とらドラ9!
竹宮《たけみや》ゆゆこ
修学旅行の冬の雪山で思いがけず大河の本当の気持ちを知ってしまった竜児。大河はそのとき事故によって意識朦朧となっており、しゃべってしまったことを覚えていなかった。そんな大河を前に竜児は態度を決めかねるが……。
そして高校二年も残りわずかとなり、竜児は進路をめぐって泰子と衝突。なにかと先の見えない五里霧中の竜児に、一方では実乃梨と亜美が本当のところを見せはじめる。
超弩級ラブコメもいよいよ佳境に突入。目が離せない第9弾!
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【テキスト中に現れる記号について】
《》…ルビ
…ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
猛毒を食らった|般若《はんにゃ》
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竹宮ゆゆこ…2月24日生まれ、東京都在住。秋だー! さあ、みんな急いでさつまいもを手に入れるんだ! 手段は問わない、掘っても買ってもいい! 入手したイモは炊飯器に放り込め! 水を50CCほど適当に入れて、炊飯だ! 数十分がかるが、最高の状態で蒸かせるぞ!
イラスト ヤス…1984年8月3日生。O型。徳島県生まれ東京都在住。近所のお祭りに行ってきました。久々に露店の焼きそば食べたり。でもパサパサで味も薄くて不味かったです。
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とらドラ9!
――痛い。
声が聞こえて、耳を澄《す》ます。
しかし凄まじい吹雪が縦横無尽に吹き荒れていて、その轟音《ごうおん》に小さな声は掻き消されてしまった。白く塗り潰された世界を見回そうとして身体ごと浮きそうになる。声のした方を見ようにも、氷の切片が肌を裂くように踊り狂い、目さえまともに開けてはいられない。
――落ちちゃった……痛い。
再びかすかに聞こえた声はひどく弱々しかった。早く見つけてやらないと、と心は急《せ》くが、真正面から吹きつけてくる氷点下の暴風に、一歩、また一歩。後ろへ押し戻されていく。
真っ白な雪の中に、もっと白い指先が見えた。
細い手首が、小さな肘が、肩が見えて、雪に埋まったその顔が見えた。
必死に足を動かして前へ進もうとした。助けなければと無我夢中で、膝まで雪に埋まったスノーブーツを持ち上げた。手を伸べて、なんとかその指先を掴もうとした。
しかし、
――もうだめ。
届かず、間に合わず、最後の支えを失ったみたいに滑り落ちて、
「うわあああああ大河《たいが》あああ―――――――っっっ!」
頭を抱えて叫んだ瞬間、自分がどこかへ落ちたのかと思った。
「おう! ……びっ……、……くり、した……!」
驚いて、口元を覆った指先がものすごい勢いでブルブル震えていた。手の平全部が汗で塗れ、触れた唇が塩辛い。
夢だ。今のは束の間の悪夢。
震えていたのは指先だけではなかった。吐き出した息も声も、どこもかしこも|高須《たかす》|竜児《りゅうじ》の全身が、今も激しく震え続けていた。筋肉という筋肉が強張り、力を抜くことができず、このままでは学ランの背中からぱっくり裂けて、ヌラヌラに湿った魔王の中身が羽化してしまいそうだった。
夢でよかったが、しかしなんという――
「……だ、大丈夫? とりあえず、席に座りましょう、ね?」
促す声に顔を上げ、竜児はようやくリアルな現実感を取り戻す。教室のド真ん中にデクのように突っ立ち、ブルブル震えながら、教壇の独身(30)こと|恋ヶ窪《こいがくぼ》ゆりと対時している己の状況も理解する。他のクラスメートたちは黙って着席したままで、羽化寸前の竜児を見守ってくれている。
「す……すいません! なんというか……ね、寝惚け、て……」
大慌てで席に座りつつ、火を噴きそうな顔面を俯いて隠した。大恥であった。
一日の授業が終わり、なかなか終礼に現れない担任に痺れを切らし、机に突っ伏して目を閉じたところまでは覚えていた。そしていつしか浅い眠りに落ち、悪夢を見て、ホームルーム中に「大河《たいが》!!」と同じクラスの女の名を絶叫しながら立ち上がったのだ、自分は。
こんなことがあっていいのだろうか。
「いいんです、いいんです。うんうん、しょうがないよね」
Vネックのセーターの胸元で両手の指を組み合わせ、独身(30)は妙な穏やかさで繰り返し領いてみせる。ホームルーム中に居眠りぶっこいた生徒に向けるにはふさわしくない優しさで声を柔らかくする。
「仲良しの逢坂《あいさか》さんが雪山で迷子になったのが、トラウマになっちゃったんだよね」
他のクラスメートたちも、そんな担任の優しさに同調するように、竜児の「大河!!」をからかったりはしなかった。皆一様に「うんうん……」と目を細め、竜児が恥を噛み締めながら正気を取り戻すのを待っていてくれたのだった。
一番前の席では|北村《きたむら》|祐作《ゆうさく》が振り返り「うんうん……」、廊下側の席では|櫛枝《くしえだ》|実乃梨《みのり》が振り返り「うんうん……」、背後ではきっと春田《はるた》も能登《のと》も「うんうん……」、たった一人窓際の席の|川嶋《かわしま》|亜美《あみ》だけは知らん振りで窓の向こうを眺めていたが。
「悪夢から覚めた高須くん、そのプリントは明日忘れずに提出してくださいね」
担任の言葉に、居眠りしていた間に机の上に置かれていたプリントの存在に気がついた。進路希望調査、とお題目がついていた。
「その内容をもとに三者面談を行なって、来年度のクラス編成が行なわれますからね。皆さんも繰り返しになるけど、忘れないようにしてください。お返事はー?」
あーいだのほーいだの適当な返事が飛び交う中、竜児は深い深い溜息をつく。両手で頭を抱え込み、苦悩するエビみたいに背を丸めてプリントを見つめる。
進路もクソも、だ。トラウマもミソもない。
修学旅行を終え、すでに一週間という日々が過ぎていた。慣れないスキーによる筋肉痛もとっくに去り、思い出だけが後には残されていた。楽しいことやそうでもないこと、笑ったことや笑えなかったこと――たくさんの思い出の中でも、特に逢坂大河フォルダの容量はいらんほどにでかかった。
奴は雪の崖から転がり落ちて。
(痛い……)
吹雪の中で行方不明になって。
(落ちちゃった……痛い)
こめかみから流れ出ていた血。ぐったり仰け反った喉元の白さ。
(あ……北村くん? )
挙句の果てに、救出するために崖を下りていった竜児を北村と勘違いし、朦朧としながら奴は、大河は、言ったのだ。
(どうしたって、竜児のことが)
「あー……っ」
プリントがぐしゃぐしゃになってしまうのも構わず、竜児はそのまま頭突きするように机に突っ伏す。ゴン! と結構すごい音が響くが、みんな聞かぬフリを通してくれているようだった。
机のニオイを肺いっぱいに吸い込み、目を閉じ、息を詰める。聞いてしまった大河の声を思い出すたび、頭の中にはあの日の吹雪が蘇る。
どうしたって、竜児のことが、好きだもん――と、大河は言ったのだ。他の誰でもない、当の竜児に抱きかかえられたままで。そこにいるのが北村だと大勘違《おおかんちがい》いをして。その常人には信じがたい大勘違いを、正すことはついにできなかった。崖を上がってようやく口をきける状況になったときには、大河は他の大人たちの手によって病院に運ばれていくところだった。
だから、竜児は、それを聞いてはいない。……ということになっている。助けに崖を下りたのは北村で、大河はなにも言ってはいない、ということになっている。ただ、竜児の吹雪が舞い狂う思い出(という名の精神的外傷)の中にだけ、大河の声は封じ込められている。
それで、進路がなんだって?
一週間も前の吹雪にいまだ囚《とら》われたままでいるというのに、来年度のクラス編成がなんだという? 明日だって? 未来だって? 進路だって? 竜児は我知らず、くわっ、と猛毒を食らった般若《はんにゃ》みたいに顔を歪ませる。進路なんてそんなもん、この状況で一体どうやって考えろと――
「あのー、高須くん、終礼だよ」
「……おう……」
後ろから女子に背をつつかれ、竜児は慌てて顔を上げた。とっくにみんな立ち上がっていて、あとは北村の号令に合わせて担任に帰りの挨拶をするだけだった。イスを鳴らして竜児も立ち上がり、注目せずにいてくれるみんなに合わせて、小さく頭を下げる。
担任が教壇を下りて教室を出ていき、たちまち2ーCは放課後の喧騒に包まれた。あっちこっちで笑い声と、おしやべりの声が湧き上がる。
そしてその喧騒の中に、いまだ大河の小さな姿は戻っていないのだった。
ぽつん、と穴があいたみたいな空席を眺め、毒般若こと竜児は唇をへの字に曲げた。
大河は竜児だけを吹雪の世界に置き去りにして、雪の中に落ちていく己の幻影で竜児を捕らえて、そして現実の自分は消えてしまった――逃げた、のかもしれなかった。マンションにもいないのだ。修学旅行以来、一度も戻ってきてはいない。実の母親に連れられて帰った後に体調を崩し、そのまま東京のホテルで静養している、と独身(30)は言っていた。でもそれだって本当かどうかわからない。携帯だってずっと圏外。繋がらないのだ。
竜児はさらにむっつりと顔をしかめ、無意識に唇の端を噛み締める。きつく吊りあがった三白眼が、大河のイスを嘗《な》め回すみたいに睨みつける。心なしかイスの足が震えた気がするが、多分近くを走り抜けた誰かの足音のせいだ。
大河は、ひょっとして、すべてを思い出したのかもしれない。あんなことを言ってしまったのは現実の出来事で、しかも言った相手は北村ではなくて竜児本人だったと気がついて、そして二度と帰ってこないつもりなのかもしれない。そんなことまで、竜児は考えていた。
そうだとしたら、どうしてやろうか。イスがさらにプルプルと震える。……すぐ脇で飛び跳ねた女子のせいだ。
放課後だというのに棒立ちのまま、竜児は歩き出すことができなかった。空席から視線を引き剥がすが、頭の中に吹き荒れる吹雪はなおも止まない。
あの日の氷雪の嵐は、今もこの足を疎ませる。
現実の大河の元気な姿を一目みたら、いつもどおりのツラを見てあの声を聞いたら、そうしたらこの吹雪の世界から抜け出せるのかもしれないのに。
***
「さっぶ〜〜〜〜! ぜんっぜん、列動かね〜〜〜〜! ひょ〜〜〜〜!」
「さっき四人ぐらいまとめて出てきたのに……うー、じっとしてるから余計に寒い!」
「今何時なんだ? ……おう!」
携帯が告げる時はすでに五時、ついでにメールも着信もないのを確認してフリップを閉じ、竜児は手袋をはめた両手を火もつかんばかりの勢いで擦り合わせた。
早くも陽は落ち、脇の国道を行く車やトラックには街灯の白い光が筋のように映りこむ。
二月に入ってから寒さは本番、体感気温は氷点下の寒さだった。夕暮れの風の強さと冷たさは、吹きつけた瞬間に男子高校生たちの口を「うっ……」と一瞬|噤《つぐ》ませるるほどで、春など永遠に来ないような気がしてくる。
能登は耳あてがわりに装着した無音のヘッドフォンを両手で押さえ(かわいくない)、小さな目をさらに小さく窄《すぼ》めて震える。
「言ってもしょうがないけどやっぱ寒い! 寒ければ寒いほどラーメンは旨いだろうけど、限度ってもんがあるよね! あとどんぐらいかかるんだろ?」
「半分以上は確実に来てると思うけどな〜、ていうかうわ〜、俺たちの後ろにもすっごい列ができてる、信号の向こうまでずっとじゃ〜ん」
「こら、列外れるなよ、みんな殺気立ってるから順番飛ばされるぞ」
行列からフラフラまろび出る春田のフードを掴んで引き戻し、竜児はすぐ後ろの学生グループにちょっと頭を下げてみせる。鞄が軽くぶつかってしまったのだが、すすすすいません! とかえって激しく謝られ、こちらこそこちらこそいやいやこちらこそのループ、五秒ぐらい学生たちと野郎同士で頭の下げあいが続く。
国道沿いの歩道にずらりと並ぶ人の列は、曲がり角の向こうまで続いていた。その果てには湯気立ち上る熱々の大人気ラーメン&つけ麺が待っている。はず、だが、ありつくまでにはまだまだ先は遠く、三人の前に続く行列はあまりにも長い。これでスープ切れ、とか言われてしまったら、本気で涙がちょちよぎれるかもしれない。
竜児が能登と巻田とともに目指すその店は、有名チェーンの人気店で、数日前に学校の近所にオープンしたばかりだった。連日すごい行列ができている、とは校内の噂で知ってはいたが、さすがにここまでとは思わなかった。
「大河!!」をやらかしてしまった竜児を恐らくは気遣って、能登と春田が誘ってくれ、三人はここまでやってきたのだったが、
「なんか、かえってごめんな高須。こんなに大変なことになってるとは思わなかったよ、夕飯の買い物とかあるよね? 大丈夫? 間に合う?」
ぷるぷる震えながらの能登の言葉に「いやいや」と竜児は手を振ってみせた。
「たまには俺も行列ラーメン味わってみたいしさ。自分ひとりじゃなかなか来ねぇし。ここまで来たら絶対食って帰るしかねぇだろ」
「あ〜、俺帰りたくね〜」
えっ……と振り向いた竜児と能登を見返し、春田は鼻水を吸いながら言い直す。
「いや、ら〜めんは食いたいよ? でも家には帰りたくね〜」
「……おい、なにやらかしたんだよ。花瓶でも割ったか? 掛け軸破った?」
「おじいちゃんの盆栽割っちゃった? 犬に眉毛描いちゃった?」
「じいちゃんはすでにデッドだし犬もいないし。そ〜じゃなくて、もっと真面目な話……俺ってさ、自分で言うのもかなしいけど、アホじゃん……」
知ってる知ってる、と竜児と能登は激しく頷いてみせる。
「成績、すっごい悪いじゃん……進路のこととかさ〜、親と話さないといけないのとか、普通にすっごい気が重い……」
あのプリントか――進路希望調査。思い出し、竜児もちょっと息をつく。そんなことを考える余裕なんてなくても、考えなくてはいけないのだった。やだね〜、と顔を見合わせる春田と竜児の前で能登だけはしかし結構明るく、
「そんな深刻になるのって来年、受験の時になってからでいいんじゃないの? 今回のってクラス分けの資料ってだけだし」
鼻水を垂らしている春田のツラを見上げて尋ねる。
「そういやおまえって文系? 理系?」
「え……文系も理系もないよ……あえていうなら卒業できないかもって感じ……。前からゆりちゃんには言われてたんだけど、ここにきていよいよ本当に進級もギリギリなんだって、俺……こないだわざわざうちに電話かけてきてさ〜、そういうこと言い出してさ〜、親が超ブル〜になってさ〜。ま〜だ文系の方がマシなのかな、理系の数学はこの先やばいもんな。能登っちは完全に文系だろ」
頷く能登は、典型的な「国語だけが勉強しなくても異様にできる奴」だった。
「そう。で、どっかの文学部に進んで、出版社に潜り込んで、音楽雑誌の編集やって、やがてフリー! レビュー書いたりするライターになるんだ。それ以外考えてない」
「お〜、前から能登っちはそれ言ってるよね〜。俺はもう卒業できればいい的な。推薦でどっかいけりゃいくけど、専門でも全然い〜し、ま〜最終的には親父の仕事手伝うかな〜」
「春田んちってなんだっけ?」
「ないそ〜」
ないそ〜……?
「職人だよね〜かっけ〜、結構稼ぎいいっていうし〜」
……内装か。話を理解して、竜児は思わず春田のツラ、そして能登のツラをじっくりと眺め回す。
「意外、っつったら悪いけど……なんだ、おまえらって結構将来のこととかちゃんと考えてんだな。俺はもしかして、実は相当置き去り状態なのか」
「やあねぇなに言っちやってんのよ」
竜児の肩めがけ、能登は鼻息を真っ白にしながらふざげて小さくジャンプ、自分の肩をガンガンぶつけてくる(かわいくない)。
「高須こそ頭いいんだから、将来なんにも問題ないじゃん。数学得意だし、理系っしょ? 北村大先生と一緒に国立選抜も余裕じゃない?」
竜児たちの通う高校は進学校、名目上は生徒全員が進学を目指すということになっていた。三年生になると理系と文系で三クラスずつの計六クラスに分かれ、中でも成績優秀な生徒が理系文系それぞれ一クラスずつ、二十五名限定で、国立選抜コースに進む。その名称は単に一昔前までは出来る奴=地元国立だった名残で、今では東京の難関私大に進む者も多い――卒業前に海外へ出てしまった狩野《かのう》すみれも、在学中は理系の国立選抜クラスだった。
「でも国立選抜は授業の進度がかなりきついって噂だろ? 一学期中に三年生の内容全部終えて、後は受験対策とか。今の成績なら進める、とは言われたけど……迷いはある。進学するかどうかもわからない俺よりも、もっとふさわしい奴がいるような気がする」
「えっ!? その成績で進学しないの!? 就職!?」
能登が上げたすっとんきょうな声にかえって竜児が驚かされるが、
「いや、だって俺んちは金ねぇもん。特にどこそこ大学にいきたいとか、なにやりたいとかもねぇし……勉強は嫌いじゃねぇからあと四年間、学生続けたいってのは当然あるけど……だったらとりあえず働いて金貯めて、それから大学いくんでもいいかな、とか」
「つーかお金なくないっしょ? お母さんずっとお店やってるじゃん」
「オーナーは別にいて、あれはただの雇われなんだよ。ずっとできる仕事でもねぇし。……親は、高校受験の時から『竜ちゃんは大学いくんだからぁ、進学校じゃないと〜☆』ってそればっかだけど」
そっかあ、と腕を組み、能登は暗い空を仰いだ。「ていうか、高須は竜ちゃんって呼ばれてるんだ……」「キモいだろ」などと言い合う間にじりじりと列は進み、気づかずに立ち止まっていた二人の背中を春田が押す。
「はいはいお二人さん。進んで進んで〜」
「とりあえず、俺と高須は来年クラス分かれるの確実ってことか。春田とは文系同士、まだ一緒になれる可能性あるけど……そっか、ってことは大先生とも分かれちゃうのか」
「もう一歩進んで〜寒いから間詰めようぜ〜。あ〜あ、もし能登っちとも別れて一人になっちゃったら、俺つまんないな〜。クラス違っても普通に仲良くしようよな〜。女子はど〜なんだろ。高っちゃん、チェック入れてる?」
「……なんの」
「櫛枝に決まってんでしょ〜。奴は文系? 文系っぽいよね、顔が」
「多分、文系。……た、」
春田の問いに、なるべく何事もないふうに答えようとするが、
「大河、が、そんなようなことをちょろっと言ってた気がする」
口がうまく回らないのは、吹き付けてきた強風の、骨まで突き刺さるような冷たさのせいだと竜児は思った。そっか〜、としみじみ呟く春田の傍らで。能登も妙に深刻なツラ、頷いてみせる。
「じゃあ高須、櫛枝氏ともクラス分かれるの決定か。切ないねぇ。……ていうか、氏とは最近どーよ? あんまり喋ってなくない?」
「……どうもこうも、あのときのままだよ」
あのとき――修学旅行の夜に、ホテルのラウンジで二人きりで話したあのとき。告白する最後のチャンス、と心を鳴らしたあのとき。櫛枝実乃梨は自分を絶対に好きにはならない、ということを、竜児はようやく明確に理解したのだった。
そして、それを理解しながらも片想いを続けるなんてことは自分にはできない、とも。
「やっぱ気まずいか」
「気まずいというか……なんていうか……避けてるってわけじゃねぇけど」
「諦めたの?」
「……力尽きた、っていうか」
報われなかろうがなんだろうが、想い続けるという選択肢は確かにあったのだ。傷つき続ける覚悟を決めて、それでももしかしたらいつかは、と願い続けることもできた。実乃梨は変わってくれるかも、自分の想いが彼女を変えられるかも、と信じる道もあった。永遠に密かに想い続ける、そんな犠牲的な愛に身を投じるのも美しい、素晴らしい、価値がある。わかっていた。理解していた。
でもー
「そっか……」
「しょうがねぇよな〜、なるようにしかなんないよ〜」
そうは、しなかった。竜児にはできなかった。
実乃梨に想いを拒絶された時よりも、自分が「そうはしない、できない」ということをわかった瞬間の方が、よほどくっきりとした線引きに思えた。振る・振られる以外の恋心の幕引きのありかたを、竜児は身をもって知ったのだった。
そしてその後には新しい日々が始まって生活は一変、爽やかにリニューアル……というわけにも、しかしいかない。そんなに簡単には、進んでいかない。
実乃梨への片想いを諦めて、恋を失うのと時を同じくして、大河の想いを知ってしまった。竜児に想いをダダ漏らし、そして、大河は姿を消した。戻らない理由は竜児にはわからない。結局ここに残されたのは――取り残されたのは、竜児だけなのだ。竜児はいまだに歩き出せずにいる。たった一人、置き去りにされている。
リニューアルできない過去の日々を引きずり、あの吹雪の中を今も彷徨《さまよ》い続けているような気がしていた。なかったはずの大河の声と一緒に、あるはずのない氷の世界に封じ込められた囚人そのもの、自分だけが無為《むい》に足踏みしているのだ。明日を夢見ることも忘れてしまって、進みゆく現実の日々に取り残されたままでいる。将来どころか、明日の自分の気持ちさえも見通しゼロの場所にいる。
「……あー、さむ」
背骨を這い登ってくるような寒気に、竜児は奥歯を噛み締めた。凍えそうな肩を自ら抱いて擦りつつ、詮無いことを考える。日めくりカレンダーを毎日破り捨てていくみたいに、過去の日々など過ぎるたびにベリベリめくって捨ててしまえたらどんなに楽だろうか、なんて。
「元気出せよ〜高っちゃん、もうすぐら〜めんにありつけるからさ」
真っ白な息を吐き出して丸まった竜児の背中を気色悪くつつきつつ、春田はへらへら笑ってみせる。
「このところ、高っちゃんはもりだくさんに大変だったよな〜。まずイブに櫛枝に振られるじゃん、そして入院したじゃん、修学旅行でまた振られたじゃん、でもってタイガーが行方不明になるじゃん。そんでずっとお休み中だしさ、そりゃ〜寒くもなるって」
「一方、櫛枝氏はまったく変わりないよな。高須に聞いてなきゃ、とても男を振った後だなんてわかんないよ。なんであいつはあんなに頑丈なんだろ?」
「亜美ちゃんとのケンカとか、どうなったんだろうな〜。ウ〜マンズのことは、はたからはうかがいしれないよね〜。ちなみに能登っちは麻耶《まや》さまと仲直りしたの?」
「え……ガン無視され中だよもちろん……」
男三人ツラつき合わせ、ついつい情けなく言葉を見失う。冷え切った鼻を擦り、竜児は自分のつま先なぞを見つめてしまう。
実乃梨は今頃は部活中だろうか。今日も大河休みだよ、携帯繋がらないんだよなあ、それぐらいの会話はしたけれど、それだけだ。
それだけ――後にはなにも、残っていない。吹雪の世界の囚人は、戯しく己の傷を確かめる。恋は実らなかった、その事実だけだ。とりあえず、確実に存在しているとわかるのは。
「おっ、 一気に進むみたい」
角の向こうのラーメン屋から数人連れのグループが騒がしく出てきて、長い行列はずるずると短縮されていく。
「ぅあいっ! お次の三名様までどーぞお!」
威勢の良い声に、竜児たちは「ついに!」と顔を見合わせた。心凍らす現実はさておき、のれんの向こうには熱々のラーメンが待っている。揃って深い紺色ののれんをくぐり、むっと熱気のこもる薄暗い唐内にようやく足を踏み入れる。いらっしやい! どうぞお! と店員たちの熱い声が迎えてくれ、
「三名様カウンターにどうぞー! ぬあぁ!?」
ぬあぁ!? とはこれまた気合の入った……と水のグラスを差し出しくれる店員の女を見上げた瞬間、
「おう!?」
腰を下ろそうとしたイスから転げ落ちかける。踏ん張った竜児の右隣では能登が鞄を取り落とし、左では春田が水を一口含んでからブハー!? と噴き出していた。
「見ないでぇ――――――――――つっ!」
カウンターの向こうに立っていたそいつはクネクネ身をよじらせ、
「なんてうそだぜ! 見てもいいぜ……」
バーン! と仁王立ちになってみせた。頭にはきっちりタオルを巻いて髪を隠し、ラーメン屋の屋号いりの黒T、やはり黒の揃いの前掛け姿、櫛枝実乃梨は「へっへ」と口を曲げて笑っているのだった。あまりにも確かな現実味をもって、しっかりリアルな質量で。
「お……」
思わずその不敵なツラを指差し、
「おまえ……なんなんだ!?」
間違えた。なにをしているんだ!? と訊きたかったのだ、本当は。毎日教室で顔を会わせているとはいえ、こんなふうに現れられるとやっぱり動揺せずにはいられない。
「私はバイトです!」
「いや、だって……ぶ、部活は!?」
「もう終わったんです! 冬は日が短いから早上がりだ! ってかおっどろいた、あの列の中に君らが並んでたとはねぇ。じゃあ注文を聞こうか! ちなみにイケめん、とか言ったら目潰しだから」
「イケめん」
「イケめん」
「イケめん」
ぶす、ぶす、ぶす、と実乃梨の親指が三人の片目を右から順に潰していく。すいません、らーめん三つです、と能登が言うと、
「オッケー、良い選択だ! らーめん三つう!」
おーう! と腹の底まで響くような声で、カウンターより一段高くなっている厨房から返事が返る。忙《せわ》しなく店員が行き来する厨房は強いライトで照らし出され、その奥で磨き抜かれたたくさんの寸胴《ずんどう》が火にかけられて光を放っていた。店員のほとんどは男、たまに女そして実乃梨。彼らは揃いのスタイルで汗みずく、手際よく客たちの注文を捌いていく。
「……ここでもバイト始めたのかよ。ファミレスは?」
腕を伸ばしてカウンターを拭く実乃梨は、竜児の声に振り向いて、
「やめてないけどこっちの時給よかったから、試しに二時間だけ入れてみた」
Vサイン……いや、二時間サインか。自分の顔の前にずいっとピースを突き出してみせた。疲れを知らないその笑顔は、今日も明るく、元気そのもの。竜児の内心の変化などとはまったく無関係に、実乃梨は屈託なく笑いかけてくれるのだった。
「ていうか櫛枝ら〜めん作れるのかよ〜、やだぜ〜、一時間半並んでおまえの作った素人ら〜めんとかさ〜」
「んなわけないじゃんよ、私はフロアだけ。あと皿洗い、列整理」
そうしている間にも「お勘定ー!」と声がかかり、実乃梨は慌ててよく通る声で返事、レジへとすっ飛んでいく。その姿を目で追いながら、
「……俺らが寒風の中で突っ立ってる間に、部活やってさらにバイトかよ……」
竜児は思わず呟いていた。タフすぎ、と傍らの能登も低く唸る。
日めくりカレンダーがどうしたのこうしたの、つまらないことを考えている間に、櫛枝実乃梨という女は確実に今日も、今も、動き続けている。足踏み状態の竜児をよそに、常に前進している。どんどん竜児を置いていく。距離はどんどん開いていく。止まったら死ぬ生き物の必死さで、自分が振り切った竜児と交わす言葉にも迷わない。
同じ人間で、同じ年で、どうしてこんなに違うのだろう――吹雪世界に停滞中の竜児は、思わず首を捻りたくなる。これが持った生まれたエンジンの違いなのだろうか。だとしたら随分露骨な当たりハズレではなかろうか。
「なんでそんなにバイトばっかりしてんの?」
テーブル席のどんぶりを下げている実乃繰に尋ねたのは能登だった。器用にどんぶりを重ねて掴み、開いた片手で忙しなくテーブルを拭いつつ、
「あと二ヶ月で高二の一年も終わりだからね。区切りに向けてラストスパート」
実乃梨の返事は要領を得なかった。そういえば、以前に竜児が同じようなことを尋ねたときにも、実乃梨ははっきりとは答えなかった。大河も実乃梨がバイトばかりしている理由を、はっきりとは知らないようなことを言っていた気がする。
「おしゃべりしてんじゃねぇぞバイト! どんぶりあけろ!」不意の怒声に、やべ、と実乃梨は首を竦める。「あれが店長。もうすぐ目があくぜ」……急ぎ足で立ち去る間際のその言葉に、竜児たちは顔を見合わせる。
「目が? あく?」
「いつもは閉じてんのかよ。危なくない?」
そのとき不意に店内が静まり返る。客たちの視線がカウンターの向こうに集まり、一人のおっさんの姿をライトが煌々《こうこう》と照らし出す。そのおっさんはしっかりと両目を固く閉じていた。開くか……と客の誰かが小さく息を飲む。
一体なにごと、と竜児たちも見守るその只中で、くわっ! とおっさんの目が開いた。開いた、とあえていうほどもない、普通の一重のお目々であったが、
「秘技――六道輪廻《ろくどうりんね》!」瞬間、熱湯が沸く巨大な鍋から麺の玉入りの網おたまをいくつか束ねて掴みだし、というか勢いで麺をほとんどブン投げ、湯気の上がるそれを縦横《たてよこ》グルグル振り回す。跳ねた熱湯が三人の顔面のちょうど真横、
「あぢあぢあぢあぢあぢっ!」
水滴となって襲い掛かる。熱さに躍り上がる三人組は知らぬことだったが、これこそが普段は目を閉じている店長のみが披露できる、この店(その名も『十二宮《じゅうにきゅう》』)の湯きり技であった。
こんなん危ねぇよ! と竜児は仰け反るが、他の客たちはうっとりと「フゥー♪」――顔を突き出し、湯きりの雫を顔面に一滴でも頂こうと首を伸ばす。
***
ラーメンは旨かったが、思ったよりも帰宅は遅くなってしまった。
マフラーを口元までグルグル巻きにして、竜児は両手にマイバッグ、すでに暗い欅《けやき》並木の歩道を一人小走りに急ぐ。あまりの風の冷たさに耳がちぎれそうに痛んだ。
今日の夕食は早さ優先。お惣菜に心惹かれつつも誘惑を振り切って油揚げと豚肉、大根を買いこみ、簡単に豚のおろし鍋を作るつもりだった。白菜は大家からもらった立派なのがあるし、ネギは刻んだのがストックしてあるし、そういえばゆずも大家からもらったのがまだあった。薬味は十分、あとは材料を日本酒・昆布と一緒に鍋に放り込めば白莱から出る水気が勝手にスープになってくれる。
冷凍ごはんも残っていたはず、二十分もあれば支度は完了だ。タッタッタッタ、と革靴の足音を鳴らし、凍りつくようなアスファルトを蹴る。見慣れた曲がり角を曲がって、いつもの道に入る。そして、ちょっとだけ立ち止まる。二階の部屋の窓を見上げるために。
これが、ここ一週間で、すっかり癖になってしまった仕草だった。
今日も見上げたマンションの部屋のカーテンは引かれたまま。リビングの中は暗く、人が動く気配はない。
まだ戻らないのか――真上を向いたまま、竜児は無意識に眉間に皺を寄せる。無意識に口も開いている。一体部屋の主はどこでなにをしているのか、どうして戻ってこないのか。しばし足を止め、白い息を吐いた。
真っ暗な窓を見上げて、想像ばかりが今日もまた膨らんでいく。そして、あの日聞いた声を……竜児のことが、と囁いた声を、頭の中で再生してみるのだ。竜児が聞いた、それが大河の最後の声だった。なにか手がかりがないか、ここに戻らない理由のヒントはないか、無人の部屋を見上げたままで考える。
担任が言っていた、体調が悪いという理由が真実なのか。軽傷で済んだと聞いたけれど、実は結構なケガだったのだろうか。
そうではないのなら、自分と実乃梨がうまくいくと今も思い込んでいて、それがつらいのだろうか。
竜児に想いを知られてしまったことに気がついて、それで竜児の前に顔を出せなくなってしまったのか。あるかもしれない。
「……ばかめ……」
小さく口に出してみる。大河には聞こえないだろうが、そう言ってやりたかった。
体調が悪いという理由が真実でなくて、ここに戻れない理由が想像通りならば、大河は本当にばかだ。こんなふうに逃げてみて、それでどうなるという。二度とここに戻らず、自分にも二度と会わないつもりなのだろうか。そうやって竜児だけを置き去りに、すべてをなかったことにできると思っているのだろうか。実乃梨との恋の結末も知らずに、眼も耳も塞げばいいとでも。
だとしたら――考えてみて、竜児は首を横に振る。浮かんだ考えを自ら振り切る。
すべては、だとしたら、の上に積み上げただけの勝手な想像だ。
豪奢《ごうしゃ》なマンションを見上げたままでいくら考えても、答えが見えてくるわけではない。当の大河に尋ねなければ本当のことなどわからない。だから「もしも自分がすべてを忘れられるのだとしたらすべては元通り、大河は帰ってくるかもしれない」なんてことを想像したって、意味はないのだ。そもそも、自分の意志で記憶は出したり引っ込めたりできるものではない。
目も開けられないほどの北風に全身を震わせ、竜児は一度深く息をついた。再び足を動かし、歩き出す。夕食の支度だ、とにもかくにも。マンションのエントランスを横目で見つつ通り過ぎようとして、
「……ぐえぇ!」
そのときだった。
目の前が真っ暗になる。喉が締まって呼吸が止まる。背後に引き戻されるようにして倒れる瞬間、竜児の視線は通り魔の正体を見た。
……ドサ! と、マイバッグを取り落とす。「た……」
大河――に、殺される。
「あ、やば……」
視界の隅で小さな手が、掴んでいた竜児のマフラーの端をサッ、と手放した。卑怯にも背後から絞められた喉に急激に冷たい外気が通る。
「げっほぉ! ぐっ……げほごほごほ……っ! グホォッ!」
「やだ、大げさなんだから」
情けなく片膝をついたまま咳き込んで竜児は半分涙目。
「ばっ……ばっか、やろう……っ!」
図らずも殴りかからんばかりの勢いで、さっきから伝えたかったメッセージをドスのきいた声で怒鳴っていた。
「『あ、やば』でおまえは人の首を絞めるのかよ!? 意識が飛びかけたぞ一瞬マジで! おまえは俺をどうしたいんだよ!? おかしいだうその登場は!」
クドクド言い募りつつ、そのツラ――あーら遺憾だわー、私悪くないものー、とでも嘯《うそぶ》きたいみたいに唇を尖らせている大河のツラのまん前に、人差し指を突きつける。
「あーら遺憾だわー、私悪くないものー」
……言った! 本当に言った! 凶眼を狂おしくギラつかせる竜児の目の前、大河はフッフーン! と無闇に偉そうに胸を張る。傲慢が服を着て出歩いているかのような表情で、顎を高くつき上げる。
「そこの曲がり角で、あんたが見えたの。声かけてやろうと思ったけど往来で大声出すのも恥ずかしいじゃない。ちょっと手を振ったけど、あんた、全然気づかないんだもん。目ぇどうかしてんじゃないの? 眼球に油膜張ってない? ちゃんと顔洗ってる?」
「ぬぁんだとぉ……!?」
呪い声明文を読み上げるが如き声音で低く呻きながら、竜児は自分の大事な喉元を今更両手でガードする。へし折られるところだったんだぞ、こっちは。
大河は竜児のマフラーの端を、背後から掴んで思いっきり引っ張りやがったのだった。サルの如く飛び掛かって、ぶら下がりやがって下さった。そんな真似をされりゃ当然に首は絞まるし、息は止まるし、死にかけるし、それにだいたい、
「ふざけんじゃねぇよ!? だいたいおまえ、おまえ、今まで一体……一体……いっ、」
……っ、とそれきり。竜児の唇は、しかしここで強張った。声が喉に詰まる。大河の鼻先につきつけた人差し指が震え、続けるはずの言葉が出ない。立ち上がれない。た、た、た……「……大河じゃねぇか!」
改めて、律儀に一声あげてそのまま仰け反る。目を見開いて両手を上げて、ズッ! と腰から滑り落ちる。これは――驚いた。声が続かない。言葉が出ない。
「はあ? 馴れ馴れしいな、なによ」
竜児はプルプルと背筋を震わせた。大河が戻ってきているではないか。
目の前に、でーんと立っている。「寝言はあの世で言ってくんない?」と唇をひん曲げ、ちなみに貴様をあの世に送るのはこの私……とでも言いたげな物騒な視線をこちらに向けている。手乗りタイガーの呼び名にふさわしき獰猛さで、不機嫌に喉を鳴らしている。
制服姿にいつものダッフルコート。大きなバッグを斜めがけにして、両手をポケットに突っ込んだポーズ。傲岸不遜《ごうがんふそん》に顎を突き上げ、寒さに鼻を赤くして、腰まで届く長い髪を片方の肩にまとめて垂らして。マフラーはいわゆるマフィア状態、首に巻かずに引っ掛けて。
そのこめかみには白い絆創膏が見えた。
「た……大河……」
戻ってきたんだ。帰って、きたんだ――迫り来るあらゆる感情に、竜児は驚きから立ち直れないまま唇を震わせる。ちっ、と舌打ち、
