とらドラ8!
竹宮《たけみや》ゆゆこ
始業式前日。インフルエンザからようやく回復したものの、精神的にはいまだ立ち直れない竜児に、大河は自立宣言を突きつける。それは……、他ならない竜児と、実乃梨のため。
そして幕を開ける新学期。竜児はぎくしゃくしながらも実乃梨となんとかもう一度向き合おうとする。折りしも学年最後のイベント、修学旅行が目前に迫っており、竜児はそこで実乃梨の真意を確かめようと決意するが――。
なにやら雰囲気の変わった大河と北村、新学期になって突き放すような態度をとる亜美。それぞれの思惑を秘めた修学旅行の行方は!? 超弩級ラブコメ第8弾!
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【テキスト中に現れる記号について】
《》…ルビ
|…ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
結果は|惨憺《さんたん》たる
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竹宮ゆゆこ…2月24日生まれ、東京部在住。最近よく見かけるこの名も知らぬ花……。超でかい……。しがも花のつく数が異常……。超多い……。なんか……大味……。これがそこらに生えているわが町……アスファルトの隙間……街路樹の根元……そこらに……繁茂……。
イラスト…ヤス 1984年8月3日生。O型。徳島県生まれ東京都在住。近所の蕎麦屋さんがパーフェクトで素敵です。接客・味・値離……文句なしに最悪! こんなお店初めてだよ!
みなさーん、もうすぐ修学旅行ですよー! 楽しみですね! 行ってみたいところとか、あります?
☆高須竜児
「……地獄……、それか魔界……、……まぁ、俺たちが行くのは沖縄なんだけどな。沖縄か……はあ……」
●なんだかテンション低いですね。冬休みになにかありました?
「……インフルエンザで入院を少々……」
☆逢坂大河
「私たちの修学旅行は沖縄よ……それでいいんじゃないの……? ……楽しみだわ…ええ…とってもね…」
●あらら、こちらも元気ないみたい、二人ともどうしちゃったんでしょうねぇ。
「…さあ…どうしたんだろうね…はは…」
☆北村祐作
「なんだなんだ湿っぽい顔をして! 修学旅行は授業の一環だ! 行き先は沖縄だ! ホテルは那覇だ! そしておれは初飛行機だ! 否が応でも高まる期待はもはやレッドゾーン! 南の海に轟け、我がリーダーシップよ! 」
●よっ、さすが北村くん! 生徒会長にしてクラス委員長! …でも沖縄以外に、行きたいところはありませんか?
「なぜそんなことを訊くんです? 沖縄こそベストチョイス、迷いはありません。吹け、琉球の嵐! 」
☆櫛枝実乃梨
「第一メディテーション、パイン! ……しゃぐしゃぐしゃぐ〜っ! うめえ、パインうめえ〜! 超あま〜いっ、ジュ〜シ〜ッ! 第二メディテーション、沖縄そば! ……ずぞぞぞ〜っ! うめえ、そばうめえ〜! 超山盛りっ、ラフティ〜ッ! 第三メディテーション、ブルーシールアイス! ……ぺろぺろぺろ〜っ! うめえ、アイスう」
●グルメ妄想はそのへんでストップ! 怖いから! ……ていうか、そ、そんなに沖縄が楽しみですか? 真冬だし、ベストシーズンじゃないですよ……?
「ふっ、笑止……この鋼鉄の筋肉で鎧われし我が肉体の前には、真冬も真夏も関係ないわ! 」
☆川島亜美
「NYかパリで買い物しまくり旅行とかよくなーい? それかヨーロッパ一周もわるくないかもぉ。ウィーンとかスイスとかぁ、イタリアもいってみたいしぃ。あ、でもでもぉ、向こうの事務所にスカウトされちゃったらどうしよ〜! や〜ん、亜美ちゃん日本語しかしゃべれなーい♪」
●……いや……その……うちは普通の公立高校なんで。
「わかってるっての。訊くから言ってみただけよ。ま、沖縄でも上出来じゃん? さすがに海には入れないかもだけどぉ、プールぐらはあるんでしょ〜? 」
☆能登久光&春田浩次
「沖縄だよ行き先は沖縄! 青空の下で亜美ちゃんがビキニだよ〜! 」
「ひょ〜! 南国の眩しい太陽の下で俺もビキニだよ〜! 」
●……あの……も、もしも、沖縄じゃない、としたら……どうします?
「なんで? 沖縄しかありえないっしょ! 入学したときから修学旅行は二年の冬、行き先は沖縄ってきまってんじゃん」
「いまさら他のどこなんて考えられないですねフヒヒ! 」
☆独身(30)
「ど、どうしよう……めちゃ沖縄楽しみにしてる……やっべー……」
●どうした独身(30)、なにをドキドキしている!? はたして修学旅行の行き先はいずこ?
とらドラ8!
1
二十三時、十二分。
あと四十八分で今日が終わる。
吐息を白くけぶらせながら、|高須《たかす》|竜児《りゅうじ》は開け放した窓から夜空に目をやった。月の光も星の光も、今夜は墨色《すみいろ》の雲の向こうに隠されて見えやしない。鬱々《うつうつ》とした気分がさらに翳《かげ》る。いっそこのままこの夜が、永遠に続けばいいとさえ思う。
今夜は特に冷え込んだ。氷点下の風は肌を刺すようで、腹の底から寒気が沁みる。パーカーにジャージのパンツを穿いただけの身体は小刻みに震え、さっきからずっと歯の根が合わない。乾いた唇も強張ったまま凍りついてしまいそうだし、手足の指先は感覚もないし、そして心は――心なら、とっくの昔に、氷漬けになっている。
クリスマスイブの夜からずっとだ。
竜児はずっと、あの夜以来、絶対零度の闇の中を彷徨《さまよ》い続けている。
「……朝なんか……来なけりゃいいのに……」
部屋の明かりもつけないままで、行儀悪く窓の桟に腰を下ろした。サッシの枠に背をもたせ、長い溜息を一つ。伸びてしまった前髪をかきあげて、片膝を立てて抱え込む。冷えて痛む耳を風から守ろうとパーカーをかぶり、そうしてそっと目を眇《すが》める。ほとんど無意識に息を詰める。寒さに鳴る歯を、固く噛み締める。
年が明け、すでに一週間あまりが経っていた。
この夜が明ければ新学期が始まる。
新学期が始まれば、すなわち、『彼女』と顔を合わせざるを得ない。それを思うたび、想像するたび、竜児の心臓は壊れそうに軋んだ。吸っても吸っても酸素が足りない、そんな息苦しさに苛《さいな》まれた。毎朝、毎日、毎晩、毎夢、前触れもなく、脳裏には『彼女』の姿や声が蘇った。春や夏や秋の思い出。そしてあの夜の出来事が、惨《むご》いほど鮮明に繰り返された。
「……どんなツラして会えってんだ……」
低く呻き、虚ろな眼球を宙に惑《まど》わせる。思い出でさえ正視もできないというのに、現実の彼女になんて、一体どう向き合えばいい。
頭を抱え、剥けかけた唇の皮を前歯で噛む。血の味が薄く舌に広がる。思考に沈んで視点は定まらず、瞳孔は完全に開き、下まぶたにはドス黒いクマがくっきりと冗談みたいに描かれていた。眠れないのだ、ここ数日。おかげで、竜児は今にも逮捕されそうなツラと成り果てていた。ビジョンはたやすく思い浮かぶ。ある日突然、おまわりさんが土足で上がり込んでくるのだ。近所からのタレコミ。後ろ手に拘束《こうそく》される自分。警官たちの怒号《どごう》。「台所が怪しいぞ!」
「あっ! ありました! 白い粉です!」……いいえ、それは片栗粉です!
「……ははは……はは……は……」
あほか。
からっぽの笑い声を上げながら、しかし遠く思いもして。誤解とはいえ逮捕でもされれば学校に行かなくてすむんだな、なんて――半分ぐらいは真剣に。
無意識の指先が窓の桟の塵をつつーっと採取した、ちょうどそのときだった。
「……あ」
真っ暗だった向かいのマンションの窓に、眩しく明かりが灯る。カーテンも引いていない部屋の申が丸見えになって、小さな人影が横切っていくのも丸見えになる。
そいつはもちろん、最近ご無沙汰なお隣の部屋の主、|逢坂《あいかさ》|大河《たいが》だ。
見間違えようもないフワフワのロングヘアに、真っ白な横顔。大河は小柄すぎる身体に水色のパジャマと白のカーディガンを重ねた姿、高須家丸々全部と同じぐらいの広さがある寝室を歩いていく。そして窓辺に佇む竜児の視線に気がついたらしい。不意にこちらに顔を向け、一瞬。目が合った。
「おう……大河」
ちょっと身を起こし、軽く片手を挙げる。そして次の瞬間、
「……なっ! ……なんだよ……!」
うーわ。
最悪。
めんどくさい奴に見つかっちゃった。
――大河《たいが》は明らかに、そういう顔をした。ハイ無視無視、気がつかなかったことにしとこっと。とってもわかりやすいツラで、大河はそういう態度に出た。はっきり視線は合ったのに、今更《いまさら》のようにプイッとシカト。髪を揺らして背を向けて、竜児には見えない部屋の死角に身を潜め、乱暴ににカーテンも引いてしまう。
なにかしたっけか? 善人の哀しさ、思わず胸に手を当てて今日までの己の生き様を反芻《はんすう》するが、思い当たることなんか一つもない。大河に冷たく無視される理由などない。
「なんなんだよ……なんでいきなり、シカトだよ……」
ムツ、と。
「大河! 全部見えてんだぞ、なんで無視すんだよ!? 」
かぶっていたフードをとっぱらい、思わず声を張り上げていた。
常識人をもって任ずる竜児には珍しいことに、ご近所の迷惑も頭からすっぽ抜け。だってこんなのあんまりではないか。大河は事情を知っている。それなのによくもまあ、精神的危機を迎えている自分にこんなにも冷たくできるものだ。
それに、そうだ、この件だけではない。ここ数日の大河の態度にはずっと納得できずにもいる。
「おう! ちょっとそこ開けろ! おまえにはずっと言いたいことがあったんだよ!」
しかしそれでも応える声はなかった。絶対聞こえているはずなのに。
「大河! ……くっそ、完全無視かよ……そういうことすんのかよ! 見てろ!」
竜児の全身の毛穴から、呪《のろ》いのオーラがじわっと溢れる。ドス黒い感情をダダ漏らしに、向かいの窓を睨《にら》みつける。溜まりに溜まった負の感情が、竜児の邪悪な一面を覚醒《かくせい》させる。翳《かげ》った顔面は魔の属性を帯びる。
この星を銀河系ごと破壊してやる! そんなツラでわざわざ玄関まで往復、持ってきたのはデッキブラシだった。窓辺にしっかと片足をかけ、サッシを掴んで身を乗り出し、空いた片手にブラシを持って、
「大河! 大河! おう、顔出せ! 聞こえてるんだろ! 大河!」
ゴツゴツゴツゴツゴツガツゴツゴツガツゴツゴツゴツゴツゴッ! ゴッ! と。木製の長い柄の先端部分で、大河の寝室の窓を連打するのだ。砕けよとはかりの勢いで。
これは禁じ手だ、本来なら。ガラスも傷つくし、大河の顔面を強打する事故も過去にはあった。しかし今夜はこの最終手段を使ってやる。どんな目覚ましよりも凄《すさ》まじい音と振動が夜のしじまにガッツンガッツン響き渡り、
「……ちょっとあんたあっ!」
さすがの大河《たいが》も無視しきれなかったらしい。カーテンが凄まじい勢いで全開になり、久々に真正面からご対面、「……ひっ!」竜児はそのツラの恐ろしさに思わず仰け反る。せっかくフランス人形のように整った美貌を鬼神の如く引き歪め、大河は、
「お調子、」
全開にした窓から不機嫌も全開、低く唸る。差し向けられていたデッキブラシの柄を掴む。そのままものすごい力で自分の方へ引っ張る。
「こいてんじゃ、」
「う、お、おお、おうっ!?」
当然竜児はバランスを崩し、引っ張られるままに前方によろめき、数メートル下の地面に顔面から落ちる――
「ぬああぁああいっ!」
――寸前。
目の前に、星屑《ほしくず》がガツンと瞬《またた》いた。「ごふん!」と叫んだ声が己の声だと気づいたときにはすでに真後ろ、己のベッドに背中からぶっ倒れていた。窓から落ちずにすんだのは僥倖、しかし前方に倒れつつあった顔面をデッキブラシで思いっきり突! された衝撃で意識は半ば朦朧《もうろう》とし、
「けっ! 豚がっ!」
バタン! と窓が閉ざされ、シャッ! とカーテンが引かれる音だけが、頭蓋《ずがい》の中にビリビリと響く。
そして、静寂の中に一人取り残される。
「……ひ……」
ひどい。こんなの、あんまりだ。
「……ひ、ひ、ひ……」
ブラシに擦られた目元からは生理的な涙が溢れ、鼻水もとろーっと口元へ伝い、
「ひー……ひっひ……」
ぶっ倒れたまま顔面を押さえ、竜児にはもはや、自分が泣いているのか笑っているのかもわからなかった。一方で、けっ。豚が。そう吐き捨てた大河の声だけは、やたらとくっきり耳に突き刺さっていた。豚。豚か俺は。己の豚性をつきつけられ、ノロノロと身体を起こし、窓辺にしがみつき、カーテンをかじり、
「ひいーっひっひっひ……!」
向かいの窓を凝視する。さすがは手乗りタイガーだ。どこまでも残虐にしてお見事である。ただの一噛みで壊れかけていた心を完全粉砕してくださった。言葉にはできぬままに賞賛を送るが、
「うるっさいなあもー!? あんた一体――」
「いーひひひー!」
「――ぎゃああああああ!」
イライラと再び窓を開けた大河が、泣き笑い竜児を真正面に見るなり叫んでコケた。すてーんとケツから転がって、こちらから見る分にはまさにスケキヨ。そのあまりに見事なコケっぷりに、いひっ!? と竜児も驚いて、思わず届かぬ両手を差し伸べるが、
「……あ、あんたって、本当に問題作だわ! 神々のお戯れはときにこんなにも残酷な結果をお招きになる……あな恐ろしや! 人知の及ばぬ竜児の顔面!」
ようよう起き上がった大河の言葉に、伸べた両手は虚しく宙を掻《か》く。
「そ……そんなひどいことを言われたのは生まれて初めてだ……! いや、その前に、よくも俺の顔面をデッキブラシで擦ってくれたな! どこ磨くブラシか知ってんのかよ! こいつは風呂掃除から引退して、いまや玄関と外廊下と外階段祖当なんだぞ!? 飛来したゴミが死ぬほど詰まった表の排水溝もこれでこう、まずはドライでシャッシャッと、続いてウエットでガシユッガシュッと、」
「さあ戯言《たわごと》は終わりだ、もう寝ろブサイク! ちっ、騒々しい……バイオに出てくる犬みたいなツラしやがってからに……」
「なぁにをぉ!? そもそもおまえが俺を無視しなけりゃこんな騒ぎになってねぇんだよ! ああそうだよ……よくも、よくもこの俺をシカトしてくれたな!? 俺が今傷心なのはおまえだって知ってんだろ!? それなのにおまえはおまえは俺を俺を」
「知ったこっちやないよ!」
「ええっ!?」
びっくりするほどストレートなお返事をくれて、大河は向かいの窓辺、傲岸不遜《ごうがんふそん》に顎を突き上げ、竜児のツラを偉そうに見下ろす。つまらなそうに鼻を鳴らし、大きな瞳は道端の猫の糞でも見るみたいに完全完璧無感情、無表情。
「こっちにも用事があるの。あんたの相手ばっかりしてられないの」
「なっ、なんだと!? おまえに用事なんかあるわけねぇ、いっつも物悲しいほど暇人じゃねぇか!」
「好きに言うがいいわ、わかってもらわなくたって結構よ。あんたのちっさくてプアな物差しでは、この大きくもリッチな私の行動理念を計ることなんかできないでしょうから」
「なーにが大きくてリッチか、米粒みたいな顔しやがって!」
毒づき返したその瞬間、
――てれれ〜れれ。てれれれれれー。
「あ。時間だ」
合成されて間の抜けたチャルメラのメロディが、大河が掴んでいた携帯から流れ出す。その脱力の音色に、ガクッと竜児の気も抜ける。一体なんの時間だか知らないが、
「それじゃ、まあ、そういうわけだから。明日からいよいよ新学期なんだし、ほんとにさっさと寝たらどう? 私にぐちぐち文句言うより、考えることはさぞや一杯あるんでしょ」
この冷たさ。染み渡るようなそっけなさ。そそくさと窓を閉めて引っ込もうとする大河のツラを思わず見返し、
「……そんなもんだったのかよ……」
「なによ」
竜児が漏らしたその声に、大河は心底|鬱陶《うっとう》しそうにかわいい顔をしかめてみせた。人間同士、ここまでめんどくさそうに対応できるのか。びっくりするぐらいに投げやりな「なによ」であった。
竜児は改めてショックを受ける。
やっぱり、結局、そんなもんなのか。
「……おまえにとっちゃ、本当に、『知ったこっちゃない』程度のことなのかよ……」
大河だって、イブの夜の出来事を最初に聞いたときには泣いたくせに――竜児は唇を噛んだまま、向かい合う窓辺の大河をほとんど呆然とただ見つめた。あの日の涙はうそだったのか? そう問いかけてやりたかった。
『うそでしょー』
『みのりんが、あんたをふったなんて――うそ』
……あれは、インフルエンザで入院していた年来。あのパーティから数えること丸三日。やっとまともに口がきけるようになって、竜児は病室で、大河にクリスマスイブの夜の出来事を一切合財《いっさいがっさい》打ち明けたのだった。大河が送り出してくれたその後に、一体なにが起きたかを。
泰子《やすこ》に頼まれて着替えを届けに来てくれていた大河は、それを聞いて、しなければいけない決まりになっている巨大なマスクの下で隠しようもない泣き声をあげた。
『どうしてそうなるの? そんなのうそだ――』
目元を小さな両手で覆い、ベッドサイドのイスに座ったまま、大河はしばらく泣いていた。寝かされていた竜児の三白眼《さんぱくがん》にだって、情けないけれど、堪えきれずに涙が滲んだ。二人してそれ以上の会話もせず、ただただ涙の愁嘆場《しゅうたんば》にくれた。
しかし竜児は、ほんの少しだけ、大河の涙に元気付けられたのだ。悲しみは悲しみとして抱いたまま、一方で、傷ついたときに一緒に泣いてくれる奴が隣《となり》にいてくれるという奇跡に感謝もしたのだ。自分が傷ついていることをわかってくれ、そのことを一緒に悲しんでくれる奴が自分にはいるんだ……なんて。
それがどうだ。
「みのりんにふられてつらいからって、八つ当たりはやめてくんない?」
眉間に思い切り皺を寄せ、大河は耳の穴に指をつっ込んでぐりぐりほじる。
「用事があるって言ってるのにさあ。あーあ、ほらもう……あんたがグダグダ言うせいで伸びちやったかも」
そう言いながら、窓際のデスクに置いてあった。"そいつ"を窓辺に持ってくる。べろんと蓋を豪快に剥がす。竜児は、
「そ――それ、が、おまえの、用事、かよ……!」
それ以上は声も出せずに慄《おのの》いた。大河が鬱陶しそうに自分を無視していたその理由が、
「ちぇっ、あんたうるさいし、ここで食べてやるわよ。ふん、いただきまーす」
ずぞぞーぞぞぞぞちゅるんちゅるん! ――カップラーメン、だなんて。
「おまえ……おまえって……おまえって、本当に……」
「んあ〜、うまー! ……なに?」
幸せそうに口幅いっぱい、全力で麺をすする大河の暢気《のんき》なツラに、竜児の心はさらにささくれ、荒《すさ》みゆく。荒みながらも気力は萎えて、
「……もういい。なんでもねぇ」
一旦は口を喋んだが。
「あっそ」
ぞぞぞーぞぞぞずーちゅるるるん!
「……おまえなんか、むくんじまえ。新学期早々から、パンパンのツラで登校しろ」黒竜児ここに爆誕《ばくたん》。釣り上がった三白眼《さんぱくがん》に昏《くら》い炎をおぞましく揺らし、竜児は言霊《ことだま》の呪縛《じゅばく》で大河をむくませようとする。しかし大河は「へっ」と半笑い、
「よくてよ。こんな時間にカップラーメンを食べてるんだもの、それぐらいの覚悟はとっくにできているわ。それにそもそもあんたの知ったことではない」
カップラーメンを抱え込んだまま、偉そうに薄い胸を反らしてみせた。……その胸、白いカーディガンに、スープの滴《しずく》で北斗七星を描いてしまっていることにも気づかずに。
ああ――なんの因果か、隣り合った借家とマンション。ニメートルほどの距離で向かい合う、竜児の部屋と大河の部屋。二階同士で同じ目線、南の窓と北の窓。
竜児は自室の窓辺に佇んだまま、向かいの窓辺でカップラーメンを嬉しげにすする大河の白い頬を、それ以上は言葉もなくただうっそりと眺めていた。見れば見るほどぷくぷくと憎たらしい頬袋……かんしゃく玉を含ませたろか……とか思っているわけではなく、ただひたすらに気分は虚脱。さっきまで心に満ちていたメランコリーすら見失い、心象風景は魔海を漂う幽霊船・タイタニックだ。航行不能、乗客全滅、キャプテン骸骨、呪怨《じゅおん》航海――SOS。
「……おまえ、晩飯それだけかよ」
タイタニックの甲板から、亡霊船員・竜児は低い声で問いかけた。
「いーえ。九時ごろに肉まんとマヨコーンパンとエクレア食べた。これは夜食」
「……最悪メニューだな。さては全部コンビニだろ」
大河は箸をくわえたまま、そ知らぬ顔でそっぽを向く。イエスもノーも言わないあたり、竜児の指摘は的を射ていたのだろう。
「……なんだよ。もう……」
ぎ、ぎ、ぎ、と幽霊船は軋《きし》みながら、さらなる魔海城へ引き寄せられていく。怨みと呪いの暗黒渦の中に、舵も切れずに吸い込まれていく。
「……うちにも来ねぇで……そんなモンばっか、食いやがって……野菜もとらねぇで……」
「なによ? あ、あんたもラーメン食べたかったんだ、そうでしょ。ま〜意地汚いこと」
「ちげえよ! ……ああもうムカつく……! やっぱり、ムカつく……腹立っ!」
呻きながら竜児は頭を掻き毟った。身体を捩って夜空に吼えた。元より危ないヤクザ顔が、本当にお見せできない方向性に際《きわ》どく鋭く進化していく。ギラギラのグワグワに、とことんえげつなくなっていく。
「ずっと訊きたかったんだよ! なんでウチに来ねぇんだよ!? でもって、さっきみたいに俺をシカトするだろ!? 一体なんなんだよ!?」
全身の毛穴という毛穴から、恨みと呪いの暗黒オーラが湯気《ゆげ》のように噴き上がっている自覚はあった。うっわあー……と向かいの窓辺で。大河が気持ち悪いものを見たように顔をしかめているのもわかっていた。どんびき、と、声にはしないまま、薔薇色《ばらいろ》の唇が呟いたのもわかっていた。しかしムカつくもんはムカつくのだから、仕方ないではないか。
「あんたこそほんとになんなの? 八つ当たりしないでって言ってんじゃない、私に腹立ててなんになるわけ?」
「八つ当たりじゃねぇよ! 俺は、おまえに、ムカついてんだよー」
天下の危険生物・手乗りタイガーを相手に、竜児は唾を飛ばしながら顔面凶器をブン回す。もはや男の沽券《こけん》、なんてあったもんじゃない。
「き、傷ついてる俺が、ウザいからか!? そうなのか!? 相談とかされたら鬱陶しいし、とか思っての狼藉《ろうぜき》か!? ぐだぐだになってる俺がそんなに迷惑かよ!? 邪魔なのかよ!? 最初は同情してくれたじゃねぇかよ! それがなんだよ!? !! なんなんだよ!? 叫別に同情し続けろとは言わねぇよ! 慰めてくれとも言わねー! けど、普通に、今までどおりに接してくれたっていいじゃねぇかよ!」
「……はあ?」
「はあ? じゃねぇんだよ!」
――わかっているのだ。
大河は明らかに、自分から距離を置こうとしているのだった。そのわけを。ずっと問いただしたかった。なんでだよ! と叫びたかった。
入院中は、店を開けないわけにはいかない泰子《やすこ》を手伝って着替えを届けてくれたり、買い物をしてきてくれたり、大河は意外にも甲斐甲斐《かいがい》しく竜児の世話をしてくれていた。しかし竜児が退院すると、ぱたりと大河は高須家を訪れなくなった。
なんだかんだと理由をつけて、朝昼夜の食事を断る。暇なはずの日中にも、マンションを空けてどこかに出かけてろくに顔を見せもしない。それでいて、たまにこうして顔を合わせれば、カップラーメンなんかを嬉しそうに食べている。高須家にくればいくらでも食べるものはあるのに、食いに来いとも言ってあるのに。いらないと言われても、大河の分は毎日作ってあるのに。とってあるのに。泰子だって待っているのに。「最近大河ちゃんどうしたんだろおー、誘ってもうちに来てくんないの〜」と少し元気もなくしていたのに。
大河が座る場所には、今も、大河専用の座布団が敷いてあるのに。
「櫛枝《くしえだ》にふられて落ち込んでいる俺が、そうだ、どうせおまえは鬱陶《うっとう》しいんだ……… ああそうだろうよ、鬱陶しいだろうよ! どーもすいませんね!」
声まで嗄《か》らし、地獄の底から這い出した腐れ鬼の表情で竜児は喚く。みっともないのも、かっこ悪いのも承知の上だ。澱《おり》のように腹の底で淀んでいた感憶は、一度吐き出し口を見つけてしまったら、もう止めることなどできなかった。アホの子のように両手をブンブン振り回し、なおも吼える。
「あああもういい! もーうーいーいー! おまえは結局、鬱陶しい俺を見限ったんだ! そうなんだ! あーあーはっきり言えばいいんだよ! もういっそ俺との人間関係丸ごと、おまえはゴミみたいに捨ててしまいたいんだろうよ! 俺なんか邪魔でいらなくて迷惑なんだよ! わかった、もう全部わかった、いいんだ。いいんだ、いっそそう言ってくれ、おまえの口から直接聞きたいん……おう……っ!」
「黙れ愚か虫め」
言い切るよりも一瞬早く、ダーツの矢の如く箸の一本が、竜児の眉間のド真ん中を狙って放たれていた。射抜かれることこそなかったが、カツーン! と当たったそいつは結構痛く、竜児は思わず声を失う。
「ほんっとに――愚か虫め。虫だよ、あんたは。犬なんてもったいないわこのインセクト。錯乱《さくらん》するんじゃないよ生意気に」
手元に残った一本の箸をバキッと半分に折ろうとして失敗、七…三ぐらいの長さに折り、大河はそれで不器用にカップラーメンの残りを口に流し込んだ。もぐもぐやってから飲み下し、改めて竜児を見据える大きな瞳には、嘲りを通り越していっそ哀れみが揺れていた。
「一から十まで全部説明してやんなきゃあんたってわかんないわけ?」
「……なにが」
「私はね、全部、あんたのためを思って立ち回ってやってんの。今頃天界は大騒ぎよ、神より気高く仏より慈悲深《じひぶか》いこの私という存在の登場にね。それがなに? 竜児ってバカだバカだバカだバカだ、うっわーすっごくバ・カ・だ・なー! とは前からいつも思っていたけど、」
「……俺のことをそんなに悪く思っていたのか」
「ここまでキテるとさすがに引くわ。バカの王者だわあんたって」
「……俺を避けて、メシも食いに来るのをやめて、顔合わせても無視……ってのが、俺のためって言うのかよ」
「そうよ。……正確には、あんたと、みのりんのためよ」
ふっ、と大河は息をつき、一瞬間をおいて竜児を見つめた。そうして「聞いて」とその先を紡《つむ》ぐ。
「私ね、あんたが入院しているときにね、苦しそうな寝顔を見ながら思ったの」
大河は白い面《おもて》を瑞々しい花の蕾みたいに俯《うつむ》けた。憂いたっぷりに片手をそっと自らの胸の辺りにあて、しみじみと首を振り、
「ああ、なんて恐ろしい顔なのかしら、手の施しようがないわ……って。……ブー!」
堪えきれずに噴き出す。
ピシャ! と無意識、竜児は自室の窓を閉め切っていた。うそ! 今の冗談! 開けろ! と、近所迷惑に大河が喚くのが聞こえる。仕方なしにもう一度窓を開き、
「……俺は今、ものすごく追い詰められた心境でいるんだ……! 今度ふざけたら、俺はきっと死ぬぞ……!」
「はいはい。わかったわかった。真面目にね。……そう、真面目に。今回の件で、考えたの。そして目が覚めたのよ。理解したの。心の底からしみじみと、バカだな〜って」
「……俺が?」
「違う。私が」
自嘲《じちょう》するように大河は唇を歪め、肩をすくめて見せた。冗談はここまででここからは本気、そう宣言するように、大河は一度、目蓋《まぶた》を閉じる。
「私ってなにやってたんだ、って。……なんだ、私が一番バカだったんじゃん、って」
ゆっくりと開いていく瞳に、夜の闇が黒々と映り込む。長い髪を指に絡めて梳き下ろし、窓枠に肘をつき、星の見えない夜空を見上げる。その顎のラインが、夜目にも真白く光って見える。
白い息とともに、静かな声は夜のしじまにゆっくりと滑り込むみたいに響く。
「みのりんとあんたを応援するって言いながら、私、あんたのところに入り浸ってさ。そんなの、みのりんが見て、誤解しないわけないじゃんね。誤解するなっていったって、考えない方が無理じゃんね。普通そうだよね。よくもまあ……私ってば考えなしに、あんたにべったりで生きてきたよねぇ。ほんと、ばか」
凍《こご》える風に吹き散らされた前髪を直し、大河はわずかに笑ってみせた。まっすぐに目が合い、竜児はほんの少しだけ、困る。
「つまり、おまえは、」
目を逸らし、先を紡ぐ。凍える風が、肌に痛い。
「……俺が櫛枝《くしえだ》にふられた原因を、櫛枝が、俺とおまえのことを誤解したままでいるから、って思うのか?」
うん、と大河も目を伏せて、小さく領いたのが視界の隅に見えていた。
「だからね、もう、あんたとの生活共同体は終わり。一人でやってくわ。今度こそ、口だけじゃなくて本当にがんばってみる」
「……櫛枝が誤解するから、うちにはもう来ねぇ、って?」
うん、ともう一度。
もういかないの、とその後に続けて。
沈黙が二人の間に落ちた。氷点下の夜は凍結してしまったみたいに、どこまでも暗く静止していた。しかし黙っているからといって、竜児は大河の言葉に全面賛成したわけではない。むしろ逆で、乾いた唇を舐めて、
「おまえが、うちに来るのをやめて、」
もう一度まっすぐに大河の瞳の色を見詰めて問いかける。その腹の底まで覗き込もうと目をこらす。
「それでおまえは、俺と櫛枝がくっつくって本気で言ってんのかよ? 櫛枝は。単に俺のことが好きじゃない、とは思わねぇのか?」
「思わない」
大河の答えは、しかし、確信に満ちていた。
「みのりんはあんたのこと、好きなんだって思う。見てりゃわかるの、ただ、私のことが気にかかってるだけなのよ。それ以外に理由は見当たらないもの。……あんたこそ、なぜみのりんが自分をふったって思ってるの? 本気で『好きじゃないから』だって思うの?」
「それは……」
問われて核心に触れられたのは、むしろ竜児の方だ。一瞬息を飲み、頭を掻き、窓の桟《さん》に頬を押し付ける。言葉に出していいものか迷いながらも声を絞る。
「……それは、正直、わかんねぇ。わかんねぇ、ってのは、……櫛枝に全然好かれてなかったんだ、とは、やっぱりどうしても思えなくて……告白さえさせてもらえないほどに拒絶されるなんて、どうしても納得できねぇんだ。本当は」
目を閉じて、脳裏に『彼女』の――櫛枝|実乃梨《みのり》の姿を思い描く。
「つまり俺自身、櫛枝もすこしは俺のことを想《おも》ってくれているって感じてた。……ような、気が、実は、ちょっと……する。図々しい、自分勝手な思い込みかもしんねぇけど……」
『たーかーす〜くん! ヘイYOメーン! 』
思い出の中の実乃梨が、明るく笑う。軽いステップで宙に踊る。二つの底知れぬ目の玉が、竜児をまっすぐに見つめる。時に揺れ、時に淒み、時に頑《かたく》なで、その眼差しは竜児を捉えて離さない。
「……それなのにあっさりふられてさ。ふられて、っていうか……好きだとも言わせてもらえなかった。頭っから百パー、拒絶された。今までの櫛枝とのことを思い出すたび、やっぱり納得いかなくて、今もぐちゃぐちゃで……すっぱり諦めきれねぇんだ。と、思う」
あの指先の体温が火のように熱いことだって知っている。今でもあの熱は忘れられないし、手を繋いだ福男レースの写真を一緒に買おうと言ってくれたことだって忘れられない。あのときの声音《こわね》を、忘れることなんか一生できない。かすかに震えた声に隠されていた、柔らかな響きもだ。
ありきたりな日々に繰り返された会話の中で、実乃梨は、心の秘密を少しずつ打ち明けようとしてくれていたのではなかったのか。
彼女の視線も、声も、表情も、すべてを竜児は忘れられずにいる。そのどれにも、目に見える形以上の意味があった気がした。だから、少しぐらいは想ってくれていたのではないか、少なくとも『今後への可能性』ぐらいはあったのではないか、そんなことを思ってしまう。みっともないのも承知の上で、それでもその考えを捨てることはできない。頭を抱える。呻いて震える。
「わっっ……かんねぇ。……本気で。もー、わっかんねぇよ。俺の勘違いだったのか? 今までのこと全部、都合の良い勝手な妄想だったってことか? そんなの…ー信じられねぇ。そんなふうに思えねぇよ、どうしても」
「……私もよ」
小さく大河が囁いた。
私もあんたの勘違いなんて思えない。だから――と、言葉は続いた。
竜児は少しだけ目を上げた。向かいの窓辺に佇む大河の顔を見た。大河はまっすぐにこちらを見つめたままでいた。星のないこの夜に、大河の瞳だけが強い光を放っていた。揺らぐこともなく、惑うこともなく、眼差しばただひたすらに前へ。そうして、
「逃げるんじゃない」
大河の声が、少し大きく辺りに響く。
「みのりんのことが、それでも好きなんでしょ? みのりんがあんたに向けていた想い、みたいなものを、信じてるんでしょ? だったら、逃げたらだめ。あんたがちゃんとみのりんを想い続けて、それで私もあんたにべったり暮らすのをやめたのを見たら、みのりんもきっと違う答えを出してくれるって思う。だから、そんなふうに鬱陶しく悩んでたらだめ。もういい、なんて投げ出すのもだめ」
「……でも、」
「でもじゃない。……私だって、本当はちょっとだけ、みのりんに会うの怖いよ」
かすれた語尾をごまかすみたいに、大河は鼻を一度フン、と鳴らした。
「……なんで?」
「わかんないの? ……あんたがふられた現場に、みのりんを呼んだのは誰?」
あ。と、竜児は思い出したくもないあの夜の詳細を思い出す。
そうだった。実乃梨《みのり》はエンジェル大河に説得されてパーティに出てきて、そして、その場で、竜児の想いを一蹴りで拒絶したのだった。
「それで結局こんなことになっちゃって……。みのりんとは結局あの後、顔は合わせてないんだ。みのりんはずっと部活があったし、その後は年末から家族みんなでおばあちゃんちに泊まりに行っちやって、みのりんの口からはイブの話は聞いてない。……私がしつこく竜児のところに行けって言ったんだもん。しらんぷりはできないわ」
そこで、大河はわずかに下唇を噛む。額を指先でゴシゴシと乱暴に擦って。白い息を動物みたいに「うー」と放つ。独り言めいた囁きに、隠し切れない後悔が滲む。
「……私がクリスマスに浮かれて、あんなふうに無理矢理みのりんを引っ張り出さなかったらこんなことにはならなかったのに。……そう思わない?」
「思うかよ、そんなこと」
低く答えた言葉は本心だった。結果は惨憺《さんたん》たるものだったが、告白したいと望んだのも、すると決めたのも、あの夜の道を学校に戻るために駆け出したのも、すべては竜児自身だ。
しかし大河は、
「私は思う」
ごめん。などと言う。らしくもなく。
そんなことをされて、謝られたりなどして、ふられた「責任」を横からさらうようなことをされて、竜児の心臓からさらに血が噴き出すこともわからないのだ。ふられ男の砕け散ったプライドが、さらに|木っ端微塵《こっぱみじん》に吹っ飛ぶこともわからないのだ大河《たいが》には。この暗くて狭い部屋の隅に並んでい一緒に座っていれば、そのつむじを「心の機微《きび》のわからん奴!」と思いっきり叩いてやることもできたのに。
今は、それすらもできない。
「……でも! 私は逃げないから! そしてあんたも、」
びし! と、声を張った大河の人差し指が、不意に竜児の心臓の辺りを狙い定めてまっすぐに指差した。
「――逃げるんじゃない。この状況から。つらいってのはわかるけど……逃げちゃったら、それでほんとに終わりだからね」
射抜かれた心臓が止まった気がする。ほんとに終わり……そんな言葉の衝撃に、一瞬息が詰まる。
「返事しろ虫児《ちゅうじ》」
「……誰だよ……」
「逃げない、って覚悟は決めた?」
竜児はしかし、なんとか頷いてみせる。大河に対して思うことは色々あれど、だ。――逃げるも逃げないも、どうせいまだ吹っ切ることなどできないのだから。
それを見て、大河自身もなにかの覚悟を決めたみたいにかすかに口元を引き締めた。
「これからは、朝も起こさなくていい。お弁当もいらないし、夜ごはんもいい。自分でどうにかする。家事も全部自分でやる。みのりんは、私には竜児が必要って思ってるのよ。だから、ちゃんと一人でやっていけるって証明したいの。みのりんに見せたいの。そして、みのりんが出してくれる別の答えを、待つの」
きっぱりそう言って、自分の頬を両手でパン! と挟んで叩く。随分《ずいぶん》な気合だな、と呆《あき》れてみせつつ、竜児は我知らず、眩しいものを見るように大河へ向けた視線を瞬《しばたた》かせる。
思ったのだ。やっぱり大河は、自分よりずっとタフな奴らしい。
大河が自分を見捨てて離れていく、と文句を言っていたさっきの自分を、蹴り飛ばしたくなる。寂しい、などと思ってしまいそうな今の自分を、張り倒したくなる。己を奮《ふる》い立たせ、竜児は頷いてみせた。
なにも、本気で大河と離れることだけで実乃梨とうまくいくようになるなんて思っちゃいない。そんなに簡単なものだなんて思わない。だけど、重要なのはそこではないのだ。また少し大人になって、ついに本気で一人立ちしようとしている大河の前で、これ以上みっともないツラだけは見せたくなかった。成長していく大河に追い抜かれる、置き去りにされる、なんて思いたくなかった。
ふられてグズグズと腐っていくだけの、弱い野郎でもいたくなかった。
こんなふうに、長かった片想いを終わらせたくもなかった。
「……わかった。頑張れよ。けど、……火事だけは出してくれるなよな」
大河は自信満々に胸の大陸棚を張り、
「ええ大丈夫。コンロは使わないと断言しておくわ。一生|店屋物《てんやもの》宣言!」
レベルの低いことを恥ずかしげもなく言ってくれる。竜児は思わずあーあ、と溜息、
「いつまでもつことやら……」
「なによ! もつよ! 未来|永劫《えいごう》ずっと!」
鼻息を荒くする大河を見やった。冷たい風に頬も鼻も赤く染めているくせに、不敵な笑みを唇に浮かべ、大河はむやみに偉そうだった。
「私はもう大丈夫だから、あんたはとにかく、自分のなすべきことをするの。いい? まずはみのりんの真意を確かめること。……その機会は、とっくに用意されてるんだし」
「機会?」
「ええ。ラッキーなめぐり合わせね」
領いてみせ、そして大河は「おやすみ」とクールにキメて自室の窓を閉め――ようとして、指四本を思いっきり挟んだ。夜のしじまに、思いっきりの悲鳴が響く。
逃げない。
そして真意を確かめる。
……覚悟は決まったが、夜明けはまだ遠く、世界は暗く、望みも見えない。大河が言った機会とやらも、いまだになんのことだかわからない。
夜の闇の中で目を見開き、竜児は呆然と天井を見詰めていた。眠りに落ちることもできないまま、ただ重い布団に包まっていた。
朝がくれば新学期だ。有無を言わせず、再会の時だ。……このまま朝が来なければいいのに、なんて思ってしまうのも、逃げていることに入るのだろうか――
***
「アサ――――――――――――――ッ!」
びくっ、と竜児はちょっと震える。
「……インコちゃん、朝からなんてテンションなんだ……」
いつもながら、高須家の朝は薄暗い。そして寒い。家の中にいるというのに吐く息は白く、ペットのインコちゃんに水とエサをやる手もかじかんだ。
そんな陰鬱な冬の朝だというのに、インコちゃんはなにが嬉しいのか、鳥かごの中でグモモッと翼を広げて叫ぶのだ。
「アッサ―――――――ッ! アッサ――――――――ッ!」
うろこ状に皮が剥けた両脚を広げて踏ん張り、濁った白目に緑がかった血管で網目模様を描き、欠けたドドメ色の嘴を裂けよとはかりにおっぴらき、
「アサッ! アサッ! アサッ! アサッ!」
「おう、ちょっと! インコちゃん、こら! やめなさい! あっ!」 竜児の手の間をすり抜けてついに鳥かごから脱出する。慌てて捕まえようと手を伸ばすが、速い速い。インコちゃんはガニ股で大気圏も突破できそうな速度、ドドドドドドド! と畳の上を駆け抜ける。畳のケバも蹴散らして、砂漠を駆けるエリマキトカゲを彷狒《ほうふつ》とさせる全力疾走だ。膝立ちでおたおたと追いかける飼い主を嘲笑うように右へ左へ自在にターン、とてもではないが人の目で追いきれる速さではない。
朝っぱらからなんと面倒な……竜児は眉間にフォッサマグナに連なりそうな深い皺を寄せるが、そのときハッと閃く。この速さ。そしてターンのキレ。目にも留まらぬ芸術的足|捌《さばき》き。どこかで見たことがあるようなー
「……ジダン……! これはジダンのマルセイユ・ルーレットだ……!」
竜児は三白眼を見開いて口を覆う。まさか小六から飼っているブサイクインコのインコちゃんが、|銀河《ぎんが》|系《けい》軍団の元一員だったとは。これはびっくりだ、すごいことだ、あ〜驚い
「……なんてな……はは」
――自分で始めたおふざけにも付き合いきれず、竜児はそのまま……はあ〜……」と座り込む。朝なんてやっぱり来なければいいのに、と願って願って願った挙句、結局迎えてしまった朝だ。どうやったって考え込まずにはいられない。
一方インコちゃんこと高須ジダンはなおもなぞのハイテンション状態、全力疾走で暗黒オーラ噴出中の飼い主の周りをすごい速度で二周半。軌道変更するやいなやわずかに開いていた襖の隙間から、泰子の寝室へズドドドドドド! と飛び込んでいく。
ややあって、「はんぎゃ〜」だの「ふんぎゃ〜」だの、人類が上げたとは思えない悲鳴と、なにやら布団の上で暴れるような音声が響き、
「ふえええええ〜〜〜〜〜〜目えさめちやったよお〜〜〜〜」
ずるり。開いた襖から這い出してきたのは、全身に酒のにおいを染み付けたジャージ姿の人物であった。そのもじゃもじゃのシルエットに、竜児はうわ、と顔をしかめる。
「野人……」
「ぶええ……?」
酔って帰って今朝も巻髪がボンバヘッドの実母・泰子の手の中には、高須ジダンが握り締められ、ダランと首を折っていた。
「うわうわ、そんな強く握ったら死ぬぞ!」
「だってぇぇぇ〜〜〜〜〜インコちゃんがやっちゃんの顔のうえ走るぅぅぅ〜〜〜〜」
そしてジダンはその手の中で、
「……げろっ……」
吐いた。
おーう! んにゃ〜! と母子の悲鳴が響き渡る。朝っぱらから騒ぎ過ぎたジダンは恐らく自業自得、緑色のねばっこいゲロを吐いたのだ。そいつを握り締めている泰子はそれでもさすがに放り出すわけにいかず、「ひ〜ん☆」とゲロジダンを握ったままで右往左往していたが、さらに続けて、
「げろっ……げろっ……」
間欠泉《かんけっせん》の如く、緑の粘液がピュッピュと噴き上がる。その飛沫がしまいには顎にびちやっとかかり、
「……うわ☆ うわわ☆ う〜わわわ☆ やっちゃん限界☆ おぅえ☆」
ゲロジダンを息子に押し付け、よろめきながら振り返りもせず、泰子はトイレ直行便。すごい勢いでドアを開き、おそらくは便器を抱え込み、そして……聞くに堪えない声が響く。竜児は耳を塞こうにも塞げない。右手には押し付けられたジダンが――いや、もはやただのゲロまみれインコがしょんぼりと握り締められているのだった。
溜息をつく。しょうがねぇな、とひとりこちて、トイレからのあれこれは聞こえないふりをするしかない。そしてインコちゃんの身体をそっと濡れティッシュで拭ってやるが、おや、拭っても拭ってもとれないシミが……よくよく見れば、生まれつき羽毛に浮かぶ人の死に顔そっくりの柄であった。
インコちゃんをそっと鳥かごに戻してやり、止まり木に掴《つか》まらせてやり、竜児は日本刀のような両眼を青く底光りさせながら低く囁く。俺は人間をやめるぞ……ではなくて。
「あんなにゲロ吐いて大丈夫か、インコちゃん。動物病院、行こうか? ……なんなら、今日はどうせ始業式だけだし、俺が学校休んで運れていってやってもいいけど……」
正直なところさぼりたい根性丸出し。思いっきりの、弱音であった。逃げるんじゃないわよ――昨夜の大河の声が律儀《りちぎ》に脳裏に響くが、これは逃げるのとは違う。インコちゃんの体調不良という一大事なのだから仕方あるまい。しかし、そんな言い訳もむなしく、
「アサ……アサ……アサダヨ……!」
インコちゃんは失ったカロリーを取り戻そうとしているかのように、猛然と洗濯バサミで止められた新鮮な小松菜をがっつき始める。眼球に血管をビキビキ浮かせて必死、もはや竜児の姿も目に入らないらしい。言葉にする必要もないほど、インコちゃんはパーフェクトに健康体であった。そして不意に竜児はある可能性に思い至る。
まさか、もしかして、インコちゃん、おまえ――
「……俺のことを、元気付けようとして騒いでくれた……のか?」
「ハア……?」
――まあいい。いいんだ。本当にいい。もう、いい。
ブサ鳥のアホヅラから全力で目を逸らす。息をつき、立ち上がる。手を洗い、ついでに泰子が朝方に帰ってきて使ったらしいコップを洗う。シンクの水滴をざっと手ぬぐいで拭って、とても朝食など支度したい気分ではないことを己に確認。そして時計を見れば、今のゲロジダン事件で意外といらん時間を食ってしまっていたことに気づく。
「あーあ……行きたくねぇな……」
『逃げるんじゃないわよ』
はいはい、わかってるわかってる。行くとも。そもそも始業式から学校をさぼれるような度胸のある男ではないのだ、自分は。
きちんとかけてあった学ランをクリーニング屋のハンガーから外し、ほとんど無意識《むいしき》の手癖でブラシを簡単にかける。シャツの上に「軟弱ニット」――グレーの厚手Yネックカーデイガンを着てから学ランを羽織り、ホックはかけずにボタンだけ留める。そして大河がやたら気に入っていたカシミアのマフラーを首に引っ掛ければ支度は完了。真冬とはいえ、竜児はコートは着ない主義だ。どうやっても受験生くさくなってしまう。サブバッグの用意は昨夜《ゆうべ》のうちにすましてあるし、携帯も持ったし鍵も持った。これであとは、家を出るだけ。
「……ほんっとに、行きたくねぇな……」
いや、行くとも。行く行く、行きますよ。頭を二度三度振って、なんとか立ちこめかける憂鬱を振り払う。
洗面所で口をゆすいでいた泰子に「行ってくる……」とどんより陰鬱に声をかけると、
「いっへらっさー……はふっ、そ〜ら竜ちゃぁ〜ん」
あれだけ吐いてもまだ酔いが残っているらしい泰子が、危うい日本語を操《あやつ》りながら顔を上げた。口の周りをびちょびちょにしたまま息子の目の前、腰を左右に振って言う。
「やっちゃんね〜忘れなかったよお〜、ちゃんとおぼえてたんだよ〜☆ はんこ〜おしてお部屋のテーブルにおいといたあ〜」
「……なんだっけ?」
「え〜? も〜、竜ちゃんったら最近ぼ〜っとしちゃってぇ〜忘れてちゃだめ〜! 沖縄のやつだよお〜!」
沖縄……?
