ひみつメランコリー
竹宮ゆゆこ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)不思議《ふしぎ》ちゃん
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)松澤|小巻《こまき》
「#」:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)「#改ページ」
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誰かが――例えば友達の美代子《みよこ》が、
『立夏《りっか》、最近どうしたん? 航《わたる》とケンカでもしてる?』
などと聞いてこようものなら、それだけであたしの心はズタボロの腐れ雑巾のようになる。
『ううん、あいついつまで経っても弱っちいから、自立を促してやってんの。高校生になったことだし』
そんなふうに答えれば美代子も簡単に納得するのだけれど、果たしてそれは、大嘘でした。
「……あっちいなあ……」
適当に編んだぐちゃぐちゃの三つ編みは、風に吹かれるたびにぱらぱらと髪を逃がしていってしまう。むかつくままにむんずと掴《つか》み、ゆるく絡んだゴムを取り、親の仇みたいにぐいぐい乱暴に編み直す。
「まだ五月だってのに、なんでこんなに暑いんだっちゅーねん」
山を背に、腹側に海。
お母さん。立夏は今日もひとりぼっちです。
砂でざらつく防波堤に腰掛けて、さすがあたしはひとりぼっちだ。風が捲《めく》り上げるスカートのことも気になんかなりはしないとも。パンチラだろうがパンモロだろうが、もーどーだっていい。
青い空も、もっと青い海も、今日は時間が止まったかのように静まり返っていた。太陽光線全開の午後。光る波頭も今日は鼻をかんだあとのティッシュみたいに情けなく、白い砂浜にはサーファーたちの姿もない。とにかく目に見える範囲に人間の気配ってものがない。カニの気配はある。波打ち際をガサガサと、さっきから楽しそうに行き来している。しょせんカニだぜ、見られていることにも気がつかずにすごい高速で横歩き。砂に掘った小さな穴に競い合うようにスポスポ出入りして、あ、あいつらひとつの穴に一緒に入ろうとしてつかえてる。
「……『俺もなカニ入れてくれー』『おまえが何者カニついて。仲間か、敵か』『いカニもいずれカニ該当します』……なんつって……あははは……はあ……。……やんなる」
甲殻類なんかどうでもいいのだった。
無人の世界にひとりぼっち、独り言だって言い放題で、パンツだって見え放題で、防波堤にだらしなく寝そべった。だらんと手足を投げ出して、あーあ、とため息とあくびの中間物質を肺から放出する。全身脱力、ゆるゆる状能。
みっともなくたってどうでもいいのよ、日焼けもなにもどうだっていいの。どうせ立夏はこの世でひとりぼっち、誰より孤独で寂しくて侘《わび》しくて――
「って、はあ!?」
空の眩《まぶ》しさに山側へ顔を背け、あたしは知った。
ひとりぼっちなんかじゃなかった。
防波堤の下、道路の先。あたしが乗ってきたチャリを盗んで、走り去っていく誰かの背中が見えている。カーブを曲がってとっとと見えなくなっていく。まるで逃げていくみたいに、……って、逃げたんだよ。盗まれちゃったのよ!
「う……うっそでしょ……? わあ! うそだあーっ!」
立ち上がっても、もうどうにもならない。やだやだやだ! と素足で防波堤の上を走ってみても、追いつけるわけがない。
チャリのカゴには財布(千円しか入ってないけど)とサンダル(千円もしなかったけど)が入っていた。つまりあたしは帰りの足関係すべてを失ったわけだ。
そのまま呆然とすること、およそ三秒。その三秒の後にあたしが叫んだ言葉は、ドロボー! でもなく、待てー! でもなく、誰かー! でもなかった。
「ば、」
肺いっばいに酸素を吸って、防波堤の淵に裸足で立って。
チェックのワンピースに、春の潮風をいっぱいに孕《はら》んで。
カニと波と空と太陽と、それから山と、木々に向かって。
「ばっかやろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――――っっっ!」
――大口開けての大絶叫。
しかし、かすかな波音と潮風にそんな罵倒はすぐにかき消され、そして、
「……げほ! ごほごほごほ!」
咳《せ》き込んで、ぶっ倒れる。
泣きたくなって、防波堤のコンクリに額を押し付ける。
ばかやろう、ばかやろう、みんなばかだ、ばかばかばかばかばか。大ばかの超ばかのスペシャルばか。ゴールデンばか、エターナルばか、ばかオルタナティブ。自転車泥棒、返せばか。
航の、ばか。
……あたしの、ばか。
このばかな事態の始まりは、本当にしょうもないことだった。
出会いは生後二ヶ月。先に生まれてたのはあたし、黒川《くろかわ》さんちの立夏さん。二ヶ月遅れでこのド田舎の同じ集落、簡単に言えぱご近所さんちに生まれたのが航。
幼稚園に入る頃には、すっかり航はあたしの弟分になっていた。いつも後をくっついてきて、記憶にだって残っているとも――立夏ちゃあん、待ってえ、立夏ちゃんと一緒じゃないとやだよう……奴は情けない声で毎日泣いて、毎日あたしにしがみついて、甘ったれていたわけだ。
小学校でも航はあたしの背中に隠れっぱなしだった。一人でトイレに行くのが怖い、職員室がこわい、体育館の倉庫がこわい、体格のいい男の子がこわい、からかってくる女の子がこわい、先生がこわい、黒板がこわい、冗談ぬきにそんな感じで、あたしがいなければ航は登校することもできなかった。そもそも奴は、通学路の途中にいつもいるちっちゃな三毛の野良猫がこわかったのだ。
中学に入って、やっと航はあたしの身長を追い越した。その頃からあたしと過ごすよりも男友達とばかりつるむようになって、立夏ちゃん、とも呼ばなくなった。泣くこともなくなって、こわいものもなくなったみたいだった。
それでも、シャイな航がまともに話せる女子はあたしだけだったし、登下校だって一緒だった。変わったのはむしろ、あたしの方だったのだ。
女の子みたいだった航の顔つきは少しずつ男っぽく、肌も固くなっていき、並んで歩くと歩幅が全然違う。重い荷物を持つと、一見ほっそりしている腕には筋肉の窪みがくっきりできて、ひじや手首の関節はグリグリと大きく丸い。そういうことに、毎日毎日、気がついた。気がつくたび、あたしはひそかに心臓を高嗚らせていた。
いつの間にか男の子になっていた航に、あたしはドキドキしていたわけだ、
他のどの男子とも、航は違った。
航にとっても、あたしは他の女子とは違うはずだと思った。
もうちょっと大人になったら――たとえば高校生になったら、あたしと航はもしかしたら、いつの間にかつながなくなった手を、再びつなぐかもしれない。航はあたしをじっと見て、かわいい、とか、綺麗、とか、思ってくれるのかもしれない。休みの日には毎日会って、どこかに出かけて、帰りたくないと思うのかもしれない。
そうなりたかった。
航に、触れたかった。いつだって喉から手が出るほど、すぐ近くにいる航に触れたかった。こんなに近くにいるのに触れられない、そう思うだけで死ぬほど苦しかった。
触れて欲しかったし、ドキドキして欲しかった。大事に思って欲しかった。俺の立夏、と思って欲しかった。あたしの航にしたかった。誰にも渡したくなかった。
それなのに、あの日。
中学の卒業式と、高校の入学式のちょうど真ん中の日。
この町の子供たちには、進学する高校の制服を着て卒業した中学校に集まるという慣習がいつからかできていた。あたしはなんの疑問も抱かず、初めて真新しい制服に腕を通し、通い慣れた、そしてもう通うことのない中学校への通学路を歩いた。航からは、友達の男の子たちと一緒に先に行くと聞いていた。
校舎の玄関に集まった、たった一クラス分しかいない卒業生たち。その中から、あたしは当然のように真っ先に航を見つけていた。
柔らかな髪には寝癖がついたままだったけれど、スラリと背の伸びた航の身体に、新しい制服はとってもよく似合っていた。同じ高校に進学できることが、本当に嬉しかった。また三年間、こんな航と一緒に過ごせる――舞い上がっていたのは確かだった。
そして目が合って、あたしが発した最初の一言は、今でもよーく覚えている。
航! ここ、寝癖ついてる! ちゃんとしなさいよ!
