風の大陸28 最終章 祈り
著:竹河聖
口絵・本文イラスト:いのまたむつみ
目 次
二つの都市
祈《いの》り
あとがき
古代を越《こ》え、紀元をも遥《はる》かに越えた時代。
大洋の中にその大陸はあった。
かつては大陸全土が統一《とういつ》され、華《はな》やかに栄えていたが、一〇〇〇年ほど前から数度起こった大|災害《さいがい》と、氷河時代の終焉《しゅうえん》による海面の上昇、そして全土をひたひたと浸食《しんしょく》する砂漠《さばく》化が、大陸全体を荒廃《こうはい》させ、大陸を統一していた共和国の体制は崩《くず》れ、群雄割拠《ぐんゆうかっきょ》の時代を迎《むか》えていた。
全土は麻《あさ》のように乱《みだ》れた。
<<あらすじ>>
ティーエたちは、崩壊へ向かう大陸を救う方法を求めて、大陸最大の国家・太陽帝国の首都アステ・カイデを訪れる。そこで知り合った侯爵《タクル》の一人が第六侯ハマン・カリスウェン。ティーエは、彼の抱く共和国の理想に心を打たれ彼の許《もと》に身を寄せる。
しかし、忍び寄る大陸崩壊をくい止めるためには国をひとつにまとめることが必要である、と考え大量の武器を備蓄《びちく》していたカリスウェンに対し、太陽帝国への謀反《むほん》の意志が認められ、火刑の判決が下される。その窮地《きゅうち》を救ったのはティーエ、ボイス、グラウルたちの活躍《かつやく》であった。カリスウェンは、世俗を離れて星《セイタ》神殿の大祭司になることを決意した。
太陽帝国と対立するソグドム教、ローダビア公国側は、ソグド神への生贄《いけにえ》・ヘルルダルとして育てられたドラスウェルク――ティーエへ思慕《しぼ》の情をつのらせ幽魂投出《ゆうこんとうしゅつ》した――彼の肉体を人質にすることで交渉しようと企《くわだ》てるが、やはりその危機を救ったのはティーエたちだった。肉体を取り戻したものの、ローダビアに連れ戻されたドラスウェルクを救うため、ティーエはローダビアに赴《おもむ》く。彼を生贄から救うため、そして大陸を滅亡《めつぼう》から救うためにティーエは「地流」を手がかりのひとつとし、それを学ぶ。
ローダビアでは、ヘルルダルの館《やかた》の長・ヴィザンに紹介《しょうかい》されたバリム派《は》最高位バリム・ソグドのシルバとともに、紛争解決《ふんそうかいけつ》のためクラ・クム市に向かう……。
二つの都市
1
人々は、聳《そび》え立つピラミッドを、固唾《かたず》を呑《の》んで見守っていた。
ピラミッドの上方の、穴《あな》の空《あ》いた部分だ。
ティーエは、その穴の中に入ってしまった。
地震《じしん》でできたばかりの穴だ。内《なか》がどうなっているのかわかる者は、この場には一人たりとも居《い》るまい。
西日を受けると、黄金《おうごん》に輝《かがや》くピラミッドは、金茶《きんちゃ》色の石の化粧板《けしょういた》を張《は》り巡《めぐ》らせた、正四角錐《せいしかくすい》の、堂々《どうどう》たる建造物だ。
形、石材からして堅牢《けんろう》そのものである。
そのピラミッドに、突然《とつぜん》穴ができたのは、どういうことなのか。
むろん、かなり強い地震はあった。
だが、数百年に亘《わた》って、微動《びどう》だにしたことのないピラミッドなのである。
偶然《ぐうぜん》だ、とは、誰《だれ》も思いはしない。
これは、起《お》こるべくして起こったことだ。
そう、人々は考えている。
救《すく》い主《ぬし》が現《あらわ》れたのだ。
言い伝《つた》えの救い主。
“世界の相《そう》”を持つ希人《まれびと》が。
とうとう、その時がやって来たのだと。
“世界の相”を持つ者が、この世を破滅《はめつ》から救う。
それは、この大陸の各地で語り継《つ》がれて来た言い伝えだった。
太陽《アト》、月《トバ》、星《セイタ》の三柱《みはしら》の神々を主神として崇《あが》める、三神殿系《さんしんでんけい》の宗教《しゅうきょう》の古い文書にも、そのことは、はっきりと記されているのだった。
この世を救う者が現れる。
太陽《アト》の化身《けしん》が。
その言い伝えは、このローダル地方では、特に強く残っていて、今でも、人々は深く信じているのだ。
その、救い主はどうしてしまったのか。
ピラミッドの中に、何があるというのか。
「あっ!」
「あれを見ろっ」
人々がざわめいた。
光が見えたのだ。
黄金《きん》に輝くピラミッドから、白色に近い光が、強く、いくつもの筋《すじ》となって放出されたのである。
「おおっ」
人々は声をあげる。
「太陽《アト》の光だ」
「太陽だ」
“ジヌーハ、ジヌーハ”
“トバティーエ、ですね”
ケントウリ族の、今の当番ジヌーハは、ティーエの聲《こえ》を聴《き》いていた。
今の当番、というのには、訳《わけ》がある。
ケントウリ族は、ただ一人の当番を除《のぞ》いて、全員が眠《ねむ》りに就《つ》いているからなのだ。
大陸の人々からは、半神族と称《しょう》されているケントウリ。
この謎《なぞ》の一族は、千年の昔から、人々の前には絶《た》えて姿《すがた》を現さない。
大陸の人々に絶望《ぜつぼう》し、無垢《むく》な未来を待つために、仮《かり》の眠りに入ったのだという。
ただ、その内の一人だけが起きているのだということを、ティーエは知っていた。
ティーエは、当番のケントウリに育てられたからだ。
現在|覚醒《かくせい》しているジヌーハではなく、その前の当番であったケイローンが、育ての親である。
とはいえ、今起きているケントウリが、ケイローンでも、ジヌーハでも、あるいは一族の他の者でも、ある意味では同じとも言えるのだ。
ケントウリ族は、仲間全員の記憶《きおく》を共有《きょうゆう》しているのだと、ティーエは聞いたことがある。
もともとケントウリは、この世界の人々とは異《こと》なった長寿《ちょうじゅ》の一族で、記録によると、遥《はる》か昔に忽然《こつぜん》とこの世界に現れたが、長い年月、誰一人|亡《な》くなる者もなく、生まれる者もなかったという。
ケントウリ族は、全員が成人だった。
子供《こども》も、老人《ろうじん》もいない。
記録には、そうある。
“どうしました”
ジヌーハの呼びかけには、親が我《わ》が子の予想外の行動に首を傾《かし》げるような雰囲気《ふんいき》が混《ま》じっていた。
ティーエの聲《こえ》からは、喜びと同時に、強い決意が感じ取られる。
“水晶《すいしょう》を、解放《かいほう》してください”
“水晶をっ……”
驚《おどろ》きと疑念《ぎねん》。
ジヌーハは、僅《わず》かながら混乱《こんらん》したようだ。
“大陸を救うためには、水晶の力が必要なのだということが、わかったのです”
ティーエの言葉には、確信《かくしん》があった。
“トバティーエ”
一瞬困惑《いっしゅんこんわく》したジヌーハだったが、さすがに、すぐに自分を取り戻《もど》す。
“水晶を解放するということの本当の意味を、承知《しょうち》の上で言っているのですね”
“はい”
ティーエの反応は力強かった。
ジヌーハの意識は、ちょうど現在《いま》は、アステ・カイデの地下に在《あ》った。
太陽《アト》神殿のピラミッドの真下である。
ティーエの言及《げんきゅう》している『水晶』とは、実はここに置かれているのだった。
むろん、ティーエの意識も、ここ迄《まで》やって来ていた。
地流に乗って来ているのである。
主要な地流の全《すべ》てが、アステ・カイデを通っているのだ。
それは大陸じゅうから集まり、そして大陸じゅうに放散《ほうさん》されている。
むろん、常人《じょうじん》の目に見えるものではないが、もしも図を描《えが》くならば、葉脈《ようみゃく》に近いものとなるだろう。
その葉脈の中でも、最も太い線が、現在ティーエの身体《からだ》の在る、ローダル地方の都市クラ・クム市とアステ・カイデを結《むす》び、更《さら》に北方のアドリエ王国の都を通り、ラテル山に至《いた》っていることを、ケントウリ族ならば、知っているに違いない。
ティーエは、そう考えていた。
ラテル山こそ、ケントウリ族が、密《ひそ》かに眠りに就《つ》いている場所なのだった。
地流が、アステ・カイデとラテル山とを繋《つな》いでいることが、偶然《ぐうぜん》である筈《はず》はない。
“水晶を、解放する……”
ジヌーハは、しばしためらった。
“それは、わたくしが独断《どくだん》で行なうことはできません。最重要|事項《じこう》なのです。全員で協議《きょうぎ》しなければ、できません”
“でも……他のひとは、皆《みな》、眠っておいでなのでは……”
育ての親、ケイローンは言っていた。
大災害《だいさいがい》の時代の後、乱《みだ》れに乱れたこの大陸の人々の、我欲《がよく》と暴力の醜《みにく》さに絶望したケントウリ族は、遥《はる》かな未来を見るために、長い眠りに入ったのだと。
数千年か、あるいはそれ以上先か。
少なくとも、かれらは千年もの間、眠りに就いているのだ。
未来の大陸が、どうなっているのか、いくら予言に長《た》けたケントウリでも、そこ迄《まで》は知るまい。
ケントウリの眠りは、死ではなく、寒い地域《ちいき》のいくつかの動物の冬眠に近いものだ。
ケイローンは、そう教えてくれた。
“仲間を起こしましょう”
ジヌーハの言葉には、以前のような慈愛《じあい》の色が戻って来ていた。
ジヌーハにとっても、ティーエは自らが育てた子と同じだ。
なぜなら、ケントウリは、記憶を共有するからだ。
感情|迄《まで》も共有することはないが、慈《いつく》しんで育てた想《おも》いは、伝わっていた。
まして、ジヌーハは女性である。
“起こす……”
さすがに、ティーエの心は僅《わず》かながらも揺《ゆ》れた。
未来に生きるために眠っている、ケントウリたちを、起こすというのか。
“一人では決定できない事案《じあん》が発生した時は、皆で協議をする。それが、わたくしたちの、初めからの取り決めなのですよ”
ケントウリたちに済《す》まない、というティーエの思いを、ジヌーハは理解《りかい》した。
“協議が終われば、また、皆は眠りに戻《もど》るのですから。ただ………”
“ただ……”
“皆を起こし、会議が可能になる迄には、四、五日はかかります”
“未《ま》だ、それほどの緊急事態《きんきゅうじたい》ではありませんが”
ティーエは、怖《こわ》いような思いにも襲《おそ》われていた。
ケントウリ族は、この大陸の人々に絶望し、無垢《むく》な未来を選択《せんたく》したのではなかったか。
“早く決めた方がいいでしょう”
ジヌーハのその言葉は、珍《めずら》しく、ティーエの心に焦燥をもたらした。
ことは、思ったよりも切迫《せっぱく》しているのか。
大陸じゅうの、異常現象を調べていた、もと、アドリエ王国|暦司処《こよみつかさどころ》の長官にして、魔術師《まじゅつし》と呼ばれるグラウルは、大異変《だいいへん》は、数年の内に起こってもおかしくはない、と警告《けいこく》していたが。
数年の内、ということには、一年後や、一か月後や……明日すらも含《ふく》まれているのだ。
人は普通《ふつう》、数年以内と言われると、大抵《たいてい》は、二、三年、あるいは四、五年先を思い浮《う》かべるものだが……
それは、希望的|観測《かんそく》に過ぎないのかもしれない。
“早く決める……とは、どうしてでしょうか”
ジヌーハは、その問いと共《とも》に、ティーエの抱《いだ》いた焦燥《しょうそう》をも、受け取っていた。
今、二人は心と心で話をしている。嘘《うそ》をつくことも、隠《かく》すこともできはしないのだ。
“わたくしたちにも、大地の悲鳴《ひめい》は聞こえていますよ、ティーエ”
ジヌーハは言う。
“あなたと、同じようにね”
“でも……あなたがたケントウリは、眠りに就《つ》き、今、この世の人々を、生きているものたちを、救おうとはしない”
それは、ずっとティーエが隠《かく》し持って来た疑問《ぎもん》でもあった。
この大陸の人々の想像を超《こ》えるような力を持ちながら、なぜ、救おうとはしないのか。なぜ見捨《みす》てたのか。
“見捨てたのでは、ありません”
ジヌーハが語る調子は、哀《かな》し気《げ》だった。
“わたくしたちには、力がないのです”
“力が……”
ティーエには、この言葉が信じられなかった。
ケントウリに、力がない、などとは……
“本当ですよ”
ジヌーハは続ける。
“わたくしたちには、文明はあっても、大陸を救う力はないのです”
ピラミッドの崩壊《ほうかい》部分の穴から放出された、白金の光の筋《すじ》は、ほどなく、差《さ》して来る夕日と融合《ゆうごう》し、いつの間にか消え失《う》せていた。
夕日も、湖の彼方《かなた》に没《ぼっ》し始め、ピラミッドも黄金の衣《ころも》を脱《ぬ》ぎ棄《す》てざるを得なかった。
辺《あた》りの物が、少しずつ見え難《にく》くなってくる。
むろん、灯《あか》りは、あちらこちらに点《とも》された。
松明《たいまつ》、篝火《かがりび》。
それでも、打ち寄せて来る闇《やみ》には抗《こう》し切れない。
ティーエは、どうしたというのか。
さきほどの光は、何だったのだろう。
ボイスにできることは、ただ待つだけだ。
クラ・クム市の人々も、辛抱《しんぼう》強く待っていた。
バリム・ソグドのシルバもだ。
ただし、シルバは椅子《いす》を所望《しょもう》して、それに腰掛《こしか》けていたが。
やがて、何かが、ピラミッドの頂《いただき》近くに掛《か》かった。
三日目か四日目か。未《ま》だ細い月であった。
その光に、浮かび上がった淡《あわ》い影《かげ》がある。
ほっそりとした、人の姿。
「ティーエ」
ボイスは、口の中のみで呼んだ。
「戻って来たか」
シルバが立ち上がった。
辺りで、祈《いの》りの声が高くなった。
神官たちや、集まった市民たちは、ずっと、祈りを続けていたのだ。
シルバやボイスに、ときどき胡散臭《うさんくさ》そうな眼を向けていたが。
気付いてはいたが、ボイスは平気だった。
ティーエが戻って来れば、人々は全《すべ》て理解してくれる。
ただ、迷《まよ》っていたのは、シルバのことだ。
ティーエが戻る前に、シルバが、この都市の人々に襲《おそ》われたら、どうするか。
救《たす》けるべきか、否《いな》か。
ボイスとしては、この派手《はで》な男に嫌《いや》な感情を持ってはいない。
とはいえ、腹《はら》の中で何を考えているか、疑《うたが》わざるを得ない相手だった。
ボイスに対して、不愉快《ふゆかい》な態度《たいど》を取ったりはしないが、すぐに親《した》しみを抱《いだ》かせたりする部類《ぶるい》の人間ではない。
シルバが、ティーエやボイスに向ける眼は、ときどき、学者が研究対象を観察するような、極《きわ》めて客観的なものであった。
「おおっ」
「ああっ、月《トバ》の光が……」
「月《トバ》が……」
人々は声をあげる。
月の光が、急に明るくなったように見えたからだ。
だが、それは月光ではなかった。
ティーエの背後《はいご》から、光が差《さ》していたのである。
見る者にとっては、後光《ごこう》と映《うつ》ったことだろう。
それは、地流の強いエネルギーの残滓《ざんし》だったが……
ピラミッドの内部は、地流のエネルギーに満ちていた。
さきほどティーエが穴の中に入ってみると、そこには細い通路が在《あ》った。
本来|壁《かべ》で隠《かく》されていた通路である。
その通路は、ピラミッドの中心に向かっていた。
宇宙《うちゅう》と大地のエネルギーの融合《ゆうごう》する一点であった。
ピラミッドがなぜ四角錐《しかくすい》なのか、それは、この一点が造《つく》り出されることが、最も大きな理由だ。
ピラミッドは、宇宙と大地のエネルギーを集め、増幅《ぞうふく》する道具なのだ。
ピラミッドの中心の小さな石室に、ティーエの身体《からだ》は在った。
幽体《ゆうたい》も、そこに留《とど》まった。
地流に乗《の》り、アステ・カイデ迄赴《までおもむ》いたのは、霊体《れいたい》のみである。
これは、通常の幽魂投出《ゆうこんとうしゅつ》とは、全く違うものだった。
人は、肉体《にくたい》、幽体、霊体の三つで形造《かたちづく》られている。
常人の場合、その三種類の形態《けいたい》が互《たが》いに分かれて動くことはまずないが、霊視《れいし》の力、つまり呪力《じゅりょく》を持つ者の一部には、幽魂投出という能力《のうりょく》を有する人間がいた。
肉体を離れ、幽体と霊体とが別の場所に行くことである。
それは、ほんの一、二メートルのこともあれば、何キロ、何十キロもの行程《こうてい》を経《へ》ることもある。
その場合、人の意識は、肉体と分かれた幽魂にある。
呪力を持つ者といえども、幽魂投出の能力があるのは希《まれ》だが、なかには、それを意のままに操《あやつ》ることのできる呪術者《じゅじゅつしゃ》もいる。
ティーエほどの段階になると、殆《ほとん》ど意識《いしき》もせずに、幽魂投出が行なえるのだが、それは、魔術師と称《しょう》されるグラウルですら、舌《した》を巻《ま》くほどに高度……というよりは、人間業《にんげんわざ》ではないのであった。
だが、今、ティーエがしたことは、それをも凌《しの》ぐ。
幽魂投出すら、通り過ぎているのだ。
とはいえ、ティーエは、それを自然に行なっていた。
地流のエネルギーに誘《いざな》われた、と言った方が正しいのかもしれない。
ティーエは、地流のエネルギーに浸《ひた》っていた。
今は未《ま》だ、夢《ゆめ》見るような心地で、ピラミッドを下《くだ》っている。
だから、地流のエネルギーが纏《まと》い付いて来たのだった。
疲《つか》れていた。
だが、不思議《ふしぎ》な高揚感《こうようかん》は続いている。
ティーエは、真《ま》っ直《す》ぐ、ボイスのもとに下《お》りて行った。
そして、頽《くずお》れかける。
ボイスが、その身体を支《ささ》えた。
「大丈夫《だいじょうぶ》か」
「疲れました」
ティーエは囁《ささや》くように言った。
「しかし……今、倒《たお》れる訳《わけ》にはいかないぞ」
ボイスは、ティーエの耳元で言う。
ティーエが強い呪力を行使《こうし》すると、疲れてしまうことは、良く知っていた。
強大な呪力を用《もち》いるということは、極限《きょくげん》までの精神力《せいしんりょく》と体力が必要だからである。
だが、今、周《まわ》りにはクラ・クム市の人々が、賛嘆《さんたん》の面持《おもも》ちでティーエを見詰《みつ》めているし、シルバも見守っているのだ。
「はい……」
ティーエは、呼吸《こきゅう》を整《ととの》える。
「もう少し、がんばります」
「おれが、後ろから支えているぞ」
「はい」
それだけでよかった。
いつも変わらないボイスが、常《つね》に後ろに居《い》てくれる。その存在感だけで、既《すで》にティーエの背中《せなか》は支えられていた。
「アウル・トバティーエ」
シルバが歩み寄った。
「中で、何があったのだ」
小一時間も、ティーエはピラミッドから出て来なかったのだ。シルバがそう問いかけるのは、しごく当然だった。
「地流です」
ティーエはすぐに答えた。
“地流”を学ぶことができたのは、シルバの配慮《はいりょ》のおかげだ。
さすがに、いくらお人好《ひとよ》しのティーエでも、シルバを心から信じるつもりはなかったが、相《あい》通じるものを、全く感じない訳ではない。
シルバが、姉《あね》を心から大切に思っていることもよくわかっている。シルバの姉リマラこそ、ティーエの“地流”の師《し》なのだ。
シルバが、心の内に何かを抱《いだ》いていることには、ティーエはもちろん気付いていた。
何か、複雑《ふくざつ》な計画……
そんなもののように思われる。
ひとの心の中の叫《さけ》びのようなものが、否《いや》でも聴《き》こえて来てしまうティーエには、ときどき、シルバの強い思考が、断片的《だんぺんてき》に入って来ていた。
周りの人の心の叫びを、全《すべ》て聴いていては、ティーエの精神の方がもたないので、そうしたものは極力《きょくりょく》、遮断《しゃだん》しているのだが。
それでも、ふとした拍子《ひょうし》に伝わって来てしまう。
リマラは別だった。
生まれた時から、聴覚《ちょうかく》を失っていたリマラには、ティーエやケントウリ族のように、心と心で話をする能力が備《そな》わっていた。
この能力を持つ者は殆どいないので、リマラは、他の人々とは、文字を書いたり、身振《みぶ》りで話をしていた。
だから、ティーエとは、本当に話を交《か》わせるのだと知った時、喜んで、思うさま話をしてくれたのだった。
リマラも、弟《おとうと》が何かを腹《はら》の内に隠《かく》し持っていることは察《さっ》していた。むろん、そのことに就《つ》いては、ティーエには何事をも語らなかったが、この姉が、心からシルバの身を案《あん》じている、ということは、充分《じゅうぶん》に伝わった。
師のためにも、シルバを守る責任《せきにん》があると、律儀《りちぎ》なティーエは考えているのだった。
「この都市の真下に、地流の中の本流というべき、最も中心になるものが流れているのですが」
ティーエは、シルバに語る。
「ピラミッドこそが、その力を増幅《ぞうふく》するものだということを、わたしは改《あらた》めて知りました」
「ピラミッドが……増幅……」
リマラになら、それで理解してもらえたかもしれないが、相手はシルバだった。
むろん、シルバにも、地流に就いての知識《ちしき》は、かなりあるのだが。
「ピラミッドの構造《こうぞう》と、建《た》てられている地点に秘密《ひみつ》があるのです」
ティーエは手短に説明する。
「ピラミッドは、もともと、天と地との力が合流する場所に建てられるのですが、それはまた、地流の真上でもあります」
「ふむ……」
「そして、ピラミッドの中心より少し下方、地上から三分の一の部分に、全ての力が集中するようになっていて、そこで、全ての力が倍増、いえ、何倍にも、何十倍にもなるのです」
「しかし、それも、ピラミッドの巨大《きょだい》な石の中ではないのか」
シルバは指摘《してき》する。
ピラミッドは、巨大な石を積《つ》み上げて造《つく》った建造物だ、というのが常識である。
「中に空洞《くうどう》があり、通路があるのです。それを、外の化粧板《けしょういた》が隠《かく》していたのです」
言葉を一度切ってから、ティーエは呟《つぶや》いた。
「ケイローンは、どうしてこの事を教えてくれなかったのか……知っていたはずなのに」
「ケイローン」
その名に反応《はんのう》したのは、シルバではなく、神官長《しんかんちょう》と祭祀典長《さいしてんちょう》だった。
クラ・クム市の最高位の神官である。
もちろん、この都市の主神、太陽《アト》を祀《まつ》る神殿の神官たちだ。
「ケイローンという名は、神殿に古くから伝わる文書《もんじょ》に記《しる》されております」
祭祀典長は、震《ふる》える声で唱えた。
「タトナソート、ギルビネト、ケイローン、ジヌーハ……」
神官長が付け加える。
「ケントウリ族の御名《おんな》です」
「ケントウリ……」
シルバが眉《まゆ》を顰《ひそ》めかけたのは、シルバの属《ぞく》するソグドム教では、ケントウリ族は、邪神《じゃしん》、魔族として恐《おそ》れられているからである。
「ケントウリ族のケイローンが、千年の昔にこの地を訪《おとず》れた、と文書にはございました」
「ケイローンが……」
それは、ティーエに、珍《めずら》しく驚《おどろ》きをもたらした。
そんな話は、本人からは聞いていない。
「何のために、でしょうか」
それを知らなくては、とティーエは思った。
何か意味があるに違いない。
もちろん、大災害の時代の前には、ケントウリ族は、しばしば人々の前に姿を現し、様々な助言《じょげん》をしたと言われているが。
それだけのことではない。
直感だった。
偶然《ぐうぜん》にしては、あまりにも揃《そろ》い過ぎているではないか。
あの地震《じしん》で、ピラミッドの一部が崩《くず》れなければ、ティーエは、ピラミッドの構造に気付かなかった。
ピラミッドで崩れたのは、通路の入口部分のみだった。
それが、ティーエが来たとたんに起こったことなのである。
何の力が働《はたら》いているのか。
ティーエのしようとしていることを後押ししてくれようとしているのか。
そして、ケイローンの名が出た。
千年以上昔の記録だというが、ケイローンは今も生きているのだ。
ティーエの育ての親に間違いないのだから。
ケイローンは、何をしにここ迄《まで》来たのか。
むろん、神出鬼没《しんしゅつきぼつ》と言われたケントウリだ。どこに現れても、不思議《ふしぎ》はない。
だが、全てが一つ線に繋《つな》がれていると思われてならないのだ。
ケントウリ族は、千年以上前に何かを予知し、布石《ふせき》を打っておいたのではないか……
「何のために……」
祭祀典長《さいしてんちょう》が首を傾《かし》げたのは、ティーエの質問《しつもん》の意図《いと》を測《はか》りかねたからだ。
「はい」
ティーエは子供のように、コックリと頷《うなず》いた。
「ケイローンは、何のためにこの地方を訪《おとず》れたのですか」
千年前の、ローダル地方は、今とは全く違っていたはずだ。
中心都市は今のローダ・アルゼンで、このクラ・クムの人々の祖先《そせん》が住んでいたのだ。
その人々は、太陽神《アト》や、月神《トバ》、星神《セイタ》を崇《あが》めていた。
いや、ソグドム教そのものが、今のような形で存在してはいなかったのだ。
「あなたさまだから、お話し申《もう》し上げます」
しばし、ティーエとシルバを見比《みくら》べた後で、神官長が重い口を開いた。
「ケントウリ族のケイローンがこの地方においでになったのは、ピラミッドを封印《ふういん》するためでした」
「ピラミッドの……封印ですか」
それは、どういうことだろう。
「ケイローンがなさったことは、ローダ・アルゼンのピラミッドについての予言でした」
「予言……それは……」
「もしも、我々がローダ・アルゼンを棄《す》てる日が来たら、ピラミッドを封印せよ、ということです」
「ローダ・アルゼンを棄てる日……」
「はい、文書には、確かにそうありました」
神官長は頷《うなず》いた。
「ですから、わたしどもの先祖《せんぞ》は、ケイローンのお言葉通りにしたのです」
「封印とは、どういうことですか?」
「わたくしどもは、ローダ・アルゼンのピラミッドの中の石室《せきしつ》と通路を埋《う》めて塞《ふさ》ぎました。ソグドム教徒《きょうと》は、全く気付かなかったはずでございます」
「ソグドムのピラミッドは、天のソグドに祈《いの》るためにあるのだ」
「そして、生贄《いけにえ》を捧《ささ》げるため、でございましょう」
シルバの言葉に、祭祀典長は、皮肉《ひにく》を籠《こ》めて言った。
ソグドム教の場合、生贄の中には、人間も含《ふく》まれる。
もちろん、神官たちは、シルバが聞いていることを承知《しょうち》の上で、ピラミッドの話をしていた。
ピラミッドの秘密《ひみつ》は、もうシルバに知られてしまったのだから。
ただ、こうなったからには、シルバを帰さないという決意を固《かた》めた、という可能性もある。
ティーエはそこ迄《まで》は考えなかったが、ボイスは、少々|嫌《いや》な予感に襲《おそ》われていた。
「ケイローンが、予言を……」
ティーエにとっては、それが最も重要なことだ。
「トバティーエ様は、ケントウリのケイローンの名を御存知《ごぞんじ》なのですか?」
神官長は問う。
「はい」
ティーエは、すぐに認《みと》めた。
「わたしは、ケントウリ族のケイローンに育てられたのです」
「ケントウリのケイローンに……」
「育てられたっ」
神官長と祭祀典長の二人は、しばらく口をあんぐりと開けていた。
「はい」
ティーエは大きく頷く。
「ケイローンは、わたしの育ての親で、師《し》なのです」
「と……おっしゃいましても……」
いくらケントウリを半神族として崇《あが》める神官たちでも、俄《にわ》かには信じ難《がた》い話であった。
「ケントウリ族は、大災害の後で姿を消してしまいましたが、死に絶《た》えたのでも、大陸を去《さ》ったのでもないのです」
ティーエは語る。
「かれらは生き続けて、この世界の様子を見守っているのです」
「生きて……見守る……」
シルバが、皮肉《ひにく》な調子で呟《つぶや》いた。
「生きて見守っているのに、なぜ、大陸の人々を救《すく》おうとしないのだ」
「深い意味があるのです」
神官長が、シルバを窘《たしな》めるように言う。
「神に近い方々のなさることを、人間《ひと》の知恵で測《はか》ってはなりませぬ」
シルバは、微《かす》かに笑ったが、反論《はんろん》はしなかった。
教義《きょうぎ》の違いを、今ここで、論争《ろんそう》してみても始まらない。
それは論理ではなく、信仰《しんこう》の問題だからだ。
「ケントウリ族は、人の世の醜《みにく》さに愛想《あいそ》をつかし、別の世界に行ってしまった。神殿の文書には、そうあります」
「つまりは、見棄《みす》てられたのだな」
その言葉に、二人はしばらく、シルバに怒《いか》りを含《ふく》んだ眼を向けた。
「ケントウリは、別の世界になど行っていません。眠っているのです」
ティーエは、淡々《たんたん》と続けた。
「眠る?」
シルバは、首を傾《かし》げる。
それは死ではないのか。
「長い眠りですが、いずれ目覚《めざ》めます」
熱帯に住む人々に、冬眠という例を引き合いに出して説明することは、初めから不可能だ。
「ケントウリは、いつか、この世界が変わってから目覚める予定なのです。新しい世界の、純粋《じゅんすい》な人々を待っているのです」
「なるほど……」
シルバは頷いた。
「つまり、この世界の悪が一掃《いっそう》されることを……この大陸の人々が滅《ほろ》びるのを、待っているのだな」
「滅びる……」
その言葉は、ティーエの胸《むね》を鋭《するど》く刺《さ》した。
シルバは、無意識《むいしき》に、長年ティーエが心のどこかに抱《いだ》いて来た疑念《ぎねん》を言い当てたのだ。
ケントウリ族は、この世界に愛想をつかして、無垢《むく》な未来の人々と会うために、冬眠に入った。
それは、ケイローンも言っていたことだ。
大災害の時代の後にやって来た、乱れ切った時代に嫌気《いやけ》が差《さ》して、未来に目覚めるために、皆は冬眠しているのだ、と。
ケントウリは、大陸の人々に、本当に絶望したのか。
しかし、ケイローンは、ティーエを育てた。
本当に傍観《ぼうかん》するなら、ティーエと母を放《ほう》っておいてもよかったのだ。
大国アドリエ王国に滅《ほろ》ぼされたデン共和国を脱出《だっしゅつ》し、命を懸《か》けて、母はケイローンのもとに行き、ティーエを託《たく》した。
この世界に嫌気が差したのなら、生まれて間もない赤ん坊《ぼう》だったティーエを、誰《だれ》か――人間――の養子《ようし》にやってしまうこともできただろうに、ケイローンは、自ら育て、この世界の人々の知らない知識や学問も与えた。
少なくとも、ケイローンは、本当に、大陸に絶望してはいなかったのだ。
ケイローンだけは。
そして、ケイローンの心を継承《けいしょう》した、ジヌーハも……
ジヌーハも、そうであって欲しい。
他のケントウリたちが絶望し、見棄《みす》てていたとしても。
「ケントウリ族は、大陸を見棄ててはいません」
ティーエのその言葉は、自らを納得《なっとく》させるためのものだったかもしれない。
「使命を持つわたしを育て、必要な知識を与えてくれたのですから」
「使命……」
皆が、異口同音《いくどうおん》に呟《つぶや》いた。
シルバは、初めて耳にしたという調子で、神官たちは、祝詞《のりと》を唱《とな》えるように、そしてボイスの口調は、感慨深気《かんがいぶかげ》だった。
使命。
ティーエがこの重荷《おもに》を、自ら負う決心をしたのは、いつの頃《ころ》だったろう。
魂の双子、アドリエ王イルアデルと出会ったころか。
イルアデルが、非業《ひごう》の最期《さいご》を遂《と》げた時か。
それから、ティーエは使命を達《たっ》するために、長い旅を続けて来たのだった。
このクラ・クムが、終着点なのだろうか。
いや、そうはいくまい。
ボイスは、微《かす》かに首を振る。
このまま、ことが収《おさ》まるとも思われない。
「使命とは、何だ?」
シルバが尋《たず》ねた。
ティーエの一行が、ただ、ヘルルダルのドラスウェルクに会うためのみに、わざわざローダビアまでやって来た、などとは、誰《だれ》も考えはしない。
「わたしの使命は……」
ティーエは、いつもの答えを口にする。
「新たな大災害から、大陸を救うことです」
「大災害……」
シルバが呟く。
「大陸を救う……」
そう囁《ささや》き合ったのは、二人の神官だった。
疑いの言葉ではない。
希望だ。
このクラ・クムの人々にとっては、“世界の相”を持つ者は、もともと、救い主なのである。
ただ、今現れたということは、この地方の、三神殿|系《けい》の神々を信仰《しんこう》する人々を、陥《おちい》っている窮地《きゅうち》から救うためか、と思っていたのだ。
だが、“世界の相”ならば、世界を救うということの方がふさわしい。
大陸に住む人々にとっては、大陸こそが世界である。
大陸を囲《かこ》む大海の向こうに、やはり大陸らしきものや島などがある、という話は聞くが、その土地は、文明もない蛮地《ばんち》だといわれていた。
大陸だけが、まともな世界。
誰もがそう思っている。
この大陸を、新たな大災害から救う。
シルバは、以前にティーエからその話を聞かされたことがあるような気がした。
ただ、このローダビアの、多少は気候《きこう》や大地の変化のわかる人間にとっては、新たな大災害の時代の到来《とうらい》というのは、単《たん》なる杞憂《きゆう》ではなかった。
敏感《びんかん》な人々は、様々な変化に気付いている。
急激な砂漠化《さばくか》。
豪雨《ごうう》、洪水《こうずい》、噴火《ふんか》、そして地震《じしん》。
海では、海流の変化や、海水温の上昇、下降など。何かがおかしいのだ。
ローダビアでは、どこかで何かの災害が起こっていた。
ただ、国土がかなり広いので、普通《ふつう》に生活している人々が、個々の災害を結び付けて考えることはない。
気付いているのは、国土全体の情報を把握《はあく》することのできる、為政者《いせいしゃ》やソグドム教の上部の人々だけであった。
自分の情報網《じょうほうもう》を持つシルバは、そうした一人なのだ。
シルバならば、大災害の到来《とうらい》を予感し、協力してくれるのではないか。
ティーエが期待しているのは、そうした理由によるのだったが……
ただ、問題がある。
それは、ソグドム教の本質《ほんしつ》に関《かか》わることだ。
ソグドム教は、大災害の後で起こった、いわば滅亡《めつぼう》の宗教《しゅうきょう》なのである。
世界に無たる暗黒《あんこく》をもたらす滅亡の神、それが主神のソグドで、その神を崇《あが》め仕《つか》えることによって、来たるべき終末を遅《おく》らせてもらう、ということが、ソグドム教の本質なのだ。
ソグドムとは、大神ソグドに仕える者たち、つまりこの宗教の神官たちを指す。
正しく、心を籠《こ》めて仕えれば、ソグド神もそれを認《みと》めて、終末をもたらさないでくれる。
ソグドム教の始祖《しそ》たちは、そう説《と》いたのである。
そして、大災害の時代を生き延《の》びた、ローダビアの人々は、その教えを受け入れた。
ソグド神とは、もともとは、三神殿系の宗教の一柱《ひとはしら》の神で、宇宙そのものを神とした大神オリハの対極《たいきょく》として存在していたのだ。
オリハは全てを創造《そうぞう》し、ソグドは全てを消滅《しょうめつ》させる、と……
太陽神《アト》も月神《トバ》も星神《セイタ》も、地母神《バトラ》も他の神々も、全てオリハの子とされている。
「大陸を救うのは、ソグドムの信仰《しんこう》のみだ」
シルバは一言った。
「ソグドの御心《みこころ》に叶《かな》いさえすれば」
「大神のおぼしめしは、推《お》し量《はか》ることはできませんが、現実として、大災害は目の前に迫《せま》っているのです」
ティーエは熱を入れて説く。
ここで、シルバが大陸の危機を本当に理解してさえくれたら……
ローダビアの人々を、動かしてくれたら。
「大災害を喰い止めることができれば、どれほどの人や生き物の命が救われるでしょうか」
「我々は、常にそれを祈《いの》っているのだ」
ティーエにとっては、ソグドム教徒こそ、最も説得し難《がた》い相手なのかもしれない。
しかし、ティーエは、望みを棄《す》ててはいない。
シルバは、ただのソグドム教徒ではないからだ。
ティーエには、それがわかる。
「大神の御心《みこころ》に叶わなければ、大陸は見棄てられるのでしょう」
そう言ったは、祭祀典長《さいしてんちょう》だった。
まるで、ティーエの代弁《だいべん》のような言葉だ。
「我々の祈りが、足《た》りないと言うのか」
さすがに、シルバは気色《けしき》ばんだ。
「大神の御心に叶う、叶わないは、どうやって決められるのでございますか」
「む……」
シルバは、すぐには言い返さなかった。
言い返せなかったのかもしれない。
「シルバ様」
ティーエは静かに言った。
「神に、人々の平和を祈っている時に、目の前で溺《おぼ》れている子供を見付けたとします」
ティーエは、じっとシルバの眼《め》を見た。
「あなたは、まず助けに飛《と》び込《こ》みませんか」
2
ラクシとマンレイドは、ローダ・アルゼン市から少し離れた、ヴァユラの人々の村に辿《たど》り着いていた。
それは、森の木々の中にうまく隠《かく》された集落で、街道《かいどう》――といっても、かなりの裏《うら》街道で、通る旅人も殆《ほとん》どいない――から見ても、人の住む場所があるなどとは、全く思いもつかないほどだった。
「へえっ……こんな所に村が」
ラクシも驚《おどろ》いている。
「ローダビアのヴァユラも、迫害《はくがい》を受けているってことね」
マンレイドが、小声で言った。
「それって、どういうこと?」
ラクシも小声になって問う。
ヴァユラの人々よりも、同行しているヴィザンたちに聞かせたくないからだ、ということは、すぐに理解した。
むろん、ヴィザンたちは、ヴァユラではない。
「だって、隠れるように住んでいるじゃない」
マンレイドの言葉を、ラクシはようやく理解した。
どうしてこの村が、これ程《ほど》までに人の目につかないように造られているか。
それは、攻撃《こうげき》される事を恐《おそ》れるが故《ゆえ》に他《ほか》ならない。
恐れるということは、過去に何らかの攻撃を受けたからだろう。
それも、手ひどいものをだ。
だからこそ、人目につかぬように、守り易《やす》いように村は構築《こうちく》されているのだ。
「でも……」
ラクシは首を傾《かし》げる。
「あのヴィザンって人さ」
ラクシは、後方を歩いているヴィザンを、一瞬《いっしゅん》だけ振《ふ》り返《かえ》った。
「どうして、ヴァユラを手先に使ってるんだろう」
「少なくとも……」
マンレイドは囁《ささや》く。
「単なる同情だけからじゃない、ってことは、確かね」
バリム・ソグドである、シルバの右腕《みぎうで》として働くヴィザンは、ヴァユラの人々を手先として使っていた。
教団や各|宗派《しゅうは》は別として、聖職者《せいしょくしゃ》個人が用心棒《ようじんぼう》や傭兵《ようへい》を雇《やと》うことは、表向きはない。
とはいえ、ヴィザンはともかく、王家出身のシルバには、財力《ざいりょく》があるはずだ。一中隊《いっちゅうたい》ほどの傭兵部隊を抱《かか》えることも可能なのだが……
その金を、ヴァユラたちに与えているのか。
そればかりとも思われない。
ヴァユラは、ただ金のみでは動かないと、マンレイドは聞いている。
もちろん、ヴァユラの殆《ほとん》どは貧《まず》しい。
極貧《ごくひん》と言って過言《かごん》ではないから、金は、喉《のど》から手が出るほど欲《ほ》しいだろう。
ヴァユラが、金を必要とするのは欲《よく》からではない、それで、一人でも多くの病人や餓死《がし》者を救《すく》えるからなのだ。
栄養不足《えいようぶそく》の子供《こども》たちは、つまらない、ちょっとした病気でも命を落とす。
老人《ろうじん》も同様だ。
それでも、ヴァユラの人々は、目先のことよりも未来を選択《せんたく》することがある。
なぜなら、今、何人かの子供や老人を救っても、その選択のために、何年か先に、村全体が虐殺《ぎゃくさつ》の憂《う》き目《め》を見ることも有り得るからだ。
ヴァユラを利用しようとする者たちは、ヴァユラを裏切《うらぎ》ることなど、何とも思わない。
ヴァユラの年寄《としよ》りや子供など、何人死のうが、良心の呵責《かしゃく》など覚えもしない。
だから、ヴァユラは、よほど切羽詰《せっぱつ》まらない限りは、協力する相手を、慎重《しんちょう》に選ぶものなのだ。
では、この村のヴァユラがヴィザンを選んだ理由は何か。
マンレイドには、いくら考えても解《わか》らなかった。
聞いてみたい気はするが、今のところ、この村の人々に心を許《ゆる》す訳《わけ》にはいかないのだ。
「ラクシ」
マンレイドは囁《ささや》く。
「わかっているわね」
マンレイドが言いたいのは、いざという時のために、逃《に》げ道《みち》をしっかり確認《かくにん》しておけ、ということだった。
この森の中で迷《まよ》っては仕方がない。
一行は森の中の、道とも思われないような道を進んでいるのだ。
森の入口|辺《あた》りには、木の上に、巧妙《こうみょう》に枝《えだ》や葉などで隠《かく》された見張《みは》り小屋があった。
マンレイドがそれに気付いたのは、戦士としてのこれ迄《まで》の経験《けいけん》があったからである。
いくら腕《うで》が立っても、戦場の経験の浅《あさ》いラクシは、見過ごしてしまった。
この道を覚えていられるか。
マンレイド自身も、確信はもてなかった。
ただ、ラクシはなかなか勘《かん》がいい。
「道を……覚えて」
「うん」
殆《ほとん》ど聞こえないようなマンレイドの言葉に、ラクシは僅《わず》かに頷《うなず》いた。
ラクシは、道や村の様子に心を奪《うば》われている。
木立の中に隠された小屋や道、しばらく行くと、隠し畑もあった。
それは、どこか故郷《こきょう》、新イタールの在《あ》り様《よう》に似《に》ていた。
ラクシの生まれ育った国新イタール公国も、人目を避《さ》けて隠れ住んでいる、小さな村だったのだ。
新イタールは、もっと高地だったが、ひっそりと、息《いき》をも殺《ころ》すような隠れ方も、入って来た他処者《よそもの》を避ける人々も、そして何よりも、貧《まず》しさが似ていた。
弱い子供や老人が、いつ餓死《がし》してもおかしくない、貧しさ。
この国のヴァユラは、少なくともラクシが見てきた太陽帝国やアドリエ王国のヴァユラたちよりも、過酷《かこく》な状況《じょうきょう》のもとに生活していると思われる。
どうして、太陽帝国や、他処の国に移《うつ》って行かないのか。
国籍《こくせき》も市民権も持たないヴァユラは、少なくとも、どこへ行くのも自由だ。
ただし、許可《きょか》がなければ、どこの都市にも町や村にも住むことはできないが。
進むに従《したが》って、村の者が一人、二人と加わって来て、案内に立った。
何人かは、ヴィザンの部下である、傭兵隊長《ようへいたいちょう》サトゥムと顔見知りのようだった。
言葉は殆ど交《か》わさずに、皆ただ黙々《もくもく》と歩く。
村は、少しずつその全貌《ぜんぼう》を現してきた。
いや、全貌というほどではあるまい。
おそらく、大部分の住まいが、森の木々の中に点在して、ラクシたちが辿《たど》り着《つ》いた場所は、その中心部ということに過ぎないのだろう。
中心部といっても、少々開けた場所にいくつか小屋が建っているだけだったが、そこに何人かの人々が集まっていたので、それか、と思われる。
ヴァユラの村は、どこもこの程度《ていど》だ。
先導《せんどう》して来た村人の一人が、待っていた人々の所に走り寄り、何か囁《ささや》く。
それを聞いた数人が、急いでやって来ると、ヴィザンに向かって、恭《うやうや》しく礼《れい》をした。
「よくおいでなさいました。ヴィザン様」
中心人物と思われる男が述《の》べる。
「わたくしは、長老カノスでございます」
「長老……」
ヴィザンは呟《つぶや》く。
いささか拍子抜《ひょうしぬ》けだったのだ。
長老と名乗った男は、未《ま》だ三十代後半か、せいぜい四十|歳《さい》ほどの年齢《ねんれい》にしか見えなかったからだ。
「本来長老とは、その村で最も年を取り、また経験を積《つ》んで賢《かしこ》い者のことでございますが」
カノスという長老は、微《かす》かに苦笑《くしょう》して見せた。
「時勢によっては、わたくしのような未熟《みじゅく》な者が、その任《にん》を担《にな》うこともあるのでございます。残念なことに……」
カノスは、ふっと溜《た》め息《いき》を吐《つ》く。
「長老たるべき者たちが、病気等で次々と命を失ったせいでもありますが」
「そうか」
ヴィザンは頷《うなず》いた。
「流行《はや》り病《やまい》でもあったのだな」
伝染病《でんせんびょう》でも流行すれば、真っ先に命を落とすのは、抵抗力《ていこうりょく》のない老人や子供で、それはこのローダビア公国ばかりでなく、大陸じゅう、どこでも同じだった。
ヴィザンにとっては、そこで終わりだった。
その先のことなど、ヴィザンのような地位の男には、すぐに考えつくことはないのだ。
ヴァユラにとって、老人や子供の通常ではない死は、伝染病の他にもいくつもの原因がある。
迫害《はくがい》もあれば、餓死もあるのだ。
カノスは、自分がどうして長老なのかということには、もう言及《げんきゅう》しなかった。
そして、ヴィザンたちを建物の中に招《しょう》じ入れた。
「どうも怪《あや》しいな」
木々の陰《かげ》から、一行の様子を見守っていたバリカイが言った。
「あの坊《ぼう》さんが、かい」
ターリスの言う坊さんとは、ヴィザンのことである。
ターリスやバリカイにとっては、神官は皆《みん》な坊さんということになる。宗教の種類はどうでもいい。
バリカイは、この大陸では一般的《いっぱんてき》な、太陽《アト》、月《トバ》、星《セイタ》の三神を中心として祀《まつ》る宗教の下《もと》に生まれ育ったが、本人が言うように“不信心者”で、神などあまり信じてはいなかった。
ターリスが属《ぞく》するヴァユラたちは、一応太陽神|等《など》を祀る宗教に含《ふく》まれはするが、独自《どくじ》に発達した独特のものを持っていた。
とはいえ、やはりターリスも、バリカイ同様に、あまり神など信じてはいない。
常に命のやり取りをするような場所に身を置く二人にとって、神は遠い存在《そんざい》だった。
何人も、人を殺している。
それが、戦士の仕事だからだ。
だが、決して気分の良いものではない。
正面から、神々に向き合う気には、とてもなれないのだ。
未《ま》だ、なれない。
引退《いんたい》した戦士の中には、聖職者《せいしょくしゃ》や、隠者《いんじゃ》になる者も少なくはない。
ただ、今のバリカイやターリスには、そうした先輩《せんぱい》たちの心のあり様《よう》は、理解できなかった。
理解などできる状況《じょうきょう》ではない。
自ら選んだ道とはいえ、二人は、今も修羅《しゅら》の只中《ただなか》に居《い》るのだ。
「あの坊さんの、どこが怪《あや》しい?」
ターリスの問いに、バリカイは答える。
「マンレイドとラクシを、ここに連《つ》れて来ることからして……怪しいじゃないか。いや……」
バリカイは、首を振《ふ》って見せる。
「ヴァユラの村だから怪しいって訳《わけ》じゃあない。ただ……どうせあいつは、ヴァユラの人たちを利用しようっていうんだろう」
「利用しようって考えているのは、お互《たが》いさまだけどね」
ターリスは、バリカイが、ヴァユラに対して差別意識《さべついしき》を持っているとは感じていない。
この男と共《とも》に行動し始めて二か月以上になるが、少なくともヴァユラとしての誇《ほこ》りを傷《きず》付けられるようなことは、一度たりともなかった。
「利用するにも、相手によるぞ」
自分たちの置かれた惨《みじ》めな境遇《きょうぐう》から這《は》い上がろうとして、権力者《けんりょくしゃ》の手先となったヴァユラの人々を、バリカイはこれ迄《まで》にもいろいろと見て来た。
その殆《ほとん》どが、権力者に利用され尽《つ》くして、見捨《みす》てられた。
いや、見捨てられるのは、マシな方だった。
結果は見えているのに、何故《なぜ》ヴァユラは、権力に擦《す》り寄る……いや、権力を利用しようとするのか。
それは、置かれている境遇の悲惨《ひさん》さ故《ゆえ》に他《ほか》ならないのだが。
「聖職者は、逆に信用できないんじゃないのか」
「わかってる」
バリカイの言葉に、ターリスは頷《うなず》いた。
宗教が違う。
ひとは、違う宗教の人間に対しては、より冷酷《れいこく》になり得るものだ。
特に信仰《しんこう》が強ければ強いほど。
ヴィザンが、このローダビアのソグドム教の中でも、主流ではない一派に属《ぞく》す者だということは、バリカイも聞き知っていた。
そういう立場に在《あ》るものは、何らかの権力を得ることを画策《かくさく》しているものだ。
傭兵稼業《ようへいかぎょう》の長いバリカイは、そうしたことも、山ほど見て来た。
「わかってるんだけどね」
ターリスは、溜《た》め息《いき》を吐《つ》く。
「他処者《よそもの》のあたしには、ひとのことに口を出す権利がないんだよ」
「同じ仲間同士でもか」
ヴァユラは、仲間意識の強い人々で、同じヴァユラならば、大陸じゅう、どこへ行っても仲間として受け入れられる、とバリカイは聞いていた。
「もちろん仲間だから、いつでもどこでも、喜んで受け入れてはもらえる。でもね」
ターリスは真剣《しんけん》に言った。
「いくら親戚《しんせき》同様の者でも、あまりひとの家庭の事情に、口出しはできないだろう」
「まあ……そうだな」
そんな風に言われれば、多少は理解できる。
「それに、この村にも事情があるのさ」
ターリスは、小声で続けた。
「長老が、若いだろ」
「ああ」
その事については、バリカイも、何か深い訳《わけ》があるのだろう、と思っていたが。
「この村の、長老や長老|候補《こうほ》は、皆《みん》な、ローダ・アルゼンとクラ・クムの争《あらそ》い、つまり、ソグドム教徒《きょうと》と太陽神の信者の戦いに巻《ま》き込《こ》まれて、命を落としているんだよ」
太陽、月、星の三神を中心とした神々の宗教は、この三柱《みはしら》の神だけでなく、地母神《バトラ》や、水神《デトル》等々、様々な神々を祀《まつ》るが、各都市や町村には、主神が置かれている。
その神が、守り神ということになる。
クラ・クム市を中心とするこの地方では、主神は太陽神《アト》であった。
「もう三十年も昔の話だけどね。この村の大人の男たちの殆どが、政府に捕《とら》えられて、拷問《ごうもん》されて、殺されたのさ」
ターリスは、唇《くちびる》を噛《か》む。
「知っているよね。ヴァユラは、処刑《しょけい》もされない、嬲《なぶ》り殺されるんだよ」
むろん、一部は牢《ろう》の中で殺されることもあるが、大陸で処刑といえば、殆どが公開処刑である。
見せしめの意味が大きいからだ。
しかし、ヴァユラは、見せしめにする必要もない、ということだった。
「中心になっていた男たちの殆どを失って、皆なは必死にがんばって、なんとかこの村を立て直して来た。その中で、一番がんばったのが、今の長老なのさ」
「それなのに、なぜ、ソグドム教と組むんだ?」
そこのところが、バリカイには解《わか》らない。
ソグドム教は、憎《にく》い敵《かたき》ではないのか。
「未《ま》だ組むと決まった訳じゃないけど、今、組もうとしているのは、ソグドム教の中では主流ではない、冷遇《れいぐう》されている一派なんだそうだよ」
ターリスは続ける。
「そいつらが、今の主流派を放逐《ほうちく》したら、復讐《ふくしゅう》にもなる」
「そう、うまくはいかないだろう」
「わかってるよ」
ターリスは、溜《た》め息《いき》を吐《つ》いた。
「ターリス」
バリカイは、真剣《しんけん》な面持《おもも》ちで問う。
「あの人たちが、トバティーエたちの敵《てき》に回った場合……」
それは、言い難《にく》いことだ。
「あんたは、どっちに付く?」
「どっちにって……」
ターリスは、しばし言い淀《よど》んだ。
「あの子たちの味方《みかた》か、この村の味方かってことだね」
「あんたには、あんたの立場ってものがあるからな」
バリカイには、ターリスの立場というものがわかっている。
たとえ、この村の側《がわ》に付いて、ティーエたちの敵《てき》に回ることになっても、責《せ》める気はない。
板挟《いたばさ》みになって苦しむのは、ターリスだ。
そして、少なくともターリスは卑怯《ひきょう》な真似《まね》だけはしない。
バリカイは確信していた。
だから、余計《よけい》にターリスは辛《つら》かろう。
そんなことが起こらないといいのだが、楽観のできない雰囲気《ふんいき》を、バリカイは感じ取っている。
「少なくとも、あたしは……」
ターリスは強く言った。
「あの二人を守るよ」
「仲間を敵に回しても、か」
「ヴァユラ同士でも、敵と味方に分かれることはあるさ」
ターリスは微笑《びしょう》した。
半《なか》ば皮肉《ひにく》の色を帯《お》びた、淋《さび》し気《げ》な微笑だった。
「ただ、どういう結果になっても、相手を恨《うら》みゃあしないんだよ」
それは、ヴァユラ同士、お互《たが》いの立場を理解できるからだろう。
「それに、未《ま》だ、この村の連中は、あの坊《ぼう》さんたちと組むと決めた訳じゃないのさ」
夜も更《ふ》けていた。
これから、ローダ・アルゼンに戻《もど》る訳にもいかないので、ティーエたちは、クラ・クム市に泊《と》まることになった。
市側は、ティーエたちとシルバ一行を、別々の宿舎《しゅくしゃ》に案内《あんない》しようとしたが、むろんシルバはそれを拒否《きょひ》する。
ティーエと一緒《いっしょ》に行動することで、身の安全が保《たも》たれることを、シルバは誰《だれ》よりもよく知っているのだ。
結局、一行は同じ宿舎に入った。
「どういたしましょう」
クラ・クム市の市長ダラートムを囲《かこ》んで、市の主《おも》だった者たちが、密談《みつだん》を重ねている。
「バリム・ソグドを、あのお方《かた》から引き離《はな》すことができません」
あのお方とは、もちろんティーエのことだ。
「そもそも、バリム・ソグドがあのお方と同道したのは、身の安全を図《はか》るためだ」
ダラートムが、苦虫《にがむし》を噛《か》みつぶしたような口元で言う。
「しかも、あのお方自身も、それをよしとしておいでなのだからな」
「あのお方は……」
祭祀典長《さいしてんちょう》が、眩《まぶ》し気《げ》な眼《め》をして言う。
ティーエのオーラの色を思い出しているのだろう。たとえようもないほどに美しい、太陽の色のオーラを。
「取り引きや、血生臭《ちなまぐさ》いことは嫌《きら》われるのです。清らかなあのお方には、最も似《に》つかわしくないことですから」
「しかし、我々《われわれ》が今、しようとしていることは、その取り引きだ」
一人が言う。
「しかも、相手は、煎《せん》じ詰《つ》めれば、ローダビア政府ということになる」
「バリム・ソグドが、あのお方を利用しようとして、ここに連れて来たのだ」
ダラートムが言う。
「盾《たて》、というよりは、取り引きの道具なのだ」
「それだけでしょうか」
祭祀典長の声は、暗くくぐもる。
「もっと、何かがありそうで……」
「確かに」
市議会議長が頷《うなず》く。
クラ・クム市は自治都市で、形ばかりながら、議会があった。
太陽帝国のように、古い共和国連合時代の政体の残滓《ざんし》を、かろうじて保《たも》っていたのだ。
「まず、バリム・ソグドが、何のために、ローダ・アルゼンとの調停《ちょうてい》に乗り出したのかを、知りたいものですな」
ボイスは、何も口に出しはしなかったが、バリム・ソグドたるシルバの目的が、この地方の紛争《ふんそう》の調停のみではないだろう、と推測《すいそく》していた。
単に、争いを止めさせたい。平和をもたらして、これ以上の犠牲者《ぎせいしゃ》を出さないようにしたい、という思いだけで、シルバが行動しているなどとは、誰《だれ》も思いはしないのだ。
そう考える人間がいるとしたら、唯一《ゆいいつ》、ティーエのみだろう。
ティーエが、こうしてシルバについて来た本当の意図も、ただ人々を救いたいということだけではない。
もちろん、いくら大陸を救うことが目的とはいえ、これ以上血が流されるのを止めさせたいという思いは、シルバ以上に抱《いだ》いているはずだ。
ボイスは、ティーエの傍《かたわ》らの床《ゆか》の上に毛布を敷《し》いて横たわっていた。
殆《ほとん》ど大剣《たいけん》を抱《だ》くようにして寝《ね》ている。
シルバたちには、思わぬ刺客《しかく》の攻撃《こうげき》からティーエを守るためのように見せているが、実は、他ならぬそのシルバと供《とも》の者からティーエを守るため、という方が当たっているかもしれない。
シルバは油断がならない、とボイスは感じている。
もちろん、シルバ自身が手を下すようなことはないだろうが、必要なら、どのような人間の命をも奪《うば》いそうだ。
何の斟酌《しんしゃく》もなく……
少なくとも、ボイスにはそう見えた。
ティーエは、何か一つの事に集中すると、全く無防備《むぼうび》になってしまう。
シルバはそれに気付いているのではないか。
ボイスは、確信に近い思いを抱いている。
それは、勘《かん》だ。
長年ティーエの側《そば》で戦って来たからこその勘だった。
部屋に居るのは、ティーエ、ボイス、そしてシルバの三人のみ。
シルバの供は、隣室《りんしつ》に控《ひか》え、交代《こうたい》で見張っているはずだった。
シルバが、ボイスを警戒《けいかい》していないのは、ラクシとマンレイドが、半《なか》ば人質《ひとじち》同然に、ヴィザンと行動を共にしているからだろう。
それに、ティーエの人間性も、充分《じゅうぶん》に知っているからだ。
時間が遅《おそ》かったせいもあるが、歓迎《かんげい》の宴《うたげ》ひとつなく、一同は宿舎《しゅくしゃ》での夕食もそこそこに、寝室に引き揚《あ》げたのだった。
ティーエとボイスは、クラ・クム市の用意した食事を摂《と》ったが、シルバたちは、持参の物を食べた。
さすがに、市側の出した夕食は、かなり豪華《ごうか》なもので、ティーエのための精進料理《しょうじんりょうり》もすぐに調《ととの》えてくれた。
酒も出たが、ティーエはむろんのこと、ボイスも口にはしない。
まだ、何が起こるかわからないからだ。
傍《かたわ》らのティーエは、深い眠りに落ちているようだった。
無理もあるまい。
今日、半日で、どれほどの力を使ったか。
地震《じしん》が起きた時から、ずっと力を使っていたのだろう。
休める時に休ませてやりたい、とボイスは思っている。
地震……
ボイスは考える。
さきほどの地震は、何だったのか。
もともと、中央山岳地帯に近い高地で、地震は多い所らしいのだが。
北の方を見ると、遥《はる》かではあるが、屹立《きつりつ》した山々を眺《なが》めることができる。
山々の中には、火山もあれば、そうでないものも連《つら》なっているらしい。
頂上《ちょうじょう》に雪を戴《いただ》くものもある。
晴れていれば、素晴《すば》らしい眺望《ちょうぼう》だった。
ティーエがピラミッドから再び姿を現す迄《まで》の間、ボイスは、クラ・クム市の人々が様々に話す事を聞いていた。
近頃《ちかごろ》、妙《みょう》に地震が増えていること。
そして、さきほどの地震は、その中でもとりわけ大きいこと。
むろん、この地方の紛争《ふんそう》についても、人々は多く言及《げんきゅう》している。
シルバたちに対する、激しい敵意《てきい》も感じた。
人々は、ボイスがティーエの護衛役《ごえいやく》だと知ると、親近感と敬意《けいい》を示《しめ》してもくれた。
これから、どうなるのか。
良い方向に行ってくれるといいのだが。
小さなランプだけの灯《とも》された、薄暗《うすくら》がりで、ボイスはティーエの寝顔を眺める。
静かだ。
まさに天上の静謐《せいひつ》のような空気が、ティーエを覆《おお》っていた。
このまま、しばらく放《ほう》っておいてやりたい。
ボイスは、心からそう思った。
束《つか》の間の安息でも、できるだけ、長く続きますように、と祈《いの》らずにはいられなかった。
ティーエの美しい顔の上には、あまりにも深く疲労《ひろう》が刻印《こくいん》されていたからだ。
“眠れ”
ボイスは心の内で呟《つぶや》く。
“眠れ。眠れるうちに、休んでおくんだ”
ボイスが側《そば》に居る。
だからこそ、ティーエはここまで安心して眠れるのだということも、ボイスは良く知っていた。
この天上の存在は、明日はまた修羅《しゅら》に直面することになる宿命を負っているのだ。
「……ん」
ボイスは眼《め》を開ける。
気配《けはい》を感じたのだ。
むろん、ボイスは、身体《からだ》を休めるために眠っていた。
とはいえ、その眠りは、いつでも目覚めることのできるものである。
戦場で培《つちか》った方法だ。
それは、全身に染《し》み付いている。
何か、異常な気配を感じ取れば、直《ただ》ちに目覚めることができる、戦士の眠り方だった。
気配……
何かが近付いて来る。
人間か……
いや、人間にしては異様《いよう》だ。
あまりにも軽い足音。
しかも裸足《はだし》。
いや……
それも違う。
四足歩行の生き物か。
それにしては、小さい。
しかも、意志を感じるのだ。
追い込んできた鹿《しか》や、湖に棲《す》む川獺《かわうそ》や、そうした動物ではあるまい。
大きさは、子供……それも幼児《ようじ》ぐらいか。
そんな者が、足音を忍《しの》ばせてここに近付く。
有り得ないことだ。
ボイスは、息を殺し、待った。
それが、本当にこの部屋に忍び入ろうとしているのか。
あるいは、確率《かくりつ》は低《ひく》いが別の部屋に向かっているのか。
ヒタ……
ヒタ……
木製の床を踏《ふ》む、微《かす》かな、微かな音だ。
「なんだ……」
ますます不思議《ふしぎ》だった。
足音は微かながら、微妙《びみょう》に乱れる。
二足歩行に、何かが加わるのだ。
ボイスは、剣の柄《つか》を握《にぎ》った。
カサッ……
カサッ……
今度は、微かな音が壁《かべ》の辺《あた》りでする。
ボイスの居るこの部屋は、かなり広く、天井《てんじょう》も高いものだった。
音の主は、その高い天井に向かって壁を登って行くようだ。
今は殆《ほとん》どの灯《あか》りを消しているが、さきほど部屋に入った時点で、ボイスは細かく室内を観察しておいた。
むろん、敵《てき》の襲撃路《しゅうげきろ》や逃げ道を、あらかじめ頭に入れておくためで、習《なら》い性《しょう》となっている。
部屋に入るには、次の間に面した入口と、湖を見渡せる露台《バルコニー》に面した窓《まど》だけで、窓は寝る前に、入念に調べた。
板戸はしっかりと閉《し》められ、頑丈《がんじょう》そうな鉄製の閂《かんぬき》が掛《か》かっていた。
外からは蹴破《けやぶ》ることもできないだろう。
露台の下は急斜面《きゅうしゃめん》だから、大勢の人間が、急に登って来ることも不可能に近い。
それを確認したからこそ、シルバは眠りに入り、ボイスも横になったのだ。
むろん、扉《とびら》の向こうの次の間には、シルバの供の者たちが居る。
そこを通らずに、この部屋に入ることはできないのだ。
ただ、一か所を除《のぞ》いては。
それは、天井近くに一列に設《もう》けられた、回廊側《かいろうがわ》の通風用の窓だった。
ボイスが、さして気に留《と》めなかったのは、かなり小さい上に、透《す》かし彫《ぼ》りの嵌《は》め板《いた》で被《おお》われているからだ。
虫か、小鳥ぐらいなら入るかもしれない。たとえ嵌め板を外しても、入ることのできるのは、小さな子供ぐらいのはずだ。
ただの空気窓。
そうとしか思われなかった。
しかし、今、壁をよじ登るものは、この窓に向かっているのだ。
ボイスは、息を殺した。
気付いていることを、覚《さと》られてはならない。
今、しばらくは、それの動向を窺《うかが》うつもりだった。
暗がりである。
天井に近い所は、闇《やみ》と同化していて、何ひとつ見えない。
だから、気配に意識《いしき》を集中した。
深夜……
真夜中と朝との、丁度《ちょうど》中間ぐらいの時間|帯《たい》である。
音はない。
全《すべ》ての音が、壁か空気に吸収《きゅうしゅう》されてしまったように……
だが、気配は動いている。
おそらく、ボイスでなければ感じ取ることはできないだろう。
音もなく、動く。
スッ……
初めて、微《かす》かな、極《きわ》めて微かな音を、ボイスは聞いた。
天井近く。
見えない窓の辺《あた》りだ。
透かし彫りの欄間《らんま》のようなものに何かの仕掛けがあって、それを押し開けたのだ。
そこから、滑《すべ》り込《こ》んで来るものがいる。
小さい。
やはり小さい。
それは、天井辺りを水平に移動し始めた。
空中を飛んでいる訳《わけ》ではあるまい。
ボイスは思い出した。
天井には、強度を増すための梁《はり》が何本か架《か》けられていた。
入って来たものは、その上を進んでいるのだ。
やがて、移動は垂直《すいちょく》に変わる。
シルバの寝台の上辺りだ。
今度こそ、空中を移動しているのか。
これは、あやかし……この世のものではない何かか。
いや違う。
ボイスの眼《め》に、何かが見えた。
いつの問にか、眠るシルバの胸《むね》か首の上辺りに垂《た》れ下がる細長いものが在るのだ。
縄《なわ》だ。
入って来たものは、縄を下ろし、それを伝《つた》っているのだ。
やがて、それが見えて来た。
小さな生き物。
ふさふさとした毛に被《おお》われている。
猿《さる》か……
人間の赤ん坊程度の大きさだ。
猿は、大陸のあちらこちらにおり、特に南部には多い。
しかし、どうして今、ここに入って来たのか。
自然な行為《こうい》とは、とても思われない。
誰《だれ》か人間が操《あやつ》っているに違いない。
しかし、何のために。
ボイスは、未《ま》だ寝たふりをして見守ることにした。
いくら怪《あや》しい行動をするといっても、小さな猿なのだ。
人を喰い殺すようなことはあるまい。
せいぜい引っ掻《か》く程度のことだろうし、今のところ、狙《ねら》われているのは、ティーエではない。
猿は、縄を伝って降りて来ると、シルバの一メートルほど上で止まった。
縄はそこ迄《まで》だった。
飛び下りるのか、と思ったが、猿は片方の手でぶら下がったままだった。
むろん、このままで届《とど》く距離《きょり》ではない。
「ム……」
ボイスは、気が付いた。
猿は手に何かを持っている。
ごく小さなものだ。
“針《はり》……か”
どこから取り出したのか、猿は手に針を持っていたのである。
いや、針を取り付けた輪《わ》のようなものを握《にぎ》っているのだ。
“針で、何を……”
ボイスが、首を傾《かし》げた時だった。猿は突如《とつじょ》、縄から手を放し、シルバの側《そば》に飛び降りた。
「いけないっ」
咄嗟《とっさ》の動きだった。
ボイスは、大剣を繰《く》り出し、猿の足を薙《な》いだ。
むろん鞘《さや》を払《はら》ってはいないし、手加減《てかげん》はしている。
それでも、猿は寝台の下に転げ落ちた。
キキッ!
