TITLE : 聖母病院の友人たち ―肝炎患者の学んだこと―
聖母病院の友人たち ―肝炎患者の学んだこと―
藤原 作弥
目次
厄年の曲り角
黄色い人
下落合風景
幽霊の散歩
われら肝民族に幸あれ
尼僧物語
脱病院遁走《とんそう》計画
白衣の妖精たち
陽気な三人姉妹
小羊は憂鬱
二つの退院通路
聖母病院創立五十周年式典
――あとがきにかえて
聖母病院の友人たち
厄年の曲り角
一昨年から昨年にかけてわが家は疫病《やくびよう》神に取り憑《つ》かれた、としか言いようがない。まず妻が倒れ、四カ月間入院した。一時は危篤に陥りながらも回復し無事退院、二カ月間の自宅療養でようやく完治――と一家四人が胸を撫《な》でおろす間もなく、今度は私が入院する破目に陥った。
正確に言えば妻は昭和五十五年七月から入院し十月に退院、十二月まで自宅で安静療養し、翌五十六年一月から職場に復帰した。その妻とまるでバトンタッチするかのように私は、五十五年十二月から半年以上、五十六年六月中旬まで病院生活を送ったのである。つまり、私たち夫婦は交代で、合計ほぼ一年間、病院にとじ込められた長期療養を余儀なくされたわけで、一時、わが藤原家はあわや崩壊、とまで思われた。
その事実だけでも平凡なサラリーマン家庭にとっては、まさに歴史的な事件だったが、厄年期の二人が同じ時期に患った病気が同じ“肝炎”、入院した病院も病棟も同じ場所なら、主治医、看護婦たちも同じ人々、という奇妙な一致。そうした不思議な暗合の共通体験に私たちは、科学では説明できない因縁のようなものを感じたりした。
もっとも同じ屋根の下に住む夫婦だから、病気が一方から他方へ伝染した、とは容易に想像される。実際、「婦唱夫随の琴瑟《きんしつ》相和した鴛鴦《おしどり》夫婦」と、友人たちはからかったものである。まして妻が襲われたのは、流行伝染性のA型ウイルス肝炎。この病気は経口伝染だそうで、事実、夫婦の情愛が濃密であることが感染の直接原因となることもある。だが、私の場合は同じ肝炎でも実は脂肪肝から徐々に進行した慢性肝炎疑だった。主治医の杉本医師も「奥さんの肝炎が御亭主に感染したものではない」と断言した。これは照れかくしの弁解ではなく、純然たる医学的な検査・診察の結論である。
しかし、私たち夫婦、そして家族が久し振りに連帯と団結の絆《きずな》で結ばれたのは、やはり肝炎が仲立ちであった。「同病相憐《あわ》れむ」が改めて夫婦、家族の絆を強固なものとした。
妻が入院中に、主治医の杉本医師が、家族の既往症を含む健康状態を総点検してくれた際、私の慢性肝炎疑を発見してくれたのが私の入院のきっかけである。発見、というより再発見、と言った方が正確だろう。私はかつて、勤務先の通信社から米国に派遣された。特派員生活に疲労困憊《こんぱい》して帰国した昭和四十六年、五年振りの健康診断で脂肪肝的症状が発見され、二カ月ばかり病院通いしたことがある。日銀の金融記者クラブに詰めていた関係で、日銀医務室の山口医長の診断を受けたところ東大病院を紹介され、二カ月の通院で完治したが、その後も、多忙な新聞記者生活の合間を縫って検査を受け、自らの健康管理には怠りなかったつもりである。
だが、妻が劇症の急性肝炎で、わが家の近くの聖母病院にかつぎ込まれ、入院と自宅療養を続けていた半年間、仕事と家事と看護で私の心身が疲弊しきった間隙《かんげき》を衝《つ》いて、肝臓に巣喰っていた肝炎がいつの間にか大きな鎌首をもたげていたのである。
肝炎の原因や病状は医学書や解説書に譲るが、夫婦で入院してみて、いかに肝臓疾患が猖獗《しようけつ》をきわめているかを知り、驚いた。現在、日本には肝炎や肝硬変を含め何らかの肝臓病で悩んでいる人は、約三百万人といわれる。四十人に一人。潜在患者五百万人という推計もある。また、近年は“アルコールと肝障害”の関係が重視されているが、かりに日本人の五千万人が酒を嗜《たしな》むとすれば、その十人に一人は肝炎患者、その半数が酒好きとすれば、飲み助の五人に一人が肝臓を患っていることになる。“二十一世紀の国民病”という命名も故なしとしない。
その肝臓の重要性を指摘して警鐘を乱打してもし過ぎることはないのだが、そうした医学上の問題はさておき、私たち夫婦が療養生活を通じて得たもっとも貴重な収穫は、聖母病院という小さなコミュニティーとそこで働く人々の存在を知ったことである。妻は三十九歳、私は四十三歳という共に厄年年齢圏で同じ病魔に冒されたこと自体が、それぞれの人生の節目における個人的体験としてだけではなく、夫婦の歴史、家族の歴史にとっても大きなエポックを劃《かく》した事件だった。だが、それ以上に、あの聖母病院と、そこに働くシスター(修道女)、医師、看護婦、職員、そして一緒に闘病生活を送ったさまざまな患者たち――つまり“聖母病院の友人たち”との人間愛に満ちた心の交流は一生忘れられない。
いまどき“心”とか“人間愛”などと言えば、偽善めいた綺麗《きれい》ごとの印象を与えがちで面映《おもは》ゆい。ましてキリスト教系病院という舞台設定であれば、宗教的プロパガンダ臭をも伴ないがちである。しかし、宗教には無縁の平均的な俗人が、現代世相から忘れられていた人間同士の心の通いをそこに見い出した印象を要約すれば、どうしてもそう表現せざるを得ない。
生き馬の目を抜く取材競争の喧噪《けんそう》の巷《ちまた》からある日突然、静謐《せいひつ》の病室に身を横たえることになり、以後六カ月余り、生れて初めての長期療養生活を送った中年初期の私は、最初こそその環境の激変に当惑したが、“聖母病院の友人たち”の生き方を観察しながら自分をも見つめるうちに、次第に心の平安を見い出していったのである。
***
その聖母病院に私はピクニックに行くようないでたちで入院した。ボストンバッグにパジャマ、下着、洗面用具など必需品一式と本二、三冊をほうり込み、登山帽子をかぶってわが家に別れを告げた。まさに小旅行に出かける気軽な気分だったので、まさか六カ月以上も入院するとは夢にも考えていなかった。
私の住んでいる新宿・上落合のマンションの前の大通りをそのまま北に約十分、道なりに辿《たど》ると、西武新宿線下落合《しもおちあい》駅を過ぎたあたりから道の左手に聖母病院の広大な敷地が開けはじめる。そこは行政区劃の上では新宿区中落合。道路をへだて聖母女子短期大学やその学生寮のある右側が下落合である。
この辺一帯は昭和の初めまで東京府豊多摩郡落合町といわれ、高台の丘陵地は雑木林や草原で、ところどころに農家の藁葺《わらぶき》屋根が見えるだけだった。なだらかな丘は四季の変化に富み、目白通りの街道筋には、思い出したように商店が点在し、その前を牛車がのんびりと往き交っていた、という。
大正から昭和にかけて画家や彫刻家がこののどかな環境にアトリエを建て、“文化村”が形成されたが、それでも聖母病院一帯は谷あいの雑木林で、泉が湧《わ》き、池をつくり、当時は洗い場と呼ばれていた。その落合町は、幾つかの変遷を経て現在では東京都新宿区の下落合、中落合、西落合、上落合、の四つの町にわかれる――ということを私がよく知っているのは、前の年に横浜・鶴見から引越してきたばかりで、不動産屋の宣伝文句をまだ覚えていたからである。
西武新宿線と平行して流れている妙正寺川は下落合駅を過ぎて神田川と合流し、お茶の水方面に迂回《うかい》しているが、その合流点付近の土地が最も低い。昔、聖母病院下の谷の水が注いだ地点だろう。随所に、水位が増すと洪水の危険があることを告げる警報告知板が掲げてある。
そこから緩やかな勾配《こうばい》で、切り通しのような病院の敷地の土手が続いており、荷物を下げて歩くとかなり疲れる。登り切った所が病院の入口だった。振り返ると、下落合駅や私のマンションのあるごみごみした上落合・小滝橋の住宅街が下の方に見渡せた。その上には新宿副都心のノッポビル群が聳《そび》えていた。
内科病棟に入るとナース・ステーション(看護婦室)から婦長や看護婦たちが出てきた。婦長のシスター是枝は旧知の間柄だ。妻が危篤に陥った時、私と一晩寝ずに看護してくれた。妻とは同年配の筈《はず》だが、小柄で、頭から白いベールを被《かぶ》っていて白衣の中の顔がいっそう小さく感じられるせいか、まだ二十代にしか見えない。
「あなたたち御夫婦って、本当に仲が良いのね。奥様が肝炎なら旦那様も肝炎」とシスター是枝は私のカルテを整理しながらからかうように言った。ナース・ステーションの向いの一号病室は女性用二人部屋で、つい最近まで妻が長らく入院していた場所である。懐しそうに覗《のぞ》き込むと「奥様がお休みになっていたベッドに寝ていただくわけにはいきません」と、たしなめられた。
内科病棟の各病室は、入口が廊下に面し、窓側は中庭が一望に見渡せるつくりになっている。二号室(女性用六人部屋)、三号室(男性用六人部屋)、五号室(同)と並び、各部屋の前の廊下をはさんでナース・ステーションに隣接しているのは第一処置室、第二処置室、第三処置室、男女トイレ、リネン室、配膳室など。リネン室から廊下は左手に折れて六、七、八号の一人用個室が三室だけ並び、突き当りが一〇号室(女性用六人部屋)だ。日本の病院の習慣で、“死”と“苦”を敬遠し四号室と九号室は欠番。したがって内科病棟のベッド数は二十九である。
私の病室は三号室と決められた。六人部屋だ。ベッドは入口から右手にABC、左手にFEDとアルファベット順に記号がふられ、私のベッドはD。つまり窓際である。カルテには一〇三Dと記入された。一階病棟三号室D、私の呼称は「囚人一〇三D号」というわけだ。一号室のBベッドに長期療養していた妻を看護婦たちは「女囚一〇一B号」と呼んでいたものである。
病室に入ると患者たちは、魚河岸に水揚げされた大きなマグロのように横たわっていた。入院患者というものはミイラのように毛布にくるまるか、もぐらのように布団の中に首まで埋って寝るもの、と思っていたが、中には毛布すらかけずにパジャマ姿で点滴を受けている患者もいる。
私のベッド一〇三Dは窓際で日が射して眩《まぶ》しいほどだ。外には冬の木枯しが吹きすさび、けやき、いちょう、ポプラなど落葉高木群の箒《ほうき》のような枝が風に揺れているというのに、ガラス越しに入る太陽の光を吸収した白いシーツは、心地よく暖かった。
「このお部屋は温室ですよ。外は冬でも、部屋の中は春というより夏です。日焼けしますから、お肌に気をつけて」。案内してきた看護婦の宮城さんは、ベッドのカーテンをぐるりと引いて私だけを中に残し、「着替えしてベッドに横になっていて下さい。安静時間が過ぎたころ、美女たちを率《ひき》つれて御挨拶に伺います」と出ていった。
カーテンにはちょうどベッドの囲りを一巡するレールがついていて、閉め切ると周囲から完全にプライバシーが保てる仕組みになっている。
私はボストンバッグからパジャマやタオル類を出し着替えると、洋服を一〇三D号用ロッカーにおさめ、洗面用具や日用品は備え付けのサイド・テーブルの戸棚に入れた。パジャマは丸首のスポーツ・スタイルで、ジョギングにでも出かけるいでたちだ。同じデザインを、青と黄、二着ずつ買ってきたのは、できるだけ洗濯をせずに済ます配慮からである。
病人のユニフォームを着るとカーテンを開けて、ベッドに横になった。さきほどは太陽の眩しさで影絵のように黒々と浮び上った落葉高木の梢《こずえ》しか眼に入らなかったが、中庭はベランダのような散歩道が、庭園につながっており、すぐ眼の前に礼拝堂が迫っている。
それは、妻が入院していた部屋からも見えた聖堂だった。一階の待合室から病院付属の老人ホームに抜ける廊下の途中、回廊風の渡り廊下が中庭にとび出し聖堂に接続している。内科病棟の建物は、そのコの字型の一部のL字部分に当っていて、どの病室の窓からでも聖堂の正面が望める角度になっている。
まだ昼間なので明りはついていないのだが、陽光を受けたステンドグラスが、赤、青、黄のモザイク模様の鈍い光を幻燈のように内側から写し出していた。聖堂の青銅色の屋根の頂きから突き出しているのは、よく見ると避雷針ではなく十字架だった。十字架とともに目立つのは聖堂脇の柿の木だ。それ、と判ったのは五枚の葉(私は正確に数えてみた)と烏《からす》のついばんだ実が一箇残っていたからである。それら落葉の木々や十字架は、冬の空を背景に逆光を受けて切り絵のようなシルエット模様を描き出していた。
周囲を見渡すと患者たちは眠っているか、眠ってはいなくても眼をつぶって点滴を受けているかだ。安静時間の間、仰臥《ぎようが》の姿勢を私も見習って毛布一枚だけを胸元までかけて眼を閉じてみた。
確かにここは温室である。窓から入ってくる陽光が頬に温く伝わってくるのが判る。風邪気味なのだろう、こめかみの付近で搏《う》つ脈が気になったが、やがてその単調なリズムが子守歌のように低く響き、まどろんでは眼が覚めた。こんな穏やかな休息はいつ以来のことだろう。会社の上司には、二、三カ月の入院が必要、との医師の診断をそのまま報告したが、こんな調子で二、三カ月も寝ていたら、このまま冬眠してしまうのではないか。もう眼が覚めないのかもしれない。
***
私たち夫婦は、結婚して十六年になる。私が二十七、妻が二十三歳の時に結婚した。だが二人が知り合ったのはその四年前で、私が二十三で妻は十九歳だった。私はまだ大学生で、横浜・千代崎町のある予備校で受験英語を教えていたが、その時の教え子の浪人が彼女だった。帰り道が一緒だったことから親しくなった。私は大学を卒業してすぐ結婚するつもりだったので、進学をあきらめさせた。が、一年留年ののち新聞記者の職を得たものの、二人で生活するにはあまりにも薄給だった。知り合って四年後に結婚したわけだが、結婚に到るまでの間、何度も私が煮え切らない態度をとったことで、不信感から交際を中断したこともあった。彼女は口に出しては言わなかったが、四年間という大学生活に匹敵する時間を、私を待つことだけで無為に費やしてしまったことに対する後悔と心労が不信の原因だったと思う。それは私の負い目でもあった。
結婚して一年後に双生児姉妹が生れると、彼女は子育てに夢中になった。一方、私は長過ぎた付き合いからか、結婚生活に新しい刺激も感激も抱かぬまま、ちょうど新聞記者稼業が面白くなってきたこともあって、そのころから家庭を寝場所とだけ心得るようになった。新幹線、東京オリンピック……高度成長経済の最盛期の経済記者にとっては取材対象のGNP大国・日本経済もフル操業で一億がみな働き蜂《ばち》なら、私自身も働き蜂の興奮に生き甲斐《がい》を見い出していた。
私はまず五年間、大蔵省記者クラブに詰めた。当時の田中角栄、水田三喜男、福田赳夫などの大物蔵相は数々の話題を提供してくれた。銀行合併、IMF(国際通貨基金)世界銀行・東京総会、OECD(経済協力開発機構)加盟、山一証券の経営危機、戦後初の国債発行……。国会審議が始まると朝九時には記者クラブに登庁し予算委員会、大蔵委員会の傍聴取材、夜は大臣邸や局長ら幹部クラスの自宅への夜廻り取材、そうした仕事がない時には、自社、他社を問わず記者連中との酒を飲んでの付き合い。スクープをものしたときの酒のうまさ……。
大学で専攻した英米文学や仏文学の本は押入れに放り込まれ、財政金融関係の参考書が本棚を占領した。
ワシントン特派員を命ぜられてからも同じだった。妻は、私が単身赴任して十カ月後に二歳の双生児姉妹をつれて渡米してきた。ここでも生活は苦しかったが私はまだ三十歳、最年少の特派員だった。仕事はきつかったが、働き甲斐があり、つまりは楽しかった。ホワイトハウス、議会、国務、財務、商務、農務各省……とこまねずみのように駆けずり廻った。
実際、取材する“事件”が多すぎた。ベトナム戦争、キング牧師暗殺、ワシントン大暴動、ケネディ上院議員暗殺、ニクソン政権の誕生、沖縄返還交渉、日米繊維戦争、カンボジア侵攻、米中接近、金ドル交換停止、輸入課徴金新設などのニクソン・ショック……。ワシントンと東京は昼夜がちょうど逆だったので、朝刊、夕刊の締め切りに原稿を叩き込むには早起き遅寝になりがち、恒常的な睡眠不足に悩まなければならなかった。
妻は妻で、初めての外国生活に最初は戸惑ったようだが、慣れてくると生活の苦しさより楽しさを覚えるようになった。特派員手当は安く、その範囲内でやり繰りを工夫し、子育てに懸命だった。彼女も若かった。まだ二十六歳だった。小型の中古のセカンドカーを駆ってナーサリー・スクール(保育園)への送迎、ショッピング、近所の夫人連との付き合い……といった主婦業のほかに、好奇心の旺盛《おうせい》だった彼女は、同世代のアメリカ人主婦で、しかも同じ双生児の母親で気の合った友人を見つけると地域の“双子の母親の会”のボランティア活動にも熱中した。社会福祉関係のサークルにも顔を出した。
彼女は、日本にいる時と同じように仕事にかまけて家には寝に帰るだけの私に、かくべつ不満は洩《も》らさなかった。時どき「酔っ払い運転には気を付けて」と言う程度だった。週末でも私は仕事と称してオフィスに顔を出した。自宅よりもオフィスで、テレックスや外電チッカー(電信受信器)の音をバックグラウンド・ミュージックのように聞きながら原稿を書く方が楽しかった。
日本に帰ってきた時、私は三十四歳、妻は三十歳。彼女の実家は横浜・鶴見の総持寺裏にあったが、父親の勤務の関係で両親が大阪に住んでいることを幸いに、留守番と称し、広い二階建ての一軒家に親子四人で転げ込み、占拠した。
その頃私は、疲労が抜けないので医者に診て貰ったところ、肝炎の疑いあり、との診断で約二カ月通院したが、やがてほぼ回復したので、元通りの仕事一途《いちず》の生活に戻った。今度は、日銀の金融記者クラブで内外金融問題を担当することになった。そこには、今の外務省記者クラブに所属が変るまで約五年いた。新しい分野だったので好奇心も手伝い、また夢中になって原稿を書いた。記事を書くことも、取材で人と会うことも無性に楽しかった。
あの時、肝炎を完全に治しておかなかったことが、十年後に慢性化した遠因だった、と今にして思うが、当時は現在ほど肝臓病が二十世紀の国民病ともいうべき“現代病”として完全には認知されていなかった。「激務を控え、暴飲暴食を避けて規則正しい生活を送るように」との医者の忠告をうわの空で聞き流し、肩や背中の凝りやだるさも感じなくなったので「病気は治った」という安堵《あんど》と解放感から、またぞろ昼夜の区別のつかない取材執筆と遊興放蕩《ほうとう》のアクロバット生活に戻っていった。
ニクソン・ショック後の円切り上げで日本経済は未曾有《みぞう》の大不況に見舞われる、とマスコミは大騒ぎをしたが、高度成長はなおも続き、サラリーマンたちは“昭和元禄”に浮かれながらも一所懸命に働き続けた。そして生活基盤や文化基盤も忘れて飲み食いし、ギャンブルに興じた。それは戦中戦後の饑餓《きが》感や抑制の反動でもあった。
過労と暴飲暴食の不節制な生活が原因で肝臓障害を病んでいる四十代から五十代にかけての肝硬変予備軍は、いま日本中に満ち溢《あふ》れている。入院してみて、内科疾患に占める肝臓病患者の比率が非常に高い事実を知って驚いたが、厚生省の調査によると日本人の三大死亡病因は第一位=ガン、第二位=脳卒中、第三位=心臓疾患。四位が事故死、五位が自殺、そして第六位に肝臓病が急速にのし上ってきた。
私の入院中に小学校時代の恩師は慢性肝炎から肝臓ガンに移行して死に、中学時代の恩師は肝硬変で死んだ。肝炎はいまや現代日本の国民病としての地位を不動のものとした。“不如帰《ほととぎす》”時代以来最近まで不治の病と言われた肺結核は、はるか十位以下に転落している。
日本に帰ってきて子供たちが小学校に入学し卒業し、中学生になると、妻は、自分の仕事だけに快楽を見い出している夫をあてにせず自立を決意したようだった。お茶の水の美術学校で人体デッサンを勉強すると東京・赤坂で伯母が経営する美容室でアルバイトし、素肌美容術の基礎を習い、フランスの大手美容システムと提携した美容機器会社に入社してパリ本部で研修を受け、専属の素肌美容師になった。そして全国各地から技術を修得しに上京してくる美容師たちに理論と技術を教授する指導員として主婦専業に別れを告げた。
十九歳の浪人女学生から進学の希望と時間を奪った私は、彼女が仕事を持つことに反対できなかった。幸い子供たちは双生児のせいか、常に行動を共にし助け合う、姉妹愛というより仲の良いルームメートのような友情で結ばれていたので、両親が共働きで一日中外に出ていても、学校生活、家庭生活のいずれにも問題はなかったし、何よりも彼女たちは熱烈な母親ファンで、むしろ母親に積極的に協力し励ました。
妻は、皮膚理論の講義に備えて美学、哲学、生理学の本を読みあさり、公害化粧品摘発の消費者運動に興味を持ち、医科大学の皮膚科のドクター、香粧品学者、写真家、モデルたちと幅広い交友関係を持った。仙台、大阪、名古屋、岡山など拠点都市での実技講習で指導するため二カ月に一度は出張した。女性雑誌の取材には「娘たちも母親が女としての自立した仕事を持つことを誇りに思って協力してくれますし、ジャーナリストの夫も理解してくれますので……」と答えていた。
***
まどろみから覚めた眼に病窓の聖堂がぼんやりと見える。頭を窓側に傾けるといやでも聖堂の正面入口と向い合う位置になる。聖堂にはシスターや看護婦の白いユニフォームが時おり出入している。腰の曲った老婦人が目につくのは、この聖母病院に付属する老人ホームの住人たちだろう。外国人男女の姿も見える。回廊風渡り廊下を喪服姿の人々が歩いて行く。誰かが死んでその葬儀ミサらしい。扉が開くたびに鎮魂の聖歌が洩れてくる。
昨夜、寝る前に改めてページをめくった吉田満著『戦中派の死生観』の一文に、あるカトリック神父との対話のエピソードがあった。その神父は、吉田氏の『戦艦大和ノ最期』の草稿を読んで筆者との対話を求め、招いたのだった。吉田氏は「容易に欺《だま》されまい」と決意して神父に相対した。しかし、夜を徹しての語り合いの中で、神父は最後まで“神”に触れず、信仰や宗教という言葉すら口にせず、キリストの名も持ち出さなかった。その夜の対話をきっかけに吉田氏は入信した。
そんな記憶が甦《よみがえ》ってきたのも、すぐ窓の外に聖堂が迫っているからだろう。窓枠の桟で四コマ漫画のように仕切られた構図には、右手上に十字架の屋根、その下に聖堂正面入口が見える。左手上の常緑樹の木立の蔭になっている建物は修道院。その下、左手から延びてローマの水道石橋のような渡り廊下が中庭を横切っているが、それが、病院本棟と聖堂とを結ぶ回廊風の廊下である。今後、毎日あの十字架のある風景を眺めながら寝起きするのだろうか。
この聖母病院はカトリック修道会が運営する社会福祉法人である。婦長はすべて修道女で、医師、看護婦、職員にもカトリック信者が多かった。だからといって患者の宗教や宗派は問わなかったが、私は、抗し難い魅力を感じさせる聖堂のステンドグラスを見ながら、神父と対峙《たいじ》した吉田氏と同じように「容易に欺されまい」と決意した。
肝臓部に圧迫感を感じ、腹部がふくれあがる不快感を覚えるとき、慢性肝炎疑から肝硬変や肝臓ガンに悪化して死ぬかもしれない、という不安が横切ることもあったが、入院中は努めて死のことは考えまい、したがって神のことも思うまい、と心に誓った。私はまだ涅槃《ねはん》に入ったわけではないのだ。
入院の初日、ベッドに横になっただけですぐに、あの喧噪の巷では考えられない沈んだ想念にとらわれたのも、気が弱っているせいかもしれない、と思っていると、どやどやと足音がして華やいだ声が近づいてきた。
「お目ざめですか。可愛いい魔女たちがヒゲのおじさんにご挨拶に参上いたしました」と看護婦の宮城さん。シスター是枝や看護婦たちの笑顔がその後から覗き込んでいる。妻は内科病棟の看護婦全員に世話になったので、私もそのほとんどを見知っていたし、彼女たちも私を覚えていた。ヒゲをはやしていると得なこともある。
「つい二、三カ月前までジーパンにサンダル履きで奥様に面会にいらしてたけど、今度は御主人の方がパジャマ姿の患者としてチェック・インされました」とシスター是枝が日勤(昼間勤務)の看護婦たちを紹介してくれた。このほかに準夜(準夜間勤務、夕方から真夜中まで)、深夜(深夜勤務、真夜中から翌朝まで)の当番があり、看護婦の勤務体制は一日三交代になっている。「よろしく」、「よろしく」、「こちらこそ」。みな二十代の乙女たちだ。
「これからは女護ケ島の住人になるわけですから、若返りますよ」とシスターはからかった。彼女は聖職者にありがちな気取りがなく、どちらかといえば気の強いお転婆娘という印象である。
看護婦たちはシスターが被るベールはつけず、白地に細い青い線が一筋入った糊《のり》のきいたキャップを被っている。みんな常に笑顔を絶やさずに魅力的だ。例えば宮城さんは沖縄出身のチャーミングな二十五歳である。美人ぞろいなのは清楚な白いユニフォームのせいかもしれないが、その感想を口に出して言うわけにはいかない。いまから厭味《いやみ》な中年男の烙印《らくいん》を捺《お》されては大変だ。彼女たちは看護婦ではあるが、看守でもあるからである。そして私は患者であり、監獄の中の囚人でもあった。
それでもこれからこの若い女の子たちに囲まれて暮すことを考えると、病魔や死との対決という入院生活の陰鬱《いんうつ》なイメージはたちまち吹き飛んだ。異性に対する関心よりも娘の可愛いさに似た愛着が湧いてきて、できるだけ楽しい会話を交わそうと思った。彼女たちが去るとき私は心から「よろしく」と丁寧な挨拶を繰り返した。
その日の回診はすでに終了したので、本格的な検査や診察は明日以降からである。廊下を食事運搬車が通っていく。甘酸っぱい匂いが病棟に漂いはじめる。
「きょうは酢豚だね」。囚人一〇三A号がむっくり顔を上げてわざとらしく鼻をうごめかした。「おいしい、おいしいトリ肉の酢豚」。輸血を終えたばかりの私の向いの囚人一〇三C号がまぜかえし、それを合図のように魚河岸のマグロたちはベッドの上に起き上り、移動テーブルの食卓を用意しだした。
私の横の囚人一〇三E号はサイド・デスクからアジシオ、醤油《しようゆ》、ふりかけなどを取り出すと、病室を出ていき、廊下の冷蔵庫から漬物の入ったタッパー・ウエアとアルミフォイルにくるんだ肉団子を持ってきて豪華な皿数を陳列した。
冷蔵庫は配膳室の前にあった。妻が入院している時も、よく卵焼きやプリンをタッパーに入れてしまいこんだものだ。容器には「一〇一B」とか「一〇三D」とかの印がマジック・インクで書いてある。病状によって医師や栄養士の許可を得れば、病院食以外の食物でも食べてよいことになっている。
私が病室に入った時は朝の安静時間だったので、宮城さんが「みなさん、新人です。よろしく」と紹介してくれただけだったが、食事の前、同室者たちがベッドに起き上ったところで改めて挨拶した。各ベッドにはネーム・プレートがついているが、もちろん初対面では名前を覚えられない。入院の挨拶に特別の仁義しきたりがあるわけでもなく、刑務所のように牢名主《ろうなぬし》がいるわけでもなかろう。しかし私以外の五人がみなベテランの病人に思われ、初心者のような気持で一応ベッドをおりて「三D藤原です。肝臓です。よろしく」と神妙に頭を下げた。
入口の右側の中年の一〇三A号が「糖尿の清水です」と愛想よく答えた。酢豚の匂いをいち早く嗅《か》ぎとった男である。その隣の一〇三B号は白髪の老人で「心臓の山内です」と自己紹介し「あなたは肝臓、わたしは心臓、お向いのEさんは腎臓《じんぞう》。みんな合わせて肝じんの病いですな」と両手を合わせ合掌しながら会釈した。
ふざけているのか、真面目なのか面喰ったが、老人は「お大事に」と、暫《しばら》くその姿勢を続けた。食事の前の祈りかもしれない。サイド・デスクには、こよりをはさんだ分厚い聖書とロザリオがあった。信者なのだろう。何か呟《つぶや》いていたが、窓外の聖堂を見やって十字を切った。
私の向いの一〇三C号は三十前後の青年で、どこか見覚えのある顔だったが、果して「今度は御主人の番ですね」と言い、「ボクはいろいろなところが悪くて」と言い淀《よど》んで「あ、肝臓も悪いんです。それから糖尿も。本当は体を流れている悪い血がすべての原因です」。そういえば、この紫がかった黒褐色の顔色は妻の面会に通ったころ何度か見かけたことがある。小川さん、といった。妻がいたころからだから、少くとも半年は入院している勘定だ。したがって、トリ肉の酢豚も食べ慣れているわけである。
配膳室の三本さんと鶴丸さんが食事のトレイを配る。鶴丸さんが「藤原さんのお食事はメニューまで奥さんと同じ“肝2”よ。奥さんはあまり召し上らなかったけど、その分も御主人が食べて下さい」と言う。彼女も妻の面倒を本当によくみてくれた。配膳室のおばさんたちは食事の世話だけではなく、掃除、洗濯、布団干し、植木鉢の手入れなどあらゆる雑務を引き受けている。鶴丸さんが夫と別れて娘を引き取る時、妻が相談に乗って励ましたこともあった。夏の花火大会の夜、可愛いい女の子を連れていた鶴丸さんの浴衣姿を見て妻は「女二人生きている」としきりに感心していた。
「肝1は一日の熱量一八〇〇カロリー、肝2は二一〇〇、肝3は二四〇〇……」と彼女はすべてそらんじている。彼女は、肝臓病の食事には高蛋白《こうたんぱく》が必要で、肝2の蛋白は一日九〇グラム、酢豚のトリはその重要な良質な蛋白源であること、動物性蛋白質では白身の魚とトリ肉が最良質で病院では牛肉や豚肉はあまり使わないこと、もちろん植物性蛋白では大豆製品が断然トップだが、冷奴《ひややつこ》には醤油が小匙《こさじ》一ぱいしかつかず、納豆も醤油やカラシ抜きであること――等々、病院食のメニューを解説してくれた。
「長く入院していると食事だけが楽しみになるけど、食餌《しよくじ》制限が厳しくてお気の毒」と早くも同情してくれたが、私が辛い思いをするのは昼食にビールがなくなり、夕食前の晩酌が楽しめないことだろう。しかし元来、食物に好き嫌いのない戦中派饑餓児童である。二一〇〇カロリーなら十分だろう。労働をするわけでもない。ただ寝ているだけの毎日である。
私はビールなしで酢豚風トリ肉うま煮をおいしく平らげた。味付けは淡泊で味噌汁も薄味だった。いずれもおつというわけにもいかないが、まあ結構なお味である。
隣のベッドの一〇三E号は冷蔵庫からの御馳走を食卓いっぱいに並べたてた。そこへ、食事中に綺麗《きれい》な奥さんが「お待ち遠さま」と入ってきて、アルミフォイルの春さめサラダや佃煮《つくだに》を追加差し入れし、食卓はますます豪華になった。彼はうんざりした表情の中から、助けを求めるような眼で私の方を見、「ボクはチキン・ブロイラーですよ」としきりに照れてみせた。
入口左手の一〇三F号は、食事が終ってお茶をすすっている時「Dさん」と私に声をかけてきた。「肝臓ですか、大変ですね。気をつけて下さいよ」と諭《さと》すような調子で言う。「私はおととし女房をこの聖母病院で亡くしましたが、やはり肝臓でした。ただ働き通しで肝臓ガンで逝きました。肝臓は表面は健康に見えていて、内でじわじわ悪くなりますからね」
彼はまだ食事を終えていない人を気づかってか小声で、大腸を患っていると自己紹介し、酒屋だと名乗ったが、酒は一滴も飲まない、という。「あなたはかなり召し上る? 酒屋が言うのも変ですが、肝臓の悪い人が酒を飲むと坂道を転げ落ちるように肝硬変への道を辿り命を縮めますからね。うちの近所の大工さんが今年八月まで肝臓でお隣りの五号室に入院していましたが、いったん良くなって退院し、九月に再入院したと思ったら三日で亡くなった。退院して、すぐまた飲み始めたんです。愉快な昔気質の職人でしたが……」
私は食後、楊子《ようじ》をつかいながら酒屋の老店主の禁酒の勧めをおとなしく聞いていたが、うっかりして、トレイを配膳室に戻すのを忘れていた。重症でない患者は食後はセルフ・サービスだったのである。配膳室から戻ってきてベッドに腰をかけ、タバコに火をつけ、一服吸うと灰皿がないのに気が付いた。ここは病院だった。
酒屋のF号氏が酒のため肝硬変で命を落したといった話の主人公の大工さんを、私も知っていた。C号の小川さんに「あの世話好きのふとった、確か、ブッチャーさん?」と訊《き》くと「そう、大工の今井のおやじさん。うちのおやじとも飲み友達だったけど、あの人は本当によく飲んだから」と肯《うなず》いた。小川さんの父親は、この聖母病院で清掃や修理などの仕事をしている。また母親は二階の小児病棟の配膳室に勤めている。
大工の今井さんは六十歳を過ぎたばかり、内科病棟では“ブッチャーさん”の愛称で人気者だった。プロレスラーのブッチャー選手そっくりの顔付きだが、いつも太鼓腹をゆすりながら横綱・北の湖のような歩き方をしていた。しかし、あの時の腹はもう腹水でふくれ上った“蛙腹《かえるばら》”ではなく健康を取り戻した正常な人間のおなかだった筈だが。
妻が入院中のある夜、聖堂前の中庭で花火パーティーが開かれた。比較的病状の軽い患者のためにはベランダに椅子が用意されたが、夜の空気が体に悪い患者は病室の窓から見物した。妻はベッドの背中部分を持ち上げて一号室から見ていた。私は娘たちと一緒に看護婦たちを手伝って豆電球を張りめぐらし、紙提灯《かみぢようちん》のキャンドルを見物客に配った。
陽が沈むころ、聖堂の正面扉が左右にあき、ろうそくを手にしたシスターたちが現われ、聖歌を合唱した。澄んだ歌声は四階建てのコの字型病棟にこだまして修道院の庭に戻り、木立をわたる夏の夜風に流れた。ろうそくの光がゆれてステンドグラスの模様を映し出し、歌が終ると消えていった。
と、ギターが響き、三人の看護婦がロック調のコーラスを歌いながら三方から患者たちの間に入ってきた。ステンドグラスの前で聖火のように火を噴いた松明《たいまつ》花火は窓ガラスの模様に、かげろうのように重なって映り、期せずしてサイケデリックな照明効果を生んだ。指笛や口笛が鳴った。
その日、患者たちが最も感激したのは普段着姿の看護婦たちだった。非番の看護婦はみな制服をぬぎ、浴衣やノースリーブのワンピースやパンツなど思い思いの服装で患者の世話をした。糊のきいた白いキャップや制服しか見慣れていない患者にとって、さまざまな髪型や服装であらわれる女の子たちは、自分の娘や妹や恋人に見える。
仕掛け花火は大がかりではなく、音も大きくはなかったが、聖堂の前に横一直線に張られたワイヤロープを舞台に、さまざまな色と形で光のショーが繰りひろげられた。そのたびに修道院の木立がシルエットで浮かび、拍手が起った。
花火が消えようとする瞬間、ワイヤロープを左右で支えている二本のポールをはっきりと映し出し患者たちの爆笑を誘った。それは点滴の注射液を吊《つ》るすスタンドだった。御丁寧に空の葡萄糖《ぶどうとう》溶液ボトルまでぶらさげてある。
糖尿病で入院していると自己紹介したフランス人の肥《ふと》った老人がたどたどしい日本語で、ショコラ(チョコレート)をおなかいっぱい食べてみたいものだ、というコミックな童謡風シャンソンを歌い、リフレインで「ああショコラ、ショコラ」と繰り返すと観客は、ショコラ、ショコラ、と合唱した。
二号室の美人レビューダンサーが、派手なネグリジェ姿でミュージカルの曲を踊った。彼女は心因性胃潰瘍《いかいよう》で入院中だったが、看護婦が押しとどめるのを振りきって二曲目を踊ると言い張った。不承不承ついていったギター伴奏も最後には熱がこもり、病人たちは口をあけてサロメのような彼女の動きに見入った。
大工のブッチャーさんは配膳室係りの鶴丸さんの娘さんをだっこして見物していたが、どこからか木樽《きだる》とお菜箸《さいばし》を持ち出してきて祭囃《まつりばや》しのバチさばきを披露した。トントコ、トントコと響かせてからテレツクテレツクと小刻みな調子に変え、そのあとで浴衣をはだけて、自分の腹をタプタプタプと手でたたき拍子をとった。それを何度も繰り返しては、自ら首を傾《かし》げてリズムの変化に聞き入った。
看護婦に耳うちされた鶴丸さんの娘さんが「ブッチャーさん、御苦労様。はい、水割り」と小麦色の液体の入ったグラスを出した。患者にも面会客にも紙コップが配られ、看護婦たちが薬罐《やかん》の“水割り”を注いで廻った。
「うまい」。口をぬぐったブッチャーさんは「水割り、おかわり」と叫んでたて続けに飲み乾した。その麦茶はよく冷えていて、こうばしい炊《い》り麦の味と匂いがした。ブッチャーさんは涙を浮かべ、看護婦たちの肩を叩きながら「ありがとう」を連発していた。その今井さんも今は亡い。
午後の安静時間、同室者はみなそれぞれの日課にしたがって本を読んだり、イヤホーンでラジオを聞いたりテレビを観たりしていたが、そのままの姿勢で、午睡に入ったようだ。
私は午前中に少し眠ったせいか、眼をつむっても眠気が湧《わ》いてこず、天井の枡目《ますめ》を数え、シミの模様も観察し終ると、また窓外の景色に眺め入った。午後の日射を避けるため、太陽の部分までカーテンを引く。残された空間に見えるのは柿の木の梢《こずえ》だけになった。四枚の葉と、半分烏についばまれた柿の実一箇。すぐ思い出したのはO・ヘンリーの短篇『最後の一葉』だった。
画家志望の女子学生が下宿のベッドの中から朝、晩、庭の蔦《つた》の葉を数えている。紅葉しきった晩秋の蔦の葉は毎日何枚か散っていく。最後の一枚が落ちるとき、重い肺炎にかかった自分の寿命も燃え尽きる、との暗示にかかってしまう。ある夜、風雨はことのほか激しく、夜明けまでに自分の生命は尽きているだろうと信じ込む。しかし嵐が去っても最後の一枚は散らずに残る。階下に住む酔いどれの画家くずれが、嵐の夜、蔦の葉の這《は》っていた向いの家の壁に、本物そっくりの色と形のもみじ葉を一枚、丁寧に細密描写していたのだった。その男は次の日、肺炎にかかって死ぬが、誰もその原因を知らなかった。
聖堂の脇の柿の梢を見た患者の何人かはすぐ、この有名な物語とわが身をひき較べたに違いない。だが、現実の柿の葉は着実に枯れて散っていく。現に午前中に数えて五枚あった葉はもう四枚に減っている。柿の葉の数に関係なく快癒して退院する人もいれば、この病棟で死んでいく人もいるだろう。小説と現実の違いははっきりしている。しかし、現実が小説じみてくることも意外に多い。
妻の場合、一時は抗生物質ショックで死の瀬戸際までいったが、現実はすっかり良くなり、素肌美容の指導員として意欲的に仕事をしている。
むしろ因縁話めくのは、その元気になった妻と入れ替りで私が入院したことかもしれない。女房が美容術を教えながら家計を支え、亭主の私が会社を休んで療養している対照はまさに“髪結いの亭主”の図式だが、妻が急性肝炎で倒れて回復するまで、本人だけではなく一家が苦行を余儀なくされたこと、その後すぐに私が同じ肝臓の病いで同じ病院に入院するめぐり合わせになったこと、結婚以来、私は高度成長の日本経済を追い駆ける新聞記者稼業にだけ生き甲斐を見い出し、家庭を顧みず、ひたすら走り続けたこと――などを考え合わせると、そのストーリー展開にはある種の因果関係が潜んでいるように思われてならない。
これこそ何か神のような存在が、私を懲らしめるために丹念に創作したフィクションであるような気がした。
妻が肝炎で入院した後を追いかけて今度は私が同じ病気で同じ病院に入院する、という運命論的な符合も天罰なのかもしれない。私の入院はその贖罪《しよくざい》のための天与の機会のように思えるのだった。この禁固刑に等しい服役生活中に、厄年の曲り角にさしかかったけだるい心身が癒《いや》されることに期待をつなごう、と考えてみた。
黄色い人
聖母病院という病院が近くにあることは、東京・上落合に引越しが決まった時から知っていた。
誇大広告の見本のような現地案内図には、まず「緑の中の静かなたたずまい」なる宣伝文句がある。新築のマンションを中心に、幾何学の命題のような電車の路線が縦横に走っている、国鉄中央線、山手線、地下鉄東西線、西武新宿線……。また、東中野、高田馬場、目白、落合、下落合……などの最寄りの駅や、小・中学校、スーパーマーケット、神社仏閣などの拠点が、黒の丸印で点在している。その拠点の一つに、広い敷地を占めた聖母病院があった。
私と妻の厚子、双生児姉妹の陽子、優子――の四人家族は五年間のアメリカ特派員生活から帰国して横浜・鶴見の妻の実家に転げ込んだ。そして住宅対策を怠ったまま、ずるずると十年間もそこに居坐り続けた。
両親が横浜に帰ってくることが急に決まると、あわてて新居を探し出したが、アメリカでは中流の下クラスながら、日本のマンションよりは遥《はる》かに広く、施設の完備したプール付きのマンションに暮し慣れていたせいもあって、いまや日本語の普通名詞として定着した「マンション」という言葉がまず厭《いや》で、家探しにも気乗りがしなかった。
だが、二人の娘がそろって中学生になって手がかからなくなり、かねてからの自立計画を実行に移し、職を見つけた妻は、東京・赤坂のスタジオに通いやすいマンションを見つけるべく熱心に家探しを始めた。
そして腰の重い私の態度に業を煮やし、一人で駆けずり廻って話を決めてきたのが、いまの住いである。妻は、国鉄・東中野駅まで歩いて十分、そこから赤坂まで十五分、三十分あれば職場につく。私は地下鉄東西線落合駅まで徒歩二分、日銀、経団連などの記者クラブに近い大手町まで十七分。そこから大蔵省、外務省、通産省などの記者クラブがかたまっている霞が関まで十分。どの仕事場までも所要時間は三十分以内。それが、マンションの現地案内図の宣伝文句でもあり、妻の説得の力点でもあった。
現地案内図をよく見ると、付近には神社、仏閣、教会が目立ち、とくに早稲田通りの沿道には一定間隔を置いて寺が並んでいるかのようだった。
そして寺町らしく落合火葬場があった。妻は、何でも近くにあり便利なことを説明しながら火葬場にまで言い及ぶと、さすがに苦笑し「聖母病院という総合病院もあるのよ。評判のよい古い病院なんですって」と付け加えた。
私は、彼女の熱意に根負けして、すべてを委《まか》せる気になっていた。いずれ、どこかに引越さなければならない。火葬場や病院が近ければ静かなのだろうし、都心が近ければ、どこで飲んで遅くなってもタクシーを拾えばすぐ帰宅できる。どうせ、疲れて寝に帰るだけの場所である。
火葬場まで持ち出したことにバツの悪さを感じたのか妻は、今度は、下落合や中落合には、大正のころから画家や文士が住みつき、とくに目白の学習院近くには有名人や資産家の邸宅が多いことを説明しだした。聖母病院は、その下落合と中落合にまたがる広い区劃《くかく》を占めていた。
聖母病院を実際に見たのは妻が入院する二カ月前、五月初めの日曜日の朝、散歩の帰り道だった。
新宿・上落合のマンション生活は好きになれなかったが、一年近く住むと次第に慣れてきた。妻は仕事に脂がのってきたらしく、娘たちもようやく友達ができ始めた。ひとり私だけは、例の心身のけだるさが気になったが、環境の変化と厄年の体質変化のせいで、いずれ落ち着けば、復調するだろうと考えていた。
近所に薬王院という牡丹《ぼたん》の花で有名な寺があり、五月初旬が見頃だ、と聞いたので、散歩のついでに覗《のぞ》いてみようと思い立ち、家を出ようとすると、妻も一緒に行きたい、とついてきた。私たちは結婚して十五年になっていたが、知り合ってからは二十年。最近はそれぞれの仕事が忙しく、二人そろって出歩くことも稀《まれ》になっていた。夫婦がその関係をどれだけ意識するものか、他人の場合は知らないが、“空気のような関係”とは、玉虫色の解釈が可能な表現ではある。しかし、時どきではあるが、優しさが思い出したように甦ってくることがある。
東長谷寺・瑠璃山・薬王院――山門から、本院を通り抜け裏山の頂きに至る庭園には、豪華絢爛《けんらん》という表現がふさわしい多彩濃艶《のうえん》な大輪の牡丹の花々が咲き乱れている。「自然の庭といってもおかしくないけど、人工庭園というほどの作為的な感じもないわね」と妻が言う。「ワシントンの全山ツツジの庭の公園を思い出すわね」
休日のドライブでワシントン国立植物園のツツジを一家で観《み》にいったことがある。あの頃も、仕事に疲れていて、夫婦の会話が少なかった。結婚してちょうど七年目のことだった。“セブン・イヤーズ・イッチ”というのは七年目の苛々《いらいら》、とでも訳すのだろうか、それとも七年目のムズムズ、か。私たちには、七年目の疲れだったのかもしれない。いま、それからさらに七年が経って、次の疲労の周期が訪れている。実際にそうした節目だった。
山門に入る前、妙正寺川の暗渠《あんきよ》にたたずんで川の流れに見入っていると「最近、疲れているようだけどお仕事が忙しいの」と妻が顔を覗き込んだが、川の流れの音にかき消されてよく聞えなかった。その意味が判ったのは暫くたってからだった。さきほどの質問を思い出して「ぼくはちょうど年齢の上でも端境期で、ひと休みの時期だが、きみの方こそ疲れているようだから気をつけた方がいい」と答えたが、人混みに流されて、距離が離れてしまったので会話は続かず、やがて眼の前に繰り展げられる牡丹の花模様に二人とも息を呑《の》み、圧倒されてしまった。
一本一本の花輪が、大きな冠のように重くたゆたっては、互いに妍《けん》を競いながら咲き誇っている。重層な花弁は、純白、薄黄、深紅、赤紫、桃色など、単一色だけではなく、それらの絵の具を混ぜた色をも含めて品位ある姿勢を示し、かと思えば、しなだれあって官能的な姿勢を暗示したりしている。
若い男女のカプルが多かったが、老夫婦もかなりいた。微動もせず見入っている人、日本酒を静かにすすっている人、写真のファインダーをのぞいている人、スケッチに余念のない人。それら男女の、会話というより感嘆の声から、いまがちょうど花の盛りで見頃ということが判ったが、一昨日の雨のせいか、早咲きの牡丹の中には、すでに散った株の群もところどころに見える。
ある場所では、清楚に、直截《ちよくせつ》な茎が小さな蕾《つぼみ》を戴《いただ》き屹立《きつりつ》しているが、別の場所では、首から上のない茎と葉だけが残っている。その下の地面には、赤く潰《つぶ》れた花が屍体《したい》から離れた生首のように転がっているか、もしくは、無残に花弁だけが散り落ちていた。
牡丹寺の庭園を登り切ると小学校の校庭があり、おとめ(御禁止)山の森林公園が広がっている。家族連れの散歩姿が木立に見えがくれしている。住宅街そのものが公園の中にある感じで、いつ公園を出たのか気がつかなかった。
下落合から道路をへだてて中落合の標識があって、土手の上に仰ぎ見る角度で高い建物が現われてきた。病院だった。
その道は切り通しのような坂道になっていて、屋根は数本のヒマラヤ杉の大木にさえぎられてみえず、古い褐色の煉瓦《れんが》造りの窓がところどころに覗いてみえた。
鉄柵ぞいにゲートの方に出ると、門柱から車道と歩道とが一巡する形でまたゲートまで戻ってきている。正面の門柱には「聖母病院」のくすんだ銅色の門標が埋め込んであり、白いベールの尼僧たちや、白衣の看護婦たちがその門から出入りしていた。外国人の姿も目につく。車寄せには救急車が一台とまっていて、赤いランプが点滅したままだった。
ゲート脇には大きな看板が掲げてあり、「社会福祉法人・聖母会聖母病院」の概要が記されている。International, Catholic Hospitalと英語で説明がついているところをみると外国人の患者も受けつけているのだろう。外科、内科、産婦人科、小児科、耳鼻科、眼科、皮膚科、神経科、歯科、放射線科……などの診察室、病棟などが地下一階から地上四階にまで分布されている。なるほど、妻が言っていたようにかなり大きな総合病院らしい。事実、病院の建物には、老人ホームの広い敷地が隣接しており、病院の向いには聖母女子短期大学や高等看護学校の校舎があって、その付近一帯が病院町のような観を呈しているのだった。
***
夕食後、看護婦の路川さんが「毒消しゃ、要らんかね」と薬の箱をかかえて入ってきた。彼女も聖母女子短大を卒業して四年になるというから二十四、五歳、もうベテランである。いつもキビキビと行動し、応対する明るい女の子で、妻はいつも「あんなしっかりした女の子を私の助手に欲しい」と言っていた。
病室の各ベッドには緊急用のブザーがついており、看護婦に用事があれば患者はそのブザーを押す。ナース・ステーションには各病室のベッドごとに赤いランプがついていて、ブザーが鳴り、そのランプが点滅する仕組みになっている。ブザーが鳴ると、「ハーイ」という声がして看護婦が駆けつける。
路川さんはいつも敏捷《びんしよう》に行動した。白いスカートをひるがえし、靴音のしないように小走りに走り、病室の少し前から距離を計算するかのように滑走の姿勢に入り、スーイと滑るとドアのちょうど手前で見事にとまり、何気ない表情で「御用ですか」と覗き込む。
彼女と、小柄で「ミッキーマウスの妹」なる愛称の岡本さんの二人は、いつも、スケート選手のように廊下を抜きつ抜かれつする好敵手だった。岡本さんは、廊下に検査機械や点滴の器具が並んでいるときなど腕をふりふり小まわりをきかし、路川さんを追い抜き、「私って路川さんとは違って体が小さくて軽いから」と勝因を説明した。悔しがった路川さんは新宿の靴屋を何軒も廻って、廊下疾走に最も理想的なスニーカーを買ってきた、という。
路川さんは、A、B、C……のベッド順に医者の処方どおり食後の薬を配ると、食事がおいしかったか、頭痛はしないか、肩は凝らないか、など異常の有無をたずねてまわる。話題のない患者には「最近は水虫の具合はどうですか」と聞いたり、その日の巨人軍の敗因を分析してみせたりした。
一号室から一〇号室までの薬配を終えると私の処《ところ》に戻ってきて「おヒゲの先生のお薬はきょうのところ、ビタミン剤と消化剤だけです。肝臓のお薬は、検査が終り治療方針が決まってから何を差し上げるか、ドクターが決めて下さいます。ドクター杉本は、それまでの間、あのヒゲ男には粉末アルコールでも与えておくか、とおっしゃっていました。奥さんと同じA型肝炎だとしてもA型のAはアルコールのAじゃないかな、ですって」と笑った。
妻の主治医、杉本医師は、劇症肝炎に近い妻を六カ月かかって完治してくれたが、今度は亭主の主治医をも引き受け、いまやわが家のホームドクターだった。痩《や》せて猫背気味で長身の体躯《たいく》。鋭い眼付きをした五十代半ばの紳士だった。物静かで口数が少なく、とりつきにくいタイプだったが、たまに何かぼそぼそとしゃべると、それが冗談だったりして、妙な安心感を抱かせた。
妻の病状との関連で私の既往症について訊かれ、肝炎を患ったことを話すと、杉本医師は夫婦間で感染したものではないと思うが「御主人もいずれ精密検査を受ける必要ありですな」と言い、どのくらい酒を飲むかと訊いた。
「日本酒換算一日お銚子《ちようし》二、三本ですか。医者は酒飲みの申告を信用しないものです。酒飲みは酒飲みを知る。私は相手が酒飲みの場合、申告の二、三倍を実際の飲酒量とみなしています」と、いたずらっぽく笑い、自分も大酒を飲むので、過少申告者の心理がよく判るのだ、と言った。そしていまは急性肝炎で重症の妻の治療が先決だが、その間、私も過労に陥らないよう生活に気をつけ、とくにアルコールはできるだけ控えるように、と言い渡した。私の心身のけだるさは十年前の肝炎が慢性化しつつあるものかもしれない、との疑いはその頃からあったのである。
杉本医師は妻と話す時、私のことを「あんたのヒゲ男」と呼んだという。看護婦たちも、それを聞いていて、最初の「藤原さんの御主人」から、いつの間にか、「おヒゲの先生」と呼ぶようになった。
また、杉本医師は妻のことを「黄色い人」と呼んだ。私が黄疸《おうだん》が顕著になってきた妻を「うちの黄色い奴」と言ったのがきっかけだった。看護婦たちは、容貌《ようぼう》を気にする女性らしい配慮からか、さすがに本人に向っては「黄色い人」とは呼ばなかったが、そのうちに内科病棟内で「黄色い人」といえば妻のことだと知るようになった。それほど妻の黄疸症状はひどく、入院後二週間で顔も手足も素肌の部分は、見事なほど真黄色に色づいたのだった。
最初、私が、妻に“黄色い人”と命名したのは、作家・遠藤周作の処女作『黄色い人』との語呂合わせからである。遠藤周作氏とは、私たちがアメリカのワシントンに駐在していたころ、知人の紹介で米国旅行中の氏と知り合って以来、帰国後、家族ぐるみで食事をしたり、文通したりする間柄だった。妻が急性肝炎で入院し、杉本医師が、私にも慢性肝炎の疑いがあることを告げた頃、遠藤氏は見舞いの葉書に「私も肝炎を患ったことがありますが、グリチルリチン、小柴胡湯、ビタミンCの三種を服用すると三、四カ月で治ります」との体験を記し、「黄色い人をお大切に」と書き加えていた。それが、“黄色い人”という綽名《あだな》の由来である。
私は遠藤氏の処方に従い、グリチルリチン錠と小柴胡湯粉末とビタミンC顆粒《かりゆう》を服用し始めたが、面倒臭くなり、一カ月でやめてしまった。
路川さんは「通常の簡単な採血検査で肝機能の衰えが判明していて、入院加療が必要という診断が出ていますが、病名は総合的な精密検査をしてからでないとはっきりしません。ドクター杉本は、同じ肝炎でも、“黄色い人”は急性で、ヒゲ男は慢性肝炎疑。本格的な慢性化を防ぐだけでも最低三、四カ月の入院は必要だろうとおっしゃっています」と言った。
杉本医師は私に対し、確か「二、三カ月」の入院を宣告していたのだが、彼女の言う「三、四カ月」との一カ月の差はいつの間に生じたのだろう。
「一カ月の差? あらそうでした? ごめんなさい。チェックしてみます。おヒゲの先生も入院早々で、もうすっかり患者さんらしくなりましたね。一週間、いや一日でも退院が延期されると気にする人がいるくらい。一カ月といえば大切な時間ですものね」。彼女は自分の不用意な発言を謝まり、単なる聞き違えかもしれないので気にしないように、と繰り返した。
主治医による治療方針が決まると看護婦が集まり、婦長のシスターやチーフと呼ばれるベテランを中心に看護方針を協議する。二十九人の内科病棟患者を看護する看護婦はシスターを入れ総勢十五人。うち午後四時から真夜中まで勤務する準夜係が原則二人、準夜と交代で午前八時まで勤務する深夜係が原則二人。残りが午前八時から午後四時までの日勤で、二十四時間三交代のローテーションを組んでいる。その間、三回の交代の際のミーティングで一人一人の患者について引き継ぎや申し送りをするわけだが、それには、まず、医師の治療方針に基づき、最初に看護方針をしっかりと決めておかなければならない。もちろん病状の変化によって治療方針も看護方針も変っていくが、看護の場合はとくに患者の性格や精神状態の把握が肝要だ。
私は、口べたであまり喋《しやべ》らない方だし、ヒゲ面《づら》も手伝って茫洋《ぼうよう》として見えるらしいが、意外に神経質な男である。腹部の圧迫感、とくに肝臓部の硬い感じ、食道付近からみぞおちにかけての異物感。胸部の毛細血管のかたまり、四肢の赤斑……などの自覚症状から、心の内奥で肝硬変をおそれ、肝臓ガンの心配までしており、肝硬変の食道静脈瘤《じようみやくりゆう》破裂で死んだ三遊亭小円遊や歌手の水原弘が同じ年齢であることを知って一人でおののいているのである。
そんなことに思い悩んでいる、とは看護婦たちも他《ほか》の人間も想像できないだろう。仕事でも友人付き合いでも外面はよいが、その反動からか、家庭に戻ると、あまり多くを語らず、一家団欒《だんらん》を主宰しようとはしない。一所懸命に高座をつとめた落語家や剽軽《ひようきん》な演技で笑いを振りまく喜劇俳優が、帰宅した姿に似ている。
私に比べれば、妻の方がはるかに人間的だった。彼女は正直に不安を訴え、医師や看護婦の言うことをよく聞いた。しかし、半面、自分をしっかりと見つめ、緊急事態には冷静に対処した。彼女は私のように演技しなかった。
入院後、最初の一週間、彼女はお粥《かゆ》に少し口をつけるだけでほとんど食べなかった。病室を訪れるといつも点滴の針のささった腕をかばうような姿勢で眠っていた。夜中は黄疸にともなう痒《かゆ》みで眠れないので、昼間、居眠りすることが多かった。
A型ウイルス性急性肝炎は経口感染が原因だが、その直接の経路は不明だった。しかしかなりの過労で身体《からだ》が疲弊していたところに病魔がつけ入ったことは確かである。私は杉本医師やシスターに問われて妻の疲労の状況を思いつくまま説明した。
引越してきたばかりで一家が新しい居住環境に慣れるのに苦労したこと。私の職業は新聞記者で生活が不規則をきわめ、家庭を顧みる暇がないこと。私たちには受験を控えた中学三年生の娘が二人いて、思春期でもあり妻はかなり神経をつかっていたこと。妻は素肌美容技術を教える職を持っていて半年前から責任ある立場につき、従来以上に多忙となり心労も多かったこと。妻は朝の家事を済ませすぐ出勤し、帰宅するとまた家事が待ち受けていること。食事が終ると皮膚生理学の勉強で睡眠時間も短かかったこと……。
婦長のシスター是枝は家庭の主婦の自立に理解を示していた。同世代の女として話もよく合うようだった。その日も無心に眠る妻を慰めるようにほつれた髪の毛をかきあげ、「奥様は私と同年齢でいらっしゃるのに、職業人、妻、母の一人三役、お偉いですね」と言って私と妻の顔を見較べた。
「私が好き勝手なことばかりして家庭を顧みないものですから」と弁解がましく言うと、いつおきたのか眼をつぶったまま妻が「このだるさと痒さは死んでしまいたいほどよ。我慢できないけど我慢せざるを得ないし、その苛々《いらいら》と痒みが一緒になってやりきれなくて、切なくて、悔しくて」と呟《つぶや》き、点滴を受けてない方の手を差しのべてきた。私が受けとろうとするのをシスターは遮って「何よ、だらしのない。いまは辛いけど、必ず治るんだから、しっかりしなきゃ駄目じゃない」と二人の手をピシャリと叩いた。そして「あら失礼。私って昔からお転婆で荒っぽくて。お二人の握手の邪魔しちゃってごめんなさい。恋をしてないから男女の感情が理解できないのかな」と舌打ちした。
そのわざとらしい仕草に、妻もいくらか気がほぐれたらしい。声色を使って「私、もう駄目なの。あなた、あとのことはくれぐれも宜《よろ》しく――などといって手を握り合ってさめざめ泣いたりしたら、とんだお涙頂戴《ちようだい》の愛妻物語になるところだったわ」
平日の面会時間は午後二時〜四時、夕方七時〜八時の間に限られていたが、日曜祭日は午前も十時から十二時まで許された。朝の病室は柔らかい陽光が部屋中に満ちて明るく、妻は見舞いの花々に飾られて眠っていた。シスターが唇を指で封じて目くばせした。
私は妻のベッドの向いの深川さんに誘われてベランダに出た。そこには同室の患者の中村さんやシスター朝間もいて雑談していた。二階に出ることが患者たちの運動だった。
深川さんは七十歳を過ぎていたが、男まさりの元気なお婆さん。「厚子さん、厚子さん」といって妻を娘か嫁のように可愛がった。もう下痢もおさまって退院間近かだった。六十歳半ばの中村さんは糖尿を患い何度目かの入院で、病院のことはよく知っていて妻にあれこれアドバイスしてくれた。胃潰瘍《いかいよう》のシスター朝間は荻窪の教会の修道女で、五十歳を過ぎていたが、まだ三十代にしか見えなかった。どの修道女も若く美しく見えるのは、独身のせいか、その汚れない精神の故か、それとも純白のベールの効果か。もっともシスター朝間は病室では寝巻を着ていて頭髪はネットでまとめていた。彼女も退院間近かでもう自由に散歩ができる。
深川さんが入院してきたときは、皆が驚いた。彼女にはフランス人の修道女が付き添っていて、二人はフランス語でしゃべっていた。そこに聖母病院のイタリア人のシスターが見舞いにやってきた。イタリア人のシスターはフランス人のシスターと友人らしい。すると深川さんは今度はイタリア語で話しだした。深川さんは元外交官の娘で日銀マンの未亡人。海外生活が長かったが、今ではお屋敷でただ一人老後の生活を送っている。カトリック信者で、近くの教会のボランティア活動を手伝い、家にいる時は、畑を耕し庭の手入れをしている。資産家らしく、入院すると早速、銀行の支店長が豪華な果物籠《かご》を届けてきた。彼女は、それを病室の患者たちに配り「あの野郎、日頃からお宅の財産管理をさせて下さい、とうるさかったけど、人が病気になった弱味につけ込んで預金欲しさに見舞いに来やがった」とののしった。彼女の使う言葉は男性の労働者のようだった。
私が妻に初めて紹介されて挨拶すると、深川さんは人の顔をじっとみてからベラベラとフランス語でまくしたてた。変ったお婆さんだとは聞いていたので、とっさに知っているフランス語の単語で取り繕い、どうにか挨拶を返した。彼女は「ボン。よろしい。合格」と言って、「あんたの亭主はいい男だね」と妻に向って肯《うなず》いた。
シスター朝間は、自分のことはあまり話さなかったが、他人の話はよく聞き、相談にも乗った。朝夕のミサではみんなのために祈った。妻から一番離れた窓際のベッドだったが、「安静度が軽いので」という理由で、夜中でも足を運んでは親切に世話をしてくれた。夜中のトイレや点滴中のトイレに付き添ってくれるのは深川さんかシスター朝間だった。
やんちゃな気質の深川さんは入院すると、同室の患者一人一人と喧嘩《けんか》か小さな言い合いをしてから、順に全員と仲良くなっていったが、シスター朝間だけは苦手の様子だった。シスターは無口で物静かに寝起きするだけだったので、喧嘩を売るタネも隙《すき》もないのである。廊下や病室ですれ違っても、まずシスター朝間の方からにこやかに会釈した。
