七瀬ふたたび
筒井康隆
[#表紙(表紙.jpg)]
目 次
邂逅
邪悪の視線
七瀬 時をのぼる
へニーデ姫
七瀬 森を走る
解説 平岡 正明
[#改ページ]
本文中、
[#凡例(sample.jpg、横90×縦249、上寄せ)]
のような変則的な表現は、左のように表記しています。
{頭が痛くなる/胸がむかつく}
[#改ページ]
|邂 逅《かいこう》
地ひびき。震動。
横なぐりの衝撃。
傾く車体。悲鳴。ガラスの割れる音。
巨岩の重みにねじ曲る鉄骨。折れてはじけとぶ木材。悲鳴。
横倒しになった客車。暗黒。シートの下敷きになって泣き叫ぶ乗客。散乱した網棚の荷物。怒鳴る声。悲鳴。悲鳴。
叫ぶ声。「崖くずれだ」
その声がさらに悲鳴を呼び、悲鳴がさらに拡がる。拡がる悲鳴がさらに新たな恐怖を呼ぶ。
「まだ、落ちてくるぞ」
「岩が落ちてくるぞ」
ああ、と大声をあげ、七瀬《ななせ》は目醒《めざ》めた。
夢か、と思い、吐息をつきながら車内を見まわす。
眠っている乗客、雑誌に読み耽《ふけ》っている乗客、車内は七瀬がうとうとする前と何の変りもない。自分のあげた大声も夢の中でのことと知り、彼女はまたほっとした。
夜汽車は雨の中を、崖に沿って鈍重に走り続けている。雨はあいかわらずの土砂降りだった。七瀬が夕方、この汽車に乗った時からずっと続いている豪雨である。
七瀬は窓の外を眺めた。薄暗い車内燈に照らし出された崖の地肌が、彼女の眼の前を右から左へと流れ続けていた。この豪雨では、ほんとに崖くずれがあるかもしれない、と七瀬は思った。
夢を思い返し、不吉な予感に襲われた。
崖くずれがあるのではないだろうか。
この列車は崖くずれにあって転覆するのではないか。今の夢はその予兆ではなかっただろうか。あれは数分後、数十分後にこの列車の乗客を襲う現実の惨事だったのではないか。
わたしには未来を予知する能力があるのかもしれない、と七瀬は考えた。精神感応能力者《テレパス》である彼女に、透視とか予知とかいった他の超能力が備わっている可能性は考えられないことではなかった。
超能力の持ち主でなくてさえ、自分の死や、自分が将来出会う筈の事件を予知した例は多い。予知というはっきりしたものではなく、不吉な予兆におびえたという話なら数限りなく聞かされてもいる。
意識の深層が未来に起る事件を捕捉《ほそく》し、検閲を突破してその情景を夢になだれ込ませたのではないだろうか。七瀬は考え続けた。ユングという心理学者は、夢に含まれている予言的な性格を認めている。醒めている間は意識にあらわれないさまざまな材料を、夢は組み立て、未来への適応策としてその人間に暗示するというのだ。
では、七瀬にとって、今見たばかりの不吉な夢を形成した材料とは何だったのか。
ひとつは過去のさまざまな崖くずれの事故や、列車の脱線事故、転覆事故に関する数多くのニュースであったろう。そしてもうひとつは、今、七瀬自身の乗っている列車が崖の多い山の中を走っているという事実である。母の実家に帰ろうとするたび七瀬が乗るこの列車は、あと一時間ほど崖の下を走り続けるのだ。もちろん、いつ崖くずれが起ってもちっとも不思議ではないとまで言われている危険な場所を何カ所か通過しなければならないことも七瀬は知っている。そして豪雨は、すでに五時間以上も続いていた。
次の駅でいったん降り、様子を見ることもできる。しかしその場合、田舎の駅の小さな待合室で明日の早朝まで次の列車を待たなければならない。七瀬は考えこんだ。
単に夢として片付けてしまうには、その夢はあまりにもなまなましかった。悲鳴や怒号の迫真性、情景の精密さに加え、その夢には夢特有の誇張や歪曲《わいきょく》がまったく見られなかったからでもあった。
七瀬は他の乗客たちの様子をうかがった。
車内は満席だった。
彼女の向い側の席にいる若い工員は、まだ七瀬の様子をうかがい続け、つけこむ隙を見つけ出そうと躍起になっていた。自分の餓えにぎらぎらした視線が彼女に嫌悪感をあたえるのではないかといったような心遣いは、その若い狼には無縁だった。狼にとって七瀬は餓えを満たす対象のひとつでしかなく、だいたいそれ以前に彼は、女に人格というものがあることなど想像したことさえないようだった。七瀬は何度も、彼に犯されている自分の姿を見せつけられていた。
若い男たちが自分を見て心に浮べる想念を、七瀬はすでに無視できるようになっていた。むしろ、なんとも思わない男に出会ったりするとかえって驚いて、逆にその男の意識を深く観察する気になったりした。当然のことだが、男たちはすべて色欲に関して貪欲だった。目前に迫った破産を案じ続けている男でさえ、七瀬を見ると心の中で彼女を裸にしはじめるのだ。七瀬はそういった男たちの非社会的、非道徳的な情意を、最近ではある程度理解し、許せるようになっていた。男にとってなくてはならぬものと認めてもいた。しかしやはり、眼の前にいる男が心の中で突然裸の自分に突拍子もない恰好をさせたりすると腹が立った。
「眠れないのかい」狼が、馴れなれしく話しかけてきた。
どの男もそうだが、機械工をしているこの若者も、なかば本気で七瀬のことを(こんな女、おれが本気になればいつでも誑《たら》しこめる)と思っていて、七瀬はそれが癪《しゃく》だった。その分不相応な、あきれるほどに過剰な自信をうち砕いてやることは簡単にできるし、それが彼のためになるのかもしれなかったが、同時にそれには大きな危険が伴う筈だった。
つけこむ隙をあたえぬよう、彼女は返事をしないことにした。
わざと粗末な洋服を着てきたため、見くびられたのだろうと七瀬は判断した。だからといって盛装して汽車にひとりで乗ったりすれば、貧しい田舎町の若者は敬遠してくれるかもしれないが、そのかわりにまた別種の男たちの興味の対象となり、つきまとわれることになる。どちらかといえばその方が危険だった。
男たちの意識を読みとることで七瀬は、今年やっと二十歳になった自分の持っている美貌と肉体的成熟度を、己惚《うぬぼ》れを混えずほぼ正当に評価することができるのだ。彼女がやや控えめに自分にあたえた美女としての評価は(それがどんな美人コンテストであっても、三位以下になることは滅多にない程度の美人)であった。彼女自身それを誇っていいのかどうかは、まだよくわからないでいた。彼女の意識に流れこんでくる男たちのエロチックな思念をわずらわしく思うことがあまりにも多すぎたためである。
七瀬が答えないため、狼は苛立《いらだ》ち、腹を立てていた。(お高くとまりやがって。お高くとまりやがって)汚ない爪を噛みはじめた。
「それにしても、ひどい降りようですねえ」
七瀬の隣の初老の男が、しらけた雰囲気と、ふたりの間の気まずさを救おうとして、誰にともなく、吐息とともにそうつぶやいた。むろん、七瀬と若者を意識してのことばである。彼は夜汽車に来るには上等すぎるほどの背広を着ていたが、さほど金持ちというわけではなく、お洒落が自慢の、文化人を気取っている男だった。実際は小さな喫茶店をふたつ経営しているだけなのである。
狸だわ、と、七瀬は、この紳士が隣席に腰をおろした時からそう思っていた。この男の意識内容の低劣さは、身の毛がよだつほどであった。地方の小都市へ行くたび、この種の男に七瀬は必ず出会っていた。
それでも、精神感応能力《テレパシー》を持たない人間の眼には、狸紳士が温厚な山羊《やぎ》に見え、狼青年がスマートな牡鹿《おじか》に見えるであろうことも七瀬は知っていた。
「ほんとですねえ」と、青年の隣の中年女が、ま向いの紳士にあいづちをうった。「崖くずれでもなきゃ、いいんですけどねえ」野卑な|がらがら《ヽヽヽヽ》声だった。
通路をへだてた席で小説雑誌を読んでいた神経過敏の青年が、一瞬びくっとしてから横目を遣って中年女を睨《にら》みつけ、顔をしかめた。
狸紳士は、こういう場所でそんな話題を持ち出した中年女の非常識さをたしなめようとして、あからさまに眉をしかめ、かぶりを振って見せた。「ま、そんなことはないでしょう」
「いえいえ、あなた。それが、|そんなこと《ヽヽヽヽヽ》があるんですよ」
中年女には文学青年のしかめっ面《つら》が意味するものも狸紳士の渋い顔の意味も、ぜんぜん通じてはいなかった。彼女は、この好感の持てる上品そうな紳士の興味を呼び醒ましそうな話題を見つけたことで少し有頂天になっていたし、さらに、彼女自身が今一番おそれていることを話して周囲の人間も怖がらせ、崖くずれの恐怖を他の乗客たちとわけあい、共有することによって自分が安堵《あんど》を得ようとしていたのである。彼女はこの付近に昔から崖くずれが多いこと、今年になってからも国道の方では数件の事故があったことなどを大声で喋りはじめた。
(やめろ、と一喝してやろうか)文学青年がいらいらして、そんなことを考えていた。(もっとも、怒鳴りつけたところで、この馬鹿女のことだから、なぜ怒鳴られたかわからないできょとんとするだろうが)
ますます大きくなる中年女のあひるのような声は、七瀬に頭痛を起させた。
あひると、狸と、狼か、七瀬はそう思い、苦笑した。この程度なら、我慢できないことはないと自分に言い聞かせた。別の座席に移っても、かえってそこには凶暴な虎や豹や、さらには形容しようのない怪物までいるかもしれないのである
狼青年の方は、中年女のお喋りなどには耳も貸さず、ただ一心に七瀬を犯す手段を考え続けていた。
(便所へ行きやがらねえかな。そうしたらあとを追いかけていって、無理やり便所でやっちまうんだが)
驚いたことにこの若者は、同じ工場の女工員を便所て犯したという痴漢顔負けの経験を持っていた。
困ったことになった、と、七瀬は思った。さっきから便所へ立ちたいのを、不潔さがいやで辛抱し続けていたのだ。だが、いずれは行かなければならない。まさか進行中の列車内の便所で犯されることもあるまいが、そんなところにまでつきまとわれるのは我慢ならなかった。
夜汽車は豪雨の中を走り続け、列車の屋根を叩く雨の音はもはや轟音と化していた。そして列車は、崖くずれの危険があるとされている最初の山道へ駆けこんでいった。その地帯へ入ると列車の震動までがなんとなく違って感じられ、不気味だった。地盤が柔らかいからかもしれない、と七瀬は思い、そんな馬鹿なことがある筈はないと打ち消した。だが、おびえは、いつまでも心から去らなかった。
窓外の崖の斜面には植物らしいものが見られず、ただ崖の地肌だけが時には赤く、時には黒く、右から左へと流れていた。赤いのが赤土、黒いのが岩だろうかと七瀬は想像した。
「それでねえ、その時には女の人ふたりと子供ひとりが、岩の下敷きになって死にましてね」あひる女はまだ喋り続けている。崖くずれをおそれながらも、現在、いちばん危険な地帯を通過中なのだという知識は持っていなかった。
あひる女の饒舌《じょうぜつ》に辟易《へきえき》した狸紳士が、七瀬に話しかけてきた。「あなたはどちらまでですか」
「篠田口です」
「ほう。次の次の駅ですな」狸が七瀬をじろじろと見た。
彼は、自分が可愛がっている彼の店のウエイトレスと七瀬とを心の中で比較していた。彼が経営しているその喫茶店は、ふたつとも篠田口よりもふた駅ばかり先の駅の近くにある。そしてまた篠田口の駅前には、彼がそのウエイトレスを最初につれこんで思いを遂げた旅館があり、彼は今、その旅館へ七瀬をだましてつれこむことができるかどうかを検討しはじめていた。
「篠田口へ着くのは、十二時半になりますよ」と、彼は心配そうにいった。「そこからどちらへ。この時間だと、もうバスもないだろうし」(篠田口で、この娘と一緒におりてやろう)
狼が眼をぎらぎらさせ、七瀬の返事に聞き耳を立てた。
「いえ、大丈夫です」と、七瀬は答えた。「家は、駅の近くですから」
「それにしても危ないですな。夜道のひとり歩きは」
自分の方がよっぽと危ない癖に、と、七瀬は思った。
(篠田口でおりてやろうか)狼も、そう考えはじめていた。(家まで送ってやるといって途中で無理やり)
遅い時間の列車に乗ってしまったことを、七瀬は今さらのように後悔した。昼間、美容院へ行かなければよかった、美容院など、篠田口にだってあったのに、多少混んでいても、もっと早い列車に乗ればよかった。
お手伝い稼業をきっぱりやめた機会に、ついでに少女っぽい髪型もやめて以来、つまらないとは思いながらも、他人に見苦しい印象をあたえるのを嫌って七瀬は七日に一度、必ず美容院へ通っていたのである。
「でも、駅前でタクシーを拾いますから」七瀬はそう答えた。
篠田口駅前には、最後の列車が着くまで二、三台のタクシーが必ず待っていることを七瀬は知っていた。「しかし、気をつけた方がいいですよ」狸紳士はあきらめず、七瀬をおどし続けた。「篠田口の運転手には、ずいぶん悪質なのがいますからね」
なんならわたしの知りあいの旅館に紹介してあげましょうか、と、もっともらしい顔つきを作って紳士が言おうとした時、中年女の背後の席に寝かされていた子供が眼を醒まし、声をあげて泣きはじめた。
わたしと同じような怖い夢でも見たのだろうか、と、七瀬は思った。そっと子供の心に触手をのばして観察すると、やはりそうだった。その三歳になる男の子の見た夢は、怖い夢というよりは一種の驚愕《きょうがく》夢であった。そして、はげしくおびえていた。あまりにもおびえかたがはげしく、いつまでも泣きやまないので、七瀬は不審に思った。
「うるさいねえ」あひる女がいまいましげな声で吐き捨てるようにそう言い、立ちあがって子供を抱き、また自分の席に戻った。
子供はその中年女の継子《ままこ》だった。女の腹立たしげな顔におびえ、子供は泣き続けた。
「泣くなったら」女が子供を叱りつけた(くそ。家へ帰ったら、また殴りつけてやるから)
彼女はその継子を憎んでいた。彼女の、継子に対する異常なほどの強い憎悪の中に、少しばかりの恐怖が混っていることを知り、そのことにも七瀬は不審の念を抱いた。女はその子を階段から突き落したことさえあった。だがそれも継子への憎しみというよりは、むしろ恐怖が原因だったらしい。なぜだろう、と、七瀬は思った。
列車は最初の危険地帯を出はずれた。七瀬はやや、ほっとした。しかし雨はまだ降り続けている。次の駅までには、さらに危険な場所がもうふたつあり、次の駅を出て篠田口の手前までくると、そこにはいちばん危険な崖が肩をいからせて待ちかまえているのだ。
車内は暗く、人の顔色は一様に沈み、くすんで見えた。窓が締め切ってあるため、空気は苦く澱《よど》んでいる。
子供がまた、大声をあげて泣いた。それはちょうど女が、その子を階段から突き落した時のことを思い出した瞬間であった。
(いやな子だね。ひとの顔色を見ただけで、早手まわしに泣くんだから)そう考えている中年女の心にはあきらかに、異常なほど勘の鋭い継子に対する一種のおびえがあった。
いつもいじめられているものだから、あの女の顔色だけは敏感に読めるのだろうか、と、七瀬は幼い子供の心理を推測してそう考えた。
やがて泣きやんだ子供を、女は邪険に膝からおろし、背後の席へ押しやった。「さ。そっちの席でおとなしくすわっといで」
一緒にいてやればいいのに、と、七瀬は思った。顔立ちのいい子なので、尚《なお》さら哀れだった。誰かが子供と、席をかわってやればいいのに、そう思い、七瀬は狸紳士と狼青年の顔を見くらべた。
むろん二人の男は、そんなことなど考えもしていなかった。七瀬のからだを奪う策略を練るのに夢中なのである。
人間は策謀好きの動物だ、と、七瀬はまた改めてそう思った。心を読んでみると、ほとんどの人間が常に何かしら策謀している。女たちの策謀はたいてい誰かに意地悪をするためだが、男の策謀の対象は主として仕事上のライバルと女性だった。
(そうだ。篠田口で降りて、駅を出たところでこの女に話しかければいいんだ。送ってやるといって。結構ですっていうだろうが、なあに構うもんか。一緒に歩いていけばいいんだ。そうして)
(お泊りなさい。歳上の人間として、あなたのような若いお嬢さんにこんな淋しい夜道をひとりで帰らせるわけにはいきません。そう言えばいい。実をいうとわたしはこの地区の保安対策協議会の副会長)
(まず、口を手でふさぐんだ。それから耳もとで、でかい声を出すな。片輪になりたくなかったら、おとなしくしろ)
(ここはわたしたちの会議によく使う旅館てす。主人によく話してあげるから)
(わたしがそんな単純な手口に乗るとても思っているのだろうか。ふたりとも)七瀬はそう思い、逆に、若い娘なら人形のようにどうにでもできると思っている男たちの単純さと、成功する可能性の少ない、そして実際上とても実行できそうにないそんな策謀にうつつを抜かしている幼稚さを心で笑った。
「そういえば、この辺の崖もずいぶん危ないみたいですねえ」あひる女が首を七瀬の前に突き出して窓の外を見あげた。
「いいえ」七瀬はぴしりといった。「この辺は大丈夫です。すぐ上を国道が通っていますから」
女は七瀬を睨みつけ、無言で顔をひっこめた。(なんだい、この不良娘は。つんつんしやがって。ちょっとばかり自分が美人だと思って)
男の子が継母の傍《かたわら》らへやってきておずおずと鼻声を出した。「ねえ。おなかが空いたよう」
他の乗客たちの手前、女はわざと猫撫《ねこな》で声で子供を諭《さと》した。「もうちょっと我慢しなさい。さっき、干柿を食べただろ」
「あれじゃ、足りないよう」
「困ったねえ」(この餓鬼、ひと前だとわたしが大声を出せないと思って甘ったれやがって)
女は憎しみに心をゆだね、継子の口もとを力いっぱい抓《つね》りあげている自分を想像した。とたんに、子供が泣き出した。
まるで継母の心を読めるみたいだわ、そう思い、いったいどういう精神構造がそれほどまでに勘を鋭くさせているのかと、七瀬はその子の心にさぐりを入れてみた。だが、三歳の幼児の心は混沌《こんとん》としていて、たとえ感応できても解読するのはひどく困難だった。幼児の意識には論理もパターン認識も寄せつけぬものがあり、そこには思考以前のヘニーデだけが渦巻いているからである。
その子が空腹を訴えるのは無理もなかった。六時頃に夕食を食べて以後、干柿をふたつあたえられただけなのだ。育ちざかり食べざかりの子供なのにと思い、七瀬は育児に無頓着な継母を少し憎んだ。
何か食べるものはなかったかと、七瀬が自分の鞄の中味をあれこれ思い出しはじめた時、列車はふたたび危険地帯に突入した。あきらかに震動がゆるやかになり、汽笛は遠慮勝ちにくぐもった音を出した。
ごとん、と、車輌が大きく揺れた。
七瀬は、ひやりとした。
崖くずれ。衝撃。転覆。悲鳴。暗黒。七瀬の心に、さっき夢で見た情景があわただしく蘇《よみがえ》った。
「わあ」男の子が、また、はげしく泣いた。
「どうしたんだよう、この子は。だしぬけに大声をあげて」継母がとまどった声を出した。中年女はすでに、彼女にとっては小さな怪物ともいえるその幼児の扱いかたに困り果て、途方に暮れていた。
この子は今、わたしの心を読んだ。[#「この子は今、わたしの心を読んだ。」はゴシック体]
七瀬は全身がしびれるほどの驚きで、なかば自失状態に陥った。男の子の意識野には、七瀬が今思い浮べたばかりの崖くずれの情景がはっきりと出現され、焼きつけられていたからである。泣いたのはそのためだった。
精神感応能力者《テレパス》だ、精神感応能力者《テレパス》だ、わたし以外の、もうひとりの、そしてわたしがはじめて出会ったテレパスが、この三歳の男の子なのだ。
自分以外のテレパスと最初に接触する時のことを、七瀬は今までにもしばしば想像したことがある。だが、自分の他にテレパスがいるかどうかがはっきりしない上、相手の性別や年齢、さらには精神構造によっても接触方法は違ってくる筈だと思い、もし万が一そんな人物に遭遇した場合は、臨機応変の態度をとるしかないと判断して、深く考えようとはしなかったのである。むろん、そのテレパスが三歳の男の子であった場合など、想像もしていなかった。
どうしよう、と、七瀬は迷った。話しかけてみようか。呼びかけてみようか。
「ねえ。おりようよ。おりようよ」男の子は継母の手を強く引っぱりはじめた。「この汽車、おりようよ」
「馬鹿なこと言うんじゃないよ」女がきびしく叱り、子供の手をはらいのけた。「走ってるんだよ、この汽車。おりられるわけ、ないだろ」
叱られようが、はらいのけられようが、おびえきった男の子は泣きながらなおも叫び続け、継母にすがりついた。「次の駅でおりようよ。この汽車、おりようよ」
「どうしてそんな、わけのわからないこと言うんだ」継母が怒鳴った。
男の子は絶叫するような疳高《かんだか》い声で答えた。「だってこの汽車、脱線するんだよ。脱線して転覆するんだ」
通路をへだてた席にいる神経過敏の文学青年がとびあがり、手にしていた小説雑誌を床に落し、鬼のような表情で子供を睨みつけた。彼の苛立ちはもはや爆発寸前だったが、相手が子供なので怒鳴りつけることができず、しかたなしに自分のもじゃもじゃの髪の中へ白く細長い指を突っこんで、やたらに頭を掻きむしった。内心の苛立ちそのままに、発狂しそうな眼をしていた。
「お母さんが、崖くずれのことを話されたからでしょう」狸紳士が、それ見たことかと心で笑いながらそう言った。彼は当然、その子をあひる女の実の子供だと思いこんでいた。
七瀬は思いきって、男の子に呼びかけてみた。(心配いらないわ。転覆はしないのよ。そう。あなたよ。あなた、名前、なんていうの)
(どこ)(どこ)(どこに)(どこにいるの)(どこにいるの)(誰)(ほんと)(ぼくに言ったの)
急に泣きやんだ子供が、きょとんとした目つきで周囲を見まわしはじめた。
彼の心を読み、ノリオという名を知ると、七瀬はふたたび心を閉ざした。ノリオというその子との接触には、彼の周囲に人がいない時を狙うべきではないかと考えなおしたからだった。そんな機会があるかどうかは、わからなかった。おそらくはないだろうと考えられた。しかしどう考えても、人前で最初の接触をするのは危険だった。ノリオはむろん、他のテレパスとの交信など初めての体験であろうし、そもそも彼にはまだ、テレパスとしてのはっきりした自覚がないのだから、突然の接触に驚いて、継母や他の乗客の前で奇妙な振舞いを演じはじめる危険もあったし、七瀬からの呼びかけに、発声器官を使ってことばで答えはじめるのではないかというおそれもあった。他人に能力を知られる、あるいは勘づかれるということがE・S・P(エクストラ・センソリー・パーセプション)を持つ者にとって致命的な失策になることなど、三歳のノリオが知る筈もなかった。
急に泣きやみ、きょろきょろと落きつきなくあたりを見まわしはじめたノリオを見て、継母がまた気味悪がっていた。(なんだろうこの子は)(気でも変なのじゃないか)
(死んだこの子の母親も、どことなく気ちがいじみた女だったそうだけど)(その血をひいて、やっぱり)(どことなく)
(いやだ、いやだ)(自殺した気ちがい女の子供を育てるなんて)
ノリオの母親が自殺した原因を女の心から読みとることまではできなかったが、それももしかすると、幾分かはその母親も持っていたかもしれない精神感応能力のためではなかっただろうか、と、七瀬は想像した。
早くこの子に教えてやらなければ、と、七瀬は焦った。七瀬の存在を。彼自身の能力のことを。そして何よりも、その能力を持っているための危険性を。
幼い意識の触手が、おずおずと自分の中に入りこんできて、彼女の思考をまさぐっていることに七瀬は気づいた。
(このお姐《ねえ》ちゃん)(このお姐ちゃんだろうか)(今、ぼくに何かいったのは)(このお姐ちゃんだろうか)
(ママじゃなかった)(ママは)(ぼくを怒るだけだ)(怒ることしか考えない)(ママは)(頭の中へ話しかけたりしない)
彼の意識は今はっきりと、誰かに読みとられることを、それも今の今彼の頭の中へ直接話しかけてきたその誰かに読みとられることを期待していて、急にわかりやすいものに変っていた。
(このお兄ちゃん)(このお兄ちゃんじゃない)(違う)(このお兄ちゃんは悪いやつ)(このお兄ちゃんは)(このお姐ちゃんをいじめることを考えている)
(このおじさんも)(このおじさんもそうだ)(このおじさんも違う)
(だから)(このお姐ちゃんしかいない)
ノリオが澄んだ眼でじっと自分の顔を見つめていることに気づき、七瀬は窓の外へ視線をそらせ、意識を他に向けようとした。だが、うまくいかなかった。
(わたしの意識が今、初めて他人から読まれようとしている)不思議な感動とともに、七瀬はそう思った。初めての体験だった。
列車が危険地帯を脱け出し、畠《はたけ》の中を走りはじめた。
七瀬は、通路に立ったまま、まだ自分の方をじっと見つめているノリオに笑顔を向けた。ノリオがぎくりとし、あと退《じさ》りした。彼女の顔を見つめ、心を覗こうとしていたことに、子供ながら気が咎《とが》めたのだ。
「さあ。もう大丈夫よ。畠の中だから。脱線も転覆もしないわ。この汽車は」七瀬はそう語りかけた。
「う、うん」尻ごみしながらも、ノリオは大きくうなずいた。
ノリオに意識を読まれまいとすれば、思ったことをすぐことばに出して話しかける以外に方法はなかった。
「こっちへいらっしゃい」手招きした。
(悪い女《ひと》じゃない)(ぼくが好きなんだ)(何か、くれるんだ)(食べるものをくれるつもりなんだ)そんなことを思いながら、ノリオがためらいがちに、継母と狸紳士の膝の間を通って七瀬の前へやってきた。
七瀬は立って網棚の手提鞄をおろし、中からせんべいの、ビニール袋を出した。そしてノリオを膝の上に抱きあげた。抱きしめていれは、ノリオが突然第三者の眼に奇妙に映るような行動をとろうとしても、事前にそれを制することができる。
「あら。すみませんねえ」女がそっけなく七瀬に言い、すぐ顔をそむけた。(なんだい)(あてつけがましく)(いかにもわたしが子供を虐侍してるみたいに)(これ見よがしに)(急に)(可愛がりはじめやがって)(べたべたと)
(いやな女)(意地の悪い小娘)
「名前、なんていうの」
そう七瀬が訊ねると、ノリオは(知ってるくせに)と思いながらも、自分の名を教えた。七瀬の心の中に、すでに自分の名前を発見していたからだった。
(大人はなぜ、知ってることをわざわざ訊ねたりするんだろう)何度もあったことらしく、そんな考えに耽《ふけ》りながらノリオはせんべいを囓《かじ》りはじめた。しかし彼は決して七瀬を怖がってもいなければ、彼女に対して反感を抱いているわけでもなかった。七瀬の意識の中に、ノリオをかばおうとする気持や、肉親への愛に似た感情を見つけていたからである。
幼い子供には、大なり小なり精神感応能力があるのかもしれない、と七瀬は思った。彼らにはみな、自分を可愛がり、守ってくれそうな大人と、そうでない大人とを敏感に見分ける眼が備わっているからだ。
(このお姐ちゃんに)(教えてやらないといけない)(せんべい)(固い)(おいしい)(駅でおりたらいけないよ)(教えてやらなければ)(このお兄ちゃんが)(悪いことをする)(考えている)
(首を締める)(お姐ちゃんが)(首を締められる)
(おじさんも)(このおじさんも)(悪いことを考えている)(裸にされる)(無理やり押えつけられる)
三歳の幼児に、男たちが心に描いている強姦といった暴力場面がよく理解できないのは無理もなかった。ノリオはただ男たちの強烈な害意と暗い情熱だけはひしひしと感応していて、それをなんとか七瀬に伝えようと考えていた。
(どうしたら)(教えてあげられるか)(ここで言ったら)(またママに叱られる)(皆が笑う)
(このお兄ちゃんが怒る)(このおじさんも怒る)
(考えていたら)(考えていたらわかるだろうか)(このお姐ちゃんにわかるだろうか)(わかってくれるだろうか)
(わかるわ)危険とは思いながらも、心でそう答えるしかなかったり(わかるわ。だからもう、そのことは考えなくてもいいの)心の中でそうつぶやきながらも、七瀬は誰にも見られぬように、ノリオの手をぐっと強く握りしめた。
だが強く握りしめた意味をノリオは悟ってくれなかった。
「だって」と、彼は小さな声でささやきかけてきた。「だってねえ」
あっ、と思い、七瀬はいそいで周囲の人間たちの様子をうかがいながら、強くノリオの心を圧迫した。(ことばで返事しちゃだめ。声を出さないで)同時に、笑顔を向けてノリオに訊ねた。「何が、|だってねえ《ヽヽヽヽヽ》なの」(しっ。ことばで返事しちゃだめなのよ。わかるでしょう。どうすればいいか)
小さな頭脳が、いそがしく回転していた。三歳の子供とは思えぬ知性だった。彼はやがて、七瀬が教えた通りのことを喋り、演じて見せた。
「ううん」と、ノリオはかぶりを振った。「なんでもないの」
(そう。そうよ)(わかってくれたのね。そうなのね。わかったのね)七瀬はノリオの手の甲をやさしく叩いた三歳の幼児らしからぬ芸当を、ノリオはして見せたのだ。
さいわい前と横の席の三人は、七瀬とノリオのひそひそ話を、どうせ他愛ない会話だろうと思い、それ以上にはほとんど何の興味も示すことがなかった。
(そうよ。そうよ。口をきいちゃだめ)(なぜだかわかるでしょ。ね。なぜだかわかるてしよ)柔らかな幼い心に急激な動揺をあたえぬよう気遣いながら、七瀬はやさしく接触を続けた。
もうしばらく行けば長いトンネルがある筈だった。そのトンネルの中では轟音がはげしくなり、多少大声で会話していてさえ相手のことばが聞きとりにくくなる。それまでは、ノリオの心を不必要に刺戟《しげき》して声をあげさせる危険は避けた方がよかった。
(もうしばらくしたら、教えてあげるわ)
(どうして)(どうしてなの)(どうして今してくれないの)(何を)(何を教えてくれるの)
彼の質問に答えるつもりはまったくなかったのだが、つい彼の意識に触発され、七瀬はノリオの秘密に関したことがらを、うっかりと意識に浮べてしまった。(超能力)(読心)(なぜこの子があの女から恐れられているか)(なぜ階段から突き落されたか)(それも今にわかる)(この子にはどう教えたらいいのか){(わたしたち、ふたりだけということを)/(特別な人間なのだということを)}(どう教えたら)
いけない、と七瀬は思い、あわてて考えを他に転じようとした。だが、深層からあふれ出てくるはげしい意識の流れを意志の力で制止することはひどく困難だった。そしてノリオはすでに、すべてを読みとってしまった様子だった。彼はあきらかに興奮しはじめていた。今までの疑問が、七瀬の心を読むことによって次つぎと氷解していくためだった。
「あっ」と彼は大声で叫び、七瀬の膝の上で顔の向きを変え、彼女の瞳をのぞきこんだ。「じゃ、他のひとはみんな、自分の考えていることしか、わからないのね」人声で、彼はそういった。「他のひとの考えてることがわかるのは、ぼくと、そして、お姐ちゃんだけなんだね」
その時、すでに列車はトンネルに入っていた。ノリオのことばは、七瀬以外の誰にも聞かれずにすんだ。
一瞬停止したかと思える心臓の鼓動がもとに戻ってから、七瀬はまた、強くノリオの心に訴えかけた。(ことばを使ってはいけないって、そう言ったでしょ)
「あ」(しまった)(ご免)(ご免よ)(うっかりしたの)
(駄目。口をしっかり結んどくの)
「うん」
「しっ」(ほら。また声を出す)
「あ」(ご免)(うっかりしたんだよ)
七瀬はふたたび、前と横の席の三人の様子をうかがった。ノリオの継母は居眠りをしていた。狸紳士は新しく雇ったばかりのウエイトレスを誑しこむ作戦に熱中していた。七瀬とノリオの様子を奇妙なものに思い、じっと観察し続けているのは、向い側の狼青年だけだった。
(何をふざけてやがる)(この子供、興奮してやがるぞ)(どうしてだ)(何を話している)(たまにやさしくされたもんで、よっぽど嬉しいんだろう)(邪魔っけな餓鬼だ)(変なやつだな)(ふたりとも、やたらにきょろきょろしやがって)
危険だ、と、七瀬は思った。接触をやめなければいけない、と、そう思った。だがノリオは今、生れて初めての他人との心のふれあい、意識と意識の交信に夢中になっていた。彼自身のことを物語るのに熱中していた。無理もなかった。ことばで話すのとは違い、単語がわからなければイメージで補うこともできるから、複雑な意味や内容、そして自分の意志がすらすらと通じるのだ。当然、純真な彼の表情は、子供が久しぶりで出会った友達にいきごんで何かを物語る時と同様、いきいきとして、さまざまに変化し続けていた。ノリオの表情の変化を、七瀬は、狼青年に勘づかせまいと苦心した。ノリオと顔を向けあい、いかにも会話をしているように見せかけるため、無意味に口をぱくぱくさせたりもした。
(ママ)(本当のママじゃない)(本当のママは死んで)(あのママは)(階段からぼくを突き落した)(ぼくが叫んだからだ)(ぼくを階段から突き落してやろうかと)(ママが)(考えたからだ)
(考えたからいけないんだ)(だからぼくは)(ぼくを階段から突き落さないでと叫んだ)(そしたらママは)(ママも叫んだ)(叫んだ)(そんなこと考えちやいないよって叫んだ)(ぼくが怖かったからなんだね)(先にぼくが言ったからだね)(ママの考えていることを)(先に言っちゃいけなかったんだね)(それで)(そのために)(怖くて)(そしてぼくを)(突き落したんだ)(本当に突き落しちまったんだよ)
(そうよ)(そうよ)七瀬はいそいであいづちをうち、ノリオの奔流のような告白を中断させようとした。
あと数十秒で、列車がトンネルを出る筈だったからである。
(だから、人の心が読めることを、誰にも教えてはいけないの)(ひどい目にあわされるのよ)
(あなただけじゃないのよ)(お姐ちゃんまで、ひどい目にあうのよ)(だからもう、心で話しあうのはやめましょう)
(どうして)(どうしてなの)
(心と心で話しあっていることが、他のひとに気づかれるといけないからよ)
はっとして、ノリオが狼青年の方を振り返った。青年がノリオの視線を捕え、彼を睨み返した。
その時、列車がトンネルを出た。
「こら」狼青年がにやりと歪んだ笑いを見せ、七瀬にいった。「お前ら、おれの悪口言ってたんだろう」
「ちがうよ」と、ノリオが悲鳴のような声をあげた。
その声で中年女がうたた寝から醒め、眉をしかめてノリオを叱った。「これ。汽車の中でそんな大きな声、出すんじゃありません」
これ以上この場にいてはいけない、と七瀬は思い、すぐに立ちあがった。「ちょっとお姐ちゃん、トイレに行ってくるわね」
ノリオにそういうと、彼はすぐに七瀬の心を読んで大きくうなずいた。「ぼくも一緒に行く」
(あら。あなたはここにいてもいいのよ)
うっかり彼の意識に語りかけてしまった七瀬が、一瞬はっとした時、ノリオはそれを無視してもう一度くり返した。
「ぼくもトイレに行く」(お願い)(つれてって)
七瀬は無理やり、くすくす笑いをして見せた。「そう。じゃ、つれてってあげるわ」
「すみませんねえ」あひる女が白い目で七瀬を見あげ、ほんのこころもち頭を下げた。(手なずけやがった)(憎らしい子だね)(いかにもわたしとふたりだけになるのが怖いみたいに)
よかった、と、七瀬は思った。手洗所でノリオとふたりきりになれる機会ができた上、狼青年に襲われる危険も去ったわけである。まさか子供と一緒の時に襲いかかったりはしない筈である。
交代で用を済ませてからノリオの手を洗ってやっている時、七瀬はことばを使って訊ねた。
「パパはいないの」
いるよ。でも、ほとんど家にいないよ。ママと仲が悪いんだ」
「パパは、あなたを好きじゃないの」
「あんまり好きじゃないみたいだ」
そうだろう、と七瀬は思った。子供を愛しているなら、あんな女に子供をまかせられる筈がない、と、そう思った。
「あなたはパパが好き」
「酒飲みだから、嫌いだ」
強がりではなく、ほんとにそう思っているようだった。
そんな会話を交わしたり、住所を訊ねたり、もういちど念入りに、読心ができるようなそぶりをこれっぽっちも他人の前で示してはならないことなどを教えこんでいる時、手洗い場へ、やたらに背の高い青年が入ってきた。
「あ。失礼」
隣の手洗い場へ行こうとして引き返しかけた青年が、七瀬の顔を見て、突然立ちすくんだ。
(あ。この娘《こ》だ)彼は眼を丸くし、まじまじと七瀬を見つめた。
「どうかなさったんですか」と、七瀬は彼に訊ねた。青年の心が、なぜか七瀬に出会ったために大きく混乱していて、急には解読できなかったからである。
「いえ。いえ、あの」青年はどきまぎした。
顔が長く眼の丸い、やや道化た感じの青年だった。彼は無意味に両手を上げ下げした。
七瀬は青年の考えていることを知ろうとした。不思議な精神構造の持ち主で、彼の意識はほとんど視覚的な事象、事物で満ちていた。その中には、七瀬とノリオと、そしてこの青年の三人が、ノリオを中にはさんで手をつなぎ、まるで三人家族といったような親しげな様子で、どこかの駅のプラットホームを彼方へ歩いて行く情景も含まれていた。
変なひと、と七瀬は思い、くすくす笑った。「どうしたの。わたしの顔がそんなに珍しいの」
「いや。あの」青年が照れて笑いながら、頭に手をやった。(ええい。どう言って説明すればいいのか)(こんな美人でなければ、もっと簡単に喋れるのに)
列車はまた、危険地帯に入ったようだった。震動が例によって、あきらかに無気味な低い轟音を伴いはじめていた。
(あ)青年が敏感に耳を立てた。
その時七瀬は、青年の心の中に、自分が夢で見たあの崖くずれの情景がそのまま再現され、あの通りの順序でゆっくりとくり返されているのを発見した。「あっ。それじゃあなたは」
七瀬が叫ぶと同時に、青年も七瀬に叫び返していた。「よかった。やっぱり君もそうだったのか。君も崖くずれを予知したんだね。列車の脱線を。転覆を」
「本当に転覆するの」ノリオが眼を丸くした。「やっぱり本当なの」
「ノリオちゃん」七瀬はしゃがみこんでノリオにいった。「お姐ちゃんね、ちょっとこの人とお話があるの。先にママのところへ戻っていて頂戴」
この青年にも、自分とノリオの能力を知られてはならなかった。ノリオがいると青年にそれを悟られるおそれがあったため、先にノリオを戻らせようとしたのである。
だがノリオは、不審げに首を傾《かし》けた。(どうして)(どうしてここにいてはいけないの)(ぼくもここにいたいよ)(いたいんだよ)(このお兄ちゃんは、今、ぼくのことも考えていたよ)(お姐ちゃんだって見ただろ)(どうして)
「でも」と、ノリオは小さくつぶやいた。もじもじした。それから急に不安に襲われ、叫ぶように七瀬に訊ねた。「ほんとにこの汽車は、脱線して転覆するの。ねえ。ほんとなの」
「大丈夫だよ」青年がノリオに笑いかけた。「ぼくたち二人は助かるんだ」(そうだ。この子もだ)(予知によれば、この子も含め、この三人が次の駅でおりて、崖くずれから免れる筈だ)
「へえ。どうして」(どうしてそんなことが先にわかるんだろう)(この男のひと、誰なの)
「さ。ノリオちゃん。お願い」七瀬はノリオに訴えかけた。(お願い。席に戻っていて。すぐ呼びに行ってあげるから)
「うん」七瀬の切迫した調子に圧倒され、ノリオはやっとうなずき、しぶしぶ客席に戻っていった。
七瀬は立ちあがり、青年と向いあった。「あなたが崖くずれを予知したのは、いつごろなの」
「二十分ほと前だ」(こんなに綺麗なのに、どうしてこんな見すぼらしい恰好してるんだ)(眼立たぬようにしてるのかも)(予知能力を隠そうとして)
二十分ほど前なら、七瀬が夢を見た時刻とほぼ同じである。ノリオが泣いて眼を醒ましたのも、そのすぐ後だ。この青年の予知した内容があまりにも強烈だったため、同じ列事に乗っている自分やノリオの無防備の意識になだれこんできたのだろう、と七瀬は判断した。だが今はこの青年に自分のことを、彼と同じ予知能力者であると思わせておいた方がよかった。
「わたしが予知したのも、ちょうどその頃だわ」
(やっぱりこの娘《こ》も予知能力者か)(そうか)(よかった)(安心して話せる)(それなら安心だ)
(初めてめぐりあえたぞ)同胞を見つけ出した喜びに、青年の顔が親しみでほころんだ。(すばらしい)(美人だ)「今までにも、自由自在に先のことを予知していたのかい」
七瀬はしばらく考えてから、ゆっくりと訊ね返した。「あなたはどうなの」
(この娘、警戒しているな)(無理ないけど)(能力が他人に知られることを)(おれと同じように)(警戒しているんだ)(安心させてやらなきゃ)
「ぼくには子供の時から予知能力があった」青年は便所の横の壁に凭《もた》れ、ポケットから煙草を出した。「さいわいこの能力を誰にも気づかれないまま、こんなに背が伸びてしまったけど、予知がはずれたことはまだ一度もないんだよ」いささか自慢げにそううちあけ、自分が煙草を一本くわえてから、ふと気がついて七瀬にもさし出した。
七瀬はかぶりを振った。「煙草を喫っちゃだめよ」
「どうして」
「能力が低下するわ」
「へえ。やっぱりそうか」(よく研究してるんだな。この能力のことを、おれよりもよく研究してるのかもしれないぞ)「君はどうなんだい」
どう答えていいか迷い、七瀬は少しためらった。「何がどうなの」
(まだ警戒してるな)「君の予知能力はどの程度なんだい。いいんだよ、ぼくになら言っても」
七瀬は溜息《ためいき》をついた。「あなたほどじゃないわ。それより、あなたの席はこの列車のどの辺になるの」
(誤魔化した。何か隠してるな)「前から三輌目だ」
七瀬の乗った客車は二輌目だった。さほど離れた場所ではない。それでも、見知らぬ人物の意識を初めて感応できた距離としては、一種の人混みの中ということを勘定に入れなくてさえ、七瀬の新記録といえた。この青年はよほど強い精神力を持っているに違いない、と、七瀬は想像した。
「ぼく、岩淵|恒夫《つねお》っていうんだ。恒は恒星の恒」
「わたしは七瀬。火田七瀬っていうの」「へえ」(おかしな名前だ)「美人だね」
「ありがとう」
ふたりは微笑みあった。
恒夫も、たいていの男性と同じように頭の中で七瀬を裸にしてしまった。それから彼自身も裸になり、七瀬に抱きついてこようとした。その時、ふたりの間へノリオが割って入り、恒夫を睨みつけた。
「さっきの子は、君の弟かい」
恒夫の不意の質問に、七瀬はまたどぎまきした。赤の他人だと言ったりすれば、次の駅でノリオをつれておりることができなくなる。
「まあ、弟みたいなものよ」
「ふうん」(どうしてそんなに、隠しごとばかりするんだ)(女はこれだからいやだな)「ところで、そろそろ次の駅に着くよ。白樫とかいったな。ぼくはもうおりる用意をした。君、おりる用意はまだかい」
七瀬はじろり、と恒夫を見あげた。「あなた。平気なの」
「何がさ」
「この列車は脱線して、転覆するのよ」
「そうさ。死者九人、負傷者百二十一人だ。最初は死者七人、行方不明二人だけど、その二人は土砂の中から死体で発見される。最初から白樫でおりる予定だった客を除き、おれと一緒に途中下車して命拾いするのは君とあの子だけだ」
「事前にそれを予知していながら、誰も助けてあげられないの」
「そいつは無理だね」恒夫は七瀬を睨みつけた。(自分だって予知能力者の癖に)(そんなことがわからないのか)(わかっているくせに)(ヒューマニストぶりやがって)(良心なんて)(甘ったれるな)(事前に予知したことを騒ぎ立てたりしたら)(笑いもの)(誰も信じない)(しかも、その予知が正しかったことは事後に証明される結果となり)(能力が皆に知られてしまう)(迫害)(見せ物)(人間扱いしてもらえなくなる)
もちろん、そんなことは七瀬にもよくわかっていた。彼女は溜息をついた。「ただ、言ってみただけ」
狼青年が客席からのドアをあけ、手洗い場の通路に入ってきた。ノリオが彼女よりも先に席へ戻ってきたため、手洗い場にはまだ七瀬がひとりでいるものと思いこみ、絶好のチャンスとばかり舌なめずりをしてやってきたのである。彼は恒夫を見て大きくとまどい、しばらくぽかんと七瀬を眺めてから、やっと笑顔を作った。
「や、やあ」
そして恒夫に敵意のこもった視線を向け、便所に入った。
「誰だい」と、恒夫が訊ねた。
「しっ」七瀬が唇に指をあてた。便所の中で狼が聞き耳を立てていることを知ったからである。
恒夫の心の中に、彼が今初めて会ったばかりの狼青年が潰れた車輌の尾根の下敷きになって死んでいる情景を見出し、七瀬は息をのんだ。(では、あの子死んじゃうんだわ)(他に、誰と誰が死ぬのかしら)
七瀬には、崖くずれが白樫と篠田口の間のどこかで起るということと、死者と負傷者の数しかわかっていない。この岩淵恒夫という青年には、まだまだ訊ねたいことがいっぱいある。しかし迂闊《うかつ》に質問するわけにはいかなかった。七瀬は彼同様、予知能力者ということになっているのだ。
当然知っている筈のことを質問したりすれば、予知能力を疑われることになり、さらには彼女の精神感応能力を悟られることにもなる。
同じ超能力者とはいえ、予知と精神感応ではその能力の性質が大きく異なるのである。同胞として彼女を信じ切っている恒夫には悪い気もしたが、今のところは彼を他の一般人同様に警戒しておいた方が安全であろうと七瀬は考えたのだ。
でも、不思議だわ、と、七瀬は思った。同じ列車に、超能力者が三人も乗りあわせるなんて。
狼青年が便所から出てきて、客席へ戻っていった。
「あいつ、手も洗わないよ」恒夫がくすくす笑って言った。「また睨んで行きやがった。あいつおれに反感を持ってるな」(この娘に気があるんだろう)
「あの子、死んじゃうのね」
「そうさ。あいつの真上へ岩が落ちてくるんだもの」
恒夫が平然としてそういった。
七瀬は思わず、ひっ、と音を立てて息を吸いこんだ。
「あの人の真向いがわたしの席なのよ」
「へえ。そうだったのか」恒夫は少し驚いたが、すぐ平静に戻った。「いいじゃないか。どうせ君は次の駅でおりるんだ」(なんだ。この娘《こ》はそんなこと、今ごろ知ったのか)
七瀬は失敗に気がつき、弁解した。「わたし、岩が落ちてくる場所までは予知できなかったの」