驚いたのか、痛かったのか、猿は一声、鋭《するど》く鳴いた。
「なんだっ!」
シルバが跳《は》ね起き、寝台から飛び降りる。
「何をしたっ」
「猿でございます」
ボイスは、猿から眼を離さずに答えた。
「怪《あや》し気《げ》なふるまいをいたしますので」
「さ……る……」
身体《からだ》は鋭く反応したものの、シルバの眼は、未《ま》だ本当に覚めてはいないようだ。
「猊下《げいか》!」
「猊下っ!」
控《ひか》えの間から、シルバの三人の供《とも》の者が飛び込んで来た。
大きな武器を持ってはいなかったが、少なくとも二人は、武術《ぶじゅつ》の心得があるということが、ボイスには一目でわかっている。
もう一人は秘書で、武装した者たちは船頭と共に港で待っているはずだ。
まだ殺されていなければ、だが。
「猿かっ」
一人が剣を抜《ぬ》く。
キキッ!
殺気《さっき》を感じたのか、猿は跳《と》び上がった。
「こいつっ」
「待ってください」
静かな声が、男たちを止めた。
ティーエだった。
「猿に罪《つみ》はないのです」
キッ!
猿は、シルバの寝台に走ったが、そこにはもう、縄は下がってはいなかった。
キイッ!
猿は壁《かべ》によじ登ろうとする。
シルバの供が、短剣を投げた。
ティーエは跳《と》んだ。
数メートルの距離《きょり》を一気に跳んで、猿を捕《とら》えたのだ。
むろん、人間|業《わざ》ではない。
「ティーエッ!」
ボイスが叫《さけ》ぶ。
シルバの供の投げた短剣の先が、ティーエの背《せ》に吸《す》い込《こ》まれたからだ。
猿を庇《かば》ったのである。
「ティーエッ!」
ボイスは、着地したティーエに駆《か》け寄《よ》った。
「大丈夫《だいじょうぶ》かっ」
こんな時に、猿を庇うなどとは……
しかし、ティーエは、そうしないではいられないのだ。
考える前に、身体が動いていたのだ。
「大丈夫です」
ティーエは答えた。
しかし、ティーエの背には短剣が突《つ》き刺《さ》さり、服に血が滲《にじ》み始めていた。
「あっ」
最も驚《おどろ》いたのは、短剣を投げた本人だったかもしれない。
たかが猿ごときを……しかも、怪し気な猿を、身をもって庇う人間がいるとは。
その人間は、シルバが今、必要としている大切な将棋《しょうぎ》の駒《こま》なのだ。
「トバティーエ」
シルバも、ティーエに走り寄る。
「怪我《けが》をしたのか」
「たいしたことは、ありません」
ティーエの声はしっかりしており、ボイスを安堵《あんど》させた。
「何があったというのだ」
「この猿は、誰《だれ》かに操《あやつ》られているのです」
シルバの問いに、ティーエは答えた。
「あなたさまのお命を、狙《ねら》っていたのでございます」
ボイスは、床《ゆか》に落ちていたものを拾《ひろ》い上げた。
それは、小さな針《はり》の付いた金属の輪だった。
さきほど、この猿がどこからか取り出して持っていたものだ。
「針……」
シルバは、すぐさま言う。
「毒針《どくばり》だな」
ボイスも、そう推察《すいさつ》していた。
この針の先には、猛毒が塗《ぬ》ってあるに違いない。
先端《せんたん》で掠《かす》めるだけで、標的《ひょうてき》とされた人物を殺すことができるのだろう。
だから、猿の力でも足《た》りるのだ。
常に暗殺の危険《きけん》を感じて来たシルバにとっては、そう目新《めあたら》しいことではない。
「この部屋は、暗殺のための部屋か」
シルバは、部屋を見回した。
供の者が、蝋燭《ろうそく》の炎《ほのお》を、これ迄消していたランプ等《など》に点《つ》けて回った。
猿は、ティーエの腕《うで》で震《ふる》えている。
「猿を仕込み、標的の寝台迄行かせ、毒針で刺させていたのか」
「しかし……」
遠慮《えんりょ》しながら、供の一人が言う。
シルバの秘書のような男で、二十代|半《なか》ばである。
「寝台は二つでございます。どちらに猊下《げいか》がお寝《やす》みになるか、わからないのでは……」
「どこかから、確認《かくにん》しているのだろう。そして、猿は、二|匹訓練《ひきくんれん》して、別々の寝台を襲《おそ》うようにすればいいのだ」
シルバは、唇《くちびる》を苦々《にがにが》しく歪《ゆが》めた。
「おまえには、感謝せねばなるまい」
シルバは、ボイスに向かって頷《うなず》いた。
頭を下げたつもりなのだろう。
「ははっ……」
ボイスは、ただ深く礼をした。
咄嗟《とっさ》に取った行動だった。
ここでシルバを死なせては、ティーエの義が立つまい。
それに、マンレイドとラクシ。
二人は人質同様なのだ。
ただ、二人がヴァユラの村に向かったというのは、ボイスにとっては救いだった。
シルバもサトゥムも知るまいが、そろそろ太陽帝国のヴァユラの人々が、この国のヴァユラの村々に、ティーエの一行の手助けをしてほしいという要請《ようせい》を行き渡らせているはずだからだ。
いずれにせよ、ここでシルバを死なせる訳にはいかなかった。
「しかし……ここでわたしの命を狙《ねら》う、というのも解《げ》せぬな」
シルバは呟《つぶや》くと、しばし考え込んだ。
「ここでわたしが死ねば、和議は潰《つぶ》れ、対立は更《さら》に深くなる」
「クラ・クムの者たちは、初めから和議を結《むす》ぶ気などなかったのではございませんか」
秘書《ひしょ》が言った。
「だとすれば、初めから殺しておけばいいのでは」
ボイスが異《い》を唱《とな》える。
「暗殺の必要などございません」
「トバティーエ様の前でそういうことをしたくなかったのでは……本来、誰にもわからぬやり方です」
秘書の言うことにも、一理あるように思われた。
「そうかもしれぬ」
シルバは、未《いま》だ半ば考えごとをしながら言った。
「あるいは、クラ・クムの者どもも、いくつかの派に分かれているのかもしれぬな」
「……とおっしゃいますと」
ボイスが問う。
「和解を望む者たちと、そうでない者たちがいるのだろう。あるいは……」
シルバは続ける。
「ここにも、わたしの敵《てき》に気脈を通じている者がいるのかもしれない」
「猊下の敵……とおっしゃいますと」
「国王の周《まわ》りの者たちだ」
シルバは、すぐに言った。
「昔から、わたしの命を狙っている」
「昔から……」
「国王一派は、わたしを恐《おそ》れているのだ。なぜなら、わたしこそが、正統《せいとう》の王だからだ」
さすがのシルバも、ここの人々が、ピラミッドの秘密を守ろうとしてシルバを狙ったとまでは思い至っていない。
ボイスは、ランプを手に取ると、ティーエの傷《きず》を改《あらた》めた。
服が切れ、血が流れてはいたが、幸い、そう深い傷ではなかった。
とはいえ、傷口はパックリと割れている。
「痛むか?」
覗《のぞ》いていたシルバが尋《たず》ねた。
「なぜ、猿など助けるのだ」
「生きているからです」
ティーエは、胸《むね》にしっかりとしがみついている猿を撫《な》でた。
撫でられただけで、猿は落ち着く。
「おまえ……」
シルバは、呟《つぶや》いた。
「猿とも、心で話ができるのだな」
ティーエが、姉のリマラと心と心で話をしていたことは、シルバも良く知っている。
「あ、はい」
ティーエは頷く。
「もちろんです」
「もちろん……か」
シルバは微笑《びしょう》した。
それは意外に、自然なものだった。
「姉君と同じだな」
シルバの微笑が優《やさ》しいものだったのは、姉を思い出したからなのだろう。
シルバは、手を伸《の》ばし、ティーエの背の傷口に窮《かざ》す。
「まず、この傷を治《なお》そうか」
「あ……」
ボイスは声を呑《の》んだ。
ティーエの傷に変化が起きたからだった。
まず、裂《さ》けていた肉と皮《かわ》がくっつき、見る間に、平《たい》らになっていくのだ。
数秒後には、傷はすっかり消えていた。
「ありがとうございます」
ティーエは礼を述《の》べた。
シルバは、また唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
「こんな力は……わたしの望んだものではない」
いささかふてくされたように言う。
「王たる者に、癒《いや》しの力など要《い》らぬ。わたしが欲しかったのは、おまえのような力だ」
「わたしの……力」
ティーエは首を傾《かし》げる。
「そうだ。おまえのように、霊《ハラン》や精霊《ストラ》を従《したが》える強大な力だ」
シルバは拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めた。
「その力があれば、わたしは全《すべ》ての敵《てき》を討《う》ち果《は》たすことができるのに」
敵、とは、どのような勢力なのか。
尋《たず》ねたかったが、ボイスはそれを口に出しはしなかった。
その時だった。
ティーエが、微かな声をあげたのだ。
何かに驚いているような声だった。
そして、どこかを見詰《みつ》めている。
壁《かべ》のようだが、それを通り越《こ》した遥《はる》か遠くを。
「どうした?」
シルバが問う。
「大地が……」
呟《つぶや》くようにティーエは応じた。
「大地が動いています」
「大地が……」
「激《はげ》しく動き……突《つ》き上げます」
「突き上げ……」
「ああっ」
シルバが言ったのと、ティーエが声を発したのは、全く同時だった。
キキッ!
ティーエの腕の中の猿が、突如《とつじょ》飛び出すと、壁に跳《と》び付く。
ドオンッ!
耳をつんざくような轟音《ごうおん》。
その直後に、激しい揺《ゆ》れが来た。
地震《じしん》だ。
ゴオッ、という地鳴りのような音が響《ひび》いた。
天に近い方で、雷《かみなり》のような音もする。
「これは……ただの地震ではないな」
シルバがティーエに言う。
「はい」
半ば呆然《ぼうぜん》として、ティーエは答えた。
「これは、噴火《ふんか》です」
「ふん……か」
「火山が……」
ボイスが呟いた。
「火山の噴火か」
この高地の背後には、連《つら》なる山々があり、中央山岳地帯に繋《つな》がっている。
山々の中には、いくつもの火山があったはずだが、煙《けむり》を吐《は》いていたものは、なかった。
本当に、噴火なのか。
俄《にわ》かには信じ難《がた》いが、ティーエが言うからには確かなはずだ。
「噴火です」
ティーエは、頬《ほお》を赤く染《そ》め、どこか遠くを見る眼《め》をして語る。
その幽魂《ゆうこん》は既《すで》に火山の辺《へ》に在って、溶岩《ようがん》の熱に晒《さら》されているのかもしれない。
その瞳《ひとみ》にも、火山の熱の移ったような、重い輝きがあった。
外で、人々が騒《さわ》ぎ始める。
火山だ。
噴火だ。
そういう声が聞こえて来た。
シルバが供の者を促《うなが》し、窓《まど》の板戸を開けさせる。
開けた直後に、空が光った。
稲妻《いなずま》が走ったのだ。
闇《やみ》の中に、赤いものが見える。
不気味《ぶきみ》な、どこか濁《にご》ったような紅《くれない》。
溶岩の色が、黒雲に映《うつ》っているのだ。
どの山か、よくはわからないが、そう近くの山ではあるまい。
幸いにも、いまのところ火山|弾《だん》などは落ちて来ないようだ。
ただ、風向きでは、いずれ灰《はい》が降るかもしれない。
「マノロ・コウトの山か」
シルバが呟《つぶや》いた。
「マノロ・コウト」
「記録によると、百年ほど前に噴火したようだ。それからは、ずっとおとなしくしていたのだが」
ティーエの問いに、シルバはそう答えた。
地流の知識《ちしき》を持つシルバは、そういうことにも通じているらしい。
「長いこと力を溜《た》め込《こ》んでいたとなると、厄介《やっかい》だ」
シルバは言う。
「噴火は、これだけでは収《おさ》まるまい」
「これだけでは……」
ボイスは、不安を覚えた。
いくら恐《おそ》れを知らぬ戦士でも、自然の力の前では、為《な》す術《すべ》をもたない。
ただ、そうしたものからティーエを守る必要がないのは、ありがたかった。
「そうですね」
ティーエがシルバに言った。
「まだまだ、足下で、大地の力がうねっています」
「火山の力か」
「大陸全体の大地の力が、火山という捌《は》け口を求め、押し寄せるのです。地の底に溜め込まれた、黒く、そして赤い力が」
ティーエは、リマラに導《みちび》かれ、地流を辿《たど》っていた時に行き当たった、無気味な力を思い出していた。
地流の力すらねじ曲げるような、何かの存在。
それは、大地の本来のエネルギーとは異質なものだった。
ティーエの中に、その力の塊《かたまり》の中を一瞬突《いっしゅんつ》き抜《ぬ》けた時のことが蘇《よみがえ》る。
そこに見たものは、星空だった。
漆黒《しっこく》の空間と、またたかぬ無数の星との幻映《げんえい》だった。
あの時、ティーエは恐れを抱《いだ》いたのだ。
あれは何か。
この大陸の大地の底にわだかまる、あれは。
「あっ……」
ティーエは口の中で鋭《するど》く叫《さけ》んだ。
感じるのだ。
足の下の、深い処《ところ》での激《はげ》しい動きを。
「動いています」
ティーエは言った。
「動いています。何かに掴《つか》まってください」
「またかっ」
シルバは、そこに片膝《かたひざ》を突いて蹲《うずくま》る。
ボイスは立っているティーエを後ろから支《ささ》えた。
ドーンッ!
一瞬、全ての音が消滅《しょうめつ》して、頭の内が真っ白になったように感じられた。
火山の頂《いただ》きが、真っ赤に燃える。
数|呼吸《こきゅう》後に地震が来た。
激しくはなかったが、長く揺《ゆ》れた。
ダンッ……
ダンッ、ダンッ。
頭の上で、無気味な音が響き始めた。
火山弾か、火山|礫《れき》が落下して来たのだ。
「屋根は、大丈夫《だいじょうぶ》か」
シルバも、ボイスも、天井《てんじょう》を見上げる。
屋根がもたなくても、外に出る訳《わけ》にはいかない。
「屋根が落ちても、大丈夫です」
ティーエが言口った。
「この建物の周りに、防壁《ぼうへき》を巡《めぐ》らせました」
つまり、エネルギーの盾《たて》を張ったのだ。
「ただ、この都市《まち》全体を守ることは、わたしには、無理です」
ここに、アドリエの先王イルアデルか、太陽帝国の大祭司カリスウェンが居たら、とティーエは心から思う。
力を合わせて、噴火そのものを抑《おさ》えられたかもしれない。
かつて、ティーエとイルアデルは、大津波《おおつなみ》の襲来《しゅうらい》を止めた。
何千、いや、何万もの人々を救《すく》ったのだ。
もちろん、その人々は、奇跡《きせき》を起こした者が誰《だれ》なのかは、知らなかったが。
噴火のエネルギーは、大津波より更《さら》に大きいのかもしれない。しかし、それにカリスウェンの力が加われば……
だが、それは夢《ゆめ》だ。
イルアデルはもういない。
そして、カリスウェンは、太陽帝国の首都アステ・カイデにいるのだから。
「防壁《ぼうへき》か……」
自らも、多少の霊視《れいし》の力を持つシルバには、ある程度ティーエのしていることを理解できる。
「溶岩《ようがん》は、大丈夫か」
シルバは火山を見詰《みつ》める。
頂上の光が強くなったような気がする。溶岩が流れ出しているのだ。
「精霊《ストラ》たちが、警告《けいこく》してくれています」
ティーエは辺《あた》りを示して言う。
精霊を示しているのだが、残念ながら、視《み》える者はいなかった。
「熱い灰《はい》の流れが、いずれこの都市を襲《おそ》うと。いえ、この都市だけではありません、ローダ・アルゼンも危《あぶ》ないそうです」
「ローダ・アルゼンもか」
さすがに、シルバは秀麗《しゅうれい》な眉《まゆ》の根を寄せた。
外からは、火山弾の落ちる音と、人々の悲鳴《ひめい》や叫《さけ》びが聞こえて来る。
ここに、更《さら》に熱い灰や溶岩が追い討《う》ちをかけるのか。
「そうだ、舟《ふね》だ」
シルバは立ち上がった。
「港に行って、舟に乗《の》らねば」
舟に乗って、逃げようというのか。
ボイスは、無言でシルバを見た。
「ローダ・アルゼンに、危機《きき》を告《つ》げねばならない」
「ローダ・アルゼンに」
ボイスは、内心少しシルバを見直していた。
「王家の一族たるもの、臣民《しんみん》を守るのは当然のことだ」
「とは、おっしゃいましても……」
ボイスは、残念そうに言う。
「今頃、港では舟の奪《うば》い合いが起こっておりましょう」
ひとの考えることは、同じなのだ。
こうして実際に火山弾が降って来たからには、誰でもが、次は溶岩ではないか、と考える。
今頃、皆が港に殺到《さっとう》し、湖に逃れようと躍起《やっき》になっているだろう。
舟を奪い合い、争いになっているかもしれない。
「しかし、他に方法はない」
「それよりも、猊下《げいか》」
シルバの秘書が早口に言う。
「少しでも安全な所にお逃げください」
火山弾の落下は、どうやら止まったようだったが、今はもう少し小さい石や灰が降り出している。
人々は、これ迄潜《までひそ》んでいた建物から出、ある者はいち早く逃れようとし、ある者は山の様子を見定めようとしているようだった。
外では、人々があわただしく行き交《か》い、叫《さけ》び声や悲鳴に、怒号《どごう》も混《ま》じって流れて来た。
「いや、今外に出るのは危《あぶ》ない」
ボイスが言った。
「人々は殺気立っている。バリム・ソグドであられる猊下のお姿を見れば、何をするかわからないぞ」
それは、確かに有り得ることだった。
クラ・クム市の人々にとって、ソグドム教徒《きょうと》は敵《てき》なのだ。この危機で理性を失っている人々が、何をするかは、全く予測《よそく》できない。
「戦士|殿《どの》」
秘書は、非難《ひなん》の口調《くちょう》で言う。
「このまま、ここに居《い》る訳《わけ》にはいきません」
「トバティーエの、言う通りにすべきなのです」
ボイスは応《おう》じる。
「トバティーエがいれば、我々は安全です」
力強い言葉だった。
それは、経験《けいけん》と信頼《しんらい》に裏打《うらう》ちされている。
サッ……
小さな音が、広がり始める。
灰が降《ふ》り出したのだ。
ゴゴッ……
また地鳴りだ。
「外は暗いのです、闇《やみ》に乗《じょう》じて逃げれば」
秘書は、まだ引かない。
本当は、自分が逃《のが》れたいのだ。
とはいえ、シルバを捨《す》てて逃げることはできない。
「このままでは、都市は火の海になって壊滅《かいめつ》することになりかねません。猊下のお命も、わたしどもも……」
秘書が恐れるのも、当然なのだ。
そう近くはないとはいえ、火山が噴火《ふんか》し、こうして火山弾や灰が降り注《そそ》いでいる。
しかも、これから火砕《かさい》流が襲《おそ》って来るかもしれない、というのだ。
無気味《ぶきみ》な地鳴りや雷鳴《らいめい》も轟《とどろ》き、人々は逃げまどっている。
この暗がりの中で、人々はひしめき合い、押し合い、なんとかこの難から逃れようとしているのだ。
街路《がいろ》ばかりでなく、あちらこちらから、悲鳴《ひめい》や怒号《どごう》、様々な音が、地鳴りのように湧《わ》き起《お》こって来る。
ティーエが、眉《まゆ》を顰《ひそ》めどこか哀《かな》し気《げ》な表情《かお》をしているのも、そのせいかもしれなかった。
ティーエには、人々の実際の悲鳴ばかりでなく、心の叫びまで聴《き》こえてしまうのだ。
極限状況《きょくげんじょうきょう》に追い込まれた人間が、何を思い、何を叫ぶのか。
押し倒されて怪我《けが》をする者もいれば、この隙《すき》に盗《ぬす》みを働こうとする者もいるだろう。日頃の恨《うら》みを晴らそうとする者も、あるいはいるかもしれない。
むろんティーエが心の耳を塞《ふさ》げば、聲《こえ》を遮断《しゃだん》することはできるが、それでは全く自分の殻《から》の中に閉《と》じ籠《こ》もってしまうことになるのだ。
今、それはできない。
「ティーエ」
ボイスは呼ぶ。
「ティーエ、大丈夫《だいじょうぶ》か」
「は……はい」
その声で、ティーエは我《われ》に返った。
「溶岩と、熱い灰の流れを止めなくてはなりません」
呟《つぶや》くように言ったその言葉の意味を、シルバさえも捉《とら》えられなかった。
「ここを出よう」
シルバが言った。
「ローダ・アルゼンに知らせなければ」
「そんな時間は、ないのです」
ティーエは、シルバに真《ま》っ直《す》ぐに向かい合った。
「たとえ舟に乗れたところで、何時間もかかります。着く前に、どちらの都市も火山灰に埋《う》もれてしまうかもしれません」
灰といっても、高熱の灰である。包《つつ》まれれば、生き物は燃え尽《つ》きてしまうだろう。
「溶岩と灰の流れを止めるのです」
「どうやって、止めるのだ」
シルバは、ようやくティーエの言わんとしていることが解《わか》りかけていた。
しかし、そんなことは信じられない。
ティーエは、この圧倒的《あっとうてき》な自然現象を止めようと言っているのだ。
むろん、シルバは、ティーエがかつて、アドリエで、巨大津波《きょだいつなみ》を止めてしまったことなどは知る由《よし》もない。
「呪力《じゅりょく》で……」
「呪力でか」
二人は同時に言った。
「そんな力が……あるのか」
信じられはしないものの、半《なか》ば期待を籠《こ》めて、シルバは問う。
ティーエにかなりの呪力があるのはわかっているが、火山の噴出物《ふんしゅつぶつ》の流れを止めるということは、崩《くず》れ落ちる天井《てんじょう》を止めるのとは、規模《きぼ》が全《まった》く違うのだ。
「わかりません」
ティーエは、僅《わず》かに首を振《ふ》った。
「シルバ様や、他の方々が手伝ってくださるなら」
ボイスがラクシだったら、
“アチャーッ……”
と、ここで天を仰《あお》いでいることだろう。
「トバティーエは、アドリエで、襲《おそ》い来る津波を止めたことがございます」
ボイスは、すぐさま補足《ほそく》した。
「津波……」
幸い、シルバは、ちゃんと耳を傾《かたむ》けた。
「巨大な津波でございました」
ボイスは、巨大を強調した。
「あれは、力を貸《か》してくれた人がいたからですが」
ティーエはまた、不必要なことを言い出す。
ボイスは耳を塞《ふさ》ぎかけたが、その手を止めた。
「ここには、わたしの強力な味方があるのです」
「強力な味方、とは何だ?」
「ピラミッドです」
シルバの問いに、ティーエは答える。
「ピラミッドには、特別な力があるのです。宇宙と、地流の力とが、わたしを助けてくれると思います」
ティーエは、さきほどもそんなことを言っていた。
「シルバ様、お力を貸《か》してください」
「協力を惜《お》しみはせぬが……本当に噴火《ふんか》を止められるのか」
噴火は、溜《た》まりに溜まった大地の力の噴出だ。
一度爆発すれば、大神ソグドすらも止められない。
それが、ソグドム教としての認識《にんしき》だ。
だが、シルバは今、別の何かを感じている。
いや、初めて会った時から、この男には何か特別なものがある、そう直感していたのだ。
「わかりませんが、何もしなければ、大勢の人が死にます。人だけではなく、動物も植物も……あらゆる生き物が死ぬのです」
「ピラミッドに行くのだな」
シルバは頷《うなず》いた。
「お逃《に》げください。お逃げください、猊下《げいか》」
秘書ばかりでなく、供《とも》の者たちが口々に言う。
「わたしは逃げぬ」
シルバは、はっきりと言い切った。
「わたしは、王家の嫡流《ちゃくりゅう》。人民は見棄《みす》てぬ」
シルバは、近くにあった薄《うす》い色の布を頭から被《かぶ》って、身体《からだ》に巻《ま》き付けた。
もちろん、ソグドム神官|独特《どくとく》の黒い装束《しょうぞく》を隠《かく》すためである。
「道は、わかるか」
シルバはボイスに問う。
「はい。覚えております」
ボイスは、すぐさま答えた。
「おまえたちは、来なくてもいい」
シルバは、供の者たちに眼《め》を向ける。
「逃げたい者は逃げるがいい。後で咎《とが》めはせぬ」
言うなり、シルバは身を翻《ひるがえ》した。
「案内しろ」
「ははっ」
ボイスは先に立って、宿舎《しゅくしゃ》を出た。
街《まち》は闇《やみ》の中にあった。
そこに、沢山《たくさん》の光が動いている。
人々の掲《かか》げるランプや松明《たいまつ》だ。
街路《がいろ》には、その明かりよりも遥《はる》かに沢山の人々がいる。
皆《みな》、火山とは逆《ぎゃく》の方向、湖に向かって移動しているのだ。
既《すで》に、ティーエたちの泊まっていた宿舎の周《まわ》りには、護衛兵《ごえいへい》たちの影《かげ》はない。
護衛といっても、半分はシルバの一行を監視《かんし》する目的で付けられていたのだろうが。
人々の流れは、湖に向かっていた。
船で対岸《たいがん》に逃れるか、あるいは岸伝《きしづた》いに、少しでも噴火した山から離れようという人々である。
まだ灰は少々降って来るが、幸い次の爆発《ばくはつ》もなく、もう大きいものが落下するということはなかった。
少々|収《おさ》まったので、逃げずに家に居て様子を見ようという人々もいる。
言い伝えなどでは、過去に何度か、火山の噴火があったということだが、このクラ・クム市に迄《まで》溶岩が達《たっ》したという事例はない。
ここ迄はこないだろう。
そう高を括る者も多いのだ。
とはいえ、ここの人々にとって、噴火は生まれて初めての経験だった。
また、岩や熱い灰が降って来るかもしれない。
溶岩が流れて来るかもしれない。
本能的に逃げようとするのが、当然なのだ。
ティーエたちの一行は、太陽《アト》のピラミッドに向かっているので、人々の流れに乗るものでも、それに逆《さか》らうわけでもなかった。
ただ、何度か横切る必要はあった。
ある者は子供や老人を背負《せお》い、またある者は大きな荷物《にもつ》を肩《かた》に負っていた。
荷車《にぐるま》に家財《かざい》道具を積《つ》み込んでいる者もいる。
怪我《けが》人を乗せた荷車もあった。
火山|弾《だん》か、崩《くず》れ落ちた屋根などで怪我をしたのだろう。
遠かったが、火事らしき火の手のあがっているのも見える。
むろん、建物の下敷《したじ》きになった人を助けようとする人々もいた。
人々は押《お》し合い、近くの者を突き飛ばした。
ティーエはぎゅっと眼を瞑《つむ》り、進んでいた。
シルバと同じように、布で顔を隠《かく》している。
今、人々の前にその姿を現しては、救《すく》いを求める人々が殺到《さっとう》するかもしれないからだ。
この都市《まち》では、ティーエは、神々に等《ひと》しい存在なのだから。
とにかく、ピラミッドに辿《たど》り着かなくては。
しかし、周りは助けを求める聲《こえ》で一杯《いっぱい》なのだ。
恐怖や怒りや悲しみの叫《さけ》びで満《み》ちているのだ。
おそらく、弱い防壁《ぼうへき》を巡《めぐ》らせて、聲をある程度|遮断《しゃだん》し、耐《た》えているのだろう、とボイスは考えた。
以前と比《くら》べると、かなりの進歩だ。
アドリエに居た頃《ころ》のティーエなら、完全に遮断して、自分の中に閉じ籠《こ》もってしまっていたに違いない。
ボイスは、突然《とつぜん》立ち止まる。
眼を瞑って歩いていたティーエは、その背中にぶつかった。
「何だ」
ボイスは前方に向かって呼ばわる。
人の気配《けはい》だった。
しかも、こちらに悪意をぶつけて来る気配だ。
「何の用だ」
気付かれたので、前方の角からゾロリゾロリと人が出て来た。後方からもだ。
松明を持っている者が何人もいる。
ティーエの一行は、ボイスの持つ松明と、後ろに付いている秘書のランプだけだった。
人目に付きたくはないが、噴火《ふんか》の黒雲で月も覆《おお》われた真《ま》っ暗闇《くらやみ》の内である。灯《あか》り無しには、一歩も動くことはできないのだ。
太陽帝国とは違い、この辺《あた》りでは、ランプは少々|贅沢品《ぜいたくひん》だ。
灯りの中に現れたのは、十人ほどの男たちだった。
皆、普通《ふつう》の市民の服装《ふくそう》をしている。
しかし、ボイスが感じ取ったのは、一般《いっぱん》の人々の気配ではなかった。
殺気《さっき》。
それも、憎しみの無い殺気だ。
静かな深い流れの底のような、ある種、無機質の殺気。
それがどういうものなのかを、ボイスは知っていた。
そして、シルバも。
ボイスは、松明をシルバに手渡した。
「十対一か」
シルバは、ボイスに囁《ささや》いた。
「おまえの敵《てき》ではないな」
「御用心《ごようじん》くださいませ」
ボイスも低く応じる。
「他にもいるかもしれません」
かなり細い路地である。弓《ゆみ》などで狙《ねら》うことは難《むずか》しいが、隠れている者もいるかもしれない。
「わたしへの刺客《しかく》だろう。こんな所まで、入り込んでいるとはな」
シルバは、乾《かわ》いた笑いを漏《も》らした。
「トバティーエも、安心はできない状況《じょうきょう》にあります」
ボイスが言うのは、あの、ローダビアの陰《かげ》で何かを企《たくら》む者たちだった。
アステ・カイデでは、カリスウェンが標的《ひょうてき》にされたが、ローダビアに行けば、ティーエが狙われるかもしれない、と示唆《しさ》したのは、グラウルだった。
後から、グラウルの指示で、マルバ・シレルとバリカイが、ローダビアに入るという話も聞いたが。
このクラ・クム市は、特殊《とくしゅ》な都市だ。
刺客たちが、入れるとは、さすがにボイスも予想はしていなかったが、考えてみれば、特産の宝石の買い付けに来る者ばかりでなく、様々な商人が、この都市を訪《おとず》れているのである。
その商人がソグドム教徒《きょうと》だったら、命懸《いのちが》けの冒険《ぼうけん》となるかもしれないが、相手が宝石なら、それすらも厭《いと》わない者も多いだろう。
「今は、一刻《いっこく》を争《あらそ》うのだ」
ボイスは、男たちに言う。
「おまえたちも命は惜《お》しいだろう。すぐに、ここに溶岩《ようがん》が流れて来るかもしれないのだぞ」
その言葉にも、相手は引く気配もない。
「早く逃げろ、また、爆発するぞ」
さすがに、それには多少心乱された者がいたようだが、誰《だれ》一人として、この場を離れようとはしなかった。
それどころか、ジリジリと間合を詰《つ》めて来る。
今、仕事をしてしまおうというのだ。
「この連中の相手は、わたしがいたします。突破口《とっぱこう》を作ったら、すぐに駆《か》け抜けてくださいませ」
ティーエが意識《いしき》を遮断《しゃだん》している以上、シルバに頼むしか方法がない。
「いや」
シルバは首を振った。
「離れるべきではない」
「と……おっしゃいましても」
「わたしの供《とも》も、多少の心得《こころえ》はある」
秘書以外の二人が、なかなかの使い手であろうことは、ボイスも気付いていた。
小柄《こがら》な、大人しそうな青年二人だったが。
「むろん、わたしも闘《たたか》う」
シルバも、短いながらも剣は隠し持っていた。
「皆でここを切り抜けるのだ」
シルバの言う通りかもしれない。
今ここで別れ別れになっては、ボイスはこの後、ティーエを守ることができなくなるのだ。
「では、トバティーエをお願いします」
「安心するがよい」
シルバは、懐《ふところ》の短剣に手をやり、二人の供は、ティーエ、シルバ、そして秘書の三人を背に庇《かば》う形で構《かま》えた。
むろん、そうしている間にも、襲撃者《しゅうげきしゃ》たちは、ジリジリと寄りながら剣を構えている。
相手は本気だ。
ボイスは、躊躇《ちゅうちょ》しなかった。
無言で、剣の柄《つか》を握《にぎ》り進み出ると、腰《こし》を沈《しず》めながら、鞘《さや》を払《はら》う。
情《なさ》けは無用だった。
ティーエの言ったことが本当なら、下手《へた》をすると数千、いや、数万の犠牲《ぎせい》者が出るのだ。
一刻を争う。
ボイスは、その雄大《ゆうだい》な剣を、抜き打《う》ちで一閃《いっせん》させた。
ザッ。
重い風が起こる。
「わっ!」
「あーっ」
予期していながら、逃《のが》れられない者がいた。
それほどの剣風であった。
三人が、その場に倒《たお》れた。
しかし、他の刺客《しかく》は、一瞬《いっしゅん》も仲間を顧《かえり》みなかった。
後方の四人が、ティーエたちの方に走ったのだ。
言葉はなかった。
シルバの二人の供が、立ち塞《ふさ》がる。
腰《こし》に帯《お》びている剣は、小振《こぶ》りである。
相手の懐深く飛び込まなければならないだろう。
むろん、向こうもそれを予期していた。
プロだ。
ボイスは感じた。
刺客はプロだ。
そして、二人の供も、素人《しろうと》ではなかった。
二人のうちの一人、蒼白《あおじろ》い顔をした青年が、腰に巻いていた革《かわ》のベルトを外した。
カチリと、微《かす》かな金属音がした。
青年は、身を沈ませる。
刺客の一人が、抜刀《ばっとう》する。
シュッ!
青年は、ベルトを振った。
「ウッ……」
短い声をあげ、のけ反《ぞ》ったのは、刺客の方だった。
首から顎《あご》にかけてパックリと割れ、血が迸《ほとばし》る。
ベルトに刃《やいば》が仕込まれていたのだ。
金属音は、刃《は》止めを外す音だったのである。
シュッ!
青年は、更《さら》にベルトを振る。
ただ、このベルトの刃では、致命傷《ちめいしょう》は与えられまい。
のけ反った刺客の懐深く飛び込んだのは、もう一人の供だった。
青年は、相手の胸に、深々と剣を突き入れた。
そして、その刃を引き抜くと、剣の鞘《さや》を外して、柄《つか》に差し込む。
カチッ……
音と共に出来あがったのは、小型の手槍《てやり》のようなものだった。
二人目の青年は、もう一人と違って丸顔で、茶色の服を着ていた。相棒《あいぼう》は、灰色の服で、共に神官の装束《しょうぞく》ではない。
髪《かみ》も、ごく普通《ふつう》に短めに切っていた。
当然ながら、髪を切ってはいけない、という戒律《かいりつ》のあるソグドム教の神官であるシルバは、よく手入れのされた、長い髪で、一部を編《あ》んでいる。
ソグドム教では、髪は、大神の思《おぼ》し召《め》しを受け取るための、謂《い》わばアンテナ、と考えられているからだ。
二人は、聖職者《せいしょくしゃ》ではない。
かといって、ヴィザンが使っている、ヴァユラでもなさそうだが。
いずれにせよ、二人の働きも、目覚ましいものだった。
刃を仕込んだ革帯《かわおび》と、小さな手槍。
もう、間合の不利はない。
二人は、積極的に討《う》って出る。
むろん、ボイスは、その二人の動きに瞠目《どうもく》しながらも、自分の眼の前の敵に向かっていた。
こちらはあと三人。
後方の刺客は、二人の供が片付けてくれるだろう。
ボイスは、三人に集中できる。
刺客も、かなりの使い手だ。
初めに倒《たお》れた三人のうち、一人は起き上がり、片方の手で剣を構《かま》えていた。
左|腕《うで》は、垂《た》れ下がったままで、肩近くの傷口《きずぐち》からは、血が溢《あふ》れ出している。
仕事のためなら、命を懸《か》けなければならぬ類《たぐい》の男たちなのだ。
「哀《あわ》れなやつらめ」
ボイスはむしろ、同情を禁《きん》じ得《え》なかった。
自由意志で、ティーエを守ることのできる自分は、なんと幸福なことか。
ボイスは、大剣を上段《じょうだん》に振りかぶる。
「命が惜《お》しければ、逃げろっ」
叫《さけ》びながら、体重を乗せて剣を振り下ろした。
相手は避《よ》けようとしたが、逃げ切れなかった。
大剣は、相手の肩口に当たった。
ザッ!
骨《ほね》を斬《き》る音と共に、刀は腰《こし》に迄《まで》達して止まった。
その剣を引き抜く前に、別の刺客が、水平に剣を構え、脇《わき》からボイスに体当たりする。
カッ!
ボイスは、左手で、左腰に下げていた小剣を抜き、それで受けると、身を捻《ひね》った。
ズッ!