ある日、看護婦の岡本さんが薬を配りながら深川さんに、容態に変化はないか、何か不満はないかと尋ねると、「暑くてむしゃくしゃするけど、あの原節子気どりの聖女のせいかもしれない」と小声で訴えた。岡本さんはミッキーマウスのような眼を大きく見開いて「それは、深川さんがまだシスター朝間と喧嘩してないからよ。思い切って勝負してごらんなさい」とけしかけた。
お茶目な少女の岡本さんは患者たちからマスコットのように可愛がられていたが、利発なしっかり者でもあった。深川さんが、ふてくされていると、つかつかとシスター朝間のベッドに近寄って、「深川さんが、シスターがあまりおしとやかで気に入らないんですって」と言って振り返り、深川さんの反応をみた。深川さんはあっけにとられ、口を開いて成り行きをうかがっていた。シスター朝間は「わかりました」と肯いて、ベッドにあぐらをかき、寝巻のスソを一寸《ちよつと》はしょって、「てめエ、なんか、文句あんのかよ」と啖呵《たんか》をきり、「と、いえば、気が済むのかしら」。部屋中がどっと湧《わ》いた。
深川さんは、ベソをかいて、「ごめんね。わたしって、小さいころから我儘《わがまま》に育てられて、ババアになってもその癖が抜けないの」と頭を下げた。仕掛人の岡本さんは、体をよじって笑い、よろけていくつかのベッドにすがってはまた笑い出し、「やくざの女親分同士が仁義をきったので、あとはお薬で乾杯《かんぱい》してください」とその場をしめくくった。それ以来、深川さんは二十歳も年下のシスター朝間に「シスター、シスター」と甘えるようになったのである。
最初、妻は女性六人の一〇号室から小部屋の一号室に移ることを厭《いや》がった。黄疸が激しく苦しみながらも、“六人の魔女たち”と命名した仲間たちと別れ、孤独になるのが不安だったらしい。病状が悪化すると大部屋から小部屋に移されることは誰でも知っていたので、その意味での恐怖もあったのだろう。内科病棟で死んだ人は、ほとんど全員が最後の時間を個室で送っている。
しかし、婦長のシスター是枝は、一〇号室の他の患者と妻の安静度が違いすぎるので、小部屋に移った方がよい、と主張した。私は、安静度が違うのは病状の悪化を意味するのではないか、と疑い、杉本医師に面会をもとめた。医師は、肝機能は改善しつつあるが、黄疸が治るまでには、時間がかかり、かゆみのため睡眠不足と食欲不振に陥っているので、比較的気ままに振舞える小部屋の方が良い、と説明した。
杉本医師は、先日、東京女子医大で撮ったCTスキャン(コンピュータ断層撮影装置)のフィルムの一枚一枚について丁寧に解説してくれたが、私にはよく判らなかった。CTスキャンというのは、医療不祥事件の“検査づけ”で問題になり一般にも知られるようになったが、人間の臓器を輪切りにしたようなカラーのX線スライド写真で、あらゆる角度から肝臓の断層図が撮影され、専門家が見ればどの部分がどのように悪いか、が一目で判断できるのだ、という。
それにしても、妻の黄疸と痒みに耐える様は、そばで見ていられないほどだ。表情を歪《ゆが》め、もだえるように体中を掻《か》く姿は、気の毒というより、哀れで、手のほどこしようのない歯痒さも加わり、そばにいる時は、私もだまって掻いてやる以外に致し方がない。ひととおり掻き終ると、落ち着いて「ありがとう」といって仮眠に入るが、しばらくすると、眼をつぶったまま、いつの間にか、また両手が、どこかを掻き始めている。足が痒いと「もうこの脚を切りとってしまいたい」。腕が痒いと「出刃包丁でここからちょん切ってしまいたい」などと訴える。
ある時、面会時間が終って病棟の外に出ると娘たちが抱き合って泣きじゃくっている。理由は「痒いママが可哀相」というだけである。
肝臓病の本を何冊か調べてみたが、肝炎の場合の黄疸と痒みとの関係についてはあまりふれられていない。ただ、ある一冊の本に「胆汁性肝硬変」という項目があった。中年の女性に特有のかなり珍しい病気で、胆石やガンのために肝臓から胆汁が流れにくくなり、痒みと黄疸がひどくなり、肝硬変を起すという。
杉本医師にこの話をすると、「いかにヤブ医者といえども、あらゆる検査であらゆる可能性をチェックしています」と珍しく気色ばんで言い、胆汁性肝硬変のおそれはない、と断言した。「お気の毒ながらこの痒みは黄疸がなおるまで、とれないでしょう。しかし、黄疸がおさまれば、必ず痒みがとまります。あなたの黄色い人の肝炎は、それほど劇症化していたのです」
杉本医師が「ヤブ医者」と自嘲《じちよう》的に言うのを、私はヒヤヒヤした気持で聞いていた。胆汁性肝硬変の疑いを提示して医者の診断に疑義をはさんだことよりも、二、三日前、妻が深川さんたちとの話の中で杉本医師を「ヤブ」と呼んだことがいつの間にか医師自身に伝わったことに驚いたからである。
顔を歪め、体中を掻きむしる妻に深川さんが「痒みぐらい止められない医者はヤブ医者よ」と言い、妻も「本当にあの先生、大丈夫なのかしら」と呟いて、私にも「現代医学は痒み止めの薬も開発できないのかしら」との不信を述べたことがある。そうした会話がいつの間にか看護婦を通じて、看護方針ミーティングで取り上げられ、主治医の耳にも入ったらしい――ということは後から知った。これも妻が退院してから知ったことだが、内科医師団の合同会議でも、皮膚科の医師をまじえた協議でも、やはり黄疸現象がおさまらなければ痒みも消えない、という結論だった。
最初、杉本医師は、私の肝機能を示す血液検査の数値についてはあまり詳しく説明してくれなかった。十年前米国から帰国した直後の、過度の疲労から肝炎を患った折に、何度か血液検査を受け、GOTやGPTについての一応の知識は持っていた。肝臓の細胞のこわれ具合や炎症の程度を示すトランスアミナーゼ酵素活性のGOTやGPTは、健康な人間の正常値は、〇〜四〇である。私がどうしようもない脱力感に襲われ、帰国後東大病院に通った時の数値は二〇〇近かった。数字が高ければ高いほど症状は重い。
杉本医師は、妻の数値は「かなり高い」というだけで、具体的な数値は告げなかったが、ようやく明らかにしてくれたのは、私が妻たちの“ヤブ医者”論議を耳にして胆汁性肝硬変について質したときである。黄疸の状況を示すビリルビンの正常値は、健康な人間は〇・五〜一・〇だが妻は一時二〇近くもあった。それがようやく一ケタまで下ってきてはいたが、正常値の一・〇以下に低下するまではさらに数カ月かかる。それよりも実は、GOT、GPTは入院時に一〇〇〇〇台の数値を記録し、あまりの高さに杉本医師自身が驚いてしまい、検査の間違いではないかと疑ったほどだった。一〇〇〇〇を越す数値は明らかに劇症肝炎で、死の危険がある。それが、最近になってようやく一〇〇〇台まで低下してきた。GOT、GPTなど肝機能の数値を患者に告げるかどうかは、その病状と患者の受け取り方を見極めて医者が判断するのだという。
「初めのころは本当に危なかった。私も真剣でした。もうここまでくれば大丈夫でしょう。まだ絶対安静ですが、あとは時間の問題です。ただし、その時間はかなりかかりますが」という説明に、私は安心した。妻も痒みには相変らず苦しんではいたが、気分は次第に落ち着いてきたようだ。それ以後杉本医師は回診にあらわれると「ヤブですが、何か御用はありますかな」と言うのだった。すると妻も負けずに「黄色い色がとれるまで、ヤブ発言は撤回しません」とやり返した。新しい信頼関係が生れた。
肝機能は改善を示し、黄疸指数のビリルビンも低下しはじめたが、黄色の濃度に変化は現われない。杉本医師は、蜜柑《みかん》か柿の実を手にとって眺めるかのように「ますます熟れてきたなあ。じゅうぶん熟し切ったら、ポトリと落ちるよ」とからかい、「それまで辛抱して待てないのなら、クリーニング屋に出すか、消しゴムで一所懸命に消すしかない。しかし、痒みは一緒には消せないよ」と冗談まじりで説得を試みる。苛々した妻が「いつごろ消えるのか、はっきりと時間的なメドを示して下さい」と言うと「わからない。多分我慢の限界点ギリギリで」「そんなら私、死んでしまうわ」「火葬場から黄色い煙が出ますよ」「先生の枕元に夜な夜な黄色い幽霊が現われるから」――。
やがて妻も自分の黄変した皮膚の色を素直に受け入れるようになり、見舞客に「カメレオンの変色よ」と言ったりした。わざと黄色いガウンを着、身の廻りの品も黄色をそろえ「保護色よ」とはしゃいだ。私も悪乗りして「黄色人種の典型だ。わが家のイエローペリル(黄禍)問題だ」と言い、娘たちも「沢田研二の色付きコンタクトレンズみたい」とか「仮面ライダー」とからかった。白眼の部分まで黄濁し、眼だけ見るとこの世の人間とは思われない。
妻は鏡をみて、「こう何から何まで黄色いと、すべて黄色を基準にして物を考えるようになるわ。黄色い美人も素敵でしょう」と同意を求め、私も仕方なく「うん」と答えた。そんな錯覚にとらわれたのである。
しかし、痒みの方はなかなかやまなかった。小部屋に移ったので、周囲の人に気兼ねせずに体を掻く作業ができるようになると、その分だけ気が安まるらしかったが、そのうちに異常な現象が現われてきた。相変らず食欲不振だったので体重はどんどん減り、健康時の五〇キロが三十四キロにまで減ってしまった。
妻は同世代の日本女性の中では比較的大柄で、身長も一六〇センチあったが、三十四キロまで痩せると、四肢には骨が浮き上り、皮膚がたるんできた。肌は黄色く汚れ、薬のせいか、シミやよごれが目立ち、薄いネグリジェ姿でベッドをおりると幽霊のようだった。
一日中ベッドに横になっていて運動不足なので、体全体は痩せる一方だったが、両腕だけは、寝ても起きても、体中掻きまくるので、その部分だけが自然に筋肉運動をしてしまう。点滴や僅《わず》かの食事で貯わえたエネルギーのほとんどが、両腕と両手の筋肉運動のために費消される。すると、肉体の構造が徐々に変化し、バランスがくずれだした。腕と肩の筋肉がいつの間にか発達し、それ以外の痩せて貧相な部分と対照的な体形ができ上ってきた。
掻けば掻くほど肩の筋肉が異常に盛りあがってきた。上半身の首筋から腕の付け根にかけてだけ、ボディービルで鍛えた異様な逆三角形。膂力《りよりよく》あるスーパーマンかターザンの出現である。
「おっぱいはますますペチャパイになり、脚も萎《な》えてくるけど、肩と腕だけは弓道家かボートマンのように筋肉隆々。これでは女ヘラクレスかアマゾネスね」と自嘲的に苦笑し、力こぶを入れたガッツポーズをしてみせた。
カーテンを引いて下着を取り替える時、すっかり変った体形の彼女は、上半身こそ異常に逞《たく》ましかったが、双生児姉妹を生んだあの豊かな臀部《でんぶ》は骨盤だけが突出し、落ち窪《くぼ》んだ下腹部は、毛が薄く変色し、ビュッフェの版画の裸女のようだった。妻は恥ずかしそうにシーツで体を被《おお》った。
黄疸と掻痒《そうよう》感は残っていたが、夏も終りに近づくと妻の肝機能は目に見えて回復してきた。一週間ごとの採血検査のGOT、GPT数値がそれを示していた。
ある土曜日の午後、娘たちと病室を訪れると、久し振りに元気で、冗談を言ってよく笑った。娘たちは一人が右半身、もう一人が左半身を受け持って妻の体をマッサージするように掻いてやった。「子供たちに体を掻いてもらうだけで幸わせなんだから、私の幸福の定義は極めて簡単」。足の裏を掻くとさすがに「くすぐったい」と厭がり、「頭のてっぺんまで痒くなるのに足の裏だけは痒くない。まだ全身が冒されていない証拠だわ」と新事実の発見を子供のように喜んだ。
久し振りに上機嫌な妻に娘たちもすっかり嬉しそうで、四時の面会終了時間がかなり過ぎるまで親子三人でじゃれ合っていた。
家に帰って子供たちがおやつを食べ、私は冷蔵庫から缶ビールを出して一口飲んだ時だった。電話が鳴った。婦長のシスター是枝の声だった。
「奥様の様子がちょっとおかしいんです。応急措置をしていますが、急いで来て下さい」「おかしいって、まさか」「御説明はのちほど、とにかく至急お出で下さい」「大丈夫なのでしょう?」「大丈夫だと思いますが、奥様も御主人をお呼びになっていますので」いつも冷静なシスターの声が乱れている。
電話を切ってビールを飲み乾した。冷い液体が食道から胃の腑《ふ》におちてしみる間、「あわてない。あわてない」と自分に言い聞かせたが、唐突なことで事態が理解できない。ついさきほどまであんなに陽気で元気そうだった妻の容態が急変したとは、信じられない。自分が動揺しているのが判ったが、とにかく病院に駆けつけることだ。
「陽子、優子」と子供たちに話しかけた。「ママの様子が少しおかしいというから、もう一度病院に行ってみる。おかしいといっても死ぬようなことはないのだから安心して。病院から必ず電話するけど、遅くなったら二人で御飯を食べていなさい」「死ぬわけじゃないって、でもそんなに悪いの?」一人がきいた。「大丈夫、大丈夫、絶対に死ぬわけはない。大丈夫」
タクシーの中でも、運転手席に両手でぶらさがるようにして体を落ち着かせ「大丈夫、大丈夫、大丈夫」と呪文《じゆもん》を唱え続けた。何かをしゃべっていないと不吉な想像が横切るので、病院に着くまでの間「大丈夫、大丈夫」と唸《うな》っていた。妻の痩せた黄色い顔と、初めて知り合った頃の若い健康な笑顔とが交錯する。それらの顔を思い浮べること自体、不吉なことだと思い、今度は首を振って「大丈夫、大丈夫」と言い続けた。
一号室の入口には看護婦が溢《あふ》れていた。当直の医師が注射をしていた。妻は酸素吸入のチューブの間から私を認めた。私が手をあげると眼で合図したようだった。
シスターが目配せして廊下の外に誘った。「原因はまだ正確にはわかりませんが、抗生物質ショックだと思います。いつもの二種類の抗生物質で、いつもと同じ量ですので、なぜ今日に限ってショックが起きたのか判りません。最初は一時、危い状態でした。奥様も御主人に会いたいと言われましたので私の判断でお電話を差し上げましたが、もう危険は遠のいたと思います」
私が黙って頭を下げて病室に戻ろうとすると、「奥さまはショックが起きてから、終始しっかりしていらっしゃいました。いまも意識ははっきりしています。二、三時間もすればショック症状は完全に治まると思いますが、念のため今夜はお泊りになって下さい」と言った。
妻の顔面は、黄濁した素肌に赤紫の縞《しま》模様が斑《まだら》に走っていて迷彩のようだった。手から腕、胸にかけてその模様が広がり、赤斑部分は熱をもったように盛りあがっていた。鼻孔の酸素吸入パイプは静かに空気を送っていたが、口から間欠的に吐く息は荒く、臨終の人のようだった。
看護婦が点滴の注射針を腕にさそうとすると、妻ははっきり「いや」と拒絶した。医者が「これは抗生物質ではありません。ただのリンゲルです。体液を洗うのです」と説明しても首を横に振った。私が「いいから先生、やって下さい」と言うと妻もあきらめたようだった。血圧が何度も測られた。「よし、だいぶ上ってきた」と医者は言い、時々覗《のぞ》きにくることを約束して去っていった。
しばらくすると、ベッドの横のカテーテル(排尿導管)から赤褐色の液体が流れ出し、尿がビニール袋に少しずつたまり出した。「リンゲルが、悪い体液を洗い出しているのです」とシスターが言った。
妻は時々痙攣《けいれん》した。二人の看護婦が手足をマッサージしはじめた。さきほどの面会時間には双子の娘たちが手足を掻いていたのだが、今度は看護婦たちが交代で赤紫の斑模様を押し出すようにしてさすっている。シスターも私も交代でマッサージした。
妻の肌の縞模様は、次第に後退していった。約二時間後には潮が引くように消え去り、元通りの黄一色に戻った。いまの彼女には、黄色が健康色であった。赤紫斑点の消えていく過程は、スローモーションのカラー映画で化学反応の実験を観察しているようだった。妻は、軽いいびきをかいて眠り出した。カテーテルの管を伝って尿がビニール袋におちていく音が、静かな病室に聞えていた。
私が疲れた筋肉をほぐそうとして廊下に出ると、一〇号室のシスター朝間と深川さんが、少し離れた第一処置室の前に立っていた。二人ともロザリオを手にしていた。深川さんが「奥さん大丈夫なんだろ? 助かったんだろ」とせき込んできいた。「お蔭様で助かりました」「よかった」「よかった」。二人は顔を見合わせてから、少女のように肩を抱き合った。看護婦の田代さんと佐藤さんがナース・ステーションから出てきて「さあさ、皆さん寝ましょうね」と二人の患者をうながした。
一〇号室の女性患者たちは、深川さんが廊下で耳にした情報で、妻の急変を知ったそうだ。シスター朝間は、外出用の黒いベールを被《かぶ》り聖職衣を着て聖堂に行って祈った。深川さんと中村さんもついていき聖堂に籠《こも》った三人は、妻の回復を神に祈ってくれたのである。
妻は一命をとりとめた。酸素吸入器をつけたままぐっすり寝入ると、シスター是枝が事態の経過を説明してくれた。
点滴液に二種類の抗生物質を混入する前、いつものようにアレルギーテストを行ない、拒否反応など問題がないことを確かめてから、当直医が注射したが、点滴をはじめて三十分後に発作が起きた。異常に気付いたのは妻自身だった。彼女はブザーを鳴らして看護婦を呼んだが、土曜の夜の準夜当番は二人とも他の病室に入っていて、ナース・ステーションの赤ランプの点滅に気づいたのは暫《しばら》くしてからだった。
妻は自分で点滴のスイッチを切り、薬液の注入を止めた。看護婦が駆けつけた時、彼女は息を吸い込むことができず、全身を震わせていた。「先生を呼んで!」。看護婦が事態を把握しかねて戸惑っていると「あなた、早く先生を呼びなさい」と命令した。当直医がくるまでの間、看護婦が血圧を測り出すと「そんなこと後からにして、早く酸素。息がつまりそう」
妻は、痛みが全身を駆けめぐる中で意識ははっきりしていた。後になってからも出来事の発端から終りまですべて鮮明に覚えていた。点滴をはじめて暫くすると、冷凍室に入った時のように、急激に悪寒が体を襲い、体中が冷水を浴びたような寒気がし、震えの発作が起った。それは約三十秒おきに寒波のように何度も襲来し、そのたびに体が震えに翻弄《ほんろう》された。やがて手足の爪から針を突き刺されたような激痛がはじまり、四肢から体の中央部につき進んできて、胸を槍のように突き上げ、心臓が停るかと思われた。点滴のスイッチをオフにしたのはその時だった。
「おかしい、おかしい、と思いながら本能的に点滴のスイッチを切り、それからブザーを押した」と妻は後から語った。看護婦の名を呼んだが、夢の中の叫びのように声にはならなかった。顔、胸、腹、手足、に手裏剣がブスブスと刺さったような痛みのあと、悪寒と呼吸困難が交互にやってきた。
看護婦たちが駆けつけ、シスターと担当医が呼ばれた。シスターは、妻が「私は、いまは、死ねないんだから、お願い、今は死ねない」と叫ぶのを聞いた。「しっかりしてちょうだい」と声をかけると妻は肯《うなず》いた。医者が応急処置をする間、酸素吸入器がとりつけられるまで「いまは死ねないから」と言い続け、「主人を呼んで」と何度も頼んでいた。
「奥様は、自分で自分の命を救ったのです。あの時スイッチをオフにするのがもう五分遅ければ取り返しがつかなかったかもしれません。危険状態の中であんなにはっきりと自分を見詰めて冷静に行動した患者さんを見たのは初めてです。私はあなたの黄色い人のことを一生忘れません」とシスター是枝は言った。
その夜、私は妻のベッドの脇に長椅子を入れて仮眠をとった。一時間ごとに深夜勤の田代さんと佐藤さんが見廻りにきて尿の始末や酸素吸入器の調節をしていった。シスター是枝も時どき顔を出した。
私は一〇号室の妻の病友、シスター朝間や深川さんたちが聖堂で祈ってくれたことに感激して、夜が明けたら私も聖堂に感謝の祈りを捧げに行こうと思っていたが、翌朝にはその決心をすっかり忘れていた。朝早くいったん家に戻ると、双生児姉妹は着替えもせずにリビングルームで折り重なるようにして眠っていた。私は、家に電話を入れることも忘れていたのである。
下落合風景
一日二十四時間はどこにいても変りない筈《はず》だが、病院の一日は外の世界とは違って、ある日は十時間しかなかったり、別の日は三十時間もあったりして戸惑う。
時間の過不足感は、生活のリズムの違いからくるのかもしれない。午後四時十五分になると配膳車が、夕食のメニューの匂いを病棟中に漂わせながら廊下を通っていく。患者たちは、一日で最も楽しいひとときへの期待で幸わせな気分になる。しかし、食べ終るとその日の楽しみがすべて終了することも知っているので、同時に物悲しい気持にも襲われ、たった一回の食事で、悲喜両面の複雑な心理状態を味わう。
食事が唯一の楽しみである患者は、おかずの一箸《はし》、一箸を噛《か》みしめながら時間をかけて反芻《はんすう》するが、三十分もあれば見事に平らげてしまう。食欲のない患者にはその快楽がなく、病いの苦痛だけが残るので、傍《はた》で見ていても気の毒に映る。実際、不幸な顔付きをしている。
午後五時には薬が配られ、また食後の安静時間が始まる。七時から八時までが夜の面会時間。九時には消燈。それで一日の病棟日課が終る。外界の生活より二、三時間テンポが早い。
私たち新聞記者が取材を終えて記者クラブに戻ってくるのは六時ごろ。それから原稿を書き出して本社への送稿完了が早ければ七時。たいていは八時ごろ。何もなければ、明日以降の打ち合わせや連絡のため本社の編集局に上るか、夜の巷《ちまた》へくり出す。結局、何があっても無くても帰宅はどうしても真夜中になる。夕食と晩酌と会合の区別はつかず、食事らしい食事はしていないことが多い。仕事をしていても酒を飲んでいても、時間に追いかけられ、その時間はまたたく間に経過し、気がつくと午前零時を廻っている。
ところが病棟では、五時には夕食が終り、六人の患者が一斉にベッドに横になる。小型テレビを見たり、ラジオを聞くものもいるがイヤホーンなので、音がない。沈思黙考の座禅のように見える。座禅は文字通り静坐して精神を集中し、無念無想に耽《ふけ》る悟りを求める修行だが、ここでは静坐が仰臥《ぎようが》や横臥の形をとる。みな、それぞれの悟りを求めていることに変りない。
夕食の三十分間に、太陽は聖堂の屋根から柿の枝のシルエットを一度浮き彫りにしてから沈んだ。と、窓の外はステンドグラスのほの明りだけを残して冬の暗闇《くらやみ》が支配する。向いのベッドのC号小川さんが窓のカーテンを閉めた。
病棟を照らすのは天井中央の蛍光燈だけだが、各ベッドには夜間燈がついているので、患者たちは一時間も経つと、それぞれ本を読み出したり、手紙を書いたり。私は杉本医師の「肝炎は食後二時間あおむけに寝ることが肝心」という言葉を忠実に守って、無言の修行を続けた。
この時間は、記者クラブにいれば一本二百円也のビールを飲みながら原稿を書きなぐっている頃だ。本社との連絡の直通電話が鳴り、原稿を集めにくるヘルメット姿のオートバイ少年たちが出入りする。締め切り間際のあわただしさと、仕事が終りに近づく浮き浮きした雰囲気が煙草の煙と混って、独特の空気と活気が満ちている。
しかし、ここ新宿・落合の聖母病院の敷地は、丘陵の下方、下落合駅の方角から木立を縫って駆け上ってくる風が、笛の音のように尾を引いて悲痛なメロディーを奏で、静寂をきわだたせている。遠くに響く電車や車の音がその笛の伴奏で、時どき海鳴りのように高まる。
こうした静けさの中に身を置くのは、何年振りのことだろう。気持は落ち着くが、これから毎日、この淋しい気持を味わうのは怖《おそ》ろしい気もする。
廊下が賑《にぎ》やかになり、足音が行き交うのは面会時間が始まったからだ。夜の面会は七時から八時まで。隣りのベッドの鈴木さんは奥さんと小学生の長男と連れ立って面会所へ。A号の清水さんとC号の小川さんは廊下の喫煙所へ。
B号の山内さんとF号の竹内さんは、戦争中の苦労話をしているらしい。山内さんは青年時代からのクリスチャン。福島である神父に会って感銘を受け、プロテスタントからカトリックに宗旨を変えた、という。その神父がいかに素晴らしい人間だったか、というエピソードを一つ一つ紹介している。竹内さんは「ほう、ほう」と相槌《あいづち》を打つが、聞いているのかどうかは、寝たままの私にはわからない。
そのうちに竹内さんが話の主導権を握り、東京が何度か空襲を受けるたびに、この落合付近にも焼夷弾《しよういだん》が落されたが、聖母病院だけはいつも攻撃目標からはずされた。B29が落下傘で食料や医療品を聖母病院の構内に落していく。ベール姿のシスターたちが白いパラシュートを追い駆けていく姿、近所の人たちが米軍の食料や医療品を求めて病院に行列をつくった――などの話をした。「戦前から国際病院で、外人の患者も随分いたから、聖母病院のこの緑の囲いの中はいつの時代でも租界のような聖域だったのです」。今度は山内さんが「ほう、ほう」と相槌を打つ番だった。
私も興味深く竹内さんの話を聞いていたが、人影を感じて眼をあけると妻がいた。二人の娘を従えている。「入院初日だから一応ご挨拶を兼ねて様子を見に」とわざわざ断ったのは、面会に来る必要はない、と今朝私が言い渡したことを覚えていたからだろう。
それでも聖母病院の患者としては彼女の方が先輩格。彼女が話してくれた病院案内には、役立ちそうなことが多かった。
――内科病棟のトイレがふさがっている時には、玄関脇に一カ所、内科外来の奥にもう一カ所あり、それでもふさがっている時には階段を登って二階から四階までのトイレを利用できるが、三階は産婦人科病棟なので男子禁制。
――二階は外人または個室患者専用の高額入院者病棟だが、空いている時はシャワーにも入れる。談話室が一種の図書館になっていて、英仏独各国語の本や雑誌がそろえてあり静かな逃避場所として利用可能。
――四階の外科病棟手術室のロビーからは晴れた朝、晩に素晴らしい富士山の姿が望める。しかし、屋上に出ると自殺志願者と間違われるおそれがある。
――地下一階は夜は迷路のようになっており、廊下を曲り間違えるとモルグ(死体安置所)や霊安室に行きついてしまい、出口を見失う場合がある。
――修道院の裏庭は恰好《かつこう》な散歩道だが、付属建物はシスターたちの寄宿舎、その奥のマンション風のビルは看護婦の「アスンタ」寮(今世紀初頭、中国で殉死した聖女アスンタの名にちなんだ)、さらにその奥の別棟は女子老人ホームなので、“女の園”を好奇心にかられてさまようと痴漢と間違われる――等々の要注意事項だ。
妻や娘たちとナース・ステーション脇のソファーで話をしていると、外国人の神父とシスターが病棟に入ってきた。夜の巡回挨拶らしい。妻が私を紹介した。
「オオ、オクサントオナジビョーキデニューイン。ナカガイイデスネ。カンゾーガワルイ? ソレハ、イカンゾー」と、咄嗟《とつさ》の駄《だ》洒落《じやれ》に自ら満足の顔付きで握手を求め、「チャプレン(病院付司祭)、ファーザー・ジェローム」と名乗った。
フランシスコ修道会本部から派遣され、日本に滞在し十三年になるという。赫《あか》ら顔で頭髪は薄いが、背が高くがっしりした体躯《たいく》。六十歳前後、ニュージャージー州出身。私たちも米国にいたことを知っていて、英語まじりで話をしたが、ヤンキー訛《なま》りが、そのまま陽気な気質を物語っている。
娘たちとおしゃべりしていた路川さんが、小声で「ファーザーは生臭坊主よ」と言うのが聞えたらしい。「路川サン、オバンデス。キョウハイイオバンデスガ、アナタモ、イイオバンデスネ」
長いガウンの僧衣の腰に巻きつけた紐《ひも》のこぶしを、鞭《むち》のように振って彼女の腰の付近を打ちながら「ロージンヲ、カラカウ、イケナイヒト」と言うと、路川さんも「今日はいいお晩ですが、あなたは悪いおジンです。神父さんはジンを飲みすぎてジになった悪いおジンですね」
一緒にいるシスターはイタリア人。不謹慎な連想では、ボッカチオに出てくる明けひろげの尼僧のタイプである。白いスカートのすそにもう一人人間が入りそうなほどに肥《ふと》っていて、小さな顔が対照的に可愛いい。シスター・ジョバンニはあまり日本語がしゃべれずに、日本語とフランス語が半々。
娘たちが双生児とわかると「マニフィク(素晴らしい)!」と言って、神様が、あなたたち夫婦をとくに選んで二人の女の子を一度に授けて下さったのだ。神様は、人間のために、時々、素晴らしい悪戯《いたずら》をして驚かせる。この子たちは必ず幸わせになる――といった意味のことを早口で言って、二人の頬にキスをした。「メルシ、マ・スール(有難う、シスター)」
ジェローム神父は朝夕、聖堂でのミサのあと、一階から四階まで全病棟を廻り、信者であるなしを問わず、患者たちに神の加護を祈る祝福の挨拶をおくる。早朝には食事前に、聖堂のミサに出席できない信者たちに聖体を授けてまわるが、各病棟の婦長シスターがろうそくを持って先導し、そのあとからイタリア人のシスター・ジョバンニがお伴をする。内科病棟を最後にベランダに出た三人の聖職者は、各階の窓際の患者に手を振り聖堂の扉へ吸い込まれていく。それは、病院の毎朝の光景の一つだった。
「ファーザー。ヒゲの先生に近寄ってあまり刺激しないで下さい」と岡本さんが言う意味はすぐ判った。先刻からその場に漂っていた微醺《びくん》はジェローム神父の晩酌だったらしい。道理で顔が光っており、饒舌《じようぜつ》なわけだ。「アナタモナオッタラ、マタ、ノメルデショウ。ダイジョウブ」と笑い「スコシノオサケハ、ニンゲンノキモチヲ、アタタカクスル」。私は「ドクターは禁酒を命じていますが、神様は禁じていません。どうしても欲しくなったら、真夜中にしのび込んで消毒用のアルコールを飲みますから」と痩《や》せ我慢を言った。
ジェローム神父は数年前に、この病院で胃潰瘍《いかいよう》の手術をした。二年前には痔《じ》の手術を受けた。カトリック神父には酒飲みが多い。肝硬変で禁酒を言い渡された神父が、神の意志に反するとの理屈で死ぬまで飲み続けた事例が問題にされたことがある。が、その神父は周囲の人々に愛され、尊敬された人格者だったので、是非論はうやむやになった。
ジェローム神父は胃や痔の痛さを隠していたらしいが、ついに露見して、院長のマザー・ハースの命令を受けた外科の虎田医師が有無を言わせずに手術台に乗せてしまった。
「煙草やジンを飲み過ぎたので、神様が罰をお与えになったのですよ」と岡本さんが告げ口顔で言うと「イマハ、シュノクダサルブドウシュト、パントオナジムギカラツクルビールヲ、スコシ、ノムダケデス」と真面目な表情で弁解し、私の方を向いて英語で「私たちは、なかなか誘惑には勝てない弱い人間だが、あなたは暫くの間はドクターや看護婦の言うことを聞いた方がよいだろう」と言った。
二人の娘たち――陽子と優子は妻が入院していたころは、淋し気で沈みがちだった。学校から帰るとおやつも食べずに自転車に乗って見舞いに駆けつけ、朝夕、緊張した面持ちで家事に、勉強に一所懸命だった。だが、妻が退院するとたちまち甘えて、元の我儘娘《わがままむすめ》に戻った。
妻に替って私が入院することになっても別に悲しむ様子はなく、私を病人とは思っていないようで、安心した。私自身、会社や友人の一部を除いては、詳しい事情を説明しなかったし、必要な場合でも、長期人間ドック入り、という名目で済ませていた。
病床の妻は苦し気で、黄色くやつれ、見た目にも哀れなほど痩せていたが、私の場合は、表面上は何の変哲もなかったので、健康そのものに見えたのだろう。「羨《うらや》ましいな。パパは勉強も仕事もしないでよい御身分」「食べて寝るだけ。物臭太郎は王様よりぜいたくな暮しね」。娘たちが私の病気を心配していないことは有難かった。
妻は十月に退院し、しばらく家で寝ていたが、すっかり元気になった。娘たちが学校から帰ると、夜寝るまで女同士、食べたり、おしゃべりしたり、毎日が楽しそうだった。二人とも身長が一六〇センチ近くにまでのび、妻とほとんど差がなくなった。三人はソックス、下着類、セーター、スカートなどを共用できるようになった。もっともブラジャーのサイズにはまだ違いがあった。
双生児とはいっても二卵性なので、何から何まで酷似しているわけではない。背の高さ、顔付きはもちろんのこと、性格にいたるまで、親の私たちにははっきりと見分けがつく。
戸籍上は先に生れた陽子が長女で、後からの優子が次女だが、その差はわずか十分間。妻が分娩《ぶんべん》した鶴見の産科医院は藪《やぶ》医者だったのかもしれない。腹が異常なほど大きくふくらんで、随所で胎児が動くのを「丈夫で活発な男の子」と診断していたが、生れたのは、ひよわな女の子二人だった。陽子を取り出した医者は「あれ? もう一人入っている。奥さん、もう一回頑張って下さい」。妻はその声を聞いて気を失ってしまった。
私たちは、初めての子供を男の子なら太郎、女の子なら花子、と典型的な日本人の名前を用意していたが、双子は予想もしていなかった。保育器の双生児のうち長女は弱々しく静かすぎたので、妻の姉が太陽の陽をとり陽子と命名し、次女は元気に泣き叫んだので優しい子に、と願って優子と名付けた。ヤ行のYで頭文字をそろえ、双子の共通性の意味を持たせたという。
夫婦の会話では、陽子をY1(ワイ・ワン)、優子をY2(ワイ・ツー)と呼んだ。Y1は名前通りに活発な娘になり、Y2はおとなしい子に育って、妻と私の性格をそれぞれ分かち持った。Y1は勝気で頑張り屋、Y2は穏やかでやや大人びていた。Y2は中学生になった夏に初潮をみたが、小柄なY1は遅れていた。
妻が入院していた頃、娘たちの動向を注意、監督するのが私の役目だったが、女の子の扱い方を知らずに戸惑うことが多かった。二人の部屋には入れなかったし、起居、入浴、洗濯など男の私には出る幕がなく、朝食の味噌汁作りが唯一の出番だった。
朝起きると、タイム・スイッチのお蔭でホカホカの御飯が出来上っている。昆布と削節で味噌汁のダシをとっておき、ちょうどよい頃合いを見はからい、表通りの豆腐屋で、出来立てというよりは完全に凝固する前の豆腐と、納豆を買ってくる。豊満な乳房のように揺れる豆腐を斜めに切って味噌調味。浅葱《あさつき》を散らせば出来上り。
Y1は納豆をかきまわし大根おろしを加え、Y2は漬物壺からカブとキュウリとナスの糠《ぬか》みそを取り出し、盛り合わせる。暖い湯気の中で「いただきまあーす」と食べる二人を見ていると、保護者の責任を果した気がしてしまう。朝食事が一日のうち三人が顔をそろえる唯一の機会だった。
夜は午前零時を廻って帰宅すると、テレビの前で二人とも居眠りしていたり、勉強部屋でそのままひっくり返って眠っているシーンが多かった。これがアメリカ映画であれば、一人一人にキスをして、ベッドにかかえて行くのだが、子供の寝顔を見ているうちに私も酔いと睡気《ねむけ》からその場に横になり、朝目覚めると、三人は川の字になっていたりする。我が家の“父と娘”の肌のふれ合いとはそんなものであった。
午後八時になると、岡本さんが病棟の廊下を鈴を鳴らしながら通る。面会時間終了の合図だ。妻と娘たちを玄関まで見送った。四人で話し合ったのは娘たちの進学問題だったが、子供たちの意思を尊重して都立高校受験の方針で一致した。夫婦相次ぐ入院の家計状態で、二人を一度に私立に入学させることは苦しかっただけに、娘たちも問題点をよくわきまえてくれている。「頑張ってね」「頑張るよ」「頑張ろう」「頑張るわ」
いったん玄関を出た妻が戻ってき「そのガウン姿、ヒゲの顔になかなかよく似合うわよ。マリア様の像と並んでいると神父様みたい」と言って握手を求め、娘たちの肩を両手で抱いてゲートの夜の中に消えていった。私が立っていた玄関中央には、大理石のマリア像が立っていた。
この濃いラクダ色のガウンは、その日妻が買ってきてくれた。最初、着てみたときは、試合開始前のボクシング選手のようなキザな感じで、面はゆかったが、病院の灰色の病棟を、同じような姿の患者と行き交ううちに、もうだいぶ前から着慣れているガウンのように思われた。
入院初夜はほとんど眠れなかった。
看護婦の路川さんが薬箱をもって就寝前の御用聞きに廻ってきた。下剤、睡眠薬、シップなどの注文を聞きながら、その日の自覚症状を訊《たず》ね、克明にメモする。準夜勤務の彼女はそれを深夜勤務のチームに引き継いでいく。
例えば、白血病で入院慣れしている小川さんは、淀《よど》みなく「大勢に異常なし。頭痛時どき。腰にゼラップ貼《は》って下さい」と短い。糖尿の清水さんも「夜になってまた足が痛んだら水で冷やしますので、よろしく」
脳血栓の疑いのある山内さんは、眠れないので軽い睡眠薬を希望するが、路川さんは認めない。精神安定剤でもよい、と譲歩するが、彼女は優しく首を横に振る。尿意を催すと眠れなくなる。めまいの発作が怖くてトイレには行けない――と再度訴える。路川さんは「しびんを用意しておきましょう。どうしても眠れなければその時に考えましょう。ブザーを押して下さい」と提案し、妥協が成立した。
私は食道から胃にかけての異物感と肝臓部の圧迫感、左手足のしびれを申告した。「酒を飲まないので眠れないと思う」と言うと「無理におやすみにならなくても結構です。眼をつぶって静かに休んでみて下さい。そのうち眠くなる筈《はず》です」
しかし、やはり眠れなかった。決して神経質になっているわけではなかったが、体が、不慣れな環境に戸惑い、興奮しているのだろう。出張取材で外国のホテルに泊った初めての夜はたいてい眠れなかった。酒を飲んでも寝つけなかった。オタワ、ワシントン、サンフランシスコ、チューリッヒ、マニラ、シンガポール……眠れない夜のホテルのベッドで、ブランデーをちびりちびり飲みながら資料を読んでいるうちに夜が明け、窓から見る朝の風景、それが各地の第一印象としていまでも残っている。
隣りの鈴木さんはやすらかな寝息をたてている。向いの小川さんはヘッド・ホーンで音楽を聞いているようだ。金属音のリズムが低く洩《も》れている。それが単調な子守歌になりかかったところで、救急車の音が近づいてきて、また頭が冴《さ》えてしまった。
ラジオのイヤホーンをあてるとドラマが始まった。ストーリーの流れに身をまかす。湯殿山のミイラにまつわる怨念《おんねん》のスリラーだが連続ドラマらしく、興味が高まった場面で次回のお楽しみ。FEN(米極東軍放送)にダイヤルを廻すとミステリー・シアター。エドワード・G・ロビンソンが、鈍い声で殺意を抱き合った夫婦の心理葛藤《かつとう》を朗読している。これは長時間物らしい。暫く聴いていると荒筋がわかってきたが、いつの間にか半分眠っていた。
「おーい、おーい」という叫びで眼がさめた。山内さんの寝言だった。しびんに用をたす音がした。かなり眠ったらしい。もう朝の四時ごろだろうと見当をつけて腕時計を見るとまだ十二時前だった。あんなにぐっすり眠った筈なのに。
トイレに起きると廊下の喫煙所で清水さんがうずくまる姿勢で煙草を吸いながら、両足をバケツの水にひたしている。隣りに坐った私に気づき「足の指が痛み出して」と言ったが、彼の息はかすかにアルコールの匂いがした。が、煙草の匂いに消されてよく判らない。
ナース・ステーションのドアが開いて、路川さんと岡本さんが出てきた。二人とも、白衣ではなく怪傑ゾロのような濃紺のマントをはおっていたが、頭には看護婦のキャップを被っている。濃紺のマントは聖母女子短大の制服の外套《がいとう》で、裏地が真紅、すそをひるがえして「シンデレラの時間です。さようなら」と引き揚げていった。
ちょうど準夜勤務と深夜勤務の引き継ぎが終ったところらしい。十二時で帰る“準夜”をシンデレラと呼ぶのだろう。“深夜”は工藤さんと西尾さん。二人とも看護婦の中ではシニアクラスで二十代後半の年齢である。二人とも眼鏡をかけているが、工藤さんは長身、西尾さんは小柄で肥っており、妻が入院している時「私たちはOGコンビです」と自己紹介したことがある。ジェローム神父命名の「オバン・ガールズ」の略称だが、二十代といえば、中年男にはまだ眩《まぶ》しい、若い女の子である。オバン・ガールズでは気の毒だ、何か別の芸名を考えてやろう。
工藤さんは、足の痛みを冷やしている清水さんの世話をしていたが、低い声で何か諭《さと》しているようだった。西尾さんが「眠れないならお薬あげましょうか」と私に声を掛けてくれたが、断わった。「それでは羊の数か、小豚の数でも数えてみて下さい」
私は睡眠薬を飲んだことがなかった。眠れない時はウイスキーかブランデーを飲んでいた。杉本医師は「酒も睡眠薬も肝臓にはよくありません。肝臓病との闘いは、人によっては不眠との闘いでもあります」と言っていた。妻も、黄疸《おうだん》の痒《かゆ》みからくる睡眠不足と闘った。私も睡眠不足を克服出来ない訳はあるまい。
結局、その後眠れたのは午前二時から三時までの一時間だった。「おーい、おーい」とまた山内さんが叫んだので眼がさめた。しびんの音がした。工藤さんが山内さんの血圧を測っていた。
三時以降も眠れずに起きていたのはFENのニュースで、ジョン・レノン暗殺の臨時ニュースが報ぜられ、時間が経過するにつれて、刻々と詳しい情報が伝えられたからである。窓の外は静かな冬の夜で、時々木枯しの吹く音がするだけだったが、イヤホーンの中の世界は、ビッグ・ニュースに湧《わ》きかえっていた。今ごろ、本社の外信部は外国通信社のチッカーがチンチン鳴り、特派員原稿が殺到し、夜勤担当記者はてんてこ舞いしているだろう。
ラジオは十五分置きにニュースを流し、その合い間に、ビートルズの音楽をかけ、一九六〇年代に世界の音楽と風俗に革命をもたらした意義を讃《たた》える評論家のコメントを付け加えていた。同時代人の死で、改めて年をとった自分を思い知らされたような気がした。ジョン・レノンはまだ死ぬ年ではなく、私だって、まだ若い筈なのに。
エルビス・プレスリーもビートルズも、初めはむしろ嫌いだった。世界中が熱狂し、日本人もその旋風に捲《ま》き込まれた頃、苦々しい思いで聞いていた。だが、いずれも十年ぐらい遅れてから好感を持つようになった。私は何でもかなり遅れて追認する時代感覚の鈍い男だった。
スリッパの音がベッドのカーテンのそばで止まり、人の顔が覗《のぞ》いた。看護婦ではなく清水さんだった。ウイスキーのポケット瓶を持っている。「ヒゲの先生。眠れなかったら、いっぱいやりませんか」。私は首を横に振った。「ちょっとなら平気ですよ。外出許可を貰った時に飲む量に比べれば、ほんのいっぱい。睡眠薬より効きますよ」。私がまた断わって「ジョン・レノンがさっき暗殺された。ニュースでやってますよ」と言うと「へえ、そりゃ大変」と引き退《さが》っていった。彼も私と同様ビートルズと“青春同世代人”だった。
入院後一週間もたたないうちに私は外出を許可されたので、同室の患者たちはびっくりした。入院後第一回の血液検査の結果を見て、杉本医師が「六カ月間入院できますか」と訊《き》いた時「とんでもない」と答えたが、「軽い仕事ならしても構いません。一年間以上、入院しながら大学で講義している教授もいますし、毎日数時間事務所に顔を出してちゃんと仕事をしている弁護士もいます」
「ここらでちょっとひと休み」という「兎と亀」の童謡の文句を思い出しながら、六カ月という期間を考えた。長すぎる。杉本医師が「あなたの黄色い人、奥さん――も徹底的に治療してほしい、とお望みでしたがね」というところから察すると、六カ月は、妻と話し合った結果かもしれない。だが、当面、三、四カ月を目標に様子をみる、ということで杉本医師も諒承《りようしよう》した。
検査の結果、GOT酵素は二五六、GPTが一九四だった。いずれも四〇以下が正常値で、一〇〇以上が入院加療の必要がある、という。また、アルコール性肝炎の可能性を示すガンマGTPは五五五、これも六〇以下が正常値なのでかなり高水準だが、数日後には四〇〇台に下っているので、アルコールを控えればよい。さらに、ICGという慢性化の度合を示す数値は一七・〇。一〇以下が正常なので明らかに慢性化の兆候が出ている。
杉本医師は、患者によっては、GOT、GPTなど肝機能数値の動向を一喜一憂し、それが症状に微妙な心理的影響を与えるおそれがあるが、私にはすべてを公開するので、自己管理するように、と言い渡し、「その代わり」と飲酒断念を要求した。「ビール一本、酒一合なら構わないでしょう。しかし一本でやめられますか。やめられないなら、最初からオール・オア・ナッシングで方針を決めることです」
私は結果的に嘘《うそ》をつくのが厭《いや》なので、絶対禁酒は約束できないと言い、「極力節酒に努める」という表現ではどうか、と提案すると、苦笑して「いまは国会答弁で済むでしょうが、いずれ真剣な決断を迫られますよ」と、鋭い眼で私の顔を見つめた。
治療方針は、点滴をせず、服薬と食後安静を中心とすることが決められた。毎食後、二種類の肝臓用剤、ビタミン剤、消化剤を飲み、二時間仰臥の姿勢で安静にする。その他の時間は自由で、読書、執筆も可。食事は脂肪肝をできるだけ早期に治すため脂肪を少なめにし、蛋白質《たんぱくしつ》を重視した肝2のメニューを続けることになったが、カロリーは一日一七〇〇と制限された。また一週間に一度、外出ないし外泊が許された。
週に一度の外出許可は有難かった。私は、会社の定期刊行物のコラムを週に二回担当していたし、そのほか、週刊誌と月刊誌にもコラムを持っていた。そのための取材もしなければならないし、勉強会の類の会合も多かった。
杉本医師は長期治療には忍耐が必要だが、重症患者のように拘禁すると精神的に参るので、息抜きが必要、と説明した。だが、私が命令通りに節制した生活を送るかどうか、時々、野放しにして行動を観察してみよう、との魂胆があったのではないか。
最初の外出は、私にとっても実験的な意味を持っていたので楽なスケジュールを組み、日帰り、とした。その日の用事は会社に寄って、書き溜《た》めた定期コラムの原稿数本を提出し、ある英文雑誌の企画会議に出席するだけである。残った時間は、聖母病院の裏手にある画家佐伯祐三のアトリエが保存されている佐伯公園を訪ね、名画「下落合風景」の跡を歩き廻る美術散歩にあてようと考えていた。
外出には外出許可書に主治医と婦長シスターのサインを貰い、そのコピーを門限までにナース・ステーションに提示することになっている。時間は午前十一時から午後八時までを申告し、目的欄に「会議出席等」と記すと、難なくサインが貰えた。
編集会議は、いつもの幕の内弁当のほかにうなぎの蒲焼《かばやき》が出、ビールまでついた豪華な昼食会だった。本年最後の編集会議なので忘年会を兼ねているらしい。
この雑誌「エコノミック・アイ」は、日本の主要雑誌に載った経済関係の論文や記事を英文に翻訳して海外に紹介する季刊誌で、編集企画会議では、推薦論文の内容について討議し、選択する。すでに、先月の会議で来春用の原稿は内定していたので、その日は雑談に終始した。編集委員の経済学者やエコノミストたちも冬休み気分で、ビールをくみかわしている。
私は弁当のおかずに箸をつけたが、うなぎの蒲焼は重箱の蓋《ふた》をし、すでに食べ終ったかのようにテーブルの中央の方に押し出しておいた。だが、食欲をそそる甘いタレの匂いが漂い、その中で食物にいやしくこだわっている自分と闘いながら、会話についていくのが苦痛だった。
次に困ったのはビールのグラスだった。最初の乾杯の際、泡の部分だけをぐいと飲んだ。喉《のど》から食道にビールが流れていき、ほろ苦い味が鼻まで戻ってくると、思わず溜息が出た。喉が鳴った。横にいた大手商社の調査部長が注いでくれようとしたので、その手から瓶を奪って「いや、まあ、どうぞ」とごまかして、周囲の人に順に注いだ。だが、いきがかりのような感じで、最後に自分のグラスにも注ぎ足していた。そのままグラスには手を伸ばさない積りでいたが、ふと気づくと、いつの間にか飲み乾している。やはり、うまかった。私がうまいと感じるよりは、喉の奥にもう一枚の舌があって、その舌が舌なめずりしているのである。
私は、「所用がありますので途中ですが失礼します」と立ち上り、編集長に会釈をして部屋を出た。
機械的に地下鉄を乗り継いで、家の近くの東西線落合駅に浮上すると、師走の町はあわただしく、車も人も浮き足だっているようだ。駐車場の中で焚火《たきび》をしながら、工員風の男たちが一升瓶から茶碗に冷酒を注いで飲み、火であぶったするめを齧《かじ》っている。
近所の鮨屋《すしや》の親爺《おやじ》が「旦那、お久し振り!」と声を掛けた。妻が入院していた時、この鮨屋で、ゲソや小ハダで一杯やりながら、病院に差し入れする卵焼きが焼けるのを待っていたものだ。鮨屋の酸っぱい匂いを払いのけるように小走りで家に戻り、薬を飲んで横になった。妻は会社へ、子供たちは学校へ行って誰もいない。いつもは狭い家の中だが、一人で寝るといやに広く感じられた。
佐伯祐三と中村彝《つね》の画集を眺めているうちにまどろみ、眼が覚めると四時近くだった。画集を持ったまま病院の裏の佐伯祐三のアトリエ跡を訪ねた。
大正から昭和にかけて、彗星《すいせい》のように登場し夭折《ようせつ》したその画家の作品群を直かに鑑賞したのは、落合に引越してくる前の年だった。東京国立近代美術館で開かれた没後五十年記念の「佐伯祐三展」の機会である。ちょうど絵に関心を持ちはじめた陽子と優子は、尨大《ぼうだい》な作品群一枚一枚を丁寧に見ていったので、私と妻はその間、二度見直した。
パリの街角、アパルトマンの扉、広告塔、郊外の教会、シャトーなどフランス時代の作品が多かったが、東京郊外の風景を描いた中に数点の「下落合風景」があった。落合への引越しには、あの風景にめぐり合えるかもしれない、との期待があったと思う。
その画家のアトリエが聖母病院の裏手の路地に新宿区立公園として保存されていることを知ったのは、入院してからである。ベッドで画集を見ていた私に看護婦の西尾さんが、外出が許されたら散歩の途中に訪ねてみたらどうか、と道順を教えてくれた。
画集には二枚の「下落合風景」が収められていた。その一枚は、電柱のある道の風景で、目白通りから聖母病院にいたる住宅地のたたずまいのようだった。
もう一枚は、なだらかな、陽の当る坂道を一人の男が登ってくる。坂の曲り角に電柱が一本立っている。坂は切り通しのような土手を左に傾斜して下っていく。左手の竹垣の屋敷にはこんもりと木が繁っているが、道の右側の土手からは緑の丘陵が広がっていて、その丘は段々畑の感じの勾配《こうばい》で下っている。いまの聖母病院の丘に似ている。
遠景は果樹園や田畑で、人家の屋根が点在しているが、丘陵の麓《ふもと》は谷あいになっている様子。その辺は、妙正寺川が神田川に落ち合っている落合に違いない。空は全体が曇っているようだが、横に青空の筋が二本流れている。その下の青と緑と茶が混っているあたりが、私の住んでいる上落合付近だろう。
この絵は、明らかにいまの聖母病院の場所から、西武新宿線下落合駅や小滝橋方面を見おろして描いた絵だ。
西尾さんの解説によると、カトリックの「マリアの宣教者フランシスコ修道会」が九州から関西へ布教を広げ、東京に出てきて、豊多摩郡落合町大字下落合のいまの場所に聖母病院を建てたのが昭和四年。佐伯祐三が「下落合風景」の連作を描いたのは大正十五年。したがって、もちろんこの絵には、病院は描かれていない。佐伯祐三は昭和三年パリ郊外の精神病院で死んだ。その翌年、残されたアトリエの隣接地に聖母病院が発足したのだった。
回診の際、サイド・テーブルの画集を見たのだろうか、ある日杉本医師が中村彝の画集、評伝、画家本人の著書『芸術の無限感』などを抱えてきて「退屈しのぎにどうぞ」と貸してくれた。妻が世話になったころからの知り合いだが、妙な医者である。私も妻も、無口で偏屈ながらユーモアを解するこの医者が好きだったが、医者の方も、患者の病気の診察だけではなく、人間としての患者に関心を持って観察しているらしい。
杉本医師が、中村彝に関する本を貸してくれたのは本人も絵が好きだったからだけではなく、彼の父親が中村彝に私淑した画家、という因縁からだった。「佐伯祐三の時代にこの病院の近くに住んでいたもう一人の画家を紹介しましょう。聖母病院をはさんで二人の天才画家が住んでいたことは興味ある事実でしょう?」
中村彝の絵は「エロシェンコ氏の像」を国立近代美術館で見たことがある。また、NHKの日曜美術館で、その生涯と画業を紹介していたが、その番組のゲスト解説者が杉本医師の父である画伯だった。杉本医師自身、西尾さんの表現によれば「医者というよりは、芸術家でスポーツマン」。絵を描きホルンを吹き、奥さんは手芸家で長男はギタリスト。「あの先生、冬は休診が多いけど、全日本スキー指導者連盟副会長だからなの。スキーとウイスキーが大好きな遊び人よ」
中村彝は肺結核に侵され、いまの聖母病院の向いの聖母女子短大裏のアトリエで療養しながら、画作に励んでいた。佐伯祐三より古くから落合村に移り住み、同じく近くにアトリエを構えていた曾宮一念や鶴田吾郎らとともに、新宿落合村グループの逸材として注目されていた。杉本画伯の著書『中村彝の周辺』には、そうしたありし日の画家たちの思い出が回想されている。
落合の青年画家たちは、新宿でパン屋「中村屋」を営む相馬黒光女史のサロンに集まり芸術論を闘わし、切磋琢磨《せつさたくま》していた。中村彝は、黒光女史の長女俊子と熱烈な恋愛関係にあったが、黒光の嫉妬《しつと》で別離を余儀なくされ、懊悩《おうのう》の中で病状が悪化していった。その黒光は、中村屋のアトリエで次々に近代彫刻の傑作を生んだ碌山・荻原守衛の求愛をもてあそぶかのように曖昧《あいまい》な態度をとり、この天才彫刻家も恋と芸術に胸を焦し死ぬ。
中村屋の美人パトロンのサロンに集まった昭和初期の芸術家群像は、それぞれドラマチックな芸術と生活を追い求めるあまり、短い時間で青春を燃焼させてしまった。佐伯祐三三十歳、荻原守衛三十一歳、中村彝三十八歳、岸田劉生三十九歳。私に画才があれば、この療養の機会に病窓から見える聖堂と修道院のある庭をスケッチするのだが――。
中村彝のアトリエはもう跡形もないが、佐伯祐三のアトリエと居所は「佐伯公園」の形で保存、管理されている。しかし、冬の日の夕暮れ間近かに訪れる人は一人、二人。
採光に工夫を凝らした吹き抜けの屋根の高い西洋館風アトリエを見ていると、狂気のように描きとばしていく画家が目に浮かぶ。一日に何枚も写生してきては、アトリエに籠《こも》って仕上げに専念したらしい。「下落合風景」「新宿駅操車場」「月島滞船」など名画の連作がこのアトリエから生れた。
新婚早々、落合村にアトリエを建てた佐伯祐三は、足の悪い夫人が目白駅からアトリエまで人力車で帰宅する時、それを追いかけるように絵具箱をかかえて走り、その光景は何度も繰り返され、近所の人たちは立ち止って見ていた、という。そのころ、別のアトリエでは、外気に触れることを禁じられた中村彝が、ガラス窓からの光を鏡にうつして、骸骨《がいこつ》のように痩《や》せていく自画像のスケッチをしている。
庭は落ち着いた広がりをもち、木犀《もくせい》科、椿《つばき》科、椰子《やし》科などの木々が茂り、いちょうの幹はかなり古く、肌はひんやりと乾いている。庭のベンチに坐って見上げると、聖母病院の赤い煉瓦《れんが》の建物が、目の前にそびえていた。
公園を出るのを合図のように夕暮れが訪れた。空腹を感じた。病院では夕食が終り、安静時間の時刻である。妻も娘たちも帰宅は七時過ぎだろう。折角の外出だ。何かうまい物を食べていこう、と考えた。鶏肉なら食餌《しよくじ》制限に触れないし、栄養士御推薦の上質蛋白質、そうだ、焼鳥がいい。ネギ、シシトウ、シイタケ……と野菜も豊富でバランスがとれている。
いったん戻って家の近くの焼鳥屋に入った。「あれ? いまごろ」と早い来客に亭主が驚いている。この店は「トリ」の看板を掲げ、焼鳥を焼いてはいるが、料理は台湾料理が多い。店の主人は台湾生れの日本人だが、女房が台湾人。飲み屋ではあるが、本業が売春あっせん業であることを私は知っていた。
焼鳥を注文すると「サケですか。ウイスキーですか」と訊く。彼は私の病気をまだ知らない。「最近は体調が悪いのでビールにしておこう」
亭主は胃潰瘍を患っていて酒を飲まない。台湾人の女房は夜遅くなると、二、三人の少女を連れて現われる。ある夜、目のさめるような美貌《びぼう》の少女が一度に五人も入ってきたのには吃驚《びつくり》した。彼女らは客のいない時はお互いに福建語でしゃべっていて、客とはカタコトの日本語と英語で話した。何度か会うと顔馴染《なじみ》になったが、私には商売上の関心を示さず「ヒゲ先生」と呼んで日本の生活について訊《たず》ねたり、何かと相談を持ちかけたりした。この店の人間たちと私との間にはいつの間にか一種奇妙な友情関係が生れたが、それだけだった。
電話が鳴ると女房は一人の少女に因果を含めて、表通りのタクシーをとめて送り出す。立派な身なりの紳士がキャデラックで乗りつけ、少女の品定めをして連れ去ることもあった。そうした光景を何度か目撃して、売春あっせんをしているらしいことが判ったが、亭主は何も弁解しなかったし、私も何も訊かなかった。人の良さそうな男だった。
私は焼鳥を食べながらビールを飲んだ。罪悪感が横切ったが、解放感と、通い慣れた場所に身を置いた妙な安心感があった。ビールを二本飲んで、スープに魚が浮んだ台湾料理を一皿食べた。女房が毛皮のコートを着た二人の美少女をつれて入ってきた。本業が始まるらしい。「ヒゲ先生、顔色があまり良くない」
私は勘定を払いながら、肝臓で入院中だ、と告げた。夫婦は顔を見合わせて暫《しばら》く黙っていたが、亭主の方が「ビールを飲んでしまってから告白するとはね。先生はいつも私に胃潰瘍にタバコは良くない、と説教していたじゃないか。酒、やめられないの」と言った。「やめられる。やめられる。自分を試してみたのさ」女房は奥から紙袋を持ってきて「台湾の漢方薬、よく効く」と手渡してくれた。
焼鳥屋を出ると斜向いの老女の小料理屋を覗いてみた。何となく自虐的な気分だった。客はいなかった。「お銚子《ちようし》つけますか」「いや、ビールを下さい」
この店も帰宅途中、まだ飲み足りない気分の時に立ち寄ったが、いつも客がまばらだった。たてこむのは午前二時ごろからだという。新宿のバーやキャバレーのホステスが多いらしい。十時ごろ、ジーンズの似合う背の高い西洋人の女性が現われることがある。化粧をしていない湯上りの洗い髪はブルーネットで、目はブルー。しかし、話し方は日本人で、日本酒を飲み、刺身や湯豆腐を好んだ。英国人と日本人の混血二世で、実業家の愛人であることを老女が教えてくれた。
ある夜、老女と彼女が落合界隈《かいわい》の寺社に伝わる昔話や伝説について話をしていた。途中から入って酒を飲んでいた私は聞くともなしに聞いていた。彼女は土地の故事来歴に詳しいらしく、その日は妙正寺川と神田川にまつわる情話が話題だった。妙正寺川の川上に住む若い僧侶《そうりよ》と、神田川の高田馬場近くの造酒屋の娘との悲恋物語である。
一区切り話を終えるたびに盃《さかずき》を口に運んで、ストーリーを確かめるように同意を求めると、老女が肯《うなず》いてみせる。私は黙って聞いていたが、物語の展開が面白くなると盃を置いて聞き入った。老女が、「横浜から最近引越してきた人」と私を紹介すると、今度は私の方を向いて大きな眼で、眼ばたきせず見つめながら、遠い昔からこの地に住みついている仲間同士のように、熱心に話し続けるのだった。
まったく、この落合付近は妙な町だ。目白・下落合方面は宮様、徳川家、政界実力者、財界人、文化人らの高級住宅地だが、上落合に入ると、とたんに下町臭くなってホステスや売春婦の出入りする店まである。林芙美子の時代からそうだったのだろうか。
老婆は黙々と白菜を刻んでいた。私はビールを飲みながら、佐伯祐三と中村彝の画集のページをめくっていた。そうだ、退屈しのぎに明日から病院生活を日記につけよう、と思い立った。下落合の聖母病院で見聞したことをメモするだけでも気がまぎれるだろう。大学ノートを取り出して、表紙に『下落合風景』というタイトルをつけてみた。
少量のビールで、よい気分になっていた。川をさかのぼって下落合駅までいくと、川の標識が「上落合」から「下落合」に、そして「中落合」へ、と変っていった。
夜八時、面会客が三三五五、病院のゲートを出ていく。玄関の車寄せの高いヒマラヤ杉が風にゆれて送ってくる冬の空気は冷たかったが、アルコールのせいか体は暖かった。
内科病棟の受付には看護婦の芳賀さんがいた。外出許可書のコピーを受け取って「初めての外出、疲れませんでしたか」「少々疲れたけど、大丈夫」「目が赤いけど熱があるのかしら」
小川さん、清水さん、鈴木さんの三人が廊下で煙草を吸っていて「お帰りなさい」と声をかけた。
カーテンでベッドを囲ってパジャマに着かえ、歯を磨いて横になった。山内さん、竹内さんの老人組はもう寝ている。
看護婦の芳賀さんが体温計と血圧計を持って入ってきた。計り終ると「体温、血圧ともまあ正常ですが、何となく挙動不審ですね」と笑う。「たくさん悪いことしてきました?」「あまり、していません」「あまり、ね。何本のあまり?」
その夜も熟睡したと思って眼を覚ますとまだ午前一時だった。眠れなかったので夜間燈の下に、先の『下落合風景』と題した大学ノートをひろげ、その日の出来事を思い出しながらメモしていった。
幽霊の散歩
その日、その日の生活は病棟日課どおりに繰り返され、単調だったが、それが積み重なると確実に時間は経過し、いつの間にか二カ月がたった。それでも時間が止っているかのように思われたのは、季節が真冬で、日の出と日没にはさまれた冬の太陽の運行にしたがって、病棟内の生の営みが規則正しく推移していたからに違いない。また、GOT、GPTなど肝機能を示す数値は徐々に下降しはじめていたが、顔のむくみ、食道から胃にかけての異物感、肝臓部の圧迫感、ガスのたまる膨腹感、手足の痺《しび》れなどの自覚症状に目立った変化がないことも、時の歩みの遅さを感じさせたのだろう。
