時《とき》をかける少《しょう》女《じょ》 (つ1-1 Y280E ハルキ文庫)
著者 筒《つつ》井《い》康隆《やすたか》
1934年、大阪生まれ。同志社大学卒。第9回泉鏡花文学賞、第23回谷崎潤一郎賞、第16回川端康成文学賞、第13回日本SF大賞受賞。主な著書に『虚人たち』『夢の木坂分岐点』『ヨッパ谷への降下』『文学部唯野教授』『朝のガズパール』など多数。
挿絵 金子しずか
放課後の理科実験室で、ガラスの割れる音がひびいた。床の上で試験管から流れ出た液体が白い湯気のようなものをたてていた甘くなつかしいかおり……、そのにおいをかいだ芳山和子はゆっくりと床に倒れふしてしまった――。それ以来、和子のまわりで不思議な事作が次々と起こった。夢をみているのかしら、それともこのわたしだけ時間が逆もどりしているのかしら? 和子は同級生上の深町一夫と浅倉吾朗に相談するのだが……。
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目次
理科教室の黒い影
ラベンダーのかおり
地鳴りと震動
夢と現実のあいだ
きのうやった問題
くるった火曜日
今夜まで待て!
パジャマを着ていた
そのとき暴走トラックが……
見つけた相談相手
時間を跳躍すること
四日前のあの現場へ
夜さまよう町かど
きのうへの旅、おとといへの旅
ふたたび現場にきた
侵入者はだれか?
未来からきた少年
西暦二六六〇年
意外な告白
未来人・現代人
その名はケン・ソゴル
消された記憶
いつか会う人
解説
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理科教室の黒い影
放課後の校舎は、静かでなにかしらさむざむしい。ときどきどこかの教室のとびらのあけしめされる音がだれもいない廊下にうつろにひびく。講堂のピアノでだれかがショパンのポロネーズをひいていた。三年の芳山《よしやま》和《かず》子《こ》は、同級の深町《ふかまち》一《かず》夫《お》、浅倉《あさくら》吾《ご》朗《ろう》たちと、理科教室のそうじを終えた。
「もういいわ。ゴミはわたしが捨ててくるから、あなたたち、手を洗っていらっしゃい」
「そうかい、すまないなあ」
一夫と吾朗は、並んで手洗い場へ行った。ふたりのうしろ姿を見くらべた和子は、また、笑い出しそうになった。かれらの組みあわせはじつにおもしろい。一夫は背が高くやせ型。吾朗はずんぐりむっくり[#「ずんぐりむっくり」に傍点]である。どちらも勉強はよくできるが、吾朗は努力家で、どちらかといえば直情径行型。それに反して一夫は夢想家型だ。ぼんやりのようにも見えるし、なにを考えているかわからない、きみ悪さが感じられるときもある。
トイレットで手を洗いながら、吾朗は一夫を見あげていった。
「芳山くんというのは、やさしくてかわいいけど、少し母性愛過多なんじゃないか?」
吾朗は気どってむずかしいことばを使おうとするくせがある。一夫は、あいかあらずぼんやりした目で自分より二十センチは低い吾朗を見おろした。
「ふうん、どうして?」
「だって、君はそう思わないか!」
吾朗は胸をそらしていった。まっかにふくらんだ顔のため、しょっちゅうりきんでいるように見える。
「芳山くんは、まるでぼくたちを、赤んばうみたいに思ってるようだぜ。ふん! 手を洗っていらっしゃいだとさ!」
「そうかなあ……」
一夫は、夢みるような目つきのまま、ぼんやりとそういって、のろのろと手を洗いつづけた。
校舎の裏庭にゴミを捨て、理科教室にもどった和子は、そうじ道具をしまおうとして、隣の実験室へのドアに手をかけた。この理科実験室というのは、理科の教材をおいてあるへやで、ドアは理科教室へ出るのと、廊下へ通じるのと二つある。和子が開こうとしたのは、理科教室からのドアだった。
「おや?」
和子は、ドアのとってをにぎったまま、ちょっとあけるのをためらった。実験室の中でなにか物音がしたからである。
実験室といっても満足に理科の実験ができるようなスペースはほとんどない。まるで物置きべやのように、いろんなものがごちゃごちゃに並べてあるだけだ。しかも、それが、いろんな生物の標本だとか、骨格の模型だとか、剥《※はく》[#「※」は「剥」の厳密異体字、第3水準1-15-49]製《せい》だとか、薬品戸だなだとか、あまり気持ちのよくないものばかりなのである。和子は平気だが、女生徒の中には、このへやにはいるのをいやがる者もいた。
「おかしいわ、だれもいないはずなのに……」
和子は声に出して、そうつぶやいた。
「福島先生かしら?」
――いや、そんなはずはないと和子は思った。福島先生なら、さっき実験室から廊下へ出て、そのドアにかぎをかけて帰るのをたしかに見たのだ……。いったい、だれだろう? 和子は少しきみがわるくなったが、思いきってドアを開いた。
ガチャーン! ガラスの割れる音がひびいた。
「だれ? そこにいるの……」
うす暗いへやの中を和子は目を細くして見まわした。へやのまん中にある机の上に、試験管が並べてあり、その中の一つが、床に落ちて割れていた。そして床の上には、試験管から流れ出たらしい液体がこぼれ、かすかに、白い湯気のようなものをたてていた。
――だれかが、なにかの実験をしていたのだわ……。でもだれだろう。どこにいるのかしら…‥? そう思いながら和子が、試験管といっしょにおいてある薬びんのレッテルを読もうとして、机に近づいたときたった。黒い影が薬品だなのうしろからパッととびだして、廊下へ出るドアの手前の、ついたての向こう側へとびこんだのである。
「あっ……」
――どろぼうかしら? かの女はしばらく、身をかたくしてたたずんだ。手足がしびれたようになって、動かなかった。
「だれなの!」
たまりかねて、かの女は叫んだ。
「びっくりするじゃないの! 出ていらっしゃいよ!」
廊下へ出るドアがガタガタと音をたてた。
「廊下へ出ようとしたって、だめよ!」
和子はついたての向こう側へ叫んだ。
「そのドアには、かぎがかかっているんだから!」
なにか叫びつづけていなければ、こわさのあまり、気を失ってしまいそうだった。やがてドアは、音をたてるのをやめた。ついたての向こうからは、コトリという音ひとつ聞こえてこなくなり、へやの中はひっそりと、ぶきみに静まりかえった。
「わかった! 深町さんでしょう? それとも浅倉さん? わたしをおどかそうとしているのね?」
和子は、足音をしのばせ、ついたてのほうにゆっくりと歩きながらいった。だが、ついたての向こう側からは、あいかわらず返事がない。和子はぐっとこわさをおさえつけ、おそるおそる、ついたてをのぞきこんだ。そして思わず叫んだ。
――あっ!
そこにはだれもいなかったのだ。
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ラベンダーのかおり
「まあ! どうしたのかしら?」
和子はおどろいて叫んだ。さっきの人かげはまぼろしではない。目の錯覚なんかじゃない。たしかにかの女は見たのである。そしてたしかに、このついたてにかくれたのだ。
和子はためしに廊下へのドアに手をかけて引いてみた。かぎはかかっていた。すると、このドアから逃げたのでもない。では、いったいどこへ行ってしまったのだろう?
消えた?――まさか。そんなばかなことがあるはずはない。しかし、消えたとしかいいようのない、ふしぎな事件だ。和子は考えこみながら、またのろのろと、あの試験管のおいてある机の前にもどった。
さっきから、かすかに甘いにおいが実験室の中に立ちこめていることに、和子は気がついた。どうやら、割れた試験管の中にはいっていた液体のにおいらしかった。
「なんのにおいかしら?」
それは、すばらしいかおりだった。和子はそのにおいがなんなのか、ぼんやりと記憶しているように思った。――なんだったかしら? このにおいをわたしは知っている。――甘く、なつかしいかおり……。いつか、どこかで、わたしはこのにおいを……。
かの女は机の上にふたをとったままおかれている三つの薬びんのうちの一つをとりあげ、そのレッテルを読もうとした。だが、読めなかった。
不意にかの女の意識がうすらいだのである。甘いにおいが急に強くかの女の嗅《きゅう》覚《かく》をおそい、かの女はよろめいた。そして、ゆっくりと、くずれるように、床の上に倒れふしてしまったのである。
それから、一、二分して、一夫と吾朗は、もうすっかり帰りじたくをすませ、理科教室へもどってきた。
「おおい、芳山くん、帰ろう。君のカバンを持ってきてやったよ!」
吾朗が大声でガラガラと教室のとびらを開きながらはいってきた。だれもいない理科教室を見まわし、つづいてはいってきた一夫をふり返って、顔をしかめた。
「なあんだ。まだゴミを捨てに行ったまま、帰ってきてないんだよ。きっとまただれかと会って、おしゃべりしてるんだ。女の子ってのは、井戸端会議が好きだからなあ!」
「いや、そうじゃないだろう」
一夫は色の白い顔にとぼけたような表情を浮かべたまま、黒い瞳をくるくるまわし、開いたままの、理科実験室のドアをさしていった。
「実験室にいるんだよ。そうじ道具をしまってるんだ」
吾朗は一夫のことばには返事をせず、自分のと和子のと両手に持ったカバンをぶらぶらさせながら、実験室の中へはいっていった。
「やっぱり、いないぜ!」
吾朗は勝ちはこったように大声を出したが、その一瞬後、女のようにかん高い悲鳴をあげた。それが吾朗の悲鳴だということに気づくと一夫もあわてて実験室にとびこんだ。芳山和子が床に倒れていて、そのそばに吾朗が立ちすくんでいた。
「ど、どうしたんだろう! 死んでるのだろうか?」
吾朗がふるえ声で一夫にいった。
「ばかだなあ、そんなことがあるもんか」
一夫は和子に近づき、ちょっと手首をにぎって脈を調べてから、彼女の上半身をだき起こした。
「だいじょうぶだ。さあ、君は足を持ってくれ」
「ど、どうするんだい?」
「きまってるじゃないか、医務室へつれて行くんだ。どうやら貧血らしい」
一夫と吾朗は、和子のぐったりしたからだを医務室へ運んだ。医務室にはだれもいなかった。ふたりは和子をベッドに寝かせた。
「ぼくは、だれか先生をさがしてくる」
一夫は吾朗にいった。
「だから君は、そこの窓をあけ、それから芳山くんのひたいを水で冷やしてくれ」
吾朗はおどおどしながら、無言でうなずいた。一夫が出ていくと、吾朗は窓をあけはなし、自分のハンカチを水でぬらすと和子の白いひたいの上にそっとのせた。
「きっと疲れたんだ」
吾朗は、おろおろ声でそういった。
「あんな広い教室を、たった三人でそうじさせるなんて、むちゃだよ」
一夫はなかなか帰ってこなかった。吾朗はなん度もなん度も、ハンカチを水でぬらしては和子のひたいにあてた。
「早く気がついてくれよ、なあ、芳山くん」
吾朗は泣きそうになっていた。
やがて一夫が、まだ職員室に残っていた福島《ふくしま》先生をつれてもどってきた。福島先生は、三人の担任の理科の先生だ。
「うん、貧血だな」
先生は和子をちょっと診察して、そういった。
和子は注射一本で、すぐに気づいた。
「ああ……。わたし、どうしたのかしら?」
「貧血を起こして、倒れていたんだ。実験室で……」
一夫のことばで和子はさっきのできごとを思い出した。少し気分がよくなってから、かの女はあやしい人影のことを話した。
「へえ! そんなことがあったのか!」
一同は顔を見あわせた。
「でも、おかしいな」
と、一夫がいった。
「君が倒れているのを見つけたとき、机の上には、薬びんも試験管もなかったし、そんなにおいもしなかったよ」
「まあ、ほんと?」
和子はおどろいた。
「おかしいわね。わたしはたしかに……」
そういってから和子は、ベッドの上に起きあがった。
「じゃあ、もう一度行って、調べてみるわ。いっしょにきてちょうだい」
福島先生が、おどろいて手をあげた。
「おいおい。貧血はぜったい安静だよ。だいじょうぶかい?」
「ええ、だいじょうぶです」
「そうか。よし、それならぼくもいってみょう」
先生も立ちあがった。
四人は、ふたたび実験室へもどった。たしかに一夫のいったとおり、机の上には何もなく、床の上に散らばっていた試験管の破片も、きれいになくなっていた。
「おかしいわねえ……」
考えこんだ和子に、福島先生がたずねた。
「君のかいだそのにおいというのは、どんなにおいだったの?」
「甘いにおいですわ。なんていうのか……」
和子は、やっと思いだして手をうった。
「そう! あれはラベンダーのにおいよ!」
「ラベンダー?」
「そうです。わたし、小学生のときだったかしら? いちど母にラベンダーのにおいのする香水をかがしてもらったことがあるんです。そう、たしかに、あれと同じにおいだったわ!」
和子はそういってから、また首をかしげた。――それだけではない……。ラベンダーのにおいには、何か、もっとほかに思い出がある……。もっとだいじな思い出が……
だが、和子には思い出せなかった。
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地鳴りと震動
理科実験室での事件があってから、二、三日、和子はからだの調子がおかしかった。
と、いってもべつにどこが悪いというのでもないし、気分が悪いというほどのこともない。ただ、みょうにからだがふわふわ浮くような感じがして、自分に自信がもてないのだ。なにか自分がいまに、とんでもないことをしでかしそうなのである。
だからそれは、からだの調子というよりは、むしろ精神状態といったほうがいいかもしれなかった。そして、こんなことになった原因は、和子は、実験室でかいだあのラベンダーのかおりのせいだと思っていた。確信といってもいいだろう。
三日のちの、夜のことだった。
宿題をおえた和子は、十一時にベッドへもぐりこんだ。昼間バスケット・ボールの試合をして、からだはくたくたに疲れているはずなのに、なかなか眠れなかった。頭が澄みきっていて、とじた目がすぐパッチリ開いてしまうのである。和子は自分のへやのてんじょうをにらみつけながら、また、三日前のあの事件のことを思い返していた。
そのとき――ドゥドゥドゥとにぶい音がして、和子のベッドが上下に震動しはじめた。
――地震だわ! そう思ったとたん、ぐらぐらっと横ゆれがきた。へやの柱がミキミキと鳴った。大きい地震である。
「キャーッ!」
和子はとび起きた。地震は大きらいである。和子はネグリジェのままへやをかけ出ると、廊下を玄関のほうへ走った。廊下の窓ガラスがぶきみにビンビンとひびいた。
震動は、和子が玄関の戸をあけたときにおさまってしまった。母や妹たちも、あおい顔をして起きてきた。
「ゆり返しがくるわ、きっと」
と、和子はいった。
「それまで、庭にいるわ。わたし……」
和子たちは庭に出た。風がうすら寒く、かの女はちょっと身ぶるいした。ゆり返しはすぐにやってきたが、たいしたことはなかった。ほっとして、和子たちは寒の中へひき返した。かの女はふたたびベッドにもぐりこんだ。胸がどきどきしていた。
なかなか眠れなかった。やっとうとうとしはじめたとき、こんどは家の前の道路で悲鳴と大きな叫び声が起こった。
「火事だぞう!」
「火事だ! 火事だ!」
どうしてこんなに、いろんなことが一皮に起こるのかしら? 和子は泣きそうになりながら、またまたとび起きた。
窓により、レースのカーテンを左右にわけてガラスごしに外を見ると、二ブロックほどはなれたところにある、ふろ屋の煙突が、煙につつまれているのが見えた。
――まあ! 和子はどきりとした。ふろ屋の隣は、荒物屋をしている浅倉吾朗の家なのだ。消防車が二台、サイレンを鳴らしながら家の前を通りすぎて行った。
――行ってみょう! 和子はネグリジェの上からトッパーコートをはおり、へやを出た。
「どこへ行くの?」
母の寝室から、障子ごしに母がたずねた。
「浅倉さんのおうちのへんが火事なのよ! 行ってくるわ」
「およし! あぶないから!」
そう叫んだ母の声が、聞こえなかったふりをして、和子はつっかけげたをはくと外へとび出した。火事場付近は、やじうまでごった返していた。火事はふろ屋の裏口近くの台所から起こったものらしかった。浅倉荒物店は、まだぶじだった。
「さがっていてください! きちゃいけません! 消火のじゃまですから!」
警官が声をからしてどなりながら、寝まき姿の見物人を追いはらっていた。
「さっきの地震で、台所のガス・コンロがひっくり返って、火がついたらしいんだ」
和子の横に立って火事をながめている男ふたりが、そんな話をしていた。
「君もきたのか?」
和子は肩をたたかれ、ふり返った。
パジャマ姿の深町一夫だった。
「ああ、深町さん! 浅倉さんのお店が心配なので、見にきたのよ」
「ぼくもそうだ。でもだいじょうぶだよ。ボヤらしいから、すぐ消えるってさ」
一夫はのんびりとそういった。
火事はすぐ消えた。一夫と和子は、寝まきのまま外に出てきた吾朗に会い、ぶじを喜びあってから、それぞれの家に帰った。
その夜、和子が眠ったのは、けっきょく朝がたの三時すぎだった。さすがに疲れきっていた。
おかしな夢ばかり見た。
黒い人影が、燃えさかる炎を背景に空を飛んでいるのだ。かと思うと、きみょうにゆがみ、よじれたあの実験室が、和子の周囲を取りまいて、ほげしくゆれ動いた。
目がさめたとき、和子はびっしょりと寝汗をかいていた。うなされていたらしかった。
朝の光がレースの影をへやの床に落としていた。――なん時だろう? そう思ってとけいを見た和子はあわててとび起きた。――遅刻だわ。
朝食もそこそこに、かの女は家をとび出した。寝不足で頭が痛く、足もとがふらついていた。
大通りへ出ると、交差点の前で浅倉吾朗の姿を見かけた。
「あなたも遅刻なの?」
和子が背後から声をかけると、吾朗はふり返った。遅刻仲間ができて安心したような表情をし、かれは答えた。
「ああ、ゆうべ、あの火事のあと眠れなくてさ、とうとう寝すごしちゃったんだ」
そのとき信号が青に変わった。
ふたりはあわてて横断歩道へとびだし、かけはじめた。
車道の中ほどまできたときだった。
「あぶない!」
だれかの叫び声を聞き、和子ははっとした。すぐ近くで警笛《けいてき》が大きく鳴りひびいた。信号を無視した大型トラックが、和子たちのほうへ、交差点のほうから驀進《ばくしん》してくるのだ。
和子はあわてて引き返そうとした。ふり向いたとたん、かの女のすぐうしろをかけてきていた吾朗と、はげしくぶつかった。
ふたりは車道にころがった。和子はアスファルトの上に倒れたとき、目の前に迫ったトラックの、巨大なタイヤを見た。それは和子のからだから、三メートルと離れていなかった。
――ひかれる!
