目次
ビルマの竪《たて》琴《ごと》
第一話 うたう部隊
第二話 青い鸚哥《インコ》
第三話 僧《そう》の手紙
ビルマの竪琴《たてごと》ができるまで
あとがき
解説(中村光夫)
『ビルマの竪琴』余聞(平川祐弘)
ビルマの竪《たて》琴《ごと》
兵隊さんたちが大陸や南方から復員してかえってくるのを、見た人は多いと思います。みな疲《つか》れて、やせて、元気もなくて、いかにも気の毒な様子です。中には病人になって、蝋《ろう》のような顔色をして、担《たん》架《か》にかつがれている人もあります。
こうした兵隊さんたちの中で、大へん元気よくかえってきた一隊がありました。みないつも合唱をしています。しかもそれが、むずかしい曲を二重唱や三重唱で上手《じょうず》にうたうのです。横《よこ》須賀《すか》に上陸したとき、出《で》迎《むか》えていた人々はおどろきました。そうしてたずねました。
「きみたちはそんなにうれしそうに歌をうたって、何を食べていたのだね」
べつに食物がちがっていた訳ではないのですが、この隊はビルマにいたあいだ、いつも歌の練習をしていたのです。隊長が音楽学校を出たばかりの若い音楽家で、兵隊たちに熱心に合唱をおしえたのです。それで、この隊は歌のおかげで苦しいときにも元気がでるし、退屈《たいくつ》なときにはまぎれるし、いつも友達同士の仲もよく、隊としての規律もたっていました。長い戦争の間には、こうしたことがどれほど助けになったか分りません。この隊が元気よくかえってきて、出迎えの人々をおどろかせたのは、こうした訳だったのです。
この隊にいた一人の兵隊さんが、次のような話をしてくれました。
第一話 うたう部隊
一
ほんとうにわれわれはよく歌をうたいました。嬉《うれ》しいときでも、つらいときでも、歌をうたいました。いつ戦闘《せんとう》がはじまるかもしれない、そして死ぬかも分らない、せめて生きているうちにこれだけは立派にしあげて、胸一杯《いっぱい》にうたっておきたい――、そんな気がしていたからかもしれません。隊の者はみな心からうちこんで練習をしました。それも、なるべく深みのあるすぐれた歌をうたいたがりました。下らない流行歌などはいやがって、誰《だれ》も口にする者はありませんでした。それで、もちろんお百姓《ひゃくしょう》や労働者だった人が多いのですが、わが隊の合唱はずいぶん高尚《こうしょう》なむずかしい曲までこなしていました。
いま思い出しても楽しかったのは、ある湖のほとりでした合唱です。
われわれは行軍をして、鬱蒼《うっそう》とした森の中の谷を下ってゆきました。すると行手に湖が見え、そのまわりに町が白い斑点《はんてん》のようにうかんできました。
その町はむかしビルマの王様の離宮《りきゅう》のあったところでした。入江のほとりに白い壁《かべ》の家が群《むら》がって、なかば水につかって、影《かげ》をうつしています。めずらしい形をした円《まる》屋根《やね》、鐘《しょう》楼《ろう》、尖塔《せんとう》などが空にそびえています。
この空の色が、熱帯ですからじつに綺《き》麗《れい》なのです。蛋白石《たんぱくせき》という宝石を御《ご》存《ぞん》じですか。ちょうどあのような白い色に光って、その中にさまざまな複雑な光がまじってキラキラとしているのです。こうした空に、あの円くうねった大理石の塔が立っているところは、まったく夢《ゆめ》の中のようでした。
われわれは三日ほどこの町に駐屯《ちゅうとん》して毎日合唱しました。その曲は「春高楼《はるこうろう》の」だの「菜《な》の花畠《はなばたけ》に」のようなむかしなつかしいものから、賛美歌の節《ふし》もあり、くだけたものでは「パリの屋根の下」、それからもっとむずかしいドイツやイタリアの名曲まであるという風でした。
ここの湖のほとりで、隊長はうれしそうに指揮棒をふりました。われわれも胸の底から声をだして、自分たちの合唱にききいりながら、この絵のような湖にむかって歌をうたいました。
それから、わが隊のお得意の「はにゅうの宿」を、三重唱四重唱にしてくりかえして練習しました。
「はにゅうの宿」――この故郷の家をおもう歌は、いつきいても心にしみ入るような曲です。
われわれはうたいながら、この目の前の景色を故郷の家の人たちに見せてやりたい、この歌の声をきかせてやりたい、と思いました。
合唱が終ると、隊長はいいました。
「よし、きょうはこれだけにする。あしたはまたこの時間に、今度はあたらしい歌を練習する。分れ」
そして、隊長は一人の兵隊をよびました。
「おい、水島、伴奏《ばんそう》はできたかね」
水島とよばれたのは上等兵です。中背《ちゅうぜい》のやせた人で、ひきしまった体は日にやけてほとんどまっ黒ですが、大きなきれいに澄《す》んだ目が凹《くぼ》んでいます。
この人はこの隊に入ってからはじめて音楽を知ったのですが、元来天分があったとみえて、みるみるうちに非常な上達をしました。自分でも夢中《むちゅう》で音楽にこって、寝《ね》てもさめても歌のことを考えていました。ことに、自分で楽器をこしらえて合唱の伴奏をするのですが、それがすばらしい腕前《うでまえ》で、さまざまの曲にさまざまの伴奏を立ちどころに作りました。
いったいそんなところに行っていた軍隊に、楽器なんかがあったのか、とおっしゃるのですか。ありましたとも、いろいろの種類のじつにめずらしい楽器がありました。
兵隊たちのもっていた楽器をあつめたら、面白《おもしろ》い博物館ができると思いますね。兵隊はどこに行っても、暇《ひま》ができると、きっと誰かが楽器をつくります。中には専門家もいるのですから、不自由な材料をつかって、びっくりするほど立派なものを作りだします。吹奏《すいそう》楽器は、蘆《あし》や竹をきって穴をあけた簡単なものから、こわれた機械の部分品をとりつけた本式の喇《らっ》叭《ぱ》まであります。打楽器なら、木の枠《わく》に犬か猫《ねこ》の皮をはった鼓《つづみ》から、ドラム缶《かん》に何かの皮をはったのまで見たことがあります。虎《とら》の皮だといっていましたが、どうでしょうかね。とにかくすごい音がして、よく響《ひび》いて、その隊では自《じ》慢《まん》にしていたものです。
隊によっては、どうして作ったものか、ヴァイオリンやギターまで持っているものまでありました。
われわれの隊で一番よく使われていたのは、一種の竪琴《たてごと》でした。
これはビルマ人がひく竪琴をまねて作ったものです。この国の太い竹を共鳴体の胴《どう》にしてあります。それに、やはり竹を曲げてすげて、絃《げん》をはります。絃は銅、鉄、またはアルミかジュラルミンの針金です。低い音をだすのは革紐《かわひも》です。こうした絃をはって、音程を合わせると、それもずいぶん苦心の末ですが、めずらしい竪琴ができました。
水島上等兵はこの竪琴の名人でした。いろいろに工《く》夫《ふう》して曲をつくって弾《ひ》いていました。彼がこの竪琴をひくと、琵琶《びわ》とピアノのあいだのような音がいくつもからみあって、風の中にただよいます。しかし、日にやけて戦闘《せんとう》帽《ぼう》をかぶった兵隊がこうしたやさしい楽器を抱《だ》いて、夢中になって弾いているのですから、はじめての人が見たら、きっとおかしくて笑いだしたでしょう。
いま、水島上等兵は隊長にいわれて、その竪琴で自作の「はにゅうの宿」の伴奏をひきました。伴奏というよりも、ほとんど独奏曲といっていいくらい、手のこんだ面白いものでした。
兵隊たちはまわりに集まって、腕をくみ、目をつむって、この竪琴をききました。
あたりの空気は匂《にお》いがよく、しずかで、とろりとしています。竪琴の音は湖をわたって、とおくの森の下あたりの水の面《おもて》に谺《こだま》します。ここらの森は大きなチークの木です。そこに猿《さる》が跳《は》ねているのも見えますし、またさまざまの鳥がしきりに鳴きかわしているのもきこえます。
そのとき、とつぜん、どこからか一羽の孔《く》雀《じゃく》が舞《ま》いだしてきました。しばらく兵隊のいる前をゆっくりと歩いていましたが、また舞いたちました。そうして、静かな大気の中にはたはたと翼《つばさ》の音をたてて、湖の面に影をおとしながら飛んでゆきました。
これはほんとうに楽しい思い出です。
二
しかし、そのうちに戦局が次第にわるくなり、ついには誰の目にもとうてい見込《みこ》みがなくなりました。そして、われわれは見知らない国を、山から山と逃《に》げてあるくことになりました。何とかして国境の山脈を越《こ》えて、東のシャムに入ってしまおうとしていたのです。あるときは、わざと嶮《けわ》しい間道《かんどう》をえらんで幾《いく》時《じ》間《かん》もよじ登りました。あるときは、深い谷にかかって風にゆれている吊橋《つりばし》をわたりました。トラックが次第に損じて役にたたなくなりましたから、しまいには、荷物は牛車にのせてひっぱったり、肩《かた》でかついだりしました。こうして村から村へと食糧《しょくりょう》を求めながら行くのですから、ずいぶんみじめでもあり、危険でもありました。
幾度もおそろしい目にあいました。もうとてもだめだ、と思ったこともありました。ところが、そういうときには、水島上等兵の竪琴がふしぎなくらい役にたちました。
ある夜などは、幾《いく》重《え》にも重なった山の中で、いつのまにか敵にかこまれてしまいました。そして、しだいしだいに追いこまれて、とうとう狭《せま》い谷に入りこんでしまいました。木の間をもれる星あかりですかして見るだけですから、道もよく分りません。われわれはまったく進退きわまりました。
敵軍は左右の山の尾根《おね》の上にむらがって、灯火を振《ふ》ってたがいに合図をしながら、われわれのありかを探しています。銃火《じゅうか》がしきりに頭の上をとび交《か》います。空気の中でキーッと絹を裂《さ》くような音がします。それがながい尾をひいてもう終るかと思うころに、おそろしい音をたてて破《は》裂《れつ》して、このせまい谷の中に反響《はんきょう》します。そして、土や岩がくずれおちてきます。
――もうここで全滅《ぜんめつ》するほかはないかもしれぬ、と思いました。そうして暗い谷底のしめった木の陰《かげ》に坐《すわ》りこみました。みな覚《かく》悟《ご》をきめています。そして、シーンとして、背を曲げて、じっと目を見ひらいて闇《やみ》の中をみつめていました。自分の胸の動《どう》悸《き》がどくどく音をたてて、のどのあたりまで高く鳴っているのがきこえました。
山の上では、なおしきりに灯火がゆれて合図をして、あちらこちらに動いています。
そのうちに、そうしてじっと坐っているのにたえかねたとみえて、隅《すみ》の方で呟《つぶや》く声がおこりました。
「なむあみだぶつ……、なむあみだぶつ……」
すると、それを叱《しか》る「しっ!」という鋭《するど》い声がしました。水島上等兵の声です。そうしていいました。
「いつどこに敵の斥候《せっこう》がきているか分らんぞ」
人々はまた黙《だま》りました。そうしてふたたび、遠くにおちる砲弾《ほうだん》、思いもかけぬ近いところで目を眩《くら》ますような光をあげて炸裂《さくれつ》する照明弾、土や岩がざーっと落ちる音、木の幹が裂ける音などが、あちらこちらにひびきました。
それがすこししずまったとき、水島が隊長のそばににじりよって何事かをささやきました。そうして、隊長と打ちあわせてから、単身で、竪琴をかかえてそばの崖《がけ》をよじのぼりました。空には星がぎらぎらかがやいているので、そのうしろ姿は木の枝《えだ》の間にかなりながく見えていましたが、まもなく崖の上の岩影のかなたに消えました。
それを見送ってからすぐのようでもあり、またよほどたった後だったようにも思えましたが、不意に、われわれの坐っているところから十メートルほどの木立の中で、木の枝が折れる音がしました。それから、しげみをがさがさと踏《ふ》み分ける人の足音がきこえました。二人の人間が話しています。それが英語でした。
「おい、やっぱりこちらの谷じゃないよ。さっきの音は獣《けもの》だよ」とよくひびく若い声がいいました。
それから二人はしばらく黙っていましたが、また別の声がいいました。
「ああ、煙草《たばこ》がすいたい」
「あぶないぞ、やめろ」と前の声がとめました。
「なに、大丈夫《だいじょうぶ》だ。この谷にはいないよ」
二三度マッチをする音がして、そちらの方がぼーっとあかるくなりました。見ると、二人のイギリス兵が石の上に腰《こし》かけています。マッチの焔《ほのお》が、赤い頬《ほお》と水色の目をてらしています。これは斥候です。マッチの光はすぐ消えました。われわれは息を殺してじっとしていました。知っていて眺《なが》めると、暗い中でもわれわれ日本兵がうずくまっているのがありありと分るのですが、むこうはそれに気がつきません。
片方のイギリス兵がひくく口笛《くちぶえ》を吹《ふ》きました。すると、別のイギリス兵もそれに合わせて小声でうたいました。
それは「ほたるの光」の節でした。そのうちに一人がいいました。
「ああ、国では、うちのものは、どうしているかなあ!」
そのときに、尾根を越してむこうの谷の中から、竪琴の音《ね》があがりました。はじめはしずかなさびしい節でしたが、そのうちにはげしい調べになりました。きいたことのない即《そっ》興《きょう》の曲です。
闇の中の煙草の火はおどろいたように立ち上りました。そうして叫《さけ》びました。
「なんだ、あれは、あの音は? おれの空耳《そらみみ》かしらん」
「いや、きこえるぞ。だがふしぎな、そして美しい音楽だなあ!」と別の声がいいました。
見ているうちに、山の上の灯火の群はうごきはじめました。そうして、一所によって集まり、しばらくすると竪琴の音のするむこうの谷の方に降りてゆきました。
われわれの近くの闇の中では、せきこんだ調子で相談していました。
「あちらの谷に行ってみよう。日本兵かもしれん」
「ばかな。きっと土民の部落があるのだろう。きいてみたら、日本兵がどこにいるか分るだろう」
こういって、二人の斥候兵はいそいで崖をのぼってゆきました。
竪琴の音はしばらく絶えましたが、ふたたび今度ははるか遠方できこえました。こちらの兵が様子を見にゆくと、敵兵の灯火はこんなにして次第々々にとおくにさそわれてゆきました。
こうしてわれわれは救われました。水島上等兵は翌朝になって、岩角や木の枝ですりむいて、傷だらけになって、本隊にかえってきました。
また、こんな風にして逃げているときに、われわれはよくグルカ兵に襲《おそ》われたことがありました。あの草色の制服をきて、曲った短刀を革帯《かわおび》にはさんだ剽悍《ひょうかん》な土民兵は、森の中の木によじのぼっていて、われわれが下を通ると、急に上から自動小銃で掃射《そうしゃ》をしてきました。このグルカ兵が一番おそろしいので、グルカ兵が近くの村にいるときくと、われわれは行手をかえて避《さ》けて通ったものでした。
それで、これはあぶないと思う森にさしかかると、いつも水島上等兵が軍服をぬいで、ビルマ人の服装《ふくそう》にかえました。この姿で斥候にゆくのです。
ビルマ人と日本人はよく似ています。ただビルマ人は髯《ひげ》がうすいので、日本人でも髯のこい人は見分けられます。しかし、水島はまだ髯もうすい二十二歳の青年で、それにビルマ人によく似た、大きな澄んだ目をしています。膚《はだ》はすっかり日にやけています。それになにより、ビルマ人のような熱帯の人間はここのきびしい気候にくるしめられているせいか、どこかじっと考えこんでいるような、悩《なや》んでいるような顔つきをしているのですが、水島もずいぶん大胆《だいたん》な思いきったことをする性質でありながら、そういう様子があります。それで、彼が裸《はだか》になって、赤と黄の模様のあるルーンジという腰巻のようなものをすると、どう見ても生れながらのビルマ人でした。
そういう恰好《かっこう》の水島を見ると、われわれはよくおかしがって笑ったものです。そうしていいました。
「おい、水島、きみはビルマで暮《く》らした方がいいぞ。どこへ行っても可愛《かわい》がられるよ」
水島も笑って、自分の体をみまわしながら、知っているきれぎれのビルマ語をあつめて、いいました。
「わたし……ビルマ人……ビルマはいい国……」
彼はこういう様子をして、竪琴を抱いて、森の中に入ってゆくのです。
そうして、この道は大丈夫だと思うと、森の奥《おく》でビルマの歌をうたって、竪琴をひきます。それを聞くと、それまで待機していた部隊は行進をはじめるのでした。
あるとき、水島はこうして斥候に出て、グルカ兵に出会ったことがありました。正面のチークの大木の上に、一人のグルカ兵がつき出た枝に馬乗りになっています。あらい口髭《くちひげ》の下の赤い唇《くちびる》をかみしめて、するどい目をしてじっとこちらを見ています。気がついてみると、あちらにもこちらにも、高いところの木の葉の陰に、草色の服をきた姿が見えます。
もう道をよけることはできません。水島は度胸をきめて、ビルマの坊《ぼう》さんがうたう歌をうたいながら、まっすぐにその木の下にむかって歩きました。
すると、グルカ兵はきっとこれはビルマ人の旅の楽師だと思ったのでしょう。木の上から銭《ぜに》を投げてくれました。一人が投げると、他《ほか》の四五人がやはりばらばらと投げます。水島はそれを拾っておしいただきました。
枝にまたがっていたグルカ兵は足をぶらぶら揺《ゆ》りながら、大声でききました。
「おい、日本兵を見なかったか?」
水島は手をあげて、はるか遠くの山の麓《ふもと》を指《さ》しました。
グルカ兵はうなずいて、腰にはさんだ曲った刀を抜《ぬ》いて、手をのばして、匂いのいい木の実を切って、ほうってくれました。
水島はまたそれをおしいただきました。そして、竪琴をとりなおして、グルカ兵が大勢のぼっている木の下で一曲ひきました。それは、かねてからしめしあわせた、「危険だから来てはいけない」という合図の曲でした。
またあるときは、実に滑稽《こっけい》なことがありました。
こうして斥候に行った水島がいつまでたってもかえってきません。われわれは心配しました。ついに、第二の斥候を出そうとして支《し》度《たく》をしていると、ようやく森の奥から、かすかに例の歌がきこえてきました。「大丈夫だから来い」というのです。
隊長をはじめみなほっとして、森の中に入ってゆきました。すると水島が丈《たけ》のたかい草の中に中腰になって立って、うつむいて竪琴をひいていました。
そばによってみると、おかしなことには、水島はルーンジをしていないので、その代りに大きなバナナの葉を腰に巻いています。それが後につきだして、まるで鳥の尻《しっ》尾《ぽ》のようです。
どうしたのだ、といってわけをきくと、こうでした。
――水島がここまでくると、わき道からおそろしげなビルマ人が出てきて、ピストルをつきつけました。これは強盗《ごうとう》でした。日本兵が武器をすてて行ったので、それを使って、強盗が方々に出るようになったのです。しかし、ビルマ人はほとんど裸で、身につけているものはルーンジのほかはないのですから、奪《と》るものといってもそれだけです。そうして、この強盗も、水島にルーンジをぬいでゆけ、といいました。
水島はビルマ人の姿になって斥候に行くときは、わざと武器はもっていません。ここで腰巻一つのことで命をすてては、かえって役目がはたせないわけですから、彼はいわれるままにルーンジをぬぎました。
ところで、奇妙《きみょう》なことには、こうした強盗はバナナの葉をたくさんかかえているのです。ビルマ人はルーンジの下には猿股《さるまた》も何もしていません。ルーンジをとりあげただけでは不《ふ》体裁《ていさい》でもあり、きのどくでもあるというので、強盗の方で代りに腰にまとうものを用意していて、それを渡《わた》してくれるのです。そのいう言葉もおだやかです。ピストルをつきつけて、「おまえのルーンジとこのバナナの葉をとりかえてくれ」というのです。
ビルマはさかんな仏教国で、住民は極度に低い生活で満足していますから、人の心もおだやかです。よくいえば欲がなく、わるくいえば無気力です。あれだけの資源があり、国民の教育程度もたかいのに、近代の世界の国と国との競争に落《らく》伍《ご》したのも、これが一つの原因です。凶悪《きょうあく》な強盗などは、この国にはもともとなかったのです。あたらしい武器を手に入れてする強盗もこんな程度なのです。
強盗が水島のルーンジばかりに目をつけて、竪琴をとってゆかなかったのは、何より幸いでした。
こんなわけで、水島は燃えるような太陽に照らされながら、いきれのつよい草の中に立って、裸の体にバナナの葉を腰に巻いて、元気なく竪琴をひいていたのです。
われわれはそばによって、彼の肩をたたいていいました。
「どうしたのだ、その恰好は。狐《きつね》にでも化かされたのかい」
水島はてれくさそうに笑っていましたが、やがて、
「バナナの葉の腰巻は涼《すず》しくていいものだぞ。きみたちもやってみろ」と負け惜《お》しみをいいました。
三
こんな風にして、われわれは山から山、それから谷、それから森と歩きました。よくむかしの本には、落人《おちゅうど》は風の音にも胆《きも》をひやす、などと書いてありますが、私たちもそんなでした。
行く先々の村落に、落諜《らくちょう》といって、イギリス軍の飛行機から人が落《らっ》下《か》傘《さん》でおりて、いろいろな妨害《ぼうがい》工作をします。あるいは、村と村とがいつのまにか連絡《れんらく》をしていて、どこに行っても食糧がありません。そうかと思うと、せっかく村に入って泊《と》まっていると、村人がしらせたために、敵兵がわれわれを襲撃《しゅうげき》してきます。
こんな有様で、幾月も心やすまる日はありませんでした。しかし、原住民の中で日本兵に好意を示してくれる種族もあるので、それをたよりに、山また山を一つずつ越《こ》えてゆきました。
そのうち、ある日、われわれはある崖《がけ》の上の村に入りました。
「さあ、ここまで来ればもう安心です」と、このときはビルマ人の案内人をつれていたのですが、この人がいいました。背がたかくて、頭をすっかり青く剃《そ》りあげた人でした。その剃ったところに血管がふくれだしていました。彼は額の汗《あせ》をふきました。
「ごらんなさい、あの峠《とうげ》を越えればいいのです。そうすればもうシャムです」
この村は高い崖の上にあるので、足下にひろがる一面の見はらしはじつに立派でした。立っていると、身がひきしまるようなつめたい山の匂《にお》いがふいてきました。
指された方を見ると、向いの山脈の一カ所に日があたって、厚い森の上に青い靄《もや》のようなものがゆらいでいます。あそこの向う側に行けば、もう日本軍のいるところなのです。
「この村の近くには、イギリス軍も印度《インド》兵《へい》もグルカ兵もいません。今晩はゆっくりお休みになれます」と案内人はいいました。
たしかに、ここは心配がなさそうでした。他の村とはよほど離《はな》れています。この村の前は削《けず》りたてたような崖です。そこからのぞきこむと、はるかにふかい谷の底に急流が白い泡《あわ》を噛《か》んでいます。村のうしろも大きな崖です。その上に、鷲《わし》がぐるぐると輪をかいて飛んでいます。村の中央に広場があって、その左右は森ですが、それも熱帯らしい、ふかい、暗い、底がしれないような森で、われわれ五十人ほどの日本兵がここに入ってきたことは、容易にしれる筈《はず》はありません。
隊長は、ここで三日ほど十分に休養して、これから先の準備をする、といいました。
村からは、村長はじめ大勢の人が出てきて、迎《むか》えてくれました。われわれは広場に立っている大きな草《くさ》葺《ぶ》きの家をあたえられました。御馳《ごち》走《そう》もでました。酒まででました。兵隊たちは大いによろこびました。
がんらいビルマ人は酒を飲みません。仏教の戒律《かいりつ》をかたく守っているのです。それでも、近年は都会ではこの風習もくずれてそれほどでもなくなっていますが、田舎《いなか》ではまだ厳重なものです。それで、田舎の多いビルマの戦線では酒類を手に入れることは、ほとんどできませんでした。いまこの村では、とくにわれわれのために、どこからか無理して酒を手に入れてきたものとみえました。
村人たちはしきりにもてなしてくれました。それで、思いもかけぬ宴会《えんかい》になって、いつのまにか一種の演芸会のようなものがはじまってしまいました。
若い村人が十人ほど並《なら》んで、ここの民謡《みんよう》をきかしてくれました。みな髪《かみ》がちぢれて、目が青白くみえるほどぱっちりと澄《す》んでいます。しかし膚《はだ》は、この高い山地に住んでいるせいか、それほど黒くありません。かえってわれわれ日本兵の方が黒いくらいです。みな上半身は裸で、はでな色のルーンジをして、はだしでいます。うたう歌は騒《さわ》がしくきこえながら、よく聞くと、かなしげなものです。切れ目なくつづいて、もうしまいになるかと思うと、また勢いづいて長く尾をひきます。単調なものうい熱帯の哀調《あいちょう》です。
案内人が歌の意味を通訳してくれました。それは大体こんなことでした。
とおく雲の中に光っているヒマラヤの雪。
その融《と》けた流れに
わたくしたちはからだを洗う。
とおくどこかにかくれているおまえの心。
そのつめたい流れに
このあつい心を洗いたい。
村の人々がこれをうたっているあいだにも、いろいろな御馳走が運ばれてきました。赤い頬《ほお》をして白い髯《ひげ》をたらした村長は、しきりに酒をすすめてまわりました。
一人の日本兵が村長にむかってききました。
「ここからヒマラヤの山が見えるのかね」
すると、村長は目に皺《しわ》をよせて笑って、この人のくせでながい髯を両手でなでおろしながら答えました。
「ここからはとても見えません。村で誰《だれ》も見たものはありません。われわれはお経《きょう》や伝説できいているだけです」
そのお経や伝説を子供のときからきいているからでしょう、ビルマではヒマラヤの歌やはなしをよくききました。お寺ではその絵や彫刻《ちょうこく》を見ました。人々はあの大山脈を魂《たましい》のふるさとのように思って、生きているうちに一度は見ておがみたいとねがっているのだそうです。あの雪をいただいた山々が朝日や夕日にてらされて、雲のあいだに浮《う》かんで並んでいる有様は、まったく空に銀箔《ぎんぱく》か大理石を嵌《は》めこんだようで、この世のものとは思われないということです。そして、その麓《ふもと》には、いく千年か前にお釈《しゃ》迦《か》様《さま》が人間を救う道を考えて、ついに悟《さと》りをひらいた場所があるのです。この国の人々の気持の中には、こういうものがほんとうに大切なものとして生きています。そう思ってきくと、こういう歌にも、どこかお祈《いの》りをしているような調子がありました。
村人の歌がすむと、今度は私たちが合唱しました。何といっても長いあいだ練習をして、歌で評判の「うたう部隊」です。いろいろな曲をうたいましたが、ことに「荒城《こうじょう》の月」が非常な喝采《かっさい》でした。まったくこの曲は名作です。どこに行っても、どんな無教育な土民からもすぐに好かれたのは、ふしぎなくらいでした。
歌の声にひかれて、この村の人が大勢あつまってきました。この国の人々はお祭りがすきです。何かというと、すぐに山車《だし》をひきだして、うたって踊《おど》ります。この山の中の村人たちは、わが隊が入ってきてから、まるでお祭り気分でした。みなにこにこ笑って、あらそってわれわれをもてなす工夫をしてくれました。われわれの歌はそのお礼のつもりでした。
村人たちはわれわれの歌を、まるで儀《ぎ》式《しき》のときのようにまじめにきいていました。老人が閾《しきい》に坐《すわ》っています。子供たちが窓に腕《うで》をかさねて、その上に頤《あご》をのせて、のぞいています。家の前の広場の椰子《やし》の木の下にも、赤ん坊をおぶった女がしゃがんでいます。いずれもこの国の人々の癖《くせ》で、やせた手足をふかく折りまげて、じっと動かずに坐っているのです。
人々がことに感心をしたのは、水島上等兵の竪琴《たてごと》でした。彼は腰《こし》かけて、両膝《りょうひざ》のあいだに楽器をすえて、いつものように精魂《せいこん》こめてひきました。そうして、竪琴に飾《かざ》った蘭《らん》の花と赤い羽毛《はね》をゆすって、両手ではげしくかき鳴らしました。
すると、きき手の中から、一人の少女が跳《は》ねるような軽い足どりで出てきました。年は十二三歳《さい》で、胸と腰を布できりきりとしばって、腰には翼《つばさ》みたいに見える反《そ》りかえった飾りをつけています。しなやかな手足がつやつやと光っています。
髪の毛は丸くゆって、上に行くほど細くとがらしてあります。頭の上に小さな塔《とう》をのせているようです。
少女は部屋の真中に立って、満場を見まわしてから、踊りの姿勢をとりました。首をかしげ、左手はすっと前にのばして指をそろえて立て、右手は胸にひきつけて、掌《てのひら》を外にむけて、親指と人差指で輪をつくりました。そうして、すぐにも動きだしそうな様子で、大きな黒い葡《ぶ》萄《どう》の粒《つぶ》のような瞳《ひとみ》をうごかして、しきりに、竪琴をひいてくれ、と催促《さいそく》をするのです。
水島は竪琴をかきたてました。曲は「春らんまん」をマーチ風に変えたものです。
少女は踊りはじめました。首を横にむけ、足をたがいちがいにさせて、肘《ひじ》でも、手首でも、ありとあらゆる関節で直角をつくって、それをまた別な直角に折りかえながら、ゆっくりと踊りました。
ほそい手足はちょっと蛇《へび》のように動きます。掌がひらひらと翻《ひるがえ》って、あちこちに見えます。そして、足はゆるやかにさまざまな環《わ》をえがきます。まったく可愛《かわい》らしい、めずらしい、そして忘れられない踊りでした。
若者たちは口々にほめ言葉をあびせながら、花を投げました。
この踊りと竪琴はいくどもくりかえしを求められました。とうとうこれがしまうと、水島は村民たちの驚嘆《きょうたん》の声におくられて、部屋の隅《すみ》に行って、そこに腰をおろして、膝をかかえこみました。
戦友たちが水島にいいました。
「どうだ水島、一生ビルマにいて竪琴をひいていたいだろう」
水島は元来無口な男なのですが、このときもただふりかえって口に笑いをうかべたまま、黙《だま》っていました。そうして、前を見つめたまま、何かじっと考えこんでいるような風でした。
彼はふだんから、「何とはなしに、ただビルマが好きだ」とよくいっていました。この熱帯の風物――あかるい光線、つよい色彩、いたるところで胸にしみるような果物の匂い、さまざまの生き物、めずらしい風俗、そんなものに大へん心をひかれているようでした。自分がルーンジをつけると、まったくビルマ人のようになって、ビルマ人からも見分けられないのが、とても得意でした。そして、自分の義務をよくつくす人でしたが、一方にはのびのびとした自然の生活にあこがれる気持もあるとみえ、ビルマ人の旅の楽師などに会うと、よくそれをじっと見送っていました。その様子はほとんど羨《うらや》ましそうでもありました。それで、彼が斥候《せっこう》に行くときには大ていそういういでたちをしました。いま「一生ビルマにいて……」といわれて、何か心にうたれたところがあったのかもしれません。
それから、またわれわれの合唱になりました。
「秋の月」や「からたちの花」や「野ばら」などは、いずれも私たちが子供のときから口ずさんでいる、いい節の歌です。私たちはうたっているうちに、われを忘れました。これらの歌にはみな、誰にとってもそれぞれの思い出がまつわっているものです。「ああ、あのときにはこうだった。おかあさんが、きょうだいが、あんな顔をしていた。こんなことを言っていた」と目に見えてくるのです。それを、こうした思いもかけぬ異境の山の中で、しかも、追われてあすの命も分らずに逃《に》げているという、思いもかけぬ境遇《きょうぐう》でうたうのです。
たれもかれも胸の中のいいがたい思いをこめて、うたいつづけました。
四
そのうちにふと気がつきました。これはどうしたことでしょう、いつのまにか、あたりにはビルマ人が一人もいなくなっていました。
あの少女も、若者たちもいません。さっきまでしきりに料理の世話をやいていた村長もいません。今夜の泊まりの準備をひきうけていた案内人もいません。あたりは食器や椅子《いす》が散乱したままで、われわれだけがこの家の中でうたっていたのです。
戸外を見ても、窓の下にも、広場にも、人《ひと》影《かげ》はありません。みな、しらないうちにすーっと消えてしまったのです。
さては、とわれわれははっとしました。そうして「うたをやめろ!」とどなりました。
ビルマの村に入って歓待されているうちに、村人がいなくなってしまう。すると、どこからか敵兵があらわれて、日本兵を襲撃する。こうしたことはよくあることなのです。村人が通報するのです。いま、われわれはこういう目に会いかけているらしいのです。
すぐに戦闘《せんとう》の用意にかからなくてはなりません。その態勢に人員を配置しなくてはなりません。大切なものを安全なところへ入れて、掩《えん》護《ご》物《ぶつ》の陰《かげ》にかくれて、地に穴をほらなくてはなりません。それで、ある者は武器をとりに行こうとし、ある者は家の外にとび出ようとしました。
すると、隊長は「動いてはいかん!」といいました。
そして、低い声で、しっかりと、「うたをつづけろ!」と命令しました。
それから、息を殺して、ささやくように早口にいいました。
「いまわれわれが気がついたということを、相手にさとられてはならぬ。われわれはのんきに歌いつづけていなくてはならぬ。そうして、その間に用意をするのだ。まだビルマ人がいなくなったばかりだから、敵はすぐにはやってこないだろう。われわれが気がついたことを相手がさとったら、相手はかえって早く攻《せ》めてくる」
隊長はこういうのです。
なるほど、とみな思いました。そうして、また合唱をつづけました。
こうしている間にも、数人の者が、外から見られても分らないように床《ゆか》の上をはって、武器のあるところへ行って、それをとってきてそれぞれの持主に渡しました。渡された者はできるだけゆっくり歌いながら革紐《かわひも》をしめ、ゲートルをまき、銃《じゅう》や弾《たま》を身につけました。こうしているうちに、「野ばら」の合唱はおわりました。
今度は「ああ玉杯《ぎょくはい》」です。うたいながら、柱の陰から双眼鏡《そうがんきょう》でうかがうと、もう広場のむこうの森の中に、たしかにグルカ兵らしい姿が見えます。インド兵のターバンも見えます。しばらく走っては身を伏《ふ》せ、またさっと走りだします。かれらは散兵線をつくるために、木のあいだに散開しているのです。われわれは、「ああ玉杯」をうたいながら、興奮して身《み》顫《ぶる》いしました。そうして、あの荘重《そうちょう》な悲《ひ》愴《そう》な曲を、これが一《いち》期《ご》の思い出だと思ってうたいました。そのあいだにも、隊長はせわしくささやくように命令をあたえて、われわれを十人くらいずつに分けて、方々に配置しました。
そうした指図をしながら、隊長は歌のきれめになると命じました。
「手をたたけ! 笑え!」
われわれは手をたたいて、どっと笑い声をあげました。
隊長はいいました。
「いいか、もういつむこうから一斉《いっせい》射撃してくるか分らん。だが、こちらにとっては少しでも長い時間が必要だ。できたら夜になるまでひっぱっておきたい。そのためには、できるだけ敵に油断をさせるのだ。さあ、もう一度手をたたけ! 笑え!」
われわれはまた手をたたいて、笑いました。これはなかなか苦しいことでした。何しろ、森の中には機関銃がこちらをむいていて、いつ火を噴《ふ》いてくるか分らないのですから。
そのうちに、ようやく大ていの準備はできました。
ただ一つ残った大仕事がありました。それは、爆薬《ばくやく》を入れた箱《はこ》が車につんで広場においてあるのですが、それをもっと手近な安全なところに運んでこなくてはならないのです。しかもそれを、森の中にいて、こちらを双眼鏡で監視しているにちがいない敵に分らないようにして、持ってこなくてはなりません。
その方法はどうしたらよかろうか――、みなは歌をうたいながら考えました。あの箱に一つでも敵の弾丸があたったら、もうおしまいです。車につんだ爆薬が全部炸裂《さくれつ》してしまいます。われわれはこういうときの知恵《ちえ》にすぐれている水島上等兵の方を見ました。彼《かれ》もうたったり、笑ったり、竪琴をひいたりしながら、一生懸命《いっしょうけんめい》に考えていましたが、やがて考えついたとみえて、隊長と相談をしました。
隊長と水島とで手《て》筈《はず》をきめたので、われわれは列をつくって陽気な歌をうたいながら、家の外へくり出しました。水島が肩《かた》から吊《つる》した竪琴をひきながら先頭にたっています。次の者は、さっき若者たちが投げた花を花束《はなたば》にしてかかえています。そうして、一同は笑い興じて、ある者はビルマの踊りのまねをしてふざけて騒《さわ》ぎながら、水島を車の上にかつぎあげました。
水島は爆薬の箱の上につっ立って、立てた片膝《かたひざ》の上に竪琴をおいて、にぎやかにかなでました。われわれは車をかこんで、手に手に花をふりながら合唱をはじめました。
こちらの計画は、こういう風にして、お祭りの山車《だし》でも曳《ひ》いているようなかっこうに見せて、爆薬の車を引きこんでしまおう、というのです。
こうして車を引きだしてからは、なるべくゆっくりとして息のつづく曲をえらびました。このときにうたったのは「庭の千《ち》草《ぐさ》」と「はにゅうの宿」でした。
森の中の様子をうかがうと、もう散開も終ったとみえて、動く人影も見えません。しんとして静まりかえっています。
われわれはみな言葉どおり必死になって、うたいました。今にも森の中から火《ひ》蓋《ぶた》がきられるかと気づかいました。そして、はやく、しかも遠《とお》目《め》には何か冗談《じょうだん》でもしているようにして、重い車を押《お》さなくてはなりませんでした。もしここで森の中から弾がとんできて、この箱にあたったら、上にのっている水島はもとより、われわれはみな死ぬのです。
車はすこしずつ動きだしました。われわれは轍《わだち》の下の石をのけたり、肩でおしあげたりして、車を押しながら「はにゅうの宿」をうたいました。息もくるしく、顔をしかめて、しかもできるだけ声をきれいにそろえました。車の上では、水島が得意のこの曲の伴奏《ばんそう》をたからかに弾《ひ》きつづけました。この歌はゆっくりと、かなしげに、きく人の心をかきみだすような節です。低い声と高い声が重《かさ》なって、追うように、からむように、つづきました。
やがて、車はもう四五メートルで目的のところに着くまでになりました。
急にあたりが暗くなりました。熱帯ですから、昼と夜の境がはっきりとして、日が落ちるとたちまちにまっくらになるのです。これはこちらにとってはこの上なく有利なことでした。もうほかの準備もすっかりできました。あちらこちらの暗い物陰に、三人五人ずつうずくまって、銃の引金に指をかけています。隊長も指揮刀に手をかけて、突撃《とつげき》の命令を下す瞬間《しゅんかん》を待って、敵の方をじっと睨《にら》んでいます。
車を首尾よく引きこんだときには、「はにゅうの宿」の合唱がちょうど終ったときでした。