GOTはピークの二五六から一〇〇前後に、GPTも一九四から一〇〇以下に低下し、慢性化の度合を示すICGも一七・〇から一三台に下った。
杉本医師は「この調子でいけば、春には退院できるかもしれませんね。品行も方正のようだし」と期待をもたせたが、「これからが正念場。その正念場が長引くかどうかは本人次第、もう少し様子を見なければ」と、慎重な態度を崩さなかった。
回診は、外来の診察の合い間をみてたいてい午前中に行なわれたが、午後になることもあった。午前中には回診がないので、その日は休診だろうとたかをくくって二階の談話室で本を読んだり、原稿を書いていると看護婦の工藤さんが「御注進、御注進」と呼びにくる。あわててベッドに戻ってパジャマの上着を脱ぎ、毛布の中、上半身裸で待っていると、病室の前で杉本医師は「きょうはあのヒゲ男は変化なし。パスしようか」と逡巡《しゆんじゆん》してから、隣りの病室に入っていく気配。談話室で読みかけのペーパーバックが気になりパジャマを着、ガウンをまとってまた病室から出ようとすると、隣りの病室から戻ってきて、「それではお脈を拝見」と診察を始める。「まったくもう、気まぐれな先生なんだから」と工藤さんは私だけに聞えるように言って、目くばせをする。
午前の回診は、外来患者を待たせているせいか、主治医は看護婦団を従えてベルトコンベアーに乗って事務的に診察していくが、午後の回診はきわめて懇切丁寧だ。だが、私のベッドではたいてい雑談に終始し、まるで茶飲み話に立ち寄った雰囲気である。工藤さんは、この奇妙な関係の医者と患者の会話を聞くのが楽しみだと言っていた。
「この前の酒、有難う。うまかった。あれは本物ですね」。私の同僚記者が北京に出張した際、同期の北京支局長から土産として貰ってきた茅台《マオタイ》酒のことである。私には無用になったので「禁酒を命じたのは先生だから責任を持って引き取って下さい」とお歳暮代わりに進呈したのだった。
「クリスマスの夜は毎年、友人同士の素人楽団が楽器と酒を持ち寄って、わが家で酔っ払い演奏会としゃれ込むのだけど、茅台を飲んで演奏したメンデルスゾーンは愉快でした」「私がイヤホーンでモーツァルトを聞きながら、『次郎長三国志』や『山本五十六』を読み耽《ふけ》るのに似てますね」。その二冊の本で私は、次郎長、五十六の二人の山本さんが生涯酒をたしなまないことを初めて知った。「お酒好きのヒゲさんに、そんな刺激的なことおっしゃっていいのですか」と、工藤さんが口をはさむと「キミだってずい分飲むじゃないか。彼にはお酒の話がお酒のようなものだよ」。
どうやら杉本医師は、内科医としてだけではなく、ケース・ワーカーまたは精神科医をも兼ねて、私を治療しようとしているらしかった。外出や外泊の翌日には「どうでしたか。久し振りの娑婆《しやば》は?」と必ず訊ねる。私も嘘はつきたくないので、例えば「基本的には品行方正で、自己採点で八二点」などというと「偉い、偉い。八〇点以上なら上出来です。外界の料理には何らかの形でアルコールが入っているものです」。
杉本医師は、よく他《ほか》の患者のエピソードを話した。先日、退院した隣室の慢性肝炎患者のロッカーの棚から、ウイスキーの小瓶が数本入った大きな紙袋が見つかった。その患者は、年末の仕事の都合でどうしても退院しなければならない、と主張して出ていった。「あの紙袋、うっかり忘れたのかな。それともわざと置いていったのかな。それによって彼が長生きするかどうかも決まるかもしれません」
杉本医師の友人の医者の場合は、自分の慢性肝炎がアルコール性になっていることに気づき、二年間禁酒した。しかし二年後にまた飲み始め、その二年後に、肝硬変で死んだ。「こんな話をすると私が説教師のように聞えるでしょうが、あなたも、例えば毎日一合でやめられるなら許可します。しかし、一合ではやめられないでしょう。それなら普段は禁酒して、何かの機会、どうしても飲みたくなった時に飲み、そしてまたしばらくやめる、という方法があります。そのいずれのやり方も出来ない場合は、致し方ありません」
週に一度主治医が大学の研究室に行く日は休診となるが、その時は他の医師が代診する。内科部長は「暫くお酒は控え目に」と言った。若い研究熱心な医師は「絶対禁酒」と簡単に宣言した。杉本医師のニュアンスは「原則禁酒」ないし「節酒」のように聞えた。相変らず意地きたない私は、それらの表現から何とかして飲酒可能の余地を見付け出し、自分の欲望に有利な解釈を引き出そうとした。さもしい根性である。
金曜日の午前は、内科部長の納賀医師を含め四人の常勤医師団による合同回診がある。主治医が担当患者の病状を説明し、主治医以外の医師が診察し、四人で討論し、最後に納賀部長がコメントする。総合診断では、私の症状はA型肝炎が半ば慢性化したタイプらしかったが、「ファッティー・リバー」とか「アルコホーリック」などの単語の囁《ささや》きが聞えたので、脂肪肝やアルコール性肝炎の疑いもあるのだろう。ニュアンスの差はあっても、四人の医師が禁酒を強く奨《すす》めていることは間違いない。
年末から年始にかけては試練の時期だった。外の世間は忘年会や新年会の季節である。この間、祝賀パーティー出席のため一度外出した。またクリスマスイブと大《おお》晦日《みそか》には外泊し、家族とともに過した。私が病気、妻も病み上り、娘たちは受験……と各人各様に問題をかかえていたので、例年の年末とはちがって、いずれもささやかな夕食だった。私はそのたびにビールを一本ずつ飲んだ。妻も娘たちも何も言わなかった。彼女たちは「パパの早期全快を祈り、乾杯!」とジュースを飲んだ。次に「ママの職場復帰を祝って乾杯!」「二人の高校合格を祈って乾杯!」。
乾杯のたびに少し後ろめたさがつきまとったが、いつものように日本酒を何合も飲むわけでもなく、ウイスキーにも手を出さない自分を賞《ほ》め讃える気持の方が強かった。
最も誘惑を感じたのは、西ドイツ大使館でのパーティーだった。前の日銀総裁の森永貞一郎氏が日独経済交流に貢献した功績で西ドイツ政府から叙勲を受けることになり、その授与式を兼ねたパーティーに招待された。華やいだ雰囲気の中で金融界首脳たちと久し振りに歓談しながら、何度か乾杯したが、私はトマトジュースを飲み、結構楽しかった。「今夜は禁酒」と心に誓っていたので、酒へのいやしい執着は最初はなかった。
それが頭を擡《もた》げてきたのは、ブッフェ・スタイルの食事に移ってから、陽気で世話好きな一等書記官が、さまざまな種類のドイツワインの講釈をはじめたころからである。あまり飲めないから、と断わり、利き酒の要領で少しずつ各種の白ワインを味わってみた。ワインについては通ではなかったが、それぞれが腹にしみわたって口腔《こうこう》に香りがひろがり、たちまち陶然となった。次いで、その一等書記官はビールのお国自慢をはじめた。
「外交官が自国製品のPRをするのは職務ですが、新聞記者にとってはワインでもビールでも取材対象でしょう?」と心憎い勧め方をする。この日は決して後悔しなかった。帰りのタクシーでは心地よく居眠りをした。しかし、翌朝トイレで尿の匂いにアルコールを感じた時には、意思薄弱の痛恨を思い知らされた。翌日の回診で、私はあまり多くをしゃべらなかった。杉本医師も無口だった。
大晦日を自宅で過し、翌一月一日の午後には病院に戻った。クリスマス、正月、誕生日など団欒《だんらん》の行事を、家族と離れ、病院のような隔離された場所で過すのは妙な気持がする。
クリスマスにはナース・ステーション前に大きなツリーが飾られた。患者一人一人にカードが配られ、おやつにはケーキが出た。看護婦の西尾さんが各病室を巡って聖書物語の紙芝居を見せ、夕方には、聖母女子短大の学生がキャンドル・サービスに訪れた。聖堂からは聖歌とオルガンの音が響き、そこにはカトリック系病院らしい季節の風物詩があった。しかし、正月には格別の行事もなかった。よほど重症の患者でない限りは、大晦日から三ガ日にかけて一家団欒のため自宅外泊が許されたので、どの病室も閑散としていた。
「病院にはいろいろな患者さんがいるので、おめでとうとは言わないことになっています」という言い方で、婦長のシスター是枝が新年の挨拶に入ってきた。「ヒゲの先生はもうすぐお誕生日だそうで、本来なら、これもおめでとうと言うべきでしょうね。今年は暦の変り目や人生の節目を病院で迎えるわけですね」「貴重な体験です」「私たち内科病棟の看護婦一同、けさの新年のミサで、みなさま方の回復をお祈りしてきました」「患者一人一人のために祈ってくださったのですか」「私って新年早々からおっちょこちょい。まるで善行を施した、と誇らし気に吹聴《ふいちよう》しているように聞えたら、ごめんなさい。修養が足りないんです」
彼女は当直医の後について、点滴注射や採血の手伝いをして廻った。「田舎に帰省する看護婦が多いので、この正月休みは私がチーフ。今年最初の新鮮な血は私が吸いとらせて頂きます。婦長の私はドラキュラーの娘たちの長女です」。そしてドラキュラーなる杉本医師は正月休みでスキーに出かけている、と言った。
「今年初めての血は心なしきれいに見えますね」とシスターは言ったが、私にはいつものトマトジュースのようにしか見えなかった。昼食には糖尿の気のある人以外にはお汁粉が出た。糖尿患者には、なます風のサラダがついた。
正月が過ぎるとすぐ私の誕生日がきて、四十四歳になってしまった。数年前から誕生日の前後には妻とともに川崎大師に詣《もう》でて、護摩を焚いてもらっていた。四十代を迎える二人は親たちの言い付けを聞き、毎年このころ厄払い祈願の参拝に出かけた。満年齢と数えの旧年齢の両方を基準に前厄、本厄、後厄と丁寧に願を掛け、厄除けの護符をもらい、翌年その札を収めるとすると、つまりは毎年通うことになる。
厄年の引越しは縁起がよい――という言い伝えと偶然の一致で二年前、落合に引越したのだったが、妻の大病に次いで私の大病。「護摩の功徳が裏目に出たのは寄進が少なかったからかしら。弘法大師は私たち善男善女を何故《な ぜ》いじめるのだろう」と妻は訝《いぶか》しがり、神仏を恨んだ。
私は別なことを考えていた。四十歳を過ぎると心身ともに変わり目にさしかかるという体験から、古人は四十二歳という死の語呂を選んで「大厄」の年齢を設定したに違いない。その昔ながらの統計実績どおり、私たちは厄災を蒙《こうむ》った。しかも私の場合は、国家がひたすらGNP成長を追い求める間、同じようにひたすら経済記事を書きなぐり、成長がストップすると、私も心身の自転車操業が続かなくなった――という解釈を下した。
少年時代の正月は貧しかったが、家中で大掃除をし、年越しソバをすすり、本物の除夜の鐘を聞き、凍てついた石段を登って元朝詣りに出かけ、初日の出を拝み、清々しい冷い朝の空気を思う存分吸い込んだものだった。日本に引き揚げる前の満蒙の町や、抑留されていた大陸国境の町の正月だって、いかにも新年らしい雰囲気と家族の団欒があった。爆竹さんざめく街をねり歩く新年の祭りの行列。竜の舞の流れの先頭に立って吹き流しをかつぎ廻り、ドラの音にあわせて踊る京劇風俗の高足踊りに、感嘆の声をあげたものだ。
だが、GNPとともにひた走る経済記者になってからの成人の正月の記憶に、懐しさはない。そのシーズンだけは異常に静まりかえった東京の町をタクシーで駆け抜けて帰宅し、神棚にとってかわったテレビジョンの前で、ただ酒を飲み、酔いつぶれている自分の姿しかなかった。
ワシントンでの特派員生活も同じだった。テレックスを打ち終り、ナショナル・プレスクラブのバーで一騒ぎするといつの間にかカレンダーは一月一日だった。「ホーレーイ! ハピー・ニューイヤー!」「チアズ」「トースト」「カンパイ」。何がいったいハッピーというのだろう。交通事故を警戒し体の一部が妙に覚めている変な心身状態でハイウェイをとばし、帰宅するとそのままリビングルームのソファーに崩れおちる。
そしていま、四十四歳の誕生日を病院のベッドで迎えている。とくに感慨は湧《わ》かなかったが、午前二時ごろ、例によって眼をさますとカレーライスの夢を見たことを思い出した。
ほかほかしたライスがこんもりと盛ってあり、牛肉の塊り、じゃがいも、にんじんなどがうまそうに顔を覗《のぞ》かせているカレーが皿の三分の一を占めている。らっきょうと福神漬が少々添えてある。ひもじかった学生時代の生協食堂のカレーライスとは比べものにならない。いまレストランでこんな豪華なカレーライスを出されても、肥り過ぎを気にするジェスチャーでライスの半分は残すのだろうが、夢の中では見事に平らげた。母の話によると、私は午前二時ごろ生れたという。正確に四十四年目の同じ時刻、病院のベッドでカレーライスの夢を見て、私は生きていることを確認している。
そういえば初夢は、ラーメンの夢だった。横浜の中華街の路地裏の小さな中華料理屋で、いとこと二人でラーメンを食べている。支那竹、チャーシュー、青い菜、葱《ねぎ》などが浮んでいる。青い菜は小松菜だろうか、それともホーレン草だろうか――と、いとこと話し合っている。「なるとがないのがよい。あれは邪道だ」と、いとこが解説し私が肯く。そんな二人を料理屋の中国人の老人が煙草を吸いながら、笑って眺めている――。
シスターにカレーライスの夢を見た、と話すと「すっかり患者さんらしくなりましたね。みなさん、よくカレーライスの夢を御覧になるんですよ。そのうち、きっとラーメンの夢を見る筈ですわ。カレーライスとラーメンは長期療養者の憧《あこが》れの食物らしい。外出許可をもらうとカレーライスとラーメンを食べようと勇んで出ていくけど、結局、食べずに帰ってきて、また同じ夢を見るんですって」。
シスターの反応には何となくがっかりし、ラーメンの夢については打ち明けなかった。
妻は土曜日の午後、一週間分の着替えを持ってきて、汚れた衣類を回収していった。「こんちは。白洋舎です」と入ってくる。子供たちは冬休みの間、受験講習会のスケジュールがびっしりで面会に来れなかったが、日曜日の午後三人そろってやってきて、ベッドの上に川崎大師のお札とお守とおみくじをひろげてみせた。「去年の護符をおさめ、護摩を焚いてもらい、新しいお札を“買ってきた”」と代参の報告をして、「このお札、壁のどこかにかけておく?」と訊《き》いてから「入口の壁の十字架と喧嘩《けんか》するからよしましょうね」と風呂敷に丁寧にしまった。
「私が選んだのよ。可愛いいでしょう」と陽子がくれたお守は、確かにアクセサリーとしては、いかすセンスだ。おみくじは優子がひいたのだという。「第三十二番。吉」
御託宣は「才幹あるもの、陰徳をなす者は何時《い つ》か顕《あら》はるるなり、正しき苦難はまた酬《むく》ゐらるべし」。〈願望〉=「焦らず時の熟するを待てば大いに叶《かな》ふべし」、〈悦び事〉=「予《かね》て思ふたるより悦事大いなり」からはじまり、〈勝負〉=「勝み多し」、〈失せ物〉=「思ひ設けぬ所より出づべし」……と、「吉」だけあって、すべてめでたい予言。最後に〈疾病〉=「長びくべししかし本復すべし」を読み終って顔を上げると、三人の女性が表情をうかがう眼で私を見ていた。「長引くけど必ず治るっていうお告げでよかったわね」。私は「こいつは、春から縁起がいいわい。どうもありがとう。南無大師遍照金剛」と唱え、敬虔《けいけん》に十字を切った。
病院生活にはすっかり慣れたが、相変らず夜は眠れなかった。いや、睡眠不足が定着したことも慣れの証左かもしれない。夜八時半すぎに看護婦の最後の御用聞きが終ると、年をとった患者たちはもう寝てしまうので、若い患者たちもベッドの囲りにカーテンをめぐらし、就寝態勢に入る。それから各人、カーテンの中の個室の生活が始まる。
消燈時間まで、私は背中の壁からのびている読書燈ランプをつけて『下落合風景』ノートに、その日の出来事や考えたことをメモする。もちろん病状も書き記す。
「お休みなさい」と準夜の看護婦、佐藤さんが天井中央の蛍光燈を消すと、毛布と布団を首まで引き上げ、ちょうどその上に長方形の移動式テーブルを持ってくる。テーブルは私の胸を歩道橋のように跨《また》いでいる。その上の本やノートの中にトランジスタ・ラジオを埋め込む。この方法を思いつくまでは、ラジオを直接胸の上に置いたり、ベッド脇のサイド・テーブルの上に置いて、イヤホーンで聞いていたが、夜中に大きな音をたてて床に落ちて割れたり、手で払いのけた拍子にカーテンの隙《す》き間から隣のベッドに飛び込んだりした。まるで心霊術の実験のように、よく飛ぶラジオだった。
九時からFENのミステリー・シアターを聞くと、ストーリーの完結する十時には眠り込んでいる。寝付きはよいのだが、十二時近くになると決まって眼をさます。そのころ準夜看護婦がシンデレラの時間の前に、その日最後の巡回にやってくる。神経過敏のせいか、私は看護婦が病室のドアを開ける音で眼をさましてしまうのだ。彼女はABC順にベッドのカーテンを開けて患者に異常がないかどうかをチェックする。懐中電燈を直接患者に向けることはしない。足元を照らして、その照りかえる明りで患者の様子をみる。私はいつも起きているが、眼をつぶっていて突然見開いたり、突然布団から手を出して合図をしてみせたりする。佐藤さんの場合は、懐中電燈を点滅させ小声で「おやすみなさい」と言う。
同じように午前二時の見廻りの時にも眼をさましてしまう。だから、佐藤さんなどは、私が一晩中寝ないのではないかと不思議がり、定期見廻り時以外に、何度か偵察のため急襲してみたそうだ。もちろん私は眠っていた。
午前二時の巡回時に眼をさますとその後は眼をつぶって努力しても、なかなか寝付けない。三時まで展転反側すると、あきらめて起き上る。
身仕度をする。必要な道具は前夜、就寝前に移動式長テーブルの上に用意してある。靴下を二枚重ねてはき、パジャマのズボンをその中にたくし込む。野球選手のストッキングか道路工事労働者の地下足袋のいでたちだ。毛糸の長い襟巻を首にぐるぐる巻きつけ、その上からガウンを着る。ポケットには百円玉をあるだけいれる。煙草、ライター、本、『下落合風景』ノート、小さなスケッチブック、原稿用紙、筆箱。鉛筆削り器も忘れない。昼間は大きなサンダルを履いているが、夜は足音のしないように布製のスリッパを履く。そして真夜中の散歩に出かける。
ナース・ステーションの前を通過する時、手を振って合図をする。二人の深夜看護婦のうちどちらかが手を振って挨拶を返せば、病棟外散歩の許可を得たことになる。忙しくない夜、彼女たちがお茶とクッキーのひとときを楽しんでいることがある。もぐもぐ動かしている口をあわてておさえ、もう一つの手で合図をしたりする。また、二人とも机の上の注射用の腕まくらに顎《あご》をのせ、両腕で頭をかかえるようにして眠っていることもある。寝顔が子供のようにあどけない。
最初のうちは、好奇心にかられて、四階外科病棟の富士山の見える手術室前のロビーをよく利用した。東京中央線沿線の夜景は新宿や池袋方面ほどけばけばしくなく、星空の下の灯りの点在がつつましく綺麗《きれい》だったし、とくに夜明けが近づくにつれ、山脈の隈《くま》が次第に輪郭を整えていく変化が面白かった。だが、緊急手術であわただしいシーンにぶつかって以来、四階への散歩はやめにした。泣き喚《わ》めく患者をタンカーベッドで運び込む看護婦、血相を変えた医師たちが、深夜、ロビーのソファーに坐り、煙草を吸って本を読んでいる私を見つけ、一瞬立ちどまった。生と死の戦場であるオペレーション・ルームの前で、のんびりと煙草をふかすことは冒涜《ぼうとく》の行為のように思われた。
地下室への散歩もやめた。第一、階段には「一般患者は御遠慮下さい」と書いてあった。妻の忠告にさからって一度散歩におりていったとき、迷路のような廊下を迷いはしなかったが、明りの洩《も》れているドアを覗くと白いシーツがこんもりとかかった遺体のベッドの脇で、二人の女性が泣きじゃくっていた。それ以来、散歩は一階だけに限ることにした。
玄関の受付にはガードマンの柴田さんか宿直の職員がいる。ガードマンは二人で交代しているが柴田さんは午後十時から午前六時までの勤務。聖母病院専属のガードマンになって五年、職員と同じように何でも知っている。彼は三時間に一度、病院内外を巡回する。
もう一人の専属夜勤は夜勤総婦長の竹田さん。小柄な六十歳前後の女性だが、かくしゃくとしていて、活発な男まさりの気性。カトリック信者だがシスターではないので、白いベールはつけず、青い線の入った普通のキャップをかぶっている。彼女は各病棟の準夜、深夜勤務の看護婦たちの総監督で、要領よく、てきぱきと指示し、宿直医と連絡をとりながら夜中、各階の要注意患者をチェックして巡る。
午前六時に勤務が終り、総婦長室から普段着に着替えて出てくる彼女は別人のようだ。キャップを脱いだ頭髪はショート・カットで、綺麗に染めている。
派手な色彩の大胆なデザインの服装で颯爽《さつそう》としていて、実際の年齢より十歳以上も若く見える。彼女が通ると、上品な香水の匂いが残る。竹田さんは戦時中、外務省嘱託の看護婦として在外公館に勤務し、終戦の時は上海の日本総領事館付きの婦長だった。堪能な英語力をかわれて聖母病院の外国人病棟の婦長をしていたこともある。話の中に英語がまじる。人柄は温厚だが仕事には厳しく、看護婦たちは「香水ライオン」と呼び、畏《おそ》れ尊敬していた。
午前三時に内科病棟を出て正面玄関ロビーに歩いていくと、入口のマリア像の前で、ガードマンの柴田さんと香水ライオン女史が話している。ちょうど二人ともその時刻に何度目かの巡回が終って落ち合うらしい。そこに私が加わって雑談するのが、習慣になってしまった。不参加の翌日には「きのうは午前三時のデートに来なかったけど、具合が悪かったの」と女史が訊く。具合の悪い筈はない、午前三時までよく眠れたからこそデートに間に合わなかったのである。
柴田さんも女史も、私を患者ではなく深夜族の仲間として扱い、何でも話をしてくれた。聖母女子短大の寮にしのび込もうとした痴漢をつかまえた手柄話や、外科病棟の窓から下の庭を見おろすと修道院庭に幽霊がみえるという噂《うわさ》を確かめにいくと、その幽霊は巡回中の香水ライオン女史だった――といったエピソードなど。
来日するローマ法王のために、聖母病院が二階外人病棟二三〇号室スイートを「ポープの部屋」として確保した、という情報を知ったのも、午前三時のデートでだった。東京都内のカトリック系国際病院といえばまずこの聖母病院。ガードマン柴田さんと夜の婦長香水ライオン女史は、もちろん法王隔離作戦「オペレーション・ポープ」の主要メンバーだった。二人の話から法王が東京に滞在している間、暗殺、急病など“万が一の事態”が勃発《ぼつぱつ》した場合は、警視庁とカリタス・ジャパン(日本カトリック医療施設協会)との極秘の打ち合わせで、法王をのせた救急車が直ちに聖母病院に急行する手筈《てはず》になっていることを知った。
法王にはカトリック圏の国を中心に内外約七百人の新聞記者が随行取材するが、法王の容態について、午前、午後、深夜の三回、医師団による記者会見が予定された。内外記者たちの待機するプレスルームと記者会見室は、聖母病院と道路をへだてた聖母女子短大の教室に設けられる。警視庁の私服刑事が病院関係者と打ち合わせて、深夜、何度かその予行演習が行なわれたらしい。
柴田さんも竹田さんも、私が新聞記者であることを知らなかったと思う。不幸にも計画の前提である“万が一の事態”が発生し、法王が聖母病院にかつぎ込まれれば、報道陣は病院構内からシャット・アウトされ、この種の事件につきものだが、遠く離れたプレスルームにとじ込められ、病院当局の定時記者会見による発表が唯一の情報源となる。全世界の記者たちは、一方的な情報に隔靴掻痒《そうよう》の悩みを味わうに違いない。
だが、私は患者である。しかも長期入院のお蔭で病院の内部はほぼ隈なく知っていて、どこでも徘徊《はいかい》できる。看護婦にも職員にも知人がいる。「ポープの部屋」が特設される二階の外人病棟の看護婦にも知り合いが多い。英語は使えるし、フランス語もまあまあ。新聞記者としてもベテランの年齢だが、患者としてもベテランだ。いざとなれば、この病院で世界的なトクダネ記事がかけるかもしれない。
二階の外人病棟の廊下で私とゆき合うと「グッド・イブニング、ブラザー」と会釈をする外人患者や看護婦すらいる。私のラクダ色のガウンはジェローム神父たちが着ているガウンに似ている。白髪や赤毛のまじるヒゲをはやし眼鏡をかけているので、日本人とははっきりわからないかもしれない。背丈だって長身の方である。どこかの教区の修道士が入院しているかもしれないのである。
いつだったか、午前二時ごろ私が玄関ロビーの待合室で本を読んでいると、外出から遅く帰ってきた若い女の子が「ブラザー、ただいま帰りました」と挨拶してから、「ブラザーですか。それともファーザーですか」と訊《たず》ねたことがあった。私が「ファーザーほど年はとっていません」と明らかに偽修道士とわかる冗談を言うと、「ブラザー、私はシスターになろうと勉強しましたが恋人が出来たのでもう終生誓願はできません」と話しはじめた。彼女は酔っていたが真剣だった。結婚したいのだ、と言った。私は彼女の相談相手になる資格はないので「素晴らしいことじゃないですか」とだけ言った。
法王入院の事態を想定することは誠に失礼ではあるが、入院した場合、新聞記者の中で私ほど間近かに情報に近づける人間はいないだろう。病状はともかく、病院内の様子を雑感風、ルポルタージュ風には書くことができる。ポープの次にはマザー・テレサが来日する。深夜の散歩の妄想にも職業意識が顔を出す。そんな不謹慎な想像に耽る自分は噂のように夢遊病者だったのかもしれない。
正面玄関、マリア像の前の三時のデートのあと、私は待合室ロビーから修道院への長い廊下を散歩する。もうすぐ三月というのにまだ外は灰色で単調な冬景色のままだった。
廊下は、正面玄関や内科病棟のある古い建物に建て増しして接続した新しい建物との境いの部分が下り坂になっていて、歩いていると自然に体がすうっと下っていく。途中聖堂につながる渡り廊下が外庭に張り出している。その石廊には屋根があるが、石柱で支えているだけなので、外に出ると、冷えきった外気が一度に襲ってきて体を締めつける。聖堂では、シスターが必ず二、三人はお祈りをしている。祈りの妨げになるので、私は中には入らず、ガラス窓からしばらく、広い聖堂の木の長椅子の行列に点在している白いベール姿を観察してから、元の廊下に引き返す。
売店の脇にはキリスト教関係を中心とした宗教書、小説、聖書などをおさめた本棚があり「お金を入れて自由にお取り下さい」との貼《は》り紙がある。賽銭箱《さいせんばこ》のような小さな穴に金をいれ、時々買い、読んでみる。フランシスコの生涯について書いた本やルルドの奇跡の少女ベルナデッタの物語などが面白かった。
散歩の習慣がついてからしばらくして、私は夢遊病者だ、という噂が立った。否定するのも面倒なので放置しておいたら、そのうちに消えた。
深夜、雪が降りはじめて、積っていく様子を眺めていると決して飽きない。風景の大ワクは変らないが、その対象がすべて白くそまっていく変化に時間を忘れてしまう。外は凍《い》てついた寒さなので雪片は地面や屋根、木々に落ちても溶けて消えず、そのまま折り重なって積っていく。朝、眼をさまし病室の窓のカーテンをあけて、眼の前に突然銀世界を発見するのは幼年時代からお馴染みの感激だが、雪がしんしんと降り積る夜の光景は、大人になってから観《み》る日本画だ。
窓の外を眺めながら体操の真似をしたりする。ベッドに寝てばかりいるとどうしても肩や背中が凝るので、散歩の途中で立ち止って運動することが習慣になってしまった。看護婦の田代さんは「夢遊病者という噂は消えましたけど、この間、二階の外人の患者が、ヒゲの先生のことを頭がおかしいのではないか、と外人のシスターに訊ねていましたよ。そうとは思わない、と返事したようですが」と教えてくれた。
私は気付かなかったが、その外人が眠れずに散歩していると、待合室の廊下にヒゲをはやした蒼《あお》い顔の男がガウン姿で立っていて、窓の外の雪景色を見ているうちにやがて、スローモーション・フィルムのように手や足を曲げて踊り出したのだ、という。「ボクは太極拳の練習をしていたんだよ」と答えておいた。
待合室の椅子に腰をかけて、遠近法の法則がくっきりとあらわれている修道院の長い廊下をスケッチすることがある。二階病棟へのぼる階段の踊り場は、一方で地下霊安室への階段にもつながっていて、夜間燈の陰影を面白く映した手すりの曲り具合が、スケッチの画題にふさわしかった。正面玄関のマリア像は、等身大に近い大きさで、ベールや襞《ひだ》のレリーフが光の明暗をくっきりとわけているので、このスケッチにとりかかると、学生時代の絵の教室の石膏像《せつこうぞう》デッサンのように難しく、時間がかかる。マリアの表情は時刻によって変って見えたりする。
自動販売機でコーヒーを買って待合室の椅子に腰をおろし、『下落合風景』を書きとめるのも日課になった。そのメモを資料にして原稿を書くこともある。入院中も一週間に二回、会社の定期刊行物のコラムを担当していたし、他に週刊誌と月刊誌のコラムを引き受けているので、執筆の仕事もなかなか忙しい。原稿は封筒に入れて切手を貼り、深夜番の看護婦が退勤する時に、投函《とうかん》を頼む。「きょうは郵便配達に御用はありません?」と訊きにくる子もいた。
大学ノート『下落合風景』は、一ページを一日分に割当て、日録風にメモするだけだ。例えば「眼科診察。美人女医。白眼の部分に細いジグザグの血管が浮ぶのが気になるので診てもらう。左右ともいまの眼鏡でOK。毛細血管があらわれたり、眼球が濁るのは年齢のせいとのこと。肝炎にかかると出血しやすくなるが、この場合は無関係らしい。四十歳すぎると、赤ちゃんのようなつぶらに澄んだ瞳《ひとみ》を期待しても無理とか。左瞼《ひだりまぶた》裏に脂肪(これも年齢と不潔のせい?)たまっているので摘出してもらう」
だが、二月末の一週間は、こうしたメモではなく、自分でつづりながらも連載小説を読むような楽しさがあった。夢遊病者は私だけではなかった。
その日も午前三時ごろ眼をさまし、まずトイレに寄ると、病棟の奥の方から、さらさらと珠数を合わせるような音が聞えてきた。その音を追っていくと廊下を曲って突き当りの一〇号女性部屋のドアの前に男の座像があった。一瞬、足が竦《すく》んだ。
そこは横のガラスの扉がベランダへの出入口になっていて、庭から聖堂へと通じている。ステンドグラスの薄明りと、冬の月の光が射し込む逆光の中に浮んだ男の背中の影は不気味だった。
私はその男を見た時、咄嗟《とつさ》に「幽霊」と呟《つぶや》いたが、気を落ち着けて観察すると、もちろん生きた人間だった。だが、丑《うし》三つ時に寝巻の肩を震わせて何ごとかを唸《うな》っている姿はオカルトの世界である。さらさらという音はやはり珠数だった。合掌の姿勢で、祈っている。
ナース・ステーションの看護婦の田代さんは「あの幽霊さん、また出ましたか」と困った顔をした。私の隣りの五号室の大野さんという患者で、この二、三日真夜中に起きて祈るのだという。「あの人こそ本物の夢遊病者だわ。何とかしなくては」田代さんは早速、夜の総婦長の竹田さんと相談したが、内科婦長のシスター是枝たちと協議して対策を考えることにし、その夜は祈るにまかせていた。
その患者は一週間前に肺炎気味の風邪で入院したが、最初、カーテンで仕切った自分のベッドに正座し、枕の上に経文をかざって祈っていたらしい。だが、同室者から安眠妨害の苦情が相次いだ。すると大野さんは「いや、あんたたちの病気も早く治るように祈って差し上げている。どうですか。ひとつ、一緒にお祈りしてみませんか。絶対に御利益があります」と逆に洗脳を試みた。しかし、最年長者の老人に「迷惑千万!」と一喝されて、しぶしぶ廊下に祈祷所《きとうじよ》を移したものらしい。
「入院して医者の科学治療を受けながら、お祈りで治そうとするなんて失礼ね。もっとも病院は信教の自由を束縛しないし、この病院だってカトリック系だから朝、晩、信者は祈っていますが、真夜中に、しかも女性部屋の入口に出没するなんて非常識よ」。前の日、一〇号室の女性患者たちから苦情が出たので田代さんは大野さんに注意したばかりだった。
女性患者たちの恐怖は想像がつく。深夜、トイレに通うためドアを開けると目の前で、寝巻姿の男性が一心不乱に何やら呪文《じゆもん》を唱えている。思わず声をあげた女性もいたとか。
次の日の昼間、私は初めて大野さんの顔を正面から見た。精神科医なら分裂症と診断しそうな形相で、きつく切れた両眼と固く結ばれた薄い唇が痙攣《けいれん》している。今度は昼の午後三時、内科病棟受付のナース・ステーション脇のソファーに草書体で書かれた経文の掛け軸を立てかけると、珠数を繰り、例の呪文を唱えている。その時間はちょうど午後の面会時間帯、しかもその場所は内科病棟の銀座通りでどうしても人目につく。
香水ライオン女史と田代さんから事情を聞いた婦長のシスター是枝は早速その日の朝、真夜中に女性部屋の前で祈ることだけはやめてほしい、と申し入れた。「私はカトリックの修道女だけど、この病院では、他の宗教の信者でも無宗教の人でも差別なく同等に扱っています。お祈りは構いませんが、時間と場所をわきまえて下さい」と丁寧に頼んだ。
この自粛要請に対し大野さんは、自分の病気は祈祷の霊顕あらたかでほぼ回復したのだから、今度は感謝の祈りを止《や》めるわけにはいかない、と言い張った。シスターは「祈祷で病気が治るのなら入院なんかする必要はない」と言いたかったが、ぐっとこらえたという。修道女が新興宗教の祈祷者とこの種の議論を始めれば宗教論争になりかねない。とにかく時間と場所を変更してほしい、と強く求めた。
結局、午前三時から二時間の祈りを十二時間ずらし昼と夜を変え、午後三時から五時までの間とし、場所も女性部屋の入口は遠慮して貰い、監視の眼の届くナース・ステーション脇、とすることで交渉は妥結した。午後三時から五時の間に決ったのは、祈りは太陽に捧げねばならず、日の出が拝めないのであれば、日没時に儀式を執り行ないたい――という大野さんの希望が容《い》れられたからである。「太陽に祈るっていったいどこの国の宗教かしら」とシスター是枝は真面目な顔付きで訊ねた。
浴衣の寝巻、素足にスリッパの装束で加持祈祷に没頭する大野さんの姿は、その後二、三日同じ場所で見られた。面会時間に病棟を訪れる患者の近親者たちは、ドアを開けた目の前に大野さんの異様な姿を見つけて一瞬立ち止まる。
担当医が、せっかく治りかけた肺炎なので、廊下で長時間坐っているのは良くない、ベッドで寝ているように、と勧告したが、シスターの許可を楯にとって動こうとしなかった。もう暫《しばら》く医師の忠告を無視し続ければ、場合によっては強制退院の事態になったかもしれない。しかし、彼の肺炎は治ったのである。
退院の日、大野さんは担当医やシスターたちに深々と頭を下げ「どうもお世話になりました。お蔭様ですっかり良くなりました」と挨拶した。挨拶しながら大きなくさめを一つした。大野さんの病室のベッドに彼の信ずる宗教団体の宣伝ビラの束を置いていった。シスター是枝は「お蔭様で良くなったというのは、お祈りのお蔭なのかしら、病院のお蔭なのかしら」と溜息《ためいき》をついて見送った。
朝も五時近くになると、内科病棟だけではなく、外科病棟や混合病棟などからも一人、二人と患者たちが現われ、待合室や売店前のソファーに腰をかけて雑談を始める。検温前、トイレへの行きかえりに、誰でもちょっとした朝の散歩をしたくなるものらしい。みんな病棟の外に出ることを許された患者なので、比較的安静度の軽い人たちか回復期の人たちだ。自動販売機の朝刊を買いに来たり、コーヒーやココアを飲むのが目的である。
午前五時になると待合室のスチームが温くなる。そのころには売店にパン屋や牛乳屋がやってくる。新聞配達人が自動販売機に朝刊をセットしに立ち寄る。外界の朝の風景に似ている。
コーヒーや新聞を買うにはコインが必要なので、みんな硬貨をじゃらじゃらいわせながら待っている。新聞は全国紙が三紙、スポーツ紙が二紙。私は最初全紙買っていたが、同室の人たちがスポーツ紙を受け持ってくれたので三紙だけを買う。検温時まで待合室で雑談している間に何人かで廻し読みすることもある。私はひととおり見出しだけにざっと眼を通す。記事はベッドの中でゆっくり読むことにしている。安静時間の間、新聞を読むのがもっとも退屈しない。読み終ると両手はインクで汚れている。
受付のデスクには、自動販売機では売っていない他の新聞や英字新聞が積んである。ガードマンの柴田さんのはからいで、修道院に配達される前に、全部の新聞に眼を通すことができた。長年の職業習慣で各新聞の報道ぶりを確認しておかなければ気が済まない。またラジオのニュースも午前七時、正午、午後七時――と少くとも一日三度は聞いておかなければ落ち着かない。
ワシントンに駐在していたころは、毎夜十一時ごろ支局を出てメイン・ストリートの四つ角まで新聞の買い出しに出かけたものだ。その時刻には、翌日付けのワシントン・ポスト紙の早刷り版が街頭で売り出される。ワシントンの真夜中は東京のと正反対でちょうど正午。その時間に東京に情報を送れば夕刊の締め切りに間に合って送稿できる。例えばトクダネとおぼしき記事を「――日付けのワシントン・ポスト紙によればニクソン大統領は――の方針を決めた」という調子で短かく転電する。
私の会社は通信社で、新聞社やラジオ、TVにニュースを提供する情報の卸売業だから、新聞社が送らないような情報もカバーする必要がある。米国の主要新聞の大きな記事を転電し紹介することも仕事の一つだった。メイン・ストリートで早版の到着を待っているうちに外国通信社の記者とも顔馴染みになった。「われわれはリポーター(記者)である前にポーター(運搬人)さ」と自嘲《じちよう》的に慰め合ったりするが、通信社にとっては「早さ」も一種のトクダネだった。
転電や発表物の打電だけではなくホワイトハウス、国務省、キャピトル・ヒル(米議会)と駆け廻り、あのころはコマネズミのように働いた。日本経済の走狗《そうく》――それで結構じゃないか、との居直りもあった。アメリカの新聞社、通信社をだし抜くトクダネも何本か書いた。だが、日本からの最年少の特派員として赴任した当時の印象でいまでも思い出すのは、ドラッグ・ストアでBLT(ベーコン・レタス・トマト)トーストをむさぼりコーヒーをすすりながら、ワシントン・ポスト早版が到着するのを待っていた冬の夜のメイン・ストリート。いま病院の待合室で新聞の到着を待っている病人の私にも、あの頃の新聞買いの習性がまだ残っているようだ。
新聞を待つ常連の一人に入星さんがいた。二月に入って隣りの五号室に入院してきた患者で、廻し読みの新聞を隅から隅まで熱心に読む人だった。この人も活字中毒らしかった。自分では一紙しか買わなかったが、午後の安静時間の合い間に病棟の奥の本棚「一F文庫」にたまる読み捨ての新聞や週刊誌を丹念に読んでいる姿を見かけた。
顔馴染みになったばかりのころ「新聞記者の御商売だそうで」と話しかけてきた。「私も物書きをだいぶ長くやっていました」
私のことは、「隣りの部屋のヒゲの人のなりわい」を看護婦たちに取材して身許《みもと》が判ったと言い、自己紹介した。現在の職業については「業界誌の手伝いをしている」としか説明しなかったので、こちらからも深く訊ねなかったが「第一線での御活躍が羨《うら》やましい」としきりに言うところをみると、現役の編集者からは引退しているのだろう。六十歳に手が届くというが、表情は十歳ぐらい若く見える。だが、顔色が黒ずみ、頬がこけているので病人であることはすぐ判る。私と同様に肝臓が悪い、といったが、以前にも何度も胃潰瘍《いかいよう》をわずらったことがあり、胃や腸の具合もおかしいのだ、と言う。面と向って話をする時はいつも愛想よく笑っていたが、そう見えるのは入歯のせいかもしれなかった。話をしていない時の顔は、眼が斜視気味であるためか、いつも物悲しそうで、その眼をかばうように伏し眼がちの表情の場合が多かった。
毎朝雑談しているうちに、いまは経済関係の業界雑誌との随時契約で、時々、インタビュー原稿を書いている、ということが判った。インタビュー相手の実業家や銀行家には、私の知っている人もいたので、共通の話題として私がその人物の印象などを述べ出すと、黙ってしまった。雑誌の名前を言わないので、総会屋系統の出版物ではないかと私は想像していた。
とりわけ熱心だったのは映画女優とのインタビューの思い出だった。昔は娯楽雑誌の編集者で「いまで言う芸能リポーター。若い頃は美人ばかり追いかけて楽しい毎日でした」と得意気だった。栗島すみ子、田中絹代、花柳小菊、水戸光子……。時代が下ってせいぜい淡島千景、京マチ子の頃までで、思い出話はストップした。「いまの女優さんは全然知りません。映画にも行かないし、テレビも観ません」
ある朝、寝巻のふところから薄い雑誌を取り出して「これ読んでますか」と訊いた。カトリック女子修道会発行の月刊誌『あけぼの』だった。その雑誌は病棟の本棚にもバックナンバーがあり、私も時どき興味を持って読んでいた。詩人の三木卓のコラムや遠藤周作の対談シリーズ、森本哲郎の紀行文など各界一流人が比較的自由なテーマで書いていて、宗教関係誌に特有の教宣臭がなく、読みごたえがあった。
入星さんは、その中の全国各地のカトリック修道会を紹介した探訪シリーズ「男たちの修道志」の愛読者だと言った。その連載記事のサブタイトルを指さして「面白いでしょう。プレイボーイとあるでしょう。プレイは“遊び”ではなく“祈り”なのです。そこをプレイボーイと語呂を合わせてひっかけた処《ところ》が心憎い」。そういわれて私も初めてそのユニークなタイトルに気がついた。「私もプレイボーイだったのです。オールド・プレイボーイ」。彼が何を言おうとしているのか最初は判らなかったが、ニヤニヤしながら説明してくれた。
その記事は小坂井澄というフリーライターが書いているが、小坂井氏はフリーになる前は雑誌「プレイボーイ」の芸能記者だった。その小坂井氏と入星さんは懇意ではなかったが知っている、と言った。小坂井氏がフリーになってカトリック関係の記事を書き始めたのは、カトリック信者として洗礼を受け、自身、修道士になるため修行をしだしたからだ、という。
「“プレイボーイ”から“プレイボーイ”への転身というわけです」と種明かしのような説明を終えると入星さんは「私も勉強し始めました」「何の勉強ですか?」「神の教えです。藤原さんはシスター寺本を御存知ですか?」「今度、教育婦長になったシスターでしょう?」「この雑誌も、シスターに奨められて読み出したのです」
シスター寺本は去年まで外科病棟の婦長をしていた六十半ばのベテランの修道女である。新しい異動で聖母病院の看護婦を教育する教育婦長になった人だったが、私は、個人的には話をしたことがなかった。これまで十数年外科の婦長をしてきたが、最近の内科看護の実態を知るため、三月から内科病棟の顧問婦長として内科病棟付きになるのだそうだ。
彼がそんな詳しい人事にまで通じているのは意外だったが、内科病棟に来る前に外科に入院していて、そこで婦長のシスター寺本の世話になった。そして、話をしているうちに、神について勉強したいと思いたち、カトリックの本や雑誌に親しむようになったという。
「オールド・プレイボーイがオールド・バージンのシスターの人柄に感銘を受けたのです」と入星さんは真面目な顔で言ったが、「これはあまり上品な表現ではありませんね」と付け加えた。
入星さんと朝の新聞待ちの会話を交わしたのは二週間ぐらいで、その後二、三日姿を見せなかったが、トイレの途中廊下でばったり出会った。私が訊ねる前に「自覚症状に変化はないのですが、病棟外の散歩は禁じられてしまって」と淋しそうに言う。「シャワーも駄目なんです。いまここで安静にしておかないと。もしかしてまた手術しなければならないので、体力を温存する必要があるんです」「それじゃ時々病室に遊びに行きますよ」「時々でいいんですよ」
彼は少しやつれて見えたが、相変らず面と向って話をする時は、愛想よく笑っていた。
われら肝民族に幸あれ
三月になると日射しが柔かくなり、病窓からみる景色も明るさを帯びてきた。太陽の光線は冬の方が強く、窓際に寝ている私は顔の左半分が異様に陽焼けして、鏡の中の蒼黒《あおぐろ》い自分にぎょっとしたものだったが、太陽の運行の軌跡が変化するにつれて、肝臓病特有のどす黒い斑紋も次第に漂白されていった。血液検査の数値からみた病状もかなり回復し、退院の期待を抱かせた。
“春”はやはり希望の季節である。患者たちは“春”に退院の希望をつなぎ、医者も「春になったら」とか「春をメドに」などの表現を使っていた。事実、昨年十二月に入院して約三カ月間に私の病室三号室の患者は私を除いて全員退院した。一人退院してベッドが空くとその日か、翌日には新しい患者が入院する。一週間も経つとすっかり顔馴染《なじ》みになるので、六人のメンバーは常時、昔からの旧知の仲間のように付き合っているが、いつの間にか私が古株の存在になっていたのである。
私の場合も、主治医の杉本医師は「順調に推移していますね。春が楽しみですね」と言った。だが、他の患者たちもそれぞれの主治医から“春”まで辛抱するようにと言い渡されている。すでに“春”が来て退院した者もい、これから“春”が来るのを待っている者もいる。患者によってさまざまな“春”があり、各ケースを総合すると、病院の“春”は二月から六月ごろまでかなり長い時間帯を意味し、つまり夏の到来までが、“春”なのであった。私にとっても長すぎた春になりそうだった。
それでも季節は春である。聖堂の前の庭の高い梢《こずえ》の柿の木をはじめ落葉樹は、まだ緑の衣裳《いしよう》をまとってはいなかったが、全体として色づきはじめようとしている雰囲気があった。芝生もまだ枯れてはいたが、下生えの草花は先触れのように芽を出しはじめた。
病院本棟と聖堂を結ぶ石の渡り廊下は、庭園を横切って前庭と後庭に分けているが、内科病棟の窓に面し、その渡り廊下に沿って石畳の小道がルルドの小山まで続いている。道の脇は小さな並木のような形で灌木《かんぼく》が並んでいるが、そこには紅梅と白梅がほころび、その下には水仙が蕾《つぼみ》を割って黄色い花が顔を覗《のぞ》かせている。
ある朝、小道の並木の両側に女の子たちが五、六十人並び、歌を歌っていた。二、三人の子がギターで伴奏した。すべての曲がマリア讃歌の「アベ・マリア」だった。中にはフォーク調もあり、聞きなれた聖歌もあった。グノーやシューベルトのアベ・マリアは現代風にアレンジされていた。早春の朝、梅と水仙と少女たちのかもしだす光景は患者たちにとっては大きな慰めだった。それが私一人の感想でない証拠に、彼女たちが歌い終ると一階内科病棟だけではなく四階外科病棟にいたるまで各階の窓から患者たちの拍手が湧《わ》き起った。少女たちは手を振って答えた。
聖母女子短大の学生たちの祈りだった。二週間に一度の朝礼が聖堂で行なわれ、そのあと、ルルドの石窟《せつくつ》にいたる小道に並んで、マリア像に聖歌を捧げる。短大の学生がみなカトリックとは限らないが、朝礼をはじめあらゆる行事はカトリックの儀式にしたがって行なわれる。「ルルド」はいまや一般名詞になっており、石窟の中の泉のほとりにマリア像がたたずむ祠《ほこら》。病院構内ではこの聖堂の庭と、奥の老人ホームの入口にあるが、聖堂の庭のルルドは石窟が小高い岡になっていて蔦《つた》のつるがからむ木に被《おお》われ、瀬戸のマリア像も時代がかった彩色で、その足もとでベルナデッタの小さな人形がぬかずき、祈っている。十九世紀半ば、スペインに近いフランスの村ルルドの少女ベルナデッタが、泉のほとりでマリアに何度も出会って教えを授けられた――という奇跡話を形どったものである。信者たちは、ミサが終って聖堂を出ると、小道をたどって必ずルルドに立ち寄り、祈りを捧げてから帰る。
「ルルドは、仏教でいえばお地蔵様のようなものですか。マリアは女性だからむしろ弁天様かな。例えば霊顕あらたかな江の島の弁財天」と私が不謹慎な言い方をすると、女子学生たちの合唱を一緒に聞いていたシスター寺本は「さすが新聞記者ですね。仏教でも神道でも宗教には儀式やイメージはつきものです。しかし奇跡を信ずるかどうかはともかく、マリア様の像が一番清らかで優しく美しいとは思いませんか」と訊《き》きかえした。
病院の正面玄関のマリア像は等身大で最も大きく目立つが、各階の廊下や階段の踊り場にもマリア像が立っていて、病室にはマリアの絵の複製が掲げてある。庭にはルルドがあり、聖堂の中には幼子を抱いたマリアが壁の上から会衆に微笑《ほほえ》みかけている。聖母病院は「マリアの宣教者フランシスコ修道会」に属する女子修道会だけあって、マリア信仰が強いらしい。
朝の新聞買い出しの時間に、隣りの五号室の雑誌記者、入星さんからシスター寺本の話は聞いていたが、私も婦長のシスター是枝から「今度、私の恩師で、大先輩のシスターがきますからよろしく」と予告篇のような予備知識を授けられていた。
シスター寺本は六十五歳。これまで、四階外科病棟の婦長をしてきた大ベテランで、その以前は姉妹病院の札幌・天使病院で内科婦長をしていたという。外科は内科とは違って文字通り「切ったはった」の忙しさ。手術の連続は緊張の連続で、看護婦の気持は高ぶり、体も疲れる。そうした看護婦たちを指揮、監督していく婦長は強靭《きようじん》な精神力と肉体の持ち主でなければつとまらない。シスター寺本はその仕事と十二年間格闘してきた。
職業としての看護婦活動と同時にシスターとして末期患者の死の受容の問題と取り組んでいた。死が不可避な患者の生命を救うべく最後まで努力を続けながらも、いかにしてやすらかに死を迎えるように看護するか――に心を砕いてきた。シスター是枝は、シスター寺本が末期患者の死と看護のあり方について、自分の看護経験をまとめた『看護の中の死』という正続二冊の本を私に貸してくれた。それは看護学校の副読本の形をとっていたが、一つのドキュメントとしても興味深かった。雑誌や新聞、本やTV番組でガンや末期患者のテーマが盛んに取り上げられていたが、シスター寺本が扱ったエピソードはテレビのようなドラマ仕立てではないものの、ひとつひとつの死のケースが胸を打った。その本で、この聖母病院では、医学的に死が確定的な患者に対しても、死の宣告はしない方針をとっていることを知った。だがシスター寺本は個人的には、ケース・バイ・ケースで本人に告げるべきだ、との信念を持っているようだった。
婦長のシスター是枝は、札幌の看護学校でシスター寺本から看護学を学んだ教え子で、年齢も二十五歳はなれている。昔からシスター寺本は厳しかったが、患者に対しては優しく、誰からも慕われた、という。「でも、男性のようにさばさばしていて、シスターといっても取っつきにくい人ではありません。いまでは肥《ふと》った人の良いハイカラお婆さん」
なるほど、ベールや白衣を脱げば元気のよい近所のおばさんという感じだった。年齢も六十五歳とは到底考えられず、十歳は若く見える。修道女が誰でも齢《とし》より若く見えるのは、独身を通しているからだろうか。「私だって女ですから、若いと言われれば、嬉しいですよ。シスターたちが若いとすれば、結婚して家庭を持つ苦労がないこともさることながら、一人の人間として仕事を持ち、一所懸命に働いているからでしょう。でもわれわれにも更年期障害はあります」
シスター寺本は、外科婦長が長くなり、齢もとったので「後進に道を譲り」、自分は、だいぶ御無沙汰していた内科の仕事をまた勉強するので「一から出直し」と説明したが、新しい教育婦長というポストは各科の外来および病棟の婦長の上に立ち同時に短大の看護学教授も兼務する。文字通り看護婦の教育にあたる、新しい職務だった。看護婦の総元締めは「総婦長」といい、戦後できた聖母女子短大第二回卒業生のシスター池藤が総婦長だが、この方は看護婦の総監督だった。教育婦長は、いわば相談役の立場といえるかもしれない。
シスターたちの世界にも俗世間の会社と同じように定期的に人事異動があり、この修道会の場合、看護婦の資格を持つシスターは、札幌の天使病院、神戸の海星病院、東京の聖母病院のいずれかに配属されるが、もちろん、その他の医療施設やボランティア活動、海外勤務などに派遣されることもある。
シスター寺本はしばらくの間、午前中だけ内科病棟で一般看護婦のローテーションに入り、午後は教育婦長の仕事に専心することになった。
彼女は朝六時のミサに出て、朝食後七時半には他の看護婦と同じようにナース・ステーションのミーティングに参加した。私たちが朝の回診を受ける前に、看護婦たちは各病室を廻ってベッド整頓《せいとん》をするが、若い女の子たちにまじって布団をととのえ、シーツを交換してくれた。また、シャワーを許されない患者の背中や体を洗ったりした。これを病院語では、「清拭《せいしよく》」または「タオル」と言う。
「ヒゲの藤原さん、隣りの部屋の同じジャーナリストの入星さんは、御同業だけあってお話が合うようですね。時々お話するのが楽しいとおっしゃっていました」「最近入星さんは朝の新聞買いをとめられているようですが、病状がはかばかしくないのですか」「胃腸が弱っている上に、肝臓や膵臓《すいぞう》もよくなく、なかなかはっきりしません」「シスターについてカトリックの勉強をしているそうですが」「奨《すす》めたわけではないけれど、御自分で関心を持たれていろいろお読みになっているようです」。入星さんは、私以上に長期療養が必要らしかった。
朝のベッド・メイキングの際、患者たちは廊下に出て、獄房から出された囚人のように三三五五かたまっては雑談するが、入星さんは、廊下に出たり出なかったりだ。たまに出て壁ぞいの長椅子に腰をかけていても黙想に耽《ふけ》っていることが多く、話しかけるのが躊躇《ちゆうちよ》された。会えば以前のようにまず愛想よく笑ったが、その笑いはすぐ消えてしまう。病気の話題は避けた方が良いのかもしれないが、われわれ入院患者が会うと病状について訊ねないのはかえって妙なものである。それが、いわば挨拶がわりなのだから。
「おはようございます。いかがですか」「どうもすぐれません。体の節々が痛むのです」「ずっと固いベッドに横になっていらっしゃるから、凝るのではありませんか」「いや、凝りとはちがうようです。何か体の内側が浸蝕《しんしよく》されている感じなのです」「気のせいということもあるでしょう」「やはり、全体に悪化しているらしい。それが進行しているのが判るんです」――挨拶がわりの会話は、私が、努めて明るいプラスの方向に持っていこうとしても、入星さんの答えは、暗いマイナスの方向に後退していく。
話しかけたことを後悔し、私がどのようにして会話を終えようかと迷い出したころ「でも聖書物語を読んでいると気が楽になります」と、入星さんの方から助け舟を出してくれる。聖書は活字が小さく、頭が痛くなるので読めないのだという。その代り、子供用の絵入りの聖書物語を読む、というよりは眺めている。
やはり隣室に入院している山田さんという老人との会話にも弱った。午後の面会時間、来客がないときは一種の自由時間なので、ナース・ステーションの受付のソファーで本を読んでいると、いつの間にか山田さんが隣りに腰をかけている。初めのうちは世間話をしているが、そのうち「どうしてでしょうか。なぜだと思います?」と問いかけてくる。
山田さんは七十歳。十年前に隠居して長男一家と何の不自由もなく暮していた。碁会所や老人クラブに碁を打ちにいくのが唯一の楽しみだったが、五年前に歩行困難になってしまった。左大腿部《だいたいぶ》にエソができて手術した。手術は成功した。完全に治ったと、医者は言い、また歩けるようになったが、今度は胃潰瘍《いかいよう》と告げられ、入院した。手術するには体力が十分ではないので、食餌《しよくじ》療法で治そうということになった。それで体力がつけば、手術ができる。
「でも、体力がつくどころか食欲がだんだんなくなってきて、体重も減ってくるんですね。齢をとって食べられなくなってきたせいですかね。腿《もも》の手術と胃とは関係ないというし、女子医大の精密検査でも胃が悪いだけという診察を受けました。医者の説明は判りますが、あなたはどう思います?」という具合の訊き方をするのである。
私は、入星さんに対する時と同じように、表情を変えず応対するように心掛けた。シスター寺本もシスター是枝も、看護婦たちも特定の患者の病名や病状について、他の患者に説明しなかった。「最近は、ちょっと元気がなさそう」とか「食欲がないみたい」といった表現にとどめた。だが、私は、入星さんも山田さんも宿痾《しゆくあ》に冒されていてそれが進行しつつあると確信していた。確かめようがなかったし、とくに本人たちにはその確信を悟られないように振舞わなければならなかった。私の肝炎だって、その真相を私自身が知らないでいるのかもしれなかった。
私はいつのまにか内科病棟三号室で最も古株の患者になってしまった。映画や小説には、刑務所や軍隊で最古参が威張り散らすシーンがよく出てくるが、聖母病院ではそうした光景にはお目にかからなかった。しかし、新しく入院してくる患者は、病院のさまざまなしきたりや医者、看護婦などの人間関係までよく知っている古株からいろいろと教えてもらう。古手の患者は親切に教えるので、どうしてもその病室のリーダー格とみなされるようになる。
三号室ではA号の清水さんがそうした存在だった。私にウイスキーを奨めたことのある糖尿患者である。その清水さんも二月末に退院した。すっかり治って退院したわけではない。血糖値の水準がほぼ確定し、食餌療法のカロリーが一応定まり、毎日自分で注射するインスリンの量のメドがついたので、自宅療養に切り換えられたのである。
次いでB号の山内さんが退院した。山内さんも完治したわけではない。相変らず夜中には叫び声のような寝言を言っていたし、朝、トイレにいく際、ときどきめまいを感じていたようだったが、三月に入って気候が穏やかになったので自宅療養することになった。女子医大の脳の検査で病因が一応究明され、日々の生活で気を付けるべき事項がはっきりしたので、二週間に一度、外来診療に通って様子を見るのである。
病室の中でただ一人のカトリック信者だった山内さんは退院の日の朝、聖体拝領に訪れたジェローム神父に「最後の御聖体、謹んでお受けします」とベッドの上で居ずまいをただし、口に含んだ聖体を、しばし味わうようにしてから、深く頭を下げた。ジェローム神父は驚いて、「テイク・イット・イージー、気楽に、気楽に」と助け起すように肩を抱いた。
朝食が始まると「この機会をお藉《か》りして一言、御礼のご挨拶を申し上げます」と口を切り「私の六十余年の人生で四カ月の短い期間でありましたが、皆様と一緒に生活できたことは幸わせでした。私はまた家に帰って、家内とともに地域相談員としてボランティア活動を続けますが、皆様におかれましても早く退院されますよう。神に感謝」手を合わせ十字を切り「病魔と闘う戦友のみなさんのために、乾杯!」と紅茶のコップをかかげた。みんながあわてて乾杯した。「山内さんの退院を祝して、乾杯!」紅茶のない患者はミルクを飲んだ。
私の向いのC号の小川さんは女子医大の内科病棟に転院していった。聖母病院は、伝統ある国際病院で総合病院だったが、ベッド数は二百、民間病院としては中規模の病院である。社会福祉法人、しかも病院経営はカトリックの教えに基づく奉仕活動の一環なので、利潤追求が目的ではない。したがって、医療費点数稼ぎの乱診乱療でない点は患者にとって誠に有難いが、経営は楽ではない。看護学校や聖母女子短大は学校法人、修道会は宗教法人だが、同じ宗教法人の神社仏閣が学校経営やマンション経営で利益をあげているのに比べると、はるかに商売下手である。フランスの体操方式による無痛分娩《ぶんべん》で有名な産婦人科は、患者の回転が早いので儲《もう》けの筆頭だが、総合収支じりは大幅黒字とはいい難い。シスターたちの無償に等しい奉仕が経営の一面を支えているらしい。また修道会本部からの資金援助もあるのかもしれない。
大幅な利潤がなければ大掛りな設備投資は困難である。したがって、日進月歩で高性能化、大型化していく新鋭の医療・検査機械や装置の導入計画も、民間の大病院のように派手には打ち出せず、時間をかけて実現していかなければならない。そこでCTスキャンによる検査など新鋭大型機械装置が必要になる時には、友好提携関係にある大学病院に検査を依頼する。また高度な治療が必要な患者を送りこむ。小川さんが転院した東京女子医大もその例だ。
民間の大病院や共済病院には東大系とか慶大系など特定の派閥関係があるが、聖母病院は無派閥らしい。東大、慶応大、慈恵医大、女子医大、東京医大、東邦医大、帝京医大、昭和医大……などと“等距離外交”の関係にある。いずれの大学からも医師の派遣を仰いではいるが、特定大学に偏しない珍しいケースだという。その理由は、カトリック系なので宗教関係の患者が各大学から送り込まれてくること、国際病院で外人病棟があるので、各大学病院とも外人患者の治療を依頼してくること、聖母病院の医師の出身校が偏っていないこと――とあるシスターが説明した。主治医の杉本医師も「私はヤブですが」と偽悪ぶっているが、「名医は沢山知っているから安心して下さい」と言う。彼は慈恵医大出身で、いまでも寄生虫と肝臓病の関係の研究のため母校の研究室に出入りしている。