和子は一瞬、強く目をとじた。
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夢と現実のあいだ
目まぐるしいまでに、和子の脳裏にさまざまなことがなだれこみ、通りすぎていった。
――死ぬのだ。車にひかれて死ぬのだ! 和子はふるえた。
――こんなことになるのなら、もっと寝ていればよかった。寝不足でぼんやりしていたものだからこんなことになったのだわ! だがもうおそかった。和子はあのベッドの中のこころよい暖かさを祈りをこめて思わずにはいられなかった。むろん、そうした思いも瞬時のこと――やがて和子に迫ったトラックの巨大なタイヤの回転が、アスファルトの道路を無気味に震動させてきた。さらに、さらに強く和子は目をとじた。
――もうだめだわ!
だが、二秒たち、三秒たち、十秒たってもなにもおこらなかった。
どうしたのかしら? 和子は目をとじ意識を失った。
いつのまにか、暖かい感触が――死の前にかの女が望んだ、あのベッドの中のやわらかい安らぎの感覚が、自分の周囲によみがえっているのを知った。
おどろいてかの女は目をあけた。朝の光が、レースのカーテンごしにへやの中にさしこんでいた。そして、かの女はまだネグリジェを着たままベッドの中にいた。自分の寝室だった。
夢だったのだ――和子はそう思いこもうとした。
だが、ほんとうにそうだったのだろうか? 夢にしてはあまりにもその記憶はなまなましかった。車の警笛、浅倉吾朗の悲鳴、通行人たちの叫び声、それらははっきりと、いまもかの女の耳に残っている。ちがう、あれが夢であるはずがない。
和子の頭は急に痛みだした。
とけいを見ると七時半だった。ゆっくりと朝食をして、じゅうぶん学校にまにあう時間である。さっき目をさましたときはもっとおそかったのだ。だからこそ、ああてて家をとびだしたのだ。そのために、トラックにひかれそうになったのではないか! とすると、やはり夢だったのだろうか? ……あれが夢でないとすると時間が逆もどりしたことになる……そんなバカなことってあるはずがない!
和子は、のろのろとベッドに起きあがった。
家の中のようすはふだんとかわらない。母も妹たちも、いつもと同じように、にぎやかに朝食をとっていた。
食欲はさっぱりなかった。和子はすぐに家を出た。
――これで二度めだわ。かの女はぼんやりとそんなことを思っていた。これ以上おかしなことが起こったら気がくるってしまう、とも思った。家を出て、大通りへきて、交差点にさしかかる。すべて二度めである。だが、今度は吾朗には会わなかった。そして、信号を無視した暴走トラックらしい車もなく、和子はぶじに学校の門をくぐった。
教室の友だちの中から、浅倉吾朗の姿を見つけだそうとしてきょろきょろとながめまわしたが、吾朗はまだ登校してきていないようすだった。吾朗に会えば、トラックにひかれそうになった経験が、夢なのか現実だったのかがはっきりするのだ。
「やあ、おはよう」
背後から声をかけてはいってきたのは深町一夫だった。
「あら、おはよう」
そう答えてから和子は、かれにけさのふしぎな一件を話そうと思った。一夫なら頭もいいし考え深いから、なにか自分をなっとくさせてくれることばを与えてくれるだろうと思った。しかし、吾朗がやってきてから三人そろったところで話したほうがなおいいと、思いなおした。
「どうかしたの? 顔色がよくないぜ」
一夫がいった。こまかいことによく気のつく性格である。
「ううん、なんでもないわ」
かの女は軽く首を左右にふってみせた。
「ゆうべのあの地震と火事のさわざで眠れなかったもんだから、ちょっと睡眠不足ぎみなの……」
和子がそういうと、一夫はいかにもびっくりしたという表情で、かの女の顔をまじまじと見つめた。
「へええ、ゆうべ地震や火事があったのかい? ちっとも知らなかったなあ」
「じょうだんじゃないわ!」
今度は和子のほうが、びっくりして叫んだ。
「大きな地震があって、それから浅倉さんの家が火事になりかけたじゃないの! それに、わたしたち、浅倉さんの家の前で会ったじゃないの!」
「な、なんだって? ぼくと君がかい? ……君、夢でもみたんじゃないのか!」
――夢? 夢ですって?
和子はばうぜんと、一夫のととのった顔を見つめた。
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きのうやった問題
あの地震も、吾朗の家の裏のふろ屋の火事もすべて夢だったというのか? やみの中の炎の色も、一夫とかわした会話の内容だってすべてあざやかに思いだすことができる。それでもなお、あれは夢だったというのか。
――ああ、わたしの記憶はいったいどうなったんだろう!
和子は絶望的になり、首をうなだれた。
「でも、でもわたし、たしかにゆうべ、あなたに会った……」
そのつぶやきはあまりに小さくて、一夫にはよく聞きとることができなかった。かれはかの女の顔の前に自分の耳を近づけた。
和子はつぶやきつづけた。
「あなたは……あなたはパジャマを着ていたわ……」
「やっぱり君は、夢をみたんだよ」
一夫はからだをしゃん[#「しゃん」に傍点]とさせ、少し大声できっぱりといった。
「ぼくが覚えていないのに、君がぼくに会ったなんていうもんだから、ぼくは自分が夢《む》遊《ゆう》病《びょう》がでもかかったのかと思ってびっくりしたぜ。でも、ぼくがパジャマを着ていたなんていうんなら、君は夢をみたんだ。だいいちぼくは、パジャマなんかもってないんだからね」
「そう……」
和子は力なくうなずいた。
「じゃあ、やっぱり夢だったのね……」
――ちがう、あれはぜったいに夢なんかじゃない!
和子の心の奥の声は、なおもそう叫びつづけていた。
「やあ、おはよう」
そこへ吾朗も登校してきた。一夫はすぐ吾朗にたずねた。
「ああ、浅倉君。ゆうべ君の家が火事になりかけたっていうの、ほんとうかい?」
「な、なんだって!」
吾朗は小さい背をそらせ、もちまえのまっかな顔で一夫を見あげた。
「じょうだんじゃないよ。だれだ、そんなへんなことをいうやつは?」
一夫はあわてていった。
「じゃあ、やっぱり聞きちがいだったんだ。よかった、よかった。いや、ちょっとそんなことを聞いたもんだから……」
自分をかばってくれる一夫に、和子は感謝した。しかし、かの女の胸の不安と混乱はまだ消えてはいなかった。
やがて第一時限の授業がはじまった。数学である。でっぷりとふとった小《こ》松《まつ》先生が、黒板にかきはじめた方程式を見て、和子はおやと思った。きのうすでにやった問題なのである。しかもその問題は、きのうのやはりこの時間に小松先生が黒板に書き、名を呼ばれて教壇に立った和子が、四苦八苦しながらやっと解いた問題なのだ。
「まあ、きのうやった問題だわ」
和子は思わずそうつぶやいた。隣にすわっている神《かみ》谷《や》真理子《まりこ》が、おどろいて和子のほうを見た。
「あら、先生が出す問題を知ってたの?」
「そうじゃないわ、きのうの授業でやったじゃないの。あなたもう忘れちゃったの?」
「そんなことないわよ、きのうはこんな問題やらなかったわ。はじめての問題よ」
「じゃ、ノートを見ればわかるわ」
和子は不吉な胸さわざがしてあわててノートを開いた。きのう書きこんだはずのページにはなにも書かれていなかった。もとどおりの白紙になっていた。和子は「あっ!」と悲鳴をあげそうになった。このページに書いた問題と、そして答案はどこへいってしまったのか! ノートの紙面のように色を失ってしまった和子の顔を、神谷真理子が心配そうにのぞきこんだ。
「さてと、この問題を、だれにやってもらおうかな?」
問題を書き終わった小松先生は、きのうとまったく同じ調子で教室を見わたした。和子は、隣から自分を見つめている真理子の顔、メガネが光る小松先生の顔、黒板の問題が、目の前にぐるぐるとまわりだすのを感じて目をとじた。
――きのうと同じだわ、なにもかも……。先生はきっとわたしの名を呼ぶにちがいない。きのうと同じように。
「芳山君、ここへきてやってくれるかね」
やはり小松先生は和子を指名した。
「は、はい……」
和子はあわてて立ちあがった。教壇に立ってチョークをにぎり、きのうやったばかりなのですっかり覚えてしまっている答えを和子は夢中で書いた。
これが夢なのかもしれないわ。地震や火事があったり、トラックにひかれそうになったほうがじつは現実で――そう思った。まるで悪夢だわ!
「ほう、いやにスラスラとできたね」
ちょっとおどろいたというふうに、目をしばたたいている小松先生に一礼して、和子は自分の席にもどった。それから、そっと真理子にささやいた。
「ねえ、神谷さん」
「え、なあに?」
「きょうはたしか、十九日の水曜日でしょう?」
「ええと……」
真理子はちょっと考えてから、首をふった。
「ちがうわ。きょうはたしか十八日の火曜日のはずよ」
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くるった火曜日
その日、和《かず》子《こ》はちっとも授業に身がはいらなかった。もっとも、どの授業もいちど教わったことばかりだったのだが……
家に帰ってからも、和子は、ゆうべからのふしぎな事件を、なんとか理解しょうと考えつづけた。だが、考えれば考えるほど、わけがわからなくなることばかりだった。
けっきょく、時間が一日だけ逆もどりしたのだろうか? 十九日の朝が突然十八日の朝にもどってしまったのか? いやいや、そうじゃなさそうだ。だって、外の人たちはみんなひとりとして逆もどりに気がついていないではないか――。和子はひとり頭を痛めながら、考えつづけた――。するとこのわたしだけ、時間が一日だけ逆もどりしたところにいるというのかしら? そうだ。それならすべてのことに説明がつく。とはいっても、なぜそんなことになってしまったのだろう。
そこまで考えて、和子ははっ[#「はっ」に傍点]とした。
たいへんだ。もしもきょうがきのうなら――つまりきょうが十八日なら、地震が起こるのは今夜ではないか? そして浅倉《あさくら》吾《ご》朗《ろう》の家が火事になりそうになるのも……。和子はもういても立ってもいられぬ気持ちになってしまった。やりかけた宿題を投げ出した。それさえ、すでに一度やった宿題なのだ。もう、宿題なんか、どうでもいいわ――和子はそう思い、家をさまよい出た。
どこへ行くというあてもなかった。ただ、このことをだれかに話したかったのである。最初、吾朗に会おうかと思った。しかし吾朗は、むこう意気だけは強くてしっかりしているようにみえるが、じつはたいへん気が弱くて、しかもそそっかし屋だということを和子は知っている。むしろ深町《ふかまち》一《かず》夫《お》のほうが、ぼんやりしているようだが、ほんとは落ち着いていて頭がいい。
和子は、一夫の家のほうへと歩き出した。
一夫の家は、しゃれた西洋ふうの二階建ての家である。玄関をはいると、右手の庭には温室があり、いつも珍しい花が咲いている。和子はふと、甘いにおいがあたりに立ちこめているのに気づいた。ラベンダーのかおりである。
「ああ、ここにもラベンダーが……」
和子はそうつぶやき、その甘いかおりを胸いっぱいに吸いこんだ。一夫の父が温室の中で育てているのだ。以前この家へ遊びにきたとき、和子は一夫の父に温室の中を見せてもらったことがあった。
ラベンダーというのは、一年じゅう緑色をした、背の低いシソ科の木である。南ヨーロッパ産のその木には、うすむらさき色のにおいのよい花が咲いていて、香水の原料になるのはその花だよと、一夫の父が教えてくれた。
理科実験室でかいだあのにおいは、これと同じにおいだった。なにか思い出があるとあのときに思ったのは、ここの家のことだったのかしら――。和子がそんなことをぼんやり思いながら、玄関さきでたたずんでいると、一夫のへやの窓があき、一夫と吾朗の顔があらわれた。
「なあんだ、芳山《よしやま》君だよ」
吾朗も遊びにきていたのだ。
「どうしたんだい? そんなとこに立ってないで、はいっておいでよ。いま家にはだれもいないんだ」
一夫のことばに和子はうなずき、二、三度きたことのある一夫の勉強べやにあがりこんだ。一夫はひとりっ子なのである。
吾朗と一夫は、はいってきた和子のただならない顔色にすぐ気づいて、心配そうにたずねた。
「どうしたの、何か心配ごとかい?」
「心配ごとなら、ぼくも相談にのるよ」
吾朗はそういって、たくましげに自分でうなずいて見せた。
「お話があるの」
和子はそういって、ふたりの前にきちんとすわった。一夫と吾朗も、ああててきちんとすわりなおした。
「なんだい? そんなに、あらたまって……」
話そうかどうしようかと、和子は少しまよった。――信じてくれるかしらん? おそらく信じてくれないだろう。しかし、話さないことには、いつまでも自分ひとりでなやみつづけることになる。それではたまらない――。和子は思いきって話しだした。
「とても、ほんとうとは思えないようなことなのよ。うまく話せるかどうか……。でも、笑わないで、最後まで聞いてちょうだいね」
和子は、ゆうべの地震のことから話しだし、きょうの授業のときに知った時間の逆もどりの説明で話し終わった。
一夫も吾朗も、和子の話のあまりのきみょうさに、笑ったりするどころではなく、息をのんで耳をすましていた。
和子は話し終わると、ほっと息をついていった。
「信じても信じなくてもいいわ。だって、話だけ聞いたのじゃ、わたし自身にだって信じられないようなことなんですものね。でも、わたしはほんとに、いま話したとおりのことを経験したのよ。ぜったいに夢じゃない。それははっきりいえるわ」
「ふうん……」
一夫と吾朗は考えこんでしまった。和子をでたらめと思うには、かの女の顔はあまりにも真剣そのものである。
「信じたいんだけど……」
吾朗が、ゆっくりといった。
「芳山君のいうことだから、信じたいんだけど……でも、やっぱりなにかのまちがいだと思う」
――やっぱりだめだったわ。和子はがっかりした。吾朗は弁解するようにいった。
「だ、だってそうだろう? 時間が一日逆もどりしたなんて、そんな……」
「まちたまえ、浅倉君」
一夫が、顔をまっかにしてりきんでいる吾朗をとどめて、和子にいった。
「君はひょっとすると、超《ちょう》能《のう》力《りょく》をもっているのかもしれない」
「なあに、超能力って?」
「ううん。ぼくもよく知らないけど、本で読んだことがあるんだ。世の中にはときどき、超能力のある人がいて、その人は、自分の思った場所へ、瞬間に移動することができるんだってさ。テレポーテーション(身体移動)っていうんだそうだ。君はきっと、トラックにひかれそうになったとき、君自身も知らなかった君の能力を使って、時間と空間を移動したんじゃないだろうか?」
「う、うそだ! そんなこと、でたらめだ」
吾朗は、はげしく首をふった。
「そんなばかなこと、あっていいはずがないじゃないか? 科学的じゃない! 常識に反している!」
「でも、常識ではわりきれないようなできごとだって、世の中にはいくらでも起こっているんだぜ」
一夫のことばに、吾朗はかれのほうに向きなおり、つっかかるような調子で叫んだ。
「証拠がなにもないじゃないか! 証明できるかい?」
「できるわ」
和子は横から口をはさんだ。
「今夜、地震があるわ。それから浅倉君。あなたのおうちが火事になりかけるのよ」
「え、えんぎ[#「えんぎ」に傍点]でもない!」
吾朗は目をまるくした。そして、背の低い、横にはみたしたからだをぶるっと大きくふるわした。
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今夜まで待て!