隊長は指揮刀をすらりと抜《ぬ》きました。車を引きこんだ者たちも、歌をやめて、銃をとりました。そのしばらくの静寂《せいじゃく》のあいまに、はるかかなたの谷底の水の音がにわかに高まって、はっきりと聞こえました。
すこし前まで賑《にぎや》かにさえずりかわしていた鳥も、もうすっかり寝《ね》しずまりました。
隊長は刀をあげました。
兵隊たちは突貫《とっかん》のウォーッという声をあげかけました。
そのとき――、ふと、隊長はのどまで出かけていた号令の声をとめて、立ちどまりました。
ふしぎなことには、森の中から、一つの歌の声があがったのです。あかるい、高い声で、熱烈《ねつれつ》な思いをこめた調子で、「はにゅうの宿」をうたっているのです。
隊長はもう走りだした一人の兵隊をつかまえました。そうして、両手をひろげて、うしろから飛びだそうとするわれわれを押しとめました。
「まて!」と隊長は大きな声で叫《さけ》びました。「あの歌をきけ!」
森の中の歌声はたちまち二つ三つと数を増し、ついにはあちらからもこちらからもそれに和しました。そしてそれは「はにゅうの宿」の節を英語で「ホーム・ホーム・スイート・スイート・ホーム」とうたっているのです。
われわれは顔を見あわせました。これはどうしたということだろう? 森の中にいるのは、われわれの命をねらうおそろしい敵ではなかったのだろうか? 村の人々だったのだろうか? そんならこんな心配をするのではなかった。そう思うと、にわかにほっとしました。そうして、武器を下におきました。
森の端《はし》の方では、別の一団の声が「庭の千草」の節をうたっています。しかし、それも「……ザ・ラースト・ローズ・オヴ・サンマー……」と英語です。
森の中は歌の声で一杯になりました。とおくの川の崖《がけ》の陰からも、合唱がおこりました。われわれもそれに合わせてうたいました。
月が出ていました。涼《すず》しげな青い光が、あたりを一面にそめています。樹々《きぎ》のあいだは、ガラスの柱を幾本《いくほん》も立てたようになっていました。その中を、森から広場へ、人影がばらばらと走り出てきました。
よく見ると、それはイギリス兵でした。
かれらはいくつもの塊《かたまり》になって合唱しています。思いをこめて「スイート・ホーム」や「ザ・ラースト・ローズ」をうたっているのです。「はにゅうの宿」も「庭の千草」も、日本人はこれがむかしからの日本の歌だと思っていますが、もともとはイギリスの古い歌の節なのです。ことに「はにゅうの宿」はイギリス人が自《じ》慢《まん》をするかれらの家庭の楽しみをうたったもので、すべてのイギリス人は、これをきくと、自分たちの幼かった頃《ころ》のこと、母親のこと、故郷のことを思うのです。それが、こんなビルマの山の中で、危険きわまりないと思っていた敵を包囲していたときに、その敵がしきりにうたっているのをきいたのですから、何ともいえない異様な感動をうけたのです。
こうなるともう敵も味方もありませんでした。戦闘もはじまりませんでした。イギリス兵とわれわれとは、いつのまにか一しょになって合唱しました。両方から兵隊が出ていって、手を握《にぎ》りました。ついには、広場の中央に火をたいて、それをかこんで、われらの隊長の指揮で一しょにこれらの曲をうたいました。
一人の背の高いインド兵が、ポケットから家族の写真を出して、うたいながら焚《たき》火《び》の光でながめていました。彼は頭を白い布で巻いて、黒い頬鬚《ほおひげ》をはやして、堂々とした威《い》厳《げん》のある様子をしていましたが、目は実にやさしくて羊のようでした。彼はその写真をわれわれにも見せました。写真には、奥《おく》さんと二人の子供が椰子《やし》の木の下に笑ってうつっていました。この人はカルカッタの商人だということでした。
一人の何国人だかよく分らない兵隊は、われわれにも家族の写真を見せろ、といいました。一人の戦友が日本のお婆《ばあ》さんの写真を出すと、彼はそれを頬にあてて、接吻《せっぷん》をしました。
一人の血色のいいイギリス兵が「イフ・ア・ボディ・ミタ・ボディ……」とうたいました。それと同じ節を、一人の日本兵が「夕空はれて……」とうたいました。すると、そのイギリス兵は日本兵と肩を組んで、あたりを大股《おおまた》に歩きました。日本兵は「ああ、わがはらから、たれとあそぶ」と声をはりあげました。ここで、またあたらしい合唱がはじまりました。
水島はさまざまの合《あい》の手《て》を入れて、これに伴奏しました。これはイギリス兵からも非常な喝采《かっさい》をうけました。彼が焚火の炎《ほのお》に半面をてらされながら弾いている顔を見ると、頬には涙《なみだ》がながれていました。それを見て、どこの国の兵隊も涙をながして一しょにうたいました。
この夜、われわれはもう三日前に停戦になっていたことを知りました。イギリス軍はあくまでも凶悪《きょうあく》だと思っていたわれわれにそれを知らせる法もなく、残敵掃蕩《そうとう》のためには、ことによったら殲滅《せんめつ》もやむをえない、と思っていたのでした。われわれは武器をすてました。
第二話 青い鸚哥《インコ》
一
われわれは武器をすてました。そして、この日からイギリス軍の捕《ほ》虜《りょ》ということになりました。
まったく夢《ゆめ》のような身の上の変り方でした。あくる日の夜、隊長は一同にむかって次のように話しました。
「われわれは降伏《こうふく》をした。自分たちばかりではない、自分たちの国も降伏をした。このことをどう考えたらいいのか、私にはわからない。
これから先どうなるか、わからない。どこにつれてゆかれて、何をさせられるのかも、わからない。はたして生かしておいてもらえるのかどうかすら、わからない。
日本の様子も、本国との連絡《れんらく》がたえてからひさしいことではあり、ましてこうした山の中をさまようようになってからは、まったく知りようもなくなっている。ただときどき敵が空からまき落す宣伝文や新聞で見ると、日本は全国にわたって空襲《くうしゅう》をうけ、人は焼かれ、追われ、餓《う》えているということである。これはどうも皆《みな》が皆うそとは思われない。われわれの同胞《どうほう》はさぞ苦しんでいることであろう。まったく考えただけでも胸がいたむことである。
国は廃墟《はいきょ》となり、自分たちの身はこうした万《ばん》里《り》の外で捕虜となる――。これは考えてみればおどろくべきことだ。それだのに、私は、これはどうしたことだ――、とただ茫然《ぼうぜん》自《じ》失《しつ》するばかりである。それをはっきりと自分の身の上に起こったことだ、と感ずることすらできない。ただ手からも足からも力が抜《ぬ》けてゆくような気がする。
そのうちには悲しい気持もおこってくるであろう。絶望も、うたがいも、いかりやうらみすらおこってくるかもしれない。すべてはおいおい事情がわかってきてから、考えをきめるほかはない。実は、もうかなり前から、こういうことになるのではないかとうすうすは思っていたのであったが、いざそうなってみると、まったく途《と》方《ほう》にくれるというほかはない。
いまはただなりゆきを待つほかはない。いまわれわれが運命にさからったところで、それが何になろう。どうしてもさけることができないものならば、むしろそれをいさぎよく認めて、われわれの境涯《きょうがい》がどんなものであるかをよく知って、その上であたらしく立ち直ってゆくのが、むしろ男らしいやり方である。せめてそうするだけの勇気を持とうではないか。
よくはわからないが、われわれはすべてを失ってしまったらしい。自分たちの身の上はみじめなものである。残っているものとしては、ただわれわれが互《たが》いに仲がいい、ということだけである。これだけは疑うことができない。われわれが持っているものとては、これだけだ。
自分たちはこれからも共に悲しみ、共に苦しもう。互いに助けあおう。自分たちはいままで生死を共にしてきた。これからも共にしよう。一しょに運命に堪《た》えていこう。これからの苦しいことも覚《かく》悟《ご》しなくてはならぬ。あるいはこのさき、このビルマの国で骨になるかもしれない。そのときは一しょに骨になろう。ただ、最後までできるだけ絶望はしまい。何とかして希望をもってしのいでゆこう。
そうして、もし万一にも国に帰れる日があったら、一人ももれなく日本へかえって、共に再建のために働こう。いま自分のいえることは、これだけである」
隊長は言葉もきれぎれにこういいました。みな黙《だま》ってきいていました。
誰《だれ》もはりつめた気もぬけ、ただぼんやりとしてしまったのです。みな首をたれて、隊長のいうとおりだ、と思いました。
おもえば、われわれは歓《かん》呼《こ》の声におくられ、激励《げきれい》されて国を出たのですが、それにもかかわらず、あのころから、国中にはなんとなく不《ふ》吉《きつ》な気分がみちていました。いまそれがまざまざと思いだされます。誰もかれも、つよがっていばっていましたが、その言葉は浮《う》わついて空《くう》疎《そ》でした。酔《よ》っぱらいがあばれだしたようなふうでもありました。それを思うと、胸も痛み、恥《は》ずかしさに身内があつくなるような気がしました。
誰かすすり泣く声がしました。すると、みな、にわかに悲しくなって、すすり泣きました。しかし、それははっきり何が悲しい、何がうらめしい、というのではありませんでした。ただ、このたよりない気持をどうしたらいいかわからなかったのです。
いつもなら、こういうときには、わが隊は合唱をするのですが、この夜ばかりは歌もやめて、まとめた荷物を枕《まくら》にして床《ゆか》の上に寝《ね》ました。いままで大切にしていた武器もない、なれないみじかい一夜でした。
それからは、心の中は空《から》になっているけれども体だけはむやみにいそがしい――、そういう奇妙《きみょう》な日がつづきました。武器や物品の整理、その引渡《ひきわた》し、運搬《うんぱん》、いろいろな報告や取調べ、食糧《しょくりょう》の調達、そうしたことに追いかけられて、ものを考える暇《ひま》はありませんでした。
このころのことを思いかえすと、いつも、次のようなかわったことを思いだします。
イギリス軍が三四日はこの村にとどまっているというので、われわれ捕虜が下働きにまわされました。ある朝のことでしたが、幾人《いくにん》かの日本兵が料理方を手伝っていました。村から提供した鶏《にわとり》を殺して、羽毛《はね》を抜く役です。
鶏は籠《かご》の中に一ぱいつめられて、網《あみ》目《め》から首をつきだして、鶏冠《とさか》をふりながら心配そうにあちこちを眺《なが》めています。それをビルマ人が一羽ずつ掴《つか》みだして、石の上に横にして、ビルマ人がいつも腰《こし》につけているダーという鉈《なた》のようなもので首をうち落します。
ビルマ人の料理人はびんろう子《じ》を噛《か》んで赤い唾《つばき》をはきちらしながら、ものぐさそうにこれをやっていました。このびんろう子というのは、びんろうという木の実で作ったもので、南方の人はチューインガムのようにいつもこれを噛んでいるのですが、そうすると口の中がまっ赤になって、歯も唇《くちびる》もきみわるく染まるのです。
われわれが羽毛を抜いているうちに、ビルマ人はつづけて鶏の首をぽんぽんと切りました。
するとどうでしょう。首を切り落されて放されたとたんに、鶏がぱーっとまい立つのです。あたりに綿毛を舞《ま》い立たせながら、はばたいて、ふわふわと飛んでゆくのです。
われわれはあっ気《け》にとられて、おさえている鶏を放しました。すると、その鶏も起き上って、首の切口をつきたてて、あたりをぐるぐる走ります。
地面には、十いくつの鶏の首がころがっています。みな白い膜《まく》のかかった目を病人のようにつむって、うらみをのんだように嘴《くちばし》をあいています。ところが、首のない体はまだ生きていて、ニスを塗《ぬ》ったようなきれいな翼《つばさ》をばたばたさせているのです。そうして、一羽々々が地面の上をよろけながら思い思いの方にゆき、やがてそのうちに藪《やぶ》の中にとびこんだり、草の中にうずくまったりしてしまいます。
それがめずらしさに、われわれは集まって眺めました。笑って見ている人もありましたが、こんな気味のわるいものを見て、顔をしかめている人もありました。
「首がないくせに、どんな気がしてとびまわっているのだろう――」誰かがそういいました。
そこへ隊長がやってきました。そうして、
「水島はいないか、水島」と大声によびました。
水島はとおくから走ってきて、隊長の前に立ちました。隊長はいいました。
「いま、こういう情報が入った。あのむこうの山に――」
と彼はとおくの山を指《さ》しました。その方角には、重なった山々のあいだに、一つの三角形の岩山がみえていました。
「あの山に、日本兵がたてこもっていて、どうしても降伏しない。それで、三日前からイギリス軍がこれを攻撃《こうげき》して、いままだ戦闘《せんとう》がつづいている。このままでいけば全滅《ぜんめつ》のほかはない、ということだ。
自分はイギリスの将校にたのんだ。――どうかわれわれのうちの一人をその村にやって、説得をさせてもらいたい。一人でも無駄《むだ》死《じに》をする者がないように、できるだけのことをしたい。こういっていろいろにたのんだところが、それではやってみろ、という許可をえた。
どうだ水島、行って何とか説得してみないか。もし水島が行かなければ、自分が行ってやってみる」
みんな三角山の方を見ました。ここから歩いて半日はかかりそうなところです。もうシャムの国境にちかく、厚い森の中から、灰いろの頭をつきだしています。耳をすましても、べつに爆音《ばくおん》もきこえません。方々の谷の密林の中から部落の煙《けむり》がうすくあがっているのですが、よく見ると、気のせいか、指されたあたりの大気が黄いろく染まってゆらゆら揺《ゆ》れています。あの下で何十人かの同胞が無駄死をしようとしている――、そう知って、われわれは眸《ひとみ》をこらしました。
水島はしばらく考えていましたが、やがてきっぱりといいました。
「行ってまいります」
そして、またしばらくして、
「どういうふうにやってよいかわかりませんから、すべて臨《りん》機《き》応変《おうへん》の処置にいたします」とつけ加えました。
隊長は「ごくろう」と答えました。
それからまたつづけました。
「わが隊はこれから、ビルマの南のムドンの町の捕虜収容所におくられる。きみは役目をはたしたら、後から来てくれ。このことはイギリスの将校も承知して、かならずわが隊に帰らせてくれることになっている」
二人は敬礼を交《かわ》しました。
水島はすぐに身支《みじ》度《たく》をはじめ、もう襟章《えりしょう》も剣もない軽装《けいそう》をしました。隊長は自分のはいていたまだ比《ひ》較的《かくてき》にこわれていない靴《くつ》をぬいで、えんりょしている水島のととりかえました。そして、かたくその手を握《にぎ》りました。自分たちは焼けた鶏の片ももをそっと水島に持たしてやりました。
十分の後、はるかに低い崖《がけ》の下の道を、水島と一人のイギリス兵と案内人とが歩いてゆくのが見えました。水島は食糧を腰につけ、竪琴《たてごと》をかついでいました。彼《かれ》は帽《ぼう》子《し》をふっているわれわれを見上げて、にっこりと笑い、手をあげて竪琴にふれて、大きく一度かきならしました。
自分たちはそれを見おくりながら、水島のことだからきっとどうにかうまくやるだろう、立派に使命をはたすだろう、とそう思いました。
二
われわれの隊はイギリス軍の指揮のままに、山を下って平野に出、それから舟でシッタン河を下り、それから汽車、それからトラックというふうに運ばれて、ムドンの町につきました。そうして、ここの捕虜収容所に入って暮《く》らすことになりました。
このさきどうなるかわからない、生きるか死ぬかもきまらない、という不安はやがてなくなりました。国は敗れた、ほとんど亡《ほろ》びた、しかしまだ亡びきりに亡んだわけでもない、ということも知りました。そうして、われわれ捕虜もいつかは国に帰されることになっている――、そういうこともわかってきました。
このムドンの町で、国に帰る日を待つあいだの、あたらしい生活がはじまりました。
収容所は簡単なニッパハウスで、まったくの竹の柱に茅《かや》の屋根です。床が高く、風通しよくつくってあるので、そう湿《しっ》気《け》ません。気候があついから、毎夜のごろ寝もそれほど苦ではありません。収容所のまわりには竹の柵《さく》がゆってあります。それから外へは出ることもできず、外の人が入ってくることもできません。入口にはインド人の番兵が立っていて、外から商人などが商売をしようと思ってこっそり入ろうとするのを見つけると、空砲《くうほう》をうっておどかしました。
また、こうした収容所がいくつも点々とならんでいて、それぞれ捕虜の一隊が入れられていましたが、これらの別の隊同士で連絡をとることも、かたく禁ぜられていました。それで、われわれには外の事情はすこしも分りませんでした。このような規律はやかましいけれども、それにふれさえしなければ、取扱《とりあつか》いは寛大《かんだい》でした。
われわれはときどき命ぜられて土木工事や森林伐採《ばっさい》に行きましたが、そのほかはすることもなく日をおくり、生活は単調で無事にすぎました。
ひさしいあいだ――ほとんど何年というあいだ、このようなしずかな日々をすごしたことはありませんでした。思えば、さわがしい、忙《いそ》がしい、追いたてられるような時がたえまなく続きました。つねに、いつ何事がおこるかと、心配し緊張《きんちょう》していました。ことに最近の一年ほどは、耳を聾《ろう》する響《ひびき》、目をくらませる光にとりまかれていました。それがにわかにしずまって、今はもう爆音もおこらず、号令もかからず、夜中にとびおきることもないのです。そして、毎日せまいニッパハウスの中に寝たり起きたりして、椰子《やし》の林をながめているのです。はじめのうちは、それが何だか奇妙でなりませんでした。坐《すわ》っていても、ぼんやりしていながら、胸の底ではいつもはらはらしているような気がしました。
かなりの暇がかかって、ようやく、このうつろな不安がなくなって、あたらしいしずかな時間にもなれました。
こうして一まずおちつきはしたものの、日がたつにしたがって、われわれにはまたべつな不安がはじまりました。それは、あの水島がいつまでも本隊にもどってこないのです。
われわれははじめは、自分たちがここにきてから四五日もたてば水島もくる――と、そんなふうに手軽に考えていました。今にもこの収容所の扉《とびら》が開いて、そこに水島が元気な姿をあらわすか、と待っていました。そして、ときどき思わず扉の方を見たりしました。彼の靴の音がきこえたように思ったこともありました。
ところが、いくら待っていても、彼は来ませんでした。
「どうしたのだろうなあ、水島は」――といつもみながいいました。「あれの竪琴がなくては、合唱も調子がでない」
「合唱ばかりじゃない。あれがいなくては、作業に行っても能率が上らない」
「あれがいなくては、朝めがさめてもはりあいがない」
みんなこんなふうにいいました。
一日々々とむなしく待ちましたが、水島の姿は見えませんでした。その消息すらありませんでした。はたしてあの三角山に行きついたものやら、はたして決死の人々を説得して首尾よく無駄死から救ったものやら――、さっぱり分りませんでした。われわれは、水島のことだからきっとうまくやる、とたやすく思いこんでいたのでしたが、考えてみればこれは大へんな難役《なんやく》でした。どこまでも戦いぬくと決心して立てこもっている人々に、うっかり降伏《こうふく》をすすめたりすれば、かえってその味方から一刀のもとに切られることも、十分にありうることでした。
待っていても帰ってこない日々が重なるにつれて、われわれにはこのことが分ってきました。そしてずいぶん気の毒な役目をたのんだが、たとえ成功しなくても無事にかえってくればいいが――、と切にねがいました。
隊長は心痛して顔をくもらせながら、よくいっていました。
「まさか死んだのではなかろうなあ! あの村では激戦をしていたというから、ことによったら負傷をして、どこかで療治《りょうじ》でもしているのではないかしらん。どうにかして知る手がかりがあるといいが。使命さえはたせばかならず帰ってくるにちがいないのだから、何か故障があったに相違ない。大したことでなければよいが――」
こんなふうにして心配していましたが、何のたよりもありませんでした。水島水島とみながいうのですが、いかに気をもんでも、このように捕《とら》われの身で、様子をさぐりに人をだすこともできません。そのうちに、ついに一月二月と日がたちました。
作業のない休みの日などは、いうまいと思ってもついこの気がかりが口にでました。
そんな日は、われわれは収容所の裏にある椰子の木の林に入り、そこに晩までいることがよくありました。それは、颱風《たいふう》が吹《ふ》いたり大雨がふったりして、この収容所の建物がよくいたむので、それを修繕《しゅうぜん》するためでした。
この椰子の林に一日入って仕事をすると、たいていの修繕工事には間にあいました。というのは、この木の幹は固くて長いのですから、柱や梁《はり》になります。葉は屋根をふくのに使います。実をつつんでいる厚い皮は、その繊《せん》維《い》が水につよく、これで縄《なわ》をよればいつまでもくさらない丈夫《じょうぶ》な縄ができます。簡単なニッパハウスは、もうこれでどんな破損があっても直ってしまうのでした。
こればかりではありません。椰子の木はどこもかしこも役にたって、棄《す》てるところはないものでした。これからさまざまの生活必需品ができました。実の外皮はそのまま使えばたわしになります。固い殻《から》は半分にわると茶《ちゃ》碗《わん》になり、柄《え》をつけるとひしゃくです。まるく固いものですから、細工をすればほかにもいろいろなものができました。繊維をほぐしてそろえれば糸の代用にもなり、筋を編んでみそこしやざるを作った人もありました。まるで台所道具が木になって空にかかっているようなわけでした。葉は葉筋をあつめて箒《ほうき》にします。椰子の木には、一月に一本ずつあたらしい葉がふえ、そのかわりに古い葉が落ちるので、木全体の葉の数はきまっています。つまり、一本の椰子の木から毎月一本ずつ箒がふってくるのでした。
椰子の実が重要な食糧であることは有名です。殻の中にはつめたい水がなみなみと入っています。これはすこし青くさい匂《にお》いはあるけれども、おいしい飲物です。イギリス人はミルクとよんでいます。それをつつんでいる白い肉はコプラといって、椰子油がとれ、これから人造バタや石鹸《せっけん》そのほかいろいろなものを作ります。栄養が多くて、そのままでも食べられます。原住民はこれをおろして、まぶしたり団《だん》子《ご》にかためて焼いたりして、食べます。
花《か》茎《けい》からしぼった汁《しる》を煮《に》つめると砂糖がとれます。ある種類の椰子の幹からは澱粉《でんぷん》をつくります。
それに酒までできました。花茎に傷をつけ、その下に竹の筒《つつ》をあてがっておきます。熱帯の竹にはものすごく太いのがあって、切ればそのまま飯のおはちになるほどです。この竹の筒に樹液がしたたりおちてたまると、それが自然に醗酵《はっこう》して、やがてうまい酒になっているのです。しかし、ビルマ人は酒を飲みませんから、ビルマではこういうものを見たことはありませんでした。この方法は蘭印《らんいん》でしきりに行われているので、それが日本兵のあいだにつたわって、日本兵はよくこうしてつくった酒をのみました。われわれの隊にも酒のすきな人がいて、椰子の林に人に知れないように竹の筒をしかけておき、この人にとっては収容所の屋根の修繕がいちばんのたのしみで、いつも嵐《あらし》が吹くとよろこんでいました。
まったく椰子は重宝《ちょうほう》なありがたいものです。西洋ではよく農家に牝《め》牛《うし》が一匹《いっぴき》いれば何でもできて困ることはない、というそうですが、椰子の木はあつい南の国の牝牛のようなものなのでしょう。
この椰子の林に入って、一同がきりたおした木をかこんで、縄をなったり、葉をそろえたり、実に孔《あな》をあけたりしていたときのことでした。一人の兵隊がときどきこっそりと自分だけ知っているところへ行って、赤い顔をしてかえってきました。そうして、たのしそうに小声でうたいだしました。それはビルマ人のうたう歌でした。
いつもなら、わが隊はだれか一人がうたいはじめるとたちまち合唱になってしまうのですが、このときはみなだまって、ただ手を動かしていました。
そのビルマの歌は、水島上等兵が斥候《せっこう》に行ってうたった歌でした。あの「大丈夫だから来い」という合図の曲でした。
酔《よ》ってうたっている人はでまかせの鼻歌をうたっているのでしたが、これをきいている者には、それがとおく森の中から竪琴の音とともにかすかに聞こえてくるような気がしました。行手の森、空をとんでいる鳥、木立のあいだに入ってゆくルーンジをつけた水島の後姿《うしろすがた》……、そんなものが目の前にうかんできました。
隊長は壁《かべ》にはるために椰子の葉を編んでいましたが、ふと、
「自分が行けばよかった……」とつぶやきました。
そして、首をふって唇《くちびる》をかみしめました。
そばにいてこれを聞いた二三人の者には、その意味が分りました。隊長はああいう危険な使命を若い部下に負わせたことを悔《く》いているのでした。
また、ある晩ひどい嵐がふきました。椰子の林が一夜じゅうこうこうと鳴って、雨もまじりました。ときどき、林の中で何かが地面に落ちる音がしました。それは椰子の実でした。その音は風が吹くとはじまって、夜明けまでしきりにつづきました。
われわれは眠《ねむ》ることもできないで、暗い中でそれをきいていました。
「あ、また落ちた」とねていながら一人の兵隊がささやきました。
「椰子の木の奴《やつ》、夜どおしミルクをぽたぽたとたらしているぞ――」
すると誰《だれ》かが、
離《はな》れ小島の椰子の木は
なぜに寝《ね》ないぞおよらぬぞ……
と白秋《はくしゅう》のうたを小声でうたいました。
ごーっと風が吹きました。
「おや、また落ちたぞ――」と一人が枕《まくら》から頭をあげていいました。そしてつづけました。「ああ、水島はその歌がすきだったなあ!」
はなれたところで声がしました。
「おい、やめろ。やめろ。またあしたは作業だ。すこしでもよけいに寝ておけ」
このように、みんながあんまり水島のことをなつかしがっていたせいか、一度はこんなことまでありました。
もうここにきてから三月ほどもたったころでしたが、わが隊がこの町の郊外《こうがい》の橋を修繕に出てゆきました。
いくつかの河床《かわどこ》をつないだ長い橋なのですが、板を二三枚ならべただけの粗《そ》末《まつ》なものです。いく日かのあいだ、泥《どろ》をとかしたような水の中につかって、ようやく修繕をおえました。そうして、最後の仕上げをすませて、ある日の昼すぎに、われわれはその橋をわたって町の方にかえりました。
すると、その橋の上を、町の方から一人のビルマ僧《そう》が、衣《ころも》の裾《すそ》をかかげてこちらに歩いてきたのです。
その僧と行きあったとき、みんなびっくりしました。
その僧はまだ若い人で、頭はすっかり剃《そ》っています。手には托鉢《たくはつ》をもっています。そうして、片方の肩《かた》からあたらしい黄いろい衣をゆったりとまとっているのですが、その肩に目のさめるような青い鸚哥《インコ》をとまらせています。どこかこのあたりの村のお坊《ぼう》さんなのでしょう。
この人が水島上等兵にそっくりなのです。中背《ちゅうぜい》のしまった骨格、凹《くぼ》んで大きな眼、ひきしめた唇、――それがまるでふた子といっていいほどなのです。毎日托鉢してあるくからでしょう、すっかり日に焼けていて、この顔に戦闘帽《せんとうぼう》をかぶせたら、だれにも見分けはつくまいと思われます。われわれ大勢の捕《ほ》虜《りょ》がかわるがわる顔をのぞきこむので、当惑《とうわく》をしていました。腹を立てているようでもありました。そのまじめくさった様子が似ているとて、みながさわぎました。
われわれとこの坊さんとは、せまい橋の上でたがいに身をよけてすれちがいましたが、一列になっていた隊の者はつぎつぎに顔を見あわせました。
そして、うれしくなって笑っていいました。
「よく似た人もあるものだなあ!」
ビルマ僧はしまいにはもうわれわれの無《ぶ》遠《えん》慮《りょ》をあきらめたかのように、片手で肩の鸚哥をおさえて、しずかに目を伏《ふ》せて行きすぎました。
橋をわたりおえて河《か》原《わら》に下りてから、ふりかえって見ると、坊さんはむこうの河原を歩いていました。彼はひどく足をいそがせて、町とは反対の北の方角に行きましたが、やがてまばらな林の中に後姿を消しました。
この晩、われわれは収容所の床の上に横になって、このビルマ僧の噂《うわさ》をしました。
「水島は斥候にゆくときには、よくあんな恰《かっ》好《こう》をしていたなあ」
「あの坊さんをここに呼んできて、竪琴《たてごと》をもたせて、合唱したいものだなあ」
「きみが死んだら、葬式《そうしき》にはそうしてやる」
「ばかいえ。――それにしても、一体水島はどこでどうしているのかなあ!」
三
このビルマ僧はちょいちょいこの町に来るとみえて、ときどき姿を見かけました。その度《たび》ごとに、みなは今さらのように水島をなつかしがりました。ある日も、往来で、作業にゆくわれわれの隊にばったり出あいました。一人がいきなり大声で「水島!」とどなりました。
すると、僧は立ちどまって、おびえたように首をたれて、われわれの通りすぎるのを待ちました。それをみて一同は、おかしいような悲しいような気持でした。
「あんまり冗談《じょうだん》をするなよ。きのどくに、びっくりしているじゃないか」と隊長がたしなめました。
このようにして心待ちにしていましたが、水島はいつまでも帰ってきませんでした。われわれはがっかりして、さらぬだにわびしい捕虜生活がいよいよ味気ないものとなりました。
しかも、ちょうどむしあつい息苦しい長い雨期でした。
いく日も、もうもうとした湯気のようなものが絶えまなく降りつづけています。収容所の屋根はいつも水にあらわれています。外の椰子の木立も輪郭《りんかく》がにじんで、さながらしめった紙に描いたペン絵のようでした。見ていると、吸取紙をあてて押《お》さえてやりたいような気がしました。
みなぼんやりして、その日その日を送りました。歌もうたわなくなり、ゆるされて持ってきた楽器もほうりだしたままで、だんだんこわれてゆきました。
ある者は膝《ひざ》をかかえて空をながめています。ある者は終日寝ています。そういう人がかぶっている毛布をはいでみたら、その人が涙《なみだ》を流していたことがありました。そうして、今まではこの隊ではきけなかったお互《たが》い同士の口小言まで、ときどきはじまるようになりました。
「おい、困るじゃないか。おれが残しておいた飯だって、おれがやるためにとっておいたのだぞ」
空《から》になった飯盒《はんごう》を振《ふ》りながら、一人がこういいました。
「何いっているんだい。昨日《きのう》も、一昨日《おととい》も、おれが自分の分を食わしてやっていたんじゃないか」
隊長がみなの気を引きたてるために、小《こ》猿《ざる》を一匹飼《か》っていたのですが、この猿すら、こんな気まずい口喧《くちげん》嘩《か》の種になりました。
これではいけない、と隊長は思いました。そうして、また熱心に合唱の練習をはじめ、雨のあがった日にはかならず庭に出て、うたをうたいました。
うたをうたうと、われわれは久しぶりで胸に一杯《いっぱい》息をすいこんで、生きかえったような気がしました。
同じようなわけもあったのでしょう。ならんでいる方々の収容所でさまざまの催《もよお》し物《もの》をしました。ある隊では芝《しば》居《い》をしたり、ある隊ではスポーツをしたり、中には勉強の講習会をひらいているところもありました。
そういう催し物がはじまると、竹《たけ》矢《や》来《らい》の外に、ビルマ人が集まって見にきました。そうして、ときには手をたたいて応援《おうえん》をしたり、ときには一しょになって笑ったりしました。
わが隊の合唱はことに人気がありました。見物人ができるとこちらもはり合いができて、――今日は何人きた、このあいだきた男がまたきている、とうとうこちらの合唱がむこうの芝居を圧倒《あっとう》したぞ、などといいました。
柵《さく》の外には、この町のあらゆる種類の人が集まってきました。暇《ひま》の多い南国人のことですから、柵にもたれたり、立木によりかかったりして、一日中われわれのすることを見ていました。合唱は一節《いっせつ》ごとに喝采《かっさい》されました。子供たちは節をおぼえてしまって、真似《まね》をして、自分たちも合唱団をつくってうたっていました。あるときは、赤や青の晴着をきた娘《むすめ》たちがわれわれの歌にあわせて、ジャンジャママというこの国の踊《おど》りをおどりました。これはたのしい見ものでした。老人たちの中には銭《ぜに》や食物などを包んでそっと投げてよこすのもありました。
番兵たちもそんなものは見て見ないふりをしてくれました。そして、われわれがうたう歌で知っている節があると一しょに小声でうたいましたが、しかし、われわれは「庭の千《ち》草《ぐさ》」や「はにゅうの宿」はあまりいたましい思い出にふれるのでうたいませんでした。
あるとき、合唱している最中に、一人の兵隊が隣《となり》の人を肘《ひじ》でつついて、指で見物人の方をさしました。つつかれた人が見ると、押しあってならんでいる群集のうしろに、一人のビルマ僧が立っていました。
いつか橋の上で出あったビルマ僧です。あの水島にそっくりな人です。
彼は肩にきらきらと光る青い鸚哥《インコ》をのせて、凹んだ目でじっとこちらを見ていました。
歌がすむと、われわれはのび上ってその僧を見ました。
「似ている。似ている。ほんとうにそっくりだ!」
「ちがうよ――。ずっと年をとってふけているよ」
一人の兵隊が、いま柵の外から投げ入れられた銭のつつみを、その僧の方に投げてやりました。銭は僧の足下におちました。すると、一人の少年がそれをひろって、うやうやしく僧に渡《わた》しました。僧はわれわれの方にむかって、しずかに合掌《がっしょう》しました。
その合掌がいかにも坊さんらしく心をこめた礼だったので、こちらからも幾人《いくにん》かが思わず挙手をしました。
いったいにこの国の人が坊さんを敬《うやま》うのにはおどろきました。お布施《ふせ》を出すのも、それはけっしてただのほどこしではなくて、むしろ、自分に代って生きとし生けるものを救うために苦行《くぎょう》する人々へのお礼です。呉《く》れてやるのではなくて、ひざまずいて奉《たてまつ》るのです。私たちははじめのうちはそれを知らなかったので、ときどき礼を欠いてしくじったことがありました。
このビルマ僧はその後もときどき見物にきました。いつも人のうしろに立って、身うごきもしないで、こちらを眺《なが》めていました。われわれはこの坊さんに、もらった銭や食物を投げてやりました。
「おい、またきたよ」と、あるとき戦友がいいました。
「あいつ、ここにくるといつももらいがあるものだから、ここをいいかせぎ場にしていやがる」と他の一人が悪口をいいました。
「みんな騒《さわ》ぐけれども、よく見るとまるでちがうじゃないか」と、また別の一人がいいました。
「水島はじっとしているといったって、あの坊《ぼう》主《ず》のようにぼんやりとぽーっとしてはいなかったよ。すごかったなあ、あれが弾薬箱《だんやくばこ》の上につっ立って竪琴をひいたときには!」
このときは、この坊さんは長い旅からでもかえってきたような様子で、衣もよごれ、髪《かみ》ものび、はだしの足にはほうたいをして、みすぼらしく見えました。坊さんですから、いつもあちらこちらを巡礼《じゅんれい》してあるくのでしょう。
ビルマは宗教国です。男は若いころにかならず一度は僧侶《そうりょ》になって修行《しゅぎょう》します。ですから、われわれくらいの年輩《ねんぱい》の坊さんがたくさんいました。
何というちがいでしょう! われらの国では若い人はみな軍服をきたのに、ビルマでは袈裟《けさ》をつけるのです。
われわれは収容所にいて、よくこのことを議論したものでした。――一生に一度かならず軍服をつけるのと、袈裟をきるのと、どちらの方がいいのか? どちらがすすんでいるのか? 国民として、人間として、どちらが上なのか?
これは実に奇妙《きみょう》な話でした。議論していくと、いつも、しまいには何だか訳が分らなくなってしまうのでした。
まず、この両者のちがいは次のようなことだと思われました。――若いころに軍服をきてくらすような国では、その国民はよく働いて能率が上る人間になるでしょう。はたらくためにはこちらでなくてはだめです。袈裟はしずかにお祈《いの》りをしてくらしているためのもので、これでは戦争はもとより、すべて勢いよく仕事をすることはできません。若いころに袈裟をきてくらせば、その人は自然とも人間ともとけあって生きるようなおだやかな心となり、いかなる障害をも自分の力できりひらいて戦っていこうという気はなくなるのでしょう。
われわれ日本人は前には袈裟にちかい和服をきていましたが、近頃《ちかごろ》では大てい軍服にちかい洋服をきるようになりました。それも当然です。日本人はむかしはすべてと、とけあったしずかな生活を好んでいたのですが、今は諸国民のあいだでももっとも活動的な能率の上る国民の一となったのですから。つまり、こんなところにも、世界をそのままにうけいれてそれに従うか、または自分の思いのままにつくりかえていこうとするか――という、人間が世界に対する態度の根本的な差違《さい》があらわれていて、すべてはそれによってきまっているのです。
ビルマ人は都会の人でもいまだに洋服をきません。むかしながらのあのびろびろとした服装《ふくそう》をしています。世界の舞台に立つ政治家も、洋服をきると国民の人気がなくなるから、いつもビルマ服をきています。これは、ビルマ人がまだむかしのままで、日本人のように変っていないからです。かれらはまだ自分が主になって力や富や知恵《ちえ》ですべてを支配しようとは思わずに、人間はへり下って、つねに自分より以上のものに抱《だ》かれ教えられて救ってもらおうとねがっているのです。それで、自分たちとは心がまえがちがう、洋服をきている人を信用しないのです。
われわれがだんだん議論をしていくと、一生に一度軍服をきる義務と袈裟をきる義務とでは、そのよってきたるところは、結局はこういうところにあるのだ、ということになりました。つまり、人間の生きていき方がちがうのだ、ということになりました。一方は、人間がどこまでも自力をたのんで、すべてを支配していこうとするのです。一方は、人間が我《が》をすてて、人間以上のひろいふかい天地の中にとけこもうとするのです。
ところで、このような心がまえ、このような態度、世界と人生に対するこのような行き方はどちらの方がいいのでしょう? どちらがすすんでいるのでしょう? 国民として、人間として、どちらが上なのでしょう?