次の一言も、よーく覚えている。
まったくもう、高校生になるっていうのにいつまで経ってもだらしないんだから! ほら、また背中丸まってる! しっかり立って! きちんとしてよ! やんなっちゃう、世話がやけるんだから、これでまた三年間あんたのお守りをしてやらないと……ペラペラ、ペラペラ、ペラペラペラ……。一言、なんてかわいいもんじゃなかった。
なぜなら舞い上がっていたし、照れてもいた。恥ずかしかった。初めて着てみた制服が似合っているかどうか自信もなかったし、昨日の夜に自分で切った前髪も微妙かもしれなかったし。航の目にこの姿が、どう映っているか怖かった。
だからいつも以上に早口で、あれこれ偉そうに言ってしまったわけだ。荒っぽく航の背中を叩いてもしまったし、……そうすることで、「あたし照れてなんかないから、いつもどおりだから」と伝えられる……と、思ったわけだ。
だけど、振り返った航の目は、あたしのことなんか見ていなかった。
見ていなかったし、口はへの字だったし、眉間にはしわまで寄っていた。背中に伸びたままだったあたしの手に触れることなく、航は身体を逸らして、接触から逃れた。やめろ、そういうの、と――今思えば、苛立っているみたいな低い早口だった。
そして顔をあたしから背け、早口のままで言ったのだ。
「おまえ、うざいよ」
……見事に、突き刺さった。
心臓に、だ。
冷たい氷の矢に胸を貫かれ、あたしの喉はそれきり死んだ。一言も、なにも言えないまま、ばかみたいにその場に立ち竦んだ。薄い桜色をしていたあたしの世界は、黒と灰色の氷の世界にとってかわった。そこに生きていたすべてのものは、そのときはっきり死んだのだ。
へーええ、あたしってうざかったんだ?
一緒にいられてドキドキしてたのはあたしだけだ?
勝手に勘違いして、舞い上がってたのもあたしだけだ?
そりゃーごめんなさいね。知らなかったよ。
――本当に、知らなかったのよ。
……知って、そしてあたしは、それ以来二度と航と口をきかなかった。
同じ高校の、同じクラスに進学したというのに、あいさつさえかわさなかった。当然、一緒に通ったりなんかしなかった。うちの親も航のうちも、思春期だねえ、などと笑っていたけど、そんなぬるいモンじゃなかったのだ。
うざいなら、嫌いなら、あんたの思い通りにしてあげる。そう固く自分に誓って、わざとらしかろうがなんだろうが、登下校の途中や廊下や教室、とにかく会ってしまいそうになれば百八十度方向転換するようにした。視線も合わせない。ましてや絶対に、声なんかかけない。
勘違い女だったと自覚してしまった自分のプライドを守るには、それしかなかったのだ。嫌われている、という現実から目を背けるように、徹底的に航から目を背けた。当然、航からあたしに声をかけることもなかった。
結果、航のお情けを求めてうろうろ引っ付くみじめな女にはならずに済んだかわりに、あたしはひとりぼっちになった。
海を見に行くのもひとりなら、チャリンコを盗まれ、靴もなくし、裸足で歩く五キロもひとり。家に帰り着いて、「あんたばかじゃないの!?」……お母さんに怒られても、ひとり。
月曜日を迎えて登校するのもひとり。クラスに友達はいるけれど、航の背から必死に顔を背けているのを知っているのはひとり。……自分だけ。
「っと、ごめん!」
ひとりでトイレにも行こうとして、誰かの机にぶつかってしまって、謝るのもひとり。
「あ、大丈夫だから……」
「ありゃりゃ、ごめんごめん、あたしが拾うよ!」
あたしのせいで落としてしまったレポート用紙の束を集め、ポンポン、と埃《ほこり》を払ったそのときだった。
目に入ってしまった。
それは、月曜日の教室。
休み時間の午前十時半。
落としてしまったレポート用紙。書きかけの手紙のように見えた。そうとしか見えなかった。その、一行目。
「……これ……」
「……ん?」
「あ、えっと……なんでもない。ごめんよ」
あたしは見た。
『田村《たむら》くんへ』と、そこには書いてあったのだ。
聞けなかった。
聞けるわけがなかった。彼女と口をきくのが初めてだったと言うだけではなくて……それだけではなくて、聞けるわけがなかった。
ねえ、松澤《まつざわ》小巻《こまき》さん。どうして田村航に宛てた手紙を書いているの? なんて――
***
「立夏ってばよ」
「いてっ……」
いきなりベチンとデコを叩かれ、ぎょっと心臓が飛び上がった。悪いことをしていたわけではないのだけど。
「なにぼーっとしてんのさ。どっちにするのか早く決めろって」
「……乱暴だなあもう……チョコ」
「チョコ? だめ。はい、抹茶」
「……なら聞かなくていいじゃんよ」
抹茶味のしっとりクッキーをくれながら、美代子は呆れたような目をしてあたしを見た。
「あんたさっきからちょっとおかしいよ。なんかぼけーっとしてるばっかで……今だって、なにを真剣に見つめてたのさ。視線の方向には松澤さんしかいないみたいだけど」
言葉に詰まり、どうしようもなくおいしくない抹茶クッキーを一口で頬張る。美代子の言うとおり、あたしは松澤さんを見ていたのだ。
松澤さん――松澤小巻さん。
休み時間だというのに誰とも口をきかず、松澤さんは一人で机に頬杖をついて、ぼけーっと静かにしている。その横顔はとても椅麗な輪郭をしていて、視線は多分窓の向こう。気になるのは、ただひとつ。あんな横顔で、彼女は誰のことを考えているのだろう。
「……松澤さんてさ、かわいいね」
呟《つぶや》いてしまったのは、本音だった。しかし途端に美代子は気味悪そうに顔をしかめ、
「本当に松澤さんのこと見てたん? 立夏、あんた……きっしょ……」
などと。
「うるせえや、美代子はそう思わんの? ほら、あーんな色、白いしさー。痩せてるし。目もくりくりしててかわいいよねえ」
「まあ、そうねえ。かわいい顔してるとは私も思うわ。陸上部のエースらしいよ」
「そうそう、もんのすごく足速いよねえ。こないだの体育の時びびったわ」
「そうだ、立夏知ってた? 松澤さんて陸上部推薦でうちの学校に来たらしいんだけど、実は中学の時はめっちゃ! くっちゃ! 成績よくて、元々志望してたのは……」
ヒソ、と美代子が口にした学校の名前に、あたしは思わず「わーお」と。だってすごい、そこは全国レベルで超のつく有名校で、確か全寮制のウルトラ進学校なのだ。落ちてしまったとはいえ、受けたってだけで十分にすごい。あたしがもしも受験したい、なんて言おうものなら、担任に百メートルぐらいぶっ飛ばされていただろう。
「そうかー、頭もいいんだぁ、すごいわあ……っていうかなんで美代子がそんなこと知ってんの?」
「美術部で一緒になった子が、中学のときに松澤さんと同じクラスだったんだって。男子が松澤さんてどんな子!? とか言って盛り上がってて、その流れでついでに聞いた」
「も、もてるんだ……」
「もててるねえ。あのおとなしいところがいい、とかって、他のクラスの奴らでさえ言ってたもん」
瞬間。じわり、と黒い嫌な湿り気が胸に垂れ込めた。
松澤さんて、もてるんだ。男子に人気があるんだ。ということは――航も? あんな子からラブレターなんてもらったら、嬉しくなって、付き合ってしまう?
