事務所にいた。
達筆な筆文字で書かれた〈仁義〉の二文字が、大袈裟な額縁に収められ、壁に掛けられている。
反対側の壁には、大きく〈新浜《ニイハマ》若松組〉と書かれた看板があった。
そして、二人の正面には、どう見てもNPOの事務員とは思えない、強面の男がソファに身を沈め、二人を見ている。
タナカとササジマの背後では、完全義体の大男が二人を見下ろしていた。その腕の太さは丸太そのもので、違法改造の高出力義体であることに間違いなかった。
強面の男が、開口一番、タナカに言った。
「あんたが、〈タナカ〉さん?」
「はあ、そうですけど」
「半島経験者の?」
なんでそんなことを聞くのだろうか。そうタナカは思ったが、今は少しでも仕事がほしい。だから正直に答えることにした。
「軍で行ってましたけど――」
突然、強面の男が立ち上がり、タナカの足元に土下座する。
「助かった。まさか、本当にあんたが来てくれるとは思わなかった」
強面の男に続き、他の男たちも、土下座していた。
「先代の仇を取れるのは、あんた以外いないと思ってた。いちかばちか、噂どおりに、ネットにあんた宛のメッセージを出したんだ。〈解体業者求む。軍経験者優遇〉ってな。まさかあんたみたいな一流の解体業者が、本当にわしらのところに来てくれるとは思わなかった」
タナカが呆然となる。ササジマも、事態を飲み込めないようだった。
「いや、お恥ずかしい話ながら、あのメッセージを見て、なにを勘違いしたのか、マジに解体仕事を探しにきたやつらがいたんだが、わしらの心を茶化すような連中は、まとめて解体してやったんでさ。あんたの名前を騙ったやつも現れたが、そんな舐めきった野郎は特に念入りに解体しときました。そんなのばっかりだったんで、タナカさんが本当に来てくれるのか、わしらとしても、少し信じられなくなってたところだったんです。だけど、あんたは来てくれた。感謝しとります」
強面がまた頭を下げる。
タナカの電脳が、思考を繰り返す。
仇を取る。解体業者。これは、人間を対象とした解体業者と解釈できる。
つまり、俗に言う〈殺し屋〉というものを意味するのだろう。
目の前の強面の男は、タナカを、一流の〈殺し屋〉と思っているのだった。
強面の男が顔を上げた。それと目が合ってしまった。
あの、人違いなんです。
そう言ってしまった場合、明日の今頃には、先の例にもれず、招慰難民居住区の闇市場で、自分達の義体が切り売りされているだろうことは、容易に想像ができた。
なにも言い出せないまま話は進み、二人が口を開いたのは、新浜若松組の部屋を出て、写真と一緒に渡されたメモに書かれた場所に向かう途中の、海にかけられた橋の上でだった。
タナカが言った。
「逃げるか」
「駄目だよ。そんなことしたら、今度は僕らがばらされちゃうよ」
「……だな」
タナカが、落ちていたコンクリートの塊を、海に投げ込む。
橋の下を流れる海面に、ポチャンと波紋ができて、消えていった。
ポケットから、新浜若松組から渡された殺す相手の写真と、メモを取り出す。
写真には、半ば禿げ上がった、白髪の男が写っていた。新浜若松組は、この男の顔しか知らないのだという。名前も、どんな素性の人間なのかも、わからないそうだ。
メモには、武器と前金の引渡し先が書かれていた。〈タナカ〉という奴は、狙撃のプロのようだった。そこで、狙う相手の動きも掴めるよう、手配されているらしい。
タナカの義体が痛んだ。
その視線の先には、招慰難民居住区があった。
「あそこにいたところで、腹あ減らして野垂れ死ぬだけだ。逃げたところで、逃げ切れなきゃバラされて、はい、それまでよ、だ。だったら――」
「じゃあ、やるの? タナカちゃん、人撃ったこと、あるの?」
「やらなきや、こっちがやられる。これは戦争と一緒なんだ。勝てば官軍。なにもしないで死ぬくらいなら、なにかしでかしてから死ぬのが男ってもんだろ。そうだろ?」
「そりゃ、そうだけどさ」
「今まで、俺たちはついてなかった。これはチャンスなんだ」
タナカが橋の欄干から離れる。ササジマもそれに続いた。
もう賽は投げられたのだ。
ティルトローターが厚い雲を抜けると、眼下の闇の中に、招慰難民居住区のスラムが広がっていた。その先では幾粂もの光の柱が天に向かって伸びている。近づいてみると、それが明かりのついた高層ビルだとわかる。
1000メートル上空から見た、新浜の摩天楼だった。
ティルトローターが、摩天楼の中に光でできた網の目のように広がる、高速道路の上へと移動する。
開け放たれた側面ハッチから入る上空の冷気が、草薙の髪を激しくなびかせる。草薙は、その髪を風に任せたまま、高速道路の一点を見詰めていた。
無駄のない、美しい人形のような横顔だった。ティルトローターの格納エリアの奥で、そう、トグサは思った。
草薙は脳と一部の神経細胞以外、全てを義体に替えた完全義体の人間だった。見た目は、市販品のあまり珍しくもないボディに身を包んでいる。だが、それを構成しているパーツの一つ一つが特注品だ。
愛玩物としての美しさではなく、機能美がそこにあった。
目的のためだけに、作り上げられた人形。それが草薙素子だった。
その人形が、トグサを振り返る。
「なに?」
慌ててトグサがお茶を濁す。
「い、いえ。あの、課長の車、見えてます?」
「はっきり見えてるわ」
そう言った草薙の視線は、高速道路の上を走る、一台の黒光りするセダンの姿を捉えていた。
「気になるなら、こっちに来て一緒に見てみる?」
「いえ、遠慮しときます。見ろって言われたって、俺の目じゃ、こんなところから課長の乗った車を追うことができるかどうか――」
内閣直属のサイボーグ部隊とも言われる公安9課の中にあって、トグサは電脳化のためのデバイスを埋め込んだだけで、体は生身のままだ。
義体でない分、パワーのある、義体化した犯罪者との格闘戦になれば、不利なのは明確であり、それを補うための射撃の腕前も、草薙たちに比べれば、ずいぶんと見劣りがするものだった。
しかし、自らの肉体に余程のことがない限り、義体化することはないだろう。
義体化してしまえば、今見ているこの光景も変わってしまうのだ。それは、光学的な画像ではなく、入力された光を数値化したただの情報として捉えられるのかもしれない。
家に戻り、愛する妻を抱くその手に伝わる体の熱さも、愛娘を抱いたその手に伝わる重さも、アナログなものから、デジタルなものへと変換されて伝わってくるのだ。
それに対する割り切れないなにかが、義体化を躊躇させる理由だった。
自分は古い人間なのかもしれない。そう、トグサは思うのだった。
『生身の人間ってのは、こういうときに不便なものなんですネ』
その声にトグサが振り返る。
機内に積み込まれた思考戦車のタチコマが、いつの問にかトグサの背後にいた。
タチコマは経験を積み、成長していく有機的な人工知能を搭載した四本脚の小型戦車であった。公安9課には全部で九機のタチコマが配備されている。そのうちの一機がここにいた。
「うるさい。お前は黙ってろ」
『お前は黙ってろ。それってば、トグサくんから高確率で返される答えなんですよネ。ほんとにトグサくんったら、機械に対する愛情ってもんがないんだからあ』
『あー、それってば僕もそう思うゥ』
『僕も僕も〜』
電通を使い、他の場所で作戦展開中のタチコマたちが割り込んでくる。
「タチコマッ! 警戒任務に集中!」
『はぁ〜い!』
草薙の一喝に、機内のタチコマもしゅんとなる。
『少佐〜、ごめんなさあ〜い』
「トグサ。お前もタチコマにナメられるんじゃない」
「それは、わかってますけど――、それより、このまま上空から見張り続けるんですか?」
「その必要はないわ。課長の乗った車には、バトーとサイトーがいるし、四台後ろにはバズ、先のパーキングエリアにはボーマが待機してる。それに、サイトーが割り出した、高速道路を狙撃できそうなポイントには、タチコマ八機を先回りさせてあるわ。私たちは私たちの仕事をするわよ」
「暗殺を依頼した黒幕を特定、ですか」
「そのとおりよ。暗殺自体を阻止するだけなら、暗殺者に武器が渡るのを阻止すればいい。でも相手がプロなら、対策を練って新たな手段で課長暗殺を試みるでしょうね。そうなると、ただのイタチゴッコ。いつまで経っても、課長を狙った暗殺はなくならない。暗殺者に依頼して課長を狙おうとする人間に、直接お灸を据えてやるのが、もっとも効果的な防御手段になるわ」
「なるほど。そいつを挙げてしまえば、他の課長を狙おうってやつへの牽制にもなるわけか」
「そういうこと。まずは使われる武器の特定から始めるわよ」
「荒事にならなきやいいけど」
トグサはそう言って、腰のホルスターに差し込んだ愛銃のマテバを取り出し、弾倉を確認する。
六発分の弾倉全てに、対サイボーグ用に火力を強化された、高速徹甲弾が装填されている。
それを確認し、弾倉を閉じてホルスターにしまいこむ。
「ま、少佐がいれば大丈夫か」
『あ〜、僕を忘れてる!』
「――ああ、タチコマもいたな」
『トグサくんなんかより、僕のほうが荒事は得意なのにィ』
格納エリアの奥でタチコマが四本の脚で、カチャカチャと地団駄を踏む。
「わかった、わかった。頼りにしてるって」
『だったら、この安全装置、外して下さいよゥ。ねェ、少佐。外して、外して〜』
タチコマは、自らの前部に装着されたグレネード砲の安全装置を外すよう、草薙に懇願した。
「却下する」
草薙の冷たい言葉に、タチコマが食い下がる。
『え〜ッ、やだい、やだい。グレネード撃って経験値あげるんだィ!」
「任務の目的は、暗殺者になにが渡るかを見極めることだ。荒事はなし。証拠を掴み次第、撤退する。廃棄処分にされたくなかったら、タチコマも従いなさい」
ピタリとタチコマが動きを止めた。
『廃棄処分って、僕たちの存在が消されるってことなんでしょう?』
「そうなるわね」
『――それだけは嫌かも』
「だったら命令に従う。以上だ」
機内にアンドロイド・オペレーターの無機質な声が響いた。
『降下地点まで、60秒』
「トグサ、タチコマ。降下の準備」
一人と一機の声が同時に響く。
「了解」『了解!』
ティルトローターは、高層ビル街の上空を離れ、新浜市の郊外へと、機体を傾けていく。
眼下に見える光がまばらになっていった。
この下は住宅街のはずだった。
前世紀の面影を残す、低層の雑居ビルや、マンションが建ち並んだ一画へと差し掛かったところで、ローターのついた可変翼が、水平方向から、垂直方向へと翼を傾けていく。
着陸姿勢をとったティルトローターが、垂直に降下し始める。
建ち並ぶマンションの屋上に差し掛かったところで、降下をやめ、滞空を始めた。
「いくぞ!」
草薙は号令とともに、屋上まで五メートルほどの高さから飛び降りる。それにトグサとタチコマが続いた。
草薙たちを降ろしたティルトローターは、即座に夜空へと消えていった。
街灯が青白い光を路面に落としていた。
その中を、人影が二つ、過ぎる。
タナカと、ササジマの二人だった。
用意された武器を受け取るために、ここまで来ていた。
メモに書かれた地図を目で辿ると、この先の交差点を通り過ぎ、少し歩いたところにある、ヌード・バーが最終目的地のようだった。
二人とも、無言のまま、真っ直ぐ、前だけを見て歩いていた。
ここまで来てしまうと、もう後には引けなかった。
交差点を過ぎ、住宅街から外れていく。
五分ほど歩いたところで、商店街に出る。地下鉄の駅が近くにあるようで、その入り口を示す標識が見える。そこを中心に小親模な店舗が軒を連ねていた。大部分の店がシャッターを降ろしていた。
二人は、その商店街で、道を右に折れ、雑居ビルの裏手へと回っていく。
その先に、二人が目指す、ヌード・バーがあった。
入口近くの壁に付けられた、けばけばしいネオンの明かりが、路面をピンクやブルーに染めていた。
タナカが、店の分厚い木の扉に手をかける。
力一杯、押し開けると、大音量のハードロックが店の中から飛び出し、二人の体を叩く。
タナカは思わず呟く。
「凄い音だな」
「ほんとにここ?」
ササジマは店内の様子を見て言った。
店の中には、甘ったるい匂いが立ちこめ、極彩色の照明が、眩しく光っていた。
中央のステージには、定番ともいえる鉄棒が立てられ、そこに半裸の女がしがみつき、悩ましい腰つきで、店の男どもの目じりを下がらせている。
客席は、七割ほどが埋まっていた。
壁際のスツールに腰掛けた男と女は、互いの電脳を有線でつなぎ、電脳セックスにでも耽っているのか、放心状態になっている。そうしたカップルは、何組かいた。男女の組み合わせだけでなく、男同士、女同士の組み合わせもあった。ここはそういう店なのだろう。
タナカとササジマは、店の奥のバーカウンターへと向かった。
バーカウンターで、シェイカーを振るバーテンが、タナカとササジマを見る。
二人が声を掛ける前に、琥珀色の液体が注がれたジョッキが出てきた。
二人が顔を見合わせ、そして、バーテンを見る。
バーテンは、目で飲め、とだけ指示する。逆らうことを許さないような、鋭い目だった。
タナカとササジマが、ジョッキを傾ける。
生ぬるい。
最悪の喉親しだった。
思わず、ジョッキを傾ける手を止める。タナカが、ササジマを見ると、ササジマもタナカを見ていた。その目が、このまま飲まなければダメなのか。そう、訴えていた。
タナカがバーテンを見る。
バーテンは、タナカを、先ほどと変わらぬ目つきで睨んでいる。
タナカは、目を瞑り、一気にジョッキを傾ける。
どこか、粘り気があるようにも思える液体が喉を通過していく。
なぜ、こんなことをしなければならないのか。
液体を飲み干したタナカは、恨めしげにバーテンを睨んだ。
「おい……」
隣のササジマが、タナカに声をかける。
「どうした?」
ササジマを見ると、手に持ったジョッキを見詰めている。
タナカも自分が手にしてジョッキに目を向けた。そして、バーテンを見る。
バーテンは、もうタナカたちを見るのをやめ、他の客の相手をしていた。
ササジマを見ると、ササジマも同じ思いらしい。
「ほんとに、ここに?」
「まあ、行くしかないだろうな」
タナカが、ジョッキをカウンターに置いて、離れた。
ササジマもそれに続いた。
カウンターに残されたジョッキの底には、ただ一首、(BROKEN TOILET)と書かれていた。
店に備え付けのトイレは二つあり、そのうちの一つに、故障中と、札がかけられていた。
タナカは、札のかかった故障中のトイレのドアノブを回し、すばやく中に入り込む。
ササジマもそれに続き、後ろ手にドアを閉めた。
店内の騒音が、一気に遠のいた。
薄汚れたトイレだった。
目の前の、汚れた便器が割れていた。
確かに、これでは用をたすことはできない。
タイル張りの壁は、ひび割れ、剥離し、トイレを取り囲む。
天井には、裸電球がぶら下がり、大振りな換気口のネットの奥から、換気扇の音が低く響いていた。
目の前にある小さな窓を開くと、そこは隣のビルの壁で、手を伸ばせば届くほどの隙間しかなかった。
武器など、どこにも置いてある気配がなかった。
騙されたのか。そういった思いでササジマを見る。
ササジマも同じ思いなのか、不安そうな目で、タナカを見ていた。
そのときである。
天井から、物音が聞こえてきた。
タナカが見ると、換気口のネットが外され、ぽっかりと黒い口をあけていた。
換気扇ごと引き抜かれているのだ。
そこから、男が顔を覗かせた。店の入口の横に立っていた、用心棒だった。
用心棒は、縄梯子を下へと降ろすと、換気口から奥へと消えた。
タナカは、ササジマと顔を見合わせる。ここまで来たら、引き返すことなどできない。夕ナカは、ササジマに向かって領くと、梯子に手をかけた。
細い縄梯子に、恐る恐る足をかけながら、ゆっくりと上っていく。
換気口から、天井裏を覗き込むと、中は真っ暗だった。
50センチばかりの隙間に、ケーブルや配管、鉄骨が複雑な立体オブジェを構成している。
ただ一点、換気口から5メートルほどいったところだけが、真っ暗な中、明るく浮かび上がっていた。
タナカは、隙間に身体を這わせて明るい方へと向かう。
タナカの後ろでササジマが天井裏に登ってきた。
明かりの方から、声が聞こえてきた。
「階段をあげて、換気扇を戻しておけ」
ササジマがその声に従う。
タナカは、ゆっくりと体を天井裏に這わせる。
体の下から、階下で流れるハードロックの振動が伝わる。
天井裏の、唯一明るい部分が見えてきた。
二階の床が開き、そこから明かりが差し込んでいる。
そこからタナカは二階へと上がっていった。
部屋の中は、ごく普通の事務所だった。
スチール製の机が四つ、部屋の中央に置かれ、壁にはロッカーが並んでいる。
見ると、用心棒の男が、そのロッカーから、ギターケースを一つ、取り出してくる。
ササジマが床下から、追い出し、タナカの横に並ぶ。
用心棒は、ギターケースを机の上に置くと、抑揚のない声で二人に言った。
「これが用意した得物だ」
タナカとササジマが、ギターケースを見る。
「あんたの眼鏡に適うといいんだが。若松のボスが頭を下げるんでな、世話になってる身のこちらとしても、最高の得物を用意させてもらった」
そう言って用心棒は、ギターケースを開けた。
「ステァーか」
そうタナカが呟いた。
「そうだ。ステァー|S S G《シャーフ・シュッツ・ゲベール》。オーストリア製のボルト・アクション式のスナイパー・ライフルだ。普通なら、プラスティック製のストックを装着しているところなんだが、こいつはワルサーのディオブターを付けて木製のストックをつけた、アーミー・スタイル・コンペティション・モデルってやつだ。いざってときに役に立つぜ」
用心棒の言うとおり、木製のストックは、いざ格闘戦というときに有効な武器となる。
狙撃用ライフルで格闘戦を行うことはないと思うのだが、転ばぬ先の杖、保険のようなものなのだろう。
「まあ、こいつを選んだ理由なんだが、レシーバーとバレル結合部分が57ミリもある。チャンバーのほとんどをレシーバーがカバーする形状になってるだろ? これがこのライフルの銃身内弾道を安定させて、あんたに正確な狙撃を約束するのき。おっと、あんたにこんな説明はいらねえか」
「はあ」
タナカが気の抜けたような返事をする。
「こいつで、あのおっさんを……」
「そうだね」
答えたササジマの声がかすれていた。
ライフルを目の前にして、ようやく自分たちがするべきことへの実感がわいてきたのだ。
用心棒が、机の上に、ライフルの7・62ミリライフル弾とともに、小型の記憶メディアを置く。
タナカが記録メディアを手に取った。
「これは?」
「接続してみればわかる」
用心棒に言われるままに、タナカが、小型メディアと電脳を有線で繋ぐ。電脳の中に、地図情報と時間が表示されていく。地図情報の中に、カーソルが現れ、そこに〈TARGET〉の文字が現れる。
「それがあんたが狙う標的ってやつだ。こっちが掴んだ情報を送り続ける。その標的が消えたところで、仕事は終わりになる」
「なるほど」
「最も新しい情報じゃ、今頃、標的は内務省だ」
ササジマが思わず声を上げる。
「内務省!」
タナカが懐から写真を取り出し、標的となる男の顔を眺める。
「このおっさん、ただのワルじゃねえってことか。政治家の先生か、なにかか?」
「俺は知らん。俺が知っているのは、それがあんた達の狙う標的だってことだけだ」
用心棒はそれだけを言うと、ドアを開いた。
これ以上、話すことはない、ここから出て行け、ということなのだ。
きっと、本当に知らないのだろう。
タナカは、ステァーSSGの銃身に、そっと右手を置いて、銃口から銃把へと撫でていく。
この武器が、自分の命を握っているのだ。
タナカは目を閉じ、頭にイメージを描く。
狙撃できる場所を探す。標的が来るのをひたすら待つ。標的を撃つ。そして逃げる。
わずか三秒で、やるべきことは終わる。
そう呟いて、ササジマを見る。ササジマもその声を開き、うなずくと、傍におかれたザックを手に取った。
部屋の中に、ギターケースを閉じる乾いた金属音が、異様に大きく響く。そう感じただけかもしれない。
タナカは、ギターケースの持ち手に右手を伸ばそうとする。だが、それを途中で止め、左手で持ち手を掴む。狙撃手にとって、右手の人差し指は、命の次に大事なものなのだ。こんなことに使ってはいけない。そう思いながら、左手にギターケースを下げた。
ライフルと、ギターケースの重みが、腕から脳へと伝わる。
心なしか、力がみなぎってくるようだった。
タナカは、身震いひとつすると、ギターケースを持って、外の世界へと、力強い一歩を踏みだした。
『イシカワ、暗殺手段が放り込めたわ』
公安9課本部で、内務省のサーバーに穴を開けたハッカーを張っていた、イシカワの元に、草薙から電通が届く。
草薙とトグサは、武器横流しをしている売人を押さえにいったはずだった。それが終わったのだろう。
イシカワが、口に唾えていた煙草を、飲み干した缶コーヒーの缶に落とし込む。
「で、手段はなんです?」
『狙撃よ』
「狙撃ですか。随分とオーソドックスな手法できたもんですな。それで、武器はなんだったんです?