大剣は抜け、ボイスはそのまま、脇から来た男の腹部辺りを水平に薙《な》いだ。
男は避《よ》け切れなかった。
腹部が裂《さ》け、腹圧で腸《ちょう》が脹《ふく》れ出る。
「アワワッ……」
男は、自らの腸の上で転げ回った。
「あと二人」
ボイスは言った。
「もう止《よ》せ」
シルバの供も、少しも動きを止めていない。
二人は連繋《れんけい》し、相手を斃《たお》してゆく。
シルバは、短剣の柄に手を掛け、ティーエの側《そば》に立っていた。
おそらく、ティーエは、その精神《こころ》を、完全に外部から遮断《しゃだん》しているだろう。
もちろん、顔は薄布《うすぬの》のベールで隠しているが、放心|状態《じょうたい》に似たような姿であることは、外からもうかがい知れた。
その時、また、震《ふる》えるように地面が揺《ゆ》れると、あの、突き破るような音がした。
火山はまだ、その怒《いか》りを充分《じゅうぶん》に吐《は》き出してはいないのか。
あちらこちらの街《まち》から聞こえて来る、悲鳴《ひめい》や叫《さけ》びが、更《さら》に大きくなった。
「早く逃げろ」
刺客《しかく》の心も揺らいだのを感じて、ボイスは畳《たた》みかけるように言う。
「溶岩が、来るぞ」
「う……」
三人残った刺客は、動きを止めた。
迷《まよ》いは、一瞬だった。
「引けっ」
一人が言った。
二人のうちの一人が、腹《はら》を切られてのたうち回っている仲間の所に行くと、その喉《のど》に剣を突《つ》き刺《さ》した。
そして、ヒラリと身を翻《ひるがえ》し、もう既《すで》に二人の刺客の去《さ》った方角に消えて行った。
ボイスは唇《くちびる》を噛《か》む。
確かに、その男は助からない。
一晩《ひとばん》苦しんで死ぬだけだ……
とはいえ、あまりにも冷酷《れいこく》ではないか。
刺客が仲間に止《とど》めを刺したのは、これ以上苦しませたくないという、温情ではない。苦しみのあまり、余計《よけい》なことを口走っては困るから、つまり、口止めなのだ。
刺客としては、当然のことだが。
「急がねば、ボイス」
シルバが促《うなが》した。
倒れている他の刺客を確認《かくにん》する隙《ひま》もない。
ボイスは、ティーエの手を取ると走った。
かれらにまだ息があったとしても、溶岩が来たら、同じことなのだ。
誰《だれ》も助からない。
唯一《ゆいいつ》の望みはティーエだ。
そして、シルバ。
一行は走った。
もう邪魔《じゃま》をする者はいなかった。
一行が太陽神殿に辿《たど》り着くと、ティーエの姿を見つけた神官たちが集まってきた。
いち早く逃げてしまった者もいたが、さすがに多くの神官は、踏《ふ》み止まって、神殿を守っていたのだ。
ティーエも、ようやく意識《いしき》の遮断《しゃだん》を解《と》いていた。
神官たちが、多ければ多いほどいい。
ティーエは、やって来た祭祀典長《さいしてんちょう》に協力を要請《ようせい》する。
溶岩よりも恐《おそ》ろしい、高熱の岩や灰の流れが、いずれこちらにやって来るから、それを止める。
普通なら、そんな話は、誰も信じはしないが、相手は“世界の相”を表す者なのだ。
神官たちは、一も二もなく協力を誓《ちか》った。
ただ、シルバの存在には、疑いの目を向ける者も多かった。
「溶岩は、ソグドム教徒《きょうと》も、太陽神の信徒も区別はするまい」
シルバの言葉に、ようやく納得《なっとく》する。
そうなのだ。
今は信仰《しんこう》の違いなどと、異《い》を唱《とな》えている場合ではないのだ。
ティーエとシルバと祭祀典長の三人は、ピラミッドの穴に入り、他の神官たちは、神官長の指示の下《もと》、ティーエに念を合わせることになった。
「感じますか、シルバ様」
ピラミッドの崩《くず》れ目から中に入り、先に立って歩きながらティーエは言う。
灯《あか》りは、シルバと祭祀典長が二つずつ持ちティーエも一つを持っていた。
少なくとも、ティーエは灯りは必要ない。
「感じる」
シルバは答えた。
「ここでは、大地の叫《さけ》びが増幅《ぞうふく》されている」
シルバは、今は自らの能力を隠さなかった。
「地流が激しい」
「はい」
三人は、中央部の部屋に辿《たど》り着いた。
思ったよりも広い部屋だった。
むろん、ランプの灯りが届く程度の広さではあるが、三人の人間が入ったところで、全く圧迫感《あっぱくかん》はない。
天井《てんじょう》も、二・五メートルはありそうだったし、幅《はば》は五、六メートル、奥行きも同じぐらいの、正方形に近いものだった。
巨大な石で造られたピラミッドの圧力《あつりょく》を、どこでどう分散《ぶんさん》しているのだろう。
この特殊《とくしゅ》な構造が、特別な力を生み出すのだろうか。
ピラミッドの中心部にある、などということは、ちょっと考えられないような空間だった。
ティーエの指示で、ランプは三人を囲《かこ》むように円型に置かれた。
魔方陣《まほうじん》の型と、言えなくもない。
三人は、その内《なか》に、結跏趺坐《けっかふざ》の形で腰《こし》を下ろした。
不思議《ふしぎ》なことに、空気は淀《よど》んでもおらず、また黴臭《かびくさ》くもなかった。
かといって、空気の通り道がある訳ではない。
石は、剃刀《かみそり》一枚入る隙間《すきま》も見付けられないほどに、ピッタリと組み合わされているのだ。
むろん漆喰《しっくい》を使わない工法である。
基本的には、石の表面に凹《へこ》んだ部分と凸面《とつめん》とを造り、それを合わせて固定する。
緻密《ちみつ》な計算と技術がなければ、不可能だ。
「ローダ・アルゼンを放逐《ほうちく》された時」
祭祀典長は、ティーエのみに向かって語った。
「わたくし共の先祖は、ローダ・アルゼンよりも、神々の力の強く働く場所を求めて、さ迷《まよ》ったのでございます」
「天の力と地の力の交《まじ》わる場所ですね」
「そういう場所を、我々ソグドム教では、ソグドの場と呼ぶのだ」
シルバは、皮肉《ひにく》な調子で口を挟《はさ》んだ。
そういうことは、三神殿だけの専売《せんばい》ではない、と言いたいのだ。
「そして、わたくし共の先祖は……」
祭祀典長は、シルバを無視《むし》し続ける。
「ようやく、この地に辿《たど》り着いたのでございます。ここは」
祭祀典長は力を籠《こ》めて言う。
「この地方で、最も力の強い場所でございます」
「なるほど」
頷《うなず》いたのは、シルバだった。
「ローダ・アルゼンは、小さいながら、河口《かこう》近くに建てられた都市《まち》だ」
シルバは、自らに言い聞かせるように呟《つぶや》く。
「だが、クラ・クムの近くには川もないし、一見|不便《ふべん》なような気がしたが」
水運《すいうん》は、都市にとっては、最も重要なもののひとつである。
「そういう意味があったのだな。おっと……」
シルバの言葉の途中《とちゅう》で、また地震《じしん》だ。
火山は、まだその活動を一瞬も休もうとはしない。
「わたしは、火山の様子を視《み》て来ます」
「お出かけになるので……」
祭祀典長が言い終わらないうちに、ティーエに変化が起こった。
座《すわ》ったままの姿で、ガックリと頭《こうべ》を垂《た》れたのだ。
霊視《れいし》の力――即《すなわ》ち呪力《じゅりょく》のある二人には、ティーエの中から、何かが抜け出して行くのがわかった。
「ふむ……幽魂投出《ゆうこんとうしゅつ》か」
呟いたシルバは、表には出さないが、舌《した》を巻《ま》いていた。
なんと易々《やすやす》と幽魂投出をすることか。
幽魂投出などという高度な技は、よほどの呪術者でなければできないし、しかも、大変な力を必要とするものなのだ。
ちょっと行って来ます。
などという段階《だんかい》のものではない。
「今のは……ゆ……幽魂投出なのでございますか」
祭祀典長が尋《たず》ねた。
どうやら、幽魂投出など、見たこともないらしい。
「そうだ」
「バリム・ソグド様は、なさるので……」
祭祀典長は、慌《あわ》てて取り繕《つくろ》う。
ソグドム教徒の前で、弱味を見せたくないのだ。
「わたしは、できない」
シルバは、そんな事で見栄《みえ》を張《は》る気などない。
「ただ、わたしの姉君は、おできになる」
「お姉君様が……」
シルバの姉ならば、王女のはずである。
「トバティーエは、しばらく姉君に弟子《でし》入りしていたが、さぞかし、二人であちらこちらに幽魂を飛ばしていたのであろうな」
「幽魂を……飛ばす……」
「トバティーエは、本当に火口《かこう》の様子を視に行ったのだろう。肉体をここに残し、遥《はる》かな高みか、あるいは地の底にな」
その口調《くちょう》には、どこか羨《うらや》まし気《げ》な色が漂《ただよ》っていた。
「いずれにせよ、このように易々《やすやす》と幽魂投出を行なうとは、まさに、神々に等しい力よ、の」
シルバの言う通り、ティーエの幽魂は、高みへと翔《か》け昇《のぼ》っていた。
肉体を出ると、そのままピラミッドを突き抜けて上昇《じょうしょう》した。
高く、高く。
眼下《がんか》には、街《まち》の灯《あか》りが蠢《うごめ》いていた。
灯りは、逃げまどう人々が持っているから動くのだ。
高みから眺《なが》めると、炎《ほのお》を纏《まと》った巨大《きょだい》な生物のようにも見える。
いや、本当に生き物なのだ。
人々は生きている。
人々だけでなく、動物も植物も、生きているものは全てオーラを発していて、ティーエには、それがよく視《み》えるのだ。
“死なせるものか”
ティーエは強く思った。
ひとつでも、多くの命を救うのだ。
ティーエは、火口に向かう。
火口は、赤く滾《たぎ》っていた。
地の底から、溶岩が押し上げられて来る。
もう縁《ふち》まで一杯《いっぱい》で、今にも溢《あふ》れ出さんばかりだった。
“いけない”
火口は、一つではない。
山の脇《わき》にもあって、そこも赤く燃えている。
二度目の爆発はここだろうか。
強大な力を包《つつ》み込《こ》んでいる溶岩。
激しい力だ。
外に向かって押し出そうとする力。
熱。
“バトラよ”
ティーエは、大地に向かって呼びかける。
バトラ――大地母神《だいじぼしん》である。
“なぜ、それほど迄《まで》に怒《いか》りたまうのです?”
ティーエは、その時大地の震《ふる》えを感じ取った。
溜《た》まっているものが震えている。
長年に亘《わた》って、大地の底に溜められたもの。
人の眼には見えない、強大な力そのもの。
大地は、溜まったものに対して怒っているのか。
それは、本来、大地にはないエネルギーなのか。
それを呼び寄せ、地の底に溜めたものは。
ティーエは、既《すで》に気付いていた。
ドッ!
下の方の火口から、溶岩が噴《ふ》き出す。
流れ始める。
幸いにも、クラ・クム市とも、ローダ・アルゼン市とも違う方向に向かっている。
しかし、ティーエは感じるのだ。
まだ、何かが起こる、と。
精霊《ストラ》たちも、そう言って騒《さわ》いでいた。
力が脹《ふく》れあがっている。
今にも爆発《ばくはつ》する。
“いけない”
ティーエは感じた。
火口に溜まった溶岩。
その上にある熱い灰。
一気に溢れる。
速い。
溶岩に先駆《さきが》けて、熱い灰が流れ下る。
それは、低い所を求めている。
行く先はクラ・クムか。
河口のローダ・アルゼンか。
「来ます」
顔を上げ、ティーエは言った。
幽魂《ゆうこん》が肉体《にくたい》に戻《もど》ったのだ。
「わたしに力を合わせてください」
「わかった」
シルバが頷《うなず》いた。
既《すで》に、ピラミッドの外では、集まった神官たちが呪文《じゅもん》を唱《とな》えている。
心を合わせている。
ティーエに、その呪力を存分に使わせるためだ。
ティーエは、両掌《りょうて》を組み合わせ、意識《いしき》を集中する。
ティーエの瞳《め》には、不気味な光景が視《み》えている。
流れ下る熱流。
高く立ち昇る、熱い灰の壁《かべ》。
周《まわ》りの全《すべ》てのものを巻き込み、焼き尽《つ》くす。
“止まれ”
ティーエは念じる。
“止まれ”
ティーエの白い額《ひたい》に、うっすらと水の玉が浮き出す。
いつもは、汗《あせ》などかいたことのない、ティーエだが。
大地の力は、あまりにも強大なのだ。
“バトラよ、お怒りを鎮《しず》めたまえ”
「姉君……」
ティーエの隣《となり》で、シルバが、ふと呟《つぶや》く。
「トバティーエ、姉君がおいでになった」
シルバは、はっきりとティーエに告《つ》げる。
ティーエも、既に気付いていた。
車座《くるまざ》になった三人のちょうど真《ま》ん中《なか》に、リマラの姿があった。
シルバと祭祀典長には、光の球《たま》のようなものとしか視えていなかったかもしれないが、ティーエには、その姿もはっきりと識別《しきべつ》できた。
ほっそりとした、どこか淋《さび》し気《げ》な顔つきの、美しい女人。
リマラは、この危機《きき》を察して、幽魂投出《ゆうこんとうしゅつ》をし、わざわざやって来てくれたのだ。
地流を読めるリマラには、大地の怒りも、手に取るようにわかるのだろう。
“リマラ様……”
“トバティーエ”
リマラは、ティーエの心に語りかける。
“大地の怒りは、止められません”
“でも……”
ティーエは何度も小さく首を振る。
“止めなければ……多くの犠牲《ぎせい》が出ます”
“流れを変えなさい”
“流れを……でも、どこへ変えれば……”
“北西の湿地《しっち》です”
「北西の湿地」
ティーエは声に出して言った。
「北西の湿地に、流れを変えろ、と」
「それができるか?」
シルバは尋《たず》ねた。
「あの辺《あた》りは、確か殆《ほとん》ど無人のはず」
シルバは、祭祀典長の顔を見る。
この辺りの地理には、一番|詳《くわ》しいはずだ。
「はい」
祭祀典長は頷く。
「湿地の中に、魔王《まおう》の血、と呼ばれる、赤味を帯《お》びた沼《ぬま》がいくつかありまして、瘴気《しょうき》を発することから、人はおろか、獣《けもの》も近付きません」
瘴気とは、おそらくメタン系《けい》か硫化水素《りゅうかすいそ》系の毒性《どくせい》のあるガスのことだろう。
「それは、いい」
シルバは、早口でティーエに決断を迫《せま》る。
「そこしか、あるまい」
「はい」
ティーエはもう決心していた。
リマラの言う通りにすべきだ。
流れを変えることなら、ここに居《い》る皆《みな》の力を集めれば可能《かのう》だ。
「では、始めます」
ティーエの決意を見届《みとど》けたためか、もう既《すで》にリマラは姿を消していた。
ティーエは、自らの意識《いしき》の中に深く分け入り、集中させる。
視《み》えて来る。
赤い、熱い、滾《たぎ》る流れ。
熱風が塊《かたまり》となった高い壁《かべ》。
もう、すぐそこ迄《まで》来ている。
“動け”
ティーエは、念《ねん》じる。
“バトラよ、お力をっ”
シルバは、大地が軋《きし》む音を聞いたような気がした。
のたうち、身を捩《よじ》る。
そして、大地は震《ふる》えた。
身ぶるいするような動きで、これ迄の火山性の地震《じしん》とは全く異《こと》なるものだった。
まるで生き物が、ぶるりと身をひとつ震わせた。
そんな感覚だった。
やがて、全てが鎮《しず》まった。
ピラミッドの外で待機していたボイスは、突然鎮まった都市の外の方に眼をやった。
不気味《ぶきみ》な赤さを戴《いただ》いた山頂《さんちょう》。
少しずつ溶岩が流れているのも見える。
しかし、変だ。
つい今しがたまで、闇《やみ》の中を、何かが近付いて来るのを感じていた。
巨大な熱の塊が。
圧倒的《あっとうてき》な存在感だった。
だが、それが突然なくなったのだ。
眼に見えぬ重圧が、消えてしまった。
なぜなのか。
その理由は、夜が明けてから判明《はんめい》することとなる。
ボイスは、ピラミッドに眼《め》を移した。
動きがあったようだ。
集まった神官たちは、気配《けはい》を察《さっ》して、呪文《じゅもん》を唱《とな》えるのを止《や》めている。
ピラミッドの脇《わき》の穴《あな》辺りに灯《あか》りが見えた。
灯りを持っているのは、祭祀典長で、続いてティーエとシルバが出て来た。
よろめくティーエを、シルバが支《ささ》えていた。
呪術《じゅじゅつ》のために、体力、気力を使い果たしてしまったのだろう。
前にも、そういう姿は見ている。
ただ、いつもと違うのは、その表情だった。
何とも言えない、複雑《ふくざつ》な表情。
ティーエはボイスの姿を見付けると、じっと目を向けた。
ボイスは、ティーエに駆《か》け寄《よ》る。
その眼が、助けを求めているように見えたからだ。
ボイスは、シルバの肩《かた》から、ティーエを抱《だ》き取った。
「終わったぞ」
シルバは、ティーエを示《しめ》しながら、群集《ぐんしゅう》に言った。
今、このピラミッドの周《まわ》りには、神官だけでなく、救《すく》いを求めるクラ・クムの人々も集まっているのだ。
港は混乱《こんらん》の極《きわ》みに達し、船はもうない。
多くの人々は、都市の中心に引き返したのだ。
神々に祈《いの》るために。
「クラ・クムは救われた」
シルバは、声を張りあげる。
「救ったのは、この男だ。わたしの友だ」
シルバは、友という言葉を強調した。
「もう……心配はない……と」
神官長は、シルバを無視《むし》して、祭祀典長《さいしてんちょう》に問う。
「少なくとも、最大の危機は去《さ》りました。このお方が……」
祭祀典長も、ティーエを示す。
ただし、誰《だれ》よりも恭《うやうや》しくだ。
「溶岩よりも速い熱流を、止めてくだされたのです」
「溶岩よりも速い熱流……」
神官長は、一瞬《いっしゅん》考えてから頷《うなず》いた。
「そういえば、古老から聞いたことがある。昔の噴火《ふんか》の時、人々が溶岩流ばかりに気を取られていたら、それとは別の、とてつもなく速い、熱い灰や空気の流れがやって来て、逃げそびれたいくつかの村が埋《う》もれてしまった、と」
神官長は、青い顔をし、肩で息をしているティーエの前に跪《ひざまず》く。
「太陽神《アト》の御使いよ。御身《おんみ》は、このために、おいでになったのでございましょうか」
皆が感じていたのだ。
この都市が、最大の脅威《きょうい》から解《と》き放たれたことは。
「違います」
ティーエは、きっぱりと言った。
「わたしは、大陸を救わなければならないのです」
夜が明けて、人々は、実相を目《ま》の当たりにした。
クラ・クム市の城壁《じょうへき》の北方、一キロほどの場所の地形が、噴火前とは一変していたのだ。
大地が裂《さ》け、都市の側が高く盛《も》り上がっており、裂け目は北西の方角に向かって続いていた。
裂け目の半《なか》ばまでを、大量の土砂《どしゃ》と灰とが埋めており、灰はまだ熱く、くすぶっていた。
これが、昨夜ティーエが行なった呪術の結果であった。
この後、溶岩の本流がやって来ることがあっても、クラ・クム市は避《さ》けて通るはずだ。
そして、ローダ・アルゼンも、同じように救われたことだろう。
3
むろん、噴火は、ヴァユラの村に居たラクシとマンレイドにも見えた。
ローダ・アルゼン市も、その郊外《こうがい》に在《あ》るヴァユラの村も、クラ・クム市ほどに、怒《いか》り狂《くる》う山に近くはなかった。
とはいえ、火山|灰《ばい》も降《ふ》ったし、小さい火山|礫《れき》も飛んで来た。
森の中に隠《かく》れている村だったが、人々は恐《おそ》れて逃《に》げまどった。
大きめの火山|弾《だん》が飛んで来れば、ヴァユラの安っぽい小さな家など、ひとたまりもないし、何よりも火事が怖《こわ》かったのだ。
山火事が起これば、人々は全《すべ》てを失《うしな》う。
逃げる所すらない。
北方には沼地《ぬまち》があるが、かなり遠い上に、近付くだけで、鳥も獣《けもの》も死んでしまうと言い伝《つた》えられている場所だ。
遥《はる》かな昔《むかし》、太陽神《アト》によって退治《たいじ》された魔物《まもの》の流した血《ち》が、沼と化したのだ、という伝説がある。
「どうする?」
ターリスが、バリカイに尋《たず》ねた。
「あの二人と、逃げるかい」
あの二人とは、もちろんラクシとマンレイドだ。
ターリスとバリカイは、同じ村に居ても、まだ二人と顔を合わせてはいない。
知り合いだということは、まだ明かさない方がいいだろう。
バリカイは、そう判断《はんだん》したのだった。
「いや……それは、いざという時だ」
「まだ、いざという時じゃないんだね」
さすがに、ターリスも肝《きも》が据《す》わっている。
「あの、ソグドムの神官と、案内《あんない》して来た男が気になるからな」
「二人を連れてきた連中だね」
ターリスは、僅《わず》かに顔を顰《しか》めた。
「二人を連れて逃げた時の追手《おって》が、果たしてこの村の人々だけなのか、それとも、この地方の軍、あるいはローダビア全国を相手にすることになるのか、知っておきたい」
「確かにね」
ターリスは同意した。
もちろん、たとえローダビア公国全部を敵《てき》に回すとしても、怯《ひる》むバリカイではないが、心構《こころがま》えというものは必要だ。
「それにしても……」
ターリスは、木々の向こうで燃える火の山を見る。
「噴火は、これだけなんだろうか。もしも、溶岩《ようがん》が流れ出したら、ここ迄《まで》来るかね」
「溶岩も、水と同じに、低い所を流れるはずだ」
バリカイは言う。
「川|床《どこ》を流れて、湖で止まると思うが」
「だったら、都市は危《あぶ》ないんじゃないのかい」
都市というものは、大抵《たいてい》、水運の良い所に建設される。海や湖ばかりでなく、川も必要だ。
「考えてみれば、そうだな」
バリカイは認《みと》めた。
「となると、危ないのは、ローダ・アルゼンとクラ・クムか」
さすがに、額《ひたい》に手をやった。
「大丈夫《だいじょうぶ》かい、あんたの友達は」
もちろん、ターリスが心配しているのは、ティーエとボイスの身の上だ。
「あの二人なら問題はないと思うが……」
バリカイは、ティーエの呪力《じゅりょく》についても、良く知っていた。
「都市《まち》は、どうなるか……だな」
二人共、それを考えると心が重くなった。
降灰《こうはい》はほどなく止《や》み、村はもとの落ち着きを取り戻した。
「大丈夫かな、ティーとボイスは」
ラクシは呟《つぶや》くように言った。
二人の宿舎《しゅくしゃ》として割り当てられたのは、この村の中でも最もしっかりとした建物なので、中に居る人々も割合に落ち着いていた。
灰や火山|礫《れき》の降る音が止んでから、二人は外に出て見た。
木々の向こうに、赤々と燃えているものが見える。
そう近くはないが、だからといって、安心できるほど遠い距離《きょり》ではないようだ。
「ティーエがいるのよ」
マンレイドが、ラクシの肩《かた》を叩《たた》いた。
「あの火山に登ってたとしたって、安心だわ」
二人とも、ティーエの呪術の、信じられないほどの力を、何度も見て来ているのだ。
「でもさ、ティーって、ときどきひどく抜《ぬ》けてるからさ」
ティーエは集中力が強過ぎるせいか、他のことに迄《まで》気が回らないことが、よくある。
「いざという時は、頼母《たのも》しいじゃないの」
マンレイドは、力強く笑ってみせた。
マンレイドとしては、ボイスとティーエの身の上については、心配などしていない。特に噴火に就《つ》いてはだ。
心配があるとしたら、二人が赴《おもむ》いたクラ・クム市の人々や、他《ほか》ならぬシルバとの関係の方だった。
ティーエにとっては、大自然の現象よりも、人間の方がよほど脅威《きょうい》となり得《う》るのだ。
特に、ひとの裏切《うらぎ》りは……
それに、激《はげ》しい感情をぶつけられることもだった。
だが、そういう事には、ボイスが対応できる。
そういう意味で、二人は実にうまく補《おぎな》い合っているようだった。
「大丈夫よ。それより、あたしが心配しているのは……」
「心配って……何を?」
ラクシの声が震《ふる》えた。
こうして遠くに居て、誰かの心配をするということは、ラクシの性格には合わない。
側《そば》に居られれば、いざという時、直接ティーエたちを助けることもできるのだから。
「あのシルバってひとよ」
「シルバ様……」
むろん、二人とも、シルバが、バリム・ソグドという、ソグドム教でも高位の聖職者《せいしょくしゃ》である上に、王家の出身だということは知っている。
その王家が、今は名ばかりのものに過ぎない、ということも。
「あのひとは、何か企《たくら》んでいる」
「たくらみ……」
およそ、何かを企むということから、ほど遠いのが、ラクシとティーエだ。もちろんボイスやマンレイドにしても同様だが。
ただ、ティーエ以外の三人は、他人の企みについては、いやというほど見聞きして来たし、巻《ま》き込《こ》まれもしている。
「何を企んでるの?」
「そうシッポを掴《つか》ませるような相手じゃないけど……これは勘《かん》ね。ボイスも、そう言ってたわ」
「ボイスも」
ボイスとマンレイドは、傭兵《ようへい》として大陸の様々な国で仕事をして来た。
権謀術数渦巻《けんぼうじゅっすううずま》く政争も見て来た。
仕《つか》えていた将軍が、陰謀《いんぼう》で失脚《しっきゃく》したこともある。逆に、上司が他人を陥《おとしい》れようとばかりするので、嫌気《いやけ》が差したこともあった。
ボイスも、同じような経験をして来たことだろう。
「だいたい、あたしたちをここに連れて来たのだって、変でしょ」
「変だとは思うけど、どのみち、ローダ・アルゼンには居られなかったんじゃない」
ソグドム教徒《きょうと》の都市ローダ・アルゼンでは、誰《だれ》かがティーエについての噂《うわさ》を流していたのだ。
それは“凶眼《きょうがん》を持つ者が、ローダ・アルゼンにやって来た”というものだった。
“凶眼”とは、魔性の眼である。
その眼を見た者は、死に、凶眼を持つ者がやって来た場所は、呪《のろ》いにかけられ、草一本生えなくなる。
そんな言い伝えがあるのだ。
伝説では、凶眼というものが、どういう眼なのか、ということは語っていない。
なぜなら、見てしまった者は死ぬからだ。
とはいえ、ティーエの眼なら、充分《じゅうぶん》に“凶眼”のレッテルを貼《は》ることができるのだ。
しかも、恐るべき呪力を持っていることも、証明してしまった。
シルバが、クラ・クムへの出発を急いだのも、そのせいだったのだが。
「ボイスは、噂は、意図的に撒《ま》かれたんだって言っていたわ」
「でも……シルバ様じゃあないよね」
ラクシは、首を傾《かし》げる。
そんな噂は、シルバにとっては極《きわ》めて不都合《ふつごう》である。
なにしろ、ティーエを連れて来たのは、シルバの腹心《ふくしん》のヴィザンなのだから。
「ボイスは、あいつの仕業だ、と言ったのよ」
「あいつって……」
マンレイドの言うあいつ。
さすがに、ラクシには、そこ迄は思い浮かばなかった。
「アステ・カイデで……陰《かげ》で暗躍《あんやく》していた誰かよ。直接顔を合わせることはなかったけど、カリスウェン様を陥《おとしい》れようとしたり、ヘルルダルを攫《さら》ったりした、ローダビアの回し者の頭目よ」
「あ……」
ラクシは、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
言われてみれば、思い当たる。
結局、その間諜《かんちょう》、というよりも工作員のせいで、ヘルルダルを追って、このローダビア公国に来ることになってしまったのだ。
「あいつは、どこかから、ずっとあたしたちを見張っていたのよ」
「気付かれないで、この国で行動するなんて、有り得ないのか」
ラクシは、怒りすら覚える。
「まさか、シルバ様が教える、なんてことは……」
言いかけて、ラクシは自ら否定《ひてい》する。
「それは、ないよね」
「シルバ様たちが、ティーエを利用して何かをしようとしてるってことは確かよ。自ら自分の足を掬《すく》ったりはしないでしょう」
「あいつら……ティーエを狙《ねら》っているのかな」
「狙っているっていうより、何かに利用しようとしているんじゃないかしら」
マンレイドは声を潜《ひそ》めて言った。
辺りは、もうずいぶん静かになっている。
「利用……」
「そうよ。だって、結局、あいつらは、太陽帝国の中を引っ掻《か》き回そうとしていた訳でしょ」
マンレイドの言う通り、ローダビアの工作員たちは、太陽帝国内に混乱《こんらん》を作り出そうとして暗躍《あんやく》していたのだった。
その頭目こそ、レスドゥという男である。
マンレイドたちは、頭目に会ったこともなければ、名すら知らないが、その存在は、確かに感じているのだった。
その工作員たちが“凶眼”の噂《うわさ》を流したとすると、意図《いと》するところは何か。
シルバの足を引っ張ることではないのか。
まさか、このローダビアの中《なか》迄も混乱させようというのではあるまい。
「どうしたらいいんだろう。おれたちは……」
ラクシは、火山を眺《なが》めながら言う。
「こんな時、何ができるんだろう」
その時だった。
更《さら》なる噴火《ふんか》が起きた。
爆発《ばくはつ》そのものは大きくはなかったが、何かが流れ出すのが見えた。
黒い大蛇《だいじゃ》のように見えるが、底の方が燃えているのがわかる。
灰を被《かぶ》っている炭火のようだ。
速い。
耳をつんざくような音が収《おさ》まって、初めてマンレイドにも、ラクシの叫《さけ》び声が聞こえた。
「あれはっ、クラ・クムの方角じゃないの。ティーたちの居る方じゃないのっ?」
ラクシは、マンレイドの腕を揺《ゆ》さぶりながら、耳元で怒鳴《どな》る。
「どうしようっ」
「中に入るのよ」
マンレイドは、ラクシを引っ張った。
「また、何か降って来るわっ」
火山弾や灰が降って来るのは、噴火からしばらく後ということも多い。
爆発の力で、上空高く巻き上げられるからだ。
「でも……」
しぶるラクシを促《うなが》して、マンレイドは建物の中に避難《ひなん》した。
さきほどのように、屋根に何かが当たる音はしなかった。
二人には、長い長い時が経《た》ったように思われたが、実質はそれほどではなかったはずだ。
気付くと、外で人々が騒《さわ》ぐ声が聞こえて来た。
「火事だっ!」
誰《だれ》かが叫んでいた。
「火事だっ」
二人は外に飛び出した。
恐れていたことが起こっていた。
まだ遠いが、森が火事になったのだ。
森の外れ辺りに、まだ熱い火山弾が落ち、発火したのだろう。
「逃げろっ!」
「こっちに来るぞ」
この村が風下だった。
知らぬ間に、火はかなり迫《せま》って来ていた。
住民たちは、早くも逃げ始めている。
逃げ足が早いのが、ヴァユラの身上だ。
「早くっ、こっちです」
二人を見張っていたのだろう、松明《たいまつ》を掲《かか》げたサトゥムが駆《か》け寄って来た。
マンレイドは、それに従《したが》う。
こんな時だ、とりあえず、安全な場所に逃げなければならないし、辺りの地理は、サトゥムの方が詳《くわ》しいのだ。
一瞬《いっしゅん》、躊躇《ちゅうちょ》したが、ラクシもすぐにマンレイドに続いた。
サトゥムは、風向きに対して直角に進んだ。
「サトゥムさん」
マンレイドは、小走りにサトゥムを追いながら問う。
「ヴィザンさんは、どこに?」
「村長が案内して……先に逃げました。それを見届けてから、お二人の所に来たのです」
「どうして……一緒《いっしょ》じゃないの?」
ラクシが尋《たず》ねた。
こんな時だ、一緒に逃げるのが普通ではないだろうか。
「あの方は……」
サトゥムは、少々笑ったようだった。
「はっきり言って、足手纏《あしでまと》いになりますから」
「足手纏い……」
ラクシは、この村に来る時、一行の後を追うのに苦労して、息を切らせていたヴィザンの姿を思い出した。
「こんな時に、山が怒るなどとは……」
山が怒る。
サトゥムの表現は、この時代では一般的なものだ。
人々は、噴火を、山が怒る、とよく言う。
あるいは、大地の神々の怒りだ、と。
多神教のこの世界では、大地の神々も数多《あまた》いる。
その神々の頂点《ちょうてん》に祀《まつ》られるのが、大地母神《だいじぼしん》バトラである。
「こんな時……」
マンレイドは呟《つぶや》く。
こんな時、という言葉にある意味は、何か。
「バリム・ソグド様とトバティーエさんが、クラ・クムに行っておいでになるというのに」
サトゥムは言う。
しかし、本当にそれだけなのか。
「とにかく、急ぎましょう」
「どこへ、行くんです?」
ラクシが尋ねる。
自分が居る場所は、常に知っておきたい、いざという時に、ティーエたちのもとに駆《か》け付けるためにも。
「とりあえず、街道《かいどう》に出ます。ヴィザン様も、同じ場所を目差しているはずです」
「街道……」
それは、ありがたいことだった。
街道なら、自分たちの位置がわかるし、どこにでも行かれる。
ラクシは、俄然《がぜん》、元気付いた。
逃げる途中《とちゅう》、何人かの村人に会ったが、向こうは三人には、全く無関心だった。
当然だろう。
かれらにしてみれば、自分や家族の命を守るだけで精一杯《せいいっぱい》だ。
「もうじき、街道に出られるはずです」
サトゥムが言った。
それは、ヴァユラの村に来る時に、一行が通った裏《うら》道ではなく、幹線《かんせん》となっている街道のことだった。
その先は、どこに行くのか。
マンレイドは考える。
ローダ・アルゼンに行くはずはあるまい。
サトゥムは知っているのだろうか。
シルバとヴィザンが何を考えているか、を。
サトゥムがヴィザンに仕《つか》えるようになったのは、最愛の娘《むすめ》のタイーサのためだということは、マンレイドたちも知っている。
サトゥムは、人間的には好感が持てるが、親というものは、我《わ》が子のためならば、鬼《おに》にもなるから、そう安心してもいられないのだ。
サトゥムの娘のタイーサは、ルイーン・アールに居るはずだが、それは人質《ひとじち》であるとも言えるのだ。
「マンレイド」
しんがりを歩いていたラクシが、声を掛《か》けた。
「後ろから……」
マンレイドも気付いていた。
後方から、複数の足音が近付いて来るのだ。
急いでいる。
「あんたの、仲間?」
「いや……」
マンレイドに問われて、サトゥムは首を傾《かし》げる。
「そんなはずはないです」
サトゥムは、そもそも、ソグドム教の中のバリム派《は》という、古いが、今はたいした勢力のない一派に雇《やと》われている私兵の、指揮官《しきかん》の一人である。
バリム派そのものが、たいした資金力がないから、そう大勢の兵を抱《かか》えることはできない。
「気を付けて」
マンレイドは、ラクシに注意する。
「殺気《さっき》よっ」
後ろの一行の足取りが速くなる。
「走れっ」
サトゥムに続いて、ラクシもマンレイドも走り始める。
「すぐに街道ですっ」
三人が走り出すと、後方の連中も一気に足を速めた。
足音と、何かの触《ふ》れ合う音が響《ひび》く。
武器と防具だろう。
いったい、誰が、何のために三人を襲《おそ》おうというのか。
サトゥムが知らないとしたら、その相手は……
少なくとも、今ここで、サトゥムが演技《えんぎ》などする必要はあるまい。
とにかく、二人はサトゥムに続いて走った。
むろん、街道に出、約束の場所に辿《たど》り着けば、ヴィザンと、その警護《けいご》をしている者たちがいるはずだからだ。
一応味方、ということになる。
夜に、暗い森の中で闘《たたか》いたくはない。
相手は、サトゥムとマンレイドの持っている灯《あか》りを目印にしているのだろうが、ここでそれを捨《す》てる訳《わけ》にはいかない。
月明かりさえもない夜。
しかも、森の中だ。
相手も多少の灯りは持っているだろうが、それが、こちらからよくは見えないのは、二人の持つ松明《たいまつ》の炎《ほのお》が大きいからだろう。
目立つ、ということに他ならない。
それは、街道に出れば有利になる。
仲間が見付け易《やす》いのだ。
いつの間にか、噴火は止んで、辺りは不気味なほど静まり返っていた。
下生えを切り開き、人が踏《ふ》み固《かた》めた、獣道《けものみち》のようなヴァユラだけの秘密の道を、サトゥムは先導している。
追って来る者たちもまた、この道を知っているに違いない。
ヴァユラなのか。
だが、村人たちが追って来るとは、とても考えられない。
マンレイドには、見当がつかなかった。
いや、ただひとつ、思いついたことはあったのだが。
「街道です」
三人は、急に開けた所に出たのに気付いた。
灯りがいくつか見えた。
寄って来る。
ヴィザンたちか。
「気を付けて」
再びマンレイドが叫《さけ》ぶ。
感じたのだ。
追って来る者たちと、同じ気配《けはい》を。
「誰だっ!」
サトゥムが怒鳴《どな》った。
返事はない。
無駄《むだ》な口は、一切《いっさい》きかない、そういう男たちだ。
「囲《かこ》まれたわ」
マンレイドの口調《くちょう》は冷静だった。
もう、度胸《どきょう》を据《す》えるしかない。
後ろから来ていた連中が、追い付いたのだ。
嫌《いや》な予感は、どうやら当たっていたようだ。
太陽帝国で、暗躍《あんやく》していた者たち。
アステ・カイデで混乱《こんらん》を作り出そうとしていた、おそらく、ローダビア政府の手先と思われる者たち。
一筋縄《ひとすじなわ》でいく相手ではあるまい。
マンレイドは、剣の柄《つか》に手を置いた。
この三人で切り抜けられるか。
ヴィザンの護衛《ごえい》が、気付いて駆《か》け付けるかどうかは、あまり期待すべきではないだろう。
「二人で切り抜けるのよ」
マンレイドは、ラクシに言った。
「何が何でもね」
もとより、ラクシもそのつもりだ。
ラクシは、ティーエを守り、手助けをするために、このローダビアまでやって来たのだ。
少なくともラクシは、本気でそう思っている。
「絶対に、あたしから離《はな》れないで」
マンレイドは強く言う。
「この光の届《とど》く所にいるのよ」
マンレイドは、左手の松明《たいまつ》を掲《かか》げて見せた。
相手は、全員が、ごくありきたりの服装だった。
武器は、それぞれに違うが、傭兵《ようへい》とは異なり、目立たない物が多い。
あるいは……おそらく杖《つえ》やベルトなどに仕込んだものがあるのだろうと、マンレイドは踏《ふ》んだ。
「ラクシ、意外な所から武器が出て来るかも」
マンレイドは囁《ささや》くと、男たちに向かって、はっきりと言った。
「用があるのは、あたしたちにね」
「そうだ」
初めて、言葉が返って来た。
「おとなしくついて来れば、誰も死なずに済《す》む」
「どこへ?」
マンレイドは、闇《やみ》を透《す》かすようにして見る。
七、八人……いや、もう少しいるか。
他に、別の気配もある。
少し離れた場所だ。
何だろう……
一人だけ、全く殺気を感じない誰《だれ》かが居るようだが。
「それは言えぬ」
マンレイドの問いに応《おう》じているのは、一人の男だった。
この男が指揮《しき》をしているのか。
「つまりは……」
マンレイドは、男の顔をよく見ようと、松明《たいまつ》を近付ける。
「つまりは、人質にしようっていうのね」
「それも言えぬ」
「じゃあ、お話にならないわね」
マンレイドは、剣を抜いた。
左手に松明を持っているので、右手のみで剣を扱《あつか》わなければならない。
もちろん、充分《じゅうぶん》に鍛《きた》えてはいるが、相手の人数を考えると、圧倒的《あっとうてき》に不利だ。
とはいえ、ここでおめおめと人質になってはいられないのだ。
剣を抜くやいなや、マンレイドは、指揮官らしい男に打ちかかって行った。
指揮官は、跳《と》び退《の》きながら、抜刀《ばっとう》する。
ガッ!
刃同士がぶつかり合い、火花が散《ち》った。
マンレイドは、剣が撥《は》ね返される前に、足元近くを松明で薙《な》いだ。
散ったのは、火の粉《こ》だった。
男は更《さら》に退《しりぞ》き、慌《あわ》てて服を叩《たた》く。
しかし、マンレイドは、もう一撃《いちげき》を与えることはできない。
左右から、二人が同時に襲《おそ》いかかった。
声も出さない。
「左!」
叫びながらラクシが飛び出す。
左側の男を引き受けたのだ。
ラクシは低い姿勢で進むと、立ち上がりざま剣を抜く。
抜《ぬ》き打《う》ちである。
ラクシの剣は、非力な少女でも扱えるような、小振《こぶ》りの片刃《かたば》のもので、ごく僅《わず》かな反《そ》りがある。
鋭《するど》い刃《やいば》は、美事《みごと》に相手の頸動脈《けいどうみゃく》を断《た》った。
血が噴《ふ》き上がる前に、ラクシは跳《と》び退《すさ》る。
同じ頃《ころ》、マンレイドの剣も、相手の胸《むね》に深々と突《つ》き立っていた。
マンレイドはすぐに剣を抜く。
刀傷《とうしょう》というものは、引いた時の方が深いのだ。
血が迸《ほとばし》った。
男は胸を押《お》さえ、よろめきながら、闇の中に退《ひ》いた。
「ふむ……」
呟《つぶや》くように言ったのは、指揮をしている、あの男である。
「なるほど……聞いた通りだな」
「何が、聞いた通りなのよ」
マンレイドは、その男に向かって剣を構《かま》えながら、問う。
「おまえたちの腕前《うでまえ》だ」
男は答えた。
「二人|揃《そろ》って、使い手だ。外見で油断《ゆだん》してはならぬ、とな」
女戦士とはいえ、マンレイドは見惚《みと》れるような美女、そして、男装《だんそう》のラクシは、この上ない美少年である。
「あら……それほどでもないわ」
マンレイドは、わざとしなを作って見せた。
「あんまり買い被《かぶ》らないで」
「こんな時に、遊んでもいられない」
指揮をしている男は、パチリと指を鳴らした。
マンレイドは、空気が変わるのを感じた。
数人の男が隠れていた場所から近付いて来る。
空気を一変させたのは、その男たちではない、内《なか》の一人に抱《かか》えられている小柄《こがら》な人間だった。
サトゥムの身体《からだ》が硬直《こうちょく》する。
理由は、すぐにわかった。
抱えて連れてこられたのは、小さな少女だったのだ。
十|歳《さい》にもなってはいるまい。
タイーサだった。
ルイーン・アールの、バリム派《は》の関係者の家に預《あず》けられているはずだったが……
ヴィザンが裏切《うらぎ》ったのか、それとも攫《さら》われたのか……
おそらく、後者だろう。
「タイーサッ」
ラクシも震《ふる》えた。
タイーサは、人質《ひとじち》なのだ。
仕組まれた茶番《ちゃばん》ではあるまい。
マンレイドは、そう考えた。
サトゥムの反応は、演技《えんぎ》ではない。
タイーサは、抱えている男の腕の中で、足をバタつかせていたが、逃《のが》れることはできなかった。
手は、後ろで縛《しば》られ、口まで布を巻かれている。
これでは、唸《うな》り声をあげるのが、精一杯《せいいっぱい》だろう。
ただ、その瞳《め》は必死に叫《さけ》んでいた。
訴《うった》えていた。
「タイーサッ……」
サトゥムは唇《くちびる》を噛《か》む。
「卑怯《ひきょう》だっ」
ラクシが叫んだ。
子供を人質にするなどとは、許《ゆる》せない。
しかし、タイーサは、向こうの手の内に在《あ》るのだ。
「取り引きをしようか」
指揮する男は、ゆっくりと言った。
「大人しくしていれば、命は取らない」
その言葉に、マンレイドとラクシは顔を見合わせる。
松明の光に浮《う》かんだラクシの眼《め》は、激しい怒《いか》りに燃えていた。
しかし、今、下手《へた》には動けない。
タイーサの命が懸《か》かっているのは、確かなのだ。
なんとかタイーサを取り戻《もど》して闘《たたか》いたいが、隙《すき》を見せる相手ではないだろう。
二人は、眼で諦《あきら》めを認《みと》め合った。
「生きるのよ」
マンレイドは囁《ささや》いた。
「あたしたちは、何があっても、生きてなきゃだめなのよ」
生きていれば、逃《のが》れる機会は必ず訪《おとず》れる。
「あたしの中の、命のためにも」
「いのち……」
ラクシは呟《つぶや》いた。
マンレイドの言う意味を、深く考える隙《ひま》はなかった。
マンレイドは、眼で語る。
耐《た》えるしかないのだ、と。
タイーサの命を救《すく》うためにも。
こんないたいけな子供を、平気で人質にする連中なのだ。殺すことをためらうはずもない。
「さあ……どうする?」
指揮する男が再び合図する。
部下の一人が、タイーサに近寄り、スラリと剣を抜いた。
「よっ……止《よ》せっ」
サトゥムが、堪《たま》りかねて叫んだ。
「子供に、手を出すな」
「自分の子は……可愛《かわい》いよな」
指揮する男は、サトゥムに笑いかける。
「可愛い、可愛い、一人娘だよな」
指揮する男は、どこか楽しそうな口調だった。
マンレイドは、嫌《いや》な予感を覚えた。
こういう男は、残虐《ざんぎゃく》な行為《こうい》に、むしろ喜びを覚えるタイプだ。
「おまえの娘を救《たす》けたければ、この二人の武器を取り上げろ」
指揮する男の声は、冷たかった。
この男に情《なさ》けを乞《こ》うても、無駄《むだ》だろう。
「二人の……」
サトゥムは、反射的《はんしゃてき》に一歩|退《ひ》いた。
裏《うら》にいろいろあるとはいえ、二人を守るべき立場なのだ。
「さあ」
男は、タイーサの方を顧《かえり》みる。
剣を抜いた男が、タイーサの首辺りに刃を近付けた。
別の男が、タイーサの猿轡《さるぐつわ》を解《ほど》く。
「とうさんっ!」
タイーサは叫んだ。
「だめっ、だめだよっ」
「タイーサ……」
「お姉さんたちを、逃がしてあげてっ」
タイーサは、男の腕の中で、また暴《あば》れた。
すぐ近くに、剣の切っ先を突き付けられているというのにだ。
「止《や》めろっ」
ラクシが堪《たま》らずに進み出る。
「その子を放せ」
ラクシは、剣を両手で持つと、柄《つか》を向けて差し出した。
「その子を、父親に返せよっ」
「だめっ、ラクシッ」
タイーサは、激《はげ》しく首を振る。
「だめだよっ」
「負けたわ」
マンレイドが、肩を竦《すく》めた。
小さなタイーサの、こんな健気《けなげ》な姿を見てしまっては……
「人質になるわよ」
マンレイドは、剣をガラリと投げ出した。
指揮する男は、二人の剣を持って来るように、サトゥムに合図した。
「とうさんっ」
娘の非難《ひなん》の声に背を向けて、サトゥムは、二人の剣を取って、相手に渡した。
「まだだ」
指揮の男は、顎《あご》をしゃくる。
「戦士の武器は、剣だけではないだろう」
男は、含《ふく》み笑いをして続ける。
「身体《からだ》じゅう探《さぐ》っても、取りあげるんだな」
サトゥムは、唇《くちびる》を真一文字に結んで、二人のもとに戻った。
「仕方ないわ」
マンレイドは言うと、ベルトに差していた短剣と、剣の鞘《さや》に仕込んでいた手投剣二本を抜いて渡した。
「あんたのせいじゃないよ」
ラクシも、サンダルに仕込んでいたナイフを渡す。
「こいつらが、あまりにも卑劣《ひれつ》なんだ」
とはいえ、二人の命は、相手に握《にぎ》られるのだ。そして、サトゥムとタイーサも。
この男たちが、このまま親娘《おやこ》を放免《ほうめん》するはずもない。
「ふむ……」
指揮の男は、部下が、二人の武器を受け取ってから、ゆっくりとマンレイドに近付いた。
マンレイドから松明を受け取り、それを掲《かか》げて、嘗《な》めるようにその姿態を眺《なが》めた。
マンレイドにとっては、撫《な》で回されるような不快《ふかい》な感覚だった。
次いで、男はラクシも、頭から爪先《つまさき》まで眼で嘗め回す。
ラクシは、ぐっと唇を噛《か》んだ。
視線だけでも、耐《た》え難《がた》い不快さだ。
ラクシは、怒りを籠《こ》めて相手を睨《にら》んだ。
「いい眼だな」
指揮の男は、それをかえって喜んだ。
「人質には、うってつけだ」
「ふんっ」
ラクシは、そっぽを向いた。
「さあ」
マンレイドが促《うなが》す。
「その子を放して」
むろん、丸腰《まるごし》になった二人を男たちが囲んでいる。
「いいだろう」
指揮の男は、頷《うなず》いた。
「おまえたちが大人しくすれば、子供を殺す必要はない」
男が振り向き、合図を出そうとした、まさにその時だった。
少女は、指揮する男の方に注意が向いた、自分を抱えている部下の、ほんの一瞬の隙《すき》を嗅《か》ぎ取った。
タイーサは、男の指に、力一杯|噛《か》みついた。
不意《ふい》を突かれ、男の腕の力が僅《わず》かに緩《ゆる》む。
タイーサは、男の膝《ひざ》を蹴《け》り、腕から抜け出した。
「逃げるのよっ!」
叫びながら、マンレイドとラクシに駆《か》け寄る。
剣を抜いていた男が追った。
「タイーサッ!」
サトゥムが、娘と男の間に飛び込む。
身を沈《しず》め、抜刀する。
男たちは、まだサトゥムから剣を取り上げてはいなかったのだ。
娘を人質に取ったが故《ゆえ》の、油断《ゆだん》か。
いや、そうではなく、自分たちの力量と数の優位《ゆうい》に、自信を持っていたからだろう。娘が人質なら、父親は何でも言うなりになる。
シュッ!
抜き打ちの刃は、前方に少々|泳《およ》いだ男の首筋《くびすじ》を撫《な》でた。
噴《ふ》き出した血飛沫《ちしぶき》が、頸動脈《けいどうみゃく》が切断されたことを物語っている。
血が噴き出す前に、マンレイドはもう動いていた。
「ラクシ」
走って来たタイーサを、ラクシの方に押しやる。
「走るのよ」
マンレイドは、二人にくるりと背を向け、早くも追い始めた他の男たちの前に立ち塞《ふさ》がった。
「マンレイドさんっ」
サトゥムは、血を浴《あ》びながら、咄嗟《とっさ》に、今、自分が斃《たお》した男の剣を取って、投げる。
受け取った直後に、マンレイドはその剣を構《かま》える。
男たちは目の前に迫《せま》っている。
マンレイドは、思い切り、切っ先を一人の腹部に突き立てた。
服に隠れてはいるが、胸の辺りには防具を着けていることがわかったからだ。
男は、硬直《こうちょく》したように止まった。
抜いている隙《ひま》はない。
マンレイドは、手の中の剣を放し、相手の得物《えもの》を奪《うば》い取ろうとした。
小振りの剣で、少々の反《そ》りのあるところはラクシのものと似ているが、刀身《とうしん》はずっとぶ厚い。
男は、なかなか剣を放さない。
「危ないっ!」
別の男と斬《き》り結んでいたサトゥムが、身を躍《おど》らせる。
別の男が、マンレイドに迫《せま》っていたのだ。
「おいでっ」
ラクシは、タイーサの手を引いて走り始める。
森の中に逃げ込み、朝まで隠《かく》れるのだ。
マンレイドとサトゥムの身は心配だが、人質が欲しいなら、殺しはしないはずだ。
少なくとも、マンレイドは……
ラクシは、心の迷《まよ》いを振り切るように走った。
タイーサが二人の側《そば》に居れば、再びその枷《かせ》となるのだ。
「逃げろっ!」
サトゥムは、マンレイドに向かって振り下ろされた剣を、その身で止めた。
ガッ!
骨の断《た》たれる、厭《いや》な音がした。
「サトゥムッ」
マンレイドは、ようやく剣をもぎ取ると、サトゥムを斬った男に向き直る。
サトゥムは、その場に頽《くずお》れた。
「よくもっ」
マンレイドは、力一杯剣を振った。
ゴッ!
