とらドラ10!
竹宮ゆゆこ
***
「あ? なんだおまえか。お母さんはまだ……は? 伝言? やだね知らねえよそんなもん自分で言えって」
つかえねえな、と舌打ちされ、「なーにぃ?」とパーカーの紐を強く引いた。きゅっとフードが窄《すぼ》まって、電話の向こうからはバーニィ! ――かつて姉弟の間でプチ流行した独特の言い方≠ェ返ってくる。嘘だと言ってよバーニィ! 切迫感たっぷりにそう叫ぶだけで昔は随分笑えたものだが、
「ってか、用があんならお母さんの携帯にかければいいのに」
かけたけど繋がんなかったの! 不機嫌に言い返してくる弟の声音に、もっと不機嫌に、より感じ悪く返してやりたくて、見えもしない電話越しに唇を力いっぱい歪めた。
「寒いんだよこっちは! アホ! おまえ如きの電話に呼ばれて廊下まで出てこさせられて、いい迷惑なんだよ!」
子機で出ろよ! 「こきぃ!?」子機わかんねえのかよ!? 「どっかいっちまったよ!」
実際、寒いのだ。炬燵《こたつ》の中で靴下は脱いでしまって裸足だし、電話が置いてある玄関前の板張りの廊下は体感気温で氷点下だ。恐ろしいことに家の中だというのに息まで白い。知るかよブース! と電話口で喚き返された声を聞き、この野郎、とさらに強くパーカーの紐を凍える片手に巻きつける。背中でフードはぐしゃぐしゃになる。
「てめえマジ次帰ってきたときぶっころ……あ。お母さんかな?」
玄関に大きく鍵を開く音が響き、コートを着込んだ母親が買い物袋片手に帰ってきた。電話を差し出し、みどりー、とだけ言う。寮に暮らす弟からの電話だとそれで充分正しく伝わってもつしもーし!? とテンション高めの浮かれ声が響き渡る。
「ったくもー、声がいちいちでかいんだよ……」
買い物袋を台所へ運んでおいてやろうとして、そのとき、母親のコートに光る粒がついているのに気がついた。雨かと一瞬思いかけて、
「……あれ? うっそ」
素足のままで玄関に向かう。ローファーをつっかけて冷たい鉄のドアを開き、マンションの外廊下に駆け出して、胸に染みるような冷たい空気に驚く。
さもありなん、だ。
四階から見下ろした町には、いつしか雪が降り始めていた。夜空に小さな羽根が無数に舞っているようで、思わず寒さも忘れて外へ身を乗り出した。雪など修学旅行で嫌というほど味わったが、自分の暮らす町に降るのはまた特別なのだ。
「わーお! ……きれい」
部屋に戻り、親友にメールを送ろうか。雪だよ、気づいてるか? すっごいきれい。ねえ、外を見てごらん。今なにしてるの。
「ホワイトバレンタインデー……それじゃホワイトデーみたいか。なんて言うんだろ」
しかしそのまま動き出しはせずに、舞い踊る雪の空に目を凝らす。写真を撮るみたいに、両手の親指と人差し指を直角にして合わせ、切り取った四角形の中を覗き込む。
今宵は聖なるバレンタインデー。
この雪は天からの贈り物なのかもしれない。素直になれない誰かさんたちを、ほんの暫しの短い時でも、あれこれ複雑な日常から隔ててしまう純白の天幕が張られたみたいだ。
ならば降りたまえ、と両手をさらに凍える夜空へ伸ばした。口を閉ざし、目も閉ざし、メールも送らずに私はここにいよう。指を開いて雪を受け止める手の平は、薄く、小さく、頼りなく見えた。この手が触れた熱が、今も塗り重なる色鮮やかな想いが、交わされた言葉の記憶が、蒸発していく温度とともに天に昇っていく気がした。
そして水の粒となり、やがて雲の中で凍らされ、再び世界に降ればいい。この体温がみんなの上に降り注ぐのだ。輝けるダイヤモンドダストになって音もなく――
「ねえちょっとお姉ちゃん! 味噌と醤油とんこつあるんだけど、どっちがいい!?」
――玄関から顔を出した母親の手にはガッサガサ! 冷凍ラーメンの袋が掴まれており。
「……台無しだぜ、マーマ……!」
呻《うめ》いてがっくり頭を抱えた。ったくもう、これだから、これだから……前髪を掻き、雪舞う夜空を再び見上げる。
こんなもん、なのかもしれない。結局こっちは今夜もこんな調子なんだぜ。限界まで引っ張ったパーカーの紐をぐりぐり指に巻きつけて、真っ白な息を夜の空に長く吐く。降り続ける雪もこの息も、世界を隔てる幕の一部になればいい。この世のどこかでようやく向かいあっているはずの二人を、卵の殻みたいに守る純白の防御壁になればいい。
二人きりなら、誰にも見られていないなら、奴らもきっと素直になって秘密の時を分けあえるだろうから。
母親が顔を覗かせている玄関に戻ると見せかけて、思いっきり上体を捻る。足をクロスさせてくるんと夜空に再び向きあい、ねえ、世界のみなさん! ――胸いっぱいに凍てつく空気を吸い込む。余計なものどもの視線を集めるみたいに芝居がかった大仰さで両手を広げる。
「ラーメン屋でバイトしてきた娘にラーメン食わせるお母さんってどうよぉぉぉぉ!?」
「あんた……やめてよ……」
はっはっはっは、と笑いながら、今度こそ明かりの漏れる玄関へと入っていった。視界には入らなかった目下の河にかかる大きな橋を、そのとき、漆黒のスポーツカーが命をもっているかのようななめらかな動きで数台の車を追い抜きながら渡っている。
***
通り過ぎるダークカラーの車すべてが、母のポルシェに見えていた。
交差点の、歩道の隅。閉店した美容院の看板の陰に隠れるようにして、息を詰めて赤信号が変わるそのときを待つ。永遠に変わらないかもしれないとさえ思える、強い、赤い光に照らされ、空から降る灰みたいに雪はひらひらと舞い踊る。
寒い、と言いたかった。
雪は積もるかな、と言いたかった。
「……」
竜児、と声をかけようとして、しかし、声は喉の奥で凍ってしまったようだった。なにも言えないまま、鼻先まで伸びた前髪についた雪を息でフッと飛ばす。
なにかを口にしてしまえば、言葉はきっと続いていく。竜児、私たちどこへ行くの? どうするの? これからどうなるの? ――それが言えないなら、黙っているしかない。
目の前の交差点を、速度出しすぎの巨大なトラックが荷台を軋ませながらカーブしていく。まるで誰かを脅したいみたいに、その耳障りな音は人気のない夜の住宅街に甲高く響く。心ならずも少しビビって、ブーツの足を踏みかえる。爪先から骨伝い、凍るアスファルトの冷たさが染みる。
右手はずっと、竜児の左手に預けてあった。竜児はずっと黙っていて、その指は震え続けていた。何度か力を込めたり抜いたり、しかし震えは止められないようだった。
傍らに立つその横顔を見上げる。滲む輪郭は随分高い位置にあるような気がするが、手を伸ばせば爪先立ちしなくても届くかもしれない。きつく釣り上がった双眸は赤信号を睨みつけているみたいに見える。でも頬はきっと温かく、顎もなめらかだろう。色を失くした上唇の端に雪がひとつ、落ちた瞬間に溶けて消える。
触れたら最後、と目を逸らす。
恐ろしいほどの強い欲求は、繋いだ右手から染み込んできているのだ。もっと強く握り締めて、たぐり寄せて爪を立てて、引き裂くみたいにしてやりたい。しがみついて、牙を打ち込んでやりたい。この飢えと渇きを満たしたい。そして噛みつきながら心の中身を叫んで叩きつけてやれたら、と。
自分でもいまだ全貌の知れない、抱えたままでずっと行きつ戻りつしてきた想いのありったけを、まっすぐ蹴飛ばすみたいにぶつけたかった。そうしようと決めたのに、それなのに、今は名前を呼ぶこともできずに美容院の看板に隠れている。カットは四千五百円、ロングヘアはプラス千円、ブローは二千五百円。覚えてしまうほどその字面を眺めている。信号はまだ変わらない。
震えて竦《すく》んでいた背中を押してくれた親友は、こんなザマになっていることを知ったらどんな――
「……っ」
――どんな顔を、するんだろう。俯いた拍子に鼻水。すん、とすすって手の甲で擦る。その鼻の音を、竜児は堪えきれない涙だと勘違いしたのかもしれなかった。硬く握っていた手が不意に解かれ、
「あっ!?」
「……大声、あげんなよ。近所迷惑だろ。それに俺たち逃亡者だぞ」
思わず悲鳴のような声が出たのを咎められる。そういう竜児の言葉もぎくしゃくと、ずっとしゃべっていなかったせいで音量調節が効かないのか結構大きく響き渡る。
しかし構わず、竜児はおもむろに自分のダウンの中に巻き込んでいたカシミアのマフラーを外し、それを、
「えぇぇ……うそでしょ……」
「いいから。こうしてろ」
この首にそっと巻いてくれ――たわけではないのだ。すでに自前のマフラーがコートの下に巻いてある。竜児はマフラーを、頭に、雪を避けるようにほっかむりにしてくれたのだった。あまつさえ、顎の下でぎゅーっと結び目を作ってくれる。
「……どじょうひろいだよこれじゃ……!」
竜児は死人の地獄行きを宣言する閻魔大王かなにかのような目をして、
「どじょうは拾うものじゃねえ。すくうんだ」
ゆっくりと、噛み締めるように、低い声で呟く。その鼻先にまた雪が舞い落ちる。白い息が揺れて、
「……せめて一言、根回ししておけばよかったんだよな」
独り言のように続けて漏らされた言葉は意味不明。
「……なんのこと?」
「北村に。バイトの件は親には秘密だ、って」
目を合わせないまま、行き場のなくなった右手をそっと一人、握ってみる。開いてみる。また繋いでもらえるだろうか? でも。でも。でも。
信号はまだ変わらない。
***
――しかしながらいまだ結論を導き出すには時期尚早であると言わざるを得ない。以上。
――しかし、いまだ多くの異論が唱えられているのも事実である。以上。
――しかしながら今日《こんにち》まで、結論を得るには至っておらず、
「『意見の一致には至らない』……至るがかぶるか。『結論を得るには至っておらず、時期尚早であると』……『時期尚早であるとの説もある』……うーん。……おらず、をやめて『結論を得るには至っていない』、以上。よし、こんなもんか」
レポート用紙の束を注意深くまとめ、枚数をきちんと数え直す。三人分のレポートはそれぞれ十枚ずつ。あとは表紙をつけて、ホッチキスで止めれば完成だ。これで二千円×3、あわせて六千円。意識的に字体も変えているが、2Bのエンピツ、HBの0・3ミリシャーペン、太字青ボールペンと筆記具を使い分けたし、早々見破られることもないだろう。
鼻柱に食い込む眼鏡を外し、眉間を擦る。勢いをつけて思いっきり背を伸ばすと、バキボキすごい音が響く。肩を回し、首を回し、「んあぁあ〜い」と我ながらずばりおっさんそのものみたいな声で唸る。
小学生時代から使っているデスクの蛍光灯を消し、三つのレポートを汚さないよう重ねて脇に積んだ。一つの論文から三人分のレポートをでっちあげるという作業は「ちゃんと読みました、という証拠程度の内容でいい」にしても、結構つらいものだった。頭ではなく主に目と腕が。
兄の話によれば、最近はワープロ可(今の時代にワープロを使っている大学生がどれだけいるかは微妙だが)のレポートは少なくなりつつあるらしい。検索で引っかかったネット上の記事をそのまま貼りつけたり、資料の論文をスキャンしてコピー&ペーストでお手軽に済ませる学生が増えたとかで、手書き以外は不可という条件がついてくる場合があるという。高校二年生の「弟くん」にとっては、それがビジネスチャンスになったわけだ。さすがに専門科目の高度なものになるとちょっと手が出ないが、一般科目のレポート程度ならばマシンになって量産できる。
デスクの脇のコルクボードには、兄が寄越した「予約」のメモが貼ってあった。眼鏡をかけ直して覗き込む。有名私大をいくつも跨ぐ大規模サークルに籍を置く兄は顔が広く、これから学年末にかけては最高の稼ぎ時だ。枚数が多い代わりに一人前五千円、なんてものまである。部活はしばらく休むことにしたし、時間は作れる。
「千だろ、五百、千、……二千だろ、二千だろ、ここまででえーと二万八千の……」
指折り数えて、まだまだだな、と唇を引き締める。目下の問題は燃料サーチャージ。あとそうだ、忘れてはいけない。守銭奴の兄に一割持っていかれるのだった。
「一割って結構でかいな。くそ、なんとか……なんだ?」
窓の外から聞こえてきた、重い排気音に思わず顔を上げた。窮屈なイスに座ったままで腕を伸ばし、カーテンを開け、
「おお!」
雪が降り出しているのに驚いた。どうりで寒いはずだ、街灯の光の中を無数の雪が間断なく降り続く。そして、
「……おお……!」
雪の中を低速でこちらに向かってくる特徴的なヘッドライトに、思わずもう一声。響き渡る排気音はポルシェか。こんな住宅地にスポーツカーとは珍しい。
寒さに震え、カーテンを閉めた。暖房を入れようと立ち上がり、壁に貼りつけられたリモコンのスイッチを押す。古いエアコンの唸りの向こうで、外から響くエンジン音が不意に止んだのに気づく。続けて高く聞こえたのは、あの車のドアの音だろう。
うちの客なのか、もしかして。あんな車で乗りつけてくるような知り合いの顔は思い浮かばないが――ピンポーン、と考える隙も与えないタイミング、下からチャイムの音が響いた。母親の足音がして、「はい?」とインターホンに出るよそ行き声が聞こえる。
しばらく何事か話す声がしていたが、やがて階段を上がってくる足音。ドアがノックされ、母親が顔を覗かせる。なんともいえない微妙な表情で、
「ちょっと下りてきてくれる?」
その声は半分よそ行きのままだった。不吉の前兆だ、と身構える。
「俺? なに? ……どちらさま?」
「逢坂さんのお母様だって。あんたのクラスのさ、ほら、夏に川嶋さんの別荘に大勢で行ったときの子よね? なんだか……その、捜しているんだって。いなくなっちゃって」
逢坂大河がいなくなった――高須竜児も所在不明のこのときに。
反射的に、まずい、と思った。一瞬のうちに閃くように、想像のパズルが嵌《はま》っていく。あの電話だ。あのときから、なにか事が起きていたんだ。
ねえ〜北村くん、竜ちゃんがいないんだけどぉ、どこにいるか知ってるかなぁ〜? ――バカ正直に、返事をしてしまったが。
逢坂大河と高須竜児に、今日は特別なことが起きるかもしれない。起きてほしい、と思っていた。だから少し違うことがあってもそれでいいと思っていた。帰るはずの時間に帰らなくても、それでいいと。だから心配などはしなかった。ただほとんど無意識的に、二人の保護者は高須泰子だとも思っていたから、所在に関してウソはつけなかった。
両親は離婚していて一人で暮らしていると逢坂大河は言っていた。それがなぜ、このタイミングで、母親がこの町に、この家に現れる? 彼女を捜すなら、訪れるべき家はここではなくて例えば櫛枝家や高須家や――さっきの電話で捜されていたのは我が親友だけではなかったのか? 二人は一緒にいるのか? 一緒にどこかへ消えた? 消えたから捜されているのか? 捜されているから、消えたのか?
「どうしちゃったのかね……あんた、なにか知ってるの?」
ひそめられた母親の声に、答える代わりに部屋を出た。階段を下りながら考える。知らないから、考えなくてはならない。
1
策など当然ありはしなかった。
蜘蛛《くも》嫌いが蜘蛛の巣に気づかず顔面から突入してしまったように、蛇嫌いが蛇を踏んづけたみたいに、殺人犯が刑事と鉢合わせしてしまった時と同じに、竜児はクルリと方向転換、そのまま走って逃げ出したのだ。相手が本当に蜘蛛や蛇や刑事なら「戦う」コマンドも使えたかもしれない。でも、目の前に立ちはだかったのは母親だった。棍棒で殴りつけるわけにもいかず(そもそも棍棒なんて装備してない)……いや、言葉で与えたダメージは、棍棒でぶん殴るよりよほど大きいか。母親は――泰子は、顔を真っ青にして座り込んでしまっていた。
なのに振り返りもせず走り出したのだ。自分は。
「……うわ!」
「おう!? ……気をつけろ!」
バランスを崩した大河の手をとっさに握った。見開かれた大河の目が、一瞬強く光を放つ。握ったその手を強く引き上げる。ゆるく路面に溶ける雪に足を取られかけるも、大河はなんとか体勢を整える。すぐに再び駆け出して、繋いだ手はもう離さない。
傘もないまま二人は転がるみたいに雪の夜中に逃げ出し、ひたすら走った。必死なのは大河も同じだ、きっと。二人して白い息を必死に吐いて、ただ夢中で走り続けた。とにかくあそこから、二人は逃げずにはいられなかったのだ。
泰子のエゴイスティックな保護欲と、それに応えなくてはそもそも存在する意味さえないと思える空虚な自己像が竜児の前には立ちはだかった。そして大河の母親も、大河を竜児から引き離そうとして立ちはだかった。
それらすべてが竜児には敵で、だから棍棒で殴り倒す代わりに言葉で打ちのめして、身を翻して逃げ出すしかなかった。
傍らには、大河。
大河の手を強く握り直す。汗ばんだ手の平を隠しもせずに力を込める。
逃げ出そうとしたその瞬間、この手が求め、そしてこの手を求めたのはたった一つ。大河の手。それだけだった。大河とともに逃げようと思った。大河だってそうだ。大河の前に立ちはだかる敵の全貌は知れないが、とにかく引き離される前に自分と逃げようと思ってくれたのは確かだった。
母親たちは車で追ってきているだろう。だからとにかく車の通れない細い道を選んで飛び込み、住宅街の裏を走り抜け、グルグルとあてもなく逃げ惑い、そして、それから――でも。
でも、本当なら。
「橋、渡るぞ。車、気をつけろよ」
本当なら竜児は、ただ聞き、そしてそれに答えるだけでよかった。
「大橋……」
「渡って隣町からバスに乗ろう。この町にいたら捕まる。電車じゃすぐ足がつきそうだ」
――ただ大河の気持ちを聞くことができればよかった。そして己の複雑な、でも溢れそうに一杯な気持ちを大河に聞いて欲しかった。それだけでよかった。大河の口から、大河の言葉で、自分のことを真実どう思っているのか。自分が大河をどう思っているのか。聞きたい。言いたい。それだけだった。
それだけのことできっと世界は脱皮するみたいに色を変えると、新しいことが始まるのだと、竜児は跳ね上がりそうな心臓の鼓動を確かに感じていた。
なのに、どうしてこうなるのだろう。
氷点下の空気は息をするたびに呼吸器の細胞を傷めつけた。空から絶え間なく舞い落ちる雪の向こうに、大橋の歩道を照らす街灯が二列、光の輪郭を滲ませる。夜には黒々と見える河の流れを跨《また》いで、隣町までこの道は続く。でもその先は、暗くて見えない。行き先不明の逃亡の果てに辿り着く場所なんてわかるはずもない。
枯れ草が目隠しになってくれた河川敷の遊歩道から、竜児は行くしかなくて足を踏み出した。握り締めた大河の手を引き、それでも辺りに目を配りながら二車線の車道を横断する。コンクリ作りの大橋に侵入する小型トラックのエンジン音に紛れて自分たちも滑り込む。
しかし
「……あ。金!」
バスに乗るには金がいる、そんな簡単なことを思い出したのは、大橋の三分の一ほどの部分まで差し掛かってからだった。
「やばい、そうだ、金、ねえんだった!」
立ち止まりはしないまま、竜児はあいたたた、と眉を顰《ひそ》める。こんなところで手痛すぎる大失敗だ。財布には小銭しかなく、家計用のキャッシュカードも持ってはおらず、アルプスでもらった給料袋もあろうことか泰子の足元に叩きつけてきてしまっていた。
「大丈夫! 私、結構あったはず!」
大河はコートのポケットからスパンコールの猫顔財布を走りながら取り出してみせる。繋いでいた手を解き、悴《かじか》んでいるらしい指でファスナーを開き、
「ほらほら、一万円札が一枚、二枚と、」
「こんなとこでおまえ、なんか危なっかしいな、転ぶぞ」
「でも確認しなくちゃ! あんただって不安でしょ、あと千円が二、三、四……小銭は全然ないな」
――掴み出した札を不器用な手つきで数え始め、そして、
「あ、ポケットにもなんかカサカサ入ってる。もしかしてお札? ……あー、なんだ」
レシートか、と唇を尖らせたその瞬間。河の水面をさざめかせる雪混じりの突風が、橋の途中の二人を真横から襲った。
開いた財布の口から引き出されていた二万四千円が攫《さら》われたのは一瞬の出来事だった。
「……」
「……」
声も出なかった。
強い風に乗って札はひらりひらり舞い上がり、踊りながら一度高く。二人分の視線の中をおどけるみたいに右へ左へ。「あっ、あっ、あっ」「おう、おう、おう」……端から見ている人があったなら、空に溶け行く死んだオットセイの霊魂を呼び戻そうとする危ない二人組に見えたかもしれない。でも真剣なのだ。必死なのだ。大河も竜児も手を伸ばし、ピョンピョン飛んで空舞うお札を捕まえようとする。追いかけるアホ二人を嘲笑うみたいに、橋に吹きつける風はさらに渦巻くように向きを変える。
「あっ、あっ、あっ、あああっ……!」
「おっ、おっ、おっ、おうおうおう!」
風を追って車列の途切れた車道をほとんど三歩で横切って、並んで欄干に飛びつくみたいにしがみつき、
「……」
「……」
伸ばした二人の指のすぐ先。触れられそうなところをわざわざ掠めて、二万四千円はひらりひらりはらり――真っ黒な川面《かわも》に。
空の二人の両手は虚しく下方向に伸ばされて、小雪舞う宙を切る。見下ろす流れに、すでに浮かぶものはない。どんなに泣いても喚いても、行く河の流れは絶えずしてしかも思いっきり容赦なし。
同じタイミングで顔を見合わせ、
「……」
「きゃあああぁぁぁああああぁぁぁっ!」
「……」
「ああああんたぁ!? なに冷静に悟りきった顔してんの!? どうするのっ!?」
「……」
欄干を掴んで川を見下ろし。傍らで絶叫する大河と同じポーズ。悟りきっているわけではなく、竜児は呆然としていたのだった。言葉が出なくなるというのは、まさにこのことか、と。本当に、悲鳴すら上がらない。
これはなんだ。
あれか。
いわゆる、天罰か。カルマってやつか。
降り続く雪を吸い込むみたいに流れる河を眺めたまま、竜児は指先一つ動かせずにいた。
人生を犠牲にして自分を産み、育ててくれた母親に「それは間違いだった」と言い放った罪はここまで重かったというわけか。でも、とりあえず真実だ。自分は生まれてこない方が正しかった、というのは。真実を叫んだだけでこのザマか。こんな目に遭わされるのか。
綺麗事を並べ立てて我慢して我慢して犠牲になって、そうでもしなけりゃ、そうやって運命に媚びへつらわなければまともに生きていくこともさせてもらえないのか。自分は。バスにも乗れないか。
そんなに、罪か。
「どうするのよ!? ……どうしよう……!」
どうしよう、どうしよう、どうしよう、と繰り返しながら、大河は両手で頭を抱えた。そのまま授業中に居眠りするような体勢で、欄干に突っ伏してしまう。
二人並んで、なにも言えなくなる。
いまだ動けない竜児の隣で、アンゴラの白いコートの肩も息を詰めて固まる。その肩。さっき竜児が巻いてやった頭のほっかむりマフラーのカシミア。背まで流れるウエーブの髪にも、ひらひらと小さな雪の切片が舞い降り続ける。次から次へと、尽きることなく。竜児のダウンの肩にも背にも、そして頬にも。
河川敷の歩道から続く、大橋の上。
聖バレンタインデーの午後八時。
夜空には雪が舞っていた。地上にはシャーベットのように薄く淡い氷の層が作られ始めていた。二人の足は、とうとう完全に止まってしまった。
橋の向こうに目をやった。普通の住宅街だ。家々の明かりが、マンションに灯る光が、白い息に滲む。音もなく降り続く雪に隔てられて、辿り着けない橋の果ては、随分遠い世界のように思える。
金がなければバスには乗れない。電車にも乗れない。どこにも行けない。寒さのせいか身体の震えは止まらず、立ち竦む時間の分だけ関節は冷えて固まっていく。でもこうしている間にもポルシェが後を追ってきているかもしれず、ここに立っていることもできない。
自分たちの居場所は世界のどこにもない。
大河の丸めた小さな背中を見やる。大河は今、なにを考えているのだろうと思う。不安、絶望、後悔――とりあえず自分のドジさを呪っているのは確かなようだった。細い指に震えるほどの力を込めて、竜児のマフラーに守られた頭を掴んでいる。本当だったら髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回してしまいたいのだろう。
「どうしよう、竜児」
答えてやることもできないまま、雪の中に立ち竦む。おまえはどうしたい? その一言が、どうしても訊けない。
訊けないのは、大河に責任を負わせるような含みになるからだろうか。望まれた通りにしただけだから俺は悪くない式に、逃げ出した責任を女に負わせるなんて男として――違うか。
そういうことではなしに、もちろんそれはゼロではないけれども、「大河がどうしたいか」を尋ねる怖さはまた違うところにあった。
ただ必死に逃げようとして、そこから目を逸らし続けていた自分に気づき、竜児は我知らず背筋を強張らせる。
大河は自分と逃げるためにこの手を取ってくれた。そして一緒に逃げ出してくれた。それだけで充分に、自分と一緒にいたいと思ってくれている気持ちは信じられた。でも、だ。
はっきり、怖い、と思っていた。
自分のことはわかる。あの時、大河の母親が現れて、大河を連れていくと言われて、逃げずにはいられなかった。どうしても、どうやっても、なにがあっても、大河と引き離されるなんて耐えられないのだと思う。大河がいない場所では自分はどうしたって生きられない。なぜと問われても、答えはすべて後づけになるだけだ。母親の守る家という居場所を捨てると決めて走り出した時には、この手は大河の手を掴んだ。それこそが自分の心の真実だった。
でも、大河のことはわからない。本音のところでは、知りたくないとさえ思っているかもしれない。
そのわけは、怖いのは、訊けないのは、目を逸らしたいのは、
「大河」
そこに、大きな傷がぱっくりと真っ赤な口を開いているような予感がするから。
得てしてそうであってほしくない予感ほど当たる。
「……歩こう。とにかく。ここにこうしてても仕方ねえ」
声を絞り出し、もう一度、大河の指先に触れた。細い指を掴んで、手の中に握る。なあ、と引いてみる。
大河の身体が、振り子みたいに揺れる。
「歩いて、それで、どこまでいけるの……?」
揺れて、元の場所に戻っていく。予感が現実を引き寄せていく感触。
語られる前から、少しずつ、たとえばその身体の揺れ方や、言葉の最後の切実な響きみたいなものだけで、輪郭が明らかに刻みだされていくような気がした。大河が、大河の居場所を捨てた理由。あの高須家の隣のマンションを「捨てさせられる」理由。そして現れた実の母親の許《もと》という居場所を、大河が受け入れることができない理由。それとほとんどイコールなのか、そうではないのか、大河の母親が自分と大河を引き離そうとする理由。
予感が当たる。
傷口が――怖くて、竜児は震えた。
ゆっくりと大河は顔を上げた。手を繋いだまま、
「……お金、ないんだよ」
竜児の目を見た。
「ないの。本当にないのよ」
「……知ってるよ。おまえが今ブン撒いたじゃねえかよ」
そーだよそーだよそのとーりだよ、と投げやりに大河は頷いてみせて、でも冗談を始めるには至らず、
「あのね。あのさ。……あのね」
繋いでいた手をそっと離した。その手で頬に触れる髪をかきあげ、そして自分のポケットにつっこむ。
まさに、恐れていた場面が始まったのかもしれなかった。竜児はほとんど本能的に大河の瞳から目を逸らそうとした。暗く塗り潰されたみたいな大河のこんな目を、向けられるのが怖かった。
「あんたに、言わなくちゃいけないことが、ある」
どうしてこうなってしまったのか、大河になにが起きているのか、それを知るのが竜児は怖いのだ。大河はすでに、自分の人生の確かな一部になってしまっている。その女の身を、自分のこの身を、肉を、心を、今度はどんな刃が引き裂いた? 戦慄《おのの》くみたいに頬が引き歪む。大河は口の中でもう一回、言わなくちゃ、と繰り返す。
「お金、本当に全然ないの。お財布に入ってたあれが最後のお金だったの。口座もからっぽなの。今年に入ってから入金されてなくて、でもいくらかまとまった額はあったんだけど、でもそれからちょこちょこ十万、二十万、って単位で何回か引き出されてて、なんだかんだでもうほとんど、」
「――っ」
真っ白な炎が、目からも耳からも鼻からも噴き出した。
だから。
やっぱり。
やっぱり、やっぱり、やっぱり、大本《おおもと》はそこか! 大きくなりすぎて止まらない震えのまま、もはや爆発するかと思う。爆発しないことが不思議だし苦しい。苦しくてたまらず、躍り上がるように、
「あの、ジジイは、なにを、してるんだよ!?」
毒を食らって飲み下し損ねた吐瀉みたいな叫び声を竜児は上げた。汚らしく辺りに飛び散って、多分大河も汚した。でも喉元にせり上がる猛毒は苦しくて耐えられない。
まだ関わってくるか。まだ苦しめるか。まだこうして、大河を、そんなやり方で、痛めつけようと――もう、じゃあ、なら、死んでくれよ。
「おまえの人生にそいつを触らせるな!」
いなくなれ!