『ステァーSSG』
「メジャーどころですな。流出経路の特定は、難しいかもしれませんな」
「それはあとからすればいいわ。課長の位置から、半径2キロ以内にタチコマを散開、警戒レベルを引き上げて』
「2キロじゃあ、広げすぎてやしませんかね?」
『並みの狙撃手なら、1キロ程度で大丈夫でしょうけど、相手が悪いわ』
「相手?」
『狙撃専門で暗殺を行うタナカ=マサキという傭兵、聞いたことない?』
「それなら俺も聞いたことがあります。確か、ホンジュラスや、台北辺りで名が知れたやつだったと。確かに、相手がそのタナカなら、索的範囲を2キロおいてもどうかってところでしょう」
イシカワがモニターに、荒巻の周辺状況を映し出す。
「課長は今のところ、まだ内務省の屋内にいます」
『内務省の駐車場の位置は?』
イシカワが地図情報を調べる。
「正面玄関前の入口近くになりますね」
『バトーとサイトーの位置は?』
「ロビーで待機中」
『わかった。イシカワは、狙撃の射程範囲から、内務省正面玄関を狙撃できそうなポイントを洗い出したらサイトーに送って』
「了解。しかし、少佐。課長の狙撃を抑えることはできるが、そのまえに、相手に逃げられる。なにか手を打たないといけませんな。例えば、俺が張ってる内務省のサーバーに、課長から予定変更の知らせが入れば、それはハッカーを通じて、狙撃手に伝えられるはずです。それを逆探知すれば相手の位置も特定できるかもしれない」
イシカワはそう言って、胸ポケットをまさぐり、煙草を取りだす。最後の一本だった。
『いい手かもしれないわね。で、課長の次の動向は?』
イシカワが煙草に火をつけながら返事した。
「義体メーカー、トヨダケミカル社の、カトウって人物と会うことになってる」
『場所は?』
「ALI-98372。ニューポートホテルですな」
『少し揺さぶりかけてみるか。課長には、私から連絡を入れる。狙撃ポイントの割り出し、よろしく頼んだわ』
「了解。サーバーの方には網をしかけときます」
イシカワは、モニターに向かい、その意識をネットの中へと沈めていった。
内務大臣と、その取り巻きとの定例会議に参加するために、荒巻は内務省を訪れていた。
会議が始まって、既に二時間が経過している。
ここに集められた大臣たちは、日増しに増加の一途を辿る、武装難民によるテロ行為への対応を、次の国会でどのように答弁すべきか、この一派としての統一した答えを用意しなければならない。その草案作りのために、荒巻は時間を割かねばならなかった。
確かに、難民たちによる犯罪は、日に日に増加の一途を辿っていた。
小さな暴動も幾つか起きていたが、今のところ、その火種は小さい。
たが、荒巻の懸念は、この火種に、油を注ぐ連中がいるのではないか、ということにあった。火はやがて炎へと変化し、あっという間に世の中を覆いつくす。
それを探りだし、先手を打って防ぐための手段として、公安9課という組織はあるのだ。
荒巻は、それを率いる身として、迷うことは許されない。己が正しいと信じるのであれば、揺らいではいけないのだ。
こうした方針の荒巻には敵も多かった。
対テロ組織を率いる長であるからこそ、当然のことでもあった。
だが、今、憂慮すべきは、目の前の大臣たちなのかもしれない。
主題となる難民問題の件は、会議が始まって十五分で終わっていた。
今、大臣たちの重要な関心事は、三日後に開かれる党OBとのゴルフコンペだった。誰を呼ぶべきなのか、ラウンドの順番と組み合わせはどうするのかが、難民問題よりも、熱く語られていた。
彼らにとっては会議をすることが重要なのであって、会議内容が重要な意味をもつものではないのだ。
草薙に言わせれば、それは政治家たちの日常業務の一環で、仕事をしてますよ、というアピールのようなものでさえない。荒巻が行く必要などないと、荒巻に進言してくるだろう。
しかし、荒巻に言わせれば、こうした緊張感の無い会話の中に現れる、各代議士の言葉や反応から、政治の裏が見えてくることがあるのも事実だった。政治とは、会議室や国会だけで動くものではないのである。金の流れと女を探るのは基本だった。真の世界は夜、動くのである。こうしたわずかな綻びを探り出すためにも、一見無駄とも思える会話を聞くことは、欠かせない日常業務と言えなくもなかった。
内務大臣の次の予定が迫り、会議はお開きとなった。
「バトー、帰るぞ」
『了解』
荒巻はロビーで待機するバトーに電通を入れ、内務省の廊下をエレベーターホールへと歩いていく。
エレベーターは、ちょうどこの階へと上がってくるところだった。エレベーターが到着し、スライド式の鉄戸が左右に割れると、そこから代議士の一群を吐き出す。
その一群の一人が荒巻に声をかけた。
「やあ、荒巻くん。内務大臣を詣でてきたのかね?」
与党政党、木下派の代表である木下修造だった。与党政権第二勢力の御意見番として存在する、ベテラン代議士である。義体メーカーとの癒着が噂され、謎の変死を遂げた、故・只山《ただやま》厚労大臣の秘書として政界に携わり、その流れの中で、義体メーカーとの強いパイプを築き上げ、今の地位へと押し上げられた男だった。
「ただの定例報告です。貴方こそ、このように夜遅くまでご苦労様です」
荒巻は、エレベーターから吐き出された一群が、小会議室と呼ばれる部屋に吸い込まれていくのを目端に捉えていた。
木下が笑いながら答える。
「なに。こちらもただの勉強会だよ」
荒巻は素早く、この勉強会に参加している面子を確かめる。
見知った顔が何人か、顔を覗かせている。厚労省関連の人間だ。
ふと、荒巻は自分を見詰める視線を感じた。
その気配を辿ると、荒巻を見ている目つきの鋭い、若い男がいた。その男が木下に声をかける。おそらく木下の秘書官だろう。
「先生、そろそろ――」
「おお、そうか。では荒巻君、失礼するよ」
木下が部屋の中へと入っていく。
若い秘書官は、鋭い目つきで荒巻を一瞥する。縁なしメガネのレンズの向こう側から、キツネのような目が荒巻を見ていた。
荒巻はそれを真っ向から受け止める。
どこかで見たような顔だ。荒巻はそう思った。
「おい、阪崎、なにしとる」
部屋の中から、木下の声が聞こえてきた。阪崎とは、この若い秘書官の名前だろう。
「はい、只今」
阪崎はしばらく荒巻を見詰め、そしてそのままドアを閉じた。
廊下には、荒巻以外、誰もいなくなり、静寂が支配する。
その静寂を破るように、荒巻の携帯端末が鳴った。
「荒巻だ」
『課長。内務大臣との寄り合いは済んだかしら?』
草薙からの電話だった。
「今、終わったところだ。これより次の予定に移る」
『トヨダケミカルのカトウ、だったわね。その件なんだけど、少し相談があるのよ』
「相談? なにをするつもりだ?」
『実は――』
内務省の一階のロビーにあるソファに、二人の男が座っていた。
バトーとサイトーだった。
二人とも、黒いスーツに身を包み、外見的にはSPたちと変わらない。
だが、ロビーを横切る職員らは、二人を見ると、あからさまに目を逸らし、遠巻きに出入り口の回転ドアへと向かう。
この様子を見てバトーが言った。
「なあ、俺たち、避けられてねえか?」
サイトーが答える。
「近づかれるよりはマシだ」
「そうだけどよ――」
バトーは、自分たちの姿を見る。
「俺ら、SPっていうよりは、どう見ても、その筋のモンに見えねえか?」
サイトーがバトーを見る。
「お前はそう見えるかもしれんが、俺は違う」
「お前が言うなよ」
バトーがぼやいてサイトーを見る。サイトーは頭を丸く刈り込み、左目にアイパッチをしていた。その目は、獲物を狙う鷹のように鋭く、周囲に睨みを利かせている。
「おっと、課長が戻ってきたぜ」
エレベーターが開き、荒巻が出てくるのが見えた。
バトーはその場を離れ、駐車場へと向かった。狙撃される可能性を少しでも減らすためには、遮蔽物の多い場所で荒巻を車に乗せる必要がある。
黒塗りのセダンの運転席に乗りながら、バトーがタチコマに電通する。
「タチコマ。ポイントに異常は?」
タチコマは今、内務省正面玄関を狙撃できそうな各ポイントに散開していた。
イシカワから送られたデータにより、半径2キロメートルとはいえ、相当的は絞られている。
『異常、ありませ〜ん!」
『こっちもでーす!』
次々とタチコマから電通が返ってくる。
「OK。――ってことは、ここでの仕事は諦めたか?」
バトーは、ハンドルを切り、車を正面玄関へと回し始める。
ちょうど、玄関からサイトーに守られ、荒巻が外に出てくるところだった。
バトーが外に出て後部ドアを開き、サイトーと荒巻を挟み込む形で車の中へと導く。
サイトーが周囲に厳しい視線を送っていた。
「いくぜ」
「ああ」
バトーが声をかけ、運転席に乗り込む。サイトーも荒巻の横に乗り込んだ。
黒塗りのセダンが滑るように、内務省玄関から走り出す。
バトーは運転席から、後部座席の荒巻をルームミラー越しに見る。
「このあとはALI-98372、ニューポートホテルでいいんすよね?」
「いや。予定を変更する」
「予定変更? ニューポートホテルにいくんじゃなかったんですか?」
「少し釣りを楽しむことにする」
「釣り?」
「そうだ、釣りだ。ポイントERT-0987に二時間後に到着するよう、市内を車で流せ」
荒巻はバトーにアドレスを転送する。
ポイントERT-0987。招慰難民居住区東ゲートと表示される。
「招慰難民居住区か」
「絶好の狙撃ポイントだな。周りは海。遮るものはない」
サイトーが呟く。
それを聞いたバトーが、後部座席にいる荒巻を見て、笑う。
「喰えねえサル親父だぜ。わざとそこで撃たせるつもりかよ」
「さっさと車を出すんだ」
「了解」
バトーは、アクセルを踏み込んだ。
タナカは、高層ビルの屋上にいた。
ここから獲物を狙おうと、準備をしていたのだ。
情報にあった建物の正面玄関まで、遮蔽物などなかった。
おそらくここが最適なポイントなのだろう。
タナカは軍時代の記憶を蘇らせる。
軍に入りたての頃に、狙撃手になりたくて、訓練を受けたことがあった。
動機は単純だった。
そんな映画を見たからだった。
そのときの標的は、ただの人型だったが。とにかく、ときが来るまで、待って待って耐え忍ぶ。そして任務が終わったら、成否に拘わらず素早く逃げること。それが求められた。
もう、十年も昔のことだった。
スコープのレティクルに捉えられた玄関が、呼吸に合わせて静かに動く。
しかし――
「ねえ、ここからあそこまで、2キロ近くあるんじゃないの?」
ササジマが、双眼鏡を覗きながら、建物を指差して言った。
タナカは、スコープから目を外して見る。
電脳に展開された地図情報に、自分たちのいる位置と、建物までの距離を表示してみると、そこには2・7キロメートルと表示されていた。
「まあ、確かに距離はあるけどな」
タナカがぼそりと呟く。
「ネットでみたんだけど、普通、900メートルから1000メートルくらいだって」
「まあ、なんとかなるだろ。映画の主人公なら、これぐらいの距離で撃ってたしな」
「それ、映画だもん。当たるように演出されてるからでしょ」
タナカがコンクリートの床に寝そべり、狙撃の姿勢を取る。
「やってみないとわかんねえだろ」
「え?」
スコープを覗いた先には、建物の屋上にはためく旗が見えていた。
「あの屋上の旗。あいつを撃ちぬく」
「そんな、できっこないよ」
タナカが、スコープを指して言った。
「馬鹿。狙撃銃なんてのは、レティクルに捉えたもんを動かさなければ、当たるようになってんだ」
「なんか無茶苦茶な理屈だけど」
「いいんだよ。練習、練習」
タナカは、レティクルの中央に旗を捉える。
呼吸のたびに視界の中で、それが揺れる。
タナカは息を止めた。視界のブレがおさまる。
そして右手人差し指にかけられたトリガーを引いた。
7・62ミリ弾が銃身を走り抜ける。
タナカの手の中で、ステァーSSGが跳ね上がる。ステァーSSGを固定していたバイポッドがコンクリートから離れようと暴れる。
「くっ!」
右肩を叩かれたような衝撃で、義体が痔れていた。
タナカは、気を取り直し、スコープを覗き込んで、旗を見た。
旗は相変わらず、風にはためいている。
「弾は――?」
「あそこ」
双眼鏡を覗いていたササジマが指差す。
すると、狙った旗から右にそれ、見当違いのところにある窓ガラスが割れていた。
「……あれか」
どうやったらああいった方角に飛んでいくのか、撃ったタナカ自身、説明のつけようのないところに、弾は飛んでいた。
風の影響、撃ったときの角度のズレ、レティクルの調整不足、標的までの計測ミス。
いろいろな要因が考えられた。
「よし、わかった!」
タナカはそう言って立ち上がる。
「ほんとに?」
ササジマが間延びした声で聞き返してくる。
「だから、このライフルの癖がわかったんだよ。ここからじゃ、もう狙撃は無理だろ。ひきあげんぞ」
双眼鏡を覗いていたササジマが、タナカを振り返る。
「本当に?」
「いいから、早く撤収の準備しろ」
「わかったから、怒らないでよ」
渋々とササジマはタナカの言葉に従い、ライフルをコンクリートの床に固定していたバイポッドのボルトを抜きにかかる。
タナカは、ササジマの持っていた双眼鏡で、ビルを見る。
タナカの視界の中で、標的となる獲物――男がビルの玄関から出てきたところだった。
若松組から渡されたデータにあった顔だった。あの男を殺せば、仕事は終わる。
ただ、焦りは禁物だった。
失敗すれば、今度は、こちらが狙われる可能性があるのだ。あの男を殺そうとしている人間を知っている。それだけで狙われるには充分な理由だった。
獲物となる男が、車に乗り込む。どうやら移動を始めるようだった。
「確か、次の移動地点は、ニューポートホテルだったな」
そう確認した瞬間、その情報が書き換えられた。おそらく、予定変更をしたのだろう。
どこかのサーバーから抜かれた情報に違いなかった。
防壁破りをしたときの、独特の焼けるようなノイズも一緒に転送されてきたからだった。
そこに、目指すべき情報がリンクされていた。
時間と座標――、一時間後に、招慰難民居住区東ゲート付近。
「新浜の招慰難民居住区東ゲートかよ。これって俺らのねぐらの目と鼻の先じゃねえか」
「終わったらすぐ帰れるね。よかった」
「よかった、じゃねェよ。こんな仕事してて、近場にいたら怪しまれんだろう!」
「それもそうか」
「この仕事終わったら、とっとと新浜離れんぞ」
「え?」
「仕事を成功させたら、次の仕事がすぐに来るだろ。失敗するまで、永遠にな。そのままじゃ、新浜の居住区はやベェだろ。だから関東の居住区に逃げ込む」
タナカが双眼鏡をザックにしまいこみ、その紐を固く結ぶ。そして、ササジマが外し終わったバイポッドと、ステァーSSGをギターケースにしまいこみ、留め具をかけた。
ギターケースを片手に持つと、タナカは下へと続く階段に向かった。
後ろからササジマが追いすがる。
「ねえ、関東ってどういうところかな?」
タナカが歩きながら言った。
「知らねェ。関東から流れてきたやつに聞いた話じゃ、昔、陸地だったところに、ぽっかり大きな穴があいてるって話だぜ」
「へぇ」
「仕事もたいしたものが無くてな、水没した市街地から、使えそうなもん、引き上げるのが主な仕事だって話だ。まあ、再開発自体がまだ進んじゃいねェし、新浜よりは仕事、あるんだろうな」
「へェ。それじゃ、もっといい暮らし、できるかもね」
「ああ。俺もガンガン稼いで、新しい義体、手にいれてやるさ」
「……もう、こんな仕事はしなくていいのかな」
ササジマの言葉に、タナカが足を止める。
「わかんね。他に仕事が無ければ、なんだってやるしかないだろうな。この仕事で入る150万。これだけあれば、新しい義体も買えるし、そしたら、真っ当な仕事に就くことだってできるかもしれないしな」
「いいね、タナカくんは。僕は、義体化してないから、よくわからないけど――」
そう言ってササジマが俯く。
タナカが、ササジマの肩に手をかけ、顔を覗き込む。
「ササジマ。お前、勘違いすんなよ。お前も一緒に義体化して、俺と一緒に仕事すんだよ」
「タナカくん」
ササジマが、笑った。
「俺ら、ずっと一緒だったじゃねえか。ホンジュラスでも、上海でも。二人で生き抜いてきたじゃねえかよ」
タナカの言葉にササジマが領く。
「ほら、いくぞ。獲物は動いてるんだ。あと一時間しかねえしな」
「うん」
タナカはササジマを促し、階段を駆け下りた。
新浜の市街地を走る高速道路の、出口案内に、招慰難民居住区の文字が見えた。
バトーは、それを確認し、ハンドルを左へと切っていく。
車が高速の出口へと車線変更していく。
バトーが後部座席に声をかける。
「あと二分で目標地点に到着」
「時間どおりだな」
後部座席から、荒巻が返事した。
バトーが、ちらりとルームミラーを見る。
自らの命が、暗殺者によって狙われようとしているというのに、荒巻は完全に落ち着き払っている。
それだけ9課の面々を信じているということなのだろう。
荒巻が腕の時計を見る。
「カトウ氏の方はどうなっておる?」
バトーが、車載モニターをチェックする。
「予定通り、パズが案内してます」
「そうか。ならば、もう到着している頃だな」
車が、招慰難民居住区へと渡る橋の上にさしかかる。その車内では、サイトーが狙撃手の位置の割り出しにかかっていた。
サイトーが、コクピットの車載モニターに、招慰難民居住区の周辺地図を表示する。
そして、その端末にケーブルを接続し、自らの電脳と繋ぐ。
地図情報に気象情報などが表示されていく。
それを見て、ハンドルを握るバトーがはしゃいだような声をあげる。
「お、こりゃすげえ!」
「馬鹿、前見て運転しろ。タカの目からのデータを重ねただけだ」
タカの目とは、公安9課の狙撃手である、サイトーの左眼のアイパッチに隠された、衛星リンクシステムを指す。
気象衛星や、通信衛星など、複数の衛星から得た情報を、狙撃に必要な情報に最適化して、瞬時に視覚投影するシステムだった。
通常、人間は20万個の視細胞を持っているが、タカの目のそれは、150万個に視細胞を増幅してあり、約8倍の視力となっている。これは、望遠鏡でものを拡大してみているような感覚ではない。人間の目では、光の影響で遠くのものがぼんやりとしか見えない。だが、タカの目であれば、それを鮮明に、はっきりと捉えることができるのだ。
あとはそれを判断材料に、義体化した左腕で、マウントされたスナイパーエフイフルを撃つだけだった。
サイトーは、狙撃に特化した義体化を施しており、左眼と左腕とそれに付随する部分が義体になっている。
右目、右手など、義体では再現できない微妙な感触を必要とする器官は、生身のままである。
そして、狙撃手として、何よりも必要とされるのが、経験から培われる感性と忍耐だった。
サイトーが言った。
「本来、招慰難民居住区は、海からの風の影響を受けやすい。だがこの時間なら、風の影響も、上昇気流の影響も受けにくい。問題があるとするなら、夜の暗さがネックになるだけだ」
「対象を捉えにくいってことか」
「ああ。だがそれも、集光装置のついた目を持った義体であれば苦にならんだろう」
「狙撃をするのに、理想的なポイントはどこだ?」
サイトーが地図上の三箇所を、マーキングする。
一つは小高い丘の上。距離にして400。
一つは招慰社民居住区内部の七階建てのビルの屋上。距離にして400。
最後の一つは、招慰難民居住区へと伸びる橋のアーチ部分。距離にして、300メートルほどだろう。
それを見てバトーが言った。
「お前なら、課長をどこから狙う?」
「俺ならここからだ」
「あ?」
バトーが呆れたような声を上げた。
サイトーが示したのは、三つのポイント以外の、新浜市内の対岸からだった。
バトーの目から見ても、狙撃地点から、対象がいる地点まで、障害物が多すぎる。
「おい、こんなんで狙撃なんかできんのかよ」
「距離にして、1500。途中に、橋と、駐車場に入るゲートがあるが、俺ならできる」
「確かに、お前ならできるだろうさ」
「俺たち狙撃手が常に頭にいれておかなければならないことは、相手を確実に仕留めること。そして、的を仕留めたら、確実に逃げることの二点だけだ。前にあげた三つのポイントは、相手を確実に仕留めるだけなら、問題なくいけるだろう。だが、俺たちから逃げることを考えるのであれば、できるだけ離れていないと逃げ切れない」
電脳に映された狙撃ポイントを見ながら、サイトーは淡々と呟いた。
バトーが、後部座席の荒巻に言った。
「少佐の話じゃ、課長を狙ってるのはかなり凄腕の狙撃手だ。やっぱり引き返したほうがいいんじゃんねえですか?」
荒巻は前を向いたまま、言った。
「馬鹿者。こちらが撒いた餌に、相手が食いついたというのに、それを放してどうする。このまま作戦続行だ」
「――だとさ。少佐、聞こえるか」
バトーが草薙に電通を入れる。
『聞こえてるわよ』
「ゴールが目の前に見えてきた。オヤジの頭の風通しが良くならないように、できるだけ努力してみるさ。そっちは任せたぜ」
『わかってる』
バトーからの電通を受けた草薙は、2902式熱光学迷彩をかけ、自らの姿を風景の一部として溶け込ませると、狙撃手を探し始める。
たとえ見つけたとしても必要以上には近づけない。
近づきすぎれば、相手に気配を読まれる可能性がある。
剣術などでいう〈間合い〉のようなものである。
早すぎれば狙撃手に気取られ、逃げられる。遅すぎれば、荒巻の命は消えてしまう。
ここからは時間との戦いだった。
しかし、狙撃手を見つけたとしても、すぐに阻止することはできない。
「イシカワ。まだハッカーは特定できないのか?」
9課本部にいるイシカワから電通が返ってくる。
『あと少しだ』
イシカワは、荒巻が内務省で変更した情報を拾いにくるハッカーに網を張った。荒巻がカトウと会う場所を変えたことで、サーバーを見張っていたハッカーは、情報の更新を知り、覗き見にきた。イシカワはそれに糸を張り、追跡したのだった。
防壁の厚い政府機関のサーバーに侵入するようなハッカーだ。追跡には慎重に慎重を重ね、時間をかけていた。
無限の広がりを持つネット空間の中で、細い糸を辿って、ハッカーの痕跡を探り出していく地道な作業だった。
そして今、イシカワがそれを捉えようとしていた。
『終着点が見えた。ハッカーを捕捉したら、狙撃手宛にハッカーのIDで偽装電通を飛ばす。狙撃手が受け取れば反応があるだろう』
「その痕跡を辿れば狙撃手に辿りつくわね」
『ああ。招慰難民居住区東ゲートなら、陸地からの狙撃ポイントは限られてくる。サイトーが指摘したポイントに狙撃手がいる可能性もある』
「最初の三ヶ所にはタチコマを飛ばして。サイトーの言ったポイントには、私がいくわ」
『ここからは時間との勝負だ。少佐、任せたぞ』
「わかってる」
イシカワからの電通を受け、草薙は走り始めた。
狙撃手はどこなのか?
荒巻の乗った黒い高級セダンが、招慰難民居住区へと延びる橋の上を通過する。
バトーから電通が飛び込む。
『少佐。あと20秒ほどでゴールだ』
「わかってる」
草薙は9課本部にいるイシカワに電通する。
「イシカワ!」
『ハッカーを見つけた。今、狙撃手に電通を飛ばす!』
「急げ!」
草薙は、腰からセブロM5を引き抜く。
イシカワが狙撃手に向けて偽装電通を放った。
一秒、一秒が長く感じる瞬間だった。
荒巻の乗る車が駐車場に入っていく。
ヘッドライトの輪の中に、一台の車が浮かび上がる。
「あれか?」
バトーが、その事と5メートル離れたところで、ブレーキを踏み、車を停止させる。そして後部座席を振り返り、言った。
「オヤジ。本当に降りる気か?」
「これが、わしの仕事だ」
荒巻の覚悟を聞いて、バトーは車を降りる。外は、早朝の冷気が支配していた。
助手席側からサイトーが降り、周囲に鋭い視線を投げる。
バトーが後部ドアに回り込み、ドアノブに手をかける。
カチリ、とドアノブが乾いた音を立てた。
そこでバトーのドアを開く手が止まった。
「オヤジ……」
薄く開いたドアの隙間から、鋭い荒巻の目が、バトーを見ていた。
強い意思を秘めた目だった。
荒巻が言った。
「開けるんだ」
「わかったよ」
バトーがドアを全開にする。
荒巻が、ゆっくりと車から姿を現した。
禿げ上がった頭の白髪の男がレティクルに捉えられた。
ステァーSSGのトリガーにかけられた、右手人差し指が動こうとしたその瞬間だった。
狙撃手の電脳に、その電通は飛び込んできた。
草薙の元にイシカワから電通が飛び込む。
『少佐』
「了解!」
草薙が狙撃手を見る。
狙撃手の右手に動きがあった。
草薙は迷うことなく、セブロM5のトリガーを引き絞る。
招慰難民居住区の東ゲートの寒空の下、銃声が響き渡った。
荒巻は見た。
銃声のした方角を。
草薙は見た。
自分のセブロM5が撃ち出した高速徹甲弾が、狙撃手の右手の人差し指を撃ち抜く瞬間を。
そして、同時に、何者かが放った銃弾が、目の前にいる狙撃手、タナカ=マサキの頭部を、撃ち砕く瞬間を。
タナカは見た。
自らが持ったステァーSSGから放たれた7・62ミリ弾が、レティクルに捉えられた、名も知らぬ老狙撃手の頭部を撃ち砕く瞬間を。
10
招慰難民居住区東ゲートの前に、タチコマに乗った草薙が現れた。
荒巻は、車を下りて、草薙と並ぶ。
草薙が、荒巻の足を見て言った。
「ちゃんと足があるようね」
荒巻が言った。
「まだまだ死ぬわけにはいかんよ」
「トヨダケミカルのカトウ氏は、予定通り、バズが安全なところに誘導してる。電通じゃなく、直接連絡に向かわせたことで、ハッカーの目を欺くことができたわ」
「原始的だが、もっとも効果的な方法ではあるな。ところで、わしを狙っていた狙撃手だが、頭を撃ち抜かれて死んだそうだな」
草薙が肩を疎めながら答える。
「ええ。私が狙撃を止めようと、トリガーにかかったタナカの右手人差し指を撃ち抜いたのと、ほぼ同時に、タナカの頭が撃ち抜かれたのよ。傍にいた観測手は、タナカが死んだのを見て、電脳自殺をしたわ」
「他にも狙撃手がいたということか」
「ええ。それでそこから更に範囲を広げて調べてみたら、これが落ちてたのよ」
草薙が荒巻に向けてビニール袋を差し出す。
その中には、一枚の写真と、空薬英が入っていた。荒巻はそれを受け取ると、写真を見て唸る。
「これは?」
「もう一人の狙撃手の標的ってことじゃない?」
「狙撃手の狙撃目標が、狙撃手だったということか」
荒巻の手にした写真には、老狙撃手、タナカ=マサキの姿が写されていた。
「タナカを撃った狙撃手の行方は?」
草薙が首を横に振った。
「タナカ=マサキが狙撃された方角から、割り出してみたら、タナカから、1500メートルほど離れたビルの屋上に、バイポッドを固定した跡が見つかったわ。そこから狙ったんでしょうね」
「ハッカーの方はどうなった?」
「今頃イシカワたちが押さえに走ってる」
「そうか」
新浜市のスラムと化した電脳街の一角に、イシカワが駆けつけたとき、その男は既に息絶えていた。
雑居ビルの一室の中には、様々な電脳端末が転がっている。
その中に、埋もれるように、男は死んでいたのだ。
イシカワはその遺体の傍らにしゃがみこみ、男の首筋の後ろにあるプラグに、コネクタを差し込む。
「脳を焼かれてるな――」
「脳を?」
部屋を調べていたボーマがイシカワを見た。
イシカワが顎の髭に手を当てて呟く。
「思考爆弾ってやつだな」
「ある条件にはまった思考が働くと、電脳自殺をしたくなる、つてやつか」
そこに、隣の部屋を調べていたバズが入ってきた。手に、小型の記録メディアが振られている。
「おい。この男、しっかりと雇い主との通信記録を残していたようだ」
「通信記録? そいつは誰と話してたんだ?」
「今、解析中だ。このIDの持ち主は――阪崎洋治」
イシカワが思わず声を上げる。
「代議士の木下の、秘書官か!」
内務省のビルの一室に、荒巻の姿があった。
木下代議士が、ちょうど、木下派の議員たちとの昼食会に出る矢先のことだった。
「荒巻――」
「木下代議士。阪崎秘書官はおられますかな?」
「阪崎? 阪崎がどうしたんだ?」
荒巻が木下の目の前まで歩いていく。
その目は木下をまっすぐ見据えていた。