「君は、なんてことをいうんだ!」
吾朗はまっかになっておこった。それはむりもない。だれだって、面とむかって、今夜あなたの家の隣から火事が出ますといわれて、おこらないはずはないのだ。
「だって、ほんとうなのよ」
和子は、吾朗をおどかして悪いとは思ったが、そうでもいわないことには、自分のいうことがうそでないという証明をすることができないので、泣きそうになっていった。
「ば、ばかな……。ばかな……」
かんしゃくもちの吾朗は、おこってロがきけなくなったらしく、いきなり立ちあがって、へやを出て行ってしまった。
「おこっちゃったわ、どうしよう」
和子は、深町一夫と顔を見あわせた。一夫は、ちょっと困ったようにまゆをひそめた。
「あいつは、いいやつなんだけど、すぐおこるからなあ……。でも、今夜になれば、君のいったことが正しいかどうか、わかるさ」
吾朗がなかなかもどってこないので、一夫はかれをさがしにへやを出ていった。吾朗は、玄関の板の間にある電話の前で、電話帳をめくっていた。
「なにをしているんだい?」
一夫がたずねると、吾朗は答えた。
「精神病院をさがしているんだ」
一夫はびっくりし、あわてて電話帳をひったくった。
「おい、よ、よせよ。芳山君が、かわいそうだよ。君は自分の友だちを、キチガイ病院へかつぎこむつもりなのか!」
「そんなこといったって……」
吾朗も、むきになって、いいかえした。
「芳山君は、ぜったいに頭がへんだよ。早いとこ、医者にみせないと、ほんとうに気がくるってしまうぞ!」
「待ちたまえ。芳山君が病気かどうか、たしかな証拠があるのか?」
「だって、あんなおかしなことをしゃべるんじゃ、とても正《しょう》気《き》とは思えないさ!」
「でも、もし今夜、ほんとうに地震があり、火事があったらどうする?」
「あるはずがない!」
「君はそういうけど、でも、今夜になってみなけりゃ、わからないよ」
一夫は、吾朗に顔を近づけ、小さな声でいった。
「ねえ。とにかく今夜、どんなことが起こるか、待ってみようじゃないか。もしなにも起こらなければ、君の気がすむように、どこへでも電話したらいい。精神病院へ電話するのは、あすだっておそくはないだろう?」
「ううん……」
吾朗はしぶしぶ承知した。
その日、一夫の家から帰ってきたものの、和子はなにも手につかず、夕食ものどにとおらなかった。おかずはゆうべすでに一度食べたものとまるっきり同じなのだし、食卓での、母や妹たちとの会話も、まるでおさらいのように、同じ話題のくり返しだった。
――まるで、おしばいをしてるみたい!
和子はそう思った。ただ母がいちど、
「和子、おまえ顔色が悪いね。どうかしたの?」
と、心配そうにたずねたのだけが、前とちがっていた。
宿題も、する気にならなかった。ノートからは消えてしまっているが、すでに一度やった宿題だから、思い出そうとさえすれば、いつでも思い出せるという気持ちが、もう一度やることを、おっくうがらせたのだ。
なにもすることがないから寝ようとしたが、やがて地震があるとわかっていては寝つけるものではない。和子はしかたなくベッドの上へ服のまま寝そべって、高校受験用の参考書を読んだ。受験勉強にかぎっては、一日だけ得をしたことになる。
知らぬまに、和子はうとうとした。服のまま、参考書を顔にのせて眠ってしまったのだ。
ドゥドゥドゥとにぶい地ひびき。そして横ゆれ。地震だ!
「そらきたっ!」
和子はとび起きた。悲鳴をあげて、母や妹たちもそれぞれのへやからとび出した。
「こわがらなくていいわ、そんなに大きな地震じゃないから」
和子はそういって妹たちを安心させておき、自分は浅倉吾朗の家のほうへかけだした。もうすぐ、ふろ屋の台所から火が出るはずだ。ぼやとわかってはいても、できるだけ早くみんなに知らせたほうがいいと思ったのである。
火事になるのは確実だとわかっているから、ほんとうなら、
「火事だ! 火事だ!」
と叫びながら走ってもいいのだが、もし、まだ火事というほど大きくなっていなかったら、人さわがせな子だと、みんなからしかられてしまうだろう。
ふろ屋の前まで来ると、ゆうべとちがって人はいなかった。しかし、すでに裏口のほうから、白い煙にまじって赤い火の粉がとんでいるのが見えた。和子は、大声で「火事ですよ!」と叫ぼうとして、はっとして口をおさえた。もしも自分が火事の発見者ということになると、浅倉吾朗がどう思うだろうかと心配になったのである。
自分のいうことを、ぜんぜん信用していない吾朗のことだ。予言を的中させるため、和子自身が火をつけたなどと、いいだしかねないではないか! そんなことになればたいへんだ。自分は放火魔ということになって、警察へひっぱられてしまう!
――和子はそう思ってふるえあがった。
じゃあ、どうしたらいいのだろう――ここで立ちすくんだまま、火の手があたりにひろがっていくのを、ただぼんやりと、つっ立って見ていなければならないのだろうか?
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パジャマを着ていた
ちょうどそのとき、ぐあいのいいことに、ふろ屋のすじ向かいの米屋の若い衆で、新ちゃんという青年が、洗面具を持ってふろ屋から出てきた。かれは、裏口からあがっている火の粉に気がつき、一瞬立ちすくんでから、持ちまえの大声を、しかも、のどが破れるほどはりあげてくれたのである。
「か、火事だ! 火事だぞう!」
たちまち、あちこちの店の裏口や、表の雨戸をあけて、近所の人が集まってきた。
「消防署へ電話しろ! だれか!」
「いま、しにいったらしいですよ」
「火事はどこだ!」
「ふろ屋の台所よ!」
すぐに消防車はやってきた。警官が、やじうまたちの整理をはじめた。和子は、もの見高い人間たちの多いこと、やってくるのが早いことにあきれてしまった。
「芳山君、君の予言が的中した!」
家から出てきた浅倉吾朗が、目ざとく和子を見つけて走りよってくると、あおい顔をして叫んだ。
「やっぱり芳山君のいったことは、ほんとだったんだ」
いつのまにやってきたのか、和子のうしろに深町一夫も立っていて、静かにそういった。かれの顔も、こころもちあおかった。
「あらっ! 深町さん!」
和子は、一夫の着ているパジャマを見て、けさのかれとの会話を思い出し、少し大きな声をだしていった。
「あなた、パジャマは持っていないはずじゃなかったの?」
一夫は、ちょっともじもじした。それから小さな声でいった。
「うん、それがね、ぼくはゆうべまで、寝まきばかり着ていたんだ。ところがきょう寝る前におかあさんがこのパジャマを出してきて、今夜からこれを着て寝なさいっていうんだ。寝まきが小さくなったからと思って、きょうの昼間、買ってきたらしいんだよ」
一夫と吾朗は、じっと和子を見つめた。
「やっぱり、芳山君には、予言する力があったんだなあ」
吾朗が感心したようにいった。和子は首を左右に振った。
「予言なんてものじゃないわ。もっとふしぎな力なのよ。わたし、自分でもおどろいているの。でも困っちゃったわ……」
「なにが?」
「こんなおかしな能力を持っているってことが困るのよ。このままだと、いつまた、時間をとび越えて逆もどりすることになるかわからないでしょう? それに、また苦労して、きょうみたいにあなたたちに説明しなくちゃならないんだもの」
「いや、もうその心配はいらないよ」
吾朗は目を見ひらいて、はげしくかぶりを振った。
「ぼくはもう、芳山君の能力を信じてるからね」
きゅうに一夫が笑いだした。
「でも、きのうやきょうの昼間なら、いくら説明したって、君は信じないはずだよ」
吾朗はしぶい顔をした。
「あ、そうか……。それはそうだが……」
和子は吾朗の混乱を、笑う気にはならなかった。
「いやだわ、こんなおかしなことになっちゃって……。なんとか、もとどおりにならないかしら」
吾朗が、また顔をあげた。
「でも、君のその能力は……ええと、なんていったっけ?」
吾朗は一夫を見た。一夫はいった。
「テレポーテーションだ」
吾朗はうなずいた。
「そうだ。そのテレポーテーションという力は、貴重な能力なんだよ」
「そうかもしれないけど、でも、わたしだけにそんな力があるなんて、いやだわ。だって、ほら、あなたたちがいまわたしを見てる目つきって、以前の目つきとはちがうわ。まるでわたしが、人間でないみたいな……」
「神経質になるなよ」
一夫が苦笑した。
「だって、そうなんですもの!」
和子は、ややヒステリックに叫んだ。
「みんなが、わたしのこの能力を知ったら、きっとわたし、人間でないみたいに思われるにきまっているわ!」
「まあ待ちたまえ」
一夫は、しだいに興奮してくる和子をなだめるようにいった。
「まだ、君にそんな能力があると、きまったわけじゃないさ。君の話だと、逆もどりはまだ一度しか起こってないんだろう? だったらそれは、偶然一度だけ起こったのかもしれないし、また君にその能力があるとしても、一度だけの能力かもしれないじゃないか」
「そうね。でもやっぱり、いつまた自分が、時間を逆もどりするかわからないなんて、いやだわ」
和子はそういって、くちびるをかんだ。
そのうちに火事も消え、やじうまたちも帰りはじめたので、三人は、相談するのをあしたにのばし、ひとまずめいめいの家に帰った。
和子はその夜、ベッドの中で考えた。
――だれかに、相談しょう。先生に相談しょうか? どの先生がいいだろう? わたしの話を、まじめに聞いてくれる先生がいるだろうか? 信じてくれるだろうか?
いつのまにか眠ってしまったらしい。日がさめたとき、いつものようにレースの影を床に落とした朝の光がへやにみちていた。そうだ! 和子はあわてて、ベッドの上に起きなおった。
きょうは十九日の水曜日。遅刻しそうになってあわてた和子と吾朗が、横断歩道で、あの、信号を無視した大型トラックにひかれそうになる日ではないか!
――しまった。どうしてゆうべのうちに、吾朗にひとこと注意しておかなかったのだろう。けさになるまで気がつかなかったなんて……。
とけいを見て、まだまにあいそうだと知ると、和子はいそいでしたくをし、朝食もそこそこに、家をとび出した。
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そのとき暴走トラックが……
交差点には、まだ吾朗はきていなかった。和子はほっとして、横断歩道の手前にたたずんだ。
――そうだわ。浅倉さんは、遅刻しそうになって、あわててやってくるはずだわ。
ただ、和子が困ったのは、かの女がそうやってぼんやりと立っている前の歩道を、つぎつぎと同級生や顔見知りの生徒が、かの女に不審の目を投げかけて通り過ぎて行くことだった。
――なにをしてるのかってたずねられたら、どう返事したらいいのだろう? まさか、もうすぐ浅倉さんが大型トラックにひかれそうになるからそれを助けるのだなんて、とてもいえたものじゃないわ。そんなこといったら、受験勉強で気がへんになったと思われちゃう!
ぼんやりとかの女がそんなことを考えていると、教室でかの女の隣の席にかけることの多い神《かみ》谷《や》真理子《まりこ》がやってきた。
「まあ。芳山さん、なんでそんなところに立ってるの?」
――そうら、きた!
和子はちょっともじもじしてから、しかたなく答えた。
「あ、浅倉さんを待ってるのよ」
これは、ほんとうのことだ。しかし真理子は、どうやらおかしなぐあいに解釈したらしい。
「ああら、浅倉さんを……」
真理子のほおに、意地悪そうな笑いが浮かんだ。深町一夫や浅倉吾朗と親しくつきあっている和子のことを、真理子はすこしやいているらしいのである。
かの女はいった。
「へええ。わたしは、芳山さんは深町さんのほうが好きなんだと思っていたわ」
「じょうだんじゃないわ!」
和子は、たちまちまっかになってしまった。とんでもない誤解である。
「そ、そんなのじゃないのよ」
「いいから、いいから」
真理子は高らかに笑うと、和子の肩をぽんとたたき、横断歩道へ出ながらいった。
「弁解しなくてもいいわよ。でも、浅倉さんはよく遅刻するから、あなたまで遅刻しないようにね!」
真理子の姿が見えなくなってから、和子は小さく地だんだをふんだ。
――いやな神谷さん!
やがて吾朗が、息をはずませて走ってきた。ちょうど信号は赤だった。かれは和子の前に立つと鼻息を荒くしながらいった。
「おはよう! 遅刻するかもしれないね!」
――わたしが遅刻しそうなのは、あなたのせいよ! 和子はよほどそういってやろうかと思った。しかし、いまはそれどころではない。信号が青に変わったとき、どうやって吾朗を引きとめるか考えなくてはいけないのだ。遅刻しそうなのだから、吾朗は、信号が変わるなりとびだして行くにきまっている。
「遅刻しそうになっているとき、よく車にひかれるんですってね」
和子がそういうと、吾朗はいやな顔をした。
「君は、えんぎの悪いことばかりいうね!」
「だって、そうですもの」
「芳山君は母性愛過多だよ。わかったよ。気をつけりゃいいんだろ」
「そうよ。信号が変わっても、急にとびださないことよ」
「わかったよ、わかったよ!」
そのとき、信号が青に変わった。
吾朗はわざとらしく、左右をゆっくりと見てから、横断歩道へ一歩足をふみだした。
「待って!」
和子はかれの背中に叫んだ。
交差点のほうから、大型トラックが暴走してきた。吾朗は、おどろいてあわてて歩道へとびのいた。
「ひゃっ! なんだあの車は!」
トラックは吾朗の目の前を通り過ぎ、ぶかっこうに車体をふるわせ、はげしい勢いで歩道にとびあがった。たちまち、通行人の悲鳴が、あたりにひびきわたった。
「いねむり運転だ!」
吾朗と和子は息をのんだ。
トラックは、ごみ箱がわりのドラムかんをはねとばした。それは通行ちゅうのサラリーマンの上半身にぶつかり、かれは石だたみの上に転倒した。
トラックはさらに若い主婦をはねとばし、最後に洋品店の店さきにとびこんだ。ショーウィンドーのガラスがするどい音をたててくだけ、あたりにとび散った。
車のフロント・ガラスはこわれ、車体の前半分がきみょうな形によじれ、ゆがんだ。エンジンが煙をはきはじめた。
「助けてくれっ!」
洋品店の中から、足をけがしたらしい中年の人が、叫びながらはうようにして出てきた。全身が血にまみれ、この世の人とは思えないすさまじい姿だった。
店の中では、女の人の悲鳴がとぎれとぎれに救いを求めていた。
和子と吾朗は、信じられないほどの近さで起こったこの大惨事に、目を大きく見ひらき、ただ立ちすくんでいるばかりだった。
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見つけた相談相手
たちまち、交差点は大さわぎになった。近所の人たちが事故現場へかけつけてゆく。パトロール・カーや救急車が、サイレンを鳴らしてやってくる。やじうまがやってくる……。ふたりは、しばらくぼんやりしていた。
吾朗は、あきれた顔で和子を見ていった。
「君といっしょにいると、おかしな事件ばかり起こるね」
「なにいってるの!」
和子は少し大きな声を出して吾朗の顔をにらみつけた。かの女のけんまくに、吾朗は少したじたじ[#「たじたじ」に傍点]としておかしな顔をした。
「ど、どうしたんだい? なにをおこってるんだい? いまの事件を見て、ヒステリーを起こしたのか?」
「そんなんじゃないわ!」
和子と吾朗は、自分たちがとうに遅刻していることに気がつき、あわてて歩きだした。学校へいそぐ道すがら、和子は吾朗にわけを話した。そして最後にいった。
「だから、わたしがあそこであなたをとめなかったら、わたしもあなたも……」
吾朗は、びくっとからだをふるあせた。
「あの暴走トラックにひかれていたというのかい?」
「そうよ」
ふたりが教室へはいっていくと授業はもうはじまっていた。
教壇の上の福島《ふくしま》先生は、ふたりを見てちょっといじわるそうな顔つきになり、ニヤリと笑っていった。
「ほう、アベックで遅刻かい?」
みんながどっと笑った。
だが福島先生は、ただごとでないふたりの青ざめた顔に気がついたらしく、それ以上ひやかすのをやめ、授業をつづけた。
席についたものの、吾朗も和子もまだ胸がどきどきしていて、授業もうわの空だった。
――そうだ。福島先生に相談してみよう。
黒板の字を頭に入れようと努力してにらみつけながら、和子はそう思った。
――福島先生なら、一年のときから教えてもらっているし、親切だし、それにだいいち理科の先生なのだから、わたしのこのきみょうな能力を科学的に考えてくださるだろう。そうだ、吾朗君や深町君にも、いっしょに相談に加わってもらうことにしよう――。
その日、授業が全部終わるまでには、和子、深町一夫、浅倉吾朗の三人のあいだでは、福島先生にどのように話しだすかがだいたいきまっていた。休憩時間にとぎれとぎれに相談しあったのである。
ひとつ授業が終わるたびに廊下に集まって、ひそひそと話しあう三人を、神谷真理子や、ほかの級友たちは、いぶかしげにじろじろ見つめた。だが三人とも、そんなことは気にしなかった。
放課後、三人はおそるおそる職員室のドアをあけた。
ほかの先生が話を横で聞いておもしろがり、じようだんをとばしたりまぜっかえしたりすると、落ちついて相談することができない。だが、福島先生の席は、さいわいなことにへやのいちばんすみっこだから相談しやすい。三人は、福島先生を取りかこむようにして立ち、深町一夫が声をかけた。
「福島先生」
科学雑誌を読みふけっていた先生は、びっくりしたように頭をあげた。
「おう、なんだ、きみたちか」
先生は、和子と吾朗の顔を見て、おとくいの、あのニヤニヤ笑いをしてみせた。
「けさの遅刻のことで、わざわざあやまりにきたのかね」
「遅刻のことにも関係はあるんですけど……」
と、和子はいった。
「……でも、ちょっと、だいじなご相談があって……」
「そうかい、まあ、かけたまえ」
福島先生は気さくなようすで、あたりのイスを自分のまわりに集め、三人をかけさせた。それからタバコに火をつけた。
「なんだね? だいじな相談って……」
うちあわせしてあったとおり、いちばん話し方のうまい深町一夫が、少しからだを前にのりだすようにして、ゆっくりと話しはじめた。
「先生、これからお話しすることを最後まで笑わないで聞いてほしいんです。というのは、ふつうの人ならこの話を聞いたら、ばかばかしい夢か空想のように思って、笑いとばしてしまうと思うからなんです。ぼくたちは、この話をどの先生にしようかと、だいぶまよいました。そしてやっぱり福島先生にご相談することにしたんです」
「ふうん」
福島先生の顔から、笑いが消えた。
「だいぶ、こみいった話らしいね」
「そうなんです」
「ぼくを信用してくれたというわけなんだね。よろしい、どんな話だろうと笑わないで最後まで聞くことにしよう」
「ありがとうございます、先生」
一夫は、ちょっとはっとしたようすだった。――しかし――と、和子は思った。――これから話すのが、たいへんだわ。なんとかして福島先生に信じてもらわないと……。
「じっは、この芳山君のことなんです……」
深町一夫は、落ちついたしっかりした声で話しはじめた。
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時間を跳躍すること
「ふうん、なるほどねえ……」
長い時間をかけて深町一夫が、いままでの和子の身に起こったことを全部話し終わると、福島先生は大きなため息をついて考えこんでしまった。
和子は福島先生のようすを、じっと、すがりつくような目でながめながら、いても立ってもいられない気持ちだった。
――信じてください! 先生! 先生に信じてもらえなかったら、もうほかのだれに話してもむだなんです!――和子はそう叫びだしたとしたら、自分のその声はきっと、悲鳴にしか聞こえないだろう――と、そんなことを思っていた。
「先生! 信じていただけますか?」
たまりかねたように、浅倉吾朗が福島先生にたずねた。吾朗のその切迫したようなことばは、和子のいまの気持ちを代弁していた。
福島先生は、ゆっくりと三人の顔をながめまわして、小さくうなずいた。
「もちろん、信じょう。君たちが、そんな手のこんだじょうだんでぼくをからかうとは思えないし、芳山君の身のうえに起こったことがほんとうだということは、いまのきみたちの顔色を見ればわかるさ」
はりつめていた三人の心がふっとゆるみ、和子も、吾朗も、一夫もほっと軽いため息をついた。
――よかった! やっぱり福島先生に相談してよかったんだわ!