小川さんは肝炎と糖尿病にもかかっているが、それらは合併症で、主病は血液の病いである。誰も病名を口にしなかったが、白血病らしい。時々輸血している。三十歳で発病し、三十四歳のいままで、この聖母病院に五、六度入退院を繰り返していたが、内科医師団は、血液・心臓では定評のある女子医大への転院を奨めたのである。彼は、両親がこの病院の従業員である関係もあって、病院の隅々まで知っている。看護婦の中には、短大の学生時代から小川さんを看病しているものもいた。彼はカメラマンだったが、いまでは病院の窓から修道院の庭を撮影するだけだ。
小川さんのお父さんは、清掃、修繕、整理、運搬などの雑務を引受けている。毎朝、回診前に「おはよう」と一言挨拶して病室に入ってき、ABC順にベッドの床下をモップでふいていく。C号ベッドに来ると、息子の顔をちらっと見る。時々、自宅からの届け物をベッドの上に置いていく。小川さんは、「やあ」と挨拶する。ある時、「おやじこそ入院した方が良いと勧めているんですが、頑固で」と呟《つぶや》いた。十年前、小川さんの弟が聖母病院の近く目白通りの交叉点《こうさてん》で、自動車に轢《ひ》かれた。すぐ聖母病院に担ぎ込まれ手術を受けたが、手遅れだった。小川さんのお父さんは、手術の間も四階オペレーション・ルームのちょうど下の修道院の庭で、黙々と落葉を集めていたが、死亡を知ってから、五年間の禁酒を破って酒を飲んだ。それまでは心臓と肝臓が悪かったので節制した生活を送っていたのだが、次男の死以来、また酒に依存するようになった。そして長男の小川さんが発病し入院すると、毎晩のように飲み出した。
しかし、荒れるようなことはなかった。平凡なカトリック信者で、大人しい好々爺《こうこうや》だった。毎朝、赤い顔をして病室に現われた。とくに鼻の頭の毛細血管が目立った。
ある日、掃除の手を休めての雑談で「毎晩仕事が終って角の酒屋で立ち飲みするのが唯一の楽しみ」と、息子に聞えないように打ち明けてくれた。「酒の肴《さかな》は要らない。道を通る人を眺めているだけで肴代わりになる。正二合は飲める」。家に帰って奥さんと二人で夕食を食べながら改めて晩酌をし、酔うと寝てしまう。
小川さんのお母さんは、二階の小児科病棟で配膳係をしていた。配膳係といっても、食事時間以外にはさまざまな雑事をする。夫婦そろって聖母病院で働き、残った息子一人はその病院に入院している。二人は小川さんの入院治療費のために働いているには違いないが、息子と親子三人が、その病院で一緒に生活している、とも言える。小川さんのお母さんは毎晩六時ごろ病室を訪れる。母と子は時々小声で話し合っていた。
内科病棟三号室のA号清水さん、B号山内さん、C号小川さんの三人が退院したあとに入院してきた患者は、唐木氏三十二歳、小平氏六十五歳、副島氏三十六歳である。D号の私だけが不変、E号の鈴木さんもすっかり良くなって、愛妻と手をつなぎ、寄りそうようにして退院していった。F号は老人の指定席のように高齢者が何人か入院しては退院していった。もちろん各ベッドとも、時日をおいて、主が入れ替ったのだが、長期療養の私にとっては、ABCの三人が一、二、三と掛け声をかけて一度に交代したような感じがして、取り残されるものの淋しさを味わった。
だが、日が経つにつれ、新しいメンバーの間には新しい親近感が生れる。ABC三氏とも肝臓病患者だったことが同志的なきずなとなり、一種の友情で結ばれた。唐木さんは急性肝炎、小平さんは私と似た病状で慢性肝炎、そして副島さんは肝硬変だった。副島さんは体がだるく脱水症状のような状態で担ぎ込まれたが、腹部が異常に突出していたので、腹水がたまっていることがすぐに判った。彼の主治医は「肝炎です」と告げていたが、回診の際、私には医師の持っているカルテが見えた。病名の欄に「肝硬変」と書かれ、“?”の記号が付いていた。本人がそれと知ったのは一週間後だが、彼はウイルス性肝炎も慢性肝炎も肝硬変も、肝臓については一切の知識を持たなかったので、「肝硬変」と最初から告げられてもショックはなかったかもしれない。
副島さんの隣りのB号の小平さんは慢性肝炎患者らしく、肝臓病についてはかなり博識である。廊下の煙草コーナーで、「あの蛙腹《かえるばら》は肝硬変ですな」と声をひそめ、「われわれの中で最も重病ですよ」と囁《ささや》いた。
小平さんは十年前、印刷工場を停年になる少し前からB型肝炎を患い、内科外来に通っていたが、ここにきて肝機能検査の数値がにわかに上昇してきたので入院した。印刷工場で使う化学薬品が原因で肝炎に罹《かか》ったらしいが、「若い頃からの飲む打つ買うが祟《たた》ったんだなあ」としきりに自嘲《じちよう》し「もう酒は止《や》めたのに」と恨めしそうに言った。
副島さんが会話の仲間入りしたのは、腹水が減ってトイレの往復以外の歩行が許されるようになってからである。それまでは蒼《あお》い顔をして、おとなしい奥さんが面会にきて心配気に訊《たず》ねても、ろくに返事もしなかった。腹水は一週間後から潮の引くように少くなり、毎朝看護婦が巻尺で測るたびに、ウエストは目に見えて細くなっていくようだった。看護婦の新井さんは、毎朝彼の胸囲と腹囲と体重を測定し、メモし、グラフ用紙に記入した。その点を結ぶ線は急なカーブを描いて低下していった。栄養補給は点滴と、毎食、バターもジャムもつけない食パン一枚とスープだったが、茹卵《ゆでたまご》や豆腐がつきはじめた。しかし塩抜きである。
腹水が引くまでの一週間は昼間もカーテンをめぐらして、その中で溜息《ためいき》をつき、寝返りをうつだけだったが、ある日、長い眠りから覚めた人のように、カーテンをすっかり開けて朝食の仲間入りをした。
「これまではつらくて声も出なかったものですから、失礼しました」と誰に言うともなく挨拶をし、「肝臓がいかれたらしいんですが、カンコーヘンとかいう、レバーが硬くなる病気だそうです。下手すると死ぬところだったらしい」と言った。隣のB号小平老人が「いまは利尿剤が発達しているから腹水はすぐおさまるよ」と慰めると「この腹水っていうやつ、妊産婦のようで格好悪いやら恥ずかしいやら。それに蛙腹って、よく言ったものですね。亀がひっくりかえされたように起き上がるのも大儀で――」。
蛙腹とはよくも名付けたものである。イソップの寓話に出てくる威張った蛙の腹のようにふくらみ、横綱の太鼓腹よりも恰幅《かつぷく》がよくなる。副島さんは「蛙の歌が聞えてくるよ。ケケケケ、カカカカ、クワッカッカッ」と口ずさんでから「治ってまた酒を飲み始めたら、また蛙腹になるのかなあ」と自問した。
これまでまったく無口だった副島さんが突然のようにしゃべり出し、歌までうたいだしたので同室者たちはちょっと戸惑ったが、小平さんが「酒は良い筈《はず》がないよ」と言った。私は「まず治してからの話ですよ」と口ばしを入れ「とにかく快方に向っているんだから、われわれ、“肝民族”は酒のことは当分考えないことにしましょう」と提案した。それからひとしきり肝臓談義で賑《にぎ》やかになった。私の“肝民族”という表現は皆が非常に気に入ったようだ。隣室の五号室にも二人の肝炎患者がいた。女性部屋にも何人かいるらしい。肝民族は意外に多かった。
配膳室の前の小黒板には内科病棟の入院患者全員の氏名が書いてあり一人一人の食事のメニューが記されている。地階の調理室から運ばれてきた食事が間違いなく配膳されるように、看護婦は、メニューが変るたびに記入する。例えば、一一〇F=全・副食ピューレ、とあれば一〇号室F号の患者の食事は全粥に液状のピューレ・スープとわかる。おそらく重い胃潰瘍患者だろう。一〇三B=粥・ミ・バとあるのは三号室のBさんは朝食がお粥、ミルク、バターのこと、次いでジ・七分・軟菜、塩7とあるのはお八つがジュース、昼食および夜食は七分粥で、おかずは軟かく煮てあり、塩分が一日七グラムに制限されている。私の食事は一〇三D=ミ・『肝』・1700。お八つはミルクだけ、肝臓食メニュー2、三食通して一日のカロリー合計一七〇〇カロリーである。その黒板をみて唐木さんが、肝1肝2肝3の食事をしている患者は十二人と報告した。副島さんのように食パンと豆腐のような患者は肝1から肝3に該当せず、星印がついている。医師が栄養士に指示・相談した特別食だ。そのほか、他の病気と肝臓病の合併症患者もいる筈だ。すると内科病棟二十九人のうち大半が肝臓病ということになる。
唐木さんは「肝臓病の患者が圧倒的に多いですよ。ナンバー・ワンじゃないかな」と誇らし気に言った。夜の看護主任、島尾さんに聞くと「そうかもしれません。二階の外人病棟、混合病棟にも患者さんはかなりいますし、肝炎はまさに蔓延《まんえん》の勢いです」彼女自身も新発見のように驚いたようだ。
肝民族の同志たちは、新聞や雑誌に肝炎関連記事の多いことに気づきはじめ、同病者間では知識の修得と情報交換が盛んになった。家庭欄や医学欄に「肝炎は二十一世紀のわが国国民病」なる大見出しを発見した小平さんは「肝臓病患者はいま三百万人、四十人に一人は肝臓をわずらっている。一昔前までは結核が国民病といわれ、不治の病いだったが、いまは抗生物質や手術で簡単に治る。不如帰《ほととぎす》のような悲恋物語はもう流行《は や》らないもんね」と感心し、「とくに中年男性の慢性肝炎、肝硬変が著しく増えているんだとさ」と新聞記事を読み上げた。「成人病のビッグ・ファイブは、ガン、脳卒中、心臓病、糖尿病、そして肝臓病。死亡率ナンバー・ワンは脳卒中、ガンが来年あたりにトップの座を奪うらしい。次が心臓病。四位事故死、五位自殺、六番目が肝臓病だと」
唐木さんは広告会社のコピーライターだけにアイディアマンだ。「ぼくたち肝民族の愛唱歌に『レバー! カム・バック・トゥ・ミー(肝臓よ! 我れに帰れ)』はどうですかね」
私も、この「肝臓よ! 我れに帰れ」なる傑作パロディには心中で舌を巻いたが、声を出した大方の反応はなかった。おそらく、みんなは焼鳥のレバー、レバニラいため、レバステーキなどを想像していたに違いない(私はホテルのブッフェ式パーティーで何度か味わったフォアグラを思い出していた。鵞鳥《がちよう》を人工的に肝硬変にしたそのレバーである)。そして自分の肝臓と思い比べたに違いない。それに、唐木さんは純然たるA型ウイルス性急性肝炎で、ほぼ完治すると医者から保証されている。だが、同じ肝民族でも私を含めた残りの患者の肝炎は、不治の病いなのかもしれないのだ。病人でなければ病人の悩みは判らないもの――とよく言われるが、その理解度は病状によっても異なる。
三号室だけではなく五号室も含め、肝炎患者たちは廊下の喫煙コーナーでベッド・メイキングを待っている間や午後のベランダに日なたぼっこに出ると、肝臓を話題にすることが多くなったが、よくしゃべるのは急性肝炎患者。慢性肝炎側はあまり意気があがらない。新聞の死亡記事の死因に「肝」の字が目立つようになったが、例えば急性肝炎の唐木さんは「心不全とか肝不全という病名の記し方は説明不足ですね。胃ガンや胃潰瘍で死んでも胃不全とはいわない。肝臓病はこれだけの国民病になったのだから、もっと正確に書くべきですよ。世の中一般の注意喚起にもなることだし」と話題を提供する。
「A型肝炎とかB型肝炎とかはっきり書いてくれれば、ワクチンに対する関心が集まる。肝不全の一言だけでは、慢性肝炎がこじれたということは想像がつくけど、肝臓ガンなのか、肝硬変なのか、食道静脈瘤《じようみやくりゆう》破裂なのかもわからない」とその場の同意を求め「肝炎ウイルスだけでなく、栄養失調、カビやバイ菌、寄生虫、薬品、化学製品、輸血からだって肝炎になるんだし、日本でも酒の飲み過ぎの肝硬変が多くなってきた。これだけ医学が発達してきたのだから、病名だってもっと詳しくて良い筈ですよ」。
饒舌《じようぜつ》がここまできて空気が白けかかった時、慢性肝炎患者たちは立ち上った。唐木さんの話は聞き手を失ったが、それは各病室でベッド・メイキングが終り、看護婦たちが、窓から手を振って呼んでいたからだろう。回診の時間だった。
私たち肝臓病患者は、各人一冊は肝臓病に関する解説書を座右に備えて、一応は読んでいたので基礎的な知識はあったが、解剖図の中の肝臓の位置や、肝臓の機能、各種肝炎の症状の説明までは理解できても、そのあとは活字を眺めているだけである。試験の前日にいやいやながら読む教科書のようなものだ。だが、どの本にも書いてある「物言わぬ臓器」とか「沈黙の臓器」というキャッチ・フレーズにはみんなが感心し、小平さんなどは「そうなんだよ。肝臓という奴は人間の内臓の中で一番大きくて一番重いけど、でしゃばらずに黙々と働いている化学工場だからな」といつくしみ、「文句もいわずに六十五年間も一所懸命に、食物の中から毒素を選りわけて、栄養物を体全体に配給してくれたもんだ」と感謝することしきりだった。
“沈黙の臓器”という言葉には、抑制された美しさが感じられた。心臓が、岩を噛《か》む渓流に似て脈搏《みやくう》つ動的な生命の根源であるのに対し、肝臓は湖のように静かに、何かに耐える姿勢で肋骨《ろつこつ》の下に横たわっている。
ある新聞の学芸欄で小説家の笹沢左保が「ボクの肝臓クン」というエッセーを書いていた。長年、不節制な生活をし暴飲暴食をしても肝臓は不平不満を言わず、じっと耐えて、体全体のために奉仕する。しかし、やがて疲れが出てその機能が衰えてくるが、それでも肝臓は泣きもせず喚《わめ》きもせずに、ひたすら主人のために尽す。主人は、そういう肝臓が哀れでいとおしくなり、いたわりの気持でいっぱいになる。そして「御苦労さん」とねぎらいの言葉をかけ、やすらかな休養のひとときを与えてやる。つまり、入院する。その小説家は、そうしたことを何回も繰り返してきた。――その随筆を肝民族の仲間たちに紹介すると、みんな、感じ入ったように肯《うなず》き、小平老人は「御苦労さん」と言った。
「物言わぬ臓器」の医学上の言われは、実は故障を起しても何の苦痛も感じず、したがって悲鳴をあげない臓器――という意味である。私たちは、肝臓には神経が通っていない、肝臓は痛みを感じない唯一の臓器、という事実を看護婦の島尾さんから初めて聞いた。彼女は、聖母女子短大を卒業してから暫《しばら》く都内の高校で保健体育を教え養護教員をしていたが、肝炎にかかり二年間療養生活を送ったことがあるので、肝臓病については体験も踏まえた権威者だった。三十歳。看護婦の中では唯一の既婚者である。御主人はスナックを経営しているので、聖母病院に就職する際、夫の時間帯に合わせ準夜勤務を志願した。他の看護婦は、日勤、準夜、深夜の三交代だが、彼女だけはそのローテーションに加わらず、準夜勤に当った看護婦たちとチームを組んで、午後四時から午前零時まで勤務する。年齢、経験からいっても主任格だが、体格、風格とも堂々としていて貫禄があるので、患者たちは「夜の女王」と呼んでいた。夜の女王とともに働くのが、午前零時に退勤する若いシンデレラたちである。
私たちは夜八時半ごろ、彼女が最後の見廻りのため病室を訪れると、熱心にその肝臓病講座を聴講した。
胃が悪くなればシクシク痛む。風邪を引けば頭痛がする。手足を骨折すればもちろん痛い。しかし、肝臓には神経が通っていないので、急性肝炎の初期や一部の例外を除いて、たいていの肝臓病の場合、だるさ、食欲不振など、患者が病気にかかったことを自覚するのは症状が相当に進んでからである。しかも肝臓部そのものは痛まない。痛まずに症状だけが悪化していく。それまでに本人は何の苦しみも痛みもなく、まったく健康と思っている期間が何年も続く。だるさや食欲不振は、肝臓病以外の病気の症状にもつきものだ。血液検査をしてみてGOTやGPTなどの数値に異常があらわれてから初めて、肝炎がつきとめられる。
杉本医師の話によると、世の中にはどんなに大酒を飲んで不節制をしても、絶対に肝臓だけは悪くならない不思議な人間が存在するという。日本人は人種的に酒に弱い民族だから、アルコール中毒やアルコール性肝炎患者は欧米に比べまだ少ないが、近年は増加の一途を辿《たど》っている。それでも十人に三人の割り合いで、浴びるほど酒を飲んでも肝臓障害を起さない人間がいるのだそうだ。その理由は医学的にはまだ解明されていないが、ある大学の調査の統計が、その三人の存在をほぼ正確に立証したという。内科病棟一〇三号室住人六人のうちの肝民族四人は、その“三人”には選ばれなかった“普通の人々”、十人の中の七人の人種だった。その話を聞いた時、私は三人の一人に選ばれなかった不運を嘆き、どこかに確実に存在する“三人”に対する嫉妬《しつと》と羨望《せんぼう》で、思わず歯ぎしりしてしまった。
十人のうち七人の人種は、一日のアルコール量が日本酒にして三合以上、週五日以上、期間十五年以上、飲み続けるとアルコール性肝炎にかかりやすい潜在的肝硬変患者である。日本酒一合はビール大瓶一本、ウイスキー・ダブルショット一杯に相当するが、一合の日本酒を体重六〇キロの人間の肝臓が解毒するのに要する時間は三時間。したがって三合飲めば九時間、肝臓はそのアルコール処理で忙殺され、その間、本来の解毒、排泄《はいせつ》などの働きがおろそかになる。そこからガス充満や便秘、下痢などの現象が起ってくる。とくに脂肪の燃焼活動が衰えると、その脂肪が肝臓内に蓄積され、脂肪肝の症状を呈し、肝臓細胞が硬くなる。脂肪肝、アルコール性肝炎、肝硬変……と、死への道行きである。
私の父は酒飲みで、好きで強く、大量に飲んだ。祖父もそうだった。二人とも胃潰瘍や十二指腸潰瘍を患い、手術を受けた。痔《じ》の手術もしている。その都度、何カ月か何年か禁酒を余儀なくされた。胃が痛むと、いくら酒が好きでも飲まずに、傷が癒《い》えるまで我慢をする。結局、祖父は八十二歳まで生きた。「人生僅《わず》か五十年」時代の人間としては天寿を全うしたと言えるだろう。父はいま八十三歳。心身壮健で趣味のパステル画だけではあきたらず目下、二〇号の油絵に取り組んでいる。
胃や痔は、切れば治る。切れば痛いが、切除しても修復が可能であるし、細胞は再生する。だが、肝臓はたった一つ、かけがえがない。とくに慢性化した肝臓病の場合は、手術しても再生はおぼつかない。それこそ“オール・オア・ナッシング”である。肝臓には神経が通っていないので、切ってもおそらくは痛まないだろうが、切除による修復はほとんど不可能なのである。
祖父や父は、同じ酒飲みでも胃や痔が痛むことによる自動警戒システム(ビルト・イン・スタビライザー)が働く“胃民族”だが、その末裔《まつえい》の私は“胃民族”の遺伝は継承せずに、不幸にも“肝民族”の体質であった。その部分だけは母方の遺伝染色体を受け継いだのだろう。この“胃民族”と“肝民族”の二大民族分類には同室者たちも感心して聞き入った。
急性肝炎の唐木さんは「それじゃ、脳の悪い人は“脳民”で、腎臓《じんぞう》疾患は“腎民”だね。私は胃腸は精々さつまいもの食べすぎの胸やけだから胃は丈夫、つまり“偉丈夫”だから胃民族。肝民族の血は流れていない」と嬉しそうに言い、また小平さんの不興を買った。副島さんは、それではおれは肝民族の血を引いているのだな、と悲しそうに言った。
私は虫歯が一本しかなかった。その一本も完全に治り、いまでは丈夫な歯がきれいに並んでいる。胃や腸の強さは抜群、胃が痛むとか腹をこわすといった苦痛も味わったことがない。祖父母、父、姉、弟……とみな痔を患ったが、一人私だけはその悩みを知らず、菊座の括約筋は見事に機能している。かくして、私の体にはアルコールが大手を振って自由に出入りし、口腔《こうこう》から肛門《こうもん》に至るまで、消化器系の関門の自動警報装置は危険を告げたことがない。
消化器が頑健な体質が母系遺伝であることは、その他の特徴からも類推できた。父は近眼ではなかったが、母は強度の近眼。私も中学時代に近眼になると、医者は遺伝と宣告した。祖父と父は三十代後半から頭が禿《は》げたが、私は四十半ばのいまでも頭髪はふさふさとしている。いまから神仏に祈っても禿頭は望めず、肝民族から胃民族への体質改善も不可能だろう。
天気の良い日、ベランダの片隅でわれら肝民族四人は日光浴を楽しんでいた。唐木さんが持ってきたトランジスタ・ラジオからはFMのモーツァルトが流れ、聖堂からルルドに続く水仙の咲きこぼれる小道の風景にふさわしい。私も入院してFM音楽の楽しさを知ったが、聖堂にはやはりバッハが似合い、四階手術室ロビーからの山脈《やまな》みを背景にした多摩地方の丘陵の眺めにはベートーベン、修道院の庭の繁みや芝生にはシューベルト……が、それぞれバックグラウンド音楽として似つかわしい。しかし、モーツァルトはどんな景色にも合っている。パジャマやシーツの干してあるベランダの日だまりにもふさわしく、モーツァルトと肝臓談義との関係に違和感はなかった。
風の吹いていない日のベランダは、太陽の光で陽炎《かげろう》が立つほどの暖かさ。そこだけは修道院の庭よりも季節の進行が一足早く、植木鉢の草花も、陽の光を吸収して輝いて見える。
「それではジャンケンポン」と小平さんが掛け声をかけると、みんな一斉に拳固を前に突き出してパッと掌《てのひら》を開く。「きょうは調子がいいぞ」と小平さんは御機嫌だ。小平さんだけではない。みんなが、自分の掌を眺めて満足気だった。
慢性肝炎や肝硬変になると掌が赤くなる――というのは俗説ではない。「手掌紅斑」なる専門用語すらあって、掌の囲りがくっきりと赤くなり、さらには手の指の先まで赤くなる。ピンクというよりは紅色で、動物園の猿の尻を想像すればよい。人によっては、ところどころに真紅の斑点や縞《しま》模様がついている。そんな人の爪の色は、透明ではなく磨りガラスのように曇っている。ただし、肝臓が悪ければ掌が赤くなるが、逆も真なりとは限らない。掌が赤くても健康な人種はいるのである。誰でも酒を飲んだり、掌をこすったりしていると赤くなるが、通常は時間が経てば元の色に戻る。だが、肝臓病患者の手掌紅斑はなかなか消えない。
ベランダでのジャンケンは掌の赤さの比べっこ遊びだった。もちろんグーやチョキを出す人はおらず、みんながパーを出すから勝負はつかない。他人の掌の赤さと見較べて、それぞれ胸の中で、勝敗を決めているのだ。天気の良い日、つまり太陽の光を直接受けると、光に同化されるせいか、赤さはあまり目立たない。だから小平さんはベランダでのジャンケン遊びが好きだった。病院の中の蛍光燈の下で見る掌は気味の悪いほどの赤さ。「白地に赤く日の丸染めて、のようだからなあ」
私も蛍光燈は嫌いだった。蛍光燈の下の鏡で見る自分の顔は死神の表情だったからである。掌が赤くなるのは、肝機能が低下し末端の毛細管に血がたまるからだが、そのほかにも目で見る肝臓病の自己診断がいくつかあり、その一つ一つについて小平さんは蘊蓄《うんちく》を傾けた。
例えば「クモ状血管腫《けつかんしゆ》」――医者はスパイダー・スポットと呼んでいる。首筋、胸、肩、腕にかけて、赤い小さな斑点が出来る。よく見ると、中心に赤い点があって、そこからクモが長い手足を広げるような形で、毛細管が放射状に四方八方に走っている。赤い入れ墨のように見えることもある。
私の場合は胸に二カ所、真紅の薔薇《ば ら》のような入れ墨があるが、手や足にも紫の斑点が時々出ては消えている。朝の回診前のタオルの時間、体を拭きながら入れ墨を見せ合ったことがある。副島さんのおなかは、腹水がおさまったせいか、しわが出てたるんでいるが、そのお腹とは対照的に胸の皮膚は張りつめていて、中央部から首にかけていくつかの赤いクモの巣が点在していた。小平さんは右肩から腕にかけて赤紫の大きな斑紋があった。
「これ、遠山の金さん、入れ墨判官の桜吹雪。でも孫は黒い花びらと呼んでいる」。肝臓病患者の毛細管は健康人よりデリケートなものらしい。風邪を引くと鼻血が出やすい。手足の傷もなかなか血がとまらない。目は充血し、歯からも血が出やすい。
唐木さんは急性肝炎で、しかも比較的症状が軽いのだろう。手掌紅斑もなければスパイダー・スポットも認められない。だが、小平さんが相撲の朝汐のようなその豊かなバストを指さして「それも肝炎の証拠だよ」と宣告した時には、かなりあわてていた。確かに物の本には、肝臓の悪い男性の乳は女性のようにふくらむことがある、と書いてある。「唐木さんのはペチャパイ女性より女らしいボインだね」。当人は『肝臓に強くなる本』をとり出して症状の項目を改めて読み直した。
〈男性なのに乳房が大きくなり、ときには痛むこともあります。血管のクモ、赤い手のひらと、この女性のような乳房は、いずれも、肝臓の女性ホルモンの活性をなくする力が弱まったことと関連性があるとみなされています。男性が女性ホルモンを出しているといえば、妙に感じられるでしょうが、人間は男でも女でも、両方のホルモンを出しているものの、その量が非常に違い、男性では男性ホルモンを圧倒的にたくさん出して、女性ホルモンをごくわずかに出すのです。血の中に出されたホルモンを、肝臓がつぎつぎに働きのない物質に変えてゆきます。肝臓が悪くなると、女性ホルモンを不活性化する能力が衰え、そのために毛細血管が広がって、手のひらが赤くなったり、乳房が大きくなると考えられるのです〉
顔にシミができたり、顔色が黒ずんでくるのも肝臓病の特徴だが、みんな顔にはあまり自信がないらしく、お互いに詮索《せんさく》はしなかった。とくに私は、口ひげ、顎《あご》ひげ、揉《も》み上げ……と顔面の半分はヒゲに被《おお》われているので、黒い仮面をつけているようなもの。誰もコメントできるわけがない。しかし、その仮面を剥《は》げば、蒼く黄味がかった汚い地肌があらわれてくる筈だ。
そのほか夜の看護主任の島尾さんの指摘した素人判定法は、白眼が黄味を帯びて濁る。小便がビールまたは紅茶のような色になる。大便の色が、白くなったり、黒くなったり変化する。手の指先が震える。顔や体が痒《かゆ》くなる。肋骨の下が硬くなる。背骨の付近の筋肉がやたらに凝る……など。
そうした、素人にも判る肝臓病の自己診断症状を聞くたびにわれわれ肝民族は一喜一憂するのだが、ある日小平さんは私だけに「おならの方は、如何《いかが》ですか」と訊ねた。「私は出すぎて弱ってしまうんですよ」
小平さんは慢性肝炎になってからこの数年間、歩いていても寝ていても、おならが続出、いまでも自由自在、音楽のリズムに合わせて放屁《ほうひ》できるほどだという。お孫さんの相手をしながらホルンやトロンボーンのように音色を変化させると「孫は喜ぶやら、犬ははね廻るやら」。
物の本には触れられていないが、ガスも慢性肝炎の特徴の一つで、膨腹感は肝臓の解毒、排泄機能の衰えからくるらしい。
私の場合も、ガスは数カ月来、悩みの種だった。とくに街を歩いている時、自分の意志とは関係なく、まるで別個の人間の意志が命じているように出る。ガスの残留感がなくなるまでトイレで放出してくるのだが、いつの間にかたまってしまうのである。朝、眼が覚める。無意識のうちに夜間にたまったガスを放出する。その爽快《そうかい》感は経験者でなければ味わえない快楽だが、病室ともなると集団生活、他人の迷惑を考えなければならないし、第一、男性同士でも恥ずかしい。そのたびに「失礼」と断わってもキリがない。
小平さんは、ある時思いつめたように、既婚者で肝炎の経験ある島尾さんにその悩みを訴えた。若い看護婦の中には“御用聞き”の巡回の際「便やお小水の具合はどうです? ガスは?」とキメ細く訊ねる人もいるが、妙齢の女性にはつい返事をしそびれてしまう。
さすがに島尾さんの答弁は立派だった。われわれは改めて彼女の博識と思いやりに感謝した。「カンキ(肝機能)が良くなれば、次第におさまります。それまで溜《た》めておくのは体に毒。腹ふくるる業ですから。あまり匂いはない筈です。時と処《ところ》を選ばずに、思いきって出るだけ出して下さい。女性の方にもそうお奨めしています。看護婦たちは、町のお嬢さんのように、おならや下《しも》の話で、笑ったり恥ずかしがったりはしません。わたしたち、病院にいて白衣を着ている時は、不感症なんですよ」
その日から小平さんは「肝炎のおならは臭くない」という正論を、誰彼をつかまえては、しきりに強調した。私も今度、妻や娘たちが面会にきたときに、そのことを忘れずに説明しようと大学ノートの『下落合風景』にメモし、アンダーラインをしておいた。
日のあたるベランダで、モーツァルトを聞きながらの肝臓談義は、第三楽章の終り近くの放屁譚《たん》で一段落した。ちょうどその時、病室の窓から、看護婦の新井さんが「みなさん、検温の時間ですよ」と声をかけた。小平さんは立ち上って大きく背伸びをし、ついでに、大きなおならをしてみせた。私も副島さんも、そして急性肝炎の唐木さんまでが、律義にお付き合いをしたものである。
尼僧物語
まだ冬枯れの芝生ながら、春を思わせる天気の良い日は、修道院の庭の景色も暖色を帯びて見え、小鳥が新芽を求めて飛んで来る。餌《えさ》はなかなか見つからないらしく、諦《あきら》めて、すぐ中落合の林の多い住宅街や、下落合の牡丹《ぼたん》寺・薬王院、おとめ山公園の方角に飛び去るが、毎日、確かめるようにやって来る。
庭の木々や灌木《かんぼく》もまだ芽を吹いてはいないのだが、明らかに春の呼吸をはじめていることは、全体の色調が次第に萌黄《もえぎ》色がかってきたことで判る。そんな景色を背景に、修道院アスンタ寮から出入りするシスターや看護婦たちの姿は、外界の人々の往来とは全く異なる別世界の絵である。修道女たちの白い修道衣や看護婦の白衣の制服――つまり「白」のアクセントがちりばめられている絵だ。
ある日、ベランダから散歩に出て、聖堂の脇の小道を辿り、裏庭に出ようとすると、修道院の小窓から痩《や》せた白い手が一本出てきて、一瞬ギクッと足を止めた。手は私を招いている。白いベールをまとった外国人の老シスターが窓の格子から外を見ている。私がお辞儀をすると「ベル、ベル」と呟《つぶや》き、しきりに何かをしゃべっている。景色が綺麗《きれい》だ、と言っているようだったが、そのうち「パッパ、パッパ」に変った。拙い、単語だけのフランス語で会話を交わしたが、要領を得ない。私の語学力もすっかり錆《さび》ついてしまったが、老シスターの風貌《ふうぼう》もかなりの高齢らしく、思考も現実から離れた世界をさ迷っているからだろう。
絶えず静かに笑っている彼女は、老女というよりむしろ幼女だ。私を「フレール」と呼んだのは、修道士と間違えたのかもしれない。
「パッパ」というのはローマ法王のことであろう。法王の来日が間近かになるにつれ、シスターたちの会話にも「パッパ」が多くなった。「法王」とは言わずに、われわれと話をする時には「教皇様」といい、シスター同士では「パパ様」と呼んでいる。そのほか、「カソリック」ではなく「カトリック」、「牧師」ではなく「神父」または「司祭」、「教会」ではなく「聖堂」、「讃美歌」ではなく「聖歌」……など、同じキリスト教でもカトリック独特の呼称があることも段々と判ってきた。
「とにかく教皇様は、わたしたちカトリックの総本山バチカンの頂点に立たれるお方、その方が、日本を歴史上初めて御訪問なさるのですもの」と、シスター是枝は浮き浮きした調子で言う。一階内科病棟の廊下の突き当りの書棚「一F文庫」には、ローマ法王関係の本がふえ、カトリック系の雑誌にも法王来日特集が目立つ。雑誌は「あけぼの」「世紀」「こじか」「カトリック生活」「聖火」「聖母の騎士」……など種類が多い。
「シスターも法王のミサに出席するのですか」「私自身は、いつもの通り勤務するだけです。シスターの中には、修道会を代表しておミサに参加される方もいらっしゃいますし、救護班のメンバーに選ばれた人もいます。何人かの先生は医療団の一員として奉仕されます」「それじゃ、シスター自身は法王に会えないじゃないですか」「お目にかかれなくてもよいのです。私たちの日本に教皇様が四日間もおいでになり、祝福を与えて下さる。それだけで幸わせなんです」「誰だってタレントやカリスマは一目見たいものですよ」「教皇様はタレント?」とシスターは笑って、少し首を傾ける仕草をした。
新聞の報道に関する限り、法王はまさにタレント扱いだった。
私は特定の宗教を信仰していなかったが、わが家は代々が禅の曹洞宗の筈《はず》だった。しかし何故《な ぜ》か墓所は浄土真宗の寺院にあった。学生時代に「正法眼蔵」や「臨済録」の解説付き現代語訳を読み、親鸞《しんらん》にも興味を持ち「教行信証」や「歎異抄」にも凝ったことがあるが、いずれも青年時代にありがちな、友人たちに見得を張り誇示するための読書で、その教義は充分理解していなかった。冠婚葬祭や、季節の墓参の機会に、両親の真似をして合掌するだけの日本的な平均的仏教徒にとどまっていた。
隣りの病室の重症の入星さんがカトリックについてシスター寺本について勉強しだした、と聞いた時、私も触発され、解説書を読み出した。だが、それは神を知ろうとする純粋な気持から出た関心ではなく、せっかく聖母病院というカトリック修道会の病院に入院したのだから、法王やマザー・テレサの来日の機会に、一般教養ともいうべき基礎知識を身につけよう、と思い付いたに過ぎない。一日中聖堂の十字架を見、聖歌を聞き、シスターたちに囲まれて生活する雰囲気の中で勉強すれば、自分の雑学の中で欠落している分野を補うことができる、という功利的な動機からだった。
だが、聖書を座右に置き、一F文庫から宗教書を持ち出してきて読んでも、抽象的な表現の多い翻訳調の文章は頭に入らず、眼が活字の上を滑っていくだけである。結局、子供のころに読んだ聖書物語のストーリーを再確認しただけだった。アッシジの聖フランシスコの生涯やルルドの聖女ベルナデッタの奇跡も、伝記文学として読んでしまった。信仰について説いた文章を読み出すと、まず素直になれない偏屈と反撥《はんぱつ》が警戒心を呼びさます。さもなければ、いつの間にか眠っていて、ページのめくれた本はいつもベッドの下に落ちている。
ある日、シスター是枝が「ヒゲの先生、お勉強ですね」と雑誌を拾ってくれた。私はあわててページのしわをのばしながら言い訳がましく「この病院では何故、宣教活動をしないのですか」と訊《たず》ねてみた。聖母病院にはカトリックの患者も入院しているが、患者の九〇パーセントは仏教徒ないし無宗教者だ。新興宗教のように病人を勧誘すれば、多くの信者を獲得できる筈である。「私たちの仕事は、第一に患者さんの病気を治すことです。修道会は布教活動をしていますが、病院としては、患者さんの身体《からだ》や心の弱みにつけ込んで入信を奨《すす》めることはしません。しかし、もし御関心があれば、いつでも素晴らしい神父様を御紹介申し上げます。いかがですか?」。私は勉強不足を理由に断わった。
病院の患者たちは、シスターを通じてカトリックに接していた。一度この病院に入院した人は、カトリックといえば、すぐシスターの白い清純な姿を思い浮べるだろう。
肝民族の仲間たちと、シスターの魅力について話し合ったことがある。白いベール、ワンピースのような白い制服、白いソックス、白いシューズ……上から下まで白ずくめ。その純白美は、長い黒髪の女性の魅力と一脈通じている、という指摘にはみんなが賛同した。われわれ男性患者はやはり、シスターを女として見ていた。だが、それだけではない。博愛と奉仕の精神からにじみ出る優しさ、清らかさ、思いやり、いたわり、自己犠牲、親切、同情、理解、ほほえみ、明るさ……など、各人が思いついた言葉を並べたてたが、その根本が「愛」であるという点でも意見が一致した。もっとも「愛」という言葉を口にした人は、はにかみとも何ともつかない面はゆさで照れ、口を濁したのだが――。
話が進むにつれて最後に到達したのが「処女」という単語だった。バージン論をめぐり、無信心な肝民族たちの議論は熱中したが、胃民族も加わり、声は大きくなったり、囁《ささや》きになったりした。一度は「性愛のない愛は欺瞞《ぎまん》である」という意見をめぐって議論が沸騰したが、いつの間にか、無垢《むく》な魂への憧憬《しようけい》、敬愛、尊崇、信仰……そしてあの気恥ずかしい“愛”という言葉へとまた揺れ動き、議論は尽きなかった。
そこにシスター寺本が入ってきて、討論会は自然に中断されてしまった。
「みなさんで何の御相談? 長期療養の方ばかりだから、捕虜収容所からの集団脱走の密議かしら」。シスター寺本は看護婦歴四十年以上のベテランだけあって患者の心理を見抜くのがうまい。入院という形で幽閉されているわれわれの鬱積《うつせき》した気持を考えて、絶妙なタイミングで手を差しのべてくる。シスターの魅力をめぐる患者たちのひそひそ話は一種の密議には違いなかった。
長老の小平さんが「寺本さんは酢いも甘いも噛みわけている人だから聞くけど、シスターというのは本当に結婚したくないのですかね。夫も恋人も子供もいなくて、淋しくないのかなあ」と訊《き》く。「あら、そんなお話でしたの。私たちは終生誓願といって、一生結婚しない、特定の人を好きにならないことを神様に誓って修道女になったのです。いや、結婚しているといってよいでしょう。私たちはキリストと結婚しているのです。その証拠に、みんなが結婚指輪をはめているでしょう?」
シスターは右手の薬指の金の指輪を窓の光にかざして見せた。得度式とでもいうべき修道女になるための誓願式では、ウエディング・ドレスで着飾るのだという。「考えに考えた挙句、決心してこの道に入ったのですから、たいていのシスターは神に仕えて神の愛を人々に伝達し奉仕することに、大いなる喜びを見い出しています。でも、こんなお答えではお気に召さないでしょうね。こういうのを大臣の国会答弁というのかしら、ジャーナリストの藤原さん?」
シスター寺本は昭和十一年に熊本医科大学付属病院看護婦養成所を卒業して熊本医大の看護婦になり、すぐ従軍看護婦として日中戦争の戦場の中国に渡った。その後、各地の国立療養所に勤務したが、終戦後に入信、三十四歳の時、誓願して修道女になった。修道院に入る前のことを語らないのはシスター寺本だけではない。ある時、聖母女子短大の学生に入信の動機を問われて「人間、誰しも言いたくないことがあるものです。患者さんにだって医者にも打ち明けられない悩みがある」と答えたという。だが、シスター寺本の場合、若い従軍看護婦として戦場で数多くの悲惨な死を見たことが無関係ではない。彼女の著書『看護の中の死』(日本看護協会出版会)には戦場の死の瞬間の描写は少ないが、私の印象に残っている一節がある。
〈「あっ……」と息をのんだ。看護婦養成所の生徒Tさんだった。口から泡を噴き、耳からも鼻からも血が流れている。次の担架が着いた。Oさんも、Tさんと同じ状態だった。次も生徒。四人目は、誰かわからない泥まみれの男の人で、頭はペチャンコにつぶれて脳髄が外に押し出され、しかも、眼の球が飛び出し、そこに紐《ひも》のようにつながっていた。肩も足も、ぶらぶらになり、わずかに皮膚の皮によって体についていた。西条先生だった。わたしは思わず目をそむけて顔を手で覆った。何と恐しく、悲しいことか。信じなければならない現実、恐怖と不安で歯の根も合わないくらいに体が震えた〉
シスター是枝も入信の動機を明かさない。中学を卒業するとすぐ修道会に入った。彼女は私の妻に「神を信じていたし、シスターに憧《あこが》れていた」と語っただけだったが、別のシスターに聞くと、修道院から定時制高校に通い、その後も働きながら独学を続け、看護学校を卒業し、シスターになってからも、かなりの辛酸をなめたらしい。
二階の外人混合病棟の婦長シスター・バーバラは四十前後の北欧系美人。私が入院するまで三号室の最古株だった清水さんが「二階のシスター・バーバラは絶世の美女で、医者の先生たちも立ち止まって見とれるくらい」としきりに絶賛し、「とにかく一度顔を拝んでみなさいよ」とそそのかすので、ある日、勇気をふるい起こして顔を見に、階段をのぼっていった。すると全くの偶然だったが、シスター・バーバラその人が、同じ階段を軽やかな足取りでおりてくる。私は立ち止り、呆然《ぼうぜん》と、そのしなやかな姿を見送った。その出現の仕方もさることながら、白鳥のような気品と美しさには圧倒されてしまった。彼女は振り返って「何か?」と笑って訊ねた。私は頭を下げて、用事も目的もないのに、また階段をのぼり出した。清水さんは「ソトオリ姫のような透き通る肌」と譬《たと》えたが、シスターは頭から足まで白で被われていて、肌が見える筈がない。だが、その描写はあながち誇張ではなかった。細おもての、透き通るように白い顔の中で、愁いを含んだ眼と、かすかに微笑《ほほえ》んでいる唇がいつまでも脳裏に残った。私は大学ノートの『下落合風景』に「シスター・バーバラ=聖母への思慕をかきたてる気高さ」と書き記した。
シスター・バーバラ・ホーガンは、ローマの修道会本部から十五年前に日本に派遣された。各地で奉仕活動をしながら日本語を学び、日本語で国家試験を受けて正看護婦の資格を取得した。以来、外人病棟の婦長をつとめているが、外人病棟とはいっても、実態は「混合病棟」。日本人の患者も入院している。二階病棟には内科、外科を問わず、比較的入院費の高い差額ベッドが用意されていて、大部屋を好まない裕福な患者の個室が多い。聖母病院の受付ロビーでガウン姿の芸能人や作家などを時折り見かけるが、そのほとんどが、他階の患者が半ばひがんで呼ぶ「お二階さん」族だ。シスター・バーバラは日本語、英語、フランス語、スペイン語……と国連の通訳並みに外国語を使いわけ、外科、内科、小児科……といろいろな病気の患者の看護の総指揮をとらねばならず、休むひまもない忙しさである。
いま、この聖母病院には七人の外国人シスターを含め、約五十人のシスターがいる。そのうち婦長級シスターは約十五人、経理や庶務を担当しているシスターもいる。また他のシスターは修道院、老人ホーム、看護学校、聖母女子短大などでも働いている。
シスターにもサラリーマンと同じように人事異動がある。東京世田谷の瀬田にある日本管区修道院本部は全国二十二カ所の修道院を統轄し、数年に一度、海外勤務を含むシスターの大人事異動を発令する。いったん言い渡された異動には絶対に従わなければならず、シスターの方からの希望や注文は受けつけない。
医師は常勤医が二十人。うちカトリック信者は数人に過ぎない。非常勤や代診、夜勤担当医などを含めると医師の数は約五十人。ベッド数二百の中規模病院としては適正な人数だろう。そのほか、医療技師、ソーシャル・ワーカー、看護婦、事務職員などが約二百名。したがってこの下落合の聖母病院、修道院を運営する社会福祉法人「聖母会」諸施設に働く人の数は合計約三百人である。
聖母病院の院長はマザー・エレナ・ハース。八十七歳。小柄で小肥り、品の良い老修道女で、ときどき、ロビーをゆっくりと歩いている姿を見かける。白い修道衣は足まで隠れ、ロングスカートのふくらみはフランス王朝の宮廷貴婦人の衣裳《いしよう》を思わせる。彼女は小刻みに足を動かしているのだが、その動きはローブに隠れているので、水鳥が水面を静かに滑っていくかのようだ。
マザー・エレナの名前はすぐ覚えた。聖母病院の門を入ると玄関の車寄せの植え込みに、四階建ての建物の上の塔よりもさらに高く聳《そび》えるヒマラヤ杉が四本立っている。赤茶けた煉瓦《れんが》造りの外装の建物が出来たのが日比谷公会堂と同じ年の昭和五年だから、このヒマラヤ杉はかなりの樹齢だろう。春は明るい緑に輝き、夏は涼しい風が大きな枝をわたり、秋は周囲の紅葉の中でひときわ目立ち、冬は、濃い緑が白い雪を乗せて、それ自体がクリスマス・ツリーになる。そのヒマラヤ杉の一本一本に「新宿区保護樹林ヒマラヤ杉、所有者エレナ・ハース」という標識がついている。
マザー・エレナも他のシスター同様、若く見え、とても八十七歳とは思われない。七十歳ぐらいの感じである。看護婦たちは「院長先生は厳格な方」と評するが、ふくよかな表情は温和な人柄を物語っている。老人特有のシミがなくピンク色の頬がつややかだ。若い頃はさぞかし可愛いい少女だったろう。
ある朝、ロビーの待合室で私が本を読んでいると、マザー・エレナが修道院の廊下の奥の方から、ゆっくりと滑るように歩いて来る。暗い廊下から白い小さな人形が次第に近づいて来る様子は、白黒映画のスローモーション・シーンを見るようである。聖堂の見える窓際に立ち止まり、庭の芝生をじっと見ている。そこへジェローム神父がやってきて、二人は何やら立ち話を始めた。最初は「リトル・バード」という単語が聞えたので、芝生にやってくる小鳥の話だったらしいが、やがて極めて事務的な話に移り、マザーは小鳥が囀《さえず》る調子で綺麗《きれい》なイギリス英語を使った。ジェローム神父は、マザーの肩を二、三度軽く叩いて立ち去っていった。マザーはまた暫《しばら》くの間芝生の小鳥を観察していた。
いまマザーが眼を細めて眺めているのは、雀よりやや大きな番《つがい》の小鳥である。窓からの芝生の景色だけを見ると、そこには形の良い大きな庭石が二箇、造型的に配置されていて、禅寺の庭のような日本画の絵模様だが、さらに窓ワクの左上方の青い空に突き出ている聖堂の十字架と、そうした全体の構図を、この廊下の窓からじっと観察しているマザー・エレナを人物像として加えると、私が鑑賞しているのは、どこか外国の、昔の僧院の絵画風景である。
シスター・ジョバンニがやってきた。二人の老修道女が肩を抱き合うようにして窓の景色を見つめる構図は、また別の絵である。「ロワゾ」(小鳥)と言っているので、今度はフランス語で会話しているのだろう。ひとしきり話し終るとマザー・エレナはまた、池に浮んだ水鳥が向きを変えるようにゆっくりとメインロビーの方に泳いでいった。
マザー・エレナは英国人だったが、幼い頃からカトリックの家庭に育った。ロンドン大学医学部卒業の医学博士。欧米でも当時は医科大学を卒業した修道女は珍しかったのではないか。いまから五十二年前、三十五歳の時に、シスターとしてよりも医者として聖母病院に派遣されてきた。彼女はこの病院創設以来の医者だったのである。私の主治医・杉本医師にいわせると「シスターにもピンからキリまである」そうだが、「彼女はね、素晴らしい女でね。本当の聖女ですよ」ということになる。杉本医師は六本木の外国人を対象としたインターナショナル・クリニックの内科医をしていたが、英語をはじめ外国語を自由に操り、自宅も聖母病院の近所の目白にあったので、外人嘱託医の紹介でスカウトされた人である。
長身痩躯《そうく》の杉本医師が、背を跼《かが》めてマザー・エレナの話を聞いている光景は微笑ましい。マザーは可愛いい顔付きで杉本医師を見上げ、ある患者の病状について訴えている。彼女の乳房は腹部まで垂れていることが、白衣の盛り上りからも見てとれる。小鳥が囀るようなひたむきな言葉に杉本医師は、あの外国人特有の鼻に抜ける「フ、フーン」という相槌《あいづち》を打ち、マザーの話が終ると、ゆっくり一語一語区切って所見を述べる。マザーは肯《うなず》いて杉本医師の腰の付近を二、三度叩き、杉本医師の方はマザーの肩に手を置く。
この聖母病院に入院するまで、私はシスターなるものについて何の知識も持ち合わせていなかった。だが、長い病院生活を通して彼女たちの働く姿を見ているうちに、私の中に修道女のイメージが次第に固まってきた。
これまでは町でベールに身をつつんだ女性に往き会うと「あ、尼さんがいる」と珍しいものに出くわした好奇心を、瞬時抱くだけだった。彼女たちの顔は、みな卵のような形と色をしていて無表情だった。つんと澄まし、前方を見据えてすたすたと過ぎていく、手のない機械人形のようだった。
少年時代、姉がカトリックに入信して教会に通っていて、日曜日の礼拝に連れていかれたことがあったが、そこには修道女はいず、神父の話は退屈だった。礼拝が終ると子供たちはノートと鉛筆が貰えるので、その楽しみのために、半ズボンに革靴をはかされる恥ずかしさを耐え忍んだ。ある時姉は「きょうは東京から偉い童貞様がお見えになる」と興奮して出かけたが、そのシスターの話もわけがわからなかった。初めて見るベール姿を、鬱陶しいと感じただけだった。その日は、ノートも鉛筆も貰えなかったので裏切られた気持で帰ってきた。
妻が急性肝炎で入院した時、同室に、他の修道会に属しているシスター朝間がいたが、彼女は当然のことながら、ベッドでは聖職衣をつけておらず、普通のゆかたのような寝巻姿だったので、妻たちが「シスター」と呼んでもピンとこなかった。しかし、妻が危篤状態に陥った時、シスター朝間が同室者たちを引率して聖堂で一晩祈りを捧げてくれたということを知って以来、シスター朝間は修道女として私の眼に映るようになった。
同室の男まさりの気風《きつぷ》の深川さんとシスター朝間とのユーモラスな抗争についてはいくつかのエピソードがあったが、ある日、長らく便秘に悩んでいた深川さんが通便に成功して、感激のあまり「見れば、こんなに太くて長いのが、トグロを巻いているじゃあないか。嬉しくて、嬉しくてね」と吹聴《ふいちよう》して廻ったことがある。たまたま食事の前で、配膳室から夕餉《ゆうげ》の匂いが漂いはじめた時だった。深川さんが、その話を食事のタイミングに合わせて紹介するほどの露出趣味の偽悪家でないことは同室のみんなは知っていたが、笑うことも顔をしかめることもできず、妙な空気が部屋中を支配した。しかし、本人は嬉しさを隠しきれずになおも「それはね、本当に見事なものだったよ」と言い継ごうとする。と、シスター朝間の大きな声が「おだまりなさい!」そして「深川さん。おめでとう。でも、あなたは、みなさんより年長でしょう。しかも立派な女性です。時と場所を心得なさい」。深川さんは頭をうなだれ「ウイ、マ・スール。パルドネ、モア」と小さな声で謝まった。シスター朝間の表情にはシスターの威厳があった。日本語で詫《わ》びなかったのは深川さんがよほど恥ずかしい思いをしたからに違いない。
やはり、妻が入院していた時のこと、一人のシスターが急死した。シスター高木は毎朝、シスター・ジョバンニとともにジェローム神父に従って各病室を訪れ、信者に聖体拝領をしていたが、二、三日姿が見えないので妻が訊ねる、とシスター是枝は「神様に召されました」とだけ答えた。患者たちはみな十字を切った。「でもこの前までお燈明を持って毎朝……」
「シスター高木は肝硬変でお亡くなりになりました。藤原さん。あなたの場合は急性のA型ウイルス性肝炎ですが、シスター高木は血清肝炎です。血清肝炎は輸血がもとで起ることが多く、私たち看護婦はみなガンマグロブリンの免疫予防注射をしているのですが、シスター高木はずっと老人ホームの仕事をしていて、最近、手術室に勤務するようになったのです。先日、ある肝硬変の患者さんの手術に立ち会ったのですが、何かの拍子に、その患者さんの血が彼女に入ってしまいました。でも神様がシスター高木を召されたのです」
妻は、シスター是枝がシスター高木の死についてあまりにも淡々と説明するのに驚いた。アフリカの医療派遣団に参加した別のシスターがマラリヤから肝硬変を患って帰国して、一週間後に死んだ時も、シスター是枝は「ああ、あのシスターは天に召されました」といとも簡単に説明した。寄生虫に起因する肝炎の権威者である杉本医師が「彼女の生命を救えずに残念だ」としきりに悔しがっているのに、シスター是枝は感情を表てにあらわさずに短く事実を述べるだけだった。
しかし、妻は同室のシスター朝間から、シスターたちは外部の人に対しては身内のシスターたちの死について「天に召された」とだけ言う習慣になっていることを、後から聞いた。シスターは感情に溺《おぼ》れてはならないのである。まして看護婦の場合は常に冷静さを保たなければならない。婦長は常日頃から部下の看護婦に「病室では取り乱してはならない」と言い聞かせている。だが、四歳の男の子の臨終の際に、夜勤看護婦の岩崎さんがこらえ切れずに泣き出すと、シスター是枝もつられて泣いてしまった。医師も、幼いいたいけな死に眼をはらしていた。患者の手を握って祈りを捧げていた教育婦長のシスター寺本が、たしなめたが、ついに誰もが声をあげて泣き出した。
三月に入ったばかりのある晴れた日、私はアスンタ寮の前の芝生に寝転んで、修道院の一角をスケッチしていた。ちょうどその一角に、ヒバの木立を洩《も》れた日が射して、その照り返しが、花壇にはね返り、その付近全体が生き生きと輝いていた。一週間二、三冊のペースで進んでいた読書にも飽きがきて、二階の談話室から借りてきて肝民族の仲間たちと一つ一つ完成していったジグソー・パズルもあらかた種が尽きてしまった。真夜中の散歩の病院内のスケッチも一巡した。そこで、庭に出て病院や修道院の建物一つ一つを葉書大のスケッチブックにサインペンでスケッチし、お見舞いに来てくれた人々に、手作りの絵葉書きで礼状を書くアイディアを思いついた。
夢中になっているといつの間にか私の背後に人の気配がし、話し声が聞えた。三人の老婦人が覗《のぞ》き込んで批評している。恥ずかしかったが一応描き終えると、そのスケッチを切り取り「よろしかったら記念に受け取って下さい」と差し出した。三人の老婦人はジャンケンをし、勝った小肥りのお婆さんが小躍りして喜んだ。「老人ホームのベッドの壁に貼《は》っておくわ」「先生は絵描きさんですか」と痩せた老婦人が訊ねた。「いいえ」「日本人の方ですか」「もちろんそうです」「おヒゲが少し赤くていらっしゃるので、外人かと思った。それではどこかのブラザーですか」「いいえ、ただのサラリーマンの病人、アルコール中毒患者です」
それから三人の老婦人とはすっかり仲良くなり、芝生に腰をおろして話をした。私があぐらをかくと、彼女たちも嬉しそうにはしゃいであぐらをかき、私たちは円陣を作った。三人とも明らかに七十歳を越していたが、元気そうで、よく笑った。女性は齢《とし》をとってもやはり、三人寄れば賑《にぎ》やかなものである。三人とも老人ホームの住人でカトリック信者だった。
話題がシスター談義になったのは、もちろん私の方から罪のない老婦人たちをその方向に意識的に誘導していったからである。時どきスケッチを続けるふりをして、スケッチブックに、聞き慣れない言葉を書きつけた。「アグレジエ」「ゲンプ」「タブリエ」などは初耳で、書き留めておかなければ忘れてしまう。後から大学ノートの『下落合風景』に記録するための心覚えである。
昔はシスターはすべて外国人だったという。終戦後は日本人のシスターがふえ、いまでは外人シスターは七人しかいないが、戦前や戦時中は外国人シスターが大勢いることと、カトリック系の国際病院という特殊な性格とから、聖母病院は何かにつけて“米英スパイの巣窟《そうくつ》”という疑いをかけられ、白眼視された。やがて外国人の神父やシスターは軍の命令で隔離され、病院も修道会も日本人だけになり「マリア奉仕会」も「大和奉仕会」と改称を命ぜられた。聖母病院の敷地内外には始終警察の眼が光り、特高の私服刑事が繁頻に出入りした。
シスターたちは僧衣を脱いで、もんぺ姿で近県の農家に米や野菜の買い出しに出かけた。敵機が本土に飛来しはじめると、米軍機が聖母病院に食料、医薬品などの救援物資をパラシュートで投下していくようになった。シスターたちは広い敷地に散開して、外野フライを受ける野球選手のようにパラシュートの行方を追い駆けた。パラシュートの白い布地は修道衣に縫い直して着用した。
戦後は、他の病院の医療品や食料が乏しかったのとは対照的に、GHQ(占領軍総司令部)の配慮のお蔭で聖母病院は比較的裕福だった。米英の特効薬や新薬が優先的に割り当てられる、という評判を聞きつけた患者が、遠方から治療を受けにやってきた。だが、良い評判、悪い評判、いずれもカトリック系国際病院である特殊な性格に起因している。
一時、スチュワーデス殺し事件に関連して非難されたことがあった。スチュワーデス殺し容疑者のベルギー人神父が警察の追及を逃がれるため聖母病院に入院した。カトリック修道会が、カトリック系病院にカトリック神父を病気入院という名目でかくまったという疑いから、新聞も警察も、世間の風当りも厳しかった。半面、この「マリアの宣教者フランシスコ修道会」がエリザベス・サンダースホームに先がけて、横浜の「愛育園」など全国三カ所の施設に、戦争孤児やGIの落し子の混血児を収容し、保護した事実は、あまり知られていない。
聖母病院の名が全国的に知られたのは帝銀事件によってである。近くの豊島区椎名町の帝国銀行椎名町支店に防疫医官・松井蔚と名乗るごま塩頭の中年の男が現われ、銀行員に毒物を飲ませた事件は、連日新聞紙面を飾り、銀行員を救急収容した聖母病院の古い建物は新聞写真やニュース映画で紹介された。しかし、スチュワーデス殺しでも帝銀事件でも、聖母病院で黙々と看護に専心するシスターたちの姿はほとんど紹介されなかった。
戦時中の「大和奉仕会」時代に横浜や軽井沢に強制疎開の形で隔離収容されていた外国人シスターたちが母国に帰っていくと、その欠員は日本人シスターで埋められ、次第に日本人の割り合いの方が多くなっていった。それでも修道院の中では、日本人も外国人もまだ洗礼名で呼び合っていた。例えば、当時の理事長のシスター長井は、シスター・フランチェスカと呼ばれていた。また修道院内部では、フランス語とラテン語が“公用語”だったので、シスターたちは一所懸命、語学を勉強しなければならなかった。彼女たちの学歴は、中学校卒から大学卒までさまざまだったが、神学と語学だけは必須科目で、その勉強ぶりは受験生顔負けだった。横浜の港にアメリカやヨーロッパから修道院宛《あ》ての荷物が着くと、当時はシスターたちが受け取りに出向いたが、税関吏の取り調べが執拗《しつよう》を極める時には「ワタシタチ、日本語シャベル駄目デス」と言ってフランス語やラテン語でまくしたて、係員を煙に捲《ま》き悦に入ったりした。彼女たちは「私のフランス語が通じた」「あのお役人、ラテン語がわかったらしい」と武勇伝を披露するのだった。
一時期までは、シスターの社会にも厳然とした位階制度が残っていて、フランス語の呼称「メール」(母)、「スール」(姉妹)、「アグレジエ」(その他大勢)の三段階にわかれていた。兵隊の位でいえばさしずめ「将校」「下士官」「兵卒」である。その位階の序列に従った礼儀作法を守らなければならなかった。聖職衣はまるで平安朝時代の十二単《ひとえ》だった。包帯のような白い布地が幾重にも体にまきつけられ、アラブの女性のように眼だけが覗いていた。衣は人前ではできるだけ肌を見せないようにデザインされていたのである。修道衣は重く、シスターたちはまるで白い蓑虫《みのむし》であった。頭に被《かぶ》る兜《かぶと》のような帽子はボンネット、額、頬、顎《あご》の部分を被《おお》う布巾はゲンプといった。その下には胸によだれ掛けのような布巾を四枚重ねる。その上にブラウスのようなタブリエをまとう。そして超特大ワンピースのようなガウンの修道衣をはおるのが正装だった。
複雑なヒダのある“ワンピース”は、バンドや帯は、用いずに、たった三本のピンで要所要所をしっかりととめる。
修道院での生活規律は極めて厳しい。日本の旧陸軍では武器や備品を一つでも紛失しようものなら、陛下から拝領した大切な品物を失したという科《とが》でビンタや営倉入りだったが、シスターたちも白い“ワンピース”をとめるピンを一本失くしただけで、陸軍の二等兵のようにおののいた。上官に知られぬように仲間同士で協力し、捜索隊を編成し、修道院内外を隈《くま》なく探し廻る。老人ホームのシスターがなくしたピンが、鶏小屋のトリの糞《ふん》の中から出てきたことがある。そのシスターは糞ごと握りしめ、嬉し泣きに泣いた。
そこまでシスター物語を長々と話してきた痩《や》せた老婦人は、「西洋の諺《ことわざ》に、不可能な作業の喩《たと》えとして、ワラ小屋の中で針を探す、という言い方があるけど、彼女はトリ小屋の糞の中から探し当てたのだから偉いでしょう。あの壮挙はいまでも語り草になっているんですよ」とため息をついた。そういう彼女は元外交官夫人だけあってなかなかの教養人である。
私は彼女が一息ついている間にすかさず「修道衣のブラウスやワンピースの下には下着をつけているんでしょう? どんな下着なのかなあ、ブラジャーとかパンティーのようなものかしら」と訊いてみた。巧妙に水を向けたつもりだったが、このはしたない好奇心は結局、満たされなかった。それまでおもしろおかしくシスターたちのいでたちを描写していた彼女たちも、その質問にはいささか戸惑ったらしい。小肥りの老婦人は少し頬をあからめて「下着はタオル地や木綿地。シスター自身が、自分のものは自分で作ったのよ。だからデザインもいろいろあるんじゃないかしら」。
シスターたちは外出の時には黒いベールを被り、白い聖職衣の上には黒いマントをはおった。「いまでいえばスーパーマンというところね、それがね、ぱっと翼のように広げればフライング・ナン(空飛ぶ尼僧)のように空中が飛べそうなマントなの。けど、実際は白い着物を沢山重ねているから、重くて飛べはしないでしょうが」
鎧兜《よろいかぶと》に身を固め合戦に出陣する武士のような装束のシスターたちも、普段は自分たちがどのような姿形をしているのか確かめようがない。修道院内では鏡の使用が禁じられていたからである。修道院の窓からは、よくシスターの顔が覗き、外の景色を眺めていた。だが彼女たちが見ているのは外の景色ではなかった。窓ガラスに映る自分の顔を見つめていたのである。
美しいものに憧れる本能をほとんど抑圧するような規律がしかれていた。ヘアピンや櫛《くし》も模様のついたものは許されなかった。石鹸《せつけん》も、匂いのする石鹸はなかった。まして、オーデコロンやクリームは論外である。もっとも米国人のジェローム神父は、いつもオーデコロンの匂いとワインの香りをただよわせて病室を徘徊《はいかい》していた。人前で物を食べることすら、はしたないとして禁じられていた。外出は、常に二人以上の団体行動に限られた。これは一種の相互監視体制であった。