「阪崎秘書官に、殺人の共犯としての容疑がかかっております。ですが、現在、その行方がわかっておりません。木下代議士であれば、なにかご存知ではないのかと思いましてね」
木下の顔が曇った。
荒巻は木下に構わず続ける。
「実は、ある政治家と義体メーカーとの間で取り交わされた、不正献金に関する金の流れを追っていた捜査担当者を狙った狙撃事件がありましてな。その狙撃に、おたくの秘書官である、阪崎洋治氏が絡んでいるということが判明したのです」
「ほう、うちの阪崎が。それにしても、君のところも大変だな。その捜査担当者も、命を狙われてしまっては、怯えてしまってるんじゃないのかね?」
「命を狙われるぐらいで、捜査を諦めるような公安9課ではありません。阪崎を、必ず押さえます」
木下の顔色が変わるのを、荒巻は見逃さなかった。
「それでは、またお話を伺いに来るとは思いますが、この件で心当たりがあればお知らせくにさい」
荒巻が部屋を出ると、人口に草薙が立っていた。
「なんだ?」
「ずいぶんと優しいのね」
「阪崎の証言がなければ、そこから伸びている糸が見えん。下手に釣り上げても、証拠不十分で逃げ切られる。今は阪崎の行方の方が優先される」
草薙が首を横に振った。
「その阪崎なんだけど、只山厚労大臣の息子らしいわ」
「只山大臣の?」
「ええ。只山の死後、母方に引き取られて、旧姓の阪崎に戻してたみたいだけどね」
「そうか。引き続き、阪崎の行方を探し出してくれ」
荒巻が、その場から立ち去ろうとする。だが、すぐに足をとめて草薙を見る。
「そういえば、阪崎の雇った狙撃手を撃った、もう一人の狙撃手の行方はどうなった?」
「落ちていた薬葵から、武器はステァーSSGだってことが特定できたわ。あのタナカ=マサキと同じ銃ね。武器の入手ルートも、依頼主の新浜若松組も押さえたんだけど、肝心の実行犯には逃げられたわ」
「新浜若松組?」
「小規模な暴力組織よ。先代の組長が狙撃されたらしくて、その仇を討つために、有名な〈タナカ〉という狙撃手を雇ったらしいんだけど、それが姓はタナカでも、タナカ=マサキとは別の狙撃手だったのよ。ただ、ここからが間抜けな話なんだけど、新浜若松観は、先代の組長を殺した暗殺者を突き止めたものの、その男の顔しか知らなかった」
草薙が、タナカ=マサキの写真を取り出す。
「この写真だけが頼りだったのね。そして男が、ネットからある情報を得て、次の標的を狙うために動いていることを掴んだのよ」
「それが内務省にあったわしのスケジュールということか」
「ええ。その情報の向かう先に、仇である男も必ず現れる。それで、自分たちが雇った狙撃者のタナカを差し向けた――とまあ、こんな概要なのよ。つまり、新浜若松姐は当の仇であるタナカ=マサキ自身に、タナカ=マサキの暗殺を依頼しようとしたのね。けれど実際には人違いで別の〈タナカ〉がタナカ=マサキの暗殺を実行し、仇を討つという仕事は達成され
たわけ。うちで扱うほどの事件じゃないわ」
「そうだな、そのタナカの一件は県警にまわしておけ」
「了解」
11
タナカはネットで、求人情報を見ていた。
見ているというよりも、眺めるといったほうがいいだろう。
心ここにあらずといった状態なのだ。
そして、狙撃のあとのことを思い返していた。
タナカとササジマは、新浜の居住区から、後金を受け取らずに、関東の招慰難民居住区へと逃げ延びてきた。あのままいたら、きっと、ばらされて海の底に沈んでいただろう。
殺しの仕事はなにも生み出さない。
生き抜くための戦いがある現状は、戦場の延長でしかなかった。
自分が殺したあの老狙撃手が、かつての大戦で、数々の戦績を残した狙撃手であることは、後で知ったことだった。そして名前が、偶然にも自分と同じタナカであるということも。
二人の人生は、似たようなものだった。
ただ一つ異なるのは、あのタナカは、〈殺し屋〉として高名な男だったが、タナカ自身は、〈傭兵〉としてそれなりに名の通った男だった。ただ、それは、遠い過去の話だが。
タナカは大戦で、大量の軍人を狙撃し、恐怖させてきた。だが、ある作戦に失敗し、敵の捕虜となり、右手人差し指を失うことになった。
あの日以来、狙撃手としてのタナカの人生は断たれたのだ。
平和な土地に戻っても、戦地に馴れた自分には仕事がなかった。だから、再び軍に復帰し、一兵卒として半島に渡ったのだ。
その自分が、なんの因果か、暗殺者として高名なタナカ=マサキと取り違えられ、そのタナカ自身を狙うことになったのだ。
もしかすると、次は自分なのかもしれない。
そんな思いが頭を過ぎる。
だが、頭のどこかで、タナカが死んで、なんだか自分も死んでしまったような気がしていた。
そうだ。
狙撃手である、タナカは、もう死んだのだ。
「ねえ、この仕事なんかどうかな」
ササジマの声が、タナカの心を現実に引き戻す。
「また、解体業者募集なんだけど……」
「そういうのは、もうやめとけ」
「だったら、こっちの地下作業労務者募集ってのがあるんだけど。義体もくれるみたいだよ」
「ただで義体をくれんのか?」
地下の仕事はきついのだろう。けれど、殺しょりはましなんだろう。
また、義体が痛んだ。
新しい義体があれば、きっと、この痛みともオサラバだ。
タナカはそう思うと、迷うことなく、申し込み書に名前を記入した。
タナカ…ショウジと。
[#改ページ]
『諸君! 僕の記憶が確かなら、あの子と最初に出会ったのは、216時間と48分28秒前のことだった』
公安9課のラボで、タチコマの一機が、他のタチコマたちに語り始めた。
奇妙なタチコマだった。
白黒ツートンに塗り分けられ、そして、頭の上にはパトライト、そして後部ポッドには、新浜県警のデカールまで貼られていた。
そして口のグレネードが、白い拡声器に替わっている。
『君、すごい格好してるね。コスプレつてやつ?』
『なに、なに』
『面白い経験したのかなぞ』
『あの子ってなに?』
『記憶が確かなら、とか言ってるけど、君の記憶は捜査記録としてバックアップされているんだから、確か、以外のなにものでもないと思うのだけれど、どうかな?』
『えー、僕も経験したい。したい〜』
他のタチコマたちが一斉に騒ぎ始める。
最初のタチコマが言った。
『諸君、君たちの言い分はよくわかった。でも、考えてみれば僕たちは並列化しちゃえば、記憶を共有化できるのであって、僕が経験したことを語る必要はないんだよね』
『確かにそうだけど、単純な記録に演出を加えることで、その記憶を受け止める印象が変わるという可能性を考慮するのであれば、君は僕たちにその経験とやらを語って、僕たちそれぞれに、君の経験が本当に異なる印象として受け止められたかどうかを確認したほうがいいと思うんだけれど、どう?』
『確かにそうだね。それじゃ、これから僕の話すことを冷静に受け止めたまえ』
『いいから、早く話してよ〜』
『わかったよ。え〜と、あの日、僕はバトーさんと、一緒にある犯人を追いかけていたんだ』
×   ×   ×
「タチコマ! そっちに行ったぞ!」
『まっかせてくださいっ!』
僕が新浜埠頭で、バトーさんと一緒に追ってたのは、〈思考爆弾〉という電脳ウィルスを使う爆弾魔だった。
〈思考爆弾〉ってのは、頭の中で、あるマイナス思考が浮かんだとすると、それを引き金に自殺願望を膨れ上がらせて、48時間以内に確実に電脳自殺に追いやる爆弾なんだ。
彼は、ネットスペースに入っていた82名のネットフリークたちに、その〈思考爆弾〉を仕掛け、電脳自殺においやった大量殺人犯だった。
彼は、ネットの中で、次々と暗殺対象を探していったんだね。
特に、彼自身を狩ろうとする、ネット・バウンティ・ハンターなんかは、格好の餌食にされてたみたいだけどね。
このまま黙って見過ごしてると、ネットに対する不信感が拡大して、ビジネスはおろか、普通の生活にだって支障を来すわけなんで、少佐が、僕とバトーさんに命令して、ある作戦を与えたんだ。
×   ×   ×
『あ、それ知ってる。それって僕たちも参加したやつだよね』
「そうそう。擬似人格を作り上げて、誰かを誘い出すってやつ』
『あの実験って、このことだったんだ〜』
『諸君! まだ僕の話は終わってないんだ。話が聞きたいんなら、口を挟まないように!」
「わかったよぅ。ぶぅぶぅ』
×   ×   ×
とにかく、奴は、僕が作り上げた擬似人格に〈思考爆弾〉を仕掛けたんだ。でも、僕に死の概念なんてものはない。不発に終わった〈思考爆弾〉を調べに、奴はネットにアクセスした。そこをバトーさんが逆探知して、所在を突き止めたんだ。
僕とバトーさんは、13号埠頭に急いだ。
「タチコマ、前だ!」
僕はバトーさんの指示どおりに、犯人の前に回り込もうと、全力で走った。
進行方向にトラックが飛び出てきたり、コンテナが積んであったりして、そりゃあもう大変だったんだけど、とにかく、犯人に追いついたとき、犯人は、埠頭の外に出ようとしていたところだった。
『止まらないと撃つぞ!』
僕は右手のチェーンガンを構えた。
そして犯人の足元を狙って撃ったんだ。
ダダダダンってね。
アスファルトの破片が撒き散らされた。
まともにあたったら、犯人の足なんて吹き飛んじゃうから、手加減して5センチ後ろを撃ったんだ。そうすりや、驚いて止まるだろうって。
でも、あの犯人、止まるどころか、そのまま道路に出ちゃったんだ。
そしたら、一台のミニパトがものすごい勢いで突っ込んできて、犯人にぶつかるかもーってなったんだ。
僕は慌てて猛ダッシュさ。
そして、犯人とミニパトの間になんとか滑り込んだんだ。
そりゃもう、凄い衝撃だったよ。
ミニパトが僕の体に乗り上げて、そのまま横に転がったんだ。
犯人は僕の足の間に入ってて、なんとか助かったみたいだったけど、気を失ったまま、倒れてたんだ。
だから僕は、犯人はほうっておいて、ミニパトの方を見に行ったんだ。
横に転がったミニパトは、いろんなところが擦れたり、フロントガラスが割れちゃったりしてたんだ。
僕は思わず叫んだんだ。
「ど、ど、ど、どうしよう! 死んじゃったのかな?」
ボディに手を伸ばして、ゆすってみたんだけど、全然反応がないんだね。
そしたら、ドアが開いて、中から婦人警官が出てきたんだ。
「ほんとにボロなんだから、このミニパト」
それが、その婦人警官の第一声だった。そう言いながら、出てきた婦人警官は、転がったミニパトのボディを蹴ったんだ。
僕は、その婦人警官の身元を照会してみた。
県警のサーバーを覗くのなんて、ワケないからね。
二秒もかからなかった。
名前は、霧島奈々巡査。新浜県警港湾署交通課勤務。
状況から判断すると、僕が謝ったほうが穏便に済みそうだったんで、謝ったんだ。ミニパトの件もあったしね。
『ごめんなさい』
でも、それに対する霧島巡査の声は冷たかった。
「――プログラムで謝罪されても、仕方ないわ。これだから、ロボットって嫌いなの」
これは僕たちに対する挑戦だと思ったね。
たしかに僕たちは、広義においてはロボットだ。けど、ロボットが命令に準じて行動するのに対し、自律型AIを持つ僕たちは独立した判断による行動が可能なわけで、そういった意味ではロボットではないと思うんだ。
勿論、僕は弁解したさ。
『今の〈ごめんなさい〉は、僕自身が判断して導き出した答えであって、プログラムじゃないんだけどなあ。たしかに、僕が追ってた犯人が道路に飛び出した。でも、突っ込んできたのは君のミニパトで、停止すべきは君の方じゃないのかな。この場合、交通法規によると、ドライバーの前方不注意が適用されるわけで、交通課の君がこうしたルールを犯した場合、職務怠慢と受け止められても仕方のないことだと思うんだね。でも、僕はそうしたことで時間をとられるのが、僕にとっても、君にとってもマイナスになると判断したわけで、そうした場合、被害者である僕のほうから謝罪することで、場がおさまることがよくあるというのが社会の構図なんだ。だから僕は、〈ごめんなさい〉といっただけで――」
「もういいわ。おしゃべりな機械って大嫌いなの」
正直言ってショックだったよ。
なんだか僕自身を全否定されたみたいで。
そう言った霧島巡査はミニパトの様子を気にしてたみたいなんだ。
ミニパトを愛車として心配するというよりは、道具としての機能の確認と、それに付随する個人の責任みたいなことを心配していたみたいだったけど。
なぜならば、霧島巡査は、今月に入ってから、始末書七枚も書いてるんだもの。
『あの、ケガしてるみたいですけど、大丈夫ですか?』
霧島巡査は、右腕を軽く押さえている。その部分から赤い血が流れていた。
「たいしたことないから、構わないで」
なんだか突き放されたような気分だった。
そしたら、そこにバトーさんがやってきたんだ。
「おい、タチコマ。お前、犯人を押さえねェでなにやってんだ?」
今にしてみれば、確かにバトーさんの言うとおりにしたほうがよかったよ。
僕にしては、迂闊だったと思うんだ。でも、なんだかぶつかったミニパトを先になんとかしないとって思ったから、仕方がなかったんだけどね。
バトーさんが、倒れている犯人に、電脳錠をはめようと手を伸ばした、そのときだった。
犯人が急に目を見開いて、僕をみて、動きを止めたんだ。
そしてそのまま、犯人は電脳がフリーズしたみたいだった。
バトーさんが、彼の電脳と、有線で繋がって調べたんだ。
「――電脳自殺だ。自分で〈思考爆弾〉、使いやがった」
×   ×   ×
『わー、なんて間抜けなんだろう』
別のタチコマが言った。
『間抜けなんじゃないよ。あれは、あの男が、初めから仕掛けてたんだから。バトーさんだって、気づかなかったし、とにかく、不可抗力なの!』『へ〜』
他のタチコマたちが、一様に、斜に構えて、話をしていたタチコマを見る。
『な、な、な、まさか、僕が彼をやったとかって思ってるんじゃないでしょうね!?』
「…………』
他のみんなの表情なんてものはわからないのだけど、もし仮に多脚戦車にそうしたものがあるのであれば、それは疑いの眼差しというものだったのかもしれない。
そうタチコマのAIは判断した。
『と、とにかく、話を続けるよ』
×   ×   ×
僕とバトーさんは、現場を撤収することにしたんだ。
そうしたら、霧島って婦警さんが言ったんだ。
「あなたたち、県警の人?」
『僕たちは公――』
「ああ、捜査一課のもんだ」
さすがはバトーさんだと思ったね。僕が、公安9課と名乗りそうなところを、絶妙なタイミングで遮って、県警の人間だと思わせちゃうんだからね。
たしかに、僕たち公安9課ってのは、どんな人間がいて、どんな組織構成で、どんな武器を持っているのか、誰もよくわかってないところなんだから。
ま、知られていない、つてのが、最大の武器だとも言えるんだけどね。
さらに、バトーさんが霧島巡査にこう言った。
「姉ちゃん、悪いんだが、この事件は、うちらの管轄だ。始末書には、そう書いといてくれてかまわねえ。ミニパトの件は悪いことしたな。ほれ、タチコマ、元に戻しとけ」
『はぁい』
僕は素直にバトーさんの命令に従ったんだ。
これ以上、傷をふやすわけにはいかないから、優しく戻してあげたんだ。
でも、ミニパトは僕達以上に華奢だから、ボディは傷だらけ。フロントガラスも、ヘッドライトも割れちゃってたんだ。
なんだかいたたまれない、ってのはこういう感覚なのかもしれない。
そのとき、僕のAIが奇妙な反応を示したんだ。
ニューロチップの中で、なにかが起こったんだろうね。
「ほれ、タチコマ、本部にもどるぞ」
『は〜い』
僕はバトーさんについて現場を後にしたんだ。
振りかえると、なんだか悪いことしちゃったかなあって、思ったんだ。
×   ×   ×
『それで、それで』
『それで、どうなったの?』
周囲に集まったタチコマたちが先を促した。
『うん。僕は、ここに戻ったあと、いつもと同じように並列化されるんだと思ってたんだ。でも、不思議なことに、僕だけが並列化されなかったんだね』
『え〜、ずる〜い!」
『なんで、君ばかり、そんないい思いしちゃってるのさ』
コンテナの上に乗ったタチコマが、他のタチコマを押さえた。
『まあ、まあ。これは、少佐が決めたことなんだけど、おそらく〈思考爆弾〉を擬似人格で永久ループさせることに成功はしたんだけど、完全に除去できたわけではないんだね。僕の思考のどこかで、まだ〈思考爆弾〉が生きてる可能性もあったんだ。だから、その効力が消えたと判断できるまで、僕はスタンドアロンであるべきだと、少佐が考えたんだね』
『なるほど』
『さすが少佐だね』
『僕もそう思うよ。そこで、僕には新たな任務が課せられたんだ。〈思考爆弾〉を誘爆させた擬似人格を消したのはいいんだけど、その影響が残っているかどうかを確かめるために、僕を出向させたんだ』
『出向?』
『いいな、いいな』
『どこに行ったの?』
『それがね』
『それが?』
『新浜県警港湾署交通課だったんだ』
一週間って期限付きの出向だったんだ。
僕は、県警が実験的に導入を考えている、人工知能搭載の交通整理ロボットつて触れ込みででかけたんだね。
それらしく偽装するために、僕のボディは白黒ツートンに塗り分けられ、〈新浜県警〉のステッカーをつけられたうえに、頭のアンテナ部分にパトライトまで載せられちゃったんだ。
この偽装は、そこまでする必要はなかったのに、鑑識の赤服の人たちが、おもしろがって勝手にやったんだって、後から、バトーさんに聞いたんだけどね。
それで、僕は、少佐に連れられて、新浜県警の所轄警察署である、港湾署に行くことになったんだ。
新浜県誓って、ちょっと前まで首都警察だったもんだから、中にいる管理職や、署員一人一人の自尊心が高いというか、自意識過剰で、そういう人が、その下の所轄警察署に来たりすると、思い切り煙たがられるようなんだね。
それに港湾署って、県警から近いところにあって、さらに、港湾という地理的条件もあるせいか、国際犯罪や、凶悪犯罪が発生しやすいんで、合同捜査が頻繁に行われるんだね。
そのためか、港湾署は、周りの所轄から、新浜県警港湾課って呼ばれてるんだって、トグサくんが教えてくれたんだ。
僕が港湾署にいったときに、ちょうど県警主導で港湾署に、トヨダケミカル社専務襲撃事件の特別捜査本部が設けられてたんだ。
ことの起こりは三日前の早朝。トヨダケミカル社専務の桝本金一氏の自宅が襲撃を受けたんだ。
家政婦の話では、突如、自宅に覆面を被った二人組が現れて、パジャマ姿の桝本氏を拉致、車で逃走したんだ。
家政婦がすぐに警察に通報したんだけど、監視カメラに残された映像には、覆面を被った二人組の姿があるだけ。脅迫状も見あたらなくて、犯人の手がかりや、その目的を推測するための材料は、なにも発見できなかったんだ。
もっとも、事件から42時間後に、桝本氏は、自宅から200キロほど離れた隣の県の県道を歩いているところを、保護された。
拉致されている間、桝本氏は電脳錠を差し込まれ、身動きが取れず、また感覚器官もシャットダウンされていたせいで、状況がなにもわからなかった。
気がついたときには、県道に立たされていたらしい。
トヨダケミカルって、一般的に普及している義体メーカーの中でも、相当なシェアを持ってるみたいで、海外にも工場や販売拠点を持っている世界的企業なんだね。
慈善事業にも力をいれていて、難民のために、義体の中古品やレストア品を無償で提供したりして、それなりに認知度が高い企業だったから、企業テロの可能性が十二分にあったし、大手義体メーカーの専務が拉致された凶悪事件ってことで、県警が陣頭指揮を執って、トヨダケミカル本社が管区内にある、港湾署に特別捜査本部を設置したんだ。
もっともこの事件は、交通課に出向にきた僕には、直接関係がないんで、交通課の話に戻すね。
少佐は手続きがあるからって、交通課の偉い人となにか話してたみたいで、僕はガレージに向かわされたんだ。
どうやら僕の扱いは、一署員というよりは、一車輌ということらしいね。
配属されたというより、配備されたというのが正しい認識かもしれない。
『こんにちは、僕、タチコマです!」
僕は挨拶をしたんだけど、誰も答えてくれないんだよね。
それは当然のことで、ガレージに並んでいる警邏《けいら》無線自動車、つまりパトロールカー、略してパトカーのことなんだけど、彼らには言語機能や音声出力機能は搭載されていないわけだし、高度な人工知能も搭載されてなかった。
GPSと連動した、自動走行用の簡易な人工知能は備わってるみたいだったけど、基本的には、人間に使われる機械としての目的に沿って、全ての機能が構成されているんだね。
それと白黒ツートンのデザインなんだけど、これじゃ誰がどう見ても警察の車だってわかっちゃう。まあ、これは古の時代からの名残で、警官がそこにいることで、犯罪を抑止するっていう権威社会の象徴みたいなものなんだ。
人間というのは、こうした記号を配置するだけで、犯罪を犯しちゃいけないみたいな、抑止命令が脳内で起こるらしいんだ。まあ、僕たちもこうしたことを経験、学習することで、やっていいこと、わるいことの判断をつけるわけなんだけども。
僕は彼らの外部コネクタに接続して情報を覗いてみたんだけど、走行距離がどうの、巡回ルートがどうの、搭乗者がどうのといった、事務的な記録以外、残されてなかったんだね。
実に淡白で、ユーモアに欠けるというか、それが警察というところなんだろうね。
で、僕がいろいろと繋いで、経験値を上げているところに、モーター音が聞こえてきて、彼女がやってきた。あのミニパトがガレージに入ってきたんだ。
ボディにできた凹みは、この間、僕とぶつかってできた凹みだった。駆動音に異音が混じってたから、まだ完全に直っていないみたいだった。
僕は彼女との再会を、素直に喜んだよ。
だって、また会えると思っていなかったんだから。
「これって、あのときのロボット――」
でも、ドアから出てきた霧島巡査の第一声がそれだったんだ。
僕は霧島巡査に、あまり好かれていないみたいだった。
そりゃ、そうだよね。人間が記憶というものを失くしてしまう本能があるといっても、最初に会ってから24時間も経ってないんだから。それに、僕のせいで、ミニパトに傷がついちゃったんだから、第一印象が悪いままなのはしょうがないことなんだ。
僕を見て、霧島巡査が言った。
「私の、新しいパートナーつて、これのことだったの?」
新浜県警の所轄警察署は、基本的に二人一組で、巡回や、当番をする規則になってるんだ。
でも霧島巡査のパートナーを務めていた婦人響官が、寿退社という名目で、警察を退職してしまったんで、しばらく一人で、業務をこなしていたようなんだね。
霧島巡査が僕をみて、ガレージの内線から、交通課に電話したみたい。
「課長、どういうことなんですか?」
霧島巡査がそう言ったとき、少佐が姿を見せたんだ。
「あなたがうちのタチコマの面倒をみる、霧島巡査?」
「タチコマ?」
「このロボットよ」
少佐が僕を見て言った。僕を形容するのにロボットつて言い方はちょっとひどいんじゃないかなって思ったんだけど、少佐に言われちゃったんじゃ仕方ない。
「この署で一週間稼動させて、AIの記録を取りたいのよ。上とは話つけてあるから、宜しく頼むわ」
「あなたは?」
「タチコマの教育担当係の――県警の草薙よ」
少佐が右手を差し出した。霧島巡査も儀礼的にその右手をとって握手したんだ。そしたら少佐が不思議そうな顔をして言ったんだ。
「あら? あなたの手って、温かいのね。てっきり――」
そう言われた霧島巡査が、思わず右手を引っ込めて、少佐に言ったんだ。
「ほっといてください。でも、なんでうちなんですか?」
霧島巡査の声が、ややヒステリックな感じだった。それでも、少佐は、落ち着いてたけど。
「トヨダケミカルの桝本氏誘拐で特捜が動いているのに、無理なお願いして機嫌が悪いのはわかるけど、これも上からの命令なのよ」
少佐は肩を疎めて、僕を見たんだ。
「それじゃ、タチコマ。一週間、真面目に警察として働くのよ。いいわね」
『は〜い!」
霧島巡査も渋々と、僕を受け入れざるを得なかったみたい。この辺が縦社会のきびしいところだよね。
その日、ミニパトの修理があったんで、僕は一日中、霧島巡査に教わって、ガレージで県警の仕事について勉強した。始めの頃に比べて、霧島巡査は少しだけ打ち解けてきたみたいだった。
三日目の朝になって、霧島巡査のミニパトが完全に修理から戻ってきて、僕はようやく、表にでることができたんだ。
事務仕事ばかりだったもんだから、霧島巡査は嬉しそうに、ミニパトに乗り込むと、僕に言ったんだ。
「タチコマ、これよりPC-113は定期巡回に入ります。復唱」
霧島巡査の声が、こころなしか弾んでいるようにも感じられたんだね。
『これよりPC-113は定期巡回に入ります。これでいいんですか〜?』
「余計なことは言わなくていいの」
そう言うと霧島巡査は、運転しているミニパトを、管区の市街地に向けた。
僕もすぐに後を追った。そして、ミニパトの横に並んで聞いたんだ。
『あの〜、どこに向かうんですか?』
霧島巡査は、窓を開けて僕を見た。
「埠頭を抜けてから、市街地に入る予定。上を使うわよ」
上っていうのは、市内を走る高速道路のことだった。僕らが上っていうと、ビルの壁面とか、屋上とかを跳んでいくつていうのが普通なんだけどね。そういうのは普通、警察ではやらないみたいなんだ。
だから、僕は彼女と並んで、しばらく高速の上をドライブすることにしたんだ。
その日は、空も抜けるように青く、よく晴れた、いいドライブ日和だったんだ。
風が気持ちよかったよ。
×   ×   ×
『なにが風が気持ちよかっただあ!』
『君だけずるい〜!』
『そうだ、そうだ。僕たちにもドライブの権利を!」
聞き役のタチコマたちが騒ぎ出す。
コンテナの上のタチコマが言った。
『ちょっと君たち。別にドライブが目的だったわけじゃなくて、結果的にドライブをする形になったわけだから、僕がそれを希望したわけではないわけで、僕を責められても困るんだけどなあ。それに、あのあと、僕たちはとんでもない目に遭ったわけだし――」
『とんでもない目?』
『なんだろ』
『きっと経験値の上がるようなことなんだよ』
『おお、それは是非とも開かせてもらわねば!』
『ねえ、聞かせて、開かせて』
『これから聞かせようと思ったら、君たちが話の腰を折ったんじゃないか。まあ、ともかく、僕と彼女は高速に乗って埠頭を目指した。高速を抜けて到着した埠頭では、日中ってこともあって、特に大きな問題はなく、違法駐車禁止区域での、コンテナ用トレーラーの駐車禁止が四件と、交差点での接触事故が一件あっただけだった。でも、問題は、その先の、市街地での巡回中に起きたんだ――』
港湾署の管区の、新浜港を一望できる市街地は、百年以上も前に、中国から移住してきた人たちが移り住んで作り上げた南京街の名残を留めていて、他の街とは空気も色彩も、僕たちが知っている街並みとは、少し違っていた。
考えてみたら、僕たち、この区域って入ったこと、なかったんだよね。
街の四方に立つ門を潜ると、その中は、もう新浜の風景じゃなくなってたんだ。
昔は、本当に移住してきた人たちの住んでいた街だったと思うんだけど、今では一種のテーマパークになってるんだ。
街並みも、通行人の服装も、時間で言うなら1920年代の上海を映した異国情緒溢れる姿をしていて、空気の匂いまで、まるで当時を再現しているみたいなんだ。
でも、昔は南京街って呼ばれてたのに、モデルが上海っていうのがおかしいよね。その辺が、人間のいい加減なところなのかもしれないけどね。
霧島巡査は、どんどん街の中へと進んでいく。
僕はついていくしかなかった。
みんなが僕たちを見ていた。
この街の中で、明らかに僕と彼女は浮いた存在だったんだ。
『あの〜、ここで僕たち、なにをすればいいんですか?」
「すぐにわかるわ。ここよ」
目の前に、ビルの地下にある駐車場入口の看板が見えてきた。
すると霧島巡査はミニパトを地下駐車場へと向けたんだ。
駐車場へのスロープは、ゆるくカーブして地下へと続いていた。カープっていうよりはループに近い形状で、角度は8度。