和子は安心のあまり、思わず泣けそうになった。
「ところで、芳山君」
福島先生は、なにかを考えつづけているように、目の前の空間をぼんやりながめながら和子にたずねた。
「君にそんなことが起こるようになってから、いや、その前からでもいいんだが、からだの調子はどうなんだね?」
「ええ、それが、いままでとちがったおかしな気分なんです。なんだか浮きあがっているような、すごく不安定な、うまくいえないんですけど……」
「うん、よろしい。それで、そんな気分はいつからはじまったんだね?」
「それはあの、土曜日の放課後の理科の実験室で、あの薬のにおいをかいだときからだと思います」
福島先生は、ばんと机をたたいた。
「おう、それならぼくもおぼえている。たしか、君はあやしい人影を見たとかいってたな」
「はい」
「待てよ。すると、四日前か……」
福島先生はノートに日づけを書きこみ、またしばらく考えこんだ。
「ねえ、先生……。こんなふしぎなことはときどき起こるんでしょうか?」
浅倉吾朗がおずおずとたずねた。
「ぼくはまだこのできごとが、自分の目の前で起こっていながら信じることができないんです。こんなことはよく起こることなんでしょうか?」
福島先生はゆっくりとうなずいた。
「むりもない。だれだってそうだろうね。ふつうの人はこんなふしぎな……つまり、自分たちの知っている科学では理解できないような事件が起こると、あわててしまってよく確かめようとせず、忘れてしまいたがる傾向があるんだよ。本能的に、こんな現象をきらいたがるんだね。浅倉君、君だってそうなんじゃないか?」
吾朗はそういわれて少しまごつき、あいまいにうなずいた。
「え、ええ、それはまあ……」
「ところがだね。科学というものは、不確かなものを確実なものにしていかなければならないためのその過程の学問なんだ。だから、科学が発展していくためには、その前の段階として、つねに不確実な、ふしぎな現象がなければならない」
福島先生は、熱心にしゃべりはじめた。目は、急に輝きだした。和子はこんな福島先生を見るのははじめてだった。一夫も吾朗も、先生の調子にのまれてかたずをのんで聞いていた。
「だから、芳山君のような事件は、もっと起こっていてもいいはずなんだ。事実、世界のあちこちでこれに似たふしぎな現象が起こっている。こういったふしぎな現象を集めて研究している人で、たとえばフランク・エドワーズという人などがいる。だが、この人は研究家というだけで科学者じゃないから、ただ起こったことをありのままに記録しているにすぎないんだが」
深町一夫がたずねた。
「すると先生なら、この芳山君の場合のようなふしぎなできごとを、どう説明されるんですか?」
「テレポーテーション(身体移動)とタイム・リープ(時間跳躍)だな」
「タイム・リープ?」
「うん、芳山君のように、はっきりした現象じゃないけど、それに似たできごとはあちこちで起こっているんだ。たとえば一八八〇年の九月二十三日、アメリカのテネシー州ガラティンの近くの農場で、ダビット・ラングという人が、奥さんとふたりの子どもとふたりの友だち――全部で五人の目の前でいきなり消えてしまったという事件がある。またアメリカの南東の海岸の沖のわりあいせまい範囲の空中で、いままでに二十機以上の飛行機がどこかへ消えてしまっている。どちらの事件も、消えた人たちはまだ発見されていないけど、これなどはタイム・リープで、遠い未来か、あるいは遠い過去へいってしまったんじゃないかといわれているんだ。また、テレポートした例としては、ある日突然東京で消えた人が、同じころにアフリカのキンバリーというところで発見されたという話もある。こんな話は、むかしからたくさんあるんだよ」
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四日前のあの現場へ
三人とも、そんな話を聞くのははじめてだったから、びっくりした。
「じゃあ、わたしの場合は、場所の移動と時間の跳躍がいっしょになって起こったわけですね?」
福島先生は、和子にうなずいてみせた。
「そうとしか考えられないね。君はトラックにひかれそうになったとき、ベッドの中にいる自分のことを考えると同時に、その事件から、時間的にも遠くはなれた場所に逃げ出したいと願っていた。だから、その前にまで時間を跳躍したんだ」
「でも、どうしてわたしにそんなことが……」
「できたんだろうかって、いうんだろう? それなんだがね」
福島先生は、またなにかノートに書きこみながらいった。
「きっと四日前の、あの理科実験室でかいだ薬のにおいのせいだと思うんだが……。君はたしか、あのラベンダーのにおいのする薬のために貧血を起こしたんだったね」
「ええ、そうです」
「問題はその薬だ。その薬が、君にこんな能力をもたせたんじゃないかな? ところで君は、自分がそんな能力をもっていることがいやなのか?」
「そうなんです!」
和子は叫ぶように身をのりだしていった。
「わたしは、自分だけこんなおかしな能力をもっているなんて、いやなんです」
「うん、むりはないな。ほかの人たちから、君だけがふつうの人間でないように思われるのがいやなんだろう?」
福島先生はそういって和子にうなずいてみせた。和子もうなずき返した。
「わかるよ、その気持ちは……。よろしい。そうすると君は、君のもっている能力をつかって、もう一度四日前の、あの理科実験室での事件のあった現場にひき返してみる必要があるな」
「ええっ!」
「四日前に?」
これには、三人ともおどろいた。
「だ、だって、どうやって?」
「どうやってだって?」
泣きそうになってたずねる和子に、福島先生はかえってふしぎそうな顔をむけた。
「もちろん、タイム・リープをやってだよ。だって君にはその能力があるんだし、一度はやったことがあるんだろう?」
「でも、あのときはトラックにひかれそうになったショックで思わず……」
福島先生はちょっと手をあげた。
「わかっている。でも、そのときの芳山君の心の状態、からだの状態がどうだったか、それを調べることで、もう一度その状態をつくりだすことはできるはずだよ」
「でも先生、芳山君が四日前にタイム・リープできたとしても、いったいそこでなにをするのですか?」
深町一夫が心配そうにたずねた。
「その薬をつくった人間――つまり、ほら芳山君がちらりと見たという、そのあやしい人間に会う必要がある。その男が、薬をつくりだす前に……。それで問題は解決すると思うね。少し危険かもしれないが、しかし、芳山君にはできるはずだ」
福島先生はじっと和子の顔を見ながらそういった。和子は考えこんだ。
――そうだわ。あの人に、あの薬をつくらせないようにすれば、わたしはこんな大きな事件から解放されるはずなんだわ。
「でもやっぱり、いちばん問題なのは……」
深町一夫は考え深そうにいった。
「どうやって、芳山君を四日前にもどらせるかということですね……」
福島先生はうなずき、また和子にいった。
「そうなんだ。ねえ芳山君、君がトラックにひかれそうになったとき、どんな気持ちでなにを考えたか思い出せるかい?」
「とても、思い出せませんわ」
和子は悲しそうに、首を左右にふった。
「もう一度、あんな状態になってみないことには、とても思い出すなんて……」
「そうだろうなあ」
けさがたのあの事件を思い出した浅倉吾朗が、ぶるっとからだをふるわせていった。
「――といって、芳山君をもう一度、あんなあぶないめにあわせるわけにもいかないし……」
「よし、そのことはぼくが考えよう」
福島先生はそういって立ちあがった。いつのまにか、ほかの先生たちは帰ってしまったらしく職員室はがらんとしていて、運動場には夕やみがせまっていた。
「君たち、帰るんだろう? いっしょにそこまで帰ろうか」
三人は福島先生といっしょに校門を出た。風が冷たくなってきていた。新しいビルの工事現場の横の板がこいのそばを歩きながら、四人は話しあった。
「もし、わたしが四日前にもどったとしてみても、みんなわたしに力を貸してくれるの?」
和子がそういうと、深町一夫がいった。
「そりゃ、むりだよ。だって四日前には、ふしぎな現象はなにひとつ起こっていなかったわけだろ? 話だけ聞かされたってぼくはそのときはまだ、なにも知らないわけなんだから、とても信じる気にはなれないだろうね」
浅倉吾朗も顔を赤くしていった。
「ぼくなんか、なおさらそうだろうなあ」
「じゃあ、わたしは自分ひとりだけの力でこの事件を解決しなきゃいけないのね」
和子がさびしそうにいったときだ。福島先生がいきなり車道のほうへかけだして叫んだのである。
「みんな、逃げろっ! 上から鉄骨が落ちてくるぞ!」
二、三日前にも、ここで工事ちゅうの材木が歩道へ落ち、通行者がけがしたばかりなのである。一夫と吾朗は、悲鳴をあげて先生について車道へ逃げだした。
だが、和子は逃げられなかった。おそろしさのあまり、足がすくんでしまったのだ。頭の上にまで、すでに落ちてきている鉄骨を想像して、からだがしびれたようになっていた。
――わたしは鉄骨の下敷きになる!
そう思ったとき、和子はタイム・リープした。
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夜さまよう町かど
一瞬和子のからだはふわりと宙に浮かんだ。和子自身にはそのふしぎな感覚は、完全にすくんでしまって自由のきかなくなった自分の五体が、なにものかの手で、すっとだきあげられたように感じられたのである。
――早く、福島先生や吾朗や、一夫のいる車道のほうへ逃げなければ、わたしは鉄骨の下敷きになる!
逃げよう! そう思った和子の、いわば精神の力が、かの女自身のからだを宙に浮かせたようでもあった。
目の前がサーッと暗くなった。耳がジーンと鳴り、つぎになにも聞こえなくなった。
気がついたとき、あたりは深夜だった。一時間前までは、まだ夕ばえが建物の壁を赤く照らしていたのに、いま、和子の目にうつる空には冬の星座が冷たくきらめいていた。
「福島先生……!」
みんなの名を呼ぼうとした和子は、それだけいうとあとのことばをのみこんでしまった。あたりにだれもいなかったのだ。
いつのまにか、和子は、和子がそう願ったとおりちゃんと車道にいた。歩道を見ても、そこには落ちてきたはずの鉄骨は見あたらなかった。
――ああ……。
和子は声にならない悲鳴をあげ、両手で顔をおおった。車道をひっきりなしに走っていた車も、いまは一台も見えず、福島先生や吾朗や一夫はもちろん、通行人の影さえないのだ。そこはあきらかに、深夜のさびしい町の道路だった。
――そうだ! わたしはタイム・リープしたのだわ。きっとそうだわ。
和子はまた顔をあげ、あたりを見まわした。夜の町には、星明かりに光る車道と、黒い建物のシルエットがあった。夜の風は冷たかった。和子はカバンをだきしめ身ぶるいした。からだが冷えてきて寒かった。
――ほんとは、鉄骨なんか落ちてこなかったのだ。わたしにタイム・リープさせようとして、福島先生がわたしをおどかしたんだわ。和子はやっとそれに気がついた。
――でも、いまはいったいなん時なのだろう? いや、なん日なのだろう? もし過去へもどったとしたら、いったいわたしはなん日前まで跳躍したのだろう?
福島先生は、わたしが、あの大型トラックにひかれそうになったときと同じ状態になれるように、わざとおどかして、わたしの気持ちをゆさぶったのだ。しかし、先生はわたしがなん日前にまで跳躍できるのか知っていたのだろうか?