ては、あの狸紳士も、ノリオの継母も死ぬのだろうか。おそらく死ぬのであろう。あの神経過敏の文学青年はどうなのか。七瀬がひとりそんなことを考え続けていると、恒夫が腕時計を見せて彼女にいった。
「あと十分で白樫駅だ」
七瀬はうなずいた。「手提鞄がひとつだけ。おりる用意というほどのこともないの」
問題は、ノリオをどうやって継母からひきはなし、一緒につれておりるかであった。
三歳の幼児なのだから、ノリオ自身の意志がどうであろうと、保護者に無断で列車から連れておりたら、客観的には幼児|誘拐《ゆうかい》ということになる。
でも、あの子の命を救うためなら、それくらいの危険は冒してもよい、七瀬はとっくにそう決意していた。いや、彼女の決意以前に、恒夫の予知によって、そして運命の意志によって、七瀬がそうするであろうことは決められてしまっているのである。神様の命令には逆らえないわ、と七瀬は思った。
「でもわたし、やっぱり、そろそろ鞄とってくる」と、七瀬はいった。
「うん。おれも荷物を持って、ここに戻ってくるよ」
七瀬と恒夫は、客車の二輌目と三輌目に別れた。
車窓の外の夜には、雨の中にすでに小さな町の夜景が流れていた。最初から白樫駅でおりる予定だった乗客二、三人が、荷物を網棚からおろしはじめている。
ノリオはもとの自分の席、継母の背後に腰かけていた。
手提鞄を網棚からおろし、七瀬は狸紳士にいった。「わたし、白樫でおります」
「ほう」狸紳士が表面はあまり興味のなさそうな顔でうなずいた。「白樫からタクシーに乗るんですか」
「いえ。駅前に親戚がありますので、そこに泊ります」
「それならいい」狸紳士が腹の中で舌打ちしていたる「白樫なら、わりあい賑《にぎ》やかだからね」
(嘘をつけ)狼青年が嫉妬と憎悪で心を煮えくり返らせながら毒づいた。(便所で知りあったあの男と、どこかへしけ込みやがるんだ)彼は恒夫と七瀬が裸でもつれあっているシーンを胸に描きはじめた。
(どうするの)(ぼくは)(どうすればいいの)(つれていってくれないの)ノリオがけんめいに、七瀬の意識へ呼びかけていた。
(ちょっと待って。どうすればいいか、すぐ教えてあげるから)
それが誤魔化してないことを、七瀬の心を手さぐりしてすぐに悟り、ノリオは納得した。七瀬はほっとした。ノリオがつれていってくれと泣きわめくのではないか、そんな最悪の事態を想像し、おそれていたのである。
「本当は」と、最後に七瀬が、狼青年と、狸紳士と、あひる女の三人に、いささか切口上で告白した。「崖くずれがこわいから、ここでおりるんですわ」
三人は腹の底で七瀬の臆病さを嘲笑《ちょうしょう》した。
居眠りしていた神経過敏の文学青年が、びくっとして眼を醒まし、いまいましげに七瀬を睨みつけ、膝の上から床へとり落した小説雑記を拾いあげた。
こんなこと言わない方がいいのだが、そう思いながらも七瀬は自分の良心を納得させるため、低い声で三人にいった。「白樫でおりた方が安全ですわよ」
(いやなこという娘だね。この娘は)自分のことを棚にあげ、あひる女が怒りをこめて無言で七瀬にうわ目を遣った。
「だって、次の列車は明日の朝だからねえ」狸紳士が大っぴらに冷笑した。
「崖くずれなんか、あるわけねえよ」狼青年は乱暴にそう言い、眠るふりをした。(勝手に楽しみやがれ。だけどあのひょろ長い男が相手じゃ、ろくに満足させて貰えねえぞ)
ではしかたがない、といった態度を露骨に見せて七瀬は通路に立ち、あらためて|しゃん《ヽヽヽ》と胸をそらせ、それから三人に一礼した。「お先に」
手洗い場の前まで戻ってきたが、恒夫はまだ来ていなかった。七瀬はさっき恒夫が凭れていた壁によりかかって眼を閉じ、強く意識を放射した。
(ノリオ)(ノリオ)(ノリオ)(返事して)(お姐ちゃんよ)(声に出さず、大きく返事するのよ)
ノリオからの応答があった。(お姐ちゃん)(お姐ちゃん)(お姐ちゃん)(ぼくだよ)(どこにいるの)
(さっきのところよ。お手洗いの前の通路)
(ぼく、どうしたらいいの)
(あなたのママはどうしてるの)
(ママの向い側のおじさんの方へからだを倒すみたいにして、お話してるよ。おじさんとふたりで、お姐ちゃんの悪口を言いあってるよ)
(ええ、ええ。それはわかってるの。ここまでびんびん響いてきてるわ。お姐ちゃんが訊きたいのはね、あのね、ノリオ、あなたは今、どこの席に腰かけてるの)ノリオの視覚を読もうとしたのだが、うまくいかなかったのである。
(さっきのところ)と、ノリオは答えた。(ママのうしろの席)
(まあ。またそんなところにすわらされてるの。わたしの席があいてるのに)
(お姐ちゃんのいた席へは、お兄ちゃんが足を投げ出していて、すわれないんだ。お兄ちゃんは寝ちゃったみたい)
(その方がよかったわ。ノリオ。よく聞いて。ママに見つからないように、そっと出口の方へ行けるかしら)
(うん。行けると思う。でも、見つからないように行こうとすれば、お姐ちゃんが今いるのと反対側の方へ行っちゃうよ)
(反対側でいいのよ。プラットホームて待っててあげるから)
(今すぐ出口まで行っていいの)
(まだよ。まだ席を立っちゃだめ。もうすぐ列車が停るわ。駅へ着くのよ。駅でしばらく停車するの。あわてないでね。わたしが、よしって言ったらすぐに来るの。わかった)
(わかったよ)
恒夫が荷物を持ってやってきた。ボストン・バッグの他に、大きなスケッチ・ブックを腋《わき》にかかえていた。
「あなた、画家だったのね」視覚に関係のある仕事だろうと七瀬が想像していた通りだった。
恒夫は少し不服そうな表情をして見せた。「いや。イラストレーターだよ」
恒夫の心をいくら覗きこんでも、画家とイラストレーターの違いはよく呑みこめなかったった。恒夫があてもなく旅行しながら仕事をするのが好きらしいことだけが理解できた。
「あの子はどうしたんだい」
「あっち側から、ひとりでおりるわ」
恒夫は首をかしげた。(どうしてそんなことをさせるんだ)(あんな小さな子に)(危険じゃないか)(そういえばさっき、この娘はあの子に、|ママのところへ戻れ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》といっていたぞ)(するとこの列車に、あの子の母親が一緒に乗っているわけだ)
ノリオの母親を知らぬ恒夫には、彼女が崖くずれで死ぬかどうかを判断できないようだった。(してみると、この娘とあの子は姉弟じゃない)恒夫の心に一瞬の混乱があった。(むろん、あの子をつれてこの列車からおりることは予知によって確定している。しかしあれがもし、よその子だとするとあとが面倒だぞ)恒夫は七瀬に向きなおり、彼女の顔をまともに見つめた。「おい。あの子は君の弟じゃないな」
七瀬は溜息をついた。本当のことをうちあけなければしかたがなかった。「赤の他人だわ」
(どうしてそんなことを)
七瀬は縋《すが》るような眼で恒夫に訴えかけた。「でも、あの子は殺せないわ。あんな可愛い子を」
「君になついてるのか」
「ええ」
「母親よりもか」
「一緒に乗ってる人は継母なのよ。いじめられてるわ」七瀬は恒夫の心がやや軟化したのを見、にやりと笑って彼にいった。「どうせ次の駅であの子をつれておりることは決定済みなんでしょ」
「それはそうだ。つれておりるなとはいわないけど、そのために事故を免れたとなると、殊に、もしも母親の方が死んだりしたら、これは新聞だねになるぜ。危険だ」
「いいえ。ちっとも危険じゃないわ」七瀬はけんめいに反駁《はんばく》した。「新聞だねにはならないわ」
「どうしてわかる」
「わたしがそう予知したわ」思わずそう口走って、七瀬は顔を赤くした。
(嘘つけ、この娘の能力でそんなところまで予知できるものか)恒夫はにやにや笑った。
七瀬も、照れ隠しのようににやにや笑って見せた。
(ま、いいだろう。おれが予知した末来の改変は、どうせ人為的には不可能だものな)恒夫の自信はその点で大きかったし、だから未来に関して、彼はおどろくほど楽天的だった。
七瀬はうなずいて見せた。「そうよ。なんとかなるわ」ノリオをどうするかは、とにかく彼を列車から無事におろしたあとで考えればよい、と、七瀬は思っていた。
「なんとかなるって、どういうことだ」恒夫はまた、不審げな顔を七瀬に向けた(こいつ、自分がこれから何をするかもまだ予知できないでいるのか。自分のことじゃないか)
「これからどうする気だ。次の駅では、あまり永居しない方がいいんだぜ。崖くずれ事故で、あと一時間もしたら白樫駅の構内は救助活動の警官やら医者やらてごった返す。わかっているだろうがね。だいたい君は、どこへ行くつもりだったんだ」
「篠田口の駅の近くにある、母の実家よ」
「もちろん、行かない方がいい」
「わかってるわ」タクシーで母の実家に行ったりすれば、列車の事故が知れわたったあとで、なぜ白樫駅ておりたりしたのかと、その不自然な行動を問いつめられることになる。「今夜帰るということは、特に連絡していないの。だから行かなくても、誰も心配しないわ」
「じゃ、どこへ行く」そう訊ねた恒夫の頭に、閃光《せんこう》のようなものが明滅し、ひとつの情景がまたたいた。列車の窓から七瀬とノリオが首を出していて、それを見送る体《てい》で恒夫がプラットホームに立っているという情景だった。
「よし。わかったぞ」恒夫があたふたと鞄から時刻表を出した。「この列車が崖くずれにあうのは零時十八分だ。ところがそれよりも前、十分ほど後に崖くずれが起る筈の現場を無事に通過してこっちへやってきて、この駅に停る列車がある」
その時、白樫駅のプラットホームの灯が列車を包んだ。
「わたし、その列車に乗って引き返すのね」
「そうだ」
列車は停止した。七瀬はプラットホームにおり、二輌目の前部出口へと駆けた。深夜なので、列車に乗るためにプラットホームで待っている人間の数はほんの二、三人だった。
降りる客が全部おりてしまうと、七瀬はすぐ、ノリオに呼びかけた。(ノリオ)(ノリオ)(ノリオ)(今よ)(いらっしゃい)
(待って)と、ノリオが応答してきた。(今、ママの向い側のおじさんがこっちを見てるから)
ノリオは意外に落ちついていた。大人の眼をかすめて悪戯《いたずら》をする時のような気軽さがあり、むしろ切迫した情況を楽しんでいるかのようにさえ、苛立っている七瀬には思えた。
発車のベルが鳴った。
「なんだ。出てこないじゃないか」七瀬の背後に立っている恒夫がそういった。さっきまではノリオを列車からおろすことに懐疑的だった癖に、いざノリオが出てこないとなると今度は予知に反した事態になることを恐れはじめたのである。そんな状態は、いわば彼の常識に反しているからだ。
「おいっ。出てこないぞ」恒夫がうろたえはじめた。
(予知した未来の人為的な改変は、予知能力者の存在の否定につながる)彼はなかば本気でそう信じていた。(いや。これは人為的な改変ではなかろう。しかし、こんなことは初めてだ。いかん。おれが消滅するじゃないか)
そんな馬鹿なことがあるわけはない、心の隅で七瀬はそう思った。が、今はノリオへの呼びかけにけんめいで、それを深く考えている余裕はなかったっ
(ノリオ)(早く)(まだなの)
(うん)(今、そっちへ行ってるよ)
列車が、とん、と音を立てて動き出した。
(ノリオ)
「お姐ちゃん」ノリオが出口にあらわれた。
「とびおりなさい」
「うん」
ノリオが走りはじめている列車からとびおりた。よろめき、転びそうになったノリオを七瀬がしっかりと抱きとめた。そして自分の顔を彼の頭に伏せて、からだを凝固させた。
とんとん、とんとん、とプラットホームを軽く震わせながら列車が速度をあげ、プラットホームから出はずれてふたたび豪雨の中へのめりこんで行ったのを見届け、やっと七瀬は顔をあげてノリオのからだをはなした。
「ひと目につくといけない」恒夫がいった。「あっちのプラットホームへ渡るんだ。さ、家族づれ、といった様子をするんだ」彼はにやりと笑い、ノリオに手をさしのべた。
七瀬も、くすくす笑いながらノリオのもう一方の手をとった。この人の予知通りの情景だわ、と、七瀬は思った。
「この子をどうする」暗い地下道を向い側のプラットホームへと歩きながら恒夫が訊ねた。
「興味|津々《しんしん》たる難問ね」七瀬はノリオの小さな手をぐっと握りしめて笑った。「当分わたしが、あっちこっちつれて歩くわ」
「誘拐じゃないか」(変なやつ)(金は持っているのかな)「家へは帰してやらないのか」
(いや)(家へ帰るのはいや)七瀬の心に、ノリオの叫びがびんびんと反響した。(つれて行って)(つれて行って)
(つれて行くわ)ノリオにそう発信してから、七瀬は恒夫に答えた。「誰にも迷惑はかけないわ。あなたにもよ」
プラットホームに出ると、屋根を叩く雨声が少し弱まっていた。
七瀬は恒夫の心を覗きこんだ。彼が自分のことをどう思っているか、知っておきたい気がしたからである。だが恒夫は、彼のこれからの行動に考えをめぐらせていた。彼は、彼の予知通り、これからタクシーで白樫山に入り、以前いちど泊ったことのある旅館を訪ねようとしていた。
すでに背後で起っている筈の惨事も知らず、戻りの列車がプラットホームにすべりこんできた。
七瀬とノリオは、がらんとした客車に乗り、恒夫が予知した情景を真似るかのように窓から首を出し、彼と別れのことばを交わした。
「もう、会えないかしら」発車のベルが鳴りはじめた時、七瀬は最後にそう訊ねた。
その時、七瀬のことばに触発されて、急に恒夫の意識野が大きくひらけた。そこは荒野だった。そして都会のビル街だった。喫茶店だった。あるいは静かな夜の海岸だった。裏町だった。喧騒《けんそう》に満ちたオフィスだった。それらの目まぐるしくうつり変る光景の中に、だが、七瀬の姿は見あたらなかった。
恒夫と七瀬が出会うことは二度とないのか、それとも、恒夫の能力ではそこまでの予知が不可能なほどの遠い未来にふたりは会うことになるのか、その判断までは七瀬にはできなかった。
「ふうん」興味深げに恒夫の心を覗きこんでいたノリオが、うっかりと口をすべらせた。
「じゃ、やっぱり会えないんだね。だって、このお兄ちゃん、先のこと、わかるんだろ。|今のやつ《ヽヽヽヽ》に、お姐ちゃん、出てこなかったものね」
あっ、と思い、七瀬はノリオの口を強く手で塞《ふさ》いだ。
プラットホームに立ち、ふたりを見あげていた恒夫の長い顔が、さらに長くなった。眼を丸くした。彼の意識が急激な活動をはじめた。
(この子はおれの心を読んだ)(たしかに読んだ)(では)(では)(この子は精神感応能力者《テレパス》)(じゃ、この娘《こ》も)(この娘もそうか)(それでこの子を助けようとしたのか)(そうだ)(きっとそうだ)(おかしいと思ったことも、それで説明がつく)
七瀬は溜息をつき、ノリオの口から手をけなした。
(ご免よ)(ご免よ)(このお兄ちゃんならいいと思ったんだよ)ノリオは涙ぐみ、けんめいに詫《わ》び続けていた。
(いいのよ)七瀬はノリオに応えた。(そうね。このお兄ちゃんならいいのね。そうだったわね)
発車のベルが鳴り終り、汽車が動き出した。
茫然としたままの恒夫に、七瀬はいった。
「じっは、そうなの。そうだったの。隠していてご免なさいね。でも」
ことばで弁解するには、すでに恒夫との距離が開きすぎていた。
七瀬は手を振った。手が雨に濡れた。
プラットホームに立ち、恒夫はまだ茫然としていた。いつまでも茫然としているかに見えた。だが、鋭い銅線のような雨の彼方に消える直前、急にはげしく手を振りはじめた恒夫の姿が、七瀬には、ちらと見えた。
[#地付き](「七瀬ふたたび」改題)
[#改ページ]
邪悪の視線
(七瀬サン。ワタシハアナタノ讃美者デス)
(七瀬サン。ワタシハアナタノ崇拝者デス)
(七瀬サン。ワタシハアナタノ召使デス)
(ねえ。いつまで夜のお仕事をするの)出かけようとする七瀬に、ノリオは訊ねた。(もう、お金は貯《た》まったんでしょ)
ドアの前でノリオをふり返り、七瀬は口を開かずに答えた。(もうすぐやめるわ)(気になることがあるの)(だから、今はやめられないの)
七瀬が店に出勤している間、ノリオはひとりで部屋にいるのが淋しいのである。七瀬にはそれが誰よりも、文字通り誰よりも、ノリオ自身よりもよくわかっていた。ノリオが哀れであり、愛《いと》しかった。
(うん)(知ってるよ)ノリオはわざと七瀬から顔をそむけ、窓の外を見ていた。(ぼくたちの仲間かもしれないんでしょ)(その人がお店にいるんでしょ)
(そうよ)(でもまだ、接触《コンタクト》できないの)
ノリオは四歳になっていたが、知能は非常に進んでいた。接触《コンタクト》の意味を、彼は悟っていた。
(声を聞かせて)彼は少し甘えた。
「じゃあ、行ってくるわ」七瀬はノリオの望み通り、明るい声でそういった。
ノリオは、ぱっと振り返った。彼の眼の光は尋常の子供よりもずっと鋭かった。「行ってらっしゃい」大声で、彼はそういった。
七瀬は鉄筋五階建の高級アパートを出た。高級アパートの方が、そして町はずれよりは町の中心部に住む方がかえって近隣の干渉を受けずにすむと思い、苦心して選んだアパートだった。七瀬とノリオがそのアパートに住みはじめてからもう二カ月経っていた。ふたりはそこに、今までになく長い期間住んでいるのだった。
七瀬はアパートの前でタクシーを拾った。日が暮れはじめていて、風が強かった。
彼女がこの町の繁華街にある「ゼウス」という名の高級バーへ勤めはじめたのは、少し貯金をふやそうと思ったからだった。お手伝いさん時代に貯めた金だけではあまりにも心許《こころもと》なかったし、先でどんなことがあって金の必要に迫られるかわからなかったからである。
(七瀬サン。ワタシハアナタノ讃美者デス)
(七瀬サン。ワタシハアナタノ崇拝者デス)
(七瀬サン。ワタシハアナタノ召使デス)
その声はいつも、どこにいても聞えた。七瀬に強く激しく訴えかけてくる意識だった。ノリオの意識も、最近ではどんなに遠く離れた場所、たとえこの中都市の端と端にいてさえ感知できるようになっている。だがその訴えは、もちろんノリオのものではなかった。
「ゼウス」に着いた。客はまだひとりもきていなかった。更衣室に入ると、しげみという女が着換えていた。
「おはようごさいます」
「おはよう」と、しげみは横柄にうなずいた
前歴を明らかにしようとしない流れ者の七瀬は、他のホステス全員から警戒の眼で見られていたが、特にしげみは七瀬を嫌っていた。
(ふん。半鐘泥棒)
半鐘泥棒と呼ばれるほど七瀬の背は高くない。しげみの背がやや低いのである。「ゼウス」における美貌ナンバー・ワンの看板も、しげみは七瀬によって奪われていた。考えてみれば七瀬が彼女から反感を持たれるのも当然といえた。
しげみが胸で七瀬を罵倒し続けながら更衣室から出ていった。七瀬は茶色っぽい色あいの比較的地味なカクテル・ドレスに着換えた。そのドレスは七瀬の色の白さをよりひき立たせた。
弥栄《やえ》というホステスが更衣室に入ってきた。大柄で色の浅黒い、目立たぬ容貌のおとなしい女だった。彼女と七瀬は、低い声で挨拶を交わした。
弥栄がワンピースを脱ごうとし、七瀬に尻を向けて前屈みになった途端、はげしい衝撃のバターンを伴った意識とともにからだの動きを停止させた。
七瀬は彼女の心の動きに注意を集中した。
めまぐるしく、弥栄の思考が流れはじめた。(ダイヤ)(ダイヤだわ)(ダイヤが落ちている)(にせものじゃないダイヤモンドが落ちている){(大きなダイヤだ)/(二カラット以上)}(誰のだろう)(誰が)(誰が落したのだろう){(こんなダイヤを持っている人は)/(しげみの指輪のあのダイヤだわ)}(三百八十万円だといっていた)(拾う){(だまって拾う)/(わたしが貰う)}(わたしのものにする)
床に落ちていた大きなダイヤモンドを拾いあげている弥栄のはげしい動悸が、七瀬の心臓さえ痛み出すほどの激しさで伝わってきた。弥栄は七瀬の方をうかがいながら、拾いあげたダイヤを胸のペンダントの中へ納めた。七瀬はわざと弥栄に背を向けていた。むろん、背を向けていても七瀬には弥栄の心を通じて彼女の動作がすべて読み取れるのだ。
(気がつかなかっただろうか)(この女){(気がついていない)/(あっちを向いてる)}(わたしのものになったわ){(三百八十万円のダイヤが)/(わたしのものになったわ)}
それはしげみがいつも自慢そうに見せびらかしていたダイヤで、七瀬も、それが時価三百八十万円もするということを本人から直接、しかも二、三度聞かされていた。おそらく、さっき服を脱ぐはずみに指輪の台からはずれて落ちたのであろう。
ダイヤを拾った弥栄が、それをしげみに渡そうが、または着服しようが、それは七瀬には関係のないことであった。ダイヤが落ちたこと、弥栄が拾ったことをしげみに教えてやる気も、もちろんなかった。知らん顔をしているに限る、と、七瀬は思った。
浅ましく理性を混濁させ、とり乱し、噴き出てこようとする恐怖と罪悪感をけんめいになだめながら着換えはじめた弥栄を更衣室に残して、七瀬は店に出た。バーテンのヘンリーが白い歯を見せて七瀬に笑いかけた。へンリーは黒人だった。
店はビルの地階にあり、十坪足らずの広さで間口が狭く、奥行が長かった。高級バーらしく照明を明るくしていて、ソファもゆったりとしたものを使っている。客がふたり来ていて、しげみと、もうひとり千鶴という女がついていた。七瀬の知らない客だった。ママが七瀬に合図したので、七瀬もそのボックスに入り、ふたりの客の間に腰かけているしげみと向いあわせのスツールに腰かけた。しげみが露骨にいやな顔をして見せた。ふたりの中年の客が、七瀬に注目した。彼らは、以前この店へ来たのがもう三カ月も前になるという話をした。そこで千鶴が七瀬を彼らに紹介した。この店での七瀬の源氏名は夕子だった。七瀬はしげみの指にちら、と眼を走らせた。しげみのプラチナの指輪の中央にいつも光っていた二カラットのダイヤは消えていたが、しげみ自身はまだそれに気がついていなかった。
最初に気がついたのは千鶴だった。ふたりの客がそれぞれ、一杯目のオン・ザ・ロックとブランデーを少し飲み、話が跡切《とぎ》れた時、千鶴はいつもの光が見られぬしげみの指に眼をとめ、しばらく考えた。(ダイヤがない)(わざとはずしているのだろうか)(そんな筈はない){(気がついていないのだ)/(三百八十万円のダイヤ)}(落としている)咄嗟《とっさ》にそう考え、切迫した口調で千鶴はしげみの注意を促した。
「しげみちゃん。ダイヤ」
ひと目指輪を見て、しげみは悲鳴をあげた。(落とした){(いつ)/(どこで)}彼女はすぐにしゃがみこみ、足もとを捜しはじめた。
しげみがなぜ騒ぎはじめたのかわからず、ふたりの客が眼を丸くした。
千鶴も、その場にうずくまってしげみと一緒に床の赤いカーペットの上を捜しはじめたが、内心ではしげみにさほど同情せず、むしろ面白がっていた。(出てこなければいいんだわ)
七瀬ははどうしようかと一瞬考えてから、やはり一緒に捜してやるふりをすることにした。その方が不自然ではない筈だった。
店の隅のボックスで客待ちをしていた女たちが寄ってきた。弥栄もその中にいた。
「どうしたの」
「しげみちゃんのダイヤが」
「えっ。ダイヤって、あのダイヤ」
「最後に見たのはいつなの」
「お店にきた時はたしか」
「じゃ、お店の中で落したのね」
女たちはふたりの客そっちのけで騒ぎはじめた。客たちも釣りこまれ、しかたなくソファの下をのぞきこんで見せたりしている。
しげみのふだんの虚栄心を苦にがしく思っている女たちは、いずれもいい気味だと心ではほくそ笑みながらも、うわべだけは心配そうな表情を作って一緒に床を捜してやったり、何やかやとしげみに訊ねかけたりした。弥栄も床にうずくまり、捜すふりをしていた。こんな騒ぎになってしまったんだから、見つけたふりをして返せばいいのに、と、七瀬は思った。だが弥栄は、発覚を極度に恐れながらも、拾ったダイヤをしげみに渡してやる気はまったくないようだった。
「騒がないで。騒がないで」怒鳴りつけたいのを我慢しながらママがいった。「すみません。内海さん。ちょっとお席をあちらへ移っていただけませんか。すみません。ご迷惑をおかけします」
ふたりの客を別のボックスに案内したママが、千鶴と七瀬を手招きした。千鶴と七瀬は客について席を移った。よけいな芝居をする必要がなくなり、七瀬はほっとした。
(お姉ちゃん。何かあったの)ただならぬ気配を感じたらしく、アパートで留守番をしているノリオが、遠く離れた場所にいる七瀬の意識をまさぐりながら心配そうに訊ねかけてきた。
(なんでもないの)と、七瀬は答えた。(さあ、そのご飯、早く食べておしまいなさい。また残してるわね)
(うん。ううん。ゆっくりかかって全部食べるよ)
七瀬とノリオだけに可能な、はげましと慰めのパターンの意識を送りあったのち、七瀬はぴったりと心を閉ざした。夜の勤めにつきまとうさまざまなこと、特に店で客と交わす話の内容などはどれもこれも、ノリオに感知されたくないことばかりだった。
女たちはまだソファの下を捜しながら騒ぎ続けていた。「ほんとに、お店に来た時はあったの」
「それが、よく憶えてないの」
「いやねえ。わたしを疑わないでよ」先まわりしてそんなことを口にしてしまう女もいた。
しげみが泣き出した。なぜか自尊心が崩れはじめていた。女たちが嘲笑《ちょうしょう》した。
(泣くのなら更衣室で泣いとくれ)ママが胸の中で毒づいた。「更衣室に落ちてないかしら」
あっと小さく叫び、しげみはママの望み通り、いそいで更衣室へ駆けこんでいった。顔色が蒼くくすんでしまっていた。
しげみはわたしを疑いはじめるかもしれない、と七瀬は思い、ちょっとうんざりした。しげみが着換えている時、更衣室に一緒にいたのは七瀬だけだったからだ。ごたごたには巻きこまれたくなかった。いざとなれは、弥栄が隠していることを指摘してでも、ごたごたの圏内から脱け出そう、七瀬は最初そう思った。だがよく考えれば、それは尚さら危険だった。なぜ弥栄が犯人であることを七瀬が知っていたのか、誰もが疑問に思うだろうからである。
(七瀬サン。ワタシハアナタノ讃美者デス)
(七瀬サン。ワタンハアナタノ崇拝者デス)
(七瀬サン。ワタンハアナタノ召使デス)
内海と呼ばれている商事会社の重役が、七瀬に淫らな思いを向けはじめていた。彼はしきりにいろいろなことを訊ね、答える七瀬の表情の変化を楽しもうとしていた。そしてあげくの果てに、この子は無表情だね、などと言ったりした もうひとりの工業会社の人事部長の方は風貌に似合わぬナルシストで、女の方からちやほやしてやらぬ限り上機嫌になれない男だった。男をちやほやすることは七瀬も千鶴も不得手だった。ふたりの客は一杯ずつ飲んで出て行った。
騒ぎがややおさまった。客が来はじめたため、女たちはダイヤ捜しをあきらめてそれぞれの客をもてなしはじめた。だが、当然のことながらしげみはあきらめていなかった。心配した通り、七瀬を疑いはじめていた。(半鐘泥棒)だった七瀬はしげみの内部で(ダイヤ泥棒)に変化していた。
他の女に耳打ちしていた。「あの子がいたのよ。更衣室に」
「まあ。夕子が」
「あの子に決ってるわ」
「どうする気」
「さあ」
もし面と向って何か言いはじめたら、何の根拠があってそんなこと言うのと大声で怒鳴り返してやるしかない、そう思って七瀬は憂鬱になった。感情が激してもいないのに人を怒鳴りつけなければならないと考えると気が重かった。第一にそれは「野蛮な普通人」のすることだったからだ。しかし精神感応能力者《テレパス》であることを隠し、彼女自身とノリオの生活を守るためには、七瀬には常にやや誇張した演技が必要だった。
さすがにしげみは七瀬を直接詰問しようとはしなかった。詰問すべき何の証拠もつきつけられなかったからである。七瀬への嫌疑をママにも黙っていた。そのかわり彼女は、警察へ電話しようかと考えはじめていた。
(電話するなら早くしないと)(どこかへ隠されてしまう)(あの子が店にいるうちに)(今日中にしないと)(たとえママが反対しても)(そうだ)(ママの了解を一応得なければ)(皆から嫌われるかも)(かまわない)(ダイヤの方が大事)(また店を替ればいい)(早く警察へ)
警察はまずい、と、七瀬は思った。警察にアパートへこられたりしたら、ノリオが見つかってしまうのだ。肉親でもない子供をアパートに置いていることがわかったら、たちまち怪しまれてしまう。ノリオの継母が列車の事故で死んだことは新聞記事で確かめたが、彼女がつれていた筈のノリオの死体は現場になかったのだから、警察でも一応は捜しているものと考えておいた方がよかった。七瀬にしろノリオにしろ、そもそもの最初から大変な秘密を持って生れてきているのである。要心するに越したことはなかった。
酔いで醜く濁った意識が店の中に充満しはじめていた。アルコールのせいで、前意識的なものを抑止する力がやや失われ、内部の道徳的な抑制もなくなりかけている、猥雑《わいざつ》で下卑た意識ばかりだった。店に出はじめて二カ月、馴れてきてはいたが、やはり頭痛がした。だが七瀬は我慢して、いつものように自分の意識に掛け金をおろそうとはしなかった。しげみの考えを読む必要があったからである。相手をしている客のことばと、その客が頭の中でだけ考えたことをとり違えないように注意してあいづちを打ち、受け答えしながらも、七瀬は善後策を考え続けた。たいへんな苦労だった。雑音が多すぎて、考えはなかなかまとまらなかった。
普通の人間が「意識的」ということばを使う場合は、「わざと」とか「自分で承知していながら」とか「無意識でやったように見せかけて」とかいった意味で使うことが多いが、精神感応能力者《テレパス》の場合の「意識的」はまったく違う意味になる。「意識の流れ」とか、意識そのものの質や量を表現する際に使うわけである。七瀬にとって、雑音は二種類ある。音の雑音と「意識的」雑音だ。今、彼女が悩まされているのはむろん意識的雑音だった。
「今、あの人どうしてるの」(死んだといってくれ)
(あっ)(この尻の恰好は女房に似てる)
(遠まわし言ってるのがまだわからないのか)「それじゃもう一軒」(何がほいほいだこの馬鹿)
(酔っぱらいやがって)
(まっ黒けのまっ黒けのアーリランアーリランアーラーリーヨー)
(これ一杯が二千円の四千円だから合計して一万二千円でそれに二万一千五百足しのつけの分が二万三千五百円の)
自分の酔いを自制しようとしている意識もあった。(こいつ、酔っぱらったふりを)(だまされないぞ)(タヌキめ)(くそ)(酔うもんか)(うわあ酔った)
(何が五千万円だ)(銀行から借りてやがる癖に)「へええ。そりゃ大変でしょう」(女の前でだけは大きい口を)(おれの奢《おご》りなんだぞ)(ちっとは遠慮しやがれ)
(またその歌か)「おっ出ましたね」(やめてくれ)(音痴め)(自分でわからないのか)
(そうか)(よその男とどこかへしけ込むつもりだな){(もう来てやらないぞ)/(いったいどこの男だ)}(あのネックレス返せ)
九時になった。七瀬はノリオに、ふたりの間だけのコール・サインを出した。
(あ)(姉ちゃん)
(テレビ見てたのね)(もう寝なさい)
(うん)(もう寝るよ)(でも、帰ってきた時はちょっと起してね)(安心してまたすぐ寝るから)
(ええ)(わかってるわ)
よく知りあったテレパス同士の意識の会話は、ことばはほとんど使わず、たいていは抽象的に簡略化された図形のやりとりになる。七瀬とノリオの場合も、たとえば「OK」は一定の厚みのある円形で、了解度や強調度に応じて厚みが大きくなったり小さくなったりする、といった具合だった。したがって会話は、通常の会話の何十分の一かの時間で終ってしまうのだ。
ノリオの意識をしばらく観察し続けて、彼がベッドに入るのを見とどけてから、七瀬は意識を閉ざした。
十時を少し過ぎた頃、七瀬が熟知しているパターンの意識がひとつ、店内に入ってきた。西尾だった。あっ、と、七瀬は思った。この男なら弥栄のペンダントの中にあるダイヤを発見してくれる筈だ、そう思い、胸が躍ったのである。西尾は|透 視《クレア・ヴォヤンス》の能力者であり、それを知っているのは七瀬だけであった。
西尾にはじめて会ったのは七瀬が「ゼウス」に勤めはじめて四日めの夜だった。その夜彼は、得意先の男ひとりと一緒にやってきた。西尾はしげみの客だったが、店にとってもいい客だったから、しげみのほかに七瀬を含めて三人のホステスが席に侍《はべ》った。
最初七瀬は西尾を、単に他の男同様エロチックな想像力のたいそう逞《たくま》しい男に過ぎないのだろうと思っていた。彼は七瀬を見るなり、心の中で彼女を裸にしはじめたからだ。ところが彼の意識の中に浮ぶ七瀬の裸体は、決して服の上から想像した程度のあやふやなものではなく、実際に七瀬が記憶している彼女自身の裸体姿と比べていささかの相違もなかった上、そこには七瀬自身しか知らない筈の身体的な特徴までが加わっていたのである。興味を持って西尾の意識を観察した末、その夜のうちに七瀬は、彼が透視能力《クレア・ヴォヤンス》の持ち主であるという確信を得た。
西尾を、ノリオに対すると同様に心を許しあっていい七瀬の同胞であると認めてしまうことには大きなためらいがあった。七瀬が観察した限りでは、西尾の超能力は透視だけにとどまっていたし、彼の意識内容は並みの普通人以上に邪悪だったからである。同じ超能力者であっても、精神感応と透視ではその能力の性質が大きく異なる上、同じように他人の秘密を覗き見できる能力であっても、単に視覚的な覗き見と意識内容の覗き見とでは、どう考えても意識を覗く方がプライバシー侵害の度合いは大きい。軽はずみに心を許すことはできなかった。それどころか、彼が店へやってくるたびに観察し続けているうち、西尾が一般の普通人以上に警戒すべき存在であることが、七瀬にはわかってきたのである。
むろん彼は、七瀬と同じ理由で自分の能力をひた隠しにしていた。しかし、自分が他人とは違うのだという優越感は彼の場合、その能力の性質のせいもあっただろうが、臭気ふんぷんたる選良意識の段階にしかとどまっていなかった。彼は自己の能力を「この無知なブタともの社会でできるだけ悪用してやらなければ損な」能力であるぐらいにしか考えていなかったのだ。そこには超能力者なら当然持たざるを得ない筈の一種の使命感のようなものはまったくなく、むしろ超能力を持ったが故に彼の意識は邪悪さに満たされ、性格は歪んでしまっていた。
西尾は故意に、自分の能力をフルに生かすことのできる職業を避けていた。仕事がうまく行きすぎていつか疑われはじめるだろうことを計算していたのだ。これは利口だった。透視能力は、彼が小さな商事会社の社長という、透視とはあまり関係がないと思える職業にあってさえ、充分すきるほど役に立った。二十八歳の西尾は成功し、巨富を貯め、それを銀行にも預けず、隠し持っていた。
しげみは西尾の情婦だった。一週間に一度、しげみは独身の西尾のマンションに行き、ベッドを共にして夜を明かしていた。
西尾はしげみのために、ダイヤの指輪を見つけてやろうとするだろう、と七瀬は思った。それはしげみが西尾から買ってもらったダイヤだったからである。
(七瀬サン。ワタシハアナタノ讃美者デス)
(七瀬サン。ワタシハアナタノ崇拝者デス)
(七瀬サン。ワタシハアナタノ召使デス)
なんとかして西尾の席につかなければならない、と、七瀬は思った。そのためには、今いるボックスから脱け出し、西尾の席につくことが不自然でないような行動をとらねばならない、あるいはママに、西尾の席へ行くよう自分に命じさせねばならない、あるいは西尾に自分を指名させねばならない、そう七瀬は考えた。さいわい、今ついているふたりの客には七瀬以外に二人のホステスが侍っていた。七瀬は立ちあがり、フロアーを横切り、さりげないふりでカウンターの前の、西尾やママのいる席からよく見える場所に立ち、バーテンのヘンリーに頼んだ。
「おひやを一杯頂戴」
ヘンリーはまた白い歯を見せてうなずき、七瀬につめたい水の入ったコップをさし出した。へンリーの笑顔には、さっきと違ってやや気遣わしげな翳《かげ》りがあった。彼はホステスたちのひそひそ話を聞き、七瀬にダイヤ泥棒の疑いがかかっていることを本気で心配しているのである。いい男だわ、と七瀬は思いながら、わざとゆっくり水を飲んだ。
自分の裸の姿が七瀬の意識にとびこんできた。裸の七瀬は、立ったままコップの水を飲んでいた。西尾が七瀬の姿を見つけ、さっそく透視しているのである。西尾の隣には、すでにしげみが腰かけていた。西尾のつれの中年男は新しい彼の餌食《えじき》だった。
西尾は最近しげみのからだに飽きてきているようだった。彼は初めて会った時から七瀬の肉体を望んでいた。七瀬以外の、他の女の肉体も求めていた。彼は貪婪《どんらん》だった。
西尾と七瀬の視線が合った。西尾が笑ってうなずいた。ママは西尾とは違うボックスの中にいたが、すぐそれに気づいた。七瀬が西尾の気に入りであることはママも知っていた。ママは七瀬に合図した。七瀬は西尾の席についた。
しげみが七瀬を睨みつけた。(なんて言ってやろうか)(ダイヤ泥棒)(遠まわしにいたぶってやるわ)(あてこすりを言ってやるわ)言いかたを研究しはじめた。自信家のしげみは、西尾の、心がまだ完全に自分ひとりのものであることを確信していて、その意味では七瀬を警戒していなかったのである。
西尾の席には、しげみと七瀬以外に千鶴もついていた。千鶴はさっそく、しげみがダイヤを紛失した一件を西尾に喋りはじめた。
しげみはわざとしょんぼりした様子を見せていた。西尾から貰ったものを落したために彼から責められることを恐れてではなく、逆に彼の同情をひくためだった。(また買ってくれるわ)(このひと、わたしにぞっこんだから)(なぐさめてくれるだろう)
西尾は適当にあいづちを打ちながら、すでに店内のあちこちを見まわし、透視しはじめていた。発見すべき物体がダイヤという最も硬度の高い物質なので透視は簡単だと考え、西尾はあわてなかった。
だが、西尾の視線は弥栄の上を、何も発見できぬまま通過してしまったようだった。弥栄が彼からいちばん遠く離れた席にいるためだった。弥栄をこちらへ来させなければ、と七瀬は思った。
しげみがあてこすりを言いはじめた。「誰かが拾って黙ってるのよ。何食わぬ顔をしてるのよ。そうに決ってるわ。(さあ)(わたしは知ってるんだよ)(ちっとは顔色を変えなさい)
「まあまあ」西尾は透視を続けながら、うわの空でしげみをなだめた。「まだ、そうと決ったわけじゃない。やたらに人を疑うなよ」だが西尾も、おそらくそうだろうと考えていた。(誰かのハンドバッグの中にある筈だ)彼は壁紙を貼ったベニヤ板のパネル一枚で店と仕切られている更衣室を透視しはじめた。
(もし発見したら)(そのハンドバッグの持ちには)(どの女か知らないが)(もう、おれのものだ)(その女のからだを頂きだぞ)(できれば美人がいいな)彼はわくわくし、胸の中で舌なめずりをしていた。
七瀬は少し失望した。ダイヤをしげみに取り返してやろうという気は、さほどないらしい。
ても、もし誰も拾ってないのだとしたら、もうとっくに見つかっている筈よ。しげみが暗い目つきで七瀬を見つめながらいった。「誰かが拾って、知らん顔してるんだわ」(まあ)(まだしゃあしゃあとしてるわ)
七瀬が知らん顔をしているため、しげみの怒りと憎悪はますますつのりはじめた。七瀬が盗んだに違いないと確信していて、それを疑ってみようともしなかった。そういう精神構造のしげみが、七瀬には哀れに思えた。恐るべきなのはあらぬ疑いをかけられているわたしなのに、と思って七瀬は苦笑した。
(何がおかしいのよ)(わたしを嘲笑してるんだわ)(この流れ者)(笑えないようにしてやるからね)ついに我慢できず、しげみが叫ぶようにいった。「今日中に見つからなかったら、警察へ届けるわ、わたし」(まだ平然としてるわ)(馬鹿かしら、こいつ)(さあ)(あわてなさい)(顔色をなくしてうろたえなさい)(内心おろおろしてるんだわ)(きっと)
(迷惑だわ)と、千鶴が心でしげみを罵《ののし》った。(帰りが遅くなるじゃないの)(取調べ)(訊問《じんもん》)(ああいやだ)(どうしてくれるのよ)(自分の不注意でなくしておきながら)(関係のない者まで巻きぞえにして平気なんだわ){(そういう女よ)(こいつは)/(いやな女よ)(あんたは)}
「それは、やめた方がいいな」西尾がしげみを、ややきびしく諭《さと》した。「皆に迷惑がかかるよ」
警察の調べでダイヤが出てきたのでは、彼の野望が挫折するのだ。
「でも、くやしいわ」しげみが、あなたの買ってくれたダイヤなのよと眼で訴えながら西尾の顔を見あげた。
(こいつ、新しいダイヤをねだってやがる)西尾はいささかげっそりして、七瀬に、ちらと同情を乞うような視線を向けた。(この女が盗んでいたのなら面白くなるのにな)彼はもう一度七瀬を透視し、彼女のからだや衣類の端ばしまでを詳細に観察した。(ちがうな)(持っていない)(更衣室の誰のハンドバッグの中にもない)(すると誰だ)(誰かが身につけて)(この女でもない)(これも違う)(あ。この女妊娠してやがる)(おかしい)(女の服に、ダイヤを隠せるようなところはあまりない筈だが)(呑みこんだ)(まさか)(いや)(あり得る)(なあに)(もしそうだったとしても相手がダイヤなら胃の中だって)考えめぐらせながらも透視を続ける西尾の視線が、また弥栄をす通りした。
弥栄をここへつれてこなければ、と、ふたたび七瀬はそう思った。
弥栄が立ちあがり、フロアーを横切ろうとした。七瀬は弥栄の意識を覗き、彼女が便所へ行こうとしていることをすぐに悟った。七瀬は昨夜から弥栄が腹をこわしていて、そのことを二、三人の同僚に話していることも知っていたし彼女は七瀬のすぐ横を通り過ぎようとした。ちょうど西尾はカウンターのあたりを透視していて、弥栄には注意を向けていなかった。
「あ、弥栄さん」七瀬は西尾の注意をひく程度の大きさの声で弥栄を呼びとめた。
弥栄がふり返った。
七瀬は腰かけたまま、心配そうに弥栄の顔を見あげ、小声で訊ねた。「お腹《なか》の具合はどうなの」
弥栄は眼をしばたたいた。(どうして知ってるんだろう)(この娘《こ》には話さなかったのに)(誰から聞いたのか)(そんなに親しくもないのに)(どうしてそんなことを馴れなれしく訊ねるの)(うす気味の悪い娘)ダイヤを隠し持っているうしろ暗さから、弥栄は少しどぎまぎして、小きざみに二、三度うなずいた。「あい変らずよ。よくないわ」
顔見知りの西尾がじっと自分を凝視していることに気がつき、弥栄は彼に黙って会釈した。西尾も彼女に目礼を返した。
西尾はすでに弥栄のペンダントの中のダイヤを発見してしまっていた。(この女だったのか)(なあんだ)(たいした女じゃないが)(肉づきはいい)(一度くらいなら)(抱いても)(あのダイヤはこの女には勿体《もったい》ない)(脅して)(抱いて)(取り返して)(また別の女に)
西尾の考えの悪辣《あくらつ》さに、七瀬はまた少し胸が悪くなった。
「君に、話があるんだがね」わざとらしい何気なさで、西尾はことさらに大きな声を出し、弥栄にそういった。
しげみが怪訝《けげん》そうに西尾の顔を見た。(こんな不細工な娘に)(いったい、なんの話が)
(まさか)と、弥栄は思っていた。(まさか、あれがばれたなんて、そんな等がないわ)(でも、それならいったい何の用だろう)彼女はおずおずと西尾にうなずき返した。「はい、それじゃ、のちほど」便所へ去った。
おやおや、下痢してる娘《こ》を抱くのね、と七瀬は思い、胸の奥でくすくす笑った。弥栄が哀れだった。
十数分後、弥栄がボックスに入ってくると、西尾はしげみを顎でさして、もうひとりの餌食にいった。「どうです。踊ってきませんか。この娘と」
西尾の連れの貿易会社の部長は、それじゃと言って立ちあがり、しげみにうなずきかけた。この男はしげみが西尾の情婦であるとは夢にも知らなかった。だが西尾はこの男がしげみに参っていることを知っていた。毎夜、三十分だけ演奏するギター弾きがバカラックの曲を歌っていた。貿易会社の部長としげみは一坪ほどのフロアーに出て、重くたとたどしいステップを踏みはじめた。「じゃ、ぼくたちも踊ろうか」と、西尾は弥栄にいった。「踊りながら話そう」
(迷惑だわ)(下痢してるのに)弥栄は少しためらってから、わざとにっこりうなずいて立ちあがった。店で一、二の上顧客である。下痢してるから駄目とはまさか言えない。
ふたりが踊りはじめ、ボックスには七瀬と千鶴がとり残された。七瀬と千鶴はそれぞれ、ママの指図に従ってすぐに他のボックスへ移った。七瀬がついた席は、七瀬の美貌と、すらりとした姿態にすっかり心を奪われている中年男がひとりで飲みにきているテーブルだった。カメラマンと自称していたが、実はカメラとD・P・Eの数軒のチェーン店を持っているというだけの男だった。彼はいつものように、なま臭く七瀬を口説きはじめた。七瀬の遠まわしの拒絶も、この鈍重な男にはまったく通じなかった。七瀬はD・P屋のことばに適当なあいづちを打ちながら、フロアーで交わされている西尾と弥栄の会話に心の耳を傾けた。
「お話って何」
「ダイヤのことだよ」
「ダイヤって何」不安の膨張。
黒い笑い。「しげみがなくしたダイヤのことさ。わかってるくせに」
狂気に近い恐怖。発汗。「ええ。しげみがダイヤを落したことでしょ」
「そう。そして君がそのダイヤを拾って持っていることを、ぼくは知っている」
意識の空白。弥栄のからだは硬直し、ただ足だけが機械的にステッブを踏み続けている。
「君、何かほしいものはないのか」と、D・P屋が訊ねる。(白い皮膚)(肉)(よく締った肉)(小さくて赤い唇)(これを吸うおれ)(太腿《ふともも》)(しめつける)(気をやるおれ)
「何もないわ」と、七瀬は答える。
※[#歌記号、unicode303d] You see this guy, this guy's in love with you.