公道の真下に作られた四階層もある民間の駐車場だった。
こういう駐車場って、警察車輌なら自動的にフリーで入れるようになってるから、霧島巡査は止まることなく入っていったんだけど、僕は違ったんだ。
入口の端末が僕にこう言ったんだよね。
『駐車券をおとりください』
『あの〜、僕、一応、警察車輌なんですけど』
『駐車券をおとりください』
『霧島巡査〜』 って、前を見たときには、すでに霧島巡査は先に行ってて僕なんか見てないみたいだった。
そりゃそうだよね。僕のこと、嫌いって言ってたし。
『どうしても通してくれないのかなあ』
『駐車券をおとりください』
『それじゃあしかたないねえ』
程度の低い端末ってのは、人の言うことを理解する言語機能を持っていないから、なに言っても仕方ないってことはわかってたんで、結局のところ、ハッキングして通っちゃったんだ。
駐車端末のデータの中に入って、この駐車場に駐車している車の記録を抜き出した。
そこに僕という車が〈入場済〉って記録を書き加えたんだ。
ただ、このデータ、今この中にいる車と、駐車エリアが確定した車だけしか、記録されてないから、彼女の位置は特定できなかったんだ。
でもまあ、こうした駐車場システムと警察をネットで連動しておけば、防犯に役立つと思うんだけど、個人情報の流出とかいった理由で、犯罪とかが起きたあとじゃないと、情報を拾い上げることができないんだ。
とにかく、犯罪っていうのは、テリトリーなく起こるものだから、完全な防犯っていうものは存在し得ないのかもしれない。今の警察のように、事件が起きてから動いたりしているうちは、無理なんだろうな。僕ら、9課の場合は、先に犯罪の根を潰しに向かうから、未然に事件を喰いとめられるけど、なにかと結びついていない限り、瑣末《さまつ》な事件で、警察が動くことはない。
警察と、公安と、お互いが上手い具合に機能すれば、犯罪なんて早々起きないんだろうけど、どっちも人間のやることだから、いろんなしがらみが絡んでて、思うようにいかないってのが現実なのかもね。
みんな、僕たちに任せれば、犯罪根絶という意味では、上手くいくとは思うけど。
もっとも、極論からいけば、人間がいなくなれば事件は起きない、なんて、C級SF映画みたいな、人間から見た意味での、ロボットの叛乱が想像できるんだけどね。
物事を機能的に、最速で考えれば、簡単に答えが導き出せるんだけど、人間はいつもそこに、人間のため、っていう矛盾点を第一条件に掲げてくるもんだから、僕たちは思考の永久ループに落ち込んじゃうわけさ。人間でいうところの〈悩み〉ってやつなのかもね。
まあ、幸い僕は人間じゃないんで、機械と機械の間での当然の会話をして、相手を説得したんだ。拒否のできない強制的な説得だったけど。
話してわかるような相手じゃなかったら、力ずくで通れ、つていうのはバトーさんが教えくれたことなんだけどね。
とにかくまずは先に行っちゃった霧島巡査を探しはじめたんだ。
『霧島巡査〜、どこ行っちゃったんですか〜?』
公道の下に駐車場を作ってるせいで、結構、広さがあるわけなんで、探し出すのに苦労したよ。
『まったくも〜、どこまでいっちゃったんですかね〜。人のことなんだと思ってるんだか……』
いなくなっちゃった霧島巡査を探し始めて、24秒、そのとき、僕は、おかしな人影を二つ、見つけたんだ。
二人は、駐車場にある、地上へ繋がってるエレベーターから入ってきたようだった。
一人は、明らかに違法改造してますっていうような義体の大男。腕が太くて、外付けのシリンダーが埋め込んであった。
もう一人は、中年の、ぽっこりと腹の出てる男だった。
僕は思わず呟いた。
『おお、いかにも、その道の人』
あっちはまだ僕に気づいてないようだった。だから僕は光学迷彩をかけ、姿を消して二人に近づいてみたんだ。
大男が周りを見ながら、こう言った。
「運び出す荷物ってのはどれだ?」
中年が答えた。
「ナンバーだけはわかる。MNB-LKJ389だ」
「ナンバーだけ? もう少しねえのか? 車の特徴とか、色とか」
「ない。余計な情報がないほうがいいんだろう」
「面倒くせえもん、引き受けちまったな。運ぶ荷物の中身ってのは、なんなんだよ」
「知らん。だが、前金は受け取ってある。俺たちは、指定された車を、指定された場所に運ぶだけだ」
話の内容からすると、この二人は、いわゆる〈運び屋〉と呼ばれる人たちだった。
たぶん、まともな商売じゃないのは、会話の内容から判断できた。
思いっきり、犯罪の臭いがした。
二人は、駐車場の中の車のナンバーを、一台、一台、探し始めたんだ。
だから、僕は先回りをすることにしたんだ。要は、相手よりも先に目的のものを見つけられればいいわけで、駐車中の車は、自動的に、駐車端末に記録されてるはずだった。
僕は、駐車端末から抜いた情報を検索してみた。
MNB-LKJ389。
もちろん、すぐにみつかったよ。地下四階にあった。
あの二人は、まだ一階を探してる。義体とのリンクのための電脳化はしてるけど、ネットで効率よく使い切れてない。当然の結果だった。
地下四階には、ちょうど、霧島巡査もいたんだ。
ミニパトを降りて、一人で駐車中の車の前に屈みこんでた。
大型のスポーツセダン。
それも、探していたMNB-LKJ389のナンバーがついた車の前にね。
車は、こちら側にトランクを向ける形で駐車されていた。
そして、霧島巡査は、そのトランクをじっと見詰めていたんだ。
『霧島巡査〜。お知らせしたいことがあるんですけど〜』
はっと我に返ったように、霧島巡査が振り返った。
「ちょっと待って。今、盗難届けの出ている車を見つけたから」
そういって目の前の、MNB-LKJ389のナンバーがついた車を調べたんだ。
霧島巡査は、体を低く伏せて、車の下を、デンタルミラーで覗いて、なにかを探しているようだった。
『なにを探しているんですか?』
「こういった盗難車が、自爆テロに使われるの知ってるでしょう?」
『ええ』
「爆弾を探してるのよ」
『爆弾!!」
「――でも、これにはないようね」
霧島巡査は、立ち上がった。
僕は胸を撫で下ろした。いや、胸なんてないんだけどね。まあ、人間的な表現をするのであれば、そういうことなんだ。
『あの、爆弾とか探すのも、交通課の仕事なんですか――』
「いいえ。昔の癖が抜けないだけよ」
『癖?』
「港湾署に配属される前、中央署の捜査課にいたの」
『へ〜、刑事さん。それなのに、どうして交通課で働いてるんです?」
「……いろいろあるのよ。あなたは知らないでしょうけど、警察という組織はそういう古臭い慣習に縛られたところなの」
僕も後から知ったんだけど、所轄警察署の交通課っていうのは、別称〈待合室〉とも言われていて、他の所轄から異動になった婦人警察官が、かならず配属されるところらしいんだ。男性の場合は、地域課らしいんだけどね。
地域課っていうのは、交番や、駐在所とかにいる制服警官のことを言ってることがほとんどなんだけど、刑事とかやってても、捜査課とかに空きができるまで、必ずここに配属されるんだって。
だから、一度、上の仕事を経験してる人には、一般の会社でいう左遜ってものに当たるらしいんだ。
地域に密着することが捜査の第一歩とか言うけれど、それは詭弁だよね。
婦人警官の場合の、交通課も同じなんだよね。
霧島巡査は、このことをあまり教えてはくれなかったけど、捜査課の刑事が、交通課の巡査でおさまってるのは、屈辱的なことなのかもしれないね。
でも、元刑事だからって、交通課の一人じゃ、これ以上のことができないのもわかってた。
だから僕は聞いたんだ。
『どうするんですか?』
「本部に知らせるわ」
『でも、この車、さっき探してる人がいましたよ』
「……探してる人?」
『荷物がどうのって言ってたんですよね』
「荷物――」
霧島巡査がトランクを見る。
トランクのロックは、QRSプラグ対応のリモートロック式のものだった。
『これなら開けられるかも』
僕は霧島巡査に言ってみた。
「え?」
『この手のロックは、開錠用の波形さえ見つかれば、開けるのはそんなに難しくないんですよ』
「ちょっと――」
僕は目の前のトランクの中に、なにが入っているのか、その好奇心を満足させるという、僕が僕であるための最大の欲求を満足させるために、ハッキング用のケーブルを伸ばして、車のQRSプラグに繋いだ。
僕は鍵のプログラムをノックする。
すると車から反応が返ってくる。開けられません。
教えてよ、と僕は囁く。
開けられません。変わりない反応だった。
僕はそれをまた繰り返していく。
機械同士の対話は、一つの質問に、一つの答えを返してくる、単純なものだ。ただ人間と違うのは、とんでもない数が同時進行で、瞬時に繰り返されるものなんだよね。
昔、人間の歴史では聖徳太子って人が、一度に十人の弟子の話を聞いて処理したって言われてるけど、僕たちは一度に何万機、何十万機との対話が可能なんだ。
ただ、それは人間の時間軸と、機械の時間軸が違うってことなんだね。
そうやって僕は、車のトランクの電子ロックと対話をしたんだ。
時間にして、0・5秒も掛かってないと思う。
彼は僕を受け入れてくれたんだね。電子ロックがカチリと開いたんだ。
『ほらね』
僕は自慢げにトランクを押し開けたんだ。
『おお、これは〜!」
「…………」
霧島巡査はびっくりしてたよ。
だって、トランクの中には、誰のものかわからないけど、脳殻が生命維持装置と一緒においてあったんだもの。
僕は、脳殻にケーブルを伸ばして繋がってみたんだ。
この脳殻の持ち主を特定するっていうのもあったけど、目の前に、僕の知らないなにかを知っていそうな脳殻があったら、繋がってみたいと思うのは仕方のないことだと思うんだ。
でも、それは一瞬で終わってしまった。
ちょうど、車を探していた二人が上の階から下りてきたんだ。
二人も僕たちに気づいたし、僕らも二人に気づいた。
二人の動きは早く、僕たちを見ると、いきなりSMGを抜いたんだ。護身用のちっぽけなハンドガンじゃなくて、物騒なSMGだった。
フルオートの連射音が場内に響いた。
9ミリパラベラム弾の弾幕だった。
僕は咄嵯に、彼女を庇ったんだ。
でも銃弾より早く動くことなんてできるわけがない。
僕が体で銃弾を受けたときには、既に彼女は傷ついたあとだった。
ミニパトのウインドウとサイドミラーが割れ、ボディには点々と穴があいていた。
そしてそのボディの傍に、銃弾を受けた霧島巡査が横に倒れていたんだ。
『あ〜っ、大丈夫ですかあ!」
僕が霧島巡査に気を取られた間に、車のセルが回る音がした。
見ると、あの二人が、トランクを閉めて、盗難車を走らせ始めていた。
後輪が空転して、車体が二度、三度、横に揺れて、隣に止まっていた車を押しのけるようにしながら、急発進して、僕目掛けて突っ込んできた。
「なんですと〜!」
僕はよけなかった。
僕がよければ、後ろにいる彼女が危なかったんだ。
でも、車は僕にぶつかる寸前で、掠めるようにして出口へと向かった。出口に下りてる金網のゲートを突き破ってね。
車のエンジン音が遠ざかっていくのを確認しながら、僕は、倒れている霧島巡査に声をかけたんだ。
『ねえ、霧島巡査。大丈夫ですか?』
僕の視覚が捉えた情報が確かなら、霧島巡査の体には、全部で七発の銃弾が当たっているはずだった。
「大丈夫――」
そう言って霧島巡査が体を起こしたんだ。
見ると、銃弾の当たった、腹部から左腕にかけての部分から、血が流れていなかった。
霧島巡査が左腕をまくると、皮膚にめり込んだ、つぶれた弾頭が見えた。
「高速徹甲弾じゃなくてよかった」
めり込んだ弾頭を、取り出したナイフで霧島巡査がほじり出す。
その弾頭は、床のコンクリートに落ちて、コロンと軽い音を立てたんだ。
霧島巡査の左腕は義体だった。
通常の義体なら、人工皮膜や、筋繊維の強度は、生身の人間とあまり差はないはずだった。
少佐みたいに、チタンの骨格や、筋繊維密度を増強している、特殊な例もあるけど、普通にあんなものが歩いてるわけない。
でも、霧島巡査の義体は、少佐の使っているものと、同類のものだった。
見た目は、生身の体とそんなに変わりはないんだけど、性能はとんでもないものだったんだ。
弾頭が命中したところは、人工皮膜こそ破れていたものの、その下に張られた特殊繊維が、弾頭の威力を完全に分散、吸収したお陰で、最小限度のケガですんだみたいなんだ。
あれほど、ロボットや機械を嫌っていた霧島巡査が、義体化していたなんて、僕には意外だった。
霧島巡査は、少しふらつきながら立ち上がると、僕を見た。
「この場合、ありがとう、つていうべきなのかな」
『そう言ってもらえると、僕も嬉しいです』
「お礼を言われて、喜ぶロボットなんて――、いいわ。盾になってくれて、ありがとう」
『どういたしまして』
霧島巡査との距離が、少しだけ縮まるのを感じたんだ。
これは物理的な距離じゃなくて、経験的思考から導きだされる優先的決定事項においての時間のことを言うんだけど、まあ、わかりやすく言うなら精神的な距離とでも言えばいいのかな。とにかく人間っていうのは、ある対象に対して、なにか自分に都合のいいことがあると、自分の仲間の領域区分に組み込む傾向があるんだね。僕は、霧島巡査の、そういった領域に入るようになったんだ。
霧島巡査は、僕のことを少しだけ認めてくれたってことなんだね。
僕は気をよくして言ったんだ。
『あの脳殻と対話する時間もなく終わっちゃったんですけど、あれって、トヨダケミカル専務の桝本って人の脳殻でした』
桝本の名前を聞いた途端、霧島巡査の表情がかわったんだ。
「……桝本」
『個人認証まではわからなかったんですけど、脳殻はそう名乗ったんです。ねえ、霧島巡査。これって、この前、誘拐されて戻った人のことですよね』
「それが本人だと証明できるような記録はないのね?」
『ありません。ただ、脳殻とちょっとだけ会話した結果、そういう反応があっただけです』
「そう。それだけじゃ本人かどうか、わからないし、誘拐から桝本本人が、無事に戻っている以上、特捜が動くと思えないわ」
「そうだ。盗難車なんだから、それを押さえるように要請を出すって言うのはどうです?」
「――ダメよ。これは、私が出会った事件なんだから」
『え?」
「……私が、捜査課に返り咲くチャンスなのよ」
霧島巡査はミニパトに向かった。ボロボロに割れたドアを開けて、中に乗り込むと、エンジンを回したんだ。
『あの、霧島巡査一人で犯人を追うつもりなんですかけ…』
「そう」
霧島巡査はアクセルを踏み込んだ。
ポロポロになりながら、彼女は駐車場を飛び出していった。
『僕も連れてってくださいよ〜!』
僕は、彼女のあとを追ったんだ。
僕と彼女は駐車場を飛び出した。
でも、通りに出たとき、既に、追うべき車の姿はなかったんだ。
飛び出したのはいいけれど、どこに向かえばいいのか、打つ手なし、って状況だった。
「どこへ――」
『探しましょうか?』
「探すって、どうやって?」
『ネットで』
ネットの中には、現実世界の写しとも言える、情報のみの世界が存在する。
GPSや、Nシステムなど、あらゆる情報取得端末から取り出した情報を視覚化したものだった。
光と、数値と、記号が織り成すデータの世界だ。
記号と記号とが細い糸で繋がっている。
リンクライン。
個々の情報が複数の情報処理装置へと流れていく。
電通を使っていれば、そのラインがどのネットを経由しているのかが、明るく太く表示されていた。
銀行でデポジットカードにクレジットをチャージしている個人には、その金の流れが示されていく。信販会社からローン情報、銀行から預金情報など、あらゆる情報がその端末に集約される。
そうした情報は、情報同士が密接なリンクを持って成り立っている。
僕は、その世界の中に漂っていく。
今、僕のいるところが記号で表示される。彼女も記号だ。
そこにいる、という存在記号でしかない。
周囲を見ると、通行人や、店、看板、公衆端末と、数多くの記号が存在する。
僕は、それを道路情報と車のみに放り込んでいく。
そして車の中から、ナンバーを検索する。
MNB-LKJ389。
道路をスキャンする。
R235。港湾入口。東区方面。該当車アリ。
『ありました〜!』
僕は霧島巡査に言った。
「今、どこに向かってるの?」
『港湾入口から高速235号線に乗ったところです。まだギリギリ管区内ですけど、どうします?』
「もちろん、追いかける。今ならまだ間に合う!」
霧島巡査が、パトライトのスイッチを入れる。
けたたましいサイレンの音が、街いっぱいに鳴り響いた。
霧島巡査は、アクセルを踏み込み、ミニパトは、後輪から白い煙を立てて、お尻を振りながら急発進した。
「あ、待ってくださ〜い!」
僕は慌てて、彼女を迫ったんだ。
彼女は、サイレンを鳴らしながら、車をすり抜けるように走る。
赤いパトライトの明滅が道路を流れる。
小柄なボディを活かした走りを見せる。
クラクションと、怒声が後ろへと流れていく。
赤信号でさえ、お構いなしだ。
横から出てきたトラックの前をギリギリで横切っていく。
あのボディで、トラックなんかにぶつかった日には、元の形なんて留めてなんかいないだろう。
そんなことを思っている僕の目の前に、トラックの横っ腹が迫った。
『わぉ!』
僕はその上を跳んだ。
こういうことなら、僕の方が早い。なぜなら、道を選ばずに、最短距離をいけるから。
彼女は高速に乗るまでが問題だった。
高速に乗ってしまえば信号はない。
信号さえスルーできれば、最速で高速に乗れるはず。
僕は、警察署の交通端末に潜り込み、信号の制御プログラムに手を加えた。
緊急車輌PC-113。進路保持。
こうしておけば、彼女の進路にある信号は、彼女が通過するまで、全て青で固定される。
通常、路線バスが時間通りに運行するために、使っているこのシステムを、彼女用に拝借させてもらったんだ。
彼女はもう大丈夫だろう。
そして、次だ。
前を行く、脳殻を積んだ車を止めないと、僕たちはいつまで経っても追いつけない。
こんなとき、9課ならティルトローターで空からの追跡が可能なんだけど、今の僕は、新浜県警港湾署交通課のタチコマなんだ。
僕は、高速道路の渋滞緩和装置を支配する。
あの車が進んでいる進路の道路標示を意図的に変えていく。
片側車線への交通親制。名目は事故処理。これによって車の流れが詰まり始める。
進路にある合流ポイントに、多くの車を流すため、他の高速道路から、こちらに迂回するよう指示を与えていく。
ネットの中の、道路表示が、グリーンからイエローに変わっていく。
交通量を色分けしたものだ。
あの車が、色がイエローからレッドに変わる部分に突入していく。
高速の先には、拡張工事の区域と、その先にはパーキングエリアがあった。
パーキングエリアに逃げ込まれると、車を乗り換えられる可能性がある。その前になんとしても押さえたかった。
あの車の動きが止まった。
僕は、前を行く務島巡査に並ぶ。
『霧島巡査〜、あの車を渋滞に突入させました! 今がチャンスです!」
「渋滞に? あなたがやったの?」
『えっへん。まあ、たいしたことじゃないんですけど。僕のシミュレーションでは下を走って、二つ先の、港湾東から高速に乗れば、300秒以内に合流できます!」
「わかった。ありがとう」
『でも、鼻島巡査。どうしてここまで必死になるんですか?」
「……私の血がそうさせるのかもしれないわ」
『血? 血液が?』
「そういう意味じゃなくて、親から譲り受けたものという意味よ」
『親から――』
僕に親なんてものはない。まあ、あえて挙げるのであれば、ボディを作り上げた技術者と、人工知能の基礎を築き上げたエンジニアが僕の生みの親と言えるのかもしれないね。
霧島巡査は話を続けた。
「私の父親が、県警の捜査課の刑事だったの」
『刑事さん。それでお父さんは今どこに配属されてるんですか?』
「――もう死んだわ」
『もしかして、捜査中の殉職ってやつですか?』
「いいえ。非番の日、私とドライブに行って、そこで事故に巻き込まれて死んだの。もう、十五年になるわ」
『それはご愁傷様です……』
「そのとき、私は親と一緒に、体を無くしたのよ」
『体を!?』
「まだ八歳だった。右腕以外、全身が強制的に義体化されたの」
僕は、ハンドルを握る霧島巡査の右腕を見た。
ここだけが生身なんだ、と思った。
「いろいろあったわ。街の中で警察を見るたびに父を思い出しちゃって――、外国で暮らしたこともあった。同じ警察でも、よその国なら、雰囲気が変わるから」
『そんなに幸いのに、なんでまた警察官なんかになったんですか?』
「――なんとなくかな。ビザの更新で日本に戻ったとき、日本にある家財なんかを全部処分しようと思って荷物を整理しているときに、父の日記が隠されているの見つけたのよ。父は、正義感に篤《あつ》い人だった。悪を許さない、何事も諦めない人だった。事故で死んだときは、ある政治家の変死事件の特捜から外されたばかりのときだったのね。自分を慰める意味もあったんでしょうけど、できるだけ私との時間に充てて、気を紛らわせていたと日記には書いてあったの。特捜を外されても、父は諦めてなかったみたい。死んだ政治家の息子さんが、ただ一人、殺人を疑わなかった。それを信じたのね。そんな矢先、事故に遭って、父は死に、私は義体化することになった。だから、それを読んでいるうちに、なんだか、目の前の現実から逃げている自分が恥ずかしくなって、学校に入りなおして、警察官になったのよ」
『なるほど。この国には、親は子の鑑って言葉があるくらいですからね。親の行動や思考を観察しているのは、その子供なんですよね。それを経験学習していくんですから、影響を受けて、同じ思考傾向の偏重を見せる。これを端的に表した言葉なんです。ことわざっていうのは、いわば、そうした客観的観察記録の記録文というわけなんですね』
「あなた、本当にロボット?」
『え〜、定義的にはロボットなんですけど、思考構造は人間に近づきつつあるというか』
「――あなたとなら、いいコンビが組めそうよ」
『ありがとうございます。あ、もうすぐ高速入口です』
「わかったわ!」
僕たちは一気に加速する。
遮るものはなにもない。
この光景を、見ていた、この街の住民たちは、いったいなにが起きたんだ、と思っただろうね。
ミニパトと、同じツートンカラーの思考戦車が、サイレン鳴らして、パトライト回して凄い勢いで走っていくんだから。
走り始めて、170秒ほどで高遠の入口が見えてきた。
ゲートを潜ると、左にループした上り坂が見えてくる。
ミニパトのタイヤが、軋み音を立てる。
タイヤ自体が太くないので、グリップが保たないのだ。
限界を感じた霧島巡査がアクセルを、ゆるめる。
『スピードを落とさないで!』
僕は霧島巡査にそう言うと、ミニパトの右側面に回りこむ。
そしてボディに軽く手を添え、片脚をコンクリートのフェンスに向けた。
遠心力で外側に膨らむミニパトの荷重を受けて、僕の脚がフェンスにぶつかる。
僕はミニパトを押し戻す力を加減しながら、斜めになったままループラインを上っていく。
ループは徐々に緩やかになり、直線へと変わる。
ミニパトの軌道が安定し、十分に加速された状態で高速道路に打ち出されていった。
渋滞した道路の路側帯をミニパトがサイレンを鳴らして疾走する。
その後ろを僕は付いていった。
既に僕の駆動部のモーターは焼きつく直前まで来ていたからなんだ。
こんな限界近いスピードで、これだけの時間を走ったことはなかった。
僕は戦車とはいえ、元々、走ることよりも、歩くことに重点を置いて作られているから、こうした高速走行は向いていないんだよね。
目的の、脳殻を積んだ車まで、あと20秒ほどで到着予定だった。
道路の左手に工事用のフェンスが見えてきた。中では道路の拡張工事をしてたんだ。
そのフェンスは道路に沿って、どこまでも続いていた。
僕たちはそれに沿って、走り続けたんだ。
そのとき、進路が騒がしくなった。
あの赤い車が、僕たちに気づいたようだった。
左右の車を押しのけて、車線を変更して走り始めたんだ。
霧島巡査が声を上げた。
「あいつら、逃げるわ!」
『大丈夫です! 僕のシミュレーションどおりです!』
「シミュレーション?」
赤い車は、そのまま路側帯を走っていった。だが、目の前のサービスエリア入口への渋滞を見て、進路を探しているようだった。
そして彼らは見つけたんだ。
拡張工事用の車輌出入り口を。
赤い車は、工事現場のフェンスを派手に突き破り、中へと入っていったんだ。
僕たちもそれに続いた。
拡張工事の現場は、路面が分厚い鉄の板で覆われていたんだ。
赤い車を追いかける、ミニパトのお尻が、派手に横滑りしている。
高速走行のために表面の焼けたタイヤでの運転は、あまりお勧めできない感じだった。
それは先を行く、赤い車にもいえた事で、パワーがある分、あちらの方がコントロールは難しいようだった。
そして、それは結果となって現れたんだ。
赤い車が、追いつこうとしたミニパトを振り切ろうと、ハンドルを大きく切った。
そのとき、赤い車のテールが大きく横滑りして、車体がコマのように回り始めたんだ。霧島巡査もそれを避けようとハンドルを切る。そして赤い車と同じように横を向いて、転がり始めたんだ。
そして最悪なことに、拡張工事のエリアは、この先で途切れていた。
道がなくなっていたんだね。
高さ50メートルを超える断崖。
そして真下は海面だ。
ここから落ちれば、義体化した人間と言えども、助からない。海に落ちれば、義体は浮いてこれないのだ。
それは僕も一緒なんだけど。
『危な〜い!』
それでも僕は必死だった。
彼女を助けるために、必死で走った。
でも、僕の駆動用モーターも、もう限界に来てたんだ。
前脚の一本のモーターが焼きついて、タイヤが回らなくなった。
視界が急に回転し始めた。
急ブレーキが働き、僕は体ごと前に吹っ飛んだんだ。
『あわわわー!』
僕のボディが転がり始めていた。
その視界の片隅で、横に回転していた赤い車がフェンスに激突していた。フロントガラスも、リアウィンドウも粉々に砕け散る。トランクのロックも、外圧に耐え切れずに、開いていた。
僕は彼女に視線を戻す。
転がる勢いはまだおさまっていない。このままでは、転落は免れないだろう。
僕が走ったところで追いつくはずもない。自分の安全を保持するだけなら、100%の確率で、僕は帰還できる。けれど、彼女を救出するとなると、その確率は25形以下にまで落ち込む。
でも――。
助けなくちゃいけない。
そんな思考が僕のニューロチップを満たしていく。
これは命令なのか。僕に与えられたプログラムなのか。
僕のここでの任務は――、僕のここでの行動を記録して、公安9課に持ち帰ること。
これが僕に与えられた、任務だった。
僕は9課に戻らなくちゃいけない。
でも――。
思考よりも先に、ボディが動き始めた。
彼女が見えた。
僕は後部ポッドから、液状ワイヤーを彼女に向けて、射出する。
空気中に飛び出した液状ワイヤーは、酸素に触れて凝固し、優れた柔軟性と強度を誇るワイヤーとなる。
伸びたワイヤーが、転がるミニパトのボディに絡みつく。
僕の体は重みに引きずられていく。
僕のボディが、路面の鉄板に擦られ、剥離していく。削られ、火花が散っていく。
止まらない。
まだ止まらない!
止まれ!
止まってくれ!
彼女の体が、道路の端まで転がり、運動エネルギーの方向を、横から下へと変えていく。
重力の支配が始まる。
引きずられるボディを、立て直す。ばたつく脚を、接地させる。
『このまま走れば――!』
脚一本分の動力が期待できない。でも、これしかないんだ。
僕は奈落に背中を向けた。僕は重力に逆らって走り出したんだ。
モーターが加熱する。
路面の鉄板に、擦れた強化ゴムがスリップマークをつけていく。このマークが、僕が確率に抗った爪痕だ。
あと7メートル。
動輪の動かなくなった脚で、僕は鉄板を蹴る。進んでいる方向とは逆に、僕はひたすら鉄板を蹴っていく。もう、動輪は引きちぎれてなくなっていた。僕の脚を削りながら、僕は重力に抗う。
減速は始まっていた。
あとは距離との勝負だった。
あと4メートル。
止まれ!