「なんなのさっきから」
大河はそんな竜児を苛立たしげに、ひねりを加えて下斜め45度から睨みつける。
「……おまえ、おまえ。おま……」
「だから、なによ!?」
「ど……どこに行ってたんだよ……!? なんですぐに帰ってこなかったんだ!?」
「ぐえ」
自分でもなにをしたいかわからないまま大河に伸べた両手は、さしあたり掴みやすそうな部分を引っつかんでいた。さっきの仕返しというわけでは決してなく、本当にたまたま、竜児は大河のマフラーの両端を力いっぱいクロス。結果的に大河の首を紋めていて、そのままガクガクと問い詰めるみたいに揺すぶり、
「俺がどれだけ心配したと思ってんだよっ! 今まで、一体、どこで、誰と、なにを!?」
「くっ……苦しいよバカ!」
ブゥン! と空間を断裂させたいみたいにプン回された大河の右手が、竜児の顎にヒットする。痛い、でも、だけど、だけど、だ。
(どうしたって、)
「あんた一体なんだってのよ!? このブタ犬|夜叉面《やしゃづら》|阿修羅顔《あしゅらがお》! キン骨マン!」
「おうおうおう! おう!」
ビシバシビシ! バシ! とキレた大河の往復ビンタが竜児を襲う。うち二発はしかし竜児が華麗に避けて不発、「避けるんじゃない!」とわがままを言って、大河はさらに怒り出す。飛び掛かり、竜児の襟首を引っつかむ。強引に竜児のツラを引き据える。耳と髪ごと両手で竜児の顔を掴み、そして真正面からその鼻先に文句と罵声を喚き散らそうとしてか、大きく息を吸った瞬間。
歩道の照明が、大河の瞳の中に映りこむのを、竜児は見た。
瞬《まばたき》きするたびに星が散るみたいな、不思議に深い色合いで煌《きらめ》くその目を。
そして頬に触れた両手の妙な熱さを、唇に触れそうなその息を、こもった体温も伝わりそうな至近距離からその肌で知り――
「……っ!」
「……な、」
必死に、もぎ離していた。
異様なほどに動揺して思わず本気。酒落にならない必死さで身をくねらせて、竜児は、大河の熱っぽい両手から逃れていた。
二人は声もなくそのまま対峙する。冷え切ったアスファルトに沈黙が落ちる。
竜児の真正面、大河は竜児の唐突すぎる抵抗にあっけにとられたみたいに、ぽかん、と口を少し開いていた。こんなの私たちの間ではいつものことだったじゃない、とでも言いたいみたいに、不思議そうに首を傾ける。
竜児はなにも言えずにいた。ただ、掴まれた耳が、頬が、燃えるみたいに熱かった。その熱を、どうしていいかわからなかった。耐えかねて、とっさに、大河の顔から視線を引き剥がした。大河は透ける藍色の夜空を背中にしょって、そんな竜児を見つめ返していた。
自分がどんなツラをして大河と向かい合っているのか、どんな顔色をしているのか、竜児にはわからない。でも大河は竜児の顔を眺めていて、不意になにかに気づいたみたいに、う、と小さく息を飲んだ。
「……なによ……っ」
真っ白な頬に、小さな炎が灯るのを竜児は見た。
かすかに震える一呼吸ごとに、丁寧に丁寧に一刷けずつ、その頬に淡い薔薇の紅色が重なっていく。そして、
(竜児のことが、)
「なに、よっ!?」
くわっ、と見開かれた大河の瞳は、手負いの獣の決死さで輝いた。「うおお!?」「なによなによなによなによ、なんなのよっ!」――両腕をブン回し、大河は再び竜児に襲いかかる。手の届く範囲のものを全部破壊し尽くしたいかのようながむしゃらさとやけっぱち、大河は両手両足を子供みたいに振り回して竜児を壁際まで追い詰めて、
「……なにが、言いたいのよ……!?」
「……っ」
もう一度至近距離から睨みつけてくる。ドン! と胸元を拳で殴りつけてくる。
そうして、さっきの続きをやり直すみたいに無理矢理に襟首を引っつかんでくる。やり直せば漂ってしまった妙な気配までも上書きできると思い込んでいるのか、だけど一度火のついた頬までは元には戻せない。薔薇色に耳朶《じだ》まで染めたまま、息を詰めて唇を噛んで、それでも大河は竜児を睨み続ける。
熱いのは、掴まれた喉か、掴む大河の手か。鳴り響くのはこの胸か、大河の心臓か――
(竜児のことが、好きだもん)
――その瞬間。
大河の両手が喉と肩をがっちり掴んで、顔が近づいてきて、うわ、よせ、あっ、声も出せないまま足元はお留守、ふわっと竜児の身体は宙に浮いていた。
なにが起きたのか、突然にすべてが真っ白にクラッシュ。
首を絞められることなんかよりもずっと凄まじい衝撃波が、流れ星が脳天に堕ちてきたみたいな激震が、この身をすべて吹き飛ばしたと思った。世界が砕け散り、天地は逆さに、星は燃え尽きる。その炎でこの世のすべてが焼き尽くされる。
なにも見えない、なにも聞こえない、宙に放り出されたようで「一体なにが」、
「足払いよ!」
「……おう!?」
にゅっ、と、落ちた天から大河の仏頂面が覗く。……ひっくり返って路上に仰向けになったまま、アホみたいに竜児は状況を反芻《はんすう》する。
「ああ……足払いか……!」
大河に足を払われて、ひらり、とそのまま天地逆転。まっさかさまに倒されたのだった。大河が首を掴んでいたおかげで頭を打ったりはしなかったが、いや、おかげというか、
「な、なにすんだよ!? おまえはなんだ!? 辻斬りか!? 強盗か!? 俺を襲撃してなにが楽しい!」
「悪かったわよ。だってあんた、急に変な目つきで私を見るんだもん。本能的に乙女の危機感が高まって」
「俺は、おまえが急に帰ってきたからびっくりしてたんだよ! ていうか先に襲い掛かってきたのはおまえだろ! 俺の方がよっぽど危機だったんだよ!」
「あんたが首絞めてきたんじゃん」
「その前におまえが首絞めてきたんだろうが!」
竜児はようよう立ち上がり、指揮者のように両手をブン回しながら大河に詰め寄る。大河はむすっとそっぽを向いて無視を決め込もうとしているらしい。それがまたカチンときて、
「ずっと、ずっと、ずーっと、一体どうしたんだろう、なにがあったんだろう、どうして帰ってこないんだろうって、俺はずーっと、心配してたんだぞ!? それをおまえは連絡一つ寄越さず、突然帰ってきたと思ったら俺の首を絞める! 殴る! 挙句投げ飛ばす! なにがどうなってんだよ!? 説明しろよ! 今までどこにいたんだよ!? 帰らなかった理由はもしかしておまえが俺をだああああああああああああああ―――――――っっっ!」
「……えええ……?」
突然の絶叫に、さすがの大河もゴクリ、と黙って息を飲んだ。
気味悪そうに、静かに、しかし大きく一歩竜児から距離をおく大河のそのツラを見つめつつ、言えるわけねぇだろ、と竜児は濃厚な汗をどろっと額から脇から背中から垂れ流す。
言えるわけがない。
『おまえは俺を好きなんだろう。おまえは北村と間違えて、俺に告白したんだぜ。覚えているか? おまえがここに帰らなかったのは、もしかして、それを気に病んでだったのか? 』
――だなんて。絶対に、言えない。
言えない言葉をぐっと飲み込み、息が止まる。頭が痺れて全身が痺れて、意味不明に胸のド真ん中、心臓だけが独立した生き物みたいに蠢き続ける。
恐ろしいものを眺めるように、大河は眉間に皺を寄せて竜児をそっと見守っていた――二メートルぐらいの距離をきっちり保ったまま。
でも、この女は、自分を、好きなのだ。
「だだだだだだ、だだ、だだだだっ……だだだっ……」
ここに帰ってくることにしたのは、覚悟を決めたから、なのか。
うっかり想いを告げてしまった竜児の前に再び戻り、つまり、それに対する答えを聞く覚悟ができたから……だから、帰ってきたのか。
だとしたら、自分はどんな答えを返そうとして――
「大根だ……っ!」
ぐっ!
と、大河の鼻先に、マイバッグから転がり出た大根を拾って突きつけていた。大河はもう一度ゴクリと息を飲み、黙ったままでその先端を静かに見つめ、
「……あんた、ほんとに大丈夫?」
「大丈夫だ! ……豚肉だ……っ! 油揚げ、……だっ!」
次々バッグから買ってきた物を見せつける竜児の頬に、
「これは冷凍チャーハン」
ぎゆっ、と、冷え切ったコンビニのレジ袋入り冷凍チャーハンを押しつけてきた。その冷たさに竜児は思わず「ひゃーお!」と奇声をあげて飛び上がり。
「つ、冷てえじゃねぇか! なにすんだよ!?」
「これで正気に戻った?」
淡々とした大河の声に、なにか言い返したかった。あうあうと口を開閉する。そもそも誰のせいでこんなに混乱してると思っているんだ、とか、いっそ訊きにくいことをズバリ訊いてやろうか、だとか、
「これは、全治十日。もうすぐ治る」
――しかし。
前髪をかきあげ、こめかみの白い絆創膏を指差す大河の姿を見たそのとき、言おうとした文句はすべて喉の奥に飲み込まれて消えていた。肌に滲み出ていた汗が、一気に真冬の北風に冷やされて、乾いていく心地がした。
曖昧に心狂わせる記憶と想像の城が瞬間的に崩れ落ち、竜児の目の前に、圧倒的な現実と事実が立ちはだかる。
一週間前。逢坂大河は事故に遭い、こめかみを切るケガをしたのだった。忘れていたわけではなかったが、
「ぬ……縫った、のか?」
なにが想像でなにが現実か、区別がつかなくなっていた……かもしれない。だから、大河のケガをこの目で見て、こんなにショックを受けているのかも。白い絆創膏を見つめたまま動けず、言葉も見失いそうな竜児の前で、しかし大河はなんでもなさそうに鼻を鳴らす。
「縫うほどのケガじゃなかった。一針分、でかいホッチキスでぱちーん! って留めたら治りが早いかもって言われたけど、それは絶対いらないって断った。こわいじゃんねそんなの。ってわけで、今は傷もくっついて、ほとんど痛くもない。頭ももう普通に洗えるし、じゃっかん痒いぐらい」
「って、掻くな掻くな!」
指先で傷を弄ろうとするのを慌てて掴み止めた。大河はそれでも一度意識してしまうと治りかけの傷が疼くのか、竜児の手を荒っぽく払いのけ、絆創膏の上から手の平でそっと押さえるようにする。そして、
「……ま、悪かったわよ。心配かけたのはわかってる。ケガはこのとおりたいしたことない。体調が悪いっていうのもウソだから私はばっちり大丈夫。単に学校さぼってただけよ」
「そうか、ばっちりか。なら……えっ? ……は? ……はあ!?」
眦《まなじり》が裂けるほどに目を見開く竜児の顔を眺めつつ、人の気も知らないで、へっ、と大河は肩を疎めてみせた。
「だって久しぶりにママに会えたんだもーん。まさか来てくれるなんて思わなかったし、結構感激しちゃった。だから仲良く一緒にホテルに泊まって、買い物したりお食事したり映画観たりお話したり、二人してゆっくり過ごして、思いっきり甘えてきたというわけ」
「……ママと……仲良く、だと……? それで戻ってこなかったっていうのか……?」
「そうだよ。ママとは関係良好なのよ、これでも。もう何年も離れ離れだし、適度に距離があるからかな。ほら、あの、クソじじいに対しては『父親のくせになんにもしてくれない! 』みたいな拘《こだわ》りをこっちも持っちゃうけど、そういうのもないからさ、かえって素直になれるのかもね」
まるで用意していたようなコメントはそこそこの説得力、大河は一人うんうんと頷いてみせる。
「……うんうん、じゃ、……ねぇだろうがよ……!」
竜児はとうとう情けなくもしゃがみこんだ。頭を抱え、一週間分の混乱を溜息にして吐き尽くしてしまいたかった。
「……ほんっとに、どんだけ心配したと思ってんだよ……!? だいたい、なんで携帯切ってんだよ!? そうならそうと一言えよ!? メールでもなんでも!」
「携帯のバッテリー切れちゃったんだもん」
「コンビニやらショップやらでいくらでも充電できるだろ!?」
「ああそうなの。へー知らなんだ」
かるーく言われて、思わがっくり肩を落とす。そうかそうかバッテリーが……一週間母親とのんびり、ゆっくりと……夢に見るほどあの吹雪に囚われていたのは、どうやら自分だけだったらしい。
「なん、だよ、……もう……! ったく!」
あまりに理不尽にも思えたが、大河の身体がなんともないのならそれを喜ぶべきだろう。驚かされたのも、あの時点から動けないのも、竜児だけ。被害者は一名、それで済んだならよかったではないか。立ち上がり、なんだかんだで汚れた制服をバンバン払って気を取り直す。
それに――そうか、つまり。
竜児の憶測は、的外れだったわけだ。
大河が帰ってこなかったのは。あの「告白」が理由ではなかった。
「連絡しなくて悪かったって思ってるってば、ほんとに。……あんた、北村くんとみのりんと、私を捜してくれたんでしょ?」
大河は竜児に指を突きつけ、真下から大きな瞳で見上げてくる。その指をちょい、と押しのける。
「……覚えてねぇんだろ。おまえは気を失ってたんだから」
「病院で恋ヶ窪ゆりがそう言ってた。あんたたちみんな無茶だって、奴はちょっと怒ってた。でもさ、私は嬉しかったよ、それ聞いて」
ありがとうね、と。大河にしては奇跡の素直さ。
「約束する、誓う。今度あんたが雪に嵌《はま》ったら私が捜してあげる」
そして大真面目、ちょっと照れて鼻の穴を「ふが」と大きくしながらも、力強く頷いてみせるのだった。それを見て、やっぱり、と。
大河はやっぱりなにも憶えてはいないのだ。改めて竜児は確信する。そしてここに戻ってきた理由も、母親とのバカンスが終わったからであって、告白の答えを聞く覚悟を決めたから、ではない。
ならば――あれを聞かなかったことにすれば、すべては元通りになるということだ。大河の告白を竜児が忘れれば、それでいいのだ。
それで、なにもなかったことになる。記憶は出し入れできなくても、忘れた素振りで振舞うことはできるだろう。竜児の気持ちをなかったことのように振舞った実乃梨のように。
そうされることであのときの竜児は傷ついたが、大河は傷つかないだろう。だって大河の気持ちの方に、竜児が合わせてやるのだから。大河の気持ちは、「伝えない」ことで決まっている。
「……本当に、なんにも覚えてねぇんだ」
うん、と大河は領いて、竜児は自分の考えが間違ってないことを確認するが、
「でもね、」
長い睫毛を伏せて、大河は低く独り言みたいに呟く。
「夢は見てた気がする。北村くんがね、私をおんぶしてくれててさ、私は夢うつつにバカみたいなことをボロボロしゃべくってるの。それは……夢、だよね」
竜児は迷わず、
「夢だよ」
答えてやる。そのとき不意に凍りつくような冷たい風が吹き荒れた。「さっぶー。」と呻き、吹き散らされる髪を片手で押さえ、大河はコートの前を慌てて重ねる。小さな肩を一層小さく丸め、眉を顰める。
「……北村がおまえを背負って崖を上ってきたのは、本当のことだ。でもなにも言ってない。おまえはずっと気を失ってる状態だった、って聞いた」
「ほんとに? ……ならよかった。一瞬『あれ!? もしかして現実!? 』とか思ってあせっちゃった」
「……おまえは、本当に、」
――ゴクン、と、固い塊みたいなものを飲み下す。傭いたままで唇を舐める。大河にはこんな嘘でも通用してしまうのだった。妙に鋭いこともあるくせに、今はその鋭敏さはまったく発揮されないらしい。
「ドジだよな」
腹の底から搾り出したみたいな竜児の本音にも、気がつかないようだった。なによ、と口を尖らせてみたのも一瞬、
「……ちぇ、悔しいけど、反論できる材料がないか。そうだね、私はドジ。今回の件で、今度こそほんとのほんとに思い知った。でも……ドジなりに、真剣ではあるのよ」
覚悟を決めたみたいに竜児の顔を見つめ、そして言うのだ。
「ずっと気にしてたんだ。……みのりんに、本当の気持ちを訊けた? ……もしかして、私があんな騒ぎを起こしたせいで、そんな話もできなかった、とか?」
ふと、竜児は思う。
もしもこの目が心の傷や、そこから溢れる血を見ることができるなら、多分この視界は真っ赤に染まっているはずだった。
「俺と櫛枝のことは、もういいだろ」
「……なんで? ……あ、トラブルメーカーの私にはもう首つっこまれたくない、とか? それなら私は、」
「違う違う。そんなこと思うかよ、そうじゃなくて。おまえとは関係なく。……答えるべきことは、なにもねぇんだよ。本当に」
大河は言葉に詰まったみたいに、一度口を閉ざした。実乃梨が竜児を振ったと聞いて涙を零したその目を見開いて、大河は竜児をただ見返すのだった。
しかし、どんなに強い眼差しで見据えられても、言える言葉は変わらない。おまえはどうして、櫛枝と俺がうまくいくことを望むんだ? ――言えない言葉も、問えない気持ちも、変わらない。
「……あんたが、なにを考えてるか、わかんない」
大河の瞳が揺れる。
「でも、一つだけ。……あんたが私の助けを必要とするなら、そのときは言ってよ。絶対言ってよ。ドジなりに、真剣に、私は手を貸すから」
その気持ちに、恐らく偽りはないだろう。大河はそういう奴だった。好きな相手が他の奴に恋をしていると知れば、その恋にだって手を貸せる奴なのだ。竜児はそれを知っていた。北村が狩野すみれへの片想いに苦しんでいると知ったとき、大河が北村のためにしたことをすべて、竜児はその目で見ていた。
そうだ。その北村の恋は破れ、片想いの相手は去り、そして今。
「……俺にだって、おまえがなに考えてるかわからねぇよ」
今、なぜ、自分なのか、と。
大河の中で北村への想いはどう決着したのだろう、と。
しかし知りたいと思う一方で、それを知ってどうする、とも思う。大河のあの声を、言葉を、本当にすべてをさっぱりと忘れ去ることができて、そして改めて、大河と北村の恋を応援しようとでも? 北村が好きだっただろうおまえは、と、説得しようとでも? ライバルはもういねぇ、だからもうちょっと頑張れよ、と? そんなことを、本気でしようと思っているのだろうか自分は。
「私は、さっむー! って、考えてるのよ。こんなところでついつい立ち話しちゃってバカなことしたな、って。帰ろ、風邪引いちゃう」
結論の見えない会話を打ち切ろうとするみたいに、大河はくるん、と踵を返した。そのままマンションのエントランスへ歩き出す。
「……待てよ」
「やだね。寒い」
「メシ、冷凍チャーハンだけかよ。うちで食えば、泰子も喜ぶ。……おまえのこと、あいつだってずっと心配してたし」
思わずその背に声をかけるが、大河はちょっと振り返って首を横に振るのだった。
「いい。冷凍チャーハン好きだから。やっちゃんにはちゃんとよろしく伝えてよ、大河は全然元気だったって」
「意地張ってんじゃねぇよ」
「意地なんか。……意地なんか、もう、とっくに粉々」
エントランスの階段を上っていきつつ、大河はもう一度だけ振り向いた。冗談を言うみたいに、少しだけ笑ってみせていた。透けてそのまま溶けてしまいそうな白い顔の中で、寒さのせいか、鼻のあたまだけがちょん、と赤みを帯びていた。
「今日は本当にこれで帰る。疲れちゃったからささーっとこれ食べて、寝る。明日はちゃんと学校行くから大丈夫」
冷たいつむじ風が大河のスカートを翻し、コートのフードが揺れた。重く響く音を立てて、オートロックの扉が閉じる。
核戦争によって文明は滅び、生物兵器ウイルスの蔓延によって人口の九割以上が死に絶えた世界。残された人間たちはそれぞれにコロニーを作り、滅亡の時をただ待つばかりであった。しかし前文明時代のロボット兵器は主を失った後も搭載されたなんたら原子炉によって永久的に「戦争」を続け、生き残りたちの敵として、コロニーの攻撃を行なうのだった。
コロニーで暮らしていた少年は、ある日、ロボットに追われて逃げ込んだ「遺跡」の奥で。眠り続けていた戦闘型人造人間を目覚めさせてしまう。その出会いが人類の運命を左右する事態を招くとはいまだ誰も知らずにいた――! あらすじより!
「……なんで生き残りが男はっかりなんだよ。華《はな》がねぇな」
「ウイルスに耐えられたのは体力のある男の方が多かった、って」
「だからって男同士で付き合うことはねぇだろ」
「あの戦闘型人造人間は男じゃない。無性だ。それにまだ|彼《き》|奴《やつ》らは付き合うまで至っていないぞ、互いに気持ちを探り合っている状態だろう」
「……おまえ、話に結構ついていってるじゃねぇか」
「放送前に脚本読ませてもらったから」
北村祐作は得意げに眼鏡を押し上げ、ぱかっと弁当箱の蓋を開く。蓋の裏に海苔がへばりつき、「おっとこれは粗相」……飯からはがれてしまったのを箸でせっせと敷き直して海苔弁の体裁を整える。その斜め向かいの席で、竜児も自分の弁当を広げていた。自分で詰めたがゆえにワクワクの欠片もなく、げんなりするほど見覚えのあるおかずたちに再会する。
騒がしい教室に、スピーカーからは「殺せ」だの「死ね」だの「滅びの時」だの「核融合」だの、昼時にしてはヘビーすぎる不穏なセリフが流れていた。
三学期に入ってから、生徒会ばかりが昼の放送を独占しているのはおかしい、と異議が出され、一週平日五日を生徒会の「恋の応援団」と、演劇部のラジオドラマが分け合うことになったのだった。
俺だの僕だのてめえだのなんだの、この世界観では随分女性陣の言葉遣いも荒くなってしまっているのだな、と思いきや、なんのことはない。演劇部には女子しかおらず、そして脚本には男役しかいないのだ。低く作った女子の声が、「殺せ!!」……またか。ちょっとだけうんざり、竜児は筑前煮《ちくぜんに》を箸でつつきつつ詮無い文句を漏らしたくなる。
「殺伐としすぎじゃねぇかこれ。もっとこう、昼に聞くにふさわしい、女子同士の鈴を転がすような愉快な小話とかねぇのかよ」
「細切れで放送するには、ちょっとストーリーが複雑かもしれないな。一応女子向けに、ということだったけど」
「聞いてねぇな、多分誰も」
男二人で気持ち悪く弁当を広げつつ、竜児と北村はなにげなく教室に視線を巡らせる。男どもはもちろん、女子たちもそれぞれのお喋りに夢中な様子、スピーカーから流れる真剣な芝居に耳を傾けている者はいないように見えた。多分竜児と北村が一番真面目に聞いてやっている。ちなみに能登と春田は購買にて、血で血を洗うパン買いバトル中、まだしばらく戻らないだろう。
ふむ、と北村は整った顔をわずかに邪悪にして低い声で眩く。
「やっぱり、ずっと俺のラジオだけでよかったんだよ。まあ、ネタ切れの感はあったが」
「いや、おまえのラジオもそれほど人気はなかったぞ……とか言っちゃいけねぇよな」
言ってる言ってる、あ、聞こえた? などと言い合うのんきな野郎二人の声がそのとき、
「やややややややっ! いいいいいいいってばー!」
女子の甲高い悲鳴に遮られる。窓際の席で声を上げたのは|木原《きはら》|麻耶《まや》で、そのすぐ隣には|香椎《かしい》|奈々子《ななこ》が麻耶の腕にしがみつくように顔を引き攣らせている。珍しくそのグループに亜美の姿はなく、かわりに二人の前に仁王立ちになってオラオラ、とすごんでいるのは大河で、
「なんでそんなに嫌がんの? あんたが訊いてきたんじゃないよ」
「傷はどう? って訊いただけだってば! 誰も見せてなんて言ってなーい!」
「見れば一番よくわかるじゃん。百文は馬場さんのキックにしかずよ」
おそらく、百聞は一見にしかず、と言いたいのだろう。竜児は聞こえてきた大河の言葉に、やっぱり実乃梨の友達なんだな、としみじみ妙な感慨を抱く。
「……逢坂って、なんだかんだ、櫛枝の友達だよなあ」
北村も同じようなことを思ったらしい。ちなみに、実乃梨の姿も教室にはなかった。
いいっ、いいっ、いやー! いいー! あーっ! ……いいのかいやなのか、とにかく喚きながら、麻耶は迫り来る大河を押し戻そうとする。奈々子も珍しく本当にいやそうな顔、
「そういうの苦手なの、お昼時だしやめようよ! そうだ、ミートボールあげる! ね?」
プラスチックのフォークで供物のミートボールを突き出す。大河はかばっと口を開けてそれをもらい、奈々子と麻耶は顔を見合わせて安堵の息をつくが、
「……それとこれとは話は別よ! さあ、その目で確かめるがいい!」
きやー! と。
お昼時、かわいらしいサイズの弁当を広げている美少女二人に、大河はこめかみの絆創膏を剥がして治りかけの傷を見せようとして追っているのだった。思わず竜児も首をひねる、小学生レベルの嫌がらせ。「やめてやれよタイガー!」「いや、やってやれよタイガー!」と、近くの席で弁当を広げている男子班が超適当に囃《はやし》し立てる。大河が振り向いて牙を剥けば一目散に逃げ去るくせに。
「……ったく、なーにやってんだか……」
「まあ、元気そうでなによりじゃないか」
呆れ顔の竜児に、北村は爽やかな笑顔で答えて弁当を食べ始める。その様はまるで海苔弁のコマーシャルのようだった。
「本当によかったよかった。高須の勇気ある行動があの元気な笑顔を取り戻させたんだな」
「……」
竜児は思わず、じっ、と向かいの親友のツラを眺めてしまう。北村はそれに気づいて、
「いや、もちろんわかっているとも。おまえが助けたということは伏せるんだよな。もしもあのときのことを訊かれたら、俺が助けたと答える。それでいいんだろう?」
「……」
「おいおい、なんだよ。どうしたんだ、そんな目で俺を見て」
その海苔弁を寄越せ! ――などと思っているわけではない。思っているのではなくて実際に目から海苔弁のエナジーを吸い取っているんだよ、というわけでももちろんない。
ただ、考えていたのだ。なにも訊かないのは、やっぱりすべてをわかっているからなのだろうか、と。それを口に出せるわけでもなく、本当にただ考えていた。
北村は、竜児が「大河を助けたのはおまえということにしてくれ」と傍からは意味不明のことを言い出しても、なにも訊きただしはしなかった。ただ、おまえは悪くない、と、それだけをはっきり言葉にして、頼みを聞いてくれた。
竜児が実乃梨を好きだったこと、だけどイブに失恋したこと、正月に様子がおかしかった大河のこと。すべてを理解して、そして、北村はなにも言いはしないのだ。春には大河に告白され、そして自分の片想いの決着をつける手助けをしてもらい、北村はなお、大河とはかえって奇妙に思えるほど、健全な友人付き合いのラインを崩そうとはしない。いっそウソ臭いほどに理想的な男女の友情、というやつを、竜児の目の前に展開してみせる。その関係を継続させようという、強い意志の力を感じさせる。
――つまり、北村は、ずっと前から、大河が好きなのは高須竜児、ということをわかっていたのではないか、と。
「よせ! 俺を熱く見つめてもなにも出ないぞ」
もちろん、大河を崖から引き上げる数分の間になにが起きたかは、大河と竜児しか――違った、この世でたった一人、竜児しか知っている奴はいないだろうが。
「……なんか、おまえの二重……くっきりして作ったみたいだよな……」
「なにを言うか。整形はしていないぞ、誓って」
そして、もっと恐ろしいことをも、竜児は少し前から考えていた。
わかっていたのは北村だけではないのでは、と。愚鈍なアホは自分ひとりだったのかも。たとえば亜美。バカだから嫌い、と突き立てられた言葉のナイフは、つまり、大河の気持ちにも気づかずに、自分の片想いの手助けを大河にさせていた残酷さ、愚かしさに向けられていたのではないか。
それから、実乃梨だ。あれほど頑《かたく》なに想いを受け入れようとしてくれなかった理由は、大河にあるのではないか。……その疑念をもっと明確な言葉にすることは、さすがに調子こきすぎというか、傲慢が過ぎる気がしてしまって憚られるのだが、その考えを頭から消し去ることもできなかった。
とにかく、今明らかなのは、確かに自分はアホだというただ一点。大河があんなドジを踏まなければ、いまだになにも知らないままでいたかもしれない。大河が自分のためにしてくれるあらゆることを、「本当に実はいい奴だよなー」で済ませていたのかも。
――なにごともなかったふりを貫くのなら、知らないままでいるのと結局はなにも変わらないのだが。
「いい加減にその辺でやめとけ逢坂! バイキン入るぞ!」
きやーきゃー響く女子の悲鳴にようやくクラス委員長としての血が騒いだのか、北村が声を上げた。
絆創膏を剥がしかけながら麻耶と奈々子を追い回していた大河がこちらを見る。根性の座った薄笑いを浮かべながら大股で歩み寄ってきて、なにを言うかと思いきや、
「ほら! もう治った!」
「おう……!」
「うわあ」
ベロン、と絆創膏を引き剥がした。
至近距離でついつい見てしまった大河の傷は、五センチぐらいの範囲にわたって黄色っぽく治りかけの内出血、その中心に数センチ程度の引き攣《つ》れ。傷口はくっついてはいるがいまだ生々しく固まった血の色が見てとれ、
「食事時になにを見せるんだよ!?」
驚くだろう、普通そんなモン。竜児は思わずその頭を叩きたくなるが。
「……ああ……でも、本当だ。ほとんど治ってる!」
一度は竜児とともに慄《おのの》いた北村だったが、改めて大河のこめかみの傷を覗き込み、満面の笑みで親指を立ててみせる。大河は「でしょー」と嬉しげに小首を傾げつつ、同じ仕草を北村に返す。
なぜだ。
……と、思ってしまう自分をみっともなく感じる。でも、なぜなんだ。どうして自分には首絞め・殴打・足払いで、北村には「にこっ!」で「グッ!」なのだろうか。好きと想ってくれるなら、それなりの……いやいやいや。忘れると言いながら、なにを望んでいる。
やうぱり、なにも知らなければよかったのだと竜児は思う。なにも知らずにいれば、こんなつまらないことを考えず、「北村が好きなんだな」と苦笑いしていればすんだ。
「この程度で済んだのって北村くんのおかげだよ、助けてくれてありがとうね!」
「いやいやいや……いやいや」
手をパタパタを顔の前で振りつつ、北村はゆーっくり両目を動かし、竜児のツラを見やる。竜児はそっぽを向いて知らぬ顔をする。それは「なぜだ」とは関係なく、だ。
大河は男子二人の微妙な表情に気づきもせず、
「北村くんはなんでここにいるの?」
「えっ!? いてはいけないのか!?」
ずこー! と竜児も古式ゆかしくコケたくなる冷たさ。北村の存在の理由を不意に問うのだった。
「違う違う、そういう意味じゃないよ。さっき、みのりんは部活のグラウンドの使用なんとかを取らなきゃ、って張り切って出ていったからさ。サッカー部には負けられない、とか言って。北村くんも部長じゃん」
ああそういう意味……と北村は立ち直り、ショックのあまり斜めに傾いだ眼鏡を中指で押し上げる。
「実は先日、男子ソフトと女子ソフトは統合されて、櫛枝が正式に部長になったんだ。で、俺は役職を降りた。部員は続けているけど、生徒会長との兼任はいい加減無理が出てきて」
そーなの? そーなの。などと、大河と北村はにこやかに言葉を交わしていた。竜児はそ知らぬ顔で、めんつゆだけで炊いた手抜きたけのこを口に放り込む。
「それにしても、逢坂が無事に学校に出てきて安心したよ。一週間も学校を休むなんてどうしちゃったんだ一体。みんな心配してたんだぞ〜」
「ヘへへ。ちょっとね」
大河がちらりと竜児に視線を投げる。さぼっていただけってことは他言無用、そう言いたいのだろう、秘密を共有する目でわずかに口の端を曲げてみせる。わかってるよ、と目配せで答えて、飲みかけの生ぬるいウーロン茶を竜児は飲む。
あらゆる秘密や隠し事を、こうやってゴクゴクと飲み込み、腹にしまいこみ、なかったことにできたらいいのに……なんてことも思う。そうできたら、物事は多分もっと簡単に進む。こんなしょぼくれエンジンの自分だって、つまらない野郎になんかならずに前進できる。
多分。
「高須ー、ゆりちゃんが呼んでるよー!」
戸口からクラスメートに声をかけられ、「おう!」と答えて立ち上がった。
弁当の蓋は閉じないで、大河に顎で席を指し示す。
「おまえ昼、持ってきてないだろ。……ほとんど箸つけてねぇから、食ってよし。今日はなんか食欲出ねぇ」
「え。でも」
ちょっと困ったように弁当を見下ろす大河に、北村が「いただきなさいよ」とおばちゃんのように微笑んでみせる。
「……お箸ない。あんたの箸じゃやだ。割り箸ちょうだい」
「この世に割り箸なんてものは存在しないと思え。その代わりに、破壊されゆく熱帯雨林が存在することを俺はおまえに知って欲しい」
「わあうざい……! 一週間ぶりに、あんたのうざさがこの全身を駆け巡るようだわ」
「そのままが嫌なら洗って使え」
エコ野郎ー、と声を上げる大河を振り返らずに教室を出た。歩きながら考える。女子に食べていた弁当をあげるなんて、傍から見たらおかしい行為だろうか? ……おかしいか。おかしいだろう。でも、本当に以前のままの、変わらない自分たちなら、普通にそんなこともしていたと思うのだ。あげてもないのに奪われたこともあった。
だったら、今も前と同じに、そうするべきだと竜児は思った。なにも変わらないと言い張るならば、まずは自分が自分にそれを行動で見せなくてはいけない、と。
***
昼休みの真っ只中、教員室にはちらほらと他の生徒たちの姿もあった。教科書片手に授業の質問をしている熱心な奴もいるし、人気のある若い男性教師の席の周りには数人の子が弁当を広げて陣取っていたりもする。それなりに賑々しく盛り上がる教員室の前方、二年生を受け持つ教師たちの島の隅に、
「どうして提出してくれないの? とってもとっても大事なことなんですよ……」
独身(30)こと恋ヶ窪ゆりのランチである、出前のうま煮そばが鎮座していた。丼《どんぶり》に替かけられたままのラップの内側は白くくもって、今この瞬間にも麺は着実に伸びているだろう。竜児にも容易に想像がつく。
「みんなちゃんと提出してるのに……珍しいじゃない、高須くんが忘れ物なんて……」
ちら。ちらちら。
恋ヶ窪ゆりの視線は、不安そうに伸びゆくうま煮そばへ。いけないいけない、と我に返ったみたいに竜児の顔を見直し、しかしまた、ちら、と。
「……食べてください。ちゃんと話は聞いてますから。麺が伸びてしまいます」
「えっ! いえいえ、いいのよ、高須くんだってお弁当まだ食べてなかったでしょう? なのに先生だけずるずるーなんて、そんなことできません」
「……昼はもう済みましたから、マジで食べてください。かえって気になるんで」
「そ、そう? ごめんね、あんまり時間なくて、やらなきゃいけないこといっぱいいっぱいあってさ」
巻いた髪を器用にヘアクリップでハーフアップにし、ラップを剥がし、竜児の見守る申で独身担任は箸を割る。しかし「へっへっへ」とにこやかに麺を手繰《たぐ》りかけてその手を止め、
「……あのー、ほら。修学旅行のこととか、あったではないですか。逢坂さんの行方不明事件が」
「はあ……」
丼の底からつまみ出したきくらげをつつきつつ、言うのだ。
「だからね、高須くんは逢坂さんのことがもしかしてすごく心配で、心配しすぎて、結果としてちょっとこう、頭のネジが……緩んでしまったのではないかしら、とか、思ったんです」
気遣わしげに目をパチパチさせつつ、そんなことを。
頭のネジが、だと――担任の教師からそんなことを言われる日がくるとは思わなんだ。さすがの竜児も口ごもり、二人の間に気まずい沈黙が落ちる。ごまかすみたいに恋ヶ窪ゆりはきくらげを口に放り込み、
「……だってほら、はふはふ、最近ぼーっとしていることが多いし。実際こうして忘れ物もするし。先生は本当に高須くんのことが気がかりなんです。こう……心のケア、的な? そういうのが必要かしら? とか、思ったり」
おちょぼ口にした唇で、ちょっとカサの増えた麺を畷《すす》る。それを見やりつつ、竜児は低い声で重々しく答える。
「……色々、あるんです……!」
跳ねたスープが、教科の資料に紛れて机に置かれた無料の不動産情報誌にシミを作る。きっ、とそれを睨み、竜児は口をへの字に曲げる。この世にある、ありとあらゆる無料のこの手の配布物が、竜児は僧い。お得だなんて思わない。こういうものは広告主義に汚染された、資源の無駄遣いでしかないのだ! わあタダだぁ〜、などと不必要なのについついもらい集めていりゃ当然に部屋も片付かなくなるし! 捨ててしまえそんなもの! ていうかハナからもらうんじゃねー! 叫びながらそれをゴミ箱につっこもうとする腕を、竜児はグッともう片手で押さえ込む。暴れるな、俺のエコ魂……!