……沖縄!
むわっとくる酒のにおいの息を真正面に浴びつつ、そうだった、と思い出す。慌ててそいつを取りに戻る。
「あぶねぇ、忘れてた完璧に」
泰子の部屋に置いてあったのは、今月行なわれる修学旅行の同意書だった。積立金の引き落としや保険の加入について、保護者の同意を求める趣旨のプリントだ。始業式に持ってくるように言われていたのを、最近のあれこれですっかり頭から飛ばしていた。つるっつる構造偽装脳の泰子でさえおぼえていたというのに……情けない。
「沖縄沖縄〜! いいな〜、ごうかだな〜! やっちゃんもい〜きた〜い!」
「……じゃあ、いってくる」
「ありゃ〜……元気ないねぇ〜?」
プリントをバッグに押し込み、きちんと磨いた革靴を履き、竜児はそのまま玄関ドアを開く。途端にゴッ、と真冬の北風が吹き込んできて、その冷たさに思わず目をつぶる。
竜ちゃあん、だいじょ〜ぶ〜? と能天気な泰子の声が部屋の中から聞こえるが、答える元気ももはやなく、そのまま鍵を閉めた。ものすごく寒いくせに朝の光は妙に眩しく、深夜の歌舞伎町《かぶきちょう》辺りがお似合いな竜児の鋭い両眼を射った。
こちとら沖縄どころじゃねぇんだ――鉄の階段を踵《かかと》を鳴らして下りつつ、噛み締めた奥歯の隙間から苦々しく絞り出す。
朝日をいらんほど反射して光るアスファルトの道を歩き出し、横目で大河のマンションのエントランスを眺める。磨き上げられた白璧い大理石の階段が完に美しいアールを描いてガラスの扉へ続く。真冬にも葉を落とさない植栽《しょくさい》は、今朝も道路に緑の淡い木陰を揺らめかせる。
今日はしかし、その木陰の下はくぐらない。竜児はそのまま一人で、いつもの欅《けやき》の歩道へ向かう。あのねぼすけの大河が、ちゃんと寝坊せずに家を出られたかどうかはわからないが、朝も起こさないでいいと言った昨夜の決意を尊重したのだ。
今頃天界は大騒ぎ……かどうかは知らないが、大河の気持ちは本当に嬉しいと思っていた。多少複雑な感慨はある。正直なところ寂しいとも思うし、置いていかれた感もある。しかし、大河が自分のことを考えてくれたことは、素直に嬉しかった。
一人、葉の落ちた欅の下を白い息を吐きながら歩き、竜児は思う。いつもこの道を大河と歩きながら、鞄でぶったたかれ、罵られ、首を絞められ、目を潰され、遅いだの早いだの寝起きの不機嫌を理不尽にぶつけられ、転んだだのぶつけただのひっかけただの喚かれ、北村くんがみのりんがばかちーがあんたがと愚図《ぐず》られ、……そして。そしてだ。大河は一人立ちしてしまった。あんたとみのりんのため、などと言って。
大河は本当に、大人になってしまったのかもしれない。
一方自分はと言えば。このざま。ちょっと失恋とインフルエンザで寝込んでいる間に、随分差をつけられてしまった。今にも学校へと歩む足は止まってしまいそう。昨夜、覚悟は決めたはずなのに、だけどいまだグズグズと悩ましく、結局腹はなに一つ定まっちゃいない。胸の内に繰り返されるのは「どうしようどうしようどうしよう」と――
「……ええい!」
昨曰大河がしていたように、両手で自分の頬を叩いた。
どうしようもないドン詰まりにいることは確かだ。でも、逃げないと決めたじゃないか。だったらもはや開き直って、恥をかきにいけばいいのだ。それしかない。諦めることもできずに腐っているよりは、なにがどうなったってマシだ。
冷たい真冬の風に額を晒し、竜児は俯くのをやめた。ぐっと顎を上げ、前を向く。櫛枝に会ったらどんな顔をすればいいんだ、なんて悩むのはもうよそうと思う。
開き直るのだ。今の地点はゼロ、ここからまた始める、それだけだ。せめてマイナスにはならないように、実乃梨にいらない気を使わせないようにすればいい。付き合っていた彼女にふられたわけではない。ゼロをゼロだと指摘されただけの話だ。またここから、プラスを積み重ねていくだけのことだ。
最初からずっと、片想いだったのだから。
横断歩道に差し掛かると、ちょうどよく信号が青に変わる。小さなラッキーにちょっとだけ元気付けられた気もして、竜児は決めた。教室で実乃梨に会ったら、まずは挨拶をしよう。できるだけ大きな声で、おはよう! と言ってみよう。その後に会話が続くかどうかはわからないけれど、とにかく休み明け一番に、彼女に自分から笑顔を向けてみよう。
それぐらいしか自分にはできることはないのだし、せめて前向きにできることを――
「おっ! 高須くん、おはよう!」
――神様!!
「いっやーさっびいねー! あれ、大河は? 一緒じゃないの?」
竜児はいまや、高須ジダンニ世であった。意味不明だが、そうなのだった。信号を渡りきったその先で、竜児は華麗にマルセイユ・ルーレット。行く手を阻む『彼女』の脇をすり抜けて芸術的ステップ、つむじ風のようにその背後へ。そして声には出さずに絶叫する。俺はバカだあああ!
大河と実乃梨がいつも待ち合わせしている交差点に、なにも考えずにそのまま突入してしまうなんて、本当にバカだ。大河がまだ起きていないなら、ここに『彼女』がいて当然ではないか。櫛枝実乃梨がいて、当たり前ではないか。
「ちょ、ちょっと! 高須くんってば!」
マフラーをかき合わせながら鼻をすするフリ、なにも聞こえないフリ、実際は娠り向くことも足を止めることも自分の意志ではできなくなっている。スタスタスタスタ、すごいスピードで進む歩みはどうにもならない。
なにが、なにが「挨拶をしよ〜!」だ。なーにが「自分から笑顔を向けてみよ〜!」だ。ばか、ばか、ばか、ばか、大バカめ。死んでしまえ糞バカ野郎。己を罵倒しながらも世に言うシカトを思いっきり決め、竜児は実乃梨の表情どころか、バッグのはじっこさえ見ることができなかった。スカートの裾さえ見られなかった。存在する半径一メートルの空気を吸うことさえできなかった。
「おーい! 高須くん、ってば……」
ショート寸前の|自意識《じいしき》過剰が、竜児の身体を強張らせる。なす術もなく、大股の早歩きでこの場から全力で逃げ出す。かき消えそうな実乃梨の声に岩よりも硬い背中を向け、竜児は一目散に逃亡していく。今朝のインコちゃんの華麗なる逃走劇は、そうか、この事態を予言していたのか。……下らないことを考えて、自分が今なにを、どんなひどいことをしているかも直視できずにいる。
「逃げるんじゃなあああああ――――――――いっ!」
――って言われたって無理だ。脳裏に響く昨夜の大河の声からも、竜児は逃げようと足を速める。
「ハゲ竜児てめぇおるああぁあぁっ! 逃げるんじゃ、ぬぁあああああ―――いっ!」
ハゲてねぇよ……というか、大河の声はやけにリアルに辺り中に響き渡る。とは、思ったのだが。
「あっ、み、みのりんおはっ……ぎゃああああっ!」
凄まじい悲鳴に振り返った。そして、ヒー! と静かに実乃梨とユユゾン。横断歩道のド真ん中、小さなアホが転がっていた。転がっているだけならまだしも、交差点に進入してきたライトバンの運転手からは転がるアホは完全に死角、竜児と実乃梨はほとんど同時、弾かれるようにバッグを放って走り出す。あとは不吉過ぎるスローモーション。
轢かれる寸前の猫みたいに、大河は迫り来るタイヤの前で硬直、動けなくなっていた。幸いにも徐行していたバンの真正面に竜児は躍り出てフロントガラスにしがみつく。驚いた運転手が顔を引き攣《つ》らせながらブレーキを踏み、その隙に実乃梨が大河の腕を掴んで力ずく、歩道へ引きずり込む。
危ねぇな飛び出すんじゃねぇぞガキがぁ! ――運転手の荒っぽい怒鳴り声とともに、身体のすぐそばをエンジンの振動と排気ガスが通過していく。
心臓は張り裂ける寸前、全身は震え、
「……び、びっくり、し、し……」
「この……バカが!」
竜児は思わず、大声を上げていた。そしてほぼ同時、
「なにやってんのあんたは! もおぉお……っ!」
実乃梨も声をひっくり返す。植栽のつつじの中に座り込み、ダッフルコートの前もおっぴろげたまま、まだ立ち上がれない大河はゆっくりと竜児を見る。実乃梨も見る。そして小さく、ごめんなさい……と。
「ったく……! シャレになんねぇ! 本気でおまえ礫かれるところだったんだぞ!?」
「なんで飛び出したりするのさ! ほら、立ってごらん! ケガは!?」
実乃梨に手を引かれ、ようよう大河は立ち上がる。汚れてしまったスカートの尻をバンバン思いっきり叩かれ、情けない顔でされるがままになる。
「ほら、ちゃんとコートを着ろ! マフラーも巻いて! だらしねぇんだから……あ!」
ライトグレーのダッフルの前を留め、やっと自分で買ったらしいフーシャピンクのマフラーを結び直す大河の手の平が、すり傷になっているのを竜児は発見する。思わずその手を掴み上げ、
「血が出てるじゃねぇか!」
「ほんとだ! ティッシュティッシュ!」
ティッシュなら俺が、と顔を上げ、ギク。と、息が詰まる。
掴んだ大河の手を、実乃梨が至近距離で覗き込んでいるのに気がつく。手がさらに大きく震え、それに気がついたらしい大河の瞳がわずかに揺れる。実乃梨がポケットからティッシュを出して、大河の手の平の傷を拭い、押さえる。
実乃梨は少し、髪を切ったようだった。
顎のあたりで跳ねた毛先は、前よりもボーイッシュさを増したように見えた。
前髪の下で、黒い瞳がピカピカと光っていた。
そして――限界だった。
唐突に身を翻し、竜児は大河も実乃梨も置き去りに、そのまま一人で歩き出す。不自然だろうがなんだろうが、この場にこれ以上いることはできなかった。歩道の脇に放り出してしまったままのバッグを捨い、汚れを払うこともしないまま、無我夢中で再び実乃梨の前から逃げ出す。なにも見ない、なにも聞こえない、すべてを無視して小走りに立ち去る。
大河はもう、逃げるな、とは叫ばなかった。バッグを肩にかけ直す素振り、わずかに振り返ってみると、実乃梨はこちらに背を向けて自分のバッグを拾っているところだった。そして大河は歩道の真ん中で、一人頭を抱えて天を仰ぎ、口をパクパクやっていた――ドジドジドジドジドジ、私のドジ、とかなんとか声には出さずに叫ぶみたいに。ああ本当におまえはドジだ、竜児はひそかに同意してやる。やっぱりおまえなんか大人じゃない、大人はあんなふうに道路に飛び出して轢かれそうになんかならない。
そして竜児だって同じポーズで叫びたかったのだ。バカバカバカバカバカ、俺のバカ! 天に向かって、そう喚《わめ》きたかった。
ああもういっそ、学校、燃えてなくなってねぇかな……なんて愚かなことを思いながら、ほとんど涙目で逃げていく。
2
「海っ! 太陽っ! 沖縄っ!」
「ハブっ! コトーっ! 沖縄っ!」
教室に入るなり、ババン! と目の前に広げられた二枚の修学旅行同意書を押しのけ、
「……いきなりなんだよ」
竜児は三日月形に切れ上がった両眼から壮絶な不機嫌を駄々漏《だだも》らす。通常の人間なら涙目レベル、しかし耐性のある能登《のと》と春田《はるた》は平気なツラを仲良く並べ、
「なんだよ高須、ノリ悪いじゃん! 持ってきた? これこれ、同意書だよ同意善!」
「あけおめことよろ〜! 沖縄だぜ〜! 五泊六日、タダでいけるんだぜ〜! ひょ〜!」
タダではないだろう――今年もめでたくアホそうな春田の顔を、竜児はそっと見つめ返す。
悩みとはまったく無縁な友人達のアホヅラが、今日という今日は羨ましい。しかし春田はその視線をどう勘違いしたのかサッと顔色を変え、
「えっ、どしたの高《たか》っちゃん、いやだよ! 俺の同意書は俺だけの同意書だ!」
「いらねぇよ。……持ってきたよ、ちゃんと」
本当に、羨ましい。
口をへの字にしたまま、竜児はそれだけ言って自分の席に鞄を置く。ごまかしようもないその微妙な不機嫌に、能登と春田が顔を見合わせたのがわかる。しかし説明しようがないのだ。もうすぐ教室に入ってくるだろう|櫛枝《くしえだ》|実乃梨《みのり》にクリスマスイブにふられ、それ以来ずっとハートブレイクなのだ、とはなかなか言えるものではない。しかもつい数分前に、変わらぬ態度で明るく声をかけてくれた実乃梨を思いっきりシカトして逃げてきてしまったなんて。
イスに座り、頭を抱える。思い出せば思い出すほど、本当に狭量《きょうりょう》なことをしてしまった気がする。結構、最悪なのではなかろうか。ふられたからって、あんなにわかりやすく無視するなんて相当最低なのではなかろうか。
狭量で、最悪で、最低……ただでさえ気まずいのに、自分で余計に傷を広げてしまったのはとにかく確かだった。いよいよもって、どうすりゃいいのかわからない。このままではどんどん点数はマイナス、嫌われていく一方だ。
「……あああ……うおお……ふおー!」
髪をぼっさぼさに掻き毟る手を、「ちょっとちょっと!」と能登が引っ張って止める。
「高須ってばなに唸ってんの? ほんとにどうしたのよ、なんかあった? あ、もしかしてまだインフルエンザの後遺症で体調イマイチとか?」
「そういや驚いたぜ〜、一緒に初詣行こうと思ったら『インフルで入院してた、退院したばっかだから行けない』だもんな〜。でもほら、これ見たら元気出るかもしんないよ! 俺、修学旅行が超〜楽しみで、さっそくこんなん買っちゃった〜! ひょ〜! みてみて〜!」
頭を抱え込んだ手をパパン! と弾かれ、竜児の顔の前に無理矢理一冊の本が突きつけられる。春田が得意げに見せてきたのはガイドブックだった。反射的に押しのけようとして、その動きがピタリと止まる。『まるかぶり沖縄! 』と書かれたその表紙の写真に、竜児の目は思わず釘付けになる。
照りつける太陽。広がる紺碧《こんぺき》の大空。輝くエメラルドの珊瑚礁。うそ臭いほど真っ白なビーチ。吹き渡る風に髪を乱し、水着姿で大笑いする若者たち。男女仲良く肩など組んで、膝の下まで波に洗わせて……片手にでかいパイナップルなど持って……!
その。眩し過ぎる光景!
「……アハハハハ!」
思わず笑いが出ていた。目じりにじわっと涙が滲む。悲しいのではない、あまりにも今の己と正反対に美し過ぎる爽やかさに目がやられたのだ。
写真の奴らは明るくて、眩しくて、本当に楽しそうに見える。今の自分はまるでこいつらの足元にできる影のようだと思う。輝かしい青春の一ページの表がこいつら、裏が自分だ。笑える、本当に笑える。
しかしその笑いをどうとったのか、能登は嬉しげに目じりを下げて、小魚を両手で捕まえたカワウソのように「えっへっへ!」――腹が立つほどかわいくない。
「やっば楽しみ過ぎるよなー! この青い海! 修学旅行で沖縄行けるなんて、俺たちかなりついてるっしょ! おな中の友達の学校なんて京都奈良だって、中学んとき行ったのにまた京都奈良! どんだけ寺社仏閣《じんじゃぶっかく》!」
「フヒヒ悲惨〜! 俺、沖縄で絶対行きたいとこあるんだ〜! まんざげ!」
万座毛《まんざもう》のことだろう……竜児は遠く思う。
「あと、米軍基地! 見てえ〜、かっこよくない!? マリナーズ!」
マリーンだろう……そして基地には入れないだろう普通……竜児はもう一度、もっと遠く思う。つっ込む気力は、しかしそれでも湧かなかった。「撃ちてぇ〜、銃!」ときてようやく能登が「おまえはなにか沖縄を勘違いしている」と春田の暴走を止めてくれるが。
「オス。おはよう! さっそく沖縄のガイドブック見てるのか! 勉強熱心だな!」
爽やかな体育会系丸出しの声に振り返り、「おう」と手を上げる。眼鏡の奥で人懐っこく目を細め、手を上げ返してくれるのは我らが生徒会長兼クラス委員長、|北村《きたむら》|祐作《ゆうさく》だった。
「高須、年末はインフルエンザだったって? 大変だったな、もう治ったのか?」
「……ああ……まあ……」
「なんだよ、どうした? 元気ないじゃないか。はっ! まさかおまえ、高熱で……」
北村は眉間にしわを寄せ、イスに座った竜児の股間《こかん》付近をじっと熱く凝視する。ちょっと考えて意味がわかり、よせ! と竜児は足を組んで視線をガードする。
「おーっす大先生。今年もやんの? これこれ」
能登はパンパン、と手を叩いて頭を下げてみせた。そのジェスチャーが示すのは当然。
「失恋大明神か、もちろんやるとも! 今年もがっちり生徒のみなさんのハートを掴んでいくぞ! 失恋キャラで親しみやすさをアピールして、失恋した奴らを失恋の暗黒から……どうした高須、なぜ俺を見つめる?」
「……なんでもねぇ」
慌てて竜児は首を振る。北村の、能登の二倍ぐらいありそうなくっきりした瞳から目を逸らす。いけない……失恋というキーワードに思いっきり反応してしまった。
「ただ、失恋大明神続行にも問題があってな。大好評放送中の『あなたの恋の応援団』の失恋体験出演者が、ついに弾切れし始めた。生徒会の連中はもちろん、ソフト部の後輩もとっくに動員し尽くしたし……このままじゃ番組の存続が危うい」
「そんなの仕込みのサクラでいいじゃん。おっ、ほらほら、早くもいいサクラ候補発見!」
びしっ! と能登が指差す方を思わず見てしまい、竜児は「おう!」と目をつぶる。俯いて己の膝を爪が白くなるまで掴む。逃げたい。逃げてしまいたい、が、
「おーっす櫛枝、おまえ髪切っただろ! さては失恋したんだな!? 北村の失恋報告ラジオ出てやれよ!」
「えっ、櫛枝、それで髪切ったの? 微妙過ぎてわっかんね、どうせならもっと大胆に刈り上げろよな、俺のあげたハゲヅラぐらい! なあ高っちゃん!」
――背後にべったり春田がへばり付いていて、逃げられない……。
震えそうになりながらこっそり目を上げる。奥歯を噛み締め、盗み見る。タータンチェックのマフラーを解《ほど》きながら、実乃梨はついさっきの竜児のシカトなど忘れたみたいに、いつもどおりの明るい声を上げる。
「うーるさいなー男子はよー! 人の頭勝手に見ないでくれる!? エッチスケッチワンタッチ!」
おいアホだぜ、あいつアホだぜ、と能登と春田が実乃梨を指差して笑い合う。北村まで調子に乗ってヘラヘラ笑いつつ両腕を広げ、
「失恋したならいつでも歓迎だぞ! 俺の胸に飛び込んで釆い! そしてラジオに出ろ!」
「やるぅ、大先生! さすが胸板が厚いぜ!」
「ヒュー! 櫛枝失恋! ヒュー!」
――じわっ、と。
滲《にじ》んだのが涙でなくてよかった。噛み締め過ぎた唇から、鉄の味が滲《し》み出してきただけだった。竜児は冗談の輪にも混ざれないまま、実乃梨の顔を見ることもできないまま、ただ石像のように唇を噛んで俯き続ける。頭上に飛び交うキーワードはあまりにも危険過ぎた。下手に被弾したら、本当にどうなるかわからない。
「ちぇっ、行こうぜ大河、あいつら本気で仏契《ぶっちぎ》りのアホだ! この髪形にカット代四千五百円もかかってるのがわかんねぇんだぜ!」
傍《かたわ》らにいた大河を捕まえて肩を組み、実乃梨は踵を返そうとする。大河もうんうん、と実乃梨を見上げて頷き、そのウエストに両手でコアラよろしくしがみつき、「オシャレ泥棒!」と言い捨てる。しかし今日の男ども(竜児除く)は新学期のせいか、それとも沖縄のせいか、両方か、とにかく妙にハイテンションで命知らず。
「そうだそうだ、タイガーもサクラすればいいじゃん! 北村と一緒にラジオしなよ!」
「フヒヒそうですねナイスアイデア! さーこの胸板に飛び込むんだタイガー!」
むきっ、と春田は北村の背後から、学ランの前を開けてみせる。それでなにが見えるわけでもないのだが、強いて言うならワイシャツが見えるだけなのだが、
「いかん大河! あれは北村くんの罠だ!」
「あうっ! みのりん痛い! 目が潰れる!」
実乃梨は大河の目を両手でがっちり押さえてしまう。
「見てはならぬ、私はあの罠に嵌められたことがあるのだ! たいしたことねぇや、と思って見てるうちに、なにかとんでもないものが黒々と現れたりするんだ!」
はっはっは、と北村は学ランを剥かれたままで余裕で笑い、
「おいおい、人聞きの悪い。 一体俺がいつおまえに黒々としたモノを見せたりした?」
「夏だよ! あーみんちの別荘でだよ!」
そんなことあったっけか? と爽やかに首を傾《かし》げてみせる。そのとき、
「あれあれ……? おやおや……?」
北村の学ランの前を広げていた春田が、そのワイシャツになにかを見つけた。顔を近づけ、目を疑らし、
「ちょっとちょっと〜! ばかだな〜北村大先生は〜! ここに思いっきり食いこぼししてんじゃん、恥ずかしい奴〜! ねぇ高っちゃん、これってなんのシミかな〜?」
「なんだと!?」
シミ、と言われればどのような状況であれ、黙っているわけにはいかない。竜児は反射的に立ち上がり、「こことここ」と春田が指差す、北村の胸板に確かに浮かぶ二つの怪しい円形の影を見つめた。そして至近距離からじっくりと観察する。ソースか、しようゆか、それはまるで乳輪《りゅうりん》の位置にあり、なんだか本当に乳輸のようで、見れば見るほど乳輪に見えて――
「……乳輪じゃねぇか!」
むほっ! と噎《む》せる。汚《けが》らわしい、そんなモンを間近で一生懸命見つめてしまった眼球を取り出して、ヤシノミ洗剤で思いっきり洗ってしまいたかった。北村は慌てて学ランの前を合わせ、頬など赤らめてみせ、
「しまった! 下にTシャツ着るの忘れてた!」
「はいズコー!」
実乃梨がそのまま腕組みブリッジ、脳天から後方にエビ反りをきめる。巻き添えを食って大河がコケる。その大河の脇に素早く滑り込み、肘のあたりをちょんちょんつつき、能登がなにを言うかと思えば、
「……へい! ラッキーだよタイガーラッキーだよ!」
「なにが!?」
大河でなくともそう言いたくなる。さらに春田まですかさず大河の傍らに膝立ち、沖縄のガイドブックを唐突に開いて大河に見せ、
「タイガ〜、この部分を読むんだ!」
「えっ!? ち、ちんこ、……!」
「ひょ〜! ぶはは〜! な〜今の聞いた聞いた〜!? 言うと思ったよな〜!」
春田は『買うなら絶対このおみやげ! 』特集の『ちんすこう! 』ページを開いたままで腹を抱えて大胆に笑う。多分、死にたかったのだろう。その瞬間、大河の両眼からブシュッと血|飛沫《しぶき》が――いや、血色に輝く殺気が噴き出したのを竜児は見た。
大河は右手で能登の親指を、左手で春田の親指を掴み、腰を落として「セイヤッ!」……気合|一閃《いっせん》。まるで魔法のように能登と春田の身体はパーン! と高く舞って宙返り、交差しながら背中から床に落下した。それきり二人は動かなくなる。多分、死んだのだろう。そして大河は顔を上げ、大きく一言、
「――ちんすこうっ!」
ニヤリ、と実乃梨は笑い、「できておる!」と。北村はまだ胸を押さえて照れている。
なんだこれ……一連のコントについていけないまま、竜児は一人置き去り状態、ぽつーんと佇むしかない。そして思わず無意識、目を上げて向かいに立つ実乃梨を見る。
不意に、だ。
まるでのんきに渡っていた木橋の板の間から、ふと足下の濁流を覗いてしまったみたいな気分。竜児はいらんことを、余計なことを思ってしまった。
みんなが楽しいのはいいのだ。みんながいつもどおりに元気なのもいい。ただ。なぜ、実乃梨も、こんなにいつもどおりでいられるのだろう。ふった自分を目の前に、いつもと変わらぬ明るさでいられるのだろう――なんて。
実乃梨にとってあの事件は、たかだか二週間であっさり忘れられる程度の些細なアクシデントでしかなかったのか、なんて。
「……っ」
息が詰まった。
竜児の視線に気がついたのか、実乃梨も顔を上げた。二人の視線がぶつかって、しかしすぐに、実乃梨は「いつもどおりの」笑顔を作ってみせてくれた。なーんだよー、と、偶然に目が合ってしまった友人同士なら当たり前の笑顔で、ちょっとふざけた声音で、囁《ささや》いてくれた。 さっきのシカト――あの最低最悪な竜児の所業《しょぎょう》も、もう忘れてしまったらしい。
そして、それが限界だった。竜児はなにもできなかった。そのまま顔を背けて視線を引き剥がし、実乃梨に背中を向けて、また逃げ出す。友人たちの輸の中から一人高速の早足で離れ、敏感過ぎる無様なふられ男はトイレにでも隠れているしかなさそうだった。
「あっ、ちようどよかった! 高須くん、俺のこと覚えてる!?」
戸口に向かったそのとき、見知らぬ男子が廊下から教室の中を畷き込み、こちらに手を振っているのに気がつく。
「ほら、クリスマスイブの生徒会パーティで、クマの着ぐるみを着てた――」
「ああ、おう、その節は……」
思い出して、歩み寄った。あのイブの日、竜児は大河のマンションに駆けつけようとしてサンタの衣装を探していた。しかし見つからず、クマの着ぐるみを着ていた彼に「服を交換してくれないか!?」と持ちかけ、スーツとクマを換えてもらったのだった。あの後のあれやこれやに取り紛れ、すっかり忘却《ぼうきゃく》の彼方にやってしまっていた。竜児は慌てて頭を下げる。
「悪い、こっちはうっかり忘れてた。わざわざありがとう」
「いやいやいいよこっちはいつでも、あれってただのパーティグッズだし。それよりこのスーツ、すごく高そうだったから早く返せってうちのおふくろに言われて」
「ああ、これはこれはクリーニングに……本当にありがとう、申し訳ない」
クリーニング屋のビニール袋に入ったままのスーツを受け取り、繰り返し竜児は頭を下げた。いけないいけない、今日中にクマをクリーニングに出して、きちんと返却しなければ。
「それよりさ、これ。ポケットに入ったままになってたけど、困らなかった? 後から気がついて高須くんを捜したんだけど、見当たらなくてさ」
「……あ……」
ラッピングされた小箱を申し訳なさそうに手渡され、頭の中に電流が走った。――それは、実乃梨に告白するときに渡そうと思っていたクリスマスプレゼント。
手の中に掴み、竜児はしかし、
「……いや、大丈夫。これは……あの日はいらんモンだったから」
ブンブンと横に首を振って見せつつ、本当に、と心の中で小さく付け加える。
本当に、これはいらんモンだった。たとえこれを持っていたとしても、渡すことはできなかっただろうから。
「そっか。……あーよかった! 実はここに来るの、ちょっとビビってたんだ。高須くんがマジヤンキーだったらどうしよう、とか。村瀬《むらせ》たちが『普通にいい奴だから大丈夫』って言ってたの、本当だったんだな」
竜児は小さく俯き、ちょっと困って曖昧《あいまい》に笑ってみせる。ヤンキーではないのは確かだが、いい奴かどうかは自分でももはやわからない。自分をふった相手を無視するような奴は、果たしていい奴だろうか。器が小さい奴なのは折り紙つきだが。
名前を改めてきちんと聞いて、クマの着ぐるみを返すことを約束し、生徒会の村瀬の友人だったらしい気のいい彼を見送った。そして、一人でそのまま戸口に佇む。
手の中に残されたプレゼントの中身は、雑貨屋で二時間、お店のお姉さんの怯える表情にも負けずに悩んで粘って選んだヘアピンだった。
千円ちょっとのヘアピンなんてしょぼすぎるかとも思ったが、付き合ってもいないのに変に大仰《おおぎょう》になってしまうのもいやだったし、テスト期間中に実乃梨が前髪を邪魔そうに結んでいたのも覚えていた。ペンケースやポーチでもいいかと思ったが、あまりに実用的な物よりは、キラキラ光る綺麗なものを渡したい気持ちもあった。たとえ安物だとしても、クリスマスの夜に相応しい、美しいものをプレゼントしたかった。
捨てよう。
そう思った。これは今すぐに捨ててしまおう。
それはほとんど無意識の本能、あのつらすぎた夜の思い出に連なる品など、ポケットにしまい込みたくはなかったのだ。
後先考えずにゴミ箱に放り込もうとして、しかしその手が止まる。舌打ちして、いまや不要なクリスマスツリーのイラストの包み紙を乱暴に破く。こんなときでもゴミを分別したいか、自分は……したいのだから仕方ない。箱を開き、丁寧に包まれたヘアピンを取り出し、いらなくなったパッケージはリボンごと握り演して燃えるゴミの方へ放り込む。過剰包装だ、腹立たしい。
指先で、燃えないゴミのヘアピンを掴む。三白眼で無遠慮に眺める。ちょっと大きめの、波型になったシルバーのピンに、透明、金色、光るオレンジのガラスビーズが、跳ねる水玉模様を描くみたいにいくつも並んで輝いている。
これが実乃梨らしいと思ったのだ。たくさんの色、たくさんの形の中で、これが一番似合うと思った。授業中や、部活中や、バイトのときにもつけてもらえたら、と思った。つけるたび自分のことを思い出してもらえたら、なんて。これをつけている姿を垣間見るたび、想いが通じている気分になれるだろう、なんて。でもこれは渡せなかった。もういらないのだ。ゴミ箱に放り込もうとして、
「高っちゃん助けて〜! 見てよこれ、タイガ〜が噛んだ! 証拠! 歯型〜」
「おまえがしつっこくちんすこーちんすこーちんすこーちんこすー言ってくるからそうなるんだ! 一体なんなのこの毛長虫《けながむし》が! 滅びてしまえ! 早く焼き払って駆除しないと地球がたいへんなことになるわー!」
どしっ、とそのとき、まだ騒がしく大河と小競り合いしていた春田が言いつけにきたガキみたいに竜児の背中にぶつかってくる。追いかけて大河もやってくる。そして二人ばほぼ同時、竜児が手にしていたヘアピンに気がついたらしい。先に春田が、
「あれ? なにそれなにそれ? どしたの?」
そして大河は、あ、と小さく呻《うめ》いたきり、口を噤《つぐ》む。実乃梨にヘアピンを買った、とは言ってあった。そして横目でゴミ箱をチラっと見て、クリスマス丸出しのラッピングが捨てられているのも見て、それがなんなのかを正しく理解してしまったようだった。普段はたいがい間抜けなくせに、こういうときばかり目端《めはし》が利くのだ。
「……これは、なんていうか……いらねぇっていうか……」
「え〜、いらないの? じゃあ俺にちょ〜だいよ! ほら、俺ってなんか前髪とか邪魔な気配がある気がするんだ!」
何も知らない春田はヘアピンを受け取るなり、「似合う!?」と前髪にそれを留めてポージング。随分《ずいぶん》予定と違うところにいってしまった、と竜児はしみじみ物悲しく、その気持ち悪くも似合わない姿を眺めるが、
「か――返せっ!」
「あいたたた〜!? ちょっと、なになに!?」
「いいからっ、返せっ! 返せ返せ返せ! 返せぇっ!」
春田の背中にジャンプ一番、大河は木のぼりするみたいにアホの長身に飛び掛かり、そのロン毛からヘアピンを取り返そうとする。引っ張られた髪がピンに絡まって「ぎゃ〜!」と春田は悲鳴をあげ、竜児も慌てて大河を止めようとするが、
「それは、まだ、竜児のなのっ! いいから、早く、返せったら――」
戸が開き、出席簿を携えた担任が姿を現すと同時。ブチブチと数本のアホ毛を犠牲に、ヘアピンが春田の頭から毟り取られた。
「燃えてなくなりました!」
――ぽかん、と、2ーCの生徒たちは、教壇に立つ独身(30)こと、|恋ヶ窪《こいがくぼ》ゆりの気まずそうな微笑を眺めるしかなかった。あまりにも意味がわからない。
新学期最初の号令をかけて挨拶をするなり、「さあ、提出物を集めるぞ! 全員、同意書を前に回せ!」と張り切って修学旅行の同意書を集め、手際よく担任に渡そうとしていたクラス委員長・北村も、「は?」と小さく呻いたきり、動きを止める。
独身(30)は「どうもね! はいどうも!」と北村の集めた同意書をとりあえず受け取り、まとめて封筒に素早くしまって出席簿ごと小脇に挟み、なんとも言いがたい微妙な笑顔で生徒たちの顔を見回す。言いにくそうに唇を窄めながら意味不明にぼそぼそ話す。
「燃えてなくなっちやったんです。残念です。あの、でも、中止にはなりません。だから、まあ、あの、大丈夫。です。予定通り。ね」
「……先生、まったく意味がわからないのですが。もっと明確に話してください」
北村のまったくごもっともな言葉に、独身(30)はごまかすのを諦めたらしい。
「ホテル、が!」
覚悟を決めたように、教師らしく声を張る。
「修学旅行で宿泊するはずだった、沖縄の、ホテルが! 年末の火災で、燃えてなくなりました! 二年生総勢百六十八名、受け入れられるホテルはもう沖縄にはありません! だから沖縄には行けなくなりました! でも、修学旅行は中止にはなりません! ちょっとコンパクトに二泊三日、冬山スキーに変更です! わあ、よかったねぇ!」
どええええええええええ〜〜〜〜〜〜〜!?