「み、美代子」
平静を装って、なんとか声を絞り出した。一瞬にして凍り付いてしまったような顔面を必死に普通に動かし、
「松澤さんて、彼氏、おらんの?」
「おらんでしょ」
――息を吐いた。
「……おらんかあ〜……」
彼氏はいない。じゃあ、まだ航とは付き合っていない。美代子の言うことを全部真に受けるわけではないけれど、なにしろここはド田舎だ。誰かと誰かが付き合ったら、そんな噂は一瞬にして学校中、町中を駆け巡っているはずだし。いや、待てよ。いないってことはフリーで、フリーってことは、航がその気になればすぐにでも……?
頭を抱えた。
「お、おらん、のかああ……」
「……立夏、松澤さんと友達になりたいん? 声、かけてやろっか?」
「へっ?」
止める間もなく美代子は立ち上がり、離れた席にいる松澤さんに向かって声をかけていた。
「ヘーい松澤さん。やっほー」
「ちよっと美代子っ……」
松澤さんは、
「うっ……」
半ば飛び上がり、低く呻《うめ》いてこっちを見た。茶色い目をまんまるに見開いて、反応に困っているみたいに、そのまま顔を引きつらせている。
「は、ハロー」
ほとんどあたしはやけっぱち、松澤さんに向かって大きく手を振ってみた。松澤さんはきょろきょろと辺りを見回し、何度かぱちくりと瞬きをし、
「は……は、はろー……」
小さな顔を一気に真っ赤にして、手をさささっと小さく振り返してくれた。照れたみたいにすぐやめて、うつむいてしまったけれど。
後に残されたのは、キモいものを見るような美代子の冷たい視線。
「な、なによう」
「……」
「そんな目で見んなってばー!」
「……」
なにもかもが気まずすぎる、それが月曜日の放課後の事件、だった。
***
航と松澤さんの間にどんな関係があるのだろうか。
松澤さんは航に宛てた手紙を書いていた。
航は「いい匂いのする子」がタイプだと言った。
松澤さんからは、いい匂いがした。
付き合ってはいないみたいだけど――だけど、でも。
そんなことを一晩考え、考えても答えは出ないのだ、という結論に至り、そして火曜日。
登校し、いつもどおりに授業をこなし、チラチラと松澤さんの様子を窺《うかが》ってはやっぱりかわいいなあ、大人しいなあ、女の子らしいなあ、などと考え、そして背中のトゲで航の気配を敏感に察知しつつ絶対に目を合わせないよう顔を逸らし続け――
「……あ、あたしって、ばかなんだろうか……?」
――待ちに待った、放課後。
考えても答えは出ないなら、訊くしかない。そう決めて、あたしは松澤さんの部活が終わるのを、校門前でずーっと、待っていた。ここでこうしてつっ立ったまま、そろそろ一時間。部活の終わる時間なんて知らないもんよ。だけどそれ以上にばかっぽいのは、いまだにどう切り出せばいいのかわからない、ってあたりだ。
単刀直入に、「航とはどういう関係なの?」……でもそれって、なんか自分がみじめなような気がしてしまう。航の彼女でもなんでもないのに勝手に関係者気取りで首を突っ込んで、それって完全に悪役、みたいな。
もしくは、「松澤さんってもしかして、航と付き合ってる?」……これも、ねえ。イエスなら当然再起不能だし、ノーならノーで、なにこの女勝手にあたしらのこと妄想してんの、キモ、ああでも言われてみれば航くんと付き合うのもいいかもね……って。最悪だよ、この展開。
「……ああ……みっともない……」
ずるずるとしゃがみこんでしまい、低く呻く。あたしは、今、なんてみっともない。あたしには航の人間関係に首を突っ込む権利なんかないのに――それは十分わかっているのに、それでもこんなみっともない真似をしないではいられないのだ。ここから立ち去って家に帰ろう、とは思えないのだ。
だって、気になって気になって苦しくて……
「あ。……こういうところが、うざいんだ? あたし」
……落ち込む。
はあ〜、と深く自己嫌悪のため息をつき、ぐしゃぐしゃな心がさらにぐしゃぐしゃに壊れていく。
どうにもこうにも、苦しいのだ。航と無関係になってしまった自分も、それでもあがかずにはいられない自分も、全部まとめてポイっとゴミに出してしまいたいのに――
「うっ……」
誰かが呻いた、と思った。それは聞いたことのある呻きだった。
反射的に顔を上げると、彼女が目の前に立っていた。
スポーツバッグを斜めがけにし、少し暗くなってきた薄青の空の下、細い身体でこの地方特有のぬるい風を真正面に受け止めて。
松澤さんが、あたしを見ていた。見ていて、そして、
「……」
無言のままで歩き去ろうとしていた。
「ま、待って!」
慌てて立ち上がり、松澤さんの前に回りこむ。松澤さんは声も出ないほど驚いているのか、息を詰めて全身を硬く強張らせている。
「あたし、松澤さんのこと待ってたの! ずっと、ここで!」
「……私、を……? どうして……?」
どうしてもなにも、あんた航とはどうなってんのさー、などと言えたなら……それってかなり危ない女だよ。
「いや、そ、その……その……っ」
松澤さんに負けず劣らずのもじもじっぷりを発揮して、あたしは自分の靴の先をじっと見つめた。訊かなきゃ、うまいこと、ちゃんと訊かなくちゃ――
「ま、松澤さんてさー、」
「……」
「なんか、さー」
「……」
「い、……いい匂い、するよね!?」
ぎゃー! なに言ってんのこの変態!