いつもビルマの悪口をいっている人がいいました。――こんな弱々しい、だらしのない国があるかい。電灯も汽車もみな外国人につくってもらっている。ビルマ人はすべからくルーンジをぬいで、ズボンをはいて、近代的になれ。ここでは学校も、芝居や音楽の学校ばかりで、商業学校も工業学校もない。教育程度がたかいといっても、それは南方ではたかいというだけで、まだ寺子屋で坊さんがお経《きょう》ばかりおしえている。こんなことでは国は亡《ほろ》びる。いや、もう属国になっているが。
これに反対する人はいいました。――いや、袈裟を洋服にかえたからって、それで人間が幸福になるとはかぎらない。現に日本人はこんなことになったじゃないか。日本人ばかりではない、世界中がこんなことになってしまったじゃないか。人間がおもい上って、我をたてて、何もかも自分の思いどおりにしようというやり方では、もうだめだ。少しはよくなっても、全体からいえばもっとわるくなる。
前の人がいいました。――「それなら、いつまでもこのビルマ人のように未開のままでいていい、というのかい?」
後《あと》の人がいいました。――「ビルマ人が未開かね? われわれの方がよっぽど野《や》蛮《ばん》じゃないか、と思うことがよくあるのだが」
「これはおどろいた。こんなになにもかも不潔で不便で、学問や労働によってひとり立ちになろうという意志もない国民よりも、われわれの方が野蛮なのか?」
「そうさ。われわれは文明の利器をもっているけれども、かんじんなそれを使う人間の心が野蛮じゃないか。文明の利器をもっていて、それですることといえばこんな大がかりな戦争で、こんなところまで攻《せ》めこんできて、ビルマ人にもひどい迷惑《めいわく》をかけた。それでも、ビルマ人はそんなことは気にかけないで、いつもおだやかに静かにくらしている。昔《むかし》からビルマ人はわれわれのしたような馬鹿《ばか》なことをしでかして、よその人間にまで迷惑をかけたことはないらしい。学問もないというけれども、かれらは仏教を信じていて、生活のすべてがそれにのっとっている。そして、若いときにかならず一度は坊さんになって、その教えを身につける。それで心の調和をえている。平和に生きている。この方がもっとずっと高尚《こうしょう》な学問じゃないか」
「この生活程度の低いことはどうだ。これは人間らしい暮《く》らしじゃない。だいたいビルマ人の仏教というのがおかしなものだ。――世の中をすてろ。あきらめろ。それがよくなろうと悪くなろうと、一切気にかけるな。ただ心の救いだけを求めよ。人間は坊さんになって、この世を離《はな》れて、別の生活に入って、はじめて救われる。――お釈《しゃ》迦《か》様《さま》のいったことを言葉どおり解釈すると、こういうことになるのだそうだ。これがこのビルマの小乗仏教《しょうじょうぶっきょう》なのだそうだ。それで、ビルマ人はみな坊さんになる。現《げん》世《せ》のことは考えない。どうせ現世の生活は下らないというので、別に発明をしようという気もなく、ふんぱつして改良をしようという気もおこらない。すべての人間が自由に生きるための制度もまだありはしない。これで幸福だといえるかい。これではいつまでたっても進歩しっこはない」
「そんな幸福や進歩がどんなものだか、それがしまいにはどんなことになるのか、もう何千年も前にお釈迦様がちゃんと見ぬいたのだ。それでうまく行っているうちはいいが、一つふみはずすと戦争また戦争とあれくるって、ついには一瞬《いっしゅん》のうちに何十万という人間が焼け死ぬようなことになりはしないか、とご心配なさったのだ。そしてもっと浮《うき》世《よ》の執着《しゅうじゃく》をすてろ、とお教えになったのだ。それをビルマ人はいまだに守っているのだ。世の中がもっと平和になって野蛮でなくなるためには、ビルマ人がわれわれのようになるよりも、われわれがビルマ人のようになった方が、ずっと早道だし、ずっと根本的だよ」
「そんなことはできないことだ。原《げん》子《し》爆弾《ばくだん》までできた時代に、それを作った人間がビルマ人のようにのんきになれるかい」
「原子爆弾までできた時代だからこそ、人間がもっと落ちついて深く考えるようにならなくてはだめだ。あんなあぶないものは、ビルマの坊さんにでもあずけておくのが一番いいだろう」
軍服と袈裟の議論はいつもこんな話になってしまって、どちらがいいのか、はっきりとはきめかねました。しかし、最後には大てい次のようなことに落ちつきました。
――ビルマ人は生活のすみずみまで深い教えにしたがっていて、これを未開だなどということはとうていできない。われわれの知っていることをかれらが知らないからとて、馬鹿にしたら大まちがいだ。かれらはわれわれの思いもおよばない立派なものを身につけている。しかしただ、これでは弱々しくて、たとえばわれわれのようなものが外から攻めこんできたときに自分を禦《ふせ》ぐことはできないから、浮世のことでは損な立場にある。もうすこしは浮世のことも考えなくてはいけないだろう。この世をただ無意義だときめてしまうのではなく、もっと生きていることを大切にしなくてはいけないだろう。
議論はそれとして、また、こんなこともありました。
一度、こんどはかわった歌をやってみようというので、ビルマの民謡《みんよう》を二重唱にしてうたいました。それにえらんだのは、二重唱にしやすかったので、あの水島が森の中で「危険だから来てはいけない」という合図につかった歌でした。
これをうたいはじめたとき、柵《さく》の外に立っていたビルマ人たちは、どよめきの声をあげてよろこびました。爺《じい》さん婆《ばあ》さんが手をとってうたい、子供たちは柵の上に身をのりだしてうたいました。
このときは、あの坊《ぼう》さんもきていました。われわれはこの人にはぜひ一しょにうたってもらいたいと思って、しきりに手をあげて催《さい》促《そく》しました。
しかし、ビルマ僧《そう》は目を半眼につむって、なんだか茫然《ぼうぜん》として立っているだけで、とうとうしまいまでうたいませんでした。うたうことなどはあまり好きでない人かと思われました。
やがて、われわれはこのビルマ僧が見物にきても、べつに気にしなくなりました。しかも、そのうちに、捕《ほ》虜《りょ》と町の人とが近よりすぎるというので、柵の中にもう一つ竹矢来がつくられ、われわれと見物人とはずっと離されることとなりました。もう坊さんがきても、お布施をやることもできなくなりました。そのせいか、このビルマ僧もさっぱり姿を見せなくなりました。
四
ことによったら水島はもう死んだのではないか――、日がたつにしたがって、そういう疑いが誰《だれ》の胸にもこくなりました。そして、それだけにかえって、水島のことは口にだす者はなくなりました。みな黙《だま》って、このことにはふれなくなりました。そんなときに、意外にも、水島についてのかすかな情報がつたわってきました。そうして、死んだらしいということはますます確かなことになりました。
この情報をつたえたのは、収容所に出入していた一人の物売りの婆さんでした。
この婆さんは、日本軍がまだ勢いがよくて、この町に駐屯《ちゅうとん》していたときに、日本兵に物を売っていました。そうして、方々の駐屯地によくいる「日本婆さん」といったような人で、兵隊たちをわが子のように可愛《かわい》がって、洗濯《せんたく》や縫物《ぬいもの》をしてやったり、自分の家につれて行って御馳《ごち》走《そう》をしてやったりしていました。
この婆さんは、信心ぶかいビルマ人の中でもことに信心ぶかい人でした。日本軍の御用商人のようになってずいぶんもうけたはずなのに、それをみなお寺に寄付してしまって、自分はいつも貧乏《びんぼう》でした。この人が、いま日本兵が捕虜になっていても、よくやってきて世話をしてくれるのです。そうして、太ったからだをゆすり、茶いろの手足をふって、陽気にがらがらと笑いながら、誰にもかれにも言葉をかけていきます。この人の笑い声がとおくにきこえると、誰も自然と笑いだして、おもわず「ふ、ふ、ふ」といいました。それで、この婆さんがくると、兵隊たちはその日は一日上機嫌《じょうきげん》でした。番兵もこのお婆さんだけは出入を大目に見ていました。
もう商売といっても大したことはありません。すべて物々交換《ぶつぶつこうかん》です。日本兵はこうした境遇《きょうぐう》になっても、わりあいに私物をたくさんもっています。それは、もともと衣類その他の給与《きゅうよ》が十分でないので、一たんなくしたらまた手に入れることができないので、みながいろいろなものをためこんで、それを背に負って持ってあるいていたからです。
ある日、婆さんは頭の上に荷物をたくさんのせてやってきました。立っていたインド兵に太った頤《あご》をふるわせて、にっこり笑って会《え》釈《しゃく》をして、門を入りました。たちまちに日本兵がそのまわりをとりまきました。
「おい、お婆さん、このシャツでそのバナナをくれ」
「はいよ」とお婆さんは上手《じょうず》な日本語でいいました。
「おい、お婆さん、この笛《ふえ》はきのう竹で作ったのだ。よく鳴るよ。これでチャンナカをくれ」
チャンナカというのは黒砂糖を板に固めたようなもので、ビルマ人はこれから酒をつくります。
「はい、交換」
交換――というのは、方々の外地で子供でも知っている日本語です。
「おい、お婆さん、このまえ買ったこの猿《さる》はもういらないから、ガピーと代えてくれ」
ガピーというのは魚のしおからのようなもので、ビルマ人はこれをいろいろな煮《に》物《もの》に入れて味をつけるのです。
「あかん。あかん。その猿はいたずらをするよって、よう引きとらんわ」とお婆さんは関西弁です。前にここに駐屯していた日本兵が関西の部隊だったのでしょう。
「さあ、もうこのガピーをほしい人はあらへんか」
こんな風にして商売をすませてから、お婆さんは袖《そで》の下をごそごそとさぐっていましたが、やがて一羽の鳥を引きだしました。生きています。小さな青い鸚哥《インコ》です。
鳥はお婆さんの手の上にとまって、輪をはめたようなまるい目であたりを見まわして、羽ばたきをしました。そして、かたい乾《かわ》いた音をたてて嘴《くちばし》をうちあわせて、黒いみじかい舌をうごかして、するどく、キ、キ、と叫《さけ》びました。
「さあ、この鸚哥はいらんかな」
われわれはほれぼれと眺《なが》めました。
「この鳥はな、ビルマ語でも、日本語でも、おしえれば何でもようおぼえるわ」
「やあ、あの坊さんがいつもつれているのと同じ奴《やつ》だな」と誰かがいいました。
「そうだ、こんなふうに肩《かた》にのせてなあ――」とべつの一人がこの鳥を自分の肩にのせて、つくづく眺めました。
これをきいて、お婆さんはいいました。しゃべりはじめると雄弁《ゆうべん》でした。
「あれ、あんたはんたちも、あの鸚哥を肩にのせている坊様に会やはったんか。これはあの坊様のもっている鳥の弟や。これをつかまえたのはうちの隣《とな》りの御《ご》亭主《ていしゅ》で、鸚哥のすんでいる木をみつけて、一日かかってその木を伐《き》って、五羽の鸚哥をつかまえた。もうこれで三日分の商売はでけたいうてよろこんで、あとは毎日踊《おど》りを見てくらしていやはんのや。御亭主がこの鳥をつかまえていると、ちょうどそこへあの坊様が通りかかって道をたずねやはったさかい、御亭主は自分の後生《ごしょう》をいのって、いちばん青いのを一羽さしあげた。それからこっち、あの坊様はいつもあの鸚哥を肩にとめて歩いてなはる。この弟の方はすこし青味がうすいが、それでも、まあ、なんて可愛い鳥やろうなあ――」
隊長はお婆さんのいったことをきいていましたが、この鳥が、あの水島に似たビルマ僧のもっている鳥ときょうだいだ、というのに心がうごかされました。それで、彼《かれ》は自分の煙草《たばこ》入《い》れを出して、この鸚哥を手に入れました。
これから、この鳥は隊の人気者になって、みんなが言葉をおしえました。鳥もそれをよくおぼえました。お婆さんのいったとおり、ビルマ語でも日本語でも同じようにおぼえるのが、聞いていておかしな気がしました。歌もおぼえさせようと、熱心におしえた人もありましたが、これはだめでした。
このとき、このお婆さんがこういう噂《うわさ》ばなしをしたのです。
――もうかなり前になるけれども、よそからこの町に移されてきた、日本兵の捕虜の一隊がある。この隊は奥《おく》地《ち》の岩山の寨《とりで》にたてこもって、最後まで抵抗《ていこう》しようとしたので、たくさん戦死し、残っている者もほとんどみな傷を負っている。ほんとうに見るからに気の毒な様子の人ばかりだ。
それらの人は、この町のイギリス人が経営している病院に入れられて手あてをうけているが、なおらないで死ぬ人もある。そういう人たちは病院の墓地に埋《う》められるが、なかにはまだほんとうに年の若い少年もいて、町の人たちはおそろしいことだといって、いろいろと噂をしている――。
これをきいて、隊の者はみんな隊長の顔を見ました。
終戦となってもなお抵抗した部隊は意外にすくなかったのです。それで、いまのこの話の部隊があの水島が使いに行った三角山の隊だということは、大いにありそうなことでした。
隊長はいきおいこんでお婆さんにいいました。
「お婆さん、たのむから、その部隊の話をもっとよくきいてきておくれ。そして、その部隊が戦闘《せんとう》をしている最中に、よそから使いにきた日本兵はなかったか、ときいておくれ。もしあったら、その日本兵はどうしたか、いまその隊と一しょにこの町にいるのか、怪我《けが》でもしたのか、それともよそにつれられて行ったのか、とよくよくたずねて、さぐってきてほしい。お礼はできるだけする」
お婆さんはうなずきました。
それから十日ほどたってから、お婆さんはまた物売りにきました。何よりも先日の返事をきくと、その報告はこうでした。
――そういうことはあった。この部隊が途《と》中《ちゅう》で戦いをやめて全滅《ぜんめつ》しないですんだのも、そのよそから来た兵士が働いたおかげである。しかし、その兵はあとどうしたかわからない。弾《たま》がとんでくる中をあちらこちらと走りまわっていたから、おそらくあの山の中で死んだものと思われる。自分たち負傷兵は洞窟《どうくつ》の中に収容されていて、外の様子は見ることができなかったが、彼が弾に当って仆《たお》れたのを見たという者もあった。
これをきいて、隊長はおもわず飛びあがりました。われわれもみなうめき声をたてました。
「やっぱり、やったんだなあ!」と誰かが叫びました。
隊長はふるえる手で、さっそく手紙を書きました。そしてその隊にあてて、水島の最《さい》期《ご》の模様についてわかっていることをできるだけくわしくしらせてくれ、とたのんで、この手紙をお婆さんにそっと持たせてやりました。ところが、その次にお婆さんがきたときの話では、その手紙は番兵に見つけられ、お婆さんはきびしくしかられ、これから二度とこんなことをしたらもう捕虜に近づくことは絶対にゆるさない、といわれたそうです。そしてしかも、その傷病兵たちはよその病院にうつされ、もうこの町にいなくなった、ということです。
これより以上は何も知りようもありません。
しかし、とにかく、水島が使命を果たしたことはわかりました。
このムドンに運ばれてきた三角山の隊の中にいなかったことも、あきらかです。そうして、彼が生きているかもしれないという見《み》込《こみ》は、もうなくなりました。
せめて水島の遺骨か遺《い》髪《はつ》でもあれば――、と思いましたが、もとよりそんなものもありません。彼も多くの若い同胞《どうほう》とおなじように、人知らぬ土地にその屍《かばね》をさらしているのでしょう。それを思うとたえがたい気がしました。形見もかえってこなければ最期の模様もわからない、ただ死んだものと認定《にんてい》するほかはない――、こういう人の一人に水島もなったのです。隊長はなおしきりにあれこれと理由を考えては、まだ絶望でないようなことをいっていましたが、それがあてにならないことは自分でも分っているので、いった後ではよくにがく笑ったり、鼻をすすったりしていました。
思えば、われわれはいろいろとあきらめるには慣れてきましたが、これこそはもう本当にあきらめるよりほかはありませんでした。みな悲しい気持で捕虜生活をつづけました。もうはりあいもぬけて、ただなりゆきにまかせて、その日その日をすごしていました。
そのうちにようやく雨期がすぎて、冬の乾《かん》期《き》になりましたが、みなの気持はひきたちませんでした。あてもなく、希望もなく、気力もおこりませんでした。自分で自分のことをどうすることもできない、捕《とら》われの身だということを、しみじみと思いました。合唱をしてみても、前のようには熱がでません。きっとあのころは、日本人全部が、どこにいても、れいの虚脱《きょだつ》状態という病気にかかっていたのでしょう。
せっかく買った青い鸚哥もだれもかまう者はなくなり、なげやりにされて、よく屋根の上なんかにとまっていました。そうしてするどいあらあらしい声で、キ、キ、と叫んで、おぼえた日本語の悪口の言葉などをはきちらしていました。ただ鼠《ねずみ》をとるのが上手で、ときどき夜中にすごい音をたてて、梁《はり》の上で鼠をおさえてつつき殺していました。
こんなふうにして、捕虜生活もいつかはや半年以上もすぎた頃《ころ》でした。あるとき、ふしぎなことがおこりました。そして、それから後は、いよいよ日本に引《ひき》揚《あ》げるまで、何ともときがたい奇《き》怪《かい》なことがつづきました。そして、わが隊の者はただあきれ、いぶかり、おそれて、毎夜のように評議をつづけました。
五
このころ、われわれは毎日作業に行っていました。
仕事は、この町のお寺のうしろにある建物を修繕《しゅうぜん》することでした。ちかくここに、たくさんのイギリス兵の遺骨がおさめられることになっているということでした。それで、この納骨堂をきめられた日までに修理しなくてはならなかったのです。
ある日のことでした。ちょうどお祭りだったので、仕事の休み時間に、ゆるされてお寺を見物に入りました。
境内《けいだい》は大へんな人ごみでした。はでな原色の晴着をきた人たちが先も見えないほどに集まっています。金いろの針が群《むら》がったような塔《とう》や、反《そ》りかえった箱《はこ》をつみあげたような屋根に、鳩《はと》がとんでいますし、方々の敷石路《しきいしみち》や階段にはさまざまの花がまいてあります。しかし、これだけの人が行き交《か》っているのに、大へんしずかでした。ビルマ人たちはみな跣《はだ》足《し》で、さながら影《かげ》が歩いているように音をたてませんでした。
われわれも靴《くつ》をぬいで歩きました。参詣《さんけい》の人たちは立ちどまって、こちらを見ました。以前はいきおいがよかった日本兵が捕虜になっているのですから、気の毒に思うのでしょう、人々はしずかに道をひらいて通してくれました。
お寺の門のところに大きな口をあいている獅子《しし》像《ぞう》の下に、一人の少年が竪琴《たてごと》をひいていました。とおる人はそれに銭《ぜに》を投げあたえていました。
ビルマ人がつかう竪琴はちょうど茄子《なす》のような形をしていて、磨《みが》きあげた木に象嵌《ぞうがん》などをした、立派な楽器です。ビルマの音楽は雨の音をうつすことからはじまったということをききましたが、この国の音楽の伝統はふるく、国民は音楽ずきですから、楽器の種類も多くて、曲もなかなか複雑にむずかしく発達しています。
以前われわれは往来などでふと竪琴の音をきくと、よくはっとしたものでした。そして、死んだ人のことを思いだしました。しかし、このころはそれにもなれて、もうべつにおどろいたり悲しんだりすることもありませんでした。
獅子像の下の少年は、通りかかった人の気に入るような曲をひくのです。それで、われわれを見ると、おぼえた日本の歌などを弾《ひ》きましたが、われわれにはもうやる銭もほとんどありませんでした。
階段をのぼって、お堂の中に入りました。
ビルマ人は財産をおしげもなくお寺に寄進するので、自分の住居はみすぼらしいけれども、お寺は実に立派です。大きな大理石できずいた内陣《ないじん》には、ところせましとばかり豪奢《ごうしゃ》な飾《かざ》りがしてあります。そして、いたるところに仏像がならんでいます。
ビルマ人はその前に坐《すわ》って、熱心に合掌《がっしょう》しては額《ぬか》づいています。方々ではお経《きょう》をとなえる声がきこえます。お香《こう》の煙《けむり》もあがっています。ねむそうな、酔《よ》ったような、ふしぎな気分がみなぎっています。女が多いのですが、この人たちは「どうか今度生れるときには男に生れてきますように――」とねがっているということです。そうして、みな長い葉巻のような形の煙草《たばこ》とマッチを膝《ひざ》の前においています。ビルマでは子供まで煙草を吸うので、この女たちもお祈《いの》りがすんだあとで吸うために、そばにおいているのです。そして、お祈りがすんでもすぐには出ていきません。そのまま何時間もそこに坐っていて、さながら極《ごく》楽《らく》のたのしみにひたっているかのように、陶《とう》然《ぜん》としています。
隅《すみ》に、一人の若い女が合掌した手にまっしろな蓮《はす》の花をはさんで捧《ささ》げたまま、石の床《ゆか》の上に坐っていました。その前には、うすぐらい壁《かべ》のあいだに、仏様がかすかにほほえみながら、片肌《かたはだ》をぬいだ肩から白い長い手をたれていました。なんだか、その手が動きだしそうに思われました。
その横に、一人の老人が坐《ざ》禅《ぜん》の形をしていました。青黒く、やせて、まるでくずれかけた骸骨《がいこつ》が坐っているようでした。よく見ると、この人は癩病《らいびょう》でした。ビルマ人には癩病が多く、それがお寺の中に坐って物《もの》乞《ご》いをしたり、冥想《めいそう》にふけったりしているので、われわれは以前からめったにお寺の中には入らなかったものでした。いまもこの老人を見ると、何だかにわかに跣足の裏がむずがゆくなりました。
まったく何という変った世界でしょう! こういう光景を見るごとに、こんな国もあるものか、こんなにして暮《く》らしている人もいるものか――、とよくそう思いました。
しかし、思えば、われわれの国もむかしはこんなふうだったのでしょう。それが八十年ほど前から、にわかに近代風になったのです。それがこの短いあいだにはなかなかうまくいかないために、いまさまざまな苦しみをなめているのです。われわれが国を出たときには、もう日本人は腹をすかせて、毎日追いたてられるように忙《いそが》しく働いて、おそれおののいて暮らしていました。勝つか負けるかの争いに血相をかえていました。それにひきかえ、ここの国の人々は、おとなしく、弱く、まずしく、しかもそれに安住して、ただしずかに楽しんで生きています。そして、ひたすら心の救いだけを求めているのです。
一人のイギリス兵がめずらしそうに寺の中を見物していました。この人もここの規則にしたがって素《す》足《あし》でいましたが、この老人に気がつくと、いそいで外に出ていきました。
イギリス人が出ていくと、このお堂の入口で竪琴の音がおこりました。あの門のところにいた少年がここにきてひいているとみえます。つたわってきたその節《ふし》は、「はにゅうの宿」でした。きっといま出ていったイギリス人の気にいるために、この曲をひいているのでしょう。
思いもかけないときにこの歌を耳にして、われわれはなつかしさにたえませんでした。
これを竪琴できくのもずいぶん久しぶりのことです。みな首をうなだれてききいりました。
あたりにたくさん坐っている仏像も、あちらにむいたりこちらをむいたりして、やはりこの竪琴の音をきいているようでした。つたわってくるその絃《げん》の音は、しずかにひびきあって、ちょうど熱帯の花にふりそそぐ細い雨のようでした。
われわれはありし日の水島の俤《おもかげ》を胸に浮《う》かべました。そして、あの亡《な》き人の魂《たましい》がやすらかに眠《ねむ》るようにと、あたりのビルマ人のように、仏様にむかってお祈りをしました。
何分にも外でひいていることですから、はっきりとはきこえません。しかし、余《よ》韻《いん》のながい絃の音は高く低く、いくつも絡《から》みあい組みあって、いかにも空にただよう人の魂の太《と》息《いき》のように、絶えたりつづいたりしていました。
「ああ水島の魂が――」とわれわれは思って、目をつむりました。
幾人かの戦友は床の上に坐って、合掌しました。
そのうちに、じっと立っていた隊長はにわかにぴくりと身をうごかしました。
「おや――!」と隊長はいって、耳をすませました。そうして、せきこんでいいました。「あの和《か》絃《げん》は――?」
「何ですか?」と一人の兵隊がそのただならぬ顔色を見て、たずねました。
「しっ」と隊長はいって、なおきいていましたが、竪琴の音はもうずっと遠くになっていました。
「出よう!」と隊長はいいました。それで、われわれはこの寺を出ました。
隊長は足早に行きます。彼はポケットをひっくりかえして、残っている銭をみなだして手ににぎりました。われわれがあまりいそいで人ごみをおし分けて行くので、参詣の人たちはおどろいて見おくっていました。
門にちかいところで、ようやく琴ひきの少年が人ごみの中に見つかりました。隊長は彼においすがって、金をみな与《あた》えて、「ひけ、ひけ」と手まねでせきたてました。
少年は鳶《とび》いろのつやのいい膚《はだ》をして、額にかかったちぢれた髪《かみ》の陰《かげ》からすんだ目を見ひらいて、おどろいて隊長をみつめていましたが、せきたてられて、竪琴をとりなおしました。隊長は「はにゅうの宿」の節をうたって、催促《さいそく》しました。
そのときに、とおくで呼《よぶ》子《こ》の笛《ふえ》が鳴りました。われわれの隊の監督《かんとく》のインド兵が門の外に立っていて、こちらをまねきながら号令をかけました。
「捕《ほ》虜《りょ》あつまれ! 作業開始!」
もうしかたがありません。隊長は名残《なご》りおしげにそこを立ちさりました。われわれが列をただして出て行くと、うしろで、今度はビルマの流行歌をひく竪琴の音がきこえました。
その晩、隊長は意外なことをいいました。
「きみたちはどう思う。あの少年はあの曲をだれにならったのだろう?」
みな、なぜ隊長がこんなにあの少年の竪琴のことを気にするのか分らないので、だまっていました。
やがて、一人の戦友がこたえました。
「〈はにゅうの宿〉は有名な曲ですし、いまこの町にいるイギリス人たちもいつも歌っているのですから――」
「いや、そうじゃない。誰《だれ》でもしっているあの節じゃない。あの竪琴のひき方だ。きみたちはあれをきいて、べつにふしぎには思わなかったか?」
われわれはあの音を思いだそうとしました。が、何も変ったことも思いあたりませんでした。
「あの和絃――いくつもの音を一しょにひく、音の組みあわせ方は、あれはビルマ人が普《ふ》通《つう》にやる調子かね?」
「さあ――?」とみな考えました。
「はにゅうの宿」の竪琴の曲といえば、われわれがきいたのは水島の作曲したものだけなのですから、はたしてビルマ人が同じ調子でひくものかひかないものか、判断がつきません。それに何より、あのお寺の中で、はっきりきいたのはせいぜい一節《いっせつ》の半分くらいなものです。これだけでは何とも見当がつきかねます。
隊長はいいました。
「いうまでもなく、作曲にはそれを作った人の癖《くせ》がある。今日きいた竪琴の曲にはたしかに水島の癖があったような気がする。あれは水島の作った曲ではないか? 誰もそうは思わなかったか?」
「へーえ」とみなびっくりしました。
「ですが、隊長」と一人がききました。「あんなに遠くでひいているのをきいて、それが分りますか?」
「さあ、それがどうも――」と隊長も首をかしげました。「ことによったら自分の思いちがいかもしれないが」
われわれは色めきたちました。これは実に意外なことでした。そして、それから一晩じゅう、大さわぎの議論となりました。
――隊長は専門の音楽家だから、あれをきいただけで、これはけっしてビルマ人がつける和絃ではない、といったようなことが分るにちがいない。この隊長の耳は信用できることだ。
もしあれが水島の曲だとすれば、それはいったい誰にならったのだ? 誰がおしえたのだ? あの少年をつかまえて、それが誰から伝わったかをたずねて、それからそれとたどっていけば、水島の最後の消息が分るはずではないか。
水島は死ぬまえに、あの曲を誰かに教えたのだろう。きっと、あの昔《むかし》の物語りの新《しん》羅《ら》三《さぶ》郎《ろう》のように、いよいよ明日のたたかいには死ぬという晩に、自分の秘曲を残したいと思って、たれかビルマ人に伝えたにそういない。ああ、自由の身なら、出かけていって、その人を探しだして、水島がどんなにして死んだかをきくのだが――。
われわれはこういって論じて、いきおいこみました。
しかし、論じているうちに、話はにわかに方向が変りました。
――しかし、どうだろう。あの三角山で死ぬ前に、はたして自分の作品を人につたえる暇《ひま》があっただろうか? 水島が行ったときには、三角山はもう激戦《げきせん》の最中だった。水島は着くとすぐに、あの負傷兵たちもいっていたように、「弾《たま》がとんでくる中をあちらこちらと走りまわった」にちがいない。それならば、もしあの曲を人に教えたとすれば、それは三角山の日本兵が降伏《こうふく》した後でなくてはならない。そうだとすると、水島は三角山では死ななかったことになる。まだ生きていることになる――。
議論がこうなったとき、みなは湧《わ》きたちました。
といっても、考えてみれば、これは何といってもあんまり漠然《ばくぜん》としたうたがいでした。すべては、あの少年のひいた曲が水島の作ではないか――、ということがもとになっているのですが、人ごみの中でふときいたとぎれとぎれの音が、どうしてそれほどあてになる証拠《しょうこ》となるでしょう。隊長は水島を本当の弟のように思っていたし、何より彼を死地におくったのは自分だとわが身をせめていましたから、それで何かすこしでも種があれば、そこに希望をみいだしたかったのです。
その後ずっと、われわれはあの少年に会うことはありませんでした。そうして、日がたつにつれて、この漠然としたうたがいも忘れられました。
六
このことがあってからしばらくたったとき、われわれはお寺のそばの大きな森で木をきりました。これで材木や板をこしらえて、納骨堂の中にイギリス兵の遺骨を安置するための段をつくるのでした。
ずっと乾燥《かんそう》期《き》でしたから、爽《さわ》やかに晴れた日がつづき、森の中の作業は愉《ゆ》快《かい》でした。だれも元気になってはたらきました。このころになってようやく、みな、終戦後の心の打《だ》撃《げき》や、むしあつい気候からくる虚脱《きょだつ》状態を脱していました。
大きな幹の根元を斧《おの》で打つと、水気の多い木片が雪のようにとびちります。片側にふかい切目をつけ、次にその反対側のすこし上の方を切ると、やがて高い梢《こずえ》がゆさゆさとゆれだして、蔦《つた》や苔《こけ》を吊《つ》りさげた大木がまるで生きたもののように動きだします。しばらくは、重い体をむりに支えて立っていようとするかのようにためらっています。しかし、そのうちに最後の一撃を加えると、はげしい裂《さ》ける音をたてて全体が傾《かたむ》き、あたりをとどろかして地にたおれ、重い幹が根からはなれてとびます。切っていた人々はにげます。その頭の上に木の葉が散りかかって、とまっていた鳥がけたたましく舞《ま》いたちます。
それから、横になっている木の枝《えだ》をはらうのですが、まるでまだ息をついている獣《けもの》をほふるようです。切目は露《つゆ》をふき、あたらしい匂《にお》いをたててかがやきます。
一本の木をたおすごとに、監督のインド兵はいつも、「日本人は上手《じょうず》だな」といってほめてくれました。
あるとき、大きな堅《かた》い木をようやくにして始末して、一同ほっとして汗《あせ》をふきました。
森の中の空気は木の葉ごしに日にあたって、風までが緑いろにすきとおっていました。足の下も厚い苔や草でやわらかで、まるでクッションをふんでいるようでした。ほんとうに気持よく奥《おく》ふかく静かでした。ただどこかで、たぶん苔の下で、水がわいて噴《ふ》きだして流れる音がきこえていました。
インド兵ももうすっかりわれわれを信用していたので、こんな休息のときには、よくふかふかとした草の上にねて、苔の生えた木の根を枕《まくら》にして昼《ひる》寝《ね》をしていました。
ふと一人の戦友が気がついたのでしたが、すこしはなれた木の陰に、黄いろい人影が立っていました。よく見るとそれは、ぼろぼろの袈裟《けさ》をつけた、乞《こ》食《じき》のようなビルマ僧《そう》でした。
このビルマ僧はじっとこちらを見ていましたが、やがてあたりをはばかるように見まわしながら、しきりに手まねきをしました。
戦友は何かと思って、立っていきました。
その僧は背がひくく骨の太い人で、目つきがわるく、唇《くちびる》もただれて白くなっていました。髪はぼうぼうにのびていましたが、こい髭《ひげ》はきれいに剃《そ》っていました。
戦友がそばに行くと、その僧は草の中に身をかくすようにしゃがんで、卑《ひ》屈《くつ》な笑いをうかべてもじもじしていました。
戦友はきっとこの坊《ぼう》主《ず》は施《ほどこ》し物《もの》をほしいのだろうと思って、残っていた缶詰《かんづめ》をやりました。
ビルマ僧はそれを指先でほじって食べましたが、戦友がまたもとのところへもどろうとすると、引きとめていいました。
「おまえさんたちは、いつからこの町にきたのかい?」
「去年の九月からだよ」と戦友が答えました。
「ふうむ」といって、僧はしばらく考えていましたが、またいいました。「それで、いつ日本にかえるのだい?」
「分らない」
「どうだい、かえっていい事があるかなあ?いったい日本の様子はどうなんだ」と僧はいって、赤くなったいやな目つきでじっとこちらを覗《のぞ》きこんで、さぐるようにしました。
はっと戦友は気がつきました。このビルマ僧はさっきからちゃんとした日本語で話しているのです。そういえば、その肩《かた》がいかって首が短かい体つきも、抜《ぬ》け目のない口のききようも、日本の浮《ふ》浪人《ろうにん》などによくある態度そのままです。そして、こんなにどろどろとした汚《きた》ないなりをしているのに、髭だけをきれいに剃っているのも、髭のうすいビルマ人に見せようとするためと思われます。
「なんだ、きみは日本人じゃないのか!」と戦友は大声でいいました。
「しーっ!」と僧はそれを手でおさえるようにして、またあたりを見まわしました。
「気がついたのかい。見あらわされた玄関先《げんかんさき》、というところだね。どうだい、うまく化けたろう」
「いったい、いつからそんな恰好《かっこう》をしているのだ」
「もう一年になる」
「終戦前からだね。もとは兵隊だね」
「そうよ」
「何のために、そんなことをしているのだ」
「何のためって、おめえ――。おれは隊にかえったら罰《ばつ》をくう。それで脱走《だっそう》をして、かくは姿をやつして、いまはごらんのとおりの天《てん》竺僧《じくそう》だ」
隊長が気がついて、そちらの方に歩いてゆきました。脱走兵はあわてて腰《こし》をうかしましたが、にわかに地面にあぐらをかきました。そうして、隊長が彼《かれ》の前に立つと、坐《すわ》ったまま軍隊式の敬礼をして、帽《ぼう》子《し》もかぶっていない額に手を上げました。
「いや、これはこれは隊長殿でありますか。わたくしは脱走兵であります。隊にかえるのがいやでありますから、ビルマの坊主になりました。ちょいと友軍の情況《じょうきょう》を偵察《ていさつ》にきたので、営倉に入れられにまいったのではないんであります。ハハハ」
隊長は事情をきいた上で、おだやかにさとしました。……もう脱走ということは重い罪には問われないから、安心して帰るがよい。わずかのことなら、いさぎよく罰をうけてつぐないをして、みなと一しょに日本に帰ったらどうだ。ひとりだけこの土地に残って、にせものの坊さんになって、一生浮浪して歩いたところで、何のいいことがあろう。
こういって隊長が言葉をつくしても、この人はききませんでした。
「罰をうけるのはいやでありますよ、隊長殿。罰もうけずに、何とかしてもぐりこんで国にかえる法はないか、と思っているんだがね。あいたたた」
と彼はにわかに首筋をおさえました。
見ると、彼の首にいつのまにか大きな山蛭《やまびる》が吸いついていました。
ビルマの森の山蛭は猛烈《もうれつ》なものです。われわれも山の中を逃《に》げているとき、これには悩《なや》まされました。手足をつつんだ着物の奥にまでしらぬまに入ってきて、いくらとろうとしてもとれません。ねばねばしたゴムのような鳥もちのようなものが吸いついたまま、どんなにひねっても丸めてもつぶれもせずに、そのさわった指先にまたはりつくのですから、始末のわるいものでした。
彼はようやく蛭をつまんで、わきの立木にぬりつけました。
隊長はさらにたずねました。
「それで、いまはそうやっていて、いったいどうして食っているのだね?」
「どうして食っているかって? へ、へ。このビルマの国では、坊主になってさえいれば食うにはこまらない。信心ぶかい人たちがあまるほどお布施《ふせ》をくれる。おれだってもっと心がけがよければ、こんな乞食みたいななりはしてはいないんだがね」
この人のいうところによるとこうです。――ほかにも脱走兵はたくさんいる。どうせ日本にかえっても家も身よりもなくなった人、または不心得から日本人のあいだに義理をかいて顔を合わせられなくなった者、あるいはビルマの女を妻とした者、こういう人たちは脱走をして、その多くは僧侶《そうりょ》になった。ビルマでは住民が坊さんを非常に大切にするから、坊さんになりさえすれば生きていかれる。
しかし、何といっても、日本人は日本人がなつかしい。もとの戦友は忘れられない。異国人の中にひとりで生きているうちに、やもたてもたまらなくなって、つい灯火にひかれる蛾《が》のように、自分の属していた原隊が入れられている捕虜収容所に行ってみたくなる。そうして、本隊はいつ日本にひきあげるのだろう、自分も帰れるものなら一しょに帰ろうか、それともやはりこのままビルマに残ろうか、と様子をうかがいにくる。
自分も戦友がどうしているか知りたいのだが、原隊がどこにいるかが分らない。もうビルマ中の日本兵の捕虜のいるところは、ほとんどみなまわった。このムドンの町にもいないらしい。それで、もしあなた方が日本にかえったら、この自分は生きているということを家族につたえてほしい。その住所は何県のどこそこ村だ。この隊の中に、もしかしたらこの村の出身の人はいないだろうか……。
この脱走兵は、話しているうちに隊長が情ぶかい人で彼をどうする気配もないのを知ってから、すっかりおだやかになりました。そうして、しまいには丁寧《ていねい》な言葉で右のことをくれぐれもたのみました。
隊長はこの話の途中《とちゅう》から、石のようにかたくなってほとんど身動きもしませんでした。そして、脱走兵がまた森の中にかえろうとしたときには、彼の手をにぎって、ただ、
「体を大切にしたまえ」
とだけいいました。
脱走兵ももうはじめのような反抗的《はんこうてき》なふてくされた態度ではなく、ひくくおじぎをして、後をふりかえりながら、森の中に姿を消しました。
この晩、収容所にかえってから、隊長は沈《しず》みこんでひとりで考えていましたが、やがてその日あったことをくわしく話しました。
みんなびっくりしました。そして、「それならば――」といって顔を見あわせました。
日本兵がビルマ僧になって収容所を見にくる。それならば――。あの柵《さく》のむこうに群集のうしろに立って、凹《くぼ》んだ目でじっとこちらを見ているビルマ僧は、ことによったら、あれはただ似ているというだけではないのだろうか? 本物かもしれないのだろうか? そんな意外なことがありうるのだろうか? あの水島がまだ生きていて、脱走して、黄いろい袈裟をきて、青い鸚哥《インコ》などを肩にのせて、跣足《はだし》になってあるいている。しかも、収容所の柵のついむこうまで来ていながら、いつもただこちらを見ているだけで、われわれにむかって合図もしない。一体何のために? どういうわけで?