「いがかりだわ」動悸。動悸。動悸。
「そうかい」舌なめずり。
「そうよ」動悸。動悸。動悸。手足のしびれ。動悸。発汗。息切れ。動悸。
「じゃ。ペンダントをあけてみろよ」
不安の爆発と混乱とおびえと動悸と西尾の黒い微笑。(この男)(なぜ)(なぜ)(なぜ知ってる)(なぜ知ってるの)(なぜ知ってるの)(夕子だ)(夕子が見てたんだわ)(この男に告げ口した)(するとこの男は)(この男は実は夕子の)(この男は実は夕子の情夫)(脅迫)(わたしを脅迫)
「なぜ黙ってるんだ。汗びっしょりだぜ」
(警察)(取調べ)(刑事)(刑務所)(脅迫)(脅迫)尿意。(トイレへ行きたい)はげしい便意。
可哀想に、と、七瀬は同情の吐息を洩らす。「退屈かい」と、心配顔を見せるD・P屋。
「ううん」七瀬はあわててにっこり笑う。
「店が終ってからどこかで会おう」なかば命令するように西尾がいう。
(うん)(しかたがない)うなずく弥栄。(うん。うん)(それまでにダイヤをペンダントからとり出す)(どこか他のところへ隠す)(呑みこむ)(そうだ)(それしかない)(呑みこむ)
「言っとくけど、ダイヤをどこへ隠しても無駄だよ」低く重い笑い。
戦慄。(誰)(この勇は誰)(やくざ)(ギャング)(どこへ隠しても力ずくで白状させる気だわ)(暴力)(拷問)(拷問)(殺される)(わたしは痛みに弱い)
「じゃ、いいね」西尾が念を押した。
「今夜、店が終ってからどこかへ行こう」とD・P屋がいう。
※[#歌記号、unicode303d] When you smile, I can tell we know each other very well.
「駄目なの。今夜は」七瀬が答える。
「いつもそうじゃないか」恨みっぽい声でD・P屋がそう言う。
(七瀬サン。ワタシハアナタノ讃美者デス)
(七瀬サン。ワタシハアナタノ崇拝者デス)
(七瀬サン。ワタシハアナタノ召使デス)
「待ってる。新聞会館ビルの地下一階『コンドル』だ。わかったね」
「わかったわ」(脅迫される)(脅迫される)(でも奪われるものは何もない)(お金なんかない)(からだ)(からだだけ)(からだを奪う)(この男がわたしのからだを奪う)(しかたがない)(それですむのなら)(それだけですむのなら)
十一時を過ぎたが、客はまだ大勢残っていた。西尾と連れの男が、やがて帰っていった。D・P屋も帰った。
十一時半になり、七瀬は千鶴と一緒に店を出た。客が残っているテーブルについているため、弥栄としげみはまだしばらくは帰れそうにない様子だった。
店の近くの大通りで、千鶴は闇タクシーを拾い、自分のマンションへ帰っていった。彼女はしげみが警察に電話をしなかったのでほっとしていた。マンションで情夫《おとこ》が待っているのである。
七瀬はノリオに向け、意識の触手をのばしてみた。ノリオは夢も見ずにぐっすり眠っていた。
新聞会館ビルの近くまでやってきてから、七瀬は考えこんでしまった。西尾と弥栄の、『コンドル』での会話を立ち聞きするつもりだったが、西尾の透視によって立ち聞きしている自分の姿を見られるおそれがあった。もちろん立ち聞きといっても意識を覗くわけだから、実際の会話が聞えるほど近くにいる必要はない。それでも西尾から、なぜそんな時間に七瀬がたったひとりでそのあたりをうろうろしているのかと怪しまれてはつまらない。七瀬はけんめいに、西尾が放射している意識を感知しようとした。西尾はどこか遠くにいるらしく、彼の意識は捕捉することができなかった。むろん『コンドル』にはまだ来ていない。どこかもう一軒のバーかクラブに寄って、時間つぶしでもしているのであろう。いかに西尾の意識のパターンを熟知しているとはいっても、たった二カ月前からの知りあいだから、その意識を感知できる距離はせいぜい数百メートル、場所によっては数十メートルくらいのものだった。
新聞会館ビルの前にタクシーののりばがあり、闇タクシーを嫌って十数人の列ができていた。七瀬はその最後尾に立った。
二、三分ののち、西尾の意識がゆっくりと七瀬のレーダー内にあらわれた。姿を見られぬよう、七瀬はタクシー持ちの列から離れて西尾とは逆の方向へ歩いた。少し歩いてから、西尾がひとりで新聞会館の地階へ降りていくのを確認し、また踵《きびす》を返して新聞会館ビルの前へやってきた。西尾は『コンドル』の隅のテーブルについていた。七瀬のいる方角には背を向けていたので、彼女は少し安心した。女を脅迫することなど、西尾にとっては日常茶飯事の些細な悪事らしく、彼は厚い壁越しにボイラー等を透視しながらまったく別のことを考え続けていた。
バーやクラブの透光看板の灯が次つぎに消えはじめた。深夜に近づきつつある地方の中都市の繁華街には酔漢が多かった。ビルの柱型の陰に佇《たたず》む七瀬は何度も顔をのぞきこまれ、卑猥《ひわい》なことばを浴びせかけられた。行きつけの店では紳士然としている男に限って、何らかの欲求不満から見知らぬ女に構いたがるようだった。
弥栄の意識が近づいてきた。それは七瀬も先刻承知している独特の不安と恐れに満ちていて、精神力の弱い弥栄が発散させているにしては比較的遠くからでも感知することができた。七瀬はまた新聞会館ビルを離れ、弥栄がやってくるのとは逆の方向へ数十メートル歩いた。
数分後に七瀬がもとの場所へ戻ってきた時、すでに弥栄に対する西尾の脅迫は始まっていた、
「ダイヤをペンダントから出して、どこへやったんだい」
「なんのこと」
「今さらとぼけるなよ。バッグの中だね」
(どうしてそんなことがわかるのだろう)と、弥栄がおびえきった心の片隅で不思議がっている。
「ティッシュ・ぺーパーに包んで口紅の蓋の奥へつめこんだか、裸のままファンデーンヨンのチューヴに押しこんだか、どちらかだろう」
西尾は面倒臭そうにいった。弥栄をなめきっていて、能力を隠そうとする努力さえ惜しんでいた。「さあ、早くしろよ」
隠した場所を言いあてられてしまうと、弥栄はすぐ催眠術にかかったようなうつけた精神状態になってしまい、とりとめなくさまざまな事象をあれこれと想い起しながら、あやつり人形のようにハンドバッグからファンデーションのチューヴを出した。
西尾はチューヴの中をあらためようともせず、汚ならしそうにハンカチにくるんでポケットに納め、すぐに立ちあがった。「さあ、行こう」
のろのろと、弥栄が顔をあげた。「あの、どこへ」
「ぼくのマンションだ。誰にも言わないでおいてやるんだから、ちょっとつきあってくれ」
弥栄は立てなかった。いわば腰が抜けた状態だった。西尾が胸で舌打ちし、弥栄に腕を貸した。
弥栄は立ちあがりながら顔を歪め、おろおろ声でいった。「ひどい目に会わせないでね。痛いことしないでね。言うこと聞くから。やさしくしてね。ね。ね」彼女の自我は崩れかかっていた。
「そんなことしないよ」さすがに西尾は、やさしくそうに言った。だが彼の意識の中にある弥栄は、もはや侮蔑の対象でしかなかった。
(思いっきり屈辱的な恰好をさせてやるぞ)(家畜として扱ってやる)
七瀬は足早にその場を去った。これからの自分の行動とその結果についてすばやく思いをめぐらせながら、彼女は新聞会館ビルから遠く離れた街かどの公衆電話ボックスに入った。受話器の送話口をハンカチでくるみ、「ゼウス」の番号をダイヤルした。
ボーイのひとりが出た。「はい。ゼウスです」
「しげみさんをお願いします」
ボーイは七瀬の名を訊ねようともせず、まだ店に残っているらしいしげみを呼んだ。
やがてしげみの声がした。「はい」
「しげみさんですね」七瀬は、しげみの声をまったく知らない人間であるかのようにわざとそう訊ね、相手を確認した。「西尾さんが弥栄さんと一緒に、マンションに帰って行きましたよ」
しばらくは、なんのことかわからぬ様子だった。七瀬は受話器の彼方の反応に聴覚を集中させた。電話では、しげみの思考は読み取れないのだ。
少しの間無言だったしげみが、やっと訊ねた。「あなた、誰」
意味が通じたと判断し、七瀬は電話を切ってボックスを出ると、「ゼウス」の近くまで引き返してしげみを待ち伏せた。西尾のマンションで二人が修羅場を演じてくれさえすれば、自分がダイヤを拾ったのでないことが明らかになる筈だ、と、七瀬は考えたのである。
考えた通りの結果になってくれるかどうか、確かめに行かなければならなかった。十数分後「ゼウス」をいそぎ足で出てきたしげみの意識から念のためもう一度西尾のマンションの所在地を正確に読み取っておき、余裕をたっぷりとって、七瀬はしげみを尾行した。しげみはやはり西尾のマンションへ行くつもりだった。彼女の心は嫉妬で燃えさかっていた。
(なぜあんな不細工な娘を)(弥栄のやつ)(わたしがいろいろ面倒見てやっているのに)(わたしの席に呼んでやったりしたのに){(裏切った)/(許さない)}(プライドがある)(わたしのプライド)(どうしてくれる)(あの男と一緒に寝て)(わたしのことを馬鹿にして)(笑っているのだ)
現場に乗りこんで怒鳴り散らすことはブライトに関係がないと思っているところが滑稽だった。誰が電話をかけてきたのかという疑問など、今の彼女にとって第三、第四の問題だった。
十二時過ぎになっていて、タクシーのりばには空車が待っていた。しげみがタクシーに乗った。七瀬も少しあとからタクシーに乗り、しげみを追った。二台のタクシーが約十メートルの間隔をおいて盛り場をあとにし、町の中央の大通りを走った。ショー・ウインドウや街燈や看板が少なくなるにつれて夜の闇は濃くなった。町のそのあたりは寝静まっていた。
西尾の住むマンション・ビルは九階建で、彼は九階に住んでいた。ビルの玄関のガラス・ドアを押しあけて明るいエレベーター・ホールに駆けこんでいくしげみを太い門柱の陰で見送りながら、注意しなければ、と、七瀬は思った。付近一帯に西尾の油断のない視線がたえず放たれていると考えていい筈だった。そこは西尾の縄張りだったからだ。事実、精神力の強大な西尾が残した臭気は、そのあたりに満ちていたのである。なかば動物的な勘でそれを感じとり、七瀬は少し顫《ふるえ》えていた。
意識のアンテナを高くかざし、七瀬は九階にある西尾の部屋をうかがった。西尾の意識がかすかに読めた。弥栄の意識は微弱で、わずかに存在が認められるだけだったが、西尾の意識によって、彼女が今西尾から破廉恥な体位を命じられ、屈辱にふるえていることがわかった。
(そうとも)(お前は豚だ)(おれは豚を犯す)(もっと泣け)(口惜しいだろう)(だが何もできないんだぞ)(お前は豚だものな)(もっと泣け)(もっと醜く泣け)
嗜虐《しぎゃく》の快感に酔っている西尾の胸のつぶやきが、ふと跡切れた。だがそれはほんの二、三秒のことだった。すぐに彼のあわただしい思考が渦を巻きはじめた。場所の遠さに意識の流れの速さが加わり、西尾の思考はさらに読み取り難くなった。七瀬は強く眼を閉じた。意識の受容部に注意を集中させた。
(しげみが来る)(エレベーターに乗ろうとしている)(この女をどこかへ)(隠す)(帰らせた方が安全)
七瀬は西尾の透視が九階下のエレベーター・ホールにまで及んでいることを知って愕然とした。この付近では、西尾の透視能力は距離的に七瀬の精神感応能力を大きく越しているのだ。
「おい。起きろ。すぐ服を持って部屋から出るんだ」西尾が弥栄にそう叫んでいた。「そうだ。裸のままで廊下へ出るんだ。この鍵は隣の部屋の鍵だ。隣の部屋に入って服を着ろ。大丈夫だ。誰もいないから」
西尾の意識から、彼がそのマンションの九階にある八つの部屋のうちの半分を他人の名義で借りているらしいことがわかり、七瀬はまた驚いた。それは彼の要心深さと、このあたり一帯が彼の透視範囲内にある一種の権力圏であることを示していた。
「服を着たら帰っていい。鍵は隣の部屋においておけ」西尾は弥栄にそう命じた。全裸の彼女に衣類を持たせて部屋から追い出した様子である。
しげみの乗ったエレベーターが九階に着いた。そこでしげみの意識は捕えられなくなってしまった。もはや七瀬がかすかに捕捉できるのは、西尾のことばと意識の一部だけである、しかも、これ以上彼の部屋に近づくことには、彼に自分の姿を透視されてしまうおそれがあるため、大きな危険が伴うのだ。ほんの少しの身動きさえ、神経過敏になっている今の西尾からは簡単に勘づかれてしまいそうに思え、七瀬はその場に立ちすくんだまま動けなくなってしまった。
(来やがったな)「入れ」
「何ごとだい」
「なんだって。誰もいないよ」
「何をそんなに興奮しているんだ」
「弥栄ちゃんだって。馬鹿。知るもんか」
「じゃ、捜してみろよ」
「ほら。誰もいないだろうが」
「誰がそんなことを言ったんだ」
「へえ。その電話、誰の声だった」
「さあ。ぼくは何も思いあたらないね」
「いいよ。いいよ。あやまらなくても」
「え。今夜か。今夜ここへ泊られちゃ困るねえ。明日の朝、早いんだ」(馬鹿)(今さらお前なんか、抱く気が起るものか)
どうやらしげみにダイヤを返してやる気はなさそうだった。七瀬はあてがはずれ、がっかりした。修羅場もついに演じられることはなかったのである。
「え。ダイヤかい。ああ、よし、よし。また買ってやるよ」(二度と買ってなんかやるものか)
その時、西尾がいる部屋の隣室で服を身につけ終えた弥栄が、エレベーターで降りてきて、玄関から道路へ小走りに駆け出てきた。混乱しきっている彼女が、門柱の陰に隠れている七瀬の姿に気づく筈はなかった。弥栄の意識はクエスチョン・マークで満ちあふれていた。
(あの声はしげみの声だったわ)(なぜあの男、しげみが来たことを知ったのだろう)(しげみはなぜ来たんだろう)(わたしが来ていることを知ったのだろうか)(あの男は、わたしがダイヤを盗んでいたことをしげみに言うだろうか)(お店をやめよう)(こんな気味の悪い町、出て行かなくちゃ)(えたいの知れない男だったわ)
足もとも定まらず、魂をなくしたようにふらふらと明るい大通りの方へ歩いて行く、風で裾が拡がったスプリング・コート姿の弥栄のシルエットは、なんとなく幽霊じみていた。
「うん。その方がいいよ。どうせ二、三日したら、また店に顔を出すから」
しげみが西尾の部屋を出ようとしていた。七瀬は、西尾の注意がまだしげみに向いている間にと思い、さっと門柱の陰から出て大通りへと走った。走りながら、どうやって西尾からダイヤを取り返そうかと考えた。なんとかしてあのダイヤを手に入れ、「ゼウス」のどこかへ落しておいてしげみ自身に発見させない限り、いつまでも自分が疑われ続けることになる、それは迷惑だ、大変な迷惑だと七瀬は思った。
大通りに出ると、すでにあたりに弥栄の姿はなく、人通りは少なかった。七瀬は通りを横断し、ショー・ウィンドウのマネキン人形を眺めながら、マンションから出てくるしげみの意識を捕えようとした。やがてしげみが出てきて、大通りの歩道ぎわに立ち、タクシーを拾おうと通りの左右を物色しはじめた。彼女は今夜のことで西尾から嫌われたのではないかと気に病んでいた。
(わたしのやきもちで、うんざりしたのかしら)(抱いてもくれなかったわ)(ほんとにダイヤを買ってくれるかしら)
呼び停めたタクシーに乗ったしげみが都心の方向へ去って行くのを見届け、ほっと嘆息してから七瀬はゆっくりと歩きはじめた。多少のトラブルや危険をおかしてでも「ゼウス」にいる間に、ダイヤを拾ったのが弥栄であり、それをペンダントの中に隠しているということを指摘しておけばよかったと思い、七瀬は自分の一時の臆病さと用心深さを悔んだ。見ないふりはしていたけれども本当は拾うところを見ていたのだとでも何とでも、誤魔化しよう、説明のしようはあっただろうに、と、そう思った。
大通りには公衆電話のボックスがあった。七瀬は立ち止まり、立ち止まると同時に決心した。西尾の部屋に乗りこんで対決しよう、と考えたのである。今となってはそれ以外にダイヤを取り返す方法はない。
西尾からは名刺を貰っていた。七瀬のからだを切実に欲している西尾から、いつでも暇な時に電話してくれといって渡された名刺である。七瀬は街燈の明りで名刺に書かれた電話番号を読んだ。会社の電話番号以外に、もうひとつの電話番号がボールペンで書き加えられていた。それがあのマンションの、今西尾のいる部屋の電話番号かどうかはわからなかった。七瀬は公衆電話ボックスに入ってその番号をダイヤルした。
西尾が出た。「はい。西尾です」
蓮《はす》っ葉《ぱ》な調子を出すのに七瀬はちょっと苦労した。「もしもし。わたし。誰だかわかる」
「あ。夕子じゃないか」西尾の声が意外そうにはねあがった。「どうした風の吹きまわしだい。ぼくに電話なんかくれて」
「わたしねえ、待ちあわせしていた人に振られちゃったの」少し酔っているふりをして、七瀬はいった。「今、ひとりなのよ」
ほう。そうかい。じゃ、こっちへこないか。
西尾の方から自分のマンションへこいと誘いかけてきたので、七瀬はほっとした。もし誘われなければ、じつは今近くまで来ているからといって無理やりにでも彼の部屋へ行くつもりだったのだ。外で会ったのでは、彼がダイヤを部屋に置いてきてしまう可能性が強い。
まさか男の部屋へ七瀬がひとりでやってくるとは西尾も思っていなかったに違いない。ためしに誘ってみたところ彼女がすぐ承知したため有頂天になった、という様子をあからさまに、西尾は道順、階数、部屋の番号をうわずった声で教えた。「じゃ、すぐ行くわね」受話器をかけ、七瀬はまたしばらく考えこんだ。
軽率な行動をとろうとしているのではないかと思え、彼女は今さらのようにためらった。貞操の危機がやってくるだろうことは充分考えられた。しかしそれはお手伝いさん時代にも何度か七瀬を訪れ、彼女はそのたびに機転でその場その場を切り抜けてきている。だからその点に関しては多少の自信もあり、なんとかなるだろうと楽観的になることもできた。むろん、いちばん危険なのは西尾に、七瀬の超能力を悟られてしまうことだった。もしそうなったら、と、七瀬は下唇を噛んで自分の決意を強く促した。
西尾の存在を許しておくわけにはいかないわ。[#「西尾の存在を許しておくわけにはいかないわ。」はゴシック体]
ここで西尾を殺してしまうことは、ダイヤ泥棒の嫌疑を受けることよりも、七瀬の将来にとってもっと危険だった。だが七瀬は今、ダイヤのことなどむしろどうでもよくなっている自分を発見していた。彼女は超能力者としての本能と使命感のようなものによって、より強くつき動かされていた。同じ超能力者として、あんな邪悪な存在を許しておくわけにはいかないわ、彼を見逃すことはわたしにとって危険だわ、と、七瀬は思った。どうせいつかは対決を迫られる存在だ、と七瀬には想像できたからだ。西尾を抹殺しようとすることに、今まで七瀬が普通人を裁いてきた時のようなためらいはなかった。また、超能力者同士が異質の相手を抹殺しようとする行為は、ある意味で野獣同上の生存競争にも似ていた。
公衆電話ボックスを出て、七瀬はゆっくりと西尾のいるマンションに向った。
マンションの門のあたりから、七瀬は西尾の視線をひしひしと感じた。夜気をおしわけてその視線はねっとりと、なま暖かく七瀬にからみついた。邪悪で淫猥《いんわい》な視線だった。全裸でエレベーター・ホールに立っている自分を、七瀬は見た。さらにエレベーター・ボックスの中では、西尾に犯されている自分を見せつけられたし。九階の廊下を歩き、西尾の部屋のドア・チャイムを押すまで、七瀬は西尾の空想の中ですでに数回、屈辱的に犯されていた。
「やあ。早かったね」
ガウン姿の西尾がドアをあけ、七瀬を室内に請《しょう》じ入れてうしろ手にドアをしめ、かち、と軽い音を立ててドアの掛け金をおろした途端、突然嵐のように強く激しく七瀬の心に襲いかかってきた西尾の意識内容によって、七瀬は自分の判断が甘かったこと、西尾の能力と彼の知能を見くびっていたこと、そして西尾のより邪悪なたくらみをはっきりと悟り、慄然《りつぜん》とした。西尾は七瀬がさっき門柱の陰に立っていたことを知っていた。それを七瀬が読み取れなかったのは、やはり彼女がおそれていた通り、この付近での西尾の透視能力が七瀬の読心能力をはるかに越していたからだった。その上西尾は、七瀬が何らかの超能力を持っているのではないかと疑ってもいたのである。そればかりではなく、それが精神感応能力《テレパス》であった場合の危険性さえ考えに含めて警戒していたのだ。七瀬が部屋にやってくるまでの間、ことさらにエロチックな想像ばかりして見せていたのも、その考えを七瀬に読み取られまいとしたからだった。今までに他の超能力者に出会ったという経験こそないようだったが、自分自身超能力者である彼が、他に超能力者が存在する可能性を想像したのは当然だった。
(油断ならぬ娘だぞ)(しげみに電話したのはこいつだな)(なぜおれをつけまわす)(おれの能力を勘づいている)(だから門柱の陰にいたのだ)「まあ、すわんなさいよ」腹の中を表情にちらとも出さず、笑顔の西尾がソファを指した。(こいつ、顔色が変ったぞ)(おれの考えを読んだのかな)(精神感応能力者《テレパス》)(精神感応能力者《テレパス》)(かまうものか)(おそれることはない)(いざとなれは暴力で犯して)(麻薬を注射)
「ありがと」七瀬はにこにこしながら踊るように床のカーぺットの上を歩き、乱暴にソファに掛けて見せた。「いいお部屋ね」
室内は六坪ほどの広さで、豪華な家具が置かれ、趣味のいい調度が配置され、真紅の毛布で覆われたダブル・ベッドが隅に置かれていた。
(わざと蓮っ葉に振舞っている)(いつものこの娘はもっと冷静で知的だった)
そこまで見抜かれているのでは、もうくずぐずしていられなかった。先手をうつべきだろう、と七瀬は決心した。と同時に、念のためアパートで寝ているノリオを強く刺戟して彼の目醒めを促し、待機させておくことにした。彼にどのような行動をとらせるかは、情勢次第で決めるほかなかった。
警報はふたりの間で、黒い矢印に定められていた。(―→―→―→起きて)(ノリオ)(―→―→―→起きて)
「何しに来たかわかる」七瀬は西尾にくすくす笑って見せた。
(何を言い出す気だ)(落ちつけ)(何を言い出そうが、あわてたところを見せちやいかんぞ)西尾は部屋の隅の洋酒セットをキャビネットごとソファの前まで押して来ながら訊ね返した。「何しに来たんだい」
七瀬は答えた。「ダイヤを頂きにきたの」
ノリオが目醒めた。(どうしたの。お姉ちゃん)(何があったの)
(起きていて)と、七瀬は答えた。(こっちに注意していてほしいの)
「ほう。ダイヤって何だい」(あわてるな)(手を顫わせちゃいかん)(透視もできるのかな)(デスクの抽出しの中のファンデーションのチューヴを透視したのかな)(それともおれの心を覗いたのか)彼は顔色も変えず、落ちついた態度でウイスキーの水割りを二杯作り、グラスのひとつを七瀬にさし出した。「ま、飲めよ」
「ええ」グラスを受けとりながら、この男を今ここで抹殺しようとするのは自分の手にあまる大仕事だ、と七瀬は考えた。
(お姉ちゃん。ぼく、どうすればいいの)(何をしたらいい)
(もう少し待って)(教えるから)(こちらに、注意していて頂戴)
(七瀬サン。ワタシハアナタノ讃美者デス)
(七瀬サン。ワタシハアナタノ崇拝者デス)
(七瀬サン。ワタシハアナタノ召使デス)
七瀬は、またいつものように激しく訴えかけてきたその意識にも呼びかけてみた。だが、やはりいつものように、反応はまったくなかった。
「わたしねえ」ほとほと困り果てた、という口調で七瀬はいった。「お店で、ダイヤ泥棒だと思われてるの。困っちゃってるのよ。だからあのダイヤ、わたしに下さいな。わたしがそっと返しておくから」
「ダイヤって、しげみが落したあのダイヤかい」
「そうよ」ごくり、とひと口、七瀬は水割りを飲んだ。
「そんなもの、どうしてぼくが持ってると思うんだい」西尾がグラスの中の氷をからからいわせながら七瀬の左隣に腰かけた。(力はあまり強そうじゃない)(まずソファに押し倒して)(抵抗すれば殴りつける)(気絶している問に)(犯して)(麻薬を注射して)
事態は切迫していた。七瀬はノリオを通じて応援を求めることにした。
(―→―→―→ノリオ)
(何。お姉ちゃん)(そっちに注意してるよ)
(電話をかけて頂戴)
(どこへ)
(電話番号はこれよ)七瀬はノリオに一連の数字を二度くり返して教えた。
「弥栄が拾ったダイヤを取りあげたでしょう。わたし知ってるのよ。何もかも」七瀬はじっと西尾を見つめた。
「ほう」暴行の決意をかためた西尾が、ゆっくりとグラスをテーブルに置いた。「なぜ、そんなことを知ってるんだ」
(この電話に、誰が出てくるの)(その人にぼく、何て言えばいいの)ノリオが訊ねていた。
(ヘンリーという人の部屋なの){(ヘンリーが電話に出るわ)/(ヘンリーしかその部屋にはいないの)}(ヘンリーにここの場所を教えて)(助けに来てといって)(すぐに)
(わかったよ)(すぐかけるよ)ノリオが電話をダイヤルしはじめた。
ヘンリーが助けにきてくれるまで、少しでも時間をかせがなければならなかった。七瀬は西尾に答えた。「弥栄がダイヤを拾ってペンダントに隠すところを、わたし見ちゃったの」
「ほう」西尾がわざとらしく眼を丸くした。
「しかしなぜ、ぼくがそれに勘づいたと思うんだい」
ノリオがヘンリーと電話で話していた。へンリーのことばは、ノリオの意識を通じて七瀬にも伝わった。
「お姉ちゃんが危ないの。すぐ助けに行ってあげてほしいの」
「おう。お姉ちゃんって誰ですか」
「七瀬っていうの」
「おう。あなた七瀬さんの弟」
「そうだよ。ノリオだよ」
「ノリオ。七瀬さん、どこにいますか」
「茜《あかね》町のトロピカル・マンションの、九階の九〇三号室だって。早く行ってあげて」
「七瀬さん、どうかしましたか」
「悪い男のひとと一緒なの」
「助けてくださいと、七瀬さんがそう言ってるのですね」
「そうだよ」
「すぐ助けに行きます。場所わからなくなればも一度あなたに電話します。そこの電話番号教えてください」
「ええと、ここはね」ノリオがヘンリーに電話番号を教えはじめた。
(七瀬サン。ワタシハアナタノ讃美者デス)
(七瀬サン。ワタシハアナタノ崇拝者デス)
(七瀬サン。ワタンハアナタノ召使デス)
ヘンリーが放射し続けるその意識は急に今までになく強烈なものになった。
西尾が七瀬につかみかかろうとした。彼がそう決意し、行動に移ろうとする一瞬前、七瀬はグラスを持ったまま、さっと立ちあがって西尾の傍《そば》を離れた。七瀬の急激な動きに気圧《けお》されて、西尾はしばし茫然とした。だがすぐに立ちあがり、七瀬に近づいてきた。
「もう一度聞くよ。なぜぼくが、弥栄のペンダントの中にダイヤがあると見抜いたことを知ってるんだ」
「近づかないで」と、七瀬はいった。声が顫えた。
西尾が七瀬にとびかかろうとした時、七瀬は第一の衝撃を彼にあたえた。「|透 視《クレア・ヴォヤンス》」
西尾が凝固した。(やはり知っていた)(やはり知っていた)いざ、ことばではっきりと指摘されれば、いくら心構えができていても、やはり西尾にとってそれは大きなショックだった。(ついに知られた)(おれ以外の人間に)(おれの能力を)(おれの秘密を)
「そう。あなたは透視能力者よ。わたしに何かしたら、あなたが超能力者であることを言い触らして歩いたげるわ」
優位に立とうとして、西尾はけんめいになった。「誰が信じるものか」
七瀬はゆっくりとかぶりを振った。「あなたにとってそれがどんなに危険なことか、あなた自身がいちばんよく承知している筈よ。思いあたる人だっているでしょうしね」
「その程度の脅迫で、ぼくがダイヤを渡すと思ったのか」(心配いらん)(この女を犯して)(麻薬患者にして)(おれの奴隷にしてやる)
少しくらいの精神的衝撃ではびくともしない西尾を見て、七瀬は少し焦った。早くヘンリーが来てくれればいいのにと思った。
(そうか)(やはりこの女は)(精神感応能力者《テレパス》)(精神感応能力者《テレパス》)
「そうよ」と、七瀬は西尾の心にことばで返事し、第二の衝撃を彼にあたえた。
それはふつうの人間なら、一瞬にして気が狂いそうになるほどの衝撃である筈だったが、西尾の心はさほど乱れなかった。かせぐことができた時間はほんの数十秒だった。
「お前は誰だ」(そうか)(やはりそうか)(では)(ではおれは)(行動に移る以外にない)
西尾がとびかかろうと考えた途端、ぱっ、と七瀬はグラスのウイスキーを彼の顔に浴びせ、さらにグラスを投げつけた。ドアの方へ走ろうとした。西尾が七瀬の腰にタックルした。七瀬は俯伏せに転倒した。西尾がカーペットの上に七瀬を押えつけ、彼女の腕を背中にまわしてねじりあげた。七瀬は身動きができなくなった。西尾の片手が七瀬の胸もとをまさぐった。彼は七瀬のスーツのボタンをはずそうとしていた。
ヘンリーの意識が急速に近づいてきた。早く、と七瀬は呼びかけたが、それはヘンリーには聞えない筈だった。
七瀬は床に押えつけられたまま、スーツを上下ともほとんど脱がされてしまっていた。数回殴られ、二度ほど気を失いそうになった。いつも七瀬が男たちの獣じみた意識的願望の中に見る強姦シーンが、実際のものになろうとしていた。
ヘンリーがドアの彼方に立った。
ドア・チャイムの音に西尾があわてて身を起し、閉ざされたままのドアを見て叫んだ。「ヘンリー。仲間だったか」
七瀬も叫んだ。「ヘンリー。掛け金がかかってるのよ。内側から」
かちり、と掛け金がひとりでに動いた。
「念動力《テレキネシス》」西尾が悲鳴をあげてデスクに走った。
ドアを開け、黒い砲丸のような勢いでヘンリーがとびこんできた。
「気をつけて」と、七瀬は叫んだ。「机の抽出しに拳銃を置いてるわ」
西尾が拳銃を出した。だがその拳銃は西尾の手から離れて宙をとんだ。
「殺して。早く」ヘンリーの意識を通じて、どうせ西尾の死にざまを感じずにはいられないことを知りながら、七瀬は眼を強く閉じてそう叫んだ。「彼を自殺させてやって」
「返してやる」ヘンリーが言った。
いったんカーペットの上に落ちた拳銃が、ふたたび宙をとんで西尾の手の中に納まった。唖然としている西尾の腕がゆっくりとねじ曲った。銃口が西尾の意志に反して彼自身の耳に押しあてられた。
「助けて、くれ。許し、許してくれ。殺さないでくれ」歪んだ顔の西尾が身もだえした。
轟音が部屋に満ちた。西尾の意識がはじけとぶ恐ろしいさまを、七瀬はできるだけ感知しまいとした。だが死の瞬間、西尾はほとんど苦痛を感じなかったようであった。鮮血がわずかにデスクの表面へ散った。四尾は床に倒れた。
「早く出ましょう」七瀬が顫える手でスーツを身につけながら言った。
廊下に出る前、デスクの抽出しからファンデーションのチューヴを取り出し、床に転がっているグラスの指紋を拭い消すことを、七瀬は忘れなかった。七瀬とへンリーは廊下に出て部屋を振り返った。
「密室にして」と、七瀬は命じた。
ヘンリーはドアを閉め、掛け金を|内側から《ヽヽヽヽ》おろした。そして把手《ノブ》の指紋を拭った。
「あとは運次第だわ」エレベーターの中で、そう言いながら七瀬はファンデーションのチューヴをヘンリーに渡した。「中にダイヤが入ってるわ。掃除している時に見つけたとでも言って、しげみに返してやって頂戴」
へンリーは神妙な顔でうなずき、チューヴを内ポケットに入れた。「七瀬さん。あなた無事でしたか」
「無事だったわ」と、七瀬は答えた。
弥栄はもう店に顔を出さない筈だ、と、七瀬は考えた。だから弥栄がヘンリーを疑うこともない筈だった。
「七瀬さん、これからどうしますか」
「二、三日はなに気ないふりでお店に出るわ。それからノリオをつれて町を出るわ」
ヘンリーが何か言いかけた。
「ええ、そうね。あなたもつれて行くわ」うなずいた。「今まであなたと接触しなかったのは、用心してあなたを観察していたからよ。そう。わたしはあなたの心が読めるの。あなたには大きな優越感と、それから自分自身への大きな不信があったわ。なぜそんな相反する感情を持っているのか、その原因が何かを探っていたの。あなたの能力が念動力らしいこともうすうすわかっていたけど、あなたがその能力をなぜ自分の意志で使えないのか、それが不思議だったのよ。でも今はそれがわかったわ」
ふたりはマンションを出た。背の高いヘンリーが自分のコートを脱ぎ、七瀬にそっと着せかけた。そして彼は喋り出した。
「わたし父親がいました。わたし小さい時、父親が命じた時だけ心で物を動かした。父親死にました。わたしの心、父親に代るもの、わたしたちの民族の神にかわるようなもの、求めた」
「上位自我っていうのよ」と、七瀬が教えた。
「わたしそれ求めて日本やってきた。それ、あなたでした」と、ヘンリーは言った。「あなた最初に見た時から、わたしそれ、わかっていた。呼びかけた。聞えましたか」
「ずっと聞えていたわ」
ふたりは深夜の大通りをゆっくりと歩いた。
「あなたの命令だけが、わたしに、心でものを動かす力、あたえるのです」ヘンリーは七瀬に合掌して見せた。「わたしの上位自我、七瀬さん、なってください。わたし、どこまでも七瀬さんについて行きます。七瀬さん。わたしはあなたの讃美者です。七瀬さん。わたしはあなたの崇拝者です。七瀬さん。わたしはあなたの召使です」
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七瀬 時をのぼる
フェリーボートが港を出た時、海面は濃霧に包まれ、視界は白く閉ざされていた。
(こんなに霧が深かったら、船と船とが衝突するんじゃないかしら)特等室の船窓から外を見て、ノリオはそんな心配をしていた。
衣裳戸棚へ、スーツケースから出したコートやスーツを次つぎと吊しながら、七瀬はノリオにいった。(レーダーがあるから大丈夫よ)レーダー=電波探知機=超短波放射。
(じゃ、ぼくたちみたいなものかい)
(いいえ。交信はできないのよ。相手の位置がわかるだけなの)
テレビのSF映画によく登場するいくつかのタイプのレーダーをいろいろと思い浮べてノリオは急に興味を持ったらしく、レーダーのことをもっと勉強しようなどと考えはじめていた。レーダーに関して七瀬の持っている知識が極めて貧しいものであることをすぐに悟ったからである。
(そうよ。ノリオはもっと勉強しなくちゃね。お姉さんは高校を出ただけだけど、あなたは大学まで)すらすらとノリオに語りかけていた七瀬の意識が急に乱れ、内省的な流れに変った。(でも)(小学校へ入学させることが)(正しいことだろうか)(出来るだろうか){(義務教育)(入学)(危険)/(義務教育を受けていないと大学には入れない)}
(どうしてなの)ノリオが振り返った。(どうしてぼくが小学校へ入学すると、危険なの)
(だってあなたは)
(わかっているよ)ふたりの心の中ですでに何度もくり返された会話だったから、すぐ、ノリオはうなずいた。まだ五歳にもなっていないのに、ノリオはすでに十歳ぐらいの少年の知能を持っていた。(ぼくが精神感応能力者《テレパス》だってことが皆にばれるかもしれないからでしょ)(大丈夫だよ)(隠すから)(絶対にばれないように、うまくやるよ)(お姉ちゃんだって、そうしたんだろ)
(それはそうだけど)しかし、と、七瀬はいつも思うのだ。(どんな偶然から人に知られないとも限らない)(事実わたしにだって、学校時代、そしてそれに続くお手伝い時代を通じて、そんな危険な時が何度かあったのだから)
七瀬の場合は超能力を持つ保護者がいなかったから、他の子供同様義務教育を受けるため小学校へ通う以外なかった。しかしノリオの場合には七瀬という同じ種類の超能力を持った保護者がいるのだから、小学校でノリオに万が一のことがあれはそれは彼に「普通人」の定めた法によって義務教育を受けさせた七瀬の誤りだったことになる。ノリオにはもっと安全な、そしてノリオの能力によりふさわしい教育方法があるのではないだろうか。七瀬はそれを毎日のように考えてきた。だがその方法はまだ七瀬の心に、具体的に浮んでこない。自分自身で考えるべき問題で、どこに解答を求めることもできない問題だから、考え尽したあとは天啓のようにインスピレーションが湧いてくるのを待つほかないのである。
子供らしい無遠慮さで七瀬の意識を覗きこみ、その思考を興味深でに追っていたノリオは、やがて白一色の外の景色に失望して窓ぎわを離れ、べッドに戻って腰をおろした。(よくわからないよ)(どういうこと)
幼いノリオが読み取るには、七瀬の思考の流れは早過ぎ、抽象的に過ぎるのである。
(ううん。あなたは考えなくていいのよ)(わたしが考えることなんだから)船室ボーイの持ってきた魔法瓶の熱い湯で茶を淹《い》れながら、七瀬は微笑して、ちらとノリオに優しい視線を投げかけた。
ノリオを学校に入れるには、それに加えて入学手続の問題があった。七瀬は自分がノリオと名乗る四歳の少年を養い、育てていることを、まだどこにも届け出ていない。入学の際には当然ノリオの出生、両親、親もとを離れている理由など、さまざまなことの証明と届け出が必要になってくる筈だったが、それをどのようにするかもまだ考えてはいなかった。たとえ継母であり、すでに死んでしまっているとはいえ、当時はまだ生きていた母親の手もとから誘拐同様にしてつれてきた子供なのである。また、いかに子供を可愛がらぬ酒飲みとはいえ、家には本当の父親もいる筈だ。真実を届け出るわけにはいかなかった。ノリオを養い育てなければならぬ七瀬にとっての正当な理由など、「普通人」の社会では通用しないのである。
ヘンリーが廊下をやってきて、特等室のドアをノックした。むろん声を聞かなくても、へンリーがやってきたことはノックを聞く前から七瀬とノリオにはわかっている。
「お入りなさい」
夏でもないのに純白の背広を着たヘンリーがにやにや笑いながら入ってきて室内を見まわした。
「おう。ホテルの部屋みたいですね。いい部屋です」
ヘンリーは白い服が好きである。そのため顔の黒さが尚さら目立つ。対白人コンプレックスて白い服を着ているのではなく、肌の色とのコントラストを考え、なかば面白がって着ているようなふしも見られる。
「ご免なさいね。わたしたちだけ特等室に入ったりしてし」
「かまいません。わたし男ですから」
特等室の切符を三枚買おうとしたのだが、二人部屋が一室しか空いていず、しかたなしにへンリーを特別二等室へ追いやったのである。七瀬が個室を選んだのは、いうまでもなくノリオを他の船客とできるだけ接触させぬよう用心したためである。だがノリオ自身は七瀬のそんな心配を過保護であると解釈し、あきらかに不満に思っていた。
「お茶を淹れたの。いかが」
「いただきます」長身のヘンリーが低い肱掛《ひじかけ》椅子に掛けると、膝が首の高さまできてしまう。
「特二というのは、四人部屋なんでしょう」
「そう。他に三人の客がいます。こんな人たちです」
ヘンリーが、やや戯画化した同室の客三人の姿を思い描いて見せた。七瀬とノリオはくすくす笑った。ひとりは陰気な目つきをした小柄な青年で、ヘンリーはこの若い男をフランス映画によく出てくるこそ泥のような風貌に描いて見せた。アダムスの漫画に登場する怪物一家の奥さんのように髪を長くした痩《や》せぎすの女は、その青年の連れらしい。ヘンリーの観察によれば、二人は夫婦や兄妹ではなく、おそらく恋人同士であろうということだった。もうひとりは色の白い肥満型の可愛い娘で、ヘンリーはこの女性を外国漫画に出てくる典型的なグラマー美人として心に浮べ、ひょいとスカートをまくれあがらせ、柄もののパンティをのぞかせて見せたりした。
「だめ」ノリオの手前、七瀬は笑いながらヘンリーを睨《にら》みつけた。
ノリオがベッドにひっくり返り、大声で笑った。まだ性知識に興味はないが、エロチック・ユーモアの感覚だけは理解できるのである。
七瀬はヘンリーに対して、彼が他の男のように想像で自分を裸にしたりしないことに、男性としての物足りなさを感じていた。他の女性にはヘンリーも、ふつうの男性並みにエロチックな感情を抱くのに、七瀬に対してだけは何故か子供が母親や女の先生に持つような畏敬《いけい》と讃美の念しかないようであった。七瀬を神聖視し、エロチックな眼て見ることさえ心理的タブーとして抑圧しているらしいヘンリーの様子に七瀬は、わたしだって年頃の娘なのにと思い、大いに不満なのである。
七瀬のそんな気持がヘンリーに通じたのか、彼はややそわそわして腕時計を見た。「だいたい三十時間の船旅です。北海道へ着くの、明日の夕方、八時になりますね」弁解めいた口調で、七瀬がとうに承知していることをもう一度くり返しながら彼は立ちあがった。「わたしちょっと眠ってきます。用があったら起してください」出て行った。
(ヘンリーさん、お姉ちゃんをちょっと怖がってる)ヘンリーの深層心理を観察しようとしていたノリオが、さっそく鋭くそう指摘した。
(そうらしいわね)ノリオには誤魔化しが通用しない。同意するしかなかった。(訓練がきびしすぎるからでしょ。きっと)
ヘンリーは七瀬の命令に触発されない限り念動力《テレキネシス》を発揮できないから、彼の能力をより強めるための訓練には七瀬の協力が必要なのである。今では七瀬はヘンリーの教師といった役割を果していた。ヘンリーは超能力に関する知識を七瀬ほど持っていない。
エンジンの音を聞いているうちに頭が重くなり、七瀬は眠くなってきた。
「ぼく、まだ眠くないよ」先まわりをし、ノリオが声に出してそう叫んだ。(船の中を見てまわりたいな。ぼく、見てきてもいいでしょ)
七瀬はためらった。ノリオがどこへ行こうと、船内にいる限りは彼の心を捕捉できるし呼びかけることもできるから、監視したり命令したりして彼の行動を規制することはできる。しかしひとり歩きをさせるにはまだまだ七瀬にさえ想像できないいろいろな危険が伴うと思えたし、もし七瀬自身が眠りこんでしまったりすれば、予期できない危険から未然にノリオを救ってやることができなくなるのである。
(駄目)(ここにいなさい)いったん強くそう命じようとした七瀬は、彼女の心の動きをけんめいに見守っていたノリオの思いがけない反発に出会い、またためらってしまった。
(ひとりで出歩きたいよ)(今まで一度も外へ出してくれたこと、ないじゃないか)
七瀬はしばらく考えこんだ。(もうそろそろ、行動の自由をあたえてやってもいい年頃なのではないか)(でないと、いつまで経ってもひとり歩きのできない臆病な子になってしまう)(自分の身を自分で守る訓練もしないことには)(わたしだってそうだったんだし)
(そうだよ)七瀬の逡巡《しゅんじゅん》につけこんでぱっと顔を輝かせながら、浮き立つようにベッドから降り立ち、ノリオはけんめいに自由行動をねだりはじめた。(お姉ちゃんだって、そうだったんじゃないか)(気をつけるよ)(絶対に危険なことはしないから)
(船の中だから、いくらかは危険も少ない筈だわ)(初めてひとり歩きをさせるいい機会かもしれない)気にいった玩具《おもちゃ》をねだる時のそれに似たノリオのひたむきさに、七瀬は苦笑した。(いいわ)(行ってらっしゃい)(そのかわり){(甲板の手摺《てす》りには近寄らないでね)/(ひとの心を読んで顔色を変えちゃ駄目よ)}(それから)(それから)
その他、洪水のように七瀬の心にあふれ出した注意事項を煩わしげに一瞥《いちべつ》し、ノリオはドアをあけ、廊下へ駆け出た。
特等室、一等室、特別二等室などの個室は船の舳先《へさき》に近い前半分にあり、二等船室などのある船尾に近いうしろ半分とは青い透明プラスチックのドアで区切られていて、廊下の床にはカーぺットが敷かれていた。ノリオは部屋を出ると、廊下を隔ててすぐ前にある個室使用者専用のラウンジへ入ってみた。広い窓からは船首と甲板が見えた。だが、海上はあいかわらず一面の濃霧で、景色は見られないラウンジには応接セットやテレビなどがあり、豪華な雰囲気だったが、北海道への観光にはやや季節はずれで船客が少ない為か、誰もいなかった。つけっぱなしのテレビが音楽番組を流し続けていたが、テレビなら特等室にもある。ノリオはラウンジを出て、二等船室の方へと細長い廊下をたどった。