――悲鳴にも似た凄まじい絶叫は、ほとんど同時のタイミング、両隣の教室からも聞こえてきていた。ぎぇー! だの、うぎゃー! だの、もはやどこのクラスから漏れているかもわからない絶望の叫びに天井までもがビリビリと震える。
「うっそおお!? マジでっ!?」
「最悪なんですけど! 超、超、超、最悪なんですけどおっー」
「うわあああん! 人生|初飛行機《はつひこうき》、初沖縄がああああっ!」
「ていうかなんでよりによって真冬に山なわけ!? 嫌がらせか!?」
まあまあまあ、と独身(30)はフォローに入る。
「スキーも楽しいですよ? 粉雪舞うゲレンデ! 白銀の雪景色! 二人で描く、ハートのシュプール! そしてみんなでヤッホー! って」
「いやだ! しょぼ過ぎんだよ! 一生一度の修学旅行だぞ!?」
「冗談じゃねぇ、俺は絶対沖縄に行く! いつになってもいいから沖縄にしてくれよ!」
「そうだそうだ! 冬山なんて行きたくねー! みんなでボイコットしようぜ!」
過激な意見に、しかしクラスのそこここから同意の拍手が湧き起こる。だが独身(30)は小脇に抱えた封筒をチラリと見て、
「でももう同意書は受け取りましたから……このとおり……」
大人のズルさを爆発させる。そして生徒たちは阿鼻叫喚《あびきょうかん》。
ガイドブックまで買って張り切っていた春田は本に突っ伏して泣いているし、北村も沖縄に行きたかったのだろう、「断固抗議する! ナンセーンス!」と教壇の担任にアジテート。女子たちは「ざけんなよ!」「話になんねぇよ!」「独身!」「三十路《みそじ》!」と口汚く担任攻撃に入り、沖縄なんていつでも行けそうなお嬢様・大河までもが机をバンバン叩いて抗議抗議。
激しい抵抗を一身に浴びた気の毒な独身(30)は困り顔で、
「先生が沖縄のホテル燃やしたわけではありません」
――それはそうだろう。
大騒ぎの中でただ一人、別世界の住人になっていた竜児はくわ! と爬虫類《はちゅうるい》的な両眼を見開く。ホテルを燃やしたのは独身(30)ではないだろう。
どちらかといえば、この俺だ。
……一応は正気、そんなことまで考えていた。学校に向かいながら「燃えてなくなれ!」と発した呪詛《じゅそ》が、時空を超えて沖縄のホテルに文字通り飛び火したような気がするのだ。
涙まで流して抗議を続けるクラスメートたちに、竜児は心の中で詫びる。今の自分には、沖縄の眩い太陽よりも、冬山の泣き叫ぶような吹雪がお似合いなのだ。呪詛が通じて、申し訳ないが本当によかったと思う。青い海にも青い空にも、竜児は絶対行きたくない。太陽の光に照らされて、明るく笑える心境ではない。
翳る曇天《どんてん》。降り続くボタ雪。ぐっしより湿る下着。臭過ぎるレンタルのスキーウエア。熊《くま》。雪崩。密室殺人。……それがいい。人知れず、魔船・タイタニックが高らかに呪いの汽笛を鳴らす。亡霊船長はひそかにほくそえむ。それでいいのだ本当に。というか、修学旅行なんてもうどうでもいい。寒い冬山に監禁だろうが、下水管迷路で鬼ごっこだろうが、冥府の地獄めぐりだろうが、なんだっていい。 一生に一度の修学旅行? 知るかそんなモン。
「くそーっ! なんでこんな日に限って、亜美ちゃん遅刻してんだよ!?」
「亜美ちゃんだってこんなの絶対黙ってねぇぞー」
「亜美ちゃんならきっとなんとかしてくれるのに!」
そういえばいまだ姿を見せない腹黒モデル・|川嶋《かわしま》|亜美《あみ》になにを期待しているのか、男どもが亜美ちゃーん! 亜美ちゃーん! と虚空に向かって吼え始める。しかし独身(30)はあっさりと、
「川嶋さんはお仕事でハワイ、帰国便が間に合わないとのことで今日はお休みです。でもほら彼女は南の島なんて行き倒してるだろうし、冬山の方がいいんじゃないかな!? うふ!」
「なわけねー!」
総勢数十人分の総つっ込み。もはや収拾のつかない事態に、独身(30)はそれ以上の抵抗を諦め、生徒たちに背を向けて黒板にでっかく、くっきりとチョークで書く。
曰く。――『人生、おもいどおりにはなんねーぞ!!! 』
***
「あっ!」
思わず声を出してしまい、周囲から向けられた視線に慌てて竜児は口を塞ぐ。なんだよあいつ、帰ってきてんじゃねぇかー棚越しに見える長身は、確かに川嶋亜美だった。
一人で夕飯の買い物に出てきて、空はすでに夕暮れ。ナイフみたいに切れ味の鋭い真冬の風の中、商店街を行き交う人々は足早に家路を急ぐ。
スーパーに入る前にちょっと覗いたチェーンの書店で、竜児はあまりにも目立ち過ぎるその姿を発見したのだ。
女性雉誌の棚の前で、居並ぶ一般人よりも頭一つ高い身長。それでいながら、誰よりも小さい頭部。アルマーニマークの輝く大きなサングラスをかけた真っ白な横顔は、鼻から顎まで美し過ぎるラインを描く。ツヤツヤと輝くストレートをラフに結び、晒した首筋はバンビのよう。おそらくは死ぬほど高価なダウンジャケットに古着のデニムをブーツインし、ヒールなしでも恐ろしいほど足が長い。そんなスタイル頼みのシンプルなファッションに、さりげなくシャネルのチェーンバッグを抱えたその姿は、全身から「ここに美人がいるわよおー!」「私はモデルよおー!」と叫ぶようなオーラをむんむんに出しまくっていた。
久しぶりの亜美ちゃん様は、今年も相変わらずのご様子。しかし声はかけがたく、竜児はそのまま後ずさる。
去年の別れ際――イブのパーティでの亜美との別れは、それはもう気まずいものだった。亜美は竜児の愚かしさに愛想が尽きたみたいに、一人帰っていってしまったのだ。大河を一人ぼっちにさせていたのにも気づかず、世界は都合よく回っていくはずとガキ丸出しに信じ――確かにあの日の自分は愚かだった。しかもあまりにもあのときは一杯一杯、去っていってしまう亜美の背に、声をかけることさえできなかった。愛想を尽かされて当然だったと思う。
偉そうなことはかり言っているように思えていた亜美には、きっと今の状況が見えていたのだ。竜児の愚かさがどんな結果を招くのかも亜美にはわかっていて、そして、呆れられたのだ。亜美の言葉はいつも痛くて、反発もした。痛かったのは、多分、真実を突かれていたからだった。
「……っ」
ビクついて、立ち読みしていた料理本に顔を伏せる。
亜美は女性誌コーナーから、こちらへ歩み寄ってくる。ipodで音楽を聴いていて、竜児の存在にまったく気づいていないらしい。
どうにも気まずく、今更顔を上げて声をかけることもできず、竜児は固まる。あろうことか、亜美は料理本コーナーへどんどん侵入してきて、竜児の目の前に並ぶ雑誌の一つに手を伸ばす。
『定番deほっこり・玄米ごはんのお弁当』が目当てらしい。
そして、
「すいませ……あ」
――竜児は気まずく瞬《まばた》きする。
雑誌を引き抜いた拍子、亜美のシャネルが竜児の手にぶつかった。竜児は雑誌を取り落としてしまい、亜美は謝ろうとしてやっと気がついたらしい。サングラスに隠されてその表情は見えないが、あ、と言ったきり、亜美は口を引き結ぶ。
「……やめとけ。『定番deほっこり』シリーズは全然使えねぇから」
気まずさに唸るような声音《こわね》、竜児はそれでもできるだけ普通に喋ったつもりだった。が。「チッ!」
亜美は竜児の姿を認めると舌打ち、手に取りかけていた雑誌を棚に戻し、忌々しげに唇を歪めたのだ。
「……おう……!」
思わず声が出る、この鮮烈《せんれつ》な感じの悪さ! そして踵を返そうとした拍子、バッグのチェーンが竜児のダウンのポケットからはみ出していたつまらないストラップに引っかかる。亜美はものすごい勢いで振り返り、バッグをブン回して取り返し、大仰《おおぎょう》な仕草で胸に抱え、
「亜美ちゃんのシャネルになにすんのよ!?」
「おまえが俺になにすんだよ!?」
そのサングラスの向こうに透ける恐ろしい形相《ぎょうそう》に、竜児は思わず自分の夜叉面ヅラは棚に上げて戦慄した。突然始まった美形モデルと顔面凶器男の言い争いに、周囲からの視線を浴びまくる。しかし亜美はそんなモンにはお構いなし、
「あーもーうっざ……! ていうかなんでいるわけ? 消えてくんない?」
やっぱりとんでもなく感じが悪いのだった。はああ!? と竜児もついついツラを歪め、
「なんだと!? そっちこそ、なんだよその態度は! 俺は、俺はなあ、」
櫛枝にクリスマスイブにふられたんだぞ! ……とはさすがに言えなかった。
「インフルエンザでついこないだまで入院してたんだぞ! 熱が四十度も出て、意識もなくして! そんな俺にこんな態度、よくも良心が咎めねぇな!」
「そんなん知らねぇし! ……ていうか、熱が? 四十度も? って、じゃあ……」
亜美はサングラスをちやっと外し、その弦《つる》を前歯でかじり、眉間にしわを寄せる。綺麗な二重の瞳を眇《すが》め、それ以上はなにも言わずに「……」と竜児の股間をじっと見つめる。
「うるせぇな!? 俺の遺伝子は生きてるよ!」
なにより雄弁なその無言の視線を、竜児は足をクロスして防御。さすが幼馴染、亜美と北村の下品な思考回路は意外なところでそっくりだ。
「……あっそ。へー、よかったじゃん。じゃね」
そして亜美はサングラスをデニムの尻ポケットに無造作に突っ込み、唇にわかりやす過ぎな作り笑いを浮かべ、ぷいっと冷たく背を向けた。
竜児の脳裏に暗黒色の渦が巻き起こる。なんという女……本当に、なんという感じの悪い奴。腹立たしい奴。亜美の性格が悪いのは知っていた。二重人格も、ひん曲がった根性も知っていた。しかし、それでも、なおびっくりだ。この理不尽な扱いはなんだ。一体どうして、こんな態度をとられなければならない。愛想が尽きたからか? だからって、これはありなのか? 「ちょっと待てよ! なんでいきなりそんなケンカ腰なんだよ!?」
「あらあ〜、はっきり言ってほしいのぉ? じゃあ言ったげるぅ〜。あったし、高須くんのこと嫌いになったんだぁー」
「な……にぃっ!?」
――なんとわかりやすい、誤解のしようもない、ストレートな説明。思わず竜児は呆然と立ちすくみ、アホのように亜美の顔を見返し、
「な……なぜ……?」
「は? ついてくんなよ、マジでウザいし」
「……おまえ……そこまで、俺を……」
「あいた! なにすんのざっけんじゃねー!」
あまりのショックに前後不覚、思わず腕を伸ばしかけた拍子に、財布と携帯入りのマイバヅグが亜美のケツのあたりにぶつかった。すごい勢いで睨まれる。本屋の通路を塞ぐように立って世間様の視線を存分に浴びながら、亜美は竜児を指差して言う。
「もっとはっきり言おうか!? バカだから嫌い!」
そのあまりに端的な指摘に、竜児がもはや何も言い返せずに立ちすくんだそのとき。
「……っぷー! 「バカだから嫌い』っ言われてる……ぷぷぷ!」
少し離れたところから、惨《むご》過ぎる笑い声が響いた。振り返り、笑い声の主のツラを拝む。くっくっく! となおもおかしそうに他人事《ひとごと》を笑い続けていたそいつはちんまりと小さくて、ふわふわとふくらむ長い髪を片側だけでゆるく結んでミックスカラーのニット帽をかぶり、白いアンゴラのコートの裾から花柄のロングスカートとブーツを覗かせて――つまり、大河であった。
なぜおまえがここに、と尋ねようとして、
「おっそいよあんた! 待ち合わせの時間十分も過ぎてるんですけど!」
「細かいこというんじゃない。時計の見方も知らないばかちーのくせに」
「知ってるっつーの!」
竜児の頭越しに交わされる亜美と大河の会話に驚く。長きにわたって血で血を洗う闘争を繰り広げてきたこの天敵同士が、世にも珍しいことに、街中の書店なんぞで仲良く待ち合わせをしていたというのか。
「はい、こっち14ドル。で、これが40ドル」
「えーと……1ドルが百円ちょいだから……」
猫顔のスパンコール財布から千円札を不器用に数えて取り出す大河を眺め、竜児は思わず嘆息《たんそく》していた。
「……いつの間にやら、おまえらがお土産をやりとりするような仲になっていたとはな」
「お土産じゃないよ、ばかちーにお金払うもん。一万円しかない! おつりくれ!」
「はあ〜? 買い物頼んだ方が、普通ぴったり用意しとくもんでしょ〜?」
ど〜なってんの〜? などとブチブチ言いつつ亜美もディオールの長財布を取り出し、二人は金銭のやりとりを終える。そして亜美はちらっと竜児の顔を見て、
「……っち」
美貌をしかめ、舌打ち。「なんでここにあんたもいんの?」オーラを全身から噴射しつつ、だ。そんな態度がいい加減竜児も腹立たしくて、テーブルの下で亜美のブーツの脛をつま先で小突いてやろうとし、「あいた!」……大河の足を間違えて蹴った。「今のあんた!?」睨まれてそっぽを向き、シラを切るが、「あんたでしょ!」すぐにバレてグリグリ足を踏み返される。
いらっしゃいませ〜、須藤バックスへようこそ〜! と、今日も本家に知られたらヤバイことになりそうな女子大生バイトのお迎えの声が、ジャズの流れる店内に響き渡る。
書店の前で相見えた三人は、なぜか竜児も大河に引っ張られるようにして巻き込まれ、結局いつものスドバこと須藤コーヒースタンドバーの禁煙席に陣取っていた。大河はでかいボウルのカフェオレにホットケーキを頼み、竜児はブレンド、亜美はカフェラテ。大河と並んで座った竜児は、正面で苛立ちを隠さずにいる亜美の顔はどうしても見がたくて(なにしろバカだから嫌われている)、
「……なに買ってきてもらったんだよ」
さして興味もないくせに、大河が受け取った紙袋を覗き込む。14ドルと40ドルなら金額的には許容範囲、などと鬱陶しいことも考えつつ。
「ポーチとサンダル! ハワイ限定で雑誌に載ってたヤッ! へっへ、これこれ!」
大河はババーン! と口で言いながら、踊るフラガール柄の防水ポーチと、カジュアルな天然素材のサンダルを両手で掴み出した。が、
「……あ。そうだ、これって結局無駄になっちやったんだ……あーあ、楽しみにしてたのに。まあいいか、夏になったら普通に使えるし」
カフエラテのカップから顔を上げ、亜美が不思議そうに目を丸くする。
「なに? 無駄になったって。修学旅行で沖縄に持ってくんでしょ? いいじゃん、ちょうどいいじゃんそれ。せっかく頼まれたヤツ探して買ってきたのに、ほーんとあんたって、」
「ああ、ばかちーはまだ知らないんだ。修学旅行、二泊三日のスキーに変更になった」
「……は!?」
ガチャン、とカフェラテのカップがソーサーにぶち当たる。
「ホテル、火事で燃えちゃったんだって。だから私達、さむ〜い冬山に監禁だって」
「なにそれ!? マジで!? はあああぁぁー!? いっや〜うっそでしょー!? …ショートパンツとかTシャツとか、沖縄用に買い込んだのに〜! ていうか二泊三日ってなに!? 短くね!? しかもスキーとかやらされんの!? 嫌過ぎるんだけど!?」
「……ごめんな……」
「……なんで高須くんが謝るの?」
「……なんであんたが謝るの?」
二人の声に答えられず、竜児は遠い目をしてブレンドをすすった。ただでさえ嫌われているこの身の上だ、「俺が呪ったから燃えたのだ」なんて言おうものなら、どんな目に遭わされるかわかったものではない。しかし竜児は信じている。ホテルを燃やしたのは、俺だ――。
けっ、と亜美はまさにお手上げ状態で両手を挙げ、このメンツではぶりっこ仮面をかぶる必要もなしに口を歪めて毒を吐く。
「あ〜もう、ざけんなっての……ていうか、さ〜いあくっ! なんで修学旅行でスキーなんかしなきゃなんないわけぇ? 超意味わかんねぇし、行く気とか出るわけねぇし! まーじーでうっざうっざうっざ過ぎ! あ〜あ、仕事があるからとか言ってサボろっかなー!」
「……サボるならサボるでいいけど、ばかちーには、修学旅行に関して一つ言っておくことがある」
そこでおもむろに大河はシリアス、ぐっと身を乗り出してみせた。「おう!」……ワンピースの胸元のリボンの先端がカフェオレに浸かり、慌てて竜児が摘んで救出。
「それを言いたくて、わざわざ外に呼び出したのよ。竜児もいたのは偶然だけど、でも都合がよかった」
大河がちらり、とこちらを見やる。意味がわからず、竜児は大河の胸元のリボンを応急処置的に拭いながら瞬きする。とりあえず、同じミスは起こさないように、とカフェオレボウルを遠くに押しやり、そのサマを呆れた目をした亜美が眺めていることには気づかない。
大河はちょっと目を眇《すが》め、しかし静かな本気の声で、亜美に向かって宣言する。
「沖縄でこそなくなっちゃったけど、でも、修学旅行は修学旅行。思い出に残る、大事な行事に変わりはないわ。だから、ばかちー。この際はっきり言っておく。修学旅行にもし来るんなら、絶対に、竜児の周りをうろつかないでちょうだい」
「……はあ? むしろうろつかれて迷惑してるのはこっちなんですけどぉ?」
シャネルのバッグを愛しげに抱えつつ、亜美は竜児を心底嫌そうに睨んでくるが、ちよっと待てと。竜児が大河に言わせているわけではないから、そんなふうに睨まれたって大河の発言の意図はわからない。とりあえず気を落ち着けようとブレンドを一口飲み、
「竜児は、みのりんが好きなの」
「ぶっふぉぉっ!」
「やだ竜児、汚い」
げほ! ごほ! ――噎《む》せる口元をおしぼりで押さえつつ、なにを言うか!? と大河を涙目で見上げた。
「……へーえ……」
真正面にはまるで、餌を見つけた魔性の蛇。亜美が美貌をつん、と上げ、グロスで煌《きらめ》く唇を歪め、今日、というか今年初めて楽しげに双眸《そうぼう》を光らせ、この事態を眺めている。いや蛇にも失礼か、もはや悪魔のようにさえ見える。噎《む》せて赤面、地獄の餓鬼そっくりのツラで竜児は亜美を恐々見返す。
「それでね、みのりんも竜児が好きなの」
「……ふーん……」
「おう!? ちょっと……ちょっと! それは、おまえの思い込みっていうか!」
「あんたは黙ってな。……絶対、そうなの。私にはわかるの。だけど色々な事情から、二人はうまくいかないの。だからもう誰にも邪魔はさせない。ばかちーにもね。そう決めたのよ」
言い切る大河の顔を眺めながら、亜美はカフェラテの匙《さじ》でフォームをすくい、舌先でちろりと舐めた。一瞬だけの横目、大河の傍らに座る竜児の表情も確かめる。
「な〜るほどねぇ。ま、あんたの言い分はわかったけど……いきなりなんなの? 急にどうしてそういう話?」
「竜児は去年のクリスマスイブ、みのりんにふられたの!」
いやあああ! ――口パクで叫んで身をくねらせる竜児の苦悶に、気づいてくれる奴はこの場にはいなかった。
「……マジで?」
「うん! ふられたの!」
亜美が目を瞬《しばたた》く。ついでに隣のテーブルの社会人カップルもこっちを振り返る。さらに店主の須藤《すどう》さんまでカウンターから顔を上げて竜児を見る。ふられたって! 誰が!? あの子! あの顔が怖い子! ヤンキーの子! 気の毒! ……囁き交わす無遠慮な声が、竜児の心臓を四方八方から抉っていく。
声がでかいんだ、みんな、声が――ブレンドの海に溺れてしまいたかった。竜児は顔を覆い、テーブルに突っ伏しかけ、しかし最後の気力で顔を上げた。
「……正確には! 俺は去年のクリスマスイブ、櫛枝に告白する前に『告白しないでね』的に拒絶されたんだ!」
やぶれかぶれのやけっぱち。両手を広げて目も開いて、亜美に喚《わめ》いて、「……うああ」それきり本当に頭を抱えて泣き寝入りの体勢に。
恨めしいのは、大河だった。確かに自分は実乃梨にふられた、それは事実だ、だけどなんでそれを喧伝《けんでん》して回らないといけないのだ。できればソフトランディング、なにもなかったみたいに忘れ去ってしまいたいのに、余計な他人の記憶に残してどうする。しかもよりによって川嶋亜美に。
「……へー。そうなんだあ……」
たっぷりと毒気を孕《はら》んだ亜美の甘い鼻声に、竜児は顔を上げた。どうせひどいことを言うつもりなのだろう、バカだから嫌いな自分に。なんとでも言えばいい、元より傷だらけ、満身創痍《まんしんそうい》の身の上だ。今更傷の一つや二つ、増えたところでかわらない。 亜美の視線が、しかしそのとき、竜児のツラから外される。笑おうとして失敗したみたいに亜美は口をへの字に歪め、その口元をカフェラテのカップで隠し、ほとんど独り言のような声音で呟く。
「……ついに『大怪我《おおけが》』、したわけだ」
そして目線は竜児ではなく、なぜか大河に。カフェオレボウルを両手で掴んだ大河はその視線に気がついて、目を上げて、
「修学旅行は、竜児とみのりんが素直になれる最後のイベント――特別な機会だって思うの。だから誰にも邪魔させたくないの。……わかってる? あんた」
唐突に竜児を見る。
「そりゃ沖縄ならもっとよかったけど、でももう賛沢は言ってらんない。『人生おもいどおりにはなんねーぞ! 』だもんね。だから、スキーだろうがしょぼかろうが、これがみのりんの真意を確かめる、最後にして最大のチャンスなのよ。最後ってのは、来年から志望別クラスになるでしよ。竜児は理系だよね」
「……おう。希望はな」
「みのりんは文系。クラスは別々、今年限りであんたとみのりんは別れちゃう。受験とかあるし、同じクラスにいてさえふられてるのに、違うクラスじゃどうなっちゃうことか。……だから、修学旅行が本当にラストチャンスなわけ! わかった?」
至近距離で睨み上げられ、竜児はちょっと息を飲む。来年でクラスは別々――改めて突きつけられた変えがたい事実に、思春期の壊れかけハートは簡単に動揺する。
櫛枝さんと同じクラスになれた! などと大喜びしていたあの春から、もうこんなにも時は過ぎてしまったのか。そして事態は進展どごろか、ほとんどコースアウト状態。このままレースを放棄するか、周回遅れでまた走り出すかの瀬戸際だ。
「ってわけではかちー! いい? 竜児のことからかって、ベタベタするのはもうやめてもらうから!」
「あらあ〜? 亜美ちゃんが高須くんにベタベタしてたときなんてあったっけぇー?」
「あんたなんかこの世に登場したそのときからベタベタ鬱陶しく竜児にくっついてたよ!」
「そうだったかなぁー? ま、ど〜うでもいいんだけどぉ〜」
大河をからかうように亜美はくねっとぶりっこ笑いをしてみせて、そして亜美は不意に低い小声、呟くみたいに、
「――あんたが、それで、本当にいいならね」
サングラスをかけて、そう言う目元を隠す。大河にはその言葉ははっきりとは聞こえなかったらしい。無表情のまま、ホットケーキの最後の一口をぱくっと片付ける。
亜美はしかし言い直しはしなかった。おもむろに水を欽み干すと、時計を見て伸びをする。携帯を確認し、ダウンを羽織ってシャネルを抱え、
「あーあ、アホくさー。つまんない話聞いちゃった。あんたたちのお安い恋愛事情なんかに興味はねーから、どうぞお構いなくー。じゃ、そろそろあたし帰る。まだ時差ボケでぼ〜っとするしね。あんたたちはまだいるの?」
「ううん、出る。もうすぐ六時、竜児は夕飯の支度でしょ」
大河の言うとおりだった。どんなに精神的に深手を負おうと、七時すぎには夕飯を済まして家を出なければいけない大黒柱が待っているのだ。小銭入れをかき回しながらようよう竜児も立ち上がり、伝票を掴んだ大河にコーヒー代を渡す。亜美からも小銭を受け取り、大河は一人先に立って会計を済ませにいく。
そしてテーブルを回り込み、亜美の後に続いて歩き出そうとしたそのとき。
「おう!?」
突然、亜美に襟《えり》を掴まれて顔を上げさせられた。至近距離でケンカをするときのように引き据えられて、女の力とはいえあまりに横暴《おうぼう》、反射的に振り払おうとするが、
「……『大怪我《おおけが》』したのがあんただけならよかったのにねぇ」
「……なにが!? なんの話だよ!?」
サングラスの向こうから、亜美が見たこともないぐらいに見開いた目でこちらを睨んでいるのに気がつく。
「どーせバカだからわかんないでしょ」
笑うみたいに歪んだ唇には、しかし、恐らく、凄まじい苛立《いらだ》ちが。
「やっぱ嫌いだわ。あんたなんか」
「……っ」
情けなくそのまま引き離され、突き飛ばされて、たたらを踏む。亜美は軽やかに踵を返し、「お先にー」と一声、華麗なキャットウォークで店を出ていく。
――大怪我《おおけが》したのがあんただけなら。
問いただすこともできずに、竜児は亜美の去っていったドアを見つめていた。こんなふうに怒って立ち去ってしまう亜美の姿は、あのパーティの夜とそっくりだ。
恐らくはその苛立ちの発端、パーティの準備中に亜美が言っていたことは覚えている。亜美は自分と大河の仲を父と娘とからかったのだ。実乃梨がお母さん役で、と。そして、そんなことはやめた方がいい、いつか大怪我をするから……だけど、その話は忘れろとも亜美は言ったはずだ。忘れることなんかできなかったわけだが――そして、自分は今確かに、実乃梨にふられるという『大怪我《おおけが》』を負ったわけだが。
それは亜美が言うとおり、本当に、自分と大河、そして実乃梨も巻き込んだ擬似《ぎじ》家族意識が招いたことなのだろうか?
自分だけではないというなら、他に誰が『大怪我《おおけが》』をしている?
「……いっつもおまえは、 一言も、何言も、足らねぇんだよ……!」
バカだバカだと罵るなら、バカな自分にもわかるように言ってくれりゃいいのに。亜美の去っていったドアからまだ目を離せず、竜児はひとりごちる。本当に、他のヤツよりずっと大人で、周りのことが誰よりわかっているというなら、それをちゃんと教えてくれよ。勝手にわかって、勝手に怒って、勝手に置き去りにすんなよ。
いつだっておまえはそうじゃねぇかよ。
「ばかちー帰った? ……なにあんた、そうしてるとまるで弁慶の死に様のようよ」
会計を済ませてきた大河は、不思議そうに、立ち往生する竜児の硬い横顔を見上げる。
***
スドバを出て、歩き出す頃にはすっかり空は暗くなっていた。訪れた夜はなお寒く、北風に息も止まりそうだった。
「あんたまだ買い物してないんでしょ? 急いだ方がいいんじゃないの」
「おまえは」
「駅の方行く。改札の前に新しいお弁当屋さんできてたから」
商店街の外れ。国道沿いの、排気ガス臭い殺風景なT字路。
人通りも途絶えて、街灯の下で「……さぶっ!」と大河は顔をしかめる。川にかかる大橋の光が、少し遠くここからもまっすぐに見える。このT字路を左に行けば駅。右に行けばスーパーだ。つまり今夜はこれで大河ともお別れ、明日学校で会うまでは話す機会もないだろう。少し口ごもりながら、竜児は言うべきことを言い切ろうと思う。
「……咋日言ってた、櫛枝の真意を確かめる機会、ってのは、修学旅行のことか」
「そう。あんた、すっかり忘れてたでしよ」
「忘れてた。川嶋が俺にくっつくのどうのはさておき、……そんなことまでおまえが考えてくれてるなんて思わなかった。 一応、サンキューな。余計なことを余計な奴に言ってくれやがって、とも思ってるけどな」
大河はコートの前をかき合わせ、顔を横に振った。
「ばかちーにははっきり言っといた方がいいんだよ。それに、私、責任感じてるからさ。言ったでしょ? あの日、私が無理矢理なことしなかったら、きっと結果は違ってた」
ちょっと口元を歪め、そして、淡い夜空に星を探すみたいにおもむろに天を仰ぐ。
「……イブの夜のこと。みのりんが、私に、なんて説明したと思う?」
それはまるで独り言のようで、竜児は言葉を差し挟むことができなかった。大河はそんな竜児に視線を向け、ふにゃ、と目元を線にしてみせる。それはおどけた笑顔のようでもあり、泣き顔みたいにも見えた。
「『全然、なんでもなかったから』、だって。……高須くんは落ち込んでた私を元気付けてくれようとしたみたい、優しいよね、でもそれだけ、全然なんでもなかった。……そう言ったんだよ。なんでもなかったなんでもなかった、繰り返して、それで、笑ったんだよあの子」
「……本気で、なんでもなかったって思ってるんだったりして」
「ばーか」
街灯の下、大河は星を探すのをやめて顔を竜児に向けた。風に揺らめく髪を細い指で押さえながら強く声を張り、
「みのりんとあんたは、ちゃんと、両想い。うまくいくべきなのよ、本当は」
自信満々に断固そう言い切った大河の顔を見て、とうとう竜児は訊いてみたくなった。なんだか今は、聞き流すこともできない心境だった。
「……ずっと訊きたかったけどさ。おまえの、その『みのりんは竜児を好き』っていう思い込みは、一体どっからきてるんだ? 見てたらわかるとか、そういうのナシで」
「聞きたい?」
大河は意外なほどに素直にそう言い、街灯の下で首を傾げた。ちょっと笑って、まるで手品を披露するマジシャンか、それとも本物の魔法を見せようとする魔法使いみたいに、自信たっぷりに両手を広げて竜児の顔を堂々と見返す。
「なら、一つ約束。『はあ? 』とか、『そんなことねぇ』とか、『ありえねぇ』とか、その手の生意気なことを言わないって誓うなら教えてあげるよ」
「……言わない。言いません。誓う」
片手をあげて宣誓、竜児は大河の魔法を待つことにする。大河は満足げに頷き、偉そうにふんぞり返って、
「じゃあ教えてやろう。――そう信じるに足る理由が、私の中に、あるからよ」
そう言った。
たった、それだけ。
竜児は拍子抜け、はあ? と思わず訊き返そうとして、宣誓を思い出す。口をつぐむ。
「つまり、私は『あんた』を信じてるの。あんたは、みのりんが恋をするにふさわしい人間だって。それだけの理由がある人間だって」
大河は一度俯いて、そして顔を上げた。全部を冗談ごとにしようとするみたいに笑ってみせた。そのまま踵《きびす》を返し、
「……じゃね! また明日!」
駅の方へ向かって街灯の照らす道を、一人走り出す。遼中で一度振り返り、ターン。思い出したように渋面《じゅうめん》を作って声を上げる。
「そーいえば、今日のあんたの態度って最っ低! あれってなに!? 明日こそ、逃げるんじゃないよ! 本当の本当に逃げたくないんならね!」
竜児の返事も待たず、大河は再び背を向けて今度こそ振り返らずに走っていく。その後ろ姿は子供みたいに小さくて、すぐに見えなくなってしまった。
取り残され、竜児は胸を押さえた。ドクドクと高鳴る心臓は、確かに今のは魔法だった、そう告げている。
苦しくて痛くて傷だらけだったハートが、ただこれだけのことで、熱い鼓動を取り戻したのだ。大河がそう言うのなら――自分を信じると――言ってくれるなら、自分はあいつが信じるに足る人間なのだろうと思えた。ちょっとはマシな奴、なのかもしれない、と。
そして知る。竜児にとっても大河は、その言葉を信じるに足る人間なのだ。
小さな魔法で勇気を取り戻し、一人夜の道を竜児も歩き出すが、そのとき吹き付けてきた強烈な北風にふと思う。
こんなに単純な自分を亜美が見ていたら、きっと「やっぱりなにもわかってない」と凍《こご》えるような視線で睨みつけてくるのかもしれない。……なんてことを。
3
「お―――はよう」
気持ち悪くひっくり返ってしまった声に、実乃梨はすぐに振り返ってくれた。
真冬の寒さに膨れたスズメが群れをなして、傍《かたわ》らのつつじの植栽の中から二人の足元に移動してくる。なにをそんなに熱心につつくモノがあるのか、揃ってアスファルトをちゅんちゅくつつき回し、
「……おっす! マン! サンコーン!」
軽快な実乃梨の声に驚いたみたいに、 一斉に飛び去る。
氷点下の朝は快晴、眩しく晴れ渡っていた。強い光線が真っ青な空から降り注ぎ、敬礼のポーズで笑う実乃梨の頬を丸く光らせる。
目を眇《すが》めて彼女の笑顔を見返しながら、竜児は伏せたくなる目を必死に上げ、口ごもりそうになる口を懸命に動かした。ここで逃げてしまっては、昨日と同じになってしまう。
「その、き、昨日は……なんか、ごめんな。あー、ええと……無視、したみたいな感じに、なっちまって」
実乃梨は、竜児が不器用にそう言い終えるのを待っていてくれた。そして、
「なーんダヨ、高須くん! もー、そんなんやめよ!」
真っ白な歯を思いっきり見せて笑ってみせる。真冬に咲いたひまわりみたいに輝く笑顔をくしゃくしゃにして、タータンチュックのマフラーを巻き直す。そうして少し短くなった前髪を指でかきあげ、重そうなスポーツバッグを肩に担ぎ上げて、
「おなか痛いのかな、とか、思ってたし!」
飛び跳ねるみたいに一歩近づく。
多分、本当はそんなこと欠片も思っちゃいないし、竜児が逃げ出した理由も気持ちも気まずさもわかっているのだろう。
「だから全然、そんなのイーンダヨ!」
それでも実乃梨は笑うし、そして竜児も笑ってみせた。久しぶりに向かい合い、距離はぴったり一メートル。
「……痛かったんだよ。実はちょっとな」
「わーお、衝撃の告白じゃん」
それは作り笑い、とか。嘘とか、ごまかしとか、欺瞞《ぎまん》とかではなくて。
笑ってみせた理由は、乗り越えるためだ。ふられて、そして、その先へ向かうためだ。ふられっぱなしで足踏みするのもごめんなら、諦めてコースアウトすることもできなかった。逃げ出すなんて、いやだった。
だから笑ってここを乗り越えて、嵐をやりすごして、次の場面を待ってみることにしたのだ。いつかテレビで見たことがある。たとえば同じ交通事故でも、子供は大人に比べ、ときに意外なほどに軽傷で済む場合があるという。それは身体が柔軟だからだ。凄まじい勢いで跳ね飛ばされて、硬い地面に叩きつけられたとしても、柔らかに衝撃を受け止めることができれば身体の損傷は最低限ですむ。柔軟さがそのまま命を守るクッションになるのだ。
それと同じ理屈――笑って、笑って、柔らかに受け止めようと竜児は思った。出来る限り柔軟に、状況を受け止めようと。なにもかもをシリアスにまともに食らっていたら、本当に砕け散ってしまうから。
笑え、高須竜児。笑え、櫛枝実乃梨。念じながら、顔面を柔らかに動かしたつもり――どう見えているかはこの際関係ない、とりあえず竜児のツラを見て、実乃梨は「……うほっ!」と仰け反ったが、それでもいいのだ笑え若者。
笑って、ここから逃げ出さずにいることがなにより大事なのだ。そうだろ、大河……青い空にありし日の大河のツラを思い描く。まだ死んでねぇよ……ドーナツの輸を頭に載せた大河の幻影もそう言って笑う。
そしてそのとき現実の大河が、
「みーのりーん! おはよー!」
竜児の存在はガン無視、赤信号の横断歩道の向こうから手を振っていた。「よーよー!」と実乃梨が両手を振り返すと、大河は両手両足をわさわさ不器用に動かして「よーよーよー!」とそれにさらに応える。大河の後ろで同じく信号待ちをしている若いサラリーマンが、うごめく大河のわさわさ踊りを気持ち悪そうにそっと見やる。
恥ずかしい奴ら、と竜児は溜息をつきたくなるが、なぜか「よーよーよーぅ! よーぅ!」実乃梨は唐突にやる気を出した。
「よ・よ・よ! おは・おは・よ! お・はよ・は・よ! おはおは・よ! あぉっ!」
肩にかけたバッグをブン回して激しくエアDJ、実乃梨以外には触れないヘッドホンを片手で押さえ、実乃梨以外には見えないレコードをきゅっきゅきゅっきゅとスクラッチしまくり、実乃梨以外には見えないフロアを「は・おっ! あーん!」……裏声で炎上させる。
「ちょっとみのりんってばなにしてんの! おっかしー!」
対岸の大河はケラケラ笑う。その背後のサラリーマンは、今度は実乃梨を気持ち悪そうにじっと見やる。そして狂った実乃梨の傍らの竜児が呪われし仏師が血まみれのノミで一刀彫《いっとうぼり》にした修羅鬼像みたいなツラをしているのに気づき、ゆっくりと目を逸らす。なにも、「俺の櫛枝をそんな目で見るならこ・こ・ろすろす!」とか思っているのではなく、竜児も純粋にDJ実乃梨に引いていたのだが。
「もうよせ櫛枝……おまえらって相当恥ずかしいぞ。俺は先行くからな」
「なーんでさ、一緒に行こうずぇ」
「いやだ。おまえと大河のノリにはついていきづらいんだよ」
とりあえず、昨日の無視の気まずさは払拭《ふっしょく》できた。ここはこれでよし、と竜児はそそくさ先に歩き出そうとするが。
「あーっ! みのりん、竜児が逃げる! 捕まえて!」
信号の向こうで大河が喚く。一体なにを、と思ったのは竜児だけではなく、
「えっ!? 捕まえんの!?」
実乃梨も問い返す。大河は「そー!」と。振り返った実乃梨と目が合って、反射的に竜児は身を翻す。多分《たぶん》実乃梨の方も反射、逃げを打った竜児に手を伸ばす。冷え切った手と手がぶつかり、実乃梨の指が竜児の指を掴み、
「――っ」
握り締めたのは、一秒にも満たないわずかな瞬間。
もちろん、竜児は飛び上がった。叫び声も上げられないほど驚いて、雷に打たれたような衝撃が指先から尾《び》てい骨まで駆け抜けた。が、先にその指を離したのは、実乃梨の方だった。
わあ! とか、言ったのかもしれない。もしかしたらぎゃあ! だったかも。
静電気に弾かれたみたいに一瞬で実乃梨の指は力を失った。やけどしたみたいにその手を胸元に引き寄せ、もう片手で包み込む。顔を真っ赤にし、きっ、と――まるで竜児がなにかしでかしたみたいに、それかなにかに怒ってでもいるみたいに口を結ぶ。睨みつけ、そして、
「うおおちくしょーなめんじゃねー!」
一声吼える。もう一度やり直し、手を伸ばし、
「かぁぁ――――くほぉぉ――――――っっ!」
……偉そうに叫んだ割には、掴み直したのは学ランの袖口。の、はじっこ。腕を上げればすぐに振り払えてしまいそうだが、竜児はそのまま確保されてやる。……正確には、いろいろ驚いて動けなくなる。
そのとき信号が青になった。大河はきちんと右を見て、左を見て、もう一度右を見てから駆け出してくる。実乃梨に袖口を掴まれた竜児の顔を見て、実乃梨の顔も見て、そして笑い、「捕まったヤツが、荷物もちーっ!」
「おうっ!?」
竜児に向かってバッグを投げたのだ。放物線を描いて飛んでくるそいつを、竜児は思わずキャッチしてしまう。そんな竜児を指差し、「やーい!」と大河は小躍りしてみせた。一人だけ身軽になって、両手を飛行機みたいに真横に伸ばし、
「ひっかかったひっかかった! お先っ!」
そのままスカートを翻して走り出す。
「お先、って……大河てめぇ、ふざけんなよ! ……はあ!? どうすんだよこれ!? マジで俺が持ってくのかよ!?」
手の中に残された大河のバッグは、たいして重くはないがあまりにも悔しい。犬よ虫よといじめられ、ついに荷物持ちまでやらされる羽目になるとは――実乃梨と一緒にに登校できるように気を使ってくれたのだとしても、もうちょっとこう、他にやりようがあるのではないだろうか。
唖然《あぜん》と遠ざかる後ろ姿を見送ってしまい、
「……櫛枝のせいだぞ。なんで俺を捕まえるんだよ?」
傍らに残された実乃梨を見やる。実乃梨は実乃梨で呆然と立っていて、
「大河の奴……大河の奴……大河の奴……」
念仏のように繰り返していた。が、不意に濡れた犬みたいにブルブルと身を震わせ、くわっと目を見開く。今にもヒーローに変身しかねないかっこいい仕草で片腕を回し、グッ、と胸の前に引き寄せ、「……いや、こんなことは全然なんでもないから無問題だ」と。そして、
「さあ! 紐の一本を寄越したまえ!」
「……紐? 一本?」
「こういうことさー」竜児が抱えていた大河のバッグの二本の持ち手の一つを持つ。バッグは二人の間にぶら下がり、竜児と実乃梨はまるで一つの買い物袋を一緒に持つ幼い子供みたいになる。
「これでよし。……ったく、大河はほんっとにしょうがないねぇ。学校についたらシめてやろうね」
にこっ、と見上げてくる実乃梨と至近距離、その頬の桃のような質感、髪の香り……竜児は今更のように硬直し、
「ね!」
「……はい!」
その場の勢い、大河をシめることになった。
そうして歩き出しながら、実乃梨は「お、ちょいタンマ」――ポケットから手袋を取り出し、両手に嵌める。無言のまま少し両手を重ねてみて、「おっしゃいこー」再びバッグを半分持って、歩き出す。
突然に与えられたひと時に、もはや逃げ出すことなんかできるわけがなかった。ここから逃げ出したら、それはもう相当だ。そんなことはしない、だからなにか話題を、自然な感じで、あ、あた、あた、と竜児は歩きながら、アホの子みたいに喋りだすタイミングを計り、
「ん? この櫛枝の秘孔《ひこう》をつこうっての?」
「違う。あた……頭。ちょっとだけさっぱりしたな」
やっと言えた。
「オゥ、イエス。本当はもっと短くしたかったんだけど、美容師さんが『櫛枝さんは頭のハチがひろがってるから、ショートにしない方がいい』って言うんだよ。髪も結構硬いから、ふくらんじゃって超頭でかくなる、って。そこまで言われたらさすがにびびっちゃってさ」
横顔のまま、白い息とともに実乃梨は少し残念そうに声を低くする。
「ベリーがつくぐらいのショートカット、したかったんだけどね。本当に、こう、なんていうか……男子! って感じの。おのこ! って勢いで。きのこ! みたいな……それは違うか。テクノ! ……これも違うな」
「……まあ、短くしても似合ったんじゃねぇ?」
顔を上げ、実乃梨は竜児の顔を見つめた。笑って、そして、「だよなあ」と。
ニットの手袋をはめた片手で髪を何度か軽くかきあげ、
「小学生の頃は、ずっとほとんどマルガリータぐらいの勢いだったんだよ。弟と一緒に床屋さん、マジで男専用のザ・床屋に行って、並んでバリカンでガーッとゃってもらってさ。私、あだな『ミスターレディ』だったし」
「そう……それはそれは……ミスターレディ……っていうか、弟? 確か高校球児の……だったか?」
「うん。一個下。甲子園も常連の強豪校にいるんだぜ。さすがにレギュラーじゃないけど、来年こそは甲子園のマウンドで投げるかも。ピッチャーなんだあの野郎」
「へぇ、知らなかった。普通にそれってすごいな、自慢の弟じゃねぇか」
「つーか、ぶっちゃけ嫉妬の対象な。……あーあ、リトルリーグんときは、私の方が断然上だったのになあ。今じゃお姉ちゃん、頭も刈れないメメシコちゃんになっちゃったん」
「……刈らなくたっていいだろ、そこは別に。てかなんだよ、メメシコちゃんて。メキシコ人かよ」
「おお、高須くんが衝撃的につまらないことを言うから頭に静電気が」