ブチ撒けた呪詛を受けて立つみたいに、大河は少し俯いてみせた。触られてないよ、と耳元を撫でるような声音がかすかに届く。
「……負けたんだって。ついに。ずっと前から訴訟起こされてて」
大河の鼻先に零れた前髪に、ひとひらの雪がくっついて揺れた。
「パパはだから夕《ゆう》と逃げてる。ものすごい額のお金、払えなくて。自己破産しても、払わなくてよくなるってもんでもないんだって。会社もなくて家もなくて、車とか、いろいろ全部もうダメになって。あのマンションももううちのものじゃないんだって。私不法占拠」
練った白土に、ビー玉の目と枯れ葉の鼻と木の枝の口がついていた。クレヨンで描いた楕円の中に、丸の目と三角の鼻と四角の口がついていた。血も通わず、温度もなかった。
大河の顔が、だ。
「パパは逃げて、それで、どうなるんだろうね? いずれ逮捕されるの? わかんない。結局なんの仕事してるのか、してたのか、それすら私ずっと知らなくてさ、……それを変だとも思わなかった。こんなことになってるのも知らなかったんだよ。あの、修学旅行のときに、ママが来るまで知らないでいた。ママが、『ああなってる』のも、私は知らなかった」
どうして俺になにも言わなかった、と問う声が、自分の声だともわからなかった。遠い次元の果てから響いてきたサイレンかなにかのように思えた。
「ごめん。言えなかったんだ。ごめんね」
それでどうするつもりだったんだ。
夢の中で言っているみたいに、舌がもつれてただ焦った。
「ママが私を引き取るっていうから、だったらマンション買い取ってよって言った。そしたらそこに私は住むから、今度はママがパパみたいにお金振り込んで、って。無理ならいっそ放っておいてとも言った。ドジなりになにかしらの仕事を見つけて、なんでもやって生きるから。でもダメだって。私には無理、……っていうか、ママはパパと完全に無関係になりたいんだって。『自分の娘』が『逢坂|陸郎《りくろう》の娘』ではいけないんだって。だからママは私を攫うんだって。誰にも追えないところに連れていくって。なんか、夕がいてくれて、よかっ――」
今日までの大河の顔。嘘をつき通そうとしていた大河の、それでも時折本物の絶望を覗き込んだように虚ろだった目。説教部屋で喚いた声。伝えられるはずだった気持ち。
伝えたかった気持ち。
「――竜児」
すべてに打ち倒されて、竜児は折れた。
顔を覆い、大河の足元にしゃがみこんだ。両手の中に溢れかける嗚咽を息を詰めて必死に飲もうとした。泣いてもどうにもならない。
どうしようもない。
「ははは……」
と、大河の声。
抱え込んだ頭に、ふわりと暖かななにかがかけられた。大河の体温で温められた、竜児が貸してやったマフラーだった。
「私って、変だよねえ」
そのマフラーごと、屈んだ大河に抱きかかえられていた。真正面から両腕で包まれて、大河の囁く声は竜児の後頭部のあたりを震わせた。鼻に押しつけられた長い髪が冷たかった。二人の上に、流れる水面に、街に、小雪は止むことなく降り続けた。
「こんなことばかりが起きるのよ……」
マフラーと大河の体温に守られて、涙が竜児の頬を濡らし続けた。おまえが変なら俺だって変だ。声にならない。欠くことのできない存在である逢坂大河が変だというなら、俺だって、高須竜児だって変なんだ。言葉が出ない。狂ったような嗚咽は喉の奥を焼くばかりで、悲鳴にもならない。居場所もない。向かう先もない。帰る場所さえない。
必死に身を起こし、竜児は両腕を伸ばした。どこにいようとも、ここがどこであろうとも、でも自分だけは絶対に変わらないと大河に知らしめたかった。ここに存在し続けることは絶対に変わらない。全力で、この命のすべての力をもって、大河の背中を抱きしめた。
「……なんで、あんたは、」
大河の腕も、竜児を凄まじい力で抱きしめた。
「私のそばにいてくれるんだろ……?」
ばか! ――叫ぶ代わりに、顔を上げた。顎を大河のつむじに埋め、雪降る天を仰ぐ。濡れた頬がたちまち凍りつくように冷える。
「……わかんねえのかよ!? それが本当にわかんねえのか!?」
夜空に星はなく、道を導く星座も見えない。自分がどこにいるのかもわからない。ただここには、この腕の中には大河がいる。大河があるところに自分はいる。
それだけがたった一つ確かで、
「俺がいる場所がここ以外のどこにあるんだよ!?」
閃きは、星よりもっと強く光を放った。
あれ? と思わず目を瞬《しばたた》いた。光る方へ目をやるみたいに、竜児は目蓋を小さく震わせる。なんだもうとっくに、と自分でも驚きながらそっと腕を解く。自分でも理解しきっていなかったあらゆる問いの答えのすべてが、そこにあった。ここにいた。
半歩だけ離れて、大河の頬にかかる髪を耳にかけてやった。腰を屈めて、随分低い位置にあるその白い顔を覗き込んだ。「ここ?」と訊き返すその頬に、頷きながら手の平で触れた。なめらかに溶けていくような感触の頬はいまだ固く、しかしちゃんと血潮の温度をもっていた。
「おう」
深く最後にもう一度、頷いてみせる。引き返せない決意を躊躇《ためら》うことなく大河に見せる。
「そうだよ。ここ、なんだよ」
なんでかどうしてかわかんねえけど、でもどうしてもそうなんだ。そう決めたのはこの俺だ。冷えた空気を肺いっぱいに吸い込み、白い息を細く、少しずつ吐いた。足元の淡いシャーベットは溶けながら、降り積みながら、ゆるゆると層を重ねていた。橋の欄干にも気がつけば、うっすらと水を含んだ雪。大河の髪にも。
本当に、なぜこんなことがわからなかったのだろうか。とっくに辿り着いていたのだ。ちゃんと、ここに。
嫌なら蹴るか殴るか爆発するか頭突きするか逃げるかなにかするだろう。手乗りサイズながらも虎なのだから。そう思いながら、でも結局は逃したくもなく、フェイント。頭のマフラーを一度外して首にかけ直す素振りで顔を傾け、そのまま大きく一歩、踏み込む。
なんで人間はこんなことをするのだろう。証。約束。誓い。なんでもいい。練習。本能。口唇期《こうしんき》がどうとか。どれでもいい、もはや。
自分を、大河を、二人の関係を、それらのすべてを守るために、全力の理性で構築した絶対の禁忌を竜児は自ら踏みにじる。
父と娘でもなく。兄と妹でも、姉と弟でもなく。友達でもなく。家主と居候でもなく。ただのクラスメートでも、単なる同級生でもなく、お隣さんでもなくて、主従関係でも、それに基づく擬似家族関係でも、片想いの相手の親友同士としてでもなくて。それらすべての危うい関係性が、全部壊れてしまうことも承知の上で。二人の間を心地よく、都合よく、隔ててくれていた緩衝材を、すべて失うのもわかっていて。それでも触れたかった。
竜児は大河に、キスをしたかった。
一秒、二秒と進む時は、舞い落ちる雪と同じだ。時間の進行と同じ速度で距離が縮まる。それらすべては不可逆で、絶対元には戻らない。
唇に、唇で触れる。
その瞬間、触れるまで竜児の接近に気づかずにいた大河の温かな息が、小さく跳ねる。
でもちょっと触れるだけだから大丈夫。かわいい仔犬にするみたいに、ちょっと口元を寄せただけだから。……そんなフリをしておいて、右手で大河の後頭部を捕まえる。もっと強く押しつける。
逃がさないように、重ねた唇を離しはしない。
自分がしたことなのに背筋が震える。誰もがそこらでブチュブチュやっているはずなのに、――みんなこんなふうなのか? 恐ろしいほどに柔らかくて、熱くて、唇の感覚は鋭敏すぎた。緊張だとか感慨だとか、気持ちだとか、あらゆるものが吹き飛ばされていく。触れあった唇から伝えあう、生々しいほど甘い、とろけていくような感触だけが脳髄を走る。心臓の鼓動もついてはこれない速度で、電気の槍が全身の皮膚を内部から突き破る。理科で教えられた通り、感覚は本当に電気信号だったわけだ。稲妻の奔流に脳神経がスパークして、目の奥で炎の華が散る。
こんなにすごいことを人間はやるんだ。
こんなことでは、とても、
「キ、」
もちやしない。
「……キスした?」
力の抜けた右手の下をくぐるみたいにして、大河はくるりと回った。一歩分だけ離れて、獣みたいに潤んで強く光る両眼で竜児を見た。淡い色の唇を、大切な宝物みたいに両手で隠して髪を揺らした。
「……した」
したのだ。
「し、ししし、した……?」
「したしたした!」
したのだ、本当に。
ガクガクガク、と震えるみたいに頷きながら、竜児も自分の唇を片手で覆った。こんなのが普通のわけなんて絶対にない。凄まじいのは初めてだからか? いずれ慣れるのか、こんなことにも? 大河の顔はとても見られず、右を向く。左を向く。なにも目には見えちゃいない。しかし戦慄く内心と肉体は連携なし、この身は恐ろしいことをしようとする。もう一回やったら少しはまともになれるのかも、いや、もっとすごいのかも。そんなふうに手を伸ばしかけ、しかし、
「……うおお……この野郎……っ!」
もう一方の手で押さえつける。大河の全身が猛毒でできていることを、多分竜児は出会ったその日から本能で理解していた。だから絶対触れられなかったのに――もう遅い。舐めてしまった。味わった毒は一生モノ、狂おしいほど甘く痛く、竜児の身体を蝕んでいく。
ここから先に進んだらどこまでいってしまうか自分でも制御はできず、全力で二つにちぎれそうな身体を捩《よじ》る。でもどこまでいくのか見てみたい。今は見るな、と大河から一歩離れる。でも、行き着くところまで行ってみたい。行くなボケ、と二歩離れる。三歩離れて首を振る。あらゆる事情をふっとばす、底なしの欲に落ちるわけにはいかないのだ。
「あ、あんた……」
酔っ払ったみたいな危うい動きでフラフラ彷徨い、背中に固い橋の欄干が触れた。そのまま竜児は雪が積もった欄干にしがみつく。かじりつく。大河のブーツがこちらに向かってくるのが揺らぐ視界の端に入る。
「ちょ、ちょちょ! よせよせよせっ! 来るな!」
だめだくんなこっちくんな、大河には恐らく理解できない必死さで竜児は喚いた。欄干の、コンクリで作られた踏み段みたいな土台に上がって、流れ行く河の水面にひとまず目を逃がす。上体を傾けてそのまま唸る。唇を固く噛み締める。脳みそを溶かされるようなあの感触をひとまず今は忘れなくては、なにもできなくなってしまう。
そうだ思い出せ。自ら選び取ったこの居場所は、今、大人たちの手によって奪われようとしているではないか。大河だって腕を伸ばしてこの身体を掴んでくれた。二人を隔てていた距離を踏み越えた。肌で直接触れあった。それなのに、引き裂かれようとしている。
だめだ。いやだ。絶対。雪にうっすら濡れて凍りつくほど冷たい髪を両手で掴む。2メートルほど足の下を黒々と流れる河のにおいが鼻先に冷たい。どうすればいい。この局面を乗り越えて、大河と二人で望んだ居場所を奪われないためには。息を詰めて目を閉じる。欄干からグッと上体を下ろしたまま考える。なにか方法はないか。逃げ道はどこだ。頼む、誰か、このぬるい甘ちゃんガキ脳みそを震わすようなブレイクスルーを――
「ひぎゃ――――――っ!」
「ふごぉ!」
――大河が下さった。
耳の少し上、右横後頭部に奇声と共に。不意をつかれて竜児はほぼ真横、大きく一歩分ふっとばされたみたいによろめく。欄干に両手でしがみつくが、
「どどどどこまであんたって、ぶぶぶぶばばば、ば、ばば、ば」
「ななな、ちょ、あああ!」
大河は片手で竜児の襟首を掴み上げ、よろめいたところに右、左。なにやら動転しているわりにはしっかり腰が入り、コートに包まれた上半身はコンパクトにして鋭い回転を得て、本気の拳がビシ! バシ! ドス! ズドン! と叩き込まれる。
「ばかっ! ばかっ! ばか、ばか、ばか、ばか、ばか! ばかばかばかばかばか!」
「やめっ……マジっ……いっ……あぁっ……」
「あんたって! どこまで! ばかっ!?」
「いい加減に、本気で、おまっ……ふがっ!」
本気を出して防ごうとした両手をあっさり打ち抜かれてよろめいた。一体なにが起きてこうなったのかあまりにも意味不明、やっぱりキスなんかしてはいけなかったのか、それで怒られているのだろうか、でも、
「ビンタなんかして悪かったわよ!」
大河の声は半ば掠れて、悲鳴のように叩きつけられた。竜児にわかったことはとりあえず一つ、大河は自分の凄まじい破壊力をもつ「掌底!」ないし「正拳突き!」を、「ビンタ☆」だと思い込んでいるのだった。過小評価だ、とんでもなく。
「でもっ、叩いた私の手の方が痛いの!」
「ねえよ!? うおお……っ!」
思わずビシッとつっこみ返した右手をやすやすと左の甲で弾き、
「もう一回、身投げなんてしようとしてごらん! ……絶対、絶対、絶対に……」
「ぐえええ……!」
なにか誤解したままで、大河は両手でじっくり竜児の襟首を締め上げにかかる。見上げてくる両眼には、
「……絶対! 殺してやるから……!」
唸る猛獣の本気が揺れる。
その凄まじさに、目を逸らせなくなる。
冷え切って真っ白だった大河の頬にはいまや超高温の血が上り、女王虎の牙も剥き出し、ターゲットにされたこの肉体は睨まれただけで引き裂かれたも同然に竦む。白い息が獰猛さをそのままに、竜児の鼻先に熱く吹きかけられる。
「私だって、私はこの世にいない方がいいんじゃない、って、思ったことぐらいあるよ! あるよ……何度もあるよ! ……っ……」
声が跳ね、そして、大河の薔薇色の頬にとうとう涙が溢れた。柔らかな唇が苦しげに戦慄きながら歪み、竜児の襟を掴む白い手の震えは止まらなかった。
「でも、生きてるっ……それは……!」
どういう勘違いのもとに大河が暴れだしたのか、竜児もようやく理解する。しかしきっちり首を絞められていては宥《なだ》めることも誤解を解くこともできやしない。本当に大河という奴は、どこまでどれだけアホなんだと思う。どこまでドジで、どれだけ早とちりで、しかも乱暴で、人の話を聞かず、腕っ節ばかり確かで、そして、
「それは、あんたが、いるからよ!」
どれだけまっすぐなのだろう。
ひー、と喉を鳴らして泣きながら、それでも大河は目を逸らしはしないのだった。顔をまっすぐに上げたまま、竜児の喉を掴んだまま、ぐしゃぐしゃの顔で本当の本当の本当を叩きつけてくる。避けようもない力強さで、自分の心だけをむき出しのままに抱えて、竜児の真ん中そのものに飛び込むみたいな覚悟でもって、涙を散らして叫ぶ。
恋心一つに命をかけて、
「好きなんだもん!」
大河は吼える。
炎のようだ。矢のようだ。虎のようだ。弾丸のようだ。光のようだ。それらすべてのように熱く、速く、強く、大河の声は竜児の心臓を撃ち抜いた。貫いて、そして、火をつけた。蹴るより殴るより強烈に、竜児の命も揺さぶった。燃え上がって焼き尽くし、焦がされる。痛くて熱くて苦しくて、――こ、
「殺す気か……?」
竜児も全力の本気で叫ぶ。
「殺してやろうか本当に! そうよ、あんた、私はずっとあんたのことを怒っていたのよなんなのさっきのあれは!? あんたがさっきやっちゃんに言ったこと、あれはなに?」
「あ、あれは、」
「言い訳するんじゃないよハゲ!」
掴んだ襟首を揺すぶられる。脳震盪寸前の眩暈がクラクラと竜児の目の前を暗くする。
「あんなこと二度と言わないで! 自分は生まれてこない方がよかったなんて、二度と、言わないでよ! 私が許さない! あんたがいなきゃダメだもん! 私はあんたが誰を好きでも、あんたが誰とこの先《さき》生きていくんでも、それでもいいって思ったのよ! ここに私がいるのはただ、たった一つ、あんたを、高須竜児を、見ていたかったから! それだけなのよ! あんたの近くで、あんたにとって私は何者でもないとしても、それでもいいから生きていたかった……それしかなかった! でもでもあんたはキスしてくれた、私を、だから、……だから! あんたのそばに、私は、いたいの! いるって決めた! もう! もう、もう、もう……! ……わかってよ……っ!」
不意に乱暴な指が竜児のダウンから離れる。
泣き崩れそうになる大河を、口ではいくら言ってもわからなそうなこの女を、とにかくもう一度抱きしめてやらなくては、と思った。しかし踏み出したその瞬間、「おう!?」……ゆるい雪にスニーカーの底が滑ったのは不運としか言いようがなく、
「ねえ! わかったわけ?」
「は――」
大河が急に飛びつこうだか、しがみつこうだか、殴りかかろうだか、とにかくなにかしらしようとして竜児に向かって体当たりしたそのタイミングもまた、天の配剤としか思えなかった。元気のありあまった高校生二人がすごい勢いで重心をぶらしてぶつかりあい、バランスを崩していた竜児の体重が左側に一気にかかる。左側には欄干があり、滑った靴底は支え切れず、とっさに欄干に伸ばした手も冷たいシャーベットにつるり、とゼロ抵抗。挙句に大河も転びかけ、振り回された腕が決定的な一打となる。竜児の首の後ろにヒット、いわゆるラリアット状態で突き倒され、
「――あああああぁぁぁぁ!」
竜児の身体は欄干を乗り越えた。
やはり天罰か。
いや、カルマか。
永遠にも思える落下中の滞空時間に、竜児は泣き顔の観音様を見たかもしれなかった。とりあえず確実に罰ではあるのか。納得した次の瞬間、背中から氷点下の川に沈む。水の中から跳ね上がった水柱を見る。心臓が握り潰される。
真っ暗闇の中で息が止まり、シン、と静寂。完全に「これは死んだな」と思った。冷たいも冷たくもない。痛いも痛くないもない。感覚のすべては凍りついたみたいに麻痺して、
キャ〜。た〜いへ〜ん。
橋の上から響いた大河の絶叫も、どこかのんきにスロー再生したようにくぐもって響くのだった。もうだめだ……理解するが、我知らず両腕両足は狂ったようにもがき、すぐに手も足も川底につき、というか尻がつくほどに川は浅く、
「はぶあばべべべ」
躍り上がるように身を起こす。
「ぶまめがるずぼあ……ば! ぶお!」
咳き込みながら酸素を吸う。死ぬ。本当に死ぬ、「はひあひぎいぃぃぃぃ」――高須竜児はその死の直前、この世の生きとし生けるものすべての命を道連れにしようと決めて、地球ごと吹き飛ばす自爆装置と化したのだった。狂乱の眼光は虚無の果てを睨み、吐いた腸を噛んだ唇には凄惨な微笑み、そして黒き片翼を散らしながら心臓からは閃光が放たれた。彼が魔王として転生するのは千年の後であった。恐ろしきミレニアム。というわけではもちろんなく、
「ほらね……こんな目に遭うのよ……」
橋の上からこの状況を静かに見下ろす大河の方がよほど恐ろしい、と竜児は視界もブレるほど震えながら思う。なにを知ったふうにかうんうん頷き、
「無事でよかった。でもまあ……身をもって知ったね? 二度とだめよ、身投げなんかしたら。楽な死に方なんてないの」
「お、お、お、」
「『おう』って言いたいんだ。よかった、わかってくれたなら……」
スン、と涙を拭い、「上がってこれる?」……じゃねえんだよ! 心から!
「おおおおまえがががが、つつつ、つきおとしたたたたんだろろろろろ!?」
「は? なに? 聞こえない」
「みみみ、身投げなんててて、してねえってんだよっ!」
「え? そうなの?」
「か、か、勘違いして、勝手に、暴れやがっててててて! こここここのザマだよ……!」
「やだ! だったら早く言ってよ」
やだ! で河に突き落とされた方はたまらない。竜児は膝まで水に浸かり、こちらを見下ろす大河になにを言ってやろうかと息を吸う。濡れて凍える身体には雪がひらひら舞い落ちて、手足の末端にはもはや完全に感覚はなかった。
「ねー、大丈夫ー?」
欄干から身を乗り出し、大河はゴシゴシと涙で汚れた頬を手の甲で拭いながら川の中の竜児を見下ろす。
「だ、大丈夫なわけがっ……ささささ、さむいぃぃぃぃ!」
「遺憾よね……」
「おまえのせいだぞ!?」
「うん、わざとじゃないから……」
「『から……』なんだってんだよ!? この、この、このっ……ドジ! ドジ! ドジ! ドジ! 乱暴者! 狼藉者!」
もっと言ってやらなければ気がすまない。気がすまないが――死ぬ寸前まで冷え切ったおかげで、暴走しかけた溶解炉みたいだった腹の底も静まりつつあった。大河を見上げて真っ白な息を吐き、なにも感じない指でなにも感じない頬を擦る。ゴシゴシ乱暴に擦るうちに、少しずつ血が通うみたいに感覚が生き返っていく。
強制的にクールダウンされた頭に、今、はっきりと大河との距離が理解できていた。橋の上と川の中では、手を伸ばしても届かない。白い顔は触れられない場所にある。
「だから、ごめんっていってるじゃないよ」
「言われてねえよ……」
こんな場合だというのに甘ったれのわがままを喚いて、大河はむすっと口をへの字にする。風に舞う雪の中で、柔らかな髪もゆらゆらと躍る。その髪に、その頬に、その唇に、触れられないこの現実は竜児にはもはや耐え難い。もっとそばに、もっと近くに、ずっとずっと一緒に、大河とともに生きていきたい。
生きていくと決めた場所を、誰にも奪われたくない。
奪われたくないなら戦うしかなく、戦う相手は要は大人で、大人に勝つには己も大人になるしかなく、大人になるというならば、つまり――
「……なあ。大河」
――つまり。
竜児は大河の気を引くように手を振った。大河はもう一度鼻を鳴らし、小首を傾げて水の中に浸かったままの竜児を見下ろした。
気持ちの問題なんかではないのだ、それは。きっちり大人の世界のやり方で、大人に大人であると認めさせる。大人の都合で振り回される子供でいることをやめる。選んだ居場所を、守り抜く。動物だってみんなやっているではないか。地上の獣も空の鳥も海の魚も川の魚も樹上の虫さえ、なんだって、大人になったら「ここは俺の場所だ」と足を踏ん張り、頭をもたげ、大声で叫んで、命をかけて戦うのだ。
「俺は、十七だ」
大河はちょっと黙り、とりあえず感も丸出しに、へえ……と頷いてみせた。
「私も……同級生だもんね……」
「そういう話じゃないんだ」
橋の上の大河に向けて伸べた指先がカタカタ小刻みに震えるのは、寒さのせいだけではないかもしれない。
「もうすぐ俺は十八になる」
大河を連れて目指す場所が、逃げ切るゴールの形が、このとき初めて確かな数字で行く末に見えた。
この木曜日を乗り越えて、金曜日をやり過ごし、土曜、日曜で距離を稼いで――逃げて逃げて逃げ惑《まど》って、目指す先は竜児の誕生日だ。そのときこそ、俺はここで生きる! そう叫んでやる。それまでは大河と二人、全力で逃げ切るしかないのだ。十八になるその日まで。
だから、と息を継いで、大河を見た。
「嫁にこい」
橋を照らす一列の街灯の下で、大河の白いコートは眩しく、光そのもののようだと思う。
「俺のこれからの日々を、これから先の全部を、すべてを、おまえと一緒にやっていく。一緒に暮らそう。これからずっと」
伸ばした震える指の先に、欲して欲して欲した光を見つけた。星をこの手で掴む。すくい取る。誰にも渡さない、と世界の隅々まで睨みつける。俺のだ、と心で叫ぶ。
「……私を……助けよう、っての?」
しかし大河は顔を歪め、声を氷のようにした。
「かわいそうな私を、そうやって、……それは同情? 憐れみ? 優しさ? あんたは良い子の自分に酔い痴れて、犠牲になる自分が気持ちよくて、それでそんなことを言うの?」
だとしたら――と大河が牙を剥くのが見えたのは、多分、気のせいではない。獰猛な眼光は揺らぐこともなく竜児を射抜き、小さな手の中で爪を震わせ、大河の全身にはマグマよりも熱い血が駆け巡っている。そうだとしたら引き裂いてやる。油断を見せたら食いちぎる。肉食獣の本能で、大河の身体は震えている。
理も論も通じない目で、真実だけを抉《えぐ》ろうとする。
全部寄越せ、さもなくば。そんな目をして竜児を見下ろす。
負けるかよ、と。
「だぁぁもう……くっそぉぉぉぉ……さっっっっ、みいぃぃぃぃぃ〜〜〜〜〜〜!」
命がけならこっちだってそうだ。負けるかよ、絶対に。竜児も見上げる。炎のような恋心は追い詰められてギリギリの崖っぷち、体温も生命の崖っぷち。ガクガク震えて両眼を見開く。強張る唇を噛み締めて、必死の全力で背を伸ばす。右手も左手も大河へ伸べる。
「思いたいように、思っとけ! 俺にはとにかく、たった一つだ!」
声を嗄《か》らして叫ぶ。
「おまえが好きだ! だから、おまえを奪う奴と俺は戦う! それが誰でも、俺は戦う!」
「私が……好き?」
「……寒いっ! さむいさむいさむい、死にそうだ!」
「……竜児は、私が好きなの?」
「あ〜〜〜〜〜さむいっ! さっむ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
「好きって言った。言った言った言った。……言った。絶対言った。私聞いてた」
聞こえていたならなぜ聞き直すのだろう――なにもかもが限界突破、両手の力も抜け、膝もガクッと脱力。竜児は「あああ……」と一度顔を伏せ、そして、
「……好きだよ」
呟いた。絞ってももうなにも出ないほど、心のすべてを吐き切った気がした。結局、それなのだ。それきりのこと。大騒ぎの挙句に、やっと搾り出した。
「おまえが悲しい目に遭うのは耐えられない。俺だって、もうつらい思いはしたくない。でも、悲しいこともつらいことも、耐えられそうにないことも、そういう全部が積み重なって、それでここに辿り着いたんなら――おまえのところに行けたなら、おまえも俺のところに来れたなら、一切合財、俺は愛しいと思うよ。俺の世界の全部を、おまえの存在が、」
支えてくれているのだと思うよ。
体温ごと捧げるみたいに呟いた竜児の視界に、とんでもないものが見えていた。一瞬欄干の向こうに消えた大河が、
「……ちょ。ちょ、ちょ、ま、やめ、おい、うお、うわわ……っ」
それを跨いで、飛び降りようとしている。
竜児の腕の中だけを目指して、すべての物事を乗り越えようとしている。止める声も聞かず、大河は「せーの」で踏み切る。跳ぶ。
ふわりとスカートは軽く広がり、天蓋みたいに竜児には見え、
「支えられねえ! 支えられねえ! ふおぉおぉぉぉ!」
次の瞬間、夢中で掴み締めた大河の体重を肩に背中に腰に食らう。「ぎゃあ!」とはっきり、叫んだと思う。
「もう、来ちゃったから」
盛大に水しぶきを上げながら、竜児はグラグラ危うくよろめいた。来た、本当に来たよこいつは。橋の上からダイブかました大河にしがみつかれ、今にも転びそうにふらつきまくる。
「取り消しなんかできないから。私は返品できないから。離さないから。手遅れだから」
「さ、サルかよおまえは!?」
両手両足で竜児の胴体にしがみつき、大河は全体重を預けてくる。顎を肩に乗せ、抱き返す竜児の腕にすべてを委ねて熱い息を吐く。耳の下、薄い皮膚の中の頸動脈に齧《かじ》りつくみたいに前歯を当てる。舌の温度で竜児を震わせる。
「サルでもなんでも、もう取り返しはつかないから……!」
「……そんなもん、望むところだ。誰が返すかよ」
キメたつもり、ではあった。だが沈黙は一秒ももたない。本当に大河の体重を支え切れずに二人して凍てつく川のド真ん中に転がり落ちる。水柱が上がり、悲鳴が続く。
あんたがあんたがおまえがおまえが、ばかばかあほあほどじどじぎゃー! と、罵り合いも始まってしまう。
***
「う〜〜〜わわわわ……」
呻きながら目を凝らす。やっぱりそうじゃん、と確信して、
「やっ、ばぁぁぁ〜〜〜〜〜……」
思わず街灯の陰に身を隠していた。河川敷の歩道から見下ろした大橋の下あたり、この雪の中を水柱上げつつ大騒ぎしている二つの危なすぎる人影は、どうやら本当に『奴ら』らしい。ジョギング用のベンチコートの大きすぎる袖で口元を隠し、スレンダーな身体を捻り、もう一度恐る恐る視線をやる。
ぎゃー寒いー! 死んじゃうー! 足がはまったー! きゃー! 引っ張ってくれー! 届かないー! たいがー! りゅーじー! うぎゃー! ――本当の本当に、捜していた当の二人組であった。関わりたくない度はここにきてMAX、意外と元気そうだしこのまま本当に帰ったろかいモードに入りかけるが。
無情に方向転換しようとした足は、
「……ちっ」
結局、動かない。
舌打ちをして携帯のフリップを開く。街灯の下で寒さに足踏みしながら呼び出し音の回数を数える。五回鳴らして出なかったら帰ってやる、絶対。ここまで走ってきたムートンブーツの爪先が、一センチにも満たない淡すぎる積雪に冷たく濡れてシミになっているのに気づく。やーん、と顔を歪めたところで、幼馴染は電話に出た。
『よおもしもし! こっちは今、高須のうちと逢坂のうちの前だ。チャイム鳴らしたけどやっぱりどっちも誰もいない。おまえは今どこ?』
「……河川敷。ってかさー……見つけちゃったよ。大橋んとこにいるよあいつら。川の中だよ。超こえー」
『なに!? ほんとか!?』
「すっげえやっばい感じ」
肩にかかる雪を払いつつ、せめて傘を持ってくればよかったと思う。片手をポケットに深々つっこみ、街灯に背中で寄りかかる。冷えた身体に雪は後から後から降ってくる。
『まさか、それはつまり、アレか? 口にするのも恐ろしいが、例のその、なんだ、し、心中的な、その手のシリアスな』
「んーん、もっとマッドネスな感じ」
ちら、ともう一度目をやれば、狂った二人の真冬の行水はまだ続いている。
『マッドネスか! とにかくやばそうなのはわかった、俺もすぐそっちに行く!』
「亜美ちゃん、帰ってもいいかなあ〜?」
鼻声なのは作ってそうしたわけではなく、本当に鼻が詰まったせいだった。そもそも少し風邪っぽく、今日は早めに寝ようと思っていたのだ。雪まで降ってきて日課のジョギングも行く気はせず、ゆっくりお風呂に浸かりながら丁寧にフェイスマッサージをしよう、と。
――あれから奴らがどうしたかなんて考える気もなかったが。
『だーめだ! マッドネス状態なら早く正気に戻してやってくれ、すぐ行くから! あ、櫛枝にも連絡入れてやってくれよ!』
「はあ? あったし向こうの携帯知らねえし」
『嘘つけ』
「ほんとだも……って、切れてるし!」
緊急事態勃発だ。
どうもまずいことになったらしい。
そんな笑えない真剣な声で電話がかかってくれば、誰だって動揺するに決まっている。あの声が、あの言い方が悪いのだ。幼馴染があんなふうに言うから、ついつい玄関に出してあったおニューのブーツに足を突っ込み、傘も持たずに飛び出してしまってこのザマで。
「……ざっけんな、ってのよ。なんなのマジで」
悪態つきつつ、かじかんだ手で携帯のボタンを押す。アドレス帳を検索して、発信。呼び出し音を聞く。相手は二回鳴るより早く出た。
「あ。もしもし」
感情を込めず、できるだけ淡々と伝える。余計なことはなにも考えないよう、自分で自分の声を抑える。「河川敷の、大橋のところで見つけたから。祐作もすぐ来るって」と、早口で。うそ、マジか、わかった、行く、たった四語で向こうも返事を済ませた。走っているらしく息を弾ませていた。
携帯をポケットにしまい、さてどうしようかと夜空に真っ白な息を吐く。川の中からはいまだに断末魔の悲鳴が響いている。とはいえ、あれだけ声が出るならまあ元気なのだろう。やっぱりもうしばらくは他人のフリで見守ろうか。
「……ふー……さっむーい……」
ここに辿り着くまで走ってきた街は人通りもなく、雪だけが音も立てずに次々降り積み、怖いぐらいに静かだった。アホが大騒ぎしている川の対岸で瞬く灯りを見やる。向こうもきっと静まり返っているのだろうと思う。天から絶える間もなく舞い落ちる雪が、地上を隔てる無音のカーテンのようにも思えてくる。ほんの少しの距離が、今は星ほども遠かった。
世界から切り取られてしまったみたいな寂しさの中で、果たして自分はどっち側にあるべきなのだろうかと考える。馬鹿馬鹿しすぎる絶叫が響く騒々しい此方《こなた》か、それとも滲むみたいに遠い彼方《かなた》か。
どっちがいいと思っているのだろう――
「あっ!? ばかちーだ!」
「おう!? ほんとだ、川嶋だ!」
うつそぉ……と恐る恐る振り返る。聞き違いではなかった。膝ほどの深さの川の中を半死半生の必死顔で漕いできつつ、全身氷水に浸かってつららも垂れそうなすごい有様で、高須竜児と逢坂大河がこちらに向かって必死に手を振っていた。
「ば―――か――――ち―――――っ!」
「川嶋! おーいっ! おぉぉ―――いっ!」
とっさに理解できないフリ、まあどこからか空耳が……亜美ちゃんに雪の妖精さんが話しかけているのかしら……そんなツラをしてそっぽを向いてみる。だってはっきり、怖いのだ。
「キャー! ばかちーの野郎聞こえないフリしてるぅぅぅ!」
「うわあああふざけんな死にかけてんだぞ!?」
おにー! おにー! と叫ばれるが、思い当たる節はない。誰より美人で心優しく、全身からクラス感あるオーラが迸《ほとばし》るような上品セレブ清純姫系天然美少女ならここにいるけれど、鬼なら知らない。「あーマジでさっむーい、コーヒーでも飲みにいこっかな」
「うわわほんとに行っちゃう気だよ!? 待てばかちー! 待ってってば! 行くなー! 行かないでってばぁぁ! たーすーけーて―――――っ!」
ついに恥も外聞もプライドも砕け散ったか、手乗りタイガーが半泣きのSOSを発する。あの生意気な傲慢タイガーが「たすけて」か……ふふん、と我知らず鼻先で笑ってしまう。最初っから素直にそう言えばいいのに。足を止めて方向転換しかけ、
「モデルの川嶋亜美さぁぁぁんっ! か、わ、し、ま、あみさぁぁぁん! 凍死寸前の友達を見捨てるんじゃな――――いっ! ほら竜児も!」