もういいや、死のう、そう決めた瞬間、……いや、五秒ほどたっぷり遅れ、
「……これかな……」
小首を傾げつつ、松澤さんはでっかいスポーツバッグからなにかを取り出して見せてくれた。
シトラスミント。白くならない。瞬間、クール。……制汗デオドラント……。
スプレー缶をずずい、とあたしに突きつけたまま、さあ、ゆっくり見ていいよ、と言うかのように、松澤さんはそのままじっと動きを止めている。あたしの変態発言も、まったく気になんかならないみたい。
なんなの、このペース。
この異空間。
「わ、わかんない……!(松澤さんのペースが!)」
思わず取り乱して呟いた一言に、今度の反応は早かった。松澤さんは、
「これはね……」
スポン、とデオドラントのフタを外し、
「こう」
自分の制服の中に突っ込んで、脇の辺りにぷしゅー、と噴射。気持ちよさそうに目を細めて。
「そ、そうじゃなくてっ!」
「……こうだよ」
悟りきった目で、今度はあたしの上着をまくりあげ、脇の辺りにぷしゅー。
「んにゃー!」
「……こう、とか……」
腹の辺りにも、ぷしゅー。
「いいってばいいってばっ!」
「……こう……とか……」
「やー!」
スカートの中にも……ぷしゅー。
ここは往来なんだぜ、と気がついたその瞬間、
「よせっちゅーにっ!」
「あ」
べちっ、とあたしの手は松澤さんの頭をどついていた。やばい、相手は美代子・ザ・石頭グレートじゃなかったんだ。
「わ! わわわ、ごめーん!」
「……」
結構強く当たった感触はあって、松澤さんはデオドラントを片手に持ったまま、もう片手で脳天の辺りを押さえてばちくりと瞬きをしていた。
「い、痛かった!?」
ううん、と彼女は首を振り、ほっとしたのもつかの間
「これ、しゅってしたら冷える……かな?」
「だめー!」
デオドラントを頭にかけようとするのを全力で阻止!
***
学校から町の方へ、歩いて十分ほどのところ。
「クリームあんみつにしてもよかったんだよ?」
「ううん……これでいい」
週に二回は美代子と寄り道する、この辺の子には昔っからおなじみの甘味屋に、あたしは松澤さんをほとんど無理やりに招待していた。あんな乱暴なことをしてしまったのだ、好きなものを頼みんしゃい、と。
そしてあたしの前には餅が二つ入ったおしるこ。松澤さんの前にはあんみつ。
「え、えっと……おかわりも、なんならしていいからね。あたしが今日はおごるから」
「うん……ありがとう」
つん、と餅をつついて沈ませつつ――会話がねー! と、叫びだしたい気分。
勢いで連れてきてしまったものの、松澤さんは相変わらずの大人しさで、デオドラントの匂いをプンプンさせながら寒天を口に運ぶ。その目は寒天だけをじっと見つめている。
なにか話して盛り上げなくちゃ、とは思うのだけど、寒天を噛んで静かに俯《うつむ》いている松澤さんを見ていると、なにを話しても言葉の通じない宇宙人と相対している気分になって……
「……えへへ」
わ、笑った。松澤さんが。
「ど、どしたん?」
「……なんか……おいしいな、って……」
「そう? ここの、普通の寒天と違う?」
「ううん、なんか、あの……」
スプーンについたあんこをペロ、と舐めてから、松澤さんはもう一度恥ずかしそうに微笑んだ。
「……ここが、よくクラスのみんなが寄ってこう、って言ってたお店か、って……思って……」
「あれ、来たこと、なかったん?」
こくん、と頷き、松澤さんは寒天をもうひとつ口に含んで、
「……私、友達、いないから……。……いつもどんなお店なんだろ、って……よかった。初めて、来られた。すてきなお店だ……思ってたより、ずっと」
――グッときてしまった。
「また、誘うよ!」
思わず餅をしるこの中に取り落としつつ、あたしは声を上げていた。だってなんて寂しいことを言うの、そんなことを言っちゃうんなら、あたしが断然付き合うよ、と。こんなじーさんとばーさんが二人でやってて、お冷もなかなか出てこなくて、クーラーも暖房もない傾きかけた店でいいなら、あたしが何度だって付き合うって。
「あ……ありがとう。黒川さん」
「立夏でいいよ」
「……ありがとう、り、……立夏さん」
「立夏でいいってば」
「……黒川さん」
おっと離れた。
まるで一進一退の攻防――野生の動物を手なづけようとしているみたいな、微妙な距離のせめぎあいだ。
でも。
「本当に、また、誘うよー。今度は美代子……加瀬《かせ》美代子も誘って三人で一緒に来ようよ」
「うん。……楽しみに、してる」
「約束約束」
緑の求肥《ぎゅうひ》をもちもちと噛む彼女の笑顔を前に、あたしも自然と笑ってしまっていた。微笑みをかわしつつ、あたしは餅にかぶりつく。もちもちもち、と噛んで、飲んだ。松澤さんも求肥をもちもちもち、と噛みしめて、やがてごくん、と飲み込んで、続いてそのままもう一個……連続求肥、いった。松澤さんは大人しくて、静かで、やっぱりちょっと変。
「松澤さんは、求肥、好き?」
「……うん。結構、好き。……すあまとか……そういう系、嫌いじゃない……」
「そっかー。なんかわかる。味、イコール、甘い、みたいのがいいんだね」
「……だと、思う」
うんうん、いっぱい食べな、求肥。平和な気持ちでしるこをすすりつつ、求肥を噛む松澤さんを、あたしはいつまでだって眺めていたかった。
いつの間にやら、すっかり松澤さんにハートを掴まれていたのだ。もっと変なところが見たくて、もっと喜ばせてあげたくて、要は友達になりたくなってしまっていた。
なぜならすごく、いい子だと思えたから。ここにはあたしが強引に引っ張って来たのに、こんなに喜んでくれるなんて思ってもみなかった。
ぽつぽつと零《こぼ》される彼女の言葉には、ひとっかけらの飾り気も、自分をよく見せようという欲もないみたいに聞こえた。全部が真剣で、痛いほどに真摯。そんな言葉を受け止めて、ちょっとぼんやりした、だけど恥ずかしそうな表情を見ていると、あたしは心から「ウエルカーム!」な気分になる。こんなあたしでいいなら、こんなあたしといることを喜んでくれるなら、って。
「松澤さん」
「……ん?」
「塩昆布、あげるよ」
「……いいの? 貴重な塩っけ……」
「いいよ、おいしいからあげる」
「ありがと……」
へへへ、へへへ、と見詰め合って笑い合い、もはや会話もいらねえぜ、なんていう境地に達しそうなあたしたち。美代子とのどつきあいの日々も愛しいが、こんな穏やかな、お互いに好意をチラ見せし合っては照れ合うようなのもいいじゃない。
きっと誰だって、こんな松澤さんを知ったら――と、その瞬間だった。う、と餅が、喉に詰まりかけた。胸が冷たく塞がったせいだ。
自分がここにいる理由を、唐突にあたしは思い出してしまっていた。