和子は考えつづけた。そうだ! ――かの女はやっと思いついた。このカバンの中にはノートがはいっている。その日の授業の内容が書かれている。それを見れば、きょうがなん日なのかわかるではないか。
和子はすぐにカバンをあけ、ノートを開いた。街燈の明かりで見たノートのページからは和子自身が書きこんだはずの、きょう[#「きょう」に傍点]ときのう[#「きのう」に傍点]の授業の内容が消えてしまっていた。
――すると、きょうは二日前、つまり十七日の月曜日の夜か、あるいは十八日の火曜日の明けがたということになる。空気の冷たさから、和子はいまが火曜日の午前中らしいことを、ほぼ確信した。
――すると、わたしはまだ自分のへやのベッドで、ぐっすりと眠りこんでいるはずだ。
そう思った和子は、青ざめて街燈の下に立ちすくんだ。
――わたしはここにいる! 家にもわたしがいる! するとわたしはこの瞬間、この世界にふたりいることになるのだろうか! へやにもどると、そこにはもうひとりのわたしがいて……そんなバカなことが……。
和子はあわてて首を左右にふった。 ――しかし、そのバカなことが、信じられないようなことが、先日からしきりに起こっているではないか……。わたしはこれからどこへ行けばいいのだろう? 家にもうひとりのわたしがいるとすれば、わたしは家に帰れない……和子は泣きそうになって顔をゆがめた。
寒かった。朝になるまでこんなところでウロウロしていてはこごえてしまう。いや、その前にパトロールのおまわりさんに見つかって、家出娘かなにかとまちがえられ、警察へ連れていかれてしまうだろう。どうしよう?……
和子の足は、しぜんとかの女の家のほうへ歩き出していた。
――そうだわ。とにかく一度、家まで帰ってみよう。わたしのへやを窓からのぞきこめば、わたしが同時にふたりこの世に存在するのかどうかがわかるはずだ。たとえ窓ごしにでも自分の寝顔を見るなんてあまり気持ちのよいものではない、とも思った。かの子はトボトボと夜の町を歩きつづけた。
寒さにふるえながら、和子は家に帰った。当然のことながら玄関にはカギがかかっていたので、かの女は裏庭にまわってしおり戸をあけ、そっと窓ぎわによった。そんなようすを見られたらきっとドロボウだと思われただろうが、さいわいパトロールの警官にも見つからず、犬にもはえられなかった。
和子はいつも、夜のあいだうす暗い常《じょう》夜《や》燈《とう》をつけて眠るくせがあった。あまりまっくらだときみがわるくて眠れないのだ。
自分のへやの窓の下にたたずんだ和子が、背のびして室内をのぞきこむと、そこにはいつものとおり常夜燈がついていて、へやの中をぼんやりと照らしだしていた。和子は、おそるおそる自分のベッドをながめやった。
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きのうへの旅、おとといへの旅
――ああ……。
和子は、ほっと安心の吐息をもらした。ベッドには、だれも寝ていなかった。もうひとりの和子が寝ているなどということはなかった。同時にふたりの同じ人間が存在するなどという矛盾は、起こらなかったのだ。ただかの女のベッドは、ついいましがたまでだれかが寝ていたかのように、ふとんが乱れていた。
一度は安心したものの、また和子は困って考えこんでしまった。家の中へはいれないのだ。窓には内側からカギがかかっていた。玄関もしまっているし、台所もおそらくジョウがおりているだろう。和子の母は戸じまりにはうるさい。
どうしよう――と和子は思った。
呼びリンをおして、母を起こし、玄関をあけてもらうなどということはとてもできなかった。母はおそらく、とっくに和子が寝たと思っているだろうから、帰ってきた和子を見たら、びっくりして、貧血を起こしてしまうかもしれないのだ。ますます寒くなってきて、和子の足はガクガクとふるえ、歯がガチガチと鳴った。へやの中はあたたかそうだった。石油ストーブの上には、湯わかしがのっかっている。その蒸気が窓ガラスをくもらせ、水滴をつくっていた。
――へやの中へはいりたい……。和子は今度こそ、切実にそう思った。――でないと、わたしはここで、このままこおりついてしまう!
そのとき和子は、自分のからだがふわりと宙に浮いたように感じた。あっ、と思った。これはさっき、あの工事現場の横で感じたのと、同じような感覚ではないか――。そうだ、
わたしはいま、自分だけの力で、自分の意志、自分の精神力だけで、リープしようとしているんだわ!
からだが浮きあがるような気分は、ますます強くなった。和子はけんめいになって、へやの中へ精神を集中しようとした。とつぜんさっきと同じように目の前が暗くなり、耳がジーンと鳴った。和子は、意識して、さっきと同じ状態をつくるために手足に力を入れた。
つぎの瞬間、和子はあたりの明るさに目がクラクラした。和子はへやの中に立っていた。窓ガラス越しには、明るい真昼の陽光がさしこんできていた。
「昼間だわ!」
和子は、おどろいて叫んだ。
「ああ、わたしはタイム・リープができるようになった! 自分だけの力で! だれの助けも借りずに!」
うれしさのあまり、和子はそう叫んでしまってから、はっとしてロをおさえた。
――いけない! おかあさんに聞かれたらたいへんだわ! それに、いまは昼間の何時ごろなのか、それさえわかっていないじゃないの! 午前なのか、午後なのかさえわかっていないのだし……もしも学校で授業している時間だったとしたら……おかあさんにしかられてしまう! 説明したって、とてもじゃないけどわかってもらえないだろうし……。
和子はそう思い、耳をすませた。家の中はしん[#「しん」に傍点]としていた。どうやら、母も妹もいないらしかった。和子はほっ[#「ほっ」に傍点]とした。
――そうだ、きっとまた、過去へやってきたのにきまっている。それにしてもきょうはいったいなん日だろう? それをたしかめておかないと、とんでもないまちがいを起こしそうだ。――和子は、あわてて、まだだきしめていたカバンをあけ、ふたたびノートをとり出した。
ノートには、十四日の金曜日に教わった授業の内容が書かれていた。それからあとの日づけはなかった。白紙だった。
じゃあ、きょうは金曜日の午後なんだわ、――和子は、ほっとした。――わたしは、こんどは三日前にまでリープしたんだわ。だけど、――和子ははっ[#「はっ」に傍点]とした。きょうが金曜日の放課後と、きめてしまっていいだろうか? いまはたしかに、十四日の午後なんだろうか? いや、土曜日の午前中ということも考えられる? いま、わたしは学校に行かずに家にいる。だからノートに、土曜日の授業の内容が書かれていないのかもしれないではないか!
ああ――。和子は、えたいの知れないあせり[#「あせり」に傍点]におそわれた。どうすればそれがわかるのだろう? きょうは金曜日か? 土曜日か? 和子は考えあぐねた。カレンダーを見てもわからなかった。へやに、とけいはなかった。
和子は、そっとへやから廊下へしのび出た。だれも家にいませんように……そういのりながら、かの女は茶の間に近づいた。茶の間には柱どけいがかかっているのだ。
そっと茶の間の障子をあけた。だれもいなかった。とけいだけが、小さくコチコチと鳴りながら時をきざんでいた。時刻は十時三十分だった。
――午前十時三十分だ。学校では、三時閉めの授業のさいちゅうだわ――和子はすぐに自分のへやにひき返し、カバンをとりあげた。
学校へ行かなくてはならなかった。
なぜなら、きょうは土曜日だからである。
土曜日の放課後、和子は、そもそも自分がこんな事件にまきこまれる原因となった、あのあやしい人影を見たのである。そして、その人間に会うために、苦心してここまで時間をさかのぼり、もどってきたのではないか。
かの女はもう一度、事件のあった時間に、現場まで行かなければならなかった。そして和子の目の前で消えた、あのあやしい人物に会わなければならなかった。
カバンをだき、そっと家を出た。途中の道で、知っている人に会いませんように――そう念じながら、かの女は学校へといそいだ。
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ふたたび現場にきた
学校へ着くと、ちょうど第三時限と第四時限の間の、十分間の休憩時間だった。
授業ちゅうに教室へはいっていって、先生にとがめられたら、どういっていいわけしようかと考えていた和《かず》子《こ》は、少しほっとした。しかし、かの女が教室へはいっていくと、級友たちはおどろいて、わっと和子をとりかこんでしまった。
「芳山《よしやま》さん、どこへ行ってたの?」
和子の隣の席の神《かみ》谷《や》真《ま》理《り》子《こ》が、するどい口調でたずねた。かの女の顔色があおざめているので、和子はちょっとびっくりした。
「どこへって?」
と、たずね返すと、真理子はますます高い声を出して、叫ぶようにいった。
「じょうだんじゃないわよ! あなた。三時間めの授業ちゅうに、いきなり消えちゃったじゃないの!」
「消えた?」
「そうだよ」
横から、浅倉《あさくら》吾《ご》朗《ろう》がいった。
「君があんなふうに、教室からこっそり[#「こっそり」に傍点]抜け出したものだから、みんなすごく心配したんだぞ。だって、教室の中のだあれも君が教室から出て行くのを見たものはいないんだ。教壇の上の先生さえ、君が立ちあがったところを見なかったっていうし、ドアを開く音さえ、だれも聞かなかったんだ」
「そうなのよ」
また、真理子がキイキイ声でいった。
「隣のわたしさえ、いついなくなったのか、知らないのよ!」
深町《ふかまち》一《かず》夫《お》が、吾朗のうしろから、例のぼんやりした表情でうなずいて、ロをはさんだ。
「芳山君は、まるで魔法使いだなあ! まったく煙のようにドロンと消えちゃったんだものね!」
みんなのいうことが、しだいに和子にはのみこめてきた。
二《に》重《じゅう》存在《そんざい》の矛盾は、未来の和子――つまり帰ってきた和子がこの時間に現われると同時に、もうひとりの和子の姿を消すことによって、解決されるのだ。
教室にいた和子が、ふいに消えたその時間は、未来からタイム・リープによってもどってきた和子が、自分のへやに現われたのと同じ時間なのである。
――でも、そんなことを、どういって説明したらいいのだろう? 和子は困ってしまった。そっと、深町一夫や浅倉吾朗の顔を見たものの、かれらだって信じないにきまっているのだ。かれらにすべてをうちあけたのは、ずっとあと[#「あと」に傍点]なのだし、うちあける原因になった事件そのものがまだ起こっていないのである。
「ねえ、どこへ行ってたのよ、いったい?」
また真理子が、ヒステリックに叫んだ。かの女は、自分にわけのわからない事件が目の前で起こって、いらいらしているのだ。
「ちょっと、気分が悪くなったものだから、トイレへ……」
和子は、そういってごまかそうとした。だが真理子は、しょうちしなかった。
「トイレですって? カバンを持って?」
真理子は、うたがい深そうな目で、和子がまだしっかりかかえているカバンを見て、そういった。
ぐあいのいいことに、ちょうどそのとき、小《こ》松《まつ》先生が教室へはいってきたので、級友たちはおしゃべりをやめ、それぞれの席へひき返した。和子もカバンから教科書とノートを出した。その授業も、和子にとっては、すでに教わった内容だった。
真理子も、級友たちも、それっきり和子のことは忘れたらしく、放課後まで、それ以上うるさくたずねようとはしなかったので、かの女はほっ[#「ほっ」に傍点]とした。
だが、放課後がやってきた。
和子と、吾朗と、一夫の三人が福島《ふくしま》先生から理科教室のそうじを命じられたのも、やはり前と同じだった。
三人がそうじを終わったとき、校舎はひっそりとしていた。ときどき、どこかの教室のとびらのあけしめされる音がうつろにひびいて――そしてだれかが、講堂のピアノでショパンのポロネーズをひいていた。
「もういいわ。ゴミはわたしが捨ててくるから、あなたたち、手を洗っていらっしゃい」
「そうかい、すまないなあ」
和子にいわれて、一夫と吾朗は並んで手洗い場へ行った。和子はすぐ、隣の理科実験室にはいった。トイレットでは、吾朗と一夫が手を洗いながら話しあっていた。吾朗がいった。
「芳山君は、まるでぼくたちを、赤んばうみたいに思ってるようだぜ。ふん! 手を洗っていらっしゃい、だとさ!」
「そうかなあ……」
一夫は、夢みるような目つきのまま、ぼんやりとそういって手を洗いつづけた。
トイレから出てきて、吾朗はカバンをとりに教室へ、一夫はそうじが終わったことを報告しに、職員室へ行った。
和子は理科実験室の、ついたてのうしろに身をひそめ、あのあやしい人物がやってくるのを、胸をときめかせながら待っていた。
さあ、いよいよやってくるわ! しっかりしなくちゃ! 和子がぐっ[#「ぐっ」に傍点]と胸をそらし、手足に力を入れたとき、理科教室との間のドアがあき、だれかが、ゆっくりとはいってきた。
――きたわ……。
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侵入者はだれか?
和子は、しばらくは自分の姿を敵に見せるまいと思った。
敵――。敵といっても、自分に害意をもっている者なのかどうかはまだわからない。男なのか女なのか、それさえわからない。しかし、和子がついたてのうしろに身をひそめている、この理科実験室へ、今そっとしのびこんできたその「だれか」は、あきらかに和子に迷惑をかけた人間なのである。この人間のために和子は苦しみ、人間ばなれのした経験をしなくてはならなかったのだ。
侵入者は、実験室の薬品戸だなをあけ、中をさぐっているらしく、薬びんや試験管などのガラス容器がたてるカチャカチャという音が、和子にも聞こえてきた。
――もう少し待とう。やがてかれは、テーブルの上であの奇妙な薬品を調合しはじめるだろう。証拠品ができあがったころに出ていき、犯人を問いつめたほうがいい。――和子はそう思ったのである。
だが、和子は出ていくのが恐ろしかった。もしも相手が、狂暴な人間だったらどうしよう? 自分の秘密を見られ、おこってとびかかってくるようなことはないだろうか? もしそんなことになれば、わたしは女だ、とてもかなわない――。和子は手足がすくんだ。
やはり、だれかに話して、いっしょにきてもらったほうがよかったかもしれないと、和子は思った。しかし、今さらどうなるものでもないし、話したとしても、だれも信じてはくれなかっただろう。やはり和子ひとりで犯人と対決するより、しかたがなかったのだ。
和子にあのような奇妙な能カ――タイム・リープだとかテレポーテーションだとかいう、非現実的な超《ちょう》能《のう》力《りょく》をあたえた、不思議な薬品を作ることのできる人間なのだ。相手は天才か? 犯人か? または、とんでもない怪人か?
しかし、たとえ相手がだれであれ、和子はその人間に会わねばならなかった。かの女は、自分が持つことになった、その超能力というものが、うとましかった。友だちから、自分が他の人間と違っているように見られるのが、いやだった。だからかの女はその人間に会い、自分をもとどおりにもどしてくれと頼まなければならない――あるいは、おどかしたり、すかしたりしなければならないかもしれない。だが和子は、自分にそんなことができるだろうかと思った。なんとなく、自信がなかった。
それに、自分がいくら頼んでも、その人間が、いうことをきいてくれないという場合も考えられる。また、その人間の力では、和子をもとへもどすことは不可能なのかもしれない。――そんなことになったらどうしよう――和子は、気が気ではなかった。
実験室の中は、少し静かになった。もう、薬の調合を始めているらしい。出て行くのは今だ。――和子はそう思ったものの、足がすくんで動けなかった。いよいよ、問題の人物と対決するのだという緊張が、和子のからだの自由を奪ってしまっていたのである。
――こんなことで、どうするのだ! なんのために苦労してここまでやってきたのか! 出て行って、あの人物に会わなければ、なんにもならない。ここへきた意味がないではないか!