青いプラスチックのドアをあけると、そこはプロムナードに続く小さなロビーで案内所や売店やレストランへの入口があり、数人の船客がベンチに腰をおろしたり売店で絵葉書を見たりしている。
ノリオと同じ年頃の女の子がひとり、ベンチから立ちあがって、ドアの前に佇《たたず》んでぼんやりしているノリオの方へ近づいてきた。その、ぐいと両端を歪めた唇に興味を持って彼女の考えていることをちらと覗いたノリオは、たちまち胸の中で大きく悲鳴をあげた。彼女は周囲に見ている人間がいない時を見はからい、ノリオの顔を自分の爪で引っ掻《か》いてやろうとしているのである。どす黒い憎悪が幼い意識の中でヒステリックに沸き返っていた。いい服を着た、色の白い、可愛い顔立ちの男の子に、彼女はなぜか強く激しい敵意と深い恨みを抱いているらしいのだ。その女の子の記憶の断片を見渡した限りでは、彼女の通っている幼稚園でも、数人の可愛い男の子が彼女の爪で負傷していた。
(にくたらしいわ)(掻いてやる)(この子も泣かしてやるわ)
ながくのびて黴菌《ばいきん》たっぷりのまっ黒な爪垢《つめあか》の溜まったその爪を、まずノリオの両の眼の下に深く突き立て、そこから両側の顎の下にかけての頬の皮をばりばりと力まかせに掻きむしろうとしているのである。
(この白い顔の薄い皮を破って)(血を出してやるわ)
ノリオは動転するほど驚いた。これほどの憎しみに出会ったのは初めてだった。(ぼく何も悪いことしていないのに)(そんなことされたらたまらないよ)(どうしよう)(お姉ちゃん、助けて)(どうしたらいいの)
(ほら、ごらんなさい)七瀬がくすくす笑っていた。(世の中にはそんな子がいっぱいいるのよ)
(逃げたらいいでしょ)(いざとなれは、あなたは男の子よ)(力はその子より強いのよ)(そんな女の子ぐらいでびくびくしてちゃだめ)
ノリオは両側に、ジュースやビールなどの自動販売機が並んでいるプロムナードへ走りこんだ。うしろを振り返らなくても、強い悪意の放射がびんびんと胸に響き続けているから、女の子が彼を追いかけてきていることははっきりしている。逃げるとかえって恐怖が増し、身がすくんだ。
(逃がさないわ)(こいつ、わたしから逃げているわ)(痛い目にあわされることがわかったのね)
プロムナードのつきあたりは二等船室で、畳の上には数十人の船客が、あるいは腹這《はらば》いになり、あるいは壁に凭《もた》れてあぐらをかき、漫画週刊誌を読んだり、罐《かん》ビールを飲みながら話をしたりしていた。麻雀をしている男たちもいる。広い船室の中央の通路を通り抜けながら、ノリオは彼らの思考の渦にちょっと圧倒された。船室内を雑然と飛び交っている大量の意識の流れのひとつひとつを見れば、ノリオに理解できないものがほとんどだったが、若い男女が多い為か、それらの大部分は強烈で直截《ちょくせつ》で、しかもノリオが見てさえ卑猥に感じられるものが少なくなかった。自分の超能力を自覚して以来今まで、大勢の人間の前に出た経験の少ないノリオは、七瀬のように彼女のいわゆる「心に掛け金をおろし」て流れこんでくる意識を遮断してしまう技術には馴れていないのだ。
二等船室のうしろは「ドライバー喫煙室」と呼ばれている小さなロビーだった。その部屋のさらに船尾に近い側のドアを開けると、そこはもう後甲板である。フェリーボートの船首近くから船尾近くまでの縦断はノリオにとって初めての大旅行だった。ノリオは甲板に出てうしろ手に船室のドアを閉めた。あのサディストの幼女は、もう追いかけてこなかった。念のためドア越しに船室の中へ心のアンテナを向けて探知してみると、彼女は二等船室にいた彼女の母親にノリオを追って甲板へ出ようとするのを妨げられ、船の中でちょろちょろするなと叱られている様子だった。
ノリオはほっとして、七瀬に呼びかけた。(お姉ちゃん。あのいやな女の子からうまく逃げたよ)
(あら。甲板にいるのね。気をつけなさい。手摺りに近寄っちゃ駄目よ)
(わかってるよ)
風が出ていてうすら寒く、霧で景色も見えないため、甲板には、手摺りに凭れて海面を見おろしながら何ごとかささやき交わしている若いアベックがたったひと組いるだけだった。ノリオは船尾近くのベンチに近寄って腰をおろした。
服を着たまま特等室のベッドに横たわっていた七瀬は、やがて溜息をつきながら起きあがった。ノリオの行動を気にしているため、とても眠れそうになかった。ノリオは厭がるかもしれないが、やはり彼の傍《そば》についていてやろう、そう考え、七瀬はちょっと化粧を直してから船室を出た。廊下へ出た途端、彼女はあたりに満ちていた強い精神力による意識を捕えてさっと緊張した。これほど強く彼女の心を刺戟する精神力の持ち主は、彼女の経験から判断すればよほどの大人物か、さもなければ常に人間全体への深い攻撃心と憎悪を秘めている極悪人か、そのいずれかである筈だった。普通の人間なら断末魔以外にこんなに鋭く精神力を発散させることはない。
その人物はラウンジにいた。七瀬はゆっくりと、その人物以外に誰もいないラウンジへ入り、何気ない態度てソファに腰をおろし、七瀬の大嫌いな浮ついたロックを演奏中のテレビに気をとられている振りをしながら、ちらちらと横目でその人物を観察した。
それは意外にも若い娘だった。さっきヘンリーが、外国漫画に出てくる典型的グラマー美人として心に描き、スカートをまくりあげて見せた、あの特別二等室の船客のひとりだったのである。窓際に立ったその娘は熱心に海上の深い霧の流れを眺め続けながらもの思いに沈んでいて、まだ七瀬には気がついていなかった。色が白く、眼が大きく、つんとした鼻の恰好が彼女の横顔を古いタイプのフランス映画の美人女優のように見せていた。冷たい感じがないのは、やや肥満したからだつきに愛嬌《あいきょう》があるからであろう。この可憐《かれん》な娘がこの強烈な意識の主なのか、そう思って七瀬は驚いた。もっとも、娘の意識内容は彼女自身が作り出したらしい独特のことばやパターンにあふれていて、次つぎと浮びあがるイメージは抽象的で複雑だったから、彼女の思考を簡単に理解することはできなかった。
(自分自身のことを考えているんだわ)しばらく観察した後、やっとそう見当をつけた七瀬は、過去、これに類した意識に自分が何度か出会っていることを突然思い出して愕然《がくぜん》とした。(孤独感とエリート意識)(それに警戒心と使命感)(これは超能力者の意識ではないか)
七瀬自身の意識がそうであった。夜汽車で一度出会っただけの、あの岩淵恒夫と名乗る予知能力を持った青年がそうであった。ヘンリーもそうであった。使命感を捨てて邪悪さに身を委ねてはいたが、透視能力者の西尾の意識もこれとよく似ていた。
ではこの娘は何らかのE・S・Pを持っているのか。現代の科学ではまだ解明されていない超現実的な能力を身に秘めているのか。いったいどんな能力を。
娘が七瀬の方を振り返った。娘の秘密を知った七瀬の驚愕と狼狽《ろうばい》が、娘の「第六感」に七瀬の存在を教えたのかもしれなかった。あるいはまた。
(精神感応能力者《テレパス》)一瞬そう思った七瀬は、すぐにその考えを打ち消した。(違う)(テレパスではない)(テレパスならもっと早くに、すぐ背後にいるわたしの存在を知った筈だ)
いったん眼と眼が合った以上、顔をそむけるのは不自然なので七瀬は娘に軽く会釈をした。彼女も微笑して会釈を返してきた。
「ロックはお好き」七瀬から少し離れて立ち、顎でテレビをしゃくって娘が訊ねた。
彼女もロック嫌いだということがわかったので、七瀬はうなずいた。「あまり好きじゃないわ。モダン・ジャズの方が好き」若いのに流行のロックを嫌いだなどとあまりはっきり広言すれば変り者扱いされるから、七瀬はやや控えめに答えた。
「わたしは嫌い」娘はあっさりとそう言ってのけた。「じゃ、テレビ消しましょうか」
「ええ」
娘はテレビを消した。なぜか、七瀬と話したがっていた。
「ロックって、昔の村ぐるみの新興宗教みたいなものね」娘は低いアルトでそう言った。「信じない人間は村八分にされて人間扱いしてもらえないもの」
熱に浮かされているような軽薄さで流行を追う、彼女と同世代の若者たちに対する深い軽蔑があった。その癖一方では、彼女の人なつっこい性格が、村八分にされることを極度に恐れていた。彼女の異常な能力が知られた時には、まさにその村八分しにされてしまうのだ。本来陽気で楽天的な彼女が、他人と違いすぎる彼女自身の精神内容や特殊な能力のために、おそろしいほどの孤独感に悩んでいることも七瀬は知った。しかし彼女がどんな種類の能力を身につけているかを知ることは、なかなかできなかった。
七瀬は、見知らぬ若い娘同士がすぐ仲良くなっていろいろなことを打ちあけあうあの世間の慣習のようなものにしたがって、しばらく彼女と、つまらないことをさも面白そうに話しあった。彼女の名は漁《すなどり》藤子、年齢は十七歳で、まだ高校生だった。
「まあ。十七歳」七瀬は本心から眼を丸くした。
さっ、と、藤子の胸に警戒信号と思えるパターンが走り、彼女は身を固くした。(やっぱり十七歳には見えないんだわ)
嘘をついているのだろうか、と、七瀬は思い、さらに藤子の心をまさぐった。だが十七歳というのは本当だった。
それならなぜ十七歳に見てもらえないことを警戒したのか、そう思いながら七瀬は、やや大袈裟《おおげさ》に嘆息して見せた「とても十七歳には見えないわ。どう見ても二十歳《はたち》過ぎに見えるわ」
「そうでしょう」七瀬の挑発に辟易《へきえき》しながら、しかたなく藤子はそう相槌《あいづち》をうった。「わたし大柄だし、肥っているものねえ」
「ううん。落ちついているからよ。それにあなた、美人だし」
照れる様子もなく、藤子は褒《ほ》め返した。「あなたほどじゃないわ」
十七歳なのに、どうしてこんなに落ちついていられるのかと七瀬は不思議に思った。
(だって)と、藤子が自分に言い聞かせるように心の中で弁解していた。(主観的には十七歳じゃないんだもの)
主観的には、というのはどういう意味だろう、哲学的な言いかたをしているのだろうか、七瀬はそんなことを考えながらさらに藤子の心を覗こうとした。だが藤子は別の話題を捜そうとけんめいになっていて、その解答らしいものはどこにも見られなかった。
藤子はわざと蓮っ葉に喋りはじめた。「だから、まだ十七歳だっていうのに、男の人からじろじろ見られて本当にいやなのよ。今だって、わたしのいる四人部屋の特別二等室に男の人が二人いるの。片方は女連れだからいいけど、もうひとりは黒人なの。そいつがわたしのこと、じろじろ見るの。ううん、わりと恰好良くてハンサムな黒人なんだけど、アベックが甲板へ出ていってしまったから、部屋にはわたしとその黒人と二人だけでしょ。いやだから出てきたの」
この娘が超能力者だと知ったら、ヘンリーがさぞ驚くだろう、と、七瀬は思った。
沈黙を恐れてでもいるかのように、藤子はお喋りを中断することなく、すぐまた自分が北海道へ行く目的を話しはじめた。北海道には牧場を経営している藤子の叔父がいた。ただひとりの肉親である父親が死んだため、彼女は叔父の家に引きとられていくことになったのだ。
父親の死を、藤子はさほど悲しんではいなかった。七瀬同様、藤子にとっても、肉親が死のうが生きていようが、孤独感の強さにたいした違いはなかったのである。孤独感を少しでも柔らげるものがあるとすればそれは、心を許しあえる同胞、つまりは同じ能力を持った超能力者の存在である筈だったが、藤子はまだ自分以外の超能力者に出会ったことが一度もないようだった。
藤子のお喋りをうわの空で聞きながら、彼女の持つ超能力がどんな種類のものなのか、それを知る手段をいろいろと考え続けていた七瀬に、今度は藤子が訊ねた。「あなたはなぜ北海道へ行くの。今時分、観光旅行でもないでしょう」
「ええ。観光旅行じゃないわ」どう言ったものかと迷い、七瀬は少しどぎまぎした。
七瀬たち三人の超能力者が北海道へ旅に出た目的は、自分たちの隠れ家を捜すためだった 年頃の娘、四歳の男の子、黒人青年といった、誰が見てもおかしな組合わせの三人が、人目の多い都会で一緒に生活していれば、やがては世間から疑いの眼を向けられるに違いなかったし、それが過去の事件や、ひいては三人の秘密の発覚という致命的な事態に発展するきっかけになるかもしれなかったから、なるべく早く、あまり人目の届かぬ山奥かどこかに一軒家を持ち、いざという時の避難場所として確保しておく必要があったのである。また、常に気を張りつめている日常から逃れ、時どきやってきて心の凝りをほぐし、休養するためでもあった。
どこまで打ちあけたものか、と、七瀬は考えた。藤子に対してだけは、北海道へ行く目的に関して、ゆきずりの他人に言うようなまるっきりの嘘八百を並べ立てる気がしなかった。もしかするとこの藤子を、同胞として仲間に迎えることになるかもしれなかったからだ。
「別荘を買いに行くの」と、七瀬はいった。「弟とふたりで。わたし、弟と二人暮しなのよ。
ヘンリーが連れであることは黙っていることにした。ノリオなら弟といっても通用するが、ヘンリーとの関係だけは説明のしようがなかった。どんな嘘をついても不自然に聞える筈であった。その実、真実は尚さら超現実的なのだ。
(この人も孤独なんだわ)(両親がいないのね)藤子があたたかい眼で七瀬を見つめながら、羨ましげにいった。「まあ。別荘。お金持ちなのね」
「自分の家を一軒買えるだけのお金は、やっと貯まったわ。でも、安い別荘しか買えないの。都会の近くの家は高くてとても」七瀬は嘆息して見せ、小声でつけ加えた。「わたし、ホステスをして稼いだのよ」
苦労して稼いだ金であることを、なぜか藤子にだけは知っておいて貰いたい気がしたのである。
(―→―→―→お姉ちゃん)(―→―→―→大変だよ)(―→―→―→大変だよ)
七瀬とノリオの間で警報と定めてある黒い矢印に七瀬はさっと緊張し、ノリオの呼びかけに精神を集中させた。
(どうしたの)
(人が殺されるよ)(女の人が男の人に)(助けてあげて)(早く)
「どうかしたの。急に考えこんじゃって」藤子が七瀬の表情の変化に気づき、怪訝《けげん》そうに凝視していた。(悪いこと訊ねたのね)(この人の傷に触れたのかもしれない)
七瀬は立ちあがり、気を悪くしたわけではないという意味を含め、藤子に微笑して見せた。
「なんでもないの。ちょっと弟のことが気になって。さっき、甲板へ出て行ったままなのよ。捜しに行ってくるわ。まだ四つだから、危険なの。
「え。四つなの」藤子が頬をこわばらせた。(まあ。四歳の子をひとりで甲板へ出すなんて)(でも、どうしてそんなに歳が離れてるのかしら)(本当の姉弟なのかしら)
藤子の心の疑問をそれとなくときほぐしている暇はなかった。「ご免なさい。ちょっと見てくるわ」
七瀬はいそぎ足でラウンジを出た。遠征旅行をしたノリオの意識内の視覚を通じ、船内の様子はある程度わかっていた。ノリオが後甲船のあたりにいることも、後甲板にはノリオの他に、若いアベックがひと組だけいることも知っていた。
(どうしたの)七瀬は歩きながら、やや落ちついて訊ねた。直接ノリオの身に悪いことが起ったのではないらしいと知ったからである。
ノリオが説明しはじめた。七瀬はノリオの意識内で正確にくり返される彼自身の経験をほんの二、三秒で観察し尽してしまった。
数分前、後甲板のベンチにいたノリオは、重苦しい、しかも鋭い、邪悪な意識を捕え、手摺りに凭れているアベックの心に注意を向けた。幸福に酔っている薄紫色のなまあたたかい「思考感情」は、あきらかに女の意識だった。もうひとつの、何かに急《せ》き立てられ、自らの心に圧迫を加えている強い邪悪な意識が男の意識であった。それが殺意であることは、ノリオにもすぐにわかった。男の意識内に、高速度撮影の映画のようなのろのろとしたテンポで、あるひとつの情景が何度となくくり返されていたからだった。
並んで手摺りに凭れ、海面を見おろしている二人。
それとなく周囲を見まわし、あたりに人がいないことを確かめる男。
やにわにかがみこみ、女の大腿部《だいたいぶ》を両手でつかんで彼女のからだを宙に浮かせようとする男。
手摺りを越え、海面に落ちて行く女。落ちて行きながら見ひらいた眼で男を見あげる女。その白いスカートの裾の拡がり。
海面に達することなく後方の白い霧の中に姿を消す女。起ったことの意味をやっと悟ったらしい女が、かすかに残す悲鳴。
その男と女を、ノリオは知っていた。さっきヘンリーが心に描いて見せた、あの特別一等室の船客であるアベックだったのだ。
(今だ)(やろうと思った時にやらなければ、また機会を失う)(誰かに見られるかも)(大丈夫だ)(誰もいない)(船室から窓越しに見られるかも)(ひとりや二人に見られたって大丈夫だ)
(言い逃れはできる)(助けようとして手をのばしたのだが、間に合いませんでした)
(よし)(やれ)(待て)(甲板には誰もいないか)
男が振り向いた。眼を丸くし、自分たちを見つめているノリオに、男は気がついた。
(くそ)(こんなところに)(いつの間に)(こんなチビが)(しまった)(また機会を失ってしまった)
噛みつきそうな顔で自分を睨みつけた男の眼の鋭さに、ノリオは身をふるわせ、あわてて視線をそらせた。(ここにいたら、ぼくまで海へ抛《ほう》りこまれてしまう)
ノリオはいそいで立ちあがった。(どうしたら)(どうしたらいい)(あの女の人が殺される)(可哀そうだ)(あんなにしあわせそうなのに)(助けてあげなくては)
誰もいない「ドライバー喫煙室」に戻ったノリオは、船室越しにもう一度アベックの姿を確認してからベンチに腰をおろし、さらに甲板から自分の姿を見られることのないよう、身を低くした。そして七瀬に救援を求めたのである。
(わたしが行っても、どうにもならないわ)事情を知った七瀬は廊下の途中で立ち止り、唇を噛みしめた。(助けてあげることはできないわ)
目前に迫っているひとりの女の死にノリオがショックを受け、助けてやってくれと七瀬にすがる気持ちはよくわかった。しかし女を助けた場合、今度は身の危険が七瀬とノリオにふりかかってくるのだ。それをノリオにどういって説明し、どうやって納得させたものか、七瀬には咄嗟《とっさ》にどんな考えも浮ばなかった。
(駄目なのよ)
(なぜ駄目なの)(人を助けてあげるのが、どうしていけないの)
(それはね)
思い悩む七瀬の心を読もうとして、ノリオの幼い意識の触手が侵入してきた 七瀬はノリオに自分の心を解放して見せ、彼自身に自分たちの立場を考えさせることにした。
(わたしたちは自分たちのことだけでせいいっぱいの筈よ)(わたしたちは超能力を使った事実を「普通人」に悟られてはならないのよ)(「普通人」を助けるために、他人のために超能力をやたらに使っていたら、いつかは知られてしまうのよ)(できるだけ、余計な事件に巻きこまれることは避けた方がいいの)
ノリオは、だが、納得しなかった。(じゃ、あの女の人が殺されるところを、ぼく、黙って見ていなくちゃいけないの)(そっと助けてあげられる方法がある筈だよ)(助けてあげたあと、精神感応《テレパシー》を使って、いくらでも誤魔化せるじゃないか)(お姉ちゃんが助けてくれないなら、ぼくがやるよ)(二等船室へ行って、皆に、女の人が殺されるから助けてあげてくれって頼むよ)
七瀬はぞっとした。ノリオにそんなことをさせてはならない。
ノリオの純粋さが、自己保存の本能の下に埋もれていた七瀬の正義感を掘り起した。(すぐ、そっちへ行くわ)
廊下をそのまま歩き続け、ヘンリーのいる特別二等室を覗いた。右側上段のベッドに寝そべって、上着を脱いだヘンリーがペーパーバックのミステリーを読んでいた。
「手を貸してほしいの」七瀬はきびきびと言った。「二等船室のうしろにドライバー喫煙室っていう部屋があるわ。すぐ、そこへ来て頂戴」
「わかりました」
身軽にベッドからとびおりて上着を着はじめたヘンリーをあとに残し、七瀬はひと足先に後甲板へ走った。二等船室の中を通り抜けたりすると、若い男の船客から好色の視線でじろじろ見られ、憶えられてしまうにきまっていたから、彼女はロビーから誰もいない舷側に出て後甲板へまわった。後甲板にはまだあの男女が、手摺りに凭れ、海面を見おろしていた。「ドライバー喫煙室」へのドアは、ふたりのいるところからは見えない場所にあった。
七瀬が入って行くと、ベンチの上で膝をかかえ、うずくまっていたノリオが七瀬に訴えかけた。
(ぼくにはわからないよ)(どうして助けてあげたらいいのか)
子供心にいろいろ考えた末、男にも女にも顔を見られず事件を未然に防ぐ方法の難かしさを、ようやく悟りはじめたようだった。七瀬にも、どうすればいいかまだわからなかった。ノリオとベンチに並んで腰かけ、頭を低くした七瀬は、男と女の心の動きに注意を集中した。二等船室の方からなだれこんでくる船客たちの意識の大群と、彼ら二人の意識を判別するのは、ちょっとした苦労だった。
(この女とおれとの関係は誰にも知られていない)(おれがこの女を殺す動機は、誰にもわからぬ筈だ)(この女の貯金を、ほとんど使ってしまったことは、まだ、この女だって知らないのだからな)(この女がそれを知ったら)(結婚を迫るか)(警察|沙汰《ざた》にするか)(どちらかだ)(どちらもまずい)(今のところ、この女はおれに惚れられていると信じているが)(こんな女と結婚はできない)(他に女がいるわけではないが)(おれにはもっと大きな望みがある)
殺意を離かめ、煽《あお》り、己れを殺人という非情な行為に追いつめようと焦せる男の意識は、周囲のどの意識よりも濃密で特異だったから、いったん識別してしまえばあとはすらすらと読み取ることができた。
(殺すしかない)(殺すとしたら)(この女が安心しているうちだ)(今だ)(殺しても、この女とおれとの関係は、まだ、誰も知らない)(今のうちだぞ)
小悪党だわ、と、七瀬は思った。小悪党が、一世一代の、殺人という大仕事に直面し、ためらっているのだ。
甲板へ出て行き、何やかやと話しかけて邪魔してやれば、今日のところは殺人をあきらめるだろう、七瀬はそう思った。しかし、七瀬ひとりで出て行って話しかけるのは、いかにも不自然だった。アベックに話しかけるためには、こちらもアベックでなければならない。ヘンリーがやってくるのを待つしかなかった。
ヘンリーが、舷側をまわって喫煙室に入ってきた。「どうしましたか」
「頭を低くして」と、七瀬はいった。「甲板にいる、あのアベックに気づかれないように」
「あのアベックが、どうかしましたか」ヘンリーはベンチに腰かけ、苦労した末、ほとんど両膝の間にまで頭を落した。
七瀬は手短かに説明した。「だから、あなたとわたしが恋人同士を装ってあの二人の傍まで行って」
その時、ノリオが押し殺した悲鳴をあげた。(また、あの男があたりを見まわしてるよ)(やる気なんだ)「あ」(足を持った)ノリオはまた、小さく悲鳴をあげた。(やっちゃった)
(遅かった)七瀬は眼を閉じた。
男の視線を通じて、海面へ落ちて行く女の姿がはっきりと見えた。落ちる寸前、女は男の手を引っ掻き、次いで一瞬手摺りを握ったのだが、男が彼女の手を殴りつけ、女の頭部を力いっぱい横なぐりにしたのだ。女はなかば失神状態のまま、波間に消えていった
ひどい、と、七瀬は思った。男の残忍さに怒りが沸き返った。「今、落されたわ」七瀬はヘンリーに鋭くそう言った。「へンリー。あなた、あの女の人を助けてあげられる」七瀬はヘンリーの黒い顔を凝視した。
「ノー」ヘンリーは額を押えて呻《うめ》いた、「まだ、人間のからだ全体、持ちあげたことありません。それに、ここからその女の人の姿見えません。それに遠い。その女の人、どんどん沈んで行きます。どんどん流されて行きます。
「お願い。助けてあげて」と、ノリオが泣き顔でヘンリーにいった。
「ヘンリー、あなた、やれるわ。視覚外にある物体を動かしたことだってあるじゃないの。できるわ。できる筈よ」七瀬はヘンリーの左手を、包みこむように両の掌で握りしめた。
「はい。やってみます」ヘンリーは身顫いをし、七瀬を一瞬睨みつけるような表情をしてから、強く眼を閉じた。
男の視線からは、もうとっくに女の姿が消えていた。男は、白く波立ちながら濃霧の彼方に溶け入る航跡を見つめたまま、その場を立ち去りかねていた。
(早く立ち去ろう)(大丈夫だ)(もう、立ち去っても大丈夫なのだから)(早く)(早くこの場を立ち去った方がいい)(早く)だが、男の足はすくんで動かず、彼は痙攣するようなはげしさで顫えていた。(やった)(とうとうやっちまった)
(ああっ、痛い。ぼく、頭が痛いよ)へンリーの強く厳しく念じる意志の力が、彼の意識をすぐ傍で感応している七瀬とノリオの脳髄までをしめつけた。
(我慢して。ノリオ。ヘンリーはもっと苦しいのよ)七瀬も両の顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》に掌を押しあて、ヘンリーの意識からなだれこんでくる鋭い頭痛に身をよじった。
(あああ。ああ。ああああ)ヘンリーは恐ろしいほどの苦痛に耐え、自己の能力の限界に挑んでいた。彼の顔は鬱血し、額には青い血管が太く膨れあがっていた。彼は女のからだを海面下から水面にまで浮びあがらせ、さらに彼女を海面上約三メートルの宙にまで持ちあげようとしていた。
「持ちあげたわ」「さあ。あとはこっちへ引っぱるのよ」
七瀬の励ましに、ヘンリーは胸で大きく(AH!)と叫び、純白の歯を剥き出してがりがりと噛みしめた。彼の頭の中全体に、そして七瀬の、ノリオの頭に、赤、白、黄、オレンジの閃光がぱちぱちとこまかい金属的な音を立てて散った。
「あっ。あっ。あっ」ノリオが呻いて上体を前後に揺すった。
前例のない苦痛にもだえる七瀬の意識が、後甲板から立ち去ろうとする男の心を捕えた。この部屋へ入ってくるのではないか、ふとそう思い、七瀬は慄然《りつぜん》とした。だがその心配はなく、男は舷側へまわった。今、人間を殺してきたばかりの男が、ひと目の多い二等船室の中を通り抜けようとする筈はなかった。
気を失ったままの女のからだが、船の数十メートルうしろ、海面上三メートルの宙を砲丸のようにとび、濃霧をわけて船を追っていた、そのからだと長い髪からは海水が滴り、服は濡れてぴったりと彼女の身にまといついていた。
「追いついてきたわ。もっと早く。もっと早くよ」七瀬は女の位置を確認できないながらも、ヘンリーの念力の強さでそう判断し、さらに彼を励まし続けた。(早くしないと、誰かに見られてしまう)そう思ったからであるが、それはヘンリーには言わなかった。焦らせては、念力が弱まるのだ。
(―→―→―→誰か来る)(―→―→―→お姉ちゃん。誰かがこの部屋に入って来るよ)ノリオが顔色を変え、七瀬に警報を発信した。
七瀬もすぐ、近づいてくるその男の存在を知った。(まずい)七瀬は胸で舌打ちした。しかし、今さらヘンリーの念動を中断させることはできなかった。今や海上五メートルの雷をとび続けている女は、あとほんの数メートルで船の後甲板の真上に達する筈であった。
「ドライバー喫煙室」に火のついていない煙草をくわえたままで入ってきたのは、やや肥り気味で眼がぎょろりとした四十五、六歳の男だった、彼は見晴らしのいい部屋に入ってきた人間の誰でもがそうするように、室内にいる者には注意を向けず、まず窓の外を眺めた。
ひゅう、と息を吸いこみ、男は眼を見ひらいた。半開きになった唇に、煙草がだらりとぶら下がった。彼は虎のように底光りのする眼で窓外の一点を見つめたまま、立ちすくんだ。
男の視覚を通じて七瀬は、女が船の後方数メートルの濃霧をわけ、スーパーマンのように両腕を前へつき出した姿勢で宙をとび、甲板に近づきつつあることを知った。と同時に、男の混乱した思考がどっと頭へなだれこんできた。
(魔女)(そんな馬鹿な)(白昼夢だ)(幻覚)(酒は飲んでいないぞ)(おれには今までこんなことはなかった)(認めろ)(現実だ)(それならなぜた)
いったんそれを現実と認識してしまった男の思考は、急に論理的になった。
(誰かのいたずら)(精巧な人形)(それならなぜ浮いている)(女の恰好をした風船)(アドバルーンの一種)(何かの宣伝)(テグスで船から引っぱっている)(いや違う)(近づいてくる)(あの重量感)(本もののドレス)(濡れている)(本当の女だ)(気を失っている)(悪夢だ)(おれは気が違ったか)(いや)(おれは正気だ)
なぜか自分の正気に確たる自信を持っているその男の観察力はなかなか鋭く、しかも正確だった。
女のからだは後甲板に達した。
その中年男が注意力を甲板の上約一メートルの宙に浮んでいる女の姿に集中させていることを確認してから、七瀬は男に聞えぬよう前屈みになり、向いあっているヘンリーの耳に口を近づけてささやいた。「もういいわ」
七瀬とノリオの頭がすっと軽くなり、嘘のように痛みが消えた。だがヘンリーだけは、からだをそのままベンチの上へ横倒しに崩した。精神力を燃焼し尽し、気を失ったのである。七瀬はすぐ席を立ち、へンリーの横に腰かけて、彼のぐったりした大きなからだを抱き起した。
女のからだが、念動力による支えを失い、甲板上へ俯伏せに、びしょ濡れの衣類をまとった若い女相応の重量を伴ってどさりと落ちた。船室のドアをあけ、後甲板へとび出して行こうとした中年男が、はじめて注意を喫煙室内の七瀬たち三人に向けた。
(こいつら、あの女を見たのかな)(おかしな奴らだ)(若い娘と、黒人と、子供)(変な組合せだ)(黒人は寝ている)(いや、気分が悪いのかな)(気絶しているのかも)(あの女が空をとんでいるのを見て気絶したのかな)(どちらにしろ、こいつらのことは記憶しておこう)(あとで調べなければ)(証人になってくれと頼んで)(証言させなければ)
七瀬は一瞬、衝撃と絶望でその場へしゃがみこんでしまいそうになった。
男は刑事だった。
「あなたがたは」口から煙草をもぎとり、きびきびした口調で刑事は七瀬に訊ねた。「ずっとここにいたのですか」
「はい。つい、五分ほと前から」七瀬はできるだけのんびりした口調で答えた。
「あそこに女の人が倒れています」刑事は窓越しに後甲板を指した。「あの人を知っていますか」
七瀬は立ちあがり、甲板上に横たわっている女を眺めてせいいっぱい驚いたふりを装い、大きく息を吸いこんだ。「まあ。どうなさったのでしょう。いいえ。知らない人ですわ」
(さほど驚かない)(いよいよ怪しいやつらだ)(子供の態度もおかしい)「あとでいろいろと、うかがいますから」そう言い捨て、刑事は後甲板に駆け出て行き、海水でびしょ濡れの女のからだを抱き起した。
ヘンリーが呻き、身じろぎした。七瀬はけんめいにヘンリーのからだを揺すった。
「ヘンリー。ヘンリー。しっかりして」
後頭部を壁にあてたまま黒い瞼を押しあげるように開き、ヘンリーは充血した眼で七瀬を見た。
「あの女の人、助かりましたか」ヘンリーはまだ、彼の能力による超常現象が第三者に目撃されたことを知らないのだ。
「助かったわ。でも、それどころじゃないの。|あれ《ヽヽ》を見られてしまったの」
ヘンリーは大きく眼を開けた。「おう。何てことだ」
(どうしよう、お姉ちゃん)ノリオは涙ぐんでいた。(あの男の人、ぼくをあやしいと思ったみたいだよ)(ねえ。ぼくが悪かったの)
(ううん。あなたは悪くないわ)「とにかく部屋に戻りましょう」七瀬はふたりにそう言ってから、ヘンリーの顔をのそきこんだ。「立てる」
「立てます」だが、ヘンリーは立てなかった。
たとえ部屋に戻ったところで、そこもやはりこの外界から遮断された小さな船の内部であることにかわりはなく、あの刑事の追及から逃れることができないことはわかっていた。しかし、この「ドライバー喫煙室」では善後策をゆっくり考えたり相談したりすることはできなくなる筈だった。後甲板の刑事があの女を抱きかかえてやがて戻ってくるであろうし、そうなれば二等船室からの野次馬、さらに船員たちも大勢やってきて、七瀬たちは当然彼らからの質問を嵐のように浴びることになる筈であった。
七瀬はヘンリーに肩を貸し、ようやく彼を立ちあがらせることができた。しかしヘンリーのからだは重く、七瀬の手にあまった 彼が一歩足を前へ踏み出そうとするたびに七瀬はよろめいた。
(すみません。すみません)ヘンリーは心の中でそうくり返し、七瀬に詫《わ》び続けた。(ものを心で動かせるわたしが、自分のからだも自由にならないなんて)
「いいの。無理もないわ。わたしが悪いのよ。あんな無茶をあなたにやらせたんだもの。さあ、しっかり歩いてね」
七瀬ははげましのことばをささやき続けながらヘンリーと共に二等船室の方へ歩を進めた。四、五歩あるくと、体力がやや回復してきたらしく、ヘンリーのからだが少し軽くなった。
舷側を迂回《うかい》して船首の方へ戻ることはできなかった。いったん後甲板へ出ればたちまち刑事に見つかり、そこにいろと命じられるに決っていたからだ。二等船室の客たちにじろじろ見られるのは気が重かったが、もはやそんなことを気にしてはいられない。
(ヒヤー。クロンボダ)
(なんだあれは)
(あんな黒人にあんないい女)(もったいない)
(黒ん坊のやつが船に酔ってふらふらだ)
(あの子供は、二人の子かしら それにしては混血じゃないみたいだけど)
(あの女、なんだってあんな黒人に。くそ)
(きっと、いいんだろう)
案の定、好奇の視線と底意地の悪い勘ぐりの意識が、船室の中央通路を通り抜けて行く七瀬たち三人の上に降り注いだ。
(ノリオ。気にしないで。先へ行って)七瀬はノリオまで野卑な意識が集中する矢面《やおもて》へ立たせるにしのびず、そう命じた。
(ううん。一緒に行くよ)(ぼくなら大丈夫だよ)ノリオは七瀬たちの傍を離れなかった。子供心に、これが最悪の事態であることを知り、責任を感じているようで、そんなノリオが七瀬はいじらしかった。
(まったく、最悪の事態だわ)と、七瀬は思った。(よほど考えて、うまく処理しなければ、あとあとまで尾を引くかもしれない)
むろんそんな心配を、ノリオに読ませたりはできなかった。ノリオはノリオで、自分の我儘《わがまま》から七瀬や、それにヘンリーまで窮地に引きずりこんだことを深く悔んでいるのである。
わたしやヘンリーに何が起ったとしても、この子の身だけはなんとかして守らなければ、七瀬はそう決意した。
ひと目の多いプロムナードとロビーを抜け、疑惑のまなざしと好奇の念を洪水のように浴びながらブルーのプラスチック・ドアを開けて、三人はやっと誰もいない廊下にまで戻った。
「もう少しよ。頑張って」ともすれば膝頭から力を抜いて足を折ってしまいそうになるヘンリーに、七瀬はいった。「わたしたちの部屋へ行きましょう」
「いけません。いけません」ヘンリーははげしくかぶりを振った。「こんなことになってしまったのです。危険です。七瀬さんやノリオとわたし、無関係ということにしなくてはいけません。わたしのこと、かまいませんから、わたしの部屋の、わたしのベッド、寝かせておいてください」
「今さら無関係だなんて言ったって、誰も信じないわ。わたしがあなたに肩を貸して歩かせているのを、大勢の人が見てしまっているのよ」
「わたしが七瀬さんに、船酔いしたから自分の部屋までつれて行ってくれと頼んだことにしたらいいのです」
「それにしたって、あの特二の部屋には、あの女の人をつれた刑事がすぐやってくる筈よ」
「おう」へンリーが絶望的にかぶりを振った。「このフェリーに、刑事、乗っているのですか」
「その刑事に、|あれ《ヽヽ》を目撃されたの」
「おう。ノー。ノー」嘘だと一言ってくれと言わんばかりに、ヘンリーは悲鳴まじりの呻き声を洩らした。
「特二の部屋には戻れないわ」自分に言い聞かせるように、七瀬はつぶやいた。「あの女の人、ほんの何秒か水の中へ沈んだだけだから、すぐに気がつくわ。そしてあの刑事に自分の部屋を教えて、自分を海へつき落したあの連れの男のことを喋るわ。そうしたら刑事がすぐにやってきて」七瀬は身顫いし、強くかぶりを振った。「そこにあなたが寝ていたら、どんな疑いをかけられるかわからないじゃないの」
(じゃ、ラウンジへ行こうよ)と、ノリオが七瀬に提案した。(あそこなら、誰もいないよ)
藤子がまだいる筈だった。しかしノリオの身の安全を守ろうとするなら、特等室へ戻るよりはヘンリーをラウンジヘつれこんだ方がよかった。
特別二等室の前を通り過ぎる時、七瀬はヘンリーの部屋の閉ざされたドア越しに室内の様子を探ってみた。部屋には誰もいなかった。藤子はまだラウンジにいて、あの悪党もまだ戻ってきてはいないのである。バーへ行って酒でも飲んでいるのだろう、と、七瀬は想像した。
ラウンジに入ると、さっきと同じようにひとりでぼんやり窓の外を眺めていた藤子が振り返り、一瞬眉をひそめて七瀬たちの様子を観察してから、あ、と小さく叫んで口を半開きにした。「そのひと、あなたたちの連れだったの」
七瀬は答えず、ヘンリーの二メートル近いからだをソファへ投げ出すように横たえ、その足もとに腰をおろし、ノリオに部屋の鍵をつきつけて命じた。(ノリオ。あなたは部屋へ戻っていなさい)
(ここにいる)
(戻りなさい)
いつになく厳しい七瀬の命じかたに、ノリオはちょっと反抗的に下唇を噛んでから、すぐ鍵を受け取ってラウンジを出た。
藤子が近づいてきて、ヘンリーの顔をのぞきこんだ。(まあ。ひどく衰弱してるわ)彼女の父親は医者だった。(まるで三日間飲まず食わずて、しかも一睡もしないで重労働したみたい)(さっき船室で見た時は、こんなじゃなかった)(ぴんぴんしていて、元気だった)(一瞬のうちに)
(そんなこと、あり得ないわ)藤子は顔をあげ、七瀬を睨みつけるようにして訊ねた。「このひと、いったい何をしたの」(あなたはこのひとに、何を|させたの《ヽヽヽヽ》)
七瀬は溜息をついた。説明のしようがなかった。
念動力を酷使した時、神経だけではなく体力も消耗するということを、七瀬は今まで知らなかったのである。(迂闊《うかつ》だったわ。そうと知っていたら)と、七瀬は思ったり(あんなこと、させるんじゃなかった)
「船酔いなのよ」
七瀬の答えを、藤子はたちまち心で大きく否定した。(嘘よ)
七瀬はうなだれた。この娘《こ》にも、嘘は通用しないんだわ、あの刑事とこの娘、わたしには二人を最後まで誤魔化し通せる自信がない、そう思って気が滅入った。
(何かあるんだわ)(何か心配ごとが)(大きな悩みごとが)藤子の疑惑は、すぐ七瀬への同情に変った。藤子は七瀬へ、本能的に親近感を抱きはじめていた。(わたしなら、助けてあげられるかもしれない)
藤子が七瀬の肩に手をかけた。「疲れてるみたいね。|あなたも《ヽヽヽヽ》」
七瀬は微笑し、ゆっくりとうなずいた。だが七瀬の頭脳はその時、目まぐるしいほどの速度で考え、予想し、想像し、計算し続けていたのである。
(この娘は今、自分なら助けてやれる、と思った)(なぜヘンリーがこんな状態になったかを知りもしないで、どうやって助けるつもりなのか)(自分の能力によほど自信があるんだわ)(ではこの娘の能力とはどんなものか)(それを知る方法はないか)七瀬はさっきこのラウンジで交わした、藤子との会話をもう一度思い返してみた。(そうだ)(この娘はたしか、実際の年齢よりも歳上に見られることを、ひどく恐れていた)(それが鍵かもしれない)(もう一度あの会話をむし返したら)(この娘はきっと自分の超能力のことを考えるだろう){(そうすればどんな能力かがわかる)/(この娘の超能力の種類がわかる)}七瀬は顔をあげ、自分と向きあった肱掛椅子に腰をおろしている藤子をつくづくと眺めた。「あなた、ほんとに大人っぽいのねえ。とても十七歳なんかには見えないわよ」
「また。いやねえ」
七瀬の挑発に、藤子の思考の流れが急に勢いを早めた。(どうして年齢にこだわるのかしら)(十七歳の娘には絶対に言えないようなことを、わたしが口にしたのかしら)(やっぱり、客観時間と主観時間の差が大きすぎたのね)(時間を何度も遡行《そこう》しすぎたのね)(それで見かけの年齢に四、五年の開きが出てきたんだわ)(もう、あまり大きな遡行をしないように気をつけなくちゃ)
七瀬の投じた石によって生じた渦と波紋は意外なほどの早さでどんどん拡がり、たちまち藤子の意識の表面には真相が、彼女の秘密が浮びあがってきた。七瀬は驚きの眼でそれを見つめた。手足がしびれるほどの驚愕だった。呼吸することもできなかった。(ではこの娘《こ》は、最終的な超能力者だったのだわ)
藤子は時間旅行者《タイム・トラベラー》であった。[#「藤子は時間旅行者であった。」はゴシック体]
藤子が実際の年齢よりずっと歳上に見えたのは、彼女が何度も時間をさかのぼり、同じ時間を二度生きたためであった。つまり藤子は、同じ年齢の人間よりもそれだけ長い時間を生きてきたことになる。客観的には十七歳だが、藤子が生きてきた時間を年に換算すればそれは十七年をはるかに越し、主観的にはさらに数年、歳をとっていることになるのだ。
七瀬はちら、とヘンリーをうかがった。ヘンリーは熟睡していた。口から洩れる深い寝息が、彼の疲労の激しさを物語っていた。
「あなたにお話があるの」七瀬は藤子の眼を見据え、静かにそう言った。「お話と、それから、お願いが」
今はもう、藤子の超能力に頼るしかなかった。
藤子に自分たちの正体を明かすことは、言うまでもなく、危険極まりないことだった。しかし、「普通人」に正体を知られるよりは同じ超能力者に知られた方が、まだしも危険の度合いは少ない筈であった。むろんそれにしても、七瀬たち三人の生命が危険にさらされる可能性はやはり残っている。読心者は誰にでも嫌われ、相手が超能力者であった場合も例外ではない。そして時間旅行者はどのような人間に対してでも、自らはまったく傷つかずに致命的な打撃をあたえることができるのだ。また、もし七瀬の告白を聞いた藤子が、自分の能力を七瀬に知られてしまったことに危惧《きぐ》の念を抱くか、読心者である七瀬を嫌うかして、数時間前へ逃亡してしまった場合、現在とは立場が逆になって、七瀬は藤子の能力を知らず、藤子は七瀬たちの正体を知っているという不利な結果になってしまうのである。
だがそんな危険があることも承知の上で、七瀬は藤子の協力を求めようとした。いや、協力を求めるといったようなものではなく、むしろそれは、藤子の前へ身を投げ出すも同然の、ひたすら藤子の慈悲にすがることであった。今は藤子を信じ、さっき生れはじめたばかりの、七瀬に対する藤子の親近感に甘えるしかなかった。七瀬が観察した限りでは、藤子の使命感は彼女に同胞を救えと命じる筈であったし、彼女の孤独感が、自分の能力を知られてしまった危険を無視してでも、ひとたび得た同胞を失うまいとして七瀬たちを危機から救おうとする筈であった。
「何を聞いても驚かないでね」ヘンリーを寝かせたソファからやや離れたセットで向いあった藤子に、七瀬はそう言った。
「ええ」藤子が怪訝そうな顔で七瀬を見つめた。(この超能力者のわたしが驚くようなことなら、相当大変なことだわ)彼女はたかをくくっていた。(でも、たいしたことでなくても、やはり少しは驚いたふりをしなければならないだろう)
藤子に心の準備ができていないことを承知で、七瀬は打ちあけた。「わたし、精神感応能力者なの。つまりテレパスなの。人の心が読めるのよ。あなたと同じように、超能力者なの」
藤子は七瀬が喋り続けている間、面白い冗談の出だしの部分を聞いている時のように薄笑いを浮べた中途半端な表情をしていた。