誰だって、松澤さんを好きになる。あたしはそう思う。多分……だから。そうだ。
多分、航も。
そんなことに、わざわざこんなときに、思い当たってしまった。
「……黒川、さん……?」
やだ――もう。やだ。
「……」
「……りっ……」
「……」
「……黒川、ちゃん……」
「……そっちに、いったか……って、いうか……っ……ちょっと、ごめ……っ」
ごめんなさい。
松澤さん。ほんとごめん。ごめん。
痛い女でごめん、せっかく楽しくなりそうだったのに、ごめん。
どうしようもないぐちゃぐちゃな部分がふとした瞬間にぱっくりと開いて、覗き込まずにはいられなくて、そして、あたしは涙を止められなくなっていた。情緒不安定なのだ――どうにもできない。他に客もいるというのに……じーさんだってそこにいるのに。
せっかくのおしるこに、ボタボタと涙が滴った。顔を覆っても、顎を伝う涙はもう隠しようもない。どうしよう。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
どうしよう。蛇口壊れた。
あたし、泣いてしまっている。航を完全に失うという恐怖が、全身を氷のように冷やしていく。
「……これ」
松澤さんのかすかな声が、パニックでぐちゃぐちゃな耳に鈴の音のように響いた。
「……これ……あげる……」
そして、おしるこの中。真っ赤な砂糖漬けのさくらんぼがひとつ、転がされた。松澤さんが自分のあんみつから、てっぺんのそいつを分けてくれたのだ。
必死にそれを、口に放り込んだ。涙の海に沈まないうちに。甘いシロップが舌に染みて、柔らかな果肉が喉を落ちた。
その優しさに――打ちのめされた。
黒川立夏は、最低女だ。
おごってあげる、などと言っておいて、新しい友達を店に残して会計もせずに逃げ出したのだ。
***
なにがどうしたって、悪いのはあたしなのだった。
「……ごめん。昨日は本当に……ほんっっっとうに、ごめん」
朝一番、登校するなり向かったのは、松澤さんの席。松澤さんは普段と変わらない、なにを考えているのかわかりにくい顔をして、あたしが差し出したものを見ていた。
それは、五百二十円――あんみつとおしるこの代金、ぴったり。
「あ……これって……?」
「昨日の。ごめん、あたしあんなふうに帰っちゃったりして……夜のうちに電話して謝らないと、って思ったんだけど、気まずくて……本当にごめん!」
頭を下げ、小銭を松澤さんに向かってずずい、と差し出す。しかしいつまで経っても小銭を受け取ってくれる気配はなく、
「松澤さん〜、お願い、これ、受け取って〜!」
ほとんど泣きが入ったときだった。
「あ、あの……昨日は……大丈夫、だった?」
「……え?」
顔を上げ、思わず松澤さんの顔を見つめてしまった。がく、っとコケたくなるようなタイミングで、
「……元気、出して……」
蚊の鳴くような声とは裏腹、力強く何度も何度も頷いてみせてくれるのだ。お金は宙に浮いたまま、行き場をなくしてあたしを困らせまくっている。
「あ、ありがと」
「それで、その……お金は、いいから」
「だめだよ!」
それとこれとは話は別だ。おごると言ったのも、連れていったのも、全部このあたしなのだ。いくらあたしが失恋直前の悲劇状態だからって、そういうわけにはいかない。
「はい! 受け取って!」
「……いいの」
「だめ! これは松澤さんの!」
お金を握った拳でぐりぐりと松澤さんの手元を小突いてやるが、しかし松澤さんは「んーん、んーん」と頑固に口を結んだまま首を横に振る。それだけでは飽き足らなかったか、両手を机の中に突っ込んでまで「んーん!」と絶対拒否の構え。
「だめだめだめ! 受け取ってってば! さあ、手を出すんだ!」
袖を引っつかんでグイグイ引っ張ってやるが、それでも松澤さんは机にしがみついて受け取ろうとはしない。なんて意固地なのだろう、いっそ机ごとひっくり返したろかい、と思ったそのとき、
「じ、実は……」
松澤さんが、口を開いた。
「実は、思ってたの……。昨日……黒川さんが、帰ってしまってから。……どうやったら、私、黒川さんを元気付けてあげられるかな、って……それで……私が、昨日の分は、ご馳走してあげよう、って……へ、変、だよね。変ってわかってるけど、でも、そう……思って……それに」
いったん口ごもった松澤さんの頬が、至近距離でぽわぽわぽわ、と薄桃色に染まる。
「……それに……『今度は、じゃあ、黒川さんがご馳走してね』って言えば……次の約束も……し、しやすいかな、とか……」
「……」
「変なこと言ってごめん、でも……だから……昨日の分は、私がおごりたいの」
もう、声も出なかった。
グッときた、どころではなかったのだ。ぶっとばされた、という感じ。
あたしは松澤さんにしがみついて、大声を上げて泣きたかった。あんた、なんていい奴なの。かわいい奴なの。こんなあたしなんかに、あんたはそこまで優しくしてくれるの。こんなあたしと、寄り道したがってくれるの。
「ま、松澤さん……っ」
「あのね。……本当は、おととい、話しかけてくれたときから、ずっと考えてた。……どうやったら黒川さんたちと、仲良くなれるのかなあ、って……あのとき、嬉しかったの……だから、とにかく私……あっ……」
だめだ。
教室の中だというのに、あたしのこめかみはカッと熱を持ち、唇は震え始めている、目の縁も熱く、鼻の奥がじわりと痛い。
だって、松澤さんが優しいんだもの。
あたし、すっごくこの人のこと、好きになりそうなんだもの。
ってことはきっと航も――昨日のあの最悪事件と、以下同文。いやだ、だめ、二度とあんなみっともない真似はだめ。松澤さんを困らせたくないし、みっともないし、なにより航に見られたくない。
フオオ! と必死にやる気を出して、全力で袖口で目元を拭った。そして唇を噛み締め、漏れそうになる嗚咽《おえつ》を飲み込もうと、
「ふえ……っ……うっ……」
「ま、まんぼ!」
飲み込もうと――なんだって?
「……ま、松澤さん……?」
衝撃の事態だった。
突然「まんぼ」と叫んだ松澤さんは、椅子から立ち上がり、片足をピョンと跳ね上げて両手でピースを作っていた。涙? そんなもん、今の衝撃で全部蒸発したわ。
「あんた、い、今……まんぼ、って……」
「……一番、好きな、冗談。……元気、出るかな、って」
「……う、うーん……」
「……ポーズはね、オリジナル」
松澤さん。
それ、おもしろくないよ。おもしろくない、けど、
「……だ、だめかな……?」
「う、……う、ひゃ……あはは……あ、ははははははははは!」
死ぬほど、笑えた。
おもしろくなさがおもしろくて、照れる松澤さんの表情がおもしろくて、どうしようもなく腹筋が……腹筋が!