「色々あるのが、でも、普通ではないですか! それをいちいちケアしてもらう必要はないんです! それに進路希望の調査表を提出できなかったのは、頭のネジが緩んでいたからではなくて、親と意見が合わなくてまだ調整中だからです!」
「あ、そう……?」
「そ、う、で、す!」
珍しくも少々反抗的に唇を突き出し、竜児はうま煮そばなぞすすっている担任を、暗殺任務を帯びた鷹《たか》のような目つきで見下ろした。この独身(30)め! 出前モノばっかり食いやがって! 塩分過多だ! おまえはいずれ変な不動産を高値掴みするだろう! ……などと思っているわけでもなく、言ったことも嘘ではなかった。
ちゃんと昨日、豚肉のみぞれ鍋を泰子と食べつつ進路の話はしたのだ。来年のクラス分けの資料として、進路の希望を書いて提出しないといけないんだけど、と。
泰子の答えは「がんばってべんきょ〜しまんす! って書いておけばいいんだよ☆」……であった。いやでも、とより現実的な話をしようとしたが、夕食が遅れてしまったせいで泰子には時間がなく、それきりバタバタと仕事に出ていってしまった。朝の登校前はもちろん爆睡中で起こすどころか、部屋中にこもる酒のにおいにこっちまで酔っ払いそうでとても話なんかできたもんではなかった。
それでもマザコンな……違った、真面目な竜児としては、きちんと泰子と話し合いをして、意見を家庭で統一してからプリントを提出しようと思ったのだ。学校のことだし、進路のことだし、真摯な姿勢でちゃんとしよう、と。それを頭のネジのせいにされてたまるか。
「そっかそっか」
ナルトを口に放り込み、恋ヶ窪ゆりはすっかりむくれてしまった竜児をとりなすみたいに箸を振ってみせる。
「まあ、高須くんはとっても優等生だから、そんなに心配することもないんだけどね。期待が大きい分だけうるさく言いたくなっちゃうものなんです、教師という生き物は」
「期待?」
わずかに眉を上げ、そこを復唱した竜児の表情をサーチするみたいに担任の目が動くのがわかった。
「しないでください。うちは貧乏ですから」
なにか言われそうな――と言ったそばから身構えるが、しかし担任はなにも言わず、そのまま箸を丼の縁に置く。にこっ、と意外と食えない笑顔を向けてくる。
「とにかく、できるだけ早く、持ってきてくださいね。うちのクラスは未提出の人、高須くんと逢坂さんだけだから」
「大河も? ……なんで俺だけ呼び出すんですか」
「だって逢坂さんにプリント渡したのついさっきだもの。高須くんも色々あるんだろうけど、それはそれ、これはこれだからね。お母様とちゃんと時間を作って話をして、ちゃんと自分のことを考えて下さい」
***
教員室を辞して廊下を歩き出しつつ、我知らず溜息を一つ。
教室へ戻る足取りはなんとなく重く、竜児の足は今にも止まってしまいそうになる。その足の重さが、まんま今の自分の状況を表すようでうんざりもする。
それはそれ、これはこれ、と担任は言うが、そんなに簡単に割り切れるものではない。なにも変わらない、という態度を貫きながら、一方では変わりゆく未来のことを想像する、なんて器用なことは上手くはできない。しかも泰子とは根本的に意見が合わないのだ。泰子は高須家の経済状態をあまりシリアスには考えておらず、夢みたいなことばかり言っている。それを説得するなんて――大変だ。気が遠くなる。
「……はあ……」
くら、と揺らめく頭を右手でそっと支えた。
卒倒しそうな心地のわけは、多分、ここ数日の寝不足のせいだ。ただでさえ心的景色は足踏み状態・停滞中の状況であるのに、さらに進路問題まで精神的負荷として付け加えられてしまったではないか。
教室に戻るはずだった足は、人気のない渡り廊下へ向かっていた。一緒に弁当を食べているだろう北村と大河の前に戻るには、まだ、もうちょっと休息が必要だった。二人とともにいるならば、またウソを重ねなくてはいけないかもしれない。
体育館へ続く渡り廊下の真ん中で、竜児は息もできない心地、自然と外気を求めて締め切られていた窓を開く。肺が痛くなるほどに冷え切った酸素を胸いっぱいに吸い込み、鯉《こい》のように口をぱくぱくさせる。
息を吸っても吸っても苦しくて、窓の外に顔を突き出しているのに閉じ込められているような気分だった。あの吹雪の場面から、今日もまだ這い出すことができない。
大河の告白は、忘れてしまおうと決めたはずだった。大河には告白する意志はなかったのだから、自分が忘れることですべては元通りになると思ったから。
でも、忘れてしまおうと決めたって、本当に忘れることはまだできない。上手に忘れた素振りをするにも、もうちょっと時間が必要だ。そして自分だけがそんなふうに「なかったはずのもの」に囚われている間にも、時は進んでしまう。みんなは前へ進むのに、自分だけが足踏みしているのがわかる。進路のことだってそうだ。あらゆることで、こうやって置き去りにされていく気がしていた。
こんなことでは、多分ダメなのだ。自分でもわかっている。あらゆる間題に対して場当たり的に綻びを繕うばかりで、能動的なことは何一つしていない。正しい方を選びたいとは思う、でもなにが正しいのかもわからない。
本当に、担任の言うとおり、頭のネジが緩んでしまったのかもしれないと思った。なにしろ己はあの高須泰子ちゃんの息子なのだ、ネジやバネをそこらにぽろぽろ落としてしまっていても気づかなかったのかも。
「俺は……もしかして、ものすごく、ダメ人間か……?」
しっかり者だと自分のことを思っていたのだが――美化されていた自己像が崩れ落ちる。あとにはなにが残るという。本当の自分、ってどんなのだ一体。
「……あああ〜……」
独り言の危ない魔少年が一人、窓枠にしがみついて呻いているばかりであった。しかしサッシの溝が目に入る。埃や小さな枯葉がみっしりと詰まっていて、こんなところに顔を押しつけていたらじんましんが出そうな気がしてくる。ポケットからティッシュを取り出し、何気なく人差し指に巻いて、「あああ〜……はあ〜」つつ〜、と姑の如く溝をなぞる。
なんて暗い奴……自覚はあるのだ。
そしてこんな自分と正反対の人物像が、くっきりと脳裏に浮かんでくる。櫛枝実乃梨だ。
出会ったばかりの頃から、明るい奴だと思っていた。ヤンキー疑惑のあった自分にも屈託のない笑顔を向けてくれて、竜児には、それがコンプレックスだらけだった自分の目指すべき姿に見えたのだった。禍々《まがまが》しいツラを誤魔化そうと俯いてばかりの自分に比して、実乃梨はいつも正々堂々、太陽を見上げていた。その姿がまるで、まっすぐに咲く黄金のひまわりみたいだと、いつも思っていた。だから憧れたし、恋もした。
そして今、改めて思い知るのは、実乃梨のタフさ。明るい、優しい、かわいいばかりではない、頑《かたく》ななほどに己の道を突き進む意志の強さ。時には周囲の奴(たとえば俺だ! )を傷つけてでも、実乃梨は自分を曲げなかったし、立ち止まりもしなかった。……ように、竜児には見えた。太陽に向かって生き生きと花弁を開いていたのは、お天道様を見上げて咲く健気なひまわりの花……なんかではなくて、太陽を撃ち落とそうと狙いを定めた、鋼鉄のミサイル発射装置だったのだ。
実乃梨への片想いを自ら断ち切ったのは、そういう姿を間近で眺めて「ついていけない」と――悪い意味ではなくて、本当に自分なんかでは彼女のタフさにも、人生を歩み進むスピードにも、ついていけないと思ったから、だったのかもしれない。だが、恋心の炎は吹き消されても、もう「いつか」なんて希望は抱けなくても、
「……櫛枝、おまえには……」
あんなふうになれたら、という思いは日々募る。
結局、理想であり、憧れなのだ。ああいうふうに生きられたらと思う心は変わらない。
「……俺のことなんか、カスみたいに見えてるんだろうな……」
「そんなことネーヨ」
「えええっ!?」
驚きのあまり、振り向く速度に身体がついていかなかった。きゅきゅ!! と上履きをアホみたいに鳴らし、そのまま竜児は床に尻餅をつく。
「……ど、どこから聞いてた!?」
「『櫛枝、おまえはうんこたれ蔵、俺のことはカスケードだと思ってるんだろうな……』ってところは聞かせてもらった」
真剣なツラで眉間にかすかな皺を寄せ。勝気な瞳を黒々と光らせ、
「だから、そんなことはありませんよ、って。我々は馬ではない」
一体いつからここにいたのか。実乃梨は竜児を見下ろす姿勢でそうきっぱりと断言し、力強く頷いてみせてくれる、が。
「どういう耳してるんだよ……!」
思わずそのまま腰も砕ける。もはや「ときめきハァト」なんてのんきな言葉ではもう表現できなくとも、心臓はどうしようもなく今日もざわめく。どうしてこんなタイミングで、よりにもよって実乃梨が現れてしまうのだ。しかもなにを寝言を言っている。馬だのうんこだのなんの話かわからない上、
「そうは言いつつマスタングスペシャルなーのね!! んあー!」
「落ち着け! (おまえは)危ない! 落ち着くんだ!」
だだーっ! と意味不明に駆け出そうとする実乃梨の正面に躍り出て、思わず両手を広げていた。正しく暴れ馬の前に飛び出した状況、しかし校内であんな走り方をしたら確実に事故が起きるだろう。
「えー? なぜ止めるのよ、普通に教室に帰ろうとしただけなのに」
「建物内であんな走り方する奴はいねぇんだよ! 絶対普通じゃねぇ!」
思わずポロリと出た本音に、「言いよったあ〜」……実乃梨は甲高く吟《ぎん》じながらその場でぐりぐり方向転換、腕を振ってロボットダンス。竜児はちょっと言葉を見失う。最近は忘れがちであったが、そうだった、この人はこういう人だった……。
「なーにもーどうしたの高須くん。ほら口からエクトプラズマなんか出してないで、ユーも教室戻ろうぜ。そもそもこんな辺境の地でなにしてたのさ?」
「……おまえこそ、こんなとこでなにしてんだよ。……もしかして俺をストーキングしているのか?」
それはおどけに徹する実乃梨に少しは合わせようかと、竜児精一杯の冗談だったのだが、「なに言ってんの」
こんなときばかり不意に正気、実乃梨は呆れたみたいに竜児を見返す。
「私は体育教官室にミーティングルームの鍵を返しにいってたところ。その帰り道。高須くんがここにいる方がナゾだって」
「俺は、」
俺はおまえのようにはなれないから。
おまえのようにパワフルに新しい日々を前進できないから。色々なことに囚われて、ここでいつまでも一人で足踏みしているんだ。――とは、とても言えるものではなかった。
「……俺は、さっき恋ヶ窪に、『頭のネジが緩んでる』って言われて、ここでショックを噛み締めてたんだよ」
「ええ? ネジが? な、なんで?」
「進路希望のプリントを提出しなかったから。それと、昨日の……寝惚けての発言で、随分心配をかけたらしい」
「ああ、ドリーム&クライね」
「……なんだそれは。女子の間ではそんなこと言われてんのかよ……」
実乃梨はしかし、決して竜児をからかおうとしているわけではないようだった。窓辺に歩み寄って冷たい外気に白い息を吐き、竜児を振り返る。
「大河が、無事に戻ってきてよかったよね。よかよか。よかたい」
口をちょっと曲げて笑ってみせ、そして、
「あのときさ。高須くんたちがついてきてくれなかったら……私一人で大河を捜しにいってたら、今頃どうなってたんだろうね。大河どころか、私まで遭難してたかも。いろんな『if』を想像しちゃって、私もドリクラしそうになるよ」
「……おまえも?」
そーさ、と、実乃梨らしいような、らしくないような、微妙な声音《こわね》で頷いた。
頬を切るような寒さの中、竜児は実乃梨とちょっと距離をおいて、隣の窓辺に肘をつく。二人して同じポーズ、肩を丸めて震えつつ、だ。表から見ている奴がいたら、結構おもしろい眺めかもしれなかった。
凍った薄雲がところどころにシャーベットみたいにかかった空は、一応晴天。しかし今日も北風は凶器のよう。窓の向こうに視界を遮る建物はなく、町並みは随分遠くまで見えた。くすんだ色の住宅街、一軒屋やアパートの屋根がずっと向こうまで続き、河で一旦分断され、さらにもっと向こうには清掃工場の煙突が二本。赤と自のシマシマに塗り分けられた巨大な筒からは、空へ向けて煙がモクモク出ている。環境的にあれはオッケーなのだろうか。
「私一人で、助けられるって思ったんだよ」
傍らの実乃梨の口元から、言葉と一緒に真っ白い息が昇っていくのが見えた。その息が溶けて消えていくのを、竜児は横目で眺めた。実乃梨が話しているのは、あの大河の事件のことのはずだった。
「でも実際は、あんな崖に落ちちゃってて。とても私だけでは助けられなかった。あのとき判断を間違えなくて、本当によかった。……それ以前に、私だけじゃ大河を見つけられなかったか。高須くんはよく大河が落ちているところがわかったね」
「それは――」
キラリ、とあのとき光って、大河のもとに自分を導いてくれたのは。
「――ヘアピンが、雪の中に落ちているのが先に見えたんだよ」
実乃梨が、窓の外から覗き込むように首を伸ばしてきた。目と目が合って、竜児は思わずそっぽを眺める。だけど実乃梨が視線を外してくれることはなくて、
「あのヘアピンは、大河から私へのプレゼントじゃなかったんだよね。高須くんが、私にくれようとして、渡せなくて、大河から私のところにきた。そうだよね。予想によると……イブに会った時、プレゼントしてくれようとしてたのかな」
「……っ」
唐突にど真ん中。
竜児が声を失くすのも前もってわかっていたみたいに、うんうん、と実乃梨は頷いて、その無言の間隙を埋める。正確には、イブには持参できなかったからその予想はハズレだ。でも、そう言うことはもちろんできなかった。竜児はただ、実乃梨の顔を見返すだけだった。
やっぱり――なんだってわかっているんじゃないか。そんな感慨とともに。
「どうして……それを」
「とある筋からの情報提供もあったのだ。ていうか、ごめん。最初は本当に、わかってなかったのよ。本当に、大河からのプレゼントだと思ってたの」
なにがごめんなのか、竜児にはしばらく理解できなかった。実乃梨はしかしあくまで真剣、太陽をも撃ち落とせるまっすぐな視線を、竜児の目から外してくれない。
「あ……あのピンを、しばらくつけていたことを、もしかして、謝ってるのか?」
「そうだよ」
私は記憶喪失。クリスマスイブのことなんか覚えてないの。だから高須くんも以前と変わらずお付き合いしてよね。……これまでずっとそんな態度を貫いて、竜児を傷つけ続けた実乃梨が、初めてイブの夜の話をしていた。あの夜に、竜児の気持ちに、向き合ってくれていた。
「受け取らないって決めたのに、それで傷つけたのに、あれを高須くんの前でつけてたことを謝りたかった。ごめん。本当に」
「そんなこと……」
竜児を傷つけたことを――あの夜に告白をさせてはくれなかったこと、でも竜児の気持ちは理解していたこと、その上で拒んだこと、そしてそれを今も忘れていないことを、認めてくれたのだった。
「……急に、それを謝りたくなったのは、……大河が学校に戻ってきたからか?」
竜児の言葉に、実乃梨はなにも答えなかった。ただ瞳だけを光らせて、真冬の空の下、髪を風に散らされるのに任せていた。
実乃梨も同じだったのだろうか、と不意に竜児は思った。全力で前進しているようにしか見えなかった実乃梨もまた、竜児と同じに、足踏みしているような感覚を味わっていたのだろうか。もしかしたら、あのイブの夜からずっと。
そして大河が元気に戻ってきたことで、ケリをつけようと。
竜児を振ったことを認めて、傷つけたことを謝罪して、全部わかっていたことを言外に告げて――それが実乃梨の「前進」なのか。
「あのヘアピン、今はどこにあるの?」
何気なく実乃梨が問うのに、何気なく返そうと思った。
「俺の部屋にある。使うか?」
「ううん。使わない。私はあれを、もらわない」
そう言うと思った。
――と言って、笑ってみせたかった。
ケリをつけた実乃梨に、俺だってケリをつけたんだ、と言いたかった。しかし、
「俺は……」
息が漏れる。
「……おまえが、羨ましい」
偉大なるステップは、いまだ踏み出せない。実乃梨のように前進したかった。だけどまだできない、そんなに上手には歩けない。吹雪の中から這い出せない。
あの声を本当に忘れることができない限り、竜児はまだ、前へは進めない。
「どしたの。なに、いきなり」
「色々なことに囚われて……俺は、置いてけぼりだ。忘れたいことがあって、でも、忘れられない。それで……」
擦った目蓋の裏には、今もあの吹雪が。舞い狂う氷の切片と、その中で弱々しく閉じられていた目蓋、睫毛の下から零れた涙が。そして、
「……苦しくてたまんねぇ」
耳元に響いた声が。一人で生きる、想いは永遠に封じる。そう決めた底なしの孤独の中で、大河が漏らしたただ一度の本音だったのだと思う。残響は胸の奥に、頭の芯に、今も鳴り止むことはないのだ。
「忘れたいのに忘れられないのはね、」
ぽくっ、と実乃梨の拳が、ちょっと荒っぽく伏せた竜児のツラの頬を真横からつつく。
「忘れたい、って思ってる時点で、すでに忘れられないことなんだから当たり前なんだよ。忘れてしまえるようなことだったら、人間そもそも覚えてねぇ、っつーね。忘れられないから忘れたいんだよ。それを苦しんだってしょうがないって思う」
「……でも。忘れないと、いけねぇんだ。……忘れて欲しいって、思われてる」
実乃梨の指を押し返すみたいに、顔を向けた。実乃梨は「なにが」とも「誰が」とも尋ねず、ただ竜児が一人語りに語るのを聞いていてくれた。
「だから、忘れたいんだ」
語った言葉は、完全に正確とは言いがたいかもしれない。大河は「忘れて欲しい」と思っているわけではないのだ。最初から「伝える気がない」のだ。想いを告げることもなく、永遠に封じ込めて、それでいいと思っているのだ。
だから――だから。だから、忘れようと――
「……俺がおまえを羨ましいと思うのは、前向きだからだ。ちゃんと前進してるからだ。どうすれば、そんなふうに前向きになれる?」
ちょっとだけ黙って、実乃梨は竜児の両目を静かに見返していた。やがて唇をすぼめ、白い息をふっと吐き出し。
「『決める』ことだよ」
にっこりと笑みを浮かべる。
「自分で進む方向を決めること。それが定まらなかったら、そもそもどっちが前なのかもわからないじゃん。高須くんは、どこに向かってるの? 行きたいところはある? それがなけりゃ前進できないぜ」
向かっているところ。
行きたいところ。
そう言われて、竜児は改めて返すべき答えがないことに気がつく。
向かっているところも、行きたいところも、自分にはわからない。そもそもそんな目的地が、自分の中には存在していないのかもしれない。どういう事柄についてにせよ、夢や希望や、そういう能動的な欲望があふれ出る根源みたいなものが、自分の中には存在しないのかもしれない。少なくとも自分では感知できない。
ああなるほど――前進なんか、できないわけだ。どこにも辿り着けないに決まっている。思わず天を仰いでいた。
「……櫛枝は、自分がどこに向かっているのか、わかるのか?」
「もちろん!」
迷いなく答え、実乃梨はぴょん、と竜児の背後に軽いステップで躍り出た。スカートが翻るのにも構わず、大きな動作で、鮮やかな投球モーション。アンダースロー、髪が肩の上で跳ねる。実乃梨の眼差しは廊下の先、見えないボールの行く先を追うみたいに遠くなる。
そんな目ができる奴が、今の竜児には、なによりも羨ましかった。
昼休みも終わる間近、廊下には行き来する生徒の数も少なくはなかった。竜児と実乃梨は長すぎた立ち話で冷え切ってしまい、ともにカタカタ震えながら階段を下りてきて、そしてほとんど同時にその人物を見つけていた。
「おっ。あーみん!」
|川嶋《かわしま》|亜美《あみ》は、教員室から出てきたところだった。
他の生徒たちの中から、彼女の姿だけが一人すっと浮き上がるように見えた。長い手足やすらりと伸びた背、真っ白な肌、すべてが辺りを行き交う他の連中とは違った。改めて亜美という存在の異質さを、竜児は強く意識した。
うっすらと淡い光を帯びたような美貌が、実乃梨の声に気がついてこちらを見た。実乃梨は手を上げ、振って見せるが、
「……」
亜美は気がつきもしなかったかのように、そのまま行ってしまった。相手を失って、実乃梨は振っていた右手をそっと下ろした。
「……おまえら、まだケンカ中なのかよ」
「仲直り中って言ってよ。……こっちが、一方的にだけど」
実乃梨は歩みを止めずに、まるで意地のように、亜美が歩いていった廊下を進んでいく。実乃梨にも、いまだケリをつけられないことがあるようだった。
***
「その話は昨日したじゃーん」
納豆をくるくるかき混ぜながら、泰子は丸い目をさらにまん丸にして、向かいに座る息子のツラを不思議そうに眺める。
「お勉強がんばりまんするす! って書けばい〜んだよ。どうして提出しなかったのぉ?」
「話はまだ終わってねぇよ」
いつもより早めに食事の支度をし、夕食をとりながらなら少しは落ち着いて話ができるのではないか、と竜児は思ったのだった。
「もうちょっと真剣に考えろって」
「やっちゃん真剣だよ〜ん」
「うちから通える国立に受かったって、四年間、なんだかんだ諸々合わせて一干万近くかかるって言われてるんだぞ。私立しか受からなかったらもっとだ。どうするんだよ?」
「え〜? うちから通える私立なんてろくなとこないじゃん、ダメだよそんなのぉ! 竜ちゃんは頭い〜んだもん、私立なら私立でぇ、東京のい〜ところ狙わなくちゃ〜!」
納豆ばくだ〜ん! ひゅ〜ねばねば〜! ……糸を引く納豆を一粒、泰子は箸でインコちゃんの鳥かごに押しつける。「うっはー!」とインコちゃんは涎を流しながら振り返り、納豆を嘴で受け取る。食うのだ、この鳥は納豆を。
「だから、そういう話じゃなくて」
泰子の納豆鉢、ちゃぶ台、鳥かご、インコちゃんの嘴までが糸でねばーっとつながり、竜児は渋面を作って箸で宙をくるくる、糸を回収する。泰子はすっぴんにユニクロのフリース、頭もちょんまげのまま、嬉しそうに味噌汁を畷っている。目はテレビに釘付け、店のカラオケで歌うつもりなのだろう、二周りぐらい年の違うアイドルの新曲を口ずさんでみたりして。
「あっ!」
ぷつん、とテレビを消してやった。
「……要するに、うちの経済状態じゃ、進学は厳しいってこと」
「そんなことありませ〜ん」
泰予は唇を尖らせてリモコンを取り返そうとするが、竜児は素早く自分の座布団の下にそれを隠す。
「厳しいんだよ。わかれ」
「なんでぇ? そんなことないよぉ、来年三年生で、その後四年間でしょー? それぐらいの間は今よりお給料安くなることなんてないだろうし〜」
「そんなのなんで断言できる? そもそも店自体が潰れたらどうするんだよ」
「潰れないよお、お客さんいっぱいいるも〜ん」
「オーナーが別の店で失敗するかも」
「え〜? そんなのわかんないじゃあん」
「だから、わかんねぇから、厳しいっていってんだろ。……卒業したらすぐ働いて、親子二人食っていけるぐらいに収人が安定してから金貯めて、それから大学行くんでもいいし。もしくは、奨学金が丸々でるようなところがあれば、」
「そんなのだめー!」
こんなときばかり母親ヅラ、泰子はぐいっと顔を近づけてきて、大声で竜児の言論を封殺するのだった。
「竜ちゃんは、思いっきりお勉強して、ストレートでいっちばんいい学校に進むの〜! 奨学金が出るってことは、そこでは竜ちゃんが一番ってことでしょ〜? だめだめ、竜ちゃんは優秀な子がうじゃうじゃいるようなところに飛び込んでぇ、お勉強を頑張るの〜! やっちゃんと違ってできがいいんだもん、さいっこ〜の教育をうけてぇ、さいっこ〜に才能を伸ばしてぇ、そんでさいっこ〜〜〜に、幸せな人生を歩むんだよ☆ お勉強以外のことは、だから頑張ったらいけないので〜す! ほらぁ、言うじゃ〜ん……やっちゃんも学校行ってたとき、先生によく言われたんだけどお、なんだっけえ、あの……きん……たま…磨いたら……きん……たまが……よく光る……みたいな?」
「……玉磨かざれば光なし?」
「そ〜です! それでやんすがす! 竜ちゃんは来年、賢い子クラスに進んでぇ。お勉強の鬼となってぇ、塾とか予備校もいってぇ、そして受験するので〜す。わほ〜☆ どんな道に進むのかなあ〜、楽しみだあ〜! もしかして医学部〜? それとも獣医さん〜? 薬剤師さんとかぁ、歯医者さん〜? 学者さんもいいよね〜! なんか最先端の研究するひととかもいいしい、弁護士とかあ、そういうのも意外と向いてるかもお! そうだ〜外国に行っちゃったらど〜しよ〜! やっちゃん寂しい〜! でもガマンできると思う〜!」
「……」
もはや言葉も出ない。息子は無言のまま母親の顔を見つめ返し、己の納豆をかき混ぜることしかできない。にゃは〜、と母親は薔薇色の未来を夢見て、銀むつ……そっくりのメロの西京漬けを口に運んでいる。ちょっと焦げ目がついたところが大好物なのだ。 ばかたれが。
言うに事欠いて医学部だと? なにを言っている? 全国の医学部受験生とその親に謝れよ。イライラと納豆をかき混ぜつつ、泰子に現実を見せる方法を、やっと一つ竜児は思いついた。納豆の糸を箸で器用に巻き取り、断ち切り、膝立ちで行儀悪く部屋の隅の箪笥へ。引き出しを開け、通帳をつかみ出し、泰子にぐっと見せつける。
「ん〜? ……んう! 結構あるじゃ〜ん! えっへん!」
がくっとコケたくなるが、必死にこらえた。
「……あるように見えるか? この額の半分は、春には授業料で吹っ飛ぶんだぞ。さらにここから毎月家賃、光熱費、生活費、あれこれ消えて、ついでにおまえだって客商売で、服やら化粧品やらケチるわけにはいかねぇ。どんだけ切り詰めたって毎月いくらも貯金できねぇ。この状況で、どっから医学部に通うような金が出る?」
「ふぇぇ?」
「ふぇぇ、じゃねぇよ! ……ああ、やっぱり俺がちゃんとバイトして、せめて月に五万は家に入れてれば……」
「だめだよお! バイトはだめ!」
泰子は力強く右手を突き上げる。箸の先から納豆の糸がふよ〜んと宙に踊る。竜児は慌ててそれを手でくるくる、回収する。
「バイトなんかしちゃったら、お勉強ができなくなるでしょ〜! それに毎日おやこ別々、冷たいごはんなんて、そんなの生きてる意味な〜い! ぜんぜん幸せじゃな〜い! そんなこと言っちゃだめ〜!」
……と泰子が言うからこそ、今までバイトもせずに竜児は家事係に甘んじてきていたわけだが。
「おまえが進学進学言うからこういう話になるんだろうが!」
今こうなってみると、これまでの二年間という時間がもったいなく思えてくる。もしも実乃梨と同じ勢いで働きまくっていたら今頃いくら貯まっていただろう。こんな切ない言い争いなんか、しなくてもいいぐらいにはなっていたのではなかろうか。
「だいじょ〜ぶ! なんとかなるって!」
ピースサインで泰子は笑ってみせる。このツラに、竜児はずっと騙されてきた。大人の泰子がこういうのだから、きっと本当になんとかなるのだろう、とか――ならないこともあるのだ、この世には。高須竜児十七歳、もうすぐ十八歳。やっと現実が見えてきた。
親にも、どうにもできないことはある。親の言う「大丈夫」を信じてはいけない。多分泰子は今までずっと、親子二人の暮らしの中で、竜児が不安にならないように上手に嘘をつき続けてくれていた。大丈夫、なんとかなる、やっちゃんお母さんだもん、やっちゃんに任せておきな、やっちゃんがいれば全部うまくいく、……そう信じさせてくれていた。
父親がいなくたって他の子より不幸なんてことはないよ。やっちゃんはスーパーお母さんだから。ずっと若くて、ずっとかわいくて! 、それにな〜んと! 超能力もあるんだよ! だから竜ちゃんがさらわれたりしたらすぐに助けにいける。事故にあったってなかったことにできる。お金は泉のように湧いてくる。だからぜーんぜん、なにひとつ、これっぽっちも心配することなんかないよ。やっちゃんに任せておけばいいんだよ。
完璧に、永遠に、ずっと私たちは幸せなんだよ――
「……なんとかなんて、ならないと思う」
予供時代のやさしいおとぎばなしは、だけどもう終わりだ。竜児はそう思った。
「なりま〜す! ほんと〜に、やっちゃんがなんとかするから! だからさ、竜ちゃんはお金のことなんか、心配しちゃだめ☆」
能天気な笑顔で、しかし泰子は大きく頷いてみせるのだった。もうそんなのを信じる子供はいないのに。
泰子が仕事に行ってしまい、しばらく経った頃。
結局進路希望のプリントにはなにも記入できず、洗い物も洗濯も宿題も終わってしまった。ヒマで、退屈で、テレビを見る気にもなれず、英語の予習をダラダラと先まで進めていた。英単語帳に持ち前の細かさでチマチマと丁寧にスペルを書き込み、しかしシャーペンの動きが止まる。
こんなふうに勉強を真面目にして、そうしてどこへ向かおうとしているのか。行きたいところも、行くべき理由も余裕もないのに――なんて、慌てて考えること自体をやめる。一歩足を踏み間違えたら、とんでもないやさぐれの世界に転がり落ちてしまいかねない。
窓の外に目をやると、大河の寝室にもいまだ明かりがついていた。カーテンの向こうにさらに強い光源が見えて、デスクライトがついているようだった。
大河も、一人机に向かって勉強しているのかもしれない。……漫画か雑誌でも読んでるのかもしれない。ネットでもしながら行儀悪くカップラーメンを畷っているのかも。
冷たい窓ガラスに手をつき、竜児はしばらく目をこらしていた。しかし、結局力ーテンの向こうに、大河の姿を見つけることはできなかった。用があるわけではないから電話も呼びかけもしない。ただ、大河の姿が見えるかどうか、確かめたいだけだった。
想いを伝えない、ということが大河の向かうところで、竜児に背を向け、自分の想いに封をすることが、大河の前進。――ならば、大河の姿はこれからどんどん遠く、見えなくなっていくのだろう。前と変わらず、同じように、と竜児が振舞ったって、大河の方が歩み去って離れていくのだ。
向かうべき場所などないまま置き去りにされた竜児に、誰も、大河も、責任なんかとってはくれない。行きたい目的地もない奴に、誰もGOサインなど出してくれない。
「……あったりまえだな」
疲れて、シャーペンを投げ出した。
えっ、と大河は言葉に詰まった。二回ゆっくり瞬きをして、
「ケーキ屋さん? やっちゃんが?」
搾り出した声に、竜児は頷いてみせる。
「そう。月から金まで、十時から十六時。時給九百円」
「でも、やっちゃんいつも午後まで寝てるじゃない。帰ってくるのも朝の四時とか五時とか。それって」
「もちろん止めたぞ。でも勝手に決めてきて、先週からもう働き始めてる」
「……それって、大変じゃん」
大河の視線が微妙に非難の色を帯びるが、本当にその話を聞いてすぐに竜児は止めたのだ。
しかし学校に行っている間に出勤していくのを、力ずくで引きとめることはできない。
放課後の面談室こと通称説教部屋。いわゆる居残りさせられ状態で、竜児と大河は担任が現れるのを待っていた。
竜児は部屋の中央に設えられた向かい合わせの四人がけ机の前に座り、出入り口に立っていた大河は竜児から目一杯距離を取るように大回り、行儀悪く窓の下のカウンターに足をブラブラさせて腰掛ける。
四畳半ほどの密閉空間は妙に静かだった。グランドで部活をしている奴らの声もかすかにしか響かず、会話が途切れた途端、無音状態は膨張するみたいに空間を圧迫する。
「……なんか、その、」
カタタタン、と弾けないピアノを弾くみたいに、竜児は指先で机を叩く。
「いつもの、商店街の店だって。パート募集してたんだってさ。余ったケーキもらえるかもしれないし、とか……」
「あんた、それうるさいよ」
「……なに?」
「その、たららんたららん、ってやつ」
大河は窓枠に背をもたせ、竜児に向かって自分の両手の指を不器用にピクピク動かしてみせた。言いたいことは一応わかって、竜児は両手を重ねて机の上に置く。
昨日の放課後、大河はマンションの前で帰宅してきた泰子と偶然顔を合わせ、泰子が昼の仕事を増やしたことを知ったのだった。
「でもやっちゃん、なんだってまた仕事増やしたりしたんだろ」
「俺が、金がないから進学できないかも、って話をしたから。それを言った次の日には、さっそくなんとかするんだ、って仕事見つけてきやがった」
「あんたの進学資金か。……『お母さん』は大変だ」
「……俺がここに呼ばれたのはそんなこんなで進路希望のプリント、まだ提出してねぇからだろうけど、おまえはなんで残されてるんだよ」
「私も出してない。だから同じ理由、きっと」
「なんで出さねぇんだよ。もしかして、親と相談するのが嫌なのか?」
「ううん、違う違う。ただめんどくさくて忘れてた」
大河はカウンターに腰掛けたまま、身体を捻って窓ガラスに「はー」と息を吹きかける。くもったところに、人差し指でくるん、とハートを描く。
「……っ」
何気ないその落書きに、竜児はしかし律儀に反応してしまう。ぴくりと肩が震えてしまう。大河は、自分になにかを伝えようとしているのだろうか。ハートが示すのはLOVE、大河のLOVEの行き先は――
「……見て、竜児」
「お、 おう……」
「かまきりー」
「……そうか……!」
がくー! と机に突っ伏したくなる。ハート、と思えたのばかまきりの頭部、目を描いて触覚を描いて身体とカマを描き足して、その上に「KAMAKIRI!」と筆記体でネーミング。だったら、それはもう、かまきりなのだろう。ハートでもLOVEでもなんでもなく。