「シスターはキリストと結婚したのだから、現実世界の男性の関心を引くような行動をしてはならないの。キリストに対して貞節でなければならないわけね。カトリックでは信仰をよく恋愛に喩えるけど、キリスト教の神ってとってもシット深く、人間以上にやきもち焼きなんです」。この眼鏡をかけた老婦人の解説は実に判りやすかった。「キリスト教の神はシット深い」という分析には感服した。「お婆さん。あなたもカトリック信者でしょう。神様に嫉妬《しつと》されたことはありますか?」「少女時代にはシスターに憧れたこともあったけど、あれは宝塚に夢中になるようなものね。私は極く平凡な女の子でしたから、ハンサムな男の子に初恋の想いを抱き、それは片想いで淡く消え、主人とお見合いして結婚し、幸わせな家庭を持ち、子供たちが生れ、その子供たちが結婚し、孫が生れ……」その幸わせな老女が何故《な ぜ》老人ホームに入っているのかは説明しなかったが、彼女に不幸な影は射していない。あくまでも陽気で、少女のように、何でもおかしく笑ってしまう人である。
やがて戒律の厳しいシスターたちの生活にも“自由化”の波が押し寄せた。一九六〇年第二バチカン公会議で、カトリックは他のキリスト教宗派よりかなり遅れてではあるが、大幅な自由化方針の戒律緩和政策を打ち出した。社会福祉法人「聖母会」のシスターたちも古い規範から解放されて重い鎧兜を脱ぎ、機能的な白衣を着て活発に動きはじめた。いまでもお化粧こそしていないが、自分の顔を鏡で見ることができる。鏡の中で笑ってみることもできる。長い間自分に見とれていても、最早叱られることはない。大きな口をあけて焼き芋を食べることもできる。フランス語、ラテン語よ、さようなら。日本語を自由にしゃべることができる。むしろ、外国人神父やシスターたちが難しい日本語を勉強しなければならなくなった。
眼鏡を掛けた老婦人のシスター観
「シスターたちだって、私たち普通の女と同じよ。嫉妬、意地悪、喧嘩《けんか》……と、世間一般の人間関係と変りない。でも、やはり彼女たちは純真だわ。どんなシスターでも、心の底から神を信じているみたい。昔は、シスターとはお金持ちのカトリックの娘がなるものと相場が決まっていたわ。信心深いカトリックの家庭の、綺麗《きれい》な娘はシスターに憧れる。両親も親類縁者も、その娘がシスターになることを一門の誇りに思う。だから、誓願して娘がシスターになると、まるで東大に合格したように家をあげて喜んだものだった。だから箱入娘のお嫁入りと同じように、修道院にはたくさんの持参金を持たせるの。昔は持参金の多いシスターほど“出世”したりして。
看護婦資格や外国語などの特殊技術を持っている人は例外で、普通のお嬢さんは、世間知らずのままシスターになる。だからシスターには無知な人が多い。患者さんの足を洗うのに軽石を買うことになったら、ホームのシスターったら千円札を出して、これで足りるかしらですって。でも私の知っているあるお嬢さんは中学校を卒業して修道院に入ってから、あまりの窮窟さに息がつまりそうになって、吐け口がないものだからノイローゼになり、飛び出してきちゃった。今は明るい大学生よ。平凡なシスターに限って、特権意識を振りかざす鼻持ちならない人が多いわね。私はシスターでございって、白いベールを着ただけで威張っている」
小肥りの老婦人のシスター観
「シスターって、みんなよく働く。シスターって、ケチな人が多い。歌のうまい人がずい分いるわ。それから、シスターってトランプ遊びやゲームが好きね。ゲームをすると“ズル”をするシスターがいる。その“ズル”が、またとてもうまいんだから。勝負に負けると、もう一度、もう一度とせがむ。シスターって、おいしいものに眼がないみたい。普段は外出しても、レストランに入ることなぞあまりないものだから、修道院や老人ホームの祝賀会や謝恩会の会食がとっても楽しみ。私たちだってそうだけれど。
ケンタッキー・フライドチキンなんか最大の御馳走らしいわ。会合でも人の話なんかろくに聞かず、皆で歌を歌う時も一緒に歌わずに、ただひたすら食べているシスターがいる。でもシスターって、たいてい朗らかでお茶目で、よく笑う。私もよく笑うけど。笑い上戸のシスターってもう止まらないんだから。シスターって、みんな子供のように無邪気で可愛いい」
痩せた老婦人のシスター観
「ほとんどのシスターが、恋愛の経験がない癖に恋愛に対して理解を示そうとするのは、反動かしら。でもシスターにはもう一種類あって、恋愛や男性をいやらしいと本当に思い込んでいるシスターもいる。老人ホームでも看護婦寮でも、男性から電話が掛ってくると、どういう御関係? って必ず訊《き》く。ノースリーブやジーンズを禁じるシスターもいる。かと思うと看護婦さんたちに、早く恋人を作りなさい、とか、売れ残らないようにね、とけしかけたりする。昔と違っていまのシスターはテレビを観《み》て、沢田研二が素敵とか、やはり加藤剛がナンバー・ワンだとか、言ってるわ。この間なんか、お婆ちゃんも杉良太郎のファンですかなんておちょくってみたりする。私、杉良は大嫌い、野口五郎が好きって言ってやったけど」
私は三人の老婦人からシスターと性の問題について何とかして話を聞き出したいとチャンスをうかがっていたのだが、下着の話だけでも空振りに終ったほどで、話を持ち出す機会がつかめなかった。他の修道会のシスターのスキャンダルについてなら聞いたことがあるが、いまこの「聖母会」の聖母病院に入院していて、この類の取材をするのは非常に難しい。また私自身、入院以来好印象を持っているシスターたちのイメージを、自らこわしたくはなかった。
女としての妻の意見を聞くと「シスターだって女、メンスのある間は子宮で物事を考えることがある筈よ。でも、性の悩みを乗り越えながらシスターは成長していくのかもしれないわね」。出入りのマッサージ師やセールスマンとねんごろになるなど、どの修道会にも一つや二つはスキャンダルがあるものだが、この修道会の醜聞はほとんど聞いたことがない、と誰しもが言う。ただ聖母病院に入院していたブラザーが性病にかかっていたり、検査の結果、トリコモナスが検出されたりして、医者も看護婦もシスターたちも唖然《あぜん》としたことがあった。
この五年間に、還俗《げんぞく》して結婚したシスターは少くとも二、三人いる。老婦人の一人はそのうちの一人を非常によく覚えていて「あのシスターは本当に綺麗だったね。マリア様のようだった。病院の若いハンサムなお医者さんと結婚したの。その話が知れわたると病院中がアッと驚いたわ。それ以来、暫くの間、若い独身のお医者さんは採用しなかったほど修道院ではショックを受けたらしい」。
修道女が還俗するためには、ローマ法王に還俗請願を出して、審査を受け、許可を得なければならない。還俗した修道女は、修道会から去らなければならない。
三人の老婦人のシスター観に耳を傾けている間、私の頭の中には、これまでに観た修道女を主人公にした映画の数々のシーンが浮び上って、現実のシスターのイメージと映画の中のシスターが重なり合っては消えていった。音楽好きのトラップ一家に家庭教師として住み込んだ若い陽気なシスターがやもめ暮しの貴族と結婚し、ナチの迫害を逃れて家族で合唱団を結成するミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」。外界から閉ざされた戒律の厳しい修道院の中で、性と信仰の相克に悩む修道女を、冷い黒白フィルムで突き放して描いたカワレロビッチ監督のポーランド映画「尼僧ヨハンナ」。インドの山の中の絶壁にある修道院で、地方王族の王子を愛してしまうシスターと、逞《たくま》しい青年技師の魅力に抗し切れないシスター、の二人の物語を絡み合わせた英国映画「黒水仙」。そして、シスターに憧れて終生誓願した少女がアフリカの奥地で看護活動しているうちに医者と結ばれ、還俗するまでのストーリーを清らかに描いた「尼僧物語」。
私の頭の中では、主演のジュリー・アンドリュース、ジーン・シモンズ、デボラ・カー、オードリー・ヘップバーンが笑い、歌い、悩み、泣き悲しむ表情が、何度もクローズアップされた。
すると、白昼夢のフィルムの焦点がぼけて、たちまち現実の世界に呼び戻された。そこは春らしい日ざしの芝生の上だった。三人の老婦人がほこりをはらって立ち上って、背中をのばしたり、あくびをしていた。そばにシスター寺本と老人ホームのシスター安保が立っていた。
「両手に花どころか、女の子三人に囲まれてお楽しみ。随分おもてになるのね」。シスター寺本の顔が太陽の光線を受けて眩《まぶ》しかった。彼女は白衣のそでを半分たくしあげて、いかにも仕事の最中という感じだった。「女の子は三人ではありません。シスター、あなたたちもいれて五人です」「女の生徒さんを集めて何の講義をなさっていたの」「シスターの生活についてあれこれと」「どうせ新聞記者がひねくれて斜めに眺めた悪口じゃないかな」「いや御婦人方は、口をそろえてシスターたちを讃《ほ》めそやすことしきり。悪口なんてとんでもない。私も全く同感でした」
シスター寺本は、これから老人ホームの月例老人大学講座が始まるのでシスター安保とともに老女たちを呼びに来たのだった。講師は上智大学の外国人神父、神学部教授でテーマは「来日する教皇様とマザー・テレサ」。私も聴講を希望するとシスター安保は聞き入れてくれた。ただしそれには一つの交換条件があった。退院するまでにその老人大学講座で私が新聞記者らしいテーマで一度、講演をすること――という条件である。
脱病院遁走《とんそう》計画
〈ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、二月二十三日午後三時十二分、東京・羽田空港着の特別機で来日した。二百六十四代にわたる歴代ローマ法王の中で、日本を訪問したのは、ヨハネ・パウロ二世が初めてで、四日間にわたり、東京、広島、長崎に滞在する。空港で伊東外相らの出迎えを受けた法王は、直ちに文京区カテドラル聖マリア大聖堂に向かい、聖職者の集いに出席した。きょう二十四日は皇居に天皇陛下を訪問するほか、宿舎のローマ法王庁大使館で鈴木首相と会談する……〉
私は職業柄、身近に起きた事件だけではなく、世の中の出来事を、自分なりの新聞記事に仕立てて考える癖がある。現実の出来事に即し、誰が(WHO)、いつ(WHEN)、どこで(WHERE)、何を(WHAT)したか。それは何故(WHY)? という新聞記事に不可欠の五つのW(疑問詞)と一つのH(HOW)を盛り込んで、事実報道の文体を頭の中で組み立てる。
〈法王は、気温三十度を超すフィリピン、グアムから、小雨の降る二・七度の東京に降り立った。赤い帽子に白い外套《がいとう》。旅の疲れも見せず、にこやかに手を振って歓迎にこたえたあと、滑走路に敷かれたじゅうたんにひざまずいて、独特の儀式である「大地への接吻」を行ない、日本への敬意を表した。法王は差しかけられた傘の中で、出迎えの一人一人と言葉をかわし、振り袖姿の信者たちが千羽鶴のレイを贈ると、これを首にかけ、信者たちに祝福を与えた……〉
それから、記事の見出しを考える。「ローマ法王、初の来日。ひざまずき大地にキス」の二本見出し。本記は六十行(一行=十五字)以内にまとめ、あとは雑観(情景描写)を含め別稿を数本と写真数枚。別稿は、日本国民あてのメッセージ要旨。海外の野外ミサなどでよく雨に祟《たた》られ“雨男”と呼ばれる法王が「私は日本にも雨を持ってきましたよ」と里脇枢機卿《すうきけい》に語りかけたエピソード。東京カテドラル聖マリア大聖堂における白柳誠一東京大司教の挨拶と法王との対談、パイプオルガンの聖歌を背景にした「ビバ・パッパ法王」の大合唱。同じポーランド出身で、アウシュビッツ収容所で犠牲的な殉死を遂げたコルベ神父とともに戦前に来日、長崎で布教、奉仕活動を続け戦後は浅草の「アリの町」で戦災孤児らの救援活動に貢献したゼノ修道士との接見……など。
そうした自家製の新聞記事を『下落合風景』ノートに書きつけていったが、取材ソースはすべてテレビだった。新聞のTVラジオ欄で見当をつけておき、時間がくると二階の談話室にあがっていく。
各テレビ局とも、午前八時半から一時間ないし一時間半のモーニング・ニュース・ショウを放映している。午後は三時ごろからアフタヌーン・ショウがあり、そこでも生中継か録画で、随時その日の話題を取りあげる。九時までのゴールデン・アワーには、報道特別番組や特別企画番組が組まれる。
二階病棟の階段を登ると、談話室に入る前に、必ず廊下突き当りの二〇三号室の気配を確かめた。そこは法王に“万が一の事態”が発生した場合の法王専用の病室スイート(続き部屋)だった。一行来日の期間だけ臨時に雇われたガードマンなのだろう、見慣れぬ背広姿の男が部屋の前を、往ったり来たりしていた。私がその前を通っても別に怪しむ様子もない。ガードマンは私に軽く会釈すらした。
ふだんは閑散としている談話室だが、法王来日の日に限ってソファーは二つとも満席で、しかも六人の観客はすべて女性だった。二日目も、そして三日目も観客の顔ぶれは変らない。外国人のシスターが三人、日本人のシスターが三人。六人ともかなりの高齢である。チャンネルの主導権は、一番齢をとっているらしいおしゃべりのフランス人シスターが握っていて、一つの局で法王の動静報告が終ると、別のチャンネルを次ぎ次ぎに廻してはパッパ(法王)を追いまわす。
テレビの法王に関する限り、報道ぶりは芸能人並みである。後楽園球場の野外ミサ。天皇との謁見《えつけん》。首相との会談。広島平和記念公園での式典。吹雪の中、長崎陸上競技場での歓迎大ミサ。浦上天主堂での聖職者の集い……。カメラは法王の姿を丹念に映し出し、あの、お碗型《わんがた》の赤い帽子を被った愛敬ある笑顔をクローズアップさせる。
そのたびに、老シスターたちは「おお、パッパ」、「ああ、パッパ」。パッパ、パッパと促音便の溜息《ためいき》をついてはお互いに手を握り顔を見交わす。司会者、レポーター、ゲストたちの解説は、陳腐な形容詞を使った感動を促す科白《せりふ》と口調で、時々一人の日本人シスターが同時通訳よろしくフランス語に訳すと、外国人シスターたちは、また「おお」とか「ああ」とか息をのんでその都度、感激のジェスチャーを示すのである。
来日二日目の夕方、東京・九段の武道館の法王と若者との対話集会「ヤング・アンド・ポープ大集会」。ダークダックスが法王の故郷ポーランドの民謡「森へ行きましょう」を歌い出すと、法王は美声のバリトンで唱和し、幼稚園児たちが輪になって踊ると、その輪に加わってスキップする。シスターたちは、司会のタレント歌手アグネス・チャンとともに涙を流し、メロディーを口ずさみ、立ち上り肩を組んで体をゆすり、次の歌では手拍子を打ち、足踏みすらした。
そこにいるのは、まるでグループ・サウンズに熱狂の嬌声《きようせい》を張り上げる女の子たちだった。ただ一人の男性観客である私は、身じろぎもせずにじっとテレビを見つめているだけである。自分でも何となく居心地が悪く、場違いな偏屈者と思われているのではないか、と気になったので、シスターたちと視線の合った時だけ、笑いを返すことにして、写真撮影の時の「チーズ」の要領で白い歯を見せた。彼女たちも肯《うなず》き、その微笑《ほほえ》み返しの応酬ですっかり打ちとけ、私はひとかどの修道士になったかのような気さえするのだった。
この四日間は、病院中どこでもまさに法王ブームで、病院の廊下、病棟のナース・ステーション、病室の壁には、笑顔の法王が祝福の手を差しのべるポスターが貼られ、シスターや看護婦たちの話題も、もっぱら法王に関するものだった。そんな雰囲気の中では信者でない患者も、この期間だけはインスタント・カトリック信者になってしまう。
小平老人は看護婦をつかまえては「法王様は優しい顔をしているし、悪い人間ではないらしいね」などと、しきりにお世辞を言った。「ヤング・アンド・ポープ大集会」に参加した聖母女子短大の実習生の興奮した報告に病室中が熱心に耳を傾けた。肝硬変と腎臓《じんぞう》病を併発している副島さんも、ふだんは無口だったが、この時ばかりは「パパさんは偉いよ。人類史上初の原爆の惨禍に見舞われた広島で、核兵器の撤廃と軍縮を訴えた人は世界でパパさんだけだ」と感心し、「あの日本語のうまいこと。いや、日本語や自分の国のポーランド語だけではなく、英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、ロシア語の八カ国語で説教したんだとさ」と新聞の知識を披露して法王礼讃に加わった。
しかし、旅程も終りに近づき法王が長崎入りした日、唐木さんが「法王は、寺の坊主と同じように質素な精進料理を食べるものと思っていたら、分厚い牛肉を喰うんだね。オードブルがフォアグラだってさ。鵞鳥《がちよう》にむりやり酒を飲ませ肝硬変にして、その肝で作ったパイを法王様がワインのオツマミに召し上るとはね」と新聞記事を紹介しながら話題を提供すると、副島さんは途端に顔色を変えてしまった。ベッドの周囲にカーテンを引きめぐらし、その日は結局、一日中顔を出さなかった。
比較的軽症の急性肝炎の唐木さんは、日ごろから重症肝炎患者の気持ちを逆撫《さかな》でするような言辞を弄《ろう》するが、副島さんがこの日の唐木さんのフォアグラ発言に腹を立てたのか、法王に不信感と不快感を抱いたのかは、判らない。だが、肝硬変のフォアグラが不機嫌の原因だったことは想像に難くない。
長崎発のその新聞記事を雑感風にまとめると――
〈長崎滞在二日間の食事は朝食をのぞきいずれもフルコース。到着した二十五日夜のメニューはコンソメスープからはじまってコーヒーまで九品から成るディナー。魚は“ナマものはご法度”のため、伊勢エビのグラタン風。この日の朝、九十九島で取れた一匹平均八〇〇グラムの伊勢エビを生きたまま長崎に運び、調理する。メーン・ディッシュの肉は、厚切りローストビーフ。特注した霜降りのサーロインを二度ローストし、温いうちに目の前で三〇〇グラムの厚さ(約一・五センチ)にカットして出す。健啖家《けんたんか》の法王のために「お代わりは何回でもOKです」とか。二十六日の朝食は、あっさりしたアメリカン・スタイル。昼は煮込み。フォアグラのオードブルのあと、赤ワインでとろとろ煮込んだオンドリ肉が出る。離日直前の晩餐《ばんさん》は、九十九島直送の蛤《はまぐり》スープからはじまり、魚料理は、同じく九十九島産の車エビ……と長崎の味もたっぷり〉
この食欲をそそるメニューの描写には、副島さんならずとも入院患者なら誰でも、文字通り垂涎《すいぜん》の羨望《せんぼう》と嫉妬を覚えるであろう。さまざまな厳しい制限を加えられている質量味とも貧しい病院食に比べて、豪華な伊勢エビ、血のしたたりそうな分厚い霜降りの牛肉、頬もとろけそうな赤ワインの煮込み、香り漂う蛤のお吸い物……。食物の恨みは最も怖《おそ》ろしいというが、はしゃぎ過ぎの新聞報道のお蔭で、法王はせっかく獲得しかかった潜在的なカトリック信者を何人か失ってしまったらしい。とくにフォアグラを“共喰い”した肝硬変患者はあっさりと元の無神論者に再転向してしまった。
こうした一見些細《ささい》な出来事を通して入院患者たちは、自分たちが外の世界の“普通の人々”とははっきりと違う囚人であることをまざまざと思い知らされる。そしてひがみやすい自閉症にかかってしまうのである。
私は毎日、二階混合病棟の談話室のテレビで法王動静を取材してきたが、法王一行は無事に東京、広島、長崎の行脚を終えていまや日本を離れるばかりである。アラブ系の偏執狂が法王をつけ狙って襲撃する、といった“万が一の事態”はついに発生しなかった。
日本の極右も極左もさしたる反応も示さず、日本中が一人のタレントをいつもの有名外人を迎える熱気で歓迎し、そしてその熱はさめようとしていた。したがって、法王のために特別に改装した二階病棟二〇三号専用スイートも救急患者を迎えることなく、聖母病院は帝銀事件やスチュワーデス殺し事件の時のようにマスコミの好餌《こうじ》にならずに済んだ。これは誠にめでたいことである。もっとも、幻のスクープを夢に見、予備取材と現場検証を重ね、準備を進めてきた内科病棟潜伏中の新聞記者は少しばかり気落ちしたが。
しかし、カトリック系国際病院に入院中にカトリック総本山バチカンの法王が来日したことは、私の、宗教、キリスト教、カトリックに対する関心をいっそうかきたててくれた。病状は、肝障害の度合いを示すGOT、GPT、ガンマGTP、LAP、ICGなどの酵素数値が一高一低を続けたが、上昇傾向を示し絶望的な鬱《うつ》状態に陥って「死」が頭を横切る時など、その思考と想念には必ず「神」ないし「仏」といった宗教的角度からの考察と内省が加わるようになった。私は、そのきっかけを与えてくれた素晴らしい笑顔の法王に感謝し、法王の出発原稿を書いた。
〈歴代のローマ法王として初めて日本を訪問、陽気で気さくなバチカン外交を繰り広げたヨハネ・パウロ二世は、四日間にわたった「平和の使者」としての旅を終え、二十六日午後十時九分、小雪舞う長崎空港から日航特別機で帰国の途についた。これに先立ち法王は「東京、広島、長崎の旅で、平和と人類の幸わせを願う私の訴えが世界中に届いたと確信します。温かく迎えてくれた日本の皆さまに感謝し、いつまでも変らぬ愛をお約束します」と、離日のメッセージを発表した。法王は滞日中、各地で熱狂的な歓迎を受けるとともに、多くのものを日本に残した〉
初めて入院した人の心理は、誰しも、ほぼ似たような軌跡のグラフを描きながら変化していくものらしい。最初の一週間は、死に対する秘《ひそ》かな恐怖と、見知らぬ世界に突然迷い込んだ不安とで胸の中がいっぱいだが、次第に慣れてきて、病状が確定し、回復の見通しがある程度ついてくると、新しい生活環境に順応する本能が働き、二、三週間もすれば“住めば都”と達観するものだ。
だが、二カ月以上の長期入院となると、たとえ病状は回復傾向を辿《たど》っていても、病院特有の重苦しい閉塞《へいそく》的な空気に耐えられなくなってくる。たいていの人は、それをじっと我慢しているのだが、その間も絶望と自棄のパニックが周期的な発作のように訪れ、すっかり落ち込んでしまう。
午前五時半に検温がはじまり、朝食、回診、安静、昼食、安静、夕食、安静、就寝――という単調な行事の繰り返し。身体《からだ》を「安静」にしている時、精神は決して「安定」した状態ではない。それが、二カ月も三カ月も続き、さらにそれから先、いつまで続くか判らないとなると、どんな陽気な人でも、辛抱強い性格の人でも、不安が昂《こう》じて恒常的な鬱状態に沈んでいく。冗談を言って他人を笑わせたり、快活に振舞いながらも、観客がいなくなると演技は止まり、笑いは自然に消えて、荒涼とした虚空の世界に落ち込んだたった一人の自分を発見して、耐え難い気持になる。涙こそ見せないが、そんな時、その人はもう何も考えずにただ泣いているのだ。
法王来日の期間中、テレビ取材に夢中になっていた私も、法王が無事に帰国し、熱中する対象を失うと、心理学の教科書に書いてある通り、無期懲役の囚人のような鬱状態に戻ってしまった。
患者にとって病院とは、鉄格子や有刺鉄線のない刑務所のようなものである。入院患者はそれぞれの罪状ならぬ病状の禁固刑の受刑者だ。敷地構内からの無断外出は許されない。さらに、病棟や病室から廊下に出ることを制限されている患者もある。絶対安静の重症患者であれば、ベッドから下りることすら禁じられ、排便排尿もベッド内で看護婦の助けを藉《か》りなければならない。尿道から膀胱《ぼうこう》まで管を通して導排尿するカテーテルをつけたままの人もいる。危篤状態に陥った時の妻がそうだった。
安静度は、ベッドの上ですら動いてはならない絶対安静の1度から、“普通の人々”の8度まで、八段階にわかれている。2度はベッドの中で横を向いてもよいが、動くときには看護婦の介助を受けなければならない。3度になれば、病室の中での歩行が許され、トイレにも自由に通え、食事も自分で食べる。4度で入浴が許され、5度は病院の庭を自由に散歩できる。6度は“普通の人々”の五割程度の生活、7度はその七〜八割……という拘束度合だ。急性肝炎の妻は、危篤時の1度から三カ月かかって6度にまで到達し、退院した。慢性肝炎疑の私の場合は、入院時から5度で、いまは6度、“普通の人々”の五割程度の活動が許される。一週間に一度は外出許可が貰えるので、実質的には7度、かなり楽な禁固生活である。にもかかわらず、自由を奪われているという囚人のような被害意識が常につきまとう。
時々、サンダル履きのガウン姿のまま、ふらっと玄関を出、ゲートを通り抜けて、そのまま下落合の通りの坂を下り、上落合のわが家に帰ってしまおう、という衝動に駆られる。実際、玄関受付のガードマンの柴田さんに手をあげて挨拶し、玄関を出てみる。振り返ると、正面の等身大のマリア像が微笑みながら見送ってくれているようだ。車寄せからそれた歩道からゲートに出て、もう一度後を振り返ると、病院の建物は病院長のマザー・エレナ・ハース所有の鬱蒼《うつそう》としたヒマラヤ杉に見え隠れしている。この光景ともおさらばだ、と手を振って、すたすた、と歩き出した。が、足はそこで止まり、ガウンのポケットからハガキを一枚取り出してゲート脇の赤いポストに投函《とうかん》しただけである。きびすをかえし、再びマリア像の迎える玄関をまたぎ、内科病棟のドアを開け、廊下の途中の三号室のカーテンをくぐり、D号ベッドに横になる。深い溜息をつく。
用事があればこちらから電話をするから、頻繁に面会に来る必要はない、と妻や娘たちに厳重に言い渡したことはすでに後悔しているのだが、今更、淋しいから会いに来てくれ、と哀願するわけにはいかない。看護婦たちがナース・ステーションの前に飾った愛らしい紙びなは、桃の花と菜の花に囲まれて、はなやいで見える。ハガキにひな人形をスケッチし、丁寧に彩色して「三人の愛人たちへ。ひな祭おめでとう。とくにY1、Y2両嬢の都立高校合格を祈願します」としたためたが、センスもユーモアもない文言は、今の私の気持をそのまま表わしており、われながら哀れになる。面会に来た娘たちは「パパって、歩いて十分の家に手紙を書くんだから、全く変わっているよ」とからかう。しかし「余程退屈みたい。でも、スケッチは段々上手になってくるわよ」と讃めてくれる。
もちろん、孤独なのは私だけではない。幽閉の辛さに耐え兼ねて脱走してしまった人もある。肝硬変の副島さんの病状は次第に快方に向いつつあったが、腎臓病と膵臓《すいぞう》病を併発しているため、食餌《しよくじ》制限が傍《はた》で見ていても気の毒なほどだった。肉類不可、野菜不可、ジュース不可。朝は何もつけないトースト一枚と特製のスープと卵一箇。昼と夜はドンブリ一杯の御飯とゼリー状の栄養食か特別スープ、たまに豆腐が半丁分ついてくるが、もちろん醤油《しようゆ》は無塩醤油。
祝祭日の昼食には特別メニューの御馳走が出る。桃の節句の日は白玉入りのお汁粉だった。副島さんの隣りの小平老人は気兼ねしながら黙々と食べていた。小平さんをへだて遠くにいる唐木さんが例によって「わあ、このお汁粉は実にうまい。感激だね。ボクは退院したら辛党、甘党の両刀使いになるよ。病院のお汁粉ですらこんなにうまいんだから、娑婆《しやば》の餅入り善哉《ぜんざい》はもっとうまいだろうなあ」と大きな声ではしゃいだものだから、副島さんはすっかりふてくされてしまった。先日、ローマ法王の食事のフォアグラで、頭に血がのぼったばかりだったが、この日は副島さんにはもう一つ面白くないエピソードが重なっていた。
副島さんは、食餌制限されていながらも高カロリーを摂取しなければならない。それがメニュー化されると、豆腐半切れと御飯どんぶり山盛り一杯、お茶一杯――という献立てになる。食べきれないので、時々窓の外の芝生に米粒をばら撒《ま》き、餌《えさ》を求めて訪れる小鳥を呼び寄せ、退屈をまぎらわせていた。小鳥にパンくずや米粒を与えることは禁じられていた。鳩が集団で住みつくおそれがあるからである。鳩の糞は、喘息《ぜんそく》など呼吸器系疾患の患者にとって有害なのだ。
その日の朝食時、いつものように副島さんが残飯を撒くと、定食を求めた小鳥たちがいっせいに芝生に舞いおりてきた。その無邪気な様子を観察していた副島さんは、腹の底から大きく息を吐き「あーあ。焼鳥食いてえなあ」と、しみじみ呟《つぶや》いたものである。しばらくは、誰も何も言わなかった。みんなが焼鳥の匂いを想像の中で嗅《か》いでいたからだろう。思い出したように小平さんが「判る、その気持。いや、実に実感が籠《こも》ってるね」と同調して窓外の小鳥の動きを追っていた。
その副島発言が当番の看護婦の耳に入り、ミーティングで話題になったのだろう。回診にきたドクターが「そのうち焼鳥でも蒲焼《かばや》きでも食べられるようになるさ。我慢、我慢」とからかうように言った。おまけに副島さんは、小鳥に餌を与えないように、と改めて厳重に注意された。そのことが彼に不愉快な刺激を与え、苛々《いらいら》していたところへ、今度はお汁粉の“差別”である。
彼は、突然ベッドからむっくりと起き上って、ロッカーから洋服を取り出すと着替えはじめた。みんなが呆気《あつけ》にとられている間に、ボストンバッグに身の廻り品を詰め込んだ。「それでは皆さん、お元気で。さようなら」と一礼し、手を振りながら病室を出ていった。シスターや看護婦たちが制止しようと追いかけたが無駄だった。ゲートを出ると、折りから来たタクシーをつかまえて下落合は目白方面の巷《ちまた》に消えていった。食物の恨みは怖ろしい。
一時期、私の隣りのベッドにいた中井さんの場合も突然の失踪《しつそう》だった。彼も肝臓と腎臓をわずらって入院したが、慢性肝炎になったばかりで、症状は比較的軽かった。だが、彼の悩みは腹部の自覚症状ではなく、もっぱら便秘と歯痛だった。中井さんは無口で、たまに口を開いても口下手で、しかも吃《ども》ってしまう。恥ずかしがり屋でもあった。蒼黒《あおぐろ》い顔の中の大きな眼がギョロリと動き、その眼が彼の気持を物語る口の役目をしているようだった。看護婦が「お通じはありましたか」と訊《たず》ねると、目を横に動かしてから、首も横に振った。それが二、三日続いていた。そこへ歯痛が始まった。歯科外来で虫歯を二本抜いてもらったが、根治するまで二週間かかると言われ、一日置きに歯科に通うようになった。その日の朝の回診で、担当医が「しばらく様子を見てそれでも便秘が治らなければ浣腸《かんちよう》をしよう」と言った。中井さんは目をむき、あわてて頭を大きく振って「もう少し、効く、下剤を、下さい」と頼んだ。医者は承知して処方を書いた。
その日の午後中、歯痛で唸《うな》っていたが、無口の中井さんは勇気を振い、意を決したように目を動かし「痛み止め、薬、下さい」と申し出た。短大の実習生が歯科に発注することを請けあった。だが手違いからか、下剤も痛み止めの薬も来なかった。中井さんはベッドの中で目を白黒させて痛さを我慢していたようだったが、夜になるとロッカーから洋服を出して着替えはじめた。紙袋に僅《わず》かばかりの身の廻り品を詰めた。副島さんと同じケースだった。みんなでとめたが、大きな目に涙を浮べて首を振るばかりだった。「痛み止め、町の、薬屋で、買う」。夜の看護主任の島尾さんが玄関で追いすがり説得したが、振り切るように夜の中へ出ていった。
副島さんは食物、中井さんは薬、が原因で脱走した。いずれもごく些細な理由である。身体も神経も弱っている入院患者は気持も弱っている。“普通の人々”のように、陽気に社交的に気楽には話し合えなくなっている。自閉の世界で一人悩み続ける患者の気持を理解することは難しい。
牧田さんも一時期、私の隣りのベッドにいた人だが、中井さんと同じように無口だった。医者の回診で具合を尋ねられても、東北弁で必要最小限だけ答えた。入院してきた時は髪は伸び放題で体は垢《あか》だらけ。片足が不自由で引きずるようにして病室に入ってきた。新宿駅ガード下で行き倒れていたのだった。
中井さんや牧田さんのような患者は日雇い労働者である。どこかの田舎から上京してきて土木工事現場などで働き、夜は上野の安い宿泊所にとまっている。明らかに蒸発者らしく、家族のこと、仕事のこと、もちろん自分のこともいっさい説明しない。挨拶すらしない。したがってますます無口になるわけである。無口なだけにいつも冥想《めいそう》に耽《ふけ》っているようで、中井さんも牧田さんも肉体労働者というよりは修行僧のような雰囲気を漂わせていた。
聖母病院は社会福祉法人なので、生活保護世帯や行き倒れの労務者など、東京都の福祉事務所が斡旋《あつせん》する患者は優先的に入院させなければならない。福祉事務所から廻されてきた患者は、まず聖母病院のケース・ワーカーが面談し、事情を聞き、初診の医者が入院の必要性を判断する。
東京都の規定により、社会福祉法人の病院は、入院ベッド数の一定割合は福祉事務所が斡旋してきた公的保障対象の患者を入院させることが義務づけられている。聖母病院のベッド数は差額ベッドしかない外国人中心の混合病棟を含め約二百。そのうち内科病棟と外科病棟の合計十二ベッド分は、常に福祉事務所関係の患者がいつでも入院できるように用意しておかなければならない。もちろん、常にその種の患者で十二のベッドがふさがっているわけではないが、文字通りの“冬の季節”にはほとんどいっぱいになる。
中には人生の敗残者や犯罪を犯した患者もいる。病院では不測の事態に備えて、福祉関係の患者同士が同室で隣り合わせにならないように、ベッド割り当てを工夫する。一方が他方を誘って“悪事”を働くおそれがあるからだ。
コートをパジャマの上からはおり、外来患者らしく装って無断外出し、近所の酒屋の自動販売機で“ワンカップ”の日本酒を一ダースも買ってきた患者がいた。同室の労務者仲間が金を与え、寝巻の帯でカンガルーの袋のようにふくらんだ腹の中に隠して密輸入するように知恵を授けた。二人は、そのうち何本かを別の病室の仲間に高く売りつけて元をとると、消燈時間が過ぎてから眠れぬふりをして病棟を出、外来待合室のソファーで、窓の外の月を眺めながら酒盛りをしていた。売店のジュース自動販売機のサイダーの空瓶に透明の日本酒を移し替えながら飲んでいたので、ガードマンの柴田さんが巡回しても怪しまれなかった。お互いにあまりしゃべらず、しんみりと月見酒を味わっていたのである。
二人の犯罪が発覚したのは、あるシスターのお手柄だった。彼女がその場所を通りかかると熟柿《じゆくし》と焼きイカの混ったような匂いがした。その匂いを警察犬のように嗅ぎ辿《たど》ると屑籠《くずかご》の中の酒カップと焼きイカの袋に到達した。翌日、二人は強制退院させられた。
彼らは最初は非常におとなしく、従順である。外の世界はつらいが、病院に来ると清潔なシーツのベッドで寝られる。朝、昼、晩、ただで食事ができる。看護婦やシスターたちは親切で優しい。そのうちに体の不調も治ってくる。涙を流して感謝する。だが、一カ月も経つと、もう落ち着かなくなる。外が恋しくなる。四階の手術室のロビーから新宿副都心の灯を眺めている患者の多くは、脱走計画を頭の中で練っているに違いない。
「シスターが何だよ! 聖女ぶってよお」とか「心の底ではオレたちプー太郎を軽蔑《けいべつ》しているくせに、博愛の芝居でごまかしている」などと毒づきはじめるのも一つの兆候である。強制退院させられるような事件を故意に起す患者もいるが、大ていは深夜、看護婦、ガードマン、夜間婦長らの巡回時間を調べておき、隙《すき》を狙って巧妙に夜逃げをする。痕跡《こんせき》一つ残さず、荷物をすっかりまとめて姿を消すテクニックは、脱獄映画の主人公のようだ。素人に限ってトイレの窓から出ようとしたり、裏庭の老人ホームから抜け出そうとして失敗する。ベテランは正々堂々と玄関から大手を振って出ていくらしい。この手で病院を転々と歩くプロもいる。
牧田さんの場合もそうだった。ある朝、眼が覚めて、ベッドの囲りのカーテンをあけて朝の光を入れ本を読んでいると、いつまでたっても隣りのベッドのカーテンが開かない。看護婦の岩崎さんが朝の検温にやってきた。ABCDのベッド順に体温計を渡し、脈をはかり、尿と便の回数を訊ね、異常の有無をメモしていく。囚人D号の私の番が終って岩崎さんが「牧田さん、おはようございます」と挨拶しながら囚人F号のカーテンを開けたが、ベッドは藻抜けの殻だった。「あら、トイレかしら」
牧田さんはトイレに行ったのではなかった。岩崎さんは「あっ、やられた!」とようやく気付き、ガードマンの柴田さんを求めて駆け出していった。牧田さんのロッカーからハトロン紙の袋に入った焼酎《しようちゆう》の瓶が五本も出てきたことは、シスターや看護婦だけではなく、われわれ同室者にとってもショックだった。日ごろは口が不自由な人間のように無口で、たまにしゃべっても「んだ」、「んでねえ」と東北弁で諾否の意思表示をするだけだった牧田さん、一日中、冥想に耽る哲学者のように眼ばたきもせずに天井を見詰め、夜は鼾《いびき》もかかずに寝ていた牧田さんが、いつ、どこで、どのようにして焼酎を手に入れ、飲んでいたのだろう。五本の酒瓶は、まるで奇想な計画犯罪に成功した怪盗の置き土産のように嘲笑《ちようしよう》していた。
それから一カ月後、私は外出許可を貰ってマザー・テレサの講演を聞きにいった帰途、新宿のサブナード(地下街)で牧田さんに会った。会った、というより目撃したのである。入院時、髪が伸び放題、垢だらけ、片足を引きずっていた行き倒れの風体だったあの牧田さんではなかった。髪はチックで固めたリーゼント・スタイル、白抜きの横文字のはいったバルキーな赤いTシャツを着て、ぴったりしたジーンズをはいていた。傍らにはモンペのような流行のスラックスをはいた若い女の子が寄り添っていて、その子の手を握り、彼は私の横を通り過ぎていった。ガウンを脱いだ背広にネクタイ姿の私には気付かなかったようだ。病院に帰る下落合の坂道を登りながら、私は牧田さんの変貌《へんぼう》の背後にあるストーリーを小説家のように想像を逞《たくま》しくしてみたが、途中でその努力をあきらめた。
その日私は、ある宗教団体のバベルの塔のような大ホールで、マザー・テレサの切々と訴える愛の講話を聞いてきたばかりだった。彼女は、上野や浅草で泥酔して路上に寝込んでいる浮浪者を、日本人は何故《な ぜ》救わずに放置しているのか――と鋭く問いかけていた。牧田さんは、新宿地下街で空の酒瓶を片手に新聞紙を引き被《かぶ》って寝ている浮浪者ではもはやなかった。
酒が好きなのは男ばかりではない。ある時、四十二歳の女性のアルコール中毒患者が入院してきた。彼女は買い物の往きかえりに自動販売機でコップ酒を飲む楽しさを覚えてからめきめきと酒量をあげ、夫の帰りを待つ間、酒浸りの時を過すようになった。子供が一人いたが、夫が引き取り離婚した。生活保護を受けながら何度か入院したが、退院してまた浴びるように飲み、そのたびにますます病状が悪化していった。入院して一週間の間、幻聴や幻覚はあったらしいが、時どきうわ言を言う程度で、目立った奇行はなかった。が、ある日、彼女は突然、大声で叫んだかと思うと、内科病棟の廊下を走り出した。初めは室内競技場の短距離トラックのように往復していたが、そのうちに病棟を出て正面玄関から外に出ようとした。ガードマンの柴田さんがようやく取り押えた。「主人と子供が待っているから早く家に帰らなければ」とわななくように呟き、夜になっても寝ようとしない。看護婦が二人付き添って寝かせつけようとしたが「廊下を散歩したい」とせがむ。左右両側に看護婦が護衛の形でついて、夜の長い散歩がはじまった。三人は夜が白むまで廊下を歩いていた。
別の二十五歳の女性アルコール中毒患者も一日だけの入院だった。酒が切れたらしく、まだ美しい顔を歪《ゆが》めて苦しさを訴える。シスターがナース・ステーション脇のソファーで彼女の話を聞いてやった。夜遅くまで話し込むとさすがに眠くなったのだろう。「もう大丈夫、寝ます」と言って部屋に引き上げた。だが、彼女は自分の病室に戻ったのではなかった。男性部屋の空いているベッドに寝ていたのである。だからといって、このエピソードにエロチックな展開はなかった。翌朝、空いている筈《はず》の隣りのベッドに、人間がうつぶせになっているのを見つけた老人が腰を抜かして驚いた。長く乱れた黒髪から女の顔が現われた。「わあっ」と老人が恐怖の声を洩《も》らす。と、寝ていた彼女が寝返りをうって眼をさまして老人を発見し、今度は彼女の方が恐怖の悲鳴をあげる。早朝の病室の静けさを破った男女の叫び声に驚いた内科病棟の患者と看護婦たちは、いっせいにその病室に駆けつけた。
二人の女性アルコール患者はいずれも武蔵野のアルコール中毒療養センターに送られた。
入院患者のすべてが脱獄志望とは限らない。逆に、退院を怖れている患者もいる。福祉事務所から斡旋されてくる患者の大部分は、最初のうちは居心地がよいので病状が快方に向ってもできるだけ長く居坐ろうと画策する。胃潰瘍《いかいよう》で入院したある患者は、週一回の共同回診の際、医師団の会話に「ディスチャージ」という単語を聞きつけた。それが「退院」を意味することを看護婦に確かめると、次の日の回診から、腸、心臓、肝臓と次から次へと内臓疾患の自覚症状を訴え、医者を手こずらせた。「腹の調子がおかしい」、「頭が痛い」、「吐き気がする」、「何となくだるい」、「背骨が痛む」……など、退院を延ばす口実はいくらでも思いつく。要するに不定愁訴を羅列すればよいのである。しかし、福祉関係の患者の場合は一カ月も経つと外界の自由に憧《あこが》れ、たとえ病状が回復しなくても、今度は退院の口実を思案しだす。
手に負えないのは、家に帰りたくない患者である。嫁姑《よめしゆうとめ》の関係、親と子の関係、夫婦の関係など、現代の家族問題がここにも微妙に反映されている。とくに老人に退院を厭《いや》がるケースが多いが、若い患者も時々、退院延期工作の奇抜なアイディアを考えつく。
ある青年は、大腸炎が完治したころ、歯ブラシを二つに折って呑《の》み込んだ。急に苦しがりだしたので、応急措置をして問い質《ただ》すと「歯を磨いていたら、真中から折れて食道に落ちてしまった」と弁解した。翌日、排便の際に、折れた歯ブラシは原形のまま無事回収され、数日後、彼は不承不承、退院した。
もう一人の青年は、ある日突然、ベランダから聖堂の庭に続く一帯の雑草取りをはじめた。「田舎の家を思い出すので草〓《くさむし》りが好きなんですよ」と触れ廻り、真夏の日照の中を毎日、暇さえあれば雑草を抜いた。若い看護婦たちは彼の魂胆を知らずに、一緒に草〓りを手伝った。ルルドの小山の周辺から修道院の庭まで作業は続いた。一週間後に彼は望み通り日射病で倒れ、退院延期作戦は成功をおさめたが、その日射病も二、三日で治ってしまった。もう草〓りを続けようにも庭の雑草は残っていなかった。
草取りをしながら看護婦の一人に「あなたにお手紙を差し上げてもよいですか」と尋ねたというから、草〓りは恋心の案出した知恵だったのかもしれない。入院中に優しい白衣の天使に一目惚《ぼ》れし、恋の病いを併発する患者もいるのである。その看護婦は「病院にお出下さればいつでもお会いできます」と答えた。
退院忌避者の恋といえば、岡田さんはその後どうしたのだろうか。彼は入院の夜、私たち三号室のAベッドに一泊だけして、翌日から二階の混合病棟の個室に移った。初めての夜は眠れなかったらしく一晩中、溜息《ためいき》と舌打ちが聞えていた。神経質な性格が大部屋の空気に合わなかったのかもしれない。パジャマに着替える前の背広姿は青年実業家タイプだったから、金持ちなのだろう。デラックスな差額ベッドの外人病棟なら気儘《きまま》に振舞える。
岡田さんは毎日、面会時間になると二階の階段を下りてきて、面会所ロビーの椅子で若く美しい奥さんと顔をつき合わせるようにして話し込んでいた。その奥さんは二十歳にも見えない少女のような幼い顔立ちだったが、奥さんだと判ったのは、いつも小さな赤ちゃんを抱いていたからである。彼も慢性肝炎で入院したのだった。
伊賀さんは、一階内科病棟の夜の看護婦主任・島尾さんと聖母女子短大同期生。語学が堪能なので外人病棟の婦長シスター・バーバラを補佐する主任看護婦として重用されていた。島尾さんは、親友の伊賀さんが外人患者の話し相手を探していることを聞いて私を紹介してくれたのだが、私は下手な外国語で外人と話すよりは、もちろん美人の看護婦たちと日本語で話すことを好んだ。
岡田さんが恋した相手はその伊賀さんだったのである。恋心が芽生えたのは岡田さんがあの少女のような若い奥さんと離婚してからのことだった。
彼は中東のクエートで貿易関係の仕事をしていた。東京、クエートの両地に事務所を持つ小規模な会社の共同経営者だった。日本に一時帰国した際、銀座のクラブの売れっ子ホステスだった十五歳年下の彼女と知り合い結婚した。一緒にクエートに行く筈だったが、奥さんは開発途上国での生活を厭がった。クエートの一人当り国民所得は世界一で、中東の中では先進諸国並みの生活水準だったが、彼女はその事実を信じなかった。ちょうど奥さんが妊娠したこともあって、岡田さんはやむを得ず単身赴任したが、二人の当初の愛情は不確かなものだったらしい。
男子出生の知らせで一時帰国し、しばらく東京のオフィスで仕事をしていたが、体がだるくてしようがないので医者に診て貰った。「慢性肝炎。長期療養の必要あり」と診断され、聖母病院を紹介された。中東のどこかで感染したと思われるB型肝炎だった。
入院一カ月で奥さんから別れ話を持ち出された。その理由が何であったか、夫婦間の事情は他人が知る由もないが、岡田さんは子供を引き取り田舎の母親に預け、奥さんにはかなりの慰謝料を払ったらしい。
伊賀さんは岡田さんが離婚したことを知らなかったので、ある日病室で突然「ボクと結婚して下さい」と言われた時は「この人、気が狂った」と驚き、呆《あき》れ果て、顔を見詰めるばかりだった。
岡田さんだけではない。聖母病院の男性患者なら、誰しもが看護婦の優しさに感激する。中には、自分に好意を抱いているのではないか、と錯覚する人がいても不思議ではないほどだ。岡田さんは離婚の事実を説明し、病気が治ったら結婚したい、と伊賀さんに求婚した。「あなたのような素晴らしい人こそ女神というのでしょう」。翻訳調の科白《せりふ》で礼讃し、パジャマ姿で床に跪《ひざまず》き、白衣に取りすがって何度もひれふしたそうである。伊賀さんは最初、退屈しのぎにふざけているのだ、と思って取り合わなかった。しかし、彼女が、婚約者がいる、といくら断わっても、岡田さんは信じようとしなかった。
それからというものは毎日、病室で二人きりになると、岡田さんは中東のイスラム教徒のように床に跪拝《きはい》する。彼女は気味が悪くなり、婦長のシスター・バーバラに事情を話して、しばらく外国人患者だけを相手にした勤務体制にまわして貰った。
数日後、しばらく振りに伊賀さんを掴《つか》まえた岡田さんは廊下を一緒に歩きながら、綿々と想いを訴えた。「ボクには財産がある。ボクには才能がある。肝炎は三カ月で治る。キミは語学ができるからボクのパートナーになってくれ、一緒に世界を旅行しよう」。伊賀さんはそのたびに相手を刺激しないように断わったが、岡田さんの求婚は、三カ月後に伊賀さんが聖母病院を辞めるまで続いた。その間、岡田さんの病状は順調に回復していて、主治医は退院の間近かいことを告げていた。
だが、その後間もなく、岡田さんの病状は再び悪化しだした。退職後、親友の島尾さんに会いにきた伊賀さんの打ち明け話によると岡田さんは「ボクは、あなたがイエスと言うまで入院し続ける」と言っていたそうだ。そして、どこから入手したのかウイスキーを毎夜飲んで、肝炎の治りかけた肝臓をじわじわと痛めつけていたらしい。
伊賀さんは岡田さんの執拗《しつよう》な求婚にいたたまれずに退職したのではない。婚約者と結婚するためである。看護婦が病院を辞める時は患者に知られないように辞めていく。患者に無用の動揺を与えないため、シスターや看護婦の去就については病院側からはいっさい説明しない。岡田さんはある日、しばらく姿を見せない伊賀さんについて思い切ってシスター・バーバラに訊ねてみた。「彼女は神様の祝福を受けて女性として最も幸わせな道を見い出しました」とシスターは答えた。岡田さんは慟哭《どうこく》した。
患者が看護婦と恋に陥るロマンスは世間によくある話である。五号室にいた胃潰瘍の青年も入院中に知り合った若い看護婦と結婚した。彼は、退院してから彼女に交際を申し込み愛を育《はぐく》んだのだが、入院中に恋仲になる例もないわけではないだろう。しかし、岡田さんのように特定の看護婦に夢中になり、病室で恋心を打ち明けて求婚するケースは極めて稀《まれ》らしい。
彼の場合はいささか精神異常の状態に陥っていたらしい。突然、別の看護婦にあたりちらしたり、殴りかかったこともあったという。かと思うと、シスター・バーバラに泣いて淋しさを訴えた。伊賀さんが結婚のため退職したあと、今度はアメリカ人の看護婦ミス・アンに求婚した、という話も聞いた。岡田さんは週二回、神経科に通うことになった。
普通の患者の病弱な体と心には恋愛の余裕はないのではないか。確かに、患者の眼に映る看護婦たちはみな綺麗《きれい》で魅力的である。容貌も挙措もプロポーションも。そしてみな優しく、明るく、清楚で、外界の女性とは違った美しさを備え持っている。だが、普通の患者はその魅力の虜《とりこ》となって恋をするまでには到らず、せいぜいその美しさと優しさに対する敬慕にとどまっている。男性患者にとって異性である看護婦は当然、性的対象となり得る。しかしその前に、あの白いキャップと白い制服は、明らかに一線を劃《かく》す威厳を備え、肉体を直接意識させない不思議な防波堤の役割りを果しているようだ。入院中、マリリン・モンローや松坂慶子の夢は見ても、毎日接している可愛いい看護婦の肢体は現われてこない。もっともこれは私だけのことかもしれない。
私と同じ三号室の最古参の患者、清水さんは、糖尿病が一応落ち着いたので無事にめでたく退院したとばかり思っていたが、最近になって本人が「ボクはいわれのない嫌疑を受けて退院させられたのですよ」と打ち明けたので驚いてしまった。
午前三時ごろ、眠れぬままに玄関の受付でガードマンの柴田さんと雑談していると、タクシーが止まり、一人の男がよろめきながら下りてきた。股間《こかん》を押えて苦しむその男が顔をあげると清水さんである。二時ごろ就寝したが眠れず、坐薬も効かないので痛さを忘れるためウイスキーを飲んだが、陰嚢《いんのう》から肛門にかけての筋肉がつっぱって痛み、耐えられない。「我慢できないんです。看護婦さんに注射を打って貰いたいので連絡して下さい」。ガードマンの柴田さんは夜勤総婦長の竹田さんに電話したが、分娩《ぶんべん》室の中で出産に立ち会っていて連絡がつかない。すると清水さんは古巣の内科入院病棟に入って行こうとした。柴田さんが制止する。「あなたはもう入院患者じゃないんだから、勝手に病棟に入っては困ります。総婦長さんを呼んでくるまで待っていなさい」。清水さんは待合室のソファーに横になった。
「やはり退院するのが少し早かったんだ。もう少し腰を落ち着けて治療していりゃ、こんなことにならなかったのに。聞いて下さいよ、おヒゲの先生。オレはどうせヤクザな人間ですがね。誤解されるようなことは、これっぽっちもしていない」。ウイスキーの匂いを発散させながら、片手で股間を押え込み、もう一方の手で私を掴んで放さない。
「誰が密告したのか知らないが、医者はオレに退院後の心得を説明したあと、諄々《じゆんじゆん》と説教したんだ。病室内で若い看護婦をからかったろう、とか、入院中の療養態度が悪い、とかね。確かに酒は飲んだけど、オレは肝臓や胃腸が悪かったわけではない。あれは眠り薬に飲んだんだ。密告しなきゃバレなかったのに。
若い独身の女性に対していやらしいことを言う、だって? そんな人に牢名主《ろうなぬし》のように長く居坐られては迷惑、だって? オレの病気の治療には長い時間がかかるんだ。女の子をからかう、といっても、悪戯《いたずら》したわけじゃない。病院生活は、じめじめしているよりも、和気あいあいと楽しんだ方がいいに決まっている。だから、明るい雰囲気を作ってやっただけじゃないか。
どうせオレは糖尿病の合併症で体中が痛むから、悪いことなんかできる筈がない。そんなことはドクターの方がよく知っているんだ。知りながら、あなたはインポテンツだから女の子をからかって気を紛らわしているんです――と人を変態呼ばわりしやがった。そうじゃあない。女の子と話をしただけなんだ。誰だって若い女の子と楽しく話をしたい。尻だって触っちゃいない。あの医者、真面目に治療すればインポも治る、なんて言いやがった。
インポなんて精神的なものなんだ。それをドクターの方から、患者に、あんたはインポ、と決めつけるのはひどいよ。たとえ、そうだとしても医者が言えば、死の宣告になってしまうじゃないか。あなたはガンです、と告げるようなもんだ。実際はインポでなくても、患者は暗示にかかっちゃうじゃないか。言っておくけど、オレは断じてインポじゃない」
いつの間にか夜勤総婦長の竹田さんがきて、長広舌をふるう清水さんを睨《にら》みつけていた。香水ライオンこと竹田さんは、清水さんが一息ついたところで、夜のしじまを破る咆哮《ほうこう》で怒鳴りつけた。なぜ酒を飲むのか、なぜ昼間、所定の日時に内科外来に通院してこないのか、医者の言いつけを守らないから痛みの発作が起る。しかも夜病院に来るならなぜ、事前に電話をしないのか。先日も突然、痛み止めの薬を打ってくれと真夜中に転がり込んできたが、鎮痛剤はそう簡単に注射できるものではない――。
清水さんは股間を押えたままの姿勢でいっそううなだれ、とぼとぼと香水ライオン女史に従って内科注射室に入っていった。
痛みの発作が起きて清水さんが夜間に来院した場合には、鎮痛剤を注射してもよいことになっている。その処方は、予《あらかじ》め内科外来から夜の総婦長の竹田さんに指示されてはいた。しかし清水さんにはヤクの“前科”があったので、これまで医者は、できるだけ鎮痛剤を用いない治療方法をとっていたのである。彼が深夜しばしば、注射を求めて病院に来る動機を竹田さんは疑いの眼で見、いつも冷淡な態度をとっていた。
注射室から出てきた清水さんはさっぱりした顔をしてニコニコ笑っている。「あなたのことは昼間、ドクターと改めて相談しておきますからね」と言い渡して竹田さんは去った。
「おヒゲの先生、どうせ眠れないんでしょ。パイ一やりますか」と、清水さんは、また待合室のソファーの方へ誘った。受付のガードマンの様子を窺《うかが》いながらポケット瓶のウイスキーをちびりちびり飲みだす。とめても無駄らしいので、うまそうな仕草を羨《うらやま》しく眺めながら、私は私で、自動販売機のココアをすすった。
彼は日本橋の板前の息子に生れ、父親の後を継いだが、酒と女で身を持ち崩し、ヤクザとつき合うようになった。四十歳の時に糖尿病にかかり、ある国立病院に入院して一度治ってから調理士として働きはじめたが、入院中に知り合ったホステスと仲良くなり、家族を捨てて同棲《どうせい》した。奥さんは離婚を申し立て離婚は成立したが、その直後、九歳になる長女が鴨居《かもい》に父親の帯をかけて首を吊《つ》って死んだ。新聞がそのいたいけな死を報じ、テレビのニュース・ショウは父親を非難する特集番組を組んだ。世間から指弾された清水さんはまた狂ったように遊び出した。女は去った。孤独に耐えた清水さんはしばらく浅草で真面目な板前稼業を続けたが、糖尿病が再発、本格的に悪化した。いまでも時々、出張して包丁を握るが、もう以前のようには働けない。父親から残された僅かな財産で食いつなぎ、無為の生活を送っている。
「先生はオレと同じ年齢だったな。プレスリーもジョン・レノンももういない。オレたちの時代は終りなのかねえ。この齢になって女房、子供に逃げられ、一生治らない病気を背負ってどうなっていくんだろう。この病院に入院していた五カ月間は本当に楽しかったなあ。オレはもっと入院していたかったのだけど」。彼はウイスキーに酔ったのかしんみりした調子になった。しばらくの間ひとりで何か呟いていた。
私は「厄年の時期を乗り越えればわれわれにも道は開けますよ」と根拠のない慰め方をした。「花の熟年じゃないですか」
「そうだ。いまは厄年なんだ」。彼は何かを発見したらしい。「厄年が終れば、すべてがうまくいくかもしれない。今までは悪い夢を見ていたんだ」と、よろよろと身を起した。
「糖尿病は眼鏡と同じ、とドクターだって言っている。一生治らないかもしれないけど、レンズの度数さえ合っていれば生活に不自由はないって。オレは治しますよ。必ず治す。いまこの糖尿を治さなければ本当のインポになってしまう。オレはインポじゃない。この間だって川崎でちゃんとできたんだ。まだ治せるよな、先生。そうだな」と私の顔をじっと覗《のぞ》き込んだ。その眼差しの気魄《きはく》に押されて私は仕方なく肯《うなず》いた。
ガードマンの柴田さんが早朝の巡回をはじめた。清水さんはあわててウイスキーの小瓶をポケットにねじ込んだ。パン屋と牛乳屋が朝の荷を運んでくる。窓の外の聖堂のステンドグラスが次第に淡紅色を帯びて明るくなってきた。柿の木にも小さな葉が目立つようになった。芝生も色づいて、その薄緑の絨緞《じゆうたん》にはもう小鳥が餌をついばみにきている。その後方、遠い山脈《やまな》みが茜色《あかねいろ》の輪郭をととのえはじめたのは日の出の後光のせいだろう。
「昔習った国語の教科書にあったな。春はあけぼの――ってね。こんな耶蘇《やそ》のアーメン教会の庭から見ても、日本の春の朝は昔も今も同じ、春は曙《あけぼの》なんだね」その美的感性の豊かな考察に、今度は私の方が驚いて顔を見ようと振り返ったが、彼はもう立ち上って、玄関の方へ歩き出していた。
清水さんが去ったあと、私は改めて、遥《はる》かな山際の「春は曙」の朝景色を見直していた。きょうは良い天気になりそうだ。検温が終ったら同室の囚人仲間たちを四階の手術室ロビーに誘ってみよう。快晴の朝には、右手に“よりよろう群山”の稜線《りようせん》上に富士山が聳《そび》え立って見える筈である。そして、左手には、外の世界の象徴ともいうべき新宿副都心のノッポビル群が控えている筈だ。
白衣の妖精たち
第一処置室の光景を好んでスケッチするのは、第二処置室や第三処置室に比べ、窓から入る外光が季節の変化を微妙に投影してくれるからである。また、室内の様子が時間とともに変化するのも面白いからだ。第二処置室は医療器具の物置きでいつも暗く、第三処置室は糖尿病患者や腎臓《じんぞう》病患者の尿の貯蔵室。また隣りのリネン室にはシーツ、毛布、布団などがしまってあり、常にドアが閉まっている。ドアを閉めているのは、時々、看護婦たちがそこで一休みして、おやつを食べる休憩室として使用するためでもある。
いつもドアを開け放しにしている第一処置室を、廊下の椅子に坐ってスケッチする。左手の棚には小さな医療用備品が要領よく整理されていて、その細かく仕切った戸棚が、遠近法の法則通りの奥行きを示してくれる。右手には点滴、注射、採血、投薬などの準備に使われる細長いデスクがあり、日中の忙しさによってそのたたずまいと雰囲気はがらりと変る。例えば、朝は点滴のボトルのぶら下ったスタンドが林立し、廊下にまで溢《あふ》れ出ている。
突き当りが大きな窓。そこからは、道を隔てて病院と隣接している人家や庭木が見える。窓ガラス全体を電柱と電線が縦と横に分割した基本構図の中で、風景の配色はその日の天候と空の模様によって変化する。窓の下の流し台にはガスコンロが一台。コンロの上の大きな円筒形の湯沸し缶からはいつも白い湯気が立ちのぼっている。内科病棟の朝の静かな一時だ。
午前八時、第一処置室の隣りのナース・ステーションでは朝礼とミーティングが始まった。
「おはようございます」小さな声でシスター是枝が何やらこまごまと指示している。打ち合せが終ると聖歌の合唱が始まる。前夜の夜勤スタッフのチーフが翌朝の朝礼で合唱する歌の選曲をしておき、人数分の歌集を用意しておく。
すがすがしい女性コーラスを聞きながら、青空を背景にした朝の第一処置室の光景をスケッチしていると心が洗われるようだ。
「愛されている子供らしく神にならう者となって/愛を以て愛のうちに歩んで行こう/キリストはあなたのためキリストは私のため/愛を以て御自身を捧げになった/闇《やみ》から光へ今は主にあって/照らされて生きる光の子」
この歌も入院以来、何十遍聞いたことだろう。“六十六番”という番号だけで題名も知らず、歌詞も覚えていないが、爽《さわ》やかなメロディーだけはそらんじている。時おり庭を散歩している時などにその軽快な旋律が口をついて出ることがある。ある時、準夜看護婦の新井さんに歌集を借りてその“六十六番”の詩を、『下落合風景』ノートに書き写してみた。題名は「愛されている子供らしく」。
歌詞だけを朗読してみると面映ゆい“愛”と“キリスト”が連発されていて、日ごろ耳なれているメロディーとの違和感が気になった。しかし、あのメロディーにこの詩をのせると、自然に詩と曲とが調和してくるから不思議である。
歌集『平和を祈ろう』は聖母病院の属するフランシスコ修道会の若い修道士が作詞作曲したもので、典礼聖歌集やカトリック聖歌集のように、ミサなど公式の場では歌われないが、ギターの伴奏に合う現代感覚のニューミュージック風の旋律がとくに若い信者には好評で、そのうちいくつかはカトリック世界の“ヒットパレード”の上位にランクされているという。私がメロディーの気に入ったもう一つの歌は“四十四番”。題は「愛のために」。