「あはははははははっ、あははっ、あはははっ、ひー苦しい! ひい、ひいひいひい……あひゃひゃひゃひゃひゃ! もう、だめえーっ!」
腰が砕けて、床に転げた。床をばんばん叩いてひいひい言った。それでも笑いは止まらなくて、誰かが「立夏がまたばかだ!」と言ったのが聞こえたけど、それでもあたしは笑い続けた。止まらねー!
そうやって漏らしそうになるほど笑い続け、そして同時に、ああ、もうしょうがないんだ、と泣いてもいたのだ。
松澤さんは最高。大好き。親しくなりたい、友達になりたい。航が同じように思っても、しょうがない。あきらめなくちゃいけない。
あきらめなくちゃ、いけないんだ。最初っから、そうだったんだ。あのときに――あの三月に、もう、終わってたんだ。
「だ、大丈夫……?」
「ひい、ひ、ひ、ひ……ひい……苦し……っ」
涙をボロボロ流しつつ、あたしは松澤さんの手をとった。その手にすがって、なんとか立ち上がった。笑いを収め、涙を拭い、あたしと松澤さんはその朝のうちに、今日の帰りの寄り道の約束をしたのだった。
そうやってあたしたちは、とうとう本格的に、友達になった。
***
甘味屋へ行く前にその場所に案内しようと思い立ったのは、松澤さんがこっちに引っ越してきてまだ一年も経っていない、と聞いた瞬間だった。
引っ越してくるなり受験シーズンが始まり、観光も名所めぐりもまだしていないと言うのだ。
「ま、名所ってほどじゃないけどさ、あたしにとってはこの辺で一番のスボットだよー」
「……そう、なの?」
「そー」
乾いた海沿いの道を、あたしは防波堤に飛び乗ってその上を、松澤さんはあたしを眩しそうに眺めながら下の歩道を歩いていく。今日の波は上々。ウエットスーツを半脱ぎにしたサーファーが、真っ白な砂浜をそれはもう嬉しそうにカニを追いかけて走っている。もちろん波間で波に揉まれてるのもいるし、それでもなお全身で「海、好き!」と叫ぶみたいに笑っているのもいる。
「……天気、いいね……」
松澤さんが少ししんどそうに呟いて、額の汗を拭った。空を見上げ、猫みたいに目を細める。
「大丈夫? 疲れた?」
「ううん、平気……ただ……空が、広いなー、って」
「田舎だもん。町にあるみたいなビルもないし、空気も綺麗だし」
「……空に、手が届きそう。叫んだら声も届くかも……雲とか、そのもっと上とかにも……」
「あー、届きかねないねえ」
「……ほんと?」
子供のように松澤さんは目を丸くし、嬉しそうに空へ向かって手を伸ばして見せた。まるでうさぎの耳を手で作るようなポーズで、おーい、などと声を上げている。
ばかだなあ、と思いつつ、おもしろいのであたしは好きにやらせておくことにした。おもしろいし、かわいいし。もしも部活がなくて美代子がここにいたら、さっそく松澤さんをどついているかもしれないけど。奴は遊び心のない女だから。
でも、あたしは美代子とは違うんだぜ。
「今から、もっと空に近いところに連れてってあげるから、そうあせるなって」
あたしは防波堤から飛び降りて、山の中へ入っていく森の切れ目を指差してやった。
重なる枝のトンネルをくぐり抜け、腰ほどの高さの石段を這い上がり、時に蚊の群れの中に顔面から突っ込み、あたしと松澤さんは森の中を黙々と進んだ。しゃべるな、とあたしが言ったのだ。口を不用意に開ければ蚊だけじゃなくて、蜘蛛の巣やらなにやら、とにかくいろんな虫が飛び込んでくるから。
ローファーとスカートでは少々過酷だったかも知れない森の道をやがて抜け、
「……わあ……」
低いテンションで、しかし目だけは輝かせ、松澤さんは声を上げた。
人の手が入っていない、多分誰かの私有地の山の頂上。
森は突然に一方向だけに開け、大パノラマ――ってのは言いすぎかもしれない。けれど、眼下に真っ青な海と、海を取り巻く湾、砂浜に迫る濃い緑の山々、空の彼方の山脈、あたしにとっては世界の果てまで一望のもとに広がる景色が見られるのだ。
誰も知らない、多分、あたしだけの展望台。
どこまでも広がる空に包まれる、秘密の場所。
「景色、いいでしょ? 気に入った?」
「……」
松澤さんは声も上げず、ただ目を大きく見開いて、深呼吸でもするみたいなポーズ[#底本では「ス」]で空と海を眺めている。よかった、気に入ったみたいだ。
邪魔をしないようにあたしはそっと切り株のひとつに腰掛け、額を濡らす汗を拭った。喜んでもらえて本当によかった。秘密の場所を明かしてやった甲斐があったってものだ。
そう――ここはあたしの秘密の場所。と、いうことにしている。
小学生の頃に航とはぐれ、一人で迷い込んでここを見つけたのだ。以来、ここのことは航にも誰にも話していない。松澤さんという新しい友達、この町にやってきた新しい女の子のためにだけ、あたしは自分以外の人間の侵入を許した(多分、この山の持ち主は普通に入ってるんだろうけど)。
そこここの木の根元、腐った切り株の奥、堀り返した土の下……あたしの誰にも知られたくない秘密が、ここにはたくさん埋められている。親には見せられない答案や、授業中にやりとりした手紙。書き終わった日記。ケンカした元友達から送られた、不幸の手紙。
埋まっているのならいい方で、中には苛立ちにまかせて引き裂いて、海にむかってばらまいたものもある。どうせ雨が降れば土に還るのだから、と。
それから――涙や、悪口や、そういうものも。ドス黒い感情、二度と見たくない感情も、ここにはたくさん埋葬されている。ここにこうして座って、あたしは何度泣いただろう。誰かの悪口を唸りながら、しかし日常には持ち込むまい、と。
「ここは……黒川さんが、見つけたの?」
松澤さんが振り向いて、尋ねる。
「そうだよ。あたしの、なんていうか……ゴミ捨て場。本当のゴミなんかもちろん捨てないけど、土に還りそうな手紙とか答案とか、とっておけないものを埋めちゃうの。それかビリビリに破いて、ここからパッ、ってばらまいちゃう」
感情まで、捨てちゃうの……とは、さすがに言わなかった。
だって、今まさにそうしようとしているから。そう。ちょうどよかったのだ。
松澤さんをここに連れてくるには、今日は本当にうってつけだった。ちょうどそろそろ、ここに来なくちゃと思っていた。
航への思いを、捨てるために。
執着を捨てる。勝手な想いも捨てる。全部、ビリビリに破って空に放る。航との可能性をいっぱいに抱えた松澤さんの傍らでなら、想いも散り甲斐があるってものだろう。
涙はもう枯れるほど流したから、今はこうして思うだけで――心の中で唱えるだけで、捨て去るのだ。さよなら、航。これでもうあたしたちは――
「私も、捨てていい?」
「え?」
「捨てなくちゃいけないものが、あるの」
感傷的な気分をぶち破る、松澤さんの抑揚のない声。止める間もなく跪《ひざまず》いてカバンを開き、松澤さんは中から数枚のレポート用紙をつかみ出した。
あ。
それって。
――うそ。
「……捨てるの。これ……」
白い手がためらいもなく、意外なほど残酷にひきちぎっていくその紙片。音を立ててちぎられ、裂かれ、風に乗って空ヘ――
「だ……」
ダッシュしていた。
「だめだよぉっっっ!」
松澤さんの手に飛びつくようにして、舞い上がる紙片を奪い取る。飛ばされた数枚を追って、迷うことなく斜面へ駆け出す。
「く、黒川、さん……っ……あぶない……!」