手袋で頭いじるからだろうが、と言い返しつつ、髪の毛をパリパリ立てている実乃梨を横目で眺める。細い首筋がマフラーから覗いて、本当にショートでもいいのではないか、などと思い、そして気がつく。
いつの間にか、ちゃんと、頑張らないでも笑ってここにいられる。実乃梨の傍《かたわ》らを、一つのバッグを一緒に持って、歩いていられる。砕け散った心をかき集め、両手で握り飯よろしくギュッと固め、もう一度ハート型に輝かせたいと思えている。何度でもやり直したいと、作り直したいと願えている。逃げ出さずに、踏みとどまることができている。
こんなふうに、続けていけばいいのだ、きっと。まるで何事もなかったみたいに、同じ地点からもう一度始めればいいのだ。そして、そうだ。修学旅行というチャンスがもうすぐやってくる。そのときにはゆっくりと向かい合ってみよう。
そうしたら、そのときこそ、大河の言うように、違う返事を実乃梨は聞かせてくれるのかもしれない。
そんなふうに竜児は信じた。――このときは、それが前向きで勇気があって正しくて、つまり『良いこと』のように思えていたのだ。
「さーて大河をシめっかあ! どこ行きやがった!?」
「いねぇな。トイレか? ロッカー?」
「草の根分けても捜し出し、おしおきだ! ハンバーガーヒルだ!」
教室につくやいなや、実乃梨は鼻息荒く大河を捜して辺りを見回し始める。少々呆れながらも、返事をしてしまった都合上竜児もお付き合い、一緒になってきょろきょろと首を巡らせるが。
先に登校してきていたらしい亜美と、そのとき目が合う。麻耶《まや》や奈々子《ななこ》、他の女子たちに囲まれて談笑していた亜美は、実乃梨と並んで教室に現れた竜児を見て、なにか思ったようだった。振り向いてこちらを見たまま、わずかに両目を眇めて見せる。だがその表情を理解するより先に、実乃梨が亜美の存在に気がつく。
「おっ! あーみん先輩、今年お初っす! 大河の奴を見なかったかい?」
「あーらおっはよー実乃梨ちゃん。タイガーなんか見てないけど……なんていうか、あーあ、だねぇ」
ねぇ、高須くん。などと。
スタスタスタ、とこのまま歩いていって、なにを言い出すか! ビシバシ! とその頬を往復ビンタしてやったらどんなことになるのだろう――しないけど――したい。一体唐突になにを始めようというのか。しかしそれきり、亜美は「あーあ」に具体性を持たせることはしようとはせず、
「……あーあ、とは……?」
意味不明の、しかし刺々しいことだけは割と確かな言葉をかけられた実乃梨だけが、ほとんど棒立ちに取り残される。竜児だって妄想は妄想、結局棒立ちでいたのだが。
「さあ〜、なにかなぁ〜。なんだろうねぇ?」
さざ波のように、微妙な気配が亜美と実乃梨の間でざわめく。なにも知らない大河がそのとき廊下から教室に入ってきて、「あ! 大河発見!」……そのさざ波は日常の中に掻き消えていく。
***
その日の午後、ロングホームルーム。
北村に司会を任せて独身(30)はなにやら分厚い雑誌……よくよく見れば駅でもらえる無料住宅情報誌をじっくり読み込み、すっかり独りの世界に入り込んでいる。クラスの連中ものんびりリラックスムード、お昼も食べて腹も膨れ、さっそく居眠りしている奴も散見される。
「さあ〜ではロングホームルームを始めるぞ〜みんなだらけてないで目を開けろ〜」
教壇に立つ北村でさえもどことなくまったり、喋りだすが、迫力はゼロ。
「今日はみんなお待ちかねの〜修学旅行の〜班ぎめをするぞ〜」
待ちかねてねぇよ、と誰かがヤジる。北村も別に待ちかねてはいないのだろう、言い返しもせず、
「男四人と女四人の八人班を作るんだぞ〜」
黒板ににょろにょろと殴り書き。斜めにひん曲がった文字で、4、4、8と。
そんなふうにだら〜ん、と弛緩しきった教室の中、竜児だけが険しい表情で背筋を伸ばしていた。気分は剣士、見た目はガンつけ中のヤンキー、とりあえずやる気を見せているのはただ一人、という状態。心配なのだ、このクラスの空気が。
修学旅行は、竜児にとっては本当に重要な局面だった。実乃梨ともう一度関係を結び直したいなら、これほどの機会はこの先もうあるまい。それなのに、クラスの連中は本当に嫌そうにダルそうに、いっそのこと修学旅行ごと中止にならないかな、なんてそこここで囁き合っている。誰もが真冬の雪山なんぞに、やっぱり結局行きたくないのだ。こんなことになるのなら、下らない呪いなどかけなければよかった。
「じゃ〜班組みはじめろ〜い、時間中に班名簿作って提出な〜」
やる気の感じられない北村ののんきな号令に、そこここで席から立ち歩き、「しょーがねぇな、やっか」だの「あーあ、組もうぜー」だのと間延びした声が交わされ、
「へい高須、もち俺たち一緒だよね! あとあのアホと、」
能登がトコトコと竜児の席に寄ってくる(かわいくない)。そして沖縄行きが中止になって失意のあまりに白目を剥いて寝ている春田を指差し、
「大先生もな!」
教壇の上から選挙のように「俺もいれてくれよー」と優雅にヒラヒラとこちらに手をふる北村を指す。
「これで四人だね、男チーム決定!」
ご機嫌そうなカワウソ顔を眺めているうちに、ほんの少しだけ救われた気分になる。修学旅行を彩るはずだった空も海も観光もお預けだが、友達と一緒、それだけで十分に楽しいのは確かだ。修学旅行を実りあるものにしたいなら、自分が率先して張り切って、楽しんでみせて、友人たちを盛り上げればいいのだ。
くっと顎《あご》を上げ、殺る気……いや、やる気を見せて竜児は両眼をギラつかせながら見開いた。かわうそを襲おうとしている猛禽類の顔真似をしているのではない。
「おう! あとは女チームだな」
女チームを襲おうとしている変態の顔真似でもない。実乃梨と同じ班になりたい、ただそう切望しているだけだ。しかしそんな思惑とはまったく無関係に能登は「んふふふふ!」とかわいくもない笑い声をあげて竜児の肘をつつく。
「タイガーたちと合流しようぜ! 北村とタイガー、同じ班! みたいなね」
「……まだおまえはそんなことを……」
「こーんな地味なスキー合宿、ちょっとでも潤いというかラブ成分欲しいじゃない」
ったく、と息をついた。せっかくのやる気が二酸化炭素とともに空気に逃げて溶けていく。盛り上げたいとは思っているが、能登のこのノリにはさすがにそろそろついていきかねた。このノリ、というのは、すなわち北村と大河を遊び半分にくっつけようと画策することだ。
そりゃもちろん、竜児だって大河と北村を同じ班にしてやりたいと思う。そうなれば大河も喜ぶだろう。しかし、なんていうか……なんと言おうか。こんなふうにわざとらしく外野が騒いで、作為的な工作でくっつける必要はないのではなかろうか、とか。それに、もしそういう力が必要なときには、手を貸すのは自分だけでいい、とか。大河の復雑怪奇な性格や行動パターンは、たとえば能登なんかには絶対に理解しきれないのだから、とか。そう思ってしまうのだ、どうしても。
楽しげに笑う能登に「ヤジウマ!」とか「お世話おばちゃん!」とか言ってやろうとし、竜児はしかし言葉に詰まる。
少し離れたところで、べたくたとしがみつき合い、頬を寄せ、「つまんねー修学旅行だけど、おまえと一緒ならきっと楽しいよ!」「ああ〜同じ気持ちだよみのり〜ぬ!」……実乃梨と大河が熱く語り合っていた。完全にデキ上がっているお二人だった。つまり大河と同じ班になるなら、自動的に実乃梨とも同じ班になるというわけだ。なぜこんな簡単なことに気づかなかったのか、このまま能登の作為的な工作に身をゆだねれば各方面が丸く収まるのだ。
まあ、
「……ヤジウマ! お世話おばちゃん!」
「えー? だっておもしろくない? タイガーと北村が付き合ったりしたら絶対ウケるって。北村もそろそろ兄貴のこと忘れただろうし、北村ラブなタイガーにとっちゃチャンス到来じゃん!」
「余計な茶々入れすんじゃねぇっていうんだよ!」
それとこれとは話は別だ。言いたいことは言ってやった。
「高須って結構……まあいいや、ていうかタイガーと櫛枝って二人だけ? あとの二人はどうするんだろ、亜美ちゃんと一緒の班にならないかな〜 そんで俺らと組んでくれたら最高」
朝からいきなり微妙な発言をかましてくれて、その後はずっと俺を無視して、バカだからという理由で嫌っている亜美ちゃんか――竜児はさりげなく教室を見回し、いつもの美少女トリオではしゃいでいる亜美を見つける。なにやら麻耶が「いいじゃんいいじゃん、誘おうよ!」と騒ぎ、亜美が「え〜? マジで?」とそれをしぶり、奈々子はそんな二人をおもしろそうに眺めている。そしてそんな三人を、周りの男連中は牽制し合って声もかけられないまま眺め、「一緒の班になりてぇな〜!」オーラをドックンドックン発しまくっている。
無理無理、と竜児は能登に首を振ってみせた。
「ありえねぇって。川嶋と大河はすっげえ仲悪いし、そもそもあいつら木原《きはら》と香稚《かしい》とでいっつも三人組だろ、 一人余る」
俺は川嶋にすっげぇ嫌われているし……の部分は省略。
「そっかー、あーあ。北村にタイガー、俺に亜美ちゃんという素晴らしい計画だったのに」
「無茶をいうなよ図々しいなおまえ」
「なにさ、想像の翼広げて飛ぶ空は自由なんだからね! なーなー櫛枝アンドタイガー! 俺らと一緒に組もうぜー!」
調子こいて手を振りながら歩み寄る能登を、実乃梨と大河はふざけて睨み、
「どうするう大河? メンズが仲間になりたそうにこっちを見てるけどお」
「袈裟懸《けさが》けに斬っちゃえば? みのりん」
意訳するなら、おそらくオッケー、と。
大河はさりげなくこちらを見て、実乃梨のほうもちょっと見て、もう一度視線を戻す。みのりんと一緒になれたじゃん、と言うみたいに。竜児もお返し、というわけではないが、おまえも北村と一緒になれたぞ、とさりげなく教壇方面を指差してみせようとして、
「ねーねーまるおー、あたしらと同じ班になろうよー!」
やばい、と目を剥く。
油断していた隙をつき、教壇に立っていた北村のもとに麻耶が嬉しげに擦り寄っていた。北村も北村で、こちらで大河たちと合流しようとしていることなど知らないから「ああいいぞ」などと気軽に頷いている。ダブルブッキングだ、このままでは。
「あれっ!? ちょっとちょっともー大先生ってば!」
能登も事態に気がついて、慌てて教壇に近づいて北村と麻耶の間を手刀でずばずば斬り、「はいダメダメダメー! 離れて離れて! 悪いな木原、もう北村大先生と俺たちの班は、タイガーたちと組む約束しちゃったから!」
「は!? マジで!?」
ていうか別にあんたはいらないんですけど!? ――恐ろしいほどくっきりと、能登を見る麻耶の顔面に文字が浮き出る気がする。多分竜児も、春田も、北村以外の野郎は全員、麻耶にとってはいらないのだろうが。
能登は北村と強引に肩を組み、「行こうぜ、名前書いて班名簿つくろ」と素早く連れ去ろうとする。ちょっとちょっと、と麻耶はあせって手を伸ばすが、そのとき、
「……メンバーは、まるおくんと能登くんと高須くん、あと春田くん、よね?」
亜美と二人して少し離れたところから事態を見守っていた奈々子が歩み寄ってくる。そのおっとりした喋り方に混じるなんとなくの迫力に、能登も思わず足を止める。
「だったら、他のメンバーにも意見は訊いてみなくちゃいけないと思うな。ね、春田くん、起きて。……お・き・て」
奈々子は意識のない春田に、息を吹きかけるように甘く語りかける。居眠りこくこと死体の如し、象に踏まれても起きやしないと言われる十七年|寝太郎《ねたろう》・春田の白目が、そのときゆっくり意識を取り戻す。
「ねぇ春田くん……あたしたちと、あの子たち。どっちが好き……?」
「……あう?」
春田の目が、まずは奈々子と亜美、そして麻耶を見た。続いて指差された大河と実乃梨を見る。そして、
「……う〜ん……こっち〜……」
ふらふらふら、と奈々子の方に吸い寄せられるように歩み寄って、
「まあ、ありがとう。もう一度眠っていいのよ……なんならずっと……永久に……」
目の前で奈々子がクルクル指を回す。春田はそれをじっと見つめ、眼球をぐりんぐりん動かし、そしてそのまま床に卒倒した。亜美が小さく「奈々子すげー」と頷き、そして麻耶も拍手、
「超スピリチュアルだよね」と。
「春田の脳みそ、トンボレベルなの……?」
俺たちの友達、トンボ? ねぇトンボ? 能登は悲しげに囁き、竜児はそれをいなしつつ、気の毒な春田を助け起こしてやる。
さあどうする、そう言いたげに、麻耶は北村の背後から能登を睨んだ。北村を挟んで、能登も麻耶をちんまりした目で見返す。大河と実乃梨は展開についていけないでいるのか二人して困ったように顔を見合わせるばかり。間に立った北村はもっと困り顔、自分の気安い返事がこの事態を招いたとわかって眼鏡の乗る鼻柱を擦る。
そして竜児はふと思う。麻耶がいとしのまるおこと北村と組みたがるのはわかるが、亜美はそれでいいのだろうか。こっそり亜美の様子を盗み見た。北村と組むということは、バカだから嫌い、と言い捨てたこの自分と同じ班になってしまうわけだが――まさか本気でサボるつもりなのだろうか。一生で一度きりの修学旅行を。
亜美は竜児の視線になど気づかないのか、それとも気づいていてシカトしているのか、麻耶の方に視線を向けたきりでいる。と、
「ハッ!? ちょっと待て、これでちょうどいいんじゃないか!」
そこで人気者の北村が重大な事実に気がつき、声を上げた。
「木原たちは三人だろう? で、櫛枝と逢坂が二人組。このクラスは男が十六人・女子は十七だから、班の一つは男四、女五でいいんだ。よかったよかった、すべて解決だ!」
えええー!? と脳天から大声を上げたのは、麻耶だった。北村と晴れて同じ班、しかしその杏型の大きな瞳は困惑したみたいに大河へと向く。麻耶にとっての北村争奪戦・仮想ラスボスは、兄貴去りし今、逢坂大河その人なのだ。
一方大河はといえば、せっかく北村と班が組めたというのに、かわいく喜ぶ表情一つ北村に見せられずにいる。
「はあ〜!? あんたと一緒!? すっげぇいやなんですけどぉ〜! あっ、そうだあ、実乃梨ちゃんだけうちの班にくればいいんじゃ〜ん! でぇ、孤独なあんたははぐれタイガーになって一人でうろうろしてればいいのよ〜!」
「ばかちーこそ一人で仲間探しの旅に出たらいーよ! あ、ほらほら、ちょうどあそこになんだか気が合いそうなのが」
「なんで独身(30)とあたしが同類!?」
かぱーん、かぱーん、と大河は亜美とローキックで語り合うばかり、麻耶の微妙な視線には気づきもしない。麻耶はやがて勝手に仲間認定済みの竜児の近くにそっとすり寄ってきて、「……苦労するよね。お互いにさ! でも、がんばろ! ていうか能登! 能登の奴……! うっぜぇぇえぇ!」
同意を求めるみたいにでっかい瞳を見開いてみせる。
「……あの、おまえはなにか誤解してる。去年からずっと。俺は別に、大河のことは、」
この機会にはっきり言っておこうとするが、麻耶はとっくに聞いちゃいない。信じられないほど前向きにポジティブ、「まるお〜! 。一緒に名簿書こ〜!」と北村を追いかけて弾むみたいに走り出す。
息をついてその背を見送りつつ、そして竜児はなんとなく、
「まーた君らはケンカするしー! 仲良くやろうよあーみん!」
「あん、もちろん実乃梨ちゃんは一緒でいいんだよぉ(ハァト)お邪魔虫はあ・ん・た!」
「ばかちーの相棒、赤ペンで物件雑誌に印つけてるよ。相談にのってやれば?」
「だからなんであたしの相棒が独身(30)!?」
いつもどおりに騒いでいる、大河と亜美、そして実乃梨の声に耳をそばだてていた。なんだ、本当に全然いつもどおりじゃねぇか――なにも変わった様子は見えない亜美と実乃梨の関係に、我知らず息をついて安心する。
***
クスクスクス――。
「……?」
女の声が重なって笑う夢を見ていた。
笑い声の余韻《よいん》の中、竜児は毛布に包まったままでまだ重い目蓋をゆっくりと上げる。何時だ、と時計を見て、肝を冷やしたのは一瞬。
朝の九時。だけど今日は日曜日だから寝ていてもいいのだ。予定はあるが、集合時間はまだ先だし。
もう一度目を閉じ、毛布の中にもぐり込もうとして、
「……あれって絶対、気づいてないよね……」
「あ、また寝ちゃうよ……」
――は? と。
くわっ、と眦《まなじり》が裂ける勢いで目を見開いた。前世で魔王だった記憶が覚醒したわげではない。明らかに、人が喋っている声が結構近くから聞こえたのだ。
カーテンは十五センチほど開いたままになっていて、その隙間からは朝の光のかわりに、大河のマンションの寝室の窓がちょうど見えている。そしてそこには二つの顔が――
「……おう!?」
「あっ、起きた起きた」
「やべ! みっかった!」
身を起こしてカーテンを開き、現実を確認し、卒倒《そっとう》しそうになる。なんとか持ち直して、と
っさに開いたカーテンを閉じる。
今のは、今のは、今のは、今のは、今のは……うおお! 一瞬にしてはっきり覚醒、夢ではなくて今のは現実、
「竜児ー! 現実逃避してんじゃないよ! 起きろ!」
「ちょっとちょっと大河、眠そうなのにかわいそうじゃん」
大河と実乃梨が、二人して、カーテンの隙間からこの寝姿をピーピング――こんな日に限って毛玉だらけ、手持ちのうちで最もやばい起毛素材のパジャマを着ているというのに。しかも都合の悪いことにこのタイミング、
「……ありりい……いま大河ちゃんの声がきこえたぞぉ……」
普段なら爆睡《ばくすい》しているはずの実母・泰子がトイレから出てくるなり、ゾンビ歩きでふらふらと息子の部屋に足を踏み入れる。よせ、くるな、と止めても聞かずにベッドに上がり、せっかく閉じたカーテンを思いっきり開き、窓も全開に、
「あ〜☆ やっぱし大河ちゃんだあ〜☆ そしてはじめましてのおともだちぃ〜☆」
ひらひらとピーピングカップルに手を振る。
「やっちゃん、おはよ! みのりん、あれが竜児のお母さんだよ」
「おはようございまッ! アヒーヤーッ! 櫛枝でッ! アヒーヤーッ! 無っ茶っして知ったー高須家《たかすけ》母さんッ! アッヒーッ! ボンバヘッ! アヒーヤッ! ボンバヘッ! ア」
「みのりん、頭の血管切れるよ」
確かに今朝の泰子も野人としか形容しようがないほどボンバヘッド。スプレーでがちがちに固めた巻き髪のハーフアップは、洗わずに寝ると必ずこうなるのだ。それでも化粧だけは落としていたからまだマシだった。ぽよよん、と柔らかな餅みたいな頬を揺らして泰子はへらへら笑い、鼻をすすり、
「んあ〜、竜ちゃあ〜ん、やっちゃん寒いぃ〜」
「窓全開にしてっからだろ! なんか着ろよ……って、ひいぃ……いやあぁぁ……!」
そのナリに今更息子も驚愕。巨乳もあらわなブラジャーに毛糸のパンツといラスタイルで、泰子は思春期の息子とひとつベッドの上、のんきに笑っているのだった。いけない、このままではすっかり変態親子の図だ。竜児は慌ててもう一度シャッ! とカーテンを閉め切るが、「あっそうだあ〜、みんなで一緒にあさごはんたべよっかあ〜☆ 竜ちゃんつくるし〜☆」
シャッ! と息子を押しのけて、ブラジャー姿の泰千がそのカーテンを開ける。あーおぅ、とテンションの上がった実乃梨が奇声を発する。竜児は心の底から、恥をかく。
「だめなのやっちゃん、実は私たち、もうごはんの用意しちゃったの。今からなんだ」
「えー、そーなのぉ? やっちゃんさびしすんでがす……」
窓辺に実乃梨と並んで肘をついた大河は、えへへ、と頬をふくらませて笑ってみせる。
「早めに集合して、モーニングするんだよね、みのりん」
「イエー。そういうわけだから後ほどな、高須くん」
――そう。今日は昼から、大河のうちで修学旅行の班全員で集合する約束をしているのだ。修学旅行のしおりを班ごとに製作しなければならず、パソコンなども使うためファミレスで集まることもできず、珍しくも大河が自宅を提供すると申し出てくれた。そして実乃梨はこんな朝も早くから、一人でマンションに前乗りしていたらしい。
さては、と竜児はさりげなく泰子を背で隠し、己の毛玉パジャマもカーテンで隠しながら大河を見やる。
「……櫛枝に。部屋の片付け手伝ってもらうんだろ。大掃除もしてねぇもんなあ、さぞや汚くしているんだろうなあ……フン!」
恨み骨髄《こつずい》に聞こえただろうか。聞こえたとしたら、それは正解だ。何度も「大掃除しに行ってやる」と竜児は言ったのに、大河はなんだかんだと理由をつけてそれを断り続けたのだ。顔だってデビルマンにもなるってもんだ。
しかし、
「ブッブー。違うもんね。うちは今、どこもかしこもピッカピカだもーん。あんたんちよりキレイかもしれないよ。ね、みのりん、キレイだよね」
うんうん、と実乃梨も頷いてみせる。
「……うそだ! そんなわけがねぇ、だって掃除する奴なんか誰も……」
「それがいるのよ。……ダスキンメリーメイドさんが、ね。ああ大変だったわ、昨日はもう三時間もかけて、四人のおばちゃんが、あそこもかしこもゴシゴシと……」
「な……にいっ!?」
ニヤリ、と笑う大河の前で、竜児は気を失いかける。あの、三万円ぐらいで徹底的に掃除してくれるというメリーメイドさんだと? あのプロたちが、竜児がずっと狙っていた洗濯機の下や、カーテンレールや、エアコンのフィルターに至るまで、ピカピカにしていったと?
「やっぱり本職のプロは手際が違うわよね〜。じゃあ竜児、あんたはあとからもたもたと来るがいいわ。みのりんと私はこれからゆっくり朝ごはん食べて、そして十時になったら駅ビルのユニクロに行って、修学旅行に持ってくヒートテックのババシャッとタイツを買うの……すなわち乙女の時間よ、絶対ついてこないでよね」
「あっ、大河、今チンっていったよ。パン焼けたっぽい」
「ほんと!? 焼きたてのうちに食べなきゃ! じゃね竜児!」
二人はバタバタと窓辺から姿を消す。泰子はいつの間にか息子のベッドにひっくり返り、んが〜、と見苦しく二度寝の体勢に入っている。
竜児はぷるぷると、サッシにかけた指を震わせていた。
ダスキン、メリーメイド、だと? サッシの溝掃除用の高須棒を見やる。メリーメイドの連中は、さぞや立派な掃除道具を持っているのだろう。電気の力を存分に使った、メカニカルなマシンで大河のマンションを磨き上げたのだろう。金にあかした技術力で。ここは大掃除のときに、と竜児が大事に育てていたあそこやここにも、奴らは踏み込んだのだろう。
メリーメイドめ……メリーメイドめぇぇぇ……! 悔しく唇を噛み締めつつ、竜児は毛玉パジャマの袖で神経質にサッシを拭う。泰子の指紋がついてしまったではないか!
ゆっさゆっさ揺れる息子の動きに、泰子がどてっとマットレスから転がり落ちる。
すっげぇ――ガラスのローテーブルを囲んで座る連中の頭上に、そんな共通ワードが浮かんでいる気がした。
「寝室からパソコンとプリンター持ってくるから待ってて。みのりん、ケーブルとか電源とか、一緒に運んでくれる?」
「オッケー」
大河が実乃梨を運れてリビングから出ていくやいなや、
「ちよちょちょ、ちょっとお! すっごくないこの部屋! 家賃いくらよ!?」
「これって分譲だよね、きっと。家具も超かわいい……一人暮らしっていってたけど、もしかしてすっごいお嬢様なのかな? あたしいつでもルームメイトになってあげるのに」
「あたしもあたしもあったっしっもー!」
タートルにミニスカート、レギンスの麻耶と、タートルにワンピース、レギンスの奈々子は偶然の一致なのか微妙に私服がおそろ状態、キャー! とテンション高く盛り上がる。竜児はクッションを人数分揃えてそれぞれに渡してやりつつ、はしゃぐ彼女たちの姿に、かつての自分の姿を懐かしく思い出す。
キャー、すっげぇマンション、なんて豪華なの……初めて足を踏み入れたあの朝、竜児はうっとりこの部屋を見回して、そして「うっ!」と立ち止まった。腐った台所からの異臭に、吐きそうになったのだった。こいつはひどい、なんとかしねぇと、と掃除を始め――つまりあれが、まさしく運命の分岐点だったわけだ。もしもあのとき異臭に負けて逃げ帰っていたら、今はどうなっていたのだろう。
「ほんと、雑誌に出てくるみたいな……ていうかちょっと高須くん、あたしらが触ったとこ全部拭いてくのやめてくんない?」
「おう、すまん、ついクセで……」
無意識に女子たちが触れたガラスの天板を竜児は手持ちのサッサで拭きまくっていた。いくらメリーメイドでも、このような細かなサポートはできないだろう。
「ひぇ〜、テレビでけ〜!」
「電気もでかい!」
テレビを見てワーオ、シャンデリアを見てア! オ、いちいち仰け反る能登と北村も楽しそうだ。北村はそして竜児に向き直り、
「聞いてはいたけど、逢坂のうちは本当におまえのうちの真隣だったんだな」
「えっ、隣!? 高須くんちもこのマンションなの!? すげー!」
麻耶のふざけた声に、ないないないないないあるわけね―― と首を振ってみせる。
「俺のうちは、この隣の借家。ちょうど窓と窓が向き合ってて、まあ、それが縁で俺と大河は親しくなった……親しくはねぇな。知り合った……のは普通に教室でだな」
「腐れ縁が結ばれたんだね?」
能登の言葉に、結局それが妥当かも、と頷いてみせる。ほお〜……と納得したようなツラの中には、亜美の顔もあった。
しおり作りなんて面倒《めんどう》で地味な作業、普段なら絶対参加しなさそうな亜美だが、大河に「面倒な作業をサボるつもりなら、うちでDVDの鑑賞会をしてもいいのよ?」と脅され、つまらなそうな顔でやってきていた。恐らくDVDというのは、噂にのみ存在を聞いたことがある主演川嶋亜美。製作総指揮逢坂大河の『物真似百五十連発』のことだろう。胸の開いたニットから晒される真っ白な肌に金鎖の華奮なネックレスを光らせ、細身のデニム姿で麻耶の隣、長い足を退屈そうに折りたたんでぶすっと座っている。
「なあ〜、これってすごくねー!? こんなお姫様みたいなの着たら、誰でもかわいくなれちゃうよな〜!」
姿の見えなかった春田が、そのときしゃらんら〜☆ ととんでもないナリで登場する。いつの間にかウォークインクロゼットに入り込んでいたのだろう、十万円近くする大河のブランド物オーバーワンピースを羽織り、その下にやはり数万円はするだろうレースのアンダースカートをめちゃくちゃに重ねてふかふかに膨れてみているのだ。
なんというアホ……誰もがそう思った瞬間、ムササビのように小さな影が宙を跳んだ。その影は素早くアホから服を脱がせ、奪い、パンパン左右の頬を張る。
「あんっ! あんっ!」
そして仕上げにノートパソコンの角で脳天がへこむほどブン殴り、
「皆のものっ! すぐさまこの服を焼き払うのよバイオハザ――――ド!」
「こらこらこら! MOTTAINAIだろなにを言う! ちょっと春田が着たぐらいで! それよりおまえバカヤロー! マシンは春田を殴る武器じゃねぇぞ、壊れてねぇか!?」
「安心して、ニメートルの高さから落としても平気なパソコンよ!」
「高っちゃん……俺は……? 俺の心配は……?」
黙れ髪の毛座! と再び大河に頬を張られ。春田の両眼からぴゅっと涙が噴き出す。
そんな春田に班のメンバーからは「おまえが悪いよ」「自業自得、よ」「いっそをのま失神しててよ」――心温まる声が寄せられる。プリンターを抱えたまま、実乃梨は春田を偲《しの》んで黙祷を捧げる。
「さて。じゃあ春田も静かになったところで、修学旅行のしおり作成を開始するか! 一同、礼!」
仕切りにかけては右に出るもののない北村の声に、一応全員礼をして拍手。
「B5サイズで表紙はいれずに六ページ。うち四ページは事前研究……ってのがこれからやる部分だぞ。ガイドやら引いて、土地の来歴あたりを調べてうめるか。そして残りに感想、というフォーマットになる。後で全学年分をまとめて印刷して。保護者に配るらしい。一応参考になるかと思って去年の分の冊子を借りてきた」
「おっとさすが大先生、グッジョブ! これってまんまパクってもバレないんじゃない?」
「はあ? 無理に決まってんじゃん、能登ってばか? 沖縄の来歴パクってどうすんの? マジで超〜ばかじゃん?」
ふんだ。と、麻耶はなんとなく能登に冷たい。
そしてみんなして一冊の冊子を開いて覗き込み、「……ああ〜……」――ほぼ同時、戯しい声を上げた。先輩がたの沖縄の思い出は、どうにもこうにも眩し過ぎるのだ。
事前研究はとにかく、感想ページがやばい。ふんだんに利用された写真ばどれも目が潰れるほどの眩さ、空も海も嘘みたいなブルー、ビーチは輝く純白。去年も真冬の一月に実施されたはずなのに、皆さん浮かれた海人《うみんちゅ》Tシャツにつばつきのキャップ、首にもタオルなど巻いて、燦々《さんさん》と煌《きらめ》く陽射しの下で「あっちー!」「まぶしー!」というツラで沖縄そばをすすったりサーターアンダギーをかじったりしている。テレビなどで見たことがある、牛に引かれて離島に渡っている場面の写真もあり、本当に楽しそうで羨ましくて、
「……ぬっ!?」
能登が突然奇声を発した。
そしてそのまま冊子をバタン、と閉じてしまう。驚いて顔を上げ、みんな揃って能登の方を見るが、「……ぬ、ぬんでもない……」と。ものすごく怪しい。
「いや、怪しくないよ! でも、もうこんなの参考にならないから見るのよそうね! そんでなにやるかちゃんと考えよう! とりあえずグーグル先生になにか尋ねてみよっか! えーとパソコンのACアダプタは……」
「……なぁに能登くん、今の。なに見つけたの? 超〜あやしいなあ……確かこのへんのページだったよねぇ」
「あっ、ちよっと亜美ちゃん……!」
いーから亜美ちゃんにかしなさーい、と亜美はおもしろ半分、ローテーブルを挟んで向かいに座る能登の手から冊子を奪った。にやにや笑いでさっきのページまでめくってしまう。退屈でダルすぎなしおり製作以外のことなら、なんでもおもしろく思えるのだろう。そして、
「……あっ! ……ら、あらあらあら! あらら〜……これ、かぁ〜」
「……なんだよ。俺に関わることか?」
北村の顔をチワワの瞳でくるん、と愛らしく見やるのだ。能登は「ちょっとちょっと、やめとこうよ」と亜美に囁くが、亜美はそんなモン聞いちゃいない。楽しげに唇を尖らせ、幼馴染の目をじっと見たまま、独り言みたいな小さな声で「祐作にだけは見せられないなあ」と。
「……なに。なんだよ本当に。気になるぞ、見せろよ」
「祐作がそんなに見たいっていうならしょうがないけどぉ、どうだろうなぁ……泣いちやってもあたし知らないしぃ……」
「わざとらしい、つまり俺に見せたいんだろ。その牛の写真がなんだってい……ふおっ!」
ピタリ、と覗き込んだ北村の動きが停止した。一体なにが、とみんなして覗き込んでみて、そして、理解した。
牛に引かれて離島に渡る、とあるツアーの班写真。眩く輝く真っ青な空の下で、どういうわけだか一人の髪の長い女だけを荷台に残し、他の運中は嬉しそうに、牛と一緒に浅い海の中を歩いていた。
その荷台に残された女は腰に手をあてて大笑い、偉そうに進行方向を見やって、今にもその声が聞こえてきそうだ。だーっはっはっはっはっはっは〜っ! ……世にも男らしい、豪快な笑い声が。
つまり、その荷台の王は、元みんなの頼れる兄貴・狩野すみれであった。
「うわー、やっぱりショックだよねぇ、そうだよねぇ、あんな大騒ぎの末にふられた相手が写真とはいえ突然現れちやったんだもんねぇ。祐作かわいそー、だいじょぶ?」
「……だ、誰がかわいそうだと……」
「大丈失なんだあ、よかったあ! そういえばあ、狩野先輩と連絡は取れてるの? 今頃アメリカで彼氏とか、できちゃってたりしてぇ?」
「……会長は、無事大学に……MITに入学した……と、妹さんから聞いた……」
「へーぇぇ、飛び級女子大生だあ〜! あは! かっこいい〜! でもえむあいてぃーってなあに? 日本で言ったら東大ぐらい? 早慶クラス? 祐作でも受験すればいけるの? 亜美ちゃんわかんなーい」
「……。……ACアダプターは、どこかな……」
北村は幼馴染の遠慮なしな、というかもはやSっけ丸出しの攻撃に、ついに負けたようだった。それきりみんなに背中を向け、大河が運んできたパソコンのケーブルをにょろにょろといじり始める。
「……ACアダプターは、こ、これかな? きっとこれだな! さあ、コンセントコンセント……コンセントはどこかなコンセント……」
発端《ほったん》を作ってしまった能登も気まずく、席を立って壁際をウロウロし始める。麻耶と奈々子は「……」と微妙な表情で見交わし合い、実乃梨はどういう意味だか前歯をむきっと出して北村の背中を横目で眺め、そして大河は、
「……ばかばかばかばか大ばかちー!」
ひそかな声で罵りながら、亜美の腕を両手でぼかぼか殴る。
「えー? こんなことぐらいで鬱になってる方が悪いっての。鍛えてあげようと思っただけなのにぃ、ほら、加圧トレーニングみたいなあ?」
亜美は幼馴染の落ち込みなど屁とも思わないようで、「加圧!」とか言いながら手をきゅっと握ってみせている。春田はようやく意識を取り戻し、「ここは……? 俺の部屋か……?」いつもどおり、変わりない。
そして竜児は、――お前の気持ちはよくわかるぞ。と、親友に心の中で熱く瞬きかけていた。北村はいまだ知らぬことだが失恋した者同士、ちょっとしたきっかけで傷が開く痛みも、そのショックも、わからないわけがない。
「……俺は、紅茶を淹れてくる! なんか食いながら進めよう、リラックスして! な!」
大きく一声そう言って、立ち上がる。
「これみんなに出すよ、うちから持ってきたマドレーヌ。ていうか大変そうじゃん、この流浪のウエイトレス・櫛枝がなんか手伝うぜ」
「おう、助かった。紅茶のカップ探してくれ、あと三つ」
広いリビングの奥に設《しつら》えられた豪華なアイランドキッチンで、竜児は現れた援軍にほんの少しだけ鼓動を跳ねさせつつ、なんとか抑えることに成功する。
実乃梨は贈答モノらしいマドレーヌの箱をキッチンに置き、「よっしゃよっしゃ」と文字通りの二つ返事、カップボードを開いて中を漁りだす。
「んーと、ティーカップはなさそうだなあ。マグでもよくない?」
「全然いい」
「あいよ。お、これかわいいじゃん。いっぱい飲めるし、私このマグとーっぴ」
さすがの器用さで三つのマグを片手で掴み、ひょいっと竜児の前に並べ、実乃梨はそのうちの一つを指先で突付いた。オレンジ色に大きなくじらが描かれたそのマグは、確か大河がコンビニのパンのシールを集めてもらったモノだ。そして竜児の顔を見上げ、にこっと笑い。
「マドレーヌはどうしよっか? わざわざお皿出すのもアレだし、この箱のままドンと置いちゃう?」
「そ……れで、いいんじゃ、ねぇか」
「DA・YO・NEー!」
唐突な近距離にヨロめきかける竜児にも気づかない。カップルみたいにキッチンに並び、いっそ清々するほどの無防備さ、肘がぶつかる距離に立つ。包みを開き、箱を開け、
「マ・マママ・マド・マ・マママ・マドレ、ヌッヌッヌヌ、ヌーヌヌヌヌヌン」
ぷりぷり尻を振って念仏ラップを唱えつっ、個別包装されたマドレーヌをどんどん掴み出す。大理石の台にどんどん並べる。
「ちょっと……おまえそれ……箱のままドンと置くんじゃなかったのかよ」
「……んっ!? うおーい、そうだったー!」
どんだけ無意識で動いているんだ――慌ててマドレーヌを箱に戻していく実乃梨を眺め、竜児はもはや笑いたくなる。
ティーバッグをカップに落としながら震える指を必死で隠している我が身に比べ、この実乃梨の無意識さというか、自然体っぷりはどうだ。ジップアップのパーカーにデニムを合わせただけの飾り気のないナリで、「やっべーなんにも考えてなかった」と呟く唇だけは柔らかそうな薄桃の血の色で潤して。その横顔の丸い額も、煩も、顎も、
「……おいゴルゴ……」
「……ゴルゴじゃねぇよ……」
「……じゃあゴルゴは俺だ……俺の後ろに立つんじゃねぇ……」
「……立ってねぇよ……」
どこもかしこも、ありのままに綺麗で、目を奪われて……いたのだが。突然に冗談半分。実乃梨に睨まれて竜児は両手を上げてみせる。ついついガン見していたのが、バレていたのだろうか。ドギマギと今更目を逸らす。
「ならよい……ていうか、開けた時に箱壊しちゃってたよ。やっぱお盆が必要だね、さっきここに入ってるの見たんだ」
実乃梨はちょっと笑ってその冗談は終了、独り言みたいに喋りながら再び壁一面のカップボードを開く。銀のトレイをこれこれ、と出し、
「ん、結購重いぞ? これってもしかしてすげえいいやつ? 高い? いいのかな、使っても。ねー大河ー」
呼ばれると大河はすぐに振り向いた。タータンチュックのワンピースをふわふわと揺らしながらキッチンへとやってくる。
「どしたの? なにか用事?」
「この銀のお盆、使っていい? マドレーヌ出したいんだけど」
「なんだ、そんなのいいに決まってるじゃん。なにかと思ったよ」
「いやほら、こういうのって、たまにびっくりするほど高い物だったりするからさ。もしかして、と思って。ね、ね、ていうかさ」
実乃梨はトレイにマドレーヌを並べながら、不意に竜児と大河の顔をにこにこしながら見比べる。
「カップボードも食器もさ、すごくきちんと綺麗になってるじゃん? 今まで高須くんが整理整頓してくれてたから、こんなにちゃーんとしてるんだよね。今日ひさしぶりにここにきて、私感動しっぱなしだよ」
「……綺麗なのはメリーメイドさん頼んだからだってば」
そうかなー、そうだよー、とアイランドキッチンを挟み、実乃梨と大河は姉妹のように同じポーズ、顔を見合って笑い合う。ほんっとに仲いいな、と、竜児は沸騰したティファールからカップにお湯を注ぎつつ、ほとんど呆れて二人を見やる。気がつけばすっかり蚊帳の外だ。
「でもさ、高須くんがちゃんとモノを管理してくれたのって大きいと私は思うよ。前に私が片付けに来てやったのってもう一年以上前でしょ? いらないものが減って、整理しやすくなってるんだって。高須くんにちゃんと感謝しなよ」
「こいつは好きでやってたんだもん、こっちがお礼言われたいぐらいだって。ねぇ竜児」
ちら、と大河が向けてきた視線に気がついた。
これってやばい雲行き、大河はそう言いたいらしい。確かに二人の会話は「やっぱり大河には高須くんがいなくちゃダメなのね」的方向に展開しかねない流れではあった。なんとかしてよ、と大河はおどおど視線を惑わせるが、正直竜児にはなにもできない。
「いや、絶対高須くんのおかげだよ。私にはわかるのだ! なぜなら私は神だからだ!」
などと言われても、できることといえば紅茶を淹れるのに集中しているフリ、わずかに苦笑するぐらいだ。神だからだー と言い切られてしまったら、もはやなにも言えはしない。
だがそのとき、
「逢坂、ちょっといいか? ネットが繋がらなくなった。無線LANがおかしくて」
「え、うそ。さっきまで繋がってたのに」
――天の助け。なんてシリアスなもんでもないが、北村が大河を呼びにきてくれた。明らかにほっとした表情をして、大河は今日も全身ユニクロぎめの北村とともにキッチンから去っていく。
実乃梨はしかし電児を相手に会話の続き、
「私は本当にそう思うんだよ。去年なんかほんと、もうゴミとかもたまりっぱで、いっくら片付けても一週間も経ったらまたひっどいことになっててさー」
そのまま話しかけてくる。そのとき、ふと竜児は違和感に気がついた。
「……おまえ、一年以上もこのマンションに来てなかったんだ。あんなに仲いいのに」
言ったそばから、そういえば、と思い出す。そういえば実乃梨は前に言っていたっけ。
「それはほら、例の……大河のお父さん、の件。て、私ちょっと大河とぶつかっちゃったりしたからさ。一応仲直りはしたけど、なんとなくね。それ以来さ……なんつーか。あんまり距離なしに踏み込んでいくのって、また失敗しちゃったらやだし、どうなんだろ、とか思ってさ」
「……だったな。思い出した」
実乃梨の言葉を聞きながら。竜児は思わず自分のことを思ってしまう。距離なしに踏み込ん
でいく。それってまさに自分のことではないか。今でこそ大河は自立チャレンジ中、高須家に来ることも家事を頼みに来ることも絶えているが――
「つまりさ。キミはグッジョブ。って、ことだよ。高須くん」
失敗を恐れずに踏みこたえてるんだから。実乃梨はそう言い、竜児の腕の辺りを男同士がやるみたいに、こぶしでどしっと殴ってくる。いつもならばちょっと嬉しい触れ合い、だけど今はそれよりも、一体なにがグッジョブなのか。言い返そうにも実乃梨はさすがに手際よくミルクや砂糖の支度を始め、今の話はこれで終わり! と背中できっぱり語る。
そうなっては仕方なく、竜児も口を噤《つぐ》み、キッチンの水気を乾いた手ぬぐいで拭く。他の奴らはリビングで、繋がらないらしいパソコンを放置してダベリ始めている。北村と大河だけは壁際に置かれたルーターの電源を切ってみたりつけてみたり、なんとか接続させようと絨毯にぺったりと座り込んで頑張っている。
――この、落とし穴に落ちたみたいな不意の沈黙の狭間で、ふと思ったりもして。一体、いつの間に大河は、北村とあんなに近くに座っていられるようになったのだろう。なんて、つまらないことを。
「ね、高須くん」
「……俺の後ろに立つんじゃねぇ」
「俺のネタをパクるんじゃねぇ」
髪を耳にかけ、実乃梨は微笑みを浮かべて竜児を見上げていた。いつから見られていたのかはわからなかった。
「あのさ、修学旅行。私、実はちょっとだけ楽しみなんだよね。……いや、かなり」
心の内を隠し、竜児は「げ!」と顔をしかめてみせるのに成功する。
「マジかよ。スキーだぞ?」
「私スキー得意だもんよ。もう清水アキラばり。それにさ、これが最後じゃん。2ーCみんなでなにかするのなんて。あーあ……このクラスめっちゃ楽しかったから、なんか寂しいな。そう思わない?」
紅茶の出具合を確かめるように、実乃梨は目を伏せて九つ並んだカップの底を覗き込む「ずっと、みんなこのままだったらいいのにね」
ずっと? みんな? このまま? それはつまり――なにかが引っかかった、ちょうどその瞬間だった。
離れたところで囁きあう、北村と大河の会話が偶然に耳に飛び込んできた。
……そうなの?