「ナイス、さすがだ大河! 川嶋杏奈の娘の、あー! みー! さ―――ん! 俺たちを見殺しにするのかぁ!」
「いやいやいやちょちょちょちょちょ! やめてそれマジで! やめろっての!」
慌てて走り出す。冗談ではない、この先最低六十年はこの名前を背負って芸能界を渡って行くつもりなのだ。こんなところで妙な都市伝説を創出されてなるものか。半ば滑りながら河川敷の斜面を駆け下り、
「ふざっけんじゃねえよなに言ってんのなに叫んでくれちゃってんのなに人の名前出してくれちゃってんのぉ!? ばっっっかじゃないのぉ!? ってかなんで普通に『たすけて』って言えないわけ!?」
「やっぱ聞こえてたんじゃんか!? ひー、助けて!」
「助けてくれー!」
近づいて見れば、二人ともさらに恐ろしい。頭までびしょ濡れ、顔色は青を通り越してもはや緑、唇までドス黒くして必死にこちらの岸へ歩いてこようとしているのだった。言い返す気もとっさに失せて、
「てゆーか……なんでそんなんなってんの……?」
「もうなんか色々あって……話せば長いのよ、あ、ああ〜! ブーツが脱げる……っ」
「ちょ、ちょっと川嶋、頼む、手を貸してくれ! 川底が柔らかくてうまく歩けねえ!」
「わかった」
川面ギリギリのコンクリブロックの上に立ち、
「あーら残念でしたぁ、届かないみたーい」
肘から先だけやる気なくブラブラ振って見せる。「ああああんたぁ!」――当然恨みがましく手乗りタイガーは喚くが、ふん、と鼻を鳴らしていなし、
「冗談に決まってんでしょうが。ひ〜っ! つっ、めっ、たあ〜!」
先に立っていた高須竜児の手をまずは掴む。体重をかけて引き上げてやり、続けてタイガーの小さな手を。二人の手は掴んだこっちが悲鳴を上げてしまうほど冷え切って、冗談にもできないほど震えている。
「祐作と、あとあいつ。……櫛枝実乃梨もすぐ来るって。ってかなんか、すっごいマジでやっばくない? あんたら。顔色が尋常じゃないんですけど」
「やややややばいのよ、ほほほほほんとうに、もももも、もう、しみじみ、してたわけ」
「ししし、しみじみ、俺たちは、ばば、ば、ばかなんじゃねえか、とととと」
「……よく生きてるよね。丈夫なんだあ?」
事情を訊けるほどの余裕もなさそうで、とりあえず着ていたベンチコートを脱いで並んだ二人に頭からかぶせてやった。タートルのニットに染み込むような冷気に全身の鳥肌がゾクゾク立つ。びしょ濡れで凍りかけているこいつらよりはマシだろうが、
「あたしの方が風邪引きそうなんだけど」
コートの中で身を寄せあって震える奴らを眺め、こっちは一人だしさ、とついつい口に出しそうになる。危ないところで言葉を飲んで、かわりにあーあと息をつく。結局のところ、自分が一番かわいそうなんではないだろうか。そんなこと、思いたくもないけれど。
「なんてかわいそうな亜美ちゃん……どこまでピュアでお人よしなんだろ……」
自覚はあるのだ。困っている奴がいるなら、助けを求められたなら、本気で見捨てることなんかできやしない。損ばっかり、ハズレばっかり、いいとこなし。幼馴染の電話一つで走り出してしまうし、見つけてしまうし、挙句の果てにはコートまで貸してやってしまって、最終的には自分が震える羽目になる。しかも他人にも同じようにしてほしいのだ、本当は。
本当は、誰かに、自分がこんなふうにしてほしいのだ。
ばっかみたい――唇を噛み締めるかわりに頬に指を添える。アヒルみたいに唇を窄《すぼ》め、言葉を飲むかわりに甘ったるく声を作る。
「きっと天から最強の美貌を授けられた分だけ、人よりハードな苦労も……っひ〜〜〜〜!」
「あーばかちーあったかい……」
きっと誰にも理解されやしない切なすぎる感慨が、その一瞬で見えない彼方へ吹っ飛んでいった。ズブ濡れの手乗りタイガーにがっぷり四つにしがみつかれ、背中に回された手はニットの下に入り込む。その冷たさに全身硬直させられることになる。
「ほんとにあったかいよばかちーは命の恩人……」
「ほ〜〜〜〜〜〜や〜〜〜〜〜〜〜〜!」
動けなくなった隙をついて、氷みたいに冷え切ったその手は、着込んだアンダーシャツの下にまで入ってくる。背中をがしゃがしゃ、嫌がらせ半分に直接肌の熱を奪われ、誰より甲高く貝類の名前を叫ぶ。
その悲鳴に呼ばれたみたいに、「おっ、そこか! おーい!」と手を振りながら近づいてきたのは幼馴染だった。雪が張りついた斜面をスニーカーでうまいこと滑り降りてきて、
「今おまえ、ホヤって言ったか!?」
そっちかよ! と三人分のつっこみを受ける。さらに続けて現れたのは、
「いたいたいたー! おまえらー! ちょっ、おわー!」
櫛枝美乃梨だった。しかし斜面を同じように滑ってこようとして尻餅をつき、そのまま尻で滑りながら護岸の下まで到着する。立ち上がるなりなにを言うかと思えば、
「あーみん今ホタテって言った!?」
言ってねえよ! と全員で総つっこみ。「わりい聞き間違えた!」ベロン、と舌を出してみせて、
「ていうかなんなんだよ!?」
両手でそれぞれびしっと指差すのは、ビショ濡れの二人組。顔を見合わせ、高須竜児もタイガーもなにも言えなくなる。ただガクガク震え、白い息を断続的に吐き、なにから言おうか迷うみたいに揃って俯いてしまう。
「ていうか、あんたもどしたの!?」
「……は?」
不意に指を向けられ、素の顔で見つめ返していた。
「そのかっこ! そんな薄着でなにやってんの!」
「みみみ、みのりん、ばばばばばかちーのコート、これなの。かか、か、貸してくれた。ね、ば、ばばばばばかちー」
頷くよりも速く、
「あーあーあー! もー、おまえらみんな見てるだけで寒いよ! 大丈夫!?」
櫛枝実乃梨の両手が躊躇なく伸びてきて、ごしごし二の腕を擦ってくる。「うっざ!」と思わず口をついてしまっても、その手は引っ込められなかった。
「二人とも濡れたコートをまず脱いだ方がいい。ほら、こっちよこせ」
「あーみんのコートは高須くんがちゃんと着て。そんで大河は私のを着な。そんであーみんはこれ! 鼻グスグスいってんじゃん、いそげいそげ!」
ニット一枚になってしまった肩に、ストールみたいに幅の広いチェックのマフラーがかけられた。不意の暖かさに思わず首をすくめるが、
「それは俺がもらう」
濡れた二人分の上着を抱えた幼馴染が手を伸ばして奪い取る。
「おまえたちはこれ一緒にかけろ、冷えるぞ」
マフラーのかわりに、幼馴染は着ていたダッフルコートを脱いで差し出してくる。ありがたい〜! と櫛枝実乃梨がそれを受け取り、肘を掴み、
「くっついてこいよ! おらこい! もっとこっちにおいで!」
「……」
ぐい、と引き寄せてくれた。たいして温かくもないウールのダッフルの中で、不意に、
「風呂」
声が詰まったのを咳払いでごまかした。何事もなかったみたいに言葉を継ぐ。
「……あんたたち、風呂入らないと死ぬんじゃね? とりあえず」
2
熱いシャワーを頭から浴びて、凍りついていたように固まっていた全身の筋肉がようやく通常動作を取り戻す。浴室に持ち込んだタオルで身体をしっかり拭いて、竜児は一つ、息をついた。すべてはこれからだが、とにかく命の危機だけは去った。
「シャワー終わったか?」
脱衣所からの北村の声に、おう、と答えてタオルを腰巻き、顔だけドアから出してみる。
「生乾きも著しいが、とりあえずパンツ最優先、靴下準優先でやってみた。服の方は……う〜ん……まだまだだいぶ……う〜〜〜〜ん……」
人様の家の洗濯機の上に広げた竜児のデニムをぺたぺた手の平で触り、北村は腕組みしつつ唸っていた。納得いかなげに首を傾け、こっちはできてる、とパンツを竜児に手渡し、
「やっぱもうちょっとだけやるか」
ドライヤーを握り直す。
「いやいや、それでいいって。充分着れる」
サンキュー助かった、と心底からの感謝を込めて関取の仕草。頭を垂れて手刀を切ってみせる。北村は竜児が風呂を借りている間、濡れてしまった竜児の服を、ずっとドライヤーで乾かし続けてくれていた。自分だってコートもなしに雪の中を歩いてきて冷え切っているだろうに、休憩することもなく本当にずっと、ドライヤーの音は竜児の耳にも届いていた。
凍る寸前の川の水に思い切り浸かった衣類はそう易々とは乾かないだろうが、確かに手渡されたパンツだけは北村の言葉どおり、しっかりあたたかに乾いている。
「はあ……やっと落ち着いた感じだ。ずっとびしょびしょ冷たくケツに張りついて、気持ち悪かったんだよ」
腰に巻いたバスタオルの下にもそもそ穿いて竜児は頷いた。北村はそのさまを眺めつつ、
「プール前の女子みたいな着替え方だな」
妙なことを言い出す。一笑に付して流そうとして、
「なんだそ……え……?」
ちょっと考えてから竜児は目を見開いた。プール前の女子だと? ああ好物だよ、ぷちぷちとした歯ごたえがたまらない珍味だよあれは、などと思っているわけではない。親友が不意に恐ろしくなったのだ。
「……覗いたことがあるのか、着替えを……」
「なーにを想像してるーんダーおーまえは」
湿気にくもった眼鏡を外して拭いつつ、北村は妙なイントネーションで言い返す。
「小学校の時、更衣室がなくて男女一緒に教室で着替えてたんだよ」
「な、なんだ……おう、一瞬本気で怖かったぞ。ていうか俺のことあんまり見るなよ。おまえと違って裸体が恥ずかしいタイプなんだから」
「見てない見てない」
ほーら見てない、と北村は竜児の目の前に仁王立ち、かけ直した眼鏡をわざとらしく捻ってその奥の目を見開いてみせる。アホ! 春田クラス! とつっこんでやり、ひとしきりそうやってふざけて、そして、
「……逢坂も着替えたかな?」
「あいつは……髪の毛にょろにょろだし、まだだろ」
二人して、ようやく間合いを探りあうみたいにおずおずと核心に触れた。
天井の向こうに見えるわけもない上の階に目をやって、揃って少しだけ黙る。竜児と同じくズブ濡れになってしまった大河は、二階にある亜美の部屋の浴室を借りているはずだ。
いまだ降り続く雪の中、友人たちとともに逃げ込んだのは川嶋家だった。
広い敷地に建つ二階建ては雰囲気のあるタイル貼り、一階が亜美の父親の兄夫婦の住居で、二階がワンルームの部屋が四つ並ぶアパートになっていた。そのうちの一室を、亜美の部屋として借りているのだという。アパートとして独立しているとはいえ、食事などは母屋で一緒に取るし、要はちょっと距離のある子供部屋状態と亜美は言っていた。
母屋は留守で、亜美に鍵を開けてもらい、上に行く女子たちと別れた。浴室を借りたことは隠し通せないのでは、と竜児は亜美に言ったが、「別にふつ〜に私が入ったって言えばいいし。タオルとかも好きに使ってよ」と簡単に返された。
北村と二人でおっかなびっくり通ってきた川嶋家のリビングは、こんな状況でコソコソ訪れるのではなく、きちんと亜美の友人として紹介されて通されて、ゆっくり眺めてみたかったと思う。折上げの天井を暖色のライトが照らし、柄物のソファには家族それぞれの指定場所を示すみたいにクッションやカーディガン、雑誌がすこし雑然と置かれたままになっていて、見るからに居心地が良さそうだった。造りの良さや趣味の良さだとかを超越した、この家に住む人々の暖かな暮らしの痕跡そのものがそこここから匂い立つようだった。
ストーカー騒ぎで実家を逃げ出してきた亜美にとって、本人に自覚があるかどうかはさておき、この家に居場所を与えられたことはどれだけの救いになっただろうかと思う。しかし、
「…川嶋の伯父さんたちが帰ってきて、俺たちがここにいるのを見たら、確実に強盗だと思うよな。それも堂々風呂まで入った二人組の居直り強盗……」
足ざわりのいい分厚いバスマットの上、竜児は落ち着かない気分で首を巡らせる。清潔に揃えられたタオルに化粧品、ひげそり、歯ブラシに歯磨き――どんなに居心地がよかろうが、やはり己は逃亡中の身の上だ。ここにも長くはいられない。
急かされるみたいにまだ冷たく濡れたままのデニムに構わず足を通し、Tシャツとパーカーもかぶった。見通しはなにも立たないまま。
「とりあえず今夜は大丈夫だろ。亜美に聞いたけど、ご夫妻揃って夜勤に出た後だって」
「夜勤? ……医者とか、なのか」
一瞬頭に浮かんだ、夜の勤めの母親の顔をかき消すように濡れた髪を荒っぽくかきあげる。乾かさなければ、早く。
「ご主人は大学病院。奥さんの方は介護ヘルパーでまた他所に勤めてるらしい。朝までお二人とも戻らないっていうからひとまず安心といえば安心だが……問題は、うちの方だな。いらっしゃる。まだ、『あの方』が」
北村は曇りの取れない眼鏡をもう一度外し、行儀悪く服の裾でレンズを拭う。竜児は手にしたドライヤーのスイッチの辺りをカチカチ爪でいじる。
「……あの方。すげえ黒幕的呼び方だな」
「黒幕だろう見たところ。ラスボスというか」
「びっくりの登場だよな。ポルシェだった?」
「ポルシェだった。あのー、なんていうか、妊婦さんだったしな」
北村家にやってきた大河の母親に、北村は「思い当たる場所がある。自分が連れてくるからここで待っていてほしい」と言い置いて、そのまま家を出たという。亜美と実乃梨にも連絡し、彼らは竜児たちを捜して街中を走り回っていた。
つまり今も北村家には大河の母親がいるし、そして北村の携帯にはすでに何回か自宅から電話がかかってきていた。
「うちの母親から亜美の名前が出たらここにも捜しにくるかもしれないが……まあ、そうなったら必殺居留守の術もある」
北村は裸眼だと一層大きく見える目を細めて笑ってみせるが。
「……ほんっと、悪い」
今更になってようやく、竜児にも確かな実感をもって理解できてきていた。俺は戦う! 俺は逃げる! 俺は大河が好き! 俺は、俺は、俺は! ――さも立派げに、男らしげに叫んだものの、それで結局こうやって周りを巻き込んでいる。友人たちに迷惑をかけている。心配させて、力を借りている。
目蓋を擦って俯いた。じわじわと、腹に染み渡るように状況が見えてくる。自分と大河がようやく気持ちを通じあわせて、二人の世界で酔い痴れるように結んだ決意は、他の誰かの犠牲的な助けなくしては成り立たないのだった。河川敷に亜美の姿を見つけたとき、この喉はなにを叫んだんだっけ? そして岸に引き上げられて、友人たちのコートを借りて、結局自分も大河も亜美の家に隠れている。
いや、川に落ちるなんてアクシデントさえなければ――落ちなくても状況は停滞していたか。バスの運賃にも足りない小銭しか持っていなかった。でも、せめて大河が金を落とさなかったなら――二万四千円で、どこまで、いつまで逃げられたという。せいぜい今週いっぱいぐらいは、せこい宿に隠れていられたかも? せこい宿がどこにあるかなんて知らない。とにかく間違いなく警察沙汰ではあっただろう。そして確実に、友達は自分たちを捜して、心配して、雪の中を走り回っていた。
あのままでは、二人では、どうにもできなかったのだ。だから助けられて、こうして温かなシャワーに救われている。
これでよかったのだろうか。
こうするしかなかったのだろうか、本当に。
でもわからない。どうすればいいのか。
「……こんなはずじゃなかったんだ」
じゃあおまえはどうするはずだったんだ? チャンスをやるから言ってみろ。運命の神にそう問われたとしても、やっぱり竜児には答えられない。
「でも、でも、なんていうか、本当に……俺も大河も、本当にこんなふうにしたかったんじゃなくて、」
「いいんだよ」
北村は大きく首を横に振ってみせる。
「俺だってあれだ、金髪とか、色々あったから。……いや、これはギブされたからのテイクってわけじゃない。もちろんおまえが俺にしてくれたことは忘れてないぞ、でもそうじゃないんだ。俺にだって、これは充分に、『戦う理由』なんだよ、高須」
ハーブの香りが淡く漂う明るい脱衣所に響いた親友の言葉は、確かに本音なのだろうと思えた。ただ、その思いが北村にとっての真実だからといって、「じゃあこれでいいんだ」とはいまだ思えずにいた。
なにかが引っかかるのだ。長く続く計算式のしょっぱなで間違えているのに、気づかずにその先を続けようとしているような気持ちの悪さが喉の奥にある。指でも差し入れて吐き出してしまいたいのに、竜児にはそれができないでいる。
「さっき少し聞いた話によると、逢坂はお母さんに連れていかれてしまうんだろう? 納得していないのに、無理矢理にここから、俺たちの前から連れ去られてしまうって逢坂は言っていた。だったら、これはもはやおまえたちだけの問題じゃない。逢坂は俺の友達だ。そんなの、俺だって黙って見てられるわけがない」
北村ははっきりと言い切る。
「そしておまえだって、俺の友達だ。想いあっている友達と友達が引き裂かれるというなら、俺は、二人の友達のために、なんだってしたいんだよ」
迷いも躊躇も、衒《てら》いもなく。
「ちゃんと、やっと、ようやく、おまえにも逢坂にもわかったことがあるんだろ」
竜児が頷いてみせたのは、北村の言葉に自分も真実を答えたかったからだった。すべてを掴んだわけではないにせよ、今見える心のすべてを言葉にして伝えようと思った。
「……大河と、離れたくないんだ」
濡れて冷たく頬にかかる髪をかきあげ、不器用な口を懸命に動かす。
「俺はあいつが好きだから」
せっかく暖まった爪先が冷えていくのがわかって、靴下を履こうと身を屈める。身体が固くてよろめきもする。簡単に、辿り着いたわけではない。
北村にもきっとそんなことはわかっているだろう。
大河が北村を想っていた気持ちは、絶対に偽りではない。そして自分が、大河と北村がうまくいけばいいと――あるいは、もしかしたら、うまくいかなければいいと、自分でも届かぬところで激しく心揺らがせたのも偽りではない。櫛枝実乃梨に寄せ続けた想いも、絶対に偽りなんかではなかった。それらは全部、間違っていたのではない。過ぎていったすべての瞬間を、ただ、全力で生きてきたのだ。
そうやって、生きて生きて、生き残ったから、今ここにいる。でも、簡単にここまで辿り着いたわけじゃない。よろよろで、傷だらけで、満身創痍のボロ布みたいになって、それでも生きて、過ぎ行く過去を渡ってきたのだ。自分だけじゃなくて、生きている奴はみんな『今』を目指してボロボロになって、それでもやってきたのだと竜児は思う。
そして今、大河をここで、想っている。
「なら離すな」
銀縁の眼鏡をしっかりかけ直し、北村はよく響く声で短く、
「全力で援護する」
強く言い切った。今、この時に生き残り、同じ今を共に過ごす、彼は確かに戦友だった。だが心に翳る不安はいまだ黒々と渦を巻いている。自分の戦場に友を引き込んだ、その可否はいまだにわからずにいる。
「……ただ、俺はほんの少し、なにかを……戦う方法を、間違えている気がするんだ」
「考えろ。俺は絶対に味方だ」
竜児がドライヤーで髪を乾かす間、北村は黙って待っていてくれた。髪は乾いたが、鏡に映る自分の顔は妙に固く強張って、まるで怯えるヤクザそのも――いや、怯える小動物のようだった。
濡れたスニーカーに足を入れ、借りた鍵で母屋に施錠して、二人して二階の亜美の部屋へ向かう。開いてるから入ってきてー、とノックに答えた亜美の声に呼ばれて中へ進むと、
「いやー、巌《いわお》だよこれは。食品の固さじゃないし」
「あんたなに入れたの? なに目的? どこ目標?」
「おっかしいなあ……溶かして固めただけなんだけど……」
「奇跡のケミストリーだよな。カカオも驚いただろうよ」
「もはや武器でしょ。暗殺できるよこれで二、三人」
「変だなー、なんでこうなるかな……」
炬燵の三方に深々と埋まり、女子三人はチョコレートを真ん中に、しみじみ語りあっていた。それは大河が手作りして、亜美に渡したチョコレート。三つの歯型が立ったままの竜児にも見える。
竜児と北村を振り返り、実乃梨が眉間に皺を寄せたままで言う。
「ちょっとこれすごいんだけど。とりあえずなんか甘いモン食うか、っつってかじってみたら、誰も歯が立たないんだわ。狂った強度。すなわち狂度」
続いて亜美が、
「う! 高須くん川くさっ! やっぱあの川、汚いんだあ〜!」
「汚いよあんなの、昼見たら淀んでるもん。ああ、私の二万四千円も沈んだまま……」
大河は亜美に借りたのだろう、ベロアのジャージをかわいらしく上下揃いで着て、「根性だせばさっき拾えたかな?」――竜児を見上げて真面目に呟く。
「おまえ……なにをばかな……ってか自分ばっかり綺麗なおべべ借りやがって……!」
「いや、竜児には小さいと思う」
「いいよ別に! おまえ、着てきた服は!?」
ほれそこに、と肩まで炬燵に突っ込んだまま、大河は顎で部屋の隅を指す。コートは一応ハンガーにかかっていたが、残りの衣服はビニール袋に濡れたまま詰められていて、
「おおお……!」
怒濤の現実感に竜児は溺れかける。思考をもなぎ倒し、力ずくで押し流すような、この圧倒的なリアルさはどうだ。どんなに悩んでも、どんなに考えても、流れ行く時は確実に脱ぎ捨てられた濡れ服をしわしわに腐らせていく。この瞬間にも刻々と。
「とりあえず突っ立ってないで、炬燵入りなよ。祐作も。二人並んで入れるでしょ?」
亜美は炬燵の空いた一辺の上掛けを少し持ち上げてくれた。
カーテンは少し寸足らず、床から何センチか上方に浮いてしまっていた。そして家具の大半はスチールラック。小さなテレビも積み上げられた雑誌もiPod用ステレオも、ブランドもののバッグまで、あらゆるものがやたらめったらスチールラックに載せられている。そのせいで亜美の部屋は仮住まい感バリバリで、
「……おまえ、どこで寝てんだよ? ベッドがねえ」
「布団。炬燵出すときは押入れにちゃんと上げてるの」
「勉強机もねえ」
「あるじゃん、これこれ」
亜美はずっぽり炬燵に埋まったまま、天板を手の平で叩いてみせた。ベッドもねえ、机もねえ、意外とそれほどオシャレじゃねえ……と妙な節回しで唸りつつ八畳ほどのワンルームを見回す竜児に、亜美は頷く。
「大丈夫。実家はちゃんとオシャレだから……っていうか、こいつ寝てんじゃん」
その隣で大河は頭まで炬燵にもぐり、実乃梨の腰あたりに脳天を押しつけるような形に丸まって寝息を立てていた。
「疲れ果てたんだろう。しばらくそのままにさせておけよ」
北村の言葉に亜美は肩を揺すろうとした手を引っ込めた。なんとなく全員しばし黙って大河の寝息を確認するみたいに聞き、やがて口を開いたのは実乃梨だった。
「あのさ。さっき、大河が話してくれたときには訊けなかったけどさ」
少しひそめた声でパーカーのヒモをいじりつつ、炬燵の上の誰かが食ったミカンの皮を見つめて言う。
「結局、その……大河のお母さんとは、なんで険悪な状態なんだろ。お母さんの再婚相手が嫌なんだろーか。お母さんのこと、嫌いってのは確か……なんだよね?」
その横顔を横目で見ながら、そりゃそーでしょ、と大河の代わりに亜美が答える。
「そもそも離婚したときに親父についてきてるんだから、推して知るべしなんじゃん? 大抵の場合、女の子だったらお母さんの方に行くでしょ。どっちが有責でも。そうじゃなかったってことは――あんた、親友親友言うわりに、あんまりタイガーのことわかってないんだ」
「……大河とは一度、おっさんの……大河のお父さんの件でぶつかっちゃったから。仲直りしてからも、家族のことはなんか触れちゃいけない話題みたいになって」
ふと、竜児は妙なことを思い出す。クリスマスに大河はいいこ宣言をして、あの親父と再婚相手にプレゼントを贈っていた。あのとき、母親への荷物はなかったような気がするのだ。少なくともそれらしい個人名の書いてあった荷物は、大河は持っていなかった。妊娠しているのも知らなかった。それに、そうだ。文化祭で親父からの手痛い裏切りを受けたときも、狩野すみれを襲撃して停学を食らったときも、大河は母親に助けを求めはしなかった。修学旅行でケガをしたときも、来て欲しいと呼んだわけではなかったのだ。
助けを求めたくなかったのか、なんらかの事情で求められなかったのかはわからない。でもとにかく、思っていたよりもずっとずっと、母娘関係の亀裂は深かったのかもしれない。
「なんにしても、タイガー的には高須くんと離れたくないから逃げてるってことだよね。お母さんについていったら引き離されるから。……つかさー、こいつが寝てるから言うけど」
亜美は動かない大河の後頭部をちょっと見やり、声を低くした。少し迷うみたいに、正面に座った竜児の顎のあたりまで視線を滑らせる。
「高須くんだって覚悟決めて、それでこうなったんだろうけどさ。……ぶっちゃけ、あたしはあんたたちのやろうとしてることは現実味なさすぎだと思うよ」
このまま竜児と逃げ続ける。それで、私と竜児は結婚するの。そうすれば私たちが一緒にいることを、誰にも文句つけられない。子供だからって引き離されない――大河が語った言葉を思い返すみたいに、亜美は大きな瞳を揺らがせる。その亜美の表情を見ながら、でも俺はここにいるぞ、と竜児は口には出さずに思う。
竜児がここに存在するのは、かつて、泰子が現実味のないことを本当にやらかしたからだ。泰子は妊娠して家出して、出産して、本当に十八年、親とは一切の関わりを断ったまま、竜児をここまで育ててしまった。高校生でも本気で逃げようと思えば逃げられてしまうということを、竜児は自身の存在で証明している。だから、竜児は「本当にできる」自分を知っている。
亜美はもちろんそんな事情は知らないまま、言葉を継ぐ。
「そもそもうまいこと逃げ切ったとして、結婚すれば、ほんとにそれがハッピーエンドってことになるかな? ……高須くんとタイガーが二人で生きてくって決めたのはいいけどさ、なんつーの? 引き離そうとする親がいました、十八の誕生日まで逃げました、結婚して一緒にいる正当性? のお墨付きをもらいました、親は諦めて去りました。……ちゃんちゃん、って……あーもーなに言ってるんだか自分でもわかんない、とにかく大人大人言いながら、大人のことは無視して、切り捨てればそれでいいの? っていうか。大人になるって大見得切った返す刀で大人を、タイガーの親を、切っておわり〜ってのは……それこそガキのやり方じゃね? 自分の都合さえ通れば勝ち、って」
言い返さないまま、竜児は自分の指先に目を落とした。それは確かに正論だった。
しかし、ここでもどうしても思い出してしまうのは、泰子が自分に見せた生き方だ。まるでお手本のように同じことをなぞろうと思う一方で、同時に、自分をその生き方の――泰子のエゴの被害者のようにも感じていた。
泰子は自分のしたことを後悔して、挽回するために竜児の人生を利用しようとしたのだ。そこから逃れようとすることのなにが悪いと思う。
そりゃみんなの都合を考えて、自分の望みを我慢して、周囲の期待通りに行動できればいい。でも周囲の大人だって、己の都合で自分を操ろうとしている。それが見えてしまったら、期待にこたえるのは難しい。切っておわり〜、なんてもちろんしたくないが、それぞれ勝手な周りの都合にあわせてコントロールされるのが嫌なら、自分をそこから無理矢理にでも切り離さなくてはいけないと思うのだ。大河を連れて、二人の人生を周囲から切り離さなくては、自分のコントロールする人生を生きられない。大人になれないと思うのだ。
その続きはつまり、二人で学校も辞めて、働きながら暮らすという話になるのかもしれない。泰子ともこれが、最後の別れになるのかも。それを殊更望むつもりはないが、大河と自分の二人口を泰子に養ってもらうのはとにかく違うとそれだけはわかる。
「……俺は、高須と逢坂が覚悟を決めたのなら、それを貫きたいのなら、俺の全力をかけてサポートする。なんだってする」
混みあいすぎて暑苦しい炬燵から離れ、背を伸ばして亜美のバランスボールに座ったままで北村が呟いた。振り向いて見上げた竜児と目をあわせ、照れ隠しみたいに肩を竦める。
「おまえたちがどうにかして結婚するんだって言ったとき、俺は本当に、嬉しかったんだよ。確かに普通の手順じゃないし、世間的には早すぎる。でも、いいじゃないかそんなこと!」
両手を大きく上げてみせても、さすがの北村はバランスボールの上で揺らぎもしない。
「櫛枝が、自分の幸せは自分で決めるって言っただろ? 俺もそう思った。俺の幸せは俺が決める。高須と逢坂も、自分で自分の幸せを決めて掴むんだ! やり切れないぐらい不器用な、俺だってそうだけどでもきっともっと不器用な奴らが、やっと掴むことができるんじゃないか! あとはもう八方破れでもメチャクチャでもなんでも、それでいいじゃないか! あとは幸せになるだけだ!」
多数決ってわけじゃないけど――そう言いながらも亜美は両手の人差し指をそれぞれ立ててみせる。
「反対、一。賛成、一。あたしと祐作で一、一だ。決戦票。あんたはどうなの」
ミカンの皮をいじっていた実乃梨の動きが一瞬止まる。俯いたままで「ちょっと待って」と言うかのように、亜美の顔の前に手の平を出してみせる。もう片手で、俯けた自分の顔を隠して覆う。
「……櫛枝……」
竜児は思わずその顔を覗き込んでいた。切羽詰まったこの事態に、さすがの実乃梨も動揺して言葉を失くしたのかもしれないと思ったのだ。亜美もちょっと唇を窄め、竜児と同じように身体を屈めて実乃梨の顔を見上げて、そして、
「……ブハ!」
「ブッフォォ!」
二人して噴いた。
「……お、おめん……ひよっほおおひふて……」
剥いたミカンを丸ごと口に詰め込み、顔の最大開口部をぴったりみっちり隙間なくミカンで塞ぎ、咀嚼することもできずに実乃梨は苦しんでいた。橙色の果汁をだらだら顎に垂らしながら「ひょっほまっへ、ひょっほまっへ」と必死にそいつを飲み下そうとしている。ネズミを丸呑みするヘビが如く苦しげに喉を捻り、そしてようやく、
「ぅああ、びっくりした……思ったより全然口小さいや……」
お茶を飲み、息を整える。そして言いたいことはさっきからずっと決まっていたみたいに、
「私はね」
寝入っている大河の方を見やって語る。
「とにかく大河がこのまま連れていかれるなんて、理不尽だと思う。そんなの認められない。私は、大河と離れ離れにはなりたくない。私は大河が悲しむのがいやだ。私は高須くんが悲しむのもいやだ。いやだから――ってのが、でも、正しいとも思わない。正しいことなんてこの世にはないって思う。人間のやることの絶対的な正しさ、正しくなさは、人間には決められない。ただ私は、大好きな、大切な大河と高須くんが悲しまなくてすむ方法を選ぶだけだ。今はそれがひとまずの逃亡ってのには、賛成」
「そんな言い方すんの!?」
あせったみたいに亜美は声を上げた。
「あたしだって、タイガーがいなくなることが悲しくないわけじゃないよ! どうにかしたいってば! でもさあ! だってこの先、それでいいのとか思うじゃん! 思わないの!?」
「あーみんが言いたいこともわかるけど、いっこあーみんは知らないんだよ。大河んちの親ってのは、とにかく基本的に、」
クソなんだよ。
――だとか言いたいのだろうな、と竜児はとっさに言い淀んだ実乃梨の口元を見て思った。だが親友の親を排泄物呼ばわりするのをギリギリで躊躇したのは正解だったかもしれない。
むくり、といつから目が覚めていたのか、大河の小さな肩が炬燵布団の中から這い出してくる。長すぎて顔にも肩にもほつれかかる柔らかな髪を指で梳《す》きながらかき上げ、
「……みのりん。その先はさ、やっぱ、言わないでよ」
ふざけてじゃれあうときみたいに、大河は実乃梨の肩に頭を擦りつけた。実乃梨は自分の額を熱でも測るみたいに押さえ、悔やむみたいに一瞬唇を噛み、やがて小さく頷いた。ごめんなまじで、と囁いた声は、竜児の耳にも届いていた。
「ばかちーが心配してくれてるのだってわかるって」
炬燵の熱で大河の顔は真っ赤になり、目の縁も赤く染まっていた。
「それに、マ……ババアが、……あの女が、……お母さんが、私を助けに来たんだってこともわかってる。親としての責任を果たそうとしてくれてるって思う。でもお母さんは離婚のとき、私を置いて、男のところに行った。それは忘れられない。今はおなかに赤ちゃんもいる。自分で選んだ好きな人の子供がいて、私はお母さんがいらなかった人の子供で、……どうしてもお母さんが、私の望むように私を愛してくれるってことは期待できないんだよ。助けに来てくれたのだとしても。だって、期待しては外される。期待しては弾かれる。私は、そういう繰り返しに、ずっと慣らされてきたんだよ。私が望んだものは絶対手に入らないんだって、ある意味で調教されてきたんだって思う。でもさ、」
痛々しい言葉とは裏腹に、大河は少し笑う。そして亜美を見て、北村を見て、実乃梨を見た。竜児と視線があった。
「……ある、一人の男の子を、好きになってさ。優しいからとか、私をわかってくれるとか、一緒にいると楽しいとか、中毒みたいに離れられないとか、ちょっと変な奴かな、とか、声が好きだったりしゃべり方が好きだったり食べるときの口の開け方が好きだったり、手が好きだったり、指が好きだったり、唇が好きだったりさ、……そんなもん、実はどうでもよくて」
ずっ、と一応様式美、竜児は頬杖をついていた肘を落とす。どうでもいいんかい、と実乃梨が小さくつっこむ。いーんです、と大河は頷く。北村は黙っていて、亜美は眉間に皺を寄せていた。