(嘘よ)(なぜそんな嘘を)(でも、本当かも)(まさか)(本当という可能性は)(ない)(証拠がない)
だが七瀬が喋り終った時、彼女は顔色を変えて勢いよく立ちあがっていた。彼女自身の超能力を指摘されたことで、すでに七瀬のことばを信じていた。{(わたしの心を読んだんだわ)/(わたしの能力を知ったのね)}(すぐ時間遡行しなくちゃ){(敵だ)/(同胞)}(覗いたのね){(なんのことわりもなしに、黙って人の心を)/(精神感応ができるのだからしかたがないわ)}{(わたしの同胞か)/(それとも敵なのか)}(早く)(早く見極めなくっちゃ)(いいや)(それよりはとりあえず時間遡行した方が安全)
高い知能を持った超能力者の、怒涛《どとう》のような思考の噴出であった。七瀬はその圧力に自分の思考まで押し流されそうになり、悲鳴をあげて両手で頭を押えた。
「落ちついて」と、七瀬は叫んだ。「わたしはあなたの敵じゃないわ。でなきゃ、こんなこと、時間旅行者のあなたに打ちあける筈がないじゃないの。もし敵なら、どう見たってあなたが有利になるわ。わたしが不利になるわ」
聡明な藤子は、すぐに七瀬のことばを呑みこんだ。彼女はいくぶん落ちつき、もと通り肱掛椅子に腰をおろしながら、それでもまだ警戒心を完全には解かず、油断のない眼で七瀬を見つめ続けていた。(それでは、わたしが時間旅行者だってことも知ってるんだわ)(ああ)(今もこの人、こんなことを考えているわたしの心を読んでいるのね)(なぜ精神感応能力者であることをわたしに打ちあけたのかしら)(そんなことしたら、超能力者としては致命的なのに)(はじめて会うことができたわ)(わたし以外の超能力者に)(わたしを友達にしてくれるつもりかしら)(この人も孤独だったのかしら)(あの黒人も超能力者なのかしら)(きっとそうだわ)(ではあの子供は)落ちついたとはいえ、新しい疑問は次つぎと藤子の心に、湧くように浮びあがっていた。
その疑問に七瀬が順を追って答えようとした時、廊下で男の悲鳴が起った。犬の遠吠えのような、ながく尾を引く悲鳴だった。乱れた靴音がして、それは廊下をたどり、次第に七瀬たちのいるラウンジの方へ近づいてきた。
七瀬は藤子の前にひさまずき、彼女の手を握りしめた。藤子の手は氷のように冷えきっていた。
切迫した口調で、七瀬は言った。「あなたの疑問に答えている時間がないの」
(何か事件を起したのね)藤子は悲鳴と靴音に耳をすませながら、じっと七瀬の顔を見た。「わたしに何をしてほしいの」
「わたしを助けてほしいの。詳しいことはあとでゆっくり話すけど、超能力者だということを皆に知られてしまいそうな事件が起ったの」
藤子は眉をひそめた。(まあ。なんてことを、なんて迂闊なことを)(わたしたちにとっては、生命の危険と同じことなのに)
「わかってくださるでしょ」七瀬はけんめいに藤子に訴えかけた。「知られるわけにはいかないのよ。普通の人間には。誰にも」
藤子は唾をのみ、ゆっくりとうなずいた。「わたし、何をしてあげたらいいの。七瀬さん」
「時間遡行を。そしてわたしにも、あなたと一緒に時間遡行させてほしいの。この事件が起る前の時間に」
「わかったわ」藤子が立ちあがった。「でも、あなたにはすぐ理解できると思うけど、時間遡行にはいろいろな条件が揃わなければいけないのよ。第一に大事なことは、自分の周囲に誰もいなかった時間へ行くこと。この場合は、あなたとわたしの傍に誰もいなかった時間、つまり、さっきここであなたと話しあっていたあの時間へ戻る以外にないわ。それでいいのね」
「それでいいわ。事件の発生には間に合うわ」
「第二に、現在自分のいる場所と、その時間にいた場所が一致していること。さっきあなたとわたしは、テレビの前の席にいたわね。そこへ行きましょう。ううん、だいたいでいいの。他の物体と、移動中に重ならない程度でいいのよ。第三に」
顔を土気色にした小柄な男が、足をもつれさせながらラウンジにまろびこんできた。はげしい恐怖のために人相が一変してしまっていたが、それはさっき女を甲板から海に突き落したあの小悪党であった。
「条件はまだまだ沢山あるわ。でも、それを教えてあげている暇もなくなってしまったわね」今はすでに七瀬を信じきっている藤子が、七瀬の両手をとって微笑した。「せめて、わたしの心を読んで、断片からでも判断して頂戴」
七瀬は藤子の心をさっと一瞥して、そこにひしめいているさまざまな条件やこまかい注意を、おおまかに読み取った。「だいたいのことはわかったわ」
「わたし、時計を見たから憶えてるの。あれは三時十分前くらいだったわね」
藤子と七瀬はそれぞれの腕時計の針を大いそぎで三時十分前に合わせた。そうすることが時間旅行の条件として必要なわけではない。ただ、急激に何十分かの長い時間を移動した場合、時計が壊れてしまうからというだけのことである。
刑事に伴われた女が、男を追って、蒼ざめた顔に恨めしげな眼を光らせ、ラウンジへ入ってきた。
男はまた、さっきと同じような悲鳴を大きくあげた。(殺した筈だ)「た、助け、助けてくれ」(どうして戻った)(幽霊だ)「勘弁してくれ」(気が狂う)(おれは気が狂ってしまう)「おれが悪かったよ」(船は一度も停らなかったんだから)(こいつが誰かに救いあげられたなんてことはないから)(わあ)(やっぱり幽霊だ)「も、もういいじゃないか」(立てない)「もうこれ以上脅かさないでほしいんだ。おれ、おれ、心臓が停りそうなんだよ。知ってるだろ。おれ、心臓が悪いってことを」(死ぬ)(殺される)
男の意識は悪事が発覚したためのうろたえと、超現実的な現象に出あった時の原始的な恐怖のため、理性がけしとび、混乱しきっていた。彼は吠え、泣き、わめくことによって、かろうじて正気を保っていた。
「じゃ、やっぱりあなたはわたしを殺そうとしたのね 女がなぜか、うっとりとした目つきで男にいった。女の精神状態は、まだ朦朧《もうろう》としていた。あれは、すると夢じゃなかったんだわ」
刑事がソファに横たわっているヘンリーを見つけて彼に近寄り、顔を覗きこんだ。そして眉をしかめ、今度は藤子と手を握りあっている七瀬に眼を向けて睨みつけた。彼は今、小悪人の殺人未遂犯を捕えることよりも、自分の常識を守ることに熱中し、自分が目撃した「一見怪奇に見える現象」の納得できる説明を、なんとしてでも探り出そうと決心していた。
「あんたたち、そこで何をしている」
刑事がざらざらした声でそう言った時、藤子はささやいた。
「いい。とぶわよ」
「いいわ」七瀬は眼を閉じた。藤子の心の注意書によれば、眼を開けているといろいろ奇怪なものが見え、正気を失うおそれもあるということだったからである。
自分はある時間からある時間へと、藤子に持ち運ばれていく物体なのだ、恐怖を忘れようとして、七瀬はそう思いこもうとした。藤子はまだ、他人をつれて時間移動したことは一度もないのだ。物体を持ち運んだことはあるのだから、理論的にはそれが人間であっても可能な筈であった。しかし藤子には確たる自信はなく、そのことを遡行寸前に感じ取った七瀬はひどく不安だった。しかし今はこうする以外ないのだ。今さらこれを中止するわけにはいかないのだと思いこむことで、けんめいに自分を納得させようとした。
遡行は約三秒で終った。いや、正確には時間のない世界を通じて移動したのだから、こちら側の世界で言う約三秒だけ、時間のない世界へとびこんでいたということになる。急に静寂が訪れ、足が床から離れ、鋭い冷気を感じたかと思うと、ふたたびエンジンの音が鼓膜を顫わせ、靴の裏に床らしいものが触れた。藤子のことばに従って眼を開くと、そこは約三十分前の、誰もいないラウンジであった。
七瀬は藤子と握りあっていた手を離した。「さあ。ぐずぐずしていられないわ」
藤子は親しげに笑い、七瀬にうなずきかけた。「うまくやってらっしゃい。そして、ここ戻ってきてね。わたし、あなたとゆっくりお話がしたいの」
七瀬は藤子の眼を見て深くうなずき返した。「きっと、戻ってくるわ」
風のようにラウンジを駆け出て廊下を走り、七瀬は特別二等室のひとつにとびこんだ。右側上段のベッドに寝そべり、ミステリーを読んでいるヘンリーに、七瀬は大声で命じた。「服を着て。わたしと一緒に来て。説明している暇はないの」
ヘンリーは七瀬のいつにない大声に仰天し、ベッドからとびおりて背広を鷲《わし》づかみにした。
「どこへ行くのですか」
「後甲板よ。走って」
七瀬とヘンリーはロビーから舷側へ出て、後甲板へと走った。
後甲板に出る直前、七瀬はヘンリーの腕をつかんで立ち止らせた。「さ、ここからあなたとわたしは恋人同士」
へンリーはのけぞった。「え。え」
「腕を組むの。早く」
「はい。はい」
この上なく照れているヘンリーに腕をとられ、呼吸をととのえながら後甲板に出ると、そこにはベンチに腰をおろしているノリオと、そして手摺りから身を乗り出して海面を眺めているひと組のアベックがいた。ノリオはまだ、男の殺意に気がついていないようだった。
(知らない振りをして)(ノリオと、お姉ちゃんたちとは、お互いに知らないの)(他人なのよ)(いいわね)(話しかけたりしないでね)きょとんとして七瀬とヘンリーを見ているノリオにやさしく心でそう教えた七瀬は、ヘンリーを引っぱってゆっくりとアベックに近づいていった。
気配で、男と女が七瀬たちを振り返った。
七瀬はふたりににっこりと笑いかけ、天候とは正反対の晴ればれした顔であたりを眺めまわしながら、陽気な口調で彼らに話しかけた。「まあ。せっかくの船旅なのに、こんなひどい濃霧じゃ、景色が見えなくてほんとに困ってしまいますわねえ」
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へニーデ姫
精神感応能力《テレパシー》なんてものを持っていると、考えかたが男性的になってくるのだろうか、と、七瀬は近ごろよくそう思う。住みこみのお手伝いさんをしてあちこちの家庭を渡り歩いていた少女時代には時おりぼんやりと考えるだけだった自分の役割や使命について、最近は次第に論理的につきつめて考えはじめるようになっていたからだ。結局のところ精神感応能力者《テレパス》というものは何のために出現したのだろうか。自然のフィードバック機構によってだろうか。現在は、何らかの理由で人類の中にテレパスを発生させなければならぬさしせまった時期にきているのか。もしそうだとすれば人類の中におけるテレパスの役割や使命を自然はすでに決定しているのだから、当然テレパスはそれにそった行動を起さざるを得ない本能も持たされている筈だ。しかしわたしはその本能をまだ自覚していない。ということは。
ごと、と、機体が揺れた。もうすぐ東京国際空港だった。
隣席でぼんやり考えこんでいたへニーデ姫が急にくすくす笑い出し、マカオのホテルで日本人団体客のひとりから中国娘と間違われて口説《くど》かれた話をまたはじめた。マカオのカジノでルーレットをしたへニーデ姫は、五十万円ばかり負けていたが、それを悔んでもいず、口惜しがってもいなかった。
ロビーでずっとわたしの方を見てたのよ。(あけすけな)(猿の眼)(土竜《もぐら》の顔)いやらしい狒狒《ひひ》爺さん。(百姓)(あれは百姓の団体)(セックスの団体)(二列に並んだ何十もの男のセックス)(風船)(今はジェット機の中)(ジェット機の中のトイレット)わたしがルーレットて負けるところを見てたのね。(五十万円)(持っていたお金の五分の四か六分の五か七分の六かそれくらいのお金)(モルモット)(鼠)(牙)(牙)(この人に借りたらいいわ)(美人)
(少女小説の口絵)(カラー・グラビア)(女性週刊誌のグラビア){(皇室)/(皇后)}(わたしとし同じぐらい)(この人は勝っているから)(女の勝負師){(ディーラー)/(手なずけて)}(毒気)(瘴気《しょうき》)(沼気)(正気)(笑気)(鍾馗《しょうき》)(少なくとも百万円は)(二百万円は)(三百万円は)近づいてきて、身振り手振りを混ぜて、お金貨しましょうかだって。
(育ちが違う)(ひと目でわからないのかしら){(皇族)/(皇后)}きっと、いい機会だと思ったのね。(近くで見たら若かった)(ベッドではきっと)(猛烈な)(春画)(精力)(貫通)(洞窟)(月の輪熊)わたしが中国服を着てたから、中国娘だと思ったのよ。(成金)(わたしには中国服が似合う)(色情狂)(肉食獣)(あるいは菜食主義者の)馬鹿ねえ」
早口のお喋りにともなうへニーデ姫の連想の飛躍に、七瀬はまた頭がぐらぐらしてきたので、あわてて意識に掛け金をおろした。へニーデ姫の思考を覗こうとする努力が常にまったく無駄に終ることを、七瀬はとっくに承知していた。だからこそ七瀬は彼女に、こっそりへニーデ姫という渾名《あだな》をつけたのだ。最初はカオス嬢と命名していたのだが、彼女が決して無知ではなく、彼女の意識内容が混沌《カオス》よりももう少し複雑らしいので、そう呼ぶことにしたのだった。むろんヘニーデ姫の、お喋りに平行して流れるその時その時の意識内容を記録にとり、分析したとすれば、必ずそこに何かの意味や関連があることはすぐにわかる筈なのだが、思考のバネになっているのが女性特有の情意機能だけだったし、普通の人間の二倍も三倍もの量の視覚的な像がごちゃごちやとあらわれる上、それが猛烈な速度で展開されていくので、お喋りの裏の意味を読みとりながら話を聞いていたのでは、たちまち何がなんだかわけがわからなくなってしまい、時には何を話しているのかさえわからなくなる。七瀬はそれを恐れ、ヘニーデ姫が話をはじめると、すぐ彼女の意識が自分の心に流れこんでくるのを遮断し、お喋りの意味だけをとらえるようにした。
読みとりにくいのは、彼女が喋っている時の意識だけではなかった。まったく喋っていない時の意識でさえ、覗きこんでいるうちに眼がくらんだようになってきて、すぐ、ついていけなくなってしまうのだ。
テレパスにとって、いちはん読みとりやすい意識はいうまでもなく発語思考に近いもので、その逆は思考感情である。へニーデ姫の意識には、その女性的な思考感情が、彼女の持っている精神的な活力のため、他の女たちの数倍の複雑さと数倍の早さで、間断なく流れ続けていた。へニーデ姫の精神力が何によって賦活されているのか、それは七瀬にもわからなかったが、へニーデ姫がいつも停電中の猫のような眼をしていることから見ても、どこからか絶え間なくやってくるそのエネルギーが厖大《ぼうだい》なものであることは容易に想像できた。
七瀬がへニーデ姫に初めて会った場所は、マカオのホテルの地下にあるカジノだった。へニーデ姫はルーレットで遊んでいた。女ひとりでやってきているくせにまったく物怖じていないらしい様子と、まったく方式のない無茶苦茶な賭けかたと、彼女が一回の勝負に賭ける賭金の、単に観光客のお遊びとは思えない額と、負けても平然としている様子に興味を抱き、七瀬は彼女が元手をすっかり失ってしまった時を見はからって話しかけたのである。
ヘニーデ姫は真弓|瑠璃《るり》というどちらが姓だか名前だかわからないような名の金持娘で、七瀬と同様、女ひとりでマカオへ遊びにきていた。彼女によれば彼女の父は実業家ということだったが、どういった種類のどの程度の実業家なのかは、彼女の心からは読みとれなかった。彼女によればマカオへやってきたのは「なかば家出、なかば遊び」ということだったが、これもやはり詳しい事情はわからなかった。父親の顔を思い浮べると同時に郵便のマークやニットスーツや昨日香港で会った老婆の顔などを次つぎと思い浮べ、その一方ではそれと平行して帰りの放費の心配をしながらピンク・フロイドの猛烈なロックをBGMにして七瀬と自分の容貌の比較をしているといった意識内容では、とても彼女の心からまとまった解答を拾い出すことは無理だった。
最初七瀬は、へニーデ姫が一時的な躁《そう》状態にあるのかとばかり思っていた。ところが彼女の気分は翌朝ホテルのロビーて会った時にもあいかわらず高揚し続けたままだったし、それが愉快なことか不愉快なことであるかに関係なくちょっとした出来事がきっかけでのべつ惹起《じゃっき》する彼女の躁病的発揚はいつまでたってもおさまりそうになかったので、七瀬としては、驚くべきことではあるがそれが彼女の常態なのだと判断するしかなかった。
これは彼女の育ちのよさや美貌にも関係があるのだろう、と、七瀬は考えた。なぜかというと、たとえばルーレット賭博で金がなくなったり帰りの旅費が足りなくなったりするといった、ふつう、年頃の娘にとっては相当深刻な筈の状態にあっても彼女が陽気でいられるのは、今までに何度もそういった事態に陥りながら、周囲の人間の庇護《ひご》のために切り抜けてこられたからだと考えることができるからだ。七瀬自身、彼女にかまってやろうとした理由が、美貌はともかく、彼女の育ちのよさからくる陽気で悪意のない人柄に好感を持ったからだったのである。
へニーデ姫には、人を羨《うらや》んだり妬《ねた》んだり、そういった相手を憎んで意地の悪いことをしてやろうと考えたり、または故意に人を無視したり蔑視したりするといった、女性に多い性格上のいやな歪みがあまりないように見えた。それはへニーデ姫が美貌に恵まれ金にさほど不自由をしたことがなかったからだともいえるが、七瀬には、ただそれだけが理由ではないような気がした。
女性的な欠点がないとはいえ、彼女の軽揚型の性格と思考のとりとめなさは、あきらかに女性のものだった。しかしこれは他人にさほど迷惑をかけるものではないので、欠点とはいえない筈であり、強いて欠点をあげれば強い自己愛と良家の娘としての誇り、それに無計画や多少のだらしなさがあるがこれとて他人を不快にするほどではない。カジノで知りあって以来、彼女に旅費の一部を貸してやったり、ふた晩ホテルの同じ部屋に泊っていろんな面倒を見てやったりする破目になった七瀬にしても、とんでもない厄介な娘にかかずりあってしまったという後悔の念はまったく湧かなかった。むしろ、やがて東京国際空港で別れてしまわなければならないことに名残り惜しさを感じるくらいだった。
「ベルト着用」のサイン燈が点《つ》いた。ごとんごとんと鈍い音を立てて機がゆっくり降下しはじめた。七瀬は自分がまるで階段を鈍重に降りていく巨獣の胎内にいるような気がした。着陸寸前にはいつもそんな気がするのだ。
へニーデ姫が黙ってしまい、ふたたび彼女自身の脈絡のない思考の中へ浸りはじめたため、七瀬もまた自分の考えに戻った。
テレパスが自然や人類に対して何らかの役割や使命を持っているなら、自分だってとうにそれを本能として自覚している筈である。しかし今のところそんなものを持っていそうな気配は、少なくとも自分にはまったくない。ではテレパスの出現は、単に人類の進化の結果に過ぎないのだろうか。それにしたって自然は、テレパスを出現させた結果に自然なりの責任を持っている筈だ。それが自然自身にとって、|よい状態《ヽヽヽヽ》にならなければならないという責任だ。自然とは、そういう機構を持っているに違いないものだからだ。では、テレパスの発生によって人類とか自然とかに生じるいい結果とはいったい何だろう。
そこまで考えた七瀬は、ふと、またも自分の意識の表面、自我の表層部に、何ものかのひそやかな触手がうごめいているのを感じた。一瞬はっとした七瀬は、のびあがって機内の乗客の顔を見まわしたい衝動に駆られ、それを押えた。百数十人の乗客の意識をざっと眺めわたしただけで、その中にテレパシーを持っていそうな強い精神力の持ち主がいないことはあきらかだったし、七瀬の心をまさぐろうと試みている触手の圧迫は、とても同じ機内にいるテレパスのものとは思えない微弱なものだったからである。
ではこれは、ノリオの意識だろうか。北海道でヘンリーと一緒に七瀬の帰りを待っている筈の、七瀬の知る限りでは彼女以外のたったひとりのテレパスである四歳のノリオが、東京に近づいてきた七瀬の意識を探知して、自分の方から接触《コンタクト》しようとしているのだろうか。いや、違う、と、七瀬は思った。このかすかな意識の触手は、香港を飛び立った直後、機がようやく一万メートルほどの高度に達した時にも、すでに一度経験している。ノリオの意識がそんな遠距離のそんな高度にまで届く筈はなかった。おそらく現在の、この東京上空何千メートルという場所にさえ、放射した意識を到達させることは、ノリオの能力では無理だろう。
ヘニーデ姫の屈託のなさそうな横顔をちらと盗み見ながら、まさかと思い、ちょっと頭に浮んだその考えを七瀬は打ち消した。たしかにへニーデ姫の精神力は常人よりもいささか強いが、彼女が潜在的なテレパスだとはとても思えなかった。へニーデ姫の意識内に狂躁状態が続いているのは、本人の知らぬ間に流れこんでくる他人の意識の影響を受け続けているからだと考えることもできるが、もしそうであったとしても、テレパスであることを自覚していないテレパスが他人の意識に触手をのばそうなどと考える筈がないのである。
触手のひそやかな動きはほんの二、三秒感じられただけですぐに遠のいたが、それが七瀬の気のせいでないことは確かだった。いったい何者だろうと思い、七瀬は解答を求めて考え続けた。まず第一に、密室のような機内にいる乗客の中にテレパスらしい意識の持ち主がひとりもいないということ、そして第二に、地上から接触しようとしたのではないということ、この二つの条件の下に考えられる相手とは、いったいどこにいる、どのような存在なのか。
そんな存在を想像することは不可能だ、そう思って不安感をなだめ、また自分の気のせいだったという考えに戻ろうとした時、七瀬はぎくりとした。本当に、そんな存在を想定することは不可能だろうか。さっきも、そしてその前の時も、感じることができたのはその人物の意識の触手だけだったのだ。その人物の意識内容は、思考はもちろん、感情も、意志も、いや、意識のパターンらしいものさえ感じとることはできなかったのだ。七瀬の不注意で見逃したのでない限り、その場合に考えられることはただふたつである。それは「人間の意識の触手」以外の何ものかであったのか。あるいはまた自分の意識を隠すことができるテレパス[#「自分の意識を隠すことができるテレパス」はゴシック体]の触手であったのか。
未知の生命体からの接触《コンタクト》という考えは、一般の人間にとってすでに超現実的な存在である七瀬が考えてさえあまりに超現実的で、それ以上想像する気をなくさせるものであったし、考えたところでどうしようもないことである。さし迫って考えなければならないのは自分の意識を隠したままで他のテレパスの意識を探知できるという、七瀬がまったく知らないタイプのテレパスの存在だった。七瀬はとまどった。もしそんなテレパスが本当にいて、この飛行機に乗っているとしたら、そのテレパスは自分にとって危険な敵なのか、それとも心を許してよい同胞なのか。
もちろん七瀬は今までに自分やノリオ以外のテレパスの存在を想像したことは何度もあり、また、その相手が胸を開きあうことのできる同胞ではなく、七瀬を否定したり抹消しようとしたりするような対立的な存在であるという事態も充分起り得ると考えていたが、しかしどんな場合も相手を自分と同じ能力の持ち主としてしか考えたことがなかった。もし相手にこちらの考えを読むことができ、こちらは相手の心を覗けないとしたら、それは一般人対テレパスの立場とさほど変らないことになり、こちらの不利はあきらかなのだ。
そういった存在の可能性と、そんな相手への対策も、今までに考えておくべきだった、どうしてそれに気がつかなかったのかと、七瀬はつくづく思った。邪悪な心を持ったテレパスを想定した場合、当然そのテレパスは自分以外のテレパスを敵視するであろうし、まず第一に自分の心を相手から隠そうとするのが当然だと思えたからである。現に今、その未知の相手はまだ自分の心を七瀬から隠したままでいるではないか。しかも一方的に七瀬の意識をまさぐろうと試みたのだ。それだけでは今のところ悪意に満ちた相手であると断言することはできないが、少なくとも、これはいわばテレパス同士の礼儀に反する行為であるといっていいのではないだろうか。
ではそんな相手に自分はどう対処すればよいのか、と、七瀬はいささかうろたえ気味に考えた。だが、うろたえながらも七瀬はまだそんな人物がこの機内にいると結論づけたわけではなかった。あるいは自分は、そんな相手の存在を考えるのがあまりに苦痛なので、結論をひきのばしているのかもしれない、七瀬はそうも思った。
なんとかして今のうちに相手の存在を確かめなければ、と、七瀬は思った。飛行場に着陸してしまえばその機会は少なくなる。だが、七瀬が何も思いつかぬまま、機体は車輪を滑走路にどんとおろした。
空港の空は晴れていた。
またもとりとめのない話をはじめたへニーデ姫へ適当にあいづちを打ちながら、七瀬は自分とほぼ同じくらいの背丈がある彼女と並び、他の乗客とともにターミナル・ビルへ歩いた。へニーデ姫も七瀬も、やや大きめのショルダー・バッグを提げていた。だが七瀬は、現金をショルダー・バッグへは入れず、直接身につけていた。現金は、約五百万円あった。マカオにある数カ所のカジノで得た金だった。
七瀬がマカオヘ女ひとりの旅を試みるのはこれで三度目であり、それはルーレット賭博で生活資金を稼ぐためだった。それ以前から数年かかって貯めていた貯金は、石狩山地のある山中に見つけた七瀬たち超能力者三人の隠れ家と、その周囲のわずかばかりの土地を買うためにほとんど使ってしまっていた。また、七瀬が比較的多い収入を得ていたあのクラブや高級バーのホステスという職業は、都会の中心地で毎夜多くの人間に接しなければならず、それだけ七瀬の能力を他人に悟られるおそれがあり、危険だった。一年足らずの勤めで七瀬は、テレパスである自分が己れの秘密を隠してその仕事を続けていくにはいかに余計な気遣いが必要で心労が多いかを知り尽していた。毎夜気を張りつめていたのではそのうち神経が参ってしまい、いつかは誰かに秘密を知られるという結果にもなり兼ねない。たとえいかに収入が多くとも、二度とホステス業に戻る気はなかった。
その点ルーレットは、わずか数日の冒険で数カ月分の生活費を稼ぎ出すことが可能だった。ただしその冒険の度合いは、超能力を使う必要がなく普通の人間のふりをして客にサービスをしていればよいホステス業などとは比べものにならなかったし。元手の少ない七瀬にとってルーレット賭博はまず何よりも勝たねばならず、そのためには自分の能力を最も効果的に使わねばならなかったからだ。
カジノで七瀬は、ほぼ思い通りの目を出せる技術を持ったディーラーの台を選んだ。腕のいいディーラーは必ず、出そうとする目を内心ひそかに決定した上で盤をまわし、玉をはじく。むろんディーラーの出そうとする目が必ず出るとは限らなかったし、あまり続けて何度もディーラーが思った通りの目に賭け続けたのでは疑惑を招くおそれがあったから、時にはでたらめの色や数字に賭けることも必要だった。しかし基本的にはディーラーが考える色や数字を読みとれると読みとれないとでは、長時間における勝率に九〇パーセント以上の違いがあった。だから、ともすれば七瀬の賭けかたにぎょっとしたような眼を向けようとするディーラーの心をやや多額のチップで他へ向けさせたりなだめすかしたりしながら、目立たぬようにだらだらとながい間賭け続けているうちには、他人に気づかれず、時には自分も気づかぬうち、加らぬ間に勝っているということになるのだ。七瀬がディーラーを手なずけたとするへニーデ姫の想像も無理からぬことだった。テレパシーのない人がルーレットをやるなんて、まるで金を捨てるようなものだ、七瀬は、とても出そうにない目に賭けては負け続け、尚かつ嬉々としている観光客たちを見るたびそう思うのである。
念動力《テレキネシス》の能力を持ったヘンリーを伴ってやってくれはもっと簡単に勝てる筈だったが、ヘンリーは七瀬の命令によってしか物体を遠隔操作することができないから、どうしても一台のルーレットにふたりの超能力者が取り組むことになり、それだけ疑われる危険性も増すわけである。だいいち回転盤や玉が物理にそぐわぬ変な動きかたをすれば、ディーラーどころか客にさえ不審の念を抱かせてしまう。
ヘンリーをマカオへつれて行かないもうひとつの理由は、四歳のノリオを北海道へひとり残しておくわけにはいかないからだった。ノリオまでマカオにつれていこうとすれば、当然旅券へ新たに書き込んでもらうための申請が必要で、誘拐同様にして親からひきはなし手許《てもと》に置いている子供だから、その手続きはひどく厄介だったのだ。
へニーデ姫が、スーツケースやトランクやボストンバッグなど、さまざまな色と形の手荷物を乗せてぐるぐる廻っている荷物受取所の回転台を見ながら、ルーレットを連想しはじめていた。(どうしたら)(今度こそは)(あの指輪)(あれも売って)(パパに)(ママを仲介)(お金)(まだ不足)(軍資金)(たっぷりと)(五十万円)(六十万円)(七十万円)(百万円[#「百万円」はゴシック体])(あやまって)(一カ月ほどしてから)(わたしも)(ディーラーを)
よくはわからないが、どうやらもう一度カジノへ行って勝とうという気でいるのだと七瀬は判読した。
あわただしく、何ものかの触手が無遠慮に七瀬の心をまさぐろうとした。やっぱり乗客の中にいたのだわ、そう思った七瀬は、ふたたび周囲を見まわそうとする衝動をけんめいに堪《こら》えた。相手がまだ、七瀬をテレパスだと悟っていない可能性もあったからである。七瀬の発散させた意識を今まで相手がどの程度に捕捉しているかわからぬ以上、自らテレパスであることを示す行動は避けるべきであった。
音を立てそうな勢いで、触手の背後にある固く閉ざされた意識が裂け、その割れめから邪悪な殺意が覗いた。その殺意ゆえに、それまで意識を隠していた自我の殻が一瞬裂けたに違いなかった。
(どちらだ)(まだわからない)(どちらかを)(この機会を逃がしたら)(使命)(人類)(守る)(化け物)(自然淘汰)(とにかく片方を)(殺す)(殺す)(殺せ[#「殺せ」はゴシック体])
少なくともテレパスではない、と、七瀬は判断した。最悪の場合でも、おそらくは多少読心ができ、自分の意識が隠せるようによく訓練された普通人であろう、相手の精神力の強さを知ってそう思い、ほんの少し七瀬がほっとした時、鈍い擦過音が背後で起り、何ものかが七瀬の耳もとを、そして、ちょうど回転台に乗ってやってきた自分のスーツケースをとろうとして身をかがめたへニーデ姫の頭上すれすれをかすめた。
回転台を中にしてへニーデ姫のちょうど真向いに立っていたその老人にとって、死の訪れは急激だった。孫への土産のことを考えていた老人は、突然起った胸の激しい痛みに愕然としながらほんの二、三秒、痛みの原因を医者から教えられた自分のいくつかの病気にあれこれと求めたが、死ぬのだという自覚を持たぬまますぐに意識を失ってしまった。
本当の殺意だったのだわ[#「本当の殺意だったのだわ」はゴシック体]。
ゆっくりとフロアーにくずおれていく背の高い白髪の老人にちらと眼を向け、胸もとにこみあげてきた激しい恐怖を押えつけてから、七瀬はいそいでへニーデ姫の腕をとり、ささやいた。「さあ。早く行きましょう」
「あら。あの人、どうしたのかしら」へニーデ姫が歩き出しながら背後を振り返った。
七瀬は振り返らなかったが、へニーデ姫の視覚を通して、倒れた老人の周囲に二、三人の男が歩み寄るのを認め、さらに歩調を早めた。老人が死んでいることに気ついた者は、今のところ誰もいない。
香港でボディー・チェックをパスしておきながら、尚かつからだのどこかに消音拳銃を隠し持っていたくらいの人物だから、容易ならぬ相手と考えてまちがいなかった。しかもその射手は、あきらかにへニーデ姫を狙ったのだ。そしておそらくは、へニーデ姫と七瀬のどちらがテレパスなのかをまだ判別できないでいるのである。ぐずぐずしているとふたたび狙撃されるおそれがあったし、いつまでも死体の傍にいて警察の尋問を受ける破目になってもまずい。
税関の検査を受けている時、数人の警官と空港の警備員が七瀬たちの横を、荷物受取所の方へあわただしげに走っていった。
「やっぱりさっきのお爺さん、病気だったのね。死んだのかしら」
好奇心をあらわにしたへニーデ姫が、本来ならは自分が殺されていたところとは夢にも思わず、のびあがって背後を眺めては大声でそんなことを言うので、係官に聞き咎《とが》められないかと思い七瀬ははらはらしたが、さいわい警察が非常線を張る前にふたりは税関を出ることができた。へニーデ姫は七瀬のあわてかたを少しいぶかっている様子だったが、今彼女を納得させている余裕はない。ターミナル・ビルを出ると、十数人の列ができているタクシーのりばには眼もくれず、七瀬はヘニーデ姫をうながしてハイヤーに乗りこんだ。
「どうして」と、へニーデ姫が訊ねた。「ここでお別れする筈じゃなかったの」
「わたしの泊るホテルへ、ちょっとつきあってほしいの」へニーデ姫に有無を言わせず、七瀬はそういった、「晩ご飯をご馳走するから。別に、いそがないんでしょ」今、このひとと別れるべきではない、七瀬は咄嗟《とっさ》にそう考えたのだ。
「そりゃあまあ、いそがないけど」へニーデ姫が怪訝《けげん》な顔をした。
この人と一緒にいたから助かったんだわ、都心へ向うハイヤーの中でほっとひと息つきながら七瀬はそう思い、あらためてへニーデ姫に感謝した。ヘニーデ姫が猛烈な勢いで周囲へ放射し続けている、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような躁状態の意識が、ちょうとレーダーの前にばら撒かれた鹿弾《しかだま》のような作用をして、あの殺人者の読心能力を惑乱させ、七瀬とヘニーデ姫のどちらがテレパスでどちらがそうでないかの判別を不能にしたに違いなかったからである。
殺人者が消音拳銃を発射しようとする寸前に見せたその凶悪な意識によって、七瀬は相手が何者かをほんの一面とはいえ知ることができた。殺人者は男だった。日本語で思考しているから日本人であることも確かだった。四十歳以上の中年男と思えるその殺人者は、テレパスあるいは超能力者のすべてを激しく憎悪していて見つけ次第片っ端から抹殺しようとしている組織もしくは組織に近い団体の一員と見ることができた。彼の読心能力や、自分の意識に殻をかぶせて隠匿する技術と精神力は、その組織なり団体なりの訓練によって得たものであろう。殺人者は、マカオのカジノで七瀬の勝ちっぷりに眼をとめ彼女をテレパスであると認めた仲間のひとりから連絡を受け、七瀬を抹殺するために香港から尾けてきたのである。カジノで七瀬を発見した人物も、七瀬がその存在にまったく気づかなかったことから想像して、やはり意識を隠す技術を習得していたのであろうし、さらに想像すればその人物は、テレパスが比較的容易に金を得ることができる筈の賭博場を、常に見張っている役割を受け持たされていたのであろう。そして殺人者はその仲間から、おそらくは七瀬のことを、背が高くて二十歳前後、ひとり旅の日本娘とだけ聞かされていたため、へニーデ姫と区別することができなかったに違いない。だが、殺人者の意識を観察して想像できるのは今のところせいぜいそれだけだった。その殺人者がどんな顔をした男か、七瀬が知らぬ間に周囲へ発散させた意識をどの程度へニーデ姫と区別し、どのあたりまで詳しく読み取ったか、彼の属している組織もしくは団体がどんな規模でどんな活動をしているか、テレパスあるいは超能力者を抹殺しようとするどんな思想的根拠を持っているのか、すでに何人かのテレパスを殺しているのか、そういったことはまったくわからなかった。
まだ尾けてきているのかしら、七瀬はそう思いながらそっと背後に眼をやった。それらしい車は見あたらなかった。しかし、だからといって油断はできなかった。殺人者は、誤ってあの老人を射殺した直後、きっと舌打ちしながら七瀬たちよりも早く現場から去ったことであろう。だが、あの殺人者が、たった一度の失敗で何もかもあきらめてしまうような人間でないことは確かである。組織の一員であるとすれば責任上当然失敗をとり返そうとするであろうし、その組織に応援を求めようとするかもしれない。たとえ一時は七瀬たちから遠ざかったとしても、何かの手段で七瀬たちを監視し続けたり所在をつきとめたりする方法を心得た上で身を隠した筈である。こちらから相手の所在を探知できない以上、常に監視されていると思っていた方が賢明だった。
自分のまったく知らない間に、テレパスの発生を知り抹殺を企てている恐るべき存在がこの世界にあったことをひしひしと身に感じて、七瀬は恐怖に襲われた。恐怖に近いおののきが下半身からじりじりと胸もとへ、冷たく、重苦しく浮びあがってくるのをどうすることもできなかった。普通人の団体とはいえ、相手はテレパスに対抗するため自らの意識の隠匿に熟練した凶悪な殺人者たちなのである。そう考えた七瀬は急に気弱になり、泣き出しそうになった。何か強いものにすがって訴えかけたくなった。テレパスだとはいっても、わたしはまた二十一歳の、かよわい女の子なのに。わたしは殺されるのだろうか。ノリオも、ヘンリーも、抹殺されてしまうのだろうか。殺されないためにはどうすればよいのだろうか。
遠からず始まるであろう彼らとの戦いの予感に、七瀬は慄然とした。血みどろの戦いになるのではないかと思い、下肢が顫えた。何人もの相手を殺さなければならないかもしれないと思い、そう思っただけで全身の気力が萎えていくのを感じた。いや、すでに戦いは始まっているのだ。文字通り、自分や自分の同胞にとって生きるか死ぬかの戦いが、自分にとっては今、突然始まったのだ、投げやりになってはいけない、七瀬は自分の心にそう言い聞かせ、気を張りつめておこうと決心した。だが、頭痛がした。頭痛はなかなかおさまらなかった。
七瀬がいちばん心配したのは、殺人者がすでに七瀬の心から、北海道にいるノリオやヘンリーのことを読み取ってしまったのではないかということだった。ノリオを可愛がっている七瀬は旅先でも機内でもしばしば彼のことを考え、何度も彼の安否を強く気遣ったから、あるいはノリオという名のテレパスの存在だけは殺人者たちに悟られてしまっているかもしれなかった。しかし少なくとも、まだ隠れ家の所在地までは知られていない筈だった。
それだけは彼らに知られてはならない、七瀬は強く、そう心に決めた。だが、それを知られないようにするにはどうすればいいのかがわからなかった。意識を隠す技術を七瀬は持たなかった。訓練で体得できるのかもしれなかったが、いかに早くその技術を身につけようとしたところで現在の危機には間に合いそうもなかった。
しばらくはこのひとと、できる限り一緒にいることだわ、へニーデ姫と他愛のない話を続けながら、七瀬はまたそう思った。この、子供の心に普通人以上の強い精神力と女性的な思考感情を加え、躁病的発揚でその流れの速さを倍にしたような意識の持ち主がわたしの傍についている限り、たとえ心を読まれても、それがわたしの意識なのかこのひとの意識なのか、あの殺人者には、あいかわらず判別できないに違いない、七瀬はそう考えたのだ。もちろん、いつまでもこのへニーデ姫と一緒にいるわけにはいかないだろう。でも、何らかの方法で殺人者が尾行をあきらめたことを確認するか、あるいはまた、考えるのもいやなことだが、こちらが殺人者を抹殺するか、どちらにしろこの鬼ごっこに片がつくまでは、北海道へ帰るわけにはいかないのだ。そう。絶対に、北海道まで尾行され、隠れ家を発見されるようなことになってはならない。絶対に。
「ねえ、顔色が悪いわよ」と、へニーデ姫がいった。(それに元気が)(ホテル)(家に電話){(〇四六七の二二の〇八五一)/(夕食)(肉)(マスタード)}(何のつもりで)(淋しい)(孤独)(でもそれなら今までだってひとり旅)(悪いこと悪いこと悪いこと悪いこと)(聞いた方が)(聞かない方が)(可哀想)
本気で七瀬の様子を心配していた。いろんな連想を続ける一方で、なぜ急に元気をなくしたのだろうと気にしているへニーデ姫の意識の底流に、これだけははっきりと、あたたかい友情のようなものがあった。七瀬も、へニーデ姫に友情を感じている自分を発見していた。
「心配いらないのよ」七瀬は無理に笑って見せ、彼女の手の甲を叩いた。「どう。あなた鎌倉のパパの家へ帰る前に、もうしばらく東京で遊んで行かない。わたしの部屋に泊ればいいわ。マカオヘ出発する前に予約しといたんだけど、ちょうどツインの部屋しか空いてなかったの。だから、二人泊れるわ」
ルーレットに勝った金で生活必需品を買い漁るため、七瀬は帰国後二日だけ東京に滞在する予定でいたのだ。
「でも、お金が」口ではそう言ったものの、遊び好きのへニーデ姫は、はや心を動かしていた。
「お金なら気にしなくていいのよ。わたし、ルーレットで勝ったんだから」無邪気な彼女をそれと知りながら危険にひきずりこもうとしていることに胸が痛んだが、背に腹は代えられない、七瀬はけんめいに、だが表面はそれとなくへニーデ姫を説得した。「ねえ。遠慮することなんかないわ。遊んで行きなさいよ。そしたらわたしも、淋しくないし」
ヘニーデ姫はうなずいた。「じゃ、そうするわ」そういったとたん、彼女の頭の中はさっそく東京でどこへ行きどう遊ぶかの楽しい空想で満ちあふれた。
ホテルの部屋へ落ちつき、七瀬とへニーデ姫は交代でバス・ルームを使った。
浴槽に身を浸しながらも七瀬は、あの殺人者への対抗手段を考えるのにいそがしかった。一刻も、のんびりしてはいられなかった。東京滞在中に、あの殺人者の追及を何とか阻止しなければならなかったが、彼女の持っている武器は精神感応能力だけだった。それに対して殺人者の方は、意識の隠匿、消音拳銃という防禦《ぼうぎょ》用、攻撃用ふたつの武器を持っているのである。その上男だから腕力でも敵《かな》いっこない。ヘンリーがいてくれたら、と、七瀬は思ったが、むろん、彼を北海道から呼び寄せるわけにはいかなかった。ヘンリーを呼べば彼はノリオを伴ってやってくるしかないわけで、もし戦いに破れた場合は犠牲が七瀬ひとりにとどまらず、ヘンリーはおろかノリオまで殺されてしまうことになる。そうだわ、犠牲はわたしひとりにとどめなくては、そう決意した自分を、もうひとりの七瀬が冷静に観察し、少女時代の自分と比べればずいぶん悲愴《ひそう》な決意をするようになったものだわなどと無責件に考えていた。
電話が鳴った。へニーデ姫にかかってくる筈はないから、おそらく北海道からヘンリーがかけてきたのだろう、と、七瀬は思った。彼には旅行の日程と宿泊地を教えてあったからだ。
へニーデ姫がバス・ルームのドアをノックして言った。「ナナちゃん。あなたに電話だわ」
「ありがとう」
受話器はバス・ルームの中にもあった。七瀬は裸身のままで受話器の前に立った。「はい。わたしです」
「火田さんですね」
その若い男の声にはかすかな記憶があったが、急には誰だか思い出せなかった。電話では、相手がどんな人物で何を考えているかがわからない。
「ぼくだよ。憶えてないかなあ。岩淵恒夫。ほら。一度、夜汽車で会った」
「あっ」と、七瀬は叫んだ。
憶えていないわけがなかった。七瀬が知っているただひとりの未来予知能力者、顔が長くて眼の丸い、やや道化た感じのする、やたらに背の高いあの青年にあの深夜のプラットホームで別れて以来七瀬はずっと、もう一度会いたく思っていたのだ。