和子は、せいいっぱい、自分を励まそうとした。しかし、そう思えば思うほど、かの女の四肢《しし》はすくみ、寒くもないのにがくがくと震えるのだった。
いくじなし! あんたはいくじなしだわ! 和子が胸で、そう自分の弱気をののしった時だった。
「さあ、芳山君、もう出てきてもいいよ。きみがさっきから、そこに隠れていることぐらい、ちゃんと知っているんだから」
――あの声! あの声は! あまりの意外さに、和子は自分の耳を信じることができなかった。その声の主――その人は和子にとって、あまりにも身近な人物だったのである。
――まさか……まさか、かれが……
和子は、ついたてのうしろから、おそるおそる実験室の中に出た。薬品戸だなの前に立ち、微笑して和子のほうを見ている、問題の人物――それは……。
「深町君……」
和子のロから、驚きの安《あん》堵《ど》の吐息がもれた。いつもと同じように、目に夢みるような色をたたえ、ぼんやりとした顔つきで和子をながめていたのは、同級生の深町一夫だった。
私の追ってきた人物がかれ――。ずっとわたしといっしょにいた深町一夫が、問題の人物……。和子にはそれが、なかなか信じられなかった。しかし、今さらかれが犯人であることを疑ったところで、どうなるものではない。事実は事実として受けとるはかないのだ。いや、まずその前に、かれがほんとうに和子をこんな窮地に陥《おとしい》れた犯人であるのかどうかを確かめなければならない。かれの口から、そう白状させなければならない――和子はそう思った。
「じゃあ、あなただったのね? あのおかしな薬を作って、わたしに変な力を持たせたのは」
自分の苦しみをずっとそばで見ていたくせに、今まで知らん顔をしつづけていた一夫が急に憎らしくなり、和子は恨みをこめた目つきでかれを見た。そして訴えるようにそういった。
「うん、そうだ。でも、もともときみを困らせるためにやったことじゃないんだよ。きみがあんな超能力を持つようになったのは、ほんの偶然なんだ。悪気があったんじゃない。今まで黙っていたことだってこれから説明するけれど、ほんとに、きみのためを思ってやったことなんだ。信じておくれよ」
一夫は、和子の目つきにとまどった[#「とまどった」に傍点]様子で、ちょっともじもじしながら、弁解するようにそう答えた。
「でも……でも……」
和子は、とっさにはかれを詰問《きつもん》するなんのことばも出てこなかった。質問すること、聞きたいことが、あまりにもたくさんありすぎたのだ。かの女は、また嘆息した。
「まだ、信じられないわ。あなたが、どうして……」
一夫は、ちらと和子を哀れむような表情を浮かべて微笑した。その笑いの中に、和子ははっとするようなおとなっぽさを見つけた。それは、同級生たちがよくおとなたちのまねをしてポーズする、あの見せかけのおとなっぽさとは、はっきり異なったものだった。
――この人は、ただの子じゃない、少なくともわたしたちとは違っている! 和子はそう直感した。この人は、おとななのだ……。
「あなたは……あなたはだれなの!」
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未来からきた少年
「どう説明したらいいかなあ――」
深町一夫は、ちょっと考えこんだ。やがて和子の方に向きなおり、軽く息を吸いこんでから、しゃべりはじめた。
「説明するのには、ちょっと時間がかかる。でも、これからぼくのいうことは全部ほんとうのことなんだ。信じてほしいんだが――といっても、もうきみは、いろんな不思議なできごと、つまり、きみにとっては不可解なできごとを、たくさん経験しているんだから、外の人なんかよりは、簡単に理解してくれるかもしれないけどね。ひとことでいうと――つまりぼくは、その――未来人なんだ」
「未来人ですって!」
和子は、はげしいショックをうけた。どんなことでも信じょうとは思っていたものの、あまりにも飛躍が大きすぎたのだ。それは、常識の限界を――少なくとも和子の常識をこえた説明だった。しばらくぼうぜんとしたのち、和子は、はげしくかぶり[#「かぶり」に傍点]を振った。
「信じられないわ」
「だろうね」
一夫は意外にも、あっさりとそういってのけ、軽くうなずいた。
「無理ないさ。まるでSFだものな」
――冗談なのかしら? 和子はそう思った。でもわたしは、こんなときに冗談をいう気にはならない。
「未来から、タイム・マシンに乗ってやってきたとでもいうの?」
せいいっぱい皮肉をこめ、和子がそういうと、一夫はまじめな顔つきでかぶりを振った。
「そうじゃないさ。きみがやったのと同じ方法できたんだよ。わかるだろ? 時間跳躍、そして身体移動さ」
やっぱり本気なんだわ――和子は今自分のいるへやが、ぐるぐる回りだしたように思え、思わずふらつく足を、あわててふみしめた。一夫は、話し続けていた。
「もしぼくの話を信じられないようなら、別に信じてくれなくったってかまわない。おとぎ話を聞くつもりで、聞いていてくれればいい。どちらにしろ、きみはあれだけ苦しんだんだから、ぼくの説明を聞く権利があるわけだ。だけど、ぼくの話がとっぴすぎるからといって、もっと現実的な説明を求められたところで、ぼくにできる話というのは、これだけなんだ。ぼくはうそをつくのはきらいだからね」
「聞くわ」
和子はそういった。もうこうなれば、どんな狂気じみた話だろうと、最後まで開かずにはいられなかった。
「じゃ、話そう。そうだ、そのまえに、時間を止めよう。だれかがくるといけないからね」
「なんですって?」
和子はとびあがって叫んだ。だが、それにはおかまいなく、一夫はポケットからトランジスター・ラジオに似た装置を出し、アンテナを引き出した。
「さあ、これでもう、この世界で動いたり、話したりしているのは、ぼくときみだけだよ。うそと思うなら、窓から外を見てごらん」
こともなげに窓をさして、和子にそう教える一夫を、かの女は泣きそうな顔で凝視した。
――この人は、正気なのかしら? ああ、そのまえに、これは現実なのだろうか? こんなとほうもないことをつぎつぎと聞かされたのでは、わたしは気が狂ってしまう!
ぼんやりたたずんだままの和子に、一夫は苦笑して見せた。
「さあ、見てごらんよ。早く」
かれは和子に近づき、かの女の手をとると、窓ぎわにつれて行った。一夫の手は、ひどく冷たく感じられた。
――まあ、まるで女の人の手みたい……。
和子はそんなことをぼんやり思いながら、一夫に引っぱられるまま二階の窓から、学校の前を走っている国道をながめた。
商店街の前を通るその白い国道には、数台の車が止まっていた。バスも、トラックも、乗用車も、すべて国道のまん中[#「まん中」に傍点]で止まっているのだ! いや、それどころではない。国道ぞいの歩道、横断歩道にも、人がたたずんでいた。歩くかっこうをしたままで! そして犬は――その犬に気がつき、和子は目を見はった――。その犬はなんと、走るかっこうをしたまま、地面からなん十センチか離れた宙に浮かんで止まっているではないか?
正確にいえば、車や人や犬が止まっているのではなく、時間そのものが止まっているのだ。和子はもう、それ以上驚く気力もなく、ただぼんやりと、それらの、非現実的な、まるで絵にかかれたような情景をながめるだけだった。
「時間が……止まったのね――」
和子はそうつぶやいた。あたりは静かだった。さっきまで聞こえていた車の警笛も、ぴたりとやんでいた。
「と、いうよりむしろ、時間が前進するのと同じ速度で、ぼくたちふたりが時間を後退しているといったほうがいいだろうね。だからぼくたちの目には、時間が止まったように感じられるのだ」
「どうして、そんなことができるの?」
「この装置だよ。こいつがぼくたちふたりの周囲に、強力なエネルギー・スクリーンを張りめぐらせて、外界と遮断《しゃだん》してくれるんだ。その日に見えないテンションの内部で、時間|遡《そ》行《こう》(さかのぼること)が行なわれる。このフォース・バリヤーは、その他いろんなことに応用できるんだけどね」
「わ……わからないわ、何がなんだか……」
「なあに、理屈なんかわからなくったっていいさ」
一夫は気軽にそういうと、ふたたび和子の手をとって、実験室のまん中に引き返した。
「さてと。では話そうかな、そもそもの最初から……」
一夫は、和子に話すのを、楽しんでいるかのように見えた。
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西暦二六六〇年
一夫の話というのは、次のようなものだった。
西暦二六〇〇年代にはいると、地球の人口は急激に増加した。このころ、すでに月や火星には植民地ができ、労働力の過剰のため、地球に住めなくなった人たちは、どんどん他の惑星へ移住をした。だが、これらはすべて、金のない、下層階級の人たちの話であって、上流階級の人びとや、科学者や教授などの知識人たちは、力を合わせて地球上の機械文明の発展に力をつくしていた。
二六二〇年。原子力の平和利用で、地球の文化は大きく飛躍し、さまざまな科学的な発明が行なわれた。だが一方では、あまりに科学が高度に発達したため、一般の人たちは、これらの科学知識に、ついていくことができなくなってしまった。科学者たちも、専門化され、分業化された。その結果として、自分の研究していることだけはよく知っているが、その他のことは、初歩的なことさえ、ぜんぜん知らないという、いわば精神的な不具者が多くなったのである。
困ったのは、学校その他の教育関係の機関である。今までのような学校教育では、物ごとの、ごく初歩の段階しか教えることができない――つまり、卒業して世の中へ出ても、ぜんぜん役にたたないような、いわば常識以前のことしか教えることができないのだ。そこで、教育期間が延長された。子どもは四歳になるとすぐ小学校へ入れられる。そこで十四年間の基礎教育を終えると、こんどは五年間の中学課程に進む。ここまでが義務教育である。
だが、そこをでたからといっても、まだ就職することはできないのだ。簡単な労働や計算なら、オートメーションの機械や、電子頭脳がやるのだから、中卒程度の人間は、どこの職場でも必要ないわけで、サラリーマンになろうとすれば、そこからさらに、それぞれの専門教育を受けるため、高等学校や専門学校へ五年間通学しなければいけない。
ここを卒業すれば、やっと普通の技術者、あるいは事務員になれるわけだが、医者や学者になるためには、まだまだ勉強しなければならないのである。
こうして、専門家になるための最後の学校を卒業したときには、その人間は若くて三十八歳、場合によっては五十歳近くにもなっているという、ひどいことになってしまった。たいていの人間が、四十歳を過ぎてから結婚するため、子どもの出産率が減り、ついには地球全体の人口が減少しはじめたのである。
「これはいかん。このままでは、人類は衰退の一途をたどることになる」
医者や科学者は、この状態に驚き、なんとかしようとして研究に研究をかさねた。
そして、二六四〇年。とうとう画期的な発明がなされた。これが睡眠教育あるいは潜在《せんざい》意《い》識《しき》教育と名づけられた、新しい教育方法である。
「なあに? その睡眠教育って?」
夢中になって、一夫の話に聞きほれていた和子は、思わずからだをのりだして、かれに尋ねた。かの女は、もうすっかり一夫の話を信じこんでいた。でたらめというには、その話は、あまりにもいきいきとしていたからである。
「うん、睡眠教育というのはね、子どもが眠っている間に、その脳へ直接、いろんなことを記憶させる教育方法なんだ。録音した磁気テープを、頭部に電極をあててプレイバックさせる。人間の潜在意識というのは、すごく大きな力を持っているから、あたえられたそれらの記憶を、必要なときにはいつでも呼びさますことができるんだ」
和子に説明する一夫の目も、なぜかいきいきしていた。かれはうなずきながら、さらに話を続けた。
「そのために、人間の教育は、すごく短期間ですむようになってしまった。三歳ぐらいのときから、その方法で教育すると、この時代でいえば中学一年くらいの年に、今の大学教育程度の学問を卒業してしまえるんだ。そしてぼくも、その教育のおかげで……」
一夫はそこで、ふっとロをつぐんだ。和子は、さっき感じた疑問が少し解けたように思い、ふたたびかれに尋ねた。
「じゃあ、あなたは、ほんとうは今、なん歳なの?」
一夫は、少しまごついてから答えた。
「十一歳だ」
「なんですって!」
和子はあきれて、自分よりは十センチ以上背の高い一夫を、見あげ見おろした。
「じゃあ、わたしより四つも年下じゃないの! でも、ほんと?」
一夫は照れくさそうに頭をかきながら、微笑して答えた。
「つまりだねえ、二六六〇年ごろになると、子どもの発育はすごいんだよ。でも、ぼくなんかからいわせると、むしろこの時代の子どものほうが発育不良なんだけどね」
「まあ、わたしは発育不良?」
和子は自分の小柄なからだを見まわしながらいった。
「おこっちゃいけないよ。もっともぼくたちの時代――二六六〇年ごろには、食物は、みんなカロリーの高い栄養食ばかりになってしまっているんだ。でも、だからこそ精神と肉体とのつりあいがとれるわけだ。だってそうだろ? 大学程度の学力がある赤ん坊なんて、気持ちが悪いだけじゃないか」
「じゃ、あなたは大学生くらいの学力があるわけなのね?」
和子が尋ねると、一夫はうなずいた。
「ああ、そうだよ。ぼくは大学で、薬学部にいるんだ」
――道理でこの人、勉強がよくできたはずだわ――和子はそう思った。
「でも、どうしてあなた、今の時代にやってきたの? しかも、この学校に。それから
………それから、なんのために、この時代の人間みたいな顔をして、みんなといっしょにいるの? 未来へ帰るつもりはないの?」
一夫はあわてて、洪水《こうずい》のようにあふれでる和子の質問を押しとどめた。
「ま、まあ、待ちたまえ。順を追って話すから……」
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意外な告白
一夫が生まれたのは二六四九年だった。ほかの子どもたちと同様、かれも三歳になると
睡眠テープで教育され、二六六〇年、十一歳で、薬学を身につけるため、大学にはいった。
ちょうどこのころ、つぎつぎと新しい薬が発明されていた。それは人間の持つ埋《うず》もれた能力を発揮させる一種の刺激剤だった。人間には、身体《しんたい》移《い》動《どう》、念動《ねんどう》力《りょく》、精神《せいしん》感応《かんのう》などの超能力が潜在的にあるということは、すでに科学的に証明されていたので、あとは、これらの能力をいかに開発するかということが、学者たちに残された課題だったのである。
一夫は大学で、身体移動が自由自在にできる薬品の研究に取り組んだ。もちろん、まだ初歩の段階の実験しかやらせてもらえなかったが、同期生の中でも、特に成続のよかった
一夫は、自分だけで考えた、いろいろな新しいアイディアをもっていたのである。
そのひとつに、身体移動と、時間跳躍の組み合わせという案があった。一度に、時間と場所を移動する能力のことである。一夫は、これは不可能ではないと思った。身体移動能力の刺激剤は、すでに作られていたし、時間移動も、タイム・バリヤーなどで、すでに可能である。一夫は、これまでの刺激剤を分析し、研究した。その薬の中に、ふたつの効能をもり込もうとしたのだ。
かれは身体移動能力刺激剤――専門用語でいえばクロッカス・ジルヴィウスという薬品なのだが――これにラベンダーという、シソ科の常緑《じょうりょく》亜《あ》低木《ていぼく》の花を乾燥させた香料を加えると、どうやら思ったとおりの効果が得られるらしいことを発見した。そしていろいろな失敗を重ね、苦心したすえに、やっと薬を作ったのである。
さて、薬は作ったものの、実験してみなければ効果がわからない。一夫はそれを、論文として発表するまえに、自分でためしてみようとしたのである。
「ところが、大失敗をやっちゃったんだ」
一夫はそこまで話してから、笑いだし、頭をかいた。
「時間跳躍をやったものの、何かの手違いで、未来へ帰れなくなった……。そうじゃない?」
和子がいうと、一夫はうなずいた。
「そうなんだよ。薬がどの程度ききめがあるのか、よくわからなかったもんだから、少しだけ飲んだんだ。だから過去――つまりこの時代までは来ることはできたものの、未来へ帰るには、薬の効力が弱すぎるんだ」
「その薬、持ってくればよかったんじゃないの」
「う、うん。そりゃ、持ってこようと思って用意はしておいたんだよ。ところが忘れてきちゃったんだ」
「あなたって、もっと落ち着いているのかと思ったら、案外あわてんぼなのね」
「そうじゃないんだよ。どの時代へ行こうかなと、いろいろ考えて、結局、比較的平和なこの時代へこようと決めたとたんに、時間跳躍しちまったんだ。そのとき、薬を持っていなかったんだ」
一夫は、ほおを染め、むきになって弁解した。
「それで、もういちどその薬を作るために、この学校の生徒になってこの理科実験室へしのびこんだってわけね」
「そうなんだ。ところがきみに発見されそうになって、あわててかくれたときに、その薬をひっくりかえしてしまったんだ。きみはその薬を飲みはしなかったものの、においをかいだものだから、ごく限られた範囲内での時間跳躍と身体移動ができるようになってしまったんだよ」
「じゃあ、私の能力は、時間がたつとなくなってしまうわけなのね?」
「そうなんだ。だからきみはあんなに心配する必要はなかったんだ」
和子はほっとして、いった。
「だってそんなこと、わたし知らないもの……。でもかんじんの、あなたの薬は、もういちど作ることができるの?」
「ああ、もう作ってあるよ」
一夫は机の上を指さした。そこに置かれた試験管の中には、茶色い液体が白い湯気を立てていた。
和子は、ふと不審なことに思いあたり、一夫に尋ねた。
「あなたは、どうしてわたしに、こんなにいろんなことを説明してくださるの?」
一夫はしばらく考えてから、答えた。
「そりゃ、きみがいろいろなことで悩んでいたから、説明する義務があると思ってさ」
「だって、あなたにとって、わたしは過去の人間でしょう? あなたが未来へ帰ってしまえば、あなたとわたしとの間には、何のつながりもなくなるのに……」
一夫は、しばらく、困ったような表情で、下を向いていたが、やがて和子の顔をまともに見ると、思いきったように、こういったのである。
「じゃあ、いってしまおう。きみが、好きになったからさ」
「まあ!」
和子はあきれてしまった。――なんて、おませなんだろう!
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未来人・現代人
「未来人は、そんなにあっさりと、愛の告白をするの?」
和子は、ちょっと皮肉な笑いかたをした。一夫を、ひやかしてやろうとしたのである。いくら大学生だといっても、和子が年上であることに変わりはない。わたしのほうがおねえさんだ――そう思うと和子は、少しばかり気が楽になって、軽口をたたいた。
「あなたは、年上の女の人が好きなの?」
一夫は、やっとそれに思いあたったような顔つきをして、あっさりと、こういった。
「ああ、そういえば、そうだったね」
「そういえば、ですって?」
和子は、少し腹をたてた。それじゃまるで、わたしがかれよりも、精神的にも肉体的にも、ずっと劣っているように聞こえるではないかと思い、かの女はちょっと、むっとした。
「どうせわたしは、現代人よ。つまり、あなたにとっては過去の時代の女よ。だから、精神年齢が低いのも、発育不良なのも、あたりまえでしょ?」
和子は少しふくれてみせた。だが一夫は困ったようすもみせず、かの女にいった。
「そんなことじゃないんだ。ぼくはきみを年上の女の人のような気がしないというのは……つまり……どういったらいいかな。ぼくはしばらくのあいだきみと同じ学級で勉強し、あの吾朗君などと、三人で仲よく楽しく過ごした。だから、今となっては、きみを、とても身近に感じるようになってしまっているんだ。実際に交際した時間よりも長く、ずっと前からきみを知っているような気がするんだ。だからぼくは、きっと、きみを好きになってしまったのにちがいないと思うんだよ」
和子のほおは、心ならずも赤くほてってきた。かの女はそれに気がつき、よけい、どぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]した。自分がひどくうろたえていることを、かの女は知った。
――まあ! 面と向かって、こんなにはっきり好きだなんていわれたの、はじめてだわ! なんて、はっきりした子だろう! 未来の人たちって、子どもでも、こうなのかしら?