「あんた、かまきりって漢字わかる?」
「虫に、富むの上にチョンチョン……虫に、一郎の郎……」
「イチローのローを? むしに? それ、なんか違うんじゃない?」
顔を上げ、竜児は息をついた。このアホが――大河が、気持ちを伝えようとするわけなんかないではないか。なにを余計な想像で、一人勝手に消耗している。
「……ていうか、おまえそもそもかなりかまきりを勘違いしてるぞ。かまきりの体節はそんなんじゃねぇ。首と胸と長い腹に分かれるんだよ。羽もあるんだよ。見たことあんのか?」
「あるよ。こないだ横断歩道渡ってた。みのりんに傘の先でつつかれ回されて、走って逃げてった」
「こないだ? それ本当にかまきりか? この絵のこの体じゃ、胴の長い人間じゃねぇかよ。虫ってのは、もっと、こう、こういうところが区切れてて」
立ち上がって大河が座っているカウンターに歩み寄り、中段に足をかけて身を伸ばし、竜児は大河の描いたかまきりの絵を上からぐりぐり指で修正してやる。
「あー! 私のKAMAKIRI! が!」
「そんなたいしたもんかよ」
竜児の指の腹がなぞった跡が、水滴になって冷たい窓を滴り落ちる。ハー、とさらに息をかけて、妙にリアルなかまきりの形を上書きしていく。元小学生男子を舐めるなよ。伊達にビニール袋一杯にバッタを集めて部屋の隅に忘れて放置、泰子を泣かせたりはしていないのだ。
「で、羽根がこうなってて、腹がこう、ぐーんと長くて」
「うげー、なにそれ! ちがーう! そんなの変! 絶対そんなんじゃないって!」
竜児のかまきりを脇からいじろうとする大河の白い手を、傾けた肩でガード。
「こうだっての。で、この腹のところから、ハリガネムシがにゆる〜〜〜〜」
「な、なに!? その一本線なに!? なんでそんなところから伸びてくるの!? すっごい気持ちわる!」
「そう、気持ち悪いんだよ! ハリガネムシってのは水につけるとな、こう――おうっ!」
「わあ!」
ガッタン! とすごい音を立てて、竜児が体重を乗せすぎたカウンターの中段が外れる。ハリガネムシの恐怖を伝えようと興奮した拍子、かけていた足で板を踏み抜き、跳ね上がった板のカドが脛《すね》を袂《えぐ》り、
「いっ……てぇぇぇ……!」
「わああびっくりした! 世界で一番アホなケガじゃん!? うわー、あんた、血が……」
カウンターに座り込んでめくりあげたズボンの中はすりむけて、確かに血が滲んでいる。かすり傷だ、ティッシュでちょっと押さえておけばいいだろう。
「くそ、ハリガネムシの野郎……! あのときだけでは済まず、今なお俺を呪うのか」
「あのときってなに?」
「ガキのとき、公園の沼で初めて出会って、カマキリを放り投げて逃げようとして足が泥にはまったんだよ! 履いてた靴は回収不能、裸足で家まで帰る羽目になった」
「ていうかあんたのガキの頃って……小学生……つまりランドセル……」
なにを想像したのか、あは、あは、あは、と大河は唐突に腹筋を引き攣らせて笑い出す。口を覆ってチラチラ竜児の方を見つつ、「その顔で」……放っておけ。
「笑うんじゃねぇよ、誰にだって小学生時代はあるだろ!」
「あんたのは特別なの! ……あはは、見てみたい!」
大河の腹筋笑いが腹立たしくもあり、くっそ、と竜児は尻をずらし、カウンターの反対側のはじっこに移動する。なおも大河は笑い続け、「私より小さい竜児」などと呟き、楽しそうに小さく手を叩く。
好きな奴の小さい頃のことは特別――だ、とか。
一人で喜ぶ大河の横顔をちょっとだけ盗み見て、竜児はそんなことを想像していた。竜児のガキの頃の思い出話や、こんなちょっとした日常のやりとりを、大河はこうやって自分の中でだけ、大切に楽しみ続けるのだろうか。
(どうしたって、竜児が、好きだもん)
誰にも告げずに自分一人で、誰にも見せない笑顔で、繰り返し想うのだろうか。繰り返し、繰り返し、年月の中で忘れて消えてしまうまで――
「……いつまで笑ってんだよ」
「あー、私ばかみたい、ちょっとハマっちゃった。ん! そういえばあんた――」
たっぷりと距離をとった同じカウンター、真横の直線上、大河は笑顔のままでポン、と手を叩き、竜児の方へ顔を向ける。
「みのりんのラーメン屋さん、私ハマっちゃった! あんたも行ったんでしょ、みのりんが言ってたよ!」
「あぁ……おまえ、行ったのか? 誰と?」
「一人だよ。おいで、ってみのりんに誘われて、最初は抵抗あったんだけどカウンターに座っちゃえば大丈夫だった。なにあれ、おいしい! 湯きりの熱湯飛《ねっとうしぶき》沫は危ないけど」
「六道輪廻な」
「普通のラーメンににんにくトッピングが最高! もう三回行っちゃったよ。あんたは一回だけ?」
「そう。春田と能登と行ったきり。すっげぇ行列だから」
「もっと行けばいいのに! 六時前ならそれほど並ばなかったし。みのりん、『高須くんたちは一回来たきり、その後は来てくれないんだ』って嘆いてたよ」
……よかったじゃん、と、言外に匂わせて、大河は肩を疎めてちょっと唇を曲げてみせる。よかったじゃん、みのりんに意識されてるよあんた。
それを口に出さないのは、竜児が助けを求めるまではもう手を出さない、と決めているせいだろう。返事はなにもしないまま、竜児は大河の顔を見返した。
竜児が手渡せなかったプレゼントのヘアピンを実乃梨に渡してくれて、雪の上に落ちたそれを捜して、崖を踏み抜いて、吹雪の中で行方不明になった大河の表情を見たかった。
竜児が好きだもん、と囁いたことも忘れ果てて、実乃梨とのことを今日も気にかける大河の心が知りたかった。その少々おせっかいな優しさが好意の発露だとは理解できても、そうする大河がなにを思っているかが、竜児は知りたかった。もしも傷つき、血を流しながらそうしているのなら、そんなことはやめろ。するな。そう思っていることを伝えたかった。
大河は竜児が返事をしないのを気にはせず、細い身体を捻って、窓ガラスに額を押し付けるようにして外を眺めた。
伸びかけた前髪が鼻先まで届いて、額から顎先までを結ぶ精緻《せいち》な横顔のラインがほの白く光る。わずかに目を伏せてどことも知れぬ先を見つめるその表情は、小柄すぎる身体に比して、意外なほどに大人びていた。窓ガラスに触れた指先にも子供のような丸みはなくて、楕円形の瓜の先まで、ほっそりと、しなやかに伸びていた。
かまきりの落書きは、窓を伝う雫になって、とっくに全部流れ落ちてしまった。
櫛枝は絶対に俺を好きにはならない。それを今また言ってみたら、大河はそれを否定するのだろうか。そんなことはありえない。みのりんはあんたを好きだから。まだそんなふうに言うのだろうか。みのりんはやっぱり私とあんたのことを誤解しているのよ――と。
おまえが俺を好きだと知っているから、櫛枝は俺のことは絶対に好きにならないと言ったら……じゃあ、あんたを好きなのはやめる、と、即座に大河は言い返すだろうと思えた。失恋大明神にお願いして、好きな気持ちを消してもらうからいい。
それが叶わなかったのが――そうか、正月の、北村との……いや、北村への初詣、か。イブに破れた実乃梨と竜児の仲をもっともっと応援するために、自分の気持ちはなかったことにしよう。と。
竜児はなにも言わないまま息を詰めた。大河の整えられた爪の先が薄く透けて、光を通しているのをただ見ていた。
大河が行方不明になったときはあれほど明確に思ったのに。もう二度と大河の手を離しはしない、傍からそれがどんなに奇異な関係に見えたって、こんな思いをするぐらいなら絶対に大河から離れない。確かにそう決めたはずなのに、
「……遅いよ、恋ヶ窪ゆり」
大河は足をブラブラさせながら、小さく文句を漏らす。
目を閉じ、竜児は不意に身体を凍らせる吹雪に耐える。
こんなところに自分を一人ぼっちで置き去りにしたのは、大河だ。
この手を離し、どんどん離れていこうとしているのは大河なのだ。
己の心臓の音が耳の奥に熱く響いた。そのせいで、耳が、喉が、痛かった。顔もなんだか妙に熱く、さりげなく両手で頬を押さえた。
「もー人のこと呼びつけておいて、一体あの独身はなにやっ――わあぁ!?」
「うおっ!?」
その瞬間。
ガッタン! とさっきよりももっとすごい音を立て、カウンターの天板が前方に外れて傾き、竜児と大河はそのまま床に転がり落ちる。高校生二人分の体重に耐えかねて、カウンターはついに壊れたのだ。「ななななにが起きたの!?」……ゴロン、と受身をとってきれいに前回り、一回転してちょこんと座ったポーズで、大河はいまだに今の状況を理解できてはいないらしい。竜児は竜児で膝からガッツンと着地、じんじん痺れる皿を撫でまくるのに夢中で解説などできる状態ではない。こういうときに運動神経の差が出るのかもしれない。
声もなく「〜〜〜!」と呻いて痛みに耐える竜児の目の前で、そのときドアが開かれた。
「待たせちゃってごめんなさ……あっ! 備品を壊した!」
説教部屋に入ってくるなり、ガーン! と口に出し、恋ヶ窪ゆりこと独身(30)はわざとらしく、手にもっていた筆記用具を床にばら撒く。そのセンスがもう前世紀の遺物だ。
「違う! ボルターガイストが起きたの!」
遺憾だわー! と騒ぐ大河の手を掴んで立たせてやりながら、独身担任は溜息をついてみせた。「どうするのこれ〜」と眩いて外れた中段の板をちらっと見やり、「だめだこりゃ」もう一度、もっと大きく溜息。
「まったくもう、あーあ、こんなにしちゃって! さてはあなたたち、二人でここに乗ったでしょう!」
知らない知らない、と竜児と大河は呼吸もぴったりに顔の前で同じ仕草、片手をぶんぶん振ってみせる。しかし窓の落書きの跡は誰が見たって動かぬ証拠、もはや水の筋にしか見えなくても、恋ヶ窪ゆりにはカウンターに起きた悲劇の原因はすべてお見通しだろう。呆れたみたいに問題児二人を見やって、
「しょうがないなあ……ほら、ちゃんと席につく!」
いつもより強面《こわおもて》三倍増しに声を上げるが、
「いやだ! あっ、もう四時過ぎた! 下校時間だから帰る!」
大河には通用しないらしい。
「だめだめだーめ! すぐすむから!」
いーやー、と大河は子供のように駄々をこねつつ、不機嫌マックスにぶすったれ。独身担任に手を掴まれて、竜児の隣のイスに座らされる。反抗的に足を組み、ぷいっと窓の外に顔を向ける。もー、と向かいに座って、独身担任も顔をしかめる。
「なんの話かわかりますね? あなたたち二人、どうしていつまで経っても進路希望調査に答えてくれないの?」
「……俺はその、すいません、まだ、親と意見のすり合わせ中で」
気まずく答える竜児の傍ら、大河は返事もせずに鼻の下をぽりぽりと掻いて他人事ヅラを貫いていた。
「高須くんも、逢坂さんも、成績はいいんだからとにかく文系か理系かだけでも選択してちょうだい。多分二人とも自動的に選抜クラスに割り振られるから」
「いや、それは……ちょっと待ってください。ほんとに」
「高須くんは経済的な事情で迷っているって言っていたよね? でも、これはあくまでもクラス分けのための調査で、なにもこのプリント一枚で大学への推薦が決まるとか、そういうことではまったくないのよ。だからそんなに考え込む必要はないの」
新品のプリントを二人の前に広げ、エンピツも二本机の上に置き、独身担任は「ここで書いていけ」と言いたいらしかった。しかし竜児はそれを担任の方に頑固に押し返した。
「……でも、これで進学ということにして、本当に国立選抜に進んだら、うちの親を説得し直すことはできなくなると思うんです。というか……そうだ。来年、また丸々一年間、親は俺に期待して、すごく苦労する」
今でさえこうなのだ、これが受験を控えてリアルに必要な金額が弾き出されたら、泰子は一体どれだけ仕事を増やすことか。
「期待させておいて裏切るのも嫌だし、苦労させるのも嫌なんです。だから、俺はここでもう確実に、進学はしないという形で親を納得させたいんです。父親もいないし、母にはもう苦労させたくありません」
「経済的なことだけがネックなの? 進学を目指しているみんながみんな、完璧に恵まれているわけではないのよ。その気があるなら、例えば奨学金や低金利の教育ローン、それに公的な扶助《ふじょ》はそういう子どもたちのためにあるんだし」
「そういうのはもっとその気のある、強い意欲のある奴に回してやってください」
「じゃあ、つまり」
恋ヶ窪ゆりはちょっと背中を反らし、竜児の顔をじっと正面から見た。
「高須くん自身は就職希望なわけね? お母様は進学を希望されているけど、経済的な事情でそれは無理だろう、と」
「そういうことになると思います。……母は夢を見ちゃって、とんでもねぇことばっか言って、全然話にならなくて、それで今まで考えがまとまりませんでした」
「高須くん、あのね。一つ、事実」
コン、と机をペンで打った担任の手元に思わず目がいく。
「この学校の、近年の就職実績は『ゼロ』だよ。浪人した子やそのままプーになってしまった子はいるけど、三月に卒業して、四月に正社員として就職した子は一人もいない、ということ。他の高校では就職指導だとか、企業から毎年求人が来たりだとか、資格が取れるカリキュラムがあったりとか、高校三年生を春までに就職させるためのシステムができてる。うちの学校にはそういうのはないよ。それは、承知しておいてほしいと思います」
つまり、それは、この学校からじゃ就職なんてできないよ――と言いたいのだろうか。担任の言っていることの意図がはっきりとは見えず、竜児はなんとなく、少し気圧される。
「俺は、そんな大層なことを考えてるわけじゃなくて……別になにがやりたいとかそういうのもなくて、ただ、高校を出たら、なるべく早く安定したそれなりの額の収人が欲しい、というだけで」
「……高須くんが、本当にそうする『意志』があるんだったら、私もできるだけ応援しようと思います。そうだね、中間テストが終わったらアルバイトでもして、少し働くということを体験してみるのもいいかもしれませんね」
「バイトは――まあ、……そう、すね」
「ただ、ちょっと考えてしまうのは……高須くんは、お母さんに、今まで反抗したことないでしょう?」
「……は? え? 反抗?」
意味がわからず、竜児はガキのように首を傾げていた。その言葉の意味の説明がさらに続くのかと思いきや、
「では高須くんは、今の話をふまえて、もう一度考えてみてね。で、」
しかし恋ヶ窪ゆりの視線は、次なる問題児・逢坂大河の顔へと移っていた。
「逢坂さんは、どうなの? 将来のことをどう考えてる?」
「……竜児がお金のこととか話した後で、こんなこと、ほんとは言いたくないけど」
大河はちょっと竜児の顔を見て、一旦言葉を切ってから低く呟く。
「……私、お金持ちですから。一生働く必要なんかないの。だから勉強する必要もない。やりたいこともない。親が死んだ後もお金は私に残るだろうし、それを使いながら死ぬまで生きていくだけ。……だから、こんな紙に書くことなんか、なんにもないの」
「なんでこう……あなたたちは……」
頭を抱え、恋ヶ窪ゆりはほとんど机につっぷしかける。
「やりたいことはない、なんにもない、って……なんでもいいのよ? 興味のあること、憧れてること……たとえば、歌手になる! とかでもいいし。漫画家になるとか、職業・旅人になるとか。そうだ、学校の先生とかどうかな、うふ! どう? あれ? いや?」
唇を尖らせて黙る大河と、横目で視線を見交わした。どっと疲れた気分でいるのは、竜児だけでは――竜児と大河だけでもないだろう。三者三様に少し黙り込む。やがて口火を切ったのは竜児だった。
「……進学しないという選択は、そんなに非常識な、おかしなことですか」
いーえ! と独身担任は大きく首を横に抵る。
「そういうわけじゃないのよ。……ただ、もっと自分を見つめて、自分のことを考えて、十年先、二十年先、三十年先、四十年、五十年、六十年先まで、自分は自分が決めたように生きていくほかないってことを、あなたたちには考えてほしいの。それは誰のせいにもできないし、誰も責任を取れないよ」
「これでいいんです」
竜児は腹を決め、手を伸ばしてえんぴつを手に取り、空欄にさらさらと文字を書き込んだ。希望は「理系」。卒業後は「就職したい」。
問題は、親の同意を得ていないことだけだけれど――もういいだろう。
泰子には現実を見せようと努力してきた、繰り返し話もした。それでもわかってくれないのだったら、なにもクソ真面目に親の同意なんて取りつけることはない。自分で決めて、自分で動く。そうするしかなかった。他に方法はないように思えた。就職を選ぶのは楽な道ではない、と担任は言いたいのだろうが、でも、「こうするしかないのだ」と竜児は思った。
それが『意志』ではない、と言われたら、じゃあなにが意志なのだという。行くべきところも、向かいたいところもない自分の意志は、どちらへ帆を張ればいいという。
どうにもならない。こうするしかない。それがわかっているのだったら、そっちに行くしかないではないか。
「泰子は……母親は、経済的な問題で俺が進学するのを諦める、っていう現実を受け入れたくなくて、そこに拘ってるって思うんです。これまでずっと立派な親でいようと頑張ってくれていたし、俺にそう思わせて安心させようと無理をしてきてくれました。……もう無理はさせない、苦労させない。それが俺の希望です」
2ーC、高須竜児、と記名して、プリントを担任の方へと押しやった。担任はベージュピンクに縁取られた唇をなにか言いたげにわずかに動かし、しかし、
「……わかりました。じゃあ、これはひとまず受け取るね」
そのプリントをバインダーに挟んだ。それを、大河はよく光る目で見つめていた。
「じゃあ、そのカウンターをなんとかして、逢坂さんもなにか書いて、そうしたら帰っていいからね。できたら教員室に持ってきてね」
思わず、竜児は壊してしまったカウンターを振り返って見る。なんとかなるかどうか――はわからなかった。
恋ヶ窪ゆりはしかし、そう言い置いて、本当に説教部屋を出ていってしまう。大河とともに後に残されて、竜児は長い息をついた。ものすごく疲れた気分だが、肉体労働もしなければいけない。自分が悪いのは確かだから、文句はないが。
「……しょうがねぇ、俺はこれをなんとかしてるから、おまえはちゃっちゃとそれを書いて終わらせろ」
「私もそれやる」
「おまえが手を出すと余計時間がかかるんだよ、ドジ。早く帰りたいなら、それ書けって」
ふん、と大河はイスにふんぞり返る。
「なーにが、将来よ。あほくさ……こんな紙一枚にあーだのこーだの書き連ねて、それがなんになるっての? ……あんたはあんたでいいこぶっちゃってさ。働くって、本当に? バイトもしたことないくせに」
「真面目に考えた結果だ。バイトだって、泰子が止めるからしなかっただけだ。……おまえだって考えろよな、たまには真面目に自分のことを」
薄い金属板の中板を、まずは嵌めることにする。幸い板自体は曲がったり歪んだりはしておらず、爪に注意深く差し込み直せばそれだけで大丈夫そうだ。少し重量のあるそれを掴み、竜児は「よっ」と息を詰め、膝で板を支えながらカウンターの中に差し入れていく。
黙って大河はしばらくそれを眺めていたが、おもむろにプリントを引き寄せ、背を丸めた。やっとなにがしか書く気になったかと思いきや、
「じゃじゃーん」
「……なにやってんだよおまえは! おい、ちょっと! こらこらこら!」
大河の右手には、簡単に折って作った紙飛行機が摘まれていた。竜児が止める間もなく、大河は席を立ち、上板が外れたままのカウンター越しにかまきりの流れ落ちた窓を開き、
「とんでけー」
「あっ!」
それを本当に真冬の空に向けて放ってしまった。ついっ、と意外なほどにうまく風に乗り、やがて紙飛行機は暗い空を宙返りしながら真下に落ちて―――
「この……ばかたれ! 余計なことしやがって、拾いにいくぞ! ったくも――」
「いいのよ、あんなもん。放っておきな」
大河は窓の外を眺めたままでまるで他人事。見えなくなった紙飛行機のことなど、もう捜してはいないのだった。偉そうな鼻息が、ふん、と白く竜児の目にも見える。
「あんなもん、いらないんだから。……なーにが将来よ。なーにが、興味のあることよ。知ったこっちゃねーっていうのよ。先のことなんか、誰にも、私にも、見えないっていうの。誰にも知ったふうなことなんか言われたくないのよ。なにを書けって? なにを願えって? なにを願ったって、どうせ、どうにも、なりゃしないじゃない。無力なりに頑張ってみたって、結局、騒いだ挙句に崖を転がり落ちて、みんなに迷惑かけるようなことにしかならないじゃん。……思い知ったのよ、デコの傷を舐めながら」
吐き捨てるように呟かれた言葉の強さに、竜児は思わず返す言葉をなくしていた。それでいながら、どうにもなりゃしない――自分も思っていたことと大河の言葉が不意にシンクロ、「考えたって、無駄なの。……どうせあんたはそんなこと言うな、とか言うんだろうけど」
「言わねぇよ」
竜児の言葉に、大河が振り返った。
「……おまえと、同じこと。思ってる」
そんなふうに頷き返す竜児を見つめ、大きな瞳をさらに大きく見開いてみせる。こんなこと言いたくはねぇけど、と前置きをしてから言葉を継ぐ。
「変だよな、俺たちは。俺は貧乏、おまえは金持ち。境遇は正反対なのに、至った結論は同じだったか」
「……なんで。だってあんたは……就職が、したいんじゃないの?」
「したいのかと言われたら――イエス、とは言えない。多分、それがわかるから、独身も俺にあれこれ言ったんだろうな。でも現実がああだから、こうだから、他にはなにもないから、結果として就職の道を選ぶべきだろうと思ったんだよ。それが『正解』だろう、って。それが俺の『意志』だ、って」
口に出してみて、なんて無責任なんだろう、と改めて己を振り返る。担任が不安に思う理由もわかるってもんだ。
きっとなにかに躓いたときには、「だってあのときはそうするしかなかった!」とでも言うつもりなのだろう、自分は。泰子のためにしたことだった、だから自分は正しかった、あのときはそうとしか思えなかった――そんなふうに結果に対する責任を逃れるのだろう。
進む前から逃げ道を作っていると我ながら思う。泰子のため、というのはもちろん真実だ。だけど、その正しさとそれを選べる己の人格を免罪符のようにして、自分を安全圏に置いているのもわかっていたのだ。誰もが、それこそ自分をも含めた世界の全人類が、「高須竜児は正しい選択をした」「いいこ」だ……そんなふうに必ず見てくれるであろう圧倒的な正しさの中へ、逃げ込んだのだ。
本当は知っている。己の中に口を開いている恐ろしいほどの空洞を見つめる勇気が、どこにも行けない自分の非力さを見つめる勇気が、竜児には、ただ、なかった。
己の指で放ったボールの行き先を信じて見つめるタフさもなく、かといって、真冬の空に自分の未来を放り捨ててしまうほどの怖いもの知らずでもなかった。それだけだった。
「情けないと思うだろ。罵倒してくれ。いつものように、容赦なく」
「……あんた……」
しかし大河は、犬! とも、豚! とも、虫ともうんこともヒヒ野郎とも、なんとも罵って
はくれなかった。口を曲げ、視線を自分のつま先に落とし、声を低くひそめるのだった。
「……あんたが、それで情けない、っていうなら……私なんかどうなっちゃうわけ?」
怖いもの知らずでならしたはずの手乗りタイガーが、今は腰をかける場所もなく、俯いたままで視線だけを窓の外に向けるのだった。
「あんたはそれでも、先を見てるじゃん。なんとかしよう、どうにかなろう、としてるって思う。私は……私なんか、今のことさえ見てられない」
大河が向けた視線は、もしかしたら、見えなくなってしまった紙飛行機の軌跡を今更追っているのかもしれなかった。真冬の空はすでに暗くなり始めていて、遠い町並みは黒々と、大海の果てに連なる波頭みたいに見えた。
「ずっと、ずーっと、ず――――っと、私は、ただ今の自分を、否定しているの。なんでこうなっちゃったんだろう、どうすればこうならないですんだんだろうって。考えているの」
それしかすることがない、と、大河は突っ立ったまま、口の中だけでモゴモゴと呟き続けた。そして。
「たとえば。もしも、私の親がさ、普通のちゃんとした親で……ちゃんと、普通に募らしていて、たとえば今のマンションに家族三人で住んでいたとしたら、どうだったかな? どうだったと思う?」
窓ガラスに顔を押しつけるようにして竜児に背を向けるのだ。
「普通に、家族三人あんたの隣に住んでて。普通に、四月に、同じクラスの奴として出会ってたら。私とあんた、どうなっていたかな」
普通に、と繰り返される大河の言葉に、竜児はわずかに首を傾けた。そして考える。四月――櫛枝実乃梨と同じクラスだ、と喜んで、周りの奴らにはまだヤンキーだと勘違いされていて、そうして大河と出会っていたら。
「……おまえは、やっぱり北村宛のラブレターを俺の鞄に入れたりしたんだろうか」
「どうだろう。入れたかもね」
「そしておまえはうちに闇討ちにきて……なんて女だよ。まあいいや、うちにきて、そして一応は和解しておまえは普通に帰っていって、普通に……そっか。もしもおまえが普通のうちの子だったら、俺んちに入り浸ることもなかったんだな。そもそも闇討ちなんて、止める親がいたら実行できなかったかも。そうしたら、俺はおまえのことをよく知らないままでいたかもしれねぇ。おまえも俺を知らないままだったかも」
おまえは俺を好きにならなかったかも、とはさすがに口には出せなかった、が。外れてしまったカウンターの天板を膝を使って持ち上げつつ、竜児はそんなことに思い至る。しかし大河は、
「……でも、やっぱり普通がよかった」
独り言みたいに呻くのだった。そして竜児に背を向けたまま、
「あっ、そうだ!」
急に冗談を思いついたみたいなテンション、らしくない明るさで声を上げる。
「したいこと、あった! 私、普通に恋がしたい!」
「……は……?」
ガタン! と音を立てて、掴んだ板を取り落としかけていた。
慌てて体勢を立て直し、しかし跳ねた息は取り戻せない。こいつは一体なにを言い出した。恋だなんて、恋だなんて――それはつまり。
つまり、俺と、か!? 一瞬にして頭を吹っ飛ばされたような衝撃の心地、竜児は恐る恐る顔を上げ、大河を見やる。首筋が強張って恥ずかしいほどに震える。大河、おまえはなにを始めようとしている。どんなツラをしてそんな爆弾発言をかましてくれやがったのか、しかし、
「普通の、普通の家で育って、普通にいいこに育って、普通に出会って普通に仲良くなって普通に……普通に、恋がしたかった! 誰かを好きになって、誰かも私を好きになってくれて。二人、一緒にいるだけで、それだけで、」
しかし、大河は。
「……それだけで、幸せ。みたいな。そういう恋」
振り返った大河は、恋の相手を特定する素振りも見せず、腹でも痛いかのように、苦しげに顔を歪めているのだった。その顔は間違いだろう、と、思わず突っ込みを入れたくなるような勢いで。
どうしても好きなはずの高須竜児とともにいて、こうして時を過ごしていて、それでなぜこんなしけたツラを――黒く塗り潰されたような目をして、苦しげに喘ぐみたいに唇を開き、苦しげに眉をひそめたりしているのだろうか。
あれ? と、思った拍子、カウンターの天板が小さな爪に嵌り損ね、嫌な音を立てる。そいつから手を離し、大河の顔をもっとよく見ようと目をこらし、不意に棒立ちになる。違和感が胸に湧き上がり、暗い影のように立ち込める。
反射的に思ったのは、
「……母親とは、うまくいってるんだよ、な?」
また、傷を抱えて、一人ぼっちで寂しい思いをしているのではないか――と。
「なんでそんなこと訊くの」
宙を掻くように、無様に手を伸ばしていた。なによ、と鬱陶しそうに、その手をあっさり撥ねのけられる。構わなかった、触れてどうしようと思ったわけでもなかった。
ただ、ちゃんと訊きたかったのだ。自分がここにいて、そして父親こそあんなモンだが母親とは楽しいひとときを満喫してきて、それで、どうしてそんなツラになるんだ、と。
それはまるで全部なくした奴みたいな、出会ったときよりももっとずっと――
「うまくいってるわよ、ばっちり」
「本当かよ」
「っていったって、所詮は別居親子だけどさ。少なくとも現時点では、高須家よりはずっとマシな母子関係かもよ」
「……別に俺と泰子だって、ケンカしてるわけじゃねぇよ」
あらそう? と大河は眉を上げてみせた。くるりと身を翻し「ならいいけど」、そのまま一人歩き出す。
「おう、どこ行くんだよ! どうするんだよ、プリントは!」
「もう帰るの。そんなもん知らない」
竜児のことを振り返りもせず、大河は大股で説教部屋を出ていった。バタン、とドアが閉まる音がして、竜児はまた一人、こうやって置き去りにされる。伸ばした手も振り払われて、たった一人。夢で見た足元の雪を踏み抜いたみたいな感覚。
それでも、がむしやらに大河の後を追うなんてことはしないのだ。
いいこの高須竜児くんはこのカウンターをきちんと直して、教員室で待っているはずの独身(30)に、大河が逃げたことを伝えなければならない。
一度教室に戻り、帰り支度を済ませて鞄を抱え、竜児は教員室のドアを開いた。先に逃げ帰った大河のことにそもそも責任などないはずだが、律儀に気分は少々重い。
口の中で失礼します、と呻きつつ、ちょっと頭を下げ、足を踏み入れる。とっくに下校時間は過ぎていて、教師たちは自分のデスクでなにか書き物をしたり、教師同士で話をしたり、パーテーションの奥の面談スペースからも複数人の騒がしい声が漏れているのがこの距離からでもわかった。
赤ペンを片手に小テストの採点をしているらしい恋ヶ窪ゆりに声をかけようとして、
「恋ヶ窪先生からも説得して下さいよ!」
面談スペースからひょいっと出てきた学年主任の男性教師に先を越された。竜児は言葉を飲んでちょっと身を引く。が、
「川嶋が全然言うことをきかないんですわ」
「だってぇ〜、お断りするって言ってるじゃないですかぁ、こないだからずっとぉ」
おう、と思わず目を見開いた。この魔眼光《まがんこう》で教員室をデストロイ! 校内クーデター成功! 今日からは俺が師である! なんてことを企てているわけではなく、
「……あ」
学年主任と、もう一人の教師の後に続いて現れた意外な奴 亜美の姿にちょっと驚いたのだった。亜美も竜児のツラを見て、わずかに唇を開いてみせた。しかし、あらぁ高須くん(ハァト)などと、甘い声を出してはくれない。
「まあまあ、そうは言っても川嶋さんの意志も尊重しないと……あっ、高須くん! 逢坂さんは!?」
「あ、ええと、逃げました」
「えー!? なんで!?」
「なんでって言われても……すいません、俺は帰ります」
「じゃあ先生、あたしも帰っていいですかぁ〜? 帰りま〜す」
「あああちょっと二人とも、待って!」
独身担任は竜児を見て、亜美を見て、亜美になにか言おうとする教師たちを見て、文字通り右往左往。ペンを持ったまま立ち上がる。
「えっとえっと高須くんはそこでちょっと待ってて! 川嶋さんは、えーと、」
恋ヶ窪せんせー、と他所からさらに声がかかった。今日は独身(30)大人気だ。
「あっ、すいませんちょっと待って、えっ、なんですか!?」
「なんか教材の業者の方がいらっしやってますけど」
「うっわ、そうだった! 待っていただいて……い、いや、まずいか、ええと」
右手のペンをくるくる回してあうあう、あせるあまりに日本語すら怪しくなった独身(30) を、亜美がちらりと横目で見るのが竜児にもわかった。そして亜美は、「あ、川嶋!」「川嶋さんが逃げた!」――教員室前方のドアに向かってダッシュ。教師たちがはっ、とそちらを見た瞬間、竜児は後方のドアへ。「待ちなさーい!」と独身(30)の声が背中に届くが、待ったところで、逃げた大河が捕まるわけでもなかろう。
廊下で二人は合流、まさか教師たちも走ってまで追っては来ないとタカを括りつつも、竜児も亜美も階段を一段抜かしで駆け下りて、競いあうみたいに下駄箱まで走り抜ける。なんとなくだが共犯者の気持ち、亜美が取り落とした靴の片方を拾ってやって手渡そうとし、そうして亜美からかけられた言葉は、……あの修学旅行以来、確か初めての会話の一言目は、
「なんなの!? うっざい、ついてこないでくれる!?」
で、あった。
「はあ!? おまえについてきたわけじゃねぇよ!」
「ていうか、返してくんない!? あたしの靴になにする気!? きもっ!」
むかっ、とこなければ人ではないだろう。竜児はほとんど無意識、頭が一瞬クラッと真っ白になるようなむかつきの勢いで、拾ってやった亜美の靴を全力で投擲《とうてき》していた。
とんでけー。
***
一体なにがどうなってそうなったのか竜児にはいまだはっきり理解できてはいないのだったが、とりあえずの事実として、竜児は亜美に絶交を言い渡されていたのだった。亜美曰く竜児も自分も「馬鹿だから嫌い」らしい。そして竜児が実乃梨に振られた原因は、亜美が実乃梨になにかを言ってしまったせい、だとか。
そして亜美は竜児と絶交する、と決めたらしく、修学旅行二日目に言い渡されたそれは、どうやら今も継続中なのだった。
亜美は竜児を避け、避けられないときにはあからさまに無視を通した。その態度に一言物申したい、せめてもうちょっと説明がほしい、とは思ったが、そんな関係を問いただすきっかけさえも掴ませてはもらえなかった。