あまり妙《みょう》なことなので、誰《だれ》もべつに議論もできませんでした。
隊長がききました。
「どうだろう。もしかりに水島が生きているとして、何かの事情で、彼がわが隊に帰ってきにくい、帰ってくるのがいやだ、ということがあるだろうか?」
われわれは一せいに、
「そんなことはある筈《はず》がない」「考えられないことです」と答えました。
この夜の話はこれでおわりました。
隊長は翌日もまたその翌日も沈みこんで考えていて、食事もろくにとりませんでした。
それがあまりいつまでもつづくので、ついに見かねて、一人の古《こ》参《さん》の兵士がいいました。
「隊長、残念ではありますが、水島のことはもうおあきらめください。あれが生きているはずは所詮《しょせん》ありません。水島はあの三角山で立派に死んだのです。使命を果たして、自分のいのちをすてて、他の多くの同胞《どうほう》を無駄《むだ》死《じに》から救ったのです。とうとい犠《ぎ》牲《せい》になったのです。隊長はじめわれわれはみな、あれが生きていてくれればいいがと思うので、似ている人がいるとつい水島かと思って胸をおどらせるけれども、それはもうありえないことです。
水島はビルマ人の恰好をするとどう見てもビルマ人に見えたのですから、いまあべこべに、ビルマ人であれにそっくりに見える人がいたってふしぎではありません。生きていると思うから、似ている人が水島に見えるのです。竪琴《たてごと》の音があれの作った曲にきこえるのです。部下を可愛《かわい》がってくださるのはありがたいのですけれども、そのためにいま隊長が健康をそこなわれては、この隊のためにも大へんです。とうてい見《み》込《こみ》のないことは、おあきらめください」
この古参兵はまじめな実直な人です。彼は隊長の前にきちんと正《せい》坐《ざ》して、厚い手を膝《ひざ》の上にかさねてこういいました。
隊長はこれをきいて、
「やはり、そうかなあ――」といって、うなずきました。
その様子がいかにもさみしそうでした。
いった古参兵も涙《なみだ》ぐみました。
七
ようやく納骨堂の工事もすみました。そして、ここにイギリス兵の遺骨がかりにおさめられる準備はできました。
日本軍が作戦の必要から、ビルマとシャムをつなげるために、地図の上にも忘れられた奥地の山の中に、泰緬《たいめん》鉄道という鉄道をつくったのですが、この工事に大勢のイギリス人の捕《ほ》虜《りょ》を使いました。非常な無理をしていそいだところへ、あいにくとコレラが流行してきたものですから、たまりません。人手はたらず、医者はなし、栄養も設備もなにもかも思うにまかせぬ原始林の中で、工事に使われていた人が何万というほど悲《ひ》惨《さん》な死に方をしました。実にいいようのないおそろしい出来事でした。その人々の骨が粗《そ》末《まつ》に埋《う》めてあったのを故郷におくりかえすことになり、そのうちの一部分をひとまずこの町にもってきました。この建物はそれを安置するためのものでした。
いよいよここに遺骨を移すことになって、そのために立派な儀《ぎ》式《しき》が行われる日になりました。
われわれは納骨堂の工事に働いたので、とくにゆるされて、お寺へゆく途中の路《みち》で、その葬列《そうれつ》を見おくることになりました。
お寺の立っている丘《おか》の下に広場があります。そこにはたくさんの小店や仮小屋が並《なら》んでいて、人の往来で一ぱいです。この埃《ほこり》がまっている中にさまざまの市がたっていました。方々でにぎやかな売声がしています。野菜だの、肉だの、菓子《かし》だの、花だの、化粧品《けしょうひん》だの、いろいろなものを売っています。中には、日本兵が敗走したときに盗人《ぬすびと》がぬすみだした服だの、肩章《けんしょう》だの、コンパスだの、そんなものまであります。人が立ちよって食べている料理店もあります。そんなところでは、女たちが長い腰掛《こしかけ》の上に並んでしゃがんで、食べながらしゃべっています。ちょうどたくさんの小鳥が電線にとまっているようでした。
ありとあらゆる階級の男女が日《ひ》傘《がさ》をさしてゆききします。ゆっくりとした牛車も通ります。一頭立《いっとうだて》のも、二頭立のも、三頭立のもあります。ひいている牛は、目が大きくて黒く、角がながくて曲っている、体のわりに脚《あし》のほそい牛です。車の箱《はこ》は、みな例のビルマに独得の反《そ》りかえった線で、蛇《へび》か鳥がはねているような恰好《かっこう》をしています。人が乗っている車もあります。その窓から客がのぞいています。そんなのは大てい身分のある女で、髪《かみ》には花をさし、耳や腕《うで》に金の環《わ》や宝石などをたくさん下げています。ただその化粧が変っています。顔にきいろい粉をまだらに塗《ぬ》っているのです。
われわれはこの広場のかたわらに整列していました。
昼ちかくになって、イギリス軍の葬列が近づいてきました。人も車もわきによりました。にぎやかな往来もしばらくはとだえました。
厳粛《げんしゅく》な、そうしてきらびやかな行列でした。
一番はじめに、礼装《れいそう》の騎馬《きば》巡査《じゅんさ》が通行人を整理しながら、早足でやってきました。巡査はいつもはにこにこしている頬《ほお》を今日はきっとひきしめて、あご紐《ひも》を下唇《したくちびる》のところにかけています。馬も手入れのいい毛《け》並《なみ》がつやつやとして、走ると筋肉が波立ちます。そのあちらこちらを軽快に駆《か》けまわるさまは、いかにもこの儀式の大切なことを心得ていて、さも自分で自分の上手《じょうず》な整理ぶりに感心しているかのようでした。
いよいよ行列がやってきました。その先頭には、一中隊ほどの儀仗兵《ぎじょうへい》がすすみました。銃《じゅう》をさかさまに、つつ先を下にして肩にかけています。みんなびっくりするほど血色のいい赤い顔をしています。制服がまるで鋳《い》型《がた》にとったようにぴっちりと体にあって、胸がはりだしています。飾棚《かざりだな》にかざってある上等な人形のようです。大勢の足並がそろっているので、ちょうど二枚の櫛《くし》の歯がかわるがわるうごいているようでした。
その次に、従軍司祭の一団がつづきました。黒い服の胸に銀の十字《じゅうじ》架《か》をさげています。中にはもう高齢《こうれい》の、みるからにけだかい顔立ちの人もいます。そんな人は、十字架ばかりではなく、髪の毛もほんとうに銀色でした。
この後に、象にひかせて、立派な霊柩車《れいきゅうしゃ》がいく台もつづきました。
象の背中にはやぐらをおいて、その上にうつくしい敷物《しきもの》をしいて、それにターバンを巻いた象使いが坐って、細い鞭《むち》をたくみにつかっています。象は小さなお祈《いの》りをしているような目をして、長い鼻を巻いたりのばしたりして、しゅうしゅうと息の音をたてながら、足をふかりふかりとしずかに踏《ふ》んでゆきます。その灰いろの皺《しわ》だらけの大きな体は、一面の飾りをさげて、さながら壁《かべ》がうごいてゆくように目の前をうごいてゆきました。
霊柩車はチークか黒檀《こくたん》でつくった立派なもので、花《はな》環《わ》に埋まって、上にはイギリスの旗がかけてありました。
この霊柩車がつづいて前をとおったとき、われわれはずっと挙手の礼をしていました。
車は水をうったようにしずまった中を、しずしずとすぎていきました。
この中に眠《ねむ》っている人々は、異境にたおれて、いま永久のいこいの国に入るべく、人々に守られて葬《ほうむ》られていくのです。われわれは敬虔《けいけん》に見送りました。
車のあとにも儀仗兵がつきました。こんどの儀仗兵はスコットランドの兵隊で、かわった服装をしていました。あらい縞《しま》の短いスカートのようなものをして、その下から膝頭《ひざがしら》をだして、房《ふさ》のついた帽子をかぶっていました。
それから、軍人や文官のさまざまの人がつづきました。その中には、おそらく看護婦と思われる若い女の人の一団もありました。品がよく、しかも気丈《きじょう》に、かたい信仰《しんこう》をもっているらしい婦人たちでした。
最後にビルマ人がつづきました。みな礼装をして、頭に布をまいて、長いきちんとしたルーンジをしています。役人もいれば坊《ぼう》さんもまじっていましたが、その坊さんも、位の高い人から、いつも往来を歩いているような普《ふ》通《つう》の坊さんもまじっていました。
ビルマでは、人が死ぬと、その死んだ人の年の数だけの僧侶《そうりょ》が葬式の列に加わるのです。いまは、この遺骨になった人々の年の数を合わせただけの坊さんはとてもいませんでしたが、それでもずいぶん大勢でした。
それを見送っているうちに、われわれはおどろきました。
行列の中に、あの水島に似たビルマ僧が歩いているではありませんか。
この人は落ちついて、まっすぐに正面をむいて足をはこんでいます。黄いろい衣《ころも》もはれがましく、頭も青々と剃《そ》りあげています。年はまだ若いけれども、かなり位の高い坊さんに見えます。以前はじめて橋の上であったときよりも、ずっと奥《おく》ふかい威《い》厳《げん》をたたえていますが、どこかかなしげでもあります。顔立ちはたしかに似ています。しかし、あのいきいきとして精《せい》悍《かん》だった水島上等兵とは、まったくちがった顔つきです。水島の頬には思いつめた決断をあらわすたての条《すじ》が走っていましたが、この人の面《おも》立《だ》ちはずっと線がやわらかくて、むしろおだやかな忍《にん》苦《く》の相がみえていました。
これだけなら、何もふしぎなことはありませんが、ただ、このビルマ僧が、一人だけ他《ほか》の僧たちとはちがったことをしているのです。
彼は四角な箱を白い布につつんで首から吊《つる》しています。そうして、この箱を両手でささげて歩いていきます。心の中に悲しさをかみしめながら、それを外にはあらわさないでいる様子に見えます。その姿は、日本人が遺骨をはこぶときの習慣の、あれとまったく同じです。
ほかにこんなことをしている人はありません。
この僧は今日は肩《かた》に鸚哥《インコ》をとまらせてはいませんでしたが、前とおなじように、しずかに目を伏《ふ》せて、われわれの前をすぎて行きました。
隊長は小声で「あっ――!」といいました。
われわれもおもわず直立不動の姿勢をくずして、口をひらき両手を前にたれたまま、この人をみつめました。
同じ人のようでもあり、別人のようでもある――。日本人のようでもあり、ビルマ人のようでもある――。他に大勢いるビルマ僧と同じ恰好ではあるけれども、していることはただ一人だけちがっている――。厳粛な豪奢《ごうしゃ》な行列にまじってこの粗末な白い箱を首にさげた異様なビルマ僧の姿は、たちまちにわれわれの目の前から消えてしまいました。あとには、またたくさんのビルマ人、それから献《けん》上《じょう》の供《く》物《もつ》をつんだ牛車の群、最後には物もらいをしようとする乞《こ》食《じき》たち……そんなもので行列はおわりました。
路の傍《はた》によっていた群集がくずれて、またもとのにぎやかな市場になりました。やがて、行列が坂道をのぼって、丘の上の寺の中に入ってゆくのが見えました。
この日は収容所にかえってから、われわれはほとんど徹《てつ》夜《や》で議論をしました。
「それみろ、あれはやっぱり水島じゃないか。水島は生きているじゃないか。脱走兵《だっそうへい》になって坊《ぼう》主《ず》になっているじゃないか」
こういってはげしく主張する人々がありました。しかし、
「それなら、なぜ人もあろうに、あの水島が脱走したのだ」と反問されると、
「それは分らないけれども」
といって口をつぐむほかはありませんでした。
「あれが水島だなんて、そんなばかなことがあるものか。水島は死んだにきまっている。別れてからもう一年ちかくも便りがなくて、あの負傷をした人たちも、生きている望みはないといったじゃないか」
こういって力説する人もありました。しかし、
「それなら、あの隊長のきかれた竪琴の和《か》絃《げん》はどうして伝わったのだ?」といわれると、
「さあ、その音がはたして――」
といって、首を傾《かし》げながら隊長の方を見るのでした。
あの坊さんが水島であると主張する人々にとって、有力な根拠《こんきょ》となったのは、あの首につるしていた箱です。この人たちはいいました。
――あれは日本人のすることだ。われわれが国を出るころは、英霊《えいれい》がああした姿になって還《かえ》ってくるのをたくさん見た。いや、実はそのずっと前から――、ことによったらわれわれは子供のころから、あの白い布につつまれた悲しい箱を見なれているではないか。それは大陸から南方からぞくぞくとかえってきて、あるいは戦友の首に、あるいは老いた父の首に、またあるいはいとけない子の首に下げられていた。ああいうものをもっているということが、あの坊さんが日本人だということの証拠《しょうこ》だ。よその国民がああいうものをもっているところは、見たことがない。
反対する側の者はいいました。
――それがいったい何の証明になる? たとえ、かりにあれが日本人だとしても、その日本人がなぜイギリス人の葬式にまじっているのだ? 何のためにあんな箱などをもっているのだ? 何もイギリス人の遺骨を日本式の箱に入れてはこぶことはないじゃないか?イギリス人の遺骨は、あの象がひいている立派な霊柩車にちゃんと納まっている。
だいたいあの箱がどうして日本式の箱だといえるのだ? ビルマ人だって四角い箱をつかうだろうし、つつむときには布でつつむだろうし、それを持って歩くときには首にかけていたって、わるいことはあるまい。あの坊さんは何かに使うものを、ああやって運んでいるのだろう。水島らしくみえる人が日本式らしくみえる箱をもっていたからとて、それで何も幽霊《ゆうれい》でも見たように騒《さわ》ぎたてるにはあたらないじゃないか。
こういってゆずらない人の中で、一人の兵隊はしまいにはいらいらした調子でいいました。
「みな戦争で頭が変になって、神経衰弱《すいじゃく》になっている。婆《ばあ》さんじゃあるまいし、迷信《めいしん》めいたことをいって、あきらめのわるいことをくどくどとくりかえすのは、もうよそう」
この人はこういって、悲しげな声をはりあげて、おこったようにいいました。
「いつまでも生きているの、死んでいるのって、それじゃ、あの身を挺《てい》して出かけていって同胞《どうほう》を救っていさぎよく散《さん》華《げ》した、水島に失敬だよ! ことにあれは、脱走して坊主になってうろついているなんて、そんな卑怯《ひきょう》な男じゃない!」
隊長はこの夜は何も意見はのべずに、だまってきいていました。
八
しかし、隊長はその翌日からかわったことをはじめました。
彼《かれ》はもうながいことうちすてられて羽毛《はね》の色もわるくなった青い鸚哥《インコ》をつかまえてきて、これから後は、いつも自分の肩にのせました。彼は鸚哥を撫《な》でていいました。
「よし、よし、誰《だれ》もかまってやらなくてわるかったな。これから可愛《かわい》がってやるよ。そのかわり、日本語を上手《じょうず》におぼえてくれ」
すると、鸚哥はうれしそうに身をふるわせました。そうして、堅《かた》い嘴《くちばし》をカツカツとうちならして、黒い消しゴムのようなつめたい舌をだして、隊長の手をつつきました。
隊長がしはじめたことはほんとうに妙《みょう》なことでした。彼は毎日三度の自分の食事を分けてやりました。そうして、
「おーい、水島」といって、鸚哥がそれをくりかえすと、自分の掌《てのひら》から飯をたべさせます。
それから、「一しょに」といって、鸚哥がそれをくりかえすと、おかずの肉を分けてやります。
次には、「日本にかえろう」といって、鸚哥がそれをくりかえすと、とっておいたガピーをやります。
そうして、今度はこれをつづけさせます。
こうやって、十日ほども熱心にくりかえしたので、とうとう鸚哥は、隊長が飯盒《はんごう》の蓋《ふた》をあけると、もうこの言葉をかん高い声で叫《さけ》ぶようになりました。
隊長が何のためにこんなことをするのか、誰にも分りませんでした。これがはじまると、みな目を見あわせました。まさかこの隊長が、水島がいないのを惜《お》しがるあまり神経衰弱になったわけでもないだろうに、と心配したり、腹をたてたりしていました。とにかく、夜中でもこの鸚哥がするどい声で、
――おーい、水島、おーい、水島、一しょに日本にかえろう。
といらだたしく叫びだすと、みな目をさまして、情ない悲しい気持になりました。
「隊長」とついに前の古《こ》参兵《さんへい》がいいました。
「隊長、この鳥にこういう言葉をお教えになって、それがいまさら何になりましょうか。いかに水島が死んだのを残念がっていられるとしても、それはあまりに女々《めめ》しいというものです。あなたがあれに三角山に行けとお命じになったのは、ただ死なせにおやりになったのとはちがいます。あれだけの働きをして死んだのですから、水島はむしろ死にがいがあったと満足していると思います。いま隊長がいつまでもそのようにただ嘆《なげ》いておいでになって、この鳥がこんなことを夜も昼もいいつづけているようでは、この隊の士気がおとろえます。わびしい捕《ほ》虜《りょ》生活のあいだは、ことに士気が大切です。たださえみな早く国へ帰りたがって、ともすると意気が沮《そ》喪《そう》しかけるのですから、どうか隊長からもっとお元気になってください。ねがいます」
古参兵に思いつめたきびしい口調でそういわれると、隊長はくるしそうに黙《だま》っていましたが、やがてぽつりぽつりと答えました。
「じつは――、未練なようだが、自分にはまだあきらめきれない。どうにかしてあのビルマ僧の正体をしりたい。しった上でちがっているなら仕方がないけれども、しらないですますことはどうしても気がすまない。
といって、何分にも連絡《れんらく》の方法がまったくない。そこで、他《ほか》にしかたがないから、あてにならないことではあるが、この青い鸚哥を通信の道具に使おうと思うのだ。これに言葉を教えて、そうしてあの坊さんに伝えさせようと思うのだ。もうこれだけ覚えたから、こんどもし往来で行きあうことがあったら、これをあのビルマ僧の肩にのせようと思うのだ。あちらにはこれの兄鳥がいるのだから、少しぐらい離《はな》れたところからでも飛んでいくだろう。
みなにいやな気分をおこさせてすまないが、もうしばらく我《が》慢《まん》をしてほしい。そして、はたしてこの方法が成功するかしないか、待っていてほしい」
みな、やっぱり隊長だ、と思いました。そうしてこれからは、かわるがわる鸚哥に食物をやって、ほかにもいろいろの言葉をおしえました。
しかし、古参兵はなお心配そうに隊長の方を見たり、腹をたてたように鸚哥をながめたりしていました。そして、首をふって太《と》息《いき》をついていました。
これまでも、隊長はなんとかして水島の消息をしりたいと、さまざまの手をつくしていました。それがみなだめになっていたのです。
まず、もうかなり前でしたが、彼はイギリス人の将校のところへ出頭して、事情をくわしくのべて、「どうか、しらべていただきたい」とたのみました。イギリス人の将校もこれをきいて大へん同情してくれ、問いあわしてくれましたが、何の結果もありませんでした。あの三角山を攻撃《こうげき》したイギリス軍はもう本国にかえっていました。そこにいて負傷した日本兵の捕虜たちもこの町からよその町へおくられ、それから病気の種類によって方々の病院にうつされていたので、そのゆくえも分らなくなっていました。たとえ分っても、捕虜である身がそこまで出かけていってしらべることは、とても許されることではありませんでした。結局イギリス軍の返事も「四囲の状況《じょうきょう》上、死亡せるものと認む」というのでした。
また、隊長は一通の手紙をかきました。これをあのビルマ僧にわたそうというので、それにはこんな文句がかいてありました。
――もしきみが水島なら、ぜひわれわれのところへ帰ってきてくれ。われわれはきみをどれほど懐《なつ》かしく思っているか分らない。たとえどんなに帰りにくい困った事情があっても、それはかならず自分が解決する。なぜそんな姿をして歩いているのか、せめてその訳をいってくれ。
葬式《そうしき》のすぐあと、まだ鸚哥がよく覚えこまないころでしたが、れいの物売り婆さんがきました。そのとき、隊長はこの手紙をあのビルマ僧にわたしてくれ、とたのみました。すると、お婆さんは熱いものにでもさわったように、その手紙をほうりだして、手をふって叫びました。
「おお、いやいや、仏様にたのまれても手紙の取りつぎはもういや」
お婆さんは手紙では前に一度ひどく叱《しか》られたことがあるので、今度はどうしても承知しませんでした。
しかたがないから、隊長は、それではあの青い鸚哥を肩にとめたビルマ僧はどういう人だかしらべてくれ、とたのみました。しかし、これもなかなかうんとはいいませんでした。隊長は言葉をつくしてたのみました。お婆さんの息子《むすこ》にといって自分の時計をやりました。それでお婆さんも、ようやく不承不承《ふしょうぶしょう》に、それではきいてみよう、といいました。
「いつからこの町にきているのか、まずそれをきいておくれ」と隊長はたのみました。
「それから、あの人が竪琴《たてごと》をひくことはないか。それから、先日のイギリス兵の葬式のとき、あの人が首に吊《つる》していた箱《はこ》はどういう箱なのか、これをよくきいておくれ」
お婆さんは両肘《りょうひじ》をはって、太った腰《こし》に拳《こぶし》をあてがって、ふんふんときいていましたが、やがてさも呆《あき》れたように軽蔑《けいべつ》したようにいいました。
「あほらしい、そないなことをきいて、どうしやはるね。ビルマには坊さんが数えきれないほどいて、あっちへ行ったりこっちへ来たりしているし、竪琴をひく坊さんかてぎょうさんにいるし、首に何を吊したかて、他人がそれを気に病《や》むことあらへん。あんたはんたち日本の兵隊さんも、そないなけったいなことを気にしないで、もっとまじめに信心でもしなさいよう!」
「いいからお婆さん、きいてきてくれ。たのむ」
「もしあのお坊さんがいい人だったら、われわれもあのお坊さんについて信心するから」
こういって皆がたのんだので、お婆さんはようやくひき受けていきました。
この返事をまっているあいだにも、隊長は我慢がしきれなくなって、またイギリス人の将校のところへ出頭しました。そうして、もう一度しらべてはいただけないだろうか、と嘆願《たんがん》しました。
しかし、このときはまったく相手にはされませんでした。隊長のいうことが、いかにもまるで妄想《もうそう》でもえがいていることのように思われたからです。
イギリス人ははじめのあいだは肩幅《かたはば》のひろい重そうな体を椅子《いす》にしずめて、親切にきいてくれましたが、そのうちに青い目で不《ふ》審《しん》げに隊長をながめて、黄いろい口ひげをひねりだしました。ついに、彼は笑いだしました。
「ハハハ、風にただよう竪琴の三つか四つの絃の組みあわせ方――。それで、死んだ人が生きているとは! これは面白《おもしろ》い。なかなか詩的だ。きみは夢《ゆめ》をみているね」
こういわれて、隊長はかえす言葉もなくひきさがりました。
鸚哥があの文句をもうすっかり覚えたころでした。またお婆さんがやってきました。
お婆さんは例によって大声で、そのいうことはだらだらとどこまでもひろがっていって、話にまとまりがありませんでした。けれども、隊長が熱心に問いつめていくと、結局こういう報告でした。
「あのお坊様はな、みなさん、ほんまにありがたいお方や。そこらにいくらも歩いているお坊様やない。とうとい身分のある方や。ビルマの国中のどこへ行ってどんなお寺に入っても、いつも上に坐《すわ》って、御供《おく》物《もつ》をうける人や。よほど子供のときから一生懸命《いっしょうけんめい》に修行《しゅぎょう》しなはったんやろうなあ! それというのは、あの方は腕《うで》に腕《うで》環《わ》をはめていなはるが、これは、ビルマでは特別なお坊様のもつもので、これさえあればどこに行ってもお師匠《ししょう》さま格や。錫《すず》の板にお経《きょう》の文句がほってあって、それを糸でくくって腕にはめる。これは学問があるか、徳が高いか、また何か大きな手《て》柄《がら》のあった坊様ばかりがもっているもので、これを見ると、ほかの坊様は下にさがって頭をさげるのや。
それから、みなさんがしきりに気にしていた、あの坊様が首に吊していた箱なあ。あれの中には何が入っていたんやと、ほかの坊様にうかがったところが、その坊様もふしぎに思ってそっと持ちあげてみたらば、大へん軽かった。何でも、あの中には大きなルビーが入っているということでしたわ。
ルビーはこのビルマの国の名産の宝石やが、それもあれほど大きくあかあかとかがやいている立派なものはめったにはない。あのお坊様はきっとこれをイギリス兵の英霊への御供物にしやはったのやろう――。ほかの坊様同士がそういって話しあったということでしたわ。
ほんまに年こそ若けれ、ありがたくて涙《なみだ》がこぼれるようなお方やなあ。それに、この町にはちょくちょく見えても、たいていはどこかとおい地方へ行って、あちらの山こちらの谷と駆《か》けめぐって、おつとめをなさっているという噂《うわさ》でしたわい」
そういって、お婆さんは口の中でしきりにお経の文句のようなものをとなえました。
これをきいて、われわれの望みはまたたちきれました。あのビルマ僧がそういうえがたい腕環をもっているほどの高僧なら、とてもそれが一人の脱走兵であるはずはありません。また、あの箱の中もそういうものが入っていたのなら、それをあのようにして持っていたからとて、何も日本の風習とは関係がなく、あの坊さんが日本人だということにはなりません。今まではまだ何だか望みがありそうに思っていた者も、みなもうこれですっかり思いきりました。
せっかくあの言葉をおぼえた鸚哥も、できたらこれを、お婆さんにたのんであのビルマ僧の肩にのせてもらおうと思っていたのですが、それもやめました。
この晩、われわれが食事をしようと思って飯盒《はんごう》の蓋《ふた》をひらくと、その音をきいて、梁《はり》の上で思いだしたように鸚哥が叫びました。
「おーい、水島。一しょに日本にかえろう!」
すると、一人が首をあげて、
「うるせえや。水島ばかりじゃない。おれたちだって、いつ日本にかえれるか分らないんだぞ」といいました。
隊長もよほど落胆《らくたん》したらしくみえました。それにながいあいだの苦労の疲《つか》れも加わったのでしょう、このごろは毎夜よく眠《ねむ》らないようでした。そうして、何だかくるしげにそわそわしていました。古参兵がしきりにその気をひきたてるようにしていました。
古参兵は鸚哥をよそに棄《す》てました。しかし、この鳥はいつのまにか羽毛《はね》の色もきたなくなって舞《ま》いもどってきました。そして、それから後は、また以前のように、収容所の屋根の上にとまっていました。
九
幾日《いくにち》も盛大《せいだい》につづいていたイギリス兵の改葬式はおわりました。われわれは葬式のあいだは休みをあたえられていましたが、それがすむと、また後片づけの作業に行きました。
納骨堂は大きな建物でした。
その中に一杯《いっぱい》にひろがった台はわれわれが作ったものです。いく段もの上に骨壺《こつつぼ》がはてしなく並《なら》んで安置されていました。ここにあるのは全体のうちの一部分だそうですが、それでもその数の多いのにおどろきました。
このありさまを見て、自分の故郷で、かいこの繭《まゆ》が、棚《たな》に数かぎりなく重《かさ》なってならんでいる、あれに似ていると思いました。
われわれはうやうやしく敬礼しました。いま、ここに骨になっている人々も、いずれはめいめい家族もあり、仕事もあり、それぞれの希望をもっていたのでしょう。それが、世界の中でも人に知られないビルマの山の中で、無理な労役《ろうえき》やはげしい疫病《えきびょう》のためにたおれたのです。
ただ、さいわいにも、この人々はいまはこのように丁寧《ていねい》に立派に祭られています。こうした変りはてた姿にはなりましたが、それでもやがては故郷にかえって、自分の生れた国の土の中にやすらかに眠ることができるのです。これがせめてもの慰《なぐさ》めです。もしこれがしたしい身内によって祭られることもなく、白骨がむなしくこの国の山野のあちこちに打《うち》棄《す》てられたままだったら、それこそ恨《うら》みはいつまでも尽《つ》きないことでしょう。それでは生きている者としても申し訳ないことです。われわれがこの葬式にいくらかでも手伝いができたことはうれしいことでした。
われわれは死なずにすみました。捕虜にはなりましたが、しかし、この人々があったようなおそろしい目にはあってはいません。時がくれば、また国にかえって働くことができます。そう思って、私たちは頭をさげながら、ふかい悼《いた》みの気持にたえませんでした。
黙祷《もくとう》をすませて、なおしばらくこのお堂の中を見まもっているとき、ふと、
「おや、あそこに置いてある!」
といった者がありました。それはあの古《こ》参《さん》兵《へい》でした。
見ると、ずっと片隅《かたすみ》の、はじの柱の陰《かげ》のくらいところの一番下の段に、木の箱がおいてありました。あのビルマ僧が、白い布でつつんで首にかけて両手でささげていた箱です。
もしこれが日本の納骨堂だったら、これはどうしても英霊《えいれい》としか見えないでしょう。しかし、その中には、何のためだか分らないが、一粒《ひとつぶ》の大きな紅《あか》いルビーが入っているのです。
隊長はこれを見ると、愕然《がくぜん》として「あーっ!」といって、ふかい吐《と》息《いき》をつきました。
われわれはその様子を見て、何事だろうとあやしみました。彼はあらあらしい息をついて、気も転倒《てんとう》したように両手をさしだしたまま、茫然《ぼうぜん》としていました。
しかし、やがて彼は襟《えり》を正して、直立不動の姿勢をとって、それにむかって長い挙手の礼をしました。
ほんとうに、隊長がちかごろすることは分らないことが多いのです。古参兵はこれを見て、困ったようなにがい顔をして、なるべくそれを部下の者に見せないようにと、われわれをうながしてこの建物を出ました。
出がけにふりかえってみると、あの飾《かざ》りもない木の箱は、人目にもつかずに、隅の方につつましく据《す》えられていました。
それから、われわれは近くの森の中の原に行って、そこに坐りました。
そのあいだに隊長を見ると、様子が変でした。顔をかがやかせて、うれしそうにしています。ひさしぶりではればれとしたように、しかも何か独《ひと》り言《ごと》をいいつづけています。よくきくと、掌《て》を打っては空の雲をながめて、「そうだ、きっと。きっと、そうだ」といって笑っていました。
「おい、あれをみろよ」と一人の兵隊がいって、戦友を肘《ひじ》でつつきました。「やっぱり隊長はちかごろ神経衰弱《すいじゃく》かしらん」
「そうかもしれん」と相手がうなずきました。「まるで小《こ》踊《おど》りをしているようだが――」
暑い日でした。あたりはものうく、ねむたげでした。熱帯では何もかも強烈《きょうれつ》であざやかですが、それが年中変ることなく、いつも同じものが単調につづくのです。いつまでたっても時間に区切りがないような感じでした。いまも太陽がかがやいて、すこしも影《かげ》のないこの原の方々に、赤いカンナの花が目を射るように光っていました。
そして、正面には、大きな仏《ぶっ》陀《だ》の臥《が》像《ぞう》が横たわっていました。そのうしろは壁《かべ》になった崖《がけ》で、あたりにはふかい森が覆《おお》いかぶさっていて、臥仏像の上にも木がさしかかっていました。そこに猿《さる》が出てきて、枝《えだ》から枝にとんだり、鳥がないたりしていました。いかにもビルマらしい光景です。
この国の仏像は日本の仏像とは大へんちがっています。寝姿《ねすがた》の仏像も多く、中にはいく十メートルもある仏様が上半身をなかば起こしているのもあります。そして頭は小さく、全身の線がやわらかになだらかに、男と女のあいだのような感じです。膚《はだ》を白くすべすべに塗《ぬ》って、顔にも体にも彫刻《ちょうこく》の上に彩色がしてあるので、ちょうど大きな化粧《けしょう》をした人間が目の前にいるようです。全体がいかにもなまなましく、こうしたものを見慣れない人がながく向いあっていたら、しまいには気味がわるくなるでしょう。
いまも、目の前に、榕樹《ようじゅ》の根や蔦《つた》がからみあってたれている下に、岩をくりぬいた窟《あな》の中に、大きな臥仏像がガラスをはめたような目をして、うす笑いをうかべていました。
ここに坐っていると、隊長が妙《みょう》にうきうきした様子で立ちあがって、「さあ合唱をしよう」といいました。隊長はもうながいあいだ、こういうことはいわなかったのでした。われわれはうたいはじめました。
うたいはじめると、みな、われを忘れました。声は正面の岩壁に谺《こだま》して、二重三重になってかえってきます。横たわっている仏様も、それにつつまれて、半身をおこして、じっと聞いているかのようでした。
しばらくうたっていると、ふと、われわれの合唱にあわせて、うつくしい音がひびいてきました。
その音はどこから発しているのか分りません。あたりの高い木の梢《こずえ》から降ってくるようでもあり、また地の底から湧《わ》いてくるようでもありました。
しかも、それが竪琴《たてごと》の音なのです。あのわれわれがなつかしがっている人のかきならす竪琴と、そっくりな音なのです!
みなびっくりして、うたいながらあたりを見まわしました。
隊長だけはますます調子づいて、いきおいよく合唱の指揮をしました。竪琴と合唱との競演となりました。
すこし離れたところにお寺の塔《とう》がありました。反《そ》りかえった小さな屋根が無数に重なって、ちょうど魚が鱗《うろこ》を逆《さか》立《だ》てたような恰好《かっこう》です。その鱗の先に一つ一つ鈴が吊《つる》してあります。はじめは、ひびいてくる音はその鈴のすれあう音かと思いました。しかし、そうではありません。いまは風はまったくありません。そして、その音をきけばきくほど、まさにもう一年ちかくも前に、われわれがその日の命もあやうく山から山をあるいて苦しんでいたころにききなれた、あの竪琴の音でした。
音はしばらくつづいていました。が、合唱がすんだ後も一しきりかき鳴らして、急にはたりとやみました。その余《よ》韻《いん》はひくくひくく消えて、何だか足下の大地の中に吸いこまれていくようでした。
正面に横たわっている、大きな、白い、笑っている仏様――。竪琴の音はその笑《え》顔《がお》の唇《くちびる》のあたりにただよっていたのが、その腹の中へと沈《しず》んでしまったといったら、一番あたっているような気がしました。
兵隊はみな駆けだして、方々をさがしました。古参兵は臥仏像のうしろにまわって、森の中をさがしていました。そのとき、しげみの中から、はたはたと大きな羽ばたきの音がして、一羽の孔雀《くじゃく》が舞いだしました。それはきれいな尾《お》をたれて、しばらく低いところをゆっくりと飛んでいましたが、やがて臥仏像の背にとまりました。
それを目で追っていた古参兵が叫びました。
「おーい、ここに入り口があるぞ!」
みなで行ってみると、臥仏像の背のところに入口があります。大仏の胎内《たいない》は空洞《くうどう》になっていて、ここからその中に入れるとみえます。入口のまわりは大きな煉《れん》瓦《が》でつんで、漆喰《しっくい》を塗ってあります。その上にむかし金で彩色をした痕《あと》がはげて、まだところどころかすかに残っています。低いアーチになって、階段を下るようになってい、その天井《てんじょう》から床《ゆか》まで榕樹の根が一ぱいにからんでいました。
階段の奥《おく》の扉《とびら》はさびついていて、押《お》してもあきませんでした。
長年のあいだこのとおりだったらしく、すくなくとも最近にここを通って、この仏様の胎内に人が入ったあとはまったくありません。しかも、いまの竪琴の音は、この中から出たものとしか思われません。
みなで拳《こぶし》がいたくなるほど鉄の扉をたたきました。
このときに、監督のインド兵がいかにもおこったような顔をして駆けてきました。そうして、はげしく叱《しか》りました。われわれは作業開始の時間をすっかり忘れていたのでした。それからまた午後の作業をつづけて、夕方おそくなって収容所にかえりました。
その晩は、みな蒼《あお》い顔をしてぼんやりしていました。いつものように議論にはなりませんでした。
「水島が亡霊になって竪琴をひいたのかなあ!」と一人がいいました。
「ばかな」
みなただ黙《だま》っていました。
隊長はひとり離れたところで、戦友が手入れもしないのでもうこわれかけているギターをひいていました。そうして、うれしそうに目をつむっては、ときどきうなずいて、
「そうだ。この和《か》絃《げん》だ。これがあれの癖《くせ》だ」といっていました。
古参兵が屋根の上から鸚哥《インコ》をつかまえてきて、その羽を撫《な》でながら、じっと眺《なが》めていました。すると、一人の若い兵隊がそばににじりよって、自分が食べ残した肉をやって、
「おーい、水島」といいました。
鸚哥は身をふるわせて、キ、キ、と叫《さけ》びながら、嗄《しゃがれ》たような声で、
「おーい、水島」といいました。
古参兵が掌《てのひら》にパンくずをのせて、「一しょに」といいました。
鸚哥はおぼつかない発音で、「一しょに」とこたえました。
みなが口をそろえて、「日本にかえろう!」といいました。
鸚哥はきれぎれに、それでもどうにか、「日本にかえろう!」とくりかえしました。
鸚哥はまだ忘れてはいなかったのです。
隊の者がみな交《かわ》る交るいくどもこれをくりかえして教えました。鸚哥はしまいには腹も一杯になったとみえて、めんどうくさそうに何もいわなくなりましたが、おぼえたことはたしかでした。
古参兵は正坐して、自分の肩に鸚哥をのせて、太い腕をくんで考えこみながら、
「さあ――。これからこれをどうして、あのビルマ僧の肩にのせるかなあ――?」とつぶやきました。
そのときに、一人の戦友が息せききってこの収容所にとびこんできました。そうして大声で叫びました。
「おーい、おれたちは日本に帰ることになったぞ! ムドンにいる捕《ほ》虜《りょ》にはみな帰《き》還《かん》命令がでた。出発は今日から五日目だ!」
みな坐っていた床からとびおきました。鸚哥はばたばたと古参兵の肩から梁《はり》の上にまいあがりました。
「何だって。そりゃ本当か――?」
「ばんざーい!」
「本当だとも、すぐに支《し》度《たく》をしろ」
「支度なんて何もないよ」
十
その翌朝はやくにお婆《ばあ》さんがきました。
「おめでとう。おめでとう。ほんとうにわたしもうれしいよ」とお婆さんは笑いながら涙《なみだ》をふいていいました。「さあ、これからは、みなさん、日本にかえってしあわせに暮《く》らしなさいよう。今までは大きにごくろうさまだったなあ」
「おばあさん。いろいろとありがとう。おばあさんの親切は忘れないよ。国に帰ったら、おふくろによく話しするからね」
そういって、誰《だれ》ももうわずかになった持物の中から、記念になるものをやりました。
最後に、鸚哥《インコ》をわたしました。そうして、古参兵をはじめみなが声を合わせてたのみました。――どうにでもして一刻もはやくあの坊《ぼう》さんをみつけて、これをあの人の肩《かた》にのせてくれ。それから、われわれが今日から四日の後にこの町をたって日本にかえる、とつたえてくれ。これはわれわれ一同の一生のおねがいだ――。
お婆さんはいつもながらの変った依《い》頼《らい》に一たんはしりごみしましたが、これが別れと思うので、きいてくれました。そうして、小鳥を頬《ほお》ずりしながらいいました。
「よろし。よろし。きっとおとどけするよって、安心しなさいなあ。さあ、これからはおまえもあの坊様の肩にとまって、兄さん鳥と一しょに仏様におつかえするんや」
そういって、お婆さんはまたくりかえしくりかえしてわれわれに名残《なご》りをおしみました。
われわれはこのお婆さんに別れの名残りはつきないし、そうといって、すこしでもはやくあの坊さんを見つけに行ってほしいし、変な気持でした。
ついにお婆さんは「それでは、みなさんが出発の前にもう一度くるから」といって、また野菜や雑貨をいれた籠《かご》を頭にのせて、お尻《しり》をふって調子をとりながらでていきました。
それを見おくって、われわれは首をかしげました。
「あのお婆さん、いい人なんだが、あまりあてにならないからなあ!」と誰かが嘆息《たんそく》まじりにいいました。
これから三日のあいだ、われわれは収容所の庭に出て、合唱をつづけました。そうして、もしかあの青い鸚哥を肩にのせたビルマ僧《そう》がきていはしないかと、柵《さく》の外を眺《なが》めました。
こうして、夕方おそくまでやすむときなく合唱しました。声をかぎりにうたって、どうかこの声にさそわれてあの疑問のビルマ僧がきてくれるように、これだけうたえばもし本当に水島ならきっとかえってくる――、と願ったのですがむだでした。その日は、あの坊さんの姿はあらわれませんでした。
次の日も、柵の中で、朝から晩までうたいました。
うたっていながら、「きているぞ」といった者がいました。
それはちがっていました。そのとき群集の中に立っていたのは、もっと子供のような坊さんでした。
その夜もわれわれは評議しました。もうあと一日でここを去るのです。何とかはっきりとした判断はないか、どうにかいい手だてはないか、とやきもきしたのですけれども、いつの評議も同じことをくりかえして、同じところをぐるぐるまわりしているだけでした。
「もしあす来なければ、水島はただひとりビルマに残されてしまう。日本に帰ることはできなくなってしまう」
「やっぱり、あの坊さんはちがうのだろうか?」
「どうもそうだと思うなあ! 終戦のあくる日の夜に、隊長があれほどいわれたじゃないか。――これからもみなが運命を共にしよう。生きるのも死ぬのも一しょにしよう。そうして、万一にも国にかえれることがあったら、一人もれなく日本にかえって共に再建のために働こう。こういわれたじゃないか。水島なんか一番そのつもりでいた。それが帰ってこないのだから、どうしても死んだのにちがいない」
「といっても、あの仏様の腹の中からきこえてきたのは、たしかにあの竪琴だろう」
「いや、あのお寺の少年だって同じような調子でひいていた。それに第一、そんなに近くまで来ていながら、まだわれわれのところへ来ないということが――。ああ、いや、このことはもう口がすっぱくなるほどいった」
「ほんとうに、どういうわけなのだろうなあ!」
みながこういっているあいだ、隊長だけは口をださずに、引《ひき》揚《あ》げの事務を処理していました。隊長は近頃《ちかごろ》になってはまったく水島のことをいわなくなり、かえってこの話にふれるのをさけているようでした。われわれは、隊長はもうこのことをなげてしまったのかしらん。忘れてしまったのかしらん。何だか隊長は前とは人が変ったようになったけれども――、とやきもきしました。
最後の日には、われわれは声が嗄《か》れました。合唱もうつくしいどころではありませんでした。みないたい咽《のど》をしぼってうたいました。
見物人もおどろいていました。しかも、われわれがあまり柵のむこうをのび上っては見るものだから、何があるのだろう、とそちらの方を見ました。そして、じろじろと見られた方では、大人たちはふしぎがってあたりを見まわすし、子供たちは一しょにうたうのをやめ、娘《むすめ》たちは踊りをやめてこそこそと群集のうしろに身をかくしました。
この日の朝はこうしてすぎました。
元来、ビルマの僧は托鉢《たくはつ》によって生活しています。かれらは毎朝列をなして、僧院から町に出てきます。町の家々では、女たちがまだ暁《あかつき》の暗いうちから炊《たき》出《だ》しをして、それを待っています。僧は無言のまま戸口にたたずみます。すると、女たちは戸の中からうやうやしく手をさしだして、食物をその鉢《はち》の中にいれるのです。そうして、僧は一日一食で、正午すぎには何も口にすることができません。この戒律《かいりつ》がいまもなおかたく守られています。
だから、僧侶《そうりょ》が一番多くやってくるのは、昼をすぎてまもなく、托鉢がすんだころの時間でした。
合唱は昼の休みもなしにつづきました。食べながらうたっていると、ぼつぼつ坊さんの姿が柵のむこうにあらわれました。
一人のもう地面に手がとどきそうなくらいに腰《こし》が曲がった白髯《はくぜん》の老僧が、地面に坐《すわ》って、われわれの方にむかって合掌《がっしょう》して、大きな声でお経《きょう》をあげました。きっとわれわれの合唱を仏様にささげる歌だと思ったのか、あるいは、われわれの二重唱三重唱が極楽《ごくらく》の雲にただよう天人の声ときこえたのかもしれません。この老僧のうしろには、二人のお伴《とも》の童子がまっ黒な顔をして、手に花をもって、神妙に立っていました。
今日はあつまっている人がことに多くて、それをめあての芸人まできていました。
柵のむこうの離《はな》れたところに、コブラの見《み》世《せ》物《もの》をしていました。コブラは毒蛇《どくへび》ですが、音楽がすきで、さまざまな芸当をするのです。二匹《ひき》の蛇は笛《ふえ》やドラの音のままに、地面に字をかいたり、からみあって模様をつくったり、また離れて、一つ一つが毒《どく》牙《が》をぬかれた平らな首をたてて、咽をふくらまして、不器用なおどりをおどったりしていました。
また、べつの木《こ》陰《かげ》では、あの寺にいた少年が竪琴をひいていました。もっと早くくればいいのに。そうすれば彼《かれ》の竪琴の調子をよくきくことができたのに。どうしてこんなに最後の日になって姿をあらわすのだ――、とわれわれは残念がりました。ことに、あの臥仏像の胎内で竪琴をひいたのは、この少年にちがいない、と思われたのでしたから。しかし、群集はみなこちらの合唱の方をきいていて、少年にはみいりはないようでした。そして、いまはあまり弾《ひ》かないものだから、その竪琴の音も分りませんでした。
われわれはしっている歌をみなうたいました。「庭の千《ち》草《ぐさ》」と「はにゅうの宿」を別にして、ほかの歌は三日のあいだにみなおさらいをしました。どの歌にもそれぞれの思い出があります。それで、いよいよ明日はひきあげるという今日になってうたうと、なつかしいものばかりでしたが、ことに感慨《かんがい》の多かったのは「都の空」という歌でした。
ごぞんじありませんかね、この歌を! あの「都の空」を!