刃は、相手の首の骨に喰い込んだ。
「やれ。ただし、急所は外せ」
ようやく体勢を立て直した、指揮の男が部下に命じる。
部下が持っているのは、小振りな手槍《てやり》だった。
男は、すぐさま投げた。
マンレイドは、背中を向けている。
距離《きょり》は数メートルしかなかった。
マンレイドは、微《かす》かな音に気付き、首を巡《めぐ》らせようとした。
しかし、その前に、背中に 何かを感じた。
熱い。
初めの感覚は、それだった。
だが、マンレイドには、経験《けいけん》のあるものだった。
戦場での負傷は、何度もしている。
マンレイドは、膝《ひざ》を突いた。
背中が重い。
「こんな……ものっ」
「あっ……いけないっ」
サトゥムの制止を無視《むし》して、マンレイドは、背中から槍を引き抜いた。
刃《は》を握《にぎ》ったので、手からも血が出た。
「あたしの剣さえあれば……」
悔《くや》しさが先にあった。
愛用の剣さえあれば、もっとうまく闘《たたか》えたはずだった。
「剣が……」
立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。
サトゥムも、側《そば》に倒《たお》れたままだ。
かなりの深手を負っているのだ。
気が付くと、男たちが二人を取り囲《かこ》んでいた。
斃《たお》された仲間には眼もくれず、指揮している男は、木立に向かって怒鳴《どな》る。
「出て来い!」
ラクシとタイーサに向かって、言っているのだ。
「親父《おやじ》と、この女の命が惜《お》しかったら、出て来るんだな」
二人が、まだ遠く迄《まで》逃げてはいない、と踏《ふ》んでいるのだ。
タイーサの足を考えても、そう考えられる。
「出て来ないなら、ここで嬲《なぶ》り殺すぞ」
「残念ね」
マンレイドは、すぐさま言った。
「もう、とっくに遠くに逃げているわよ」
「そう思うか」
指揮する男は、マンレイドの背中に手を当てて言った。
「ガキ共は、出て来るさ」
そして、マンレイドの背中の傷口《きずぐち》に、指を突き立てた。
「クウッ……」
必死に歯を喰《く》いしばっても、声を抑《おさ》えられるものではなかった。
激痛《げきつう》が、マンレイドの全身を貫《つらぬ》いた。
「おれたちは、本気だぞ」
指揮の男たちは更《さら》に言う。
「もっと悲鳴《ひめい》を聞かせてやろうか」
別の男が、剣をサトゥムの腿《もも》に突き刺《さ》した。
「ううっ……」
サトゥムも、なんとか声を抑えようとする。
「とうさんっ」
声は、ラクシとタイーサの耳に届《とど》いていた。
「とうさんがっ」
ラクシは、タイーサの手を握《にぎ》っていた。
二人共に震《ふる》えていた。
戻ってはいけないことはわかっている。
だが、自分を抑えることはできない。
抑えられる二人ではない。
向こうは、それを充分《じゅうぶん》に心得ているのだ。
わかっているから悔《くや》しい。
「チクショー!」
ラクシは、拳《こぶし》を握り締《し》める。
「さあ、出て来い」
サトゥムの腿を刺した男は、その剣をわざと回した。
「あうっ!」
堪《こら》えようとして声が籠《こ》もるのが、かえってタイーサやラクシの胸を締め付ける。
「どうだ。もっと苦しめてやろうか」
「待てっ!」
ラクシは、思わず叫んでいた。
「もう止《や》めろっ」
「いたか」
指揮する男は、含み笑いをした。
思った通りだった訳だ。
「出て来い。来なければ、もっと良い声を聞かせてやるぞ」
「わかった」
ラクシが言う前に、タイーサはもう歩き出している。
沢山《たくさん》の松明《たいまつ》の炎《ほのお》が目印だ。
「出て来たな」
男たちは、もうラクシたちの方を向いていた。
足音と気配《けはい》で、既《すで》に二人を認知《にんち》していたのだ。
「言う通りにする。だから、二人の手当てをして、サトゥムさんとこの子を自由にしてあげて」
「よかろう。ただし、おまえを縛《しば》ってからだ」
指揮をする男は頷《うなず》いて見せた。
ラクシは従《したが》うしかなかった。
進み出、両手を差し出す。
男たちは、ラクシの腕を後方に回して、縛りあげた。
タイーサは、ラクシの側に立っていたが、男たちは一顧《いっこ》だにしなかった。
「さあ、早く手当てを」
ラクシは促《うなが》した。
「手当てか、そうだな」
指揮する男は、マンレイドとサトゥムに歩み寄り、見下ろした。
サトゥムは倒《たお》れ伏《ふ》し、マンレイドは片方の膝《ひざ》を突いて蹲《うずくま》っていたが、どちらも、まだ意識《いしき》はしっかりしていた。
「卑怯者《ひきょうもの》」
マンレイドは顔を上げ、吐《は》き捨《す》てるように言った。
「子供相手に」
「止《とど》めを」
耳を疑《うたが》う言葉が、男の口から出た。
すぐに部下が歩み寄ると、躊躇《ためら》いもせずに、剣を抜き、サトゥムの胸に突き入れた。
サトゥムの身体《からだ》から力が抜けていった。
「とうさんっ!」
何が起きたのか、ようやく気付いて、タイーサは父に駆《か》け寄《よ》る。
「とうさん、とうさんっ!」
タイーサは、サトゥムの首を抱き、身を投げかけた。
「とうさん……」
「なんてことを……」
マンレイドは、怒りを籠《こ》めて、指揮する男を睨《にら》みつけた。
呆然《ぼうぜん》としていたラクシも、やっと我《われ》に返る。
「約束が違うっ!」
ラクシは叫んだ。
「取り引きしたじゃないかっ」
「約束など、はなからする気はない」
男は言い放った。
「全《すべ》て方便《ほうべん》だ」
「クズめっ」
ラクシは悲鳴《ひめい》に近い声で言った。
「人でなしっ」
「ふふっ……」
男は笑った。
「我々は、初めからひとではないのさ」
「この女は、どういたしましょう」
部下が男に尋《たず》ねた。
マンレイドのことだ。
「この女は、厄介《やっかい》だ」
再びマンレイドを見下ろして、男は言った。
「腕も立つし、油断《ゆだん》がならない」
男は部下に向かって頷いた。
「始末しろ」
「し……しまつっ!」
ラクシの頭は、混乱《こんらん》した。
始末とは、何だ……
サトゥムを刺した男が、その剣をマンレイドに向ける。
「ま……まさかっ」
ラクシは、それがどういうことかに、初めて気付いた。
「二人共、人質にするんだろう」
「人質は、おまえ一人で充分だ」
男は言うと、部下を促《うなが》した。
部下は剣を構《かま》える。
「駄目《だめ》だっ、駄目だっ!」
ラクシの叫びも、何の役にもたたなかった。
部下は、マンレイドの胸にその切っ先を突き入れた。
グシュッ……
それは、一生耳にこびり付くような音だった。
「マンレイドッ!」
ラクシは叫び、もがいた。
むろん、男たちは放しはしない。
「マンレイドッ!」
マンレイドは、静かに頽《くずお》れた。
「マンレイドさん」
タイーサは、ただ呆然《ぼうぜん》としている。
「マンレイド、マンレイド」
喉《のど》が張り裂《さ》けそうに、ラクシは呼ぶ。
「マンレイドッ、マンレイドおっ」
答えはなかった。
男たちは、ラクシがこれ以上叫べないように、その口に布を巻き付けてしまった。
「この子供も始末しますか」
「放《ほう》っておけ」
部下の問いに、男は答えた。
「こんな子供だ、何もできない。いずれ野たれ死ぬだろう」
ラクシを担《かつ》ぎ上げ、男たちは歩き始める。
この男たちは、軽傷者《けいしょうしゃ》のみを連れ、仲間の屍体《したい》も打ち棄《す》てたばかりか、重傷の仲間にも止《とど》めを刺してから、去って行った。
情けとは思われない。いざという時の口封《くちふう》じなのだろう。
ラクシは、呆然と後ろの闇《やみ》を見詰《みつ》めるしかなかった。
男たちは、全ての灯《あか》りを持ち去ったのだ。
マンレイドとサトゥムと、そしてタイーサは、闇の中に残された。
雨が降って来た。
灰を雑《まじ》えた雨だった。
4
夜が明ける前に、傍《かたわ》らの寝台《しんだい》で眠《ねむ》っていたティーエが起き上がったのに、ボイスは気付いた。神殿内の一室である。
「どうした?」
ティーエは、力を使い果たし、疲《つか》れ切って眠っていたのではなかったか。
隣室《りんしつ》では、シルバたちも身体《からだ》を休めているはずだった。
噴火《ふんか》も収《おさ》まり、都市《まち》はようやく落ち着きを取り戻《もど》しつつあった。
むろん、更《さら》なる噴火を恐《おそ》れ、都市の外に出ようとする市民は、まだ多くいたのだが。
「何かあったのか」
力を使った後は、ティーエは一日ぐらいは、深く眠っているのだが。
「呼んでいます」
ティーエは答えた。
「誰《だれ》かが、わたしに助けを求めているのです」
「助けを……」
どういうことか。
ボイスは、しばらく考えた。
「とても心細い……不安で震《ふる》える聲《こえ》なのです」
「誰だ?」
ボイスは問う。
この都市も、ローダ・アルゼンも、周辺の町や村も、助けを求める人ばかりだと思うが、直接《ちょくせつ》ティーエに訴《うった》えかけるからには、知っている人間に違いない。
それがもしもマンレイドやラクシだったら、ティーエにはすぐわかるはずだし、残念ながら、二人には呪力《じゅりょく》はないから、ティーエには聲は届《とど》かないかもしれない。
「ちょっと行って、見て来ます」
ティーエは言うと、そのまま結跏趺坐《けっかふざ》の姿勢を取った。
「ティーエ……」
疲れが取れていないのに大丈夫《だいじょうぶ》か、と言おうとしたが、ボイスは、ただ溜《た》め息《いき》を吐《つ》いた。
どうやら、もう行ってしまったようだ。
ほどなく、隣室から、シルバが姿を現した。
「ボイス」
シルバは呼ぶ。
「はい」
ボイスは、ティーエの寝台の傍らに、大剣を抱《かか》えて座《すわ》っている。
「トバティーエは、また幽魂投出《ゆうこんとうしゅつ》をしたのだな」
「お気付きでしたか」
「なんと易々《やすやす》と、幽魂投出をすることか」
シルバは、感嘆《かんたん》した。
「御存知《ごぞんじ》で」
「さっきもしてのけたのだ。あのピラミッドの中でな」
シルバは頷《うなず》いた。
「とんでもない力だな」
「天が与えたもうた力なのでしょう」
ボイスは、しみじみと言った。
暗闇《くらやみ》の中に残されはしたが、タイーサには、霊《ハラン》や精霊《ストラ》が視《み》えていた。
微《かす》かに明るい。
タイーサは、辺りから残された布やマントをありったけ集めて来て、マンレイドとサトゥムに掛《か》けた。
死んだ、あの男たちの物も持って来た。
雨からマンレイドを守るためだ。
父が死んだのはわかっていた。
しかし、マンレイドには、まだ息があった。
“ああ、救《たす》けて”
タイーサは心の中で叫んだ。
“誰か救けて”
ラクシもマンレイドも、タイーサには優《やさ》しくしてくれた。
特に、マンレイドは優しかった。
“誰か……誰か……”
自らは、冷たい雨に濡《ぬ》れながら、タイーサは必死で呼び続けた。
「えい、なんて失態《しったい》だい」
ターリスが、いまいまし気に言った。
「二人を見失っちゃうなんてさ」
「仕方がないだろう。村は混乱《こんらん》し切っていたからな」
そう言うバリカイも、ほぞを噬《か》んでいる。
運良く、マンレイドとラクシに出会え、ずっと見守って来たというのに。
森の中を追っているうちに、バリカイたちは、二人を見失っていたのだ。
それも無理もなかった。
村はパニック状態《じょようたい》で、森の中では、逃げる人々の松明《たいまつ》やランプが交錯《こうさく》していた。
見失ったと知ると、二人は村に戻って、長老の弟を見付け、案内を頼《たの》んだ。
弟は、快《こころよ》く引き受けてくれた。
サトゥムが行きそうな道は、見当がつくという。
三人は、道を急いでいるところだった。
振り返ると、森を焼く炎が見えたが、追っては来ないようだった。
風向きが変わったのだ。
しかし、ほどなく雨が降って来る。
「松明は駄目《だめ》か」
バリカイは言う。
「ランプを消すなよ」
「大丈夫です」
村長の弟が言った。
灯《あか》りは、村長の弟の持つランプと、バリカイの掲《かか》げる松明《たいまつ》だ。
「その松明も、たっぷりと油を含ませてありますから」
三人は、小走りで進む。
「じきに、街道《かいどう》に出ます。そうすれば、灯りが見えるでしょう」
未《ま》だ若い長老の弟は、確信《かくしん》しているようだった。
タイーサは、見え隠れする灯りに気付いた。
どうしようか。
しばし迷《まよ》った。
救《たす》けを求めたい。
しかし、敵《てき》だったら……
いや、敵はもう行ってしまったのだ。
ラクシを連れて……
「救けてっ!」
タイーサは叫んでいた。
やって来たのは、見知らぬ三人だった。
しかし、倒れている二人を見るなり、口々に言った。
「マンレイド」
「サトゥム」
「マンレイドと、とうさんを知って……」
タイーサは、背中でマンレイドを庇《かば》いながら問う。
知っていても、敵かもしれない。
「知っている」
バリカイは言った。
「おれは、ボイスやマンレイドの友達だ」
「ボイスさんも……」
ボイスも知っているというなら、友達だというのは、本当だろうと、タイーサは思った。
「お願い、マンレイドさんを救けて」
「誰《だれ》にやられた?」
ターリスは問う。
「わかんない」
「大勢だね」
ターリスは、マンレイドの強さを知っている。
多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》、それしか考えられなかった。
「マンレイド……」
バリカイは、マンレイドとサトゥムを調べる。
サトゥムは、既《すで》に事切れていた。
マンレイドには、息があった。
バリカイは、胸を撫《な》で下ろした。
「胸《むね》の傷《きず》はたいしたことはないが、背中を槍《やり》で一突《ひとつ》きか」
「きたないねっ」
ターリスが吐《は》き棄《す》てるように言った。
「あいつらは、マンレイドさんにも止《とど》めを刺《さ》そうとしたの。でも、とうさんが防《ふせ》いだの」
タイーサは、サトゥムの右の掌《てのひら》を示《しめ》した。
それは血まみれで、よく見ると砕《くだ》けていた。
「あいつらが、マンレイドさんの胸を剣で突こうとした時、とうさんは最後の力を振《ふ》り絞《しぼ》って、手をマンレイドさんの胸に当てたの」
サトゥムが手を当てたおかげで、マンレイドの胸を貫《つらぬ》こうとした剣の力が柔《やわ》らげられたのだ。
タイーサは健気《けなげ》に続ける。
「暗かったんで、あいつらは、気が付かなかったの」
「そうか……よく守ってくれたな」
バリカイは、片手を挙《あ》げ、既《すで》にもの言わぬサトゥムに一礼した。
「罪滅《つみほろ》ぼしなの」
タイーサは泣き始めた。
安心して、そしてようやく、父の死というものを改めて思い知ったのだ。
「わたしを人質《ひとじち》にして、あいつらは、マンレイドさんたちに、言うことをきかせようとしたの」
マンレイドさんたち、という言葉で、バリカイは、はっと気付く。
「ラクシは……ラクシはどうした」
「あいつらに連れて行かれたよっ」
タイーサは、耐《た》え切れずに、ワッと泣き出した。
ターリスは、マンレイドの応急《おうきゅう》手当てを始めている。
バリカイも、長年戦場を駆《か》け巡《めぐ》って来た戦士だから、傷の手当てぐらい心得、二、三の薬も持っているが、ターリスは、ヴァユラの長老の娘だ、バリカイよりも、医術《いじゅつ》というものに詳《くわ》しかった。
それを知っているし、なんといっても女同士なので、バリカイは、手当てを任《まか》せた。
「サトゥムさん……」
長老の弟は、頭《こうべ》を垂《た》れ、黙祷《もくとう》している。
「良い人だったのに」
それを聞いて、タイーサは、更《さら》に激しく泣いた。
「可哀想《かわいそう》に……」
バリカイは、少女を抱《だ》いてやった。
「でも、お父さんの死は無駄《むだ》じゃないぞ。こうしてマンレイドを守ってくれたんだからな」
「うん」
タイーサはしばらく顔を上げ、またバリカイの胸――というよりは腹《はら》近くだが――に顔を埋《うず》めて号泣《ごうきゅう》した。
「傷は深いよ。早く、ちゃんとした医者に見せなくちゃ」
布で傷を縛《しば》りながら、ターリスが言った。
「良い医者がいるんだが……」
バリカイは、溜《た》め息《いき》を吐《つ》く。
「そいつは、ボイスのやつと、どこへ行ったんだか」
「ここに居ます」
そう言ったのは、タイーサだった。
タイーサは、バリカイを見上げている。
「わたしは、ここに居ます」
それは、この少女の口調《くちょう》ではなかった。
「あんた……は……」
「わたしは、アウル……」
「トバティーエ!」
バリカイは大声で言った。
「この子に、乗り移《うつ》っているのか」
むろん、バリカイは、ティーエが強大な呪力《じゅりょく》を持っていることは、良く知っている。
「はい」
少女は、ティーエの口調で言って、深々と頷《うなず》いた。
「誰《だれ》かが救いを求めているのに気付いて、幽魂投出《ゆうこんとうしゅつ》をして来てみたら、タイーサだったのです」
タイーサには呪力がある。
全身|全霊《ぜんれい》を籠《こ》めた呼びかけは、直接ティーエのもとに届《とど》いたのだった。ティーエが乗り移れたのも、タイーサの力|故《ゆえ》だ。
「わたしが、この子を動かして治療《ちりょう》をさせますから、お二人で手伝ってください」
ティーエは言う。
「マンレイドは、わたしにとっては、姉のような存在です」
そうだろう。
ずっと一緒《いっしょ》に行動している間、マンレイドは、細々《こまごま》と世話を焼いてくれた。
「何が何でも、救《たす》けます」
それは、バリカイにとっても、堪《たま》らないほどに頼母《たのも》しい言葉だった。
少女は、いや、少女に乗り移ったティーエは、テキパキと、少女の髪《かみ》で傷口《きずぐち》を縫《ぬ》い、消毒し、ターリスの持っていた薬を塗《ぬ》った。
針《はり》も、運良くターリスが持っていた。ただし、縫《ぬ》い物用だったが……バリカイが、焚火《たきび》でそれを曲げた。
「お二人は、マンレイドを、ヴァユラの村にゆっくりと運んでください。わたしは……」
少女の声でティーエは言う。
「わたしは、ボイスと、すぐにそちらに向かいます」
「わかった。あんたたちは、どこに居るんだ?」
「クラ・クム市です」
「クラ・クム……」
聞いて、長老の弟が絶句《ぜっく》した。
それがどういうことか理解できるのは、この青年だけだったろう。
「クラ・クムは、災厄《さいやく》から免《まぬか》れました。夜が明けたら、すぐに都市《まち》を出ますから」
「わかった。急いでくれ」
「もう噴火《ふんか》はありません。火山は、わたしが抑《おさ》えました」
ティーエは言う。
もちろん、バリカイたちに、その本当の意味は解《わか》るものではなかったが。
「待っていてください」
「わかった……しかし、悪い知らせがあるぞ」
バリカイが言った。
ラクシのことを伝えようというのだ。
「知っています」
少女の声が、震《ふる》えた。
「この子の中に入った時、心を読んでしまいました。でも……」
ティーエは、気を取り直し、続けた。
「ラクシは、きっとわたしたちが救け出します」
「そうだな」
バリカイも言う。
「おれたちも、必ず協力する」
「ありがとうございます」
その言葉の直後に、少女はのけ反《ぞ》る。
バリカイが抱《だ》き止めた。
ティーエの幽魂《ゆうこん》が去《さ》ったのだ。
「ありがたい」
バリカイは、虚空《こくう》に向かって手を合わせた。
上空には、まだぶ厚《あつ》い黒雲があったが、辺《あた》りは少しずつ白み始めていた。
太陽の光が、ここ迄届《までとど》いたのだ。
二日後の午後、正確には一日半後に、ティーエの一行は、運良く火事を免《まぬか》れた、森の中のヴァユラの村に到着《とうちゃく》した。
マンレイドは、眠っていた。
完全に意識《いしき》がない訳《わけ》ではなく、勧《すす》めると、水ぐらいは飲むという。
熱のせいだった。
あの後、バリカイたちは火事が収《おさ》まったのを見計《みはか》らって、マンレイドをヴァユラの村に運んだ。
さっそく、ヴァユラの、呪《まじな》い師《し》を兼《か》ねる医者に、マンレイドを委《ゆだ》ねたが、一般《いっぱん》よりも遥《はる》かに優《すぐ》れたヴァユラの医術をもってしても、おもわしい状態《じょうたい》には回復《かいふく》し得《え》なかった。
着くと、ティーエたちは、すぐにマンレイドの所に案内《あんない》される。
「マンレイド……」
さすがに、ボイスは動揺《どうよう》を隠《かく》し切れず、すぐにその寝台に歩み寄った。
「済《す》まん、ボイス」
寝台の傍《かたわ》らに居《い》た、バリカイが言った。
「おれが、同じ村に居たというのに……」
「あんたが……どうして……」
ボイスは、初めてバリカイに気付いた。
そういえば、ティーエが、バリカイが居たとは言っていたが。
「グラウル様の御指示《ごしじ》で、あんたたちの支援《しえん》に来ていたんだ。いざという時のためにな」
「ずっと追って来ていたのか」
「ローダ・アルゼンの都市《まち》には入れなかったんで、ひとまず、この村に来たんだ。マンレイドたちが来るとは、考えもしなかった」
バリカイは、いきさつを手短に語った。
なんと言っても、バリカイたちは他処者《よそもの》の異教徒《いきょうと》だ、ルイーン・アールやローダ・アルゼンの都市に入っても、目立ち過ぎてしまう。
それで、仕方なく、外から様子を見ることにした、という訳《わけ》なのだ。
ボイスは、寝台の脇《わき》に膝《ひざ》を突《つ》き、しばらくマンレイドを見詰《みつ》めた。苦しそうな表情はない。
「大丈夫《だいじょうぶ》です」
ボイスの後ろに立って、マンレイドを見、ティーエは言った。
「今のわたしには、頼母《たのも》しい味方がいます」
それがシルバだということは、ボイスにもわかっていた。
「もう、危機《きき》は脱《だっ》していますから」
それを聞いて、深い安堵《あんど》の溜《た》め息《いき》を吐《つ》いたのは、ボイスだけではなかった。
「すぐに元気になりますよ、マンレイドも、もうひとつの命も」
ティーエは言って、顔を隠《かく》していたヴェールを上げ、ボイスに笑いかけた。
信じられぬほどに透明《とうめい》な、優《やさ》しさに満《み》ちた表情を浮かべて。
「もうひとつの、命……」
首を傾《かし》げて問うたのは、バリカイだった。
「もうひとつの命……だれのことだ?」
ボイスも、不思議《ふしぎ》に思った。
ラクシのことを言っているのではないだろう。
「マンレイドの内《なか》に宿《やど》った命ですよ」
ティーエは生真面目《きまじめ》に答える。
「新しい命です」
「それは……もしかして……」
バリカイが、先に気付いた。
「赤ん坊か……」
バリカイは、半《なか》ば呼吸《こきゅう》を止めていた。
「赤ん坊……」
ボイスは、まだ解《わか》っていない。
「誰の?」
「おまえのだよ」
バリカイは呆《あき》れた。
「疑《うたが》ったら、マンレイドに殴《なぐ》り倒《たお》されるぞ」
「おれの……」
ボイスは絶句《ぜっく》した。
予想だにしなかったことだ。
「おれの……」
ボイスは、呆然《ぼうぜん》とマンレイドを見下ろした。
「あと、七、八か月|経《た》つと、生まれて来ると思います」
ティーエは、病気の説明でもするように淡々《たんたん》と言った。
「おれの……子供が……」
ボイスは未《ま》だ、夢《ゆめ》の中にでもいるような表情《かお》をしていた。
「あなたと、マンレイドの子供ですよ」
ティーエは訂正《ていせい》した。
「槍《やり》で後ろから刺《さ》されたのですが、背骨《せぼね》と心臓《しんぞう》には全《まった》く触《ふ》れていません。右の肺《はい》に達《たっ》しましたが、運良くそう深く傷付《きずつ》けられてはいませんでした」
ティーエは説明する。
「着ていた革の胴着《どうぎ》のおかげでしょう」
マンレイドの胴着は、槍を受けて大きく裂《さ》けていたのだった。
「そうか……では、おれたちは……」
ボイスは、マンレイドの枕元《まくらもと》に跪《ひざまず》いたまま言う。
「まだ、運命に見放されてはいないのだな」
ボイスは、複雑《ふくざつ》な思いに襲《おそ》われていた。
大陸には、災厄《さいやく》の時が迫《せま》っているという。
初めは、半信半疑《はんしんはんぎ》だったボイスも、ティーエと行動を共にし、様々な自然現象と向き合ううちに、ティーエやグラウルの説《と》くことを理解し、実感するようになっていた。
そんな時に、新たな生を受けたものがいるのか。
生まれて来る子供は、どのような世の中を見ることになるのだろう。
無事に生まれ出ることができるならば……
ティーエは、シルバの協力を得て、マンレイドに治癒《ちゆ》のエネルギーを注《そそ》ぎ込んだ。
一方、ヴィザンの行方《ゆくえ》に就《つ》いては、ヴァユラの人々から、情報がもたらされた。
ローダ・アルゼンに戻ったという。
シルバは、ラクシの行方を調べるよう指示を送ると、ティーエたちに約束した。
しっかりしているとはいえ、タイーサは未《ま》だ子供だ。詳《くわ》しい話は、マンレイドの回復《かいふく》を待たなければ、知ることができなかった。
誰が、どういう機関が、何のためにラクシを連れ去ったのか。
マンレイドは、翌日意識《よくじついしき》を取り戻し、更《さら》にその翌日には、しっかりと話ができるようになっていた。
「これは……」
ボイスは、バリカイに言う。
「あいつらの可能性が高いな」
「そうだな」
「あいつらって……」
マンレイドが訊《き》く。
マンレイドは、もう背中にクッションを当て、少し上体を起こすことができる迄《まで》になっていた。
マンレイドのあいつら、という言葉には、ある色が加わっていた。
あいつらに、心当たりがある、という意味合いだ。
「アステ・カイデから、ヘルルダルをかっ攫《さら》って行ったやつらさ」
バリカイが言った。
「やっぱり……」
マンレイドは眉根《まゆね》を寄せる。
額《ひたい》の秀《ひい》でた、彫《ほ》りの深い顔立ちだ。
「そうじゃないか、と思ったわ。やり口の汚《きたな》さでもね」
「あたしとバリカイは、多分……親玉ってやつに会っているよ」
ターリスが言った。
「あの……ハマン・カリスウェン様の処刑《しょけい》の時にね」
「そうだな」
バリカイも頷《うなず》いた。
「どいつが、そうなのか、はっきりはわからなかったが、“そいつが居る”と、おれも感じた」
カリスウェンが、隠謀《いんぼう》に嵌《は》められ、行なわれそうになった処刑を逃《のが》れた直後に、ヘルルダルを取り戻しに来た者たちの中に、その男は居たのだ。
はっきりと姿を現しはしなかったが。
確かに居た。
そいつ……
名前も顔も知らないが、はっきりと存在を感じる、誰か。
「しかし……」
ボイスが疑問《ぎもん》を呈《てい》する。
「それなら、シルバ様の手先では、ないのか」
むろん、マンレイドの寝ている部屋に居るのは、ボイス、バリカイ、ターリス、ティーエ、そしてマンレイド本人のみで、シルバは、村長が提供《ていきょう》した、一番きれいな家に居る。
きれい、といっても、シルバにとっては、小汚い物置としか思われないだろうが。
それでも、シルバは、それがこの村で最も居心地の良いものだ、ということを理解できたようで、一切文句《いっさいもんく》なども言わなかった。
「そいつらは、ヘルルダルを攫《さら》って行ったんだからな」
ボイスがそう言うのは当然だった。
連れ戻された、ヘルルダルのドラスウェルクは、ヴィザンが館長を務《つと》める“ヘルルダルの家”に居たのだから。
「だが、色々話を聞いてみると、そう単純《たんじゅん》な図式じゃあないようだ」
バリカイが言った。
「このローダビアって国は、ソグドム教が、政治まで牛耳《ぎゅうじ》るほど強い勢力を持っているが、その教団の内《なか》でも、主導権争《しゅどうけんあらそ》いは、かなり激しいんだそうだ」
「シルバ様の一派《いっぱ》は、主流ではない、と聞いたが」
ボイスは頷いた。
「かなり地味《じみ》な派閥《はばつ》らしい」
「だって……王家に関係があるんじゃないの?」
マンレイドが首を傾げる。
シルバは、王家の出だと聞いている。
王家の出らしく、誇《ほこ》り高い。
「今のローダビアでは、王家は、かろうじて残されているに過ぎないそうだ」
バリカイが言う。
「ローダビア公家は、王家の親戚筋《しんせきすじ》。つまり、古い王家の一族だという権威《けんい》を守るために、王家を温存しているに過ぎない、とな」
シルバの誇りは、そんな危《あや》うさに拠《よ》っているのか。
話を聞いていたティーエは、胸に手を置いた。
焦《あせ》りのようなものを、シルバから感じる。
そういう立場から来るものなのか。
しかもシルバは、嫡流《ちゃくりゅう》でありながら、聖職《せいしょく》に追いやられた。
父さえ夭逝《ようせい》しなければ、王|太子《たいし》のはずだったのに。
シルバは、父の死も、病気によるものだと信じてはいないのだ。
形ばかりの王の座《ざ》すら、血で血を洗《あら》う抗争《こうそう》で奪《うば》い合う。ティーエには、全く理解できるものではなかった。
「それじゃ、どうなっているの?」
マンレイドが訊く。
ラクシを奪《うば》って行った者たちと、シルバやヴィザンとの関係のことだ。
敵対《てきたい》する間柄《あいだがら》としか思われない。
考えてみれば、もともと、マンレイドとラクシは、シルバの一派に人質に取られたようなものだったのだから、わざわざ連れ去る必要もない。
だからこそ、マンレイドは、それほど警戒していなかったのだから。
「ラクシを人質にする必要があるのは、シルバ様の、敵?」
マンレイドは怒りを覚えている。
ラクシを連れ去った相手に。
そして、まんまとラクシを奪われ、サトゥムを殺されてしまった、迂闊《うかつ》な自分に。
心の中のどこかで、守りに入っていたのかもしれない。
自分の身体《からだ》が、自分ひとりのものではないと気付いた時から。
自分はどうなっても、子供だけはこの世に送り出したい。
そう思った時から、どこかが弱くなってしまったのかもしれない。
「かもしれんな」
バリカイが、マンレイドの言葉を受けた。
「そうでなければ、間尺《ましゃく》に合わない」
「敵とも言い切れないかもしれない」
ボイスが異論《いろん》を挟《はさ》んだ。
「人質を取る、ということは、金が目当てか、相手に何かをさせるためだろう」
ボイスは言う。
「ラクシを人質にしても、シルバ様にとっては、たいした価値《かち》はない」
「確かに、そうだね」
ターリスが賛同《さんどう》した。
たとえラクシを殺すと脅《おど》されても、シルバにとっては、痛くも痒《かゆ》くもない。
だいいち、ラクシとマンレイドはヴィザンが見張っていたのだから。
痛いのは、ティーエと仲間たちだ。
「では……」
マンレイドは、息を殺して言った。
「要求を突き付ける相手は……ティーエ?」
「そういうことになるな」
バリカイだけでなく、皆《みな》が認《みと》めざるを得ないことだった。
「いずれにせよ、いずれ何かの連絡《れんらく》があるだろう」
人質を取るとは、そういうことだ。
四人の話を聞きながら、ティーエはただ、困《こま》ったような表情《かお》をしていた。
ラクシのことが心配だった。
まさか、すぐに殺す、などということはないだろうが。
手紙が届けられたのは、その翌日《よくじつ》のことだった。
村の子供が、旅人に頼《たの》まれた、と言って、持って来たのである。
届ける相手は、やはりシルバではなく、ティーエであった。
「思った通り、目当ては、おまえだったのだな」
シルバが言った。
ラクシが連れて行かれた、と聞いた時から、シルバはそう考えていたのだ。
シルバ自身も、いざという時、ティーエに言うことをきかせるために、ラクシとマンレイドを、手の内に置いておいたのだから。
その手の内から、いくら噴火《ふんか》の混乱《こんらん》に乗《じょう》じてとはいえ、まんまと人質を奪《うば》い去られたのだ。
シルバにしてみれば、内心、面白《おもしろ》からぬものがある。
もちろん、表向きは、心配しているように見せていた。
いや、本気で心配もしていた。
罪《つみ》のない少女を危険《きけん》な目に遭《あ》わせるなどということは、王者のすべきことではない。
むろん、王たる者は、大局的《たいきょくてき》な見地からは、小《しょう》には眼《め》を瞑《つむ》ることもいたしかたないが。
あの少女には、できれば嫌《いや》な思いはさせたくない。
精一杯力《せいいっぱいりき》んで男のふりをして、それなのに自然体でいるところが、どこか愛《いと》しく思われる娘だった。
本来ならば、守ってやりたかったのだが。
「手紙には、何と書いてあるのだ?」
「ラクシは、コーナムに連れて行く、と」
「コーナム……やはりな」
シルバは、拳《こぶし》を握《にぎ》った。
「心当たりが、おありなのですか?」
ボイスが問う。
「コーナムに、わざわざおまえを呼びつけるからには」
シルバは大きく頷《うなず》いた。
「ロストル一派《いっぱ》と、ソグドムのある一派、おまけに、わたしの親戚《しんせき》の国王一派が結《むす》び付いたやつらが関わっていると考えられるな」
「ロストル一派とは?」
「次のローダビア公の地位……つまり、この国の権力を手中に収《おさ》めようという者たちだ」
ボイスの重ねての質問に、シルバは答える。
「知っていると思うが、ローダビア公ブリセル殿《どの》は、御高齢《ごこうれい》の上に、長く病《やまい》の床《とこ》に就《つ》いておいでになる。正直に言ってしまえば」
シルバは、微《かす》かな苦笑を見せた。
「もう長くはないのだ」
そこ迄の話は、皆も耳にしていた。
だからこそ、後継者《こうけいしゃ》争いが熾烈《しれつ》なのだと。
ローダビア公に、世継《よつ》ぎはいない。
「実は、ローダビア公は、既《すで》に正気ではないのだよ」
「正気ではない」
ボイスが一人で質問役を引き受け、他の人々は聞き役に回っていた。
「お年のせいでな……つまり……」
さすがのシルバも、少々言い難《にく》そうだ。
「老人の、痴呆《ちほう》だ。それも、かなりお悪く、ひとの見分けもつかない」
「では……」
ボイスも訊《き》き難い。
「後継者の御指名は……」
「できない。できないし、もしなさっても、誰も本気にはするまい」
「では、次のローダビア公は、どうやって決めることになるのですか?」
太陽帝国には、十侯《じっこう》の制度があり、形ばかりながら議会もあったが、ローダビア公国には、それもない。
議会がないばかりでなく、貴族《きぞく》すらもいないのである。
ローダビア公国は、絶対|君主制《くんしゅせい》で、その下には官僚組織《かんりょうそしき》のみがある。
官僚の中から、各|大臣《だいじん》が任命《にんめい》される。
官僚が貴族階級に近いと言えなくもないが、官僚は世襲《せしゅう》ではなく、主として試験《しけん》によって選《えら》ばれるのだ。
大臣の息子《むすこ》であっても、試験を通らなければ、官僚にはなれない。
もちろん、官僚たちは、我《わ》が子が試験に受かるように手を尽《つ》くすので、合格|率《りつ》は高いが。
いずれにせよ、ローダビア公の世継ぎ問題に関しては、大臣といえども、あまり口出しはできないのであった。
「力関係だな」
シルバは言った。
「力関係とは、つまり、官僚以外の実力者、ということでしょうか」
「それほど単純《たんじゅん》ではないのだ」
シルバは、面倒臭《めんどうくさ》がらずに説明する。
「皆も気付いていると思うが、この国では、大臣よりも、ソグドム教団の方が力を持っているのだ。直接、政治を動かすようなことはしないが、影響力は、何よりも強い」
「その話は、わたくし共も、色々と耳にしてはおります」
「今のところは、教団が後押しする、ローダビア公の甥《おい》のセノリム殿が有力、と言われている」
「甥……それならば文句を言う人もいないのではないのですか」
実の甥がいて、どうして後継者が決まらないのか、かえって不思議《ふしぎ》な気がする。
「甥といっても、公妃《こうひ》の甥御《おいご》なので、血の繋《つな》がりは殆《ほとん》どない」
語るシルバの口元に、微《かす》かな笑みが浮かんだのを、ボイスは見逃《みのが》さなかった。
「ただ、今のところは、大公の摂政《せっしょう》のような役割を果たしてはいるのだが」
シルバは、淡々《たんたん》と続ける。
「ローダビア大公家は、ここ何代かに亘《わた》って、あまり子宝に恵《めぐ》まれない家系《かけい》になってしまった」
「何代も、でございますか」
「男子ばかりか、女の子も殆ど生まれないのだ。何かに呪《のろ》われているのではないか、という噂《うわさ》さえ囁《ささや》かれているほどだ」
「何か原因は……」
例《たと》えば、アドリエ王家で王族が少ないのは、王位を巡《めぐ》る抗争《こうそう》と陰謀《いんぼう》で、多くの王族が罪《つみ》に陥《お》とされ、また暗殺されたためだった。
あのグラウルも、王の長男として生まれながら、未《ま》だ幼《おさな》い頃《ころ》に命を狙《ねら》われ、危機《きき》を感じた母は、息子を連れて王宮から逃れたのだ。
そういうことが起こるのは、決してアドリエ王国だけのことではないことを、各国を傭兵《ようへい》として渡り歩いて来たボイスたちは、良く知っている。
「原因は、あるのか、ないのか……」
シルバは首を傾げた。
さすがに、若いシルバは、考えたこともなかった。
「いずれにせよ、現大公が、あの家系の最後の一人ということになる。どういう訳か……」
シルバは、納得《なっとく》がいかないという表情で続ける。
「ローダビア公ブリセル殿は、周囲の勧《すす》めも無視《むし》して、養子《ようし》をお迎《むか》えになることもなかった」
普通《ふつう》の王家や名門|貴族《きぞく》の家で、そういうことは、まずないのだが。
元気なうちに、きっちりと後継者のことを決めておかないと、争いの種を播くことになりかねない、というのが、常識《じょうしき》だが……
「あのお方は……何を考えておいでになったのか……」
高位の聖職者である上に、王家の出身なのだから、シルバも、ローダビア公と面識《めんしき》があるのだろう。
「ロストル一派とは、その後継者争いで、どのような地位を占《し》めているのでございましょうか」
一番の問題は、そこである。
ラクシは、誰《だれ》に、何のために連れて行かれたのか。
「ロストルとは、今の宰相《さいしょう》だ」
宰相……つまり、総理《そうり》大臣である。
国政を実行する、最高権力を握《にぎ》る者だ。
「ロストルは、自分の息子《むすこ》を、次のローダビア公にしようと目論《もくろ》んでいるのだ」
「そのようなことが、可能なのですか?」
これ迄《まで》のシルバの話を聞いて、ボイスは驚《おどろ》いた。
唐突《とうとつ》な感じがした。
「ロストルの妻《つま》は、ほんの僅《わず》かながら、ローダビア公家の血を、引いているのでな」
シルバの口辺《こうへん》の笑いは、皮肉《ひにく》なものとなった。
「だからこそ、妻に迎《むか》えたのだろう」
「なるほど……でも、なぜラクシを……」
それこそが、皆が知りたいところなのだ。
シルバ以外、ここに居る者にとっては、ローダビア公の後継者など、誰がなろうと関心はない。ただ、人々のために良い政治をする人を、と願うばかりだ。
「確信《かくしん》を持っては言えぬが」
シルバは前置きする。
「トバティーエの力に目を付けたのだろう。何かに利用するつもりなのかも知れぬ」
シルバは、少し考えてから、付け加える。
「これは、不確かな情報だが、ローダビア政府の秘密組織《ひみつそしき》は、完全にロストル一派に組み込まれている、と聞いている」
ロストルは宰相だというから、有り得る話だ。
「ヘルルダルのドラスウェルクを、太陽帝国から連れ戻したのも、その者たちだそうだ」
「ヴィザン様の部下ではないのですか?」
ボイスは、不思議《ふしぎ》に思った。
「ヴィザンは、ヘルルダルの館の一つを預《あず》かっているに過ぎない。誰が館に入り、また出て行くかは、その権限の内にはないのだ」
シルバは、再び皮肉を声に籠《こ》めた。
「それは、教団の新統一派という一派が決めることでな」
「新統一派……」
何にでも、派閥《はばつ》があるものだ、とボイスは半《なか》ば呆《あき》れながら感心した。
「新統一派は、ソグドム教団の中でも多数派で、かなりの力を持っているのだ。バリム派よりは、遥《はる》かに数も多い」
シルバは続ける。
「新統一派は、ロストル派と結んでいる。だから、太陽帝国に進出する時に、政府の秘密組織の者たちもついて行ったのだ」
「なるほど……」
ボイスの頭の中に、ようやく輪郭《りんかく》が浮かんできた。
「それでは、その秘密組織というのは、ローダビア政府とソグドム教団と、両方の仕事をしていたのでございますね」
「少なくとも、太陽帝国では、そうだったようだな」
「少なくとも……でございますか」
ラクシを連れて行ったのは、その組織ではないのか。
「いや、今でも、だな」
シルバは認《みと》めた。
「ラクシを連れて行ったのが、本当にその組織ならば、だが」
「確信は、おありですか?」
「ある」
シルバはきっぱりと言った。
「他《ほか》には考えられぬ」
シルバは、しばし遠くを見るような眼をし、唇《くちびる》を噛《か》んだ。
この時シルバは、全てを語った訳ではない。
「それで……あんたは、首都に行くつもりなんだろうな」
バリカイが、ティーエに尋《たず》ねた。
ティーエは、ラクシを救うためなら、たとえ罠《わな》にでも飛び込んで行く。
それを皆が知っていた。
「はい」
ティーエは大きく頷《うなず》いた。
「とにかく行かなくては、何も始まりません」
それは、確かだろう。
「しかし……あんたの使命は……」
ボイスは、それも気になる。
つい数日前にも噴火《ふんか》があったばかりだ。
「コーナムには、初めから行くつもりでいました」
ティーエは答える。
「アドリエ、アステ・カイデ、そしてコーナムの三つの都は、一本の太い地流で結ばれているのです。それこそが、中心線となるのです」
少なくとも、この話はバリカイとターリスには理解できないだろう。
マンレイドは、未だ寝台からは出られないので、同席してはいない。
そろそろ、日が暮《く》れる頃合《ころあ》いだった。
むろん、一同が居るのは、ヴァユラの村の貧《まず》しい小さな建物の中である。
ただ、窓からは、森の美しい木々が見え、豊かな気分にさせられた。
大分|傾《かたむ》いた太陽の光が、赤味を帯《お》び始めている。
「コーナムで、わたしの旅は完結するかもしれません」
完結……
ボイスにとっては、感慨《かんがい》深い言葉だった。
思えば、長い旅をして来た。
故国《ここく》を出奔《しゅっぽん》してからのボイスの人生は、旅、そのものだったが、特にティーエと出会《であ》ってからは、長く厳《きび》しいものだった。
時間にすると、二年足らずなのだが、距離《きょり》は、大陸北部の砂漠《さばく》から、アドリエ王国、太陽帝国、そしてローダビア公国と、大陸を三分の二周する程に動いている。
長い。
特にそう感じるのは、目標がなかなか見えて来なかったからだろうか。
いや、ティーエには大陸を救うという使命があり、それを助けるという目的はあった。
ただ、ティーエ自身にとっても、大陸を救う方法を探る旅でもあり、あまりにも漠としていた。
長かった。
だが、辛《つら》くはなかった。
それは、この仲間たちと一緒《いっしょ》だったからだろう。
ボイスにとっては、少年の頃《ころ》に失ったものを取り戻せたような思いさえする、掛替《かけが》えのない仲間だった。
もちろん、ラクシは、その大切な一人だ。
旅の完結。
それは、どういう形で迎《むか》えられるのか。
いずれにせよ、仲間が揃《そろ》って迎えたいものだ、とボイスは心から願った。
三日後、一行はヴァユラの村を後にした。
マンレイドは、もう立って歩くことができるほどに回復《かいふく》はしていた、とはいえ長旅は無埋なので、シルバが村人に輿《こし》を用意させた。
長旅とは、当然ながら、コーナムへの旅であるが、その前にルイーン・アールに戻り、一休みしてから赴《おもむ》くということに話は決まっていた。
ローダ・アルゼンには寄らない。
ただ、もうローダ・アルゼン市は、一行にとって危険な場所ではなかった。
シルバが、ヴィザンを使って、ローダ・アルゼンが、どうして火砕流《かさいりゅう》の被害《ひがい》を免《まぬか》れることができたか、を伝えさせたからだ。
もちろん、それにはシルバが大きな役割を果たしたことを付け加えるのは、忘れずに。
いずれ、クラ・クムの状況《じょうきょう》なども伝えられてゆくに違いない。
ローダ・アルゼンに寄らないのは、時間を惜《お》しんだためだった。
ヴィザンも、もう、ルイーン・アールに向けて出立《しゅったつ》していることだろう。
ローダ・アルゼン以外は、同じ旅程で、一行はルイーン・アールに戻った。バリカイとターリスも一緒である。
着いてみると、また別の知らせがティーエたちを待ち受けていた。
あまり良い知らせではない。
ティーエたちの宿舎《しゅくしゃ》に、他ならぬヴィザンがやって来て、告《つ》げたのだ。
ヘルルダルのドラスウェルクが、留守《るす》中に連れて行かれた、と。
「ドラスウェルクが……」
皆、驚いた。
ただし、ティーエ以外だ。
「そうですか」
ティーエは、深い溜《た》め息《いき》を吐《つ》いた。
「そんな予感はしていました」
「まさか……誘拐《ゆうかい》されたのでは……」
ラクシと同じように連れて行かれたのでは、ボイスは、それを心配した。
「それは違う」
ヴィザンは首を振《ふ》った。
ティーエのしたことを知っているので、前とは少し態度《たいど》が変化したように思われた。
「正式の手続きの上だ」
「というと……教団で、ということですね」
先日、ヴィザンはただ、ヘルルダルの館の館長として、ヘルルダルたちを預《あず》かっているに過ぎないという話を聞いていたので、ボイスにもすぐにわかった。
納得《なっとく》し、直後に背筋《せすじ》に、冷水を浴《あ》びせかけられたような寒気《さむけ》を覚える。
ヘルルダルが連れて行かれる、ということは……
「それは……まさか、生贄《いけにえ》の……」
ヘルルダルは、初めから神への生贄になることが定められているのだ。
それ故《ゆえ》に、神に最も近い尊《とうと》い存在とされ、崇《あが》められる。
「おそらくな」
ヴィザンの反応は、当然のこと、というものだった。
そうだろう。
大神ラサ・ソグドの生贄になる、ということは、ソグドムの信徒《しんと》ならば、誰でもが羨《うらや》むことなのだし、ヴィザンは、何度も館からヘルルダルを送り出しているのである。
大切なヘルルダルを預かり、何不自由ないように暮《く》らさせ、清浄《せいじょう》なままに送り出す。
それが、ヴィザンに任《まか》された仕事である。
名誉《めいよ》な役割だが、出世とはあまり関《かか》わりのない閑職《かんしょく》だった。
生贄、という言葉は、それぞれの胸を強く刺《さ》した。
ドラスウェルクは、ヘルルダルたる自分の使命を知っているし、それに疑いを抱《いだ》いてはいなかったはずだ。
むしろ喜んで赴《おもむ》いたのかもしれないが……
「儀式《ぎしき》は、いつ行なわれるのですか?」
ティーエが尋《たず》ねた。
生贄の儀式、ということだろう。
「一月ほど後に、ラサ・ソグドの大祭がある。その時になるでしょう」
「そうですか」
ティーエは、もう一度溜め息を吐いたが、それには安堵《あんど》の色が混じっていた。
「それならば、間に合うかもしれない」
「何に、間に合うのです?」
いつの間にか、ティーエに対するヴィザンの口調も丁寧《ていねい》なものになっていた。
ヴィザンも、あの噴火《ふんか》は目《ま》の当たりにしている。
火砕流の流れを変えるなどということが、人にできるものとはとても思われぬが、この男は、それをしてのけたというのだ。
しかも、その後の噴火も収《おさ》めてしまった。
信じられないながらも、畏敬《いけい》の念を抱《いだ》かざるを得ない。
「ドラスウェルクを、死なせないで済《す》むかもしれません」
「何を……」
ヴィザンには、ティーエの言う意味が理解できなかった。
「何をおっしゃるのやら」
ヴィザンは音をたてて唾《つば》を呑《の》んだ。
「ヘルルダルは、喜んで大神の御元《みもと》に参《まい》るのです。死ぬのではなく、大神の御元への旅立ちです」
「死です」
珍《めずら》しく、ティーエは強く言った。
「生贄《いけにえ》は、神々の御元には往《い》きません。他の全ての人と同じように、死んだ後で、魂《たましい》の往くべき所に向かうのです」
「な……なんとっ」
さすがに、ヴィザンは絶句した。
ソグドム教の教義を、頭から否定《ひてい》されたからだ。
「わたしには、魂が視《み》えます。魂を追いかけて行ったこともあります」
ティーエらしくない、力説だった。
「生贄は間違っている、とケイローンは言いました。それは殺人だと。動物も同じだと。止《や》めさせねばならぬ、と」
「ケイローンとは、何者だっ」
ヴィザンは気色ばんだ。
「わたしの育ての親です。この世で最も優《すぐ》れた教師です」
ケイローンが、ケントウリ族であると明かすことだけは、ようやく踏《ふ》み止《とど》まる。
ティーエも、ローダビアでは、ケントウリ族が邪神扱《じゃしんあつか》いされていることを、忘れてはいなかった。
「その者が、全《すべ》て正しいのかっ」
ヴィザンは叫《さけ》ぶように言った。
「正義かっ?」
ティーエは、しばし口を噤《つぐ》んだ。
以前なら、そうです、とすぐに答えていたはずだったが、今、言い切れないものが、胸のどこかにわだかまっていた。
哀《かな》しいが、そうなのだ。
ケイローンに、ケントウリたちに、疑念《ぎねん》など抱《いだ》きたくはなかったが……
「わたしにはわかりません」
ティーエは、ゆるゆると首を振《ふ》った。
「絶対の正義が、どこにあるのか。でも……」
「でも何だ?」
「でも、わたしは、ケイローンの教えを信じ、従《したが》います」
ティーエは、ケイローンに会いたいと思った。
全てをぶつけたいと。
ジヌーハは、ケントウリ全員を起こすと言った。
皆を起こすのに、四、五日はかかる、ということだったが、もうそれ以上の日は経《た》った。
ケイローンは、起きているのだろうか。
祈《いの》り
1
数日後、ティーエたちは、ルイーン・アールを出立《しゅったつ》した。
一行は、ティーエ、ボイス、マンレイド、バリカイ、そしてターリスに、シルバと供の者たちで構成されていた。
マンレイドは、もう大分|回復《かいふく》して、徒歩《とほ》の旅でも大丈夫《だいじょうぶ》だったが、この行程《こうてい》の初めは、有《あ》り難《がた》いことに、殆《ほとん》ど船だった。
それも、来た時とは違って、ゆったりとした大型船である。
バリム・ソグドの御用船だった。
船は、ゆっくりと大河《たいが》を滑《すべ》り下った。
海に出、そのまましばらく西に航行《こうこう》してから、別の河《かわ》に入って遡《さかのぼ》る。
それが、コーナムに通じる河、コランダであった。
コランダ河は、流域《りゅういき》こそ広かったが、水量は、ルイーン・アールに至《いた》るガランダム河と比べると、かなり少なかった。
水深が浅いので、バリム・ソグドの大型船は、ほどなく航行|不可能《ふかのう》になり、小型の船に乗《の》り換《か》える。
「昔は、ガランダム河と同じぐらいの水量があったというが」
シルバは残念そうに言った。
「水が涸《か》れつつあるのだそうだ」
「ここでも……でございますか」
溜《た》め息《いき》を吐《つ》いたのは、ボイスだった。
「ここでも……とは?」
シルバは、その言葉に何かを感じた。
「わたくしの……」
ボイスは一瞬|躊躇《ちゅうちょ》したが、すぐに続ける。
「わたくしの故郷《こきょう》は、アンセル河の流域《りゅういき》にあるのでございますが、さしもの大河も、近頃《ちかごろ》とみに水量が減少《げんしょう》しているようでございます」
アンセル河は、大陸西部に横たわる、随一《ずいいち》の大河である。
大陸の西部、西南部は、特に砂漠化《さばくか》が著《いちじる》しいのだ。
気候《きこう》の変動がその原因である。
コランダ河の上流|地帯《ちたい》は、砂漠化の進む一帯に在《あ》った。
「雨が降《ふ》らないのだな」
シルバは頷《うなず》いた。
「コランダの上流も、殆ど雨が降らないのだそうだ」
水の豊かなルイーン・アールで育ったシルバにとっては、異常なことと映《うつ》っているのだろう。
事実、異常なのだ。