「よくも今日まで俺を無視し続けてくれたよな」
「……」
「おまえ、櫛枝のこともずっと無視してるだろ」
「……それが?」
「子供っぽいことしてんじゃねぇよ。中学生かよ。いや、小学生レベルだな」
「残念ながら、あたしは高須くんや櫛枝実乃梨みたいな鈍感神経の持ち主じゃないから」
「なんだと? なにが鈍感神経だよ」
「振ったり振られたりしたくせに、なんにもなかったみたいに仲良しさんのふりしちゃって。ほんっとうに、気持ち悪いの、あんたたち」
顔のすぐそば。息の温度もわかりそうな至近距離で、亜美は真っ黒に毒づいた。そして、竜児が言い返すのを遮るみたいに、うーわ、あんなところにある! と呻き声を上げる。
竜児は片手に自分の鞄と亜美の鞄、もう片手で亜美の肘を掴んでやって、ケンケン状態で歩く亜美の体重を支えて歩いていた。ぴったりと寄り添って身体にも触れ、校内に蔓延《はびこ》る亜美ちゃん信者が見れば多分垂涎の幸福状態。しかし実際はこんなもんだーチクチクとお互いを小さくつねりあうような言葉を交わすことしかできない。
竜児が全力でブン投げた亜美の靴は、弧を描いて下校する男子たちの集団の輪の中へ落ちていった。運悪く、そいつらはフットサル同好会の運中であった。反射的に一人が見事にボレー、学校のアイドル・亜美ちゃんさまの靴とは知らないままに他の奴が胸で受けて膝に落とし、弾んだところをさらに一人がシュート! 「なーんてな」「あはは」、と笑いながらそいつらは去っていった。哀れな亜美の靴は桜並木の上を超え、駐輪場の屋根にバウンド、学校の敷地を越えてその裏手の児童公園に落ちたのだった。拾いに行くには校門を出てからすぐ脇の歩道をUターン、改めて公園に向かうしかなく、
「超最悪。ありえない。さいってー。ありえない」
「……悪かったよ。ここに座って待ってろ、取ってくる」
竜児は公園の入り口近くのベンチに亜美を座らせ、荷物を置き、一人歩き出す。亜美の靴は、無人の砂場のド真ん中にモアイよろしく突き刺さっているのだった。
さすがに、悪ふざけがすぎた。反省した。天下の手乗りタイガーと日々渡りあっているうちに、自分まで少々乱暴になってしまったみたいだ。砂に塗《まみ》れて汚れてしまったところを手で叩いてから返そうとするが、
「……なにしてんの?」
亜美の手や制服を落ちる砂で汚さないように、などという竜児の気遣いは、こいつにはまったく通じてはいないのだった。
「なんなの、人の靴ジロジロ眺め回して……げ。マジ? うそでしょ」
「げ、って、なにがだよ?」
なにをどう勘違いしたのか、亜美はあせって竜児の手から自分の靴を奪い返す。
「……高須くんて、女子の靴に異常な執着を示すタイプの……いるいる、たまにいるよね。ブーツマニア、ヒールフェチ……そっか、高須くんはローファーフリーク……うっわぁ」
「ちげぇよ! どういう想像してんだよほんっとに! ほら、だったら自分でちゃんと砂払えよ!」
「は? それは命令? こうなった原因は? てかあんた何様?」
「……はいはい悪かったよ! 俺のせいだよな、全面的に!」
もう一度亜美から靴を奪い、竜児は申し訳アリマセンでした! と、逆切れ気味に念じつつ、逆さにして靴底を軽く叩く。中に入ってしまっていた砂がサラサラと零れてきて、竜児の靴のつま先を曇らせる。
少子化少子化と世間が大騒ぎしているだけのことはあった。夕暮れ時の公園には、子供たちの姿は見えない。表の道路を駆けていく子は何人かいたが、全員そろいの有名進学塾のアルファベットいりのリュックを背負い、妙に真剣な顔つきで駅の方を目指していく。
児童公園、と名がついているこの公園のベンチには、紺のPコートにストレートロングを垂らして、組んだ片足は靴無し、ソックスの裏丸出しの美人女子高生と、阿修羅そっくりの凶面で狂おしく靴の砂を払うナゾの学ラン男だけが座っているのだった。
「……ああ、そうか。今日って、もう二月の十二日……私立の中学受ける子は、もう受験スケジュールも終盤なんだ」
塾バッグで走っていく子供がもう一人、目で追って亜美は独り言のように呟く。
「私立中学の受験のことなんてどうして知ってるんだ」
「受験したから」
「……知らなかった。じゃあ大河と一緒か。私立の中学から、」
「私はどこも受からなかったから公立」
……こんなに気まずいことがあろうか。思わず竜児は謝ろうとしてしまうが、元からあまり機嫌のよくなさそうな亜美は特に今さら顔色を変えるでもなく長い髪を払った。そして小さく付け足し、「あさってってバレンタインデーじゃん」と。
「そういうの、楽しみにしてるわけ?」
「いや、全然。俺には関係ねぇよ」
竜児は端的に答え、靴の砂を払い続ける。日本に生きる男子の多くは、バレンタインデーに胸を躍らせるような無邪気さなど、小五〜中二ぐらいでぶっ壊されている。え? 普通に樂しみだけど? などといってしまう男はドントトラスト、というのが通説だ。
亜美は不意に口元に笑みを浮かべ、新しいおもちゃでも見つけたチワワみたいに瞳を光らせて竜児の顔を覗き込んできて、
「へーえーえー? それって、本当にぃ? まーさーか、まーだ誰かさんにチョコもらえるかも〜(ハァト)なんて思っちゃいないよねぇ? あ、でもわっかんないかあ、相手は天下の空気読めない心臓筋肉女だもんねぇ」
このような嫌味を放つが本当に的外れ、
「普通心臓は筋肉なんだよ。おまえはなんで居残りさせられてたんだよ」
流れ落ちる砂のようにスルーだ。
「……関係なくない? 高須くんこそなにしでかしたの? ああ、もしかしてぇ、まーた悪夢でも見て叫んじゃったかなー? 『タイガ〜〜〜! 』って。……ぷっ、はーずかしー、考えられないよね。どんな夢みてたわけぇ? ゆりちゃんもそりゃ〜心配しちゃうよねぇ〜」
「……おまえは何を言っているんだ? 俺は進路相談をしていただけだ。……まあ、 一方おまえはどうだろうな、なにやら不穏な雰囲気だったし、心臓が筋肉でできてることも知らねぇし、言いたくはねぇが中学受験も……だし。意外と成績は春田並みで、それで呼び出されて、」
「はあ!? 違うっての! 高須くんってなんか性格悪くない?」
透明グロスで淡く光る唇を歪め、亜美は竜児を睨みつけてくる。ほとんど身長は変わらないぐらい、同じ目線から放たれる眼光は凄まじいが、亜美に「性格が悪い」と言われるショックも結構すごい。
「俺は『気遣いの高須』と呼ばれているんだぞ!」
「誰も呼んでねー! ほんっと、あたしにはまったく気遣いとかないよね!? ちなみにあたしは、学校の、来年度のパンフレットの制服写真のモデルを頼まれて断ってたの!」
「なんだそんなことかよ。やりゃいいじゃねぇか。おまえの得意分野だろ」
「『そんなこと』じゃないの! あたしにとっては! ……最初に頼まれたときは気軽にオッケーしちゃったけど……今は気が変わったのよ。やりたくないの、絶対」
「なんで」
「いつまでこの学校にいるかわかんないから」
「そんなもん、」
そんな――なに?
竜児は思わず口を半開き、言いあいのリズムも見失い、亜美の顔を見返していた。ち、と小さく舌打ち、あからさまに言いすぎた、という顔をして、亜美は眉間に皺を寄せる。
訊き返すことも忘れて、竜児は半ば固まっていた。今の一言が意味するのは、つまり、学校をいずれ辞めるつもりだということ……だろう。
一つ、思い当たることがあった。修学旅行で、亜美と実乃梨がケンカをしたときの一幕だ。二人は口ゲンカをエスカレートさせ、お互いに言ってはいけないことを次々に言い放ちあっていた。そのときの言葉の記憶が、今も忘れられずに残っているのだとしたら。
「……まさか、櫛枝が『前の学校に戻れ』とか言ったのを、おまえ真に受けて……」
「ちーがーう。そうじゃないって。……あー、めんどくさいことになった」
亜美は面倒臭そうに首を振ってみせる。行儀悪くソックスの足をもう片足の膝に上げ、その足首を掴んで背中を丸める。話を整理するみたいに手で箱を掴む仕草、それを横に置く仕草。しかしなんの意味もなさそうだった。
「そうじゃなくて――あんな奴になに言われたとか、そんなの関係ない。櫛枝実乃梨如き、亜美ちゃんの人生にはまったく影響ない」
「じゃあなんでそんなこと言い出すんだよ」
「……前から、思ってたの。本当に、ずっと前からね」
そう言いながら、亜美は竜児が掴んだままでいた自分の靴を取り戻そうと手を伸ばした。反射的に、竜児は靴を持った腕を、亜美には届かないように高く上げていた。亜美は呆れたみたいに息をつくが、返してやる気はなかった。なんならもう一回とんでけーしてやってもいいとさえ思った。
「高須くん」
「だめだ」
「……ったくもー」
歩き去るための靴は、絶対に今は渡せない。
こんな中途半端な話を聞かされたまま、今までのようにまた無視されてたまるか。それで亜美だけ学校を辞めていくなんてごめんだ。自分ばかりが置き去りなんて、もうごめんだ。
「……ほんとは、一学期が終わったときに、もう学校辞めるつもりでいたのよ。転校してきたときからそのつもりだったの。ストーカー騒ぎのほとぼりが冷めたら前の学校に戻るか、いっそ通信に移ってもいいし、って」
「一学期って……おまえ、そんなのひとっことも言わなかったじゃねぇか。夏休みが終わったら、別荘から帰ったら、じゃあそのまま消えるつもりだったのかよ」
「そうだよ」
「おまえ……川嶋!」
「でも、そうしなかったでしょ。あのときは、もうちょっとここでやってみようって思ったの。明日も、その先も、ずっとここにこいつらといたら……そうしたらなにかが変わるのかも。あたしも、自分を変えられるのかも、って思ったのよ」
あのとき――去年の夏までの亜美を、竜児は思い出そうとしていた。今と同じに意地悪で、今と同じに美人で、腹黒で根性悪で、よくわからない奴で、そして、
「そう思ったのを、今は後悔してる。って、いうこと」
今よりもずっと、……ずっと、どうだったというのだろう。竜児は自分でも自分の思いかけたことがわからず、亜美の美しい顔からどうしようもなく目を逸らした。
あーみんは変わったね、と実乃梨と話をしたことは覚えている。あれは確か、文化祭の練習をしていたときだ。
そうだった、夏が終わってからの亜美は、亜美の周りは、それまでよりもずっとずっと騒々しかった。大河とは仲がいいのか悪いのか、寄ると触るとケンカばかりして、でもそんな二人をクラスの連中は大笑いしながら眺めていた。亜美の美少女ぶりを褒め称えながら、本当は腹黒な部分や口が悪いところをいつしかみんなは受け入れていて、そういう奴として付き合ってきたのだ。いや、あれはまさにド付きあい、大騒ぎと混乱の日々を送ってきたのだ。そうやって亜美の「本当の本当」を、みんなは好きになっていたのだと思う。
そんなふうにクラスの中での亜美の存在感が変わったのは、亜美が自らをてらいなく晒けだしたところから始まったのだ。隠すこと、取り繕うこと、誤魔化すことをやめて、亜美が本当の気持ちでもって、みんなの中に飛び込んだからだった。と、竜児は思うのだが――だが、亜美はそんな日々を、そんな自分をひっくるめて、後悔しているというのだ。
「おまえはじゃあ、木原や香椎や北村、みんな、大河、櫛枝、俺……みんなと今日までやってきたことを、後悔してるっていうのかよ」
「麻耶と奈々子には本当に感謝してる。みんなにも。こんなに仲良くしてもらえるなんて思わなかった。小学校、中学校、前の高校――色々あったけど、友達ができたのって実は初めてだったかもしれない。前のところでもそこそこうまくやってたけど、うまくやってた、ってだけだし。陰でなに言われてるかなんてわかんないし。実際、こっちに転校してから連絡くれた奴なんて一人もいないし」
「……ほんとかよ、それ」
「意外?」
問う亜美に、竜児は頷いてみせる。亜美のように美しい人間は、どこにいたって自分の意志とは無関係に人の輪の中心になり、人気があって、注目の主役になるものだと思っていた。
「学校なんてしょせん一時期閉じ込められてるだけの場所じゃん。卒業しちゃえば忘れればいいだけ、期間限定、仮の人間関係、本当の居場所は仕事、本当のあたしはモデルのあたし、何年間かの我漫――なんて思ってる奴に、友達なんかできるわけないんだよ。みんな、ガキでもわかるんだよ、そんなの。でも、ここであたしはそういう自分をやめて、みんなに受け入れてもらって、……あたしはそれが嬉しくて、楽しくて、大事にしたかったのよ」
「なら……じゃあ、しろよ。大事に」
「もう遅い。あたし間違えちゃった、たくさん」
不意をつかれ、靴を奪い返される。亜美は横着してベンチに座ったままで靴を履こうと背を丸め、長い髪が肩から零れ落ちる。
「よいしよっと……どう言ったらいいんだろう。……変に聞こえると思うけど。あのね……タイガーが、傷ついているところをあたしは見たの。あいつの気持ちがわかって、誰もそれに気がつかないなら、あたしがあいつを救ってやんなきゃ、とか、思った……のよ。そのとき」
竜児は言葉もなかった。
川嶋亜美には、やっぱり、全部が見えていたのかもしれなかった。
「そのうちね、タイガーだけじゃなくて、他の綻びも見えてきてしまった。あっちもこっちも、ってなってきて……そっか。本当は全部、あたしがなんとかしたかったのよ。あたしは全部をうまいように回して、そうすることで自分の居場所を守りたかった」
靴を履いてソックスを引き上げ、亜美はベンチから立ち上がった。髪を細い指で梳き下ろし、竜児を見下ろした。
「その一方で、でもあたしだって傷ついている。でも、誰もそれに気づいてくれない、とも、思ってた。なんであたしばっかり? あたしのことは誰が考えてくれるの? あたしの存在には、誰が気づいてくれるの? って」
ごめん、と――今更のように言えたら、と竜児は思った。なにに傷ついたんだ、聞かせてくれ、そこに戻ってやり直すから、と。しかし言えなかったし、言えたとしても亜美はそれを受け入れないこともわかっていた。だって、やり直すことなどできないのだから。
「あたしは今の居場所を大事にしたい、だからそんなことは考えたらダメ、って思ってたけど、でも段々に大きくなって、抑えきれるかわからなくて、それもあってあせって、どんどん失敗を重ねていって、どうにもならなくて……結局、思い知った」
あたしって、邪魔っけな異分子。
みんなは受け入れてくれたのに、あたしがしくじってそうなった。
「そ……んなわけねぇだろ!?」
跳ねるように立ち上がり、竜児はほとんど叫んでいた。
「誰がそんなことを言うんだ!? ふざけんな、おまえをそんなふうに思う奴なんか、おまえしかいねぇよ! そんなことを言う奴が本当にいたら、俺がそいつを許さねぇよ!」
亜美は一瞬だけ、そう叫んだ竜児を見つめて、眉を寄せて泣きそうに顔を歪めた。身を切るような風の中で、しかし鼻を一度畷って、
「でも……そうじゃん」
平静を取り戻す。泣くでも怒るでもなく、ただ言い返す。
「あたし抜きでうまいこと成立してたところに、あたしが割り込んで、あっ、あそこなんとかしなくちゃ、あっ、こっちにも首つっこまなくちゃ、あたしが救ってあげなくちゃ、そんなふうに余計なことをいっぱいして、その結果……色々なことがおかしくなっちゃった。高須くんが実乃梨ちゃんに振られたのもそう。あたしと実乃梨ちゃんはあんなひどい大喧嘩して、あたしたち、もう元には戻れない。そのうえあたしたちがケンカしたせいで、タイガーは……タイガーなんか、もうすぐで死ぬところだった。それで、こうなって、あたしは、今、」
淡々としたその声を放つ唇は、しかし、見て分かるほどに震えているのだった。
「――寂しくて寂しくて寂しくて、寂しくて。本当に、寂しくて、仕方がないよ」
ばかやろう、と、言いたかった。
あまりの勢いで溢れ返る想いに、口がついていかなくて、竜児も肩を震わせた。一体なにから言えばいいのか、どう言えばこの気持ちを、亜美にそんなことを言わせてしまった自分の気分をわかってもらえるのか、
「おまえは……っ」
頭のどこかで、さっきの大河の姿を思い出してもいた。寂しそうで、甲斐のない後悔ばかりしていて、そして――どこか、自分自身にも似て見えるのだった。
大河、自分、それだけじゃない。みんなに似て見える。みんな、一緒なのかもしれなかった。
どこかうまくいかなくて、誰のこともわからず、誰にもわかってもらえず、
「……失敗、したからって! そうやって、逃げるみたいに捨てて! 目を背けて、それで寂しい寂しいって、なんなんだよ!? 捨てられて置き去りにされる俺たちが寂しくないとでも!?」
ただ、こうしてわかりあうこともできないままに、今日もまた、虚しく吼えている。ぶつかりあう痛みだけはくっきり鮮明なくせに。
みんなもきっとそうなのだろう。自分も、亜美も。大河も。きっと能登も春田も、そして北村だって、しゃがみこんで動けなくなっていたことがあったではないか。恐らくは、そうだ、あの前向きエンジン搭載の実乃梨でさえ、ありもしなかった『if』を思って、一人で苦しんでいると言っていた。だけどその痛みや苦しみを、誰にも見せることができない。多くの場合、人は、己の痛みしかわからない――それが真実なのだ。
「おまえの目には、誰が、どれだけうまくできてるように見えるんだよ!? みんな、あれこれ考えて、余計なことを一杯して、失敗して恥かいて下手こいて生きてんだよ! おまえも失敗してりゃいいんだよ! 恥かいて、資格なんかとらなくていいからただ『やっちまった! 』って思ってろよ! それを、なんで、そう、」
「高須くんにそんなこと言う資格ある!?」
甲高く亜美の声がひっくり返った。突き飛ばされて、情けなくよろめいた。
「あたしが悩んでるときにも、傷ついてるときも、いっつもいっつも気づいてくれなかったじゃん! あんたは、いっつも、あたしのことには気づいてくれなかった!」
「知るかよ!? わかんねぇよ! 俺だって、そんなにうまくできねぇんだよ!」
一体いくつになったら、どれだけ大きくなったら、ひとはこんなふうにみっともないことを口に出さずにすむのだろうか。わかりあい、思いやりあい、正しく気持ちを伝えあえるのだろうか。
「だったら余計なこと言わないでよ! あんたなんか……っ! あんたとなんか、会わなかったらよかった……!」
本当に大事な奴を、友達を、傷つけずにすむのだろうか。傷つけられずにすむのだろう。
「やっぱりあのときに辞めてたらよかった!」
震える声で叫び、涙を手の甲で拭いながら走り去る奴を引き止めるにはどうしたら――なにもわからず、なにもできなかった。
公園を出ていく亜美の姿を睨みつけるように眺めて、竜児も足を動かした。公園を出て、亜美が行ったのとは反対の方向へと歩き出した。
携帯の留守電にやっと気づいたとき、すでに着信は十回を超えていた。
「……大家さん、起きてた〜? なんて〜?」
「気を使うなって。今度プルーンの濃縮エキス持ってきてやる、だって」
下階の大家の部屋から戻ってきた竜児は、泰子の声に答えながら玄関に散らばった三人分の靴を簡単に整理する。毎日この時間には早々と床を敷いて寝ている大家も、今日は起きて竜児が無事の報告をするのを待ってくれていたらしい。手土産に持っていけるぐらいに綺麗なミカンがあってよかった。
部屋に上がり、泰子の寝室を覗き込む。泰子は戻ってきた息子の顔を見て「でへ〜」と笑ってみせるが、その顔色は漂白でもしたかのように真っ白で、目元も唇もいつもの鮮やかな血色を失い、不透明な茶色に沈んでいる。
「大家さんに心配かけちゃったなあ……お店もどうなってるだろー。ちょっと電話……」
「だめだめ!」
布団から起き上がって携帯に手を伸ばそうとする泰子を押し留めたのは、制服のままの大河だった。「寝てなくちゃだめだよ、また血が下がっちゃう」とその肩を押さえ、掛け布団を引っ張りあげて、ばふん! と掛け直してやっている。
「店には、さっき俺が電話したから大丈夫。オーナーが出てきてた」
襖の向こうに立ったままの竜児を見上げ、泰子はうへ〜やば〜、とため息。
「とにかく今日は休め、だってさ。明日の午後にまた電話くれるって言ってた」
「……これだからオバサンはだめだあ、とか言ってなかったあー?」
「言ってねぇよ」
「……魅羅乃《みらの》はオババだからもっとぴちぴちの元気な子にママ任せよ〜とかぁ」
「言ってねぇっての。変な心配してねぇでとにかく寝ろ、一晩ゆっくり寝たら治るって医者も言ってただろ。夕食の用意しておくから、もし食べられそうなら食えよな」
「……お休み、やっちゃん」
ふあ〜だのふえ〜だの言いながらも泰子が布団に潜りこんだのを見て、竜児は部屋の電気を消した。大河も足音を忍ばせてそっと立ち上がり、部屋から出て、じりじりと静かに襖を閉める。
居間ではインコちゃんも鳥なりになにか異変を感じ取っていたらしい。青緑の血管が浮き出す膜を目に半分ぐらいかぶせて、うろこ状に皮剥け(冬だから乾燥肌)した両足で、蝙蝠のように上下逆さに鳥かごに止まっていた。そして「どうよ?」と妙に人間臭い鳴き声を上げるが、大河に「しー」と睨みをきかせられ、頷いて黙る。これで別に、人間の言葉を理解しているわけではないのだから偶然は恐ろしい。
「……悪かったな。ほんとに」
「いいよ」
竜児の声にそっけなく答え、大河は座布団のはじっこに腰を下ろした。テレビに向かって右側、以前は大河の指定席だった場所だ。今はちょっと居心地悪そうに、足を伸ばして自分のつま先を見つめている。
先に帰ってきた大河がなにげなく高須家の窓に目をやったとき、そこに泰子の姿が見えたのだという。昼の職場からちょうど戻ってきたところらしく、自宅の居間に入ってきた泰子に、大河は寝室の窓から手を振った。そして反応しないまま突っ立っている泰子の異常に青ざめた顔色に気づき、次の瞬間、泰子は受身も取れずにばたん、とひっくり返った。
マンションを飛び出して高須家に駆けつけ、合鍵をマンションに忘れたのに気づき、本人曰く「気が狂うほどの」パニックを起こし、階下の大家の家のドアを「暴れ太鼓の如く」打ち鳴らしたという。運良く家にいた大家が部屋を開け、顔面蒼白で倒れている泰子を見て、すぐに近所の医者を呼んでくれた。
往診の間、大河は泰子に付き添い、大家はずっと竜児に連絡を取ろうとしてくれていたのだった。その頃バカ息子は、クラスメートの女子の靴を放り投げたり、公園でその子と言い合って泣かせたりしていたのだ。
「大丈夫かな、やっちゃん……大丈夫だよね。貧血って言ってたし」
「……大丈夫でなけりゃ困るんだよ」
「さっきよりは顔色もよくなってきてた」
「俺もそう思う」
息せき切って全力疾走、自分も倒れそうになりながらようやく家に帰りついたとき、大家は玄関先でずっと竜児の帰りを待っていてくれた。泰子はさっきよりも凄まじい、白を通り越して緑色にも見えるような顔色で、口をきくこともできない様子だった。傍らには見知らぬおじさんがいて、見知らぬおばさんがいて、泰子の胸元や腕に手を伸ばしていた。竜児の目には泰子が悪い奴らに捕まって解剖されているところのように見えた。白衣を着ていないその人たちはとっさに医者とは思えず、そこに大河が座ってくれていなければ、混乱して悲鳴を上げていたかもしれなかった。
泰子は目だけを動かし、帰ってきた竜児に気づいて、ごめん、こんなんなっちゃった、と唇だけを動かして謝った。
深酒が過ぎて、午前五時ごろに一度眠ったものの八時には目が覚めてしまい、そのまま寝付けず、なにも食べられず。酒が抜けきらないまま昼の仕事に出たのだという。その結果、貧血を起こしたのだろうということだった。生来の低血圧も問題だった。ただ、さほど重症でもなかったのが救いだ。ひとまず心配はいらない、鉄分をとれ、睡眠をとれ、飲みすぎを避けろ、と通り一遍のことを言って、医者は帰っていった。
竜児は胸を撫で下ろしながらも、医者の特有の言い回しや用語を聞いているうちに、鼻先に『あのにおい』が漂ってくるような気がしていた。柔らかい、老人や病人が食べられるように溶かしたぐずぐずの薄い茶色の食べ物に洗浄液が混ざったような、あのちょっと気持ちの悪くなるような生暖かい空気が、こんなところにまで追ってきたと竜児は思った。
竜児がずっと小さい頃、この町に引っ越してくるずっと前、泰子は長い間病院に通っていた。どんな病気だったのかはいまだに竜児は知らず、幼すぎたせいで記憶は曖昧だった。ただ、自動ドアが開いた途端に身体を包み込む圧倒的なあのにおい、そして通っていた病院内の託児所の天井のつぎはぎ模様、壁にはってあったひよことワニの絵、あの空気の中であれを眺めていたときの気持ちは、すぐに思い出すことができた。
全部内容を覚えてしまった絵本。点滅する蛍光灯のはじっこの、黒ずんだところ。廊下の隅にたまった髪の毛と埃。便所の壁際に並んでいた用途不明のタンク。それに取り付けられたプラスチックの名札。静まり返った、地下行きの階段。恐ろしいマークのついた鉄の扉。
退屈が嫌で、知らない大人や子供がいるのが嫌で、話しかけられるのが嫌で、心臓が妙にドキドキしたり、喉元が熱くなったり、むずむずと泣き喚きたいような気持ちになったり――不安だったのだろう、つまり。
竜児はあの頃、不安で、怖くて、怯えている子供だった。
役立たず度合いは、その頃も今も変わらない。
「……夕食、どうしよう。なにもねぇんだった……今のうちに、泰子が目覚めたら食えそうなもの買ってくるか」
「じゃあ私ここでやっちゃんのこと見てる」
「いいよ。おまえも疲れただろ、帰ってろ。あとでマンションにおまえが食うものも持ってってやる」
胃がムカムカすると言っていたから消化のいいおかゆみたいなものか。それともスープ。春雨スープでも作ってやろうか。あとは水分補給にポカリと、泰子の好物のプリン、アイス、杏仁豆腐あたり。なにか雑誌でもあったら明日にでも読むかもしれない。
――だとか。
そんなものを選ぶ知恵はついたけれど、もっと肝心な、本当に必要なことは、今も自分にはできないのだった。それどころか、大きく育って知恵もついて、そして自分は、この状況の原因そのものになったのだった。
昼の仕事を泰子が入れていなければこうならなかった。竜児を進学させようと思わなければこうならなかった。あのとき自分があんな言い方をしなければこうならなかった。
「私のことなんかいいって。それよりやっちゃんのこと、私だって心配で、……竜児?」
頭を抱えた。一瞬なにがなんだか、なにをしようとしていたのかも真っ白になって忘れて呆然と、……財布。そうだ、財布だ。
財布を掴んで、竜児は立ち上がった。買い物に行って、食べる物を買ってくるんだった。ゆっくりと足を踏み出し、歩き出す。
「……ねぇ。あんた大丈夫? ちょっと」
リビングの電気はつけたままにして、襖の向こうに一瞬だけ耳を澄ます。おだやかな寝息が聞こえた気がした。
「ねぇ、竜児」
「ちょっと行ってくる」
つっかけサンダルを履いて玄関を出た。階段を下りて、歩き出す。
気がつけば空は、真っ暗になっていた。夜だ。
街灯が丸く照らすアスファルトはガラス質を含んでキラキラ光り、小さな犬を連れた女の人が、白い息を吐きながら竜児の脇を通り過ぎた。マスクをしたサラリーマンが大声で話しながら、後ろから追い抜いていく。独り言ではなくて、携帯で会話をしているのだった。
はあ――と、自分が吐き出した真っ白な息が、もやもやといつまでも消えずに、顔の前を立ち上っていく。足を左右に動かしていると、まるで自分がその息を追っているような気がしてきた。
だから、目の前が滲んでぼやけて、よく見えない。
背後から追ってくるものすごい足音にもまったく気づかず、
「ねぇコートは!? あんた鍵も携帯も持ってない! エコバッグも!」
「……あ……え?」
後ろからの突然の衝撃に、耐え切れずによろめいた。
背中に飛びつくようにして大河がぶつかってきたのだ。振り返って見た大河は、真っ白な息を暴走機関車みたいに吐いて、
「しっかりしろ! バカ!」
竜児がいつも着ているダウンを差し出してくる。そして初めて、竜児は己のナリに気がついた。学ランとカーディガンは脱いでしまっていて、制服のシャツにスラックスだけ。裸足につっかけサンダル。見下ろしてみて、寒さよりもそのトンチンカンさにまず驚いた。
「もー、ほら、早くこれ着な!」
大河は竜児の胸元に、殴りつけるみたいにダウンを押しつけた。そしてもう一方の手も差し出す。そっちには、恐らくは竜児の携帯と家の鍵を放り込んだいつものエコバッグ。急いでこれを掴んで、寒空の下息を切らし、大河は走って追いかけてきてくれたのだった。
しかし鼻を真っ赤にした大河の方も、
「……おまえ……その足元、なんだよ」
「え? ……わあ!」
コートもなしに制服だけ、分厚いタイツの足元に、泰子のつっかけを履いているのだった。大河は細い両足を揃えてその珍妙すぎる足元をまじまじと見下ろし、
「間違った……!」
低く唸る。あちゃー、と額を白い手で擦る。
「おまえが着ろよ」
大河の手から受け取ったダウンを、竜児はそのまま大河の肩にかけた。しかし大河は嫌がって身を操り、
「やだ! いいの! 私はうちに戻るんだから、あんたが着るの!」
つっかけをカロンコロン鳴らしながら横っ飛び、道路の端まで逃げていく。いいやおまえが着ろ、そう言い返そうとして、しかし竜児は言葉に詰まる。ダウンを着せようと手に掴んだまま、呆けたみたいに立ち尽くす。
声が、出ない。
喉が嗄《か》れた。
今日はもう、だって、クタクタだ。
「……竜児?」
大河がこちらを見上げるのがわかった。氷点下の北風に髪を揺らして、わずかに首を傾げて、大河は両目を見開いて様子を窺っていた。
これ着て先に帰ってろ。おまえの夕食もなにか見繕ってくるから。持ってきてくれてサンキューな。――それだけの言葉さえ、口にすることができなかった。
喉には蓋がされたようで、竜児は黙ったまま半ば無理矢理、壁際に立つ大河の身体をダウンで包んだ。そしてなにも言わせないまま、踵を返した。
エコバッグ片手に一人、夜の町を歩き出す。
なにを買おうか。携帯で時間を見ると、まだ八時前。思っていたよりも早い。この時間だったらスーパーもまだ開いている。商店街へ向かいながら、凍えてちぎれそうな自分の足の指を眺める。その耳に、カロン、コロン、とつっかけサンダルの音が聞こえる。
振り返らずとも、それが大河の足音だとわかった。竜児の後を、大河はこっそりついてきているのだった。
気づかれていないと本気で思っているのだろう。竜児が横断歩道で足を止めると、大河は少し手前の電柱の後ろに身を隠す。青になって歩き出すと、少しだげ間を置いて、またカランコロンと足音が聞こえる。
全部わかってるぞ、帰れ、と言いたいが、しかし喉を塞ぐ蓋はいまだ竜児の胸を塞き止めていた。先を行く竜児と、スパイの大河。アホみたいに二人して、そ知らぬ素振りで夜の町を歩き続ける。
なにも言えないのは、多分、一言発したらなにが飛び出してしまうのか自分でもわからないせいだった。だからこの喉は、蓋をしておかなくてはいけないのだった。
あんたはあたしのことには気づいてくれなかった、夕暮れの公園でそう叫んだ亜美に、今、言い返したいと竜児は思った。だったら今の俺の思いを、どうやっておまえは知るんだ、と。おまえにだって絶対にわかりはしないだろう、と。
なぜなら、絶対にわからせないから。
つらい。苦しい。それは声には出さないのだ。竜児は、それを誰にも見せたくない。わかってもらいたくない。誰にも言わない。悟られたくない。だって悟られてしまったら、それを聞いた奴が、
「……っくし!」
――自分のことを想う奴が、なにかしようとしてしまう。
足を止めて、振り返った。踵を返して、ようやく、「帰れ」の一言を発することができた。大河はものすごくびっくりしたみたいに、クシャミした鼻を擦りながら、目を見開いていた。本当の本当に、今までバレていないと思っていたらしい。
「帰れ、本当に」
「……やだ!」
帰れと繰り返して、大河の肩を来た道へ戻すみたいに押した。しかし大河は小柄なくせに鉄でできた置物みたいにどっしり重く、決して押し戻されたりなどはせず、
「いやだ! だってあんた変だもん!」
大きな両目を脅すみたいに眇めて頑固に言い募る。
「いいから、帰れって!」
「やだって言ってるでしょ! 話しかけもしない! 一緒にも歩かない! ただついてく! それのなにがいけないの!? 私の勝手でしょ!」
もう、口を開かせないでほしかった。
「迷惑なんだよ! おまえにできることはねぇから、帰れ!」
誰かが、自分の将来のために仕事を増やして倒れるようなことは、二度と御免だった。貧血だろうと重病だろうと、こんな思いはもう二度としたくなかった。
自分のために身を削るようなことは、誰にも、二度と、絶対に、してほしくないのだ。させたくない。
「帰らない! ついてく!」
「帰れってんだよ!」
「ここにいる! 離せブタハゲ、触んな!」
商店街の手前の路上で、竜児と大河は無益な押しあいを始めていた。すごい力で押し返してくる大河の肩を半ば本気でどつきつつ、竜児は必死に唇を噛み締める。おせっかい、迷惑、邪魔、うざい、自分本位、どうの、こうの、ありとあらゆる文句が頭の中に噴き出してくる。でも声には出せない。喉元まで迫った本物の叫び声が、今にも漏れてしまいそうなのだ。
だって、死んじゃったらどうするんだよ!?