それだけを思考に浮かべる。
そして僕が背中に海を感じたとき、運動エネルギーはゼロになった。
青い空だ。
僕の目であるアイボールのカメラが捉えた映像だった。そこには、白い雲がぽっかり浮かんでて、ああ、これが平和ってやつを感じるってことなのかって思ったんだ。
僕は、おそるおそる、下を見たんだ。
道路の際まであと3ミリもなかった。
断崖から下へと伸びた液体ワイヤーの先には、海面すれすれのところに、ミニパトがぶらさがっていた。
僕らは助かったんだ。
液体ワイヤーを収縮させ、彼女を引き上げたのは、それから二分後のことだった。
赤い車に乗っていたドライバー二人は、衝突の衝撃で頭を潰し、息絶えていた。脳殻が破壊された以上、誰から頼まれたのか、その情報を引き出すことは、もう、できなかった。
そしてトランクの積荷も、海へと放り出されたのか、見つけることができなかった。
霧島巡査は、ポロポロになった相棒の姿を見て、呆然としていた。
霧島巡査も、ポロポロだった。
生身の人間や、市販の義体なら、死んでいてもおかしくないだろう。でも、霧島巡査の義体は、特殊な加工がされているのを、僕は知っていた。
それでも、義体のあちこちが損壊している。そしてずっと右腕を押さえて立っていた。
それは、霧島巡査の体に残された、最後の生身の部分だった。
『大丈夫ですか?』
「……ええ。でも、もう駄目みたい」
霧島巡査が痛みに顔をしかめる。
僕が救出したとき、ハンドルを握っていた右腕が、潰れたドアに押されて、骨が複雑骨折。神経系も断裂しているのか、指すら動かせないようだった。
「これじゃ、右腕も義体化しなきやいけないんでしょうね」
『義体化すれば、元通りですよ!」
霧島巡査は首を横に振った。
「私にとって、この腕が、最後に残った生身の部分だったの。私の、人間としての、最後の一部だった」
義体化すれば元通り、生活に支障のない体に戻れるというのに、霧島巡査がどうして感傷的になっているのか、僕にはわからなかった。
これが、ロボットと、人間の違いというものなんだろうか。
しばらく、海を見ていた、霧島巡査が僕を見て言った。
「今度会うときは、私もタチコマと同じ、全身、機械の体になってるかもね」
そう言って、笑った。
霧島巡査が僕に見せた最初の笑顔だった。
でも、なんだか僕が見る限り、その笑顔には、悲しいという感情が優先して浮かんでいるように見えた。
「タチコマ、あの脳殻は――?」
『それが、海に落ちたみたいで――』
「――そう」
霧島巡査が僕を見て言った。
「ねえ、タチコマ」
『はい?』
「どうも、ありがとう。あなたに会えて、私、この義体とつきあうことができそうだわ」
『別に感謝されるほどのこと、してないですよ。僕、こんなこと、公安9課じゃ当たり前でしたから』
「あなた、公安9課のロボットなの?」
『あ、いや――えーと、県警のロボットです。あの、なにか気になりました?』
霧島巡査は首を横に振った。
何かを言おうとした霧島巡査を遮ったのは、この事故を知って駆けつけたパトカーのサイレンだった。
高速道路に面した、工事用車輌の入口から赤いパトライトをつけた車が三台、入ってくるのが見えた。
『あ、お迎えが来ましたよ』
「そうね。私もこれで――」
大きくなるサイレンの音で、最後の方の音声は聞き取ることが出来なかったんだ。
そして、それが僕と、霧島巡査の、最後に交わした言葉だったんだ。
×   ×   ×
『え〜、もう会えないの?』
『この事件のあと、僕はミニパトと一緒に、レッカー車で運ばれたんだ。霧島巡査は、迎えに来たパトカーに乗って帰っていったんだ。それで、僕は今、修理から戻ってきて、9課に戻ってきたわけなんだけど――』
『わけなんだけど?』
『実は僕、もう一度、彼女に会いたいんだ』
『おー、大胆な発言』
『もしかしてそれは、脱走を企てようってつもりじゃ……』
『企てるもなにも、少佐の許可、もう取ってあるもんね』
『え〜! 君ばっかりずる〜い!』
『仕方ないでしょ。港湾署にお世話になりました、って挨拶もしてこなくちゃいけないんだ。少佐が行ってきなさいって――』
僕は一週間ぶりに港湾署に向かった。
久しぶりに彼女に会える。
そんな思考が、そうさせたのかわからないけど、僕は途中で、花束を買った。請求先は、荒巻大輔にしておいたけど。
名前はわからないけど、白い小さな花がいっぱいついている、そんな花束だった。
この思考はなんだろう。
僕の中で、彼女のことは思考順列の優先事項として位置されるようになっていた。
そして並列化したとしても、この思考だけは、僕だけのものにしておきたいっていう、ある種の独占欲求が存在するのも事実だった。
僕は楽しかった。一人で行動するってことが、そう思わせたのかもしれないけど、僕のニューロチップの中に生まれてくる、新しい思考パターンが、なによりも僕を高揚させた。
僕は、港湾署につくと真っ直ぐに、ガレージに向かった。
ガレージの中には、白黒ツートンのパトロールカーと、それを点検する署員という、一週間前と変わらない光景が広がっていた。
でも、そこに彼女の姿はなかった。
婦警の一人が僕を見て、近づいてきたんだ。
「あ、君でしょう? 県警から来たロボットつて?」
僕の知らない婦警さんだった。
僕は聞いてみた。
『あの〜、霧島巡査は、どこにいるんでしょうか?』
その婦警さんが言った。
「霧島巡査? それって私の前にいた人のことかしら」
『前にいた人?』
「ええ。私、三日前にここに配属されて来たばかりなのよ。突然の異動だったから、まだ右も左もわからなくて」
『そうなんですか……』
「待って。今、みんなに聞いてあげるから」
そう言って婦警さんは、他のみんなのところに戻っていった。
彼女がいない。
なんだか、少しだけ嫌な思考が浮かんできたんだ。
あの婦警さんが戻ってきた。
そして僕に言ったんだ。
「霧島巡査、三日前に退職されたみたい」
『退職?』
「ええ。私も今聞いてびっくりしたんだけど、一週間前に、盗難車を追いかけて、大事故を起こしたらしいの。それが独断で起こした事故で、盗難車に乗っていた容疑者二人も死んじゃったし、乗っていたミニパトも全損しちゃって、廃棄処分。これが、問題になったのよね。結局、責任を取る形で辞職ってことになったみたいだけど」
『――そうなんですか』
なんだか、ぽっかりと、思考が欠落したような、そんな感じがした。
「あなた、タチコマちゃん?」
『はい、タチコマです』
そう言って、婦警さんは僕に紙包みを差し出したんだ。
「これ、あなたにって。霧島巡査がのこしていったそうなの」
『僕に――?』
僕はその紙包みを受け取った。
紙包みを開いてみると、そこには、霧島巡査のお父さんの日記が入ってたんだ。
公安9課に僕が戻ったとき、他のみんなは、並列化の最中だった。
照明が落とされて暗い格納庫の中で、僕は空いている格納庫に入っていった。
バッテリーを繋ぎ、感覚機器を落としていく。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚。こうしたもののセンサーがオフになると、思考の海に、僕という存在が深く沈み込んでいくのを感じる。
これはいつもの感覚だった。
その海を満たすのは情報という液体。
僕はその海の中に溶け、海の一部に還っていく。
そして、数時間経った後、起動スイッチを入れられることで、僕は新しい僕になって現実に戻るんだ。
でも今の僕は、その海に沈みこむことができなかった。
なんだか、一人、取り残されてしまったようで、悲観的な思考が僕のニューロチップ溶液を満たしていくのを感じていた。
「タチコマ、戻ったのか」
僕を呼ぶ声に視覚を機能させると、目の前に少佐が立っていた。
『なんの御用ですか、少佐』
「いつまで、その格好でいるつもり?」
『その格好?』
「県警仕様よ。赤服を呼んでるから、来たらすぐに落としてもらいなさい」
『ということは――』
「そう。明日から平常任務に戻すわ。思考爆弾の影響もあまりないようだし、ここまでの内容を見る限り、うちで使う分には、なんの問題もないって出たわ」
『そうなんですか』
僕の中で、割り切れないなにか、が存在していた。これは、霧島巡査がいなくなったことへの思考の揺らぎのようなものなんだろう。僕の県警での任務は終わり、霧島巡査との関係はこれで断ち切れたことになる。ただ、僕は霧島巡査と過ごした時間を消去するのが嫌だった。
県警で過ごした時間が、これからの公安9課での任務に活かせるとは思えない。
優先的に消去されていくものなのだろう。
だけど、僕は霧島巡査を忘れたくはなかった。
これは、人間が持つ、感情というものが生み出す思考なのだろうか。
となると、僕には感情が生まれたということなんだろうか。
僕はわからなくなった。
『ねえ、少佐。僕はロボットなんでしょうか?』
「どうしたの、急に?」
『いえ、なんとなくそう思ったんです』
「機械のボディを持って、意思に類するものを持っている。そういった意味では、私もあなたも同じ存在ということね。でも、違いがあるとするならば、人間は目的を持たずに生まれるけれど、ロボットは目的を持って生まれてくる。そのくらいの差かもしれないわ」
『なるほど。それじゃ、僕がその目的から外れたとき、僕はどうなるんでしょうか?』
そのとき、赤服たちが格納庫に入ってくるのが見えた。
少佐は立ち上がって言った。
「そのときは、そのときよ」
『そうなんですか――』
「ところで、霧島奈々巡査が県警からいなくなったそうなんだけど」
『ええ。僕も聞きました。それで、これ、もらったんです』
僕は少佐に、あの日記を手渡した。
「霧島刑事の日記?」
少佐は、日記を二、三ページ、ぺらぺらと捲り、そして厳しい顔つきになって僕を見た。
「タチコマ、霧島巡査がお前にこれを?」
『ええ』
「お前、自分が公安9課の思考戦車だと言ったのか?」
『……はい、あの、ついつい言語機能がスリップしちゃって』
「そうか。わかった」
少佐はそれ以上、なにも言わずに僕のもとを離れて、出口へと向かっていった。
僕は格納庫から出て行く少佐を見送った。
赤服たちは、手早く僕の体を9課の仕様に戻していく。
ツートンカラーに塗られた塗料を落とし、新浜県警の文字を剥がす。頭の上に載せられたパトライトを外し、アンテナをセットする。
口の部分に嵌められていたスピーカーを外して、グレネードがセットされる。
一時間と経たないうちに僕はもとの青い体に戻っていった。
僕はただの機械から、兵器である機械に戻っていった。
赤服たちがいなくなり、僕は一人になった。
僕が得ていた外的特徴という個性は失われ、もう他の仲間たちと変わらないものになった。
繋がれたケーブルを通して、僕のニューロチップに蓄積された記憶が、活動記録としてバックアップされ、並列化が始まっていく。
深い、情報の海の中に、記憶が沈んでいく。
僕だけが過ごした時間が、一つの記録として圧縮されていった。
記録となった記憶は、もうただの情報にすぎない。
次に目覚めたとき、その記録を再生しても、もう思考が揺らぐことはないのだ。
その瞬間こそが、僕が公安9課のタチコマに戻った瞬間なのだ。
もう一度、霧島巡査に会ったとき、僕は彼女への、この感情を記憶しているのだろうか。
忘れたくないよ。
だから、僕は、記憶が記録に変わる、その瞬間まで、彼女のことを考え、眠りについた。
[#改ページ]
the original episodes of STAND ALONE COMPLEX
#04
凍える機械
REVENGE OF THE COLD MACHINES
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招慰難民居住区の朝は、公園に漂う炊き出しの匂いから始まる。
一杯の炊き出しを求めて、手に手に、プラスティックや、アルミ製の椀を握り締めた難民たちが、長い列を作っていた。
あいにくとこの日は、昨晩から降り続く冷たい雨が、公園にぬかるみをつくっていた。
その泥に足を取られながら、片足の男が松葉杖をつき、炊き出しの列へと並ぼうとしていた。
毛織の帽子を目深に被り、その奥から覗く日は暗く、そして濁っていた。目の周りについた小じわが、男を包みこむ、老いの空気を感じさせる。
その歩き方をみると、松葉杖そのものに慣れていないのか、かなりおぼつかない足取りをしている。男の身なりは、薄汚れてはいるが、仕立てのいいもので、この男の元の生活がそれなりに裕福だったであろうことを物語っていた。
おそらく、越境難民なのだろう。
元から招慰難民居住区に暮らしている難民たちにとっては、いい迷惑以外の何者でもない。
越境難民とは、難民居住区外から流れ込んでくる路上生活者たちなのである。招慰難民居住区に暮らす難民は、大戦の影響で土地を追われるなどの外的要因による戦災難民がほとんどであった。
だが越境社民は、通常の暮らしからドロップアウトした、生活難民なのであった。その理由は様々で、破産し、生活ができなくなったという経済的な問題から、罪を犯したために、社会から隠れなければならないといった者など、主に、難民となる原因が自らに起因する人々であった。
ただ、この難民居住区で、そこにいる難民が過去になにをしていたのかなど、誰も積極的に聞こうとするものはいなかった。
思い出したくない過去がある、という意味では、戦災難民も越境難民も大差ないのである。
それは、この公園の炊き出しに集まった難民たち、ほとんどに言えることなのだ。
初老の男は、ぬかるんだ土の上を松葉杖を使い、一歩一歩進んでいく。
その松葉杖がぬかるみに取られて滑った。
支えを失った男は、そのまま横倒しになっていく。
その体を、後ろから支える手があった。
「おい、大丈夫か。じいさん」
初老の男が振り返ると、若い男が自分を見下ろしていた。初老の男は礼を言った。
「すまない」
若い男は、公園に立つケヤキの下にあるベンチまで、初老の男を連れて行った。
人の列から少し外れた、静かなところだった。
若い男は、そのベンチに座らせると、今度は炊き出しの列に戻り、二つ、椀を抱えて戻ってきた。椀のうち、一つを初老の男に差し出す。
椀の中には、温かい粥が入っていた。
若い男は初老の男の横に腰掛けると、粥に手を付け始める。男は、貧るように粥を食べる。顔を椀につけ、流しこむように小さな匙を動かす。もとからそれほど多くない粥を、男は椀まで食おうとする勢いで食べていた。食べ終わってもなお、椀に張りついた米の粘液を指でとって舐める。
生きるという力を感じる、そんな食べっぷりだった。
男は食べ終わったのか、椀から口を離して言った。
「美味い」
初老の男は知っていた。この粥の味を。味も素っ気もない、白粥だった。時折、元がなんであったのかわからないような肉の細切れが入っていることもあった。正直、とても美味いといえた代物ではない。
それを美味いと言うこの若い男は、生きることに何かを見いだしているのだろう。
昔の自分を見ているようだった。
初老の男は、若い男に自分の手に持った粥を差し出す。
若い男は、それに遠慮するでもなく、椀を手に取って言った。
「いいのかい?」
「ああ」
「でも、じいさん。あんた、喰えるときに喰わないと死んじまうぜ」
「いや。わしはこの前、しこたま食べたんだ」
そう言って、初老の男はなくなった片足を見る。
「この足と引き換えにな――」
三日前になる。初老の男は、自らの義体と引き換えに食糧を買い求めた。
この生活に入って一ヶ月になるが、寝る場所と着るものは、どんな粗末な思いをしようと耐えることができた。だが、食事は別だった。
最初こそ、炊き出しの粥を物珍しく食べたものだが、それが二日、三日と続くようになり、一週間経った頃には、自らが家畜になったような錯覚に陥ったのだ。与えられる飼料を食べ、なんとなく生かされている家畜に。
焼きたてのパンの味が懐かしかった。
滴り落ちる肉汁が焦げる匂いが、鼻に残っていた。
口の中で蕩《とろ》ける、脂の甘さが欲しかった。
「わしは、ここに来る前、何百人という人間をまとめあげていた男だった」
初老の男は、若い男に過去を語り始めた。
「ちょうど、海外では戦争が激しくなって、この国が、その特需に沸いた頃、わしは仲間三人と小さな義体パーツの工場を創めたんだ。わしは技術の方はさっぱりだったんでな、頭と口を動かす。そんな役割を担ってたんだ。技術屋の一人に優秀なのがいてな、特許を取得して、ヒット商品を作り上げたんだ。当時は、〈軽い、安い、丈夫〉という触れ込みで大々的に売り込んだもんだ」
初老の男は、公園で炊き出しに並ぶ難民たちを見る。
義体化難民が何人か混じっていた。
「ここにいる難民の何割かは、わしが手がけた商品をつけているだろう。業績が伸びた私の会社は、国の援助もあって、部分義体を難民に無償で提供したんだ。恩返しと言ったら失礼にあたるのかもしれんが、戦争の特需で儲けたわしらにとっては、まさに恩返しでしかなかった」
老人は袖を捲《まく》り上げた。
よく見ると、皮膚に開閉用のスリットが入っている。ただ見た目には、生身の人間のそれと変わりはない。
「わしは、自らの意志で両腕と両脚を義体化した。自らが宣伝塔になったんだ。とにかく、頭と口さえあれば、仕事はできるんでな。自分のところで作り上げた義体を、自分が使って試さんでは、他人を説得することはできん。だからこその義体化だった」
初老の男が若い男を見た。
「見たところ、君は義体化はしておらんようだが――」
若い男が答える。
「ええ。よくわかりますね」
「義体技術が進歩したとはいえ、やはり生身の人間の細かい挙動を再現するのは、相当難しいのだよ。見るものが見れば、義体のそれ、とわかるんだ」
「そうなんですか」
「ああ。わしは義体というものの歴史を、もう二十年近く、この目で見てきたんだ。だが、この二十年で義体の役目は変わっていった。最初は、本当に、人間の生活を支える、なくなった体の替わりとなるようにと、作り上げていったんだ」
初老の男が手を差し出し、指で、グー、チョキ、パーとじゃんけんの動きをする。
「脳から受けた信号を、義手に伝え、瞬時にじゃんけんをする。そんな単純な動作が行えるようになるまで何年かかったことか。それなのに、今では、より美しく、より強くと、機能性や外観を求めるユーザーが大多数だ。義体化自体も、美容整形の一環で行われるようになっとる。義体メーカーも、自らの新商品を、そうした機能性で売り込むようになっていった。わが社は、頑なに、必要な人間のために、必要なものを提供するため、体の延長としての義体を作り続けていたんだ」
初老の男が、肩の力を落として言う。
「――だが、それももう終わってしまった」
「どうして終わってしまったんです?」
「会社を乗っ取られた」
「会社を……」
「業務提携を結んだ企業に、その全てを奪われた。そして、わしは何もかも失ったんだ」
初老の男が自分の手を見つめて、呟く。
「全てを失くした。家も、友情も、家族も。残ったのは、この義体だけだ」
「そうだったんですか」
「でもな、いまだに昔の生活が忘れられんのだろう。この前、美味いもん喰いたさに、この脚を売っちまったんだ」
男がなくなっていない方の脚を撫でさする。
「長いこと、退屈な話を聞かせてすまなかった。あんたみたいな、生きることに希望を感じている若者に会えてよかったよ」
「いえ。僕の方こそ、あなたに――トヨダさんに会えてよかった」
初老の男が目を見開く。
「わしの名前を、なぜ知っておる!」
若い男が、胸から身分証を取り出した。
公安9課 トグサ
それだけが書かれていた。
「公安?」
「あなたのシリアルが入った義体が、闇市場に流れたのを知って、追いかけていたんです。昔話を聞いて、トヨダさん御本人であることにも確信を得ました」
「わしは公安なんぞに用はない。お前を信じたわしが馬鹿だった!」
トヨダがベンチを立ち上がる。
だが、片足のためか、バランスを大きく崩す。それをトグサが支えようと手を伸ばすが、トヨダがそれを振り払った。
「触るな! わしは、お前ら公安の連中にもひどい目にあっておる」
「十五年前の自爆テロで、トヨダケミカルの製品が大量に使われた件ですね」
「そうじゃ。企業ぐるみで、現政権に反対しておるんじゃないか、とな」
「一緒に来ていただけませんか。温かい布団も、食事も用意させてもらいますよ」
「馬鹿者。お前らと行くくらいなら、わしはここで雨に打たれて死んだ方がましだ」
「それが希望ならそうさせてもらいますけど、あなたと一緒に会社を興したメンバーの一人、桝本《ますもと》さんについて、話を聞かせてもらえませんか?」
初老の男が抗うのをやめる。
「桝本――? 桝本|金一《きんいち》のことか?」
「ご同行願えますね」
そう言ってトグサは、トヨダの手を取った。
トヨダはもう抗おうとはしなかった。
トグサは電通で連絡を入れた。
「少佐。トヨダ氏を保護しました」
誘拐されたトヨダケミカル専務、桝本金一が自宅に戻り、十日が経っていた。
特捜内には、この事件も〈笑い男事件〉のように、複数の関連企業を狙った恐喝事件に発展するのではないかという見方もあったが、犯人側からの要求はなく、トヨダケミカルで対外交渉役も兼ねていた桝本自身への個人的な怨恨という可能性の両面から捜査は展開されていた。
だが、桝本に監禁されていた間の記憶がないことと、犯人を特定するだけの条件が極めて少ないことから、捜査は暗礁に乗り上げていた。
一方、公安9課は、タチコマが掴んだ、桝本のものと思われる脳殻の存在から、この事件の背後にもっと根深いなにかを感じ取り、9課の面々にトヨダケミカル本社の動きと、県警の動きをそれとなく探らせていた。
そしてその疑問に対する答えを導くための報告が、荒巻を中心に公安9課の作戦室で行われていた。
「イシカワ。トヨダケミカルの通信ログはどうなっている?」
「関連企業を結ぶ社内間の特別回線以外は洗い終わってます。対外通信ログに、この誘拐事件に関与する内容は2802件。いずれも、事実確認に関する問いあわせが主で、犯人側からの要求や要請、脅迫といった類の連絡は見られません」
「桝本の自宅の方は?」
「これも同じように、桝本が不在となった48時間を中心に、通信ログを取ったんですが、脅迫などの通信はありません」
荒巻がバズに向きなおる。
「銀行はどうなってる?」
「怪しい動きはありません。預金額の記録には、異常に高額な入金も、引落しも確認できません」
荒巻が腕組みをし、顎に手をあてる。
「そうなると、犯人側の目的は桝本金二本人を連れ出すことにあったということになるな」
バトーが口を挟む。
「なんの目的で?」
「それをこれから調べるんだ。鍵を握るのは、タチコマが見たという桝本らしき人物の脳殻だろう」
「海に落ちた脳殻か。今頃、魚のエサになってるんじゃねぇの?」
「少佐が回収に向かっているはずだが?」
イシカワが答える。
「県警から戻ったタチコマの報告を受けて、すぐに向かったんですが、あの辺りは潮の流れが早いんで、回収できるかどうか――」
そのとき作戦室のドアが開き、草薙が入ってきた。
それを見てバトーが言った。
「噂をすればってやつだな」
「なんの噂かしら?」
「たいしたことじゃねえよ。少佐が今つきあってるやつと、何日もつのかって話さ」
「あら、そう。みんなが心配してくれてるって、次の彼氏に言っておくわ」
そう言って草薙がバトーにきつい視線を送る。
荒巻が草薙に言った。
「少佐。脳殻は回収できたのか?」
「なんとかね」
「そうか。解析の結果はいつでる?」
「大急ぎに急いで72時間。塩水に浸かっていたお陰で、塩抜きをしてからじゃないと作業に入れないわね。長時間、海中に放置された状態だったとしたら、脳になんらかの異常を来している可能性があるわ」
「そうか」
「ところでトグサが確保した、トヨダ=カルノフ氏。彼から桝本に関する情報は抜き出せたのかしら?」
トグサが椅子から立ち上がった。
「ええ。桝本金一はトヨダが、トヨダケミカルを創立した際のメンバーの一人で、元々は技術畑の人間でした」
バトーが言った。
「そこら辺の情報は、トヨダケミカルから出てる公式情報と同じだな」
「前会長のトヨダ=カルノフ、72歳。現会長の中島ヒロシ、68歳。そして専務の桝本金一、44歳の三人が創設メンバーか。しかし、桝本だけ年が離れすぎてるなぞ」
「それなんですが、桝本の父親とトヨダが親友同士だったことから、研究に熱をいれ、就職もしていない桝本金一を、事業を始めようとしていたトヨダが預ったんです」
バトーが言った。
「親切心でてめぇの会社にいれたってのか」
「そうなんだ。いきなり荷物を抱える破目になったというのに、トヨダは桝本を喜んで迎え入れたそうです。ただ、嬉しい誤算だったのは、この桝本がトヨダにとって、金の卵を産む鶏に育ったことだった。桝本の義体技術は、トヨダケミカルの前身にあたるトヨダ義体の頃に作り上げられたもので、脳からの信号を受けた義体の反応速度を飛躍的にあげるものだったんです。この特許はトヨダ義体の企業力を高め、利益は大幅に増収。二年後には、トヨダケミカルという名前に社名を変更し、ポセイドンインダストリィや、メガテクボディ社などと肩を並べる、国内義体メーカーの一角を担う会社に成長しました。現在、製造されている義体のほとんどに、この特許が使われていると思っていいでしょう」
草薙が自らの義体を見つめて言った。
「私たちの義体にも、その技術が活かされてるわけね」
「ただ、この特許が問題で、トヨダ=カルノフは、桝本が作り上げた義体技術の特許を申請せずに、公の技術として、義体の製造発展の糧となれば、という考えだったそうなんです。ですが、桝本が特許取得にこだわり、申請自体も、トヨダが知らないうちに、桝本個人が独断でおこなったようなんです」
「桝本個人の利益のために、特許を?」
「それが、桝本は、個人名での申請はせず、特許申請をトヨダケミカルで申請してるんです」
バトーが座っている椅子の背もたれにふんぞり返る。
「愛社精神ってやつか。今どき珍しいやつだな」
「そうなんだ。ちょうどこの頃、義体の特許技術は、海外企業による青田買いが盛んな時期だったんです。技術を盗まれ、特許を先に申請されれば、企業としては大打撃になる。それを防いだ、桝本の英断なんでしょうね」
草薙が開いた。
「それに関するトヨダの反応は?」
「桝本を責めるようなことはなく、よくやった、とさえ言ったそうです」
バトーが言った。
「人のいいやつだな。トヨダってのは」
「そうね。だからナラシノ・テクノボディに会社を乗っ取られたりするのね」
「行き着く果てが、越境難民か。買収されてりゃ世話ねえや」
「その買収ですが、ナラシノ・テクノボディとの技術提携を持ちかけたのが桝本なんです」
荒巻がこれに反応する。
「ほう。確か、ナラシノ・テクノボディから持ちかけられた話だというのが、トヨダケミカルの公式情報だったはずだが?」
「トヨダ本人から開いた話です。間違いはないでしょう」
「そう」
草薙がイシカワを見る。
「ナラシノ・テクノボディとの技術提携前に、桝本に危険が及ぶような対外的なトラブルは起きていないはずね」
「直接、トヨダケミカルとの間で、問題を起こしたような個人や、団体は存在してない。ただ一度だけ、トヨダケミカルが公安に睨まれた事件がありました」
「十五年前の自爆テロ義体の供与疑惑ね。たしか義体化援助を打ち出した当時の政策に異を唱える、人類解放戦線系列のテログループ〈回帰線〉が起こした犯行だったわね」