まるで少女小説ではないか――と、和子は思った。無理もなかった。小説などでは、いくらでも読んでいたものの、今までの和子の周囲では好きとかきらいとかいった感情は、すべて遊び半分のものとされていたからである。もちろんクラスの中で、だれかさんと、だれかさんがあやしい[#「あやしい」に傍点]などといううわさがとんだこともあった。しかしそれも、多くはおもしろ半分のひやかしであったり、うわさの本人を困らせるためのいやがらせであったり、またある時は、ほんとうに仲がよいのをうらやんでの、やきもち半分の中傷であったりするだけにとどまっていた。
和子だって、あの神谷真理子から、吾朗が好きなのだろうなどと、ひやかされたこともある。しかし、和子の年齢では、同じ年ごろの男の子なんて、子どもっぽくて、恋愛感情なんて、とても持てそうになかったのである。
だが今、深町一夫からこうして、冗談ぬきで気持ちをまともにうちあけられてみると、和子はがらにもなく、ただとまどい、返すことばに困って、黙ってうつむいてしまうだけであった。
「ずっと……ずっと前から?」
ぼんやりと、夢ごこちで、和子は機械的に、一夫のいったことばをくり返した。
「そうなんだよ。そんな気がするんだ」
一夫は、ほほえみを浮かべてうなずいた。
「だって、実際にいっしょにいたのは、たった一か月間だけだったんだものね」
「一か月間ですって?」
和子はおどろいて、顔をあげた。それからはげしく、かぶりを振ってみせた。
「そんなことないわ! わたし、あなたと、もっとずっと前から、おつき合いしてたじゃないの! そう……もう、二年も前から――。その前だって、わたし、あなたと話したことはなかったけど、小学校時代から知ってるわ。だって、家が近所だったんですもの!」
「そうだったね。それをいうのを、忘れていたよ」
「忘れていたって、何を?」
「ぼくがきみに――いや、ぼくと関係のあるすべての人に、ぼくに関する架空の記憶をあたえたっていうことをさ」
「架空の記憶?」
和子には、わけがわからなかった。
「そう。つまり、ぼくほ一か月ばかり前に、この時代にやってきた。やってきたのは一か月前だけど、この時代の人たちといっしょに生活するためには、それ以前からぼくがこの時代にいたってことにしなければならない。そこで架空の、ぼくに関する歴史を作って、たくさんの人にそれを記憶として、あたえたわけなんだ」
「なんですって? するとそれは、わたしだけにじゃなく、あの、浅倉吾朗君や、福島先生や、それから……それから神谷さんや……」
「そう、ぼくたちのクラスの子はもちろん、それ以外の、当然ぼくのことを知っているべき人には、ぜんぶだよ」
「どうして……どうして、そんなことができたの?」
「うん。これはね、きみが考えているほど、むずかしいことではないんだ。きみは、催眠術を知っているだろう? 人間を催眠状態にしておいて、さあ、あなたは鳥になりましたよと、暗示をあたえると、その人はほんとうに鳥になったように思う――ぼくのやったのも、あれに似たようなものさ。もちろん、その技術はぐっと進歩しているけどね。また、催眠術というものは、ひとりの人にかけるより、一度におおぜいの人にかけるほうがやさしいんだよ。だれかがかかると、連《れん》鎖《さ》反応《はんのう》で、そばにいる人が次々とかかっていく……」
和子もそのことは福島先生から聞いたことがあった。
「集《しゅう》団《だん》催眠《さいみん》効《こう》果《か》……」
「そうそう。この時代にも、そういうことばはあったんだっけね。ちょうど、それによく似たことをやったんだ。ぼくの経験では、この時代のひとは、とてもかかりやすかったよ」
――そりゃあ、あなたの時代の人にくらべりや、単純なヤバン人ですものね――。和子はまたそんな皮肉をいいたくなったが、これ以上一夫から、ひねくれた子だと思われたくなかったので、やっとロをつぐんだ。
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その名はケン・ソゴル
「というわけで、ぼくは、この時代に、もとからいたということにして、生活をはじめたんだ。この学校にずっと通っていて、あの家に、ずっと住んでいたということにして……」
「あの家!」
和子はとつぜん、深町一夫の両親のことを思い出した。
「じゃあ、あそこにいる人たちは、あなたの家族じゃないわけなの?」
「そうさ。あの人たちには子どもはなかったんだ。ぼくは自分があの人たちの子どもなのだという記憶を、あの善良で植物の好きな中年のご夫婦にうえつけた。なぜ、あの家庭を選んだかというと、あの人たちは温室に、ラベンダーを育てていたからだ。ぼくはあの花からクロッカス・ジルヴィウスを作り、未来へ帰るつもりだったんだ」
そういって一夫は、へやの中にある、薬のはいった試験管を、ちらっとふり返った。
「その薬も、きょう、やっとできた……」
「そうすると、あなたの名まえも、ほんとうは深町一夫っていうんじゃないのね?」
「そう。深町一夫っていうのは、この時代のぼくの名まえだ。未来には、未来のぼくの名まえがある」
「その名まえは?」
「その名まえは……」
一夫は、ちょっとロをつぐんだ。
「きみには、おかしな名まえに聞こえるだろうね。ぼくのほんとうの名まえは、ケン・ソゴルっていうんだ」
「ケン・ソゴル?」
和子はその名を、二、三度ロの中でかみしめた。
「とても、いい名だわ」
「ありがとう」
「でも、どうしてもっと早く、そのことをわたしに教えてくれなかったの? あなたはずっと、わたしがひとりで苦しんでいるのを、そばでみていたくせに……」
和子の、恨みを含んだ目にあって、一夫は少し困った表情をしてみせた。
「きみがあの薬のにおいをかいで気を失った時、ぼくはきみに何も説明せず、きみからあの能力が消えてなくなるまで、そっ[#「そっ」に傍点]としておこうと思ったんだ。こんなややこしい[#「ややこしい」に傍点]説明で、おとなしいきみを混乱させたくなかったからね。だけどきみは、思いがけずあんな交通事故に出会い、タイム・リープ(時間跳躍)とテレポーテーション(身体移動)をやってしまった。そのうえ自分から進んで過去へと跳躍しはじめた。このぼくに会うためにね――。だからぼくも、これ以上きみを悩ませたくなかったもんだから、時間をさかのぼって、ここまでやってきたんだ。すべてのことを、きみに話すために……」
疑問はすべてとけた――和子はそう思った。これで何もかも、はっきりした……。
だが一夫は、まだ話し続けていた。
「だけどぼくは、ほんとうはきみに、こんなことを話しちゃいけなかったんだ。原則として、過去の時代の人に、未来のことを話しちゃいけないんだよ」
「あら、どうして?」
「歴史が混乱するからだ。社会的にも悪い影響があるんだよ。だってそうだろう? 現代の人に、たとえば、あとなん年かしたら、この国に戦争が起こりますよなんて教えてやれば、たちまち大騒ぎになってしまう。だってその時代の人には、どうすることもできないんだものね」
「でも、戦争をやめるかもしれなくてよ?」
「だめだよ。基本的には、歴史を変えることはできないんだ。もし変えられるとすると、それを利用しょうとする悪い人が出てきたり、騒ぎは大きくなるばかりだもの」
「すると、過去の人間に未来のことを教えるなというのは、あなたの時代の法律なのね?」
「うん。まあ、そうだね」
「と、したら、あなたはその法律を犯したことになるんじゃないの? ぜんぶ、何もかもわたしに話してしまったんだもの」
「例外は認められているんだ」
「例外ですって? それは何?」
一夫は、しばらく話すのをためらい[#「ためらい」に傍点]、やがて嘆息した。
「ぼくが話したとしても、その人が記憶していなければいいわけだ。つまり、ぼくに関する記憶を、きみの頭から消してしまえば、いいわけなんだよ」
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消された記憶
和子は驚き、目をみはった。
「じゃ、あなたは、未来へ帰る前に、わたしの頭の中から、あなたに関する記憶を消してしまうっていうの?」
一夫は、悲しげにうなずいた。
「しかたがないんだ。ぼくが帰ってしまったあと、きみがぼくのことを忘れてしまうなんて、とても悲しいんだけどなあ。だけど、そうしないとぼくは、ぼくの時代で罰せられることになるんだ」
「そんなこと、いやよ!」
和子は、はげしくかぶりを振った。一夫に関係した記憶を、ぜんぶ消されたとしたら、楽しくかれと話しあったことも、また今、かれから愛をうちあけられたことも、ぜんぶ忘れてしまうことになるのだ。いや、それどころではない。一夫の顔さえ、思い出すことはなくなってしまうのだ。
「つらかったけど、今までのことは、わたしにとって、貴重な経験だったわ。わたし、忘れたくないの。だって、あなたのほうは、わたしのこと、覚えているんでしょう? ずっと……。わたしだけが、あなたのことを、忘れてしまわなければならないの?」
「きみだけじゃないさ。この時代の人で、ぼくに関係のあるすべての人の心から、ぼくの記憶を消していくんだ」
和子は、ふっ[#「ふっ」に傍点]と不安になった。
「で、あなたは、いつ未来へ帰るつもりなの?」
「今すぐだ」
「まあ、そんなに早く……」
「そりゃ、いつまでもいたい。この時代で、きみや吾朗君たちと、楽しく暮らしていたいよ。でも、ぼくには仕事がある。薬の研究を完成させたいんだ」
和子はうなだれた。
「やはりあなたは、未来人なのね。この時代よりは、未来のほうがいいのね?」
恨みっぽい和子の問いに、一夫ははっきり[#「はっきり」に傍点]と答えた。
「ぼくは未来より、この時代のほうが好きだ。のんびりしていて、あたたかい心を持った人ばかりで、家庭的だ。ずっと住みやすい。未来の人たちよりは、この時代の人たちのほうが好きだ。きみも大好きだ。吾朗君も、すてきな子だし、福島先生も、いい人だ。でもぼくはやはり、この時代と、ぼくの研究のどちらをとるかといわれれば、仕事のほうをとる。薬の研究は、ぼくの生きがいなんだ」
一夫のことばは、和子にはドライに感じられた。しかしその乾いた口調は、ますます和子の心をかれにひきつけるのだ。和子は夢中で、一夫に頼んだ。
「ねえ、お願い。わたしの記憶を消さないで! わたし、このことは、だれにも話さないから! 約束するわ。あなたのことを、ずっと胸の中に秘めておきたいの。あなたの思い出が、ぜんぶなくなってしまうなんて、がまんできない。たまらないわ!」
和子の訴えることばに、一夫も苦しげにまゆをくもらせた。だがかれは、低い声で、しかもはっきりと答えた。
「それはだめなんだ。わかっておくれよ」
そうだ。かれに、ものわかりの悪い女の子とは思われたくない――和子は黙りこんだ。かの女は、自分のほおに、涙が、流れ落ちているのを知り、あわててハンカチを出してふいた。あんなに、われを忘れてかれに頼んだりしたことが、自分で、ひどくはしたなく思えた。
「……そうだったわね――」
和子は、そうつぶやいた。胸がいっぱいだった。
「じゃ、お別れだね」
一夫は、ゆっくりと立ちあがり、そういった。
和子は、はっ[#「はっ」に傍点]と顔をあげ、じっと一夫の顔を見つめた。――もうこの人の顔を、二度と見ることはないのだ。でも……。
「もう、行くの?」
一夫はうなずいた。
和子は立ちあがり、一夫に近づいた。
「ねえ、ひとつだけ教えて。あなたはもう、この時代へは、こないの? 二度と、わたしの前に姿を見せることはないの?」
「おそらく、くるだろうね。いつか……」
一夫はそういいながら、かたわらの机の上のあのトランジスター・ラジオに似た装置をとりあげ、アンテナをしまいこんだ。
「でも、それはいつ……?」
「いつかわからない。おそらく、ぼくのあの薬の研究が完成した時だろう」
周囲の時間が、ふたたび、流れはじめたらしかった。国道のほうから、車の警笛や、商店のざわめきが、かすかに聞こえてきていた。
「じゃ、またわたしに、会いにきてくれる?」
しだいにぼう[#「ぼう」に傍点]とかすんでくる一夫の姿に、けんめいに目をこらしながら、和子はたずねた。バリヤーがのぞかれたため、あのラベンダーのかおりが、立ちのぼる薬の白い湯気となって、和子をとりまいていた。
「きっと、会いにくるよ。でも、その時はもう、深町一夫としてじゃなく、きみにとっては、新しい、まったくの別の人間として……」
和子の意識は、しだいに薄れていった。だがかの女はけんめいに、かぶりを振ろうと努力した。
「いいえ、わたしにはわかるわ……きっと。それが、あなただということが……」
目の前が暗くなった。ゆっくりと床にくずれおちる和子の耳に、かすかに一夫の声が、遠ざかりながら聞こえていた。
「さようなら……さようなら……」
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いつか会う人
「おおい、芳山君、帰ろう。きみのカバンを持ってきてやったよ!」
浅倉吾朗は、大声で理科教室へはいってきた。和子の姿を求めて、実験室をのぞいたかれは、床に倒れふしているかの女を見て、立ちすくんだ。
「芳山君!」
吾朗はすぐに、かの女のかたわらに駆けより、抱きあげようとした。医務室へ運んでいこうとしたのである。しかし和子のからだは、ずんぐりむっくり[#「ずんぐりむっくり」に傍点]の吾朗の手にあまった。
「よわったなあ……」
吾朗は泣きそうな声で、和子の冷たくなった手をさすりながらいった。
「きっと疲れたんだ。あんな広い教室を、たったふたり[#「たったふたり」に傍点]でそうじさせるなんて、むちゃだよ……」
かれは立ちあがり、応援を求めて職員室へ行った。さいわい、担任の福島先生が、まだ帰らず、残っていてくれた。
先生と吾朗が、ふたりがかりで和子を医務室へかつぎこみ、注射をすると、かの女は低いうめき声をあげて、目をさました。
「ああ……わたし、どうしたのかしら?」
「貧血を起こして倒れていたんだ。実験室で……」
吾朗のことばで、和子は、そうじ道具をしまおうとして理科実験室へはいっていったことを思い出した。だが、それから先は、どうしても思い出せなかったのである。
「そうじ当番は、きみたちふたりだけだったのかい?」
福島先生の問いに、吾朗はちょっと、ふくれた顔つきをしてみせた。
「そうなんです。あの広い教室をそうじするのに、たったふたり[#「たったふたり」に傍点]だけだったんですよ。ぼくと芳山君と……。だから芳山君、きっと疲れて倒れたんです」
「それはわるかったなあ」
福島先生は、心から、すまなそうにいった。
「じゃ、あしたからは、当番の人数をふやすことにしようかな」
一夫が未来へ帰ったあとの、この現代[#「現代」に傍点]には、もはや深町一夫という少年は、だれの心にも、存在しなくなったのである。一夫のことはもう、福島先生も、浅倉吾朗も、そして芳山和子の心からも、消え去っていた。この世界には、深町一夫はいなかった。和子のクラス(学級)には、深町一夫という生徒の席はなかった。そしてもちろん、だれもそれを、不自然とは思わなかったのである。
それから三日のちの夜、浅倉吾朗の家の隣にあるふろ屋からは、火事は起こらなかった[#「火事は起こらなかった」に傍点]。したがって、その次の日の朝、和子も吾朗も、寝すごすことなく登校したため、あの交差点で、大型トラックにひかれそうになるなどということもなかった。
すべては、深町一夫が未来へ帰るときに、和子たちのことに気を配ってしてくれた措置だった。だがもちろん、和子も吾朗も、そんなことは知らない。
深町一夫に関することがらだけでなく、和子の心からは、あの不思議な、超現実的な現象になやまされたことも、だれにうちあけようかと、ひとり苦しみ続けたことも、すっかりぬぐいさられていた。
和子に、平和な日がもどってきたのである。
*
和子はいつも、学校の行き帰りに、小ざれいな西洋風の家の前を通る。
その家には、善良そうな中年の夫婦が住んでいて、庭には温室があり、その横を通るとき、かすかに甘い、ラベンダーの花のかおりが、ほのかににおってきて、ほんのしばらく、和子をうっとりと夢ごこちにさせるのである。
――ああ、このかおり。このにおいをわたしは、ぼんやりと記憶している……。和子はそう思う。――なんだったかしら? このかおりをわたしは知っている。甘く、なつかしいかおり……。いつか、どこかで、わたしはこのにおいを……。
その家の門柱には、「深町」と書かれている。だが和子は、その文字を見ても、何も思い出せないし、何も思いあたらないのである。
ただ、ラベンダーのにおいが、やわらかく和子のからだをとりまく時、かの女はいつもこう思うのだ。
――いつか、だれかすばらしい人物が、わたしの前にあらわれるような気がする。その人は、わたしを知っている。そしてわたしも、その人を知っているのだ……。
どんな人なのか、いつあらわれるのか、それは知らない。でも、きっと会えるのだ。そのすばらしい人に……いつか……どこかで……。