――バカみたいに、ガキそのものの短絡思考で、竜児は本気でそんなことを考えて怯えているのだった。今にもそれを叫んでしまいそうで、噛みすぎて切れた唇を必死に閉ざしているのだった。
ずっとずっとずっと、本当に昔からずっと、ずーっと、怖かった。「お母さんが死んじゃったらどうしよう」、そんな想像こそが、恐怖の根源だった。
二人で手を繋いで歩く夕べ、二人で向かいあって絵本を読む夜、膝に座ってブランコに揺られた陽だまりの中――魔法のように繰り返される「大丈夫だよ」の声をうっとりと聞いて、大丈夫なんだと信じて、でも不意に、その呪文の効力が切れる時が訪れる。竜児の頭を恐ろしい考えが幾度も幾度も幾度も巡り巡る。
「いいから、もう、帰れ!」
「竜児っ!」
叫んで、大河の手も呼ぶ声も振り切った。全力で走り出した。
人が行き交う商店街の光を避けるみたいに、裏手の暗い道に入る。学校の窓から海の波頭のように見えた暗い家々の隙間を必死に逃げ惑う。犬みたいに早い息で喘ぎながら、時折跳ねかける声を飲み込む。走っても走っても、小さい頃の不安や恐怖が追いかけてくるようだった。このままでは、すぐにその手に捕まってしまう。逃げ切れるものではないのだろうか。
竜児の世界には、ずっと、泰子しかいなかった。母親としては幼すぎる泰子に抱かれて、みんながいる安全な船から二人きり、真夜中の海に放り出されたみたいなものだった。竜児は泰子に必死にしがみつき、親子二人で果てのない波間を漂いながら、この手を離したら終わりだと思っていた。この手が掴むたった一人の人間が、いなくなったらもう終わりだ。永遠に一人ぼっちだ。そんなふうに思えて、ずっと怖くて、恐ろしかった。でも、竜児はゆっくりと大きくなっていって。何度も溺れかけながら、次第に、波間を泳いで渡る度胸も力もついてきて。泰子の手を離しても大丈夫な気がして。一人で泳いで、やがて安全な船を自分の力で見つけて、そして泰子を引き上げてやれると。
そう思ったのだ。
だから、「まだ離れてはだめだよ」とまとわりつく泰子の手を、
『高須くんは、お母さんに、今まで反抗したことないでしょう? 』
――泰子の手を、振り払おうとした。
「ここに座っていて」「いいこにしていて」「帰ってくるまで待ってて」「お勉強してて」「ごはんは一緒に食べて」「バイトなんかしないで」、泰子の言いつけのすべてに頷いてきた竜児の、まさに初めての反抗なのだった。進学しないで仕事をすると決めたのは、そういうことだった。泰子の手を振りほどいて、反抗したかったからだ。
どこに向かうのか、どこに行きたいかもわからない。でも、竜児は自分で泳いでみたかった。
「正しい」方に立つことで、「正しくない」泰子を糾弾し、勝ちたかった。優位に立ちたかった。自分の選択が無責任だとはわかっている、将来をきちんと考えたわけでもない、それもわかっている。でもわかっているんだから「正しい」だろう――正しさの犠牲になる自覚だって、ちゃんとあった。
就職をするということ、進学しないということが竜児を犠牲にするのではない。己の希望をなにも見出せないままに、正しいからという理由で自ら選ばされる、それが自分を犠牲にするのだとわかっていた。こんなふうにして選ばされた道なら、進学だって就職だって留学だってなんだって、竜児の未来は犠牲になるのだ。
自分の希望のなさを見つめることが恐ろしくて、正しい方に自分は逃げたのだと思っていた。しかし逃げた自分を、そうしてダメになっていくのであろう自分の未来を、どこか心地よいもののように味わっていたことも今は否定できそうになかった。
そうすることで、泰子にダメージを与えられるという自覚だってあったのだ、確実に。そして乗り越えたかった。あのたった一人の、母親の存在を。母親より大きい自分に、強い自分に、たとえ母親を失っても大丈夫な自分になりたかった。
反抗し、乗り越えられれば、「母親を失ったら終わりだ」という恐怖をも乗り越えられると思った。
果たして本当に、一人で泳いでいける力がこの身にはあっただろうか。わからない。わからないからこそ、試したかったのだと思う。とにかく、この身を危ぶんで差し出された大人たちの手を、わが身を犠牲にしてでも振り切りたかった。それだけかもしれない。
だけど、この子なら大丈夫だ、と信じてもらえる自分ではなかったから、泰子はなんとかして波間を離れていく息子を引きとめようとした。そして竜児は、また捕まったわけだ。お馴染みの不安と恐怖に。
でも今度の恐怖は、母を奪おうとする冷たい海に対してではなく、自分のおぼつかない泳ぎが、母をも犠牲にするのでは、溺れさせるのではないかという恐怖だ。
口元を押さえる指が震えるのは、寒さのせいだけじゃない。
「つっ、捕まえたー!」
肘を背後から掴まれ、よろめいた。まさかここまでついてきているとは思わなかったサンダル履きの大河が、恐ろしい力で竜児の肘を引っつかんでいた。すごい勢いで振り回され、堪えきれずに蹈鞴《たたら》を踏んだ。
「竜児っ! 止まれ、止まれってば!」
「……俺の、」
「いいから止まれバカ! 危ないのよあんた! さっき車がすぐ横を掠めていったのにも気づかないの!?」
それでも逃げようとして、尻に必殺のローキックを食らう。痛くはなかったが腰が砕け、竜児はとうとう走れなくなり、
「俺のせいだ……俺のせいだろ、これは」
電柱にみっともなくしがみついた。そして勘弁してくれ、と胸の中だけで呻く。大河に顔を見せたくなくて、必死に電柱を掴んだ自分の腕に顔を擦りつけた。
「なに言ってんのよ!?」
「俺のせいで、泰子が倒れた。俺のせいだ。俺が悪いんだ」
「あんた……あんた、無理させたことで責任感じてるの? でも、でもさ、そんなの、そんなのってしょうがないじゃん! 貧血だもん、体調だもん、どんなに気をつけたって人間だもん、体調悪くなっちゃうことぐらいあるじゃん! いちいち誰のせいとかなにのせいとか、そんなの関係ないって! それにやっちゃんは、あんたの親なんだもん! あんたのためにやっちゃんが頑張っちゃうことを、誰も止めることはできないでしょ!?」
大河の声は、喘ぐみたいに必死に響いて聞こえた。親に頑張ってもらったことなど多分ないはずの大河のその言葉に、親の気持ちの重みを知らないからこそ無邪気に「受け入れろ」と言えてしまう大河がそこにいることに、竜児はもっともっと追い詰められる。自分のひ弱さと甘えに直面させられる。
「おまえに、わかるのかよ」
声が引きつり、上ずり、唇ごとぶるぶると震えた。
「俺のために、泰子があんなことになった。俺がもっとしっかりしていたら、泰子は俺がちゃんとできるって信じて、俺をもっと頼りにして、それで、あんなふうにはならずにすんだ」
「わ……私には、……わかんないよ……」
小さな手が、どうしていいかわからないみたいにちょっと肩に触れたのがわかった。大河の手はそのまま、どうしようもなく上下しているだろう竜児の背中に添えられた。
その手を、振り払おうとしたのだ。
泰子の手を振り払おうとしたのと同じに、大河の手も身体を揺すって撥ねのけようとした。しかし、
「……どうすりや、いいんだ……!?」
「竜児――」
触れたのは、一瞬だった。
凍えきっていた指先に、その熱は、体温は、あまりに強い刺激となって伝わった。大河はそれでも傍らにいてくれる。これが最後の救いだと、本能がそう感じたのだ。ああだこうだと考えていたことのすべてが、その一瞬で焼き切れていた。
反射的に、振り払おうとしていたはずの大河の手を強く握り締めていた。無機質に辺りを照らし出す街灯の光が作る輪の中で、大河は目を見開いた。
力の加減ができない手の中で、恐ろしいほど細い大河の指の骨が軋んだ。それでも大河は一言も、痛いとも離せとも言わなかった。
なにも言わないかわりに、ただ、底知れない輝きを秘めた大きな瞳で、竜児の頭の中を荒々しくかき回すような視線を注いでくる。他の誰にも真似できない強引さで踏み込んでくる。抗いがたい力で、大河が侵入してくる。想像の海の上に広がる真っ黒な空の天蓋をひきちぎって、大河の白い顔が、竜児の心の中すべてを見通しにくる。
裂けた穴から、波間を漂う竜児に、そうして大河の手は伸べられたのだ。
すがってしまおうか――
「俺は一体どうすりゃいいんだ!? 親なら無理してどうなってもいいのか!? どうしたら泰子は俺のために無理しないでいてくれる!? 俺のこの気持ちをわかってくれる!?」
掴んだ大河の手はあまりにも小さく、
「俺は、こんな自分が」
望めば、このまま砕くこともできてしまいそうだった。
「嫌で嫌で、仕方、が、ない……ー」
でも、そんなことはしたくない。
強く思った。大河にすがったりはしたくない。その手にすがりつき、感情のままに泣き喚いて、心の痛みを全部さらけ出してしまえ――そんな誘惑を、竜児は必死に振り払った。
だってそんなことをしたら、大河はきっと竜児のために、なにかをするだろう。大河は人のために、自分のために、好きな奴のために、どんなことでもする奴だ。それはだめだ。だめなのだ。
自分のためになにかさせてはいけない。
大河に、なにもさせてはいけない。
自分のために溺れるようなことはさせてはいけない。
なぜなら、大事な奴だから。絶対に失えない奴だから。大河を失うことなんて絶対にできないから。それはあの吹雪の中で、いやというほどに思い知った。
大切ならば大切なほど、大切な奴に自分のためにはなにもさせたくない。だから痛みは見せられない。この心の中身をわかってほしくない。
わかりあえないことをつらいとばかり思っていた。わかりあえないこの世界で、それでもつながる術《すべ》を見出《みいだ》して、それを喜びという糧にして人は生きていくのだと思っていた。わかってほしくない、なんていうことが、この世にあるとは知らなかった。
「……泰子に、俺の力を、見せたいんだ」
力? と大河が繰り返すのに、大きく頷いてみせる。震えそうになる唇を引き締めて、竜児は語る。
「俺はもう、子供じゃねぇんだ。泰子の助けがなくても、この世界を、泳いでいける。だから泰子はもう、俺のために頑張らなくていい。それを、証拠を見せて示すしかないんだ。目の前に突きつけてやるしかないんだ」
そうしてもう一度、母の手を振り切るしかないのだ。今度こそ失敗はしない。もう誰のことも犠牲にはしない。自分のためには溺れさせない、だったら今度こそ一人で泳ぎ出すしかない。そんな自分を、信じてもらうしかない。渾身の力でもって、両手の指を開き、大河の手を離した。動揺しきっていた己を立て直し、よし、と小さく頷きもする。
これでいいのだ。
できたじゃないか。思ったとおりに。
そして息を詰めて、腹に力を入れて、大河の白い顔を見下ろした。大河は解放された自分の手を見ていた。フランス人形めいた精緻な美貌は、あまりにも整いすぎていて表情がわからない。氷の刃みたいに肌を切りつける真冬の風に、大河の柔らかな前髪が翻《ひるがえ》る。唇にくっついてしまうのを、竜児はそっと指先で払ってやった。
静かに、竜児を見上げた大河の両目が、溢れるほどの光を湛えて揺れた。
「……どこ行くの?」
「ちょっと。用事を思い出した」
「行っちゃだめだよ」
不安そうな大河の声に首を横に振ってみせて、
「いいんだ。行っても」
竜児は、右足を一歩。前へ踏み出した。
薄着のままで踵を返した竜児の後を、大河はまた追いかけてきた。帰れと言っても、竜児の言うことをきくような奴では絶対にない。
行くところを思い出した、それは嘘ではなかった。後ろにくっついてくる大河を気にしながらも、竜児はまだ人通りの多い商店街へ踏み込む。
洋品店や文房具屋はさすがにシャッターを閉ざしていたが、会社帰りの住人を当て込んで、商店街に二つある小さなスーパーは両方ともまだ開いていた。コンビニももちろん通りに明るい光を皓々《こうこう》と放っているし、本屋もまだ営業中だ。あとは居酒屋が何軒か、地元でだけ有名なコロッケを売っている肉屋も意外と遅くまでやっている。
竜児の目当てはしかしコロッケではなくて、
「……さすがに閉まってるか……」
「ここに用事があるの?」
足を止め、閉ざされたシャッターを眺めた。アルプス、と懐かしいような字体で店名が躍り、木でできた看板には洋菓子店、と。店名の下には電話番号も書いてある。
携帯を取り出し、その番号にかけると、しばらくのコールの後に営業時間が終わったことを告げるメッセージが流れ、留守電につながった。ちょっと内心で慌てつつ、
「……や、夜分遅くに申し訳ありません。ええと、こちらで先日からパートで勤めさせていただいております、高須泰子の家のものです。その、ちょっとお知らせしなければいけないことがありま……あ――」
ピ〜、と無情に機械音が流れ、留守電は切れた。こちらの電話番号を真っ先に伝えるべきだった。もう一度かけ直すか、と逡巡《しゅんじゅう》する竜児の肘をつつき、
「あー! って、なにそれ。今の留守電? 絶対あー! まで入ってるよ。ここはやっちゃんのパート先なの?」
尋ねてくる大河に返事をしようとしたそのときだった。
ガラガラ、と音を立てて、シャッターが数十センチほど開いた。まだ明るかった店の中から身を屈めるようにして中年のおじさんが白のコックコート姿で顔を出し、竜児と大河の姿に目を留める。
「……今、留守電に入れてくれてたのは君かな? 声が中まで聞こえてたんだけど」
「あ、はい、そうです。あの……高須です。息子です」
むすこおおぉ!? ――と、ありがちなリアクションで喚きつつ、そのおじさんはシャッターをくぐって通りまで出てきてくれた。
「すいません、もうお店も終わっている時間に。……あの、母なんですが、実はさきほど体調を崩してしまって」
「え、高須さんが? どうしたの、大丈夫?」
「大丈夫には大丈夫なんですが、その、」
傍で会話を聞いている大河が、わずかに眉を上げたのがわかった。自分が今から言おうとしていることがわかるのだろうか。
「ちょっとこちらで働かせていただくのは無理そうなので、急で申し訳ないんですが、今日でやめさせていただきたいと思ってるんです」
ええええええ!? ――さっきと同じ表情と声で、おそらくは店主なのだろう、おじさんは大きく仰け反って見せた。大河も横目で竜児を見る。
そう、これは勝手な行動だ。泰子は毘沙門天国には休む連絡を入れさせたが、こっちの仕事は明日の昼には普通に出られるつもりでいるのだろう、なにも連絡をしなかった。店に迷惑なのも承知の上、泰子の了承を得ていないまま、竜児は勝手に退職の話を進めているのだった。そして泰子には、店からもう来なくていいと連絡があった。と嘘を言うつもりだ。
近所のことだし、いずれバレることだろうが、それでも竜児は話を続ける。こんなことで自分の力を見せることにはならないとわかっているが、とにかくまずは、泰子に無理を強いる現状をどうにかしようと思ったのだ。無理やりにでも。放っておいたら、泰子は自分の身体のことなど気に留めず、そのまま仕事を増やし続けるに決まっている。
「うわー、そうか……ちょっと困るな。アテにしてたのに」
「すいません、ご迷惑をおかけして」
「体調のことじゃしょうがないけど、どうにもならないかな? なんなら、勤務時間を短縮するとか。だめ?」
「や、ちょっと……すいません本当に」
「ほら、あさってはバレンタインデーじゃない。明日とあさっては通常業務のほかに、チョコレートの特別販売の予定もあうて……。どうしよう、うーん、他には職人しかいないし……体調が悪いんだから無理強いはできないけど……うーん」
申し訳なく身体を小さくしたそのとき、
「……君は来られない?」
本当に困り果てているらしい店主は意外なことを言い出した。
「高校生だよね? 学校が終わってからでいいし、そうだ、明日とあさってだけでいいから。頼む、お願いします。人手がなくて」
いや、うちはバイト禁止で――と断ろうとして、竜児はしかし言葉を飲んだ。泰子の言うとおりに、今までと同じに泰子にぶら下がって生きていくのはもうやめると決めたのではなかったか。
なんでもかんでも反抗しようというわけではない。そうではなくて、これはそう、もっと前向きな――自分のあり方を大きく変えるための第一歩、なのかもしれない。
迷いを振り切るように、店主が思い付きを翻すよりも早く頷いてみせた。
「……じゃあ、いきます。明日と、あさって」
大河が驚いたように、脇から竜児の顔を見上げていた。でもこれでいいのだ。こうして、泰子にはここでの仕事を辞めてもらう。まず状況を元に戻す。
このことを正直に話せば泰子はきっとむきになるから、ここの仕事はなくなった、とだけ伝えておけばいいだろう。竜児がここで働いたこともいずれバレるときが来るかもしれないが、今、泰子が倒れた直後というこのときにバレないならそれでいい。
「うわーよかった! ありがとう助かるよ!」
「大丈夫です、やりま……」
「明日何時に来てもらえる!?」
店主の手が伸びてきて、竜児も手を伸ばして握手で応えようとするが、スカッと空しく宙を切った。「私!?」――店主は大河の手を図々しくも握っているのだった。
「私関係ないんだけど!?」
「妹さんでしょ? 違うか!」
ははははは、と親父ジョークが寒空の下で空回りする。顔見りゃわかるでしょー!? と、ちょっと本気で大河は抗議の声を響かせる。
「でも販売は基本的に女の子にお願いしてるから。男用のユニフォームないのよ」
「私バイトなんてできないって! 私がどんだけドジか……私が働いたりしたら、そのとき天は裂け、地は燃え尽きるだろう……!」
「箱に入ったチョコ売るだけだから大丈夫でしょう! 明日何時になるかだけ教えて!」
あの俺は、俺は、俺……と自分を竜児は指差すが、店主の視線は大河にばかり熱く注がれているのだった。大河は必死に首を横に振っていたが、しかし、ちらりとだけ竜児の顔を見上げた。そして、
「……じゃあ……じゃあ、こいつと一緒に来る。二人でやる」
「おい! ちょっと! ……いいよそんなの!」
大河の言葉に驚いて、傍らから竜児は白い横顔を見下ろす。店主は顎を掻きながら頷き、
「ん、じゃあそれで。ただし、時給一人分しか出せないけどいいかな? ……息子くんのユニフォームどうしよう」
「どうにでもするがいい。私はいるだけ、働くのはこいつ」
大河は偉そうに竜児のダウンを着た姿で仁王立ち、竜児を指差して胸を反らした。やめとけ、そんなのいいから、と竜児はとりなそうとするが、低い声でもう一度。
「働くのは、あんた。……いてやるぐらいなら、たいした苦労もない。今のあんた、やっぱりなんか危なっかしいもの。だから私が監視してあげる。それからさっき、迷惑だのなんだの、散々言ってくれたね? 私にできることなんかないって。それは取り消してもらうから。そしてこの私の偉大さと優しさの前に土下座して這いずって私を神と崇めるがいい」
こうして結構あっさりと、二日間の秘密のバイトの話はまとまってしまったのだった。
***
「バイト! あんたがか!」
大河の鼻先を指差して、実乃梨は白目を剥いて見せた。
「私が、っていうか、竜児が」
その大河の指先は、竜児の鼻先へ。そっちか! ともう一度白目を剥く実乃梨に竜児はこっくりと頷く。
「今日、これからと明日だけ。バレンタインのチョコレート売るんだ。販売業の秘訣みたいなの、なんかある? 二日間できっちり完売できたらボーナスもつくって」
「秘訣なあ……、んー、嫌なことがあっても顔に出すなってくらいかなー」
ふむふむ、と大河はアドバイスを聞きながら、甘えるみたいに実乃梨が斜めがけにしているスポーツバッグを引っ張る。実乃梨は「重いよ」とバッグを揺すって大河の手をのけ、
「あと、店長の目が開いたら素早く避けるべき」
「……それはみのりんのラーメン屋限定じゃん」
一日の授業は終わって、すでに終礼も済んでいた。独身(30)は昼休みにも大河を呼び出したが、さほど実のある話にはならなかったらしい。大河には、結局まともにお説教を聴いてやる気なんかないのだった。しかしそれで今日は一応放免、バイトには約束した時間通りに向かうことができそうだ。
実乃梨は二人の顔を楽しそうに見比べて、
「冗談はさておき、売り子だけならそんなに心配することもないって思うぜ」
あらよっと――空になったジュースのパックを、さすがの運動神経で見事に投擲。教室の中央付近から、出入り口においてあるゴミ箱のド真ん中に落とす。
「おっしゃ、ナイッシュー。水仕事とかもなさそうだし、おいしい仕事じゃん? バレンタインのチョコってことは、売るほうは今日が本番だよな。渡すなら今日買っておくだろうから。どこの店なの?」
「えーとね、なんていったっけ」
「アルプス」
竜児の答えに、実乃梨は「おお」と声を上げた。知っている店だったらしい。
「行ったことある、そこのタルトタタン買ったことある! そっか、高須くんもあのファンシーなアルプスの背景の一部になるか」
「……似合わねぇよな、自覚はある」
「竜児だけがやるはずだったんだけど、あまりにも似合わないからお断りされそうだったのよ。私が一緒なら雇ってくれるっていうからさ、竜児が哀れになって。だから一緒にやるの」
大河は妙な頑なさでもって実乃梨に状況を説明するが、
「いんでないかい?」
スポーツバッグを背負い直し、実乃梨は花が咲くような明るい笑顔で壁にかけられた時計を見た。そろそろ部活に向かう時間のようだ。そして竜児のツラにびしっと指を突きつける。
「よし! 私は君を応援するぜ、高須竜児! 頑張れ、人生初バイト! 受けろ、真紅の衝撃!」
「……おう、なんだそれは」
スカーレットニードル! ふざけて指を連打して、実乃梨はそのまま踵を返して教室から一足先に出ていった。
一晩ぐっすり眠って、泰子の具合はすっかりよくなっていた。夜には、飲み過ぎない&日付が変わらないうちに早上がりする、という約束で、いつもの職場にも出るつもりらしい。本当は休んで欲しかったが、泰子自身よりも馴染みの常連さんたちが、昨日休んだ泰子に無理はさせないだろうとも思えた。そして竜児が「あさってに試験があって、今日と明日、大河や北村たちとファミレスで勉強する」とついた嘘も信じた。
そしてもう一つ。昨日の夜、泰子が寝た後にアルプスから電話があり、もう来なくていい旨を言い渡されたという嘘も意外なほどにあっさりと信じた。がっかりした表情を見せたのは一瞬、泰子はすぐに「にゃは」と顔を上げ、「よくあることさ〜、またいいお仕事見つかるよ☆」となぜか竜児の頭を、子供にするみたいにすりすりぐりぐり撫でてくれた。天下のマザコンとはいえ気持ち悪かったが、なかなかすりすりぐりぐりから逃れることはできなかった。
嘘をついたことの罪悪感が、思っていたよりも重くのしかかっていたせいだ。
だが、
「値段は二種類だけだからね。大きい方の箱は税込み五八○円、レジの黄色のここを押す。小さい方は税込み三八○円、こっちの水色を押す。受け取った金額を入れて、会計を押す」
チーン、とお馴染みの音を立ててレジが開き、突っ立っていた大河の胃の辺りに「んぐ」とぶつかる。
「品物はこのビニールか、この紙袋に入れる。わかった? できそう?」
「はい。できます、多分」
竜児はやる気たっぷりにレジの前に立つ。練習のために店主が「これくださいな」と気持ち悪い裏声で渡してきた箱は大きい方、見せたお札は千円札。迷わず黄色を押し、1000と打ち込み、会計。レジがかばっと開き、表示されたつり銭分の小銭を掴み出し、
「ありがとうございました!」
ニヤリッ!