「やだやだやだもう、なにやってんのー!? なんで捨てちゃうのさ!? 捨てるのは、あたしの方だよ!? あたしには望みなんかないんだから、どうせ嫌われてるんだから!」
枯葉の上に散った真っ白な紙片をなんとか拾い集めようと這い回り、あやうく斜面に足を取られかける。
「えっ? な、なんの、こと……?」
「なんのこともなにも――って、なにしてんのー!?」
「あ、あ、あ……ごめん、ごめん、ごめん……」
そして、なおも這い回るあたしの背中めがけて、松澤さんはずるずると……多分、斜面を覗き込もうとして足を滑らせたのだろう。尻から落ちてきたのだ。
「……ごめん……」
「わっ、ちょっと、なに落ち着いて……う、うそっ!?」
足の踏ん張りがきかなくなって、あたしと松澤さんは団子状態のまま、ゆっくりと斜面を転がり落ちていく。手の届きそうな弦や木の根を掴もうとするが、むなしく指先は宙を掴む。
「あ、あのね、黒川さん、あの手紙はね、」
「今そんな話してる場合じゃないってばっ! 気づいてよ、あたしら落ちてるっ!」
「その……あれは、元々、出すつもりのない手紙、だったの。だから、拾ってくれなくて、よかったの」
「はあー!? な、なんで!? 出すつもりのないって……だって、なんでよ!? あたしはもう、航のことは諦めるって決めたのにっ! 見たんだから! 田村くんへ、って……あれ、航への手紙じゃんっ!」
ずるずるずる、と斜面を滑り落ちながら、あたしと松澤さんはもはや枯葉だらけ、土まみれ。上になったり下になったり、スカートもめくれて、あたしは今パンツ丸出しだ。
「航、くん……? あ……。……田村……航、くん……?」
「なにボケてんのっ! 他に田村くんがいる!?」
「いる」
やっと指先が、がっしりと太い木の幹を掴まえた。片手で松澤さんのおなかをしっかり抱え、ようやく急な斜面の途中、あたしたちの落下は止まった。
それとまったく、同じタイミングだった。
「……田村、雪貞《ゆきさだ》、くん」
ぎゃあぎゃあぎゃあ――情緒もへったくれもない声で鳥が鳴くのが聞こえた。
「ゆき……な、なにその武士、みたいな……」
頭は混乱するし、松澤さんは何を言ってるんだかよくわからないし、這い上がらなくちゃいけない高さを見てうんざりするし。うわ、膝できのこ潰してるし。
最悪状態のあたしの耳に、その松澤さんの声は妙に透き通って、綺麗に聞こえた。
それが、私の田村くん――と。
信じられない誤解だった。
松澤さんが手紙を書いていた相手の「田村くん」は、「田村航くん」ではなくて「田村雪貞くん」だったのだ。なんでも、引っ越す前の中学校の同級生で、
「好きなんだ?」
と、いうことだった。……返事なんか聞かなくても、息を詰めて目を線にし、ぽわぽわと真っ赤になった松澤さんの顔を見れば答えは一目瞭然。
特別にかっこよくはないらしい。特別に成績がいいわけでもなくて、特別に運動ができるわけでもなくて、趣味は鎌倉時代らしい――なに、それ。
だけどそんな「田村くん」が、松澤さんにとっては特別な、たった一人の男の子なのだった。あたしにとっての航がそうであるように。
「はい、そっちの脛《すね》もこれ貼りな。血が出てる」
「……うん……」
あたしたちは二人して切り株に座り、その辺で摘んだドクダミの葉を軽く揉《も》んで擦《す》り傷に貼り付けまくっていた。そうしてぷんぷん匂うドクダミの香りの中、恋バナは怒濤の濃厚さを漂わせていたのだ。
あたしは航との苦い日々を告白し、そして松澤さんも、ちょっとおかしな田村くんのことを話してくれた。時間なんかいくらあっても足りないぐらい。あたしたちはぐじぐじぐじぐじ、詮無いことを喋り続けていた。ドクダミを揉みながら、だ。
「にしてもなあ。遠距離かあ。……先に告白してくれたのが田村くんとはいえ、ねえ」
「……もう、先とか、後とか、あんまり関係ないと思う……」
頬の赤みも引いて、普段とかわりなく見える松澤さんの白い横顔には、しかしかすかな懊悩《おうのう》の色――いや、単にドクダミが臭いだけかも。
「……怖いの。こうやって音信不通になってしまって……それで、もう、忘れられちゃうのかな、とか……」
その手のひらには、破ってしまった手紙の紙片。会いたいです、と読めた言葉のきれっぱしは一応全部集めたはずだけど、こうなってしまっては復元は無理だろう。
「でもさあ、それならなんでその手紙、出さないん? 松澤さんが勇気を出してそれを出せば、ぜんぶ解決するんじゃない?」
「……だめ」
首を横に振る様子は、ものすごく意固地。
「これは、最初から出すつもりじゃなかったの……ただ書いて、自分の気持ちを整理してただけ。だって……出して、それで、本当に返事がこなかったら……私はもう、どうしようもなくなっちゃうから。……想像の中でさえ、希望をもてなくなっちゃう……」
「ばっかだねえ〜」
というのが、正直な気持ちだった。すこし悲しそうな顔になった松澤さんの目の前、容赦なんかしないであたしは言ってやることにする。
「そんなふうに悩んでる暇があったら、手紙でも電話でも、さっさと連絡すればいいのに! 悩むのは、本当に返事が来なくなってからにしなよ! そうやってる間に余計時間が経っちゃうんじゃん! そうしたら余計に話しづらくなるんじゃん! それってまるで、あたしと航みたい……って……あれ、なんか……落ち込んだかも」
容赦をなくすのは、今度は松澤さんの番らしい。
「……そうだよ。……そんなに気にしているなら、黒川さんだって話しかけてみればいいのに……無視しあってたら、どんどん気まずくなるよ……私と田村くんみたいに」
――二人して、無言。
どちらも正論だった。言った本人が無言になってしまうぐらいには。
「……お互い、他人のことはよくわかるのにねえ」
「そう、だね。……自分のことは、どうにもできないのにね……」
ガキなんだ、結局あたしたち。とにかくそれだけはよーくわかって、ドクダミの苦い香りの中、あたしも松澤さんも深いため息を順番についた。
やがて、遅い日暮れが訪れて、少しずつ辺りは翳《かげ》り始めていた。
ちょっと慌てて山を降りて、ボロボロのなりのまま海沿いの道に出る。ほとんどヤケになって、あたしたちは予定通り甘味屋へ進路をとった。こんな日には甘いものでも食べなければやっていけない、という合意に達したのだ。
そして、あたしの前には冷やし白玉ぜんざい。
松澤さんの前にはクリームあんみつ。
お互いの甘味の頂にのった赤いチェリーに誓う。
「……あたしは、航に声をかけてみる」
「……そうしたら、私は、……田村くんに手紙を出す」
スプーンをカチン、と音を立てて合わせ、誓いは成った。あたしも松澤さんもすり傷だらけの満身創痍《まんしんそうい》、どこまでもどこまでも、真剣だったのだ。
***
迷って、迷って、迷いまくって、迷ったままで待ち伏せしてしまった交差点。
「おはよう!」
――しびれかけて真っ白な頭の中を悟られないよう、声をかけてすぐに、あたしは航を追い越した。一瞬、航はぎょっとしたように立ち止まったみたいだったけれど、そんな様子もろくに見ないまま。
朝の通学路、学校まであと数分の横断歩道。
目が合ったのだ。見つかっちゃった。その瞬間、決めた。逃げない。言う言葉は、おはよう。
おかしくなかっただろうか、変に思われているだろうか……超のつく緊張状態のままで声を発したのはいいけれど、ああ、やっぱり逃げたいよ!