「ただずっと見ていたい、って思ったの。ずーっと覚えてたくて、ずーっと、もう、本当は見かけるだけで心臓どきどきしっぱなしなのに見ちゃう。近くにいたりしたら頭の中爆発ボーンで真っ白だったりして……いつからかそうなっちゃって、自分でもそれはやめられないのよ。やめようやめようやめなきゃって思うのに。……やめなくちゃいけないって思った理由は、一番には、その男の子には他に好きな子がいたから。それからその女の子も、彼を好きだったから。それはそれとして真実なんだけど、でも友情だとか信義だとかそういうものにかこつけて、本当に目を逸らしたかった理由はね、私は望みなんかもってはいけないって思ったから。望んだら、全部壊れる。竜児は私を好きじゃないとか、みのりんに嫉妬したくないとか、そういう『現実』とはもう別次元で、望んだ瞬間に、本気で掴もうと手を伸ばせばその瞬間に、魔法みたいにすべてが破滅するんだって――ばかみたいだけど、本当にそう思った」
一気に喋り、大河は小さく息を継いだ。
「今でもちょっと思うんだよね。止まることがもうできなくて、本気で竜児を捕まえようとしたからさ、こんなふうに逢坂家は破滅したのかな。私のせいかな」
「なわけねえだろ!」
「そんなわけがあるか!」
「んなわけないでしょ!」
「あほか!」
四人分のつっこみのラストに実乃梨の目潰しがぶさっと決まり、「あ……思ったより深くいっちゃった……ごめ……どうしよ……」大河は両目を押さえて炬燵に突っ伏した。
「……そんなのも、でも、どうでもいいんだ。もはや」
そのままの体勢、くぐもった声で大河は言う。
「私だって、戦う。竜児といたいって思うことで世界が破滅するっていうなら、どこでだって、世界の外でだって、サバイバルする。絶対負けない。竜児を諦めない。それに、みのりんのことも、北村くんのことも、……ばかちーのことだって諦めない。好きだもん。どんな大破壊が起きたって、私はどこにいたって、誰かを好きだと思うことをやめない」
目の前に向けられたつむじを見つめ、竜児はなにか言おうと思った。どんな言葉なら、より強く、より確かに、大河やみんなに己の覚悟と想いを伝えられるだろうか。
考えて、そして、噛み締めるみたいに口にした。
「……じゃあおまえは……世界の真ん中で愛を叫ぶんだな……」
高須……。
高須くん……。
高須くん……。
あんた……。
――寒いのは雪降る天気のせいか、川に落ちたせいか、それともこの部屋に満たされた空気の温度か。思わず辺りを見回したくなるほどの冷たい沈黙がたっぷり五秒は続き、
「ぅぅぅううわあぁぁぁ〜〜〜〜〜……きもちわるいよぉぉ〜〜〜〜〜〜……」
「……泣くほどかよ……」
詩吟でも唸るが如き見事な長声、亜美はポロポロ涙を零し始める。どうせいつもの嫌みったらしいわざとらしさ満点嘘泣きだろ、と横目で見るが、逆に真っ赤な目でガン見し返され、
「やばい耐えられないよ〜〜〜〜〜〜……ふぁ〜、おかあさ〜〜〜〜〜〜ん……」
「……そこまでかよ……」
これまで食らったどんな悪口より、罵詈雑言より、こんなシンプルな言われ方が結局一番きくのだと知る。亜美はそして立ち上がり、
「これやるからさっさと行っちゃってよ〜〜〜〜〜〜〜〜」
「おう……!」
スチールラックに置かれていたルイヴィトンのキーケースから、一本の鍵を外して竜児に放って寄越した。危うくキャッチ、古びて黄色っぽくなっているその鍵には見覚えがあった。
「……もしかして、別荘の?」
「だよ」
鼻をかみつつ、亜美は息をついた。肌をこすらないようにそっと頬の涙を拭いて、
「電気はきてる。ガスは止まってる。水道は、メーターボックスの元栓を開ければ使える。まあでも使ったら使った分の痕跡は残る」
大河の顔を見た。大河も戸惑ったみたいに竜児を見ていた。迷って、しかし、
「……借りられねえ。さすがにこれは、」
「じゃあどうすんのよ。気取ってる場合かよ」
返そうと差し出した鍵を、亜美は受け取るまいと手を後ろに回す。
「あんたたち二人、逃げるって決めたんでしょ? だったらみっともなくても迷惑かけても、がむしゃらに逃げろっての! なにも一生住めなんて誰も言ってねえし! バイトするにしたって住所はいるでしょ! 行かなくてもいいから、とにかく保険にもっとけばいいじゃん!」
――これがバレたら、亜美はどれだけ叱責されるだろうか。
あらゆる可能性を考えて、竜児はその鍵をポケットに入れられないまま電池の切れたロボットみたいに動きを止めた。警察沙汰にでもなって、亜美が隠れ場所を提供したことがわかったら、家出した自分たちと同じぐらいには……下手をしたらそれ以上。唆《そそのか》した、とさえ責められるかもしれない。
そんな覚悟も、亜美にはできているのだろう。亜美という奴は、彼女の心をいつも熱く揺さぶる『情』のパワーは、本当にいつだって凄まじいのだ。
でも、これでいいのか。
「それでいいじゃん!」
いいのか、本当に――
「っと……『せめてメールだけでもして。とても心配しています。』……うちのおふくろからだ。今夜はそろそろタイムアップだな。ここにも来るかも。このまま出るか、おまえたち」
「……あーみんの別荘に向かうなら、電車がもうやばいか。夏に行ったとき時刻表調べたけど、確か夜は結構早かったはず。ここからだと……」
「私も竜児もお金持ってない」
「あたしが貸す。あ、でも電車はほんとだ、やばいかも。ちょっと待って、携帯で確か時刻表見れたはず」
「……いや。いい、見なくていい」
携帯を取り出す亜美に言い、竜児は大河を見た。
「大河。俺たちは、一度家にそれぞれ帰ろう。俺は金を取ってくる。おまえは明日、とにかく学校に来るんだ。母親に頼んで、最後に一日だけクラスに顔を出したいって言え。来られそうか?」
「……どうだろう。退学届けは郵送で出して終わりにするって言ってたけど……担任の先生に直接渡したいって言えば多分……あんた、やっちゃんになんて言うの?」
大河の瞳の前で、一瞬だけ言い淀む。家に帰ったら泰子はいるのだろうか。北村の家にいるのは大河の母親だけだと聞いたから、竜児と言いあった後に一人で帰ったのだとは思う。仕事に行ったか。
「……仕事に出ただろうから、家にはいないと思う、けど」
家にいるのなら――どうしようか。なんと言おう。なにも言わずに、明日学校から消えるのがいいのか。
「さっきあんたが言ったこと、ちゃんとやっちゃんに謝って、取り消さなくちゃ。そして私たちのこと、話してわかってもらおう。やっちゃんならきっとわかってくれるよ。私たちの味方になってくれる」
わかってくれないし、味方にもならないだろう。竜児は思い、しかしそのままを大河には言えず、曖昧に首を傾けてみせる。対決すべき敵は、まさにその泰子のエゴなのだ。もはややるしか、逃げるしかない。そうすることでしか、竜児は戦えない。できるだけ上手くいくように、なんとかやってみるしかない。
時に急き立てられ、あがくみたいに進むしかない。
揃って表に出ると、雪は止んでいた。
ところどころアスファルトが透ける積雪はせいぜい一センチか二センチ、少し気温が上がってきているのか、靴で踏めばすぐに溶けた。
亜美の家から少し歩いた先の交差点に現れた黒のポルシェに、誰もがすぐに気づいた。車高の低い独特の形をした車は真横にぬめるような挙動で路肩に停まり、エンジンをかけたままで中から大河の母親が降りてきた。
大河の前に歩み寄るなり、
「ジューシークチュール」
大河が亜美から借りたまま着ていたパーカーのうなじ部分を掴んでひっくり返し、タグを見る。その眼差しがどこか冷淡に思えるのは、その人が夜目にも淡いグレーの虹彩《こうさい》をしているせいかもしれない。
「川嶋さん? どなた? あなた?」
竜児、北村、実乃梨と視線を滑らせ、亜美の顔に目を留める。
「高価なものだわ。買い取ります」
「え? え、そんな、いいですぅ! 気になさらないで下さい〜!」
亜美はいつものぶりっこで手を振ってみせるが、大河の母親が小さなクラッチバッグから財布を出す動作には少しの淀みもなかった。スポーツカーのなめらかな、でも強引な動きを想起させる手つきで、
「これぐらいでいいかしら」
「あの、ほんとにあたし……ていうか、親に買ってもらったものだし、」
「なら親御さんに渡してちょうだい」
五万円を、亜美に握らせていた。それが妥当な額かどうかは竜児にはわからなかったが、貸し借りはこれで完全にチャラだと言いたいのだろう。大河の痕跡はこれで、ここにはなにも残っていないことになる。
まるで放棄した巣穴の周りで子供の痕跡を消そうとする母狐だと竜児は思う。鋭い爪で足跡を消し、叩いて蹴って匂いも残さない。
「行くわよ」
不安そうに、大河が一度振り返る。
北村を見る。そのキャラクターで大河の日々を支え、ときめきと憧れの的で在り続けてくれた彼の顔を見る。
亜美を見る。対抗しあい、反発しあい、言いあって殴りあって蹴りあいながら、気がつけば本当に仲良くなってしまった彼女の顔を見る。
実乃梨の顔を見る。大好きな、彼女の顔を見る。
そしてこの世界にたった一人の恋人の顔を見た。
「げ――元気で」
竜児は、我知らず小さく震えて、大河が発したその言葉を聞いた。
演技だと、これは仮の別れだとわかっていてなお、恐ろしいのだ。もしもこれが本当に最後の別れになったらどうしよう。手を振って「おう」と答えながら、今にも走り出してしまいそうな身体を押さえる。
追いかけたほうがいいのでは。行かせたら、これが最後になるのでは、あの手を掴んで、やっぱり今すぐに逃げ出してしまった方がよかったのでは。
しかしそんな逡巡を断ち切るみたいに、高らかな音を立てて車のドアが閉まる。スモークの張ってある窓から中の様子はうかがい知れず、そのまま大河とその母親を乗せて走り出す。とても追いつけるようなスタートではない。
実乃梨だって飛び出しかけていた。でも傍らに並んで同じように弾けかけていた竜児と呼吸を読みあうみたいに、牽制しあうみたいにして、必死に二人はこらえたのだった。
「……大丈夫、だよな……」
ぽつりと北村が零す。
「大丈夫だよ。きっと。だってタイガーは、あっちに行ったように見せかけて、本当はこっちにいるんだから」
亜美が言うのに、実乃梨も頷く。
***
靴の足りない玄関だとか、留守宅の寒々しさや暗さ、締め切られたカーテン、足の裏から染み込むような冷たい静けさは、泰子が仕事に出ているなら当たり前のことだった。しん、と冷えた、雪のせいか湿っぽくも感じられる闇の中に踏み込んで、竜児はしかしゆっくりと首を巡らせる。
最初の違和感の正体は、鳥かごがあるべき位置にないことだった。
自分の部屋を見て、泰子の部屋も見て、鳥かごがやはり消えていることを確認する。湿ったままの服を着替えるのも忘れて、文字通り2DKを右往左往する。なにを話そう、なんて悩むよりはストレートに訊くべきことを訊こうと腹を決め、店に電話をかけてみる。泰子の息子だと名乗る途中で、「ママは体調大丈夫? いつまでお休みなのかな?」と逆に尋ねられ、店に出ていないことを知った。電話を置いて、大家に訊いてみようかと思う。そして、ちゃぶ台の真ん中に置かれていた物に初めて気がついた。
携帯ショップのリスマーク入りのメモに、その住所は書かれていた。
最寄り駅が書いてあって、そして電話番号も書いてあった。その脇にはクリスマスパーティで身に着けた時計が置いてあり、
「……」
喉が、妙な音を立てて鳴った。
なんだこれは、などと考えるまでもなくわかってしまった。俺は家出をして泰子を捨てて生きるのだ、でもそれでいいのだろうか、それが本当に大人のやり方だろうか、でも大人に対抗するにはそれしかなく、やっぱり親を捨てて俺は大河と、でも……なんてことはない。悩むことなんかなかった。
捨てられたのは、自分だ。
泰子は自分が捨てた実家に、今度は竜児を、捨てたのだった。
「あ、」
感想なんかなかった。ただからっぽのままで、なんというアホ親子なのだろうと。
本当に、自分たち親子はそっくりだ。ドン詰まりに追い込まれたら相手を捨てて逃げりゃいいとか思うあたり、本当に良く似たものだと思う。どっちが先に捨てるか捨てられるか、逃げ足の早い方が勝ちで、捨てられた方が負けというわけか。さすがに予想できなかった。今夜のうちにペットの鳥まで連れて、さっさとケツをまくっているなんて。自分が負ける方だなんて。
膝がへたって、というよりは立っている必然性もなくて、竜児は気がつけば畳に座り込んでいた。自分がなにを見、なにを聞き、なにをしているのか、なにを考えているのかもわからなくなって、幾度か息をした。長く吐いた息の尻が、細かく震えて途切れ途切れになる。
またここからかよ。
一言で紡げるその短い言葉がどこから来たかもわからない。またここからかよ。ただそればかりを繰り返す。またここからかよ。瞬きも忘れ、立ち上がることなんかもうできないかもしれなかった。疲れ果てて、もうクタクタだった。それなのに、またここから――背骨が一つずつ潰れていくかのように、ぐしゃ、ぐしゃ、と身体は崩れ落ちていった。指先さえも動かせない。
また、すべてを打ち砕かれて、膝を折るところからか。
何度繰り返せばいいんだ。
ち、ち、ち、と気がつけば、時計が微かな音を立てていた。秒針が動くたびに、その軽やかな音が、「……わ、あああ、あぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁっっっ!」
凄まじい勢いで襖に叩きつけられて止まった。
「またここからかよっ!?」
勢いのままちゃぶ台までぶち倒し、ひっくり返った足を掴んで膝立ち、渾身の力で壁に叩きつける。両手で畳を打ちつける。頭を抱えて、顔を掻き毟り、もはや手近には殴るものもなくて自分の太ももを殴りつける。
「なんでだよふざけんなふざけんなふざけんじゃねえ! ふざっ、けんじゃっ、ねえっ! また、こっから、やんのかよ!? これ以上、まだ……続くのかよ……っ!?」
金切り声みたいに身を捩って叫び、自分の身体に爪を立てた。何度こんな夜を、泣き喚いて砕け散るような夜を越えたらゴールに辿り着けるのだろう。こんなふうに傷つくフェーズを終えられるのだろう。
「大河……大河! たいが――――――――っ!」
赤ん坊のように泣き声を振り絞った。来てくれ、頼むからここに居てくれ、届かない叫びを繰り返し、竜児は畳に転がった。
――これが大河の言っていた『大破壊』なのだろうか。
なにかを得ればなにかを失う、望めばすべてが壊される、これのことか。でも自分にはそもそも、親に捨てられたからといってこんなにも傷つく資格はないのかもしれない。自分こそが親を捨てて逃げ出そうとしていたのだから。
そうだ、結果的には、自分がまさにしようとしていたことが叶っている状態なのだ。これが望みだった。
歪む顔を必死に持ち上げ、静まり返った居間の惨状を見回す。叶えられた望みの果てをこの目で見る。ちゃぶ台の足が当たって襖は大きく歪み、そして、
「……あ、……ああ……!」
その前に時計の一撃でブチ抜いてしまったらしい穴を見た。
「……大河……っ」
もう一度その名を呼んで、顔を覆って膝に埋めた。自分がしたことだ。声を上げて三息分、長く泣いた。そこには、春に大河がこの家を初めて襲撃したときに開けられた穴に、北村宛のラブレターの封筒で花びらの形を作って貼ってあったのだ。みすぼらしくはあったけれどその桜色はなんとなく優しげで、古臭いこの家の感じにも似合いなようで、実は結構気に入っていた。だから直す機会は幾度もあったのに、竜児はなんだかんだと理由をつけてはずっとそのままにしておいた。なのに、大きく抉れ、窪んでしまった。
大河の存在の痕跡が、また一つ、消えてしまった。
名前を呼べば呼ぶほどに、遠ざかっていくのかもしれない。
いやだ、そんなのは、と必死に頭に思い描く。大河の小さな手を取って、二人してどこまでも駆けていくことを想像する。走って走って、砕け散っていく地面のひび割れに追い立てられるみたいに逃げて――結局世界は壊れ果てていくのか。想像の中でさえ。
叫び声も嗄れ、竜児は咳き込んだ。
因果応報だというなら、ほんとによくできてるよ。ほんっとに……疲れてブツンと電源が落ちてしまいそうな頭の片隅で、そんなことを思う。
親を捨てた泰子が、今度は竜児を捨てる。そうでなければ、竜児が泰子を捨てていた。きっと竜児の子は、竜児を捨てるだろう。そうでなければ、竜児が捨てるのだろう。そしてその子はまた親を捨て、子を捨てるんだろう。子に捨てられるのだろう。
こんなふうに生まれてしまったら、そういうふうにしかならないのかもしれない。大河も親に捨てられて、そして親を捨てて、子を捨てるのだ。子に捨てられるのだ。絆はいつもそうやって断ち切られていく。愛にも情にも関わりなく、ただ連鎖していく。捨てた奴は捨てられる、捨てられた奴は捨てる。そんな具合に。
だって、世代の絆の繋ぎ方を、我々は知らない。
そして、竜児はゆっくりと気がついた。捨てようとしていた泰子にこうして捨てられて、結果、取り残されたことがこんなにも悲しいのではなかった。見えたことが、悲しいのだ。今ここにある分だけではなく、過去にも、未来にも、この悲しみが連綿と続いていくことが、それが見えたのが悲しかった。
大河と逃げたその果てにも、この悲しみは見えたのだ。
自分と逃げて、その未来で、大河は悲しむのだ。そしてきっと思うだろう。これも私が望んだからか、と。私は諦めない、と強く語る一方で、親との絆を諦めた大河は、その両眼に結局悲しみを見るのだ。
そうか、と竜児は一人、また涙を零した。誰に見られるわけでもない、そのまま両頬を濡らし続けた。本当は、もはや拭うこともできない。
大河は結局、すべての大破壊を恐れて、自分への愛を守るために、親への愛を捨てたのだ。まるでそれを生贄に捧げるみたいにして、高須竜児への愛を選んだのだった。大河自身がそれを理解しているかはわからないが、でも、そうなのだった。
その大河を、自分はどこに連れていこうとしているのか。大河になにを見せようとしているのか。すべてを投げ捨てて得る人生の、どんな果てに辿り着こうとしているのか。
大破壊なんてねえよ! 望むことは悪なんかじゃねえよ! そう言ってやりたいのに、まるで竜児自らが世界に破壊の大鉈を振るう死神だ。それに、もしかしたら、自分たちのために身を砕いてくれた友人たちだって、大破壊の一環なのかもしれない。
こんな騒ぎに巻き込まれて、竜児と大河が逃げるために力を貸し、彼ら自身も知らないうちに自分たちを悲しみの連鎖の中に放り込む。幸せになるためにならなんだってする、と言いながら。
巻き込むのでは、だめなのだ。だからこれではだめだったんだ。馬鹿だ馬鹿だ、自分の身の丈もわからないガキだ。中途半端に見た目ばかりが育ったこの身は、本当にこのまま、大河を連れて消え去ることができてしまっただろう。だからこそ、己の愚かしさが恐ろしかった。
「……俺は……やっぱり、間違ってたんだよ……」
呟いたのは、大河に。
まるで今、自分は深い水の底に沈んでいるようだと思う。ずっとこんなところにいたのだ。凍れる氷河よりももっと深い、光の射さない闇の下でなんて長い眠りについていたのだろう。でもここは安全だった。頭を身の下につっこむみたいに丸まって、竜児はずっとここに沈んでいた。ようやくだ。ようやく今、泡の息を一つ、吐いたみたいな気がした。
大河。
たった一人の名を呼ぶ声とともに泡が浮かび上がっていく。泡を追うように開いた目蓋は、硬い鱗のようだった。重い頭をようようもたげる。畳に手をついて身を起こす。長い眠りから覚めて、水底を爪を供えた四肢で掴む。自分でも測れないぐらいに本当は大きかった身体をゆするみたいにくねらせる。
強い光を放つ両眼を見開き、竜の児《こ》は恐る恐る、浮上し始める。
重い水を掻き、尾をくねらせ、自分の吐いた息の泡を追ってぐんぐんスピードを増す。
(上がれ、上がれ、もっと速く)
2DKの居間で、自分が暴れた跡のちゃぶ台の前で、竜児は涙を拭った。膝を片方ずつついて、ゆっくりと立ち上がる。二本の足を動かして洗面所へ向かう。悴むほど冷たい水で顔を洗い、タオルで拭い、妙な臭いのする服を脱ぐ。洗濯籠に放り込む。
下着も替えて、清潔な部屋着を着込む。鏡に映る真っ赤な顔を、殺す勢いで睨みつける。
(――もっと速く、浮上だ)
躍り上がったその身が水面を高く盛り上げる。真っ白に濁った泡を噴き上げ、四海が裂け、轟く水柱。海面に伸びる巨影。飛沫《しぶき》は豪雨となって降り注ぐ。津波は大陸を削り、新しい島々を生む。そして空にこの四肢で駆け上がるのだ。一息に雲まで貫いて、雷の光を食いながら、飛ぶこともできる。
この世界に、見たいものがある。それを捜し求めて、竜児の想像力はいまや成層圏まで舞い上がっていくことができる。
(メシだ。とにかく飯を食うんだ。場所はどこだろう? どこがいいか。大きな天窓のある大理石の部屋。真紅のカーテンがかかる、暖炉のある部屋。いや、東京タワーの見える夜景……レインボーブリッジだとか? 宝石みたいにきっと光って綺麗だろう。星空の下もいい。いっそ月でも、火星でも木星でも……やっぱり地球だ。虹も見たい。……大きな滝があって、水飛沫で虹ができているとか。空は……夕暮れが好きだ)
せーの、と勢いをつけて、ひっくり返してしまったちゃぶ台を戻す。畳を擦らないように抱え上げて、あるべき位置にそっと運ぶ。座布団もそれぞれの位置に、自分の、泰子の、大河のを置く。テレビのリモコンは右端に、ぴったり角度を合わせて揃える。
(真っ赤な夕暮れ。太陽は金色で、灰色の雲の端が燃えるみたいに光ってる。その雲の下には雨が降っている。大きな、すっごくでかいテーブルをセットするのは……海辺の……いや、やっぱり、サバンナ。夕暮れのサバンナの草原のど真ん中に。遠くには滝が落ちて虹を作り、ゆっくりとサイやキリンが歩いていく)
大きく手を左右に動かして、ちゃぶ台をピッカピカに拭きあげる。
(テーブルクロスは真っ白。絶対)
布巾をパン、と広げる。サバンナの熱風を孕んで膨らむテーブルクロスが、竜児には見えている。彼方まで波打つ草の海、遠い獣の叫び、鳥の羽ばたき――テレビ台にはいつでも気が向いたときに手にとれるように、高須棒が数本常備してあった。ペン立てから一本取り出し、そのままテレビの下をなぞる。静電気で集まる小さな埃がもりもりと絡みつく。にた、と竜児は笑った。
(アペリティフ。まず甘い果実酒を出そう。梅酒……じゃ普通だ。いちご酒とか。いちじく酒がいいか。夕焼けを真っ赤に透かす小さなグラスで)
そのままテレビ台の端に這い蹲《つくば》り、老練な猟師みたいに目を光らせる。狙うはテレビの裏のケーブルが絡まりあったコンセント周りだ。どんなにどんなに気をつけても、どこからか飛来した埃ですぐに真っ白になってしまう部分。
おらおらおら――前歯を剥き出し、高須棒で細かな部分をつつき回す。目に見えるような埃はそれで簡単にまず取ってしまい、勝負はしかしここからだ。コンセントを全部、丁寧な手つきで引っこ抜く。手繰り寄せて、「おう!」声を上げた。隠れていた埃球がもわもわ転がりながら一緒に出てきた。布巾で素早く拭い去る。
(そしてスープ、前菜。……待てよ、一人一人にサーブなんかしていられねえぞ?)
サバンナのテーブルには、みんながいないと始まらないのだ。
大河はきっと口を尖らせて、蚊がいるだの動物臭いだの「あそこになにかのフンがある! 許せないぃ! 竜児! 時を遡って私の目に入る前に拾うがいい!」……文句をつけているだろう。その隣には実乃梨がいて「動物だもんよ、うんこなんか余裕でするよ」……立ち働く竜児に目を留め、手伝おうと席を立つ。亜美は「あーらら、実乃梨ちゃんてばや、さ、し〜(ハート) な〜んか怪しくない? あんたたちぃ」シャネルのバッグを膝に乗せ、綺麗なツラを底意地悪くひん曲げるだろう。「間にあった、すまん遅れて! 生徒会の仕事が忙しくて! あつ!」……急いで来てくれたのはいい、でも、脱ぐな北村。テーブルにはまだまだ席がある。櫛枝〜これからうんこ食おうってときにカレ〜カレ〜騒ぐなよ! 春田はカレーが食べたいらしい。能登はなんだかそわそわと落ち着きなく、ああ、なるほど。亜美の両隣に座っておしゃべりを始めた香椎と木原を気にしているのか。話しかけてみりゃいいのに。
「……うほ。おう、おう、おう……うわわ……」
コンセントの二本の金具の隙間にも埃は溜まる。これが静電気の火花で発火し、火事の原因になると聞いたことがある。高須棒を短く持って巧みに動かし、あぐらのポーズ、細かなところまで丹念に掃除していく。
サバンナを渡る風に、その後ろ髪が攫われる。振り返り、2DKに無限の草原を見る。
フレンチ? イタリアン。中華、いっそ和食。大鍋一杯の里芋煮とか、実は結構盛り上がるのかもしれない。ずらり並んだ蒸籠《せいろ》からは水蒸気が激しく上がる。小さな点心が死ぬほど熱々に蒸しあがっている。ミートボールがゴロゴロ転がるパスタにチーズが切れないグラタン。ぱりっぱりのアクアパッツァ。ボールから盛り上がって零れるようなババロア。ミモザを飾ったケーキのタワー。白ごはんだって炊き上がり、なんだかんだいってカレーは外せない。春田が拍手で迎えてくれる。
大きな大きなテーブルに、狩野すみれもつく。重そうなトランクを運ぶのを手伝おうと北村が立ち上がる。恋ヶ窪先生も他の連中にからかわれながらドレスアップしてやって来る。インコちゃんもちょこんと皿の端にとまっていて、大家さんもいる。泰子ももちろんいる。外車で乗りつけてきた――と見せかけて、逢坂陸郎も徒歩で来る。会ったことのない夕も一緒だ。大河の母親も、その再婚相手も、生まれてくる元気な赤ん坊もいる。泰子の父親も母親も。腹に雑誌を入れてロレックスをギラギラ光らせた竜児の父親も。過去に別れて会えなくなった人も、この先の未来で出会う人も。
みんなが竜児のテーブルにいる。
みんなが、大きな口を開けて、笑っている。みんながいるから、竜児の世界のド真ん中で、誰より愛しい大河も笑っている。大河が笑っているなら、竜児だってもしかしたら誰より大声で笑っている。
大河が愛する者、全員が、一人も欠けることなく、この世界では笑っている。そうでなくてはいけないのだ。大河と一緒に渡る明日は、そうであってほしいのだ。竜児の望みはこの世にたった一つ。それだけだ。
「……よーし!」
腕を伸ばして、コンセント周りをすっきりと清潔に拭いきった。布巾を裏返し、立膝のポーズ、テレビ台もグッ、グッ、グッ、と拭い清める。洗面所に一度戻り、布巾を流し、固く絞って洗面台をゴシゴシ擦る。そのまま膝をついて床も拭う。もう一度流して絞り直し、
「いっくぞー!」
切なくなるほど短い板張りの廊下に四つんばい、布巾を置いて両手をついた。せーの、で息を詰め、「スタート!」で雑巾がけ開始。裸足の足で台所の隅まで一気に拭いて、壁際は腕をワイパーにしてより丹念に。方向転換して往復の復路。まっすぐなラインで玄関まで到着。
全部望んでやる。
夢を見ることのなにが悪い。希望を抱くことの、なにが罪だ。
誰一人欠かさない。諦めない。大破壊なんて絶対に、絶対に、訪れない。大河にもこの世界を――空を駆けてこの目で見てきた世界を見せたい。でも多分そのためには。
「……お米さん……」
膝にチクリと食い込んだ硬い米粒を拾い上げ、竜児は唇を強く噛んだ。痛みも悲しみも、ここにある分は全部、自分が、竜児が引き受けなくてはならない。しかし怯むものか。
まっすぐな眼差しは行く先を見据える。恥ずかしげもなく天駆けるドラゴンに己をたとえるなら、なにを恐れることもない。
3
雪は、町のあちこちの街路樹の根元にだけ少し残っていた。しかし集団登校の小学生たちにすでに手ひどくつつき回され、どこも土色に汚れて溶けかけている。大河のマンションのエントランスにある植樹の下にも、綺麗とはいえない雪玉が大中小極小と並べられていた。竜児はその「極小」を見て、ニヤリと唇を歪める――本人的には、くすっ、と綻ばせたぐらいのつもり。それは雪玉というよりもほとんどソラマメだった。
今朝の冷たい空気は、昨夜降った雪に洗われたのか、いつもよりも清浄に思える。
子供の手が届かない軒先や信号機の上には真っ白な雪帽子が載っていたが、晴天の太陽に照らされてもはや風前の灯。端から溶けてボタボタと大粒の雫を落とし、アスファルトのそこここには水溜りができていた。
竜児は水溜りを避けて欅《けやき》並木の下を大股で歩き、やがて、交差点の隅でこちらに手を振るその人影を見つけた。
「たーかーすーくん。おっす。まん、」
「さんこん」
小さく手を上げて、真面目に挨拶を返す。背後で近所の中学生女子が「さむっ!」と吐き捨てるように呟いた気がしたが、追い抜き様に竜児のツラを見、そのまま難波歩きで速度を上げて去っていく。実乃梨はいつもの交差点で、いつものように寒さに頬を赤くして、チェックのマフラーをグルグル巻きにし、両手をピーコートのポケットにつっこみ、スポーツバッグを肩にかけて立っていた。
「……やっぱ、来ねえな、大河は。ここでこうしてたら普通に来たりしてとか思ってうっかり待っちゃったけど」
顎のラインで少し跳ねてしまっている髪を風に散らし、眩しげに目を細めて、
「マンションにも戻らなかった?」
「戻らなかった。俺もちょっと期待して三時ぐらいまでは起きて見てたけど……落ちた」
だよなあ、と実乃梨は白い息をつく。
「学校には来る、と、俺は思う。……そうでなきゃ困るんだよ」
「んだなっす。三時までなにしてたの?」
「部屋を片付けて、キッチンの排水溝を掃除して、曇っていた鍋を磨いて」
「おお……なんなんだよ……」
「メシ食って、大河のチョコを食おうとして、断念して」
「あー、私もそれやったわ。歯ぁ折れそうだった」
「結局ミルクで溶かしてホットチョコレートにして飲んだ」
「なにそれ、ナイスアイディアじゃん。真似しよっと、牛乳で? ちゃんと溶けた?」
「不思議な油が浮いては消え、そして俺は意識を失った……」
「……大河、なにを食わせようとしたんだろうね、私たちに」
信号を一回分、お互いなにも言わずにスルーした。次の青信号で、やはりなにも言わないまま、竜児と実乃梨は揃って足を踏み出した。
さっびいね、でもいい天気だな、と数メートル分はただ声をかけあうのだけが目的のような会話をして、そして、
「……逃げるんだよね?」
「逃げるよ」
「どこ行くの。あーみんの別荘? ……そのまま、二人していなくなったりしないよね?」
「なんだそりや。そんなこと心配してたのかよ、俺ってそんなに信用ねえのか?」
目を合わせると、実乃梨は少し慌てたみたいに激しく両手を振ってみせた。ちがうちがう、そうじゃ、そうじゃない、と、
「だって心配だしさー!」
喚く。つまり結局、
「……ちがくねえな、全然」
竜児と大河の逃避行の果てが心配だ、と実乃梨は案じているのだった。「高須くんのことは信用してるけど、やっぱ不安で風と木の詩とか読み返しちゃったしさー!」――案じて当然、だとは竜児も思う。自分だって逆の立場なら、下手すれば実乃梨よりもっとおせっかいに、不安のままに首を突っ込んでいたかもしれない。風と木の詩は読んだことがないが。
「読んだことないならネタバレはしないけどさ、ひどいんだよ! じゃああれっすよ、高校教師でもいいっすよ、思い出してみてくださいよ! ……なんか昨日はよく眠れなくて、ほんと、余計なこといっぱい考えちゃった。あーみんが言ってたことも思い出した。北村くんが言ったことも、大河が言ったことも、自分が言ったこともな。いろいろさ、あれこれ……」
「俺が言ったことは?」
「寒いから忘却したよ……ってか、はー……なんだよ、世界の真ん中で愛を叫ぶんだな、って……思い出しちゃったよ。そりゃあーみんも泣くよ」
重い荷物を背負ったかのように、実乃梨は冗談半分本気半分、口をへの字にして俯いた。自分の爪先を見るみたいに背を丸め、少し目を上げ、何事か考え込んで黙ってしまう。
ほんの少しだけ躊躇して、竜児はその背後から、
「おう。『みのりん』」
勢いをつけて鞄の角で、実乃梨の背中を叩いてみた。思ったより大きく鞄は揺れて、どすっと重い音を立ててコートの背に刺さり、
「うぬぅ……!」
よろめいたのが悔しかったのだろうか。実乃梨は下方向に怨念の炎で溶けていく蝋燭《ろうそく》みたいな、ものすごい顔で振り向いた。切りつけられた吉良上野介も、何年か前の師走の雪の日、こんなツラをして呻いたのだろう。
「おまえは今、結構大変なツラになっている……」
思わず本音を漏らし、「どやさー!?」――実乃梨は身を捩って悲鳴を上げた。
「が、前向きであり続けると、おまえは俺に約束してくれた。俺も、そういうおまえを信じ続けるって約束した。前向きなんだろ、みのりん。……櫛枝」
「……まあな」
「だったら、立ち止まって考え込んでないで、行こうぜ。次へ――先へ行くのはいつだって怖いもんだ。でも、行くって決めて、やってくんだろ。おまえが教えてくれたんだ」
「……決めたの? 高須くんも」
「決めた。逃げて、そして、帰ってくるよ」
「……大河は?」
「大河も。絶対帰ってくる。ここに、俺やおまえやみんながいるところに。そのために俺たちは逃げるんだから」
ぐるっと指先を大きく回し、二人の足元を竜児は指す。その指の軌跡を猫のように首を回して追って、そっか――と、実乃梨は、口の中で呟いた。弾かれたみたいに顔を上げ、ようやく今日初めての笑顔を眩しく満開に咲かせる。朝の強い光線の中で見開かれた瞳が太陽よりも強く輝くようだった。そして準備運動するみたいに一度大きく、深く屈伸、
「よーし。遅刻寸前だ! 走ろうぜ!」