これは一高の寮歌《りょうか》です。この学校の生徒が召集《しょうしゅう》をうけて、筆を剣《けん》にかえて学園を立ち去るとき、友だちがこの歌をうたって見送ったのだそうです。若い人たちは何者かの目に見えない大きな手によってさしまねかれるかのように、次々と出てゆき、一ころ、この歌は朝に夕に校内にたえることがなかったといいます。この学校にいた一人の学生が、前に部隊はちがうけれども同じ町にいたことがあって、教えてくれたのです。これはいかにも若い人を見送るにふさわしい曲です。はでな、そして悲しい、心をゆるがすようなリズムです。いまでも目をつむると、胸の底にこの歌の合唱がひびいてきます。それにききいると、あのころのことがまざまざと思いうかびます。日本でも、戦争中に、あの俗な流行歌のような軍歌ではなく、この「都の空」のような名曲が人の口にのぼるようだったら、全体がもっと品格のある態度でいることができたろうに、と思いますね。
われわれはこの歌をうたいつづけました。そうして自分たちのくるしい若い日を嘆《なげ》きながらも、なお慰《なぐさ》められ、ふるいたつ力をあたえられるような気がしました。
ところが、ある段落で、調子を一きわはり上げたとたんに、誰もおもわず声をのみました。歌がぴたりとやみました。
それは、うたっているうちに、正面の柵のむこうの人ごみが動いたのです。そのうしろの方に黄いろい衣《ころも》が見えていました。それで、あまりわれわれがそちらを見たからでしょう、そこに立っていた娘たちが、あからめた顔を恥《は》ずかしそうに見合わせて、こそこそとわきの方によったのです。
そうして、人々が左右に分れたところに、見ると――、あのビルマ僧がきらきら光る青い鸚哥を両肩に一羽ずつのせて、立っていました。
合唱はやみました。誰もうたいません。柵にもたれていた人々はふしぎそうにざわめきました。何か変ったことがおこったらしい、そう思っていぶかっています。そうして、やがてことごとくビルマ僧の方を見まもりました。
しかし、ビルマ僧は凝然《ぎょうぜん》と立ちつくしたまま、顔色をすこしもうごかしませんでした。ただ、彼の片方の肩の上の鸚哥がのびあがって、かんだかい声で、その耳にせわしく囁《ささや》いています。
「おーい、水島。おーい、水島。一しょに日本にかえろう!」
そういっているのがはっきりときこえます。
それでも、ビルマ僧は身うごきもしません。
あれは水島なのだろうか――? そうではないのだろうか――? みなわが目をうたがってあやしみました。ビルマ僧は面のようなこりかたまった顔をして、凹《くぼ》んだ目でじっとこちらを見ています。色はそんなに日に焼けてはいません。むしろ青白くさえみえます。そして、口はびんろう子《じ》で赤く、それが唇《くちびる》のわきにながれでて染めています。ゆったりとした衣をまとって立っているところは、あくまでも静かで、まるで立像のようです。顔立ちこそは水島にそっくりですが、むしろ柔和《にゅうわ》です。じっと考えこんでいるような、いつも自分の心の中を見つめているような様子です。
「おーい、水島――」と隊の者が遠慮《えんりょ》しながらよびました。
ビルマ僧はまるできこえないかのようでした。
ただ、それをきいて、一方の肩の上の色のうすい方の鸚哥がまたさわがしく、
「キ、キ、キ、一しょに日本に、一しょに日本に、かえろう――!」と叫びたてました。
ビルマ僧はただ半眼《はんがん》にじっとわれわれを見つめています。
「やっぱり別人かなあ――!」と隊列の中でいくたりかの者がむこうを見ながら、低い声でいいました。
われわれは躊躇《ちゅうちょ》しました。もし別人だったら、ビルマ人が尊崇《そんすう》している僧侶に対して無礼になることは、あたりの人々に対しても遠慮されます。番兵も監《かん》視《し》しています。ことに二重の柵をへだてていて、われわれにはこれ以上どうしようもありません。
一同は小声で相談しました。そうして、あの水島がすきだった「はにゅうの宿」の合唱をはじめました。
この曲をながいあいだうたいませんでした。うたいはじめると、あの楽しかった湖のほとりの合唱、またあの危険だった爆薬箱《ばくやくばこ》の上での竪琴――、そんなものが誰《だれ》もかれもの思い出の中にかえってきました。ほんとうに、われわれの友情、この熱帯の異国で楽しかったこと苦しかったこと、冒険《ぼうけん》や希望や幻滅《げんめつ》、すべての人々の身の上の激変《げきへん》――、これらのものがこの曲にかたく結びついているのです。ビルマ僧はほとんど無感覚のような、また威《い》厳《げん》にみちた様子で、しずかに立ちつづけていました。われわれはいく節もうたって、この国でこの曲をうたうのもこれが最後と、声をたかめました。
このときに、ビルマ僧はにわかにがっくりと首をたれました。そうして、衣の裾《すそ》をつかんで足を早めて、立っている人垣《ひとがき》のうしろに行き、木の陰に休んでいた少年の竪琴をとりあげました。そうして、元のところにもどってきて、竪琴を肩にたかくもちあげました。
それから、彼は水島の作曲した、あの「はにゅうの宿」の伴奏《ばんそう》をはげしくかき鳴らしました。
このビルマ僧はやっぱり水島上等兵だったのです!
われわれは歓声をあげました。そうして、久しぶりで、ほんとうに一年ぶりで、この竪琴を伴奏にして、嗄れた声をあわせてうたいました。
このときは、ビルマ僧はもうすっかり以前の水島にかえっていました。そして、目つきもきつく、唇をひきしめて、高いところをきっと見つめたまま、自由自在に竪琴をひきました。
これこそ水島です! あのビルマの山を谷を竪琴を肩にしてかけめぐって、いくたびとなくわれらを救い、われらをはげまし、われらをふるいたたせた、わが隊で自《じ》慢《まん》の水島上等兵です! 一同は足で地面をふみならしてよろこびました。
歌がすむと、戦友たちは内の柵のところへ走っていって、そこから身をのりだして、叫《さけ》びました。
「水島、われわれはあした日本にかえるのだぞ!」
「よかったなあ! とうとうもどってきて」
「さあ、はやくこちらに入ってこいよ!」
「一体どうしたというのだ。わけをいえよ!」と中には腹立たしげに、ほとんど泣き声をまぜて呼ぶ者もありました。
しかし、水島は外の柵のむこうに立ったまま、動きませんでした。しばらくだまってうつむいていました。それから、また竪琴を肩にして、弾きだしました。
それは、ゆるやかなさみしい曲でした。
どこかで聞いたような、という気がしましたが、その筈《はず》です。それは、われわれが小学校の卒業式でうたった「あおげばとうとし……」という、あの別れの歌でした。
これをうつくしい和《か》絃《げん》を交えてひいた後、彼は最後のところをくりかえしました。あの
いまこそ別れめ、いざさらば――
というところです。われわれは胸がいたくなるような思いをして、それをきいていました。
ここを三度くりかえすと、水島はわれわれにむかってふかく頭をさげ、にわかに身をひるがえして、人ごみのあいだをむこうに去りました。
その後姿を見おくりながら、隊の者はみな口々に叫びました。
「おーい、水島。一しょに日本にかえろう!」
そして、めいめいが手をあげて、呼びとめようとしました。
しかし、ビルマ僧はもう見かえることもなく、そのまま行ってしまいました。ただ、わずかに首を横にふりつづけているようでした。左の肩には竪琴をかついで、その上に一羽、それから裸《はだか》の右の肩に一羽と、二羽の青い鸚哥がとまって、しきりに鳴きかわしていました。
第三話 僧《そう》の手紙
一
このようにして、水島はわれわれから別れました。姿をあらわしたのもつかのまで、また消えてしまいました。それからはもう会うこともありません。彼《かれ》はいまもビルマに残っているのです。あの坊《ぼう》さんの姿になって、あの常夏《とこなつ》の国の緑の山野を、あちらこちらさすらっているのです。
人もあろうに水島が脱走兵《だっそうへい》になった。そして、われわれのところに帰ってこない。――このことはわれわれに大きな痛《いた》手《で》をあたえました。彼は、あの停戦のあとで隊長がいわれた言葉もほごにしたのです。仲間との友情もむなしくしたのです。彼はわが隊をすてました。日本をすらすてました。われらの祖国はいまみじめな姿になっていて、日本人ですらがあらそって悪《あし》ざまに罵《ののし》りそしっているが、一たいそれほどまでにただ見すてていいものなのでしょうか? みなが力を合わせて犯《おか》した罪は償《つぐな》って、たて直そうとする愛情をもつ気はおこらないものでしょうか? われわれはなげきました。――あの水島ですらが、国に帰ってくるしいところをたえていこうという気はなく、それよりも異国に坊さんになって楽にくらしていたいのだろうか?
このことによって一番心の打《だ》撃《げき》をうけたのは、古《こ》参兵《さんへい》でした。水島が同胞《どうほう》を救って、自分はその犠《ぎ》牲《せい》になって立派に死んだと信じていたのに、思いもかけぬ脱走兵になっていたのですから、涙《なみだ》をながしてくやしがっていました。
この人は誠実な人です。やや固くるしいほどの責任感をもっていて、かげ日なたをつけるなどということは考えることもできない人でした。隊長が元気がなくなってからは、隊のことはこの人が中心になってひきしめていました。ただ、歌こそは「うたう部隊」の中でいちばん下手《へた》でしたが。
この人はもともと下級の勤人《つとめにん》だということでした。復員してから一度あったことがありましたが、多くの家族をもって、やぶれた家にすみ、色のあせた平服《へいふく》をきて、混《こ》んだ乗物にのって勤めにかよって、休むことなく働いていました。あまり顔色もよくなく腹を空《す》かしていたらしいのですが、そんなことは何もいいませんでした。
私はよく思います。――いま新聞や雑誌をよむと、おどろくほかはない。多くの人が他人をののしり責めていばっています。「あいつが悪かったのだ。それでこんなことになったのだ」といってごうまんにえらがって、まるで勝った国のようです。ところが、こういうことをいっている人の多くは、戦争中はその態度があんまり立派ではありませんでした。それが今はそういうことをいって、それで人よりもぜいたくな暮《く》らしなどをしています。ところが、あの古参兵のような人はいつも同じことです。いつも黙々《もくもく》として働いています。その黙々としているのがいけないと、えらがっている人たちがいうのですけれども、そのときどきの自分の利益になることをわめきちらしているよりは、よほど立派です。どんなに世の中が乱脈になったように見えても、このように人目につかないところで黙々と働いている人はいます。こういう人こそ、本当の国民なのではないでしょうか? こういう人の数が多ければ国は興《おこ》り、それがすくなければ立ち直ることはできないのではないでしょうか?
出発の日の朝は、いよいよこの国に別れるというのに、それほどの感慨《かんがい》もわきませんでした。みんなただ先のことばかり考えていたのでした。
いよいよ日本に帰るのです。どんなになっているか分らないが、自分の家にもどるのです。どんなことになるか分らないが、自分の生活をはじめるのです。
――さあ、故郷に帰ったら、あの桑畑《くわばたけ》の中の白壁《しらかべ》の家の縁側《えんがわ》で、ゆっくりと昼《ひる》寝《ね》をしてやろう。涼《すず》しい川《かわ》瀬《せ》の音がきこえてくるだろう。軒《のき》の上に巴旦杏《はたんきょう》がぽたぽたと落ちているだろう。蚕部《かいこべ》屋《や》では蚕がねむそうな音をたてて桑の葉をくって、やがて繭《まゆ》が一つずつ白くかかっていくだろう。それを世話するあのいそがしい楽しみが、またはじまるのだ……。
――いや、自分は工場につとめる。あのモーターの響《ひび》きの中で、金属を切る音がして、小さなネジや管ができあがって、光りながらころがり落ちてくる。あの技術は自分のおとくいだ……。
――自分は駅で走ってくる汽車にむかって旗をふったり叫《さけ》んだりする。夜中などは、自分がひとりで責任を負ってやっていた……。
――いや、自分は口笛《くちぶえ》をふいて自転車にのって、伝票をもって銀座の町を走る。そうして、かえりには映画を見て、みつまめを食ってやろう……。
みんな、荷物の上に腰《こし》かけて、そんなことを話していました。
そこへお婆《ばあ》さんがやってきました。
お婆さんは、いつもの雄弁《ゆうべん》に似ず、今日は口数もすくなくしょんぼりとしていました。そうして、坐《すわ》りこんで店をひろげて、私たちに竜眼肉《りゅうがんにく》やマンゴーの実を分けてくれました。その熱帯の日光を吸いこんだ高い匂《にお》いは、目にも鼻にもしみわたりました。このお婆さんの親切をうけるのももうこれかぎりと思うと、その味もいつもとはちがいました。
お婆さんはふところから一羽の鳥をひきだしました。れいの鸚哥《インコ》でした。
「やあ、お使いごくろう。だが、役にはたたなかったな」とそれを見て、一人の兵隊がいいました。
鸚哥はきらきらと宝石をならべたような青い首をふって、ふしぎそうにあたりを見ていましたが、やがてうたうような高い声で、
――ああ、やっぱり自分は帰るわけにはいかない!
と叫びました。
「おや、こんな日本語をおぼえてきたぞ」とみなが鳥をながめました。
そこへ古参兵がきました。彼はこの鸚哥を見ると、いやな顔をしました。
「もう、そんな鳥は用はないじゃないか。どこかへはなしてしまえ」
古参兵はこういって鸚哥をつかまえました。鳥はその拳《こぶし》の上で、首をつきだして叫びながら羽ばたきをしました。
お婆さんはあわてて古参兵の手をおしとめました。
「これはな、あんたはん」とお婆さんはいって、鸚哥を自分の胸にだきしめました。
「これはあのお坊様がいつも自分の肩《かた》にとめていなはった兄鳥の方や。ごらん、つやも羽なみもこちらの方がずっとよろしいわ。あのお坊様はこちらから届けた鸚哥を自分のところにおいて、その代り、これを隊のみなさんにとどけてくれ、といやはったんや」
「なに――?」
「へえ――?」
とみなはびっくりしました。
鸚哥はまた叫びました。
――ああ、やっぱり自分は帰るわけにはいかない!
「それからな、あのお坊様から――」とお婆さんはいって、またふところをさぐりました。そうして、一つの厚い封筒《ふうとう》をとりだしました。
「これを隊長さんに渡《わた》してくれ、とたのまれましたわい。お坊様のいやはることやし、これも最後のおつとめと、もってきたのや」
一同お婆さんをとりまいて、その手紙をながめました。この土地の封筒なのでしょう、四角い長い上質の紙で、いかにもお坊さんがつかいそうな古めかしいもので、厚くふくれていました。
古参兵はそれをうけとりました。彼の大きな手はふるえていました。そうして、歯をかみしめて、あらい息をして、思いみだれた様子でそれをながめていました。
呼ばれて、いそがしく残務を片づけていた隊長がきました。もうこのごろはすっかり元気になって、前のとおりてきぱきとしています。彼はこの手紙をうけとるといそいで開こうとしましたが、その手をとめていいました。
「いや、もうすぐに出発だ。これは後でゆっくり読もう」
すると、古参兵がいいました。
「ですが、隊長、どうか今すこしでも早くひらいてくださいませんか。もし何かのことで、万一にも水島が……」
「いや」と隊長はしずかに首をふりました。
「水島はもう万々一にも日本にはかえらない。いまこの手紙をみても、どうにもなるまい」
古参兵は地面に坐って、ふかいため息をつきました。
隊長は手紙を胸にしまって、その上からボタンをかけながら、
「心配することはないよ。この手紙を読めば、きっときみもよろこぶ事が書いてあるよ」
と古参兵をなぐさめました。
いよいよここを去るとき、あちらの収容所からもこちらの収容所からも出てくる日本兵が、門に立っているお婆さんに手をふりました。お婆さんは背のびをして、いつまでもわれわれを見送りました。
これから数時間の後、われわれはある小さな河《か》港《こう》で運送船にのりこみました。鉄骨や材木が乱雑にほうりだしてある波止場《はとば》で、渡した板をわたって、急な階段を降《くだ》って、せまく入り組んだ船の底に入りました。
船はなかなか動きだしませんでした。汽《き》鑵《かん》が動いてはとまり動いてはとまる音や、蒸気のふきでる音がつたわって、熱した壁がふるえていました。頭の上の甲板《かんぱん》では、クレーンがきしんだり、鎖《くさり》がまかれたりゆるんだり、物をほうりだしたり、人が叫んだりする、荷《に》役《やく》の騒《さわ》ぎが一しきりつづいていました。それをききながら、身がつかえそうな箱《はこ》のような部屋で膝《ひざ》をかかえて坐りこんだとき、はじめてほっとして、しみじみと目に涙がしみでてくるような気がしました。
窓から見ると、川は泥《どろ》みたいによどんで、その中に草や木が枯《か》れたり繁《しげ》ったりしていました。油がとけて腐《くさ》ったような匂いが、水の面からたっていました。そこを、大きな木葉《このは》蝶《ちょう》がはねをひろげているような変った形の帆《ほ》舟《ぶね》が、いくつもゆききしていました。ときどき小蒸気船が豚《ぶた》の尻《しっ》尾《ぽ》ににた煙《けむり》の輪をあげて、ポンポンとかるい音をたてて、とくいそうにそのあいだを走りぬけていきました。
木小屋がならんだ港町が見えていました。ルーンジをまとった人々が歩いていました。椰子《やし》の並《なみ》木《き》道《みち》を犬が走っていました。漁夫が舟をのりだしていました。すべてしずかで、ここで戦争があった国とは思えませんでした。そうして、ずっととおくに、灰いろの山脈がうねうねと連なっていました。
夜になってから、気がついてみると、船はしらないうちにもう海の沖《おき》に出ていました。
二
それから三日たちました。ようやくすっかり落ちつきました。
その日、甲板に出たときには、船は大きな海峡《かいきょう》をとおっていました。左がマレー半島、右がスマトラでした。その南国の海のうつくしさに、われわれはうっとりしました。
海も空も島も、みなすきとおっています。キラキラとかがやいて、蛋白石《たんぱくせき》やエメラルドの塊《かたま》りが並《なら》んだり浮《う》いたりしているようです。空には雲がみだれて、鏡のような海に映っています。そのあいだに、大きな陸がゆるゆると身をめぐらしています。その入江や町や灯台は、さまざまのめずらしい形をして、しばらくのあいだありありと見えていますが、やがてまたあらたに突《つ》き出てきた岬《みさき》の陰《かげ》にかくれてゆきます。潮風がこころよく膚《はだ》にしみいります。つねにたえない舷《げん》の波の音が、なんだか胸の底をこすって洗いながしているようです。日はあつく、風はすずしく、われわれは船に乗っているというよりも、空を飛んでいるような気がしました。
われわれは後甲板《こうかんぱん》に出て、日《ひ》覆《おお》いの天幕の布がはたはたと鳴っている下に坐りました。
隊長はふところから手紙をだしました。そして、
「さあ、いよいよ、これを読もう」
といいました。
それから、隊長はほとんどうやうやしい手つきでその封を切りました。中からは、こまかい字をぎっしりと書いた三十枚ほどの紙がでてきました。
隊長は車座《くるまざ》になっている一同を見わたしました。
「みないるね。では、これからこの水島の手紙を読む。じつは、ムドンにいるあいだ、水島が帰ってこないので、私はまったく意気沮《そ》喪《そう》していた。そうして、ことによったら水島が生きているかもしれないと思われだしてからは、あまりにふしぎな事がつづいたので気も転倒《てんとう》していた。そんなことから、きみたちにも心配をかけてすまなかった。
そのうちに私は、水島はきっと生きている、あのビルマ僧はそれに相違ない、と思うようになった。だが、もしはやまった臆測《おくそく》をいってそれが間《ま》違《ちが》っていては――と躊躇《ちゅうちょ》して、いよいよもうあたらしい事件がおこらなくなってからいおう、と思っていた。ところが、その時がこないうちに、あれが水島であることも分り、この手紙まできた。
それにしても、いったい水島がなぜ帰ってこないのか――。ああいう姿になって何をしているのか――。私はあの納骨堂に安置してある白《しら》木《き》の箱を見てから、それが分ったと思った。謎《なぞ》はとけ、私は気がおちついた。私は水島の人物をしっている。この推測は外《はず》れてはいないつもりだ。この手紙は、おそらくそれを語ってくれるだろう――」
隊長はこういって、その長い手紙を読みはじめました。それは次のとおりでした――。
隊長殿
戦友諸君
私は、皆様《みなさま》をどれほど懐《なつか》しく思っているか分りません。どれほど隊に帰って、一しょにつとめ、一しょに語り、一しょにうたいたく思っているか分りません。苦しみもよろこびも異郷でともにした月日を、忘れがたいか分りません。さらに、どれほど日本に帰りたいか、ことに変りはてたと思われる国に行って家の者にも会いたいか、口にはいえません。
皆様が作業に行ったり、収容所でうたったりしているところを、私はいくたび、こっそりと人知れぬところから眺《なが》めていたことでしょう。遠い地方に行っているあいだも、それを思うとやもたてもたまらなくなって、またムドンの町にきました。そうして、いくたびも、あの収容所の柵《さく》の外に立って、いまは皆様が眠《ねむ》っている草《くさ》葺《ぶ》きの家を暁《あかつき》の白《しら》むまでみつめていました。しかし、もうこの慰《なぐさ》めもないことになりました。
私は日本には帰りません。そういう決心をいたしました。誓《ちか》いをたてました。私はごらんになったとおりの姿になって、この国のあちらこちらを、山の中、川のほとりを、巡礼《じゅんれい》してあるきます。ここに、どうしてもしなくてはならないことがおこりました。これを果さないで去ることは、もうできなくなりました。私はひとりでこの国に残ります。そうして、幾年《いくとし》の後に、いまはじめている仕事がすんだときに、もしそれがゆるされるものなら、日本に帰ろうと思います。あるいは、それもしないかもしれません。おそらく生涯《しょうがい》をここに果てるかとも思います。私は僧《そう》になったのですから。いまは仏につかえる身になったのですから。すべては教えの命ずるがままです。私はただ、われらよりより高い者の意のままに、それがなせという言葉に従います。
私がしていることは何かといいますと、それは、この国のいたるところに散らばっている日本人の白骨を始末することです。墓をつくり、そこにそれをおさめ葬《ほうむ》って、なき霊《れい》に休安の場所をあたえることです。幾十万の若い同胞《どうほう》が引きだされて兵隊になって、敗《ま》けて、逃《に》げて、死んで、その死《し》骸《がい》がまだそのままに遺棄《いき》されています。それはじつに悲《ひ》惨《さん》な目をおおうありさまです。私はそれを見てから、もうこれをそのままにしておくことはできなくなりました。これを何とかしてしまわないうちは、私の足はこの国の土を離《はな》れることはできません。
隊長がいわれた、一人もれなく日本に帰って共に再建のために働こう――、あの言葉は私も本当にそう思っていました。いまでもそうしたいと願います。しかし、一たびこの国に死んで残る人たちの姿を見てからは、自分はこの願いをあきらめなくてはならぬ、と思いました。そして、これはただ私が自分でそう思うというよりも、むしろ、何者かがきびしくやさしく、このようにせよ――、といって命ずるのです。私はただ首をたれて、この背《そむ》くことのできないささやきの声にきくほかはありません。
今日のお別れの「はにゅうの宿」の合唱。それに合わせてひいた竪琴《たてごと》。これでいよいよそのあきらめもつきました。私はここに留《とど》まります。どうか皆様はお元気に御帰国の上、私の分も働いてくださいませんか。
次に、あの山の中の村でお別れしてから後の、私の行動を御報告いたします。
隊長がここまで読んだとき、古《こ》参兵《さんへい》は太い黒い腕《うで》をあげて、しずかに合掌《がっしょう》しました。そうしてじっと目をつむりました。いくたりかの戦友がそれにならいました。
はたはたと海風に鳴っている天幕の綱《つな》に、鸚哥《インコ》がとまっていましたが、このときに、うたうような高い声で叫びだしました。
――ああ、やっぱり自分は帰るわけにはいかない!
そして、その言葉のしまいに、せつない吐《と》息《いき》のような声をまぜました。
われわれはその方を見あげました。青い鸚哥は首をかしげて、われわれを見おろしました。隊長はきっと自分の推察があたっていたのでしょう、面《おもて》をかがやかせて読みつづけました。
三
――私が道をいそいで三角山についたときは、午後四時ちかくでした。それからおこったことは、いま思いかえすとまるで霧《きり》の中を歩いていたようで、自分のことながらはっきりとは思いだせません。どのことが先で、どのことが後だったかも、よく分りません。ただ部分々々のことをきれぎれに、それはまるで昨日のことのようにあざやかにおぼえています。
森を分けて行くと、遠くに雷鳴《らいめい》のような砲《ほう》火《か》の音がきこえはじめ、近づくにつれてはっきりとしてきました。日光もとおさないほど深い森の中なのですが、それでもときどき木の間が稲妻《いなずま》に照らされたようになって、三、四、五……と数えているうちに、グーワーンという爆音《ばくおん》がおしよせました。そして、梢《こずえ》が次々にさーっとふるえました。このあたりでは鳥も逃げてしまって、鳴く声もしませんでした。ただあるところで、二尺ほどもある大きな蜥蜴《とかげ》が噛《か》みあって、双方《そうほう》とも死んだように動かないでいるのを見ました。
ようやく森を出《で》外《はず》れると、にわかに明るくなって、まっ正面に灰いろの三角山がそそり立っていました。
これは大きな禿《は》げた岩の塊《かたま》りでした。谷川からつづいた絶壁《ぜっぺき》が屏風《びょうぶ》のように立って、それに一面に蜂《はち》の巣《す》のように穴があいていました。石材でもきりだしたあとか、または人間が穴居《けっきょ》していたところのように思われました。この穴が奥《おく》でトンネルになっていて、縦横につながっているとみえます。そのひらいた口から、うすい砲煙《ほうえん》がながれだして、岩壁《いわかべ》をはって、太陽の光の中をしずかに立ちのぼっていました。ときどき方々がパッパッと光って、小銃《しょうじゅう》の煙がふきあがりました。この乾《かわ》いて荒《あ》れた岩山全体がさながら生きているようでした。
攻撃《こうげき》していたイギリス軍の本部は森の中にありました。同行したイギリス兵のおかげで、指揮官にはすぐ会うことができました。
この人はもう中年の、白《しら》髪《が》のまじった、分別のありそうな人でした。私がのべることを一とおりききおわると、じっと私を見ていましたが、ただちに決断していいました。
「よろしい。降伏《こうふく》をすすめてみよ。ただし、猶《ゆう》予《よ》は三十分間。それよりはすこしも待たない」
私が敬礼して出て行こうとすると、指揮官は背後から呼びかけていいました。
「使命の成功をいのる」
私はイギリス軍の陣地から三角山をめざして、そのあいだの壕《ごう》をつたっていそぎました。ここはもと日本側の陣地だったのが後退したのでしょう。方々に伐《き》った木が横たわってそれが裂《さ》けて焼けています。人がたおれています。大砲が割れています。歯車や、柄《え》や、そのほかぎざぎざがついたり穴があいたりした、さまざまの形の鉄の破片がころがっています。土も焦《こ》げています。まったく火事場よりひどいめちゃくちゃなありさまでした。
私が最後の壕からはい上って岩の上に姿をあらわすと、たちまち、三角山からうちだした小銃弾《しょうじゅうだん》があつまって足もとにはねかえりました。うしろの藪《やぶ》が突風《とっぷう》にでもおそわれたようにサーッとそよめいて、そこの竹が大きな見えない鎌《かま》で刈《か》られたように仆《たお》れました。私は身を伏《ふ》せました。
このころは、私には音は何も聞こえなかったような気がします。ただ目の前の岩に弾《たま》がはね、竹がゆっくりと仆れるのを見ただけでした。自分が三角山の方にむかって叫《さけ》んだ声も、さながら誰《だれ》か別の人間が呼んでいるようでした。
しばらくして、私は立ち上って手をふりました。また集中射撃をうけました。機関銃の弾痕《だんこん》がミシンの縫《ぬい》目《め》のようにあたりを走って、一つ一つ土埃《つちぼこり》をあげました。岩は欠け、草は焼けました。私はまた身を伏せました。
こんなことをくりかえしていても仕方がないので、私は岩からとびおりて、正面にむかってかけだしました。すると、日本兵であることが分ったのでしょう、射撃はぴたりとやみました。
私は三角山の岩壁をよじのぼりました。洞《ほら》穴《あな》の中から日本兵がいくつも手をだして、ひきあげてくれました。
「やあ、よくきたなあ! よくこれたなあ!どこからきた?」と、日本兵たちは口々になつかしそうにいいました。
「えらいぞ! さあ、これを飲みたまえ」と、一人が飯盒《はんごう》の蓋《ふた》になみなみと水を汲《く》んできてくれました。私はそれを一息にのみました。後で気がつくと、それは酒でした。
「おれたちはここで死ぬまでやるんだ。さあ、きみもやれ。おや、銃をもっていないのか。それではこれをつかえ」と、一人が銃をわたしてくれました。
奥のトンネルをくぐって、隊長らしい人が出てきました。
洞穴の中は暗くて、最初のあいだは何も見えませんでしたが、やがて目がなれて見えてきました。奥の入口に大勢の日本人がおしあって、私の方を見て、「おお、よくきた! きみたちの方はどうしてる?」とひきつったような笑い方をしていました。みな鉢巻《はちまき》をして、裸《はだか》の半身は硝煙《しょうえん》でまっくろになって、痩《や》せて、目を血走らせていました。
隊長は肩《かた》がいかって、赤いまるい顔にみじかい口ひげを生《は》やして、いかにも一本気な人らしく見えました。部下からは好かれていることがすぐに分りました。彼《かれ》は自分の隊がこうして最後まで戦っているのを、外から来た者に見せることができて、ますます昂然《こうぜん》としていました。
彼は拳《こぶし》をにぎりしめながら、目をかがやかせていいました。
「どうだ、わが隊はやっているだろう! 士気旺盛《おうせい》だろう! うん? ――なに、使いにきたのか?」
私はその前に直立不動の姿勢をとって、自分の使命をのべました。そうして、理非を説いて、降伏をすすめました。
すると、私がいいおえないうちに、隊長は叫びました。
「だまれ」
彼は顔色をかえて怒りました。
「だまれ」と、彼は額にも首筋にも血管を紫《むらさき》いろに怒張《どちょう》させて、口もきけないほどにはげしくどもりました。「降参しろ、だと! 何をいうか、無礼な! 降参――? けがらわしい! いまになって降参などをしては、これまでに戦死した人に対して相すまないではないか。わが隊はおまえの隊のような腰《こし》抜《ぬ》けではない。ここで、われわれは全滅《ぜんめつ》するまでたたかう!」
私は答えました。
「全滅して、それが何になりましょう。われわれは生きなくてはなりません。生きて、忍《しの》んで、働く。それが国のためです」
「なに! なに! なに!」と周囲の日本兵が叫びました。
「国のためだと? なまいきをいうな。降参することが国のためか!」
こういって、その人は隊長の顔を見ました。
「わが隊には、のめのめと生きることを願う奴《やつ》は一人もいないぞ」
こういって、この人も隊長の顔を見ました。隊長は大きくうなずきました。
「国中でだれも降参しなければ、国が負けるはずはないじゃないか!」
人々はそういって、洞穴の中央に蓋をとってある酒樽《さかだる》から酒をくんで、口々に飲みあおりました。
この人々のいうのをききながら、私は感じました。――ここにたけりたっている人たちは何か妙《みょう》なものに動かされています。一人一人はあるいは別なことを考えているのかもしれません。しかし、全体となると、それは消えてしまってどこにも出てきません。人々はお互《たが》いにあおりたてられた虚勢《きょせい》といったようなものから、後にはひけなくなっているのです。別な態度をとれなくなっているのです。何か一人一人の意志とははなれたものが、全体をきめて動かしています。この頑《がん》固《こ》なものに対しては、どこからどうとりついて説いていいか、分りませんでした。中には、本当にここで死ぬまで戦おうと決心している人もたしかにいました。しかし、そうではなくて、もっと別な行動に出た方が正しいのではないか、と疑っている人もいるにちがいないと思われました。しかし、そういうことはいいだせないのです。なぜいいだせないかというと、それは大勢にひきずられる弱さということもあるのですが、何より、いったい今どういうことになっているのか事情が分らない。判断のしようがない。たとえ自分が分別あることを主張したくても、はっきりした根拠《こんきょ》をたてにくい。それで、威《い》勢《せい》のいい無《む》謀《ぼう》な議論の方が勝つ――、こういう無理からぬところもあるようでした。
「もうかえれ。おまえのような根性《こんじょう》のくさった奴は日本人ではない。いなくてもいいから、かえれ」と一人の兵隊がいいました。
「いや、かえりません。あなた方がそういうやけな態度をやめないうちは、かえりません」と私は答えました。
「かえらなければ、ここで死ぬぞ。おまえは命が惜《お》しいんだろう」
「無意味に命をすてたくはありません」
「ハ、ハ、ハ。おれたちがここで戦って死ぬのが無意味か?」
「日本のためにもならず、日本人のためにもならず、自分のためにもなりません。無意味です」
「何をいうか!」
一人の兵隊が私をなぐろうとしました。私が身をよけたので、彼の拳は肩にかけていた竪琴にあたりました。
「なんだ、これは! こんなものをもってあるいて、ふざけていやがる!」と彼は叫びました。
「これは通信用です」と私も叫びました。
かぎられた時間は刻々にせまります。私は隊長にむかってきっぱりといいました。
「隊長、あなたはこれだけの人の大切な命をあずかっていられて、もしそれが本当に無駄《むだ》死《じに》となった場合に、その責任をとられますか? 国民に対し、家族に対し、申訳をなさいますか?」
隊長はぐっと黙《だま》りました。顔の真中をうたれでもしたようでした。彼はしばらく躊躇《ちゅうちょ》していましたが、決しかねたとみえて、一同を見まわしていいました。
「よし。念のために、一度、隊員全部の気持をきこう!」
隊長の合図によって、一同は奥の小さな穴をくぐって他の洞穴に行きました。そして、見張りのためか、一人の兵隊が私のそばに残りました。
私は時計を見ました。きめられた時刻まで、もうあと十分しか残っていません。
私はいらいらしました。奥の洞穴では大声で論じている声がしていました。私はそちらにむかって、
「五分以内に決定ねがいます!」とどなりました。
見張りの兵隊が私にそっとささやきました。
「本当は一体どうなっているのでしょう――?」
その様子はいかにも不安そうでした。彼はひとりで呟《つぶや》くようにいいました。
「このむこうの洞穴にいるたくさんの負傷兵たちは、みなはやくすめばいい、といっているのだが……」
奥では、隊長が何か問うと、一同が同じ言葉で一せいにいきおいよく答えるのが聞こえました。
三分たって、隊員がかえってきました。みな興奮していました。これまでこの隊を動かしていた気分が、またも文句なく制したことは、見ただけであきらかでした。もしここにせめて一時間でも落ちついて話す余《よ》裕《ゆう》があれば、また人々の気持をかえることもできるでしょうが、こうさしせまっては何とも仕様がありませんでした。あと五分です。
隊長は私をきっと見すえて大声でいいました。
「総員の決意。わが隊はあくまでここを死守する。おわーり!」
私は口に言葉もでずに黙りました。血がどっと頭にのぼって、唇《くちびる》をかんだまま、何といってよいか分りませんでした。
兵隊たちはあちらこちらで「ばんざーい」ととなえました。
私はふらふらと歩きだしました。そして、洞穴の出口の方に行きました。私はこのとき、漠然《ばくぜん》とながら、もうこの上はさらに一度イギリス軍の指揮官にたのんで、すこしでも時間をのばしてもらうより他《ほか》はない、と考えていたのでした。
私が出口まで行ったとき、背後から口々に罵《ののし》りあざける声がしました。
「腰抜け! 臆病者《おくびょうもの》! ひとりで生きてかえれ!」
その調子はむしろ悲《ひ》惨《さん》でした。所詮《しょせん》死ななくてはならぬ者が、生きてゆく者にむかって発するねたみのようにもきこえました。
私はかーっとしました。そうして、ほとんど夢中《むちゅう》で叫びました。
「自分は臆病者ではない! 卑怯《ひきょう》でもないぞ!」
「そのくせ、これから捕《ほ》虜《りょ》になりに行くのか!」
「それほど命が惜しいのか!」
ふりかえると、人々はたがいに肩を組んで、せいせいと息をはずませていました。
「よろしい!」と私も叫びました。叫びながら時計を見ると、残っているのはあと三分でした。「もう三分すると、イギリス軍が攻撃をはじめる。自分はきみたちよりも先に、たれよりいちばん先に死ぬ。自分が死んだら、そのときには、きみたちは降伏をしろ! 自分が降伏をすすめるのは、臆病からか、そうでないか、命が惜しいからか、そうでないか、それで分るだろう!」
こういって、私は洞穴の出口をとびおりて、外へかけだしました。
三角山とイギリス軍の陣地とのあいだに、木の切株がありました。私は走っていって、その上に片膝《かたひざ》をたてて、それに竪琴をのせてひきだしました。
ひきだして一分ほどたつと、イギリス軍が射撃をはじめました。耳をつんざくような第一発がおこると、それにつられたようにいくつもの音がわきあがりました。三角山からも応射しはじめました。あたりには煙と火薬の臭《くさ》い匂《にお》いが吹《ふ》きよせてきました。それが次第に霧のようにたちこめました。
その中で、私は心臓がしびれるような思いをしながら、竪琴の絃《げん》をかきならしました。
耳のほとりを、弾《たま》が鞭《むち》で空気をきるようなするどい音をたててとびかいました。割れるような、裂けるような、胆《きも》をふるわす轟音《ごうおん》が、身のまわりの随処《ずいしょ》でおこりだしました。三角山の岩はあちらこちらが破片をとばしてこわれていきました。イギリス軍の陣地もはねかえったり崩《くず》れたりしていました。
竪琴をひきながら、はじめのうちは、ひいているのかいないのか分りませんでした。自分には何も聞こえませんでした。しかし、聾《つんぼ》のようになっていた私の耳に、やがてすこしずつ絃の音が聞こえてきました。私は身も心も宙に浮《う》いているような気持で、次第にはっきりと聞こえてくるその音にききいりました。
ついに竪琴は本当に鳴りだしました。そして、竪琴がこれほど高らかに鳴ったことはまだありませんでした。あたりは濛々《もうもう》と渦《うず》まく硝煙《しょうえん》でとざされました。
ときどき身近くに弾がおちて、私は頭から砂《さ》塵《じん》や石の塊《かたまり》をあびました。
「鳴れ! 竪琴、鳴れ!」と私はかきたてました。「おまえの絃がみな切れるまで鳴れ!おまえが鳴りおえたときに、自分が死んだときに、あの人々は助かるのだ!」
しかし、そのとき、小銃弾が竪琴にあたって、飾《かざ》りにつけていた蘭《らん》の花と赤い鳥の羽毛《はね》がぱーっと舞《ま》いたちました。そして、竪琴はにぶい音をたててこわれました。もういくらひいても響《ひび》かなくなりました。
「しまった!」と私は叫びました。「ああ、もうだめだ!」
何もかも失敗した。これで自分の使命ははたせなかった――。私はそう思って、がっかりしました。そうして、竪琴を手にたれ下げて、茫然《ぼうぜん》と立ちすくみました。
しかも、そのときに、私は片ももを棍棒《こんぼう》でなぐられたような気がして、地面にひっくりかえりました。すぐにはねおきようとして、また尻《しり》もちをつきました。足がつめたくぬれたように感じたので、見ると血がながれていました。
私は地面にたおれていながら、だんだん気がとおくなってゆきました。「ああ、気がとおくなっていくな――」と自分でそう思いました。そのうちに何だかゆったりとしたような、かるい楽な気持になりました。すべてはまるで自分の事ではないようで、こわいとかおそろしいとかいう気持はありませんでした。
今から思いだすと、そのぼんやりしているあいだに幻灯《げんとう》でも見ていたような気がしますが、――岩山の穴に白旗がかかげられました。そして、そこから日本兵がぞくぞくと出てきました。イギリス軍の射撃はやみました。
私はうとうとしながら空を見ました。いまもおぼえていますが、すごいほど青い空に夕方の白い雲がふわりと浮いて光っていました。そして、それがあたりの山と一しょに、猛烈《もうれつ》ないきおいで自分の方にむかって動いてくるようでした。
それからしばらくして目にうつったのは、岩山の穴からさまざまのものを運びだしているところでした。
そのうちに、すこし気分がはっきりとしてきました。たいへん咽《のど》がかわいて、焼けるようでした。そして、ふと気がつくと、さっきから頭の下の方で水の音がきこえていました。
もうほとんど何も考えずに、私ははいだしました。傷の痛みはまだ感じませんでした。ただ全身がぎごちなく、鉛《なまり》でもつめられたか、木にでもしばりつけられているようでした。
私ははいつづけて、岩山の下のある平らな石の上まできました。その下の方に、滝《たき》の音がしていたのです。
石から身をのりだしたとき、石はぐらりとゆれました。ここは急な崖《がけ》べりでした。私は三四丈《じょう》の崖を落ち、そこで気を失いました。
四
気がついてみると、私は手あつい介抱《かいほう》をうけていました。傷は手当をして包帯をしてありました。家は粗《そ》末《まつ》な草ぶきの小屋ですが、涼《すず》しい風がとおっていました。寝《ね》床《どこ》はやわらかい皮の羽毛《はね》ぶとんでした。