「どこにいるの。今、どこ」懐かしさが胸にあふれ、七瀬は呼吸を乱した。こんな時に電話をしてきてくれるなんて、なんという幸運だろう、それとも彼は、今のこのわたしの危機を予知能力で知り、いそいで助けにきてくれたのだろうか、彼が来てくれれば、この危機は切り抜けられる筈だ、なにしろ彼は、その気になれは未来に起る悪いことを避けたり防いだりもできるのだ、彼に来てもらえれば百人力だわ、あらゆる思いが七瀬の心の中であわただしくせめきあった。
「このホテルの、一階のロビーから電話している」恒夫の声は七瀬の思いとうらはらに考え深げで、のんびりしていると七瀬が感じるほど落ちついていた。
「すぐ、そっちへ行くわ」
「いや」恒夫は強く言った。「来ないでほしい。実はさっきもフロントにいる君の姿を遠くから見かけたんだけど、わざと声をかけなかった」
ロビーに人が多かったため、遠くにいる情夫の意識を捕捉できなかったか、あるいは見過してしまったのに違いなかった。
「でも、どうして」七瀬はかぶりを振った。へニーデ姫と一緒だったから、遠慮したのだろうか。「どうしてそんな遠慮をしたの。だって、あなたとわたしは」
「同じ仲間だと言いたいんだろうけど」恒夫の声にはわずかにためらいがあった。「でもねえ。わからないかなあ」声をひそめた。「君はテレパスなんだぜ」
そのひとことで七瀬はまたテレパスであるがための悲哀を味わい、がっくりと肩を落した、なんということだろう、同胞にまで嫌われるなんて、そう思い、泣き出したいほどの孤立感に襲われた。しかし、年頃の青年である恒夫が自分の心を、やはり年頃の娘である七瀬に読まれたくないという気持は、痛いほどよくわかった。七瀬自身がついさっきまで他人から意識を覗かれることを極度に恐れ続けていたのだ。
「じゃあ、会ってくださらないのね」とり乱すまいとせいいっぱい自分を押えながらも、やはり、できるだけ哀れっぽい声を出そうとしている自分に七瀬は気がついた。テレパスとしての誇りを固持している場合ではないし、そんな相手ではないのだ。
だが、七瀬に会うまいとする恒夫の決心は崩れそうになかった。「悪いけど」
ふたりは電話口でしばらく黙りこんだ。
「お元気」と、七瀬は訊ねた。
「うん。君の方はどう。あの子はどうしている」
「ノリオのことね。元気よ」
こんなことを話している時ではない、と七瀬は思った。だが、気が焦るばかりで、どう話していいかがわからなかった。
「ところで、君一緒にその部屋にいる女のひとは、何かの超能力者《エスパー》なのかい」エスパーという言葉だけ声をひそめて、恒夫がそう訊ねた。
「違うわ。普通のひとよ」
「そのひととは、なるべく離れない方がいいよ」
やっぱり、わたしが危機に陥っていることを、この人は知っている、七瀬はそう思い、受話器を握しめた。「予知したのね。わたしが殺されそうになることを」
「そうだ」
七瀬は自分の声をヘニーデ姫に聞かれていないか確かめるため、受話器を耳から遠ざけてドアの彼方《むこう》の彼女の意識をさぐってみた。ヘニーデ姫はBGM放送に合わせて鼻歌を歌いながら、ベッドの上でスーツケースの整理をしていた。
七瀬は受話器に戻り、早口で喋った。「じゃ、わかるでしょ。今、わたし、その男に追いかけられているの。狙われているのよ。巻きぞえをくって、ひとが一人死んだわ。ね。あなたの助けが必要なの。わたしがどうしたらいいかを教えてほしいのよ。あなたは、わたしを助けにきてくれたんじゃなかったの。そこにいたのは偶然なの」
「偶然じゃない」と、恒夫はいった。「君を助けに来た。しかしここへ来てみて、残念だけど君を助けてあげられないことがぼくにはわかった。今ぼくにできることは、君に注意を促すことだけだ。もう一度言うけど、一緒にいるその女性とは、一刻も離れない方がいい」
「わたしもそう思っているの。だけどあなたはなぜそう思うの」
「今は言えない」恒夫の声は、七瀬にはひどくよそよそしく聞えた。
「それならもうひとつだけ教えて頂戴。わたしに何が起るの。何が起る筈なの」おろおろ声になっていた。さっき、あくまでひとりで戦おうと悲愴な決意をしたことも忘れ、今恒夫に見放されたのではどんなひどいことになるかわからないと七瀬は思いはじめていた。自分はあの殺人者に殺されるのではないか、そう思った。だがそれを恒夫に訊ねるのは、さすがに恐ろしかった。
「ところが、そのことに関しては、予知できないんだよ」恒夫が、ややとまどったような声を出した。ためらっているようでもあった。
「え。どうして予知できないの」からだが冷えはじめていたが、それは裸でいるせいだけではなかった。七瀬は懇願の口調になり、けんめいに恒夫を説いた。「ね。お願いよ。会って頂戴。電話じゃお話できないわ」重要な会話はたいてい相手の心を読みながら交わしているだけに、電話でのやりとりは七瀬にとってこの上なくまどろっこしいものだった。「約束するわ。あなたの心は絶対に覗かないって。だから、会って頂戴」
「だめだ」恒夫は腹立たしげに言った。以前、君はぼくと会っている間、自分がテレパスだということを隠していた。別れぎわになって、初めてそれをぼくに打ち明けた。あれからずっと、ぼくがどんないやな、苦しい、恥ずかしい思いをしてきたか、テレパスの君にはわからないだろう、君と会っている間に自分が心に思った恥ずかしいことをあとであれこれと思い返しては、おそらく君がぼくを笑い蔑《さげす》んだことだろうと想像して、毎日々々、歯噛みしたり髪やからだを掻きむしったり、七転八倒の苦しみで、それが今日まで続いていたんだぞ。君には思像できないだろう。他人に心を覗かれて、しかも心を覗かれたことを知った人間の苦しみは。君がぼくの心を覗かないと約束したって、誰がそれを保証する」恒夫は息をはずませていた。
たしかに七瀬は、恒夫と会って彼の心を覗くつもりだったから、そう言われれば一言もなかった。恒夫が落ちつくまで、七瀬はしばらく黙り続けた。
しかし、恨みごとを言いたいのは七瀬も同様だった。かよわい女が殺人者から追われているのを知っているくせに、どうしてもっと親身になってくれないの、あなたは冷たいひとよ、薄情なひとだわ、そう叫びたかった。だが、それが七瀬の一方的な感情であることを彼女は自分でも知っていた。恒夫だって超能力者なのだ。事件には巻きこまれたくないだろうし、彼だって自分自身を守らなければならないのである。七瀬に迫る危険を予知してこのホテルまでわざわざ警告に来てくれたことだけでも感謝すべきなのであろう。
七瀬は話題を戻し、冷静に訊ねた。「どうして、わたしのことに関しては予知できないの」
恒夫は興奮したことを少し恥じているような口調で答えた。「それはつまりその、今しがた、やっと気がついたんだけど、君が、ぼくの予知能力にとって、いわば定数ではなく変数だからだよ」
「説明して」
「ぼくがある人問の未来に関して何かを予知したとする。でもぼくはそのことを当然本人には言わない。もし教えてやったとしても信じてくれないだろう。ところが君だけはぼくが予知能力者であることを知っている。だからぼくが予知したことに対策を立てることができる。つまりぼくの予知した未来を人為的に改変できるのは君だけだ。するとぼくの君に関する予知は、厳密にいえは間違っていたことになるんだ。これを逆に言うと、予知した未来の人為的な改変は予知能力者の存在の否定につながるわけで、ぼくが君の未来に関して予知できない第一の理由は、ぼくの予知能力の中にある、そういったことを恐れる機構が働くためだろうと思うんだ。わかるかい」
七瀬はけんめいに反駁した。「だってあなたは、わたしが殺されそうになることを予知したじゃないの」
「予知できたのはそこまでだ。それ以上の予知は君という変数のために答えが無数に出てくるわけで、ぼくの手に負えないよ」
いささかうしろめたそうな恒夫の口調で、七瀬は、恒夫が本当はもっと先のことまで予知しているのではないかと疑った。それを七瀬に話そうとしないのは、七瀬が故意にその予知にさからった行動をとることを恐れているためではないだろうか。七瀬に会いたくない理由のひとつは、その予知を七瀬に読まれることを恐れているためではないだろうか。このひと、きっと、まだ、予知した未来を改変された場合、自分が消えると思っているんだわ、七瀬はそう思った。
「あなた自身はどうなの」と、七瀬は皮肉をいった。「あなた自身だって、あなたの予知能力にとっては変数じゃないの。あなたは自分にとって好ましくない未来を予知した場合に、それを変えようとはしないの」
「ぼくの立てる対策は予知能力のメカニズムの中に組み込まれている」
なぜか急におかしくなり、七瀬はくすくす笑った。「つまりあなたは、あなたにとって悪い未来なんか、予知したことがないのね」笑い続けた。「あなたにとっては、悪い未来なんてあり得ないのね」
恒夫が心配そうに訊ねた。「おい。大丈夫か」
「ごめんなさい。大丈夫よ。ヒステリーなんか起さないわ」
「君に渡すものがある」恒夫はいった。ボーイにことづけるからね」
「あっ。待って」恒夫が電話を切りそうな気配なので、七瀬はあわてた。「友達と一緒にいる限り、わたしは無事なのね。殺されることはないのね」
「うん。それは確かだよ」早口で、恒夫はそう答えた。「もう失敬する。ぼく、ここにこれ以上いると危険なんだ」
「えっ」七瀬はどきりとし、いそいで訊ねた。「それはつまり、あの男がこのホテルへやって来るということなの。あるいは、もう来てるの」
だが恒夫は、すでに受話器を置いてしまっていた。
十分後、ボーイが重い菓子箱を持ってきた。へニーデ姫がバス・ルームにいる間に、七瀬は菓子箱を開けてみた。中には、婦人用と思える小さなコルト拳銃が入っていた。
日が暮れてから、七瀬はヘニーデ姫とともにホテルを出た。外出は気がすすまなかったが、へニーデ姫を無理やり東京にひきとめた以上、少しは遊び好きの彼女にもつきあってやらねばならない。
へニーデ姫が以前三、三度来たというそのイタリア・レストランは、タンゴ・バンドが入り、ダンス・フロアーもあり、料理を注文せず酒だけ飲んでいてもかまわないという、家庭的な雰囲気の、いかにもへニーデ姫が好みそうな店だった。ダイニング・テーブルはなく、すべてソファのボックス席になっていて、照明はシャンデリアと各テーブルの赤いスタンドだけである。マカオや香港でやたらに辛いものばかり食べてきたので七瀬はあっさりしたものがほしかったのだが、メニューの料理はいずれを見ても辛そうなものばかりだった。
ふたりがワインを飲みながら肉料理を食べ終り、バンドが甘ったるいカンツォーネを演奏しはじめた頃、七瀬は隣のボックス席からびんびん響いてくるエロチックな意識が少し気になったのでアンテナを向けてみた。七瀬とヘニーデ姫にしきりと好色の視線を送ってくるその男性の二人連れは、どちらも三十歳を少し過ぎたほどの年齢で、片方は小さな内科医院の院長、片方はさほど大きくない商事会社を経営している青年実業家である。男たちの視線に気がついたへニーデ姫がちらちらと流し目を送ったりするのでいい気になり、声をかけようかどうしようかなどと相談しはじめていた。
「いやよ。あんな人たち」
七瀬が小声でへニーデ姫にそういうと、彼女は少し驚いて目をしばたいた。「あら。あなた、気がついてたの」
男たちは顔を寄せあい、七瀬とへニーデ姫の品定めをしている。
「おれ、肥った方が好きだな」(肉)(柔らかい肉)(白い)(白い)(あの目尻)(胸がいい)「好きそうだぜ。痩せた方は少し性格が強《きつ》いんじゃないか」
「いや。あっちもグラマーだ」(締っている)(眼がいい)(弾力性が)(びんびん感じるんじゃないか)(弾力性が)「おれはあの方がいい」
「肥った方」というのがへニーデ姫のことである。
「でも、ふたりともセンスはいいじゃないのさ」やや浮き浮きした口調でへニーデ姫がいった。人柄もよさそうだし」(話しかけてくる)(返事する)(ダンスに誘う)(胸毛がありそうな)(板)(熱い鉄板)(片方は象)(ペニス)(ペニス)(浅黒い方が大きい)(ポスト)(煙草の匂い)(ベッドマナー)(声)(声)
へニーデ姫が男好きだということは七瀬も知っていた。しかし彼女につきあってこの男たちと火遊びをするのはどうにも気が進まなかった。見つめられて胸をはずませ、すでに誘われればどこへでもついて行く気になっているへニーデ姫の気持をどうやって鎮めようかと七瀬が考えていると、ついに男たちが声をかけてきた。
「踊っていただけませんか」二人とも、自信たっぷりだった。
へニーデ姫と七瀬は顔を見あわせた。へニーデ姫は青年医師のじっと自分を見つめる視線にほとんど性的なともいえる快感を味わっていた。くすくす笑った。男たちの申込みをすげなく拒否したのではヘニーデ姫に恨まれるから、七瀬もくすくす笑った。
(OKだ)
二人の女の態度でたちまちそう判断し、男たちはうなずきあって立ちあがった。医者は彼の最も得意とする白い歯を見せた微笑を浮べ、実業家の方はいつも女たちから好評を得ているややおどけた表情を作っていた。
七瀬たちのテーブルの横に立ち、二人の男は軽く頭を下げた。「お願いします」
こういう場合、女性の方には相手の男性を選ぶ権利はないのかしら、そんなことを思いながら七瀬は、片手をさし出した実業家に自分の右手を素直に委《ゆだ》ねて立ちあがった。もっとも、精神様態の洗練度という点では医者よりもこの実業家の方が、ほんの少しだけましだった。ダンスはうまいくせに、七瀬にあわせてややぎこちなく踊ったりもした。精神形態の類型でいえは、へニーデ姫と踊っている医者が筋肉型と消化器型の中間、実業家の方が呼吸器型と脳型の中間といえた。
自分のからだの抱き心地を、パートナーの意識越しに知るのはいつものことながら奇妙な気分だったが、それは女のナルシスムにとって決して不快ではなかった。
(弾力)(締った肉)(乳房が固い)(処女)(太腿)(肉)(処女)(まさか)(眼がいい)(知性的)(冷静)(育ちはいい)(あっちの女よりも)(セックス)(あっちの女は動物的)(乱れない)(気が強い)
あまり喋らず、七瀬の踊りかたやからだつきを観察してはあれこれと想像している実業家の中で性的欲望が次第にふくれあがっていくのを、七瀬は不安な気持で見つめた。普通の女の子は、相手の男が何を考えているかまったくわからないというのに、こういう場合全然不安を感じないのだろうかなどと考えているうち、早くも実業家は胸の内で七瀬をものにするための具体的な戦略にとりかかっていた。
(酒を飲ませる)(酔わせて)(もう一、二軒まわって)(ホテルの部屋へ)(もうひとりの女は大丈夫)(この女が厄介だ)
踊りながらへニーデ姫の組とすれ違った時にちらと覗くと、医者も同じようなことを考えていた。実業家は商売上の必要から都心のホテルに常に二部屋を確保している。そこで七瀬とへニーデ姫を、酔わせてそこへつれこもうという算段なのであるが、一年前ゴルフ場で知りあって以来の遊び友達であるこのふたりの男は、つい最近も二度ばかり女たちをそのホテルにつれこみ、味を占めていた。
席に戻ると男二人は七瀬たちのボックスへ強引に押しかけてきて、ブランテーをボトルで注文し、七瀬とへニーデ姫にしつこくすすめはじめた。酒の好きなへニーデ姫は男たちの他愛ない話にけらけら笑いながらぐいぐい飲んでいる。好きなだけあって酒には強いようだったが、七瀬の観察では彼女の意識は、少しくらい酔っぱらっても平常とたいした違いはなかった
実業家は、あまり酒を飲もうとせず潔癖で慎み深い七瀬を見て、またもやこの女はもしかしたら本当に処女ではないかという考えを強めはじめていた。医者は結婚していたがこの実業家の方は未婚であり、今まで処女にめぐりあった経験がないため、やたら処女に執着していた。医者の方は、露骨な冗談をささやいてもへニーデ姫が平気で笑っているためもう陥落したも同然とばかり有頂天になり、はやへニーデ姫を頭の中で裸にし、べッド・シーンをあれこれと胸に描いていた。
ホステス時代には客から酒を無理強いされたことがそれほどなかったので、七瀬は今でも酒には強くなかった。ブランデーをちびりちびりと飲んでいるうち、いつの間にか手足の力が抜け、頭の芯がしびれたようになり、読心力がやや弱まってきている自分を発見して七瀬は少しあわてた。いけない。わたし酔っぱらってしまったわ、どうしよう、今ホテルへ帰ると言い出したらへニーデ姫は怒るだろうか、ひとりで先に帰れなどと言い出さないだろうか、それはまずい、だってこのひととは一緒にいなければならないのに、どんなことがあっても一緒にいなければならないのに、七瀬が気を確かに持とうと努めながらそんなことを何度も考えているうち、男たちがもう一軒別の店へ行こうと誘いはじめた。享楽主義者のへニーデ姫は、七瀬が行くのを厭がるだろうなどとは夢にも考えていない。七瀬はついて行くしかなかった。
タクシーに乗せられてつれて行かれたのはえたいの知れない会員制のバーで、やたらにうす暗く、外人の女が歌をうたっていて、影のうすいボーイが幽霊のようにさまよい歩いている店だった。またしても酒を無理に飲まされ、酔いを早めるために踊らされ、旅の疲れも出て七瀬はふらふらになってしまった。へニーデ姫の方は早くから医者とキスなどしたりしてこの状況を全身で楽しんでいる。からだのあちこちに触れられ、ヘニーデ姫はリビドーを高めはじめていた。彼女の性欲が異常に強いことを七瀬は初めて知り、そんなへニーデ姫を見ているうち、酔いも手伝って自分がまるで子供のように思えてきた。そういう感情こそ男につけこむすきをあたえるものであることは知っていたが、いつものような自制心があまり働かず、実業家から胸や腰のあたりを撫でまわされることに快感を覚え出していた。何人もの意識が頭の中で入り乱れ、どれが誰の意識かはっきりしなくなってきた。そのうち実業家に無理やりキスされてしまい、これは七瀬にとって初めての体験だったが、素面《しらふ》の七瀬なら当然感じたであろう不潔感もさほどなかった。とろりとした肉塊を口いっぱいに含んでいる感じの奇妙な快感に、いささか興奮気味の七瀬はもう少しでそれを力まかせに噛むところだった。どうやらへニーデ姫の享楽的な意識に知らずしらず影響を受けているらしいと気がつき、七瀬はけんめいに正気をとり戻そうとしたが、すでにこういったことを何度も経験しているへニーデ姫の意識は、遠ざけようとすればするほどこれから先にもっとすばらしい楽しみがあるのだということを、断続的に、しかも思いがけない時を狙い、七瀬の理性の混濁を押しわけ、猛烈な迫力で七瀬に教えようとしていた。
「ホテルの部屋で飲もうじゃないか」今思いついたといわんばかりに膝を叩いて実業家が医者にいった。
「そうだな」心で舌なめずりしながら、医者もうなずき返した。
いったんホテルへ行けば何ごともなく戻れるわけがなかったが、へニーデ姫がすっかりその気になってしまっているので、七瀬には何も言えなかった。悪酔いしたふりをし、反吐《へど》を吐き散らして見せたりすれば、あるいは男たちが愛想を尽かしてくれるかもしれなかったが、そこまでやる気もない。心を決めなければ、と、酔ってふらふらする頭で七瀬は考えた。
処女とか貞操とかいったものを、七瀬はさはど大切にしているつもりはなかった。今まではただ、男たちの欲望を剥き出しのまま見せつけられてきたため、娘らしい潔癖さからセックスを嫌っていたに過ぎない。北欧にまで出かけていってフリー・セックスに近いこともやってきている経験豊富なへニーデ姫の意識に触発されたこの機会に、女としての経験をしておいた方がいいのかもしれない、七瀬はそう思った。もしも七瀬がテレパスではなく、男性の野獣のような性欲をまったく知らない娘であったとすれば、その初体験の相手としてこの実業家は充分魅力のある男性といえるであろうし、ダンスをしている時のように、自分の抱き具合を相手の男と共有することによって得るナルシスティックな快感が破瓜《はか》の苦痛を、あるいは柔らげてくれるかもしれなかった。いや、むしろそれは普通の女性には味わうことのできない大きな快感を伴った強烈な体験で、テレパスとしての自分にとってプラスになる経験かもしれないではないか、七瀬はそんなことをぼんやり考えながら、男たちに促されてゆっくりと立ちあがった。それに、いざとなれはその場から脱け出す策だってまったくないというわけではないのだから。実業家に肩を抱かれてタクシーに乗りこむ時にも、七瀬はまだそんなことを心につぶやいて自分を納得させていた。たとえどうなってもいいじゃないの。ええ。わたしは酔ってるわ。たまには酔って読心能力を失い、普通の女性と同じような経験をしたっていいじゃないの。テレパスという重荷の上にまだ処女なんて荷をいつまでも背負っていては、ひとり歩きの覚束《おぼつか》ない人間になってしまうわ。普通の男にからだをあたえるのが厭だなどという、人間全部を見下したような、超能力者のいやらしいエリート意識もついでに捨ててしまいなさいよ。そんな不貞腐《ふてくさ》れた自分の内心の声を聞きながら、ホテルのツインの部屋へ四人でなだれこんだ時にも、しかし七瀬はまだ、一方で、後悔することになるのではないかとしきりに恐れていた。
ボーイに運ばせた酒を女たちにすすめながら男たちは、自分たちが先に酔ってしまわないよう気を配り、飲むふりだけを見せたりした。実業家は以前飲み過きて不能になった経験があるらしく、尚さら気をつけていた。
コーヒーが飲みたい、七瀬は切実にそう願った。読心能力が弱まってきたことを心配して、カフェインの力で少しでも回復しようとしたのだ。だが男たちは七瀬の注文を、なぜ今ごろコーヒーなどをと冷笑し、とりあってくれなかった。
実業家がルーム・ライトを消してしまったのでスタンドの明りだけになり、雰囲気は乱交パーティに近い有様になった。医者はベッドの上でへニーデ姫とネッキングを始めていて、その癖ちらちらと七瀬の方を眺めては、どちらがいいだろうなどと、今頃になってふたりの女を比較していた。これは実業家の方も同様で、男性というのはこんな時でも相手がひとりでは物足りないのだろうかと、今さらながら七瀬は男たちの貪欲さにあきれた。
実業家はソファに並んで掛けている七瀬の耳へしきりに綺麗だよ君は可愛いよなどと歯の浮くようなことはをまるで催眠術でもかけるようにささやき続け、囁《ささや》きのあい間あい間に彼女の唇や首筋へ冷たい唇を押しつけてきた。「あとで別の部屋へ行こうよ。あのふたり、ここへほっておいて」
酔いがまわり、頭痛がして、七瀬は吐き気がこみあげてきた。こんな苦痛に満ちた手続きを経なければ処女を失えないのだろうかなどと考えているうち、実業家は七瀬の大腿部へためらいがちに手をさしこんできた。ベッドの上のへニーデ姫と医者とはすでにぺッティンデの段階にまで進んでいて、七瀬がちらとうかがうと暗い部屋の中にはへニーデ姫の白い腿が浮きあがり、彼女の絶頂感もぼんやりとながら感じとることができた。そのうち、不潔なことに医者はスボンの中へ射精してしまった。
実業家は七瀬の太腿を撫でさすりながら、自分の中で次第にたかまっていく欲望を楽しんでいた。(この女の大きく開いた股《また》)(開く)(こじあける)(声)(声)(溜息)(粘液)(吐息)(指で)(まず指を)(舐《な》める)(甘酸っぱい)(舐める)(舐める)
いかに読心能力が低下していても、顔と顔をほとんどくっつけているので、実業家の露骨で抑制のない空想はいやでも七瀬の頭にとびこんでくる。不潔さに我慢できず、とうとう七瀬は実業家の胸を押しのけて立ちあがった。
「どうしたの」医者の射精で自分も一段落した様子のヘニーデ姫が上半身を起し、じろじろと七瀬の様子を見まわした。「あなた、顔色が紙みたいよ」
「気分が悪いの」と、七瀬はいった。この暗さでもそれとわかるほどだから、よほど青い顔をしているに違いなかった。
実業家が腹で舌打ちをした。自分が無理やり飲ませたくせにと思い、その身勝手さに七瀬は少し腹を立てた。
よろめきながらバス・ルームに入ると、心配したへニーデ姫があとから入ってきた。「吐いたら楽になるわ。悪い人たちね。無理に飲まされたんでしょう」
七瀬は便器の前にうずくまって少し吐き、背中をさすってくれているヘニーデ姫にいった。「ありがとう。楽になったわ」彼女はへニーデ姫の眼をじっと見つめ、やがて自嘲的に笑いながら打ちあけた。「笑わないでね。わたし、この歳になるまでまったくの未経験だったの」
へニーデ姫は一瞬眼を見はり、七瀬の顔をまじまじと眺めた。「知らなかったわ」目まぐるしくへニーデ姫の意識が、回転するように流れた。(てっきり)(とても落ちついているからとっくに)(誘わなければよかったわ)(責任)(処女)(出血)(わたしが悪者)(ペニス)(勃起したペニス)(責任)(処女)(破瓜)(欲望が挫折)(からだの火照《ほて》り)(中断)(責任をとるのはいやよ)(今さら帰れない)(わたしが悪者)(男たちが納得しない)
「心配しなくていいの」七瀬はへニーデ姫の肩を叩いた。「あなたが責任を感じることないわ。わたしだって小娘じゃないんだから」
「でも、どうする」へニーデ姫は七瀬が帰ると言い出した場合の男たちの怒りを恐れていた。それと平行して、燃えはじめている自分の肉体の処理にも困惑していた。
「わたしのことは心配しないで。あなたは自分で楽しんでいればいいのよ」七瀬はそう言い捨ててバス・ルームから出た。すでに決心はついていた。
ふたたび実業家の隣に腰をおろした七瀬は、突然けたたましく笑いはじめた。女ふたりがバス・ルームにいる間、男たちが、いったん二部屋に別れてそれぞれの女を抱いたあと相手をとりかえようじゃないかという相談をまとめてしまっていることに気がついたのだ。いいわよ、かまわないわよ、と、七瀬は思った。いいようにしなさい、いったん決心した以上こっちだって毒食わば皿までなんだから。自暴自棄になり七瀬はヒステリックに笑い続けた。笑い続けながら心の中でそううそぶいていた。しかしその時の七瀬は、自分のみじめさを忘れようとして笑っているのだということに、まだ気がついていなかった。
涙を流して笑い続ける七瀬を、男たちがあっけにとられて茫然と見守った。
笑い声に驚いてバス・ルームから出てきたへニーデ姫が、怪訝そうに七瀬の顔を覗きこんだ。「あなた、大丈夫。どうしたのよ」
「この人たちったらね」七瀬は笑いながら男たちを指さして言った。抑制がなくなってしまっていた。「わたしたちを途中でとり替えるつもりなのよ」
「なんですって」七瀬のことばの意味を理解するなり、へニーデ姫の心からは自尊心が噴出し、それはたちまち怒りとなって彼女の唇を顫わせた。「まあっ。なんてことを」
「ま、まあ、まあ」眼を吊りあげたへニーデ姫の形相に男たちが仰天して、彼女をなだめはじめた。(おかしい)(バス・ルームへ聞えるほどの大声で喋ったつもりはないが)(なぜわかったんだろう)
「何がまあまあよ」誇りを傷つけられて、へニーデ姫は髪を逆立てるほど怒っていた。その怒りは七瀬さえたじろぐほどの凄まじさだった。「わたしたち、娼婦じゃないわよ。見損わないで。わたしたちにだって女の誇りがあるわ」怒鳴り続ける彼女のからだからは、さっきの火照りが嘘のように消えてしまっていた。
なるほどと思い、七瀬はへニーデ姫に教えられた気持がした。わたしは自棄的になったあまり、もう少しで女としての誇りまで失うところだったんだわ。
なぜ小声の相談がバス・ルームにまで聞えたのかという不審の念は、へニーデ姫の憤怒によって男たちの意識からはけしとんでしまっていた。
「冗談で言ったんだよ。困るなあ」
「女の誇りだなんて、そんな大袈裟な。はははは。そんなに怒るなよ」
「そんなこと、しないからさ」
「されてたまるものですか」
へニーデ姫の見幕に男たちはたじたじとなりながらも、けんめいにうす笑いを浮べてなだめ続けた。「さ。機嫌をなおして飲みなさいよ。ね」
「信用できないわ。あんたたちなんか」吐き捨てるようにそう言って、へニーデ姫は七瀬を促した。「さ。帰りましよう」
「そうね」へニーデ姫に感謝しながら、七瀬はさっと立ちあがった。へニーデ姫の怒りが、大部分は本物だが残りの一部分は七瀬をここから救出するための演技であることをすぐに悟ったからである。
「ここまで来ておきながら、今さら帰るというのか」今度は男たちが怒りはじめた。(おれおれおれのセックスをどうするのだ)(おれおれおれの怒張したペニスの行方は)(おれおれおれ)(金を使わせやがって)
「帰さないぞ」医者がドアの前に立ち塞がった。
「大声を出しましょうか」と、へニーデ姫がいった。
医者はドアから離れて悪態をついた。「たかりやがったな。最初からそのつもりだったんだろう。ど軟派め。あばずれめ」
タクシーで自分たちのホテルへ戻ってきた七瀬とへニーデ姫は、一階のスナックで濃いコーヒーを飲んだ。深夜の一時だった。やっと気分がよくなり、能力もいくぶんか回復した七瀬は、どうやらへニーデ姫が、その判読し難い意識の中で自分に詫びているらしいことを知った。彼女は七瀬が、自分の遊びにつきあおうとしてだいぶ無理をしたに違いないと思っていた 七瀬はへニーデ姫の意外な洞察力に驚いた
「あなた、悩みごとがあるんでしょう」と、へニーデ姫はいった。「わたしで出来ることなら、してあげるわよ」口さきだけではなさそうだった。
七瀬は微笑した。「ありがとう。でも、もう助けてもらっているのよ」
きっと自分が七瀬と一緒にいることを言っているのだろう、へニーデ姫はそう想像していた。それきりふたりは黙ってしまったが、すでにへニーデ姫と七瀬の間には、ただの友達同士の友情にとどまらぬ深い理解が生れていた。へニーデ姫の、テレパスを惑わせる思考感情の奥には、大きな精神力による情熱と直感力が秘められていたのである。
エレベーターで自分たちの部屋の階まで昇り、ひと気のない長い廊下をふたりが歩いている時、また七瀬はあの見えない触手が自分の意識を無器用にまさぐっていることを知って、反射的に足を早めた。背後で意識の殻がはじけるように裂け、以前覗いた時よりも強烈な殺意が邪悪な赤い内部を七瀬に向けて露出させた。その中をひと目覗くなり、今まで見たことのないその異様で非人間的な内容におぞ気をふるい、七瀬は、ひっ、と、声に出して悲鳴をあげた。
「危ない。伏せて」そう叫びながら七瀬はへニーデ姫の肩をぐいと押し、その反動で自分も廊下の隅へ転がるように倒れこんだ。
だが、遅かった。擦過音がかすかに聞えた時、へニーデ姫は自分の重いからだをどさっ、と片側の壁に叩きつけた。背中に丸く赤い穴があいていた。彼女の視覚を通して七瀬は、天井燈の明りが急速に遠ざかっていくのを見た。
(なぜ)(わたしが)(殺された)(死ぬ)(拳銃)(風船)(郵便のマーク)[#「(郵便のマーク)」は小さな文字]
突然の死は断末魔の訪れさえ許さず、わずかに死の自覚と苦痛の意識が一、二秒流れてふっつりと跡切《とぎ》れた。ヘニーデ姫は壁にからだをこすりつけながらずるずると床にくずおれた。
倒れたままの姿勢で七瀬はあわただしくハンドバッグをまさぐり、コルトを出した。激しい怒りが彼女の指を顫わせていて、なかなか銃把《じゅうは》を握ることができなかった。撃たれるかもしれないという恐怖はなかった。彼女は立ちあがるなりエレベーター・ホールめがけて走った。あの一瞬の殺意の閃きの中に、七瀬は多くのことを読み取っていたが、中でも彼女をいちばん怒らせたことは、超能力者というものは普通人を淘汰するために生れてきたものだとする彼らの考えかただった。そこには故意に超能力者を人類全体に対立するものとして考えようとする悪意がある、七瀬にはそう思えた。「自然淘汰」ということばは、以前も殺人者の意識の中に見つけてはいたが、その意味が今こそはっきりしたのである。だからこそ彼らは、超能力者が多数発生して集団となる前に、皆殺しにしてしまおうと考えたのだ。だが現実にやったことは何の罪もない普通
の人間二人の射殺だった。普通人を巻きぞえにする危険を彼らは少しも省みていなかった。超能力者の殺戮《さつりく》に伴う普通人の多少の犠牲は充分あり得ることで、それもやむを得ないと考えている彼らに、七瀬は殺意ともいえる憎悪を抱いた。彼らが殺したのは、いわば彼らの同胞ではなかったか。殺人者は、自分自身が普通人でありながら、特殊な訓練を経て読心能力を身につけた自分を、人類の運命を握っているエリートだと思いこんでいた。いわば自分を超能力者でもなければ普通人でもない鵺《ぬえ》的な立場に置くことによって勝手気儘な行動がとれると決めこんでいて、しかもそれは超能力者の殺戮という大使命の前には充分許されると信じているのだ。その思いあがりと身勝手さが、七瀬にはどうしても許せなかった。
七瀬は自分自身に対しても怒っていた。恒夫が、へニーデ姫と一緒にいる限り七瀬が死ぬことはないと断言した意味は、へニーデ姫が七瀬と間違われて射殺されるということだったのだ。恒夫はヘニーデ姫の死を予知しながら、それを七瀬には黙っていたのである。そんな恒夫にも腹が立ったし、それ以上に、わが身を守るためへニーデ姫を危険にひきずりこんだ自分と、そんなことに今まで気づかなかった自分に、七瀬は腹を立てていた。殺してやるわ。あいつを殺してやるわ。復讐してやるわ。へニーデ姫のために。殺してやるわ。
だが、エレベーター・ホールは無人だった。エレベーターが下の階へ降りて行くことを示す表示盤の灯を、七瀬は恨めしげに、しばらくじっと見つめた。
警察の追及をしばらく免れるため、いそいでしなければならないことがあった。七瀬は廊下を引き返し、ヘニーデ姫の死体を、廊下のカーぺットに血痕《けっこん》が残らぬよう注意しながら自分の部屋にひきずりこんだ。いそいでホテルを出なければならなかったが、深夜スーツケースを持って出るわけにはいかないから身分を示すものと身のまわりのものだけを紙袋に入れた。ドアの把手《のぶ》には「DO NOT DISTURB」の札をかけた。これで少なくとも明日の昼過ぎまで、死体を発見されることはない筈である。むろん、いずれ警察の捜査が自分の周囲に及んでくることは覚悟しなけばならない。
ホテルには悪いが、こんな時間に突然宿泊料の精算を求めたりはできなかった。紙袋をひとつ提げただけで、七瀬はひと目につかぬようそっとホテルを出た。
翌日の昼過ぎ、七瀬は北海道へ向かう飛行機の中にいた。昨夜覗いた殺人者の意識の中から、彼がすでに七瀬たちの隠れ家の場所やヘンリーやノリオの存在を知っていることがわかり、もはや逃げ隠れしてもしかたがないと悟ったからである。殺人者がどうやってそれを知ったのか、七瀬の心を覗いたためか、あるいは組織が調べあげて彼に教えたからなのか、それは七瀬にはわからなかった。相手の殺人者の顔も、七瀬はまだ知らなかった。ただひとつ、その殺人者が、昨夜から今朝にかけて下町の旅館に泊った七瀬を尾行し続け、そして今も、おそらくは同じ機内にいてどこからか自分の隙をじっとうかがっているに違いないことだけを七瀬は確信していた
ついていらっしゃい、と、七瀬は胸の中でつふやいた。どこまでもついていらっしゃい。北海道で、あなたは自分の罪を償うことになるのよ。たとえあなたがわたしの追跡をあきらめても、わたしはあなたを許さないわ。へニーデ姫の恨みを晴らしてあげるからね。それが殺人者に読まれているかどうかはわからなかったが、七瀬は今や自分の敵意をまったく隠そうとせず、窓外の雲海にじっと眼を据えたまま唇を噛み続けていた。
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七瀬 森を走る
森には悪意が、瘴気《しょうき》のように漂っていた。
自然植生がかなり破壊されている北海道南西部の、ここだけはまだ天然林として残っている湖に近い白樺《しらかば》の森の中をただひとりで、石淵恒夫はもう半日以上もさまよい歩いていた。こんなところへやってきて自分がこれから何をしようとしているのか、彼にはよくわからなかった。予知能力者の恒夫がここ数日、目的のない旅をし、意味のわからぬ行動をとり続けているのは、恒夫自身の自覚から判断してさえ、超能力者の本能によるものとしか考えようがなかった。彼が衝動だけで行動したのは恒夫が記憶している限りでは初めてのことだったし、それほど強い衝動に駆られたことも今までにない経験だった。恒夫に想像できることといえばただ、その衝動は、彼が超能力者であるからこそそれだけ強く感じたのであろうということだけだった。
恒夫を北海道の、この湖畔の森へ導いたのはたしかに彼の予知能力であった。そしてこの場所が、夜汽車の中で一度会って以来彼の心に消えることのない強い印象を残した火田七瀬という女性の住むところからあまり遠くない場所であることも、自分の予知能力によって知っていた。ただ、ここで自分がこれから何をすることになるのか、それだけは、どんなことであろうと自分の未来に起ることならすべて予見できる筈の彼の能力を強く働かせてさえ皆目見当がつかなかった。どうやら七瀬に危機が迫っていて、自分がこのあたりをこうして徘徊《はいかい》していることが彼女を救うための何かの役に立つらしいという想像が、ぼんやりとできるだけだった。
悪意は、恒夫の周囲にひしひしと集《つど》いつつあった。その悪意を恒夫は、自分の中から予知能力を、からっぽになるまで吸い出そうとしているえたいの知れぬ力として、うっすらと感じ取っていた。
(おれの予知能力が働かないのは、この正体不明の悪意を持った存在のために違いない)恒夫の超能力者としての自我の中で、超能力者であるが故のおびえと衝動がせめぎあっていた。(東京で彼女を殺そうとしたやつに違いない)恒夫はそう思った。しかしその殺人者が一人なのか複数なのか、それすら彼は知らなかった。(いったい何者だ)(まさかおれを殺す気ではあるまい)(おれが超能力者だということは知らない筈だ)(ではなぜ、おれを尾《つ》けているのだ)
その時、木立の間に蒼白く輝いている湖水の表面を、ちら、と恒夫は見た。見るなり彼は向きを変え、スケッチ・ブックを抱えなおし、長身の背をこころもち丸くしてゆっくりと森の奥へ踏みこんでいった。そうするのはもう五度めだった。湖畔に出てしまうと、距離的にも、また恒夫にとっては心理的にも、七瀬のいる場所へ大きく近づいてしまうことになるからだった。
(彼女には会えない)恒夫はそう思った。彼自身がずっと以前にそう決め、それ以後何度も固く心にそう誓っているからだった。(いくら彼女に会いたくても、おれは彼女には会えないのだ)
読心能力を持つ七瀬に、それと知らず初めて会った時のことを恒夫は思い出しそうになり、またもあのやりきれぬほどの恥ずかしさに苛まれるのではないかと恐れ、自分が彼女に会わない別の理由を考えた。(それに、彼女に会えば、よけい彼女を危険にさらすことにもなる)(おれにつきまとっているやつを、彼女に近づけることにもなる筈だ)(そいつはおれの行動によって、彼女の居場所をつきとめようとしているのかもしれないからだ)(だとすればそいつは、おれと七瀬の関係を知っているということになるが)(それを知っているのなら、当然おれが予知能力者であることか、少なくとも何かの超能力者であることも勘づいているわけだが)(そんなことは精神感応能力者《テレパス》にしかわからない筈だ)(この悪意に満ちた存在がテレパス)(そんなことはあり得ない)
(そうだ)(それに)(その上)恒夫はくすくす笑った。彼の予見する未来に、彼が七瀬と会っている情景はひとつも出てこないからだった。(残念ながら、自分の能力の存在を否定してまで、彼女と会うことはできないんだ)(それはおれの嫌いな、未来の改変につながる)(もちろん、予知した未来の改変ではない。しかし予見していないことを行うのも、やはり人為的な未来の改変なのだ)
下草に腰をおろし、恒夫は白樺の幹に凭《もた》れた。いちど、ゆっくりと自分の予知能力を確かめなおす必要があったからだし、二十四歳の体力にまかせて半日以上歩きまわったため、疲れはじめてもいた。彼は煙草を出してくわえながら、たった一度だけ七瀬と対面して話しあった時に彼女が教えてくれたことをまた反芻した。
煙草を喫っちゃだめよ。能力が低下するわ。
恒夫は苦笑しながら、心の中で次第に鮮明になりはじめた七瀬の面影へ語りかけた。(ご免よ。おれ、とうとう煙草をやめることができなかったんだ)
急に予知能力がなくなりはじめたのは煙草のせいだろうか、と、恒夫は考えた。そうは思いたくなかった。そうでないことをいそいで自分に確認させる必要があった。全身の力を抜き、眼を閉ざし、未来の情景らしいものが瞼《まぶた》の裏に浮びあがってくるのを恒夫は待った。それほどまでに苦労して自分の能力の閃《ひらめ》きを捕えようと試みたのは初めてだった。だが、いつもなら他人と喋っていてさえ次つぎと脳裡に湧きあがってくる未来は、雑然とした妄想の断片の彼方から顔をちらとも覗かせなかった。ただ、風に揺れる山樺の梢《こずえ》の、細い数十本の枝の彼方に、夕陽で赤く染まった雲が見えるだけだった。その光景がはたして予知した未来の一カットなのか自分の心象風景であるのか、恒夫にはわからなかった。眼を開いて頭上を見あげれば似たような光景がそこにあり、それは何ら恒夫のイラストレーターとしての絵画的表現欲をそそるものでもなかったし、そんなありふれた自然の光景が、いつも何かの意味を持つ未来だけを選択して予知してきた恒夫の能力の閃きによるものとはとても思えなかった。
(未来がどうなるか知ることのできなくなった予知能力者か)恒夫は自嘲的に心で呟《つぶや》き、ごろりと下生えを枕に仰臥してまた眼を閉じた。(そんな人間がここへきて、いったいどうやって同胞の危機を救うつもりだ)(彼女に会うというわけでもない。敵が何者かも知らない)(そんな人間が)
ふたたび風に揺れる白樺の梢、そして細い枝の間から見える赤い雲の形が、残像のように彼の瞼の裏へ浮かび、恒夫を苛立たせた。なぜかその光景は不吉感を伴っていて、彼の心に重苦しい被圧迫感をあたえた。なぜだろう、と恒夫は思った。恒夫から他の未来の情景を予見する能力すべてを奪ってまでこれだけ繰り返しあらわれるからには、これは心象風景ではなく、もはや未来の一断片であると判断するほかなかったが、この単純な光景にどのような予言的意味が含まれているのか、いくら考えても恒夫にはわからなかった。
下草を踏みつける軽い音がした。
恒夫の髪を一瞬逆立てたほどの邪悪な空気の流れが彼の耳もとで渦巻き、今までその持ち主によってひた隠しにされていた悪意が堰《せき》を切ったように恒夫に襲いかかった。それは精神感応能力《テレパシー》を持たぬ恒夫の意識でさえ、それが殺意であることをはっきり認めたほどの狂暴な力を持っていた。上半身を起して自分から数メートルの地点に立っているその男の姿を見るなり、恒夫は絶望に捕えられ、死を目前にした者の敏感さですべてを悟った。彼はその男の邪悪さに満ちた顔をはっきり心に焼きつけようとした。そうすることが、今まで恒夫が想像もしていなかったほどの遠方から、実は今の今まで自分の心をまさぐり続けていた七瀬に、この殺人者の容貌を教え、危機を知らせることになる筈だった。恒夫は今まで、そんな遠くから彼の心の呟きを聞きとれる能力を七瀬が持っているとは知らなかったのである。だがそれを彼は、死を前にして今こそ、彼自身の役割と使命を本能的に知ると同時に悟ったのだった。
(オレハココヘコロサレルタメニキタノダ)