「うっ! ……ここですかさず逢坂さんの方が!」
「ありがとうございました!」
店主の召還に応じて振り向いた大河の作り笑顔が炸裂。いてやるだけ、と言いながら、これぐらいのことはするつもりらしい。うんうん、と店主も頷き、「もうちよっとこっちで」と大河の肩を押し、竜児のまん前に立たせる。竜児の姿を隠すみたいな体勢で「ばっちり!」らしい。どういう意味だ。
「それじゃあ頑張って! 短時間だから休憩はあげられないけど、手洗いなんかは適宜《てきぎ》行ってね」
そう言い置いて店主は店内へ戻っていった。竜児と大河の目の前を、人々が忙しそうに通り過ぎる。包装済みのチョコレートとレジを積んだワゴンは、師走《しわす》の寒風吹きすさぶ店の軒先に出されているのだった。
薄暗くなり始めた真冬の空の下、商店街はまだ買い物の時間には少し早く、近所の私立高校の生徒たちが騒がしく歩いていく。「あっ、チョコ売ってる!」 「明日バレンタインか」などとワゴンを指差すが、そのままスルー。
足元にストーブを置いてもらったおかげで震えるほどには寒くないが、
「思ってたより全然数が多いんだけど……売り切るのって無理でしょ、これ」
軒先に吊るしたバレンタインデーの飾りの真下で、大河はワゴンを眺めて首を捻る。綺麗な山形に大量のチョコが積まれ、さらに下段には同じものがダンボールに一杯入っている。
「ていうか、俺のこの格好はじゃっかん詐欺臭くねぇか?」
「……う〜ん……じゃっかん……そうねぇ」
ちょっと離れ、竜児のナリを眺めて大河は難しげに眉を顰《ひそ》めた。貸与されたバイト用のユニフォームは、真っ白なコックコート――いわゆる、パティシエが厨房でまとっているあの白衣だ。このナリでチョコを売っていたら、まるでこの店で竜児が作ったようではないか。シールに記載された細かい字を見る限り、生産工場からばっちり送られてきた物なのだが。
「おまえのそれはいいけど」
「そう? いい? そうかな。……ちょっと撮って」
ポケットから取り出した携帯を竜児に押しつけてくる大河は、エプロンドレスのついた黒ベロアのワンピーススタイル。泰子もこれを着ていたのかもしれない。ウエーブのかかった長い髪をお下げにした大河は本当にフランス人形みたいにかわいらしいが、
「……撮ってって……バレたら怒られるだろ。バイト中だぞ」
「私はバイトではない。いるだけだから。はい、撮って」
「俺はバイト中だ!」
「一瞬一瞬、これだけだって」
大河はスカートを少しだけ広げてポーズを決めてみせる。仕方なく、ワゴンの下に携帯を隠すようにして、竜児はそのナリを一枚。
「どれどれどれ……」
画像を確認するのかと思いきや、大河は素早く竜児にも携帯を向ける。気づいた時にはもう一度ピンコロリーン、とアホな音を立ててシャッターは切られており、
「わお。これは衝撃の画像、いいアホツラが撮れたわ」
「……おまえをクビにするようにおっさんに言ってこよう」
「だから私はバイトではないのだ」
こいつ……と白い息を吐きつつ不真面目な大河を睨みつけたそのとき、
「すいませーん。もっと小さいチョコありますか。三つ入りぐらいの」
指を三本立てながら、近所の主婦らしい客が声をかけてくる。竜児は驚き、ほとんど飛び上がり、
「あっ? ええと、一応、この六個と十二個で……」
口の中でモゴモゴと不明瞭に答える。というか、答えになっていないような気もするが、「そうですか。……ふーん、ミルクチョコレート」
声をかけてくれた人は、少しの間だけチョコの箱を眺めて、結局興味を失ってしまったらしい。手にしていた箱を元に戻してそのまま歩いていってしまった。
「あーあ。行っちゃった……」
「うわ、結構緊張するな。挙動不審だ、俺」
「もっとこう、いらっしゃいませー! とか言った方がいいんじゃない?」
「おう、そうだな」
神妙な顔をした大河と頷きあい、ワゴンに積んだチョコの箱をちょっと見やすく並べなおしてみたりして、
「ちーっす、店員さん!」
「っ! い、いらつしゃいま……おまえかよ!」
レジごと倒れ伏したくなる。えっへっへ〜とのんきに笑って立っているのは能天気でおなじみの愛されアホ・春田であった。確かに今日からバイトをするとは伝えたが、見に来てくれとは言っていない。
「こちとら遊びじゃないんだよ! 帰った帰った! 毛が入るから離れて下さい!」
大河は両手でしっしっ、と春田を追い払おうとする。その指先がびちっびちっと鼻に当たるが、春田はへらへら笑いを止めはしない。
「そんなこと言うなよタイガ〜、チョコレート買いにきたんだぜ〜」
「おまえのような毛虫にふさわしいチョコなぞない! さあ、帰るのだ!」
「買うの俺じゃないしさ〜。ね〜」
春田は後ろを振り返り、そこにいた女の人と笑いあう。大学生だろうか。いや、そういう間題ではなくて、は? と竜児は目を剥いた。大河もだ。二人して一瞬目を見交わし、ぽかんと口も半開き、
「春田くんは大きいのと小さいの、どっちがいい?」
「こういうときは欲かいて大きい方って言ったら、後々悪いことが起きるんだよな〜」
「そんなことないと思うよ」
「じゃあ大きいほ〜! ひょ〜!」
これ下さい、と、その人は大きい方の箱を指差すのだった。ニットキャップをかぶり、綺麗な長い髪を胸の下まで垂らし、細身に淡いグレーのウールのコートを着て、
「ご、五八○円になりま……す……」
「はい。確か五百円玉があったはず……ええと」
バッグから妙に膨れた財布を取り出す。小銭を出そうとして、ぽろぽろとレシートやら一円玉やら幸福を招く金の亀やらが地面に落ちる。春田がそれを拾ってやって、
「も〜だらしないな〜。ほら〜」
馴れ馴れしくも彼女のポケットに入れてやるのだ。よほど仲良くなければ、普通こういうことはしないだろうと思えた。つまり、これは――
「……おまえ、お姉さんがいたんだっけか」
血縁。
おつりの二十円とレシートを渡しつつ、竜児は確認するように尋ねてみた。そうでなければ、なんだという。いるだけの大河は手を動かすこともなく、口もきけなくなっている。
「姉ちゃんじゃねぇよフヒヒ! ガ〜ルフリエンド!」
にこっ、と春田の傍らでその人が笑ってみせる。
嘘だ。信じない。だが竜児がどう否定しようと、春田の顔をちょっと見上げたその人の目には、特別な親しみが込められているのだった。
竜児は言葉もなく、チョコを受け取る手の白さをまじまじと眺めてしまう。普通に、というか、もう全然、綺麗な年上の人ではないか。「あああ、ありがとうございました!」と大河が頭を下げ、竜児も慌ててそれに習う。
立ち去り際、春田だけが小走りに竜児のもとへ戻ってきて、
「俺、あの人のこと好きなんだ〜。高っちゃんには隠し事なし、あの人見せたくてさ〜」
耳元に囁いていく。照れたみたいにでへへ、と笑って、先を行く彼女の背を追う。きっと竜児が片想いの悩みを修学旅行で明かしたから、それに応えるように自分の好きな相手も明かしてくれたのだとは思う。が、
「……なぜ!? 世の中狂ってる……!」
大河の言葉に同意せざるを得なかった。いや、春田はもちろんとってもいい奴で竜児は春田のことが大好き(気持ち悪い)だが、それにしたってどういうカラクリが働いて、あんな美人を捕まえたのか。そもそもどこで知り合った。
「……あの人が溺れたところに偶然春田が通りかかって助けたレベルの事件がねぇと、俺は納得できねぇよ……! 畜生、いらっしゃいませー! バレンタインチョコレートです! いかがですかあ! いらっしゃいませー!」
ほとんどやけっぱち、竜児は腹の底から声を絞り出していた。意外なことにそれに釣られたみたいに、立て続けに三人、チョコレートを買っていってくれた。三人目はいっぺんに小を四箱だ。
びろびろ、と伸びてきたレシートを切って捨て、竜児は紙袋を受け取っていくお客を見送る。このツラだ、客商売なんて絶対向かないと思っていたが、なかなかどうして好調な滑り出しではないか。春田ショックも一瞬頭から吹っ飛び、口元が緩むが、
「ねぇ。思ったんだけど、あんた笑わない方がいいみたい。さっきみたいに海賊の亡霊船長の顔してたら?」
「……お、俺がいつ海賊の亡霊船長の顔を……?」
「アホ毛虫の美人な彼女を嫉妬たっぷりに見送ったときの顔よ。そうそうその顔」
「……これはおまえの言い草に傷ついている顔なんだよ」
「それで、腕組んで。口閉じて、むすっとつったってて」
言われるままに腕を組み、黙ってワゴンの裏に立ってみる。すると通りがかりのOL風の二人連れ女性が、
「あ、みて、パティシエさんが自らチョコ売ってる……」
「うわ、若いけどすげえ気難しそうな……」
「でもああいう新進気鋭の職人さんのチョコって、なんか期待できるよね」
「彼氏に買ってみようかな」
「私自分用に」
どういう連想をしたのか「てっててーれれーってれっててーれれーれれー」……情熱大陸のメロディーを口ずさみつつ歩み寄ってくるのだ。どうしよう、「手作りですよね」などと訊かれたら、嘘をつかずにいる自信がない。
竜児は我知らず狛犬……いや、魔犬・ケルベロスのように目を剥いて、近づいてくる二人連れを見つめる。我が魔領域に足を踏み入れ次第、血汚冷土風呂《ちょこれいとぶろ》にOLを沈めよう! と決意しているわけではない。
そのツラを見て、二人はちょっとビビりながらも、「大きい方下さい」「私小さい方で」とチョコの箱を指差す。ぼさーっと突っ立っている大河の横で、やっと少し慣れてきた手つき、竜児は会計を済ます。袋に入れて手渡して、「ありがとうございました」――殊更《ことさら》に低い、かすれたような声を作って、ぶっきらぼうに言ってみる。二人は満足げにそれを受け取り、買った買った、と立ち去っていく。
「ほらね。売れた売れた」
「本当に売れた……っていうか、こんなことでいいのか!? 箱の裏には思いっきりどこどこ工場製、って書いてあるのに……消費者よ……!」
「別に私たち、嘘はついてないから」
だがやはり天網恢恢疎《てんもうかいかいそ》にして漏らさず。いや、単にさっきの売れ方がただの偶然だったのか、そこから客足は再びばったりと途絶えてしまった。商店街の人通り自体は夕食どきに向けて少しずつ増えているのだが、そういう層の客は、ワゴンに積まれたチョコを買ったりはしないのかもしれない。
「高須ー、タイガー、調子はどう?」
声をかけられ、顔を上げた。にこやかな声とは裏腹に、私服姿で一人で現れた能登は、妙にどんよりと顔を曇らせていた。
「さっきそこで春田とね……春田と、彼女に会って、あんたたちが暇そうにしてたっていうからひやかしにきたよ……あは、なにあれ……彼女……彼女!」
「あらあらまあまあ、お気の毒なはぐれ眼鏡がやってきたわねぇ」
一人ぼっちのその姿に、大河はいやみったらしく両手を胸の前に組んでみせる。
「ロン毛虫たちはそりゃもう仲良くチョコを買って帰っていったわ。あんたもここに足を止めた以上、最低一つは買うんでしょうね」
「いやだよ絶対いやだよ! みじめすぎるもん! ……高須は知ってた?」
「いや、さっき初めて知った」
「だよね! ていうかなんだよー、俺の知らないところでうまいことやってたのかよ……あーあ、もうやだやだ。あーもー、俺ってなにやってんだろ、ほんと……。……他の奴らも、見に来た? 大先生とかさ」
いや、と首を横に振ってみせる。北村は生徒会で今頃はまだ学校だろう、そんなことは能登も知っているだろうに。一体なにが知りたいのだろう、と考えて、
「あのー、亜美ちゃんとか。奈々子さまとか」
そこで竜児にもピンときた。あ、もしかして、と騒ぐ心を悟られないよう、
「……木原は来てねぇよ」
だけどさりげなく、友の本音を引き出そうとくすぐってみる。
「えっ!? いや、そんなのどうでもいいんだけど!? ただ、ほら、あれかなって! まーた木原があれこれ騒いで、大先生にチョコあげたりするのかなーとかさー、それって、ほら、どうなのーとかさー! 俺はいいんだよ!? 俺はいいけどさ、ほら、タイガーは気にしてるよね!? そのへんのあれを!」
「なにが? あれってなに? ていうか、木原麻耶が北村くんにチョコあげて、どうしてあんたが大騒ぎする必要があるのよ。ああ、そうか。あんた、木原麻耶のこと好きなんだ」
うっわあ、と竜児は大河を横目で見ていた。細かな気遣いや心の機微の微妙な色合いをベッター! とでかい絵筆で塗りつぶすような、目の醒めるような残酷さであった。哀れな能登の顔色が、猛然と凄まじい血色に染まる。
確かに、今までの能登の「応援」は、大河にとっては鬱陶しいものだっただろう。能登は調子に乗って、大河をからかったりもしてきた。だから大河は今までの恨みとばかり、恐らくは能登自身も理解しきってはいないだろう曖昧で傷つきやすいハートのド真ん中を、言葉で猛然とほじくりだすのだ。さすが猛獣・手乗りタイガー。手負いの奴の血の匂いには敏感だ。
「ケンカしてるうちに気がついたらあいつを意識して……ってヤツか。ふ――――ん。あるのねぇ、そういうの。仲良しのアホ毛もよろしくやってたみたいだし、ま、あんたも眼鏡曇らせて頑張ってみたら。結構お似合いなんじゃない? わかんないけど」
「はあああ!? なななななに言っちゃってんの!? わかんないなら黙ってたらいいんじゃないかしら!? おかしいよタイガーおかしいよ!」
「あーら慌てちゃって。やっぱり図星か。顔、真っ赤」
「マジでやめてよ! 変なこと言うなってば!」
「少しも変なことではないのよ、とっても自然なこと。男子のおしべと女子のめしべが、」
「ばかー! あんたもう頭おかしいよ! ふおお!」
「さあ明日もあさっても木原麻耶は同じ教室にいるわよ。これから毎日微妙な距離感を意識するがいい。困れ困れ! そして苦しめ!」
哀れなほどに能登は顔面を紅潮させて、高笑いする大河にいいように嬲られる。自分だって恋愛には苦しんでいるくせによくも他人にはこんなことが――と考えてみて、
「……で、なんであんたまで顔赤くしてんの?」
「……えっ!? あ、赤いか!? 赤いか……!」
大河が好きなのは自分ではないか、と。困らせ、苦しめているのは自分か、と。改めて考えて、なぜだか竜児が動揺する。
「ももも、もういい! くそっ! おじさーん! バイトがさぼってますよー!」
能登のおたけびに、店の中にいた店主がむっ、と顔を上げる。ちゃんとやってる! と竜児は首を振って見せ、その隙に能登は走って逃げた。
能登の声を真に受けたわけでもないだろうが、店主が表に出てきて、ワゴンに残っているチョコの数に顔を曇らせる。
「もうすぐ六時、この時間でこんなに余っちゃうと困るんだよな。外でやってもらってるから学校のお友達が来るのはしょうがないけどさ、どうせだったらもっと買ってくれそうなお友達呼んでよ」
竜児と大河は気まずく顔を見合わせる。確かにこんな売り上げでは、自分たちの時給だけで儲けは消えてしまうかもしれない。
「……ま、ただいるだけって言っても多少責任は感じるわね。こうなったらリーサルウエポン召還だ」
大河はなにかを思いついたみたいに携帯を開き、アドレス帳から誰かに電話をかけはじめた。
「げ。あんた一人じゃなかったの?」
バイトしてるなんていうから笑ってやろうと思ったのに――亜美は偽パティシエスタイルで仁王立ちを一応貫いている竜児を一睨み、
「かーえろ」
踵を返そうとする。
ダウンにデニムというカジュアルな私服で、キャップに伊達眼鏡までかけている亜美は、しかし変装の甲斐なく「あの子かわいい」「モデルかな? 背高いし」などと道行く男子たちに振り返られていた。すらりとした長身に細身、キャップから零れる髪もサラサラと美しすぎて、とてもではないが体型を見るだげで明らかに一般人ではない。
「まあまあ、せっかく来たんだから。はいばかちー、これ持って」
大河は呼びつけた亜美にワゴンの下から手を伸ばし、辺りをそっと見回してから五つ重ねたチョコレートを手渡す。
「ええ? やだよ、変なことさせないでよ。亜美ちゃん美人だからいやってほど目立つんだからさ」
「はいはいばかちーは美人美人。とっても目立つ。だからここに呼んだのよ、さあさあこれ受け取って、そんで『ここのチョコ大好き! 』とか大声あげてみて」
「なにそれ。……サクラやれっての!?」
「まあ、そういう話」
「やだ! なんで亜美ちゃんがそんなつまんねーことしなきゃいけないわけ!? しっかも余計な奴までいるし……冗談じゃない!」
ぺっ! と睡でも吐き捨てるような勢いで亜美は竜児を斜め下から睨みつける。しかし竜児は、
「……よう」
多少気まずいながらも、ちょっと片手を上げてみせた。そして、
「元気か」
まだ学校は辞めてねぇか――悟られない程度に探る視線を向けてみるが、亜美の返事は舌打ち「チッ」、そして「消えてよ」であった。
そんな態度もまったく腹立たしくない、といえばウソになる。しかし竜児は亜美から顔を背けはせず、甘んじて冷たい素振りを受け止める。そのサマは熱い湯きりの雫を欲しがるラーメン店信者にも似ていたかもしれない。そうして服従の印を自ら欲して頂くことで、底なしの甕《かめ》のように貪欲な己のMっ気願望を満たしているのだ。なぜなら竜児はそのツラとは裏腹に、美少女に冷たく当たられれば当たられるほどその理不尽な要望に応えたくて熱く滾《たぎ》ってしまうタイプの犬系マゾだから……というわけではもちろんない。
亜美の前から、このまま都合よく消えてやる気はさらさらないのだ。亜美にいいように操作され、失敗しちゃった〜、で投げ出されてたまるか、と。自分でも、意外なほどに複雑な、整理しきれない感情がそこにはあった。
単に、「学校を辞めるなんて言うなよ」だとか「わかってやれなくてごめん」だとか、そういうだけの湿っぽい感情ではない。もっと頑なな、妙な対抗心のような、おまえにだけわかったような顔をされてたまるか、というような気持ちがあるのだった。私はわかってるのにあんたはわかってくれない、と言われたことが――それが、竜児の腹の底にわだかまりとなって残っている。
亜美に、そんな奴だと思われたくなかった。思われたまま、この先どうなるかも見ないまま、失敗作として諦められてたまるか、というような。要は、川嶋亜美という奴に、自分は「認められたい」のかもしれない。
微妙すぎる不穏な空気を漂わせる竜児と亜美の顔を見比べて、不思議そうに首を捻るのは大河だった。
「……ばかちーと竜児って、そんなに仲悪かったっけ。……もしかして、私が修学旅行の前にばかちーに『竜児と仲良くしないで』って言ったから、それではかちーは竜児に陰険に当たってるわけ?」
「ち、が、う! 単に、気が合わないだけ、あたしたち。絶交してるのこう見えて」
ふん、と亜美はそっぽを向く。そのままワゴンに背を向けて帰ってしまおうとするが、大河は亜美のダウンの肘を掴まえる。
「まあまあ、ばかちー、絶交なんて言わないでさ。そうだよ、素直になってこのチョコ買って、竜児にあげて仲直りしたらいいじゃない。いいタイミングでバレンタインが来たもんだ、あんたついてるー」
「なに言ってんの!? ……ていうか、えっ!? チョコ買わされるわけ!? それってサクラでさえなくない!?」
「じゃあ私のおごりでいいよ。あっ、ただし一個ね! それにそうだ、もう一個自腹で買いなよ。で、そっちはみのりんに渡して仲直りするの。私、案外あんたのこと見てたのよ……みのりんと仲直りしたいのにうまくできない、微妙に揺れるチワワ心……気まずいんなら私がみのりん呼び出してあげようか? ふふっ、クソ生意気なばかちーが素直になれる機会をまさかこの私が作ってやることになるなんて、人間どうなるかわからないもんだねぇ」
「……っ!」
亜美は絶句、無言のままで手袋を外し、その手袋で大河の顔面をバシバシぶっ叩く。中世の貴族なら決闘のサインだ。亜美の内心の複雑な部分を知ってしまった竜児としては、そうしたくなる気持ちもわからなくはない。怖いから口は挟まないが。
「いたっ! いたっ! ばかちー! やめろ、物真似DVDネットで公開するよ!?」
「知るか! 勝手にやりやがれ!」
「じゃあ精神的ブラクラを見せてやる! 食らえ!」
大河は携帯のフリップを開き、
「……え? これって……ブッハー!」
画像を亜美に見せつける。亜美は腰砕け、キャップも落としてしまって、竜児をちらっと一瞥してもう一度「ブハッ!」と吹きだした。恐らくはさっき撮られた画像なのだろう、
「……おう。ちょっと、その画像見せろ。どんなふうに撮れてんだよ」
「あんたは見ない方がいいよ。多分立ち直れなくなる」
「見せろ! 場合によっては消去!」
「こんなおもしろいモン、消すわけないじゃん」
バイト中ということも忘れて思わず大河と携帯の奪い合い、バスケの1on1よろしく腕を伸ばしあうが、そのとき、
「あっ! 川嶋亜美ちゃんだ!」
商店街を歩いていた中学生らしき女子の一人が声を上げた。近所の中学の部活帰りなのだろう。結構な人数でぞろぞろと、次から次から同じぐらいの年代の少女たちが湧いてきて、「この辺に住んでるってほんとだったんだ!」「え、だれ!?」「モデルの! かわいいー! 写メとっていいですか!」――あっという間に女子グループは携帯を取り出して大騒ぎ、握手してー! だの、どこの学校なんですか!? だの、ちょっとした人だかりになってしまう。
「川嶋、本当に芸能人なんだな……」
「私も普通にばかちーのこと知ってたしね。本性を知らないって幸せなことよ」
亜美は写メは丁重に断りつつ、「えー、よく気づいたねー(ハァト)応援してくれて、みんなありがとー。(ハァト)」などとうるうるチワワモード、愛想よく握手やサインに応じている。道行く大人たちは亜美のことなどわからず、皆その大騒ぎを不思議そうに首を傾げて眺めていたが、中高生にとって川嶋亜美といえば、憧れのド真ん中そのものの存在なのだった。
「ていうか、ここのチョコ買うんだ!?」
「亜美ちゃん買ってる! 五個も持ってる!」
亜美は大河に押しつけられたチョコを思いっきりわかりやすく裸のまま、その手に掴んでいた。それに気づいた少女たちはあっという間にワゴンを取り囲み、
「あたしも買うー! 亜美ちゃんとおそろ!」
「あたしもあたしもー! げっ、たかーい! でも買うー!」
財布をみんなして取り出し始める。小さいの、大きいの、と少女たちがすごい声で騒ぐのを聞きつけ、亜美のことを知らない世代の主婦たちもワゴンを覗き始める。
***
さすがに完売まではいかなかったが、今日の分のノルマは十分に超え、さらに大河が帰り際に小を四個購入して、チョコの山は随分小さくなった。
「前から、バレンタインにお返ししようと思ってたのよ。デパ地下かお取り寄せでいいチョコ買いたかったけど、こうなっちゃったら仕方ないからね」
「お返し? なんの?」
帰り道、竜児と大河は少し離れて並んで歩き、
「北村くんと、みのりんと、あとあんたに。人命救助のお礼。随分しょぼくなっちゃったけど……あと、ばかちーにも一応ね。呼びつけたし、結局手伝ってもらったようなもんだし。さっき一個はおごるって約束したのに、渡すの忘れちゃったし。で、四個。明日学校で渡すから。この包みのままってあんまりかな?」
「俺にかよ。……そりゃあんまりだろ、俺にとって。明日も一緒にそれを売るんだぞ」
「包装だけ今夜もうちょっとなんとかしよっかな」
「溶かせ溶かせ。せめて固め直して手作りって言い張れ、包装はそれでいいから」
白い息が夜空に二つ。寒さに背を丸め、二人とも両手をポケットに突っ込んで、いつもの道を歩いていく。骨の髄まで染み渡るみたいな冷たい風はどことなく湿っていて、鼻の奥が凍りつくような心地がする。
「……なんかさ、」
大河は自分のつま先を眺めながら呟いた。
「時間、あっという間。最初はいつまでも時間が経たない気がしたけど、売れ始めてからはすっごい早かったよね」
「俺もそう思った」
竜児も下を向き、マフラーを口元まで引き上げる。自分の息で、少しは暖かい。
「疲れたけど、意外といいもんだな。働くってのも」
「ほんとほんと。私、なんにもしてないけど」
「セロテープ貼ってくれたじゃねぇか」
今日と明日だけでこのバイトも終わりかと思うと、本当に残念な気がしてくるのだった。もっと色々継続的にやってみたいと竜児は思っていた。
あれこれ考えることよりも、結局こうして実際に身体を動かすだけで、見えてくるものもあるような気がする。昨日のどうしようもない焦燥感や不安が、今は疲労の中でその輪郭を薄くしていくように思える。
「……昨日は、あんなこと……迷惑とか言って、本当に悪かったな」
こうしてバイトを始めることができたのも、大河がいたからだ。精神的な意味だけでなく、実際、大河がいたから雇ってもらえた。
「ありがとうな。俺一人だったら、なんだかんだ自分でも理由をつけて、こんなふうには動き出せなかった。多分」
「なに言ってんの。この程度のことで礼なんて言わないでよ。本当にお礼しないといけないのは私の方なんだからさ」
「珍しく殊勝じゃねぇか。だったらそのチョコ、本当になんとかしろよな。ネットでレシピ検索すりゃ、なにかしらやり方は出てくるだろうから」
冗談めかして竜児が笑うと、大河はちょっとだけ顔をこちらに向け、「ていうか」と唇を尖らせる。
「……私がチョコレートあげたら、竜児は、嬉しいって思うのかな」
「……は?」
なぜそんなことを訊くのか、竜児は少し驚いて大河の顔を見返した。大河にはそれが通じたようで、
「だってわかんないんだもん」
「わかんないって、なんだよ」
唇を尖らせるのは今度は竜児の方だった。
「おまえにお礼のチョコもらって、全然嬉しくないとか……俺はどんだけ人非人だよ。本気でわかんねぇのか?」
「……わかった。じゃあ、……じゃあ、頑張る。もうちょっとなんとか、頑張ってみる」
大河は手にしたビニール袋をちょっと掲げ、四個のチョコを睨むみたいにして頷く。じゃあ、って、その言い方ではまるで俺が喜ぶから頑張るみたいに聞こえる――考えてみて、竜児は愕然とする。
大河は、竜児が喜ぶから頑張るのだ。竜児が好きだから。
頑なな横顔を見て、足が止まった。
大河は、頑張ってもどうにもならないと言っていた。無力ながら頑張ってみても結局崖を転がり落ちるだけ、と。それでもなお「頑張ってみる」のは、崖を転がり落ちる覚悟の上ということか。竜児のために頑張っても、失敗して、痛い目を見るだけと大河は思っている。それでも、崖から落ちても、竜児のために頑張る、と。
だったら 崖を転がり落ちていく大河を助けたい、と思っている自分はどうしたらいい? 転がり落ちていく大河の手を掴みたい、引き上げて助けてやりたい、そう思っている自分は――?
不意に、足元が崩れ落ちるような感覚。立ちすくんだままで竜児は身を震わせる。あの吹雪の事故のとき、大河の本当の気持ちを聞くことがなかったら、自分は大河が転がり落ちていくことにも気がつけなかったのだ。その意味を、初めて理解していた。
あの想いを聞いていなければなにも変わらなかった、と思っていた。だから自分が忘れさえすればそれで元通りなのだ、と。
違うじゃないか。
大河は。崖を転がり落ち続けて、傷つき続けていたのだ。それでも声を上げず、助けて、とも言わず、ただ静かに落ちて、消えていく。去っていく。そのつもりだったのだ。崖の上の竜児を吹雪の中に置き去りにしたまま、自分だけが落ちて、消えて、やがて退場していくつもりだったのだ。
真冬の夜空の下に棒立ちになっている竜児に気づかず、大河は一人、歩き続けていた。白々しい街灯の光を浴びた背中がどんどん遠ざかる。長い髪が、足音の余韻みたいにふわふわと揺れている。そのうち、本当にこの手も声も届かなくなるのかもしれなかった。一人で行ってしまう。それが大河の決めた進む方角なのだった。
じゃあ俺は?
大河は、ミスをした。
竜児に声を、聞かせてしまった。
そのミスゆえに動き出したものがあったとしたら、その責任は誰が取るんだ? 自分が忘れればいい? でも。
でも、でも、でも。でも――できない。できないんだよ大河。そう言ってやりたかった。大河が1人で行ってしまうとわかって、そして。それをただ見ていることなんかできない。動いた気持ちは、生まれた気持ちは、なしにはできない。本当に忘れることができて、なかったことにできるとしても、もうそうはしたくないのだ。大河が一人で傷つき続けていることから二度と目をそらしたくなかった。
大河を救いたかった。
自分も大河と同じように、助けを求める声を飲んだ。すがりつきたくてどうしようもなくて、それでも必死に手を離した。それは、行くべき旅路が竜児だけのものだったからだ。
でも大河のは――大河が無為だと思い込み、傷つき、それでも頑張り続けるのは、竜児という存在に届くための旅だ。竜児は、転がり落ちる大河を助けたかった。何度でも吹雪の中に駆け出して、何度でも大河の手を掴みたかった。大河がもう傷つかなくてすむように、転がり落ちなくてすむように、掴んだその手を二度と離したくはなかった。二度と置き去りにされたくなかった。
大河にそれを、わかってほしかった。
風に散らされる髪を押さえながら、先を歩いていた大河は竜児がついて来ないのに気がついたのか、足を止めてこちらを振り返った。白いアンゴラのコートの裾が翻り、ロングスカートのフリルが揺れていた。小さな顔の真ん中で、二つの瞳がぴかぴかと強く光っていた。薄い桃色の唇が動いて、なにか声が聞こえて――竜児! なにしてんの、あんたがいると思って一人で喋っちゃったじゃん!