大河が大河でなくなり、森や草原や農地が、砂漠となっているのだから。
農地が減少し、河の水位が下がるということは、食糧《しょくりょう》の生産が落ちる、ということでもある。
由々《ゆゆ》しき問題だ。
特に、当事者と政府にとっては……
「そうですか」
ボイスの溜め息は深いものになる。
故国を思い出していた。
ボイスの故国トリニダは、大河アンセルの中流に位置している。
その辺《あた》りは乾燥《かんそう》地で、大河は砂漠を貫《つらぬ》いて流れていた。
トリニダ王国は、全《すべ》てを大河に依存《いぞん》している国家だった。
アンセル河無しには、存在し得ない。
コーナムは、どうなのだろうか。
むろん、都市国家トリニダと違って、ローダビア公国は広大だ、首都を移《うつ》すことは充分《じゅうぶん》に可能だが……
河を遡《さかのぼ》って行くにつれ、水量はますます減《へ》り、河そのものは狭《せま》くなったが、両岸のあちらこちらに、以前水が流れていた痕跡《こんせき》を見ることができた。
昔は、満々《まんまん》たる水を擁《よう》して流れていたのだろうに。
両岸の景色《けしき》からは、徐々《じょじょ》に緑が失われ、やがて、土と岩のみとなっていった。
もちろん、水際《みずぎわ》には葦《あし》などの水生植物や、様々な緑があるのだが、その上の小高い土手の上は、全て土の色なのだった。
「砂漠《さばく》ですね」
ティーエが言った。
ティーエにとっても、マンレイドにとっても、久し振《ぶ》りに見る砂漠だった。
「なぜか、懐《なつ》かしい感じです」
しみじみとした口調だった。
ティーエ、ボイスそしてラクシが出会ったのも、砂漠の只中《ただなか》だった。
ティーエは今、ラクシのことを想《おも》っているのではないか。
ボイスは察《さっ》した。
誰《だれ》よりも、ラクシのことを心配しているのは、ティーエなのだ。
二人の心が、強く結《むす》ばれていることは、ボイスにもマンレイドにもよくわかっている。
「考えてみれば、わたしたちの旅は、砂漠から始まったのでしたね」
三人の出会いは、天の配剤《はいざい》だったのだろうか。
「わたしたちの旅は、砂漠から始まり、砂漠に終わるのかもしれません」
ティーエは、遥《はる》か上流を見詰《みつ》めながら言う。
その先に、首都コーナムがあり、ラクシがいるのだ。
数日の船旅の後、一行はコーナムに至《いた》った。
茶色の両岸の続く先に、何かの先端《せんたん》のようなものが見え始めた。
風を一杯《いっぱい》に孕《はら》む帆《ほ》の力で、グイグイと河を遡るにつれ、それが二つ、三つと増えてゆく。
やがて、沢山《たくさん》の高く大きい屋根《やね》と、それを遮《さえぎ》る城壁《じょうへき》が現れた。
ソグドム独特のピラミッドも、平らな頭部を城壁の向こうに突き出している。
「コーナムだ」
今は隣《となり》の船に乗っているシルバが、珍《めずら》しく大きな声で、一同に知らせた。
ティーエたちの一行だけで、一つの船である。
もちろん、二人の船頭は乗っているが。
シルバとシルバの供《とも》は、更《さら》に二|艘《そう》の船に分乗していた。
供は、あの秘書《ひしょ》や二人の護衛《ごえい》の他に、数人の神官と傭兵《ようへい》とで、総勢は十五人ほどだった。
近付くにつれ、コーナムの威容が姿を現してくる。
さすがに、巨大な都市であった。
城壁は、ぶ厚《あつ》く堅固《けんご》で、最も高い処《ところ》で二十メートル近いだろう。
一部の城壁は、他の建物と接続しているようだった。
城門は、河に向かって大きく開かれていたが、船着き場迄は、かなり長い通路があった。
城門のすぐ近くに、昔の船着き場の痕跡《こんせき》がある。
川幅《かわはば》が狭《せま》くなるにつれて、船着き場を動かして来たことを物語っていた。
船着き場はいくつにも分かれていて、沢山の船が横付けし、忙《いそが》しそうに荷揚《にあ》げをしていたが、どの船も、あまり大きくはない平底船であった。
水深のせいなのは、明らかだ。
城壁の向こうに、更《さら》に高く聳《そび》えるのは、いくつもの尖塔《せんとう》だった。
かなりの高さである。
それは、この都市を造《つく》った人々の、土木技術の水準《すいじゅん》の高さを物語っていた。
塔は色とりどりだった。
おそらく、染料《せんりょう》を混《ま》ぜた漆喰《しっくい》が塗《ぬ》られているのだろう。
その色が、この都市に、どうにか明るい彩《いろど》りを与えていた。
ただ、全体が周囲と同じ土色なので、どうしても殺伐《さつばつ》とした印象《いんしょう》を否《いな》めない。
船着き場には、十人近い神官と、その三倍ほどの人々が待っていた。
シルバを迎《むか》えに出て来たのである。
知らせは、前に寄った港を先に出て行った、荷を運ぶ船がもたらしていたのだ。
シルバが到着する、という事以外の情報も。
既《すで》に、ティーエが、マノロ・コウト山、つまりクラ・クム市の近くに聳える火山の噴火《ふんか》の時に何を成し得たか、という知らせがもたらされ、あっという間に全土に広がっていた。
シルバが、その男と共に行動し、人々を救ったということも。
もちろん、ヴィザンが意図的にその噂《うわさ》を広げたのだ。
もともと、それがシルバの目論見《もくろみ》だったが、ここ迄大成功するとは。
シルバとしては、ティーエの力を利用して、ローダ・アルゼンとクラ・クムの両勢力《りょうせいりょく》の争いを収め、点数を稼《かせ》ぐ予定だったのである。
コーナムにやって来る数多《あまた》の荷船の人々が、次々と噂を伝《つた》えた。
コーナムの人々は、老人や子供に至《いた》る迄、噴火から北部の人々を救った人物のことを、知っていた。
信じられないほどの力を持つ、魔術師。
あるいは、神の使いか。
しかし、その男の眼は、もしかしたら凶眼《きょうがん》かもしれぬ。
その男は救世主《きゅうせいしゅ》なのか。
それとも……
人々は、一行の到着を、息を呑《の》んで待っていたのだ。
シルバにとっても、この出迎えは、これ迄になかったことだった。
いくら王族で、バリム・ソグドの位《くらい》に在《あ》るといっても、シルバは、中央の政府からすれば、半《なか》ば忘れられた存在だったのである。
忘れていないのは、国王|一派《いっぱ》だけだったのかもしれない。
国王一派は、本来の嫡流《ちゃくりゅう》である、この王子を牽制《けんせい》するために、長年、中央政府と教団とに働きかけて来たのだ。
その事を知る人々は、陰《かげ》で杞憂《きゆう》と嗤《わら》った。
だが……
王子は仮面を脱《ぬ》ぎつつある。
人々はそれを感じていたが、好意を持って迎える雰囲気《ふんいき》はあった。
一行は、都市の中に入った。
注《そそ》がれる沢山の眼を感じた。
敬意《けいい》と、畏怖《いふ》と、好奇《こうき》と……
様々なものの入り混じった視線だった。
ティーエの腕《うで》を取って歩くボイスに、微《かす》かな震《ふる》えが伝わって来た。
ティーエには、人々の心の叫《さけ》びが聴《き》こえているのだろう。
ティーエは、心を半ば遮断《しゃだん》している。
だからこそ、ボイスが腕を貸《か》しているのだ。もちろん、いつものように、ティーエは薄布《うすぬの》で顔を覆《おお》っている。
背が高いことを除《のぞ》けば、ほっそりとしなやかである上に、物静かで、どちらかというと、女ではないかと思われるような外見である。
隠《かく》されてはいるものの、その顔がいかに美しいかは、誰《だれ》もが確信《かくしん》するところだ。
とにかく、一行は用意されていた宿舎《しゅくしゃ》に入った。
シルバのような、高位の聖職者のための、教団の迎賓館《げいひんかん》の一角だった。
さすがに立派《りっぱ》な建物である。
庭には木々が生《お》い茂《しげ》り、中庭には噴水《ふんすい》があった。
タイル貼《ば》りの床《ゆか》は、太陽の熱気を、程《ほど》良く柔《やわ》らげてくれる。
外は日干《ひぼ》し煉瓦《れんが》や焼き煉瓦に漆喰を塗《ぬ》り、彩色《さいしょく》を施《ほどこ》しただけだったが、内部はモザイクやタイルで貼《は》られたり、壁画《へきが》が描《えが》かれていて、優雅《ゆうが》で繊細《せんさい》だった。
いくら水量が減《へ》ったとはいえ、大河の畔《ほとり》なのだから、井戸を掘《ほ》れば、水は湧《わ》いて来る。
ただ、現在《いま》は、より深く掘る必要があったが……
「わたしは、ドラスウェルクに会うことができるでしょうか」
一休みする間もなく、ティーエはシルバに尋《たず》ねた。
旅の間じゅう、心にかけていたことだった。
「わたしが、会わせよう。約束する」
シルバは言った。
「ただ、教団が決めたことを覆《くつがえ》すことは、できないぞ」
教団が決めたこと、とは、生贄《いけにえ》のことか。
「大地は、動いています」
ティーエは、真面目《まじめ》に言う。
「どういうことだ?」
シルバは、唐突《とうとつ》な言葉に、いささか鼻白《はなじろ》んだ。
ティーエと付き合っていると、時々訳がわからなくなる。
「地流のことか」
「はい」
「地流は、常に動いているのではないのか」
「そうですが……」
ティーエは、溜《た》め息《いき》を吐《つ》いた。
「いつもとは違う、もっと大きな動きが、まだ続いているのです」
「あの、噴火《ふんか》のような……」
「はい」
ティーエは頷《うなず》いた。
「それを感じる人は、多いでしょう」
「ふむ……」
シルバが持つ呪力《じゅりょく》は、そういう事とは少し違ったものだった。
幸か不幸か――本人は、大いなる不幸と思っているのだが――シルバの力は、癒《いや》しの力なのである。
ただ、なんといっても、呪力、即《すなわ》ち霊視《れいし》の力を持つ者も多いソグドム教団なのだから、ティーエと同じものを感じている者もいるはずだった。
だからこそ、ヘルルダルの中でも、最も力を持つドラスウェルクを、次の祭りの生贄に選んだのではないのだろうか。
特に強い願いがある時には、神には最上のものを捧《ささ》げるはずだからである。
それが人であろうとも。
「人々も、不安に思っているはずです。自分たちの身の上にも、何か起こるのではないか、と」
それは、このコーナム市に入って、強く感じたことだった。ティーエの心の中には、遮《さえぎ》っても遮っても、人々の声にはならない叫びが響いて来てしまう。
特に、噴火があってからは、人々の抱《いだ》く不安が強くなっているようだ。
「今、重要なことは、神に頼《たよ》ることではありません」
ティーエは言う。
「では、何が重要なことなのだ」
シルバには、わからない。
シルバには、未だそれほどの危機感はないのだ。
むろん、火山の噴火を目《ま》の当たりにした。
天空には、凶星《きょうせい》エネリオンが大きく輝いている。
それは長い尾を引いて、先端《せんたん》の丸い部分は赤味を帯《お》びて見えるようになっていた。
最接近と考えられる。
ただし、人々はそうではない。
このままでは、エネリオンが空から落ちて来るのではないか、火の玉を降らせるのではないか。
そんな恐《おそ》れを抱く人々も多いのだ。
このコーナム市の人々は、その他にもいろいろな事を恐れていた。
河の水量の減少《げんしょう》も、恐れに拍車《はくしゃ》をかける。
このまま上流域に雨が降らなければ、河は本当に涸《か》れ、この都市を捨《す》てざるを得なくなる。
政府は遷都《せんと》すれば済《す》むが、市民たちは、何もかもを失うのだ。
だが、それが杞憂《きゆう》とはいえないほどの状況《じょうきょう》になりつつあることを、人々は肌《はだ》で感じていた。
河の水位の低下、農地の砂漠《さばく》化。
以前にはなかった砂嵐《すなあらし》が、この都市を襲《おそ》うようになっていた。
「重要なことは……」
ティーエは、シルバの問いに答える。
「大災害の時代の到来《とうらい》を喰《く》い止めることです」
「だからこそ、大神ラサ・ソグドに祈《いの》るのだ」
シルバも、ドラスウェルクと同じことを言う。
「いいえ、地流を正常に戻《もど》すのです」
「地流を……」
シルバは首を傾《かし》げた。
初めて、本気でティーエの話を聞く気になったのかもしれない。
「リマラ様もお気付きでした」
「姉君が……何にだ」
「地流に、何か本来|在《あ》るべきでない力が混《ま》じっているのです。それが本来の流れを少しずつ歪《ゆが》め、地の底にわだかまっています。リマラ様は、それを、わたしに教えてくださいました」
「本来在るべきでない力、とは何だ?」
「まだ確かではありません。でも、見当はついています」
「その力を取り除《のぞ》けば、地流は正常になる、というのだな」
シルバは問う。
「どうやって取り除くのだ」
「祈りの力で」
「祈りの力……」
シルバは、また拍子抜《ひょうしぬ》けした。
「たった今、神に祈るのではない、と言ったではないか」
「神に祈るのではないのです。いいえ……」
ティーエは言い直す。
「神に祈ってもいいのですが」
「何を言いたいのだ、おまえは……」
シルバは呆《あき》れた。
「とにかく、ヘルルダルには会わせよう。わたしは、あの娘の行方《ゆくえ》を探ってみるから、待っているがいい。そのうち、向こうからまた要求を突き付けて来るだろう」
言うと、シルバはさっさと行ってしまった。
ティーエの話には、どうにもついて行かれなかった。
ラクシは、コーナム市の一角に居た。
タイーサ親子とマンレイドを残して連れ去られてから、しばらく陸路を行き、やがて船に乗せられた。
湖に出たのだということは、すぐに理解した。
もちろん、道中、何かきっかけさえあれば逃げようと、機会を窺《うかが》っていた。
だが、唯《ただ》一人の人に会うこともなかった。
もともと、獣道《けものみち》のような道を進んでいた。
こういう道を通るのは、ヴァユラの人々だけではないだろうか。
ヴァユラの道か……
どうして、この男たちがヴァユラ独特《どくとく》の道を知っているのだろうか。
もしかして……
こういうことには疎《うと》いラクシも、ようやく気付き始めていた。
とはいえ、後にして来た村人たちが、この男たちに協力しているとも思われない。
では……この男たちは……
船旅の後、辿《たど》り着いたのが、この大きな都市だった。
殆《ほとん》どが茶色い日干《ひぼ》し煉瓦《れんが》と、一部、焼いた煉瓦とで造られていた。
焼いた煉瓦の部分は、かなり古いようで、都市の土台や基礎《きそ》に多い。
おそらく、初めの頃《ころ》の都市造りは焼き煉瓦だったものが、後に焼き煉瓦の調達が難《むずか》しくなり、よほど重要な部分以外は、日干し煉瓦に切り換えたのだろう。
つまり、焼き煉瓦を作ることができなくなったのだ。
原因は、おそらく燃料不足だろう。
煉瓦を焼くには、薪《たきぎ》が沢山《たくさん》必要だ。
しかし、見渡す限り、この都市の周りには、薪を調達すべき森林などない。
砂っぽい農地の外に広がるものは、ただの赤茶けた荒《あ》れ地《ち》である。
砂漠《さばく》と言うべきかもしれない。
砂漠地帯に、本当の砂山は、そう多くはない。殆《ほとん》どが乾燥《かんそう》地で形成されているからだ。
そうした土地は、雨さえ降《ふ》れば、束《つか》の間蘇《まよみがえ》る。
一面に草が生え、花畑となる。
しかし、それが続くか続かないかは、天候《てんこう》次第なのだ。
森や林の育つ余裕《よゆう》などなかった。
ただ、数種の、地に深く深く根を伸《の》ばして、なんとか水分を掻《か》き集めることのできる、特別な樹木《じゅもく》だけが、生き延《の》びているに過ぎない。
ラクシは、その事を良く理解していた。
砂漠地帯には長くいたし、本来の故国イタールも、砂漠に在《あ》るオアシス都市だったからである。
故国も、ティーエやボイスと出会った北の砂漠も、遥《はる》かに遠い。
そのティーエやボイスからも遠い場所に連れて来られてしまった。
鉄格子《てつごうし》の嵌《は》められた窓から外を眺《なが》めながら、ラクシは嘆息《たんそく》する。
「でも、……もう、ボイスには会えない。合わす顔がないよ」
ラクシは、両掌《りょうて》に顔を埋《うず》める。
「マンレイド、マンレイド……」
その名を呼ぶだけで、涙《なみだ》が溢《あふ》れるのだ。
マンレイドは、生きているのだろうか。
目の前で止《とど》めを刺《さ》されたからには、生きているはずはない。
しかし……
一縷《いちる》の望みは残っていた。
虫がいいが、その望みに縋《すが》りたい。
ティーエだ。
ティーエが、その事に気付いて駆《か》け付けてくれさえすれば、マンレイドは助かっているかもしれない。
しかし、ティーエはクラ・クムに行ったのだ。
間に合うはずもない。
そこ迄《まで》考えると、ラクシは肩《かた》を落とす。
毎日、毎日、いや、日に何度も繰り返す思いだった。
生きていてほしい。
生きていて……
しかし、あいつらが、怪我人《けがにん》に止めを刺すのに、失敗などするだろうか。
あの、骨を砕《くだ》く厭《いや》な、厭な音。
あれは、マンレイドの肋骨《ろっこつ》に違いないのだ。
ラクシは、格子に額《ひたい》をつけ、鳴咽《おえつ》を噛《か》みしめる。
あいつらの前で泣くものか。
マンレイドの敵《かたき》の、あいつらの前で……
それにしても、気になることがあった。
マンレイドの言葉だ。
なに気なく、聞き流していたが、今は重く心にのしかかる。
マンレイドは言わなかったか。
“あたしの中の命”と。
それは、もしかして……
考えたくなかった。
失われたかもしれない命が、もうひとつあったなどと……
「ごめん……ボイス、ごめん」
ラクシは、格子に額を打ち付けた。
「ごめんっ、マンレイド……」
マンレイドのことを考えると、こうして生きていることすら、申し訳なく思われるのだ。
それに、自分が今置かれている状況も、ひとの足を引っ張るものに他《ほか》ならないのだから。
ラクシは、人質だ。
おそらく、ティーエを何かに利用しようという魂胆《こんたん》なのだ。
「ごめん、ティー」
ラクシは、壁《かべ》を背にしながら頽《くずお》れる。
「ごめん……ごめん……」
翌日、密《ひそ》かに手紙が届《とど》けられた。
ラクシの身の上に関《かか》わることが書かれていた。
「ラクシは、やはりこの都市に居ると書いてあります」
ティーエは、ボイスたちに言った。
ボイス、マンレイド、バリカイ、ターリスは、ティーエの護衛《ごえい》という形で、一緒《いっしょ》に居《い》る。
「わたしも、それを感じます」
「どこに居るか、だが、捜《さが》そうにも、初めての土地ではな……」
ボイスとしても、さすがにお手上げだった。
この都市は巨大《きょだい》だ。
右も左も分からない。
「少しだけ、マシな情報をあげようか」
ターリスが言った。
「マシな情報……」
ボイスとしては、藁《わら》にも縋《すが》りたいが。
「あたしの従兄《いとこ》のジャカンとね、グラウル様の弟子のシレルさんが、コーナムに入っているはずなのさ」
「ジャカンと、シレルがっ」
それは、耳にするだけでも有《あ》り難《がた》い名前だった。
ジャカンは、アステ・カイデのヴァユラの長老で、太陽帝国のみならず、諸国のヴァユラに顔のきくダファルの、後継者《こうけいしゃ》だ。
そして、シレルはグラウルの弟子で、呪術に通じているばかりでなく、大陸の災害《さいがい》の状況にも詳《くわ》しい。
「ヴァユラは、どこの国だって平気で入って行かれるからね」
ターリスは、さすがに皮肉《ひにく》な口調になった。
マルバ・シレルも、ジャカンと一緒になって、ヴァユラの人々に紛《まぎ》れているのだろう。
「二人は、大分前からコーナムに入って、情報を集めているんだけどね、とりあえず、こっちのことは知らせておいた」
ターリスは、途中で会ったヴァユラの仲間に、ジャカンへの伝言を託《たく》しておいたのである。
「きっと、二人が何かを掴《つか》んでくれるよ」
「それは有《あ》り難《がた》い」
ボイスは言った。
ターリスの言葉は、救いをもたらした。
ボイスもマンレイドもバリカイもターリスも、ティーエの護衛として認《みと》められている、ということは、勝手に動けない、ということでもある。
聖都《せいと》ルイーン・アールと違って、諸国の交易船《こうえきせん》のやって来るこのコーナムでは、他処《よそ》者は珍《めずら》しくないのだが、ティーエと一緒に行動している、ということが、逆に自由な行動を妨《さまた》げることになってしまった。
それは、バリカイとターリスには、不本意なことだ。
マンレイドのために、仕方がなかったのだが。
ゆったりした旅と、ティーエとシルバの癒《いや》しの力のおかげで、マンレイドも、今はすっかり元通りの体力を取り戻していた。
それだけに、マンレイドも、自分が何もできないのが悔《くや》しい。
「それで、向こうは、あんたにどうしろ、というんだ?」
人質を取るからには要求がある。
金《かね》でないことは、確かだ。
「それが、何も書いていないのです」
ティーエは哀《かな》しそうに首を振《ふ》った。
「次の連絡を、おとなしく待て、と」
「どういうことだろう」
ボイスは、バリカイたちを振り返った。
「わからんな」
バリカイは首を振った。
「グラウル様なら、良い知恵がおありだろうが」
「グラウル様……そうですね」
突然《とつぜん》、ティーエが膝《ひざ》を打った。
「お知恵を借りましょう」
「お知恵を……」
バリカイとターリスは、顔を見合わせた。
もちろん、ティーエの呪力は知っているので、全てを疑《うたが》っている訳ではないが。
とはいえ、現在、グラウルはアステ・カイデに居るはずなのだ。
「いろいろ、今後の相談もしなければなりませんし……」
「ここで、幽魂投出《ゆうこんとうしゅつ》をするのか?」
ボイスは尋《たず》ねる。
ティーエとの付き合いも長くなった、ティーエが何をしようというのか、想像もつくのだが。
五人が今居る場所は、ローダビア公国の首都コーナムの、ソグドム教の施設《しせつ》の中である。
下手《へた》に呪力《じゅりょく》を使えば、必ず気付く者がいるし、邪魔《じゃま》をされるかもしれない。
ボイスは、それを心配した。
「ここで行動を起こすのは、まずいんじゃないのか」
ボイスは、辺《あた》りを見回す素振《そぶ》りをした。
「はあ……」
ティーエは、しばらく考えた。
「そうですね」
未《ま》だ、ティーエという人間と付き合うことに馴《な》れていないターリスが、一瞬、
“この子、鈍《にぶ》いんじゃないの”
と思ったほど、間の抜けた反応だった。
「良いやり方を、考えます」
かなりマトモな答えが返って来たので、ボイスは、とりあえず安心した。
冷静になってみると、ボイスの言う通りだということがよくわかった。
ティーエは、しばらく瞑想《めいそう》をすることにした。
ティーエたちに与えられた部屋は、重要人物の来客用のもので、広い居間と主寝室、そして従者《じゅうしゃ》の部屋が二つ付く。
従者の部屋のひとつを通らなければ、主寝室に入ることはできないし、もうひとつの従者の部屋は、小さな中庭に、共に隣《とな》り合って面していた。
護衛にとっては、理想的な配置である。
入口の部屋には、ボイスとバリカイ、隣には、マンレイドとターリスが入った。
二人ずつなので、交替《こうたい》で見張《みは》りをすることもできる。
守る側にとっては、ありがたかった。
なんといっても、四人|揃《そろ》って、一騎当千《いっきとうせん》の兵《つわもの》である。
だが……一瞬たりとも、気の許《ゆる》せる場所ではないのだ。
何が起こるかわからない。
ボイスたちが、神経を研《と》ぎ澄《す》ましているのがわかる。
心を静めていると、様々なことが、ティーエの頭の中に流れ込んで来る。
喜び、哀《かな》しみ、怒《いか》り、疑い、焦《あせ》り……
心の中の叫びだ。
“ティーッ……”
ティーエは、はっとして、半眼にしていた眼を開いた。
今、聴こえたのは……
“ティーッ……”
「ラクシ……」
ティーエには、すぐにわかった。
誰《だれ》よりも大切なひとの聲《こえ》だったのだから。
誰よりも大切だった。
ラクシが連れて行かれたと知った時、慌《あわ》てはしなかったが、激《はげ》しい胸《むね》の傷《いた》みを覚えた。
それは、今も続いている。
まさか幻《まぼろし》では……
と、ティーエは思った。
ラクシの心配をするあまり、聲が聴《き》こえたように錯覚《さっかく》したのではないか。
願望の顕《あらわ》れではないか、と。
“ティーッ……、ティーッ”
聲はまだ聴こえて来る。
“お願いっ、助けてっ……マンレイドを……お願い”
幻聴《げんちょう》ではなかった。
ラクシは近くに居る。
ティーエは確信《かくしん》していた。
このコーナム市の内《なか》だ。
それも、ティーエの居るソグドム教の施設《しせつ》から、そう遠くはない場所だ。
ソグドム教の施設は、公宮《こうきゅう》と隣《とな》り合っている。
公宮。
つまり、ローダビア公の宮殿《きゅうでん》だが、他の国の王宮などと同じように、単にローダビア公の住居というだけではない。
それは奥向きのほんの一隅《いちぐう》のことで、宮殿そのものの機能は、まさに政府の中枢《ちゅうすう》である。
ローダビア公国の行政の中心そのものなのだ。
ラクシは、その区域に居る。
ティーエには、その気になれば、いくらでも会いに行かれるのだが。
もちろん、その方法は幽魂投出だ。
だが、ボイスが指摘《してき》した通り、そんなことをすれば、すぐに、ソグドム教団の誰か、つまり呪力を持った神官の誰かに気付かれてしまうに違いないのだ。
今、下手《へた》な行動は取れない。
とはいえ……
ラクシに、皆が側《そば》に居ることを知らせてやりたい。マンレイドが元気だということを教えてやりたい。
ラクシが絶望《ぜつぼう》しかけているのは、マンレイドが既《すで》にこの世のものではない、と思っているからなのだ。
何があろうとも、ラクシは望みを失ったりはしない人間だ。常に、前を向いているはずだ。
そのラクシが、打ちひしがれて、すぐ側に居るのだ。
“マンレイド……ごめんなさい……マンレイド……”
ラクシの啜《すす》り泣きが、ティーエの頭の中に響いて来る。
“ああ……ティーッ、ティーッ……”
ティーエは、頭を抱《かか》えた。
人質《ひとじち》にされ、この都市に連れて来られてからの、ラクシの日々は単調だった。
そう狭《せま》くはないが、一室に閉《と》じ込《こ》められ、本を読むことも、楽器を弾《ひ》くことも許《ゆる》されない。
部屋に窓は一つしかなく、それは中庭に面しているが、格子が嵌《は》められており、その中庭には、ついぞ人の姿を見たことがない。
叫《さけ》んでも無駄《むだ》な場所だということは明らかだった。
ラクシを捕《とら》えた者たちは、用意|周到《しゅうとう》な上に、どのように汚《きた》なく卑怯《ひきょう》なことも、平気で行なう。ラクシが逃げられるような隙《すき》は、まず有り得ないのだ。
もちろん、ラクシは、それでも、何かないか、と探ることを止めはしなかったが。
ただ、日々は徒《いたず》らに過ぎて行く。
ラクシは食欲も失い、悶々《もんもん》として一日を過ごしていた。
止《とど》めを刺《さ》されるマンレイドとサトゥムの姿だけが、瞼《まぶた》に焼き付いてしまって、離れようともしない。
むろん、暗がりで、そう鮮明《せんめい》ではなかったが。
“マンレイド……”
ラクシは、蹲《うずくま》り、心の内《なか》で叫《さけ》ぶのだ。
“ああっ、マンレイドッ、許して、許してっ”
あまりにも無力だった自分を呪《のろ》う。
激しく呪うことしか、できない。
死にたい。
ラクシは、ここ数日、そんな思いを抱《いだ》くようになっていた。
“死にたい、死にたい……”
「ラクシッ……」
ティーエは顔を上げた。
瞑想《めいそう》など、できたものではなかった。
さきほどから、何かの祈りの、大きな聲《こえ》が頭に響いている。
その中に、ラクシの叫びが混《ま》じるのだ。
祈りは、どうやら、雨乞《あまご》いのようだった。
会堂《ユーマラ》と呼ばれる、ソグドム教の神殿で、かなり大規模《だいきぼ》な儀式《ぎしき》が行なわれているらしい。
祈りの声は、時おり風に乗って、ボイスたちの耳にも届く。
ボイスとバリカイは、黙々《もくもく》と剣の手入れをし、マンレイドとターリスは、窓辺《まどべ》で風に吹かれながら、話をしている。
二人とも、女戦士だ。これ迄巡《までめぐ》って来た戦場の話などが多かった。
ターリスは、自分がヴァユラの出身だということを隠《かく》さなかった。
もちろん、マンレイドも、ボイスやバリカイと同じように、ヴァユラの人々に対して、何の偏見《へんけん》も抱いていない。
大陸じゅうを旅して来たから、ヴァユラの人々とも、様々な出会いがあった。
皆、普通の人間だった。
良い人もいれば、嫌《いや》なやつもいる。
同じことだ。
マンレイドにとって、ターリスは、頼《たよ》れる先輩《せんぱい》戦士だった。
経験も、腕前《うでまえ》も、尊敬《そんけい》に値《あたい》する。
おまけに、ざっくばらんな性格も好《この》もしかった。
昔、マンレイドが所属《しょぞく》していた故国《ここく》の娘子《じょうし》軍にも、こんな先輩がいた。
「あの声は、何なのかしら」
マンレイドが言った。
「儀式でもしているの」
「らしいね」
ターリスが頷《うなず》く。
「いつもと、違う」
「なんだか、切羽詰《せっぱつ》まったような感じね」
「切羽詰まっているんだよ」
ターリスは、それを認《みと》めた。
「あれは、雨乞いの儀式だと思う」
ヴァユラだけに、ターリスは、そういうことに詳《くわ》しかった。
「この辺りはね、もう、半年以上も、一滴《いってき》の雨も降っていないんだそうだよ」
「半年以上も……」
「おまけに、上流地帯もね」
ターリスは述《の》べる。
「ここに来る時の、河の水量でわかるだろ。水不足は、かなり深刻《しんこく》らしいよ」
もう少し河の水量が減《へ》ると、小舟さえもこの都市迄|辿《たど》り着くことは不可能になるだろう。
そうなると、物資は、途中《とちゅう》から陸路を運ぶことになる。
水運が利用できなければ、輸送《ゆそう》量はかなり減少するから、ものの値段も高くなるだろう。
だいいち、物資が足《た》りなくなる。
ここは燃料すら輸入に頼らざるを得ないのだ。
「井戸も、大分水位が低くなっているから、農業も、ひどいことになっているらしい。まさか、河から樋《とい》で水を運ぶって訳にもいかないからね」
もちろん、河から用水は引いている。
河沿《かわぞ》いには用水路が張り巡《めぐ》らされ、河から離れた所には、暗渠《あんきょ》も網《あみ》の目状に引かれているはずだ。
だが、その用水路にも、水は殆《ほとん》ど流れてはいなかった。
水位があまりにも下がってしまったために、用水路に水を流すには、樋《ひ》で担《かつ》ぎ上げなければならなくなったのだ。
「東の方は、ずいぶん水があったじゃない」
マンレイドの言う東の方とは、もちろん、このローダビアの東側のことだ。
その更《さら》に東は、大陸一の大湿地帯《だいしっちたい》の広がる、水の豊かな一帯である。
一行は、しばらくその辺りを旅していた。
ルイーン・アールも、水の都だった。
だが、この辺りは、全く別の世界のようだ。
「東の地方と、この地方を分ける、結構《けっこう》高い山脈《さんみゃく》があるんだよ」
さすがにターリスは、沢山《たくさん》の情報を持っている。
「山脈の東と西では、ガラリと気候が違うらしい」
ターリスは説明する。
「山一つ越《こ》えると、砂漠《さばく》だよ」
ターリスは続けた。
「あとは、西の海まで、ずーっと、ずっと、砂漠だよ」
西の海とは、この大陸の西側に横たわる大海のことだ。
大陸は、ぐるりと海に囲《かこ》まれているが、東の海の向こうと、西の海の果てには、また別の大陸があると言われている。
「昔《むかし》は、そんなに砂漠ばっかりじゃなかったって話だけどね」
「それは、あたしも聞いていたわ」
マンレイドが言う。
「あたしの故国《くに》のレキサントラでは、まだそれほどひどくはないけど、大陸の西側の、レキサントラより南では、どんどん砂漠地帯が増えているって」
「このコーナムも、砂漠に呑《の》み込まれようとしているのさ」
ターリスは、無念そうに首を振《ふ》った。
「無慈悲《むじひ》な砂漠神《レクメト》にね」
切羽詰《せっぱつ》まった聲《こえ》、ということならば、ラクシの方が、もっと深刻《しんこく》だったかもしれない。
ラクシの絶望は、大きな穴に落ち込んで行くようだ。
魂《たましい》は、悲嘆《ひたん》の沼で溺《おぼ》れる。
“ああっ、もうだめっ”
ラクシの心は、大きな闇《やみ》に包《つつ》まれる。
“死にたいっ、もう死にたい……”
ラクシの聲は、祈りの聲よりも、更に強くティーエの頭の中で響く。
“だめですっ、ラクシッ”
ティーエは、念じる。
“皆《みん》なの足手|纒《まと》いになる。ティーエを危険《きけん》なことに巻き込んでしまう”
“だめですっ”
ラクシは、溢《あふ》れ出る涙《なみだ》を拳《こぶし》で拭《ふ》いていたが、もう拳で間に合うものではなかった。
“ティー、ごめん”
ラクシは、服のベルトを外すと、窓の格子《こうし》に掛《か》けた。
部屋の外に見張りはいるが、常に小窓から中を覗《のぞ》き込んでいる訳ではない。
ベルトを締《し》め、一度、窓とその下の壁を背に当てて、床《ゆか》に座《すわ》る。
ベルトは、頭一つ分ぐらい高い所にある。
ラクシは、腰《こし》を浮かし、ベルトに首を掛《か》ける。
様々なことが、脳裏《のうり》に蘇《よみがえ》って来る。
数少ない記憶《きおく》しかないが、慕《した》わしい父。誰よりも気高く優《やさ》しい母、そして、憧《あこが》れに近い想《おも》いを抱く兄、ハラド。
砂漠での、ティーエ、ボイスとの邂逅《かいこう》。
だが、多分、あれは偶然《ぐうぜん》ではなかったのだ。
三人は、出会うべくして会ったのだ。
ティーエの使命を、共に果たすために。
だというのに、自分はまた、大切な仲間を危機《きき》に陥《おちい》らせようとしている。
いや、既《すで》に一人……
“ごめんっ、ティー”
ラクシは、唇《くちびる》を噛《か》んだ。
“好きだった。愛していたよっ”
ラクシは、足の力を抜く。
首にベルトが喰い込んだ。
“愛してる。ずっと、ずっと側《そば》に居て、守るよ。あの時、約束したように……”
意識《いしき》が遠退《とおの》いて行く。
“だめですっ、ラクシッ”
強く思った途端《とたん》に、もうティーエの幽魂《ゆうこん》は、肉体から飛び出ていた。
一直線にラクシのもとに向かう。
“いけません、ラクシ。生きるんですっ”
ラクシは、聲を聴《き》いた。
眼を開けると、そこには白金《プラチナ》の色の光に包《つつ》まれた人の姿が在《あ》った。
「ティー……?」
ラクシは、微《かす》かに喉《のど》を鳴らした。
“立ちなさいっ。立つんです”
「もうっ……だめ」
“立つんです”
ティーエは、こころを送り込む。
“さあ、足に力を入れて”
「もう……」
ラクシは、力なくもがいた。
本当に、もう身体《からだ》のどこにも力が入らなかった。
「さよな……ら」
ラクシは呟《つぶや》いた。
“さよなら、ティー、好きだった”
“ラクシ、死んではだめです。死なせないっ”
ラクシは、霞《かす》んで行く眼《め》で、白金色の光が動くのを見た。
それはラクシの方にぶつかって来た。
ラクシは感じた。
暖かい光が、自分の中に入って来たのを。
ラクシの身体に、エネルギーが広がる。
足に力が入る。
ラクシは立ち上がり、首のベルトを外《はず》した。
それから、床に転がった。
“さあ、息をして”
頭の中で聲《こえ》がする。
世にも優しい聲が。
“息をして、大きく伸《の》びをするんです”
しばらく咳《せき》をしてから、ラクシは言われた通りにした。
「変だな」
ボイスが首を傾《かし》げた。
「祝詞《のりと》が止まったぞ」
「本当だ」
研《と》ぎ了《お》えた剣に、打ち粉《こ》を付けながら、バリカイが顔を上げる。
「何か……突然止《とつぜんや》んだようだな」
「何かあったのかね」
「儀式って、こんなに突然に終わるもの?」
ターリスとマンレイドも、もちろん気付いていた。
「そんなはずはないけどね」
「あ、また始まったわ」
「儀式ってのは、始めたら、最後|迄《まで》しなくちゃいけないんだよ」
ターリスが説明する。
「じゃないと、逆《ぎゃく》に、儀式をした者に呪《のろ》いがかかることもあるって聞いたよ」
ターリスに呪力《じゅりょく》はないが、父のダファルも、伯父《おじ》のジャドも、いくらかの呪力を持っていた。
だから、呪術のことには結構|詳《くわ》しい。
「どうして、中断したのかしら」
それは、予定されたものとは、とても思われなかった。
「何か、よっぽどのことがあったんじゃないかね」
「ティー」
ようやく呼吸が楽になって、ラクシは顔を上げた。
ティーエは――ティーエの幽魂《ゆうこん》は、まだ眼の前に立っていた。
“ラクシ、もう二度と、こんなバカな真似《まね》をしてはいけませんよ”
ティーエの聲は、叱るようだった。
「だって……だって……」
ラクシは再び、涙に咽《むせ》ぶ。
「マンレイドが……マンレイドが、殺されたんだ」
“マンレイドは生きています。もう、すっかり元気ですよ”
「う……うそっ」
マンレイドが止《とど》めを刺《さ》されるのを、ラクシは見ていたのだ。
“サトゥムさんが、全《すべ》てを懸《か》けて庇《かば》ってくれたのです。サトゥムさんは亡《な》くなりましたが、マンレイドも、わたしたちと一緒《いっしょ》に、この都市《まち》に来ていますよ”
「マンレイドが……」
ラクシの涙は、歓喜《かんき》のものと変わった。
サトゥム親子のことは、心が痛むが。
“いいですね。だから、生きるんですよ”
ティーエは念を押す。
“きっと、わたしたちが救《たす》け出しますからね”
「でも……皆《みん》なの足を引っ張ったら」
“そんなことで、わたしたちが負けるものですか”
「ティー……」
“わたしは、もう行きます。がんばって”
ティーエの姿は、壁の中に入ってしまった。
そこを抜《ぬ》け、自らの肉体に戻ったのだということを、ラクシは知っていた。
2
しばらく後に、コーナム市の辺《あた》りに降《ふ》ったものは、雨ではなく、雹《ひょう》だった。
そう長い時間ではなかったが、親指の先ほどもある氷の塊《かたまり》は、コーナム市ばかりでなく、その周辺数キロを覆《おお》い尽《つ》くした。
雹が止む前に、シルバが、ティーエの所に飛んで来た。
「何かしたな」
部屋に入って来るなり、シルバは言った。
「何をした?」
「何も……」
ティーエは答えた。
「ただ……」
「ただ、何だ」
「ラクシを見付けました」
「見付けた……」
訝《いぶか》しんだ直後に、シルバは気付いた。
「会いに行ったな」
シルバは呆《あき》れた。
「幽魂投出《ゆうこんとうしゅつ》だな」
こんな場所で、幽魂投出をするとは……
「なんという真似《まね》をするのだ」
「ラクシが、絶望《ぜつぼう》し切って、死のうとしたので、励《はげ》ましに行ったのです」
「愚《おろ》かな」
シルバは首を振《ふ》った。
「雹が降ったのは、おまえのせいにされてしまうではないか」
「わたしが……でも、何もしてはいませんが」
ティーエは、ぼんやりと言った。
自分の影響力を、何もわかってはいないのだ。
「おまえは幽魂投出をした。当然、皆がそれに気付いた」
シルバは、非難《ひなん》の口調《くちょう》で指摘《してき》する。
「だから、儀式《ぎしき》を中断することになったのだ。おまえのしたことだ」
シルバは、窓の外を示《しめ》す。
雹は殆《ほとん》ど止《や》んでいたが、外は一面の氷の世界だった。
この砂漠の端《はし》で。
もちろん、気温は高く、湿度は最低のレベルだから、ほどなく融けて無くなるだろうが。
現在は、雹が降ったために、空気は急に冷えて、寒いぐらいだった。
「あながち、トバティーエの罪《つみ》とも思われませんが」
ボイスが、恭《うやうや》しい態度《たいど》ながら、口を挟《はさ》んだ。
「それは、どういう影響を与えることになりましょうか」
もちろん、ソグドム教団と政府の出方のことを言っているのだ。
「大変な影響だ」
シルバは、唇《くちびる》をへの字に曲《ま》げた。
「雹が降ったのだぞ」
その唇が、しばしわなないた。
「雨ではない。雹が降るということが、どういうことか、わかるのか」
この中に、降雹の経験がある者はいまい。
「なにしろ、氷の塊《かたまり》が降って来るのだ。当たった者は怪我《けが》をする。主に、女子供《おんなこども》や年寄《としよ》りがだ」
シルバは怒《おこ》っていた。
誰に対して怒るべきなのか、分からないままに怒っていたのだ。
「しかも、おかげで、畑は壊滅《かいめつ》的な打撃《だげき》を受けた。回復する迄に、何か月かかることか。それでなくとも、旱魃《かんばつ》で減《へ》り続けている農地がだ」
「ローダビア公国は豊かな国家、遷都《せんと》も可能でございましょう」
バリカイが言った。
ティーエに全《まった》く罪がないことは、バリカイにも良くわかっている。
勝手に犯人扱《はんにんあつか》いされては、かなわない。
「いざとなればな」
シルバも、それは認《みと》めた。
「はっきり言ってしまえば、この都は、いずれ無くなる。そんなことは、わかり切っている」
シルバは、少し心を静めたようだ。
事実は事実。
認めなければ、先には進めない。
特に、この国の行く先に関《かか》わりたいと思う者には。
「だが、教団には、理では通じないぞ」
つまり、シルバが言うのは、ソグドム教団の人々を相手にする場合、理屈《りくつ》のわかる者は、そうはいない、ということなのだ。
なにしろ、ティーエは、ソグドム教徒《きょうと》でもなく、ソグドムの一部では、凶眼とされる“世界の相”を持つ者なのだから。
「もちろん、わたしが話をつけるつもりではいるが」
「話をつける……のでございますか」
どういう意味か。
ボイスは、一瞬、バリカイと顔を見合わせた。
「そうだ。そのために来たのだ」
「そのため……」
「お互《たが》いの利益《りえき》のためだろう」
シルバは、当たり前、という表情で言った。
まあ、誰も、シルバが親切だけで、ティーエと一緒に来ている、などとは思いはしない。
少なくとも、ティーエ以外は……
「トバティーエは、ラクシを取り戻したいのではないのか」
「そうではございますが」
ラクシと、雹《ひょう》と、どういう関係があるのか。
「わたしは今、ラクシを取り戻すために、色々と手を打っているのだ。まあ……言ってみれば、裏《うら》の取り引きだが」
「ラクシを取り戻すため」
ティーエの顔が輝《かがや》いた。
「ありがとうございます」
「おまえたちは、そのために、このコーナムに来たのだろう」
シルバは、微《かす》かに笑った。
照れているのか、それとも、何か含《ふく》むところがあったのか。
「だというのに……」
シルバは、形の良い眉《まゆ》を顰《ひそ》める。
「下手《へた》に幽魂投出などしては、台無しになるではないか」
「とおっしゃいましても」
ボイスは、あくまでも、ティーエを擁護《ようご》する。
「ラクシが、自殺しかけていたというのでは、仕方がございません」
「うむ……」
それは、シルバとしても容認《ようにん》せざるを得なかった。
「確かにな……だが」
シルバは、壁の一角に眼を向けた。
その方角に、ソグドムの主会堂《しゅかいどう》があるのだ。
「おまえは、ソグドムの人々を刺激《しげき》してしまったのだ」
雨乞《あまご》いの儀式《ぎしき》が中断されたのは、神官たちの何人かが、ティーエの幽魂投出に気付いたからに他《ほか》ならない。
「向こうも、動き出すぞ」
シルバは言った。
「ラクシを連れて行った者以外の、別の勢力がな」
「別の勢力……とは、何でございましょう」
ボイスが問う。
「会堂《ユーマラ》の全てだ」
シルバは言うと、顎《あご》に手を当て、自問するように続けた。
「一つ間違えると、大変なことになる」
「大変なこと、とは……?」
「わたしといえども、おまえたちの命を守れなくなるかもしれない。いや……」
首を振《ふ》ると、シルバは顔を上げる。
「わたしも、破滅《はめつ》するかもしれぬ」
シルバは、しばらく唇《くちびる》を噛《か》みしめた。
「ここが正念場《しょうねんば》だ」
コーナム市は、聖都《せいと》ルイーン・アールと違って、国内ばかりでなく、外国の商人なども数多くやって来て、居《きょ》を構《かま》えている者も少なくはない。
ローダビアの人々の殆《ほとん》どは、国教のソグドム教を信仰《しんこう》していたが、外国人ならば、どのような宗教の信徒でも構わずに受け入れられた。
ただし、宗教者《しゅうきょうしゃ》の布教は御法度《ごはっと》である。
その日の夕暮《ゆうぐ》れ時に、一人の背《せ》の高い男が、コーナム市の表門を潜《くぐ》った。
ティーエたちも通った、河に面した門である。
コーナム市の周りには、むろん街道《かいどう》も整備されているが、最も重要な道は、大河《たいが》コランダなのだった。
昔《むかし》は、沢山《たくさん》の大型船が往《い》き来し、白い帆《ほ》を大きく広げていただろうに。
都市《まち》に入った男は、痩《や》せていて、周りの人々より頭一つ上になるほどの上背があった。
黒ずくめの服に、外套を着ている。
もう積もった雹《ひょう》はすっかり消え、都市にはもとの暑さが戻って来ているというのに、汗《あせ》ひとつかいていない。
男は、異国《いこく》的な雰囲気《ふんいき》を強く漂《ただよ》わせていた。
おそらく、白い肌《はだ》の人々の血が混《ま》じっているのだろう。
ローダビアは、太陽帝国と同じように、殆どが赤銅色《しゃくどういろ》の肌をした人々である。
男の肌色は、ごく薄《うす》いオリーブ色で、頬《ほほ》から顎《あご》にかけて、黒い髭《ひげ》を蓄《たくわ》えていた。
よくよく見ると整《ととの》った顔立ちながら、その表情は厳《きび》しい。
港《みなと》に迎《むか》えに出た、二人の男が案内《あんない》をしていた。
二人とも、同じように外国人である。
それは、様子で一目でわかった。
「もう、雹は完全に融けたな」
男は、都市《まち》を見回して言った。
大通りを、人々が行き交っている。
大抵《たいてい》の人は、一行には眼もくれない。
外国人は、そう珍《めずら》しくもないのだ。
「はい、グラウル様」
恭《うやうや》しく応《おう》じたのは、まだ二十歳《はたち》を少し過ぎたばかりの男だった。
眼が大きく、活き活きとした表情が、好もしい感じを与える。
もう一人は、三十代だった。
グラウルより、少々|歳上《としうえ》だろうか。
「まさか、雹《ひょう》が降るとは、思いもしませんでした」
若い男が言った。
「明らかに失敗だ」
グラウルが、厳《きび》しい顔で言った。
本人である。
アステ・カイデから、こうして密《ひそ》かにやって来たからには、思うところがあるのだろう。
迎《むか》えに出たのは、ターリスも言っていた、グラウルの弟子《でし》のマルバ・シレルと、ターリスの従兄《いとこ》で、アステ・カイデのヴァユラの総元締《そうもとじめ》の後継者《こうけいしゃ》、ジャカンだった。
むろん、ヴァユラの仲介《ちゅうかい》や呪術など様々な方法で、グラウル自らがやって来ることを伝えておいたのである。
「失敗とは、やはり雨乞《あまご》いの儀式《ぎしき》の……」
シレルが尋《たず》ねる。
「そうだ。気を散らしたのだろう」
「どうしてでございましょう」
シレルは呪力《じゅりょく》を持っているが、グラウルほど強くはない。まだ修行中だ。
ジャカンの場合は、父も叔父《おじ》のダファルも、多少の呪力があったが、本人には殆どない。
だから、呪術のことは、知識《ちしき》としては持っていても、実践《じっせん》的にはわからなかった。
ただ、雹が降ったということは、偶然《ぐうぜん》ではないのではないか、と考えてはいた。
「トバティーエのせいだ」
グラウルは、微《かす》かな苦笑を、その精悍《せいかん》な頬《ほお》の上に乗せた。
その眼には、慈愛《じあい》に似た色があったかもしれない。
「ティーエさんが……」
もちろん、シレルはティーエやその仲間を良く知っている。当然、ジャカンもだ。
「トバティーエが、幽魂投出をしたのだ。わたしの使い魔が、それを視《み》ていた」
「幽魂投出……でも、トバティーエたちが居るのは、ソグドム教の施設《しせつ》の中でございます」
そんな所で、幽魂投出などできるものではない、とシレルは言いたいのだ。
「何か、切羽詰《せっぱつ》まった事情があったのだろう」
「切羽詰まった事情、でございますか」
ジャカンが言う。
「では、ぐずぐずしてはおられませんな」
数日後、ティーエはようやく、ヘルルダルのドラスウェルクとの対面を許《ゆる》された。
ドラスウェルクが、同じ施設の中に居ることはわかっていた。
ティーエは、ずっとドラスウェルクの存在を感じていたのだ。
それは、向こうも同じだったろう。
ドラスウェルクは、カリスウェンと同じように、本来出会うべき存在であった。
いや……人生で関《かか》わった人の全《すべ》てが、出会うべくして出会ったのかもしれないが。
しかし、世の成り行きそのものが、成るべくして成るものかどうか。
そうではない。
ティーエは、それを信じる。
運命は、変えられるはずだ、と。
それは、特別に美しい部屋だった。
花の咲《さ》き乱《みだ》れる中庭に面し、噴水《ふんすい》の水音が聞こえる。
飛べないように風切羽《かぜきりばね》を切った、輝く緑と紫《むらさき》の鳥が放し飼《が》いにされ、兎《うさぎ》や小さな動物も姿を見せている。
人工のものではあるが、小さな楽園のようだった。
都市《まち》の外には、ひたひたと砂漠《さばく》が押し寄せている。
この庭園の存在そのものが、今のドラスウェルクの立場を示しているように思われた。
ドラスウェルクは、ほどなく大神のもとに赴《おもむ》くのだ。
その前の、束《つか》の間の楽園だ。
ソグドム教団は、数日後に生贄《いけにえ》となるこのヘルルダルに、最大限の待遇《たいぐう》を与えているのだ。
なにしろ、大切な、大神への使者なのだから。
とはいえ、ドラスウェルクは、この美しい庭と部屋から出ることは許《ゆる》されないのだ。
望《のぞ》めば、家族と対面することもできるが、ドラスウェルクが申し出ることはなかった。
もう長いこと会ってはいない。
幼少時に、ドラスウェルクをヘルルダルとして差《さ》し出した家族に、未練《みれん》はなかった。
幼《おさな》い頃《ころ》から、ドラスウェルクの持つ強大な呪力《じゅりょく》に気付き、それを恐《おそ》れて腫《は》れ物のように扱《あつか》って、早々と手放してしまった両親だった。
両親よりも、会いたい人間が、ひとりだけいた。
ティーエだった。
シルバの働きかけもあり、ようやく二人は会うことができた。
「きみ、まずいことをしたね」
二人だけになった時、ドラスウェルクの口から出たのは、そういう言葉だった。
「仕方がなかったのです」
ティーエは、その意味を理解していた。
幽魂投出《ゆうこんとうしゅつ》のことに違いない。
ドラスウェルクが気付かないはずは、あり得ない。
「ラクシの心の叫《さけ》びが聴《き》こえました。死にたい、と。本気でした」
「わかってる」
ドラスウェルクは頷《うなず》いた。
「ぼくにも、少し聴こえた」
ドラスウェルクの呪力は、強い。
「ラクシのためだから、しょうがない、とは思うけど……」
ドラスウェルクは、微笑《びしょう》した。
「ぼくも、ラクシは好きだ。あの子ってさ」
眼も優しくなった。
「お腹《なか》の中がきれいなんだよね。何にも、嫌《いや》なこと、考えたりしないんだ」
ドラスウェルクは続けた。
「ボイスも、マンレイド姐《ねえ》さんも、妙《みょう》にふっ切れてるしさ」
「はい」
ティーエは大きく頷いた。
だからこそ、仲間となったのだ。
「いざという時は、ぼくもラクシを助けるつもりでいたんだよ。死なせやしなかった」
「そうですか……」
ティーエは、深い溜《た》め息《いき》を吐《つ》いた。
「あなたの存在を、しばらく忘れていました。ラクシが心配で……」
ティーエの声が、湿《しめ》り気《け》を帯《お》びた。
「本当に心配で……我《われ》を忘れて……」
ティーエの頬《ほお》に、突然涙《とつぜんなみだ》が溢《あふ》れ出た。
「ただ……ラクシのことばかり、考えて……」
「知ってるよ」
ドラスウェルクは、一歩進み出た。
「きみの聲《こえ》は、ずっと聴《き》こえていたもん」
ドラスウェルクは、ティーエの手を取った。
伝わって来たものは、温《あたた》かさだった。
心を柔《やわ》らかく浸《ひた》す温《ぬく》もり。
全身に広がってゆく。