介抱してくれていたのは野《や》蛮人《ばんじん》でした。
今でもビルマの山の中にはいく種類かの蛮族がいます。中には人食いや首《くび》狩《か》りをするものまでいます。私が谷に落ちて失神しているあいだに、イギリス軍は日本兵をまとめてひきあげ、そのあとにここの蛮人が通りかかって、私を救ってくれたとみえます。
この人々はほとんど裸《はだか》で、体じゅういたるところに傷痕《きずあと》をつけて模様をかき、また入墨《いれずみ》をしていました。手首や足首には鉄の環《わ》をはめていました。目は三角につり上って、唇《くちびる》はあつくつき出ていました。しかし、なかなか礼《れい》儀《ぎ》も正しく、おだやかで、べつに乱暴をはたらきそうではありませんでした。
それどころか、日がたつにつれて分りましたが、じつにやさしく親切でした。私をお客様あつかいにして、注意ぶかく治療《ちりょう》をして、毎日御馳《ごち》走《そう》を食べさせてくれました。
ああ、その御馳走といったら! おいしい滋《じ》養《よう》のあるものを、食べろ、食べろ、とすすめて、ことわりきれませんでした。それをことわると腹を立てるので、かえって困ったくらいでした。
この蛮人の村で養生《ようじょう》をしているあいだ、私はずいぶんかわった生活をしました。
私の傷はももにうけた小銃弾の傷でしたから、思ったよりはやく癒《なお》りました。体は一時は大へんやせおとろえました。しかし、それもやがて回復して、日ましに元気になりました。
いつも一人の爺《じい》さんが食物をはこんできて、私が丈夫になっていくのを見て、よろこんでくれました。
爺さんはときどき私の腕《うで》や足に両手の指をまわして、太さをはかりました。そのころはずんずん肉がついて、三日もたつと爺さんの指の関節の一つぐらいはちがいました。
そんなときには、爺さんは歯がぬけて皺《しわ》だらけの顔をほくほくとゆがめて、鰐《わに》の肉のスープや森の果物《くだもの》の料理をすすめてくれました。
「すみません。すみません」と私は礼をいって、腹一杯《いっぱい》たべました。
こうしているあいだは暇《ひま》ですることがありませんでしたから、私は寝床に起きあがって、あたらしい竪琴《たてごと》をつくりました。材料が不自由でしたが、しかし、竹は大小思うままのものがあるし、牛の皮や羊の腸で絃をつくることもできました。竪琴の製作はもう手に入ったものでした。
あるときは、この部落の酋長《しゅうちょう》が娘《むすめ》をつれて、見舞いにきたことまでありました。
酋長は見あげるように背が高く、さすがに堂々とした威厳があって、まっくろなこわい顔をしていました。彼はまるで院長が特等患《かん》者《じゃ》を診察《しんさつ》するように、するどい目をすえて、こまかく私の健康をしらべました。そして、爺さんに小言をいいました。――もっとこの病人に気をつけてあげなくてはいけないじゃないか。まだこんなに痩《や》せている。おまえの注意がたらん。
爺さんはおそれいってあやまりました。
私はあわてて手をふりました。そして、
「いいえ、このお爺さんはほんとうによくしてくれます。私の命の恩人です」
ととりなしました。
爺さんはなお、私の体の方々をたたいて、その肉づきの様子を酋長に示して、弁解していました。
酋長の娘は傷の手当をしてくれました。こんな山の奥《おく》にはめずらしく可愛《かわい》い、そして内気な娘でした。まだなおりきっていない傷口に薬草をあてながら、しきりにさも気の毒そうにため息をつきました。
私は竪琴を一曲ひいてやりました。まだ体に力もなく、ひいていると息もきれました。娘は両手を胸にあてて、感にたえたように聞いていましたが、そのうちに私をじっと見ながら、涙《なみだ》をこぼしました。
それが、まるで私がいまにも死にそうな心配をしているようなふうだったので、私は「なに、死ぬものですか。このとおりです」と、ようやく肉ももりあがり、脂《あぶら》もついてきた腕を動かして見せました。
それから、立ち上ってみましたが、やはりまだ足に力がなくて、羽毛《はね》ぶとんの上に坐《すわ》りこんでしまいました。
娘は涙をふいて、私に同情してくれました。
酋長がかえるとき、私は頭を下げて、その好意に感謝しました。酋長は長い黒い顔に反《そ》った歯をむきだして、笑ってうなずきました。そうして「これを噛《か》みなさい」と、自分がいつも噛んでいる上等のびんろう子《じ》をくれました。
ほんとうに、未開な人とはいっても、何という気立てのいいやさしい人たちだろう、と私は思いました。
こうして手当をうけたので、やがてほとんど本復《ほんぷく》しました。そのころ満月がちかくなりました。そして、草葺《くさぶき》の屋根の上にあがる白い月が一晩ごとに大きくなるにつれて、この部落ににぎやかな浮きたつような気分がみちてきました。
「お祭りが近づいたのだな」と私は思いました。
月がほとんどまんまるにちかくなったある晩のこと、外は大へんにぎやかでしたが、爺さんが食事をもってきてくれました。そのときはまた特別な御馳走で、鶏《とり》の丸焼きまでついていました。戦争の状況《じょうきょう》がわるくなってから、私はこのころほどおいしいものをたらふく食べたことはありませんでした。
私は爺さんの手を握《にぎ》ってふりました。
爺さんはすっかり太った私の体をなでました。
それから二人で話をしました。話といっても、ここではすべて手真似《てまね》とビルマ語の単語なのですが、それが大分上達して、けっこう意味が通じるようになっていました。
「こんなに丈夫になってよかったのう。わしもうれしい」と爺さんがしらせました。外では、さっきから月の光の中でたのしげなはやしの笛《ふえ》の音がきこえていました。
「おかげさまで――」と私は頭を下げました。
「おまえがいうことをきいてよく食べるから、わしも役目が楽につとまったわい。他《ほか》の捕虜はいやがって食べないので、つくづくこまったよ」
「もうすっかり元気になりました。このお礼はきっといたします」
爺さんは私の首を指でつまんで、それを押《お》したりはなしたりしながら、いいました。
「もうこのくらい太ったら、食いでは十分あるだろう」
「何ですか――?」
「この部落民が一切れずつ食べても、全部の者にいきわたるだろう」
「何ですか――! この私を食べるのですか?」
「そうだよ。いや、よくそんなに太ってくれた。ありがたい」と爺さんは皺だらけの口をすぼめて笑いました。
これはしまった、と私は思いました。ここは人食人種の部落なのか、それならあんなに御馳走になるのではなかった。――そう思って、近頃《ちかごろ》は運動もしないのでぶくぶくになった自分の体をみまわしました。
爺さんにこの種族の名をきくと、何とかいう名をいいました。その名はきいたことがあります。これは二十四五万人もいる種族で、お尻《しり》のあいだに長方形の木の板をはさみ、山を下るときにはそれを使って滑《すべ》り落ちるので飛ぶようにはやい。かれらは首狩りをして、捕虜をつかまえると、それを焚《たき》火《び》のそばにねかせて汗《あせ》をながさせ、まんじゅうのような食物にその汗をしみこませて食べる。そして、そのあとで人間をも料理する。
しかし、人食人種といっても、けっしてそうむやみに人を殺すものではないそうです。かれらがそれをするのはかれらとしての必要があるときにかぎっているので、その必要というのはまじないです。かれらはつねに目に見えない魔霊によってとりまかれていると信じていて、それをおそれることは非常なものです。いつも戦々兢々《せんせんきょうきょう》として生きています。猛悪に見える野蛮人はじつは臆病《おくびょう》なのです。かれらは畑の作物の豊饒《ほうじょう》をいのって、そのために魔霊の御機《ごき》嫌《げん》をとろうと思って、人の首という貴重なものをささげるのです。そうしてまた、そのさいに肉を食うのは、それによってその人間のもっている力を自分にとりいれて、すこしでも魔霊にちかい力をえたい、と思っているのです。
ですから、かれらがあぶないことをしでかすのは、作物のとりいれのお祭りの時期にかぎっています。この時期がすめば、おとなしいのです。
ビルマ一帯では、ナットという魔霊が信じられています。これは木にも石にも、そのほかありとあらゆる自然の中に宿っている精霊で、これに愛されればどんな幸せでもめぐってくるし、これを怒《おこ》らせれば大へんな災《わざわ》いがふりかかるのです。あの高尚《こうしょう》な仏教を信じているビルマ人の、しかもその知識階級すらいまだにナットをあがめているので、その前に供《く》物《もつ》をささげたり、その霊をしずめる儀式をしたりしているところを、よく見ました。ここの蛮人もナットを崇拝《すうはい》して、その小さな祠《ほこら》がいたるところにまつってありました。
私は爺さんにききました。
「お爺さん、その私が食べられるのはいつですか?」
「お祭りはあしただよ」
もう今から食べ物をひかえても何にもなりません。せっかく出された御馳走ですから、私は鶏の丸焼きをみな食べました。でも何だか口の中に唾《つばき》がなくなったようで、あんまりおいしくはありませんでした。爺さんは目を細くして私の体を眺《なが》めていました。
私は案外平気でした。なにしろこんな連中が相手です。何とかなるだろう、とたかをくくっていました。今から逃《に》げだすことはむずかしいし、うっかり逃げたりしてはかえってまずい、と思いました。そして、たのみに思っていたのは竪琴でした。
「いざとなればこの竪琴がある。これさえあれば――」と、私はその夜は竪琴を抱《だ》いて、よく寝ました。
翌朝日の出の時刻に、私は裸にされて、川の中の岩の上にねかされて、体中をいたいほどごしごしと洗われました。土人たちも身をきよめました。それから、私はかざりたてた檻《おり》に入れられました。私は竪琴をもってその中に坐りこみました。土人たちは檻をかついで、この部落の中央の社の前にはこんでいって、そこにすえました。
社は小さな藁《わら》屋根《やね》の家で、まわりを竹垣《たけがき》でかこってあります。前には一つの台があって、その上に牛の頭や内臓が生贄《いけにえ》としてささげてありました。あたりには柱がいく本もたててあり、その梢《こずえ》には横木がうってあります。これも何かのまじないの霊標《れいひょう》といったようなものでした。
社の横に鬱蒼《うっそう》たる大木がありました。その枝にも根本にも、いたるところにナットがまつってありました。
いよいよお祭りがはじまりました。野蛮人たちはさまざまな作法にしたがって犠《ぎ》牲《せい》をささげたり、咒文《じゅもん》をとなえたりしたあとで、槍《やり》と刀をもっておどりはじめました。
かれらは頭に羽毛《はね》でかざった大きなボンネットのようなものをかぶっています。耳には掌《てのひら》ほどの大きさのある骨の玉をかぶせています。そうして、大勢が列をつくって懸声《かけごえ》をかけながら、中腰《ちゅうごし》のまま地面を足ぶみして、腰をふって、だんだん狂乱《きょうらん》のさまとなりました。ときどきナットの木の方をむいて祈《いの》るような恰好《かっこう》をして、また頭を地にすりつけてはげしくふります。そうして、「ホー、ホー、ホー」という、かんだかい恐怖《きょうふ》の叫《さけ》びのような声をまぜて歌をうたいながら、私の入っている檻のまわりをぐるぐるとまわりはじめました。目の前で刀や槍がそろって、規則ただしくキラキラと左に右にゆれます。いよいよ私をひきだして殺すのでしょう。
時こそよし、と私はやおら竪琴をとりあげて、その踊《おど》りにあわせてひきました。
私は自信をもっていました。この竪琴さえひけば――、と思っていました。そうして、檻の中にあぐらをかいて、にやにや笑ってびんろう子を噛みながら、いろいろな面白《おもしろ》い曲をこれでもかこれでもかとひきました。
ところがだめでした。野蛮人たちはせっかく私がひく曲に耳もかたむけません。いくら人の心をうごかすようなたのしいまたかなしい曲をひいても、うけつけません。それどころか、竪琴に合わせてますます調子よく刀や槍をうごかして、ただ夢中《むちゅう》になって、ナットを祈って踊っています。私はしまいにはいやになりました。
やがて、蛮人たちは薪《まき》を山のようにつんで、それに火をつけて、私を檻からひき出し、足をしばって、その焚木のそばにねかせました。私はこのあいだにも竪琴をひきつづけて、何とかしてかれらの気をかえようとしたのですが、むだでした。
火はあつくてたまりませんでした。体からはだんだん汗がでてきました。しまいには総《そう》身《み》が湯につかったようになって、髪《かみ》までがぐっしょりとなりました。
蛮人たちは手に手にまんじゅうをもって、輪になって、そのまんじゅうで私の体をこすりました。そうして汗をたっぷりしみこませては、おしいただいて食べました。
すこし離《はな》れたところでは、もう幾人《いくにん》かの蛮人が刀をといでいました。
私は腹が立って、腹が立って、たまりませんでした。汗はでる。あつくはある。おまけにもうじき料理されるかと思うと、これはいけない、もういよいよだめか――、と観念しました。あんまり馬鹿《ばか》にしてしくじった、と心から後悔《こうかい》しました。
しかも、風が出てきました。焚火の炎《ほのお》があおられて体にふきつけて、やけどしそうでした。蛮人は水をどんどんと飲ましてくれるので、汗はとめどなく出ました。
風はだんだんひどくなりました。ゴーッという音をたてて、あたりの木々をふるわします。そのたびに燃えた葉がとんできて、私の裸の体の上をころがってゆきました。
私は目がまわるような思いをしながら、とにかく咽《のど》がかわくので、「水! 水!」とどなりました。
ところが、もう水をもってきてくれません。まんじゅうを私の膚《はだ》にこすりつけることもやめています。
いよいよ最後か――。私はそう思って、目をつむりました。
しばらくたって、また目をあけて見ると、意外にも、蛮人たちは不安気な様子で立っています。そうして、はげしい風音をたてて揺《ゆ》れているナットの大木を眺めています。
また風が大木をふるわせました。蛮人たちは耳をおさえて、地に伏《ふ》しました。ある者は手を合わせておがんでいます。また、ある者は大木が鳴るごとに、両手をあげて、目に見えない何物かが襲《おそ》ってくるのをふせいでいます。かれらはナットの木が荒《あ》れだしたので、魔霊がおこりだしたのか、とこわがっているのです。
ここだ! と私は思いつきました。そして、足をしばられて仰《あお》むきにねたまま、抱いていた竪琴をひきだしました。
その曲は、ビルマ人がナットをまつる儀式のときにひいているものでした。
ひきながら、私は叫びました。「ナット!」
そして、今度は風の音と共に、おそろしげな調子で絃《げん》をかきならしました。蛮人たちは恐怖の叫び声をあげました。
私はまた叫びました。「ナット! ナット!」それからわけの分らないことをわめきました。
そうして、また竪琴をひいて、いかにも精霊が飛んでくるような、笑ってただよっているような、またおこって襲ってくるような音をだしました。
大木はしきりに揺れました。大勢の人々は悲鳴をあげて、腰をうかしました。私は一生けんめいに大木の音にあわせてひきました。
蛮人たちは次第にうしろにさがって頭をかかえていましたが、とうとう、おそるおそる私の方にはってきて、足をしばった縄《なわ》をときました。私はふらふらしながら立ち上って、できるだけいばって、酋長《しゅうちょう》の横に坐りました。
風はまだ吹《ふ》いていましたが、私がナットの木の前に立って、あらためてその霊をしずめる曲をひいたので、人々はようやく安心しました。
それからは、陽気な宴会《えんかい》になりました。夜は明るく、まっ白な満月がてらしていました。風はおさまって、すずしい大気がさわやかにうごいて、黍《きび》の葉《は》末《ずえ》に露《つゆ》が光っていました。
酋長は水牛の角からしきりに酒をのんで、私にものませました。すすめられた酒をことわることは、ここの習慣によると大へんな無礼です。槍や刀や鉄砲《てっぽう》はまわりにおいてあります。もし怒らせては大へんですから、私はことわることもできず、用心しながら飲みましたが、しまいにはすっかり酔《よ》ってしまいました。目の前がぼんやりして、何もかもがたのしそうに踊っているようでした。
酋長は機《き》嫌《げん》よく歌ったり食ったりしていました。が、そのうちに、ふと飲みあおっていた水牛の角を下において、私にそのものすごい顔を近づけました。
「おまえは――」と彼《かれ》は長い顔の歯をむきだして、うなるようにいいました。「わしの娘の婿《むこ》になれ」
それから、酋長は酒で赤くなった目をとがらせていいました。
「ならなければ、おまえの首を切る」
隊長がここまで読んだとき、われわれはおもわずふきだしました。そうしていいました。
「あのまじめな水島が、これには困ったろうなあ!」
「おれだったら、よろこんで人食人種の婿になるがなあ!」
隊長も笑いながら、また読みつづけました。
――私はびっくりしました。娘を見ると、はずかしそうにうつむいていました。
酋長は厳粛《げんしゅく》な顔をして、私と娘の手を両手にとって立ちあがりました。そうして、ここにあつまっている大勢の部落民にむかって、おもおもしくしゃべりはじめました。もう二人が婚約《こんやく》したといっているらしいのです。
「諸君、今夕は何のもてなしもございませず、席次その他万端《ばんたん》不行届の点につきましても、あつくおわびを申しあげまする。……ええ、新郎はまことにまれに見る青年でありまして、もしこの肉を今夕の料理といたして、諸君に一切れずつさし上げれば、部落の戦力増強のために資するところ絶大であります。しかし、であります。この青年は、諸君もごらんになったとおり、ナットとすら話しあう力をもっておる。これを殺すことは、精霊に対していかがでありましょうか。ここにおいて、私は酋長といたしまして、部落のために最善の道をえらんだのであります。すなわち、この若者を食うことはとりやめといたし、その代り、むしろこれをわが娘の婿としてむかえまして、もってその力をわが部落に加えんと存ずるのでありまする……」
部落民は一せいに拍手《はくしゅ》しました。
私はとほうにくれました。酔も一ぺんにさめてしまいました。でも、どうにもしようはありませんでした。ただ立って、どのお婿さんもするように、おとなしくあきらめたようにうつむいていました。
ところが、酋長はその先の演説の途中《とちゅう》で、ふと言葉をとめて、小声で私にききました。
「おまえがこれまでに切った人間の首の数はいくつか?」
私は小声で「一つもありません」と答えました。
すると、酋長はしかめ面《つら》をして、なお小声でおこったようにいいました。
「こういう席でふざけていてはいかん。十か。二十か。あんまりすくなくては、わしがお客の前で面目を失する。すこしはかけねがあってもいい。はやくいいなさい」
「しめた!」と私は思いました。「これでやっとこの酋長の婿にならずにすむ」
そこで私は、わざと他のお客にも聞こえるような声で、
「私は人間の首を切ったことは、まだ一つもありません」と答えました。
酋長はほんとうに怒りだしました。そうして、自分の髪をかきむしって地だんだをふみながら、どなりました。
「一つもない――? ほんとうに一つもないのか? そんな意気地《いくじ》なしにはわしの娘はやれぬ。それではやっぱり、おまえの肉を食う!」
しかし、このとき、娘があわてて父親の胸にすがりついて私の命乞《いのちご》いをしてくれました。
こうして、お祭りはすみました。それで、私は釈放されました。
この部落を出発したときには、部落民が総出で見送ってくれました。ことに酋長の娘は心から名残《なご》りをおしんでくれました。彼女は私にビルマ僧《そう》の服装《ふくそう》をさせました。こうすればどこに行っても困ることはないから、というのでした。そうして一つの腕《うで》環《わ》をはめてくれました。これは錫《すず》の板でつくったもので、お経《きょう》の文句がほってあります。これはただ記念にくれたのだろうと思っていましたが、実はかなり位のある坊さんのもつもので、これをもっているお陰《かげ》で、私はこの後しばらくどれだけ便《べん》宜《ぎ》をえたか分りませんでした。
ムドンへ――! 私は心の中で叫びながらかけだしました。村外《むらはず》れの急な石段をおりかけて、ふりかえって見ると、娘はナットの祠《ほこら》の前で小さな掌《て》を合わせて祈っていました。
五
ムドンへの道はなかなか分りませんでした。ただ南へ、南へと、山を越《こ》え、谷をわたりました。
やがて、平地にでて、ビルマ人の村落に入りました。
行けども行けどもはてしない水田のつづきでした。のびのびとした平和な田園でした。もうここは野《や》蛮《ばん》どころではない、古い高い文化のあるところです。
あちらこちらに人が水牛をつかって耕しています。水牛が動きだすと、白鷺《しらさぎ》が下りてきて、その背や角にとまります。そして、水牛が田の端《はし》まできてそこに立ちどまると、人は押していた鋤《すき》のむきをかえ、鷺はそれにおどろいて舞《ま》いたちます。
あるとき、歩いていると、にわかに黒い雲がわいて、しめった風が吹きだしました。空一面に白鷺の群が、まるで風にもまれる綿毛のように、いまにも吹きとばされて落ちそうに散らばっていました。そのうちに雨がきました。ビルマの雨は猛烈《もうれつ》です。みるみるうちに四方が濛々《もうもう》としたしぶきにとざされ、さながら水の中を泳いでいるときのように、呼吸もむずかしいくらいでした。
しばらくすると雨がやんで、霽《は》れあがりました。天も地もさっとあかるくなり、空一杯《いっぱい》に大きな虹《にじ》がかかりました。あたりはにわかにとばりを開いたように霧《きり》が消えました。そして見ると、その虹の下で、農夫たちがうたをうたいながら耕していました。
こうした村々では、家の門口《かどぐち》に立って合掌《がっしょう》すると、人々がほどこし物をしていたわってくれました。ときにはお寺にもとまりました。しかし、お寺では私の腕環を見ると大へん優《ゆう》遇《ぐう》してくれるので、かえってこまりました。なにしろ僧侶《そうりょ》の風習も作《さ》法《ほう》もしらないのですから。
ただ、この仏教国にはいろいろな苦行《くぎょう》をする坊さんがいます。私は大ていは苦行中ということにして、黙《だま》ってとおしました。それに、ビルマ人は他人のことを気にかけてめんどうな詮索《せんさく》をしたりはしませんから、にせのビルマ僧はどこに行ってもあやしまれずにすみました。
それでも、ずいぶん困ったこともありました。
ある村に入ったときに、ドリヤンの匂《にお》いがぷんぷんして、その中に銅羅《どら》や、鼓《つづみ》や、竪琴《たてごと》の音がひびいていました。村人たちは夕方になるのを待ちかねて、日《ひ》影《かげ》がたそがれると、長いルーンジをつけ、花を頭にさして、ぞろぞろと出かけて行きました。
この村でプーエという踊《おど》りが催《もよお》されているのでした。これは大勢の少女が一しょに踊る楽劇で、踊子たちは豪奢《ごうしゃ》な衣装《いしょう》をつけて、手足をまげ身をくねらせて、音楽にあわせて、夜明けまで踊るのです。その合間には芝《しば》居《い》もあります。このプーエという催し物は幾《いく》百年もつづいているもので、遊びずきなビルマ人のする遊びの中でも、とくにさかんなものです。
「旅のお坊《ぼう》さん。プーエをごらんにおいでください」と村人が私にいいました。
私は「苦行中……見世物……見ない」とぶっきらぼうにことわりました。
そのうちに別の村人がきていいました。
「旅のお坊さん。お葬式《そうしき》があります。おいでください」
今度はどうもことわるわけにはいきません。私は案内されて、村外れの広場に行きました。そこではもうプーエがはじまっていました。音楽にまじって笑い声がしきりにあがっていました。踊子たちは夕方の光の中で、合唱しながら、同じような所《しょ》作《さ》をくりかえして踊っていました。
私はきめられた席につきました。こんな賑《にぎ》やかなところで葬式があるのはおかしい、と思いましたが、たずねることもできませんでした。そこには他《ほか》にもビルマ人の坊さんが坐《すわ》っていました。私はその坊さんのうしろに坐って、その人のすることを真似《まね》していました。
プーエはますます陽気になって、人々は夢《む》中《ちゅう》になって興じていました。やがて、山車《だし》のようなものが来ました。大勢の人がにこにこ笑ってひいています。車の上に高いやぐらを組んで、上から下までかざりたてて、張《はり》子《こ》でつくった人形や象や薬玉《くすだま》がつるさがっています。
プーエのそばで、人々はこの山車に火をつけました。さまざまの色紙や人形が炎《ほのお》になって、夕やけの雲の下をひらひらと舞ってとんでいきました。群集はそれを見て、たのしそうに喝采《かっさい》しました。
この燃えているやぐらの下でも、芝居がはじまりました。それには翼《つばさ》をつけた精霊《せいれい》のようなものが出てきて、蓮《はす》の莟《つぼみ》の中から王女をひきだしたり、それをさがす王子に魔術《まじゅつ》をおしえたりしていました。まるで、子供のするお伽芝《とぎしば》居《い》そっくりでした。
私は葬式はいつはじまるのだろう、と不《ふ》審《しん》に思っていました。しかし、うっかり口をきくと正体がばれるので、ずっと前に坐っている坊さんの真似をして、合掌して、口の中で何かとなえていました。
そのうちに、人々はやぐらの焼けおちたところで、その真中の灰をしゃくって捨てました。そうして、そのあとへさまざまの美しい飾《かざ》り物《もの》を投げいれました。それから、一人のビルマ人が長い火《ひ》箸《ばし》のようなものをもってきて、私たち坊さんにわたして、
「さあ、どうぞ」と案内しました。私は他のビルマ僧の後について行きました。
灰をかいたところには、やはりもう灰になった大きな箱《はこ》のようなものがありました。それをのぞくと、中に――金銀の飾りや匂いのいい花の中に埋《う》もれて、もうすっかりきれいに焼けあがった人の骨がしずかに横たわっていました。
この陽気なお祭りの山車のようなものは、じつは葬式だったのです。
うながされて、私は火箸で骨《こつ》をあげました。
わきではプーエがさかんにつづいていました。大勢の踊子が両腕をあげ、胴《どう》をゆすって、はでな楽劇の単調な歌をくりかえしていました。楽器を打つ音、吹く音、はじく音が、もつれあっていつまでも夜の村にながれていました。そして、踊りも葬式も、同じようにたのしげなものでした。
後で知りましたが、ビルマ人は死ぬことをおそろしいとは思っていません。人間は一度はかならず死ぬものだし、死ぬことによってこの世の煩悩《ぼんのう》を脱《のが》れて救われるのだ、人間がそこから来た本源にかえるのだ、と信じています。ビルマ人は臨終《りんじゅう》の人にむかっては、その人が一生のあいだに行った善事を話してやり、そのあとは仏様にみちびかれてもっといい国に行くものと、安心しています。ですから、ビルマでは、葬式もじつはたのしい見送りの会なのです。
骨上げのあいだに、私の腕環が見つかってしまいました。それで、これはこんな田舎《いなか》にはめずらしいもったいない高僧だ、ということになり、私が首《しゅ》座《ざ》に坐ってお経を上げなくてはならなくなりました。
私は困りました。もうしかたがありません。そこで、前にも一度こういうばつの悪い場合に用いた手をつかって、ごまかしました。私はにわかに足をふかく組んで、その場に坐りこみました。そうして、腹の底から一息ついて、あとはほとんど息もせずに、じっと瞑想《めいそう》にふけりました。
こうしてしばらく、動きもせず、見もせず、ききもしないでいました。村人たちは、これはとうとい苦行僧がにわかに天啓《てんけい》でもうけて、むつかしい道理を考えて、いまその精神がとおい世界に去っているのだ、と思ったのでしょう。そのまま、そっとかまわずにおいてくれました。
どこに行っても、ビルマ人は楽しげです。生きるのも、死ぬのも、いつもにこにことしています。この世のこともあの世のことも、めんどうなことはいっさい仏様におまかせして、寡《か》欲《よく》に、淡白《たんぱく》に、耕して、うたって、おどって、その日その日をすごしています。
ビルマは平和な国です。弱くまずしいけれども、ここにあるのは、花と、音楽と、あきらめと、日光と、仏様と、微笑《びしょう》と……。
六
しかし、私はこんなものには目もくれずに、ただムドンをさして、南へ、南へ、といそぎました。
そのうちに、また山地に入りました。あるとき、いくつかの峠《とうげ》を越えて、荒《あ》れた山の中を歩いていました。あたりは岩が重なって木は枯《か》れ、村落からもとおいところで、人にはまったく出会いませんでした。
ながい赤土の砂の道をのぼって行ったとき、ふと私は足下に小銃弾《しょうじゅうだん》が落ちているのを見つけました。手にひろうと、それは見なれた日本式の小銃弾でした。あたりを見まわすと、なおいくつかの弾《たま》と薬莢《やっきょう》が散らばっていました。
どうしてこんなところにこんなものが――、と私はふしぎに思いながら、なお坂をのぼって行きました。見あげると、行手の岩の上に、鳥の群がひくくぐるぐると輪をえがいて飛んでいます。そうして、岩のかげからも、嘴《くちばし》の大きなつばさのながい黒い鳥の群がまい立ちました。太陽がどんよりとかがやいて、あたりには何の物音もしませんでした。
やがてのぼりつめたところは、木も草もない荒涼《こうりょう》たる山峡《さんきょう》でした。
ここまで来たとき、私はおもわず立ちすくみました。
山峡の赤い岩の陰に、二三十人ほどの人と、五六頭の馬の死《し》骸《がい》が散乱していました。もうすっかりかさかさになって、白骨がつきでています。そのあいだに、機関銃や、小銃や、皮の袋《ふくろ》などがなげだされています。鉄兜《てつかぶと》がころがっています。すべて平らに崩《くず》れて、なかば地面に埋没《まいぼつ》しかかっていて、死骸の横たわっているところだけに、草がいきおいよくしげっています。私が近よると、その中から一《いっ》匹《ぴき》の鳥がいやな鳴き声をたてて、私の顔にぶつかるようにまいたちました。
これは日本兵の一部隊でした。
ここで戦闘《せんとう》か爆撃《ばくげき》があったのでしょう。
そうして、この部隊がここで全滅《ぜんめつ》したのでしょう。
そうして、そのままここに、知る人もなくすてられてあるのです。
私は離《はな》れたところから枯木をあつめてきて、火を焚《た》いて、それらの死骸をやきはじめました。
これはとうてい一どきにできることではありませんでした。私は心は先にせきながら、いちばんちかい部落にとまって、そこから毎日ここまで来て死骸をやきました。およそ一週間かかってやっとすみました。私は骨を埋めて、その上にささやかな墓標をたてました。そうして、その前にただひとり合掌して、この不幸な人たちの霊をとむらいました。
これをすませてから、私はまた南への旅をつづけましたが、その途中《とちゅう》ではからずも見聞したことをくわしく書くことは、遠慮《えんりょ》いたします。ただもうむざんきわまることでした。日本人として、同胞《どうほう》として、涙《なみだ》もでないほどかなしいことでした。
あるとき、小さな森の中をゆきました。そのうちに雨がひどくなり、道も歩けなくなったので、とある路《ろ》傍《ぼう》の廃屋《はいおく》に入りこんで休もうとしました。
ところが、この小屋の中に一つの死体がありました。それは日本兵の軍服をきていました。おそらく敗走のさいに病気か負傷で落《らく》伍《ご》した兵が、この小屋にはいこんで、そのままになったものと思われました。
蟻《あり》や蛆《うじ》がまっくろにたかっていましたが、それでもかなり後まで生きていたとみえて、形はそれほど崩れてはいませんでした。
胸のそばに一枚の写真がおちていました。それは小さな男の子をだいた、若い父親の姿でした。この死んでいる人とその子なのでしょう。
雨がもっている小屋の中では、死骸を焼くことはできません。私はこれを森の中に背負っていって、土葬にしました。写真はどうしようかと迷いましたけれども、やはり一しょに埋めました。故人もその方をよろこぶだろう、と思ったのです。あの写真にうつっている男の子は、日本のどこかの家で、あれと同じ写真を壁《かべ》にかけて、その前でお父さんの帰るのを待っているのでしょうが……。
この森の中には、そこにもここにも、こうしたものがありました。敗走する部隊がここをとおって行ったのです。ビルマの南の地方に、日本人が白骨街道《かいどう》と名をつけたところがあります。私は近ごろはこの場所に行っていますが、ここは、その名にたがわず、この小さな森の中よりもさらにさらにおそろしい有様です。
こうして、私は行く行く方々で日本兵の屍《かばね》を葬《ほうむ》りました。が、そのうちに、これは大へんなことだとさとりました。この森の中のものだけでも、とうてい短日月《たんじつげつ》には葬りきれません。といって、これをこのままにうち棄《す》てておくことはできません。ここばかりではない、この広いビルマには、全国にどれほどの同胞がこうした姿になったままでいるかわかりません。鬼《き》哭《こく》啾々《しゅうしゅう》とはこのことです。これをなんとかしなくては――、としきりに思いはじめました。しかし、ムドンにははやく行きたい。行かなくてはならぬ。戦友が無事でいるかどうか、消息をしりたい。顔を見たい。本隊にたどりついたら自分はどんなにうれしいだろう。人もどんなによろこんでくれるだろう。――こう思って、どうしたらよかろうか、と迷いわずらいました。ムドンへはまだ遠いのに、する事はあまり多いのです。このビルマ全国にわたる仕事を一つ一つ片づけていったら、何月どころか、何年かかってムドンへ行けるか分りません。
それでも、この森の中にあったものはようやく始末しおえて、ここを出て、ある大きな川べりにきました。シッタン河でした。濁《にご》った水かさの多い急流でした。ここで対岸にわたる舟をさがしているとき、私は真におどろくべきものを見ました。
それは白骨の――いな、腐《ふ》爛《らん》した死体の山でした。川のほとりの沼《ぬま》になったところに投げこまれ積みあげられてあるのですが、まわりにはぬるま湯のような水がつかり、蘆《あし》がしげって、泡《あわ》がたっています。衣類その他ははぎとられたとみえてありませんでした。おそらくここが渡河《とが》点《てん》だったのでしょう。それで、退却《たいきゃく》のさいにここでたくさん死んだものと思われます。
私は面《おもて》をおおいました。これはもう私の力にはあまる仕事でした。自分ひとりには手も足もでないことでした。
私はあきらめました。葬ることをなげうちました。そうして、死んだ人のことは死んだ人のこと、もうこんなものは二度と見るのはやめよう、と思いました。不運な人たちはきのどくではあるけれども、何も自分にその責任があるのではなし、いちいち気にしていてはきりがない――、と思いました。そして、はやく本隊に追いつこう、一しょに日本にかえろう、国に行って自分の生活をはじめよう――、とつくづくそういう気がしました。
このように思いさだめてからは、気が楽でした。これからは舟で川を下り、ときには牛車や汽車にものったので、まもなくムドンの町につきました。
こうして歩いているうちに、ビルマ語もかなりらくに話せるようになり、また一とおり坊さんらしいこともできるようになっていました。
ムドンの町に入るときには胸がわくわくしていました。町のはずれの森の中で、一人のビルマ人に出あったので、私は町の様子をききました。この人は木をきって、五羽の鸚哥《インコ》をつかまえたところで、私にその中のいちばん青い一匹をくれました。こののち私はいつもこれをつれてあるきました。この手紙と一しょにお届けしたのがそれです。
このビルマ人の話では、ムドンには日本兵の収容所がある。そしてその中には、いつも合唱している部隊もいる、というのです。もうこれでまちがいありません。
私はこおどりして足を早めて町に入りました。そして、方々で問いあわせて、ようやく収容所にきました。しかし、そのときはもう晩おそく、収容所はしまっていて、ただ中のランプのあかりが窓からもれていました。
その夜、私はそのランプがきえるまで柵《さく》の外に立って、胸をふくらませて収容所をながめていました。
一度隊長らしい声がきこえたときには、身がふるえました。
そして、やっと思いきってそこを立ち去って、この町の僧院《そういん》にいってとめてもらいました。
翌朝はまだ暗いうちに、目がさめました。できるだけ早く収容所に行こうと思っていたのですから、すぐにとびおきて支《し》度《たく》をはじめました。ようやく今日これから隊に入れるのだ。別れてからもう三月ほどにもなるが、そのあいだに、ずいぶんいろいろなことがあったなあ――。とうれしくいそいそとして、身支度の手もおちつきませんでした。そうして、この僧院で供せられたあたらしい黄いろい衣《ころも》を着、托鉢《たくはつ》をもちました。
「このかっこうをしていったら、さぞ隊の者がおどろくだろうな。よろこぶだろうな」と私はひとりで笑いました。
ところが、気がついてみると、眠《ねむ》っていた私の目をさまさせたのは、僧院の中庭でひいている竪琴《たてごと》の音でした。
それは、「はにゅうの宿」の節《ふし》を単調にぽつん、ぽつん、とひいているのです。
私はそれをきいていましたが、とうとう我《が》慢《まん》がしきれずに、中庭に出てみました。夜明けのうす紫《むらさき》いろのくらがりの中に、一人のビルマ人の少年が竪琴を練習していました。私はそばに行って声をかけました。
「おい、きみ、なぜこんなに早くからひいているのだね?」
少年は頭を下げてから、答えました。
「すみません。私はこのお寺の台所に泊《と》まっているのですが、毎日この竪琴をひいて銭《ぜに》をもらいに行くのです」
「どうしてその曲をひくのだい?」
「これをひくと、イギリス人がお金をくれます」
僧院の門があくのはまだ間がありました。私はその竪琴をとりあげて、自分の作ったこの曲の和《か》絃《げん》をかるくひきました。少年は目をまるくしてきいていましたが、その作曲をぜひぜひ教えてくれ、とせがみました。そういうふうにひいた方がみいりが多いから、というのでした。
私はこのときは心がうれしくたのしく、自分が作ったものがこの人の役にたつというのが愉《ゆ》快《かい》でしたから、乞《こ》われるままに教えてやりました。もっとも、少年はそのときには覚えきれず、すっかりものにしたのは大分あとのことでしたが。
このとき、少年がこういう話をしました。
「――この町に病院があって、イギリス人が経営している。ここで回復しないで死ぬ人があると、病院付属の墓地にほうむられる。埋《まい》葬《そう》のときは、病院につとめているイギリス人たちも来るが、その帰り道にまっていてこの曲をひくと、かれらは心をうごかして、ときには銀貨までくれることがある。
墓地の番人にきいたところでは、今朝も一つ埋葬があるということだ。何でも、ある奥《おく》地《ち》の岩山にたてこもって頑強《がんきょう》に抵抗《ていこう》した日本兵の一隊があって、それがついに降伏《こうふく》して、その負傷兵がこの病院におくられてきた。そのうわさは町の人々もしきりにしているが、ずいぶんひどい様子だということだ。この人々の中で幾人《いくにん》かが病院で死んだので、それがきょう合葬される。これから行って、この曲をひけば、きっとたくさんお金をもらえるだろう――」
おや――、と私はびっくりしました。それではあの三角山で負傷した人々がここにきているのだろうか? あの後、あの隊はどうしたのだろうか? 無事に降伏をおえたのだろうか? その様子を知りたいものだ。会って話をすることはできなくても、せめてどんなふうだかよそながら見たいものだ。それにしても、収容所に入ってしまえばもうそれもできなくなるから、その前に、病院のあたりに行ってさぐってみよう――。
こう思って、僧院の門がひらくと、私は少年と一しょに病院に行きました。しかし、まだ朝早くて病院に出入する雇人《やといにん》の姿も見えませんから、何事をききだすこともできませんでした。
ただ、どこかはなれたところで、賛美歌を合唱している声がきこえました。男女混声ですが、ほとんど女が大部分のようでした。
この賛美歌は、病院の裏手の木立の中からおこっているのでした。
そこは墓地でした。
私は墓地に入りました。
木立は朝露《あさつゆ》にしっとりぬれて、枝《えだ》のあいだにはまだ真綿のような白い靄《もや》がかかっていました。さながら公園のようにきちんと砂《じゃ》利《り》をしきつめ、十字架や寝《ね》棺《かん》の形の石が並《なら》んだ前には、ところどころに、枯れたのや新しいのや、花《はな》環《わ》がおいてありました。そのずっと奥の片隅《かたすみ》に、人が集まって立っていました。
私は大きなユーカリの木の下に立って、その葉《は》陰《かげ》から、その人々がしていることを見ていました。
集まっている人の多くは婦人でした。青い目にばら色の頬《ほお》をして、きよらかなきりっとした看護婦の服装《ふくそう》をしていました。男は帽《ぼう》子《し》をぬいでいました。その人々がいま埋《う》めおわった墓のほとりに立って、賛美歌を合唱していたのでした。
イギリス人たちは敬虔《けいけん》にうたいおえて、胸に十字をきり、首をたれて黙祷《もくとう》をしたあとで、しずかにそこを離れました。
私はかれらが去ったあとに行きました。そこにはあたらしい石がおいてあって、小さいけれどもきれいな花環が供えてありました。そして、その碑《ひ》面《めん》には「日本兵無名戦士の墓」とほってありました。
その前に、私はしばらく茫然《ぼうぜん》として立ちつくしました。
墓地の門のあたりで、竪琴でひく「はにゅうの宿」の節がきこえました。それにうながされたように、私は足をうごかして、よろめくようにしてここを出ました。
何ともいえぬ慚《ざん》愧《き》が私の体じゅうを熱くしていました。――私があの濁流《だくりゅう》のほとりに折り重なっているものを見すてて、そのままに立ち去ったことは、何という恥《は》ずべきことだったでしょう!