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解説
目に見えるもののかなしみ――時をかける映画<<時をかける少女>>と、その原作者・筒井康隆氏との、おかしくもかなしい、正統にして異端の物語。
大林宣彦
石上 (三登志)この映画で、最も気になるところが、筒井康隆・原作、ですね。
大林 僕の見る筒井康隆像、というのは、本格派の、正統的な文学者です。十九世紀的な魂についての、人間の尊厳の問題を、常に文学上の主題としている。ただ、日本には文学≠フ育つ土壌が無く、文芸≠ノしかならないんですね。そうすると正統派の作家は、どこかで異端の振りをしなければならない。筒井さんも、異端の振りのまことに見事な正統派作家。だから、筒井文学を映画化する場合には、その異端の振り≠うまく引用する面白さが、まず、ある。<<ウィークエンド・シャッフル>>や<<俗物図鑑>>などが、そうですね。そういう振り=@の方から本音を垣間見る、というのも一つの方法論だけれど、この<<時をかける少女>>というのは、ジュブナイルであることで、筒井さん自身、本音を巧みに語り得ている。ですからこの映画では、筒井さんのその本音である純粋な部分を、むしろ増幅してみよう、と僕は考えたのです。この原作小説を正統的に、古典的にきっちり描くことで、筒井康隆の本質≠ェ抽出《ちゅうしゅつ》できるのではないか、と。
石上 たしか光《みつ》瀬《せ》龍《りゅう》さんも、ジュブナイルの方が本音が出るとおっしゃっていましたね。
大林 つまり、少年少女の感性の方が論理的なんですよ。大人はその感性に、分別とか生活の智恵だとか、エクスキューズをつけるから、論理的にならない。
石上 ジュブナイルだからこそ、手抜きはできないのですね。
大林 まったくできない。エクスキューズはつけられないのですよ。だいたい日本の私小説が大人の読み物といわれるのは、ユクスキューズを巧みに芸にしたからなんです。でも、だから文芸≠ナあって、本質的な意味合いでは文学≠ナはあり得ない。文学はエクスキューズになど頼らないで、きわめて論理的に自己の感性を構築していくものですから。そういう意味では、この日本という国では、ジュブナイルの方がより正統的な文学なのだ、とも言えるのです。
――いやあ、驚きましたね! ワタシとしたことが、こんなマサカの大文学論≠展開していただなんて!!……
ところで敢《あ》えて、過去形で驚いてみるのは、これがいまから十四年の昔、あの映画<<時をかける少女>>の全国公開に先立って、ある映画ファン向きの専門誌の誌上で展開された、対談の抜粋《ばっすい》だからである。
勿論《もちろん》、ある作家の文学作品を映画化する際には、その作家の文学的資質や主題性についての考察から事を始めるのは当然のことだが、この場合はなにしろ、あの<<時をかける少女>>である。
映画版<<時をかける少女>>は一九八三年公開の角川映画作品。当時、日本映画では考えられない程の巨費をふんだんに注《つ》ぎ込んだスケールの大きな映画を次々と製作し、その悉《ことごと》くをヒットさせていた角川《かどかわ》春《はる》樹《き》プロデューサーによる、これはしかし、プライベート・フィルムと呼んでもいい小品。製作費も、他の大作群と比べれば十分の一にも満たない、実に小さな映画だった。
余談であるが、映画に於《お》ける製作費や製作スケジュールの設定は、実は映画の文体≠定めるのである。多ければ多い種有難いというのは素人《しろうと》考えで、要《よう》は、主題を語るに充分のものがあれば良い。<<時をかける少女>>の場合には、正にプライベート・フィルム≠ニしての作り方がこれ程|相応《ふさわ》しい映画は他に無いだろうと思われる、そういう意味ではまことに不思議な角川映画≠ナあった。
最初に製作者・角川春樹氏の極めてプライベートな想い≠ェあった、とこの映画は今や神話的≠ノ語られてもよいだろう。その頃角川映画が製作準備をしていた特撮《とくさつ》時代劇大作<<伊賀忍法帖>>のヒロイン募集オーディションに、全国から集った五万七千人の候補者のひとりとして、原《ほら》田《だ》知《とも》世《よ》という十四歳の少女がいた。募集要項の十六歳以上、二十歳以下の条件をも満たしていない。役柄の上で上半身裸のラブ・シーンが想定されていることからして、十四歳のこの少女が合格する可能性などはなからあり得はしない。しかし
「原田知世は原田知世の為《ため》のみに特別賞を急《きゅう》遽《きょ》作って、私は彼女を選んだのである」と角川氏は後になって述《じゅつ》懐《かい》している。彼女の受験番号は13番。それは「古代から神秘数、つまり神が選ぶ数であった」と言う。
その原田知世の映画デヴュー作を撮《と》ってやって頂けませんか、「それも、できれば、尾道で」という依頼が、春樹さんから直接、ぼくの許《もと》へきた。ぼくらにとって、これはもう三本目の製作者=監督コムビの映画だった。尾道≠ヘ、ぼくの古里《ふるさと》である。ぼくはその前年、この地で撮った<<転校生>>を公開したばかりであり、この<<転校生>>という映画は、ぼくにとってのプライベート・フィルム≠セった。そしてその映画を、春樹さんは「私が感動した数少ない青春映画の傑作である」と評している。知世のデヴュー作を青春映画の傑作≠ノ、という想い≠ェ春樹さんには、その時既にあったのだ。
紹介されて会ってみて、ぼくもまたこの十四歳の少女に強く打たれるものがあった。古くからの映画ファンなら分って貰えると思うが、例えば昔のアメリカ映画の<<オズの魔法使い>>におけるジュディ・ガーランド、<<オーケストラの少女>>のディアナ・ダービンにも比せられる、映画的資質を持った少女だと思った。その頃角川映画の先輩として既《すで》に人気者だった薬《やく》師《し》丸《まる》ひろ子《こ》が、いわゆる猫背型≠フ、シラケ世代を代表する時代の申し子≠セとすれば、背筋のすらりと伸びた′エ田知世は、古典的なスクリーンの申し子≠セ。この少女をあの古い尾道の街の中に棲《す》まわせ、昔《むかし》気質《かたぎ》の恋心のゆらめきを、少女スターの唄声と共に描いてみたい、と思った。
こうして「神の数・13」と「映画の古里・尾道」とが結び付き、角川春樹氏とこのぼくはふたりの足長おじさん≠ニなって神の子′エ田知世を世に送り出すという、まことにプライベートな想い≠ノよるプロジェクトが成立した。そして結果としてこの神の子≠ヘ、ふたりの胴[#「胴」に傍点]長おじさん≠フプロフェショナルな予測をも遥かに超えたところで、日本中の若者たちにとっての神の子〃となった。これがあの[#「あの」に傍点]映画<<時をかける少女>>事件[#「事件」に傍点]の顛《※てん》[#「※」は「眞」+「顛」の右側、第3水準1-94-3]末《まつ》である。
ところで、ぼくはこの間ずっと、その肝心の原作者である筒井康隆氏について、敢えて一言も触れないできた。確かに<<時をかける少女>>は「作品的にも興行的にも、小よく大を制してしまった」と、歴代角川映画大作群に混じってそれまでの最大のヒット作を生み出すに至った製作者・角川春樹氏の名も、あれから十四年を経て今も尚《なお》ロケ地|巡《めぐ》り≠フ旅人たちで賑《にぎ》わう尾道≠古里とする映画監督・大林宣彦の名前も、あの時期ユーミン≠ェ作詩作曲して映画のエンディングで昔のハリウッド製ミュージカル映画の一場面のように原田知世によって唄われた主題曲の調べに乗って全国に流布《るふ》したトモコのトキカケ≠フ名の下《もと》には、総《すべ》て色|褪《あ》せ、消《しょう》滅《めつ》さえしていた。そこにこの映画の原作はあの筒井康隆の、とその原作者の名前をわざわざ持ち出すこと自体、如何《いか》にも場違い≠ネ感じがした。
しかし今となってみて、あの映画の大成功は、つまるところ原作・筒井康隆≠ノ負うところがまことに大きかったのだ! とぼくは思い当り、筒井文学のスゴサ≠ノ、改めて驚いて≠「るのである。だって、そうだろう。まずその主題の設定が極めてプライベートな想いから出発するところ。そしてそれが世のいわゆる常識的な作品群の中では常に異端に見られながら、冷静で客観的な視点とプロフェショナルで正確な技術とに支えられた普遍性によって、まことに人間的な知と情との世界を描き出し、それが読者にとってはこの上無いエンタテインメント、つまりおもてなし≠ニなって、延《ひ》いてはベストセラーともなり、更《さら》には事件≠ニもなるところ。そしてそのスキャンダラスともいえる話題性を生み出し続ける割には、作品の内容は実に古典的であり、静謐《せいひつ》でリリシズムにも溢《※あふ》[#「※」は「さんずい」+「u」]れていること。それ故《ゆえ》に読者もまたその極めてプライベートな部分でその作品を愛してしまうところなど、あの映画の成功の要因は総て筒井さんの原作小説の中にあらかじめ用意さていたのではないか!
ぼくはある文学作品を映画化する時、その原作小説≠ではなく、むしろ作者自身≠映画化しょうと考える。言語表現と映像表現とでは元より表現の役割が異なるから小説≠ノ結実した作品をそのまま映像≠ノ移し変えると却《かえ》って似て非なるもの≠ニなる。だから作者がその想い≠小説という手段を通さず、いきなり映画に作り上げたらそれはどのような映画となるか、と想像しながら一本の映画を作るわけだ。
大林 ジュブナイルというと、どうも子供用の映画だと思われちゃうんですね。確かに主人公は子供ですが、子供を使うことで人間の感情の純粋な部分、勿論《もちろん》、善も悪も、ですよ、それを描いて大人の観客に訴えることができる。それがジュブナイルの役割。優れた童話や絵本、マンガだってみなそうでしょう。
石上 少年少女たちは、実にセクシーですねえ。
大林 つまり、ストイックなまでに肉体的存在ではないから、その分、感情としてはセクシーなんですよ。前の<<転校生>>で男の子と女の子の心と肉体とを入れ替えたのも、今度の<<時をかける少女>>で少女が未来から来た少年と初恋をするのも、要するに男女関係としての肉体の存在をあらかじめ消滅させている。肉体を喪失しているから、感情としての純度がより磨かれる。純粋に心理劇としての恋愛《れんあい》譚《たん》となるから、いうなら禁じられた恋の物語=Aそれはセクシーでもあるわけですよ。手《て》塚《づか》治虫《おさむ》氏のマンガの中の少女がセクシーだというのと、それは同じですね。
石上 この映画の感触というのは、アメリカで一九四〇年代に多く作られたファンタジーですね。<<幽霊|紐育《ニューヨーク》を歩く>>を見た時の素朴な感動と同じような気分がこの作品にはある。もう一本あげると<<ジェニーの肖像>>ですね。それもどちらかというと、映画より原作の方なのかな。
大林 ファンタジーという表現の手段も、本来は人間の魂のリリシズムであるとか、人間という存在についての尊厳の問題であるとか、内面世界をデリケートに描出《びょうしゅつ》するために有効であった筈《はず》のものが、今や大人の感情に訴える部分は無視され、珍《ちん》奇《き》な映像表現だけを取り上げてチャイルディッシュであると断定される。それはきっとあの「SFは絵である」というテーゼの悪影響の部分ですね。
石上 SFが時代のファッションになってしまったのですね。
大林 だからこの<<時をかける少女>>でも、如何に絵にしないか[#「絵にしないか」に傍点]に苦労しました。この映画の時をかけるシーンの特撮は総て古いスチールカメラのヒトコマ撮りなんですよ。コンピュータ・グラフィックなど現代の最先端のデジタル技法は敢えて無視して、全編てのひらの温《むく》もりを残したアナログの特撮で作りました。ファッショナブルな流線型の画面作りではなく、古いアルバムをパラパラとめくっていくような、ひなびた味わいの、ね。
石上 それは今流行のSF的な絵≠ノしないということですね。
大林 映画というのは何でも絵になる。それを便利だ≠ニ捉《とら》えるとファッションになる。ぼくはむしろ、絵でしか表現できない映画って何と不便≠ネんだろう、というところから映画を始めてみたい。だって人間の最も有効でチャーミングな伝達の方法って想像力≠ノよるものでしょう。その点とりあえず一枚の絵という情報≠ノ集約されてしまう映画は、まことに不便≠ナある(笑)。
石上 その点、個人映画時代から大林映画を見続けている人間にとっては、これはまことに大林流%チ撮だった(笑)。
大林 映画というのは静止写真の連続が、錯覚で動いて見える。とすれば静止した絵には決して写らない筈の目には見えない人間の心≠ェ、その錯覚≠フ間《あわい》に垣《かい》間《ま》見える≠フではないか。つまり映画とは、絵と絵との間の暗闇≠こそ映すものだ。人の心に残像≠キる想い=Aそれは誤解による伝達≠ゥもしれないけれど、それをいうなら恋愛だって好意的誤解≠フ生み出す感情でしょう。そういう感情の醸《じょう》成《せい》こそが映画の至《し》福《ふく》≠ナあり、そこでこそ至福の文学%寤芻N隆の世界の純粋な映画化が成立するのではないか。……
お相手の石上《いしがみ》三《みつ》登《と》志《し》氏にうまく乗せられて、ぼくの筒井文学論は十四年前のあの時[#「あの時」に傍点]にして、既にかくもエスカレートしていたのであった。
今にして思えば、筒井文学を語るには、古典的純粋映画論について語ればよい。何故《なぜ》なら、筒井さんは目に見えるもののかなしみ≠ノついて、まことに優しく、敏感な人だからである。その現《げん》世《せ》のかなしみ≠、筒井さんは行間に想いを託《たく》して文学表現とする。そして純粋な存在としての映画とは、正《まさ》にその行間≠フ闇をこそ映す表現のメディアであるのだから。
例えば筒井さんに『佇《たたず》むひと』という短編小説がある。人柱として、まるで街《がい》路《ろ》樹《じゅ》のように道端に植えられ、佇んだままやがて木になっていく妻に会いに行く男の物語だ。この世で別れざるを得なかった者がより早く目の前から消え去っておもいで≠ニなってくれるなら、生き残った者の心はどれほど安らかだろう。しかしそれでも日々木になりつつある妻に会いに行く男のかなしみは「観察力こそが人間の真の優しさや、思いやりの心を生む」と信じきる筒井さんの現世に於ける無力感や、それでもなお人間として守り抜かねばならないものへの決意を写して、とても美しい。このまことに純粋に映画的想像力を喚起しながら、また同時に映画化至難の言語作品を映画化するのは、ぼくの生涯の映画的冒険≠ヨの夢である。
更にはかくも古典的にして本格派の筒井文学が何故に異端となるのかと、わが日本文学界を顧《かえり》みれば、わが国で最も本格派の文学的資質の所有者であったかの手塚治虫氏が、異端も異端、マンガのそれも児童マンガ≠ニいうジャンルを自《みずか》ら発明することによってでしか自己の本質を表現し得なかったことを以《もっ》ても窺《うかが》えるだろう。だから時に筒井さんの文学≠ニ文学活動≠ェマンガ≠フように見えてしまうのも、これまた当然といえば当然のことであろう。
今度十四年ぶりにあの[#「あの」に傍点]<<時をかける少女>>が再び映画化されるという。もしぼくにもう一度チャンスがあれば、今度はもう特撮など使わず、これをある兄妹の物語として描きたいと考えていた。愛し過ぎた兄と妹≠ニの禁断の恋≠フ物語である。深町君は、死後の世界から妹に会う為に還《かえ》って来たのである。タッチは日本映画の抒《じょ》情《じょう》的《てき》古典、木下恵介監督の<<夕やけ雲>>のような味わいが宜《よろ》しかろう。
再映画化の監督はもうひとりの足長おじさん♀p川春樹氏自身である。映画監督としての春樹さんは、こういうきりりとした抒情≠フ描出に稀有《けう》の才能を持った人である。今度はぼくは映画館の暗闇の観客のひとりとして、新しい神話≠フ誕生に立ち合わせて頂こうと楽しみにしている。
一九九七年三月四日
(おおばやし・のぶひこ/映画監督)
・文中対談部分は「キネマ旬報」八六五号(一九八三年七月下旬号)の石上三登志氏との対談記事「ジュブナイルだからこそ語れる大人の心の痛み」より、多少の手直しをして一部、再録したものです。
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本書は角川文庫『時をかける少女』所収「時をかける少女」を底本にしました。
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ハルキ文庫 つ1-1
時《とき》をかける少《しょう》女《じょ》
著者 筒《つつ》井《い》康隆《やすたか》
発行 1997年 4月18日初版発行
発行者 角川春樹
発行所 株式会社角川春樹事務所
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Ver.1.00 20061014