爆発しそうな心臓を抱えたまま、必死も必死、超必死に、ほどほどの歩調を保つ、航の返事はない。やっぱりこのまま無視されるのだろうか――そうなのかも、しれない、でも、そのときはそのときだ。
今朝も朝から太陽が絶好調に照ってるというのに、風もなくて白っぽく光る歩道もポカボカ暖まっているというのに、あたしの背骨はガチガチに凍って今にも砕け散りそうだった。震えていたのだ、ガクガクと。
だけど、
「り……立夏!」
――心臓が、止まる。
「ん? なによ?」
かすれた声。
涙が出るほど懐かしい航の声が、あたしの名を呼んだ。
何気ない風を装って振り向くと、航は不自然に足元を見つめながら、早足であたしの後を追ってきていた。そして、
「……なんでおまえ……最近、ずっと……なんか、変な態度だったん?」
乾いた唇を舐めながら、子供のように口を曲げる。眩しい日差しをいやがるみたいに目を眇め、不器用にそっぽを向いたまま。
硬くなる喉。逃げ出したくなる足。
どうか神様――あたし、普通に振舞っているように見えますように。
「なーに、忘れたの? あんた、あたしのことうざいって言ったでしょ。だからちょっと離れてあげてたのよ」
「な、」
ぽかん、と口をあけ、やっと航の目があたしの顔を見る。
「……いつ、うざがったよ」
「忘れたん? やだねえ、これだから……卒業式の後の集まりのとき、あんたあたしにうざいって言ったじゃん」
「それは! ……ただ、あれだろ。……他の奴らが、見てたから……なんでそれだけのことで、こんな……」
こんな、ともう一度呟いたきり、航は息をついて言葉を途切れさせた。
伏せたその目の中に、あたしがはっきりと見たものは――
「そう……だったん?」
深い、傷のようなものだった。と、思う。
「……そうだよ」
「ごめんよ」
「……いーよ」
――たった、それだけだった。おはよう。そうだったん。ごめんよ。いーよ。……それだけ。
酸素を胸いっぱいに吸い込んで、吐いて……終わった。
それだけのことで、あたしと航の日々は、再び繋がったのだった。そしてあたしはあの日々が、航にとっても痛手だったとわかったことが――なんというか、ショックだった。
自分だって、無防備に航を傷つけていたのだ。航が無防備にあたしを傷つけたのと同じように。傷つけているなんて、そんなこともわかってなかった。傷ついているのはあたしだけだと、あまりにもばかなことに思い込んでいたのだ。
そういうことがやっとわかって、そして、……結論はまだ出ない。恋はまだ、始まらない。とにかくあたしは航を見つめたまま、好きになってもらえる日を、ひたすら待ってみることにした。注意深く、背中のトゲを今まで以上に敏感に尖らせて。
そして、誓いはどうなったかと言うと――
「立夏ちゃん……」
「あんた、なにしてんの。さぼんなって」
あたしが航との日々を取り戻して、ほんの数日後。あたしは陸上部のマネージャーになっていた。美代子も美術部があるし、前々からなにか部活には入りたいとは思っていたのだ。そうしたら小巻がスカウトしてくれた。あたしは二つ返事でホイホイと話に乗り、今や後悔しきり――なんでマネージャーがハードルを抱えて走り回らないといけないんだっちゅーねん。筋トレだよ、これじゃあ。
部活はとっくに始まっていて、柔軟を終えた部員たちはグラウンドを走り始めている。あたしはコーチの指示で、ハードルを並べる重労働中。しかし小巻はランニングの列を離れ、まっすぐにあたしの方へ向かってくる。
「みんな走ってるよ! ほら、行った行った!」
「いや、その……あのね……あの……教室では、ずっと言えなかったんだけど……ちょっと、話したいことが……」
口ごもる小巻は足だけはその場でランニングをして、しかしなにやら深刻そうだ。
「なにさ、用があるなら早く言いなって。コーチも先輩も見てるよ。ハードルも重いし」
「その……昨日……前の中学のクラス委員長から電話がきて……田村くん、なんか……ある女の子と、仲良くしてるみたい……」
ガシャン、と、あたしは運んでいたハードルを取り落としていた。足の甲にぶつかって死ぬほど痛かったけれど、それどころではない。
「な……なんだってー!?」
「……なんでもなにも……わかんないけど……急接近、なんだって……」
そんなばかな。一体ぜんたい、どういう男なのその田村雪貞って。
こんなにかわいい小巻を、こんなにおもしろい小巻を、放っておいて平気でいて、それで別の女に目を向けるなんて。
呆然としたね。
許せない、と思ったね。
そして、悟ったね。
「ついに来たね……手紙を出すべきときが。ベストなタイミンクが」
そうかな、と小巻はあたしを見つめた。
そうだよ、とあたしは頷いてみせた。
今まで出さないでいてよかったのだ。今こそが、そのときだったんだわ。
「はっきり書いてやりな! 筆ペンで、思いっきりでかく書いてやりな! その女ってなにさ!? あんたあたしのなんなのさ!? って!」
小巻はその場ランニングを続けながらたっぷり五秒は考え込み、やがて、
「……そう……だね。……そうする」
頷いた。透けてしまいそうな白い顔は相変わらずぼんやりしていたけれど、その声はいつもより、ちょっとだけ力強く感じられた。
「あたし……手紙、出す」
口の悪いコーチが遠くで「松澤ー! 黒川ー! さぼんなぼけー!」などと叫んでいたが、あたしと小巻はそれどころではなかった。チェリーの誓いの大ピンチなのだ。
小巻はグラウンドの真ん中に佇み、
「……出す、からね……」
まるで誰かに話しかけているみたいに、いつまでも真昼の月を見上げていた。
[#地付き]おわり