消音器の擦過音が驚くほと大きく白樺の木立の間を走り、森のそのあたりを通り抜けた時、恒夫の胸の中央には穴があき、彼はふたたび下生えを枕にして眼を見ひらいたまま仰向いていた。見ひらいたままの彼の眼に、風に揺れる白樺の梢、その細い数十本の枝、そしてその彼方に夕陽で赤く染まった雲の、見憶えのあるあの形が突き刺すような鮮明さで鋭くとびこんできた。この光景を昏《くら》い不吉感とともに予見したのは、それが死の瞬間に恒夫の網膜へ強く焼きつけられる筈の光景だったためであり、この光景以外に何も予見できなかったのは恒夫が死ぬからであった。予知能力者が未来を予見できなくなった時は本人が死ぬ時であるという至極単純な理屈を、なぜ今までに思いつくことができなかったのだろうと不思議に思いながら、恒夫はゆっくりと胸に手をあてた。温かい血液が指さきを濡らした、くわえたままだった煙草が彼の唇を焼いた。
(おれを殺したやつは当然おれが超能力者であることを知っていたのだ)(容易な敵じゃないぞ)(あの悪意の強さで、おれは早くからそう判断しておくべきだったのだ)(見くびっていた)
殺人者が、今は足音を消そうともせず自分の足もとへ近づいてくる気配に、今度撃たれる時は自分の意識がなくなる時だと知って、残り時間の少なさに焦りながら恒夫は強く心で七瀬に呼びかけた。今はもう、彼女から自分の本心を読まれて恥ずかしく思ったり、失われていく自分の生命をいとおしんだりしているような心の余裕はなかった。
{(オレハケモノノヨウニウチコロサレタ)/(オレハキミガスキダッタラシイ)}
これが自分の宿命的な役割だったのだ、ここで殺され、自分が殺されたことを、この湖の彼方のどこかにいて、読心能力はあるが危険の予知はできない七瀬に告げることが、数少ない超能力者である同胞たちの中でもさらに数少ない予知能力者としての自分の最後の使命だったのだ、だから当然七瀬は、自分の発散させている意識を、自分がこの森にやってきた時から読み取っていた筈なのだ、そう自らに言い聞かせ信じ込ませ、恒夫は急激に彼の背筋を襲いはじめた底知れぬ寒さに耐えながら、断末魔の意識を吐き出し続けた。
(ニゲロ)
(オレハコロサレタ)[#「(オレハコロサレタ)」はゴシック体]
二度めの擦過音はもう恒夫には聞えなかった。殺人者の発射した弾丸は確実に若い予知能力者の額の中央に赤い穴をあけた。岩淵恒夫は息絶えた。
「不思議なのは、どうしてこの人たち、自分の能力を隠そうとしないか、と、いうことです」
さっきから一階のリビング・ルームてテレビの超能力番組といわれているものを見ながら、黒人のヘンリーが傍らのノリオに、あいかわらずたどたどしい英語まじりの喋りかたでしきりに話しかけていた。「たとえ小さな物体にしか念動力《サイコキネシス》がきかないとしても、E・S・Pを潜在的に持っているほんとの超能力者なら、今はかすかに、弱くしか働かぬ能力でも、けんめいに隠そうとするのが本当です、なぜかといいますと、潜在的に大きな力を持っている超能力者《エスパー》は本能のようにそれを自覚できるからです。いつその力が、必要に迫られ、多くの人の前であきらかになってしまうかわからないし、そうなった時はもう世間の反感から自分の身を守る上で手遅れなのですからね。むしろひと前で自分の能力の一部を見せつけるような機会を恐れ、避けようとするのが普通です
ノリオはまだ五歳だったが、中学生でさえ少し難解と思えるヘンリーのことばやその内容の意味するところをすべて理解していたし、さらに、喋り続けるヘンリーの意識を覗いて裏の意味を知ろうとさえしていた。ヘンリーが喋っているのは自分に聞かせるためだけではなく、ヘンリー自身の考えをまとめるためでもあると知り、その思考を傍から助けようとして、ノリオはテレビ・スクリーンを指さした。
「じゃ、たとえばこの子は、超能力者ではなくて、普通の人になら誰にでもちょっとだけある力を特別に強く出すことができるというだけなの」
「わかりません」まだ自分以外の念動能力者には一度も会ったことがないヘンリーは、ゆっくりとかぶりを振って考えこんだ。(そうなのかもしれない)(しかし超能力者かも知れない)(問題は、この子がまだ子供だということだ)(本当の超能力者がどれだけ世間から疎んじられることになるかを、想像したこともないのだろうか)(世間から喜んで迎えられると周囲から思いこまされているのではないか)(だからこそ、自分の能力を見せびらかすことに楽しさを覚えているのか)(だからこそ、今までは思いもかけなかった自分の能力を面白がっているのだろうか)(危険だ)(それはちょうど自慰を知ったサルが面白さのあまり死ぬまでその行為に耽《ふけ》るのと同じだ)(能力は消え、そして身をほろぼすことになる)(系統立てた訓練が必要なのだが)
何重にも平行し、何段階にも|入れこ《ヽヽヽ》になって流れるヘンリーのややこしい思考を興味深く読みとっていたノリオが、サルの自慰のくだりを理解できずに訊ねた。「それ、どういうこと」
ヘンリーは一瞬どぎまぎしたが、すぐに、今では大人のエロチックな感覚でさえ、実感は伴わぬものの、性知識としてなら充分理解しているノリオの知能程度を思い出し、ともすれば少年が罪悪視してしまいやすい自慰行為の正解な知識をことばで説明しはじめた。
言語と意識が交錯する二人の会話を、七瀬は湖に面した二階の居間で聞くともなしに聞きながら、眼は窓越しに湖水の彼方、なだらかな山裾にある白樺の森に向けていた。そのあたりに岩淵恒夫が来ていることも、正午少し前から彼が森の中を歩きまわっていることも、七瀬は知っていた。遠距離なので彼の意識内容を深くは読み取れなかったが、一度彼と会っていたからその意識のパターンや彼に固有の観念はよく知っていたし、またその意識は普通人の持たない超能力者の強い精神力によって発散されていたので、それが岩淵恒夫以外の誰でもないことははっきりしていた。ただ、彼がなぜそこに来ているのか、そこで何をしようとしているのか、それがわからなかった。以前電話で話しあった時、あんなに自分と会うのを厭がっていたのだから、まさかこの家までやってくるつもりではないだろう、だからこそ意識内容を読まれないようにあんな遠くにいるのだ、と、七瀬は考えた。もしかしたら自分に何かを告げようとしているのではないかとも思ったが、それなら東京で自分に危険を知らせてくれた時のように電話をかけてくればいい筈だったし、いかに遠距離とはいえ彼の意識を感応することに精神を集中しさえすれば、彼が自分に告げようとしている内容ははっきりわかる筈だった。しかし七瀬が感応した限りでは恒夫自身にも、自分の行動の意味をはっきりとは掴めていないようだった。彼は午後になっても森の中をさまよい続けていた。すでに陽は大きく西に傾いていた。
ちらと眉を気遣わしげにしかめてから、そろそろ出かけよう、と、七瀬は思った 十数キロ離れた離れた国鉄の駅に漁《すなどり》藤子が着くのは午後六時半で、牧場を経営している叔父から休暇を貰って遊びにやってくる藤子を、七瀬は駅まで迎えに行く約束をしていた。駅に通じている街道へ出るには湖畔を半周しなければならないから、そうすれば恒夫のいる白樺の天然林にもすぐ傍まで近づくことができ、たとえ駅に行く途中のわずかな時間とはいえ、恒夫の意識内容をもう少し詳しく読み取ることができる筈である。
いつまでも恒夫にこのあたりを徘徊させておくのは危険だったから、七瀬は気が気ではなかった。東京から七瀬を追ってきて、今もまだあたりをうろついている筈の殺人者が、いつ恒夫を超能力者と認めて殺意を抱くかわからないのである。しかし七瀬の方から恒夫に連絡をとる方法はなかった。七瀬自身が近づいていけば、恒夫は自分の心を七瀬に覗かれるのが厭さに話もせず逃げてしまうだろうし、ヘンリーを森へやって恒夫と接触《コンタクト》させようとすれば、その間、常に殺人者に狙われている七瀬とノリオが、唯一の戦力である念動能力者を失うことになるのだ。そしてまたそれは、七瀬を自らの上位自我と定め、七瀬の命令によってしか念動力を揮《ふる》えないという精神機構を持つヘンリーにとっても危険なのである。
七瀬は外出着に着換え、簡単に化粧をして一階へ降りた。「ヘンリー。じゃ、車をお願いするわ」
駅へ出迎えに行くにはまだ少し早いようだが、と、腕時計を見ながらそう考えたヘンリーに、七瀬はいった。「少し、買物もあるのよ」
「わかりました」すぐにヘンリーは、二メートル近い長身を肱掛椅子から起した。自分の心が一方的に読み取られていることを知りながら少しも恥ずかしがらないテレパス以外の人間は、七瀬の知る限りではヘンリーと、そして漁藤子だけだった。
七瀬の心をちらと覗いただけで自分も一緒に連れていって貰えることを知ったノリオが浮きうきして、ヘンリーよりも先にポーチへとび出した。これまではヘンリーの運転で外出する時に留守番をさせることが多かったのだが、あの超能力者なら誰かれかまわず抹殺《まっさつ》しようとしている殺人者があきらかにこのあたりを徘徊している今となっては、三人一緒に行動した方がより安全でもあり、いちいち精神感応によってノリオの行動を遠くから追い続けないではいられない心配性の七瀬にとっては、その方がずっと安心できた。
湖の北岸近くにある七瀬たちの家は、建ててから二、三年でなぜか売りにだされていたある画家の別荘だったもので、山荘風の造りではあるがところどころに補強組構造をとり入れてあり、外見よりは頑丈にできていた。玄関前のポーチは車が二台置けるほどの広さで、だからガレージは不必要だった。ヘンリーはポーチに置きっぱなしてある中型国産車の運転席に来りこみ、七瀬がいつものように助手席、ノリオはひろびろとした後部座席を独占した。
湖岸を南へ数百メート走っただけで、七瀬が受容する恒夫の意識は急に明確になりはじめた。
(おれの予知能力が働かないのは、この正体不明の悪意を持った存在のために違いない)
自分の危惧の通りに恒夫がすでに狙われていることを知り、じゃあ彼は気がついているのだわ、と、七瀬は思った。
(それ、誰なの)まだ七瀬ほどには遠隔感応能力が鋭くないため、七瀬の意識を通じて恒夫の存在を初めて知ったノリオが、おずおずと訊ねかけてきた。彼は七瀬の不安を感じ取り、親しいテレパス同士の間では常に起り得る感情の共鳴現象によっておびえはじめていた。(ねえ。何が危険なの)
(心配しないで)七瀬はいそいで受容部位へのノリオの介入を遮断しようとした。(お姉ちゃんは今、この人の意識を読もうとしているんだから、なるべく邪魔しないでね)
(うん)(わかったよ)七瀬に教えられたテレパス間の作法《マナー》通り、ノリオが意志の力で興味を他へ向け、七瀬の心をまさぐっていた幼い触手をすっと引っこめた。
(東京で彼女を殺そうとしたやつに違いない)
恒夫の思考がますますはっきりと受容できるようになり、七瀬は彼が現在見ているもの、さらには彼がその予知能力によって予見している視覚的形象までを観察しようとして、思念を強く白樺の森へ向けて凝らした。だが恒夫は、いつもの彼らしくもなく、今のところ、これから起ることを何も予知していないばかりか、あいかわらず自分がこれから何をするかさえ予知できていないようだった。ただ、自分に敵意を抱く者があたりにいるらしいことだけを超能力者の本能で感じ取っていた。そんなことまで勘でわかるらしい恒夫のテレパスそこのけの鋭敏な感受性に、七瀬は少し驚いた。
(いったい何者だ)(まさかおれを殺す気ではあるまい)
だが、恒夫はやはりテレパスではなかった。相手を見くびっている、と七瀬は思い、恒夫の生命の危険を感じて思わず叫び出したい衝動に駆られた、いいえ。そいつは殺人者なのよ。気をつけて。
(おれが超能力者だということは知らない筈だ)(ではなぜ、おれを尾けているのだ)
いいえ。いいえ。そこにいる男は、森の中にいる単数だか複数だかもわからない男は、あなたが超能力者だということを知っているわ。そしてあなたを殺そうとしているわ。あなたが予知能力を失っているのは、ほんとにその男があなたの超能力を何かの方法で吸収するか失わせるかしているためなのよ。きっとそうだわ。そいつらは、そういう方法を開発しているかもしれない、恐ろしい連中なのよ。自分の呼びかけが恒夫に伝わる筈がないと知りながらも、七瀬は心で叫び続けずにはいられなかった。
(彼女には会えない)恒夫が七瀬の面影をうっすらと胸に描きはじめていた。(いくら彼女に会いたくても、おれは彼女には会えないのだ)
どうして。どうしてなの。どうしてわたしに会えないの。そんなにわたしに心を読まれることが厭なの。それほどわたしを嫌っているの。涙を眼頭に滲ませ、七瀬はひとり胸で恒夫を詰《なじ》った。夜汽車の中で最初に会った時、恒夫が心の中で目の前にいる七瀬を裸にし、さらに空想で犯そうとしたのを、七瀬がテレパスであると知って以来、彼がずっと恥じてきたことは七瀬もよく承知していた。でもそんなこと、男性なら誰でも想像することだから、恥じなくてもいいのに、と、七瀬は思った。精神感応能力者《テレパス》であるが故の悲哀をひしひしと覚え、同胞である超能力者にさえ嫌われる自分の能力を、七瀬はあらためて憎んだ。しかし七瀬が超能力者であればこそ同胞として恒夫が彼女の身を案じてもくれるのだから、今さら自分の読心能力を恨んだところでどうしようもなかった。
(それに、彼女に会えば、よけい彼女を危険にさらすことにもなる)(おれにつきまとっているやつを、彼女に近づけることにもなる筈だ)(そいつはおれの行動によって、彼女の居場所をつきとめようとしているのかもしれないからだ)
恒夫が北海道へやってきた理由は、やはり七瀬の危機を予知したからであり、やってきた目的は、七瀬が想像していた通り、やはり危険を七瀬に伝えるためだった。ただ、それがどんな危機なのかわからない恒夫は、森を徘徊することによってその危機がどんなものかを知ることができ、それと同時にまだ自分にもわからぬある方法で七瀬を救うことができるのだと信じていた。恒夫の信念や意志を読み取ることによってそれをやっと明確に知った七瀬は、すでに自分がその情報を受けとっていながら恒夫に知らせ返す方法が何もないため、白樺の森に近づきつつある車の中でひとりやきもきと気を揉んでいた。いくら恒夫の居場所に近づき、彼の意識をさらにはっきり捕捉したところで、恒夫がテレパスでない以上、それはどこまでも受信のみにとどまり、交信は不可能なのだった。
(だとすればそいつは、おれと七瀬の関係を知っているということになるが)(それを知っているのなら、当然おれが予知能力者であることか、少なくとも何かの超能力者であることも勘づいているわけだが)
そうなのよ。そんなこと、敵はとっくに知っているのよ。わたしの居場所だってもうつきとめているに違いないわ。だからあなたは早く逃げて。ああ。会うことさえできれば。会ってくれさえすれば。
(そんなことは精神感応能力者《テレパス》にしかわからない筈だ)(この悪意に満ちた存在がテレパス)(そんなことはあり得ない)
理屈ではたしかに恒夫の考える通り、もし相手がテレパスであるなら同胞である超能力者に多少の敵意を抱くことはあっても、殺意まで抱く筈はなかった。しかし現実には、自分の意識が隠せるようによく訓練され、相手の思考も少しは感応でき、しかも超能力者を憎悪していて、皆殺しにしようとたくらんでいる組織が存在するのである。そして恒夫はそのことをまだ知らず、そんな存在があるなど夢にも思っていないのだ。さらになぜか一時的に予知能力を失っている恒夫には、自分がその連中からどんな目に会わされるかをさえ予見できないでいるのである。七瀬は身もだえるほどの焦燥感に駆られた。ああ。逃げて。早く逃げて。
(そうだ)(それに)(その上)(残念ながら、自分の能力の存在を否定してまで、彼女と会うことはできないんだ)
(あっ。これは、あの時汽車の中で会った、未来を予言するひとだ)森まで約二キロの地点に到達したため、やっと恒夫の意識を直接捕捉できるようになったノリオが、心でそう叫んだ。{(近くにいるんだね)/(あそこの森の中だ)}(なぜ来たの)(ぼくたちに会いに来たの)
(そうじゃないわ)と、七瀬は答えた。(教えてあげたでしょ)(悪い人たちがこのあたりにいること)(このひとはわたしたちの危険を予知して、それを知らせに来てくれたのよ)
(それならどうして会いに来ないの)ノリオは相手がテレパスでないのをいいことに、子供らしい無遠慮さで恒夫の心の奥をじろじろと覗き込み続け、やがて怪訝そうに七瀬へ訊ねかけた。(ねえ。このひと、どうしてお姉ちゃんに会うのを厭がってるの)
(それはおれの嫌いな、未来の改変につながる)(もちろん、予知した未来の改変ではない。しかし予見していないことを行うのも、やはり人為的な未来の改変なのだ)
「わかった」と、ノリオが大声で叫んだ。
「びっくりしました」それまで何も知らずに運転していたヘンリーが、ノリオの声に驚いてシートで身を浮かした。「どうかしたのですか」
「ご免よ」ノリオがあわててヘンリーに詫びた。「今まで、ぼくとお姉ちゃんだけで話してたの」
「おう。わたし仲間はずれ困ります」こういう場合にはいつもそうするように、ヘンリーが軽い嫉妬を表情に見せ、苦笑しながらかぶりを振った。「わたしの横ではことばで話してください。何話してましたか」
「すぐに説明するわ」ヘンリーにそういってから、七瀬は後部座席を振り返って、やや混沌としたノリオの意識をまさぐりながら、ヘンリーを仲間はずれにしないよう、声を出して訊ねた。「何がわかったの」
その質問でノリオの意識の中にあるいろいろな観念が、ことばにしやすいように秩序正しく並べ変えられ、彼はすぐ喋りはじめた。「このひとは、お姉ちゃんのことがすごく好きなんだ」{(自分ではそうじゃないと思ってる)/(それでこんな理屈を考えているんだ)}(でも、好きなんだ)(自分ではそれに気がつかないふりをしている)「だからお姉ちゃんに、自分の心を見られるのが恥ずかしいんだよ」
七瀬はノリオの子供らしくない洞察力に感心した。指摘されてみれば、たしかにそうだった。以前電話で話した時の恒夫の、あのぶっきら棒な、そしてよそよそしく感じられることばも、じつは七瀬への愛を無意識のうちに隠そうとしてのことと考えれは納得できた。
「七瀬さんを好きだという男のひとが、このあたりに来ているのですか」これはおだやかでないと思う気持を顔にあらわにして、いささか気遣わしげにヘンリーが訊ねた。「そのひと、いつか話していた、汽車で会ったという、あの予言者ですか」
(ノリオ)と、七瀬は心で呼びかけた。(恒夫さんのこと、ヘンリーに説明して)
「そうなんだよ」ノリオがヘンリーの問いに答え、恒夫が現在湖畔の森に来ていることやその理由、目的などを、ややたどたどしく話しはじめた。
七瀬は眼を閉じた。もう、特に思念を凝らさずとも、いちど会ったことのある恒夫の意織だけに、この距離になってしまえばはっきりと捕えることができた。恒夫は今、木蔭に腰をおろしていた。
(ご免よ。おれ、とうとう煙草をやめることができなかったんだ)
いけないひとね。でも、煙草くらいでそんなに急に予知能力をなくすなんてこと、少なくとも本当の超能力者になら起らない筈よ。そんなことを胸に描いた恒夫の顔に語りかける一方で七瀬は、恒夫の心の中でも次第に鮮明になっていく、実際よりもやや美化された自分の顔を複雑な気持で眺めた。
やがて七瀬の顔は消え、恒夫は自分の能力を確認するため、未来の情景を何か思い浮べようと試み、苦しみはじめた。だが、あらわれたものは白樺の梢の彼方に赤く染まった雲が見える平凡な光景だけだった。
(未来がどうなるか知ることのできなくなった予知能力者か)(そんな人間がここへきて、いったいどうやって同胞の危機を救うつもりだ)(彼女に会うというわけでもない。敵が何者かも知らない)(そんな人間が)
突然七瀬は、恒夫から予知能力が失われた場合に想像できるいちばん重大な理由に思いあたり、あっと叫んだ。それは恒夫が死ぬからではないのか、予知能力者が自分の死後の世界を予見できるのでない限り、死の直前には何も予知できない筈だ、そう考えついたのである。そして恒夫はまだ、そんな理由を夢にも考えてはいない。未来を予知できなくなったことと自分の死を結びつけて考えるなど、若くて健康で楽天的な恒夫にとっては想像してみることさえ困難なのであろう。
「いそいで」七瀬はそう叫んだ。「あの森の方へ」
もう、恒夫に嫌われることなど気にしてはいられなかった。もし恒夫が死ぬとしたら、彼自身の予知の中に七瀬が助けにあらわれる情景など出てこないのだから、すでに彼の死は運命として定められているといえた。しかし七瀬は数少ない同胞のひとりであり、今のところ本当に自分を心から愛してくれているただひとりの男性かもしれない厄夫の許《もと》へ、駈けつけずにはいられなかった。そうしなければ死ぬまで後悔し続けることになる筈であった。
「岩だ」湖畔の舗装されていない狭い道にもうもうと砂煙を捲きあげて車をとばしていたヘンリーが急にスピードを落し、大声で叫んだ。「おとといの雨で崖の岩が崩れています。どうしますか」
行く手の道の中央を大きな岩が塞《ふさ》いでいた。
「飛び越えて」と、七瀬は叫んだ。
岩を動かすよりは、車ごと岩の上を飛び越えた方がヘンリーの念動力にかける負担が少なくてすむことを七瀬は知っていたし、今はいったん車を停止させる時間さえ惜しかった。
淋しい湖畔とはいえ、遠くから誰に見られているかもわからないひらけた場所で、白昼七瀬がヘンリーに念動を命じたのは初めてだったから、ノリオは少し驚いたようだった。だがヘンリーは七瀬の声に切迫したものを感じ、ふたたび車にスピードをあたえてはずみをつけ、岩に突き進んだ。彼は自分の運転している中型国産車が巨大なクレーンで吊りあげられる情景を空想し、車が岩すれすれに迫った一瞬、その架空のクレーンに強い念力をかけて捲上げ機能と旋回機能をあたえた。車体は浮きあがり、頂点約三メートルのゆるやかな抛物線《ほうぶつせん》を描いて宙をとんだ。
「わあ」ノリオが嘆声とも悲鳴ともつかぬ声をあげた。
どん、と一度だけ大きくバウンドした車がふたたび路上を走り出した時、ノリオがまた大声をあげて助手席の凭れにしがみついた。
「お姉ちゃん。このひと、殺されるよ。殺されるよ」
岩淵桓夫に襲いかかっている殺人者の激しい殺意を、ノリオと同時に七瀬もまた捕えていた。続いて恒夫の視界にあらわれた殺人者の顔と、殺人者の手にした拳銃が七瀬の背筋を凍りつかせた。東京ではへニーデ姫を殺し、さらに自分につきまとってここまで迫ってきたその殺人者の顔を、表情がうかがえるほどの近距離ではっきりと七瀬が見るのは、これが初めてだった。それは自分の運命を悟った恒夫が、七瀬に危機を告げ、殺人者の容貌を教えようとして、眼をそむけたくなるようなそのまがまがしい顔を故意に凝視しているからだった。七瀬は日焼けして赤みがかった兇悪な中年男の顔を胸に焼きつけようとした。それが恒夫の死を無駄にしない唯一の、七瀬にできることだった。この兇暴な顔、この邪悪な眼、忘れないわ、わたしは絶対に忘れないわ。
(オレハココへコロサレルタメニキタノダ)
銃弾が恒夫の胸を貰いたらしく、彼がこの世で見る最後の光景が、平凡な光景でありながらも人間が死を間近にして眺める自然の美しさへの感動を伴って七瀬の心に流れこんできた。
「撃たれちゃった」人間の死の直前の意識をはじめて近くから覗いたノリオが、心に強い衝撃を受け、おびえて泣きはじめた。「このひと、撃たれちゃった」
「死んだのですか」ヘンリーが車の速度をやや落し、沈痛な声で訊ねた。
「まだ、死んではいないわ」七瀬は前方の森をフロント・ガラス越しに見据え、唇を噛んだ。「苦痛に耐えて、けんめいにわたしに話しかけているわ」
{(オレハケモノノヨウニウチコロサレタ)/(オレハキミガスキダッタラシイ)}
七瀬の両の頬を、あとからあとからと涙が伝い流れた。死を前にして恒夫がほんの少し作った裂け目からちらと覗いただけで、七瀬は彼の自分に対する愛の深さを知り、はげしく感動していた。
(ニゲロ)
(オレハコロサレタ)[#「(オレハコロサレタ)」はゴシック体]
恒夫の意識が絶えた。
「ぼく、このお兄ちゃん、知っていたのに」ノリオはさらに激しく泣きはじめた。「死んじまった。死んじまった」
「もう、森へ行かなくてもいいわ」と、七瀬が静かにいった。「街道へ出て頂戴」
ヘンリーはちらと七瀬の横顔を見て、彼女の頬を流れている涙の血のような赤さに少し驚いたが、すぐに、それはただ夕陽が彼女の涙に映えているだけであることを知った。
七瀬はとめどなく涙を流し続けた。嗚咽《おえつ》をこらえながら、彼女は心に強く復讐を誓っていた。
国鉄の駅とはいえ、観光シーズンをはずれた時期には特急も急行も停らない小さな駅だから、駅の近くにある町のたたずまいもごく小規模で、商店が十軒ほどあるだけだった。漁藤子の乗った鈍行列車が到着する六時半までにはまだ間があったので、七瀬はさきに買物をすませてしまおうとした。もしもあの殺人者の所属している組織から大勢の仲間がやって来たりすると、当分この町まで出てくることができないだろうし、湖畔の家を包囲されたり攻撃されたりした場合の籠城《ろうじょう》という最悪の事態も考えられたし、また、さらに、すでに七瀬が確保している、あの湖畔からもっと山奥へ入ったところにある小さな山小屋まで逃げ込まなければならない場合も考えられたから、罐詰《かんづめ》類をたくさん買い溜めておく必要があった。
ヘンリーはいつものように駅前の広場の隅に車を停めた。広場にも、広場に続く両側に商店が並んだ道幅の広い街道にも、人通りはほとんどなかった。七瀬たち三人は車をおりて、暮色に包まれはじめている街道を歩いた。
まるで眠っているような町だわ、と七瀬がいつものことながらそう思ったのは、町全体に立ち籠めている悪意を感じ取るまでの、ほんの僅かの時間だった。すぐに七瀬は、街道に面した商店や住居の奥から自分たちに注がれている憎悪と警戒の視線をひしひしと感じはじめた。それはノリオにもぼんやりと捕捉できるらしく、彼は歩きながら七瀬に身をすり寄せてきた。
(ねえ)(この辺の人たち、どうしたの)(以前はこんなことなかったのに)(ぼくを可愛がってくれたりしたのに)(この前きたときは、みんなやさしかったのに)
果物を買おうとして八百屋に入ると、主婦らしい痩せた中年の女がひとり店番をしていて、彼女は七瀬たちを見るなり身をこわばらせ、猜疑《さいぎ》の眼を、ぎら、と光らせた。
(こいつらだ)(こいつらが妖術を使う連中なんだ)(あの刑事さんが、人を殺した疑いがあるから警戒しろと言ってたのは、こいつらだ)
ノリオがはっとしたように七瀬の顔を見あげ、彼女の手をしっかりと握った。わかっている、というようにその小さな手を強く握り返した七瀬は、果物を物色するふりを続けながら、この八百屋の主婦の意識をもっと詳しく読み取ろうとした。妖術を使うというとんでもないデマがこのあたり一帯に拡がっているらしいことにも驚かされたが、もっと驚いたのは、単純で迷信深いこの付近の住民の間にそのデマを、どうやら意図的に発生させたと思える張本人がグループで行動している数人の刑事であり、しかも、八百屋の主婦が心にその顔を順に思い浮べた刑事の中のひとりというのが、恒夫を殺したあの殺人者と同一人だったからである。
(こんな連中に、この町へ来られてたまるものか)(あの刑事さんたちの話だと、よそで人殺しもしてきたそうだし)(追い出さなければ)(何も売ってやるもんか)
村八分にする気だわ、と、七瀬は気づき、あの殺人者たちの卑劣なやりかたにまた強い怒りを覚えた。グループで行動しているという以上、その数人の刑事というのが、すべて超能力者抹殺集団の連中であることに疑いの余地はなかった。それにしても殺人者たちはほんとに刑事なのだろうか、この付近に顔見知りがいないのをいいことにしてそう詐称しているだけではないのだろうか、七瀬はそう思い、八百屋の主婦の意識内に知識として存在している事実や情報をさらに深く探ってみた。
殺人者たちはやはり、本職の刑事だった。駅前にある巡査派出所に常に出入りし、この町の住民なら誰でもよく知っている派出所の警官たちにも捜査を手伝わせている様子だったからである。殺人の容疑者を追ってこの町に来たと住民に言いふらし、警官まで使っている以上、おそらく東京でヘニーデ姫を射殺したことを自分たちに有利に説明し、殺人容疑を七瀬に被せているのだろう。そこまで考えて七瀬は、次第に明白になっていく殺人者たちの意図に慄然とした。そう言いふらしておきさえすれば、もし住民たちの目の前で超能力者三人を抹殺してしまう破目になった場合にも、あれは兇悪犯であり、反抗したために殺したのだという言い開きができるのである。それより何より七瀬にとって衝撃だったのは、彼らの属している集団が、多数の刑事をグループに加えたのか、あるいは逆に多数のメンバーを刑事に仕立てあげて警察へ送りこんだのか、その手口はわからぬものの、とにかく警察という組織まで自分たちの為に最大限に利用しているという事実であり、それから想像できるその集団の規模の大きさであった。
七瀬は顔をあげ、絶対に何も売ってやるものかと固く心に決め、売ってやれない口実をめまぐるしく考え続けている八百屋の主婦の顔をじっと見つめた。
(もう、売り切れなんだよ)(ここにあるものはみんな、売る予定があるのでね)(よそ者に売ってやると、この町の連中の分がなくなってしまうのでね)(そうなんだよ)(あんたたちには、売ってやれないんだよ)
(行こうよ)ノリオが七瀬の腕を強く引いた。(このひと、売ってくれそうにないじゃないか)
(いいえ。たとえ少しでも、果物は必要よ)この八百屋の女を脅してでも、果物を手に入れておかなければ、と、七瀬は思った。(今でないと、もう買いにくる機会はないわ)事態は切迫していて、読心能力を悟られることなど恐れている段階ではなかった。
にっこりと、七瀬は女に笑いかけた。「そうなの。もう、売り切れなの」
えっ、と一瞬眼を剥いた女に、七瀬の心を覗いてその意図をすばやく理解したノリオが間髪を入れず、声を尖らせて追い打ちをかけた。「そうなんだってさ。みんな、売る予定があるらしいよ」
にやにや笑って見せながら、七瀬がさらに続けた、「そうね、わたしたちよそ者に売ったりすると、この町の人たちの分がなくなるわね」
(こいつら、わたしの心を読んだ)迷信深い八百屋の主婦の全身を、はげしい顫えが襲った。
(化けもの)(化けもの)(妖術だけでなく)(読心術も)(こんなちいさな子供までが)
「あら。よくわかったわね。そうなのよ」八百屋の主婦が思い浮べたことにそう答え、七瀬はくすくす笑った。「でも、せめて林檎《りんご》だけでも貰って行きましようよ」口もきけないでいる女を尻目に、七瀬はさっさと林檎を紙袋に入れ、仮台の上へやや多いめの代金を置いた。「さあ行きましょう」
「あ。あ」
貧血を起し、店から奥の間へのあがり框《かまち》に尻をおろして頭をかかえこんだ女の様子をちらと振り返ってから、七瀬はノリオとへンリーを眼でうながし、足早に八百屋を出て駅前へ引き返した。
「オストラシズムですか」読心能力はなくても、いきさつを傍観していてだいたいの事情を悟ったヘンリーが、七瀬のかかえている林檎の袋を持ってやりながら、眼を丸くしてそう訊ねた。「あんなこと言って、大丈夫だったですか」
「わたしたちが妖術を使うというデマがとんでいるの。それにもうひとつのデマが加わっただけの話よ」七瀬はそう答えながら、あの八百屋の主婦があまりの衝撃で寝込んだりすると気の毒だが、と思った。
(でも、しかたがないよ)(だってああしなければ、林檎を売ってくれなかったんだからね)ノリオが七瀬の反省を打ち消した。(それより、林檎だけしか買わないの)
「冷凍肉や冷凍のお魚はまだあるし、お米もこのあいだたくさん買ったから」と、七瀬はいった。「あとは罐詰類がたくさん必要なのよ」
「おう」ヘンリーがかぶりを振った。「その罐詰類、どうやって手に入れますか」
「この商店街の人たちを軒なみ、今の手で脅して歩くなんて、わたしにはできないわ」七瀬は悲しげに答えた。「ちょっと遠いけど車で引き返して、あそこにある小さな店へ行って見ましょう」
ふたたび車に乗りこんだ三人は、街道を少し戻って町はずれの横道に入った。乾物屋は街道に面して大きな店が一軒と、この横道に面し畠にかこまれてやや小さい店がもう一軒あった。ここならあるいは売ってくれるかもしれなかったし、罐詰類はどうしても必要だったから、さっきのように強奪同様の買い方をしなければならなくなっても、あたりに人通りがないから目立たぬ筈だった。
店の前に車を停め、七瀬たち三人は乾物屋の店内に入った。店番をしているのは三十歳くらいの、派手な身装《みなり》をし、人を小馬鹿にしたような薄笑いをいつも頬に浮べている男で、いくつかある七瀬の嫌いなタイプの、ひとつの典型だった。その男を見るなり七瀬は絶望した。罐詰類は店の奥の棚にあり、種類別に山積みしてあったが、わずかに六種類で数も少なく、必要量に満たないから全部買い占めてしまわなければならないほどなのに、男は何ひとつ七瀬たちに売る気はなかった。
(来やがった)(こいつら、街道筋のどの店でもことわられたもんだから、ここまで来やがったんだ)
この町では道楽者として名を売っていて評判のよくないこの男は、今こそ全町民の公認のもとに、それどころか警察の黙認のもとにも大っぴらに意地悪ができるというので、わくわくしていた。(売ってやらないぞ)(美人だ)(すごいグラマーだ)(この黒ん坊と毎晩楽しんでやがるんだな)(畜生)(誰が売ってやるもんか)(おれに抱かれるというなら売ってやる)「何だね」男は店の中ほどに立ちふさがり、そこから中へは入れてやらないぞという気勢を見せて七瀬を睨みつけた。「この店に何か用かい」
「罐詰をください」男がどう答える気でいるかをすでに知っている七瀬は、腹立ちを押えてそういった。「その棚の上にあるのを、全部」
(全部だって)(なんとあつかましい)(全部どころか)(ひとつだって)男はじろじろと七瀬の全身を好色の視線で舐めまわし、空想によってある破廉恥なポーズをとらせた七瀬に抱きついていこうとした。
(ノリオ)七瀬はすぐ、教育的でない情景をあまりはっきり見せまいとして、五歳の少年に呼びかけた。(車に戻って待っていらっしゃい。そして、うしろのドアを開けておいてね)
(わかったよ)ノリオは七瀬の意図を知り、すぐに車へ戻って後部座席へのドアを大きく開けた。
「ほう。罐詰がほしいのかね」舌なめずりしそうな顔で男はいった。嗜虐《しぎゃく》的な笑いを口もとに浮かべ、からだを大きくそり返らせて彼は腰に手をあてた。「あんたたちに売ってやる罐詰は、ないんだよ」けけ、と彼は声を立てて心から嬉しそうに短く笑った。七瀬たちが妖術使いであるというデマを、この男はまったく信じていなかったが、そのデマを口実にしてよそ者を大っぴらに苛《いじ》めることができるため、まるで子供のように嬉しがり、興奮していた。
「何言いますか」七瀬が屈辱的に扱われているのを見て腹を立てたヘンリーが大声を出し、棚の上を指した。「そこにたくさんあるでないですか」
男は唇を歪めてヘンリーの口真似をした。「あるでないですか、といったところでねえ」男は棚を見あげてから、また視線を七瀬の胸の膨らみに戻した。「おれには見えないね、罐詰なんて、どこにあるんだい」ひひひひひ、と彼はさもこのゲームに有頂天になっているという様子で面白そうに笑った。(黒ん坊めが)(何を偉そうに)(この女、よりにもよって黒公なんかと毎晩一緒に)(もっとも、黒ん坊のはでかいというからな)
ヘンリーがしきりに七瀬へ呼びかけていた。(七瀬さん)(わたしはもう我慢できません)(この男、与太者です)(命じてください)男を懲らしめるためのある突飛な情景を、ヘンリーは胸に描いていた。
七瀬は嘆息した。最悪の場合にだけ予定していた作戦を実行しなければならなくなったのである。「じゃ、しかたがないわね」
「へえ。なぜしかたがないんだい」ひひ、ひひと笑いながら、七瀬が罐詰をあきらめたと誤解して男は七瀬に近づき、彼女の肩に手をかけようとした。(話によっては売ってやらないことも)
「姐ちゃん、綺麗だねえ」
男の手を汚ならしげに払いのけ、七瀬は振り返り、店の前に人通りがないことを確かめてからへンリーに命じた。「いいわ。それをおやりなさい」
ヘンリーが眼を大きく見ひらいて棚の上を見つめながら、頭の中で罐詰のひとつひとつに鳩の羽を生やし、大きく羽ばたかせた。
数十個の罐詰が全部棚の上からとび出し、店の中の狭い空間を勢いよく飛び交《か》った。壁にぶつかり、時には罐詰同士がぶつかり、棚の上のものを落したりしながら、まるで狂った鳥の群れのようにとびまわり、舞い踊った。男の頭上へ急降下してくる罐詰もあった。
気を転倒させた男が、わあ、わあと叫びながら次つぎと襲いかかってくる罐詰の大群を避けて頭をかかえ、コンクリートの床にべったりとうずくまった。(妖術だ)(やっぱり本当だった)(この女、魔女だ)(殺されてしまう)(殺される)
殺されると思った瞬間、迷信深い田舎で育っただけに心の奥深く植えつけられていた原始的な恐怖心が男の前意識から噴き出し、彼は自我を崩壊させてたちまち泣き出し、わめきはじめた。「助けてください。殺さないでください。悪うごさいました」
男の取り乱しかたとその混乱した意識を見て、七瀬は思わず吹き出しそうになったが、笑ってなどいられない事態であることを想い出し、あわててまたヘンリーに命じた。「それはもういいわ。早く罐詰を車へ」
おどり狂っていた罐詰が次つぎと道路へとび出し、ノリオが待ち受けている車の後部座席へとびこんでいった。
男は蒼白になり、唇を顫わせながらその光景を見つめ、うわごとのように詫び続けていた。「わたしが悪うごさいました」わたしが悪うごさいました。
「代金はこれで足りるかしら」七瀬は男がまともに返事できるような精神状態にないことを知りながらわざとそう訊ね、一万円札を二枚出した。「もし足りないようなら、ここに話をして頂戴」
札を渡そうとして七瀬が近づいていくと、男は、ききっ、という怪鳥のような声を出し、商品ケースなどにぶつかりながらあたふたと店の奥へ駈けこんでいってしまった。七瀬は苦笑しながらカウンターの横へ札を置き、ヘンリーと共に車へ戻った。
駅前へ引き返してくると六時二十五分だったので、七瀬はヘンリーに命じて駅舎の出入口近くへ車をつけさせ、プラットホームへは迎えに出ず、車の中で漁藤子が改札口から出てくるのを待つことにした。まだあたりは残照で明るく、車の数も少なく、乗降客もおそらく四、五人だろうから、こちらからも藤子の方からも、互いの姿を見つけるのは簡単だと思ったからでもあるし、また、駅前の広場を見渡せる駅舎の横の巡査派出所には二人の警官がいて、そこから見えにくい位置に停車はしたものの、運悪く車から降りて駅舎へ入っていく七瀬たちの姿を発見されないものでもないと考えたからでもあった。車の中から警官たちの意識を探ってみると、二人は日常業務的な事務に没頭していて、七瀬たちにも、七瀬たちの車にも気づいていないようであった。最後まで気づいてくれませんように、と七瀬は祈った。むろん警官たちは、刑事から七瀬たちのことを、単に殺人事件の容疑者として教えられているに過ぎないのだから、七瀬たちに気づいたからといって今すぐ逮捕しにやってくるという心配はなかったが、もし漁藤子の姿を見られた場合、彼女までが共犯容疑者のリストに加えられる恐れがあったし、藤子のことを実は殺人者であるあの刑事たちに報告でもされようものなら、彼らはたちまち藤子も超能力者のひとりと気づくに違いなかった。
藤子から遊びに行くという電話があったのは一カ月以上も前で、その時には七瀬はまだ超能力者抹殺集団のことをまったく知らず、こんな切羽詰った状態になるとは想像もしていなかったのである。その後、殺人者たちに居場所をつきとめられてからは、藤子の身の安全を考えて何度か来るなという電話をしようかとも思ったのだが、時間旅行者《タイム・トラベラー》という最終的な超能力者である藤子に、以前いちど危機を救ってもらった経験から、今度もまた彼女の力に縋《すが》りたいという気持の方が強く、電話では事情を話すことができないという口実で自分を誤魔化し、藤子を待つことにしたのだった。それだけに、藤子の安全には責任があった。
藤子の乗った列車の到着を待ちながら七瀬は、恒夫の死についてさっきから何度か考えたことを、もう一度考えなおしてみた。藤子の時間|遡行《そこう》の力によって岩淵恒夫の死を時間的に否定することはできないものだろうか。時をさかのぼって、まだ殺されていない時間の恒夫を、殺人者たちの手から守るとか、別の時間へ一緒につれて行くとかして、救出することはできないものだろうか。
時間遡行にはいろいろな条件が揃わなければならないことを七瀬は知っていた。条件のひとつひとつを思い出し、ひとつの条件の不足を他の満たされた条件で補うことはできないかとさまざまに考えをめぐらせている時、突然彼女の意識の受容部位が、異質なものの侵入を告げて悲鳴に似た警報を発した。
「あいつらだわ」七瀬は停車した車の助手席で大きくそう叫び、身を固くした。「あいつらが近づいてくるのよ。帰ってきたんだわ。森から。車に乗って」
「殺されちゃうよ」さっきの恒夫の死の直前の意識を通じてちらとうかがうことのできたあの邪悪なものの持つまがまがしい雰囲気をふたたび強く感じとったノリオがおびえて叫んだ。「ぼくたちも殺されちゃうよ」
「いいえ。殺されてたまるもんですか」七瀬は唇を強く噛んだ。「あの連中、わたしたちが町へ出てきていることは知らない筈よ。不意を襲って、恒夫さんの仕返しをしてやるわ」
「冒険です」ヘンリーが緊張に頬を固くしてそういった。「藤子さんがまだ到着していません。何も知らない彼女まで巻きぞえにしたら大変です」藤子をほのかに愛しているらしいヘンリーが、けんめいに七瀬を説いた。「いったん藤子さんをつれて、なんとかこの町から抜け出ましょう」
七瀬がためらっているうちにも、殺人者たちと恒夫の死体とを乗せた捜査用パトロール・カーはますます接近してきて、とうとう町はずれまでやってきた。あの殺人者以外に刑事は二人いて、彼ら全員が意識を隠していず、彼らの様子が容易に読みとれるところから、七瀬たちが町なかにいることを知らないで油断していると判断していい筈だった。
「駄目よ。対決は避けられそうにないわ」七瀬は宙を見据え、そういった。「ここへくるつもりよ」
彼らがこの広場の巡脊派出所まで来るつもりでいることを知り、七瀬はそれ以上の彼らの思考の深追いをやめ、遠く藤子の乗った鈍行列車がやってくる方角に思念を凝らした。数キロ程度の彼方であれば、その精神構造を熟知していて、しかも超能力者の強い精神力でもって発散させている藤子の意識は、充分捕捉できる筈だった。
藤子は予定通り、その鈍行列車に乗っていた。彼女の胸は久しぶりて七瀬に会える喜びと期待に甘ったるく満たされていた。さっそく彼女の視野を通じて、七瀬は藤子のいる位置を知ろうと試みた。
「ノリオ。あなたは子供だから、改札口を通れるわ」藤子の乗った列車が駅まであと約一キロの地点を走っていることがわかったため、七瀬はノリオを振り返って言った。「改札口を通って、藤子の乗っている車輌(前から二番目の車輌よ)まで行き、藤子が降りてきたら(藤子はその車輌のうしろの出口から降りてくるつもりよ。今、彼女は出口の傍に立っていて、列車が駅に着くのを待ってるわ)すぐに藤子の手を引っぱって、大いそぎでこの中まで駈けていらっしゃい。わかった」
「うん」七瀬が何をするつもりかをおぼろげに読み取って、自分に課せられた役割の重大さに眼を丸くしながら、ノリオは強くうなずいた。(わかったよ)(それを早くやらないと、奴らから逃げられないんだね)
片側が崖になった単線の鉄路に、山裾をまわって鈍行列車の黒い巨体がのっそりと徐行しながらあらわれた。その姿を見るなりノリオは中の後部座席をとび出し、ドアを開けはなしたままで駅の構内へ駈けこんでいった。