異国人がこういうことをしてくれているのです。治療《ちりょう》し、葬って、その霊《れい》をなぐさめるために祈《いの》ってくれているのです。私はあのシッタン河のほとりの、それからそのほかまだ見ない山の上、森の中、谷の底の、このビルマ全国に散乱している同胞の白骨を、そのままにしておくことはできません!
あの「はにゅうの宿」は、ただ私が自分の友、自分の家をなつかしむばかりの歌ではない。いまきこえるあの竪琴の曲は、すべての人が心にねがうふるさとの憩《いこ》いをうたっている。死んで屍《かばね》を異境にさらす人たちはきいて何と思うだろう! あの人たちのためにも、魂《たましい》が休むべきせめてささやかな場所をつくってあげるのでなくて、――おまえはこの国を去ることができるのか? おまえの足はこの国の土をはなれることができるのか?
おまえはかえれ。おまえは踵《きびす》をもとへもどせ。おまえはここにくるまでのあいだに見たもののことを、もっとよく考えよ。それとも、おまえはこのままに行く気か? ふたたびあの北の地方にかえるだけの勇気はないのか?よもや、おまえは――!
こういうはげしい囁《ささや》きの声が心の底にきこえました。
もうじっとしてはいられませんでした。ここに、意外な任務が私にふりかかってきました。そして、一日もはやく、自分のあたらしい任地におもむかなくてはなりませんでした。
もう収容所に入ることはやめました。私はそのまま、まっすぐに町の外にむかって歩きだしました。
それにしても、せめて一度はよそながら戦友たちの顔を見ていきたい――。歩きながら私の足はもつれました。そして、いくたびか町を出、また町に入ったあげく、とうとう収容所に行きましたが、誰《だれ》もいませんでした。待っていても帰ってきませんでした。作業に出てしまった後でした。私はそれ以上待つことはできなくなり、がっかりしながら、またせきたてられるように、この町を出ました。
足をはやめて郊外《こうがい》を行きました。そして、そこにあたらしく修繕《しゅうぜん》されたばかりの細い橋をわたっていると、意外にも、皆様《みなさま》が同じ橋をむこうから歩いてきました。
皆様の服装がみなれない捕《ほ》虜《りょ》の服で、しかも泥《どろ》にまみれていましたから、それと気がついたのは、もう橋をなかばわたったときでした。近づくにしたがって、私はうれしさ、かなしさ、当惑《とうわく》、に胸がふるえました。
せまい橋板の上で身をよけるようにしてすれちがいながら、なつかしい友の一人々々と顔を見あわせて、私がどんな思いをしていたか――、それは何と書いていいか分りません。せっかくひさしぶりで隊長や戦友諸君に会いながら、もうこのときは、行かなくてはならないという決心をしていたときでした。もう隊にかえることはできないのですから、名をなのることはもとより、自分が水島であることを分らせるようなことは、すべてひかえなくてはなりませんでした。水島は死んだ、と思っていただかなくてはなりませんでした。
それから私は、肩《かた》の上に青い鸚哥をのせて、今度は北へ、北へと、足をはやめました。
七
隊長がここまで読んだとき、綱《つな》にとまっていた鸚哥が、また、
――ああ、やっぱり自分は帰るわけにはいかない!
と叫《さけ》びました。そして、そのしまいに交ぜたせつない吐《と》息《いき》のような声は、胸の底からしみでるようでした。
これをきいて、隊長はふと咽《のど》をつまらせて、しばらく読むのをやめました。われわれもほっと息をついて、目をあげて海の方をながめました。
夕方になってきて、まばゆかった海峡《かいきょう》の景色はようやく色があせてきました。さながら写真の陰《いん》画《が》のようでした。マレー半島とスマトラは依《い》然《ぜん》としてなめらかな水の上にゆっくりと身をめぐらせていました。ところどころの入江にはもう影《かげ》がひたって、その中に泊まっている漁船で灯《ひ》をともしているのもありました。波はさみしい音をたてて、規則ただしく舷《げん》をあらっていました。船はずっと滑《すべ》るように走っていましたが、夕方になるにつれて、すこしずつ揺《ゆ》れてきました。
隊長は読みつづけました。
――私はいま僧院にいて、夜を徹《てっ》してこの手紙を書いています。もう暁《あかつき》にちかく、月がひくく傾《かたむ》いて、庭の椰子《やし》の葉の下にぼーっと大きく光をあげています。星がしきりにながれています。
私がどれだけ戦友たちに「水島です」と名のってゆきたかったか――、お察しください。しかし、ひとたび日本人だと分れば、収容所に入らなくてはなりません。あたらしい任務をすてなくてはなりません。いくたびか手紙も書きかけましたが、いまさら未練なことはやめようと、いつも自分を叱《しか》って中止いたしました。一しょに帰って共に働くことができないのですから、生きているということが皆様に知られるのは、かえってつらかったのです。ことに、あとで本当のビルマの僧侶《そうりょ》となってからは、日本兵水島という者はまったくいなくなったのです。
奥地で同胞《どうほう》を土に埋めながらも、皆様のことを考えるとどうしても心をおさえることができませんでした。そしてまたムドンにきて、収容所の柵《さく》のむこうに立って、合唱をきいていました。――ああ、あの中に自分も交ってうたったのに、となつかしさにたえませんでした。いつ皆様が日本に帰ってしまうかと、いつもはらはらとしていました。そうして、ムドンに来ては、まだわが隊がいるのをみて、ほっと安心しました。
私が肩にとめていた青い鸚哥は、私がときどき独《ひと》り言《ごと》をいうのをきいて、それをおぼえてしまいました。それはいま皆様のそばにいると思います。その代り、皆様の鸚哥がいま私の肩にとまっています。そうして、ときどき、
――おーい、水島、一しょに日本に帰ろう!
と申します。
そのたびに、私ははっといたします。
しかし私は帰りますまい。私が使命としてあたえられたところのものを果すまでは、帰りますまい。昨日、つい心みだれて、平素の誓《ちか》いもわすれ、竪琴をひいて、皆様に別れをつげて収容所から立ち去ったとき、私の両肩で二匹《ひき》の鸚哥がこもごもに自分の言葉を叫んでいました。私はそのうちのどちらかをとらなくてはなりません。私はそのうちの片方をとります。そうしないわけにはいきません。あの無数の無名の戦死者たちの骨が、私をよんでいます。私が行くのをまっています。私はこの呼び声に応じなくてはなりません。
皆様もゆるしてくださることと思います。
ムドンを去って、私はまっすぐにあのシッタン河の渡河《とが》点《てん》に行きました。
日本軍は敗走するときには、たがいの連絡《れんらく》もなく、混乱をきわめててんでんばらばらに逃《に》げたのでしたから、この場所でおこったような悲劇はいたるところで演ぜられました。
その渡河点に行って、原住民に様子をきくと、こうでした。――いくつかの部隊がここで夜間渡河をした。幅《はば》二百メートル以上もある濁流を、小さな筏《いかだ》に八人も十人ものって渡《わた》ろうとした。しかし、中流まで出た筏がどちらの岸にもつかずに、どんどん下に流れていった。そのまま海におし出されたのもあるだろう。どこかの原始林の中に漂着《ひょうちゃく》したのもあるだろう。この川では方々の地点で渡ろうとしたので、そうした筏が夜中にポツンと川の面にうかんで、それから救いを呼ぶ声がきこえたことも幾度かあった。
こうした渡河点ではどこでも犠《ぎ》牲者《せいしゃ》がでたが、ことに赤《せき》痢《り》マラリアそのほかの病気にかかり、食糧《しょくりょう》不足もひどくて、自分の体をはこぶ力もなくなった人が、戦友の隙《すき》をみて手榴《しゅりゅう》弾《だん》で自《じ》爆《ばく》する音がよくきこえた。敗走をする軍のすぎた後では、野でも、森でも、よくそうした爆音があがった。
そのたびごとに、原住民までが、――ああ、またジバクか、と思った。
記《しる》されず、語られず、ただ忘られてゆくこのようなことが、どれほど多くあったことでしょう!
このような私が見聞したことをもし人々が知ったら、誰《だれ》がじっと坐《すわ》っていることができましょう! 誰が他人のことだからとて、自分の心に咎《とが》めなく、しらぬ顔をしていることができましょう!
その河《か》原《わら》で、私は原住民や村の僧たちの手をかりて、ようやく埋葬をおえました。
そのとき、河原を掘《ほ》っていると、砂の中から大きなルビーがでてきました。有名なビルマのルビーです。それは炎《ほのお》をあげるように紅《あか》くかがやいて、まばゆいほどでした。
これを手にしているうちに、私にはこの宝石が、死んだ人たちの魂《たましい》のように思われました。私はたくさんの骨を持ってあるくことはできませんから、このルビーをこの国で命をおとしたすべての人の遺霊と考えて、それからはいつも肌《はだ》身《み》にはなさずにもっていました。そして、お寺に入ると、これを祭壇《さいだん》にまつりました。
ムドンでイギリス人の立派な葬式があるときいたときは、私はこれをせめてその片はしにでも加えてほしい、とねがいました。まちがった戦争とはいえ、それにひきだされて死んだ若い人たちに何の罪がありましょう。イギリス人も日本人も、おたがいに霊ははやこの世をはなれた人々です。それを共にまつることをおねがいしても――せめてその片はじに人知れずおくことをおねがいしても、よもや、亡《な》きイギリス人たちは無礼をとがめはされぬであろう。それどころか、ほほ笑《え》んで、手をとって、自分たちの壇の上に招じてくださるであろう。あの山の中の村での停戦の夜には、生きた人々が敵も味方も手をとりあった。それならば――。
こう思って、私はルビーを白木の箱《はこ》に入れて、布でつつんで、首からつるして、あの葬列に加わりました。そうして、これを納骨堂の祭壇の片隅《かたすみ》におきました。
連日の式典のあいだ、この一粒《つぶ》のルビーもあつい礼をもって慰《なぐさ》められ、まつられました。私はただ一人の日本人として祈りつづけました。
しかし、いつまでもあの納骨堂に安置しておくわけにはいきません。イギリス人の遺骨が本国にかえされるまでには、このルビーもどこかへ移さなくてはなりません。それは人に知られず、荒《あ》らされないところでなくてはならぬ――、そう思って、私はその場所をさがしました。ついに、あの臥《が》仏像《ぶつぞう》の胎内《たいない》がいい、と考えつきました。そして、その後は毎日のように、お寺の者だけが知っている仏像の足の裏にある入口から入って、そこに祭壇をこしらえ、あの木箱を埋める場所をつくっていました。
あるとき、胎内はくらくむしあつく、私はつかれました。そして、壁《かべ》に背をもたせかけて身を休めていると、しらぬまにうとうととしてしまいました。その夢《ゆめ》うつつの境にいたとき、ふと皆様のうたう合唱がきこえてきたのでした。
はっとしてうたたねから醒《さ》めて、私は前後不覚にそばにおいてあった竪琴をつかみました。奥地をあるくようになってから、竪琴はまたどうしてもなくてはならなくなっていました。ムドンにくると、僧院でよくあの少年を相手にひきました。その日もここに持ってきていたのでした。
意外なところからおこった竪琴の音に、皆様はさぞびっくりなさったことと思います。申しわけないことでした。しかし、あのとき、私はひきながらわれを忘れて、「ここに私がいる。生きている。なつかしい諸君、さあ、一しょにうたおう――」と思って、ひいたのでした。
そのあとで皆様が入口の扉《とびら》をしきりにたたいていたとき、私はすぐその内側で、拳《こぶし》をかため身をもだえていました。扉の外の声をきいて、いちいちその声の主が分りました。しかし、私はもうビルマの僧侶になったのですから、あの扉を内から開いて皆様と抱《だ》きあうことはできませんでした。
外がにわかにしずかになったので、私は胎内の梯《はし》子《ご》をよじて、仏様の目から外をのぞきました。そうして、皆様がインド兵につれられて寺の方に行く後姿《うしろすがた》を見おくりました。
私はビルマ僧になりました。シッタン河のほとりで埋葬をすませたあとで、その村のお寺に入って、正式の僧侶にしてもらいました。そうして、すこしずつは勉強もし、修行《しゅぎょう》もつづけております。酋長《しゅうちょう》の娘がくれた腕《うで》環《わ》はお寺におさめましたが、その後、私が方々で埋葬をしてあるくのが奇《き》特《とく》であるというので、別の腕環をもらいました。
私のなすべきことは日ましに増えていきます。ただ日本兵の遺霊をなぐさめるだけではなく、ビルマ僧としての役目もはたさなくてはならなくなりました。この国の人々のためにも、できるだけはつとめたいとねがいます。
私は教えを学び、考えて、それを身につけたいと思います。まことに、われわれは、われわれの同胞は、くるしみをなめました。多くの罪なき人々が無意味な犠牲者となりました。まだ若木のような、けがれを知らぬ人たちが、家を離《はな》れ、職場を去り、学窓を出て、とおい異国にその骨をさらしました。考えれば考えるほど、痛恨《つうこん》にたえないことです。そして、かえりみて、私は切に思います。――われらはこれまであまりに無思《むし》慮《りょ》だった。あまりに生きているということについての深い反省を忘れていた、と。
私は僧として修行しながら、知りました。むかしから、この教えは世界と人生についておどろくべく深い思《し》索《さく》をつづけています。そして、この教えに献身《けんしん》する人々は、真理をつかむために勇猛心《ゆうもうしん》をふるいおこして、あらゆる難行苦行をもあえてしています。それは軍隊の勇気にも劣《おと》らぬほどです。目に見えぬ精神のとりでを陥《おとしい》れるための戦いなのです。
われわれはこうした努力をあまりにしなさすぎました。こうした方面に大切なことがあるということすら考えないでいました。われわれが重んじたのは、ただその人が何ができるかという能力ばかりで、その人がどういう人であるか、また、世界に対して人生に対して、どこまでふかい態度をとって生きているか、ということではありませんでした。人間的完成、柔和《にゅうわ》、忍《にん》苦《く》、深さ、聖《きよ》さ――。そうして、ここに救いをえて、ここから人にも救いをわかつ。このことを、私たちはまったく教えられませんでした。
私はこの異国に僧となって、これからはこの道を行きたい、とねがいます。
山をよじ、川をわたって、そこに草むす屍《かばね》、水《み》づく屍を葬りながら、私はつくづく疑念にくるしめられました。――いったいこの世には、何故《なにゆえ》にこのような悲《ひ》惨《さん》があるのだろうか。何故にこのような不可解な苦《く》悩《のう》があるのだろうか。われらはこれをどう考うべきなのか。そうして、こういうことに対してはどういう態度をとるべきなのか?
この疑念に対しては教えられました。――この「何故に」ということは、所詮《しょせん》人間にはいかに考えても分らないことだ。われらはただ、この苦しみの多い世界にすこしでも救いをもたらす者として行動せよ。その勇気をもて。そうして、いかなる苦悩・背理・不合理に面しても、なおそれにめげずに、より高き平安を身をもって証《あか》しする者たるの力を示せ、と。このことがはっきりとした自分の確信となるよう、できるだけの修行をしたい、と念願いたします。
さらに、私は見るごとに、いつもおどろきます。このビルマの国の人々はたしかに怠《たい》惰《だ》であり、遊びずきで、なげやりではありますけれども、みな快活で謙譲《けんじょう》で幸福です。いつもにこにこ笑っています。かれらは欲がなくて、心がしずかです。私はこの国の人々のあいだに生きているうちに、しだいに、こういうことが人間として非常に大切なことではないか、と思うようになりました。
わが国は戦争をして、敗《ま》けて、くるしんでいます。それはむだな欲をだしたからです。思いあがったあまり、人間としてのもっとも大切なものを忘れたからです。われらが奉《ほう》じた文明というものが、一面にははなはだ浅薄《せんぱく》なものだったからです。この国の人々のように無気力でともすると酔生《すいせい》夢死《むし》するということになっては、それだけではよくないことは明らかです。しかし、われわれも気力はありながら、もっと欲がすくなくなるようにつとめなくてはならないのではないでしょうか。それでなくては、ただ日本人ばかりでなく、人間全体が、この先もとうてい救われないのではないでしょうか?
どうしたらわれらは正しい救いをうることができるか――。そしてそれを他《ほか》の人にももたらすことができるか――。このことをよく考えたい。教わりたい。それを知るべくこの国に生きて、仕え、働きたい、と念願いたします。
隊長殿
戦友諸君
お別れの言葉はいくら書いてもつきることはありません。かねてからおそれながらも覚《かく》悟《ご》していた日が、とうとうまいりました。私は地方に行っていて、ひさしぶりでムドンに帰ってきたとき、本隊がもう明日、日本にむかって出発するということをききました。私は案外おちついて、しずかにこの報《しら》せをうけることができました。
名残《なご》りを惜《おし》んでくださる皆様のお心は何よりもうれしく、あつく御礼申しあげます。私はこの好きなビルマの国にいて、雪のつむ高山から南十字星のかがやく磯《いそ》のほとりまで、いたるところをさすらってあるきます。これは思うに心のたのしいことでもあります。そうして、皆様をなつかしむ心にたえないときは、竪琴をひきます。
ながいあいだ、まことにいいつくせぬお世話になりました。みなみな様の御清福を心からお祈《いの》りいたします。
水 島 安 彦
八
隊長は手紙を読みおえました。
そのあと、みなずっとだまっていましたが、それにはいいがたい思いがこもっていました。しかし、もうだれも悲しみませんでした。水島の本心をきいて、みな何かしっかりとした自分の覚悟がきまったように思いました。
やがて夜になると、この印度《インド》洋《よう》の海面に無数の夜光虫が光りだしました。掌《てのひら》ほどもある大きな燐《りん》のいろの塊《かたま》りが、浪《なみ》のあいだからあらわれて、すーっと走って、夜目《よめ》にも見える潮の泡《あわ》の下に消えます。そういう夜光虫の群が舷《げん》にはりつくようにします。この船を追ってくるのもあります。とおく後に流されてのこるのもあります。
それはまるで死んだ人たちの魂の群が波の中にたわむれているようでした。
空をあおぐと、星が一面にあかるくかがやいていました。船は上に下に揺れるのですから、その星の群の中にこの船の檣《ほばしら》がうごいているのですが、しかし見ていると、さながら檣がうごくのではなくて、じっと立っている檣をめぐって星の群がおどっているようでした。
われわれはひくい声でしずかに合唱しました。潮騒《しおざい》の音が船をつつんでいます。波は飛《ひ》沫《まつ》をあげてくだけて、その底の方から、うたにあわせる竪琴の音が上ってくるかと思われました。
船は毎日ゆっくりとすすみました。先へ――。先へ――。そして、われわれははやく日本が見えないかと、朝に、夕に、ゆくての雲の中をじっと見つめました。
ビルマの竪琴《たてごと》ができるまで
戦後まもなく「赤とんぼ」の編集長の藤田さんが私の家に来られ、何か児童向きの読物を書け、といわれました。
そのころは私は忙《いそ》がしくて、言葉どおり寸《すん》暇《か》もありませんでした。もう幾年も、夏休みも冬休みもありませんでした。藤田さんの御《ご》註文《ちゅうもん》には幾月も手をつけませんでした。しかし、その疲《つか》れがでたのでしょう、昭和二十一年の夏に、かるい中耳《ちゅうじ》炎《えん》をおこしました。このおかげで、十日ほど家にひきこもって、寝《ね》たり起きたりして、ひさしぶりでぼんやりしていました。耳に血が上るので本を読むこともできません。といって、無念無想でいることはむつかしいことです。耳に氷をあてて(その氷もなかなか手に入らなかったから、隣《とな》りのアメリカ人の家からもらいました)、ズキズキする動《どう》悸《き》の音をききながら、あれこれと考えていました。そして、
「この暇《ひま》に子供むきの物語を考えてみよう――」と思いました。
あの物語は空想の産物です。モデルはありません。あれが本になってまもなく、未知の読者から手紙がきました。「自分の弟は姓《せい》も主人公と同じだし、ビルマに出征《しゅっせい》していたし、性質もよく似ているしどうしても他人とは思われない。弟をモデルにしたものにちがいない。しかし、本人はいまだに生死不明である。消息をしらせてほしい」。――このような胸をうつ手紙がほかにもきました。
モデルはないけれども、示唆《しさ》になった話はありました。こんなことをききました。――一人の若い音楽の先生がいて、その人が率いていた隊では、隊員が心服して、弾《たま》がとんでくる中で行進するときには、兵たちが弾のとんでくる側に立って歩いて、隊長の身をかばった。いくら叱《しか》ってもやめなかった。そして、その隊が帰ってきたときには、みな元気がよかったので、出《で》迎《むか》えた人たちが「君たちは何を食べていたのだ」とたずねた。(あのころは、食物が何よりも大きな問題でした)
鎌倉《かまくら》の女学校で音楽会があったときに、その先生がピアノのわきに坐《すわ》って、譜《ふ》をめくる役をしていました。「あれが、その隊長さん――」とおしえられて、私はひそかにふかい敬意を表しました。
日ぐらしがしきりに鳴いているときでしたが、私はこの話をもとにして、物語をつくりはじめました。
最初には、場所はシナの奥《おく》地《ち》のある県城というつもりでした。それは、戦争中に新聞で、ある写真を見て、印象がふかかったからです。その写真は、城の中の楼閣《ろうかく》で、焼けくずれた厚い壁《かべ》にさまざまの落書がのこっているところでしたが、あたりには木も芽をふき草もしげって、いかにも悽愴《せいそう》たるありさまでした。ここに日本兵がたてこもって、敵に包囲されてくるしい数週間をすごしたが、ついに切りぬけたということでした。
ここにこもっている日本兵が合唱をしていると、かこんでいる敵兵もそれにつられて合唱をはじめ、ついに戦いはなくてすんだ。――こういう筋を考えました。
敗戦といういたましい事実が頭にこびりついていたし、気の毒な帰《き》還兵《かんへい》の姿を毎日のように見ていた頃《ころ》ですから、義務をつくして苦しい戦いをたたかった人々のためには、できるだけ花も実もある姿として描《えが》きたい、という気持がありました。
しかし、この合唱による和解という筋立ては、場所がシナではどうもうまくゆきませんでした。日本人とシナ人とでは共通の歌がないのです(このことは、意味のふかいことと思われますが、いまは別にします)。共通の歌は、われわれが子供のころからうたっていて、自分の国の歌だと思っているが、じつは外国の歌であるものでなくてはなりません。「庭の千草」や「ほたるの光」や「はにゅうの宿」などでなくてはなりません。そうすると、相手はイギリス兵でなくてはならない。とすると、場所はビルマのほかにはない。――じつはこういう事情から、舞《ぶ》台《たい》がビルマになりました。
ところで、私はビルマには行ったことがありません。いままでこの国には関心も知識もなく、敗戦の模様などは何も報ぜられなかったのですから、様子はすこしも分りません。ただ私は学生時代に夏休みに台湾《たいわん》に行ったことがあり、あちらこちらを歩いて、カッパン山やアリ山にも登り、蛮人《ばんじん》部落も訪《たず》ね、熱帯色ゆたかな南の端《はし》まで行きました。この旅行は楽しい記《き》憶《おく》です。あの台湾の強烈《きょうれつ》で豪《ごう》華《か》な風土を思いうかべて、あとは空想で第一話を書きました。
書きあげたのが九月二日だったことをおぼえています。原稿《げんこう》はゲラ刷りになり、検閲《けんえつ》に提出されました。しかし、戦争がとりあつかってあるというので不許可になりました。あの当時のこととて、こうした決定に異議を申したてるようなことはまず思いもよらぬことでしたが、藤田さんがたいへん奔走《ほんそう》してくださり、いくどか当局と談判した結果、ようやく翌年三月号に掲載《けいさい》されました。ただし、この続きは、終りまで完成した後、全部をしらべた上でなくては許可できない、とのことでした。こんなことから第一話が活字になるまでに大分間があり、それ以上にすすむにも時間的に余《よ》裕《ゆう》がありました。このことが、全体をつくりあげるのに大きな助けになって、そのあいだにいろいろと工《く》夫《ふう》することができました。第二話以下が雑誌にのったのは二十二年九月号からでした。
しかし、あのころは材料が手に入りませんでした。ビルマでは大規模の激戦《げきせん》があって、たくさんの損害があったにちがいないと推測はしていましたが、ここに三十万の戦死者がいたということを知ったのは、あれを書きあげた後でした。このようなことについては、連載が終って本にする際に、かなり手を入れました。戦中は敗戦については知らされないし、戦後も戦争にふれることは一切タブーだし、われわれはずいぶん後になるまで、戦争についての具体的な事実は知りませんでした。実地のことは、さっぱり分りませんでした。
第二話以下の構想をたて、日夜それが頭にあったとき、ある日偶然《ぐうぜん》のことから、ビルマの戦争についてのわずかな知識をえる端緒ができました。このことを思いだすと、やっぱり機会というものは注意を集中しているとつかまるものだ、という気がします。
ある日、電車にのっていました。あの頃のことですから、立ったまま身うごきもできず押《お》しつぶされそうでした。隣りに立っている人が雑誌を手に丸めて読んでいましたが、それが私のすぐ目の前にありました。見るともなく見ると、その記事はビルマの戦争の様子を報じたものでした。これが私の求めていたものでした! これが第一報でした。私はそれをむさぼるように覗《のぞ》き読みしました。その雑誌が何であるかを知りたくてなりませんでしたが、知らない人が読んでいるのを覗きこんでいたことですから、きくのも照れました。もじもじしているうちに、その人が手を持ちかえ、その瞬間《しゅんかん》に、それが「月刊読売」であることが分りました。私は駅を降りると、すぐにこれを買いました。四頁《ページ》ばかりの短い記事でしたが、ここには、ビルマ全国に日本兵の白骨が累々《るいるい》と野《の》曝《ざら》しになっていることが報じてありました。このことと、前から私の頭にひそんでいたことが結びついたのでした。すでに第一話を作っているときからそういう話にしようとは思っていながら、それにはっきりとした形をつけることができないでいたのがにわかにまとまり、骨子がきまりました。
前から私の頭にひそんでいたことというのはつぎのようなことです。
私は旧制高等学校につとめていて、幾年もつづいて、在校生や卒業生の出征を見送りました。
昭和十八年の秋のことだったと思います。ある夕方、私は有楽町の駅のホームに立って
いました。すこし離《はな》れた建物の屋根に、電光ニュースが明滅《めいめつ》しながらはしっていました。
それには「タラワ島ノ全員玉砕《ぎょくさい》ス……」とありました。私はおののきを禁じえませんでし
た。
それからしばらくたって、私のよく知っていた学生がタラワ島で戦死したという報《しら》せがありました。その日は埃《ほこり》まじりの冬の風がつよく吹《ふ》いている日でしたが、窓が鳴る音をききながら、私は南洋のおそらく絵のような青い海のほとりの椰子《やし》のしげった砂浜に、あのS君の屍《かばね》がよこたわっている様子が目に見えるように思え、夜おそくまでひとりで昂奮《こうふん》していました。
この人の葬《そう》儀《ぎ》のときの様子を、戦時中に書いたものがありますが、それは活字にもなっていますから、ここにくりかえして記すのはやめます。
ほかにもこのような若い人の葬儀にたびたびよばれました。われわれ教師がゆくと、その家の方はよろこんでくださったのです。しかし、どの葬儀に行っても柩《ひつぎ》はありませんでした。あっても空《から》でした。その上に一振《ひとふり》の剣《けん》がおいてあるのもあり、生前に見なれた姿の写真がかざってあるのもありました。
S君の葬儀はこういう葬儀のはじめでしたが、その席上で一人の若い海軍士官が、声をひそめて「今日の葬式には遺《い》髪《はつ》も遺骨もないのです」といわれました。これがちょうど私の思っていたことと同じでしたから、胸をつかれたように感じました。
元来私は形式的な席は大いに苦手で、かたぐるしい儀式などはなるべく敬遠して横着をします。ふだんはお葬式は退屈《たいくつ》でなりません。しかしこの頃は、方々に行くごとに、誰《だれ》か異国の山野に伏《ふ》している人々の屍を収めて、丁《てい》寧《ねい》に祭ってくれる人があるといいが、としきりに思いました。できたら自分でタラワ島にでも行きたいが、と思いました。(いまになって大きな慰《い》霊塔《れいとう》をたてるといったようなことには、さっぱり気がのりませんが)
このような気持が胸につかえていたときに、「月刊読売」を読み、どうしてもこのおとむらいをしなくては、と思いました。そして、物語のためには具合のいいことがありました。私の知人がビルマから帰還してきました。あまりくわしい話をきくことはできませんでしたが、ただその話に「日本兵が敗戦後に脱走《だっそう》してビルマ僧《そう》になっている者がある」ということをきき、これだと思いました。これで、筋立の輪郭《りんかく》がきまりました。
これから推理小説のようなサスペンスを工夫したのですが、これはたのしくもあり、むつかしくもあることでした。書いてゆくうちにどうにも工夫がつかなかったり、また思いもかけずすらすらと拡《ひろ》がってゆくこともありました。あちらこちらに、ずいぶん無理な筋や下手《へた》な作りごともできてしまいました。
戦場の模様はニュース映画などを見た知識からある程度までの想像はつき、それに本格小説ではありませんから、あのくらいのことを書くのは空想ですみました。ただ、いかにも困ったのは、ビルマの風土や風俗でした。近くの図書館で「世界地理風俗大系」を読みましたが、これは簡単にすぎました。暇がないので、遠くの大きな図書館にしらべにゆくことはできませんでした。まだ古本屋に本もでていませんでしたし、あっても、あの頃は煙草《たばこ》銭《せん》にも困っていましたから、買うことができませんでした。それでも、一冊のビルマの写真帳を見つけ、二十円で買って、これが大きな参考になりました。
物語が世にでた後になってからビルマに関する本をかなり読みましたが、それで見ると、具体的な点ではまちがっているところがいくつもあることが分りました。何も知らないで書いたのですから、まちがっている方が当然なくらいです。たとえば僧《ぼう》さんの生活などは何も分りませんでした。僧さんが跣足《はだし》で歩いているように書きましたが、それはあやまりで、僧さんにかぎって、日本人が「ポンジー草《ぞう》履《り》」とよぶものをはいているのだそうです。
昨年ビルマから三人の新聞記者が来て、あの本の英訳本を読んで、宗教関係にまちがったところがあるが、ビルマ人は宗教についてはきわめて敏感《びんかん》だから、これをビルマに紹介《しょうかい》するときにはこの点に気をつけるように、といわれました。あれをビルマ語に訳そうという計画があり、その許可を求めてこられましたから、よろこんで同意しましたが、はたして仕事はすすんでいますかどうですか。
私は戦地から帰った人にあうと、その体験をきかせてもらいました。根ほり葉ほりたずねました。ところが、意外に思いましたが、自分の体験をはっきりと再現して話してくれる人は、じつに少いのでした。たいていの人の話は抽象的《ちゅうしょうてき》で漠然《ばくぜん》としていました。すこしつきつめてたずねると、事実はぼんやりとして輪郭がぼやけてしまうのでした。自分が生きていた世界の姿をよく見てはこずに、霧《きり》の中を無我《むが》夢中《むちゅう》で駈《か》けぬけてきた、というようなふうでした。
「自分の経験を他人につたえることは、これほどまでにもむつかしいことなのか。また他人の経験を具体的に知ることは、これほどまでにもできないことなのか」と思いました。たいていの場合に、語られるのは直接の体験ではなくして、むしろある社会的にできあがった感想でした。自分自身が味わった事実は、はっきりとした形でとらえることがむつかしく、自分の判断は何となく自信がもてないが、社会的に通用している観念の方がたよりになるのです。つまり、個人と個人とは直接につながるのではなくして、ジャーナリズムその他によって公《おおや》けの通念となったものが、個人につたわるのでしょう。社会通念の方が先にあって、それから個人の判断が生れるのです。われわれの生活の中では、個人同士の横のつながりは、思うよりもはるかに希《き》薄《はく》なもののようです。
しかし、ビルマの戦地の様子をたいへんいきいきと話してくれた人もありました。残念ながら、それはあの物語が本になった後のことでしたが、私の勤め先に二人の新らしい同《どう》僚《りょう》がこられました。いずれもドイツ文学を専《せん》攻《こう》している人ですが、ひさしくビルマに出征していられました。この方々の話は、風土についても、人情風俗についても、戦地生活についても、しっかりと具体的に観察してつかまえたものでした。やはり専門によってちがうものだ、文学に親しんでいる人は物の見方が正確だ、と感心しました。
そのうちの二つ三つを記しておきます。
――ビルマの森の中には大蛇《だいじゃ》がいるが、その胴《どう》の太さは柱時計の盤《ばん》くらいある。それが往来に横たわっていると、頭と尾《お》は左右のジャングルの中にもぐっているから、何だか分らない。それがすこしずつズルズルと滑《すべ》ってゆく。大蛇だと気がついたときには、胆《きも》をつぶした。また、原始林の中で哨兵《しょうへい》に立っているときには、兵隊は檻《おり》の中に入っている。それでなくては、野獣《やじゅう》がいるからあぶない。動物園では獣が檻に入っているのだが、原始林では人間の方が檻に入っている。それに入って不《ふ》寝番《しんばん》をしていると、真夜中にあちらにもこちらにも猛獣《もうじゅう》や鳥の叫《さけ》びやうなり声がきこえて、心細かった。
――「ビルマの竪琴」を読むと、熱帯地の感じはでているが、ただあの南方の果物《くだもの》のいい匂《にお》いがないのが、ものたりない。どこの村に入っても、マンゴーや竜眼肉《りゅうがんにく》そのほかの果物が、熟したつよい匂いをたてている。(これをきいて、なるほどそうだと思いました。私も台湾に行ったときには、街を歩きながら、方々の店につんである果物の匂いには酔《よ》うような気がしました。夜になると、月下美人という白い花がさいて、その匂いがどこからともなくただよってきました)
――ビルマの土人部落では、日本兵は大いに尊敬された。ある人が彫刻《ちょうこく》が上手《じょうず》で、土人があがめる木偶《もくぐう》を刻んだ。すると、村から酋《しゅう》長《ちょう》以下がやってきて「どうか神様になってください」とたのんだ。これを承知して、その人は村に行って神様になった。そして、毎日おがまれる役をつとめた。その代り、神様にはお妃《きさき》が必要であるというので、村の美人がそばにつき、村人たちは豚《ぶた》の仔《こ》の丸焼きを大きな皿《さら》にのせて、頭の上にかついで列をつくって、神様の前にささげた。ほかの日本兵たちはこの幸運な戦友をうらやんだ……。
もしあの物語を書いているときに、これらの話をきいていたらと、惜《お》しくてなりません。
回《かい》顧《こ》してみると、あの物語の製作には、上に記したほかになおさまざまの動機がはたらいていました。あのこともこのことも入っていた、と思います。作品製造の仕事場では、作者の生活全体が動力となってはたらくものなのでしょう。
電車にのって出勤する往復には、よく駅頭で帰還兵を見ました。あるとき品川駅で、むかしの学生だった人が隊《たい》伍《ご》の中からとびだしてきて、私を呼びとめました。この人は、山のような荷を負って、元気よくはりきっていました。そして、あべこべに私をねぎらってくれました。また、蝋《ろう》のような顔色の病人たちが担《たん》架《か》で運ばれているのにも会いました。看護婦さんの一隊が凛々《りり》しくそれを世話していました。こういう光景を見るごとに、書かなくてはならないという気がしました。
あのころは胸をいためることばかりでした。住んでいたのが鎌倉《かまくら》の寿福《じゅふく》寺《じ》のそばでしたが、ここの墓地は大きな木立と岩窟《がんくつ》にとりかこまれて、仕事の合間に頭を休めたり、先を工夫をしたりするのにいい場所でした。あたりには苔《こけ》の生《む》した岩壁に羊歯《しだ》が生《は》え、小さな蝋細工のような花がさいていて、どこかで清水が湧《わ》く音がします。その岩窟の一つに、源実朝《みなもとのさねとも》の墓があるのですが、そのむかいに一本の白木が立っていて、それに「昭和二十年四月二十四日南洋群島セントアンドレウ諸島ソンソル島ニ於《おい》テ戦死行年二十三歳」と記してありました。この白木はだんだん朽《く》ちてゆき、いまは字もほとんど読めないほどになっています。
このようなまあたらしい墓標がたくさんありました。よく方々のお寺の墓地にいって、そういうお墓の前にたたずみました。そして、今までは何とも思わなかった「一切生霊悉皆《いっさいしょうりょうしっかい》成仏《じょうぶつ》」といったような古い文句を読むと、それがふしぎな実感をもって身にしみて感ぜられました。私は手を合せて拝むことは何となくきらいですが、自然とそれがしたくなりました。
まだそのほか記《き》憶《おく》の底からは、際限なくいろいろなことが浮《うか》んできます。「このように国が破れて、さきはどうなるのだろう? どうしたら再建のめどがつくのだろう?」――このことがつねに懸《け》念《ねん》となっていましたから、これがあの少年むきの物語の中にしらずしらずのうちに入りこんで、硬《かた》くて読みにくい部分になりました。
それから、当時は、戦死した人の冥福《めいふく》を祈《いの》るような気持は、新聞や雑誌にはさっぱり出ませんでした。人々はそういうことは考えませんでした。それどころか、「戦った人はたれもかれも一律に悪人である」といったような調子でした。日本軍のことは悪口をいうのが流行で、正義派でした。義務を守って命をおとした人たちのせめてもの鎮魂《ちんこん》をねがうことが、逆コースであるなどといわれても、私は承服することはできません。逆コースでけっこうです。あの戦争自体の原因の解明やその責任の糾弾《きゅうだん》と、これとでは、まったく別なことです。何もかもいっしょくたにして罵《ののし》っていた風潮は、おどろくべく軽薄《けいはく》なものでした。ようやく各地域での納骨が行なわれることになったのは、うれしいことだと思います。まことに、若い人があのようにして死ぬということは、いいようなくいたましいことです。それを終生気にかけていたらしい乃木《のぎ》大将の気持が、おぼろげながら分るような気もします。
なにぶんにもまだ戦《せん》禍《か》のあとも生々しく、生活もくるしいときでした。私は、自分の家のガラスの破れた廊《ろう》下《か》に机をおいて仕事をしていたのでしたが、往来が近くてやかましいので、勤めのない日は、弁当をもって、すこし離れたところに住んでいる母の家に行き、そこの二階をかりて書きました。そして、昼飯はその弁当を母と分けて食べました。
こうして一日中書きつづけていると、夕方になって自分の家に帰るときに、妙《みょう》な錯覚《さっかく》みたいなものを感じることがありました。往来をあるきながら、今度あの横町を曲ったら、肩《かた》に青いインコをのせた黄いろい衣《ころも》のビルマ僧が立っているのではないか――などと思いこんでいるのに気がついて、自分でおかしくなったことがありました。
(昭和二十八年しるす)
あとがき
大島欣二(テニアン)、島田正孝(タラワ)、田代兄弟(硫《い》黄島《おうじま》、沖縄《おきなわ》)、中村兼二(インパール)……。私の知っていた若い人で、屍《かばね》を異国にさらし、絶海に沈《しず》めた人たちがたくさんいる。そのうちの、ある人には何の形見もかえってはこなかった。ある人のためには共に死んだ人々の骨の一片がとどけられた。また、ある人のためには家からさし出した写真が箱《はこ》に入れられてもどってきた。その屍はついに収められなかったのである。こうした人々は全国ではどれほどの数であろう。私の家のちかくの墓地にはいくつかのまあたらしい墓標が立っていて、それには、たとえば「昭和二十年四月二十四日南洋群島セントアンドレウ諸島ソンソル島ニ於テ戦死行年二十三歳」といったような文字が記してある。この物語の主人公の名はそのうちの一つからかりたものである。