「主よあなたの火のような蜜《みつ》のような愛の力が/私の心を地上のあらゆるものから解き放つように/そしてあなたが私への愛のために死んで下さったように/私もあなたへの愛のために死ぬことができますように/復活して下さったように/私もあなたへの愛のために生きることができますように」
詩は火のように情熱的で、蜜のように甘い恋歌とも受けとれる。“愛”という言葉を口に出して発音すると気恥ずかしいが、節をつけて歌うと、抵抗なくメロディーの中に流れてしまうものだ。
歌が終ると、看護婦たちは一斉に担当の各病室になだれ込む。「おはようございます」「きょうも頑張るべえ」思い思いの科白《せりふ》で挨拶をし、ベッド・メイキングにかかる。
「おヒゲの先生。またお化屋敷の一興行をうちましたね」と、シーツ交換をしながらシスター是枝がいたずらっぽく睨んだ。さきほどの引き継ぎミーティングで昨夜、私と大学生の佐々木君が仕掛けた悪戯の一件が報告されたのだろう。「これで内科病棟の女の子たちはみなミイラの幽霊の犠牲になったわけかしら。シスター寺本と私以外は」「済みません」「そのくらいの元気があれば回復も早いかもしれませんね」「したがって退院も」「甘い、甘い」
午後十一時頃、私が眼をさましてトイレに行くと、向いのベッドの佐々木君が眠れぬらしくしきりに寝返りを打っていたので、慰めてやろうと悪戯の共同謀議を持ちかけたのである。
佐々木君は脱走した副島さんの後に入院してきた上智大学一年生。十八歳。軽症の急性肝炎だった。高知の高校から推薦入学した秀才だが、入学式が終って芦《あし》の湖《こ》の新入生歓迎キャンプに参加している最中に大学から一人呼び戻された。健康診断の結果「A型ウイルス肝炎、入院加療二カ月」と診断されたためである。翌日、早速、学校からカトリック指定病院の聖母病院に送り込まれた。治療が長びけば一回も授業を受けぬまま留年してしまうおそれがある。柳瀬睦男学長自らが見舞いに訪れ、激励したが、少年はすっかりふさぎ込んでしまっている。
われわれ肝民族の仲間たちは、軽症の急性A型肝炎は安静にしていれば必ず治ることを力説し慰めた。私は、復学してもすぐ授業に追いつけるようにと、時間を見つけては第一外国語の英語と第二外国語のフランス語の個人教授をしていたが、その合い間も、講読のリーダーから視線が離れ、焦点が定まらない。
初め「夜勤の沼田さんたちを脅かしてやろう」と誘った時、彼はあまり気がすすまなかったが「エッチな大人のいたずらではない。これでキャッといわせるだけさ」とミイラのお面を見せると、次第に乗り気になってきた。
それは、中国・楼蘭で発見され、世界最古と騒がれた美少女ミイラのカラー写真だった。新華社通信が公表したフィルムをもとに、朝日新聞がカラー別刷付録として紙面一面に彼女の上半身の写真を掲載した。その首から上を輪郭に沿って切り抜き、ボール紙で裏打ちした。小さなお面だが、見る角度によっては生々しい迫力がある。金髪がしだれ、瞼《まぶた》が薄く開き、睫毛《まつげ》が長く、涼しい。鼻は陥没しているが、口からは、さほど歯がむき出していない。頬の肉はそげてはいるが、骨相全体の印象は、やはり美少女の面影を残している。
私たちはそのお面を使ってミイラ案山子《か か し》を作った。要領は着せ替え人形のそれで、すこぶる簡単だ。点滴用スタンドの高さを一五〇センチ程度の身長大に調節する。点滴液用ボトルを吊す十字架状の金属棒の頂点に、ミイラの生首を輪ゴムでくくりつける。頭にはスカーフをかぶせる。十字架を衣紋掛けに見たてて、両肩に相当する横の棒にガウンを着せてやる。襟元は襟巻で埋め、これでミイラ人形は出来上り。夜間巡回に来た看護婦が病室に入ろうとしてドアをあけた目の前にミイラが立っていて胆をつぶすという趣向で、これまでほとんどの看護婦がこの待ち伏せの恐怖を体験している。ただし、気の強い沼田さんだけは別だった。
沼田さんは仕事熱心な看護婦だが、勝ち気で、情熱的だった。聖母女子短大を卒業し三年というから二十四歳。年齢は若いが、態度も言動もベテランのように落ち着いている。医師やシスターたちにもずけずけ文句を言う。患者に対しても厳しく決して甘やかさない。大の男たちが手玉にとられ、子供のように叱られている。「ミイラ人形なんて幼稚ね。死体やミイラを恐がっていては看護婦なんぞ勤まりませんよ。口惜しかったらどんな仕掛けでもやってごらんなさい」と挑発するのだった。
彼女はつい最近、聖母病院から歩いて五分、西武新宿線下落合駅近くの寿司屋の若旦那に見染められて婚約した。鮨《すし》を食べにいった時の、日本酒の呑《の》みっぷりに若旦那の方が惚《ほ》れ込んでしまったらしい。男まさりの気性で、コップ酒をぐいとあおると、頬に赤味がさして切れ長の眼が色っぽく輝く――とは、飲み仲間の観察である。若旦那は女優の太地喜和子のファンだったが、沼田さんの中に彼女を見つけたらしい。それよりも寿司屋の親爺《おやじ》が大いに気に入って、是非うちの嫁に、と彼女の父親に懇願した、という話も伝わってきた。「結婚しても看護婦はやめない」という条件を寿司屋一家が認めたので婚約した、という噂《うわさ》も。
他の看護婦が「夜中の十二時までの勤務ですから今夜の私はシンデレラ」とか「明け方の採血係だから私はドラキュラーの娘」といった種類の冗談をよく言うが、彼女は「そんなら私は鬼子母神かアマゾネス。いや渡辺の綱子だから鬼でもミイラでも退治してやるから」と鼻息が荒い。
ある夜、“御用聞き”の雑談で「私はどちらかといえば、高石かつ枝じゃなくて石渡ギンのタイプだわ。医者には惚れはしないけど」と言ったことがある。「愛染かつら」や「暖流」などの日本映画を見ていない世代の男たちにはピンとこない。小平老人が「それじゃ、暖流の石渡ギンに魅《ひ》かれたわけか」と聞くと「違うわ、よくナイチンゲールに憧《あこが》れて看護婦になる子がいるけど、私は看護婦として立派に自立していた母に厳しく育てられたの。その母に憧れ、母を尊敬していた。小さい時から母のような看護婦になろうと決めていたの。母は看護婦こそ自立する女の職業としてもっともやり甲斐《がい》のある仕事、と言って死ぬまで病院で働いていたわ」。
ミイラ嬢の着付けをすると、私と佐々木君は午前零時半の巡回直前、病室の入口の蔭に置き、ベッドにもぐり込んだ。ドアのノブが軋《きし》んだ。戸があいた。彼女は確かにミイラに出会わした筈だったが、驚いた様子は伝わって来なかった。A、B、Cとベッドの順に懐中電燈のほの明りが床下を移動してくるのがカーテンを通して判る。佐々木君はうまく眠ったふりをしているようだ。次に私のD号ベッドのカーテンが揺れた。普段、看護婦は直接、懐中電燈を患者に向けることはしない。床下を照らして反射光の中でそっと患者の様子を窺《うかが》う。沼田さんも一度そうしてから、今度は電燈の光を顎《あご》の下から真っすぐ上の方に向け自分の顔を照らすと、ニッと口を横に大きく開けて笑った。顎の下からの光は顔の造作の凹凸《おうとつ》をくっきりと浮び上らせ、その表情は女ドラキュラーともいうべき口裂け女である。私は薄眼のまま、まばたきひとつせず死体を演ずる俳優のように息を殺していた。すると口裂け女は懐中電燈を直接私の顔に向けて一瞬、点滅させ、目つぶしを食わせると光をすぐ足元に戻した。私は寝ぼけた声を出して目をしばたかせ、うーんと唸《うな》って顔を横に向けた。彼女は「たぬき」と一言呟《つぶや》いて、次のベッドに移動していった。
第一回作戦の失敗は計算済みだった。本番は第二回作戦である。私と佐々木君はしばらくまどろんでから、午前二時過ぎ、今度はミイラ嬢を佐々木君のベッドのカーテンの中に引きずり込んだ。おとなしい佐々木君が悪戯をする筈はない、と思い込んでいる敵の意表を衝《つ》く狙いである。入口のドアの蔭はただ暗いだけだったが、佐々木君のベッドは私と同様窓際なので、洩《も》れ入る月の光がミイラの顔をほのかに浮び上らせ、演出効果は満点である。
やがてドアが開いた。懐中電燈がA、Bの順に立ち止っては動き、ベッドまで来た。瞬間、沼田さんは何か言ったようだったが、すぐ呑み込んでしまったらしく、聞きとれない。また失敗したのかもしれない。だが、懐中電燈の光は動かず、次の私のベッドに近づいて来る気配はなかった。その場にとどまっている。五分は過ぎただろう。私は心配になってきた。ベッドを下りるとそっとカーテンから覗いてみた。沼田さんは窓のカーテン越しに外を見ていた。泣いているようにも見える。振り向いて私の顔をみた表情はべそをかいていたが、すぐ美しい笑顔に戻った。彼女は突然「あかんべー」をするように舌を突き出して病室を出ていった。
翌朝、佐々木君が眼をこすりながら「沼田さんがじっと動かないので、いつ復讐《ふくしゆう》されるかと怖くて震えていたけど、いつの間にか眠ってしまった。作戦は成功したんですか」と訊《き》いた。「失敗だ。やはり彼女は驚かなかったよ」「じゃじゃ馬馴《な》らしは難しいものですね」。佐々木君はちょっとませた口をきいた。
だが、その後、気のせいか、沼田さんは少し変ったようだ。以前のようにヒステリックに叱りつけることはなくなった。相変らず大人びて堂々としていたが、態度が優しく控え目になった。ある日、外出からバスで病院に帰る途中、下落合の坂道を歩いている和服姿の彼女を見かけた。婚約者らしい青年に寄り添って歩くとしとやかな娘ぶりだった。
入院当初、看護婦とは“若い女の子”、のイメージを持っていたが、時間が経つにつれ、かなりの勉強と修練を積まなければならない職業であることが判ってきた。「女の子なら誰でもなれると思っていたんでしょう」とある日、私たち患者と一緒に二階の談話室でTVドラマ「小児病棟」を見終ったあとの雑談で岡本さんが言った。
「日本ではまだ社会的地位が低く、看護婦なんか医者の雑用係と考えている人が多いんじゃないかしら」「そうでもないけど、これほど大変な仕事とは考えていなかった」と私は正直に認めた。
ドラマ「小児病棟」は、手術にあけくれる外科病棟に勤務していた桃井かおりの扮《ふん》する看護婦が、メルヘンの世界のような小児科に憧れて転科を希望し、人間とは思われない奇形の新生児の看護を命ぜられる話だ。実験研究の対象として飼育されているその子に、次第に人間としての愛情を抱きはじめ、医学実験を目的とした手術から救うため、さらって逃げる。彼女はその子の看護に専心するうち、看護婦の仕事をサラリーマンとしてではなく天職として打ち込むようになり、同棲中の恋人とも別れる。結局は、現実の冷酷な壁に突き当るが、事件をきっかけに新しい気持と意識で看護婦として出直す――という筋立てである。
岡本さんの感想は「私たち平均的な看護婦は、あれほどまで患者に愛情を注いで打ち込めないけれど、かといってビジネスとしてタイムレコーダーで割り切って仕事をしているわけでもない。生き方そのものが仕事で、仕事そのものが生き方、というのは理想ではないかしら。患者さんを愛するようにと神父さんやシスターからいくらお説教されても、愛せるものではない。しかし、毎日看護しているうちに人間同士通い合うものが生れてくれば、それで立派じゃないかしら」「ご立派です。これからは“女の子”としてではなく、立派な女性として尊敬することを誓います」「よろしい」――まだ十五歳の私の娘たちと同じぐらいの“女の子”にしか見えない二十四歳の岡本さんは芝居気たっぷりの威厳をもって肯いた。「それでは佐々木君、子供同士で遊びましょ。この間のルービック・キューブのやり方教えてよ」
ルービック・キューブや知恵の輪は、糖尿病の田中さんが退院する時に寄贈していった頭の体操のおもちゃである。佐々木君はその一つ一つを独力で完成させ、患者だけではなく看護婦たちの尊敬をもかち得た。
田中さんは、同じ糖尿の、例の盗み酒の常習犯・清水さんとバトンタッチするタイミングで、三号室の住人になったが、清水さんとは対照的に、品行方正な模範患者。建築業の肉体労働者で三十五歳、酒も煙草ものまず、糖尿が現われたのは遺伝体質からである。「オレが稼がなければ一家五人が飢え死にする」と長期入院を渋ったが、そばで見ていても頭の下がるほどの節制した療養生活を送り、二カ月で血糖値を落ち着かせ、毎日自分で注射するインスリンの量のメドがついたので無事、退院した。
退院可能かどうか体調を試し、体を慣らすために医者が外出や外泊を命ずることを「負荷《ふか》する」と言うが、田中さんは、三日間の負荷外泊をして意気揚々と帰ってきた。
「毎日、散歩の帰りにうちの裏の公園でインスリンを打っていたらよ。きのうポリ公がやってきて取り調べやがった。三日間オレのあとをつけ廻していたらしい。何してるんだって訊くから、インスリン打ってふかしてる、といっても信用しない。“ふかする”とはバイ人(麻薬密売人)たちが使うヤク(麻薬)用語だと勘違いしたらしい。そのうち、このボール箱の中のルービック・キューブや知恵の輪を見つけて、テキ屋か何かと思ったらしい。さんざん質問しやがって警察署にまで連れていかれた。面白いから少しからかってやったが、聖母病院の外泊許可書を見せたら、病院に電話してようやく事情がわかったらしい。ポリ公の奴、済みません、失礼しましたって平謝りに謝っていた。ざまあ見ろ。非常に痛快な出来事でした」
そう言って田中さんはボール箱にぎっしり詰まった頭の体操のおもちゃを佐々木君のベッドいっぱいに広げて見せた。佐々木君は、“負荷”のお土産に歓声をあげ、田中さんを尊敬のまなざしで見つめた。田中さんは最後の夜、消燈時間まで佐々木君の相手をしていた。
留年を心配し落ち込んだ生活を送っていた佐々木君も最近は、すっかり明るくなった。それには、こうした同室者の思いやりや、ガールフレンドとしての看護婦たちの心遣いも手伝っている。彼女たちは、孤独な少年や老人の退屈と憂鬱《ゆううつ》にさり気なく付き合っていた。
佐々木君だけではない。看護婦たちは内科病棟三十人の仲間たちの良き遊び友達だった。トランプやゲームをどこからか持ってきては、仕事の合い間に一緒に遊んだり、見物したりしていく。神経を使い過ぎるという理由で碁盤は置いてなかったが、将棋盤は各病室に備えつけてあり、三号室では小平老人と唐木さんがヒマを見つけては七番勝負に打ち興じていた。時々、看護婦の新井さんや沼田さんがそれぞれの背中越しに観戦している。応援団の図式である。しかし、二人とも将棋を知っているとは思われなかった。それは、場違いな局面で感心したり、溜息《ためいき》をついたりすることでわかる。彼女たちに勝負が本当にわかるのは、王将が追い詰められて動けなくなった時だけである。
麻雀《マージヤン》や賭《か》け事は厳禁である。だが、唐木さんや小平さんが、ベッドからむっくと起き上り、ラジオのイヤホーンをはずして廊下に出ていくのは、黄色い公衆電話で馬券を買うためだった。
看護婦たちは老人のベッドで安野光雅や宇野亜喜良の絵本を広げ、かくし絵探しや童話の主人公探しを、ともに楽しんだ。庭いじりや植木の好きな老人には植物図鑑を、小鳥を観察している患者には鳥類図鑑を持ってきた。自らも小鳥好きの短大実習生は自分で採録した鳥の鳴き声のテープまで提供した。
三号室では一時、西洋星占い、天中殺、血液型占いなどがブームになったが、彼女たちは占い談義にはあまり積極的に参加しなかった。吉凶の卦《け》が患者の病状に心理的な影響を及ぼすおそれを考えてのことらしい。しかし、手相をみてやる、と称して手を握る患者には、右手だけではなく左手も預けた。右の頬を打たれたら左の頬も向けよ、という聖書の教えを思い出してのことか、どうかは訊《たず》ねなかった。
これほど優しくされると、行き倒れで担ぎ込まれた荒くれの浮浪者も、へそ曲りの偏屈患者も気味が悪くなってか、それとも心がなごむのか、大人しくなってしまう。「時には母のように、姉妹のように、妻のように、恋人のように、娘のように……誠に変な妖精たち」と、私は大学ノートの『下落合風景』に書きつけた。
看護婦だけではない。シスターたちや医者たちも、どこか世間一般の人間とは一風、変っている。例えば、私の主治医の杉本医師。入院早々、父親の杉本画伯や昭和初期に落合界隈《かいわい》にアトリエを構えていた画家たちの画集を差し入れてくれたものだが、ある日、「退屈の御様子とお見受けしまして」と、一冊の原書を置いていった。アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』のドーバー版ペーパーバックである。看護婦の話では、杉本医師は二階の外人病棟で退屈している外国人患者にこの『悪魔の辞典』を差し入れているという。著者同様に皮肉屋で変り者の杉本医師らしい着想だ。看護婦たちはこのニヒルな中年医師の絶大なファンだった。
芥川龍之介のアフォリズムや受験英語の英文解釈例文集でしか、この諷刺《ふうし》家ジャーナリストの文章にお目にかかったことはなかったが、無作為にページをひらいて読むと結構退屈しのぎになった。“R”の項目にしおりがはさんである。私の職業reporter(リポーター)の定義を読んで見ろ、といわんばかりだった。「推測で真実を追い求め、言葉の嵐で真実を吹き消してしまう文筆家」――この単語を読んだ私の表情を想像してほくそ笑む、悪戯好きの悪魔のような杉本医師の表情が目に浮かぶ。
ガードマンの柴田さんが定時の巡回に出発した。夜の総婦長の竹田さんが階段を下りてきた。パン屋が朝の荷を担いでいく。牛乳配達が通り過ぎていく。新聞を小脇にかかえたおばさんが正面玄関からロビーを通って待合室の私たちの前に姿を現わすのが、午前五時。おばさんと別の新聞販売店のアルバイト少年は新聞社こそライバル同士だが、自動販売機の前で一緒になると立ち話を交わしたり、小銭を交換したりする。時にはおばさんが自動販売機のホット・ココアを少年に奢《おご》り、二人は息をふうふう言わせ、一休みしていく。
早起き族の患者たちが五種類の新聞を廻し読みしながら世相巷談《こうだん》に耽《ふけ》っていると、修道院の廊下から女性の一群がどやどやと急ぎ足でやってきた。はじめどこのギャル軍団かと目を見張ったが、みんな聖母女子短大を卒業していま実習生として看護婦修業中の見知った顔だった。病棟の中では、白いキャップを被《かぶ》り白い制服に身をつつんだ姿しか見ていないので、意外な髪形や個性的なジーンズ・ファッションで現われると、まったく別人と見まがう。「おはようございます」と口々に挨拶したが振り返りもせず、そのまま新聞自動販売機に突進していった。
やがて肩を抱き合って泣いたり、叫んだり、試合の終ったバレーボール・コートのような情景が目の前に繰り広げられた。私たち男性患者はあっけにとられテーマ不明の感激的なドラマの一シーンを見守るばかりだったが、そのうち何人かが公衆電話に飛びついて電話をかけ始めた。「おヒゲの先生。済みませんがコインお持ちでしたら貸していただけませんか。長距離電話をかけたいので、できるだけ沢山ほしいんですけど」「どうぞ。しかし一体どうしたの?」「国家試験の発表なんです」「成程。道理で。それで受かったの?」「ええ、お蔭様で」「おめでとう」「ありがとうございます。でもお願いですから、あまり病室で話題にしないで。落ちた人もいますので」
彼女たちが買っていたのは合格者の名前が掲載されている東京新聞だった。一年生の時から三年間、聖母病院の各科で実習しているので、ベテランの間に混って働いても、もはや新人とは思えない彼女たちだが、狂喜して泣く姿はやはり“女の子”である。
私はわが家の“女の子”たちからの電話を思い出していた。三月上旬のある日「恋人からお電話よ」とシスターが呼ぶ。病院に直接電話がかかってくるのは珍しい。双子の娘たちからだった。「桃の節句のお手製スケッチ絵葉書ありがとう。近くにいて電話かけられるのに手紙を呉《く》れるなんて、パパ淋しくなったからでしょう。強がり言わなくてもいいんだから。判ってる。毎日スケッチしてるの? 段々、腕が上達していくみたい。おひな様も可愛く描けているし、色鉛筆にしては桃の花と菜の花の取り合わせが綺麗《きれい》ね。背景のナース・ステーションも感じがよく出てる」「ありがとう。それで電話の用事は? 入試の発表は確か明日の予定だし」「ママがさ、パパが絵葉書をくれる時はきっと淋しがっているんだから、慰めてあげなさいって言うから」「どうせ週末に着替えと郵便物を持って誰か来てくれるんだろう? わざわざ電話を呉れなくても」「シスター寺本にお礼を言ってもらいたくて。この間病院に行った帰り、卒業祝いですって私たちに聖書を一冊ずつ下さったの」「いまいないけどお礼は言っておくよ。ところでキミはどっち?」「私、陽子、Y1の方。いまY2と替わります」「優子、元気かい」「元気。パパは淋しいんでしょ。励ますために電話かけてるの」「ありがとう。でもわざわざ……」「それでは臨時ニュースを申し上げます。私たちお蔭様で合格しました」「発表はまだだろう? エイプリル・フールにはまだ早い」「それがね、きょう一日早く電報が来ちゃったの。もちろん二人ともそろって合格。どう驚いた?」
確かに嬉しかったし、驚きもしたが、半面、自分だけが別世界に取り残されたという、浦島太郎かリップ・ヴァン・ウィンクルのような妙な気持に包まれていた。入院中にクリスマス、正月、そして私の誕生日、子供たちの入試……と、外の世界なら一大行事であるべき生活のエポックが、ベッドに横になっているうちに、日常の時間の経過とともに何気なく流されていく。家族会議であれほど議論した娘たちの進学問題だったが、私が寝ている間に、合格、卒業式、入学式……と過ぎていく。季節の“春”は自然の法則に従って正確な時間表どおりに訪れて窓外の景色を色どり、聖母女子短大卒業生の女の子たちや私の娘たちも、新しい時間のスタートの喜びにひたっている。私にはいつ“春”が来るのだろう。これまで下降傾向を続けていた肝臓障害指標のGOT、GPTは三月に入ってからの一カ月の間一進一退の横ばい状態だった。
聖母女子短大には看護学科しかなく、毎春募集する新入生はわずか三十人である。徹底した寄宿制教育で定評があり、全国のカトリック系ミッションスクールから看護婦志望の女子高校生が応募するので、入試はかなりの難関。競争率は三倍、四倍の年もある。
看護学科は、国公立、私立のキリスト教系、仏教系を含め三年制短大、四年制、大学院と、全国の大学にかなり増設されつつあるが、聖母はその番付けの中で、“中の上”。一流校とみなされているにもかかわらず“中”というのは国家試験の合格率で上位にランクされていないからだ。大学の教育方針は、文部省の“自主学習”中心指導方針、厚生省の“実習重視”主義、の中間の方針をとり、加えて教養課程や宗教関係の講義にもかなりの時間をさいているので、他校と違い、受験技術的な教育は一切していない。日頃の講義を真面目に聴いて実習に熱心であれば、誰でも合格する筈《はず》――というのが大学側の説明である。躾《しつ》けがやかましく、患者の気持をどうして汲《く》みとるか、に心を砕いた実習教育に重点を置いている。一年から三年まで聖母病院の各科に配属され、現場で“愛と奉仕”の精神を植えつけられる。
合格者発表の当日、早朝の新聞買いに待合室ロビーに集まった患者たちは、病棟に帰ってからも国家試験を話題にしなかった。
だが、内科病棟の実習生では二人が不合格だったことがやがて判明した。一人は鈴木さんである。その日の夕方、病棟廊下の第一処置室の前で本を読んでいると、処置室で湯タンポを用意していた鈴木さんが手を休め「おヒゲの先生、きょう国家試験の発表があったこと知っているでしょう」「ああ知ってる」「私が落ちたことも御存知でしょ」「知らなかった。黙っていれば判らないのに」「ばれてもいいの。どうせまた秋に受けて合格するから。今度も自信あったんだけど記入の仕方を六〇問とも全部間違えちゃった」。
彼女は陽気な子で成績も抜群だったので、不合格と聞いて驚いたが、そういえば少しそそっかしいところがあった。私の脈搏《みやくはく》を測りながら「あら、何度測っても四〇だわ。どうなさったの」とあわてたことがある。こちらもあわてた。いつもは十秒間測って六を掛け、例えば一分間の脈搏を六〇と記入すべきところを、十五秒間測ったものと思い違い四を掛け、一〇×四=四〇と答えを出してしまったのである。「私って、本当におっちょこちょいなんだから」
彼女が頭の良い証拠には、試験に出題された問題の大部分を覚えていることでも判る。そして、肝臓病の本を何冊か読んで権威を任じている私を試すつもりなのか、クイズ番組よろしく、肝臓障害に関する学力テストを試みた。
「次のうち間違っている番号を書け。くれぐれも私のように番号に○×をつけてはいけませんよ。〓肝疾患には脂肪制限食を与える、〓肝硬変症のときは門脈圧が著明に低下する、〓肝機能障害が高度になると肝性昏睡《こんすい》に陥ることがある、〓血清肝炎は新鮮輸血後にも起る、肝硬変症の場合には腹壁の静脈怒張が起ることがある――さて、答えは?」
私は〓と答えた。「残念でした。正解は〓なのでした。脂肪を全然与えないというのはナンセンスだけど、やはり多くは与えないのが原則です。〓の肝硬変の正解が判らなかったのはおヒゲの先生の肝炎が、まだ肝硬変にはほど遠い証拠で、それだけに関心が薄かったからでしょうね」間違いを訂正するついでに、安心感を与えようとする配慮が心憎い。
もう一人の不合格者は山田さんだった。彼女は試験当日、悪性の風邪を引いて熱があり、そのあせりからすっかりあがっていた。鈴木さん同様に、午前中の二〇問の解答の記入の仕方を間違った。午後の試験でそれに気づき、残り四〇問は○×ではなく番号を記入したが、遅かった。
しかし、彼女は鈴木さんのように秋の試験に再挑戦する意思表示はしなかった。ミーティングの機会に、彼女はシスター寺本とシスター是枝に看護婦を辞めたいと申し出た。不合格がその理由ではなかった。
「もともと聖母女子短大を選んだのが誤りでした。カトリック信者の家に育ち、映画『尼僧物語』のオードリー・ヘップバーンを見て何となく憧《あこが》れて看護学を勉強したけれど、現実に看護してみて病気や病人がこわくなったんです。痛くて悲しくて汚くて……それがたまらないんです。国家試験に落ちたのも神様が私の気持を汲んで下さったお恵みです。いますぐに辞めれば皆さんに御迷惑をお掛けしますので、二、三カ月だけ勤めさせて頂き、そのあとは普通のOLになります」
彼女は二人のシスターの翻意を促す言葉を遮って、泣きながら何度も繰り返した。「人が死ぬのを見るのがイヤなんです。患者さんには申し訳ないけど、汚いのを見るのがイヤなんです。一度、実習で臨終に立ち会ってから死の場面が頭から離れず、ずっとノイローゼ気味です。病院にいると人間が嫌いになりそうで、怖《おそ》ろしい。私はまだ若いし、普通の女の子のように明るい、綺麗な、楽しいものに憧れるのは我儘《わがまま》でしょうか。暗い、汚い、悲しい、苦しい……病院にいると私自身が陰鬱になってしまうんです。患者さんを忌み嫌う私なんかに、看護婦の資格はありません。何度もお祈りしましたし、告解もしました。でも、駄目なんです」
彼女と同期の実習生の一人が泣き出すと、連鎖反応のように看護婦はみな泣いた。先輩の西尾さんは彼女の髪の毛を撫《な》でながら「みんな一緒、みんなもそうなのよ」と慰めていたが、思い切ったように大きな声を出した。
「でも山田さん。あなただけではないわ。私だって汚いのはイヤよ。私は自分で売れ残りだ、年増だって言っているけど、まだ三十前の独身よ。最初は排泄《はいせつ》の世話だってイヤだったし、意地の悪い患者さんに毒を盛りたいと思ったこともある。若い健康な女性だから人並みにセックスには関心も好奇心もあるけど、寝たきりの患者さんにお尻をさわられたり、エッチなことをいわれるとゾクゾクと鳥肌が立つ。前にいた病院では新米の看護婦が一週間で辞めたことがあったわ。男性の性器を見たりさわったり、浣腸《かんちよう》をするのがイヤ、というのが理由だった。でも、私たちが、そういう仕事をしなければ誰がやるの? 私たちはプロの看護婦に徹しなければならない。それと、普通の女の子として生活を楽しむことは決して矛盾しない。私たちは百パーセント完全じゃなくて、みな未熟だけど、普通の女の子と同じように、つまずきながら成長していくんでしょう? あなたの苦しみだって、みんなでわけあうことができる。相談し合って、慰め合って、励ましあって協力できる筈。一緒にやっていけないわけはないわ。もう一度考え直して頂戴《ちようだい》」
先輩の看護婦たちが口々に説得する言葉を山田さんはシスター寺本の胸に抱かれて聞いていた。面会時間終了の鐘が鳴ってミーティングは終ったが、結論は出なかった。
山田さんは、シスターたちの奨《すす》めで一カ月自宅で休養し、再び看護婦として働く決心をして戻ってきた。いまではすっかり明るくなり、辛い仕事も自ら買って出る意欲的な看護婦である。
聖母女子短大を卒業したからといって、必ずしも聖母病院の看護婦になるとは限らない。半数は他の公立、私立病院の看護婦に就職する。幼稚園の保母や養護教員になる学生もいる。
聖母病院に残る看護婦でも滞留期間は平均五年。たいていは、その間に技術を修得し経験を重ね、他の病院に移る。五年以上勤続する看護婦が少ないのは、結婚して家庭に入る場合は別として、どんなに長く勤めても各病棟の主任どまりで、絶対に婦長にはなれないからである。聖母病院の婦長は修道女に限られている。したがって聖母病院で婦長になりたい看護婦は、看護婦という職業より先に、聖職者となるため、まず終生誓願し修道女にならなければならない。つまり、恋愛も結婚もあきらめなければならず、世俗と縁を切らなければならないのだ。
修道女になるか、普通の看護婦の道に進むかで迷った看護婦が、突然人が変ったように遊び出したことがあった。彼女は仕事は真面目だったが、二年間に三人の男性と同棲《どうせい》した。だが、ある時、これも突然、ネパールに行ってしまった。彼女は山の中の医療施設で働いているという。いまでも「マグダラのマリア」(キリストの足に香油をふりかけた娼婦)の名で、聖母病院の伝説の人物になっている。
看護婦は、世間一般のサラリーマンが課長や部長への昇進を夢見るほどの出世欲は持っていないが、ベテランともなれば、自分の学んだ看護学を生かし、病棟で采配《さいはい》を振いたいと思うのは当然の願望である。だが聖母病院ではその道が閉されているので、実力と経験を身につけると、他の病院に転職していく。病院側は、その定員を毎年、聖母女子短大の新卒者で補充する。この病院の看護婦が他の病院に比べ、若く綺麗で、性格が良く、優秀で、よく働く、といわれるのは短大やシスターたちの教育もさることながら、“看護婦ずれ”するほど長くは勤続しないからでもある。彼女たちは外部の病院に就職してみて、いかに聖母病院の看護婦教育が素晴らしかったか、を知らされる。同時に、いかに世の中は厳しく、聖母病院の世界が温室であったか、も知らされる。
世間知らずの純真な看護婦が多いだけに、患者の扱い方に戸惑うこともある。中年の男性患者が悪戯半分に検温中、脈をとっている手を握り返しただけで、大声で叫んでしまう若い看護婦がいる。患者側には罪の意識は残らないが、声を上げた看護婦の方は事態をどう収拾してよいか判らずに、ナース・ステーションに駆け込み、ただ泣くだけだ。
「その手をつねるとか、小声で奥さんに言いつけますよ、と一言いえば済むのよ」とシスター是枝が叱るように教える。そういうシスターも、もともと男性経験がないから、せいぜいテレビドラマや小説で得た知識をもとに、世故にたけた振りをして、新入り看護婦に男性操縦のノウハウを伝授しなければならない。
患者は、夜になると自分のベッドの周囲にカーテンをめぐらして寝るが、このカーテンは夜間就寝中、安眠、安静を保つだけではなく、プライバシーを確保するためである。昼間でも、着替え、清拭《せいしよく》、診察、浣腸、臀部《でんぶ》注射、排尿便、カテーテルなど、局外者の眼を遮断する必要がある場合には、随時カーテンをめぐらす。
夜間に男性患者のベッドのカーテンが完全に閉まっているのを、若い看護婦たちは、ミイラ以上に怖ろしがる。カーテンは自由に開閉できるのだが、閉め切ったベッド空間は心理的に密室の恐怖感をともなうらしい。現在の病院規則では、患者は就寝時に完全密閉してはならないことになっているが、この規則は、二年前に若い看護婦たちがシスターを通じて病院側に要求して決まったものだった。
シスター是枝自身、強い腕でカーテン内に引きずり込まれたり、手を握られたこともあるが、相手に恥をかかせないようにうまく逃れる方法はいくらでもある。その種の事件のあと、たいていの患者は恥じ入り、反省するものだ――ということを経験で知っているので、彼女は、カーテンはあくまで完全に閉めるべきだと主張した。また、唯一人の既婚者である夜の主任看護婦の島尾さんも「男性なんて子供みたいなところがあって本質は意外に純情なのよ。わたしも、オッパイが大きいね、とか、御立派なヒップ、とからかわれることがあるけど、どうも有難う、と言うだけ。それでも図々しい人には毅然《きぜん》として謝罪を要求するか、ドクターへの通告をほのめかせば、たいてい謝まるものよ」と患者性悪説を否定し、過剰防衛には反対した。だが結局、ヤング・パワーの要求に押し切られて、用心のためにカーテンは二十センチ開けて寝ることに規則が改正された。
「おむつ交換、コモード(坐り便器)、体位交換、カテーテル、浣腸などのお世話は決してイヤではないけれど、中年の男性とある瞬間に眼が会い、その眼付きが粘っこく絡みついてくるような時、体中に戦慄《せんりつ》が走るの。正常な人でも、ある瞬間だけ変態になったような眼付きをすることがあるでしょう?」ベテランの島尾さんですら、時々そうした視線を背後に感ずることがあるという。「こんな眼付きですか」と、私が、下から覗《のぞ》き込むように眼を細め、唇をゆがめて舌なめずりをして見せると「そういうのは、いやらしい、というより、貧相とか滑稽《こつけい》、というんです。真剣味が足りない。見るべき個所をちゃんと正視していない」と相手にされなかった。どうやら私は、人畜無害の患者に分類されているらしかった。
久し振りに静かな夜の内科病棟、消燈前のひととき、私はナース・ステーション脇のソファーでカルテを整理中の島尾さんと、昼間の“看護婦論”の続きの対談をしていた。私はハガキを書くふりをして、例によって、ときどき要点をメモしていた。
「看護婦は医者ともよく衝突します。医療方針と看護方針が一致しない時に揉《も》めることが多いわね」彼女はカルテ整理と看護日誌の記帳を了《お》えていた。十五人の看護婦の中で唯一の亭主持ちの彼女は、看護婦歴十年。御主人は病院の近くの目白通りでスナックを経営しているので、彼女は、その営業時間の午後五時から午前零時まで準夜専門の勤務をしている。シスターたちが帰ったあと、午前零時までは定休の水曜日と日曜日を除き、彼女が内科病棟の最高責任者だ。
看護婦は、医者の回診についてまわり、ドクターが診察しながら指示を書き込んでいく入院オーダー用紙、アナムネーゼ(患者の病状所見、処置記録)、病棟オーダー用紙(レントゲン、検査、投薬、治療などの指示書)、カルテなどに従って、指示を忠実に実施していく。その結果を看護側の記録として検温用紙(体温、脈搏、血圧、検査などの記録)、看護用アナムネーゼ、看護観察記録用紙などに書き込んでいく。これらの用紙には、入院中の患者に関するすべてが記録されている。
医者側の“用紙”と看護婦側の“用紙”の内容が一致していれば問題はない。準夜主任の島尾さんは帰宅時間の午前零時までに、これらの用紙を照合する責任者である。用紙の内容が食い違う場合は、医者と看護婦との間に意見や連絡の齟齬《そご》がある時だ。たいていは看護婦側が叱られて謝まってしまう。何度に一度かは看護婦側が猛然と食ってかかり、医者側が怠慢や過ちを認めて頭を下げることもある。
「医者と看護婦が喧嘩《けんか》をしている場面を患者さんたちが見たら、無用の不安や不信感を抱くおそれがあるので、私たちはいつも隠れてやりあってるの。病棟の中で医者と看護婦がちゃんばらしているシーンを見たことないでしょう」。われわれが毎日午前の回診で見ているのは、殿様である主治医の後を、カルテを抱えていそいそ、ぞろぞろついて歩く御殿女中の行列である。
看護婦の島尾さんの経験では、医者との対立のクライマックスは、臨終近い末期患者の治療をめぐる衝突である。誰が見ても“時間の問題”と判り、家族も諦《あきら》めているが、医者は最後まで生かす努力を傾注しようとする。
例えば固形物も流動物も摂取できない患者に、医者はIVH(中心静脈栄養=鎖骨下静脈にチューブを差し込んで高濃度の点滴をする)やマーゲンチューブ(胃に直接チューブを入れ点滴する)を入れて、栄養を補給し、生命を長びかせようとする。
シスターや看護婦たちは反対する。〈私たちは、この患者さんをずっと見てきた。日夜接していて意思が疎通している。気持も判る。もう何も食べられない。体力も弱っている。これ以上、無理に血管栄養補給をしても心身に苦痛を与えるだけだ。患者だって迷惑だろう。このまま最後の数日間を、安らかな状態で過させてあげたい。数日間なら生きられる。だが、いまIVHをすれば、その疲労とショックで、すぐ死んでしまうかもしれない。果して、本人や家族がIVHを希望するだろうか。神は安らかな最後の機会をお与え下さるだろう〉
それに対し医者は反撥《はんぱつ》する。〈治療はドクターの責任だ。看護婦の分際で医者に指図するのか。お前たちは、患者を見殺しにしろというのか。IVHをやれば、もうしばらくは生きられるかもしれない。その栄養補給がきっかけになって、助かる可能性もないわけではない。文句を言わずにIVHの用意をしろ〉
看護婦側は食い下がる。〈助かるものなら、すでに助かっている筈だ。IVHをするなら、何故もっと早い段階でしなかったのか。いまからでは遅すぎる。これまで五回の末期段階のIVHで助かった例は一度もないではないか。手遅れだ。この患者の気持は、ドクターより看護婦の方がよく知っている。先生、お願いです。IVHはやめて下さい〉
その時、患者が何か言いたげに唇を動かした。医者と看護婦は囁《ささや》きの口論をやめて、口元を見守った。〈家族を呼べ〉。病室の外にいた奥さんが招かれ、何事か訴える患者の口に耳をあてじっと聞き入った。「主人は、もう点滴も注射も厭《いや》だ、ウイスキーの水割りだったら飲めそうな気がする、水割りを飲みたい、と申しております」。医者とシスターや看護婦たちは顔を見合わせた。
患者はその後二週間生き延びた。その間彼は一日二杯の水割りを、ストローでうまそうに飲んでいた。
今日も、もうすぐ消燈時間である。島尾さんは、カルテ整理を了えたのを機会に話題を変えた。
「私、三十歳のこの齢になるまで十年間、この病院で看護婦をしてきたけど、いま少し疲れた感じなの。病気というわけじゃなくて。看護婦という職業がイヤになったわけでもない。看護婦は一生、続けたいけど、少し休みたい心境なんです。しばらくの間、家庭に落ち着いてみようと考えたりして」「結構なことじゃないですか」「おヒゲの先生のお宅も共稼ぎで、お子さんが二人いらっしゃるわね。私たち夫婦は、こんな不幸な時代に生れる子は可哀相だ、といって子供は作らない方針だったけど、最近子供を産もうかと考えているの。どう思いますか」「結構なことじゃないですか」「一生、看護婦をやりたいという短大時代の気持に変りはないけれど、時々淋しそうな主人を見ると子供が欲しいんじゃないかな、と思って。本人はどちらでもよいと言ってるけど、本当は欲しいんじゃないか。そのうちに私も欲しくなってきた。御相談するわけじゃないですが、どう思いますか」「結構なことじゃないですか」彼女はしばらく考えていた。私は腰をあげた。歯を磨き、トイレに行き、これから始まる就寝生活に備えなければならない。「今まで迷っていたけれど、やはり産もうと思います。これで踏んぎりがつきました」「無責任に結構じゃないですか、としか言えないけれど、本当に結構なことじゃないですか」「ありがとう。もう決めてはいたのですが、誰か男の人の意見が聞きたかった。杉本先生も賛成してくれました。子供を持てば、看護婦としての私に新しい世界が開けてきそうな気がする。何か欠けているような気がしていたけれど、それは出産という女の事業だったんだわ。いつまでも看護婦を続けたいし、そのためにも子供が必要だ、と考えてはいたんです。ようし、子供を産もう。産もうっと」彼女は両手をあげて背伸びをした。
彼女の「産もう」という言葉を合図のように、丁度時計が九時を告げた。消燈時間である。今日も患者生活の一日が終った。島尾さんの看護婦生活はこれから深夜までが本番である。「おやすみなさい、ベテランの看護婦さん」「おやすみなさい、ベテランの患者さん」
陽気な三人姉妹
ある朝眼を覚ますと窓の外は、一夜のうちに一斉に若葉に模様替えした――かと思われるほど、緑の世界になっていた。もちろん、日ごとに若芽がふくらんで色づいてきたのだが、その日は、朝陽を受けた木々の葉の露が修道院の庭中に輝き溢《あふ》れ、緑が反射し合って、まるで交響楽を奏でているようだった。その緑につつまれて三人の女性患者が体操をしている。
四月ももう半ばを過ぎた。四階病棟の手術室前のロビーから落合盆地一帯を眺めると、緑葉の合い間に、時々小さな砂塵《さじん》のように舞い上るのは、桜の花弁が風に散っていく光景である。今年は幹の下から見上げる花見はできなかったが、俯瞰《ふかん》の花曇りは十分堪能できた。この地帯はもう花冷えも戻っては来ず、若い木々は陽炎《かげろう》の中でゆらいでいる。
病床の花が美しく見える時、その病人は沈みがちで病状ははかばかしくない。逆に花が色あせて見える時、病人は回復期で、鬱《うつ》の状態を脱しているものだ――とは、長期入院患者の間に伝えられるジンクスである。見舞客が持ってきてくれた花はみな美しいが、ほとんどが温室栽培で、ギリシャ語、ラテン語の学名のような名前はなかなか覚えられない。私の枕元の花は蘭《らん》の一種だったが、窓外の自然に比べると、もう生彩を失っている。私の病状もかなり回復している筈《はず》なのだが、いま一歩のところで足踏みしていて、まだ退院のサインは出そうにもない。
庭で体操をしている三人の女性患者が笑いながら手を振ると、体のバランスが崩れてよろける。明らかに私の方に合図をしているので、手を振り返した。朝の挨拶のつもりなのだろう。右手にいるのは乙女がりの髪形で頬の赤さが目立つ女性、真中の女性は外国人で長身のブルーネット。いずれも二十代後半の齢頃に見える。もう一人はボーイッシュな断髪でまだ十代の若さだろう。三人ともパジャマ姿で、トランジスタ・ラジオの音楽に合わせて徒手体操をしている。曲が変わると外国人と断髪の少女は時々動作を間違え、太極拳かスローワルツのように調子が合わなくなり、げらげら笑い出し、途中で止めてしまった。残った乙女がりだけが規則正しく手足を動かし、最後に丁寧に深呼吸をしてお辞儀をした。私たちは、音のしない拍手を送った。彼女らは、ベランダを通って一〇号室の女性用大部屋に戻っていった。もう朝食の時間だった。
内科病棟の患者三十人の半数は男性、半数は女性だったが、男女の間ではあまり話をせず交流もなかった。集団生活を営んでいるが、ここは病院であり、男女とも入院患者である。みな出来るだけ早く退院したいので療養を専一にし、第一に考えるのは自分の病状のこと。他人への関心は二次的にならざるを得ず、必要最低限にとどめている。私たち三号室は肝臓病患者が多く、同病相憐《あわ》れむ肝民族としての団結と親愛の意識が強かったが、この雰囲気は例外的なものだろう。
異性患者に対しては、どうしても遠慮がちになるものだ。男性用大部屋は、三号、五号の二部屋とも病棟の中央部に隣り合っているが、廊下をはさんで両室のちょうど向いに男女トイレがある。一方、女性用大部屋は二号室が病棟入口近くに、また一〇号室は一番奥の病棟のはずれにあり、女性患者たちがトイレに通うには必ず男性大部屋の前を通らなければならない。ちょうどトイレの前に休憩用兼喫煙用の長椅子があるので、その前を女性たちが行き交う具合になる。カフェテラスに坐って道行く女性の品定めをする図、と誤解されやすい。彼女らだって男性の眼前でトイレに入るのが恥ずかしいだろう。私たち男性だって、それをじろじろ観察している、と思われるのは心外だから、眼をそむけ気付かない素振りをして、男性同士で話をしている。
もっとも女性の方もそれほど異性を意識はしていないのかもしれず、トイレ通いが恥ずかしかろうと想像するのは、私の考え過ぎかもしれない。二号室の渡辺さんのお婆さんなどは必ず行き帰りに長椅子に腰をおろし、一休みし、「齢をとると、お小水が近くなって面倒臭い」とこぼしたり、「きょうはお通じがしっかりあって、爽快《そうかい》」とかの感想を述べていく。トイレの入口にはカーテンがあるだけ(もちろん便所ごとにドアはついている)なので、廊下にいると男女両便所とも排尿の音などがよく聞える。何故《な ぜ》ドアをつけないのかと訊《き》くと、患者に万が一の事態が起った場合、できるだけ早く駆けつけやすいようにカーテン一枚だけにしているという。「患者さん同士もあまり気にならないでしょう?」と逆に訊《たず》ねられ、質問した方が何となくやましさを感じてしまった。
四月も半ばを過ぎて外の光が柔かく優しくなると、患者たちはもうトイレ前の長椅子にとぐろを巻いていなかった。安静度の許す限り看護婦も外の日光浴と外気の深呼吸を奨《すす》め、庭に出ることを促すのだった。朝のベッド・メイキングの時や昼の安静時間が終ると、「さあさあ、ベランダに出て日なたぼっこ、殺菌してきて頂戴」。彼女らが手を叩くと私たちは鶏が小屋から追い出されるように中庭にとび出ていく。
ベランダには、誰かしらがラジオを携行してきて音楽を聞いている。NHK・FMは午前八時から「朝の名曲」、九時からは「音楽の部屋」だが、作曲家は何故かモーツァルト、ベートーベン、シューベルト、メンデルスゾーンといった顔ぶれに集中している。そのどの曲も、爽《さわ》やかな朝の緑に囲まれた聖堂のある庭にふさわしい。
枯れ芝はすっかり草色の絨緞《じゆうたん》となって、小鳥が餌《えさ》をついばみにおりてくる。十姉妹《じゆうしまつ》、ムクドリ、ヒヨドリ、モズなどが常連で、いずれもおとめ山の方から番《つがい》でやってきて、芝生の下の土から虫をあさって、ひな鳥のために運んでいく。
人間の患者同士もこれまであまり交流がなかったのは、冬眠動物や虫たちのように病室に籠《こも》りがちだったからだろう。だが、今や憧れの日光と外気を満喫できる季節がめぐり来たので、啓蟄《けいちつ》の虫たちのように寝ぐらから這《は》い出てきたのだった。こうして同室の仲間だけではなく、他の病室の患者とも話し合う機会ができた。また、男性患者と女性患者も口を利くようになった。一〇号室の“三人姉妹”たちと友達になったのも、ベランダの集団デートがきっかけだった。
まず、ボーイッシュな断髪の江田嬢が「おヒゲのおじさんは、ミイラの着せ替え人形を持っているでしょう?」と訊ねたことから会話が始まった。彼女は、これまで廊下で擦れ違っても私のヒゲ面が怖かったので眼を合わせないようにしていた、と言った。「背が高く顔が痩《や》せていて長いガウンを着たヒゲをはやした、青鬼さん」との印象を持っていたらしい。ベランダの外から、私のベッドの壁にかかっている例のミイラのお面を見つけた時から、彼女の中に、青鬼伝説が出来上っていたようだ。しかし、慣れてくると「おヒゲをはやしていても、本当はあまり怖くない」とか、「よく見ると、おヒゲの中で笑っていたんだね。かわゆい」とませた言い方をした。私は「かわゆい」という流行語を知らなかったので、どぎまぎしたものである。
「ヒゲのおじさんは年いくつ?」と訊くから四十四歳と正直に答えると、暫《しばら》く頭の中で計算していて「私より十二歳年上」と嬉しそうに答えを出した。その時は彼女が三十二歳とは信じられなかったので、計算の苦手な女の子だな、と思ったが、やがてその答えが正解と判った。彼女は精神発達遅滞者だったのである。
江田嬢は、純真な子供そのものだった。幼い子供の特徴である質問好きで、一人で一方的にしゃべったあとは、やたらに質問を発する。「奥さんはいる?」「奥さんは綺麗《きれい》?」「奥さんを愛している?」「子供はいる?」「双子ならどちらが好き?」「双子ならどうして同じように好きなの?」「それでは、双子ではない桜田淳子と森昌子とはどちらが好き?」「山口百恵は婚約してしまったからダメ。淳子と昌子とどちらが好きなの?」「松田聖子はまだ子供だからダメ。いいから、淳子と昌子のどちらが好きか、はっきり答えなさい。ねえ、どっちなのよ」
結局、私は森昌子ファンにされてしまったのだが、実は私はそれらの歌手をあまり知らないのである。だが、この“どちらが問答”のあと、彼女から「ヒゲのお兄さん」の名前を頂戴したのは収穫だった。彼女は「メンスが終らないので気分が悪い」などと大人っぽい口を利くこともあったが、その言葉には大人の女性としての響きはなかった。常に、自分は子供である、と主張した。「それじゃあ、その子供より十二歳年上のボクは、おじさんではなく、お兄さんだろう?」と同意を求めると「ああ、そうか」と簡単に認め、それ以来、ひげのおじさんではなく「ヒゲのお兄さん」と呼ぶようになったのである。
江田嬢の紹介で、早朝のベランダでラジオ体操をしていた“三人姉妹”が、私の生活の中に飛び込んでくると、毎日がにわかに賑《にぎ》やかになった。これまで廊下で時たま会話をする、弱々しくしとやかで、寡黙なお婆さんたちとは違い、活発で、あけすけで、機関銃のようなおしゃべり。まるで女漫才トリオだった。彼女らと初めて話をした日、『下落合風景』ノートには「三人姉妹。長女=原田かおり、次女=フランカ・アントニオーニ、三女=江田美代子、女三人寄れば姦《かしま》しい、とは病人にまであてはまる至言」と書き記した。
患者が異性の病室を無断訪問することは、もちろん禁じられている。ところが“三人姉妹”、とりわけ江田嬢は大胆だった。廊下に看護婦がいないことを確かめると、カーテンをそっとあけて覗き込み、「ヒゲのお兄さん」と小声で囁《ささ》やく。私が廊下に出ていくと、原田さんやフランカも待っていて、トイレ前の長椅子で四人の座談会が始まる。原田さんもフランカも、自分から進んで座談会を招集することはしない。病室で退屈した江田嬢が、まず行動を起すのである。原田さんとフランカは、廊下でおしゃべりすると他の患者に迷惑だから、面会時間がきたらベランダに出て話をしようと言ってきかせるのだが、江田嬢はそれまで待てないのである。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫、小さな声でお話するから。ね、ね、ね」と二人に誓うのだが、五分もすると金属的な笑い声が廊下中に響き渡り、シスターや看護婦たちが飛び出してくる。謝まるのは決まって原田さんだが、みんなが話に夢中になると自分もかなり大声でしゃべっている。原田さんは、会話を中断して思い出したようにトイレに行くことがある。「下痢がひどくて」と弁解するようにいう。そんな時、フランカも江田嬢も心配そうな顔をしているが、彼女が戻ってきてまた話に花が咲くと、まるで学校帰りの女学生のように笑い声の合唱になる。フランカはイタリア人で、たどたどしい日本語にフランス語やイタリア語や英語をまじえて話する。彼女も相当な早口だ。原田さんは年長者らしく常に江田嬢に注意を払っていて、時々髪の毛を撫《な》でてやったり、パジャマの襟のボタンを掛けなおしたりする。フランカがせき込むと肩をたたいてやり、「頭、痛くない?」と訊いたりする。原田さんはやはり“三人姉妹”の長女の風格があった。
原田さんの話から江田嬢が精神発達遅滞で、“栄養失調”で入院中であることを知った。フランカは激しい頭痛、原田さん自身は下痢、が主病だった。
江田嬢は、生れた時からひ弱で体の成長も知恵の成長も遅かった。三十二歳だが、知識と知恵は小学三、四年の程度だった。自分の名前は漢字で書け、平仮名もどうにか書くことができる。性質も素直だが、好き嫌いの感情をすぐ表てに出しやすい。注射と点滴が嫌いで、初めの頃は大声で泣きわめき、拒絶していたが、最近ではあきらめて不承不承、腕を差し出すようになった。浣腸も絶対に厭がって、ベッドの上で大の字の手足をばたつかせ三十分間泣いて抵抗したが、原田さんやフランカの説得でようやく承知した。
要するに、彼女は頑是ない子供だったのである。大人のような計算も演技もなく、正直に自己主張するだけだった。彼女の栄養失調は偏食が原因だった。御飯は何杯もお代わりするほど好きだったが、野菜や果物が嫌いだった。肉類もあまり好きではなかった。貧血と便秘のせいか、いつも顔色が悪く、口の回りにおできともニキビともつかない突起があった。看護婦や原田さんたちが食事のたびに口うるさく注意すると、まずそうな顔をしながらも次第にライス以外のものも食べるようになった。食べ残すとその分だけ、お医者さんが注射を打たなければならない、という理屈の脅かしをようやく信じた結果である。
私が「何が一番好き?」と訊くと「何でも食べるわよ。白い御飯もチャーハンも、お握りも、お茶漬けも、おじやも」と答える。「それではキャベツとレタスとどちらが好き?」彼女はとたんに黙りこくってしまう。私は返事するまで質問をやめない。「林檎《りんご》とミカンでは?」「バナナとイチゴは?」「ホーレンソーと玉葱《たまねぎ》は?」「ミルクとチーズは?」「お魚とお肉は?」……。すると「お父さんとお母さんとどちらが好きと聞いているみたいで、ヒゲのお兄さんは卑怯《ひきよう》だ」と食ってかかった。
“三人姉妹”と私の交際には、同室の患者のうち外の散歩が許される安静度の若林さんと荒井老人が加わった。カメラマンの若林さんはもう胃潰瘍《いかいよう》が治りかけていて、退院に備えて負荷運動が奨励されていた。古本屋の荒井さんは、小平老人が退院したあとに入院してきた。私と同じ慢性肝炎。便秘症状がひどくいつも苦虫をかみつぶしていたが、“三人姉妹”と散歩に出ると「若い女の子と付き合っていると、明るく花やいだ気持になるね」と相好をくずした。
この成人男女グループが、幼稚園の園児のように修道院の庭を散歩する光景は、他人の眼にはどう映ったことだろう。いい齢をしながらいちゃついている、と見えたのかもしれない。実際、三十五歳の若林さんや四十四歳の私も、時々歯の浮くような恥ずかしさを覚えることがあった。
修道院の裏庭には鈴蘭が咲き乱れ、紋白蝶がとんでいる。どこかにリスの巣があるらしく、時々現われては消える。小鳥が舞いおりてくる。女性たちはクローバーの白い花を摘んでは、花輪を編んでいる。みんなが四つ葉のクローバー探しに夢中になっている。自分の縁起を担ぐだけではなく、病室の重症患者たちへのお土産である。二号室の渡辺さんのお婆さんたちもやってくる。彼女はもっぱらスミレを摘んでいる。その可憐《かれん》な花に、細長い葉の雑草を配してヨーグルトや牛乳瓶にさし、同室の患者たちに配るのである。
「これはまたメルヘンの世界、いやらしいほどの綺麗ごとだなあ」。花摘む乙女たちのスナップ写真を撮りながらカメラマンの若林さんが呟《つぶや》く。私も同じようなことを考えていたのだった。重症患者に比べれば、私たちは散歩に出られるだけでも遥《はる》かに恵まれているが、クローバーの絨緞に腰をおろし花を摘む絵は、いかにも少女趣味だ。若林さんは「小児病的平和」と自嘲《じちよう》的に言った。確かに、馬鹿馬鹿しいままごと遊びかもしれない。しかし、若林さんも私も、照れながらも、それほど自意識過剰になる必要はないと慰めあった。こうして一時的にせよ、現実を逃避し童心に戻るのも悪いものではない。どうせ、退院すれば、弱肉強食のすさんだ現実社会が待ち受けている。若林さんはカメラを構えながら「お手々、つないで、野道を行けば、みんな、可愛いい、小鳥、なんですよね。おおい、小鳥たち、みんなこっちを向いて。はい、“チーズ”ではなく“シーツ”と言って笑ってごらん」とシャッターを押すのだった。
十代の少女にしか見えない江田嬢が三十二歳と知った時は驚いたものだったが、二十代とばかり思い込んでいたフランカが三十一歳、原田さんが三十六歳と知ってもう一度驚いてしまった。
江田嬢は知恵が遅れているので幼く見えるのだろうが、フランカが若々しいのは外国人だからなのだろうか。彼女はフランカ・アントニオーニと名乗ったが、日本人と結婚しているので戸籍上はフランカ松本である。ローマの中産階級の娘だったが、汽車の中で日本人の松本君と知り合って恋に陥り、結婚した。松本君は日本の楽器メーカーのローマ駐在事務所に勤めるサラリーマンで、フランカより三歳年下だった。彼女自身は美術学校を卒業し、ガラス細工のデザイナーだった。一年前、夫の松本君と一緒に帰国し、阿佐谷の社宅に住んでいたが、日本の生活になじめず心身ともに疲れ果て、激しい頭痛に悩むようになった。典型的イタリア人らしくカトリックである。近所のカトリック神父の紹介で聖母病院の外来で診察して貰い、入院した。二階の外人病棟ではなく一階内科病棟に入院したのは、夫の松本君の健康保険の扶養家族扱い、つまり日本国民の資格で診察を受けたためである。
彼女は、自分の頭を指さして顔を歪《ゆが》め「マル・ディ・テスタ」と言い、「マラ・ラ・テート」。そして「ヘデイク」「あたま、痛い」と症状を説明した。私はイタリア語は全然知らなかったが、フランス語は片言、英語は少ししゃべることができた。フランカのベッドの隣りにいた原田さんは、看護婦たちから私の素姓を聞き、私が多少外国語が話せると見当をつけ、フランカの相談相手になってもらえるかもしれない、と考えたのだという。江田嬢の私へのアプローチは、そのための使者の使命もあったらしい。
フランカはイタリア女優のピア・アンジェリに似たところがあったが、病気のせいか痩せて眼が落ち窪《くぼ》み、それだけ鼻が高く見えた。普段は二十代後半の若さに見えるのだが、苦しさを訴えたり、困った表情をすると、途端に魔法使いの老婆の顔付きに変貌《へんぼう》する。それはイタリア人特有の、大袈裟《おおげさ》なジェスチャーのせいかもしれなかった。
彼女の病名は「偏頭痛」だった。しかし、医者は何度検査しても異常が認められないという。見知らぬ国での生活が神経を圧迫し、それが頭痛をひき起すものらしい。「私、しんちゃん(夫の名前)を愛しているけれど、東京の生活、人間、みな早く動いて、眼が廻る。眼が廻ると頭が痛くなる」と嘆いたことがある。一種のカルチャーショックかもしれない。彼女は気晴らしに、東京の陶磁器メーカーでガラス細工デザインの仕事を始めたが、日本の会社の組織と人間関係になじめずに、それがまた頭痛の種に加わった。「しんちゃんは、毎晩遅く帰ってくる。たいてい酔払って帰ってくる。イタリアでは、昼食時にもきちんと帰ってきて一緒に食事をした。夕方も、六時には帰ってきて一緒に食事をした。東京では朝早く家を出て、夜遅く酔払って終電車で帰ってくる。それも仕事、仕事。社宅の男性はみな、しんちゃんと同じように夜遅く帰ってくる。日曜日は朝早くからゴルフに出かける。ペルケ、ペルケ、なぜ、なぜ?」と訊ねるのだった。
一年間の滞在にしては日本語はかなり上手だが、それも日常会話どまりで、少し話の内容がこみいってくるとすぐイタリア語がまじり、相手に通じないと、さらにフランス語や英語に変化する。しかも、せっかちでおしゃべりのイタリア女らしく、思いついた単語をスタッカートのように次から次へ並べるので、話の脈絡がなかなかつかめない。これでは、他の患者たちも彼女と話すのを敬遠するわけだ。親切で辛抱強い原田さんや、自分が一方的にしゃべりまくる江田嬢のようなタイプの人間でなければ付き合いきれないだろう。
彼女は、相槌《あいづち》をうつ時には「シ・シ・シ・シ」または「そ・そ・そ・そ」という。「シ」は日本語の「そうです」、つまり「そ」に相当する肯定の言葉である。否定は英語と同じ「ノー」で、これも「ノ・ノ・ノ・ノ」と連発する。「シ」にせよ「ノ」にせよ、そのたびに大形な身ぶり手ぶりが入る。また、しきりに「ペルケ、ペルケ」とか「コメ、コメ」と身を乗り出して訊ねる。「ペルケ」は「なぜ」、「コメ」は「どうして」または「どういう風に」という意味だ。つまり理由とか原因を究明する疑問詞が多いのである。江田嬢は日本語で、フランカはイタリア語で、それぞれ競って質問をたたみかける。二人とも、大人にしきりに物を訊ねる無邪気な幼児に似ていた。純粋で可愛気があるから憎めないが、少々うるさく、相手する側はいささか疲れる。