「おう!? ちょ、ちょっと待った!」
大股で跳ねるみたいにいつもの道を駆け出していく。慌てて竜児もその後を追う。迷いのない走りっぷりはいきなり全開の全速力、寝不足の竜児には少々厳しいが、息が跳ねて胸に染み込んでいく冷たい空気は気持ち良くもあった。
同じ制服の少女が、あー櫛枝せんぱーい、おはよーっす! と笑顔を実乃梨に向ける。ういーっす! と右手を上げて実乃梨はそれにドスを効かせて答える。元気だなーおまえら、とチャリ通のクラスメイトに笑われて「いーんです!」「いーんです!」と二人揃って、大河も昨日言っていたみたいに、流行を超えて定番となったイントネーションで返す。
「おーい高須! 速いよちょい待って速いよ!」
手を大きく振りながら走ってきたのは能登だった。よー! とわずかにスピードを落として能登と並ぶ。
「タイガーは!? 今日一緒じゃないの!?」
「大河は事情で別だ。先についてるかも」
「よ、よかったー……あのさー、あのさ、あのさ、」
眼鏡をずり落ちないように片手で押さえて並走しつつ、能登はわずかに口ごもる(かわいくない)。
「……高須から大先生に、それとなく訊いてくんない?」
「なにを」
「……昨日チョコもらったかどうか」
「誰に」
「……も、もういいよ! ふん(かわいくない)!」
悪い悪い、冗談冗談、ほんとはわかってる、竜児はむくれて先に駆け出す友人をとりなしながら追いかけるが、ちょうど校門に差し掛かるところで、
「あ! 裏切り者発見!」
「ん〜? どこの足軽かと思ったら能登っち高っちゃんついでに櫛枝かよ〜おっす〜!」
グレーのパーカーのフードを無理矢理学ランの下に着込んだいつものアホスタイル、冬の空気にロン毛をパサつかせた春田が朝一のアラベスクを決めてみせる。しかし能登は両手を胸の前で交差させて重ね、足を揃えて真横に少し飛んで「拒絶」の表現、ひがみ根性丸出しに低い声で「う〜ら〜ぎ〜り〜も〜の〜!」と呻く。
「え〜! そんなん言うなよぉ! 別に隠してたわけじゃなくてさ〜!」
「ちっ、淫蕩な貴族めが! あの真ん中わけの彼女と肉欲粘膜バベルの塔をぬめぬめとぬめらせながらうちたてるがいいさ! いずれ神の鉄槌が下るだろうがな……!」
「能登っち〜! 待ってくれよ〜! 信じてくれ〜俺は清らかだよ〜! まだ肉欲はぬめってないよ〜なんにもさせてもらってないんだよ〜!」
春田は悲しげに猛ダッシュ、能登の後を追うが、
「春田くんに彼女!? マジで!? ちょーっと待った、その話おじさんに聞かせて!」
さらにその後を身近なスキャンダルに目を輝かせ、実乃梨も春田の後を追い始める。
「それが年上のわりかし美人なんだよ! やってられないよ俺……!」
春田の代わりに能登が実乃梨の声に応えた。
「せめて事前に話しといてくれりゃーいいのにさー! いきなり目の前に二人して現れられて、そのときの俺のショック! 取り残された感! 裏切られた感たるや! わかる!?」
みんなして下駄箱に向かって騒がしく走りつつ、竜児は能登の肩を後ろからそっと叩いてみた。
「能登。あのさ、だったら俺も事前に話しておくことがある。実は、」
「きゃああああああ!」
大きく二歩、友人は宙に踊りあがった。「いい、その話聞きたくない!」――そして凄まじいスピードで逃げていく。大河にプロポーズして了解まで得ている、なんて言おうものなら、能登はこの場で憤死するのかもしれない。階段を駆け上がって校舎の玄関に飛び込み、
「わあああああああ!」
「耳元でうるせえな!? 能登かよ!?」
まさにキリキリ舞。靴底から煙が上がりそうな勢いでスピンする能登の前で「うざ!」と冷たく眉を吊り上げたのは、木原麻耶だった。胸下まで零れるサラサラのストレートロングを勢いよくかきあげ、グロスで光る唇を尖らせ、いくらなんでも派手すぎて似合わないかもしれないラメ入りパープルのマフラーに尖った顎を埋めてみせる。
「お、俺で悪い!? ……くっそ、美輪明宏みたいなマフラーしちゃってさー!」
「はあ!? うそでしょ!? あたし美輪さんみたいじゃないよねえ!?」
能登の言いたいこともなんとなくわかって、下駄箱に辿り着いた竜児は「むほ!」と噎《む》せたふり、笑いをなんとか飲み込む。必死に同意を求める麻耶に、
「んー、まあ、んー、まあ」
柔らかな巻き髪を長い爪でいじりつつ、傍らの香椎奈々子が曖昧に首をゆらゆら揺らす。えええ、なにそれ、と麻耶は大きな二重の目を見開くが、
「大丈夫だよ、麻耶!」
「亜美ちゃん……!」
二人と一緒に登校してきたらしい亜美の力強い一言に振り返る。そして、
「麻耶が美輪さんなんじゃない! マフラーが美輪さんみたいなだけだよ!」
「まぁじいでぇぇ!?」
撃沈。「道理でおニューなのに、二人とも触れてくれないはずだよお」……マフラーを外して鞄にしまう。春田は彼女持ちの余裕が故か、
「俺はいいと思ったぜ! ミステリックな感じでさ!」
先に行ってしまった能登を追いかけながらも抜け駆け的に褒め言葉を軽やかに投げるが、
「おまえはどうでもいいんだよ……」
フレーメン反応する猫のように、麻耶は鼻の下を縮めてそれを見送る。竜児はさりげなく脱いだ靴を下駄箱にはいれず、マイバッグにしまう。そして能登と春田を追いかけようとし、少し迷いながら足を止め、
「木原、まだ能登と不仲なのかよ」
「……あたしと能登が仲良かったことあるっけ?」
「ねえか。北村にチョコとかあげた?」
「……高須くんに関係あんの?」
「俺とおまえは同士だ、って木原が言ったんじゃねえか。だから報告するけど、俺はあれだ。告白したから」
「同士っていってもあたしは……ん? え? は!? や、あたしはあげなかったんだけど……ってか、えっ!? なにそれ、つまりつまりつまり……タイガー!? キャ―――――!」
甲高い声で喚きながら両目をキラキラ光らせる麻耶が奈々子の肩をドスゴス叩く。「大変大変大変、高須くんがタイガーががが!」「……詳しく!」奈々子も色っぽいほくろのある口元にニヤリと笑みを浮かべ、麻耶に顔を寄せる。ちょっと待った、話聞かせろ、そう大騒ぎする二人の女子に追い立てられながら、竜児は足早に階段を駆け上がる。踊り場で折り返しながら、その後をついてくる亜美と実乃梨が話しているのを見る。
「あーあーあー、浮かれちゃって……どうなのあれ!?」
「ってかさー、今聞いたんだけど、春田くんて彼女がいるらしいぜ……どうする」
「……はいぃぃ!? うそでしょ!?」
「世紀末だよなあ」
「今世紀は始まったばっか、ってか……うわー、アホにまで!? いやーん! なのにあたしには……あたしは……! なんか亜美ちゃん、意味不明に落ち込みそう……」
浮かれたっていいじゃねえか、ここからが正念場なんだから――竜児は女子の追撃をかわしつつ、2‐Cのドアを開ける、うーっす、おっす、と親しい顔に順番に応え、そして、
「高須、おはよう。ちょっと問題発生……かも、しれない」
北村の不安そうな顔を見つけた。
大河の姿は、教室の中にはなかった。朝のホームルームには恋ヶ窪ゆりではなく他所のクラスの担任が現れ、一時間目が始まって、二時間目が始まった。
それでも大河は来ない。
***
クラス委員長は、毎朝ホームルームの前に担任のところへ行って連絡事項などを確認しなければならないものらしい。北村祐作は色々思い悩みつつも、今朝も同じ時刻に教員室へ向かったが、独身担任・恋ヶ窪は来客中とかで席にはいなかった。まさか、と北村も思ったが、その来客が逢坂母娘かどうかは確かめようもなかったという。
「……なんか変くねえ?」
声を上げたのが誰かは竜児にはわからなかった。
ただ、その一言をきっかけに、自習を言いつけられた三時間目の2‐Cに堰を切ったように囁き声が交わされ始める。本来ならこの時間は、担任が受け持っている英語のはずだった。しかし担任が現れることはなく、自習を告げたのも別の教師だった。なんで? と理由を訊く声を無視するように、2‐Cのドアはぴしゃりと閉ざされたのだった。
「ゆりちゃん、なにかあったのかな?」
「休みじゃないんだろ? なにやってんだ?」
「具合悪いとか。でも、それだったらあたしらになんかアナウンスしてもいいよねえ」
「さっき聞いたけど、二時間目のA組もゆりちゃんの英語で、ずっと自習だったらしいよ」
「てゆっかさー、朝の出欠のとき、タイガーがまだ来てないっつったら、『知ってます』って言われたんだけど」
――変なのだ。竜児は英語のテキストを開きもしないまま、机の端を掴んでいた。手の平には妙な汗が出て、
「高須ー、タイガーって今日休みなの?」
「……いや、来るはずなんだ。来るって言った」
それだけ呻くのがやっとだった。ゆりちゃんが来ないのと関係あんのかな、と継がれた声に返事もできない。
竜児だって恐ろしいのだ。昨日のあの交差点での短い別れが、本当の最後だったのだとしたらどうしよう。昨日は金もなくてドン詰まりだった。一度戻ることで準備もできるし、大河の母親もかえって安心させられ、隙をついて逃げやすくなるかもと思っての選択だったのだが、やはり甘かったのだろうか。
元気で――それっぽっちの一言で、大河がこのまま消え去ってしまうのだとしたら。二人してやっと手繰り寄せたこの絆が、ここで断たれるのだとしたら。冗談じゃねえぞ、と竜児は机のフックにかけた用意万端のバッグを睨む。
覚悟も決まって腹も据わった。でも、大河が現れてくれないことには覚悟の逃避行も始めようがない。
「静かに! 他のクラスは授業中だぞ」
委員長らしく席を立ち、北村はよく通る声で注意するが、眼鏡を押し上げる動作はいつもよりずっと落ち着きがなかった。実乃梨も携帯を何度もパカパカ開けてみているし、亜美もなにかを考え込むみたいにずっと自分の唇に指で触れていた。朝はなんとか話を聞きだそうと騒いでいた麻耶と奈々子も異変を察知したみたいに今は黙っている。能登も竜児の声の硬さに気づき、振り返って口パク、「だいじょーぶ?」と問いかけてきて、春田は居眠りもせず、顔を上げたままでいた。
「……ゆりちゃん、電撃結婚引退発表だったりして」
「『先生からみんなにご報告があります。電撃的に……マンション買っちゃいました』」
「そっちかよ!」
誰かの冗談に何人かは笑い、
「つーか。……タイガーがまたなんかやらかした、とか」
クラス全員がその一瞬、しん、と押し黙る。以前、三年生がなだれ込んできて、「手乗りタイガーが暴れている!」と騒ぎになったときの衝撃は、竜児だけでなく友人達だけでもなく、このクラスの誰にとっても、いまだ冗談にはできないレベルの傷として残っている。
「……だとしたら、しゃれになんないよね」
「停学一回食らってるし、今度こそクビ……?」
「うっそ……やばくない!? 櫛枝はなにか知ってるの!?」
女子が実乃梨に尋ね、実乃梨は困惑したみたいに竜児に目をやった。
「大河、は、」
顔を上げ、自分に言い聞かせるみたいに竜児は言う。
「このまま消えたりしない。絶対に! 俺が、そんなことはさせない」
高っちゃん、どしたの、なにが起きてんの――春田の不安げな声が「こいつさえも不安がるほどの異変が!」とクラス中をさらなる混乱に陥れようとした、まさにそのときだった。ガラリ、と教室の前ドアが開かれ、
「着席。みんな着席してください。ちょっと、お話があります」
姿の見えなかった独身担任・恋ヶ窪ゆり(30)がようやく生徒たちの前に現れた。ハンドタオルで顔を押さえ、
「あのね、……っ、……っ」
崩れきった化粧を隠して泣きながら、だ。声を殺し、肩を震わせ、……えええ! と2‐Cの面々も総員揃って言葉を失くす。さらにその独身の後に大河がついて入ってきて、小さな白い顔を両手で覆って俯き、肩を大きく震わせる。クラスの誰もが、逢坂大河の身の上になにかよくないことが起きているのを理解する。
大河――竜児は底光りするような両眼を見開いた。遅いじゃねえか極小鈍女! 今日はもう気が乗らねえ、なしだなしだ! 全員虐殺だ! などとキレているのでは当然なく、やっときやがった、と詰めていた息を思い切り吸う。
竜児にはわかる。
「逢坂さんが言う? 先生が、話そうか……?」
「……せ、先生から言って……うっ、うっ、うっ……」
あれは、嘘泣きだ。
大河が開けっ放しにしたドアの向こうに母親がいる様子はない。机にひっかけてあったバッグを掴む。「じゃあ、先生が話すね。みなさん、聞いてください。実はね、」ずっと泣いていたのだろう、恋ヶ窪は真っ赤になった顔を上げて生徒たちに語り始める。
「逢坂さんが、ご家庭の事情で引越ししなくてはいけなくて、この学校を辞めることになりました」
えぇぇー? うそー!? 声を上げる連中の見ている中、恋ヶ窪の背後で、大河がゆっくりと顔を覆っていた手を下ろす。りゅ、う、じ、と声を出さずに、淡い薔薇色の唇が動く。泣き顔どころか、タフな美貌には開き直りの傲岸不遜。つん、と不敵に顎を突き上げ、コートにバッグを斜めがけにして、片手には――いいぞ。竜児は頷いてみせる。ビニール袋に入れて、ちゃんと靴を持ち込んできている。
「みんなびっくりしていると思います。先生も、本当に納得できなくて、」
大河は空いたもう片手の親指を突き出し、ぐいっと廊下の方を指してみせた。いわゆる正式な「表に出ろ」サインだ。竜児ももう一度、頷いて見せる。
2‐Cの連中の頭上に浮かぶはてなマークは、この事態について、そして恋ヶ窪には見えていない、大河が竜児に送るサインと、その闘志に満ちた表情についてだろう。だが竜児はここにきて動けない。教壇の前に立つ独身・恋ヶ窪ゆりが、
「ずっとね、お母様に考え直していただけるようにお願いしたんだけど、」
妙に巨大に思えるのだ。物理的にもちょうど大河と竜児の間の壁状態、竜児が妙な動きを見せれば、すぐに捕まえられてしまいそうな気がしてくる。大河はすでにじりじりと微妙な横移動、ドアの方へ。竜児もバッグを胸に抱え、イスから尻を上げようとするが、
「逢坂さん自身もとても悲しい思いをしていてね、」
涙をさらにポロポロ零しながら、恋ヶ窪は教室を見回す。生徒たちがショックを受けないように気を使いながら話をしているのだろうが、今の竜児にとっては鉄壁の守護神だ。
「先生もね、私も、もっとこう……守る力がね、どうしてないんだろうって悲しくて、」
この話が終わったら、大河は母親の許に戻されてしまう。机をそっと身から離し、空気イス状態で腰を浮かせ、竜児は全身の筋肉を震わせる。今行かなくては、今出なくては、しかし捕まってはいけない、気ばかりが急く。
その背後で突然、
「タイガ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
いつかの授業中の光景を繰り返すような絶叫が響いた。思わず竜児も跳ねるように振り返る。ものすごい音を立てて、叫んだ春田は立ち上がり、そのままグリンと白目を剥いた。まさに死相、キャー! と周りの女子が悲鳴を上げる中、アホの長身はびっくんびっくん痙攣しながらイスも机も派手にぶち倒し、糸の切れたマリオネットよろしく床に卒倒する。
「は、春田くん!?」
恋ヶ窪の視線は倒れたアホに釘付け。「春田どうしたんだあ!」すかさずスライディングの勢いで駆け寄ったのは能登だった。黒ブチ眼鏡を盛大にズラして、
「先生大変だよ先生ー! 春田、気絶してるよー!」
「なんで!? どうして!? 大丈夫!?」
恋ヶ窪は教壇から下りた。騒然とする生徒たちの間を縫って、床に伸びている春田のもとへ走り寄る。膝をついて呼吸を確かめ、身体を揺すろうとしてちょっと迷い、「だだだ誰か教員室に行って他の先生を呼んできて! 保健室に運ばなくちゃ!」と叫びながら生徒たちの顔を見回し、
「……うぇぇ……?」
竜児と大河が引っつかむみたいに手を取りあい、廊下へ全速力の猛ダッシュ、駆け出していく幻影を、恋ヶ窪は見たような気がした。幻じゃなくてこれが現実だと理解したときには、
「……ごめん、ゆりちゃん。俺たち、劇団春田なんだ……」
伸びていたはずのアホが申し訳なさそうに薄目を開いていた。春田がとっさに描いたシナリオに乗っかった他の連中も同じく、ごめんね先生、と次々に頭を下げてみせる。しかし謝られても時すでに遅く、
「……ちょっ、ちょっ、ちょ……ちょ――――――――――!?」
二人が駆け出していった方向さえも、恋ヶ窪にはわからない。
櫛枝実乃梨が、軽やかなステップで教室を飛び出して走り去る。川嶋亜美が、その逆方向に走り去る。麻耶と奈々子は「なんかわかんないけどあたしらも行くべ」と二人して亜美を追いかけていく。他の奴らも次々と、「エッスケープ!」「みんな行こうぜー」「ていうかこれってなんなの!?」お調子こいて席を蹴り、網から逃げる稚魚よろしく散り散りに教室から走り出していってしまう。重なる足音はあちこちに、どれが誰のか追跡不能だ。
もちろん、受験まであと12ヶ月。我知らぬ様子で席に座ったまま教科書を広げている奴もいた。オロオロと把握不可能な事態を眺めて固まっている奴もいた。最初から興味なさそうに机に突っ伏して寝たままの奴もいた。この狼藉の所業を「みんないい加減にしろよ!」と止めようとしている奴もいた。遅ればせながらヤジウマ根性、俺らもいっちょ逃げるか、と今さらながら立ち上がる奴もいて、
「させるか――――――――――っ!」
「ぐええ!」
恋ヶ窪に襟首掴まれて呻き声を上げる。「ていうか、ていうか、……集団エスケープされちゃったよぉぉ!?」いまだ錯乱中の恋ヶ窪の前に、
「本当に、申し訳ありません!」
深い角度で頭を下げたのは、北村祐作だった。
「先生にご迷惑をおかけしてしまって、本当に、俺たちは、バカで、アホで、ガキで、……ごめんなさい……!」
「あ、あ、あ、」
その肩を掴み、恋ヶ窪は全力で揺さぶる。
「謝ってすむなら、警察はいらないのよ! こんな子供のやり方を、私は絶対、ぜったいぜったいぜったい、ぜっっったいに、み、と、め、ま、せんっ! ……ちっくしょ〜こんにゃろ〜ガキども舐めやがってぇぇ! 一人残らず、とっつかまえてやったい!」
「先生、これ!」
誰かが恋ヶ窪に見せたのは、竜児が机の上に残したノートの切れ端だった。先生、と一行目に書かれたその文章を眺め、恋ヶ窪はきっ、と廊下を睨む。そいつを掴み、濡れたハンドタオルを投げ捨て、上履きにしているナースサンダルのゴム底を鳴らしながらスカートを翻して教室から飛び出していく。
階段の踊り場で男子一人を捕まえ、そのまま引きずって教員室へ飛び込み、「エスケープされちゃいましたー! 捕まえてください全員捕まえてー!」授業のない教師たちに向かって叫ぶ。なにぃ!? と立ち上がった男性教師の一人に捕まえた分を押しつけ、恋ヶ窪は来賓室ヘノックもなしに駆け込んでいく。
「に、逃げられちゃいましたぁぁ!」
「……」
ガチャン、とソファに座っていた大河の母親は、手にしていたティーカップを取り落とす。ほとんど半ベソの恋ヶ窪の顔を睨みつけ、
「……ショックで、子供が生まれそうだわ……」
「ひー!?」
「……嘘よ。だから、言ったじゃないの! 娘はこのまま連れていくって! なんてこと……なんていう、バカ娘なの! 一体どこに逃げるっていうのよ?」
「これを読んでください、お母様」
恋ヶ窪が差し出したのは、竜児が机に残した走り書きのメモだった。『先生、すいません。大河はこのまま納得して連れていかれるような奴ではありません。信じてください。お母さんには絶対に明日までに連絡を入れさせます。』――これがなに、と淡い色の瞳を吊り上げ、大河の母親は担任を睨みつける。怖いものなしのこの視線、苛立ちを噛んで歪む唇。親子はやっぱりそっくりだと恋ヶ窪は思う。
「高須くんは、約束を違えるような子じゃありません。きっと考えがあるんです。もちろん、私たちも今から全力で追いかけます。逢坂さんを捜します。でもお母様、彼を信じて、……この私を信じて、せめて明日まで待ってあげてくれませんか」
「高須くんのことは知りません。あなたのことも知りません。でも、娘のことは知ってます。娘は素直に私に連絡を入れて戻ってくるような子じゃないわ! 昨日だって、結局今日だってこうやって裏切られて、一体なにを信じろっていうの!?」
「失礼ながらお母様、壊れた信頼関係はすぐには回復できません。時間が必要なんです。逢坂さんにも、お母様にも」
「私は母親よ!」
「私は担任です!」
一瞬、火を噴くみたいに二人の女は睨みあって黙った。だが恋ヶ窪はすぐに頭を下げ、一歩下がる。
「……申し訳ありません。でも、私は子供たちを信じます。子供たちも、きっと私を信じてくれてるって思います。私の、教師としての八年を賭けます。今日までやってきたというだけのちっぽけなものですが、私にとっては社会的生命のすべてです。それを賭けます。あの子たちは、きっと自分から帰ってきます。どうか、お母様。あの子たちを信じてあげてください」
「教師生命を賭ける、というのね。……でも、あなただってこうやって、結局目の前で逃げられて、裏切られているんじゃない。それでも信じるっていうの?」
「はい。私が彼らを信じているのを彼らもわかっているからこそ、私を信用してくれているからこそ、彼らは逃げたんです。戻ると約束をできたんです。私はこの約束を、この絆を、私たちの関係を、丸ごと全部信じます。信じることが仕事ですから」
「……いいわ。それなら、文書にして。そのノートのきれっぱしでいいから今すぐ書くのよ。明日までに娘が戻らなかったら、あなたは教師を辞める。あなたのいう信用ってものは、紙切れ一枚のことと反故にできるようなものではない――そうね、こいがふち先生」
「……こ、い、が、く、ぼ、です!」
大理石のテーブルに、恋ヶ窪は竜児が残したメモを裏返す。我知らずボールペンの字が震える。署名して、日付を入れて、教師生命を本当に賭けてしまう。まさに手形の裏書状態、このメモ一枚でクビが吹っ飛ぶ崖っぷちだ。頼むよ高須くん、頼むよ逢坂さん、小さく口に出して、あとはもう言葉の通りにガキどもを信じるしかない。
「……大河に信用してもらえないことぐらい、わかってるのよ。それだけのことをしてきたんだもの。私と逢坂は二人して、お互いを傷つけたくて、そのために好き勝手さを競いあうように生きて、大河の生活を引っ掻き回した。大河を争いの道具にもした。その結果、こんなことになるまで会うことさえできなかった。……いい親じゃなかったし、これからもなれない」
恋ヶ窪の手が動くのを見届けながら、大河の母親は独り言のように呻いた。
「でも、今ここで、あの子を置いて帰ることもできない」
まるで目の前にいるのが、十七や十八の生意気な女子生徒のように思えたのは、きっとその唇の動かし方が、娘にそっくりなせいだろう。ボールペンを置き、恋ヶ窪はもう一度、いかにも高価そうなスーツを着て妊婦なのにハイヒール、苛立っていてさえ優雅に見えるその女の彫りの深い顔を見上げた。その眉間に不意に苦しげな皺が寄る。
「うっ……私がここで出産したら、あなた取り上げてくれるわね……?」
「……嘘、ですよねえ……?」
「嘘よ」
「ほんっとに怖いんで、やめてください! 大丈夫なんですよね!?」
「多分ね」
上からつん、と見下ろして、嬲る口調まであの子にそっくりだと恋ヶ窪は思う。
2‐Cの脱走者たちは、三時間目が終わるまでに捕まえられ、あるいは自ら教室へ戻ってきた。
そしてその頃、自分たちのために担任が教師生命を賭けていることなど知らぬまま、竜児と大河は窓からとっくに外へ飛び出し、柵を跨いで学校から逃げ出し、人目につかぬ裏通りを走っていた。
***
「いいか、万が一どこかで『君たち学校はどうした?』って止められるようなことがあったら、遅刻して今から向かうところなんです、って言って……大河!?」
「……」
「大河! 別世界に行ってんじゃねえよ!」
「はっ……」
並んで走る大河の肩を、竜児は腕を伸ばして一発小突く。視点も定まらずにただ足だけを動かしていた大河は「痛いわね!?」と同じだけの力でほとんど無意識にやり返し、我に返ったらしい。
「……いや、あんまり、頭でモノを考えないようにしているの」
「なんでだよ!?」
「昨日のことを反省して。私があれこれ考えると、余計なドジ踏んで、たとえば川にあんたを落としたりだとかするわけよ。だから無我の境地でいようと思って。ただ転ばぬよう、はぐれぬよう、あんたについていく。あんたがちゃんとナビしてよ、ばかちーの別荘?」
「だめだ! おまえも考えろ、ちゃんと! 実は今、問題が発生した。ていうかしてる」
大河の肘を掴んで細い路地に入り込み、しかし竜児の頭の中にはすでに逃走経路は確定ずみ。最寄の駅を使わずに、遠回りしながら電車に乗るつもりだ。それがどこ行きかは――
「問題!? なにそれ!」
「昨日、家に帰ったら、泰子が家出してた!」
「……」
返事はなく、また無我の境地かと大河の顔を見ると、大河は驚きのあまり声を失っているのだった。目も口も見開いて竜児を見返し、走っていた足を止める。竜児の肘を強く掴み、
「……ちょっと……待ってよ」
混乱のあまりか睫毛を震わせて瞬きを繰り返し、ちょっと待ってよ、と呻くみたいにもう一度繰り返す。白い額を手の甲で強く擦る。
「やっちゃんが、家出? それは……あんたが昨日言ってしまったことに、傷ついたから?」
「多分、だろうな」
「だ、だろうな、じゃないでしょ!? 私たち、このまま逃げようとしてるんだよ!? ……やっちゃんも逃げてしまったら……二度と会えなくなっちゃうかもしれない……」
「かもな」
「……やだよ!」
大河が声を上げるのを、竜児は静かに見つめ返した。
「あんたと二人で生きていくって決めたけど、でもそれはやっちゃんを傷つけて、見捨ててしまいたいってことじゃないよ! 確かに私たち、こんなふうに逃げ出そうとしてる! でも、逃げたその先には、やっちゃんだって……やっちゃんがそれを望んでくれるなら、いてほしいよ! そうなるって思ってたのに、なのに家出なんてそんなの……家出しようとしてるのは私たち……だけど……」
家出をしようとして走り出したはずの大河は、ほとんど呆然と立ち竦んでいた。思い通りにならない事態に、怯えるみたいに視線を落とす。
「ど、どうしたらいいの……!?」
自分がしようとしていることを、初めて理解したのかもしれない。
「おまえはどうしたい?」
大河の手を掴み、竜児は尋ねた。その声の強さに大河は驚いたのか、目を上げて探るように竜児の顔を見た。間違えたらここで置いていかれるのか、そんなことを考えているらしい不安げなツラになる。
「間違いなんてねえから、考えろ。おまえは一番、どうしたい?」
「そりゃ――そりゃ、決まってるよ。竜児といたい! 竜児と幸せになって、でも、やっちゃんも幸せでなくちゃいやだ! ……私バカなこと言ってる、わかってる。でも、でもさ、」
「俺も同じだ。わかったんだ。おまえと生きていくことも、泰子のことも、どっちも諦めない。そのためにやるべきことがある。川嶋の別荘じゃなくて、俺たちが行くべきところがあるんだ。一緒に、行ってくれるか?」
迷う間もなく大河は頷いた。
「行くに決まってるでしょ! あんたが行くっていうなら、私もあんたを信じて行く!」
4
三回目だった。
この門の前に立ったとき、竜児はいつも一人ではなかった。
最初のとき。
まだ暗闇の中にいて、竜児にはなにも見えなかった。心臓の優しい音に包まれて思考もないままただのんびりと漂っていて、記憶なんて残っているわけもない。それは十八年前の、夏が終わって秋が始まったちょうどその日の午前二時。最も暗い時間だった。竜児はただの命で、名前もなく、身体も何センチかの組織の塊でしかなく、この門から真夜中の世界へ逃げ出した泰子も十六歳の子供でしかなかった。
二回目のとき。
門を通ることはなかった。少し離れた公園で、泰子と竜児は随分長いことこの門をただ眺めていた。ブランコを揺らすことにも飽きて、ずっと待っていることにも疲れ、おかーさん、と白い手を引っ張ったと思う。ゆっくりと泰子の視線はこの門から引き剥がされた。
そして、これで三回目。
竜児の傍らには大河がいて、
「……だよね」
「……だよな」
二人は揃って、息を飲んだ。
駅につくまでに余計な遠回りをしたり、教師たちが追ってくるのを見越して大きなターミナル駅を避け、あえて面倒な乗り換えをしたり、普通に電車を乗り間違えたり(ホームにいた電車に闇雲に大河が飛び込んだせい)、それが急行だったりして(これは誰のせいでもない)、思っていたよりもずっと時間がかかってしまった。
あやふやな記憶に頼るのは最初から諦めて番地を頼りに歩いてきたのだが、正解だったかもしれない。描いていた想像と随分違う現実を見回して、竜児は異世界のダンジョンに迷い込んだ旅人のような不安を味わっていた。
目印になると思っていた公園の辺り一帯は、巨大なマンションに変わっていた。一軒家ばかりが建ち並ぶ住宅街には、見分けのつかない一車線道路が碁盤の目のように交差し、電柱に記された番地表記も飛び飛びだった。白っぽい石の外壁と濃い緑をした生垣の迷路を行きつ戻りつ、短い真冬の陽も傾きかけた遅い午後になって、ようやくここまで辿り着いたのだ。
「そうだよね。ここ、だよね。……高須、って書いてある」
塀の内側から伸びる樹木の葉で半ば隠された表札を、大河は恐る恐る覗き、振り返る。竜児は高須が父親の姓でなかったという単純な事実の前に、改めて、ただ黙る。自分でも意外なほどにショックを受けていた。
薄々、いや、それ以上に想像はついていたはずだが――泰子が竜児に語って聞かせたような、『竜児の父親と泰子は深い愛情で運命的に結ばれていたが死んだ、無念!』……というストーリーは、事実ではなかったのだ。もし事実ならば、姓は父方から受け継いでいるのが自然だった。泰子は家出娘の身の上で、わざわざ高須姓を名乗る意味はない。死別で旧姓に戻したとも思えず、離婚か、そもそも結婚していなかったか、とにかくどちらにせよ、竜児が生まれてくることを楽しみに幸せに待っていてくれた父親は最初から存在していなかったことになる。
予想はしていても、やっぱり――
「なに。どうしたの。なんで黙るの」
「いや……ちょっと色々、走馬灯がぐるぐる……」
「そんなもん回してる場合?」
悲劇の方向にたやすく流されそうになる竜児の想像力を、
「馬は回すものじゃない。食べるものよ」
きっぱり頷いて大河は力技、この現実へ引き戻す。そ、そうか、と竜児も一瞬納得しかけ、……そうか? ともう一度首を捻る。
「馬肉の件はとにかく! ……ぼんやりしてる場合じゃないよほんとに。やっちゃんと、やり直すんでしょ。断ち切った絆を結び直すんでしょ。だからここに来たんでしょ。私も、あんたとやっちゃんがあんなふうに言い合いになってそれきりなんて、そんなことになったらあそこから逃げ出したあんたのこと……」
違う、と大河は見知らぬ街角で一度言葉を切った。そして、
「……自分のこと。許せないもの」
ひそめた声でしかし強く、竜児の顔を見上げて継ぐ。竜児にだってわかっている。この門の前に大河とともに立つ覚悟は、生半可に決めたものじゃない。
「ピンポン、しなよ」
「わかってる。……今する。……するところ」
ただ、やっぱり、情けない。黙彊じてしまう。泰子が竜児をここに来させた覚悟も生半可ではなかっただろうし、そしてここには帰らないと決めた十八年分の覚悟の重みもわかる。
表札の下のチャイムのボタンに、指を伸ばしかけてはやめる。ちょっと触ってみては気が萎える。息を詰めてそれを何度か繰り返したところで、
「まあ、そうね。心の準備は必要だ」
大河は大仏みたいな笑みを浮かべてみせた。うんうん、と顎を揺らしつつ、緊迫のあまり呪われたドS般若のようになった竜児のツラを見上げ、優しい手つきでひそかな動揺に汗ばむ手を握ってくれる。
「大河……」
あの大河が色々あった末にこんなにも丸くなるなんて一体誰が予想しただろうか。このタイミングで見せられた素直な優しさに妙に感動して、すこし泣きたくなりながら竜児も大河の手を握り返そうとするが、
「……ふんむっ!」
「ぬおおぉぉっ!?」
バキィッ! と嬉しかった左手から破滅の音が響いた。
「準備運動は終わりだよグズ! さあ、とっととピンポンするがいい!」
こめかみに青筋浮かべて突然の空中腕相撲状態。大河は掴んだ竜児の手をものすごい力で高須家のチャイムボタンに押しつけようとする。とっさに竜児も歯を食いしばり、お互いすごい形相に成り果てながら握った手をグネグネ押しあい、引っ張りあい、バキボキ双方の指と手首が鳴る。
「無理矢理なことすんじゃねえ! お、俺には、俺の、タイミングがあるんだよ!」
「私のタイミングは今きてる!」
「俺のはまーだーだー!」
「フ、フォ、フィアンセだもの、我々はもはや一心同体!」
「わああ! やめろってんだこのバカたれ!」
蛇の如く脇から伸びてきた大河のもう一本の手を奇跡的にガード。がっぷり両手で組んで全体重をかけての押しあい、
「ここであれこれ考え込んでもしょうがないじゃん?」
閑静な住宅街に不似合いな唸り声が響く。
「そうだけど! でも、色々、思うところがあるんだよ!」
「ここでずっと立ってたらそれは解決すんの!?」
「しねえけど! でももうちょっとだけ頭を整理してから、」
パクパクパクー、と大河の唇が素早く動いた。「え!?」だから、あの、パクパクパクー! 「なに、わかんねえ!?」私、パクパクパクー!