「ドラスウェルク」
「ドラちゃんと呼んでって、言っただろ」
「ドラちゃん……」
いつの間にか、ドラスウェルクの頬にも、涙が伝《つた》っていた。
温かい涙だった。
二人は手を取り合った。
二人の周りに、光の輪ができる。
その光は、少しずつ広がってゆく。
光は、空気に湿気《しっけ》を吹き込んだ。二人の涙が、潤《うるお》いを与えるかのように。
それは、都市じゅうに、そして郊外《こうがい》へと広がっていく。
「雨だ!」
どこかで、人々が騒《さわ》ぎ出した。
「本当の、雨だっ……」
「雨だ」
窓の外を見て、バリカイが言った。
小さな庭に、同じ雨が降っていた。
「ちゃんとした雨だよ」
ターリスが、ボイスとマンレイドを振り返った。
「雹《ひょう》でも霰《あられ》でもない。あったかい雨だ」
粛然《しゅくぜん》と雨は降り始め、静かに続いた。
それはまさに、恵《めぐ》みの雨であった。
雨は、雹に打ち拉《しだ》かれた麦や畑の作物を蘇《よみがえ》らせ、砂漠の乾《かわ》いた土に深く染《し》み込んだ。
これこそが、人々が待っていた、本当の雨であった。
「ぼくたち、雨を降《ふ》らせちゃったね」
自分たちのしたことなのだが、ドラスウェルクは呆《あき》れて言った。
「まずかったかも」
「まずいことはありません」
ティーエは真面目《まじめ》に言った。
「大地が、生き物たちが喜んでいます。もちろん、人々も」
「まあ……それは確かだけど」
ドラスウェルクは、感動を覚えていた。
ティーエは、こんなにも大地と、世界と一体化していたのか。
世界の歓喜《かんき》を喜び、大地の苦渋《くじゅう》を哀《かな》しんでいたのか。
全てが、ティーエと繋《つな》がっているのか。
ドラスウェルクは、その時初めて理解した。
“世界の相”の本質を。
ティーエは、世界そのものなのだ、と。
「ぼくは、きみを通じて、初めて、世界と繋がったような気がするよ」
ドラスウェルクは、しみじみと言った。
「今のぼくなら、胸を張って大神の御元《みもと》に行かれる」
「あなたは、わたしの三人目の分身なのです」
ティーエの言葉に、ドラスウェルクは首を傾げる。
「分身ってのは解るけど……三人目? ああっ」
ドラスウェルクは、手を打った。
「一人は、あの人だね。太陽帝国の……―」
ドラスウェルクが言うのは、カリスウェンのことだ。
「でも……もう一人は」
「イルアデル様です」
ティーエは、すぐに言った。
「アドリエ王国の王だったひとで、わたしの魂《たましい》の双児《ふたご》でした」
「魂の双児……聞いたことがあるな」
ドラスウェルクは記憶《きおく》を辿《たど》った。
「誰でも、この世のどこかに、瓜二つの人間がもう一人居て、双児のような魂を持っているって。でも……」
ドラスウェルクは、ティーエを見詰《みつ》める。
何度見ても、その瞳《ひとみ》には魅了《みりょう》される。
「滅多《めった》に出会うことはないんだよね」
「でも、わたしたちは、巡《めぐ》り合えたのです」
「その人は、アドリエ王国に居るの?」
「いいえ」
その否定《ひてい》のし方が、あまりにも哀《かな》し気《げ》なので、ドラスウェルクの胸は、強く締《し》め付けられた。
「お亡《な》くなりになりました」
「亡くなった……」
ドラスウェルクが、ティーエの強い悲しみを感じたのは、そのせいだったのだ。
「わたしは、全《すべ》てを失ったと思いました」
「なんとなく、気持ちはわかるけどさ」
ドラスウェルクは言う。
「きみには、最高の仲間がいるじゃないか」
ドラスウェルクにとって、どれほどに羨《うらや》ましいことか。
「そうですね」
それはティーエも、つくづくと、ありがたいと思う。
「それに、カリスウェン様と、あなたに巡り合えました」
「魂の双児じゃないけどね」
アドリエ王イルアデルは、姿も顔も、ティーエとそっくりだった。
だが、カリスウェンとドラスウェルクは、赤銅色《しゃくどういろ》の肌《はだ》の人種で、白い肌のティーエとは大きく異なっている。
それでも、魂は近いのだ。
手を取り合うだけで、全て解《わか》り合えるほどに、近いのだ。
ティーエが分身というのは、そういうことだ。
「あなたは、わたしの分身、そして、わたしはあなたの分身。カリスウェン様も同じです」
「だから、こんなに、あの人のことが気になるんだね」
ドラスウェルクも、カリスウェンという存在を感じた時から、親しみを覚えていた。
これ迄になかったことだった。
「わたしたちは、会うべくして会ったのです」
「あうべく、して……」
「大陸が、それを欲《ほっ》していたのです」
ティーエは続ける。
「この大地が、空が、木々や生き物たちが、救ってくれとわたしたちを動かしたのです」
ティーエは、力強く言った。
「わたしたちは皆、この大陸の分身なのです」
ドラスウェルクは、しばらく黙《だま》りこんだ。
雨はまだ、静かにコーナムとその周辺とを潤《うるお》し続ける。
鳥や動物たちは、葉陰《はかげ》に姿を隠《かく》し、雨の止《や》むのを待っている。
噴水《ふんすい》の下の池には、雨粒《あまつぶ》がいくつもの模様《もよう》を作り出していた。
水面《みなも》の水蓮《すいれん》の花が、ひとつ、またひとつと開いてゆく。
雨よりも、この二人の存在そのものを喜んでいるかのように。
ああ、救いの手が差し伸べられた。
救世主《きゅうせいしゅ》たちが、やって来た、と。
「皆が言っているでしょう」
ティーエが、木々や生き物たちを示す。
「力を合わせて、大陸を救ってくれと」
「だけど、ぼくは、皆と一緒《いっしょ》にはなれないんだよ」
今度は、ドラスウェルクの悲しみが、ティーエの胸《むね》を刺《さ》した。
「ぼくは、あと七日|経《た》ったら、大神の御元《みもと》に旅立つんだからね」
「七日……」
シルバたちから、祭りの時に、ドラスウェルクの生贄《いけにえ》の儀式《ぎしき》が行なわれることは知らされていた。近いこともわかっていた。
しかし、それが僅《わず》か七日後とは……
だが、考えてみると、それが一月|足《た》らず後と聞かされてから、このコーナムへの旅に、十日近くを要し、コーナムに着いてからもずいぶん待たされたのだ。
その間に、ラクシは死を選ぼうとさえした。
もちろん、原因は、マンレイドが殺されたと思い込んだのと、自分が人質になっていることで、ティーエやボイスを危険《きけん》にさらすことを恐《おそ》れたためだった。
どちらも、ラクシには耐《た》え難《がた》い。
いつものラクシならば、それでも一縷《いちる》の望みは失わなかっただろうが、殆ど一日を一人で部屋に閉《と》じ籠《こ》められたうえに、気を紛《まぎ》らわす音楽等も禁《きん》じられたために、精神的に追い詰《つ》められていたのだ。
これは、ラクシにとっては、一種の拷問《ごうもん》だった。
「きみは、街《まち》に出ていないからわからないだろうけど、もう祭りの準備は、着々と進められているはずだよ」
「だめです」
ティーエは、叫ぶように言う。
「生贄なんて……だめです」
「だって……もう決まったんだ。ぼくは……」
ドラスウェルクは、悲しそうだった。
「心安らかだったのに……今は、ちょっとだけだけど、生きたくなってきちゃったよ」
ドラスウェルクは、鼻を啜《すす》った。
「きみや、みんなと生きたいよ」
ドラスウェルクの言う通り、街では、祭りの準備が進められていた。
大神ラサ・ソグドの大祭である。
ただ、祭りといっても、庶民《しょみん》のものではなく、ソグドム教の儀式《ぎしき》が中心だった。
とはいえ、|最大の祭り《クライマックス》は、都市《まち》の人々総出となる。
ピラミッドで行なわれる、生贄の儀式が、それであった。
人々の目の前で、生贄は神の元に送られるのだ。
神の元に送る、というのは、ただの美化である。
正確に言うなら、生贄は、生きたまま胸を切り裂《さ》かれ、心臓《しんぞう》を掴《つか》み出されるのだ。
それが、生贄の儀式の実態だった。
もちろん、生贄も、儀式を執《と》り行なう神官も、そして見守る人々も、これが神への祈《いの》りの儀式であることを疑いはしない。
「ひとを生贄にするなんてっ」
マルバ・シレルは、吐《は》き棄《す》てるように言った。
マルバ・シレルも信仰《しんこう》している、大陸主流の、太陽《アト》、月《トバ》、星《セイタ》を主神とする宗教《しゅうきょう》では、人間を生贄にすることは、固《かた》く禁《きん》じているからだ。
ただし、牛や羊、鶏などを生贄にすることは、少なくはない。
「儀式には、コーナムじゅうの人間が集まるそうだな」
グラウルは、全く表情を変えずに言った。
三人は、シレルたちが用意した家に居る。
長屋のような、それぞれがくっついた家だが、そう狭《せま》くはなく、柵《さく》で仕切られた小さな庭もある。
外国の商人が、一時的に借《か》りるのに、ちょうど手頃《てごろ》な家といえるだろう。
「祭りの華《はな》でございますから」
ジャカンの口調《くちょう》には、皮肉《ひにく》が混じっていた。
やはり、ジャカンも、人を生贄にすることに、不快《ふかい》な思いを抱《いだ》いているのだ。
祭りは、陽気なものではなく、どちらかというと厳粛《げんしゅく》な雰囲気《ふんいき》のものであった。
とはいえ、人々は晴れ着になり、特別な料理を食べる。破目《はめ》を外した騒《さわ》ぎはないものの見世物《みせもの》や大道芸《だいどうげい》も出る。
祭りを目当てに、商人以外にも、様々な人々が、コーナムに集まって来ていた。
「ラクシさんが、公宮《こうきゅう》に居るのは、確かなんだな」
マルバ・シレルが、ジャカンに念を押した。
芸人などに混じって、コーナムに入って来ているヴァユラの仲間からの情報である。
「確かなようです」
ジャカンが頷《うなず》いた。
「やはり、政府の裏《うら》の仕事をする者たちの中には、ヴァユラが何人も加わっております」
ジャカンが言う。
「その者たちの口は、堅《かと》うございますが、やはり、仲間同士のこと、どこかから漏《も》れて参《まい》ります」
もちろんジャカンといえども、ヴァユラは、仲間の秘密《ひみつ》を、同じヴァユラ以外に語りはしないのだが、相手が、カリスウェンと目的を同じくする者ならば、別だった。
ジャカンたち、アステ・カイデのヴァユラは、カリスウェンの夢《ゆめ》の実現のためには、命をも懸《か》けるつもりでいるのだ。
ジャカンの父のジャドは、事実、その命をカリスウェンに捧げた。
「あからさまなやり口ですね」
シレルが言った。
誰の仕業《しわざ》かはわかっている。政府の密命《みつめい》で動く者たちだ。
とはいえ、普通、人質を取る場合は、相手に背後関係を覚らせないように、別の場所に隠すものだ。
「宮殿の中では、なかなか手は出せない。しかも、相手にしているのは、トバティーエだけではないのだろう」
「……とおっしゃいますと」
グラウルの言葉に、シレルが問う。
「その相手は」
「今、トバティーエたちを助けている男だ。神官だが、王族の出だとか」
「嫡流《ちゃくりゅう》だそうでございます」
ジャカンが補足《ほそく》した。
「色々と話を総合してみると、どうやら、ラクシを権力争いの道具にしようとしているようだな」
グラウル自身が、アドリエ王国では、権力争いの只中《ただなか》に身を置いていた。だから、内情も推測《すいそく》できるのだ。
「道具とは、どのような……」
シレルは、魔術師《まじゅつし》グラウルについて修行《しゅぎょう》をし、偉大《いだい》な呪術者《じゅじゅつしゃ》になることが夢だ。
呪術者として、世に出たい。
それはただの呪《まじな》い師としてではなく、以前のグラウルのように、政府の一員になったり、王家に仕《つか》えることだ。
それは野心ではあるが、かなりの呪力を持つ若者が、抱《いだ》いても不思議《ふしぎ》はないものだった。
シレルには、権力争いは、まだ他人事《ひとごと》である。
「鍵《かぎ》は、トバティーエだ」
グラウルは指摘《してき》する。
「今、このローダビア国内に広まっている噂《うわさ》があるな」
「はい。北部のローダル地方の火山の噴火《ふんか》が止まってしまったばかりか、溶岩《ようがん》の流れが、突然の土地の隆起《りゅうき》で曲《ま》げられて、二つの都市が被災《ひさい》を免《まぬか》れた、というものですね」
いかにも出来の良い生徒《せいと》らしく、シレルはスラスラと答えた。
「それは呪術によって成されたことで、行《おこ》なったのは、左右の瞳《ひとみ》の色の違う、異教徒《いきょうと》の魔術師だと……」
シレルは、淀《よど》みなく続ける。
「ただ……このローダビアでは、左右の眼の色が違うのは、“凶眼《きょうがん》”という言い伝えがある、ということで、人々はとまどっているようです」
シレルは、述《の》べ終わってから、溜《た》め息《いき》を吐《つ》いた。
「不思議な言い伝えです」
アドリエ王国の在《あ》る地方や、太陽帝国に、そのような伝承《でんしょう》はない。なぜ、ローダビアはそうなのだろうか。
だいたい、大陸の大部分の国では半神族とされるケントウリも、ここ、ローダビア公国では、忌まわしき魔族にされてしまうのだ。
下手《へた》をすると、ティーエも……
シレルは、そういう危機感《ききかん》も覚えた。
「たしかに」
グラウルは頷《うなず》いた。
「それには、深い理由があるようだが」
グラウルは、何か手掛《てが》かりを知っているのかも知れないが、今はそれに言及《げんきゅう》している場合ではない。
「それに、別の噂も広まりつつあるようです」
ジャカンが言った。
ジャカンは、とにかく、カリスウェンの協力者であり、呪術《じゅじゅつ》の師《し》でもあるグラウルの命《めい》のままに働くだけだが、ティーエたちに好感も抱《いだ》いている。
ティーエたちは、ヴァユラ出身の少年ジッダを仲間に迎《むか》え、実の弟のように愛した。
それだけでなく、ボイスたちは、戦士としても、人間としても尊敬《そんけい》に値《あたい》し、共感《きょうかん》できる。
今、ジッダは、カリスウェンの弟である、太陽帝国の第六侯《だいろっこう》、ハマン・キリルラナーのもとに居るが、キリルラナーもジッダを可愛《かわい》がっているから、何の心配もない。
ただ、ティーエたちに置いて行かれたことだけは、相当|怒《おこ》っているに違いないが。
「別の噂とは、何だ?」
「正反対、といってもいいような噂でございます」
グラウルの問いに、ジャカンは答える。
「ローダル地方の噴火を抑《おさ》えた男は、ラサ・ソグドの意に適《かな》い、その力を受けた者だ、というのでございます。左右の眼の色が違うのは、凶眼ではなく、神の意に適う印《しるし》なのだと」
「それは、怪《あや》しいな」
グラウルが、眼を細めた。
鋭《するど》い光を放っている。
「怪しい、とおっしゃいますと?」
シレルが尋《たず》ねる。
「それは、意図的に流された噂だということだ」
グラウルは断言《だんげん》した。
「意図的とは……」
シレルは、眼を輝《かがや》かせる。
師の鋭《するど》さが嬉《うれ》しいのだ。
「自然発生のものではなく、目的があって、誰かが流したのだ」
「何の目的でございますか」
「おそらく、トバティーエの呪力を利用するためだろう。あるいは……」
グラウルは、一瞬考え、続けた。
「自分に権威付《けんいづ》けをするため、か」
「その必要があるのは、もしかして……」
「まだ、はっきりは言えないが、これには、様々な企《たくら》みが入り乱れていそうだ」
「バリム・ソグド側は、そう来たか」
窓辺で、初老の男が顎《あご》に手を当てて佇《たたず》んでいる。小柄《こがら》で痩《や》せ、頭頂部《とうちょうぶ》が禿《は》げている。顎髪《あごひげ》には、少々白いものが混《ま》じり始めていた。
話をしている相手は、近くの床《ゆか》に片膝《かたひざ》を突《つ》いている、中年の男だった。
赤銅色《しゃくどういろ》の肌《はだ》に黒い髪《かみ》。
大陸でも最も多い肌色と髪の色で、容貌《ようぼう》も、どこにでも居そうな、平凡なものだった。
ただ大抵《たいてい》の人間は、この男としばらく席を共にしていると、どうにも落ち着かなくなるはずだ。
何か息苦しいような、どこか寒い日陰《ひかげ》に居るような、そんな気分に襲《おそ》われる。
この男の放つ、一種の気のようなものが、人を陰鬱《いんうつ》な気分に引きずり込むのだ。
男の名はレスドゥ。
太陽帝国で、カリスウェンを窮地《きゅうち》に追い詰《つ》め、またラクシを連れ去った、陰の機関の長《ちょう》こそ、この男だった。
立って話を聞いているのは、ロストルという、この国を実質的に動かす宰相《さいしょう》だった。
議会の無いこの国では、宰相は、有能な官僚《かんりょう》の中から、ローダビア公が任命《にんめい》する。
むろん、罷免《ひめん》も、ローダビア公の腹《はら》一つだった。
現在《いま》、判断力さえ失なった老公の摂政《せっしょう》に立っているのは、亡《な》き公妃《こうひ》の甥《おい》セノリムだが、ローダビア公家《こうけ》の血筋《ちすじ》ではないセノリムとしては、公爵《こうしゃく》の任命したロストルに対して、そう強いことの言えない立場だった。
それを良いことに、表面的には低姿勢《ていしせい》ながら、陰《かげ》で様々な画策《かくさく》をしているのである。
少なくとも、ロストルの息子は、ほんの僅《わず》かながら、公家の血を引いているのだ。
殆《ほとん》ど階級化した官僚出身のロストルは、民意ということは、あまり考えてはいない。
ロストルにとっては、ローダビア公家の存続が絶対であった。
まして、息子には、その公家を継《つ》ぐ、信じられないようなチャンスが巡《めぐ》って来ているのだから。
偶然《ぐうぜん》にも、同じ頃合《ころあい》に、レスドゥも、ジャカンと同様の報告をしていた。
政府の機関とはいいながら、レスドゥたちは、ロストルの意のままに働いている、ということになる。
「凶眼《きょうがん》の者が、大神の意に適《かな》う……とな」
「その噂《うわさ》は、急速に広まっております」
レスドゥは、恭《うやうや》しく答える。
小声ながら、なぜかロストルの耳には、はっきりと届《とど》くのだ。
考えてみれば不思議《ふしぎ》だったが、ロストルは、もう慣《な》れていた。
レスドゥのような、裏《うら》に隠《かく》れた仕事をする者が、直接|宰相《さいしょう》と話をする、などということは、本来はないのだが、ロストルは、レスドゥを重用《ちょうよう》していた。
なぜなら、ローダビア公国は、これから、後継者《こうけいしゃ》問題で混乱《こんらん》する可能性《かのうせい》があるからだ。
そのためにも、混乱に乗じた他国の干渉《かんしょう》だけは避《さ》けなければならない。
だからこそ、ローダビア公国にとって最も大きな脅威《きょうい》である、太陽帝国内に、争乱を作り出そうとしたのだった。
しかし、それはティーエたちと、渦《うず》の中心であったカリスウェンによって阻止《そし》された。
目論見《もくろみ》は失敗したが、これからも、太陽帝国や他国に弱味を見せる訳《わけ》にはいかない。
そのためには、荒《あら》っぽい手段《しゅだん》も厭《いと》えない。
「民《たみ》は、噂に流されるものでございます」
レスドゥは言う。
「ローダル地方の話もございますし、この地方も、大分危機を感じておりますから」
「シルバ王子は、それに乗じようとしておるのだな」
ロストルは、バリム・ソグドのシルバを、王子と呼んだ。
「噂を流したのは、バリム派の者たちのようでございます」
「どう利用しようというのだ」
「バリム派の権威付《けんいづ》けでございましょう」
「おまえは、シルバ王子が、ローダビア公の座《ざ》を狙《ねら》っている、と思うか?」
ロストルは、突如《とつじょ》、核心《かくしん》に関《かか》わる問いを発した。
「それとも、王座のみか」
「それは……わたくしのような者には、なんとも申し上げられません」
さすがに、レスドゥは遠慮《えんりょ》した。
象徴《しょうちょう》としての存在でしかないとはいえ、王家は王家。国民の精神的な支柱《しちゅう》として、崇敬《すうけい》を受けていることは確かなのだ。
「シルバ王子は、公爵家《こうしゃくけ》の血も引いている」
ロストルは、苦々しく唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
「父君の御母堂《ごぼどう》が、先々代公爵の姪《めい》に当たられるのだからな」
シルバの、早逝《そうせい》した父と、今の国王は、母親の違う兄弟である。シルバの父は、先王と先々代公爵の実の姪の間に生まれた唯《ただ》一人の子であった。
少なくとも、ロストルの息子よりは、公爵家に近い血筋《ちすじ》といえる。
「シルバ王子は、バリム・ソグドにあらせられます」
レスドゥは恭《うやうや》しく言った。
バリム・ソグドは特別な存在だ。
しかし、聖職者《せいしょくしゃ》なのだ。
「還俗《げんぞく》も可能だ」
ロストルは短く言った。
鋭《するど》い口調《くちょう》であった。
「そもそも、王がシルバ王子をバリム・ソグドとして会堂《ユーマラ》に送り込んだのは、王子を、油断《ゆだん》のならぬ甥《おい》だとお考えになったからだ」
ロストルは、皮肉《ひにく》な口調で続ける。
「昔から、王家の邪魔《じゃま》者を、バリム・ソグドとして、聖職に追いやって来たのだからな」
ロストルは、現国王に力を貸《か》している。
それは、王の権威を利用するためだし、王としても、宰相《さいしょう》の権力が欲しい。
お互《たが》いに必要として結び付いたのだが、ここで、新たな脅威《きょうい》が現れたのだ。
忘れかけていた、脅威が。
「シルバ王子は油断できん」
ロストルは、レスドゥを振り返った。
「ぬかりなく見張れ」
「ははっ」
レスドゥは、頭を下げた。
「隙《すき》を見せたら……」
ロストルは、立てた親指を下に向けた。
口には出さなくとも、その意味はわかっていた。
「それは、国王|陛下《へいか》の手の者たちが、既《すで》に試《こころ》みておりますし、われらも少々お手伝いをしたこともございますが、邪魔《じゃま》が入りまして」
レスドゥは顔色ひとつ変えずに言って、頭を下げた。
先日、クラ・クムでティーエたちの一行、というよりは、シルバを襲《おそ》ったのは、どうやら国王の派遣《はけん》した暗殺者と、レスドゥの部下だったという訳だ。
ただし、猿《さる》を使ったのは、クラ・クム市の者たちだろう。
クラ・クム市の人々は、ピラミッドの秘密を知ったシルバを、生きて返す訳にはいかなかったのだ。
レスドゥの言う邪魔こそ、ボイス。そして最も大きなものは、噴火《ふんか》そのものであった。
「いずれにせよ、シルバ王子は次の手を打って来るはずだ。それで、大体|腹《はら》が読めて来るだろう」
「問題は、教団の出方でございます」
教団の中心は、今のところ王とロストルに付いている。
とはいえ、安心など寸時もできないのだ。
教団こそ、自らの発展のためなら、どのような勢力とも結び付く。
そうして、今や政府をも凌《しの》ぐほどの力を手に入れたのだから、シルバを戴《いただ》くバリム派と結び付くことも、無いことではないのだ。
「確かにな」
ロストルは、顎《あご》をしごいた。
「それが一番|厄介《やっかい》だ」
先日の雨の恵《めぐ》みは、数日で失われようとしていた。
大地は、再び急速に湿気《しっけ》を失っている。
一面に広がった緑地も、あっという間に茶色味を帯《お》び始めていた。
植物は大急ぎで花を咲《さ》かせ、種を実《みの》らせる。
いつかまた、雨の降る時に備《そな》えるためだ。
その日がいつ来るのかは、わからないが。
ただ、祭りはもう目前だった。
あれ以来、ティーエはドラスウェルクに会うこともできない。
あと三日で、祭りだ。
その時、ドラスウェルクは……
だが、少なくとも傍《はた》から見た限り、ティーエは焦《あせ》ってはいないようだった。
静かに瞑想《めいそう》している。
どうするつもりなのか。
一緒《いっしょ》に居るボイスたちの方が、もどかしい。
「そろそろ、ジャカンから、何か連絡があってもいいんだけどね」
ターリスが、焦《じ》れて言った。
「何してんだろう」
いくら一行の居る場所が場所でも、ヴァユラには、何か連絡の方法があるはずだ。
「下手《へた》に連絡できないだろう」
ボイスが言う。
「なにしろ、大抵《たいてい》のものは、見張《みは》りが止《と》めるし、呪術《じゅじゅつ》も、気付かれてしまう可能性、大《だい》なんだからな」
「ヴァユラには、その網《あみ》の目を潜《くぐ》る方法があるんだよ。どんなに細《こま》かい網の目でもね」
ターリスは、ボイスの前では少々しおらしい。
自由戦士として、尊敬《そんけい》しているからだろうか。
実はターリス自身も自由戦士なのだが、陰《かげ》の仕事に就《つ》いているので、未《ま》だ誰《だれ》にも明かしてはいない。
「焦っても、仕方がないさ」
バリカイが言った。
ここのところ、組《く》んで仕事をしているので、ターリスとは相棒《あいぼう》同士という感覚だ。
「トバティーエがいるんだ。おれたちは、ただ、やるべきことをやるだけだ」
バリカイは、ニヤリと笑った。
「この命を懸けてもな」
「そうよ」
真っ先に賛同《さんどう》の声をあげたのは、マンレイドだった。
「あたしたちは、命の限《かぎ》り、できることをするのよ」
「そうだ」
ボイスが言った。
「おれたちは、力の限りにやろう」
「そうだね、命の限り」
四人の戦士は、互《たが》いの手を重ね合わせ、誓《ちか》った。
「命の限り」
日が暮《く》れる頃《ころ》、ティーエのもとに、シルバの使いが来た。
使いについて来い、というのである。
何か、いつもと違う空気を、ボイスは感じ取っていた。
コーナム市に来てからは、シルバの方がティーエの部屋を訪《たず》ねるばかりだったので、使いについて行くのは初めてだった。
何があってもティーエから離《はな》れないと、強く言ってあったので、当然、ボイスもティーエに従《したが》った。
四人でゾロゾロとついて行く訳《わけ》にもいかないので、バリカイ、マンレイド、ターリスの三人は残《のこ》った。
まさか、今、ここでティーエが襲《おそ》われることはあるまい。
少なくとも、ソグドム教団は、そのようなことはするまい。襲いたければ、機会《チャンス》はいくらでもあったのだ。
ただ、安心はし切れない。
何をするかわからない者たちがいる。
ティーエが連れて行かれたのは、会堂《ユーマラ》の礼拝室《れいはいしつ》のひとつだった。
本来、異教徒《いきょうと》は入れないはずなのだが……
ボイスは、首を捻《ひね》る。
厭《いや》な感じに襲われた。
部屋に入る時、ボイスのみを止めようとしたが、中から声が掛《か》かって、入室を許《ゆる》される。
声の主は、シルバに違いない。
入ってみると、奥《おく》の祭壇《さいだん》の前に、数人のソグドムの神官が立っており、シルバはその一人だった。
シルバは、ティーエを招《まね》いた。
ボイスは、入口の辺《あた》りで控《ひか》える。
シルバはボイスが礼儀《れいぎ》を知る者だと知っているからこそ、入室を許したのだから。
もちろん、ティーエに危険《きけん》が迫《せま》れば、礼儀も何もないが。
与《あた》えられた部屋で、顔を隠《かく》したりはしないが、部屋から外にでるので、今は、ティーエは薄布《うすぬの》を被《かぶ》っている。
シルバが手招きするままに、ティーエは布を取るのも忘れて、奥に進んだ。
「紹介《しょうかい》しましょう」
シルバは、ティーエと神官たちの双方《そうほう》に言った。
「アウル・トバティーエ。雹《ひょう》の元凶《げんきょう》です」
「あれは、わたしでは……」
ティーエは呟《つぶや》くように抗議《こうぎ》した。
「わかっている」
シルバは、声を出して笑った。
妙《みょう》に嬉《うれ》しそうだった。
わざと陽気にしている。
そんな気が、ボイスにはした。
こうして、遠くから見守ることしかできないが……
「おまえの幽魂投出《ゆうこんとうしゅつ》を見て、皆の気が乱《みだ》れただけだ」
シルバは、鹿爪《しかつめ》らしい顔に戻《もど》って言った。
一応、他の神官に遠慮《えんりょ》はしている。
とはいえ、人を喰《く》った態度《たいど》から見ても、シルバの教団内での扱《あつか》われ方が窺《うかが》い知れた。
「皆様《みなさま》は、おまえの幽魂投出を見て、呪力《じゅりょく》の強さに、すぐに気付かれた」
シルバは、改めて、神官たちを示した。
「会堂総長《ユーマラそうちょう》のベルクカルさま、他の宗教《しゅうきょう》で言うなら、神官長か大祭司《だいさいし》というところだな」
ベルクカルという神官は、かなりの老人で、頭はすっかり禿《は》げ、顎《あご》に白い鬚《ひげ》を蓄《たくわ》えていた。
髪《かみ》を切ってはいけないという戒律《かいりつ》のあるソグドムの神官でも、抜けるものは仕方がないのだ。
要は、髪に必要以上の手を入れるな、ということである。
ソグドム教では、髪は、神と交信する、ひとつの道具だということになっているのだ。
シルバの場合は、明らかに戒律|違反《いはん》だが、その特別な身分から、大目に見られているのだった。
「会堂総長代理のサドゥー殿。次席祭司だろう」
次の男は、会堂総長よりは十|歳《さい》ほど若《わか》く見え、小太りだった。頭頂部《とうちょうぶ》が禿げ、周《まわ》りの髪が長いというのも、どこかおかしい感じがする。
その髪も、殆《ほとん》ど白かった。
「会衆長《かいしゅうちょう》のマゼナルド殿《どの》。まあ、同じような地位だ」
マゼナルドも、サドゥーと同じぐらいの年齢《ねんれい》で、体格が良かった。
あと四人の神官が居たが、シルバは紹介《しょうかい》しなかった。
この三人の高位の神官の供なのだろう。
年の頃《ころ》はまちまちだった。
ソグドムの神官の地位は、年功序列《ねんこうじょれつ》ではない。
「トバティーエ」
シルバは改《あらた》めて言う。
「この方々に、眼《め》をお見せしてくれ」
言葉|遣《づか》いは違っても、シルバは態度を使い分けはしなかった。
「はい」
いつものように素直《すなお》に、ティーエは従った。
「おお……」
「あっ……」
どよめきが起こる。
礼拝室《れいはいしつ》に入って来た時から、何人かは、ティーエの放つオーラの、信じられないほどの輝きに気付いていた。
とはいえ、その眼は、予想していたとはいえ、あまりにも美しく、印象的過ぎた。
それは宝石《ほうせき》よりも更《さら》に輝いている。
おのずと引き込まれた。
凶眼《きょうがん》などという噂《うわさ》も、忘れ去っていた。
三人は、しばしその眼を見詰《みつ》めた。
「おわかりでしょう」
シルバが言った。
「トバティーエの眼が、凶眼などではないことを。かれが、どれほど清浄《せいじょう》かを、この眼が示していることを」
「確かに」
ようやく我に返り、ベルクカルが頷《うなず》いた。
「清らかなお方《かた》だ」
ベルクカルは、お方と言った。
ティーエの生まれについての情報は得ているかもしれないが、異教徒《いきょうと》で、しかも平民である相手に対する態度《たいど》としては、極《きわ》めて異例《いれい》だろう。
「認めよう」
ベルクカルは、シルバに向かって言った。
どういう意味か。
「特例だが、ふさわしいお方だ」
ベルクカルは、ティーエに向かって恭《うやうや》しく頭を下げた。
「大神も、さぞやお喜びになるだろう」
「わたしが……何か……」
ティーエは、ぼんやりとした口調《くちょう》で問う。
この人々が自分に悪意を抱《いだ》いてはいない、ということはわかったが、話している内容は理解できなかった。
「取り引きだ」
シルバは、また皮肉《ひにく》な笑みを浮かべる。
どこか、自嘲《じちょう》するような色がある。
「おまえは、ラクシを取り戻したいだろう」
考えてみれば、ティーエの強大な呪力があれば、力ずくでラクシを取り戻すことも可能なのだが。
もちろん、ソグドム教団が全力で阻止《そし》することになると、大変なことにはなる。
「そして、ドラスウェルクを、生贄《いけにえ》にはしたくない」
シルバは、ティーエの顔を見たが、視線《しせん》のみは、微妙《びみょう》に逸《そ》らした。
「はい」
ティーエは、コックリと頷《うなず》く。
全く邪気《じゃき》がない。
相変わらず、こういう所は、まるで素直《すなお》な子供だ。
「だから、取り引きだ」
シルバは、一息|吐《つ》いてから続ける。
「ドラスウェルクとラクシは、自由の身にする」
「本当ですか」
ティーエは、単純に喜んだ。
「ただ、おまえに頼《たの》みがある。それを受けてくれれば、ということだ」
「何でしょう」
ティーエは、御褒美《ごほうび》をもらう子供のような表情《かお》で問う。
「ドラスウェルクと、代わってほしい、ということだ」
「代わる……」
ティーエは、まだきょとんとした顔だ。
「つまり……」
さすがに、シルバは言い難そうだった。
「おまえが、ドラスウェルクの身代わりに、生贄《いけにえ》の儀式《ぎしき》に出るのだ」
その言葉に、ボイスは跳び上がった。
「何ということをっ」
大声だけは、なんとか抑《おさ》えた。
いくらティーエがお人好しでも、まさか受けることはあるまい。
ティーエには、大きな使命があるのだから。
「はあ、そうですか」
生贄と聞いても、ティーエの反応は同じだった。
「皆が認めたのだ。この危機《きき》の時、ラサ・ソグドの御元《みもと》に行くのに、最もふさわしいのは、おまえだ、と。これは、宗教をも越えたものだ。なぜなら、今は、大陸全体の危機だからだ」
珍《めずら》しく、シルバは熱弁《ねつべん》をふるう。
「そうではないか」
「はい、そうです」
ティーエはすぐさま認める。
「おまえの相は“世界の相”だな。世界を救う者の相だと、おまえは言った」
「はい」
ティーエは、大きく頷《うなず》く。
「では……ラサ・ソグドの御元に行って、世界を救ってくれ」
「わかりました」
ティーエの返事に、ボイスは再び跳び上がった。
「いけないっ」
さすがに叫ぶ。
「なんということをっ」
「黙《だま》っておれっ」
シルバは一喝《いっかつ》した。
「立場をわきまえろ」
ボイスは、唇《くちびる》を噛《か》み、わなないた。
まさか、ティーエが受けるなどとは……
「いいのだな」
シルバは念を押す。
「はい」
ティーエは、はっきりと言った。
「ただ、約束《やくそく》を守ってください」
「いいだろう」
シルバは、他の神官たちの顔を見回してから、認めた。
「なるべく早くお願いします」
「では、今すぐに」
シルバは、供の神官の一人に合図する。
その男は、すぐに部屋を出て行った。
ほどなく、ボイスが居る方ではない別の入口から、何人かの人物が入って来た。
さきほどの神官と、警備《けいび》の兵《へい》に挟《はさ》まれているのは、ラクシとドラスウェルクだった。
「ティーッ」
「トバティーエッ」
二人は、ティーエに駆《か》け寄《よ》った。
「だめだ、だめだよ」
ドラスウェルクは、泣いていた、
「さっきから、あなたの聲《こえ》は聞こえていました」
ティーエは、ドラスウェルクの手を取った。
「全《すべ》て、わかっているのです」
「だめだよっ」
ドラスウェルクは泣きじゃくる。
「きみを犠牲《ぎせい》にしてまで、生きたくない」
「いいのですね」
ベルクカルが念を押した。
「それで、いいのですね」
「はい」
ティーエは、深々と頷《うなず》いた。
3
部屋に戻《もど》るまで、誰《だれ》も口をきかなかった。
部屋に戻り、マンレイドの姿を認めると、ラクシは何もかも忘れて、マンレイドに飛び付いた。
「マンレイド」
ラクシは、マンレイドにしがみ付く。
「生きていたんだね」
「あたしが、死ぬはずないでしょ」
マンレイドは、ラクシを受け止めた。
「絶対死なないわ。赤ちゃんのためにも」
「無事なんだね」
ラクシは泣きじゃくった。
「無事なんだね」
ドラスウェルクとラクシの姿を見て、皆は喜んだが、ティーエたち、いや、ティーエ以外の三人を包《つつ》む、重く暗《くら》い空気に、とまどった。
何か、悪いことが起こったのか。
「どうなってんの?」
皆が一息ついてから、ラクシが尋《たず》ねた。
あれ以来、ティーエとドラスウェルクは、口をきいていない。
「何がだめなの。おれには、ちっともわからないよ」
「ティーエは……」
ボイスは、重い口を開いた。
「ドラスウェルクの身代《みが》わりに、生贄《いけにえ》になるというんだ」
「生贄……」
ティーエ、ボイス、ドラスウェルク以外の全員が、しばらく口を開けたまま、黙《だま》った。
意味を理解するのに、かなりの時間を要《よう》したのだ。
「いけにえっ!」
突然《とつぜん》、ラクシが叫《さけ》んだ。
「いけにえって……殺されるんじゃないかっ」
「そういうことに、なりますね」
ティーエは、あっさりと認《みと》める。
「ぼくが、そんなことさせないっ」
ドラスウェルクが言う。
「ぼくの身代わりだなんて……そんなのっ」
ドラスウェルクは、戸口に向かう。
「ぼく、交渉《こうしょう》して来るっ」
「待ってください」
ティーエは、ドラスウェルクを止める。
「わたしは、初めから、そうするつもりだったんですよ」
「初めから………」
今度は、ボイスが驚《おどろ》いた。
初めから、ドラスウェルクの身代わりになるつもりだったというのか。
では、使命はどうなるのだ。
「これが、使命を果たす方法なんですよ」
ティーエは、ボイスに向かって微笑《ほほえ》んだ。
ボイスの心の叫びが届いていたのだ。
「どういうことだ?」
ボイスは、珍しく激しい調子で問う。
「生贄になって死ぬことが、使命を果たすことなのかっ」
ボイスは、怒《いか》りすら覚えていた。
ボイスが身体《からだ》を張ってティーエを守って来たのは、他人の身代わりになって殺されるためではない。
むろん、そんなことを黙認《もくにん》する気もないが。
「わたしは、生贄には立ちますが、死にません」
ティーエは、笑いながら言った。
既《すで》に日が暮《く》れ、室内は薄暗《うすぐら》かったのだが、突然、雲が切れて天から光が差《さ》して来たように、辺《あた》りが明るく感じられた。
「死なない……」
皆が、呟《つぶや》き、互《たが》いに顔を見合わせる。
ティーエは、何を言っているのか。
何をしようとしているのか。
「わたしは、ピラミッドの力を使いたいのです」
ティーエは言う。
「ソグドム教で、ピラミッドに登ることができるのは、生贄と、儀式《ぎしき》を行なう人たちだけですから」
「あの男は……本当に生贄役を引き受けたのですか?」
問うたのは、会堂総長《ユーマラそうちょう》のベルクカルだった。
今だに、狐《きつね》につままれたような心持ちなのである。
シルバと、三人の高位の神官たちは、別室で一休みしているところだった。
一休み……
それは表面だけで、裏《うら》では未《ま》だ、火花の散《ち》るような暗闘《あんとう》が終わった訳《わけ》ではなかったが。
「案外《あんがい》、すんなりと、ね」
シルバが言った。
「もう少し手こずると思いましたが」
「あのお方は……」
サドゥーが言う。
「どうして、身代わりを、あれほどにもあっさりと引き受けられたのでしょう」
ゆったりとした椅子《いす》に座《すわ》り、サドゥーたちが飲んでいるのは、野草から作った茶《ちゃ》であった。
しかし、シルバが口にしているものは違う。
ベルクカルは平気だったが、マゼナルドなどは、顔を顰《しか》めていた。
もっとも、シルバには見えないように、横を向いてだったが。
シルバは、わかっていたが、気にかけもしなかった。
シルバにとっては、ある意味、勝利の美酒であった。
そのわりには、心から喜んでもいないようだったが。
「あの娘《むすめ》と、ヘルルダルのドラスウェルクが、よほど大切なのでしょうね」
シルバは寛《くつろ》いで座っていたが、さすがに、育ちのせいか、端然《たんぜん》としている。
「愛する者のためならば、喜んで命を棄《す》てる、我々《われわれ》には、有《あ》り得《え》ないことですね」
シルバの口調は、皮肉《ひにく》なものだった。
「それだけとも……思われないが……」
「理由は、問題ではないでしょう」
シルバは言う。
「要は、儀式《ぎしき》が滞《とどこお》りなく行なわれ、民衆《みんしゅう》を納得《なっとく》させればいいのです」
シルバは、身を乗り出して続けた。
「ここのところの災害《さいがい》で、民衆は大きな不安を抱《いだ》いている。教団の権威《けんい》すら、揺《ゆ》らぎ始めているのは、皆さん御存知《ごぞんじ》の通りです」
「確かに……」
ソグドム教の人々は、それをひしひしと感じ取っていた。
人々は思っているようだ。
ソグドム、つまりラサ・ソグドに仕《つか》える神官たちが、いくら祈《いの》っても、天候不順《てんこうふじゅん》は続き、あちらこちらで天災が起きている。
それは止《や》むどころか、年々増えているではないか。
何故《なぜ》だ……と。
教団に、欠陥《けっかん》があるのか。
何故、大神は、ローダビア公国を見棄《みす》てようとするのか。
ローダビア公は、後継者《こうけいしゃ》を決めないままに、この世を去《さ》ろうとしている。
教団が、何か、大神の怒《いか》りを買うようなことをしたのではないか……
人々は、天災は、ラサ・ソグドの怒りと受け止めている。
教団の方でも、そう説いているのだ。
「今、必要なのは、大神が最《もっと》もお喜びになる捧《ささ》げ物、ですね」
同じソグドム教の神官でありながら、シルバの口調は、どこか他人《ひと》事のようだった。
それも、無理のない話ではある。
バリム・ソグドは、地位だけは最高に近いが、実権《じっけん》は殆《ほとん》どない。象徴《しょうちょう》でしかないのだ。
「あの男以上の適任者《てきにんしゃ》は、有り得ない」
シルバは、一人続ける。
「大神に捧げられる者は、大祭の前日の儀式で、何か奇跡《きせき》を起こさなければならない。あの男なら、必ず、何か派手《はで》なことができるでしょう」
「ドラちゃんから聞いたのですが」
ティーエの律儀《りちぎ》な口調で、ドラちゃんなどと言うと、どこかそぐわないが、もちろん、笑う者は一人もいない。
「大祭の生贄《いけにえ》の儀式は、二日に亘《わた》って行なわれるのだそうです」
「うん」
ドラスウェルクが説明する。
「前の日、ヘルルダルは、ピラミッドの上で、何か奇跡を起こして見せなくちゃいけないんだよ」
「奇跡って?」
ラクシが問う。
ドラスウェルクもラクシも、ティーエの説明を聞き始めて、大分落ち着いて来た。
ティーエが、生贄になっても、おめおめと殺されるつもりなどない、ということが解《わか》って来たからである。
「何でもいいんだけど、見ている人に、はっきりとわかるようなことだね。雨を降らせるとか、風を吹《ふ》かせるとか、花を咲《さ》かせるとか……」
「皆《みん》な、それができるの?」
「なかには、できないやつもいたかもしれないけど、その時は、教団の誰《だれ》かが、陰《かげ》でやれば済《す》むから」
ドラスウェルクは、肩を竦《すく》めた。
「その時にわたしは、ピラミッドの力を借《か》りて、大陸じゅうの、呪力《じゅりょく》や霊視《れいし》の力を持つ人々に連絡を取るつもりです」
「連絡……」
ドラスウェルクは、ティーエが、クラ・クム市のピラミッドで、地流に乗ることを会得《えとく》したのを、知らない。
知っているのは、シルバのみだ。
「ピラミッドの力を借りれば、地流に乗って、大陸じゅうに意識を飛ばすことが可能なのです」
「ピラミッドの、力……」
ドラスウェルクすら、気付いていないことだった。
「そして、待機してもらいます」
「何のため?」
ラクシが訊《き》いた。
「大陸を救《すく》うのです」
皆が首を傾《かし》げた。
ティーエの言うことは、さっぱり解らない。
「どうやって……」
「それは、祈《いの》りです」
ティーエは、突然《とつぜん》、外に顔を向けた。
いつものことだが、日暮《ひぐ》れ時には、蝙蝠《こうもり》が多く飛ぶ。だが、今日は妙《みょう》に沢山《たくさん》集まっているように見えた。
昔《むかし》よりは少ない、と、食事などを運んで来る係の、下級の神官が言っていた。
年寄《としよ》りの話では、昔は空を覆《おお》うほどに蝙蝠がいたという。
蝙蝠は、主として虫などを捕《とら》えて食べる。
農地では、重要な益獣《えきじゅう》でもある。
それが、ここのところ、めっきり減《へ》ってしまったという話だった。
つまりは、餌《えさ》となる虫が減ったからである。
虫は、葉などを食べて増える。
根本的な原因は、旱魃《かんばつ》で農地ばかりでなく、緑そのものが激減《げきげん》しているからだった。
それでも、庭の多いこのソグドムの施設《しせつ》は、虫が多かった。
だから、この部屋も、日が暮れると、布製の網戸《あみど》を引く。
外に灯《あか》りがあるので、庭の景色は見えるが、虫も蝙蝠も、入っては来られないようになっていた。
ティーエは立ち上がり、その網戸を開けて、一匹《いっぴき》の蝙蝠を入れた。
その一頭だけが、まるで招待《しょうたい》を受けたもののように入って来た。
ティーエは、蝙蝠に向かって頭を下げる。
蝙蝠は、天井《てんじょう》近くの梁《はり》に留《と》まった。
もちろん逆さまだ。
「グラウル様です」
ティーエは言った。
「グラウル様の、使い魔《ま》です」
グラウルが蝙蝠を使い魔にしていることは、バリカイも知っていた。
「グラウル様は、コーナムに?」
ターリスが問う。
ターリスも、グラウルとは面識《めんしき》があった。
ヴァユラに命を救われ、育てられたと語るように、グラウルは、ヴァユラの人々には優《やさ》しかった。
「はい」
ティーエは頷《うなず》いた。
「数日前から、入っておいでだそうです」
他の者には、よくわからなかったが、蝙蝠は、ティーエに向かって何か語っているのだった。
ほどなく、蝙蝠は、ティーエの開けた網戸から出て行った。
「これで、だいたい済《す》みました」
蝙蝠の行方《ゆくえ》を見届《みとど》け、ティーエは、ほっと大きく息《いき》を吐《つ》いた。
「何が……済んだの?」
ラクシが訊く。
「準備……、でしょうか」
「準備……」
「大陸を救う、準備です」
ティーエは、噛みしめるように言った。
「ただ、ひとつを除《のぞ》いてですが」
「ただひとつとは、何だ?」
ボイスが尋《たず》ねた。
「ケントウリですよ」
ティーエは言った。
「ケントウリ……」
ケントウリ族について、皆、様々な言い伝えや、神話を聞かされて育ったが、実際にその姿を見た者は一人もいない。
なにしろ、千年もの昔に、姿を消してしまったというのだから。
唯《ただ》一人、ティーエ以外は……
「でも、かれらも、ちゃんと連絡を取ってくれるでしょう」
「ちゃんと……」
さすがに、その辺りになると、ボイスたちの想像を超《こ》える。
ケントウリは、幻《まぼろし》の半神族だ。
「ケントウリは、予言《よげん》に優《すぐ》れた人々。きっと、今のことを予見していたのだと、わたしは思います」
ティーエは、遠くを見る眼《め》をして言った。
その先に浮かんでいるのは、十七の歳《とし》まで育った、故郷《こきょう》ともいうべき、ラテルの山か。
ラテル山中で長い眠りに就《つ》いていたケントウリ族たちは、もう覚醒《かくせい》しているだろうか。
「もう、止められないんだね」
夕食の後、一人中庭に出ていたラクシを捜《さが》して、ティーエがやって来た。
振り向かなかったが、ラクシには、背中の感覚だけで、ティーエだとわかった。
「儀式《ぎしき》のことですね」
ティーエは、生贄《いけにえ》という言葉を敢《あ》えて避《さ》けた。
ラクシが、心配していることを知っているからだ。
少女の胸《むね》は、もう張り裂《さ》けんばかりなのだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》です」
慰《なぐさ》めるように、ティーエは言う。
「これは、わたしの正念場《しょうねんば》ですから、必ずうまくやりますよ」
「そうだろうとは思うけど……」
ラクシは、もう抑《おさ》え切れなかった。
「心配だよっ」
迸《ほとばし》るように言った。
「心配なんだよっ」
“心配なのっ、愛しているのっ”
ティーエには、そう聴こえた。
ラクシは堪《たま》らずに、身を屈《かが》め、両手で顔を押さえた。
もう、とめどなく涙が溢《あふ》れ出していたのだ。
「ラクシ……」
ティーエは歩み寄る。
“死なないで……死なないで……”
ティーエに聴こえるのは、ラクシの心の聲《こえ》だ。
“お願い、死なないでっ”
ティーエは、後ろから、ラクシを抱《だ》いた。
花のような匂《にお》いがした。
ラテルの山に咲《さ》く、優《やさ》しい白い花に似《に》ていた。
「ラクシ……」
ティーエは、ラクシの耳朶《みみたぶ》に唇《くちびる》を付けた。
「心配しないで……」
「だって……だって……」
「わたしは、死んだりしません」
ティーエは、ラクシと頬《ほお》を重ねた。
「死にませんよ」
もちろん、命を懸けるつもりでいる。
大陸を救うという、大仕事のためなのだ、覚悟《かくご》はとうにできている。
だが、どうしても生きたい、と思った。
ラクシを悲しませないために。
ティーエが死んだら、ラクシは悲しみのどん底《ぞこ》に突《つ》き落とされる。
ラクシのことだから、いつかは立ち直るだろうが……
生きたい。
ラクシと一緒《いっしょ》に。
ラクシからは、切《せつ》ない想《おも》いと、ティーエの身を案《あん》じる哀《かな》しみばかりが、強く伝わって来る。
精一杯《せいいっぱい》の愛が伝わって来る。
ティーエが、ひとと触《ふ》れ合うことを避《さ》けるのは、心の強い叫《さけ》びだけでなく、混沌《こんとん》とした心の奥底の、ドロドロと溜《た》まった澱《おり》のようなものまでが伝わって来ることがあって、時として耐《た》えられないせいなのだが、ラクシには、それがない。
もちろん、胸《むね》の底の方で、母や、病弱な兄、そして貧《まず》しい故国《ここく》を棄《す》てて来たことへの罪《つみ》の意識《いしき》などがあるのだが、それはラクシの優しさ故《ゆえ》なのだ。
アステ・カイデに居たある時期、カリスウェンに憧《あこが》れていた頃《ころ》は、ラクシの心も大きく揺《ゆ》れ動いて、ティーエもとまどったが、今のラクシには、そういうものは、全《まった》くない。
ティーエは、ラクシを自分の方に向かせた。
ティーエの身の上への不安で震《ふる》える心が、愛《いと》おしかった。
ただ、愛おしかった。
ティーエは、ラクシを抱《だ》き締《し》めた。
互《たが》いの唇が、引き寄せられるように重なった。
とまどい……
そして歓喜《かんき》。
互いの心が、ひとつに融け合う。
白い光が、二人を包《つつ》んだ。
庭じゅうの木々が突如《とつじょ》、伸び始め、蕾《つぼみ》をつけ、そして咲いた。
コーナム市の畑は、緑が勢いを増し、砂漠《さばく》には雨が静かに降り、諍《いさか》いをしていた人々はそれを止《や》め、全《すべ》ての人々が幸福《しあわせ》を感じた。
「明日、どうなるのかしら」
庭園の二人を眺《なが》めながら、マンレイドは、寄《よ》り添《そ》うボイスに言った。
「ティーエには、勝算《しょうさん》があるはずだ」
突然ティーエが、生贄《いけにえ》の身代わりを申し出たことに驚《おどろ》きはしたものの、今では、ボイスはそれを信じている。
今のティーエは、出会った頃《ころ》のティーエではない。
今のティーエからは、揺《ゆ》るぎのない、何かを感じる。
それは、大陸を災厄《さいやく》から救《すく》う方法を見出《みいだ》し、確信《かくしん》したことによるものなのだ。
そう信じる。
「おれは、あいつを信じる」
「あたしは、あの二人を、守ってあげたいわ」
マンレイドは、これ迄《まで》、ただ、ボイスについて来たのではない。この、どうしようもなく心がきれいで、不器用《ぶきよう》な二人を、守ってやりたいという思いも強かったのだ。
もちろん、ティーエは強大な呪力《じゅりょく》を持ち、ラクシも、戦闘《せんとう》能力においては、マンレイドに劣《おと》ることはない。
だが……二人はなんとも生きることに不器用で、放《ほう》ってはおかれなかった。
ボイスは、後ろからマンレイドを抱《だ》いた。
「二人は、おれが守る。だから……」
ボイスの口調は、これ迄にないほど優しく感じられた。
「だから、きみは、この子を……」
ボイスは、その手を、まるで壊《こわ》れ物に触《ふ》れるように、そっとマンレイドの腹部《ふくぶ》に添《そ》えた。
「必ず、この子を守ってくれ」