そう。だからさ、もういっそ俺が、……。
……じゃあ私が……。
え? そりゃ……でも、どうして? やっぱりなにかあったのか?
――なにを話しているかはわからなかった。インターネットの話でもなさそうだった。ただ北村は、さっきの傷を引きずったようなまだキズモノの表情をしていて、大河はどもりもせず、あせりもせず、そんな北村の顔を見つめて気遣うように自然に微笑んでいるのだった。目を覗き込んで、気遣わしげに、呼吸のタイミングを読もうとしているのがわかる。
何年も前から、ずっと親しい友人同士だったかのように、二人は自然に寄り添っている。本当に、一体、いつの間に――。
「……おう。そうだな」
引っかかった部分は、スルリと解けたみたいにどこかへ消えた。
「ずっと、このままだったらいいよな」
ほとんど無意識、竜児はそう答えて、トレイに紅茶のソーサーを並べ始める。その作業に没頭する。
結び目が本当に「解けて」消えたのか、それともより硬く頑固に強く結ばれて、小さく見辛くなっただけなのか、それは誰にもわからない。
訪れるスキー場付近の気候や特産品の情報をてんこもりにして、九人分の目標・抱負を書き込む方向で決まったしおりの事前調査は、結局日曜日だけでは終わらず、その週の週末までだらだらと持ち越すことになった。優等生の北村が張り切り過ぎなのだ、とどのつまりは。
そして、日々は流れ――
4
実乃梨の真意を確かめる。
すなわち、櫛枝実乃梨は高須竜児と、本当に付き合いたくないと思っているのか? その考えは逢坂大河との共同生活をやめることで変わりうるのか?
それを尋ねて、答えをもらう。……もしもできるなら改めて、イブの夜には遮られた想いも伝える。そうして微妙な色合いを帯びてしまった二人の関係をやり直す。
竜児にとっては、それこそが、この修学旅行の目的であった。
「高須、『が』だぞ『が』」
「……がんばる!」
隣の北村から手渡されたマイクを握るやいなや無意識に全力で叫んでしまい、「なんだそれは」「苦い物縛りっつってんのに」――バスに乗り込んだクラスメート達から一斉にブーイングを食らう。
慌てて咳払い、
「ええと、あー、『ガン細胞』! 多分苦いぞ! はい、『う』!」
適当に言い直し、通路を挟んで隣に座る大河にマイクを回す。
「『う』!? ……うどん……じゃない、ええと、う……『うど』! 苦いよね! はいみのりん、『ど』だよ」
これはナイスアンサー……大河の『うど』に拍手がパラパラと湧き起こる。
修学旅行、初日であった。
バス六台に分乗して、二年生たちは目的地であるスキー場を目指していた。しかしあまりに退屈な高速道路の景色にバス酔いする奴らが続出、カラオケでもやるか、とマイクを引っ張り出してみたがなんと演歌しか入っておらず、やぶれかぶれに2ーCは全員参加の縛りありしりとりに興じていたのだった。
とてもつまらないが、そして盛り上がっているとも言いがたい状況だが、いつまでも続く灰色の擁壁《ようへき》と灰色の道路をただ眺めているよりはマシかもしれなかった。
「『ど』……『ど』で苦い物ねぇ……」
マイクを回され、窓際のシートで実乃梨が立膝になる。考え込むみたいに眉間に皺を寄せ、
うーんと喰りだしてしまう。ちなみに負けた奴は一人でカラオケ演歌絶唱の刑だ。
「櫛枝そろそろタイムアウトじゃね?」
「よっしゃー、カウントダウン開始ー! 十! っきゅー! 八! 七! ろおっく! 五! 四! さあん! 二! いーち……」
手を叩いてテンカウントを始める声の中、実乃梨は不意に息を吸って寄り目、
「……ド――――――ンッ!」
こめかみに青筋を立てながら突然に叫ぶ。マイクの音声はハウリングを起こし、バス内にいらんぐらいに響き渡り、「耳があ!」「うるせー!」「喪黒かおまえは!」……クラスの連中を悶えさせる。実乃梨は構わず右手にマイク、左手をわなわな震わせ、
「……とそのとき突き上げるような衝撃が私を襲ったのですなにがあったのかとっさにはわからなかったしかし目を開けて言葉をなくしましただってなんで? なんでそこにいるの?」
一体なにとチャネリングしたのか。小股で廊下を駆け抜ける女天狗の足音みたいな声、鼻息をふうふうマイクに拾われながらまくしたて出すのだ。
「なんで、そこに、あるの? だって、私、さっき、捨ててきたじゃない? ちゃんとお寺に納めたし供養してもらうように頼んできたし手を合わせて謝りもした、それなのにどうしてあの人形が、私の部屋に帰ってきているの? 絶対私は持って帰ってきてなんかない、それなのにあるんです目の前にいるんですっ! ……思わず手を合わせ、『もう帰ってこないで、ここはあなたの居場所じゃない、もうあなたに守ってもらわなくていい』そう念じていましたでも人形の限球を失った眼窩《がんか》は怖くてとても見られなった、そのとき、絶対に目が合った、そう思った、私はもうパニック、やめて、ちょっとやめてよ、ねぇ、やめて、やめてやめてやめてやめてやめて見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで、いや、いやっ、いやいやいやいやいやああやめて! 見ないでえええ!」
前方シートの背をガックンガックン揺らしながらの熱演に、ひぃぃ……とその席に座った女子が小さな悲鳴を上げる。隣では大河が目を泳がせている。竜児だって息を飲んでドン引き状態、口元を手で押さえたおばちゃんポーズのまま声もない。実乃梨に訊きたいことはあった。真意を確かめたいと張り切っていた。でもおまえの怪談話は誰も求めちゃ、
「『居場所じゃないのは、おまえの方だぁぁぁぁぁああああああぁああぁあああぁぁ! 』」
「ぎゃああああああっ!」「いやあああ〜〜〜〜〜っ!」――いねぇんだ。阿鼻叫喚の悲鳴の中、竜児はしみじみ目を閉じる。「ひぇぇ……」と小さく呻いて耳を塞いでいる大河が情けなくも哀れであった。
「おまえの話が怖いんじゃない、声量と様子が怖いんだ!」
とは北村の談。まったく同意の体《てい》で、竜児も実乃梨を見やる。実乃梨はしかし反省の色などゼロ、へっへっへ、と舌を出しつつ満足そうにニヤついて、
「ってわけで、『あ』ね。ほい、あーみん」
「……今の、どこが苦いわけ!?」
「ホロ苦い味わいのある実録怪談・私のねぇや人形でした」
席に膝立ち、真後ろのシートに座る亜美にマイクを手渡す。亜美は今の怪談のせいではないだろうが不機嫌であった。長い髪を乱暴にかきあげ、足を組んだままの姿勢でマイクを受け取り、ちっ、と憎々しげに唇を歪ませる。
修学旅行を本当にサボるつもりでいた亜美だったが、独身(30)に仕事のために欠席する、と伝えたところ、「学生なんだから、修学旅行が最優先!」とあっさり蹴られてしまったのだという。仕事、と一度言ってしまったからには他のサボリ手段はすでに使えず、結局参加することになって、
「『あ』ね!? ……『亜美ちゃんの今の心境』! はい麻耶! 『う』!」
また『う』で返した! ナイスアンサー! さすが亜美ちゃん……拍手が起こるが、そんなモンでは亜美ちゃん様の機嫌は回復などしない。むっつりぶすったれたまま、窓にかけられたカーテンの中に顔を突っ込み、不貞寝《ふてね》の体勢に入る。
「えー!? 『う』……『うさぎのニガヨモギ煮』」
「木原…おまえに『え〜!? 』だよ!」
「今のは無しだろ、カウントダウンか!?」
麻耶は「櫛枝の怪談とか亜美ちゃんの心境はよくてあたしのニガヨモはだくめなの!?」と喚が、公平なジャッジを下す奴はここにはいなかった。もう誰も、竜児に至るまで、実乃梨にマイクを回したくはないのだ。溢れるような不機嫌を垂れ流している亜美を刺激したくないのもひそかに一致した見解だったし、それプラス、
「麻耶サマのソロ演歌、俺聴いてみたいですよフヒヒ!」
鼻に皺を寄せていやらしく笑う春田の言葉に、頷く野郎どもの数も多かった。
「はー!? 超冗談じゃないし! ていうかあるよねぇ!? うさぎのニガヨモギ煮って普通にあるよねぇ!?」
バスはトンネルに吸い込まれていく。ねぇよ! と麻耶の寝言につっ込みをいれてやろうとするが、耳がおかしくなり、竜児は顔をしかめて喉を鳴らす。
トンネルは短かった。すぐに前方に光る点のような出口が見えてきて。それは近づくにつれて次第に大きくなり、
「……えっ!?」
最初に声を上げたのは、マイクを握っていた麻耶だった。
不意に、竜児の目の前も強い光線を浴びたみたいに真っ白になる。一体なにごとか確かめようとして、その眩さに思わず息を飲んだ。
「うそっ!? 雪だ! 雪雪雪っ! しりとりやってる場合じゃない! すっごーいっ!」
マイクに向かって絶叫する麻耶の大声に、亜美も目を見開いて跳ね起きる。竜児も他の奴らとともにシートに身を起こし、窓の向こうの一変した景色に、「うわっ、すげぇ!」……ガキ丸出しの声を上げる。
今までの道中でも、汚れたガードレールの下に灰色というか真っ黒な雪がまとめて横み上げられたりはしていたが、これはそんなモンじゃない。竜児は北村と気持ち悪く頬寄せ合いつつ並んで窓ガラスに張り付き、二人して女子のように声を上げる。
「すげぇすげぇすげぇ……! ちらちら光ってるのはなんだ!? 晴れてるから雪じゃねぇだろうし、」
「ずばり風花《かざはな》だろう! うおお、なんだいきなり川端康成《かわばたやすなり》っ! すばらしい!」
バスの中が突然の白い光に照らし出されて眩しくなる。
一気に、窓の向こうの景色が輝きだす。
すげぇすげぇと大騒ぎしながら、窓際の席の通中が次々に窓を開けていく。冷たくも新鮮な瑞々《みずみず》しい空気が一気にバスを満たし、それを吸って、みんなして生き返ったみたいに目を輝かせる。
トンネルの向こうは、どこもかしこも白。白。白。キラキラ輝く、一面の銀世界。雪の光が眩く輝く、非日常の雪景色だ。
大河も「わあー! こんなの見たの生まれて初めてだ!」と叫んで実乃梨とともに窓から顔を出している。大河のことだ、そのままゴロンと落ちやしないか、竜児はひそかにハラハラするが、実乃梨が大河のジャケットの背中をしっかり掴んでいるのを見て一安心。
そしてあちこちでシートに膝立ち、みんなして窓の外を並んで覗き、
「超きれ〜〜〜〜い! やっばい、盛り上がってきた!」
「意外と雪山、あつくね!?」
「雪国だよここは雪国だよ!」
「すっごい! 向こうの山とか全部真っ白! やばいー」
「きゃ〜〜〜〜! 写真写真! 写メとろ〜〜〜〜!」
大騒ぎの2ーCバスの行く先に、連なる山々が白く神々しく光輝いていた。その、雪を戴いた姿の勇ましさ。一際高く天を突き刺す峰に、降り注ぐ日光の黄金。
なんだよ、意外といいじゃん! ぜんっぜん、いいじゃん! 超いいじゃん! 2ーC全員のハートが、今、一つになっていた。
そこですかさず最前列に座っていた独身(30)がテンション高く振り返り、その頂を指差して声を上げる。
「さあみんな、元気は出てきましたか? 目指すはあの山ですよー! せーえの!」
やっほ 〜〜〜〜〜!
声を揃えて心も一つ。きゃあきゃあと拍手と歓声が湧きあがる車内に、運転手の小さな呟きがぼそりと落ちる
「……行き先あの山じゃねぇよ……」
***
「おまえずるいな……なんで颯爽《さっそう》と着こなしてるんだよ」
「そうか? 着こなせてるか? まあ、ジャージ的なモノは結構似合うタイプなんだが」
能登の嫉妬丸出しの視線の中、北村は集合場所で己のレンタルウエア姿を確かめるように見下ろしている。パープルというかなんというか、いっそ『どむらさき』としか言いようのないものすごい紫の上下に、上着の胸部とズボンの裾にポイント的に黄金というかなんというか、『どきいろ』のラインが稲妻の如くデザインされた、ものすごいウエアだ。しかも生地はサテンというか……まあ、サテンだ。
それだけでも相当に凶悪な様子だというのに、極めつけに、全員胸にゼッケン。白? とんでもない。水色だ。水色が2ーCのカラーらしい。憂鬱そうにすれ違ったほかのクラスの奴らのゼッケンも、緑だったり小豆色だったり真紅だったりクリアだったり、それぞれに大変なことになっていた。
よくもまあ北村は、こんなウエアでもそれなりの感じに見えていると竜児も思う。踏み固められた雪の通路にレンタルブーツで立つ北村の姿は、本当になかなか決まっているのだ。スタイルのせいなのだろうか、それとも体育会系の血のせいか。雰囲気的にはスキー競技チームの本気公式ユニフォーム、これはこれでアリな気がしてくるから恐ろしい。なんにしても竜児も能登の意見に賛成だ、北村はずるい。
ホテルに着くやいなや一人一着この惨いウエアを配布され、班の男女別に割り当てられた部屋で(この部屋もまた、筆舌に尽くしがたい。分かりやすく表現するなら、実乃梨がムラムラきそうな和室であった)着替えさせられ、そしてホテルの玄関からほど近いゲレンデの入り口にクラスごとに集合させられているわけだが。
「……高須なんてすごいことになってるんだけど……」
「言うな。わかってるんだ。自分でも」
申し訳なさそうな能登の視線に、竜児はくっ、と唇を噛む。笑えば般若、泣けば夜叉、口を開けば指名手配、そんなツラにこんな狂ったカラーリングのウエアが似合うわけがないではないか。首だけを挿《す》げ替えた人形のように、竜児の全身の印象はめちゃくちゃ、近いものでたとえれば『タイからやってきたおかまヒットマンが戦いの果てに顔の化粧だけ全部剥げた』みたいな様相を呈していた。
ちなみに能登は使い古された交通安全腹話術人形のようだし、
「はっ! 北村のナイス着こなしのなぞがとけたぞー! ニットキャップと首に引っ掛けたゴーグルだ! 能登っち、高っちゃん、俺らも真似して装着するんだ!! 」
真剣に世迷言を口から無駄撃ちしている春田も、少年院に入れられたばかりの場違いなギャル男というか……悲惨なものだ。それでも一応みんなして、アホが言うとおり、北村がやっているのと同じように持参のキャップをかぶり、首にゴーグルを引っ掛けてみるのだが。
「……」
「……」
「……」
三者三様、お互いの姿に口を喋む。やっぱり違う、なにかが違う、女子に人気のまるおくんとはなにかが歴然と違いすぎる……でも、傷つけ合ったって仕方がない。
それにいいのだ。ダサかろうがヤバかろうが、別にオシャレで売っている自分ではない。開き直って竜児は雪山の冷えた空気を思いっきり吸ってみる。さすがに空気がうまかった。肺にひんやりとクリアな冷気が心地よく、バス酔いの余韻がわずかに残る頭が、クイックルワイパーをかけたフローリングのように清められていく気がする。
踏み固められたゲレンデ入り口の擁壁は、身長ほども積もった雪。他のクラスの奴らが騒ぎながら食ってみたりして、「そのへんふつーにきたねーぞ」と地元の人らしきスキーヤーたちの失笑をかっているのが見えた。高校生にもなって恥ずかしい奴ら――人目がなければ本当は自分も食ってみたかった。
実は、などともったいつけても意味はないが、竜児はゲレンデ初体験だ。こんなに積もった雪も、もちろん見たことがなかった。雪景色がこんなにも眩しいなんて知らなかった。
この景色は文句なしに絶景。あとで忘れずに写真を撮って、泰子に見せようとマザコンの星に誓う。
そのとき女子たちものんびりと現れ始め、その姿に「ぷ!」「フハハなんだあいつら!」竜児たちは自分らの格好も忘れ、指差して笑い声を漏らす。
そして、
「……最悪なんだけど……!」
「……ぶはぁっ!」
長い髪をお下げにした大河が顔面に怒りマークを死ぬほど浮かべながらチン、と目の前に現れ、竜児はとうとう噴き出した。
脳天が蕩けそうなピンク……いや、ドゥッピッンックッ! に、目が潰れんばかりのエメラルドグリーン……いや、エッメッラッルッドゥッ! グッリィィィィンッヌ! の曲線がスピード感を表現しようというのか、左の肩口から右の足へ抜けていくのだ。もちろん生地はサテンというか……まあ、サテンだ。そして2ーCは全員、水色のゼッケン。
男のウエアもたいがいだが、これもひどい。いまどきつなぎデザインで、ウエストがキユッとくびれている辺り、相当キテいるとしか言いようがない。しかも人より小柄な大河はウエア自体がブカブカで、通常の1.7倍ぐらいに膨らんでしまっている。強風が吹けばメリーポピンズよろしくこいつは山の向こうへ飛んでいくだろう。想定外の悲しいお別れだ。
「ひーひひひ! おまえそれは……ひっひっひー!」
「なに笑ってんのよ!? 笑い事じゃないよ!」
大河は早くもヒステリー寸前、荒々しく雪を蹴散らして地団太を踏む。
「こんなウエア着せ、着さ、させ、着させられて、どうやって人間としての尊厳を保てというの!? このナリで集合写真に残っちゃうのよ!? もし将来事件でも起こしたら、この狂ったナリが全国に放映されて、新聞や雑誌にも掲載されて、そして国会図書館に永久保存されちゃうのよ!? ……ひぇぇ、言葉にしたらなお恐ろしいじゃないのよ、きゃー!」
「……そんな事件、起こすなよ……」
「犯人じゃなくたって被害者になれば同じことよ! たちまち世間にはこの姿が……は!? なにそのかっこ! あんた……ぶー!」
ようやく周囲に目が向いたらしい。大河は電児の姿を見て。噴き出しながら崩れ落ちる。好きなだけ笑うがいい――竜児の心は明鏡止水、なぜなら大河も同じぐらいおもしろいから悔しくないのだ。空気だっておいしいし。景色は最高だし。雲一つない青天であった。
ゲレンデの入り口から傾斜が始まり、山の中腹には大きなロッジが見えている。その向こうにはゆっくり動くリフトが運なり、滑降っ白してくるスキーヤーやボーダーの軌跡が真な雪に美しく蛇行して描かれる。
人気のあまりないゲレンデは、白く輝いていた。そして今年の修学旅行生のウエアは、天に轟くほど悪趣味であった。遠く連なる山々の神にまで、指をさされて笑われているかもしれないと。「やいおめーら! 山をなめんなよ! あと山男にも惚れんなよ! うおお!?」
大河の後を追って現れた実乃梨も、竜児たちのナリを見て絶句する。
「うっわ、男子のウエアも目に泌みるカラーリン……せーいっ!」
竜児たちは実乃梨の衝撃の登場に絶句する。現れるなり、実乃梨はみんなの見ている前でツルーンとこけ、尻でそのままクルクルと回転してみせたのだった。しかも踏み固められて凍った雪で滑ったのかと思いきや、
「いてえな!? おい! バナナ食ったの誰だよ!?」
その足元……いや尻元にはバナナの皮が。
「みのりん大丈夫!? 立てる!? ケガしてない!?」
そして大河が手を貸そうとし、くるぞ、と思わず待ってしまったのは竜児だけではないはずだった。
「残念、みのりんのケツはもう割れちまっ……わ〜!」
「あああ……っ!」
立ち上がろうとした実乃梨ともども、ほとんどお約束、ドジった大河が足を滑らせる。見事に揃って尻もちをつき、二人は仲良く折り重なって、アイスバーンになっていた斜面をすごい体勢で悲鳴を上げつつ滑っていき、
「ちょちょちょ!? やだっ、来ないで来ないで来ないでー!」
「いやっ、止まって、あぶなーいっ!」
ゆるせ〜! と見事にストライク。その先に立っていた美少女トリオを柔らかな雪溜まりにぶっ飛ばして止まる。
「タ……タイガーに櫛枝っ! なにやってんのよお!?」
「やだもー! 恥ずかしいし、冷たいし……」
「ごごごごめん麻耶さま奈々子さま! さ、お手をどうぞ! あーみんもごめんよー! 大丈夫け?」
実乃梨は雪に埋もれた三人に順次手を貸そうと身を屈め、麻耶と奈々子は髪まで雪まみれになりながらもようよう立ち上がるが、
「あーみん? ヘイ、どうした?」
一人、立ち上がれないでいる女がいた。
雪に顔面からつっこんで尻を突き出した絶妙なポーズのまま、亜美はぴくりとも動かない。
「返事はない。屍のようだ」と呟いた大河の傍らで春田が「ぴぎやー!」……感電したのではない。ウケたらしい。
「やっばい、亜美ちゃん今生命力失ってるから立ち上がれないのかも!」
麻耶が亜美のケツを眺めながら言う。奈々子も頷き、
「ウエアがダサすぎたのよ、ここまで歩くのも私たちが肩を貸してやっとだったわ」
アホじゃなかろうか……竜児はしみじみ思うが、そこはさすがに幼馴染。北村が「よし!」と歩み寄り、
「体勢がちょっと危ないが、誰もつっ込むでないぞ!」
四つんばいになった亜美の身体を背後からがっちり抱き締め、そいやっ! と気合ー発。雪の中に埋もれた上半身を引っこ抜いてやる。頭にかぶった雪もバシバシ払い、
「亜美! しっかりしろ、大丈夫か!?」
「……ここはどこ……? 一体なにが起きたの……? あたし死ぬの……?」
ダサいウエアに身を包み、亜美は放心状態であった。ぶりっこ仮面どころか腹黒な素顔もどこへやら、視線も虚ろで口は半開き、モデルも形無しのぼけっぷりだ。
「おお、本当に生命力をなくしてかわいそうに……」
「誰かマジック持ってない? ウエアにシャネルのマーク描いてやればばかちーは生き返るよ」
大河が本気の目をして太字マジックを探しかけたそのとき、
「はーい、全員集合! 班ごとにきちんと整列してくださーい! ……っぷー!」
きっ! 、その場にいた全員の視線が、一点に向いた。視線の先には独身(30)こと|恋ヶ窪《こいがくぼ》ゆりが、自分ばっかり私物のまともなスノボ対応オシャレウエア(しかも色は白だ! 図々しい! )に身を包んで必死に顔を伏せている。
「……みんな、すごいウエアだ……想像以上……」
ずらり居並ぶどむらさき&ずんどこぴんく、水色スパイスの悪趣味軍団に、笑いを堪えることができなかったらしい。うふふ、うふふ、ふふふふふ……隠しようもない笑い声が、顔を隠した出席簿の向こうからきっちり漏れている。
うむ。とクラス全員の意志を正しく汲んで、北村は革命の闘士となった。亜美も立ち上がり、両眼に暗い怨念を宿す。目指せ下克上、落とせ城。北村がすらりと右手を上げる。
「……撃ち方用意っ!」
2ーCの面々は、それぞれに足元の雪を手に取る。ぎゆっ、と握って、
「え? なに? やだ? なになに? え?」
「てーっ!」
きゃあああひどい〜〜〜〜〜……北村の号令で一斉に放たれた雪球が、容赦なく独身(30) にブチ当たる。他のクラスの連中や一般のスキー客までもが、そのザマを指をさして笑う。
***
全員揃っての挨拶と準備運動の後、二年生たちは班ごとに、なだらかな雪の斜面にむらさきやピンクの点となって散った。午後から行なわれる本格的なコース練習に備えて、お昼の前に小一時間ほど雪慣らしと各自のレベルの確認を行なうのだ。
北村率いる九人班も、広々とひろがるゲレンデのゆるやかな裾野にて、それぞれレンタルスキーを装着。
「……おっ! お、おう、進んでくぞこれ!? どうしたらいいんだ!?」生まれて初めてのスキー板、竜児はやっとこさブーツを金具に嵌められたのはいいが、中腰の体勢のままのろのろと斜面を滑り出してしまい、
「斜面に対して横向きになれ!」
北村が慌ててアドバイスをくれる。が、
「えっ!? 横向き!? 一体どうやって……うおお!?」
「ストックストック! だめなら尻もちついちゃっていいんだぞ! 落ち着いて、膝を痛めないように! 体重を前にかけろ!」
「えええ……おう!?」
二本のストックは用をなすことなく大きく宙を踊り、スキーは滑りながらどんどんハの字の左右に開いていく。股が裂ける! とパニクって、竜児はバランスを崩してそのまま見事にひっくり返った。むすっ、と起き上がり、
「……楽しくねぇ!」
青空に二本そびえる己のスキーの先を睨んで喚く。その目線の先では、
「ひっさしぶりだな〜結構いい雪してんじゃんオラオラ! 、セイセイ〜、オラオラオラ〜」
実乃梨が固く盛り上げられた雪のコブの上、グイグイ体重を乗せて雪を確かめるみたいに身体を前後させていた。そして勢いをつけてスキー板をぴったり合わせ、コブの真上で腰を捻り、左右に何度か飛んでみせる。
一体なにをしているのか竜児には不可解、やがて実乃梨はコブの傾斜にスキーを委ね、シャンと音を立てて短い距離を一気に滑り降りる。雪を跳ね飛ばしながらターンして停止。体重移動だけで完壁に、己とスキーを操っているのだった。
その姿は、とにかく異常にかっこいい。座り込んだままでいる己の姿も忘れて、思わず見とれてしまうほどに実乃梨のスキーはきまっていた。ちょっと浅めにニットキャップをかぶり、短めの髪を無理矢理に結んでキャップの下から跳ねさせているのも異常なレベルでかわいくて、ただでさえ目が離せないというのに。
少し離れたところから、竜児の気持ちを代弁するみたいにポフポフとレンタルグローブのまま拍手したのは亜美だった。
「実乃梨ちゃん結構スキーやるんだ! すっごい上手っぽーい! さすがスポーツ万能!」
「へっへ、そうかい? とかいって、あーみんもかなり滑れるんじゃん」
「えーやだやだ、そんなことないって! 普通だよ、普通〜!」
普通〜! と繰り返しつつ、亜美は傾斜のほとんどない雪の地面を、スケートするみたいになめらかに、スキーで進んでいく。鼻歌まじりに体重を片足に乗せて、まるで優雅なダンスのようにカーブを描いて戻ってくる。それが本当に「普通ー!」なら、立ち上がることもできない自分はなんなんだ。異常者か。変態か。
竜児はさっきから起きようとして足を動かしているのだが、左右のスキーがガチャガチャとぶつかり、カーブした先端が引っかかり、うまく動けないでいるのだった。しまいにはスキーの後ろが雪にぶっ刺さり、どうにも身動き取れなくなり、疲れ果ててもう一度雪の上にひっくり返る。このかっこわるさは、確かに異常なレベルであった。
息をつきながら無様に顔だけ上げてみると、麻耶と奈々子が楽しげに笑い声を上げているのが見える。
「ハの字ハの字……おお、いけるいけるー! あたしうまくな〜い!?」
「ボーゲンだけならあたしもなんとかできるかな。中一以来だけど、案外忘れてないなぁ」
二人ともそれなりに滑れているではないか――実乃梨、北村、亜美に続き、麻耶と奈々子もスキー経験者だったらしい。
もしかして、この班で滑れないのは自分だけなのだろうか? そうだとしたら相当に孤独だ。ぜひとも他にも初心者がいてほしい。そう思った次の瞬間
「あっれ、高須、座り込んじゃってどうしたのよ。滑ろうよ。一緒に滑ろうよ」
ついーっと能登が眼鏡に雪の光を反射させつつ、「へーい」と目の前をちょっとよたつきながらも横切っていく。さらにその後ろを、
「俺スノボの方がほんとはうまいんだけどな〜」
ロン毛を生意気にたなびかせ、春田までもが華麗に滑っていくのだ。それはもう楽しそうに。鼻歌まじりにニコニコと。額の邪眼が開きかけるのを精神力で抑え込みつつ思い出す。そういえば春田のおじいちゃんちはスキー場のすぐ近く、そんな話も聞いたことがあった気がする。
激しく取り残され気分であった。裏切り者、と呟きながら友人たちを眺めていると、ストックの一本が手から外れてしまう。とっさにストラップを掴もうとするが、ストックはゆるやかな斜面を意外な速度で滑っていってしまう。追うことどころか立つこともできず。慌ててその行方を目で追うと、
「おっ、落とし物発見!」
シャツ、と雪を舞わせながら、角度のきつい弧を描いて華麗なターン。
滑り落ちるストックを捕まえてくれ、ゴーグルを上げてみせたのは実乃梨だった。スポーツしているときの実乃梨は本当に生き生きとしていて、
「高須くんのストック? だめじゃん、ちゃんと手首にこの紐んとこひっかけなくちゃ!」
ちょっと偉そうにお説教かましてくれるその表情さえも鮮やか過ぎて、目が眩みそうになる。ゲレンデの眩しさと相まって、雪の中に佇む実乃梨は、本当にキラキラと輝いていた。
「ほいほい! 聞いてっかー!? ほら、ちゃんとストック持って!」
「ああ……! 悪い!」
その笑顔に引き寄せられるように、竜児は無意識、一本残ったストックだけで、すくっとスキーでゲレンデに立ち上がっていた。あれ、立ててる、もしかしてこのままスキーなんて簡単にできるようになってしまうのでは? そんなことを思ってしまった瞬間、
「……おう!?」
つるーっ! とスキーは斜面を滑り出し、実乃梨のいる方へ。片手とストックを振り回しながらバランスを取ろうとするが下半身は見事にぎくしゃく、てんでバラバラの方向に二本のスキーは進んで行こうとして、「うわあっ!」「よし! 俺の胸に飛び込んで来い!」……前方で逞しく実乃梨が両手を広げてみせる。できるかー! と叫ぼうとして、
「ああああっ! ……す、すまん……! 俺は自分が清けない……!」
「……おぅふ! いいんだぜ……気にすんなよ!」
無様なことこの上なし。
ほとんど飛びつくようにして、竜児は実乃梨に衝突していた。しっかりと受け止めてくれた実乃梨のおかげでスキーは止まったが、二人してそのままちょっと固めの雪の上に転がってしまった。しかも、
「……本当に、すまん……!」
「ああ! 本当に気にすんな!」
「すまん、すまん、ごめん、ああ……申し謝ねぇ……っ!」
謝れども謝れども、無様度はアップするばかり。あろうことか実乃梨を押し倒した体勢のまま、その胸のあたりに般若ヅラを押し付けたまま、竜児は立ち上がることができないのだった。あせればあせるほど二人分のスキー板はがっちゃがっちやとぶつかるばかり、ウエアのおかげでその身の感触がまったくないのがとりあえずラッキー(……本当にだ、本当だとも! )、竜児はとにかく起き上がらなければ、と、必死に手足を動かす。
「……高須くん、あのー、本当の本当に気にしなくてもいいんだけどね、あせらなくていいし」
「いやいやいや、すすすすまん! 今すぐに立つから、ちよっと待ってくれ!」
「……実は、君がスキー板を動かすたびに、私のケツが左右に激しく割られているのだ……」
「きゃあああああ! いやあああああ!」
一体どういう馬鹿力、竜児は一気に身を引き剥がし、実乃梨の身体ねの上から跳のいた。顔を赤鬼の如く血色に染め、熱過ぎる頬をグローブで隠し、ゲレンデに横座りになってあまりの恥ずかしさに身を捩る。
「お、俺はなんということを……! こんな恥ずかしいこと……もうだめだ、生きてはいられない! 俺のことなどここに捨てていってくれ、頼むから!」
「恥ずかしいのは私の方なんだけど!? まあいいからとりあえず立てや! な!」
「おう!?」
実乃梨は軽やかにスケーティング、竜児の背後に回り、脇の下に手を差し入れてくる。そいや! と引き上げられてその拍子、うまいバランスで竜児はひょいっと立ち上がれてしまい、「お、うわ、ちょ……っ! 進む進む!」
「あららやべ……あ、でも、滑れてるじゃん!? いいよいいよ!」
「違う! 滑ってるんじゃない、止まれねぇんだよ!」
実乃梨に後ろから支えられて前後にぴったり連結したまま、二人して斜面を滑り出す。
「いや、このバランスを身体に覚えさせるんだ! しばらくこのままいっくぞー!」
「マジでか!?」
竜児の脇を掴んだまま、実乃梨は自分のストックを器用に一本ずつその場に投げ捨て、開いたスキーの間に竜児のスキーを跨いで重なるようにする。バランスは確かにしっかり保たれていて、竜は自然と膝を緩めた前傾姿勢、
「うおー……お、お、おおお……!」
生まれて初めて、スキーで風を切る。あまりなめらかではない斜面を四本のスキーは驚くほど調子よく進んでいく。なるほど、足首がブーツで固められている分、膝のクッションをうまく使わなければスムーズには滑れないわけだ。理屈だけは身体で理解できたが、
「お、お、おおぉ! やっぱ、こ、こぇぇ!」
「大丈夫、こんな斜面じゃスピード出ないから! スキー重ならないように気をつけて!」
「おおおおう! うおおう!」
「日本語しゃべって!」
へっぴり腰の竜児の後ろで、実乃梨が「いいぞいいぞ! 滑れてるじゃーん!」と声を上げる。
「ていうか上手! 私も最初にスキーしたとき、小三かなあれは、お父さんにこうやってもらったんだよ!」
「お、俺は……ちょっと恥ずかしいぞ!」
「なーんでさ!」
「俺は小三の女子でもないし、おまえはお父さんじゃねぇからだ!」
「ははは! うまい! 座布団いっぽん!」
なにが!? 竜児のつっこみも風が吹き飛ばしていく。確かにスピードはゆっくりと、四本のスキーはハの字を重ねた形を保って雪の斜面を滑っていく。確かに少しずつ、バランスをとるのに慣れてきた気がする。早くもちょっとだけ、余裕も生まれてきたように思う。
しかしその分、緊張よりも爽快さよりも、竜児の脳内にはいまやもっと色々なものが激しく渦巻き始める。
それはたとえば脇の下の手の感触とか。すぐ背後に感じる息遣いとか。
「……っ」
意識した途端、それは妙な生々しさでウエア越しに伝わってくるのだ。そして、自分たちは端からどう見えているのだろう、とか。
この間は袖のはじっこしか掴んでくれなかったのに今日はこんなにがっぷり組み合ってくれているとか。嫌いな奴には普通ここまでしてくれないよな、とか、今、おまえはどんな表情でいるんだ、とか。
「ねぇ! そろそろ一人でも滑れるんじゃない!? 手、離すか!? いい!?」
もしかして、本当に、イブの夜とは違う答えを、期待していいのか、とか。
「……く、櫛、枝……!」
――俺は、おまえの真意を、本当の気持ちを、
「うわわっ、ちょっ!? 振り向いちゃだめっ!」
「おう!?」
ぐらっ、と、微妙に二人のバランスが崩れる。その瞬間、二人分のスキー板が音を立てて重なり合う。あっという間にスキーは引っかかり、実乃梨は真横に、竜児は尻から、そのままゲレンデにひっくり返る。
雪の上とはいえ、結構な強さで打ち付けられ、息が詰まったのは一瞬。
「……ってぇ……大丈夫か!?」
竜児はちょっとあせって実乃梨の姿を捜した。
「あいたた……おっけーおっけー、全然平気!」
ウエアの雪を払いつつ、すぐ後ろで実乃梨は起き上がって見せる。ニットキャップをかぶり直しながら竜児を見やり、
「この程度のこと、スキーに来たんなら覚悟してなくちゃ! 甘い甘い! ほら、今度は一人で立ってごらん!」
先生ぶって、びしっと指をつきつける。そして竜児が起き上がるのも待たずに外人みたいな仕車で天を仰ぎ、おおげさに「お――」と両手を広げて見せ、
「ああでも残念! せっかく上手くいってたのに! ……ていうかストックねぇな」
空のその手を不思議そうに見やる。再び竜児はコケそうになる。
「おまえ、自分でストック捨ててたじゃねぇか!」
「げっ、そうだった! いっけね、高須くんのストック拾ったついでに自分の置いてきちゃうなんて、私ってアホ? 回収してくるわ!」
ゆるい斜面をスキーを履いたまま、実乃梨は器用にストックもなしに歩くみたいに上がっていく。後には逆ハの字の跡だけが、くっきりと雪の上に残される。
取り残され、竜児はその背中をただ見やった。ちなみにいまだ立ててはいない。
ただ、思っていたのだ。実乃梨の言った意味とは違うだろうが、竜児だって上手くいっていた気がしていた。上手くいく気がしていた。
もしかして本当に、このまま上手いこといくんだったりして――なんて期待するのは、愚かなことだろうか。ふられ男のくせに図々しいだろうか。
こうして一人、結局置き去りにされている現状を見回し、あまり浮かれないように自制する。泡のように生まれくる淡い期待は、できるだけ見ない素振りで放っておく。
息をつき、とりあえず落ち着かねば、と顔を引き締めた。一人ではどうにもできないスキーを脱ぐ。しかし頭の中は早くもクラクラ、フワフワ、ムズムズとざわめいている。いけない、こんな浮かれ調子では、とてもきちんと実乃梨の真意を訊くことなどでき――
「おうっ!?」
背後からの突然の衝撃に、竜児は前方にドーン! と吹っ飛ばされる。顔面から雪の中に思いっきりつんのめり、一体なにが、と顔をあげるのと同時、
「つったってんじゃないよデクノボー!」
轢かれたのだ……と理解する。
そこには大河が――そりにちんまりと跨って、ゲレンデを暴走していたらしい大河が、凶悪に顔を歪めて竜児を睨みつけていた。とっさに言い返す言葉もうまく出ず、倒れたまま、
「おまえ……本当に……おまえ……本当に……おまえ……本当に……おまえ……」
「は? なに言ってんの? あーあ、チェッ! 邪魔くさ! せっかく調子よく進んでたのに止まっちゃったじゃんか」
大河は言いたいだけ言って、再び赤いプラスチックのそりに座り直し、ずりっ。ずりっ、とお行儀悪く開いた両足で前へと漕ぐ。少し勢いをつけてそりは滑り出し。
「おうっ……!」
「まあ!」
前方の竜児をもう一度ゴリゴリと轢いた。
「ちょっともう、ほんとになにしてんのよ? なんでそりの下に入るの?」
「おまおまおま……おまえなあ!?」
立ち上がるなり、竜児はキレた。
「おまえこそ、なんでだよ!? どうしてだよ!? なにゆえに俺を轢くんだよ!? 轢かないでくれよ! 轢かれたくねぇんだよ!」
喚きながら大河に詰め寄るが、
「やだ、大声出して……どうしたの? あんたって結構困った奴だよ、そんなふうにイライラしちゃってさ。なにか嫌なことがあったわけ? いいよわかった。聞いてあげる、特別に」
大河は訳知り顔で肩を竦め、上から目線で「どした?」と。偉そうに顎をつきあげ、口元には鷹揚な笑みまで浮かべてみせるのだ。
そのツラ。その言い草。
んあああぁぁん、と上げたことのない種類の悲鳴が竜児の喉から絞り出てきた。アメリカ人なら「ガッデーム!」、中国人なら「アイヤァァー!」、竜児の場合は「んあああぁぁん」であった。天を仰いで頭を抱え、その手を力いっぱい開いてみせながら全力で叫ぶ。
「あったよっ! 轢かれたんだよっ! そりにっ! おまえのっ! 二回もっ!」
「別に私がそりに乗りたいって言ったわけじゃないのよ」
そりにチョン、と座ったまま、大河は顎に手をやり、竜児の怒りとはまったく関係ないお話を聞かせてくれようとする。「はあ!?」となんとか返しつつ、こんなに話のわからない耳ならどこかに捨ててしまえばいいと竜児は思うのだが、
「スキーを借りてここに上がってくるまでに、二回取り落として、滑り落ちたスキーがちょうど二回とも独身(30)にぶつかっちゃったのよ。で、二回目にスキーを拾って、みんなに追いつこうとして方向転換したら、今度はスキーでブン殴っちゃった」
「そ……それはそれは……」
――聞いてみれば、それなりに聞き応えのある話ではあった。長モノを持っている大河には今後絶対に近寄らない。
「そうしたら、私はスキー禁止だって取り上げられちゃったの。危ないからそりでもやってろ、だって。それが教育者のセリフ? と思ったけど、ま、どうせスキーできないし、ウエアだってこんなだし、もうなんでもいいか、って」
なに!? と竜児は思わず声を上げていた。大河を指差し、唐突に目を輝かせる。
「おまえ、スキーできないんだ!」
「なんで急に嬉しそうなの? 気持ちわる!」
轢かれた後頭部はまだ痛むが、一応は収穫であった。自分以外にもスキーができない奴発見。そうだ、天下のドジタイガ! 大河を忘れていた。
「うちの班、スキーできないの俺だけかと思ってたんだよ。そうかそうか、おまえもできない子チームか」
「えっ!? うそ! みのりんや北村くんは当然できると思ってたけど、そうなの!? だってあのアホは!?」
「見てみろ、あの軽やかな姿を」
うええ! と眼下を軽やかに滑っていく春田を見やり、大河は呻き声を上げる。漫画みたいに目を擦り、見間違いではないと理解したらしい。
「世も末ね……あーあ。スキーなんてつまんない。なんでわざわざあんな長い板履いて、雪の上を滑んなきゃなんないわけ? 雪国に住んでるわけでもあるまいし、意味ないわよねこんなモン」
「そこは同感だけどよ。……ま、ぶつくさ言ってねぇで、素直に北村に教えてもらったらどうだ? あいつは教え魔だから、それはもう暑苦しく教えてくれるんじゃねぇ?」
「そりでなにをどう教われってのよ?」
言われてみれば、納得。ものすごい説得力をもって、大河は真っ赤なそりに鎮座しているのだった。
「……あんたこそ、人のことはっかり言ってないでみのりんに教わってきたらどう?」
「残念だったな、もう教わったんだ。そして置き去りにされているところを、おまえがそりで轢いて下さったんだよ。おかげで完全に追いかける機会を見失った」
「はあ? なにそれ、人のせいにするんじゃないよ根性悪」
そしてぷいっと横を向き、白い鼻息をふんむ! と放つ。
「……ったく。あんたがこんな調子じゃ、私の『一人立ち生活』も意味ないじゃん」