――あれは、逢坂大河。
同じクラス。偶然の隣人。人呼んで手乗りタイガー。わがまま。横暴。傍若無人。金持ちお嬢。捨てられ子。ドジ。適当。おおざっぱ。でも繊細。壊れやすくて、扱い注意。行方知れずの紙飛行機みたいに孤独。
あれが、逢坂大河。
「……大河……」
おまえにこの手を伸ばして、助けたいんだよ、と竜児は思った。
そしてたったひとつ、輝くような喜びを――どんな形であろうと、どんなものであろうと、ひたすらに喜びを手渡したかった。
だから、聞こえた声を、なかったことにはされたくなかった。忘れることもできなかった。大河の声が、本当の声が、竜児はずっと聞きたかった。
でも、大河はそれをわかってはくれないのだ。竜児の気持ちをわかってはくれない。
大河は一人で行ってしまう。竜児を置き去りに、口を噤んだまま、永遠にずっとそのままでいいと思っているのだ。
バレンタインデーの放課後、大河がみんなを呼び出したのは人気のない空き教室――旧校舎にある今は使われていない集会室だった。朝、大河はわざわざ実乃梨とは別々に少し早めに登校し、古式ゆかしく召集すべき面々の下駄箱にメモを入れたのだ。
竜児、実乃梨、北村、そして嫌がる亜美の両手を引っ張って教室のドアを閉ざす。亜美に関しては、伝統的な呼び出しメモの意味はなかったかもしれない。
「ふっふっふ。ここで会ったが百年目」
ぴしゃ、とドアを閉ざし、大河は邪悪に笑ってみせる。クラスの他の遵中の前では、素直に礼を言うのも恥ずかしかったのだろう。
「会ったがっていうか、あたしはあんたに連行されてきたんだけど!?」
「ばかちー、瑣末ごとは置いておきなさい! 北村くんはこれから生徒会があるし、みのりんは部活だし、私と竜児も重要な勤務が控えているのだから事はスムーズに運ばなければならないの」
「重要な勤務ぅ? あれがぁ?」
けーっ! と亜美は態度悪く、腕を組んで一人空き教室の隅に立つ。まあまあいいじゃん、と実乃梨が笑いかけるのは完全無視、同じくまあまあと幼馴染が歩み寄るが、スタスタと背中を向けて距離を取る。大河はたいして気にもせず、
「険悪なムードになってきましたが、今日はバレンタインデーです。感謝を込めて、私、手作りチョコを持ってきました!」
持参した紙袋から四つの包みを恭《うやうや》しい手つきで取り出した。
「作ったの!? 大河が!? すげーじゃん!」
実乃梨は立っている大河の向かいの席について拍手、胸を張る大河の頭を撫でくり回す。以前大河の目玉焼きイリュージョンの被害者になったことがある北村も実乃梨の傍らに腰掛け、合わせて手を叩き、
「逢坂がチョコを手作りしてくれるとは……へえ! もったいなくて食えなさそうだ」
嬉しげに声を上げるが、
「……それ、昨日あんたが売ってたチョコじゃん。あんたとうとう嘘までつくように……」
「違ーう! 包装紙は綺麗なのがないから流用だけど、ちゃんと溶かして、型に入れて固めたんだから! ……型っていってもお茶碗の底だけど、綺麗な丸にできたし! 見てよこれ、クマ! 真夜中までかかった!」
大河は亜美に、自分の顔の目の下を指してみせる。竜児は、本当は朝の五時までかかったことを知っている。ずっと眠れず、大河の部屋から漏れる明かりをベッドの中から眺めていた。
「どうせ高須くんに手伝わせたんじゃないのお?」
「そんなわけないでしょ! 竜児にもあげるチョコなのに」
「でも高須くんもクマできてるじゃん」
「……これは俺の人相の一部だ」
嘘だが。
低く亜美に言い返し、竜児は北村の隣のイスに腰を下ろした。表面にもイスの足にももっさり埃が積もっていたが、拭こともしなかった。へっへー! と満面の笑みを浮かべて得意げにチョコ入りの袋を机に置く大河の顔を力なく眺める。もはや迷いもなく、傷つき続ける道を決めて、選んで、しっかりと固く口を噤む奴の顔を。
どうにもできないことが、この世にはあるのだと思い知る。他人の気持ちを動かすことが、どうにもできないことの最たるものだろうとも思う。
「まずは、はい! ばかちーにくれてやる! 咋日はサンキュー!」
「……もう関わらないからね。昨日はなし崩し的に協力させられただけよ」
亜美はチョコを受け取り、ぶすっと顔を歪める。
「次は、みのりん! 修学旅行の時には、助けにきてくれたって聞きました。命の恩人、ありがとう!」
「なんだよもう、改まっちやって。そんなの当然じゃんこんにゃろー。大河が困ってたら、みのりんはいつだって駆けつけるぜ」
「うーん、好きだよみのりん!」
「私も! うお〜大河〜!」
ガシ! ガシ! と大河と実乃梨は腕を組みあい、友情を確かめる。そして、
「竜児! あんたもね、ありがとう! ちゃんとネットで検索して、湯せんの仕方を確かめたわよ! やっちゃんと一緒に食べてよね」
「……おう」
チョコを受け取り、大河の顔を見ることはできなかった。嬉しい顔を見せようと思うのだが、痒くもない鼻の頭を掻く素振り、なぜだか懸命に自分のツラを隠していた。
「で、北村くん! 一番大きくできちゃったのを、北村くんにはあげます」
「おお……! これは確かにずっしりくるな! 嬉しいけど、いいのか? 俺が一番のをもらってしまって」
「いいんだよ! だって、北村くんは自分の危険も顧みず、私を崖から引き上げてくれたんだもん! 竜児から聞いたよ! あー、もう、恥ずかしい! ほんっとに私ってアホだよね、どんなツラして雪に埋まってた!? 白目とか、もしかしてむいてなかった?」
恥ずかしさを隠そうとしてかいつもよりずっと饒舌になる大河の傍らで、
「え?」
小さく声を上げたのは実乃梨だった。実乃梨はそのまま、竜児の顔を振り向いて見つめる。北村にもその声は届いたのだろう。大河に向けていた笑みを強張らせ、視線を惑わせている。竜児は、とっさに実乃梨の目から視線を逸らしていた。
――しまった。
北村には嘘をついてくれるように言っておいたけれど、実乃梨は、……すべてを見ていたのだった。
大河はあの事故のときのことを思い出すと恥ずかしくて仕方ないのか、小さく舌を出して目をつぶり、自分の頬をびしゃびしゃ叩いてさらにヘタクソな照れ隠し。
「ああもうやだやだ、もうほんっと、信じられない。あのときはどうなるかと思った。ずぼーって足が雪にはまって、そのままゴロゴロ転がり落ちていって、頭打って、そのまますーって目の前が真っ白になって……失神するってあんな感じなんだね。夢の中みたいな感じ、寝言みたいにとんでもないことぽろっと口走っちゃったような気がしてさ、我に返ってからもうパニック状態! しばらくはほんと、わけがわからなかった」
意を決して、顔を上げた。
実乃梨の目を、竜児は必死に見つめた。
頼むからなにも言わないでくれ。このまま、話を通してくれ。このテレパシーが通じるならば死神にでも魔王にでも魂を売っていいと思っていた。しかし実乃梨は竜児に視線を返すことさえしてはくれず、大河の赤くなった横顔を見た。
「……なにを、口走っちゃったって思ったの?」
「えっ!? 言えるわけない言えない言えない! みのりんにも言えない! 誰にも絶対、言っちゃいけないようなこと! だから聞かないでよ!」
「言っちゃえよ」
「だめだめ、っていうか私の妄想で、」
「言えって」
実乃梨は妙なしつこさで、大河の手首を手繰るように掴んだ。大河はごまかし笑いを浮かべながらも慌てた素振り、
「みのりんにだって言えないんだってば! 絶対誰にも聞かれたらいけないようなことなの! 誰にも聞こえたらいけないことなの!」
それでもまだ全部冗談ごとにできると信じるみたいに、大仰な仕草で天を仰いでみせる。
「もしも聞かれてたらもう破滅、とても生きてはいけないみたいな、とってもとってもやばいこと! なんてね! ……え、えへへ……聞かれてないよねぇ!?」
「ああ聞こえてないとも! な、高須!」
北村もあせったみたいに、大河と同じくわざとらしい笑顔を作って、隣に座った竜児の肩に手をかけて同意を求めてくる。竜児も思わず大きく頷き、
「誰にも聞こえてねぇ、大丈夫だ!」
大河が、竜児のことが好きだと呟いた声なんて、絶対に誰にも――
「……っ」
実乃梨の両目が、その瞬間、凄まじい勢いで竜児を見据えた。そして顔を、まるでキスでもしようとしているみたいに近づけてくる。睫毛さえぶつかりそうな距離、驚きのあまり息が詰まった竜児の唇の数ミリ手前で、その唇が、
「う、そ、つ、き」
と。
右手には大河の手首を掴んでいた。左手で拳を作り、そして、
「――聞こえてなかった、で、済ませる気?」
竜児の胸を、心臓を狙って殴りつけた。う、と息が詰まった。
「忘れられないのは、『それ』でしょう?」
「……なに」
殺されかけてる人のように低く呻いたのは、大河。桃色の唇を半開きにしたまま、大河は瞬きをするのも忘れたようなツラで実乃梨の耳の辺りを見る。え? と訊き返すように小さく首を揺らし、実乃梨に掴まれてはいない片手で自分の頬を撫でる。その首筋から顎、顎から耳朶《じだ》、耳朶から頬に、凄まじい熱の色が上っていくのを、竜児はどこか他人事のように眺めていた。すりガラスみたいに真っ白だった肌が、一瞬にして血の薔薇色に染まっていく。まん丸に見開かれた大きな瞳が、超新星爆発――見たこともないほどに凄まじい光を放つ。
目が合ったその瞬聞。
大河は鼻と口から二酸化炭素の塊を吐き切って、罠にかかった虎みたいに一気に跳ね上がった。現場から離脱を図って身をくねらせ、しかし、
「い〜〜か〜〜せ〜〜な〜〜い〜〜!」
実乃梨は半ば引きずられながらも、掴んだ大河の手を離しはしなかった。大河に引っ張られる実乃梨の身体にぶつかって二人の間にあった机がなぎ倒され、実乃梨が座っていたイスも倒れる。大河はなおも逃げようとして実乃梨に掴まれた手を振り回す。実乃梨は足を踏ん張って耐える。
「大河……っ! あんたも、聞こえなくてよかった、で、済ますの!?」
「は、」
ただ目を見開いて硬直したままの竜児に、そのとき北村がどこかのんきな声で尋ねてくる。なあ高須。おまえは逢坂を、このままここから逃がしていいか。それでいいか。
「高須くんが、あんたを、助けたんだよ……っ! でも、それを、言えないような事態が起きた! あんたが、起こした!」
「な、し、」
竜児は北村の顔を見返した。
首を、横に振っていた。
それでは、よくない。
大河の気持ちを、本当は聞きたい。大河に、気持ちを伝えたいと思って欲しい――
「どうしてだよ大河! どうして一言が……たった一言が、素直に言えないんだよ!?」
「……てぇぇぇええええぇえええええぇええっ!」
すぽーんと汗で滑ったか、それとも力で競り負けたか、実乃梨の手が大河の手首から外れた。その勢いで実乃梨は真後ろに数歩分、「おわあ!?」と大きく蹈鞴を踏む。大河はもっと凄まじい勢いで床にすっ転がり、しかし、そのままの勢いで弾丸の如く走り出す。教室をほとんど二歩で横断し、さっき自分で閉ざしたドアを開こうとし、
「っ!」
先回りしてそのドアの前で通せんぼをする北村の顔を見上げる。反応速度は野生の獣、すぐにもう一方のドアから逃げようとして、
「ばかちーっ!」
絶望的な声を上げる。大河の目の前で亜美はぴったりと扉を閉ざし、
「……あーあ、ひっどいツラ」
鼻先で大河をせせら笑った。行き場をなくした大河の前に、実乃梨が立ちはだかる。立ちすくむその肩を掴む。
「こっち見てよ大河! 私を、見て!」
「やだっ! やだやだやだやだやだ―――っ!」
「私はなにに見える!? 私は実乃梨だよ! あんたの親友! そうでしょ!? 私が好きって言ったよね!? なら、私を信じてよ! 私の選択を信じてよ!」
大河は破裂した爆弾みたいに手を振り回してなおも暴れ、
「私は大河を信じるよ! みのりんがみのりんがみのりんが、って、欲しいものを欲しがれない弱さを、私のせいにする奴じゃないってあんたのこと信じてる! それとも、あんたはそういう奴だった!?」
「そ――そんなの、違うっ!」
やっと人語を解したが、その声は悲鳴のように甲高く割れた。
「私はただ、みのりんが幸せになるように! 大好きなみのりんが、幸せに、」
「ふざっつっ……けんな!」
舐めるんじゃねぇ、と続けられた実乃梨の声も。
「私の幸せは、私が、この手で、この手だけで、摘み取るんだ! 私にはなにが幸せか、私以外の誰にも決めさせね――――――――――!」
大河は無我夢中で、叫ぶ実乃梨の腕を払った。グルグルと逃げ回り、机という机をなぎ倒す。実乃梨は机の上に乗り、大河を追い詰める。しかし捕まえられずに焦ったか、
「ちくしょーやったる!」
捨て身の大技に出た。
机の上からぶわっ! と、大鷲《おおわし》のポーズで実乃梨はジャンプ、大河にのしかかるように華麗に舞い降り、
「あああああっ!?」
……る、つもりだったのだろう。しかしこんな場面でらしくない凡ミス。着地に躓き、そのまま己の親友の如く顔からコケる。
うわーばかだ……呟いたのは亜美だった。実乃梨がコケた隙をついて大河は再びドアへ向かって走り出す。近いのは北村が守る方か、亜美の守る方か、わずかに数秒だけ大河は左右を見て迷った。そして、
「……ってわけだが」
「もうしょうがないよね〜」
二人の幼馴染は本物の兄妹のようにぴったり同じタイミング、しれっとドアの前から一歩離れる。壁際で目を見交わし、「俺たちにできるのはここまでだな」「そうそう」などと頷きあうのだ。
亜美が開けたドアを大河はやすやすと突破、廊下に走り出していく。先に声を上げたのは実乃梨だった。
「あああああーみん!? 裏切ったな!?」
そして竜児も立ち上がっていた。
「北村……!」
大河の足音はどんどん遠ざかり、実乃梨と竜児は顔を見合わせる。亜美の甘ったるい声が白々しく響く。
「逼いかけなくちゃねぇ。追いかける気がある人が」
追いかけて――それでどうする。
竜児は息を吸い、机の上に残された大河のチョコレートを睨みつける。引っつかんで、ポケットに入れようとして入らない。やぶれかぶれにズボンの中、腹の中に突っ込む。
追いかけてどうする。大河の気持ちを聞いてどうする。おまえを助けたいと手を伸べて、そして掴んで、どうするという。
「……高須くん。私は大河を追うよ。まだ話は終わっちゃいないからね。君はどうする」
俺はどうする。
「俺は、」
実乃梨を見た。どうするもこうするもなかった。
「なにがあっても大河から離れない。だから……」
その気持ちをどう言うべきか。わかるのはただ一つ、すでに迷いなんざ欠片ほどにもないこと、それだけ。
行かせない。行かせるものか。置き去りになんかさせない。
「……追いかける!」
実乃梨が一度大きく息を吸ったのがわかった。その息をぐっと腹にため、気合をいれ、自分の右手に唇を押し当てる。そしてその手を、
「よし。高須竜児――ジャイアントさらば」
「……っ!?」
竜児の唇に軽く当てた。驚く竜児の目の前でいたずらに成功したガキみたいに唇を曲げて笑う。
「高須くんは左から。私は右から。大河は教室に鞄を置いてあるから、戻るために渡り廊下へ向かってるはず。渡り廊下で大河を挟み撃ち、再び会おう!」
言うや否や、スカートを翻して走り出す。それをちょっと見送ってしまい、竜児も慌てて教室から飛び出る。実乃梨は右に、竜児は左に、二階下の渡り廊下を目指して生徒会長の見ている中、大胆すぎる校則違反の全速力で廊下を突っ走る。
大河を追って、そしてどうする。どうなる。胸の奥で膨らんでいく熱が竜児の走る速度に変わる。大河から離れないと決めたあとにはなにが待っている。わからないけれど、足は止まらない。わからなくてもいい。どうなるのでもいい。
大河がいればそれでいい。
が、「えええ!? あれ!?」「おう!?」――渡り廊下で竜児が実乃梨と相見えたそのとき、二人の間に大河の姿はなかった。
「なんで!? ってか、取り逃がした!?」
冷たい風が頬を撫でたのに気がつく。一階と二階の間、中二階にある渡り廊下の窓は開いていて、まさか、と二人して窓の向こうを見やる。その先には教室のある新校舎。上履きのままで飛び降りれば、とっくに戻っていても不思議ではなかった。
「……下駄箱だ! 玄関! 靴なしじゃ帰れないよね!?」
「おう!」
窓から飛び出そうとして、しかし運悪く向かいの棟から教師が顔を出し、「なにしてる!」と怒鳴る。慌てて顔を引っ込めて、遠回りに教室のある校舎の玄関へ向かう。
階段を駆け下りながら、追いつけないかも、と竜児は思う。実乃梨も同じ気持ちなのだろう、一段抜かしで竜児の前を走りながら、
「……大河! 聞こえる!?」
もしかしたら下の階の大河に届くかもしれない大声を上げた。
「ねぇ大河! あんたはずっと知りたがってたよね!? 私も……私は、高須くんが、高須竜児が、好きだよ!」
後に続く竜児を振り返りもしない。
「友達として、なんて逃げたりしない! ずっと好きだった! そして、その気持ちを抑えて、あんたに『譲らなくちゃ』とも思ってた! 親友のあんたが高須くんを必要としてるなら、って、……それは、でも、傲慢な私の勘違いだったんだよ……! さっき、言ったよね!? 私の幸せは私が決めるって! 同じようにあんたの幸せも、あんたにしか、決められない! あんたを舐めてたのは私もだよ! ……私は決めた! こうすることが、こうすることでしか、私は幸せになれない! だから……だから! 大河! あんたのやり方も見せてよ!」
一階までたどり着き、残っていたほかの生徒が実乃梨の大声に気がついて振り向いた。実乃梨も竜児も全力疾走のおかげで虫の息、倒れこむように2ーCの靴箱にたどり着く。
しかし大河の姿はすでになかった。靴もなく、実乃梨の声が聞こえていたかどうかもわからない。
「……っ」
実乃梨はしゃがみこみ、顔を両手で覆って俯いた。実乃梨が泣いてしまう、と竜児は思うが、「……なんだそれは……!」
「……さ、さっき転んだせいだと思う……ずっと血の味がしてたから。くそ……もうやだ」
覗き込んだ実乃梨の鼻の下は、垂れてきた鼻血に赤く染まっているのだった。
***
保健の先生はもうおらず、実乃梨は自ら栓を詰めた鼻を鏡で覗き、
「……ってか、もう止まったか? ……あんまり見ないでくれる?」
ベッドに座って顔の下半分を手で覆う。
「びっくりした。おまえが泣いたかと思った」
「私が泣くなんて、思うの?」
「思うだろ、そりゃ。普通に」
なら、報われるよなあ――実乃梨は小さく呟いて、照れたみたいに笑ってみせた。大河を取り逃がし、どうしていいかわからないままとりあえず、二人はここまで応急手当にやってきたのだった。
「もう泣いたりしないって決めても、そうやって頑張っているのをわかってもらえてるとしたら、それだけで十分に救われるんだよ。前に、高須くん、私に『どうすれば前向きになれる』って訊いたことあるでしょ?」
「ああ、覚えてる」
「そう決めることだよ、って答えたよね、私は。私がなにを『決めた』のかわかる? 私は頑張る。頑張って、夢を叶える。そのために、悩んだり泣いたりそういうのはもうやめて、前向きであり続ける――そう決めたんだよ。現実はどうであれ、そうあろうとしてるんだ。それを丸ごと理解してもらえているとしたら、それでもう、頑張ったことは報われてるって思う」
実乃梨は鼻の栓を指で押し込んで笑う。
「私が頑張る理由はね、意地だよ」
明るい声で語り始めたのは、弟との話だった。順調に野球を続け、甲子園に行き、やがてプロを目指す弟と、女子だからという理由で野球を続けられなかった自分のこと。家庭内で最優先の弟の夢と、なんだか後回しの実乃梨の夢のこと。
「ソフトをね、続けたいの。私の夢だってでっかいし、ちゃんと叶うって、大声で叫んでやりたいの。でも、高卒で実業団に入るには実力が足らない。だからお金を貯めてね、自力で体育大に進んで、ソフトをやるの。そして私は頂点を――全日本を目指すの」
「……それで、あんなにバイトばっかしてたのか」
「うん。口に出すのが怖くて言えなかったんだ。笑われるかも、とか、心のどこかで思ってたんだよね。でも今は堂々と言いたい気分。弟に、親に、リトルリーグの監督に、私の夢を笑った中学の担任に、世間みんなに、世界中に、私は叫びたいのよ。私は私のやりかたで、私の頂点を極めたぜ! 私の選んだ、掴んだ幸せは、これだぜ! って。……ただの意地。でも、そんなものにこだわって、私は泣くのをやめて、前向きであり続けようって決めた。一人でできるところまで、いけるところまでいってみたい。誰にも文句は言わせない自分になりたい。……そんなふうに、頑張ってる。泣いてもつらくても苦しくても、意地張って、頑張る」
泣いてもつらくても苦しくても――そう言う実乃梨の笑顔に、竜児は、自分のこと、大河のこと、亜美のこと、みんなのこと、泰子のこと、あらゆる人の姿を重ね合わせていた。口に出すことはできなくても、みんながどこかで、なにかで、痛みを感じている。そこで挫ける奴もいるだろう。頑張れなくなる奴も。この先は長く、どれだけの奴らが頑張れるかなんて誰にもわからない。
でも、夢見る場所を痛いまでにまっすぐに目指す実乃梨の姿は、きっとこんなふうに、今と変わらずにいつまでも輝き続ける。
竜児にとってその輝きは、なによりも眩しく、救いのように、道しるべのように見えるのだった。
「……おまえが頑張ってることを、俺は信じる」
「よっしゃ。高須くんが信じてくれてる限り、私、きっと頑張れる」
櫛枝実乃梨があんなにも眩しく光って見えていたのは、そうか、だからだったのか。
「ジャイアントさらばをした後だけど――なんだよジャイアントさらばって。その後だけど、俺は、おまえのことを、知ることができてよかった」
「高須くんが、私を知ろうとしてくれたからだよ。……きっとこうやって、私たちはこれからもずっと、ずっとずっと、頑張る姿を、想いを、お互いに伝えあうんだよ。それはさ、」
実乃梨が片手を顔の前に上げて見せた。自然に、竜児はその手に自分の手を合わせた。
「永遠だぜ」
「……おう」
――この恋は、実らなかった。
だけどその次に生まれた想いは、絆は、永遠を約束されたのだった。ごまかしなしの剥き出しの心で、これまで二人は何度も傷つけあって、そしてこうして大きく育った。人は笑うだろうか? 理解できないと囁きあうだろうか? でも、竜児は思うのだ。旅をしていたようだった、と。遠回りして、挫けかけたりもして、そしてやっとたどり着いた。ここに、実乃梨と手を重ね、永遠を約束できるこの場所に、この時に。ずっとたどり着きたいと思っていた場所に、今、やっと。
「私は大河に言いたかったことを、全部言い切ったよ。多分、聞いてたんじゃないかな。……聞こえてたと思う。だからさ、ここで大河を追いかけるのをやめる」
実乃梨は少し息をつき、よっしゃ、とより高く、その顔を上げてみせた。
「もう一人、追いかけ回さなきゃいけない子がいるんだ。あーみんっていう奴。そいつはね、しつこく追いかけ回して、何度怒らせちゃっても、もしかしたらまたケンカになっちゃっても、それでもぶつかりあいたい奴なんだ。仲直りしたい奴なんだ。……あんなふうにケンカできる奴、他にいないもん。自分が、あんなふうに人とぶつかれるなんてこと、知らなかった。自分も知らない自分を、力ずくで引っ張り出してくれる奴なんて……そんな面倒なことをしてくれる奴なんて、絶対他にはいないもん」
そいつのことならよく知っている。実乃梨の笑顔は、今日も頼もしいほどに明るかった。きっとあの、もしかしたら自分と同じぐらいに不器用な奴の心を、実乃梨は照らし出すことができるだろうと思えた。
竜児だってもう一度、いや二度でも三度でも、何度でも亜美の心のすぐ前に――声を聞き漏らさない距離に立とうと思えた。
「さあ、行こうか、高須くん。それぞれ行くべきところが、私たちにはある」
***
「おう!」
「……」
――まさか、あんなふうに逃げた大河が、ちゃんとバイトに来ているとは誰が想像しただろうか。遅刻ギリギリで飛び込んだ竜児よりもよっぽど真面目に、とっくにワゴンの前で仁王立ち、今日もなにもしないぞスタイルでスタンバっているだなんて。
「よ……よくぞ、ちゃんと、来たな」
「……来るよ。働かなくても、バイトだもん。お仕事だもん」
大河はフン! と思いっきりそっぽを向いて、それきり人形みたいに動かなくなる。ワゴンの正面には店主が貼った、『本日半額セール! 』の赤文字。
毎年恒例のことなのか、それとも赤文字を目にした客が足を止めているのか、意外なことに半額のバレンタインチョコは本命日の昨日よりもずっとまともに売れていく。おやつにするのか子供連れのお母さんたちの姿も多く、男も幾人かはてらいもなく、二つ三つと綺麗にラッピングされたチョコの箱を買っていく。
竜児は息をつくヒマもなく声を上げ続け、手を動かし続けた。大河は口をへの字にしたまま、一言も喋らず、そのまま固まっていた。ふと客が途切れ、なにか竜児は話しかけようとし、目が合って、声が詰まってしまう。無言のまま、大河のスカートがストーブで焦げそうになっているのを、裾を掴んで防いでやる。大河はそれでも動かなかった。
離さない、なんて大仰なことを思ったわりに、竜児だってろくに口をきくこともできなかった。
想いを伝えあうことがもっと簡単だったなら――伝えたいこと、伝えたくないこと。全部を上手により分けることができたなら、そうしたら大河に、今、なにを伝えられただろうか。大河はなにを伝えてくれるだろう。そこになにが生まれるのだろう。
上手にはできないまま、竜児はそれを知りたいと思っていた。そして生まれいずるものが喜びだと、幸せだと、大河に思ってほしかった。
口を結んだままで、傍らにいる大河の横顔を盗み見た。大河は本当に石の如し、突っ立ったままで商店街を行きかう人の流れに視線を向け続けていた。そして、
「みのりんの声は、聞こえてたから」
「……大河」
客が途切れたその隙に、声は小さく、本当に小さく漏らされる。
「わ……笑わないで」
「……笑ってねぇだろ」
「……笑わないで。こっちも見ないで。振り返らないで」
耳まで真っ赤に染めて、大河はほとんど目も開いていないのではないかとさえ思われる、ものすごいしかめっつらで言うのだった。
「……笑わないで。お願い。……バイトが終わったら、話を聞いて。もしも私が逃げそうになったら、……ちゃんと、捕まえて。お願い」
笑ったりするものか。
「おう」
大河の気持ちを、誰が、笑ったりするものか。
竜児は手を止めず、隣で震えている大河の存在を身体の左側にしっかりと感じながら、夢を見た。寝ながら見る夢ではなくて、叶えるために頑張れる夢だ。高校を卒業して、仕事をする。そして泰子を楽にさせて、大河を離さないで――ともに、暮らしていく。この夢だって、誰にも笑わせはしない。
バイトが終わったら、と時計の針を確認する。
バイトが終わったら、答えがわかる。大河を追いかけ、大河と離れないと決め、大河の気持ちが聞きたいと願い、その結果なにが生まれるのかを、この目で確かめることができる。
「――嘘を、ついたの」
その声に、手にしていた給料入りの封筒を取り落としていた。
「やっちゃんに、嘘をついたんだね」
「……っ」
商店街を抜けた国道沿いの路上に、泰子はいつからいたのだろうか。いつから、竜児と大河の姿を見ていたのだろうか。大河も息を飲んで身体を強張らせていた。
「……ママ……」
「時間切れよ。マンションに寄るから、荷物をまとめなさい」
部屋着にダウンコートを着ただけの泰子が街灯の下に立っていて、その後ろには黒のポルシェが止まっていた。
「……おまえの……母親? でも……」
大河よりももっと淡い栗色の髪をゆったりとしたアップにした、お腹の大きな女性だった。日本人離れした整った顔立ちに、静かな表情。美しいがどこか底知れないその人を、大河はママと呼んだのだった。ばっちりうまくいっている、大河は確かにそう言っていた。しかしその人はつかつかと歩み寄るなり大河の手を掴もうとする。反射的に竜児は大河を引き寄せ、大河は叫んだ。
「さ――触らないで! 二度と、私に!」
混乱したまま、竜児と大河は身を寄せあって後ずさる。たった一つわかったのは、大河が嘘をついていたことだった。この親子は、本当に親子ならばだが、見るからに全然ばっちりなんかではない。
「……あなたが高須くんね? 今まで親しくしてくれたこと、逢坂から聞きました。ありがとう。娘のことはもう忘れてちょうだいね。ちょっと事情があって、この子は逢坂家とは縁を切って、私と新しい家庭で一緒に暮らすことになっているの」
「だ、誰があんたなんかと……あんたの男と、そのガキなんかと!」
火を吐くみたいに大河は狂おしく絶叫する。竜児の背中に隠れるみたいにして、その身をブルブルと震わせている。
「……な、なんで? なにが、どうなってるんだよ。意味がわからねぇ……」
「大河ちゃんのお母さんが、大河ちゃんを捜してうちに来たの。携帯が繋がらなくて、仕方なくて、勉強してるって竜ちゃんが言ってたファミレスまで一緒に行ったの。でもどこにもいなくて、北村くんちに電話したの。北村くんが、ここでバイトしているって教えてくれたの」
「……これには、ちゃんと理由があって、」
「理由なんて聞かない!」
泰子は他のなにも目に入らないような顔をして、大声を上げた。
「バイトは禁止って約束した! でも、竜ちゃんは嘘をついて、それを破った! そんなの許せない!」
「許せないって……じゃあ、どうしろってんだよ!?」
言い分は、竜児にもあるのだった。泰子の怒りが理不尽で、一方的だと感じるぐらいには、言いたいこともあった。
「おまえは俺のために仕事を増やして、それで倒れた! だったら俺が代わりに仕事をする! それのどこがおかしいんだよ!? 家族なんだ、そうやって助けあうのが当たり前だろ!?」
「よそのことなんか知らない! うちは、竜ちゃんは、お勉強を頑張るの! それ以外のことを頑張るのは、やっちゃんは許さない!」
「じゃあ……じゃあっ! だったら! 倒れたりするなよっ!」
手にしていた給料袋を、竜児はアスファルトに叩きつけていた。
「勉強だけ頑張れだとか、そういうのは、十分に稼ぎのある奴が言うセリフだろ!? パート増やして倒れるような奴が言っていいことじゃねぇんだよ!」
「倒れたのはたまたまだもん! それに倒れたって、いいんだもん! やっちゃんは、竜ちゃんが思いっきり勉強してくれれば、やりたいことを見つけて立派に生きていってくれれば、それで、それだけで、どうなったって全然構わないんだもん!」
「ふざけんなよ!?」
もはや殴りかかりそうになり、竜児も全身を震わせた。一人で泳いでいく。そして泰子を助ける、そんなふうに思っていたのに。結局これか。
竜児を手元に引き戻したのは竜児の力云々ではなくて――エゴイズムか。単なる自己満足か。だったら、あんなに悩むことなんかなかった。考えることなんかなかった。どうして親にはエゴなんかないと信じていられたのだろう。
「勉強を、しなかったのは誰だ!? やりたいことを捨てたのは!? 立派な人間にならなかったのは!? 全部……おまえのことじゃねぇかよ!」
「竜ちゃん……っ」
「おまえの親がおまえに望んで、そしておまえが裏切ったことだろ!? 俺がいたから自分ができなかったことを、今度は親の立場から、やり直そうとしてるだけじゃねぇかよ! そうやって、自分が納得したいだけじゃねぇか! 自分がいいこに戻りたいだけじゃねぇか! 結局、俺が、」
泰子の顔が、真っ青になるのが見えていた。心が砕け散る瞬間には、人はこんな顔をするのだと妙に冷静に竜児はその顔を見ていた。口は止まらなかった。
「俺がいなければ、おまえはいいこでいられたんだ! そういう人生を歩めたんだよ! 俺を生まなければ、俺さえいなければ、おまえは……母さんは、幸せになれたんだ! それを悔やんでいるんだ! ……俺がいることを……生んだことを、後悔してるんだ……!」
涙も止まらなかった。
口から出た言葉は、取り返しがつかない。泰子が頭を抱えて座り込む。おかしいほどに全身が震え、泰子に駆け寄ることなんかできるわけがなかった。
ただ、たった一つ。
この世にいることそのものが、そもそも聞違いだったのだと。悪だったのだと。
キラキラと輝くような日々が、今日までの幸せが、笑ったり泣いたりしたことが、友達の顔が、悩んだことや、わかってきたこと、その全部が――あっという間に手の中をすり抜けてい
く。竜児の中から、零れ落ちていく。一瞬にして、砕け散っていくのがわかる。
「竜児」
左手をきつく掴まれて、竜児は見た。
「……大河」
大河の母親は、取り乱した泰子の様子に気を取られていた。竜児も、大河の右手をきつく握り締めた。ゆっくりと足を動かし、そして一気に二人は走り出した。
誰もいないところに行こうと思ったのだ。
二人、普通に、一緒にいるだけで幸せ。そんなふうに思える場所を夢見て、竜児と大河は逃げ出した。
音もなく、雪が舞い始めた。このあたりでは寒くなっても、毎年あまり雪は降らない。
おそらくはこれがこの冬最初で、そして最後になるだろう。
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あとがき
うわ〜〜〜〜もう秋だ! 今年の夏は終わっていましたか!
私の人生においてたった一度きりの、取り返しのつかない三十歳の夏が、こんなにもさりげなく、なにごともないまま終焉していくなんて。……いや、別に惜しむほどのモノでもないんですが、季節が巡ってまた夏が来ても、その夏の私は今よりもっと老いているかと思うと相当げんなりくるものがあります。もはやこの世界に己の存在価値を見出すためには、知恵袋的な生き方を目指すしかないのかもしれません。ゆゆこちゃんのポタポタ焼き……的な。
こんな有様ではありますが、無事に前巻からあまり間を開けずに『とらドラ9! 』をお届けできる運びとなりました。ここまでお付き合いして下さった皆様、今回もお手にとっていただきまして、本当にありがとうございました! この『とらドラ9! 』で、『とらドラ! 』シリーズは十冊目に突入いたしました。巻数を重ねるたびに、付き合って下さる読者の方々にお返ししたい御恩パワーが貯まっております。言葉でいくらありがとう! と書き連ねても、感謝の気持ちを伝えきれなくて、もどかしいばかりです。読者の皆様のことを、私はすごく自分に近い存在、親しい存在、力強い存在だと思っています。作品をお届けすることこそが、唯一にして確かな、皆様との絆です。だから、どんどん書きます! どうぞこの先も、よろしくお付き合い下さいませ!
さて、そんなこんなで私はといえば、家と、原稿をやる近所の喫茶店と、スーパーを往復するだけで、今年の夏の日々を過ごしていました。この三箇所を結ぶ線が、知らず知らずのうちに悪魔召還の魔方陣を描いていたらどうしよう。「あなた、召還の秘儀を行なったでしょ!」とか言いながら、勝気な悪魔っ子美少女が突然目の前に現れてしまったら……銀髪のロングを黒いサテンのリボンでツインテールに結っていたらどうしたらいいですか。揺らめくような碧眼《へきがん》で、少女らしいほっそりとした肢体に黒いレースの編み上げビスチェドレス、太ももまでのニーソだったりしたら。「あなたがあたしを召還したんだから、責任とってもらうわよ! ふん、貧相な部屋だこと! こんなところで寝食を共にする羽目になるなんて最悪だわ!」……とりあえずビシバシ張り倒して、ジャージに着替えさせて、部屋の掃除をさせようと思います。甘やかさねぇぞ! まずは掃除機をかけろ! 次は雨の跡びっしりの窓ガラスだ! そして献本の電撃大王をまとめるのだ! そうだシルフもだ! お風呂と台所の排水溝も忘れずにな! ……我が家は今、MAXに汚いわけです。自分史上最汚。現実逃避したくなるほどです。このあとがきも喫茶店で書いているのですが、正直、家に帰りたくないです。いっそこのままここに住む、という選択肢……(ない)。
それではみなさん! 最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。そしてアニメも始まります! うおー! テレビ周りだけでも片づけて、放送に備えないと!
竹宮ゆゆこ
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発行 二○○八年十月十日 初版発行
入力 どろん