捜査用パトロール・カーは、日没間近で薄闇に包まれはじめた駅前広場を斜めに横切り巡査派出所の前で停車した。車内にいる三人の刑事は、まだ誰ひとり七瀬たちの存在に気づいてはいなかった。だが、当然七瀬たちがどんな車に乗っているかを調査済みの彼らが、遅かれ早かれ駅舎の前に停っている中型国産車を発見するであろうことは眼に見えていた。
いちばん最初に車から降りたのは運転席にいた刑事で、黄昏《たそがれ》の闇の中でさえ七瀬には、それが東京でへニーデ姫を殺し、今しがた恒夫を殺してきたばかりのあの男に違いないことを、顔の輪郭とその特徴のある意識内容からはっきり確認した。「あの男よ」七瀬は一瞬きらり、と眼を光らせ、ヘンリーに叫んだ。「ヘンリー。あの男を殺して頂戴。早く」
ずんぐりした体格のその男は車から降り立つなり、野獣のような敏感さで七瀬たちの気配を嗅ぎつけ、突然背筋をのばして周囲を見まわした。(いる)(あの女だ)(仲間と一緒だ)(この辺にいる)(おれに気づいている)早く居場所を見つけないと自分の身が危険だと思うための焦りが、いささか男の勘を狂わせていて、彼には七瀬たちの車がなかなか発見できない様子てあった。
「早くして」不意に殺人を命じられて戸惑っているヘンリーに、七瀬はふたたび叫んだ。「早くしないとこっちの車を見つけられてしまうわ」
念力による遠隔殺人の方法をやっとひとつだけ思い浮べたヘンリーの意識を覗き、七瀬はうなずいた。「いいわ。その方法で」
でも、できるだけむごたらしくやって頂戴とつけ加えることを七瀬は忘れなかった。親友二人を射投された恨みももちろんあったが、事態がここまで来てしまえば、この組織の力を利用して襲ってくる巨大な敵に対してある程度の恐怖心をあたえ、ひるませておいた方が、あるいは七瀬たち超能力者を皆殺しにするという無茶な考えを彼らに断念させることができるかもしれず、どのみち実力を見せつけておいてもこれ以上悪い立場に陥ることはないと判断したためでもあった。
へンリーが巨大な万力《バイス》を想像し、その万力で約十メートルの彼方にいる男の頭部をぎりぎりと固定した。
男が頭をかかえ、大きく呻《うめ》いて身をのけぞらせた。(奴らだ)(奴らの攻撃だ)(やられる)(おれは殺される)(大変だ)(奴らがいることを皆に教えなければ)男が大声をあげた。「みんな気をつけろ。この近くに奴らが」
ヘンリーが、ぐい、と、万力の固定部に圧力をかけた。
咆哮《ほうこう》とともに男が地べたに倒れ、のたうちまわりはじめた。
車の後部座席から二人の刑事が、派出所からは二人の警官がとび出し、苦しみ暴れる男の周囲に駈け寄って彼を覗きこんだ。ヘンリーは四人の男の目前で殺人者の頭の鉢を割った。一瞬にして男の意識が炸裂《さくれつ》し、思考と感情の断片が無数の火花となってとび散り、霧消した。縦に細長くなった男の頭部の、鼻と口と耳からは血と粘液が噴きこぼれ、ぱっくりと開いた頭頂部からは脳漿《のうしょう》が地面へこぼれ落ちた。
「奴らだ」刑事の一人が周囲を見まわした。
「奴らの仕業だ」(こんなこと、奴らでなきゃできない)(仕返しのつもりなんだ)
むごたらしい死体から眼をそむけた二人の警官はすっかりおびえてしまっていたが、さすがに逃げ出しもできず、顔を見あわせ身を寄せあって、指示を求めるかのように刑事たちをぼんやり眺めた。
もう一方の刑事が、ついに七瀬たちの車を発見し、大声を出して指さした。「いた。あの車だ」
二人の刑事はいずれも、今は死体となった殺人者と同様、やはり普通人でありながら、わずかながらに読心能力を、さらに、これはほぼ完全に、自分の意識に殻をかぶせて隠匿する技術を、彼らの属する組織の訓練によって得ていた。
(追え)(殺せ)
(しっ。思考を隠せ)(隠すんだ)
(…………)
(…………)
「こっちへ来るわ」殺人という大仕事のため精神力を大きく消耗してぐったりとしているヘンリーに、七瀬はそう叫んだ。
へンリーがいそいで車のエンジンをかけた時に、改札口を通り抜け、駅舎から藤子の手を引っぱってノリオが駈け出てきた。
「早く」と、七瀬は叫んだ。
ノリオと藤子が後部座席へとび込んでくるなり、ヘンリーは車をスタートさせた。
「いったい、何ごとなの」
びっくりしている藤子に、七瀬はいった。
「あとでゆっくり説明するわ。それよりみんな、今、何もものを考えないで。頭の中をからっぽにして。あの連中に読み取られているから」
パトカーの傍らで、一見茫然と立ち尽しているかに見える二人の刑事が、自らの意識に殻をかぶせたままで、七瀬たちの方へけんめいに思念を向けていた。藤子のことが知られては一大事だった。
「そんなに急に、ものを考えるなといわれたって」苦しげに両の顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》を押えながら、藤子が悲鳴をあげた。そしてすぐに、流行歌手の名前と顔を順に、できるだけたくさん思い出そうとしはじめた。
ノリオは九九をやりはじめ、へンリーは英語でテンポが早く歌詞のややこしい曲を頭の中で歌いはじめていた。
「そう。それでいいわ」
相手は受容力の弱い普通人だから、それだけで充分彼らのレーダーをくらませることができる筈だった。七瀬自身も、思考を隠す方法を自分なりに考え出して訓練し、今ではそれをほぼ体得していた。広場を横切った車が街道へ入ろうとする時、七瀬がちらと振り返ると、二人の刑事は派出所の前で警官たちと一緒に、まだ七瀬たちの車を眼で追いながら思案に暮れていた。
「追ってはこないの」車が町を出はずれ、もう彼らの触手が届かぬ筈と思える距離まで来た時、自分の使命を完全に果し終えて上機嫌のノリオがそう訊ねた。
七瀬はいった。「ええ。追ってこないと思うわ。自分たちだけで追ってきたって、手の打ちようがないことをあの道中は知っているから」
「たとえ追ってきても、逃げ切って見せますよ」ヘンリーが白い歯を見せて笑った。「こっちが例の、崖崩れの場所さえ通過してしまえばね」
これで連中が超能力者への挑戦をあきらめてくれればいいのだが、と、七瀬は祈るような気持でそう思った。
藤子が七瀬たちの家に逗留《とうりゅう》をはじめてから四日経った。その間、超能力者の抹殺を企てるあの組織の連中が湖畔の家の近くまでやってきた気配は、神経を尖らせて周辺数キロの範囲を警戒し続ける七瀬のアンテナでさえ捕捉したことは一度もなく、七瀬は、あるいは彼らが四日前の事件によって七瀬たちの恐ろしさを知り、とても刃が立たぬとあきらめてこの付近から撤退してしまったのではないかという希望を抱きはじめていた。だが一方では、底知れぬ彼らの組織力を思い返すたび、彼らがこのまま引っ込んでしまう訳がないという気もして、警戒を解こうとするほど安心することもできなかった。むしろ、この数日間何の気配も示さないのはその間、彼らがどこかで着々と思いきった攻撃手段を考え、準備しているからではないかとも考えられ、時おりは、こんなにのんびりしていていいのだろうかという不安に苛《さいな》まれ、夜眠れぬことさえ何度かあった。
そんな時、慰めにもなり心丈夫にもなるのは、なんといっても時間旅行という切札的な超能力を持つ藤子の存在だった。彼女と一緒にいさえすればどのような変事が起ろうと時間遡行することによって常にゼロ時点に引き返すことができるのだから、これほど力強い味方は他にいない筈だった。ただ気になるのは、超能力者四人が揃って食卓を囲んだり雑談をしたりしている席上、自分たちの超能力に話題が及ぶたび、彼女の見せるいささか憂鬱そうな様子だった。まさか超能力をなくしたのでは、と心配した七瀬がそっと彼女の心を盗み見たが、特にそんな様子もなく、なんとなく自分の能力を疎ましく思う気持がぼんやりと感じとれるだけだった。恒夫が射殺された事件を時間的に否定することはできないかという話も二度ほど持ち出してみたが、藤子は悲しげにかぶりを振り、出来ないことはないが大変むずかしいと答えるだけで、なぜむずかしいかを説明しようともせず、彼女の心をまさぐってみても何やら哲学的な思考の断片が渦巻いているだけで、はっきりした考えは読み取ることができなかった。
その夜七瀬は、藤子と二人で寝起きすることにしている二階の自分の居間で、夕食後彼女と一人きりになった時に訊ねてみた。「ねえ、藤子。あなた自分の能力のことで何か悩んでいるんでしょう」質問することによって彼女の考えていることをすべて意識の表面へはっきりと浮びあがらせ、それを読み取ろうとしたのである。
藤予はむろん、七瀬が、藤子自身の自分でもよくわからない混沌とした思考の空まわりに疑問を抱いていることは想像していたし、いつかはそれについて訊ねられるだろうと予想してもいたので、七瀬のことばに小さくうなずき返してから、仮定や論理や疑問などの断片を頭の中で筋道立て、順序よく整理しはじめた。
「自分でも、よくわからないんだけど」西洋の宗教画に描かれている天使のようなふっくらとした顔を憂いに曇らせて、藤子は考え考え、ゆっくりと話しはじめた。「たとえばわたしがB時点からA時点へ遡行したとするでしょう。当然その時のわたしは、A時点からB時点までの間に何が起ったかを知っていて(第一の時間AB)それを否定するために戻るわけね。(第一の時間ABの否定)そして今度はa時点からb時点(第二の時間ab)までの出来事を自分に都合のいいように発展させるわけでしよう。(第二の時間abの肯定)するとその場合、第一の時間ABに連続して起る筈の出来ごとはどこへ行ってしまうのかしら。(ここからはわたしにもわからないのだけれど)そのまま消滅してしまう筈はないと思うのよ」
あっ、と七瀬は思った。藤子の考えているのはいわゆる多元宇宙であり、彼女は時間旅行者としての自分の存在が、つまり彼女の時間旅行が、多元宇宙の発生につながっているのではないかと疑っているのである。そして藤子は、自分の新しく発生させた宇宙が、悪しき宇宙に違いないという考えを抱いてしまっているのだ。
藤子は話し続けた。「たとえば以前、わたしはあなたがたの危険を、時間遡行によって救ったわね。あの時もそうよ。わたしとあなたは時間遡行しただけでなく、時間遡行することによってもとの時間ABの延長上の世界を抛棄し、別の世界へ、そこを自分たちの都合のいい世界にするため、とび移ったともいえるわけでしょう。(第一の時間Bより第二の時間aへの移動)でも、その世界へとび移ったことによって助かった第一の時間ABにいた超能力者はわたしたち二人だけで、あのとき第一の時間ABの延長上の世界にとり残されたノリオとヘンリーはどうなっているかしら。わたしたち二人が消えたことによって立場としては、わたしたち二人が消えなかった場合より、さらに悪くなっている筈よ。だってノリオの精神感応能力は、超能力者が自分の身を守るための実戦上の武器としてはたいした効果がないし、ヘンリーはあなたがいなければ念動力を発揮できないのよ」
恒夫の救出行に同意しなかった藤子の気持がやっと理解でき、七瀬は溜息をついた。「恒夫さんを助けに行った場合にも、そういうことが起り得るっていうのね」
「そうよ」藤子は強くうなずいた。「どんな場合にもよ。たとえばここでわたしが第二の世界のa時点へ恒夫さんを救いに行くために消えたら、この第一の世界に残ったあなたはどっちみち恒夫さんには会えないのだし、時間旅行を厭がっていながら矛盾した、言い方だけど、あの組織の連中に対抗するためのわたしという戦力をひとつ失うことにもなるわ」
七瀬は眼を見ひらいた。その通りなのだ。その上、恒夫の死の直前、藤子と七瀬は別の場所にいたのだから、この前のように二人一緒に時をのぼることもできない。恒夫が未来を予見した情景の中に、彼と七瀬が会っているシーンはひとつもなかったことを今さらのように思い出し、七瀬は絶望して悲しげにかぶりを振った。「そうね」やっぱり彼とは、もう二度と会えないのね。
(このひと、恒夫さんが好きだったんだわ)
七瀬の様子をじっと見つめながらそう思った藤子に何の反応も見せず、七瀬はしばらく考えこんだ。
やがて藤子はべージュ色のネグリジェ、七瀬はブルー・グリーンのパジャマにそれぞれ着換えてベッドに入った。
電灯を消してから、急に七瀬は喋りはじめた。「でも、だからといってあなたがこれ以上の時間旅行を厭がるのはおかしいわ。多元宇宙というのは、もともと、無数に平行して少しずつ異った世界が存在しているという考え方でしょう。そんな多くの世界のどれもこれもにあなたが責任を感じる必要はないんじゃないの」
暗闇の中で、藤子がベッド上に上半身を起したことを七瀬は知った。
「でも、たとえばその世界のノリオやヘンリーだって、やはり生きているのよ」激しい調子で藤子はいった。「この世界のノリオやヘンリーとほとんど変るところのないノリオやヘンリーなのよ。そのノリオとへンリーが、自分が去ったあとの世界で、自分が去ったために苦しむことになると知りながら、自分だけ時間旅行する気にはなれないわ。あなたなら、そんな気になるかしら」
それ以上の反駁《はんばく》は、七瀬にはできなかった。藤子の考え方を否定する根拠もなかった。
「じゃあ、時間旅行者は何のために生れてきた超能力者なの」七瀬はかすれた声でいった。「あなたの考え方だと、時間旅行者は時空連続体を破壊するための存在、念動力者は物理的秩序を混乱させるための存在、予知能力者は神によって定められた神聖な運命を嘲笑する存在で精神感応能力者は人間の尊厳を犯す存在だということになるわ。それこそ例の組織の連中が考え出すにふさわしい考え方じゃないの。
「もう、いじめないで」泣きそうになりながら、藤子は毛布を頭からかぶってしまった。(わたしって、哲学的な頭は持っていないのよ)
たしかに藤子の心理は、七瀬に比べてはるかに女性的だった。しかし間題は、七瀬にとってさえあまりにも哲学的すぎ、それ以上深く考えることはなかなかできなかった。
ひとつの大きな疑問だけが頭に残り、藤子が眠ってしまって彼女の甘ったるい夢が七瀬の胸に流れこんできても、いつものように、それによって眠りを誘われることはなかった。七瀬は考え続けた。
超能力者は何のために生れてきたのか。
翌朝、蝦夷松《えぞまつ》や椴松《とどまつ》の生い繁ったなだらかな山道を、七瀬と藤子は湖畔の家の裏山にある山小屋に向って登り続けていた。時おりひと息つくために立ち止り、見おろすと、深緑の森に囲まれて鏡のような湖水の面が碧《あお》く光っている。絵葉書やカラー写真の下品な色調ではとても及ばぬその自然の色の美しさに見惚《みと》れながら藤子は、いつ叔父の牧場へ帰ろうかと思案していた。
(ゆっくり遊んでこいとは言われたけど)(もっとここにいたいけど)(わたしが帰ったあとのこの人たちのことも心配だけど)(でも、あまり長逗留しても邪魔だろうし)(あと二、三日したら)
「そんな。何をいうの」七瀬は驚いて、藤子の思考を今まで覗いていたことを隠しもせず彼女に言った。「あと二、三日なんて、早過ぎるわ。こっちはいつまでもいてほしいと思ってるのよ」
心を読まれていたことがわかっても、藤子は、うろたえるとか恥ずかしがるとかいったたいていの人間が示す反応をまったく見せなかった。時間旅行者であるが為の使命感や自負心が、ちっとやそっと心を覗かれたくらいではとり乱したりしない特異な自我を形成したのであろうし、また、超能力者であるが為の孤独を慰めてくれる存在は七瀬ただひとりだから、彼女に対しては心を隠すどころかむしろ何もかもさらけ出したいほどの気持でいるようだった。「それに、今帰るのは危険だわ」七瀬はけんめいに藤子を引きとめようとした。「もう少し様子を見てからにしたら」
「ええ。そうね」藤子はうなずいた。「ありがとう」なかばそれを期待してわざと帰ることを考えはじめたふしもあるらしく、七瀬が引きとめてくれることを藤予は喜んでいた。牧場へは、あまり帰りたがっていなかった。
無理もない、と七瀬は思った。あちこちの家庭を転々と渡り歩いていたお手伝いさん時代の自分の孤独感を思い出したのである。超能力者は同胞のいるところでない限り、たとえそこが故郷であったとしても、やはり異邦人なのだ。
ダー・バッグを肩にかけ、藤子をうながした。
万一山の中へ逃げ込まなければならなくなった時の用意に、二人は散歩がてらに山小屋へ保存用の食糧を運んでおくことにしたのである。藤子もジュースの罐を入れた買物袋を提げ、七瀬に続いた。
「ノリオとヘンリーを残してきて、大丈夫だったかしら」と、藤子がいった。(いやな予感がするわ)
「あら。あなたもなの」七瀬はぎくりとして藤子を振り返った。七瀬も藤子も、自分たちの予感だとか勘だとかの適中率の高さを、並の女性がそうである以上に信じていたからである。「わたしもいやな気がするの。小屋へ着いたら、すぐ帰りましょう」
念のため、七瀬はノリオと交信してみた。だが、湖畔の家には異常がなく、ノリオによれば家の周囲にもあやしい気配は感じられないということだった。いつもなら必ず四人一緒の行動をとるのだが、今日はノリオが風邪気味だったので、ヘンリーを付き添わせ、家に残してきたのである。
いつ誰が建てたのかもわからぬその古い山小屋のある場所は、湖畔の家から歩いて三十分ほどの山腹で、すぐ背後に迫っている崖や、周囲の木や草のためひと目につきにくいところにあった。
「いい隠れ家じゃないの」丸木を縦に組んだ戸口の前に立ち、藤子はいった。
「ええ。でも、ここに隠れなければならないようになったとしたら、その時はすでに最悪の事態になっているのよ、だって、もうこれ以上逃げ場はないんですものね」七瀬はそう答えながらやや気遣わしげに小屋の周囲を見まわした。だがさいわい、最近あたりに人が来た様子もなく、研ぎすました神経で四周を探っても、あの組織の連中が付近の川や森の中をうろついている気配はなかった。
藤子が小屋の戸をあけ、先に中へ入った。
七瀬はもうしばらく、まるで森の小動物が自分の巣の安全を確かめるためあたりを嗅ぎまわるように、周囲をよく調べてから小屋に入った。
小屋の中には、先に入った筈の藤子の姿がなく、彼女の持ってきた買物袋が小屋の隅に置いてあるだけだった。
「藤子」七瀬は不安を感じ、彼女の名を呼びながら、また外へ出たのかもしれないと思ってその場にショルダー・バッグを投げ捨て、戸口へ引き返した。
何か重いものをぶつけるか、強い力で叩きつけたかのように勢いよく戸が外側から閉った。藤子の身に何か起ったに違いないと七瀬は思い、いそいで、何ものかが外から圧力を加えているように感じられる重い戸を肩で押しあけて外へ出た。
戸に凭《もた》れ、血まみれの藤子が倒れていた。姿を消してたった数秒の間に、彼女は服に焼け焦げをつくり、頬には火傷《やけど》を負い、そして胸からは血を流していた。
紙のような顔色になり、眼を閉じてぐったりしている藤子を見た瞬間、七瀬は息をのんで立ちすくんだ。つい今しがたまで彼女の元気な様子を見ていたその一瞬後であるだけに、七瀬は現在自分の見ている藤子の無残な姿がなかなか信じられなかった。だが、藤子の弱よわしい意識の呼びかけに、七瀬ははっと自分をとり戻した。
「藤子」悲鳴のような声をあげ、七瀬はすぐ藤子を抱き起した。「戻ってってきたのね。あなた、どこかから戻ってきたのね。藤子。どこからなの」
何ごとか喋ろうとした藤子が、口からげぶっ、と大量の血を吐いた。
「喋らないで」七瀬は藤子の耳もとでそう言った。「考えて。読み取るから」
(わたしの最後の時間旅行)(遡行したの)(二十分後の未来から)(ここまでしか遡行できなかったの)(わたしにはもう、これ以上遡行する精神力が)(ご免ね)藤子はうっすらと眼をあけ、焦点の定まらぬ視線を七瀬に向けた。(襲ってきたのよ)(奴らが)(湖畔の家に)湖畔の家が燃えあがっている情景を、藤子は心に描いて見せた。(火をつけられて)(いそいで戻ろうとしたわたしは殺されたの)(撃たれて)(警官隊)(大勢)(ナナちゃん)(あなたは逃げて)眼を閉じた。
(すぐにここから逃げて)(もっと山の中へ)すっ、と藤子の意識が遠ざかって行きそうになった。
「それで」七瀬は大声で訊ねた。「ノリオは。ヘンリーは」
けんめいに、藤子はかぶりを振った。(駄目)(助けに行っちゃ駄目)(あなたまで撃たれてしまう)(すぐ逃げて)(あなたひとりだけでも)一瞬、七瀬の眼の前はまっ暗になった。彼女は藤子の心に、燃えあがっている家を背景にしてノリオとヘンリーが倒れている光景を見たのである。
(ありがとう)(ナナちゃん)(楽しかったわ)(生れてきてよかった)(時間旅行者として生れてきて)自分の時間旅行能力に疑問を抱きながら、最後の瞬間に、瀕死の重傷を負ったままで七瀬に警告するため過去へ遡行してきた藤子は、もう一度、暗闇の中にともった灯のようにぽつりと(ありがとう)と洩らして、その意識を暗黒の中へ溶けこませた。
その(ありがとう)が、彼女の能力を最後まで肯定し、彼女の苦悩を柔らげようとしてくれた七瀬の思いやりに対するものであることを知り、七瀬は泣き出してしまった。藤子は自分の最後に行なった時間遡行が、その七瀬に警告するためであったことを喜びながら死んだのである。
声を出してむせび泣きながら、七瀬は動かなくなった藤子の柔らかいからだを地面に横たえた。
七瀬の服は藤子の血で染まっていた。七瀬はじっと藤子の死顔を見つめ、彼女に別れを告げた。だが、いつまでも彼女の死を悲しんではいられなかった。七瀬はすぐに立ちあがり、山道を駈けはじめた。どんなに危険であっても、湖畔の家へ戻るつもりだった。たとえ藤子の警告に背《そむ》いてでもノリオとヘンリーを救わなければ、と七瀬は思った。
(―→―→―→ノリオ)(―→―→―→ノリオ)(―→―→―→気をつけて)
黒い矢印の警報を、まだ何も知らず自分のベッドでうとうとしているノリオに向けて発しながら、七瀬は森の中の傾斜を駈けた。曲りくねった両道からはずれ、潅木《かんぼく》の繁みの中も走り抜けた。服が裂けた。下生えに足をとられ、つんのめりながらも、本の問を抜け、走り続けた。恒夫が死に、藤子も死んだ。わずかに残ったノリオやへンリーまでが死んでしまったのでは、わたしはまた一人ぼっちになってしまう。それなら、それくらいなら、わたしも死んだ方がましだわ。自分の身の危険や死に対する恐怖は今の七瀬にはなかった。わたしが馬鹿だった、と七瀬は思い、気が狂いそうなほどの後悔に頭の中は熱く赤く燃えあがっていた。連中は、奴らは、わたしがヘンリーと離ればなれになる機会をうかがっていたのだ。きっと遠くの山から望遠鏡ででも見張っていたに違いない。なぜなら彼らにとってはへンリーの念動力が最も恐ろしい武器だったのだから。そして彼らは、わたしが傍にいない限りヘンリーがその能力を使えないということも当然知っていたのだ。ああ。わたしは馬鹿。わたしは馬鹿。いくら警戒ばかりしていたって、肝心の防備がなってなかったじゃないの。悔んでも悔みきれない自分の迂闊《うかつ》さへの怒りを七瀬は自らの駈ける力に向け、とぶように森を走った。
(―→―→―→お姉ちゃん)(―→―→―→火事だ)
突然ノリオの警告が、七瀬の意識に大きくとび込んできた。ノリオの視界を通して、ノリオの部屋いっぱいに煙が立ち籠《こ》め、壁やカーテンが燃えあがっている様子を七瀬は見た。今までまったく何の気配もなかったところへあがった火の手だから、ノリオがただの火事だと思ったことも無理はなかった。だが、大勢の警官に襲われながら、なぜその気配にノリオが気づかなかったのか、その理由を考えている余裕は七瀬にはなかった。
七瀬は呼びかけた。(ノリオ―→―→―→)(火をつけられたのよ)(襲ってきたのよ)(あいつらが)(逃げなさい)(裏口から)(ヘンリーと一緒に)
(ヘンリーはここにいないよ)(ヘンリーはきっと、火を消しに行ったんだ)すぐにヘンリーの意識を捕えたらしいノリオが、大きく叫んだ。「ヘンリー」(ヘンリーは玄関で火を消している)(あ)(火が消せないとわかったので、ヘンリーはこっちへ来るよ)(ぼくのベッドヘ)「ヘンリー。早く来て」
七瀬も、駈けながらヘンリーの意識を捕え、ふたりの行動に心を集中させた。
「ヘンリー。お姉ちゃんが早く逃げろって言ってるよ。裏口から」
ノリオの傍へやってきたヘンリーが叫んでいた。「ノリオ。奴らが襲ってきました」(警官隊だ)(死霊《ゾンビー》のような)なぜかヘンリーは、警官たちの様子を家の中から見て、恐怖におののいていた。(あれは死霊《ゾンビー》だ)そのおそれかたはまるでヘンリーの中に流れている黒人の血が、彼の遠い祖先から伝わる原初の恐怖感情を蘇らせたかのようであった。
(ノリオ。着換えなどしないで、そのまま逃げなさい)
七瀬の指示にしたがい、ノリオはパジャマのままでヘンリーとともに裏山に面している裏口の方へ走った。裏口まで警官たちに包囲されていたら、と思い、七瀬は慄然とした。
湖畔まであと数百メートルの地点で、家のあるあたりから薄茶色の煙が大量に立ちのぼっているのを七瀬は見た。しかし、家のすぐ傍まで駈けつけているのに、大勢でやってきて自分たちが放火した家の前に集結しているというその警官たちの意識は、七瀬がいくら思念を凝らしても、ごく微弱にしか感じ取ることができなかった。
裏口までやってきたノリオとヘンリーは、すぐ横の台所の窓から外に誰もいないかどうかを眼で確かめ、さらにノリオが自分に備わったレーダーで付近を探知した。
(何かいる)(何かいる)(だけど、それが何だかわからない)(おかしな気配がするんだけど)(弱い)ノリオは怪しい雰囲気をドアの外に嗅ぎつけ、ヘンリーとともに裏口で立ちすくんだまま、七瀬の指示を求めてきた。(どうしたらいいの)(何かが外にいるんだよ)(ヘンリーは、ゾンビーだって言ってるけど)(ゾンビーって何)(ぼく、怖い)(本当にこのまま逃げてもいいの)(本当にとび出しても大丈夫なの)
七瀬は駈け続けながら迷い、考えた。ヘンリーが死霊《ゾンビー》なる表現をしたその奇怪なものが正真正銘の警官たちなのかどうかはともかくとして、家に放火した大勢の人間がいる以上は、いくらその人間たちの意識が微弱であっても、まだあたりに存在していることは間違いなかった。いくらその意識を読み取れなくても怪しい雰囲気が漂っている以上、裏口の外にも何者かが待ち伏せていると考えていい筈だった。そしてまた、あの大きな山荘が焼け落ちるにはまだ間がある筈だった。
(そこにいなさい)逃げろと告げたことを撤回して、七瀬はノリオに命じた。(苦しくっても、熱くっても、我慢して)(お姉ちゃんがすぐ行ってあげるから)
すぐ眼の下に湖畔と家とが見えた。自分さえ駈けつければ、ヘンリーの念動力に頼ることができ、包囲を突破することもできるだろう、と、七瀬は考えたのである。だが、木造の天井に火のまわりは早く、炎の舌ははや台所の天井を舐めていた。煙が台所いっぱいに充満していた。
「このままでは窒息してしまいます」と、ヘンリーが叫び、ノリオの腕をつかんだ。「逃げましょう」
(待って)と、七瀬は心で大きく叫んだ。(もう少しだから)(わたしが行くまで、もう少し我慢して)
その叫びは精神感応能力を持たぬヘンリーには聞えなかった。ヘンリーはノリオの手をつかんだまま、裏口のドアを開け、走り出た。そのまま裏山へ駈けあがろうとした。(ああ。うまく逃げて)七瀬は祈った。(そのままうまく山の中へ逃げこんで頂戴。お願い)
ごうごうと燃えあがる山荘をすぐ下に見おろした七瀬は、その時、数発の銃声と、へンリーの絶叫をはっきり耳にした。それと同時に、ノリオの死の直前の苦痛が彼女の胸を焼いた。ノリオは胸を撃たれ、ヘンリーは腹部を射抜かれていた。
(お姉ちゃん)(ぼく殺された)
ぷっつりと、ノリオの意識が絶えた。
(ノリオ)(ノリオ)(ノリオ)(返事をして)(死んだの)(本当に死んだの)
七瀬のけんめいの呼びかけに、だが、ノリオの答えは返ってこなかった。七瀬の唯一の交信相手であったノリオの、あのいつもの幼い、可愛い応答はもはや、二度と捕えることはできなかった。
がくっ、と、からだから力が抜けた七瀬は、たたらを踏み、傍らの蝦夷松の幹に凭れて絶叫した。「ノリオ」
(七瀬さん)(七瀬さん)自分の死を悟ったヘンリーが、しきりに七瀬へ告げていた。(逃げてください)(相手は死霊《ゾンビー》です)(逃げてください)
七瀬の叫び声を聞きつけて、近くの木の蔭から、潅木の繁みの中から、警官たちがあらわれて、銃口を七瀬に擬したままゆっくりと近づいてきた。眼をなかば閉じた無表情な顔をし、まるで機械人間のようにぎこちない歩きかたで、彼らは徐々に七瀬の方へやってきた。こんなに大勢の警官がどこから、と思うほどの人数だった。彼らはたしかにへンリーの形容した死霊《ゾンビー》に似て、自らの意志を持たず、ただ命令されたままに動いていた。ではあの殺人者たちは、墓場から死者を蘇らせ、自らの命じるままに行動させる術を知っていたのだろうか、と、一瞬七瀬が思ったほど、彼ら警官たちは不気味で、死の匂いをあたりへ発散させていた。だがすぐに七瀬は悟った。これは催眠術だわ
警宮たちは強力な催眠術をかけられ、自らの思考力と行動力を奪われてしまっていた。意識は持っているものの、その自我の大部分の機能は停正させられていて、その為にこそ七瀬には彼ら自身の思考を微弱にしか感じ取れなかったのである。今は二人になってしまっているあの、組織に属した刑事は、刑事という立場を利用し、自分たちの生命の危険を避けるため、大勢の警官を集めてきて、自分たちの意志のままに動くロボットにしてしまい、ここへ送りこんだのである。彼らは服やからだに火の粉が振りかかっても平気で歩き続け、中には服の肩の部分を燃やし小さな炎をあげている者さえいた。七瀬の上にも灰と火の粉が降りかかり、髪が焼け、服が焦げた。
なぜ自分は逃げようとしないのか、と七瀬は考えた。ノリオやヘンリーの死を見てこの世に絶望し、死んでもいい、死んだ方がいいと思っているためだろうか。それとも疲れきった両足が、さらに死霊《ゾンビー》のような警官たちを見てすくんでしまい、動かなくなっているためだろうか。
(逃げてください)ヘンリーの意識が次第に弱よわしくなり、彼方の虚無た向って過ざかりながら七瀬に告げていた。(七瀬さん。わたしはあなたの讃美者です)(七瀬さん。わたしはあなたの崇拝者てす)(七瀬さん。わたしはあなたの)
七瀬がヘンリーの死をはっきり認めた時、彼女のいちばん近くまで進んできた警宮が突然拳銃を発射した。弾丸は七瀬が凭れていた蝦夷松の幹にあたり、その衝撃で七瀬は全身を半回転させた。足がひとりでに森の奥へ向き、彼女はふたたび駈けはじめた。逃げよう、と、七瀬は思った。逃げられるだけ逃げてみよう。藤子の死を、ノリオとヘンリーの死を無駄にしないためにも、なんとかひとりで生きてみよう。
銃声が森に谺《こだま》した。七瀬のからだを何発かの銃弾がかすめ、中の一発が彼女の右の肩を撃ち砕いた。七瀬は駈けながら呻いた。撃たれてしまった。でも、ここでは死なないわ。どうせ死ぬなら、誰もいないところへ行って死んでやるわ。
疲労と苦痛、それに悲しみが、ともすれば七瀬の全身を大地へ押えつけようとしていた。しかし七瀬はそれに耐え、駈け続けた。血が肩からあふれ出ていて、服をつたい、足までを赤く染めた。山腹の、よりなだらかな傾斜を求め、七瀬は森の中を逃げ続けた。もう銃弾は襲ってこず、振り返って見てもあの亡霊のような警官たちの姿は見られなかった。でも、きっと彼らは追ってくる、と、七瀬は思った。今も血の痕《あと》を追い、あのロボットのような歩きかたで、ゆっくり、ゆっくりと追ってきているに違いない、そう思った。
七瀬は走るのをやめ、よろめきながら歩きはじめた。もう、気力がなくなりかけていた。七瀬は自分の死を、すでにぼんやりと悟っていた。やがては人のこない山奥で、出血多量のために死ぬだろうということを知っていた。しかし彼女は、少しでも遠くまで歩いてから死のうと思った。なぜそうするのかは、もうわからなかった。なぜ歩いているのかさえ、ときどきわからなくなった。
歩きながら、彼女は何ごとかをつぶやき続けていた。何をつぶやいているのか彼女自身にもわからなかった。しかし彼女は、まるで祈るようにつぶやき続けていた。自然よ。なぜ超能力者などという突然変異を人類にあたえたのですか。ああ。そうなのね。突然変異体が迫害されるのは当然だというのね。それじゃ、わたしたちが死んだあとで、もっと多くの超能力者が生れてくるの。じゃ、その人たちは普通人を自然淘汰するの。ねえ。どうなの。なんとか仲良くやっていくことはできないの。ああ。そんなこと、わたしにとってはもうどうでもいいことだわ。でも、その時は、お願いだから、その人たちにわたしたちのような苦しみを味わわせないでね。迫害される苦しみを、できるだけ柔らげてあげて頂戴。神様。なぜ超能者をこの世に遣わされたのですか。人類を試すためだったのでしょうか。それなら、もしそうだとしたら神様、人類はまだまだです。
人間たちに追われている超能力者にとってはあまりに非現実的な幻聴が、そして幻覚が、歩き続ける七瀬の心を慰めていた。ノリオが(お姉ちゃん)とささやきかけた。藤子が(ナナちゃん。こっちよ)とささやきかけ、七瀬を導いた。そこは暖かい団欒《だんらん》の部屋だった。ノリオもヘンリーも、そこにいた。藤子もいた。恒夫もいた。皆が笑っていた。そこは無数に、平行に存在する多元宇宙のどこかひとつの世界。藤子の時間旅行能力によってすべての超能力者が迫害を受けずにすんだ世界。その世界では七瀬の知っている、七瀬の友人だった超能力者全員が楽しく集い、歌っていた。皆が歌っていた。時よ謳《うた》え。われら超能力者の団欒を。時よ謳え。
いつの間にか七瀬は、木の根かたの下草の上へ仰臥していた。太陽は中天《なかぞら》にあり、その光は横たわった七瀬の頭上、風にそよぐ木の葉越しに暗い森の中へも射し込んでいた。七瀬は血にまみれた胸を大きく波うたせながらながい間、枝や葉に遮られてちらちらしながらもわずかに見える青い空を見あげていた。楽しかったことだけが葉のはざまの光の乱舞につれて次つぎと浮び、通り過ぎて行き、その幻想がすべて通り過ぎて行ったのちに七瀬がちらと口もとへ微笑を浮べた時、深い虚無がやってきた。
[#改ページ]
解 説
[#地付き]平岡 正明
とてもいい書き出しだ。夜汽車で火田七瀬の見た予知場面なのだな、と気づいたとたん――それは最初のページで気づくのであるが――スイと作品の流れに乗っていける。
「熊の木本線」の帰りなのだな、エスパー火田七瀬はたまたま迷いこんだ熊の木一族の本所で、※[#歌記号、unicode303d]なんじょれ熊の木 かんじょれ猪《い》の木 ブッケ ブッタラカ ヤッケ ヤッタラカ……と本歌を歌って日本に悪道を招来してしまっての帰りみち、カーブの多い崖下の夜を悲鳴みたいな警笛を響かせて走るメドレー・トレーン(鈍行列車)に乗りあわせたのではないか、と思う。この推測は筒井ファンには納得できるはずだ。詳論できないから、興味ある人は『熊の木本線』(『おれに関する噂』所収、新潮文庫)を読み返していただきたい。『七瀬ふたたび』の第一章「邂逅」が一九七二年の十月、『熊の本本線』が七四年一月で、その間一年三カ月のはばがあるが、いずれにしろ一九七二年のどのあたりかで筒井康隆は夜汽車のなかで幻覚体験があったのではないかと想像される。
想像ついでに話をすすめると、都会人はプラットフォームに五分も待っていれば次の電車がくると思いこんでいるから、そのつもりで旅行をして、寒村の駅で次の列車がくるまで一時間半も待たなくてはならないと知ったときに哲学者≠ノなるものだ。行先や列車種別もかまわずに乗りこんで、停車場を離れると、おれは旅しているんだな、ということがつくづく実感できる。こんな時には凡人でもトンネルの向うは大惨事だったという気分になるものである。『七瀬ふたたび』の書き出しは、ほんとに自分が夜汽車にのっているような気持で読める。三列先に超能力者がいても不思議ではない。
五年余の時空を駆けて火田七瀬はお手伝いさんから、超美人を経て、女神になる寸前まで全力疾走してきた。女神の寸前で、キキキと音をたてて、タイヤが焦げるほどの全制動を筒井康隆がかけたのがわかる。『エディプスの恋人』による七瀬三部作の完結である。
書誌的に言えば、第一作『家族八景』が七二年の二月、三年後に『七瀬ふたたび』、さらに二年後『エティプスの恋人』が上梓《じょうし》される。(日付はいずれも新潮社版単行本の上梓時。)筒井作品にあっては、すべての作品系列が生きているのだが、七瀬シリーズは作者がうちきった唯一の作品系になっている。なぜか? 全速で飛ばす筒井康隆の視界に〈……の沙汰も金次第〉という危険信号がとびこんできたからだと思う。神格寸前、オールマイティに近づいた火田七瀬をいつまでもあやつっていたら、筒井康隆自身がSFブームに溺れかねない。場ちがいで失礼だが、『人狼白書』と『人狼天使』の平井和正狼男≠ヘなんてザマだ。
現下のSFブームの中で、順境《ヽヽ》によわいSF作家たちが何人か溺れた。しかし筒井康隆は七瀬シリーズを残心(武術の用語である、余力をもって動を静におさめること)をもって完結した。これは第一級の作家にふさわしい力倆《りきりょう》である。三部作全体を素描してみよう。
第一作『家族八景』は舞台が家庭である。第二作は国家である。第三作は神である。全体としてみると七瀬三部作は、家庭−国家−神を主題とする筒井康隆スキャンダラス神学になっている。
これがはじめから意図されたものかどうかはわからない。そして第三部『エディプスの恋人』はがぜんギリシャ神話のパロディ的再生になっており、ここからふりかえると、全体はオレスティア三部作に似てくる。これもはじめから意図されたものかどうかはわからない。
『家族八景』は逆ホームドラマだ。ナナちゃんが意識のかけがねをはずすと、無知と嘘とが支えあいながら、居間のテレビ番組をバックグラウンド・ミュージックにしてやっと家庭らしさを保っている市民の、ゴミのような意識が流れこんでくる。亭主の助平心、主婦の鈍い慾望と嫉妬――平凡で幸福な家庭とはこの世のひどい場所だ。
エスパーをホームドラマに登場させるというアイデアは「奥様は魔女」などいくつかあるが、中山千夏主演、佐々木守脚本の一連の脱TVドラマと筒井康隆『家庭八景』は現代怪談の双璧《そうへき》だろう。ちなみに述べておくと、このレベルの脱ドラマがいま歌謡曲で歌われるようになったら庄野真代「飛んでイスタンブール」などがそうだ。
七瀬は魔女狩りをうける。彼女の受難は『家族八景』第一話にしてすでに、自分が超能力者であることをさとられないために、小銭泥棒の汚名を甘受して尾形家を去るところからはじまっているが、彼女のスケールは、逆ホームドラマには収まりきらないだろうと思っていたところ、超美人に変身して『七瀬ふたたび』に転生した。こんどは新生人類=エスパーを抹殺せんとする特殊警察との戦闘である。
いかに七瀬が気高く、美しいかはただいま読まれたとおりである。しかしここまで美しく変化し、作品世界も、下水管に目鼻のような地獄八景、じゃなかった、『家族八景』からぬけるのは予想を超えた。次々に倒されていくエスパーたちが、死の瞬間に見たものをナナに伝えるシーンは涙が出る。俺はこの七瀬と、ルヲヲーンと月に吠えて宣戦布告する狼男、犬神明が大好きだ。かれらはなんと美しい戦いを描き出せたのだろう……だから『人狼白書』以後の狼男に腹が立つが、これは別の機会に。
七瀬の超能力について一つ注意しておくと、彼女は念動力や時航力を持っていなくて、相手の心を読みとる感応力をもっているにすぎないということだ。それが他のエスパーたちと組みあわされると最強の武器になる。その組みあわせかたは読まれたとおりだが、情報力が力の根源になる、という筒井康降の認識が興味深い。超絶の術者同士が殺しあって、パズル的に作品がとじられていく山田風太郎忍法帖を破るのがこの方法である。筒井康隆は長編『俗物図鑑』を執筆するに際して、水滸伝を周到に分析したように見える。水滸伝再生の鍵の一つは、神行太保戴宗《しんこうたいほうたいそう》にあるというのが竹中労や俺の判断だった。戴宗は梁山泊《りょうざんぱく》党の情報宣伝相の位地にある。水滸伝で戴宗の活躍がさして際だたないのは、宋末元初の戦争の限界であり、それから五百年もすれば、戴宗は、軍隊と行動をともにする政治委員の役割になるだろう。火田七瀬は、比喩的にだが、エスパーたちの政治委員の立場にいる。水滸伝との比較でいま一つ言っておくと、エスパーたちの死は、水滸伝後段における、張順や楊志の討死のように悲壮である。描写力と作品の香気だけでも『七瀬ふたたび』は第一級の文芸作品だ。大地母神(パチャママ)のようなへニーデ姫、予知者石淵恒夫、念動者ヘンリー、時航者漁藤子らが出てきて、あっ、この作品はSFだったな、とあたりまえのことに気がついた。
『エディプスの恋人』で火田七瀬は神に近づく。女神である。筒井康降にあっては、生命力と神性は、実験小調(実質的な処女長編)『幻想の未来』(南北社)いらいずっと女性形である。この実験作は、核最終戦争後八千万年で、地球史が宇宙史にくみこまれる長尺のストーリーで、動物史−植物史−鉱物史と連鎖して宇宙意志に一致する。核戦争で生き残った最後の人類は女である。彼女は地下二百メートルのシェルターから出てきて、怪物を生んで死ぬ。怪物は植物化していて、亡んだ人類がのこした浮遊した意識にしたがって生き、異種交配して生命をのこす。人類滅亡後五千万年、地球最後の生命は、草である。この草と、寸描からやってきた知性ある石が会話をする。女性形のこの草の話体がエロチックなほどだ。この有機体生命の草が死んでさらに三千万年、ついに生命を持った海と陸とが会話するようになる。この海と陸の会話は神のことばである。
(ちなみに述べておくと、筒井康隆二代目会長下の全冷中〔全日本冷し中華愛好会〕では、神のことばの予兆をハナモゲラという。)
『エディプスの恋人』においては、神は露骨に女性形である。定年退職した全能の神がフロックコートをきて七瀬の前に伝言をとどけにくるところが可笑《おか》しく、宇宙では男性神から女神への政権交替が行われたのかと思い、その気になってまわりをみまわすと現代風俗がことごとく解けるのがさらにおかしく、七瀬のベッドシーンで女神が「ナナちゃん、代って」と出てくるところが悲鳴をあげるほど可笑しい。
西陽のさすアパートの部屋で七瀬が破瓜《はか》するときに、彼女は女神と身をいれかえて、恒星系の生成から消滅までを見るというシーンは、神聖であるが、同時に、「イクーッ」ということの宇宙論的解釈のように猥雑でもある。これなのだ、筒井康隆は〈家族、私有財産および国家ならびに神の楽屋落ち〉をやってのけた! これ以上は人類には無理だろう。
火田七瀬三部作の展開は完璧だ。ここで七瀬シリースをうちきったのは筒井康隆の作家的|膂力《りょりょく》である。彼はそのようにリアリズムを保持している。このリアリズムの保持によって筒井作品は予言的ですらある。最近では『富豪刑事』に似た事件もあったではないか。世田谷の、警察官による女子大生殺しの解決を、警視庁は一二〇〇万円で示談にしようと骨おっていて、この記事を目にしたとき、「足で事件を解決するのはもう時代遅れ。翔んでる刑事は金で解決する!」という惹句《じゃっく》を俺はおもいだした。世のなかは筒井康隆の言うったとおりになりますぞ。七瀬三部作は全部お読みなさい。
[#地付き](昭和五十一二年十月)
この作品は昭和五十年五月新潮社より刊行された