「ちゃんと声に出して言え!」
「……私! おトイレ! 借りたいの――――!」
ぐきぃ、と本音の生理的欲求に押し切られ、竜児の左手が力負けする。危ういところでチャイムのすぐ脇、コンクリの壁に裏拳状態で拳の骨がちょうどブチ当たり、
「いっ! ……てぇえ……っ!」
「……あーぉ……」
呻いたのは竜児だけではなかった。なにやら急激に切羽詰まった表情で頬を強張らせて手を離し、大河は妙な中腰状態。人形のように両手を斜め下方向にピーンと伸ばして、ふわふわ身体を上下に揺らし、口に出してしまったらなおさらに感覚は研ぎ澄まされたのだろうか。限界突破の薄笑いで呟く。
「……いまのでみずからげんかいちをひきさげてしまったかんがあるわ……」
「お、おまえ……もしかして、すげえ遺憾な状況か……!?」
「……ぃぇぁ……」
声もどんどん小さくなる。さよならわたしのしゃかいてきせいめい、いままでおうえんどうもありがとう――大河が現実からぐんぐんフェイドアウトしていくに至って、ええいもうどうにでもなれ、と竜児はほとんどやけくそ、人差し指にぐっと力を込めてチャイムを押した。なんて言おうか、自分のことをどう説明したらいいのだろうか、泰子の両親はどんな人たちなのだろうか、やろうと決めたことは成し遂げられるのだろうか、そもそも信用されるだろうか、ていうか、本当にこの高須さんは泰子の実家なのか――あらゆる思考が頭を駆け巡る。うまくいかないパターンも、いやそればかり、数限りなく脳裏に浮かぶ。ここまできて緊張に指先が冷えていく。「おトイレ借りたいの」パワーで力任せに押し切られてしまって、結果的によかったのかもしれない。
だが、
「お、おうおうおう、ちょっと……なんだよ……」
「うそでしょ……」
二度、三度と押してなお、返事はない。うそでしょ、うそでしょ、と呪文のように大河は唸る。人の気配が、そもそもないのだ。思わず大河の顔を見下ろした。いつしか呪文は磯《いそ》でしょ、に変わり、しかし大河は気づかずそのまま念じ続ける。磯でしょ、磯でしょ、磯でそ……そりゃそうだ、平日の午後三時。仕事をしているとしたら当然に職場にいる時間だ。なぜこの可能性を考えなかったのだろう。
「……どうする。留守なのかも」
「わー」
磯から帰ってきて、
「ど、どど、どうするよ……まじで、おい、おまえどうするよ!?」
「おっとこの私に触らないでくださいよ」
大河は人格が変わっていた。
「ふはは触ったらだめださわったらだめえふははは」
「戻ろう、磯まで、違う、駅まで! いや途中にコンビニがあったぞ急いで戻ろう!」
「あああ歩けないでそ」
「おぶってやる! すぐそこだファミマは! 諦めるな!」
「あーははさわらないでくださいそあははー」
傾きかけた真冬の陽射しに照らされて、静かなる住宅街に、二つの影が怪しく長く伸びる。トランス状態で笑いながら軽やかに逃げ惑うダッフルコート少女と、それを追い回す学生服のドS般若――世間様からしたら関わりたくない度は恐らくハンパない値を叩きだしており、
「……」
「あ、すいません……」
二人をたっぷりよけるように大きな弧を描いて回りこみ、高須家の門に近づく女の人に、竜児は反射的に頭を下げた。
その人は横目でチラ、と二人を見た。怯えるような胡乱《うろん》な視線もさもありなん。いかんせん竜児も大河も怪しすぎるのだ。自覚があるから「磯ふはは」状態の大河を道の端に押しやって、もはや大河になにが起ころうと自分だけは大河の味方であろう、一心同体のフィアンセなのだから、などと悲壮な覚悟を決めるが。
「……おう!」
「……っそ!」
思わず、揃って声を上げてしまう。女の人はビクッ! と気の毒なほど肩を震わせ、鍵を開いた高須家の門の中に慌てて逃げ込む。鍵をかけてそのまま行ってしまいそうになるのに、
「ま――待ってください! あの!」
竜児はとっさに声をかけていた。一瞬大河の顔を見ると、大河も同時に竜児の顔を見上げていた。そうだ。この人だ。
ごくありふれた、濃いグレーのウールのパンツにウォーキングシューズ。ベージュのダウンコートに、ドラッグストアのビニール袋。ナイロンのバッグもどこにでも売っていそうな普通の品で、ただ、服の雰囲気は四十代から五十代のいわゆる『おばさん』そのものに見えるのに、ショートカットの髪に縁取られた肌の感じは異様なほどキメ細かく、瑞々しく見え、口元も若々しい少女のように張りがあって頬までぷりっと幼くふくらみ、――遺伝、の二文字が竜児の脳裏にくっきり浮かぶ。
絶対、この人が泰子の母親だ。そう考えた瞬間に二人の顔が重なる。目の形、そして目頭が少し離れた感じなど、偶然を超えてよく似ている。やっぱり。
声をかけておきながら改めて固まる竜児の顔に、視線が向いた。逃げるように急いでいたその人の足が一瞬止まる。なにか言わなければ、と息を吸い、
「お手洗いを貸してもらえませんか!?」
「こいつやっちゃんの息子なんです! ……えっ!? それを今!?」
「ええっ……!? だっておまえ……!」
違うことを二人して叫び、思わず顔を見合わせた。いやでもだってこの場合、限界なのは大河の方だろう。竜児はもう一度決然と、
「彼女に、お手洗いを貸していただけませんか! 突然のこと、申し訳ありません!」
震えそうになる足を踏ん張った。
「お、俺は、た、……っ」
声が一瞬詰まって軋む背中に、小さな手が叩くみたいに添えられるのがわかった。その手の温度に導かれて、もう一度息を全部吐ききって、そして吸った。
「……俺は! 高須、竜児です! 高須泰子の息子です!」
ポケットの中から時計と写真を掴み出す。カタカタとおもしろいほど震える手で、門の向こうの人にそれを渡す。神様、とこんなときばかり誰かに祈る。
神様、うまくいくでしょうか。願いは届きますか。
その人は、まず時計を見て、それから写真を見た。おなかの大きな泰子がヤクザスーツの父と「イエ〜イ☆もみもみ」の姿を確かめ、そしてドラマかなにかの登場人物がよくやるみたいに、その手から力が失われたのが竜児にもわかった。解けた指からドサッ、と買い物らしい荷物が足元に落ちる。
「……あなた……」
痛々しいほど細かく、声を絞り出した唇が震えたのが見えた。
「あなた、どこから、どうやって……きたの……」
「……こいつは、俺の、彼女です! 事情があって一緒に来ました、その、」
「や――泰子はどこにいるの!?」
悲鳴のように叫んだその人の前に、限界突破寸前の大河を押しやる。
「お話させていただきたいことがいっぱいあるんです! いっぱい、ほんとに、いろいろあって……でもその前に、こいつに、お手洗いを貸してやってください!」
電話の向こうで「それは詐欺だ! 家に上げるな! もう上げたぁ!? 馬鹿っ!」と竜児にも聞こえる大音声で喚いていた高須家の家長――泰子の父で、竜児の祖父にあたるのであろう人が帰ってきたのは、大河がお手洗いから安堵と申し訳なさが入り混じった微妙な表情で出てきて、およそ五分が経った頃だった。
「一体なんなんだよ? 誰がどこからどういうアレを……あぁ!?」
「おうっ……」
「うぐっ……」
ドアごと蹴り倒すような勢いで走りこんできたその男の人は、上がり込むのも気が引けて、玄関に並んで突っ立っていた竜児と大河の後頭部に同時にゴン! とドアをヒットさせてくださった。本当に、すごい勢いだった。二人揃って頭を押さえ、動きはユニゾン。さすがは一心同体なだけある息の合い方で、呻きながら同時に膝から玄関タイルにへたり込んでしまう。
「……あなた、あのね、この子たちが……なんだって」
「ど、どっちが、なんだって!?」
「……男の子の方が、泰子の子、なんだって……」
「な、なん、なん、なん、」
ごく普通の一軒家だった。
玄関のカウンターも壁も床も明るい色の木が張ってあって、靴べらが事務的な黒い紐でひっかけてあって、昨日の雪はこちらでも降ったのだろうか、傘が二本出したままになっていて、壁にはドライフラワーがかかっていて、カレンダーの下にはクリップでハガキやなにかが留めてあって、廊下の向こうには紺色の暖簾がかかっていて、その奥に続くリビングからは陽射しが零れていて――本当に普通の家だった。今にもこの廊下の向こうから、暖簾を勢いよくひっくり返して、泰子の顔をしたセーラー服の少女がスリッパでけたたましく走り出てくる気さえした。
ここにはお母さんがいて、ここにはお父さんがいて、ここには娘がいて、朝がきて昼がきて夜がきて、そして普通に時が回っていたのだ。その「普通」が過去形で、すでに失われた事象を指すこの現実の方が、よほど異常事態なのだとも同時にわかった。
「……俺が……じ、自分が、高須竜児です。……大河、立てるか?」
頷く大河の肘を掴んでやって、二人してようよう立ち上がる。スーツ姿のままで絶句しているその人は、いわゆるところの『おじさん』世代で、竜児はなにをどう話したらいいのかわからなくなる。家のすぐ近所に事務所を構えていて、そこで税理士をしているという話を今聞いたところではあったが、
「……こいつは、逢坂大河です。事情があって、今日は一緒に来ました」
とりあえず大河を指差してみるぐらいのことしかできない。大河も曖味に小さく頭を下げてみせて、それが精一杯なのだろう。
「これ。この子が持ってきたの。泰子よね」
泰子の母親は竜児が持参した時計と「イエ〜イ☆もみもみ」写真をおじさんに――泰子の父親に手渡した。玄関口に窮屈に突っ立ったまま、泰子の父親は呆然とそれを見比べる。本当に長いことそうしていて、そして顔を上げ、夫婦は言葉もなく目を合わせる。
竜児はさらにトドメ、とばかり、ポケットから携帯ショップのメモを取り出して二人の前に突きつける。泰子の筆跡で、ここの住所と電話番号が記されている。
「この汚い丸字……絶対に泰子、よね」
「……泰子だ……生まれたときから住んでる住所の漢字をまだ間違って書いてる……間違いない、泰子だ。じゃあ本当にこの子は、その、泰子の……」
高須竜児、と書かれた生徒証も突きつけた。今のところ公的な身分証はこれしかない。そしてもはや、明かせる事実はとことん明かし尽くすしかない。
「泰子は――母は、昨日、家出しました! 俺は捨てられたんです!」
夫妻の手から写真やらメモやら生徒証やらがすべり落ちる。「セーフ……」……時計だけは危ないところ、大河が奇跡的に空中キャッチ。
「それが許せないから、ここに来ました! ……母はもう大人です、家出少女なんかやめて家に帰らないといけないんです。ここに、この家に、帰らないといけないんです。俺がいたから泰子はこの家に帰れなくなりました。そのことが、……泰子を家に帰れなくさせて、お母さんにもお父さんにも会えなくさせた自分のことが許せなくて、憎くて、俺は生まれなければよかったって思ったんです。一度は。でも、でもその、」
通じるかどうかはわからなかったが、とにかく竜児は思いを言葉にした。
この家に来た意味を、その覚悟を、全部正しく伝えたかった。
「……今、生きてる俺には、好きな奴がいるんです。好きになってくれる奴がいるんです。生まれてくることができて、今生きていることが、俺はやっぱり……嬉しかった」
震える手で大河の手を掴んだ。大河も、竜児の指をしっかりと掴んでいてくれた。泰子が逃げ出した家の玄関で、一人ぼっちなんかではなかった。
「だから、……いきなり現れて、こ、こんなこと突然言い出して、バカだと思われるかもしれねえけど、変な奴だと思われるかもしれない、ですけど! でも俺は、『今』を誇るために、泰子の重石でなんかいたくないんです! 今ここにいる俺が好きな奴の……大河のために、俺を好きでいてくれる大河のために、友達みんなのために、母親のために、俺は今ある自分を嬉しいって思いたい! 俺が存在することで、俺を愛してくれる誰かがその分のコストを支払わなくちゃいけないなんて思いたくないんです! 全部丸ごと、あっていい、って認めたい! 何一つ犠牲になんかしない! 全部、あるがままに、存在していいって信じたいんです! だから、来ました……泰子に帰り道を教えるために、ここまで来ました!」
「変な宗教とかじゃなくて」
支離滅裂に喚く竜児の傍らで、今も大河が、
「こいつ。本気なんです。これが。ちょっと危ない奴かも、だけど……でもしょうがないんです。だってやっちゃんの息子だから。ほんっとに、」
心に愛が、本当に本当に本当に、ほんとうに、いっぱいなんです――竜児の痛みを全部わかって、涙を一粒零してくれた。大河がいなければ、大河があらゆる目茶苦茶で竜児を吹っ飛ばして、導いて、隣を歩いていてくれなくては、ここまで来ることなんてとてもできやしなかった。
「……泰子に、ここまでの帰り道を、あなたが教えてくれるの?」
竜児の制服の胸ボタン辺りを眺めて、泰子の母親が呟くのに精一杯の力で頷いてみせる。
「泰子はあなたを産みたくて、あなたに会いたくて、反対した私たちに叱られて何度も何度も泣いて……そしていなくなっちゃった。そのあなたが今度は泰子を連れ帰ってくれるの?」
頷く竜児のすぐ近くで、ち、ち、ち、と規則正しい音が響く。大河が握り締めた時計の秒針が、今日も時を刻んでいる。泰子がこの家から持ち出して、竜児が持って帰ってきた時計は、止まらずにずっと動き続けている。
この家の時間だって、きっと正しく巻き戻せるだろう。蹴り飛ばすみたいにショックを与えて、一気にみんなで本物の時へ帰っていくのだ。あと少し、あと少し、竜児は胸いっぱいに息を吸って望む世界を鋭い両眼でまっすぐ見下ろし、雲を掻く。
***
送信したメールは、候補その2だった。
「天罰が当たるんじゃないかしら」
いまだに心配そうに溜息をつきながら、泰子の母親――おばあちゃん、と呼ぶには気の毒すぎる高須|園子《そのこ》・童顔の55歳――はおろおろと台所を行ったりきたりしている。同じくおじいちゃんと呼ぶにはあまりにもおじさん然としすぎている高須|清児《せいじ》・竜児の名前の元ネタらしき57歳も、シンクを納めたカウンターのスツールに所在無く腰を下ろしていた。
「待つしかないだろう、ちょっとは落ち着きなさい。送ってしまったものはしょうがない」
「……天罰が当たるとしたら、私にだと思う。実行犯だもんね」
大河はさすがのふてぶてしさで、高須家の炬燵のド真ん中、テレビ前の一番いい席に深々と突き刺さっていた。いつ返信がきてもいいように手には携帯を持ったまま、猫科の動物みたいに開き直って天板に顎をのせる。
「言霊ってことなら俺まっしぐらだろ」
その背後でまるで家臣かマネージャー、なんならヒットマン、下手すりゃうしろのなんとか太郎状態、竜児は正座していた。候補を考えたのも竜児自身、全責任は負う所存だ。メールを送ってからまだ一時間ほどしか経っていないが、誰もが気もそぞろに玄関の方に聞き耳をたてていた。
竜児が事故にあって大ケガ、とにかく来て。
そんな罰当たりすぎる嘘のメールを、大河に大河の携帯から泰子に送信させたのだ。候補その1はもう少しマイルドで、住所に家はもうなかった。その3は、補導されたから迎えがないと帰れない。その1はスルーされそうだと却下され、その3も「だったら交番よねえ」と園子の一言で却下となった。他の案を出すほどの余裕はこの状況では誰にもなく、過激なその2が採用になったのだが。
「……オレオレ詐欺そのものだよな。普通に、怪しすぎたか」
「着信も残したし。信じるって思うけど」
「この辺の病院全部に問い合わせとかされたりしてな」
「……あー……それは、あったりして」
計画の稚拙さに我ながら呆れ返る。だがなにもかも今更だ。それにこの場合の保護者二人だって賛同したのだし――少々後悔しているようではあるが。
テレビのついていない静かなリビングに、四人分の沈黙が垂れ込めた。竜児は立ち上がり、少々気まずく携帯を開く。
「あの、これ。先週のやす……母です。モツ鍋……」
園子と清児は恐る恐る首を伸ばし、竜児の手の中の携帯を覗き込み、そこに残されていた泰子の姿にしばし声もなく見入る。
竜児の携帯の画面には、てっかてかのむき卵みたいなすっぴんにバカ殿ちょんまげ、眉毛もないままユニクロの部屋着、モツ鍋の湯気の中で陽気なダブルピースを決めている母の姿があった。さすがにちょっとアホな写真すぎたかもしれない、と竜児は思うが。
「泰子……変わらないんだねえ……」
「ほんっとうに、全然、変わらないな……」
しみじみ呟き、二人は小さな画面をもっとよく見ようと顔を寄せる。
「もっとちゃんとしたのもあります」
整理しないまま残されていたフォルダを漁り、もう少し賢そうに見えるのを探す。真夏の頃の、真っ白に光が飛ぶような強い陽射しの中で歩いているのが良さそうで、画面いっぱいに表示する。一体なぜ撮ったのか今では記憶も定かではないが、クーラーボックスを片手にぶら下げている泰子の様子からして、毘沙門天国のお姉さんたちと河原にバーベキューに行ったときの写真らしい。つばの大きな帽子をかぶり、Tシャツにデニム姿で、泰子はやっぱり大笑いしていた。そのすこし先にはワンピースを着た大河がスカートを翻して同じように笑っていて、写真自体が相当斜めにブレていて、撮った竜児も笑っていたのかもしれなかった。
「ああ、元気そう。楽しそう」
園子は独り言の声音で呟き、初めて淡い笑みを浮かべた。
「こんなに元気なら……元気でいたんなら、いいわよねえ、お父さん」
「よくないだろう」
「いいじゃない。私、いいと思っちゃった。さんざん心配して、考えて、十八年経っちゃったわよ。……近所の人がね、やっちゃんいたわよ、って言うの」
笑みの続きで目を細めて、指先でその目尻をそっと拭う。
「そこの、前に公園があったんだけど、小さい男の子を連れてやっちゃん立ってたわよって。見たわよって。痩せちゃってかわいそうだったわよって」
天網恢恢疎《てんもうかいかいそ》にして漏らさず――竜児が低く呻いたのには誰も気がつかないようだった。
「見間違いだったのかなんだったのか……なんにしても、どうして呼び止めてくれなかったのよ! って腹が立ってしょうがなかったのね。自分が悪いのに。私、毎日ずっと泰子が帰ってくるのを待っていたのに、その日に限って長く家を空けていたのよ。銀行やらなにやら、なんてことない用事で、いつもは一日家にいるのにその日はいなかったの。もう、悔やんで悔やんで悔やんで、悔やみ切れなくて……想像の中でどんどん泰子がすごいことになっていっちゃって、もう死んだんじゃないか、殺されちゃったか……夢に見るのよ。おかあさーん、たすけてー、なんでいないのよー、って男の子を抱いた泰子が追われて、必死に逃げてきてそこの公園のところで泣いて……。ああ、やめよ。こんなに元気だったんだもの。私もういいわ」
両手をぱっ、と広げてみせて、園子は若々しい身のこなしで立ち上がった。続き間のリビングで炬燵に埋まっている大河に「なにか食べる? お手洗いは大丈夫?」と声をかけ、大河は制服姿でずるずる這い出してくる。そうしてキッチンまでやってきて、
「なにか食べたいな……ごはん的ななにかを……」
園子の周りをウロウロしだす。その袖を竜児はええい、と引いてやる。
「おまえ……! 筆舌に尽くしがたい図々しさ……!」
「だっておなかすいちゃったもん。お昼食べてないよ私たち。ていうか、昨日の夜も、今日の朝も、胃がキリキリして食べれなかったのよほとんど。でも、あんただってそうでしょ? 夜中ホテルで考えてたんだ、きっと今頃竜児も悩んでなにも食べれないでいるんだろうな……胃だって同じぐらいキリキリきてるんだろうな……そうだよね、一心同体だよね、って」
「俺は食ったよ! 泰子に捨てられて、一人残された部屋で、昨日の残り物出してちゃんと食ったよ! ついでにおまえのチョコも食った!」
「うそ!? 薄情じゃない!?」
「朝も食った! 今日きっちり動くためには栄養とっておかないとダメだろ! おまえこそ、今日という重大な日を迎えてメシは食ってねえ、しかも尿意もコントロールできてねえ、その方がよっぽど薄情だろうが!」
「まああ……!」
あんなことをいうよ、あれが孫の本性だよ、と大河はわざとらしく園子の耳に囁きかける。食べさせてあげなさい、と清児は言って、席を立ってしまった。園子は笑いながら冷蔵庫を覗き、
「ああ、あるある、冷凍のごはんもあるし卵、ハム、タマネギがちょっとに……」
「高菜もある! 竜児、高菜チャーハンできるね!」
その後ろに張りついた大河が喜色満面に振り返る。ひとの家の冷蔵庫の残りをチェックしながらこのご機嫌さ、いくらなんでも早々に馴染みすぎでは、と竜児の方が顔を赤くして俯くしかない。彼女、と紹介して連れてきてしまったからには、これとて竜児の責任だ。
「おまえって……! なんでそんなにいきなり馴れ馴れしく懐いてんだよ……遠慮とかねえのか!?」
「だって、やっちゃんのお母さんとお父さんだもん。それに、竜児のおばあちゃんとおじいちゃんだもん。来年お嫁にきたら、私のおばあちゃんとおじいちゃんだよ!」
大河はにっこり口を三角に開いて笑顔、グリコのポーズで両手を上げた。それを見て園子も少し笑う。
「……チャーハンが食べたいの? 作ろうか?」
「やった!」
そして機動戦艦なみの速度、竜児が瞬きをした次の瞬間には、大河はちん、と食卓テーブルについている。ったく、と顔を覆い、
「手伝います。……手伝わせてください。俺は本当に、立つ瀬がないんで……」
ごくありふれたシステムキッチンに立つ園子の隣に並んだ。園子が紐を引っ張ると、暗かったシンクの上を蛍光灯の眩しい明るさが照らし出す。
「竜児は、ものすご〜〜〜〜く、お料理が上手なのです!」
「どれどれ?」
鼻高々な大河の声に促されて竜児がタマネギを刻む手つきを目にし、「わ!」と園子は目を丸くしてみせた。
「泰子の子とは思えない。泰子はドン臭くて、手順が覚えられなくて、どうにもならなかったのに。それでも実は、時間さえかければうまいこと作るんだけどねえ……」
「知ってます」
包丁とまな板で、淀みないリズムを刻みつつ、竜児は答えた。
「泰子のメシで育ちましたから。俺ができるようになってからは俺が代わったけど、でも、ずっと二人でやってきたんで」
「そっか。そうだったの」
……泣くのかな、と少し怯えながら園子の方を見やる。しかし園子はふと視線を遠くしただけだった。少しの間なにかを考えるように黙り込み、
「ばかね、あの子は」
夕暮れ迫る窓の外を眺める。父親なしの二人でやっていたなんてばかね、なのか、それとも、どうやって暮らしていようと結局こうして家出なんてしてしまうなんてばかね、なのか、その両方なのか、竜児に確かめる術《すべ》はなかった。
チャーハンを大河と二人して頬張っているキッチンのテーブルに、
「……見たらいい」
ドシドシドシ! と、二階に上がっていたらしい清児が積み上げたのは、泰子のアルバムだった。赤ん坊時代から幼稚園、小学校、中学校、と初めて見る育つ童顔のスペクタクル。思わず竜児も大河も我を忘れてしげしげと見入り、いつしか外には夜が訪れていた。
「うおお……ランドセル……! うおお……縦笛……!」
「ね、竜児」
「ていうか顔が今と同じ……!」
ちょん、と向かいで写真を眺めていたはずの大河の人差し指が、気を引くみたいにページを押さえる竜児の手の甲をつつく。その指は続いて、炬燵にも入らずにリビングのサッシから表をずっと見ている高須夫妻の方へ。
落ち着いて座っていることなんて結局できず、園子と清児は二人して押し黙り、暗くてなにも見えなくなった庭の方をただ見つめ、待っていた。泰子が帰ってくるそのときを。
「……もし、やっちゃんが帰ってこなかったら、どうする……?」
顔を寄せて押し殺した声で大河が問うのに、
「……帰るまで待つし、待ちきれなくなったら捜すだけだ。見つかるまで」
竜児も大河にしか聞こえないかすれ声で耳元に答えた。大河はそれで一応納得したのか、くすぐったかったらしい耳を擦りながら再びアルバムに目を落とす。中学時代のブレザー姿や私服の写真はたくさんあるのに、高校に上がってからの写真はほんの数枚しかないのが悲しいと竜児は思う。
今大河に聞かせた答えでは、間違いだ。
もうわかっている。泰子がここに戻らなくて、ずっと大河と待って、やがて捜しに――なんていうのでは、竜児の望みは叶わない。それでは足りないのだ。「大河の世界」の席が埋まらない。
あんな偽メールなんていう反則スレスレ……どころか真っ黒にやってはならないことをやりもした。竜児だって、もちろんもっとクリーンな、こんなふうに誰もが自己嫌悪を抱かなくてすむ手段を使いたかった。
でも、そうするには時間が足りなかった。
テーブルに置かれたままの腕時計は、すでに夕飯の頃をとっくに過ぎた時間を指している。時が進むのは速すぎて、身体ばかりがどんどん育ち、望む世界はいまだ遠くて、心は焦れる。ちゃんとやっていきたいのに、確実に歩を進めたいのに、破れかぶれの大慌てであちこち継ぎを当てながらとにかく取り繕うようなやり方しかできない。
それでもいつかは、自分が納得できる速度で、自分の歩き方で、日々を渡るような生き方ができるようになるのだろうか――
「……不安?」
「……なんで。そんなことねえよ」
両手で口元を隠すみたいに頬杖をついた姿勢で、いつからか大河がじっと顔を覗き込んでいた。平気だっつの、とさらに言い返すと、
「……ん〜……」
目を閉じて軽く首を振り、たっぷり溜めてから、
「ちゅばっ」
投げキッスをくれた。
とっさに竜児は頭をサイドに倒し、避ける。さらにちゅっちゅっちゅっ、と連発されるのを右へ左へ身をかわして逃げてやる。
「もー。一発目はあそこだ。次はあっち、その次はそこ、最後の分はあれだね」
天井、壁、テーブルの上、そしてリビングの炬燵を指差し、大河はしかしふふん、と楽しげに鼻を鳴らす。
「でも避けて正解かも。今の実は無料じゃないのよ。いちちゅっにつき三千円」
「金とる気だったのかよ。てか、高!」
「ところがどっこい! 全部集めるとボーナスポイントで一万円が!」
「もらえる?」
「料金に加算されるの……」
「さらにかよ!」
「しかし全額ジャパネット高須が負担するであろう!」
「ああ、ジャパ……やっぱ俺かよ!」
そろそろ脳天に肉体的つっこみをいれてやろうと右手を上げかけ、やれるもんならやってみい! とばかりに大河が挑戦的につむじを差し出した、そのときだった。
玄関の方を、反射的に振り返る。
かすかに届いたその音には聞き覚えがあった。思わず立ち上がると、大河は不思議そうに竜児の顔を見上げた。
「泰子だ」
園子と清児も驚いたように竜児の顔を見る。「なにか聞こえた?」「いや、俺には」……竜児には聞こえていた。近づいてくるその音は、懐かしくて確かだった。
アスファルトの道路を不器用に全力疾走してくるハイヒールの、危なっかしい、甲高い足音。竜児はずっと、託児所で、保育園で、学童で、家で、この音を合図におもちゃから顔を上げ、本から顔を上げ、玄関へ走り出したのだ。今も思わずイスを蹴って玄関へ向かってしまいそうになり、いや、と尻をクッションに戻す。
「泰子の足音がしたから、玄関で出迎えてやったらいいと思う」
「あなた……!」
園子が悲鳴のような声をあげて清児の顔を見た。清児も一瞬フリーズ、夫婦は二人して呼吸も忘れて顔を見合わせ、近づいてくる足音の主が躊躇いなく門を開いたのがわかり、後は振り返りもせずに廊下へ走り出していく。
「あんたも早く!」
「いや、俺たちは後にしよう。あの人たちは十八年待ってたんだぞ。邪魔したら悪い」
大河にそう言いつつ、その喉は火を飲んだみたいに熱くなる。本音には本音だがでも半分だ。残りの半分は、顔を会わせるのがやっぱり怖かった。
昨日、自分をずっと育ててきた泰子に言い放った言葉は、今も生々しい感触で喉にも耳にも貼りついたままになっている。俺を産まなければよかったのに――竜児のために全部を捨てた泰子の人生を、それは間違いだった、おまえは失敗した、そして俺の存在そのものが失敗だ、竜児がそうやって丸ごと否定したのだ。竜児の将来を無理矢理にでもコントロールしようとするその極端な行動原理の根っこに、泰子自身ができなかったこと、つまり親の指針に従って生きることを、子である竜児にさせて、泰子はその親として、子であった頃の罪滅ぼしをしようとしているように思えた。罪滅ぼしをしなければ、なにかコストを支払わなければ、泰子は自身も竜児も幸せにはなれないと信じているのだろう。
つまり、やっぱり竜児を産んだことを罪だと思っているのではないか。後悔しているのではないか。そう責め立てたかった。自分の都合で俺をコントロールしようとするな。十七歳なら誰だってやるだろうその簡単な一言を叩きつけるのに、これだけの傷を負わなければならなかった。
今、思うことは違う。
やり直せるだろうか。
十八年前のところから全部の時間と出来事を丸ごとひっくるめて、今あるすべてをあるがままに肯定できるだろうか。
「竜児――」
大河の分も全部、一つも残さずに、喜ぶことができるだろうか。
「大変――」
「……大変でも、なんでも、俺はやる。俺は全部、望むんだ。欲しがって悪いなんて誰が言ったよ。犠牲も大破壊も必要ない、あるだけのすべてを俺は、」
「大変だよやっちゃんが――」
「俺は、……え?」
「やっちゃんが、玄関をスルーしてきてるよ――」
大河が驚愕の表情で指差す方を振り返る。リビングのサッシが、力いっぱい開かれてガラスを揺らす。玄関からは「あれ!?」「いない!」夫妻の声が聞こえてくる。
のし、とハイヒールを脱ぎ捨てて、泰子は実家のリビングに踏み込んだ。
見開かれた瞳が、荒い呼吸に上下する肩の動きにあわせて赤く白く点滅しているみたいに竜児には見えた。
酒臭くはなかった。頭も爆発してはいなかった。ただ風呂上がりのままでドライヤーをかけていないのか、パーマで傷んで金色に近いロングヘアはところどころ束になって、蒼白な頬に貼りついていた。のし、ともう一歩、泰子は進む。脱げたハイヒールが音を立ててコンクリの靴脱ぎ石に落ちる。靴とはまったく似合わない竜児の中学時代の緑色ジャージに、黒のダウンコートを引っ掛けた格好で近づいてくる。
「や、泰子っ! 泰子……っ!」
「泰子―――!」
玄関から戻ってきて高須夫妻は無我夢中のこけつまろびつ、炬燵をそれぞれ逆回りに回りこんで泰子にすがりつこうとして、
「りゅ、りゅ、りゅ、ちゃ、竜ちゃ……ど、どど、どこ、ケガ、し、」
凍え死ぬ寸前の人のように震える泰子の手に触れられず、立ち竦む。
はたから見ていてもわかるほど笑う膝に耐えられず、泰子は全身を激しく震わせて竜児を見ていた。口もうまく回らないらしい。なにか言おうとしては震える手で口を押さえ、は、は、と痙攣するような吐息だけしかもう発せないのかもしれなかった。
見開かれた両目を囲む睫毛が濡れているのが見えた。
竜児はその目の前で、身動きひとつとれずにいた。大河が代わりに声を発してくれるのを、ただ、栓が詰まったようになった耳で聞いていた。
「やっちゃん……ごめん……」
なんてことをしてしまったのだろうか。
「……ごめん、嘘なの……こめ……」
「泰子!」
意を決したみたいに伸ばされた園子の手に、泰子は気づかないようだった。炬燵を蹴り倒すように跳んだと思った。まっすぐ、一息に竜児の前に跳んできて、そして泰子は右手を振り上げた。叩かれるのだ、と竜児は理解して、頬への衝撃を待った。
だがその手はまず額に当てられる。
頬を包む。
「お、」
顎に触れる。指先が耳を暖める。唇がめくれるのも構わずに竜児の顔を確かめる。制服の肩を撫でてそして背中へ回され、
「――俺には、どうしたらいいかわからんかった」
竜児を抱きしめようとして、泰子の腕からは力が抜けた。それを見ながら頭は真っ白になって、あとはたった一言、
「……ごめんなさい……」
崩れ落ちる母親を支えることもできなかった。
リビングの床にへたりこみ、泰子はものすごい泣き声を上げた。生まれたての赤ん坊のような、殺される前の獣のような、凄まじい絶叫のような泣き声を上げ、口を大きく丸く開いて、両目から溢れる涙を拭うこともできずにいた。そして無事だね、無事だね、とそれだけを、狂ったみたいに叫び続けた。
歩み寄ってきてその頬を、
「しっかりしなさい」
目を醒まさせるみたいに清児が叩いた。
「母親だろう」
や、や、や、と、泰子は喉を震わせて竜児を見上げる。やっちゃんは、と言いたいようだった。
「は、母親、しっ、失格、だよぉ」
竜児を見ながら見開かれた目に、また新たな涙が湧きあがる。
「竜ちゃんに、あんなふうに、思わせちゃった。失格だよ。幸せになりたかっ……それだけ、でも、できな、くて、……あんなこと、思ってないよ……! あんな、あんな、」
言葉にできないもどかしさを振り払うみたいに、泰子は必死に首を横に振った。
「……竜ちゃんが生まれてきてくれなかったらやっちゃんにはなんにもないよ! 竜ちゃんがやっちゃんの、幸せの、人生の、全部だよ! だから……こわかったんだよ――――!」
園子と清児は、泰子が言いたいことのすべてをすでに知っているかのように口を閉ざし、さらに激しくしゃくり上げる泰子の必死な声を聞いていた。
「やっちゃんがしたように、竜ちゃんが行っちゃったらどうしようって、ずっとずっと、赤ちゃんの頃から、いつかいなくなっちゃうのかなって、怖くて怖くて仕方なかったんだよぉ! やっちゃんはお父さんとお母さんを捨てちゃった、そのバチが絶対に当たるって、思ってたんだよぉ! こんなに……こんなにひどいことを、これほどに惨いことを自分はしたんだって、竜ちゃんが生まれて、やっとわかったんだ……だから竜ちゃんは行ってしまうって思ったの、もう止められないって、ついにそのときがきたんだって、やっちゃんはそれを見たくなかった、見れなかった、耐えられないって……だから、逃げちゃった……! 逃げるやり方しか、やっちゃんは、……知らなかった……」
竜児も、ただそれを聞いていた。
吐き出された泰子の言葉の残響から、この家の、この部屋の隅々に、悲しみが染み出していくようだった。いやだいやだ、と竜児は唇を噛んでそいつらを睨みつける。
悲しみはもういい。いらない。
「でも大家さんに、竜ちゃんが出ていくまでのことはお願いしなくちゃって思ったの。そしたら、大家さんが、昨日竜ちゃんが泣いてたって言って……また! やっちゃん、同じことをしたんだ、って……! また、同じ、ひどいことをやったんだって、やっとわかって……だからメールがきたとき本当にこれで終わりって思ったんだよぉ―――! やっちゃんがバカだからやっぱ全部奪われるんだって思っ……こうやって終わるんだ、って思ったんだよぉ―――!」
「……生きてるから! 俺は!」
泰子につられて泣かないように、強く竜児は言い切った。膝をついて泰子の肩を掴み、辺りに染み出す悲しみを一喝してやるみたいに、息を吐き切った。もう誰も家出なんかしなくていい。誰一人、だ。
「産まれてきて! それで、俺は生きてるから! あとはどうする!? 他にはなにが欲しい!?」
初めて会う人を見るみたいに、泰子は目を見開いた。涙で濡れた唇を震わせ、
「あとは……? 他に……?」
不思議そうに繰り返す。
「……竜ちゃんが生まれてきて、生きててくれて、やっちゃんは幸せで……それで……あとは……ずっ、ずっと……ずっと、この幸せが、続いたら……」
「じゃあ続く。続けようぜ」
頷いてみせて、そして大河の手を引いた。
「こいつもいるけど。ずっと。一生」
「大河ちゃ――」
泰子は息を飲み、少し震え、やがてしゃがみこんだ大河の頭を乱暴に掴み寄せた。後は言葉にならなかった。竜児の腕もしっかり掴み、もう一度泣いた。泣いても泣いても涙は尽きず、しかしもしもここに悲しみが割り込もうとするなら、湧き出るそばから叩き潰してやろうと竜児は思う。
「――大河ちゃんのことを、やっちゃんは、考えたよ」
小さな大河の頭に泣き顔を埋め、泰子はその髪を何度も撫でた。
「大河ちゃんもどこかに、やっちゃんの手の届かないところに行っちゃうのかな、って。どれだけ痛いことが、つらいことが、大河ちゃんにはあるのかな、って。こんなに……大事な子に思わなかったらよかったって。だって行かないでとはこの口からはいえないんだもん! それはどうしても! ……でも、竜ちゃんがやっちゃんのところから行ってしまうんだって思ったときに、二人が一緒なら、……やっちゃんの分は全部なくなったとしても、竜ちゃんと大河ちゃんの分は、きっといつか救われるって、残るんじゃないかって、思ったんだよ」
「大丈夫だよ。竜児のはある。私のもある。やっちゃんの分も、ちゃんとあるよ。丸ごと――竜児がそう言ってたよ。私もそう思う」
ほとんど二人にしか通じない言葉を交わしあい、そして、ありがとう、ありがとう、と泰子は繰り返した。大河にだ。
「……なんで? なにがありがとうなの?」
「全部。ここにいてくれること。うちにきてくれたこと。竜ちゃんを好きになってくれたこと。やっちゃんと、出会ってくれたこと。大河ちゃんのお父さんとお母さんにも……全部、みんなみんな、ありがとうなんだよ」
「自分のお父さんとお母さんは無視なのかよ」
息子のつっこみに、泰子は初めて気がついたみたいに自分のいる場所を見回した。鼻をすすり、涙で浮腫《むく》んだ目を擦り、園子と清児をようやく見た。
「……あれえ?」
はあああぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜! とトルネードみたいなため息を、園子と竜児は同時に吐いていた。あれえじゃねえよ、と思っているのも多分同じだったろう。
しかし、
「もう……いいよ。いいよいいよ、もういいんだ」
張っていた背を不意に優しく丸めて呟き、園子は肩をすくめる。
「あんたは竜児くんと、二人で暮らしてたの? ずっとそうだったの?」
泰子はすこし迷ってから、やがて一度だけ、深く頷いて答えた。それ以上のことは園子も清児も、竜児も訊かなかった。
ここは、これでいい。
愛する心が自由なら、今は届かなくてもそれでいい。届かない場所を、届かないという事実をも、全部を含めて『すべて』だから。
「……よく、帰ってきたねえ。あんたはやっと、帰ってこられたんだねえ……遠かったでしょ。よかったねえ。みんな無事に帰ってきて、お母さん、幸せだ」
とりあえずなにか食べさせてやりなさい――チャーハンを食べたばかりだというのに、清児のその言葉に大河は目を輝かせた。
5
階段を挟んで並んだ隣の客間のドアがかすかに軋む気配がして、竜児も半身を埋めていた布団から這い出した。音を立てないようにドアを小さく開き、冷気の層が下にいくほど濃く溜まっているような廊下に膝をついて顔を出す。
同じ体勢で、大河がこちらを見ていた。竜児の部屋のドアが開くのを待っていたらしい。
「……寒いね。眠れない」
手を口にかざし、押し殺した声で囁きかけてくる。
「……エアコンは? こっちはストーブだけど」
「つけた……でもこれだもん。冷えて冷えて」
ちょっと肩をすくめて大河が梳いてみせた長い髪は、竜児が見てわかるほどにまだ湿り気を帯びていた。風呂上がりにちゃんと乾かしていなかったらしい。
「ドライヤー借りたけどさ、乾かすのすっごく時間かかるから、なんか洗面所占領してるのが悪くなって途中で切り上げたんだ」
「……メシは三膳もおかわりしたのに、そういうとこだけいきなり気が小さいよな……」
「そうなの。根は善人なのよ……」
湿った長い髪をクロスさせた両手で掴み、うっとり目を伏せてイコンに描かれた聖人ポーズを決めてみせる大河をとりあえず無視し、竜児は階下の様子に耳を傾けた。泰子はまだ園子と清児とともに居間にいるらしく、三人のわずかな声の断片だけが時折聞こえてきた。それは深夜の静けさの中に跳ね損ねたピンボールのようで、会話の内容までは届かない。
「……なに話してるんだろうな」
大河も少し黙って階段の下を眺め、
「話すことなんか、そりゃ、いっぱいあるでしょ。十八年ぶりだもん」
「さっき俺たちは先に寝てるって言ったときの泰子の顔――」
竜児の言葉に、「……んふっ」と堪えられず、鼻を膨らませて笑いかける。竜児も唇の端がぴくぴく震えるのを抑えきれない。
えぇぇ〜……寝ちゃうのぉ〜……やっちゃんも一緒に上にいこっかなぁ〜……なんか今からあらためて怒られそうなかんじがするんだあ……うわ〜〜うちのお父さんなにやらすごいものを用意してるぅ……顔を引き攣らせる泰子の背後で、清児は五番アイアンを掴んでいた。アホな娘はPL法に基づいてこの手で成敗してくれるわ! というわけではもちろんなく、単にリビングに出しっぱなしだったのを片付けようとしていただけだったのだが。
「ていうかさ。やっちゃんとあんたが微妙に似てることには前から気づいてたんだけど、おじいちゃんとあんたも似てるんだよね。将来あんな感じになるのかな? ……よかったね。頭的な意味で」
ふさふさだった、と大河は自分の頭のてっぺんあたりで指を動かしてみせる。
「そりゃ望むところだけど……そうか? そもそも俺と泰子なんか全然似てねえぞ」
「案外似てるんだって。顔のべースは『あれ』なんだけど――」
大河は不意に、言葉を切る。柔らかな笑みに緩んでいた唇を引き締め、先を言ってもいいかどうかを問うように、竜児の顔を覗き込む。いいよ、と言うみたいに竜児が瞬きしてみせると、上がりかけていた声のトーンを抑えて大河は先を続けた。
「――お父さんのことは、結局、よくわからないままだね」
「そうだな」
「このままでいいの? ……ちゃんと知りたいって、思わない?」
「単純に、好奇心はあるよ」
戸口に尻を下ろして借り物のパジャマの膝を抱え、竜児はドアの蝶番《ちょうつがい》に背を預けた。下の階まで届かないよう、より注意深く声を低くする。
「この家を出て、あの写真に収まってた二人が、なんで離れ離れになったんだろうとは思う。でも……ここに父親はいない、っていう事実が、泰子の『選択』の結果なんだろうな、って気がする。……今も会いたくてずっと捜してるっていうなら別だけどな。違うだろ」
あと少し、もう何年か経ったら、結局どうしてあの人はずっと傍にいてくれなかったのかを泰子に尋ねられる気がしていた。今すぐに問えないのは、歩き出したばかりだからだ。廊下の向こうで同じように座り込んだ大河の爪先を見つめて、竜児は冷える顎を交差させた手の甲で支えた。
よちよち歩きの自分には、まだ父の選択を、そして母の選択を理解しきれないと思った。だから今はただまるごと、ここにある事実だけを受け入れた。
事実、この「世界」には――竜児のテーブルには、ちゃんと父の姿がある。十八年前の姿のまま、それきり失われた姿のまま、だけどちゃんと存在している。なかったことにはならない。この命が今も存在すること、ただそれきりの事実で竜児は父の存在をこの世に認めた。
認めることが、すなわち俺だ、と竜児は思う。己の世界のすべてをあるがままに受け入れて、これが高須竜児だと、そういう名前の命だと、視線を上げて大河の白い顔を見つめた。
大河は長い髪を床まで垂らし、膝に頬をつけるみたいに身体を丸め、大きな瞳を竜児に向けて強く光らせていた。
「……お父さんのことを……やっちゃんのことを、本当に少しも恨まずにいられる?」
その声は小さかったが、しかしはっきりと竜児の耳にも届いた。そして優しく掠れて、言葉は解《ほど》けるように消えていく。
二人の吐息が夜の冷気に重なる。
「いろいろ、思うけどな」
ほとんど無意識に、竜児は生身では受けずにはいられなかった傷を数えていた。金のことや進学のこと。将来のこと。小さい頃に向けられた心ない人の刃。「違う」ことを理由に突然振るわれる蔑みや疎外。竜児の生まれや泰子の職業がわかると警戒色に変わったように思えた大人たちの目の色、そういうふうに思われるんだと理解した自分のこと。絶対に許せない噂――これまでのあらゆる傷を確かめるみたいに思い返す。
もう治ったのもある。治っていないのもある。まだ血を滲ませているのも、理不尽なのも、しょうがないかと諦めがつくのもある。父や母や生まれとは関係ないのももちろんある。勘違いや感情の行き違いで、誰も望んでいないのにぱっくりと開いた傷もある。ありとあらゆる大きさで、生身の身体でこの現実の日々を生きていかなくてはいけない竜児には切りつけられた傷がある。
自分の魂の置き場は自分で決められる。でも、この世の数多《あまた》の他人のは動かせない。誰かに傷をつけたがる人間もいるし、それを避けられないときもある。それが現実で、それが人間だと思う。自分だって現実を生きる人間なのだから、どんなに気をつけていたって我知らず誰かを傷つけたかもしれない。傷つけたくて刃を振るったことが一度もないなんて、竜児には絶対に言えやしない。
改めて、己の望みの遠大さを知った。傷の痛みも、人を傷つけた己の醜さも、そういう自分も含めたここにある存在・事象のすべてを受け入れ、すべてを喜ぼうだなんて、やっぱりあまりにも難しい。
「でも、まあ……。……おまえがいるしな」
「私? ……ほんと?」
頷いて、少し黙り込む。竜児のその顔を見て、大河は抱えた膝に頬を埋めた。笑うような泣きたいような不思議な目をして、薔薇色の柔らかな唇を指先で辿る。
「そんなに、想ってくれる?」
そうだよ、と心で竜児は思う。
どんなに難しくても遠くても、挫けずにそれでもなんとかやっていこうと思えるのは、たった一つ。
この厳しい現実を渡っていく肉体と心を運ぶ魂の奥底に、どんな力にも屈しない、絶対に破壊されたりしない、竜児以外の誰にも触れないものがあるからだ。それは、人を愛し、そして愛された己自身を見つめる目のようなものだと思う。その前に立ち返るたびに頭を垂れる。決して裏切りはしないと誓う。己の姿を、己の行動を、己の想いを、心の内にそれを打ち立てたその目で見つめて、己自身の存在を、生きていく場所での在り方を「知り」続ける。
その目で見るものこそがつまり己の世界なのだと思う。
大河の心にも、大河にしか打ち立てることのできないそういうものがとっくにあるはずだと竜児は信じていた。それを大河自身に、知って欲しかった。
竜児が打ち立てたそれを、それがあるがゆえに選んだ「やり方」を、だから大河に見せたかった。
冷え込む廊下を照らす小さな灯りの中で座り込んだまま、大河はそれ以上は問わず、ただ、竜児の足元に落ちる淡い影に視線を落としていた。
「……おまえこそ、あのおっさんのことを恨んでねえのかよ。おまえの人生を好き勝手にひっくり返しやがったんだぞ。それから実の母親、義理の母親、実の母親の再婚相手。……新しい妹か弟。おまえこそ複雑だ。どう思ってる?」
「私は――」
不意に噤《つぐ》まれた唇を、その淡い血色を、竜児は祈るような気持ちで見つめていた。しかし大河は、竜児の祈りや、想像や期待、勝手なそれらすべてを軽々と飛び越えるみたいに言葉を発するのをやめて、視線を遠く揺らがせる。
大河は一人、どこかを見る。
尖った顎を上げ、目の前に広がる世界に真正面から挑むみたいに瞳は光る。
その眼差しの果てに、なにを見ているのだろうか。どれだけ広大なものを見ているのだろう。大河の世界にはどんな星が光り、どんな季節が巡って、どんな風が吹くのだろう。知りたい、見てみたいと竜児は思った。同じところに立ちたかった。傍らに存在していたかった。
別々に生まれた肉体で、どうやっても同じ一つにはなれない魂二つで、それでもできるだけ近くにいるためにはどうしたらいい? 互いの世界を、どうやれば重ねあわせられる?