草薙の問い掛けに答えたのはボーマだった。公安9課では爆弾に関する知識や解体技術の専門家としてチームの一端を担っている。
「あのテロは、セムテックスを義体に仕込んで自爆する無差別テロだったかな」
「トヨダ製の義体を使った理由はなんだったの?」
「トヨダの義体は、中のパーツが小型ユニット化されてるせいか、ちょうどいい隙間があるんだ。普段はそこにゲル状の緩衝材を詰め込んで、義体から起こる微小な金属音を抑えてるんだが、その緩衝材を抜いて、セムテックスを詰め込めば、重量もさほどかわらねえ、ちょうどいい義体爆弾の出来上がりさ。最初は、中東あたりで使われた手法だ」
義体爆弾による無差別テロは深刻な社会問題となっていた。
爆発物を身につけた自爆テロは古来よりあった手法だが、念入りな服装チェックなどで対処できるものだった。
だが、その爆弾が体内に仕掛けられていると防ぎようがない。
そこで登場してきたのが、義体化した人間による自爆行為だった。
狂信的な反義体テログループは、テロリスト自身が義体化を行い自爆することで、厳重なチェックをかいくぐるとともに、自らのメッセージを社会に刻んだのである。
特に、トヨダケミカルの義体は、爆弾とほぼ同じ重さ、同じ感触の緩衝材を抜くことで、他のメーカーの義体に比べても、非常に簡単に義体爆弾をつくることができたのだ。
これによりトヨダ製の義体は、テログループにもてはやされることになっていった。
ボーマが肩を疎めて言った。
「今でも、招慰難民居住区の闇市場じゃ、トヨダの中古義体が高値で取引されてる。人類解放戦線だけなら、まだなんとかなるが、このところの離民政策で、難民たちの不満もたかまってる。義体化難民がこの手のテロを起こし始めたら、防ぎようがねえ」
荒巻が答えた。
「そうならないよう、先に手を打っていくしかないだろう。三年前のナラシノ・テクノボディとの技術提携に絡んだ金の流れと、当時、桝本と関係のあった人間を洗い出せ。まずはそこまで遡る必要がある。現場指揮は少佐に任せるぞ」
「課長はどうするの?」
「わしか。わしは、木下議員の一件。あれで気になることがあってな」
「そういえばあれもトヨダケミカルからの不正献金が絡んでいたわね」
「まあ、そちらはわしに任せておけ」
「了解。いくぞ!」
草薙の号令のもと、公安9課の面々が、作戦室を一斉に出て行った。
四日ほど前のことになる。
北端の街にある酒場に、その男は現れた。
場末の酒場といっていいだろう。
カウンターのみ。五人も入れば満席になるような、小さな酒場だった。
男は、店に入るなり「ビール」と一声だけあげた。
男の前に出された瓶ビールを、男は手酌でコップに注ぐ。
白い泡がコップの底からたまり、それを押し上げるように黄金色の液体が、微小な抱を立てコップを満たしていく。
白い泡が冠のようにコップの際まであがったところで男は、瓶を傾けるのをやめた。
男の目の前に、よく冷えたビールがあった。
男はそれを目の前にして、生唾を飲みこんだ。
長く、遠ざかっていたものだった。
男は両の手でコップを握り締めると、中のピールを一気に喉に流し込んだ。
至高の一杯だ。
先に喉を通る冷たさがあった。
そして口内に広がる苦味が、男の過去を蘇らせていく。
「俺は帰ってきたんだな」
一杯のビールを飲み干し、男が呟いた、最初の一言だった。
二時間前まで、男は塀の向こう側にいた。
これまで、戦場を渡り歩く生活の中で、人に言えぬようなことを何度もやってきた。
だが、義体と顔を変えることで、忌まわしい過去を捨てた。戦場を離れ、家庭を持ち、つつましくも、小さな幸せを手にいれた矢先、ある約束を果たすために傷害事件を起こした。ナラシノ・テクノボディという会社の開発部長と、酒場で口論となり病院送りにしてしまったのだ。酒が過ぎて、というのはもちろん偽装のためである。この開発部長を痛い目に合わせて欲しいと、男の昔を知る人物から頼まれたのだ。
その人物には命を救われたこともあり、人殺しをするわけでもなし、断りきれぬ約束だった。
その罪を償うために、三年間、塀の向こう側で過ごして来たのだ。
こうして場末の酒場で、一杯のビールを飲めるという、忘れかけていた日常の流れを取り戻していく瞬間が、最高の贅沢だと、男が感じていたときだった。
空になったコップに、瓶のビールが注がれた。
男は隣を見た。
「あんたは……」
「お久しぶりです。ヨウさん」
男の名前はヨウ=テガンといった。ただし、昔の、戦場にいた頃の名前だった。
そのヨウの目の前に、その男はいた。
「まずは御出所、おめでとうございます」
「お前誰だ?」
見覚えのない男だった。
「ああ、そうか。今の僕は、あなたの知ってる僕じゃないんですよね。あなたに仕事を頼みたいんですよ」
「仕事?」
「正確にいえば、もう一人のあなたに会いたいんです。〈ツインズ〉のヨウ=テガン」
悪魔の囁きだった。
「ちゃんと昔の顔も、軍用の義体も、用意してありますよ」
「俺はもう、そういうのはやめたんだよ」
「でも、ヨウさん。あなたもトヨダケミカルに、怨みがあるじゃないですか」
その言葉を聞いて、ヨウの中で何かが動いた。
「……相手がトヨタケミカルか。なら、いいだろう」
そう言ったヨウの顔に、凶悪な笑みが浮かんでいた。
廃墟でしかなかった街の一角を、トヨダ義体という会社が買い取り、工場を作り始めたのが十五年前のことだった。
その後、廃墟を整地しながら、工場を拡大し、そしてその敷地内に巨大な高層ビルが出現したのが七年前のことだった。
ちょうどトヨダ義体工場から、トヨダケミカルに社名変更をした頃のことだった。
その下ヨダケミカル本社屋の玄関前に、一台の高級外車が横付けされる。
運転手が開けたドアから、専務の桝本金一が降りてくる。白髪の混じった頭をオールバックに固め、険しい表情で社屋の中へと入っていく。
バトーは、その様子を、離れたマンションの一室から、望遠装置を使って覗いていた。
電脳直結型の望遠装置は、自らの視界の一部に拡大画像を投影してくれていた。
「桝本の野郎の、白髪まで数えられるぜ」
バトーが、隣でライフルスコープを覗くサイトーに言う。
「白髪の数を数えて、本人かどうか、特定できるなら、そうしてる」
冷たい返答だった。サイトーらしいといえばサイトーらしいのだが。
「それより、バトー。気づいているか?」
「ああ。あの車、昨日も別の場所に、十七分だけ停まっていたな。色は緑。昨日は赤だったはずだが、ナンバー変えるの忘れてやがる」
あの車、とバトーが言ったのは、トヨダケミカル本社の前の通りに、人口から離れているが、その入口を観察できる位置に停められた一台の車だった。
サイトーが言った。
「県警か?」
「いや。県警なら覆面で来てるだろ。ナンバーが改造車扱いになってるはずだ。あの車、どノーマルの大衆車だ。たしか一昨年、一番売れた型だろ。ちょうど、員い替え時期で、中古が大量に出回ってるやつさ。おそらく、どこかの諜報部員くずれってところだろ」
「顔を見てくる」
そう言ってサイトーが部屋から出て行こうとする。
「お前も物好きだな」
バトーの言葉は閉じたドアに遮られて、サイトーには届かなかった。
トヨダケミカルの前の通りは、それほど通行人が多くはなかった。
サイトーは一度、人通りが多い商店街まで歩いてでると、電光掲示板で大きく〈TAXI〉と言う文字が屋根に乗せられた車を止めて、乗り込む。
タクシーの運転手が、後部座席に乗り込んできたサイトーの顔を見て、SOSボタンの位置を確かめているのがわかった。あのボタンを押せば、電光掲示板に〈SOS〉が表示され、車内で発生した危険を、外部に知らせるというものだろう。
サイトーにとって、毎度のことだった。
自分の顔が、凶相だということは、承知しているつもりだった。だが、9課の中では、バトーやバズ、ポーマなどに比べれば、結構マシなほうだと思っている。
今も、胸を大きくはだけた黒いシャツを身につけ、極太のゴールドのネックレスで首を飾っている。
サイトーは、抑えた声で、タクシーの運転手に行き先を告げた。
「トヨダケミカルの前を通って、またここに戻ってきてくれ」
運転手は、やや間をおいたあと、「はい」と返事をし、タクシーを走らせ始めた。
トヨダケミカルまで、一分もかからないだろう。
法定速度を守るのであれば、あの車の側を通り過ぎるまで、〇・二秒もない。
タクシーが、右折のカウンターを出した。
ここを曲がればトヨダケミカルの前の通りになる。
対向車線に男の乗る車があるはずだった。
交差点の赤信号でタクシーが停車する。
左側の窓を見ると、バトーのいるマンションが見えた。
交差点角にあるレストランの窓際の席に、トヨダケミカルにさりげなく視線を送る男がいた。灰皿の中に、煙草の吸殻が、うずたかく積もっている。おそらく県警の特捜だろう。
信号が青に変わった。
タクシーが右折していく。
流れる視界の中に、対向車線に停まる、緑色の車が見えた。
人影も見えた。
側を通過する。
サイトーは、緑色の車を、フロントガラス越しに周辺視野をつかって捉える。あからさまに視線を向けては、確実に怪しまれる。対向車線を見るために、運転手後ろのシートに移動するのも、注意を向けやすくなる。
わずかな時間だった。
だがこれで充分だった。
タクシーが角を右折し道なりに元の商店街に戻ってきたところで、サイトーはタクシーをを降りた。
そしてバトーに電通を入れる。
「サイトーだ」
『どうだい、覗き屋の正体はわかったのかよ』
「ああ。ヨウ=テガン。戦場で何度か遭ったことがある」
『職業兵隊――、傭兵か。あまり聞かない名前だな』
「飛びぬけて腕がいいってわけじゃない。ただ、与えられた任務は確実にこなすタイプだ。たとえ拷問を受けたとしても、けして口を割らない、意志の強い男だった」
『なんでそんなやつがトヨダに? 就職でもするつもりなのか?』
「つまらん冗談は聞きたくない」
『わかってるって。こっちから9課に報告しておく』
「わかった。俺もすぐ、そっちに戻る。――煙草、いるか?」
『ああ、頼む。腰落ち着けねえといけねえようだからな』
バトーの返事を受けて、サイトーは、煙草の販売店に足を向けた。
元ナラシノ・テクノボディ社開発部長、ジョージ=習志野は、三年前のトヨダケミカルとの合併の際に、ナラシノ・テクノボディを辞職し、メガテクボディ社に転職していた。
通常、技術者を手放すようなことは避けるものなのだが、習志野は、トヨダケミカルと、ナラシノ・テクノボディとの合併に反対していたうちの一人だった。
ナラシノ・テクノボディの次期社長と期待されていた創設者子息だったのだが、創設者である父親が急逝し、新社長となった途端、トヨダケミカルとの技術提携が、役員間の協議で決定されたのだ。
これは、習志野氏不在で行われていた。
ナラシノ・テクノボディ社の完全合理化を目指し、家族企業としての体質を脱却すべく決定された、創立者一族に対する反旗の狼煙でもあった。
海外企業の進出を見越し、国内三位の実力を誇るトヨダケミカルと、国内七位のナラシノ・テクノボディが合併することで、ポセイドン・インダストリイ、メガテクボディ社を抜いて業界一位に輝き、販売シェアの40%強を占める巨大企業に成長できる。二社にとって、合併を断る理由など、どこにも無かったのである。
もしこの合併劇がなければ、習志野は経営者として悠々自適の日々を送っていただろう。
しかし、今の習志野は、一企業の社員として、日々の成果を気にしながら生きなくてはいけなかった。
そんな習志野の前に、新浜県警の刑事が二人、顔を見せていた。
先日起きた、トヨダケミカルの桝本が連れ去られた事件について話を聞きたいのだと言う。
「だから、なぜ私が疑われなければならないのか、説明してもらいたい」
習志野は二人の刑事を前にして、声を荒げ、テーブルを叩く。
テーブルに置かれたコーヒーが、その衝撃で揺れていた。
転職し、今はちょっとしたスキャンダルでさえ、命取りになる。そんな時期に、少しでもマイナス要因があってはならなかった。
自分に事件の嫌疑がかけられている。それだけでも十分な危険を学んでいるのだ。
刑事の一人が言った。
「習志野さん。別に我々はあなたを疑ってるわけじゃないんです。桝本氏が誰かに恨まれていないか。それを確かめるための事情聴取なんです」
「だったらアポを取ってくれたまえ。いきなり、社に刑事二人が私をたずねてきたら、いい迷惑だ」
「ええ、ですから、次からは、ちゃんとアポを取ります。今回は、事件の早期解決のため、ご協力御願いいたしますよ。もしかすると、もっと大きななにか……。ほら、六年前にあった笑い男事件、覚えてます?」
「笑い男事件か……」
習志野は記憶の糸を手繰る。そういえば最近、警視総監暗殺未遂がどうのこうのと、世間を騒がした事件で、〈笑い男〉という名前が出ていたような気がする。
刑事の一人――若い男が、習志野の目を、まっすぐ見て言った。
「笑い男事件は、瀬良野ゲノミクス社以下、マイクロマシンを製造しているメーカー六社に対して企業恐喝が行われた事件なんですよ。この事件、最初に瀬良野ゲノミクスの社長が誘拐されて、そこから全てが始まったんです。今回の事件も誘拐から始まってるわけですし、もしかすると、なんらかの関係があるのかもしれない。だからこうして我々も、義体メーカーを渡り歩いて、全社から事情を聞いてるんですよ。脅迫の有無や、関連企業間での争いの火種とかをね」
習志野は目線を逸らせば、疑われるのではないかという恐怖心と戦っていた。
やましいことはなにもないのだ。
確かに、桝本とは合併に絡んだ間題で言い争ったことがあった。だがそれはもう三年も前の話だ。
習志野がナラシノ・テクノボディを去る際に、桝本は習志野を引き止めにきたのだ。
桝本は、一技術者として、習志野の腕を評価していた。
桝本も、技術畑の人間だったのだ。
だが、三年前の習志野は技術畑で終わるつもりはなく、企業の経営者としての道を模索し始めていた時期でもあったのだ。それが、トヨダケミカルのせいで、約束されていた経営者としての道が閉ざされてしまったのだ。
もちろん、習志野は桝本を追い返した。
桝本は諦めなかった。
居留守も使った。ひどい仕打ちで返したこともあった。
だからなんだと言うのだ。
こんなことで、また人生を棒に振らなければならないというのか。
そんな習志野に、もう一人の女刑事が言った。特徴の無い、全身義体の刑事だった。市販品のボディは、おそらくポセイドンのものだろう。
「習志野さん、最後に一つだけ。三年前、あなたは暴漢に襲われた経験がおありですね?」
「ああ……。あれか。思えば、あの事件さえなければ、私は今頃、ナラシノ・テクノボディ社の経営者として、立っていたのかもしれない」
「と、いいますと?」
「あのとき、運悪くあの事件に遭ってしまった。全治二ヶ月の重傷で、入院。親父が死んだばかりだというのに、私は、役員会議に出席できなかったんだ。そして、その席で、トヨダケミカル社との技術提携の話が進んでしまったんだ」
「それはご愁傷様です――」
「だから自分の運のなさを嘆くことはあっても、桝本を恨むことはない。桝本を恨むくらいなら、トヨダケミカルの椅子に座っている、元ナラシノの役員どもを恨むことにするよ」
「なるほど、事情はよくわかりました。とりあえず、なにか変わったことがありましたら、ここまで連絡をください」
そう言って、女刑事は名刺を差し出した。
その名刺には、携帯端末の番号と、名前が書かれていた。
〈新浜県警捜査課 草薙素子〉と。
メガテクボディ社からの帰り道、草薙の運転する車の助手席に、トグサは座っていた。
トグサが草薙を見て言った。
「収穫、ありましたか」
草薙が答える。
「推測でしかないけど、三年前に習志野を襲った暴漢が、トヨダケミカルとの合併に関与していることは、間違いないでしょうね」
「合併に習志野が関与しないことで、得をする人間がやらせたってことですか」
「そうね。その辺の事情を知る人物は限られてくる」
「今のトヨダケミカルの社長の中島か、誘拐された桝本ってところですか」
「なかなかいい読み、してるじゃない」
トグサが照れくさそうに笑う。
「これでも元刑事ですから」
「トヨダケミカルを中心に事件は動いてる。私たちの手のうちにあるカードが開けば、私たちも動き出すわよ」
「あの、脳殻のことですね」
別件で捜査中のタチコマが見つけた脳殻は、桝本本人のものである可能性があった。その解析は現在も行われている最中である。
仮に公安9課に残された脳殻が桝本本人のものだった場合、本人であるという判定を受け、現在トヨダケミカルで仕事をしている桝本は、一体、誰だというのか。
どちらが本物の桝本なのか――その手掛かりを得るためには、昔から桝本を知る人物の協力が必要だった。
そこで白羽の矢を立てられたのが、トヨダケミカルの創設者である、トヨダ=カルノフ氏である。そのトヨダ氏の消息が知れなくなっていたところに、氏の義体が招慰難民地区で発見されたという情報が出てきた。これを頼りにトヨダ氏を探し出し、桝本とトヨダケミカルに関わる事情を確認できたのだ。
そこにはトヨダケミカルと、ナラシノ・テクノボディとの合併を巡る騒動があった。
元ナラシノ・テクノボディの開発部長であった、ジョージ=習志野氏が三年前に巻き込まれた事件によって、トヨダとナラシノの合併は進んだといっても過言ではないだろう。
そうした事情を解析するために必要なカード。
それが、桝本の脳殻なのだ。
あの脳殻に、全ての情報が宿っている。トグサは、そんな気がしていた。
「あの脳殻、もうすぐですよね」
「そうね。もうそろそろ72時間は経つ頃ね。私は、9課に戻り次第、あの脳殻と事件との関連性を洗いにかかるわ」
その頃、公安9課の格納庫では、海中から引き上げた脳殻の解析が終わろうとしていた。
公安9課の鑑識班である、赤服たちの不眠不休の作業により、脳波形が安定し、脳の機能は正常値に戻っていた。
海中からの救出が、あと三十分遅れれば、なにも語らぬ、塩漬けの脳みそができあがっていたかもしれない。
脳殻から出る波形を見ていたイシカワが言った。
「それで、この脳は桝本自身のものに間違いないって言うんだな?」
赤服の一人が面倒くさそうに答える。
「間違いない。劣化コピーの痕跡もなければ、脳反応も正常。もしこれが人工知能による反応だとすれば、我々、人間も人工知能だってことになる」
『なんですと〜!?』
いつの間にか集まり始めていたタチコマたちが騒ぎ出す。
『それは僕たちに対する挑戦とも受け取れる言葉ではないですか!』
『そうだ、そうだ。僕たちが人間と比較されること自体がおかしい!』
『人工知能は経験の果てに、限りない成長を続けていくもので、新しい可能性を常に開拓していく思考の永久機関とも言えるものなのだ』
『永久ループはいやだけどね』
『あ〜、それは嫌かも』
『そんなことより、あの脳殻、覗いてみたくない?』
『あ、僕も覗きたい〜!』
タチコマの一機が接続用のケーブルを伸ばし始めると、残りの八機も次々とケーブルを伸ばしてくる。
うねうねと伸びるそれが一つの脳殻を目指して我先にと進んできた。
それを横から伸びた手が一まとめに括る。
『あ! なにするんですか!』
ケーブルを停めたのはイシカワの手だった。イシカワがタチコマを見て言った。
「お前ら、勝手にいじって少佐に怒られたいのか?」
タチコマたちの動きが止まる。
『それは……嫌かも』
『うん。少佐怒らせたら、僕たち、バラバラにされちゃうかもしれないね』
『バラバラだけは嫌だなあ』
『変な思考制御プログラム注入されて、偏重傾向のある思考パターンになっちゃうかもしれないよ』
『ひ〜! それが一番怖い〜!』
タチコマたちが一斉に格納庫の〈巣穴〉に戻っていく。
『イシカワさ〜ん。僕たち、なにもしてないから、脳殻覗こうとしてたの、黙っててね〜』
「ああ、わかったよ」
『約束だよ』
「約束する」
『――こんなとき、人間は指きりつてのをするんですよね』
「どこで憶えてきたんだ、そんな原始的なもん」
『まあまあ、指を出してくださいな』
イシカワがタチコマに小指を差し出す。
「ほら、さっさと済ませろよ。俺は、忙しいんだ」
タチコマがマニピュレーターの爪を指にかけて上下に動かす。
『え〜、ゆびきりげんまん〜、うそついたら、ひげせんぽん、むしるっ! ゆびきった!』
イシカワが髭を撫でながら言う。
「普通、ハリセンボンだろうが」
『でも針を千本なんて物理的に厳しくありません?』
『ハリセンボン科ハリセンボン。学名Diodon holocanthusなら、飲み込めるかもしれませんね』
「お前ら、それフグだろ。毒あるんじゃないのか?」
『ハリセンボンは無毒で美味らしいですよ。残念ながら、僕たちに味覚はありませんので、そればかりは味わえないんですけどね』
「わかったから、邪魔するなよ」
『はぁ〜い!」
イシカワは袖を捲り上げ、脳潜入の解析装置を用意する。赤服たちはあとをイシカワに任せて、鑑識室へと戻っていった。
「さてと……」
イシカワは、解析装置のコネクタを、自らの首の後ろにあるQRSプラグへと接続する。
こうすることで、対象とする脳内の記憶が保っている人格を、人の姿で視覚野に投影することが可能になる。
イシカワが解析装置のスイッチを入れた。
すると脳に反応が現れる。
イシカワの視覚野にぼんやりと人の影らしきものが現れ始める。
イシカワは脳に語りかけ始めた。
「あんた、桝本さんだろ?」
「……キ……ミ……は誰だ?』
しばらく感覚器官と切り離されていた時間があったため、感覚器官とのリンクはまだ完全に機能していない。言語野が安定していないのか、言葉の形成が不安定になっているようだった。
「俺たちは警察だ。あんたを保護した」
『ボ……クをほ……ご……反故……補語……』
保護だ、と言葉のイメージを送る。
『ボクを保護した?』
徐々に、桝本の言葉が明瞭になってくる。
イシカワは、脳本人が桝本であるという自覚を促すためにできるだけ名前を呼ぶようにする。
「ああ、桝本さん、あんたを保護した」
『僕を……保護。僕に、なにが、あった?』
「桝本さん、あんた、憶えてないのかい?」
『憶えている?』
「桝本さん、あんた、最後になにを感じた?」
『最後に感じた……暗い、震え……、覗いたもの……ロボット……』
「桝本さん、その調子だ」
イシカワが視覚野の一部に、桝本の脳活性を示す波形グラフを表示する。
脳活性が次第に活発になってきているようだった。
『そうだ。僕は暗いところに閉じ込められて……、手も……、脚も……、動かない』
「そのとおりだ。桝本さん、あんたの腕も脚も、それは全て擬似信号だけの存在だ。今のあんたは脳殻だけの存在なんだ」
『僕が……脳殻だけ?』
「ああ。憶えてないか。桝本さん、あんたが襲われたときのことを」
『僕が襲われた?』
「そうだ。自宅で、就寝中に……あんたは襲われたんだ」
『………』
桝本は必死に記憶の糸を手繰り寄せているようだった。
脳波形にもそうした反応が現れていた。
これが擬飲人格だとするならば、相当、手の込んだプログラムであると言えそうだ。
『僕は、そう、思い出したよ。あの夜、確かに僕は襲われたんだ』
「どんな奴らだったか教えてくれないか?」
『……いいだろう。しかし、ここは暗いな。明るいところにいきたい』
「残念だが、それはできない相談だ。自覚したくないのかもしれんが、今のあんたは脳殻だけの存在なんだ。生命維持装置と擬似感覚装置に頼らないと、生きていけない存在なんだ」
『そうか。だから、束縛をうけているような、感覚だったんだな』
「そうだ。もう一度聞く。あの夜のことから、憶えていることでいい。話してくれないか」
『ああ。あの夜、僕は妻と一緒に寝ていた――』
桝本金一の自宅は、三階建ての一軒家だった。
一流義体メーカーの専務である割には、つましい生活ぶりと言えた。
その夜、寝室で、妻と並んで寝ていた桝本は、突然の息苦しさに目を覚ました。
目の前に見知らぬ人影が二つあった。
「君たちは――」
声にはならなかった。口が何かで塞がれているようだった。
人影のうち一人が言った。
「これからあんたをここから連れ出す。拒否はできない」
見ると、妻の顔にナイフが当てられていた。
妻は既に目を覚ましているようだが、桝本同様、口を塞がれている。こちらはガムテープで塞がれていた。きっと桝本自身も同じようにされているのだろう。
桝本は抵抗を諦めた。
殺されてしまっては、なんにもならない。
こうした危機的状況に陥った場合、まず、犯人を刺激しないこと。冷静な話し合いにもっていくことが大切なのだ。
落ち着こうと、目を閉じたとき、体をうつぶせにされた。
そして首筋にカチリという反応を聞いたのを最後に、それきり外部からの情報がシャットアウトされた。
時間にして、どれぐらい経ったのだろうか。
気がついたとき、桝本は、自分自身の姿を見ていた。
桝本は、桝本を見て、笑った。
それが気持ち悪かった。
その桝本が、大きな鏡を見せた。
桝本は絶句した。そして嘔吐した。いや、しようとしてできなかったのである。
嘔吐する感覚はあるが、嘔吐自体はできない。
その答えは鏡の中にあった。
鏡に写っているのは、円筒型のカメラのレンズと、脳だけの奇怪な姿だった。
桝本は、そのとき、脳殻を取り出され、自分の体に、別の誰かが入っているのだということを理解したのだ。
脳を取り出し、殺してしまえばいいものを、わざわざ桝本自身に乗っ取ったという事実を見せたのは、あてつけ以外のなにものでもないのだろう。
耳がないため、音は聞こえない。
なにかを言っているようだったが、それも聞こえなかった。
そして次の瞬間、桝本を支配したのは、闇であった。
『その後のことは、よくわからない』
桝本の脳が、イシカワに向けてそう言った。
「なるほどな。感覚器官を切られて、眠らされたんだな。まあ、あんたを生かしておいたってことは、あんたはもう一度、どこかで使われるはずだったんだ」
『なるほど』
「心当たりは?」
『ない』
「そうか」
桝本が誘拐されている間の42時間、彼自身の記憶がない。これ以上、話してもなにもわからないだろう。
あとはこの脳が桝本本人であるという確証を得るためのテストをするだけでいい。
そうイシカワが思っているところに、草薙とトグサが戻ってきた。
「イシカワ、経過は?」
「後はこの脳殻が桝本本人である確証を得られるような質問をぶつけてみるだけです」
「私がやるわ」
草薙はそう言って、イシカワから脳潜入用の解析装置を受け取り、繋ぎ替える。
草薙の視覚野に桝本の姿が映った。
「桝本さん、早速で申し訳ないけど、二、三、質問に答えてもらえるかしら?」
『質問?』
「トヨダケミカルが得た義体に関する特許のこと、憶えている?」
『憶えている』
桝本の脳が震えた。
「あれを申請したとき、あなたはトヨダ氏に黙って申請したそうだけど、それってなんのためにそんなことをしたわけ?」
『……あれは、海外企業に負けないために、自分の将来のためを考えた結果の選択だった。トヨダさんは、全てをオープンソースにしようとしていた。だが、そんな考えじゃ、僕たちは少しも幸せにはなれない。小さな町工場から脱出できないって思ったんだ』
「技術者畑で、ずっと仕事をしてきたあなたが、どうしてそんなことにまで、気を回すようになっていったのかしら?」
『それは、親切なやつが、僕に教えてくれたんだ。今、特許を申請すれば、必ず通る。そうすれば、お前の未来に繋がるだろうって』