そこに原田さんが加わって、かしましトリオが生れる。彼女はおカッパ頭風の乙女がりで、真赤な顔がふくらんでいる。唇も豊かで、口紅を全然つけないのに赤い。それにしゃべり方が女学生のようだ。初対面から慣れ慣れしい口を利き「あのさあ、ヒゲのお兄さんは新聞記者で、時々外出許可を貰って仕事に出かけるんですって?」と訊く。そうだと答えると「それじゃさあ、今度、私たちに、時局問題について話をしてくれる?」未知の人間に対し、あまりにもざっくばらんに話しかけるので、いささか蓮《はす》っ葉《ぱ》な印象を受けたが、おそらくそれは、世間をあまり知らないからなのだろう。医師やシスターに対しても同じ調子だった。そうかと思うと、時々、一人で聖堂にこもって長い時間出て来ない。また、ルルドの脇のベンチで本を読んでいることもあり、どことなく不可解で神秘的な感じもする。いつもは江田嬢とフランカに調子を合わせて、幼児語のようなしゃべり方をしているが、時として口調を変えた。「江田さん、フランカさん。あなたたちは女の子でしょう。もう少しお行儀よくね。そんなに大きな声を出すと他の患者さんに迷惑です。二人ともこの間、イエス様に、もう大声で笑いません、と誓ったばかりでしょう?」とたしなめる。そんな時はいやに大人びた威厳がある。原田さんは一〇号室の他の患者の世話にも熱心で、看護婦たちは「あれじゃ私たちの商売もあがったりだわ」としきりにこぼした。しばらく付き合ううちに、三十六歳という彼女の年齢を偶然知って私はますますびっくりした。「魔女か、妖怪か、化物か」と大学ノートにはメモした。顔が若く見えるのは、まず、髪の形が少女っぽく、化粧をせず、頬と唇が真赤で、皮膚細胞がいつもはち切れんばかりなので、皺《しわ》が目立たなかったからだろう。そして、江田嬢やフランカたちとの子供じみたじゃれ合った付き合い。だが、原田さんはやはり三人の中では最年長の長女の存在で、同時によき庇護《ひご》者、指導者、相談相手だった。
“三人姉妹”に共通しているのは、童女のような幼児性だった。江田さんの場合は精神発達の遅れ、フランカの場合は、異郷での不慣れな言葉や挙措がその原因だったが、原田さんにも何か特殊な事情があるように思われた。また、三人とも病室の外に出るとき被るガウンは、それぞれ大きさやデザインが違っていたが、ピンクがかった色調と小さな花模様がついている点が共通していた。それはまるで、三人おそろいのユニフォームのようだった。
やがて、いろいろな事実が判ってきた。もう一つ、三人に共通しているのは、三人とも同じ内科病棟で入院生活を送りながら、一週間に二度、外来病棟の神経科に通っているということであった。もちろんこのことは必ずしも精神異常者であることを意味しない。現代医学では神経科の扱う範囲は広い。彼女たちも精神異常者としての治療を受けていたのではなかった。精神安定のため、医者に話をしに行くだけだったが、サイキアートリスト(精神分析医)と対話することは、治療の一種かもしれない。
普段は無邪気におしゃべりし、陽気に振舞っている三人が、そろって神経科に通院しているという共通の符合に、私は強い関心を抱いた。江田嬢とフランカについてはその理由が判るような気がするが、原田さんは何故だろう。好奇心にはやって本人に直接たずねるのは失礼だと思っているうちに、またまたビッグ・ニュース(私にとっての)が飛び込んできた。ある日、看護婦の一人に「一〇号室の頬の赤い原田さん、あの人は何物?」と訊くと「シスターよ」と言う。「シスターって、あの修道女のこと?」「ええ、彼女はここの修道会とは違った会のカトリック修道女」。その新情報に接して、私の三人に対する関心はますます高まった。それはミステリー小説のような興奮をともない、久しく眠っていた私の好奇心と取材意欲を刺激した。
私は“取材”のため、積極的に彼女たちに近づくようになった。フランカ松本には日本の生活様式についてひとくさり講義をした。また彼女の勤め先に電話をし、給与や健康保険の取扱いについてただし、アドバイスをした。江田嬢には偏食のおそろしさについてお説教し、刺繍《ししゆう》の特技を職業として活かすよう奨《すす》め、ケース・ワーカーと相談した。シスター原田にはカトリック入門書を何冊か推薦してもらい、外出許可のたびに本屋で買ってきては、“真面目な生徒”の印象を与えるよう努めた。
こうして私は、いつのまにか三人の女性患者の私的コンサルタントのような存在になっていた。
ベランダと芝生の境の柵《さく》に身体《からだ》を凭《もた》せかけて、江田嬢が三号室に手を振る。午後の安静時間が過ぎると、私たちの散歩ツアーは出発する。カメラマンの若林さんや古本屋の荒井さんも常連である。ピクニックは参加者が多いほど楽しい。他の病室の患者や短大の実習生も一緒になるとパーティーはいっそう賑《にぎ》やかになる。
聖堂の横の修道院へ抜ける小道は緑のアーケードである。いちょう、ポプラ、くぬぎ……さまざまな木の葉の形が幾重にも重なり、木洩《こも》れ日を反射し合って、緑の色相だけのモザイクを作っている。その下の石畳を辿《たど》っていくと、修道院とアスンタ寮の間の芝生の丘に出る。そこでまず一休みする。釣鐘草、大根の花、すみれ、都忘れなどの花が、修道院の庭の柵の下から顔を覗《のぞ》かせている。被《おお》いかぶさるようにハリエニシダの長い枝の束が垂れ下っている。その紫と黄の配色が時には眩《まぶ》しい。土手の上に出る。下の中落合通りは昭和初期の天才画家・佐伯祐三が、「下落合風景」と題して好んで描いた昔の切り通しである。下の路上の人々が、土手の堤に咲き残った八重桜の短い並木を見上げながら通っていく。土手の上には鈴蘭の咲いているクローバー畑が広がっている。
私たちの話題はさまざまだ。だが、もっとも日常的なテーマは食物、睡眠、便通の三つである。快食、快眠、快便は健康の三大チェック・ポイントとよく言われるが、患者にとってはいずれも切実な問題だ。食欲不振、睡眠不足、便通不順の三つが重なると、私のように青鬼とも聖者ともつかない風貌《ふうぼう》の病人の典型ができ上る。
とくに内臓系疾患の患者にとって、便通は最大の関心事であり心配事である。患者の世界では、話し相手が異性でも、また折りから食事中でも、この種の話題はタブーではなくなっている。便秘、下痢、放屁《ほうひ》をめぐる悩みを打ち明ける際は、下品とか失礼とかの理由で遠慮したり、軽蔑《けいべつ》したりしはしない。眉をひそめる人はもぐりの患者である。したがって、クローバー畑に腰をおろし、新芽の柳の枝が送ってくるそよ風に吹かれながら、男女が便通について熱心に語り合うのは、病院の庭ではきわめて自然な光景なのであった。
古本屋の荒井さんと江田嬢の悩みは“便秘”であり、フランカとシスター原田の悩みの種は“下痢”だった。私と若林さんは、どちらかといえば秘結組だが、専門の解説分野はもっぱら「おなら」だった。
フランカとシスター原田の下痢は、医学上の原因は判然としなかった。もしかしたら心因性の症状かもしれない。とくに、シスター原田の下痢は深刻だった。抗生物質・副腎皮質ホルモンのステロイド錠薬の服用をやめると激しい下痢が始まる。そのために「おしりのアザがなかなか消えない」のも悩みだった。彼女は先週、直腸に空気を入れてふくらませ、内視鏡を差し入れて腸内壁を透視し、腫瘍《しゆよう》の有無を調べる検査を受けた。断食とバリューム嚥下《えんか》と浣腸に続くこの検査は、苦痛で屈辱的であることはみなが聞き知っていた。昨日、浣腸をしたばかりの荒井さんは、尊敬のまなざしでシスターの体験談に聞き入っていた。荒井さんの場合は、浣腸液を注入して少くとも五分間は排便を我慢するように、と医者に何度も念を押されたが、それは無理な注文だった。少量の便通しかなく、そのたびに下半身は白い浣腸液でびしょ濡れになった。結局、一日に三度も浣腸したのである。「あら、あら、あら」。荒井さんは看護婦たちの世話を素直に受け入れていた。
フランカの場合は、「ディアレーラ(下痢)」も「マル・ディ・テスタ(頭痛)」も次第に収まりつつあった。彼女は、日本に来て一年になるが、聖母病院に入院して初めて友人らしい友人ができた、と言った。自分の症状が回復に向かっているのも「アミーチ(友人)」のお蔭である。いや、あなたたちは友人というよりも私の「ソレッレ(姉妹)」であり、「フラテッリ(兄弟)」である、と言った。「イミグラッツァ(偏頭痛)」が一応治ったら、一度帰国して暫く家族とともに暮らし、ローマ大学で精密検査を受け、その後の生活については改めて考える、という。彼女は、夫の「しんちゃん」が可愛いいし、愛しているが、日本での生活には自信がないので、しんちゃんとイタリアで一緒に生活することができなければ離婚するかもしれない、とまでわれわれに打ち明けた。
江田嬢も、私たちの説得だけではなく栄養士の栄養指導を受けているうちに、ライス好きの偏食が次第に改まってきたようだ。栄養失調もほぼ治り、顔のでき物もほとんど消えた。彼女はこれまで自宅で母親と刺繍やアプリケの手仕事をしていたが、聖母病院のケース・ワーカーのあっせんで心身障害者雇用促進事業協会を紹介され、退院後は、自宅からバスで三十分の衣料メーカーの下請け工場で働くことになった。「毎日、お弁当持ってお勤めするの」と嬉しそうに言う。私とシスター原田は江田嬢の父親から丁寧なお礼の手紙を貰っていた。
荒井さんは退院後、高田馬場の古本屋の店舗を改装する計画で、図面をひろげては熱心に説明した。若林さんは、胃潰瘍が治ったら二、三カ月間自宅療養して、秋には中国の桂林《けいりん》にPR写真を撮影に行く仕事が待っていた。患者はみな退院後の計画を持ち夢を語ったが、私には語るべきものがなかった。これまでは外務省詰め記者で、日米経済摩擦など国際経済問題を担当していたが、おそらく同じことを続けることになるだろう。新聞の見出しは相変らず日米関係の厳しさを伝えていた。
シスター原田は自分が修道女であることを隠していたわけではなかったらしい。ある日の散歩で若林さんが「あなたシスターですって?」と訊くと「そうよ。知らなかったの?」「ゲラゲラ笑いながら体操しているお転婆のシスターってのは想像できない」「毎朝六時半には、聖堂のおミサにも出てるわよ。フランカや江田さんとベランダで体操しているでしょ。あれはミサの次の、朝の行事。早起きしておミサに出て、体操をする。体操は食欲を増進するし、便秘や下痢を直すための整腸運動。この病院での生活も、上野の“子供の家”での生活も同じです。ただ、この聖母病院では子供たちの面倒を見る代わりに、フランカや江田さんと遊んでいるのだけど」すると江田嬢が「私は子供だからね」と口をはさんだ。フランカは「みんなが、バンビーノでバンビーナでしょう」と言った。
「原田さんは、シスターの着るあの白いメリケン粉袋もつけてないし、ベールも被らないんですね」と若林さんは身許《みもと》調査を続けた。「私たちはベールを被らないシスターなの。でも普段着の修道女では、あまりしまらないかしら」「いや、その方が親しみやすいけど。でもシスターと普通の女の子と、どうやって見分けるんですかね」
シスター原田の所属している修道会は、聖職衣をまとわない私服を許された修道会だった。社会奉仕を重視し、街に出て貧しい人々の中で共に働くことを第一義にしているため、むしろ服装は世間一般の女性と変らない平服を着る規定なのだ、という。「スカートをはいてもよいし、パンタロンでもよい。もちろんパーマはかけないし、お化粧もしませんが、髪型は自由です」
彼女の髪型は前髪はおかっぱだったが、後は少しだけ長く、女学生のような乙女がりだった。聖母病院の属する「マリアの宣教者フランシスコ修道会」も第二バチカン公会議以来、規律が緩和され、シスターたちの“十二単《ひとえ》”は簡素化し、スカートも短くなったが、それでもみなそろいの“ユニフォーム”を着用している。妻が入院中に同室だったシスター朝間の属する練馬の修道会では、いまだに黒い聖衣とベールをまとっていて重々しい。祈祷《きとう》も昼間は三十分ごと、夜は二時間おき、とかなり厳しい。またカルメル修道会のように、世間との交渉をほとんど断ち、隠遁《いんとん》的な禁欲生活を送る観想修道会もある、という。修道会の戒律や規律の厳しさにもかなり差のあることが判った。最近では私服の修道会もかなりふえてきて、結婚式などではファッションモデルのように妍《けん》を競うシスターたちもあるという。もっとも和服姿や水着のシスターは、まだ出現していない。
「でも、私服を着て普通の女の子のように振舞っていてもシスターであるからには一生、結婚できないんでしょう。あなたのように若くて綺麗な人が、恋愛も結婚もしないなんて勿体《もつたい》ない」と若林さんがからかう口調で言った。彼はシスター原田が三十六歳であることを知らないのかもしれない。
「私は二十四歳の時に誓願したのよ。つまりキリストと結婚したのですから」。シスターは、シスター寺本が以前してみせたのと同じような科白《せりふ》でエンゲージリングをかざして見せた。「それまではロマンチストだったけど、ミッションスクール時代から修道女になる決心をしていたので、普通の女の子のような結婚は全然考えなかった。男の人で好きになったのは、キリストのほかは父と弟。もちろん、ここのみなさんも好きだけど。これまでに恋愛や結婚の対象として特定の男性を意識したことはなかった、という意味。私は小さい時から祈ることに夢中だった。一晩中祈っていて、夜が明けたことは数えきれないほどだったわ」
シスター原田は静かにゆっくり話をしていたが、ちょっと体を震わせた。いつも赤い頬と唇がさらに紅潮していた。江田嬢が気付いて「おねえさん、お顔が真赤」というと、両手で頬をはさみ「帰りましょう。外気に当りすぎたのかしら」と立ち上った。彼女は下痢をとめるために抗生物質とステロイドを服用していた。ステロイドをやめると下痢が始まる。服用すれば下痢はとまる。ステロイドは現代医学の誇る副腎皮質ホルモンの特効薬だったが、副作用をともないがちだ。彼女の頬や唇が赤いのは、自然の血色ではなくその副作用、毛細血管拡張の現われだった。また、頬が少女のようにはち切れそうに豊かなのも「ムーン・フェイス」と呼ばれる副作用現象だった。
三人の女性患者はある日曜日の朝、我々三号室の“男友だち”をミサに誘った。三人はパジャマやガウンから、小ざっぱりしたブラウスとスカートに着かえ、スリッパではなく靴を履き、聖書と典礼聖歌集を持って廊下の外に立っていた。若林さんは「ボクは興味がないから」と断わった。荒井さんも「讃美歌を聞くのは好きだけど、アーメンはどうも苦手で」と逃げた。私は逡巡《しゆんじゆん》していた。
「ヒゲのお兄さんは一緒に行くわね」と江田嬢が私の胸を叩いた。「お洋服に着替えていらっしゃいよ」「プレスト、プレスト」。フランカまでが私をせかせる。
聖母病院に入院した機会に、キリスト教、とりわけカトリックについて勉強しておこうと思いたち、宗教関係の解説書や雑誌類に時々眼を通していたのでミサにも興味はあった。しかし、少年時代、姉と教会に行った思い出が気恥ずかしさにつながってつい気遅れしてしまう。聖書の朗読を聞いていると、新劇の翻訳劇のセリフのような違和感を覚える。聖歌の合唱も文語調の日本語に直訳した西洋オペラのような不自然さを感じてしまう。
「ご一緒にいかがですか」と、シスター原田が催促した。「ボクも、もう少し勉強してから考えてみます」「残念だわ。でも、本当に信仰について学びたいのですか」。シスターは真剣な顔で訊《き》く。「ええ、まあ」と言葉を濁す。
「失礼ですが、それでは今晩にでもそのことについて少しお話をさせて下さい」とシスターは改まった言葉を使った。「新興宗教のように入会を勧誘しようというつもりはありません。せっかくお友達になったのですから、神のことについて少しでも知っていただきたいのです。難しい教義はどうでもいいのです。私の話をお聞きになって納得がいき、御関心をお持ちになったら、どなたか神父様を御紹介したいし――」
シスター原田が、一〇号室の江田嬢やフランカだけではなく多くの患者に対し親切で、よく世話をしていることは内科病棟の誰もが知っていて感謝し、尊敬していた。が、時には病院側の治療方針や看護方針からすると、立ち入ったり、行き過ぎたり、違反したりすることもままあった。彼女の博愛精神が、その性格からくるものか、宗教心に基づくものかは判らなかったが、私が一対一でキリスト教の講義を受けることを病院側はどう受けとるだろうか。
その夜、私とシスター原田は“デート”した。男女の患者が二人きりで人眼をしのんで会うことは誤解を招くおそれがあったので、彼女は四階手術室ロビーのソファーに江田嬢とフランカを連れてきた。二人は時々会話に加わったが、私たちが話をしている間、FM放送を聞きながら編物をしたり、絵本を読んでいた。
夜の巡回だろう。ジェローム神父がエレベーターで上ってきて私たちに例の「おばんです。おじんです」と挨拶をしたあと、暫《しばら》くソファーに坐っていたが、やがて所在なげに立ち去った。妙なグループだと思ったに違いない。
結局、シスター原田は教義については講義しなかった。電話で修道会の上司に相談したところ入院中に布教活動をする必要はないと言われた、という。「他人にお説教するより、まず自分の病気を治しなさいと叱られました」。ただ、入院中に是非一度ミサに出席してほしいと言った。江田嬢もフランカも生れながらのカトリックで、日曜日のミサを何よりも楽しみにしている。三人とも二、三週間で退院することになるだろう。その前に一度「ヒゲのお兄さんとミサの喜びを共にしたい」と二人は希望している。
私は次の日曜日に、彼女らとミサに出ることを約束した。その代わりに――という表現は用いなかったが、明らかに代償を求める意味で条件を持ち出した。次の日曜日までに、シスター原田がなぜカトリックに入信したか、を含め、差し支えなければ、個人の歴史をうかがいたい、という注文である。「本を何冊も読むより、その方が勉強になるような気がするんです」とずるい注釈まで付けた。
私の中には一つのプランが暖められていた。この、世俗から超越した一風変った三人の女性の“人生”を取材して『三人姉妹』と題してストーリーをまとめるアイディアだった。心身障害者、外国人、修道女――の三人の女の、心と生活の歴史を病院を舞台に描くという構想である。
シスター原田は、暫く黙って考えてから「私たち修道女は、他人に身の上話をしないものなんです」と言った。「でもそれがヒゲのお兄さんのお勉強になるのでしたら、考えさせて下さい。二、三日の時間を下さい。相談してみなければなりませんし」彼女が眉を曇らせていたのが少し気がかりだったが、私は、彼女の話を聞けば、ストーリーの肉付けができるという期待に胸を躍らせていたのである。
数日後の夜、私たち四人は、同じ場所で二回目の“デート”をした。江田嬢とフランカは前回と同じように、音楽を聞きながら編物をしたり絵本を読んだりしていた。その日のシスター原田の態度は妙に改まっていた。
「修道会のシスターに藤原さんのことを説明して、私がこれまでに歩いてきた道をお話すると言いましたら、見ず知らずの男性、しかも新聞記者に、一身上の話を打ち明けるのはなぜか、と問われ、不謹慎をたしなめられました。特定の人とお付き合いすることも――いわゆるお付き合いではないと説明したのですが、それも注意されました。私は江田さんやフランカもまた他の患者さんの友だちも、みんなで助け合い、話し合い、慰め合うことはいけないことではないと思いますけれど、誤解や中傷を受けることはしたくありません。病気を治すために入院したのですものね」
彼女の表情は固かった。頬もいつものようには、紅潮はしていなかった。私たちは暫くの間黙っていた。そこに外科の虎田医師が現われた。私たちをうさん臭そうに眺めて手術室に入って行った。江田嬢とフランカは肩をすぼめていた。江田嬢とフランカは入院時の総合検査の際に虎田医師の診察を受けたことがある。虎田医師は親切で有能なドクターで島田医師と並ぶ名医だったが、無口でいつも厳しい顔をしているので、患者にはおそれられている。
私は、シスターの身の上話をメモするため、例の大学ノートまで持ってきていた。したがって期待を裏切られた失望感が大きかった。だがやがて、聖職者の純枠な気持を利用して取材という職業的な好奇心にかられ、プライバシーを探ろうとしたことへの後めたさが、次第に自己嫌悪にとって代わり、溜息《ためいき》をついてしまった。彼女はそれを失望の現われととったかもしれない。スコット・フィッツジェラルドに『夜はやさし』という小説がある。スイスの精神病療養所で精神分裂症の美少女の治療を担当している医師が、少女に個人的な関心を深めていくストーリーである。私は病院の庭でその医者が少女から身の上話を聞く場面の描写を思い出し、自分をその医師になぞらえ、いい気持になっていたのである。
「ボクの方こそ、御心配やら御迷惑やらをお掛けして、申し訳ない気持でいっぱいです」と頭を下げた。江田嬢とフランカはそんな他人行儀の儀式を不思議そうに眺めていた。シスターは手を振って「いえ、その代わり受け取って頂きたいものがあります」と小さなケースと紙袋を手渡した。
そのケースには「テレジア、マリア、ベルナデッタの三人姉妹より」とあり、ロザリオが入っていた。「テレジアはフランカの洗礼名、マリアは江田さん。ベルナデッタは私の洗礼名です」と説明した。ベルナデッタは、修道院の庭のルルドのマリア像に祈りを捧げている少女の名前。マリア出現の奇跡を見たフランスの聖女である。
「ベルナデッタのお名前を洗礼名に頂戴したのは、まだ少女時代に祈っている時に、神のお告げを聞いたような気がしたからです。お姿は見えませんでしたが、お声を聞いたような気がしたのです。あのルルドのベルナデッタの体験のように。その時に、私は修道女になる決心をしたのです」
彼女はそれ以上の話をしてくれなかったが、私は満足だった。『三人姉妹』と題する短篇小説の構想は放棄していた。だが、三人からのプレゼントであるロザリオを見るたびに、陽気で純粋な心の持ち主たちの笑顔を思い浮べ、彼女たちの幸わせを遠くから祈っていよう、と心に誓った。
私はロザリオを受け取り、心から感謝して頭を下げた。シスター原田も深々とお辞儀をした。フランカと江田嬢もあわてて頭を下げた。
廊下の奥から面会時間終了を告げる鐘が聞えてきた。手術室のドアが開いて、虎田医師が出てきた。江田嬢が「虎田先生、今晩は」と声を掛けた。先生は「今晩は」と立ち止って振り返り、「おいキミ、もうすぐ退院だろう。よかったな」と言った。
小羊は憂鬱
現代はストレスの時代といわれる。健康な人間ですら、医学では解明できない原因不明の自覚症状に悩むことが多い。科学的な医療検査で“正常”との診断結果が出ても、不定愁訴は依然残る。そうした原因不明の病気は、ストレスからきた「心因性○○病」と名付けられる。
私と同じ慢性肝炎の小平老人は、肝機能検査の数値が正常値に下って二週間になるが、「肝臓部のしこりがどうしても取れない」としきりにこぼし、主治医をてこずらせていた。
しかし、血液検査は依然“正常”を証明し、CTスキャンの映像も異常のないことを示していた。主治医は、触診でも腫《は》れは感じられない、と説明した。が、医師が回診から去って、小平さんが自分の指で肋骨《ろつこつ》下の肝臓部をまさぐると、確かに腫れているのだと言い張るのである。
私と若林さんは、小平さんの頼みで腹部を押してみたが、格別の異常は感じられず、むしろ、柔かな皮下脂肪の弾力を羨《うらやま》しいと思ったほどである。だが、彼は「ほら、そこ、そこ。そこが腫れているでしょう」と同意を求めるのだった。
修道女たち聖職者の病いも、通常の人間と変りない筈だが、純粋に信仰を追い求めるだけに“心因性”の自覚症状に敏感なのかもしれない。まして、戒律の世界に生きる人々である。
妻が入院していたころ、二階の談話室で混合病棟に入院中のシスター黒田と知り合いになったが、そのシスターは心因性の胃潰瘍《いかいよう》だった。入院すると痛みはおさまるのだが、退院して元の仕事に戻ると、たちまち痛み出すのである。
シスター黒田は、所属の修道会が経営するインターナショナル・スクールで外国人の小学生を教えていた。最初の四、五年間は、開発途上国の子供たちに英語で授業するのが楽しく、充実した教員生活だったが、ある時、フィリピン人の少年と意思疎通を欠いた事件が起って以来、胃がシクシクと痛み出した。
医者に診てもらったが、異常は認められない。シスター黒田は、自分の心掛けが悪いのではないか、と思い込んで悩み、朝、夕、神に祈り続け、反省し、加護を求めた。しかし、痛みはおさまらず、耐え切れずに聖母病院に入院した。ここでも医師は、「異常なし」と断定したのである。
彼女は退院し、再び教壇に立ったが、また、ひどく痛み出し、再度入院した。何度かの入院生活の間に神経科に通い、サイキアートリスト(精神分析医)に相談した。結局、医師は、教職以外の別の仕事を選ぶように奨めた。外国語で子供たちに授業するのが彼女の神経を圧迫し、それが胃痛となって現われる、という診断だった。
果して、児童相手ではない通常の修道院の仕事に就いてからは、彼女の胃は全然痛まなくなった。明らかに心因性であった。
昨年、その学校のバザーに招かれた際、私たちは、すっかり元気になった笑顔のシスター黒田に会った。白い尼僧服の裾《すそ》をひるがえし、彼女は快活に立ち働いていた。私たちが校庭の隅で立ち話をしていると、東南アジアや中南米の子供たちの一群が「シスター・クロダ。シス、シス」と叫びながら走ってきて、彼女にまつわりつき、手を引いて連れ去った。子供たちは、自分らが作った飾り付けを見にきてくれ、とせがんでいたのである。
看護婦の星野さんの場合も、まだ少女時代に心因性心臓病を患ったことがある。彼女はカトリックの家庭に育ち、中学を卒業すると、修道女になるため修練院の生活に入った。修道女にはかねてから憧《あこが》れていたので、最初の一、二年は、清楚な祈りの生活も楽しかった。毎日、すがすがしい祈りの中で、聖母マリアと対話できるだけで幸わせだった。
そのうち、外界から隔絶された生活の人間関係が少女の神経を圧迫しだした。シスターたちはみな年長者で、厳しかった。些細《ささい》な出来事でシスターたちと衝突したり、叱られるたびに心臓が止りそうになり、痛み出す。
医者は、心臓に異常は認められない、という。だが、シスターの中でも、自分に悪意を抱いているのではないかと思われるほど厳しいシスターに話しかけられると、とたんに動悸《どうき》が激しくなり、心臓が痛み出すのである。
少女は大人の世界についていけずに、ある日、秘《ひそ》かに修練院から脱走し、家に帰った。
それでも星野さんは、いぜん熱心なクリスチャンで、とくに聖母マリアへの思慕と憧れを捨て切れず、毎日、近所の教会に通って、一所懸命に祈った。かたわら看護学院に通って看護婦の資格を取得した。彼女は、将来、やはり修道女の道を目指したいのだが、その決断には慎重を期したいと言っている。いまでも心を籠《こ》めて祈っていると必ず、マリアの姿が脳裏に現われて、会話を交わすのだという。
幼い時代から信仰の生活に入った少女に敬虔《けいけん》な信者が多いのは、純真で無垢《むく》だからであろう。
星野さんのように、祈りの中で聖母マリアと交信する人は多いが、世界中、いたるところに、実際に、キリストやマリアの姿を見た、と言う人がいて、伝説化している。いまでも時々、UFO目撃者と同様に新聞ニュースの話題として取り上げられることがあるが、いずれも科学的、客観的に立証されないので、単なる話題にとどまっている。
日本でも、数年前に、秋田県の修道女が、マリア像のマリアの眼から涙が流れるのを見た――というルルドの出来事に似た“事件”があった。その修道女は、地元では評判の巫女《み こ》のような超能力の持主だった。証人も証拠もはっきりしないため、カトリック教会はその事実を認知しなかったが、いまだに信じている人もいるという。いまのカトリック社会では、その出来事を口の端にのせることすら、タブー視されているが。
あのルルドのベルナデッタが洞窟《どうくつ》の中でマリアの出現に遭遇し、お告げを受けた“奇跡”をローマ法王庁が認知したのは、長期にわたる綿密な調査と検討の結果であった。とくに十七回目のマリアの出現の際の「私は、汚れなき孕《やど》り(インマクレ・コンセプション)であります」というマリアのお告げを、その言葉を知る筈もない無教養な十四歳の田舎娘のベルナデッタが神父の前で反復したことが、決め手となった。
少年少女の純粋な魂は、熱に浮かされたように情熱的に信仰を求めるものである。私の少年時代、仙台一高新聞部の仲間の一人、今野君がそうだった。新聞部員の多くがマルクス・ボーイだった中で、同学年では私と彼だけが、マルキシズムの“洗礼”を受けていなかったが、今野君は、カトリックの洗礼を受けた敬虔な信者だった。
彼は端正な顔立ちで、透き通った青白い蝋《ろう》人形のような肌をしていた。実は栄養失調だったのである。
新聞部で文芸誌を編集した際、彼は十首の短歌を寄稿したが、それはいずれも、神への讃美を、激しさを抑制した表現ながら烈々と歌い上げたものだった。唯物論者の部員たちは掲載に反対した。私が、多数決の不採用通知を伝えに郊外の家を訪れると、倒れかかったバラックから幽霊のように現われた今野君は、黙って原稿を受けとった。そして私の顔をしばらく見詰め「君たちは神を怖《おそ》れないのですね」と呟いて、家の中に引き込んだ。
彼の家は熱心なクリスチャンで、昭和二十二年ヤミ米を食べずに栄養失調で死んだ東京地裁の山口判事に倣《なら》って、ヤミ米を買わずに、ひもじい時には、一家でひたすら祈っていたという。その今野君が、神に出会い、神のお告げを聞いた――という噂《うわさ》を耳にしたころ、彼はもう、学校に姿を現わさなくなっていた。一家で仙台を去ったと聞いたが、その後の消息は誰も知らない。
当時、仙台一高の新聞部は、社会主義研究会と並ぶ進歩的高校生の梁山泊《りようざんぱく》だったが、各学年次に必ず一人は、信心深いキリスト教徒がいたのは何故《な ぜ》だろう、といまでも不思議に思う。
一学年上の部員の一人は熱心なモルモン派クリスチャンだった。その一学年上にもプロテスタントの情熱家がいた。さらにその一学年上で、私たちの入学と入れ替りに卒業した先輩部員の一人も、修道院から通学していたカトリック信者だった。彼はいつも図書館に籠って大槻文彦の『大言海』を、鼻をほじくりながら読み耽《ふけ》っていた。その博識ぶりの伝説化している先輩が、後の作家井上ひさし、と判ったのは、かなり後になってからのことである。井上ひさしと同学年の東北大学細胞の先輩部員たちは、卒業後も、しばしば私たち新聞部後輩を“指導”に来たが、宗教、イディオロギー、いずれの教理も十分に咀嚼《そしやく》できなかった私は、三年生になると新聞部を去った。
いま、カトリックの“三人姉妹”に誘われて、生れて初めて、私はミサなる儀式に出席しようとしている。ここにきて、キリスト教の教義を理解できるかどうか自信はなかったが、三人姉妹との約束だけは果すべく、重い腰を上げた。
ベランダに出て、落合盆地に至る丘陵を眺めると、人家の合い間に鯉幟《こいのぼり》の泳ぐ光景が点在している。文字通りの五月晴れの青空。その鯉幟のある遠景と、目の前の聖堂とは反撥《はんぱつ》し合うことなく、しっくりと似合っている。ルルドから聖堂にかけての庭園の緑は、明るい花の色彩をきわだたせている。深紅のボケ、牡丹《ぼたん》、芍薬《しやくやく》、アヤメ……。
裏庭の小道を通って老女たちがやってくる。和服、洋服とさまざまだが、みな、こざっぱりとした服装をしている。ルルドに一礼して聖堂に入る。そのあとにシスター、看護婦、病院の職員、そして私たち患者が入場する。シスター原田、フランカ、江田嬢の三人とも外出着を着て靴を履いている。もちろん私もガウン姿ではなく、上衣にズボンのよそゆきの服装である。
ミサに出席するのは、生れて初めてのことである。聖堂内には、散歩の途中、何度か入ったことがある。入口に近い木椅子に腰をおろし、祭壇近くで祈るシスターたちの白い後姿を眺めながら、私は私で別の冥想《めいそう》に耽ったものだった。
聖堂内部は意外に簡素である。中央の祭壇の両脇の燭台《しよくだい》に火がともっている。入口から祭壇に到る通路の両脇に長い木椅子が並んでいて、二百人ぐらいは坐れそうだ。祭壇の背景は細長いスクリーンになっていて、聖杯などを納める小さな戸棚の扉は、金色の幾何学模様で光っている。その前方と左右には、季節の花が供えられている。聖堂の天井は吹き抜けのように高いが、二階建ての形式になっているのは周囲を取り巻く回廊風の桟敷の部分だけで、その回廊が突き当る左右の壁には、向って右側にマリア像が赤子を抱き微笑《ほほえ》んでいる。左には、ヨセフが一歩踏み出そうとしている像があった。
左右にめぐっている回廊の窓はオレンジ色のステンドグラス風で、外光がその窓ガラスを通ると、柔らかい色に変ってしまう。ところどころ窓が開けてあるので、微風が入ってくる。窓と窓の間には正方形の木彫りのレリーフが掛けてある。それは、キリストが十字架を背負ってゴルゴダの丘を歩み、最後にその十字架にかけられる迄《まで》の物語を、順に追った一こま一こまだった。
オルガンが響き「入祭の儀」が始まる。赤い聖服の上に白いガウンをまとった司祭服のジェローム神父が祭壇につき、聖歌が終ると「父と子と聖霊のみ名によって」と呼びかける。会衆が「アーメン」と唱える。司祭は両手を広げ、「主は皆さんと共に」。会衆が「また司祭と共に」と応えると「祈りましょう」。司祭の言葉に全員がひざまずいて祈り始めた。私は隣りの江田嬢たちの動作を盗み見しながら、真似をするだけである。
沈黙の祈りは長かった。私はその間、言葉ではなく、頭の中で顔を思い浮べながら、妻子、両親、兄弟、友人……と、自分の身近な人々のことを考えていった。顔を想起する範囲を広げていくと、いつの間にか聖母病院の患者たちが出てきた。そして、隣室の患者の入星さんの顔と言葉に行き当った。「藤原さん、私のために祈って下さい」。そうだ、私は入星さんに約束したのだった。
入院当初は、内科病棟を出て病院玄関脇の新聞自動販売機まで歩いて行けるほど元気だった入星さんだったが、最近は廊下にも顔を見せなくなった。したがって、あれ以来、“ジャーナリスト同士”の語らいの機会も持っていない。彼がシスター寺本について信仰の勉強をしていることは、知っていた。シスターは入星さんを訪ね、話を聞き、話をし、一緒に聖書を読んでいるらしい。
看護婦の話では、入星さんの安静度は3。つまりトイレに立てる程度である。ある時、私がトイレに入ると、男性用小便所の窓際の衝立《ついた》てに入星さんがいた。私が隣りで用を足し始めたことに気づかずに、窓の外を眺めている。人家の上の青空に電線が走り、鯉幟が吹き流しとともに泳ぎ、矢車が廻っていた。私が終って立ち去る気配にようやく振り向き、すぐさま例の愛想のよい笑いを浮かべ、軽く頭を下げた。「やあ、お久し振り」
一緒にトイレを出てきたが、五号室に入りかけてまた戻ってくると廊下の長椅子に腰をおろした。「看護婦さんが見ていないから構わないでしょう」「調子、良さそうですね」私は言葉を慎重に選んで訊《たず》ねた。「ええ、不思議ですね。慈恵医大の検査で、手術の必要なし、の結論が出てからは気分がとてもいいんです。痛みもとれてきました。というのも、不思議なことを発見したんです。前までは腹部、腰、胸など、ところどころ痛んだのですが、その個所に掌をじっと当てていると、痛みが消えてしまうんです。ただ、食欲が出ないので弱っていますが――」
入星さんの顔は、ひとまわり小さくなったようだった。しかし相変らず髪は黒く、顔色もさほど悪くはなく、しかも笑うと白い入歯が覗《のぞ》くので、元気そうに見える。「藤原さんは如何《いかが》ですか」「ええ、まあ、少しずつ」退院が近づきつつあることは言わなかった。「時々、ベランダを通って修道院の裏庭の方に散歩にいかれますね。後姿をお見掛けしますよ。五月の外はいいですね。草花が一番綺麗《きれい》なシーズンだ」。私が江田嬢たちとの裏庭の散歩の話をしなかったのは、禁足状態にある入星さんの気持を慮《おもんぱか》ってのことだったが、その必要はなかった。彼は先週、四日間の外泊許可を貰って自宅に帰ってきたという。「他人の家の庭でしたが、藤棚、カキツバタ、牡丹、石楠花《しやくなげ》……それは見事でした」
それから思い出したように「私は入信するかもしれません」と言った。「入院していろいろ考えましたが、この病院のドクター、シスター、看護婦さんたちのお世話になるうちに、ヤケをおこしては申し訳ないと思うようになりました。いまシスター寺本から信仰のお話を伺っていますが、近いうちに洗礼を受けようと思っています。藤原さんもお勉強中だそうですね。私は毎日祈っていますが、あなたも祈って下さいませんか」
誰のために、何のために祈るのかはっきりしなかったが、その時の入星さんの斜視がちな何かを訴えるような眼をみて、祈ろう、という気持になった。私はキリスト者ではない。入門書や解説書を読んでいるのも信仰心からではなく、雑学の一環としての拾い読みに過ぎない。シスター原田に身上話を聞きたいと申し入れたのも、取材という動機不純の好奇心からだった。日曜ミサに出席するのも、“三人姉妹”に対する義理のようなものだった。だが、入星さんに対しては「祈ります。私のようなものでよろしければ祈ります」と約束していた。
廊下で何回か雑談したころから、入星さんの症状はだいぶ悪いと気付いていた。話す様子で何となくわかったのである。自分の症状を説明して他人の反応をしきりに窺《うかが》っていた、あの山田さんもガンだった。胃が悪いだけなのに食欲不振で痩《や》せていく理由がわからない、とこぼしていた山田さんは、以前に手術した大腿部《だいたいぶ》の壊疽《えそ》が内臓に転移したのではないか――という疑いを持っていたが、医者やシスターや看護婦が否定するので、私のような患者にまで自覚症状を詳しく述べては、見解を質《ただ》すのだった。山田さんはある日突然、点滴中のボトルを引きちぎって床に叩きつけ、暴れ出した。脳にまで転移したらしく時々、意識が混濁したのである。個室に移され、二、三日で亡くなった。最後の日々、病室に泊り込んでいた長男が廊下の喫煙所で問わず語りに打ち明けた話では、入院後すぐ、医者はすでに手遅れであることを長男に告げていた、という。
入星さんの場合も、山田さんほど直接的ではなかったが、当初は私に探りを入れるように話しかけたものだった。「慢性肝炎と腎炎《じんえん》と胃潰瘍が同時に併発することってあるんですかね」とか「手術の必要がなければ退院のメドを示してくれてもよさそうなのに」とか。
だが、やがて自分の病状説明はあまりしなくなった。そして、もっぱら、昔、雑誌記者としていかに活躍したか、いかに楽しかったか、の思い出話に耽るのだった。時には芸術論、文章論にまで及ぶこともあった。ジャーナリストとしては後輩の私に、何かを言い遺したいという気持が熱弁を振わせたのかもしれない。私は聞きながら、入星さんの斜視がちの眼があまりにも真剣味を帯びているのに気付き、「死を覚悟した人の眼」と直観した。
入星さんには子供がなく、奥さんと二人暮しだった。その奥さんにも身寄りがなく、手仕事をしていた。彼は雑誌編集者から独立して雑誌社を興したが、事業に失敗し、再起を図ろうとする途上で病いに倒れた。奥さんとの関係はあまり良くなかったらしく、シスター是枝は「どうして面会に来ないのかしら。夫婦ってそんなものですか」と訊いた。晩婚の奥さんは三度流産してから身体を悪くし病気がちだったが、現役時代の入星さんは仕事への情熱の赴くまま、家庭を顧みず働き、かつ遊んだ。それが不和の遠因らしいが、シスター寺本の言うように「夫婦の仲は他人には判らない」。シスター寺本は、そうした入星夫妻の事情をかいつまんで話をしてくれ、「時々、話し相手になってください」と頼んだ。私は一週間に一度、面会時間に五号室を訪れ、ベッド脇に腰を下し、話をした。しかし、それは二度で終った。話に熱中すると疲れ易いので、今度は、遠慮するようにと言われたのである。
ジェローム神父が「聖霊の交わりの中で、あなたと共に世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」と十字を結ぶ。信者たちはみな儀式にはすっかり慣れているので、司祭とまったく同時に「アーメン」と合唱し、まったく同時同様の仕草で十字を切る。私は途中から江田嬢たちについていけなくなり、ただ坐ったまま両手を組み合わせ、祭式の進行を観察することにした。司祭が「皆さん、神聖な祭りの前に、わたしたちの犯した罪を認めましょう」と呼びかけると、会衆は回心を唱和した。「兄弟である皆さんに告白します。わたしは、思い、言葉、行ない、怠り、によって、たびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深い(ここで会衆はみな一斉に胸に手を当てた)わたしのために祈って下さい」
一糸乱れぬ斉唱は、その言葉と意味とが信者にとっては、日常語として身についているからなのだろう。だが、私は、一つ一つの言葉の意味を辿《たど》り、こうした罪の告白には馴染《なじ》めぬまま反感を抱いてしまうのだ。信者代表の老婦人による旧約聖書の朗読の文章にもひっかかるのである。
答唱詩編は典礼聖歌集四十六番。「神の言葉は正しく、そのわざにはいつわりがない。神は正義と公平を愛し、いつくしみは地に満ちている」
シスター原田や江田嬢たちは綺麗な声を張り上げて歌っている。ホームの老女たちの声も女性合唱となって聖堂にこだますると、若々しい少女の歌声のようだ。しかし、異教徒の私には、どうもその歌詞が気になるのである。信者代表の老婦人が再びマイクの前に進み出て「使徒ペトロの手紙」を朗読する。会衆は「神に感謝」と叫んで一斉に立ち上り、アレルヤ唱を唱えた。「アレルヤ、アレルヤ。わたしは道、真理、いのち。わたしを通らなければ、だれも父のもとには行けない。アレルヤ」。その画一的な斉唱が、勅語のような集団強制儀式を連想させてしまうのである。それは信仰宣言にもあてはまる。「全能の神である父を信じます。父のひとり子、おとめマリアから生まれ、苦しみを受けて葬られ、死者のうちから復活して、父の右におられる主イエズス・キリストを信じます。聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪の許し、体の復活、永遠のいのち、を信じます」
しかし、ミサの儀式は、私のような疑り深く罪深い異教徒の懐疑には関係なく進んでいった。そのうちに私も雰囲気に慣れてきて、江田嬢の動作を見習い、機械的ながら立ったり坐ったり、ひざまずいたりするようになった。聖歌が始まると、歌詞に対する反撥よりも、その意味を理解しようと試みた。
「主の祈り」のように、私のような門外漢でも一部を知っている有名な文句に出会うと安心するものである。私が初めて口に出して唱和したので、江田嬢はレースのベールの下から横眼でみて、驚いた表情を浮べた。「天にましますわれらの父よ。願わくは、み名の尊まれんことを。み国の来たらんことを、み旨の天に行なわるるごとく、地にも行なわれんことを……」すらすらと言えたのはここまでだったが。
「主の平和が、いつも皆さんとともに」と司祭が手を合わせて呼びかけると、会衆は「また、司祭と共に」と返す。そして、信者同士の「平和の挨拶」が始まった。口々に「主の平和」と唱える。右、左、前、後、斜め、の人たちと顔が出会った。レースのベールの中から眼が笑っている。江田嬢、フランカ、シスター原田。振り返るとシスター是枝の顔も、看護婦の三浦さんの顔も。
信者たちは順に立って、祭壇の前に二列縦隊の形で並んだ。聖体拝領である。まず車椅子の老人たち、続いて職員、患者、シスターと続く。行列の間に流れている歌「平和の讃歌」は短く「神の小羊、世の罪を除きたもう主よ、われらを憐《あわれ》み給え」の一節だけだったが、この歌詞にはほとんど抵抗を感じなかった。時々、半音下る短調のメロディーが美しく、リフレインのように何度も繰り返される。その小羊たち一人一人に、ジェローム神父は「キリストの体」と言って聖体(パン)を口に入れてやる。信者は「アーメン」と、手を合わせ、一礼し、左右の通路を通って元の席に戻る。信者でない私は、その行列の動きを一人座席に坐って見ている。
「祈りましょう」最後の長い祈りが始まった。私も会衆にならってひざまずき、机に両ひじをつき手を組んで頭を下げてみた。ミサの始まりの長い祈りの際は、家族や友人の顔を思い浮かべているうちに、入星さんにまで行きついたのだった。入星さんのために神に何を祈ればよいのか。
「私はあなたを信じていない。これからも、信ずるかどうか判らない。だが、あなたを信じている入星さんに代わって祈る。彼は死の床にある。あなたに奇跡を行なう力があれば、入星さんも救うことができる筈《はず》だ」。そこまできて考えなおした。「いや、奇跡は起り得ない。私よりも、信者である入星さんよりも、修道女であるシスター寺本よりも、司祭であるジェローム神父よりも、それよりもっと信心深い聖職者が祈ったとて、例えばあのローマ法王が祈ったとしても、奇跡は叶《かな》えられないだろう。妻がこの病院で危篤状態になった時、シスターたちが祈ってくれた。妻は一命を取りとめたが、それは祈りが通じたからだろうか。祈りとは一体何なのだろう。いま、みんなは何を祈っているのだろう。私がいまここで入星さんの回復の奇跡を祈ることに、どんな意味があるのだろうか。祈っても、入星さんの病状が快方に向うことはないだろう。おそらく彼は死ぬべく運命づけられ、それは、あなたも知っていることなのだ。だから、私は入星さんの病気回復を願う祈りをあなたに捧げない。しかし、死んでいく入星さんに、あなたに祈ることを約束した。彼があなたの意志ですでに運命づけられ、その運命の逆転を、あなたの手を以ってしても望めないなら、どうか、少くとも心に平安を与えてあげて下さい。繰り返していうが、私はあなたを信じていないが、入星さんは心から信じている。その入星さんに魂の救いを与えて下さい」
“三人姉妹”は一人ずつ退院していった。“肝民族”の元同志たちもいまは三号室にはいない。相変らずベッドはみなふさがっていたが、私を除いてはみな新顔である。私は三号室だけではなく、内科病棟の中でも古顔になっていた。老人ホームから庭を渡って入院してきた二人のお婆さんが最長記録保持者だったが、外界からの入院患者では私が最古参だった。私の肝障害の酵素数値は、正常値圏内にいま一歩のところで足踏みしていた。杉本医師は、完全に正常値に戻ってから退院すべきだ、と主張した。当初杉本医師が宣告した「完治六カ月」まではあと一《ひと》月。これまで五カ月辛抱してきたのだから、あと一カ月なら何とか我慢できる。しかも、私の安静度は最も軽い“8”になっていて、“普通の人”の生活の九割の行動が許された。残りの一割は、禁酒と食後薬服用後一時間の安静だけである。食事は入院時の肝2(一日一七〇〇カロリー、蛋白《たんぱく》六〇グラム、脂肪三〇グラム)から肝3(一日二四〇〇カロリー、蛋白一〇〇グラム、脂肪六〇グラム)に格上げされていた。
杉本医師は四月以来、毎日の回診には顔を見せなくなっていた。というのは、三月末スキーで左足膝《ひざ》に打撲傷を負い、頭を打って、二週間この聖母病院二階の混合病棟に入院するという事故があったからである。退院後は松葉杖《まつばづえ》をつきながら毎日病院には来ていたが、外来患者の診察もせず、兼務していた検査室長のデスクワークだけをしていた。内科病棟の自分の受け持ちの患者には、一週間に一度の割合で不定期に顔を見せた。転んで頭を打ち脳波の精密検査を受けていたので、その検査の結果が判明するまでは患者を診察しないのだ、という。看護婦たちの囁《ささや》きでは杉本医師は「すっかり落ち込んでみじめな状態」だったが、久し振りに見る実物はまさにその通りだった。
ある日、シスター是枝が「ヒゲの先生、御面会」と呼びにきたのでナース・ステーションまでついていくと、車椅子に乗っていた男が一回転してこちらをむいた。頭にはターバンのような包帯が巻かれ、その下から杉本医師の沈鬱な眼が覗いていた。
「誠にもってお恥ずかしい姿。医者から患者に早変り」と言って私のカルテをめくって、採血検査の結果を見ながら「ヒゲの先生の方が、ボクより退院が早いかもしれないなあ」と呟《つぶや》いた。
三月末の週末、杉本医師がスキーに出かけたことは知っていた。彼は日本スキー指導者連盟副会長をしていて、シーズン中は時どき、新潟県や長野県のスキー場で講習会の指導に当っていた。出発の前日、看護婦の新井さんが第一処置室で杉本医師用の薬を調合していたので、翌日出発であることが判った。それは栄養剤、胃腸薬、強肝剤などを混ぜた特製の琥珀《こはく》色をした液体の飲み薬で、杉本医師のスキーツアー用常備薬だった。新井さんは「あの先生、お酒飲みだから、これ宿酔《ふつかよい》さましに飲むのよ」と言って、ラベルに英語で「We ski」と書いて「ウイスキー」と片仮名でルビをふった。杉本医師は相当の酒豪だったらしい。医者の不養生の典型である。「ボクは毎日飲んでいるから、あなたに断酒を勧告する資格はありませんよ。しかし、あなたはオール・オア・ナッシングで、止《や》めなければ肝硬変であの世行きですよ。私も後から追いかけますがね――」と脅かしたりした。宿酔のせいかいつも片腹を押えるような姿勢で、苦虫をかみつぶしたような渋い表情で廊下を歩いている。
だが、その深刻そうで眠そうな表情は地顔だった。冗談を言う時も滅多に笑わないので、看護婦たちは「苦虫」のニックネームを献上していた。看護婦たちは「苦虫」のほか「皮肉屋」とか「ドクター変人」などと呼んでいたが、みんな、このやや無口でシャイな医師を慕っているようだった。服装は紺系統しか身につけなかったが、地味ながらダンディーな着こなしだった。「苦虫」の由来は表情からではなく本物の虫、「寄生虫」からとったものである。杉本医師は慈恵医大では衛生学が専門だったが、内科疾患全般を診察した。聖母病院での専門は肝臓病。正確には、「寄生虫が原因で起る肝障害」が研究の専門分野である。肝臓や胆嚢《たんのう》のエキスパートといわれていた。看護婦たちは、短大時代に一度は杉本医師の講義を聴講していたが、彼は教室に寄生虫コレクションの標本を持ち込んで、愛情を籠めて丁寧に解説した。標本蒐集《しゆうしゆう》に協力を呼びかける意味で、わざわざ各種サンプルを見せて偽悪的なデモンストレーションを試みるのだった。
入院患者から寄生虫が発見されると、自分の受持ち患者でなくても熱心に診察した。外人病棟に入院中の発展途上国の患者のほとんどが杉本医師の受持ちなのも、「虫がお目当て」という噂《うわさ》を聞いた。その患者が重症であれば、わざわざ本人に付き添って空路本国まで連れて帰り、現地の医師と協議する熱心さである。私たちの一〇三号室に入院したある獣医が「ドクター杉本は寄生虫の虫ですよ」と教えてくれた。いまでも一週に一度は母校の慈恵医大で研究を続けているらしい。学会にも論文やデータを発表している。東京都の保健所の獣医も、寄生虫の問題が発生すると、必ず杉本医師のアドバイスを求めるという。その獣医は自身も家畜の寄生虫の研究をしており、杉本医師とは相互協定を結んで人畜両寄生虫の比較研究のため、互いに情報や標本を交換し合っているのだそうだ。
もちろん肝臓だけではなく、循環器や呼吸器など他の内科疾患も診察する。戦後の医者不足のころは、外科の手術も手伝ったらしい。「基礎医学が確かで、応用、臨床も一流」と専門家ぶった評価を下す看護婦もいた。私は入院経験はこの聖母病院が初めてなので他の病院との比較はできないが、入院患者の評判もいい。ただ初めて外来で診察を受けた患者は、私の妻のように得体の知れぬ怖ろしさを感じるかもしれない。無口で、つっけんどんで無愛想で、とりつきにくい印象を与えるからである。
だが診断と治療は、慎重で正直で誠実である。どうしても自分で判断がつかない場合には率直に「この病気に関する限り私はヤブ医者です」と言って、東大、慈恵医大、慶大、東京女子医大など聖母病院と提携友好関係にある大学病院の専門医を紹介してくれる。顔が広いのである。東大から内科外来に出向している女医の伊東先生が母校の教授から「聖母には杉本という優秀なドクターがいるね」と言われ、鼻高々に吹聴したことがある。杉本医師が心臓病患者のデータと所見を添付して東大に検査と判断を仰いだ時のエピソードだ。
彼が謙虚で親切な医者であることは細かな配慮からも窺われた。病気だけではなく、患者という人間を診た。妻が入院していたころ、黄疸《おうだん》とかゆみがなかなか消えないのに苛立《いらだ》った妻が、ヒステリー気味に「先生は肝臓が専門なのでしょう」と皮肉を言うと、「あーあ、ここにきてついにヤブ医者の馬脚をあらわすのか」と嘆息した。後から判ったのだが、CTスキャンで見ても、彼女の肝炎は三カ月以上時間がたたなければ黄疸も掻痒感《そうようかん》も解消しないほどの重症だった。杉本医師はそれでも心理的効果を期待してか、友人の漢方医から、もっともらしい漢字の名前の丸薬と粉薬を取り寄せてくれたのだった。
四階の外科病棟に、内科病棟から手術のために移った患者を見舞ったことはあるが、二階の混合病棟を訪れるのは初めてだった。妻と私が、シスター・バーバラに断わって個室に入ると、杉本医師は例の苦虫をかみつぶしたような顔の半分を歪《ゆが》めて、照れ笑いを浮べ「やあ、おそろいで」とリクライニング・ベッドの上に上半身を起した。「スキーヤーが転倒し、医者が怪我をするとは世も末だね」。小さな部屋だが、外人用高額差額ベッドだけあって綺麗な病室だった。花束が所狭しと飾られていて杉本医師はその中に埋まった屍体《したい》のように見えた。右の額と顴骨《かんこつ》部が紫色に腫《は》れ上っている。
窓の外に見える聖堂は、一階の私の病室から見える聖堂とは、いささか趣きを異にしている。私の場合は常に十字架を仰ぎ見る角度だったが、杉本医師のベッドは十字架と相対する位置にあった。サイド・テーブルには聖書と十字架が置いてある。備え付けのものか杉本医師の所有かは判らない。
杉本医師の一家はプロテスタントだった。奥さんは織物手芸家で、長男はシンガー・ソングライター、次男は今春、医科大学に入学したばかりだった。父親は有名な洋画家で、八十三歳の高齢ながら現在でも一水会の長老として画筆を振っている。自由学園の自由な雰囲気の中で教育を受けた杉本医師も芸術家を志したらしいが、父親の命令で医者の道を歩んだ。父の画伯は慈恵医大を卒業しながらついぞ開業したことがなかった。血液型を訊ねると真面目な顔で「C」と答える医学生だった。杉本家は代々が水戸・徳川家の御典医の家柄である。
「ボクはちゃらんぽらんのヤブ医者だからね。大体、医者になったのが間違いだった。あんた達御夫婦の肝臓の治療をさせて頂き、お友達になれたのは、下落合の取りもつ地縁だけれど、ボクはもうこの落合・聖母病院を辞めるかもしれない。その方が良さそうだ」「でも先生のようなヤブが、私のような劇症肝炎を見事に治して下さったではありませんか。主人も日に日に良くなっていますし」。妻は聖母病院の看護婦やシスターと同じように、今ではすっかり杉本医師のファンになっていた。彼女はお見舞いに『悪霊の祟《たた》り』なる本をプレゼントした。私は安岡章太郎の糞尿譚《ふんにようたん》『ヰタ・フンニョアリス』を差し入れた。いずれも皮肉屋の杉本医師のために考えて選択したつもりだが、気の弱っている医師には刺激効果がなかったようだ。
「ボクがスキーで怪我をして、長期入院したり休んだのはこれで三度目ですよ。その間、受持ちの患者はもちろん、他のドクターやシスターにどれだけ迷惑を掛けたかしれない。ボクのいない時に、ボクの患者の何人かが死んだ。今度も昨日、一人死んだ」
杉本医師が憂鬱《ゆううつ》な気持になり周期的に医者を廃業したいと言い出すことは、シスター是枝から聞いたことがある。「あの先生は神経がこまやかで、優しすぎるんです。私のようなおキャンの婦長はそばで見ていて苛々するほどです。去年の春、やはり一週間怪我をした時も同じように、医者嫌い、いや自分嫌いになって、辞めたい、と言い出した。いつも木の芽時になると、苦虫が“ふさぎ虫”になってしまうんだから。今度も一過性だと思いますけど、少し重症。ヒゲの先生からも元気を出すように、ひとつハッパをかけてやって下さい」。杉本医師の屈折は十数年前、自家用車を運転していて巻き込まれたという人身事故が遠因かもしれない。ユーモアの隙間《すきま》に、絶えず自己を鞭《むち》打ち苛《さいな》むような自責の影が見え隠れしている。
杉本医師は確かに気持が落ち込み、悩み苦しんでいるようだった。打撲傷のせいもあろうが、顔も伏せがちである。「ボクはスキーだけではなく、時々写生旅行に出かけることがある。出かけると必ず何かが起る。医者には不向きかもしれない。酒飲みだし、遊び人だし。今度の怪我も天罰としか思えない。神様がボクに医者を辞めるようにとサインを送ってくれたのかもしれない。社会福祉法人・聖母病院のドクターとしては失格ですよ」と自嘲《じちよう》するように言って、「いまさら研究室や教壇に戻れるわけではないし、転職するメドもない。患者としてではなく、友人としての御夫婦に聞くけど、どうしたらいいと思いますか?」
妻は「杉本先生はいまやわが家の主治医です。辞められては私たちが困ります。第一、主人はまだ入院中なんですよ」と強い調子で言ったが「私など居なくても、御主人はあと一カ月で退院です」と取りつくしまがない。いつもなら投げやりで退屈そうなしゃべり方をしながらも、常に諧謔《かいぎやく》を弄《もてあそ》んで楽しむ風情なのだが、きょうはいっこうに冴《さ》えてこない。「御主人には忙しいジャーナリストの仕事が待っていますよ。すでに腕を撫《ぶ》しているようだし」
私が看護新聞に原稿を求められて書いたり、老人ホームの老人大学講座で講演したりしていることをからかったつもりなのだろう。いま私は肝臓病の本を読みあさり、内科病棟の看護婦たちの共同研究レポート「アルコールと肝障害の関係」の相談役として忙しい。
杉本医師は、少くとも秋まではこの聖母病院に勤めるが、その間に身の振り方を考えるつもりだと言った。以前に勤めていた六本木の外人向けのインターナショナル・クリニックから、戻ってくるようにとの話が来ている。もう一つの誘いはアフリカの寄生虫研究所からの主任研究員としての申し出である。
「ボクにはシュバイツァーや野口英世のような聖人、偉人の生活はむかないけど、アフリカで虫を集めて暮すのが性に合っているのかもしれないな」と、こちらの話には乗り気のようだった。
五月に入ると、杉本医師は打撲の傷も、心の傷も癒《い》えたようだった。ある日、外出許可から帰ると私のベッドに、例のミイラの美少女が寝ている。毛布の胸の部分に豊満なふくらみが二つあった。「杉本先生とシスター是枝の合作です」と看護婦の新井さんが笑いながら教えてくれた。「ヒゲの先生が戻ったらおどろかせてやろうといって、ドクターが寝巻を着せて、ミイラをベッドに寝かしつけたんですよ。そしておっぱいに見たてて胸にミカンを入れたんですけど、シスターが、小さすぎてリアルじゃない、と言って、配膳室からわざわざ大きな林檎《りんご》を二箇持ってきて取り替えて。大人二人で子供みたいにはしゃいでいるんですから」
私が、シスター是枝に「杉本先生もすっかり元気を取り戻しましたね。やはり一過性のノイローゼだったのかな」と声をかけると、彼女は「でも今年中にこの病院を辞める決意は、今度こそ固いようです。院長のマザー・エレナ・ハースにも話したらしいから」と淋しそうに言った。「四月には看護婦が半分が交代したし、杉本先生もおやめになる。患者さんもどんどん退院していく。ヒゲの先生だけですね。当分お付き合してくださるのは――」
私だって退院を心待ちにしているのである。外に出て仕事をしたくて、うずうずしていたのだった。五月に入ると、私の詰めていた外務省記者クラブ関連のニュースが連日、新聞の一面トップを飾っていた。日米自動車交渉が決着したかと思うと、日米首脳会談、共同声明、日米「軍事」同盟論議、外相と外務次官の辞意表明、ライシャワー元駐日米大使の“核”持ち込み発言、原潜寄港、日米日本海合同演習、はえなわ切断事件、ソ連潜水艦との遭遇……。
しかし、負荷(体調訓練)と称して外の空気を吸いに外出許可を貰って、一日外を歩き廻って帰ってくると、まだかなり疲れるのだった。そんなある日、病院で書きためたコラム原稿を本社編集局に届けに行く途中、電車の網棚に鞄《かばん》を置き忘れるという大失態を演じてしまった。国電・四ツ谷駅の電車をおりたプラットフォームですぐ気付いたが、遅かった。すぐに隣りの駅に電話して調べて貰ったが見つからない。総武線・御茶ノ水駅まで丁寧に一つ一つの駅でおりて遺失物係に聞いたが徒労に終った。四日目以降、遺失物取集駅に収容されて保管されていれば回収可能というが、それもほとんど絶望的らしい。
その日から憂鬱な日々がはじまった。この紛失事件が心理的に響いたのだろうか、肝機能を示す酵素の数値も上向き始めた。入院以来、毎日、その日の出来事を観察し、感想を細かくメモした大学ノート『下落合風景』を紛失したことが鬱病の直接原因であることは間違いない。長らくいつくしんだ時間と記憶を、いきなり強奪され、一挙に痴呆《ちほう》状態に叩き込まれたショックだった。
電車に置き忘れた鞄は妻からのプレゼントだったが、鞄そのものはともかく、中身の紛失が手痛く、うっかり置き忘れた自分に腹が立った。物忘れは健康な時代にもよくあったが、私の場合、この“事件”で、心身の回復が本格的ではないことを思い知らされた気がしたのである。本や雑誌類は再購入でき、コラム原稿は書き直すことができるが、『下落合風景』は再生できない。