そういえば、と竜児は思う。
大河とこうして二人きりで話すのは妙に久しぶりな気がするのだ。少し前まではこれが毎日、毎晩のことだったのに、こうしてちよっと言い合いをしただけで、普段は使わない腹筋が硬く疲労するのがわかる。
「……そうか。意外と、続いてるんだな」
入院した時から――つまり実乃梨にふられたあのイブの曰以来、大河は竜児とのグダグダ生活から完全に縁を切っていた。学校ではもちろん顔を合わせていたが、二人きり、という状況は、本当に久しぶりなのだ。
「おまえも結構、頑張るもんだな」
竜児の言葉に大河は得意げに胸を張り、お下げを一本払っていばる。
「そーよ! そしてこの頑張りは一生続くの! だからあんたも、私の気遣いに感謝しながらもっと頑張るがいい! ……まあ、なにもあんたのためだけに一人暮らし頑張ってるわけではないけどさ。最終的には、自分のためなんだけど」
――一人で生きて、大人になる練習だもん。
そう続けて、
「はい、ってわけで、そこどいて! また轢くよ!」
「……やっぱりわざとじゃねぇかよ!?」
「ま、そのへんは言葉の綾ですわ」
ずりっ、ずりっ、と大河は邪悪な薄笑い、両足でそりを漕ぎ始める。なだらかなゲレンデの斜面を勢いをつけて滑り降りようとして、しかし、
「……うわわっ!?」
天罰なのだろうか。竜児の目の前、そりごとスポーン! と後ろにひっくり返る。真っ青な空に強烈なコントラストで、跳ね上げられた雪が舞う。そのお見事なコケっぷりに、竜児も思わず『「そんな!?」と間抜けな声を上げる。
「……おまえ……そりでこけるっておまえどんだけ……!」
「あいったあー! ひぇぇびっくり、勢いつけすぎたわ!」
重いブーツを半ば引きずりながら走り寄り、ひっくり返ったそりを元に戻してやる。雪にまみれた大河も引き起こそうとするが、
「いらん!」
シンプルに一言。大河は自力でようよう立ち上がり、ウエアについた雪をバシバシ払う。そしてもう一度そりに跨るが、
「なんかおまえ……一人でそりとか、すっげぇ危っかしいぞ。もうやめた方がいいんじゃねぇか?」
竜児は思わず足でそりの尻を踏ん付けて止めていた。大河は振り返って舌打ち、顔を歪めて竜児を睨む。
「うるっさいなあ、大丈夫だってば! 足離せ! どけ!」
「いや、でも。俺には見えるんだ……おまえはそりでこの斜面を滑っていって、そのまま止まれなくなって、そしてロッジの壁に激突して骨を折って泣くだろう……その傷は雨の日、冷える日、湿度の高い日、おまえを一生|苛《さいなむ》むだろう……そうなるんだよ絶対に……気の毒になあ」
「……あんた……」
おどろおどろに両目を見開き、しみじみと語る竜児のツラに、さすがの大河もちょっと引いたらしい。眉をしかめて顔を引き攣《つ》らせる。
「心配してるようなフリして、よくもそんな不吉な想像できるね……」
「でもありえる話だろ、おまえみたいなドジなら特に」
「大丈夫だってば! あんたのお世話はもういらないの! いい加減くさい足をどけな!」
くわっ! と噛み付くみたいに喚き、大河は思いっきり雪を漕こうとして両足をバタつかせる。くさいのは足じゃない、レンタルブーツだ、と下らないことを思いつつも、竜児はちよっと乾いた唇を噛む。
確かに、もう大河には自分の世話などいらないのかもしれない。いや、いらないというよりも――危なっかしかろうがなんだろうが、自立しようとジタバタしている奴の後ろを踏んで止めることなんて、してはいけないのかも。
力でこの場に縫いとめようとするなんて、まるで成長して先を行く奴に置いていかれたくなくて駄々をこねているようなモンなのかも。
そういうみっともないことなのかも、なんて。
「はーなーせーっ!」
「……」
ぐいぃぃぃぃいいい! と大河が前方に身体を伸ばすのと同時、竜児はその足を上げた。
すると、
「ぎや――――っ!? 急に離すな――――っっ!」
「……おう……!」
大河が思っていた以上に、雪を蹴った勢いは強かったらしい。そりはゲレンデを急発進、慌てて竜児も手を伸ばすが間に合うばずもなく、とーまーらーなーいー! と悲鳴の尾を引きつつ直滑降開始――も、三メートルほどで、
「にゃー!」
雪のコブでバウンド。あえなくそりは跳ね上がってひっくり返り、大河は前方に投げ出され、顔面からゲレンデにダイブ。言ったこっちゃない……と唸りながらも、
「手助けなんかいらない! でも今コケたのはあんたのせいだから!」
雪塗れの大河に低く凄まれ、竜児はその場で両手を上げてみせる。これは了解のホールドアップ、わかっています、身動きしません。
しかしそのとき、
「んばっ!?」
突然にズザッ! と凄まじい雪の礫《つぶて》が大河を真横から襲う。その勢いに驚いた挙句、大河は再びゲレンデに転がる。なにが起きたかと思えば、
「キャーハハハハハハハハハハハ! アハハハハハフハハハハハハヒーハハハハハハ!」
悪意のマシンガンみたいな哄笑を放ちつつターンでの急停止、エッジで削った雪を力いっぱい大河にぶっかけ、顎が外れるほどに笑っているのは亜美であった。
「ばかちー……てめえ……」
「だっさああああああ! そりでこけるなんて、超奇跡! 奇跡のアホ! さすがの亜美ちゃんもシャッポを脱ぐわ、あんたって悲惨すぎでしょ!? 逆にすげえわ、キャハハハハハ!」
ストックで大河を指し、亜美は涙まで流してなおも爆笑し続ける。大河の目の色がみるみる変わり、瞳孔が開き始める。髪の毛がふわふわと、目に見えるほど逆立ち始める。
「……川嶋、逃げた方がいいんじゃねぇか?」
「こーんなそりもできねーグズに追いつかれるほど亜美ちゃんスキー下手じゃないし(ハァト)ま、むかついたなら追いかけてくればぁ? 漫画みたいに雪玉になって転がり落ちてくりゃ多少は早いんじゃねーのお? プーキャハハハ!」
じゃね〜、ばいば〜い、と余裕たっぷりに、亜美はスキーで再び滑り始めて現場離脱をし図る。しかし
「……ふごっ!」
大河の投擲は正確であった。ブン投げたそりは、見事に亜美の後頭部直撃。ひぇぇ、と震える竜児の目の前、大河は物も言わずに倒れた亜美に襲い掛かる。それはまるで鳥葬のヒトコマ「いやあああ!」…ゲレンデに倒れこんだ亜美に覆い被さり、「ひぎいいい!」……仰向けのままでスキー板をおっぴらき、「うぎゃあああ!」……押さえつけて股を裂く。ウエアを引っ張り、力ずくで四肢《しし》を裂き、
「……く、食ってる……!」
竜児は戦慄、口元を押さえる。白い息を吐きながら関節をキメた亜美に覆い被さり、大河はガブガブと噛み付き攻撃に出ているのだった。
その背後を「はっはっはっは!」……無闇に爽やかに、北村が通りすがる。すざっ、とイメージビデオよろしく笑顔でターン、ゴーグルを上げて歯を光らせる。
「なにをしてるんだ亜美に逢坂! いくら雪山が開放的な雰囲気だからって、変なことをするんじゃないぞ! んあー!」
ピクピク震える亜美が、最後の力を振り絞って振り回したストックが、北村の股間にずぼっと深々突き刺さっていた。
***
「櫛枝と亜美と春田が上級者コース。で、俺と能登、木原、香椎が中級コース。高須と逢坂が初級コースだな」
班長の北村が若干内股気味になりながらかけた言葉に、はーい、とお行儀よくみんなして返事をする。
相変わらず天候は快晴。午後の強烈な日差しに、ゲレンデはより真っ白にキラキラと眩しく光って見えた。ゴーグルなしでは目を傷めそうなほどだ。
午後からはコーチもつく本格的なスキー練習が、レベルごとにコースに分かれて行なわれる。リフト乗り場まではみんな一緒だが、そこでお別れだ。
「あんた、根性出して上級者コースついていけば?」
「……自分でもできねぇことをまーた言いやがる。俺もそりでいいんだよ」
竜児と大河は耳打ちし合い、あーあ、と揃って息をついた。昼に聞いた話によれば、初級者コースとはいっても名ばかり、本当にスキー未経験の者だけが集められて、そりで遊んだり、雪だるまを作るだけだという。
なにが楽しくて修学旅行でそんなこと、と思いつつも、無理矢理スキーをやらされて、ケガでもするよりはよほどマシだ。実乃梨といたいからと無理して上のコースに行って、みんなに気を使わせ、邪魔になるのも嫌だった。なにしろ、立つことすらままならない状態なのだ。まさかいつまでも実乃梨が後ろから支えてくれるわけでもあるまいし。
「じゃぁリフト乗り場に行くぞ、全員ついてこいよ! 配布されたリフト券は企員首に下げているな!」
リーダーシップ爆発、力強く先頭に立つ北村の後について揃って雪の中存歩き出す。すでに他のクラスの連中もリフトに向かい始めていて、スキーを抱えてウロつく全身原色軍団の図はなかなかに壮観なものがあった。
そのとき、麻耶がつつつ、と小走りに北村に追いつき、
「ね、ね、ね! リフトニ人乗りでしょ? あたしまるおと乗る!! 」
……聞こえてしまった。思わず少し後ろを歩いていた大河の顔を振り返ってみるが、大河は外人のようにちょっと肩を疎めてみせるのみ。違う行き先のリフトに乗るのだ、仕方ないのかもしれないが。
「ああ、別にいいけど、香椎と乗らないのか?」
「リフトに乗ってるところ、奈々子と写メ撮り合いたいんだもん! 一緒に乗ってたら全身写らないでしょ? ね、奈々子!」
少し黒めに染め直したサラサラのロングヘアを揺らし、麻耶は親友・奈々子をつつく。奈々子はうふふ、といつものように柔らかな微笑を浮かべ、
「うんうん、そうなのよねぇ」
傍らの亜美に祝線で連絡。亜美はクルリとチワワ目を動かし、楽しげに唇を尖らせる。美少女トリオの間では、とっくに北村ゲット作戦は練られていたわけだ。さぞや大河はあせっているのでは、と竜児は大河の顔を覗いてみるが。
「……大河?」
「えっ!? な、なに!? 急に顔近づけてくんじゃないよ!」
なに、じゃねぇよ――思わず眉をひそめる。大河の様子は、明らかに妙だった。大好きな北村が着々と麻耶に持っていかれそうになっているというのに、一体どこを見ていたやら、竜児と目が合うやいなや五センチぐらい飛んだのだ。
「……最近おまえ、なんか変じゃねぇ?」
「……最近って、いつ? ていうか、普通。普通普通普通。普通だって」
やっぱりおかしい。普通じゃない。主に、北村関係で。
今の態度もそうだが、思い出してみれば少し前から違和感があった。大河はなんだか妙に、以前よりも北村に対してクールな気がするのだ。
これまでの大河なら、たとえば修学旅行の班を決めるなんてときには大騒ぎしてパニクって「北村くんと一緒になりたいの!」と顔を真っ赤にしていたはずだ。結果的にはそうなったが、あのときの大河はむしろ竜児と実乃梨が同じ班になれたことを喜んでいたようだった。竜児が実乃梨にふられるという事件がその前にあったせいかもしれないが、それにしても大河の北村への態度は、なんというか、クールというか、フラットというか……
「……だから、なに!? ジロジロ見るんじゃないよいやらしい!」
「……」
「見るなっての!」
いや、見る。
思ったのだ。むしろ逆なのか? 大河のマンションでなにやら話していた二人の姿を思い出した。あれも、変だった。すごく自然で、親しげだった。たとえて言うなら、一から話さなくても「あのときのことだけど」だけで通じるような独特の連帯感があったような気がする。
「……おまえ、北村となんかあっただろ?」
「ええっ!? な、ないよ! ないないない! ない、ない、な……あ……あった、かな? ないんだけど、あったといえば、あった、かな? さあどうかしらね? ええと?」
声を殺す竜児の目の前で、大河は顔色をめまぐるしく変えてみせる。ほとんど特技の顔面信号だ。
「い、言わなかったっけか。そうそう、あったあった。あのー、年明けに、一人で歩いてたら偶然会って、ちょっとお茶したの。それだけそれだけ。それからお参りを、あのー、初詣? 的なアレをしたのよ」
「……」
なんで言わないんだよ。
――とは、口には出さずにいた。口に出してしまったら、なんだかすごく変な空気になりそうだったから一瞬の判断だ。かえって殊更《ことさら》に事を大きくしてしまうような感じがしたのだ。でも思う。
なんで言わないんだよ。
ああ、それがきっかけで、二人は仲良くなっていたわけだ。で、それを言わずにいたことと、どことなく余裕があるように見える態度が、つまり関係しているわけだ。クールというよりはやっぱり『余裕』なわけだ、大河のそれは。
「だってあのとき、あんた退院したばっかりだったし! あれはそれだったし! 私ばっかり浮かれていられるような状況じゃなかったじゃん! 言ったでしょ? 責任、感じてたんだってば! だから、だから――はあ!? なんで私があんたに言い訳しなきゃなんないの!? なんなのよ!?」
「……なんでいきなりキレてるんだよ!?」
大河の顔色がみるみる紅潮して、頬が薔薇色にカッと染まる。ダシダシ! とスノーブーツで地団太を踏むように雪を踏み、大きな瞳をギラギラ光らせ、
「なんでもかんでもあんたに報告しなきゃいけない義務なんかないっ! 私にだって言わないことぐらいあるよ! 思ってること全部駄々漏れにしてたらその方が変だもん! 言いたくないことは言わないっ! それのなにが悪い!?」
「別に悪いなんて言ってねぇだろ、なーに勝手に怒ってんだ、おまえやっぱり変だよな! それともなにか、本当に後ろ暗いことでもありそうだよなあ!?」
売り言葉に買い言葉。自分でもびっくりするほどいやらしく言い返した竜児に、大河はとうとう「キー!」と逆上、金切り声を上げる。
「あ、あ、あ、あんたになんかっ、全部言ってたまるかばあーかっ! あんたなんかには一生わかんないこと。いっっっっ……ぷぁいあるんだからっ! 言わない気持ちなんか死ぬっっっっ……ふぉどあるんだからっ! 教えてなんか、やるもんかっ!」
「勝手にしろよそんなモン! おまえがそうしたいならいくらでも隠し事してろ! 俺は、全部おまえに話してたけどな! ああそうかよ、はいはいそうかよ、べっつにいいよ、構わねぇよ! おまえが言いたくねぇなら、俺に知られたくねぇことがあるなら、死ぬまでずっと隠してろ! もう知らねー!」
「言われなくたってそうするつもりだっての! こっちこそあんたなんか知るかぁぁっ!」
半ベソの大河にそりで殴りかかられ、負けるか、と応戦。なんでケンカしているのか、大河を泣かせてしまったのか、竜児にはわからない。ただむかつくし、大河はなにか隠しているし、それに攻撃をしかけてきた。だからそれに応じるまでだ。黙っていたら殴り倒されるだけだから。
赤いそりと青いそりがドッカンドッカンぶーつかりあうその背後で、
「なんでケンカしてるんだおまえたちは!?」
北村の声が大きく響いた。だってこいつが! と竜児は思わず振り返り、ガコン! と大河のそりが後頭部にヒットする。「あんたなんかあんたなんかあんたなんかー!」と続いて連打を浴びながら、
「やめろ! 能登! 木原!」
「俺たちのことじゃねぇのかよ!?」
思わずずっこける。「知らないんだからー!」と大河の最後の一撃はしかしコケたおかげですっぽ抜け、大河はその勢いで自爆して雪の中に自ら埋もれる。
そして、ようやく二人して気がついた。ケンカになっているのは自分たちだけではないらしい。
「なんでいっつもおめーがしゃしゃってくんだよ!? どーしてあたしの邪魔すんの!? マジでうざいうざいうざいうざいつ! うっざ――――いっ!」
北村が止めるのも聞かず、麻耶がストックで能登に殴りかかっていた。普段あまり切れているのを見ない人材の大暴れ、大河も己がしていたことも忘れたか、「ひええ、狂った……」と声を上げる。しかし能登も負けてはいない、ストックを掴んで逆に押しやり、
「木原こそ、いっつも身勝手してんじゃんかよっ! 自分が北村にベタベタしたいからって変な工作ばっかしてんじゃねー! そっちこそよっぽどうっざいんだよ!」
「工作なんかしてないもんしてないもんしてないもん!」
「したね、絶対したね! 自分の都合ばっかり、木原っていっつもそうだよ! 今だってそうだろ!! 」
眼鏡をずらして能登は喚き、さらに麻耶にストックで襲われる。
「……な、なんだこれは!?」
「あら、そっち終わったの? こっちはさっき始まったところよ」
さりげなく大騒ぎの輪から距離をとり、奈々子が解説してくれたところによると、事情はつまりこうだ。
北村とリフトに乗ろうと工作をした麻耶に、能登が「木原はまたなんか企んでんのかよ」などと嫌味を言ったのだという。それに復を立てた麻耶が「能登には関係ない」と言い返し、能登が「スタンドプレーが鼻につくんだよ」と言い、――まあ、あとは見てのとおり。
「前からずっと言いたかったんだけど、ほんっとに能登って、あたしの邪魔ばっっっかりしてんじゃん! 一体なんなの!?」
「邪魔なんかしてまっせーん! 俺たちは俺たちの親友の幸せを祈ってるだっけでーす! なあ春田! そうだよなあ!」
イエース! と春田も参戦。能登と肩を組み、べろーんと舌を出してみせる。
「悪いけどさ〜、木原たちの工作って、俺たち的にはの〜ぐっど! な〜んかいやらしっぽくて、そういうのすげえ萎えるわけ」
「はああ!? アホが萎えようがどうしようがすっげぇどうでもいいんですけどお!?」
「あーもーやめやめ! やめなってば! ちょっとどうしたんだぜー!?」
三人の間に実乃梨が割って入り、仲裁にかかるが、
「みんな仲良くやろうよ! せっかくの修学旅行じゃんか! さあ、これでケンカは終わり! 櫛枝がここは預かるから!」
能登は頑固に実乃梨の肩を押し返した。
「おまえが預かってどうすんだよ! ほんっと、櫛枝っていっつもふざけてばっかりだよ! 悪いけど、今日は言いたいこと言わせてもらう! ほんっとに結構あったまきたし!」
「それはこっちのセリフだっての!」
さらに麻耶と能登は険しい表情でにらみ合う。実乃梨は実乃梨で「ふざけてるわけじゃないよ!」と喚くが、能登も麻耶も聞いちやいない。北村も困り果てた表情で、とにかく二人の手から武器になるストックを素早く奪い、
「わけがわからん! 一体どうしてこうなるんだ! とにかく冷静に! 落ち着いて!」
「……あーらら。バカがもう一匹いたみたーい」
甘い声で囁いた幼馴染の声に振り返った。その表情には、隠しきれないむかつきが。
「……バカってのは、俺のことか?」
「わっかんないならそうなんじゃーん? あーあ、やだやだ。ねー祐作、あんたのそのニブさって天然? それともわかっててやってんのお?」
「なにが言いたいんだ! 思わせぶりな! はっきり言え!」
今度は北村と亜美の番だった。幼馴染同士の気安さゆえか、北村の声もいつもより三倍増しぐらいにトゲトゲしくゲレンデに響く。亜美のトゲトゲしさは五倍以上だが。
「言ってほしいだろうねぇ、はっきりねぇ。亜美ちゃんにはっきり言わせれば、祐作は無邪気に『おお、知らなかった! 』とか言って、自分はただただびっくりしてりゃ責任とらないですむもんねぇ? 自分は安全地帯だもんねぇ? ほーら、出た出た、おいしいねぇその立場。いつもそうだよね祐作って。昔っからそう」
「はあ!? なんだよ安全地帯って! いつもって、いつだ!?」
「……本気? 本気でわかんないわけ? なんでケンカになってるのかが」
呆れた、と亜美が天を仰ぐ。北村は憮然《ぶぜん》とその顔を見返す。北村はそういう奴だろ、と竜児は思い、能登と春田も十分にわかりきったツラで目を見交わしている。北村はそういう奴なんだ、なにを今更女どもは言っている。
我関せず、を貫いていた奈々子がそこで小さくボソリと。
「……やだ、まるおくん、本当にそこまで天然なわけ? ……ほとんど暴力……」
そして、「……うえええー!」――麻耶が泣いた。奈々子と亜美が走り寄り、二人して抱きしめ、
「大丈夫ー!? 泣かないで麻耶!! 」
「かわいそう……ほんとひどいよ、能登くん。さっきのは言い過ぎだと思うな。麻耶にちゃんと謝って」
「俺なの!? なんで!? 俺なわけ!? 最後は結局俺なの!?」
麻耶の泣き声と亜美、奈々子の冷たい視線の中、「俺が泣きたいよ……」と能登が呟く。すこしもかわいくないが、はっきり、かわいそうではあった。竜児は思わず能登に歩み寄り、気にするな、と背中を叩くが、
「高須くんらってひろいおー! うええええーん!」
「今度は俺が悪役かよ!?」
麻耶は涙を流しながら、竜児のことをも睨みつけるのだ。
「なかまらったれしょー! みかたらったれしょー! それらのにろーしてろーしてれんれんきょうろくしてくれらいしー! らんれろんらやるろからもるろー! うぎやー!」
仲間だったでしょう。味方だったでしょう。それなのにどうしてどうして全然協力してくれないし。なんでそんな奴の肩もつの。うぎゃー。……泰子の言葉を日々解読している甲斐があったか、なにを言われていたかは理解できたが、
「だ、だから、言ってるじゃねぇかよ! おまえは根本的に誤解してんだよ!」
まったく理解はしてもらっていなかったらしい。そして今回の言葉も麻耶の心に届くことはなく(要は、いつだって竜児レベルの野郎の言葉など、ほとんど聞こえちゃいないのだ)、そして亜美も泣き続ける麻耶の肩を抱いたまま、竜児の顔を睨みつける。奈々子も同じように、睨みつけてくる。大河は大河でまた別件、竜児から「フン!」と顔を背け。亜美たち女子軍団の傍らにつく。そうなれば笑乃梨も当然、大河とともに少々気まずげ、横歩きで亜美たちの方へ移動してしまう。睨んできたり、フン! はしないまでも。
そして亜美は揃ったメンツの顔を眺め、妙に満足そうに頷き、「さあ、みんなー!」と女子たちのリーダー面して手を広げるのだった。
「麻耶のこと、トイレにつれて行ってあげよ! ……ほーんと、最低だよ、あんたたち」
そうして男たちを睨み、そのまま足並みを揃え、麻耶を中心にして本当に歩いていってしまう。奈々子が量後に振り返って一言。
「寄ってたかって女の子を泣かせて……これって、ちょっとひどいと思うけど」
ちょっと遠巻きに騒ぎを見ていた他のクラスの連中は。肩を突付き合い、「なになに、どうしちゃたの!?」「ケンカらしいよ!」「女子が泣かされてた!」「えー!?」……物見高く好き勝手なことを言ってくれている。
置き去りにされた男どもは顔を見合わせ、そして頷く。
俺たち絶対悪くない。
女どもになんか謝らない。
なぜなら悪くないからだ。
心と心でテレパシー、さっ! と手を出し、重ね合わせ、「っしゃ〜!」とテンション高く気合を入れなおす。こうなったらスキーなんか知るものか。班行動? もっと知るものか。手に手を取り合い、気持ち悪くなってすぐ離し、そして四人は仲良く初心者コース行きのリフトに乗った。
そりで遊びたいわけではない。雪だるまを作りたいわけでもない。女どもには聞かせられない本音の文句を、今日は悪いが言わせてもらう。
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なにも実乃梨とまで決別状態になることはなかったのだ――気づいたのは、ホテルの団体客用大食堂での夕食の時間になってからだった。
「ちよっとちょっと! おまえら女子とケンカしたんだって?」
「亜美ちゃんたちキレさせたらしいじゃん! なにしたのよ!」
班の男だけでテーブルを一つ占拠して座り、なんとなく茶色っぽく冷めた食事を目に放り込んでいると、他の班の速中が好奇心に目を輝かせて囁きかけてくる。
「色々あったのよ。……結論からいうと、女子と友達みたいになれるなんていうのは幻想。あいつらみんな、自分の都合に合わせて男が動くと思ってるし、男なんて手ゴマみたいに思ってるし、それを正当化することしか考えてないんだもん。対等に仲良くなんて、絶対なれない」
漬物をポリポリかじりながら能登が口を尖らせて言い、「まあまあそのへんで」と北村に諫められる。女子たちのテーブルに目をやれば大方事情は同じようで、やっぱりクラスの他の奴らにあれこれ話しかけられていた。
暖房が入っていてもなお寒々しい、だだっぴろい食堂は、高校生たちの集団で蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。今にも切れそうな螢光灯の下、みんなやっとあのウエアから解放され。思い思いの私服やジャージで同じメニューをパクついている。あまりうまくなかろうがなんだろうが、みんなと一緒に食べる食事はそれだけでおいしく楽しく感じられるはずだったが――竜児は味噌汁で口の中に残る飯をなんとか飲み下す。
女子たちは顔をつき合わせて何事か話している。きっと自分たちの悪口だろう。いまだ機嫌悪そうに麻耶は顔をむくれさせ、こちらに絶対に目線をやらない。ちょっと困り顔でしかし一生懸命に笑顔、実乃梨は麻耶に明るく話しかけてみているようだが結果ははかばかしくないようだ。
この調子では、実乃梨の真意を碓かめるどころか、会話するどころか、近づくこともままならないまま、修学旅行が終わってしまいそうだった。実乃梨とはケンカしたわけでもないのに、今の状態では他の女子たちが接近することを許しはしないだろう。
一体どうして、こんな男VS女の構図ができてしまったのか。実乃梨の隣では大河が、箸を握ったまま、ちよっと困ったみたいにでかいばかりでパサつく煮魚を眺めている。あの大食漢が、一膳目の飯もたいらげることもできずに。ままならない気分でいるのは大河も自分とおそらく一緒なのだろう。だけど大河に対しては「一体どうして」とは思わない。腹が立って、ケンカをしたのは確かだ。今だってまだ忘れることはできない。大河はどうして自分になにも言って――いや、そりで殴られた後頭部が痛いのだ。何度も何度もあんなモンでブン殴ってきやがって……一発も返せなかったのが悔やまれる。
「な〜高っちゃん、おかわりする? ここにあるごはん、俺食っちゃっていい?」
声に顔を上げれば、春田がおひつを抱えて尋ねてきていた。「俺は食わない」と首を振り、春田に全部を譲ってやる。大味な煮魚に困っているのは大河だけではないのだ。それでも一応は見た目に美しく、骨からきれいに身を外そうと器用に箸を動かすが。
「食欲あんまりないのか? さっきからつつくばかりで口に運んでないじゃないか」
手元を隣に座った北村に覗かれ、竜児はちょっと手を止める。
「ん? なんだよ、どうした?」
「……いや、なんでも」
北村の顔を見たまま、箸を置きたい気分。気がつかなくてもいいことに気がついてしまった。
正月に一緒に初詣などしたことを黙っていたのは、大河だけでなく、北村も同じなのだ。考えてみれば、イブのパーティから姿を消した大河のことを北村がなにも尋ねてこなかったのは、竜児の知らないところで二人顔を合わせていたからなのだ。鼻筋の通った北村の顔から、なんとなく目をそらしてしまう。
そりゃもちろん、大河となにかしたら全部自分に報告するべき! なんて狂ったことは思っちゃいない。しかし、あえてなにも言わないのもまた、どこか不自然な気がしてしまう。大河と北村が二人して結託して自分に隠し事をしているみたいな、……この気分をなんというのか。疎外感、だろうか。要は拗ねているのか、自分は。
口を喋んだまま考え始めてしまう。あんたには言わないことがある、と大河に言われたときに感じた気分はなんだったのだろう。自分の知らないところでも世界は回っていて、自分の知らないところでも人は生きていて、それぞれの都合で暮らしていて――そんな当たり前のことに、今更のように感じた衝撃はなんだったのだろう。
人間と人間が分かり合うことの難しさは理解していたはずなのに、他人のことが全部わかるなんて傲慢なことは考えていないのに、それでもやっぱり、自分のことは世界の中心と思いたいのだろうか。それとも、もっとなにか――
「元気ないじゃないか。……昼、スキーのときにおまえと逢坂もなにか揉めていたみたいだけど、それか?」
「……いや。なんか、ちょっと腹の具合があんまりよくねぇかも。食事中わるい」
自分のことには本当に鈍いくせに、他人の顔色には妙に鋭い北村から逃れるみたいに、竜児はテーブルを立った。背中に見逃しちゃくれない北村の視線をありありと感じながら、食堂から一人出ていく。
あまり趣味がいいとはいえない安そうなカーペット敷きの廊下の先は、しょぼめだが薄暗いラウンジのようになっていて、その一角に手洗いがあった。
寒いせいかここは無人、並べられたソファの一つに座り、息をつく。どこに行ってた? と訊かれても、トイレにいた、と答えて嘘にはならない。
大きな窓の向こうは、一面の雪景色だった。すでに空は真っ暗だが、ナイトスキーを楽しむ客もいて、ゲレンデには照明が眩くあてられて白い光を反射している。
いつの間に降りだしたのか、照明の光の中をひらひらと粉雪が踊り、写真にでも撮っておきたい美しさだと思った。でも、思うだけだ。今はとても実行する気にはなれない。考える人のポーズで目を閉じる。
「……あーあ……」
「溜息ゲットだぜ!」
ほとんど、飛び上がるみたいに振り返った。
ゲットだぜ! と言いながらゲッツ! のポーズをきめ、そこには実乃梨が立っていた。黒のフリースのファスナーを顎の下まできっちり止め、ウエストが紐になっているカジュアルなカーゴパンツ姿、
「だめじゃん。こんなところで一人で座って、溜息なんてついてたら」
顔をクシャクシャにした思いっきりの笑顔を、実乃梨は竜児に向けてくれていた。息もできないほど驚き、びっくりを通り越して頭の中はもはや空白、
「……なんでおまえがここに……あ。トイレか……悪い。俺、その辺ブラついてるから遠慮なく入れよ。頑張ってこい」
自分でも意味不明なガッツポーズで実乃梨を送り出そうとするが。
「ちーがーうって! 高須くんが出ていったのが見えたから、『ちょっとトイレー』って私も出てきたんだよ!」
「えっ! ……」
「お話お話、内緒話」
ガッツポーズのままで硬直する竜児の向かいに実乃梨は早足で回り込んできて、テーブルを挟んで、ソファに腰掛ける。真正面から顔を覗き込んでくる。その黒目がちの瞳が深く光るのを間近で見て、竜児の心臓は握り締められたみたいになる。「なんでまた」と言おうとして、口がうまく回らずに、
「なんぞ……」
昔の貴族のようになってしまうが、実乃梨には意味が通じたらしい。
「実はずっと機会を窺ってたんだよ、ほら、こっちはこっちで麻耶ちゃんとかアレだし、そっちもきっと能登くんとかアレなんだろうなー、とか思ってさ」
「お、おう……」
俺だって、機会を窺っていたとも! ――腹の底から搾りだすようにそう思い、竜児はカクカクと人形浄瑠璃みたいに頷く。おいちょっと、これはどういう展開だ。普通のツラを装いながら、両の目の玉まで熱くなる。首の後ろがガチガチに強張り、全身が冗談みたいに震えだす。実乃梨にばれないようになにげなく身じろぎ、足を組んでみたりして、しかし震えは止まらない。貧乏揺すりも止まらない。ああ、と天に祈りたい。
櫛枝実乃梨の真意を聞くチャンス。
別の答えをもらうチャンス。
――なのか。今こそ、もしかして。
あうあうと言葉を探して身悶える竜児の真向かい、しかし実乃梨は、
「ケンカに、なっちゃったじゃない。うまいこと解決したいわけよ、私は」
真面目に眉間に皺を寄せ、二人のことになど話題を掠らせもしてくれない。
……っぷは! と、竜児は息を吐いた。
いいのだ、あせることはない。少しずつ、少しずつでいいのだ。
「ど……どうやって?」
「それを相談したかったわけよ。だってさ、せっかくの修学旅行じゃん、このままケンカで終わるなんて絶対やだよそんなの。仲直りしてさ、みんな元通りになってほしい」
「そりゃ俺だって……そうだよ。同じこと、思ってた」
多分おまえよりももっと切実にな。声には出さずに実乃梨の目をなんとか見返す。実乃梨はちょっと顔を引き締めて頷き、スリッパを脱いで行儀悪く、柔らか過ぎるソファの上に体育座りになる。
「なんかいい方法ないかねぇ? 要は、まあ。結局……麻耶ちゃんが北村くんのことをごにょごにょ、ってのが問題というか、原因の一端なんだよね」
「……」
竜児はさらに、硬直する。生命活動も止めて、いっそこのまま石になる。
「それを周りが……っていうか今回は能登くんが、あれこれ言ったのがケンカの始まりで。それがきっかけになって、みんなそれぞれモヤモヤ思ってたことが漏れちゃった。……うーん、難しいよなあ……」
石になった竜児に、実乃梨は気がついてはくれなかった。竜児はほとんど失神寸前、クラクラきながら思ってしまう。よくもまあ、自分がふった男の前で、人の恋愛ごとの話ができるものだ……それも、ふられてなおゾンビのように甦り、なんとかもう一度ことを始めようとジタバタプルプルしている、この状況の。自分の前で。実乃梨は知らないこととはいえ。
さらに無防備、まったくの無意識、ぐいっと顔を近づけてきて実乃梨は言う。
「高須くんは、知ってるのかな。能登くんが麻耶ちゃんの恋路を邪魔しようとしてるのはね、そのー……大河が北村くんのことが好きって『誤解』してるから、なんだ。大河のことを応援しようとしてくれてるみたいで、それが麻耶ちゃんとぶつかっちゃって……」
その天然っぷりに、竜児はとうとうムッと――そんな筋合いじゃないのはわかっているのだが、それでもどうしようもなく、妙な意地のようなものが湧き始める。なーんだそりゃ、と言いたくもなる。本当に、どこまで話がわかっていない奴なんだ。親友のくせに、いまだに大河の気持ちに気づいていないのか。
苛立ちにも似たそのもどかしさが、
「……別に誤解じゃねぇんじゃねぇの」
竜児の声を不意に尖らせていた。きょとん、と実乃梨の目が丸くなる。
「櫛枝にだって、大河のことで知らねぇことはあるだろ。おまえには言わないだけで、大河は本当に北村が好きってこともあるだろ」
「……そんなわけない。知らないことなんかないよ。大河のことは全部わかってるつもり」
まだ言うか――意地の悪い気分のままに、大河と北村の初詣のことを言ってやろうかとも思うが、竜児はギリギリで口をつぐむ。別に喧伝して歩いたって意味などないのだ。ただ、実乃梨がそれを知らないということが、動かぬ事実としてあるというだけだ。
そして、それを竜児は知っている。実乃梨は知らない、自分が知らないということを。
「……とにかく、おまえが思ってるより、ずっと事態は難しいってことだよ。そりゃ俺だって仲直りさせたいってのには賛成だけどさ」
「難しい……そうかもね。私が思ってるより、それに高須くんが思ってるよりも、そうなのかもね」
ちょっと唇を尖らせてみせ、実乃梨は前髪を邪魔そうにかきあげる。あまり効かないユアコンの音ばかりがラウンジに響き、微妙に気まずく竜児は黙る。実乃梨も黙る。
――お互いに、「言わない」部分があるのだ、きっと。
実乃梨は自分が竜児をふったことを、なかったことのように振舞う。そこには触れないでいようよね。と、言わなくても竜児がそれを了解していると思っている。
そして竜児は、了解なんかしていないのだ。忘れることなんかできずにいるし、それどころかもう一度ほじくり返したいと思っている。おまえの真意を聞かせてくれと、そう言うことは、いまだできていないのだが。
言葉は喉に引っかかるようだった。探り合うようなことしか言えなかった。
少し前は結構普通に話せるもんだ、などと思っていたのに、どうして今はうまくいかないのだろう。
「……どうしようかねぇ。本当にねぇ」
実乃梨が低く唸る。そして竜児は、うまくいかない理由に気づく。
実乃梨と自分の間には、消し去りがたい齟齬《そご》が事実としてあって。実乃梨の方には竜児に合わせてくれようという意志はなさそうで、ならば自分が実乃梨の方に合わせるしか……つまり、ふられたりふったりしたことなどなかったように振舞うしか。齟齬を解消する方法はなくて。 そして今、自分は、ふられたという事実を忘れたふりで振舞うことに、失敗していて。
「みんながうまくいく、魔法みたいなきっかけがバシッ! とここでほしいわけよ」
「……ああ……」
二人の噛みあわない歯車が、修正のしようもなく、耳障りな音を立て始める。壊れてしまう、このままでは。わかっているけれど、どうしようもできないまま竜児は呆然とする。
実乃梨の「何事もなかったワールド」に、自分も同じ無意識っぷりで付き合うことができなければ、二人の歯車は、上手に回せはしない。
でもそれは、欺瞞以外のなにものでもない。
そう――これまでのことも、本当には、何一つうまくいってなんていなかったのだ。
大河のバッグを一緒に運んだときも。窓越しに、話をしたときも。大河のマンションのキッチンにいたときも。さっきスキーをしたときも。笑い合っていたあのときもどのときも。
うまくいっているように思えたのは、楽しいと、このままでいられたらなどと思えたのは、竜児が自分を騙すことに成功していたからだった。己を押し殺して、実乃梨に合わせていたからだった。実乃梨の方を変えようとあがいたら、その途端にバランスは壊れてしまうのだった。それはなるほど、さっきのスキーのように。
「うーん、なんとかしなくちゃねぇ。せっかくの修学旅行だもん。これが最後だもん。……やだねぇ。本当に、なんでこのままじゃいられないんだろう」
実乃梨はふう、と息をつき、おもむろにポケットに手を入れ、なにか小さく光るものを取り出した。邪魔そうにしていた前髪を上げて片手で押さえ、そしてそれを、
「……それ。どうしたんだ」
「ん? ヘアピン? 大河がくれたんだよ。なんか『宝物だから、絶対絶対大事にして』とか言って。かわいいよね、あ、私がじゃなくてヘアピンがな」
笑ってみせる実乃梨の髪に、橙《だいだい》色にキラキラ光る、竜児が選んだピンが輝いた。そういえばいつか春田にあげてしまおうとして、それを大河が毟り取ったところで担任が現れて、そのままなし崩し的に――大河が持っていたのか。
「……はは……」
笑って、顔を押さえた。
もういいや。
そう思った。わかってしまった。想いの残滓の塊とでもいうべきヘアピンをつけている実乃梨を見て、歯車が完全に壊れたことを知ってしまった。
合わないモンを無理に噛ませようとしたから、ほら見ろ――ぶっ壊れてしまった。
このままでいたい。変わりたくない。実乃梨はそう言う。みんなこのままでいられたらいいのに、ずっとこのままがいいのに、と。
そうするためには、そんな実乃梨の歯車に合わせるには、そのヘアピンが一体どこから来た物体なのか、隠し通して踏みつけて、事実を殺してしまわなくちゃいけないのだ。自分を殺さなくちゃいけないのだ。竜児は心を殺さなくちゃいけないのだ。
実乃梨が繰り広げる「何事もなかったワールド」に付き合って、ふられたことなど『全然なんでもなかった』と笑い飛ばし、もう忘れちゃったぜー、と、実乃梨と一緒にそういう顔をし続けなくてはいけないのだ。でも、そんなことはもうできない。
だって、竜児も、竜児の心も、生きているのだ。殺そうとすれば、血を噴くのだ。
今までのあらゆる光景が、全部、『全然なんでもなかった』ことを証明するためだけに実乃梨が作り出したもののように思えた。触れ合った感触も、笑い合ったくすぐったさも、すべてがだ。今こうしてわざわざ、自分に会いに来てくれたこともだ。全部だ。
全部が、『あんなこと』なんか『全然なんでもなかった』から。成り立っている――実乃梨が成り立たせていることなのだ。そう思えた。
「あはは……そうか……そう、だったんだな」
「……どうしたの高須くん。黙っちゃって、ねぇ、なに? ねぇ」
「いや! もう、いいから」
顔を覆ったまま、それでも両目は開いていた。
もう、ズタボロだ。傷ついて血を流すのには、そういう欺瞞には、もう耐えられない。
実乃梨の願う「このまま」というのは、つまり、竜児が心を殺し続ける日々が続く、ということ。竜児がそうしなければ「このまま」は成り立たないのを十分に知っているくせに、知っているからこそわざわざイブの夜にふってくれたくせに、それなのに「このまま」をまだ願うのだ。実乃梨は。
私は傲慢でずるくて――以前、実乃梨が言っていた言葉だ。やっと意味がわかった。
それはつまり、傲慢でずるい私が好きなら、それを承知の上で好きでいてよ、ということだったのだ。心を殺し続けることを求めるけれど、それをわかっていてよ、と。応えることはないけれど、それでいいなら好きでいれば、と。
でも、どうして?