普通《ふつう》ならば、大神の生贄となるヘルルダルは、儀式《ぎしき》の数日前から清浄潔斎《せいじょうけっさい》に入り、外界との接触《せっしょく》を断《た》つが、ティーエの場合は、それを求められることはなかった。
もう日程《にってい》の余裕《よゆう》がないということが、最も大きな理由だが、ティーエの力が特別である上に、本来清らかであることは、オーラが証明しているのだから。
ティーエは、仲間と一日を過ごし、次の朝に出て行った。
一日目の儀式である。
生贄は、いくつかの潔斎の儀式を経《へ》、午《ひる》近くには、ピラミッドに登る。
ピラミッドには、早朝から大勢の人々が集まって来ていた。
生贄の起こす奇跡《きせき》を見るためである。
最高の霊視《れいし》の力――つまり呪力を持つ、美しい者。
それこそが、大神ラサ・ソグドへの使者たる資格を持つのだ。
生贄は、自らの資格を、人々の前で証明しなければならない。
もちろん、市民たちは、今度の生贄が、これ迄のヘルルダルとは違うという話は聞いている。
どうやら、その生贄こそが、いわゆる凶眼《きょうがん》の持ち主らしい、ということも。
だからこそ、余計に見たいのだ。
日が高く昇る前から、ピラミッドの周《まわ》りは、かつてないほどの大勢の人々で埋《う》め尽《つ》くされた。
それは、コーナムの市民ばかりではない。
祭りとあって、周辺の都市や村から、大勢の人々が見物にやって来ているし、商人たちも、大挙《たいきょ》して、各国から訪《おとず》れて来ているのだ。
人々は噂《うわさ》で知っていた。
今度の生贄が、どれほど美しく、特別な存在か。
凶眼というのが、本当だったら……
少し怖《こわ》くはあったが、大勢が集まるのだ、凶眼に睨《にら》まれる確率《かくりつ》は少ないし、その恐怖《きょうふ》すらも、魅力《みりょく》のひとつだった。
その眼は、世にも美しいという。
そんな瞳《ひとみ》に、見詰《みつ》められたら……
街《まち》じゅうが、祭りの特別な気分に包《つつ》まれていた。
ピラミッドの周辺には、屋台店《やたいみせ》なども出ている。
遊び気分ではないが、やはり、ハレの日なのだ。
もちろん、集まった人々は、持っている物の中で、最も良い服を着ていた。
華《はな》やかでありながら、決して陽気ではない。
“世界を救《すく》ってほしい”
人々の切実な願いが詰《つ》まっている。
不思議《ふしぎ》な祭りだった。
日は、高く昇った。
もう、広場のピラミッドに近い辺《あた》りは、群集で立錐《りっすい》の余地《よち》もないほどだった。
頃合も頃合なので、人々は弁当など食べながら、その時を待っている。
当然ながら、女も子供も、年寄りも、皆、等しく、神への祈りを共有しようとしていた。
やがて、黒い装束《しょうぞく》の者たちが、整然《せいぜん》と隊列《たいれつ》を組《く》んで現れた。
ソグドムの神官と巫女《みこ》たちであった。
神官たちと違って、巫女たちは、髪《かみ》をきれいに手入れしている。
もちろん、鋏《はさみ》を入れないのは、同じだが。
神官たちの列の後ろには、楽隊《がくたい》が続いた。
奏《かな》でているのは、荘厳《そうごん》な宗教曲である。
ドラスウェルクは出て来なかったが、ボイスたちは、最前列に近い所に席を与えられていた。
近くにシルバが座《すわ》っているところを見ると、他《ほか》ならぬシルバの計《はか》らいなのだろう。
もちろん、シルバの席は特別なものである。
ボイスもラクシも、あまりシルバを見なかった。
もしも眼《め》が合ったら、濃《こ》い非難《ひなん》の色を浮かべることになるだろうから。
いくらティーエの力を知っていても、ラクシは心の内で、後から後から湧《わ》き起《お》こって来る不安を抑《おさ》えることはできなかった。
今日はまだしも、明日、ティーエは本当に殺されるようなことにならないだろうか。
何かで、ティーエの力を封印《ふういん》されるようなことがあったら。
あるいは、また、ラクシたちの命と引き替《か》えにされたら……
それを思うと、居ても立ってもいられないのだ。
今だに、ラクシもドラスウェルクも、シルバの手の内なのだから。
それでもまだ、昨日《きのう》のシルバの発言を知らないだけ、ラクシの心は平安だった。
昨日、シルバが、高位の神官ベルクカルたちに言った言葉である。
シルバは、ベルクカルたちと色々|協議《きょうぎ》していた。
今は、生贄《いけにえ》の儀式《ぎしき》を成功させるということで、双方《そうほう》の利害《りがい》は結び付いていた。
シルバの利益《りえき》は、教団に恩《おん》を売り、その重要性を増すことだけではない。
現国王と教団の関係を断《た》ち切らせ、教団の国政への関与《かんよ》の力を強くすることも重要だ。
むろん、教団の中心には、シルバがいる。
シルバの野心は、そこで一歩進むのだ。
人々が納得《なっとく》し、教団の信頼《しんらい》が回復するような生贄を大神に捧《ささ》げる。
それが、必要不可欠である。
神には、最《もっと》も価値《かち》のあるものを供《そな》えるものだ。
「とはいえ、あの男は、恐《おそ》るべき呪力《じゅりょく》を持っているのでしょう」
会堂総長《ユーマラそうちょう》代理のサドゥーが言った。
「当然でしょう」
シルバは、誇らし気に言う。
「火山の噴火《ふんか》を抑《おさ》えたのは、わたしがこの眼《め》で見届《みとど》けました」
あの時、ティーエは、シルバの姉《あね》リマラの助言《じょげん》によって、火口から流れ出た火砕流の方向を変える呪術《じゅじゅつ》を行なったのだが、結局、それに岩や灰の精霊《ストラ》たちが呼応《こおう》して、噴火そのものも収《おさ》まったのだった。
むろん、噴火のエネルギーそのものが消滅《しょうめつ》した訳《わけ》ではないから、近いうちの再噴火も有り得《う》るのだが。
「あの男の呪力は、わたしが保証《ほしょう》しますが、皆さんも、お気付きでしょう」
シルバは、三人の顔色を盗《ぬす》み見た。
「あの男が、易々《やすやす》と幽魂投出《ゆうこんとうしゅつ》をすることが」
シルバは、自らの呪力を隠《かく》している。
周《まわ》りに、多少感付かれていることは知っているが、当分は、シラを切り通すつもりだ。
呪力のある者は、王や公爵《こうしゃく》にふさわしくない、神官にというのが、伝統《でんとう》的な考え方である。
ただ、危機《きき》的な状況《じょうきょう》に於《おい》ては、その限りではあるまい。
三人は、どこか不快《ふかい》そうな色を見せた。
無理もない。
ティーエの突然の幽魂投出に乱《みだ》れてしまった、雨乞《あまご》いの儀式を主導《しゅどう》していたのは、この三人だったのだから。
呪術が乱れてしまったために、雨ならぬ雹《ひょう》を降らせてしまったのだ。
そんな事があったのに、ティーエとドラスウェルクは、再会の喜びだけで、ちゃんとした雨を降らせた。
面目丸潰《めんぼくまるつぶ》れだったからだ。
「しかし……それほどの呪力を持つ者が、本当におとなしく生贄になるものでしょうか」
サドゥーの疑念《ぎねん》は、そこにあるのだ。
ティーエには、大神ラサ・ソグドへの強い信仰《しんこう》がある訳ではない。いざという時に、否《いや》だ、と言って騒《さわ》ぎ出したら、どうなるのか。
強い呪力があればあるほど、ソグドムの神官たちには、抑えられなくなる。
「突然《とつぜん》、気が変わったら」
「そうさせない方法が、あるでしょう」
シルバは、あっさりと言った。
「方法……」
三人は首を傾《かし》げる。
「方法とは、どういう……」
サドゥーが問う。
「呪王の樹を使えばいいのです」
「呪王《じゅおう》の樹《き》!」
「じゅっ……じゅおっ……」
「呪王の樹を用《もち》いると……」
三人は、天を仰《あお》がんばかりに驚《おどろ》いた。
“呪王の樹”とは、神官や呪術者の使う香《こう》のひとつである。
秘伝《ひでん》のもので、神官といえども、知らぬ者が多い。
三人は、さすがに知っていた。
「呪王の樹を使えと言われるのか」
ベルクカルは、声を潜《ひそ》める。
声を潜めずにはいられないのだ。
“呪王の樹”は、特別な香だった。
その香を用いれば、ひとを催眠状態《さいみんじょうたい》にして操《あやつ》ることができるし、呪術者が自ら使用すれば、呪力を飛躍《ひやく》的に高めることができるといわれる。
だが、“呪王の樹”は、用いてはならない秘法であった。
かなり副作用《ふくさよう》も強く、用いること自体が邪道《じゃどう》と規定《きてい》されているからだ。
「相手が相手なのだから、仕方がないでしょう」
シルバは言い放った。
「もちろん、皆の力で抑えられるのならば、そのようなものは必要はありませんが」
シルバに言われなくても、三人にはわかっていた。“呪王の樹”でティーエを催眠術にかけ、自ら生贄《いけにえ》の台に登らせる。
ベルクカルは“呪王の樹”の調合を密《ひそ》かに指示している。
使うようなことにならないことを願うのみだ。
ピラミッドは、太陽帝国やアドリエ王国などに在《あ》る正四角|錐《すい》のものとは違った、階段《かいだん》状である。
ソグドム教のピラミッドは、全《すべ》てそうだった。
一段が数メートルの高さの四角い台形のものを、上が少しずつ小さくなるように積《つ》み上げた形式で、正面のみの中央部に、人が登れる小刻《こきざ》みの階段がついている。
楽の音にのり、うら若い巫女《みこ》たちが、花籠《はなかご》に盛《も》った花を、その階段に撒《ま》いてゆく。
ピラミッドに登ることが許《ゆる》されるのは、こうした役目に選《えら》ばれた、一部の聖職者《せいしょくしゃ》のみである。
ピラミッドの下に、大勢の神官や巫女たちが整列し、祝詞《のりと》を唱《とな》え始める。
音楽は、美しいながら、更《さら》に荘厳《そうごん》になった。
若い神官たちが、香炉《こうろ》を両手に捧《ささ》げ持って、ピラミッドの周りをゆっくりと回る。
香りは、集まった人々の間にも広がって行った。
群集はもうとうに一万や二万人ではきかないほどに脹《ふく》れあがっている。
その中に、グラウルたちも混《ま》じっていた。
ジャカンが手下の者を使って場所取りをさせたので、ピラミッドにほど近い、ティーエを見守るのには絶好の位置だった。
外国人の異教徒《いきょうと》だと知っても、誰《だれ》も嫌《いや》がらなかった。
ソグドム教の祭りではあっても、昔から、外国人の見物客を受け入れ、また、その数も多かったのだろう。
かえって、ソグドム教に感化しようという狙《ねら》いがあったのかもしれない。
さすがに、不思議《ふしぎ》な空気を纏《まと》うグラウルは、人々の中で目立っていた。
もちろん、グラウルもジャカンもシレルも、普通《ふつう》の商人という恰好《かっこう》をしている。
今日は下見の心づもりだった。
問題は明日だ。
「ティーエさんは、明日何をしようというのでしょう」
シレルは、師に小声で問う。
「まだわからん」
グラウルは応《おう》じた。
「ただ、必ずその時にここに居て、協力をせねばならぬ」
「わかれば、わたくし共《ども》も、もう少し準備《じゅんび》をすることができるのでございますが」
ジャカンが、残念そうに言った。
「準備など必要のないことだろう……いや」
グラウルは、ふと気付いて言った。
「呪力のある仲間を集めておくと、良いかもしれぬ」
「呪力、でございますか」
「そうだ、弱くてもかまわぬ」
「はい」
「呪力があってもなくても、なるべく多くの仲間を、都市の外でもいいから集めておけ。ピラミッドの見える場所にな」
このピラミッドは、確かにコーナム市の外からも見えるし、ヴァユラたちを大勢集めるとなると、市内では少々|難《むずか》しい。だが、都市の外なら……
「星《セイタ》神殿の計算だと、明日が、エネリオンが大陸に最も接近《せっきん》する日のはずだ」
「そうで……そうでしたね」
シレルも、グラウルと共に、星神殿で、大陸の災害《さいがい》や天文《てんもん》の研究をして来た。
全《すべ》て、大陸を災厄《さいやく》から救《すく》うためである。
もちろん、その成果は、逐次《ちくじ》、ティーエに教えている。
だから、ティーエも知っているはずだ。
そして、明日、ソグドムの大祭が行なわれるのも、エネリオンと無縁《むえん》ではあるまい。
凶星《きょうせい》とされる彗星《すいせい》エネリオン……
長い尾を引く姿は、今では明け方や夕方でも、はっきりと肉眼《にくがん》で確認《かくにん》できる。
エネリオンは、一定|周期《しゅうき》で地球に近づくが、それでも、接近する距離《きょり》に違いがある。
以前、最接近した時が、千年前の大災害の直前だったという。
エネリオンが、特に凶星と呼ばれるようになったのは、どうやら、それ以来のことらしかった。
もちろん、忽然《こつぜん》と現れ、次第《しだい》に大きくなる星を、人々は昔から、不気味《ぶきみ》に感じてはいたようだが。
どこの国でも、星《セイタ》神殿は、昔からずっと天文の研究をして来た。
暦《こよみ》を作るにも、天候《てんこう》を予測《よそく》するにも、天体の観測《かんそく》は必要不可欠なのだ。
だから、その観測の最も進んだアステ・カイデの星神殿の研究が重要だったのだ。
「やはり、エネリオンは、災厄に関係しているのでしょうか」
シレルは、師に問う。
老成《ろうせい》しているように見えるが、実は、その師グラウルも、三十|歳《さい》を少し過ぎたばかりで、若いのだ。
ただ、その知識《ちしき》と呪力と経験は、師と呼ばれるのにふさわしいものだった。
「ない、とは言い切れまいな」
グラウルは答える。
「何かの力が、互《たが》いに働くのだろう」
それは、磁力《じりょく》のようなものだろうか。
いずれにせよ、アドリエ王国や太陽帝国の、長い天文観測の歴史を繙《ひもと》いてみると、エネリオン接近の年に、災害が多かったのは確かである。
「トバティーエは、その力すらも味方に付けるかもしれぬ」
グラウルは、不敵《ふてき》な微笑《ほほえ》みを浮かべた。
「大きな賭けだが」
儀式《ぎしき》は粛々《しゅくしゅく》と進んでいる。
やがて、新たな行列《ぎょうれつ》が会堂《ユーマラ》の方からやって来た。
神官たちに前後を挟まれて、ティーエが歩いている。
いよいよ、今日の主たる儀式が始まるのだ。
行列が、階段の下に着く。
ティーエのみが、階段を登《のぼ》り始めた。
「ああっ、ティーッ」
ラクシは、一人|両手《りょうて》を握《にぎ》り合わせる。
“死なないで。死なないで”
その聲《こえ》が届《とど》いたのか、ティーエはラクシたちの居る方を振《ふ》り返り、一瞬《いっしゅん》微笑んだ。
そして、真《ま》っ直《す》ぐ上を向き、更《さら》に段を登る。
階段ピラミッドは、頂上《ちょうじょう》が平らになっており、そこに、人間一人が横たわれる程度《ていど》の石の台が据《す》え付けられていた。
生贄《いけにえ》用の台である。
人間の生贄は、この台に寝かされ、胸《むね》を切り裂《さ》かれるのだ。
いくら納得《なっとく》の上とはいえ、いざという時に暴《あば》れるといけないので、生贄は台に縛《しば》り付けられる。
台の一部が、どす暗く変色していた。
いったいこの石は、どれほどの人や獣《けもの》の血を吸《す》い取ったのだろうか。
ティーエが微《かす》かに眉《まゆ》を顰《ひそ》めたのは、過去の凄惨《せいさん》な光景を視《み》てしまったからだ。
この台の側《そば》に今も留《とど》まる霊《ハラン》が、視せたのだ。
いくら信仰があっても、納得していても、現世に、全く何の未練もなく死んで行く者は、そう多くはない。
何人かの霊《ハラン》は、未《いま》だこの場所に居る。
ティーエはまず、呪《まじな》いをして、かれらを、次の世界に送ってやった。
そして、何か奇跡《きせき》を起こす訳《わけ》である。
ティーエは、鳥の群《む》れを呼び寄せようか、と考えていた。
鳥は、常《つね》にティーエの友である。
シルバに言われていた。
奇跡を起こす時には、集まった人々にはっきりと見えるように動いてほしい、とだ。
ティーエは、言われた通り、大きく腕《うで》を動かして、空中に聖霊《せいれい》文字を描《えが》き始めた。
その時だった。
突如《とつじょ》、上空に黒い雲が現れ、急速に広がった。
むろん、人々は、それがティーエの呪術《じゅじゅつ》によるものだと思っている。
しかし、違うのだ。
ティーエは、そんなことはしていない。
雷鳴《らいめい》さえ聞こえ、辺《あた》りは暗くなった。
「おおっ……」
「ああ」
「素晴《すば》らしい」
人々の中には、天を拝《おが》んだり、喜びの涙《なみだ》を流す者もいた。
これほどはっきりした奇跡は、人々の知る限り、初めてのことだった。
「これは……磁気《じき》か」
グラウルは呟《つぶや》く。
シレルも感じていた。
髪《かみ》は風になぶられているというのに、全身の体毛が立っている。それは、寒気を感じるというのとは違うのだ。
ティーエは呪術を止《や》め、上空を仰《あお》いでいる。
やがて、雲がほんの少し切れ、光が差し込んで来た。
だが、その光は、太陽の光とは異なっていた。
銀光である。
そして、雲の間から、何かが現れた。
巨大である。
銀色の、球《たま》を潰《つぶ》したような形をしたものだった。
長さは三十メートル、高さは五メートルほどだろうか。
銀の金属光を放っており、表面は平らだった。
継《つ》ぎ目なども見えない。
それは、ピラミッドの真上に至《いた》ると、ゆっくりと降り始めた。
人々はざわめいた。
これは、どういう奇跡なのか。
銀光を放つ巨大な物は、ティーエの頭上、十メートルほどのところで止まった。
「これは……」
その光の色を、ティーエは知っていた。
突然、銀色のものの底の部分に、直径一メートルほどの小さな穴が空くと、一条が光が降りて来て、ティーエを包《つつ》んだ。
ティーエの身体《からだ》は、ふわりと浮き上がった。
そして、そのまま、銀色のものに吸《す》い込まれる。
ティーエがその穴に姿を消すと、銀色のものは穴を閉《と》じ、ほどなく上昇《じょうしょう》して、雲の中に姿を消した。
銀色のものと共に、空を覆《おお》っていた黒雲も、急速に晴れる。
再び、太陽の光が戻《もど》って来ていた。
何もかも、元通りだ。
しかし、ティーエの姿はない。
4
ティーエは、自分がどこに着いたのかに気付いていた。
あの懐《なつ》かしいラテルの山だ。
コーナムのピラミッドの上に、突如《とつじょ》現れたのは、ケントウリ族の乗り物だった。
その色や質感《しつかん》に、ティーエは見覚えがあった。
ケントウリ族のケイローンと住んでいた洞窟《どうくつ》の奥《おく》は、どうやら、入口付近よりは遥《はる》かに巨大《きょだい》であるようで、行ってはいけないと、禁《きん》じられていた。
とはいえ、そこは小さな子供《こども》である。
ティーエは、ある日、そっと奥に入った。
そこには銀色の光が満《み》ちていた。
この乗り物の発する光と同じだった。
入口は狭《せま》かったが、中は広い部屋で、ガラスのような覆《おお》いの中に、ひとらしき姿のものが、眠《ねむ》っており、それがズラリと並んでいた。
五十近くあったと思う。
ほどなく気付いたが、眠《ねむ》っているのは、人間ではなく、ケイローンと同じ、ケントウリだった。
見てはいけないものを、見てしまった。
子供心にも、そう思い、ティーエはすぐに、部屋を後にしたのだったが。
もちろん、ケントウリは、それを知っていたが、素直《すなお》に認《みと》めたティーエを叱責《しっせき》することはなかった。
ティーエは自《みずか》らの非《ひ》を認め、二度と入らないと誓《ちか》った。
ケイローンはそれを信じたし、もちろん、ティーエが誓いを破《やぶ》ることはなかった。
懐かしい山。
全《すべ》てが、ティーエの友だった。
動物も、植物も、岩も、水も、空気すら。
銀色の乗り物は、洞窟の入口近くの上空に止まり、ティーエを降ろした。
どうやら、乗り物は、無人のようだった。
降り立ったとたんに、全ての懐かしいものがティーエを包《つつ》んだ。
かれらは、ティーエを忘れていなかった。
“愛しい子”
“帰って来たね”
“やっと、帰ったね”
“一緒《いっしょ》に居よう”
“ずっと、一緒に……”
全《すべ》ての生き物と、霊《ハラン》と精霊《ストラ》が、心からの歓迎《かんげい》を示《しめ》した。
ティーエは、それを全身で感じ取った。
“ごめんね”
ティーエは、かれらに言った。
“いつかまた、戻って来るよ。きっと……”
あの懐かしい洞窟からは、銀色の光が溢《あふ》れていた。
ティーエは、昔の棲《す》み家《か》に入った。
光の導《みちび》くままに、ティーエは奥《おく》に進む。
銀色の光だけは同じだったが、奥の様子は、少し変わっていた。
あの金属《きんぞく》の壁《かべ》がなく、ケントウリたちの眠っていた、ガラスに包まれていたものもなくなっているのだ。
奥に人の気配がした。
誰《だれ》かが、奥から出て来る。
蹄《ひづめ》の音と共《とも》に。
銀色の服と光を纏って。
その下半身は、しっかりとした四本の脚《あし》を持った、馬に近い姿だった。
だが、上半身は、中年というより、初老に近い男性である。
「ケイローンッ!」
ティーエは、思わず飛び付いた。
「ティーエッ」
相手も、その身体《からだ》を受け止める。
「ケイローンッ、ケイローン」
「ティーエ」
ティーエは、しばらくケイローンの胸《むね》に頬《ほお》を付けていた。
「ティーエ、愛しい子」
蹄の音をたて、二人に近付いて来る者がいる。
顔を上げて見た姿には、覚えがあった。
「ジヌーハ」
「ティーエ、紹介《しょうかい》しましょうね」
ジヌーハが、奥の方を示した。
ケイローンとジヌーハについて行くと、奥には更《さら》に巨大な空洞《くうどう》があった。
「この山は、もともとは火山で、いくつもの空洞があるのだよ」
ケイローンは説明した。
「我々《われわれ》の、乗り物を隠《かく》すのには充分《じゅうぶん》だったので、ここを選《えら》んだ」
「乗り物って……さっきの」
ティーエが言ったのは、ほんの数分で、ティーエをここ迄《まで》運んで来た、あの銀色のもののことである。
ティーエには、これが夢《ゆめ》ではなく、現実のものなのだということがわかっていた。
「あなたの要請の通りに、仲間を起こしましたよ、ティーエ」
ジヌーハが言った。
「今が、その時だとわかっていたから」
「その時……」
「そうでしょう、ティーエ、本当は、わたしたちも待っていたのよ、期待と恐れを抱《いだ》きながらね」
大空洞の中に、何人もの気配があった。
銀色の光の中に現れた姿は、皆ケイローンとジヌーハと同様だったが、体格も顔立ちも、年齢《ねんれい》も、それぞれに違っていた。
ただ、老人と子供《こども》はいなかった。
「紹介するわ」
ジヌーハは改《あらた》めて言った。
「わたしたちの仲間、ケントウリよ」
その数は、五十人ほどだった。
「全員が、覚醒《かくせい》した」
ケイローンが言った。
「おまえの話を聞くためだ」
「ありがとうございます」
進み出、ティーエは頭を下げた。
“ティーエ、愛しい子”
“ティーエ、希望の子”
空洞の内《なか》は、優しい気に満《み》ちた。
ケントウリは、皆が記憶《きおく》を共有するので、ケイローンがティーエを育てた過程《かてい》も、愛情も同じように持っているのだ。
「いつか、この日が来ると、わたしは予感していた」
ケイローンが言った。
ケントウリは、予言をよくする人々である。
呪術《じゅじゅつ》もよく知る。
ただし、自《みずか》らそれを使うことはなかった。
ティーエは、ずらりと輪になって並《なら》んだ、ケントウリ族の前に立った。
洞内は銀色の光に満ちているが、一つのランプもなければ、外から光が入って来るような穴もない。
この光がどこから差して来るのか、ティーエにはわからなかった。
「アウル・トバティーエ」
進み出た一人が呼びかける。
やはり男で、顎髪《あごひげ》があった。
ケイローンと同じぐらいの年齢《ねんれい》に見える。
「きみは、我々《われわれ》に、水晶を解放《かいほう》するように求めたのだな」
優しさの中に、厳《きび》しさをも含《ふく》んだ口調《くちょう》だった。
ことの重大性を示《しめ》しているのだ。
「はい」
ティーエの顔つきも、引き締まった。
「今が、その時なのです」
「この人は、今、わたしたちが選んだ、代表のボルザーンよ」
ジヌーハが紹介した。
「皆、ケイローンの記憶を共有しています」
「水晶《すいしょう》は、両刃《もろは》の剣《つるぎ》だ」
ボルザーンは言う。
「それも、知っているのだな」
「少し前に、ようやく気付きました」
ティーエは頷《うなず》いた。
「あなたがた、ケントウリが、どうして水晶を封印《ふういん》したのかも」
「さすがだ」
ボルザーンだけでなく、皆が頷《うなず》いた。
「全《すべ》て、話そう」
ボルザーンは言って、仲間を見回した。
皆が賛同《さんどう》を示した。
「我々《われわれ》の、長い歴史を」
ボルザーンは、語り始める。
「我々の故郷は、大陸ではないし、この地上のどこでもない。それは、知っているな」
「はい。少しは……」
十七|歳《さい》になって、この山を去《さ》る時、ティーエはケイローンに尋《たず》ねたのだ。
「あなたがたは、どこから来たのですか」
と。
ケイローンは答えの代わりに、天を指した。
「別世界から、と言っておこう」
ボルザーンは続けた。
「きみたちにとっては、遥《はる》かな昔、我々は、別世界から、この大陸にやって来た。この星で、唯一《ゆいいつ》、文明が芽生《めば》えかけている場所だったからだ」
ティーエは、大陸が、地球という球体の表面の一部であって、宇宙には、同じようなものが、数え切れないほど存在するのだ、ということを、ケイローンに教えられていた。
もちろん、実感などできなかったが。
殆《ほとん》どの、大陸の人間にとって、大陸こそが、世界の全てだ。
「我々は、アステ・カイデの近くに腰《こし》を据《す》え、この文明の発達を見守ることにした」
ボルザーンの話は、ティーエの知りたいことだった。
ティーエの心が、伝《つた》わっているのだろう。
今こそ、全てを明かそうとしているのだ。
「文明は順調に発達《はったつ》した」
ボルザーンは語る。
いや、ケントウリ全員が、ボルザーンと共に語っているのだ。
「我々は、助言だけをし、人々を導《みちび》こうとした」
「助言だけ……ですか」
「そうだ」
ボルザーンは頷く。
「我々は、外の世界から来た者。この星の歴史に、そう深く関わってはならないと考えたのだ。皆の総意だ」
他のケントウリたちが、一斉《いっせい》に頷いた。
「だが……文明が発達し、豊かになるにつれて、人々の間に芽生《めば》えるものがあった」
ボルザーンは、じっとティーエの眼《め》を見た。
半分は、その美しさを愛《め》でるものだったが、半分は違った。
「それは……」
「欲《よく》だ」
ボルザーンの口からは、予期した答えが返って来た。
「日々、平和に生きられることに満足《まんぞく》していた人々は、豊かになるにつれて、それ以上のことを望むようになった」
ボルザーンは言う。
「それが、長寿《ちょうじゅ》や健康なら、まだよかったが……」
「山を降《お》りて、そういうものがあることを、わたしも知りました」
ティーエは、残念そうに言った。
ケイローン以外の友は、山の動物たちや木々や岩の霊《ハラン》、そして精霊《ストラ》だ。
かれらの望みは、より平和に生きることと、子孫《しそん》たちを、巣立《すだ》たせることなのだ。
それ以上の欲などない。
雨が降れば、そのように。
風が吹けば、そのように。
全てを、天と大地の動きに任《まか》せ、合わせていくだけ。
それでも、春には花が咲《さ》き、秋には様々なものが実《みの》るのだ。
だが、人間は違う。
違ってしまった。
「人々は、足るということを知らなくなった。むろん……」
ボルザーンは続ける。
「欲望が、文明を更《さら》に進めるのだ。またそれは、文明を壊《こわ》すのだ」
「でも……皆さんが眠りに入られたのは、そのせいではありませんね」
ティーエは真剣に言った。
言いたくはないが、曖昧《あいまい》にはできなかった。
「しかも、当番を一人起こして」
ケントウリは、五十年ごとに交替《こうたい》する、見張り一人を残して、いわゆる冬眠《とうみん》状態に入っていたのだ。
こうして、全員が覚醒《かくせい》しているのは、おそらく千年ぶりなのだろう。
もちろん、冬眠していたケントウリたちにとっては、眠りに入ったのは、つい昨日《きのう》のことのように思われるのだろうが。
「当番のひとが監視《かんし》していたのは、世界の動向だけではなかったのですね」
ティーエは、淡々《たんたん》と語る。
「注目していたのは、水晶《すいしょう》でした」
水晶。
つまり、アステ・カイデの太陽神殿の地下に隠《かく》されている物質だ。
「水晶がどうなっているのか。それが、皆《みな》さんの最大関心事ではなかったのですか」
「そうだ」
ボルザーンは認《みと》めた。
「我々は、それを心配していた」
「水晶は、不思議《ふしぎ》な力を溜《た》め込んでいました」
「あれは、宇宙《うちゅう》のエネルギーを集め、溜める道具なのだ」
ボルザーンは、率直《そっちょく》に語り始めた。
「我々の故郷では、それが文明の源《みなもと》だった」
「文明の……源……」
「大陸が、地球という惑星《わくせい》の一部だということは、ケイローンが教えただろう」
「はい」
ティーエは、教師に対する生徒《せいと》のように頷《うなず》いた。
「宇宙からは、様々な力が降《ふ》り注《そそ》いで来る」
ボルザーンは、教師のような口調《くちょう》で言う。
「それは、使いようによっては、素晴《すば》らしいエネルギーなのだ。水晶は、それを集める。
我々の故郷では、そのエネルギーを使い、頂点《ちょうてん》とも思われる文明を誇《ほこ》っていた」
「でも、皆さんは、その故郷を棄《す》てて、この大陸に降りていらっしゃったのですね」
ティーエは問う。
「どうして、故郷を棄てることになったのですか」
「滅亡《めつぼう》したからだ」
それは、恐《おそ》るべき答えだった。
「我々の惑星は、滅《ほろ》びたのだ」
「滅び……」
ティーエもさすがに、絶句《ぜっく》した。
「あなたがたのような立派《りっぱ》な人々の住む、最高の文明を持つ世界が……滅《ほろ》びた、と……」
信じられないことだった。
「はっきり言おう」
ボルザーンばかりでなく、皆が頷《うなず》いた。
「滅びたのだ」
ティーエは、しばらく黙《だま》っていた。
瞼《まぶた》の裏《うら》に、様々な幻像《げんぞう》が浮かんだが、ティーエには全く理解できないことだった。
ただ、大勢のケントウリの人々が、慌《あわ》てふためいているのだけはわかった。
それから、静かになった。
銀色の光が、ティーエの心の中にも染《し》み込む。
「我々の故郷は滅亡《めつぼう》したのだ」
ボルザーンは、ゆっくりと話を続けた。
さすがのケントウリたちの心からも、微《かす》かな動揺《どうよう》が伝わって来た。
昔は、ティーエの力をもってしても、ケントウリの――つまりケイローンだが――の心の中を読むことは、できなかったのだが。
ケントウリは心で話ができ、ティーエがケイローンに触《ふ》れると、意図《いと》的に様々なイメージを送り込んでくれたものなのだ。
つまり、ケントウリは、本来、自ら心で話をする力をコントロールできるはずなのだ。
この動揺は、ティーエの心を沈《しず》ませた。
ケントウリ族ですら、そうなのか。
「我々は、早くから滅亡を予知《よち》していた。だから、気の付いていた者たちは、それぞれに、故郷《こきょう》が崩壊《ほうかい》する前に、脱出《だっしゅつ》した。新天地を求めて」
ボルザーンは語る。
「我々が辿り着いたのは、この惑星だった。そして、文明の兆しが見えた大陸に腰を据え、見守ることにしたのだ」
ケントウリは、信じられないほどの長寿《ちょうじゅ》族である。
かれらは、ときどきは交代《こうたい》で眠りながら、長い間見守って来たのだ。
そして、その間に世代交代はない。
だから、赤ん坊《ぼう》も子供もいないのだ。
「我々は、大陸の人々と接触《せっしょく》したが、余計《よけい》なことはしないように努《つと》めた。我々の文明を与えるようなことはしなかった。ただ、大陸の文明が育つのを見守ったのだ」
アステ・カイデ辺《あた》りで起こった文明は、徐々《じょじょ》に育ち、やがて共和国連合という形で実を結《むす》び、絶頂期《ぜっちょうき》を迎《むか》える。
「でも……大災害の後で、あなたがたケントウリは、人との接触《せっしょく》を断《た》ってしまいました」
今こそ、ケントウリは、真実を明かそうとしている。
しかし、ティーエは興奮《こうふん》よりも、哀《かな》しみに近い感情を覚えていた。
ケントウリの感情なのかもしれない。
「そうだ……よその文明に口を出すべきではない、と考えたからだ。皆の、一致《いっち》した意見だった」
「あなたがたは、姿を消すと同時に、水晶を、アステ・カイデの太陽神殿の地下に封印しましたね」
ティーエの質問は、いよいよ核心《かくしん》に入って行く。
ただ、口に出すのには勇気の要る問いであった。
「それは、どうしてですか?」
ティーエが知りたかったのは、それだった。
宇宙のエネルギーを集める、文明の源《みなもと》という水晶、それをなぜ封印しなければならなかったのか。
どうして、封印した後も監視《かんし》していたのか。
「あなたがたは、大陸の今日《こんにち》を、予見していたのですね」
つまり、ティーエは言いたいのだ。
ケントウリは、再び、大陸に大災害の時代が訪《おとず》れることを、予期していた、と。
「だから、ローダ・アルゼンのピラミッドを封印させた。それは地流を抑えるためでもあったのですね」
「そうだ」
ボルザーンが……いや、全員が認《みと》めた。
「いつか大災害が起きる、それを、恐れていた」
「千年前に大災害が起きたのは、水晶のせいだったのですか?」
「そうだ」
また、皆が頷いた。
「それも一因《いちいん》だ」
洞窟《どうくつ》内の空気が、更《さら》に重くなった。
「決して小さい原因ではない」
「水晶が集めたエネルギーは、いつの間にか、地の底に溜《た》まっていたのですね」
「そうだ」
ボルザーンは、苦々しく語り始める。
「水晶の集めた、宇宙のエネルギーは、有効《ゆうこう》なものばかりではなかった。使わなかった、無駄《むだ》なエネルギーは、大地に逃がした。それが、長い年月を経て溜まっていたのだ」
「それが、地流……三神殿では地脈《ちみゃく》と呼ぶものの流れを阻《はば》むようになったのですね」
「そうだ。それに……」
「それに?」
さすがに、ティーエは喉《のど》の渇《かわ》きを覚えた。
「この大陸の地下に、いくつもの空洞《くうどう》も作ってしまった」
「空洞……」
「そうだ。この大陸の地下深くが、言ってみれば海綿状《かいめんじょう》になってしまったのだ」
「海綿……」
海綿、つまり、海の生物の骨格《こっかく》で、天然のスポンジだ。
「そうだ。大陸の地下は、穴《あな》だらけになっている」
「穴だらけ……では、将来はどうなるのですか?」
「穴がこれ以上大きくなるか、増えるかすれば、潰《つぶ》れる可能性がある」
「潰れると、どうなるのですか?」
「沈《しず》む」
「沈む……大陸が……」
「大陸そのものが、崩壊《ほうかい》するだろう。全土を地震《じしん》や天災《てんさい》が襲《おそ》う。そして、いずれ大陸は、地上から姿を消す。残るものは、いくつかの島くらいだろう」
淡々《たんたん》と言った。
恐《おそ》るべき言葉だ。
ティーエも、そこ迄《まで》は考えていなかったので、さすがに、しばらく黙《だま》り込んでしまった。
では、待っているのは、千年前の大災害よりも、更《さら》に大きな危険なのか。
もしも、大陸が沈んだら、その上に住んでいる人々は、いや、全ての生き物はどうなるというのか。
ティーエは、両手で顔を押《お》さえた。
あまりにも恐ろしいことだ。
様々な悪夢《あくむ》が、頭の中を駆《か》け巡《めぐ》った。
「では……今、この大陸で起こっている災害は溜《た》まっているエネルギーのせいではないのですか?」
「今の災害は、溜まっているエネルギーのせいだ。それを取り除《のぞ》けば、とりあえず、今のような災害は減《へ》るだろう」
口をきいているのは、ボルザーンだけだが、ティーエは、もっと大勢の意識を感じている。
「今は……」
呟《つぶや》いてから、ティーエは頭をしっかりと上げた。
新たな決意を固めていた。
「では、溜まっているエネルギーを取り除きます」
ティーエは言う。
「結局、封印《ふういん》は役に立たなかったのですね。いくら封印しても、少しずつ、水晶《すいしょう》は宇宙からのエネルギーを集め続け、それはまた、少しずつ、地中に漏《も》れていたのですね」
「我々は、それを恐れていたが……」
「水晶を、捨《す》てることはできないのでしょうか」
ティーエは問う。
「この世から消し去ることは……」
「できない」
ケントウリたちは、すぐさま答えた。
「あれは、特別な物質《ぶっしつ》だ。破壊《はかい》することは不可能《ふかのう》だ。一度あれの恩恵《おんけい》を受けると、後は継続《けいぞく》することしかできないのだ」
「海に捨てることは、どうでしょう」
「海にエネルギーが溜まり、また別の影響《えいきょう》があるだろう」
ケントウリは続けた。
「あれは、我々の文明の基本《きほん》なのだ。あのエネルギーがなければ、我々は、冬眠《とうみん》に入ることもできなければ、乗り物を動かすこともできない」
「銀色の乗り物」
「そうだ。そして……」
「そして?」
「我々の長寿《ちょうじゅ》も、あれのおかげなのだ」
「……ということは……水晶が消滅《しょうめつ》すれば……」
「我々も滅《ほろ》びるのだ」
冷たい風が洞窟《どうくつ》を吹き抜けて行くような気がした。
水晶……
水晶と称《しょう》される物質は、両刃《もろは》の剣《つるぎ》だったのだ。
どうしてそんなものを、ケントウリが、この大陸に持ち込んだか。
その理由も明らかになった。
ケントウリは、それがなければ、生きることも、何もできないからなのだ。
また、かれらケントウリが、一人の見張りを残して冬眠に入ったのも、大陸の人々に絶望した、などという理由ではなかったのだ。
水晶を封印《ふういん》したので、皆で活動するにはエネルギーが足《た》りなくなったためなのだろう。
そして、ケントウリの故郷《こきょう》が滅《ほろ》びたのも、元凶《げんきょう》は……水晶の力か……
「そもそもの間違いは、我々が、この惑星《わくせい》に来たことなのかもしれない」
ケントウリたちは言う。
「申し訳ないことになってしまった」
「水晶を封印したのは、あなたがたの、そういう気持ちからなのですね」
「我々は、大陸の滅亡《めつぼう》を、少しでも遅《おく》らせたかったのだ」
「わたしを育てたのも……そうなのですか」
ティーエの声は震《ふる》えていた。
では、あの愛……ケイローンの注《そそ》いでくれた愛は、何だったのか。
「それもあるが……ケイローンの心だけは、信じてくれ」
ケントウリたちは言う。
「ケイローンは、育てているうちに、きみを心から愛した。それは、感じたはずだ」
「はい」
ティーエは、涙《なみだ》を流した。
春の雨のように暖《あたた》かく頬《ほお》を伝った。嬉《うれ》しかった。
「わたしが、ジヌーハにお願いしたことは、御存知《ごぞんじ》と思いますが」
涙が乾《かわ》くと、ティーエは言う。
「水晶の封印を解くことだな」
「はい」
ティーエは、大きく頷《うなず》いた。
「しかし……」
ケントウリたちからは、恐《おそ》れの色が伝わって来る。
「大変なことになりはしないか」
ケントウリたちが、自分たちの行動を制限してまで決断した、水晶の封印なのだ。
今、水晶の力を解放したら、とんでもないことが起きるのでは……
恐れるのは、当然だ。
「わたしは、地の底に溜まった力を逆流《ぎゃくりゅう》させて、解放したいのです」
「逆流……」
ケントウリたちは、しばらくざわめいた。
考えもしなかったことだ。
「そんなことが……できると思うのか」
「気の力を使えば、可能だと思います」
ティーエは、真剣《しんけん》に答えた。
「もちろん、わたしだけの力ではありません。大陸じゅうの力を集めます。それを集めるためにも、水晶が必要なのです」
「大陸じゅうの力……どういうことだね」
「祈りの力です」
ティーエは、生真面目《きまじめ》に言った。
「この大陸の人々は、我々にはない力を持っている」
ボルザーンは語る。
「それは、何ですか?」
「呪力《じゅりょく》だ」
「呪力……でも……」
ティーエは首を傾げる。
ケントウリは、心と心で話ができる。
その上に、呪術の使い方を、ティーエに教えたのは、ケイローンではないか。
「わたしは、確かに呪術のこともおまえに教えたが」
進み出たのは、当のケイローンだった。
「おまえのように強い呪力を持ってはいないのだよ」
ティーエに注《そそ》がれるその眼《め》は、ひたすらに優《やさ》しい。
「ただ、我々は古今東西の書物を読み、その知識《ちしき》を全て蓄積《ちくせき》しているから、呪術の体系も方法も知っている」
ケントウリには、長い時間があったのだ。
それに、大陸の人々の持ち得ない知識も技術も持っている。
「だが、我々は、呪力で雨ひとつ降らせることはできない」
「呪力は、祈りと似ているのです」
ティーエは言った。
「あなたがたは、この大陸の持つ本当の力を、軽く見ておいでになったのですね」
「本当の力……とは」
皆《みな》が問う。
「大地の力です」
「きみの学んだ、地流か……」
「それだけではありません」
「わたしたちは、大地と話をすることができます。足元で、大地が動くのを感じるのです」
この大陸は、ケントウリの故郷ではない。
ティーエたち大陸の人間は、この土地に生まれ、大地の恩恵《おんけい》を受け、一体化しているのだ。
「だから、大勢の人が、大地の聲《こえ》に耳を傾《かたむ》けています。全身で受け止めているのです」
ティーエの語り方は、静かだった。
「このラテルの山を降りてから、わたしは、わたしの往《ゆ》く道を模索《もさく》しました」
ティーエは続ける。
「なぜ、わたしに“世界の相”が備《そな》わっているのか。なぜ、ケイローンに育てられたのか……全てに何らかの意図があるように感じられるのです」
何らかの意図を働かせたものは何か。
神々か、聖霊《せいれい》か……それとも、大地そのものなのか……
「それが何であるかはわかりませんが、わたしに使命が課《か》せられたことは、逃《のが》れようのない事実で、それはあなたがたケントウリも、良く御存知《ごぞんじ》でした」
「そうだな」
ケントウリたちは認めた。
「わたしは、長い旅をし、ようやく答えを見付けました。原因までも……」
さすがに哀《かな》し気《げ》だった。
「そして、協力してくれる友を見出《みいだ》しました」
そこだけは、明るく弾《はず》んだ声になった。
「皆が力を合わせれば、わたしたちは、大地の底《そこ》に溜《た》まっている、あの黒い塊《かたまり》を、逆流させ、もともとの、天に放出させることができると思います」
「その方法は?」
皆、固唾《かたず》を呑《の》んで、ティーエの言葉を待っている。
「地流を利用します。皆の祈りの力で、地流に乗せて、地の底に溜まったエネルギーを、アステ・カイデの地下にある水晶に送り込んで逆に放出させるのです」
「祈りの力か……」
「一人一人の力は弱くとも、何万、何十万となれば、強大な呪力となります。もちろん、方向付けは、各神殿の神官たちや、力のある呪術者《じゅじゅつしゃ》が結集して行ないます」
ティーエは、力強く続ける。
「中心は、各地の太陽のピラミッドですが、もちろん、コーナムでも行ないます。コーナムには、ドラスウェルクとグラウル様がいますから」
「確かに……可能性《かのうせい》は、ありそうだ」
ケントウリたちは、頷《うなず》き合った。
「幸い、全ての地流は、アステ・カイデの太陽神殿と繋《つな》がっています。水晶の力を全開にできれば、わたしたちには、大陸を救えます」
「なるほど……しかし」
ボルザーンは、一呼吸置いて言った。
「これは、大きな賭けだぞ」
「知っています、でも……」
ティーエは、ぐるりと皆の顔を見回した。
「しなければならない賭けなのです」
ケントウリたちは、しばらく、互《たが》いの顔を見合っていた。
言葉には出さなかったが、相談しているのだと、ティーエは感じた。
「我々は、心を決めた」
ほどなく、ボルザーンが口を開いた。
皆が、ティーエに顔を真《ま》っ直《す》ぐに向けている。
さすがに、ティーエは呼吸を止めた。
答えは……
「水晶の封印を解こう」
ボルザーンは、すぐに付け加えた。
「おまえの必要とする間だけだが」
「滅《ほろ》びる時は、共に滅びよう」
ケイローンが進み出て言った。
「我々は、その覚悟《かくご》だ」
アドリエ王国の都の、月《トバ》神殿の巫女王《みこおう》システィリナは、微《かす》かな聲に気付いた。
誰《だれ》かが、呼んでいるような。
まだ日は天頂《てんちょう》に近い。
ゆっくりと、西に向かって傾《かたむ》き始める頃《ころ》であった。
システィリナは、自室を出、礼拝室《れいはいしつ》に向かった。
女神とされる月《トバ》のための儀式《ぎしき》や礼拝を行なう場所だが、一般《いっぱん》の人々の来る大|礼堂《らいどう》とは違って、神官や巫女のためだけのものである。
女王マレシアーナのために、特別な儀式を行なうこともある。こぢんまりとしてはいるが、豪華《ごうか》で美しい装飾《そうしょく》のある部屋だった。
天井《てんじょう》が高い。
「誰です、わたくしを呼ぶのは……」
誰も居ないことを確かめてから、システィリナは問う。
「姿を現しなさい」
システィリナの言葉に呼応《こおう》するように、祭壇《さいだん》近くに、小さな灯《とも》し火のような光が、忽然《こつぜん》と現れた。
その光の色を、システィリナは知っていた。
「トバティーエ……」
システィリナは呼んだ。
「トバティーエですね」
“伯母さま……”
白金《オリハリコン》の色の光は、やがて形を取る。
「トバティーエ……幽魂投出《ゆうこんとうしゅつ》を……いったい、どこから?」
システィリナは、眼を丸くした。
太陽帝国に向かって、アドリエを出立《しゅったつ》してから、アステ・カイデに着いたという知らせ迄《まで》は、神殿を通じて受け取っていた。
アドリエの月《トバ》神殿から、アステ・カイデの月神殿には、システィリナ自《みずか》らが紹介状《しょうかいじょう》を書いて、ティーエに持たせたのだった。
ティーエは、アドリエに戻《もど》って来たのか。
普通《ふつう》、幽魂投出は、それほど遠い場所からはできないと言われている。もっとも、ティーエほどの力があれば、不可能ではないかもしれないが、まさか、アステ・カイデからではないだろう、とシスティリナは思った。
“伯母さま……お願いがあって来ました”
「お願い……」
システィリナは、首を傾《かし》げた。
同じ頃《ころ》、アステ・カイデの月《トバ》神殿には、一人の訪問者《ほうもんしゃ》があった。
星《セイタ》神殿の大祭司《だいさいし》カリスウェンである。
カリスウェンと、月神殿の巫女王《みこおう》レイトリンは、聖婚《せいこん》の儀式によって夫婦《ふうふ》ということになったが、もちろん、それは形式だけのことだった。
忙《いそが》しいせいもあるが、あの儀式以来、カリスウェンは殆《ほとん》どレイトリンを訪《たず》ねては来ない。
ティーエに対する遠慮《えんりょ》もあるのかもしれない。
アステ・カイデに居る時、ティーエとレイトリンは惹《ひ》かれ合っていた。
カリスウェンは、それを良く知っていた。
その上、カリスウェンとレイトリンは従兄妹同士なので、カリスウェンにとっては、レイトリンは妹のようなものなのだ。
カリスウェンが自分を避《さ》けているようなのは、いささか哀《かな》しかったが、二人の結婚の儀式というのは、言ってみれば、神々の代理のようなものなのだし、レイトリンにしても、ティーエへの想《おも》いを完全に断《た》ち切《き》ったわけではない。
ただ、諦《あきら》めてはいた。
ティーエは、ラクシと共にローダビア公国に旅立った。
二人は、既《すで》に切り離《はな》すことのできない存在になっている。
レイトリンは、それを強く感じていたのだ。
「レイトリン」
レイトリンが高位の聖職者《せいしょくしゃ》のみを迎《むか》えるための部屋に行くと、カリスウェンは立ち上がった。
急いでいるようだった。
「何か……起こったのですか」
カリスウェンの様子を見ると、悪い知らせを持って来たのではなさそうだが。
「つい今しがた、トバティーエの幽魂《ゆうこん》がやって来たのです」
カリスウェンは、いつもに似合わず、早口で言った。
「いよいよ、正念場《しょうねんば》です」
「正念場……」
レイトリンは、首を傾げた。
星《セイタ》神殿のある所ならば、どこの国であっても、その日が、彗星《すいせい》エネリオンが最《もっと》も近付く日だということを知っている。
各地の星神殿の天体観測《てんたいかんそく》の情報は、神殿同士で交換《こうかん》し合っている。
国が違っても、神殿同士の繋《つな》がりは強いのだ。
大陸じゅうの、太陽、月、星の神殿では、明日、何らかの行事をするはずだった。
むろん、他の神々の神殿でも、行なうところが多いだろう。
大地《だいち》や海や、風、あるいは闇《やみ》……
あらゆるものに精霊《ストラ》や霊《ハラン》が存在すると信じ、その霊性《れいせい》の高度なものを、聖霊《せいれい》、又は神として祀《まつ》る。
それが、古代の宗教《しゅうきょう》の始まりである。
大陸主流の宗教が、太陽、月、星を最も重要な神として祀るのは、やはり生活と切り離せない存在だからである。
むろん、別格《べっかく》として大地《バトラ》と水《デトル》がある。
殆《ほとん》ど全ての神殿|施設《しせつ》は、地流の上に建てられていた。
聖なる物は、最も天と地とのエネルギーを強く受ける場所に造られるからだ。
それは偶然《ぐうぜん》だったかもしれないが、ティーエにとっては、これ以上ないほどにありがたいことであった。
地流を利用できるということは、大陸全土の神殿やピラミッド、そして、そこに集まる人の力を使えるということだ。
でき得る限り、多くの呪術者、多くの群集《ぐんしゅう》を集めなければならない。
なるべく分散《ぶんさん》せず、できれば中心たるピラミッドの周りに集めてほしいというのが、ティーエがカリスウェンに要請《ようせい》したことだった。
そこは、皇帝《こうてい》を父に持つカリスウェンの影響力がものを言うはずだ。
アステ・カイデの、太陽、月、星の三神殿を中心とした、全ての神殿と呪術者が結集することになるだろう。
もちろん、レイトリンも、全力で協力するつもりだ。
今のレイトリンに、わだかまりはない。
もちろん、伯母《おば》のシスティリナにも同じ要請をした。
そして、地流に乗って、主要な国の太陽神殿にも意を伝えた。
こうして、一日は過ぎた。
上空に現れた銀色の物に吸《す》い込《こ》まれるようにして、大神への使者たるティーエが消えて数分、コーナムの人々は呆然《ぼうぜん》と天を仰《あお》いでいた。
しかし、その上空には突《つ》き抜《ぬ》けるような青空があるばかりだ。
いくら待っても、生贄《いけにえ》は戻っては来ない。
やがて、ざわめきが広がった。
どうするべきか。
ソグドムの神官たちは、ただ、互《たが》いの顔を盗《ぬす》み見るだけだ。
前代未聞《ぜんだいみもん》の事態《じたい》である。
いつの間にか、神官たちの眼《め》は、シルバに注《そそ》がれていた。
シルバは立ち上がり、進み出た。
「バリム・ソグド様……」
「バリム・ソグド様だ」
ざわめきは、一度大きく波紋《はもん》のように広がると、ぴたりと止まった。
静寂《せいじゃく》の中を、シルバはことさらゆっくりと歩き、ピラミッドを、下から三分の一ほどの高さの所まで登《のぼ》った。
「心を静《しず》めよ」
シルバは、声を高くして人々に言った。
「儀式《ぎしき》は、必ず明日行なわれる」
人々は、またしばらくざわめき、また黙《だま》った。
「いつも通り、いや、それ以上に盛大《せいだい》にだ」
シルバの態度《たいど》は落ち着いており、威厳《いげん》を漂《ただよ》わせていた。
さすがに、王の血を継《つ》ぐ者、と人々は思った。
「知っているだろう」
シルバの声は、響《ひび》きがいい。
「凶星《きょうせい》エネリオンは、ますます大きくなっている」