「……そっち行っていい? ストーブの方がいい」
竜児の問いに答えるみたいに、大河は視線を竜児に戻した。小さな手を擦りあわせ、はー、と息を吹きかけて「寒すぎる」と声を震わせる。
「おう。エアコン切ってこい」
暗い部屋の中に大河の姿は一旦消えて、ぴ、とエアコンの電源を切る小さな音が竜児の耳まで届いた。そして冷たい廊下の床板は素足には冷たすぎるのだろう、大河は足音を殺しながらも爪先立って跳ねるみたいに、竜児と泰子に用意された部屋へ滑り込む。そしてそっと部屋のドアを閉めて、
「あー、やっぱこっちの部屋の方があったかい……」
肩の力をふぅ、と抜いた。
オレンジ色のストーブだけが灯る部屋の暖気に一息ついて、
「……あまりこっちを見るでないよ」
思いついたみたいにやはり借り物のパジャマの胸元を押さえてみせる。その扇を重ねるみたいな手つき、微妙に湾曲する腰つき、首を斜めに傾げて見上げる仕草……どこの腰元だよ……と突っ込みたいのをこらえて「なんで」とシンプルに尋ねてみる。
「サイズ、やっぱ大きいんだもん。ぶかぶかで胸元、気になるの」
「あーそれは気の毒にな、哀れだなおまえは。元気出してストーブで髪を乾かせよ」
「……なんでだか微妙に腹立たしいけど、騨ぎを起こすと下に響くね。スルーしとくけど、忘れないよ。永遠に」
忌々しげに竜児を横目で睨み、大河は胸元をしっかり両手で押さえたまま部屋を横切っていく。竜児のと泰子の、並べて伸べられた布団からすこし離して据え置かれたストーブの前にちんまりと座り込む。強い橙色で灯りの消された部屋を淡く照らす熱源に手をかざし、「は〜、生き返る……忘れてないよ!」もう一度竜児を睨む。
睨め睨め、と開き直り、竜児は自分の布団の上に足を伸ばした。ちょっと形の悪い自分の足の爪を凝視して、胸いっぱいの息と緊張を吐く。今夜はこれ以上近くには、絶対に、近寄れないのだ。この距離では、この密室では、見つめあうのも恐ろしい。だから睨みつけられるぐらいでちょうどよかった。
本当なら――本音を言うなら、耳に届く息の根だけで脳みそ焦がされそうなほど狂おしいのだ。
好きな女がそこにいるから。
ジェットコースターみたいに心ごと、嫌ってほどにブン回されて、やっと行き着いた「今」だった。すぐそこにいる大河に、その淡く揺らぐ髪の一筋に、華奢な肩に、骨の形が丸く浮いた真っ白な手首に、全身の感覚が反応する。どうしてもまず目が追ってしまう。柔らかに匂い立つようだし、大河のいる左側が暖かい。ストーブがあるからかもしれないが。
こんなにも強く人の身体に触れてみたいと思うことがあっただろうか。ごくシンプルに、もっと大河に近づきたい、もっと大河を知りたい、もっと想いを伝えたい、伝えられたい、言ってしまえばそれだけの欲求なのだけれど、それがこんなにも激しく身の内に吹き荒れるなんて思いもしなかった。
でも、手を伸ばしたら、それが本当に最後の最後だと竜児にもわかる。一歩足を踏み外したらどこまで転げるか自分でもわからない崖っぷちだ。前にもここに立ったことはある。また橋から落ちて、心臓も凍る冷水にブチこまれたいか? 自分は。
なにげない素振りで耳を覆い、そ知らぬ顔で凝った首を解《ほぐ》すみたいに頭を回す。視線を逸らしてその実必死、震えそうな背筋をごまかす。口笛を吹こうとして、さすがにそれは思いとどまる。……以前は大丈夫だった。どんなふうに一緒に過ごしていたのか、今の竜児にはどうしても思い出せない。以前、というのが具体的にいつの頃を指すのか、それさえわからない。
視界の隅で、ストーブの前に座った大河は、長い髪を肩の前に垂らして、ゆっくりと指で梳きながら暖めていた。白い、細い指にかきあげられた髪は、柔らかすぎてすぐに零れ、溶けゆく蜜のように竜児には見えた。鼻先にかかる前髪の隙間に、火の色で照らされた頬のラインが光る。床板一枚下に母祖母祖父が揃っている。いるといったらいる。しかも改めて見回したこの部屋は泰子の寝室だったらしく、家具やかけられたままの制服、私服、あらゆるところに母の影が――過去の暮らしの日常がある。
想いが通じあおうとも、禁忌は禁忌。ただ、禁じられれば禁じられるほど、確かめてみたくなるものもある。
「ねえ」
「おう! ああ! はい!」
「……声でかいよあんた……もっと温度高くして。やり方わかんない」
竜児の方をもう見はせず、大河はストーブを眺めたままでいた。
竜児はそれ以上の返事はせず、ストーブに、大河に、近づく。
ストーブの温度の上げ方はどうすれば……手を握るだけなら許されるだろうか?
背を抱いて、撫でるぐらいなら?
友達にだってそれぐらいはするだろう?
そうだよな。そこで止まれるならな。ただの無遠慮なバカ野郎にならないで済むのなら。
……触れたいと。本当にそれを望むなら。
知りたいと欲する気持ちを身体的接触のレベルで満たしてしまって、それで、それだけで、足りるなら――手を伸ばし、
「……これだ。多分」
――上向きの三角マークのついた単純なボタンを押す。ぴ、ぴ、と押した回数だけ音が鳴って、ガラスの管がさらに明るい、強い火の色を灯す。真正面から肌に伝わる暖かさも急激に強まる。
「……強すぎるか?」
「これでいい。ああ、あったか〜……」
「髪焦がすなよ」
「いくらなんでもそこまでドジなこと、するわけな……ん?」
大河はおもむろに髪の先を掴んで鼻先にもっていく。クンクンかいで、
「するわけないでしょ」
どーよ! と妙に強気。すぐ隣で胸を張り、顔を近づけてくるが、
「……あんまりこっち寄るんじゃねえよ」
竜児は眉を寄せて顔面を真ん中から割ってエイリアンの幼生を産んだ……わけではなく、威嚇の表情をしてみせた。大河が寄ってくるのと同じ角度で背を反らせて避け、きっちり三十センチは距離を取る。
「なにそれ。なんで。どうしてそういうこと言うわけ」
触れてみたって、今は満たされないから。……とは、さすがに言えるものではない。ごく端的に、下に親が居るから、とも言える気がしない。結局のところ、なにをしたって足りなくて、自分は大河に飢えるばかりで、果ても、底も見えやしない。
足りないのだ。
なにもかもが全然足りない。やっぱり足りない。
全部を知るにも、全部を愛するにも、どうしたってまず時間が足りない。そして自分の力も足りない。一日はたったの二十四時間で、一年はたったの三百六十五日で、一生は八十年そこそこしかない。この夜も、あと何時間かしかない。竜児はただのガキでしかない。なにもかも足りなくて足掻くばかりだ。息苦しくて身を捩るばかり。そればっかりで、
「……なんでも、どうでも。この線が俺とおまえの国境だ」
今はとにかく、どうしようもない。
座り込んだ二人の間に指先できっちり辿ってみせたのは、ちょうどよく真ん中を走るカーペットの継ぎ目。決して越えてはならぬ! と山奥の鬼ババが思い切って性転換したかのようなツラも作ってみせるが、
「……それ越えたらどうなるの」
「目には見えない歩哨が銃を構えているからおまえは頭を撃ち抜かれ脳漿をブチ撒けて」
「そういう意味じゃない。……どうなるの?」
大河は借り物のパジャマの膝を立て、ストーブの前に座り込んだまま、指先で梳き上げた自分の髪の先をじっと見つめる。その横顔に落ちる、長い睫毛の影に蹴飛ばされたみたいに心が揺れる。平気でいるのかよ、と竜児はほとんど憎くさえ思う。結局大河という女はなにも本当にはわかってはおらず、あの2DKで無防備にゴロ寝していた時と地続きのままの気分でいるのではないだろうか。
そうだとしたら。
「まあ……越えないけどね」
もしも本当にそうなのだとしたらどうしてくれようか――
「私が本当にそれを越えようと思ったら。私がそう決めたら。……あんたが泣いても叫んでも逃げられないけどね」
「……おまえ……」
――この野郎、いや悪魔、いや、手乗りタイガー。
「でもさ、見えない歩哨に頭吹っ飛ばされるのも困るし。あんたに私の脳漿片付けさせるのもかわいそうだし。……でしょ?」
「……」
声も出ない。
あれやこれや複雑にこんがらがる男心の純情が、嬲るみたいに向けられた大河の視線に、その熱に、踊らされる。これではまるで鉄板の上を裸足でタップダンスするが如し。竜児は鉄板の下から「おらおら!」と炎を煽る大河をさらに睨むが。
「なに。なんなのその顔は。なにが言いたいの」
行儀悪くあぐらをかいて、足の裏を合わせて座り、大河はおきあがりこぼしみたいに身体を揺らす。わざとらしく目を見開いて、「あんたの言いたいこと全然わかんない。フ、フォ、フィアンセ失格だね私〜」と口をすぼめ、外人みたいに首を疎める。遺憾状態〜、じゃねえぞこっちは。
しかし言葉では勝てやしないから、竜児は飛び道具を持ち出す。片手で男らしく唇を押さえ、ちゅばっと前歯の隙間からブラックマンバの致死性猛毒を大河の目を狙って噴き出した……わけではもちろんなくて、さっきのお返しに気色悪い投げキッスを放ってやった。下に親がいようとも誰がいようとも、俺だってこれぐらいならやってやる! いけいけ一発五千円! 竜児は拳を握るが、
「この程度! 私の目には止まっているように見えるわ!」
蚊を叩くみたいに空中で叩き潰される。
「おう! む、惨い……!」
「『おうぅ! む、惨い……!』」
「……そんなしゃくれてねえよ」
「ていうか、あんたって結構浮かれポンチだよね……」
悪意たっぷりにしゃくれさせた顎もそのままに、呆れたみたいに大河は両手を広げ、やれやれと首を横に振った。
「なにぃ!?」
「ちゅばっ、だって。まあ……よくも恥ずかしげもなくこんな真似をしたもんだわ……」
「おおお……おまえがっ! 先にっ! ……もういい!」
言い返す口もうまく回らず、竜児は大河の顔から目を逸らした。「俺は寝る」と短く言い捨て、本当に背中を向けて布団に入り、目を閉じる。
「あれれ。怒っちゃった。ふざけただけなのにすねてるよ」
「……」
「竜児。りゅーうーじ」
「……」
「竜ちゃん」
「……やめろ」
「あのさ。やっちゃん、よかったね」
「……」
「あんたも……よかったね」
まだ頑なに目を閉じたまま、竜児は足元の大河の息遣いに身を竦めていた。
「……私も、よかった。……よかったって思う。思える、みたい。やっちゃん、私なんかにありがとう、って……それにやっぱ、私、あんたがさ、竜児のことが……」
声はかすかで、不意に震えるみたいに輪郭を朧《おぼろ》にした。
「……本当に寝ちゃうの?」
問う声に、答えないことで返事をかえす。
「寝ちゃうなら、いいけど。髪も乾いたし、あったまったし……別にいいけど」
大河が立ち上がる気配があった。
本当にそれだけでそっけなく布団の端を踏み、去っていく足音を、思わず追おうとしていた。目を開き、顔を上げて身を起こそうとして、
「ふぐっ?」
ズン! と唐突に襲った衝撃に息が止まる。
「……寝てる人は動いたらだめなの」
「だめっておま……く、くるし……っ!」
「喋るのもだめ」
窒息しかけて手足が跳ねた。
それさえもがっちりと掛け布団ごと押さえ込まれ、状況をなんとか把握する。勢いをつけて竜児の真上、全体重をかけて飛び込んできた大河に押さえ込まれている。世間一般には縦四方固め、とかいうのかもしれない体勢に布団蒸しをプラスして。
「……逃げられないでしょ。寝てるんだから」
吐息と聞き違えそうなかすかな声で大河が囁く。
――確かに、動けない。逃げられない。
たったの四十キロぽっちだろう、飛び込んできた大河の全部が、竜児を捕らえて離さない。そのまっすぐな覚悟が、竜児に身じろぎも許してはくれない。
「私ね、竜児のことがね……ほんとに、ほんとに、ほんとにほんとにほんとに、本当に、」
別々に生まれた肉体で。
どうやっても同じ一つにはなれない魂二つで。
「大好き」
それでもできるだけ近くにいるため――。
顔の部分の布団を押し下げられて、柔らかな髪が竜児の頬にもつれ落ちてきた。額と額がゴチン、とぶつかる。丸みを確かめるみたいに眉のあたりを同じところで擦られる。鼻先に鼻先が押しつけられ、ひそめられた吐息が重なる。やがてシャンプーの香りを隔てて、熱い唇が唇に触れる。大河の体重のすべてが、竜児の唇に重ねられる。一度目よりももっと熱くて、もっとゆっくりで、このまま深く沈んでいくことができそうで、竜児は恋の熱に溶けかける身体を危うく立て直し、必死に目を開く。
俺もおまえが好きだ、大河が好きだ、と、繰り返す。
同じ想いで、このまま身をくねらせて飛び立ちたたかった。このまま大地を駆け巡りたかった。腕も足も四本ずつの獣になって生きたかった。同じ命になってしまいたかった。でも違う身体をただ寄せあって、ただ触れあうことしかできなくて、もどかしくてもどかしくて堪らない。もどかしさに焦れて、ただ泣き喚いて、暴れて、溢れる気持ちを踏み潰すのは簡単だ。でも、今なら、この距離からなら、なにかが見えるのではないかと思えた。
離れ離れの命がそれぞれにもつ世界が重ねあわされて、自分たちはまた新しい世界に、今度こそ同じところに、生まれ変わることができるのではないかと思えた。
竜児は、大河は、そこに行きたかった。
ただそれだけで、それがすべてで、すべてを抱えてここに、「今」に、いた。
別々だから、一つにはなれないから、だからこんなにも強く引かれあう。宙を掻いてもがいて叫んで泣いて傷ついて、強い力で、抱きしめあう。行きたい世界を望んで止まず、瞳は何度でも開かれる。
時間も命も有限で、あまりにも短すぎ、望みは遠くて焦れるばかりで、でも、
「……本当に、寝るんだよ」
どんどん大人になっていく。
時は進み、刻まれて戻らず、今は過去になっていく。
大河の指先が、目蓋に触れた。小刻みに震え続ける大河の心を知った。震えながら、竜児の目を閉じさせて、睫毛を押さえて、
「私も寝るから。……おやすみなさい」
眠れるわけなど。
――眠れるわけなど。
***
目は、開かなかった。
陽も昇りきらない、それは寒い寒い、多分真冬の最後の朝だった。
一晩体温で温められた布団の中で足を閉じ、竜児は横を向き、両手を目の上に重ねていた。隣の布団は、泰子の身体が膨らませているはずだった。
そっと開かれたドアの戸口に大河が立っているのは、音でも、気配でも、ちゃんとわかっていた。かすかに鳴った硬い音が、斜め掛けにしたバッグの金具が立てる音だということも知っていた。
竜児、と怯えるみたいな小さな声で、大河は名前を呼んだ。
竜児は動かなかった。
もう一度、竜児、と。少しだけ待って、はっきりともう一度。三度、竜児の名前を呼んで、そして大河は動かない竜児に納得したようだった。
「じゃあ。――ちょっと行ってくる」
床板がわずかに軋んで音を立てた。ドアが静かに、閉ざされた。ゆっくりと階段を下りていく。玄関のタイルに靴を出す。足を入れて、扉を開く。
門が、開く。
これでいいんだと思う。
ここは本当に静かな町だった。
凍りついたみたいに冷え切っているだろう空の下を行く足音が、竜児の耳にもしばらく聞こえていた。
その足音は最初は戸惑うみたいに、やがて一歩一歩確かめるみたいに、そして次第にいつものテンポで、最後には走り出す。靴底がしっかりと力強くアスファルトを蹴る音が、高らかに響いて遠ざかる。
聞こえなくなる。
布団の中で、竜児は動かずにいた。
目を閉じたままでいた。
「こ、これで、」
布団を跳ね除けて先に身を起こしたのは泰子だった。
「……竜ちゃん! 本当にこれで、いいの……!?」
これでいいんだ。
一言、そう答えたかった。
しかし竜児は答えられなかった。これでいいんだとわかっているのに、目を開くことができなかった。
大河は、大河の親の許へ行かなくてはいけない。
だって大河は彼らを愛しているのだから。
家出なんかしなくていい。
大河は親をいらないと切り捨ててみせた。愛情を晒せば壊されるから、それが怖くて、求めることが今までずっとできなかった。大河自身が発する分の愛に、受け取る分の愛が全然足りないと泣いていた。注ぐ愛ほど得られない、自分の値はそれほどにちっぽけだと自分自身を嫌っていた。だからちっぽけな自分が大きな望みを持つことなんて許されないのだと、大河は縛られていた。許されないだけの愛を望めばその罰を食らうはずだと、引き換えになにを奪われるのだろうと、どれだけ傷つけられるのだろうと、その恐怖で己を縛り続けていた。
でも今は違う。
大河の腕も、足も自由で、解き放たれてどこにだって駆けていける。
なにを愛そうと、誰を愛そうと、奪われるものなどなにもないと大河にはわかったはずだ。大河は自由な心で、誰よりなによりまず自分自身を、大河が生きていくこの世界を、心いっぱいに愛せると知ったはずだ。丸ごとすべてを望んでいいと知ったはずだ。なにを捨てることも奪われることもないのだとわかって、すべてを、傷さえも抱えたままで、走っていったはずだ。
だからこれで、
「……竜ちゃん……!」
これで、いいんだ。ちゃんとわかっている。
泣き声の泰子に今度こそはっきり答えようと、竜児は布団から身を起こした。目を開き、息を吸い、顔を上げた。そして世界を見た。
大河の消えた「今」を知った。
物が並ぶだけの冬の朝に、その現実の真っ只中に、座り込んでいる自分を知った。これでいいんだと言おうとして、認めようとして、でも、
「た、」
でも。
この世界にたった一人。
たった一人きりで竜児は――生きている。
大河がいない。
なにも言えず、なにも叫べず、砕け散ったと思う。爆発したと思う。真っ白に塗り潰されてスパークする目蓋の裏、めちゃくちゃな思考が走る、凄まじいエネルギーで心臓が爆ぜる、あああ、と呻く声、全部がやっぱり壊れてしまう、だめだ、こんな、こんな、こんな、
「竜ちゃんっ!」
肩を強く掴まれて、泰子の顔を見た。真っ赤に染まって涙を噴くみたいに頬に零し、苦しげに眉を寄せて喘ぎ、四方八方から降り注ぐ砕けた世界の破片の只中で髪を逆立て、噴き上がる想いに爆発しそうに震えて――これは自分の顔だと竜児は思った。
だめだ。
布団を蹴って、走り出した。
パジャマのままで階段をほとんど転げ落ちる。裸足のままで玄関に飛び降り、大河の出ていった扉を押し開く。一気に門から外の世界へ飛び出す。新しい孤独に一人で飛び込む。
見回した通りには誰の姿もなく、ただ一人、竜児は震える手で必死に口を覆う。言ってしまいそうな言葉を、呼んでしまいそうな名前を、それでも堪えなくてはと全力で唇を噛む。でもこの身は止まらない。骨を凍らすような風が吹きつけ、竜児の皮膚を切り裂く。真冬の太陽はまだ昇り切らず、空はずっしりと重苦しく寒気を抱いている。
心と肉体が、魂が、引き裂かれる。千切れてしまうこのままでは。
肉体は走り出す。心も走り出す。魂が行くなと叫ぶ。肉体は止まろうとする。心は止まらない。止まらないのだもう。竜児は風の中をひた走る。
わかっている、ちゃんとわかっている、でも、心は狂おしく大河を呼んで血を流す。重なる世界を求めて叫ぶ。どんなに遠く離れても愛さえあれば通じあえるのか? でも、奪われた心は取り返せない。人間の思考などではとうてい追いつけないパワーで引き寄せあい、求めあい、呼びあう。それでも行くのか、大河。
この凄まじい力を振り切って、それでもおまえは走るのか。
走って走って、遠くへ行って、それでもいつか二人の世界は重なるから、この先の日々を渡っていくことができるのか。
それほどの力を、得ることができたのか。
あてずっぽうに走りながら、竜児は頬に流れる涙を必死に拭った。追いつけないのはわかっている。それほどの力で大河が走ったのもわかっている。これでいいんだ。自分に言い聞かせながら、奪われた心が泣くままにそれでも足を動かした。大河の姿はこの町にはない。もう追いつけない。
これでいいんだ。
この身体にも同じだけの力が宿っているはずだった。大河を愛し、大河に愛され、そしてそんな己の世界のすべてを喜びとして受け取れるだけのパワーを、強さを、この自分だって持っているはずだった。
寒い、静かな早朝の町に、竜児の白い息が踊る。
***
竜児が電車の中から送信したメールを読んだのだろう。泰子と少しの距離をとって、土曜日の空いた改札を抜けると、
「……櫛枝……」
帰り道の間になんとか鎮めていた胸が掻き毟られた。
疎《まば》らに行き交う人々の背の中に、寝癖に散る髪をニットキャップで隠し、ダウンのコートにデニム姿で、実乃梨がそこに立っていた。
「私にはわかんないよ」
竜児の姿を見つけ、たった一言。実乃梨はそれだけを呟いて、唇を色がなくなるほどに噛み締めた。見開かれて動きやしない強い二つの瞳の前で、竜児はうまく説明する術を見出せなかった。
大河が行ってしまったわけ、竜児が行かせてしまったわけ、これでいいわけを、どうすれば実乃梨にも正しく伝えられるのか、考えるほどに心は怯えた。実乃梨なら絶対にわかってくれると思うのだが、こんなときには自分はより口下手に、不器用になってしまう。
実乃梨から少し離れたところに亜美も立っていた。眠れなかったのだろう、コートのポケットに両手を突っ込み、らしくなく背を丸め、せっかくの美貌を青白くしていた。さらに離れたところから、北村も歩み寄ってくる。決して責めるのではなく、しかしはっきり混乱した目で、一人制服姿の竜児を見る。
彼らに送ったメールには、大河が母親のところへ行ったとしか書けなかった。もっとうまい書き方もあったはずだが、竜児にはわからなかった。みんなが混乱するのも当たり前だ。大河はみんなを愛することをも諦めないと約束したし、そのために二人で逃げて、二人でここに帰ってくると自分たちは約束したのだ。竜児と大河は二人で戻ってくると信じて待っていてくれたに違いなかった。
竜児が一人で帰ってきた理由を、竜児は一人で語らなくてはならない。
「……みんな、お友達だもんね」
ここにいる奴らみんなの顔を知っている泰子が小さく呟いた。ジャージのポケットからキーケースを取り出し、大河に預けられていたマンションの合鍵を外して竜児に差し出す。
「みんなで行って、大河ちゃんを捜してごらん。わからないこと、みんな、自分の目で確かめてごらん。やっちゃんは、インコちゃんを迎えにいかないといけないから」
「……インコちゃん、どこに預けたんだよ」
「大家さんのとこ〜」
なら方向は一緒だろ、と言いかけた竜児に、泰子は片手を振って「行きな」と微笑んだ。大河がここにはもういないのも、竜児が仲間にそれを知らせなくてはいけないのも、泰子には多分、事態のほとんどが正しくわかっていて、そして大きく一歩、子供たちのことから距離をとった。
鍵を受け取り、顔を上げる。
誰からともなく、歩き出す。
慣れたいつもの駅からの道を、大股で、やがてみんなして競争するみたいに走る。大河はもうこの町にはいないとわかる竜児さえも、心は急いて足を動かす。高須家に続く曲がり角、階段を駆け上がり、マンションのエントランスに入り、暗証番号を押してオートロックを開く。とっくにここは逢坂家の持ち物ではないと大河は言っていた。もしかしたら、今朝のうちにすでに鍵が付け替えられているかもしれない。中に業者が入っているかもしれない。
硬い感触を想像しながら差し入れた鍵は、しかし、なめらかに奥まで入って回る。重厚なドアの見た目からは意外なほどに軽い音を立てて、大河が暮らしていた部屋の鍵は開く。
ドアを押し開き、玄関の明かりをつけた。先を競うように靴を脱いで次々に中へ踏み込む。「大河! 入るよ!」中にいるかもしれないと期待を込めた声で実乃梨が名前を呼んだ。「逢坂!」「タイガーいるの!?」北村と亜美も続く。
「私だよ! 来たよ、入るよ! 大河! たい――」
リビングへ続くガラスのドアを押し開き、竜児は思わず立ち竦んでいた。その背の後ろで、やがて実乃梨も声を失った。大河が一人で暮らしていた時の惨状を知っていたからこそ、二人はなにも言えなくなった。
驚いたのだ。
エアコンの入っていない広いリビングはひどく冷えて、寒かった。
もう誰も暮らしていないシャンデリアの下に、一人用のソファも、小さなガラステーブルも、白のキャビネットも、なにもかもが残されていた。その家具全部に、きちんとカバーがかけられていた。アイランドキッチンにも、毛足の長いラグにも、大河がよく抱いていたクッションにも、どこにもゴミ一つなく、隅々まで整理整頓されて、きれいに掃除されていた。
ゆっくりとリビングの中央付近まで実乃梨は踏み込んでいって、やがてすべての感情を今は脇に置いて忘れておこうとするみたいに首を振った。命令されたロボットみたいな動きでキャビネットを開き、迷いなく引き出しの一つを開いて中を覗く。
「貴重品を入れたポーチがない」
顔を上げ、
「紺とピンクのストライプの、平べったいポーチ。通帳とか印鑑とか、保険証、パスポートなんかをあの子、ここにいつもしまってた。火事になったらこれだけ掴んで逃げるんだ、って言ってた。なくなってる」
決然と、キャビネットを閉じる。大股で歩いて、曇りガラスの引き戸を開いて北側の寝室に踏み込む。枕の上までカバーを引き上げ、皺一つなくメイクされたベッドが目に入る。デスクには閉じられたノートパソコンが置いたままになっていた。ごちゃごちゃいつも絡まって、竜児を興奮させていたコードやケーブルはすべて引き抜かれ、髪を結うゴムでデスクの上にまとめてあった。
クロゼットを開き、実乃梨は一瞬だけ黙り、
「……制服は、ある」
背中を震わせた。
「タイガー、あんた、こんなふうに消えちゃうわけ……?」
寝室の戸口に立っていた亜美が独り言みたいに呆然と呟く。静まり返った広い部屋に、その声の残響が痛々しく染み渡る。
実乃梨は振り返り、竜児の顔を見上げた。しばらく大きな息をして、実乃梨の肩が上下するのを竜児はただ見つめていた。
「こ、こんな……これで、ねえ、高須くん、これで……」
答えなくては、と腹を決めた。
「これでいいの……!?」
「これでいいんだ」
「よくないでしょ!?」
「いいんだ!」
これでいいんだ! ――声の大きい方が勝つわけでもないのに、竜児は必死に声を上げた。悲鳴みたいな実乃梨の声に負けないように、そしてなにより自分の心に負けないように、力を込めてそう叫んだ。
「俺は大河がこうやって行ってしまって、これでいいって思ってる!」
「悲しくないのかよ!?」
悲しくないわけがなかった。
「悲しくない!」
悲しくてたまらなかった。
「んなわけねー!」
「櫛枝落ち着け」
身を震わせる実乃梨の肩を後ろから掴み、北村が低く言う。
「ひょっとしたら、逢坂はまだこの辺にいるかもしれない。もしかしたらまだ、間にあうかもしれない」
「そ……そうだよ。まだ近くにいるかもよ。案外普通の顔して歩いてるかも!」
北村と亜美の声に実乃梨が振り返る。竜児も振り返る。
「そっか。こんなに片付いてるってことは、ついさっきまで部屋の掃除をしてたのかもしれないよね。本当に間にあうかも……ねえ! 間にあうかもよ!? 高須くん!」
「……」
「高須くん! 行こう!」
今入ってきたばかりの廊下を実乃梨が、亜美が、北村が、玄関へ駆け出す。竜児もその後を追う。
エントランスを出て大通りを目指す。欅の並木道を走り、竜児は肺に染みる冷気に喘ぐ。
まだ間にあうかもよ――あの背中に、ふわふわ揺れる長い髪に、ひらめくワンピースの裾に、まだ間にあうとしたら。走り寄って手を伸ばし、肩を掴み、行くなと言えるのだとしたら。ずっと俺のそばにいればいいと言えるならば。
この心をいっぱいに満たす想いのままに、大河を引き止め、抱きしめられるなら。
「――北村」
離れずにいられるなら。
「川嶋」
離せないなら。
「櫛枝。……櫛枝!」
「離してよ高須くん! 行こうよ! 追いかけよう!」
「だめだ櫛枝! だめだ! これで、いいんだ!」
「なんでっ!?」
無理矢理に掴んだダウンの袖をさらに強引に引き寄せて、竜児は体重をかけて実乃梨を押さえる。めちゃくちゃに腕を振り回し、竜児の手を振りほどこうとし、実乃梨は暴れた。左手では北村の肘と亜美のマフラーの端を引っつかみ、右手の実乃梨もしかし行かせるわけにはいかなかった。全力で華奢な、しかし怖いぐらいに力のある手首を掴む。
「なんでこれでいいの!? 大河はどこに行ったかわからないんだよ!? これでいいわけないじゃんか! 大河のことが好きって言ったじゃんか! 向かうところは決まったって、高須くん、私に言ったじゃんか! 二人で生きていくんだって言ったじゃんか! それで幸せになるんだって……どうしてこうなるんだよ!? なんでよっ!?」
「大河は家出なんかしねえ! 大河は誰のことも諦めねえ! だからこれでいいんだ!」
大通りの真ん中で、行き交う人々がその大声に振り返った。それでも竜児は実乃梨の手首を離しはしなかった。行かせなかった。実乃梨の頬に涙が伝い、叩きつけられる言葉は震えてよく聞こえなくなった。それでも、これでいいのだと竜児は力を緩めはしなかった。
目を閉じて声が届くかもしれない大河に向けて叫ぶ。
「大河! 行け! 急げ! 行っちまえ!」
もしも間にあってしまうならなおさらに、もっと速く。もっと遠くへ。どこまでもどこまでも。おまえが生きる世界の果てまで。力の限り、おまえの分のすべてを掴み取りにいけ。
「行け――――――――――っ!」
涙を零すかわりに竜児は全力で声を振り絞った。
大河を呼んで震える心を蹴り飛ばし、閉じた目を開いた。
仰いだ空は遠く、眩しい。
これでいいのだ。本当に。
大河の姿はすでにどこにもなく、とっくに消え去ってしまっていた。これでいいのだ。
眼鏡を外し、北村は立ったままで顔を覆った。歪んだ口元から隠しきれない低い嗚咽が漏れた。それを横目で見て、亜美は唇を噛んだ。頬も鼻も喉も真っ赤に染まり、長い睫毛の下から透き通った涙の粒が顎まで零れ落ちた。
実乃梨はとうとう力を失って、歩道の只中にしゃがみこんだ。
「……つまり……置いていかれたのか? 私は、大河に」
「違う」
その背に、友の背に、竜児は必死に言葉をかけた。
「それは、絶対違う。大河は諦めたりしない。そんなにやわな女じゃない。絶対、あいつは帰ってくる。あいつが帰る場所には、絶対おまえだっていなくちゃだめだ!」
「どんなふうに言ったって……でも、悲しいよ。ここに大河がいないのが悲しい。私のこの悲しみは、どこにもってったらいいのかな? 高須くんの悲しみはどこにいったの?」
実乃梨の悲しみを否定することはできなかった。どんなにいらないと思っても、湧き出る端から叩き潰してしまえと思っても、それでもやっぱり今は悲しい。
しかし、竜児はここから目を逸らさずに踏みとどまった。悲しみごと、じゃあ受け入れようとさえ思った。
「悲しくても、いいんだ」
分かたれて悲しい――それが今の、自分と大河の関係だ。
でも、心は愛に満たされている。
悲しいけれど大丈夫。
竜児は一つ一つ、手繰り寄せるように思い返す。
桜の季節が終わる頃、メチャクチャだった大河と出会った。騒々しい八方破れの日々が、そこから始まった。やがてどうしようもなく惹かれあって、いつしか恋に転がり落ちた。無様に転げて、死ぬかと思った。どうにかこうにか起き上がって、やっと心は重なりあった。そうして今、高須竜児は、逢坂大河を、愛している。
こんなにも愛している限り、二人を繋ぐ絆は決して断たれはしないと思う。繋ごうと思う限り、大丈夫なのだと自分自身を信じる。いずれこの愛は声になって溢れ出すだろう。堪えきれない呼び声となって、お互いの名を叫びあうだろう。肉体も、心も、魂も、引き寄せる力に抗えずに、やがて世界のどこかで二人は必ずぶつかりあうだろう。
そうしたら、その後はまるで帰り道を見つけたみたいに、竜児と大河は同じところを目指して生きていくのだ。大河と一緒に生きていけるなら、ともに歩めるのなら、その先に果てなんてなくてもいい。ずっと続いていっていい。永遠でさえいいと竜児は思った。そこにはただ、愛がある。
帰り道へ続く長い旅路は、だからこんなにも喜びに満たされているのだ。どんなに痛々しい道程を経ようとも、そのすべてが嬉しいから、足を止めずに前を向いて進んでゆける。
そんなふうに自分が渡ってきた日々を、今立っているこの日を、これから渡り行く日々を、竜児は丸ごと愛する。大河は大河の分を、丸ごと愛するだろう。泰子は泰子の分を、実乃梨は実乃梨の分を、亜美は亜美の分を、北村は北村の分を、みんなそれぞれにみんなの分を、力の限り愛することができるのだろう。
絶対にまた出会える――それぞれ違う身体で生きてきた竜児の世界と大河の世界は、いつかぴったりと強く、重なりあう。だってこんなにも引かれている。呼びあっている。こんなにも強く望んでいる。
決して諦めることなく、まっすぐに。
「……タイガーは、あたしにも、また会いたいって思うかな……?」
涙を零しながら小さく呟く亜美の声は、今にも消え入りそうだった。竜児はその声を呼び戻すみたいに強く答える。
「おまえが、ちゃんと会いたいと思え。大河が必要としているかじゃなくて、おまえが、必要としているなら、それをちゃんと伝えろ。行動で示せ。おまえの思うことは、おまえにしか現実にできねえんだから。……川嶋自身のために、川嶋が頑張ってやれ!」
「あたしは、」
歪んだ泣き顔に、さらにボロボロと涙が伝った。
「あたしはタイガーにまた会いたいっ! あたしはタイガーが帰ってくるとき、ちゃんとここにいたいっ! あたしは、実乃梨ちゃんともっと仲良くしたいっ! あたしは高須くんとも、ちゃんと仲直りしたいっ! ……絶交なんてやだよ! ずっと友達でいたい! みんなと一緒が楽しい、みんなと一緒がいいよ、あたしは、みんなが好きだよ……!」
「お、俺は!?」
「祐作はどうでもいい!」
「あーみん……っ!」
飛びつくみたいに、実乃梨は立ち上がった。亜美の頭を掴み寄せた。びどりぢゃん! と声を上げて泣きながら、亜美の腕も実乃梨の背中を抱え込んだ。肩に顔を埋めあい、プライドの高さなら多分お互い負けない二人が、今この一時だけは体重を預けあう。いなくなってしまった友達を想って、人目も憚《はばか》らずに泣き声を上げる。
北村も、幼馴染と部を預けた戦友の心を正しくわかってその輪に加わる。外周から友人みんなの肩をさらに包んで、竜児も顔を伏せる。四人で身を寄せあい、肩を掴みあい、歩道の真ん中で立ち止まってガキ丸出しに泣き続ける。
でもこんなふうに傷ついた身体を暖めあえるなら、みんな別々の身体で生まれてきてよかった。そんなことを竜児は思っていた。別々に生まれてきて、離れ離れのまま育って、出会い、恋をしたり、ケンカしたり、……そしてこうして泣き顔を埋めあう「今」を、なにより稀な奇跡に思える。
悲しみに心ごと押し流されそうなここにいてさえ、今あるすべてが、世界に存在するすべてが、竜児には愛しくてたまらない。叫んでも叫んでも、湧きあがる愛には追いつかない。
先に行った大河の旅路にも、愛が溢れていると信じていた。ただ、愛のすべてが報われるとは限らない。裏切られ、傷ついて、また心折れる日が来るのかもしれない。
でも、行くのだ。みんな行くのだ。それぞれの道を生きていく。
どんなに離れても、どんなに遠い旅路でも、竜児は大河に、大河は竜児に、必ず再び辿り着くから大丈夫。目指す場所は、同じところだ。
――果てしない空を舞って、竜児が雲の下に見た世界は美しかった。あらゆる生き物の鮮やかな、時に残酷な色彩の中で、タフな獣が時の土埃を蹴上げて前へ前へ進む。四肢が撓《たわ》むほどのエネルギーで、彼女は誇り高く己の生きる地上を駆けてゆく。
私は虎。
俺は竜。
ただの命になって、呼ぶ。応える。どこまでも、どこまでも、咆哮は響き渡る。
やがて竜の舞う空の雲も途切れ、虎吼える大地へ、声を隔てるものなどない。
***
誰がどう高須くんを責めたって、先生は絶対に高須くんを守るからね。高須くんがしたことを、ちゃんと理解しているからね――
「わあ、できたできた! パチパチパチ!」
「……」
「きっちり十枚、確かに受け取りました。見てこのファイル、分厚くなりましたね〜! これは卒業するときに渡してあげるからね。親御さんに……え。ど、どうしてそんな恨みがましい目で先生を見るのですか……」
恨んでいるわけではなかった。
「は。もしかして具合悪いの?」
具合が悪いわけでもなかった。
「……いや。なんだかんだで結構大変だったな、って……」
ただ少し疲れただけだ。
守るからね、と言い切ったわりに、独身担任恋ヶ窪ゆり(30)が手にしているファイルの厚みは本当に、ものすごく分厚かった。テプラでその背に張られたタイトルは、『2‐C高須竜児・反省文』である。
「そりゃそうです。読む方も大変だったんですよ。毎週末の十枚反省文が結局何回だ、これで六回分でしょ。それから月曜水曜金曜の反省清掃の報告作文が……これを高須くんは書きすぎたんです。一枚分でいいって言ってるのに勝手に五枚も六枚も書くんだもの。毎回」
「それについては、筆がのりにのって仕方なかったんです」
――あんなに大々的なエスケープをかまして停学処分にもならずに済んだのは、恋ヶ窪ゆりが校長教頭学年主任に必死に噛みついてくれたおかげだった。それは推測ではなく、校長室で竜児は校長から直々にその話を聞かされた。そして処分の代わりに課せられたのが、毎週末に説教部屋で一人、作文用紙に十枚の反省文を書くこと。週に三回、一人で教員用トイレを清掃すること。
ちゃんときっちりそれらをこなしつつ、先日の期末テストでは今までで一番良い結果を出せた。得意の数学では北村も抜いてついに学年トップ、総合順位でも前回テストから十人以上を抜き去って、一桁の前半に食い込むことができた。それで恋ヶ窪ゆりの面目は保たれた、と竜児は勝手に思っていたが。
「高須くんの反省清掃、実は他の先生方にはとっても評判悪かったんですよね……奴は何時間掃除し続ける気なのか、って、よく訊かれました。しかも報告作文には事細かに髪の毛が何本落ちてた、ゴミ箱にジュースの空き缶が入っていた、あれが汚い、それがだらしない、犯人は恐らくなんとか先生……ずらずらずら〜っと姑ばりの鬼チェック……みんな戦々恐々とトイレに向かったものです」
「先生に姑なんかいたことないじゃないですか」
「……うん。想像だけでモノを言ったの。イメージ論……空中楼閣……」
ふふふ、と哀しげに笑ってみせつつ、恋ヶ窪は竜児の反省文をまとめてファイルに挟み込む。この後きっちり読み込んで、赤ペンで「それはどうかな?」「もっとよく考えてみよう!」「確かにその通りですね」等々、ずらずらとコメントを書き込んでいくまでが担任の仕事だ。それは一旦竜児に戻され、さらに竜児がコメントに対するコメントを書き、ファイルに収納されることになる。
今週の土曜日は午前中授業だった。その、放課後。
恋ヶ窪は受け取った反省文をペラペラと指先でめくり、二人きりの説教部屋にしばしの沈黙が満ちる。外のグラウンドから、遠く体育会系女子たちの声が響く。ソフトボール部なのだろうか、荒っぽい、ドスの効いた声は、すえ〜ご〜ずえ〜! どぅら! うぉいっ! としか竜児には聞こえない。あれはなんと言ってるんだ? と一度実乃梨に訊いたことがあるが、そのときの返事は、「すえーごーずえ〜! どぅら! うぉいっ! ……って言ってるんだよ」であった。この世界はいまだ謎に満ちている。
この週が明ければ、三学期の終業式だ。
「さあ、ここでこうやって反省文書くのも終わりだ。高須くん。お疲れ様でしたね」
「……いえ。自分が悪いんでしょうがないです。先生こそ、お疲れ様でした。ご迷惑おかけしました。本当に、すいませんでした」
「うん。大丈夫ですよ」
大河がいないまま、高校二年生の日々も終わる。
「先生」
ん? と先に席を立っていた恋ヶ窪が振り返る。その顔の前に、竜児は一枚のプリントを差し出した。ずっと二つ折りにしたまま持ち歩いていたせいで線がつき、ケバが立ってしまったようになり、へろへろと掴んだ部分から折れ曲がってしまう。
開いて中を見られる前に言うべきことを言っておく。
「前に一度ここで書いたのを提出したんですが、あれは無しにしてください。すいません、すごく今更ですけど、真面目に書きました。……お先に失礼します!」
渡されたプリントに恋ヶ窪が目を落とした一瞬の隙をつき、竜児は素早く立ち上がった。ドアを開いて廊下に出て、
「え。……え!? ……えええ〜〜〜〜〜!?」
「それ本気ですから。俺」
後を追ってドアから出てきた担任を振り返り、後ろ歩きしながらビシッ! と指さししてみせる。本当に、本気なのだ。前を向き、大股で弾むように前進しつつ、竜児は今度は首だけで振り返って担任の困惑顔を見る。なんちゅうツラ、と笑い出してしまう。
「本気なのはいいんだけどさあ! 進路調査票は、こういうことを表明するためのものじゃないんですよ! もっとこう、キラキラとした、明るい展望はないの!?」
「俺の展望はキラキラしてるし、明るいです。ていうか、『みんな』の中には先生もメンバー入りしてるんで!」
「え〜〜〜〜〜……あ、ありがとう……一応……」
微妙な表情で呟いた後、「……ふはは〜!」と結局は笑い出してしまう声を聞きながら竜児は階段を軽やかに下りていく。その背を見送りながら、確かに君の未来は明るいかもね、だって、とちょっと口を緩ませかけて、しかし大人の顔に戻って担任の先生は言葉を納める。キラキラと明るい、竜児が決めた竜児の未来はただ一言。――みんな幸せ!