『下落合風景』はすでに大学ノート三冊になっていた。療養の励みとして病状日誌の形で、毎日、体温、呼吸、脈搏《みやくはく》、血圧、睡眠時間、体重、排便尿回数、日勤、準夜、深夜の看護婦名、食事メニュー、自覚症状、GOT、GPTなどの酵素数値、主治医ないし代診医の診察所見、同室患者の様子、見舞客名、電話および手紙の往来、読了書籍名とコメント……などをつけていた。とりわけ残念でならないのは医師、シスター、看護婦、患者たちの話や会話の覚え書きや、冬から春にかけての、聖母病院内外の季節の変化の観察記録(草木、花、小鳥など)、私自身の心理状態、考察、省察、空想、夢、とりとめもない雑感……などである。その一部はいまからでも思い出すことができるが、それを記したときの気持は戻らないし、臨場感ある表現は再現できない。この病状日誌をもとに闘病体験記をまとめる計画を当時は抱いていなかったが、初めての入院を機会に初めて綿密につけた日記だっただけに、少くとも私個人にとっては、貴重な人生断片録になる筈だった。かけがえのない大いなる資産を一、二秒の不注意で失ってしまった。
四日後から私は毎日、国鉄総武線の主要遺失物取集駅に電話を掛けた。四ツ谷、東京、錦糸町、市川、西船橋、津田沼……。ダイヤルを何度も廻し、長いお話中のあとにようやくつながると、「ありません」「届いていません」「残念ですが」のニベもない反応ばかりだった。
苛々すればするほど睡眠不足に陥り、肝機能酵素は乱高下した。私は胆汁質の人間ではない筈だが、肝臓がこれほど心因に翻弄《ほんろう》されるデリケートな臓器であるとは、皮肉な新発見だった。杉本医師も、シスターも、そして看護婦たちも、私の憂鬱と焦躁《しようそう》の原因を知り同情してくれたが、慰めようがなく弱りきっていた。私は表面は何気なく装っていたが、心の中は半ば自暴自棄で、ヤケ酒でも飲みたい気持だった。
二つの退院通路
ふと眼を覚まして見廻したが、まだ朝は訪れていない。夜明けの光と錯覚したのは、周囲の仄白《ほのじろ》いカーテン地だった。夢の中で遠い昔の汽車の汽笛、と聞いたのは、近づいてくる救急車のサイレンである。そのサイレンで眼を覚ましたのだった。上落合の方向から下落合の坂を登ってくる。登りきったところでサイレンはやんだが、聖母病院のゲートから構内に乗り入れ、玄関の車寄せで停車したのがエンジンの響きで判る。
病院であるからには、深夜、救急車で急患が運ばれてくることは珍しいことではない。聖母病院は救急指定病院ではなかったが、産婦人科には、予定日より早く産気づいた妊婦が救急車で駆けつけることが多かった。また区域の総合病院は、休祭日には順番で臨時救急指定病院に指定される。週が変ってきょうは日曜日だった。
しばらくうとうとしながら、救急車との連想で、短大の実習生が教えてくれた「救急のABC」を思い出そうとつとめていた。AはAIRWAY(気道の確保)、BはBREATH(呼吸の確保)、CはCIRCULATION(循環の確保)。そしてDは……。Dはなかなか出てこなかったが、ついにDRUG(薬)に行き当った。内科病棟のドアが軋《きし》んであいた。そこで、はっきりとまた眼が覚めた。患者を乗せたストレッチャー(担架車)が病棟の中に入ってドアが閉まる。廊下を行くストレッチャーの音に混って靴の音。サンダルの音。スリッパの音。囁《ささ》やく声。ひそひそ話し合う声。ポケットベルが鳴り、あわてて止める。電話のダイヤルを廻す音。電話来信を告げるベル。遠い個室から急を知らせるブザーの低い音。駆け出したのは看護婦のズック靴の敏捷《びんしよう》な足音。かすかな金属音をたてて救急トレイ車が通る。こうしてひとしきり続く、擬音構成によるラジオドラマのような世界は、想像力をかきたてる。私はガウンを着てスリッパを履きトイレに立った。
急患は六号の個室に収容されたらしい。廊下の奥のストレッチャー、救急トレイ、検査車などのたたずまいは、交通渋滞の夜の銀座のようだ。夜間婦長の竹田さんと看護婦の新井さんが個室から走り出てきた。擦れ違って眼だけで挨拶し、ナース・ステーションに駆け込む。隣りの二号室から、渡辺さんが、何事か、と顔を覗《のぞ》かせる。ナース・ステーションの新井さんが「おばあちゃん、うるさくて眠れないの? ごめんなさいね。でもすぐ静かになりますからね」と肩を叩いて部屋へ連れ戻した。夜間婦長の竹田さんは電話を掛けている。今度は、五号室から男性患者が二、三人様子を見に現われた。新井さんは、火事場の野次馬を整理する警察官の手つきで“群衆”を病室の中に押し込んだ。
私はトイレ前の長椅子で煙草に火をつけ、個室の様子を窺《うかが》っていた。遠くから小さな足音が近づいてきて内科病棟のドアがあき、シスター是枝が、続いて看護婦の西尾さんが入ってきた。いつも陽気な西尾さんだったが、この時は深刻な顔をしている。最後にシスター寺本が入ってきた。深夜、重症の急患が緊急入院すると、この二人のシスターが看護の陣頭指揮をとるらしい。
煙草を吸い終り、もう廊下に出ている理由がなくなったので部屋へ戻ろうと腰をあげると、ちょうど個室の方から患者の身内の付き添いらしい人たちが出てきたので、席を譲った。奥さんと二人の息子さんには見覚えがある。
高田さんは五十六歳だったが、白髪と土気色の肌のせいか六十歳以上にふけて見えた。ガウンを着て廊下を歩く姿は仁王像のようである。堂々とした体躯《たいく》で足もがっちりと太かったが、後から考えると、そうした貫禄も肝硬変特有の腹水や浮腫《ふしゆ》だったのである。いったん自宅で安静にして様子をみるために一時退院していたのだが、救急車でかつぎ込まれたからには容態が急変したに違いない。その前の入院期間中、廊下の長椅子での雑談で、高田さんは典型的なアルコール性肝炎であることを知った。一、二年前から体調を崩し、体がだるかった。一カ月前に町医者で初めて診察を受け、慢性肝炎または肝硬変の疑い濃厚と診断され、聖母病院を紹介された。だが、好きな酒をやめられず通院を日一日と延ばしているうちに、肝硬変は着実に進行していた。ようやく入院して検査した結果、かなり重症の肝硬変と判明、長期入院療養を命ぜられた。だが、仕事の整理をしてから本格治療を受けたいと申し出て、いったん退院したのである。
高田さんの職業ははっきりしなかったが、工芸関係の職人らしかった。「いい仕事をするにはいろいろな工夫が要るものだ」とか「しかし、理屈だけでは割り切れるものではない」とか「金にしばられていては、腕も心も鈍る」とかの言葉の端々から、名人気質の職人との印象を受けた。手はふしくれだっていたが、指先は繊細だった。それは、肝臓病患者同士の掌を見せ合う“挨拶”の際、観察したのである。高田さんの掌も私の左手と同様に赤かったが、左右両手とも見事な紅掌斑を示していた。
酒は若い頃から飲んだが、仕事の最中は控えた。しかし仕事の工夫を考案したり、図面を頭の中に描きながら酒を飲むと、次から次へと面白い着想が湧《わ》いてくる。そういう時に飲む酒は臓腑《ぞうふ》にしみわたって頭が冴《さ》え、決して酔うことがない。一つのことを考えながら、一晩に一升以上飲んでしまうことがよくある。いつもは家で、朝からでも一人で飲む。つまみは漬物か、奥さんの作るあえ物程度で、腹のたしになるものは食べない。飲み終ると、タレに大根おろしを入れたソバをすする。仕事が終ると仲間付き合いでよく飲んだが、最近は息子たちとの晩酌が楽しみになった。息子たちはウイスキーの水割りだが、高田さんは日本酒一本槍である。高田さんがそんな話をポツリポツリするのを聞いていると、山本周五郎が描く江戸時代の職人がソバ屋でひとり徳利を傾けている光景を、どうしても想像してしまう。一日五合以上、毎日十年以上飲み続けることがアルコール性肝硬変の“条件”といわれるが、高田さんの飲みっぷりは、一日一升の横山大観並みである。
息子さんは、長男が二十三歳でサラリーマン、次男は二十一歳で学生のようだったが、二人とも父親に似て背が高く男らしい。躾《しつ》けがよいのか礼儀正しく、態度がきびきびしていた。高田さん親子をみていると言葉は少なかったが、男同士の心の通いが感じられた。高田さん自身は「ああ」「うん」「ありがとう」と肯《うなず》くだけだったが、親子はいつも言葉のない長い会話を交わしているように思われ、女の子しか持たない私には羨《うら》やましい雰囲気だった。奥さんは小柄でおとなしい人で、高田さんに付き添って廊下を歩く姿は夫唱婦随の昔の日本の夫婦像である。
その高田さんがベッド・メイキングの合い間などに、廊下の長椅子に「どっこいしょ」と大儀そうに腰をおろすのを見つけると、肝臓病患者がいつの間にか周囲に集まってくる。ゆっくりと大股《おおまた》に歩くのは、下肢がむくんで足が丸太のようにふくれ上っているからだった。肝民族用語の“象の足”である。好きなだけ酒を飲んで肝硬変になった高田さんは、他の肝臓病患者のように肋骨の下が硬いとか、体が痒《かゆ》いとか、肌が黄色いとかの細かな症状を披露して愚痴をこぼすことはせず、泰然自若と構えているようだった。そうした悠然とした態度が、肝民族の尊崇を集めたのである。私などは、退院の暁にはもう一度うまい酒を飲みたいと意地汚い夢を抱いているのだが、高田さんは「もう十二分に飲みました。仕事もやりたいだけやったし、息子たちも大きくなったし、すべて満足です」と悟り切っていた。
ある時、病状を訊《き》かれて「へその周りにヘビのような血管が浮き出て気味が悪い」と珍しくこぼしたことがある。わたしたちは思わず息をのみ、顔を見合わせた。それは“メドゥーサの頭”のことだった。私たち肝民族は肝硬変末期の特徴である“象の足”や“メドゥーサの頭”は、物の本で読んで知ってはいたが、実際にそのヘビが体内に棲《す》みついた人から話を聞いたのは、高田さんが初めてであった。
メドゥーサはギリシャ神話に出てくるゴルゴン三姉妹の一人で、海の主神ポセイドンの妻である。もともとは美しい処女で、その髪の毛の比類のない美しさは評判が高かったが、アテナ女神と美しさを争ったため、女神の怒りに触れ、髪の毛一本一本がヘビになってしまった。肝硬変が進むと、臍部を中心に太い静脈が浮き出て四方にのび、あるものは上へ、あるものは下へ、とのたうち廻る。へそを顔面に見たて、静脈をヘビに変った髪の毛に見たてたところから“メドゥーサの頭”なる医学用語ができたのだが、肝硬変とは、バッカスの時代から葡萄酒《ぶどうしゆ》を飲み過ぎた人間に神々が下した天罰なのかもしれない。美女から怪物に変貌《へんぼう》したメドゥーサのヘビを見た者は、みな石になってしまうが、英雄ペルセウスは一計を案じ、直接、怪物には立ち向わずに鏡を使ってその姿を写しながら近づいて、見事に首を切って落した。
その夜、高田さんは吐血した。食道静脈瘤破裂である。食事をすると、食べたものは胃から腸に入ってそこで吸収される。吸収されたものは、門脈という血管を通ってすべて一度は肝臓に集まる。だが、肝硬変になると肝臓は硬くなり、門脈の通りが悪くなってうまく流れなくなる。しかし、それには構わずに腸から血液がどんどん流れてくるので、肝臓の手前で血液がたまり、圧が高まってくる。これが門脈亢進症《こうしんしよう》である。門脈内に血液がたまり出し、圧が高まってくると、そのままでは破裂してしまうので、溢《あふ》れた血液は正規のルートを通って肝臓に入るのを諦《あきら》めて“別のルート”を流れようとする。肝臓の手前から流れる“別のルート”とは、脾臓《ひぞう》、食道、臍および腹壁、肛門などである。脾臓へ行けば脾臓がはれ、臍および腹壁へ流れれば腹壁静脈が腫大して“メドゥーサの頭”になる。そして食道に流れ込むのが食道静脈瘤となる。高田さんの場合、血液は、食道をはじめすべての“別のルート”に洪水のように流れ出していた。顔は土色に変色した。点滴をしたが栄養分は体内に行きわたらず、水分は排泄されず、心臓も腎臓《じんぞう》も弱り“悪液質状態”に陥っていた。
その日の夕方、高田さんの部屋のブザーが鳴った。看護婦の新井さんが駆けつけると、高田さんはベッドを下り、洗面所の前の床にうつ伏せになって倒れていた。急に気分が悪くなり洗面所で吐こうとしてベッドを下り、洗面所に顔をかがめて吐いて倒れたらしい。吐血は、三〇〇CC程度だった。医師、シスター、看護婦たちが駆けつけた。日赤から取り寄せた二〇〇〇CCの血液をクロスマッチ(適応試験)して輸血した。奥さんと息子さんたちが呼ばれた。いったん意識不明に陥った高田さんは、意識を取り戻した。奥さん、長男、次男の顔をひとりひとりじっと見つめて「だ・い・じょう・ぶ」とゆっくり発音し、笑ってみせた。「おとうさん」と長男が呼びかけた。「おとうちゃん」と次男が頬に手を当てた。「だ・い・じょう・ぶ」と父親はゆっくり繰り返した。「みんな・あ・り・が・とう」
その夜から奥さんが泊り込んだ。高田さんは三日間、混濁状態の中で血を吐き続けた。一日、三、四回、一回に二、三〇〇CCずつ吐血した。血は、鼻と口からガボガボッと音を立てて噴き出た。それは、体内のメドゥーサのヘビがのたうって暴れ、血管という血管を食いちぎる怒り狂った姿だった。
止血のため血管収縮剤アドナ、凝固剤トランサミン、K2、K1などが点滴注射された。三日目には物理的な止血措置として、ダンゴ状のゴム弁のついているチューブが食道に挿入された。しかし、高田さんは眼をつむったまま、もう完全に意識がなかった。巨象が息を引き取る瞬間のように、高田さんは大きな体全体で時々深い息をした。最期が近づいていた。部屋は血の海だった。医師もあきらめたようだった。
「手足をさすってあげて下さい」とシスター寺本が言った。奥さんと息子たちは、手足を静かに、しかし一所懸命にさすった。「おとうさん、長い間、本当によくしてくれましたね。あなたと一緒に暮してよかった。ありがとう」と奥さんが語りかけた。「おかあさんを大事にして兄弟仲よくやっていくから心配しなくていいんだよ」と長男が耳許《みみもと》で言った。「お父ちゃん、いろいろなことを教えてくれたね。忘れないよ」と次男が言った。
看護婦の新井さんは、血圧を測りながら泣き出してしまった。三浦さんと西尾さんはゴムチューブから伝わってくる血を拭いながら、手を握り合って震えていた。シスター是枝もこらえ切れずに嗚咽《おえつ》している。「あなたたち、泣いていてはしようがないでしょう」とシスター寺本が小声で叱った。高田さんの瞼《まぶた》がわずかに動いた。奥さんと息子さんがいっそう激しく手足をさすった。「反応があるのかしら」とシスター寺本が訊いた。脈をとっていた医師は首を横に振った。もう血圧も呼吸も反応を示していなかった。「御臨終です」医師が時計を見た。母親と息子は手足をさすり続けた。「さようなら」「お父さん、さようなら」三人の看護婦とシスター是枝は肩を抱き合い、声が出ないように、誰のものかわからない白衣を噛《か》みしめていた。シスター寺本は怒った表情で個室を出ていった。
例によって杉本医師は、午後の安静時間にふらりと、すぐそこまで来たついでに寄ってみた、という風情で回診にきた。珍しくシスター寺本が付き添っている。異常の有無を訊《たず》ねて触診する。ピンクの血液検査用紙をめくって「GOT四一、GPT四四、ガンマGTP八二、優秀ですね。ICGも一一・五。いずれも過去最低じゃないかな。合格ですな。来々週あたりをディスチャージ(退院)のメドとしましょうか」。
来々週といえば六月中旬。入院は「六カ月」を越えて六カ月半になる。
「御感想はいかがです」「感激です」しかし、あれほど焦れていたのに歓喜の叫び声をあげるほどではなく、予定通り刑期を終えて出所する比較的軽い量刑の犯罪者の気持である。「感激ですが、自分が果して病気だったのか判らないほどの不思議な平常心です」「それはそうでしょう。あなたの場合は一週間に一度外出してすっかり負荷し尽したのだから、束縛感はあまり感じないのでしょう。それに、命より大切にしていた鞄も戻ってきたことだし」
杉本医師は、電車の中に鞄を置き忘れた直後から私のGOT、GPTが上昇したことをからかっているのである。「看護婦たちは、いま“アルコールと肝障害の関係”についてアンケート調査をしているけれど、あなたの鞄紛失事件は、“心因性肝障害”という新しい病気の発見を示唆《しさ》する典型的な臨床例になるかもしれない」
そばにいたシスター寺本が眼くばせをした。「先生のスキー事故も、ユニークな心因性打撲傷の臨床例として、看護婦さんたちの研究材料になっているようですよ」。杉本医師は苦笑した。「あと二回、週一の血液検査をし、もう一度ICG(肝障害慢性度検査)をしてみてディスミス(釈放)といきましょう。退院後は、一カ月自宅静養、本年末まで半年間、隔週外来通院、という契約更改ではいかがですか」「それで手を打ちましょう、結構です」
ようやく退院の喜びの実感が湧いてきたようだ。
私の鞄は千葉中央警察署に保管されていた。国鉄総武線の四ツ谷、東京、錦糸町、市川、西船橋、津田沼……と主要遺失物取集駅に電話をかけても見つからず、諦めかけていたのだが、千葉駅まできて、ついに焦茶の象革製の鞄のありかをつきとめることができた。思わず受話器を落してしまうほどの歓喜で体が震えた。その喜びは退院許可どころではなかった。『下落合風景』なる大学ノート三冊も、もちろん無事だった。
五月末のある日、外出許可を貰って千葉まで出かけて、鞄を取り戻してきた。駅弁を買って亀戸天神で途中下車し、有名な藤棚の下で一人花見をしながら弁当を食べた。この喜びは私一人のものであった。藤の房の心地よい微風に吹かれながら、入院以来一八〇日間の生活メモを読み耽《ふけ》った。病院に戻ると三号室の僚友たちが、「よかった、よかった」と言葉をかけてくれる。看護婦たちも病室を訪れては一言ずつ「おめでとう」「おめでとう」。
現金なもので、一時逡巡《しゆんじゆん》していたGOT、GPTは、その次の血液検査からは坂を転げるように、また下降しはじめ、杉本医師までをも驚かせた。もちろん、一番驚いたのは私自身である。
退院は二週間後だったが、杉本医師は「言うまでもないことですが、敢《あえ》て言いましょう」と前置きして、禁酒の奨《すす》めをまたひとくさりはじめた。私の肝炎は十年前のA型肝炎が慢性化したもので肝硬変一歩手前の脂肪肝の症状を呈していたが、いまや六カ月の治療でほぼ完治した。しかし、アルコールに敏感に反応するガンマGTP数値のすう勢は、肝臓がアルコール性肝炎にかかりやすい状態になっていることを示している。一日、ビール大瓶一本(日本酒なら一合、ウイスキーならダブル一杯)の飲酒で我慢できるならよいが、それが我慢できなければ、断酒すべきである。杉本医師は口癖の「オール・オア・ナッシング」と繰り返した。「ナッシング、つまり完全断酒ならば普通の人のように長生きできますが、オール、つまり好きなだけ飲み続ければ、すぐさま肝硬変、あの世行きです。私としては、当然ナッシングを奨めます。酒あってこその人生などというのは、アルコール依存者だけの勝手な理屈、自己弁解」。大酒飲みの杉本医師の忠告だったが、私は素直に有難く聞いていた。苦笑しながら「こう言った手前、私もいずれヒゲ先生の後を追いかけて酒をやめますよ」
シスター寺本は、杉本医師と私の顔をかわるがわる見ていた。シスターは六十五歳、杉本医師は五十五歳、私は四十四歳、十年ずつの間隔がある。杉本医師は、けさ肝硬変の食道静脈瘤破裂で死んだ高田さんの話をした。
「私も前に診察したことがあるが、いい人でした。本人も素晴らしい人間で、家族も素晴らしい。でも、死んでしまえばおしまいです。本人は好きな酒を飲んで死ぬのは本望かもしれませんが、家族はやりきれないでしょう。いや、本人だって決して本望ではなかった筈《はず》だ」
杉本医師が去るとシスター寺本が残って、いつものようにしばらく雑談していった。シスターは五号室の入星さんの容態が悪化したので、高田さんのあとの六号の個室に移った、と告げ「お見舞いに行ってあげて下さい」とすすめた。入星さんの容態は、時刻表どおりに最終地に向っているらしい。
入星さんの隣りの個室七号室には、以前私と同じ三号室に入院していた小川さんが入室していた。白血病で東京女子医大病院に転院していたが、この聖母病院で働いていたお父さんが急死し、その葬儀が昨晩聖堂で行なわれたので、葬儀出席のために一時的に女子医大から帰ってきたのである。小川さんの父親は、私たち内科病棟の雑務をいっさい引き受けていた。毎朝「おはよう」と入ってきては、病室の床を拭いてくれた。息子のベッドまでくるとチラッと見るだけだったが、それが息子に対する彼の朝の挨拶だったのだろう。二階の小児病棟の配膳室に勤務していた母親は、夕方帰宅前に必ず息子の病室に立ち寄って、しばらく話をしていった。あのころは、聖母病院が小川家の“家庭”だった。
小川さんは、七号室で輸血と点滴を受け、時間がくると喪服の礼服に着がえ、聖堂の葬儀ミサに出席した。病身ながら彼は、小川家を代表して会葬者の弔慰を受ける喪主の立場にある。弟が交通事故で死んで妹は嫁ぎ、小川家の子供は難病の彼一人になっていた。小川さんの父親は働き者だったが、次男が死に長男が入院してからというもの、酒量がふえ、高血圧と肝臓を患っていた。奥さんや小川さんが、医者に診て貰うように何度言っても聞かなかった。そのことで父と子が喧嘩《けんか》したこともあった。
小川さんは、七号室に二泊するとまた女子医大の病室に帰っていった。故ヤコブ小川金次郎氏の葬儀ミサの終った日、シスターや看護婦たちが病室に見舞うと「おやじはオレの身代わりになって死んだ」と叫び「おやじ、おやじ」と手放しで号泣した。小川さんにとって、シスターや看護婦たちは、姉や妹のような存在だった。何しろ彼は五年間、この内科病棟に入院と退院を繰り返していたのである。母親は息子を抱いて「手術が終ったら、またここで暮しましょう」と言った。小川さんは女子医大での手術が終れば、また聖母病院で長期療養生活を送ることになっている。家族が一人減って母と子だけになったが、この内科病棟は彼にとっての“家”なのである。
退院したシスター原田からの手紙の中に「これからはシスター寺本のような修道女を目指すつもりです」とあった。シスター寺本が教育婦長として内科病棟に赴任してくる前に、シスター是枝は「今度くるシスターこそシスターの中のシスターよ」と誇らし気に語っていたものだ。内科病棟で夜の看護主任をしていた島尾さんが、流産しそうになって二階の混合病棟に入院したある日、私が見舞うと、彼女の親友の三階産婦人科の看護婦の藤井さんが付き添っていて、話はいつの間にか、シスター寺本のことに移った。藤井さんは、小学校から高校まで静岡の雙葉学園、そして大学は聖母女子短大と幼いころから一貫してカトリックの教育を受けてきた看護婦だが「いろいろなシスターや看護婦を見てきたけど、シスター寺本のような人はいない」と言いきった。島尾さんも同意した。主治医の杉本医師も「シスターといってもピンからキリまであるが、あれは傑女で聖女だ」と感嘆していたものである。
最初、私は、つんと澄ました冷い感じの婦人を想像していたのだが、中肉中背の、日焼けした赤銅色の肌をした農家ないしは漁師のおかみさんという風貌《ふうぼう》だった。鼻の下にヒゲが生えている。この人のどこが聖女だろうと訝《いぶか》った。
彼女は、シスターというイメージにつきものの道学者のような感じが全然なく、荒々しい男性のような第一印象を与えた。看護婦には厳しいが、病室の患者たちには説教らしい説教はしない。患者の次元で、患者の言葉で、共通の話題を語るだけだった。入星さんのように神を求めて胸中に飛び込んでくる人間はしっかりと受けとめるのだろうが、私たち普通一般の患者には、むしろ茶目気のある愉快なおばさんとしか映らなかった。
「かしわ餅、人の分まで食べたらまた太っちゃった。先生に叱られちゃうわ。杉本先生にこの病院を去られると、私の肥満管理ダイエット作戦は滅茶滅茶になってしまう」「この間の観劇会で観《み》た玉三郎は素敵でしたよ。そこいらの女よりはるかに美人ですね」「老人ホームでも、駆け落ちして恋人のおじいさんと同棲《どうせい》したおばあさんがいましたが、老人の性の問題も深刻なのよ」「聖堂でお祈りしていたら、いつの間にか居眠りしちゃった。でも舟を漕《こ》がずに眠るコツを知っているから決してバレはしない」……。彼女には常にユーモアがあった。「あら、藤原さん。この間、看護婦の芳賀さんと禁煙の約束をしたんじゃないかしら。やはり口約束だけではダメね。今度私とボトル一本賭《か》けましょうか」。乳ガンで死んだある婦人が遺した短い詩の一節。「婦長さん/こんなに痛くて苦しいのに/とぼけた顔でまたユーモアをとばして/どうしてそんなに笑わせるの/きたないいやな仕事ばかりなのに/いつも先頭に立って働く/冗談ばかり言いながら……」
彼女の人間性とシスターとしての資質は、従軍看護婦時代からの体験――戦場や病院で何千人もの死をみとってきたドラマに裏付けされているのではないだろうか。病室で読んだ著書『看護の中の死』を読むとそれがよく判る。一つ一つの死の受容のエピソードは、小説や映画のように起承転結があるわけではなく、盛り上る感動が涙を誘う、といった類型化された作り物ではない。日本でも、死の受容の問題が医学上、宗教上、社会福祉上大きく取り上げられはじめ、末期患者の安らかな死のためのホスピスも誕生したが、肉体の苦しみをやわらげる方法論だけが注目されているようである。シスター寺本の場合は、安らかな死の方法論を実践に移しているのでもなければ、神を振りかざして、末期患者に悔い改めの祈りを強要するものでもない。
例えば、新宿福祉事務所を経て入院してきた四十五歳の日雇労働者の吉田さんの場合、胃ガンから肝臓に転移し、腹水もたまっていた。主治医は一カ月の生命とみていた。もちろん本人はその運命を知る筈もなく、補液や輸血にすらダダをこね、看護婦に「ネーチャン、余計なことするとただではおかねえぞ」と脅かした。初めのうち、看護婦たちはあまりいい感じを持っていなかったが、しばらく経つと彼の知能指数がやや低いということがわかり、みんなが彼の言葉や態度を無視して接するようになった。時たまイライラして看護婦をつきとばすことがあったが、シスター寺本はなすがままにさせるようにと指示し、看護婦たちは寛大で優しく振舞うように努めた。手術後一週間はまだ元気だったが、また次第に腹水が溜《たま》ってきて、腹部の圧迫感と食欲不振のため水分も欲しがらない状態になり、衰弱が目立ってきた。この頃になると、ケース・ワーカーは彼の家族を探すのに苦労していた。彼は家出してから十七年になる。身許《みもと》不明なので探しようがない。
ある暑苦しい日、シスター寺本は冷蔵庫の氷で手製の氷水を作り、ひとさじ砂糖をかけて吉田さんにすすめてみた。彼は「さっぱりしてうまい」といった。たとえ氷水でも食欲を示したことは素晴らしいことであった。吉田さんは小さな鉢を空にした。
「吉田さん。子供の頃を思い出すでしょう」「うん」「私は田舎育ちで、兄弟がたくさんいてね。夏になると、よくかき氷を家で作って食べたのよ」「シスターが?」「お店に大きな丼《どんぶり》を持って氷を買いに行って、走って帰って、みんなでカンナでけずって食べる。楽しかったわ」「うまそうだね」「吉田さんは兄弟ある?」「うん、妹と弟がな」「会いたいでしょう?」「別に、会いたくもないよ」「どうして。でも妹さんの方は会いたいと思っているんじゃないかしら」「――」「いま、どこにいるの?」「足立、かな」「足立って、東京の?」
その手掛りは、ただちにケース・ワーカーに伝えられた。吉田さんの妹の居所はすぐに判った。福祉事務所の協力で、長野の実家にも連絡がついた。彼の母は七十六歳で、元気で暮していることがわかった。吉田さんの病状を知らされた家族の驚きは大きかった。翌朝、ケース・ワーカーは驚いた様子でシスター寺本に告げた。「どうしますか、シスター。吉田さんの家族がお見えになりました。お母さんと妹さんと弟さんです」「え、もう?」「きのう夜行に乗って、今朝東京に着いたそうです。どうします。本人が会わないと、言ったら」
ケース・ワーカーに案内されて家族が病室の前に立った。シスター寺本は、まず母親を連れて病室に入った。吉田さんはベッドに仰臥《ぎようが》していたが、目を開けて天井をじっと眺めていた。シスター寺本は母親を彼の横に立たせて「吉田さん、この方を覚えていますか」と指さした。彼は頭を横にして目を凝らしていたが、いきなり枕元にあったタオルを顔に押しつけてうめいた。「おかあさん。会いたかった」。母親は息子の手を握りしめて、ゆすぶった。シスター寺本は眼をそらし、廊下に飛び出した。
二週間後に、吉田さんは文字通り眠るように亡くなった。母親に会った日から、吉田さんはイライラがなくなり、全く別人のように静かになった。精神も安定した状態を示し、看護婦たちにも丁寧な言葉を使うようになった。彼は自分の運命を知ったようだった。周囲の人一人一人に「ありがとう」と別れを告げていた。
背の高い看護婦の工藤さんが入口のカーテンをあけて私に手招きをしている。「入星さんがお会いしたいそうです」。昨日、個室に移ってから見舞いに訪ねようと思っていた矢先だった。「十分ぐらいにしてください。あまり長いと疲れますから」「工藤さんも一緒に来て下さい」
カーテンを開けると入星さんは入口の方を見て待っていた。「やあ、お呼び立てしてすみません」寝たままの姿勢で、例の愛想のいい笑いを浮べている。顔を横にしているせいか、私を見上げるのがちょっとつらそうだ。「お元気そうじゃないですか」「お蔭様で元気ですよ。体温午前三十六度一分、平熱。異常なし。午後三十六度二分、平熱。痛みなし」と、軍隊の報告口調でいう。「きょうは西尾さんに浜松聖隷短大の学長さんの自叙伝の一節を読んで貰いました。西尾さんは来年の春ボリビアに行くそうですね。淋しくなるなあ」
看護婦の西尾さんは、日本初のホスピス経営で最近脚光を浴びている浜松聖隷短大の出身の看護婦である。聖母病院で看護婦をしながら明治学院大学社会学部の夜間学部に通っているが、来春、卒業と同時に、ボリビアの日本人移住地の病院に赴任することが内定していた。
「工藤さん、西尾さんがいなくなると、CアンドCのコンビも解消ですね。二人が夜、“慰問”してくれると、軍隊が芸能慰問団を迎えたときのような感激だったな」「大丈夫ですよ、西尾さんは来年春までここに勤めているんですから、それまでは私たちの漫才を御覧になれますよ」と工藤さんはいったが、入星さんは来春どころか、今月いっぱい保つかどうか、という状態だった。個室に移されたという事実だけで、本人も自分の運命を承知している筈である。しかし、会話は注釈ぬきで楽しく続いていく。
出産のため休職した夜の看護主任の島尾さんを除けば、工藤さんと西尾さんは看護婦の最年長者二十八歳だった。この二人の凸凹《でこぼこ》コンビは内科病棟の人気者で、三交替の組み合わせでたまたま二人が準夜勤務で一緒になると、とくに老人の患者は「今晩の出し物は何だろう」と期待に胸をふくらませる。出し物はいつも手造りの幼稚な聖書物語の紙芝居で、二人は声色をつかって科白《せりふ》をしゃべるだけだったが、ストーリーから脱線したアドリブの会話が大いに受けた。
「そんなに非道い仕打ちをすると杉本先生に言いつけて、一日食抜きした上に、点滴午前二本、午後二本の刑罰にするぞ」「勘弁、勘弁。さすがの貢取りたちも、食抜きと点滴には敵いません。一目散にその場から逃げて行きましたとさ」
二人の芸名「CアンドC」は患者たちが命名した。最初あるおばあさんが、長身で大柄の工藤さんを「キュウリ」、小柄で肥った西尾さんを「にんじん」と呼んでいたのを、誰かがキューカンバー・アンド・キャロットと英語でしゃれてみたのである。本人たちは、いやチャーミング(魅力的)・アンド・キュート(可愛いい)と主張したが、結局、カロリー・コントロール(栄養制限)の解釈に落ち着いた。
入星さんは「この部屋からはおみ堂(聖堂)が見えないのは残念ですが、藤原さんからいただいたスケッチをみて思い出しています」と言った。大部屋時代に私がプレゼントした聖堂のスケッチが二枚、壁にピンでとめてある。サイド・テーブルには聖書や宗教書が山積みになっている。花びんには聖堂前の白い夾竹桃《きようちくとう》の花がいけられていた。緊急用ブザーの横にはロザリオがかけてある。
「藤原さん、私のために祈って下さっているそうでありがとう。それから明後日、晴れて御退院だそうでおめでとう。わざわざお呼びたてしたのは、退院前に一度、お礼とお祝いを言いたかったからです」。病状が悪化の一途を辿《たど》っている入星さんに、退院する私が何と言ったらよいのだろう。戸惑っていると、入星さんが毛布の下から手をさし出した。私たちは握手をした。その手は細く、骨と血管が浮き出ていたが、暖かった。「私は先日洗礼を受けました。洗礼名はヨハネです。毎日、シスター寺本にお話を伺っていると非常に安らかな気持になります。看護婦さんたちも親切だし。ボクはこの病院に入院できて本当に良かったと思っています。実は、途中でやけになり、病院を出ようとしたこともありますが、朝晩、五号室から聖堂をみているうちに、できるだけ長く、ここにお世話になろうと思い直しました」
私はあまり話をしなかった。工藤さんも時々、点滴やカテーテルの様子をみたり、白い夾竹桃の花瓶の水を取り替えたりして所在なげだった。最後に今度は私の方から求めてもう一度握手をし、「退院しても、家から近い距離ですし、一カ月は自宅静養をしています。毎日散歩の途中に必ず寄りますから」と約束した。
約束通り、私は毎日入星さんを見舞った。面会時間は五分に制限された。入星さんは話をするのがつらそうだったが「不思議なことに苦しくも痛くもないんです」と言う。私は部屋に入ると握手をし、別れるときにもう一度握手をした。手は日に日に痩《や》せていく。入星さんと会った帰りは聖堂に寄って、五分間だけ祈った。
入星さんのガンは原発性肝臓ガンだったが、全身に転移していた。慈恵医大の検査の段階で手術不能との結論が出ていた。全身が痛むはずなのに、本人はいっこうに苦しみを訴えず、シスターや看護婦たちが「本当に遠慮しないで何でも言って下さい」と促しても、「痛くありません。ありがとう」と答える。それはシスターや看護婦にとっても意外で、まったく理解のできないことだった。信仰の力による心の平安が、痛みを柔らげたのだろうか。
退院して最初の日曜日、私は朝のミサに出席した。ミサが終って聖堂を出ると、入口の扉のそばでシスター是枝が待っていた。「入星さんが昨夜七時十五分、天に召されました」。私は黙って頭を下げた。たったいましがた、ミサの祈りで、いつものように入星さんの顔を思いうかべたばかりで、これから病室に立ち寄ってみようと考えていたのだった。庭には細い雨が降っていて、聖堂の脇の夾竹桃の白い花が濡れて光っていた。
「お見送りをして下さい」と、シスターの先導で回廊風の渡り廊下を通り、そのまま一階の外来病棟に出て、地下の階段をおりると、コンクリートの廊下に出た。倉庫、営繕室、解剖室と続いて突き当りが霊安室になっていた。中に入ったのは初めてである。
夏が近かったが、コンクリートの壁は冷え冷えとして、正面にかかっている十字架のキリスト像も寒そうに見える。入星さんは白いシーツに被《おお》われて横たわっていた。シスターが被いをとった。眼をつむり、胸の上で両手を組んでいる。顔は黄緑色に変色していたが、綺麗《きれい》で若々しかった。六十歳だというのに、急に幼くなったように、体はひとまわり小さく、顔は童顔そのものである。「お焼香をどうぞ」。キリスト教でも線香をあげるのだろうか、と妙なことを考えながら祈った。
亡くなった日の午後六時ごろ、ブザーが鳴ったので看護婦の沼田さんと西尾さんが駆けつけると、入星さんは別に用事がないのに呼んだのだった。
「わざわざ済みません」と謝まって、沼田さんには「本当にありがとう。お幸わせに」と言った。彼女が婚約したことを知っていたのだろうか。西尾さんには「トーマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』の朗読、忘れません。ボリビアで頑張って下さい。ありがとう」と言った。二人の看護婦は返答に窮した。患者は落ち着いていたので、二人は異常の有無を調べ、水を飲ませてからまたナース・ステーションに戻った。面会時間が始まる午後七時に、入星さんの奥さんが内科病棟に入ってきて一礼し、個室の方に歩いていった。その直後にブザーが鳴った。沼田さんが入っていくと、奥さんが入星さんの手を握っていた。奥さんが部屋に入ると、入星さんはその顔を見、起き上ろうとして、そのまま倒れた、という。当直の医師が駆けつけた。準夜以外の岡本さんたちも緊急招集で集まった。心臓をマッサージしたが、すでに反応がなかった。胸部を一所懸命マッサージしていた岡本さんの手の下で、肋骨《ろつこつ》の折れる音がした。
入星さんの葬儀は日曜の夜、聖堂ではなく地下の小礼拝堂で行なわれた。近親者は奥さんだけで、出席者はシスター、看護婦たち、そして私の十人あまりだった。聖歌と聖書だけの葬儀は短かかった。奥さんは、深々と頭を下げて礼拝堂を去っていった。
私たちはしばらくその場に残って入星さんを偲《しの》んで語り合った。シスター是枝が、遺品のノートを見せてくれた。奥さんはすべて焼却するよう希望したが、このノートは生前、入星さんがシスターに受け取るように頼んでいたので、取りのけておいたという。ノートの字はほとんど読めなかったが、大部屋にいるころの字は判読できた。短歌が三首書きつけてあった。
石庭にひよどり降りて露深し礼拝堂に陽の昇りゆく
床を照らす巡視の灯り尊けれ天使の背中《せな》に深夜《よ る》が流れる
杉木立ち風を起して露払い明日を生きるや点滴に頼る
歌の巧拙は判らなかったが、聖堂に面した内科病棟に入院したことのある患者にとっては、すぐさま窓外の風景が目に浮かぶ。入星さんはその聖堂のある風景を見て自殺を思いとどまったという。そのことを彼は個室に移ってから二人のシスターに、まるで神父に告解するように話したという。かなり初期の段階から、入星さんは自分が悪性ガンに冒されていることを知っていたらしい。もちろん医師もシスターも看護婦も、本人には何も告げていない。奥さんは知ってはいたが、入星さんが死ぬ一週間前に四日間外泊したときも、病状の話は全然していない。
「実は、慈恵医大で、手術の必要がないといわれた時にもう長くはないと思いました。その夜トイレで首をつろうと決心しました」と、入星さんは打ち明けたという。「けれど、病窓から聖堂に映る夕日をみているうちに考えが変りました。あの庭の緑、小鳥たち、草花、私はいま最後を幸わせに過そうとしているのではないか。親切な優しい看護婦さんたちが一所懸命看病してくれているのに、ここで死ぬのは善意を踏みにじる裏切りの行為ではないか。シスターやみんなが私のために祈ってくれている。そう考えると最後の日まで、生きてみようという気持になりました。そしてシスター寺本から洗礼を受けようと思い立ちました。最初はカトリック教徒になれば自殺が禁じられているのだから――と自殺の歯止めの意味で入信を考えたのですが、そのうちに心から神の恩寵《おんちよう》にすがりたいと思ったのです。それからです。体のフシブシが痛んでも掌をその場所に当てさえすれば痛みが消えるようになったのは」
葬儀社の東京霊安社の人たちが遺体を引き取りにやってきた。地下の小礼拝堂から廊下に出ると、そこはすぐ外の下落合の通りに向ってドアが開いている。柩《ひつぎ》はその通りに横づけになった黒塗りの霊柩車《れいきゆうしや》に事務的に移された。ドアが閉まり霊柩車が去った。
私が入院していた六カ月間に内科病棟で死んだ人は入星さん、山田さん、高田さんを含め十人、無事退院した人は二度の入院患者を含め延べ約百五十人である。
退院して一カ月後の内科外来の診察日に私は妻と一緒に聖母病院のゲートをくぐった。私は二週に一度、肝炎の先輩である妻は月に一度、定期診察と肝機能検査を受けていた。検査が終ると薬の処方が出るまでの待ち時間の間に、二人の古巣の内科病棟を訪れた。朝の病棟は安静時間で静かだったが、看護婦たちは各病室に散らばっているらしく、ナース・ステーションにはシスター寺本とシスター是枝だけがいて、回診前のカルテの準備をしていた。私と妻は、夫婦で約一年間世話になったお礼に筑摩書房のノンフィクション全集の寄贈を申し出た。シスター是枝が手を振り上げしゃべりかけたので、機先を制して「看護婦さんたちへのお礼ではありません。内科病棟の入院患者さんたちへのお見舞いです」と言った。
二人のシスターは顔を見合わせた。この病院は、患者が退院して“お礼”の品を持っていってもいっさい頑《かたく》なに受け取らないことは、妻の入院の時に恥をかいたので知っている。私たちは、ノンフィクション全集を病棟のつきあたりの「一F文庫」の本棚に並べた。シスター是枝は「長く入院していると退屈して、ミイラの着せ替え人形だけでなく、いろいろと悪知恵が働くものですね」としかたなさそうに呟《つぶや》き、整頓《せいとん》を手伝ってくれた。
その時、病棟のドアがあいて内科医師団が入ってきた。シスターが廊下中に響く声で「回診ですよ」と叫ぶと第一、第二処置室や各病室から看護婦たちが飛び出してきた。
私たちはベランダに出て、入院中によく日なたぼっこをしたベンチに腰をかけた。聖堂と初夏の木立ちは朝の光を受けて輝いている。振り返ると、二号室と三号室で、もう回診が始まっている。ベランダの私たちに気づいて看護婦たちが笑って手を振っている。
「散歩してみようか」。私たちは、ルルドの前で一礼して修道院の脇の小道を通り、懐しい裏庭への散歩に出発した。
聖母病院創立五十周年式典
――あとがきにかえて
半年以上にわたる肝障害治療を終えて、昨年(昭和五十六年)六月下旬に聖母病院を退院した私は、七月いっぱい自宅静養し、八月からおそるおそる出勤した。新しい職場は通産省記者クラブ。ここには入院前の職場の外務省以上に、日本経済の直面する深刻な問題が山積していた。
日本とアメリカの経済摩擦、日本とヨーロッパの貿易不均衡、スーパーなど大型店と小売業との確執、原子力発電所建設問題、IJPC(三井グループとイランの合弁石油化学コンビナート)問題の成り行き、北炭夕張炭鉱事故、アルミ、紙パルプ、石油化学など構造不況業種の再編成、消費低迷と設備投資不振の景気動向……。いずれも、私を含む一億の日本人が働き蜂《ばち》のように働き、奇跡の高度成長を成し遂げた結果、そのヒズミから生じた問題であった。日本経済も、私同様に慢性肝炎を病み、それが肝硬変一歩手前の宿痾《しゆくあ》になろうとしている。「肝臓病は二十一世紀の国民病」と言われるが、国の肝炎もイタリア病、英国病などと並んで、いまや日本病として定着しつつある。
しかし、私はそうした病状を眺めるだけで取材活動は控えていた。主治医杉本医師の言い付けどおり六カ月間は、毎食後薬を飲み、一定時間横になって安静に努める、というリハビリテーションを優先させ、記者クラブでは大臣、次官、官房長などの記者懇談だけに出席し、残りの時間は新聞や雑誌を読んで過した。
そうして静養しながら半年間のブランクを取り戻すうちに体調も次第に回復してきた。まず、どす黒く蒼《あお》ざめた顔色に生気が甦《よみがえ》ってきた。鏡を見るたびに、これが、朝早く病院の廊下を夢遊病者のようにさ迷っていた幽霊のようなあの自分だったのか、と信じられない気持である。
入院時に比べ、私の身辺には大きな変化があった。例えば、体重は六七キロと安定した。入院当時は七八キロだったから一一キロ痩《や》せたことになる。退院時は六四キロだった。減量作戦も、入院生活の懐しい、しかし滑稽《こつけい》で苦しい思い出である。
杉本医師は、私の肝炎には脂肪肝の兆候も見えるので、栄養士に肝2(一日一七〇〇カロリー)の食事を処方し、七八キロの体重を七〇キロまでおとすようにと指示した。この七〇キロという標準体重のメドは「身長から一〇〇を引き、その答えに0.9を掛ける」という数式に基づいている。前年十二月初旬入院時七八キロの私の体重は約二カ月後七〇キロまで減った。週に一度、日曜日の早朝に体重測定するのだが、七〇キロを割った時、看護婦たちは「おめでとう」と拍手をしてくれた。
しかし、ある時、杉本医師の代診の若い医師が、さらに減量した方がよいと奨《すす》めて、電卓を叩き、六四キロという標準体重を弾き出した。その数式は「身長から五〇を引き、その答えを2で割る」というもので、六一〜六七キロが許容範囲だった。こうなると私も意地である。どうせ、退屈しているのだから何でもよい。新たな目標六四キロを設定し、入院という禁欲生活を活用した“ボディービル”で、心身を厳しく鍛えよう、と試みた。『食品80カロリーガイドブック』(女子栄養大学長香川綾編)を参考にしたこの減量作戦を、秘かに「ストイック・スリム」と名付けた。
80カロリー栄養ガイドとは、各種食品の80カロリーを一単位とみなし、自分の病気に適した食品を選び、単位ごとに交換し、バランスを保つ糖尿病の食餌《しよくじ》療法。これを応用し、ライスまたはパンを、キュウリと交換したのである。朝食のパンは二個で二単位、昼食のライスは丼《どんぶり》にいっぱい三単位だが、キュウリは何と九本で一単位。したがって朝食のパンの二単位と食品交換するためには十八本、ライスと交換するためには、何と二十七本、全部をカリカリ、ムシャムシャ食べなければならない。実際問題としてキュウリをそう何本も食べられるわけはない。せいぜい二、三本で飽きてしまう。そこで時に、キャベツ(中型二分の一箇で一単位)、レタス(中一箇で一単位)、大根(中半本で一単位)、トマト(中一箇半で一単位)を組み合わせてみた。
妻と娘たちは面会に来るたびにせっせと野菜を運んでくれた。そしてこのキリギリスの食餌療法は完全に成功した。江夏投手のようにはちきれんばかりの中腹部の高原はスマートな平野に戻り、カラーで締めつけられていた猪《いのしし》のような首筋は、入浴すると終戦後饑餓《きが》時代のあの懐しい鎖骨の池に豊かな水が貯まるようになり、象のような大腿部《だいたいぶ》はかもしかの足取りを取り戻した。そしてローマ貴族のように脂ぎっていた顔相は、頬がこけ、眼は窩《くぼ》み、キリストのような愁いの表情に変貌《へんぼう》したのである。
十一月上旬、双生児の娘のうちY2(優子)が肺炎にかかり聖母病院に入院した。一階内科病棟一〇号室、ベッド番号一一〇C、一昨年妻が急性肝炎で入院した女性用大部屋である。私が入院した三号室より聖堂に近く、彼女も点滴の合い間の退屈しのぎに聖堂の見える庭や病室内をスケッチしていた。いちょう、ポプラ、けやき、くぬぎなどの落葉高木群の葉は散り落ち、わずかに黄色や褐色に変色した葉が残って、肌寒い秋空に広い空間を譲っているので、聖堂の十字架がくっきりと聳《そび》えて見えた。
数えるほどしか実をつけていない柿の木を指さして「毎日、葉の数が減っていくのがよく判る」というY2の感想は、少女らしいセンチメンタリズムなのだろうが、昨年十二月入院した当時、聖堂の庭をベッドから眺めた私の感慨とまったく同じだった。
それでも若い女の子である。相棒の双子のY1(陽子)が友人を連れて見舞いに訪れると、食べたり飲んだり、学校の出来事、新しいヤング・ファッション、新盤ヒットレコードの話に打ち興じて、面会時間が過ぎるのも忘れて、おしゃべりに余念がない。彼女の主治医はもちろん、今やわが家のホームドクター杉本医師。彼は本年いっぱいで聖母病院を退職するが、Y1、Y2二人を年末年始の休日に万座のスキー講座に招待することを約束させられてしまった。そういえば変り者ながらこの味のある肝臓寄生虫学者のもう一つの肩書きは全日本スキー指導者連盟副会長だった。
Y2は幸い一週間後に退院したが、名残り惜し気だった。彼女は退院する際に、一枚のイラスト・スケッチを記念として内科病棟のナース・ステーションに置いてきた。看護婦たちはそれを見てびっくりした。私も後になってシスター是枝から見せてもらい、思わず唸《うな》った。
顔をしかめて点滴を受けているY2のベッドの周りを「聖母病院の友人たち」が取りかこんでいる図だが、ひとりひとりの顔がそっくりなのである。Y2は毎日看護婦たちの表情をそれとなく観察し記憶にとどめ、入院最後の日に描き上げたのだ、という。禿頭《はげあたま》のジェローム神父もいる。首の長い配膳係の鶴丸さんもいる。この卒業写真のような看護婦嬢総出演の顔ぶれを見ると、妻や私が入院していた当時と比べて半分以上が新顔である。佐々木、佐藤(栄)、佐藤(和)、徳永、布施、舟木、三浦さんたちは私が入院中に聖母女子短大を卒業して就職したニューフェイス。荒井、岩崎、佐藤(斉)、田代、寺尾、路川、宮城さんたちのオールドフェイスは去り、岡本、工藤、西尾、沼尾さんの四人しか残っていない。もちろんシスター寺本とシスター是枝はこの聖母病院の永遠の住人である。
Y2の描いたイラスト・スケッチは、看護婦たちの共同研究「アルコールと肝障害の関係」の発表会のポスターのイラストとして採用された。
十二月十日、一同を代表して布施さんが行なった研究発表会は医師やシスターたちから高く評価された。医学的な統計価値はともかく、百五十名の肝炎患者に質問状を郵送して六〇パーセント以上の有効回答率を得、大半の患者が飲酒の事実を正直に告白したことは、看護婦たちに対する入院患者の絶大な信頼と感謝の気持を物語っている。彼女たちはこの調査をもとに三カ月禁酒を含む『肝炎、退院後の自宅療養の手引』を作成し、配布した。回答用紙の備考欄にも入院中の看護に対する感謝の気持を記したコメントが多かった。死亡者四名の中には「故人、生前中には本当にお世話になりました。有難うございました」という一枚があった。
昭和五十六年十二月二十一日、聖母病院、修道院、聖母女子短大、聖母助産婦学院、聖母老人ホームなどの建物に出入りする人々の顔は明るく晴れやかで、行き会うごとに「おめでとう」の挨拶が交わされた。病院正面玄関の四本のヒマラヤ杉が時節柄大きなクリスマス・ツリーのように見えたが、病院内いたるところにクリスマス・ツリーやキリスト誕生の厩小屋《うまごや》の光景の人形が飾られ、窓ガラスには雪の野山を背景にしたトナカイ、サンタクロース、小ヒツジなどの白の切り絵が貼《は》られていた。しかし、クリスマスはまだ四日後だった。この日の華いだ雰囲気は聖母病院創立五十周年記念式典を祝う人々の喜びの笑顔が醸《かも》し出したものだった。
一八七七年フランス人のマリア修道女が創立した「マリアの宣教者フランシスコ修道会」は一八九九年(明治三十二年)から日本での活動を開始し、熊本、札幌などで救癩《きゆうらい》事業のほか病院、老人ホーム、乳児院、養護施設、学校教育などの事業を行なっていたが、昭和四年聖母病院の現在地、当時の豊多摩郡落合町大字下落合六七〇にドイツ人フィンデル氏の設計で病院建設に着手し、昭和六年完成、同年十二月二十一日、東京市の認可を得、国際聖母病院として発足した。
当初診療科目は内科、小児科、外科、皮膚科、泌尿器科で病床数七十二床。現在は産婦人科、耳鼻咽喉《いんこう》科、眼科、神経科、歯科が加わり、病床数は二百九。産婦人科、小児科から老人ホーム、修道院まで文字通り“揺り籠《かご》から墓場まで”聖母病院は人間の一生の全課程に係わっている。同修道会は、「聖母マリアの模範にならうとともに、キリストに対する愛と委託、使徒的熱意、変わらぬ平和と喜び、という聖フランシスコの精神に従って祈りと社会奉仕に生きる」ことを目的としているが、とくに病院事業は聖書にあるキリストの言葉「苦労する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私は、あなたたちを、休ませよう」をモットーとしている。
現在、同修道会日本管区の修道院は東京・瀬田修道院のほか北海道から沖縄まで二十一カ所。聖母病院はそのうちの一つ東京修道院の社会福祉法人聖母会が運営する医療事業なのである。
この日、正面玄関入口には「創立記念日のため本日休診」の看板が掲げられていた。修道院聖堂で記念式典が執り行なわれるのである。
式典は外科の蔭山医師の司会で進行した。彼の父親は日本でも指折りの外科医で、戦前は日赤病院にいたが、戦後、聖母病院に移った。親子二代にわたり、この病院でメスを執っている。式典第一部の「感謝のミサ」は白柳誠一カトリック東京大司教が主宰した。日曜日の安息日ミサでは病院付き司祭のジェローム神父一人が立つ正面祭壇だが、この日は白柳大司教、マリオ・ピオ・ガスパリ・ローマ教皇庁駐日大使ら五人の司祭が並んだ。左右に十六人ずつの神父が控える大司祭団である。白い看護婦キャップを被った聖母女子短大合唱団の学生たちは濃紺のマントの深紅の裏地を両肩に折り返した礼服姿でオルガンを取り巻いている。
彼女たちの聖歌を聞きながら私は、この聖母病院に半年間入院して、肝障害の病状回復のほかに何を得たか、を考えていた。それまでは例の大学ノート『下落合風景』に、ミサの式次第をメモしていたのだが、いつの間にか筆記の手を休め、妻の入院から私の退院に到るまでの月日を振り返りながら、“総括”ともいうべき思いに耽《ふけ》っていた。杉本医師、シスター寺本、シスター是枝、看護婦たち、悩み、苦しみ、悲しみ、喜び合った病友たち……そうした人間像と人間模様を観察するうちに、人間同士の暖い心の通いが改めて思い起された。あの優しさ、いたわり、思いやりこそ入院前まで久しく忘れていたものだった。
日本経済というモノとカネの取材に明け暮れしてきた四十代前半の男が、病気療養という心身の休息の時間に、改めて発見したものを具体的な言葉で表現することは困難である。それが“心”や“精神”の分野に属することは確かだが、涙や感動を誘う類のものではない。それは一見、何の変哲もない平凡な日常の中に潜んでいるものだった。「神様がわたしたちに与えてくれた一年間に、それに行き当った、ということでいいのじゃないかしら」と妻は言う。その意味でも、ミサの唱和の言葉「神に感謝」である。
だが、シスターや看護婦の生き方に感銘し、毎日曜日聖堂のミサに出席してキリスト教に触れた一年ではあったが、信者として入信する気持にまで到らなかったことも事実である。今後とも私たちはおそらく信仰の入口にたたずんでいる群衆の一人であり続けるだけだろう。信者にはほど遠い、共感を覚える程度の“シンパ”にしか過ぎず、その信仰心もカトリック、浄土真宗、曹洞禅いずれにも通ずる曖昧《あいまい》な祈りではある。日本のクリスチャンは人口の一パーセントに満たない九十七万人と言われるが、私たちは残りの九九パーセントに属しながら、時折り何処《ど こ》かで無定型な祈りを捧げている筈である。
幸い私自身の病気は直接死に隣接することはなかったが、一時危篤状態に陥った妻を含めて私の周囲には死の淵《ふち》を覗《のぞ》き込んだ人や実際にその淵に没して行った人もいる。私自身は今回の入院で、格別の死生観に到達したわけではなかったが、自己凝視を含め、生と死のはざ間にある人々と共に生活した貴重な体験は、人生後期の第二の思想形成に反映していくことだろう。
妻の場合は、病状はすっかり回復し、素肌美容・指導講師の仕事に戻ったが、「自分は一度死んだかもしれない」という思い込みをバネにして意欲的に活躍している。その原点は“戦中派の死生観”とは異なり内省的なものではなく、きわめて現代的で、眩《まぶ》しいほど若々しい。
それと対照的なのが私の場合で、職場こそ通産省記者クラブという激動の内外経済問題を追跡する鉄火場だが、昔のように特ダネを求めて馬車馬のように昼夜兼行で取材する気持はなくなっていた。病気療養という体験だけではなく年齢のせいかもしれないが、あらゆる問題にダボハゼのようにとびつき、派手に盛り上げた記事を書く作業の愚かしさを遅ればせながら悟ったのかもしれない。これまでの自分はリポーターではなく単なるポーター(運搬人)に過ぎなかった。自分のテーマを見極め、問題意識を持ちながらも、ニュースの素材である事実の日常性を大切にしようと考えた。それは長い入院生活で、平凡な日常性にこそドラマが潜んでいる、と思い当ったことと無関係ではないようだ。
双生児のY1、Y2の二人も、一年間にわたる両親の入院生活から多くのものを学んだ。横浜から東京に引越し、転校して約一年、新しい生活、社会環境にようやく慣れてきたころに母親が急病で入院、次いで父親が入院した。夫婦は共働き、娘たちは思春期、しかも受験期とあって一時は共同生活の危機も懸念されたが、案ずる必要はなく、むしろ子供たちの方がしっかりしていた。彼女たちはよく喧嘩《けんか》もしたが、一致団結すると素晴らしい協力ぶりを発揮した。学習塾には通わなかったが切瑳琢磨《せつさたくま》し、受験勉強に精を出した。炊事、洗濯なども試行錯誤ながら主婦顔負け、とくに病いに沈みがちな両親をいつもユーモラスに励ましてくれた。父、母、子の家族構成の三単位が、それぞれの存在を改めて強く認識し合った、という点で、この一年はわが家の歴史にとって貴重な試練の時期と言えた。その意味でもやはり「神に感謝」と言うべきだろうか――と考えていると、実際に会衆が「神に感謝」という言葉を唱和した。ミサは終りに近づいていた。
ローマ法王の祝いのメッセージをガスパリ駐日バチカン大使が朗読した。それは凶弾に倒れ伏せっている法王に代わってマルチネス教皇代理からマザー・エレナ・ハースに宛《あ》てられたものだったが、正式の宛名は「国際カトリック聖母病院 マザー・メリー・オブ・ジーザス病院長殿」となっていた。
「教皇聖下はあなたとシスター方、又、病院の医局、職員一同の方に対し、五十年の長い年月にわたり愛とあわれみの神のみ業を遂行されたことに祝辞を述べることを望んでおられます」
そう言えば、法王は私の入院中に来日、暴徒に襲われることなく、したがって聖母病院の法王専用個室に入院することなく、無事に使命を終えたのだった。
次いで病院長のマザー・エレナ・ハースが小刻みな足取りで祭壇に登った。五十年前聖母病院を設立するためロンドンから派遣された美貌《びぼう》の医学博士も、いまでは八十七歳の修道女だった。彼女は例の、小鳥のように囀《さえ》ずる口調ながら綺麗《きれい》な英語で「今後とも日本の社会と国際社会に、医療と信仰とで奉仕ができますように、神よ、支援を与えて下さい」と祈りながら挨拶した。「神に感謝」聖歌の歌声が湧《わ》き、拍手とともに聖堂内にこだましていた。
***
昨年夏に聖母病院を退院してから年末まで私は週末を利用して、入院中に記した大学ノートのメモ『下落合風景』を読み返しながら、小さな物語を書いていた。いわゆる闘病記でもなければ、現代医療の乱脈ぶりや末期患者の生と死の問題をえぐったドキュメントでも、社会的キャンペーンでもない。聖母病院には“生々しい迫力を伴った問題提起”の素材はとくに見当らなかった。だが、“人間”に興味を持つ私にとっては、そこで働く医師、シスター、看護婦、闘病生活を送っている病友の患者――つまり聖母病院の友人たちの人間模様そのものが、これまでの新聞記者生活にはなかった新鮮な取材対象として映った。夫婦揃《そろ》って患った肝炎がいかに怖《おそ》ろしい現代病であるかも、一つのテーマになり得る……。いろいろ思案しているうちに、あの半年間の病院生活の日常で体験し、見聞したことをありのまま描くだけで、ささやかではあるが“現代の物語”が成立するのではないか、と思い到った。そのヒントを得たのはジャーナリストの先輩として以前から教示を受けていた中央公論の元編集長・作家の粕谷一希氏のアドバイスがきっかけだった。人間不在の乱診乱療が問題になっている現在だが、近代的な医療施設こそ完備してはいないものの、“人間”のいる病院の数少ない例証がここにはある、と改めて気付いたのである。
聖母病院の場合は、たまたまカトリックという教義に基づく愛と奉仕の精神が人間的な治療と看護の源泉となっているようだが、信仰に無縁な私が宗教問題に取り組むにはあまりにも荷が重すぎる。したがって、これも日常見聞した事実をそのまま描写して、わずかに自分が感じたことを書き添えるだけにとどめた。
ドラマ性に乏しいエピソードの羅列になっているかもしれないが、そのエピソードはいずれも私の身の回りの出来事である。しかし、そこに登場する医師、シスター、看護婦、患者……などの人物にはそれぞれ個人の生活があるので、プライバシーを侵害するおそれもあると考え、一部の人物を除き、登場人物には仮名を用いた。
昨年八月から書き始め、新潮社出版部の伊藤貴和子さんに最後の原稿を手渡したのは、その年も押し詰ってからであった。伊藤さんは、初めての長編に戸惑う私を絶えず励ましてくれた辛抱強い伴走者だった。外務省記者クラブで一緒に働いた時事通信社政治部の中山恒彦記者は有能適切なモニター兼アドバイサーだった。同病の妻もよき協力者だった。Y1、Y2の双子姉妹はイラストの才能をいかして二つの挿絵を引き受けてくれた。“聖母病院の友人たち”とこれらの人々の支援で一冊の本が完成した。
原稿からすっかり解放された十二月二十四日夜、私たち一家はそろって聖堂のクリスマスイブ・ミサに出席した。ミサが終ってからのココア・パーティーはまるで同窓会のような光景と雰囲気だった。聖母病院の友人たち――神父、医師、シスター、看護婦、職員、患者たち――は、懐しい笑顔を見つけては叫び、抱き合い、肩を叩き、握手し、いつまでも話しこんでいた。
著   者
昭和五十七年春
この作品は昭和五十七年五月新潮社より刊行され、
昭和六十一年五月新潮文庫版が刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
聖母病院の友人たち
―肝炎患者の学んだこと―
発行  2002年5月3日
著者  藤原 作弥
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861186-1 C0893
(C)Sakuya Fujiwara 1982, Coded in Japan