なぜ、いっそのこと、「おまえなんか嫌いだから付き合う気はない」と言ってくれない? ああ――なるほど。傲慢でずるいからか。傷つける勇気はないというわけか。でもそれが、より一層、深くこの傷を抉るのだけど。
「高須くん……高須くん! どうしたの? なんかあった? ……ごめん、私なんか言っちやった?」
顔を上げ、ないない、なにもないよ、と笑ってみせた。笑いながら、竜児はソファから立ち上がった。後ろ向きのまま大きく二歩、実乃梨から距離を取り、「どこいくの?」と響く実乃梨の声には応えずに踵を返した。
まだみんなは食堂にいるだろう。笑いを貼りつかせたままで廊下を早歩き、騒がしい会場に戻る。自分の席だけがあいたテーブルに戻る。
「ちょっと先に部屋戻るな。腹いてえ。鍵、鍵」
「……高須……」
北村が驚いたような顔で自分を見たのがわかった。能登も、春田も、話していたのをやめて顔をむけたのがわかった。
しかしなにも言わず、竜児は鍵を掴んで食堂を後にする。
***
人生最低最悪の夜は、あのクリスマスイブの夜だと思っていた。まさかこんなに早く、あの最悪記録を更新してしまうとは思わなかった。
竜児は暗くて埃くさい和室に一人戻るなり、せかせかと部屋の隅に積んである寝具をワンセット、部屋の一番隅に伸べる。シーツは端を折もせずに敷布団にかけただけ、そこに枕と掛け布団をブン投げてースウェットの上下のまま風呂にも入らず潜り込む。せめて一時間は、いや三十分でいいから、一人でこうしていたかった。誰も部屋に入ってこないようにと願う。 あの夜は、帰る家があった。誰にも見られずに潜り込める自分のベッドもあった。ついでにいえばインフルエンザも発症していて、頭ばどこかボケていたし、そもそも帰り道からの記憶は夢のように曖昧だった。高熱のおかげだ、きっとそれも。
しかし今はすべての現実が、超くっきりとありありと、目の前で展開しているのだった。脳みそのしわに刻み込まれていくのだった。
櫛枝実乃梨は絶対に、自分の想いを受け入れない。櫛枝実乃梨はそう決めている。それがつまり、覆しようのない現実。彼女は『全然なんでもなかった』ですべてを、竜児の片想いのすべてを始未し、片をつけた。彼女は彼女の歯車を回すのをやめる気は一切、絶対に、ない。
なぜそう決めたのか、いつそう決めたかはわからない。けれど、とにかく実乃梨は、竜児が実乃梨を好きだという気持ちを、絶対に受け入れてはくれないのだった。その気持ちがこの世に存在することすら認めてはくれないのだった。幽霊なんかいないよね、UFOなんか見間違いだよね、高須くんは私のことを好きなんかじゃないよね――そういうことだ。
そういうことなのだ。
でもなんで。
どうして。
枕を抱えて身体を丸め、固く目を閉じた。唇を噛んだ。頼むから、お願いだから、どうか誰も入ってこないでくれと念じて、そのときガラリと。
「高須、どうしたんだよ、なにかあったのか?」
「寝てるの? ちょっと心配だよ高須心配だよ」
「腹痛いってほんと〜かよ? 一人でなんか食ったのかよ〜?」
……あっさりと、願いは裏切られる。騒がしい足音とともに、野郎三人が遠慮なく布団の周りに集まってきたのだ。
嘘だろう――残念ながら、これも現実だった。
友情は感じるが、でも今は構わないでほしかった。竜児はなにも聞こえないふり、布団に包まってタヌキ寝入りを続ける。「ちょっと〜、なあ〜」……ぶすっと春田の指が、尻のド真ん中あたりを突き刺す。本当に腹を壊して寝ていたら今頃大惨事が起きている。そしてさらに空気の読めない男・春田は、「えー? マジで寝てんの?」……布団を本気でむしりにかかる。しばらくは布団の端を掴んで竜児も砥抗していたが、
「……っ」
「あらよっと! どーれ、ほんとに寝てるかな〜?」
あまり抵抗しても怪しまれる……布団がベロンとひんむかれた。顔を曝き込んでくるアホの吐息を頬に気色悪く感じながら、竜児は身体を全力で丸め、必死に目を閉じ続けた。
とてもではないが、この状況をみんなの前で発表するような元気はない。今は、とにかく一人でいたい。だからどうか、この「放っておいてくれ」オーラを読んでほしい……。
「……寝てるのか〜。しょうがないな〜、じゃ〜そっとしておくか!」
そうそう、それでいいのだ。すまん、春田、みんな。しかしちょっと安心したその次の瞬間、衝撃の発言が能登の口から飛び出した。
「あ、ちょっと北村、なにしてんのよ! なんでいきなり服脱ぎだすわけ!?」
ピク、とタヌキ寝入りの目蓋が震える。よせ。それはやめろ。あまりにも嫌すぎる気配と予感に、竜児は思わず息を詰める。
「いや、高須も寝ていることだし、俺も寝る支度をしようかなと」
「うぎゃ〜! 下半身だけ脱ぐってどんだけ変態だよ大せんせ……中先生!」
「上はこのままで寝るんだ。さあ俺のバッグ、バッグばどこへ置いたかな?」
「いやあああ〜! 中先生のまま自由にしてる〜!」
「しまえよ早くその等身大のKITAMURAを!」
北村……おまえのバッグは荷物入れの下の段だ! テレパシーを竜児は必死に発するが、残念、北村には届かないようだった。みし、みし、と想像するだに恐ろしい自由さで北村が畳を歩く音が聞こえ、さらに恐ろしいことに、その足音は竜児の枕元のすぐ真上に。本当に頭のすぐ真上でぴたりと止まり、まさか跨いではいないだろうな、などととんでもない想像が脳裏をよぎり――
「……おっといかん。なにやら、尻から不思議な気体が……」
「ダイレクトだよ北村ダイレクト! 濾すモンがなんもないよ!」
「ひょ〜! 最低だあ〜! 高っちゃん悲惨、超かわいそ〜!」
うそだろ。
うそだろ、うそだろ、うそだろ、うそだろやめろやめろやめろやめ――「ぷっ」、と、
「ばっっっ……かやろおおおお〜〜〜〜〜っっ! てめえ北村、よくも大腸菌たっぷりの不潔な毒ガススプレーをこの俺の顔面に――おう!?」
起き上がり、
「……うそだよ」
「……信じるかねぇ」
「……信じるんだねぇ〜」
三バカと顔を見合わせる。竜児の頭の上では、普通にジャージを着たままの北村が、両手を重ねて「ぷっぷっぷ〜♪」と陽気な音を奏でていた。
「お、ま、え、ら……」
竜児はたっぷり五秒は連中のツラを呆然とみやり、
「……うおおお! 俺が今、どれほどの恐怖を感じてたかわかるか!?」
「悪い。でも、おまえの様子がおかしいのが気になって」
眼鏡の奥で目を真剣にしている北村の目の前、竜児は頭を抱えて身悶える。おまえらの演技力の方がよほど様子がおかしいよ、と言ってやりたいが言葉にならない。
「で、マジでどうしたのよ?」
能登も眼鏡の奥で、北村の半分ぐらいしかない小さい目を一生懸命見開いている(かわいくない)。そして春田は、
「足さみ〜、ちょっと入れさせて〜」
竜児が入っている布団の中にこたつ感覚、無理矢理足を突っ込んでくる。
「……別に、なにも、ねぇよ」
「なにもない奴が一人で部屋に戻って寝たフリしてるか? 高須は、前に俺のことを心配して、話を聞いてくれたじゃないか。今度は俺が、俺たちが。そうしたいんだ。できることがあるならしたいんだ、心配なんだよ。話してくれ、頼むから」
畳にきちんと正座して、北村は身を乗り出してくる。北村がそう言ってくれる気持ちは、痛いほどにわかる。自分だって、北村が金髪になった時には本当に心配だったのだから。でも、だ。話さないことがあるのは北村も同じではないか。竜児はそう思ってしまい、
「……なあ。頼むよ」
――そんなことを思った自分が、唐突に恥ずかしくなる瞬間だった。
目を上げたそのときに、まっすぐに衒いなくこちらを見る北村の目と、視線がぶつかったのだ。もちろん能登だって、春田だって。竜児の目をまっすぐに覗込んでいた。
友達なのだ。こいつらは。
どうしようもなく、味方なのだ。
味方がすることは、信じるしかないではないか。味方が言わないのなら、言わない理由があるのだと信じる以外にないではないか。
お手上げだった。竜児は本当に、ほとんど無意識、両手を上げていた。無条件降伏――負けた。
「……ずっと。言わなかった、けど……」
負けた野郎は、誰にも見せたくない折れた部分を、差し出して見てもらわなければならないのだった。それが男の世界のルールなのだ。
何度も躊躇い、あ〜〜〜〜〜、だの、え〜〜〜〜〜、だの頭を掻き、そして、
「……く、し、えだ、が……」
喉からようやく、搾り出した。
ざわ……ざわ……と呟きながら、春田も姿勢を正す。能登と北村はとっくに正座だ。
「……す。す、す……、……き、だったんだけど、」
「……っ!?」
「はう……!」
「……続けて!」
「……クリスマスイブにふられて……」
「ぬ……っ」
「……うぅ!」
「……続けて!」
「……今、また、そこで、話して……完全に終わった……」
「……ぐ」
「ふぉ……っ」
「……つ、続けて!」
「終わりだよこれで!」
ばんざーい――一度大きく両手を上げて。そして、なしよ! 竜児はそのまま虚脱。全身の力が一気に抜けて、頭の中も真っ白になって、燃え尽きた灰になりそうだった。今にも風が吹けば塵となって、そこらに散って、消えてしまいそうだった。
誰もが押し黙っていた。言葉を発せず北村の目がそっと能登を見る。能登の目が、おずおずと春田を見る。春田の目がそして、ゆっくりと竜児の目を見る。
「「「「うわあああああ――――――――っっっ!! !」」」」
ひっくり返った。
四人携って「ひぇぇぇぇっ!」「うわわわわっ!」「おぷおぷおぷ!」「あばばばばば!」、そして「うぎゃー!」と。バカみたいに叫びながらのた打ち回り、「ぬおーっ!」と身を起こし、布団をバシバシ叩き、身悶えて転がり、畳を引っかき、転がってえびぞり、
「なんだよ高須いつからだよ!? 櫛枝……櫛枝! 櫛枚かああああ!?」
「ちょっと高須なんでそうなのなんでなんでそうなのそうなのそうだったのー!?」
「櫛枝!? 櫛枝!? えっ、櫛枝って……もしかして櫛枝のことなのマジでぇぇ〜!?」
だー! と竜児は顎をしゃくれさせて天井を仰ぎ、
「そうだよ! 櫛枝実乃梨だよ! あの、あの、わけわかんねぇ女のことを、俺は一年以上もずっと好きだったんだよ悪かったな! でも、向こうはもう全然ナシみたいな感じだよ! ありえねぇって感じだよ! ねぇんだってよ俺のことは! ……ねぇんだってよ! ……なんでだようわああああっっ!」
勢いのままに、布団に突っ伏す。もうどうにでもなれ、ダニを吸い込んでしまったってもういい。多少アレルギーが出たっていい。このまま泣いてしまったって構わないのだ、こいつらに見られて困ることなんかもはや一個たりとも残ってない。残しておきたかったが今更だ、仕方ない。
「でもさー言われてみれば櫛枝氏、結構高須と仲良しっぽかったよなあ!? 俺、何回か、へーと思っておたくらが喋ってるとこ見てた記憶あるよ!?」
能登の声に、「俺も思ったことある!」と淡い記憶力でお馴染みの春田が同調する。そんなモンが慰めになるものか。竜児はそれを否定しようとするが、
「なんで櫛枝氏、高須のことふったわけ!? どういう理由!? なんか納得いかないよ俺は納得いかない! 彼氏がいるとかも聞かないし、他に好きな奴がいるとかか!? でも櫛枝に好きな男なんて……絶対絶対、いなさそうだよなあ!? マジでなんで!?」
「そんなモン俺が知りてぇよ!? 本人に訊いてくれよ!」
ほとんどやけっぱち、竜児は喚いた。そのとき、
「……行くか。訊きに」
すっ、と北村が立ち上がる。は? と竜児はそのツラを見上げる。
「俺だって納得いかん。なぜなら俺が女なら、絶対に高須と付き合うからだ」
俺も俺も! 我も我も! …能登と春田が声を上げる。北村の表情は完全に本気、眼鏡を中指でくいっと押し上げ、迷いのない声で宣言する。
「ああああほか!? 冗談じゃねぇ、シャレになんねぇぞ!」
「まあ、櫛枝に高須のことを訊くというかさ、俺はとにかく女性陣に物申したい気持ちでいるんだよ」
「なら一人で部屋を訪ねろよ!? おおおお俺をダシにすんじゃねー!」
のたうち回る竜児の肩に、北村はそっと手をかけ、賢そうに寝言をほざく。
「高須もこんなふうに寝込んでいるより、正々堂々、櫛枝始め女性陣と向き合うべきだ。今日はもう、色々あって俺だって頭がパンクしそうなんだ。いーっ! って、なりそうだ。こうなった以上、腹を割って、徹底的に女性陣とディスカッションしようではないか! 争いからはなにも生まれない! 相互理解こそが社会安定の第一歩! この世には男と女しかいないのだからな!」
「いやいやいや! おかしいぞ!? 俺を巻き込むな、頼むから!」
手を振り払って必死に北村の暴走を止めようとするが、
「いやー高須、俺も女性陣には物申したいわ。ってわけでさあいこいこ、女子の部屋は確か下の階」
「高っちゃん! これって高っちゃんの敵討ちだぜ!? 俺たちの大事なたかったんを……なんだたかったんって、たかったんを、なんだたかったんって、たかっちゃんを、ふるなんて俺は許せね〜よ! おのれ〜櫛枝め〜!」
「よし、行こう。今行こう」
「さあさあ行くよみんな、高須も行くよ」
「あんどれ〜〜〜! かんどれ〜〜〜! 櫛枝め〜〜〜!」
竜児は必死にヤル気まんまんの北村の腕を掴んで止めようとするが、
「よせよせよせ! よせって! とりあえず座って、おう!?」
「能登、鍵は持ったな! 出るぞ!」
逆にその手を捕まえられ、そのまま布団から引きずり出される。「ちょっとちょっとちょっとマジかよ!? おまえら本気なのかよ!?」叫ぶ声に、みんな真面目に頷いてみせる。
「さながらこれは忠臣蔵だぞ高須。おまえが浅野内匠頭《あさのたくみのかみ》なら、俺たちは赤穂浪士《あこうろうし》。」
「俺をダシにしてるだけじゃねぇか!?」
「そうそう、櫛枝が吉良《きら》でさ。しかし紳士的な俺たちはあくまで話し合いをもとうとしているわけだ。はい部屋ロック完了」
「話なんかできるわけねぇ、普通にまたケンカになるぞ!?」
「ね〜、キラな〜、かっこいいよな〜俺全巻集めたよ〜! ちょっと話難しいけどさー! 俺も髪の毛切ろうかな〜、でも漫画なんて美容院に持っていったら恥ずかしいかな〜!?」
「……おまえだけ違う話をしていないか? おう!」
春田のアホオーラに翻弄されている間に、北村と能登はとっくに廊下を走り出していた。春田もすかさずその後に続き、
「……ええい! くそっ、もう……もうもうもう、知らん! どうにでもなれ!」
竜児はほとんど半ベソ、しかし自分抜きで忠臣蔵などされてはたまらない。友人たちに追いつくべく、全速力で走り出す。
***
「討ち入りだ女子どもー! いざ神妙にこのドアを開け……開いてるぞ!?」
安っぽいドアノブを掴んでいきなりドアを開いてしまい、北村は目を剥いて振り返った。よせよせ、よしとけ、と竜児はそのドアを閉じようとするが、
「ラッキ〜〜〜〜! おらおら女子め〜〜〜〜〜! 着替え中だろ〜がなんだろ〜が鍵しめない方が露出狂であるぞ〜〜〜〜!」
「行くよ北村も高須も行くよ!」
春田は躊躇なくドアを全開、室内に特攻。北村の背中を押し、竜児の腕を掴み、能登もその後に続く。しかして四人は女子の部屋になだれ込み、竜児は思わず身を硬くして覚悟する。さぞやものすごい悲鳴と罵倒が――と。
「あれ? なんだよ、誰もいね〜じゃん!」
「本当だ……無用心だな。ていうかなんだこれは!」
竜児は思わず八畳間を見渡し、顔面を鬼が乗り移った恐山のイタコのようにしかめた。本当に、自分たちの部屋と同じ間取りだろうか、これが。
五人分のバッグが、全部畳の上にぽーんと出しっぱなしになっていた。チャックが閉じているのはまだマシな方で、いくつかはチャック全開で中身もはみ出し、そこら中にブラシやらホットカーラーやらストラップつけ過ぎの携帯やらポーチやら雑誌やら、よくわからない女子グッズが散乱しているのだ。脱いだウエアも湿ったままで思い思いの場所に放ってあるし、制服だってハンガーにかかっているのはジャケットが二人分とスカートが四人分だけ。挙句の果てには靴下まで一つ、壁際にブン投げてある。奇数で存在する靴下というものが、竜児は本当に許せなかった。
「……なんてだらしねぇんだ……! ふおお……!」
「抑えろ高須、片付けてはいけない!」
北村に肩を押し留められ、なおも竜児の身体はぶるぶる震える。ちなみに男子部屋は、竜児の指示で全員のバッグがきちんと荷物入れに納められ、脱いだ制服も当然ハンガー、ウエアはしっかり水気を拭って、窓際に並べて干してある。使った私物だって、必ずその都度《つど》バッグにしまうルールだ。
八畳間に、だって高校生が四人ないし五人押し込められるのだ。きちんと片付けなければ快適なプライベートゾーンが保てないではないか。そして散らかった物は物を呼ぶ。一つ放り出された物があれば、その付近からたちまち汚染は広がっていく。生活する場が散らかっていれば、生活する人間の精神もまたとっちらかる。実際、自分らだってこんな荒れ放題の狭い部屋で過ごすのは、気分良いはずがないだろうに。
それなのによくもまあ……二泊三日とはいえ、もっと居心地よく過ごそうとは思わないのだろうか。せめて、あの制服とウエアだけでも今すぐなんとかしてほしい。ウエアは臭くなるし、スカートはプリーツがぐちゃぐちゃになってしまうし……いや、いけない。くっ、と唇を噛んで、竜児は必死に片付けたいエリアから目を逸らす。
「鍵も開けっ放しでこの状態……オートロックと勘違いして、どこかの部屋に遊びに行っちゃったのかね? 風呂かな? つーか、どんだけ菓子持ってきてんのよ」
能登も呆れたように部屋の惨状を見回していて、そして「あうっ!」と。
「ど〜した能登っち!」
「見つけちゃったよキャミソール見つけちやった! 水色!」
「俺はじゃっかんしけったタオル見つけた〜! ひょ〜!」
手にした宝を高く掲げ、ウインクで健闘を称え合う能登と春田を、2ーCの良心・北村が諫める。
「こらこら、やめろよおまえたち! それはさすがに――高須もやめろよ!」
「……いや、これは違うんだ。そういう意味じゃない」
さっ、と竜児は耐え切れずに拾ってしまった誰かの靴下を後ろに隠す。
「まったく、高須まで。私物に触れるのは禁止だぞ、さあ元に戻せみんな! ……おっといかん、なにか踏んでしまった。なんだこれは……アロマクリーム? ……ほー……ハンドクリームの類か、それとも顔につけるのか……へー……うん、アロマだ。匂いはアロマっぽい」
「……どれどれ、おう……」
「……アロマだよアロマ……」
「……ひょ……エロい匂いですねフヒヒ」
チューブに入ったクリームをちょぴっと手の甲に出してみて、その北村の手の甲の匂いをみんなしてクンクン嗅いでみる。スリスリと馴染ませて、北村は言う。「うん、すべすべ」――なにが2ーCの良心か。
「……んふふっ」
突然春田が笑い出した。
「この俺たちの光景さ〜、端から見たら完全に変態だよな〜。逮捕もんだよな〜」
「なによ、バカ言うなって。俺たちここに討ち入りに来たんだぞ? あくまで目的は硬派なわけよ」
そうだとも、そうだとも。能登の言葉に竜児と北村も頷くが、
「でも今の俺たち、結構すごいぜ〜」
……言われてみれば、まあ、外形上はすごいかもしれない。
誰かの使用済みタオルを首にかけている春田。キャミソールを掴んだままの能登。靴下を隠し持った竜児。そしてクリームを手にすり込んでうっとり匂いをかいでいる北村。
手の甲をそっと押さえ、北村が言う。
「……見た目は、そうだな。ちょっと危ない感じに見えるかもしれないな。しかし俺たちはなにも女子の私物を荒らしにきた変態野郎ではないんだ。結果的にそういうイメージを喚起させるような状況にこそなっているが、それはあくまでも結果論だ。女子が帰ってくる前にすべてを元通りにして、また出直してこようではないか諸君」
素晴らしい演説であった。みんなして揃って納得した、しかしその瞬間。
ガチャ、と。――女子の私物を荒らしにきた変態野郎どもが居座る部屋のドアが、開く音が響き渡る。
***
よりにもよって、の大河であった。
狭い押入れに飛び込んで間一髪、隠れた男どもの鼓動が一斉に高鳴る。よりにもよって女子の中でも最も凶暴で最も話の通じなさそうな大河が、 一人で部屋に戻ってきたのだった。
わずかに開いた襖の合わせ目から細く光が零れ、そこから部屋の様子は見えている。
「……やばいよやばいよ……」
しっ、と春田の呻き声をシャットアウト、しかし竜児だって絶望感のあまり、今にも失禁寸前だった。思わず押入れなんかに隠れてしまって、結果的に現在やっていることはストーキング――留守中の私物荒しよりも一気に二段階ぐらい変態度がアップしてしまったではないか。こうなっては今更「俺たちは硬派」「討ち入りなのだ」とも言えない。言えるわけがない。
ゴク……息を飲んで、それでも隠れているしかない竜児たちが見ているとも知らず、大河はぽいっと手にしていた鍵を畳の上に放り出した。ちなみに、元から鍵が開きっぱなしだったことになど気がついてもいないようだった。
風呂上り、なのだろう。
パーカーと、珍しく揃いのパンツを穿いた大河は、長い髪をまだびちよびちょに濡らしたままでいる。顔を赤くして、ふー、などと息もついている。
そして肩にかけたタオルで髪を拭きつつ、部屋のド真ん中に投げ出してあったドライヤーを掴んだ。コードをずるずる引きずりながら、なにやらウロウロと辺りを見回す。どうやらコンセントを探しているらしい。
ちなみに大河の目の前の壁にコンセントはとってもわかりやすくついているが、大河はしょんぼり残念そうに、
「……ないのか……」
呟いて肩を落とした。
ずるっ、と竜児は座っていた座布団の上から滑り落ちる。能登の足の上に尻が落ちなければ、音を立ててしまうところだった。
「……高須……!」
「……すまん……!」
息より小さな声で能登に謝るが、だって大河はあまりにもアホだった。目の前のコンセントに気がつかず、ドライヤーを諦めて放り出す。そしてびちょびちょ髪のままでどうするのかと思えば、てこてこと思い出したように部屋を横断。備え付けの冷蔵庫を開けて、買ってきておいたらしいペットポトルのお茶を取り出す。
立ったままで蓋を開け、風呂上りで喉が渇いていたのか、片手を腰にあてて豪快にそのお茶を煽ろうとし、
「……げほっ!」
むせた。
げほこほ咳き込み、その拍子に思いっきりお茶を零す。大河はそれを見やり、一言。
「あらやだ」
あらやだじゃねぇよ……押入れ中にモヤモヤと同じ感想が雲のように垂れ込めた。竜児は歯噛みする思いで畳に零れたお茶を見やる。早く拭かなければ畳にシミが残ってしまう。
その思いが通じたのか、大河はすぐに屈み込んでお茶を拭き始めた。頭を拭いていたタオルで、だ。濡れたままの頭は一体どうする。動揺する竜児が見ている前で、大河はやってくれた。そのタオルで、再び自分の頭を拭きだしたのだ。
えええ……!? と、春田までもがか細い声をあげる中、電児は半分失神していた。考えられない、考えられない、考えられない。ああ大河よ――おまえはどうしてそんなに雑な感性をしているのだ。改めて今度はちょっと慎重にお茶を飲んでいるその横顔は、本当にお人形さんそのもの、童話に出てくるお姫様のようにかわいらしいのに。「げーふ!」……するな、げっぷも、頼むから。
大河はそしてペットボトルのキャップを閉め、それを片手に持ったままで再び室内をウロつき始める。お茶タオルで髪を拭き拭き歩いていって、
「……わっ!」
誰かのバッグに足をとられた。ビターン! と顔から転ぶ。それだけで十分に押入れの中はひそやかに騒然とするというのになんという奇跡、
「あいたっ!」
手からすっとんだ飲みかけのペットボトルが、大河の頭にストーン! と落ちてきたのだった。「……っ!」「う……っ」今にも噴き出しそうな口を手で押さえ、男どもは身を捩る。ドジ神が目の前に降臨している。だが大河にはこの程度は日常茶飯事なのだろう、
「……もー。なんなのよ……んあー……」
頭を押さえながらも余裕ののんきさ、コケて伸びたポーズのままでゴロンと仰向け。畳の上に大の字になってあくびをぶっ放して下さった。そのまま腰をくいっと捻り、ごきっとすごい音をさせながら目を閉じて鼻歌。つくつくぼーし♪ つくつくぼーし♪ー大河の鼻歌は、つくつくぼーしの鳴き声であった。限界であった。
「……ぶはぁっ!」
「っ!?」
犯人は竜児。
押入れの中に緊張が走り、音もなく背中を三人分の拳に殴られる。しかしもはや出てしまった声は取り消せない。当然大河も異変に気がついたらしい。さすがの身のこなしで猫のように素早く立ち上がり、ペットポトルを逆手に掴んだ。
その目の、ツラの、恐ろしさたるや――能面のようになった白い顔に、感情を殺した大きな瞳だけが燗々と瞬き、眦が裂けるほど見開かれ、大河の両眼は部屋中をサーチ。ぐるっと一回転して、こんなときばかりはなんと賢い。押入れを睨んでその動きは正しく止まる。
大河はペットポトルを右手で高く構え、左手は顔の前で防御の体勢。明らかに素人ばなれした足さばきで押入れまで歩み寄って、そして同時に考えられないことが起きる。
――タイガーの奴、鍵しめて寝ちゃってたりして。
――ありえるんですけどー、タイガーの場合全然ありえるんですけどー。
あはははは、……笑い声は四人分。はっきり聞こえたのは麻耶の声と亜美の声。薄っぺらいホテルの壁越しに、廊下のすぐそこを歩く女子どもの声が押入れの中まで響いているのだった。声は近い。まさにすぐそこ、そして目の前では大河の手がまさに襖にかかる瞬間、
「えーい! ……ままよ!」
声を出してしまった責任は己にある。竜児は天に一度祈って、そして大河の手が伸びるよりも早く、一気に押入れの襖をパン! と開いた。
「……ぃぃぃぃいいい〜〜〜ぃぃぃぃ……っ」
人間、本当に驚いたときには悲鴨なんてあげられないものらしい。絞め殺される小猿みたいな声を上げ、大河はほとんど白目、現れた竜児の目の前で足をもつれさせて尻餅をつく。それはそうだろう、押入れの中に顔見知りとはいえ変態野郎どもがぎゅうぎゅうに満載、そのうちの一匹が飛び降りてくるなり、
「頼む頼む黙ってくれ頼むから! ごめんごめんごめんなさい頼む許せ!」
「ばぶどぶえあばばばばりゅりゅりゅ……いぃぃぃぃ……っ」
全力の鬼イタコづら、謝り倒しながら硬直した腕を掴んで押入れの下段に引きずり込んだのだから――引きずり込んだのだ。大河が失神寸前なのをいいことに「後で説明する必ずする」と浮気がバレた夫みたいなことを言いつつ、本当に危機一髪のタイミング、
「あれ、鍵あけっぱだ。ちょっとタイガー、無用心じゃーん!」
がちゃっとドアが開いて、麻耶の声が室内に響き渡る。ほぼ同時、北村が押入れの襖を音を殺して閉じる。
「たー……っ!」
すーけーてー、と大河は叫びたかったのだろう。
「一生のお願いだ……一生のお願いだ……一生の……お願いだから……」
竜児は本物の変態になった。吐息みたいなウイスパーポイスで大河の耳元に熱くしつこくお願いしつつ、羽交い絞め状態でその身に全力で絡みつく。パーカー越し、パンツ越しに、駆呂上りで子供みたいに体温の上がった肌の熱を感じる。
大河とはいえ異性は異性、本当に逮捕モンの所業であった。さらにその口を、申し訳ないが全力で塞ぐ。獣そのものの力で大河は牙を立ててくるが、なんとか悲鳴は押し殺す。びちょ濡れの髪がぶんぶんと顎の真下で暴れ、ガン! と固い頭が顎にヒット。それでも、竜児は叫ばなかった。同じちょんぼを繰り返すことはできない。思いっきり掴んだ腕の細さと、抱え込んだ身体の華著さに気づき、力は一瞬怯みかけるが――もう一度頭で死ぬほど顎を突き上げられ、その力強さにかえって安心。罪悪感ともちょっと違った微妙な気分は、痛みとともに霧散していく。
「あれ? 大河がいないぞ……頭乾かすから先に戻ってるって言ってたのに」
「鍵はそこにあるし、トイレでも行ったんじゃない? あーあ、いいお風呂だったー。温泉じゃなかったけど、でかいだけでも気持ちいいよねー」
「ほんと同感、後でもう一回入りたいな。消灯時間までなら何回いってもいいんだよねぇ」
「奈々子、マジで風呂好きだよね。でも行くなら付き合うよ、痩せたいし。ていうか亜美ちゃん、マジでグラビアやんなって! 超ブレイクするっしょ、確実」
「そうかなあ〜? でも別にタレントさんになりたいわけじゃないしさ〜」
戻ってきた実乃梨に亜美、麻耶、奈々子はさっそくおしやべりを開始、化粧水を貸せだのお菓子食おうだのテレビつけようだのと騒がしく、押入れ内でのセクハラ暗闘に気づく者は誰もいない。しかし大暴れする手乗りタイガーは、正直、竜児の力だけでいつまでも抑えていられるものでもない。
大河に逃げられ、この事態が大バレし、すべてが瓦解するのも結局は時間の問題か――そう思われたそのときだった。
「……ねぇねぇ。思いついちゃったんだけどさー、もしかしてタイガー一人で男の部屋に行ったんじゃないよねぇ? ……今頃まるおんとこにいたりして」
長い髪をタオルで包み、ちょっと行儀悪く胡坐をかいた麻耶が言う。びくっ、と名前が出た大河の身体が強張る。きっと上段では北村がびくっとしていることだろう。
麻耶の向かいに座って顔にクリーム(先ほど北村が手の甲にすりすりしたものだ)を塗りながら奈々子は笑う。
「タイガーが一人で男子部屋? まさか。それって考え過ぎだよ」
「あ、でもぉ、高須くんとなにかしててぇ、そこに祐作が現れてぇ、ってシチュエーションならありそじゃね?」
なにかってなによ、と奈々子が亜美に突っ込み返す。竜児だって奈々子に同感、なにかってなんだよ。ちなみに実際のところ、高須くんはタイガーを押入れの中で監禁しているわけなのだが。
「え―――!? それがリアル状況だとしたら超やなんですけど! ……てかさあ、タイガーって実際どうなわけ? 本当にまるお狙いなの? なんだかんだ言って、やっぱり一番仲よさげなのって高須くんじゃん、見てる限り。こないだタイガーんち行った時なんて、高須くんが洗い物してたよ。あれは相当、通ってるでしょ。まるおの件はなにかの誤解で、結局本命は高須くんじゃないのかな? てか、ぶっちゃけそうならいいのにさー!」
――抵抗していた大河の動きがぴたりと止まる。この展開に、大河も出るに出られなくなってしまったらしい。そろそろと竜児が腕を解いても、大河はもはや「さっきからずっとここにいましたー!」と飛び出すことも難しい状況だ。隙間から差し込む細い光の中で顔を強張らせ、息を殺して動きを止める。竜児の顔を一瞬見やる。おぼえとけよ……唇がそう動いた気がする。
「ねぇねぇ櫛枝、そのへんどうなの? タイガーと仲いいんだし、わかるでしょ? タイガーって高須くんとまるお、どっちが本命? 高須くんだよね? ね?」
「いやあ、そのへんって言われてもオラ困るべ。大河が戻ってきたら直に訊いてみなよ」
洗い髪をクリップで留めて、実乃梨は首を傾げてみせるが、
「え〜!? タイガーが答えてくれるわけないじゃん! ……ていうか、なんか櫛枝、さっきから若干静かじゃね? どした?」
「そうかい? スキー頑張り過ぎたかも、眠いんださっきから」
「えー、今夜は寝かさないよ!? ギャルトークすんだから! てかさー、高須くんがばしっとタイガーをゲットしちゃってくれたらなんにも問題なくなーい!?」
「あいたたた〜……そして黙り込む実乃梨ちゃんなのでした(ハァト)」
あは、と亜美が意味ありげに笑う。部屋の空気が一瞬、固まる。押入れの下段の空気も同時に固まる。
「……え、なになに。なにそれ。亜美ちゃん、めっちや気になるんだけど。気になるよね、奈々子」
「うん、もちろん気になるわ。ていうか、前にも亜美ちゃん、なにか櫛枝にしか通じないようなこと言ってなかった?」
「あれれぇ、二人にも聞こえちゃったあー? ごめえん実乃梨ちゃん、実乃梨ちゃんがあんまりにもすっとぼけてくれるからあ、亜美ちゃんついつい余計なこと言っちゃったあ」
実乃梨は何も言わず、亜美の顔を振り返って見る。亜美はいつものチワワ目をぱちくり瞬かせ、わざとらしいほどかわいい顔を作って笑顔、実乃梨の顔を見返す。
「ほらほら、二人だけで目で語ってないでよ、早く言っちゃえって亜美ちゃん!」
「……って麻耶が言ってるけどお、実乃梨ちゃん、どうするう? 言っちゃう〜?」
小首を傾げる亜美の目の前、実乃梨は、
「……なんのこと?」
ゴク、と竜児は息を飲んだ。話題の危うさもさておいて、実乃梨の表情だ――少し目を眇め、顎を上げて、亜美の顔をまっすぐに見据える。竜児はその顔を以前に一度だけ、見たことがある。忘れることもできない、文化祭の練習中のことだ。大河の父親のことを問いただしてきた実乃梨は、今と同じ顔をしていた。つまり、本気で怒りかけている顔だ。
しかし亜美は負けてはいない。唇にふ、と余裕の笑み、腹黒様の真骨頂はここからだとでも宣言するみたいに綺麗な顔を綻ばせた。そして言う。
「実乃梨ちゃんがあ、クリスマスイブにコクろうとしてきた高須くんをふったことだよお。忘れちゃったのお? や〜ん、さすがモテモテ愛され系〜! 超余裕〜、かっけ〜! ふったことなんかいちいち覚えてられないかあ〜! あはは!」
「は? え? ……うえええええ!? なになに、なにごと!? 高須くんが、コクろうとしてきた!? マジで!?」
「それでふったの!? イブに!? うそおお! ……ていうか、どうして亜美ちゃんはその話知ってるの!?」
「さ〜、どうしてだろうねぇ〜、不思議だねぇ〜」
盛り上がる麻耶と奈々子をよそに、美乃梨は息をついてからごく淡々と、
「……あーみん。なんでそういうこと言うかね……」
それだけ。一方亜美は、
「そっちがいつまでもとぼけてっからだよ。よーくーもーまーあ、平気なツラして、てっきとーなこと言ってんなーって思ったの」
おっそろしいほど素の声、投げつける強さで真正面、実乃梨にケンカを売り始めた。
「高須くんはタイガーじゃなくて、実乃梨ちゃんが好きなんだよねー。でも、実乃梨ちゃんはふったんだよねー。でもって、そんなの忘れたふりして超天然なふりしちゃって『みんな、なかよくぅぅぅ! 』だの『ずっとこのままでいたいじゃぁぁぁん! 』だの……はあ? よく言うよマジで、こええっつーの。ふられた奴がふった女相手に、仲良く、変わらず、いられるわけないじゃん。スキーのときだってあーんなにわざとらしくくっついてさあ、あんたなんか意識してませーんって天然宣言したいだけなんだよねぇあれは。ほんとに、どんだけ残酷?」
押入れの中チームも、部屋にいるチームも、思わず息を詰める。当事者も、そうじゃない奴も、誰もなにも言えない。
「……平気なツラなんて、いつ見たわけ? 本当に見たわけ? 私のなにがわかるの? 心が目に見えるか? ていうかあーみんには関係ねーから。首つっこんでくれなくていいから」
実乃梨以外は誰も、だ。
「関係ないか。そっかあ。ああ、そっかあ。ごめんねぇ。……でも、高須くんのことふったって聞いたときには、思ったんだけどなあ。――罪悪感、あったんだあ。って。……関係なかったかあ」
「言ったじゃん。関係ねーよ。意味わかんねーよ。私が平気なツラしてるって思うなら、それでいいじゃん。ほっといてよ」
「関係ないんならよかったぁ〜。じゃあ『罪悪感』も関係ないんだぁ。な〜んだ、てっきり、実乃梨ちゃんも高須くんのことはまんざらでもなかったけど、だ・れ・か・さ・ん、への罪悪感から、高須くんをふったんだと思ってたぁ〜。そっかそっか、なるほどねぇ。実乃梨ちゃんは、超純粋に、高須くんのことが嫌いだからふったのかあ〜。じゃあ亜美ちゃんがあ、明日にでも高須くんに伝えておいてあげるう〜。実乃梨ちゃん、高須くんのこと嫌いだからふったんだって、って。はんぱな言葉で今みたいに飼い殺しにしとくより、望みははっきり断ち切ってあげた方が親切ってもんだよねぇ」
「……好きにすればいいじゃん」
「オッケー、伝言承りましたぁ。あ、なんなら今、いってこよっかあ?」
「……だから、好きにすれば、って」
「……ほんっとに、いいツラの皮してる……」
「……なにそれ」
「……なんだろうねぇ」
いい加減にしなってば! ――麻耶が決死の覚悟で二人の真ん中に割って入る。凍り付いていたような時間が、ようやく軋みながらも動き出す。
「亜美ちゃんもー、どうしちやったの!? やめようよ、せっかくの修学旅行なのに女子同士でケンカなんてさあ! 話聞きたいなんて言ったの撤回するし! ていうか、ムカつくのは能登! それでいいじゃん! 櫛枝もさ、ね? 流そうよ、お願い!」
実乃梨の傍らに立ち、奈々子も言う。
「タイガーが戻ってきて、二人がケンカしてるの見たら、きっとつらいと思うよ。タイガーの親、離婚してるんでしょ。うちも片親だからわかるけど、ケンカとか言い合いを見ると、どうしても親のケンカとか、そのときの家の空気とか思い出しちゃうんだよね。でも……今のは亜美ちゃんが言い過ぎたよ。亜美ちゃん、謝ってここで終わりにしよう」
少しの沈黙を置いて、そして、
「……ごめえん、実乃梨ちゃん。ついつい言い過ぎちゃった。忘れてくれる?」
亜美が小さく頭を下げてみせる。それを見て、実乃梨はおもむろに、一つ大きく音を立てて手を打った。
「……おらよ! これで手打ちな! はい、いいよ忘れた!」
ほっ、と、それでようやく空気が緩む。
「ところで、タイガー本当にどこに行ったのかな? 気分転換がてら、ちょっと捜しに行ってみようか?」
ことさらに明るい声で麻耶が言い、誰もが気分転換したい気分でいたのだろう。そのまま女子たちは頷き合い、部屋から出ていった。
すー、っと押入れの襖を開き、
「……すごく、見てはいけないものを見た気がするぞ……!」
最初にぼろんとまろび出たのは北村だった。能登と春田も続けて転がり出てきて、
「ていうか櫛枝氏、結構……なんていうか……俺、あんまり変なこと訊かなくてよかったって今しみじみ思ってる……」
「ていうかていうか、奴らのケンカの意味が全然わかんなかったのって俺だけ? 亜美ちゃんはどうこの話に絡んでるの? 高っちゃん、ねぇなんなの〜?」
「お……俺が訊きたいぐらいだってんだよ! 本当に! どいつも……こいつも……!」
混乱のあまり目まで眩む気分、竜児も下の段から這い出した。そして、
「……あんたぁ……おまえぇぇ……きいぃさあぁまぁぁぁあああ……!」
濡れた髪を振り乱し、顔を怒気やらなにやらで真っ赤にした大河が鼻息も荒く立ち上がる。さもありなん、手乗りタイガーにこれだけのことをしてしまったのだ、覚悟はとっくにできている。黙って竜児は目を閉じ、
「歯をくし、くいば、食いしばれええい!」
全体重をかけたビンタを待つが、「……あああ……!」と大河の右手は空を切った。そのままへにょへにょと畳に横座り。情けなくその手で真っ赤な顔を覆う。
「気まずすぎるわよ!? なによこれ……なんてモンに巻き込んでくれたのよ!? あんたたちはいいじゃんよ、部屋に帰ればそれで済むんだから! 私はこのままなんにも知らんぷりであと二泊、微妙にギスギスするみのりんとはかちーの間で能天気なふり、猿芝居を演じないといけないのよ……!」
「あ〜そっか、たいへんだよな〜」
「黙れ脳無し毛虫! ……でも、でも、ほんとに、なんなの……なんでみのりんとはかちーがケンカになるわけ? 私が、ばかちーに全部喋っちゃったのがいけなかったの……?」
大河の疑問に回答できそうな奴は、ここには一人もいなかった。男どもは揃いも揃って、見てはいけなかったはずの女子同士の口げんかに、いまだ気おされたまま気まずく目を見交わすばかり。
「……とにかく、だ」
眼鏡を半分ズリ下げたまま、北村が低く唸るみたいに言う。
「とにかく、俺たちはなにも見ていない。逢坂は、部屋に戻る途中で高須と会い、廊下で立ち話をしていたんだ。そして帰ってきてみたら、女子たちは一度戻ってきたようだが、どこぞかに行ってしまっていた。……そうだな? な?」
視線を投げられ、大河はまだ顔の色を火照らせたままでなんとか頷いてみせた。その大河の顔を見つめたまま、北村は小さく、「調子に乗って、本当に馬鹿な真似をした」とつけ足し、自分の額を一つ叩く。それがどういう意味なのか竜児にはわからなかったが、自分に向けられた言葉でもなさそうで、あえて問い返すこともできなかった。
そうしてあとはここから離脱するのみ――押入れの変態どもは無事に脱出することに成功したが、一人女子部屋に残されて、知らんぷりで二泊を過ごさなければならない大河は、
「……ていうか、あんたたちなにしにきたの……?」