本当にびっくりマークまでつけて、竜児はそれを書き、提出したのだった。
鞄を置いたままの教室に向かいながら、もちろん恋ヶ窪が「え〜!」と叫んだ気持ちも理解している。でも実際のところ、いまだ例えばなんとか大学に進学してなんとかを専攻したいだとか、なんとかいう職業につきたいだとか、そういう具体的に担任が知っておきたいであろう進路は決めかねていた。
しかし、あと一年あるのだし、いいじゃんか。と。
甘いだろうか。のんきが過ぎるだろうか。みんなに置いていかれるだろうか。でも、世界の広さをようやく理解し始めたところなのだ。ここをどうやって渡っていくかは、いまだ竜児には決められなかった。決められないのは金銭の問題ではなく泰子の言葉に縛られているせいでもない。泰子が両親と和解したことが影響しているのでもない。選択肢が少ないからでも、どれも選びたくないからでもない。竜児自身が、まだキョロキョロと慎重に、辺りを見回しているところだからだ。他の連中より随分のんびりと、やっと歩き出したところだから。
今日より先に続く未来は、あまりに広く、遠く、大きく、恐ろしくもあり、でもキラキラと光り、どこまでも明るくて――考えることが楽しかった。どのようにでもできると思えた。決めた望みには手が届くと信じられた。
こんな心でいられるならば、世間を渡るための武器と装備になにを選択したって、自分は大丈夫だと思えた。
それに決めて、始めてしまったら、ただやり抜くだけだ。だからもう少しだけ、子供のままでいたかった。迷うことが許されるのもあと少しだけだろう。これが人生最後の迷える日々になるだろう。だからせいぜい、楽しく迷おうと竜児は思う。
人生で今、この時限りの、贅沢な半端さを楽しんでやろう。
「へいへいおつ〜! おなか減ったよ〜メシ行こうぜ〜!」
「ほんとにアレ、出したわけ!? 『みんな幸せ!』」
教室では春田と能登が菓子の袋に手を突っ込みながら竜児が戻るのを待っていた。出した出した、と頷きながら、竜児もポテトチップを掴んで口に放り込む。
「マジで出したのかよ〜さすがだな〜! ゆりちゃんなんて?」
「え〜〜〜〜〜! って言ってた」
んはは! と能登が笑う。まだ残っていた何人かの連中が他のことでほぼ同時に笑って、教室が笑い声に満たされる。
「まあ、え〜〜〜ってなるっしょ、普通。こんだけ成績良いのにそれだもんな」
「それが高っちゃんのいいとこだよ! 俺はでも、食べ物屋やってほしいけどね〜」
「あっ、それ俺も俺も。んで、俺たちみんなの溜まり場になるの」
「なんかそれ儲け少なそうだな……ていうか昼、なに食いにいく? 北村はまだか?」
例の如く生徒会室かと竜児は廊下の方へ目をやるが、
『あ。あ。あ。ただいま生徒会がマイクテスト中。あー。んあー……ちょっと! 押さないでくれるかそこの放送には無関係の君!』
突然スピーカーから生放送で流れてきた当の北村の声にコケそうになる。
「なんか、来年度からのお昼の放送の枠を巡って演劇部と抗争になってるらしいよ。放送部が中立の立場で、これから冷静に話し合いをするとか言ってたけど」
能登はそう説明してくれるが、
『……う! うお! 譲るか……譲るものかあ!』
『きゃー! 離せよバカ!』
『あああ倒れる倒れる、やめてちょっとそこ機材があ!』
「冷静に話し合い……? すげえぞちょっと……大丈夫かよ?」
ドス、ゴト、と聞こえる騒々しい音は乱闘の気配。
『ええいそれをこっちに……よこ……とー! おっしゃ、取った! ら、来年度も、月、水、金のお昼は、失恋大明神がお送りいたします、あなたの恋の応援団を、ズバリ! 皆様お楽しみにー! くっ……譲らんぞ絶対に! 音楽! 早くなんか音楽かけちゃえ! お聴きください……っと!? だあ!』
なにかが倒れるような音に続いて、ブツッ! と一旦放送が途切れた。えええ……と竜児たちは思わずスピーカーの方を見上げるが、
「あ〜! なんかこの曲、CMで聴いたことあるかも!」
フンフンフン、と春田が頭を振ってリズムを取り出す。恐らくは演劇部の言論を封殺するために流れ始めた音楽は竜児にもすこし聴き覚えがあった。春田と顔を見合わせて一緒にちょっと首を振ると、
「……久しぶりにカラオケ行きたいねえ……」
能登がナイスな提案。
「いいね〜! 行こっか、今日これから!」
「行こう行こう。駅裏の『おれのこえ』か?」
「一択っしょ! 大先生にはメールしといて、後から来させるべ」
さっそく能登は鞄を担ぎながら携帯を取り出し、親指で素早くポチポチと、「……みんなで行くからはよこいや! っと」北村にメールを送信する。竜児も春田と並んで教室を出つつ、首にマフラーを巻こうとし、
「今日って外すげ〜あったかいよ〜高っちゃん。それ、いらないんじゃね? 俺も暑くてパ〜カ〜脱いでバッグに入れたもん」
「そうか。……なんだよ。もう春か」
窓の外に、目を向けた。校門まで続く桜並木が、言われてみれば淡いピンクにけぶるようだ。開花はまだしていなくても、膨らんだ蕾が色づいているのだ。
「そ〜なのです。俺の、春田浩次のシ〜ズンが今年もやってまいりました! ご覧の通り俺の花、チェリ〜ブロッケンJrもすっかり色づいて、ベルリンにピンクの雨が、」
「チェリーブロッサムでしょ……?」
「おわ〜、出会い頭に亜美ちゃん様ご一行だ〜フヒヒ! おトイレ行ってきたのですか?」
こわ! こわ! こわ!
と、女子トイレから出てきて春田に的確なつっこみを入れてやった亜美、麻耶、奈々子が同じポーズで自らの肩を抱き、顔を見合わせる。
「なんだおまえら、まだ学校にいたのかよ?」
ていうかすげえなそれ、と竜児が指差すのは、三人お揃いでクルクルに巻いたロングヘアだ。帰りのホームルームまではみんなこんなではなかったはずだが。
「みんなで今、巻き髪の練習してたんだも〜ん(ハート)」
胸の辺りでくるりんと巻いた髪をそっと指先でときながら、亜美は唇をハート型に愛らしく開いてご機嫌、竜児の目の前で長い睫毛をぱたぱたさせてみせる。
「で、どうどう? ご感想は? ふっふーん、このつやっつやのくるふわカール、亜美ちゃんってばこわいぐらい似合っちゃってな〜い? もはややばくな〜い? この爆発力、この底力、決定力! ど〜よ! 自分で自分が怖くって、キャ〜! 事件よね〜!」
「なに調子こいてんだ。つーかそういうことトイレでする輩がいるから洗面台に髪が落ちるんだよな。ちゃんと拾ったか? そのくるふわカールの抜け毛をよ」
「……あんたもう帰んな!」
けっ! と顔を歪めながら「しつしっ」と手を振る亜美がおもしろかったのか、麻耶と奈々子がくねくねしながら笑いあう。その奈々子の髪を見て、
「俺的には、香椎様ぐらいの巻き具合がかわい〜と思うな〜」
「そうかな? ありがと。実はこれってちょっと失敗だったんだけど」
「ん〜ん、あんまクリクリ巻いてなくて、ふわ〜っとしてて、いいじゃん」
褒めた春田の言葉にふっくらとした唇を柔らかくほどき、奈々子は意味ありげに視線を能登に送る。
「ね、能登くんは、どれぐらいの巻き髪がかわいいと思う? これぐらいふわっとしちゃってるのか、亜美ちゃんみたいに華やかにバックに巻いてあるのか、それとも麻耶の髪みたいに、毛先だけくるんと巻いてるの。どんなのが好き?」
「え!? 俺ですか!? 髪!? 俺は、俺は――か、」
急に話を振られて能登は、2‐C公式美少女トリオの顔をついつい端から眺めていって、
「――カラオケ、行かない!?」
最後にぐりっと方向転換。女子トイレのドアに向かって言う。
「今から俺たちちょうど行くところで……や、もしヒマだったら的なあれだけど、もし行くとこあんならあれだけど、もしあれならさ、ほら、カラオケ屋の向かいのモスで食う物買ってさ、ドリンクはフリーだし、まあ別にいいんだけど、あれならあれでさ、でもまああれだよ」
ほんのちょっとだけ振り向き、誰にともなく、
「北村も来るし」
小さな声でそれも言う。が、
「ぐうぜーん!」
そんな声などかき消すみたいな明るさで言ったのは麻耶だった。
「今ちょうどあたしらも行きたいって言ってたんだよ! そしたらみんなで行こー! こいつら一緒でいいよね、亜美ちゃん、奈々子」
「もちろん! みんな一緒の方がたのしいもんね、亜美ちゃん」
「あ〜ん、ついに亜美ちゃんの美声が野郎どもにもバレちゃうか〜」
ぞろぞろと連れ立って廊下を歩き、下駄箱で靴を履き替える。女子たちが先に行き、能登はなにやらぐたぐたと「やっぱ北村目当て? そうなの?」……俺に訊かれてもわかるかい、と竜児は苦笑しながらその頭を春田の方にさりげなく押しやる。
いまだ花開かない桜の下を、騒々しい一団になって進む。亜美がグラウンドの方に目をやり、ナイスタイミング、と不意に駆け出した。ネットのフェンスに近づいて、
「お〜〜〜い! 実乃梨ちゃん!」
「ん? なんじゃいあーみん! っつかあれあれみんな揃っちゃって、今帰り?」
外周をランニングしていた実乃梨を手招きする。土埃に汚れたソフト部のユニフォーム姿で指にはテーピング、しかしキャップを外せばいつもどおりの笑顔で「よー!」と実乃梨は竜児にも手を振ってくれた。おう! と竜児も手を振り返す。
「あんた、すげえかっこ……まだ部活あんの? 今日バイト?」
「もうこれで終わり、バイトはなーし!」
「マジで? 今からあたしらカラオケ行くんだ。あんたも着替えたらおいでよ」
「カーラーオーケー! うおお超久しぶりなんだけど! 行く行く! 聴かすぜ〜、今日は個人的にアニソンで緊縛するわ!」
「はいはいはいはいわかったからとにかく早くね!」
「オッケー! ちょーいそ!」
ちょーいそ……? ちょーいそぐってこと……? 奈々子と麻耶が首を捻りあっていると、ちょうどよくメールを見たらしい北村が玄関前の階段を駆け下りてくるのが見えた。
お――――――――――い! と、竜児は思い切り手を振った。早く来い、と親友に。同じぐらいの勢いで手を振り返しつつ、北村は眼鏡を揺らして笑顔で走ってくる。女子たちは少し先を歩いていて、実乃梨は素早く今日の部活を終結させるべく、集合! 集合せい皆の衆! と戦国武将みたいなノリで集合をかけている。能登と春田は竜児と一緒に足を止め、北村が走ってくるのを少し待ってやっている。
みんなが、ここにいる。
あとはおまえだけだぞ、と竜児は密かに胸の内に語りかける。
みんないるから、早く来い。
俺のところに早く来い。
大河。
おまえに会いたいよ。
***
――この世界の誰一人、見たことがないものがある。
「……おう、おう、おう……」
「イッ! イッ、イッ、イィィッ……イッ……イィ〜ンッ!」
「うまいか、そうかそうか……かわいいなあ本当に……おうコラコラ、やめろよインコちゃんくすぐったいぞ」
「リィンッ!」
朝の光の中で、顔面奇岩鳥が手の皮を食っていた。高須竜児は嘴《くちばし》で剥《む》かれ、食われゆく己の親指爪まわりの皮膚を眺めつつ、「オブ、ジョイ、」
「トォイッ!」
「グレイトだ……!」
うっとりと両目を瞬かせた。手首に乗ったブサイクインコの頭をもう片手の指先でちょんちょん撫でてやる。気持ち良いのだろうか、インコちゃんは白濁した涎をドロォ……と垂らし、白目を剥いて打ち震える。ん、ん、よち、よち、よち、とその頭部に思わずキッス。本当ならいっそこのまま口に頬張ってやりたいほど、竜児にとってはかわいいペットなのだ。さすがにそこまでやっては人間失格だろうから、朝のコミュニケーションはこれぐらいにして鳥カゴにそっと戻してやる。
さて、と時計を見ると、七時四十五分。
「……やべ!」
時が経つのはなんと早いのだろう、まだ七時半ぐらいのつもりでいたのだ。高校三年生の始業式から遅刻するわけにはいかない。
「つーか、頭!」
洗面所に飛び込み、鏡を見て「ひー!」と我ながらショックで仰け反る。こんな日に限って、こんな寝癖か。ベレー帽か、いっそヅラでも乗っけたかのように、こんもりと思いっきり後頭部が膨らんでしまっている。必死にブラシで梳《と》かし、濡らした指で水をつけ、
「だだだだめだ……!」
ソックスの足で居間へ戻る。ラックから泰子のヘアセットの道具をしまった小さなカゴを引っ張り出し、寝癖直しになりそうなスプレーかフォームかクリームか、いやもうなんでもいい、どうにかできるものを探す。
「なにか探してるぅ?」
「頭! 寝癖直し! こんなんじゃ出られねえ!」
「あ〜それぇ! 今竜ちゃんが持ってるの、それ寝癖直しのウォーターだよぉ! 貸してごらん、やっちゃんがやってあげる〜」
すでに起きて着替え、竜児とともに朝食も食べた泰子が、背後に回ってスプレーを何度か頭にかけてくれた。濡れた髪を何度か梳き下ろし、強く押さえ、竜児は不安げにもう一度時計を見る。
「やばいやばいやばい……遅刻するかも、マジで。おまえは? 何時に出るんだ?」
「やっちゃんはまだ平気〜十時までにお店に行けばいいからさ〜。はい、あとはドライヤーで濡らしたところ、乾かすんだよ」
返事もそこそこに、竜児は再び洗面所に向かう。ドライヤーをあせって引き出し、磨き抜かれた洗面台に落ちたコンセントが音を立てた。大丈夫ぅ? とこちらを覗き込んでくる泰子は、限界まで傷んでしまっていた髪をばっさり顎のあたりで切って以来、一層園子にそっくりになった気がする。しかし本人的には気に入らないらしく、また伸ばす、と事あるごとに宣言している。
あの日以来、園子は三度この借家に来て、清児は一度来て、竜児と泰子は一度実家の高須家へ行った。感動の再会の後にゆるゆると始まった日常は、やはり少しシビアではあった。長い時間離れすぎていた両親と元家出娘は、時にぶつかりあうこともあった。ただ、泰子が三月末で毘沙門天国を退職したのは別に両親の目を気にしてではない。オーナーの意向により、ナンバー2の静代が新たなママとして就任し、泰子は新たにオープンする別店舗を任されることになったのだ。
その名も、『お好み焼き・弁財天国《べんざいてんごく》』。今日はこれから、新人店員の面接があるという。
「できたぁ?」
「……諦めた!」
それこそインコの頭のようになって決まらない髪を押さえ、竜児は鏡の中の己のツラを睨んだ。今日からついに高校三年生。キリッ、と眉間を引き締めてみて、これでいいのだと開き直る。やるべきことはやった。遅刻するよりはマシだ。
カーテンを閉めたままの自室に飛び込み、クリーニング店のビニール袋を破る。くるくるまとめてゴミ箱に押し込む。プレスの効いた学ランを羽織る。
カーテンの向こうに建つマンションの寝室には、今では知らない若夫婦が引っ越してきていた。お見合いになってしまうのを向こうも嫌ってブラインドはいつも締め切り、竜児もカーテンを開くことはあまりない。別にいいのだ。どうせカーテンを開いたところで太陽の光が差し込むわけでもないのだし。
携帯を掴み、サブバッグを肩にかけ、部屋から飛び出す。
「行ってくる!」
「行ってらっしゃ〜〜〜〜い! 大丈夫、決まってるよ〜〜〜〜〜〜〜! 竜ちゃん最高っ! この世で一番かっこいい〜〜〜〜〜〜〜!」
「……」
これが世に言う贔屓の引き倒しである。
母の身内びいきに早くもガクッ、とコケたくなりつつピカピカ輝くローファーに足を入れ、冷たいドアノブを握り、玄関ドアを大きく開いた。
瞬間、春の眩《まばゆ》い陽射しが、竜児の全身にまっすぐ降り注ぐ。
目も開けられないほどの光のシャワー。花の香りを底に秘めた暖かな春風。真っ青な空の下で、胸いっぱいに酸素を吸う。
靴を鳴らして階段を駆け下り、「おはようございまーす!」「わー! 急に声をかけるんじゃないよ!」……箒《ほうき》で表を掃いていた大家を心臓発作で殺しかける。
また、新しい日々がここから始まる。
新しい学年。新しいクラス。新しい担任。新しい友達。この新しい朝から、また一歩ずつ、歩いていく。足にはパワーがみなぎっていて、
「大河」
大きく踏み出し、胸を張った。
「おまえは、どんなふうに歩き出す?」
俺は堂々と、前を向いているよ。おまえの方を向いているのだと、この道はおまえと再び出会うための旅路だと、俺は信じることができているよ。
だからおまえも――
「うぐっ!?」
「ったあ!」
――この世界の誰一人、見たことがないものが、あった。
それは優しくて、とても甘い。
多分、見ることができたなら、誰もがそれを欲しがるはずだ。だからこそ、誰もそれを見たことがなかった。
そう簡単には手に入れられないように、世界はそれを隠したのだ。
だけどいつかは、誰かが見つける。手に入れるべきたった一人が、ちゃんとそれを見つけられる。
目をちゃんと見開いていれば、竜児にだって見つけられる。ちゃんと前を向いていれば、大丈夫。
大河にだって、見つけられる。
そういうふうになっている。
「……いっ……てぇぇぇ……! ……ぬ、」
ぬなななな! と震える舌は痺れてもつれた。
なんで、とようやく日本語を発するが、肩にかけたサブバッグが地面に落ちてしまったのにはしばらく気づくことができなかった。
驚愕は真っ白な、強すぎる光みたいに竜児の視界にハレーションを起こし、すべての感覚を一瞬にして奪い去った。
「……なんで!? いつここに!? ……どうやって帰ってきたんだよ!?」
顎を押さえた竜児の目の前で、しかし大河はそれどころではなかった。妙に新しい、でも今までと同じ制服のスカートで尻餅をつき、出会い頭に思いっきりブチ当ててしまった頭を抱えて呻いて立ち上がれないでいる。
「お、おい、ちょっと……大丈夫かよ?」
「……なんか、ちょっとクラクラ……て、い、う、か……!」
ギラリ、と小さな両手の向こうで見開かれた両目に殺意がこもるのを竜児は見た。手乗りサイズでも虎は虎。猛烈な勢いで飛び掛かるみたいに身を伸ばし、
「朝っぱらからずっっっとここで待ってたのに遅いのよあんたは! 遅刻しちゃうじゃん! しかも全然私に気づいてないし! あまつさえぶつかってくるし! どうしてこう――」
迷いなく全体重でしがみついてきた細い身体を、全力で抱き止める。
「――初めから、抱き締めてくれないわけ!?」
この猛々しさ。この力の強さ。この小ささ。この重み。このエネルギー。この、愛しさ。これが大河だ。
「申し訳、ない」
大河はいつだって突然だ。
突然現れて、突然竜児をぶっ飛ばし、突然ハートのすべてを奪い去る。いつだってそうだった。最初からそうだった。ちゃんと、こうなることはわかっていたのだ。抱き締めあって、お互い大きく息を吸う。力いっぱい、声を上げる。おかえり。おかえり。ただいま。ただいま。ちゃんと帰ってこられたことがただ嬉しくて、二人の世界が喜びに照らされる。
溢れ出る愛の全部を注いで、向かいあった存在を、開いたその目で見詰めあう。涙がお互い少しだけ出て、これまでの寂しさを伝えあい、それでも笑顔、笑顔、笑顔。
「大河だ。大河だ、大河だ、本物だ。……大河だ!」
「竜児だね。本物の竜児。大好きな、私の竜児」
「……どうして帰ってこられたんだよ!?」
「あのね。ママは、退学届けを次の日には撤回して、休学届けにしておいてくれたの。私が学校に戻れるようにしてくれてた。でもすぐにそれが許可されたわけじゃなかったし、混乱させたらいけないからって黙ってたみたい。私もついこないだまでそんなこと知らずにいたんだ」
「家は!? どこに住んでるんだ!? ていうかおまえ……もう! もう、なんだよ!? 今までどこにいたんだよ!? 連絡もしねえで!」
「さすがにそこには、」
大河は濡れた瞳をちょっと上げ、傍らに建つ白いマンションを見て喉の奥で笑って続ける。
「戻ってこられなかった。でも、近くにいるんだよ。すぐそこ。来てよみんなで! 本当にすぐそこなんだから!」
「……行くよ、絶対に」
「ママと、新しいお父さんと、それから――弟がいるんだ! かっわいいの! 私のために、この近くに家を借りてくれたんだよ! ていっても、ママが仕事の間、弟の世話を手伝うからって条件でだけどね。それに、きっと卒業する頃にはすぐに引越しだけどね。でしょ?」
「だよな」
「だよね」
果てしなく広がる未来の途中に、大河と結婚して、二人で暮らすという夢の形を竜児は描く。きっと大河も同じ夢を胸の中に描いている。そこにはみんながいる。そういう未来に向かっているから、竜児も大河もこんなにも嬉しそうに、幸せそうに、目を細い線にしてしまって笑うことができる。
「私が学校に行ったらみんな驚くね。誰にもまだ言ってないんだ。みのりんにもばかちーにも北村くんにも」
「驚かせてやろうぜ。――行こう! 本気で遅刻だこのままじゃ!」
「うん!」
取り落としたバッグを軽やかに掴み、身を翻して、いつもの欅並木の歩道へと二人は駆け出した。どちらからともなく手を繋ぎ、顔を見合わせてまた笑う。
新しい日々が、また、ここから始まる。
おわり
あとがき
『トゥモロー・ネバー・ダイ』の話を……007の件なんですが、その話をしようとしていて、ずーっと「『デイ・アフター・トゥモロー』がさぁ!」と一人騒いでいた私……。話し相手に、それは違う映画じゃない? とそっとたしなめられて、恥のあまり全身から閃光が迸《ほとばし》り、そのザマを哀れに思った神々によって天に召し上げられ、夜空を彩る星座の一つになったといいます。まあ、そこまではままあることで、輝く星々となった私も「日本語って難しい!」などとおどけてみせてその場は収まったのですが、今考えてみると日本語じゃねえや……。両手で顔を覆い、押し寄せる恥の記憶に耐え切れず「わあぁー!」と喚いているみじめなメスの星座を見つけたら手を振って下さい、それが私です。竹宮ゆゆこです。ぎらっ……!
そしてふと気づけば、『とらドラ!』を書き始めて、丸三年が経っていました。プロットを作って、原稿を書いて、ちょっと休んで、ゲラを見て、プロットを作って、原稿を書いて……の繰り返しで三年。ずっと、それだけをやっていました。締め切りに追われ続けていたせいか振り返ればあっという間で、自分としては、せいぜい季節を一巡りしたかな? ぐらいの感覚です。作中時間の春夏秋冬で生きていたのかもしれません。もちろん、現実の時は残酷に過ぎ行き、肉体はきっちり三年分老いています。
どうにかこうにか、三年をかけて一年間を書き終え、『とらドラ!』も十巻まで巻数を重ねることができました。お手にとって下さった皆様。ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました! 楽しんでいただけましたでしょうか?
短編についてはこの後いくつか予定があるのですが、本編は、この十巻で一度区切りをつけさせていただくことになりました。シリーズをここまで続けることができて、この三年間、私はずっと幸せでした。書く場所があって、読んで下さる方がいて、それがほんっとに、嬉しく、楽しかった……! 幸せだった! もっと書きたい! 理性で繕《つくろ》った諸々の事情を取っ払えば、結局それが本音です。でも、ひとまず区切りをつけるべき時だと、自分で決めました。
改めまして、『とらドラ!』を読んで下さった皆様。心より、ありがとうございました! 皆様の存在は、いつも原稿の終わりの先にあり続けました。この手を伸ばして肩を叩き、声をかけることのかわりに、原稿を書き続けました。私にとっては、『とらドラ!』を書くことが、皆様と触れ合い、繋がることができる唯一の方法でした。
できることなら、本の中から本当にニュルっと這い出してしまいたかったのです。……とか言い出したら、どうですか。怖いですか。開いたページから突如現われたる三十路の我輩。疲れ果てて目の下にはクマがあるけれど、顔の毛はモサモサです(ちょっと栄養のある、お高めのフェイスクリームを張りきって使ったら、顔毛の成長が止まらなくなってしまったのです。手にも塗っているのですが指毛もすごい。どうしたらいいのだ?)。……だめですか。なら、ヤス先生の絵柄で美少女に描かれた姿ではどうか。サラサラ銀髪ショートに金色の瞳、尖った黒い猫耳の姿ならばどうか。少年かと見紛うようなほっそりした肢体をあけすけに晒す全裸状態で、首に黒ベロアのチョーカーだけしておりますので、もしもの際は、どうぞよろしくお願いいたします。
……まあ、銀髪猫耳全裸になるのは、なかなか難しいかもしれません。銀髪と全裸までならなんとかなりそうですが、誰にとっても不幸に決まっている……。なので、また、新しい作品を書きたいと思います。どんどん書こうと思います。今まで『とらドラ!』を楽しんで下さった皆様、次の作品を無事世に出すことができましたら、チラッとでも良いので、どうかお手にとってみて下さい。そうしてもし、またページを開いていただけるとしたら、それほどに幸せなことはありません。
応援の手紙やご感想を下さった皆様。ちょっと息切れしそうな時、いただいたメッセージに救われました。何度も何度も助けを求め、そのたびに読み返しています。サイン会で実際にお会いできた皆様。生まれて初めてのことで、緊張のあまり震え上がってしまいましたが、でも、楽しいひとときでした。忘れられない思い出です。そして、『とらドラ10!』までお付き合い下さった皆様。重ね重ね、ありがとうございました! どうぞ次の作品も、よろしくお願いいたします! そしてヤス先生をはじめ、『とらドラ!』を一緒に作り上げて下さった皆様も、お疲れ様でした! 一息ついたら、すぐにまた始動する予定です!
竹宮ゆゆこ
二〇〇九年三月十日 初版発行
090316
(ハート)……白抜きのハートマーク