「その親切な人は、見返りにあなたになにを要求したの?」
『そんな、大したもんじゃない』
「教えてくれない?」
『…………』
「そう。なら、いいわ。強制的に記憶を抜き取ることもできるのよ」
『……わかった、教える。その親切なやつは、厚労大臣への献金を要求してきたんだ』
「その大臣って、只山厚労大臣かしら?」
『……これ以上は、勘弁して、くれないか?』
「その反応で十分よ。体が戻るまで不便かもしれないけど、しばらく眠ってなさい」
草薙はそう言うと、ケーブルを引き抜き、桝本の脳を眠りにつかせた。
「イシカワ。桝本の情報を集めて、本人であるという確証が得られるよう、検証を続けて」
「了解。しかし、あれだけでよかったんですか。記憶を引き抜くこともできますよ」
「桝本は、この事件のキーマンではあるけれど、手駒のひとつでしかないわ。トヨダケミカルに関わるスキャンダルの証人にはなれるかもしれないけど、もう少し大きなものが、背後にはあると思うの。それを引き出すためには、もう少し、このままでいてもらったほうが都合がいいのよ」
草薙が電通の回線をバトーに繋ぐ。
「バトー、聞こえる?」
トヨダケミカルが一望できるマンションの一室に、バトーはいた。
望遠装置に、電脳を繋いだまま、横に寝転がっている。
「聞こえてるよ」
『こっちにある脳殻が、桝本本人である可能性がほぼ固まったわ。トヨダケミカルから出てくる桝本の身柄を押さえて頂戴。そいつが何者なのか、暴く必要があるわ』
「なんだよ。今度は俺らが誘拐犯か?」
『そのとおりよ。作戦内容はKN-098784に。所定の位置に移動して』
「了解。任せとけ」
バトーが体を起こし、サイトーに声をかけた。
「少佐からのご命令だ。いくぜ」
「桝本の身柄の拘束か」
サイトーがライフルの入ったケースを、手に持った。
その様子を見て、バトーが呟く。
「そんなもん、いるかよ」
「慎重なんだよ」
「そうは見えねえけどな」
バトーが部屋を出て行く。サイトーもそれに続いた。
日付が変わろうとする、この時間、通りをいく車の数は目に見えて減っていた。
山沿いの高速入口に近いバイパスの側道に、一台のワゴン車がライトを消して停車している。暗い車内の中から、目の前のバイパスの様子を見詰める目があった。
バトーと、サイトーだった。
このルートを通って、トヨダケミカルの桝本は、自宅に帰るのが日課となっているはずだった。
バトーがハンドルを人差し指で小刻みに叩く。
「今、桝本に張り付いてんのは、誰だ?」
助手席に座ったサイトーが答える。
「バズとボーマだ」
バトーはナビゲーションマップに、GPSを利用した周辺道路の展開図を表示させる。
「二人の位置は?」
「今、ナビに転送する」
作戦コードから、与えられた地図座標を読み取って、GPSから得た必要情報を、ネットの地図へと投影化する。
地図上に座標を示す光点が現れる。
「この画面の中央にいるのが、俺たちだ。下から上がってきているのが、バズ、ボーマのチーム。桝本が通過した時点で高速の入口を封鎖しているはずだ。高速沿いのだだっ広いエリアはサービスエリアだ。ここにいるのが、トグサ、イシカワのチーム。俺たちの援護に回る。そして俺たちの進行方向。長いトンネルがあるだろ。その出口にいるのが、少佐とタチコマってわけだ」
「なるほどね」
そう答えたバトーが視線を左に向けると、車のヘッドライトの明かりが近づくのが見えた。
その数、三台。
先頭と、後方の二台は、国産の中型車だった。そして真中の一台だけが、高級外車だ。
「先頭と、後ろのやつは県警の特捜のやつだな。はさまれてんのが桝本の車か」
「――らしいな。通過するまで行くなよ」
「誰に物言ってるんだ、狙撃手」
「人の言うことを聞けよ、レンジャー」
サイトーがそう言ったとき、目の前を三台の車が通過していく。
「いくぜ」
バトーは、イグニッション・キーを回しエンジンをかけると、静かに車をスタートさせた。今、側道から偶然、バイパスに出てきたように思わせるために。
バトーがワゴンのアクセルを踏みこむ。
エンジンが、唸りを上げ、強烈なトルクで、ワゴンを前に押し出す。
見た目は、普通のワゴン車だが、中身は公安9課謹製の改造車だった。
ワゴン車がバイパスを抜け、高速の入口に入っていく。バトーはギアをトップからサードに落としアクセルを踏み込み一気に加速させる。
2トンを超える鉄塊が、弾丸のように撃ち出されていった。
ギアをトップ、そしてオーバートップへと上げていく。
視界が一気に狭まる。
ハンドルを握る手に、路面からの震動が伝わる。
メーターが150キロをまわった。
路面から伝わる音が変わっていく。
エンジンの音も、悲鳴のような甲高い音となっていった。
先行する車との距離が500メートルを切ったあたりで、速度を同調させ、車間距離を維持して走り続ける。
「特捜の連中はどうすんだ?」
バトーの乗るワゴンから、前に進むこと、500メートル。
桝本の乗る車の前後を囲むように走る、特捜の覆面パトカーは、ようやくその異変に気付いた。
ハンドルを握る特捜刑事がGPSの異常警告音に促され、モニターを見る。
するとトンネルの出口付近で、工事情報の表示が出されていた。
高速に来るまで、こんな表示はなかったはずだ。
「おい、工事なんて連絡、受けてないぞ」
助手席の特捜刑事が指示する。
「スピードを緩めてくれ! 様子を見る」
「わかった」
ハンドルを握る特捜が、アクセルを緩める。
だが、スピードは一向に緩む気配を見せない。
それどころか、更に加速し始めた。
「おい、緩めろって言っただろうー」
「それが駄目なんだ。運行システムがのっとられた」
助手席の特捜刑事が、後ろをいく仲間の車を見る。
すると仲間の車も同様に制御不能なのか、呆然とした顔で、フロントガラス過しにこちらを見詰めていた。
ハンドルが、左に切られ、速度がやや緩まる。
後ろから来る仲間の車は、右に車を寄せ、加速していった。
そして、桝本の乗る車を、左右から挟む形で、並走し始めたのだ。
その様子をバトーは、後方500メートルから見ていた。
テールランプが動く様をみて、なにが起きたのかを悟った。
「少佐のやつ、やりやがった。覆面の制御コードを二台とも押さえちまったらしい」
「二台を同時にか? まったく怖い女だな」
『怖い女は嫌い?』
突然、飛び込んできた草薙からの電通にサイトーは目を丸くする。
「いえ、なんでもありません」
『バトー、特捜は押さえた。後方に抜け出せないように、桝本の車を押さえて』
「了解」
バトーがアクセルを踏み込む。
桝本の車のテールがぐんぐん近づく。
あと100メートルに迫ったとき、GPSが警告音を響かせる。
サイトーが、それに気付いて声を上げた。
「おい! 出口から逆走してくるバカがいるぞ!」
「出口からァ!?」
高速からの出口の一つが近づいていた。
その出口にヘッドライトの白い明かりが満ちた。
「くそ!」
一瞬、眩しきを避けようと、ハンドルを右に切った。
それが幸いしていた。
ヘッドライトはそのまま、ぐん、と近づき、凄まじい勢いでバトーたちの乗るワゴンとすれ違ったのだ。
左側のミラーがすれ違った勢いで吹き飛んでいた。
合計時速300キロでのすれ違いだった。瞬間的に生まれた真空地帯が、二つの車をひきつけあい、ハンドルコントロールを失わせた。
バトーはふらつく車を素早く立て直す。
後方にすれ違っていった車は、凶悪な表情を持ったフランス製のプジョーだった。
V6DOHCのイグゾーストが通り過ぎていき、後方でタイヤが掻き鳴る。
プジョーが、素早いスピンターンを見せた。
勢いがあるために三回転して、ようやく正しい進行方向を向く。
プジョーがタイヤから白煙を巻き上げて、一気に加速してきた。
バトーの乗るワゴンは、桝本の車から、少し距離が開いてしまっていた。
バトーが、桝本の車を追おうと前を見たとき、後方から迫るヘッドライトの明かりがルームミラーを照らす。
「もう追いついてきたのか!」
追ってくるプジョーは、走ることを追求するために、生まれてきた車だった。
あっという間に真横に並ばれる。
やや低い位置に、窓があった。
サイトーが隣を走るプジョーの中を覗き込もうとすると、プジョーのウィンドウが自動的に下りた。そして中から、SMGの銃口が覗いたのである。
「やベェ!」
サイトーが慌ててドアの鉄板部分に隠れる。
さっきまでサイトーの頭があった場所に、ウィンドウを割って高速徹甲弾が飛び込み、屋根板にめり込んでいった。
高速徹甲弾は次々と飛び込んできた。
「くそ!」
バトーも頭を倒しながら、ハンドルを操作する。
前など見ている余裕がなかった。
幸い、このワゴンのドア部分には、高速徹甲弾でも貫通が難しい、特殊合板を仕込んであった。一見、普通のワゴン車ではあるが、その外装は、装甲車並みの強度を誇っていた。
プジョーの窓から、撃ち尽くされたSMGのマガジンが路面に落とされ、後方へと跳ねて消えていった。
SMGは一度、車内に引っ込み、そしてまたすぐその銃口をこちらに向けてきた。
そのとき、サイトーは、プジョーの中にいるドライバーの顔を見たのだ。
「〈ツインズ〉のヨウ=テガン! やっぱり出てきやがったか!」
ヨウは、バトーたちの前に出て、桝本と、バトーたちのワゴンの間に入った。
バトーが叫ぶ。
「面自え。このまま潰してやる!」
バトーが加速する。2トンのワゴンが、1トンたらずのプジョーに接近する。だが運動性能の違いなのか、プジョーは軽くワゴンの突進を交わしていた。
そしてそのお礼に、とばかりに、車内から、リアウィンドウを突き破り、高速徹甲弾が斉射されたのだ。
防弾加工が施されたフロントガラスに真っ白いヒビが入り、そして飛び込んできた高速徹甲弾が、フロントガラスを粉砕していく。
「くそ!」
バトーが呟く。
助手席を見ると、サイトーがセブロ・ライフルを組み立てたところだった。
「どうするんだ?」
「タイヤを狙う。二秒でいい。ヨウの乗る車と速度を合わせてくれ。あいつの弾幕が止んだ瞬間を狙う」
「そいつは厳しい条件だな」
バトーが顔をあげようとする。
すると高速徹甲弾が飛び込んでくるのだ。
「中にいるのは、あいつ、一人じゃねえのか!?」
「いや。ヨウ、一人だけさ」
「運転しながらあんな動きができるのか!?」
サイトーが言った。
「あいつは、二つ同時に、物事をこなせる。そういう奴なんだ。あいつが傭兵の頃、右手と左手が独立した動きをして、同時に二方向の敵を倒すのを見たんだ。まさか、攻撃だけじゃなく、こうした芸当もできるとは考えもしなかったぜ」
「車の運転の方は、電脳を使ってリモートでコントロールしてるだけだ。ただ、それと同時に後ろを狙ったタイミングで攻撃してくるだけでも、普通じゃねえ。まるでヨウが二人いるみてえだな」
このままでは、打つ手がなかった。
そのとき、電通が飛び込んできた。
『助けてやろうか、先輩』
「トグサか!」
バトーがGPSを見ると、サービスエリアがもうすぐだった。
「いいところに現れたな。俺と、桝本の間にいるプジョーを一瞬でいい」
『OK。前のプジョーをどうにかする。待っててくれよ!』
サービスエリアの横を通過する。
高台となったサービスエリアの坂道を、ヘッドライトが下りてくる。
トグサとイシカワの乗った車だった。
トグサは思い切りハンドルを右に切ると、側面から、プジョーにぶち当たっていく。
いかんともしがたい重量差のせいで、プジョーが弾け飛び、大きく右側に振られる。
ただ車を走らせるだけなら、電脳で同時に二つのこともできるだろう。
しかし、予想をしなかった衝突は、冷静な判断に、わずかなパニックを引き起こす。
バトーとサイトーはその一瞬を逃さなかった。
バトーはプジョーの走りに同調することに全神経を傾ける。
そしてサイトーは割れたフロントガラスから、ライフルの銃身を突き出し、ただ一点、プジョーの後輪に狙いを定めた。
ライフリングによって、回転を加えられた弾頭は、破壊力を増して、対象物へと突き進む。
時間にして、まさに刹那。
前を行くプジョーの後輪が弾け飛んだ。
高速走行で、後輪を失ったプジョーが暴れ始める。
右に、左にテールを振りながら、暴れ、そしてグリーンベルトに激突し、宙を舞った。
「やったか!」
プジョーが後方に遠ざかっていく。
はるか後方で、紅蓮《ぐえん》の炎が立ち上がった。
そして後れて爆発音が聞こえてきた。
バトーは前に向き直る。
トンネルはもう、間近だった。
桝本の乗った車は、未だに特捜の覆面パトカー二台に挟み込まれたまま、走り続けている。
「トグサ、前を頼む」
『了解』
トグサの車が、桝本の車を抜いて、前に出た。
桝本の車がスピードを落とす。
その後ろをバトーが蓋をする。
「少佐、固めたぜ」
『了解。そのまま、トンネル出口まで、エスコートを頼むわ』
「俺、そういうの得意」
バトーが言った言葉に草薙からの反応はなかった。
完全に無視されていた。
それに反応したのは、助手席で腹を抱えて笑うサイトーだけだった。
「そこまで笑うことねェだろ」
「哀れだね」
トンネルの入口が見えた。
全長1644メートルのトンネルだった。
トンネルに入り、前を行くトグサの車がスピードを落とす。
桝本の車はそれにぶつかりながらも、スピードを落とすしかなかった。
もはや諦めたのか、桝本は、車のサンルーフから、上半身を出していた。
車の中で立ち上がり、バトーの方を振り返った。
「あの野郎、なんのつもりだったんだ?」
トグサが電通で答える。
「観念したんじゃないの』
「桝本の義体に入り込んだやつに、桝本になりすましてなにするつもりだったのか、きっちり聞かねえとな」
やや黄色みがかった照明が、桝本の顔を照らす。
通り過ぎる光が、桝本の顔の上を流れていった。
時には、明るく。
時には、暗く。
速度も緩くなり、後はどこで止めるかだけだった。
草薙が言う出口まで、あと800メートルほどだろう。
『バトーさ〜ん!』
タチコマの声が聞こえてきた。
草薙と一緒にトンネル出口で待機していたタチコマが、バトーたちを迎えに来たのだ。
「おう、出迎えご苦労」
『さっすがバトーさん。なんだか、楽勝でしたね!』
『僕たちの出る幕がありませんでした〜』
「まあな。これが俺の実力ってやつさ」
トグサが口を挟む。
「俺が助けてやったの、忘れちゃいませんよね。先輩」
「うるせえなあ。作戦行動中、仲間のサポートすんのは当たり前じゃねえか。助けた、助けられたなんてもんは存在しねえだんよ」
『おお、これまた素敵な詭弁!』
「だから詭弁じゃねえって。まあ、いいさ。もうすぐ、この任務も終わりだ」
もう間も無く着く。皆が、そう思ったときだった。
後方から爆音が聞こえてきた。
バトーがミラーを見ると、ヘッドライトが一つ、急速に接近してくる。
「新手か?」
甲高い2スト単気筒のイグゾーストが後から迫ってくる。
バトーの目がそれを捉える。
「ヨウ!」
バイクに乗っていたのは、ヨウだった。
あの爆発に巻き込まれても、表皮がこげた程度のようだった。
ヨウが乗っているのは、トランクに格納できる、折りたたみ式のオフローダー・バイクだ。
それが急速に接近していた。
サイトーが、後方に向けてセブロ・ライフルを構える。
だが、ヘッドライトの灯りと、小刻みにボディを振るオフローダーのトリッキーな動きに、狙いが定められない。
「くっ!」
サイトーが歯噛みする。
オフローダーのヘッドライトが左右に大きく揺れる。
トグサがマテバを構える。
「おい、停まれ!」
「言う前に撃て!」
バトーが叫び、FNハイパワーのトリガーを絞った。
高速徹甲弾がヨウのボディに吸い込まれていく。
だが、ヨウの勢いは緩まない。
サイボーグの外殻を貫く弾頭が効いていないのだ。
それどころか、オフローダーは更に加速し、視界から消える。
視界に捉えようと、オフローダーの動きを追う。
凹凸のついたタイヤがトンネルの壁面を捉え、そしてそのままトンネルチューブの中を遠心力で回り、一気に桝本の真上までやってきた。
バトーも、トグサも上を見上げた。
バトーは視線を向けると同時に、FNハイパワーを撃つ。
高速徹甲弾が、ヨウの頭部を撃ちぬく。
だが、その瞬間、突然、轟音と光が炸裂した。
白く飛んだ視界に黒味が戻り始める。
視力が回復したときに、そこにオフローダーの姿はなかった。
トンネルに入ってきた草薙が、バトーに言った。
「音響閃光弾が使われたみたいだけど、なにがあったの?」
バトーは忌々しげにトンネルを、そして、手にしたFNハイパワーを見詰めた。
「高速徹甲弾、ぶちこんだはずなのに、全然、効いてやしねえ」
バトーは、高速の路面の上に、ひしゃげて潰れた、高速徹甲弾の弾頭が転がっているのを、指で摘みあげる。
「見ろよ。貴通する前に、潰れちまってる」
「それより桝本はどうした?」
見ると車上に桝本の姿はなかった。
「あ? どこに消えたんだ?」
草薙がセブロM5を抜いて構えながら、車の中を覗き込む。
「いたわ」
「あン?」
「車の中よ」
見ると、桝本は車のシートの上に項垂《うなだ》れるように座っていた。
バトーは車内を覗き見て言った。
「完全に、観念したんじゃねえのか?」
「どうかしらね」
草薙が、車のドアを慎重に開き、素早くセブロM5を桝本に向ける。
「降りなさい」
だが、桝本に動きはない。
草薙が顔をしかめる。
「まさか――」
そう言うと、草薙はセブロM5をホルスターにしまい、車の中から、桝本を引き摺り下ろす。桝本は抗いもせず、されるがままになっていた。
バトーが桝本を見下ろしていった。
「どうなってやがる……」
草薙が桝本の頭部に手をかけ、頭蓋の開閉ボタンを押した。
エアの抜ける音とともに、桝本の頭蓋が前後に割れる。
バトーが思わず、呟く。
「なにも、ねえ……」
草薙が言った。
「音響閃光弾が光ったあの一膀で、桝本に入っていた人間の、脳殻が抜かれたのよ」
見下ろす視線の先には、脳殻が抜かれ、からっぼになった、桝本の頭蓋があるだけだった。
公安9課のロッカールームに、一人、ベンチに腰掛けるバトーの姿があった。
バトーは、手のひらで転がる、潰れた弾頭を見ていた。
「どういう義体、使ってやがるんだ……」
そう言って、横に置かれたFNハイパワー・カスタムに視線を移す。
元は1935年に、ベルギーのファブリック・ナショナール社が作り上げた、セミ・オートマチックだった。それを9課で、高速徹甲弾を撃てるようにするため、銃全体の剛性を上げたものだった。
FNハイパワーから発射された全弾は、確かに命中していた。
高速徹甲弾は、小口径ながら、義体の骨格まで到達し、それを破壊することが可能な弾頭なのだ。
たしかに、陸自が使っていた佐川のアームスーツあたりなら、高速徹甲弾をはじき返すこともできるだろう。だが、昨日の相手は確かに義体だった。
あんなものが義体犯罪者の間で出回れば、彼らが警察を恐れることはもはやなくなる。
確実に相手を止めるために、武器に今以上のストッピングパワーを求めるならば、火力は銃の領域を超え、砲の域にまで達しなければならないだろう。
必要となるのは、武器ではなく、兵器だった。
脳殻を持ち去ったヨウ=テガンと脳殻の持ち主は、あの義体でなにをしようというのか。
「あいつら、街中で戦争でもするつもりか?」
バトーは苦々しく呟いた時――。
「そんなにあの義体が気になる?」
振り返ると、ロッカールームの入口に、草薙が立っていた。
「なんだよ、ここは男子用。女人禁制だぜ?」
「別に私は気にしないけど」
草薙が、ロッカールームに入ってくる。
「俺は気にするんだよ」
「あら、そう」
草薙は遠慮することなく、バトーの隣に座る。
「あの義体、トヨダケミカルと陸上自衛軍が共同で開発試作したものだそうよ」
「軍用の義体か。どうりでこんな豆鉄砲が通じねえはずだ」
バトーがFNハイパワーを手にする。
「桝本が吐いたのか?」
「吐いたなんて品のないこと言わないで。協力をしてもらっただけよ」
義体を取り戻した桝本は、荒巻と草薙を前に、トヨダケミカルを取り巻く様々な事情について語ったという。
トヨダケミカルは、ナラシノ・テクノボディとの合併後、創設者でもある、トヨダ=カルノフ氏が掲げてきた〈市民のための義体〉という方針を、〈技術あってこその義体〉という路線へと変えていった。これは、ユーザーを見て製品を作るのではなく、製品ありきで開発を推し進め、その上でユーザーを獲得するというものであった。
桝本のような技術者上がりの役員が会社経営の中心に入った段階で、トヨダケミカルは更に上を目指すことを思い描き始めていた。
技術力をアピールし始めたのである。
その前提での、軍への技術協力であった。
過酷な状況での目的達成を要求される軍用義体は、技術力を向上させるために必要な、限界ギリギリでのリサーチデータを取得するための、格好の素材だったのだ。
「その軍用義体、七体が、偽物の桝本がトヨダにいる間に、外部に運び出されてるわ」
「軍用義体が七体も? それじゃ、あのオフローダーに乗ってきたやつは……」
「そのうちの一体ね。トヨダケミカルから提供されたデータでは、主に、人工皮膜の耐衝撃吸収性能と、耐貫通性能の向上を重点的に計っているそうよ。小口径の高速徹甲弾じゃ、豆鉄砲と同じだわ。もちろん、義体の出力限界も相当な数値まであげてあるわ。そしてなにより恐ろしいというか、さすがトヨダって感心したのは、それを外観上、普通の人間と変わらないサイズに収めたところにあるということね」
「その義体を手にいれた連中、なにをやらかすつもりなんだ?」
そのとき、イシカワから電通が入る。
『少佐、トヨダ=カルノフが動き出しました』
草薙の目が細められる。
「トヨダが?」
昼間は社員の姿で賑わう敷地内も、この時間では一人もいない。
既に、深夜一時を回っていた。
だが、トヨダケミカル本社屋65階部分、地上300メートルにある会長室の窓には、明かりが灯っていた。
そこに、トヨダ=カルノフの姿があった。
松葉杖をつき、薄汚れた服装が、豪華なつくりのこの部屋とは、随分と対照的だった。
トヨダがいた頃に比べて、調度品が増え、絨毯の毛足も長くなっていた。
もっともトヨダ自身は、この部屋にいるよりも、作業着で工場を歩いている時間のほうが長かったので、この部屋に対する感傷的な思いは少なかった。
トヨダは、吐き捨てるように言った。
「ずいぶんと様変わりしたものだな」
「二年ぶりになりますか、トヨダさん。あなたも、ずいぶんと、変わられましたな」
トヨダが、会長の椅子に座る中島を見る。
「君もその椅子の座り心地が、いいと見える。だが、アレはどういうつもりなんだ?」
「アレとは、なんのことですかな?」
「わしが知らんと思っているのか。陸自の義体のことだ。トヨダは、ああいったものを作るために、義体製造技術を磨いてきたわけじゃない」
「アレは機密事項だと、あれほど言っておいたというのに、桝本君にも困ったものだ」
「桝本に入れ知恵をしたのは誰なんだ。あいつは、合併なんか望んでするような男じゃなかったはずだ」
「桝本か。木下先生のところの若いのと、親しくさせてもらってはいたようだが」
「木下代議士の秘書か。確か、阪崎といったな」
「そうだ。確か、元厚労大臣のご子息だったんじゃないかな?」
トヨダが中島を睨む。
「不正献金で失脚した只山大臣の……。あの献金、君が木下と仕組んだんじゃないのかね」
「なにを根拠に――」
「中島君、わしがなにも知らないとでも思うのか?」
室内に緊張した空気が流れる。
「トヨダさん。あなたはそのような話のために、こんな時間に私をここに呼びつけたんですか?」
トヨダが軽く驚いたような顔をする。
「なにをいうか。お前がわしをここまで呼び出したんじゃないのかね」
二人の間に沈黙が流れた。
そしてどちらからともなく言った。
「どういうことだ?」
そのとき、爆発音が響いた。
二人が一斉に窓から、表を見る。街のどこかでガス爆発の類が起きたのか、もしくは最近、横行するテロ行為か。
確かに爆発の影響による黒煙はあがっていた。
だが、それが立ち上っていたのは、二人の足元からだった。
床から伝わる震動が、事実を雄弁に物語っていた。
中島が叫ぶ。
「この下からだぞ!?」
爆発は、トヨダケミカル本社屋一階で起きていた。
ビル全体が崩れるようなものではない。
しかし、エントランスホールは完全に廃墟と等しいものに様変わりしていた。
高い天井は黒く焦げ、装飾が全て剥がれ落ちている。壁際や、ホールの中央に展示されていた新作モデルの義体などは、原型を留めていなかった。
黒煙がもうもうと立ち込める、このホールに、二つの人影があった。
「おい、停まれ!」
この爆発騒ぎに、武装警備員たち八名ほどが駆けつけていた。
武装警備員の一人が、表の惨状を見た。
ビルの外には、このエントランス周辺を警備していた警備員たちの死体が四つ、転がっていた。
出力限界ギリギリまで義体化した警備員たちであったにもかかわらず、そのどれもが、首が胴体から引き千切られていたのである。銃はホルスターに収められたままであり、本人たちの気付かぬうちにやられたものだった。
二つの影が動きを止めた。
その影は背中に荷物を背負い、肩からバッグのようなものを下げていた。
影の一人がバッグを肩から下ろし、中から何かを取り出す動作をする。
「撃て!」
武装警備員がその号令を合図に、一斉に手にしたハンドガンで銃撃を開始する。
彼らは、怪しい動作を見た以上、躊躇することなくトリガーを引くように訓練されていた。
エントランス内に、爆発の黒煙と、銃から立ち上った白い硝煙が満ちていた。
武装警備員たちの動きが止まる。
ハンドガンから撃ち出された銃弾は、5・56ミリ高速徹甲弾。そして八人の腕から、合計136発もの銃弾が、影の一つに目掛けて撃ち出されたのである。
普通なら、それで終わっていた。
だが、目の前のそれは終わっていなかった。
煙の中で、影は動いていたのである。
悠然と、なにかを構え、背中から伸びたベルトのようなものを繋いだ。
その瞬間、重い銃撃音がエントランスを震わせた。
武装警備員の一人が、肉塊に変わっていた。
影が持つそれは、人が携行する武器の限界を超えていた。
ジェネラル・エレクトリックM134。
〈無痛ガン〉とも呼ばれる、回転式の銃身を持つ、ミニガンであった。
おそらく、肉塊となった武装警備員は〈無痛ガン〉の名の通り、痛みを感じる前に死んでいたことだろう。
M134の砲身が吼える。
回転する六連銃身から、秒間100発を超える、7・62ミリ弾がばらまかれる。
八人の武装警備員が、粉砕されるまで、一秒とかからなかった。
影の足元に、移しい数の薬夷が転がり落ちる。
背中に背負ったザックに詰まった銃弾は、ベルトを通じてM134に給弾される。
爆発の黒煙と、硝煙が薄まり、その影の顔が浮かび上がる。
ヨウ=テガン。義体の傭兵だった。
ヨウが育った。
「恐ろしい義体だな。これだけのパワーがありながら、このサイズにおさまってるとは……」
もう一人の影である、男が、警備員だったものを見て言った。
「世界のトヨダケミカル製だ。これをつくりあげるために、ナラシノ・テクノボディとの合併や、陸自とのセッティングをお膳立てしたんだからね。トヨダは本当に、僕が望んだとおりのものを作ってくれた」
「トヨダを潰すのに、トヨダの義体を使うか。あんた、相当なロマンチストだな」
「そうかもしれない」