この校正をしながら、私はたまたま「はるかなる山河に」――東大戦歿《せんぼつ》学生の手記を読んだ。
これほど心をうごかされた本はなかったが、この戦歿学生の中には私が知っていた人もいくたりかいる。ああ、この人も――、と思いながら読んでいると、中村徳郎君の手記があった。この人については浅からぬ思い出がある。昭和十五年の二月のことだったが、中村君が学校を長く休んで消息も分らず、どうしたことかと案じていると、新聞に彼《かれ》の三本槍《さんぼんやり》雪中登攀《とうはん》の壮挙《そうきょ》が報ぜられた。いまあの人がこれほどにもふかく考え感じていた文章に接して、追懐《ついかい》にたえないのである。
中村君については「比島方面に向い以後行方不明」とある。しかし、彼の友人の一人は「中村は生きている。きっとまだ生きている」といっているそうである。それは、「《ビルマの竪琴》を読んでそう思った」というのであるが、これをきいて私は感慨《かんがい》がふかかった。そういわれてみれば、中村君はそんな人だった。そして、作者は自分の空想が生みだしたものが何か事実の裏書きをされた思いがして、うれしかったのである。
この物語は、昭和二十一年夏から書きはじめ、二十三年まで、童話雑誌「赤とんぼ」に連載した。
著 者
解説
中村光夫
「ビルマの竪琴」は昭和二十二年から三年にかけて、「赤とんぼ」(実業之日本社発行)という子供の雑誌に連載されました。最初に単行本になしたのは二十三年十月中央公論社からで、それが同年に毎日出版文化賞をうけ、さらに二十五年には文部大臣賞をうけました。
以上は、みないまから十年まえのことですが、作者の竹山氏は、さかんに活動をつづけているにもかかわらず、以後これに類する作品を一篇《ぺん》も書いていません。
竹山氏はすぐれた独逸《ドイツ》文学者であるとともに、今日の我国で有数の文明批評家です。とくに最近外遊後に発表された現代政治にかんするいくつかの論文は、流行の偏見《へんけん》にわずらわされず、事態を直視しようとする旺盛《おうせい》な探究心と、人性の暗黒面を見つめてたじろぐまいとする意志によって、当代に類を見ぬもので、多くの人々に感銘《かんめい》を与《あた》えました。
たとえ立場はちがっても、氏が日本の前《ぜん》途《と》と、現代文明の帰《き》趨《すう》を真剣《しんけん》に憂《うれ》えている人であることは、誰《だれ》しもみとめるでしょう。
「ビルマの竪琴」は、したがって、評論家竹山氏の書いた唯一《ゆいいつ》の童話、あるいは小説ということになります。このことは次の二つのことを意味します。ひとつは、この一篇の物語は、いわゆる童話作家でない竹山氏が、止《や》むに止まれぬ動機から、表現上の冒険として着手したものだということ、それはあらゆる芸術上の冒険がそうであるように、一種のぎごちなさとともに新鮮な味《あじ》わいを持っていること。
いまひとつは、ここに作者の思想は極《きわ》めてひかえ目に、ほとんど口籠《くちごも》りながら表現されているが、しかし、それを訴《うった》えようとしている意図は強烈《きょうれつ》なので、作者が極力この物語がいわゆる思想的言辞でみだされるのを避《さ》けているにもかかわらず、読後にわれわれは、ひとつの思想小説としての感銘をうけることです。
この「童話」を書いた動機について、氏は「あとがき」のなかで、「私の知っていた若い人で、屍《かばね》を異国にさらし、絶海に沈《しず》めた人たち」のために書いた、というより、これらの人々の思い出が氏を駆《か》ってこの物語の筆をとらした、といっています。
氏がこれを書いた昭和二十一年は、「みな疲《つか》れて、やせて、元気もなくて、いかにも気の毒な様子で……兵隊さんたちが大陸や南方から復員してかえって」きた時代です。大都市はほとんど焼野原になって、米軍の占領下《せんりょうか》で、日本がこれからどうなるかという見通しもよく立たなかった時代です。食糧《しょくりょう》は欠乏《けつぼう》し、街では闇市《やみいち》と、娼婦《しょうふ》と、復員服の青年たちの氾濫《はんらん》が、希望のない時代相を象徴《しょうちょう》した時代です。
竹山氏の心底には、この世相にたいする憂《ゆう》慮《りょ》と、虚脱《きょだつ》し荒廃《こうはい》した人々の心に、なんとか生きる道を見《み》出《いだ》させ、希望と信頼《しんらい》を復活させたいという意思がみなぎっていたので、この大胆《だいたん》なフィクションはその所産です。
音楽の人心にたいする効用(あるいは功《く》徳《どく》)をテーマにした物語は、オルフォイスの伝説を始めとして世界中にひろがり、我国にも平安朝以来のながい伝統があります。
「歌のおかげで苦しいときにも元気がでるし、退屈《たいくつ》なときにはまぎれるし、いつも友達同士の仲もよく、隊としての規律もたって」いた部隊と、そこから生れた竪琴の名人である若い兵士の発心《ほっしん》というテーマも、戦争の現実と、当時の時代の姿を背景にしながら、内面においては、この古い説話につながっているのかも知れません。
この小説がたんなる戦場物語でないのは、そこに人間の生活と芸術との関係が、極度に単純化された形で、本質的に捕《とら》えられているからです。
おそらく作者は、「竪琴」の効用をこの物語に描《えが》かれた通りの形では信じていないかも知れませんが、芸術の人間に及《およ》ぼす力が、彼《かれ》を日常の利害への直接の配慮から解放して、人生の意味と帰趨を思う心を内面に目醒《めざ》めさすにあることは、確信しています。
氏が異常な熱意で、ここ数年来書きつづけている、ヨーロッパ旅行記を中心とするいくつかの論文も、空想と憎《ぞう》悪《お》のなかでもがいている現代人、とくに我国の知識階級にきかす「竪琴」と思われます。
この物語に宗教が大きな位置を占めているのは、偶然《ぐうぜん》ではありません。音楽はすべての芸術のなかで、宗教にもっとも近い場所にあるからです。
「童話」には、子供の世界にだけしか存在しない感情を捕えて、子供が子供である間、彼をたのしませるのを使命とした作品がありますが、「ビルマの竪琴」は、こういう本質的な童話とはやや種類を異《こと》にするようです。それは同じく子供に訴えるにも、彼は未来の大人と見ているので、やがて彼が社会に出、人間について考えなければならないときに、ひとつの例証として役立つように工夫されています。
これは「竪琴」あるいは芸術を、善と幸福への道とする強い信念がなくてはできないことなので、この物語がひとつの思想小説だとさきに言ったのは、この意味です。
竹山氏がこれを「童話」として発表したのは、こういう発想のもとに書かれた物語が、我国の「小説」の概念《がいねん》とまったく食いちがっているためもあったと思います。
我国の小説には、まず事実の再現であることを標榜《ひょうぼう》し、読者もそうした印象を得られるものだけをうけ入れるという伝統が確立していて、私小説がそのもっとも端的《たんてき》な形式なのですが、「ビルマの竪琴」のように、作者がある「志」を想像の力で形象化したような作品は、およそその概念と相《あい》容《い》れないのです。
氏が子供を対象としてこの物語を書いたのは、彼《かれ》等《ら》にこそ語りかけたく思ったという積極的理由のほかに、この強い伝統との正面衝《しょう》突《とつ》を避けたいという配慮も働いていたのではないかと思われます。
しかしこういう発想こそ「小説」として正当なものであり、在来の写生的なリアリズムがもはや、芸術としての小説を生む力を失っていることは、以後十年のあいだに次第に明かにされています。
「ビルマの竪琴」がすぐれた童話であることは充分《じゅうぶん》みとめながら、これが子供のために書かれたことを惜《お》しむ大人の読者は僕《ぼく》だけではないでしょう。
ここに扱《あつか》われたテーマは、子供をたのしますより、むしろ大人が力一杯《いっぱい》とりくむべき問題であり、ことに現代の日本には切実な意味を持っています。
作者がここで示した直観を「童話」という形式の枠《わく》にしばられずに、存分に発展させてくれたら、というのがこれを読んだあとの、率直《そっちょく》な感想です。
日本の国や人類の運命について、今日氏ほど真剣に考えている人は少ないのですが、どんな呑《のん》気《き》な人間も、そういうことを全く思わずに生活することは、現代ではできないので、この意味では氏と考えを表面異にする者も、現代人はみな氏と同じ不安と、希望への意志をわかちあっていると言えます。
僕等は、氏がふたたび「竪琴」をとってかきならす日を、氏の思想がこのような万人にしたしみやすい形で示されるのを、待ち望んでいるのです。
(昭和三十四年三月、作家)
『ビルマの竪琴』余聞
平《ひら》川《かわ》祐《すけ》弘《ひろ》
昭和二十三年、『ビルマの竪琴《たてごと》』が本になった時、竹山道雄は「あとがき」の初めに、
大島欣二(テニアン)、島田正孝(タラワ)、田代兄弟(硫《い》黄島《おうじま》、沖縄《おきなわ》)、中村兼二(インパール)……。私の知っていた若い人で、屍《かばね》を異国にさらし、絶海に沈《しず》めた人たちがたくさんいる。そのうちの、ある人には何の形見もかえってはこなかった。
と書いた。島田青年のことは昭和二十八年の「『ビルマの竪琴』ができるまで」でもS君のイニシアルで語られ、その葬《そう》儀《ぎ》のときの様子は戦時中に書き、活字にもなっているので「ここにくりかえして記すのはやめます」と出ている。しかし昭和十九年に印刷された島田正孝追悼《ついとう》文集はいまでは人目にふれることはおよそ稀《まれ》であろう。敗戦後一年、竹山氏がどのような気持に駆《か》られて『ビルマの竪琴』を書いたのか、その源泉の感情を探《さぐ》るよすがに、その追悼文を紹介《しょうかい》し、あわせて当時の一高の生徒と教師と校長の心のつながりにふれておきたい。
ギルバート諸島のマキン・タラワ両島の日本軍守備隊は昭和十八年十一月二十五日、玉《ぎょく》砕《さい》した。竹山道雄は大正十五年、第一高等学校(東京大学教養学部の前身)に奉職《ほうしょく》してすでに十七年、当時満四十歳であったが、「島田君の訃《ふ》に接して」次のような感慨《かんがい》を覚えた。
……電話がかゝつてきて「実は今度島田が……」とまできいたとき、あゝこれは玉砕かと、その後を聞くのがいやであつた。しかも、抽斗《ひきだし》から遺書が出てきて、その中に万一を通知すべき人に私も挙げてあつたことを知らされ、感慨に堪《た》へない思ひをした。私はこれより数週前に木枯《こがらし》の吹く有楽町のプラットフォームの上から、彼方《かなた》の新聞社の電気文字が「マキン・タラワノ全員玉砕、軍属三千モ云々《うんぬん》」と報ずるのを悚然《しょうぜん》と佇立《ちょりつ》しつゝ見てゐたのであつたが、いま島田君の死をきいて、あの文字が消滅《しょうめつ》しながら移つてゆくのがふたたび目に見えるやうな気がした。それからその夜はさまざまの物思ひに耽《ふけ》つたまゝ、胸騒《むなさわ》ぎがおさへられぬやうな心《ここ》地《ち》で仕事もせずにおそくまで独《ひと》り坐《すわ》つてゐた。
その夜は思いが迫《せま》って竹山氏は和歌らしいものをノートの端《はし》に書きとめた。そうした事は例のないことだった。そして「いまはもとより巧拙《こうせつ》を示すつもりもないので、あえて記すことにする」と五首を追悼文集に寄せている。一首だけ引くと、
みな死にていまはましろき珊瑚礁《さんごしょう》の
墓なき磯《いそ》を日の照りをらむ
追悼会の席ではさまざまの追憶《ついおく》をあらたにした。
ことに故人は写真が上手《じょうず》だつたこととて幾葉《いくよう》かの自映があつたが、私がよく接した高等学校時代のうひしい詩的な風貌《ふうぼう》のものはまことに懐《なつ》かしかつた。よく遠慮《えんりょ》しながら、親しげに物柔《ものやわら》かく言ひかけられたのを思ひだした。そして、故人は返事をする代りに、黙《だま》つたまゝちよつと上体を動かせて点頭《うなず》くのが癖《くせ》のやうだつた。唇《くちびる》に大変表情のある人で、まだあどけないやうな俤《おもかげ》が残つてゐたが、「白《はく》痴《ち》」といふ失礼な綽《あだ》名《な》もきいてみると成程《なるほど》うまいところを掴《つか》んだものだと思はせられるやうな愛らしい放心した時もあつた。
故人のこの鮮《あざ》やかな肖像《ポルトレ》の後に、一高の正門で故人が竹山氏に会い、その一寸《ちょっと》した邂逅《かいこう》が故人の日記に記されていたことが話題として続く。そしてそれとは別に、竹山氏が昭和十九年六月の『向陵時報《こうりょうじほう》』に寄せた『空《あき》地《ち》』にも、その時の模様がやはり出ている。
またあるとき、私は門の前で、制帽《せいぼう》をかぶり和服にマントを両手で前にかき合せた人にばったり出会《でく》わした。彼はやや細くてしなやかな体をした美少年で、この人が入学してきた最初の時間に、文甲一の教室の窓際《まどぎわ》の前の方に陽《ひ》の光を浴びて坐っているのを見て、「ああ、あそこに感じのいい人がいるな」と思った。まだういういしくあどけない少女のようなところがあり、ときどきはじっと放心してみえた。……この人と校門の前でこんな会話を交《かわ》した。
「これから弓に行きます」
「へーえ」
「今は浪人《ろうにん》をしているんです」
「浪人を――? ふむ」
竹山氏はこうして「話のつづかない一寸ばつの悪い短かい会話の後に別れた」。若い人には又《また》いつでも会える――、そんな気がしていた。その最後の出会いを思い返して、
あのときももつとお互《たが》ひにそれないで話をすればよかつた、も少し相手をよろこばせるべく心を開けばよかつた、と悔《くや》まれてならない。……そして、いま一度あの品格の高い典《てん》雅《が》なみづしい風貌《ふうぼう》に接して、今度はせめて半日ほど心おきなく心を通はせて話をしたい、ことにタラワ島での最後の模《も》様《よう》などをきゝたい、としきりに思ふ。またそれがいつかは出来るやうな気がするのである。(「島田君の訃に接して」)
竹山氏は昭和十五年四月、雑誌『思想』に「独逸《ドイツ》、新しき中世?」を書いてナチス・ドイツの非をはっきりと指《し》摘《てき》した。『竹山道雄著作集』第一巻(福武《ふくたけ》書店)に収められたその文章は、全体主義国家の非を具体的に衝《つ》いた勇気と見識のある発言であった。日本の数ある独文学者の中で竹山氏ひとりがなし得た発言であった。
その竹山氏はしかしながら戦後の日本で、人々が今度は、日本軍の悪口を言うにのみ急で、戦没《せんぼつ》した人々の冥福《めいふく》を祈《いの》る気持が新聞雑誌に出ない事態を異常とした。氏は義務を守って命をおとした人々のせめてもの鎮魂《ちんこん》を祈って『ビルマの竪琴』を書き出したのである。その時はまだビルマの土地を踏《ふ》んだことがなかったから、大正年間に旅した台湾《たいわん》の山中の風物や首狩族《くびかりぞく》の話もそこへ移した。洋行の時に目撃したマラッカ海峡《かいきょう》や南洋の港町の風景を除けば、それ以外は想像で書いたのであるから、ビルマの風俗に詳《くわ》しい人には違和感を与える箇《か》所《しょ》もあるだろう。(それでも私の知る一ビルマ人は市川崑監督《いちかわこんかんとく》の黒白版の『ビルマの竪琴』、とくにその中でも北林谷栄《きたばやしたにえ》が演ずる物売りがビルマ人の感じが出ていて上手だと褒《ほ》めていた。もっともこれは原著者よりも監督、俳優のメリットだが)
竹山氏は捕《ほ》虜《りょ》生活はおろか軍隊生活そのものをほとんど体験していなかった。しかし部下のことで思い悩《なや》むインテリの小隊長には戦中戦後、一高の幹部として学内行政で苦《く》慮《りょ》した竹山教授の心境がにじみ出ている。それと同じように、実直な古《こ》参兵《さんへい》にはこれまた実直な一高の事務職員の姿が写されていたのではあるまいか。昭和五十九年、自治会側の学生オリエンテーションの最中に山中《やまなか》湖《こ》で東大生が五名溺《でき》死《し》した。その時、新参の学生委員長であった私を本当によく助けてくれた課長補佐にいまは亡き森川村彦さんがいた。古参の森川さんの助言はいつも的確で温かった。学生に対しても教師に対してもそうであった。その時私は『ビルマの竪琴』の古参兵のモデルが誰《だれ》であったのかはっと悟《さと》ったのである。
戦後の日本は「生きること」がすべてに優先した。生命至上主義といおうか物質至上主義といおうか、日本人が日々の生活に追われていた時期である。そうした唯物《ゆいぶつ》的な時期であるだけに、あえて外地に留《とど》まって戦死者の霊《れい》を弔《とむら》うなどという行為は誰の脳裏にも浮ばなかった。そして本当は水島上等兵のような動機で南方に居《い》残《のこ》った日本人は誰一人いなかったのであろう。それだけに作中の水島安彦の理想主義的な決心は、大切ななにかを忘れていた私たちの心を打ったのである。その水島の宗教的動機には、竹山氏が昭和十四年に邦訳《ほうやく》した、アフリカに留まるシュヴァイツァー博士の面影《おもかげ》や考えもどこかに姿を変えて忍びこんでいたに相違ない。
ルイ・アレン教授は第二次世界大戦中ビルマで日本軍と戦った英軍の語学将校であったが、『ビルマの竪琴』の冒頭《ぼうとう》に出てくる音楽の調《しら》べをきっかけにした日英両軍交歓のエピソードは実際にはなかった、あのエピソードは第一次世界大戦のクリスマスの際に起った英独両軍の交歓の話をもとにしたのであろう、と解釈した(『比較文学研究』三十六号)。あるいはそうかもしれない。しかし敵の陣営《じんえい》から流れてくる楽の音に将兵が耳を傾け、心動かされる情景は日本では昔から謡曲《ようきょく》『敦盛《あつもり》』などにも美しく描《えが》かれている。『ビルマの竪琴』が戦没者の遺族の気持をも慰《なぐさ》めたのは、作中にそのような日本人の伝統的な仏教的心性が肯定《こうてい》的に説かれているからではあるまいか。作品中に出てくる坊様《ぼうさま》たちの姿もビルマの小乗仏教《しょうじょうぶっきょう》の実体とはいろいろかけ離れているであろう。しかし『新潮』昭和五十九年八月の竹山道雄追悼号で加藤幸子氏が適切に指摘したように、そうした論が文明批評の先端部として、敗戦直後の近代主義謳《おう》歌《か》の日本でいちはやく提出されていたところに、かえって深い意味があるように思われるのである。
この常に自分の頭で判断する竹山氏は、氏が「先賢《せんけん》」と呼んだすぐれた先人たちに重んぜられ愛された。一高で同僚であった菊池榮一教授は、校長であった安倍《あべ》能成《よししげ》氏が竹山氏の名前を呼ぶのに深い親しみをこめていた、と弔辞《ちょうじ》(『諸君!』昭和五十九年九月号)で述べている。竹山氏もまた安倍先生のことは再三敬愛の念をこめて書いているが、その中に、
安倍さんは青年に対して大きな関心をもって、その育成に力をそそいだ。あれがえらいところだったと思うのは、少々困った者がいてもそれを見棄《みす》てず、その前途を気にかけていた。学生ばかりではなかった。私共が文章を書いても、すぐに……ハガキが来て……
という一節がある(『竹山道雄著作集』第四巻)。しかしそのはがきはお小言だけではなかった。『ビルマの竪琴』の時も安倍先生はいちはやくはがきを寄越《よこ》した。拾五銭の官製はがきに参拾五銭の切手が足してあるのはインフレが進行中だったからだろう。その昭和二十二年八月二日付の文面にこうある。
過日『赤とんぼ』の藤田君にあつた時、この頃の少年少女の読物で何が出色かときいた処、貴兄の『ビルマの竪琴』を挙げ、昨日それを送つてくれたので、今日博物館へ来る電車の中にて拝見、非常に面白く、まことに少女の読物としてのみならず、大人の読物としても感動を与へるものとおもひました。貴兄の業余の御作の香のあることを深く喜び、切に御健康を祈ります。
竹山氏が掲載誌を送ったわけでもないのに、安倍氏はいまだ完成半ばの『ビルマの竪琴』にその真価を認め、早速《さっそく》励ましてくれたのである。戦時下の一高で校長として竹山教授以下の教師や学生と苦楽をともにし、出征する学生を見送った安倍先生には、この物語を書かずにはいられなかった竹山氏の気持が直覚されたのであろう。ここに「業余」とあるが、戦後の竹山氏は一高教務課長の業務に忙殺された。昭和二十二年、その要職を若くて真面《まじ》目《め》で有能な前田陽一氏に押付けたら引受けてくれた。「有難《ありがた》い。これで時間が出来た。これからエロ小説でも書きます」。そしたらなんと『ビルマの竪琴』が世に出たので吃驚《びっくり》した、と前田先生は後で笑っていた。
数年前、竹山家に電話して義弟と話しているとギターが聞えた。不思議に思ってたずねると、弟のギターを取りあげて七十代半ばの竹山氏が弾いているのであった。氏は少年時代ヴァイオリンを弾いた。亡《な》くなる二月半ほど前検査のために二、三週間ほど入院したが、病室でも読書や原稿書きに倦《う》むと、私が持ちこんだイヤホーンでカセットを聞いていた。そしてミシェル・エルマンが最盛期に弾いたウィーニアウスキーの『モスコーの思い出』とかブッシュ演奏のバッハの『シャコンヌ』をもう一度聞きたい、などと懐しそうに語った。そうした音楽にまつわる思い出も、『ミニョン』中の竪琴弾きの思い出も、また少年時代に鸚《おう》鵡《む》か鸚《いん》哥《こ》かを飼《か》った思い出も、あの作品中には実によく生かされている。竪琴を弾いて戦死者の霊を弔う水島安彦上等兵は竹山道雄氏自身の姿でもあったのである。
以上、故人の書斎で見つけた島田正孝追悼文集の断片と安倍先生のはがきなどから、『ビルマの竪琴』の背後にある旧制一高の生徒と教師と校長の心の縁《えにし》をたどってみた。作中の小隊は「埴生《はにゅう》の宿」など小学唱歌とともに第一高等学校の寮歌《りょうか》を実によく歌っている。「都の空」や「あゝ玉杯《ぎょくはい》」をはじめ寮歌が国民的な愛唱歌として歌われた時代のあったことがあらためて思い返されるのである。
(「新潮」昭和六十年一月号発表、東京大学出版会刊『開国の作法』所収、比較文学者)
(1) 復員 「戦時に動員した軍隊を平時の体制に復し、召集した兵員の服務を解《と》くこと」というのが本来の意味だが、もっと広義に「日本国外の戦場にあった兵士が日本本土に引き揚げてくること」として使われた。本文は後者の意味。
(2) 音楽学校 一八七九(明治十二)年文部省に設置された「音楽取調掛《とりしらべがかり》」が八七年東京音楽学校(のちの東京芸術大学)に発展し、洋楽中心の教員や専門家養成機関となった。戦前に開校していた音楽学校には女子音楽学校(一九〇三年)、大阪女子音楽学校(一九〇六年)、東洋音楽学校(一九〇七年)、大阪音楽大学(一九一五年)、国立《くにたち》音楽大学(一九二六年)、武蔵《むさし》野《の》音楽大学(一九二九年)がある。
(3) ビルマの王様 ビルマの歴史は十世紀以前については十分解明されていない。最初の統一王朝パガン朝は十一世紀中ごろ成立したが、十三世紀後半の元《げん》の侵攻《しんこう》のため一二八七年崩壊《ほうかい》した。十六世紀中ごろ二度目の国土統一を成《な》し遂《と》げたのがタウングー朝。そして三度目でかつ最後の統一王朝となったのが、一七五二年アラウンパヤーによって始まったコンバウン朝(アラウンパヤー朝)である。王都はマンダレーにあった。この王朝は一貫して拡張政策に出たが、十九世紀にはいりイギリス勢力と衝突《しょうとつ》することとなり、三回にわたる対イギリス戦争の結果一八八六年ビルマ全土がイギリス領の植民地となった。
(4) 尖塔《せんとう》 「建寺王朝」の異名をとるほどパガン王朝の諸王は寺院建立《こんりゅう》に熱心であった。ビルマの寺塔は一般にパゴダの名で親しまれているが、それは鐘形《つりがねがた》の塔体を高く幾層《いくそう》にも積み上げた基《き》壇《だん》の上にのせ、頂部の相輪《そうりん》が円錐形《えんすいけい》あるいは尖塔形にそびえ、塔体内に舎《しゃ》利《り》(仏《ぶっ》陀《だ》の遺骨)または仏像を安置したものである。
(5) 蛋白石《たんぱくせき》 オパールとも呼ばれる鉱物。乳白石をしており、赤や緑の輝きのあるものはみがいて宝石とする。主産地はオーストラリア、メキシコ。十月の誕生石《たんじょうせき》でもある。
(6) 上等兵 旧日本陸軍の階級は上から、大将―中将―少将―大佐―中佐―少佐―大《たい》尉《い》―中尉―少尉―准尉《じゅんい》―曹長《そうちょう》―軍曹《ぐんそう》―伍長《ごちょう》―兵長―上等兵―一等兵―二等兵であった。大将から少将までを将官、大佐から少佐までを佐官、大尉から少尉までを尉官、さらに大佐から少尉までを士官(准尉も士官待遇《たいぐう》)、曹長から伍長までを下士官、そして兵長以下を兵とそれぞれ呼んでいた。
(7) 蘆《あし》 イネ科の多年草。温帯および暖帯に広く分布し水辺に群生《ぐんせい》する。茎《くき》は中空で高さ二〜三メートルに達する。すだれの材料として使われる。
(8) シャム ビルマの隣国《りんごく》タイ国のこと。タイ国が公式の国名となったのは一九三九年以後のことであり、それ以前はふつうシャムと呼ばれていた。
(9) 進退きわまる 正しくは、進退これ谷《きわ》まる。進むことも退くこともできないで途方にくれる。窮地《きゅうち》に追いつめられる。
(10) グルカ兵 ネパール人の兵士。グルカ族は一七六八年ネパールに入りこの地を再統一して王国をたてた。その後インド国境付近でしばしばイギリスと衝突したが、ついに一八一四年から一六年までイギリスとの間にいわゆるネパール戦争がおこった。ネパール側の敗戦におわり戦後カトマンドゥーにイギリスの領事館がおかれることとなった。ネパールは一九〇四年のチベット戦争、一九一九年のアフガン戦争の折にもイギリスを支援し、二三年イギリスはネパールの完全独立を承認した。今日もネパール国軍を構成するグルカ兵は、十九世紀後半以来イギリス領インドに応募してグルカ連隊を構成し、大英帝国最強の軍隊として有名であった。
(11) 剽悍《ひょうかん》 すばやくあらあらしい。
(12) 自動小銃 装填《そうてん》(鉄砲に弾薬を詰めこむこと)から発射までを自動的に行なう小銃。
(13) 掃射《そうしゃ》 なぎはらうように連続して射撃すること。
(14) ルーンジ longyi ロンギー、ロンジーとも呼ぶ。ビルマの男女が身につける筒《つつ》型《がた》に作ったスカート。上半身にはシャツや上《うわ》衣《ぎ》をつける。女性のものには美しい色彩《しきさい》や模《も》様《よう》のある布が使われ、また男性も紫《むらさき》や緑などの派手な色彩のものを用いる。
(15) ビルマはさかんな仏教国 全人口の八十五パーセントまでが仏教を信仰し、総人口の七割を占めるビルマ族や、モン族、シャン族は百パーセント近くが仏教徒である。ビルマへの仏教の伝《でん》播《ぱ》は前三世紀ころといわれ、のちパガン朝[注(3)参照]の興隆《こうりゅう》とともに全土に普及《ふきゅう》した。
(16) 国民の教育程度もたかい 現行憲法には国民は義務教育を受ける権利がある、と規定されているが、まだ実《じっ》施《し》されていない。しかし僧院《そういん》での寺《てら》子屋《こや》教育が盛んで文盲《もんもう》率は低い。ちなみに教育制度は小学校五年、中学校四年、高校二年、大学四年、である。
(17) 落人《おちゅうど》は風の音にも胆《きも》をひやす 落ち武《む》者《しゃ》は薄《すすき》の穂にも怖《お》ず、落人は薄の穂にも恐《おそ》る、とも言う。戦争に負けて逃げていく武士は、常にびくびくしているため、何でもないものまで敵かと思って恐《おそろ》しく思う。転じて、こわいと思えば、何でもないものまで全《すべ》て恐しく感じられることをいう。
(18) 落《らっ》下《か》傘《さん》 パラシュート。飛行中の航空機から人や物資を安全に降下させるために用いる半球形をした傘《かさ》状のもの。絹やナイロンなどで作る。
(19) 印度《インド》兵《へい》 インドは十七世紀前半ごろまではムガール朝の盛期でよく統一が保たれていたが、十七世紀後半以降連年の外征と内乱のため財政と治安が混乱した。これに乗じ英《えい》・仏《ふつ》両国は勢力を伸《の》ばしたが、一七五七年のプラッシーの戦いでイギリスがフランスとベンガル土《ど》侯《こう》の連合軍を破りインドにおける覇《は》権《けん》を確立した。当初インド統治は東インド会社のもとで行なわれたが、一八七七年イギリスはインド帝国の成立を宣言し、ヴィクトリア女王がインド皇帝をかねた。以後インドはイギリス本国の経済に大きく寄与することとなった。第一次・二次大戦にあたってはイギリスは多くの兵員と物資の供給をインドにあおぎ、その代償《だいしょう》として自治や独立をほのめかしたり約束したりしたが、これがインドの独立運動に大きな刺《し》激《げき》を与えることとなった。第二次大戦でインドは連合国側の一員として戦ったのであり、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)においても十一人の判事の一人をおくったが、その人こそ大部な「パル意見書」を発表し話題を呼んだラダビノード・パル博士であった。
(20) 山車《だし》 祭礼のとき、種々の飾《かざ》り物をつけて、引いたりかついだりする屋《や》台《たい》。
(21) ゲートル カーキ色ラシャ製の細い帯。脚半《きゃはん》のように脛《すね》に巻いて用いた。日本軍とちがいイギリス軍は足首のみにゲートルを巻いていた。そのほうが衛生的というので、収容所での労働の際に巻き方をかえた日本兵は多いという。
(22) 散兵線をつくるために……散開 火力戦闘《せんとう》で、敵の火砲による損害を少なくするために、各兵が一定の間隔《かんかく》を開く隊形を散開といい、そのように、敵前で兵を密集させないで、適当な距離に散開させる戦闘線を散兵線という。
(23) 一《いち》期《ご》の思い出 一生の思い出。
(24) 轍《わだち》 車が通り過ぎたあとに出来る車輪のあと。
(25) はらから 母が同じである兄弟姉妹が本来の意味だが、一般に兄弟姉妹をいう。
(26) 掃蕩《そうとう》 敵などをすっかり追い払ってしまうこと。
(27) 殲滅《せんめつ》 皆殺しにしてしまうこと。
(28) 万《ばん》里《り》の外 万里とは非常に遠い距離をいうたとえ。遠く離れた異国の地で、の意。
(29) 襟章《えりしょう》 軍隊内の階級を示すために用いられた。
(30) われわれ捕虜もいつかは国に帰されることになっている 一九二九年七月「俘《ふ》虜《りょ》に関するジュネーブ条約」が調印されたが、これは捕虜に関する独立した多国間条約としては世界で初めてのものであった。日本は加わらなかったが同条約によれば、捕虜の自由は拘束《こうそく》されるが生命は保証され、やがて本国に送還《そうかん》されることになっていた。
(31) ニッパハウス ビルマの家《か》屋《おく》は床下を一メートル以上高くした家屋で、屋根はニッパヤシの葉を編んだものを重ねてふいてある。
(32) インド人の番兵 番兵にはインド兵やグルカ兵があてられていた。
(33) 人造バタ マーガリンのこと。
(34) 蘭印《らんいん》 オランダ領東インドの略称。ジャワ、スマトラ、セレベス、ボルネオ島の大半と、ニューギニアの北西部を含む地域。これらはオランダの植民地であったが、戦後植民地が独立するに至《いた》り消滅した。
(35) 白秋《はくしゅう》 北原白秋(一八八五―一九四二)福岡県生まれの詩人、歌人。代表作は『邪宗門《じゃしゅうもん》』『思ひ出』『桐《きり》の花』。多くの童謡の作詞家としても名高い。
(36) 托鉢《たくはつ》 僧《そう》尼《に》が経文《きょうもん》を唱えながら各戸をまわり、米や銭《ぜに》などの施与《せよ》を鉢に受けること。ここではその手にしている鉢をさしている。
(37) さらぬだに そうでなくてさえ、ただでさえ。
(38) 竹《たけ》矢《や》来《らい》 竹をあらく組んで作った垣《かき》。
(39) 男は若いころにかならず一度は僧《そう》侶《りょ》になって修行《しゅぎょう》します 男子は十歳前後の年齢で、たとえ短期間でも見習僧として修行生活を経験することがビルマでは不《ふ》文律《ぶんりつ》となっている。
(40) 属国 独立国とは反対の、他国の支配下にある国のこと。ここでは植民地の意として用いられている。
(41) 小乗仏教《しょうじょうぶっきょう》 菩薩信仰《ぼさつしんこう》を中心に広く衆生《しゅじょう》の救済をはかろうとする大乗仏教に対し、個人的修行を重視する従来の仏教のこと。小乗仏教徒自《みずか》らは、上座部仏教と呼んでいる。
(42) 現《げん》世《せ》 生をうけている現実の世。この世に生まれ出る以前の世をさす前世、死後の世界をさす来世、とあわせ仏教では三世という。
(43) 後生《ごしょう》をいのって 仏の慈悲《じひ》心《しん》を信じて、極楽往生《ごくらくおうじょう》を願う。
(44) 象嵌《ぞうがん》 金属に模《も》様《よう》を刻《きざ》んで中に金銀などをはめ込んだもの。
(45) 内陣《ないじん》 神社の本殿や仏寺の本堂の奥《おく》にあり、神体《しんたい》または本尊《ほんぞん》を安置しておく所。
(46) 癩病《らいびょう》 癩菌《らいきん》の感染《かんせん》による慢性《まんせい》伝染病。映画『ベン・ハー』の中でベン・ハーの母と妹がこれにかかり周囲から投石をもって攻撃されたように、かつては不治の伝染病として恐れられたが、今では治療法も確立している。ハンセン病ともいう。
(47) 和《か》絃《げん》 和《わ》音《おん》のこと。
(48) 新《しん》羅《ら》三郎《さぶろう》 源義光《みなもとのよしみつ》(一〇四五―一一二七)。頼義《よりよし》の三男、八幡太郎源義家《はちまんたろうみなもとのよしいえ》の弟。弓馬の術にたけ、音律をよくしたという。後《ご》三年《さんねん》の役《えき》での兄義家の苦戦をきき、東下を乞《こ》うたが許されず、一〇八七年官を辞して東国へ向かった。笙《しょう》は豊原《とよはら》時忠《ときただ》に秘曲を受け、名器交丸を得たが奥州《おうしゅう》に向かう際、名器を失うことをおそれ時忠に返し与えた。この話が、時忠の弟時元《ときもと》が義光に秘曲を授け、足柄山《あしがらやま》まで義光を送ってきた時元の子時秋《ときあき》に、秘曲が自分の死によって滅《ほろ》びないようにと山中でその秘曲を伝授した、という伝説を生んだ。この話は『古《こ》今著聞集《こんちょもんじゅう》』にある。
(49) 営倉 旧軍隊で、罪を犯した軍人を入れた兵営(兵士が駐屯《ちゅうとん》する兵舎)内の建物。また、そこに入れられる罰《ばつ》のことをいう。
(50) 脱走ということは重い罪 旧日本陸軍の陸軍刑法には「逃亡」について次のような規定がある(第十類第七章第七十五条)。
故《ユエ》ナク職役ヲ離レ又《マタ》ハ職役ニ就《ツ》カサル者ハ左ノ区別ニ従《シタガイ》テ処断ス
一 敵前ナルトキハ死刑、無期若《モシク》ハ五年以上ノ懲役《チョウエキ》又ハ禁《キン》錮《コ》ニ処ス
二 戦時、軍中又ハ戒《カイ》厳《ゲン》地域ニ在《ア》リテ三日ヲ過キタルトキハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
(51) 古《こ》参《さん》の兵士 古参兵、古年兵。軍隊に古くから入隊している兵士。旧軍隊では、初年兵以外の二年兵、三年兵などがこれにあたる。
(52) 泰緬《たいめん》鉄道という鉄道 泰はタイ、緬はビルマのこと。日本軍がビルマを制したのは一九四二(昭和十七)年六月のことだったが、補給路が確保されておらず、そのためビルマとタイとを結ぶ鉄道建設計画が決定された。着工は同年六月、完成は十八年末の予定であった。タイ側ノンブラドック(現バンポン北)からビルマ側タンビザヤまでの全長四百十五キロメートルに、連合国捕虜や現地のアジア人労働者を使って鉄道を敷いた。苛《か》酷《こく》な労働条件と、コレラやマラリアの多発地帯であったこととにより多くの犠牲者を出した。映画『戦場にかける橋』は、この鉄道建設を扱っている。
(53) 儀仗兵《ぎじょうへい》 儀式や護衛のためにつけられる兵隊。
(54) 敬虔《けいけん》 うやまいつつしむこと。
(55) 英霊《えいれい》 死者の霊魂《れいこん》を尊敬していう語。明治以降は戦死者の霊をいうことが多い。
(56) 散《さん》華《げ》 はなばなしく戦死すること。
(57) 沮《そ》喪《そう》 気力がくじけて勢いがなくなること。
(58) 妄想《もうそう》 ありえないことをみだりに想像すること。
(59) 炊《たき》出《だ》し 飯をたいて出すこと。
(60) 白髯《はくぜん》 白いほおひげ。
(61) 凝然《ぎょうぜん》 じっとして少しも動かないさま。
(62) ほごにした 以前の言動をないものにすること。
(63) 巴旦杏《はたんきょう》 すももの一種。果肉は黄色で甘い。「とがりすもも」とも呼ぶ。
(64) 汽《き》鑵《かん》 ボイラー。
(65) やもたてもたまらなくなって 勢いを制することが出来なかったり、思いつめてこらえることが出来ないことのたとえ。
(66) 昂然《こうぜん》 意気さかんな様子。
(67) 理非を説いて 道理にかなっていることとはずれていることとを説明して。
(68) 硝煙《しょうえん》 火薬の発光によっておこる煙。
(69) 幻灯《げんとう》 ガラス板に彩色してかいた風景などの画像やフィルムに写した像を、背後から強い光で照らし、その前方に凸《とつ》レンズを設置し拡大して、映写幕に写してみせるもの。映画以前にはやり、日本では明治時代に流行した。
(70) 蛮族《ばんぞく》 文化的に未開な種族。
(71) 本復《ほんぷく》 病気が全快すること。
(72) 祠《ほこら》 神をまつる社殿。
(73) とばり 物を隔て区切るもの、覆《おお》い隠して見えなくするもののたとえ。
(74) 薬莢《やっきょう》 内部に火薬を入れる金属製の小筒。弾丸を発射する役割をする。
(75) 鬼哭啾々《きこくしゅうしゅう》 亡霊がひそひそと泣くこと。
(76) ユーカリの木 オーストラリア原産のフトモモ科の常緑大高木。葉はコアラの主食として知られている。
(77) 慚《ざん》愧《き》 いろいろと自分のことを反省して心からはずかしく思うこと。
(78) マラリア 蚊《か》によって媒介《ばいかい》され、マラリア病原虫に起因する伝染病。熱帯・亜《あ》熱帯地方に多く、固有の周期性高熱を繰り返す。
(79) 手榴弾《しゅりゅうだん》 手で投げつける小型の爆弾。
(80) 自《じ》爆《ばく》 みずから爆砕すること。
(81) 前後不覚 前後の区別もつかないほど正常な判断ができなくなる様子。
(82) 奇《き》特《とく》 比類なく珍しいほめるべき心がけ。
(83) 学窓を出て 従来、大学や高専の学生・生徒には二十歳になっても徴兵猶予《ちょうへいゆうよ》の特典があったが、兵員不足が深刻化してきたため、大学や高専の在学生の徴兵適齢以上の者のうち、理科系、教員養成系以外の者の徴兵延期制度を撤廃《てっぱい》して入隊させた。この措置《そち》を学徒出陣《がくとしゅつじん》という。東京では一九四三(昭和十八)年十月、出陣学徒壮行会《そうこうかい》が神宮外苑《じんぐうがいえん》競技場で開かれた。徴兵適齢は翌年十月に、二十歳から十九歳に引き下げられた。徴兵された学徒兵のなかには戦死したものも多く、それら戦没《せんぼつ》学生の手記を集めた『きけわだつみのこえ』は戦後大きな反響《はんきょう》を呼んだ。
(84) 草むす屍《かばね》、水《み》づく屍 大伴家持《おおとものやかもち》の古歌の一節。信時潔《のぶとききよし》の作曲によってうたわれることになった。
(85) われらが奉《ほう》じた文明というものが、一面にははなはだ浅薄《せんぱく》なものだった 近代文明は富《ふ》裕《ゆう》な家の客間、すなわち「持てる国」においては驚嘆《きょうたん》すべき業績をあげ高潔な品位を保ってきたが、貧民《ひんみん》窟《くつ》をさまようとき、つまり「持たざる国」においては醜悪《しゅうあく》なる姿をあらわす。「近代文明」にはこのようなジキル博士の一面とハイド氏の一面とがある、という主張が竹山氏の「ハイド氏の裁判」(著作集一巻所収)にみられる。この論考は東京裁判傍聴記《ぼうちょうき》の形をとりながら、近代文明のもつこのような二面性を分《ぶん》析《せき》している。
(86) 酔生《すいせい》夢死《むし》 酒に酔い、夢をみて生死する。何をするでもなく、むなしく一生をおくること。
牛《うし》村《むら》圭《けい》