シルバは、人々をゆっくりと見回した。
「だが、もう心配することはないのだ」
シルバはゆっくりと、噛みしめるように語る。
「我々は、必ずエネリオンを追い払《はら》ってみせよう」
むろん、ソグドム教団もちゃんと、明日がエネリオンの最接近の日であることを知っているのだ。
何もしなくても、その次の日から、エネリオンは遠離《とおざか》ることになるのだが、人々は、彗星がどういう動きをするものかは、知らない。
宇宙《うちゅう》の仕組みや天体というものを知るのは、天文を学んだ一部の神官のみである。
「明日、また集まるが良い。皆で大神に祈《いの》りをささげよ。大神は、必ずお報《むく》いくださるぞ」
「おおっ」
「ありがたいことだ」
歓声《かんせい》があがり、一面に広がった。
「バリム・ソグド!」
誰《だれ》かが叫《さけ》んだ。
「バリム・ソグド、万歳《ばんざい》」
「万歳、バリム・ソグド!」
人々は、シルバを讃《たた》えた。
「どうなってんの?」
ラクシが、ボイスに囁《ささや》いた。
「ティーは……どこへ……」
もちろん、ボイスもラクシも、あれはティーエの呪術によって起きたもの、とは思っているが。
生贄《いけにえ》は、自らの呪力を示《しめ》すために、何か奇跡《きせき》のようなことを起こさなければならなかった。
そしてあれは、奇跡と呼ぶには充分《じゅうぶん》なものだったのだが……
ティーエが消えてしまったのは、なぜなのか。
どうして、再び姿を現さないのか。
さっぱりわからない。
ただ、心配だった。
何か、魔のようなものに連れて行かれてしまったのではないか、と。
「今のは……何?」
ラクシは、涙声《なみだごえ》になっていた。
「ティーエが使命を果たすのに、必要なことなのだろう」
ボイスは力強く言った。
「戻《もど》って来る」
ボイスは、ラクシの肩《かた》に手を置いた。
「ティーエは、必ず使命を果たすさ」
「うん、そうだよね」
ラクシは頷《うなず》いた。
「そうだよね」
「バリム・ソグド様、どうなさるおつもりなのですか?」
しばらく後、屋内の部屋に引き上げてから、会堂総長《ユーマラそうちょう》代理のサドゥーが、不安を隠《かく》せない面持《おもも》ちで尋《たず》ねた。
「あの男が、明日|迄《まで》に戻って来なかったら」
「儀式《ぎしき》はどうなるのです」
会堂総長ベルクカルは、焦燥《しょうそう》を露《あら》わにした。
「大神の御心《みこころ》は……それに、我々の責任《せきにん》は……もしも、また天災《てんさい》が起きたら」
ベルクカルは、眼《め》でシルバを非難《ひなん》した。
「ロストル宰相《さいしょう》と取り引きしてあの娘《むすめ》をもらい受けたのは、何のためですか」
ベルクカルたち、ソグドム教側は、ティーエに言うことをきかせるための取り引きの道具として、ラクシを使ったが、それには、ロストル宰相との交渉《こうしょう》が必要だった。
もちろん、背後《はいご》にシルバが居《い》ることを察《さっ》しているから、宰相側は、そんな者は知らない、と突《つ》っ撥《ぱ》ねたのだったが、知らなかい、と言ったことが裏目《うらめ》に出た。
ティーエが幽魂投出《ゆうこんとうしゅつ》をしてラクシに会いに行ってしまい、宰相側としても、知らぬ存《ぞん》ぜぬで通すことができなくなったのだ。
それに、意外にも、レスドゥはロストルに、ラクシを引き渡すことを勧《すす》めた。
シルバが、ティーエを大神ラサ・ソグドへの生贄にすることを画策《かくさく》していると知ったからである。
「おまえは、せっかく連れて来た持ち駒《ごま》を手放せと言うのか」
ロストルにとっても、ラクシは重要な駒のはずだった。
むろん、シルバを牽制《けんせい》するためだ。
シルバは未《ま》だ、ローダビア公の後継者候補《こうけいしゃこうほ》に数えられてはいないが、いつ最有力候補として躍《おど》り出るかわからない、不気味《ぶきみ》な存在だった。
今、ラクシを渡すということは、敵《てき》に塩《しお》を送ることに他《ほか》ならないのではないか。
「バリム・ソグドは、あの男を、次の儀式で大神への生贄にするつもりでおいでなのです」
レスドゥは言う。
「これは、絶好の機会でございますよ」
「何の機会だ?」
ロストルには、何のことかわからなかった。
「バリム・ソグドや、あの者たちを、一掃《いっそう》する機会でございます」
珍《めずら》しく、レスドゥは微《かす》かな笑《え》みを浮かべた。
「一掃とな……」
「あの男は、生贄になります。供の者たちは、なんとか取り戻そうとするでしょう。そこを、われらが片付けてお目にかけます。そして、バリム・ソグドも」
「バリム・ソグドも?」
「ドサクサに紛《まぎ》れて……」
レスドゥは、はっきりとわかるように笑った。
部下として、重宝《ちょうほう》に使っているロストルすら、背筋《せすじ》に冷たいものが走るような笑みだった。
「あの男は、必ず戻って来ますよ」
シルバは断言した。
「あの男は、仲間を見捨《みす》てはしません」
ラクシたちは、まだシルバやソグドム教団の手の内に居るのだ。
「しかし……万が一戻らなかったら、生贄の儀式はどうなるのです?」
サドゥーは喰い下がる。
「明日は、最も大切な儀式ではありませんか」
ソグドム教にとっても、凶星《きょうせい》エネリオンを退散《たいさん》させるという儀式は重要なのだ。
コーナムの教団の面目《めんぼく》にも関《かか》わる。
先日の雹《ひょう》事件で、既《すで》に大分《だいぶ》面目を失った。
だから、ロストルに借りを作ってでも、ティーエを生贄にすることに協力をしたのだ。
コーナムの教団には、ルイーン・アールの教団に対する対抗意識《たいこういしき》もある。
「万が一戻らなかったら、ですか、その時は……」
シルバは苦笑した。
ティーエが必ず戻ると確信《かくしん》している。
ただ、不可抗力で戻れなくなる可能性は、ゼロではないかもしれない。
むろん、その対策《たいさく》はある。
「ヘルルダルがいるではありませんか」
シルバは言い放った。
「最も力のあるヘルルダルがね」
終章
朝になっても、ティーエは戻《もど》って来なかった。
ベルクカルたちは、ドラスウェルクを生贄《いけにえ》とすることで、儀式《ぎしき》の準備《じゅんび》を進めざるを得《え》なかった。
日が昇《のぼ》るにつれて、人々がピラミッドの周《まわ》りに集まって来ている。
それは、昨日《きのう》を上回る数だった。
昨日起きた奇跡《きせき》、あまりにも不可思議《ふかしぎ》な事態《じたい》を、人々が知ったからである。
また何か起こるのではないか。
今日の儀式は、本当に大神の御心《みこころ》に叶《かな》うのか。
もっと悪いことが起こるのではないか。
期待と不安と、そして興味《きょうみ》がないまぜになって、人々は集まっているのだ。
ボイスやラクシたちは、昨日と同じ席に座《すわ》ることになった。
「ティーは、どうしたんだろう」
ラクシの心も複雑《ふくざつ》だ。
元気な顔を見たいという思いも強いが、戻って来て、本当に生贄として殺されてしまったらどうしよう、という不安も一杯《いっぱい》だ。
そうなる前に、何が何でもティーエを取り戻そうとは思うが、ここは、言ってみれば敵地《てきち》である。味方など、一人もいない。
下手《へた》をすれば、全員|討《う》ち死にだろう。
ラクシ自身は、ティーエと一緒《いっしょ》に死ぬのなら、異論《いろん》はないが、ボイスとの子供《こども》を宿《やど》しているマンレイドにだけは、生き延《の》びてほしかった。
姉《あね》のようなマンレイド。
大好きなボイス。
二人の間の子供だけは、この世に生まれ出、健《すこ》やかに育ってほしい。
「戻って来るだろう」
ボイスは、ティーエを信じている。
「間に合えばいいが」
ボイスは、ティーエが未《ま》だ戻って来ないのは、その時つまり、大陸を救う正念場《しょうねんば》のための根回しをしているのだ、と考えていた。
やがて、ドラスウェルクを中心とした行列《ぎょうれつ》が現れる。
もちろん、事前に、教団|側《がわ》は、ドラスウェルクが、いかに大神への使者としてふさわしいか、ということの宣伝《せんでん》工作は行なっていた。
先日の雨は、ドラスウェルクの祈《いの》りのおかげである、というようなことも、口コミで広めておいた。
まあ……半分は事実だ。
とはいえ、ベルクカルたちは、薄氷《はくひょう》を踏《ふ》む思いである。
「ドラちゃん……」
ラクシは呟《つぶや》く。
「ドラちゃんは、どうなるの?」
“死にたくない”
今のドラスウェルクは、そう心の中で叫《さけ》んでいる。
ティーエや仲間たちと生きたかった。
皆《みな》と、楽しんだり、何か世の中のためになることをしたい。
それが、切なる願いになっていた矢先に、やはり生贄として旅立たなければならないのだ。
ヘルルダルに選ばれた時から、この世の人々のために犠牲《ぎせい》になるのだ、という覚悟《かくご》はしていた。
本当に、世の中の人のためになるのなら、命を惜《お》しむつもりはないが、これは、本当に人々のためになるのだろうか。
無駄死《むだじ》にはしたくない。
心から、そう思っていた。
行列は、ピラミッドの階段《かいだん》の下に至《いた》った。
日は高く昇《のぼ》り、儀式の刻限《こくげん》が迫《せま》っている。
“ラクシ……大好きだよ”
ドラスウェルクは、いわば貴賓席《きひんせき》のような一角の隅《すみ》の方に、ラクシやボイスたちの姿を見付けて、心の中で語りかける。
“ボイスも、マンレイドも、大好きだよ”
ドラスウェルクは、儀式を司《つかさど》るベルクカルに促《うなが》されるまま、階段を登った。
頂上《ちょうじょう》では、会衆長《かいしゅうちょう》マゼナルドと、もう一人の男と二人の供、そして三人の巫女《みこ》が花や香《かお》りを移《うつ》した水、香の煙《けむり》などを撒《ま》きながら待っていた。
もう一人の男……それこそ、生贄に刃《やいば》を突《つ》き立てる神官である。
ソグドム教では、式典《しきてん》係長という地位だ。
式典係になるには、弱くとも、呪力《じゅりょく》――霊視《れいし》の力がなくてはならないとされる。
日の当たる地位ではないが、重要視はされる係だった。
式典係長は、部下に合図をする。
二人の式典係は、ドラスウェルクの両腕《りょううで》を縛《しば》り、生贄の台に横たえた。
ドラスウェルクは、大人《おとな》しく従《したが》った。
空《むな》しさで一杯だった。
これが、つい先頃《さきごろ》まで憧《あこが》れたことだったのか……
だが、逃《のが》れることはできまい。
ティーエが戻って来ない限りは。
できるだけ従容《しょうよう》として、死へと旅立とうと思った。
ティーエは、戻って来ない方がいいのだ。
階段の下では、神官たちの祝詞《のりと》が続いている。
人々は固唾《かたず》を呑《の》んで待っている。
式典係長が、刃渡《はわた》り二十センチほどの小刀を両手《りょうて》で振《ふ》り上げる。
「ああ、見てらんないよっ」
ラクシは、顔を手で覆《おお》った。
「待ってください」
声が響《ひび》いた。
「ティーッ!」
「ティーエッ」
ラクシもボイスも跳び上がる。
「トバティーエ……」
ドラスウェルクの反応には、哀《かな》しいものが含《ふく》まれていた。
戻って来たのだ。
やがて、上空に黒雲が湧《わ》き起こり、雷鳴《らいめい》が轟《とどろ》くと、銀色の物体が出現した。
ティーエの姿が消えた時と、全く同じであった。
「おおっ」
「ああっ……」
人々はざわめき、両手を合わせる。
銀色のものは、ピラミッドの真上に至《いた》り、一条《いちじょう》の光を降《お》ろした。
光が消えると、そこにはティーエが立っていた。
白い服。
風に靡《なび》く金茶《きんちゃ》色の髪《かみ》。
美女とも見紛《みまが》う、その容姿《ようし》。
「皆さん」
ティーエは、全《すべ》ての人々に向かって呼びかけた。
「祈《いの》ってください」
ティーエは、辺《あた》りを見回した。
「今が、その時なのです」
黒衣《こくい》の式典係長たちは、殆《ほとん》ど腰《こし》が抜《ぬ》けた体《てい》で、その場に蹲《うずくま》っている。
ティーエは、ドラスウェルクを縛《しば》る縄《なわ》に手を触《ふ》れる。
すると、即座《そくざ》に、縄そのものが消滅《しょうめつ》してしまった。
ティーエは、ドラスウェルクの手を取り立たせた。
二人で、手を携《たずさ》え、ピラミッドの頂点《ちょうてん》に立つ。
「今が、大陸を救《すく》う時なのです」
人々は、しわぶきひとつせず、ティーエの言葉を待っている。
「皆さんが、大陸を救うのです」
人々はざわめいた。
「今、大陸が未曾有《みぞう》の危機《きき》にあることは、皆さんも感じているでしょう」
ティーエは言う。
「今、この時こそ、その危機を打ち払《はら》う時なのです」
ティーエは、両手をしっかりと組み合わせた。
ドラスウェルクも、同じようにする。
「皆さん、祈ってください、心を合わせてください」
ティーエは、更に声を大きくした。
その聲《こえ》は、群集《ぐんしゅう》の末端《まったん》、本来声の届かない所にまで届いた。
「暗雲を払いましょう。大陸を救うのです」
それは、正午《しょうご》だった。
ティーエが、大陸全土の神殿に示していた時刻《じこく》、そして、ケントウリに、水晶《すいしょう》を解放《かいほう》するように依頼した時刻だった。
ドドッ……
ドドッ……
無気味《ぶきみ》な地鳴りがした。
それは、大陸全土にわたっていた。
水晶の封印を解《と》いたことにより、溜《た》まっていた宇宙《うちゅう》のエネルギーが、大陸の地下を駆《か》け巡《めぐ》ったのである。
コーナムでも、大地が激しく動いた。
「おおっ」
「わああっ……」
人々は、祈った。
全てを取り払いたまえと、とにかく、神や聖霊《せいれい》に祈った。
ピシッ……
ピシッ……
大地はひしぎ、地割《じわ》れが全土に生じた。
あちらこちらで地震《じしん》が起きた。
各地の神殿やピラミッドに集まった人々は、心から祈った。
この災厄《さいやく》から救いたまえ、と。
大陸を、人々を救いたまえ、と。
そこには、ただただ、大陸の平安を願う想《おも》いだけがあった。
大陸が平安でなければ、人々の幸福などないのだ。
ゴゴッ。……
大地は揺《ゆ》れた。
「皆さん、祈るのです」
太陽神殿に姿を現した、アドリエの巫女王《みこおう》システィリナが、集まった数万の人々に言う。
むろん、システィリナの後ろには、全ての神官と、可能な限りに集めた呪術者《じゅじゅつしゃ》がいる。
「大陸よ、救われよ、と」
大地は、不気味な音をたてている。
人々は、心から祈った。
「皆さん、祈るのです」
ほぼ同じ頃《ころ》、カリスウェンも人々に語りかけていた。
アステ・カイデの、太陽のピラミッドで、である。
傍《かたわ》らには、神官たちや呪術者、そして、聖婚《せいこん》の妻《つま》たる月《トバ》神殿の巫女王レイトリンが居る。
「祈りましょう。大陸のために」
レイトリンが唱和《しょうわ》する。
「そして、人々のために」
ピラミッドの近くでは、人々に混《ま》じって、キリも祈っていた。
むろん、ジッダも一緒である。第六侯《だいろっこう》とヴァユラの少年、あまりにも隔《へだ》たった身分だったが、祈る二人の心はひとつだった。
大陸の全土で、人々は心を一つにして、祈った。
ドドッ……
ドドッ……
大地は激しく動いた。
強い風が吹きすさんだ。
「アト、トバ、セイタ、デトル、シトゥリ……よ」
ティーエは、唱《とな》えながら指で空中に聖霊《せいれい》文字を描《えが》き始める。
「オリハ……宇宙神オリハよ……」
皆が、心を合わせる。
それは、やむにやまれぬ心でしたことだった。
助かるなら、皆で助かりたい。
この世が消滅《しょうめつ》しないように。
全ての人と、平和を享受《きょうじゅ》したい。
それは、全ての人が、我欲《がよく》を棄《す》てた瞬間《しゅんかん》だった。
ドドッ……
ドドドッ……
大地は更《さら》に激《はげ》しく動き、立ってもいられないほどになった。
あちらこちらで地割れが起き、ティーエたちの居るピラミッドすら、一部が崩《くず》れた。
空にはいくつもの稲妻《いなずま》が走り、強い風が吹き荒れた。
そして、突如《とつじょ》、全てが収《おさ》まり、静かになった。
大地は、以前からそうであったように小揺《こゆ》るぎもせず、微風《びふう》はあっても、空気も動かなくなった。
静けさが、全ての大地を支配した。
むろん、グラウルもシレルたちも心を一つにしていた。
都市《まち》の外に集まった、呪力のあるヴァユラの人々も同じだった。
ティーエが、ドラスウェルクが、グラウルが、そして、太陽帝国のカリスウェンが、レイトリンが、アドリエのシスティリナが……
そして、他の人々が感じていた。
何か、大きな暗い影《かげ》のようなものが去った、と。
大地は浄《きよ》められた、と。
人々も、なんとなくそれを感じていた。
シルバも、そうだった。
「終わったな」
シルバは呟《つぶや》いた。
「この先……どう出るか……」
シルバは、乾《かわ》いた笑いを漏《も》らす。
まだ打つ手はある。
これを、自分の手柄《てがら》にしてしまえばいいのだ。
大地の底《そこ》にわだかまっていた黒いもの。
それこそが、暗黒の神そのものだったのかもしれない。
激《はげ》しい地流の迸《ほとばし》りが、それを押《お》し流し、水晶《すいしょう》に吸《す》い込ませた。
水晶は、奔流《ほんりゅう》に押され、それを宇宙に向かって放出した。
広い、広い宇宙に……
「今だっ」
レスドゥは声を発した。
部下に向かった、常人には殆《ほとん》ど聞き取れないような言葉である。
「今だ。やれっ」
誰《だれ》かが、まだ呆然《ぼうぜん》としている人々を掻《か》き分けて行く。
「油断《ゆだん》するな」
グラウルが、ジャカンに言った。
「これで終わりではないぞ」
「群集《ぐんしゅう》の中に、仲間を配置しております」
ジャカンは言うと、走り出した。
ボイスやラクシの居る席に向かって、である。
影《かげ》のようなものたちは、ラクシやボイスたちの居る席に走り出していた。
そこには、シルバもいるのだ。
気配を感じ、ボイスは立ち上がる。
「ティーエを守れ」
ボイスは言った。
ティーエとドラスウェルクは、力を使い果たした疲《つか》れに、よろめきながらも、階段《かいだん》を下りて来ようとしている。
「行くわよっ」
マンレイドが言った。
「やろうじゃないかっ」
ターリスが呼応《こおう》する。
「おうっ」
バリカイが、勢《いきお》い良く応じた。
皆がティーエの方に走って行く。
シルバは、ぐずぐずするような男ではなかった。
それに呼応するように、共に走り、ティーエとドラスウェルクに合流した。
「おまえたちの命を狙《ねら》うものがいるぞ」
シルバは言った。
「これ以上、階段を下りるな」
もちろん、ティーエはシルバの心の聲《こえ》を聴《き》いていたが、何も言いはしなかった。
シルバは、懐《ふところ》に隠《かく》し持った短剣の柄《つか》を握《にぎ》った。
「やれっ」
「殺せっ」
密《ひそ》かな声が飛び交《か》う。
三十人ほどが、ピラミッドの下|辺《あた》りに向かって走る。
同時に、ヴァユラの人々も走り寄った。
その数は、二十人ほどか。
「油断するな」
大剣に手を掛《か》け、ボイスが言った。
「おう」
バリカイが応じる。
「あたしたちも、いるよ」
ターリスが言った。
「あたしもよっ」
マンレイドが続ける。
その傍《かたわ》らには、むろん、ラクシがいる。
「何が何でも、ティーエを守るぞ」
ボイスが言った。
状況《じょうきょう》から考えれば、ここに居る全ての人々が敵《てき》になっても仕方がないように思われた。
人々は、生贄《いけにえ》の儀式《ぎしき》を見に来た。
だが、儀式そのものは行なわれてはいないのだ。
生贄の二人は生きている。
走り寄《よ》った刺客《しかく》が、早くも階段を登り始める。
シュウッ……
微《かす》かな呼吸《こきゅう》音と共に、剣の柄を握る。
抜きざまに、ティーエの首を狙《ねら》っている。
ボイスは、手投剣《しゅとうけん》を投げた。
シュッ……
シュッ……
刃は、刺客の首の後ろと背中《せなか》に深々と突《つ》き立った。
フッ……
息を吐《は》いて、刺客はのけ反《ぞ》る。
半《なか》ば抜いた剣で、自らの指を斬《き》った。
パラリ、パラリと指が落ちる。
「トバティーエ」
ドラスウェルクが、ティーエの前に立った。
まだ足元もおぼつかないティーエを庇《かば》おうとしているのだ。
刺客は、そのまま階段を転げ落ちるが、その身体《からだ》を踏《ふ》み越《こ》え、次の刺客が駆《か》け上がった。
ティーエ、ドラスウェルク、そしてシルバ。
三人共に葬《ほうむ》ってしまおうというのだ。
むろん、守ろうとするボイスたちごと。
レスドゥは、事ある毎《ごと》に自分たちの活動の邪魔《じゃま》をして来た、ボイスやバリカイたちをこそ許《ゆる》せないのかもしれない。
レスドゥにあるものは、忠誠心《ちゅうせいしん》なのか。
それとも、陰《かげ》で動く者の抱《いだ》く、独特《どくとく》の誇《ほこ》りなのか……
「やれっ……」
レスドゥは小声で言って、拳《こぶし》を握《にぎ》った。
「皆殺しだっ」
直後に、レスドゥは、跳《と》び上がって、ふり向きざま身構《みがま》えた。
背後に気配を感じたのだ。
いつもなら、もう少し早く気付いていたはずだ。
それなのに、今日は、何が何でも決着をつけようという気負いからか、ほんの一秒《いちびょう》の、更《さら》に数分の一|遅《おく》れた。
「きさまだ」
背後に立った男は、言うなり、杖《つえ》に仕込んだ剣を抜いていた。
ジャカンだった。
「むうっ」
レスドゥは跳《と》び退《すさ》った。
体勢は充分《じゅうぶん》ではなかった。
ザッ……
低い音。
ジャカンの剣は、レスドゥの胸部《きょうぶ》を斬《き》っていた。
そう深くはなかったが、肋骨《ろっこつ》に当たって厭《いや》な音をたてた。
血が溢《あふ》れ出た。
「おまえは……」
レスドゥは剣を抜いた。
懐《ふところ》に持った短いものだ。
常に人々の中に紛《まぎ》れ込んで、部下を指揮《しき》している。
目立つ武器は持てなかった。
「おまえは、裏切《うらぎ》り者だ」
ジャカンは言った。
「仲間の夢《ゆめ》を、仲間のおまえが打ち砕《くだ》こうとしたのだっ」
それは、レスドゥが執拗《しつよう》にカリスウェンの失脚《しっきゃく》を狙《ねら》い、しかもジャカンの父ジャドを死に至《いた》らしめたからだ。
確証《かくしょう》はないが、ジャカンは確信している。
この男だ。
この男の仕業《しわざ》だ。
カリスウェンは、ヴァユラという、身分の外の身分を無くそうとしていた。
つまり、ヴァユラにも市民権を与えようとしていたのだ。
太陽帝国のヴァユラは、カリスウェンの理想に未来を懸《か》けた。
それを邪魔《じゃま》しようとしたのが、レスドゥだった。
おそらく、同じヴァユラのレスドゥ。
許《ゆる》せなかった。
父の敵《かたき》というより、皆の夢を壊《こわ》そうとしたことが、許せなかった。
「貴族《きぞく》や、官僚《かんりょう》など信じるなっ」
レスドゥは叫んだ。
「やつらにとって、おれたちは、虫ケラよっ」
レスドゥは、踏《ふ》み込み、ジャカンの首を狙《ねら》った。
「違うかっ。違うのかっ!」
ジャカンは、無言で、剣を振《ふ》り下ろした。
ガッ!
剣は、レスドゥの頭頂《とうちょう》に喰《く》い込み、鼻梁《びりょう》にまで達《たっ》した。
レスドゥの突き出した刃は、ジャカンの首に触《ふ》れている。
とはいえ、得物《えもの》の長さが勝敗を分けた。
レスドゥは、前のめりに倒《たお》れた。
倒れながらも、更《さら》に深く切っ先をジャカンの喉《のど》に喰い込ませようとした。
「キャアアッ!」
「わあっ!」
闘《たたか》いと血に気付いて、あちらこちらで叫び声が起こり、人々が逃《に》げまどい始めた。
レスドゥの部下が、ティーエたちの方に走り寄る。
ボイスたちも、既《すで》に階段に辿《たど》り着いていた。
「おれの剣に気を付けろ」
ボイスが仲間に言った。
「おうっ」
バリカイが嬉《うれ》し気《げ》に応じる。
「おまえと一緒に闘うのは、久しぶりだな」
「いくよ」
ターリスが言った。
「あたしには、こいつらだけは許《ゆる》せない」
ターリスにとっても、伯父《おじ》ジャドや仲間たちの敵《かたき》なのだ。
むろん、レスドゥの部下たちが、喜んでその命令に従《したが》っていたかどうかはわからないが。
「皆《みん》なで闘うのも、乙《おつ》なものね」
マンレイドが、美しい顔を綻《ほころ》ばせた。
ボイスが、一瞬で大剣を抜く。
抜きざま、それは打ち下ろされた。
ザズッ…
骨《ほね》の断《た》たれる音。
大剣は、ボイスの脇《わき》を擦《す》り抜《ぬ》け、階段を登《のぼ》ろうとしていた男を袈裟掛《けさが》けに斬《き》った。
大剣は、叩《たた》き潰《つぶ》し、押し切るものだ。男の身体《からだ》から骨と内臓《ないぞう》が飛び出す。
むろん、ボイスは、その剣を引き抜くと、すぐに別の敵《てき》に向かっている。
「マンレイド」
ラクシは、マンレイドに寄《よ》り添《そ》っている。
自分は、いざという時、マンレイドの役に立ちたいと思った。
ティーエたちの方は、ボイスもバリカイも、ターリスもいるのだから、心配はない。
もちろん、マンレイドが、ラクシの助けなどいらないほどに強いこともわかっているが。
離れたくないのだ。
今、改《あらた》めてマンレイドの大切さを噛《か》みしめている。
仲間が斃《たお》されてもひるまずに、何人もが階段を駆《か》け上がろうとする。
バリカイが剣を抜く。
バリカイの剣は、少々|大振《おおぶ》りの中剣である。
大振りとはいえ、易々《やすやす》と扱《あつか》える小型の剣だが、バリカイの腕力《わんりょく》と技があれば、鉄の兜《かぶと》をも両断《りょうだん》することができる。
ガッ!
充分《じゅうぶん》に体重を乗せ、バリカイは、本当に相手の兜を割った。
帽子《ぼうし》のようなものを被《かぶ》っていたが、それには頭頂部《とうちょうぶ》に鉄片が仕込んであったのだ。
バリカイの剣は、そのまま男の頭蓋《ずがい》を割った。
「さすがだよっ」
呟《つぶや》きながら、ターリスは、左右に散開《さんかい》した男たちの中に走り込む。
「惚《ほ》れ惚《ぼ》れするね」
男たちは、左右から回り込んで、ティーエたちの方に行こうとしているのだ。
精巧《せいこう》な石組みで作られている階段ピラミッドだが、太陽《アト》や月《トバ》のピラミッドのように四角錐《しかくすい》で、表面をよく磨《みが》いた化粧板《けしょういた》で覆《おお》っている訳《わけ》ではないから、体力があれば、脇から攀《よ》じ登ることは可能だ。
「そうはさせるかいっ」
ターリスは、男たちの前に回り込むと、身を沈《しず》め、剣に手を掛ける。
抜《ぬ》き打《う》ちだ。
低い位置から、鞘《さや》走った刃は相手の首から顎《あご》を斬る。
顎は割れ、首からは血が噴《ふ》き上がった。
「こっちよ」
マンレイドとラクシは、ターリスとは逆《ぎゃく》の方に向かう。
そこからも、刺客《しかく》が何人か、ピラミッドに取り付こうとしている。
「行かせないっ」
二人に気付き、三人の男が向き直る。
「あたしたちの仲間には、指一本|触《さわ》らせないからね」
三人の男は、同時にマンレイドとラクシに向かって地を蹴る。
むろん、二人は体勢充分だ。
マンレイドは男と同じ中剣、ラクシのは、軽い反《そ》りのある小振りの剣である。
ラクシは、剣を上段に振り上げた相手が、着地する直前に、右に躱《かわ》しざま抜き打ちする。
小振りだが、特に鋭《するど》い剣は、深く肉を断ったり、骨を叩《たた》き折る訳にはいかない。
必ず急所を狙《ねら》うのだ。
ラクシの剣は、一瞬《いっしゅん》で相手の頸動脈《けいどうみゃく》を切断していた。
高く血飛沫《ちしぶき》が舞い上がる。
マンレイドは、相手が着地する前に剣を抜いている。
下段から斬り上げる。
胸《むね》を斬った。
むろん、肉ばかりでなく肋骨《ろっこつ》も斬っている。
「グフッ……」
相手は、口から鮮血《せんけつ》を吹いた。
肺も切れているのだ。
しかし、もう一人がいる。
だが、跳んだ三人目は、着地と同時に転がった。
その首の後ろから前を、手投剣《しゅとうけん》が貫《つらぬ》いていた。
もちろん、ボイスのしたことである。
あちらこちらで闘《たたか》いが起こっていた。
刺客たちを、ヴァユラの人々が迎《むか》え撃《う》っているのだ。
もちろん、大勢の人々が集まるのだ、ソグドム教の警備隊《けいびたい》もいれば、コーナム市の警察《けいさつ》部隊も出ていたが、外見から、どういう勢力が闘っているのかわからないので、ただ見守るしかない。
人々は逃《に》げまどい、大混乱《だいこんらん》になった。
警備の兵は困惑《こんわく》して、人々を誘導《ゆうどう》することも忘れている。
このままでは、将棋倒《しょうぎだお》しが起き、怪我《けが》人が出るのは必定《ひつじょう》だ。
「止《や》めてください」
ティーエは弱々しく言う。
「止めて……」
今のティーエには、何の力も残ってはいない。ドラスウェルクに支《ささ》えられて、立っているだけでやっとなのだ。
その時だった。
突然《とつぜん》、辺《あた》りは闇《やみ》に包《つつ》まれる。
「動くな」
一瞬人々が静まり返った時に、声が響いた。
「全《すべ》ては収《おさ》まったのだ。止まり、周りを見回せ」
ティーエは気付いた。
「グラウル様……」
それは、グラウルのしたことだった。
もともと、グラウルは、闇の精霊《ストラ》を操《あやつ》る呪術《じゅじゅつ》をよくする。
やがて、闇は少しずつ薄《うす》れ、光が差して来た。
人々は狐《きつね》につままれたような面持《おもも》ちで立ち尽《つ》くす。
闘いの決着も、おおかたついていた。
勝った刺客もいる。
しかし、その男たちを、人々が取り囲む。
「何をする気だ!」
誰《だれ》かが叫《さけ》ぶ。
「ヘルルダルを守れ」
「大神の御使《みつか》いを守れっ」
真っ先に叫んだのは、ヴァユラの仲間だったが、人々は喜んでそれに呼応《こおう》した。
「ヘルルダルを守れっ」
「大神の御使いを守れ」
その声は、広場の隅々《すみずみ》にまで広がった。
「そうだ、ヘルルダルを守れ」
声を張りあげたのは、シルバだった。
「わが友たちを、守れっ」
シルバは、ティーエとドラスウェルクの手を取り、高く掲《かか》げさせた。
「ヘルルダル……」
人々は声をあげる。
「御使いたち……」
「皆、聞け」
シルバは、人々に語りかける。
その装束《しょうぞく》で、人々にはシルバが何者であるかわかるようだ。
「人々は、救《すく》われたのだ」
シルバは、声を張りあげる。
「我々の力で、世界は救われたのだ」
いつの間にか、わが友から我々になっている。
「大神は、皆の願いをお聞き届けくださるだろう」
隠《かく》しているが、シルバにも呪力がある。シルバは感じているのだ。
地流の本来の流れを妨《さまた》げる何かが消え失《う》せたことを……
「これからは、天災は減《へ》って行く。大神が、お約束くだされたのだ」
人々はざわめく。
喜びの色のあるざわめきだった。
「皆、喜べ」
シルバも嬉《うれ》し気《げ》な様子を見せる。
「そして、この二人に感謝《かんしゃ》せよ」
「おおっ」
「ああっ!」
人々は声をあげた。
三人に向かって手を合わせた。
「この男……」
ジャカンは、グラウルに言う。
「やはりこの男でございます」
グラウル、ジャカン、そしてマルバ・シレルの足元に横たわっているのは、レスドゥの屍《しかばね》だった。
レスドゥの存在をジャカンに教えたのは、グラウルだった。
魔術師《まじゅつし》の勘《かん》で、それを嗅《か》ぎ当てたのだ。
「わたしの父を、死に追いやった男。カリスウェン様を、執拗《しつよう》に狙《ねら》った男。こいつです」
「わしには、この男の心の動きが、一瞬、全て読めたのだ」
グラウルは言った。
「焦《あせ》っていたのかもしれんな。気配を消すことも忘れていたのだろう」
「これまでやって来たことの報《むく》いです」
若いシレルは言った。
「今迄《いままで》、どれほどの人を苦しめて来たか」
レスドゥに、まだ意識《いしき》があったら、反論《はんろん》したかもしれない。
自分たちは、ただ、ローダビア政府の命令を果たして来ただけなのだ、と。
しかしもう、息は完全に絶《た》えていた。
「これから、どうなるのでございますか?」
シレルが師に問う。
「皆は、無事にこのローダビアを脱出《だっしゅつ》できるでしょうか」
「それは、問題はあるまい」
グラウルは、言った。
「あの男……」
グラウルは、シルバを顎《あご》で示した。
「あの男には、皆を安全に国外に出さねばならない理由ができたのだからな」
「理由……でございますか」
頭の良いシレルも、すぐにはわからなかった。
「トバティーエは奇跡《きせき》を起こした」
グラウルは言う。
「その形は見えなくとも、ここに居る群集《ぐんしゅう》は感じているのだ。おそらく、大陸じゅうの、祈《いの》りに加わった人々がな」
「大陸じゅう……でございますか」
「祈りは、必ずしも一方向のものではないのだ」
グラウルは、弟子《でし》に教える。
「強い祈りは、何かを動かす。そして、人はそれを感じる。呪力を持たない者でも、心からの祈りは、弱い呪力に匹敵《ひってき》するものなのだ」
「はい」
「それが、何千、何万、いや、何十万と集まって一つになれば……」
「皆が、それぞれに危機感《ききかん》を持っていますから」
止めていた息を吐《は》きながら、シレルは大きく頷《うなず》いた。
「わたくしも、心から祈っていました。皆に引き摺《ず》られるように」
それが、大多数の人々の実感だろう。
「なにか、心がひとつに融け合ったような気がしました」
「そうだ……な」
グラウルは、僅《わず》かに笑った。
グラウルも、祈りの間じゅう、全精神を籠《こ》めて念をティーエに送っていた。
魔術師と呼ばれる男の念である。
しかし、それでも、大勢の人々の心からの祈りに優《まさ》ることはないのだ。
「だから、コーナムの人々は、トバティーエを神の使いと崇《あが》めている。もちろん」
グラウルは付け加える。
「神とは、ラサ・ソグドだがな」
人々は、それぞれが住んでいる場所で信じられている神を信仰《しんこう》する。
だが、その心は同じなのだ。
「もう、ソグドム教は、トバティーエたちを生贄《いけにえ》にすることはできまい」
「本当に大丈夫《だいじょうぶ》なのでございますか」
シレルは、それが心配だ。
なぜなら、ソグドム教で生贄にされるのは、最も力があり、神に愛《め》でられそうな者だからだ。
今のティーエとドラスウェルクが、そうではないか。
「トバティーエは生きて、生贄になって死ぬよりも偉大《いだい》なことを成《な》し遂《と》げたのだ。もう殺せぬ」
グラウルは言う。
「ソグドム教の教典《きょうてん》にあるのだ。生贄の儀式から生還した者は、神の使いだとな」
「そういう訳だったのでございますね」
シレルは納得《なっとく》した。
「かれらは、トバティーエに手は出せない。かといって、このままローダビアに置いてもおかれまい」
「なぜでございましょう」
「ソグドムの神官たちにとって、最も扱《あつか》い難《にく》い者だからだ。いわば、生き神。下手《へた》なことをすれば、自分たちの地位が危《あや》うくなる。国外に出してしまって、民衆《みんしゅう》には、自然に忘れさせるのが、一番|無難《ぶなん》だ」
「なるほど」
「あの、バリム・ソグドにしても、もうトバティーエを側《そば》に置いておきたくはなかろう」
ソグドムの楽隊が、音楽を奏《かな》で始め、巫女《みこ》たちが花を撒《ま》く。
人々には、喜びの色が広がっていく。
いつもの生贄の儀式もこうなのだろうか、とシレルは考えた。
ただ、いつもは、ピラミッドの上で血が流された後に、人々は祝《いわ》うのだ。生贄の心臓《しんぞう》を神に捧《ささ》げるのだ。
早くアドリエか太陽帝国に戻りたい、とシレルは心から思った。
そのアドリエでも、太陽のピラミッドの周辺では祭りとなっていた。
人々は、久しぶりに浮《う》き立《た》っている。
先王イルアデルの死以来、アドリエでは内乱が絶《た》えなかった。
その憂《う》さもあって、祭りで、人々の気分は高揚《こうよう》している。
システィリナは、摂政《せっしょう》でもある元帥《げんすい》ゼルフトと共に、人々を見守っていた。
「トバティーエは、使命を果たしたのでしょうかな」
ゼルフトはシスティリナに尋《たず》ねる。
絶大な人望があり、王家の人々の後見《こうけん》をして来た、高潔《こうけつ》の人である。
システィリナをも、陰《かげ》になり日向《ひなた》になり、守って来てくれた。
ただ、さすがに、今の国内|状況《じょうきょう》は、ゼルフトをしても、収め難い。
先々代の王が力で捩《ね》じ伏《ふ》せ、無理に属国《ぞっこく》として従《したが》えた国々が、独立の狼煙《のろし》をあげたのだ。
今の女王には、行政能力も権威《けんい》も殆《ほとん》どない。
それを見極《みきわ》めたからだった。
これも、当然のなりゆきなのかもしれない。
さすがに、ゼルフトも、近ごろは少々|疲《つか》れを感じ始めていた。
先王イルアデルの頃《ころ》は、まだよかった……
こうして、システィリナと話をしていると、心からの安らぎを覚えるのだが。
「しばらく後に結果が出るでしょう」
ゼルフトの問いに、システィリナは答えた。
「しばらく後、とは……」
「星《セイタ》神殿の観測《かんそく》で、はっきりするということですわ」
「なるほど」
ゼルフトは頷《うなず》いた。
大地の変化は、地道な観測でわかるものなのだ。
ゼルフトは、ティーエの顔を思い描《えが》いていた。
先王イルアデルと瓜《うり》二つの面差《おもざ》しは、システィリナにもやはり似《に》ていた。
イルアデルの分も、幸福《しあわせ》に生きてほしいと願うのだが。
アステ・カイデの太陽のピラミッドの周りの人々は、未だ静まり返っていた。
見たものの衝撃《しょうげき》が、あまりにも強かったからだった。
人々は見たのだ。
祈りが最高潮《さいこうちょう》の時だった。
突如《とつじょ》、ピラミッドの底の方から、光が湧《わ》き上がって来た。
それは一条の太い光の柱となって天に突《つ》き抜《ぬ》けた。
実際には、一分に満たなかっただろう。
しかし、人々には、ひどく長い時間に思われた。
光が湧き昇《のぼ》る前に、地面は激《はげ》しく揺《ゆ》れた。
それでも、逃げようとする者はいなかった。
そして、天を貫《つらぬ》こうとする光の柱。
青天白日の下《もと》でありながら、眼《め》が眩《くら》むほどの輝きを放っていた。
「皆さん」
静かな呼びかけが響いた。
大祭司《だいさいし》カリスウェンだった。
傍《かたわ》らには、巫女王《みこおう》レイトリンもいる。
人々が逃げなかったのは、この二人が全く動じることなく祈り続ける姿を見たからだった。
光も、天に向かって弾《はじ》けた圧倒的《あっとうてき》なエネルギーも、この二人の髪《かみ》の毛|一筋《ひとすじ》たりと損《そこ》なうことはなかった。
「もう、終わりましたよ」
それは、以前の優雅の発信人たる第六侯《だいろっこう》ハマン・カリスウェンが、
「もう宴《うたげ》は終わりましたよ」
と出席者たちに告《つ》げる姿もかくや、と思わせるほどにおっとりとし、洗練《せんれん》された様子だった。
大分|伸《の》びた髪は、もう星《セイタ》神殿の神官|独特《どくとく》の、百本以上の細かい三つ編《あ》みを結《ゆ》えるようになっている。
この髪型は、カリスウェンの優雅《ゆうが》さを、更《さら》に際立《きわだ》たせた。
「今の光は、|宇宙の神《オリハ》が、大地から悪《あ》しきものを吸い上げてくだされたものなのです。皆の祈りが、通じた証拠《しょうこ》なのです」
カリスウェンは、儀式用の大祭司の服を着ていた。
それは、藍色《あいいろ》の、ごくごく薄《うす》く織《お》られた最上級の麻布《あさぬの》を何枚も重ねた足首|迄《まで》ある長い服の上に、一枚の、銀糸《ぎんし》で沢山《たくさん》の星々を刺繍《ししゅう》したものを重ねて更に長く裾《すそ》を引く銀糸で織《お》られたマントを羽織《はお》るというものだった。
巫女王たるレイトリンの装束《しょうぞく》は、銀糸の縫《ぬ》い取りのある白い服に、金のマントである。
周りには、太陽《アト》、月《トバ》、星の各神殿の神官たちや巫女――星神殿は、男ばかりである――たちが居並んでいた。
むろん皆、カリスウェンとレイトリンに倣《なら》って、祈りに専念《せんねん》していた。
「大陸は、大いなる喜びに包まれるでしょう」
カリスウェンは、人々に呼びかけた。
「皆さん。祝いましょう」
その時初めて、辺りから歓声《かんせい》が起こった。
カリスウェンは恭《うやうや》しくレイトリンの手を取ると、共に高く掲《かか》げた。
二人は、微笑《ほほえ》みを交わした。
ティーエは、神官たちに担《かつ》がれるようにしてピラミッドから降ろされた。
巫女たちが、踊《おど》りながら、その周りに色とりどりの花びらを撒《ま》く。
華《はな》やかな行列となって、一同は会堂《ユーマラ》に戻った。
ティーエは、三日間眠り続けた。
もう、精《せい》も根《こん》も尽《つ》き果てたようで、ぐったりと力を失い、その顔は蒼白《そうはく》だった。
ラクシは、ときどき鼻と口の辺りに手を翳《かざ》して、呼吸しているのを確かめずにはいられなかった。
シルバは、ときどき様子を見にやって来ると、ドラスウェルクに協力させ、ティーエに癒しの力を注ぎ込んだ。
ティーエを利用はしたが、ティーエが何を成し遂げたのかは、良くわかっている。
「ラクシ、心配することはない」
シルバは、側《そば》でティーエを覗《のぞ》き込んでいたラクシの手を取り、ティーエの手に重ねさせた。
「呼びかけるのだ。こちらに戻って来るように、と」
シルバは言った。
「おまえの声ならば、トバティーエに届くだろう」
いつもなら、恥《は》ずかしがって、かえって少年のような態度《たいど》で引き退《さが》ってしまうラクシだったが、今は、ティーエの手を離さなかった。
「トバティーエが回復し、旅ができるようになれば、おまえたちは、好きな所に行くがいい」
シルバは、ボイスに言った。
「全ての便宜《べんぎ》を図《はか》らせよう」
「ありがとうございます」
恭《うやうや》しく礼を述《の》べたが、むろんボイスは納得《なっとく》などしていないのだ。
結局、シルバはティーエやドラスウェルクを良いように利用したのだから。
だが、それもティーエにとっては、どうでもいいことなのだろう。
ティーエは、使命を果たしたのだし、シルバは、意図することは別にあっても、その遂行《すいこう》に力を貸してくれたのだから。
“ああ……戻って来て……”
ラクシは、心の中で呼びかける。
“好きなのよ。戻って来て”
ティーエの手を、両《りょう》の掌《てのひら》で握《にぎ》りしめる。
“ティーが死んだら、わたしも死ぬわ”
ティーエの瞼《まぶた》が、微《かす》かに動いたように思われた。
数日後、ティーエの一行は、コーナム市を後にした。
ドラスウェルクも一緒《いっしょ》だった。
グラウルたちも、同じ頃《ころ》に出発していることだろう。
向かったのは、太陽帝国のアステ・カイデだった。
ティーエには、見届けなければならないことが一つ残っているのだ。
水晶《すいしょう》である。
もう一度、水晶を封印《ふういん》しなければならない。
これ迄《まで》以上に厳重《げんじゅう》にだ。
それでも、エネルギーはまた少しずつ漏《も》れるのかもしれない。
その時のために、布石《ふせき》も打っておかなければ……
河口の港町から、一行は船を乗り換《か》えた。
船は海に出て行く。
さっそく、まるで歓迎《かんげい》するように海豚《イルカ》の群《む》れが船に伴走《はんそう》し始めた。
「わあ、海豚だっ」
ドラスウェルクが喜んだ。
ドラスウェルクは今こそ、こうして大海原《おおうなばら》を回遊する海豚たちと同じように、自由になれたのだ。
「もうこれで、ドラちゃんが生贄《いけにえ》にされることはないんだね」
ドラスウェルクの姿を見守りながら、ラクシが言った。
「アステ・カイデに着いたら、とりあえず、カリスウェン様のところか、キリに預《あず》けるつもりです。きっと、カリスウェン様が守ってくださるでしょう」
「預けるって……おまえは、どうすんだよ」
ラクシは、首を傾げる。
ドラスウェルクをカリスウェンに預けて、ティーエはまた、どこかに行くつもりなのか。
「後始末が済《す》んだら、わたしはあなたの故郷《くに》に行くつもりです」
「おれのっ……くにっ」
ラクシは、舌《した》を噛《か》みそうになった。
「おれのっ」
「だって、お兄さんの治療《ちりょう》をしてほしいのでしょう」
ティーエは、ラクシの反応に、困ったように言った。
もちろん、それはラクシの心からの願いだった。兄の病気を治せるのはティーエしかいないのだ。
「でも……おれの故郷なんてさ……」
そこは遥《はる》か遠くで、山の中で、しかも貧《まず》しく過酷《かこく》な場所だ。
「あなたの想《おも》いが、わたしの中に流れ込んで来たんです」
ティーエは、少々はにかんで続ける。
「あなたがわたしの手を取り、ずっと呼んでくれていた時に」
「だって、おまえ、今にも力|尽《つ》きて、死にそうだったんだもん」
ラクシはそう言った後で気付いた。
「おまえっ、おれの心を読んだんだなっ」
「あの……」
ティーエは困ったような顔をした。
「わたしの手を取れば、心の中のことが、全《すべ》て流れ込んで来るのですよ」
「そ……それは、知ってるけど……」
ラクシの頭の中は、しばし混乱《こんらん》した。
では、これからも、ティーエに触《ふ》れる度《たび》に、心の中のことは、全て筒抜《つつぬ》けになってしまうのか。
「あなたは、特別なんです」
ティーエは眼《め》を細めてラクシを見る。
「ひとの心配ばかりしていて……温《あたた》かくて」
ティーエは、ラクシの手を取った。
「よせよっ」
ラクシは、その手を引っ込める。
赤くなっていた。
「皆《みん》なが見てるじゃないかよっ」
側《そば》には、ボイスもマンレイドも、バリカイもターリスもいるのだ。
「ラクシの故郷って、山里の小さな国だって言ってたわよね」
微笑《びしょう》しながら、マンレイドが言った。
「うん、隠れ里みたいな、山ん中さ」
「そこなら、落ちついて赤ちゃんを産んで、育てることができそう」
「え……だって、すごく貧《まず》しくて、何もない所だよ」
ラクシは、慌《あわ》てた。
「でも、平和でしょ」
マンレイドは、ボイスを振り返る。
「赤ちゃんは、平和な所で育てたいわ」
「金《かね》なら、あるさ」
そう言ったのは、バリカイだった。
「ボイスは、自由戦士として稼《かせ》いだ金の殆《ほとん》どを組合に預《あず》けているからな。まあ、一生|喰《く》いっぱぐれはないぐらいには貯《た》めているさ」
「ひとの懐《ふところ》の心配などしないでくれ」
ボイスは、渋面《じゅうめん》を作って見せた。
「とにかく、おれは、マンレイドの意見に賛成《さんせい》だ」
「でも……お父上の名誉《めいよ》を回復《かいふく》するために、トリニダに戻るんじゃなかったの?」
ラクシは、ボイスやマンレイドから、ボイスがどうして故国トリニダを棄《す》て、戦士になったかを聞かされていた。
トリニダ王国の宰相《さいしょう》だったボイスの父は、実《じつ》の弟の陰謀《いんぼう》に嵌《は》められ、処刑《しょけい》され、ボイスの母と兄も自ら命を絶《た》った。
ボイスは、いつか父の汚名《おめい》を雪《すす》ぐと、誓《ちか》ったのだ。
「子供の方が先だと、おれも思ったのさ」
ボイスは言った。
「復讐《ふくしゅう》よりも、名誉よりも、生まれてくる者の方が大切なんだと、思い知った」
ボイスは、優しくマンレイドの肩《かた》を抱《だ》いた。
「おまえの故郷を住み易《やす》くするように、協力するよ」
ラクシの胸に、新たな希望が湧《わ》いてきた。
ティーエ、ボイス、それにマンレイドの協力があれば、故国新イタールには、希望がもたらされるのではないか、と。
新しい国造りが、できるかもしれない。
とにかく、アステ・カイデに戻るのだ。
ジッダも待っている。ジッダの将来は、本人に任《まか》せよう。
ボイスはそう思った。
ティーエも同じように考えているだろう。
「あんたたちは、どうする?」
ボイスは、バリカイとターリスに尋《たず》ねた。
「おれか……」
顎《あご》をしごいて、バリカイはしばし考えた。
「まあ、もう二、三年、傭兵《ようへい》で働いて、引退《いんたい》するさ。どこかに、居酒屋でも開いてな。その時には、姐《ねえ》さん」
バリカイは、ターリスに言った。
「おれの店に、ときどきは、顔を出してくれよ」
「顔を出す……」
ターリスは、バリカイの言う意味……裏《うら》にある意味を測《はか》りかねた。
「一緒《いっしょ》に、店をやるってのも、いいんじゃないかね」
それは……どういうことか。
「あたしは……ヴァユラだよ」
「ヴァユラなんて、知っちゃいないね」
ターリスの言葉に、バリカイはすぐさま言った。
「あんたは、最高の戦士だ」
バリカイは続ける。
「そして、最高にいい女だよ」
それを聞いて、ターリスは赤くなった。
「なんだよ」
海豚《イルカ》に夢中になっていたドラスウェルクが、しらけた口調《くちょう》で言った。
「ぼくだけ、仲間外れじゃないか」
航海《こうかい》は順調《じゅんちょう》だった。
まるで空と海とに祝福《しゅくふく》されているように、海流とほど良い風とに恵《めぐ》まれた。
少なくとも、海流は元に戻っているようだった。
本当に、大災害の時代の到来《とうらい》を防《ふせ》げたのなら……
いや、そのはずだった。
とにかく、しばらくは、そうなるはずだ。
――完――
あとがき
長らくお待たせしました。
やっと、物語を完結させることができました。
「風の大陸」本編《ほんぺん》はめでたく終了しましたが、関連の物語はこれからも書き続けるつもりです。
どんな話を読みたいか、御要望《ごようぼう》があれば、編集部までお寄せください。
この結末は、十年以上前から懐《ふところ》にしまっていました。
バイオスフィア、だったかしら……アリゾナの砂漠《さばく》を、宇宙環境に見立てて、その只中《ただなか》に、外界とは隔絶《かくぜつ》された世界を作り、中で生活しながら、様々な実験をする、という施設《しせつ》があります。来るべき宇宙旅行――星間の、長い旅行――に備えるためです。
その施設を創《つく》った人の一人、アレン博士に、あるご縁《えん》があってお会いしたのが、十数年前でした。そこで、博士から、次に計画していることをうかがったのですが、それは、北米から中米にかけてを貫《つらぬ》いている、エネルギーの流れを利用して、通信をする、というものでした。
アメリカ大陸にもとから住んでいる人々、つまり、インディアンと呼ばれているネイティブの人々は、それを知っており、呪術《じゅじゅつ》で通信している。そんな話でした。
風水の竜脈《りゅうみゃく》とか、そういうものを知る、何年も前のことです。
でまあ、以前から考えていた結末と、地流というものが結びついた訳《わけ》でした。
本当に偶然《ぐうぜん》なのですが、バイオスフィアはガラスでできたピラミッドです。
結末を考えてしまえば、あとは、ティーエたちが動いてくれました。
さて、「風の大陸」本編は完結しましたが、それは、長い間の連載《れんさい》をそのまま本にしましたので、前の方の説明やら、重複《じゅうふく》した部分も多々あります。
そこで、多分秋頃になるかと思いますが、一気に――それでも長いですが――読むことのできるような、決定版を纏めるつもりでいます。
途中《とちゅう》から読み始めた方々など、お手にとっていただきたいと思います。
最後に、原稿《げんこう》の遅《おそ》い私に、ずっと付き合って、素晴《すば》らしいイラストを描《か》いてくださったいのまたさん、マンガにしてくださった橋本さんに感謝します。
歴代《れきだい》担当編集者の皆《みな》さま、アニメにしてくださった皆さまにも感謝します。
誰《だれ》よりも「風大FC《ファンクラブ》」の皆さま、そして全ての読者の皆さまに……
二〇〇六年 三月 極楽庵|山桜《さんおう》
同時発売の単行本「異人街変化機関《いじんがいへんげからくり》」もよろしく。
富士見ファンタジア文庫
風の大陸 最終章 祈り
平成18年4月25日 初版