「まあ、俺としちゃ、軍用義体の開発のためとはいえ、軍と共謀して、俺の体を実験材料にしやがったトヨダケミカルに、この手で復讐できるだけでもありがたいがね。まあ、憎むべき、トヨダの義体に入ってるってのは、出来すぎかもしれねえけどな」
男が、階段を見る。
「いこう。人を待たせている」
ヨウがエレベーターを指差して言った。
「エレベーターは使わないのか?」
「この義体で乗ったら、底が抜ける」
「そりゃそうか」
そう言ってヨウは、ミニガンをスリングを使って体に斜めがけにし、体に吊るす。さらに鞄の中から取り出した、Vz83軽機関銃を腰から下げる。
「いくぞ」
ヨウは、その男に従い、階段へと足を向けた。
「始まっちまったか」
バトーが苦々しく呟いた。
公安9課のティルトローターがトヨダケミカルの屋上に降下したとき、エントランスの爆発が起こったのだ
「トヨダのおっさんに、発信機つけといて正解だったな」
「そうね」
降下準備をしながら草薙がタチコマを振り返る。
「タチコマ、準備はできたか?」
ティルトローターの格納エリアに詰め込まれたタチコマが手を上げる。
『もう少しでーす!』
「イシカワ、タチコマの安全装置を外して」
イシカワがタチコマのグレネード部分につけられた砲身カバーの安全装置を外す。
「いま、やってます」
『お〜、久々にぶっぱなせますな』
『戦車の本領発揮発揮!』
「これは戦争じゃない。あと五分もすれば爆発騒ぎを聞きつけた県警と陸自が動き出す。その前に、こちらで犯人と、トヨダケミカルの中島とトヨダを押さえて撤収する。ビル内の配置データは渡っているな。いくぞ」
「おう」
公安9課の面々と、タチコマ9機がトヨダケミカルの社屋へと突入を開始した。
×   ×   ×
「おい、誰かいないのか!」
会長室で中島が端末から、警備員を呼び出そうとしていた。
しかし、端末からは何の返事も返ってこなかった。
「くそ!」
中島は端末を叩きつけるように置いて、荷物をまとめて部屋を出て行こうとする。
その背中に、トヨダが声をかけた。
「どこにいく?」
中島がトヨダを見た。
「ここから出るんだ」
ドアに手をかけたとき、ドアが廊下側から開いた。
そこからいきなりヘルメットとゴーグル、戦闘服を身に付けた二人が飛び出し、中島たちに銃口を向ける。
「ひ!」
中島は思わず声を上げ、鞄を床に落とした。
トヨダも手を上げて、無抵抗の意思を示す以外なかった。
戦闘服の一人が銃を下ろし、ゴーグルを取った。
トヨダが思わず声を口に出す。
「君は……」
「失礼しました。公安9課のトグサです。ここは危険です。ビル内に武装集団が侵入しました」
中島が言った。
「武装集団だと! それは何者なんだ?」
戦闘服のもう一人が、ゴーグルを外して言った。
バズだった。
「相手は二人。軍用義体だ。やつらの標的は、あんたらだ」
中島が、声をあげる。
「あの義体が、使われてるのか!?」
「そのとおりだ。屋上にティルトローターがある。それでここから脱出する。急げ」
×   ×   ×
Bという表示が床に書かれている階段を上り、60階を過ぎようとしたとき、突然、男が足を止めた。
「待て」
先頭を行く、ヨウが振り返る。
「どうした?」
「……誰かいる」
ヨウが廊下を覗き込む。
だが人の姿はない。
男が吐き捨てるように言った。
「きっと公安9課だ」
「9課? 高速で接触したのもそいつらか」
「そうだ」
「……わかった。俺が見てくる。あんたは大切な雇い主だ。ここにいな」
ヨウが廊下をゆっくりと前に歩き始める。
ヨウの背後で何かが動く気配がした。
ヨウは後ろを向いたまま、左手でVz83を引き抜き、トリガーを絞る。
空中で銃弾がはじけた。
「あン?」
ヨウがそちらを見る。
瞬間、背後から、グレネード弾が射出された。
だが、ミニガンの六連銃身が唸りをあげ、グレネード弾は空間で爆ぜる。
廊下を炎が走った。
その炎が、空気を震わせ、熱光学迷彩の屈折を狂わせる。
『見つかったかも!』
グレネードを発射したのはタチコマだった。
2902式熱光学迷彩が、グレネードの熱と、巻き起こった微細な塵のために、効力を発揮できなくなってしまった。
そこにミニガンが撃ち込まれる。
『あわわわあ!』
丸いボディが銃弾を逸らす。
だが連続して喰らえば、そうもたないことがわかっていた。
『負けるかァ!』
ヨウの背後にいたタチコマが、マニピュレーターに収められた機銃を撃つ。
ミニガンを撃ち込まれていたタチコマも、機銃で応戦し始めた。
壮絶な撃ち合いになった。
まるでガード無用の叩きあいである。
「戦車相手じゃ分が悪いな」
ヨウはそう言うと階段まで続く廊下を曲がる。
タチコマ二機がそれを追った。
『待て〜!」
タチコマが曲がった先に現れたのは、もう一つの軍用義体と、右腕の先についているロケット砲弾だった。
『対戦車ロケット!』
軍用義体の右腕が火を噴いた。右腕の側面が割れ、発射ガスが噴出される。
同時に、ロケット弾頭は加速しながらタチコマに向けて飛んでくる。
タチコマが慌てて逃げる。
壁にあたったロケット弾頭は、壁を突き破り、ビルの側面に大穴を開けていた。
右腕のロケットランチャーを仕舞いこみ、男はヨウに言った。
「先を急ごう」
そう言ったとき、爆発音が上の方で聞こえた。
二人が上を見上げた瞬間、階段が崩れ、コンクリートと鉄枠の、瓦礫の雨が落ちてきたのである。
濠々と粉塵が立ち込めていた。
バトーが下を覗くと、瓦礫の山が積みあがっていた。
五階層分の階段が崩落するよう、爆薬を仕掛けたのだ。
「足止めにしては、ちょっとやりすぎたか。まあ、これなら動けねえだろ?」
その言葉に反応するように、瓦礫が動いた。
「まだ動けるってのか!」
その瓦礫の隙間から、ミニガンの弾がバトーの頭のあった辺りを通過する。
天井が粉砕されていく。
そして、下では瓦礫が爆発していた。
その中から現れた、二人の皮膜がポロポロに焼け焦げている。だが、その周囲の瓦礫が吹き飛んでいた。
ヨウが言った。
「瓦礫を吹き飛ばすのにロケット砲、間近で撃つなんてなに考えてるんだ?」
男が義体についたほこりをはらいながら、上を見る。
「急がなければ逃げられる」
そういって男は飛び出し、大きく壁をつかって跳躍する。
61、62、63、64とリズミカルに飛び跳ねる。
高さにして20メートル近くを飛んでいく。
65階に届いたとき、フロアの奥から強烈な銃弾が男の体を叩いた。
銃弾を受けた男の体が、ヨウの傍の63階の瓦礫の中に落ちてきた。
「なにがあった」
男が瓦礫から身を起こすと、腹部が大きく決られていた。
男はそれを見て冷静に呟く。
「対物ライフル。12・7ミリ弾だ。なるほど、この義体、腹部は意外と装甲が弱いようだな」
男が、ヨウを見て言った。
「65階で待ち構えているようだ」
「待ち構えられていては、こちらが不利になるな」
ヨウはそう言って上を見た。
65階で、廊下にボルトで固定された、対物ライフルのトリガーを引いたサイトーが身を起こす。
「なんなんだ、あいつは。こいつは戦車の装甲をぶち抜くんだぞ?」
崩落した階段の傍にいるバトーが言った。
「やつらのタフさは異常なんだよ。少佐、タチコマをこっちに一機回してくれ」
バトーが草薙に電通する。
『了解。イシカワとボーマが苦戦してる。トグサたちがまだ上に抜けてない。もう少し引き止めておいて』
「わかった」
そう返事をしてバトーはサイトーを見る。
「とにかく、あいつらの弱い部分、狙っていくしかねえな」
「弱い部分?」
「首の後ろのプラグカバー、あいつを吹っ飛ばせるか?」
「後ろを向いちまったら、プラグごと潰れる可能性があるな。やつが横向きになればいけるな」
「かなりタイトな要求だな。チャンスは俺が作る。頼んだぜ、狙撃手」
「気をつけろよ、レンジャー」
「来るぜ!」
瓦礫を蹴る音が響いた。
サイトーが2902式熱光学迷彩で姿を隠す。
跳躍してきたヨウが、65階に着地する。
「なんだ、俺に出迎えはなしか?」
そういってヨウが、ミニガンをサイトーのいる廊下に向けた瞬間、バトーが光学迷彩を解いてヨウの右側から飛び出し、ミニガンの側面を蹴り上げる。
ミニガンが横に振られ、壁、天井のコンクリートを削っていく。
「物騒なおもちゃ、ぶんまわしやがって!」
バトーは一気に間合いを詰め、ミニガンのベルトを力任せに掴み抜き取った。
「これなら――」
どうだ、と言おうとした刹那、目の前にVz83の銃口があった。
首を捻ってそれを躱《かわ》す。
側頭部を銃弾が掠める。
その捻りを殺さずに、体を固定させ、勢いを乗せたハイキックをヨウの頭に叩き込む。
ヨウはそれを肩でプロッタする。
硬い岩を叩いたような感触が伝わる。
ヨウは、バトーの体の上に、ミニガンを振り下ろす。
バトーはそれを体を捻って盤し、そのままミニガンを持ったヨウの右腕を脚で踏み込み、左腕のVz83を、右手で押さえ込む。
軍用義体のパワーが一気にバトーに襲い掛かった。だが、一瞬、ヨウの動きが止まる。
「サイトー!」
バトーが叫んだ。
轟《ゴウ》ッ!
ライフルから発射された。12・7ミリ弾が、ヨウの義体のプラグカバーを撃ち抜いた。
バトーにも限界が来ていた。
ヨウの力がバトーを弾き飛ばす。バトーはその力に逆らうことなく、ヨウの右腕を踏み台にして、ヨウの頭の上を逆さまになって跳んだ。
ヨウのVz83が動く。
だがバトーの方が早かった。
腰から引き抜いたケーブルが、ヨウの首の後ろにあるプラグに差し込まれていた。
「眠っちまいな」
ヨウの目に、バトーの不敵な笑みが映りこんでいた。
瞬間、ヨウの体が硬直し、どう、とその場に崩れた。
バトーはヨウの顔を覗きこんで言った。
「手間取らせやがって。なにが、〈ツインズ〉だ。少佐、この義体のコードを抜いた。今、送る――」
そのとき、ヨウの目が、ギョロリと動いた。
×   ×   ×
地上300メートルのラウンジは、この周辺の夜景を一望できるものだった。
広い、仕切りのない室内の周囲をぐるりと、強化ガラスの窓が覆っている。
まるで空を飛んでいるかのような錯覚に陥る。
これも、このトヨダケミカル本社屋の売りの一つであった。
だが、今ここに入ってきた一行の中に、それを気にかける余裕はないだろう。
彼らにとって、今が、生きるか死ぬかの瀬戸際だった。
ここから先は、屋上へと続く階段があるだけだった。
その階段を上りきれば、9課のティルトローターが待っている。
もう少しだった。
ラウンジ中央にあるエレベーター横に、その階段が見えてきた。
そこに草薙が待機していた。
「こっちだ」
トグサとバズが、やってきた階段を振り返り、セブロを構える。
トグサがトヨダと中島の二人に声をかけた。
「早く行って。ここは俺たちで喰い止める」
屋上への階段まで、あと20メートルもない。
そのとき、エレベーターが動き出していた。
階数を表示するパネルが、勢いよくカウントを重ねる。
二人の足が停まった。
草薙がエレベーターの前に移動し、セブロC26Aをエレベーターに向けて、声を上げる。
「走ればお前たちのほうが早い。急げ!」
その声に押されるように二人が走り始めた。
エレベーターの階数表示が、40階に到達しようというところだった。
だが、そのとき、もう一つのエレベーターのドアが爆発で吹き飛んだ。
その扉が、重い昔を立てて床を滑っていく。
そして、黒々とあいた奈落の底から伸びた影が、草薙へと向かい、草薙を大きく吹き飛ばす。
「――ぐっ!」
受身を取る暇もなかった。
草薙の体は大きく宙を舞い、ラウンジのガラス窓にぶち当たり、それを砕きながら虚空へと舞った。
非常階段のところにからトグサが叫ぶ。
「少佐!」
そのトグサに向けて、エレベーターから火線が伸び、頭上の天井が爆発する。
抜け落ちた天井が、トグサたちとラウンジとを遮った。
一瞬のことだった。
なにが起きたのか。
わからぬままに、トヨダと中島は地に倒され、立ち上がることができなくなった。竦《すく》んでしまい、動けなくなったといった方が正しいのかもしれなかった。
「ようやく邪魔者がいなくなりました」
声につられ、エレベーターを見る。
そこには、軍用義体を身にまとった男がいた。その顔は、市販された標準型の男性モデルの顔をしていた。
中島が、声を震わせながら言った。
「お前――、何者だ!?」
「阪崎洋治。昔は、只山洋治って名前だったこともあります」
「あの只山――!」
中島が驚き、そして呆然となる。
「そう。あなたと、木下に罪を着せられ死んでいった、元厚労大臣の只山の息子です」
呆然となる中島の前に、阪崎がゆっくりと歩いていく。
「中島さん。あなたはトヨダケミカルの会長の座に就任し、政財界との太いパイプも築き上げ、さあ、これから、というときがやってきた。あなた、自分の力でここまで来れたと思います?」
中島は阪崎の言葉を蒼白な面持ちで聞くことしか出来なかった。
「中島さん、残念だけど、あなたは自分の力じゃ、せいぜい創設者の一人として、いいところ取締役どまりだ。けどね、僕が木下の下で動くことで、あなた、随分と儲けたはずですよ。ナラシノ・テクノボディとだって、業務提携できたじゃないですか」
「あ、あれは桝本が――」
「桝本さん、僕の言うことはなんだって聞いてくれましたよ。提携すれば、いい義体が作れる環境になるって信じてたんでしょうね。会社が変われば、使う人間が義体にあわせなくちゃいけない生産性重視のユニット製品じゃなくて、ユーザーに合わせて作り上げる手製の義体が作れるんじゃないかって。本当に、いい人だったんですね。あなたたちとは違ってね」
「阪崎、お前、いったいなにが狙いなんだ!?」
阪崎が笑う。
「復讐です。あなたたちを、幸せの絶頂から叩き落す。それだけのために、僕は十五年、頑張ってきたんです」
「十五年――」
「そのために、僕は全てを捨てて、時を復讐だけに費やしてきた。義体を乗り換え、人格を変えながら、あらゆる策を練ってきた。冷たい義体が温まる暇もないほど、僕は多くの他人を演じていったんです。わかりますか。保管中の義体の冷たさを。義体の冷たさが、僕の心も凍らせたんです」
坂崎が倒れている中島の上に屈み込む。
「父は尊敬できる人でした。名誉を重んじ、けして悪辣な真似はしてこなかった。それを、あなたと木下が妊め、殺したんだ」
阪崎が中島の胸倉を掴み、持ち上げる。
中島の足が軽々と浮いた。
「く、苦し――」
「苦しいでしょう。僕は、その何倍もの苦しみを抑えつけて、今まで生きてきたんです」
「た、助けて」
「父もそう言ったんじゃないですか? 僕は知っているんです。父が死んだあの夜、あなたと木下が父を呼び出したのを。警察は、ばかげてると僕の証言を無視した。信じたのは、たった一人の刑事だった。だけど、その刑事もあなたたちに殺された」
そういって、中島を放り投げる。
中島は、窓際近くまで転がった。
「さあ、中島さん。そろそろ懺悔の時間です」
阪崎がトヨダを見る。
「トヨダさん、あなたも一緒にお願いします」
トヨダが苦々しく呟く。
「なぜだ。わしはもうトヨダとは関係ないだろう」
「引退させられたあと、あなたはこんな会社、告発すればよかったんですよ。それなのに、あなたがしたのは、逃避だ。それじゃ、僕たちがあんまりじゃないですか。それだけじゃない。中島さんが、木下と握りつぶしてきたリコール請求。この義体の不具合で泣いた人を僕は一杯知ってる。トヨダさんもそれは知ってるんでしょう。招慰離民居住区で、その悲惨さを、あなたは見てきたはずだ」
トヨダはなにも言えなかった。
「さあ、時間です」
阪崎の右腕が開く。阪崎は、その右腕にロケット砲弾を差し込むと、それをラウンジのガラスに向けて発射した。
熱が、二人の頭上を通り過ぎた。
そして、後ろにある巨大な窓ガラスが爆発し、粉々に砕け散った。
地上300メートルの虚空に、ラウンジの中の空気が抜けていく。
「あの窓辺から、地上の人々に向けて謝罪しながら、身を投げてくれませんか?」
中島と、トヨダが虚空を見る。
暗い風が、不気味な声を上げていた。
「今頃、下での爆発を聞きつけたメディアが、この様子を全国に報道してくれています」
割れたラウンジの窓から、ビルから離れたところをヘリが飛んでいるのが見えた。
中島が言った。
「木下は、木下はどうする。あいつが死なずに、わしらだけが死ぬというのはおかしい!」
「木下はこれを見て、自分に迫る死の恐怖に怯えながら、俄悔するんです。大丈夫、ちゃんと責任もって後を追わせますから、だから、安心して死んでください」
阪崎がにこりと笑った。
トヨダが、ぽつりと呟いた。
「わかった……」
トヨダは立ち上がり、松葉杖を突きながら、歩き出した。
中島が声を上げる。
「おい――」
トヨダが中島を振り返る。
「わしらは、なにも見えていなかったのだな。いいものを作れば誰もが喜んでくれると思っていた。だが、それは慢心だった。いいものを作るんじゃない。使う人間のためになるものを作らなければならなかったんだ。わしにはそれが見えておらんかった」
中島もがくりとうな垂れる。
そして、立ち上がり、歩き始めた。
阪崎は動かず、二人の後ろ姿を眺めていた。
二人はラウンジの際に立っていた。
目の前には、暗い空が広がっている。
一人は、怯え、一人は、悔いて立っていた。
風が強く渦巻いていた。
二人は固く目を閉じ、そして、虚空へと跳んだ。
阪崎の顔に、形容しがたい笑みが浮かんでいた。
そこに電通が着信する。
『ヨウだ』
阪崎の脳内に、ヨウの声が響く。
「――そっちは終わったのか」
『ああ。そっちは?』
「無事、終了した。あとはここを撤収するだけだ」
『そうか――』
「随分と、弱い信号だな。若干だが、ノイズも混じっているな」
『ああ、二個目の脳から送ってる。一つ目は、電脳錠を差し込まれたままなんでな』
「そうか」
『一つだけ、リクエストがある。中島と、トヨダが、どうなったか、俺も見たいんだ』
「わかりました。あなたにも権利はあります。僕の目を使うといい」
阪崎が窓の際まで歩いていく。
そして下を見た。
ビルの、はるか下方に、小さな二つの点が見えた。黒い花が二つ、地面に咲いているようだった。
阪崎が笑みを浮かべた。
「あれを木下への死に花にしよう」
『なるほどな。てめえには、そう見えてんのかよ』
「なに!」
そう言うと同時に、阪崎の体が、その場で電撃を打たれたかのように反り返り、床に崩れ落ちる。
目の前の視界にノイズが混じり、視界が書き換わる。
見ると、タチコマが、中島とトヨダの体を抱えていて、ビルの壁面に張り付いていた。
「くそおおお!」
阪崎が激昂する。だが、その義体はぴくりとも動かない。
そして後頭部に、硬いものが突きつけられた。
声は上から降ってきていた。
「無駄よ。運動神経へのリンクを全て焼き切らせてもらったわ。せっかくの軍用義体でも、電脳まではカバーできなかったようね」
草薙の声だった。
草薙が、壁に張り付いたタチコマからワイヤーを伸ばし、ぶら下がりながら、対物ライフルを構えていた。
阪崎が言った。
「どうやって俺たちの脳に――」
『電通を使って、あんたらの義体にコントロールウィルスを流し込んだのさ』
バトーの声だった。
65階で、バトーは、ヨウの体から引き千切った、もう一つの脳にケーブルを繋ぎ、電通をしていた。
『ヨウってやつ、まさか脳殻を二つもっているとは思わなかったぜ。〈ツインズ〉ってのは、そっから来てたんだな。腹ん中に隠れてた脳殻を引っ張り出して、そこを経由して、お前さんたちと話してみたんだが、どうだい、迫真の演技だったろ?』
「こんなことで俺は、俺は――!」
草薙が冷たい声をかける。
「お前たちの脳殻には開きたいことが山ほどある。木下とトヨダケミカルの癒着に絡む問題について、じっくりとな」
阪崎が声にならない声を上げた。
だが、その声は、義体の声帯を震わせることはなく、阪崎の脳内にだけ響くものだった。
鳴咽とも、嘆きとも取れる、阪崎の悲鳴だった。
10
トヨダケミカル本社での事件が終わったその翌日、オレンジ色の夕日に映える墓標の列の中、ある男の墓前に、霧島奈々の姿があった。
墓前には霧島刑事の名前が刻んであった。
霧島奈々は、ただうつむき、無言のまま、そこに件んでいた。
「霧島刑事の命日なら、ここに姿を見せると思ったわ」
不意に聞こえてきた声に、霧島が顔をあげた。
墓標が建ち並ぶ小道の中に、県警で見た、草薙という女の姿があった。その後ろには、カラーリングは違っているが、愛らしいロボットの姿もあった。
『おひさしぶりです』
「タチコマちゃん――」
「感動の再会はあとでゆっくりしてもらうとして、一つ聞きたいことがあるんだけど」
草薙が鋭い声でゆるやかな感情の流れを断ち切る。そして草薙は、手にした一冊のノートを霧島にもわかるように見せた。
「霧島刑事の日記のお陰で、トヨダケミカルの中島と、木下とを繋ぐ線が見えそうよ。そのことについては感謝するわ」
霧島が首を横に振る。
「お礼なんていりません。感謝するのは私のほうです」
「本当なら、私たちからあなたに感謝状を贈りたいところなんだけど、今日は別の用件できたのよ」
「覚悟はできています。そのために、今日、父に報告に来たんです」
「そう。それじゃ――」
草薙の表情が一転、厳しいものに変わった。
「霧島奈々。トヨダケミカル社専務、桝本金一誘拐幇助の容疑で任意同行願います」
霧島はコクリ、と小さく領いて、霧島刑事の墓標の前を離れた。
「タチコマ、霧島奈々を見張って」
『了解』
タチコマが、霧島の背後に回り、歩き始める。
霧島が、前を向いたまま独り言のように語り始めた。
「義体化されたばかりの頃、私は自分の体を恨んだわ。冷たい、この体を。でも、今になってようやくわかったの。冷えていたのは義体じゃなくて、私の心のほうだったって。タチコマちゃんに会って気づいたの。タチコマちゃんのように、機械の中にも、温かい機械は存在するんですもの」
タチコマも、草薙も、霧島の言葉を、ただ黙って聞いていた。
霧島も自分の言葉に返事を求めようとは思っていなかった。ただ、今、この気持ちのままに語っておきたかっただけなのだろう。
誰もいなくなった墓標が、オレンジ色から、宵の色へと変わっていった。
11
与党第二勢力とされる、木下派代表の木下代議士とトヨダケミカル会長の中島氏の間で取り交わされた、多額の政治献金が、軍用義体の製造認可と密接な関係にあったという一件は、それに関わる関係者に大きな衝撃を与えていた。
そして、この二者が、十五年前の只山厚労大臣の変死の容疑者として逮捕されたと報道されると、さらに世間を巻き込んだ大きな醜聞として広まっていった。
時効成立間際での、容疑者逮捕は今後、様々な憶測を呼んでいた。
公安9課の執務室で、草薙は荒巻の机の前のソファに座っていた。
「阪崎の証言と、県警から他県の県警に飛ばされた挙げ句に殺された、霧島巡査の父親、霧島刑事の残した日記から、あの二人の逮捕が実現したわけね」
「そうだな。これも、復讐を誓った男と、死ぬまで真相を突き止めようと諦めなかった男の執念がそうさせたのかもしれんな」
「でも、切っ掛けは、阪崎が、自分の復讐を私たちに邪魔されないように、先手を打って手配した狙撃手を押さえるところから始まったのよね」
「そう考えると、この一連の事件、阪崎が、やつの復讐劇の舞台に、我々をあげて踊らせただけなのかもしれんな」
「阪崎とトヨダケミカル義体の被害者の会を通じて知り合った霧島が、桝本の誘拐を手伝ったのは、桝本に対する恨みじゃなく、ただ、事件の真相を知りたい一心からだった。誘拐された桝本にしても、混乱していたにせよ、阪崎に説得されて、仕方なく脳殻交替をした。その阪崎が、木下の命令があったにせよ、課長を殺そうとしたのは、自分の復讐を邪魔されたくなかったから。そうした人の思いの小さな連鎖が、一連の事件を引き起こしていったのかもしれないわね」
「この街の下に、そうした小さななにかが、まだまだ燻っているということか」
「そうね――」
草薙はそう言って窓から見える新浜の街を見る。
世界は闇に満ちている。
その闇の中に、まだ草薙が見たこともない、悪意が潜んでいるのかもしれない。
その悪意の中には、阪崎のような人間を、再び生み出すようなものもあるのだろう。
この間に光をあて、犯罪の芽を探し出し、除去する。
そうすることで、根を張る前の悪を、少しでも減らすことができれば、霧島や、阪崎のような被害者を生むこともなくなるのだろう。
「私たちが必要とされなくなる、その時まで、やるしかないわね」
草薙は、荒巻に微笑んだ。
あとがき
『攻殻機動隊 STAND ALON COMPLEX』ノベライズ第二弾「凍える機械」 いかがでしたか。前作の 『虚夢回路』が発売されて、いろいろな方からお話を聞く中で、「タチコマはもっと出ないの」と言うか、「タチコマもっと出せ」というお叱りを頂き、人はタチコマを求めているのだなあ、というわけで、今回、本作品の4分の1以上はタチコマで埋めてみました。
他の二編は、TVアニメ 『攻殻S.A.C。2nd GIG』 でテーマの一つとなっている離民間題を斜めに捉えた結果、できた話です。なんとなく、2ndで自分が脚本を書いた「潜在熱源」とかにも通じる何かがあったりと、招慰難民たちを取り巻く現状みたいなものを、感じていただけたらいいなあ、と思います。
そんな 『2nd GIG』 のTV放送も中盤を過ぎ、いよいよ佳境へと突入していくのですが、担当分の脚本を「神山監督よろしく!」と放り投げ、今は一視聴者として、『攻殻」を楽しんでいます。ただ残念なのは、僕が先の展開を知ってしまっていることです。神山健治監督が脚本チームを裏切って、とんでもない展開に書き直さない限りは、既に知ってしまっている展開になるために、そちら方面の楽しみはできないのですが、映像化されたときの面白さ、は体感できます。これは作り手だけが楽しめる、特権みたいなものです。
けれど脚本はやはり、映像化を想定したものなので、絵にできないことを書くことはできません。例えば、一万人の軍用義体が草薙を襲う、と文字で書くのはすぐなんですが、絵で描くと、もうそのアニメーターと一緒に仕事はできないと思います。してくれないというか。
だからこそ、小説には映像にはない、面白さがあると思います。できるだけ絵が浮ぶよう、場面場面に気をつかっていますが、絵にできないが故に仕掛けられることもあるのではないかなあと。文字媒体ならではの 『攻殻S.A.C.』を楽しんでいただけたらと思います。
そんな僕ですが、今は 『攻殻S.A.C.』 の仕事も一段落し、プロダクションIGが次に手がける地上波のテレビアニメ 『お伽草子』 の脚本に参加しています。この本が店頭に並ぶ頃には第一回目が日本テレビで放映されていると思います。自分の次回作までのつなぎのつもりで、三本書いたら、おサラバするつもりだったんですが、シリーズ構成の櫻井圭記に騙されて、いつの間にかメインでやらされています。『攻殻S。A一q』 のときは、石川光久社長と押井守さんに騙され、今回は後輩にまで騙される。流されるままに仕事をしてきてるせいか、そろそろ自発的に動いて、仕事をしたはうがいいのかなあと思う今日この頃です。
そんなわけで、三冊目のネタ、そろそろ仕込もうと思います。
[#地付き]2004年6月――プロダクションI.G Gスタジオにて 藤咲淳一
[#改ページ]
底本:
「攻殻機動隊 凍える機械」
2004年7月封日 初刷
著 者 藤咲淳一
発行者 松下武義
発行所 株式会社徳間書店
2008/11/16 入力・校正  hoge