いつまでも根めしげに、男部屋へ引き上げていく変態どもを見送っていた。
6
咋日の晴天とは打って変わって、今朝の空は重い雪雲に覆われていた。
天気予報では昼前には吹雪く可能性もあるという。今は風こそないが、ゲレンデにはすでに雪がちらついていた。
「手はどうだ、高須」
北村の声に振り返り、竜児はグローブをつけた右手を振ってみせる。
「なんともねぇ。ちょっとビリビリするぐらい」
朝食時に、軽い火傷を負ったのだ――負わされたのだ、あの稀代のドジに。全員揃っての食堂で、味噌汁をおかわりしに立った大河を見かけ、「どうだ、首尾は」と背後から小声で話しかけた。女子たちは今日も野郎どもをシカトする方向性のようだったので、目立たないように、と気を使った結果がこれだ。
返事は「ぬええ!?」で、お椀に意地汚くたっぷり注いだ味膾汁を、大河は竜児の手にぶっかけて下さった。猿芝居の調子を尋ねてやろうと思っただけだったのだが、
「……もう悟ったぞ俺は。危険物を持っている大河には、絶対に近づかねぇ」
「偶然の事故だろ、許してやれ」
「大河と同じこと言いやがって……『あら偶然! これは事故よ! 遺憾だわ! 』……ひとっことも謝らねぇんだから」
「昨日の件もあるじゃないか。多少のことは」
不問にせよ。と、北村は口をひん曲げながら、両手をフラットに動かしてジェスチャー。そればもちろんその通りだから、竜児もちょっと眉を上げて応える。
午前中は自由時間とされていた。
あちこちでスキーの練習を始めた奴らが笑い声を上げたり、コケたりしているのが見える。のんきに雪だるまの製作にかかっている連中もいる。能登と春田はとっくにスキー板を抱えてリフトに乗り、今頃はコースを目指してゲレンデを昇っているところだろう。
「おまえも俺に付き合わなくていいんだぞ。コースに出てこいよ」
「俺の今日の予定は、高須にボーゲンを仕込むことなんだが」
北村はそう言ってくれるが、竜児は「いいよいいよ」と断ってみせた。自分がいては北村はスキーを楽しめないだろうし、ご存知北村の熱血教え魔ぶりは、ちょっと勘弁な気分でもあった。
「俺はどうやらセンスなしだ。大河も一人で余りモン、その辺でそり引きずってるだろうし、相手してくる」
手を上げてみせ、リフトに向かう北村と別れた。竜児は一人、傾斜のゆるやかなゲレンデのはずれへと下りていく。
大河が余っているかどうかはさておき、一人で考えたいことがあったのだ。いまだ混乱したままの頭では、とても友達と楽しくスキー、なんてできそうになかった。
雪に足をとられながらも、ブーツで歩いていく。咋日よりも気温はずっと低く、頬がびりびりと切れそうに感じる。一応目指すは休憩所とされているふもとのロッジ、転ばないようにゆっくりと足を進める。
もはや実乃梨の真意を訊くなんて――真意なんて、どうしようとも思ってはいなかった。スコーン、とだるま落としみたいに、心の芯の真ん中が跳ね飛ばされていた。そしてその上から、ドンドンドン、と、さらになにかが降ってきていた。大事な部分が跳ね飛ばされたこと自体が痛くて痛くて仕方ないのに、容赦なんてありはしなかった。
息をつきつつ、目を擦る。昨日は、あまりよくは眠れなかった。友人たちが眠ってしまった後も、実乃梨のことと、実乃梨と亜美のケンカのことが、ずっと頭の中をグルグルと回っていた。考えても意味などないことはわかっているし、考えても実乃梨の気持ちが変わるわけでもないこともわかっている。
ただ、漠然と感じたのは、あのケンカの中で亜美は、実乃梨が「言わない」と決めたなにか――竜児が知らないなにかを、言わせようと必死で煽っていたのではないか。ということ。
それでいながら、やっぱり亜美も、「言わない」なにかを隠し持っているということ。
真っ白な息を吐き、思う。実乃梨にも、亜美にも、大河にも北村にも「言わない」ことがあって、そしてときに、「言わない」ことこそが、一番伝えたいことなのだろう。それを言い合って、分かり合えれば、欺瞞などではなしに歯車は噛み合い始めるのだろう。
でも、言わない。言えない。そこにある齟齬《そご》を認めるのが怖かったり、すべてを晒してやっぱり噛み合わなかった時の決定的なお別れが怖かったりして、おっかなびっくり、人は言葉を飲み込み合う。言わなくてもわかるよね? わかってくれるよね? わかり合えるよね? などと、都合よく相手の顔色を読もうとする。
でもやっぱり相手には言わせたくて、時に針でなぞるみたいにつつき合ったりもして、だから結局傷つかずにはいられないのだ。そして、竜児にも、言わないことはある。たくさんある。実乃梨のことも、それ以外にも、……それがなにかは言わないが、ある。
ド派手なウエアの連中が点在するゲレンデを見回し、大河の姿を見つけた。実乃梨と一つのそりに乗り、二人は楽しげに笑い声を上げていた。
二人の仲に割り込む理由もなく、竜児はそのまま踵を返す。そのとき、
「……おう。こんなところで、なにしてるんだ」
「ちょっと足首痛くしちゃったから、休憩」
目が合ったのは、亜美だった。
あまり人が寄り付かない、柔らかな雪の中にしゃがみ込み、亜美は一人で雪の山を陰気に作っていたのだ。ちょっと意外――普通の声で、亜美は竜児の声に応えた。ずっとつんけんと意地悪く、バカだから嫌い、を通してきたのに。
昨日の件もあり、多少気まずく思いながらも歩み寄ってみる。
「……転んだのかよ」
亜美の背後には、レンタルスキーとストックが雪に突き立てられたままで放ってあった。「そ。疲れたし、お財布忘れちやったからロッジに行ったってコーヒーも飲めないし」
「……それで一人で山をこさえていたわけか……」
「山じゃないのよ。これはかまくらになるの」
かまくらには、ならねぇだろうな――雪に対してはまったくの素人の竜児でさえ、亜美がぽふぽふとグロープの手で作る小さく脆弱な山を眺めて思った。
「……そうやって、山から作るんじゃなくて、最初は雪だるま作るときみたいに雪球を転がして、ある程度まででかくしていくんじゃねぇか?」
「いいの、これで」
亜美はあくまでしゃがみ込んだまま、ぺたくたと山を盛り上げていく。グローブで雪をすくっては山に乗せ、叩いてならす。その手つきではいつまでたっても、亜美が入れるようなかまくらにはならないだろう。
雪が白く映るようなその顔を眺めていて、言わなくたってわかるぞ、と竜児は思った。昨日の実乃梨との言い合いを、結局亜美は気に病んでいるのだ。だからこんなところで、一人になって、空しく雪をかき集めては押さえつけて、無為に時間を潰しているのだ。ぐしゃぐしゃな心をかき回すみたいに。
「あ。ちょっと」
「手伝ってやってんだって」
向かいに座り込み、どんどん雪を積み上げてやる。別に、慰めようなんて――昨日のケンカの話を聞きだそうなんて、思ってはいない。バカだから嫌われていることだって忘れてはいない。
ただ、竜児も一人だし。亜美のかまくらは、いつまで経ってもできあがりそうにないし。こんなところで一人で空しく雪をかき集めている姿は、そのまま放置しておける雰囲気でもなかったし。本当に自分が邪魔ならば、亜美ははっきりそう言う奴だろうし。
「……ほら、ちゃんと雪を固めろよ」
「……」
「やれって。せっかく積んだのに、崩れるばっかじゃねぇか」
亜美の手は止まり、雪は竜児が積み上げるそばから雪崩を起こして崩れ落ちていってしまう。仕方なしに竜児が手を伸ばし、ぽんぽんと叩くように山を固めるが。
「おう!?」
その山に、亜美は唐突に顔面から突っ込んでいった。ふざけてケーキにつっ込む、酔ったパーティの主役みたいな勢いで。
「なにやってんだよおまえは! 冷たいだろ!? 美容法かよ!?」
そのまま数秒、
「……あのさー……」
ようやく亜美は。顔を上げる。睫毛にも眉毛にも雪がつき、冷え切った頬と鼻は真っ赤に紅潮している。
「高須くんに、懺悔。しないといけないことがあるんだ……あたし」
「……おう、わかるわかる。そりゃあるだろうな、たくさん。じゃあまずはバカ呼ばわりしてくれたことを謝ってもらおうか」
「そーじゃなくて。そうじゃ、……ないんだって」
崩れかけた雪山のてっぺんに顎を乗せ、亜美は両目を静かに閉ざした。鼻から一度息を吸い、ちょっと詰めて、あとは一息に、
「……高須くんが実乃梨ちゃんにふられたのってあたしのせいかも」
と。
竜児は何も言えず、ただ亜美の顔を見る。は? となんとか、口だけを動かすが。
「前に……高須くんの知らないところで、あたし実乃梨ちゃんに、嫌味を言った。……なんであんなこと言っちゃったのか自分でもわかんない、でも、言っちゃったことは取り消せない。それをずっと気にしてて、実乃梨ちゃんは、高須くんをふったんだと思う」
そう言われても、反応することさえうまくできない。だって意味が、わからない。
「……ええと……とりあえず……嫌味って、なに言ったんだ?」
「怒った? ……あは。怒るよね、普通」
「だから、内容がわからなけりゃ、なんとも言いようがねぇだろって」
「……言わない」
出た。また「言わない」か。
「それに、実は咋旧、実乃梨ちゃんにケンカ売っちゃったよ。嫌味なんか言ったこと後悔してるくせに、それでも、どうしても、あの子の顔見てるとむかついて仕方ないの。むかつく理由はいろいろあるんだけどさ、一番は、――絶対、正面からは相手にしてくれないこと。どれだけケンカ売っても、あたし結局、一度も実乃梨ちゃんの本心って聞いたことないんだ」
長い睫毛を伏せて、亜美はおもむろに手を伸ばした。
そのまま乱暴に、雪の山を掻き漬してしまう。右手、左手と動かして、さらにチョップで完全に破壊。そうして息をつき、
「……高須くんは、バカだから嫌い」
「……まだ言うか」
「自分のことも、バカだから嫌いだよ。あたし」
疲れ果てたように、自分がぐしやぐしゃにした雪の中に座り込む。雪山の残骸をさらに両手で掻いて、壊して、辺りに散らばして。鈍い銀色に光る空を見上げる。
「ねー高須くん」
雪が少し強くなって、亜美の髪にひらひらと氷の切片がくっつく。それを眺めるばかり、竜児にはかけるべき言葉が見つからない。
「タイガーは、最近、 一人立ちしようと頑張ってるんだってね。そして実乃梨ちゃんは高須くんをきっぱりふった。……二人が高須くんの手を離したところで、あたしがその手を、掴んじゃおうかな。実はこうなったのってあたしの作戦通り。あたし、ずっと高須くんと付き合いたいなーって思ってた。好きだから。……って言ったらどうする? うそだけど」
理解するより早く、
「……はええな! 驚く間もなくひっくり返したな!」
ドン! と跳ねた心臓を押さえるように、竜児は必死に自分の顔を擦る。雪塗れのグローブのせいで、切れるほどに冷たく鼻が冷える。
亜美は笑いもせず、そんな竜児をただ正面から見つめていた。
「だってうそだもん。信じて、作戦通りなんかじゃない。……こうなればいいなんて、思ってたんじゃない。ほんとに、思ってなかったのよ。……でも、まあ……あたしが余計な首つっ込んだのは事実で」
無関係のくせにね――呟くその口元にも、雪が触れる。触れるそばから溶けて消える。やっと作った淡い笑みも、同じ速度で消えていく。
「……罪悪感でがんじがらめ。あたしも自爆だ。色々間違って、こうなっちゃった」
「こうなった、って……俺が櫛枝にふられたことを言ってるのかよ? そこは、おまえに責任なんかとってもらいたくねぇ。櫛枝とおまえの間になにがあったか知らねぇけど、ふられた原因を誰かになすりつげるような奴に俺をさせんなよ」
「……そーだね」
亜美は一度鼻をすすり、おもむろに立ち上がった。そしてにっこりと、いつもどおりに亜美の笑顔は美しく、完竪な愛らしさで竜児を見下ろし、
「じゃ、絶交しようか」
「……は?」
両手のグローブをわざわざ脱ぎ、脇にはさんで、亜美は親指と人差し指でリングを作る。右手と左手のリングを繋げて、掲げて見せて、
「絶交きった、縁きった」
節をつけて歌いながら、その両手のリングを、切った。
「……なんで、絶交されたんだ俺は」
「バカだから嫌い。……だから、その、バチ」
バカだから嫌いな奴は、ここには二人いるはずだった。どっちに下されたバチなのかも言わず、亜美は踵を返す。
なんだよ、これは。
言葉が、だから、足りないって言ってるじゃねぇかよ。
その背を見たまま、かける言葉も見失ったまま、無策に固まる竜児の目の前にそのとき、「ばかちいぃぃぃぃぃどけぇぇぇぇぇ―――――っっっ!」
「わざとじゃないわざとじゃないわざとじゃないからねぇぇぇぁああああっっっ!」
えええええぇぇぇぇ!? ――亜美めがけて、大河と実乃梨が二人乗りしたそりが爆走してきた。
二人とも足を伸ばして必死にそりを止めようとしているが、加速がつき過ぎ、止まらないのだろう。ほとんど唖然と竜児が眺める中、まずは大河がそりから転げ落ちた。結構な勢いで雪をぶちまけつつ、次にはバランスを失って実乃梨もポーンと投げ出される。
そして無人になったそりは、ガッツン! と亜美を轢いて、そのままゲレンデの入り口付近まで滑って行ってしまった。
「……どけって、いったのに……」
さすがの大河も顔を引きつらせ、雪の中に埋まった亜美を掘り出す。ごめんごめん、と雪を払い、
「あっ……あんたぁぁぁっ! 何回そりでコケたら気が済むわけ!? ばっかじゃねーのそりのんじゃねぇよおめえはよ!? てくてく雪んなか歩いてろやボケが!」
「だーかーらー謝ってるじゃんか、そうだ、ロッジでソフトクリームおごってやろう」
「いらねぇええええー! さみーんだよバカ!」
キレた亜美のローキックがぽっすんぽっすん大河のケツ下に炸裂する。ぶかぶかのウエアに守られて、あまり効いてはいなさそうだった。そして、
「ごめんあーみん! と、止まらなくて……許せ! ごめん!」
実乃梨も駆け寄ってきて、亜美に謝るが。
「……なにが、許せ! だよ……!?」
きっ、と、亜美は実乃梨を睨んで声をひっくり返した。
「わざとでしょ!? 絶対今の、わざとだよ! 殺意感じたもん!」
「ええ!? 違う違う、そんなわけねぇっての! 止まらなくなっちやったんだってば!」
「絶対わざと! ていうかはっきり言えば、昨日のこと怒ってるからなんでしょ!? もっと言えば、あたしが高須くんと喋ってたから、邪魔しにきたんだよねぇ!? 絶対そうでしょわかってんだよ!」
そう喚きながら、頬だけじゃなく、両目まで真っ赤に染める。こめかみには絵に描いたようにキレそうな血管、鼻も真っ赤、挙句に実乃梨に雪を投げつける。
ぼすっとうまい具合にそれが顔面にヒット、実乃梨はよろっと一瞬よろめき、
「……はあああああああ!? 昨日のことっていうと、あーみんがケンカ売ってきたアレのことかあ!? こっちが流してやったのに、そっちが引っ張り出してくるかよ!?」
うわあ……と、大河と竜児の視線が交差する。おまえ止めろよ、あんた止めなよ、互いに視線で語り合う。しかし二人は昨日の件についてはなにも知らないことになっているのだ、割って入るのは難しく、
「なーにが流してやっただよ!? 朝からずっとあたしのことシカトしてたくせに!」
「べっつに話題なんかなかったからじゃん! それとも楽しい話題を私が提供してやんなきゃシカトしたって言われんのかよ!?」
「その上から目線がほんっとにムカつくんだよ脳みそ筋肉女!」
「誰が上から目線!? 下手に出てりや調子こいてんじゃねー!」
ドン! と実乃梨の手が亜美の肩をつく。
「……! てめー……っ」
やり返そうとして、しかし亜美のその手を実乃梨は素早く掴み、ばしっと頬を男らしく張る。二人はにらみ合う。運動神経で亜美が実乃梨に敵うわけはない、のだが。
「顔は殴るんじゃねぇよ!」
「おめー女優じゃねぇだろうがあ!」
雪山に二人の声が響き渡った。地団太踏みつつ、きー! と亜美の声はまるで悲鳴みたいに甲高く、
「あっ、あんたのことなんかっ、あたしずっと嫌いだったんだからぁ! はなっからすっげえムカついてたんだからっ!」
「あーそーすか! それがどーした! おめーに嫌われたって痛くも痒くもねー!」
実乃梨の口も負けてはいなかった。言い合いはさらに凄まじく、「だいっきらいだいっきらいだいっきらい! あんたなんか、だいっっっきらい!! !」「こっちこそてめーなんかもーしらねぇ! 二度と、口きかねー!」「望むところだっての!」「ていうかなんで前の学校戻らないわけ!? とっとと帰れや!」「ああああんたには関係ないでしよ!? 貧乏人! 一生バイトし
てろ!」「んだと!? そっちは外面振りまいて、必死こいて厚化粧して、ウソのツラでモデルでもなんでも一生してろー」「はああ!?」……言ってはいばない領域まで、二人の言い合いは加速していく。ドシ! ドン! と合間合間に肩を小突き合う力も、どんどんシャレにならなくなっている。二人してよろめきながら、「あんだてめーやんのかおるぁ!?」「泣いて謝ってもしんねぇぞこらあ!」……さすがの大河も「あわわ」と顔をしかめ、二人の方へと駆け寄っていく。
「これってもう黙ってられない、早くみのりんに加勢しなくちや! 行くよ竜児、てめーばかちー!」
「おう! って、違うだろバカ! 止めるんだよ!」
「それにしてもなんて恐ろしい光景なのかしら、夢に見そうだわ!」
「おまえと兄貴のケンカの方が恐ろしかったよ! 鼻血だらだら垂らしてよー!」
なんだなんだとド派手ウエアの運中が声に気がついて集まりだし。竜児は大河とともに二人を引き離しにかかる。
そのとき。
「――あっ!」
大河の目だけが。偶然にそれを捉えていた。
実乃梨が前髪に差していたオレンジ色のヘアピンが、亜美の手が当たった拍子に、外れて跳ねてしまったのだ。結構な勢いでそれは飛んでいき、少し離れたところに集められた新雪の上に落ちる。亜美と実乃梨の言い合いはなおも激しく、誰もヘアピンのことになど気がついてはいない。
大河は慌てて、見失わないようにピンの方へと向かった。あれは大事なものなのだ、絶対になくしたりなんてしてはいけない。柔らかな雪にずぽっと足を取られながら、手を伸ばし、「……っ」
突然に、踏み込んだ足の支えが失われた。悲鳴を上げる余裕もなく、目の前の雪の地面が崩れ落ちていく。
麻耶と奈々子、北村も駆けつけ、
「いい加減にしろ! おまえたちはなにをしてるんだ!?」
「だってこいつがこいつがこいつがぁ! あたし悪くないいぃぃぃっ!」
「こっちは売られたケンカ買っただけだよ!」
二人をようやく引き離した頃には、独身(30)までやって来ていた。亜美は北村の腕に掴まったまま目を真っ赤にして「ひっ、ひっ」と声を引きつけ、実乃梨はいまだに鼻息荒く、歯噛みしながら亜美を睨みつけている。いつの間にか集まっていた連中は、実乃梨と亜美という珍しい対決に驚いたようにざわめいて、二人を取り巻いていた。
竜児だって驚いているとも。一体なにがどうしてこうなったのか、
「とりあえずおまえ、櫛枝と部屋に戻って落ち着かせ――大河?」
あれ? と辺りを見回す。傍らにいると思い込んでいた大河の姿が見えないのに気がついたのだ。
「……大河がいねぇ」
呟いた声に、実乃梨が振り返る。亜美を睨むのをやめて、目を見開いて竜児を見上げる。
「さっきまでいたのに。 一緒におまえらのケンカを止めようとしてたのに……」
「……大河……?」
実乃梨の目が、周囲をぐるりと眺めた。そして視線が止まる。竜児もほぼ同時、同じものを見つけていた。
それは新雪の上に不自然に続く、一人分の足跡。肩を押さえていた竜児の手を振り解き、実乃梨はその足跡を追って歩き出す。竜児もその後に続き、
「……これ……え、これ、これって。もしかして。……大河」
「う……うそだろ……!?」
雪の地面が一度盛り上がって、その先がガケになっているのに気づく。崩れ落ちている、せり出した雪の屋根にも気づく。覗き込もうとして、吹き付けてきた強風に息を飲む。
どこまで続くかわからない、杉の生える急斜面に、誰かが落ちて行ったような跡だけが残っていた。
***
――手乗りタイガー、行方不明だって。
――C組のいなくなっちゃった子って、手乗りタイガーなの!?
ロッジの団体客用の大広間に集められ、二年生たちは騒然となっていた。曇った窓の向こうは、天気予報どおりの荒天。横殴りに雪が叩きつける、猛吹雪。
「高須、今恋ヶ窪先生に状況を聞いていた。逢坂が落ちたらしい斜面は針葉樹の森になっていて、そのさらに下が冬季は雪で通行止めの道路らしい。スキー場の係員さん達が道路の方から斜面を捜しているから、それでも見つからなければ警察に任せるしかないと。……高須!」
「……っ」
目の前で手を叩かれ、その音に驚いてようやく竜児は顔を上げた。気がつけば北村がすぐ目の前で、顔を覗き込んでいた。
「しっかりしろ! きっと見つかるから大丈夫!」
「……ああ……おう」
それだけ言うのがやっと。丸太を模した固いイスに座り、竜児はいまだ夢の中にいるような、頭が痺れるような心地のままでいた。軽い火傷に少し赤くなった右手の甲に目を落とし、あのドジ、と喉の奥で唸る。
ついに、あのドジが、大河が、致命的なドジをやらかした。
目の前で階段から転がり落ちたこともあった。転んだり、ぶつかったり、零したり、倒したり、そんなことは日常茶飯事だった。ついこの間は車にも轢かれそうにもなった。この右手も大河のドジの証明だ。それでも今まで大きなケガなどしたことはなかったのだが、それは本当に奇跡的なラッキーが続いていただけのことだったのだ。とうとう、こんなことになってしまった。
大河のドジを責める気持ちと、すぐ傍にいたはずなのに気がつきもしなかった自分を責める気持ちが頭の中を渦巻き、せめぎ合っていた。いつの間にか消えてしまうなんて。まるでイブの夜のパーティと同じだ。そう思い、本当に同じならいいのにと強く念じる。
あのときは、大河は安全な家にいた。いなくなったことに気がついて、走れば大河の許へ駆けつけられた。
でも今は。
窓の外は、もう目をやるのも恐ろしい。こんな天候で、このまま見つからなかったらどうなるのか――想像しかけてすぐに打ち消す。そんなわけはない。そんなことには絶対ならない。大河はドジだが、それを補ってあまりあるほど運動神経はいいし、身体自体が異様に頑丈だ。きっと、なんとかなる。絶対になる。なる。
祈るように手を合わせ、竜児は固く目を閉じた。向かいで心配げにその様子を見ている能登と春田の視線にも気づかない。なんとかなる……そう願う頭の片隅で、それでも「もしも」と、詮無いことを考えてしまうのだ。もしも時間を巻き戻すことができたなら、さっきの場面まで戻れたなら、絶対に大河から目を離しはしないのに。大河の手を掴んで、そして絶対に、離しはしないのに。
まるで父と娘の関係のようだと訝しがられたって、大河の自立の邪魔になったって、恋愛の邪魔になったって、どうだって、絶対に大河を離さない。手を取り合った二人の関係を誰がどう言ったって、そんな声を気にする耳なんか捨てていい。ああだこうだと考えてしまう頭なんか、捨ててしまったっていい。
あのドジの、手を離してはいけなかったのだ。後ろを踏んだ足も、離してはいけなかった。
こんな思いをするのなら、大河がこんな目に遭うのなら、絶対に離してはいけなかった。
どんなに悪いことだと言われても、離すべきではなかった。
それなのに、一体この手は、この足は。なんのために、ここにあるという。
「……すごい吹雪……」
背後から聞こえた声に、竜児は思わず振り返った。
竜児の真後ろの座席で、実乃梨が窓の外を睨んでいた。きゅっ、と唇をすぼめ。キャップを深くかぶる。グローブをはめ、ウエアのジッパーを一番上まできっちり上げる。嫌な予感に、竜児は眉をしかめる。
「櫛枝……おまえ、なにする気だ」
「この吹雪だもん、早く見つけなきゃ。私、見てくる」
そう言うや否や立ち上がるのを、慌てて押し止めた。
「アホか!? 今度はおまえが遭難するぞ!」
「だってここでただこうしてはいられない! 大丈夫、絶対すぐ戻るから! さっきのところまで、一往復でいいから行かせてよ! それで戻るから!」
答えを待たずに竜児の腕を振り解き、実乃梨は本当に歩き出していってしまう。北村もそれに気づいて実乃梨の前に回り込み、「やめろ!」と止めるが実乃梨は聞かない。北村の手も振り解き、どんどん歩き出し、一階へ続く木の階段を下りていってしまう。何度その肩を掴んで止めようとしても振り払われ、竜児は腹をくくった。
「……くそ……なら、俺も行く!」
「俺も行くぞ! 能登! 春田! 先生に俺たちが行ったことを伝えてくれ!」
さらについてきた北村が声をあげると、能登たちが「はあ!? だめだって!」と驚いたように立ち上がるが、実乃梨は止められないし、一人で行かせることもできない。
どうしよう!? と走って教師たちの許へ向かう能登たちの後ろでは、亜美が真っ白な顔を俯け、一人で座っていた。声も出さず、表情も変えず、たった一人でいた。
一般のスキー客らも続々と引き上げてくる吹雪の中、ブーツで走っていく実乃梨の後を竜児と北村は必死に追いかけた。
ゴーグルの緑にはあっという間に雪が積もり、柔らかな雪は何度も足を取ろうと沈む。ようやく実乃梨の腕を掴み、北村も逆の腕を掴み、
「あせるな櫛枝! 本気で逢坂を捜すなら、落ち着いて周りを見ろ!」
「……っ」
強い声に、実乃梨はやっと振り向き、顔を歪める。荒い息をついて肩を揺らし、 一度大きく頷いてみせる。
向かいから吹き付ける吹雪に押し戻されそうになりながら、三人は互いに腕を掴み合って前へ進む。実乃梨と亜美がケンカになったのは、ロッジからさほど離れてはいないゲレンデの裾野の辺りだった。
「この辺に、滑り落ちたような跡があったんだよ!」
実乃梨が盛り上がったように見える崖のぎりぎりまで近づいて、降り積む雪に覆い隠されか
けている部分を指差してみせる。
「危ない! あんまり近づくな!」
「でもこの下にいるんじゃないのかな!? 大河―――っ! 返事しろ―――っ!」
下を覗き込もうとして身を乗り出す実乃梨のウエアの袖を引っ張り、竜児は必死に落ちないようにブーツの両足を踏ん張った。すぐ目の前で、実乃梨のブーツの先端で、雪が自重でバラバラと崩れ落ちていく。背中を冷たい汗が伝うのがわかった。異様な緊張状態に、奥歯が合わなくなってもいる。
実乃梨を支えながら、木々が生える雷の斜面を見下ろした。底は見えない。せめてこんな吹雪でなければ、滑り落ちていった跡も残っていただろうに。と、
「……あれ……!」
なにかが光った。
目星をつけて覗き込んでいた場所よりだいぶ先。斜面の、ちょうどコブのようになって真下が覗けない、その庇の陰のあたり。キラキラと、まるで雪色の夜空にたった一つ光る星のように、橙《だいだい》色の小さな光が瞬いていた。
降り積む雪に今にも隠されそうな、本当に小さな光だった。
しかし竜児の目にははっきりと見えた。
あの光は、
「……大河!」
――あれを、拾おうとして落ちたんだ。ならば、あれを目印に下りていけば大河はきっと見つかる。
「え!? なにか見えた!? 大河がいたの!? 見つけた!?」
「多分! 早く誰か呼んで……いや、見えなくなっちまう……くそ! 櫛枝、先生か、とにかく誰か大人を呼んできてくれ! 北村はここにいて、俺が上がれなくなったら引き上げるか、助けを呼んでくれ!」
「いや、私が、」
実乃梨はなにか言おうとし、
「……わかった!」
それを飲み込んだ。素早く一つ領き、そのまま吹雪の中を走り出す。そして北村を目印がわりに竜児はそろそろと斜面に尻をつけ、滑っていく。
とても歩けるような傾斜ではないのだ。ちょっと滑っては木に掴まり、また滑っては木に縋り、ずぼっと埋まりかけては一本ずつ足を引き抜く。目指すのは、小さなヘアピンが放つ、本当にかすかな光。
消えるな、どうか消えるな、竜児はほとんど叫ぶみたいに思い、必死に斜面を下りていく。あと少しで届くから、喘ぎながら雪を掴む。ゴーグルについた氷を拭う。
そうやって、二十メートル近くも下りてきたのだろうか。とても下の道路からは見えないだろう、生い茂る常緑樹の枝の下までたどり着き、ヘアピンを手に取り、辺りを見回し、
「――た……大河!」
すぐ傍に見つけた。
柔らかな雪の中に半ば埋もれるようにして、大河は大きな木の根元の窪みに落ちて、身体を丸めていた。自分が転がり落ちないように気をつけながら、這いずるようにその窪みに近寄る。雪にブーツをしっかり埋めて足場を確保し、腕を伸ばし、小さな身体を引っぱり上げる。
「大河! 大河! 大河!」
ぐったりと、雪の上に引き上げた大河の頭が後ろに倒れる。首の後ろを支えて抱きかかえる。首は温かいし、脈だって当然あるが、ここまで落ちてきながら木で頭を打ったのだろう。こめかみのあたりに赤いものが見えて息を飲む。いやだ――ガクガクと腹の底から生まれて初めての震えが背骨伝いに上ってきたとき、
「……痛い……」
小さな声が漏れる。大河の睫毛が震えるように動き、顔をしかめるのがわかった。生きてる、無事だ、竜児は一度だけ深く息を吸い、吐き、そして次には斜面の上を睨む。考えている暇も、感じている余裕ももはやない。片手で四十キロの大河を抱え、四つんばいで雪の斜面を上がり始める。しかし踏んだそばから雪は崩れ、小さな雪崩《なだれ》になって崖下に零れていく。踏ん張りが全然利かない。やっぱりここで助けを待つしかないかもしれない。こんなに弱った大河を抱いたまま、待っているしかないのかもしれない。
絶望的な無力感に喉が鳴るが、そのとき、大河の腕に力がこもった。竜児の胴体にしがみつくようにして、
「……落ちちやった……痛い……」
うわ言めいた声で呻く。大河がしがみついていてくれれば状況はだいぶマシだった。
もう一度、膝まで雪に埋め、這いずるようにして、雪から突き出した木の根や枝を掴み、竜児は上っていく。大河に声をかけたいが、とても口をきくどころではない。奥歯を噛み締め、全力で、大河を落とさずに進まなければならないのだ。
「……竜児」
大河の手が、顔に触れた。こつん、とグローブの外れた手がゴーグルに当たる。それを眼鏡と勘違いしたのだろう、
「……あ……北村くん……?」
大河は間違えた。
そんなの別に構わない、というか、わざわざ「俺だよ!」と言える状況ではない。とにかく這い上がらなければ。
「……竜児かと思った……こんなとき、助けに来るのは……絶対、竜児だって……ごめん……ごめんね」
聞こえる声は妙に明るかった。しかしまるで寝言のように、若干ピントがずれているのだった。それがかえって恐ろしく聞こえる。大河の意識は完全には覚醒してはいないのだ。ふわふわと上ずって、いつもよりぼんやりとした声で、竜児の耳元で囁き続ける。
「……北村くん、あのさ、……ご利益ないねぇ……」
ズルッ、と大きく足が滑り、竜児は喉の奥で悲鳴を上げる。大河がしっかりしがみついてくれていなければ、バランスを崩して二人して落ちているところだ。
「……悪いけど、あれ、失恋大明神、ダメみたいだよ……。……お願いしたこと、全然叶わないもん……竜児のこと、好きな気持ち、全部消して……私を、それで、強くして、って……だめだよ全然」
右手で、ずり落ちかけた大河のウエアを掴む。
ぐっと砕けるほど奥歯を噛む。全力で抱き寄せて、上を見る。
北村が見えている。こっちを見てなにか叫んでいる。もうすぐだ。
「……どうしたって、竜児のことが、好きなのよ……みのりんとうまくいってほしいのに……やっぱり、つらいのよ。つらくて、どうしても、つらくて、……だめ……」
「……っ」
「だめだね、私は……。……一人で、頑張りたかったのに、……頑張るって言ってるのに、口ばっか……結局こんなふうに、助けを、待ってるだけ。……弱くて、弱くて……弱くて……もうやだ……」
大河の閉じたままの目蓋から、涙が伝い落ちた。そしてその手から力が抜ける。一気に全体重が片腕に委ねられる。必死に、右手に力を入れる。大河の胴を全力で掴み、引き上げる。しかし足が滑る。バランスを崩す。
――二人して、落ちる、落ちていく――
「……あ……!?」
目の前に、がっしりとした手が差し出されていた。蛍光カラーの派手な揃いのウエアを着た大人たちが、続々と下りてきてあっという間に軽々と竜児の身体を大河ごと引き上げてくれる。スキー場の人か、それとも警察か、
「君は大丈夫!? ケガは!?」
「……ないっす! でも大河が! ここに、血……っ!」
どっちでもいい、誰でもいい、毛布をかけてくれた誰かに竜児は必死に喚いた。わかっている、というように蛍光カラーの大人たちは頷いて、大河を抱えて走っていく。
座っていることもできず、雪の中につっぷした。
喘いで、雪を掴んだ。
ものすごい力に打ちのめされたように、叩きつけられたように、身を起こすことができずにいた。
目の前が白く塗り潰される――吹雪だ。頭の中まで、吹雪に冒された。
実乃梨がこちらに駆け寄ってくるのがわかった。北村もだ。そして、彼らが「言わない」でいたこともわかった。已のバカさもわかった。
あらゆるところで絡まって、引っかかっていた糸の結び目が、無理やり過ぎる力で解かれていく。力が強過ぎて、今にも糸が千切れかける。千切れてしまったらどうなるのか、竜児にはもうわからない。
「……北村。おまえに、頼みがある」
心配げに肩を貸してくれる親友に、竜児は頭を下げた。声が震えないよう、腹に必死に力を入れた。
「今、大河を助けに下りたのは、おまえだったということにしてくれ。なにも聞かずに、もしも大河に尋ねられたら、そう答えてくれ。大河はずっと気を失って、なにも言ってはいなかったって。そう答えてくれ。……頼むから!」
北村は、竜児のウエアの背を支え、静かに問い返してくる。
「逢坂に、秘密にしてくれと頼まれたから言わなかったが」
ゴーグル越し、その表情は見えない。
「……正月に、逢坂と偶然会ったんだ。ひどく落ち込んでいて、そして、なにやら真剣に俺を……失恋大明神を、拝んできた。そのことと、なにか。関係があるのか?」
答えなかった。答えられなかったのだ。口を開いたら、自分がどんな声を上げてしまうのかわからなかったのだ。
「……あるんだろうな。そうか……イブがあれで、そして、正月か。……そうか」
誰も悪くない。おまえも悪くなんかない。――ただ頷いてくれた北村の言葉が、吹雪の中にかき消される。
***
大河は結局、ほとんど無傷だった。ドジには相応の強靭《きょうじん》な身体を、やはり神は大河に用意してくれていたのだ。
こめかみを少し切っただけでピンピンしていると、夕食の席で教師たちから発表があった。こんな大騒ぎになってしまったことで、恥、死にたい、と落ち込みまくってはいるらしい。 安堵の声があちこちから聞こえ、ヤジウマな誰かが手を上げて問う。
「じゃあ明日にはみんなと合流できるんですね?」
しかし、独身(30)の答えは意外なものだった。
「一応、逢坂さんは今夜一晩入院して、明日にはお母様が迎えに来られるから先に帰宅することになりました。またあのバスで移動じゃ、大変だからね」
竜児は思わず、箸を取り落としかける。
お母様――実の母親だろうか? 大河が停学になっても、学校に顔一つ見せなかった大河の母親が、こんな辺鄙なスキー場にまで迎えに来る? ほとんど無傷で済んだのに?
「よかったじゃん高っちゃん! タイガー無事でさー!」
「……ああ、おう……」
隣の席から春田がかけてくれた言葉に、中途半端な笑顔で答えた。その春田の視線が、竜児の胸ポケットで止まる。
「あれ? そのヘアピン、結局高っちゃんのとこに戻ってきたんだ?」
雪の中から捨ったそいつを無意識に胸に差したまま、そういえば忘れていた。耳元に顔を寄せ、春田はアホなりの小声で囁きかけてくる。
「ていうかさ〜、それってぶっちゃけ、クリスマスプレゼント……例の、あの人に、渡そうとしてたんじゃない? それ捨てようとしてたとき、ツリーの絵の包装紙も捨ててたじゃん。実はちらっと見えてたけど、やっと意味わかっちゃった……」
「……まあな」
竜児の頭の中は、しかしいまだ嵐のただ中。
肩を疎めて肯定しながら、周囲の状況なんて全然見えてはいなかった。考えることが多過ぎたのだ。
だから、気がつきやしなかった。ちょっと離れて座っていた『例の、あの人』は、全身をレーダーみたいにして、騒々しいざわめきの中で竜児の言葉だけを拾い、聞こうとしていたのだった。そして、聞こえてしまった二人の会話を、すぐに正しく理解していた。
自分が意識的に、そして、本当に無意識にしていたこと、そのすべてが、どれだけ効果的であったかも理解した。
騒々しくざわめく食堂から、音もなく立ち上がって誰にも見られず、とうとう逃げ出した。凍える廊下を小走りに、無人のラウンジにたどり着く。
咋日の夜に竜児が座っていたソファに倒れ込む。
膝を抱え、顔を埋め、その手の中に涙を流す。悲しい理由はわからない、ただ今のところただ一つ、己の手は、女の子そのものの小さな薄い手の平は、全然好きじゃない。こんなふうに涙にくれる顔を隠すぐらいのことしかできない己の手など、大嫌いだった。
実乃梨はただ一人、顔を両手で覆い隠し、声も出さずに身体を小さく小さく丸めて、しばらく泣き続けた。
吹雪は明旧になれば止むはずだった。
しかし窓に雪を叩きつけるような風の音はなお凄まじく、子供たちの足を竦ませるには十分に恐ろしく吹き荒れて、今も窓ガラスを揺らし続けていた。
[#改ページ]
あとがき
パソコンの……インターネットのプロバイダの、接続IDとかパスワードとか重要なことが全部記されている書類(封筒に『大切に保存してください! 』的なことが書いてある……)をついに失くしました。「こんな大事なもの、絶対いつか失くしちゃうよな」と思いながらかれこれ十年近く、二度の引越しにも耐えていつも私の傍らにあったあの封筒が、ある日、忽然とあるはずの場所から消えてしまったのです。必死に捜したのですが見つかりません。仕事机の引き出しに、押入れ、本棚、箪笥、キッチン、明け方の街……桜木町……そんな場所にあるはずもないのに……。
ど、どうしよう。という日々を過ごしております。生まれてかれこれ三十年、完全体の竹宮です。完全体ゆえに心も身体もすっかり柔軟性をなくしているので、このような突然のアクシデントに、|当意《とうい》|即妙《そくにょう》に対応することができまぜん。融通がきかず、打っても響かず、もう身長も伸びません。成長しません。失ったものも取り返せません……つまり破滅していく一方! というわけで、色々なものを失いながらも、『とらドラ! 』はとうとう八巻までやってまいりました。ここまでお付き合いいただきました皆様! 今回も、どうもありがとうございました! 楽しんでいただけましたでしょうか?
皆様のお力で、このシリーズも無事に巻数を重ねられ、絶叫《ぜっきょう》先生のコミック版、そしてア
ニメ、さらに……ああ! もう色々言ってしまいたい! でもまだ言えないことだらけだ! 色々なことが、実ばざくざくと進行しております! とにかくなにより、誰より、今まで応援して下さった皆様にこそ、今後の展開を楽しんでいただきたいと思っております! なので、どうかこれからも『とらドラ! 』を引き続きよろしくお願いいたします!
そう、本当に楽しみにしていただきたい展開がたくさんあって、私は破滅している場合ではないのです。毛虫に刺されている場合でもないのです。突然右腕に夥《おびただ》しいプツプツをこさえて、蕁麻疹《じんましん》かな? ストレス? なにか精神的な……? とか言いつつ皮膚科に駆け込んで、お医者さんに見せた瞬間に「あっ、毛虫皮膚炎! 今日十一人目! チャドクガ!」とあっさり断定されている場合でもないのです。帰宅するなりチャドクガの毛虫をイメージ検索して、一瞬失神している場合でもないのです(これは本当にしない方がいいです)。すっごく痒くて、しかし掻くたびに、あの毛虫の毒針が皮膚に深々と突き刺さっていく、なんてことを知って、もういっちょ失神している場合でもないのです(姿さえ知らなければまだ……)。
というわけで、皆様! 『とらドラ8! 』を最後まで読んでいただきまして、本当にありがとうございました。次は素早く『とらドラ9! 』の予定です。どうぞよろしくお願いいたします! そしてヤス先生&担当さま、まだまだ引き続き大変な感じですが、破減しないでともに頑張ってまいりましよう!
竹宮ゆゆこ
発行 二○○八年八月十日 初版発行
発光者 高野潔
発行所 株式会杜アスキー メディアワークス
発売元 株式会社角川グループパブリッシング
入力 どろん